とらドラ! 6
竹宮《たけみや》ゆゆこ
[#地付き]イラスト:ヤス
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)美しき乱暴者《らんぼうもの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)強制|送還《そうかん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#改丁]
[#ここから3字下げ]
暇そうにしている2−Cの皆さん。
もしも生徒会長になったら、してみたいこと、ありますか?
[#ここで字下げ終わり]
高須竜児
「暇じゃねえよ、窓の桟に埃が溜まってるから掃除してるんだ。ったく、窓を開けるごとに校庭の砂埃が入り込んできやがって…… 俺が生徒会長になったらこの高須棒を全員に配布し、授業中休み時間かかわらず、汚れに気づいた者はただちに席を立って拭っていいってことにする。365日24時間、全校生徒が美化委員ってことだ」
キレイ好きですねえ。ほう、これが高須棒……。
「おっと、気安く触るんじゃねえ。高須棒は何度も何度も大事に洗って繰り返し使うんだ。磨耗して無に帰すまでな」
逢坂大河
「……せいと……かい、ちょう……?」
すいません。起こしちゃいましたね。おやすみなさい。
「……………………背ぇ、高い……腸……?」
櫛枝実乃梨
「っかー、やっぱこれが一番よく取れるわ。で、あんだって? 生徒会長ってか?」
はい。どうです? 抱負みたいなの、ありませんか?
「あーるあるある。おっちゃんな、まずジャージでの登下校を自由化しようと思ってんの。それから部室棟な。臭いが最近全力でヤバイから、建替えを学校側に要求しちゃうコレ。 遠くから見ると発する臭気で、ぼわーっと霞みがかって見えることあるもんね。 こないだなんかバレー部の女子が、トイレで便所コオロギに監禁されたとかって騒ぎに……ぬおっ! いっ……ってえええー! うおお、高須棒がずぼっと耳の奥までー! この櫛枝に牙をむきよったぁ!」
川嶋亜美
「……ん〜……そうだなぁ……ん〜……ん〜と……、っと! やっとできたぁ〜! 見て見て〜、自分でネイルアートしてみたの! 結構うまくない!? 超〜大変だったけど意外とできちゃうもんだねえ! あ。ここだけちょっと直した方がいいかな? ……そーっと……そーっと……」
あのー、聞こえました? もしもし生徒会長になっ
「……っどぅあおらぁ!? ぎゃあぁぁ亜美ちゃんのネイルがぁぁぁ! はみ出したじゃねえかテメエさっきからなんだよしつけえな!? あー!?」
独身(30)
「えーと、あたしが生徒会長になったら、まずは生徒の自主性を尊重するために現在の校則の一部を」
ちょっと、困ります。先生は「2−Cの皆さん」じゃないでしょうが。
「どうして!? サポーターは12人目の青きサムライでしょ!? 担任だって30歳目のクラスメートでいいじゃない! きー! ……なーんちゃって、冗談ですよ〜、笑ってくださ〜い。ウフフフ、おもしろいでしょ? あたし三十路なのに制服着てるんです。これ高校生のコスプレ。わーおもしろい、笑える、笑え……わ……。……笑えないよ……!」
高須泰子
「あのお〜、やっちゃんがもしも生徒会長になったらぁ、お勉強をしなくてもよいですかあ〜?」
……生徒のお母さんはお帰りください。
「しなくてもよいのぉ〜?」
しなくていいから帰ってください。
「やったあ〜☆ お勉強しなくていいんだったらあ、ここは今から毘沙門天国二号店だあ〜☆ まずここにビ〜ルのサ〜バ〜置くのぉ! ビ〜ル! ビ〜ル! そんでカウンタ〜がここでえ〜、」
高須くーん! お母さん引き取りに来てー!
「……。」
本命に異変!? 生徒会長選挙編は次ページから!
土曜日《どようび》。
一日限りの文化祭は、大狂乱のバカ騒《さわ》ぎ。みんなの笑顔《えがお》も泣き顔も興奮《こうふん》も熱狂《ねっきょう》も激情《げきじょう》も、全部まとめて炎にくべて、最後のキャンプファイヤーは夜空を焦がすほどに大きく、大きく、天に届くほど燃《も》え上がった。
そして次の日、日曜日。
バカどもの大騒ぎの痕跡《こんせき》をきっちり後片付けする責任は、文化祭実行委員の執行部と、生徒会の連中の肩に。各クラス展示の始末がついているのをチェックして、ゴミの出し方をチェックして、キャンプファイヤーの残骸《ざんがい》を片付けて。
今年《ことし》で引退になる三年生を囲んでのちょっとした慰労会《いろうかい》は体育館《たいいくかん》の片隅で行なわれた。実行委員長は「悔いはない」と漢泣《おとこな》きに泣き、拍手の中、渡された花束に顔を埋《うず》めた。その肩を叩《たた》いてやって、同じ花束を捌《つか》んだ生徒会長は軍手のままで長い髪を一払い、
「そうそう、みんなに話したいことがある。私、」
――なんでもないことのように、言ったのだ。
[#改ページ]
1
「そしてそして? 亜美《あみ》ちゃんは結局、そのおっきいのを言われるがままに受け入れたの?」
「仕事だもん、嫌《いや》なんて言えなくてぇ〜。もう最悪、こーんなおっきいんだからあー!」
「おっきいって言ったって、まあだいたいこんなモンっしょ? 私見たことないけどさ」
「いやいや、麻耶《まや》は甘いってば。もう、こんなっ! こっ、んっ、なっ! と……!」
両手で古式泳法・ドル平を泳ぐが如く、妙な形状を宙に描いて力いっぱいプン回された誰かさんの腕が、力いっぱいの偶然で、大人《おとな》しく席についていた別の誰かさんの頭部を殴り倒していた。鈍《にぶ》い衝撃《しょうげき》に揺さぶられ、銀縁眼鏡《ぎんぶちめがね》がガチャン、と机に落ちる。
「やーんごめんなさあいっ! わざとじゃな……って、なーんだ、祐作《ゆうさく》か」
被害者を振り返った加害者・罎亜美のチワワめいた潤《うる》み瞳《ひとみ》は、一瞬《いっしゅん》にして謝罪《しゃざい》の意も興味《きょうみ》もなくして砂漠の夜の如く冷たく乾き切った。殴り倒した北村《きたむら》祐作とは幼馴染《おさななじみ》、今更かわいこぶって悩殺しても愛想の無駄遣《むだづか》いってものだ。ふう〜。と、かったるく息をつき、
「はーいごめんごめん、おら眼鏡ここ」
それでも殴り倒した事実は事実。亜美は適当に口先だけで謝《あやま》りつつ、机に落ちた眼鏡をご親切にも幼馴染の鼻柱にかけ直してやる。
だが。
「……祐作う?」
「……」
クラス委員長で、生徒会副会長で、男子ソフトボール部部長で、きっちりしてて生真面目《きまじめ》ででも妙に騒《さわ》がしくてテンション高くてイベント大好きで忙しくて常に働いていてあいつって止まったら死ぬらしいよ……と回遊魚・マグロみたいな言われようを入学以来ずっとされてきた北村は、今、目も口も半開きで、うすらぼんやり半分死んでいた。殴り倒された事実にも恐らくは気づかないまま、目の前の亜美の存在にも焦点を合わせないまま、ただ声もなく己《おのれ》の席に座り続ける。
「ちょっと祐作ってば。……なんかこれ、やばくなーい?」
「やばいやばーい」
「おーい、まるむー! しっかりしろー!」
木原《きはら》麻耶がその頬《ほお》を指先でつんつん突《つつ》く。しかしそれにも反応はなく、傍《かたわ》らの香椎奈々子《かしいななこ》と顔を見合わせ、亜美は細い肩をかわいい仕草《しぐさ》で疎《すく》めてみせた。寄せた美しい柳眉《りゅうび》には、あせりよりは呆《あき》れが大きい。幼馴染のこの妙な変調《へんちょう》は、今、亜美に殴り倒されて始まったモンではないのだ。多分《たぶん》。
「なんだか、日に日に悪化してるわね……まるおくんの燃《も》え尽き症候群」
おっとり漏らされた奈々子《ななこ》の言葉にうんうん、と亜美《あみ》も麻耶《まや》も頷《うなず》いて、生《い》ける屍状《しかばね》態の北村《きたむら》を見下ろす。
そう、学校中が盛り上がった文化祭が終わって数週間――イベントの興奮《こうふん》もとっくに去って、生徒たちは退屈な日常に強制|送還《そうかん》、季節もいつしか輝《かがや》ける秋からモノクロカラーの冬へ。色づく落ち葉は乾いた枯葉となって風に吹かれ、重い雲に陽射《ひざ》しを奪われてすでにうすら暗い窓の向こうをクルクルと舞《ま》っている。時は午後四時少し前。授業は終わり、清掃も終わり、あとはホームルームが終われば帰宅するばかりの、担任待ちの空白のひととき。
北村の変調《へんちょう》は、そんな日々の退屈の隙間《すきま》に忍び込むようにして、いつの間にかジワジワとその身を蝕《むしば》んでいたのだ。
口数が減り、授業中の発言もなくなった。昼休みにも弁当を食べている様子《ようす》はなく、二日に一回は社会の窓が全開だった。目は虚《うつ》ろだし、眼鏡《めがね》は指紋だらけで脂っこく曇《くも》っていた。北村の様子がおかしい、と友人たちが気づいたときには、すでに病状は手遅れなまでに進行していた。
だけど仕方があるまい、と。あれだけの大イベントだった文化祭が終わったのだ、暇な日常に戻って今、北村は燃え尽きてしまったのだろう――2−Cの面々は皆、そう理解していた。ぼさーっとしているのも燃え尽き症候群。びしっと直線《ちょくせん》を描いているはずの前髪が若干不ぞろいなのも燃え尽き症候群。忘れ物が増えたのも、学ランのボタンを掛け違えているのも、フラフラ廊下を彷徨《さまよ》っては壁《かべ》に激突《げきとつ》しているのも、余部燃え尽き症候群。
日常の煩雑《はんざつ》な些事《さじ》に再び気が向きさえすれば自然に治るのだろうが、それにしても重症らしい。亜美、麻耶、奈々子の美少女トリオに囲まれていてさえ、北村の日には光というものがまったくない。死んだ虫の目のようにその虹彩《こうさい》は濁《にご》り――と、
「あ、……あみ……」
「……な、なに」
不意に屍が口を開いた。いまやプロの売れっ子モデルでもある幼馴染の美貌を見上げ、震
える手をMS5(マジで死んじゃう五日前)の爺《じい》ちゃんのように伸ばす。気味悪そうに亜美は思いっきり「やだうざい」とそれをよける。
「……さっき言ってた『おっきい』、って……なにがだ……? おまえ、まさか……へんなしごとを……おっきいって、まさか、まさか、……ち……」
「えええええ!? やっだあーもーなに言うつもり!? 祐作《ゆうさく》ってば超ばかじゃなーい!?」
あーはははははははははははははー! と爆笑《ばくしょう》、亜美は誰《だれ》から教わったのか、他人を黙らせるときには最も有効な唇ビンタを蘇《よみがえ》った屍にビチャン! とかます。はぶっ! と北村の顔は抵抗なく簡単《かんたん》に真横を向く。
「おっきかったのは、犬よ! ワンちゃん! 撮影《さつえい》でぇ、プードルちゃんと一緒に撮《と》るっていうからちっちゃいテディベアみたいな子が来ると思って楽しみにしてたらあ、なんかしんないんだけどお、超でかい二メートルぐらいあるすげえ猛犬が鎖《くさり》に引かれて現れたのお〜! カメラマンは『これが本物のプードルです。さあ、だっこして』とか言っちゃってえ、でもどう見てもそれラマじゃねえー!? みたいなー※[#ハートマーク] 獣《けもの》くせえし!? っていうかあったしラマってどんな生き物かしんないんだけどお〜! ……っていう話だってばあ〜※[#ハートマーク]」
まるおは「ち」の後に何を言おうとしたんだろうね……チワワか……チクワか……それともまさか……と、聞くともなしにその会話を聞いていた女子たちが嫌《いや》そうにコソコソ耳打ちするさらにその背後。
「北村《きたむら》の奴《やつ》、大丈夫かな……なんかいろいろ、大変なんだろうけど……」
うむうむ、と心配そうに頷《うなず》きあう、男子の一群の姿があった。
燃《も》え尽き症候群。
と、いうことになっている北村の変調《へんちょう》を、少々違う意味合いで彼らは見ているのだ。一応彼らはあくまでも一部、大多数が北村を燃え尽き痙候群と見ているのに対して、超極端な見方をする少数派、ではあるのだが。
「心配だよなあ。なんか、マジでかわいそーになってくるっていうか」
「同感。……噂《うわさ》が本当なら、なにをされてるやら」
「そりゃもう恐ろしいことをアレコレと……」
「なにしろお相手は……なあ」
「燃え尽きもするよ……すっかりやつれちゃって、哀《あわ》れそのもの」
「でも、本当にかわいそーなのはさあ……あれ? そういえばあいつら、どこいったんだ?
***
……高須《たかす》くん、かわいそー……。
「!?」
首がちぎれるほどの勢いで振り返った。聞こえた。確《たし》かに、聞こえた。一対の凶眼《きょうがん》はたちまち稲妻《いなずま》めいた狂乱の眼光を乱れ撃《う》ちにぶっ放し、休み時間の渡り廊下を通りすがる無辜《むこ》の高校生たちを一人《ひとり》ずつ撃墜《げきつい》していくみたいに睨《にら》みつける。
……今のは、誰だ……。
「とッ?」
……おまえか……。
「うぉっ!」
……それとも……。
「ええっ!?」
……おま
「なにグズグズしてんだおまえ!?」
「ふがっ!」
ずっぽりと鼻の穴を真下から突き上げ、初めての貞操《ていそう》を深々と奪ったのは冷たいメントールの感触。高須竜児《たかすりゅうじ》は痛みにようやく我に返った。いけない――うっかり魔道《まどう》に堕《お》ちて、「ヤンキー(っぽい顔の奴《やつ》)」から「無差別|雷撃《らいげき》のカミナリさま(本物)」に進化してしまう寸前であった。
「ったく、グズグズウロウロしてるんじゃないよグズグズグズグズグズ! 帰りのホームルム始まっちゃうでしょ! 意味なく凄《すご》んでる暇があったら、そのグズ足をグズグズ動かしなこのグズ犬野郎のスク水野郎のドスケベ饅頭《まんじゅう》!」
見事な罵声《ばせい》とともにすっぽん! と鼻の穴から引き抜かれたのは、三センチほど繰《く》り出されていたリップクリームだった。けっ、と顔を歪《ゆが》め、力ずくで竜児を目覚めさせてくださった美しき乱暴者《らんぼうもの》は、言うまでもなく逢坂大河――通称、手乗りタイガーである。
軽蔑《けいべつ》の表情を浮かべていてなお花の如《ごと》く匂《にお》う美貌《びぼう》。優雅《ゆうが》に踊る柔らかそうな淡色の長い髪。精緻《せいち》な人形みたいに小柄な身体《からだ》。そんな特別製のパーツで創られた誰《だれ》もが認める天下の美少女は、傲岸不遜《ごうがんふそん》に顎《あご》を突き上げ、薄《うす》い胸を反らしたお馴染《なじ》みのポーズで傍《かたわ》らの竜児を睨《にら》みつけてさらに罵詈雑言《ばりぞうごん》を重ねようとし、
「だいたいあんたふぁ〜〜っぶし!」
いきなりくしゃみをぶっ飛ばした。飛沫《しぶき》が! きたね! と竜児が飛《と》び退《すさ》るよりなお早く、
「……んぎいぃえええぇぇぇぇ〜っ!」
情けない断末魔の悲鳴が大河の目から溢《あふ》れ出す。まさに、人を呪《のろ》わば穴二つ。シンプルに言うなら自業自得。もっと言うなら単なるドジ……竜児の鼻の穴を突き上げていたリップクリームが、くしゃみの拍子に今度は大河自身の小さな界の穴にのっぽり深々とその抜き身を埋め込んでいた。ひぎー! と大河の悲鳴は哀《あわ》れに続く。
「こ、ここここんなこんなこんなバカなあ〜! やだやだとってとって、抜けないぃ!」
暴《あば》れ、あせる手は異物をさらに肉穴の最奥へと押し込んでいく。乙女《おとめ》の肉体の危機《きき》である。
あまりの異常事態に、竜児も笑うどころではない。
「ああバカだ、おまえは本当にバカだ! 暴れるな暴れるな、今抜いてやるから!」
「んにゃああー!」
下校時刻寸前の校内。幸いにもたまたま今こそ人目はないが、こんなザマを目撃されれば社会的に即死決定だ。顔を真《ま》っ赤《か》にしてさらにジタバタ身を捩《よじ》る大河の頭を抱え、気合|一閃《いっせん》「セイッ!」と竜児はようやくそいつを引っこ抜いてやった。
すっぽん! とメントールの粘膜|攻撃《こうげき》から解放され、大河《たいが》はしかし、いまだ苦しげに鼻をつまんで壁《かべ》にすがる。足元はフラつき、今にも目からは涙を零《こぼ》しそうに長い捷毛《まつげ》を濡《ぬ》らす。元より大河は重度の鼻炎もちアレルギー体質、その荒れた鼻腔《びこう》粘膜に直塗《じかぬ》リリップはちょっと刺激《しげき》が強すぎたのかもしれない。
「大河、しっかりしろ。そもそも、元はといえばおまえが俺《おれ》にしたことだ。これに懲《こ》りたら、あんまり妙なことを俺にするんじゃねぇ……」
そんな控えめな苦言も、本人のためを思ってのことだったのだが、きっ! と大河は大きな潤《うる》み瞳《ひとみ》で竜児《りゅうじ》を睨《にら》みつけてくる。
「あんたより深く刺さったし、そもそも私の鼻の穴は小さいの! あんたのユルユルだらしない底なしデカ穴とはデキが違う!」
そして言い返す気力もなくして「そうでございますか……」と虚《むな》しく押し黙《だま》る竜児の目の前で、
「……く〜っ……は、鼻の穴が……超スースーするっ……」
「鼻を掘るな鼻を! みっともねぇ!」
涼しくなってしまった鼻の穴が気になるのだろう。大河は女子にはあるまじき行為、必死に鼻の穴の入り口から数センチ奥までを指で擦《こす》りまくる、その手をなんとか押しとどめるが。
「……」
大河の動きが、ふと止まる。視線《しせん》の先には、竜児の手に抜き身のままで握られた己《おのれ》のリップクリーム。二人《ふたり》分の鼻の穴から抜き出されてなおツルリと無垢《むく》に白く光るそいつを見つめ、大河は蓋《ふた》だけを片手に摘《つま》んだままなんともいえない微妙な表情、唇を噛《か》み締《し》め、竜児の顔を見上げる。返して欲しいのかと思って、竜児は小さな大河の手にほい、とそいつを握らせてやる。
だが大河は押し黙ったまま、何度か手の中のリップと竜児の鼻の辺りを交互に見て、そうしてなにを言うかと思ったら、
「……こ、これをもう一度自分の口に塗るには相当な勇気が必要な気がするね……なんかもういらないかも……捨てちゃおっかな……」
瞬間《しゅんかん》、竜児の三白眼《さんぱくがん》からブシッ! と蒼《あお》き閃光《せんこう》が迸《ほとばし》った。ついに可視殺人光線を放てるまでに能力が開発されてしまったわけではなく、これは大河のための、そして環境《かんきょう》のため、ひいては地球のための教育的|指導《しどう》!
「捨てるんじゃねえぞ!『もったいないっ!』」
もったいない! もったいない! 竜児の脳内では熱《あつ》いリズムでその一言が乱舞《らんぶ》する。ドンドコドコドコ、ドンドコドコドコ、もったいない、もったいない、ドンドコドンドコもったいなーい! 世界にはばたけ、すてきな日本語『MOTTAINAI』! 竜児はその言葉が大好きなのだ。調理《ちょうり》中に出た野菜クズを見ては『MOTTAINAI』! 野菜クズはきんぴらに! 裏の白いチラシを見ては『MOTTAINAI』! チラシはすてきなメモ帳に! 使い捨てのあらゆるものが『MOTTAINAI』! レジ袋は未来永劫《みらいえいごう》もらわなーい!
……とか、まあ……いろいろあってそういうわけで、鼻の穴につっこまれたぐらいで、ほとんど新品のリップクリームを捨てるなんてことを許すのは、竜児《りゅうじ》には絶対にできないのだった。それは魂を売り渡すのと同意なのだ。人類としてこの星に生まれ、叡智《えいち》を授かりし唯一の命の責任なのだ。
それなのに。
「でも絶対使いたくない。あんたの鼻の穴の内容物がくっつきまくってるもん、絶対」
大河《たいが》はまったくわかっていないのだった。とトとして生まれた命の使命と責任の重みを。この俺《おれ》が教えてやらねば、と竜児は殊更《ことさら》ゆっくりと、
「ばかだな、大丈夫だ。俺の鼻の内容物はすべておまえの鼻の中にこびりついて、今、そのリップにこびりついているのはおまえ自身の鼻の分泌物《ぶんぴつぶつ》のみなんだから」
穏《おだ》やかに事実を告げてやった。その瞬間《しゅんかん》、ピー! と、大河の喉《のど》から笛の音そっくりの悲鳴が漏れた。ジャケットの袖《そで》で今更鼻を擦《こす》ったって仕方あるまいに、
「あんたの鼻の汚物が私の鼻にィィ……と、取り返しのつかない汚染感……っ!」
「失礼な! そもそも自分でやったんだろ!? はい、とっととしまって蓋《ふた》しめる。責任とって、そいつの天寿をまっとうしてやるんだな。拭《ふ》け拭け、ティッシュで拭いとけ」
「あんたはティッシュで拭いたらこれ使えると思うんだ!? じゃあ竜児にこれをあげることにしよう! そうしよう!」
「いい! いらねぇ! 男はメンタム以外のリップクリームなど使わない!」
「なんで! もったいないんでしょ! あんたは余裕でいけるクチなんでしょこの変態の好事家《こうずか》のスキモン! やるねやるねえ、さっすが竜児、町内MOTTAINAI大使!」
いくらもったいなかろうが、誰《だれ》が人の鼻の穴(それも二人《ふたり》分)に突っ込まれたリップクリームなど欲しいものか。表面全部ヤスリで削ってくれれば考えなくもないが、こいつは削られてなどいない、生まれたままの姿に鼻の穴分泌物をまったり纏《まと》っただけだ。竜児はお断りするなり素早《すばや》く身を翻《ひるがえ》すが、
「遠慮《えんりょ》せずに、さあ、ほら塗りな! あんたいつも口カサカサじゃない!」
「いらねえって! ちょ……やめろーはっ、離《はな》せ汚ね……あっ……なんかしょっぱ……」
……高須《たかず》くん、やっぱりかわいそー……。
「っ!」
――さっきよりもっとはっきり聞こえたその声は、リップクリームを竜児の唇に塗ろうとして背後から飛びつき、首をがっちり片腕で固めた大河と、嫌《いや》がって暴《あば》れて反り返ったものの唇にべっとりリップを塗られてしまっている竜児の、一見仲良さげに見えるかもしれない姿に投げかけられたのに違いなかった。
一体どこから。誰《だれ》が。
再び竜児《りゅうじ》の呪《のろ》われし三白眼《さんぱくがん》が青白い炎を噴《ふ》きながら声の主を探そうとしてグリン! と白目を剥《む》く。その隙《すき》に、汚染済みのリップクリームをさらにべっとり唇に塗りつけられる。しかしそんなモンにはもはや構っていられない(一度塗られてしまったら、あとは何度塗られたって同じだ)。
問題は、さっきも聞こえたあの声。言葉。このところ一度ならず投げかけられ続けている、あの囁《ささや》き声だ。ここ数週問、校内のあらゆる場所で、あらゆるときに、それはときに便所で、ときに教室移動中の階段で、掃除の時間のゴミ捨て場で、そして今|大河《たいが》とちょっとした用を足しに廊下を連れ立って歩いている今。
奴《やつ》らは竜児を見かけるたびに、とソとソと声をひそめて言い交わすのだ。「高須《たかす》くんってかわいそう」、と。
福男レースじゃあんなに手乗りタイガーのために頑張ったのに。結局、眼鏡《めがね》の生徒会の奴に奪われて。それでも今も変わらず尽くしてるんだ。捨てられたのに。
捨 て ら れ た の に。
「……くっそおおおお……っ! 誰だよ変な噂《うわさ》流した奴はぁぁぁ……っ!」
悔しさのあまり、竜児は子泣きジジイ大河を振りほどいてその場で髪を掻《か》き毟《むし》り、唇を噛《か》み締《し》め、つま先だって身を捩《よじ》りつつ国の滅びを告げるという凶星ケイトウの如《ごと》く異常にギラつく眼光を無差別発射。二百メートル先にいた一年生の女子がICBMにピンポイント爆撃《ばくげき》されたみたいにそれをまともに浴びて失神したことを竜児は知らない。大河も知らない。外人みたいに肩を疎《すく》め、やれやれと首を横に振りつつなんだか余裕の構えで、
「変な噂って、例のあれでしょ。うんうん、やーね、まったく困ったものよねぇ。なんだか随分下品なデマが飛んでるみたいで……」
ニヤ〜。
……と、隠し切れないいやらしい笑《え》みが顔面に貼《は》り付いている自覚はあるのだろうか。なめらかな輪郭《りんかく》を描く乳白色の頬《ほお》に紅薔薇《べにばら》の彩りまで一刷《ひとは》け乗せて大河はさらに、
「ええと確《たし》か、なんだっけか? この、ミスに選ばれた私が、私のために福男レースで頑張った竜児を捨てて、結局|北村《きたむら》くんと、デ、デ、デ、デキちゃった……だったっけ? なんだかそんな噂が飛び交っているとかいないとかいるとか……いるのよねー……それって嘆かわしいことよねー……」
ニんヤ〜ぁぁ……心底|嬉《うれ》しそうに顔をますますてかてかニヤケさせ、噂の内容を口にする。そのあまりに嬉しげなニヤケ面《づら》に、竜児は一瞬《いっしゅん》、実は大河が噂の発信源なのでは? とさえ疑うが、すぐに考えを振り払う。大河みたいな稀代《きたい》のドジが、自分に都合のいい噂を学校中にバラまくなんて器用な真似《まね》をできるわけがない。
そう、その噂《うわさ》は今まさに、大きなイベントが終わってしまって暇な学校中をホットに駆け巡っているのだ。クラス、学年の枠を飛び越えて、退屈に倦《う》んだ生徒たちの間をまさに文字通り流言飛語、びゅんびゅん加速しながら飛び交いまくっている。
もちろん、事実ではない。大河《たいが》と北村《きたむら》は、デキてなぞいない。大河の望みがどうであれ。
確《たし》かに大河はあの文化祭の日、後夜祭で北村にダンスを申し込まれ、そして二人《ふたり》でキャンプファイヤーの前で踊った。竜児《りゅうじ》も見ていた。とても美しい光景だった。だけどそれは本当に数分間のことで、すぐに二人は竜児と実乃梨《みのり》、そして亜美《あみ》を巻き込んで、いつものおふざけの大騒《おおさわ》ぎに突入したのだ。とてもとてもデキているとか、そんないいものではなかったはずだ。そして竜児がなにより心底悔しいのは、その部分の事実誤認ではなくて、その前の部分。『福男レースであんなにがんばったのに、高須《たかす》くんは捨てられてしまった』の部分。
そこがどうしても許せないのだ。確かに福男レースでは頑張った。大河を元気付けたくて、紆余曲折《うよきょくせつ》の末に結局実乃梨とともに優勝《ゆうりょう》できた。だがその頑張りで己《おのれ》の男っぷりが上がるどころか、「あんなにもがんばったのに」と、哀《あわ》れみに一層小粋なエスプリが効いてしまっているのだ。それもこれも、大河と竜児は付き合っている(いた)という誤った認識《にんしき》が、竜児自身も気づかぬうちに学校中に既成事実として広まっていたせいだ。挙句、竜児は大河に捨てられた、と。フラれ、奪われた負け犬男なのだ、と。
一体なぜ。いつの間に。どうして。
「くっそ……嬉《うれ》しそうにニヤケやがって。おまえは悔しくねえのかよ!? 俺と付き合ってたことにされてんだぞ!?」
「んー、そうねえ〜……」
最強にして最凶の名を欲しいままにしてきた暴《あば》れん坊・手乗りタイガーはしかし、どこか穏《おだ》やかささえ感じさせる微笑で、アンニュイに視線《しせん》を揺らしてみせる。そして、
「そりゃあ犬の元彼女なんて、複雑な思いはあるわ……私、人間だし。……でも私、あんたを捨てちゃったらしいしねぇ。大事なのは『今』だもの。あんたとのことは、所詮《しょせん》過去……」
プッ。と。
「しっかしあんたって、本当にかわいそう。さぞかし惨《みじ》めでしょうねえ、この私に捨てられたなんて。報われないわよねぇ。あんなに私のためにがんばってくれたのにねぇ。私のハートはあっさり北村くんに奪われちゃって……フププ!」
笑うのだった。こらえきれない、とでもいうみたいに、竜児をチラチラ横目で見つつ。お気の毒〜、と喉《のど》の奥で捻《うな》りつつ。
「大河……てめぇ……」
「さ、ほら、下らないこと言ってないで、早く行きましょ。独身が独身ヅラぶら下げて独身ホームルームやりに来ちゃう。それまでに用事済ませて戻らないと。……きゃっきゃっきゃ!」
……憎い!
身を翻《ひるがえ》してルンルンと先を歩いていく大河《たいが》が、今ここにきて、憎くて憎くて憎くてたまらない。そりゃ大河はニヤケもするだろう。片想《かたおも》いの相手とデキてる、なんて噂《うわさ》になれば、誰だってまんざらでもないってものだろう。だがその一方で、竜児《りゅうじ》は、たとえ噂の上とはいえ、いまや「学校一のフラレ男」として名を馳《は》せてしまった。超怖いヤンキー、と思われていた方がまだマシだったかもしれない。名前も知らない奴《やつ》らに、指をさされて「あ、捨てられたフラレ男の高須《たかす》くんだ。かわいそー」と憐《あわ》れまれるよりは。
ルンルンとご機嫌《きげん》で歩いていく大河を睨《にら》み、竜児の悔しさはさらに膨《ふく》れ上がる。憎しみで人は殺せないが、無防備なつむじを指ピンしてやるぐらいのことはできる。やったろかい、と、そろそろと足音をひそめて距離《きょり》を詰めたその瞬間《しゅんかん》、
「あ! ほらほらあそこだ写真のパネル! ラッキー、誰《だれ》もいない! 選び放題!」
野生動物なみの勘の鋭《するど》さで大河は振り返る。慌てて手を引っ込め、
「お、おう!」
「いこいこ! 早く早くいこ!」
あせって走り出す大河の姿に、不本意ながら、憎たらしさが一瞬にしてそがれてしまった。
そがれて、ふ、と気がつけば、大河がいつもやるのとそっくりに肩を疎《すく》めて苦笑してしまうしかなかった。だって大河はまるで本当のガキみたいに、小さな足をトコトコ懸命《けんめい》に動かして、嬉《うれ》しそうに走っていくのだ。
憎いには憎いが、あの噂だって許しがたいが……まあ、いいか、と。今だけは。
あらゆる感情が、漏れてしまった苦笑とともにふわふわと解けていくのを感じる。優《やさ》しく、あたたかな空気になって肺を満たしていく気がする。竜児の感じる憎しみなんて、所詮《しょせん》こんなモンなのだ。まあいっか、と、ゆるすぎるオムレツみたいに、ちょっとしたきっかけでトロトロ甘く溶けてしまう。結局自分はどうしようもなく、他人に甘く善良にできてしまっているらしい。そんな自分が情けなくもあるが、だって仕方がない。いつもと変わらずに我侭《わがまま》で傲慢《こうまん》な大河をこうして見ていると、嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。
――あのとき。
あの、大河の親父《おやじ》からのメールを受け取ったとき。それを理解した大河の顔を見たとき。あのときには、こんなふうに『変わらない日々』を続けられるなんて到底思えなかった。
すべて壊《こわ》れて、終わってしまう、そうとしか思えず、本当に恐ろしかったのだ。そして悲しかった。
だけど結局、世界は今日《きょう》もいつもと変わらず動いている。地球の回転も順調《じゅんちょう》らしく、毎日ちゃんと朝が来るし、夜も来る。大河の走る足音も、いつもどおりに軽々と響《ひび》く。
竜児はスースー冷たい鼻を擦《こす》り、大河の後を追って足を踏み出した。なにも変わらない、いつもの日々を歩いていく。
そうだ。『あの日』の出来事は、タフな大河の心にすこしも傷を残してはいないのだ。ざまみろ、と誰《だれ》にともなく竜児《りゅうじ》は思う。大河《たいが》は少しも変わらない。手乗りサイズの女王虎《じょおうどら》は、どんな奴《やつ》にも倒せない。たとえ実の父親にだって――
「早くおいでったらグズ! ほーらカム!」
「……」
――飼い犬みたいに「ちょっちょっちょ!」と舌を鳴らして呼ばれて、ムッとせずにいられるかどうかはまた別の問題だが。
それは学校行事の後のお約束。なのだ。
「えーと……あ! 北村《きたむら》くん発見 !竜児、ほらこれ! そうだよね?」
「ちっちぇえな……それに白目|剥《む》いちゃってるけど……いいのか?」
「いいの。北村くんが写ってるのは全部買うの。53番、と……へへ、これで四枚目」
ずらりと貼《は》られた写真は、写真部が撮影《さつえい》したものだ。部室前の廊下にパネルが立てられ、すべての写真に番号が振られている。ちなみに写真部は昨年一度、全部員が闇討《やみう》ちにあって部ごと壊滅《かいめつ》させられ、今年《ことし》からは女子のみに限り入部が認められるようになった。その理由を知る者は少ないが、闇での女子生徒水着写真売買が関係しているのでは、と噂《うわさ》されている。
そんな新生女子写真部から、生徒たちは写真を一枚十円で買うことができる。それぞれ期日までに写真をチェック、焼き増し希望の番号をメモして、そのメモをクラスと任意のキーワードと代金とともに封筒に入れ、部室前に設置されたポストに落とせば、数日後にクラスごとにまとめられて届く。
要は、誰が誰の写真を買ったか、知られずに買えるシステムが確立《かくりつ》されているのだ。当然、思春期|真《ま》っ只中《ただなか》の少年少女たちが自分が写っている写真だけをバカ正直に買うわけもなく、
「あ、竜児こっち! みのりん写ってる」
「おう、どこどこ!? ……ハゲヅラじゃねえか! 買わないわけにはいかねぇな」
大河が手にしているメモには北村の写真の番号が、そして竜児が手にしているメモには実乃梨《みのり》の写真の番号が、それぞれちまちまメモされているのだった。他《ほか》の多くの生徒がしているのと同じように、片想《かたおも》いの相手の写真をこうして古式ゆかしくも合法的にゲットするわけだ。デジカメや携帯が高校生の間にどれだけ普及しようとも、この慣行《かんこう》だけはこの先もしばらく廃《すた》れることはないだろう。
パネルに並べられた写真は、もちろんすべてが先日の文化祭の写真だ。飾りつけされた教室の前で笑いながら肩を組んでいる下級生の男子ども、呼び込みをしているメイド喫茶のメイドさん、ピースサインでおどけているカップルに、真剣な顔で演奏している吹奏楽部。ギリシア風の衣装で会話しているシーンは、演劇部《えんげきぶ》の公演だろう。廊下の隅でなにか相談中《そうだんちゅう》なのは実行委員たち。スピーカーを抱えてがなっているのは、警備《けいび》中の生徒会。その隣《となり》のパネルにはそれぞれのクラス展示の集合写真に、ミスコンの出場者たちのスナップが数枚ずつ。天使の翼《つばさ》をつけてYAZAWAシャウトの大河《たいが》もいる。優勝《ゆうしょう》カップを抱えて小躍《こおど》りする春田《はるた》もいる。その隣《となり》にはぶりっこ仮面も危うい大口をあけての笑い顔で一緒に喜ぶ亜美《あみ》もいる。福男レースのスタート直前、ずらりと並んだ出場者の顔のアップもある(ちょうど竜児《りゅうじ》の顔だけ他《ほか》の奴《やつ》の頭で隠れているのに写真部の作為を感じる)。もちろんというか当然というか、女王さまスタイルでムチを振るう亜美の写真は、パネルを一枚まるまる占拠して特設コーナー化され、健全な公立高校の廊下で異彩を放ちまくっている。
写頁はあらゆる色彩でたくさんの笑顔《えがお》を写し取り、あの日のあらゆる場面を、ミニチュアな二次元の世界に再現していた。
「しかし、すげえ枚数だな」
「生徒全員が、最低でも必ず一枚は写るように撮《と》るんだってさ。っていうか、なんだこのばかちーコーナーは。きもいな。……私も結構写ってる。自分の写真なんかいらないけど……このミスコンのとか、買うべき?」
「記念に買っとけよ、俺《おれ》は買って、泰子《やすこ》に見せるけど」
「あんたが私の写真買うなら、私は買わなくていいんじゃん。MOTTAINA〜I」
「そういうとこでケチんのか?」
「物より思い出」
「プライスレス……」
しゃがみこんで下の方に貼《は》られた写真をチェックする大河のつむじを見下ろしながら、竜児はスン、といまだメントールのしみる鼻を鳴らす。
ほんの数週問前の出来事だというのに、こうして写真の中に納められた光景は、なんだか妙に懐《なつ》かしかった。クラス展示のプロレスに、大河のミスコンに、福男レースに……本当にいろいろ、大変だった。だけど楽しかったな、という思いと、終わってしまったんだ、という思いが、微妙にセンチメンタルな気分となって竜児の鼻の穴をスースー冷たく吹き抜けていく。あまりにもたくさんのことが起きた日々だった。実乃梨《みのり》とケンカもしてしまったっけ。いいことも、心が痛むことも、考えさせられることも、たくさん――と、揺れるおセンチな三白眼《さんばくがん》が一枚の写真を見つけて留《とど》まる。
「おう大河! これ!」
呼ばれて覗《のぞ》き込み、大河の目が丸くなる。息を詰め、その肩がぴくりと震《ふる》える。
それは、火の粉の星降る、後夜祭のワンシーン。
数センチ四方の写真の中で、ティアラをつけた天使と、眼鏡《めがね》の生徒会副会長が、両手を握りあってキャンプファイヤーの前で微笑《ほほえ》んでいだ。互いの横顔のラインを炎の色で照らされて、見詰めあう二人《ふたり》は本物の……噂《うわさ》どおりの恋人同士のようにも見えた。
思ったとおりの言葉を、竜児は素直に口にする。
「なんか……すっげえ、いい写真だな」
大河《たいが》は、答えなかった。
なにも言わないまま、その一枚の写真を見つめる。やがて唇に、ふ、と微《かす》かな笑《え》みが浮かぶ、髪が香るほどの距離《きょり》にいながら、竜児《りゅうじ》には傍《かたわ》らの大河が今考えていることはわからない。わかるのは、写真が切り取った瞬間《しゅんかん》を見つめる眼差《まなざ》しの穏《おだ》やかさと、確《たし》かめるようにそっと伸ばした指先の白さ。
大河はやがて納得したみたいに頷《うなず》き、その番号をメモし、そして唐突に顔を背け、
「……うぷっ!」
詰めていた息を、
「ぷ……っぎゃーっきゃっきゃっきゃっきゃー! あーはひゃひゃーきゃきゃきゃっ! もうガマンできないっ! これなんだ!? 魔除《まよ》け!?」
「えっ……?」
ロマンチック気分も爆砕《ばくさい》、一気に噴《ふ》き出した。そうして装弾無限のマシンガンみたいに聞く者みんなを吹っ飛ばす軽快な哄笑《こうしょう》をブチまけ、すぐ隣《とむり》に貼《は》られた一枚の写真を指差すのだ、一体なにが、と覗《のぞ》き込んでみて、
「……ひ、ひでっ……!」
ショックのあまり、竜児は元日本代表・現旅人の愛称を叫んだ。
「ぇぇひっどいわよほんっとになんなんだこのツラは!? あんたふざけてんの!?」
「違う! おまえがひでぇんだよ!」
頭を抱え、そのままよろめく。ひどすぎる――これを笑うなんて、大河はあまりにもひどすぎる。大河が大爆笑しながら指差す写真は、後夜祭の前に行なわれた福男レースで、実乃梨《みのり》とのデッドとートを演じている竜児の姿をド真ん中に写した一枚だった。
ああ、確《たし》かにひどい顔で写っているとも。元々|悪辣《あくらつ》なツラは息も絶え絶えの全力疾走のせいでひん曲がり、般若《はんにゃ》も裸足《はだし》で逃げ出しそうな精神有害ブラクラ画像ヅラとなり、前を行く実乃梨を取り殺そうと追いすがる幽鬼が如《ごと》くどえらいことになっていた。写真部も、よくもこれを展示したものだ、と自分でも思ってしまうとも。
でもでも、だって、このときは必死だったのだ。顔のことなんか考えている余裕もなく、ただ大河を元気付けたくて、走ることだけに無我夢中でいたのだ。それなのに。
「だ、誰《だれ》のためにこんなツラを晒《さら》して福男なんかに畠たと思ってんだよ? 俺《おれ》はおまえのために……」
「それはどーも、」
大河は顔の左右で指先をチラチラと振ってみせ、
「あんがと、」
大きな両目をきょろん、と真上に向けてみせ、
「ね!」
舌をぴぴるぴ〜、と出してみせた。そしてプイ、と身を翻《ひるがえ》し、そのまま裏のパネルを見にいってしまう。
「……っ」
一人《ひとり》残され、竜児《りゅうじ》は呆然《ぼうぜん》と声を失った。
一体、どこにいけば、誰《だれ》が教えてくれるのだろう。たったの三モーションで、こんなにも人の心を挟《えぐ》る仕草《しぐさ》というものを。竜児は心臓《しんぞう》を押さえ、立っていることもできずにその場にへたり込む。言い返す? 無駄《むだ》無駄無駄無駄無駄、奴《やつ》にはどんな正論《せいろん》も通じない――
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァ!」
「っ!?」
突然にすぐ傍《かたわ》らで開始されたオラオラのラッシュの風圧に、竜児は思わず飛《と》び退《すさ》っていた。何事かと振り返り、
「おうっ……」
「オラオラオ……わ!? 高須《たかす》くん、座り込んじゃってどうしたの!? はっ……まさか私のオラオラてすかぁ!?」
「や、ち、ちがうちがう! 精神的にちょっといろいろあってな……」
己《おのれ》の拳《こぶし》をおろおろと見下ろす少女に、大丈夫大丈夫だいじょうぶ、と手を必死に横に振ってみせる。そうであったか、ならばよい、と生真面目《きまじめ》ぶって頷《うなず》いてみせるのは――櫛枝実乃梨《くしえだみのり》。
そして彼女は、笑ってくれる。
竜児はぼんやり、幸せになる。
恋をしたのは、一年生の頃《ころ》。
二年になって、同じクラスの仲間になれた。春が終わる頃には、友達になれた。夏には一緒に旅行に行き、不思議《ふしぎ》な色の心の中を、ほんのすこしだけ覗《のぞ》かせてくれた。秋には磨きのかかった奇行と、さらに奇妙な距離感《きょりかん》で竜児を悩ませ、ひどい言葉でケンカもした。星空の下で、笑いあって仲直りもした。そして、
「高須くんも写真、選びに来てたんだ? 奇遇ですな」
「おう」
――そして、冬の始まりの今。
「どう? 高須くん、たくさん写ってた?」
「いや、あんまり」
「そか」
顔は写真に向けたまま横顔だけで話しながら、実乃梨はふざけてくにゃくにゃ揺れる。傍らに立つ竜児の肩の辺りに、ちょこっと跳ねた髪の先が何度か触れる。そして実乃梨は一言小さく眩《つぶや》く。「酔拳《すいけん》」、と。実乃梨はそんな女の子だった。竜児の長い片想《かたおも》いの相手だった。誰よりもシンプルで、誰《だれ》よりも複雑な、太陽の欠片《かけら》から生まれたみたいに光り輝《かがや》く不思議《ふしぎ》生物だった。ちなみにさっきの「オラオラ」は、単に写真の番号をメモする掛け声だったらしい。
「あー、みのりーん!」
「いよっしゃー、たいがー!」
パネルの裏側から、愛《いと》しの猛獣《もうじゅう》使いの声を聞いたのだろう。大河《たいが》は横着してしゃがみこみ、パネルの下から顔を出して嬉《うれ》しそうに吼《ほ》える。実乃梨《みのり》もそれにならい、同じ姿勢でその場にしゃがんで、親友同士は和式便所スタイルの低位置で相見《あいまみ》える。なにやってんだ……と呆《あき》れる竜児《りゅうじ》の視線《しせん》にも頓着《とんちゃく》せず。
「みのりんの写真、見つけたよ。81番、かわいく撮《と》れてたよ」
「ほう、やそいちか……覚えておこう。そして聞きたまえ、私から大河にも伝えたいことがある。あーみんのちょうど200番は要チェキ――合言葉は、し・た・ち・ち」
「!?」
竜児は勢いよく反り返る。200番!? どこだ!? ことさら亜美には興味《きょうみ》はないが、そんな合言葉を囁《ささや》かれて確認《かくにん》せずにいられる高校生男子がこの世にいようか!? 響《ひび》け、轟《とどろ》け、世界に届け! いっせーの、『MOTTAINA〜I!』
「……呆れたエロ犬だこと……」
「おうっ、お、俺《おれ》としたことが……っ」
冷たい大河の声に理性を取り戻し、足を止めて我に返る。そうだ、実乃梨がいるのだ。みっともない真似《まね》は絶対にできない――慌てて平静を取《と》り繕《つくろ》いつつ、一応焼き増し希望メモには200番、とさりげなく記入、バレていないつもりだったが、そんなザマを一部始終じっとりねっとり下から見つめ、パネルの向こうから大河は大げさにため息をついた。
「まったく。竜児の性欲の強さには呆れるを通り越して殺そうかと思うことがあるわ……」
「……すげえ通り越し方だな、おい」
「ばかちー如《ごと》きの下乳に興味があるなら教えておくよ。奴《やつ》の乳は……六つある! 見た!」
「ねぇよ」
あまりにあっさり突っ込まれ、ぷぅ、と大河はつまらなそうに頬《ほお》を膨《ふく》らませてみせる。そうして、うざったく床についてしまいそうな長い髪を乱暴《らんぼう》にかきあげ、
「あーあ、くっだらない。竜児の性欲には付き合いきれないわ。私は先に戻るから。あんたはせいぜいそこでばかちーのパイオツにムラムラいやらしい性欲を向けているがいい。……なんか、トイレ行きたくなっちゃったし。寄ってから教室戻る」
「さてはそんなかっこしてるから『呼ばれた』んだな……」
納得して頷《うなず》く竜児の前から、「下品な野郎は相手にしないの」とだけ言い残し、よいしょ、と大河の顔が消える。見えるのはソックスに包まれた細い足首だけになる。
「えー、大河、おトイレ? よろしければわたくし、ツレ、いたしましょうか?」
「んーん一人《ひとり》で行ける」
踏ん張りスタイルのままで見送る実乃梨《みのり》の声にも、大河《たいが》の歩みは止まらなかった。パネルの裏を、上履《うわば》きと足首だけがスタスタと姿を見せないまま歩き去っていく。ツレ拒否かあ、と実乃梨は寂しそうに身を起こし、
「なんだよ、ほんとに行っちゃった。……しかし大河はとんでもないものを私に伝染《うつ》していきました。それはビー、イー、エヌ、アイ……」
べ、ん、――頭の中でアルファベットを書いてみて、竜児《りゅうじ》は実乃梨の顔を見下ろして思わずかける言葉を見失う。その視線《しせん》に気がついたのか、目が合ったのはほんの一瞬《いっしゅん》。その後に、
「ノォォォォーッ!」
実乃梨はその場でコマの如《ごと》く回転。正面に戻ってボムッと赤面。そして、
「わ、私ったら、今なんか超恥ずかしいこと言った!? 無意識《むいしき》、こぇぇ! うおぉ〜なんという恥っ! だが俺《おれ》はなんとかこの場を勢いだけで切り抜けてみせるぜ! いくぜ高須《ながす》くん、運命のデュエル! フハハハハー、すごいぞーかっこいいぞーいきなり櫛枝《くしえだ》のターン! ドローカード!」
なにをごまかそうというのか(もう遅い)、突如|華麗《かれい》な動きで手にしていたメモを竜児の前にズアッ! と見せつける。いくつかの番号がそこには書かれている。
「えっ……」
「ドン☆ 俺は九十円を生贅《いけにえ》に、九枚の写真を今のところ召還《しょうかん》するぜ! さらにリバースカードオープン! 速効|魔法《まほう》『今みっけた』を発動! たった今たまたま目に付いた25番、ソフト部の後輩《こうはい》と写ってるこの一枚をコスト十円を支払って召還! 守備表示で場に伏せてターンエンドッ! はい、高須くんのターン!」
「えっ、えっ……」
「ほら、早くしないとずっと櫛枝のターンだよ!」
「えええ……!?」
「んもー鈍いんだからー! やだねぇ、カマトトぶって! どの写真買ったのか、見せあおう
って言ってるん☆だ☆よ!」
バシ、とメモをもった手で肩を叩《たた》かれる。ちょっと嬉《うれ》しいが、顔には出さない。
「おう、そうなのか? おまえ、なんかすごいぞ……マジで全然意味がわかんねぇ……」
「またまたご冗談《じょうだん》を! で、どうどう? どれ買ったの? クラスの集合写真は当然|攻撃《こうげき》表示で召還するよね? 見せてみ見せてみ」
「ええと、俺が買った写真は、その――お、俺のターン」
メモを「そうそう」と頷《うなず》く実乃梨に見せようとし、あれ、と、ちょっと待てよ、と。見せられるわけがない。状況のヤバさにやっと気がつき、唐突に石化したみたいに動きが止まる。なにがデへへ、お、おでのターン、だ。
「ん? どした?」
「あ、や……いや……ええと……」
「あやしい様子《ようす》……なにやらデッキに問題でも生じたのかね? どら、ちょっくら私が、」
「いい!」
「……ますますあやしい」
竜児《りゅうじ》はメモをじっとり濡《ぬ》れた手の中に握り込み、覗《のぞ》き込もうとして鼻の下をなぜか長く伸ばしている実乃梨《みのり》から必死に隠す。こんな、実乃梨の写っている写真の番号だらけのメモを見られたら、もはやなにもできないままターンエンド、そして爆死《ばくし》(ルールなんか知らないが)ではないか。さりげなく尻《しり》ポケットにメモを突っ込んでしまおうと、
「おう! あの写真はなんだ!?」
あらぬ方向を力いっぱい指差してみた。猫みたいに俊敏《しゅんびん》な動きで、実乃梨は騙《だま》されてそっちを見る。
「いよっしゃあっ、ついにおいでなすったか心霊《しんれい》写真っ!?」
その隙《すき》にメモを尻ポケットにイン、あとは「そろそろ時間やばくねぇ?」コンボでターンエンドの予定だったが、
「あ!……これ。……この写真……」
実乃梨の声は、なんだか想定外に詰まって聞こえた。
偶然に竜児が指差したその先に、それはあったのだ。心霊写真なんかではなく、それでも実乃梨の視線《しせん》を強くひきつける力を孕《はら》んで。
「こんなところにも、レースの写真、あったのか……」
実乃梨と肩を並べ、竜児もそれを見上げた。
大河《たいが》に大笑いされた幽鬼写真とは別の、福男レースの写真だった。ゴールテープに飛び込む寸前の一瞬《いっしゅん》。決死の表情で胸からテープに飛び込んでいくのは竜児。泣いているみたいに苦しげに顔を歪《ゆが》め、そのぴったり真横で宙を掻《か》いているのは実乃梨。すれすれのところで他の奴らの追撃《ついげき》をかわし、竜児と実乃梨は、同じゴールにたどりついていた。写真判定でもぴったり同着。ジャージの袖《そで》をひっぱりあうみたいに荒っぽく、だけどおそらくは全力で、互いの手を強く掴《つか》み締《し》めて。
それはもう本当に本当に、二人揃《ふたりそろ》ってひどい顔、なのだけど。あのとき握った指の熱《あつ》さは忘れることなどなくて――きっと、一生ものだろう、時が過ぎ、どんなにつまらない大人《おとな》になってしまったって、あの温度だけはいつだってこの手の中に鮮《あざ》やかに蘇《よみがえ》るだろう。それだけは確《たし》かにわかる、
「……もう一度、俺《おれ》のターン」
実乃梨は俯《うつむ》いて、唐突に言った。メモをもう一度取り出し、シャーペンで素早《すばや》くひとつの番号を追加した。そうして顔を見せないまま、
「あのさー、あのさー、高須《たかす》くん」
メモをぴっちりぴっちり折り畳みながら、小さな声で言葉を継いだ。ここから後は一息に。
「私この写真買おうと思うけど記念に一緒に買わないか」
――痺《しび》れた。
ジン……と鳴る耳の奥で、血が沸いた。
「お――おう」
実乃梨《みのり》が、一緒に買おうと、そう言ってくれた。竜児《りゅうじ》にとってはなにより大事な瞬間《しゅんかん》を、記念にしようと、言ってくれた。これで沸騰《ふっとう》しないなら、それは血ではない。生きた男の身体《からだ》を駆けめぐる熱《ねつ》なんかではない。
「……おう。買おう。記念に」
うまく回らない口で必死に答えながら、竜児は、繰《く》り返し頷《うなず》く。嬉《うれ》しくて嬉しくて、顔は火を噴《ふ》きそうに熱《あつ》かった。俯《うつむ》いたままでポケットから小銭を出して数えている実乃梨の横顔は、目が眩《くら》んで見ることができない。
***
「は〜い、席についてくださーい。帰りのホームルーム始めますよ〜」
教壇《きょうだん》に独っ! と足音を立て、三十路《みそじ》独身(担任・恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり)が現れた。
一日の労働を終えて顎《あご》のあたりに少々脂が浮いているものの、顔色にくすみはなく、メイクもさほど崩れてはおらず、生徒たちに向ける明るい笑顔《えがお》も「ちゃんと担任」している。最近ほんの少しだけ髪を切って顔周りをすっきりさせたせいか、印象はここにきてぐっと垢抜《あかぬ》けた。
ちょっと痩《や》せたせいもあるかもしれない。
ファッションも、身体《からだ》の線《せん》を隠さずに細身の白いジャケットをきちんと着て、膝丈《ひざたけ》のスカートもほどよくタイト。肌によく映《は》えるピンクゴールドのネックレスには一粒ダイヤが女らしく控えめに輝《かがや》き、華奢《きゃしゃ》な手首ではオメガコンステレーションが、地道に時を刻んでいる。決して派手《はで》すぎず、全体に教師らしさを逸脱することなく、独身は脱地味路線に成功したといえる。三十路圏に突入後、燃《も》え尽きて灰になりかけていた独身のオンナ魂は再びしぶとく蘇《よみがえ》り、不死鳥の如《ごと》く、老化という名の業火の中をばっさばっさと羽ばたいて休むことなく飛び続けているのだ。休んだら多分《たぶん》、そのまま死ぬ。
一体なにが独身にあったかを生徒たちは当然知る立場にはないが、
「ほらほら、みんな、席についてくださーい。騒《さわ》がないで〜」
いかに独身がしぶとく羽ばたこうとも、健康な高校二年生のおしゃべりは簡単《かんたん》に途切《とぎ》れさせられるようなものでもない。いまだ奴《やつ》らはうろちょろとあっちこっちで大騒ぎ、席の半分はなかなか埋まらない。
「……いい加減に、して〜」
ビキ。
と独身のこめかみに苛立《いらだ》ちが浮かぶと同時、独っ……と、教室の時空が歪《ゆが》む。
「うっ?」
「耳が痛い……っ」
三半規管の弱い数人の女子が、唐突に耳を押さえて足元をフラつかせる。
「……席に、ついてったら。つきなさいよ。ついてよ。……私、今目《きょう》はどうしても早めに学校出たいんだってば。……紹介されて。三十四歳で。大学の助教授、で。次男。土地、もってるんだって。後はお嫁さんだけなんだって。お母様《かあさま》もお父様《とうさま》も教師で、教師の嫁希望なんだって。でもすでに長男一家と同居してるんだって。奇跡。奇跡なんだわこれ。奇跡の物件。メール四回したけど、意外と話も合う。だから映画、見に行く! その後、食事、する! その後のことは、空気、読む! 今日のために、今日のためにあたしは……あたしは、あ、あた、あた……フォォォォ……ッ!」
ドドドドドドドド独独ドドド独独独ド独独ドッ! と教壇から一気に吹き上がった瘴気《しょうき》に、
「なんだこの圧迫感は?」「俺《おれ》は今、恐怖を感じているッ!」――騒いでいた2−Cの生徒たちは、二秒で全員席についた。よっしゃー指導力《しどうりょく》まんざらじゃねー、と独身は逆立ちかけた巻髪を指ですきおろし、にっこり、と優《やさ》しい担任の笑顔に戻るが、
「チッ……」
舌打ちが、しかしそのとき独身の身体《からだ》を冷たく縛《しば》る。教室の中央付近から舌打ちとともに放たれたのは、伸び放題に荒れ果てた茨《いばら》の蔦《つた》にも似た刺々《とげとげ》しい視線《しせん》。そうしてイライラと顔を歪《ゆが》め、独身を睨《にら》みつけているのは、もちろん手乗りタイガーだ。虎《とら》の名を持つ問題児は、どうやら独身の私的な理由で急がされたり歩かされたりしたことがムカついてムカついて仕方がないらしい。うらやましいほど大きな瞳《ひとみ》は爛々《らんらん》と光を湛《たた》えつつ、グロスを塗りすぎたかもしれない唇の辺りをジロジロと不躾《ぶしつけ》に睨み続けている。
「う……うぅ……っ」
普段《ふだん》ならそのまま押し負けてしまうところだが、しかし、今日《きょう》の独身は独身度が違う。独! と口を結んで大河を見つめ返し、両足は力強く六センチヒールで大地……いや、教室の床を踏みしめる。
「……ま、負けない! こちとら来月には五年ぶりの高校の同窓会が控えてるんだ……婚約は無理でも彼氏ぐらいは捕まえとかんと行くに行けんばいっ! クラス委員さん、号令お願いしま〜す!」
だが、そんな独身の声に、答えるはずの声はなかった。
またか――2−Cのどこかから、困惑したような声が漏れる。独身も独……と眉《まゆ》をハの字にする。もちろん竜児《りゅうじ》も困惑している奴《やつ》らの一人《ひとり》だ。しばらく前からこの調子《ちょうし》、うすらぼんやり状態の親友の方ヘギラギラ光る凶眼を向ける。返事が遅いのに腹を立てて二度と声が出ないように喉首《のどくび》かっさばいてやろうと思っているわけではない。心配なのだ。
「……クラス委員さーん! 北村《きたむら》くーん! おーい!」
「……あ……? ああ……」
独身に幾度か呼ばれ、ようやくクラス委員・北村|祐作《ゆうさく》は眼鏡《めがね》の向こうの目を開けた。前髪は不ぞろいにパサつき、身体《からだ》は傾いた上に猫背。立ち上がる動作もなんだかフラフラと不如意《ふにょい》な感じで、
「……きりーつ。れい。ごちそうさまでしたー……」
誰《だれ》もがついていけないまま、ペトン。と尻《しり》を再びイスに戻した北村を心配そうに見つめる。大河《たいが》も顔をしかめ、振り返って北村のボケ面《づら》を心細げに見ている。片想《かたおも》いの相手の燃《も》え尽き症候群っぷりを、大河なりに心配しているのだ。その大河の様子《ようす》を、さらに不穏《ふおん》な目つきで見ている一団がいることには気づかない。
「まったく、恐ろしい女だぜ手乗りタイガー……」
「一体どんな付き合い方をしたら、あそこまで男を憔悴《しょうすい》させられるんだ……」
それは例の噂《うわさ》の、言うなれば尾鰭《おひれ》の部分ではあるのだが――「あれは単なる燃えつき症候群ではなく、北村は新しく付き合い始めた手乗りタイガーになにか大変なプレイを強要され続けて、すっかり枯れ果ててしまった」とも囁《ささや》かれているのだった。北村を燃え尽きのカス状態にし、さらに捨てたはずの竜児《りゅうじ》とも相変わらずの相棒ぶりを見せ付けて、男|二人《ふたり》を残酷に翻弄《ほんろう》するまっこと恐ろしきメス虎《とら》よ、と。……あくまでも、例の噂《うわさ》を真に受けた生徒の中でも、さらに極端な妄想指向性をもつ奴《やつ》ら(単にヤジウマ根性が異常に旺盛《おうせい》、とも言う)の間でのみ言い交わされている尾鰭《おひれ》ではあるのだが。
いろいろな意味で気まずく視線《しせん》を交わしあう生徒たちを前に、独! と独身は笑顔《えがお》をムリヤリに作ってみせた。こんなところでグズグズしてはいられない。あと三十分で助教授は映画館《えいがかん》前の噴水《ふんすい》に来てしまうし、一ヵ月後には同窓会もきてしまう。来年はいとこの子が中学に上がってしまうし、十年後には四十才になってしまう。
「さ、さあ! なんだかいろいろ大変そうだけど、元気を出していきましょうみんな!」
独身は笑顔のまま、チラ、と役に立たなくなった元・クラス委員長、現・屍《しかばね》の方を見た。屍は相変わらずうすらボケ、窓の外を見るともなしに眺めている。独身も急いでいるとはいえ、屍が心配でないわけではないのだ。
ことさら声を大きくし、屍に回復|呪文《じゅもん》をかけてやるつもりだった。
「明日《あした》は金曜《きんよう》、今週最後の平日ですね〜! そして休みが明けたらおまちかね……かな!? そう、ついに、生徒会長選挙が始まりまーす! ね、北村《きたむら》くん! しゃきっと元気出して頑張らないとね! 次期生徒会長候補ナンバーワン、いや、オンリーワン! だものね!」
独身の言葉に、おお……と教室中がざわめき立つ。おまちかね、というわけではまったくないのだが、ちなみに、正直なところ生徒会長選挙にそもそも興味《きょうみ》のある奴もいないのだが、
「そうか、選挙か! イベントだイベント!」
「もうそんな時期かあ、早いもんだ!」
「まあ当然、次の会長は北村に決まってるけどな!」
空気を読んで、2−Cの面々は揃《そろ》って拍手。独身も拍手。クラスをあげて、少々強引に「わーいわーい」と盛り上がってみせる。それもこれも屍のためだ。新しいイベントごとさえあれば、屍こと北村の燃《も》え尽き症候群も治るはずなのだ。選挙に燃えて戦って、生徒会長として蘇《よみがえ》れ、と。
竜児もここはもちろんわざとらしいほど大きく拍手、能登《のと》や春田《はるた》と視線を交わし、
「おう北村、頑張れよな! もちろん俺《おれ》たちも選挙活動|手伝《てつだ》うぞ!」
「よっしゃ、盛り上げていこうぜーーな、北村!」
「またプロレスやろっか!? 俺、なんかシナリオ書こっか!?」
あははー、まったく春田はバカだなー、選挙でそんなもんやってどうすんだよー、えー、俺バカかなー、バカだよー、バカじゃないよー、バカだよー、なー北村ー、こんなのに応援されても困るよなー。
なー。
「……る……」
パン、と後ろの席からお調子者《ちょうしもの》の誰《だれ》かに背を叩《たた》かれ、北村《きたむら》の口から、なにか出た。
「ん? なになに、なんだ? どうした北村」
「……める……」
「ん〜〜? どうしたのかな、クラス委員さん?」
なにかななにかな、聞こえないぞ、とりあえず、とにかく帰りの挨拶《あいさつ》して終わりにしちゃおうか、ね、そうしよ、と独身は笑って私欲を満たすためにとっとと号令を促そうとするが、
ダン!
と。屍《しかばね》が席を蹴《け》って立ち上がる。
イスが倒れ、音はきっと下の階まで轟《とどろ》いた。突然のことに、誰《だれ》もが呆然《ぼうぜん》と屍を見上げる。独身の笑顔《えがお》がぴき、と固まる。竜児《りゅうじ》も、能登《のと》も、春田《はるた》も、大河《たいが》も固まる。亜美《あみ》までもが暢気《のんい》な爪磨《つめみが》きの手を止め、死界から蘇《よみがえ》りし幼馴染《おさななじみ》を振り返って目を見開く。クラス全員、凍りつく。
その声は久しぶりに聞いたまともな北村の声は、
「……生徒会長選挙になんか、でない……生徒会も、やめる。俺《おれ》はやめる。全部やめる、もうやめる、やめるやめるやめるやめるやめるやめるっ! もう、もう、もう……っ」
教室中に、いらんほどに響《ひび》き渡った。
「全部、やめゆ――――――――――――――――――――っっっ!」
2
「北村くん、今日《きょう》ちゃんと学校来るかな。休んじゃったりして……んあー」
朝、週末を待つばかりの金曜日《きんようび》。
重い曇《くも》り空の下、大河は両手をジャケットのポケットに突っ込んで肩をちんまり丸める。晩秋から初冬へ季節を押し流すみたいな冷たい風が、柔らかな髪をふわふわとさらう。
「なんだその、んあー、ってのは」
「さっぶいの。なんか今日は、いきなりさぶい。ジャケットの中にニットベスト着たけど全然足りない……コートもそろそろ出した方がいいかな」
「まだいらねぇよ、十一月だぞ。寒がりだな」
「……自分だけあったかそうなの巻きやがって……ううう、死んじゃう」
「コートにはまだ早い、でもマフラーは、季節的に適切だ」
大河の少し後ろをついて歩く竜児の首には、早くもマフラーがきっちり巻いてあった。情報力の差だ、と竜児は得意げに三白眼《さんぱくがん》を残虐《ざんぎゃく》にギラリと光らせる。朝の天気予報で今日はかなり冷え込む、と言っていた。それをしっかりチェックして、数日前からスタンバイしていたクリーニング済みのこいつをびしっと巻いてきたわけだ。
「今からコートなんか着てたら、ほんとの真冬に着るもんねぇぞ、と。……やっぱ北村《きたむら》からメールの返信はねぇな。今朝《けさ》も起きてすぐメールしたんだけど」
「そっか……」
枯葉を踏んで歩く、いつもの欅並木《けやきなみき》の通学路。
竜児《りゅうじ》は空《むな》しいメールチェックを終えて携帯をポケットにしまうと、マフラーを外し、背後から大河《たいが》の首に引っ掛けてやる。大河は「うぶ」と立ち止まる。いい機会《きかい》だから凍死に見せかけて生意気な大河をくびり殺してやる! ……という光景にしか見えないが、一応手つきは優《やさ》しく、苦しくないように髪の上からふんわりと巻きつけていく。だが男物のマフラーは小柄な大河には長すぎて、三重に巻いて結んでやっても、まだしっぽみたいに長く背中に畢れてしまう。
「う、ぐえ……」
「ちょっと待て、ストップ。車に巻き込まれたりしたら大変だからな……よし」
垂れたしっぽをうまいこと首の後ろに団子結びで片付けて、できた、と結び目を叩《たた》く。それを合図に、やってもらうまで結構素直に待っていた大河は再び歩き出す。そしてふにゃあ〜と美貌《びぼう》を緩《ゆる》め、
「はぁぁ〜、あったか……生き返る……」
温泉に浸《つ》かったばあちゃんみたいな声を絞り出した。へっへっへ、と竜児は鋭《するど》い魔眼《まがん》を禍々《まがまが》しくギラつかせながらも得意顔。
「カシミアだからな。泰子《やすこ》の給料では全開フルパワーといえる額《がく》の、二年前のクリスマスプレゼント。柔らかいだろ」
「おお、カシミア……犠牲《ぎせい》になったウサの命よ……」
「いや……ウサじゃねえだろ。……ヤギ……?」
「……ウサでしょ……?」
竜児の体温つきのマフラーをそのまま「まーなんでもいいや」とすりすり頬《ほお》にすりあて、大河は満足したらしい。マフラーの中に巻き込まれてしまった髪も乱れたままに、抱いてもらった猫みたいな無防備さで目を細める、ぬくぬく、と心境を声にして発したりもしている。どうやら本当に寒かったようで、なによりでした。一方竜児はマフラーを失い、スースーと冷える首筋に肩を辣《すく》める。急に風に晒《さら》された肌が冷たい。学ランの前を掻《か》き合わせて少々やせ我慢、寒くなんかねぇぞ、と背すじを伸ばす。
「それにしても北村くん、この寒空の下……心配だな。一体どこの土管で一夜を過ごしたんだろ……かわいそう」
「土管ておまえ……さすがに家には帰っただろ」
昨日《きのう》、まさに「ご乱心」なさって、そのまま教室を飛び出していった屍《しかばね》こと北村の行方《ゆぐえ》は杳《よう》として知れなかった。自宅に電話しても留守電のまま、携帯にも出ずコールバックなし、メールにも返事なし。とはいえ共働きの北村家《きたむらけ》は基本的に留守電だし、……さすがに土管はないとは思いたい。が。
マフラーに鼻まで埋《うず》め、んー、と大河《たいが》は眉《まゆ》をしかめて考え込む。
「北村くんみたいに普段真面目《ふだんまじめ》だと、やっぱり日頃《ひごろ》のストレスが自分でもわからないままどんどん蓄積《ちくせき》されてて、ああやって、あるときいきなり爆発《ばくはつ》しちゃうものなんだうか」
それは三大欲求(食・腹減った! 眠・眠い! 性・北村くん好き!)以外には人間らしい深い思考などあんまりなさそうな大河にしては、珍しくまともな意見であった。竜児《りゅうじ》もおう、と頷《うなず》き、
「あいつの脱ぎ癖《ぐせ》は、溜《た》まったストレスを発散して自分を守るための行動だったのかもしれねえな。今思えば。世間様的には大迷惑だけど」
「発散か……それって大切よね。私も発散していかないと」
いや、おまえはとっても十分にいつもいろんなモンを撒《ま》き散らしてるからと続けようとしてやめる。発散発散、と眩《つぶや》きながら空に打ち込まれた大河の拳《こぶし》(ジャブとストレートのワンツーコンビネーション)の唐突にも凄《すさ》まじい豪速に、竜児は隠しようもない恐怖を覚え、二人分《ふたりぶん》の弁当が入ったバッグを胸に抱えて乙女《おとめ》のように後ずさる。皆が皆、大河のように自由に強く生きられたら楽だろうに……。
「あ、みのりんだ! よかった、今日《きょう》は置いていかれなかった」
気がつけばいつもの待ち合わせの交差点、実乃梨《みのり》がこちらに「おーい」と手を振っていた。
大河はピョン、と飛ぶみたいに駆け出して実乃梨の片腕にしがみつき、ブラ下がり、
「おはよ! さぶいね、みのりん! 世間はもう冬だよ!」
「ういーっす! 重いね、大河! みのりんは腕折れそうだよ! ていうかそんな寒いかあ? 軟弱な、マフラーまでしちゃって。ねえ、高須《たかす》くん。おっはヨン様」
軟弱なのは実はこの俺《おれ》……ともいえないまま、竜児は照れ隠しのあまりの仏頂面《ぶっちょうづら》、片手を上げて笑顔《えがお》満面の実乃梨に挨拶《あいさつ》を返す。こんなふうに冷えて暗い朝でも、実乃梨の笑顔は真夏に咲き誇るひまわりそっくりに眩《まぶ》しい。と、おもむろに実乃梨はクンクンと鼻をひくつかせ、
「……おや? 大河のマフラーから男の匂《にお》いがするぜ。弟がオサレ完了した後の洗面所の匂いにも似たり……あ。これって、もしかして高須くんの? 貸してあげたの?」
なんという鋭《するど》さ。しまった。自分の心優《こころやさ》しさがうっかり自然に漏れ出して実乃梨にバレてしまったではないか。竜児は照れて頭を掻《か》きつつ、「いや〜わかってしまったなら仕方ない」と鬼神にも似たニヤケ面《づら》で頷こうとするが、
「寒いからさっき無理やり追いはぎしてやった」
事実とはちょっと違う言い方で、大河はそれを制してしまう。竜児が口を挟む間もなく実乃梨はあっさりそれに乗り、
「えー? だめでしょ大河《たいが》、高須《たかす》くんが風邪《かぜ》引いちゃうよ! そんなに寒いなら俺《おれ》のジャージのズボンでも首に巻いてな! ほれ、洗濯《せんたく》ずみだ!」
「いーい! やーだ! ……なんで私だと軟弱で、竜児《りゅうじ》だと風邪引いちゃう、なのよ」
「高須くんはこう見えてもジルベールみたいに繊細《せんさい》な少年なのだ……な? そうだな? 僕の小鳥……」
ジルなんとかくんのことはよく知らねえ、いや、こう見えてもってどう見えてる? 等々、いろいろ溢《あふ》れる思いを飲み込み、とりあえず竜児は首を横に振る。
「俺は小鳥じゃねえし、そんな寒くもねえし。それに別に無理にとられたんじゃなくて、」
「けっ、なにをかっこつけて。この私が力ずく、無理矢理毟《むりやりむし》り取ってやったのよ。だって竜児にマフラーなんて生意気、だからこの私が使って『あげる』の。フン! 感謝《かんしゃ》せいっ!」
ツーン、と大河は偉そうに顎《あご》を突き上げてそっぽを向き、マフラーに顔半分を埋《うず》めたままで竜児と実乃梨《みのり》を置き去りに、逃げるみたいに先を走り出す。
「あっ、こらー! 行っちまいやがったよ、まったくも!、大河と地頭《じとう》にはかなわねぇな! 高須くん、ほんとに寒くない? 巻くかい?」
呆《あき》れたみたいに大河の背を見やりながら、実乃梨はサブバッグからチラ、とジャージを取り出して見せてくれる。が、
「え!? ……いや、いい、大丈夫! 心配無用だ!」
さすがに好きな女子のジャージ(しかも下)を首に巻いて堂々正門から登校できるほど、竜児も解脱《げだつ》できてはいなかった。実乃梨のジャージに興味《きょうみ》がないわけではない。むしろ興味|津々《しんしん》と言っても過言ではない。だが巻くのは、巻いて衆人環視《しゅうじんかんし》の世間に飛び出していくのは、それだけは断じて無理だ、興味津々だからこそ、無理だ。
「そうかい? ならいいけど……まあ、本当に心配なのは、北村氏《きたむらし》だわなー。連絡取れた? 咋日《きのう》からずっとメールも電話もしてるんだけど全然返ってこなくて」
「こっちも連絡ついてねぇ、学校には来てるって思いてぇけど……」
「そうだねぇ……うーん。これで休んじゃったらどうすっかね……土日は休みだし、月曜日《げつようび》まで顔見られないんじゃ、ちょっと心配だなあ」
並んで歩き出し、二人分《ふたりぶん》のかすかに白い息が重なった。重なる部分に滲《にじ》むのは、心配が空回りするたび膨《ふく》らむ憂諺《ゆううつ》――竜児が期待するほどに、このひと時は甘くはならない。
先を行く大河は、赤信号で立ち止まっている。大河に追いつけるように少し早足で、だけど竜児も実乃梨も走ったりはしない。実乃梨が走らないわけは、多分《たぶん》信号で追いつけるとわかっているから。竜児が走らないわけは、甘くなくてもなんでもいいからもうちょっとだけ、実乃梨の傍《かたわ》らに並んでいたいから。北村のことが心に重く気がかりな分だけ、せめてものひとときを許して欲しかった。
実乃梨は「んー」と眉《まゆ》をしかめて恐らくは北村のことを思案しつつ、リップクリームをポケットから取り出す。はっ、と竜児《りゅうじ》はキャップを外そうとするその手を押しとどめる。
「……だめだ櫛枝《くしえだ》。歩きながら塗るな、どんな事故が起きるかわかんねぇぞ」
「な、なんだい! アタシのすることに文句つける気かい、この鬼嫁! 事故なんか起きやしないよ、ああそうかい、アタシがそんなに年寄りって言いたいのかい!」
「嫁姑《よめしゅうとめ》ごっこしてるんじゃねぇって。なにかの拍子に鼻の穴にずぼっといったりするかもしれねぇだろ」
「は、鼻、っすか〜……いやー、ないでしょ。さすがの私も素に立ち返ったわ。それはない
ない。あったら私が驚《おどろ》く」
「あるんだ。時に、そういうことはある。これは学校につくまで俺《おれ》が預かる」
「えー!? 唇荒れちゃうよ!? ビロビロになっちゃう!」
「時に、唇の皮よりも守るべきものはあるんだ……」
「……ヒュ〜ッ♪ 言うねぇ。しゃあない、これは俺のおごりだ。とっときな」
実乃梨《みのり》は根負けして(……したのかなんなのか)、竜児が差し出した手のひらにリップを放ってよこした。実乃梨にあんな鼻がスースーする情けない思いをさせたくはない。その一心で重々しく頷《うなず》きつつ、竜児は実乃梨のリップを自分のポケットにボッシュート。決して、後ほどトイレに隠れてそっと自分の口に塗ってみよう、とか思ってはいない。い、い、い、いない。
「……しかし、ほんとに女って、みんなリップ持ち歩いてるよな。そんなに常に塗りたいもんか?」
秘めた欲望をごまかそうとしたわけではなく、竜児は本当に不思議《ふしぎ》に思って訊《き》いてみた。男で毎日リップを持ち歩いている奴《やつ》など、少なくとも自分の周りにはいないはずだ。
「ああ、塗りたいのさ。いつも口はテカテカぬるぬるがいい。テカぬるを求める女心に理由はないね。大河《たいが》だってポッケに入れて持ち歩いてるよ」
「知ってる。ニベアのウォーターインだろ」
「詳し! ……大河のことは、よく知ってるね?」
「おう」
なぜなら鼻の穴に突っ込まれたからな、とはさすがに言えない。微妙に竜児は目を遠くし、鼻粘膜に強烈に沁《し》みたメントールの感覚を思い出す。あはは、そっか、となんだか遠く響《ひび》くよくわからない実乃梨の笑い声も、メントールの刺激《しげき》のトラウマがかき消していく。
「……そう、よく知っていて……そして、事故が起きる前に没収してやらなかったことを後悔しているってわけだ……」
「ほう、事故が……って、な、なにいっ!? まさか……」
で、では、と慄《おのの》いた実乃梨の視線《しせん》の先で、マフラーに顔を埋《うず》め、大河は信号をじっと見上げていた。赤から青へ信号が変わるのを待ちながら、小さく足踏みして、足から伝い這《は》う寒さを踏みつけて殺し続けるみたいに。カシミアに鼻まで突っ込んで、肩を小さく疎《すく》め、両手もポケットの中で握って、目まで閉じて。
その仕草《しぐさ》はまるで猛吹雪《もうふぶき》を耐えるペンギンの赤ん坊みたいで、竜児《りゅうじ》は思わず笑いそうになってしまう。危ないところでぐっと堪《こら》え、
「そんなに寒いかよ?」
追いついて、白いつむじに話しかける。伏せられた長い捷毛《まつげ》は頑固に動かず、仔《こ》ペンギンのままで鼻を一度スン、と鳴らし、大河《たいが》は答える。
「……さぶいの。でも、こうしてりゃ少しはマシよ」
***
「あっ! ちょうどよかった、高須《たかす》くんこっち来て! ついて来て、早く!」
「……は……?」
昇降口で上履《うわば》きに履き替え、校内に足を踏み入れたその瞬間《しゅんかん》だった。ガシッ、と突然に竜児の腕を掴《つか》んだのは、おなじみの独身担任――一体一夜にしてなにが起きたのか、昨日《きのう》はあんなにもびしっとしていた恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(30)は、ノーメイクにゴムでくくっただけのぼさぼさ頭、無残なジャージ姿で目元もしわっと老いさらばえていた。
「え、ちょ、ちょっと……!? なんですか!? ていうか、なんか急に老《ふ》……」
「私の年のことはいいんです! 早く来て!」
「一緒に登校してきた実乃梨《みのり》と大河は完全無視、独身は上履きのかかとを踏んだままの竜児の腕を掴《つか》んでどんどん歩き出す、もう一方の手にはもう一人《ひとり》捕まっていて、
「おう! 川嶋《かわしま》!」
「やーん高須くんおはよ〜※[#ハートマーク]……とか言ってる場合じゃねえし! や〜だも〜最悪! なんなのこれ、超〜うざっ! 亜美《あみ》ちゃんなんかしたあ!? なんなのぉ!?」
「俺《おれ》だってわかんねえよ!」
同じく登校してきたところを捕まったのだろう、亜美がバッグも肩に担いだままで同じように引っ張られていた。不機嫌《ふきげん》そうに整《ととの》った美貌《びぼう》をしかめ、独身の手を振り払うこともできずに連行されるままに歩いて、いや、引きずられていく。
「高須くんが捕らえられるならともかく、なんでこのかわいい亜美ちゃんがぁ!?」
「……なんで俺なら『ともかく』……?」
大河と実乃梨は事態をいまだ飲み込めず、ただポカン、と口を開いて、連れて行かれる二人《ふたり》を見送ることしかできない。
階段を上らされ、一切の質問をシカトされ、意外と力のある独身に引きずられるままにかわいい亜美ちゃんとかわいくない竜児くんが連れてこられたのは――。
顔を上げたそいつが誰《だれ》なのか、理解するまでに数秒かかった。理解して、
「……おうっ!?」
竜児《りゅうじ》はバッグを取り落とす。
「……えっ!? はあ!? ……ひゃ……」
亜美《あみ》は一度大きく目を見開き、
「あ――――あはははははははっ! なーにそれっ、どーしちゃったのぉぉ〜〜〜っ!?」
手を叩いて、大爆笑《だいばくしょう》。笑ってる場合か、と思わず竜児は亜美を振り返って睨《にら》む。その視線に気づいたか「……なーんて※[#ハートマーク]」と小さく舌を出し、かわいこぶって見せるがもう遅い。初めからどんより濁《にご》っていた部屋《へや》の空気は亜美の場違いな爆笑の余韻《よいん》の中で、シーン、とさらに冷たく静まり返っていく。あまりにも、気まずすぎる。
連行されて辿《たど》りついたのは面談室《めんだんしつ》、生徒たちの聞での通称は説教部屋、だった。
竜児と亜美の背後で独身がそっと扉を閉め切る。密室には三人の他《ほか》に、厳《きび》しいことで有名な生活|指導《しどう》担当の中年男性教師がまず正面に座っていた。その傍らで長い黒髪をサラリと肩に零《こぼ》しているのは、意外すぎる人物――。
「あに……じゃねえ、狩野《かのう》、先輩《せんぱい》……」
思わずその名を口走った竜児にチラ、と向ける視線にさえ、妙な迫力を宿した生徒会長・狩野すみれ、だった。
細身もたおやかな涼しげ美女ながら、その豪快な性格から兄貴と呼ばれて全校生徒に慕われている、校史に残るであろう名生徒会長である。さすがというべきだろうか、パーフェクトな兄貴はこんな奇妙な状況に置かれてなむ、落ち着き払った静かな目をして場を圧倒するみたいに堂々と腕を組んで座っていた。
そして、その二人《ふたり》に見下ろされるようにして床に正座させられている奴《やつ》。
そんな奴のソラに、竜児的には見覚えなどはないはずだった。なぜなら頭はド金髪、それも安っぽいブリーチで自分でやったのがバレバレの、ぱさついた無理矢理《むりやり》なやりすぎ脱色ヘア。こんな頭をした知り合いなどいないはず。……だったのだが。その乱れた前髪の下には、見覚えありすぎの銀縁眼鏡《ぎんぶちめがね》があり、そしてその向こうにはあまりにもよく知っている理知的に整った男の顔があってしまい――
「き……北村《きたむら》、おまえ……」
あったのだ。その顔が。
「ど……どうしたんだよその頭は! 校則違反っていうか……ていうか……ていうか……」
問うていいのかどうかもわからないまま、ただ問う。
「……」
答えはない。見てわかれ、と言わんばかりに、竜児を見上げた北村の視線は強くなる。
北村祐作《きたむらゆうさく》は――グレていた。
ド金髪頭を頑固にフサフサ揺すり、親友の問いかけにも口を真一文字に結んで答えない。なんだか荒《すさ》んだ目をして、よく見れば眼鏡《めがね》のフレームは曲がり、学ランのボタンも上から二つが取れかけてブラブラになっている。肩の辺りは砂埃《すなぼこり》に塗《まみ》れ、地面に押さえ込まれでもしないとこうはならねぇ、というぐらいに汚れている。
一体なにが起きたのか。竜児《りゅうじ》の狂眼に蒼《あお》の稲妻《いなずま》が踊る――ナメた野郎にゃおしおきだ! 毒蛇を編《あ》んで作った荒縄《あらなわ》で逆《さか》さ吊《つ》りにした挙句、その金髪頭から地獄の業火で焼いてやる! とか思っているわけではない。真面目《まじめ》すぎるほどに真面目だった親友になにが起きたか知るのも怖い、そんな心境でいるのだ.だというのに、
「あー、高須《たかす》に川嶋《かわしま》。こいつのこの頭、どう思う?」
どう思う、と訊《き》かれても。
竜児は答えに窮《きゅう》し、傍《かたわ》らの亜美《あみ》をチラリ、と見やる。亜美はまるで聞こえてないみたいな、自分には関係ありまっせーん、みたいな顔をして、綺麗《きれい》に整《ととの》えられた爪《つめ》の先をいじりながら黙《だま》っている。生活|指導《しどう》担当の教師は冗談《じょうだん》の通じない硬い声で続ける。
「こいつはこんな頭で登校してきて、校門前で注意した教師たちの前で大暴《おおあば》れしたんだ。その行動を、どう思う? 理由はわかるか? なにを訊いても答えないから、親しいという高須、幼馴染《おさななじみ》の川嶋、それから生徒会でずっと面倒《めんどう》を見ている兄……姉貴分の狩野《かのう》に来てもらったわけだ。……すまんな、狩野、いろいろと忙しいこんな時期に」
「それは構いませんが。ただ、私では力及びません。理解できることはありませんし、第一彼は生徒会もやめるとのことですから。もう私には関係ありません」
生徒会を、やめる? 北村が? 思わず竜児は訊き返しそうになるが、とても口を挟めるような雰囲気ではない。しかし思い出す、そういえば昨日《きのう》の錯乱時《さくらんじ》、確《たし》かにそんなことも北村は口走っていたような気がする。
完全無欠の生徒会長は、金髪頭のグレ男を射抜《いぬ》くような冷徹《れいてつ》な視線《しせん》で見据える。その視線を避けようとするみたいに北村は身を捩《よじ》り、きつく唇を噛《か》み締《し》めたまま垂れた前髪で顔を隠す。
「高須、どうだ。思い当たることはあるか?」
「や……ええと……なんていうか。昨日、その、ちょっと……ええと」
以前から様子《ようす》はおかしくて『燃《も》え尽き症候群』と言われていたこと。そして、それが昨日|爆発《ばくはつ》したこと。それらの事実を語ることが、北村に味方することなのか、そうでないことなのかすらわからない。考える時間が欲しいのに、とてもそれは叶《かな》いそうもない。
困り果てて、すがるみたいに独身の方を見た。独身は疲れてショボショボした目で竜児を見返し、「昨日の件はもうお話してあるの」と。恐らく、あんなふうに教室を飛び出したっきり連絡がとれなくなった屍《しかばね》を捜して放課後中《ほうかごじゅう》街を走り回り、今朝《けさ》も早くから出勤して、登校してくるのを待っていたのだろう。助教授がどうのこうのと張り切っていたプライベートも犠牲《ぎせい》にして。その結果がこれでは、独身もあまりに報われない。一気にどんより老いさらばえもするわけだ。
「川嶋《かわしま》は? どうだ?」
「えー、そんなこと訊《き》かれてもあたし困りますぅ……全然理解できないっていうかぁ……」
亜美《あみ》は今更のようにチワワ瞳《ひとみ》をくるん、と愛らしく惑わせてみせた。そうして愛らしさ爆発《ばくはつ》のぶりっこ鉄仮面伝説、その場にいる者全員を一旦《いったん》油断させてから、
「……いまどきこんなわかりやすいグレ方する奴《やつ》いるんだあ、みたいな? あいたたた〜、っていうかあ? 相手にしてらんないけどとりあえず超笑えるのは確《たし》か、みたいなあ〜?」
底意地悪く唇を歪《ゆが》めて、おもむろに幼馴染《おさななじみ》を爆撃《ばくげき》開始。根性曲がりな腹黒本性はもはや剥《む》き出し、嬲《なぶ》る気満々の視線《しせん》が弾丸、それは北村《きたむら》の肉身を挟《えぐ》って貫く軌道を描いて、残酷にジロ
ジロとひどい頭に着弾しまくる。ああ――竜児《りゅうじ》は天井《てんじょう》を仰ぐしかない。そうなのだ。亜美という女は、ことによれば大河《たいが》よりもたちの悪い全身爆弾女なのだ。
そして性悪はさらに本領発揮、ずい、と一歩前に踏み出して、
「祐作《ゆうさく》ぅ、あんたさあ、どうでもいいけど他人に期待しすぎなんじゃなーい? ボクちゃんのこと見て見て、心配してして、こんなにボロボロになっちゃうまで悩んでるボクちゃんに誰《だれ》か気づいて〜! ……って、言いたいんでしょ? あーあ、見てるこっちが恥ずかしくなるんですけどお〜。ていうか高二にもなって頭がんがんブリーチしてグレ坊気取りってのがそもそも痛すぎ、そういうのは中二までに済ませとけっつーの。もしくは、五十過ぎのリーマン親父《おやじ》になってから白髪《しらが》隠しにやれっつーの。っていうかぁ、まーじーで、その頭、なにごとぉ〜? 自分でやったわけぇ〜? わっるいけど、ほんっとに、心から、に・あ・わ・ね〜〜〜っ!」
あーはははははははははははー☆ ……と、幼馴染《おさななじみ》は北村《きたむら》を指差し、腹を抱えて再び爆笑《ばくしょう》してみせる、涙さえ流して本気の爆笑に身を捩《よじ》るその姿には、優《やさ》しさや心配の欠片《かけら》もない。遠慮《えんりょ》も躊躇《ちゅうちょ》も一切ない。亜美《あみ》が放ったその暴言《ぼうげん》は、傍《そぼ》で聞いていた竜児《りゅうじ》の胸まで痛々しく挟《えぐ》って下さった。思わず北村の前に飛び出して、その切れ味から親友をかばってやりたくさえなる。だがそうもいかず、幼馴染に無残に斬《き》り捨てられた北村は、一層頑固に俯《うつむ》いて唇を噛《か》む。
ふぅー、と疲れたように息をついたのは独身。くすんでカサつき、隈《くま》になったノーメイクの目元を擦《こす》り、竜児と亜美の肩にそっと手をかける、
「先に、教室に戻っててくれるかな? ごめんね、ありがとね。先生はもうちょっと、北村くんと話してから行く。ホームルームは副担任の先生にお願《ねが》いしてあるから。……クラスのみんなには、できたら、なにがあったか言わないでくれるとありがたいな。わかるよね? できたら、『なにごともなかったみたいに』、北村くんをクラスに返したいの」
「……はい。わかりました……」
素直に頷《うなず》く竜児の声に被《かぶ》せるように、
「恋ヶ窪《こいがくぼ》先生ももう戻られた方がいいと思いますよ」
凛《りん》、と響《ひび》いた低い声は、狩野《かのう》すみれの口から。細身でスラリ、と立ち上がり、切れ長の瞳《ひとみ》を涼やかに光らせて正座させられたままの北村をさらにまっすぐ強く見下ろす。その視線《しせん》に人間らしい温度はない。立った姿もまさに完全、パーフェクト。全方位弱点なしのヒトを超えた人造人間みたいに竜児には見えてしまう。
「こんな、おおばかやろう、に付き合っていても時間の無駄《むだ》です。口を割る気はないようですから、後は放っておくしかないのでは。校則では『学生らしくない髪形は禁止』これは明らかに違反です。遵守《じゅんしゅ》する形に髪を戻すまでは登校禁止。それでいいと思いますが」
「……狩野さんも、もう戻ってくれていいですよ。私はもうちょっと、ここで北村くんと話をします。来てくれてありがとう」
独身はゆっくりと首を横に振り、北村をかばうように肩を支えて立ち上がらせ、イスを引き寄せて掛けさせた。しかし生活|指導《しどう》の教師と北村を挟むようにして、圧迫的に立つ。それだけの動きで十分に、「甘やかすつもりはない」と伝えるように。それを見て、すみれの視線は、ヒラリと舞《ま》うように華麗《かれい》な軌跡を描いて北村から外される。
これで用済みになったことは明白だった.、礼をして立ち上がったすみれの後に続き、竜児も亜美と並んで一礼、取り残された北村の俯いた姿に後ろ髪を引かれつつも、面談室《めんだんしつ》を出るしかない。
他《ほか》のクラスはとっくにホームルームが始まっているのだろう、廊下は静まり返り、人の気配《けはい》はまったくなかった。
竜児《りゅうじ》はなんとなくすみれにも小さく礼をして、教室へ向かおうとするが、
「……せんぱーい?」
亜美《あみ》の声が、静かすぎる廊下に甘ったるく響《ひび》いた。すみれは振り向き、竜児をよそに亜美とまっすぐ対峙《たいじ》する。竜児にもわかるほど挑戦的に、亜美はわざとらしいぶりっこスマイルを愛らしい顔に毒々しく貼《は》り付けて、どういうつもりかすみれを煽《あお》ろうとしているらしい。おいおいおい、とビビる竜児は当然置き去り、
「狩野先輩《かのうせんぽい》ってえ、なんだか祐作《ゆうさく》に随分冷たいんですねぇ? あーん、祐作かわいそ〜。あんなに先輩のことラブラブに慕ってるのにぃ……でもぉ、狩野先輩、前はそんなに祐作に冷たくなかったように思うんですよねー。……もしかしてぇ、ここ最近、祐作となにかあったりしませんかぁ? 祐作がグレちゃったのも、案外、先輩が原因だったりしてえ〜?」
「さあね」
さすがの風格、であった。すみれはかすかに口の端だけで男らしく微笑《ほほえ》み、亜美の煽りなど相手にせず、そのまま再び背を向けて去ろうとする。竜児は思わずその背中に、
「す――すいません! なんか失礼なこと……その、川嶋《かわしま》はすごく、性格が悪くて……」
ひっどーいなにそれ! と騒《さわ》ぐ亜美の口を塞《ふさ》ぎ、謝《あやま》っていた。すみれはなんでもないように軽く眉《まゆ》を上げてみせる。
「いいよ別に。……性格が悪い、ね。いいんじゃないか? 少なくとも、川嶋がさっき北村《きたむら》に言っていたことは、私は全部|正論《せいろん》だと思うぞ。いい幼馴染《おさななじみ》がいたんだな、北村には。じゃあ、またなにかあったらいつでも相談《そうだん》しに来い」
「はい。あの……先輩も、もし、なにかちょっとでも思い当たることがあったら……」
「教えてほしいか? 実は、ある」
驚《おどろ》いて、竜児は礼で見送るために下げかけていた頭を跳ね上げた。その傍《かたわ》らで竜児に頭を下げるように押さえつけられ、もがいていた亜美の動きもぴたりと止まる。完全無欠の生徒会長はそんな竜児と亜美を静かな目でゆっくり見比べると、おもむろに肩を小さく疎《すく》め、
「……あるにはあるが。その予想がもしも当たっていたなら、私はもっと北村に失望することになるだろうな」
ふ、と笑うとも怒るともつかない表情を浮かべてみせた。そしてそれだけ、「じゃあな」と今度こそ背を向け、三年生の教室の方へ歩き去っていく。迷いのない大股《おおまた》で、男らしく。
狩野すみれをもっと失望させるようなこと竜児はそのキーワードで自分の頭の中を検索したいような気分で、去りゆくすみれの背を見送ってしまうが。
「……なーんだあれ。エリート気取りの冷血女、超〜〜〜感じ悪い、っつーの」
まっすぐに落ちるストレートの髪を指で梳《す》き下ろしながらの亜美の一言は、静かな校内に必要以上に大きく響いた。竜児は慌てて振り返り、亜美を睨《にら》みつけ、
「ばっ、ばか!……聞こえたぞ今の絶対!」
だがもう遅い。亜美《あみ》はフン、と鼻を鳴らし、
「聞こえたってべっつにいいもーん。事実だもーん。絶対あの女が原因のくせに、知らん顔してさぁ。『実はある』、なんて思わせぶりなことだけ言い残して、結局核心は教えてくれねぇの。今の祐作《ゆうさく》と同じだね。あんな言い方すれば誰《だれ》かが気にして、誰かがわかろうと頑張ってくれるって思ってんでしょ。期待しすぎなんだよ。おまえが世界の中心か、っつーの」
苛立《いらだ》ちを隠さずに冷《さ》めきった目は、茶色《ちゃいろ》く透けるガラス玉の美しさ。放たれた言葉は、押さえつけてぶりっこ鉄仮面を無理矢理《むりやり》おっかぶせてやりたくなるようなトゲトゲしさ。
「……おまえって奴《やつ》は……なんて口が悪いんだ……」
それだけ言うのが精一杯だった。頭を抱えて、しゃがみこみたい。北村《さたむら》はあんなだし、生徒会長はあんなで、亜美はこんなことを言う、竜児《りゅうじ》の頭では、もう処理しきれない。
「だってむかつくんだもーん」
「何言ってんだよー感じ悪かったのは一方的におまえ! だいたいなんだよ、あれは。まる
で全部が狩野先輩《かのうせんぽい》のせいみたいな言い方までしやがって」
くねっ、とかわいこぶって振り返り、しかし亜美はまだまだ誰に対しても容赦するつもりはないらしい。
「はあ〜? 高須《たかす》くん、なんでわかんないの? そうに決まってんじゃん。祐作の調子《ちょうし》がおかしくなる、なんて、原因はあの生徒会長以外にあるわけないでしょ。それに、あの女のあの言い方からして……ふん、大方告白でもしてフラれたとか、そんなとこじゃな〜い? あーん、くっだらなーい。亜美ちゃんの貴重な時間を神様返して〜」
「こ、……告白ぅ!? なわけあるか! なんでいきなりそうなるんだ!?」
身を翻《ひるがえ》して竜児の先を歩き出しながら、亜美はもう振り返ることさえしてはくれなかった。はあ〜、とわざとらしいほど大きく息をついた肩が、うんざり、と竜児にその心境を告げる。
「高須くんさあ。その肝心なところにばっかりニブすぎなところ、あたしは嫌いじゃないよ。実はね。でもねぇ、そこがいつか、君の命とりになると思うなあ?」
「な……」
なにを言う、と竜児は思う。口では言い負けるから言わないが、この場に大砲があって弾は大河《たいが》で、亜美に撃《う》ちこめば竜児の気持ちをパワー全開で代弁してくれるなら是非ともぶっ放したい。亜美の決め付けこそ、女特有の浅はかさではないか。
そう、なんでもかんでも恋愛沙汰《れんあいざた》にする、女のいつもの軽薄《けいはく》なお遊びだ。
確《たし》かに北村はあの兄貴を心から慕っていた。一年生のときからずっと生徒会活動に命を掛けていたのは知っているし、尊敬できる最高の会長! と太鼓もち役を自ら買っていたのも知っている、部長だのクラス委員長だのと多くの役を兼任して、どんなに忙しくとも、毎日の生徒会の雑務に文句一つ言うことなく嬉《うれ》しそうに最優先《さいゆうせん》、精を出していたのもわかっている。一年生の時からの親友である竜児《りゅうじ》こそが、誰《だれ》よりそれを近くで見ていたのだから。
その情熱《じょうねつ》の核が、パーフェクト兄貴・狩野《かのう》すみれへ向けた想《おも》いであろうことも、なんとなくわかっている。狩野すみれにはそれだけの人間的|魅力《みりょく》があることも、個人的には接近したことがなくともわかる。超優秀《ちょうゆうしゅう》にして超|完壁《かんぺき》、狩野すみれはまさに超人、誰だってあんな超人と出会えば、憧《あごが》れ、焦《こ》がれ、心を奪われずにはいられない。生徒会で常にともにあれば、そんな想いはさらに強烈なパワーを持つだろうことは想像に難《かた》くない。
だがその想いの本質はあくまでも、己《おのれ》よりもずっと高みにいる先輩《せんぱい》へ向ける憧れと尊敬であって、異性としてのあれやこれやではないはずだ。北村《きたむら》とすみれは異性だが、ここはいっそ同性と呼んでも差し支えないはず。同じ男として、ありたい場所にある男に向ける心からの熱《あつ》い想いがあったってなにもおかしいことなどないではないか。なにもかもを色恋で片付ける亜美《あみ》の見方の方がよほど偏《かたよ》っていると竜児は思う。浅はかだし、俗だ。北村のあの一途《いちず》さは恋愛みたいな浮ついたモンではなく、そう、もっと高次な――「憧憬《どうけい》」とでも言おうか。優《すぐ》れた先達《せんだつ》に捧《ささ》げる、熱い真、心の発露《はつろ》。そうに決まっている。なぜならあの人は、完全無欠の生徒会長は、全校生徒みんなの頼れるパーフェクト兄貴なのだから。
そんなことを考えて、不意に気がつく。ギク、と一瞬《いっしゅん》、血が冷える。
……北村は、そんなふうに大事にしてきた生徒会活動を、辞めるとまで言っているわけか。事態は竜児が想像するより、ずっとずっと深刻なのかもしれない。
「……あれ!? おい、あれ、北村じゃないか!?」
副担任による朝のホームルームが始まり、出欠の確認《かくにん》が終わろうとしたそのとき。2−Cにどよめきが巻き起こる。
窓際の席に座っていた誰かの第一声に、クラスの面々は一斉に立ち上がり、副担任の制止も聞かずに窓際に雁首《がんくび》並べて下を覗《のぞ》きこむ。大砲の弾にはさすがになれずにいた大河《たいが》も、必死に前の奴《やつ》の背中にしがみついて髪を掴《つか》んで頭の上に登り、その光景を見た。
もういい、帰る!
帰るなバカ!
おおお落ち着いてとにかく冷静に〜!
――そんな言いあいを繰り広げ、昇降ロで荒々しくもみあっている三人は、独身(30)、生活|指導《しどう》担当の中年教師、そして、
「き、きんぱ!? なんだあの頭は!?」
「やだ! マジでまるおだっ!」
「うっそだあ! 北村がグレたあ〜っ!」
「こら、席につけ! 外を見るんじゃない! ったく、ほーら! 座りなさい!」
一人《ひとり》一人|襟首《えりくび》を掴《つか》まれて窓際から引き離《はな》される中、大河《たいが》はほとんど呆然《ぼうぜん》と、目下の光景を見つめていた。校門へ向かって今ダッシュしたのは……襟首を捕まえられて学ランの前ボタンが吹っ飛び、次にはワイシャツのボタンが吹っ飛び、ほとんど上半身裸状態に剥《む》かれてそれでもなお教師のホールディングから逃れようと往生際《おうじょうぎわ》悪く手足をバタつかせているのは……あれは北村《きたむら》に、間違いなかった。
髪の色がド金髪になってしまっているが、北村|祐作《ゆうさく》に、違いない。
「さあ全員静かにして席に、あんっ……」
無意識《むいしき》のエルボーが新任男性副担任の胃を鋭《するど》く挟《えぐ》ったことにも気づかず、大河は声もなく息を飲んだ。なんで、とその喉元《のどもと》まで問いが溢《あふ》れかける。
***
結局校内に引き戻された北村は、今も面談室《めんだんしつ》に監禁中《かんきんちゅう》らしい――。
「ゆりちゃんの英語も午前中の授業は全クラス自習になったみたいだし、多分《たぶん》ずっと尋問中《じんもんちゅう》なんだと思う」
情報を持ってきた能登《のと》はフォークをくわえ、心底心配そうに黒ブチ眼鏡《めがね》の奥の目を瞬《しばたた》かせつつ冷凍ものらしいナゲットにちゅうっとケチャップを回しかけた。
楽しいはずの昼休み。しかし向かいあって一つの机で弁当を広げた能登と竜児《りゅうじ》、そしてはじっこにくっついた大河の表情はどんよりと暗い。……竜児に至っては、暗いを通り越して怖いの域だが。『なにごともなかったみたいに』――そんな独身の心遣いはとっくに崩壊《ほうかい》、北村が金髪頭で登校してきたことはすでにクラス周知の事実となっていた。それでも竜児は、なるべく詳細は触れ回らないことでできる限り北村を守りたい、とは思っているのだが、それにどこまで効果があるのやら。
「親呼び出しの刑かなあ。ってか、こんなときだってのに春田《はるた》はどこ行ってんの?」
ふう、とナゲットをかじりながら能登は少しもおいしくなさそうに頬杖《ほおづえ》をつく。
「購買《こうばい》でパンでも買ってんだろ。……北村んちは共働きだし、さすがに職場《しょくば》まで呼び出しはねぇと思うけど……ていうか、そもそも頭ブリーチした時点で親にはバレてるだろ、あんなの。大河、マヨ」
「んー」
親子度が増してるね……と眩《つぶや》く能登の目の前で、竜児は大河のチキン南蛮《なんばん》にマヨネーズをちゅるっとかけてやる。自分の分にもちゅるるっとかけて、大河が肘《ひじ》で踏んだり袖口《そでぐち》にくっつけたりしないよう、空になったマヨパッケージを無意識に素早《すばや》く片付ける。能登のケチャパッケージもついでにきっちり回収する。どもども、と能登は小さくフォークを振り、
「しっかし、マジでびっくり……どうしちゃったんだろ北村ってば。メール全部シカッティングだし、こんなのなんか寂しいよねー……」
「いきなりパツキンだもんな」
「うん、あれはないっしょ……あら」
そのとき能登《のと》の冷凍ナゲット一つと竜児《りゅうじ》の手づくりチキン南蛮《なんばん》一つが、一瞬《いっしゅん》にして物質転送完了。竜児の心の大半は今は北村《きたむら》に捧《ささ》げられているが、青白い炎を噴《ふ》いてギラつく凶眼は、友の弁当のおかずがすべて冷凍モノだということを一瞬にして見抜いていたのだ。おかず交換を行なう箸《はし》の動きにも曇《くも》りなし。
「あんがとー、うまそうだと思ってたところよ」
「どうぞどうぞ。つまらんモンだけど」
「つまらなくないって、高須《たかす》はマジで料理うまいよ料理。……あれ?」
「……うー……」
なんとなく悲しそうな視線《しせん》を能登に向け、喰《うな》っているのは大河《たいが》だった。
「あ、ほ、ほしいの? いいよいいよ、こんな手抜き母《かあ》ちゃん愛用の冷凍おかずでいいなら」
そのツラに気がつき、能登はナゲットを一つ大河の弁当箱の蓋《ふた》に置いてやる。今日《きょう》もキミたち弁当お揃《そろ》いだね……とは、今更言う気もしないらしい。大河はそろり、と竜児作のアスパラベーコン巻きを能登のメシの上に置き、言葉はないまま、しかし雄弁に交差する視線。交換したね……ああ交換だ……初めて能登と大河の間にそんなヒトらしい文化的な絆《きずな》が生まれ――
「はあ……」
「……ふー」
同時のため息でかき消された。大河だって能登だって、やっぱり北村のことが気にかかって仕方がないのだ。
あの変調《へんちょう》は、ただの燃《も》え尽き症候群なんかではなかった。今更になって竜児はそう思う。もっと早く異常に気がついていれば、こんな風に教師たちにまで知れ渡る問題になってしまう前になにかできたかもしれない。だがすべては遅く、北村はグレてしまった。きっと逆の立場なら、北村は竜児が変調をきたしてすぐに、しつこく状況を確《たし》かめようとしてくれていたはずなのに。
こんなの、親友失格だ。……と、
「オラーッ! とっとと歩きなドサンピン! お奉行《ぶぎょう》ー! 下手人を連れてきやしたっ!」
憂鬱《ゆううつ》に沈んだ肩が、ビクゥッ! と跳ね上がる。
「ひっでえよ!? なんでそんな言い方すんの!? 俺《おれ》、北海道《ほっかいどう》出身じゃないし!」
「きっさまぁぁ、全国のどさんこに喉《のど》から血を噴くまで謝《あやま》れぃ! そして食らいやがれ、純《じゅん》と蛍《ほたる》とキタキツネに捧ぐ! 北の国から二〇〇七、『子供がまだ食ってんでしょうがーッ!』」
「あべしっ」
突然現れた岡《おか》っ引《びき》の鼻フックが下手人に炸裂《さくれつ》、昼休みの教室の風景を一瞬にしてお白洲《しらす》に変化させる。竜児《りゅうじ》と能登《のと》、そして大河《たいが》の足元にケツから乱暴《らんぼう》にすっ転がされた下手人は、
「能登に高《たか》っちゃん、助けてー! 櫛枝《くしえだ》がひでぇんだよぉ! 俺《おれ》はなんにもしてない! 父《とう》さんの丸太小屋も燃《も》やしてない!」
「言い訳はあの世でDO」
「どぅ……? な、なに? わかんねぇ! おまえのギャグは高度すぎんだよいつも!」
ロン毛を振り乱した天然アホ面《づら》の春田《はるた》。そして、春田が逃げないように押さえつける岡《おか》っ引《ぴき》は、実乃梨《みのり》だ。
「は、春田、おまえなにしたの!?」
「あの、櫛枝、せめて土足で踏まないでやってくれ……で、お奉行《ぶぎょう》って誰《だれ》だよ……」
「みんなの心の中に、お奉行はいます! ひーとーりーにひとつずつ、大切なーお奉行!」
涙目の友を思わずかばうように立たせてやりつつ、男|二人《ふたり》は鬼の岡っ引に「どうぞどうぞ」と席を一つあけて差し上げる。どっか、と座って、実乃梨は春田にクイ、と顎《あご》で説明するように促してみせた。
春田がスンスン、と泣きながら言うには、
「本当になんもしてねぇんだよお……昨日《きのう》の夜、北村《さたむら》から電話があっただけなんだよお。で、『あー北村じゃーん、今日《きょう》はどうしちゃったわけ?』って俺が言って、北村が『なんでもないの〜、驚《おどろ》かせてごめぇ〜ん』とか言って、そんでいきなり、『夏休みに超イカちい金髪にしてたけどー、あれ、どうやってやったのぉ? カチョイイ春田ちゃん、おせぇてぇん』って訊《き》いてきたからさ、どこそこのガン染めブリーチ買って、規定時間の三倍ぐらい放っておいて、ついでに銀紙で頭くるんでドライヤーかけたらキンキンになんよ〜! って教えてあげただけだよお〜!」
竜児はちょっと考えて、
「……なんかおまえの中の北村像には妙な補正がかかってんな……」
いや、そうではない。改めてオイコラ、と手負いのタスマニアデビルそっくりの表情で春田に詰め寄り、
「なんでそんなことするのか、訊かなかったのかよ?」
「ひゃあー! 顔がこええよお!」
ずい、と能登もフェイスフラッシュは及ばずとも竜児と並んで春田を睨《にら》む。
「そーだよ! 俺も高須《たかす》も、昨日はずっと北村に連絡とろうとしてもとれなくて心配してたんだけど!? なにおまえ、暢気《のんき》に会話しちゃってんの!?」
「そんなこと言われたって、まさか北村が自分をブリーチするなんて思わなかったし〜! あーでもさー、俺は結構、似合ってたと思うな〜……遠くから見たからかなー!? あは!」
のんきというには余りあるアホのアホっぷりにプッツーン! と実乃梨のこめかみで怒りの導火線《どうかせん》が弾《はじ》けた。
「ア、アホ以下のニオイが、プンプンするぜーッ! そういう問題じゃねぇ! なんであんな状況で帰っちゃった北村《きたむら》くんからそんな電話がきて、いっこも疑問に思わないのさ!?」
「ひーん! いっぺんにいろいろ言われても、その前に言われたことをどんどん忘れていくば
っかだよお〜! 記憶《きおく》が押し出されていくよお〜!」
「くっそー! 春田《はるた》くんはところてん野郎だ! ところてん野郎! ところてん野郎! 春田くんがそこでもっとちゃんと話を聞いてあげてたら、北村くんは北村くんは! この天草《あまくさ》ところてん四郎《しろう》めえ! ちくしょー全部カラになるまで押し出してやるぅ!」
「わ〜、困るよお〜! 俺《おれ》にも生活があるんだあ〜!」
襟首《えりくび》を掴《つか》んで揺さぶりをかける実乃梨《みのり》の手を押しとどめたのは、意外なことに大河《たいが》だった。
「まあまあみのりん。アホを正論《せいろん》で責めても無駄《むだ》よ」
ぶわっ、と四面楚歌《しめんそか》状態の春田の目に涙が迸《ほとばし》る。
「た、たいがあ〜! まさかおまえが俺のことかばってくれるなんて! 俺、なんかすっげぇ嬉《うれ》しいよお〜! 感動した! これからは逢坂《あいさか》じゃなくて、たいが〜って呼ぶよお〜! おまえもこ〜じ、って呼んでくれてい」
「馴《な》れ馴《な》れしく足に触るんじゃないこの名無しの野良《のら》ブタがッ!」
「やんっ! ……ひーん……!」
すがりつこうとするその顎《あご》を容赦なく蹴《け》り上げ、大河の見下ろす視線《しせん》には侮蔑《ぶべつ》と苛立《いらだ》ちが団子状に絡まって牙《きば》を剥《む》く毒蛇の巣みたいに轟《うごめ》く。くっ、と震《ふる》える薔薇《ばら》の唇には、隠しきれない屈辱が血の色をして滲《にじ》む。そう、アホを正論で責めるつもりは毛頭ない。大河の心をドス黒く焦がしているのは剥き出しの嫉妬心《しっとしん》、それオンリーなのだから。
「……とにかく、むかつくわ……! なんでおまえごときに連絡があって、この私にはないのよ……私だって一通だけ、考えに考えて、『大丈夫?』ってメールしたのにいいい……っ!」
「おっ! たいが〜もメルメルしたんだ!? うっひょーさっすがー!」
イエーイ、とアホの本領発揮、春田は床に座り込んだポーズのままで両手でビシッ! と大河を指し、誰《だれ》もが触れられない微妙な部分に平気でずっぽり首を突っ込む。
「にゃるほど〜、もちかちてもちかちて、噂《うわさ》どおりにマジでデキてるんだったりしてぇー! あーちちあちち、たいが〜と北村があーちーち! あはははー……うぐぅ」
「……竜児《りゅうじ》。こいつ殺していい? 殺していい?」
春田の顔を片手でがっちり掴んで吊《つ》るし上げ、大河は「あはは」と笑う。笑いながらも洞《ほら》みたいな瞳孔《どうこう》は全開、笑う唇は噛《か》み締《し》めすぎて血だらけ、あははあははあはは、と壊《こわ》れた人形みたいに首だけがカタカタ左右に揺れて、竜児は怖くて止めることもできない。
「ふぐぅ、んぐぅ……ん……っ……っ……っ」
膝立《ひざだ》ちのポーズになるまで引き上げられ、息のできない春出はピクピクと痙攣《けいれん》し始める。逃れようともがいていた腕からも力が抜け、ダラリ、と身体《からだ》の脇《わき》に落ちる。マジで死んじゃうかも、と慌ててその手を離《はな》させようとする能登《のと》や実乃梨《みのり》の声ももはや狂ったその耳には届かず、顔を掴《つか》んだ右手の中から「ぱき」となにかが壊《こわ》れる音が響《ひび》いた。
「あはははははははははははははははははハハハハハハハハーハハハハハ、ハハー」
あ、マジだ……とその場にいた誰《だれ》もが立ち尽くしたそのときだった。
「ねーねー高須《たかす》くん! まるおが生徒会辞めるって言ったって、ほんと!?」
ぼたっ、と春田《はるた》の身体《からだ》が床に落ちる。だがすぐにその頑丈なアホ面《づら》はガバ、と上がる。大河《たいが》も能登も実乃梨も、なんだか本気であせっているように切迫した声の主を振り返る。生徒会、の一言に、竜児《りゅうじ》は思わず立ち上がりさえする。
「今、亜美《あみ》ちゃんに聞いたの! まるおがあんなに頑張ってた生徒会、辞めたがってるって本当なのー!? グレた原因に生徒会長が絡んでるって聞いたんだけど、それもマジー!?」
麻耶《まや》だった。ミルクティー色の髪を落ち着きなくかきあげ、普段《ふだん》なら北村《きたむら》のいないときには近づいても来ないのに。そんな麻耶の背後には奈々子《ななこ》も困ったように眉《まゆ》を下げており、さらにその背後には亜美。……すべての事情を漏らしまくったに違いない、その張本人。独身に口止めされたのに、全部|喋《しゃべ》りやがったのだこいつは。竜児は睨《にら》みつけてやるが「それがなにか?」とでも言いたげに、亜美はきょとん、と作った不思議《ふしぎ》顔、小首を傾《かし》げてみせる。
こいつは、こいつは、本当にこの女は――
「なになに、なんで? なに聞いたの? 亜美ちゃんなに知ってるの? ていうか、高須もなに隠してんの?」
黒ブチ眼鏡《めがね》をズリ上げつつ尋ねる能登に言い訳する暇もあればこそ、
「あっれえ、能登くんたちは高須くんから聞いてないのぉ? あのねぇ、朝、あたしと高須くんだけ説教|部屋《べや》に呼ばれて、そこで祐作《ゆうさく》と会ったのよ。生徒会長のなんたら言う人もいてぇ、なんかいろいろ聞いちゃったのよねー。 生徒会でなんか問題発生、みたいな? 生徒会長は、いろいろ全部知ってるっぽい感じで思わせぶりでー。 ね、そうだよね、高須くん。実乃梨ちゃんとタイガーも見てたでしょ? あたしたちがゆりちゃんせんせに強制連行されたの」
答えたのは、実乃梨。
「うん、見てたけど……狩野先輩《かのうせんぱい》が、北村くんがグレた理由を知ってるの? 生徒会が原因ってこと? おいおい、初耳だぜそんな話は。高須くん、確《たし》か私と大河には、北村くんの様子《ようす》がおかしくなった原因を知らないか先生たちに訊《き》かれただけ、って言ったよね。……これは一体どういうことだい嫁子《よめこ》。アタシら年寄りには、何を話しても無駄《むだ》って言いたいのかい」
「う……っ」
心臓《しんぞう》が痛み、足元が危うくなる。いっそこのまま失神してしまえたら……! しかし人間、そんなに都合よくは意識《いしき》を失えないものだ。振り返った能登の視線《しせん》も、うそつき! と竜児を責める。大河に至っては、本気の殺意がぎっしりこもった血色のビームを目からどくどく垂れ流している。あーらら、と状況を見て、亜美は憎たらしいほど愛らしいエンジェルスマイル。
「高須《たかす》くんたら、どうしてウソなんかつくのかしらぁ〜。かわいそうな実乃梨《みのり》ちゃん達、みーんな高須くんの適当なごまかしにだまされちゃったのねぇ……友達なのにねぇ。心配なのはみんな一緒なのにねぇ。そっかー、こういう奴《やつ》なんだねー高須くんてー」
「高須くん……! 心の中のお奉行《ぶぎょう》が、泣いてるぜよ!?」
そんな言葉で愛する実乃梨に責められて、精神的に万事休す。竜児は破れかぶれに亜美《あみ》を睨《にら》み返し、
「て、てめぇ! この裏切り者! みんな聞いてくれ、違うんだ! 先生は大事《おおごと》にしないために、北村《きたむら》のために、俺《おれ》たちに口止めしたんだ! 何事もなかったみたいに北村を立ち直らせたい、って! それをベラベラ喋《しゃべ》りやがって……!」
「往生際わるーい。この程度のこと言っちゃったところでなにか問題でもあるぅ〜っていう
か、そもそもとっくに大事になってるし。あたしたちだってどうせ事情をわかってるわけじゃないし〜。ていうか、生徒会辞める云々《うんぬん》って、祐作《ゆうさく》は昨日《きのう》、自分でそう叫んで逃げてったんじゃん。別に新情報でもなんでもなくなーい? みんなも覚えてるでしょ?」
「……初耳だったわ」
「……うん、初耳初耳」
「……そんなこと言ってたかしら?」
「……いやーまるおが叫んだのにびっくりして覚えてない」
「……俺も記憶《きおく》にない」
「……俺、そもそも昨日一日の記憶が丸ごとない」
腕を組んで顔を突き合わせ、緊急会議《きんきゅうかいぎ》に入った面々を「ケッ」と冷たく一瞥《いちべつ》、亜美は本性丸出しに唇を歪《ゆが》めてみせる。その肩を小突き
「ほら見ろ、新情報だったじゃねぇかよ! おまえ、どうしてなんでもかんでもベラベラ喋っちゃうんだ? 独身はこうやって騒《さわ》ぎにしたくないから黙《だま》ってろって俺達に言ったんだろ? 触れ回ってどうすんだよ!」
「えー? あたしって天然だしい、ウソつけないタイプだしい、ついついうっかりぃ」
「エセ天然! 根性曲がり! おまえは邪悪だ!」
言ってやった。ずっと言いたかったことをとうとう言ってやった。達成感にひそかに打ち震《ふる》える竜児の目の前、ピク、と亜美の眉間《みけん》に険がこもる。
「……間違えちゃだめでしょ高須くん。あたしは邪悪じゃないの。現実的な正直者、なの。現に、生徒会を辞めたい、っていう祐作の本心がわかってよかったって喜んでる人も一部いるみたいじゃない? それってあたしが正直に喋ってやったおかげじゃん?」
ほれ、と亜美が親指で指す先では、くっくっくっ……隠し切れない笑《え》みを浮かべ、一人《ひとり》肩を震わせている大河の姿があった。うわ、と竜児は大河の身体《からだ》を強引に引き寄せ、他《ほか》の面々に笑う姿を見られないように隠してやりつつ、小声で強く問いただす。
「……た、大河《たいが》……おまえ、反応聞違ってないか!? 笑うとこいっこもねえぞ!?」
しかし声をひそめたまま、大河は暗がりに潜《ひそ》む獣《けもの》のように目を細め、腹筋だけで声を上げずに笑い続ける。
「北村《きたむろ》くんのことはそりゃ心配よ。心の底から、早くいつもの元気な北村くんに戻って欲しいって思ってる。でも、でも……でも! 北村くんが生徒会を辞めたいっていうなら、私としては万々歳なの! これでやっと、あの雌《めす》バエみたいに鬱陶《うっとう》しい偉そうなボス猿野郎と北村くんの縁《えん》が切れる……!」
なんという私利私欲、この我田引水《がでんいんすい》な喜びぶり。ほーらね、と高笑いする亜美《あみ》と同等に、大河もやっぱり邪悪だ。竜児は首を切られてなお生首だけで跳ね、首切り人の頸動脈《けいどうみゃく》を食いちぎろうとしている頭部の如《ごと》く険しく顔をしかめる。女どもの邪悪さが空恐ろしいのだ。
「とにかく、まるおがグレた原因のカギは、生徒会にあるってことだよね? うん、生徒会選挙の話が出たところでキレちゃったのも、これで意味が通じる! まるおにとっては生徒会って『命』だもん、超ヤバいでしょ、この状況って! ってわけで、あたしらでなにができるかな、まるおのために!」
グッ、と拳《こぶし》を握り、熱《あつ》く立ち上がったのは麻耶《まや》だった。奈々子《ななこ》にまあまあ、と宥《なだ》められつつも頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させ、本気でなにかしたいと思っているらしい。
「そうだ、亜美ちゃん! なんかいいアイディア、ない!?」
「えぇー……あたしっすかー?」
「そうだよ亜美《あみ》ちゃんだよ! 亜美ちゃんはまるおの幼馴染《おさななじみ》だし、いつも頼りになるし! お願《ねが》い、まるおのこと、なんとか一緒に立ち直らせてあげようよ!」
いやあ、今回ばかりはぶりっこ鉄仮面もうまく機能《きのう》しないのでは……と腕を組んで首をひねりつつ、それでも竜児《りゅうじ》が口にしなかった言葉を、
「ばかちーなんか頼りになるわけないじゃん」
「ぎゃあ!」
――大河《たいが》が代弁してくれた。代弁しつつ、能登《のと》のおかずの一つであった冷凍ポテトを一気にずっぽり亜美の鼻の穴に挿《さ》し、大胆かつアグレッシブにそいつをグリグリ突き上げる。うおぉ無修正! と能登と春田《はるた》は鼻の穴を凝視《ぎょうし》、竜児はメントールのトラウマがフラッシュバックして己《おのれ》も思わず鼻を押さえる。大河はまた一つ、余計な暴行《ぼうこう》技術を身につけてしまったようだ。
「ばかちーのばかはばかのばかだよ、ばかちーには頭脳、気品、優雅《ゆうが》さetc、そしてなにより優《やさ》しさが足りない。ばかちーが得意なのは物真似《ものまね》だけ。それもたいして似てもいない」
「いっっっ……たいんだよおまえバカかっ!?」
「うぐっ……」
力いっぱい大河の頭をはたき、亜美は痛む鼻を押さえて涙を零《こぼ》す。亜美ちゃんティッシュテイッシュ、それぞれパスパス、と麻耶《まや》と奈々子《ななこ》は優しくポケットティッシュを提供してくれ、そして実乃梨《みのり》は小さな大河の頭を片手でぐっと掴《つか》み締《し》めてグラングラン揺らし、
「こらーあ! 大河おまえーえ! そういう乱暴なことするんじゃなーい!」
もう片手で頬《ほお》に垂れる髪をせっせと耳にかける。
「似てない物真似のどこが悪いか言ってみろーぉ! ぁ三年ん〜っ! ビーぐみぃ!」
「櫛枝《くしえだ》うるさいよ! こっちはそれどころじゃないの! 亜美ちゃん鼻の穴から塩出ちゃってるんだから!」
「ま、麻耶ちゃんもそこは言わないでいいっ!」
猛々《たけだけ》しく麻耶の手からティッシュを奪って、亜美は涙目できっ! と大河を睨《にら》みつける。
「タイガー……今日《きょう》という今日は、本気で、むかついたからね……!」
「鼻の穴にキラキラ塩つけてなに威張《いば》ってんだハゲ」
「ハゲてねぇよ!」
「ハゲろ」
「ハゲねぇよ!」
見えない未来に同じ不安を等しく抱える男性陣は、胸を挟《えぐ》られて揃《そろ》って黙《だま》り込む。遺伝……ストレス……頭皮への刺激《しげき》……加齢《かれい》……抗《あらが》えない運命……ベジータさんのM字……それどころかナッパ……微妙な男心は万華鏡《まんげきょう》の如《ごと》く不安定に色を変えて揺れるのだ。しかし、そんな男性陣のナイーブハートには全くお構いなし、大河と亜美の罵声《ばせい》交換はますますチクチク棘《とげ》を増す。
「ああ、そういえばばかちーはもっさりモジャモジャのモジャ公だったっけね。ハゲないハ
ない、あんたは一生もっさりどっさり特盛りのシュツットガルトを繁《しげ》らせているがいい」
「ぬあぁにぃぃ? あーもー、キレた! ハゲでいいわい! ハゲるよ! ハゲた!」
あぅぅ……と、傍《そば》にいる男どもだけではない、亜美《あみ》の大声はクラス中のY染色体を持たない奴《やつ》らみんなのハートを、憂欝色《ゆううついろ》に染め上げてさらに響《ひび》き渡る、
「もう、どうでもいい! とにかく、とにかく亜美ちゃんは、もう知らねー! せいぜいあんたが頑張んな、くそちびタイガー! そういやあんた、噂《うわさ》によれば、祐作《ゆうさく》の新しい彼女だもんねぇ? けっ、あっほくさ! あんたには頭脳やら優《やさ》しさやら速さやら、よくわかんねぇけど十分足りてるんでしょーよ! ふん、身長だけだね足りてねえのはよ!」
「えええ!? 亜美ちゃん、そんなあ!?」
にゃにおう、とさらに牙《きば》を剥《む》こうとする大河《たいが》を果敢《かかん》にも押しのけ、慌てて声を上げたのは麻耶《まや》だ。だが亜美は鉄仮面をかなぐり捨てたついでにか、ケッ、と本性ダダ漏らしに美貌《びぼう》を歪《ゆが》めて言い放つ。
「そもそもはなっから祐作のことなんか知らねえっつーの! 甘ったれの優等生《ゆうとうせい》が、ギリギリ安全圏でわんわん泣いて、注目集めたいだけでしょーよ! あんなアホたれ、心配してやったってバカ見るだけ! 麻耶と奈々子《ななこ》がくらーく心配してるから知ってることは教えてあげたけど、正直なとこ、心の底から知ったこっちゃねー!」
邪悪なチワワは言うだけ言って、フン、と勝ち誇ったツラ。鼻息荒く、竜児《りゅうじ》を筆頭に北村《きたむら》を心配してツラつき合わせている面々を冷たい視線《しせん》で舐《な》めていく。
「ていうかさあ、みんな、忘れてない? もう高二の冬だよ? そろそろ受験《じゅけん》のこととか、真面目《まじめ》に考え始める時期でしょ? まあ、あのド金髪はどうかと思うけど、本人的にはこれでうまいこと面倒《めんどう》から逃げられたぐらいのつもりなんじゃなぁい? みんなも祐作のことなんかに余計な時間を使ってる暇、ないでしょ。みんながこうやってる間に、他《ほか》の同級生――ライバルたちは予備校に通ったり、将来のこと考えて、みんなをどんどん追い抜いていっちゃう。でもって、優等生の祐作は、祐作のために時間を無駄《むだ》にしたみんなを置き去りに、自分だけは勉強ガリガリやって、とっとといい大学に受かるのかもねぇ? 生徒会長になんかならなくたって十分に優秀で、将来有望で、人望も篤《あつ》いイイコくんだもん、あいつは」
……そういう奴《やつ》は声を上げて泣きゃ、それだけで誰《だれ》かが救ってくれるんだよ。自分でもそのへん、しっかりわかってるんだろーよ。
そう続けた部分だけは、なんだか妙に独り言じみて。
誰もが言い返すこともできず、あまりにも正しい正論《せいろん》の前に声をなくす。パン、と軽く手を打って、亜美は改めてにっこりとぶりっこ仮面装着。
「――ってわけで、さあ、みんな! そろそろお昼休みも終わっちゃうし、次の授業の支度《したく》しなくっちゃ! 時間は有限。……お祭りみたいに楽しいことばっかりじゃ、人生回っていかないんだから。さ、能登《のと》くん、早くお弁当食べちゃいな。ほら春田《はるた》くん、よだれ拭《ふ》いて。高須くん、その顔逮捕されるから整形《せいけい》して」
「……う、うるせえな!?」
ホーホホホ、と開き直った悪役笑いで立ち去っていく亜美《あみ》の背中を、竜児《りゅうじ》は虚《むな》しく睨《にら》みつける。その肩を突《つつ》いたのは実乃梨《みのり》だった。振り向いてその顔を確認《かくにん》し、う、と思わず言葉に詰まるのは、ばれたウソの気まずさゆえに。しかし、
「高須くん。……いや、高須くんの心の中のお奉行《ぶぎょう》さんよ。今日《きょう》の放課後《ほうかご》、北村《きたむら》くんちに行ってみない?」
「……えっ……」
実乃梨は意外な提案で、身構え損の竜児の目の前、跳ねた毛先を指先でいじってみせる
「いやー、心配じゃんか、やっぱり。顔だけでも見たいもん。生徒会でなにがあったかはわかんないけどさ、一緒に行ってみようぜ。さすがに乙女一人《おとめひとり》で男性の御宅を訪ねるのも気まずいし。あの感じじゃ、あーみんも付き合ってくれないだろうし。大河《たいが》は行けるかな?」
尋《たず》ねるより早く、にゅっ、と大河は竜児と実乃梨の間に顔を突き出して「んーん」と首を横に振ってみせる。実乃梨には「少人数の方で行った方が、北村くんも話しやすいと思う」と表向きの理由を、そしてクルリと振り返り、竜児に向かっては超小声、「北村くんのご自宅を拝見したい気持ちはあるけど、今はそれより、うまいこと事を運んでほしいわけ……正直、このまま北村くんには生徒会と完全に縁切《えんぎ》りしていただきたいわ……! ってことで、うまくもってけよ犬コロ」と自分勝手な本心を。
実乃梨と二人《ふたり》で放課後にお出かけ――本来なら座禅のまま空中浮揚もできそうな出来事が、こうして竜児のもとへ舞《ま》い降りてきた。
しかし、ウキウキ気分よりはミッションの困難《こんなん》さに心の大半は重く曇《くも》る。大河の勝手な望みなどはなっから聞いてやる気はないが、それ以前に、あの北村が、家を訪ねたところで素直に話を聞かせてくれるとは思えなかった。奴《やつ》の考えていることはあまりにもわからない。亜美に言わせりゃ生徒会長と恋愛関係でなにやらあったのだろう、ということだが、それも到底信じられない。
ただ、わけがわからなかった。事笑としてあるのは、北村がグレたこと。そして、その原因には生徒会、もしくは生徒会長自身が関係しているのではないか、という推測。家を訪ねて会うことで、わずかでもいいから、とにかくなにか、北村更生の手がかりを得られればいいのだが。
午後の授業が始まっても、竜児の顔は毒を食らった歪《ゆが》み般若《はんにゃ》ヅラのまま……教師は誰《だれ》も、竜児の表情を正視することができない。窓の向こうを眺めていても洗意されることもなく、退屈な古典はただ淡々と進んでいく。
教室にはいない、クラス委員長を置き去りに。
3
学校を出ようとしたところでソフト部の後輩《こうはい》に呼び止められてしまった実乃梨《みのり》を待ち、竜児《りゅうじ》は校門の前でカバンを膝《ひざ》に、ちんまりとしゃがみこんでいた。竜児の目の前、「ばいばーい」「また明日《あした》!」と手を振りあって、一年生らしい女子が左右に別れて行く。無用にビビらせてはかわいそうだから、竜児はわざとらしくても俯《うつむ》いて、睨《にら》んでもいないし獲物《えもの》発見とも思っていないし狙《ねら》いを定めてもいない、と綺麗《きれい》に磨かれた己《おのれ》の靴先だけをじっと見詰める。
そんな夕暮れの霜色《しもいろ》の空の下――
「ごめんごめん、お待たせ! 行くっぺや!」
「お、おう」
駆ける足音も軽やかに、カバンをプン回しながら実乃梨が校門から飛び出してきた。竜児は立ち上がり、なにげない素振りでその傍《かたわ》らに並ぶ。近づけばかすかに漂う爽《さわ》やかなピーチが、実乃梨の髪の香りだということはもう知っている。……知っているのに、そして北村《きたむら》の変調《へんちょう》という憂欝《ゆううつ》な重石も心にはあるのに、それでもドキン、と大きく一度、竜児の心臓《しんぞう》は律儀《りちぎ》に高鳴る。その律儀さゆえに、実乃梨と二人《ふたり》きりで初めての放課後《ほうかご》なんてアホなことも考えずに済
んでいるのだが。浮き足立つこともなく、竜児の足は北村家へまっすぐに向かおうともしているのだが。
「ちょっと歩くけど、平気だよな」
「おう、平気平気、北村くんち、高須《たかす》くんは知ってるんだ?」
「大橋《おおはし》渡った先。高速の高架がある方の、一軒家ばっかりの住宅街」
「そうだった、本町だ。うちと結構近いんだ」
そうだそうだと頷《うなず》いて、実乃梨はおもむろに、やたらせかせかと早足になる。理不尽な速度に置いていかれそうになり、慌てて竜児は小走り、今にも振り切られてしまいそうな実乃梨の背中を追う。追いながら、言おう言おうと思っていたことを、今言ってみることにする。背後からその肩におずおずと手を伸ばし、
「ちょっと待ってくれ! なあ、その……昼のこと。悪かった。北村のことをごまかしたりして、ごめんな」
「うぇい!」
触れかけた、まさにその瞬間《しゅんかん》だった。
妙な掛け声は、路上のわずかな段差に蹟《つまず》いた拍子に喉《のど》から飛び出たらしい。――竜児の手を避けようとして飛び跳ねた、わけではなく。
実乃梨《みのり》は一瞬《いっしゅん》コケかけて、しかし自力でバランスを取り戻した。大河《たいが》なら必ずコケるパターンだが、そこはさすがの実乃梨だった。驚《おどろ》いた竜児《りゅうじ》が手を貸すまでもなく、へっへっへ、と
笑ってすべてをごまかし、そして、
「わーお、驚いた、っぶねー。……うんうん、いいよ、しょうがないよ。ゆりちゃんに口止めされてたんでしょ?」
頷《うなず》く竜児にVサイン。
「別に全然気にしてないよ。高須《たかす》くんが北村《きたむら》くんのことを本当に心配してるの、見てりゃわかるもんよ」
おおらかにそれですべてを許してくれた、らしい。竜児を待って再び歩き出す足取りは、さっきよりは速度も緩《ゆる》く、二人《ふたり》の距離《きょり》はようやく会話が成り立つ近さになる。
「俺《おれ》って奴《やつ》は融通《ゆうずう》がきかねえっていうか……担任に要請《ようせい》されたことをスルーする、という行動様式が備わってねえんだ。……生まれてこの方、宿題とかも、期日より遅れて出したことが一回もねえような奴なんだ、俺……」
「いいよいいよ、それが高須くんだもん。正直なんだよね」
「……俺よりも正直な奴がいたおかげで、全部白日の下に晒《さら》されたけどな」
「あはは、あーみんだ」
かすかに白くけぶる二人分の吐息が、つめたく冷えて薄《うす》く翳《かげ》る夕闇《ゆうやみ》の中に溶けて消える。同時に脳裏に思い描いたツラは、多分《たぶん》共通のはず――祐作《ゆうさく》んちいくのぉ? へーえ、わざわざお二人でぇ。ふーん、それって超〜たっのしそー。仲がよろしくてうっらやましーわぁ。と、幻の森で遊ぶ妖精《ようせい》よりも無邪気な笑顔《えがお》で人体有害な毒を撒《ま》き散らして、とっとと帰っていった亜美《あみ》のツラ。
思い出してしまい、ムカ、と改めて腹が立つ。このところ、というか北村に関するここ一連の出来事について、亜美の行動はいちいち癪《しゃく》に触るのだ。
「ったく、なんなんだよあいつは……ついこないだまでは妙に物分りのいい大人《おとな》みたいな顔して、リーダーぶって張り切ってたくせに、今度はぶりっこ人格もかなぐり捨てて、完全悪役デビューしやがった」
「いいじゃん、私、大人のあーみんも好きだけど、同じぐらい悪役あーみんも好きだよ」
「また物好きな……」
あの大河と親友でもいるあたり、実乃梨の女の趣味《しゅみ》は、本当にかなりマニアックなのかもしれない。そんな愚にもつかないことを考えて、その大河とほば同居生活の己《おのれ》の身の上と、己の片想《かたおも》いの相手が実乃梨であることに思い至る。自分の女の趣味も、端《はた》から見れば相当アレか。
毎朝実乃梨が大河と自分を待っていてくれる交差点を、初めて実乃梨と二人で、高須家とは逆の方へ渡る。欅《けやき》の歩道を、枯れ葉が風に散らされて舞《ま》う。
「あーみんはさー」
そっと実乃梨《みのり》の横顔を盗み見ようとし、そのとき吹いた冷たい風に思わず目を閉じた。
「北村《きたむら》くんのことが、きっと、ものすごく心配なんだよ。私たちと同じにもしかしたら、私たちよりももっとずっと、心を痛めてるんだよ」
「……あれでか?」
「そうだよ。私、そう思った。ほら、あーみんは、大人《おとな》の世界でお仕事してきてる人じゃん。ずっと前から」
まあな、と竜児《りゅうじ》が頷《うなず》くのを待って、さらに実乃梨は言葉を継ぐ。妙に淡々と、しかし強い確信《かくしん》を持って。
「あーみんは私らみたいなガキよりもずっと世間のいろんなことがわかってる。幼馴染《おさななじみ》の北村くんのことも、私らがわからないこと全部わかってる。でも、自分はわかってることが誰《だれ》にもわからない。そういう周りの幼稚さに、それでも辛抱強《しんぼうづよ》く付き合ってくれてるっていうか……適当にごまかさないで、ちゃんと相手にしてくれてるんだよ。あーみんが言ってることって、全部怖いぐらい正論《せいろん》じゃん。あんなふうに『本当』のこと言ってくれる友達って、なかなかいないよ。普通の人は嫌われるのとか、ノリが壊《こわ》れるのを怖がって、もっと優《やさ》しくて耳触りのいいことしか言いたがらないじゃん」
「……アレが、そんないいタマかよ。単に性格が悪いだけでは……」
「いーや、あーみんは、イイ奴。めっちゃイイ奴。それだけは確かなの。高須《たかす》くんだって、本当はちゃんとわかってるんでしょ」
「残念ながらわからん。本性見た上で言ってんのかよ? まさかここに至って、まだあの外面《そとづら》に騙《だま》されてやるつもりか?」
「もー、本性も外面も関係ないの。ウソのあーみんも、ホントのあーみんもない。ただ、あーみんはあーみんなの。今日《きょう》みたいにチクっとくること言う時にも、あーみんなりの理由があるんだって思う」
っていうか、と、実乃梨は不意に竜児の顔を見上げる。
目が合って、竜児は実乃梨の言葉の真剣さを知る。
「……そうであって、欲しいんだ。私も、言っちゃ悪いけど高須くんにも、わからないこといっぱいあるじゃん。わかりたい相手なのにわからないこと。そういうの、あーみんは、あーみんだけは、全部ちゃんとわかってくれてるって思いたいの。……なんつーか、私らが未熟《みじゅく》ゆえにわかってあげられない奴らの、アンド、わかってもらえない私らの、それが最後の救い、みたいなさ……あーなに言ってんだかもー」
実乃梨は唐突に目を逸《そ》らす。口を一度グイっとつぐみ、身を翻《ひるがえ》すなり今更スタスタ大股《おおまた》で、
「北村くんちはこっちかね」などと呟《つぶや》いて、どんどん歩いていってしまう。その耳朶《じだ》は少々赤く、どうやら大真面目《おおまじめ》すぎた自分の言葉に照れているらしい。こういうところが好きなんだ、と不意に竜児《りゅうじ》の心臓《しんぞう》に熱《あつ》いエネルギーが満ちる。
照れて朱色《しゅいろ》に染まった顔がかわいい。……ではなくて、この人の、この、恥ずかしげもなく真剣なところが好きなのだ。この人がこんなふうに、まっすぐ生きようとしている姿が垣間見《かいまみ》える瞬間《しゅんかん》に、何度でも竜児は恋に落ちるのだ。
実乃梨《みのり》は誰《だれ》よりも優《やさ》しくて、誠実で、まっすぐで、温かな血を自分に与えてくれる。正しい力で輝《かがや》いて、憂欝《ゆううつ》にしけりかけた腹の奥まで太陽みたいに熱く眩《まばゆ》く照らしてくれる。
「……櫛枝《くしえだ》は、……なんていうか……優しい奴《やつ》、だな」
それはとてもつまらないけれど、それでも精一杯の、竜児なりの魂の叫びだった。だが、
「優しい!?」
唐突な声は、悲鳴みたいに響《ひび》いた。実乃梨は跳ねるみたいに足を止め、すごい勢いで振り返って竜児の顔を見上げた。すれ違った買い物帰りの妊婦さんが、驚《おどろ》いたみたいに目を見開いて道のド真ん中で向かいあった実乃梨と竜児を眺めていく。
「違うよ、違う! 私はただ底なしに傲慢《こうまん》で、そして――」
実乃梨は笑うとも、怒るともつかない顔で、搾《しぼ》り出すように小さく囁《ささや》いた。
「――ずるい、ん、だよ」
真意を問いただす間も与えてくれず、そのまま実乃梨は顔を伏せてしまう。背中ごと丸めるみたいにして。
「く、櫛枝……?」
「……」
実乃梨は凍りついたみたいに動かなくなり、竜児はその背に触れていいものかどうか迷う、掌《てのひら》は宙を彷徨《さまよ》い、かけるべき気の利いた言葉は喉《のど》からどんどん逃げていく。
「櫛枝……なあ、おい。……おい、って……」
そうしてなにもできないまま、数秒。
「……いや! ごめんな! 俺のターンはパスするぜ! なんでもないんだ城之内くん!」
ようやく顔を上げてくれた実乃梨の表情は、えへ。と、憂鬱と困惑に固まりかけて複雑な、それでも一応は作られた笑顔《えがお》。
「いやー、もー、最近、ほんと、いろいろ、なんちゅーか、うん。ごめん。なんでもないから、マジで大丈夫ーわりわり!」
「……なんだよそれは」
「え」
言おうかやめようか迷い、やっぱり、言う、
「そんな複雑なツラして、いきなりわけわかんねえし……なにがごめんだよ。いろいろってなんだよ。誰だよ城之内くんて」
「あ、こめ……じゃねぇ、ええと……うん、……そだね」
「……『最後の救い』なんて、大層なモンにはなれねえけど、でも……俺《おれ》は、おまえのこと、ちゃんとわかりてえよ。別におまえのことわかってくれる奴《やつ》が、川嶋《かわしま》じゃなくたっていいじゃねえか。俺だっていいじゃねえか。そんなにダメかよ。俺じゃダメかよ。そりゃおまえの言うとおり未熱《みじゅく》だけど、でも……わかりたい、って思ってるんだよ。これでも」
――それは、まるでにじり寄るみたいに、
じりじりと、気づかれないように匍匐前進《ほふくぜんしん》で接近するみたいに。
竜児《りゅうじ》はそっと、実乃梨《みのり》に近づこうと、距離《きょり》を縮《ちぢ》めようと、本物の言葉で語りかけた。どうか応《こた》えて欲しい、気づかれたくないくせに気づいて欲しい、反応を待つ数秒の間に唇は乾き、噛《か》み締《し》めて耐える。冷える指先に気づかれたくなくて、ポケットに深く突っ込んで隠す。
そして実乃梨は、
「……怖いよう」
と。
目を擦《こす》る振りで、顔を隠して。口元にだけは笑《え》みを浮かべてみせて。
「高須《たかす》くん。私のこと、きっとすっごくイイもんみたいに思ってる。でもさあ、いつか全部わかってさあ、私のことが全部わかったらそしたら――きっと、」
「時間は有限なんだろ!」
突然竜児が出した大声に、実乃梨は驚《おどろ》いたみたいに伏せていた顔を上げる。
「――て、川嶋が言ってたじゃねぇか。あれも正論《せいろん》だろ。なんにだって、時間切れって、あるだろ。クラス替えとか卒業とか、寿命とか。……このまま、『未熟な高須くんにはわからない』のまま時間切れを待って、それでむ別れでいいのかよ。俺だって、いつまでも未熟者でいる気はねぇ。それに、おまえのこと便所にもいかねえ清らかなる聖人だなんて思ってねえから安心しろ」
好きだとは思っているが安心しろ、と心の中だけで付け足す。どんな実乃梨が現れても、それが思ったような彼女とは違っても、永遠に愛する――なんて調子《ちょうし》に乗りすぎたことはさすがに言えないけれど。それでも、言いたいことは、言うべきことは、言った。……いや待てよ。ちょっと感情がダダ漏れになりすぎただろうか。いろいろ言ってしまってから、竜児は唐突に臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれる。後悔しても遅いけれど、それにしてもなんだかちょっと急ぎすぎたかもしれない。言ってしまった、どうしよう、と今更立ちつくす。が、
「……キラキラキラキラキラ……」
「……なんだそれは……」
実乃梨の輝《かがや》かんばかりの奇行の前に、後悔もクソも繊細《せんさい》な男心も、すべて儚《はかな》く散っていく。
両手を仏像みたいに広げ、顔つきは穏《おだ》やかなる思惟《しい》に沈み、視線《しせん》は三千世界の人の営みを愛《め》でて撫《な》でたくるみたいな半眼。実乃梨は路上で悟りを開いていた。全身から煌《きらめ》き出《い》でる眩《まばゆ》いオーラは、口での「キラキラ」で具体的に表現、爪先立《つまさきだ》った大股開《おおまたびら》きは見事なる三角バランスで体重を支えている。
「……あのね、私は、高須《たかす》くんの、今の言葉に昇天しそうな気分でいるのです……キラキラキラ……嬉《うれ》しいよ。そう思う、マジで。そう思っていることだけを、今はわかってもらえたらそれでいい。そしていつか、すべてがわかってしまう日も、ただこうして待っていることにしようって思ったよ。……キラキラキラ……」
そのままキラキラ輝《かがや》く実乃梨《みのり》ワールドに飲み込まれかけ、しかしグッ、と踏み止《とど》まる、結局、つまり、今はまだなにも内心の事情については説明できない、と。だけどいつかは竜児《りゅうじ》に心を預けてもいいと思っている、と。実乃梨は奇行の裏で、そう伝えたいわけだ。自分にばっかり都合のいい解釈だろうか。でも知るか、そうとも取れることを言ったキラキラみのりんが悪いのだ。
いい覚悟じゃねえか。竜児は思わず笑ってしまっていた。
「……いいよ。今はそれで。俺《おれ》は言いたいことは全部言ったから。なんていうか……いずれおまえのこと、もっとちゃんとわかりたいって思ってる。……それだけでいいよ、俺も」
早口で言い切った竜児の目の前、実乃梨の顔が溶けた――みたいに見えた。ふにゃ、と大泣きする寸前の赤ん坊のように、だけど、
「……っ」
声は出さないまま、泣き顔はそのままにっこりと全開の笑顔《えがお》になる。竜児だけに向けられた笑顔は、本当に嬉しそうに、柔らかに見えた。唇がもっとなにか語ろうとかすかに震《ふる》え、だけど、実乃梨はそのまま声に詰まる。何も言えなくなったみたいに、唇に拳《こぶし》を押し当てる。
その喉《のど》から溢れ出されるはずだった言葉は、結局竜児には届かなかった。だけど、なにも足りないとは思わない。今はこれでいいや。竜児はそんなふうに、笑っていられた。
ふ、と笑《え》みに細められた実乃梨の瞳《ひとみ》は、一瞬《いっしゅん》だけ、竜児の頭上に宙から飛来したなにかを見つけたみたいに震えた。
そんなふうに微妙な距離感《きょりかん》を意識《いしき》しあい、ほんのちょっと浮つき気分でいたことを、しかし天はお見通しだったのだろうか。やがてたどり着いた住宅街古くて大きな屋敷《やしき》と、新しくて小さな建売住宅が並ぶ、緑の少ない灰色《はいいろ》の町の中の一軒。古くてあまり大きくもない一軒家の前で、竜児と実乃梨は「あれ?」と間抜けヅラを見つめあう羽目になる。
北村《きたむら》、と書かれた表札の下の呼び鈴を押しても、中からは誰も出てきやしないのだ。北村の兄のものだろうピカピカに磨かれたバイクは軒先に停《と》められていて、二階の雨戸も閉まってはいない。母親が勤め先から貸与《たいよ》されているらしい、保険会社のシールが貼《は》ってある電動自転車も停めてある。しかし、何度呼び鈴を押しても返答は一切ない。
「……お留守、なのかな? うむむ……」
実乃梨《みのり》は呟《つぶや》き、携帯で北村《きたむら》にかけてみる。やっぱ出ないや、と留守電のメッセージの途中でフリップを閉じる。竜児《りゅうじ》の胸が突然冷えた。友達のことも忘れて甘ったるい気分でいやがったのか、と冷たい手で胸元を撫《な》でていくみたいな風が、学ランの隙間《すきま》に滑り込んだのだ。マフラーは、結局|大河《たいが》が今日《きょう》も巻いている。
***
「ただいまー。……って、カギ開けっ放しにしとくなよな、最近は変な事件とかいっぱいあるんだからよ。変態はおまえが高校生のガキもちのおばちゃんかどうかなんて斟酌《しんしゃく》してくんねえんだぞ。あー荷物重い、キャベツが安くてよ!」
暗い玄関に上がり込み、夕食の支度《したく》前のひとときは、大河もいない泰子《やすこ》と親子二人《ふたり》きりの家族の時間。シン、と静まり返ってテレビの音だけが響《ひび》く中、息子《むすこ》は油断しきっていつもよりもちょっと饒舌《じょうぜつ》なのが常だ。制服姿のままで真っ先に向かうのは台所、喋《しゃべ》り続けながらもキャベツで膨《ふく》らんだエコバッグ(自作。ブリマで五十円で買った風呂敷《ふろしき》を縫《ぬ》い合わせただけだが、これがなかなか丈夫で収納力もある。学校に持っていった時には手芸部の女子たちの間でちょっと話題になって、ある日の放課後《ほうかご》、手芸部女子十五名を相手に作り方を指南してやった。それにしても和柄はイイ!)を下ろして、手際よく生鮮食品《せいせんしょくひん》を冷蔵庫《れいぞうこ》にしまいこんでいく。二玉買ってしまったキャベツは、掴《つか》むと改めて手の中にずっしりと重みを伝えてくる。
「……そう、このキャベツ。正真正銘|群馬県《ぐんまけん》産でこの値段。本町《ほんちよう》のスーパーも結構いいな。なんでそんなところまで行ったかっていうと、大変だったんだよ今日《きょう》。なんと北村が、あの北村がだぞ。グレたんだよ。驚《おどろ》くだろ? いっきなり頭まっ金髪で現れて、もう似合うも似合わねえも、似合わねえんだよ! すっげえ変なんだよ! でもほら、それって絶対なにかのサインだろ。とにかく心配だから、家まで行って、会って話聞いてやろうと思ったらいねえんだよ。参った。ったく、あの野郎、面倒《めんどう》かけやがって……で、ヤケになって思わずキャベツとかいろいろ買って……って、おい。コップ使ったら、せめて水でゆすぐぐらいしとけよ。おまえ甘いモンばっか飲むから、ベトベトしたところに寒くなっても死なねえハイブリッドコバエが貼り付いて死んでるじゃねぇかよ。コバエホイホイじゃねえんだから。しっかしこのコバエ、どっから湧《わ》いて来るんだろうな? ウチはゴミとか超完璧《ちょうかんぺき》に始末してるからコバエが湧く隙《すき》なんてねえはずなんだけど……もしかして大家んちからとか? まあ、あそこも年寄り一人暮《ひとりぐ》らしだからなー、几帳面《きちょうめん》な婆《ばあ》さんだし変なことはしてねえとは思うけどそれにしてもこのコバエが、」
「……コバエは外からも、排水溝からも侵入してくるぞ……まあ、おまえには釈迦《しゃか》に説法だろうがな……」
「……っ」
グラスを洗ってしまおうと手に取ったスポンジが、ビチャーン、と洗い桶《おけ》の中に落ちる。無駄《むだ》になったヤシの実洗剤が、水に溶けてゆるい泡になり、消えていく。
テレビのついた居間、ちゃぶ台の前に座っているのは、泰子《やすこ》でしかありえないはずだった。なぜならこの家は二人《ふたり》暮らし、最悪(?)でも大河《たいが》しかここにはいるはずがなかったなのになぜ、よりによっておまえがここに――あまりに度を越えた驚《おどろ》きは、声にならない.ドッドッドッと心臓《しんぞう》は早鐘《はやがね》、体毛全部が毛穴全開で立ってる気分、こりゃ強盗に出くわしたって悲鳴なんて上げられるもんじゃねえな、と頭の片隅だけで妙に冷静にそんなことを思う。強盗どころか、ついさっき会おうとしていた奴《やつ》が都合よく現れてくれたのに声一つ上げられないのだから。
「……家出してきたんだ。なんか、随分|面倒《めんどう》かけたみたいで……悪いな」
泡に塗《ぬ》れた手を、なんとか上げて見せた。それが今の竜児《りゅうじ》にできる、精一杯のリアクションだった。
ちゃぶ台の前にきちんと正座して、朝見たままの汚れた制服姿。台所に立つ竜児をじっとり見上げていた金髪男も同じように手を上げて見せる。「よう」じゃねえ。おまえどこに行ってた、とか、なんで連絡くれねえんだ、とか、みんな心配しまくってたんだぞ、とか、一体なにがあったんだよ、とか言いたいことがありすぎて、言葉が喉元《のどもと》で渋滞状態だ。そこへ、
「たっだいま〜☆ あ、竜ちゃんの靴があるぞお? ってことはぁ〜……うわあ〜竜ちゃんおかえりい〜! ねぇねぇあのねぇ〜、にゅ〜すだよお〜! なんと北村《きたむら》くんがうちに来てるんだよお〜! ねっ、ほらほらいるでしょお〜? だからやっちゃん、ファミマで北村《きたむら》くんのパンツ買ってきてあげたぉ☆ 最後のストッキングも破っちゃったからそのついでにぃ〜! ……叙あれぇ? どしたのぉ? なんだか盛り上がってないねぇ〜」
薄すぎる眉毛《まゆげ》が子供みたいなノーメイクにパジャマ兼用のユニクログタグタボーダーパンツ、素足、上には竜児の中学時代のジャージというスタイルで現れ、泰子はへらへら嬉《うれ》しそうに笑っていた。そしてのんきに北村にパンツ入りのビニール袋を渡してやる。北村は北村で、どうも! おおこれはいいトランクス! などと嬉しそうにパンツをおごってもらっている。竜児はそれどころではない。言いたいことは山ほどあるし、それになんだ。いえでってなんだ。
いえで……家出か!
北村家を出て、うちにきたのか!
夕食時にか!
しかしトンカツ用の豚肉は三枚しかないぞ!
どうする!
――静かに驚き、混乱し続ける息子《むすこ》の肩に甘えてしなだれかかり、実母はでへへ〜、と妙にご機嫌《きげん》であった。
「あのねぇ、今日やっちゃんねぇ、静代《しずよ》ちゃん(毘沙門天国《びしゃもんてんごく》ナンバー2)と焼肉食べてからお店行く約束したのぉ〜。 だから夕ご飯、今日はいらないのぉ〜」
「や……焼肉に。おう、なら、トンカツの肉はセーフ……っていうか、そういうのは普通、仕事明けの朝方に行くもんじゃねえのか〜アフターとか言って」
「いや〜、仕事終わる頃《ころ》にはやっちゃんグネグネでにほんご通じないからあ〜。それがなんかねえ、静代《しずよ》ちゃんが結婚するってゆってた彼氏がねえ、三十歳の会社社長って話だったんだけどぉ、実は十七歳のフリーターだったんだってえ〜。びっくりだよねぇ〜。これって犯罪かなあ〜とか落ち込んでたからあ、とりあえずやっちゃん、シラフのうちにお話聞いてあげることにしたのぉ〜」
「……おまえが聞いたところで、それは解決する話なんだろうか?」
「わかんなぁい。でも焼肉☆ とろける特上ロース☆ ホルモンあぶら☆ 若返り☆」
……ただ食いたいだけか。うふうふえへへ、と泰子《やすこ》は着替えのためにか自室に入っていき、竜児《りゅうじ》はとりあえず、畳に正座したままの北村《きたむら》に座布団を勧めてやる。とにかくお茶でも出すか、と思ったところで、閉ざされた襖《ふすま》の中からちょちょい、と自い手が息子《むすこ》を手招く。近づいていくと泰子は息子を自室に引っ張り込み、襖を閉めて小声で一言。
「……内緒《ないしょ》だけどぉ、北村くんちとぉ、もうお話はついてるのぉー。明日《あした》はどうせ土曜《どよう》だし、学校もやっちゃんの仕事もお休みだし、うちでお預かりしますぅ、って」
「……じゃあこれは、家出、っていうか、」
「そおです。単なるお泊りなので〜す。実はこういうモノがあってねぇ……」
泰子がガサゴソと化粧品やらなにやらが散乱するチェストから引っ張り出してきた一枚の紙は、綺麗《きれい》な字で署名|捺印《なついん》された妙に本格的な誓約書。
北村家と高須《たかす》家は、双方の息子が万が一家出をしてきた場合、速やかに連絡を取りあって居所を明らかにすることをここに誓約いたします。北村|啓子《けいこ》。印。高須泰子。印。
「ほ、ほほう……こんなモン、いつの間に」
「去年ねぇ〜。北村くんちのお母《かあ》さんのとこでホケンに入ったりしたじゃな〜い。そのついでに、二人《ふたり》でノリで作ったのでーす。だから竜ちゃん、家出したくなっても北村くんちに行ったら丸バレだから、気をつけてねぇ〜?」
「それを俺《おれ》に明かすというのはどういう罠《わな》だ」
「ほえ〜? なにがあ? ……あ〜! そうかあ! やあん、忘れて忘れて〜!」
顔を桃色《ももいろ》に染めてジタバタくねくね暴《あば》れだしたジャージ姿の実母を置き去りに、竜児は襖をパタン、と閉ざす。泰子の頭のネジやバネがどこかに落ちてはいまいか、と、思わず綺麗に掃除されて埃《ほこり》一つ存在を許されない部屋《へや》の隅々を見つめてしまう。
その鋭《するど》い目つきになにか思うところがあったのか、それとも親子二人の密談《みつだん》を妙な方へ勘違いでもしたのか、
「高須、その……やっぱり突然、悪かったな。連絡もせず」
北村は今更のように申し訳なさそうに、肩を疎《すく》めて金髪頭を掻《か》いてみせた。いやいや、と竜児《りゅうじ》は律儀《りちぎ》に首を横に振り、手も振り、
「いや、とにかくどうなったかわからなかったし、どうなったのか心配してたからさ。俺《おれ》んちに来てくれて、かえってよかった。驚《おどろ》いたには驚いたけどよ」
「……泰子《やすこ》さんが、上がれ上がれって言って下さったからお言葉に甘えてしまって……」
「あーいいよいいよ。ゆっくり家出してけよ、ついでだからさ、明日《あした》はどっか気晴らしに遊びに行こうぜ。……積《つ》もる話も、あるんだろ? きっと」
「……」
金髪男が微妙な間をとって押し黙《だま》った、その瞬間《しゅんかん》だった。
「おなかすいたっっっ! 今日《きよう》のおかずはなに肉っ!?」
ズバコーン! と、ポロ屋の玄関ドアが豪快に開かれる。借家一棟丸ごとブチ倒したいかの如《ごと》く横暴《おうびおう》にして猛々《たけだけ》しく、今日も『奴《やつ》』が現れたのだ。いつもどおりの腹時計《はらどけい》アラームで、自
分勝手に合鍵《あいかぎ》で。この図々《ずうずう》しい登場の仕方に今更驚くような竜児ではないが、北村《きたむら》は目を丸くして驚きの表情を浮かべていた。大変なことになるぞこれは……のしのし近づいてくる偉そうな足音に、竜児もひそかに息を飲む。心配なのは、この場合北村の方ではない。この光景を見たら、奴は死ぬのではないだろうか……葬式もうちで出してやらなければならないのだろうか。
そして、
「ねえなに肉!? なに魚!? 返事っ! 今日のごはんは、一体なんな……」
「あっ、逢坂《あいさか》!? なんだなんだ、奇遇だな! どうした、おまえも家出少女か?」
――仁王立《におうだ》ち。
赤系チェックのコットンフリルワンピースにニットのフードつきカーディガンを重ね着して着膨《きぶく》れた大河は、顔面の色を、器用に白から青、そして赤、もう一度青、やがて熟《じゅく》しすぎたトマトそっくりに赤黒く染め上げて、
「……Oh……!」
外人になった。
自我の国境が崩壊《ほうかい》、ワァーッツ、ワァ〜イ、ン〜、アッ! ……意味不明の言語で呻《うめ》きながら、グタグタと身体《からだ》全部で螺旋《らせん》を描くみたいに崩れ落ちていく、そしてそのままばったり倒れる。
「あれ!? 逢坂!? おい高須《たかす》、逢坂がなにやら大変だぞ!」
北村に指摘されるまでもない、大河は見るからに大変だ。慌てて駆け寄り、助け起こし、
「た、大河……気を確《たし》かに! 生きろ! ……北村は、家出してきたんだ! 今夜はウチに泊まっていくぞ!」
頬《ほお》をベチベチ叩いてやると、大河はギリギリ、生きていた。睫毛《まつげ》を震《ふる》わせて目を開けるなりそのまま這《は》いずるように方向転換、無言で壁《かべ》に手をついて、ガクガク震えながらも立ち上がり、ゾンビ歩きで玄関に向かう。パタン、とドアが閉まる音。そうしてゆっくり五つ数えた後、ピンポーン♪ とほとんど使われたことのない高須家《たかすけ》の玄関チャイムが鳴る。ゴク、と息を飲み、竜児《りゅうじ》は玄関へ向かう。……無理だ。こんなことでごまかせるわけがない。ごまかせるわけなんかないのに。絶対に無理とわかりつつも、それでもドアを開けてやると、
「きょきょきょきょきょきょ」
挙動不審《きょどうふしん》すぎる仮面みたいな笑《え》みを顔面に貼《は》り付け、大河《たいが》はどもっていた。
「今日《きよう》は、お招きいただき、ありがとう!」
「ど……どうぞどうぞ」
竜児に先導《せんどう》させて家の中へ入ってきて、「ああああら!」と北村《きたむら》を見てガクガク震《ふる》える右手を気さくに上げてみせる。
「きききき奇遇ね、きききき北村くん」
「よう逢坂《あいさか》! 二度目だな!」
こんなことでごまかせるわけなんか、絶対にないのに――異常におおらかというか、こだわらない性格の北村は、様子《ようす》がおかしすぎる大河に向けてにこやかに笑ってみせるのだった。ド金髪のくせに。家出男のくせに。おごられパンツのくせに。
泰子《やすご》が焼肉&仕事へ向かい、子供三人が残された高須家の台所に、キャベツを千切りしまくる十六ビートが響《ひび》き渡る。そして居間では、
「そういえば、前に隣《となり》のマンションに住んでるって言っていたもんな。一人暮《ひとりぐ》らしだったとは知らなかった」
「そ、そうなの。……やっちゃんが、毎晩ご飯食べに来ていいって、言ってくれるから甘えさせてもらってるの……」
「そうか。よかったなあ、高須が隣に住んでて」
「う、うん。……あーぉ」
「おお、インコちゃんもすっかり逢坂に懐《なつ》いて、指をそんなにもベロンベロン舐《な》め回して。ほほぉ……これはまた大胆なべロ使い……」
――そっと背後を振り返り、竜児はたどたどしい会話を続ける二人《ふたり》を盗み見る。いや、たどたどしいのは大河だけか。北村はあくまでもいつもどおりのマイペース、楽しげに大河にキャベツのはじっこを補給してもらっているインコちゃんを眺めている。ポーズだけは二人揃《そろ》って妙にリラックス、畳の上に腹ばいになって、同じように座布団を二つ折りに抱え込み、だらしなく足をブラブラさせながら頬杖《ほおづえ》をついて、トリカゴを挟んで向かいあい。
「しかし、畳っていいよなあ。俺《おれ》の家、何年か前に爺《じい》さんがリフォーム業者に騙《だま》されて、和室を全部安っぽいクッションフロアに変えてしまって、こうやってゴロゴロできる部屋《へや》がなくなってしまったんだ」
「わ、私の家も全部洋室だよ……畳、いいよね……」
「やっぱり和室が落ち着くよな。だらしないけど、家ではこうやってゴロゴロしたいよな」
「気が合うね……えへへ」
多分《たぶん》、北村《きたむら》の家の洋室と大河《たいが》のマンション様の洋室は同じ言葉でも内容的にだいぶ違うだろうが、仲良く頷《うなず》きあっているからよしとしよう。竜児《りゅうじ》はひそかな笑《え》みをニヤリ、と口の端に浮かべ、キャベツの千切りに戻る。華麗《かれい》すぎるスピードでスタタンスタタンとリズミカルに包丁を鳴らしつつ、お二人《ふたり》様に声をかけないのはもちろん「あえて」だ。大河は借りてきた猫みたいになっているがかわいらしいし、北村も金髪だがリラックスしているようだし、なかなかいい感じに端からは見える。
意外と、こいつらはこいつらでこの流れ、そのまポうまくいってしまったりして――芯《しん》の部分にザクリ、と刃を入れつつ、竜児は凶眼の底に蒼《あお》き炎を狂おしく揺らめかせる。地獄の果てまで追いかけて二人の仲を七度生まれ変われどもズタズタのビリビリに引き裂いてやる! と死神に誓いを立てたわけではない。ケガの功名とでも言おうか、今回の北村の変調《へんちょう》が、ここにきて意外と各方面に好ましき事態をもたらしているような気がしてならないのだ。北村には悪いが、そして心配な気持ちも消えたわけではないが、結構こうしてみれば本人も元気そうではないか。生徒会で嫌《いや》なことがあったのかもしれないが、こうして一日家出して、ちょっと反抗気分を味わえば、それで済む話なのかもしれない。
「インコちゃん、涎《よだれ》だらっだら垂らしながら一生懸命《いっしょうけんめい》キャベツ食べてる。いいなあ、ペット。かわいいよなあ」
「……か、かわいいよね……うん、かわいい、よね……ちょっとだけね……」
うふふ、あはは、と背後からは楽しげな笑い声。北村と大河、そして、自分と実乃梨《みのり》の間にも、もっともっと好ましき事態が起きてくれればありがたい。簡単《かんたん》に割ったキャベツの芯にラップをかけつつ、竜児は無意識《むいしき》、鼻歌を歌う。もったいなーい♪ もったいな〜い♪ もちろんこの芯は、大事に冷蔵庫《れいぞうこ》にしまう。明日《あした》はこいつをスライスして、ベーコンと一緒にスープの具にしよう。これが意外といいダシになるのだ。
「……ふへへっ!」
「おう! なんだよ、あっちで大人《おとな》しく北村をもてなしてろ」
ビタン、と親戚《しんせき》から逃げてきた恥ずかしがりやの子供みたいに背後にへばりついてきたのは大河だった。せっかくのひととき、北村と過ごしていればいいものを、なにやらご機嫌《きげん》に顔を溶けさせつつ腕まくりなどしてみせて、
「なんか、お手伝い、する! そうだ、洗い物得意だから洗い物する! どれ洗う?」
「……と、く、い……?」
「うん! 得意だから!」
どうやら北村にいいところを見せようという魂胆らしい。しかしこの高須《たかす》竜児、使い終わった調理《ちょうり》器具を洗い桶《おけ》に溜《た》めておくようなだらしない真似《まね》ができる男ではない。すべての調理器具は、使い終わると同時に素早《すばや》く洗われ、水気を拭《ぬぐ》われ、定位置に収められている。収められていないのは、今もまだ使う予定のあるモノばかりだ。
洗い物が得意、という点については少々問い詰めたい部分もあるが、しかし大河《たいが》の気持ちについては竜児《りゅうじ》は正しく把握した。小声て、
「……とにかく、いいとこ見せたいんだな?」
「……そう!」
頷《うなず》きあい、そっと北村《きたむら》の様子《ようす》を振り返って窺《うかが》う。北村は腹ばいで寝転がり、キャベツの食いカスを全身にまとってプルップル痙攣《けいれん》しているインコちゃんをうっとり眺めている。よし、と竜児は声を張り、
「じゃあ、今日《きょう》も大河に手伝《てつだ》いしてもらうか! あのうまい目玉焼き、また作ってくれよ!」
トンカツと一緒に出して不自然でなく、かつ、もう作ってしまった味噌汁《みそしる》でなく、かつ、大河にでもできそうな簡単《かんたん》な品といったら、目玉焼きか小松菜のお浸《ひた》しぐらいだろうと踏んだのだ。そして小松菜はストックにない。大河もおっしゃー、と頷くなり堂々声を張り、
「わかったわ! あの、私が得意な目玉焼きね! 作ってあげる!」
「へえー、逢坂《あいさか》の得意料理は目玉焼きか。シンプルなものにほど、実力は表れるっていうよな。俺《おれ》、勝手に逢坂は家事全般とは無縁《むえん》なイメージを持っていたけど、いや、失礼した! これは楽しみだ!」
ニコニコ笑顔《えがお》を向けてくる北村に、「うふふ、ちょっと待っててね!」などと、まるで新婚さんのように甘ったるく返事をしてみせる。よーよー、イイ雰囲気出してんじゃねえよー、と竜児は処刑ライダーの如《ごと》く不吉な笑《え》みを浮かべつつ、冷蔵庫から卵を三つ出してやって大河に渡す。やだもー、そんなんじゃないったらー、などと大河もクネクネ照れて頬《ほお》を染めつつその卵を受け取り、竜児にしか届かない小声、
「で?」
と。
「……ん?」
「だから、で? 目玉焼きって、こいつをどうすればできるの?」
これは驚《おどろ》いた! ハラリ、と包丁に貼《は》り付いた針みたいなキャベツの千切りが落ちる。いくら大河でも目玉焼きぐらいは作れると思ったのだが、竜児はどうやら大河のダメ人間ぶりを過小評価していたらしい。
「……俺が悪かった!」
「謝《あやま》るのは北村くんが家に帰ってからでいいわよ。ていうかなんで謝るの。いいから、早く教えて。こいつをどうするの。あ、教えていることを北村くんに悟られないでよ」
ゴクリ、と竜児は息を飲む。トンカツを揚げつつ、この不器用アホたれドジタイガーに目玉焼きの手順をこっそり教えなければならなくなった。ひしひしと、ミッションインポッシブルな予感。しかしここまできた以上、もはや引き返すこともできない。
「しょうがねえ……フライパンだ。フライパンを出せ。わかるな、そのひらべったいヤツだ」
「……それぐらいわかるよ」
キャベツの千切りを一旦《いったん》ザルにあけて脇《わき》に避け、豚ロースを三枚、まな板に広げる。脂身と赤身の間のスジに包丁の刃先を入れて切りつつ、
「……卵を割れ。そこのお椀《わん》を使っていい。わ、割れるか……?」
「五分五分よ。……全部一緒でいいの?」
「この際それでいい」
スジを切ったロースをバットに並べ、軽く塩コショウ。そして小麦粉を振るう。
「ヒィィ……一個目、いきなり割るの失敗しちゃった……っ」
素早《すばや》く黄身の崩れた卵の椀を引き取り、冷蔵庫から卵をもう一つ。
「……こっちはトンカツの衣に使う。卵はこれでラスト、次しくじったら、フォローできねえぞ……」
「うおお……!」
運を天に任せつつ、卵を溶く。バットをもう一つ出してきて、食べ残した食パンをちぎって作ったパン粉をたっぷり撒《ま》く。横目で確認《かくにん》したところ、大河《たいが》の方も卵割りミッション完了、すべて黄身を崩すことなく、卵は椀の中に浮いている。
「はあ……はあ……っ」
大河は顔中に汗の玉を浮かせている。こんな段階から、すでに。ロースを卵にくぐらせて、パン粉のバットに移動させつつ、
「火をつけて、フライパンに油を引け。そこの、サラダオイルだ。全面に行き渡るぐらい」
「……はあ……はあ……っ」
「興奮《こうふん》するな、落ち着け。……火が強い! 弱めろ、弱めろ! ああ俺《おれ》が育てた鉄が!」
「ど、どうやって? あっ、これか!?」
つまみをグイーン、と強の方へ。当然コンロの炎はさらにでかくメラッメラと、
「逆だバカ! 逆! それを逆に!」
「あ、あ、油がまだ、油が、」
「油はいいからつまみを逆に! 油はいいんだ!」
「……うええっ、あ、油入れちゃったよおぉ!」
「いい、ならいい! とにかく火を……っ! 違う! そのつまみは別のコンロロのだ!」
「う、うぅぅっ!? ぅええ!?」
「そうだ! それだ! 油を回せ! 回せ! ああああ濡《ぬ》れた箸《はし》を入れるんじゃねえーっ!」
「ぅあちちちちぃぃなんだってんだゴラァ!」
キャベツの千切りを掴《つか》んで湿った菜箸《さいばし》で、熱《ねっ》された油をかき回そうとしたのだろう。当然水気がビチビチと爆《は》ぜ、大河《たいが》は驚《おどろ》いて飛び退《すさ》る。バッキャロー! 火から離《はな》れるんじゃねぇ! と竜児《りゅうじ》の声は鬼教官のソレになる。
「フライパンを回して油を行き渡らせるんだ! やれー!」
「ヒー! 熱《あつ》い、熱いいいーまだバチバチいってるぅぅ!」
「おまえが悪いんだ! そら、卵を入れろ! そっとだぞ、そっとだ!」
「ギャー! また爆ぜたー! チクショー死ぬぅぅぅ!」
「死なねえ! 火は弱めたなー? そしたら蓋《ふた》を手にもつんだ、蓋を! そして水を少しだけ用意しろ! コップに入れてもう片手に持て!」
「ふ、蓋!? 蓋ってなんの蓋!? 水!? はあ? え、ええっと、ええええっと、ひ、火!? 火は……えええ!? み、水ぅ!? 火、火をなにっ!?」
「フライパンの蓋以外にこの場合なにが該当《がいとう》する? うおおおおおーい! 火をなにしやがったぁぁあーいっ!」
「うわあー! なんだこりゃー!」
メラリ……ッ! とコンロの炎は再び最大になる。その衝撃《しょうげき》で、炎を恐れる本能が大河の脳みそのシナプスを連結、火=危ない=消さなきゃ=水、そんな連想ゲームでチーン♪ と回答を出した。
「閃《ひらめ》いたあっ! ここで水かー!」
「ちげえぇぇぇぇ――――――――っ!」
叫ぶ竜児の目の前、あくまでも目玉焼きを蒸し焼きにするためにほんの少々必要だっただけの水が、コップになみなみと注がれ、そして思いっきり熱されて卵の自身もブクブクになった多めの油を湛《たた》えたフライパンの中に、
「わ――――――――――――――――っっっ!」
「うお――――――――――――――――っっっ!」
どぶっしゃあああ! とブチまけられる。上がる白煙、水気が爆ぜる凄《すさ》まじい音、しかもフライパンの側面には大河がうっかり油を垂らしていたらしく、その油を伝って最大出力の炎が水と油の地獄の中にメラメラと侵入、そして火柱が、
「ふぉおおおおおおおおっっっ!」
――蓋だ!
箸もロースも卵液の中に投げ出して、竜児はフライパンの蓋を、火柱ごと覆《おお》い潰《つぶ》すみたいにして被《かぶ》せていた。鉄蓋の内側に熱の飛沫《しぶき》がブチ当たる凄まじい音と感触、それでも蓋を決して手放さずにコンロの火を消し、酸素が燃《も》え尽きるのを待ってそのまま数十秒。
……数十秒が、経《た》って、そして。
「お……おい、高須《たかす》。逢坂《あいさか》。大丈夫か……?」
「……」
「……」
静まり返った台所。
気がつけば、北村《きたむら》が、心配そうに二人《ふたり》の背後に立っている。竜児《りゅうじ》と大河《たいが》は無言、呆然《ぼうぜん》と立ち尽し、見つめあい、そして、
「……うおおおおおお〜!」
「……うわあああああ〜!」
手に手を取って、そのまま膝《ひざ》から床に崩れ落ちる。おお……とその傍《かたわ》らに自らも膝をつき、心配げに二人の肩にそっと手をやり、北村《きたむら》は何度も頷《うむず》いてみせる。
「逢坂《あいさか》は目玉焼きが得意だな! うん、すごかった! イリュージョンのようだった! 炎がこう、ぶわっと天井《てんじょう》近くまで上がって……本当にすごかったぞ! 得意なんだな! よーくわかった! すごいすごい!」
「ふええ〜ふええー!」
「うおおおおお〜!」
パニックも極まった大河の悲鳴と恐怖のあまりの竜児の男泣きは、その後たっぷり五分ほど高須家《たかすけ》の台所に響《ひび》き渡り続けた。それでも大家は文句を言うべきではない。なぜなら、借家ごと全焼しかねないピンチを彼らは乗り切ったところなのだから。……原因ももちろん、彼らにあるのだが。
炊《た》きたてご飯にワカメと豆腐の味噌汁《みそしる》、サクサクジューシーなローストンカツ、ハリハリ山盛リキャベツの千切り、最近おきにの惣菜屋《そうざいや》で買って来た壺漬《つぼづ》け、そして、
「いやっ! ……なんか、こいつからすごい攻撃的《こうげきてき》なオーラを感じるわ……!」
「いやっ! じゃねえよ。おまえが作ったんだよ」
白身は茶色《ちゃいろ》に泡だってバリッバリ、黄身は粉っぽく完全|崩壊《ほうかい》した上こっちもバリッバリ、全体的に焦げたというか燃《も》え尽きたというべきか、生みの母のニワトリが見たら発狂しそうな代物《しろもの》が、むわっ……と炭の臭《にお》いの煙を上げつつ、高須家の食卓にいらん彩《いろどり》を添えていた。
北村が向かいに座っているというのに、もはや取《と》り繕《つくろ》うことも不可能。プー! と大河は頬《ほお》を膨《ふく》らまし、その皿を自分の手元に引き寄せる。
「……ええ、ええ、いいわよ。全部私が食べるもん、文句ないでしょ。さあ、ケチャをありったけかけるのだ! やれい!」
「無理すんな。ガンになるぞ、こんな焦げ焦げ全部食ったら。食えるところだけ食って、処分しちまおう、……もったいねえけど、病気になったらもっといろいろもったいねえからな。北村はこっちのことは気にせず、さあ、俺《おれ》が揚げたトンカツを食ってくれ。いただきまーす」
いただきまーす、と竜児《りゅうじ》に続き、どんよりと大河《たいが》、爽《さわ》やかに北村《きたむら》が唱和して、揃《そろ》って三人|箸《はし》を取る。そして、
「えっ! ちょっ!」
「お、おう?」
「……俺《おれ》のために、逢坂《あいさか》が張り切って作ってくれたんだろう? ありがとうな。せっかくだから、これは俺が全部頂くよ。まあ、得意料理だって、時には焦がすこともあるって」
目を丸くする放火魔二人《ほうかまふたり》の目の前。北村は素早《すばや》く炭化物質の載った皿を引き寄せ、事情はだいたい(もクソも……)わかっているのだろう苦笑とともに、卵三つ分のそいつを箸《はし》で割るなり、パクリ。と。
「き、北村くん……それはもういいよ! それ以上はいけない、病気になっちゃう! 本当は私、料理なんかぜんっぜん、したことないの! ごめんウソなの、得意料理なんて!」
「……うはは! 意外と食べてみると味はちゃんと目玉焼きだ! 固焼きの! うはは!」
美味《うま》いわけなんかない焦げ卵をパクパク続けて口に放り込み、北村は楽しそうに笑う。
「りゅ、竜児、大変……北村くん壊《こわ》れた……」
「しっかりしろ北村! 今胃薬を持ってくるからな!」
「いや、いやいや、大丈夫! ラッキーだな、と、本気で思ってるんだぞ。得意じゃなかったなら、ますますな。逢坂のレアな手料理を食うことができるなんて、ラッキーラッキー」
――かわいいじゃねえか。
と、竜児が思ったのは、もちろん金髪男の能天気な笑顔《えがお》についてではなく。
「……ぇへ……」
俯《うつむ》いて、耳朶《じだ》までほんわかと体温まで見えてしまいそうな桃色《ももいろ》に染め、目を糸にして笑った大河の件、だった。
「……ほ、ほんとに? 本当に、ちゃんと、食べられる? それ……」
「ああ、食える食える。塩コショウの加減など抜群にいいぞ」
「いやあ、塩とコショウは竜児がやったのよ……でも、でも、でも……えへへ……そっか。ちょっとだけ、自信、ついた。今度はちゃんと、嘘《うそ》じゃなくて……頑張ってみようかな。料理作るのなんて絶対一生無理かもって思ってたけど、ちゃんと真面目《まじめ》に、習おうかな。……うん、そうだよね。いつまでも頼りっぱなしではいるつもりはないし……」
「高須《たかす》が先生なら、聞違いなしだな。俺が保証する」
「えへへへへ……」
竜児は味噌汁《みそしる》をすすりつつ、なんだか幸せそうな二人を眺めて余計な声を発するのを控えてみる。不意に懐《なつ》かしく思い出すのは、強烈な塩味クッキー――いつか大河が調理《ちょうり》実習で作り、北村にあげようとして失敗し、結局竜児の腹に収まったあの失敗作。いや、そういえばそもそも、大河が北村に渡すはずだったラブレターを竜児が受け取ることになったのが、この妙な同居生活の始まりだったっけ。……ラブレターは、中身入れ忘れというとんでもない事態になっていたのだが。
そうか、と竜児《りゅうじ》は大河《たいが》の照れまくりMAXのふにゃふにゃ笑いを見て思う。大河が渡したかったものは、やっと、北村《きたむら》に届いたのだ。失敗作の目玉焼きは、初めてきちんとあるべき場所に――北村の胃袋に、収まった。
「家出なんかしてきた俺《おれ》のことを心配して、元気付けるために作ってくれたんだろう? ほんとに、サンキュ! な、出たぞ、元気!」
……ちょっとだけ、込めた想《おも》いの方向性は健康的にズレてしまった気もするが。しかし大河はさらに嬉《うれ》しげに微笑《ほほえ》み、北村も焦げ卵をなんと完食、ニコニコと笑ってそんな大河を見つめている。この二人《ふたり》にも、「これで今は十分」な境地――自分が実乃梨《みのり》に抱いたのと同じ、満足な境地が訪れたのならいい。
やっぱり、さっき考えたとおりだと思う。この一連の『北村の変』は、結果的にいいように働いている。あとは、そうだ。一体なにが金髪の原因だったかさえ分かれば、この事態は収束としていいのかもしれない。
「……トンカツも食えよ。俺のおまえへの愛情がこもったトンカツだぞ」
「ああもちろん! ソースソース! キャベツにレモンは?」
「うちはレモン汁はかけない派なんだ」
「よし! 郷に入っては郷に従い、朱に交われば赤くなろう!」
ソースを揚げたてトンカツにさらっとかけ、はじっこの脂の旨《うま》みが強い部分から口に放り込み、「……あちちち、おわー! うまいっ!」北村は嬉しげに声を上げる。大河もいつもよりは少しお上品目に、しかしもりもりメシを食らい始めている。そんな機《き》を見て、竜児はさりげなく問うてみる。
「味噌汁《みそしる》もちゃんと飲めよ。身体《からだ》にいいからな。でさ、北村、一体その頭の原因はなんだったんだよ?」
いやあ、と北村は一度言葉を切り、味噌汁を一口すする。そして、
「生徒会長に、なりたくなくて」
サラリ、と。それだけ。なにげなく。
「……そ、……そう、なのか」
「そうなんだよ。この頭なら、誰《だれ》も俺にそんなもん期待しなくなるだろ。親はこれ見てカンカンだけどな、当然」
大きな口でトンカツに改めてかじりつき、あちちうまうま! を繰り返す北村の目の前。竜児はちょっと息を飲む。
本当に?
生徒会長になりたくないから、だから、生徒会選挙の話が出て、教室から遁走《とんそう》して、北村が想像しうる範囲内《はんいない》での「グレた姿」になって現れたのか? それで親とも諍《いさか》いになって、家出してきたのか?
だが、そんなふうに問《と》い質《ただ》したくなるなんとも微妙な不安感は、
「えっへっへー! いいんじゃない、それで! 別に無理して、生徒会長にならなくたっていいと思うもの! 生徒会をやらなきゃいけないって決まりもないもの! ばかちーも、そんなようなこと言ってた!」
さらにご機嫌《きげん》極まって明るくテカる大河《たいが》の笑顔《えがお》の前、飲み込むしかなくなる。ゴクン……と、なんだか竜児《りゅうじ》の分のトンカツだけ、妙にパサついた感じがするのは気のせいだろうか。
***
「……ういいぇぇえええぇぇ……んぅぅぅぅうううぅぅぅ……たらいま……ぁぁぁ〜っげふ」
玄関のドアが開いた音で、目が覚めてしまった。
時計《とけい》を見ると、午前三時半。泰子《やすこ》が帰ってきたのだ。ハイヒールを投げ捨てるように脱ぐ音が玄関に響《ひび》き、フラフラながらも自力で歩いて部屋《へや》へ向かう足音がし、放っておいても大丈夫だろうと思う。もう一度布団にもぐりこもうとして、
「うんにゃぁぁぁあ〜……」
「……ぐえっ!」
泰子のではない女の悲鳴。竜児は飛び起きた。
ベッドから素足で下り、床に敷《し》いた布団で熟睡《じゅくすい》している北村《きたむら》の身体《からだ》を迂回《うかい》、部屋の隅を律儀《りちぎ》に回り込み、泰子の部屋へ向かう。電気をつけると、
「……ふにゃ〜……ふにゃ〜……ひぃっ……く……んあー」
「く、くるし……っ! お酒くさいいぃぃぃー!」
想像したとおりの出来事が起きていた。うっわあ……と寝起きの目を擦《こす》り、竜児はボリボリ頭を掻《か》く。
出かける前に、泰子が大河に言い置いたのだ。「せっかくお友達が泊まりに来てるんだからあ、大河ちゃんも今夜は泊まっていっていいょぉ〜☆ やっちゃんのお部屋にお布団敷いて寝たらいいし〜☆」と。だからお言葉に甘え、泰子の布団の隣《となり》にもう一組客用布団を敷き、大河はそこに泊まっていたのだが。
「ぼさーっと見てないで早く助けろってば! ううう、匂《にお》いだけで酔っ払うぅ……!」
「お、おう!」
酔っ払ってグデングデン状態の泰子は、きちんと敷いてある自分の布団はあえて無視、ダボダボサイズの竜児のパーカーとスエットを借りて寝ていた大河の布団にダイブを決めてくれたらしい。嗅《か》ぐだけで頭が痺《しび》れそうなほどに濃厚《のうこう》な酒の匂いの息を吐きつつ、掛け布団ごと大河をがっちり抱き込んで転がっている。小さな頭を抱きしめて、「んっふー……」と頬擦《ほおず》り、もがく大河《たいが》は布団蒸し&酒蒸し状態。
酔っ払いゆえのバカ力で大河を締《し》め上げる腕をなんとか解《ほど》き、黒いレースから真っ白な尻《しり》が半分以上ははみ出してしまっているパンツも丸見せの下半身も解き、大河はようよう布団から這《は》い出してくる。泰子《やすこ》はそのままベローン、とだらしなく薄《うす》着の身体《からだ》を伸ばし、
「……おみゆ〜……りゅ〜にゃあん……おみゆぅんらしゃあい……にゅめらいのぉ……」
ぽりぽり。と、たゆんと溢《あふ》れた柔らかそうな胸の谷間を長い爪《つめ》で掻《か》く。実母のそんなモンを見てハラハラするほどマニアックな趣味《しゅみ》でもない息子《むすこ》は、ただ、
「……ったく! だらしねぇんだから……」
呆《あき》れ果ててファーア、とでかいあくびを一発。寝るとき専用のお下げ髪もぐちゃぐちゃに乱し、伝染したのか大河も大口をあけて続けてあくび、
「も〜……目、覚めちゃったよ〜ぉぉぉぉ……っふ」
長すぎて余っているパーカーの袖口《そでぐち》を、パクン、と子供みたいに噛《か》み締める。
「で、やっちゃん、なんて言ってるの……? 解読できる?」
「『お水ー、竜《りゅう》ちゃん、お水くださーい、冷たいのを』、だろ」
「……さっすが親子……。私もお水のも、水出し麦茶冷えてるよね」
「おう。寝る前に作っといてよかった」
さぶさぶ、と二人《ふたり》して足音を殺し、泰子の部屋《へや》の電気だけを頼りに台所へ向かう。大河がグラスを出し、そして竜児《りゅうじ》が冷蔵庫を覗《のぞ》き、
「……あれ? 麦茶がねぇ……っていうか、瓶ごとねぇ……」
「……あ! これ!」
大河が発見したのは、空になったままシンクに放置されたガラスの瓶。湿った麦茶パックだけが底にへばりついている。この場合、犯人は当然、
「……北村《きたむら》の野郎……俺《おれ》たちが寝ている聞に起きてきて飲み干したな。……ったく、水足しといてくれりゃもうワンラップいけるのに……これだから親がかりでヌクヌク暮らしてる野郎は……あーあ、氷まで全部使ってんじゃねえか。なんで冷蔵庫で冷えてるモン飲むのに、氷使うんだあ? しっかも作ってねぇじゃねぇかよ……」
カラの製氷皿に思わずため息。そうこうしている間にも、泰子の「おみゆぅんらしゃあい」は続いている。浄水器のBRITAに水は満たされているが、常温の水で酔っ払いが満足してくれるとは思えない。
「……しょうがねえ。ちょっとコンビニまでひとっ走り行ってくる。自販機《じはんき》より近いからな。おまえ、なんかついでに欲しいもんあるか?」
「ヨーグルト! あ、いや、プリン! いや、シュークリーム! ……エクレア? 甘いコーヒー? アイス……? うわーどうしよう、すっごい迷う……」
「……一緒に来い」
財布と家のカギだけをスエットのポケットに押し込み、竜児《りゅうじ》と大河《たいが》は足音を殺してサンダル(大河は泰子《やすこ》のを拝借)をつっかけ、そのまま静かに家を出ようとし、
「なんか、こんな時間に外に出るなんてワクワクする……おっと、そうだそうだ。北村《きたむら》くんも誘ってみようよ」
「寝てるんじゃねえか?」
「一応声だけかけよ」
頷《うなず》きあい、二人《ふたり》して竜児の部屋《へや》に戻る。
「うっ! ……なんかこの部屋、男くさっ……」
「うるせえ」
デスクライトだけをつけ、布団を口元まで引き上げて寝息を立てている北村の枕元《まくらもと》にしゃがみこむ。大河は袖口《そでぐち》を噛《か》んで嬉《うれ》しそうにニヤケ笑い、
「……フヒヒ……北村くんの、寝顔……」
「……目的が摩《す》り替わってるぞ、エロ女……」
テレビでやっていた寝起きドッキリよろしく、こっそりかけ布団を剥《は》いだ。実乃梨《みのり》がここにいないのが惜しい。絶対にハンドマイク&ヘルメット装備で「おはよーございます……っ!」をやってくれたはずだ。竜児が剥いだ布団の中から、眼鏡《めがね》を外し、深い寝息を立てて眠り込んでいる北村の寝ていてさえ端正に整《ととの》った顔が、現れる。
そして。
――竜児は、そして大河は、麦茶の瓶がからっぽになっていた理由を知った。氷が消えていたわけも知った。言葉一つ、息一つ、立てられくなって黙《だま》り込んだ。
枕元にボソリと置かれて……いや、眠り込んだその手から落ちて畳を湿らせてしまっているのは、溶けかけの氷水で満たされたビニール袋。おそらくは一時間以上前に、どうにかなった目元を誰《だれ》にも悟られまいと奮闘《ふんとう》した後、だったのだろう。麦茶は、出した水分の補給のために。
北村は、泣いていた。
竜児が枕に敷《し》いてやったタオルは、見て分かるほどに濡《ぬ》れていた。目元にも、頬《ほお》にも、今も涙の跡《あと》が残っていた。タオルを口元に押し付け、はじっこを噛み締《し》め、北村は多分《たぶん》少し前……竜児も大河も眠りこけていた真夜中に、声を漏らさないように、誰にもわからないように、ただ涙を滂沱《ぼうだ》と流して泣いていたのだった。
夜明け前の街に、二人《ふたり》分の足音だけが響《ひび》き渡った。
「……危ねえから。
「……」
「離《はな》れるな」
竜児《りゅうじ》の少し後を、大河《たいが》はサンダルを引きずるようにして歩いていた。のろのろと、己《おのれ》の吐いた白い息にも追いつけない速度で。
本当の冬にはまだ間があると思っていたが、こんな真夜中には、やはり空気はキン、と冷えて凍《こご》える。誰《だれ》もいない街並み。野良猫《のらねこ》さえも横切らない裏道。明かりのついた窓は一つもない、二人《ふたり》を置き去りに寝静まった住宅街。その、静けさ。
「……大河……」
俯《うつむ》いたまま、今にも立ち止まってしまいそうな大河の名を呼ぶ。寝癖《ねぐせ》がついてくしゃくしゃになった長い髪が頬《ほお》を隠すように垂れ、白い面《おもて》に浮かぶ表情は見ることができない。
竜児は数歩分戻り、貸してやったパーカーの、長すぎてほとんど垂れている袖《そで》の部分を掴《つか》んでやる。大河はそれを振りほどくこともせず、
「私さ」
ついに、立ち止まった。
「……私。なにを、喜んだり、してたんだろうね。はしゃいだりしてさ……ばか、だね」
つむじだけを見せたまま、大河の肩が、そして声が、寒さのせいではなしに震《ふる》えた。己の愚かさを悔やむ声は、静かな夜にひそやかに流れる。
「なんにもわからずにいたの。気づかずにいたの。北村《きたむら》くんが苦しいのや悲しいのや……なんにも、気づくこと、できなかった。……だめだ。……私、やっぱ……だめ。……だめだ……」
「……おまえは、だめなんかじゃ」
「だめよ……!」
歩けなくなったサンダルの爪先《つまさき》、多分《たぶん》寒さに凍えて軋《きし》むみたいに痛むはずの素足の先に、ポタリと水滴が落ちる。竜児はそれを、見る。父親に見捨てられても零《こぼ》れなかった雫が、今、溢《あふ》れ出したのだと思う。
この小さな大河の上に、今日《きょう》まで悲しみは雨のように降り注いだ。それでも大河の心は、タフな土みたいに水分を抱き続けて育っていった。そしてついに、限界を超えて、孕《はら》んだ水分が染み出したのだ。静かに、少しずつ。涙はアスファルトに、透ける円形の跡を重ねていく。
「……こんなんじゃ、だめなのよ……っ……」
夜明け前の街に、こらえきれない鳴咽《おえつ》が響《ひび》いた。竜児は中身の入っていない袖をただ掴み、立《た》ち辣《すく》んだまま、白いつむじを見つめ続けた。歩き出すことができないでいるのは、竜児だって同じなのだ。
竜児が掴んでいない方の袖が、俯《うつむ》いたままの顔をついに覆《おお》う。強く擦《こす》り、声を殺し、大河は身をよじって苦しがる。おまえがだめなら俺《おれ》だってだめだ――ほとんど呆然《ぼうぜん》と、竜児は慰《なぐさ》める術《すべ》さえ持たず、大河の片手のパーカーの袖を掴み続ける。
そういえば亜美《あみ》が言っていたっけ。頭を金色《きんいろ》に染めた北村を指して、『そういう奴《やつ》は声を上げて泣きゃ、それだけで誰かが救ってくれるんだ』と。その通りだと竜児は思う。北村はおかしくて、真面目《まじめ》で、誠実で、やさしくて――ひとに愛される資質をたくさん持ったいい奴《やつ》だ。「そういう奴」だから、北村《きたむら》のことが好きな自分や、そして大河《たいが》は、北村が泣いていれば救ってやりたいと思うのだ。どんなことをしたって、助けたいと思う。それは亜美《あみ》の言うとおりだった。それこそが北村の甘えであると責める正しい亜美を、否定する材料は一つもない。甘やかしたいのは、愛情ゆえで。愛されている自覚があってそれを頼りに北村が泣いているとしても、救いたいと思う気持ちになんら変わることはない。
ただ――泣いているのに、気がつくことのできないバカどもはどうすればいい?
助けたくても、甘やかしたくても、泣いている声を聞くこともできないグズどもは?『最後の救い』になれない、役立たずのガキどもは?
ブルッ、と震《ふる》えて……最後の、一線《いっせん》。
危ういところで、竜児《りゅうじ》は顔を上げた。いまだ夜明け遠い、暗黒の空を見上げる。大河のかすかな泣き声に呼応《こおう》するみたいに、空気の汚れた街中で見つけた冬の星座は申し訳程度、ポツリポツリと瞬《またた》いている。
「……大河。北斗《ほくと》、七星《しろせい》。あれがポーラ。――オリオン」
見上げてごらん……、そんな歌もあったっけ。竜児は口笛でワンフレーズだけメロディをたどり、そして掴《つか》んでいたパーカーの袖《そで》の中に手を差し入れた。冷えた大河の、指を掴んだ。
驚《おどろ》いたみたいに、大河は顔をようやくあげた。真《ま》っ赤《か》な鼻、捷毛《まつげ》は濡《ぬ》れて、街灯に照らされたせっかくの美貌《びぼう》はぐちゃぐちゃだ。だけど今はからかわず、竜児《りゅうじ》はただ夜空を指差した。上を向いていれば、涙は零《こぼ》れない。
タフな大河《たいが》は、また歩き出せる。
時には涙も零れるけれど、それでも大丈夫。
竜児はちゃんと、知っている。いくつもの季節と、いくつもの朝と夜と、いくつもの大笑いを、大騒《おおさわ》ぎを、そして悲しみを、それでも挫《くじ》けずに今日《きょう》もある大河を、ずっと傍《かたわ》らで見てきたからわかっている。信じている。
「……どれ? どれが、オリオン座?」
鼻を鳴らしながら大河が訊《たず》ねる声に、重ねるみたいに答えた。
「三つ並んでる星、あるだろ」
「……ああ? わかった。……あった」
凍《こご》える空を見上げ、大河の指が、竜児の指を握り返した。力を込めて、ぎゅっと。顔はまだ涙に汚れていても、大河の心にはもうちゃんと力が戻ってきていると知る、ただ歩き出すまではもう少し時間は必要で、
「……小学校の授業でさ、星の距離《きょり》のこと、習ったじゃない」
「ああ。何光年、とかそういうのな」
「あれって、光が届くまで何年かかるか、ってことでしょ。今見てるオリオン座とか、北極星《ほっきょくせい》とかさ、本当はもう星は堕ちて、なくなってるかもしれないよね。……今、爆発して、あの星が消えても、それを知るのは何万年も先だもの。今見ている、あると信じているあのは……本当はもう、どこにもないのかもしれない」
握りあう指を、確《たし》かめるみたいに大河はもっと強く力を込める。強い力をもたなくちゃ、そうでなくちゃだめなの、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと! もっと強くならなくてはいけないの! ――そう叫ぶみたいに、痛いぐらいに。
「まるで、私と北村《きたむら》くんみたい。目で見えていることは、本当なんかじゃない。……見えない真実を知るには、一体あと何年、何万年、必要なの。……どれだけ離《はな》れてるの。私と北村くんの距離は」
「その距離を、縮《ちぢ》めたいって、思うんだろ。好きだから。だから、あいつのことを、わかりたいって思うんだろ」
「……うん」
頷《うなず》かないで、大河は夜空を見上げたままで答える。傍らで、離れずに、竜児も同じ星を見上げて囁《ささや》く。
「……同じだ、きっと、人間はみんな。みんな誰《だれ》かとの遠さにびびって、でも好きになったら距離を縮めたいと願《ねが》って、そうやってお互いに手を伸ばすみたいにして……」
そう。今の自分たちのようにして。かすかな心の動きも見逃さないように、肌を触れあわせて。喜びも悲しみも、ありうる限りの感情を、一緒に感じようとして。
「……そうやって、心を通わすしかねえんだ。頑張ろう。……頑張って、やっていこう」
怖いよ、と呟《つぶや》いた少女のことを思い出す。
声を出さずに泣いていた少年のことも思い出す。
そして、別の相手を想《おも》いながら、今だけは指先を繋《つな》ぐ大河《たいが》のことを思う。
わかりあうことなんて、奇跡みたいなものなのだ。人と人がわかりあい。まして愛しあうなんて、奇跡みたいに難《むずか》しくて有難《ありがた》いことなのだ。世界中のカップルや、友や、火婦や、親子や、兄弟や――すべての奇跡を思って、竜児《りゅうじ》は静かに目を閉じる。それはあまりにも難しく、だけど得がたいがゆえに、多分《たぶん》、素晴《すば》らしい。
コンビニへ向かって再び歩き出せるまで、あと、百秒。
朝が来るまで、一万秒。
4
「……?」
夢の続き――小学校に行かなければいけないのに、自転車を漕《こ》いでも漕いでも道を間違えたりしてどうしてもたどり着けない。そんな絶望感は、カーテンの隙間《すきま》からほんのわずかに差し込む淡い光の中で幻みたいに溶けていく。
そうだった。自分はもう高校生だった。小学校には行かなくていいのだ。
朝だ。
「……おはよう、高須《たかす》」
「お」
竜児はのっそりと首を伸ばし、枕元《まくらもと》の時計《とけい》を見る。見ようとして、しかし、あるはずの場所に見慣《みな》れたボロ時計はなく、これでは時間がわからない……と、
「……う!?」
跳ね起きた。
景色《けしき》は見慣れた自室ではなく、板張りの台所に続く狭い居間。
「冷蔵庫にあった牛乳、勝手に飲んじゃった。悪い」
貸してやった長袖《ながそで》Tシャツとジャージズボンで、牛乳臭い息を吐く金髪男が保護中《ほこちゅう》の家出少年・北村《きたむら》であるということを思い出すまでにたっぷり三秒。そうだったそうだった――やっとすべてを思い出し、ねぼけ眼《まなこ》を擦《こす》り、
「ずるいなあ、おまえたち二人《ふたり》だけで随分盛り上がったんだろ、この様子《ようす》からして。俺《おれ》も参加したかったぞ、起こしてくれればよかったのに」
不満げに口を尖《とが》らせてみせる北村《きたむら》のツラを思わずじっと眺めてしまう。
「……な、なんだよ?」
「いやあ……別に。おはよう……」
だっておまえ泣いてたからさあ。……とは、さすがに言えるものではなかった。何事もなかったかのように、北村の顔は憎たらしいほどさっぱりしている。ならばここは気づかないフリを通すのが男の道ってものだろう。頭を掻《か》きながら現実世界にゆるりと着地、覚醒度《かくせいど》が高まって状況を理解していくにつれ、竜児《りゅうじ》の眉間《みけん》にはずっぷりと深い皺《しわ》が寄っていく。
――我ながら、これはとんでもない失態だ。
最後の記憶《きおく》は、チーズと鱈《たら》部分を三枚に分けて「あーん」と鱈部分を舌に巻きつけるようにして食べる大河《たいが》の姿。うわあ、変な女……とその手つき顔つきを眺めているうちに、ちゃぶ台の脇《わき》に転がって眠り込んでしまったらしい。
座布団を枕《まくら》にして寝ていた身体《からだ》は芯《しん》まで冷えてあちこち痛むし、ちゃぶ台の惨状はあまりにも不覚、情けなくて涙さえ滲《にじ》みかける。コンビニで買い込んできてヤケっぱちのように食いまくったカップラーメンやらおでんやらペットボトルやらシュークリームやらヨーグルトやらのゴミが、使いまくった割《わ》り箸《ばし》とともに臭《にお》いをプンプンさせながら出っ放しになっているのだ。ひぃ、割り箸……! 今更|慄《おのの》いてももう遅い、また熱帯雨林《ねったいうりん》が一つ、消えた……!
「くっそお! こんなだらしないザマを晒《さら》すとは……俺は自分が情けねぇ!」
「こんなの普通普通、元気出せって。俺の部屋《へや》なんていつもだいたいこんなモンだぞ。兄貴が友達連れてきて麻雀《マージャン》大会なんてやろうもんなら、家中リビングからなにから吸殻とコンビニゴミで汚染されて」
キー! と竜児は高周波を発しながら首をブンブン振り、悶絶《もんぜつ》。
「そういう問題じゃねえ! たとえ地球上のすべての家庭がこんなだらしなさを時には許容するとしても、ウチだけは、俺だけは、こんなこと、絶対に許せねえんだ! ……本当は、地球上のどの家庭にも、こんなことは許したくねぇんだよ!」
「そ、そうか! すまん!」
「いーや! 謝《あやま》るな! 今現実にだらしないのはここ、俺の家だ! よし、これから三十秒以内にすべてを始末することができなければ、頼む、おまえが俺を殺してくれ! そうでなければ俺は地球に合わす顔が、おう!」
「……んーぅ……」
勢いをつけて起き上がろうとして、足の上に重いものがズシリとのしかかっていることに気がつく。というか、冷え切った足先の感覚は完全になくなっていた。大の字になって寝ていたエコ野郎・竜児の足を枕に、なおも太平楽に寝コケているのは、大河。その頭の重みによって血流は遮断《しゃだん》され、痺《しび》れたどころの話ではない。竜児《りゅうじ》が落ちるのとほぼ同時に、大河《たいが》も意識《いしき》を手放したのだろう。……手にはチーズ鱈《たら》がまだ握られているが。
いや、足が痺れているとか、どうしてこうなったかとか、この場合は二の次だ。片想《かたおも》いの相手の前で、他《ほか》の男の足を枕《まくら》に眠りこける姿など乙女《おとめ》が見せていいわけがない。大河が乙女かどうかは、今は議論《ぎろん》を避けておくとしても。竜児は慌ててその頭を掴《つか》み、
「た、大河! 起きろ、だらしねぇ!」
グラングランと揺すぶってやる。怒られようが噛《か》まれようが、これが大河のためなのだ。しかし、
「よせよせ、せっかくこんなに気持ちよさそうに寝てるのに、かわいそうじゃないか」
北村《きたむら》は事情も知らずに自分だけいいこヅラ、竜児の手を止め、大河の頭をそっと抱え、折り畳んだ座布団枕の上に移してやる。大河は幸せそうに「んにゃ〜」と一声捻り、ぐね〜、と猫のように身体《からだ》をCの字型に伸ばす。再び健《すこ》やかに寝息を立て始める。
「ほら、幸せそうな寝顔して……ほんっと、かわいい顔してるよなあ。睫毛《まつげ》、すっごく長い」
「……起きてるときに本人に言ってやれ」
「恥ずかしいしセクハラ寸前だ、そんなの。しかしいい眠りっぷり、この平和なオーラ……見ているだけで癒《いや》される……」
穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》んで大河の寝顔を見下ろす北村に、竜児はなにも言えなくなる。お互い様か、と胸の中で一言だけ。
大河が、そして竜児が北村の苦悩に気づけなかったのと同じに、北村もまた、大河の抱えた複雑すぎる心境と真摯《しんし》がゆえにこんがらがった不器用な恋心に思い至ることはできないのだ。誰《だれ》だってそう。きっとみんな、そうなのだ。――みんなそうだからといって慰《なぐさ》めになるわけでも、解決になるわけでも、痛みが軽減されるわけでもないが。
ポキ、と凝《こ》ってしまった肩を鳴らし、
「……今何時だ? げ、もう十一時回ってんのかよ」
時計《とけい》を見てちょっと驚《おどろ》く。せいぜい九時かそこらかと思っていたのに、貴重な土曜日《どようび》の午前中がこれで潰《つぶ》れてしまった。
「俺《おれ》もついさっき起きたところだ。寝坊しちゃったな。おっと、そういえば……うりゃー! 地獄車!」
「うおおお!?」
突然、北村のソフトボールで鍛《きた》えられた腕力で身体を抱え込まれ、がっちりと手足をロックされ、竜児はそのまま荒っぽく転がされて台所の板の間に頭を打ち付ける。あまりのことに伸びたまま、正当な文句をつけることも忘れてしばし無言で考え込む。一体これは――起きたそばからこの暴力、この仕打ち、そしてなんというテンション……とても夜中に一人、ひっそり涙を流していた奴《やつ》とは思えない。おかげで昨夜《ゆうべ》から引き続いていたアンニュイ気分も一気にかき消えた。
「ななにすんだ!?」
「え? 三十秒たったから死刑を執行してやったんだが。おや、まだ息があるな」
「やめろやめろバカ! 冗談《じょうだん》に決まってんだろうが!」
「伊達《だて》や酔狂《すいきょう》でこっちも死刑執行しているわけではない! そら!! いくぞ、ジャイアントスイング!」
「ぬおお……っ!?」
「頭を抱えてろ、危険だから!」
ならするなー……いまだ身体《から畑》は寝起き状態、反射の鈍い足はあっさり捕らえられ、ブン回されかけて竜児《りゅうじ》は慌てて口をつぐむ。言われたとおりに頭を抱え、やるならとっとと終わってくれ、ただそれだけを祈りながら無駄《むだ》な抵抗を諦《あきら》める。なぜこんなことに……ああ、環境《かんきょう》を破壊《はかい》したせいか。愚かなる人類を代表して、宇庸船地球号の救難《きゅうなん》信号を痛みとしてこの身に受けよう……聖なるサクリファイスな気分、うっとり目を閉じたところでしかし、想定外の方向に竜児の身体はすっ飛び、
「ぅおおぉぉ!?」
泰子《やすこ》の部屋《へや》と居間を隔てる襖《ふすま》にブチ当たる。視界の端、「だー!」とか叫びながら北村《きたむら》の身体が真横にぶっ飛ばされ、そのまま綺麗《きれい》にゴロゴロと転がっていくのが見える。
ソレは――
「……ウ……ウ……」
――平和に眠りこけていたはずのそいつは、今。
片想《かたおも》いの相手を躊躇《ちゅうちょ》なしの片手|掌底《しょうてい》でぶっ飛ばし、彼がジャイアントスイングの刑に処そうとしていた罪人をすっ転がし、そこに一人《ひこり》、立っていた。
乱れた淡色の髪が呼吸に合わせてフワフワと揺れる。寝る前に泣いたのと、塩気を取りすぎたせいでもったり腫《は》れた二重目蓋《ふたえまぶた》の下、両眼は不吉すぎる血色に光る。グラグラ揺れる身体は、これが寝ぼけゆえの暴虐《ぼうぎゃく》だと知らしめている。
声も出ずに震《ふる》え慄《おのの》く男子|二人《ふたり》の姿も、ろくろく目に入っちゃいないのだろう。半分寝たまま二足歩行を許された獣《けもの》の姿勢で仁王立《におうだ》ち、理性など生まれたときからなかったみたいにかっぴらいた瞳孔《どうこう》をギラギラ光らせ、ぐいっと天を仰ぎ、あるはずのない月を見上げる。そして目には見えない顎部拘束具《がくぶこうそくぐ》をバッキン! とブチ壊《こわ》してリアルな歯茎を剥《む》き出し、鱈《たら》を絡めた指を猛々《たけだけ》しくも力ませて、獣みたいに大きく吼えた。
「ウぅぅるサァああぁぁぁ―――――――いぃぃぃぃぃぃいいいいい……!」
――これがいわゆる汎用《はんよう》人型決戦兵……いや、手乗りタイガーである。
「……くっ……ついに目覚めてしまったか……!」
荒ぶる寝ぼけ娘を前に、北村は立て膝《ひざ》、眩《まば》ゆげに手をかざして目を眇《すが》めてみせる。ちなみに眩《まぶ》しいモノなんぞここには一つもない。日当たりは大河《たいが》のマンションのせいで最悪、しょぼい照明さえつけていないのだから。そんなノリノリの北村《きたむら》はとりあえず放置、
「大河……大河。こっちに来るんだ。さあ……」
「……ウ……?」
「ほら……おまえの好物があるぞ。よく冷えている……ブルーベリー味……」
「……ウ、ウゥ……」
台所まで這《は》い進んだ竜児《りゅうじ》は、冷蔵庫を開けて荒ぶる寝ぼけタイガーに中身を示してみせる。取り出したるは、昨夜《ゆうべ》というか今朝《けさ》の道行きでコンビニで買い、消費されずに生き残った明治《めいじ》ブルガリアヨーグルトドリンク。ふら……ふら……と、大河はよろめきつつ、しかし確《たし》かに竜児のもとへと歩み寄っていく。目の焦点はただ一点、冷え冷えのドリンクパックに。
「さあ、飲め。全部飲んでいいんだ、おまえのだからな」
「……ウ……ううう……? ……う!」
小さな手がしっか! とそいつを掴《つか》んだ。ストローをズボッと差込口に突き入れる。おちょぽ口で強欲に吸い付き、ズチュゥ〜! っと中身を吸い上げていく。ゴクゴクその喉《のど》が鳴るたびに瞳《ひとみ》には人間らしい理性の光が灯《とも》っていき、
「……っあ〜! うまかった! おかわり!」
ついに人語を話した。
「もうねえよ」
「えー!? ケチ! じゃあ牛乳ちょーだい!」
「ごめんな逢坂《あいさか》、俺《おれ》がさっき全部飲んでしまったんだ」
「はあー!? ちょっとあんたなんの権利があって私の乳製品をキャー!」
をきゃー、じゃねえ。呆《あき》れる竜児の目の前、大河はようやく覚醒《かくせい》しきって状況を理解、
「ききき北村くん!? ……うわー! いやー! ぎゃあー! ま、まさか、まさか、みっともない寝顔、見られちゃったの私!?」
今頃《いまごろ》慌てて口の周りを袖口《そでぐち》でゴシゴシ擦《こず》りまくる……竜児のパーカーの、袖口で。
「悪い、見てしまった。でも逢坂が悪いんだぞー、こんなところで眠っているから」
「いっやーどうしよう竜児!? 私恥ずかしくて死のかもしれないぃー! 寝顔見られるなんて、寝顔見られるなんて、寝顔見られるなんてー!!」
「……寝顔っていうかおまえ北村に掌底《しょうてい》……まあいいや……」
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだ、こんなのやだー!」
照れまくり、片想《かたおも》いの相手に寝顔を見られた上に渾身《こんしん》の掌底まで食らわせてしまった大河は竜児の背中にいまさら隠れる。恥ずかしいだのみっともないだのさらに騒《さわ》ぎつつ、地団太《じだんだ》を踏み、ドタバタ暴《あば》れ、
「やだもう最悪、最悪ー! 髪だってこんなぐしゃぐしゃなのにやだー!」
ウギャー! となおも叫びながら、泰子《やすこ》の部屋《へや》へ飛び込んだ。ピシャッと乱暴《らんぼう》に襖《ふすま》を閉め、おそらく寝ている泰子の隣《となり》、空いた布団に飛び込んだのだろう。そうやってせいぜい己《おのれ》のドジっぷりを恥じるがいい。
「大騒《おおさわ》ぎして……ばっかだな、あいつ」
「いやあ、スコーンと抜けるいい掌底《しょうてい》だった。おかげで頭がスッキリしたぞ」
揃《そろ》って腕組みポーズ、仲良くうんうんと頷《うなず》きあう男|二人《ふたり》の目の前に、しかしそのとき最大の衝撃《しょうげき》が訪れる。
「……おう!?」
「う……っ」
襖が開き、ゆらり……と現れたその人物は、シルエットだけでいえば、クロネコヤマトかぺリカンか、佐川《さがわ》のお兄《にい》さんにそっくりだった。片腕にしっかりと抱えた荷物は、しかし、お届け物ではなくて大河《たいが》。寝乱れて斜め上方向に爆発《ばくはつ》した、巻き髪のハーフアップ。寝汗と油でドロドロに溶けたマスカラのせいで目の下は真っ黒、眉毛《まゆげ》は麻呂《まろ》、剥《は》げたファンデーションはテカテカにテカリ、しかし肌自体は乾燥《かんそう》しきって目の下、口の脇《わき》、額《ひたい》、鼻筋、ところどころに皺《しわ》を刻んでカサカサと縮緬状《ちりめんじょう》になっている。寒かったのか黒レースのキャミソールの上に竜児《りゅうじ》の中学時代のジャージを着込み、しかしキャミソールの裾《すそ》の下からベロン、と、ホックが外れたブラジャーが垂れ下がっている。下半身はかろうじてミニスカートをはいたまま、しかし真正面に半分下りたファスナーがきていて、そこからドピンクのパンツが気安くコンニチワーしている。
驚愕《きようがく》の、実母であった。
「……」
どてっ、と大河を床に放り、泰子は無言。半眼のままで枕元《まくらもと》に放ってあったシャネルバッグを手繰《たぐ》り寄せ、黄色《きいろ》の金運風水財布を開き、
「……」
千円札を、三枚。三人の子供たちにそれぞれ一枚ずつ押し付け、
「……」
ごくシンプルに、立てた親指を玄関へ向かってクイ、と振った。
襖の向こうに再び消えていった二日酔いの大黒柱の睡眠の邪魔《じゃま》をしないよう、音を立てずに竜児はコソコソと泥棒《どろぼう》よろしく後片付けをし、北村《きたむら》はチョロチョロとわずかな水流でシャワーを浴び、大河は足音を殺してシャワーと着替えをしに一旦《いったん》マンションへ戻る。
さて。予算一人千円で、できるだけ長く家を空けられることといったら。
***
「申し訳ございませーん、ただいま混み合っておりますので個別会計の方はお断りさせていただいておりますー! イタリアンハンバーグとライスドリンクセット、きのこ雑炊《ぞうすい》とドリンクバー単品、単品でアボカドサラダ、かぼちゃとさつまいものシフォンケーキ、濃厚《のうこう》ショコラケーキ、以上、合計いたしましてお会計の方、三千と三百十三円になります! 一万円からお預かりいたします! 一万円入りまーす! 確認《かくにん》おねがいしまーす! うぇーい! お先、大きい方、五千と、六千円のむ返しになります! おあと六百と、八十七円のお返しになります! お確《たし》かめください、こちらレシートになります! ありがとうございましたまたお越しくださいませ! いらっしゃいませー! ただいま喫煙席の方満席となっておりまして、禁煙席でしたら窓際のお席にご案内させていただだだだぅぇええーい! なんだコラおまえらー!」
「遅いよ、みのりん……」
「ぜんっ、ぜん、気づかねえもんな」
「ていうか、『なんとかの方』ってなんなんだ? いつも気になるんだよな、そこ」
泰子《やすこ》の邪魔《じやま》をしないように外で朝食兼ランチを取ろうと、シャワーも浴びてさっぱり着替えた三人が向かったのは、実乃梨《みのり》が勤労中のいつもおなじみのファミレスだった。
「いやあランチ時だもんで、人間としての実乃梨《みのり》のスイッチはオフ、ウェイトレスマシーンとしての機能《きのう》だけでクールに徹《てっ》しているのさ〜って、北村《きたむら》くんー!? ちょっとちょっと、なに普通の顔して現れてんの!? 心配してたんだよずっと!? もーなんだその頭はー!」
「悪い。今、いろいろあって高須家《たかすけ》に家出中なんだ」
「そりゃいろいろあるだろうよ!? ったくもー、元気そうじゃん! よし、ちょっと安心!」
「心配かけたな」
金髪頭を申し訳なさそうに掻《か》いてみせる北村は、竜児《りゅうじ》のパーカーとスエットを借りて、いつもの黒髪ぼっちゃん刈り×全身ユニクロカジュアル丸出しよりは多少ラフな雰囲気に見える。大河《たいが》はといえば結構に気合満点、
「みのりん、バイトまだ終わらないの? お昼食べながら待ってるから、一緒にどっか遊びにいこ!」
フワフワのウサギみたいな真っ白なカーディガンを花柄ピンクのフリルワンピースに重ね、アンダースカートのレースも通常の倍のボリューム。みっともない寝姿を挽回《ばんかい》しようとでも思っているのか、淡いべージュピンクのリップまで唇に塗ってかわいこぶっている。鼻の穴には刺さらなかったようでなによりだ。ジップアップのパーカーとデニムであまりにもいつもどおりの竜児は、えーとねー、と首を傾《かし》げるポニーテールのウェイトレスバージョンみのりんを己《おのれ》の眼光で禍々《まがまが》しくも隅々までライトアップ。
「あ、だめだ。今日《きょう》のシフトは十一時から八時までびっしりだった。残念だけど、俺《おれ》のことは置いていってくれたまえ。こちらのお席にどうぞ〜」
「えー! なんだあ、ほんとに残念……」
俺も残念……先導《せんどう》してくれる実乃梨の細いうなじを眺めつつ、竜児はひそかに肩を落とす。
「私の代わりといっちゃなんだけど、よかったら隣《となり》の席の彼女、誘ってやんなよ」
窓際のテーブルに案内されつつ、三人は実乃梨が指差す方向を見た。そして一斉に目を見開く。
お一人《ひとり》様用禁煙席に一人で陣取り、彼女は白いイヤホンで外界の音をシャットアウト、片手でクリクリとiPodを弄《いじ》りつつ、片手でパスタをグリグリ巻き取っていた。咲き誇る華みたいに輝《かがや》く美貌《びぽう》は退屈そうに無表情、あちこちから注がれる熱《あつ》い視線《しせん》を完全シカトで物ともせず、ノーメイクにタートルセーター、デニム、ヒールなしのバレエシューズと本物美人以外がやったら地味ババ路線まっしぐらのスタイルを、八頭身モデルの気迫でパーフェクトな休日スタイルに仕上げてみせる。彼女がそこに座っているだけで街のファミレスはパリのカフェに、他《ほか》の客のツラなど全《すべ》てへのへのもへじと成り果てて霞《かす》む。
そんな素敵《すてき》な彼女――川嶋亜美《かわしまあみ》の土曜日《どようび》の一人ランチっぷりに、大河の唇が根性悪く歪《ゆが》む。
「あらあらあら、誰《だれ》かと思ったらばかちーじゃないの。なんだか惨《みじ》めねえ、せっかくの土曜日に一人ぼっちで麺《めん》なんか食っちゃって」
さっそくケンカ売りモード、しかし亜美《あみ》は音楽に夢中で大河《たいが》の言葉に気づかない。サラダを口に運びつつ、バレエシューズの足先でリズムを取るみたいに動かしてそっぽを向いたままでいる。
「あれ、聞こえてないか? おーい、ばかちー! 休みだってのにお仕事もなく、一人《ひとり》でメシ食ってる寂しいばかちー!」
「……」
まだ気づかない、とさらに恥ずかしい声を張り上げようとする大河を制し、ズイと出てきたのは北村《きたむら》だった。幼馴染《おさななじみ》にはいつも甘く、優《やさ》しく、まるで兄のように振舞《ふるま》ってきていた北村だったが、
「おい、ヒマ人! ヒーマー人! モデル休んで、ヒーマーじーん!」
「……き、北村……? どうした?」
「亜美はヒマ人、スケジュールガラガラの売れないっ子! かわいそうな干されモデル!」
「そーだそーだ、ばかちーはヒマ人! ヒマモデル! ひーまーちー!」
大河までもが調子《ちょうし》に乗って、北村と声を合わせ、ヒマ人コールを連発し始める。ヒマ人! ヒマ人! 叫び続けるその声はやがて奇妙なメロディを得て、
「……ヒマ〜人オ〜ザピィポォォ〜……♪」
「まあ……! さすが北村くん、冴《さ》えてる! 知的!」
金髪バカとバカタイガーは楽しそうに拍手。まったく状況に気づいていない亜美の真横、やーいやーいと虫歯菌みたいに悪どく踊って笑いあう。さすがの実乃梨《みのり》もおお、と眉《まゆ》をしかめ、
「ど、どうしたことだ!? 北村くん、今の全然おもしろくないぜ! まさか金髪の影響《えいきょう》で脳がおもしろさを失った……?」
「いやあ、北村は元々それほどおもしろくはねえだろ……っていうか、向こうで呼ばれてるぞ」
いけね、とウエイトレスの顔に戻ってオーダーを取りに行く。その姿を見送りつつ、そういえば、と北村の攻撃《こうげき》の原因に思い当たる。多分《たぶん》、あの日の面談室《めんだんしつ》で亜美に食らった爆撃《ばくげき》がいまだ腹に据えかねていたのだろう。言われっぱなしの大人《おとな》しい聖人なんかではなかった北村は、今、大河という罵倒界《ばとうかい》の貴族とも呼ぶべき友を得て、
「仕事がないからわったっしっは暇になる〜♪」
「好きなモデルの! 仕事ないから! 一人さびしく! 飯を食ってる! ああぁぁ〜……うぅぅぅ〜……ああぁぁ〜……ううぅぅ〜……仕事がないなら営業しなさあい、おにゃにゃにゃにゃにゃえ〜いじゃ〜♪」
「あんまりヒマヒマしないで! モデルをするのをやめたら! おまえはいつでもヒマヒマ! ヒマ人一人でランチか! ヒマだ! ヒマだ! ヒマだ! うっふん! 一人! 一人! 一人! うふふふふ♪」
新ジャンル・替え罵倒《ばとう》を編《あ》み出していた。ケタケタ笑いで忠実なる使《つか》い魔《ま》みたいに悪意を添える大河《たいが》を従え、亜美《あみ》のお絞りをマイクがわりにケツを突き出し、左右に振り、今にも脱ぎ出しそうな勢いで調子《ちょうし》に乗ってもう一発つまらんネタをかまそうとし、
「――クソうざいから聞こえないプリしてんだよバカ!」
「ひゃー!」
飲みかけのお冷《ひや》を顔にビシャッとぶっかけられる。とはいえ、ほとんど飲み干していてコップの中はほとんど氷ばかり、被害は小さく頬《ほお》やら顎《あご》やらが濡《ぬ》れた程度。しかしおそらくは死ぬほど冷たいのだろう。北村は顔面を蒼白《そうはく》にして襟元《えりもと》に溜《た》まった氷を必死に掻《か》き出し、そして大河は、
「最初っから全部聞こえてるっつーの! 他人のフリしとけやボケが!」
「いだっ!」
空になったコップでプン殴られている。そのコップを脇《わき》からサラリと奪い、
「あーあーもうランチ時に余計な仕事増やしてもー! 床が濡れちゃったじゃんかもー!」
「だって〜! 祐作《ゆうさく》とちびタイガーがあんまりにもうるっさいからあ〜!」
「はいはい、ケンカしないで君たち席ついて! あーみんも一緒にこっちの席すわんな、そこ濡れたから拭《ふ》くよ! おらどいたどいた、Hey、ケツを上げなガール!」
勤労モードで通常の三倍はてきぱきしている実乃梨《みのり》にモップでグイグイ追いやられ、結局四人で窓際の席に座る羽目になる。実乃梨は亜美のテーブルから食べかけのパスタやらサラダやら伝票やらもすちゃっと一瞬《いっしゅん》で移動完了、
「さあ、注文が決まったら俺《おれ》を呼びな!……ポテト大盛り、おごってやっからよ!」
後半部は他《ほか》の客に聞こえないよう声を潜《ひそ》めつつ、湖面を舞《ま》う白鳥の如《ごと》く華麗《かれい》な動作でランチメニューを三人分ズラリとテーブルに並べて去っていく。
「ていうかあんたたちと一緒に座るのヤなんですけどお!?」
「へ〜、ちょっと見てこれ、きのこ祭りだって……きのこ雑炊《ぞうずい》、きのこソースのハンバーグ、きのこたっぷり和風パスタ、わあ、きのこと牡蠣《かき》のクリームドリアだって! 結構カロリー低いんだ、これならデザートもいっていいかも……」
「デザートまでここで食う気かよ? さっきおまえ、駅ビルのカフェ行きたいとか言ってなかったか?」
「な、なにか温かいもの……身体《からだ》が温まるもの……! 寒い! 死んでしまう!」
「きのこ雑炊は?」
「きのこ雑炊にしとけ」
「……誰《だれ》も話聞いてねえし! だからこいつらヤなんだよ!」
けーっ! っと荒っぽくパスタの残りをやっつけつつ、亜美はやさぐれ全開、せっかく綺麗《きれい》に整《ととの》った顔を歪《ゆが》めてそっぽを向く。
「……決めた、俺《おれ》はデミグラスソースのオムライスにしよう。ドリンクバーつけても干円に収まるし。で、川嶋《かわしま》、今日《きょう》はどうしたんだよ一人《ひとり》で。仕事はねえのか?」
穏《おだ》やかに話を向けてやった竜児《りゅうじ》をもきっ、と睨《にら》みつけ、
「オ・フ・な・の! 私だって人間なの、お休みしたい日ぐらいあっていいっしょ!?」
「……なにをいきなりキレてるんだよ」
「ねー、こわーい。ばかちー機嫌《きげん》悪いねー」
「亜美《あみ》は根性が悪いんだ、機嫌以前に」
「うるっさい! 調子《ちょうし》こいてんじゃないよ特にそこのパッキン! 散々ヒマ人ヒマ人歌われりゃ、誰《だれ》だって機嫌ぐらい悪くなるわ! ……ったく、なんだってのよ、一人で土曜日《どようび》にメシ食っててなんか問題ある!?」
ないない、ありませーん、と三人はそれぞれメニューに視線《しせん》を落とす。おもしろくなさそうに亜美は足を高々と組み、
「……フン。まだ高校生だもん、オフ日ぐらいきちんと取れなきゃかえってプロ失格なのよ。こうやってヒマな日があるからこそ、テスト勉強もできるし、エステ行ったり、ジム行ったりできるんだし。前は、そうよ、ここに来る前は普段《ふだん》の撮影《さつえい》だけじゃなくて、表紙のローテーションが『えー、またあたしでいいんですかあ〜?』って感じだったから忙しくて休みなんかなくて……ああそうだったそうだったーあの変なストーカー野郎さえ現れなければ、あそこで丸々二ヶ月も休み取ってなきゃ、今月も表紙の順番が回ってきてたはずだよな! ……っていうか、休み以来亜美ちゃん表紙、一回もなくない!? どういうこと!? この亜美ちゃんの顔面が表紙じゃ、雑誌も売れねえってか!? くっそ〜……野郎どもナメくさって……ドちくしょぉぉ〜……!」
ヒマ人|攻撃《こうげき》は、どうやら本当に地雷だったらしい。スイッチを思いっきり踏んでしまった足を今更どうすることもできず、竜児と並んで座った大河《たいが》はイライラと唇を歪《ゆが》めてレタスを食いちぎる亜美の真正面、
「ばかちー……もういいからドリンクバー頼みなよ……私がおごってあげる。だってかわいそう、ドリンクバー二八○円も頼めないほど落ちぶれていたなんて知らなくて……」
わざとらしく沈痛な面持ちを作り、そっ……と己《おのれ》の薄《うす》い胸を押さえてみせた。キィィ! と亜美はほとんど金切り声を上げて失神しかける。
「金がねえから水飲んでるわけじゃねえよ! デトックスには水が一番いいと踏んでの、あえての! あえての水だよばかチビタイガー! あーおもしろくねー! おごってもらうよ! こうなったらマジでおごってもらうわーい!」
切れるのに任せて荒っぽく立ち上がり、のしのしドリンクバーコーナーへ向かう亜美を見て竜児はあせる。
「こらこら! 先に注文しねえと!」
手を振って勤労中の実乃梨《みのり》を呼び止め、それぞれに「オムライス」「きのこと牡蠣《かき》のドリア」
「きのこ雑炊《ぞうすい》。……と、ドリンクバー四つ」注文完了。
取られて困る荷物もねえ、と全員で席を立ち、水場に集まるインパラみたいにドリンクバーに群がっていく。
「で、食い終わったらどこ行く?」
「そうだな……とりあえず俺《おれ》は恥ずかしながら、家出少年だから金はない。さっき泰子《やすこ》さんがくれたお小遣いもここで食い果たすだろうし……あー寒! コーヒーコーヒー!」
「あんまり寒くないところがいい。ずっとここでみのりん見てるんでもいいな。あれ、氷挟むでかい洗濯《せんたく》バサミみたいなのがない」
「トングな。こっちにあるからグラス寄越《よこ》せ、ついでに取ってやる。……川嶋《かわしま》は? どっか行きたいところあるか?」
「……えーとカロリーゼロなのは……って、はあ!? いつから!? なんであたしも数に入ってんの?」
「どうせヒマなんでしょ。……正直、あんたいると北村《きたむら》くんも元気出るみたいだから、気に食わないけど一緒にいることを許可してやるわ。協力して、北村くんを元気付けてあげよ」
「……ちょ、ちょっと待って。あまりにもあたしの認識《にんしき》といろいろ違いすぎて……祐作《ゆうさく》のあれは元気の証《あかし》なの? ていうか、祐作の件には関《かか》わりたくないって言ってるでしょ? マジであんたら、あたしの言ってること、なんにも通じてなくない?」
「もう十分関わってるだろ、見てみろ、あの横顔を……おまえが氷水をぶっかけたせいで、唇まで真《ま》っ青《さお》になってかわいそうに……」
「いやあ、自業自得じゃん?」
騒《さわ》がしさはランチタイムのファミレスの喧騒《けんそう》の中で、一層|騒々《そうぞう》しく共鳴するように膨《ふく》らんでいく。
自分の勝手な欲は捨てて、とにかく今は北村くんが元気になれることだけを考える。そのためにできることはなんでもする。
――エクレアを頬張《ほおば》りながら、大河《たいが》はそんな決意を新たにしていた。夜明け間近の午前四時、竜児《りゅうじ》ももちろん同じ心境でいた。北村のためにともに頑張ろう、とヤケ食いしながら二人《ふたり》は誓いあったのだ。
が。
「……あの誓いは、どこへいったんだ?」
「……げ、元気そうだよ……一応……」
「……おまえがなんとかしてこいよ……」
「……あんたこそ……」
冷たいベンチに並んで座った二人《ふたり》の目の前では、今古びたグリーンのネットの向こうに、幼馴染《おさななじみ》二人の険悪なひとときが展開していた。
「まーた空振りか! 七十キロで空振りって、亜美《あみ》、おまえボールを舐《な》めてるのか!? なぜ本気を出さない!? なぜ、一生懸命《いっしょうけんめい》になることを恥じる!? いつから日本はこんな風潮《ふうちょう》になったんだ!?」
「本気でやってるっつーの! そもそもバット握るのなんて初めてなんだから、できなくて当然でしょ!? 第一、あんたが行きたい行きたい言うから来たのに、なんであたしが打たされてんの!? あんたが自分でやりゃいいじゃんよ!」
「打席は誰《だれ》の前にも平等、ただそこにあり続けるんだよ! そこにあるから、バッターはバッターボックスに立つ! そして打つ! 人は皆、打席の前では等しくバッターなんだ! ほら前を見ろ! 来るぞ、ほら来るぞ、よく見ろ、見ろ見ろ見てろ、ほらほらほらほら! ボヤボヤしてると身体《からだ》に当たるぞ!」
「えっ!? ちょ、待って待って待って、ぇ……ぇぃっ!?」
ブン! と、闇雲《やみくも》に振り回されたバットが、これで続けて五回の空振り。コーチ気取りで偉そうに操作《そうさ》パネルの前に陣取った北村《きたむら》は金髪頭を振り乱して「なにしてんだ!」と悔しげに地団太《じだんだ》を踏む。
「ほらもう! 球をよく見てろって言っただろ!? そんな簡単《かんたん》なことがなぜできない?」
「祐作《ゆうさく》がゴチャゴチャ言うから気が逸《そ》れたの!」
「櫛枝《くしえだ》なら女子でも平気で百四十キロとかボンボン打つぞ!」
「実乃梨《みのり》ちゃんは昔っから野球少女だったんでしょ!? あっ! 痛い! いったーい! 今バットで尻《しり》ぶったでしょ!?」
「おまえがグズグズ言ってるから気合入れてやったんだ! ほらまた来るぞ! 今度こそ見極めて当てていこー!」
「ねえ高須《たかす》くん見た!? 今こいつ、あたしのケツをバットでぶったよ!?」
見てた見てた、まさにケツバットという奴《やつ》だった――頷《うなず》いてやりつつ、竜児《りゅうじ》はあーあ、と行儀悪《ぎょうぎわる》くベンチの上で膝《ひざ》を抱える。ゴルフ練習場の片隅に作られた、一打席のみのオンボロ屋内バッティングセンターは、太陽の陽射《ひざ》しがないせいか、コンクリ打ちっぱなしの寒々しい作りのせいか、立ち込める険悪な雰囲気なせいか、とにかく外を歩いているときよりもしんしんと冷える気がするのだ。大河《たいが》も退屈そうに同じポーズで足を抱え、鼻をズルズルいわせている。北村がバッティングセンターに行きたい、と言ったときには、きっと身体《からだ》を動かして気分転換したいのだろうと思ったのだ。健康的でとてもいい案に思え、散歩がてらブラブラとやってきたまではよかった。しかし北村はここに来てからずっと亜美を打席に立たせ、ちくちくと陰湿にコーチ業に専念している。元気には元気なのかもしれないが、竜児の目には、健康とは真逆のベクトルで突き進んでいるようにしか映らない。
「なんか北村《きたむら》、人格が変わってねえか?」
「あんただって目玉焼き教えてくれてたときにはあんな感じだったよ」
「……家|燃《も》やされそうになったら、誰《だれ》でもあせるだろ……」
「あ。ばかちー打ってやんの」
ぱかーん、と間の抜けた音でそのとき偶然のヒット、亜美《あみ》のバットは初めて正しく用を成していた。しかし打球は音同様に、間抜けな軌跡を描いて真上に上がり、数メートル先にそのま
まぽてーんと落下する。
「……ふむ。ヘロヘロキャッチャーフライってとこだな、よし、オマケで一応合格! 上がっていいぞ!」
「なにをえっらそうに……」
ようやく解放されてネットをくぐって外界へ帰還《きかん》できた亜美は、握っていたバットを大河《たいが》に差し出す。
「はい、次の生蟄《いけにえ》はあんたね。気をつけな、あれは真性の教《おし》え魔《ま》かつ変態、あーあ、もう付き合ってらんなーい」
次は誰だー! 指導《しどう》してやるから早くこーい! ……鬼コーチの声に大河はちょっと迷ったみたいに竜児《りゅうじ》の顔を見るが、
「行ってこい。せいぜい気分よくコーチさせてやれ」
「……うん、そうだね。おっしゃ! 北村くん、次、私が打つ!」
カーディガンを脱いで髪をまとめ、ネットをくぐって大河は気合十分、打席に立つ。大河だってバッティングは初心者のはずだが、バットを大きく回してまっすぐに打球の方向を定め、ぐい、と左腕のワンピースの腕をまくるさまはまるでイチローの生霊《いきりょう》が乗り移っているかのように堂々として見えた。鈴木《すずき》大河、ここに爆誕《ばくたん》。
「よし! まずは七十キロからな! 行くそ逢坂《あいさか》!」
「うん!」
乱れてしまった髪を手櫛《てぐし》で直しながら竜児の隣《となり》に亜美が腰掛《こしか》けるのとほぼ同時、小気味良い音を立てて、大河のバットが一球を真芯《ましん》でいきなり捉《とら》えた。ボールはほぼまっすぐに飛んで、向かいの壁《かべ》に描かれた円形のターゲットの中央近くに当たる。おお、と竜児は思わず拍手、亜美は「すっごーい」と心から興味《きょうみ》なさそうに、
「あれ、打てちゃった。こんなんでいいの? なんか簡単《かんたん》すぎるかも。北村くん、私、もっと速くても大丈夫かもしれない」
ワンピースのフリルを揺すりながら堂々言い放つ大河に、北村はキラキラ輝《かがや》く瞳《ひとみ》を向けた。
「お……俺《おれ》はダイヤモンドの原石を見つけたのかもしれないーうおお逢坂! なぜおまえほどの逸材が、ソフト部に入ってくれなかったんだ!?」
「中学で運動部はもうコリゴリ、って思ってたから。グリップはこれでいいかな?」
「どれ、そうそう、それでいいんだ! 教えてもいないのにグリップも完壁《かんぺき》! さすが逢坂《あいさか》、運動神経抜群!」
「いやー、みのりんにはかなわないよ〜」
えっへっヘー、と盛大に照れつつ、大河《たいが》は顔を桃色《ももいろ》に染めて笑ってみせる。よしよしいい感じ、北村《きたむら》も楽しそうだし楽しそう、でいいんだよな。今度こそ表情を読み間違えないように目を凝《こ》らす竜児《りゅうじ》の手の甲を、そのとき、
「……ねえねえ高須《たかす》くん。あたし、なんか退屈。ここ寒いし……抜け出して、なんか温かいものでも飲まない?」
ちょい、と亜美《あみ》の白い指先がくすぐる。上目遣いで大きな瞳《ひとみ》を潤《うる》ませながら擦《す》り寄る速度は一瞬《いっしゅん》、あっという間に腕を取られ、身体《からだ》はぴったりくっついていて、
「……ねーえ?」
チェリー色のグロスで艶《なま》めく唇を軽く尖《とが》らせ、亜美は小首を傾《かし》げてみせた。茶色《ちゃいろ》に透ける瞳には竜児のツラが映り込み、そのまま異世界に連れ出そうとでもしているかのように、うるうる潤んで誘い込むみたいに揺らぐ。いとも簡単《かんたん》に、くらっ、と景色《けしき》ごと理性が揺らぎ、
「……よし、行こう」
「あ、あれ……?」
そのまま亜美の身体を押しのけもせず、嫌《いや》がりもせず、素直に竜児は立ち上がる。驚《おどろ》きの声を上げたのは亜美の方だ。拍子抜けしたように竜児を見上げ、探るみたいに目を光らせる。その亜美を立ち上がらせるように手招き、
「なんだよ、誘っておいて。受付のところにジュースの自動|販売機《はんばいき》あったから行こうぜ」
「……なーんか、いつもと違う。おかしいなあ……なに企《たくら》んでるの?」
「企むってなんだよ。おまえじゃあるまいし、失敬な」
「あたしは企みごとなんてしたことありませーん。……ま、なんでもいいけどぉ?」
つ、と目を細め、亜美は竜児を一瞬強く見返す。そして立ち上がり、
「そっちがその気なら、こっちにだってやり方はあるし」
グイ、と竜児の腕を取る。ぶら下がるみたいに掴《つか》まって、ぴったり身体をくっつけてきて、
「おう……ちょっと!」
ふわっ、と鼻先に香るのは、甘い花の匂《にお》いのかすかなトワレ。
「あらら、どしたの? これしきで動揺しちゃうわけ? 覚悟が足りないんじゃなーい?」
ほとんど身長が変わらないせいで、亜美の白い顔は竜児の首筋のあたりに密着寸前今更逃れようとしても、亜美の腕はがっちりと竜児の肘《ひじ》と手首をロックしている。恋人同士みたいに二人《ふたり》はぴったり寄り添う形になり、
「あたしたち、ちょっと休憩《きゅうけい》してくるね〜!」
「おーう! ほら、逢坂《あいさか》いくぞ百キロ!」
「うん! ……うん!?」
わき目も振らずに熱血指導《ねっけつしどう》を行なう北村《きたむら》コーチはそのままスルー、しごかれている大河《たいが》の視線《しせん》だけが一瞬《いっしゅん》、驚《おどろ》いたように見開かれて、ぴったりくっついた二人《ふたり》の姿を確《たし》かめる。そのせいで振り遅れ、簡単《かんたん》なストレートをスポーンと見事に空振り。
違う違う、違うんだ、と竜児《りゅうじ》は必死に首を振って大河にアイコンタクトを送る。おまえら二人にゆっくり楽しいひとときを過ごさせてやるために、消えようと思っただけなのだ。亜美《あみ》がいると北村は元気には元気だが、なんだかエネルギーの暗黒面ばかりが際立つような気もしたし。だからこの際、亜美のいつもの悪戯《いたずら》行為に乗っかってやろうと。そんな竜児の腕を引っ張りながら、亜美は打席に残った大河に向かって「んべー」と楽しそうに舌を出してみせる。
「……!」
――棒立ち、これで大河はツーストライク。ピンチに至って、北村コーチの目の中にさらに熱《あつ》い炎が燃《も》え上がる。
「うふふ、これで、ふ・た・り・き・り※[#ハートマーク]……なーんてね」
扉を閉めてゴルフ練習場と共用の受付に出てくるなり、亜美はほとんど突き飛ばすみたいに竜児の腕を放して「フン」と鼻先でせせら笑う。別に驚きはしない、どうせこんなことだろうと思っていたとも。
「へっ。おまえの行動パターンなんて読めてきてるんだよ。大河がいなけりゃ俺《おれ》にくっついてみたっておもしろくねえんだろ。ほら、あそこ座ってろよ。飲み物買ってきてやる」
「自分で買うからいい。……あーあ、ほんっとに、つまんなーい」
綺麗《きれい》な顔をツンと澄《す》まして、亜美は早足、竜児を追い抜こうとする。その細い背中を眺めているうちに、いつもやられる一方だった竜児の腹の中にも悪戯心がむくむくと湧《わ》く。
「なんだよ。くっついてたけりゃ素直になれよ」
「ひゃ!?」
背後から肩を抱く――真似《まね》だけしてすぐに亜美を追い抜き返し、
「ひゃ! だってよ。ひゃ!」
振り返りざま、本気で驚いたみたいに飛び退《すさ》った亜美を指差してからかってやった。いつもからかわれ、あせらされ、遊ばれているのはこっちなのだ。たまにはやり返してやるのもなかなか楽しいものではないか。亜美は口を開いたまま、竜児|如《ごと》きにびびらされたという怒りのあまりか屈辱のあまりか、頬《ほお》に血の色を巡らせて、
「……むっ……かついた! ジュース、おごってもらうからね!」
仁王立《におうだ》ちで古い紙コップ式の自動|販売機《はんばいき》を指してみせる。値段は七十円、笑えるぐらいに施設も値段も前近代的だ。
「おう、どれにする?」
「メロンソーダ」
「……いいのか? モデルがそんな砂糖《さとう》の塊みたいなモン飲んで」
「いいの! 放っておいて! ったく、余計なことにばっか気が回るんだから……!」
亜美《あみ》にメロンソーダ、自分にコーヒーを買って、カウンターだけのしょぽい飲食コーナーに並んで座るが。
「……そんなにイライラすんなよ」
「放っておいてっていってるでしょ。話しかけるのもしないで。こっちも見ないで」
どうやら本当に怒らせてしまったらしい亜美は、カウンターに頬杖《ほおづえ》をつき、身体《からだ》ごとそっぽを向いて人工着色料|塗《まみ》れの炭酸ジュースに口をつける。その背からも肩からも淡い香水の匂《にお》いとともに陰のあるオーラが漂ってくるようで、さすがに竜児《りゅうじ》も居心地《いごこち》が悪い。
「悪かったって。冗談《じょうだん》だろ、おまえだっていつも俺《おれ》にふざけてくっついてくるじゃねえか」
「そういうことじゃなくて……、……もういい」
「なに。なんだよ」
「……もういいの。いろいろ、あるのよ。高須《たかす》くんにはどーせわかんないっしょ」
壁《かべ》に向かって亜美が言い放った言葉は強く、これで話は終わり、と強引にピリオドマークを打つみたいに微妙な会話はブツ切りされる。しかし竜児は、
「いろいろ、っていうと……仕事がうまくいかねえ、北村《きたむら》のことは甘えてるだけみたいに見える、俺《おれ》のことはむかつく、あれやこれやで総合的にイライラする……そんな感じか?」
無視されるのも承知の上で、ちょっと無理矢理《むりやり》に、先を続けてみた。どうせ暇なのだ。だが亜美は、意外なことに、
「……違う。そうじゃない。そんな簡単《かんたん》じゃない」
壁を見つめたまま、小さく返事をしてくれた。
竜児は頭の中で、糸を手繰《たぐ》り寄せるようだ、と思う。亜美が言葉に出した以外のなにかを言いたがっているような気はするのだ。だけどそれを引き出す糸が選《え》り分けられない。確《たし》かに亜美の言葉どおり、そんな簡単じゃない、らしい。
「……複雑な女だもんな、川嶋《かわしま》は。おまえのことを本気で全部理解したいと思ったら、相当苦労するだろうな」
「それぐらいの苦労、喜んで欲しがるぐらいでなけりゃあたしの相手は務まらないの。……苦労するだけの価値は、まあ、あるんじゃない?」
傲慢《ごうまん》に言い放ち、長い髪を少し乱暴《らんぼう》にかきあげ、亜美はようやくチラリとだけ、いつもどおりに根性悪な冷たい視線《しせん》を竜児に投げてくれる。壁なんか見つめられているよりは、こっちの方がよほどマシな心地だ。少々安心したついで、
「まあ、わかりにくいのはおまえだけじゃねえけどな。北村《きたむら》、言ってたぞ。頭をあんなふうにしたのは、生徒会長になりたくねえから、だってさ。ああやってグレてみたら、誰《だれ》も北村に期待しなくなるから、って。……川嶋《かわしま》はどう思う? 本当だと思うか?」
はあー? と、亜美《あみ》の白い顔はようやくまっすぐに竜児《りゅうじ》の方を向いた。
「だーかーら、本当もくそも、祐作《ゆうさく》はああすることで『誰か』がそうやって考えてくれるのを期待して……じゃ、なくて。あたしはその件には関《かか》わりたくないんだっつーの。いちいちそんなこと報告しないでよ、こうして祐作と一緒にいるだけで十分にアホくさいんだから」
そのときだった。突然、扉で隔てられたバッテイングセンターの中から、
「おう!?」
「な、なに!?」
ものすごい音量でサイレンが鳴り響《ひび》いたのだ。避難《ひなん》訓練か、もしくは本当に火事でも起きたのだろうか。竜児と亜美は驚《おどろ》いてほとんど同時に立ち上がるが、受付の中のおばちゃん店員たちは「まあ」「あらあら」となにやらほがらかにのんびりムード。五十歳ぐらいのものすごくメイクの濃《こ》いおばちゃんは、よっこいしょ、とデカイ荷物を引っ張り出してくる。そして、
「おめでとうございまーす!」
「大当たり、おめでとうございまーす!」
「打ったの、どっちの子!?」
店員たちの拍手の中、
「打ったのは彼女です! すごいでしょ!? これで初心者なんです!」
嬉《うれ》しそうに鼻の穴を膨《ふく》らませ、現れた熱血《ねっけつ》コーチは晴れやかな笑顔《えがお》でダイヤモンドの原石こと大河《たいが》を指差す。困惑しきった表情で大河はひきつり笑い、おめでとうコールの中に立ち煉《すく》む。その腕の中にメイクのおばさんが無理やり押し込めたのは、見るからにいらない感じの、どこぞのネズミに少し似ているがなにかが決定的に違うバカでかいぬいぐるみ、そいつの首にはリボンが巻かれ、祝・大当たリホームラン! と。竜児は大河のもとへ歩み寄り、なにが起きたのかを訊《たず》ねずにはいられない。
「な、なにやらかしたんだおまえ!?」
「いやあ……なんか、当たっちゃったみたい。……思いっきりボール打ったら、的のド真ん中にドーンと当たって、そしたらいきなりサイレンが鳴ってこんなことに……」
「こんなことってなんだ、素晴《すば》らしいことじゃないか! 逢坂《あいさか》は才能があるぞ! 亜美とは違ってな! やったやった、ホームランだ!」
「……あたしはいらないし、そんなオ能、マジで」
嬉《うれ》しげにテンションを上げている北村の顔を鬱陶《うっとう》しそうに睨《にら》み返し、亜美は呆《あき》れたみたいにジュースの残りを一気に煽《あお》る、大河は北村に「……いる?」とぬいぐるみを渡し、北村は小踊《こおど》りでそれを受け取った。
竜児《りゅうじ》はなんとなく、メイクのおばさんに確認《かくにん》してみたくなる。
「……大当たり、というのは、そんなにありがたいものなのですか?」
「いや? だいたい月一から二はでるよ」
「そっすか……」
「……あんた、目つきが猛禽《もうきん》みたいだねえ。ねえねえ、ちょっとみんなこの子見てごらんよ、目つきが猛禽みたいなのよ」
「あらーほんとだわ」
「まーまーこれはこれは」
「あらやだ、どーれ」
「猛禽? 巳《み》だよ巳! この目は巳!」
――北村《きたむら》が喜んでいるから、ここは諸々《もろもろ》、いいとしよう。白粉《おしろい》くさいババどもに取り囲まれて、竜児はまた少し強い子になる。
やがて太陽が傾きかけて、風は驚《おどろ》くほど冷たさを増した。
そろそろ解散するか、と高須家《たかすけ》へ戻る三人と亜美《あみ》が道を違《たが》えようとしたちょうどそのとき。
「あー☆ びっくり、偶然だねえ〜!」
「おう、奇遇」
道の向こうからやってきたのは、一眠りして肌細胞も再生したらしいノーメイクの泰子《やすこ》だった。買い物に出ていたのか、手にはドラッグストアの袋を持ち、竜児のジャージよりは多少マシかもしれないグダグダファッションで嬉《うれ》しそうに走り寄って来る。そして亜美の顔を見つけるなり、
「あらあら、竜ちゃんのお友達|一人《ひとり》増えてるう〜! え〜と、確《たし》かあ、前にも一回遊びにきてくれたことあるよねぇ〜? お久しぶりいー! あ〜よかったあ、プリン、四個買ってきておいて! うちでみんなで食べな〜、やっちゃんは大人《おとな》だから我慢できるし〜!」
「わあ、お久しぶりですー! でもあたし、今から家に帰るところだったんで。これで今日《きょう》は失礼しまーす」
亜美はぶりっこ仮面装着、さりげなく面倒《めんどう》を避けるみたいにそそくさと帰ってしまおうとするが、
「……竜ちゃん! あの子引き止めて! ちょっと人手がいるの!」
「え? な、なに?」
「いいから早く〜!」
珍しく素早《すばや》い動きを見せた泰子に耳元でこっそり指示され、マザコン息子《むすこ》としては言うことを聞かないわけにはいかない。慌てて歩き去ろうとする亜美の後を追いかけ、「はあー? なんで高須《たかす》くんちに寄らないといけないのよ?」と不審《ふしん》がるのを、まあまあ、プリンプリン、と宥《なだ》めすかしてごまかして、なんとか高須家まで一緒に連れて帰る。本当の理由は竜児《りゅうじ》にもまだわからないのだ。
そして。
「ふっふっふっふっふ……」
泰子《やすこ》の言葉の真意がわかったのは、みんなして平和にちゃぶ台を囲み、泰子の土産《みやげ》のプリンを食べ終えたそのときだった。竜児も、大河《たいが》も、亜美《あみ》も、そして北村《きたむら》も、目を見開いて居間に現れた泰子の姿を見上げる。
膝《ひざ》までまくり上げたジャージズボン。Tシャツに、使い古しのエプロン。両手には妙にペラペラとしたビニール製の手袋。その手に持っているのは、
「竜ちゃん! 今だ! 北村くん押さえて〜!」
「お、……おう!」
――『どんな髪色も一発で激《げき》ヤバ漆黒《しっこく》に! 最強黒髪戻しForメンズ!』と書かれた真っ黒なパッケージ。竜児が事態を理解するのとほぼ同時、北村も一瞬《いっしゅん》で危険を察知、跳ね馬みたいに飛び上がるが、
「大河! 押さえ込め!」
「えっ!? う、うんっ!」
「川嶋《かわしま》、回りこんで玄関|塞《ふさ》げ!」
「……え〜、結局こういうことお〜? はいはい、ったくもー……」
竜児が後ろから羽交い絞め、さらに大河は正面から身をよじる北村の動きを封じるみたいに両足を抱え込んでほとんど担ぎ上げ、
「ちょ、この体勢、ちょ、ちょ、ちょ……あわわわわ……!」
「なに興奮《こうふん》してんだバカーしっかり押さえとけ!」
そして北村は当然叫ぶ。
「う〜らーぎ〜り〜もーのっっっ! 高須、俺《おれ》をたばかったなあ!? 泰子さん、貴女《あなた》は味方になってくれたのではなかったのですか!?」
「ん〜、ごめんねぇ☆ やっぱりやっちゃん、北村くんには、いつまでも竜ちゃんのいいお友達でいてほしいしぃ〜、さっき電話で話してみたらお父《とう》さんかなりキレちゃってたからあ、おうちに帰る前に更生しておいた方がいいかなあ〜って」
「くっ、うちの親と通じていたとは……どんなに若く見えても結局|保護者《ほごしゃ》は保護者か!」
「竜ちゃんちゃんと押さえててよ〜、亜美ちゃんはこっち手伝《てつだ》ってぇ〜」
泰子は亜美にパッケージを持たせ、ハケににゅるん、と髪色戻しの染料クリームを取り、北村の顔をがしっと掴《つか》む。亜美も片手で耳を引っつかみ、頭の固定のお手伝い。
「あーあ。短い金髪時代だったねえ、祐作《ゆうさく》。観念《かんねん》しな」
「いやだあぁぁぬおおおおおおお〜〜〜〜〜〜っっっ!」
往生際悪く北村《きたむら》は暴《あば》れようと頭を思いっきり振った。その拍子、泰子《やすこ》と亜美《あみ》は北村を押さえつけていた手を離《はな》してしまい、
「いや〜〜〜〜〜〜〜ん!」
「きゃっ―――――――っ!」
悲鳴が上がる。北村は二人《ふたり》の手から髪色戻しの道具を力いっぱい叩《たた》き落とし、その勢いで中身が辺りに噴《ふ》き散らかったのだ。当然それは泰子と亜美の頭上に降り注ぎ、
「いっやあぁあ! やばいやばい、これマジやっばい! 早くお風呂《ふろ》お風呂、シャワー! 洗い流さないと身体《からだ》まで真っ黒になっちゃうぅぅ!」
「うええ〜〜〜〜ん! し、しみるぅぅぅ〜〜! め、目がいた〜い!」
「コールドクリームは!? どこ!? うわあいたたたたっ、こっちも目に入ったー! くっさいし! 早く落とさないと超やばいいいい!」
まさに阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄絵図。そして竜児《りゅうじ》も叫びたい。畳が、床が、天井《てんじょう》が、壁《かべ》が……いや、やっぱり人体だ。北村を捕まえるのを諦《あきら》め、泣き喚《わめ》く女|二人《ふたり》の顔にかかった染料をとにかく急いで指先で拭《ぬぐ》えるだけ拭い、目が開くようにしてやって、コールドクリームごと風呂場に押し込める。風呂場からは乱暴《らんぼう》に服を脱ぐ音、続いてシャワーが流れる音が聞こえ出し、
「だから俺《おれ》のことなんて放っておいてくれればよかったのに……!」
――気が休まる間もなく、カッチーン、と。
「……なぁにぃ!?」
北村の発言に、竜児は指を洗うのも忘れ、般若面《はんにゃづら》もむき出しに振り返っていた。てめぇ今なに言いやがった、このクソ生意気な金髪野郎、とか思っているように見えて、実際もそう思っている。
俺の畳が……いや違う、こいつのこの態度はどうだ。泰子にここまでさせたのは、この家に北村が転がり込んできたせいではないか。それをよくも、この野郎。あんな乱暴な真似《まね》をしておいて、よくもこんなことを言う。
「てっめえ、ふざけんな! 人んちに転がりこんどいて、放っておいてくれだあ!? これ見よがしに心配かけといてその態度かてめえ!? ふざけんなクソガキ! おまえなんかとっとと家に帰って、キレた親父に逆さづりにされてムチで打たれろ!」
「お、おまえに言われなくたって帰るとも! 高須《たかす》の裏切り者! 信じてたのに!」
「うるせえ! どんなに周りに心配かけてるかもわかんねえ馬鹿《ばか》野郎になんか、どう思われたって関係ねぇ!」
「ああそうかよ!」
「そうだよ!」
北村は足音も荒くドシドシ廊下を歩き去り、一度戻ってきて忘れた「ホームラン記念ネズミーマウス」ぬいぐるみを抱え、今度こそ乱暴《らんぼう》にドアを開け放って出ていってしまう。
「ばーかばーかばーかーあんな奴《やつ》、もう知らねぇ!」
塩でも撒《ま》きたい気分でバタン、と閉まったドアに向かって喚《わめ》く竜児《りゅうじ》の足元、
「〜〜〜〜〜〜〜〜……っ!」
よろめき、倒れ、去り行く人の背に片手を伸ばし……声にならない声をあげながら、大河《たいが》は下駄《げた》で蹴《け》り飛ばされたお宮《みや》@熱海《あたみ》のビーチ状態。姿の見えなくなった幻の貫一《かんいち》を求め、哀《あわ》れを催すポーズのまま指先を震《ふる》わせることしかできない。
***
「だーからあたしは最初っから言ってたでしょー。あんな奴、相手にする方が馬鹿《ばか》みるんだ、って。あ、おいしい※[#ハートマーク] ピッツァと迷ったけど、やっぱりこっちにして正解!」
「デザートも頼んでいいからね☆ ほんとにごめんねぇ、亜美《あみ》ちゃん……やっちゃんが仲間に引き込んだせいで……目、もう痛くない〜洋服も汚しちゃって、ほんとこめぇん……」
「もう全然大丈夫ですってばあ〜! すぐ洗ったから顔も身体《からだ》も髪も無事だったし、服も黒だから、臭《にお》いさえ取れれば問題なさそうだし」
「クリーニング代、ちゃんとやっちゃんに請求《せいきゅう》してねぇ?」
「いいええ〜! ここでおごっていただけるんだもん、これだけで十分ですう! かえってラッキーだったかも、なんか今日《きょう》はおごられ運がついてるみたい!」
いいこぶりっこで笑ってみせる亜美は、ドライヤーでざっと乾かしただけの髪に、昨日《きのう》大河が着て寝ていたパーカーとスウェット姿。着ていた服はできうる限りの応急処置だけして、風呂敷《ふろしき》エコバッグに入れて持たせてやった。その亜美の隣《となり》には大河が、亜美と同じトマトクリームのパスタをフォークでつつきまわしている。
亜美と泰子《やすこ》が髪を乾かし終えるのを待って、四人は夕飯を食べに駅ビルの中のイタリアンチェーン店にやって来ていた。泰子が迷惑をかけてしまった亜美にどうしても夕飯をおごりたい、と言って、こういうことになったわけだが。
「……川嶋《かわしま》、おまえほんとにこの店でよかったのか?」
「うん、どうしてえ? ここおいしいじゃない、あたし好きだよ?」
「そうじゃなくて、おまえ、昼もパスタ食ってたじゃねえかよ……」
「え!、イタリア人なんか、毎日三食パスタじゃん! あれぇ? やだあ、なんか高須《たかす》くん、今あたしのこと『天然はいってる』とか思わなかったあ〜? やだやだ、そんなふうに思わないで! いつもみんなにそう言われちゃうの! ね、逢坂《あいさか》さんも誤解しないでねぇ?」
――久々のぶりっこ鉄仮面亜美ちゃんは、ウフワと並んで座った大河に笑顔《えがお》を向ける。大河は押し黙《だま》ったまま鉄仮面の相手もせずに、つまらなそうにパスタをいじり続ける。ぐす、と泰子《やすこ》はそんな大河《たいが》の顔を覗《のぞ》き込み、
「大河ちゃあん……。せっかく楽しいお泊まり会だったのに、やっちゃんのせいでごめえ
ん……。やっちゃんが強引なことしちゃったから、北村《きたむら》くんのこと、怒らせちゃったよね……」
大河は慌てて顔を上げた。
「う、ううん、別にやっちゃんのこと怒ってるんじゃないよ! ……私だって、北村くんのこと押さえつけたんだし、怒らせたのは同じだし……」
首を大きく横に振ってみせつつ、それでもやっぱり大河の声には覇気《はき》がなかった。北村が自分のことも怒っていると思って、それで落ち込んでいるのだろう。亜美の隣なぞに大人《おとな》しく座って、パスタをフォークに巻く気力も失《う》せるぐらいに。しかし竜児《りゅうじ》に言わせれば、北村の怒りなど自分勝手なわがままだ。大河が落ち込んでやる筋合いなんかそもそもないのだ。今となってはそうとしか思えない。心配させるような真似《まね》を目一杯しながら「俺のことなんか放っておけ」と怒る奴《やつ》の論理《ろんり》に、一体どんな正当性を見出《みいだ》せと。
「いいじゃねぇか、もう北村のことなんか。川嶋《かわしま》が言ったとおりだったってことだろ」
あらら、と謝《あやま》り通しの泰子は傍《かたわ》らでペペロンチーノを頬張《ほおば》る息子《むすこ》をそっと見やり、
「竜ちゃんったら、北村くんのことを怒ったりしたらいけないよ〜。心配なのに、そんなこと言ったらだめ〜。ね? ほら、せっかく今夜は亜美ちゃんという特別かわいいゲストもいるんだから、嬉《うれ》しいでしょ〜? ねえねえほらほら、笑ってごらん〜?」
「やだあ、泰子さんったら! 高須《たかす》くんはあたしがいるからって、機嫌《きげん》よくなったりするようなキャラじゃないですよお!」
「えぇ〜? そうなのお? おかしいねぇ、亜美ちゃんはこんなにかわいいのにねぇ」
「だって高須くんにはもう、コレ! と決めた女の子がいるんですもの」
ブッフォー! と唐辛子《とうがらし》がタイミングよく竜児の喉《のど》に貼《は》り付く。なにを言う気だ!? と問いただしたいが、むせた喉からはゲホゴホと咳《せき》しかでない。泰子は「え〜〜」と再び首を傾《かし》げ、
「……コレ?」
ゲッフォー! と続いてむせたのは大河。泰子に突然指差し指名されて驚《おどろ》いたのだろう。竜児の真向かいで鏡合《かがみあ》わせのように俯《うつむ》いて咳《せ》き込み続ける。心底|嫌《いや》そうに顔を歪《ゆが》めながら。亜美は一体何を考えているのか、天使のような笑顔《えがお》で、
「いいぇぇ? それじゃなくて、別の子ですよお〜?」
「えええ〜〜〜〜〜っ! 大河ちゃんじゃないのお!? ふえええ〜〜〜ん! やっちゃん、大河ちゃんが正式にお嫁《よめ》さんになってウチの子になってくれる日を、今か今かと楽しみにしてたのにぃぃ〜〜〜〜っ!」
「な、なにを勝手なことを……ッゲホ! 川嶋! おまえなに言い出すんだよ!」
「あらあ、高須くんってその手の話、親には知られたくないタイプ? 隠していたって、いずれ二人《ふたり》の仲が進展すれば、相手が逢坂《あいさか》さんじゃないってすぐにわかっちゃうことじゃないの。でも、大丈夫! 泰子《やすこ》さん、この子を娘に欲しいんだったら、普通に養女でもらっちゃえばいいじゃないですかぁ。なんか逢坂家《あいさかけ》って、親子関係も寒々と冷え切ってるっぽいしー」
「あっ、その手があったかあー! でもぉ、大河《たいが》ちゃんちのお母《かあ》さんがまだどんなヒトかわからないからなあ〜……」
「ったく、二人《ふたり》とも! おまえら本当にうるさいぞ! いい加減にしろって! さっきからなに勝手なことばっか言ってるんだよ!」
さすがに竜児《りゅうじ》は大きな声を上げて会話を遮《さえぎ》っていた。事情を詳しくは知らないはずの二人の会話が、大河の心の傷を今にも挟《えぐ》り出しそうなスレスレのところを掠《かす》めていくような気がして恐ろしくなったのだ。しかし、
「竜児、あんたが一番うるさい」
大河は表情ひとつ変えることなく、髪をサラリとかきあげてみせる。
「竜児にも、誰《だれ》にも、私の人生に干渉なんかされたくない。私はこのままでいいの。一人《ひとり》で生きていくから、このままで平気なの。お金ならあるし、洗い物もできるし、目玉焼きも作れるようになったし、一人のままでひとっつも問題なんかないの。将来に一点の不安もなし!」
目玉焼きを……作れる……? 竜児は思わず問いただしたい衝動《しょうどう》に駆られるが、
「うーわ! さーびしい女! 超孤独ー!」
「なんとでも言えば? ばかちーにどう思われたって関係ないね」
亜美《あみ》にからかわれても動揺せず、そのままパスタをもそもそ食べ統ける大河の姿に、不意にもっと別のことを問いただしたい気分になる。一人で生きていく、なんていうのはこの場だけの方便だろ? 本心は当然、北村《きたむら》とともにありたいと思っているんだろ? と。しかし「一人で生きていく」と語った大河の表情にはあまりにも迷いがなく、躊躇《ちゅうちょ》もなく、まるで本当にそう思っているかのように見えたのだ。初めて竜児は疑いをもつ。自分の目で見ている大河と、本物の大河は、――その内心は、もしかしたらまったく違っているのかもしれない。わかりあえないのは自分と大河も同じことで、二人の距離《きょり》は実はそれほど近くもなくて、真実とは違う像を結んでいるのかもしれない。
呆《あき》れたみたいな声で亜美が独り言みたいに低く呟《つぶや》く声が聞こえる。
「ふ〜ん、一人で平気って、本気で思ってるんだあ? ……本来ならあんたみたいな奴《やつ》こそ、一番|祐作《ゆうさく》のこと許せないっていうか、ムカつくはずだと思うけどねぇ……」
結局丸一日を一緒に過ごしてしまった亜美を途中まで送り、高須《たかす》親子と大河は三人で帰路についた。泰子を先頭に夜の道を、なんとなく縦並《たてなら》びに歩いていたが、
「ねえ、竜児」
大河が歩調《ほちよう》を合わせて声をかけてくる。
「さっきばかちーが、みのりんのことを匂《にお》わせるような発言したじゃない。それで頭の中で結びついたんだけど……みのりんて、ホラー大好きだから『ホラーが嫌い』って公言してるでしょ?」
「ああ、饅頭《まんじゅう》こわい作戦でな」
「北村《きたむら》くん、生徒会長になりたくない、って言ってたじゃない。……あれって、本心は逆で、すごくなりたい、ってことはないかな」
もう北村のことなんか、と言いかけ、しかし竜児《りゅうじ》は口をつぐむ。
確《たし》かに、北村はそう言っていた。そしてその発言の前段階に、生徒会長となにかあったのは事実らしいし、そしてそれを尋《たず》ねても答えてくれないのも事実。……あんな奴《やつ》、と思いながらも、今頃《いまごろ》どうしているだろうか、と考えてしまうのもまた事実だった。
「……あるかもしれねえな、それ」
「もう状況は手詰まりじゃない。他《ほか》に思いつくこともないし、こうなったらさ……」
「……生徒会長に、なってもらうしかねえか」
竜児の脳裏に、悪魔的《あくまてき》な考えが浮かんだのはその瞬間《しゅんかん》だった。
――明日《あした》は日曜《にちよう》。
準備の時間ならたっぷりある。
5
「うおっ……!?」
「な、なんなんだ朝っぱらから!」
「びっくりしたあ……っ!」
――月曜日。
八時ジャスト、登校時間ド真ん中。
休み明けの朝のひとときは、いつもならば、おはよう! うーっす! などと、あちこちで爽《さわ》やかに、もしくはダルそうにガキどもが挨拶《あいさつ》を交わす声が響《ひび》き合い、騒《さわ》がしい喧騒《けんそう》に満ちているはずだった。
しかしこの朝の昇降口は、いつもと少々状況が違った。お気楽な挨拶の声は絶え、代わりに響くのは驚《おどろ》きの悲鳴と、恐怖の慄《おのの》きばかり。なにも知らずに登校してきた生徒たちは立ち止まっている奴らの人垣に気づき、一体なにごとかとその中を覗《のぞ》きこみ、息を飲んで、無言の人垣の新たな外周一重となる。次第にさして広くはない下駄箱《げたばこ》付近の廊下は渋滞状態に陥り、一度足を止めてしまった生徒たちは、逃れたくとも混雑のあまり逃れられない状況になっていく。
その人垣が押すな押すなと取り囲む空間は、まるで満員の終電に残されたゲロゾーンみたいな、直径五メートルのエアポケット。だがここは満員の終電の車内でもないし、避けられているのもゲロではない。
「……本当に、できるんだな? 大丈夫だな?」
「……だ、大丈夫」
「……無理するなよ。もともと、俺《おれ》がやる予定だったんだから」
「ううん……やる。私がやりたいって自分から言ったんだもの。言った以上はちゃんとやり遂げる。……北村《きたむら》くんのために、できることはなんでもするって誓ったんだから」
竜児《りゅうじ》と大河《たいが》がそこに立っていた。互いにしか聞こえない小さな声で噛きあい、取り囲む集団の中央にいた。
二人《ふたり》が並んで立つは、体育倉庫から運んできた踏み台。くわっ! と両眼を見開いた大河の手には、マイク。大河の意志が固いのを確認《かくにん》し、竜児はよし、と手作りの襷《たすき》を肩にかけてやる。その瞬聞《しゅんかん》、
「うっそだろぉぉぉぉ?」
「やめてくれぇぇ――――っ!」
説明をするまでもなく、二人を取り囲む人垣の中から次々に悲鳴が上がる。「誰《だれ》か早く止めろよ!」「これ無理だよ無理!」「勘弁してよお!?」――とりわけ大きく響《ひび》いたのは、ざわめく人垣の中にさりげなく混じりこんだ2−Cの連中の声だ。
よし、と竜児は大河に目で合図。大河は大きく頷《うなず》き、深呼吸。そして、
「静まれ者どもぉぉぉぉっ!」
マイクに向けて叫んだ。その声はしかしただの地声、
「……あれ? 電源入れるの忘れた……」
竜児含めた全員がガクッと総コケ状態、場の緊張感《きんちょうかん》がたちまち薄《うす》れかける。大河は一瞬《いっしゅん》だけ「ぬぅ!」と赤面、しかしすぐにグッと踏み止《とど》まり、
「こ、これはマイクではない! 気に食わない奴《やつ》をこうするために持っている武器だ!」
でえい! とマイクで目の前に立っていた男子の頭を唐突にフルスイング、ブン殴ってみせた。殴られた奴はそのまま倒れて失神、「うおお春田《はるた》ー! しっかりしろ、死ねなー! なんてことをするんだ手乗りタイガー!」――その身体《からだ》を支え、おおげさに叫ぶのは能登《のと》。ちなみに実はそれほど強くは殴っておらず、手首を返して当たりは弱くしてやった。うまいタイミングでスッ転がった春田は失神したフリも異様にうまく、白目を剥《む》いたまま全身|弛緩《しかん》しきっている。見事なアドリブ演技の連携に竜児は小さく感謝《かんしゃ》のグッジョブ・サムズアップ。能登と春田もこっそりサムズアップ返し。
「ちょ、ちょっと誰か先生呼んできてよ!?」
「暴力《ぼうりょく》事件が発生してるぞ!」
騒《さわ》ぎは次第に大きくなり、なんだなんだ、とさらに生徒たちが集まってくる。一体なにがしたいやら、とりあえず写メを撮《と》っている奴《やつ》もいる。
竜児《りゅうじ》は上々な反応と2−Cのサクラどもの働きに、満足げに薄《うす》い唇を舐《な》め回した。そうだ、いいそ、もっと怯《おび》えろ哀《あわ》れな生賛《いけにえ》ども……と思っているかの如《ごと》く陰惨な目の色をして、実際似たようなことを思っている。全校生徒の皆さんには、この事態を存分に怖がって、嫌《いや》がってもらわなくては困るのだ。
「静まれぇぇぇいっ! 今朝《けさ》は貴様らに、恐怖のお知らせをくれてやるわぁぁぁっ!」
改めて電源を入れたマイクから、大河《たいが》の怨念《おんねん》に満ちた声が響《ひび》き渡る。見上げた生徒達は口を開き、ほとんど呆然《ぼうぜん》と棒立ち状態。
「……私は、貴様らを、憎んでいる……!」
大河は居並ぶ全員の顔をいちいち確《たし》かめるように見回して、長い髪もおどろに垂らし、その目を爛々《らんらん》と光らせる。肩にかけられた襷《たすき》には、『生徒会長候補』とだけ、ごくシンプルに、わかりやすく。
「下種《げず》な噂《うわさ》でこの私を辱《はずかし》め、下劣な楽しみに興《きょう》じていた貴様ら……私が誰《だれ》ぞと付き合っているだのなんだのと、嘘八百《うそはっぴゃく》を並べ立てていた貴様らに、私はずぅぅぅっっっと、復讐《ふくしゅう》の方法を考えていた……そしてついに、思いついた!」
くわっ! と大河《たいが》は牙《きば》を剥《む》く。ひらりと上がった左手は、生徒たち全員を握りつぶそうとするかのごとく宙をぐわし! と掻《か》き掴《つか》む。
「この逢坂《あいさか》大河が生徒会長となって、貴様らの高校生活を暗黒のナイトメアで塗り潰《つぶ》し、鮮血《せんけつ》の記憶《きおく》とともに、モ、モグ、モルグに葬り去ってくれるってねぇぇぇぇ――――っっっ!」
ひぃぃぃぃ……! と、サクラではない生徒の間から、甲高《かんだか》い本物の悲鳴が上がる。ダメ押しするように竜児《りゅうじ》は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて一歩前へ出て、
「応援団長はこの俺《おれ》だ……おまえらみんな好き勝手言ってくれやがって……俺が哀《あわ》れだの、フラレ男だの、負け犬だの……許さねえからな……絶対に」
マイクもなく、さすがにちょっと緊張《きんちょう》して、大きな声を張ることはできなかった。しかし低く震《ふる》えて詰まったその声と、正真正銘天然モノのギラつく狂眼はかえって説得力十分、
「だだだ誰《だれ》だよ、高須《たかす》は本当は怖くねえとか言ってたのは……!?」
「こええじゃんかよ!」
「こ、殺される……っ」
「あの目、普通じゃねえよぉ!」
ぷ。とひそかに漏らされた大河の笑い声に、竜児の眼光はいっそう鋭《するど》い殺気を帯びる。二人《ふたり》を見上げる生徒たちは、本気で怖がり、悲鳴を上げる。『あの』手乗りタイガーと、ヤンキー高須が、生徒たちへの呪《のろ》いとともに生徒会長選挙に名乗りを上げたのが、心の底から皆恐ろしいのだろう。
申し訳ないな、とか、ここまで怖がらなくても、とか、思わないわけではない。だけど今日《きょう》ばかりは、竜児は眼光を緩《ゆる》めてやる気はなかった。「私の高校生活がー!」と泣き出しそうな女子に向かい、さらにギン! と殺人呪いビーム発射。未必の故意で、有罪モノの自覚はあった。
そう。竜児と大河が選んだ手段はまさに魔界転生《まかいてんせい》――自らの身を魔道に堕《お》とし、そして、
「あっ! あの金髪、副会長の北村《きたむら》くんだ!」
「あいつ、選挙には出ないで生徒会を辞めるって公言してるらしいぜ!」
「だから手乗りタイガーは学校を乗っ取りにかかったわけだな!?」
狙《ねら》いはこれだった。
2−Cの面々の中で、たった一人《ひとり》だけ、昨日《きのう》のサクラ要請《ようせい》の連絡網を回してもらっていない奴《やつ》。それが、北村だ。金髪頭で妙に堂々と登校してきた北村は、竜児と大河の姿を見て一瞬《いっしゅん》顔を強張《こわば》らせ、しかしすぐに事情を察したらしい。さっさと無視して、歩き去る。憎たらしいほど小ざかしいのだ。数人の生徒がそれを追い、
「待てよ北村! あれが目に入らないのかよ!?」
「頼むから選挙、出てくれ! 立候補してくれ!」
「このままじゃ奴らに高校生活を台無しにされてしまう!」
……そうそう、その調子《ちょうし》その調子、竜児と大河はさりげなく視線《しせん》を交わし、作戦の出だしがうまくいっていることを確認《かくにん》しあう。魔道《まどう》に堕《お》ちた身をエサにした北村《きたむら》ホイホイ作戦。みんなに嫌《いや》がられれば嫌がられるほど、北村を選挙に出そうという外圧は高まるはずで、狙《ねら》いはまさにそこにあった。自分たちを潰《つぶ》すためには北村が立候補するしかないという空気を、学校中に広めていくのだ。そうして立候補せずにはいられない状況に迫い込んで、こわいこわいまんじゅうを食らっていただく。ちなみに、大河《たいが》と仲が良いことが全校的に知れ渡っている実乃梨《みのり》は、騒《さわ》ぎに参加せずに既にさきほどこっそり教室へ上がっている。大河を怖がるサクラになってもらうには、唯一不適格な人物だったのだ。
そしてもう一つ、ここで押さえておかなくてはいけないポイントがあり、
「きゃー! 怖い、一体どうなってるの!?」
――よっしゃ、いいタイミング、と竜児《りゅうじ》は小さく頷《うなず》く。大きな悲鳴を上げたのは、ここでのキーパーソンである亜美《あみ》。麻耶《まや》と奈々子《ななこ》を従えて堂々の入場である。サクラ要請《ようせい》を嫌がってしぶるのを、麻耶に説得してもらったのだ。
「あっ、川嶋《かわしま》さん! ここは危険だ、俺《おれ》の後ろに隠れて!」
「いや、俺の後ろにだ!」
「いやいや、亜美ちゃんはこの僕が教室まで送っていってあげるよ!」
さっそく亜美は男どもに取り囲まれ、四方八方から手を差し伸べられる。サクラでもないのにおせっかいな奴《やつ》が、三人に状況をざっと説明してもくれる。
麻耶と奈々子は「えー!?」「まあ大変!」とごく自然な流れで声をあげる。
「手乗りタイガーが生徒会長に立候補!? そんなの超困るじゃん!」
「そうだ、距美ちゃんが選挙に立候補したらどうかしら! 亜美ちゃんなら人望もあるし!」
二人《ふたり》の小芝居に、周囲から「そういやそうだな」「なにも北村じゃなくたって、亜美ちゃんが立候補してくれれば……」「川嶋さんならオールOKでしょ!」などと、新たな囁《ささや》きが広がり始める。亜美は麻耶と奈々子を振り返り、
「あたしが立候補?……そうね、このままじゃ手乗りタイガーにみんなの高校生活が破壊《はかい》されてしまうもの! あたし、そんな柄じゃないけど、みんなのためにオゥフ!」
ガッツン、と、今度は手加滅なしのマイク攻撃《こうげき》――ゴーゴー夕張《ゆうばり》の鉄球の如《ごと》く大河はマイクをコードで掴《つか》んでブン回し、見事なコントロールで亜美の脳天にブチ当てた。亜美はそのまま頭を抱えて片膝《かたひざ》をつく。「わー亜美ちゃんがー!」「亜美ちゃんしっかりー!」と、サクラもそうでないのも一体となって、さらに騒ぎは大きく拡大。
「ぬはははははー! この私の計画を邪魔しようとする者は、ばかちーだろうと誰《だれ》だろうと、容赦なしに闇討《やみう》ちしてくれるー!」
闇討ちもクソも正々堂々攻撃しているのだが、マイクをブン回す大河の意図は十二分に伝わったらしい。
「亜美ちゃんをこんな危険な目に遭わせるわけにはいかねぇよ!」
「くっそー、危なすぎて誰《だれ》も立候補できないぞ!?」
「そもそも北村《きたむら》が紛らわしい真似《まね》するから、あんな噂《うわさ》が出たんじゃねえか! やっぱり北村に立候補してもらう以外にねえだろ!」
「そうだよ、北村くんの責任だよこれって!」
サクラも交えて感動するほど自然な流れ、北村出馬以外の可能性の芽がこれで潰《つい》えたわけだ。怖いぐらいに思ったとおり、生徒たちは北村|擁立《ようりつ》の方向性で一致団結していく。こんなにも素晴《すば》らしい作戦を思いついてしまった己《おのれ》の頭脳が恐ろしい……我知らずひそかに身震《みぶる》いした竜児《りゅうじ》の背後、
「いっ……」
独っ。 と、妙にその音は重々しく響《ひび》いた。調子《ちょうし》に乗って大河《たいが》が振り回していたマイクが、いつの間にか背後に立っていたその人物――
「……逢坂《あいさか》さん。高須《たかす》くん。ちょっと、頭、冷やそうか……」
――独身担任(30)の額《ひたい》に、見事にヒットしてしまっていたのだ。
「……ふむふむ。なるほど。最初は高須くんが立候補しようと」
「……そうです……」
面談室《めんだんしつ》に竜児と大河は押し込まれ、生活|指導《しどう》の教師と独身の二人《ふたり》の前で、作戦のすべてを白状させられることになった。
「……とにかく、嫌《いや》がられる候補を立てて、『北村が対抗馬として立候補するしかない!』とみんなが思ってくれれば、北村も選挙に出ざるを得なくなるだろうと思って……でも、」
「……竜児じゃ、意外と誰も危機感《ききかん》を抱いてくれないような、なんかこれはこれで、みたいになっちゃうような気がして……だったらいっそこの私がやってやろう、って……」
はあ、と独身は疲れ果てたように目元を擦《こす》り、呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。
「つまりあなたたちは、生徒会長にさえなれば北村くんは更生する、って思ったのね? このままじゃいけない、って」
竜児は深く頷《うなず》いてみせる。
「……そうです。それに、そう思ったのは俺《おれ》たちだけじゃないんです。北村以外の2−C全員に電話で計画を話して、協力してくれるようにお願《ねが》いしたら、みんなも同意してくれました。北村が突然変わってしまった原因は、とにかく生徒会にあるはずなんです。そこにあいつを戻す過程で、原因がなんだったのかはっきりさせられるとも思ったし、原因さえわかれば、解決する助けにもなれるんじゃないかと思ったんです」
「でも、北村くんが最後まで立候補しなかったらどうするの? 候補が一人《ひとり》だったら選挙は形だけ、本当に逢坂さんが生徒会長になっちゃうのよ」
「……北村《きたむら》くんは、絶対に、このまま全部ほったらかせるような人じゃないから」
大河《たいが》の言葉に同意するように、竜児《りゅうじ》も頷《うなず》く。そもそも2−C全員がそれを信じているからこそ、二人《ふたり》は堂々と魔界転生《まかいてんせい》することができたのだ。
「周りに言われて、かえって意固地《いこじ》になるってことはありうると思うけど?」
「それでも、北村くんは最後には立候補するって信じてます」
強い確信《かくしん》に満ちた大河の言葉に、独身と生活|指導《しどう》の教師はそれぞれ視線《しせん》を交わした。そして、
「……わかった。そこまで言うなら、もう、とことんやってみなさい。ただし、逢坂《あいさか》さん。もしもあなたが生徒会長に選ばれてしまっても、『本気じゃなかった』なんて通用しないのよ」
「わかってます。そのときはそのときで、本気でこの学校をナイトメアのずんどこに」
「……もちろんそのときは、俺《おれ》もできるだけのフォローはします。学校の奴《やつ》らに迷惑だけはかけないように」
大河の声にかぶせるように、竜児は力強く後を継ぐ。はあ〜、とため息に沈んでしまった独身の顔を硯《のぞ》き込み、
「先生、大丈夫。私たち、無事に魔界から舞《ま》い戻ってみせる」
大河なりに気を使ったのだろう、いまだマイクの跡を額《ひたい》に残している独身を元気づける。
「……うん、ぜひ無事に舞い戻ってきてね。そうだ、ポスターとマニフェストのチラシぐらいは作らないと……あとで教員室にいらっしゃい、コピー機《き》の使い方教えてあげるから、自分達で血塗られた恐怖の選挙公約を考えてくるのよ。パソコン使えるよね? 手伝《てつだ》ってあげる」
――こうして独身(30)もまた、魔道に堕《お》ちた北村ホイホイの一味となった。
その日のうちに、ドブ色と闇色《やみいろ》ツーパターンのポスターがそれぞれ百枚作られて、学校中に貼《は》り巡らされ、そして各クラスには『魔契約の書』と血文字で書かれたマニフェストチラシが配布され、全校生徒を「マジなんだ……!」と、恐慌の渦に蹴り込むことに成功する。もちろん2−Cにもそれは配布された。全員そ知らぬフリで「とんでもないことになった!」「思い直してくれ、高須《たかす》!」などと白々しくも騒《さわ》いでみせたが、しかし北村だけはただの一言も、それに対する言葉を発することはなかった。
選挙活動期間は、金曜日《きんようび》までの五日間だ。金曜日で立候補は締《し》め切られ、翌土曜日は月に二度の登校日。ロングホームルームの時間を宛《あ》てて、生徒会長選挙が行われる。
***
「……いやー……ほんっとに、意固地な奴だったんだなー……」
「あれ以来、私、一言も口利いてもらえてないよ……」
「俺こそシカトされ続けてるぜ……っていうか、北村は、クラス全員をシカトしてんだ……」
呆然《ぼうぜん》と竜児《りゅうじ》はテレビもつけず、二人《ふたり》並んで体育座り。空《むな》しく言葉を交わしあって、ただ天井《てんじょう》を見上げていた。
刺身パックを出しただけの夕飯を終え、泰子《やすこ》はとっくに仕事に出た。残された二人はぼんやりと思う――時が過ぎるのは、なんと早い。
この部屋《へや》でクラスの連中に連絡網を回しまくり、計画を説明しまくったあの日から、もう五日が経過してしまったのだ。月曜日《げつようび》には昇降口で鮮烈《せんれつ》なる魔界転生《まかいてんせい》宣言。火曜日には下校していく生徒たちを校門前で待ち構え、一人《ひとり》一人に握手を求めてやった。水曜日には昼休みの校内放送で学生自治構想レポートを読み上げて、一年生の女子数人がめまいや精神的ショックを訴える騒《さわ》ぎを起こした。木曜日は休み時間を使って全クラスを回り、学校中を悲鳴一色に塗り上げて教師たちから「やりすぎだ!」と叱《しか》られた。
特別な仕掛けなどせずとも、手乗りタイガーの名だけで十分に、生徒たちをビビらせることは可能なのだと知った四日間であった。そして、気がつけば、あっという間に、
「あと、一日……もしも明日《あした》までに北村《きたむら》が立候補表明しなければ……」
「……私が生徒会長……」
二人は同時に黙《だま》りこくり、高須家《たかすけ》に沈黙《ちんもく》だけが重く垂れ込める。
北村は金髪頭で登校し続け、髪色を直せ、と怒られては「地肌が痛んでしまって染め直せません!」と頑固に言い返す日々だ。竜児をはじめ2−Cの連中の姿など視界にも入れないかのように一切シカト、「立候補してくれよ!」と日参する他《ほか》のクラスの奴《やつ》ら、先輩《せんぱい》後輩たちの懇願《こんがん》にも耳を傾けることなどなく、「この頭を見ればわかる通り、生活が乱れているものでとても生徒会長なんて務まらない」とあっさりスルーでシャットアウト。
思っていたほど簡単《かんたん》ではない。今更になって、北村が見た目どおりに単純シンプルな優等生《ゆうとうせい》くんではなかったことを改めて思い知らされた。奴は頑固で、気難《きむずか》しくて、執念深く、冷たいところもあって、それからなんだ竜児は抱えた膝《ひざ》に暗く顎を押し付ける。北村が泣いているのを見てしまったあの日から、ずっと同じことばかり思っている。
一体、今まで北村のなにを見てきたのだろう。
こいつのことならわかっている、なんて、思い上がりもいいところだった。
わかってやれる、助けてあげる、そんな未熟《みじゅく》な思い上がりのツケを、今、支払っているのだと竜児は思う。全然成長なんかしていない。繰《く》り返し、繰り返し、同じような馬鹿《ばか》な真似《まね》をしては失敗ばかりしている気がする。竜児が盗み見るのは、大河の横顔。大河のことだって、自分はかつて、全部理解していると思っていた。大河のことなら自分が全部手を出して、口も出して、面倒《めんどう》をみてやるのがいいことだと理由もなく考えていた――それが自分にとって、都合のいい、心地《ここち》のいい関係だったから。
それで、父親の件でも同じようにコントロールしようとして、失敗したのだ。大河を失いかけた。痛い目を見た。そして大河にも痛い目を見せた。二度とこんな馬鹿な失敗だけはするまいと誓ったはずなのに、高い教材費を払って学習したはずだったのに、こうして今また、北村《きたむら》という親友を失いかけているのだ。失敗したのはどこの時点だっただろう。……最初からか。
北村の変調《へんちょう》にも気づけなかったくせに、決定的になにかが変わってしまってから、なんとかしてやらなければ! などと、問題に首を突っ込んだところからして、もう間違っていたのかもしれない。でも、それなら、他人のことを理解するにはあまりに未熟《みじゅく》な子供の自分は、それを言い訳にして、あのまま北村を放っておけばよかったのだろうか。亜美《あみ》が言っていたみたいに、ああいう奴《やつ》は泣けば誰《だれ》かが救ってくれるのだから、北村本人もそれをわかってやっているのだから、なにもできない自分は手を出さずにいるべきだったのだろうか。実乃梨《みのり》が言うように、亜美みたいな『最後の救い』が現れて、だめな自分の代わりにもっとうまくやれる奴が北村をどうにかしてくれるのを待っていればよかったのだろうか。
だけどただ眺めて座っているようなことはとてもできそうにもなく――いや、それがそもそも独りよがりな自己満足で――ああ、でも。
「……わからねえ……。もう、なんにもわからねえ……」
うめき声を上げ、竜児《りゅうじ》は目を閉じた。
「竜児。……携帯、鳴ってる」
その爪先《つまさき》に、大河《たいが》が振動する携帯を畳の上を滑らせるようにして寄越《よこ》してくれた。見覚えのない電話番号に一瞬《いっしゅん》ためらいを感じつつも、赤い電話機《でんわき》マークを押した。行き詰まったこの状況から逃れられるならなんでもよかった、見知らぬ他人との通話でもなんでも。
「……はい?」
「もしもし、ええと、2−Aの村瀬《むらせ》、と言います。高須くんの携帯電話でいい……のかな」
「あ、そうだけど……村瀬、くん……?」
聞き覚えのない名前だった。一年生のときのクラスメートでもない。大河も不思議《ふしぎ》そうに首をかしげて竜児の顔を見上げている。
「いや、ごめん、初めましてなんだけど、クラスの奴の伝手《つて》をたどって携帯の番号を教えてもらってしまったんだ。ちょっと話したいことがあって、その、北村のことで……あ、俺《おれ》は生徒会の庶務で一年のときから北村とは一緒に活動してて」
「生徒会の……?」
音量ボタンを押して、声を大きくする。村瀬の言葉に、心臓《しんぞう》が少し速まるのを感じる。
「そう。高須くん、手乗りタイガーを擁立《ようりつ》して選挙活動やってくれたよな。わかってるよ、俺たち生徒会の連中はみんな。あれは北村を扇動するための作戦なんだろ?」
「おう……バレてたのか……」
「ああ。ちなみに他《ほか》の奴ら、クラスの奴らなんかも本気で怖がっているのはごく一部だと思う。二年生は特に、高須くんが本当は全然ヤンキーじゃないこととかだいたいわかってきてるからさ。北村の一番の友達ってことも。……とりあえず、会長選挙のことは心配しなくていいから、って伝えたくて。明日《あした》、北村《きたむら》が立候補しなかったら、俺《おれ》が立候補することになってる。そっちの立候補の取り消しもできるから、安心してくれ」
「そ、そうか……知らせてくれて、ありがとう。実はたった今も、本当に大河《たいが》が生徒会長になったらどうしようかと悩んでたところだった」
「大丈夫、こっちに任せてくれ。まあ、ギリギリまで北村が立候補するのを待つつもりでいるけどな。……建前上は、副会長が引き継ぐのがベストだと思うってところ。で、本音は、二年間も一緒に生徒会やってきて、こんなところであいつがいなくなるなんて、やっぱり考えられないんだ。そんなの全然、楽しくない」
「……だろうな。わかるよ」
「会長だって、口では『あんな馬鹿《ばか》野郎は放っておけ』って言っているけど、最後の最後でこんな風に終わってしまうなんて絶対望んでいないはずなんだ」
それもわかる、と同意の返事を返そうとして、しかし。
「……最後の、最後?」
「ああ、そうか、知らないよな。別に秘密でもなんでもないんだけど……うん、まあ、ちょっといろいろあってさ」
「いろいろってなにか、訊《き》いてもいいか? ……教えてくれ」
「いや……あー、ええと……」
村瀬《むらせ》は明らかに「まずった」とでも言いたげに、言葉を濁《にご》す。秘密でもなんでもないわりには、動揺の度合いはかなりデカそうではないか。やっぱり生徒会に北村|変調《へんちょう》の原因があったのだ、と竜児は確信《かくしん》する。これをここで聞き出さなくては、教えてもらわなくては、魔界転生《まかいてんせい》の意味もない。
「頼む、教えてくれ。北村のことが心配なんだ。なにがあったかわかんねえし、……頼りはもう、生徒会だけなんだ! なにか知ってるならなんでもいい、想像でも推定でもいいから教えてくれ、頼む! このとおりだから! ……頼む!」
見えるわけもないのに、竜児は必死に頭を下げていた。いやー、そのー、などとしばらく声を詰まらせていた村瀬も、やがて竜児の説得に折れる。
「……それが……そもそも、北村が生徒会を辞めるかも、って言い出したのは、ちょっと前にさかのぼる話で……文化祭、あったじゃないか。その翌日に、生徒会と実行委員で片付けのために集まったんだよ。その日にな、……」
竜児は畳に座り込んだまま、村瀬の語る話に聞き入っていた。最後には相槌《あいづち》を返すのも忘れ、黙《だま》って携帯に耳を押し当てていた。
そして話を聞き終わり、最後に一言、「……教えてくれて、ありがとうな」と。
通話を切って、携帯のフリップを閉じる。
立ち上がる。
「……竜児《りゅうじ》? ねえ、なんの電話だったの? 誰《だれ》から? 北村《きたむら》くんのこと話してたよね?」
大河《たいが》の声に返事もせず、長袖《ながそで》Tシャツにスエットのズボンという軽装のまま、何も持たずに玄関へ向かって大股《おおまた》で突き進む。竜児!? どうしたの!? と大河が後を追ってくるが、振り返りもしない。できない。
頭の中は、真っ白だった。
混乱と、そしてなんだろうか。怒りだろうか。自分でもわからないまま腹の奥底から燃《も》え上がるように沸き立つ感情が、竜児の理性を燃やし尽くしていた。
「ねえってば! どこ行くの?」
「……北村を……ブン殴ってくる!」
「ええ!? ちょっと、……竜児!」
上着もないままスニーカーを足にひっかけ、大河の悲鳴めいた声を振り切るみたいに玄関から飛び出す。鍵《かぎ》もかけずに、そのまま外階段を一気に駆け下りる。
天は夜の黒。空気は肌を刺すように冷たくて、一息ごとに喉《のど》を凍らせる。それでももがくみたいに走り続ける。アスファルトの硬い感触が足の裏を打ち、内臓《ないぞう》を揺すぶり、背中を痛ませる。止まらない足は国道に出てなおスピードを上げ、目指すは大橋《おおはし》を越えて、北村の家。シカトされようと、嫌われようと、引きずり出して問いただしてやる。未熱《みじゅく》で結構、失敗ばかりの馬鹿《ばか》で結構、もういい、もうどうでもいい。真剣に悩んでいたのは事実なのだ。北村のことを考えていたのは事実なのだ。自分だけじゃない、実乃梨《みのり》も、亜美《あみ》も、泰子《やすこ》も、能登《のと》も春田《はるた》もクラスの奴《やつ》らみんな、そして村瀬《むらせ》たち生徒会のみんな、北村の家族も、独身も、そして大河も。
大河は泣いたんだ。北村のために。
それが――そんな、ことで。
そんなどうしようもないことで。
ガキの駄々《だだ》でしかねえじゃねぇか。
「あの、あの、あの……ば、か、や、ろ、う……っ!」
噛《か》み締《し》めた奥歯の間から、呪組《じゅそ》みたいに搾《しぼ》り出した。国道から土手が見えてくる。コンクリの階段を駆け上がり、枯れた雑草の中をかきわけ、冬でもかすかにドブ臭い河川敷《かせんじき》の遊歩道に飛び出す。
一刻も早く、奴の襟首《えりくび》を掴《つか》んで、引きずり出してやりたかった。額《ひたい》がぶつかるほどツラ突きあわせ、あの澄《す》まし顔を眺めてやりたかった。一体どんなツラをして、そんなこと如《ごと》きで、こんな騒《さわ》ぎを起こしやがったのか、見てやりたかった。
近づく大橋の明かりを目指しながら、憎たらしい金髪男のツラを腹の底に思い描いたそのとき。不意に枯れ色の草むらから現れた人影《ひとかげ》と、
「……ヒィィィィ――――――――――っっっ!?」
「ぎや―――――――――――――――っっっ!?」
悲鳴を上げて鏡合《かがみあ》わせ。竜児《りゅうじ》がコケたらそいつもコケた。
いってえ、と呻《うめ》きつつ、相手を確《たし》かめようと眇《すが》めた目を開き、そして固まる。
街灯の下、二人《ふたり》は顔を見合わせてしりもちをつき、ぴったり同じポーズ。指を差しあって声をなくす。いや、どちらかといえば竜児の方が驚《おどろ》き度は高いかもしれない。あうあう唇を震《ふる》わせて、鉢合わせしたそのツラを、思い描いたのとはちょっと違ってしまっている顔面を呆然《ぼうぜん》と眺める。
「き……北村《きたむら》!? おまえ、そのツラどうしたんだ!?」
「高須《たかす》……」
ブン殴ってやるはずだったそいつの肩を気がつけば抱き起こし、ポケットを探ってティッシユを掴《つか》み出す。
「あ、ありがと……」
「誰《だれ》にやられたんだよ! 大丈夫か!?」
「いや、ちょっと親父《おやじ》と……家で……」
突然現れた北村は、鼻から顎《あご》までボタボタと血を流していた。見れば口からも血は滲《にじ》み、腫《は》れ上がった目蓋《まぶた》は痣《あざ》になって、もはや隠しようもない涙で頬《ほお》を濡《ぬ》らしてもいた。
「立てるか、ほら、掴まれ!」
「う……」
迷いなく差し出された竜児の手に掴まって立ち上がりながら、北村の両目からはさらに涙が溢《あふ》れ出す。見てみみぬふりなどもうできず、竜児はその背中を必死に摩《さす》り続けた。
この涙の理由も、村瀬《むらせ》が教えてくれたことだろうか――生徒会長・狩野すみれが、卒業後のはずだった留学の予定を早め、来週には学校を辞めて渡米してしまう。それでガキみたいに拗《す》ねているせい、なのだろうか。
***
滔々《とうとう》と――なんて言葉では響《ひび》きが良すぎるかもしれない。ただ幅広く、灰色《はいいろ》の街と街の境を流れる一級河川沿いの遊歩道の果て。
時折車道をトラックやタクシーが流れていく人気《ひとけ》のない大橋《おおはし》の歩道の隅っこに、二人は欄干《らんかん》の隙間《すきま》から足を投げ出すように並んで座り、揃《そろ》って黒々と濁《にご》って見える河の流れをただ見下ろしていた。
気まずく鼻をすすり、竜児は北村の横顔をそっと盗み見る。見事に、ボコスコにやられている。ユニクロっぽさ全開のニットの首周りはグダグダに伸び、中に着たシャツの胸元辺りまで血で汚れ、眼鏡《めがね》も弦《つる》が曲がってしまって斜めに傾いで鼻柱にしがみついている状態だった。家庭内|争議《そうぎ》が高まって、ついに親父がブチ切れてしまい、腕っぷしでは敵《かな》わずに北村は逃げ出してきたのだと言う。
「……悪かった。本当に。……ずっと、話せなくて」
「おう」
「本当に……いろいろ、ごめん」
「いいって」
北村《ぎたむら》は恥ずかしそうに自分の頭をかき混ぜ、覚悟したように一度深く息を吐いた。暗がりでも内出血でできた痣《あざ》がくっきり見える青黒い眼窩《がんか》を擦《こす》り、裂けた唇を舐《な》める。
「……みんなに、心配かけてしまってるのはわかってるんだ。逢坂《あいさか》が立候補したのも、俺《おれ》のためだってちゃんとわかってる。全部わかってる。で……あまりにもみんながそうやって心配してくれるおかげで、どんどん理由を言えなくなった。……とっても下らない、あほらしい、みっともないことだったから。村瀬《むらせ》に聞いて、そう思っただろ、高須《たかす》も。それで俺を問い詰めるためにウチに向かってくれてたんだろ」
ゆっくりと、川面《かわも》を眺めながら北村は続く言葉を落とした。とても言えやしなかった、と。
――生徒会長が、好きだった、なんて。
夏休みに生徒会の合宿があって、そのときに狩野《かのう》すみれが卒業後には留学するのを知って。そのあまりにも自分とはかけ離《はな》れた大きな夢も知って。そして、自分の器《うつわ》ではあの人にはついてはいけないと悟ったのだと。
「宇宙飛行士。に、なるんだってさ」
「う……う!? う!? うぅぅ!?」
「……ウソみたいだろ。でも、アメリカの宇宙工学の教授に直々《じきじき》に大学に招かれて、夢物語ではなしに、本当に、シャトル開発の勉強を始めるんだって。エンジニアとして、人類がいまだ到達していない世界を見てみたいんだって」
狩野すみれ……俺たちの、あ.兄貴が。竜児は「う」のまま口を動かせない。
兄貴が優秀《ゆうしゅう》なのは知っていたが、まさかそんな――人類、とか、宇宙とか、そんなだいそれたものに、リアルなその手で触れようとしているだなんて。アメリカ留学だけでも十分に、竜児《りゅうじ》には目が眩《くら》むような、現実感のない遠い世界なのに。いや、そうじゃなくて……それだけじゃなくて。
会長が好きだった、って。そこだ。初耳だぞそんな話。そこをもっと話せ北村|祐作《ゆうさく》。竜児はモヤモヤと一人身悶《ひとりみもだ》えるが、しかし北村の言葉は独り言めいて、
「だからさ。……失恋、ってのはとっくに規定|路線《ろせん》だったんだよ。きっぱり諦《あきら》めようって、決意はしてた。卒業式のその日までになんとか気持ちを整理《せいり》して、そして誰《だれ》よりも大きな声で、誰よりもまっすぐに、がんばってください! と伝えて、手を振って、笑って見送ろうって決めてたんだ。そのときには後悔なく、心の底から会長を応援しよう! って……」
その声が、不意に子供みたいに「ひ」とひっくり返りかける。唾《つば》を飲み、息をし、横隔膜《おうかくまく》が平静を取り戻すのを、竜児《りゅうじ》は今度は気づかないふりで待ってやる。
「で、……なのに突然、突然……」
「……おう」
「文化祭の片付けのときに、いきなり、もう行くから、って。来月には行くから、って。……卒業を待たずに、先方の都合で行くことになったんだって。退学して、高卒の資格は通信で取るんだって。俺《おれ》は混乱して、まだ残り時間は四ヶ月あるはずだったのに、そんなのないって思った。ずるい。どうしよう。まだ整理《せいり》なんかつかない。……あせりまくって、笑うことなんてとてもできなかった。なにも言えなかった。で……会長も俺に、なにも言ってくれなかった。いや、なにを言ってほしかったかなんて自分でもわからないんだけど」
石でできた橋の欄干《らんかん》を北村《きたむら》の手がきつく掴《つか》む。竜児には、かける言葉が見つからない。
「ただ、なんか……そのとき、思ったんだよ、ああ、俺の存在は、この人になにも残さなかったんだ、って。……二年間|想《おも》い続けて、なんにも、なにひとつ、埃《ほこり》ひとつ、あの人の心には残せなかったんだって。会長は自分の夢だけを見ていて、その視界の片隅にさえ、俺は存在してなかった。それが改めて、わかってしまった。俺という奴《やつ》は本当にしょうもないな、と。成長ゼロのバカだ、と。俺って、俺の今までの人生って、実は本当に価値のない、意味のない、どうしようもないモンだったんだね、と。で……まあ、こういうわけだよ」
もうなにもかも捨てたくなって、やめたくなって、壊《こわ》してしまいたくなって、それでグレようと思った――金髪頭をかきあげて、北村は情けなく笑う。
大事にしてきたものも全部捨てて、自分自身も全部捨てて、全部ゴミだったんだ! 俺にはそれがわかったーと、叫びたかったのだ。この優等生《ゆうとうせい》は。
「俺は……そうしたら、もしかして、会長が『そんなことない』って言ってくれると思っていたのかもしれないよな。……そうだとしたら、あーあ……俺ってどうやら、本物のバカだよ」
「おまえはバカじゃねえよ。傷ついただけだ」
同じポーズで竜児も欄干を握ってみて、その冷たさとざらつく痛みに素手が驚《おどろ》く。負けるか、とさらに強く握り締《し》める。北村の苦悩の原因を下らないなんて思ったことを、今は後悔している。
その真面目《まじめ》さゆえに、そして片想いが真剣であるがゆえに、北村は悩んでいたのだ。傍《かたわ》らに座って話を聞いた今は、それが痛いほどにわかる気がしていた。これもまた思い上がった勘違いなのかもしれないが、それでも竜児はそう思った。
「でも、別に……なにも最初から諦《あきら》めるって決めてかからなくたっていいじゃねえか。それぞれに目指すモン目指して、まあ、もしも叶《かな》うならだけど、……同じ家に帰ってこられればそれでよくねえか? それを望んで、告白してみるっていうのはそんなにナシなことか? そりゃ兄貴は引くぐらいに優秀で、とんでもないところを目指してるってのは事実だけどさ……目指す職業《しょくぎょう》に優劣なんてねえだろ。リーマンが宇宙飛行士より下、ってことはねえだろ。お水だって、営業だって、漫画家だって小説家だって、漁師だって建築士だってコンビニの店員だって学校の先生だって、真剣にやってるんならみんな偉くて、みんな立派だ。どうしてついていけないなんて妙な悟り開いちまったんだよ」
「……俺《おれ》は……そう、思えなかったんだ」
北村《きたむら》の声が、淀《よど》みに沈む。
「困難《こんなん》な夢を叶《かな》える会長には、敵《かな》わないと思ってしまう。同じ高みを目指せない自分を、恥だと思ってしまう。遠くに行ってしまう会長を追いかけたい、でも、追いかけるんじゃダメなんだと思ってしまう。……お荷物になりたくないんだ。邪魔《じゃま》な奴《やつ》、足を引っ張る奴、って、嫌われたくもない。かといって、会長と同じレベルにはどうやったって到達できない。俺を招いてくれる外人もいないし、退学してまで海外へ飛んでみたって、今の俺にできることはなにもない、結局いつまでも、会長を慕う『後輩《こうはい》』のままじゃ、さ……ダメじゃないか……」
「泣くなよ」
「……泣いてないって」
竜児《りゅうじ》の胸も、今、静かに痛む。
北村が狩野《かのう》すみれへの片想《かたおも》いを諦《あきら》めた気持ちが、わからないわけがなかった。職業《しょくぎょう》に優劣《ゆうれつ》はない。そう言うのは簡単《かんたん》だ。正しいから堂々と言うことができる。でも、それはやっぱり奇麗事《きれいごと》なのだ。宇宙飛行士は特別な、選ばれたほんの一握りの人間だけに任される、困難で重大な人類の夢を双肩《そうけん》に背負う仕事だ、他《ほか》の仕事で成功して、どんなにリッチな金持ちになっても、同じではない。本当はそんなこと、わかっている。それを言ってはいけない、と竜児の中の倫理観《りんりかん》が食い止めているだけで、本当はわかっている。地上から手を振って、応援して、サポートすることはできたとしても――それは決して、対等ではない。距離《きょり》の分以上に、いろんなことがあまりにも遠い。
わかっているんだ、そんなことは。
「……まあ、そういうわけでこんな頭になってみたわけだ。家出したりもしてみた。最初っから親はずっと切れてたんだけど、それでも俺のことを見守りモードでいてくれてたんだけどさ。とうとう今日《きょう》になって、『おまえは真剣に将来のことを考えているのか』とか『生徒会長選挙にも出ないらしいな』とか問い詰められて……学校なんかもう辞める! って、宣言しちゃったんだよ。……売り言葉に買い言葉で」
「それはまた……なんつうか、豪気な……」
「で、このとおりボコボコにされた。こんなこと本当に初めてでさ、あまりにもいろいろびっくりして、やっぱり殴られるのはとても痛い、親父《おやじ》が怒るのも無理ないし怖い、ようやく身をもってきっちり理解して、それで走って逃げてみた。……学校を辞めたい理由を言え、と言われても、言えるわけなんかなかったし。……失恋したのでヤケクソになってみたかった、なんて、なあ」
「……一応|訊《き》くけど、本気で学校辞めたいわけじゃねえ、よな?」
「もちろん。そんなこと望んでなんかない。俺《おれ》の望みは――思い通りに全部できるなら、会長の留学を予定通りのスケジュールに戻して、そして俺はかっこよく生徒会長になって、『後は任せて下さい!』とか言って、それで……会長に、北村《きたむら》は頼れる男に成長したな、って思ってもらいたい。ほんとは」
「……会長に惚《ほ》れてもらいたい、とかじゃねぇあたりに、おまえの人柄を感じるよ」
「おお、その手があったか。そんなの、あまりにも遠大な望みすぎて思いつきもしなかった」
竜児《りゅうじ》は思わず笑ってしまった。そして耳の奥で北村の語った望みを繰《く》り返してみて、改めて気がつく。
「そうか。……おまえ、やっぱり本当は、生徒会長になりたいんだ」
「バレたか」
北村も笑った。泣き声にも似た低い声が、心の秘密を白状していく。
「そう。なりたい。立派な生徒会長に、なりたい。……副会長は、生徒会長が任命するんだ。俺は副会長に選んでもらったとき、本当に嬉《うれ》しかった。会長は俺のことを少しは認めてくれているんだ、って。だけど、会長はもう、行ってしまう。それで自分が生徒会長になったら、本当にすべて始末がついて、本当に全部が終わってしまうような気がするんだ。……いや、現実はもうとっくに結末まで決まっているんだけど。俺が生徒会長になろうがなるまいが、会長との別離《べつり》は決まっているんだけど。でも、その『なりたくない』気持ちに相反《あいはん》して、副会長に任命されたときの気持ちまで否定したくない、とも思ってしまう。認めてもらえたのは事実で、それに応《こた》えられる男でありたいって思っている。そういう男になりたいんだ。会長が認めてくれるような。新生徒会長になりたい。でも、なりたくない。だって、なったら全部終わってしまう。いや、とっくに終わってる。……この繰り返しで、ずっとループしているんだ」
「……望んだとおりにはならねえよな。これが人生か……」
不意に懐《なつ》かしさを覚え、その正体に気づき、竜児は少し笑いたくなる。小さな白い息になって、口元から笑いが漏れてしまう。
「……なんだよ急に?」
「いや、思い出し笑い。……同じようなこと、春先に、大河《たいが》と言ったなって。大河もいろいろ、上手《うま》くいかねえことがあってさ……で、二人《ふたり》でファミレスで人生は難《むずか》しいな、って言いあって、最終的に、大河はキレて電柱を蹴《け》り倒した」
「おお、さすが逢坂《あいさか》……俺なんかとはレベルが違う」
天を仰ぎ、探すのは、静かなるオリオン。
大河の涙が止まって、二人がもう一度歩き出すまで、頭上に輝《かがや》き続けた星の群れ。
それらは降るような、とはとても言えない、遠くて弱い星の光たちだ、汚染された大気の層と得手勝手《えてかって》な街の明かりに阻まれて、数万年という時にも隔てられて、それでも、今日《きょう》も輝いている。あの日と同じ星々は、その光は、消えることなくあり続ける。
あの日も、今日《きょう》も、明日《あした》も、あさっても。
「なあ……アメリカからも、オリオン座って見えるんだろうか……」
同じように夜空を見上げて、北村《きたむらた》が訊《たず》ねてくる。
「……どうだろうなあ。同じ季節には見えないんじゃねえか?……アメリカったって、そも
そも広いしな」
「そうか……ここから見るのと同じには、見えないよな。そうだよな……あんなに遠い国だもんな」
「でも、星と星の距離《きょり》よりはずっと近いだろ。……もしも星が堕《お》ちて、星座の形が変わったとしても、見上げているのは同じ星座だ。傍《そば》にはいられなくても、一緒には見られなくても、夜が来て、季節がくれば、必ず同じ星を――同じものを、見ることができる」
そう。確《たし》かなものは、変わらない。
足を止め、空を見上げ、星を探し、どこかで同じ星を見上げている誰《だれ》かを想《おも》う気持ちは消えはしない。
それさえわかっていたなら、たとえどんなに離《にな》れていても――
「……あれ? 高須《たかす》、今の」
「ん?」
北村が急にキョロキョロ辺りを見回し始める。そして、あ、と指を差す。同時に、竜児《りゅうじ》の耳にもその声が届く。
りゆーうーじー。と。
ばーかーいーぬーがー。と。
枯れ草の中を縫《ぬ》うように、長い髪のシルエットが揺れていた。男物のマフラーを巻いて、フリルのワンピースにニットのパーカーでふわふわに膨《ふく》らんだ大河《たいが》は竜児の名を呼びながら、見当違いの方へ歩いて行こうとしていた。
「……やばい。さすがにこのやられたてホヤホヤのみっともない顔を女子には見られたくないぞ」
よし、と勢いをつけて北村は立ち上がる。ださい綿パンのケツを払い、振り返らずに竜児に手だけ振ってみせ、
「お先にな。帰るよ。……明日、学校で」
「北村……大丈夫かよ」
「ああ、大丈夫だ。親父《おやじ》には謝《あやま》るし……決めるから。ちゃんと、自分で」
小さく呟《つぶや》いて歩き去る背を見ようと立ち上がった、そのときだった。
「あー! いたっ! てめー竜児!」
先に反対方向の枯れ草の中へ消えていた北村には気づかなかったのだろう。大河は竜児を見つけるやいなや、結構恐ろしい形相《ぎょうそう》でこちらへ駆けてくる。多分《たぶん》ひどく罵《ののし》られる。殴られるかもしれない。身構え、覚悟をする。どっちからパンチが来ても避けられるよう膝《ひざ》の関節をゆるめておく。
「あんた! 止めるのも聞かずに飛び出して、こんなとこでなにしてやがったぁ!?」
「……おうつ……」
そして、瞬速《しゅんそく》で動いた大河《たいが》の氷みたいに冷えた手が、ずぼっと首筋に差し込まれた。
殴られるよりもずっと効率よく、あまりの冷たさに一瞬にして気が遠くなる。
「あんたの後をすぐに追いかけたんだけど、見失っちゃって迷ってたの。通りがかりの子に鬼般若《おにはんにゃ》がここを通らなかった? って訊《き》いたら、河川敷《かせんじき》の方に獲物《えもの》を求めて走っていった、って震《ふる》えながら教えてくれたわ。おお、罪な野良《のら》だこと……道行くガキにまでトラウマを……」
背の高い枯れ草の中に通る遊歩道を並んで歩きながら、大河はフン、と鼻を鳴らす。その鼻息が白く見えて、今夜は随分冷えているのだと今更ながら気がつく。身体《からだ》が震えるのは、寒いせいだったようだ。
「で。……北村《きたむら》くんのこと、本当に殴りにいったの……?」
「いや」
「……じゃあ、こんな時間までここでなにしてたの。あの電話、なんだったの」
「言わねえ」
――今ここで北村と話したことは、永遠に秘密にしておくつもりだった。自分にだから、北村は話してくれたのだと思う。たとえ大河に殴られても蹴《け》られても、殺人ツボ押しされても、十字磔《じゅうじはりつけ》のうえ流されて佐渡《さど》アイラン島でも、打ち首獄門でも……と、歩く靴先をなんとなく見つめたまま俯《うつむ》いていた竜児の息の根がそのとき止まる。
「うぅぅぐぅぅ……っ!」
まさか本当にくびり殺されるとは思わなかった。傍《かたわ》らを流れる川といわゆる三途《さんず》のアレがビジュアル的にクロスオーバー、本気でビビって振りほどこうとして、
「……立ち止まっててよ」
「ぅう……?」
喉《のど》を絞めた物体の柔らかさに気がついた。
大河は、竜児がしてやったみたいに、マフラーを巻いてくれていたのだ。精一杯に背伸びして背後から不器用に、しかし力だけは手加減なし、ヘタクソというか乱暴《らんぼう》で、かつ身長差のせいで首絞め状態にはなっているが、くるりくるりと投げ縄《なわ》みたいに竜児の首にやっとこさ二重にかけて、
「ぐえええぇぇ!」
「騒《さわ》がしい奴《やつ》……」
ぎゅっ、と。首の後ろで縊《くび》りあげて……いや、結んでくれて、できあがり。結び目を叩くのができたの合図。あまりの苦しさにもがくように喉元《のどもと》で重なるカシミアを自分で緩《ゆる》めて、ようやく息ができるようになって、そして、ふんわりとした暖かさに包まれた。
鼻先に香るのは自分の体臭ではなくて、大河《たいが》の髪の辺りからいつも立ち上る、甘い花の蜜を垂らした透明な水みたいな匂《にお》い。何度も貸してやっているうちにとっくに匂い付けされていたのだ。
女の匂い――シャンプーの香りか、ムースやワックスの香りか、それとも首元や耳の後ろの素肌の匂いか。とにかく暖かくて、三十六度の体温が染みたカシミアを、大河がするみたいに鼻のすぐ下まで引き上げる。冷えた両手で口元に押し付け、はあ、と竜児《りゅうじ》は息をつく。己《おのれ》の息の温度でまた暖まる。冷たすぎる初冬の夜の風の中、やっと、顔を上げられる。
枯れた雑草がちょぼちょぼ生《は》えた、乾いた砂を敷《し》かれた道、前にも後ろにも誰《だれ》もおらず、時折遠く、走る車の音がかすかに響《ひび》く。それのほかには風の音と、それから自分と大河の足音だけが河の流れの音に混じり、黒々と果てなく広がる夜の空には、あの日と変わらずに光り続ける星々の群れ。
見えなくたって、遠くたって、ずっとずっと過去の幻影《げんえい》だって、星々の群れは竜児の頭上に、今日《きょう》も昨日《きのう》もそこにある。明日《あした》も多分《たぶん》、そこにある。泣いても笑っても変わらずにあり続ける。そう思う。冷たい雨が降る夜も、身体《からだ》が震《ふる》えて止まらない夜も、この目を開けたくない日にも――そんな日があっても、ちゃんと星の光は雲の向こうに、そこに、ある。
あるんだ。
そして、星と同じに変わらないものも、きっと。
「……おまえは寒くねえのかよ」
「あっついぐらい」
いつもどおりに、大河の声は不機嫌《ふきげん》に淡々と冷えていた。キン、と凍《こご》える風が瞬《またた》かせる星々の青さそっくりに。揺れる髪もぐしゃぐしゃにして、背中にくっついたニットのフードをかぶせてやる。大河はなにも言わずにされるまま、だけど髪は個《つか》んで引っ張り出し、かぶせられたフードをもっと深く、目の下までぐいぐい引っ張る。
「……で、ほんとは、なにしてたの」
そう眩《つぶや》く顔は髪とフードに隠されて見えない。
「言わねぇっつの」
見えなくたって、別によかった。
「……あっそ」
ぽつり、ぽつり、と言葉を交わすたび、吐息の温度で暖まる。冷え切っていた身体の芯《しん》が、少しずつ、じんわりと体温の火を取り戻していく。
二人《ふたり》してポケットに両手を突っ込んで、並んだ距離《きょり》は三十センチ。手を繋《つな》いだりはしなくても、大河《たいが》は決してそれ以上は離《はな》れずに、竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らにいてくれた。フードの下から時々そっと瞳《ひとみ》を光らせ、歩くつま先を揃《そろ》えていてくれた。
大河、と、声には出さずに名前を呼ぶ。
――大河。
北村《きたむら》は、星なんかじゃねぇ。
何万光年も遠くで光る、幻の虚像なんかじゃねぇ。
おまえの頭の上に光っているのと同じ星の下を、同じように迷ったり、立ち止まったりしながら、それでも歩いていく人間なんだ。
いずれ堕《お》ちる星もあるだろう。だけど、大河も、北村も、そして自分も、どこかの誰かも、同じ星が堕ちるのを見る。人々はそうやって同じ星をいつも見上げ、どこかで同じ星を見上げている誰かを思い、そしてまた歩いていく。
だから大河だって、一人《ひとり》ぼっちなんかではないんだ。どんなに「一人で生きていくから大丈夫」と口に出しても、おまえが見上げた星と同じ星を、いつか形を変えるかもしれない星空を、しかしなくなることは永遠にない星空を、どこかで誰かが、少なくとも今は自分が、きっと見上げているのだから。
「……竜児。小腹すいちゃった」
「おう。……コンビニのおでん?」
少し間を置いて、
「……うん!」
大河の声は、夜のしじまに響《ひび》き渡った。
***
翌、金曜《きんよう》。
登校してきた北村|祐作《ゆうさく》の髪は、まるおとしか言いようのないダサダサの漆黒《しっこく》に染め上げられていた。昇降口で上履《うわば》きに履き替え、「あれ? 北村だよな?」「……更生してる」「ということは……もしかして!?」などとヒソヒソ交わされる声の中を、北村はゆっくりと歩み進んでいく。向かう先では、
「明日《あした》はついに投票日ぃっ!」
「投票しなかった奴《やつ》は地獄の果てまで追いかけて……あ?」
大河と竜児がマイク片手に、最終日の選挙演説を行っていた。しかし二人は北村に気がつき、不意に言葉を失う。
「……北村……」
「北村《きたむら》くん……」
北村は、笑っていた。
「悪かったな。 二人《ふたり》とも、もういいよ。……いや、これ以上の狼籍《ろうぜき》は許さんぞ! この北村|祐作《ゆうさく》が、この学校を、正しく導《みちび》いてみせる!」
その瞬間《しゅんかん》。
これまでかけた心配と同じだけのボリュームで、登校してきた生徒たちが、待ってました! とばかり、北村に盛大な拍手を送る。サクラの連中もみんなと一緒に手を打ち鳴らす、登校してきた亜美《あみ》も、他《ほか》の奴《やつ》に事情を聞いて、呆《あき》れ顔は一瞬だけ。かわいこぶりっこでみんなに合わせ、拍手を始める。
決めたんだな、やっと――親友と目を見交わす竜児《りゅうじ》の頬《ほお》に、恥ずかしいほどに盛大な笑《え》みが溢《あふ》れ出して止まらない。「やべぇ、高須《たかす》くんがブチ切れてる!」などと誰《だれ》かが叫んでも、竜児の表情は変わらない。
6
あまりに唐突な話に、
「……は?」
竜児は目の前の独身(30)の顔をマジマジと見つめ返してしまう。帰りのホームルームが終わってから呼び出された教員室に、気まずい沈黙《ちんもく》が垂れ込める。
「そ、そんな鋭《するど》い目で私を見ないで……小皺《こじわ》、気にしてるんだから……」
「……いや、そんなモン見てません。その……本当なんですか? なにかの間違いじゃ?」
「本当なの。北村くん、結局立候補届、まだ出してない。今A組の担任の先生が、北村くんが立候補しなければ自分が出る、と言っていた生徒会の子を捜して事情を確認《かくにん》しようとしてるところよ」
「それって、村瀬《むらせ》くん、ですよね。……昼休みに話した時は、すっかり北村が立候補すると信じて喜んでましたけど」
「そうか……北村くんは、まだ教室にいる?」
「いや、先生に呼ばれてすぐここに来たんで俺《おれ》もわかりません……っていうか先生、俺のことなんかわざわざ遠まわしに呼びつけないで、あの場で本人に直接訊けばよかったじゃないですか」
「教室で本人に問い詰めるようなことしたくなくて……北村くんが立候補したと思って喜んでるみんなの前で『届けがまだだけど、立候補しないつもりなの?』なんて訊いても、答えがイエス・ノーのどっちにせよ、変なプレッシャーをかけるのは確《たし》かだし……うーん……」
独身も混乱しているのだろう、イスに座ったままで長くて重いため息をつき、そのまま背中を思い切り反らす。バキキボキボキ、とすごい音がして、竜児《りゅうじ》は思わずお疲れ様です、と頭《こうべ》を垂れたい気分になる。今日《きょう》まで竜児が北村《きたむら》に翻弄《ほんろう》されてきたのと同じに、いや、もしかしたらそれ以上に、この三十路《みそじ》独身担任も奴《やつ》の件で疲れ果て、腰も背中もばっきばきになってしまったのだろう。そうして散々あれこれ気を揉《も》まされた挙句の仕上げが、この有様。北村は、結局立候補届けを出していないのだ。
あの朝の宣言は一体なんだったのだろうと思う。立候補を宣言したのはいいものの、その後でやっぱり気が変わったのだろうか。いや、本気で届けを出すのを忘れているだけなのかもしれない。だとしたら話は早いのだが――本人に問いたださない限り、いくら想像力を逞《たくま》しくしても答えは永遠に出ないだろう。
「……とにかく、本人をここに連れてきます」
「お願《ねが》い。規則上、四時までに届けが出ないと立候補したことにはならないから」
礼もそこそこに竜児は教員室を飛び出した。その途端《とたん》、教師の誰《だれ》かに「走るなー!」と声をかけられ、最大に譲歩《じょうほ》した大股《おおまた》の早足でせかせかと急ぎ足。下校する生徒たちで混みあう廊下を一人《ひとり》逆走状態で、気が急《せ》くままに階段を二段抜かし。
北村はとっくに届けを出したとすっかり信じ込んでいた。他《ほか》の奴《やつ》らも、当然みんなそう思っているだろう。これで北村がとっくに家に帰ってしまっていたら、そうしたらどうすれば、
「……おう!」
「ん♪ どうした、高須《たかす》」
いるじゃねえか――教室のドアを祈るような気持ちで開けた瞬間《しゅんかん》、あまりにも当たり前に自分の席で帰り支度《じたく》をしている素の北村を見つけ、竜児はそのまま脱力しかける。教室には数名の奴らが居残っているが、大河《たいが》や実乃梨《みのり》、能登《のと》たちの姿もない。
「……た、大河たちは……?」
「なんか駅ビルに今日《きょう》オープンのホットケーキカフェがある、とか言って、亜美《あみ》たちと合流した大所帯で張り切って出かけて行ったぞ。能登と春田《はるた》も一緒だ。俺《おれ》のことも誘ってくれたけど、遠慮《えんりょ》しておいた。おまえは行方《ゆくえ》不明だったから置いてけぼり。余りモンだな、俺たち」
あまりにもいつもどおりに明るく笑っている北村のツラに、竜児はとっさに声も出ない。思わずその笑顔《えがお》をまじまじと見つめてしまう。
「おいおい、なんだよ? 俺の顔になにかついてるか? あ、絆創膏《ばんそうこう》がついてるな」
北村はおどけたみたいに、口の端に痛々しく残る傷の跡《あと》を触ってみせた。ため息と一緒に、呟《つぶや》いていた。
「……そりゃ、のんきにカフェなんか、寄ってる気分じゃねぇよな。おまえは」
「……」
その瞬間《しゅんかん》、北村《きたむら》の笑《え》みが静かに強張《こわば》る。困ったように、眼鏡越《めがねご》しの目が揺れる。その表情を見て、納得する。届けの出し忘れなんかではない。
北村はまだ、迷っているのだ。
ったく、こいつはなにをしてるんだよ――頭を抱えかけ、危ういところで文句を飲み込む。どっとのしかかる疲労感にも竜児《りゅうじ》は耐え、できる限り冷静に。自分がここで苛立《いらだ》ったって仕方ない。立候補を強制したって、意味などない。これは、北村が立候補すれば正解、という話ではないし、それでは複雑な心情を持て余す北村の解決策にもならない。
生徒会長選挙に立候補するかしないかという二択の問題に込められた意図は、正解を選ぶことではなく、そのどちらかを、北村が自分で選ぶということにあるのだ。どちらかが正解で、どちらかが不正解なのではない。時間制限ギリギリのところで、どちらかを選ぶことができるかどうかを問う、これは意志の問題なのだ。グレてみせて、悩んでいるとアピールして、『誰《だれ》か』に決めてもらうのではダメなのだ。やっと竜児にも、それが飲み込めた。北村自身はそんなこと、とっくにわかっていたのだろう。だからこそ、こんなにも長い時間をかけて、迷い続けているのだろう。自分の中の糸を手繰《たぐ》るみたいにして、答えを出そうともがいているのだろう。
ただ、時間制限はとてもシビアで、
「……独身が、四時までで届けは打ち切りって言ってたぞ」
時計《とけい》を見る。針は、三時四十分を指している、残り時間はあと二十分。
「どうするんだよ、おまえ……本当に、このままで……」
余計なことは言いたくない。言いたくないが、やっぱりそれでも――
「帰ろう。高須《たかす》」
「おう!?」
あまりにもあっさり返され、二の句を失った。
「余りモン同士、一緒に帰ろう」
読みが外れた。北村は、もう迷ってなんかいなかった。完全に、選挙には出ない方針で心を決めているではないか。
「か、帰ろうって……みんな、おまえが選挙に出るって信じ込んでるけど、いいのか? 本気なのか?」
「気が変わった。一日考えてみて、やっぱり、やめた」
「……考える時間は、一応、まだ二十分あるぞ」
「いいんだ。もう、考えたくないんだ。これ以上同じこと言わせないでくれ。ほら、帰り支度《じたく》しろよ、待ってるから」
「北村……」
それ以上の言葉を重ねることはできなかった。北村は、選択肢の一つを、すでに自分で選んだのだ。ならば、なにも言うことはできない。
竜児《りゅうじ》は北村《きたむら》に促されるままに帰り支度《じたく》をし、バッグを担ぎ、マフラーは大河《たいが》に朝からとられたままだと思い出す。教室のドアを開き、廊下に出る。しかしここに至っても、本当にいいのか、これでいいのか、北村の代わりに頭の中は軽くパニック状態のまま。
いや、パニクったって無駄《むだ》だとは十分に承知している。これでいいのか悪いのかなんて、北村自身にもわからないことを、いくら竜児が考えたってわかるはずがないのだ。一方北村は、
「高須《たかず》と二人《ふたり》で帰るなんて久しぶりだよな。ほら、俺《おれ》は生徒会とか部活とか……一年生のとき以来か? もしかして」
あまりにも、自然体。
「……おう、そんなになるか。……そうか……」
「記念にどっか寄ろう。駅ビルは亜美《あみ》たちがいるから避けて、スドバでも行くか。ホットケーキのカフェなんて、軟弱なモンには興味《きょうみ》ないからな」
スタスタと歩き出す北村の背を見て、竜児はやがて、詰めていた息を吐いた。――諦《あきら》めた。
そう、竜児は本当は、北村が生徒会長になった姿を見たかった。生徒会で水を得た魚のように鬼コーチぶりを発揮する親友の姿を見たかった。きっと似合うと思ったのだ。立派な生徒会長になると思った。しかし、北村は選択肢の一つを選んだ。竜児はその選択肢の先に続く物語を、北村が歩む道の先を、「それならもう見たくない」なんて、放棄することはできそうにない。だから――そうすることにした。一緒に見ていく、ことにした。北村の選んだ人生に、友としてあり続けることを決めた。
よーし、と小走りで追いついて、男同士気持ち悪く並んで歩き出す。
「おう、男ならスドバだよな。俺《おれ》はブラックのコーとーに、チリドッグ食おう」
「さすが高須、チョイスが渋い。俺もコーヒーに、シナモントースト……いや、女々《めめ》しいぞあれは。チーズトーストにしよう」
「それがいい。男は放課後《ほうかご》にクリームなんて舐《な》めてらんねぇんだよ」
「そうだそうだ! コーヒーにミルクの泡もいらん!」
「いらねえいらねえ! スドバのおっさんのうざそうなツラみながらのブラックだよな!」
「須藤《すどう》さんのな! 俺、スポーツ新聞読もう!」
「あ、俺もそうしよう!」
まさに怪気炎、竜児と北村は「おー!」と腕を上げて歩調《ほちょう》を揃《そろ》えて教室を出た。下らないことを言いあいながら廊下を歩き出し、竜児は思っていた。
もうなるようにしか、ならないんだ。
決してヤケになっているのでもなく、捨て鉢になっているのでもなく。ただ一つの真実として。
物事はすべて、なるようにしかならない。どんなにあれこれ考えたって悩んだって、結局は歩き続け、たどりついたところをその目で見てみるほかはない。一歩一歩が選択の連続で、これが「結果」だとたどりついたその場所もまた、次の瞬間《しゅんかん》にはさあ選べ、と選択さぜられる「途中」になる。そうして向かって行く先には、自分が選んだ揚所しかない。進んだ方にしか、行かない。
だから、人は迷うんだ。あらゆる選択肢の前で時には勇気を失うんだ。逃げたくもなる。言い訳もなにも通用しないから。長い旅路がどんなに険しくなっても、人より損したように思えても、それが自分の選んだ道だから。歩くことで、自分が作ってきた道だから。しょぼい道しか作れなくても、やり直しもできず、誰《だれ》かのせいにもできないから。どんなに不満だらけでも、そこを歩いていくのは自分しかいないから。誰にも代わってはもらえないから。
「ああ……久しぶりに、夕焼けが綺麗《きれい》だな」
「……おう」
そして、信じた。
北村《きたむら》が決めて歩いた道なら、きっとどこにたどりついたって、それは「北村らしい」場所だろう。こうやって北村は正解も不正解も関係ない、唯一の道を作っていくのだろう。
オレンジ色に染まる廊下で眩《まぶ》しそうに目を細め、北村は窓の外に視線《しせん》を放る。歩む足取りが止まったのは、おそらく、夕焼けの美しさのせいだ。
「そうか……。一年以上も、丸々、おまえと二人《ふたり》で帰ったことがなかったのか。気がついたら結構、ビックリだよな。部活もあったし、なにより生徒会活動が毎日あったからなあ」
「……五月のバスハイクんときに座席が隣《となり》になって、話すようになって、そしたらおまえはすぐに生徒会に入っちまったんだよ」
「そうだったそうだった。懐《なつ》かしい。……そうか、五月になるまで、喋《しゃべ》ったこともなかったよな。むまえは気の毒に、周りを警戒《けいかい》して浮きまくっていたし」
「警戒もするだろ。入学式のその日には、もう『前科モンらしいよ』って噂《うわさ》流されてたんだから。おまえだってそれを信じてたから俺《おれ》のこと、遠巻きにしてたんだろ?」
「いやいやまさか。違うって。入学してすぐは、他《ほか》のことに夢中になってたんだよ。クラスの野郎なんて一人《ひとり》たりとも目に入ってなかった。……ああ、そうだったか。あの頃《ころ》のことなんか、話したことなかったよな。もう誰に話すこともないって思ってたけど……」
夕焼けの光の中、北村は不意に掲示板に向かう。
そこには大河《たいが》の選挙ポスターが、禍々《まがまが》しくも黒々と並べて貼《は》ってあった。北村はその一枚を止める画鋲《がびょう》をそっと外し、下に隠されてしまっていた一枚の貼り紙を救出する。男らしい立派な筆文字でただ一言、「走るな。生徒会」とだけ書いてある。ポスターを律儀《りちぎ》に元どおりにし、位置をずらして「走るな。」もきちんと貼り直す。
その手元を眺めながら、竜児《りゅうじ》は北村の語る声を聞いていた。
「……高校に入学したばっかりの頃、俺、すっごい張り切ってたんだよ。いわゆる高校デビューってヤツがしたかった。中学時代がそんなに楽しいもんじゃなかったから、新しい世界ではもう、とにかくめちゃくちゃ楽しく過ごしてやろう、って決めてて」
「へぇ……」
「楽しい高校生活、っていったら、やっぱり彼女が欲しいだろ。そんなとき、別のクラスにいたものすごい美少女が噂《うわさ》になった。有名な私立の女子中から来たとかで、随分なお嬢様《じょうさま》らしい、と。気になってわざわざ見にいって……一目ぼれだった、完全に。なんてかわいいんだろう、あんなかわいい子と知りあえたらそれこそ人生|薔薇色《ばらいろ》だ、って。ところが、どうも様子《ようす》を見ていると、告白しに行った奴《やつ》が軒並み泣いて戻ってくる。ひどい罵声《ばせい》を浴びせられたり、脅迫まがいの暴行《ぼうこう》を受けて男のプライドがズタズタ、だとか。あ、もうバレたか? 誰《だれ》の話か」
「……まあ、続けて続けて」
そんなのとっくに知っていたぜ、とは言わず、竜児《りゅうじ》はただ表情を隠し、橙色《だいだいいろ》の光を反射する北村《きたむら》の眼鏡《めがね》の細いフレームを見返す。
「……もう、ワクワクしてさ。あんな美少女が一体どんなことをしてくれるんだろう、想像もつかない、絶対知りたい、って。で、ある日、逢坂《あいさか》の――うお、言ってしまった。まあいいや、そう、逢坂のクラスに彼女を訪ねて行ったんだ。すいません、って呼び出して、階段の踊り場で誰もいないのを確認《かくにん》して、『あなたは綺麗《きれい》だ!』……って、素直な気持ちをモロ出し露出《ろしゅつ》してみた。そうしたら逢坂は、『気持ちが悪い!』って叫ぶなり見事な左ストレートをこの鼻先に、ヒットする一ミリ手前でピタ。って止めてみせた。拳《こぶし》が止まってから風がブオッとこう吹いてきて……こんな女子に会うのは生まれて初めてだ、って、もう感動だよ。だから、びびって尻餅《しりもち》をついていたんだが、立ち上がるなりもう一回、『いい! そのストレートなところに惚《ほ》れた!』ってまたモロ出してみた。こう、手を伸ばして。そしたら逢坂は襲《おそ》われるって誤解したんだろうな。一秒たりとも迷いもせず、『死にさらせ変態!』……今度は右フックだった。寸止めでもなく、こう、近づいていく俺《おれ》の肋骨《ろっこつ》の下から内臓《ないぞう》を狙《ねら》って。さすがにもう立ち上がれなくなって、逢坂の去っていく足音を聞きながら階段に座り込んだわけだ」
「なんて乱暴な……ていうか、本当にかわいそうだな、おまえ……」
「そう、かわいそうだったんだよ。痛いし、しかも完全に嫌われた。あーあ、薔薇色になるはずだった高校生活が遠のいていく……って、へこんでいたらさ。階段の陰から現れたんだ。あの人が。狩野《かのう》すみれが。『すべて見ていたぞ新入生。ふられたな? 大丈夫、おまえの高校生活はまだ始まったばかりだ。生徒会に来い! 地味な事務仕事はいつでもどっさり、忙殺しつつ立ち直らせてやる!』――気がついたらそのまま生徒会室に連行されていた。うちの生徒会の、それは実は常套《じょうとう》手段でさ。毎年庶務の希望者ってほとんどいなくて、つまらなそうにしてる新入生を探しちゃ一本釣り。見事に俺は釣られたわけだ」
うちの生徒会、と言ってしまって、しかしその失言には気づかないまま、北村は視線《しせん》を夕焼けの空へ。
「釣られて、生徒会に入って、それで……そうして今。俺《おれ》は逢坂《あいさか》と、友達になれた。あんなに望んでいた薔薇色《ばらいろ》の夢が現実になった。昼飯を一緒に食ったり、泊りがけで海に行ったり、文化祭で踊ったり……そう、逢坂は俺のことを好きだとも言ってくれた。まあそれは、俺を好きだと言いながら一番伝えたかったことはそうじゃなくて――」
にっこり、と北村《きたむら》は笑《わら》って、竜児《りゅうじ》を見た。
「――まあ、いいや。俺が言うことじゃないからな。ただ、とにかく楽しくなった。本当に毎日楽しくて、彼女はいないが、今の俺の学校生活はまさしく薔薇色なんだ。……あのとき、会長に声をかけられて、腕を掴《つか》まれて連行されていくときにフラフラと踏み出した『第一歩』は無駄《むだ》じゃなかった。あそこから、あの一歩から、楽しいことは全部始まったんだ。はっきりそう思う。なのに……」
不意に口ごもり、北村の笑顔《えがお》は吹き散らされるように消えていく。
歩かないのではなく、歩けないのだ、と、そのまま棒立ちになった足が雄弁に語る。選挙なんか放っておいて竜児と帰ると決めても、それでは前に進むことができないのだ、と。
選択肢の一つを選んだはずなのに、その先の場所に進む一歩がでないのだ、と。
そして、あとは独り言なのかもしれない。
「……生徒会長になるのが嫌《いや》なんじゃない。会長と決別するのが嫌なだけなんだ。でも、どんなに嫌でも、駄々《だだ》をこねても、時間は止まらない。現実も変わらない。結局……生徒会長になる覚悟も、ならない覚悟も、決まってない。本当は……本当はただ、逃げてしまいたい。会長がいなくなるという現実を受け入れられない。そんなふうにならない世界に逃げたい。……でも、ないんだよな、そんな世界は」
竜児は俯《うつむ》く友のつむじを見つめる。なにも口には出さないまま、ただ、立ち辣《すく》むその姿の傍《かたわ》らにともに立ち続ける。
「逃げ場はない。この現実世界でやっていくしかない。そのためには、現実を認めて、先に進まなくちゃいけない。わかってるんだ。でも、どうしても、それでも、……次の一歩が出ない。足が疎む。嫌で嫌で、動けない。……この先に続く現実は受け入れがたい。俺の望んだ形じゃない。行かなくちゃいけないのはわかってる。だけど踏み出したくない。時間の流れごと止めたい。……そんなことばかり……馬鹿《ばか》なこと、ばかり……」
夕暮れの光が、目の奥をかすかに痛ませる。
北村はそのまま言葉に詰まり、立つ力さえなくしたみたいに座り込む。
大丈夫だよ、と言えばいいのだろうか。竜児も言葉に詰まる。大丈夫、いつか失恋の痛手など消えるから、とでも気持ち悪く言ってやればいいのだろうか。それとも、兄貴だっておまえの良さに気づいて振り向いてくれる日が来るかもしれねえぞ。とか。
――違う。きっと、それは違う。
現実世界に踏み出さなければいけないことは十分にわかっていて、それでも立ち疎んでしまう自分を責めている奴《やつ》に必要なのは、慰《なぐさ》めでも勇気付ける言葉でもないはずだ。こんなときに必要なのはそうじゃなくて――
「おう……!」
驚《おどろ》いて、声を上げていた。
し ゃがみこんだ北村《きたむら》の背後から、長い影《かげ》が伸びる。影は北村の身休《からだ》を抱きしめるみたいに包み込み、だけどその人は、決して甘く笑ったりはしなかった。
竜児《りゅうじ》の方をチラリと見て、軽く眉《まゆ》を上げてみせるだけ。困った奴だよな、と。そして、
「よう。バカタレ」
「……っ」
北村の肩が、震《ふる》えるのが見えた。
振り返ることもできずに、子供のように無防備に、北村は丸めた背中を惚《ほ》れた女に晒《さら》し続ける。
「つまんなそうなツラした奴を一本釣りしようと思って探して歩いてるんだが、心当たりはないか? 副生徒会長が突然|失踪《しっそう》したもんで、仕事が溜《た》まってしょうがねえ」
「……心当たりなどありません。俺《おれ》、実は今、めちゃくちゃおもしろい顔してますから」
「ダメだな。言ってることがつまんねぇ」
「……どうもすいませんね」
「悪いと思うなら、とっととその臭い足をどこでもいいから下ろしてみろってんだよ。つまんねえこと考え込んでるヒマがあったら、とりあえず、上げかけた足の始末をつけろ」
ドン! ――と、狩野《かのう》すみれはお手本を見せるみたいに、北村のケツの後ろで足を踏み鳴らす。北村の肩がその音と勢いの恐ろしさに、もう一度、震える。
「それともてめえは、てめえの、北村|祐作《ゆうさく》の後をついて行こうと決めて、信じて待ってるガキどもを、こんなところで放り出すのか? そういうことができる男だったのか? え? おまえが過ごしてきたこのおよそ二年間って時間は、そんなにも軽いもんか? 本当に、もういらねえのか? おまえの気持ちは――足は、上がっているんだろ? 踏み出すために、そうしたんだろ? その上げた足は、どこへ踏み込むつもりでいるんだ? 前じゃねえのか? 横や後ろに逃げてえのか? てめえの道は、前へ続いてるんじゃねえのかよ? あ!? 一生、その間抜けなポーズのまま、悶々《もんもん》とできもしねぇ時間停止や現実|逃避《とうひ》の方法ばかり考えていたいってのか!? バカだろてめぇ!?」
ドスの利いた低い声を放ち、すみれの言葉には少しの淀《よど》みもない。竜児の耳にはちゃんと聞こえている。きっと北村にも聞こえている。
すみれが言っているのは、ただ一言。短い、たった一言――
「踏み出したい一歩が、あるんだろ!? あるから迷うんだろ? そんなもんがねえ奴は、そもそも行こうかどうしようかなんて迷わねえよ! 行きたい方向が、その先が見えてるからビビるんだ! それはてめえが一番わかってんだろうが! とっくに、てめえの腹は決まってるんだよ! とにかく下ろしゃいいんだ! それ以外に、なにがあるんだよ!!」
――行け!
行け! 行け! 行け! 進め、歩け、走れ!
北村祐作《きたむらゆうさく》の道を、とっとと、行け!
こんなところで立ち止まるな!
行け!
それだけを、狩野《かのう》すみれは、叫んでいるのだ。
「……私は、見てるからな。おまえがどんな生徒会長になるか。おまえがどんなふうにこの学校の奴《やつ》らを導《みちび》いていくのか。どんなに遠くからでも、私は見てるからな。さぼんじゃねえぞ。この視力測定不能の目をごまかすことができる奴なんかいねえんだから、な!」
「いっ……」
その背中に、思いっきりの平手が――一枚の紙が、押し付けられた。生徒会長選挙・立候補届け、と書いてあった。
そうか、と竜児《りゅうじ》は思う。
一人《ひとり》でこわごわ歩き出そうとして躇躇《ためら》っている奴に必要なのは、支える手でも慰《なぐさ》めでもなくて、GO! と背を押してくれる声なのだ。痛いぐらいに強く、前へ前へとぶっ飛ばしてくれる力なのだ。そうして、己《おのれ》の勇気を奮《ふる》い立たせることなのだ。
「じゃあな」
狩野《かのう》すみれは男らしく唇を歪《ゆが》めて笑ってみせ、竜児《りゅうじ》にも一度だけ手を振ってくれた。後は振り返りもせずに、大股《おおまた》でスタスタ歩いていく。いつもの兄貴の歩き方で、迷いなく、去っていく。前へ前へと進んでいく。
夕暮れの陽射《ひざ》しはいまだ眩《まばゆ》く、目も開けていられないようなオレンジ色の光の乱舞《らんぶ》。兄貴の背中は強い光に包まれて、すぐに見えなくなってしまった。
それでも、だ。
「……あーあ。……もう……なんていうか……今、何時だよ?」
「三時五十八分」
「……さすが、一番盛り上がる頃《ころ》に現れるんだな、スーパースターは」
北村《きたむら》は、すみれに託された紙を手に、立ち上がることができた。
いつかの夜と同じポーズで一度天を仰ぎ、眼鏡《めがね》を外した。目元をゴシゴシ乱暴《らんぼう》に擦《こす》り、前髪をぐい、と指で漉《す》き下ろし、
「……すまん、ちょっと急ぎの用ができてしまって、スドバには寄れそうもない」
再び眼鏡をしっかりかけて。
そこには北村祐作が――いつもと変わらぬ親友が、いつもの誠実そうな笑顔《えがお》を浮かべて立っていた。
「おう。残念。しょうがねえよ、また今度な」
「ああ、また今度。絶対」
なるようになるのだ、やっぱり。竜児も笑って、北村の笑顔を見返した。こいつなら、結局こうなると思った。堂々と後だしジャンケンで言ってやる。ああそうだ。最初から、こうなると思っていたとも。
すみれが去っていった廊下を、今度は北村が少しあせったみたいに、しかし決して走りはせずにせかせかと歩き出す。一人《ひとり》でそうして向かう先は教員室だろう。きっと独身が今頃、やきもきして北村を待っているはずだ。
頑張れよ、と眩《つぶや》いて、そして竜児は北村とは反対の方向へ。背を向け、一人、足を踏み出した。……なんて、大仰か。自分は単に家に帰るだけだ。
みんな、ばらばらに。それぞれの道を選んで、決めて、進んでいく。
――これでいいのだ。それは少しも、孤独なことなんかではないのだ。
みんな、行くべき場所がある。みんな一人で、歩いていく。自分で道を選び、定め、作っていく。それは時に交差し、時に傍《かたわ》らに並び、そうして別れ、いずれまた出会うかもしれない。もう出会わないかもしれない、
そんなみんなの頭上には、あの夜見つけたオリオンが、同じ星々が、輝《かがや》いている。見えないときも、見えるときも、いつも変わらずそこにある。確《たし》かなものは、きっとある。道に迷ったとき。立ち上がる力をなくしたとき。歩けないように思えたとき。そんな事態はいくらでもみんなの道の先に待ち構えているだろう。竜児《りゅうじ》は、そんなときには天を仰こうと思う。
そうして、遠く光る星を見上げ、同じ星をどこかで見ている誰《だれ》かの存在を思い出そう。どんなに遠く離《はな》れていても、駆けつけることができない距離《きょり》でも、それでも絶対に見上げている星は同じなのだと、ひとつなのだと、信じることが力になるから。
そして夜が明け、朝が来る。星の見えないその朝は、氷の色にそっくりなブルー。冷たい木枯らしが雲を吹き飛ばし、寒い寒い快晴の朝だった。
***
「さっ……びい……! なんで冬の体育館《たいいくかん》って、外より寒く感じるんだろうな!?」
「いや、確かに寒いけどよ、実際外出てみろって。ここより絶対寒いから……うおぉぉ……」
能登《のと》と二人《ふたり》してガタガタ震《ふる》え、竜児は思わず内股《うちまた》、猫背になって身体《からだ》を縮《ちぢ》め、両手はポケットの中で必死ににぎにぎやっている。かじかんでどうにもならないのだ。
全学年の全クラスがロングホームルームに割り当てられているこの時間に、生徒会長選挙は行われることになっていた。生徒たちは体育館に集められ、あちこちで「さぶぶぶぶぶぶぶ」「ぶばばばばばばば」とバイブレーションON。凍《こお》るほどにシン、と冷え切った体育館の冷気の中で、みみっちくブルブル震えまくる。女子たちはあちこちで仲良し同士くっつきあい、暖をとっていた。それはいい、しかし野郎はやめろ、と竜児は強く言いたい。さむいネー、と腕を組み、ニキビづらを寄せ合う光景にさらに背筋が冷たくなる。
とにかく今日《きょう》は、本格的に寒かった。寒いわ、騒《さわ》がしいわ、立たされたままだわ、なかなか始まらないわ、ガタガタ震える生徒たちのテンションもこれでは上がるわけもない。まあ夏場は夏場でサウナ風呂《ぶろ》だし、座らせられりゃ座らせられたでケツが痛くて死ぬほど冷えるし、本当に、体育館でやるイベントごとにはろくなことがないものなのだが。
しかし、それでも2−Cの連中は、全員ここで震え続けている。こっそり抜け出してサボ
りを計画したりせず、律儀《りちぎ》に舞台《ぶたい》を見上げている。
「あうぅぅうううぅぅぅうううぅ……はううぅぅぅうぅうぅぅぅぅ……」
人間とは思えないうめき声を低く上げつつ、大河《たいが》は竜児から今日も奪ったマフラーを鼻までずり上げ、ほとんど覆面《ふくめん》怪人と成り果てていた。その大河とがっちりくっつきあい、手足を絡ませ、実乃梨《みのり》はスカートの下とジャケットの下にジャージの上下をフル装備、もっこもこになっている。麻耶《まや》と奈々子《ななこ》は色違いで着ているセーターの裾《すそ》を限界まで伸ばすことで少しでも暖をとろうと頑張っていて、亜美《あみ》はジャケットのポケットの中に手を入れたまま、なにやら必死にもみもみと――使い捨てカイロかなにかだろうか。ぶりっこ鉄仮面もかぶり忘れて、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたまま、ひたすら寒さに耐えている。
そんな2−Cの面々が見上げているのは、舞台《ぶたい》に立つ一人《ひとり》の男の姿だった。
真っ黒に染め直された坊ちゃん刈りはつややかにまるおっぷり全開、眼鏡《めがね》もきらきらと磨き上げられ、生真面目《きまじめ》に結ばれた口元も頼もしい。まだ口の端には痛々しい傷が残っているが、それでも北村《きたむら》は、明るい目をしてそこに立っていた。
現実と立ち向かう覚悟も決めて、伴う痛みも受け入れて、清々としたツラをして。
「え。えーと、マイクは……うわ、入ってるか。……お待たせいたしました」
やっと現れた進行役の生徒会の一年坊主に、おせーよ! さびーよ! と理不尽な野次《やじ》が飛ぶ。だがそこに、異様な熱狂《ねっきょう》をもって大拍手する妙な奴《やつ》らがいて、竜児もそのうちの一人になる。2−Cの連中のそんな真剣さに、冷え切っていた体育館《たいいくかん》ににわかに熱気がこもる。
「えー、それでは、新生徒会長選挙を、これより執り行います。立候補者は、2−Cから副生徒会長・北村祐作《ゆうさく》さん、以上一名です」
ぅわっしょーい! そんなクラスの奴らの暑苦しい歓声に、よせよせ、と苦笑いで北村は手を振ってみせる。舞台の下に狩野《かのう》すみれとともに並んだ生徒会のメンバーたちも、なんだか妙に嬉《うれ》しげに笑っているような。
「……それでは、北村|先輩《せんぱい》! 選挙演説をお願《ねが》いします!」
「はい!」
びし! 手を上げて答え、北村はマイクの前へまっすぐに歩いていく。ちょっと低めにセ
ットされていたスタンドを手馴《てな》れた仕草《しぐさ》でさりげなく調整《ちょうせい》、
「まるおー! がんばれi!」
「北村ー! 手乗りタイガーから学校を救ってくれてありがとうなー!」
飛び交う声援に笑顔《えがお》で頷《うなず》く様子《ようす》も、なんだかすごく頼もしく見えた。まさに、ぴっかぴかの二年生、という雰囲気で、生真面目に整《ととの》った顔つきは眩《まばゆ》くさえあるのだ。一度壊《こわ》れたところを見たせいなのかはわからないが、とにかく今の北村は、ものすごく頼れる感じだ。
竜児《りゅうじ》はかじかむ手を、乙女《おとめ》のように胸の前で合わせた。いいぞ北村、とその胸は熱《あつ》い。別離《べつり》の覚悟も据わったのだろう、北村の視線《しせん》には惑いも憂《うれ》いも一切なかった。そんなものはとっくに振り切り、前だけを向いて行くことを決めた男の迫力なのだろうか、これが。
「ただいまご紹介にあずかりました、北村祐作です。私は、――いや、俺《おれ》は、」
右手がマイクを掴《つか》んだ。
よし行け、と竜児が力む。背中を押すように、強く思う。
クラスの連中も、生徒会の連中も、そして狩野すみれも、北村の出馬を祈っていた生徒たちはみんな、きっと竜児《りゅうじ》と同じに息を詰めているはずだった。行け、言ってやるんだ。楽しく明るい学校生活をイメージできそうな、見事な演説をぶちかましてやれ。誰《だれ》が生徒会長にふさわしいのか、完膚《かんぷ》なきまでに指し示してやれ。北村祐作《きたむらゆうさく》こそがその器《うつわ》だと、全校生徒に宣言してやれ。
「俺《おれ》は、」
北村は顔を上げた。口を開いた。肺いっぱいに息を吸い、そして全校生徒に向かい……いや、そうではなかった。
「……会長が! あなたが! 好きだぁぁぁぁぁ――――――――――――――っっっ!」
たった一人《ひとり》の女に向けて、全力の声を振り絞った。
「俺が今ここに立っていられるのは、あなたという人に恋をしたからです! 今の俺では釣り合わないとわかっているんです! 遠くに行くあなたを忘れなければいけないというのもわかってる! でもやっぱり、どうしても、伝えたかった! いつだってあなたの声が、言葉が、俺の支えだった! そして訊《き》きたいんです! 会長の気持ちを……少しでも俺のことを思ってくれているのかどうか! なにかがあるって、俺はずっと信じたかった! だから今でも、諦《あきら》めなければいけないとわかっている今でも、やっぱり想《おも》いを捨てきれない! お願《ねが》いです! どうか、どうかどうかどうか! 聞かせてくださいっ! 望みは――ぜロですか!? 俺《おれ》と会長の間には、本当に、本当に、特別な縁《えん》などないのでしょうか!?」
叫び切り、北村《きたむら》は顔を真《ま》っ赤《か》に染めてすみれに向かって頭を下げた。
ぽかん、と竜児《りゅうじ》の頭は真っ白になる。
全校生徒が揃《そろ》って、ぽかんと口半開きになる。
生徒だけじゃない、教職員《きようしょくいん》もだ。独身もだ。春田《はるた》までもだ。誰《だれ》もがぽかん、と目を見開き、今起きたことを頭の中でリピート。唐突な告白についていけている奴《やつ》は誰もいない。そう、誰も――大河《たいが》もだ。竜児は少し先に立っている大河の背中を見た、大河は凍りついたように動きを止めたまま、その表情は窺《うかが》い知れない。次第に辺りがざわつき始めても、まだ大河は、動くことができない。
「告白……?」
「告白、だよなあ、今の!」
「なになにどういうこと!? 兄貴に告自!?」
ざわめきは徐々に興奮《こうふん》の色を帯び、ぐい、と奥歯を噛《か》んだ北村の頬《ほお》の赤みも尋常《じんじょう》な色ではなくなっていく。今更真っ赤に顔を染め、それがなんになるという。竜児もまだ動けない。
北村は躊躇《ためら》っていた足を、ついに下ろしたのだ。選んだ選択肢は、竜児が予想していた「選挙に立候補する」ではなく、「受け入れがたい現実を変えてみる」、だったらしい。
あんなにも嫌《いや》がっていた、怖がっていた「選択肢の先」を、ならば自力で変えてみようと、奴は最後のあがきをみせているのだ。現実から逃避《とうひ》するのではなく、なるがままにただ受け入れるのでもなく、現実と戦うことを選んだのだ。北村|祐作《ゆうさく》という男は。
どうなるという。これで、未来はどう変わっていくという。
「兄貴ー! 回答回答ー!」
「そうだ、聞かせてやってくれよ!」
「マイク回せ、こっち!」
状況をおもしろがって見ていた奴らが、呆然《ぼうぜん》と停《たたず》む生徒会のメンバーの手からいつの間にかマイクを奪取、まるで芸能リポーターのようにすみれの口元へ差し出した。
すみれは、舞台《ぶたい》の上の北村を見上げた。視線《しせん》が合い、北村は耳の先まで血の色に染まる。すみれの顔色は、しかし変わらない。いつもどおりに眉《まゆ》を上げてみせ、おもしろい冗談《じょうだん》でも聞いたみたいに、
「……と、いうことらしい」
ごく淡々と、マイクに答えた。
北村から視線を外す。盛り上がりまくりの生徒たちに向かって困ったみたいに肩を竦《すく》め、笑ってもみせる。そして、
「どうだ、あれがご存知、副会長の北村祐作だ。おもしろいだろう。あんなおもしろい奴が会長になったら、きっとこの学校はもっとおもしろくなるぞ。清き一票を、ぜひあのおもしろい奴《やつ》に!」
――そのあまりにきれいなオチに、拍手さえ起きた。大騒《おおさわ》ぎの声の渦に飲み込まれるみたいに北村《きたむら》の告白は塵《ちり》と消え、体育館《たいいくかん》は爆笑《ばくしょう》に包まれる。「俺《おれ》あいつに入れてやろー!」「私も私も」と対立候補のない北村の票数は、どうやらさらに伸びていっている。
あーあ、と。
北村はわざとらしくおおげさに、天を仰いで頭を抱えてみせる。全校生徒の前で告白して、うまい具合に応援演説になった返答をもらって、結局フラれたんだかなんなんだか――そんなオチをつけられて、哀《あわ》れっぽくマイクスタンドに寄りかかる。芝居がかって、項垂《うなだ》れる。まるで最初から決められていたシナリオみたいに、本当に見事に丸く収められてしまった。
だけど北村の想《おも》いは、全部砕け散って、消えてしまった。
なにも残さずに、きれいにかき消されてしまった。
現実を変えようと挑んだ戦いに、これで北村は敗れたことになる。
マイクスタンドを抱くみたいに顔を伏せたその男の肩が、今にも涙に震《ふる》えそうになっていることに気づいた奴は、竜児《りゅうじ》以外にもいただろうか。……いたのかもしれない。
大騒ぎの中を、さりげなくステージ下にスタンバっていた春田《はるた》が、北村の肩を抱くようにして舞台《ぶたい》から下ろしてやっている。その階段の下には能登《のと》もいて、北村の背中を人目からかばうように肩を組む。北村はまだ顔を上げられない。上げることができない。大河《たいが》も動けない。
投票はこの後、それぞれの教室で所定の用紙に……そんな説明をもはや聞くつもりもなく、竜児は自分のするべきことを考えていた。
同じ星の下を行き、そして傷ついた親友のために、自分が今できることはなんだろうか。幻の星空を胸に思い描き、竜児は顔を引き締《し》める。
***
「狩野先輩《かのうせんぱい》!」
教室に戻る廊下も階段も混みあっていて、ところどころで渋滞が発生していた。それでも竜児は必死にたった一人《ひとり》の女の背を追い、普段《ふだん》は来ることのない校舎最上階、上級生が行きかう三年生の教室が並ぶ廊下に足を踏み入れていた。
竜児の声が聞こえたのか、同じクラスの連中に取り囲まれて教室に入ろうとしていたすみれが振り返る。竜児の顔を見て、おう、と片手を上げてくれる。
「なんだなんだ!? 狩野、また告白されんのか!?」
「うるせーよ、黙《だま》って教室に戻っとけ。ちょっと行ってくる」
同級生の軽口にもいつもの男らしい笑顔《えがお》で応《こた》え、そして竜児《りゅうじ》に歩み寄ってきてくれる。しかし竜児が口を開こうとするのはとどめ、
「ここはちょっと騒《さわ》がしいな、なんも聞こえねえ。こっち来い」
先導《せんどう》されてやってきたのは、屋上へ続く階段の踊り場だった。上級生たちの喧騒《けんそう》はまだ届くが、それでも廊下よりはずっとマシに二人《ふたり》の声は通る。
「……で? どうした、高須《たかす》」
「なんで、ちゃんと答えてやらなかったんですか」
すみれを強い瞳《ひとみ》で睨《みら》みつける。すみれは足を開いて仁王立《におうだ》ち、王者の余裕で悠々と、言葉は返さずにただ竜児の語る「続き」を待つ。竜児の視線如《しせんごと》きでは倒せない。それでも、立ち向かわなければならない。
「……どうして、あんなふうに逃げたんですか、昨日《きのう》、北村《きたむら》に足を下ろせ、と言ってくれたじゃないですか。前へ行け、って。それを言ったのは、先輩《せんぱい》じゃないですか。なのになんで、言うことだけはあんなに立派で、自分は平気で逃げられるんですか」
なにも、相思相愛だと叫んでくれなんて誰《だれ》も言わない。好きじゃないなら、仕方がない。でもそうじゃないのだ。竜児が許せないのは、すみれが、まっすぐに飛び込んできた奴《やつ》を受け止めることもせず、跳ね返すこともせず、自分だけはその選択から器用に逃げて、棚上げにして、そいつが一人《ひとり》でコケるさまを安全圏から眺めていたことだ。
まっすぐに行け、と誰より強く北村の背を押してやったのは、立ち止まることも逃げることも否定して前へ進む勇気を与えたのは、当のすみれだったのに。
「私は、立候補しろ、と言ったつもりだったんだよ。なにも告白してくれとは言っていない。おまえだって聞いてただろうが」
「そうやって……また逃げるのかよ……」
「逃げるのがそんなに悪いことか? まっすぐな奴は確《たし》かにいいもんだ、見ているこっちも気持ちが良い。だけどいつも馬鹿《ばか》正直にまっすぐ直進しか知らない奴、それは不器用、っていうんだよ。北村はもっと賢《かしこ》く、臨機応変《りんきおうへん》に、ってことを学んだ方がいい。おまえもだな」
「賢くって……あんたみたいにかよ!」
上級生相手に噛《か》み付く竜児の牙《きば》など、すみれにとっては薄《うす》い笑い一つで済ませる程度の痛みらしい。
「そうだよ。私のように賢く、私のように器用に、私のように逃げるべきときには逃げる。それが正しい。そうなれるように、せいぜい学べ。……できるかどうかはここの差だな」
冗談《じょうだん》めかして己《おのれ》の頭を指し示し、美しく整《ととの》った顔は余裕を見せて笑い続ける。言い返すことができない。反論《はんろん》したいのにできない。できないのはすみれが完全に正しいからではなくて、竜児が冷静に考える余裕をなくしているから。しかし悔しいのだ。北村のことも、そして自分のことも、せせら笑われたみたいで、悔しくて悔しくて仕方がないのだ。
みんながあんたみたいには、なれないじゃないか。
あんたはだって、なんでももってるじゃないか。
空を仰いで零《こぼ》れる涙を飲みこみ、星の光だけしか確《たし》かなものもなく、それでも地べたを必死に歩いていかなきゃいけない並の奴《やつ》らの苦しさが、神様に与えられたロケットで軽々と宇宙を駆け抜けてく奴に、わかるわけがないじゃないか。
だけどそれは言葉にならない。ただ今日《きよう》まで起きたあらゆることが、自分や友達――大河《たいが》や北村《きたむら》や、みんなの身の上に起きたたくさんのことが、溢《あふ》れるみたいに喉《のど》に詰まる。吐き出す力が、あったならよかった。そういう力も、自分には与えられなかった。すべてがとにかく悔しくて、竜児《りゅうじ》はまるで鎖《くさり》に繋《つな》がれた動物みたいに虚《むな》しく空《くう》を歯噛《はが》みする。
そんなザマを見やり、すみれはわずかに眉《まゆ》を緩《ゆる》めた。そして、
「……いい友達だよ、とにかくおまえは。高須《たかす》竜児。もっとおまえとも付き合ってみたかったな。心残りだが、時間切れ、さよならだ。これからも北村と仲良くしてやってくれ。あいつが私みたいに賢《かしこ》くて『悪いヘビ』に利用されたりしないように。……じゃあな」
それだけ。
悟りきったような静かな目をして、竜児の睨《にら》みにもまったく動じることさえなく、すみれは軽く肩を辣《すく》めて身を翻《ひるがえ》す。迷うことなく背を向けて、別れの言葉もそこそこに歩き去っていく。置き去りにされたことにも一瞬《いっしゅん》気づかず、竜児はしばし呆然《ぼうぜん》とその姿を見送る。
――いや、だめだ。
言い返す言葉も用意できないまま、足は自然にすみれを追っていた。これでさよなら、なんて冗談《じょうだん》じゃない。あんなふうに綺麗《きれい》に丸め込まれて、そしてこんなふうに見事にお別れ、そんなにうまいこといかせてたまるか。そう思うのだ。すみれのような奴に全部思いどおりにまとめられて、そして去られて、新しい世界ではまたすみれを中心に新しい物語が紡がれて――過去の世界でまとめられた「通行人A」の半端な想《おも》いはどうしてくれる。目に入らなければ、忘れてしまえばもう関係ないとでも?
そうはいくかよ!
「……っ」
教室に消えていった背を夢中で追う竜児の腹に、そのときドスン、と温かな塊がぶつかった。見下ろせば胸の辺りに淡色の髪とつむじ、そいつは竜児の身体《からだ》にぶつかって、そのまま押し戻すように突き進んでくる。
「た……大河……っ!」
どんどん押し戻され、最終的には両腕で身をもぎ離《はな》されるみたいに、踊り場の壁《かべ》に背中を押し付けられる。大河は顔を上げず、竜児の身体をそこに両手で縫《ぬ》い止めたまま、足を踏ん張っている。竜児はその異様に力の強い腕を振りほどこうと掴《つか》み、振り払われ、しばし無言の押し8あいがあって、
「大河《たいが》! ……なんで、止めるんだよ! これは北村《きたむら》のための、」
「……北村くん、泣いてた。ねぇ、一緒にいてあげて。竜児《りゅうじ》、お願《ねが》い。北村くんのそばに、今はいてあげて」
「……た、」
大河が、顔を上げる。泣いているのではないかと思っていた。北村の長かった片想《かたおも》いと、その想いの強さと、そして砕け散った瞬間《しゅんかん》と、そのすべてを目にして大河こそ泣いているのではないかと。
「私じゃだめなの。――私では、そばにいてあげられないの」
だけど大河の両目は、ゼロ距離《きょり》から竜児を見上げた二つの眼球は、濡《ぬ》れてなどいなかった。銀色《ぎんいろ》の光を帯びて、揺れもせず、全部わかってなお惑わず、ひたむきな強さでもって竜児を見つめて逃がさない。
「……おまえは、それでいいのかよ? こんなふうになって、それで、平気なのか?」
「私なら大丈夫。大丈夫なの」
少し乾いた唇には、柔らかな花びらめいた笑《え》みまで浮かべてみせるのだ。そうして首に巻いていた竜児のマフラーを、あの夜と同じに爪先《つまさき》立ちして持ち主の首に返してくれる。正面から二回巻いて、かっこ悪く顎《あご》の下で結び目を作る。ポン、と叩《たた》いて、
「大丈夫だから……北村くんのところへ行ってあげて。走って行って。振り返らないで、まっすぐに行って」
「……おまえはどうするんだよ。おまえは一人《ひとり》で、どうなるんだ」
「私は、一人で大丈夫なの。後から行くから、そうして。お願い」
冷たい手が、不意に竜児の両手を捌《つか》んだ。クルリ、とキャンプファイヤーの夜には踊らなかったワルツみたいに、体重をかけて引っ張りあって一回転。
「行って」
一瞬だけ、背中にひたいの丸みを感じた気がした。だけどそれを確《たし》かめる間もなく、大河の両手はドン! と強く竜児の背中を押す。そのまま走れ、と声が響《ひび》く。振り向かないで、と。躊躇《ためら》って、しかし竜児の足は駆け出した。挑んだ戦いにあっさり敗れ、泣いているという親友のもとへ。
そうして竜児を送り出し、駆け出す背中が見えなくなるまで見つめて、大河は少しだけ目を閉じた。
北村が、好きだと思う。憧《あこが》れの時が過ぎ、意識《いしき》過剰の時が過ぎ、誰《だれ》も知らない混乱があって、今また彼が好きだと思う。他《ほか》の女を想っていたって、気持ちが消えるわけではないのだと知る。
北村《きたむら》は、『自分が望んだものは決して手に入らない』という世界の法則がわかってしまってどうしようもなく立ち尽くした時、からっぽだったこの手を掴《つか》んでくれた人だ。血を流した心にしみるように優《やさ》しく名前を呼んでくれて、そして、一緒にいたいのは逢坂《あいさか》だと、こんな自分を選んでくれた人だ。
なんて優しい人。何度ありがとうを繰り返しても尽きることはない――目をゆっくりと、開いていく。廊下にはもう、誰《だれ》もいない。生徒たちはみんな教室に入って、教師は抜きで今頃騒《いまごろさわ》がしく一年に一度の投票ごっこを楽しんでいるのだろう。
自分も、北村のようにできたらと思った。だけどできなかった。そばにはいられなかった。そこにいるべきなのは自分ではないと、望まれているのは自分ではないと、それを知ってしまったら、一緒にいることはできなかった、傷つくのが怖かった。傍《かたわ》らに添い事実を受け止め続けることができなかった。それが自分の弱さだ。弱くて弱くて話にならない。
だけどどんなに弱くても、できることはしたかった。北村が自分にしてくれたように、彼の冷たい手を掴んではやれなくても。二人《ふたり》の距離《きょり》が、本当はどれほどのものであろうとも。
大河《たいが》がこれまで北村に渡せたものは、焦げた失敗作の目玉焼き。ホームラン記念の、ヘボいぬいぐるみ。
そして、今。
――大河は右手を、ゆっくりと首の後ろへやる。制服の襟元《えりもと》から突き出して、髪に隠されていた物騒《ぶっそう》なブツを確《たし》かめるように掴む。竜児が気づくことのなかった剥《む》き身のそれを背中から抜く。こんなことは間違っているだろうか。間違っているのかも、わからない。
わかるのはただ、歩き出した足は止まらないということだけ。
もう止まらない。
全身の毛を逆立てるような怒りが、噴《ふ》き出《だ》すような熱《あつ》い怒りが、自分の弱さを食い尽くして栄養にするみたいに育っていく。噛《か》み締《し》めすぎた頬《ほお》の内側が鉄の味を滲《にじ》ませても、荒くなった呼吸に鼻の穴がみっともなく広がっても、痛むほどに眉《まゆ》が寄っても、もう止まらない。目が眩《くら》むほどの純粋な怒りはもう自分ではどうしようもないのだ、許せない奴《やつ》に叩《たた》きつけるまでは決して打ち消すことができない。膨張《ぼうちょう》する怒りに己《おのれ》が全部食い散らかされてしまう前に早くたどりついて、と足に命じる。もっと早く歩いて、転んだりせずにあの女のもとへ私を運べ、と。
扉の前に立った。ブチ破る勢いで力いっぱいに開く手に迷いはなかった。バーン! と扉がすごい音を立て、上級生たちが目を丸くして自分を見る。
「狩野《かのう》……すみれ――――――――――――――――――――っっっ!」
叫ぶ声に血の臭《にお》いが混じる。手乗りタイガー!? なんでここに!? ざわついて立ち上がる奴らにも叫んでやる。
「殴り込みじゃあああああっっ! 狩野すみれ、出てきやがれぇぇぇっっっ!」
木刀を振り回す。机がひっくり返り、誰かの悲鳴が響《ひび》き渡る。たくさんの見知らぬ奴らが逃げ惑い、大河《たいが》の周りだけぽっかりと穴が空いたようになる。だけどやめない、出てくるまでやめない。
「こーれは大変だなあ、おい。……まだ残ってやがった。大バカ野郎が、もう一匹」
「……あんたを、ブチ殺す! あんたは、友達を傷つけた! あんたは卑怯《ひきょう》だった! 許さない……絶対!」
大河のあけた穴に、そいつはゆったりとした足取りで自ら歩いて近づいてきた。木刀を大きく旋回させて一振るい、邪魔《じゃま》立てする奴《やつ》は一緒に殺すと全員に示してやってから切っ先をぴたり、すみれの鼻先に。
「絶対に、許さない。相手にしないとあんたが逃げても、私はあんたをどこまでもどこまでも追いかけて、絶対に絶対に許しはしない」
「……心配すんなよ。誰《だれ》が逃げるって言った? いいよ。相手にしてやる」
竹刀《しない》! と一声、円を描くみたいに状況を見守る三年生の誰《だれ》かが袋に入った竹刀を投げて寄越《よこ》す。片手で受け取り、すみれは慣《な》れた仕草《しぐさ》で紐《ひも》を解く。
「逃げることは知恵の一つだ。逃げるべきときには逃げる、私はそれが正しいって思う。ここから逃げようと思えば、そんなのは簡単《かんたん》だ。だけど、今日《きょう》は特別に、私の意志で相手にしてやるよ。逢坂《あいさか》大河……てめえのバカさ加減を、この私が直々《じきじき》に叩《たた》き直してやる。躾《しつけ》てやる。なあ……まったく世の中バカばっかりだよ。いい加減イライラしてたところだ。ちょうどいいところに来てくれたなあ」
「っ!」
舐《な》めた女に手加減無用、大河はそのまま切っ先を前方に突き込む。真横に弾かれ、視線が合う。
「……残念。私って人間は、頭が良くて見目《みめ》もそこそこ、ついでにとっても運動神経が良くて、剣道と合気道で段を持ってるんだ」
――それはそれは、と大河は笑った。それは結構なことでした。すぐに終わっちゃしょうがないと思っていたけど、結構長く、楽しめそうじゃない。
***
教室の扉が突然ものすごい勢いで開き、2−Cの全員が弾かれたように戸口を見た。言葉少なく顔を伏せていた北村《きたむら》も、その隣の席を占領して元気づけようとしていた竜児《りゅうじ》も能登《のと》も春田《はるた》も、近寄るのは男どもに任せて遠巻きにただ見つめていた麻耶《まや》と奈々子《ななこ》も、姿の見えない親友を捜しにトイレへ行こうとしていた実乃梨《みのり》も、そして亜美《あみ》も。
「ヤンキー局須《たかす》はどこだ!? 早く来てくれ! なんとかしてくれ!」
「……え?」
そこにいたのは、息を荒げた上級生が数人。竜児《りゅうじ》の姿を見つけるなり飛び込んできて、無理やりに腕を掴《つか》んで引っ張っていく。
「え、え、あの、え!? 一体なにが、」
「おまえの相方の手乗リタイガーが、狩野《かのう》のところに殴り込みに来やがった! もうめちゃくちゃだ!」
――はあ? と。意味がわからない、もう一度言ってくれ、頭の中ではそう思いながら、しかし身体《からだ》はとっくに跳ね起きていた。先輩《せんぱい》の手を借りるまでもなく、竜児は走り出していた。
「お、俺《おれ》たちも行こう!」
「高須|一人《たかすひとり》じゃ止めらんねえだろ!」
「ったく、どうしちゃったんだタイガーはあ!」
ともに走り出したクラスメイトの姿も目には入らないなにをやってんだあのバカ、と叫ぶみたいに階段を駆け上がる。どこのクラスかなんて捜す必要もなかった。複数の悲鳴と、教室から溢《あふ》れ出しているのは逃げた奴《やつ》なのか、それとも火事場見物に入っていく奴なのか、
「どいてくれ! ちよっと、どいてくれ! 道をあけてくれ! ……大河!」
うお、高須乱入、と誰《だれ》かが叫ぶ。そいつを押しのけ、竜児は修羅場《しゅらば》の真ん中に到着する。机もイスも辺りにブッ散らかり、散乱した教材や荷物の只中《ただなか》で、
「こンの、ばっっっかたれがぁぁぁぁぁぁ―――――――――――っっっ!」
すみれの竹刀《しない》が大河の手元を真上からぶっ叩《なた》き、木刀が跳ね飛ばされる。大河はしかし冷静にエモノを放棄、すみれの喉元《のどもと》に一瞬《いっしゅん》でもぐりこみ、フリーになった両手を重ね、
「ばかばかばかばか、てめえはさっきっから、うるっせえんだ、」
「……ぐ!」
顎《あご》を斜め上へ殴ってそのまま振り抜く。反動で戻ってきたところを、
「よ!」
さらにもう一発、同じ顎を今度は回転してバックハンド。ガク、とすみれの膝《ひざ》から力が抜けて竹刀が床に落ち、身体の軸がフラついた。落ちたのかもしれない。だけど大河は容赦なし、そのままラッシュをかけようと一旦《いったん》身体を沈めたところで、
「……っだぁぁあぁぁおるぁっ!」
「うあ!?」
ジャケットの襟《えり》を両手で取られる。まるで魔法《まほう》のようにそれは一瞬、大河の小さな身体は足を蹴り上げられただけで軽々と宙に返され、そのまま背中から床に叩き付けられる。マウントを取ろうとのしかかるすみれの顔はすでに鼻血で真《ま》っ赤《か》に染まり、取られまいと身体を丸める大河の顔も同じぐらいの血で汚れている。血で双方ぬめる手は、今回は大河に有利に働いた。滑ったすみれの手首を下から取り、獣《けもの》みたいに叫んで形勢逆転。のしかかり、髪を引っつかみ、拳《こぶし》を振り上げる。
「やだ……やだあ! こんなのやだっ、もうやめぇぇぇぇぇ――――――――――っっっ!」
叫んだのは実乃梨《みのり》だった。無謀《むぼう》にもそんな二人《ふたり》の間合いに飛び込もうとするのを、竜児《りゅうじ》はほとんど突き飛ばすみたいにして止めていた。実乃梨まで巻き込まれたら、もう、もうどうしたらいいのかわからない。
「櫛枝《くしえだ》押さえてろ!」
転びかけた実乃梨を抱き止めた誰《だれ》かに叫んで、竜児は大河《たいが》に飛び掛った。
「うわああああああぁぁぁぁぁっっ!」
吼《ほ》えて震《ふる》える身体《からだ》を必死に背後から抱きしめる。腕を重ねて全力で押さえ込む。だが大河にはそれが誰の手だかさえもうわかってはいないのだろう、金切り声で叫びながら振りほどこうと暴《あば》れ、すみれの膝《ひざ》を腹に食らう。竜児が大河を押さえ込んでいると知るや、すみれにも容赦などはなかった。顔面を二度、三度殴り、今度は竜児が大河の顔を抱え込んでかばわなければならない。やめろとかなんとか叫びながら大河の身体を抱きしめて床に転がる。大河ははじけたカンシャク玉みたいに跳ね上がろうと腕の中で暴れ、学ランを引っつかむすみれの手にももはや生徒会長としての理性は残っていない。
そのとき誰かがすみれの腕を掴んでくれた。一瞬《いっしゅん》できた隙《すき》にそのまま何人かが力ずく、引き剥《は》がすみたいにすみれの身体にブラ下がる。引き離《はな》されて、
「離しやがれぇぇぇぇっ! このクソバカタイガーを、私が躾《しつけ》てやるぅぅぅぅ!!」
すみれの叫びがビリビリと竜児の耳を傷めた。
「なぁにが!? なにが、なにがなにがなにがなにが、なぁぁぁぁ―――にが、躾だよ!? えっらそうに! あんたはただの臆病者《おくびょうもの》だあっ!」
なぁぁにぃぃ!? とさらに踊りかかろうとするすみれの片腕を必死に押さえ込んでいるのは、北村《きたむら》だった。大河はさらに金切り声を上げ続ける。
「偉そうなことばっか言いやがって! おきれいな聖人ヅラして! 傷つくのも傷つけるのもあんたは怖いんだ! そのあんたの臆病さが、卑怯《ひきょう》さが、北村くんを傷つけたんだ! 許さない! ぜっっっったい、許さないぃぃぃぃっっっ!」
竜児に抱きしめられたまま、それでもまだ蹴りを入れようと大河は足を振り回す。振り回しながら、叫び続ける。
「臆病者っ! 卑怯者っ! 自分の心に向きあうこともできない弱虫っ! 弱虫弱虫弱虫弱虫弱虫ぃぃぃっっっ!」
「弱虫で結構、てめえは単純|暴力《ぼうりょく》バカだろうが!」
「あんたよりはマシだ逃亡犯! 言ってみろ! 北村くんの気持ちを受け入れないなら、おまえなんか嫌いだって、言ってみろ! 言えぇぇぇっっっ!!」
「黙《だま》れ―――――――――っっっ!!」
すみれも蹴りを入れようと足を跳ね上げる。上履《うわば》きがすっぽ抜け、大河の顔面に偶然のヒット。目に当たり、手で押さえて大河《たいが》は身体《からだ》を反射的に丸める。すみれの声が引《ひ》き攣《つ》れたみたいにひっくり返る。
「私は……私は、ウソは、つかないっ! だから……言わないんだっ!」
すみれはついに戦法変更、もう片方の上履《うわば》きを脱いで力いっぱい投げつけた。しかしそれはそっぽへ飛んで、ロッカーにぶつかって落ちる。
「てめえに……逢坂《あいさか》に、なにがわかるんだよ!? 私のなにがわかる!? てめえみたいな単純バカに、なれるんだったら、なりたいよ! 私だって、バカになりたいよ! まっすぐ突っ走るだけのバカになれたらって思うよ……っ!」
引き攣れた声が、嗄《か》れてかすれる。それにいらだつみたいに、すみれは身体を折った。
「好きなんて言ったら、……そしたら! あのバカは! 私についてこようとするじゃねえかよ……っ! 私がそうして欲しいってわかったら、私のためにそうするだろうが! あいつはきっと、いろんなモンを、平気で犠牲《ぎせい》にするだろうがあっ! あいつはそういう奴《やつ》だ、だから……だからぁっ! だから、私は、バカになれないぃぃっ!」
苦しむみたいに身を捩《よじ》ったそのとき、血よりも濃《こ》い涙が、完全無欠の生徒会長の頬《ほお》に零《こぼ》れた。認めたくないみたいにすみれは首を振り、だけど弾《はじ》いても弾いても、伝う水は止まらない。溢《あふ》れ出した言葉も、想《おも》いも止まらない。顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》め、嘆れた喉《のど》で叫び続ける。どうにもならない想いを泣き叫び続ける。
「私だって……バカに……なりたい……っ! でも……どうしても……どうしても、どうしても、どうしてもっ! ……で、きな、い……ぃぃ……」
――狩野《かのう》すみれが、まだたった十八のガキでしかないことに、どうして今まで気づかなかったんだろう。
どこか遠く、竜児《りゅうじ》は思っていた、みんな、ガキだったのだ。バカかバカでないかは問題ではなく、とにかくみんなガキでしかなかった。進む道を思い通りにできなくて、泣き喚《わめ》くガキしかいなかったのだ。最初から。
こんなふうになってようやく、教師たちが踏み込んでくる。大人《おとな》たちが状況の整理《せいり》に乗り込んでくる。
誰かがすみれの顔を心配げに覗《のぞ》き込み、怪我《けが》の具合を確《たし》かめる。他《ほか》の誰かが同じぐらいにやられている大河の腕を掴《つか》み、反射的に奪い返そうと手を伸ばした竜児の顔を一睨《ひとにら》み。二人《ふたり》の手は宙を掻《か》き、離《はな》される。そのままどこかへ引きずるみたいに大河は廊下へ連れ出される。
子供たちは、ただ呆然《ぼうぜん》と――
「会長は、本当に、優《やさ》しい人です」
「き……」
「……心から、あなたが好きでした! 出会えてよかった! 好きになれて……恋をして、本当によかった! 後悔は、ないです! ……ありがとうございました!」
――涙に濡《ぬ》れた顔のまま、見つめあう。引《ひ》き剥《は》がすみたいに、深く礼をする。さようなら、と呟《つぶや》くのは自分のために。そして、連れていかれた乱暴者《らんぼうもの》の後を追いかけて走り出す。事情を説明する奴《やつ》が必要だろうから。
すみれをとりあえず保健室に運ぼうとした教師が、竜児《りゅうじ》の顔にも目を留めた。大河《たいが》が暴《あば》れたのと、大河をかばってすみれにやられたので、自分でも気づかないうちに唇の端が切れ、頬《ほお》には引っかき傷が走っていた。竜児もこのまま保健室送りにされるのかもしれない。
そうして当事者たちが消えた三年生の進学クラスには、2−Cの面々が異分子として居心地《いごこち》悪く残された。教室の整理《せいり》を手伝った方がいいのだろうか、と躊躇《ためら》いながらもかがみ込んだ誰《だれ》かがそれを見つけた。
「あれ……生徒手帳だ……」
「……誰の?」
持ち主を確《たし》かめるために、数人が覗《のぞ》き込む中、手帳がパラパラと開かれる。逢坂《あいさか》大河、の名前を見つけ、
「タイガーのじゃん……落としたんだ、さっき」
「失《な》くさないように持っててあげないと。高須《たかす》くんは……そっか」
「誰が持ってようか。……あ」
「……あっ」
覗き見するつもりは、誰にもなかった。名前だけ確かめて閉じようとして、重みのあるビニールがけの表紙が、持っていた奴《やつ》の手に一瞬《いっしゅん》だけ張り付いてしまった。表紙の内側が偶然に見えてしまった、それだけだった。そして全員が、黙《だま》り込む。
生徒手帳の表紙の内側。折り込まれたビニールの中。そこに大切に挟まれていた一枚の写真を、みんなが見てしまっていた。それは文化祭の夜の、ダンスをしている二人《ふたり》の写真。そして知ってしまった。その思い出は大河にとって、生徒手帳にしまいこんでいつも持ち歩いておきたいほどに大切なものなのだと。
そう、北村《きたむら》が振られれば、その相手に殴り込みをかけたいほどに大切なのだと。
「……本当に、好き、なんだ……」
噂《うわさ》でもなく、冗談《じょうだん》でもなく。一人《ひとり》の少女の真実として、その恋は白日の下に晒《さら》された。生徒手帳を持ったまま言葉をなくしていた誰かが、しかしそのとき、踊る北村と大河の写真の下にもう一枚、別の写真があることに気がつき――
「これは、あたしが預かるね」
――確かめたくなる前に、ぴっ、と奪われる。大河の生徒手帳をポケットにしまい込み、憂《うれ》いを帯びた智天使めいた笑《え》みを浮かべてみせたのは亜美《あみ》だ。
「さあ、みんなで片付け、手伝おう。あの……先輩《せんぱい》のみなさん。お騒《さわ》がせしてしまって、本当にすいませんでした。あたしたちのクラスのタイガーが、なんてこと……」
「いやいや、川嶋《かわしま》さんのせいじゃないから」
「そうそう! 大丈夫、元気出して!」
亜美《あみ》がちょっと口ごもって捷毛《まつげ》を伏せてみせれば、まあざっとこんなものだ。そうして三年生に混じって、2−Cの面々も後片付けを手伝《てつだ》い始めるが、ただ一人《ひとり》立ち尽くしたまま動けずにいる奴《やつ》がいた。その存在に気がつき、亜美はわずかに瞳《ひとみ》を細める。
いつもの能天気な笑顔《えがお》もなくして、実乃梨《みのり》はなにかを考えているようだった。考え、打ち消そうとするみたいに眉《まゆ》を寄せ、しかし、ともう一度首を横に。そんな様子《ようす》をただ見つめ、亜美は思う。だいたいわかるよ、と。
立ち上がろうとして、やはり気が変わる。やめておこう、と床に散ったプリントの束を集める作業に戻り、しかしもう一度その手を止める。ポケットの中に放り込んだ生徒手帳の重みに気がつく。あの憎たらしい奴の、いつかの姿が蘇《よみがえ》る。今の実乃梨のように立ち尽くし、表情をなくしていたっけ。同情なんかしない。しないけれど、
「……」
亜美は立ち上がっていた。猫のように音を立てずに歩み寄り、立ち尽くす実乃梨の耳元にそっと短い言葉を吹き込む。
――罪悪感は、なくなった?
「……え……」
振り返り、実乃梨は目を丸く見開いた。そして、その実乃梨の顔を見た瞬間《しゅんかん》、亜美は言ってしまったことを悔やんでいた。自分でも意外なぐらいに、ずし、と胸が重くなる。だけどそれを、実乃梨には悟られたくなかった。そのまま棒立ちになった実乃梨を置き去りに、誰にも気づかれないように音も立てずにさりげなく三年生の教室から滑り出る。
そして一人、逃げるように必死にあせって廊下を走り、階段を駆け降り、ジュースの自動|販売機《はんばいき》が並ぶ広い踊り場へたどり着いた。
声なんて、上げられない。
「……っ!」
逃げ込んだのは、並んだ自動販売機の隙間《すきま》。壁《かべ》にすがりつくみたいにして、ゴン! とひたいをそのまま打ち付ける。
バカなことを言った。言わなければよかった。あんなことを言って、それでどうなることを望んでいたというの。もっとうまくできる人間に、なれたはずだったのに。なろうと思っていたのに。頑張りたかったのに。ダメにしてしまった。ゴン、ゴン、ともう二回。
そうだ。
同情だけじゃない。彼女に対する、嫉妬《しっと》もあった。そしてもっといろいろ……本当にいろいろな思いが絡まりあって、もう自分ではどうにもできないと思う。自分でも、自分がどうしたいのか、もうわからないのだ。どうすることもできない。
全然うまくなんかやれていない。変われない。なりたいようになんか、なれない。
無人の空間に頭突きの音はその後、さらに三回ほど不気味に響《ひび》いた。
実乃梨《みのり》はあまりにボケーっと間抜け、割れた花瓶を片付けようとして手を切った。
一時は鼻骨が折れたかも、と言われていたすみれだが、レントゲンを撮《と》ったところ骨にはまったく異常はなく、恐るべき骨密度、と医者を呆《あき》れさせた。そして顔をいつかの北村《きたむら》のように痣《あざ》だらけにしたまま最後の登校日を迎え、抱えきれないほどの花束とともに彼女は高校生を辞めた。その二日後には、日本を発《た》つ機上《きじよう》の人となった。
北村は、竜児《りゅうじ》に代わって校内「かわいそうな奴《やつ》」ナンバー1の座についた。生徒会長の座もオマケについてきたようだ。
竜児は、三日間ほど、本当に放送禁止な顔面事情を抱えることになった。ケガはたいしたことがなかったのだが、どう見ても出入りの後のヤクザにしか見えないツラになったのだ。なぜか泰子《やすこ》はそんな息子《むすこ》のツラに異常な興奮《こうふん》を示したが。
そして大河《たいが》は二週間の停学となった。最初は退学になるはずだったが、狩野家《かのうけ》の両親が、手を出したのはこちらも同じで、すみれだけが何事もなく留学するのに大河が退学になるのは忍びない。もしも大河を退学にするなら、すみれも留学させない、と言い出し、寛大な処分と相《あい》成《な》ったのだ。逢坂家《あいさかけ》の保護者《ほごしゃ》は、結局、最初から最後まで誰一人《だれひとり》、学校にもどこにも足を運ぶことはなかった。すべての連絡は、秘書を通した電話で行われたのだ。大河は結局独身と一緒に、スーパーかのう屋へお詫《わ》びとお礼を述べに行った。きちんと頭を下げ、謝罪《しゃざい》を終え、許された帰り道の途中には、高須家《たかすけ》の親子二人《ふたり》が心配そうに待っていてくれた。
独身は八年ぶりに煙草《タバコ》を一本だけ吸い、そして眉間《みけん》には消えない皺《しわ》が一本増えた。
――そんなみんなの頭上に、今日《きよう》もささやかな冬のオリオンが光る。
***
大河のいない学校から帰宅すると、泰子の姿はなかった。コンビニにでも行ったのだろう、と竜児は制服をかけに自室へ向かう。
窓越しに、大河の寝室が見えていた。あのドジ、と小さく舌打をする。冬だってのに大河は窓も全開、カーテンも全開でベッドに寝ているらしいのだ。さすがに部屋《へや》の全景は見えないが、ベッドの端に脱力した素足の爪先《つまさき》が見えている。
「あーあ、もう……寒くねえのかよ」
携帯を鳴らして起こそうとするが、寝室で鳴っている様子《ようす》はない。停学中だというのに太平楽に昼寝とは……本当に結構なご身分だ。
窓から身を乗り出し、「おーい! 風邪《かぜ》引くぞ! 寝るなら窓閉めろ!」と一応ご近所に配慮《はいりょ》しつつの大声を出してみる。足先はゴロン、と寝返り、しかし起きる気配《けはい》はなさそうだった。放っておこうか、と思い、
「……ったく、だらしねえんだから……」
本当に風邪でも引かれたら看病するのは自分だと気づいて、竜児《りゅうじ》は制服のまま家を出る。エントランスからドアホンを鳴らしてやれば、さすがの大河《たいが》も起きるだろう。起きたらついでに、そのまま買い物に連れていくか、と思う。確《たし》か今日《きょう》は魚の特売日だ。
大理石のエントランスに入って部屋《へや》番号を押し、そして問答無用のチャイム連打。左手の指でプッシュボタンを押しっぱなしにしつつ、そういえばマフラーをまた大河に取られたままだ、と思い出す。持ってこさせて自分が巻きたいが、大河の寒い寒い攻撃《こうげき》に耐えられるだろうか。
その頃《ころ》、マフラーは、ベッドに寝転んだ大河の肩の辺りを柔らかに包んでいた。本当は目を覚ましていた大河は連打されるチャイムに耐えかね、ようやく身体《からだ》を起こす。
弾んだスプリングのせいで、ベッドサイドからだらしなく重ねられた紙束が落ちた。学校から課《か》された反省文用の原稿用紙と、それとハガキが二枚。
欝陶《うっとう》しい独身が、「これは課題じゃないけど」と言いつつ手渡してきたのだ。一枚は、アメリカの狩野《かのう》すみれ宛《あ》てに、お詫《わ》びをしたためろ、と。そしてもう一枚には、内容なんかなんでもいいから、自分に送ってくれないか、と。そんなお願《ねが》いを聞いてやる義理はないから放っておいたが、あまりに暇で退屈で、適当になにか書いてやろうかと思い始めた。狩野すみれの分はもう決まっている。問題は、あの独身に送る方。なにも書かないのや、嫌《いや》がらせのドクロマークではあまりにも子供っぽいし、いやみったらしく一文字もなしのまま一色だけで塗りつぶしてやろうか。
寝転がりながら、何色を塗ろうかずっと考えていた。開け放した窓から見える空や雲を見上げ、そして高須家《たかずけ》の窓を眺めて。
色は今もまだ、決まらない。
***
狩野すみれが留学生仲間とルームシェアして暮らし始めた小さな部屋に、ある日一枚のハガキが届いた。差出人の名前はなく、しかし、ひっくり返してみてすぐにそれが誰《だれ》から送られたメッセージか理解する。
たった二文字――ばか、とだけ。
この国に来て以来、あまり元気とは思えなかったすみれが突然立てたおっさんくさい豪快な笑い声に、同じ年の同居人は驚《おどろ》いてランチのパックを取り落とす。
[#改丁]
あとがき
金曜日《きんようび》の夜八時なんですけど、ファミレスにいるんですけど、「こんな夕食タイムど真ん中じゃ席がないかもしれないな〜」とかちょっと心配しながら来てみたんですけど。現在の店内、かなり空いております。……週末の夕食をわざわざファミレスで食べようなんて人間は、この世にはあんまりいないんですね……おいしいのにね……手軽なのにね……ドリンクバーだって飲み放題《ほうだい》なのにね……こんなふうにお仕事だってできるのにね……。竹宮《たけみや》ゆゆこでございます……卜ーストにも、たらこ塗《ぬ》りますよ……バター塗って海苔敷《のりし》いて……。
さて。『とらドラ6!』をお手にとって下さった皆様、ここまでお付き合いいただきました皆様、心より、お礼申し上げます! どうもありがとうございました! ぶきっちょながら未熟者《みじゅくもの》ながら、なんとか六巻まで辿《たど》り着くことができました! ここまで書かせていただけたのも、皆様がこのシリーズを気にかけて下さったおかげです。ほんっと〜〜に! お力をいただいております! 読んで下さった皆様に、ちょっとでも楽しいひとときを過ごしていただけましたなら、私にとって、それ以上の喜びはありません!
そして超大変なことに、これが私の二十代、最後の本かもしれないという噂《うわさ》があります。もしも次巻もお付き合いいただけるなら、次にお会いできるときには、私、MISOJI……? かな? そうかもしれません。そんな可能性があります。確率《かくりつ》はゼロではないです。どうだろう。どうかな? ……うん、もう、わかんねえや……。
とはいえ、ある程度、三十路《みそじ》世界へ飛び込む覚悟《かくご》はすでに決まっているのです。だってここ最近、同年代の女友達《ともだち》と会っておしゃべりする話題といえば、「保険」とか、「ガン検診」とか、「相続」とか「金利」とか「年金」「インフレ」「巷《ちまた》を騒《さわ》がす事件・事故」……あ、あとあれだ、芸能人の結婚・離婚《りこん》・出産な。知り合いでもねえのに相手がどうだの、式が派手《はで》だのドレスが変だの、料理は美味《うま》そうだの良いの悪いのああだのこうだの……酒も飲まずに四時間五時間……こんなの、もうダメでしょ……? 自分をかばいきれない。お手上げ宣言です、加齢に対してガンジー宣言。時の過ぎるままに無抵抗。そして戦術は武田《たけだ》ですよ、乾いていくこと風の如《ごと》し、枯れていくこと木の如し、燃《も》え尽きること火の如し、ナリはいつしか山の如し。これぞおんな風林火山! 己《おのれ》の葬式代ぐらい、保険できっちり賄《まかな》います!
そして、ベージュのババシャツを買いました! 四千円もするんです、高いですよねーでも年取ると女はね、安いババシャツじゃ寒いうえに、肌《はだ》がチクチク痒《かゆ》くなって、耐えることができないんです! 肉体がそれぐらいのレベルのババシャツを求めてやまないのです!
……というわけで、どうか皆様! ぜひぜひ次巻『とらドラ7!〜ゆゆこ三十路の章〜』も、引き続きよろしくお願《ねが》いいたします! 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました! そして担当様&ヤス先生、老いる私を今後ともよろしくお願いしますね……。
[#地付き]竹宮ゆゆこ
[#改丁]
底本:「とらドラ7」電撃文庫
二OO七年十二月二十五日 初版発行