とらドラ! 5
竹宮《たけみや》ゆゆこ
[#地付き]イラスト:ヤス
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)顎関節症《がくかんせつしょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)洗脳|光線《こうせん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#改丁]
昼休み中の2−Cの皆さん。
突然ですが、学校生活は楽しいですか?
逢坂大河
「ああん!? うるっさいな、そんなモン知らん! どっかのアホがどっぷり秋も深まってるのに、お弁当にそーめんなんかもたせやがるから口がつべたくてなんもしゃべれないんだ」
高須竜児
「……い、いきなりなんだ? いや、そりゃまあ……最近は怖がられることもなくなったし、みんないい奴だし……ていうか悪い、今ちょっと麺類を食っているから後にしてもらっていいか? ああ、素麺だ。弁当に持ってきたんだ。ネギにしょうが、シソ、みょうがもあるし、麺は魔法瓶で冷え冷えだ。……秋なのに変? なにを言うか、秋だからこそ、スーパーで素麺が爆安売りしてんじゃねぇか」
櫛枝実乃梨
「えー!? 素麺いいじゃーん! そんあに不満なら俺のカレー、もっさりかけてやんよ! ……あれ? な、なんかクラスみんなの目が厳しいぞ? 私のせいで教室中カレーのオイニー充満中? 食が進んでいいじゃないの。ここがインドならそんなん日常だぞー」
川島亜美
「ん、なになに? 学校生活? やだあ〜そんなの当然、めっちゃくちゃ楽しいに決まってるよぉ〜! み〜んないいこばっかりだし〜、すっごく優しくしてくれる〜、毎日とっても楽しくってぇ〜……あー、カレーくさ……」
北村祐作
「2−Cはクラスの結束も固く! 非行生徒もおらず! 問題行動もなく! 非常に模範的なクラスであると委員長の俺は自負してい……なんかカレーくさいぞ!? よしわかった! 全員目をつぶれ! そして正直に手を上げるんだ! これより犯人探しを行う! 昼飯にカレーを持ってきたのは誰だ!?」
能登久光
「……春田、おまえはちょっと黙ってなって。うん。楽しいクラスだと思うよ。ちょっとアホが多いけどね……あ、でもでも、カワイイ女子も同じくらい多い! ガチかわいいよガチ!」
春田浩次
「カレー犯人探しー? あははははまったく北村はアホだなー! そんなのインド人に決まってんじゃなあー? あはははははー!」
香椎奈々子
「……うふふ、みんな、かわいいじゃない?」
木原麻耶
「っていうか、うちのクラス、まともなイケメンが一人もいないんですけどー!? あーあ、超ラブしたいの、超、超、超つまんなーい! ……暇つぶしに、まるおでもからかってこよっかな」
おまけ……?
恋ヶ窪ゆり(30)
「……小テストの採点……? ……まだでーす……すいませーん……。……教材の準備……? ……まだでーす……すいませーん……。……やる気……?ないでーす……すいませーん……。……二日酔い……? そうでーす……すいませーん……。……三十路……? あはは……三十路でーす……すいませーん……あは……あー………」
そんなゆりちゃんはほっといて文化祭編へGO!
[#改丁]
「……では結局、今年《ことし》も開催《かいさい》は一日のみ、ということで押し切られてしまったわけですか。会長ともあろう方が……」
「ただ一方的に押し切られたわけではないぞ。教職員《きょうしょくいん》との問の正当な取引だ、それも有利と見たからこそ。予算は例年のほぼ倍、さらにあれこれ条件ももぎ取ってやる。想定通りに事が運べば二日間開催を諦《あきら》めてなお価値がある」
「しかし、今どき文化祭が一日のみの開催なんて……悪《あ》しき伝統ですよね、これって。毎年全然盛り上がらないと聞きましたが、絶対そのせいでしょう。いくら公立でもあんまりですよ」
「仕方ねぇだろ。まぁこうなったらからには逆手《さかて》にとって、たった一日のお祭り、ってことで無埋やりにでも盛り上げてやる。なにしろ私にとっては、これが最後の大きな学校行事だからな」
「あの演説はお見事でした。『毎年毎年盛り上がらない文化祭は歴代生徒会に受け継がれし負の遺産《いさん》相続放棄という手もあるが、いっそ私が黒字化してやる!』でしたっけ? 三年生の実行委員長なんて感動しちゃって、スタンディングオベーションしてましたよ」
「感動するにはまだ早いな。今年の文化祭は盛り上がるぞ。いや、盛り上げてみせる。あれだけ大見得《おおみえ》切ったんだ、私の本気を見せてやろう、おまえら、全員ついてこいよ」
「まあ、ついていきますけど……あ、協賛《きょうさん》・狩野《かのう》商店なんですね」
「使えるモノは親でも使う。って、おい、てめえひとりでポテト抱えてるんじゃねえよ」
「会長だってひとりでナゲット全部食べちゃったじゃないですか。ちょっとやめてください、ケチャップなんてかけないでください。いい年して子供舌なんだから」
「私はまだ十八だよ子供だよ! 寄越《よこ》せ! 寄越せってんだー」
「わあやめてやめて、ケンカはやめてー!」
「やです、だめです、ポテトにとってもそんな食べられ方は不幸なんです、先輩《せんぱい》パスパス、守ってください」
「ひゃああー! 俺《おれ》の眼鏡《めがね》に油っこい指で触るんじゃなーい!」
──それはとある金曜日《きんようび》、とある放課後《ほうかご》のとあるファーストフード店。
とある高校の生徒会メンバー・総勢六名が、盛大に周囲の視線《しせん》を浴びながらとある行事の実行計画を練っていることを、いまだ知る者はない。
1
出席番号順にざっくり五人でチームを作り、狭い体育館《たいいくかん》のコートを男女入れ替えで使いながらのバスケの授業中。である。
昼食もすませてみんな満腹の午後の体育だ。ジャージ姿の高校生たちは揃《そろ》って気《け》だるく動作もスロー、
「女、すっげえダルそう」
「俺もダルいよ、男の子だけど……あっ、パンツのラインが……」
「誰《だれ》誰。どこ」
床板《ゆかいた》で弾むボールの音も、キュッ、と滑《すべ》るシューズの音も、どことなく間延びしたみたいにだらしなく反響《はんきょう》する。
そんな女子のバスケを見物しながら隅《すみ》っこに固まって寝そべる男子の群れは、飼いならされた乳牛そっくりだった。叱《しか》られないのをいいことに休日の親父《おやじ》みたいに並んで横になり、ぐにゃぐにゃと壁《かべ》にもたれ、仲良く連なって幸福そうな半眼《はんがん》でジャージに包まれた女子の尻《しり》あたりを眺めているのだ。
その群れの一角、ただ一対だけ異様に鈍《にぶ》く光る両眼は、
「……大河《たいが》のジャージの裾《すそ》、ほつれてるよな……」
牛柄《うしがら》の全身タイツで牛の中に身を隠し、敵対ヤクザの命を狙《ねら》う牧場ヒットマン──ではなく、みんなと同じにそこそこ気だるい、高須竜児《たかすりゅうじ》のものだった。
本人の意志とはまったく無関係なその眼光は、試合開始当初こそ別の獲物《えもの》を捕らえていた。都合《つごう》十人の女子の中で一際《ひときわ》元気に動き回り、結んだ髪を跳ねさせながらボールを追う体育会系少女・櫛枝実乃梨《くしえだみのり》を眺めていたのだ。なぜなら、彼女が好きだから。
まるで磁力《じりょく》に吸い寄せられるかの如《ごと》く、竜児《りゅうじ》の視線《しせん》はその眩《まばゆ》い笑顔《えがお》にまっしぐらであった。しかし、一瞬《いっしゅん》のよそ見に視線はまるごと攫《さら》い流され、今や他所《よそ》に釘付《くぎづ》け状態、なぜなら、『そういうこと』が気になって仕方がない性質《たち》だから。
「ほうほう、さすが高須《たかす》、目の付け所が違うな。裾《すそ》ねぇ、ふむふむ」
誰《だれ》かの肘《ひじ》が馴《な》れ馴《な》れしくその背中を突付《つつ》く。
「手乗りタイガーの足首……あれはいいものだ。いい趣味《しゅみ》だよ、やるねこのド変態」
別の誰かの指先はわき腹を。しかし、
「いや、足首じゃなくてあれ、裾。おう、やっぱほつれてるよ……」
危険な切れ味の三白眼《さんぱくがん》は、とある女子の足元に吸いつくように焦点を合わせ、びろびろとほどげた裾の折り返しを目からビームで焼き尽くしたいみたいにまっすぐ睨《にら》み続ける。……実際に目からビームは出ない。ただ、この週末のうちに繕《つくろ》ってやらねば、と心に誓っているだけだ。
件《くだん》のジャージの持ち主・手乗りタイガーこと逢坂大河《あいさかたいが》は、そんな視線に気づきもしない。やる気ゼロのまま適当にみんなにくっついて走り、ゴール下で両手を上げて形だけはガードガード、しかし結局低すぎる身長のせいでろくな妨害にもならず、その頭越しに弧《こ》を描いたボールは易々《やすやす》とゴールネットを揺らした。やったね、と腕を突き上げるのは、長い栗色《くりいろ》の髪を片側で結んで細いうなじを晒《さら》している木原麻耶《きはらまや》。彼女がソックスを引き上げた拍子、襟首《えりくび》から胸元がチラリと覗《のぞ》き、男の群れからもやったね、とひそやかな囁《ささや》きが漏れる。
「あーもー! 大河ー、おめー!」
「私のせいじゃないよー!」
ただひとり、真面目《まじめ》にバスケに取り組んでいた実乃梨は転がっていったボールを迫いつつ、チームメイトの大河に檄《げき》を飛ばした。その身に流れる体育会系・燃《も》え性質の血は、こんな気《け》だるい午後の体育においてなお、彼女のやる気を鼓舞《こぶ》しているらしい。
「さっきから点入れてんの私だけじゃんかよー! 大河もちっとはやる気出せって、本当は超うまいんだから! 今取られた点、取り返せー!」
「わかったわかった……」
素早《すばや》いスローで実乃梨からボールを受け取り、大河はとりあえず、という感じでドリブルを始める。たいしたやる気は見えないが、いざ相手チームの女子がそのボールを奪いにかかると素早いステップで腕の下をくぐるように逃げ回り、ボールは小さな手に吸いつくようだ。
おおー、と低い感嘆《かんたん》が、寝そべり観戦男《かんせんおとこ》の群れの中で響《ひび》き交わされる。
「さっすが手乗りタイガー、運動神経抜群。めちゃめちゃうまいじゃん」
「つうか、尻《しり》ちっちゃいなー」
ちっちゃいちっちゃい、と盛り上がる中、竜児だけはただひとり、あの裾を踏んで今にも大河が転びそうな予感がして気が気でなかった。そして、実乃梨がまたかわいいことをやっているのにも気づいてしまう。両手を叩《たた》きながら大河《たいが》のフォローに回り、「いいねいいね大河ちゃんその調子《ちょうし》!」だって──竜児《りゅうじ》の凶眼《きょうがん》は秘めた想《おも》いの熱《ねつ》を帯び、一層《いっそう》危なくギラギラ光る。せわしなく左右に揺れまくる。
やがて大河は三人がかりで取り囲まれ、正確《せいかく》なパスは足の間を通すワンバウンドで、
「ヘイばかちー!」
「えー?」
すっかり妙なあだ名が大河の中でだけ定着中の、川嶋《かわしま》亜美《あみ》へ。
「うおお! 亜美ちゃんだ亜美ちゃんだ!」
「かわいいよエンジェル! 素敵《すてき》だよデルモ!」
「亜美ちゃんジャージ姿もかわいいよ綺麗《きれい》だよキャー!」
寝転んでいた野郎どももむっくりと起き出し、手を打ち鳴らし、煌《きらめ》くような眩《まばゆ》い美少女の活躍《かつやく》を期待してじれったくも熱っぽく身を捩《よじ》る。それもそのはず、亜美は現役女子高生にしてプロモデル、誰《だれ》よりも白い顔は誰よりも小さく、見事に嵌《は》め込まれた大きな瞳《ひとみ》は宝石みたいにキラキラ輝《かがや》いている。ジャージ姿で立っていてなお、そのすらりと伸びたスタイルは深い森から不意に現れた妖精《ようせい》めいて美しい。
つまり彼女は誰もが認める超美人。性格にとっても難《なん》がある、と理解している竜児でさえも、その細身に思わず視線《しせん》を奪われる。が、
「やだぁだめだめ、今|爪《つめ》長いからボール触れなーい、折れちゃうしい〜」
くたっ、と身体《からだ》を捻《ひね》って、亜美はチェリー色の唇をすぼめて甘い声で泣き言を発する。そして左手は頬《ほお》に、右手でゴミでも投げ捨てるみたいにポイっとパスされたボールを大河に放り返し、受け取りそびれたそいつは大河の脳天にバウンド、跳ねてそのまま相手チームの手に落ちた。
ついでに、いっ……と声を詰めて脳天を押さえた大河に、天をも恐れぬこんな一言。
「ごめぇ〜ん! って、やだやだ逢坂《あいさか》さん、もしかして今のショックで身長|縮《ちぢ》んじゃったんじゃなーい!? やっばーい、なんかすっごいちっさくなっちゃってぇー……あっ、元々こんぐらいかあ! な・ん・て・ね! 冗談《じょうだん》冗談ー!」
けたけたけた! とかわいこぶって笑うそんな亜美の背後から、
「ぬあー! なにやってんだ、あーみんのばかー!」
「でも実乃梨ちゃん、諦《あきら》めたらそこで試合終了、でしょ※[#ハートマーク]」
「なにを言うか! いくかねポトリと!」
追い抜きざま、実乃梨は冗談交じりに細い首のあたりをくいくいとくすぐる。やーん、とクネクネ身体を捻る亜美の、その喉元《のどもと》に続けざま、
「てめえなにしてんだグズ! ばかちーのバカ! 大バカ! アホタレ! エセ天然チワワ! 腹黒! 人格破綻者《じんかくはたんしゃ》! ドスケベ! 命とったる!」
「うぐっ……げほっ!」
やられっぱなしでいるわけがない大河《たいが》の抉《えぐ》り込むような地獄突《じごくつ》きが容赦《ようしゃ》なく食い込んだ。喉は鍛《きた》えようがない、という。グラリ、と亜美《あみ》は傾《かし》いで膝《ひざ》をつき、
「へいみのりん、こっちパスパス!」
その傍《かたわ》らで実乃梨《みのり》からパスを受けた大河は間髪《かんぱつ》いれずに、
「へいばかちーもう一回パース!」
くず折れたまま咳《せ》き込んでいる亜美の脳天めがけてボールを放る。恐ろしい精度で弧《こ》を描いたボールはテーン! と間抜けな音を立てて亜美の脳天から再び相手チームの手に渡り、
「大河ー! なにしてんのもー! 怒るよ!?」
「違うよみのりん、今のはばかちーが悪いの」
「げほっ……。……やーだ〜、もー、逢坂《あいさか》さんてば〜……」
ここに至って、ようやく立ち上がった亜美の天使の美貌《びぼう》には、しかし『にっ……こり※[#ハートマーク]』と嘘臭《うそくさ》いほど清純な笑《え》みがへばりついていた。その鬼気迫《ききせま》るぶりっこぶりに、さすがの大河も気味悪そうに一歩下がって距離《きょり》を取る。亜美は笑顔《えがお》のまま、じりじりと距離を詰め始める。
しかしそんな恐怖の光景も、離《はな》れて眺めている男どもにとっては、真夏の入道雲より逞《たくま》しくそそり立つ欲望妄想の一コマに過ぎない。
「か〜わいい笑顔だな〜、亜美ちゃんってやっぱ天使だ……」
「おーおー、手乗りタイガーが裾《すそ》踏んでこけたぞ……」
「亜美ちゃんタイガーに流れるように馬乗りだあ、いいな、俺もされたいよ〜……」
「馬乗りって、そこはかとなくいいよなあ……」
「下からのアングルがこう……」
竜児《りゅうじ》だけがただひとり、血で血を洗ういつもの闘争《とうそう》が始まってしまったことを知る。亜美の長い腕は大河の喉を絞めにかかり、大河の小さな指先は下から亜美の日を潰《つぶ》しにかかる。二人《ふたり》の唸《うな》り声《ごえ》は体育館《たいいくかん》中に響《ひび》き、もはや女子たちはバスケどころではなく、二人を引《ひ》き剥《は》がそうとしたり逃げたり加勢したり放っておいたりと大騒《おおさわ》ぎだ。そんな地獄絵図を背景に、
「……なあ、みんな、亜美ちゃんのことが好きだろ? かわいいと思うだろ? 俺は思う」
不意に声を上げたのは、春田《はるた》だった。夏休み限定だったド金髪(評判最悪)の名残《なごり》か、先端だけが色の抜けたままで鬱陶《うっとう》しいロン毛をかき上げつつ、常には見られぬ真剣顔で隣《となり》に座った竜児の肩を熱《あつ》く抱く。きもい、とその手を跳ね上げるのと同時、コートでは体勢をひっくり返された亜美がなにをされているやら、ギギギ、と断末魔《だんまつま》の悲鳴を上げる。こっちはこっちで、春田が集団デコピンの刑に遭《あ》う。
「なんだよおもむろに、春田のくせに生意気《なまいき》だぞ」
「下らないこと言って、俺と亜美ちゃんのスイートタイムを邪魔《じゃま》すんじゃねぇ」
真《ま》っ赤《か》になった額《ひたい》を押さえつつ、しかし春田《はるた》はナゾの自己主張をやめようとしない。
「いってえ〜……でもさ、そう思うだろ? あんな亜美《あみ》ちゃんのこと、超ラブだろ?」
「もちろん亜美ちゃんはかわいいさ」
「でも春田に言われるとなんか腹立つんだよな。俺《おれ》の亜美ちゃんの名を馴《な》れ馴《な》れしく語るなっていうか。亜美ちゃんのかわいさはもちろんクラス一、いやこの辺の学校一だけど」
「あ、そういうこと言うの? だったら俺は手乗りタイガー派だなー。あの荒々しさがたまんねぇんだよ」
「え〜、そんなら俺は香椎《かしい》がいいなー。なんか押してみたらコロっといきそうっていうか、非常に柔軟な対応でこんな俺でもやんわり受け止めてくれそう」
「それ言ったら、木原《きはら》だって超いいじゃん。……ここだけの話、あいつあれで男女交際|経験《けいけん》ゼロらしい」
うっそー、ほんとにぃー? 見えなくなーい? とひそひそ盛り上がる輪《わ》の中で、竜児《りゅうじ》は熱《あつ》く、しかしひっそりと思っている。俺は櫛枝《くしえだ》がかわいいと思う。大河《たいが》と亜美を引《ひ》き剥《は》がそうと踏ん張っているあの勇姿《ゆうし》も、とばっちりを食って大河に齧《かじ》られながら「ほら……こわくない……」と宥《なだ》めるあの変顔も。
そんなそれぞれの脳裏《のうり》を桃色《ももいろ》に染める妄想をかき集めるかのように、
「そ、こ、で、だ。ぇ〜、レディース、エーン、ゼントルメーン」
春田はさらに意味ありげに全員の顔をジロリと見回す。レディスはいねぇよ、とかゼントルってなんだよ、とか言われても気にしない。
「みんなさあ、それぞれその胸の内に想《おも》う女子の、『非日常的かわいい姿』を見たいと思わないか? たとえば、メイドさん、とか! うっひょ! 見られるんだぜ、これマジで! な、高須《たかす》もほら、乗ってこいって!」
友人の暑苦しくもフリスク臭《くさ》い吐息《といき》を頬《ほお》に感じ、竜児は思わずその顔をまじまじと見つめてしまう。
「……春田、おまえ大丈夫か? 夏休み中に変なモノにはまってねえだろうな? 変な薬、変なマルチ、宗教……おう、まさか俺がおまえを置いて川嶋《かわしま》の別荘に行ったことをまだ根に持ってそれでおかしく……」
「根には持ってるけど! でもこれは別問題、本気で言ってんだって! ……っと、声がでかいな。みんなも真面目《まじめ》に聞いてくれ。次のロングホームルーム、ゆりちゃんが文化祭のクラス展示の内容を話しあうように言ってただろ? 俺俺、俺だよ。実行委員だよ」
「そうだっけ……?」
「わからん……」
「……で? っていう」
ああんもー! と反応の悪い奴《やつ》らを押しのけ、ド真ん中に陣取り、春田は「寄れ寄れ」と合図してさらに声をひそめる。
「……だから、文化祭で、たとえばメイド喫茶《きっさ》をクラスでやることにすれば、女子たちのメイド姿が見られるってことだよ。男全員で結託《けったく》して、多数決に持ち込めば文句なしの過半数。女子は意見まとめてないんだから。……どうよこれ?」
おお……と低いどよめきが、汗臭《あせくさ》い体育館《たいいくかん》の片隅《かたすみ》に巻き起こる。
「春田《はるた》にしては計画的だな」
「生まれて十七年、やっと脳の電源が入ったか」
「親御《おやご》さんもさぞお喜びだろう」
「へっへっへ、なんとでも言えって。じゃあ、みんなオッケーだな? メイド喫茶で意見統一完了、これで決定ってことで──」
「ちょっと待った!」
春田の目の前に顔を突き出したのは、黒縁《くろぶち》メガネの盟友《めいゆう》・能登《のと》だった。
「足並みを乱してナンだが、メイドより、俺《おれ》は断然チャイナを推したい! ……想像してみろよ、木原《きはら》のチャイナ……てかてかした素材でさあ、こう、身体《からだ》のラインにぴったりして、腿《もも》がチラリ、なんつって。飲茶《ヤムチャ》どうアルか〜、みたいなさあ!」
ああ……と全員がやや上方に眼球を向け、それも大いにアリだ、と頷《うなず》きまくる。竜児《りゅうじ》もアリだアリだ、とあまり親《した》しくない、しかし華《はな》やかな同級生の「にいはぉ〜」な姿を思い描いて瞳孔《どうこう》をギラギラと蠢《うごめ》かせる。が、すぐに思い直したみたいに顔を引《ひ》き締《し》め、
「……いや、待ってくれみんな……」
盛り上がる周囲と己《おのれ》の妄想を断ち切るように、苦《にが》い声を上げた。
「なんだよ高須《たかす》、盛り上がってるときになんちゅう目つきするんだよ」
「欲望丸出しじゃんかよ、いやらしいやっちゃ」
誤解だ。狂おしく飢《う》える欲を隠しきれずにオトコノコたちを眺めているわけではない。ただ考えてしまったのだ。
木原のチャイナはいい。香椎《かしい》もいい。もちろん亜美《あみ》もいいし、実乃梨《みのり》のなんてすごくとってもかわいいだろう。髪を健康ロリータセクシーなお団子《だんご》にしちゃったりして。
しかし、あいつは──大河《たいが》は、チャイナではかわいそうではあるまいか。
あんな平らな身体をぴったりしたドレスで人目に晒《さら》さなければならない羽目《はめ》になれば、きっと奴《やつ》はまたコンプレックスをこじらせて、メシも喉《のど》を通らない深刻なノイローゼ状態に陥《おちい》る。その面倒《めんどう》を見るのは自分だ。そしてその後はパットを作れだの、豆乳《とうにゅう》を作れだの、きっとうるさく命じられる。やるのは全部、自分だ。チャイナよりももっと大河に似合い、かつ、、自分にとって面倒のなさそうなのは……そうだ。
「……ロリータ系、っていうのか? あの、ブリブリの……あ、あいうのも、よくねぇか?」
シャ───ッ! といいタイミングで、背後の大河が視界の外で騒《さわ》ぐ。男どもは揃《そろ》って一瞬《いっしゅん》黙《だま》り込む。まずい、マニアックに走りすぎたか、と息を飲むが、
「高須《たかす》……おまえって、天才じゃねえの!?」
「これ……拍手ものだろ……ロリ! ないし、ゴスロリ! 俺が求めているのはそれだ!」
パチパチパチ……と控えめな拍手が輪《わ》の中から巻き起こる。苦《にが》い顔をしているのは春田《はるた》だけだった。
「ちょっとちょっと、この時間中に意見統一しないといけないのに、あんまり急にあれこれ言うなよ、わけがわからなくなるだろ……えと、えと、なんだっけ最初に言ってたのは」
脳みその容量が足りないんだな、と誰《だれ》もが理解して同情の視線《しせん》をクラス随一《ずいいち》のおバカさんに向ける。そこに、真の天才が現れた。
「──コスプレ喫茶《きっさ》にすれば、すべて解決するんじゃないか?」
一斉に振り返った男どもの目に映るのは、クイ、と中指で押し上げるメガネの銀縁《ぎんぶち》も眩《まばゆ》い、優等生《ゆうとうせい》・北村祐作《きたむらゆうさく》の姿である。その切《き》り揃《そろ》えられた前髪は二学期に入ってなおエッジ鋭《するど》く、まるおらしさもエンジン全開。どうしちゃったの、と言いたくなるぐらいに日焼けの残る顔と腕は、部活に旅行に夏を満喫した賜物《たまもの》だ。
「そっ……それだーっ! それでいこう! コスプレ喫茶ならなんでもアリだよな! さすが北村、伊達《だて》にぼっちゃん刈《がり》にはしてないな〜!」
春田ははしゃいで北村の肩を抱く。北村もまんざらではなさそうに、腕に密着蒲する春田の脇《わき》の下の感触に耐えている。皆口々にさすがさすがと北村の頭脳を称《たた》えつつ、黒い頭を撫《な》でくり回し、意外と引《ひ》き締《し》まった腕を擦《こす》り回す。親友である竜児《りゅうじ》もみんなに混じって北村の背中を愛と尊敬を込めてどつき、にんまりと脳裏《のうり》に夢の図を描いた。それはもちろんメイド姿の実乃梨《みのり》、チャイナ姿の実乃梨、ロリ服の実乃梨──どの実乃梨も竜児に淡《あわ》い笑《え》みを向け、「これ、似合うかな?」などと照れてはにかんでみせている、とっても似合うよ。いいじゃないか。とんでもなくいいじゃないか。
しかし、そんな風《ふう》にして盛り上がる男子の輪の中で、
「……計画通り……!」
ただひとり、中心で触られまくっている北村だけが、人には見られぬように俯《うつむ》いて、怪しい笑みに唇を歪《ゆが》めていた。気づいている者はいまだ誰《だれ》もいない。フッフッフ、と声には出さぬ笑いに腹筋を仙ったところで、
「あとは向こうの動きを待つのみ……いっ!」
「いたっ!」
「いってぇ!」
その頭も、その隣《となり》の頭も、後ろの頭も、竜児の頭も、順番にガッツンガッツンと引っぱたかれていく。いつの間にやら女子のバスケは終わっており、体育科教師の黒マッスルが気味悪そうに顔を歪め、いつまで経《た》っても召集に応じずにイチャイチャくっついている男どもの頭を出席簿《しゅっせきぼ》でぶっ叩《たた》いていっているのだ。
「……おまえら、みんなプロテインを飲め。プロテインを飲んで身体《からだ》を覚醒《かくせい》させろ」
「竜児《りゅうじ》! これ、ここ! ばかちーに破かれた!」
「おうっ……」
更衣室《こういしつ》に戻る渡り廊下で、竜児は一瞬三途《いっしゅんさんず》の川《かわ》を見た──と思った。背後からジャージに
飛びついてきた大河《たいが》が、全体重をかけて竜児の喫を鶴で縫めたのだ。くらっ、と揺れるブラッ
クアウト寸前の目の前に突き出されたのは大河の後《うし》ろ回《まわ》し蹴《げ》り、ではなく、
「ほらここ、破かれた! ばかちーがやった!」
繊維《せんい》が裂けて破れてしまい、かかとに覆《おお》い被《かぶ》さるように垂れ下がった無残なジャージの裾《すそ》だった。それを竜児に見せるため、見事な後ろ蹴りの体勢で片足立ちになった大河の足を思わず掴《つか》み、
「うわ、これはひでえな……多分《たぶん》裏布当てれば繕《つくろ》えるとは思うけど……裏布なあ…伸縮性《しんしゅくせい》が問題だよなあ……泰子《やすこ》の古いババシャツを一枚さばくしかねえか……」
実母のベージュ色アンダーウエアを思い浮かべつつ、しかしうむむ、と考え込んでしまう。片足の裾にだけ裏布……重みでアンバランスになる恐れはありありだ。いっそ裾をロールアップした状態で両足|縫《ぬ》ってしまってもいいのだが、制服の不可逆的《ふかぎゃくてき》改変には抵抗がある。体育着だって制服なのだし。うーむむむ、とさらに眉間《みけん》の皺《しわ》を深くする。その真正面で、足首を竜児に掴まれた大河が「うっぷ! うっぷ!」とバランスを崩し、溺《おぼ》れている奴《やつ》みたいに両手をバタバタ動かしているのにも気づかない。脳内には裁《た》ちばさみとお針箱、ジャージとババシャツが乱舞《らんぶ》中。これが竜児ワールドだ、足を踏み入れようとする者は、気をつけないと主婦化する。
「ちょっとも〜、人聞きの悪いこと言わないでくれるかなあ?自分で踏んづけて勝手にコケて、それで自分で破ったんでしょ〜。ね〜、高須《たかす》くんは見てたよね、あたし、なにもしてないよね〜」
言い返すためにか亜美《あみ》はわざわざ駆け寄ってきて、くるん、と愛らしい瞳《ひとみ》で上目遣《うわめづか》い、竜児の目の前で甘えるみたいに声をあどけなくした。
はっ、と竜児はやっと我《われ》に返る。三白眼《さんぱくがん》が亜美に向き、亜美がぶりっこスマイルを返したその瞬間、亜美のジャージのウエストを、
「いっやあ、あっぶなかった、また転ぶところだった!」
宙を掻《か》いていた大河の手が、わざとかはたまた偶然《ぐうぜん》か、
「おうっ!?」
がっきと掴んで数センチ分、確《たし》かに真下に引き下ろした。
声をなくした竜児の目の前で、周囲を歩く数人の男子の見ている中で、フラッシュみたいに眩《まばゆ》く光ったのは恐らく亜美《あみ》の真っ白な腰のあたりの肌。ふう、と額《ひたい》の汗を拭うフリをする大河《たいが》を見つめ、呆然《ぼうぜん》とすること一呼吸分。
亜美の口からはようやく、数秒遅れの悲鳴が火口から溢《あふ》れる溶岩の如《ごと》く熱《あつ》く噴《ふ》き上がる。
「ぎ〜ぃぃやあぁぁぁぁぁ〜………っ!」
「うわー、うるさい」
何人かの男どもがとっさに両手を合わせて、耳をほじる大河を拝んだ。そんなサマを見せつけられて、亜美の頬《ほお》は怒りか羞恥《しゅうち》かとにかくさらなる真紅《しんく》に染まる。
「あ・あ・あ・あんた、なにすんのぉ!? ビビるんだけどぉ!?」
「……ぷっ、その顔。ばかちー、鏡《かがみ》見てごらん。本性はみ出てるよ」
嘲《あざけ》りてんこ盛りに微笑《ほほえ》みを浮かべる大河の指摘に、亜美は「ぐっ!」と言葉を飲む。そしてこめかみに血管を浮かせて、一瞬《いっしゅん》「……ふんっ!」力んだ。
次の瞬間、
「……う……うふふふふふふふ!」
亜美の顔面《がんめん》に、天使の笑顔《えがお》がボン! と浮かび出る。そのサマはさながら、鉄板を槌《つち》で裏からゴンゴン打ち出して作るレリーフの如し。ブリッコもここまでやれば本物、というか、もはや芸の域に達しているのではないだろうか。思わず尊敬の視線《しせん》を向けた竜児《りゅうじ》の目の前、
「とにかく、そういうことだから。持って帰るから、来週までに縫《ぬ》うように」
大河はフン、と無意味に偉そうにふんぞり返り、命令を授け、スタスタと早歩きで去っていく。しかしその後をスタスタスタ、と怒りを孕《はら》んだものすごい早足で、
「うふふふふ待ってよ逢坂《あいさか》さん、お話はまだ終わってないじゃな〜いうふふふふ!」
亜美は鉄板レリーフ顔のまま追いかけていく。
ちょっとしたコントを見たような気持ち、竜児は女子|更衣室《こういしつ》へ消えていく二人《ふたり》をなんとなく目で追って、そして、気がついた。
「……」
「……」
こんなときにはいつだって亜美と大河の間に仲裁《ちゅうさい》に入っているはずの実乃梨《みのり》が、少し距離《きょり》を置いて二人を、というか、二人と一緒《いっしょ》にいた竜児の方を見ていたのだ。廊下の隅《すみ》、他《ほか》の女子の隙間《すきま》からこっそり首を伸ばすようにして。目が合ってしまい、お互いなんとなく黙《だま》り込み、
「……やあ!」
なにを思ったのか、実乃梨は片手を上げて力いっぱいギクシャクと挨拶《あいさつ》をしてくる。お、おう、と同じように手を上げてみるが、実乃梨はそれ以上の言葉を発してはくれない。狭い廊下を片手を上げたままで壁伝《かべづた》いのカニ歩き、微妙な愛想笑《あいそわら》いのままで竜児とたっぷり距離をとって追い越し、上げた片手をどうしていいかわからないみたいにそのままその手で頭をかき、
「……へへへ。それじゃーその、なんだ。……またな!」
後はばたばたと走って女子|更衣室《こういしつ》に飛び込んでいく。
「……な、なに?」
吊《つ》りあがった三白眼《さんぱくがん》を青白く光らせながら小首を傾《かし》げる竜児《りゅうじ》の背後、
「あいつ、様子《ようす》が可笑しいぞ。まあ、元々それほど普通の奴《やつ》でもないが」
一部始終を眺めていた北村《きたむら》も、不思議《ふしぎ》そうに腕を組む。
そう、おかしいのだ。実は、実乃梨《みのり》はずっと──新学期に入ってからなにやらずっと態度がおかしい。竜児は口をへの宇に曲げる。実乃梨は、大河《たいが》や亜美《あみ》といるときはいつもと変わらないのだが、なぜだか自分には妙に距離《きょり》を置いて接している。ような気がする。
夏の旅行で前よりも親《した》しくなった気がしていたのだが、それは自分だけの都合《つごう》のいい勘違《かんちが》いだったのだろうか。妄想の中の実乃梨はいつも変わらずイイ感じなのに……そんなのは当たり前か。所詮《しょせん》妄想は妄想だから。
竜児は名残惜《なごりお》しく女子更衣室のドアをじっと見つめ、見知らぬ下級生が気味悪そうに怯《おび》えまくってそんな自分を見ていることに気づき、慌てて男子更衣室に飛び込んでいく。
***
「えーと、それじゃあ後は文化祭実行委員に議長を任せるか。……春田《はるた》、よろしくな」
「イエス」
連絡事項の伝達を終え、クラス委員長の北村は教壇《きょうだん》から降り、ロングホームルームの議長の座を春田に明け渡す。二人《ふたり》はひそかに意味ありげな視線《しせん》を投げあい、すれ違う一瞬《いっしゅん》に「ヨロシク」「シクヨロ」とにやにや肩を叩《たた》きあう。
とはいえ、実行委員は春田だけではなかった。
「亜美ちゃーん、がんばってー」
「あはは、がんばるー※[#ハートマーク]」
へら〜、と一足先に教壇に上がった春田の目じりがいやらしく飛れ下がる。そう、クラス中のとろけるような視線と声援を浴び、優雅《ゆうが》な足取りで教壇に向かっていくのは亜美だった。
五月に転校してきた亜美はクラスでただひとり、なんの係にも委員にもなっておらず、「向いてそうな気がするなあ」という某《ぼう》独身女の適当な一存で、文化祭実行委員に任命されていたのだ。ジャンケンに負けてその役に任じられていた春田にとっては、元から足りない頭のネジがさらにいくつか落ちるほどの僥倖《ぎょうこう》であった。
「議長なんてやるの初めて、緊張《きんちょう》しちゃうなあ〜、頑張ろうね、春田くん」
「う〜ん、がんばるぅ」
教壇に並んで立っちゃって、嬉《うれ》しそうなツラして笑顔《えがお》なんか交わしちゃって。友のだらしない顔を見上げながらも、竜児はみんなと一緒《いっしょ》に苦笑まじりに拍手してやり、とにかくロングホームルームを盛り上げる。男子の間でだけ、ちらり、ちらりと視線《しせん》が交わされる。
わかっているな?
わかっているとも。
竜児《りゅうじ》もコク、と頷《うなず》いて見せ、他《ほか》の奴《やつ》の視線に口元を歪《ゆが》めて応《こた》える。このロングホームルームの終着駅はただひとつ。その駅の名はコスプレ喫茶《きっさ》だ。
「……なにニヤニヤしてんの? きも」
「おうっ!」
竜児はほとんど飛び上がった。気づかぬうちに竜児の机の端っこに、ちんまりと身を屈《かが》めた大河《たいが》がネズミの子みたいにかじりついていた。
「なっ……なにしてんだ? 一応授業中だぞ」
コンパクトに丸くしゃがみ込んだ姿勢のまま、大河は大きな瞳《ひとみ》を眇《すが》めて竜児を睨《にら》み上げ、
「いいから。さっさとアレ出しな」
イライラと細い指の節《ふし》を噛《か》みつつ、顎《あご》を倣岸《ごうがん》にしゃくってみせる。
「アレ? ……なに?」
「お昼の。食べる時聞なくなっちゃったヤツ」
そういえば、大河は弁当につけてやったフルーツのタッパを「後で絶対食べるから責任をもって保存してむくように!」と肉己主張しつつ、ずっしり重いまま返してきていたっけ。
「……今食うのか?」
「そうよ。今食べるの。暇《ひま》だから」
「……暇っておまえ……今、これ、授業中……」
「うーるさい早くしろ雑種。グズはぶつよ、すごく強くね」
ひでえ、と戦き戦慄《おのの》きつつも、周囲の男どもからはチラチラと心配そうな目線 頼むからこの大事なときに面倒《めんどう》は起こしてくれるなよ、と無言の圧力を感じる。確《たし》かにあんな計画が大河にバレれば、なにもかもがブチ壊《こわ》されるに違いない。関《かか》わるものは破壊《はかい》する、それが手乗りタイガーの生《い》き様《ざま》だからだ。いや、なにもバレなかったとしても、このトラブルメイカー・大河が傍《そば》にくっついているというだけで十分に計画|粉砕《ふんさい》の恐れがある。トラブルメイカーとはそういうものだ。そいつがそこにいるだけで運命の筋道は破壊され、狂わされる。なれば、さっさと望みのものを渡してやって、ここから立ち去ってもらうしかないだろう。
鞄《かばん》の中を探《さぐ》り、先だって通販で購入《こうにゅう》して気に入って使っている昔ながらの風呂敷包《ふろしきづつ》み(柄《がら》はしかしモダンなのだ、黒に近い紺地《こんじ》に白と黒のフリーハンドっぽいラインで幾何学模様《きかがくもよう》が入っている)から小さなタッパをどーぞ、と取り出す。大河は「わーお」と外人みたいに唇を窄《すぼ》め、瞳をキラキラ輝《かがや》かせ、
「早く!」
うずうずと肩を揺らす。いや、早くもなにも口の前に出してやっているのだが、
「早くあけてってば!」
「お、俺《おれ》が?」
「そのタッパ、開けにくくていつも汁|零《こぼ》れるから! 早くあけてー!」
わがままな──しかし今はそれを咎《とが》める余裕はない。仰《おお》せのままにタッパを開ける。中身は、大河《たいが》の好きなカットしたマンゴー。大河はちっちゃなフォークを子供みたいに握り、マンゴーを突き刺そうとタッパを覗《のぞ》き込み、
「なぜここで食う!?」
「カラになったタッパ返す手間が省《はぶ》けるもん」
そして教壇上《きょうだんじょう》では、
「それではっ! さっそく、議題《ぎだい》に入りたいと思いまっす! 今年《ことし》の文化祭、我《わ》が2年C組のクラス展示はなににしましょーかっ! っという話なんですがっ!」
春田《はるた》が興奮《こうふん》のあまりか顔を脂《あぶら》でテカテカ光らせ、教壇に両手をついてクラス中を見下ろしている。その傍《かたわ》ら、亜美《あみ》は顔だけはにこにこと楽しそうに、しかし手元ではハンドクリームみたいなモノをにゅりにゅりチューブから出してすりすりと指に塗り込み、爪《つめ》の根元あたりをグリグリ自分でマッサージしている。要するに、まったく関心がないらしい。竜児《りゅうじ》の机にかじりついている大河もまた、小さなフォークでつるつる逃げるマンゴーを突き刺そうとするのに夢中。春田の話なんか一文字たりとも耳に入れる気はないようだ。自分とこで食えよ、と肩を押しのけてやっても、動かざること山の如《ごと》し。
そして関心ゼロなのは、亜美と大河だけではなさそうだった。他《ほか》の女子も全員が概《おおむ》ねそんな雰囲気、完全に机にうつ伏せて寝ているっぽい奴《やつ》も居れば机の下で雑誌を開いている奴、正面を向きつつも、耳には白いイヤホンを突っ込んで音楽鑑賞中《おんがくかんしょうちゅう》の奴。しかし静かにしてるのはまだいい方で、「なんにもやらなくてよくなーい?」「とりあえず春田、オメーはあまり目立たないようにしとけ」とダラけた姿勢で春田にヤジを飛ばす柄《がら》の悪い連中もいる。
おまえらにゴスロリは決して似合わない、と竜児は静かに心の中だけで思う。無事コスプレ喫茶《きっさ》に決まったとしても、奴らにフリフリは着せてやるものか。チャイナもメイドも似合わないに決まっている。ああいう輩《やから》は裏方でいいのだ。いや待て、喫茶の裏方といえば台所仕事。台所ををあんな奴らに任せていいのだろうか。よくない。ひとりブンブン首を振る。キッチンも、洗い場も、すべてきちんと管理しなければ。この俺が。……再び竜児ワールドだ。脳裏《のうり》に去来する光景は大騒《おおさわ》ぎの文化祭、混乱を極める調理室《ちょうりしつ》、シンクに溜《た》まる生ゴミ、雲《くも》るステンレス、不潔《ふけつ》な排水口──触らんでいい! 余計なことをするな! この俺に任せろ! 俺が全部やってやるから!
……なんて、うっとり妄想に浸っている場合ではなかった。と、竜児が我に返ったときには、既《すで》に春田が締《し》めに入っている。
「えーと、意見のある奴は!? い、いないかな!? いないんだったらその──」
コスプレ喫茶《きっさ》を。
と、御大将自《おんたいしょうみずか》ら出張《でば》ってチョークで黒板に書きつけようとしたそのとき。
男子全員がグッ、と拳《こぶし》を熱《あつ》く握ったそのとき。
竜児《りゅうじ》の机の隅《すみ》っこで、大河《たいが》があーんと鼻に皺《しわ》を寄せ、でかい口を開けて(なぜか目まで閉じて)マンゴーを頬張《ほおば》ろうとしたそのとき。
いかん、果汁が飛れる、と竜児がティッシュを差し出したそのとき。
「じ〜ん〜せ〜いーじゅ〜う〜し〜ち〜ね〜ん……」
炎に包まれし本能寺《ほんのうじ》、舞《ま》う信長《のぶなが》──ではなくて、気《け》だるいロングホームルーム、何か言いたい実乃梨《みのり》の姿があった。紅蓮《ぐれん》をも背負いかねないド迫力でぐりぐりと回転しつつ、なにやら覚悟完了な形相《ぎょうそう》でゆっくりゆっくりと立ち上がり、
「……意見、っていうかね……」
もじっ。
と、顔を赤く染め、照れる。嫌《いや》な予感が、男子連合の間に稲妻《いなずま》みたいにビリビリと伝わっていく。実乃梨はある意味、「最強」で「最凶《さいきょう》」な手乗りタイガー以上に危険な女だ。なぜならそのジョブは、「最強」で「最凶《さいきょう》」のケダモノ・大河を意のままに操《あやつ》る猛獣使《もうじゅうつか》いだから。
猛獣使いはさらにもじもじと照れてみせつつ、机にのの字をくりくり描《か》き、「まあ、その、別に私がやりたいっていうわけじゃないんだけどね。いや、むしろ私はそういうの嫌いなんだけどね。……ええと、ほら、みんなが楽しめたらいいかなーって。とっても楽しいんじゃないかなーって。だから嫌々ながら言うんだけどね。すっごくね、いいアイディアがあって。ずっと温めてきたヤツが。いやいや私は絶対|苦手《にがて》なんだけど、みんなが、結構、アレ、いいかなーって。そう、その……おっ、おば……うっ!
う・わ・あ・あ・あ……とクラス全員無言のまま仲良くヒく。顔を真《ま》っ赤《か》にした実乃梨は血管をムキムキ浮かせながら身をくねらせたかと思うと、鼻からタラ……と鼻血を垂らし始めたのだ。しかし誰《だれ》もが声すら発せない。怖いのだ。声の代わり、にゅるっ、と亜美《あみ》のハンドクリームが十センチほど飛び出して教卓に垂れ、あー……あぁ!? と口を開けたまま固まっていた大河の手元からは、マンゴーがぽとりと落ちるーとっさに受け止めた竜児の手の平に。
「ふっ、ふぐ……へへ……鼻血、出ちゃったね……やだ、誤解しないでよ? 変なこと言おうとしてるわけじゃないんだからね。……たっ、ただね、私……あの、あの〜、なんだ、その、おっ、おばっ……。……おばけやしきっ」
タラタラタラ……と、ポケットティッシュで押さえた鼻から、さらに赤いものが染み出してくるのが教室中、全方位から見える。押さえても押さえても鼻血と一緒《いっしょ》に溢《あふ》れるらしい笑い声はふっふえ! ふっふぇ! ふぇっふぉ! ……どれだけ興奮《こうふん》しているというのか。
手の施《ほどこ》しようがない。誰もが黙《だま》り込み、妙なクラスメートを困ったように見上げたそのときだ。
「櫛枝《くしえだ》。その辺でもうやめておけ。おまえ自身の身体《からだ》がもたんぞ」
「──なんだとぅ?」
凍りついたみたいに静まり返った教室に、ただひとり、立ち上がった姿あり。北村《きたむら》である。
眼鏡《めがね》を光らせ、これ以上|興奮《こうふん》させないためにか声を低くし、じりじりと実乃梨《みのり》との距離《きょり》を詰めながら背も低く丸め、
「とーっとっとっと……」
目を見開いてニワトリの真似《まね》をしながら歩み寄る。両手を広げ、宥《なだ》めるようにヒラヒラ動かす。実乃梨は北村のその異様な姿から視線《しせん》を外《はず》すことができないらしい。鼻血を拭《ふ》き拭き、不思議《ふしぎ》そうに瞳《ひとみ》を見開いて、迫るその姿をじっと見つめている。
「とっとっと……よしよし……さあ櫛枝、ニワトリのおじさんと一緒《いっしょ》に保健室に行こうじゃないか。な。鼻血を止めてもらわないといけないだろう? 大丈夫、おまえの提案は、ちゃーんとニワトリのおじさんが議題に上げておくから」
催眠術《さいみんじゅつ》にでもかけられたみたいに、実乃梨の目の焦点が怪しくなる。
「……ほ、ほんとに?」
「ああ……とーっとっと……さあ、こっちにおい……でっ!」
北村の両腕は目にも留《と》まらぬ速さで、ぼんやり立ちすくむ実乃梨の肩を掴《つか》みにかかっていた。
誰《だれ》もが、実乃梨の身体|拘束《こうそく》に成功したかと思った。しかし、次の瞬間《しゅんかん》、思い知らされる。
「──スピードで勝てると思ったのかね? 愚《おろ》かな……」
「ぐっ……ぐぐぅ!?」
「北村《きたむら》くん。君の手の内は、ぜーんぶとっくにお見通しなんだよ……あんまりみのりんを舐《な》めるんじゃねぇ。……さあ、ショーを始めようか」
「くっ、櫛枝《くしえだ》……!?」
「全員近づくんじゃねぇーっ! 妙な真似《まね》をしたら、こいつを、」
やはり、このクラスで最強かつ最凶《さいきょう》かつ「最狂」なのは、櫛枝|実乃梨《みのり》その人だ。
「ズドン! ……だぜ……?」
背後から北村の身体《からだ》をがっちり羽交《はが》い締《じ》めにし、実乃梨は薄《うす》い笑《え》みを口元に浮かべ、銃の形に作った人差し指を北村のスラックスの尻《しり》の縫《ぬ》い目《め》のド真ん中にくいっと押し当てていた。ズドン! といかれたら、それは大層《たいそう》ヤバかろう。
「櫛枝! おまえ、ばかな真似はよすんだ!」
教壇《きょうだん》の上から春田《はるた》が叫ぶ。しかし、
「やめてくれ春田! 櫛枝は本気だ! 本気だし、握力も50オーバーだ!」
人質に取られた北村は眼鏡《めがね》を半分ズリ下げて、救出に向かおうとする春田を制するみたいに懇願《こんがん》する。2−Cの面々は、揃いも揃って唖然《あぜん》とアホ面《づら》。竜児も大河も突如発生した人質事件を目《ま》の当《あ》たりにしてなにもできずに口を開きっぱなしだ。
「でっ、でっでっででん!」……
誰《だれ》かが口ずさみ始めたリズムで、大捜査線《だいそうさせん》も踊りだす。事件は教室で起きている。いやがうえにも緊迫《きんぱく》は高まるが、残念、ヒーローは不在だった。居並ぶアホ面を見回し、実乃梨の唇が邪悪《じゃあく》に歪《ゆが》む。
「まあ──もちろん、この私だって、なにも北村くんの下半身を破壊《はかい》してやりたいわけじゃない。……要求は、ただひとーつ! 文化祭でおばけ屋敷《やしき》をやることだっ!」
「くぅっ!」
耳元で出された大声にか、下半身破壊の恐怖のためにか、北村の身体がビクンと跳ねる。動けぬ春田は唇を噛《か》む。大変なことになった、と教案にざわめきが渦巻《うずま》く。
「……お、おばけ屋敷だって……」
「うおっ、さっぶ……!」
「……さぶいうえに、かーなーり、めんどくさいよ……」
「ていうか、まったく興味《きょうみ》もてないんだけど」
「高二にもなっておばけ屋敷ってなんだよ」
「櫛枝ヤバい、超ヤバい」
女子たちの言い分はごもっとも。プラス、男子連合的にはコスプレ喫茶《きっさ》という終着駅へ向けてすでに欲望特急は発車してしまっている。こんなところで脱線してはいられないのだ。
「……櫛枝の要求を呑《の》むわけには、どうしてもいかんな」
「うむ、同感だ」
「犠牲《ぎせい》になってくれ北村《きたむら》」
「さらば」
「ばいばーい、まるおー」
皆に手を振られ、北村の両眼からは涙がハラハラと流れ落ちた。涙は眼鏡《めがね》の縁《ふち》をビタビタと濡《ぬ》らし、気持ち悪く首元まで滔々《とうとう》と流れていく。
「みんな、なんと薄情《はくじょう》なのだろう……だがしかし! この北村祐作《きたむらゆうさく》、クラス委員長に任ぜられたそのときから、皆のためにいかなる形であっても犠牲となる覚悟は完了している!」
「ほう……?」
「さあ、やるがいい櫛枝《くしえだ》! さあさあさあー 俺《おれ》の秘孔《ひこう》を突いて満足するのなら、いくらでも突きたまえ!」
くいっと尻《しり》を持ち上げ、北村の覚悟はどうやら本気のようだった。実乃梨《みのり》はしかし余裕さえ感じさせる笑《え》みを浮かべ、
「……それはそれはいい覚悟だ。若さとは美しいものだね、北村くん。……ならば歯を食《く》い縛《しば》りたまえ」
パキッ、と力強く指の関節を鳴らす。肘《ひじ》を思い切り引き、北村は思わず両眼を硬く閉じる。
クラスの奴《やつ》らも、とても正視することはできない。目を背《そむ》け、耳を閉ざし、惨《むご》すぎる光景から逃れようとする。
「……ふっ……言っておくが、何かを失うのは俺だけではないぞ、櫛枝。おまえもまた、心の底から湧き上がる欲望の炎を失うのだからな……!」
北村は悔しげに、しかしどこか勝ち誇ったように実乃梨に語りかけた。相打ちよ、と。そうだ、これさえ終われば実乃梨は妙な提案を引っ込めて去るはずだ。
──しかし甘すぎた。全員、甘すぎた。
「失う? ……これはまた異なことを。君たちはなにか誤解しているようだ。たった北村くん
ひとりぼっちの生贄《いけにえ》では、この櫛枝は退《ひ》かぬよ……?」
「なっ、なにィ!?」
「さあーて……『次』の生贅は、だー、れー、かー、ぬあああ───っっっ!」
実乃梨の指が悲鳴の中、北村に一気呵成《いっきかせい》に攻め込んでいく。北村の脳裏《のうり》には走馬灯《そうまとう》が。これで退かぬというなら、単なる無駄死《むだじ》にに終わるだけなのか。
ズドォォォォン……とその指が目標地点を爆撃《ばくげき》するより、しかしその声は零《れい》コンマ数秒早かった。
「出《いで》ませ───いっ! 『影《かげ》の軍団』!」
叫んだ春田《はるた》の手がひらりと宙を躍《おど》り、教室後方を指差した。
イーッ! とは、言わなかった。が、指されたあたりの席から何人かの男子が一斉に立ち上がり、
「か、影《かげ》の軍団だとう!? あああーっ!」
素早《すばや》く北村《きたむら》を救出、実乃梨の身体を「セイヤー!」と威勢《いせい》良く肩へ担《かつ》ぎ上げる。
「なにをするかぁぁっ! ぇぇい、その手を離《はな》せっ! 私は屈せぬ! 退《ひ》きはぬぞ! 櫛枝《くしえだ》死すともおばけ屋敷《やしき》はみんなの胸の中に永遠に生き続け……ぎゃあああ───……」
鼻血|絶賛《ぜっさん》垂らし中の実乃梨を担ぎ、軍団はそのまま教室を飛び出していく、やがて実乃梨の悲鴫も遠くなり、教室へはもはや届かねどこぞへか運び去ってしまった。許せ、と竜児《りゅうじ》は震《ふる》える拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》める。
許せ櫛枝。おまえの味方をするわけにはいかなかったのだ、それもこれもおまえのコスプレルックのために。
「み、みのりーん! 貴様《きさま》アホー! アホのくせにみのりんをどこへしまった!?」
今まで傍観《ぼうかん》していたくせに、大河《たいが》はおもむろに立ち上がって春田《はるた》を指弾するが、
「モルグさ! 暴力《ぼうりょく》でカタをつけようとする奴《やつ》には最もお似合いの場所ってことだ!」
「なんですってー!?」
春田の簡潔《かんけつ》な答えに力強く再び吼《ほ》えた大河であったが、次の瞬間《しゅんかん》ちんまりしゃがみ込み、
「りゅ、竜児! モルグってなに!?」
「死体安置所、ってことだよ」
「死体っ……ではもはやみのりんは……!」
「おうっ!」
ぐさー、と、先ほど食《た》べ損《そこ》ねて竜児の手の平に鎮座《ちんざ》したままのマンゴーをなぜかこのタイミング、フォークで突き刺して食おうとし、竜児の手まで突き通す。竜児は穴の開いた手を押さえて机に突っ伏す。大河は構わずマンゴーを口に放り込む。口をモゴモゴさせながらの「ひのりんらはいへんらー」にどれほどの緊張感《きんちょうかん》があるというのか。
一方春田は、実乃梨の消えた教室を改めて見回した。北村も無事だし、邪魔者《じゃまもの》は消えたし、これでやっと本題に戻れる。
「……さて、邪魔者が消えたところで再度っ! 文化祭、クラス展示についてこの俺、なにを隠そう意見アリ! それはコスプ──」
しかし、だ。
「らん……らんらららんらんらん……らん……らんらららー……」
「う、歌ってやがる……!?」
春田の言葉は再びその先を遮《さえぎ》られた。何者かが教室の片隅《かたすみ》で片膝《かたひざ》を抱え、虚空《こくう》に向けて無我《むが》のリズムを放っていたのだ。
その名も独身。いや、担任・恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(30)。
「……させないわよ……」
ゆらり、と年を重ねてなにやら一層《いっそう》丸みを帯びた顔を上げ、独身(30)は己《おのれ》のクラスの生徒たちの顔をゆっくり見回す。ボディラインを隠す太目の綿《めん》パンはベージュ、二の腕の厚みを隠すVネックのニットもベージュ、ちらりとのぞく足首を包むストッキングもベージュだ。なぜならピンクやブルーやグリーンは、二十代までしか着用できないから。ちなみに言えば、レースも駄目《だめ》。フリルも駄目。リボンもプリーツスカートも膝《ひざ》の出る丈《たけ》も駄目、きっつい。それが恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりの三十路《みそじ》ライフだ。
そう、三十路──独身(30)の目が、不意に遠くなる。
大学進学を機《き》に上京した。授業にも出ずに遊びまくる友人たちを尻目《しりめ》に、教職《きょうしよく》|課程《かてい》を真面目《まじめ》にとった。卒業する頃《ころ》は就職氷河期最後の山場だった。何百枚単位で履歴書《りれきしょ》を書きまくり蹴《け》られまくり落ちまくり、年が明けても内定ぜロの同級生たちがいっそ就職留年、なんて言葉も口に出し始める頃、幸運にも超難関《ちょうなんかん》だった教員採用|試験《しけん》に受かった、以来、真面目に今日まで働いてきた。担任だって持たせてもらった。生徒の親からの評判もそこそこだし、給料だってこのご時世《じせい》、ヘタなOLよりよっぽど恵まれている(家賃だって、十万円払ってるし!)(夏休み、母親と香港《ホンコン》旅行して、エルメスのガーデンパーティ買ったし!)。
学生時代の友人が、次々結婚していくのにももう慣《な》れたつもりだ。だってみんなは民間で、氷河期世代のうえに地味大卒とくりゃもちろん中小企業だし、上には旧バブル世代が詰まっていて、下からは新バブル世代が突き上げてきていて、しかも自分は派遣《はけん》だったりして、やっぱりそりゃもうなにかしら、「確《たし》かな」ものが欲しいのだ。それくらい十分に、想像できる。公務員という自分の立場が、どれだけ恵まれているかも十分に知っている。あせったり、やっかんだりなんてもうしない。大人《おとな》だもの。なんだかんだいって、「まだ三十だもの。一旦《いったん》なっちまえば、意外と三十路ってこんなもんか、とも思うわけだ。
ただ。
ただ、ひとつ。
故郷の同《おな》い年《どし》のいとこの子が、来年中学校に入ってしまうらしい。昨日《きのう》、母からの電話で知った。別に知りたくもないのに。これだから田舎《いなか》って……。
でもまあ、それだけだ。中学校。
もしも明日《あした》出産しても、我《わ》が子《こ》が中学に上がるのは自分が四十三歳のときってだけ。そして、出産なんて、明日やあさってや来週に、ボロンとできるもんじゃないってだけ。……それだけ。……それだけ……。
「させない……させない……させないからね……」
独身(まだ! 30)の歩みは、さながら雪の八甲田山《はっこうださん》を渡る訓練兵のようであった。一歩、また一歩、と見えない明日を求めて彷徨《さまよ》い、たどり着いたのは春田《はるた》と亜美《あみ》が並ぶ教壇《きょうだん》の上。
「ゆ、ゆりちゃん先生……?」
「おどきっ!」
ヒップアタックで春田《はるた》と亜美《あみ》を押しのけ、独! と独身(たったの! 30)は独拳を独教壇に打ちつける。そうしてクラス中を陰険《いんけん》に見下ろし、
「楽しいことなんか、させないからね……っ!」
教師とは思えぬ言葉を独々と吐くのだ。
「……喫茶店《きっさてん》? だめ! ……自主映画の製作・上映? だめよ! ……オリジナル脚本の演劇《えんげき》? だめに決まってるわよ! ……バンド組んでライブ? あーぁぁー! それは今、日本でいっちばん、ダメッ! そんな一日限りの盛り上がりなんて、所詮《しょせん》幻《まぼろし》だからね! そんなんで盛り上がってくっついたりしても、どーせっ、クリスマス前にダメになるからね! 私は担任として、みんなにはシビアな現実を見つめて欲しいの! ……私ずっと女子高で、楽しいことなんかなーんにもなかったわりにつらい現実ばっか見てっけどね……させないからね……絶対、させないからね……! 就職《しゅうしょく》氷河期、知ってる!? すげえつらいんだから! 百社受けてもいっこも受からないんだから! やっと受かっても、普通に二月とか三月に、やっぱり正社員|採《と》るのやめました〜、とか言って、内定取り消しになるんだから! そういうアレコレで心が折れて、人格が変わって、無事に入社しても大学一年の春からずっと付き合ってきた彼女を『おまえの人生、楽そうでいいな。へー、車買ったの。ふーん。公務員って気楽でいいよなあ。給料どんくらい? へー。でもさあ、その金、俺《おれ》たちの税金なんでしょ? ……けっ』っつって捨てたりするんだからっ! キーキーキーキィ───!」
見ていられん、このままでは担任(30・涙)が妖怪変化《ようかいへんげ》に成り果てる……と春田が指を鳴らすと再び影《かげ》の軍団が現れ、
「私は公務員になりたくて頑張ったんだぁぁ! それのなにが悪いのぉぉぉ───……」
担任をも担《かつ》ぎ上げ、そのままモルグへ捨て去る。今日《きょう》の春田は本気なのだ。
と、そこへ、教室のドアを控えめにノックする音が響《ひび》いた。北村《きたむら》が無事であった尻《しり》を押さえつつも素早《すばや》く立ち上がり、開いた戸の隙間《すきま》から他《ほか》のクラスの……おそらくは生徒会の誰《だれ》かだった気がする地味な男子生徒と一言二言交わし、
「……伝令ご苦労! 道行《みちゆき》の無事を祈る!」
スチャッ、と敬礼で走り去るそいつ(サボリか?)を見送る。そして教壇《きょうだん》のド真ん申に図々《ずうずう》しくも割って入り、
「生徒会から入電ーっ! つい先ほど、校長及び教頭からの決定が下された!」
入電て……? 思いっきり人力では……と首を捻《ひね》るクラスメイトたちに唾《つば》を飛ばしながら声を上げる。
「今年《ことし》の文化祭は──クラス対抗戦っ! クラスの出店に対して人気投票を行って点数化、さらにミス・コンテスト、ミスター・コンテストの点数を加算して、一位になったクラスには豪華《ごうか》景品が出る! わかりやすく図解するとこう……」
興奮《こうふん》のあまりか北村はナゾの円と矢印をぐねぐね黒板に書き始め、「わかんねーよ!」と総つっ込みを受ける。
「えー、もとい! ……景品はこうだ!」
ガガガッ! と今度こそ凄《すさ》まじい筆圧で踊るチョークの跡は鮮《あざ》やか。
一、来年から交換予定の最新型うるおいたっぷりエアコンを優先的《ゆうせんてき》に今月中に設置。
一、今年度一杯、クラスに据え置き冷蔵庫《れいぞうこ》設置。
一、現在生徒は使用禁止になっているトイレ電源の開放。
一、持ち回りの共用部分|掃除《そうじ》の免除。
一、スーパーかのう屋の割引券。
ざわ……ざわ……とどよめき出したのは、これまで基本的にやる気ゼロのまま、文化祭なんてなんもやんないのが一番。ねー。ねー。と、気《け》だる頬杖《ほおづえ》をついていた女子たちだった。
「……エアコンコン、欲しくね?」
そう、女子は乾燥が苦手《にがて》なのだ。
「……冷蔵庫、欲しくね?」
そう、女子はいつだって冷えたプリンやゼリーを食し、飲み残したお茶やジュースもひんやり保存したいのだ。
「……トイレの電源、使いたくね?」
そう、女子はいつだってトイレで髪をコテで巻きたいのだ。
「……掃除、したくなくね?」
そう、女子はいつだって便所掃除が嫌いなのだ。
「……スーパーの割引券、欲しくね?」
これは竜二《りゅうじ》だ。かのう屋は高須家《たかすけ》からは少し遠いが、このあたりでは一番モノがいい。扱っている商品の数も多い。ただ、その分ほんの少々だが値段も他《ほか》よりお高《たか》めで、割引券など、侯から手が出るほどほしかった。思わずベロリと舌なめずり、真下でマンゴーを貪《むさぼ》っている大河《たいが》が、気昧悪そうに見上げていることにも気づかない。
「やっばー、やばやば! これってちょっと、勝ちたいかも!?」
「コテ巻きたーい! 絶対巻きたい!」
女子たちはほとんど立ち上がらんばかりに興奮《こうふん》し始め、きゃあきゃあ高音波で騒《さわ》ぎ出した。流れ的にちょっとまずい、と春田《はるた》がヒくのもお構いなし、
「はーいはいはい、じゃあみんなでいろいろ意見出してみましょ? 私が板書していくねー。ちょっと祐作《ゆうさく》、あんた邪魔《じゃま》なんだけど。さっさとどっか行ってよ」
亜美《あみ》は北村《きたむら》を教壇《きょうだん》から追い出し、なんのためらいもなく北村が文字を躍《おど》らせた黒板をささーっと全消し、ご意見どーぞ※[#ハートマーク] と天使の笑《え》みで愛想《あいそ》を振りまく。ざわめく女子どもに気圧《けお》されかけ、しかし先手必勝、と勇気を振り絞ったのは能登《のと》だった。
「はーいはいはい! コスプレ喫茶《きっさ》はどうっすかー!」
やっっっっ……と、言えた! と春田《はるた》を含めて男子の間からは拍手が自然発生するが、
「え────────っっっ!?」
亜美《あみ》が板書し終えるより早く、女子の間から大ブーイングが発せられる。
「そんなの超オタクっぽくねえ? やっばいよやばいやばい! や・ば・い!」
「っていうかー、他《ほか》のクラスと絶対かぶるよそれ」
「あったしそんなのぜーったいやだーっ!」
「だいたいメンズはなんのコスプレする気だよ? ダボハゼとかか!? え!?」
「どーせ亜美ちゃんにエロエロなかっこさせて、てめえらが喜ぶ気でいるんだろ!?」
「エーロエーロ!」
「へんたーい! 滅びちゃえ!」
口汚い集中砲火を浴び、能登《のと》はほとんど涙目になる。
「そうだ。男の子たちが表でがんばって、私たち女子が裏方に回ればいいのよ。ホストクラブとか、どうかしら」
ゆるく巻いた髪をかきあげつつ、とろん、と溶けそうな声を発したのは、口元のほくろに高校生|離《ばな》れした色香《いろか》を灯《とも》す香椎奈々子《かしいななこ》だった。それだ、と麻耶《まや》も手を打って加勢に入る。
「さっすが奈々子。いいこと言うね〜! 超いいじゃん、ホスクラホスクラ!」
ふむふむ、ホストね、と亜美は綺麗《きれい》な字で板書する。まずい方向に話が流れゆく雰囲気に、男子たちはおどおど目を泳がせるばかり。そこへさらなる試練が訪れる。
「いっそのこと、オカマバーでよくなーい? こっちのが絶対笑える!」
……これが試練以外のなんだと言うのか。
「あー、言えてるー」
「やっぱホストっつったら、よっぽどイケメンでないと納得してもらえないもんねー」
「もはや笑いに走るしかないよねー」
「高須《たかず》くんとかー、女装したら超うけるよねー」
「……お、俺《おれ》……?」
愕然《がくぜん》と震《ふる》える竜児《りゅうじ》の顔を見下ろし、教壇《きょうだん》の亜美が「ぷっ」と吹き出した気がする。相変わらず机にひっついている大河《たいが》は「笑えないって、それ全然……みんな竜児の顔の実力をわかってないんだよ。大丈夫、竜児、私が絶対にそんなことさせないから」と妙に冷静に嫌《いや》がっていて、それはそれでまた傷つくのだが。
しかし、それでは終わらない。いつもは完全|内輪受《うちわう》けの世界に遊び、教室ではあまり目立たぬ腐女子軍団のうちのひとりが、妙に嬉しそうに立ち上がったのだ。
「女装よりもいっそボーイズラブカフェなんてどうっすかねぇ。執事《しつじ》の格好した攻めと、なにやら高飛車《たかびしゃ》な受けのボーイが、ときに憎しみあい、ときに愛しあいながら接客する……とかっ! 言っちゃってっ!」
「ふむふむははーん!? 愛憎しつつ接客……具休的にはどういうことで!?」
「っていうか、それはもういっそそういう劇《げき》にしたらどーでせうか!?」
「あ、それってよきかなですわ、さすが貴腐人《きふじん》候補の第一人者! 冴《さ》えておられるー!」
「かわゆき腐《くさ》れの妹たちよ、ババにしっかり掴《つか》まっておいで!」
「ババさま、それはいわゆるBL劇場でございますかー!?」
「いやーっ! きゃーっ! 攻め誰《だれ》!? 攻めは誰!? 敬語!? 眼鏡《めがね》!? 白衣!?」
「脚本はやっぱり、字書きのババ様が書いて下さるのでー!?」
「きゃーああー! 書き下ろしぃぃ! ヤフオク厳禁《げんきん》ーっ!」
ギャル軍団まで勢いに呑《の》まれたか、意味もほとんどわからぬままになんとなく拍手で同調《どうちょう》しているではないか。「もう決定でよくねー?」「全然よくねー?」などと、女子どもの増長は止まらない。耳にキンキン響《ひび》く絶叫の中、もはやモノを言える男はひとりも残っていなかった。北村《きたむら》でさえ耳を覆《おお》い、目をつぶり、ひとり別世界に旅立っている。くっ、と教卓に身を預けて立ち上がり、春田《はるた》は苦々《にがにが》しく声を上げた。
「こっ、これじゃーラチがあかないっ! ……かくなる上は、決戦投票っ! 全員紙にさっさとやりたいことを書け!ー 書いたらどんどん前に回せ! コンビニ袋に放り込め!」
敗色|濃厚《のうこう》な流れを断ち切る、それはナイスな提案であった。大河をしっしっと席に迫い返し、コスプレ喫茶《きっさ》──と竜児《りゅうじ》はもちろん書いた。他《ほか》の男どもも絶対にみんな書いている。どんなに女子がやる気になろうとも、奴《やつ》らは所詮《しょせん》烏合《うごう》の衆《しゅう》だ。磐石《ばんじゃく》なる一枚岩、男子連合の敵ではない。
はずだったのだが。
「おっしゃ! みんな書いたな!? これで全部だな? シェーイク! アーンド、クジびき! 一発勝負だー! うちのクラスは亜美《あみ》ちゃんとタイガーのプール対決のときも、こうやって公平に決めたんだもんな! 泣いても笑っても文句なし、これで決定だぞー!」
「はーい!」
……答えたのは女子たちだけだった。
クジびき?
一発勝負?
これで決定……
ちょっ……と中腰、手を伸ばしかける男子連合の目の前で、春田は満面の笑《え》み。そして気合一発、せいっ! と一枚の紙を掴み出した。
「発表しまーすっ! 今年度文化祭、我らが二年C組のクラス展示は、プロ──んんっ!?」
その春田の手から、紙がハラリと舞《ま》い落ちる。脇《わき》からさっと拾い上げたのは亜美で、
「えーと、なになに? ……なにこれっ!? プ、プロレスショー、かっこ、ガチ、って……なんなのよこれー!? こんなの書いたの誰!?」
「ふざけんなー! なんだよおまえらー! コスプレ喫茶《きっさ》じゃなかったのかよー!?」
亜美《あみ》と並んで叫ぶ春田《はるた》に、竜児《りゅうじ》は思わず冷静に諭《さと》してしまう。
「……っていうか、おまえなんで多数決にしねえんだよ……」
沈黙《ちんもく》はたっぷり五秒、
「……あっ!?」
じゃ、ねぇよ……男全員が机に突っ伏してすすり泣いた、なんで春田って、こんなにバカなんだろう……やっぱり裏口入学なんだろうか……。
阿鼻叫喚《あびきょうかん》の教室、二つある出入り口の後方でほくそ笑んでいたのは、
「……担任を捨てやがって……覚えとけよ……覚えとけよ……」
モルグから自力《じりき》で現世《げんせ》に復帰し、埃《ほこり》だらけのさりげなくいやがらせ投票、無駄《むだ》な運の力で見事クジびき勝負に勝った独身(30……)であった。ちなみに、その足首に掴《つか》まってともにモルグから脱出するも、投票寸前に力尽きたのかダラリと倒れているゴミくずだらけの物体が実乃梨《みのり》である。その手には、投票することのできなかったメモが──おばけやしき、と書かれたメモが握られたまま。
さて、こういう場合、どうするべきか?
「……それはさておき!」
春田は亜美の手からさりげなく紙を奪い、ポイ、と潰《つぶ》してどこぞへ放った。すなわち、文字通り、握り潰《つぶ》しにかかったわけだ。そしてそれを咎《とが》める者は誰《だれ》もいない。放課後《ほうかご》にでも、担任を抜きにして、再びきちんと計画を練り直せばいいのだ。
さーさー全部忘れた忘れた、と春田は改めて教卓に乗り出し、亜美も前髪をちょちょいと直して、議長《ぎちょう》の傍《かたわ》ら、エンジェルスマイルをほんわかと浮かべる。
「えー、ロングホームルームを始めまーす! 議題は文化祭! っと、そういえばそうそう、あんまり残り時間もないけど、クラスからひとり、ミスコンの出場者も決めないといけないんだった」
ミスターコンは? と誰《だれ》かが訊《き》くが、
「そっちは、文化祭当日に要項発表だって。とはいえ、まあ、なんだ。うちのクラスの場合、決めるもなにもないけどな。ね、亜美ちゃん」
向けられた視線《しせん》に、亜美は目を零《こぼ》れ落ちんばかりに見開いてみせる。
「え? あたし? え、え、なになになあに? やだあ、話についていけないよお!」
「またまたー、わかってるくせに! 亜美ちゃんが出てくれれば、俺《おれ》たちミスコンに勝ったも同然だって!」
春田の言葉に、クラス全員が今度は争いもないままにうんうんと頷《うなず》く。思うことは全員一致、亜美がミスコンにクラス代表として出場すれば、優勝《ゆうしょう》問違いなしだ。しかし、
「えーっ!? うそでしょ、やだやだだめだめ、だめなのー!」
優勝《ゆうしょう》問違いなしなのは有史以前からの約束だがなガハハ! と本性だけで高笑いしつつ、亜美《あみ》のぶりっこ外骨格はエビのように腰を丸めて両手を「だめだめ」と振りつつ、ケツが黒板にぶつかるまで後退していく。
「みんなの気持ちはすっごくびっくりで、でもでもすっごくすっごく嬉しいんだけどね、実はあたし、ミスコンの司会することになってるのぉ〜! みんなごめんねぇ、せっかくこんなあたしなんかを選んでくれたのにー!」
えー!? と教室を揺るがす悲しげな声に、亜美のチワワ目はそれはもう嬉しそうに、うっとりと傲慢《ごうまん》な煌《きらめ》きを増す。
「そうだったっけ!? わっすれてた、っていうか、俺《おれ》の記憶《きおく》には残ってないや、でもそうだったか〜! じゃあ……どうしよう? いっそ……なんかかわいそうだし……」
春田《はるた》の視線《しせん》は教室後部で死にかけている独身(30・燃《も》え尽きそうだよ……)へ。担任がクラス代表としてミスコン。ネタとしてはアリか、とみんなも納得しかけるが、それを遮《さえぎ》ったのは亜美だった。
「う〜ん、それってダメっぽいよ、春田くん。要項によると……今年《ことし》はネタ禁止。つまり男禁止、教師禁止、クラスに実在しない奴《やつ》──二次元キャラ・生徒家族・その他《ほか》も禁止。クラスの女子から代表一名、必ず選出すること。……だって」
さっきまでの盛り上がりが嘘《うそ》のように、二年C組は静まり返る。誰《だれ》もが困惑していた。
クラスからひとり、一番かわいい女子を決める。
それも、一番かわいいキャラが確立《かくりつ》しているプロモデルの亜美ではなく。
困惑するのもさもありなん。なにしろ十七歳の彼らは、全員手を繋《つな》いでゴール世代ナンバーワンよりオンリーワン世代。みんな綺麗《きれい》でみんないい、そんなふうに教えられて育ってきたのだ。顔のかわいさで優劣《ゆうれつ》を決めるのって、なかなか普通の感覚ではできることでは……
「あたしは、逢坂《あいさか》さんがいいと思うなあ」
「……なにぃ!?」
んふ、と目を細めて笑い、異常な感覚の持ち主・亜美は、教壇《きょうだん》の上から大河《たいが》を意地悪く見下ろす。クラスの喧騒《けんそう》など完全無視、ほとんど居眠り寸前だった大河は跳ね起きて、視線で射殺したいみたいに亜美を睨《にら》みつける。しかし亜美はそれをさらりと受け流し、
「ほら、だって逢坂さんって、すっごくちっちゃくてかわいらしいし? 手乗りタイガー、とか言われちゃって、学校中の有名人で、人気者じゃなーい。意外と票が集まっちゃうんじゃないかなあ〜? ってね※[#ハートマーク]」
「集まらんでいいっ! なに言ってんだ超ばかばかちー! なんで私がそんなことしないといけないのよ!?」
マンゴーの果汁で口のまわりをてかてかにてからせつつ、とうとう大河は席を蹴って立ち上がるが、
「あー……でも、なんかそれって納得」
「確《たし》かにタイガーは有名だよな……」
「票が集まるって点では、タイガー以上の人材はないのかも」
「だっ、黙《だま》れぇいっ!」
大河《たいが》が振り絞った吼《ほ》えるが如《ごと》き大声に、盛り上がりかけたクラスは一瞬怯《いっしゅんひる》んで瞭まり返る。しかし亜美《あみ》はまだまだ笑顔《えがお》、
「えー? だ・め・だ・ぞ、タイガーちゃん。クラスの一員なんだから、こういうイベントごとには積極的《せっきょくてき》に参加しないと※[#ハートマーク]」
パチン、と白々《しらじら》しいウインクまでして、ついに大河の怒りの導火線《どうかせん》に火炎放射器で火を放った。
「……てめぇばかちー……言ってもわかんないなら、もういい! いっそこの手で事件にしてやる、そして文化祭どころか学校ごとすべてを社会から消し去る……っ!」
机の中身を全部ドサドサ落としながら大河は机を頭上に軽々と掲げ、教壇《きょうだん》の亜美に向かって投擲《とうてき》体勢に入り、亜美だけでなく机が描くであろう軌道上の全員がきゃーきゃー叫びながら逃《に》げ惑《まど》ったそのときだった。
「まあまあ、抑えて仰えて! 逢坂《あいさか》なら本当に優勝《ゆうしょう》しちゃうかもしれないぞ? 俺《おれ》も逢坂がいいと思ってたけど」
「……あ〜……」
北村《きたむら》の声が耳に入り、ふにゃん、と大河は腰砕《こしくだ》けになる、その脳天《のうてん》に、高々《たかだか》と掲げ上げていた机の角がガン! と当たり、自業自得《じごうじとく》ながら膝《ひざ》から崩れ落ちる。
「た、大河!? 大丈夫か!?」
慌てて竜児《りゅうじ》が机を支えてやりに入るが、時すでに遅し。
「……あんた誰でしたっけか?」
稀代《きだい》のドジこと逢坂大河は、記憶《きおく》を完全に失っていた。おう……と戦慄《おのの》く竜児を尻目《しりめ》に、
「じゃあ、逢坂さんでけってーい!」
教室の隅《すみ》にみんなで仲良く避難《ひなん》しつつ亜美が声を上げ、同調《どうちょう》の拍手が波打つように広がっていった。
ちなみにその時、独身(どっこい生きてく30歳)の姿は既《すで》に教室にはない。
誰もが気づかぬうちに正式な出店計画書をきっちりしたため、教員室に提出しに戻っていたのである。もちろん、内容は「プロレスショー(ガチ〉」。担任印だって押したる押したる。
なあなあのうちにそれはさておき、なんていう春田《はるた》の浅知恵は、所詮《しょせん》教師生活八年目、ひとり暮らし暦十二年旧の独身女には敵《かな》わないのだ。
2
「長ネギはあっただろ……」
「冗談《じょうだん》じゃない、あーもーやだやだやだやだ、いやすぎる!」
「ピーマンもあったか、あと椎茸《しいたけ》がほんのちょっと……それから……」
「ばかちーの野郎、輪廻転生《りんねてんしょう》するたびにいろんな地獄《じごく》に叩《たた》き落としてやる!」
「……ソーセージが二、三本あったなあ……まあ、あれは弁当にするか……」
「ねえどうしよう? あれってもう本当に決定なのかな!?」
「なあどうする? やっぱりキャベツの千切《せんぎ》りはなきゃだめだよな?」
「……」
噛《か》みあわない会話のド真ん中、大河《たいが》は無言の「イエーイ」ポーズで反り返った親指を突き出した。次の瞬間《しゅんかん》、甲高《かんだか》い悲鳴が夕暮れの空に長く尾を引いて響《ひび》いた。
自転車に…買い物袋を積《つ》み上げて走る主婦や、大声で笑いあう中学生たちが行きかう欅並木《けやきなみき》の歩道に、竜児《りゅうじ》はへたへたと膝《ひざ》から崩れ落ちる。散歩中の犬が不思議《ふしぎ》そうに竜児の臭《にお》いを嗅《か》いでリードを飼い主に引っ張られる。
大河(記憶《きおく》は戻ったらしい)に蹴《け》られたわけではなかった。殴られたわけでも、首を絞められたわけでもなかった。
「……思い知った?」
たった親指一本。大河はその親指一本で、竜児の左腰の少し上あたりをごりっと押しただけであった。ただそれだけで、大河の小さな指先は、竜児に日の前が真っ白になるほどの痛みと苦しみを与えて下さった。マゾにとってはこんなに燃費《ねんぴ》のいい主人もいないだろうが、残念。竜児はマゾではない。
「な……なにをする……!?」
いまだじんわり嫌《いや》な痛みのパルスを発する腰を押さえつつ、仁王立《におうだ》ちの乱暴者《らんぼうもの》を魔界転生《まかいてんしょう》寸前の凶眼《きょうがん》で睨《にら》みつける。が、
「指圧の心は私の心。おまえのツボは私のツボ」
ババババ! と高速で繰《く》り出される拷問《ごうもん》指圧の素振りの勢いに、思わず震《ふる》えて目を逸《そ》らす。一体どこで身につけた、そんな技を。怯《おび》える竜児を見下ろし、大河は満足そうに嗜虐《しぎゃく》の闇《やみ》に翳《かげ》る瞳《ひとみ》を細める。
「私の悩みを真剣に聞いてくれないからそういう目にあう。ねえ、ちゃんと真面目《まじめ》に相談《そうだん》に乗ってよ、本気で困ってるんだから。いくら根性が犬だからって、心までひとでなしになったらあんた本当に人生おしまいよ」
「乗ってるだうずっと!?」
「いーつ!」
「だからずっとだってんだ! ずーっと俺《おれ》は言ってるじゃねえかよ! 諦《あきら》めて、たまにはクラスのイベントを楽しめって! なのにおまえはぐだぐだぐだぐだ、だって、だって、だって! っつって、俺からのメッセージを拒否し続けてるんだろうがよ!」
「だってやなんだからしょうがないでしょ」
フン! と偉そうに鼻息を漏らし、大河《たいが》は瞳《ひとみ》を半眼《はんがん》に据え、倣岸不遜《ごうがんふそん》に顎《あご》を突き上げる。朱色《しゅいろ》に染まりかけた空に、風に吹かれた淡《あわ》い髪が雲そっくりに柔らかく揺れる。その白い輪郭《りんかく》も、薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》そっくりな唇も、ビスクドールのように精緻《せいち》を極めた美しい線《せん》で描かれている。竜児《りゅうじ》はその不機嫌《ふきげん》な美貌《びぼう》を見上げ、腰を押さえつつもようよう立ち上がり、
「おまえは狭量《きょうりょう》だ」
ずばり、と事実を指摘してみた。さっきのツボ攻撃《こうげき》さえなかったなら、「北村《きたむら》だっておまえがいいって……言ってたじゃねえか」とか、「おまえなら優勝《ゆうしょう》できるから大丈夫」ぐらいのリップサービスもしてやったってよかったのだが。大河はその言葉に、「うう……」と胸をおさえて薄《うす》い唇を噛《か》み締《し》め、眉間《みけん》に苦々《にがにが》しい皺《しわ》を寄せて苦しみ出す。驚《おどろ》くべきことに、どうやら己《おのれ》の狭量さの自覚ぐらいはあったらしい。ザマミロ、とばかり、竜児は「心に余裕がねえんだな。ギリギリでいつも生きていたいんだおまえは」と追い討ちをかけてやる。たまには言葉の暴力《ぼうりょく》に己が晒《さら》されてみればいいのだ。
きっ、と悔しげに竜児を睨み、しかし大河はあまりの事実ド真ん中を突かれて言い返すこともできなかったか、苦《くる》し紛《まぎ》れ、
「……なによ、自分ばっかり、最近なんかうきうきでさ……」
「うきうき? 俺が? いつ?」
意味不明の文句をつけてくる。
だが、そんな楽しげな擬音《ぎおん》にはまったく覚えがなかった。新学期に入って一ヶ月ちょっと、残念ながらうきうきした記憶《きおく》は皆無《かいむ》だ。……もしも、大河が竜児の急所である実乃梨《みのり》とのことを指しているつもりなら、それはとんでもなく的外《まとはず》れである。竜児は最近、実乃梨との問には微妙な距離《きょり》を感じていて、大河の与《あずか》り知《し》らぬところでなんだか落ち込んでいたりさえするのだから。だからこそ、その言い草に、必要以上にカチンともくるわけだ。
「なあ、いつ俺がうきうきしてだって? なんにも知らねえくせに」
「……もーいいよ。忘れろブチ柄《がら》」
「……誰がブチだよ……」
「……あんただよ……」
大河はたいしておもしろくもなさそうに上唇をめくりあげ、けっ、と興味《きょうみ》を失って、そのまま踵《きびす》を返す。スタスタと不機嫌《ふきげん》な早足で歩き出す。
「ほら行くよ。スーパーのタイムセール始まっちゃう。豚肉ゲットするんでしょ。ちなみにキャベツは絶対に必要。……ちょっと、なにいつまでもグズグズやってんの、ほんとにあんたってばとことん野良《のら》っぽいんだから、勘弁《かんべん》してよもー」
グズグズ言ってたのはおまえだし、そもそも俺が歩けなくなったのはおまえのツボ押しのせいだよ──とはもちろん言わないまま、竜児は大河の少し後ろをぶすっと黙って歩き始める。まだまだ言い足りない文句も飲み込んで、ともに向かう先はいつものスーパーだ。大河のリクエストで、今夜のメニューはしょうが焼き。とはいえ、スーパーに並ぶ豚肉のオーラによっては、バラの塊《かたまり》を買い込んで角煮にするのもやぶさかではない。そしてその両方のメニューに共通する必需品といえば、「おう、そういやしょうがが切れてたんだ。泰子《やすこ》にクレンジングも頼まれてるし……大河、今月の生活費よこせ」
小走りに大河を迫いかけ、真横に並び、手を差し出す。
「なに? 今?」
「手持ちだと買い物、金が足りねえかも」
「へえへえ、わかりましたよ御代官《おだいかん》さま」
「……なんでいちいちそういう言い方を……」
日々の三食をほぼ竜児に頼っている大河は、毎月一万円を食費やらなにやらコミコミの生活費、として渡すことになっていた。口ほどには嫌《いや》そうな顔もせず、鞄《かばん》からピンクのスパンコールがついたネコの顔面型《がんめんがた》の財布《さいふ》をゴソゴソ取り出し、ついでにラインマーカーやら参考書やらプリントやらを路上にぼとぼと落とし、
「お、おまえ……もうちょっとこう整理《せいり》とか……」
それらを全部竜児に拾わせて、ネコの顔の中を覗《のぞ》いて、
「あ。銀行いかないと。お金全然入ってないや」
いっけない、などと口走りつつ、スタスタ自分勝手に歩き出す。ネコの顔からレシートやらなにやらをさらにひらひら落としまくり、それも全部竜児に拾わせる。
向かったのは、ATMのあるコンビニ。
「あ、おでんだ」
「おう、ほんとだ、もうそんな季節なんだなあ」
二人《ふたり》して自動ドアをくぐるなり、店内に充満しているおでんの匂《にお》いに、秋本番の到来を知った。そのまま大河は鼻をくんくんさせながら、フラフラとおでんに近寄っていく。その首根っこを掴《つか》んでATM方面に方向転換させ、竜児は雑誌《ざっし》でもパラ見しながら待っていようとカラフルな棚を眺め始める。が、ややあって、
「……あれ? なんで?」
ピピー、と電子音。大河《たいが》は不思議《ふしぎ》そうに首をひねる。
「どうしたんだ?」
「変。お金下ろせない。……なんでよ。これ、どういうこと?」
「そういうものを他人に見せるんじゃ……って、おまえ残高ゼロじゃねえか」
明細を見せられて目を逸《そ》らそうとし、しかし一瞬《いっしゅん》のうちに見問違えようもない数字がしっかりと目に焼きついてしまっていた。大河の口座の残高は、0円だった。それでは下ろせるはずもない。竜児《りゅうじ》は呆《あき》れて仏頂面《ぶっちょうづら》の大河を見下ろし、
「残高ゼロで下ろせるわけねえだろ、ったく、ドジ。まあ明日《あした》でいいよ。今日《きょう》の買い物の分は、うちの口座から下ろしとくから」
真《ま》っ赤《か》な革製の家計用がま口からキャッシュカードを取り出し、ATMに突っ込もうとする。躊躇《ちゅうちょ》は一切なし、なぜならコンビニ手数料無料の口座だから、竜児の家計管埋に死角はないのだ。しかし大河はそれを阻《はば》み、
「だめ! 待って!」
「なぜだ。手数料なら心配するな」
「ちっがう! ……おかしいの……こんなの絶対変なの! ありえない!」
「ありえないったって、しょうがねえだろ。金が入ってないんだから。ほらもう、あんまりうるさく騒《さわ》ぐんじゃねえよ。人の迷惑になる」
「だって先週お金下ろしたときにはちゃんと入ってたんだもん! 引き落としがあったとしても端数は残るでしょ? ぴったりゼロ円なんてありえない、この口座には、毎月あの人がお金を──そうか」
大河は急に口を閉じ、使えなかったカードを仇《かたき》みたいに睨《にら》みつける、
「……電話、ずっと無視してたから……」
「な、なに?」
「……そういうことを、するんだ……」
「あ、すいません。……とりあえず、ATMあけろこっち来い、出るぞ」
そのまま動きを止めてしまった大河の腕を掴《つか》み、ATMを使おうと待っていたらしい人に謝《あやま》って、竜児はコンビニの外に出た。邪魔《じゃま》にならないようゴミ箱の脇《わき》に大河を押し込み、
「なんだって? どうしたんだよいきなり」
「……信じられない。こんなやり方。だから嫌いなんだ……」
大河は竜児の顔を見ようともせず、凍りついてしまったみたいに俯《うつむ》いたまま、キャッシュカードを睨み続ける。風に揺れる髪がリップを塗った唇に張りついても身動きひとつせず、
「なんかわかんねえけど……大丈夫かよ?」
かわりにそれを指で取ってやり、竜児は腰を屈《かが》めて大河の表情を覗《のぞ》き込もうとする。大河はそれをうるさそうに押しのけ、やがて低い声でつぶやく呟《つぶや》いた。
「……少し前から、あの人──父親から、何度か電話が入ってた。でも、むかつくから全部無視してた。留守電《るすでん》も全部消してた。……そしたら、生活費の口座、カラにされた」
「……そりゃ……」
ひどい、と続けようとし、竜児《りゅうじ》は口ごもる。
生活費をもらっている立場のくせに親からの電話を無視する娘がひどいのか、生活費を奪って……というか、取り返して、というべきだろうか。とにかくそうして、娘の暮らしの生命線《せいめいせん》をもてあそぶ父親がひどいのか。竜児にはわからなかった。竜児に父がいないことを抜きにしても、そもそも逢坂《あいさか》さんちの娘と父親の関係は複雑《ふくざつ》すぎてよくわからないのだ。
そして、大河《たいが》はもちろん、父親がひどいと思っているらしい。
「クソジジイが……」
呻《うめ》くみたいに声を低く嗄《か》らし、
「殺したい……ほんとに……」
キャッシュカードを手の中で潰《つぶ》し折ろうとする。竜児は慌ててそれを取り上げ、ネコの財布《さいふ》にしまってやって、
「……そういうこと、親に言ったらだめだろ」
倫理観《りんりかん》という、確《たし》かではあるけどやっぱりこんなときには重みなく響《ひび》くものだけを盾《たて》に、なにもわからないなりに知った風《ふう》に諭《さと》してみる。そんな内心など全部お見通しなのか、大河の目は冷たく光って馬鹿《ばか》にするみたいに竜児を睨《にら》む、なにも言い返せないまま、その視線《しせん》をただただ困って受け止める。
そしてすべてを見計らったようなタイミングで、大河の携帯がジャケットのポケットで音を立てて震《ふる》えた。大河はストラップを掴《つか》んで乱暴《らんぼう》にそいつを引きずり出し、フリップを開き、
「……脅《おど》しよね。これってさ」
どこも見ないまま、口を歪《ゆが》めて薄《うす》く笑う。その顔だけで、想像通りの相手が電話を鳴らしているのだと竜児にもわかる。
「……出ろよ。とりあえず、話しねえとどうにもなんねえだろうし。それに金、ないと困るだろ」
それだけ言って、そして竜児は大河をそのままに、コンビニの中に再び入っていった。雑誌棚《ざっしだな》を見回し、大河の好きそうな乳製品の生菓子《なまがし》を眺め、ドリンクを横目に見ながら菓子の通路へ入る。いくつかの見慣《みな》れない新製品の菓子を確認《かくにん》し、ことさらゆっくりとレジ脇《わき》のおでんの什器《じゅうき》を見下ろす。だけど一体どんなタネが揃《そろ》っているのか、ひとつたりとも頭、には入らない。
機械的《きかいてき》に時間を見計り、それとない素振りでガラスの外の大河の様子《ようす》を見やり、大河が携帯のフリップを閉じて通話を終えたのを知る。端整《たんせい》な顔立ちを硬く歪めて、携帯をポケットにしまうところまで見届ける。
そうしてから、乱れぬ足取りでなにげなく大河のもとへ戻り、
「親父《おやじ》さん、なんだって?」
なにげなく、訊《き》いてみる。できるだけ、綱渡《つなわた》りしているみたいな微妙すぎる親子関係に、余計な風のひとつも立てないようにこっそり息を殺して。
「……竜児《りゅうじ》。あんた、これから時間あるよね?」
大河《たいが》はそっぽを向いたまま、硬い声で答えた。
「いや、俺はスーパーに」
「……私、買い物してくるから。お金ちょうだい。足りないんだったら急いで下ろして、あんたは買い物には行かないの。あんたは、今から駅ビルの二階のカフェに行くの。ほら、あの、こないだ私がポーチ買った雑貨屋《ざっかや》さんの隣《となり》の、べーグルのある禁煙のところ」
「……は?」
「わからない? 大雨が降ってきた日に、傘《かさ》がなくて時問つぶしにみのりんとばかちーと四人で入ったじゃん。あんたがコーヒー飲んで、私サーモンのべーグル食べて、」
「……そうじゃねえ。……なんで俺は買い物に行かないの?」
「みのりんとばかちーはチーズトースト半分こして、ばかちーがガクガクなんとか症で口があんまり開かない、とか言ってて」
「顎関節症《がくかんせつしょう》だろ。いや、そうじゃねえ、店のことじゃねえって。全然意味がわからねえんだって」
「……わかるよ」
「わかんねえよ」
「……わかんないか」
大河はちょっと言葉を飲み、言い方を考えるみたいに頭を何度か横に倒し、そして、
「……あんたは、私の代わりにあのカフェに行って、私の代わりにあいつと会って、そしてお金を取り返してくるの。いいね?」
竜児は状況を正しく把握した。次の瞬間《しゅんかん》、
「……いやだ!」
「なんでよ!?」
叫んだ声よりさらに大きく、大河の声が響《ひび》く。
「行ってよ! 大丈夫だから! あんたならできる! とってこい! ゴー!」
負けずに竜児も、さらに大声を出す。
「いやだよ! 大丈夫なら自分で行けよ! なんで掩がおまえんちのおっさんとそんな微妙なやり取りしないといけねぇんだよ!」
「しないといけないとかってことじゃなくて、行ってほしいの! お願《ねが》、いだから!」
「無理! 第一おまえんちのおっさんは俺のこと知らねえだろ!? 知らねえ野郎がこんなツラして、娘さんの金だけもらいに来ました! とか言って、そんなのめっちゃくちゃあやしいじゃねえかっ! 俺《おれ》ならそんな奴《やつ》に金は渡さねえよ!」
「説明しなよ!? 口あるでしょ!? それとも日本語も忘れたかこの犬脳は!」
「なにい? それが人にものを頼む態度か!?」
「いいから言うこときけー!」
「ふざけんじゃねー!」
大声大会では飽《あ》き足《た》らず、両手も両足も胴いた、本当の意味での押し問答が始まる。コンビニ前で互いにグイグイ押しあい、力比べの様相《ようそう》を呈《てい》し、しかし双方一歩も引きはしない。
「……お願《ねが》いっ! だからっ! 行ってきてよ、ねえっ! 私が今まであんたにお願いしたことなんてなかったでしょ!?」
「あ・る・よ! 毎日されてるし、聞いてやってるよ! 昨日《きのう》の夜はおまえのマンションで、おまえがなくしたテレビのリモコンを『みつかんない! お願い、捜して!』って頼まれて、二時間かけて捜してやったよ!」
「こいつぁ細かい野郎だあ! 確実《かくじつ》にモテないね! ほら、いいから行ってよ! ねえ! 行ってよ! そしたら、夕飯の支度《したく》ちゃんと手伝《てつだ》うから! 洗い物も全部するから! 明日《あした》も、あさっても、するから! ……お願いだから、行って……よ……っ!」
「おうっ!」
ドーン、と突き倒され、道行く善良なる人々の冷たい視線《しせん》のド真ん中。尻《しり》をついたのは竜《りゅう》児《じ》だった。大河《たいが》、渾身《こんしん》のうっちゃりであった。このまま逃げてやろうか、とめげない竜児《りゅうじ》は腰を浮かせかけるが、
「……お願《ねが》いだから……!」
大河の口から出た言葉は、「ざまみろ」でも「最初から大人《おとな》しく言うことをきけ」でもなく、消え入りそうなか細い懇願《こんがん》だった。眉《まゆ》はハの字、口はへの字にして、竜児の傍《かたわ》らにチョンとしゃがみ、袖《そで》を掴《つか》む。引っ張って、揺らす。
「ねえ、竜児……」
「……ったくもう……なんだってんだよ……」
「……お願い……」
竜児が首を縦《たて》に振るまで、大河は小さな白い手で、竜児の紬をグイグイ引っ張り続けたのだった。情けない顔を、俯《うつむ》けたままで。
***
竜児のコンプレックスの根源ともいえる人間の写真を見て、大河はかつて、笑ったことがある。
目つきの悪さ。顔立ちの悪どさ。チンピラとしか表現のしょうがない表情。一般人を怯《おび》えさせずにはおられぬ禍々《まがまが》しいにも程《ほど》があるオーラ。それら特徴のほとんどは、竜児の身体《からだ》に見事そのまま注ぎ込まれていた。その遺伝子《いでんし》の大本《おおもと》たる写真の中の人物こそ、現在|行方《ゆくえ》知れず・生死不明の実の父だ。彼の姿を写真で見て、大河は夜中のファミレスで涙を流しながら大笑いしたのだ。なにそれ、そっくり、コピー人問じゃん、と身を捩《よ》じらせて。
竜児は思う。ならば今、自分にも笑う権利があるはずだ。
「……ああ……そっか。わかった、とにかくうちの娘は、ここには来てくれないんだね」
「はあ……すいません」
大河に書かせたメモを見て、目の前の四十代と思《おぼ》しき男は、憂鬱《ゆううつ》そうに口元を擦《こす》る。その手つきもさることながら、ちんまり、と形容するしかない小柄《こがら》な身体が、彼を一目で「大河の親父《おやじ》だ」と理解せしめたのだった。
こいつは友達。お金はこの高須《たかす》竜児に渡して。大河より──殴り書きされたメモを大切そうに折り畳み、逢坂家《あいさかけ》の父親は、見るからに高そうなジャケットの内ポケットにそれをしまう。ジロジロ他人を見る癖《くせ》など竜児にはないはずだが、それでも視線はその男の動きを追ってしまう。そいつはあまりにも珍しかった。見たことのない、人種であった。
一体どういう仕事をしている人間なら、こういう服を着て、平同の夕方に時間を自由に使えるのだろうか。皺《しわ》ひとつない、ちょっとカジュアルなジャケットの中には襟《えり》の高いシャツ、そのシャツもしっとりとした光沢《こうたく》を放ち、一見してわかるほどに仕立てがいい。ネクタイはせずに首元にはざっくり編《あ》んだシルクとおぼしきマフラーをごく上品に巻いている。どう見ても、明らかに、それはいわゆる普通のサラリーマンのナリではない。金持ちなのは既《すで》に確定《かくてい》事項であるが。
ただ、まあ──嫌いなセンスではないぞ。
と、モノの値段もわからないくせに、竜児《りゅうじ》は脳内で、生意気《なまいき》にも合格マークを大河《たいが》の父親の顔の上にポンと押す。なかなかだ。なかなかいい。シックだし、いやらしさを感じさせないし、見て分かるほどに上質だ。ちょっと日焼けした肌の色にベージュのジャケットがよく映《は》えている。こんな年齢《ねんれい》の、それも日本人の「おっさん」で、ここまでうまく装《よそお》えるものなのか。だが一応はっきりさせておくが、美形だとは思わない。フランス人形そっくりに容姿端麗《ようしたんれい》な大河に比べ、目の前のお洒落《しゃれ》オヤジは、正直、さほど整《ととの》った容貌《ようぼう》をしているとは言いがたい。見た目の感じ、外見の雰囲気がいいのは確《たし》かだが。
「大河の使いをさせてしまって悪かったね、ええと、高須《たかす》くん。……大河にどうしても会いたくて、こんな手段を取ったんだけど……余計嫌われたかな」
「……はあ……」
「……高須くん、なんか怒ってる?」
「……いや……ちょっと目が、その、悪くて」
「そ、そっか。ごめんね」
悪いのは、正確には目ではなく目つきであった。しかしその竜児の言葉に、大河の父親は明らかに安心したらしい。ちょっと強張《こわば》っていた肩から力が抜け、初めて表情に笑《え》みめいたものが浮かぶ。煙草《タバコ》を取り出そうとする腕には、精巧《せいこう》な内部の機構《きこう》がすべて見えるようになっているクロコダイルの皮ベルトの時計《とけい》。目を射るほどに磨《みが》き抜かれて金のケースは眩《まばゆ》く光り、機械を見せるために透《す》かされた文字盤《もじばん》の彫りは眩暈《めまい》がするほど細かく、精緻《せいち》だ。それはとても美しく、もうすこし眺めていたい気分にもなるが、しかし竜児はためらいつつ、
「……あの。この店、禁煙みたいで」
クラシックな流線型《りゅうせんけい》のオイルライターに火がともる前に、その手を押しとどめた。きょとんと大河の父親は目を丸くし、あたりを見回して状況を把握し、
「ほんとに? あっそう! ああそう!……あーあ、そう……ここも禁煙なの……。最近はどこも吸わせてくれない……。はあー……実の娘にも嫌われて、喫煙者《きつえんしゃ》だから肩身も狭くて……世界のすべてに嫌われている気がしてきた」
がっくりと息をつき、ネコみたいに顔を擦《こす》りながらしょんぼりと煙草をしまう。
「えーと……出ますか」
「いいよいいよ、君、まだコーヒーに全然口つけてないじゃない、僕もだけど」
そして竜児にメニューをずい、と押しつけ、手をパタパタと鳥みたいに動かし、
「こうなったらもう、好きなもの、頼んでよ。ケーキでもなんでも食べてよ、もう」
「いや……結構です……。これから夕食なんで……」
「……あああ……」
再び頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
「い、いや、その……ええと、いただきます。この、卵べーグルを……」
「そう!? すいませーん。お姉《ねえ》さん、注文いい?」
パッ、と上げて笑《え》みを浮かべた顔立ちそのものは、やはり、あまり大河《たいが》には似ていない。広くて丸みを帯ひた額《ひたい》が、わずかに見覚えのあるラインを描いている気がするぐらいだ。しかしとにかく、大河の父親は小さかった。ヘタをすると、泰子《やすこ》よりも背は小さいのではないだろうか。肩幅も薄《うす》い。ウエイトレスを招く手も小さく、切《き》り揃《そろ》えられた爪《つめ》も小さく、だがその爪がクリームでも塗ったみたいにしっとり微妙に光っているのに気づき、竜児《りゅうじ》はもう一度|唸《うな》らされた。この親父《おやじ》、ハンドケアまできっちりしている。
「追加注文ね。彼に卵べーグル。それから……こっちにこのサーモンのべーグルもらおうか。何入ってるの? クリームチーズ入ってる? あ、入ってる。じゃあそれ。チーズたっっっぷりにして。挟めるだけ挟んで。頼むね!」
「……チーズ、好きなんですか?」
「えっ!? なんでわかったの?」
脱力……竜児は思わず癖《くせ》が出て、いつも大河にしているみたいに、ハァー、と長い息をついて親父を呆《あき》れて眺めてしまう。親父はニコニコ嬉《うれ》しそうに、なんで? ねぇなんで? と竜児の答えを待っている。
とにかく、なんと言おうか──大河には欠片《かけら》ほどもないものが、愛嬌《あいきょう》と呼ぶべきものが、どうやら彼にはあるのだった。おっさんのくせに妙に人懐《ひとなつ》っこい笑みをして、クリクリと大きな眼球をせわしなく動かし、
「いやあしかし、べーグルかあ、へぇー……ふんふん、結構このあたりにも洒落《しゃれ》た店あるんだ。女の子向けなのかな。OLさんとか、帰りに寄れていいよね。結構インテリアもいいよここ。北欧風だ、女の子はこういう白木の感じ、好きって言う子多いよね。男の子的にはどう? ひとりでここ、入れる?」
急に話を振られ、
「いや、ひとりでは無理です。……俺《おれ》は、最近はもっとシックな木の色の方が好みに近いっていうか……もっと硬い、節目《ふしめ》もゴツゴツ開いてる感じの、でも重厚な……うん、栗《くり》だとか」
思わず素《す》に戻ったところを、「あ、趣味《しゅみ》合うなー!」と感嘆《かんたん》の声で迎《むか》え討たれる。
「僕もそうだよ、ダークな色味の木材の方が好きだね。栗か樫《かし》か……こういうエセ珪藻土《けいそうど》っていうか、わざとラフに分厚く塗った壁《かべ》はこのままで、ガツンとダークブラウンを配置したい。カジュアル感は照明で引き出してあげて、イスもラフな作りのに変えて。キッチンもいかにも厨房《ちゅうぼう》! ってやつ、総ステンレスのを見せるように配置して」
「床板《ゆかいた》はブーツで踏むたびに音が出るような、分厚くて硬いヤツで」
「灰皿もずっしり重みのあるデザインのを」
「それでこう、ペンダントライトを、テーブルの上に」
「そうそうそう、それナイス! 濃《こ》いオレンジ系の、アンティークなヤツ! 男の世界!」
それだ! と軽口を叩《たた》きそうになり、慌てて飲み込む。相手はおっさん、しかも初対面、調子《ちょうし》に乗って無礼を働いてはならない。
コホン、とセキでごまかし、竜児《りゅうじ》はこっそり息をつく。あぶねぇ──ついつい引き込まれてしまった。コーヒーに口をつけて一旦己《いったんおのれ》をクールグウン、喋《しゃべ》り過ぎにならないラインを保ちつつ、竜児はしかし笑《え》みを打ち消しきれない。
ちょっとだけ、嬉《うれ》しかったのだ、趣味《しゅみ》が合うと言われてしまった。インテリア雑誌《ざっし》フリークとしては、洗練されたセンスの持ち主に導《みちび》かれてインテリア談義《だんぎ》に花を咲かせるこんなひと時は、まさに値千金《あたいせんきん》。
一方|大河《たいが》の父親は、男子高校生とセンスの交流がもてたのがそんなに嬉しかったのだろうか。さっきまでの憂鬱《ゆううつ》もどこへやら、目をキラキラと光らせて、相変わらず好奇心たっぷりに店内を見回している。嬉しそうにテーブルを拳《こぶし》で叩いてみたり、壁《かべ》を拳で叩いてみたり、間接照明を身を乗り出して眺めてみたり。考えてみれば、こんな年の男とプライベートで二人《ふたり》っきりで向きあうことなど、生まれて初めてのことだった。そんな事実に気がつくと同時、さて、この後一体何を喋れば、と竜児は突然|困惑《こんわく》する。できることなら楽しかったところ、つまりここで打ち切って、用事をすませて帰りたい。しかし大河の父親はまだまだ興味《きょうみ》は尽きないらしい。テーブルクロスを手にとって眺め、メニューをひっくり返して隅々《すみずみ》まで眺め、飾ってあるポストカードを立ち上がって見つめ、「あ、写真か。絵かと思った」などと呟《つぶや》いている。
マイペースといおうか、なんといおうか……と、
「そうだ、忘れないうちにこれ。これが本題だよね。確《たし》かに渡してね。あーあ……作戦失敗だな。大河、怒ってただろ? 電話口からすごい殺気を感じたんだよね……」
「あ、まあ、それは多少……おう!」
曖昧《あいまい》に頷《うなず》きながらも、ようやく受け取った封筒の重みに驚愕《きょうがく》する。中は全部、万札だろうか。ぶ厚くて、ずしっと重くて……一体どれだけの金額《きんがく》が入っているのか、もはや竜児には想像もっかない。これを持ち帰るのか、と思うだけで、変な汗が脇《わき》から染み出す。大金だ、超のつく大金。こんな大金を大河が受け取っていたとは──
「また月末に、いつもどおりに振り込むからって伝えてね」
「えええ……っ」
さらなる衝撃《しょうげき》に、のけぞった。また月末。これだけの金があったら、多分高須親子ならば余裕で半年暮らせてしまう。なのにまた月末って、ほんの数日後って、そんなばかな。
しかし大河《たいが》の父親は、そんな竜児《りゅうじ》の緊張《きんちょう》にすこしも気づかないようだった。ふ、と小さな息をつき、小さな両手で頬杖《ほおづえ》をつき、
「……会いたかったんだ、どうしても。全然、声も聞かせてくれないから……とにかく元気でいるのか、顔が見たくて……大事な話も、あって」
そのとき。
言葉を切ったその横顔に、竜児は、不意に、本物の哀しみみたいなものを見つけてしまった、手の中の封筒はずしりと重く、違和感は痛いほどざらついた感触。
再婚して、邪魔《じゃま》になった大河にマンションをあてがって、そして家から放り出した。大河を捨てた。大河の父親は、そういう冷酷《れいこく》なことができる男。……そんな風《ふう》に大河は言っていて、竜児もそれを事実だと思っていたのだが。
……そういう男が、こんな顔をするのだろうか。こんな風に息をついて、目蓋《まぶた》の影《かげ》を濃《こ》くするのだろうか。
よくは知らないけれど、それは違うのではないか、と思えてくる。重い封筒の扱いに困り、両手で捧《ささ》げ持ったまま。
大河の父親の視線《しせん》は、しかしその違和感の詰まった封箇に向くことは一切なく、
「それで、大河は元気でやっている? なにか困ったりしていない? あのー、なんて言おうか、その……君は、……大河と、アレなの? お……お付き合い、しているの?」
虚《きょ》を突かれ、竜児は弾《はじ》かれたように強く首を真横に振る。
「違うんです。……っていうか……友達なんで。実は、あのマンションの隣《となり》に住んでいて……それでなんとなく、気があって。付き合ってるとかそういうのでは全くなくて……家族っていうか、兄妹っていうか……そんな気がしてて……俺が勝手に、ですけど……」
「そうか。……そうかあ……」
インテリア談議《だんぎ》でいくら心が通じあおうと、やはり娘に近づく悪い虫なら駆除《くじょ》したれ、ぐらいに思っていたのだろうか。事実を知って、明らかに嬉《うれ》しげに大河の父親はうんうん頷《うなず》く。そして、
「あのさ。大河、変な奴《やつ》に付きまとわれたりとか、ない? 最近はほら、ストーカーとかいるじゃない」
「それはもう大丈夫です。……大河は強いから」
「だよね!」
安心! と顔に漢字二文字をくっきりと浮かび上がらせ、大河の父親は両目を細い筋にして笑う。しかし、それでもどうしようもなく払いきれない目元の皺《しわ》は、恐らくはきっと、
「大河……口座のこと、怒ってたよね……うん。怒ってるんだろうなあ……」
娘に嫌われた、という苦《にが》い後悔のせいなのだろう。自嘲的《じちょうてき》にちょっと笑い、
「電話で少し話せた時に、『子供を捨てたことへの責任ぐらいちゃんと果たせ』って言われてしまった。……やっぱり、そう思われてるんだよね。捨てた、って」
「……違うんすか……?」
「違う」
一瞬《いっしゅん》だけ、強く竜児《りゅうじ》に向けられた視線《しせん》に、大河《たいが》そっくりのきつさが宿《やど》ったような気がした、
「違うんだよ。それは。絶対に違う。……離婚《りこん》はね、どうしようもなかったんだ。彼女の母親とはどうしても、もうダメで……それから僕の方にはいい出会いがあって、再婚して。でも、再婚した相手が若すぎたから、どうしても大河は新しい暮らしに馴染《なじ》めなかったんだ。色々《いろいろ》な誤解が絡まりあって、後はもう坂道を転がるみたいに関係が悪くなっていって、大河が今の奥さん──夕《ゆう》、って言うんだけどね、大河か夕か、どっちかが家を出るしかなくなっていって。そして大河が……」
べーグルが二つ、運ばれてくる。大河の顔ぐらいありそうな、紙に包まれた大きなべーグルだ。
「……そう……。なんであのとき、止められなかったんだろう。今も夢に見るんだよ。冬だった。真冬のうんと寒い日で、外は雪が降ってた。うちの中で、大河はいつもみたいに泣いて叫んで大喧嘩《おおげんか》していて、夕に物を投げつけて鼻血出させちゃってて……もう家は修羅場《しゅらば》、っていうか、本物の地獄《じごく》みたいで……せっかく離婚も成立して再婚して、平和な家庭って奴《やつ》を取り戻せると思ってたのに、なんでこんな風《ふう》になるんだろう、って、……僕も苛々《いらいら》して、ちょっと、厳《きび》しいことを言ってしまったんだよね。大河に、ってわけじゃなかったんだけど……そう聞こえたんだろうなあ、そうしたら、突然フッ、と、大河の顔から表情がね、……電気が消えるみたいにね、なくなったんだよ」
竜児はべーグルを見下ろした。こんなにデカくて……食べきれるだろうか。
「……それから、まるで紐《ひも》が誰《だれ》かにするするって引っ張られていくみたいに、ドアの隙間《すきま》から大河の姿がするする、って消えていって、追いかけても追いかけてもするするっとすり抜けて、どうしても捕まえられなくて……そのまま……なんで、掴《つか》めなかったんだろうね。夢の中でも、いつも掴めない。するするする、って指からすり抜けて、あの服の……そうだ覚えてる、あのラベンダー色のカシミアのカーディガン、ウエストをリボンで結ぶようになっていて、そこを掴もうとするのに、するする、って、結んでた髪も掴もうとしたのに、それもするするって──門が、開いた音が、すごく響《ひび》いたんだよね。そのとき。そして大河は外に出て、」
幻《まぼろし》の雪を見るみたいに、大河の父親の目が遠くなった。
「二度と、うちには帰らなかった」
見ていられなかった。竜児は卵べーグルを手にとって、思いっきりかぶりついた。そして、継がれた一言に、
「大河と暮らしたいんだ。また一緒《いっしょ》に。それを、伝えたかったんだ」
「……え……」
フリーズする。
今、なんて──口いっぱいに食い物を含んだまま、竜児《りゅうじ》はそれを噛《か》むことも忘れる。三白眼《さんぱくがん》を見開いて、目の前の男を呆然《ぼうぜん》と見つめる。
大河《たいが》と暮らす。確《たし》かに今、そう聞こえた。聞き違いではなく、確かに。
味なんてもうわからない。パサつく物体を口の中で転がしながら、なんとか平静を装《よそお》った。己《おのれ》の感晴の手触りも分からないまま、問うべきことを低く問う。
「で……でも、また状況は同じになるんじゃないですか? だって……だって、その……」
「ならないよ。させない。間違えたのが、今はわかるから。大河と『二人で』やり直すつもりでいるんだよ。大河は、僕の、僕だけの、たったひとりの。命よりも大切なお姫様《ひめさま》なんだ……もう絶対に間違えない。……おいしそうだね、べーグル。僕も食べよう」
小さな手がサーモンのべーグルを掴《つか》み上げ、彼が包装紙をめくるのを、竜児はただ見ていた。言葉の意味を計りかねていた。
二人でやり直す。それはつまり。
「……あのね。近々、夕《ゆう》とは離婚《りこん》するんだよ……もう決まったことで、夕とも話し合いはすんでる。それで大河と、暮らす。親子だから。……彼女を、愛しているから。離《はな》れるべきではなかったから。次に会ったら必ずそう言う」
「それは、その……本気、なんですか……?」
「本気だよ。……あっ!」
「おう!」
大河の父親がかぶりつこうとしたべーグルの間から、ずるり、とサーモンがはみ出した。テーブルに落ちる寸前で竜児は思わず素手で受け止めてしまった。これを一休どうしよう、と竜児は眉間《みけん》に皺《しわ》のサンダーボルトを寄せるが、
「……ナイスフォロー!」
大河の父親は躊躇《ちゅうちょ》なく竜児の手からそれを摘《つか》み上げ、不器用《ぶきよう》に再びべーグルの間に押し込んだ。イエーイポーズで小さな親指を突き出して見せる。──確かに、彼は大河と血が繋《つな》がっているらしい。ドジなところも、すぐ調子《ちょうし》に乗るところもそっくりじゃないか。そして、不意に竜児はおかしくなる。気がついたのだ。
この男とこうして向きあって座って大河のことを話している時問は、結構気詰まりではあるが、嫌いとはどうしても思えない。
なんだかフワフワと浮《うわ》ついて、定まりきらない心の中で、竜児は大河に語りかける。
──大変だ。おまえの親父《おやじ》、おまえを迎えに来るってよ。
***
ガッチャン!
と、音が響《ひび》くたび、
「……大丈夫だってば! いちいち見にくるんじゃない!」
「いや、いいけどさ……割るなよ?」
「割ってないよ!」
竜児《りゅうじ》はとてもとても座ってなどいられぬ心持ち。思わず大河《たいが》の真後ろに立って、そのおぼつかない手つきを心配げに眺めてしまう。
「あんたうざい。どっか行ってて!」
カッ、と大河は竜児に向けて、尖《とが》った犬歯《けんし》を剥《む》いて見せる、うっかり手を出そうものなら、噛《か》みつかれるに違いない。だけど離《はな》れることもできない。竜児にとってはこの光景こそがスリルでショックでサスペンス、ハラハラと台所をウロつき続ける。
危なっかしい手つきで、大河は洗った茶碗《ちゃわん》を水切《みずき》り籠《かご》に重ねていく。しかし重ね方は適当すぎ、平気で小さな汁椀《しるわん》の上に重い陶器の皿を斜めに被《かぶ》せたりするもんだから、
「わ!」
「おう!」
皿は再び悲鳴にも似た音を立てて、ステンレスの水切り籠の中で派手《はで》に崩れる。もう見てはいられない、
「だから、ほら、こういう食器はこうやって、」
竜児は思わず、うずうずする手を伸ばしかけるが、
「もー! いーいーの! 手を出さないで! 私がやるって言ってるでしょ、あんたはお湯でも沸かして、お茶の支度《したく》してて!」
「……そ、」
「視線《しせん》も向けないで!」
フン、と鼻息を荒く吐き出し、火河は断固洗い物を続ける気でいるらしい。誓いを守る気になってくれたのは喜ばしいことだが、かえって気が休まらないという罠《わな》だった、大河はまったく手馴《てな》れていない、性絡は雑《ざつ》、やることなすこと全部考えなしのドジ。しかも食器をひとつひとつ洗剤をつけたスポンジでゴシゴシ擦《こす》っては、そのスポンジをいちいちシンクの端に置き、食器を両手で掴《つか》み直して流水でしっかりすすいでいる。一方で置き方は粗雑《そざつ》極まりなく、平気で椀を伏せずに置いて洗剤の泡を飛ばしたりする。雑なわりに妙に律儀《りちぎ》で、そのくせやっぱり適当なのだ。ちなみに跳ねまくっている水は今もシンクの周囲に飛び散り、大河のエプロンをびちょびちょに濡《ぬ》らし、床《ゆか》にまでボタボタ垂れている。
──なんという、手際《てぎわ》の悪さだろう。
手出しも口出しもできないもどかしさに、竜児《りゅうじ》はほとんど狂いそうだった。全部一度に洗剤で洗い、洗《あら》い桶《おけ》にピラミッド型に重ね、水を溜《た》めながらすすぐようにすれば効率もいいし水も無駄《むだ》にならないし洗剤も少なくてすむのに。というかそもそも水の勢いが強すぎるのだ。そんな開栓《かいせん》マックス状態で溢たまの内側の曲線《きょくせん》に水流をぶつければ、
「にやーっ!?」
……すり鉢型《ばちがた》に水は跳ね、あたりは当然、いっそう水浸しに。前髪まで濡《ぬ》れ、大河《たいが》も棒立《ぼうだ》ちに。
「……」
竜児はもはや言葉もなかった。跪《ひざまず》き、乾いた雑巾《ぞうきん》で水溜《みずたま》り状態の板の間を拭《ふ》き始める、さすがの大河も、それぐらいの手出しは許可して下さったらしい、それについては文句も言わず、さりとてめげることもなく、濡れた顔を泡塗《あわまみ》れの手で擦《こす》ってまだまだ洗い物を続行する。そして、
「あ! やだ、インコのエサ箱と人間の皿、あんた一緒《いっしょ》に洗ってるの? 無神経だねー」
あまりの発言に、雑巾に乗せた手がずるりと滑《すべ》った。
「違うわ! おまえアホだろ!? それ、おまえの弁当箱のおかずスペースだろうが!」
「ええ? ……そうだっけ?」
「そうだよ! 鳥のエサ箱なんかと食器を一緒にするわけ──」
ポロリ、と、それは失言であった。
まずい。慌てて振り返り、愛想笑《あいそわら》いを浮かべてみるが、時|既《すで》に遅し。すべてを聞いていたのだろう、鳥かごの中からぶさいくインコのインコちゃんが無闇《むやみ》に鋭《するど》い視線をこちらに向けている。腐肉色《ふにくいろ》のグロいくちばしから変な泡をたらたら垂らし、半開きの目蓋《まぶた》を恨《うら》みがましく震《ふる》わせ、ボサボサに乱れた羽毛を痙攣《けいれん》させながら膨《ふく》らませて。視線は少々ロンパリ気味、しかし鋭《するど》い矢のようだ。機嫌《きげん》を損《そこ》ねてしまったことは、その個性的な顔から十分に読み取れる、
「……違うんだ、インコちゃん。頼む、聞いてくれ。今のは別にインコちゃんが汚いって言ってるわけじゃなくて、ただ大河が間違えたもんだから語調《ごちょう》が強く」
思わず飼い主は弁解を始めるが、
「鳥だから日本語はワカラナイ……!」
誰《だれ》が教え込んだのか、インコちゃんは華麗《かれい》な日本語を操《あやつ》ってそれをシャットアウト。キッ! と形相《ぎょうそう》を凄《すさ》まじくして、さらに竜児を睨《にら》み続ける。しかしもっと睨みを利かせようと頭を低く下げ、バランスを崩してトトト、と三歩歩いたあたりで、
「……イ! ウ! ……ウンコ。いや、ウンコちゃう。……え……?」
インコちゃんはすべてを忘れたらしい。不意にくちばしをパカー、と開き、ボケー、と視線を惑《まど》わせ、自分がなにをしていたかを思い出すように羽繕《はづくろ》いを始め、そうだ、と思い出したみたいに小松菜《こまつな》を啄《つい》ばむ。
なるほど、と竜児《りゅうじ》は拳《こぶし》を打った。さすが脳みそ数グラムの鳥頭《とりあたま》、三歩歩いたらすべてを忘れてしまったのだ。幸運なことに、鳥頭のおかげでペットと飼い主の間に遺恨《いこん》は残らずにすんだわけだ。
「あらいやだ……ブス子と喋《しゃべ》ってる……あんたもほんと、犬離《いぬばな》れしてきたよね」
「ブス子っていうな、インコちゃんだ。なあ、インコちゃん。あー元気だ元気だ、あーかわいい、えらいなー、インコちゃんは心が広くて優《やさ》しい子だなー、好きだぞインコちゃん」
「へっ。あんたにかかったら路上の野糞《のぐそ》も『かわいい』だろうよ」
「……の、のぐ……えぇ……?」
きゅ、と蛇口《じゃぐち》を閉め、大河《たいが》はおもむろに薄《うす》い胸を反らしてみせる。のしのし歩んで、大河《たいが》の口から発せられた下品なワードにいまだ動揺中の竜児の国の前で仁王立ち、
「ほーら。できたわよ、あんたがブス子と遊んでる間に、全部すんじゃった」
つーん! と偉そうに顎《あご》を突き上げて、自慢げにミッション終了を宣言した。ならば、もはや動揺している場合でもあるまい。竜児は体勢を立て直し、うんうんと頷《うなず》き、拍手までしてやり、
「あーえらいえらい、おまえは家事の天才だ」
「ま、その気になればこんなもんよ」
「かなり筋がいいんじゃないか、続ければもっと手際《てぎわ》が良くなるぞ」
「はいはい、いいからお茶|淹《い》れてちょうだい。素早《すばや》くね」
「才能のきらめきを感じたな。よしお茶だな、素早くな」
返却されたエプロンがビチョビチョなのにも文句をつけず、ただただ穏《おだ》やかに褒《ほ》め称《たた》えてやる。野糞のかわいげを褒め称えるのに比べりゃ、大河の家事を褒めてやるぐらいなんでもないとも。
それに、そうだ、なんにしても大河が洗い物をするなんて、知りあって以来初めてのできことなのだ。手出しできないもどかしさも、無事に終わってしまえば塵《ちり》と消えた。うまくできなくたっていい、その気持ちを大事に伸ばしてやりたいではないか。褒めて伸ばす。竜児の方針はそれだ。
それに──親父《おやじ》と無事に一緒《いっしょ》に住むことになれば、大河だって洗い物ぐらいできないと困るだろうし。本当にそれが実現するかはわからないが、一応。
竜児は湯を沸かし、その間に食器を手早く拭《ふ》いて棚に片付け、いつも大家《おおや》が分けてくれる茶葉を急須《きゅうす》にたっぷり入れる。日本茶を淹れるときには熱湯《ねっとう》ではない方がいい、と世間では言うが、竜児は沸かしたての湯を勢いよく注ぎ入れるのが好きだった。熱湯を注がれて、抗《あらが》いようもなく緑の茶葉は一気に膨《ふく》れる。流れに踊りながら柔らかに解《ほど》け、火傷《やけど》しそうに熱《あつ》い湯気に、お茶の香りが強く立つ。そして一煎目《いっせんめ》はすぐに湯飲みに注いでしまい、急須には少々ぬるまった次の湯を注《さ》す。最初のやや淡《あわ》い、しかしうんと熱《あつ》い、食後にぴったりのお茶を飲み終わったら、次にはゆっくり濃《こ》く出した渋《しぶ》めのお茶をちびちび飲むのだ。卓から立たずに、二杯目を飲めるという主婦くさい利点もある。
「菓子は?」
「いる」
では、と、先日|大河《たいが》がもち込んだ贈答用《ぞうとうよう》の菓子の箱から、小さなバウムクーヘンの包みを二つ一緒《いっしょ》に盆に乗せる。しょうが焼きを二百五十グラムと白飯三|膳《ぜん》を食べた後でも、大河は甘い物を欲しがる。竜児《りゅうじ》も今夜は付き合ってやることにする。
ざっと拭《ふ》いたちゃぶ台に重い盆を注意深く置き、
「さあ起きろ。寝たままじゃ茶は飲めねえぞ」
さっそく座布団《ざぶとん》を二つ折りにして寝そべっている大河の脛《すね》をべちっと叩《たた》く。大河は長い髪をかきあげながら身を起こし、
「おかしおかし、バウムクーヘン……って、たった二個?」
「ひとつは俺のだ」
「やだもー貧乏くさいわねー。箱ごと持ってきなさいよ」
二つだけの菜子を見て、不機嫌《ふきげん》に唇を尖《とが》らせる。はいはい、とそれを適当に流し、二人《ふたり》して定位遣の座布団に座る。そうして、毎週見ているしょうもないクイズ番組の音声をなんとなく大きくし、なんとなく、会話も途切《とぎ》れ。
[……なに?」
「……いや? 別に?」
「……キモ」
なんとなく、大河の横顔を眺めてしまう。大河は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せてそんな視線《しせん》を拒《こば》み、再びテレビに見入るが。
やはり竜児は、このいつもと同じ退屈な夜に、妙な視線を大河に送りたくなってしまうのだ。そして、むずむずと話したくなってしまう。泰子《やすこ》と三人で食車を囲んでいるときには、なんとなく言い出せず、そして大河も話題には決して上らせなかった『あのこと』を。
「あのさ。……あのー、おまえんちの親父《おやじ》、なんか……かわってるよな」
「……これ、やっぱ層ごとにはがして食べるのがスジよね」
大河はそれをガン無視。小さく揃《そろ》った前歯をむきっ、と剥《む》き出して、リスみたいにバウムクーヘンを薄くはがして食べ始める。
「変な食い方……っていうか、そう言えば夕方、べーグル食ってたぞ。親父。おまえと同じ、サーモンの奴《やつ》。やっぱ、好みって似るもんなのかな。チーズが好きなところも同じだ」
「……あんた食べないの? 食べないならちょうだい」
「なんか、色々《いろいろ》話してさ。……すごく、おまえのこと心配してるみたいだった」
竜児《りゅうじ》の手元から奪い取ったバウムクーヘンを、大河《たいが》は今度はがぶっと大胆《だいたん》に齧《かじ》り取る。竜児の言葉は完全に無視したまま、頑固《がんこ》にテレビの方だけを児て。その肩をちょっとだけ揺さぶってみた。
「おい、聞いてるか? 俺《おれ》から言うことじゃねえけど、おまえ、マジで親父《おやじ》さんと会った方がいいぞ。できるだけ早くな。……だって、なあ、どうするよ」
自分がこれを言っちゃいけない、そんな気はしている。親父本人が大河に言わなければいけない。でもほんのすこしだけ、大河がなにも分からぬままにすべてをシャットアウトしてしまわないために。
「……なんか親父さん、おまえと、一緒《いっしょ》に暮ら」
「──バカじゃない?」
テレビの音声だけが、狭い2DKに虚《むな》しく響《ひび》いた。大河は竜児を見ることもせず、そっぽを向いたまま、冷たくそれだけを言い放ったのだ。なんだそれ、と長い髪の聞からのぞく耳の後ろを睨《にら》みつけ、竜児の声も硬くなる。どうしてこいつは、いつもこうなんだ。
「……菓子、おけよ。なあ、俺は真面目《まじめ》に話してんだぞ」
「だから、真面目に、バカじゃない? って言ったのよ。あんたバカじゃない?」
「おまえのために言ってやってるのに!」
「誰《だれ》がそんなこと頼んだ? 他人のうちのことに口出ししないで」
「はあ!? おまえが俺を、あそこに行かせたんだろ! 感想ぐらい聞けよ! 金だけ受け取ったら、それで終わりか!?」
「そうよ、でもあんたには感謝《かんしゃ》してる、だから洗い物したわ、それで終わりよ」
「ふざけんなって! ちょっと、話をさせろよ!」
「うるっさいな! 馴《な》れ馴《な》れしく触るんじゃないっ!」
大河はようやく振り返った。怒りと苛立《いらだ》ちに火を噴《ふ》きそうな国で、竜児と視線《しせん》をきっちり合わせた。だが、その目からは、あっという間に感情の色が褪《あ》せていく。怒りの炎さえ冷たく消えていく。そして、
「……もういい、つまんないわ。帰る。あ、言っておくけどふてくされたりしないで、明日《あした》もちゃんといつもどおりに起こしてよね。『私は』別に、こんな程度の不愉快なやりとり、すこしも気にしたりしないから」
大河は竜児への興味《きょうみ》を完全になくしたらしい。食べかけのバウムクーヘンをむんず、と手に掴《つか》み、ずり落ちていたソックスを破れんばかりの勢いで引き上げ、のしのしと畳を踏んで玄関《げんかん》に向かう。それを追いかけ、立《た》ち塞《ふさ》がろうとし、
「親父さん、おまえに無視されて落ち込んでた! かわいそうだったぞ!」
「私のほうがかわいそうよ!」
怒鳴《どな》りあいになる。なんてつまらないことを言う奴《やつ》なんだ、と、竜児はほとんど呆《あき》れ返る。そんな竜児《りゅうじ》に侮蔑《ぶべつ》の一瞥《いちべつ》を向け、大河《たいが》は靴を履《は》き、「また明日《あした》」とだけ呟《つぶや》いてそのまま出ていってしまう。本当に帰ってしまう。
追いかけようか、とサンダルを履きかけ、しかし迷い、
「……ったく!」
結局やめた。
冷たいドアノブから引《ひ》き剥《は》がすみたいに手を離《はな》す。鍵《かぎ》をかけて、玄関から上がる。ものすごく腹が立っていることに気がついたのだ。玄関に整然《せいぜん》と並ぶ靴を、荒々しく蹴《け》り散らしたいぐらいに。
「バカたれが……」
物にあたる代わりに、低く、しかし強く、もうここにはいない奴《やつ》目掛けて言葉を吐いた。
あんなふうに思ってくれる父親がちゃんといて、生活を心配してくれていて、そして自《みずか》らを振り返って反省し、迎えに来てくれようとしている。後は大河が素直になりさえすれば、そこには大河が望んだ幸せが待っている、なのに、それを大河は拒《こば》み、捨てられた私はなんてかわいそう、とうっとり自己憐憫《じこれんびん》に浸っているのだ。なんて下らない。
竜児が望んでも望んでも手に入らない幸せがすぐそこにあるのに。その竜児の目の前で、大河はそれを、ゴミくずみたいに投げ捨てる。かわいそうな自分がそんなに好きか。
冷えた空気が重く溜《た》まった玄関には、仕事に出かけた泰子《やすこ》のご近所うろつき用サンダルと、竜児の制靴だけがぽつんと取り残されていた。その玄関には、どんなに泰子と竜児が祈っても、いくら待っても、いまだ誰《だれ》も帰ってはこない。
3
いっそ、なにもやらない方がマシだ──そんな醒《さ》めた空気が漂う、放課後《ほうかご》の教室。
帰宅は許されず、強制的に残された2−Cの面々は、静かに冷えつつ黙《だま》りこくっていた。掃除《そうじ》をするときのように机は全部教室の後ろに押しやられ、全員固い床《ゆか》に尻《しり》をつけて座り込み、それぞれ微妙に強張《こわば》る表情で教壇《きょうだん》に立つ春田《はるた》を見上げる。
非難《ひなん》? いや、生《なま》ぬるい。居並ぶその目の中にあるのはざらついた無関心だけだ。関《かか》わりたくない。できればこのままなかったことにしてほしい。とにかく自分だけは、このアホらしい事態から逃れたい。エゴイスティックな自己保全本能は、ちゃんと全員分|機能《きのう》しているらしい。
「……これ……一部ずつ取って、後ろに回してってくれる?」
すべての元凶・春田は、視線《しせん》から逃れるようにおどおどと目を伏せつつ、謎《なぞ》の小冊子を配ろうとしていた。しかしそれを受けとってくれる者は誰もいない。仕方なしに教壇を下り、自らひとりひとりの手元にそれを押しつけて歩く。手を出してもくれない奴《やつ》には、足元にそっと置いていく。そして全員が示しあわせたかのように、それを開きもしないまま、さりげなくそのまま床《ゆか》に放置。開いたら負け、興味を持っても負け。そんな気配が教室中を、お盆の墓場に渦巻《うずま》く線香《せんこう》の香りの如《ごと》く渋《しぶ》く重く覆《おお》い尽くしていた。
「……責任を感じたんだよね。だから……これ……俺、作ってみた。だ、台本。……プロレスショーの……ガチっていうのも、ほら、なんだからさ……」
誰《だれ》にも問われぬまま、春田《はるた》は小冊子を配り歩きながらいらん説明を開始する。誰も聞いてはくれないのに。
そう──恐ろしいことに、本当に、2−Cの文化祭展示はプロレスショーに決定してしまったのだった。若さへの嫉妬《しっと》に狂ったか、それとも肥大《ひだい》する不安の中で単に自爆《じばく》したのか、あの独身(30)がいらんところで担任パワーを発揮して、しょうもない企画を実行委員会に正式に通してしまったわけだ。迷惑もここに極まれり。
そんな状況で、だ、台本。とか言われても。誰も言葉を発しもしないまま、ホチキス留《ど》めされたコピー用紙の表紙からさりげなく視線を逸《そ》らし続ける。春田といつもは仲のいい能登《のと》も、そして竜児《りゅうじ》も、今回ばかりは乗ってはやれない。隅《すみ》っこに二人《ふたり》、気持ち悪く身を寄せ合って座り、
「春田が作った台本、ってのがまた怖いんだよな」
「おう、めちゃくちゃなことになってそうだ……」
ヒソヒソと声を殺して耳打ちしあう。その竜児の双眸《そうぼう》はなにやら物騒《ぶっそう》にピクピク震《ふる》え、蒼《あお》き稲妻《いなずま》の鉄槌《てっつい》をもってアホの春田を今にも撃ち殺さんばかりに危うい光を発している。春田はそれを察知して、竜児方面に顔を向けられなくなっている。……竜児的にはちょっとだけ、春田もかわいそうだよな、と同情しているだけなのだが。この友情が正しく春田に届く日はくるのだろうか。
そんな竜児の前方では、いつもはクラスのイベントとなれば率先して大騒《おおさわ》ぎしだす北村《きたむら》が、なんだか疲れたふうに眼鏡《めがね》を鼻までずりおろし、これでは盛り上がらない……俺の文化祭盛り上げ計画が……などとひとりごちている。そしてさらにその前方では、あぐらをかいて座った実乃梨《みのり》の背中に大河《たいが》がべたっと体重をかけてへばりつき、
「うーうー」
「あー重いー、重いよー大河ー」
「うー、みのりうー」
「みのりうー? 誰だそれー、あー」
思考力ゼロの動物と化して、ぐりぐりもぞもぞと匂《にお》いづけをしている。麻耶《まや》は大胆《だいたん》に床に寝転び、ジャケットを着ていない北村のシャツの裾《すそ》を背後からこっそりめくり上げ、ベルトの上からはみ出したパンツを指差して他《ほか》の女子とクスクス笑いあっている。奈々子《ななこ》に至ってはでかい鏡《かがみ》とブラシを持ち出して、器用《きよう》にピンをくりくり頭に挿《さ》し、髪のまとめ方の練習に入っている。
「みんなー、頼むから興味《きょうみ》もってくれよおー……もう後戻りできないんだって〜」
春田《はるた》の泣き声は虚《むな》しく響《ひび》いた。
「なあ〜、北村《きたむら》、なんとか言ってくれよぉ〜クラス委員だろぉ〜、ちゃんとおまえも責任もって、盛り上げてくれよぉ〜! おまえの下半身の危機《きき》を救ってやった恩も忘れたのかぁ〜」
「……む、それを言われると返す言葉も……で、では、舞《まい》をひとさし……」
破れかぶれ、北村はすくっと立ち上がった。その瞬間《しゅんかん》、事件発生、一体なにがどうなったやら、ベルトを抜かれた北村のスラックスがストーン! と足首まで落ち、
「ええええ……っ!?」
「きゃー!」
ベルトはなぜか、真っ先に叫んだ麻耶《まや》の手の中に派手系《はでけい》美少女の自覚|皆無《かいむ》な手管《てくだ》によって、ベルトはいつしか抜き去られていたらしい。
パンツ丸出し状態の北村の周囲から、爆心地《ばくしんち》から吹く爆風に吹き飛ばされる塵《ちり》の如《ごと》く、凄《すさ》まじい勢いで一斉に人が引く。「いやー!!」「なにしてんだおめー!?」嫌《いや》そうな悲鳴が響き渡る。
「なぜだ……っ」と呻《うめ》いたのは北村自身。「ひいー!」と笛のような声を上げたのは大河《たいが》。その目を実乃梨《みのり》は両手で覆《おお》い、「ワカメのトラウマが……」とげっそり頬《ほお》をコケさせる。竜児《りゅうじ》はうわあ……と北村から距離《きょり》を取り、「北村=脱ぎたがりの露出狂疑惑《ろしゅつきょうぎわく》」を己《おのれ》の中で一層濃《いっそうこ》くする。変態現る、と亜美《あみ》は冷たく言い放つ。
盛り上がるどころか、突如《とつじょ》身近に降臨《こうりん》した下半身露出男に教室は阿鼻叫喚《あびきょうかん》状態に陥《おちい》っていた。悲鳴はもはや輪唱《りんしょう》状態、春田は頭を抱えて教壇《きょうだん》に突っ伏す。北村はあせってスラックスを引き上げるが、みんなの記憶《きおく》までは抹消《まっしょう》できない。
「もうやだー! あたし帰る!」
「超くだらない! 時間の無駄《むだ》!」
「悪いけどもう付き合いきれねえよー!」
「帰ろ帰ろ、解さーん!」
教室いっぱいに垂れ込めていた醒《さ》めた空気は、暑苦しい北村の露出事故で一気にバーストしてしまったらしい。口々に文句を吐きながら、立ち上がって鞄《かばん》を取りにいったり、机を直そうとガタガタやり出したり、みんなすっかり帰る気満々だ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! みんな、帰んないでくれー!」
春田の叫びも全員がシカト、虚しく響いて宙に浮く。事態の収拾《しゅうしゅう》方法は、もはや誰《だれ》にもわからない。
しかしそのとき、
「あれぇ?」
助け舟は、意外な方向から現れた。甘い声が不思議《ふしぎ》そうに発せられ、帰ろうとしていた奴《やつ》らの耳がピクリと動く。全員が一瞬《いっしゅん》にしてフリーズ状態で足を止め、弾《はじ》かれたように何人かが振り返る。
「……へえ〜。ふむふむ……これって、結構おもしろいかも、みんなにちゃんと役あるし、セリフも全員にふってあるんだぁ。ふーん、春田《はるた》くん、意外とやるなあ〜」
「あ……亜美《あみ》ちゃん……!」
幼馴染《おさななじみ》の下半身から全力で引き剥がした視線を、2−Cの潤《うる》み瞳智天使・川嶋《かわしま》亜美は、いつの間にやら台本に向けていたらしい。
「うふふ、あたし主役なんだあ? わーい、嬉しいかも※[#ハートマーク]」
春田の傍《かたわ》らで、亜美は両目を糸のように細めてにっこりと笑ってみせた。皆にならって帰り支度《じたく》をしていた竜児《りゅうじ》は、視線に臨界《りんかい》寸前の閃光《せんこう》を滾《たぎ》らせて亜美の怪しい笑顔《えがお》を見上げる。レントゲン光線自家発生でその肢体《したい》を透視《とうし》しようとしているわけではない。驚いたのだ。
亜美こそが、まっさきにこんな素人《しろうと》台本など土足で踏みにじり、ちぎって放り、火を放って唾《つば》を吐いてその灰を枯れ木にブン撒《ま》いたりするはずの奴《やつ》ではなかったか。その上で、「こんな下らないものを読む暇があったら亜美ちゃんの美しさを称《たた》えるがいいこの世のブサイク諸君《しょくん》! おっと、ただしそのブサ目は開くなよ!? 諸君の目はこの美貌《びぼう》には耐え切れるまい、想像力でカバーするのだ! なに? 想像力が追いつかない? ならば思い出してみるがいいダイヤモンドでも星空でも、記憶《きおく》の中の美しいものをすべてなブハハ!」などと高笑いする、そんな女ではなかっただろうか。
亜美の楽しげな言葉を聞き、帰ろうとしていた生徒たちが続々と教室に戻ってくる。鞄《かばん》を置き、興味深《きょうみぶか》そうに亜美の周囲に集まり始める。
「ほらほら、みてみて、このページとか超うけるよ〜」
などと亜美が軽く煽《あお》ってやれば、
「え、なになに、亜美ちゃん何ページ見てるの?」
「どこどこ?」
配られた台本をパラパラと揃《そろ》ってめくり始める。そして、
「……へー、本当だ。なんか、すっごいちゃんとしてる……」
「春田のくせに、やっぱ生意気《なまいき》だな。……ふむふむ、俺《おれ》の役は亜美ちゃん親衛隊《しんえいたい》Cか」
「うわ、ちゃんと漢字変換できてる。最近のパソコンってすごいんだね」
「あ、私はチーム亜美ちゃんの参謀《さんぼう》だって。セリフ結構あるよ」
優雅《ゆうが》な笑《え》みをにっこりと顔に浮かべ、亜美は満足そうにクラスメイトたちを見下ろした。春田はほとんど泣きつかんばかりに目を潤ませ、今なら靴でも便所サンダルでも大喜びで嘗《な》め回しかねない危ない崇拝《すうはい》を込めて亜美を見つめている。うふ※[#ハートマーク] と亜美はそんな春田にウィンクしてみせ、
「よーし、春田《はるた》くん、がんばろ! それじゃあ、練習始めよっか?」
「……うんっ!」
「リングの形に、テープ貼ろっか?」
「……うんっ!」
全財産預かろっか? うんっ! ちょっと服脱いでみよっか? うんっ! 腎臓《じんぞう》片方|摘出《てきしゅつ》してみよっか? うんっ! ……ぐらいまでは簡単《かんたん》に行きそうな勢いだ。さっきまではあらゆる異常事態に正気も崩壊《ほうかい》寸前状態に追い込まれていたクラスの奴《やつ》らも、亜美《あみ》のド健全な笑顔《えがお》に操《あやつ》られ、「意外とこれって楽しそうかも〜」「おまえなんの役?」などと盛り上がりつつある。床《ゆか》にそれぞれ再び腰を下ろし、男子も女子も台本を手に丸くなり、なんだかものすごくやる気ようだ。
一体なにが狙《ねら》いなんだ。と、亜美の腹黒《はらぐろ》根性を知り抜いたつもりの竜児《りゅうじ》は、思わず疑いの視線《しせん》を向けてしまうが、
「あれ? あれれ? あららら〜? なーに? やだなあ高須《たかす》くんてば、なんでそんな目であたしを睨《にら》むのかなあ〜?」
「……別に睨んでなんかねえよ」
「ふうーん?」
そんな竜児の視線に気づき、亜美は底意地悪く大きな瞳《ひとみ》を光らせる。楽しいからかいの種でも見つけたみたいに楽しげに唇を歪《ゆが》め、そうして言うのだ。
「本番はまだ先なんだから、今から役に入らなくてもいいんだよ? ──準主役、さん※[#ハートマーク]」
「……は? 準? 主役?」
竜児の頭は真っ白になる。へへ、と笑って舌を出して見せているかわいくもない春田の顔が見える、意味がわからない。慌てて台本を開こうとしたそのとき、
「なにこれ──────────────っっっ!?」
一足先に甲高《かんだか》い絶叫を響《ひび》かせたのは、大河《たいが》だった。
クラスのリーダー・亜美ちゃんのもとで、2−Cの生徒はみんな仲良く、平和に暮らしていました。
「やだあ〜、たのしそう〜!」
「なんだよ『暮らしていた』って! どこで暮らしてんだよ? 学校か? みんな家庭はどうした? 親はなんも言わねえのか!?」
「ばかちーがリーダーってとこからしてもうおかしいんだっての!」
しかし、その平和を疎《うと》ましく思う者がいたのです。悪の化身《けしん》・手乗りタイガーと、その手下でヤンキーの高須竜児です。
「やだあ〜、こわ〜い!」
「なんで俺がこいつの手下でヤンキーなんだよ!? 納得いかねえ!?」
「悪の化身《けしん》!? 私が!? なんでっ!? 竜児《りゅうじ》はともかくこんなのひどいっ!」
手乗りタイガーとヤンキーに襲《おそ》われる2−C。そして亜美《あみ》ちゃんの奮闘虚《ふんとうむな》しく、2−Cの仲間たちは手乗りタイガーによって洗脳されてしまいました。
「やだあ〜、超たいへ〜ん!」
「洗脳!?」
「誰が!?」
手乗りタイガーの一味として、大暴《おおあば》れする2−Cの仲間たち。しかし、亜美ちゃんの必死の説得により、洗脳は溶けます。力を合わせて手乗リタイガーとヤンキーを追い払い、めでたしめでたし。ハッピーエンド。
「やだあ〜、溶けるんだ〜!」
「……溶けるのかよ!? それ大変じゃねえか!?」
「語るに落ちたわね……あほくさ!」
──しかし、教室はパラパラと拍手に満たされていく。仮のリングとしてテープで囲われた正方形の外にみんな小さく体育座りし、口々に台本を書いた春田《はるた》を称《たた》える。
「いやー、なんか結構ちゃんとしてるじゃん。やるなー春田」
「シンプルかつドラマチック、意外といいセンいくんじゃねぇの?」
さっきまでの針のむしろ状態から一転、春田は嬉《うれ》しげにだらしないロンゲ頭を掻《か》き、
「へへ、そっかなー? 俺ってもしかして、この手の才能に恵まれちゃってる? いやあやばいねー、将来はモノカキ、とかいって? いやーやばいやばい、きたよこれー」
「きてねえよ!」
そのケツを、竜児は思わず台本で叩《たた》く。本当なら上履《うわば》きで叩いてやりたかった。清潔《せいけつ》な上履きが春田のケツで汚れるのが嫌《いや》だったからやめてやったが。
「いったいなー、なにすんの高須《たかす》はぁ」
「ちゃんとしてねえから安心しろアホ! だいたい、これのどこがプロレスなんだ? 人を勝手に悪役にしやがって!」
「え!? もしかして高須って意外と読解力ないのかな? これはどこもかしこもプロレスだぜ? まずはここの『襲われる2−C』のところだろー? それから、『亜美ちゃんの奮闘虚しく』のところ。『大暴れする2−Cの仲間たち』もそうだし、『必死の説得』と『力を合わせて追い払い』もそうだぜ。まったく、それぐらい、空気読んでわかろうぜー?」
春田に読解力|云々《うんぬん》を言われる、こんな屈辱《くつじょく》が他《ほか》にあろうか。竜児は震《ふる》え、腹に熱《あつ》く噴《ふ》き上がるさまざまなドス黒い感情を消化しきれずに自家中毒状態、フラフラと足元を危うくする。一方で竜児のボス、悪の化身たる大河《たいが》は、
「やああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜だあああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!」
獣《けもの》のように床《ゆか》に伏せ、大口を開けて吼《ほ》えていた。
「逢坂《あいさか》さんたら、わがままなんだから〜。だ・め・だ・ぞ?」
「じょおおお───だんじゃっ、ないぃっっ! ミスコンといい、これといい、なんで私ばっかり変なことさせられるわけっ? 全部おまえのせいだっ! おまえのせいだっ!」
「いや〜ん、なんとも醜《みにく》い言いがかり……あいたたた!」
びよーん! と凄《すさ》まじい跳躍力《ちょうやくりょく》で大河《たいが》は一気に跳ね上がり、ジャンプ一番、亜美《あみ》のバックを取っていた。そのまま見事な身体さばきであっという間に全身の関節をパキパキと固め、
「お、ま、え、の、せいだああああーっ!」
「いいいいいいたいいたいいたいっっ!」
コブラツイストでがっちり固める。軋《きし》む細身にゆっさゆっさとさらに体重をかけ、もがいて叫ぶ亜美を容赦《ようしゃ》なしに締《し》め上げる。ここまではパーフェクトなコンビネーション、だが、
「おお、なんだなんだ随分《ずいぶん》やる気だな手乗りタイガー」
「さっそく練習かあ、意外と真面目《まじめ》じゃん」
「あのコブラツイスト……美しい、完璧《かんぺき》すぎる」
「まるで一幅《いっぷく》の絵……いや、個数限定|高額《こうがく》フィギュア」
ほほー、とため息交じりの拍手を受けてしまうと慌てて亜美を解放し、ケツを蹴《け》って放り出し、
「おまえらみーんな、うるっさいんだっ! 絶対やだからねっ! なんなのこれ、こんなのイジメじゃない! みんなして私を陥《おとしい》れて恥かかせて、笑って楽しもうとしてるんだ! ひどい、ひどいひどいひどい……もういい、わかった、全員殺したる!」
殺気はパラメーターMAXを易々《やすやす》とぶっちぎっていた。炎を噴くが如《ごと》き凄まじい狂虎《きょうこ》の眼力が取り囲むクラスメイトたちを睨みつける。右から順に、いや、手近なところから片付けたろかい、と大河は猛々《たけだけ》しく古なめずりする。慌てて全員が後ずさり、一斉に逃げようとし、団子《だんご》状になってあちこちでコケている。その人間団子に狙《ねら》いを定め、今しも襲《おそ》い掛かろうと大河が下肢にカを込めた、まさにそのときだった。
「逢坂さん! いえ、手乗りタイガー! あなた、まだわからないの!」
その混乱の中、涼やかな声が凛《りん》、と響《ひび》いたのだ。
「……なにい!?」
亜美であった。コブラツイストに傷ついた身体《からだ》をよろめかせながらも必死に立ち上がり、慈愛《じあい》に満ちた、しかし厳《きび》しい母の怒りにも似た光をその目に浮かべている。両手を大天使の翼《つばさ》の如《ごと》く広げ、爪《つめ》を立てて人間団子に飛び掛ろうとしている大河の前に立ちはだかっている。大河の視線《しせん》の禍々《まがまが》しさはさらなる血の色を帯びて燃《も》え、
「うるさいんだばかちーのくせに生意気《なまいき》な! 全部おまえのせいだろ!」
「あいだっ!」
びしゃっ! と口をはたいてやる。だが、亜美《あみ》はまだめげはしない、くっ、と唇を噛《か》んでひっぱたかれた顔を上げ、
「……私を叩《たた》いて気がすむなら、いくらでも叩きなさい! だけどそこにはなにも生まれ」
「おおやったる!」
「ふがっ!」
鼻先を摘《つま》まれ、むしられる。よろめいたところを、さらに鉄をも砕《くだ》くと噂《うわさ》のデコピンが丸い額《ひたい》に襲《おそ》い掛かる。しかし亜美は、倒れても倒れても、それでも再び立ち上がり、その白い面《おもて》を上げるのだ。やがて薄《うす》い微笑《ほほえ》みさえ浮かべ、
「っく……やってくれたわね……。でも、これで……気は……すんだ?」
「……なあああにぃぃぃぃ!? チワワ風情《ふぜい》が生意気《なまいき》なぁぁ……っ!」
無茶《むちゃ》だやめろ、と誰《だれ》かが叫ぶ。手乗りタイガーに殺されるぞ! と。いいのよ、と笑顔《えがお》でそれを遮《さえぎ》り、亜美は一歩、大河《たいが》に歩み寄る。大河は血に飢《う》えた野性の口をして、近寄る亜美の顔を睨《にら》み続ける。緊迫《きんぱく》の間合い。しかしあくまで亜美は冷静だった。
「逢坂《あいさか》さん、あなたにはひとつだけ、わかってほしいことがあるの。それをわかってくれたなら、このあたしを煮るなり焼くなり好きにすればいい。……これはね、なにもかも、クラスから浮いてしまっているあなたのためなのよ……。なーんとなくクラスに馴染《なじ》めていない……遠巻きにされている……恐れられているかもしれない……そんな暴《あば》れん坊《ぼう》の凶暴《きょうぼう》なチビ……じゃなくて、哀れな逢坂さんが真にクラスメイトになるために、みんなはこうしてイベントを利用して、あなたを立ててくれてるのよ! どう!? このみんなのあたたかい優《やさ》しさ、暴力しか知らないあなたの儚《はかな》い胸に届いたかしら?」
「なにうっとり調子《ちょうし》に乗ってんだこのばか! 私浮いてなんかないもん!」
……うん……浮いてないよね……うん……浮いてないね……うん……取り囲む生徒たちの間からは、怯《おび》えに震《ふる》える囁《ささや》き声《ごえ》で、大河をなだめる言葉がわざとらしくやりとりされる。大河はそれに気づき、息苦しいかのように首元を自《みずか》らまさぐり、
「な、なんなの、この真綿感《まわたかん》……」
「ほらごらん。これが真実なのよ」
亜美は日を閉じて納得したように首を振り、もういいわ、とクラスメイトたちに手を上げてみせる。その手振りにあわせ、全員の声が一斉に止《や》む。お昼休みの某《ぼう》長寿番組の司会者のように、亜美はいつの間にやら完全にオーディエンスを掌握《しょうあく》しきっている。
「とにかく、あんまり悪いようには考えないでほしいってこと……ね? わかった? ほら、まずはここからやってみようよ。一緒《いっしょ》に。台本4ページ、場面2の冒頭。逢坂さんの一番いいシーンだよ。バーン! と高須《たかす》くんを引き連れて上手《かみて》から登場し、洗脳するんだって。クラスのみんなを」
「だーかーらー! そんなもんやらないって言ってんでしょ!? そんなのできないっ! 第一、洗脳なんかしたことないもん!」
「……ほ、本当にすんなってば。フリで、あくまでフリでいいの。試しにちょっとやってみよう。はい、ゴー! タイガー、洗脳のセリフ!」
「えっ! そんな急な……ええとっ……『しねーっ!』」
「あんたってどんだけ……まあいいや、死ねってのはちょっと、やめとかない?」
「あ、なんだ、ちゃんとセリフ書いてあった。『タイガー、なんか叫びつつ登場ー!』」
「……それセリフじゃないよ……ト書きだよ」
「ト書きってなに」
──なんだかんだいって、気がつけばいつしか、大河《たいが》までもが亜美《あみ》のペースに乗せられている。ノリノリ状態で大河と、亜美のナゾの熱演《ねつえん》を囲み、拍手したり突っ込みをいれたりしながら笑っているクラスメートに混ざれないまま、竜児《りゅうじ》は半ば呆《あき》れていた。気がつけば、なあなあのうちに、本当にこの台本で行くことになってしまったではないか。せめて大河がもう少し真剣に拒否してくれればどうにかなったかもしれないのに。
「ボケー!」
「カスー!」
大河は、いまや単なる罵《ののし》り合いを亜美と楽しげ(?)に繰《く》り広げている。仕方がない。竜児はすっかり諦《あきら》めた。クラスの奴《やつ》らも盛り上がっているし、もはや自分ひとりが文句を重ねたところでどうしようもないだろう。
生米《せいらい》の律儀《りちぎ》さを発揮《はっき》して、どうしようもないならないなりに、盛り上がっている奴らに迷惑をかけないようにしなければ、と思う。とにかくまずは、自分の出番をきっちり把握《はあく》しようと台本を読み込みに入ったそのとき、
「叩《たた》け……叩け……叩けぇー! ゆーあーきんごーぶきーん……」
「……」
竜児は目を疑う。多分《たぶん》、その周囲で首をひねっている数人の連中も竜児と同じ心境でいるはずだ。
「お……おまえはなんの役なんだ?」
「えっ!? あ、これ!? い、いや、その……自分でもよくわからねぇんだ」
リングサイドで膝《ひざ》をつき、大河と亜美の罵り合いを暑苦しく見守っていた実乃梨《みのり》は、練習初日だというのにハゲヅラ、アイパッチ、出っ歯、そして腹巻──衣装《いしょう》合わせまでばっちりすんだナリで完全に役に入っていた。
「なんか、春田《はるた》くんが『モルグに捨てたお詫《わ》び』っていって、特別いい役をくれたみたい。衣装もさっき支給されたんだ。ヘへ、春田くんって、わりといい奴だよね」
「そうか。……そうかあ?」
実乃梨《みのり》は少し照れたみたいにかぽっと出っ歯を外《はず》し、アイパッチとハゲヅラのままで眩《まばゆ》い笑顔《えがお》を竜児《りゅうじ》にまっすぐ向けてくれる。久しぶりの、真夏の太陽そっくりに輝《かがや》く黄金色《おうごんいろ》の満点笑顔だ。日光を浴びた植物みたいに、竜児の背中も見る見る元気に伸びていく。
やっぱり、実乃梨の笑顔はこの世で一番|眩《まぶ》しく光る元気の源《みなもと》そのものだ。どこもかしこもピカピカでツルツルで……いや、ハゲヅラが眩しいということではなくて、竜児は実乃梨から視線《しせん》を外《はず》すことができない。
「あのさー、高須《たかす》くん」
「う、うん!?」
しかも、実乃梨は会話を続けてくれようとしている。アイパッチとハゲヅラのままだけど、そんなことはどうでもいい。最近は妙に距離《きょり》を感じる接し方しかしてくれなかった実乃梨が、今、竜児と話をしたがってくれている。なんでも、どんな会話でも来い、と竜児は裂けんばかりに目を見開いた。しかしできれば、あの話題がいい。夏休みに約束をし、新学期早々に木当にプレゼントされた、あのタオルの話題。綺麗《きれい》な紺色《こんいろ》とカーキの二色セットになっていたタオルは、毎日柔軟材で洗って、日替わりで利用しまくりだとも。
「あーみん、なんか最近、変わったよね」
「そうそうあのタオ……えっ……川嶋《かわしま》?」
なぜ、ここにきて亜美《あみ》の話題など。内心|肩透《かたす》かしにがっくりきつつも、
「まあ……そう言われてみれば、そうだな」
頷《うなず》き、同意の言葉を返す。クラスの中、心で大河《たいが》に演技|指導《しどう》している亜美にちらりと視線をやる。美貌《びぼう》とぶりっこで人気者なのは転校当初から変わらないが、
「変わった、っていうか……あんなふうに、自分から人の中に飛び込んでくような奴《やつ》じゃなかったよな。いつもはもっと、こう、」
こう──ビクビクしてるみたいな奴だったのに。
そんなふうに言おうとしている自分に気がつき、言葉を途切《とぎ》れさせる。竜児《りゅうじ》自身にとっても、それは唐突《とうとつ》で、意外な感慨《かんがい》だった。
そうか、と思う。亜美はいつも、ビクビクと怯《おび》えているみたいに自分には見えていたのだ。作り上げた外面《そとづら》を壊《こわ》さないよう、なるべく刺激《しげき》しないよう、亜美は周囲に壁《かべ》を作り、近づく奴は吹っ飛ばす地雷《じらい》を埋めまくり、誰《だれ》をも近づけまいとしていたのだ。それは素《す》の自分を誰にも見せまいとするあまりの、強烈すぎる『守り』の手段なのだった。しかし奴はそれを変えてきている。ぶりっこ鉄仮面は相変わらずだが──
「そうじゃないってば! うーん、逢坂《あいさか》さんって、もしかしてえ……ちょっと、おばかさんなのかもしれないなあ……かわいそうだなあ〜……」
「なにを言うかー! ばかちーのくせにー!」
──クラスの中心で大河とじゃれつつ意地悪に笑っている亜美は、鉄仮面が多少ズレようとも、強引にも見えようとも、人の輪《わ》の中に飛び込んでいくことをとにかく優先《ゆうせん》しているように見えるのだ。一体なにが奴をそうさせたのかはわからないが。
しかし、そんな述懐《じゅっかい》を漏らすにはタイミング的には突然すぎるし、なによりここには人が多すぎる。竜児はそれを語るのをやめ、その代わりにちょっと意地悪に亜美を見やり、
「ったく、どんな裏があるんだかな。あの腹黒娘《はらぐろむすめ》」
逸《そ》らしてみた。
「こーら、そういうこと言わないの! あーみんはいい奴だぞー!」
実乃梨《みのり》は笑いながらハゲヅラを外《はず》し、それで竜児の腕のあたりを軽く叩《たた》いてくる。それを避け、竜児はほんの少し、やっぱり本音《ほんね》も漏らしてみたくもなる。
「……おまえも、なんか変わったよな」
「ええっ!? わだす!?」
訛《なま》るほど驚《おどろ》くことだろうか。実乃梨は声をひっくり返して竜児を見つめ、ええい、とアイパッチをもむしりとる。素の実乃梨の姿に戻って、なんだか必死に詰め寄って、
「そうかな!? わ、私、どんなふうに変わった? それって、その、いい風《ふう》に!?」
「……そんなの、それこそおまえにしかわかんねえんじゃねぇの?」
「えええ!? 自分じゃわかんないよ全然! ……なんだよ、もう、あせるじゃねえか。いきなりなにを言い出すのよ高須《たかす》ボーイ」
──まさか、おまえは俺《おれ》との距離感《きょりかん》がおかしくなった。とも言えず、竜児《りゅうじ》は実乃梨《みのり》が取り落としたハゲヅラを拾ってやる。埃《ほこり》を簡単《かんたん》に手で払い、ホイ、と多分《たぶん》許されるはずの馴《な》れ馴《な》れしさ、頭にそいつを乗せてやったその瞬間《しゅんかん》、
「ふぎぎっ!」
「……えっ……」
実乃梨はカラスに襲《おそ》われたネコみたいな声を上げ、ハゲヅラを斜めに頭にのせたまま、思いっきり大きく一歩、竜児から飛《と》び退《すさ》るみたいに距離を取ったのだった。
そ──そんな。
馴れ馴れしすぎたのだろうか。そうかもしれない。それにしてもそこまで離《はな》れなくても、と竜児はきっちり心に傷を負う。それが顔に出てしまっていたか、
「あ、いや、いやいやいや……違うんだよー、違うのー……うぅ……」
どういう気の使い方なのだろう。実乃梨はぴこぴこ手を横に振って見せつつ、小さく半歩、再び竜児に接近してくる。目が合い、さすがに竜児もなんと言っていいかわからない。ひたすら困惑《こんわく》するのみだ。
「……いやいやいやいや……まあまあまあ……なんだその……あれだな。な」
実乃梨はさらにその半分だけ、もう一度竜児から離れていく。……もういいから、その半端に引っかかったままのハゲヅラをかぶるか外《はず》すかとにかく決めろ。
竜児はもどかしく、そんな実乃梨をただ見下ろすしかない。そんな二人《ふたり》を見ている誰《だれ》かさんの視線《しせん》にも気づかずに。
***
ここ数日、竜児と大河《たいが》の馴れ合い関係は、ますます冷え切った仲になりつつあった。そんな二人の帰り道に、秋の冷たい風が吹き抜けていく。地を低く這《は》うみたいに吹き飛ばされていく枯葉の音も寒々しい。
そう、『あの夜』以来、二人の間に明るい笑い声は絶えて久しい(元からそんなもんはないという説もある)。それでも断固、大河はいつもどおりに朝は竜児を従えて登校するし、夜は高須家《たかすけ》に夕飯を食べに来るし、こんな学校の帰り道には一緒《いっしょ》にスーパーにも寄るいっそ、そんなにも不機嫌《ふきげん》なら寄りつかなくて結構だ、と竜児は思い、言いもするが、大河の口からは例の如《ごと》く、『不機嫌になんかなってない。なぜならそうなる理由がないから。もしもそう見えるとしたら、竜児がしつこくおまえは不機嫌だ、と言ってくるからよ』式のいつものマッチポンプ文句が虎《とら》のひとつ覚えに出てくるのみ。もちろん、不機嫌なのはプンむくれっぱなしの顔からして明白で、
「……今夜、どうするんだよ」
「……ブリ。さっき買ったでしょ」
「……ブリをどうするんだよ」
「……照り」
「……焼きかよ」
「……そうよ」
ぴゅー、と吹く風よりもさらに冷たい空気が、距離《きょり》をきっちり一メートル開けて歩く二人《ふたり》の足元をしんしんと冷やし、芯《しん》から凍《こご》えさせる。
文化祭の練習を終えてからスーパーで買い物をすませ、時間は既《すで》に六時近い。季節は秋も真《ま》っ只中《ただなか》。最近はめっきり日も短くなり、空は黒にも近い濃《こ》い灰色《はいいろ》に滲《にじ》む。あたりには肌をかすかに粟立《あわだ》たせる夜の気配《けはい》が静かに垂れ込め、早くも街灯には光が灯《とも》されている。
竜児《りゅうじ》は学ランの襟《えり》をかきあわせ、つん、とそっぽを向く大河《たいが》の横顔から自分もフン、と目を逸《そ》らした。こんなわがままタイガーの不機嫌《ふきげん》になど、いちいち付き合ってはいられない。しかし目をよそに向けても、風に踊る大河の髪は視界にふわふわと入ってくる。灰色がかった不思議《ふしぎ》な淡色《たんしょく》をした柔らかな髪は、波打つようにゆったりとうねり、大河の丸い頬《ほお》を一瞬覆《いっしゅんおお》い、すぐにふわりと広がってまた散っていく。そのゆるやかな軌跡《きせき》はとてもなめらかで、手ではとても掴《つか》めないような動きで、
「あいたたたっ!」
「おうっ!」
──掴めてしまった。何気なく握った拳《こぶし》の中には、大河の淡《あわ》い髪の束《たば》が。大河は自分の髪を乱暴《らんぼう》に掴んで取り返し、
「おう、じゃないよこのロングヘアマニアっ! ケンカ売ってんの!?」
「わ、悪い……」
「ほんっっとに、悪い短毛種だよあんたは! 極悪《ごくあく》ヅラしやがってからに、あっちいけ!」
大河は憎悪の炎を両日に滾《たぎ》らせて竜児を睨《にら》む。確《たし》かに自分が悪いけれど、そこまで怒らなくてもいいではないか。ぷりぷり怒気《どき》を発しながら先を行く大河の後を、竜児はやっぱりちょっとそっぽを向いたままで遭う。迫う、というか、帰る家の方向は同じだ。
今みたいに、あのおっさんもあのとき、大河の髪の先を掴めていたら事態はこんなに複雑化《ふくざつか》しなかったのに──なんてことはもちろん言わない。そんなおせっかいを言葉にすれば、あっという間に手乗りタイガーの生餌《いきえ》間違いなしだろうから。ただ胸の中で思い、ばかだな、と大河の小さな背を見るだけだ。
あれから既に数日が過ぎていた。大河はまだ、父親に連絡を取っていないようだった。おまえと暮らしたがっているみたいだぞ、と、ストレートに伝えるのはさすがに憚《はばか》られるが、大河は親父《おやじ》のおの字を切り出すだけで怒るのだ。……いや、切り出すどころか、なんとなく沈黙《ちんもく》が続いただけで「今なんの話しようとしてる?」と怒り始めるのだから始末におえない。
「……意地っ張りも大概《たいがい》にしろよな……」
どうせ聞いちゃいないだろう、とひとりごちてみたのだが、
「誰《だれ》が!?」
こんなときばかり大河《たいが》イヤーは地獄耳《じごくみみ》、きっちりそれを聞いていて、鞄《かばん》をブン回しながら竜児《りゅうじ》に襲《おそ》い掛かる。
「なによっ! なによっ! ほんっとに! むかつくっ! 言いたいことがあるならっ! はっきり言えばいいじゃないよ!」
「痛い! 痛い!」
硬い鞄にバンバンぶっ叩《たた》かれ、悲鳴以外に口から出る言葉などあろうか。家はもう目と鼻の先、いつもの欅並木《けやきなみき》の歩道を竜児は情けなくも走って逃げ出す。大河はもちろん冷酷かつ超速なサイボーグ走りで追いかけてくる。
「待てーいっ! もう堪忍《かんにん》ならないっ、文化祭のことだってそう! 最近! やなこと! ばっかり! 起きる───っ!」
「俺のせいかよー!?」
「あんたのせいなの!? うわっ……」
小さな身体《からだ》で鞄をブン回し続け、とうとう大河はドジ発揮。バランスを崩して側溝《そっこう》の蓋《ふた》につまずく。コケる寸前で宙を掻《か》いた手が歩道のポールにしがみつき、なんとかそのまま体勢を立て直そうとするも、
「……うわわっ!」
凶行《きょうこう》のバチだろう。ポールはきちんと固定されておらず、大河はそのまま歩道に倒れ込む。鉄のポールごと勢いよく路上にすっ転がり、悲鳴と凄《すさ》まじい音声《おんじょう》が住宅街に響《ひび》き渡る。
「大丈夫かよ? は……恥ずかしい奴《やつ》……」
「うっ、うるさいっ! 誰のせいよー!?」
「俺ではねえな」
なんちゅードジ、と呟《つぶや》きつつ、竜児は放り出された大河の鞄《かばん》を拾ってやる。どんなに罵《ののし》られても、こんな風《ふう》にみっともなくコケている場面に行きあってしまえば、竜児は大河を起こしてやらずにはいられない。昇る血《ち》の気《け》に顔を真《ま》っ赤《か》にしてじたばたもがく大河のもとへ引き返し、手を差し伸べようとするが、
「……っ」
「……おう」
「……ひ、ひさしぶり」
竜児の手よりもちょっと小さく、大河の手よりもちょっと大きい手が、先に大河の手を掴《つか》んでいた。
ここは、大河のマンションのエントランス前。停《と》まっているのはシルバーの美しいメルセデス。こんな季節に美意識《びいしき》と意地でもって屋根全開のコンバーチブル。
夕暮れに黒く滲《にじ》む影《かげ》は、とっても小柄《こがら》な中年男の形をしていた。
見上げた大河《たいが》の瞳《ひとみ》に、冷たい炎みたいな光が煌《きらめ》いた。
その影は、小柄《こがら》なりに四十数年生きてきた男の膂力《りょりょく》をもって、歩道に倒れ込んでいた大河の身体《からだ》をぐいっと力強く引き上げた。立ち上がらせ、服を叩《たた》いて埃《ほこり》を払い、
「……ごめん。ここで待ってたんだ、ずっと。その、話が──あうお……っ」
「死にな。ストーカー野郎」
金的の大当たりド真ん中、であった。
容赦《ようしゃ》一切なしのニーを食らっちゃいけない都分に深々と食らって、影──大河の父親は、そのまま地面にくず折れる。声も出せずに身体を丸めて悶《もだ》え苦しむその姿を、同性の竜児《りゅうじ》は顔を真《ま》っ青《さお》にしてただ見守ってしまう。見ているだけで身体の一部が、ものすごーく、痛い。だが実行犯にして娘の大河は一瞬《いっしゅん》たりともその惨劇《さんげき》の結果を振り返りはせず、
「りゅーじっ! 早く帰ろ! ここは危険だわ!」
「おまえが誰より危険だよ!」
恐怖のあまりに立ちすくむ竜児の腕をガッキ! と掴《つか》み、引きずるようにして強引に、隣《となり》の借家《しゃくや》の外階段を上り始めるのだ、
「ちょっ、ちょっと! 待てっ! 待て待て待てっ! このままにしとくつもりか!?」
竜児は必死に鉄の柵《さく》を掴み、両足を踏ん張る他人事《ひとごと》ながら痛すぎる金的の衝撃《しょうげき》に忘れかけたが、このままにしてはおけないだろう。あの人をこのまま放ってなんかおけない。大河と家には帰れない。事態が大きく動き始めた、大変なことになったのだ。本当に、迎えに来てしまったではないか。今日《きょう》、今、ここに。しかし恐ろしいことに、大河は竜児の体重ごと、掴んだ鉄柵ごと引っ張り上げようとして、
「むんっ!」
こめかみに血管をむきむき立てる。竜児が必死に掴《つか》み締《し》めた鉄の柵がぎしぎし軋《きし》む、このままでは肩関節どころか借家が破壊《はかい》される、竜児は決死の形相《ぎょうそう》で大河の肩を逆に掴み、
「くっそ、めんどくさい奴《やつ》だなあほんっとに! おまえ、いい加減に意地張るのやめろ!」
「なにい!? この犬っころめが生意気《なまいき》書いやがる!」
頬《ほお》を叩かれても離《はな》さない。ぐいっ、と逆に強く引き寄せ、よろめいたその身を乱暴《らんぼう》に壁《かべ》に押さえつけ、ほとんど息が重なる距離《きょり》で唾《つば》を飛ばしつつ怒鳴《どな》ってやる。
「ちょっと……やめてよ! 離せっ!」
「先に引っ掴んだのはおまえだよっ! このままうちになんかいれねえ、絶対に!」
「なんで!?」
「迎えに来てくれてんじゃねえかよ! 話ぐらいちゃんと聞いてやれ! あれは誰《だれ》だ!? おまえの親父《おやじ》だろ?」
「違う! あれはストーカー! あんなのいらない!」
「馬鹿《ばか》言ってんじゃねえ! おまえ、捨てられたって泣いたじゃねえかよ! 素直になれ! あのおっさんのとこへ、とにかく一度、行ってみろ! あの顔、ちゃんと見てみろ!」
「あ、あんた、あいつの味方なの? ひっどい、寝返ったんだ!? あんただけは私の味方だって思ってたのに……裏切り犬っ!」
「おまえの味方だから言ってんだろうがよ! おまえのためなんだよ、おまえが望んでたことなんだよ! おまえの親父《おやじ》が、おまえを迎えに来たんだ! 帰りたいんだろ? 一緒《いっしょ》に暮らしたいんだろ? うざい継母《ままはは》ももういねえってよ!」
「あっ……あんたに、あんたなんかに、私のなにがわかるの? 私はもうあいつに期待するのはやめたのよ! 全部とっくにすんだ話、全部とっくに終わってるの! もういらないのあんな奴《やつ》、私にはもう必要じゃないのっ! いらない奴にいきなり帰ってこられても、そんなのただの迷惑なのよ! 捨てたゴミを部屋《へや》に戻されて、喜ぶバカがどこにいる!?」
「てめ……っ」
我《われ》知らず、掴《つか》んでいた手に力が入る。暴《あば》れる大河《たいが》の細い手首が痛そうに軋《きし》んでも、大河の声が金切り声みたいに甲高《かんだか》くなっても、力を抜けなくなる。そして、
「あんなとこで突っ立っておまえの帰りを待ってる、あれが、あの人が、おまえには本当にゴミに見えるのか? うちの親父なんかどんだけ望んだって帰っちゃこね──」
間違った。
これは、言うべきではない。
自分の境遇《きょうぐう》と、今の事態を、重ねることは単なるエゴだ。
「……っ」
竜児《りゅうじ》は唇を噛《か》み締《し》めて手を離《はな》す。慌てたみたいに、大河から身をもぎ離す。距離《きょり》を取り、火がつきそうに熱《あつ》い息を吐き切る。大河のため、大河のためと繰《く》り返しながら、なんてことだ。自分からネタばらししてしまったではないか。
ただ自分の捨て置かれた十七年を、心にどうしようもなく穿《うが》たれたまま満たされない穴を、自分とは無関係な大河の幸福で埋めた気分になりたいだけ。そんなつまらない自慰《じい》感覚でモノを……言っているだけだと、自《みずか》ら明かしてしまったではないか。
──本当に、俺はつまらない犬野郎でしかないのかもしれない。
痛みを伴う失敗が、自然と竜児の顔を情けなく俯《うつむ》かせる。手は目元を後悔でもって重く拭《ぬぐ》い、もはや声も出せずに喉《のど》は塞《ふさ》がれる。己《おのれ》の薄《うす》っぺらさに内臓《ないぞう》でもなんでも吐きたくなる。せめて大河にいつもどおりのビンタでもしてもらえば、こんな自嘲《じちょう》も満たされるだろう。
しかし、
「……もう……いいよ……。……わかったよ」
怒ったような声で、しかし大河は、血が出るまで噛んだ竜児の唇にそっと触れたのだった。
その指の冷たさと柔らかさに、ついに息が詰まる。
大河《たいが》の指先はそのまま顔の輪郭《りんかく》をなぞるみたいにすべり下り、物も言えない竜児の顎を掴んで、情けない顔を上げさせる。そして強く光る瞳《ひとみ》でまっすぐに、恐れることなく思いの底まで覗《のぞ》き込み、
「……あんたがそう言うなら……もういいよ。だからそんなツラ、するんじゃない」
むにゅっ、と竜児の頬《ほお》をつねる。上方向に、無理やり引っ張り上げる。
「大河……」
「……いいこと、なんでしょうよ。私はそう、思うことにするよ。……思えるかどうかわかんないけど。でも、あんたが言うから、そう思うことにする」
眉《まゆ》だけはむっつりと神経質にしかめたまま竜児の頬から指を離《はな》し、そしてゆっくりと、瞳を細《ほそ》める。
「……お……俺は……」
「……いいよもー……」
大河はネコみたいに一度、顔を手の甲で擦《こす》った。
互いに抑えあうみたいに重なっていた膝《ひざ》の骨が、不意に離れていった。
腹のあたりを手で押しのけられ、小さな大河の肩が竜児の身体《からだ》の下からすり抜けていく。
あ、掴めねえ、と思う。
大河の肩も、髪も、スカートの裾《すそ》も、ひらひらと翻《ひるがえ》る枯葉みたいに軽《かろ》やかに、森の奥に帰っていく獣《けもの》のしっぽみたいにしなやかに、竜児の目の前から逃げていく。無意識《むいしき》のうちに試すみたいに手を握ってみて、やっぱりなにも掴めないことを知る。空《から》っぽの手から力が抜ける。なるほど、もう、大河のどこかを掴んでここに捕まえておく必要もないのだ。
そして大河は、本当は今にも弾《はじ》き出されそうだった弾丸みたいに、やっと解き放たれたみたいに、走って階段を駆け下りていく。秋の夜の中、苦しげに小さな外車のドアに掴まり立ちしている中年男に、なにか言葉をかける。驚《おどろ》いたように男は大河を振り返り、もはや言葉はそこには必要ないらしかった。
怖がるみたいに、だけどしっかりと、その腕が大河を抱きしめた。大河の肩に顔を埋め、男はひたすら頷《うなず》、き続《つづ》けた。大河は最初は少し嫌《いや》がり、腕をもぎ離そうとしていたが、やがて諦《あきら》めたようだった、その手をそっと男の背に回した。少しずつその身体《からだ》からは力が抜けていって、やがて体重を全部、そしていろいろなものも全都、大河は父親に預けたように見えた。
竜児はそこまで見届けて、やがてゆっくりと、再び鉄のボロい階段を昇り始めた。よかった、よかった、よかったね──ジジイみたいに呟《つぶや》いて。
「……竜ちゃあん……」
「おう! びっくりした!」
玄関ドアを開くなり、実母のどアップが竜児《りゅうじ》の帰りを迎えてくれた。泰子《やすこ》はすっぴん、竜児の中学時代のジャージをびしっと上下|揃《そろ》えて着て、
「まだそんな格好してんのか? 支度《したく》は? 今日《きょう》も仕事だろ?」
「そうだけどぉ〜……なんか〜、声が聞こえたからあ〜……け、ケンカ?」
描《か》かないと薄《うす》すぎる眉《まゆ》を思いっきりハの字にして不安そうに巨乳を揺らす。
「違うよ」
どうやら泰子は、外から聞こえた竜児と大河《たいが》の大声に驚《おどろ》いて、玄関先で耳を澄《す》ませていたようだった。とても三十路《みそじ》(しかも高校生の親)には見えない仕草《しぐさ》で、今にも泣きそうに泰子はおろおろと玄関で足踏みをし、
「いいから中入れって」
息子《むすこ》に促《うなが》されてもまだ、外の様子《ようす》を窺《うかが》いたそうに細い首を伸ばしている。今にもサンダルをつっかけて表に走り出てしまいそうなノーブラ泰子を竜児は肩でグイグイ押し、家の中へ荒っぽく押し込んだ。
「ほんとにケンカじゃねえから大丈夫だよ。おまえ、いいから仕事行く支度しろよ、もう六時回ってんだぞ。大急ぎで俺もメシ作るから、とにかく髪を巻け。ボサボサだぞ」
「そうなんだけどぉ〜……大河ちゃんはあ? 着替えてから来るって?」
「今日はもう来ねえよ」
「えぇ〜! なんでえ?」
……なんと答えようか。考えながら、しかし竜児の手は自動的に手際《てぎわ》よくあたりを片付けまくる。泰子が広げていたらしい通販パンフを手早く重ね、変なものを注文されないうちに資源ゴミの定位置に積《つ》み上げ、中身のなくなっているマグカップを流しに運び、手早くざっと洗ってしまう。インコちゃんにも、帰宅の挨拶《あいさつ》をすます。わずか数分で、あっという間に狭いリビングは朝の整頓《せいとん》状態を取り戻し、
「……なんでも。いいんだよ、これで」
竜児の答えは、あまりうまくない。
「よくないよお〜! 大河ちゃんが来なかったら、やっちゃん、寂しいも〜ん! うちはもう三人家族なのぉ〜! 竜ちゃんだって寂しいでしょぉ〜!? 大河ちゃん来ないとやだあ! 大河ちゃん呼んで来てよお〜!」
座布団《ざぶとん》に座り、泰子は納得できずにちゃぶ台にうつぶせて少女みたいにふっくらした頬《ほお》を天板《てんばん》にくっつける。唇を突き出し、イヤイヤ、と身を捩《よじ》る。そんな様子《ようす》を尻目《しりめ》に、襖《ふすま》だけで隔《へだ》てられた自分の部屋《へや》に竜児は入っていく。
「……大河にとっては、これが一番いいことなんだって。まあ、別に二度と来ないってことじゃねえから。多分だけど」
泰子《やすこ》はジャージの袖《そで》を噛《か》み、ちゃぶ台につっぷしたまま、大きな瞳《ひとみ》だけをくりっと上げて息子をまっすぐに見つめる。
「……ほんとにぃ? ……いいこと? ……これが?」
「そうだよ。これがほんとに、一番いいことなんだ」
そこに嘘《うそ》はない。竜児《りゅうじ》は鞄《かばん》を定位置に置き、携帯《けいたい》を充電器にセットし、学ランを脱ぐ。
「大河《たいが》にとって、一番いいことが起きた。元々うちに来てたのは、餓死《がし》寸前の緊急避難《きんきゅうひなん》だったんだから。で、問題が解決したから、うちに来ない。……いいんだ。これで」
「……いいことって、なあに〜?」
脱いだ学ランをハンガーに吊《つ》るす。シュッ、と機械的《きかいてき》にいつもと同じに消臭ミストをかけ、器用《きよう》な手つきで形を整《ととの》える。そうしつつ、三枚買ってしまったブリの切り身の一枚は、明日《あした》の弁当に入れようと考えている。生鮮《せいせん》食品の行き先が決まると次第に頭の中の整理もついてきて、
「下にさ、大河の親父《おやじ》が来てるんだ。大河と折り合いの悪かった後妻さんと離婚《りこん》するから、また大河と一緒《いっしょ》に住むんだって、いいことだろ、それは」
伝える事実も簡潔《かんけつ》。しかし、
「……んぅぅ〜……」
ちゃぶ台に顔を押しつけたまま、泰子は納得できずにいるらしい。着替えて部屋《へや》から出てきた竜児を子供みたいに大きな黒目でじっと見上げ、
「なんかあ、自分勝手なおとうさんだねぇ……」
「……なんでそういうこというんだよ」
「だってさ〜、なんかさ〜……」
唇を窄《すぼ》め、泰子が言葉にすることをやめたのはどんな述懐《じゅっかい》だったのだろう。まあいいや、と肩を竦《すく》め、ジャージ姿で身支度《みじたく》のために洗面所へ立つ。やっちゃんにはひとのうちのおとうさんのことをどうこう言う権利はないねぇ〜、と、いつもと変わらぬ暢気《のんき》な声でそう言って。竜児はそんな母の背を、声もないまま見つめる。
大河の父親は自分勝手、と言われれば、それを否定する材料を竜児はもたない。
だけどやっぱり、大河を父親のもとへ走らせてやれてよかった、と今、思う。
今よりもずっと低い目線から、泰子の背中を見つめ続けたあの日のことも思い出す。
今日《きょう》は保育園お休みしよう、と急に泰子に言われ、ある朝、二人《ふたり》で電車に乗った。乗り継いで乗り継いで、知らない町までやってきた。疲れ果て、駅のホームでアンパンを買ってもらって食べた。そうして改札を出て、泰子は竜児の手を引いて、古い、大きな家ばかりが並ぶ、住宅街を歩き出した。同じ曲がり角をグルグル周り、泰子はやがて、小さな児童公園のベンチに竜児を座らせた。泰子は立っていて、松の木に囲まれた一軒の家をじっと見つめ続けていた。何時間も、何時間も、そこから見える二階の窓を見つめ続け、おかあさん、と竜児が呼んでも、泰子は動こうとしなかった。二回、おかあさん、と呼んでみて、返事はなくて、呼ぶのはちょっとやめておこうと思った。二人《ふたり》して黙《だま》り込んだままいつしか日は暮れ、やがて夜になって、やっと泰子《やすこ》は振り向いてくれた。ごめんねぇ、と笑ってくれた。そして二人は手をしっかり繋いで来た道を戻り、当時暮らしていたアパートに帰ったのだ。
あのときはわからなかったけれど、あれはきっと泰子の実家だったのだろう、と竜児《りゅうじ》は思う。そして今にして思えば、あのときが一番、高須家は経済的に逼迫《ひっぱく》していたはずだ。泰子は保育園に竜児を預けて昼も夜も働きづめ、それがたたって身体《からだ》を壊《こわ》したのか、病名はわからないままだが随分《ずいぶん》長く通院もしていた。病院の託児所《たくじじょ》で、何時間もひとりで待たされたこともあった。
──つらくて、帰りたくて、でも、帰らなかったのだろう。帰れなかったのだろう。何時間も逡巡《しゅんじゅん》して、親の暮らす家の窓を眺め続け、それでも二十《はたち》そこそこだった泰子は、許されなかった子を連れて、そこにはついに戻ることができなかった。
泰子はかわいそうだ、と、許されなかった子は思う。今の自分とたったいくつかしか年の違わない女の子は、あのとき、どんな思いで戻らない夫と戻れない実家を比べたのだろう。どっちが正解で、どっちが過《あやま》ちだったか、そんなことも考えたのだろうか。
後悔も、したのだろうか。
「りゅうちゃあ〜ん! ふぇぇーん、巻き髪ウォーターがなくなっちゃったよお〜!」
「……買い置きがあるだろ! 洗面台の下!」
……しただろう。きっと。
台所に立ち、竜児は買い物袋を開ける。手を洗い、買ってきたブリの切り身を三つ、バットに皮目を下にして取り出す。手際《てぎわ》よく醤油《しょうゆ》と酒とみりんを目分最でカップで合わせ、ブリにかけ回しながらバットに注ぎ入れる。漬《つ》け込む間に、味噌汁《みそしる》の支度《したく》にとりかかる。メシは炊《た》かなくて大丈夫、冷凍庫にまだ何膳分《なんぜんぶん》かストックがある。
竜児にできることは、親より子をとるしかなかったとある女の子のために、少しでも役に立つことだけだった。いてくれてよかった、間違いじゃなかった、そう思ってもらうことだけだった。それで、少しでも悲しみが癒えればいいと。それだけだった、ずっと。
そして今、別の女の子に、竜児はこんな悲しみを背負わせたくないと思う。走っていった背を思い出し、何度も繰り返し、言葉にする。
やっぱりこれでよかったんだ。あれだけこじれていた親子関係だ、今日《きょう》や明日にすぐ一緒《いっしょ》に暮らし始められるなんて思ってはいない。けれど、それでもゆっくり進んでいけばいいじゃないか。
いいことなんだ。絶対に。
4
「まあ、別に、どうでもいいんだけどね」
大河《たいが》はそう言い放ち、ついっとそっぽを向く。素直じゃねぇんだから、と竜児《りゅうじ》は呆《あき》れて、その横顔を眺める。
高須家《たかすけ》の食卓が母手|二人《ふたり》体制に戻って、既《すで》に数日が経過していた。日を追うごとに秋は深まり、今朝《けさ》はまた随分《ずいぶん》と風が冷たい。
「とにかく……あー、さぶ……」
髪を秋風に吹き散らされ、大河は目をつぶって肩を竦《すく》める。竜児も開けていた学ランの襟《えり》を全部|留《と》め、ポケットに両手を突っ込む。歩道に舞《ま》い散る落ち葉は一層《いっそう》カラフルに色づいて、夜明けに少しだけ降った雨に濡《ぬ》れたか、アスファルトにしっとりと張りついていた。濡れた落ち葉の甘い香りと、風が止《や》む一瞬《いっしゅん》に肌に触れた陽《ひ》の暖かさに、思わず深呼吸。寒いのは多分《たぶん》今だけだ。昼になれば、きっといまだ微《かす》かに夏の匂《にお》いを残す陽射《ひざ》しが空気をもっと暖めてくれるは
ず。
竜児は少し駆けて、先を行く大河の傍《かたわ》らに並ぶ。歩むつま先を揃《そろ》え、随分《ずいぶん》大きさの違う影《かげ》も並べる。
「風が止めばそんなに寒くもねぇ。……まあ、事情はわかった。それでどう切り出すつもりなんだ? 川嶋《かわしま》のことだ、一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかねえだろ」
「一応、『釣《つ》り餌《え》』は用意してきたのよ。ばかちー如《ごと》きにはもったいない、いいものを」
大河はサブバッグを持ち上げ、中に鎮座《ちんざ》する洒落《しゃれ》た包装の小箱を竜児に見せてくれた。
「へえ、それって菓子か? 昨日《きのう》食事したレストランの?」
「そー。カロリーをたっぷり取らせてやろうかと思ってね。有名なお店だし、ばかちーはきっとそういうの好きでしょ。……これをくれてやって、『頼んで』みようか、と……うえー! ばかちーに頼み事なんて、改めて虫唾《むしず》が走るわ!」
「まあまあ……うふっ……」
大河を宥《なだ》めつつ、竜児は微妙に緩《ゆる》む口元を隠し切れない。大河の眉《まゆ》がカチーン! と吊《つ》りあがり、ブン回されたサブバッグが竜児の平らなケツを襲《おそ》う。
「いてっ!」
「なーにが、うふ! だ気持ち悪いっ! ばかちーみたいないやらしい笑い方しやがって、気に食わないねこの垂れ耳野郎!」
「垂れてねえし、別に笑ってもいねえって……うふふ……」
「笑ってるじゃん!」
──仕方ないではないか。どうでもいいどうでもいいと繰《く》り返す大河《たいが》があまりにも素直じゃないものだから、一体どこまで意地っ張りなのかと、おかしくなってきてどうしようもないのだ。竜児《りゅうじ》はうふふ、とニヤけてしまう口元を手で覆《おお》って隠し、大河のバッグアタックを避けながら落ち葉香る歩道をクネクネ早足で歩く。癇癪《かんしゃく》を起こし、大河は喚《わめ》く。
「……もーいい! あんた、絶対笑ってる! 私のことバカにしてるもん! べっつに、こんなことどうでもいいんだから! ……そーよ、どうでもいいんだ、やっばばかちーに頼み事なんてアホらしすぎる、やめだやめだー!」
機嫌《きげん》を損《そこ》ねて竜児を追い越していく大河を、今度は竜児が慌てて追いかける番だ。
「ちょっと待てって! バカになんかしてねえって! 悪い悪い、冗談《じょうだん》だよ! 意地っ張りはそこまでにして、今日《きょう》中にちゃんと川嶋《かわしま》に頼まねぇと。本番はもう明日《あした》なんだから」
びた、と不意に大河の歩みが止まった。驚《おどろ》いたみたいに目を丸くして竜児を見つめ、唸《うな》るみたいに低く呟《つぶや》く。
「ああ、そっか。……もう明日、なんだ……」
「そうだろ。……そうなんだよな。自分で言ってびびったぞ。はぇぇなあ、もう明日かよ」
この登校中の余裕もない時に、二人《ふたり》して思わずしみじみと過ぎる日々の加速度に改めて驚いてしまう。そう、文化祭は既《すで》に翌日に迫っていた。毎日まいにち練習と準備に追われ、気がつけばもう文化祭前日だ。やることは山ほど。練習、大道具作り、小道具作り、衣装《いしょう》合わせも必要だし、そうそう一番大切なリングも今日《きょう》の放課後《ほうかご》に設置するのだ。
「時問に余裕はもうねえな。……どうでもよくなんかねえんだから、明日、ばしっと決めたところを見せてやろうぜ。おまえの親父《おやじ》に。そのためには川嶋の協力は絶対必要だな」
「……どうでもいいんだっつーの……」
再び歩き始めつつ、大河の声は細くなる。だけど竜児にはちゃんとわかっている。どうでもいいはずなんかないのだ。どうでもいい、と大河が言うときは、それは全然どうでもよくないときなのだ。それに、竜児にとってもどうでもよくはない。大河と父親の関係が良くなることをなにがあっても応援すると、竜児は固く決意している。
「なんていうか──一生懸命《いっしょうけんめい》やってくれてるよな。おっさん。あれ以来、毎晩おまえを迎えに来て、レストランで食事させてさ。毎晩送り届けてさ。そのうえ高校生にもなって、つまんねぇ公立の文化祭まで見にこようなんてさ」
「……だから、そういうのも全部、どうでもいいのよ。そんな程度で、これまでの経緯を全部忘れて、信頼してやろうなんて思わないし、まあ……ちょっとだけ、相手してやってもいいかな、って思っただけ。昨日《きのう》のレストランはなかなかの味だったし」
それ以上は言葉を重ねず、ただ竜児は穏《おだ》やかに傍《かたわ》らの大河を見やる。大河が父親を『相手にしてやる』とは、あの日の金的キックからすれば、それは大変な進歩ではないか。大河の父親の努力も甲斐《かい》があったというものだ。よかったな、と父娘双方に拍手を送ってやりたい気分になる。
それにしても、あの小柄《こがら》なおっさんが、大河《たいが》の信頼を再び得るためにここまでやるなんて。正直、その努力は感嘆《かんたん》に値する。仕事も地位も持っているであろう男が、本当に毎晩、一晩も欠かさずに、娘と二人《ふたり》で夕食をとっているのだ。娘とのひとときを、どんな用事よりも最優先《さいゆうせん》にし続けているのだ。
ある夜など、ちょうど大河のマンションと高須家《たかすけ》の前の道が工事のために通行止めになっていて、大河の父親は竜児《りゅうじ》にメールを寄越《よこ》した。曰く、車《くるま》が入れなくなるところまで迎えに来い、と。いやーメルアド聞いておいてよかった! ……暗い夜道に、娘を数十メートルたりともひとりでは歩かせることなどできない過保護親父《かほごおやじ》は、目が覚めるような美しいボルドーのVネックセーターを着て、千鳥格子のクラシックなワンピース姿の大河と並び、しょぼい街灯の下で両手を振って笑っていた。そのあまりにあけっぴろげな笑顔《えがお》に竜児は迎えに来させられた面倒《めんどう》も忘れて、思わず笑い返してしまっていた。本当に、愛嬌《あいきょう》のあるおっさんなのだ。娘の方はぶんむくれの仏頂面《ぶっちょうづら》で、「おっそーい!」と一声|怒鳴《どな》って下さったが。
思い出し笑いは危ういところで引っ込め、竜児は改めて大河のつむじを見下ろす。……別につむじフェチなわけではなくて、この身長差とこの距離《きょり》では、つむじと鼻の先ぐらいしか見られないのだ。
「で、おっさんはつまり、明日《あした》の土曜日《どようび》に文化祭に来て、それからおまえのマンションに泊まっていくんだな? ……泊まってってくれるの、そういや初めてだよな」
「うん。でも最初で最後よ。鬱陶《うっとう》しいから私が泊めるの嫌《いや》だったの。日曜日は朝からこっちで用事があるから仕方なくて」
竜児を見上げ、ポーカーフェイスで髪をかきあげる大河に、用事? と訊《き》き返す。
「そうよ。日曜日は不動産屋が来て、部屋《へや》の査定するの」
「……査定」
バカみたいに、再びオウム返ししてしまう。インコちゃんでも、こんな芸のない会話はしない。間の抜けたことに、竜児は少しもその可能性について考えたことはなかったが、言われてみればそれはそうだ。
父親とまた一緒《いっしょ》に住むのなら、大河があのマンションにひとりで暮らす理由もないのだ。邪魔《じゃま》な後妻も消える予定の実家だってあるのだし。
「……で、でもさ。わざわざ引っ越さなくてもいいじゃねえか。学校も近いし……あそこにそのまま、おまえと親父、二人で住むってのもよくねぇか?」
何気ない風《ふう》に本音《ほんね》を吐いて、なんとか体裁《ていさい》を取《と》り繕《つくろ》う。しかし本音のもうひとつ裏の部分では、竜児はかなり動揺している。
「あそこに二人じゃ狭いって言われた」
「そ……うか」
──本当に、引っ越すのか。
冷たい風が一瞬《いっしゅん》、竜児《りゅうじ》の首筋を意地悪く舐《な》めた。なんとなく、その寒さには気づかないふりで震《ふる》えかけた心根《こころね》を力ずくで立て直し、
「おう、ふざけんな、おまえんちのリビングだけでうちの何倍あると思ってんだ」
冗談交《じょうだんま》じり、大河のつむじを指先でぽちっと押してやる。手乗りタイガーの反撃が来るか、と守りの体勢に入ってみるが、
「私も実家にはいい思い出ないから戻りたくないし、あそこに一緒《いっしょ》に住めばいいと思ったんだけど、パ──あいつ、さっそく物件探し始めててさ。勝手なのよ。このあたりからはちょっと離《はな》れるけど、いい物件があったんだって。一戸建てで……ちょっと前に外観《がいかん》だけ、食事の帰りに寄って眺めてきたんだけど、まあまあだったよ。まあまあ、……いい、かな」
肩透《かたす》かし、大河はまるで独り言みたいにそう呟《つぶや》き、穏《おだ》やかに傍《かたわ》らを歩き続ける。つまり完全に上《うわ》の空《そら》、隣《となり》を歩く竜児のことなんか今は目にも入っていないのだ。他のことで頭はいっぱいで。
大河の小さな頭の中は、父親のことだけでいっぱい。
毎晩食事に付き合う。一緒に暮らすためには引っ越しも辞さない。機嫌《きげん》も悪くない。……与えようと頑張っているのは親父の方だけじゃない、大河だって与えられるすべてを余力で受け止めようとしている。一度は憎んだ父親を再び信頼しようと、大河なりに頑張っている。そう、文化祭に父親が来ると聞いて、天敵の亜美《あみ》に「いい役」を代わって欲しいと頼もうとするぐらいに。
──いいことだ。
腹の底で呟き、竜児はぐい、と力を込めて、口を笑《え》みの形にしてみる。いいことだ。
「……なに? やっぱりなんか、笑ってる」
「笑ってねえって」
「いーや、ニヤけてるね! もういい、あんたはそこで三十秒ステイ! 私はみのりんと先に行くから姿が見えなくなってから来るように……って、あれ? みのりんがいない。珍しいな、遅刻かな」
「……遅刻してんの俺《おれ》たちだったりして」
「ええ? でも別に寝坊とかしてな……うそ!? うわやばい!」
腕時計《うでどけい》を見せられ、思ったよりも進んでいる針に竜児はほとんど飛び上がった。のんびりトークを楽しんでいる場合ではなかったのだ、二人《ふたり》は落ち葉で赤と黄色《きいろ》に彩《いろど》られた欅《けやき》の歩道を全速力で駆け出す。途中大河は滑《すべ》ってコケかけるも、気合でなんとか立て直してみせる。親父《おやじ》の生《い》き霊《りょう》がドジな娘をこんなときでも見守っているのだろうか。
竜児はなんとなく、真《ま》っ青《さお》に高い秋の天を見上げてみるが。
「りゅーうーじ! なにグズグズしてんだ! ……まあ、あんたが諦《あきら》めてのんびり行くっていうなら、仕方なく付き合ってやらないこともないわ」
「……アーホ! 走るぞ!」
***
「もしよろしかったら、どうぞ召し上がってちょうだいな」
そんなセリフつきで渡された物体を無言で数秒そのまま見つめ、
「……やだぁなにそれ、動物の死体とか?」
亜美《あみ》は本気で嫌《いや》そうに、柳の葉型の眉《まゆ》をひそめてみせた。放課後《ほうかご》の喧騒《けんそう》に揺らぐみたいな教室の片隅《かたすみ》、休憩中《きゅうけいちゅう》の二人《ふたり》の空間だけがエアポケット化。あっという間に寒々しく、かつ、とげとげしい空気に覆《おお》われる。しかし大河《たいが》はめげなかった。
「あれあれ、ばかちーったら。私がそんなものを渡すわけがないじゃない」
つまらなそうに肩をすくめ、しかし決して言い返しはせず、なおも根気強く包みを差し出し続ける。なにやら綺麗《きれい》な包装で飾られた小箱──こいつが大河言うところの『釣《つ》り餌《え》』だ、それを亜美の胸元に押しつけ、嫌がられて避けられても迫いかけていく。
「これあげるったら。ねーばかちー」
「いーい。いらない。あんたがあたしになにかくれるなんて、絶対裏があるっぽいし」
しかし、さすが亜美。腹黒《はらぐろ》の第一人者は、他人の企《たくら》みに誰《だれ》より敏感に反応していた。もちろん正解、確《たし》かに裏はある。端《はた》で見守っている竜児も唸《うな》る、さすがの洞察力《どうさつりょく》である。
「ないない、裏なんてないよ」
大河は顔の前で手をブンブン振ってごまかしにかかる。親父《おやじ》がやるみたいに愛矯《あいきょう》たっぷりに目を開いて見せ、唇をきゅっと窄《すぼ》めてみせ、
「ただばかちーにあげたいと思っただけだよ。こういうの、きっとばかちーは好きじゃないかな、って思っただけだよ」
「……ええ?」
普通の女の子のように優《やさ》しい声音《こわね》で語りかける。亜美は気持ち悪そうにそんな大河を眺めつつ、しかし、一応逃げる足を止めてくれた。振り返って、いかにも嫌そうに瀕こそしかめているが、それでも大河の話を聞こうとする姿勢にはなっている。そうだ攻めろ、今がチャンス、竜児はこっそり大河にエールを送るがしかし、
「みんながみんなばかちーみたいに損得勘定《そんとくかんじょう》オンリーで動く腹黒二重人格だなんて思わないほうがいいよ」
……なぜだ。なぜそこで、余計な一言をくっつけずにはいられない。当然亜美の美貌《びぼう》はあっという間に怒りの血《ち》の気《け》で薔薇色《ばらいろ》に染まり、
「あんた……黙《だま》って聞いてりゃねぇ……」
「もらっとけよ川嶋《かわしま》」
思わず竜児《りゅうじ》は二人の仲に割って入っていた。大河《たいが》を背に、妙な愛想笑い──多分《たぶん》亜美《あみ》の目にはなにかを企《たくら》んでいるようにしか映ってはいないだろうが──を浮かべて言《い》い募《つの》る。
「結構いいモンだぞ。ここはとにかく、受け取っておけって。絶対それ見ておまえは喜ぶ、俺が保証する」
しかし、亜美に竜児|如《ごと》きのそんなお愛想が通用するわけがなかった。
「はあ? 高須《たかす》くんにはまったく関係ないし」
ちゃっちゃ、と「あっちいけ」状に手を振られてしまう。
「そ、それはそうだけどよ……」
「タイガーからのプレゼントなんて、あったし絶対いらないもーん」
とうとうぷい、とそっぽを向かれ、竜児と大河は早くも手詰まり。役立たず二人は思わず顔を見合わせる。
放課後《ほうかご》の教室、緊迫感《きんぱくかん》をにわかに増す美少女二人プラスヤクザ顔ひとりの接近戦に、しかし目を向けている暇《ひま》のある者は誰《だれ》もいなかった。全員、明日《あした》に文化祭本番を控え、それどころではないのだ。あっちこっちで笑ったり怒鳴《どな》ったりの大騒《おおさわ》ぎを繰《く》り広げながら、プロレスショーの練習も佳境《かきょう》。春田《はるた》はすっかり監督《かんとく》気取りで、体操部《たいそうぶ》の野郎どもが揃《そろ》って切るトンボのタイミングを「ちがーう! アゲイン!」とダメ出ししまくり、煙たがられまくり、操《あやつ》る影《かげ》の軍団の下克上《げこくじょう》に遭《あ》う日も遠くなさそうな気配《けはい》である。
そして、そろそろ窓の外も暗くなりかけているというのに、大騒ぎしているのは2−Cだけではなかった。隣《となり》のクラスも、その向こうのクラスも、揃って大工仕事をおっぱじめたり、脚立《きゃたつ》を持って右往左往《うおうさおう》していたり、ナゾのメイド衣装《いしょう》を合わせていたり。北村《きたむら》の姿もここにはなく、本部の準備に追われて学校中を走り回っているようだ。どうやら、生徒会がぶら下げた景品につられたのは2−Cだけではなかったらしい。三年生の進学クラスだけを除いたほぼ全クラスが、今年《ことし》は展示に参加するのだという。
そんな学校を挙げての大騒ぎの渦中《かちゅう》で、
「……う、うまいと思うぞ。ちょっとでいいから、食ってみろよ。な」
竜児は下手《したて》から事態の好転を試みていた。
「食べ物ぉ〜?」
だが、芳《かんば》しくない。一時|休憩中《きゅうけいちゅう》の主役さまは愛らしい顔を歪《ゆが》めて悪役とその手下を睨《にら》みつける。
「それって一番こわくなーい? いよいよいらない、そんなの」
断固、天敵の差し出すものなんかいただくつもりはないらしい。大河の日ごろの行いが悪いのは確《たし》かだが、ここまで信用がないとは。もはや自分が頑張るしかあるまい、竜児は諦《あきら》めずに仲介役に徹《てっ》する。
「開けてみりゃわかるって。絶対おまえそういうの好きだと思うぞ。もらっとけもらっとけ、とにかく包みだけでもあけてみろ。ほら」
竜児《りゅうじ》の熱《あつ》いお勧《すす》めに「……ジャパネットたかす?」亜美《あみ》は不審《ふしん》げに首を傾《かし》げつつ、しかし手の中に押しつけられてしまっては、食べ物であるらしいそれを取り落とすことも憚《はばか》られたようだ。ようやく小箱を白い手で、嫌《いや》そうながら受け取った。そして顔を歪《ゆが》め、恐る恐る包装紙のマークを見るなり、唐突《とうとつ》に瞳《ひとみ》を丸くする。
「あ? うっそ? ちょっとこれマジ?」
──引っかかった。
大河《たいが》と竜児がこっそり視線《しせん》を合わせるのをよそに、亜美は包装紙を剥《は》がしてそっと箱を開け、
「……やっばい。なにこれ、超よくない?」
普段《ふだん》よりも三段階ぐらい低い声のトーンで唸《うな》る。箱の中には、予約がとれなくて有名な高級フレンチレストランのマカロンが、きれいな虹色《にじいろ》に並べられている。
「このところずっと、父親に引っ張りまわされて外食してるの。昨日《きのう》食べたフレンチのお店が結構おいしかったから、ばかちーにもお土産《みやげ》に買ってきた。こういうの好きかと思って」
「父親とぉ? 食事ぃ? このお店でぇ?」
マカロンをうっとりと見ていた亜美の視線に、不意に黒々とした雲にも似た影《かげ》が広がり始める。せっかく美しく収まった小さな顎《あご》も、グングン長くしゃくれ始める。
「……うっそお、なんだそれ、あたしもモデル仲間も、だーれもまだ入れたことないのに、なんで一般人のおっさんとあんたなんかがあの店に……マージでぇ? ……ふーん、あんた、最近ニキビなんか作ってると思ったら、そんないい思いしてたんだあ?」
亜美のじっとり湿る視線の先、大河の顎には、確《たし》かにご馳走《ちそう》のツケであろう赤いニキビがひとつ二つ。はん、と亜美はさらに嫉妬《しっと》根性丸出し、悔しげに鼻の穴を膨《ふく》らませ、
「父親ねえ……なーんとなくだけどお、あんたんちっていかにも親とか離婚《りこん》してそ〜、この年でひとり暮らしなんて超|悲惨《ひさん》な感じ〜、とか思ってたのになあ。ふーん、意外と良好な仲だったのねぇえ」
それは相当に失礼な、他人様《ひとさま》の家庭の事情に土足で踏み込むような発言ではあった。以前の大河なら、こんなことを言われた日には七日と七晩の間、血の雨をこの星に降らせ続けたに違いない。だが、今の大河は一昧違った。なにを言われようと余裕たっぷり、高級フレンチで満たされた心はどっしり重々しく脂太《あぶらぶと》りしている。ちっこいチワワの攻撃なぞ、この女王虎にとっては蚊《か》に刺されたかな? ぐらいのもんだ。
「良好なのよ。残念ながらね」
ふっ、と微笑《ほほえ》みさえ浮かべ、大河Withニキビは優雅《ゆうが》に攻撃を受け流してみせた。竜児は唸《うな》る。大河を大河たらしめていた、あの焼けつくような攻撃性を帯びた狭量《きょうりょう》さが、すっかりナリを潜《ひそ》めているではないか。
いいことだ──ひとり、うんうんと深く頷《うなず》く。そう、いいこといいこと。絶対に。
「ばかちー、それ、食べてみて」
「はあ? 今ここで? なんでよ、やだよ。口の中ぱふぱふになるじゃん腹立つけどマカロンに罪はないから、ありがたくこれはもらって帰るわよ。家で紅茶入れてもらって食べよーっと。……しっかし、くっそー、まーさか一般人のクソチビに先越されるなんて……あたしだって次の週末こそ……」
「いいから食べてみて! 早く食ーべてみてすぐに食べてみて!」
「やだもうしつっこいなあ、なんなのよあんたは!?」
「食べてみてー!」
大河《たいが》は子供みたいにわがままに喚《わめ》き、ついに亜美《あみ》の身体《からだ》をよじのぼり始める。両手でしっかと亜美が着ているジャージを掴《つか》み、上履《うわば》きでケツを力強く踏《ふ》み締《し》め、
「ちょっとやだっ、引っ張んないでよジャージ! 伸びるでしょー! っていうか、便所行った上履きで昇るんじゃねー! ああもう、うっざい! 食べるわよほら!」
亜美はどうやっても振り払えない大河に根負けしたか、ついにマカロンのひとつをポイっと口に放り込んだ。猿の如《ごと》くぶら下がっていた大河は、
「食べた……」
素早《すばや》く呟《つぶや》き、床《ゆか》に飛び降りて距離《きょり》をとる。嚥下《えんか》するまでじっと見守る。亜美はポンポン、と白い手を叩《たた》き、
「ほら食べた食べた、おいしいおいしい! はい、離《はな》れて! 散った散った! なーんか、たまにあんたって超べたべたと鬱陶《うっとう》しいよね」
「食べたね! じゃあ、言うこときいて!」
「出たっ! こわっ! ……げっふぉ!」
さっそくマカロンの残滓《ざんし》を噴《ふ》く羽目《はめ》になるひとしきりむせ、涙目で大河を指差し、
「なんだおまえ!? 最悪じゃねえ!? ねえねえ高須《たかす》くん、今の聞いたあ!? お土産《みやげ》なんていうから。なにかと思ったら、結局あんたってそういう女よねー!?」
やあねー! と言われても、竜児《りゅうじ》もグルであるゆえ、曖昧《あいまい》に笑うことしかできない。のらりくらりと首をめぐらせ、亜美の美しく切れ上がる眦《まなじり》から目を逸《そ》らす。一方大河は亜美にぐいっと擦《す》り寄り、
「……お菓子受け取ったんだから、明日《あした》の文化祭の、プロレスショー。一回だけでいいから役交換して。私も悪役じゃなくてもっといい役、やりたいの」
ついに、言った。恥も外聞《がいぶん》も意地もかなぐり捨てた頼みごとを。
「……はああ? なんで?」
うにゃん、と口をネコのようにむっちりと結び、今更《いまさら》照れたか恥ずかしそうに、大河は亜美のジャージの裾《すそ》を掴《つか》む、そのままびよーんと体重をかけて引っ張り、ヨットセーリング状態の姿勢のまま、
「……明日《あした》、父親が、文化祭見にくるって言うの。でも私、悪役にされたなんて言い出せなくて……セリフの多い役って言ったら、勝手に劇《げき》みたいなのを想像して……主役かあ、って……で、絶対見にいかないとって張り切ってて……」
「……っていうか、劇もくそも主役もくそも」
「そりゃー私だって、こんなのアホロン毛が考えた、超しょうもないうんこみたいなプロレスショーってわかってるけど! それはもうどうしようもないじゃん!? なにがなんでも、来るもんは来るんだもん! だから、せめて役だけでも、いいとこ見せたいの! 見にこないでなんていいたくないし!」
「……ふ───ん」
亜美《あみ》の瞳《ひとみ》が、さして心を動かされたふうでもなく、冷たく光りながら大河《たいが》を見下ろす。ジャージの裾もぴっと掴んで取り返す。唇を歪《ゆが》めてなにか意地悪なことを言おうとし、しかし言葉を口に含み直す。少し考え、口元を指先でゆっくりとなぞり、小さく呟《つぶや》いた声は「そうだ※[#ハートマーク]」と。
「……あんたのオヤジ、ミスコンも見るって? あんた、出ること言ったの?」
「うん……言った。……言いたくなかったけど、ぽろっと……」
ふ、とおもしろい冗談《じょうだん》でも思いついたみたいに、亜美は目を細めて笑った。そして、
「なら、いっかぁ?……ミスコンから逃げないってゆー担保《たんぽ》がわりになるってことよね。土壇場《どたんば》でうちのクラスだけボイコットじゃ、司会のあたしのメンツ的にもまずいし。うん、いいわよ。オヤジが来たら、その回だけ役を交換してあげる。ま、悪役ってのもたまにはおいしいかもだしね〜、いっつもヒロインの亜美ちゃん的には。みんなにもうまいこと事惰はごまかしてあげる。どうせあんたのことだから、そんなファザコン丸出しの埋由、恥ずかしくて発表したりできないでしょ」
「だーれがファザ──」
「ま・あ・ま・あ※[#ハートマーク]」
亜美は逆に大河に身を摺《す》り寄せ、覗《のぞ》き込むように身を屈《かが》めて声を妙に甘ったるくする。
「ねぇねぇところでえ、お父《とう》さま、なーんの仕事してるのかなあ? 話聞いてるとお、セレブっぽい匂《にお》いがぷんぷんするんですけどおー? ……役を交換してやるかわりに、ミスコンの司会やる子、友達でモデルの仕事してるってちゃんと言っておいてくんない? すっごいかわいい、それでいて礼儀《れいぎ》正しい超いい子だよ、って。それでもってなんかこう、亜美ちゃん的においしい話あったらばっちり絡ませてほしいんだけどなあ、なんて? ま、たとえ仕事に繋《つな》がらなくてもぉ、あそこのレストランにすんなり入れるコネだけで十分おいしい人脈くせえっつーか?」
「うわあ、なんていやらしい女……」
「なんでよ? あんたのお願《ねが》いきいてやるっていってんのに、この流れでそういうこというかな!?」
一応話はまとまった、らしいが。
亜美《あみ》と大河《たいが》はもはやほとんど様式美《ようしきび》の世界、結局きゃんきゃん喚《わめ》きあいながら教案の中をグルグルと追いかけっこし始める。竜児《りゅうじ》は半ば呆《あき》れつつそれを見守っていたのだが、
「あんたのオヤジに、絶対紹介してもらうからね!? わかった!?」
亜美の声が一際《ひときわ》高くなったそのときだった。
「……大河の、お父《とう》さん? どうかしたの?」
ハゲヅラを明日《あした》の本番に備えて磨《みが》きながら竜児に歩み寄り、そっと尋《たず》ねてきたのは実乃梨《みのり》だ。話しかけられた! と竜児は仔犬《こいぬ》みたいに飛び上がりそうになり、危ういところで自制する。何食わぬ顔をできるだけ感じよく作り、なにも知らないのか、と少々|不思議《ふしぎ》に思いつつ、事態を説明してやることにする。
「あいつの親父《おやじ》、明日文化祭見にくるんだってよ。川嶋《かわしま》がそれ聞いて、大河に親父を紹介しろとか騒《さわ》いでるみたいだな。なにを期待してるんだかしんねぇけど」
その途端《とたん》、
「……」
実乃梨はばふっ、と口を閉ざした。黒目がクリクリ輝《かがや》く瞳《ひとみ》を見開き、息もしないで目の前の竜児をただ見つめる。丸みを帯びた頬《ほお》のラインに、力がこもってエクボが窪《くぼ》む。なんてかわいい──竜児は暢気《のんき》にその丸顔に見とれかけ、
「……ど、どうした?」
ややあって、やっと状況に気がついた。実乃梨は、ものすごく意外な話を聞いたみたいに、継ぐべき言葉を失っているのだ。凍りついたみたいに、顔を強張《こわば》らせている。いつもどんなときでも力技で陽性反応、超ポジティブな太陽の子、そのはずの実乃梨が。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「な……なんで?」
やっと実乃梨の口から言葉が出たが、その声は妙にフワフワと落ち着きがない。
「なんで、って、そりゃ──」
向かいあった竜児も、思わず言葉を途切《とぎ》れさせる。一体どうしたというのか。自分はどんな下手《へた》を打った。
実乃梨は不意に素早《すばや》くあたりを見回し、亜美と掴《つか》みあいに発展している大河にさりげなく背を向ける。そうして竜児を壁《かべ》と自分の間に挟むみたいな体勢になり、
「……なんでなの。ねぇ、教えて」
改めて問いかけてくる。その顔に笑《え》みは一切なかった。輪郭《りんかく》を硬くし、眉根《まゆね》を寄せて険《けわ》しくし、唇を食いしばっている。実乃梨《みのり》のこんな表情を竜児《りゅうじ》はこれまで見たことがない。こんな顔をするなんて想像したこともない。明るい笑顔《えがお》、おどけた変顔、一瞬《いっしゅん》だけの不安定な少女の顔──竜児は実乃梨のそんな顔しか知らない。
「黙《だま》ってないで、教えてよ。ねぇ。大河《たいが》のお父《とう》さん、今度はなにをするつもりなの」
「……なにをするつもりって、だから、文化祭に」
「だからそれがなんで!?」
急に声が悲鳴みたいに跳ね、竜児は驚《おどろ》いた。実乃梨自身も驚いたみたいにすぐに口をつぐみ、落ち着こうとしているのかほんの数秒だけ目を閉じる。そうして再び目を開き、実乃梨は細い息を長く吐き出し、竜児はやっと理解した。
実乃梨は怒っているのだ。
理解したその瞬間、疑問が竜児の頭の中を稲妻《いなずま》みたいに駆け抜ける。なぜ、いきなり実乃梨は怒っているのだろうか。あまりにも理不尽《りふじん》な、意味不明な、唐突《とうとつ》すぎる怒りではないか。まったく意味がわからない。
黙り込んだ竜児と向きあい、実乃梨の声はあせりを帯びた早口になる。
「……ねぇってば。なんでって訊《き》いてるんだよ。高須《たかす》くん、知ってるなら教えて。大河の身の上になにが起きてるの。どうしてお父さんが出てくるの」
まるでロボットの自動音声のように、言葉は淡々《たんたん》と放たれた。常にないその早口が、なぜだか竜児を責めているかのような響《ひび》きを帯びていた。なぜなのか理由はまったくわからない、しかし無視することもできないから、
「……大河は、親父《おやじ》と住むことになったんだよ。これまでのだいたいの事情は櫛枝《くしえだ》だって知ってんだろ。それで最近、親子の縁《えん》ってやつを結び直してるとこなんじゃねぇの」
努めて冷静に、事実を述べる。
瞬聞、
「……」
実乃梨は、絶句した。
制服のシャツの上に重ねて着たジャージの胸が、ひゅ、と吸い込んだ息に大きく膨らんだのが見てわかった。顔色が竜児の目の前で失われていく。吸った息を吐くこともできない唇が、半開きのままで為《な》す術《すべ》もなく無力に震《ふる》える。泰子《やすこ》のように「自分勝手」と斬《き》るだけではなく、もっと大きく、衝撃《しょうげき》を受けているみたいに見える。
「……大丈夫か? なあ、どうしたんだよ。おまえ絶対おかしいぞ」
躊躇《ためら》いながらも、肩にそっと手を伸ばした。しっかりしろ、と掴《つか》むつもりで。だが、
「……なんだそれ……」
実乃梨の目は、竜児のことなどもう見てはいなかった。身を揺すって竜児の手を払い、短く切《き》り揃《そろ》えられた親指の爪《つめ》を噛《か》む。
そして片手にはふざけたハゲヅラを掴《つか》んだまま、
「……なんだ、それは。ふざけんじゃねー」
口を歪《ゆが》めて、もう一度そう吐き捨てる。それが誰宛《だれあて》の言葉だったかまではわからない。そうして実乃梨《みのり》は竜児《りゅうじ》の目の前から身を翻《ひるがえ》し、大河《たいが》の方へ歩き出そうと足を踏み出す。
「待てよ!」
その手を、思わず掴み止めていた。触れあった肌の感触に、恋の熱《ねつ》は皆無《かいむ》だった。振り返った実乃梨の目には、もはや敵意にも似た鈍《にぶ》い光が灯《とも》っている。
「離《はな》して、高須《たかす》くん」
「どこ行くんだ? なにする気だ? 今のおまえはまともじゃねえ、ちょっと落ち着けよ、頼むから」
「……まともじゃないのは、大河だね」
なにっ? と竜児が今度は口をつぐむ番だった。
「大河、どうかしてる。目を覚まさせてやらなくちゃ、あんなお父《とう》さんなんか信じちゃだめだって言ってやらなくちゃ」
「な──」
驚《おどろ》きのあまり、竜児の全身の毛が逆立《さかだ》つ。ぷつぷつと粟立《あわだ》ち、落ち着け、落ち着け、と今度は自分に対して繰り返すことになる。
「……なんで、そういう言い方をするんだ? おまえは大河の親友なんだろ? なのになんでそんなひでぇこと……なんで喜んでやらねえんだよ?」
「喜ぶ? 私が? なんで? ……大河のお父さん、今頃《いまごろ》のこのこ現れてさ。それで大河は、そんなお父さんの言うことを信じてる。なにを喜べって言うの? 友達が傷つくのを笑って見てるなんて、絶対できない。私には」
つまり、俺《おれ》は大河が傷つくのを笑って見ている、と? ──カッ、と身体《からだ》に走った衝動《しょうどう》を、竜児は飲み下せたことを奇跡みたいに思う。これは櫛枝《くしえだ》実乃梨、俺の好きな女、と心の中だけで呪文《じゅもん》みたいに唱《とな》え、なんとか怒鳴《どな》らず、冷静な声を発することに成功する。
「……おまえ、それは、あんまりなんじゃねぇの? 大河の親父《おやじ》は、すごく普通の、でも普通以上に自分の娘のことが大好きな、ちゃんとしたいいおっさんだったぞ。確《たし》かに間違えたこともあるけど、それできっちり傷も負ってる。今は、その失敗を取り戻すために必死に頑張ってる。大河も頑張ってる、勝手に端《はた》から見てるだけで、そういう言い方すんのはやめろ。……なんにもわかってねえくせに」
しかし実乃梨はすこしもそんな想《おも》いを斟酌《しんしゃく》しようとはしない。落ち着こうと息を深くする竜児に、まったく協力してくれない、唇を歪《ゆが》め、目を眇《すが》め、責めるみたいに言《い》い募《つの》る、
「高須くん、大河のお父さんに会ったの? 会ったんだ。……会って、それで、なるほど。そうか。高須くんが大河を焚きつけたんだ。……高須くん、大河のお父さんに会ったとき、ちゃんと両目を開けて見てた? その目を、ちゃんと二つとも、開けてた?」
「なに? どういう意味だそれは。開けてたに決まってんだろ」
「もういいよ。わかった。高須《たかす》くんと話しても意味ないね」
「なんて言った!?」
抑えていた分、声は低くかすれてうまく出なかった。
「知ったふうなこと言ってんじゃねえよ! なんでおまえが、よりによっておまえが、大河《たいが》のことを喜んでやれねえんだよ!? おまえこそ目を開けて、ちゃんと状況を見ろよ!」
信じていたのだ。実乃梨《みのり》なら、この太陽みたいな女の子なら、大河の幸せを誰よりまっすぐに願《ねが》っているはずだと。大河と父親のことを一番に祝福しているはずだと。誰より大河の家族の再生を喜ぶはずだと。自分と一緒《いっしょ》に、幸せになった大河を見て、これが一番いいことだ、と笑ってくれると。
信頼が大きかった分、裏切られた傷は深かった。自分でもその深さを理解できないほどに、深かった。覗《のぞ》き込むほどに、くらくらと頭に血が昇った。
「私は信じてないから。大河のお父《とう》さんのことをね」
「信じるかどうかを決めるのはおまえか? 大河だろ!」
「だから、今から私が大河に言うんだよ! そんなの信じるな、って!」
「余計なことするんじゃねえ!」
「高須くんに関係ない!」
「おまえにはもっと関係ねぇよ!」
なんて、傲慢《ごうまん》な奴《やつ》──なんでこんなことを言える。
火を噴《ふ》くような目で、竜児《りゅうじ》は実乃梨を睨《にら》みつけた。実乃梨《みのり》はしかし、そんなことで引くような女ではなかった。睨みあい、肩で息をし、やがて二人《ふたり》の争いは周囲に気づかれ始める。
「……櫛枝《くしえだ》? どうしたの? なんか……」
「……今|怒鳴《どな》ってたのって、高須……?」
ざわめきの中で、大河が、弾《はじ》かれたようにこちらを見た。たった今、二人の言い争いに気がついたのだろう。驚《おどろ》いたような日をして、口を半開きにして、竜児と実乃梨を交互に見た。そして大河がしたことは、
「りゅ……竜児!」
必死な顔つきで走り寄り、
「みのりん!」
出会ってから初めてみる表情で──不安げに二人の顔を窺《うかが》うような、しかし懸命《けんめい》に笑って全部を冗談《じょうだん》にしてキレイに流してしまいたいみたいな顔で、
「握手ー!」
二人の間に割って入り、二人の手首を両手で掴《つか》み、無埋やりに握手させようとしたのだった。しかし竜児《りゅうじ》は、指を強く握《にぎ》り締《し》めてそれを拒《こば》んだ。実乃梨《みのり》の指と関節同士がガツン、とぶつかり、反射的に大河《たいが》の手を振《ふ》り解《ほど》く。睨《にら》みつけたのは、実乃梨。実乃梨の目は、もう竜児《りゅうじ》を見てはおらず、自分の上履《うわば》きを見ていたのだけれど。
後のことなど、もう振り返りもしなかった。誰《だれ》がなにを言っているかも、実乃梨がどんな顔をしているのかも、なにもかももう確《たし》かめはしなかった。全部知るか、と投げ捨てた。
頭の芯《しん》がヒリヒリ痺《しび》れてほとんどホワイトアウト状態のまま、竜児はすべてを置き去りにして、まっしぐらに教蓋を飛び出していく。
***
竜児を知らない奴《やつ》らは、竜児のことをヤンキーだとか、チンピラだとか、前科何犯だとか言う。
そして竜児を良く知る友人は、竜児を優《やさ》しい奴だと言う。親切で、几帳面《きちょうめん》で、母《かあ》ちゃんみたいな変な高校生だとも言う。
生まれついての性格もあるのだろう。竜児を育てたのが、あのうすらぼんやりぐにゃー、な泰子《やすこ》だからという説もある。物心ついた頃《ころ》から息子《むすこ》役|兼《けん》専業主婦役兼泰子の保護者《ほごしゃ》役、他《ほか》のガキより自立できてるいいこになって、予供らしい我儘《わがまま》も不平不満も穏《おだ》やかに飲み込んで、しゃあねえ、とやり過ごす日々が、竜児という子供を育ててきたわけだ。そうして日々のあらゆる事態に柳みたいにしなやかな心で対処しなければ、高須家《たかすけ》のちょっと頼りない母子|二人《ふたり》は、今のように平和には生きてはこられなかった。
そして、それプラス、なんの因果《いんが》か親父《おやじ》から授かったヤクザ顔が、竜児の性格の穏やかさに拍車をかけていたのも事実だ。
なにもしなくても、人々は竜児を見た目どおりの暴力《ぼうりょく》野郎と思い込んで、怯《おび》えたり怖がったりひどいことを言いふらしたり、それが正義とばかりに竜児を人の輪《わ》から排除しようとする、そんな目に散々《さんざん》遭《あ》ってきて、竜児は悟ったのだ。自分は、人よりも正しく、優しく生きなければいけない、と。どんなことがあっても人を恨《うら》まず、拗《す》ねることなくまっすぐに生きていれば、やがて誰かがわかってくれる。そいつらは友達になってくれる。わかってくれる友達がいれば、なにかあっても助けてくれる。竜児は本当はいい奴だと、どんなときも、ちゃんと知っていてくれる。
だから今日《きょう》まで、竜児はどんなことがあろうとも、怒りや苛立《いらだ》ちは最終的に自分を一番苦しめると分かっていて、それを表に出すことを良しとはしなかった。のだが。
「──死にてぇ」
これは罪なのだろうか。
無人の階段の踊り場、並ぶジュースの販売機《はんばいき》の間の五十センチほどの隙間《すきま》にはさまって座り込み、竜児《りゅうじ》はひとり、タナトスな気もちになっていた。両手には、六本のキンキンに冷えたアイスコーヒー。ちなみに今の気温は十度もないかもしれない。冷たいアルミの缶を抱えた指が凍《こご》えてちぎれそうだ。
腹が立つまま、竜児はやってはいけないことをやってしまった。罪なき自動|販売機《はんばいき》に、渾身《こんしん》の蹴《け》りを入れたのだ。技《わざ》の名前は八つ当たり。結果、自動販売機の腹はへこみ、まるでゲロを吐くみたいに冷たいコーヒーを竜児の足元に、コトゴトと落とした。
冷たい缶を、床《ゆか》に置けばいいのかもしれない。しかし身体《からだ》は痺《しび》れたみたいに固まったまま、指先一本動かせない。自罰的《じばつてき》な気分もあって、感覚がなくなってもそのままでいる。
──実乃梨《みのり》が悪い。
──だけど、自分も怒鳴《どな》ったりした。
時間が戻りさえすればすべて解決するだろう。でも時間は戻らない、絶対に戻らない。だからもう、死んでしまいたい。
もう何分、ここにこうして座っているかもわからなかった。あたりは静まり返り、時間の経過の感覚もなく、竜児はまともに考えることもできないでいる。今起きたことを、振り返ることさえ嫌《いや》だった。
このままここで死んでしまえたら……そうしたら実乃梨は、少しは泣いたりしてくれるだろうか。
「お、ば、か、さ、ん」
不意にその声は、柔らかに響《ひび》いて竜児の耳をくすぐった。
「……うるせぇよ」
顔を見なくても、ふわりと漂った甘いトワレの香りで、優雅《ゆうが》な足取りで現れたそいつの正体はわかっていた。
「その隙間《すきま》、あたしの隙間なんだけどなあ」
腕を組み、長い睫毛《まつげ》を優雅に伏せて星の瞳《ひとみ》に影《かげ》を落とし、亜美《あみ》は淡《あわ》い笑《え》みを唇に乗せてしゃがみ込む竜児を至近距離《しきんきょり》で見下ろす。
「……誰がそんなの決めたんだよ」
「あたし。ほら、どいたどいた。立ち上がんなよ」
骨が透《す》けるほどに細い指先が、氷のように冷えた竜児の手を掴《つか》んだ。柔らかな感触は、しかしそれ以上のいたずらをする様子《ようす》もなく、ごく健全にがっしりと力を込めて竜児を隙間から引き起こす。そうして亜美は空《あ》いた隙間に自分がするりと座り込み、
「ほーらね。亜美ちゃんサイズにここはぴったり。やっぱりここはあたしの隙間だね」
ふん、と得意げに鼻先で笑う。仕方なく竜児はその正面にあぐらをかいて座る。不思議《ふしぎ》なことに、今は亜美の高慢《こうまん》な目も、意地の悪い笑みも、さほど居心地《いごこち》が悪くない。この女なら、どんなに自分が落ち込んだ様子《ようす》を見せたって気を使って慰《なぐさ》めてなんかくれない。それがわかっているぶんだけ、気が楽なのかもしれない。気を使われる心配もなし、気を使う必要もなし、じゃんじゃん好きなだけ落ち込み放題だ。
「……櫛枝《くしえだ》、どうしてた?」
「なにこの大量のコーヒー、あたしあんまり缶コーヒーって好きじゃないんだけどなあ。実乃梨《みのり》ちゃんなら帰っちゃったよ」
「……マジかよ……うああ……」
膝《ひざ》を抱え、顔を押しつける。あーもー終わりだ、そんな呻《うめ》き声を上げ、竜児は絶望、という言葉の意味を知る。望みなし。明日《あした》なし。未来なし。
「自業自得じゃん? よくもまあ、好きな女の子相手にあんなふうに怒鳴れたもんだわ」
缶のプルトップを起こしながらの亜美《あみ》の言葉に、思わず竜児は咬《か》みついた。
「あれは櫛枝が悪いんだ! あいつが、最低なことを言ったからこうなったんだよ!」
「ふーうん? まー、なにをケンカしてたんだかしんないけどさ。ふっつうしないよね。あんなケンカ。女の子相手に。しかも好きな子だってのに」
「うるっせぇな……もうどうでもいいんだよ、櫛枝のことなんか。本気でむかついてんだ。あいつ、信じらんねぇよ。さいってーだあんなの。本性を見たっていうか。……あんなこと言う奴《やつ》だなんて、思わなかった」
甘えたことを言っている自覚はあった。自分で自分の「男」を下げていることもわかっていた。だけど発してしまった言葉はなかったことになどできなくて、
「うーわ、うっざ。あたしにつまんない陰口吹き込まないでくれるぅ? あたしはそんなのにお優《やさ》しく同調《どうちょう》して、慰《なぐさ》めてなんかやんねーよ?」
「……だろーよ」
亜美は呆《あき》れたみたいに眉《まゆ》を跳ね上げ、どうでもよさそうに缶コーヒーに口をつける。しばらくそのまま、竜児は無言で動く亜美の喉《のど》を見つめ、
「……なあ。ここに鞄《かばん》持ってきてくれねえか? そしたら俺《おれ》もこのまま帰る」
ダメ元で、もういっちょ甘えてみるが。
「や〜だね」
……この意地悪な視線《しせん》も、小ばかにするみたいな言い方も、想定内だ。
「あたしもちょっと休んだら戻るからさ。一緒《いっしょ》に教室に戻ればいいじゃん」
「……無埋だろ。俺、せっかく盛り上がってた空気、壊《こわ》しちまったしよ……」
「そりゃーねえ。でももう平気だと思うよ。あたしフォローしまくったし。みんなもとりあえず二人《ふたり》のことは放っておいてやろう、ってことで、普通に練習始めてたし」
「フォロー? ……おまえが?」
「そんなの余裕だね。ま、手乗りタイガーのちびすけだけは神経質に毛ぇ全部立てて、周りを威嚇《いかく》しまくってたけど」
「……あいつ、櫛枝《くしえだ》と一緒《いっしょ》に帰らなかったのか」
「ついていこうとして、走って、滑《すべ》って、転んで、置いていかれた。膝《ひざ》すりむいて半ベソだったから、奈々子《ななこ》が保健室に連れてったよ。今頃《いまごろ》教室に戻ってるんじゃない?」
すべての光景がありありと目に浮かび、竜児《りゅうじ》はため息をつく。一体|誰《だれ》のせいでこうなったのだろう。実乃梨《みのり》だ、と叫ぶ声と、俺《おれ》か、と落ち込む声が、頭の中でサラウンド状態に響《ひび》きまくる。
ただ──それでも絶対に、実乃梨の言ったことは許せなかった。理解できなかった。時間さえ戻れば、と祈ったが、もしも時間が戻ったとして、実乃梨の言葉に同意することだけは、それでもやっぱりできないのかもしれない。何度あの瞬間《しゅんかん》に戻ろうと、何度後悔しようと、この絶望を味わおうと、竜児は実乃梨の傲慢《ごうまん》とも思えた考えを変えさせようと言い返さずにはいられないのかもしれない。いいことなんだ、と。だから、喜んでやれ、と。……休憩《きゅうけい》、そろそろ終わろうか。教室、戻ろ」
缶コーヒーを飲み干し、亜美は空《あ》き缶《かん》を一発でゴミ箱にシュート。よっしゃゴール、さっすが亜美《あみ》ちゃん、とガッツポーズして、
「ね。いこ。大丈夫だからさ」
まるで男同士みたいな気安さで、学ランの腕を掴《つか》んで竜児を立ち上がらせる。そのままちょっと乱暴《らんぼう》に、ぶつけるようにして屑を抱いてくる。あまり変わらない身長のせいで、亜美の美貌《びぼう》はすぐ間近に。こんなときでも視線《しせん》を奪われずにいられない美しい二重《ふたえ》の目は、しかし、
「あたしと一緒になら戻れるでしょ? なにげなーく、してりゃいいんだって」
どうしてだか今日《きょう》だけは、いつものからかいの色も皆無《かいむ》。誘っているのか遊んでいるのか解読不能の、匂《にお》うみたいな色香も皆無。
ただ、本物の親《した》しみだけを浮かべ、「友達」の眼差《まなざ》しで元気づけてくれる。それは多分《たぶん》、今の竜児が本当に参っているからで──
「……おまえ、変わったよな。やっぱり」
──ありがたい。そう思った。
「そう見える?」
「……ひとりだけ、なんか大人《おとな》になりやがって」
ふ、と亜美は視線を逸《そ》らす。竜児の方ではなく、真正面を、進むべき方を見る。
「あたしはね、前から大人なのよ。でもまあ、変わったところもあるかもね。……少し、考えたの。考えて、変わりたい──変えたい、って思ったところもあるのよ。……自分の、いろんな部分を」
そう語る亜美の横顔には、まだほんの少しだけ、迷うような色が見え隠れしている気もしたのだけれど。
「……俺《おれ》も、変わりてえよ。どうすりゃいい? 川嶋《かわしま》は、どう思う?」
「甘えんじゃないよ。自分で考えな」
振り返った顔には、見慣《みな》れた意地の悪そうな笑《え》みが張りついている。
「あたしはね、たとえば手乗りタイガーみたいに、べったり高須《たかす》くんと一体になったりしない。実乃梨《みのり》ちゃんみたいに、高須くんにとっての『輝《かがや》ける太陽』にもならない。あたしは、川嶋亜美《かわしまあみ》は、高須くんと同じ地平の、同じ道の上の、少し先を歩いて行くよ。……さあ、教室に帰ろう。練習しなきゃね、明日《あした》は楽しい文化祭。本番なんだから」
踵《きびす》を返し、亜美は先を歩き出す。竜児《りゅうじ》はしばらく自分の足元を見ていて、そしてやっと顔を上げ、その背を見た。
誰《だれ》もいなくなった自動|販売機《はんばいき》コーナーの、真ん中の販売機のおつりスペースには、ティッシユに包まれた六百円だけが残されていた。壊《こわ》してしまいました、すいません、と犯人のクラス・名前がメモ書きされた付箋《ふせん》付きで。
5
「うわっ、なんか結構並んでんだけど……やっべー緊張《きんちょう》してきたよーどうしよー……」
「落ち着け春田《はるた》」
「落ち着けったって高《たか》っちゃ……ひぎいーっ!」
ドスン──暗幕《あんまく》で仕切った教室の、楽屋になっている黒板側、狭い空間。締《し》め切りにしたドアの隙間《すきま》からこっそりと廊下を覗《のぞ》いていた春田は、騒《さわ》がしい声を上げて仰向《あおむ》けにコケる。たちまち周囲は非難決議案《ひなんけつぎあん》を可決、幾本もの腕が一斉に伸びてデコピンを嵐《あらし》の如《ごと》く食らわせる。
「なにやってんだアホ! 静かにしろ! 音が漏れたら興《きょう》ざめだろ!」
「総監督《そうかんとく》の自覚はねぇのかこのアホ!」
「まったく落ち着きがねぇんだから! アホめ!」
「いたいいたいいたい! だってしょうがねえじゃんかー!」
ようよう這《は》って爆撃《ばくげき》から逃れ、春田が指差すのは、騒ぎに背を向けたまま自分の支度《したく》を続行している黒い背中。
「だって高須《たかす》が怖《こ》えー顔して、俺《おれ》のこと睨《にら》んだんだもん!」
「え? 俺か?」
緊張を宥《なだ》めてやろうと声をかけただけだが──意外な友の言葉に竜児は驚《おどろ》いて振り返る。すると、
「うお!?」
「うぎゃあああっっ!」
春田《はるた》を責めていた奴《やつ》らまでもが、一斉に腰砕《こしくだ》けになってわらわら壁際《かべぎわ》に逃げていくのだ。一休なにが、と竜児《りゅうじ》は撫然《ぶぜん》と首を傾《かし》げる。着替えを終えて更衣《こうい》スペースから出てきた大河《たいが》はそんな騒《さわ》ぎに眉《まゆ》をしかめ、竜児の肩を掴《つか》み、
「ちょっとあんた、なに遊んで──ぎゃあ〜っ!」
そのツラを覗《のぞ》き込んだ勢いのまま、大きく仰《の》け反《ぞ》ってそのまま倒れる。さすがにこれは異常事態、竜児はあせって大河を引き起こし、
「どうしたんだ大河まで! みんなどうして俺《おれ》を見て叫ぶ!?」
「油断したわ……あんたのフェイスフラッシュをもろに浴びてしまうなんて……」
「俺のフェイス……? ……あ、メ、メイク濃《こ》かったか……」
やっと状況を把握《はあく》した。遅まきながら恥ずかしくなって、両手で顔を覆《おお》い隠す。
暗幕《あんまく》で囲われた狭い楽屋裏は、光が舞台《ぶたい》へ漏れないように、誰《だれ》かが持ち込んだ小さなデスクライト以外の照明をすべてオフにしてあった。その薄暗《うすぐら》い空間に、斜め下方向から照らされた竜児の悪役顔は、もはや凶器《きょうき》以外の何物でもなくなっていたのだ。鋭《するど》い三白眼《さんぱくがん》を危なく際立たせるギラギラダークブルーの上目蓋《うえまぶた》、危険人物っぽさを自在に醸《かも》し出す日の下くっきりゴン太アイライン、常にカサつく唇の色をもっと非人間的に消すコンシーラ。こんなツラが舞台上《ぶたいじょう》を闊歩《かっぽ》すれば、恐らく観客《かんきゃく》の精紳に二度と消えない傷を残すことにもなろう。
「なにが狙《ねら》いなんだ、この顔面爆弾犬《がんめんばくだんけん》め」
大河はシート状になっているメイク落としを投げつけてくる。受け取って、竜児はほんのちょっとだけ哀《かな》しい。張り切っただけなのだ。コンプレックスである強面《こわもて》を前面に押し出してでも、頑張ろうと──昨日《きのう》、あんな騒ぎで空気を壊《こわ》した自分を何事もなかったように受け人れてくれたクラスメイトたちへの恩返しに、精一杯悪役を演じたかっただけなのだ。
「……張り切りすぎた……」
「そんなもんはいらないのよ」
大河はきっぱり、竜児の想《おも》いを斬《き》り捨てて下さった、
「あんたは、あらゆる点で、自分でも『ちょっと物足りないかな』って思うぐらいでちょうどいいの。いっつもなにかが過剰なの。それをよーく肝《きも》に銘《めい》じておきな」
「塩分はいつも控えめを心がけてるぞ……ていうかおまえこそなんだそのツラは。自分ばっかかわいい顔で出ようと思いやがって。悪役メイクしろ。俺がしてやろうか? あ?」
「結構。私はこのままでいいのよ」
竜児の背後にちょんと座り、鏡越《かがみご》しに涼しい顔で肩をすくめる大河はメイク一切なし。いつもどおりのすっぴん顔に、一応髪だけは悪役らしく、高い位置でのポニーテイルにきつく結《ゆ》い上げている。ふふん、と偉そうに鼻で笑って、誂《あつら》えてもらった漆黒《しっこく》のマントを得意げにひらつかせ、片手には黒のジュリアナ扇子《せんす》を華麗《かれい》に開いてキメて見せる。
「ばかちーとの主役交代に備えて、悪役メイクはパスなの」
「ああそうかよ」
嬉《うれ》しそうにしちゃって。そりゃーおまえは大好きなパパも今日《きょう》はお泊まりだし、浮かれ気分も絶好調《ぜっこうちょう》だろうよ。
けっ、と竜児《りゅうじ》はやさぐれた。大河《たいが》とお揃《そろ》いのマントをみじめったらしくかきあわせ、やりすぎメイクを落とし始める。マントの中は、黒のTシャツと黒のスウェットズボンというなりだ。大河はやはり黒Tに、黒のスパッツを合わせている。足元が上履《うわば》きなのがイマイチ締《し》まらないが、二人《ふたり》揃って黒尽《くろず》くめの全身はなんとなく悪役っぽく見えるだろう。
「ところで。……そんなことより、わかってんの、あんた」
「……重い」
正座してメイクをいじる竜児の背中に、大河はずしっ、と体重をかけてくる。鏡越《かがみこ》しに視線《しせん》を合わせ、ジュリ扇《せん》の羽根でサディスティックに竜児の強面《こわもて》の輪郭《りんかく》をなぞり、耳朶《じだ》を食いちぎられそうなゼロ距離《きょり》、耳元で低く囁《ささや》きかける。
「……朝言ったこと。ちゃんと、守んなさいよね」
嬲《なぶ》るような視線に、頷《うなず》く以外の選択肢《せんたくし》はない。実は登校中に「やだね」と一度反抗してみて、すでに大暴《おおあば》れされてエライ目に遭《あ》っている。
──みのりんに謝《あやま》って。それで絶対仲直りしてよ。
事情もなにも知らないくせに、大河は実に一方的に、そう言って竜児を責めたのだ。人の気も知らないで。というか、そもそも自分が原因であることも知らないで。……喧嘩《けんか》の原因は隠し通したから、知らなくて当然なのだが。
「……わかってるってんだ。ていうか、おまえが俺《おれ》と櫛枝《くしえだ》の仲を取り持ってくれてもいいんだぞ。おまえ、今朝《けさ》普通に櫛枝と楽しげに会話してたじゃねえか。『竜児と仲直りしてあげて』とか、さりげなく向こうにも言えよ」
「そんな心の機微《きび》を敏感に読み取りつつ人聞関係を修復するような細かい真似《まね》が、この私にできるとでも?」
「……わかってて……言った。おまえには無埋だよな。悪かった悪かった」
ため息をつきつつ、落とし過ぎたアイラインを直そうとして、再び図太く描《か》いてしまう。そう、わかっているのだ。……言われるまでもなく仲直りしたいし、大河にケンカの仲裁《ちゅうさい》なんてできるわけがないから自分でなんとかしなければいけないし、そして、仲直りしたいといったところで、いまだに竜児は実乃梨《みのり》の考えを受け入れられないし。……ずっと、引っかかり続けているままだし。そのわだかまりが解けなければ、本当には仲直りなんて絶対にできないし。
ものすごい顔になりながら、竜児はしかし視線を鏡越し、背後に。
「おー! さすが櫛枝、着こなすねぇ!」
「そうかな? 似合ってる?」
一体どんな衣装《いしょう》身に着けたやら、更衣《こうい》スペースから明るい声だけは聞こえていた。しかし声の主《ぬし》である実乃梨《みのり》の姿は、ちょうどカーテンの向こうに隠れ、竜児《りゅうじ》からはすこしも見ることができない
「あーあ、なっさけないツラして……早く仲直りできなきゃ、あんた、せっかくの文化祭もみのりんと一緒《いっしょ》に回れないんだからね」
大河《たいが》に言われるまでもなく、そんなことも当然わかっている。そもそも実乃梨との諍《いさか》いの元凶《げんきょう》でもある小さな白い顔を見返し、不意に憎たらしさは都会にたまに降るドカ雪の如《ごと》く、ズンズン静かに降《ふ》り積《つ》もった。限界ラインを突破した、
「……おら」
「うぎゃ!?」
竜児は手にしたアイライナーで、憎たらしい大河の頬にチョンとヒグを描《か》いてやる。
「ちょっとおまえなにすんだー!」
「おら、おら」
「やー!」
さらに追撃《ついげき》。デコと言わず顎《あご》と言わずちょちょちょ、と描き足し、火河は突然の犬の反乱に手をブン回して四つんばいのまま獣《けもの》みたいに逃《に》げ惑《まど》い、
「あいたっ!」
「おい高須《たかす》! タイガーを狭いところで興奮《こうふん》させんなよ!」
「うわあ、ちょっと暗幕《あんまく》がー!」
狭い空間でぎっしり準備中のクラスメイトに迷惑をかけまくる。小道具|満載《まんさい》の机の下に大河は飛び込もうとし、しかしその首根っこをヒョイ、と掴《つか》まれる。金切り声を上げてその手を振り払おうとするが、手の主《ぬし》を見上げ、大河の動きは魔法《まほう》みたいにピタリと止まった。
「……さあ、そろそろみんな静かに。もうすぐ本番、一発目の時間だ」
現れたのは、北村《きたむら》だった。生徒会副会長として警備《けいび》・管理の仕事もしつつ、2−Cにおいては亜美《あみ》ちゃんチームの生徒役。みんなと揃《そろ》いの白のTシャツに、下半身は学校指定のジャージという脇役《わきやく》スタイルで、いつもの眼鏡《めがね》を光らせる。
「受付からの報告によると、第一回公演の観客《かんきゃく》は、今並んでる分だけで既《すで》に席の八割が埋まった。時間ぴったりに来る奴《やつ》らもいるだろうから、おそらく満席になるだろう」
ぉぉ……と控えめなざわめきが楽屋の闇《やみ》を揺らがせる。
「うわ、満席ってマジかよ……プロレスなんて誰《だれ》も興味《きょうみ》もってくれねぇとか思ってた」
「っていうか、去年より全然人の数が多くない? 朝っぱらから廊下に人がいっぱいだよ」
「去年なんかうちの学校の生徒でさえサボリばっかり、学校中ガラーンとしてたのに」
「他校の客もかなり目につくよな」
そう、と北村は重々しく頷《うなず》いてみせる。
「今年《ことし》は、近隣《きんりん》の学校に生徒会としてわざわざ出向いて、毎日しらみつぶしに広報宣伝して回ったんだ。ポスターも貼《は》りまくり、クラス対抗の企画《きかく》も説明しまくり、それが意外と受けたらしい。プラス、それぞれのクラスの奴《やつ》らが投票目当てに、他校に行ったオナ中の同級生を呼びまくってもくれたしな。ついでに、例年以上に中学三年の受験生《じゅけんせい》も来てくれている」
「うっひよ、女子中学生……」
「やっべぇ、ナンパとかできたりして」
狭い空間にクラス全員体育座り、ただでさえ暑苦しく蒸《む》れるところに、さらに鬱陶《うっとう》しい囁《ささや》き声が響《ひび》き交わされる。
「まるお、そろそろお客さん席に入れるよ」
受付係の女子の声に、しかし全員が口をつぐんだ。北村《きたむら》に触られてひとり悶絶《もんぜつ》していた大河《たいが》も、空気を読んだか、身体《からだ》を起こして大人《おとな》しくなる。暗幕《あんまく》を二枚|隔《へだ》てた向こうから、確《たし》かにたくさんの人の気配《けはい》、並べたイスが床《ゆか》を引く音、声とざわめきが聞こえ始める。
「──みんな。準備はできたかな?」
暗幕の隙間《すきま》から声をひそめ、すらりと立ち現れたのは亜美《あみ》だった。その姿に、音を殺した指先だけの拍手が巻き起こる。
さすがは主役だ。舞台《ぶたい》の華《はな》だ。亜美はTシャツだけはみんなとお揃《そろ》い、その下には、テニス部の女子から借りた純白のスコートというまっすぐな足も光り輝《かがや》く見事な姿でそこにいた。もちろん中にはアンスコを穿《は》いてはいるが、
「さすが亜美ちゃん、わかってる……」
「お見事でいらっしゃる……」
男子はほとんど五体投地《ごたいとうち》、眩《まばゆ》いそのスタイルを揃って伏《ふ》し拝《おが》む。ばかだねー、と女子たちの冷たい罵倒《ばとう》にも構ってはいられない。そして、小さな最後のライトも消され、観客《かんきゃく》たちのざわめきだけが騒々《そうぞう》しく教室を圧し始める。
「……いよーし。亜美ちゃんのおみ足で気合が入ったところで──行きますか、諸君《しょくん》」
アホなりにボリュームをぎりぎりまで下げた春田《はるた》の声に、全員が頷《うなず》き、右手を伸ばした。折り重なり、くっつきあい、無理やりになんとかみんなが手の平を重ねる。結局ヤバいメイクのまま竜児《りゅうじ》も、ジュリ扇《せん》を脇《わき》にはさんで竜児の頭にのしかかった大河も、よっしゃと頷く北村も、天使の微笑《ほほえ》みでみんなと見交わす亜美も、春田と肩を組んでいる能登《のと》も、Tシャツの袖《そで》をめくって細い肩を晒《さら》した麻耶《まや》も、くっつきすぎの男を微笑みながらも睨《にら》みつける器用《きよう》な奈々子《ななこ》も、おふざけが過ぎて縦《たて》ロールヅラをかぶってる彼も、緊張《きんちょう》に高鳴る心臓《しんぞう》のあたりを押さえている彼女も、いまだ台本を不安そうに抱えているあいつも、もう一度トイレ行きたくなってきた〜と呻《うめ》くそいつも。どいつも、こいつも、そして竜児からは見えないところで多分《たぶん》|実乃梨《みのり》も。みんな、全員、勢ぞろい。
「……それでは、2−C、クラス展示プロレスショー興行《こうぎょう》第一回目、無事の成功を祈って…… せーの、ファイトォォォォ───……」
「いっっっっぱあああああ───つ……」
イエーイ……と無言の指先拍手で静かに盛り上がったところで、なんでリボビタンだよ、とさらに小さく誰かが。
***
「ここで立ち止まらないでくださーい! 旧校舎は左手、新校舎は右手になりまーす! って、だーれも聞いてくれないよお!〜」
V字構造のつなぎ国にあたる渡り廊下は、左右を迷う人の群れが渋滞《じゅうたい》を巻き起こしていた。どっちどっち? と騒《さわ》ぐセーラー服の他校の女子に、それをナンパしようと近づく奴《やつ》ら、カメラ片手に「1−Dはどっちだ母《かあ》さん!?」「こっちかしら父《とう》さん!?」 右往左往《うおうさおう》する父兄《ふけい》。中学生の集団はテンションがあがりまくって走ろうとするし、どこからか紛《まぎ》れ込んだ客引きが、「うちのクラスに、いいクレープありますよ……」とエプロン姿で下級生の腕を掴《つか》む。反対側から
「うちのクレープの方がぴちぴちの焼きたてだよ……」とさらにひっぱる奴がいる。
そのカオス状態に、交通|整理《せいり》に当たる生徒会の腕章《わんしょう》をつけた女子はもはや半ベソ、
「ちょっと押さないで押さないで! あぶないから……うひゃ〜! あはーん!」
妙に悩ましい声を上げて雑踏に飲み込まれて消えた。慌ててかけつけてきた同じ腕章の男子に、腕を掴まれて人の海からずぼっと引っ張り上げられる。今度はその男子が人の海にぼちゃんと没する。流されて、そのまま廊下の彼方《かなた》に不幸にも消えていく。
そんな大騒ぎの片隅《かたすみ》で、
「お、メールだ。なんだこの画像」
「なになに? 『2−Cのプロレス超やばい』……?」
「それって川嶋亜美《かわしまあみ》じゃーん! やっぱかわいいよな〜……え!? なんだこのミニスカ! 写メもう一回見せろ! 誰が送ってきたの!?」
「つーかくれくれ! お宝画像! 誰がどこで撮《と》ったんだ!?」
「プロレス見にいった奴ら。早くおまえらも来い、だって。ヤンキーの高須《たかす》くんと手乗りタイガーもめっちゃ笑える、って……マジかよ!? こええ!」
「え? おもしろいの? どれどれ、どこ?」
「俺らも行ってみる? 交代の時間もまだ先だし、メシにも早いし」
それってなに、あたしらにも見せて。なにそれなにそれ。え、どしたの──誰かが回し始めた一枚の写メから、騒々《そうぞう》しい噂話《うわさばなし》はウィルスみたいに、増殖しながら伝染のスピードを加速していく。
「そ、それは……! 我《わ》が2−Cに伝わりし秘宝……!?」
「そうさ! 超大切な秘密の宝──その名も『担任の赤い糸』だ! ウエーッヘッヘー!」
「やめてぇぇぇ〜っ! なんてことをっ! それにだけは、手を出さないで〜っ!」
ハウリング寸前のボリュームで、甲高《かんだか》い声がわんわんと教室に響《ひび》いた。そのありさまを小躍《こおど》りしながら指差し、ウエーッヘッヘッヘッへー! と笑いまくるのは、どっしりと股《また》を開いたみっともないガニ股集団。洗脳されると、ガニ股になるという春田《はるた》こだわりの設定なのだ。集団は太もももぷるぷる震《ふる》えるガニ股を小刻みに前後に動かしながら、次第に亜美《あみ》を取り巻いて
いく。つまり、亜美を除いた2−Cの仲間たちは、既《すで》に全員洗脳の魔《ま》の手に落ちているというわけだ。ああおそろしいことだ、これはたいへんだー。
そんなシリアスな局面に、観客《かんきゃく》の笑い声も、「くっだらねー!」……爆笑《ばくしょう》しながらのヤジも、一層熱《いっそうねつ》を帯びる。
「能登《のと》くん! あなたも2−Cの仲間だったはずよ! そんな惨《むご》いこと、心の美しいあなたにできるわけがないわっ!」
スポットライトに照らされ、さすが負け犬検視官・夕月玲子《ゆうづきれいこ》の実娘。大根ながらもそれなりに声の通る亜美の熱演が、アホらしいシナリオに緊迫感《きんぱくかん》を増す。
「みんなもそう、仲間だったはずよっ! 楽しくこの2−Cで暮らしていたはずよー!」
震《ふる》えながら亜美は両手を能登へ伸べ、必死の面持《おもも》ちで説得にかかる。叫ぶたびに揺れるスコート、ちらちら覗《のぞ》くまっすぐに伸びた綺麗《きれい》な足に、観客席最前列の男子たちの視線《しせん》は釘付けになる。
「仲聞ぁ? ……そんな過去は忘れたぜ……? ま、そうさなあ……俺《おれ》の心は確《たし》かにかつて、美しかった頃《ころ》もあった……」
意外といい(?)役をもらっていた能登が取《と》り出《い》だしたるは、でかい洋裁《ようさい》はさみだ。べろーん、と突き出した舌でわざとらしく己《おのれ》の唇を舐《な》め回し、ゆっくりとはさみを開き、手にした秘宝『担任の赤い糸』につつつ……と刃を滑《すべ》らせる。黒縁眼鏡《くろぶちめがね》を鼻の真ん中までズリ下ろしてノリまくりの能登の演技も、これはこれでなかなかサマにはなっているもちろん、死ぬほどアホらしいが。
「だが今! 俺の心は、手乗りタイガーさまにすべて捧《ささ》げてしまったのだ! さあタイガーさま、この私めにご指示をくださいませーいっ!」
スポットライトは、脚立《きゃたつ》を組み合わせて作った台へ。そこには、
「びびび、びびび」
「びびびびびびび」
手前に大河《たいが》。その背後に竜児《りゅうじ》、
黒のマントを身にまとい、二人《ふたり》は身長差を利用して前後に重なって立ちつつガニ股。両手を高く上げて広げて、「びびびび」ずっと言っている。洗脳するときもガニ股《また》って設定なんだよ、と、総監督《そうかんとく》・春田《はるた》が強く主張したせいだ。
大河《たいが》は能登《のと》の目配せに合わせ、妙にハマった黒のジュリ扇《せん》をばさりと広げる。己《おのれ》を一度|扇《あお》ぎ、マントを払い、右手をびしっ! とまっすぐ前に突き出す。そうして洗脳完了した奴《やつ》らの真上からよく通る低めの声で、
「──切ってしまいなちゃいっ!」
ドーン! ……せっかくの効果音に合わせ、全力で噛《か》んだ。
演技ではなしに、がくっと洗脳されし戦十たちが膝《ひざ》から崩れる。ここまで笑って見ていた観客《かんきゃく》たちも、ずるっとイスから滑《すべ》り落ちる。
「……ドジ……びびび……言い直せ……びびび」
背後で洗脳|光線《こうせん》びびび中の竜児に顎《あご》で脳天を突付《つつ》かれ、うぐ、と喉《のど》を詰まらせ、
「……き、切ってしまいなさいっ!」
もう一度、ドーン。能登はなんとかタイミングを立て直し、スポットライトを浴び、
「ウ、ウエーッヘッヘッヘッヘッヘーッ! 取り返しのつかないことほど、やっちまうのは楽しいもんだああー!」
ちょっきん。秘宝『担任の赤い糸』をチョン切った。その瞬間《しゅんかん》、なんてことをー! と叫ぶ亜美《あみ》のセリフの五十倍ぐらいでかい声で、
「い・ぎゃ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あっ!」
──満員の客席の背後、唐突《とうとつ》に立ち上がって叫んだのは独身担任・恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(30)であった。ぉぉー! リアル恋ヶ窪! と斬新《ざんしん》な演出に驚《おどろ》いて振り返る客たちの前で、独身はなんだかちょっと真に迫りすぎた声を上げて「ひいいー! ぐええー!」と悶《もだ》え苦しみつつ、チョン切られた赤い糸をクルクルと回収する。切れたその先は、独身の小指に結ばれている。そうして苦しむ演技を続けながら、さりげなく観客席《かんきゃくせき》からはけていくのだ。ゆりちゃん演技してんよー、超受けるー、と英語を受け持つ他クラスの生徒たちに後ろ指を指されてもめげずに。
照明|兼《けん》ナレーターを担当している総監督《そうかんとく》・春田《はるた》は暗幕《あんまく》の陰で、「さすがゆりちゃん、鬼気迫《ききせま》るナイスプレイ」満足そうに独身の演技を見守っていた。嘘《うそ》でもそんなことしたくない、言霊《ことだま》ってモノがこの世にはあるから、と泣くのを、クラス全員で頭を下げ、出演してもらえることになったのだ。さすがの独身も、勝手にクラス展示を決めてしまった負い目があったのかもしれない。もしくは、「こういう頑固《がんこ》な性格だから結婚できないんだね……」と呟《つぶや》いた誰《だれ》かの声が聞こえてしまったのかもしれない。
独身が教室からはけたところで、亜美《あみ》は頭を抱えて悶え苦しむ。
「くっ! あんまりだわ! どこまで残酷《ざんこく》なことをすれば気がすむの!?」
「ウエーッヘッヘッヘッへー!」
マットを敷《し》いて作ったリングは四隅《よすみ》のポールを脚立《きゃたつ》で代用し、ロープも三本、きちんと張られている。そのリングに上がっている奴《やつ》は亜美以外が既《すで》に全員がガニ股《また》、亜美は追い詰められ、やがてよろよろと膝《ひざ》をつく。
「クラスのみんなを救うには、一休どうすればいいのかしら!」
「「びびびびびびびび」」
上方からの洗脳|光線《こうせん》も絶好調《ぜっこうちょう》だ。亜美はきっ、と光線発射中の手乗りタイガーと手下のヤンキーを睨《にら》みつけ、
「こんな恐ろしいことをして、もう許せないわ! あほたれチビのド暴《あば》れ性格ブスのちんちくりんボディーの手乗りタイガーに、手下の顔だけヤンキー生活臭プンプンおばさん男っ!」
あれ、こんなに長いセリフだったっけ、と春田は首をひねる。びびび続行中の大河《たいが》と竜児《りゅうじ》のこめかみに、「……ド暴れ性格ブス?」「……おばさん男?」かすかな青筋がピクピクと震《ふる》える。亜美の熱演《ねつえん》はまだまだ続く。
「ああ……! だけど、みんなをこんな風《ふう》に人質に取られ、あたしはどうしたらいいの? このまま、みんなが悪の道に堕ちていくのを見ていることしかできないというの!? なんて残酷な運命なのかしら! 誰か、みんなを助けて!」
周囲は暗転、悲劇的《ひげきてき》な音楽が静かに流れる中、よよよ、と泣き崩れた亜美だけに細いライトが当たった。シリアスな展開も山場、しかしなぜか観客の一部は「ひゅ〜ひゅ〜!」と一層《いっそう》異様な熱狂をもって盛り上がり始める。横座りの亜美の足に反応しているのだろう、写メの撮影《さつえい》音もあちらこちらで「パシャ」だの「ぴろりん」だの「ぽこぺん」だのと鳴りまくる。その隙に、ガニ股《また》軍団はリングの際《きわ》にこそこそとはけ、次の展開のための準備を始める。スモーク……は使用禁止のため、リングの下で持ち回りの裏方数人が一斉に、チョーク粉を一杯に含んだ黒板消しをぽむぽむと叩《たた》きまくるのだ。途端《とたん》に淡《あわ》い煙がリングに立ち込め始め、
「──神はすべてを見ておったぞよ」
「まあ!」
モヤの中、四人の男子の人力によってぬっ、とせりあがってきたのは担《かつ》がれた実乃梨《みのり》であった。「……く、櫛枝部長……」「関東ベスト8チームを率いる名将がなんて格好を!」……嘆いているのは、おそらくはソフトボール部の後輩《こうはい》たち。初めてスポーツを離《はな》れたところで、憧《あこが》れの櫛枝先雅の素《す》を見てしまったのだろう。だがそのほかの観客《かんきゃく》は、真面目《まじめ》くさったその表情に両手を叩《たた》いて大喜びしている。
ハゲヅラ、アイパッチ、出っ歯、ラクダの上下に腹巻装備。その役柄《やくがら》は春田《はるた》曰《いわ》く『リングの妖精《ようせい》』──セリフによると、神なのだが。
「戦士・亜美《あみ》よ。おまえにチャンスをやろう。おまえがその純粋なるパワーで、真に人の心を掴《つか》むことができたなら、こやつらの洗脳は解けるであろう……さあ、参りますこの問題、ここはなんとしてもお答えいただきたい、俄《にわか》に頑張る、大事な大事な、」
ハゲヅラ神は突然歯切れよく、絶妙のセリフさばきで語り始める。そして、
「アタック、チャァァ!」ンス!」
その声は妙にいやらしく、独特のコブシ回しでリングに響《ひび》いた。観客一同|唖然《あぜん》、とアタマ真っ白状態になったそのとき、
「……この世で一番美しいと言われる、その人物の名は?」
出題は突然であった。が、
「「「川嶋《かわしま》亜美!!」」
何人分もの声が、突然のハゲヅラ神からの出題の直後、奇跡的なユニゾンで轟《とどろ》く。まさに心は一体、亜美に掴まれたというわけだ。
「──結構っ!」
途端、にったあ……−と、亜美の頬に演技というだけでは説明のつかないエクスタシーの血色が昇る。それはそれは満足そうに、見てはいけない興奮《こうふん》が狂おしくもゆるやかに歓喜《かんき》の微笑となって亜美の美貌《びぼう》を歪《ゆが》ませる。「な、なんか邪悪な顔だな……」敏感な誰《だれ》かが小さく声を上げたその途端、照明が一旦《いったん》すべて落ちる。そして強烈なライトが三方向から照射され、まばゆくなった照明の中に、
「……お、俺は一体なにをしていたんだ!?」
「亜美ちゃん、私たちはどうしていたの!?」
「なんだか悪い夢をみていたような気がするわ!」
「すごいわ!」
「嬉《うれ》しいわ!」
「治ったんだわー!」
ガニ股《また》の治った奴《やつ》らの一部(合唱部)がズラリと並び、デューワー! と、ボーズを揃《そろ》えて洗脳が解けた宣言。ノリのいい観客《かんきゃく》たちが拍手を送ってくれる。もちろん、こうなっては手乗りタイガー&ヤンキーもただではすますことはできなかろう。流れ的に。
「おのれー、姑息《こそく》な手段を使っ、使って、使い、使ったも、つか……だーっ!」
「許さんぞ、川嶋亜美《かわしまあみ》!」
危なっかしい大河《たいが》のセリフを、竜児《りゅうじ》がびしっと締《し》める。びびびもこれにて終了、二人《ふたり》は脚立《きゃたつ》の上で「とう!」と一旦《いったん》揃ってポーズを決め、
「……行くわよ!」
「おう!」
合図完了。マントを外《はず》してリング下の奴らとも目配せし、竜児は大河の胴に手を添えた、そして、
「せーの……っ!」
うおぉぉぉぉっ! と、地鳴りのような大歓声《だいかんせい》が湧《わ》く。裏方が鳴らすクラッカーも四方向からタイミングぴったりに弾《はじ》ける。脚立の上から、大河は思いっきり跳躍《ちょうやく》したのだ。竜児は掴《つか》んだ大河の胴を力いっぱい放ってやって勢いを増し、
「うわっ、すっげ───っ!」
「手乗りタイガー出た───っ!」
「亜美ちゃん逃げて──っ!」
なんと、脚立からリングまでで前方二圃宙返り。着地はリングの上で身体《からだ》を張った男子チームに受け止めてもらったものの、ネコの如《ごと》くくるんと回転、素早《すばや》く体勢を立て直し、張力不足のロープの代わりに組まれた人の腕で一気に反動をつけてもらって、
「そりゃぁぁぁぁっっ!」
凄《すさ》まじい脚力を存分に生かし、ゴムまりみたいにリングの上を跳ねる。数メートルを一気にジャンプ、空中でコマのように身を翻《ひるがえ》し、放たれたのは瞬撃《しゅんげき》の後《うし》ろ回《まわ》し蹴《げ》り。
「でぇいっ!」
「……っ! っぶね!」
見事な後転でそれを避けつつ、亜美は思わず叫んでいた。シナリオ通りの攻撃だが、大河の上履《うわば》きのかかとは危うく亜美の前髪をかすめたのだ。大歓声の中を大河はさらにそのまま軸足《じくあし》を変え、
「誰《だれ》がっ、あほたれチビじゃコラ──っ!?」
頭よりも高く上がる鋭《するど》い二段蹴りでちょっと本気、亜美の顎《あご》を砕《くだ》きにかかる。もちろんそれもシナリオ通り、二人《ふたり》がかりの補助を借りてのバック転で華麗《かれい》に逃げつつ、ひー! と上げた、亜美《あみ》の悲鳴は、しかし真に迫り過ぎていたかも知れない。
「おい、今の動きおまえには見えたか?」
「いや、速すぎて、俺《おれ》の目ではもう動きを追えないぜ!」
リングの端では、セリフの係もしっかり忘れずに目をこする演技。
続けて、飛び降りてきた竜児《りゅうじ》とタイミングを合わせ、大河《たいが》と竜児のダブルラリアットが亜美を襲《おそ》う、しかし亜美はしゃがんでそれを避け、その背後から洗脳のとけた麻耶《まや》と奈々子《ななこ》が、
「えーいっ!」
「うふふ〜!」
なんだか少々|緊張感《きんちょうかん》にかけるかぼそい腕でのラリアット返し。当たったように見せかけて、竜児と大河は同時に背中からマットに転がる。意味なく体操部《たいそうぶ》の男どもはその背後で揃《そろ》って連続側転、リングを華《はな》やかに彩《いろど》る。その隙《すき》に立ち上がった亜美は、起きてきた大河の上にのしかかる。大河は跳ね上げることができないが、亜美の背後には竜児が迫る。その手にはなんと卑怯《ひきょう》もパイプイスが。
「亜美ちゃんうしろうしろー!」
観客《かんきゃく》は席を蹴《け》って立ち上がり、必死に亜美の危機《きき》を救おうとするが、
「そーれわっせろーいっ!」
「高須《たかす》だわっせろーいっ!」
「ヤンキーわっせろーいっ!」
クラスの男五人が、竜児を神輿《みこし》のように抱え上げた。そのまま崩れ落ちるようにしてマットに転がされ、全員に容赦《ようしゃ》なく押《お》し潰《つぶ》される。「よくも亜美ちゃんの別荘に行ったな!?」「恨《うら》みはまだまだ消えてねえからな!」「海に行っておいてなぜ水着写真を撮《と》らない!?」「おまえばっか最近おいしすぎるんだよ!」──竜児の耳元に熱《あつ》く吹き込まれる声は、絶対に絶対に絶対の本音《ほんね》だ。その証拠に、体重はかけない約束なのに竜児は呼吸もできなくなっている「お・お・おぼえてろ・よ……っ」
そしてついにラストだ、体勢を入れ替えながら転がる亜美と大河は目を見交わし、
「いくよちびすけ! せーの……」
「……せっ! あいだだだっ!」
「いたたたた、足が当たった!」
亜美が下になり、大河の軽い身体《からだ》を両手両足でグッ、と捧《ささ》げ上げ、双方の協力によるロメロスペシャルー完壁《かんぺき》なるつり天井《てんじょう》、完成。うおおおおおおおおっっっ! と叫ぶ観客たちの地鳴りみたいに熱すぎる声援に、暗幕《あんまく》で隠された教室の窓がビリビリと震《ふる》える。リングには紙テープが放られ、嵐《あらし》のような紙吹雪《かみふぶき》。クラッカーが一斉に弾《はじ》ける。カンカンカン! と効果音の鐘《かね》の音が響《ひび》き、場内アナウンスは総監督《そうかんとく》・春田《はるた》。
『うぇ〜っ、勝者あ〜、川嶋《かわしま》ぁぁ亜《あ》ぁぁ美《み》ぃぃぃーっ! および、2−C軍団ぅぅん〜!』
──わっ……と一斉に観客《かんきゃく》は総立ち、拍手と喝采《かっさい》と爆笑《ばくしょう》はいつまでも止《や》むことなく、春田《はるた》のアナウンスをかき消すような亜美ちゃんコールも果てなく繰り返される。
あーみーちゃん! あーみーちゃん! あーみーちゃん! あーみちゃん……そのコールのド真ん中で、
「……やばい……」
「……なに?」
「……背中、攣《つ》った……」
「……幕《まく》が下りるまでガマンしな。交代したら、今度はあたしがそっちやるし」
「……ううう……」
大河《たいが》の瞳《ひとみ》にじわじわと涙が滲《にじ》み始めることに、気がつく者はいまだいない。
***
「おかえりなさいませご主人さまー」
「いらっしゃいませ、プリンセス! あなただけのプリンスが姫《ひめ》を迎えに参りました!」
「べ、別にうちのクラスの喫茶店《きっさてん》になんて、来てくれなくてもいいんだからね!」
「漫画在庫一〇〇〇冊オーバー! なんでも読み放題! ドリンク一杯で一時間フリー!」
生徒や保護者《ほごしゃ》、受験《じゅけん》予定らしい中学生、他校の制服姿の男女が騒《さわ》がしく行きかう校内の廊下
は、午後を迎えてさらに混雑《こんざつ》を極めていた。お祭り騒ぎの勢いを借りて慣《な》れないナンパを試みる奴《やつ》らの背後では、久しぶりー来てくれたんだー!? などとプチ同窓会が繰《く》り広げられ、廊下の果てで交差しあう二つの長い行列は隣《とな》りあったライバル店舗《てんぽ》、「はーい、メイド喫茶の列、ちょっと壁際《かべぎわ》に移動しまーす!」「ちょっと! さりげなくうちの客ごと移動させてんじゃねー!」「はあ!? こっからここまでうちの列だっつーの!」「てめーら1−Aだな、覚えとけよ下級生!」「そっちこそ大人《おとな》しく受験勉強でもしとけ!」──微妙に禍根《かこん》が残りそうな、メイド同士のバトルも勃発《ぼっぱつ》。
「おっ、ギャルのケンカ! いいぞやれやれキャットファイト!」
「ロンスカメイドがんばれー! 俺は受験生の味方だぞー!」
「なにを言う! 一年生の黒ニーソ! 絶対領域こそが正義!」
見物人が集まりだし、並んでいる奴らも野次《やじ》合戦に発展しかかり、
「暴力沙汰《ぼうりょくざた》は展示中止にするぞこのガキが───っ!」
ガッツン! と暴力沙汰が起きる。角《つの》突きあわせた額《ひたい》同士を背後から思いっきり衝突《しょうとつ》させられ、膝《ひざ》から崩れ落ちるメイド二人《ふたり》は、「すいませんねぇ、うちのは血《ち》の気《け》が多くて」「いえいえこちらこそ先輩《せんぱい》に対して申《もう》し訳《わけ》ないっす」それぞれのクラスのボーイに引き取られていく、そんな見事な喧嘩《けんか》両成敗っぷりに、
「いいぞ兄貴《あにき》!」
「さすが狩野《かのう》姉妹の兄の方ーっ!」
生徒たちを中心に、拍手と歓声《かんせい》が上がる。片手を上げてその声に応《こた》えるは、抜けるような白い肌、背まで零《こぼ》れる長い黒髪、やまとなでしこが服着て歩いているが如《ごと》き美女。
「どうどうどう! いーからそのへんで静まりやがれ! 全員きちんと二列に並べ! その線《せん》からはみでるんじゃねぇ! おらっ、せいれ──つっ!」
「はーい!
異様なド迫力で生徒のみならず父兄《ふけい》までをもびしっと一声で並ばせるその人物こそ、全校生徒の心の兄貴にして完壁《かんぺき》超人生徒会長・狩野すみれである。
そして彼女を囲んでさらに拍手を大きくする見物人の群れの中に、
「さすが会長、お見事です!」
「……ていうか北村《きたむら》、おまえはこんなところでフラフラしてていいのか?」
「……あの女、嫌い……」
副会長である北村と、竜児《りゅうじ》、そして大河《たいが》の姿があった。2−Cプロレス興行《こうぎょう》も大成功のうちに昼休みに入り、三人|揃《そろ》ってなにか食べようと狂乱の祭りに紛《まぎ》れてみたのだ。……揃って、というほどのメンツではないか。実乃梨《みのり》は竜児が謝《あやま》ってしまおうかどうしようかうじうじする暇《ひま》さえも与えてくれず、さっさと部活の後輩《こうはい》たちとどこぞかに消え、ちなみに亜美《あみ》は麻耶《まや》や奈々子《ななこ》と行ってしまった。
取り残されトリオのなんとなくリーダー・北村は、凛々《りり》しい生徒会長の背が拍手に送られて廊下の角に消えるまでを見守り、
「大丈夫大丈夫、警備《けいび》の係はちゃんと時間決めて持ち回りになってるから。それより逢坂《あいさか》こそ大丈夫なのか?」
「えっ……な、なにか?」
「制服のタイをクレープと一緒《いっしょ》に食っているぞ」
ブバッ! と大河はクリームまみれの口からリボンタイの端っこを吹き出す。なんというドジ、そして食《く》い意地《いじ》……と竜児は目も眩《くら》む思い。
「はっはっは、夢中になっちゃって! よほどうまいんだなそのクレープ! 俺《おれ》も買えばよかった、はじっこでいいから一口くれよ」
「……っ!」
あーん、と図々《ずうずう》しく口を開けた北村に、大河は狂おしい視線を向ける。顔面《がんめん》真《ま》っ赤《か》を通り越して貧血寸前の土気色《つちけいろ》。このまま死ぬか、とも思われたが、ほとんどブルブル震えつつ、しかし食いさしのクレープをそっと差し出すことに成功する。そして今にも裏返りそうなファルセットで息も絶え絶え。
「す、好きなだけ、食べていいよ……」
「さんきゅー! ふとっばらだな!」
それは感動的な一瞬《いっしゅん》であった。大河《たいが》の食いかけ、歯型つきのクレープを、北村《きたむら》はなにも考えていないツラでニコニコとでっかく一口|齧《かじ》ったのだ。わー! と、声を上げずに口だけ動かし、大河は悲鳴を上げている。そして、
「……ふむ、なかなかいけるなこれは。チョコバナナ、アイスもちゃんと入ってる」
「……」
戻ってきたクレープにくっきりついた北村の歯型を、大河はレンズで集めた日光みたいな視線《しせん》で睨《にら》みつける。小さな脳みそで考えているだろうことは、だいたい竜児《りゅうじ》にも想像がつく、このまま記念に保存したいが、新鮮《しんせん》なうちに間接キッスなども決めてみたい。だけどそれって恥ずかしい。興奮《こうふん》して死んでしまう。でもこのままこうしていては変に思われる。どうしようどうしよう……そんなあたりだろうどうせ。ばかだな、と大河のつむじを眺め、そして続いてご機嫌《きげん》な北村を、ちょっと遠い視線で見つめる。いくら友達だからって、異性の食いさしを平気で食えるこいつは一体何者なのだろう──
「りゅ、竜児もおひとつどうぞ!」
「ふがっ!」
と、これは想定外。大河は何を思ったか、単に混乱の極みの暴走《ぼうそう》か、とにかく北村の食いさしを竜児の口の中に突っ込んできたのだ。
「ぐっ、ふぐ、ふが……っ」
「おいしいでしょ? おいしいよね?」
残り少なくなっていたクレープは、折り畳むようにして竜児の口の中にどんどん指で押し込まれる、仲がいいなぁ、と北村は微笑《ほほえ》ましげにそんな様子《ようす》を眺め、竜児は呼吸|困難《こんなん》で死に掛ける。必死に咀嚼《そしゃく》し、喉《のど》の奥まで突っ込まれる指を振り払い、危ないところでなんとか全部無事に飲み込み、
「お……おまえなあ……殺す気か!? そんなに俺が憎いのか!?」
「……あああ……っ」
涙目になったのは竜児だけではない。考えなしの行動ですべての宝を失った大河もまた、からになった両手を呆然《ぼうぜん》と見下ろして悲しげに俯《うつむ》いている。げほ、とまだ小さく咽《む》せつつ、竜児はしかし同情などしてはやらない。そもそも大河のせいで、せっかくの文化祭なのに自分は実乃梨《みのり》と一緒《いっしょ》にいられないのだ。大河も少しは不幸になるといい。ちゃっかり自分だけパパと幸せになろうなんて──と、
「そういや、親父《おやじ》さんはまだ来ないのか? メールの返事は?」
休憩《きゅうけい》時間に入ってすぐ、大河がなかなか現れない父親に焦《じ》れて、メールを送っていたことを思い出す。まだ来ないの? 何時ぐらいになる? 午後の回は三回しかないよ、と。ちなみに覗《のぞ》き見たタイトルは「おいグズ」だった。
「まだよ。なんなら別に来なくてもいいんだけどね。……まったく、なにしてんのかな」
「一回電話入れてみたらどうだ?」
「したわよ。……留守電《るすでん》だった、ねぇそんなこといいから、早くなにか食べよう。おなかすいちゃった」
「って、今食っていたでかいクレープはどこに収まったんだ?」
「そこよ」
大河《たいが》の指は、竜児《りゅうじ》の腹を迷いなく指す。ここにもだな、と北村《きたむら》は太平楽《たいへいらく》に言い、
「よーし、それじゃどっかまともそうなところで昼飯食おう。なにがいいかな……えーと焼きそば屋、うどん屋、お好み焼き……甘味処《かんみどころ》とかき氷はナシだな。これはなんだ? 『なんチューカ? ほんチューカ!』……中華《ちゅうか》か」
「なに? 家庭科室のあの貧弱なコンロで中華をやろうとは猪口才《ちょこざい》な」
「あとはなんか喫茶店《きっさてん》みたいなのばっか」
混雑《こんざつ》を避けて壁際《かべぎわ》に張りつき、三人並んでうーむ、と、パンフレットを覗き込む。人気投票ルールのせいか、今年《ことし》のクラス展示は圧倒的に飲食店が多い。去年までのおなじみだった郷土探訪や歴史|調査《ちょうさ》、書道展示などという地味系展示はほとんど姿を消している。が、
「……これ、いやだな」
「……おう、これはいやだ」
「……なんでこれにしようと思ったのかしら」
『レッツスタディー・加圧トレーニング基礎《きそ》の基礎』──体育教師の黒マッスルのクラスだけは、なにやら異様なことになっていた。噂《うわさ》によると、クラス全員お昼休みに、筋肉担任(本名・黒問《くるま》なんとか)に各自一杯のプロテインドリンクを飲むことを強要されているという。
「……変わってるよなあ」
「……担任も担任だが」
「……付き合う方も付き合う方よ」
ほとんど同じことを他《ほか》のクラスから言われているとも知らず、同じぐらいの色物度・プロレスショーで文化祭に打って出た2−Cの三人組はお気の毒〜と頷《うなず》きあう。と、そこへ、
「お帰りなさいませご主人さま〜!」
三次元ではアリかナシかギリギリライン、お祭りだから許されるレベルか。長い髪をくりくりウェーブのツインテールにしたメイド姿の女子が客引きに現れる。三人が振り向くよりも早く、手馴《てな》れた仕草《しぐさ》で持っていたメニューをばっと開き、
「ただ今の時間、ランチタイムでぇーす。オムライスが八百円、ドリンクつきでプラス二百円、ケチャップで萌《も》え萌えお絵かきサービスがプラス三百円でえーす」
「おう、たかっ!」
仰《の》け反《ぞ》ったのは、まず竜児《りゅうじ》。そのツラを見て、
「うわ、ヤンキーの高須《たかす》さんっ!」
今度はメイドがメニューを取り落とす。ぷっ! と大河《たいが》はそのザマに吹き出し、
「きゃーっきゃっきゃっきゃーっ! さっすが竜児! 客引きのメイドさんにまで相手にしてもらえないなんて悲惨《ひさん》きわまりなーしっ!」
「うわ、手乗りタイガーっ!」
メイドは竜児の身体《からだ》の陰《かげ》にちんまり隠れていた大河の存在にも気づく。すべて見なかったことにして、走ってコソコソ逃げ出す。迫いかける気力もなく、撫然《ぶぜん》、と大河は口を閉じる。
「ぷっ。逃げられたな。悲惨きわまりないのは果たして俺《おれ》だけかな?」
「……にゃにい?」
顔をひん曲げて命知らずにも憎《にく》まれ口《ぐち》を叩《たた》いてみた竜児の足を、力いっぱい「ふんむっ!」「……あう!」──砕《くだ》けよとばかり、踏みつけた。これでも多分《たぶん》北村《きたむら》がいるから、相当に手加減してくれたつもりなのだろう。恐ろしいことに。
「こらこらケンカするんじゃない。ほら、おまえたちがやりあっているから、俺《おれ》たちの周りだけ客引きの奴《やつ》らが寄ってこないじゃないか」
割って入る北村の言葉に、竜児も大河も揃《そろ》って微妙な気持ちになる。本人たちとて、なにもメイドに走って逃げられなくても、その前からうっすら理解しているのだ。校内の悪評だけは事実も噂《うわさ》も取り混ぜて超一流の二人《ふたり》連れ、こんな男女を店に誘ってくれる物好きなどそもそもいるわけがないのだ。だがそのとき、
「……あのー、そこのお三人」
「うちのクラスに、ちょっと寄ってみませんか?」
恐る恐る、といった風情《ふぜい》で、数人の見知らぬ男子が声をかけて来てくれる。竜児と大河が振り向いても、びびって逃げたりなんてしない。北村はにこやかに、
「ほう、何屋さんかな? 俺たち、昼飯を食えるところを探しているんだ」
「……食べ物屋、ではないんですけど。もし来ていただけたら、お昼代、おごらせてもらいます。あのー、失礼ですけど、ソフトボール部の部長の北村くん、ですよね」
「そうだが」
「で、そちらは、ヤ……高須くんと、手乗……逢坂《あいさか》さん、ですよね」
「おう」
「なによ」
へら、と卑屈《ひくつ》な笑《え》みを浮かべ、そいつが言った一言は、
「……うちのクラス、天下一《てんかいち》武道会やってるんです。でも出る奴みんなへなちょこで……出場してもらえませんか? プロレスショーでのキレのある動き、最高でした」
するなそんなもん──北村も、竜児も、大河も、同じ表情で脱力する。ここにもまたひとつ、妙な色物展示クラスが紛《まぎ》れていたか。
丁重《ていちょう》にお誘いを断り、三人は混雑《こんざつ》する新校舎の飲食店エリアからそぞろ歩き。どっと疲れた心境で、あまり人気《ひとけ》のない古びた旧校舎へ移動する。すっかり混雑もなりを潜《ひそ》め、歩きやすいには歩きやすいが。
「……しかし、こっちに来てもろくな食い物屋がねぇな」
「美術部がなんか展示やってるけど……なに、テーマ『夜景のモノトーン』……辛気《しんき》|臭《くさ》っ。ていうか、地味《じみ》な展示ばっかり。だから人がいないんだ」
「まあまあ。パンフによると、この辺にもなにやら店が」
先導《せんどう》する北村《きたむら》が、つまらなそうな二人《ふたり》を振り返って声をかけたそのときだった。
「……らっしゃい」
渋《しぶ》い声が、廊下の果てから三人にかけられる。そこには一軒の、寂《さび》れた雰囲気の店──いや、教室。看板《かんばん》には「御食事|処《どころ》・国立理系選抜」の文字、店名を素直に読めば、三年生の選抜クラスの店なのだろうか。派手《はで》な衣装《いしょう》と女子の愛想《あいそ》で客引きをしまくる他《ほか》のクラスとは違い、
「……三名さま? 今なら広い席、あいてるよ」
さすが上級生というべきか。暖簾《のれん》を片手で上げた年長の男子生徒の、腰エプロンも渋いのだ。そして竜児《りゅうじ》と大河《たいが》の姿を見ても怯《おび》えはせず、
「……さっき見たよ、君たちのクラスのプロレスショー。いろいろ大変だね、疲れただろう。うちのクラスでやきそばでも食べたらいい」
「で、では……いいよな、高須《たかす》も逢坂《あいさか》も」
二人は頷《うなず》き、北村を先頭にそっと店の暖簾をくぐると、
「ヘイ、三名さまごあんないー!」
「ぁあいっ、よろこんでえっ!」
「よーろこんでぇ!」
と、店内から。なんだか、初めて喜んで迎え入れてもらえた気がする。
居酒屋風《いざかやふう》に渋く飾りつけた教室のイスにかけ、メニューを見つつ、竜児の注文は「ええと、そうだな……ぬるめの麺《めん》」。大河の注文は「なんだろこれ。あぶったタコ」。そんなのあるのか、と北村は面食《めんく》らいつつ「俺《おれ》は……じゃあ、おすすめのやきそばで。あの、大盛りを」と頼んでみる。
「うぁいっ! よろこんでえっ!」
「いょーろこんでぇーっ!」
注文はすべてきっちり厨房《ちゅうぼう》(?)に通ったらしい。やっと落ち着いて座ってみれば、他《ほか》にも客は何組か。メニューを見たり、チャーハンを食ったり、みんなそれなりにこの渋い店を楽しんでいるようだ。結構うまいね、などと、そんな言葉も聞こえてくる。
竜児はほとんど無意識《むいしき》に、卓をすべー、と手で撫《な》でて、油や汚れの感触ゼロの滑《なめ》らかな清潔《せいけつ》さを確《たし》かめる。意外とプロの店でも盲点な足元を覗《のぞ》いて見ても、卓の足にもイスの足にも、埃《ほこり》ひとつ挟まってはいない。客がなにか注文するたびに心地《ここち》よく響《ひび》く「よろこんでぇ!」も、オリジナリティこそないが、なかなか雰囲気が出ているではないか。
まあ、あの暖簾《のれん》の上を高須棒《たかすぼう》でなぞってみたら、結果はどう出るかわからねえがな──ニヤリ、と唇に残虐《ざんぎゃく》な笑《え》みを浮かべたそのとき、唐突《とうとつ》に竜児《りゅうじ》は違和感を覚える。
「……なんかこの店、スーパーかのう屋の息がかかってねぇか?」
「ん? かのう屋といえば会長のご実家、パンフにも思いっきり広告入れてくださって、いわば大スポンサーだが」
竜児は北村《きたむら》に、壁《かべ》の一隅《いちぐう》を指差して見せる。そこには、かのう屋の特売チラシが一週間分びっちり貼《は》ってある。店長と思《おぼ》しきおじさんが、店舗《てんぽ》の前でにこやかに大根を掴《つか》んでいる写真まである。その上には立派な筆文字で「食材提供店」と書かれてあり、ああ、と北村は手を打って頷《うなず》いた。
「そうか、理系選抜……ここは会長のクラスだったか……」
店内のあちこちには、さりげないセンスでスミレの小鉢《こばち》が配してある。すみれ──おそらくは実質的な指揮官への敬意の表明か。さすがは完全無欠の生徒会長、自《みずか》らのクラスも当然祭りに参加させているわけだ。裏からきっちり糸を引いて。竜児はふむ、と腕組みし、
「おまえんとこの会長、これはなかなか手練《てだ》れだぜ……飲食業でも成功するな」
偉そうな述懐《じゅっかい》を述べてやるが、
「あの人はなにやったって成功するだろ。一般人とはデキが違うから。……しかしこうなると、食べてみるのが楽しみだな。まともなモノが出てきそうじゃないか」
北村はどことなくそっけない、前までのこいつなら生徒会命、会長命、かいちょーかいちょー、ごりっぱごりっぱ、騒《さわ》がしいほど熱狂的《ねっきょうてき》に太鼓《たいこ》もち役を任じていたのに。
一方|大河《たいが》は下を向き、なにやらピコピコいじっている。協調性のない奴め、と竜児は手元を覗《のぞ》き込み、
「おう、なにしてんだよ。さっきから黙《だま》り込んで」
「ん!? あ、ゲ、ゲーム」
大河は慌てて、握っていた携帯《けいたい》のフリップを閉じる。嘘《うそ》つきめ、と竜児は呆《あき》れる。メールの受信を繰《く》り返していたのを、竜児の三白眼《さんぱくがん》はきっちり見ていた。連絡がつかない父親からのメールを、気にしてずっと待っているのだ。結局大河の頭の中は、とーちゃんとーちゃん、まだかなまだかな、それ一色になっているのだ。せっかく大好きな北村と、文化祭をエンジョイ中だというのに。せっかくの機会《きかい》をまた無駄《むだ》にして。自分を見てみろ、と竜児は思う。好いた実乃梨《みのり》には完全無視され、このザマだ。
はあ、と思わずため息が漏れる。こんなことで、全部終わってしまうのだろうか。春が過ぎ、夏が過ぎ、ほんのちょっとだけ近づきかけたと思えた距離《きょり》も、これで全部|彼方《かなた》へ遠くなってしまうのだろうか。……ただ捕まえて謝《あやま》ればいいってものでもないし。実乃梨《みのり》の考えを、理解できる日がくるとも思えないし。一年に及ぶ片想《かたおも》いは、いまや風前のともしび。竜児《りゅうじ》の心を貫《つらぬ》いていた柱が一本、危《あや》うい状態に傾《かし》いでいる。
「……お気楽だな、おまえは。簡単《かんたん》な女だよ。おまえの思いはその程度だったわけだ」
「はあ? なに言い出した? アタマ大丈夫? あんたの脳が心から心配だわ」
心寒くなるセリフの応酬《おうしゅう》の只中《ただなか》に、あぶったタコ──要はタコ焼きが運ばれてきた。大河《たいが》の興味《きょうみ》は一瞬《いっしゅん》で竜児から逸《そ》れて、嬉《うれ》しそうに楊枝《ようじ》でそいつをつつき出す。揃《そろ》うまで待てよ、と竜児に止められ、文句を言おうとし、北村《きたむら》の存在を思い出して頬《ほお》を赤らめる。続いて出てきた竜児の頼んだぬるめの麺《めん》は、単に普通のらーめんだった。北村の焼きそばもテーブルに揃い、よその客に向けられた「よぉろこんでぇっ!」の声を聞きつつ、
「いただきまーす」
やっとみんなで箸《はし》を取る。その途端《とたん》、
「……あっ!」
「おう!」
深い悩みのせいで、竜児の世話焼きセンサーも鈍っていたのかもしれない。大河は口に運ぽうとしたタコ焼きをあっというまに制服のスカートに落とし、竜児が気づいて手を差し出したときには、とっくにソースの軌跡《きせき》で直線《ちょくせん》のシミができてしまっていた。
「ああもう、なーにやってんだ、ドジ! もっと顔を前に出して、皿を顎《あご》の下に置いて食いなさい!」
「んー」
唇を尖《とが》らせてうるさそうにそれを聞き流し、大河はスカートに落ちたタコ焼きをお行儀悪《ぎょうぎわる》く口に放り込む。あぢあぢあぢ、とジタバタ騒《さわ》ぐ、結局、スカートを拭《ふ》いてやるのは竜児なのだ。苦笑する北村の目の前で母親よろしくティッシュでソースを拭き始めるが、しかし。
しかし、気づかなかったのだ。
実乃梨の件で悩んでいたとはいえ、それはあまりに不覚だった。
ソースは大河のシャツの襟《えり》にも垂れていた。だけどその汚れに気づく者はおらず、竜児もまったく気がつかず、そのシミは随分《ずいぶん》時間が経《た》ってから、ようやく発見されたのだ。
見つかったときには、二度と消えない、竜児にも消せないシミに、なってしまっていた。
***
午後四時を回り、2−Cのプロレスショーは満員で最後の公演を終えた。
大盛り上がりの客と一緒《いっしょ》になって、出演者一同もリングで拍手。「大入り満員ー!」「よっしゃ大成功ーっ!」──熱演《ねつえん》に嗄《しゃが》れた声を振り絞り、同志の健闘《けんとう》を称《たた》えあう。余ったクラッカーが鳴《な》り響《ひび》き、紙テープも在庫一掃《ざいこいっそう》の大盤《おおばん》|振《ぶ》る舞《ま》い。
いつまでも鳴《な》り止《や》まない拍手と歓声《かんせい》の中、悪役マントに身を包んだ大河《たいが》は、一声も発することなくリングの端に佇《たたず》んでいた。よっ、準主役! とお調子者《ちょうしもの》の春田《はるた》に腕を引っ張られ、竜児《りゅうじ》と並ばされてリングの中央に立たされ、さらなる拍手を浴びても黙《だま》り込んだままでいた。不機嫌《ふきげん》というよりは動揺する目で、ただ自分の足元を見つめ続けていた。
大河が主役を演じることは、ついに一度もなかった。
6
「うーごーくーなーってば! リップライン引けない!」
「そんなのしないでいい」
「しなきゃだめだっつーの! あんた、唇|薄《うす》いじゃん! どんだけ自分のすっぴんに自信があんのさ!? どんだけ自分かわいいと思ってんのさ!?」
「うるさいなーばかちーはいつまでもキャンキャンと」
ケミカルな甘い匂《にお》いが漂う空間は、甲高《かんだか》い女子たちの火声でなにやら修羅場《しゅらば》な様相《ようそう》を呈《てい》していた。あっちこっちで「やーん! その色かわいいー!」「あの女ぶつかってきて謝《あやま》りもしないんだけど!?」「あれえ? ここにあったパウダーどこやった!?」「ぎゃー! 芯《しん》が折れちやったー!」──飛び交うのはもはや、怒号《どごう》に近い。
そんな大騒動《だいそうどう》の一隅《いちぐう》で、化粧品のぎっしりつまった有名高級ブランドの巨大なポーチを携え、亜美《あみ》は真剣な目つきで大河の顎《あご》を押さえにかかっていた。鏡《かがみ》の前、イスに座らされた大河はしかし、欠片《かけら》ほども協力する気はないらしい。横目で携帯《けいたい》をボチポチいじり続け、いらいらと表情を不機嫌にしかめ、じっと座ってはいないのだ。淡《あわ》いピンクのペンシルはつんと尖《とが》った大河の唇の形をゆっくりとなぞり、その花びらめいた輪郭《りんかく》を濡《ぬ》れたような色味で際立《きわだ》たせていくというのに。
「動かないで動かないで……口開けないで、閉じて閉じて、そう……よし、やっとできた。次はグロスね。どーれがいっかな、シャネルの限定だったコーラルピンク? ラメがじゃっかんうざいかな? それともRMKのライラックピンクか……あんたの肌はブルベだからこっちの方が似合いそうだけどね。もういっそM・A・Cのガラスで透明にテカらせて、血色を見せるか。う〜ん、でも地味《じみ》にはしたくないんだよな。NARSのマルチプルで艶《つや》だけ乗せてもいいけど、かさついちゃうのもなあ……」
亜美は長い指で、ポーチから何本ものグロスを一気に引き抜く、まるでトランプを操《あやつ》る手品師みたいにクルクルと器用《きよう》に蓋《ふた》を開け、手の甲に素早《すばや》く一滴ずつペタペタと垂らし、うーん、と真剣に吟味《ぎんみ》。しゃねるがなーずがまっくがでぃむーるが、いっそどめぶらのちーぷけいがどうだ、ほとんど意味不明の呪文《じゅもん》を吐きつつカラフルな液体を大河《たいが》の頬《ほお》や唇の血色とじっくり見比べ、真面目《まじめ》な思案《しあん》の真っ最中。いつもの美少女ぶりっこ亜美《あみ》ちゃんはどこへやら、両足は思いっきりのガニ股《また》状態で、
「うぅぅぅ〜〜〜〜〜〜ん……」
「……びびび……」
「なに? 高須《たかす》くん、今なんか言ったっ?」
「……いや、なんとなく……もしかして洗脳できてんのかなって」
「はあ? 下《くだ》らない冗談《じょうだん》に今は付き合ってらんないんだけど」
「……あ、わるい……」
竜児《りゅうじ》の存在など、振り向くほどの価値も今は見出《みいだ》してはもらえない。
大河をイスに座らせて亜美はその顔を覗《のぞ》き込み、真剣にメイクを続けている。ジャケットのポケットにはティッシュを丸めて何枚も突っ込み、指の隙間《すきま》に何本もブラシやチップを絡め持って、色々《いろいろ》な物質を大河につけたり拭《ぬぐ》ったり払ったりの大活躍《だいかつやく》だ。ちなみに両手の甲にはプロっぽくもパフ装備、襟《えり》には大河の零《こぼ》れ落ちる前髪をいちいち押さえるヘアピンも装備。ドタバタ騒《さわ》ぐばかりの他チームの女子とは多分《たぶん》、レベルがまったく違うはず。
「なんか、粉っぽ……っぶしん! ……あー、ティッシュ……」
「だめ! 鼻のところのメイクがはげる!」
そんな亜美の奮闘《ふんとう》にも拘《かか》わらず、大河は相変わらず携帯《けいたい》をポチポチ、ついでにおなじみのアレルギー性|鼻炎《びえん》まで起こし、鼻をぐずぐずいわせている。
体育館《たいいくかん》の別棟にある体育科教官室は、カーテンで数ブロックずつに仕切られていた。それぞれのブースでは、ミスコンに出場する女子たちが着替えたりメイクをしたり髪を結《ゆ》ったりと、クラスの女子チームを引き連れて大騒ぎで支度《したく》中である。ちなみにこの空間に混じり込んだ男は竜児ひとり。しかしそんなことを気にする女子はここにはいない。全員、自分のすることだけに集中している。ここはいまや戦場なのだ。
「うわ、あと十五分!? やっばい、司会の打ち合わせもあたしの準備もあるのに……高須くん、衣装《いしょう》の方は準備できてんの!?」
「おう。その言葉を待ってたぜ。お針子《はりこ》部隊も手伝《てつだ》ってくれて、こっちは完成だ」
竜児は立ち上がり、衣装をふわっと広げてみせる。一緒《いっしょ》に手伝ってくれた2−C手芸部の女子たちも、その仕上がりに「わー! 高須くん、すごい!」「すごいすごい、かわいくできてるー!」──竜児を見上げて満足そうな拍手。当然、皺《しわ》など一切ない。アイロンが使えないのも見越して、皺にならない素材の衣装を竜児がちゃんと選んで持ってきた。
「へー! かーなーり、いい感じじゃん!」
素材に指を滑《すべ》らせてみて、確認《かくにん》する亜美の瞳《ひとみ》も輝《かがや》く。
大河《たいが》の華奢《きゃしゃ》な骨格をさぞや際立《きわだ》たせるだろう、ゆったりと流れるようなAラインのシルエット。大河の大好きなフリルとレースも今日《きょう》だけは控えめ、素材は柔らかに透《す》けるシルクだ。重ねられたオーガンジーが、本物のお姫《ひめ》さまのドレスみたいに上品に揺れる。
うっとり、と竜児《りゅうじ》は、手の中の衣装《いしょう》を嬉《うれ》しげに眺めた。着たい、とまではさすがに思わないが、男子高校生ばなれした美意識《びいしき》を、それは十分に満たしてくれる。
以前、大河のクロゼットを整理《せいり》したときにこの服を見つけ「すっごいいいじゃねえか! なんでこれ着ねえんだ!?」と大河に尋《たず》ねたことがあった。愛らしいシルエットと上品で繊細《せんさい》なデザインが、竜児を絶頂寸前に悶《もだ》えさせたのだ。大河の答えは、「かわいいと思って買ったけど、胸がないのが目立つからイヤ」だった。
だから竜児はこのミスコンのために、他《ほか》の女子たちの力も借りて、この服にちょっとだけ細工《さいく》を施《ほどこ》してやった。手伝《てつだ》ってもらったのは、シルク素材の別の古着から切り出した布地を、長いリボン状に縫ってもらうこと。竜児は胸のふくらみにあたる部分に微妙に細かいプリーツを寄せ、そして縫ってもらったぺールベージュのリボンを、胸のすぐ下にふんわりと結び目がくるように優雅《ゆうが》に縫いとめてやったのだ。下手《へた》にパットを入れればシルエットに影響《えいきょう》する。これで十分に、身体《からだ》の華著なラインは生かしつつ、胸のボリュームも綺麗《きれい》に出るはず。
「……イメージは、そう、『ジュリエット』のドレス……ロマンチックの極み……エンパイアシルエット……」
仕上がったドレスに手を這《は》わせる竜児の目は、もはや哺乳類《ほにゅうるい》の域を超えていた。高須《たかす》くんってこういうの好きだったんだ、意外だね、ちょっとあぶないね……と、裁縫《さいほう》道具を片付けつつ、尊敬の域を少々超えた女子の視線《しせん》にも気がつかない。
しかも、ジュリエットドレスだけで衣装は終わりではない。なにしろミスコン、文化祭だ。こんなもんでは目立てなかろう。もうひとつだけ、竜児は大河のための必殺の小道具を用意していた。
「……これを、背負って完成だ。ふ、ふふ、あのディカプリオのロミジュリで、こんなの背負ってるシーン、あっただろ? うろ覚えだけどさ、あのイメージなんだよ」
細いサテンのリボンで大河が背負えるように作ってやったそれは、なんと天使の翼《つばさ》である。小ぶりだが、正面からも背中の翼が見えるように、愛らしく広がってできている──どこでそんなものを仕人れたか? 毘沙門天国《びしゃもんてんごく》の客であるオカマのお姉《ねえ》さんが、普段《ふだん》の職場《しょくば》で使っている羽根を、「ミスコン!? やあん、それってステキじゃなくって!? あたしもこう見えてミスなのよ!……工事一部、ミスってんのよ……」とタダで泰子《やすこ》に譲《ゆず》ってくれたのだ。
そんな出自《しゅつじ》も知らず、亜美《あみ》はその翼の愛らしさに、おお! と手を叩《たた》いてくれた。
「うーん、やっぱ衣装関係は高須くんに一任して正解だったね。メイクもこれでほぼ完了、ほら、顔上げてみ。ラストにチーク、ちょっとだけはたくから」
「……んー……もー、なにしてんだろ、まだつながらない、むかつくなー……もしかしてなにかあったのかな? 事故とか……まさかね」
ここにいたっても、大河《たいが》はせっかく出来上がった自分のおめかしを確認《かくにん》することもせず、ただイライラと携帯《けいたい》を握《にぎ》り締《し》めていた。俯《うつむ》いて横目で画面を睨《にら》んだまま、鏡《かがみ》も衣装《いしょう》も見ようともしない。亜美《あみ》に顔を上げさせられ、頬《ほお》に巨大なブラシで淡《あわ》い桃色《ももいろ》のパウダーをはたかれ、しまいに髪に巻きまくっていたカーラーをどんどん抜き取られても。亜美は慣れた手つきでその髪をほぐし、スプレーを髪の内側から少しずつ吹きつけたところで、
「川嶋《かわしま》さーん! そろそろ舞台袖《ぶたいそで》におねがーい! こっちの支度《したく》もあるからー!」
「あ、はあーい※[#ハートマーク] ……ちっくしょ、時間切れだ! ちょっとタイガー、すぐに奈々子《ななこ》と麻耶《まや》が頭やりにくるから、亜美ちゃんが『ふんわりエンジェリックに、前髪は左流し、分け目はぎざぎざ』って言ってた、って言ってよ! あーもう、最後までやりたかったー!」
悔しげにメイクボックスを片付け始める。竜児《りゅうじ》は意外なその姿に、へぇ、と思わず尋《たず》ねたくなる。
「おまえ、意外とこういう裏方仕事みたいなの好きなんだ? 自分が主役じゃねぇと我慢できねえタチだと思ってたけどな」
「裏方、結構嫌いじゃないよ? 人にメイクするのとか超たのしいし! ま、女子はみんなこういうこと好きだろうけどさ、やっぱあたしはプロの仕事間近で見てるせいか特に……っていうかさあ、なにしてんの高須《たかす》くん。みんなそろそろ着替えだすよ、男は出た出た! そんでタイガー! あんたは早く着替えて、ちゃんと麻耶たちに髪形のこと言ってよ!?」
「……んー」
「って、さっきっからあんた、人の話聞いてんのぉ? ……てゆーか、もしかしてまだオヤジのこと、待ってるとかぁ? 今日《きょう》はもう来ないんじゃねーの? あーん、せっかくのコネがぁ、亜美ちゃんも残念だわー」
「来るもん!」
唐突《とうとつ》に、大河はキッ、と顔を上げた。
「きっと、多分《たぶん》、仕事のせいで遅れてるんだもん! だから連絡もつかないんだもん! ……
プロレスは、見られなくてラッキーだったんだよ。あんなのやっぱり恥ずかしいし。よかった、遅れてくれて。……これから来るんだよ。絶対そう」
「そう言うならそれでいいけど。とりあえず、さっき決めたあんたの出番の口上《こうじょう》は、変えたほうがよくなーい? どうする? あたしが適当に考えてもいいけど?」
「変えなくていい、あのままやって」
「……でもさあ、あんた、」
続けて亜美はなにかを言おうとするが、
「川嶋さんってばー! 早くしないともうやばいって!」
「はあーい、ごっめーん! 今いくぅ! ……マジでいいわけ?」「いいの! ねぇ竜児《りゅうじ》もそう思うよね。あいつ、これから来るよね。約束したもん。だから、絶対来るよね。……ねえ、事故とか、病気とかじゃないよね……?」
大河《たいが》の視線《しせん》は竜児に向いて、不意に力をなくして揺れる。
「……さすがに俺《おれ》もエスパーじゃねえからわかんねえけど……そういうアクシデントなら、かえって連絡がついてるはずじゃねえ?」
「そうだよね! 私もそう思う」
実行委員たちのせかす声に、亜美はそれ以上の会話を断ち、荷物を掴んで身を翻す。ついでに竜児の腕も個んで、着替えタイムが始まりそうなブースから一緒《いっしょ》に引っ張り出し、
「いろいろサンキュ! それじゃ、あとは客席で盛り上げててね※[#ハートマーク]」
んふ、と眉を竦《すく》めて亜美はそのまま実行委員たちとともに走って去っていってしまった。入れ違いに麻耶《まや》と奈々子《ななこ》がでかい鏡《かがみ》やらブラシやらを手に携《たずさ》えて女の園《その》に入っていき、
「……疲れた……」
ひとりごちる低い声は、人気《ひとけ》が失《う》せた体育館《たいいくかん》別棟の廊下に虚《むな》しく響《ひび》いた。嵐《あらし》みたいにやることを終えて、不意に疲労が背と肩にくる。時聞に追われて、あせって縫《ぬ》い物《もの》をしていたときには忘れることができていた憂鬱《ゆううつ》も、再びしっかり首をもたげる。
プロレスショーの最終回が終わった時点で、次は大河がミスコンに出場するための準備をする、ということは、クラス全員がわかっていた。わかっていたはずなのに、実乃梨《みのり》は結局、この控え室に現れなかった。すべてを竜児や亜美や他《ほか》の女子たちに任せ、大河の親友のくせに、覗《のぞ》きにさえも来なかったのだ。亜美に……言わせれば「……はっ! あーんな体育会系女がいたって邪魔《じゃま》なだけ!」らしいが、せめて実乃梨が大河に一言がんばれ、でもなんでも声をかけてやれば、大河ももうちょっとリラックスできただろうに。
考えたくないのに考えてしまうのは、今のこの状況──いまだに大河の父親が現れないという状況を、実乃梨は「そら見たことか」と思っているのではないか、と。神経質に携帯《けいたい》を見つめる大河の姿とそれを宥《なだ》める自分の姿を、ざまみろ、だから言ったのに……そんなふうに眺めているのではないか、と。このまま来なければいい、と。
……そんな奴《やつ》だとは、思いたくないのだが。
「早く、来てくれよ……おっさん」
ひとりごち、固く凝《こ》った肩を乱暴《らんぼう》に回す。肘《ひじ》を壁《かべ》にぶつけ、いてて……とうずくまる。情けない顔を上げ、乾いた手の平でごしごし擦《こす》り、想像するのはあのおっさんが現れる姿だ。
きっと、あのシルバーのコンパーチブルで校門前に乗りつけて。
ジャケットかなんかを軽く羽織って、遅れてごめん! と肩をすくめて。
大河は遅い! と怒髪天《どはつてん》、でも結局はめちゃくちゃ嬉《うれ》しそうに照れて笑って。
「……あんたは、絶対に来るだろ。どんなに遅れたとしても、絶対ダッシュで現れるだろ。そういう奴なんだろ、あんたは──父親、っていうものは」
ヒーローは遅れて現れるものだしな。
ふんむ、と鼻から息を吐き、竜児《りゅうじ》はようよう立ち上がる。体育館《たいいくかん》の客席で、能登《のと》が席をとっておいてくれているはずだ。なかなかうまく進んでくれない状況を力ずくで踏み越えるみたいに、荒っぽくのしのしと大股《おおまた》で歩く。
とりあえず、ミスコンにも間に合わないとしたら──もう一度、金的の刑に処す。
***
カッ! と、三方向からスポットライトが舞台《ぶたい》の中央を照らし出す。そして、
「……長らくお待たせいたしましたっ!」
マイクを手に、司会が登場したその瞬間《しゅんかん》。
満杯の体育館が、冗談《じょうだん》抜きに揺れた。耳を劈《つんざ》くような大歓声《だいかんせい》と大拍手、興奮《こうふん》のあまり立ち上がった奴《やつ》らが床《ゆか》を踏み鳴らす音で、
「みっ、耳がいてぇ……!」
竜児は思わず耳を塞《ふさ》ぎ、顔を伏せて自分を守る。しかしそもそもそのすぐ隣《となり》で、
「いやああああ───────────っっっっ! あぁぁぁぁぁみちゃぁぁぁぁぁぁんっ、あっ、あうっ、うは、ふぁ────────────っっ! ぎゃぁ────────っっ!」
興奮しすぎの仔犬《こいぬ》みたいになった能登が、どっすんばったん跳ね上がり、拳《こぶし》を突き上げ、頭を揺さぶり、狂った悲鳴を上げているのだ。
「の、能登……能登っ!」
「おっぎゃあぁぁぁ────────────っっっ! あみっ、かわっ、しまっ、あふっ、びゃおぉぉぉぉぉぉ────────────っっっ! うぎ─────────っっっ!」
「おかしいぞ能登、おかしいぞ! おまえ、そんなに騒《さわ》いだら死ぬぞ!」
竜児が必死に落ち着かせようと背中を擦《さす》ってやるが、友はいまだ興奮のるつぼ、眼鏡《めがね》を顎《あご》までずり落とし、他《ほか》の野郎どもと瞬間、心、重ねて、背骨も砕《くだ》けよとばかりにリンダリンダジャンプを繰《く》り返す。狭い観客席《かんきゃくせき》で。踏まれまくって竜児の足は、もちろんすっごく大変痛い。
「……うふふ、みなさあん、静粛《せいしゅく》にぃー※[#ハートマーク]」
体育館にびっしり並べたパイプイスは完全満員、立ち見も出ている。そんな大観衆の興奮と絶叫を「とうぜんである!」と堂々《どうどう》受け止め、亜美《あみ》は甘く整《ととの》った美貌《びぼう》にうっとりと悩ましい笑《え》みを浮かべる。
その姿は、あまりにも、ズルすぎた。おまえ司会じゃねえのかよ? と、竜児は見とれるよりは呆《あき》れてしまう。なーにが、裏方、結構嫌いじゃないよ?──だ。やっぱりあいつの本性は、目立ちたい、注目浴びたい、誰《だれ》より美人と言われたい、ただそれだけに尽きるのだ。
亜美《あみ》は一体どんな早業《はやわざ》で変身したのだろうか。ライトの中で微笑《ほほえ》みを浮かべる美貌《びぼう》には、妖《あや》しく顔立ちを引き立てる艶《つや》っぽいメイクが施《ほどこ》されている。さすがはプロモデルというべきか。パールに輝《かがや》く唇は瑞々《みずみず》しく、肌の質感は真珠《しんじゅ》そのもの。淡《あわ》いシャドウだけで大きなチワワ瞳《ひとみ》はさらにキラキラと輝きを増し、穢《けが》れを知らずに清らかに、零《こぼ》れ落ちんばかりに際立《きわだ》っている。しかし一転、強気に引かれたアイラインはリミット解除の色香を灯《とも》し、ふと揺れる視線《しせん》、それだけで、長いストーリーが語りだされそうに亜美の美貌はドラマチックなのだ。しっとりと零れ落ちる髪はゆるやかに色香たっぷりのカーブを描き、そら恐ろしいことに、床《ゆか》に落ちる影《かげ》までもが異様に黒々と美しい。
そして、そのほっそりしなやかな八頭身ボディにまとった衣装《いしょう》が、能登《のと》を含めた観客《かんきゃく》を狂わせていた。竜児《りゅうじ》を呆《あき》れさせてもいた。
「んもう〜、静かにしてくれないと、お仕置きし・ちゃ・う・ゾ※[#ハートマーク]」
手にしたムチを、ビン! と頭上で張ってみせる。そこには──とある公立高校の文化祭の舞台《ぶたい》には、女王様、が、立っていた。
十センチ以上はあろうというピンヒール。
太ももの半ばで薄《うす》い肉にやんわり食い込む網《あみ》タイツは、ぴったり張りつく黒い糸目で白い肌を際立たせる。
ガーターベルトは黒く艶めく革のビスチェまで連結されている。細いのにむちっと柔らかな内腿《うちもも》の肉はショートパンツからふっくら溢《あふ》れ、小さな尻《しり》に至っては、絞られて引《ひ》き攣《つ》る革のラインがセクシーすぎて見ていられない。紐《ひも》で絞ったビスチェの胸元は禁欲的に首までぴったりと合わせられ、しかし一体どういう罠《わな》か、胸の谷間の部分だけが大きく大胆にくり組かれていた。その穴からは、妖《あや》しい白さにむっちり重なる二つの膨張《ぼうちょう》物体が、張り詰めるみたいに盛り上がり、押しあってひしゃげたいびつな円形をくっきり丸く現している。
くぼみの美しすぎる脇《わき》の下、薄《うす》くついた筋肉の彫りが大理石みたいな二の腕、しかしそこから指先まではやはり革の手袋でかえって淫《みだ》らに覆《おお》い尽くされ、そして、ふ、と亜美の顔から笑《え》みが消え──
「……静かにしろって言ってるんだよこのブタどもがぁぁぁっ!」
ビシャッ! とムチが優雅《ゆうが》に空《くう》を舞《ま》った。床《ゆか》を打って、音を立てた。
……この罵声《ばせい》は演技じゃない、本物だ。これこそが亜美《あみ》の本性だ。その腹のドス黒さが、荒っぽい巻き舌によって見事に表現されている。竜児《りゅうじ》は寒気に震《ふる》えるが、
「ああんっ……先生、床に、なりたいです……っ!」
「ぶってぇぇぇ〜……あああぶって、ぶたれて、ぶち抜かれたいぃぃ」
「ブタでいいですぅ、いいんですぅ! それで亜美ちゃんとお近づきになれるならぁ!」
野郎どもは魂《たましい》を抜かれ、あっさりドMの卑屈《ひくつ》さも剥《む》き出し、みっともなくも亜美女王様に永遠の忠誠をこの場で誓う。
「もっと強くぶってほしいのかい!? 貪欲《どんよく》なブタめっ、この恥知らず! いやらしいとんそくどもめがあ! 醜《みにく》いブタはブタらしく、大人《おとな》しくそこに座ってるんだよ! 飛べないおまえらはただの豚肉なのだからぁぁぁ───っ!」
はふぅぅ〜ん……よだれでも飛らしそうなうっとり声に体育館《たいいくかん》は満たされ、しかし律儀《りちぎ》に歓声《かんせい》のボリュームは絞られた。女王様が大人しくしろとおっしゃったからだ。能登《のと》も狂い死にする寸前で、とろんと両目をいやらしく蕩《とろ》かせ、
「……亜美ちゃんの太もも……亜美ちゃんの、暴力《ぼうりょく》……いい、こんなのも最高にいい! 新しい欲望が、俺《おれ》の中で逞《たくま》しい鎌首《かまくび》をもたげてる……」
夢見るように身体《からだ》をちぢこめ、胎児《たいじ》のスタイルでうっとりイスに座り込む。
しかし竜児はひとり、冷静に──いや、相当|困惑《こんわく》しつつも熱狂《ねっきょう》の渦《うず》には取り込まれはしないまま、司会の女王様を見つめていた。確《たし》かに現在盛り上がってはいるが、これは正直、どうなんだ。
「……なあんちゃって※[#ハートマーク] やっだぁー、みんな、今のはぜぇんぶ冗談《じょうだん》だから、本気にしたらだめですよぉ〜! 思いっきり、盛り上がってくださいねっ! それでは今から、投票の説明をしまーす! まずは舞台上《ぶたいじょう》の候補者たちのアピールを楽しんでいただいてぇ、その後はひとり一票制で……」
司会が一番日立ってどうする、つまりそういうことだ。
亜美《あみ》は司会として、女王様ルックのままでてきぱきと投票ルールを説明しているが、誰《だれ》もそんなもんは聞いちゃいない。みーんな、亜美の谷間を見ている。太ももや、脇《わき》の下や、網《あみ》タイツから細かにのぞく白い素肌を見ている。
BGMが変わり、亜美が舞台《ぶたい》の端にしつらえられたマイクスタンドの方へ移動すれば、観客《かんきゃく》の視線《しせん》も、そちらへ移動する。
「それではさっそく参りましょうっ! エントリーナンバー一番! 一年A組の──」
色白、細身のかわいい一年生が、おそらくはクラス展示で着ていた衣装《いしょう》そのままなのだろう。客引きしているのを見たような気もするメイド服で現れる。言うぞ言うぞ、と思っていたら、
「おかえりなさいませ、ご主人さま!!」
やや緊張気味《きんちょうぎみ》の笑顔《えがお》で言った。やっぱり言った。会揚のそこここから拍手が起きるが、どことなく気もそぞろ、というか、明らかに観客の視線は司会に釘付《くぎづ》けのまま、というか。
「特技はご主人さまのお迎え! 免許はメイド検定勝手に一級だそうでーす! そんなプリティーメイドさんのアピールタイムは、ジャンケンゲームでーす! みなさん、ノリノリでやっちゃいましょーう!」
盛り上げようと舞台の端で意外にうまいことしゃべりまくる亜美の方が、完全に目立ってしまっているのだ。美しさでも、ナリのすっとんきょうさでも。やっぱりプロと素人《しろうと》では、これだけの差があるものなのか。
微妙な空気に気づかぬまま、一年生メイドさんはなにやら独りよがりなふりつけで、
「それでは、じゃんけんげーむ、いっきまーす! えっと、これは1−Aでやっていましたメイド喫茶《きっさ》でのお約束のじゃんけんの仕方でぇ、」
ほいほいっと踊り、痛々しいなぞの歌を歌い、ポイ、とグーを突き上げる。乗ってやっているのは数人の女子だけ……多分《たぶん》、彼女のクラスメイト。
「……こーりゃだめだね、亜美ちゃん目立ちすぎ! つーかそもそも実行委員、司会の人選まちがったよな」
やっと人語を解せるようになった能登《のと》も、同情するような目を一年生の女子に向ける。まったく同感だった。せめてこの微妙な空気の中を退場していく彼女のために、竜児《りゅうじ》は大きな音をバシバシ立てて拍手してやる。
しかし次に現れた一年生も、
「お……おかえりなさいませ、ご主人さま」
言ってしまった。
「うちの学校、どんだけメイドいるんだよ!?」
「ていうか、それ以外になにか言うことねぇのか!?」
竜児と能登の気持ちも、観客みんなの気持ちも、どうにも盛り上げることはできない。かわいいには、もちろんかわいい。きついネコ目にふんわりショートカット、ミニスカートから覗《のぞ》く足もほっそり細くてカモシカのよう。多分《たぶん》、クラスでは一番の美少女のはずだけどやっぱり既《すで》にありふれすぎ感|満載《まんさい》のメイド服、そしてダメ押しの「おかえりなさいませ」、なにからなにまでお約束すぎるのだ。見|飽《あ》きた「こういうもんなんでしょ?」程度の浅い定型をなぞっているだけなのだ。これではまたもや、司会に食われてしまう。
「……高須《たかす》、知ってるか? 今年《ことし》の文化祭、メイド喫茶《きっさ》だけで八クラスあったらしいぜ……俺《おれ》、そのうちの四クラス行っちゃったけど……ケチャップでオムライスに、ノトはあと、って書いてくれたりして……プラス三百円取られちゃって……」
「おまえ、姿が見えねえと思ったらそんなことしてたのかよ」
「そう、してたの。メイド喫茶、いけるだけ梯子《はしご》ツアー。高須は休憩《きゅうけい》中どこ行ってたの?」
北村《きたむら》と一緒《いっしょ》? 誘おうと思って春田《はるた》と結構捜してたのよ」
「大河《たいが》と北村で、三年のお食事|処《どころ》でメシ食った。クレープ屋も行ったし……、そうそう、恒例の化学部のカルメ焼きの列に並んだんだけど、俺たちの目の前で売り切れになっちまって」
「毎年あのカルメ焼きはガチだからなあ、俺食ったよ、土産《みやげ》も買った。うちの姉《ねえ》ちゃん、卒業生でアレ好きだからさ。いくつかあるから、一個分けようか?」
「おう、いいのか? ほしいほしい」
──雑談《ざつだん》の花も、思わず咲いてしまうってものだ。我《われ》に返って、悪いかな、と声をひそめたそのとき。
「あ、携帯《けいたい》鳴ってるよ、おまえのじゃん?」
バイブにしていた携帯がポケットの中で突然|震《ふる》え、竜児《りゅうじ》は慌ててストラップで引っ張り出す。こんなイベントごとの真っ最中に迷惑だろうか、と思ったところで気がついた。そもそも周りの奴《やつ》らはみんな、男も女も、携帯を出してバシバシ舞台《ぶたい》の写真を撮《と》っている。この状況ならメール確認《かくにん》ぐらいいいか、と、フリップを開く。舞台ではメイドが微妙に上ずった声でカラオケを始めていて、
「……あーあ、これはかわいそうだ……俺、この子に投票してやろうかな……」
あんなときもー♪ こんなときもー♪ と歌う姿は痛々しい。やっちゃった感がじわじわと、会場の雰囲気を冷《さ》ましてゆく。確《たし》かにこれは同情ものだが、
「ばーか、ちゃんと大河にいれろよな。クラスの点もかかってんだぞ」
それをいなして、竜児は能登《のと》の肘《ひじ》をつつく。能登はヘへへ、と笑ってごまかす。舞台の上では緊張《きんちょう》のせいか元からの音痴《おんち》か、調子《ちょうし》っぱずれな歌が続く、一応の礼儀《れいぎ》、強張《こわば》るメイドの顔をチラチラ見やりつつ、竜児は携帯の小さな画面に目をやる。
目をやって、そして。
照明が落とされて暗い中、携帯の画面は眩《まぶ》しく光っていた。
文字もくっきり、よく見えた。見間違いようも、勘違《かんちが》いしようもないほど、くっきりと。すべてがくっきりと、文字になって、竜児の網膜《もうまく》に飛び込んできた。
タイトルは、「お願《ねが》い」。
送信者は、「逢坂《あいさか》(父)」。
一行目の書き出しは、こんにちは。と。
「なあ高須《たかす》、タイガーの出番って何番目かな? これって学年順?」
「──あ」
不意に、すべての音が止《や》む。
大河《たいが》に、伝えて欲しいことがあるんだけどいいかな。
「ちゃうか。三年生がいきなり出てきた。うおっ、浴衣《ゆかた》! 普通に美人じゃん?」
「……おう」
実は仕事の関係で、これからすぐに、ちょっと出ないといけなくなってしまった。
「ほっほー、茶道部か、そんな感じ。あんな先輩《せんぱい》いたんだな。いやー、渋《しぶ》い」
「……」
だから今日《きょう》はいけなくてごめん、埋め合わせする、と。それからもう一件。
「っていうか亜美《あみ》ちゃん! まーた目立っちゃってるしー! ああ、あのムチ使い!」
「……」
また一緒《いっしょ》に暮らすっていうのも、ナシってことに。
会杜の都合《つごう》て、離婚《りこん》できなくなってしまったのもあるし。
だからこのままでまたやっていこう。
メシぐらいは付き合ってくれよ、って。
お姫《ひめ》さまに謝《あやま》っておいてください。よろしくね。
「……高須?」
──仕事、だとか。
たとえば急な出張だとか来客だとか、もしかしたら病気だとか、そういう理由ならば、文化
祭に来られなくても仕方がないとは思っていた。
どんなに大河が楽しみにしていようと、来て欲しかろうと、来るという約束を信じていようと、そういうことなら仕方がないと。だって相手は大人《おとな》なのだから、たとえどんなに大事な娘でも、高校生にもなった子供のイベントを、すべてに最優先《さいゆうせん》させられるわけがない。それぐらいのことは竜児《りゅうじ》にもわかった。大河《たいが》にだって、きっと、わかるだろう。
でも。
こんなことをするとは、思わなかった。こんなことをされるなんて思ってもみなかった。
……想像も、しなかった。
「高須《たかす》? どうしたんだよ? ……なあ、ちょっと」
「……」
びっくりして声も出ない、というのは、こういうことなのだと知る。
息をひゅっと吸ったきり、身体《からだ》は鋼鉄《こうてつ》の鎧《よろい》を着せられたみたいに動かない。持ち上がった眉《まゆ》も、見開いた目蓋《まぶた》も、メールの一行目を見たあの瞬間《しゅんかん》のままで時が止まって、動かない。
びっくりした。本当にびっくりした。
竜児はこのとき、本当に、びっくりしていた。だって、なにもわからないのだ。理由も意味もわからない。どうしたらいいのか、わからない。
大河を、このメールを、自分を、どうすればいいのかわからない。誰《だれ》も教えてくれない。
「……なあ、マジで大丈夫? 顔色、やばいよ……?」
能登《のと》の手が、肩を揺さぶる。大丈夫だよ、と言ったつもりだが、声が出たかどうかもわからない。
舞台《ぶたい》の上では、浴衣《ゆかた》美人が妙に自虐的《じぎゃくてき》なあいうえお作文を披露《ひろう》していた。観客席《かんきゃくせき》は、笑いに沸いている。やっと、ミスコンは盛り上がり始めている。
竜児は、ただ、携帯《けいたい》の画面を見つめ続けた。その目にはもうなにも映らなくても、それでも、見つめ統けることでなにかが変わるとでも信じているみたいに、ただ眩《まばゆ》くも小さい画面を見つめ続けた。だけどなにも変わらない。事実だけが、そこにはあり続ける。
大河の父親は、文化祭だけじゃなく、全部を放り出して、逃げていってしまった。
その事実だけが、
「……なんで、信じたんだろ……俺……」
子供みたいな細い声が、自分の喉《のど》から漏れたとも知らず、竜児は心臓《しんぞう》のあたりを掴《つか》み締《し》めた。なんで信じた。なんで、いいことだ、と、ろくに考えもせずに決めつけた。どうして大河の言うことを一切聞こうとしなかった。無意識《むいしき》のうちに爪《つめ》を立て、制服越しに肉を傷つける。痛みなどなかった。
そこには、なにもなかった。
ただ、俺のせいか、と。
竜児は思い、何度も繰《く》り返す。俺のせいか。胸には大河の姿が浮かび、揺らぐ。竜児に諭《さと》され、父親のもとへ走ったときの背。父親の肩にしがみついた腕。街灯の下に並んで立っていたときの、落ち着かない、でも恥ずかしそうに照れた仏頂面《ぶっちょうづら》。
大河《たいが》は嬉《うれ》しそうで、本当に嬉しそうで、いつもいつも嬉しそうで、幸せそうで……それで、竜児《りゅうじ》は本当に、寂《さび》しかった。
寂しくて、嫌《いや》だった。心のどこかに目を逸《そ》らし統けていた思いがあった。大河の父親なんか、現れなければよかったのに、と。そうしたら今までどおり、三人の暮らしができたのに。大河に頼られ、必要とされ、甘えられることで、生まれてきて正解と、自分の存在が許されるみたいな気もしていたのに。それを全部奪われた気がして、あんたはいらない、と捨てられた気がして、竜児は寂しくて嫌だった。そんな思いに気づきかけてもいたから、だから一生懸命《いっしょうけんめい》、必死になって、「いいことなんだ」と、自分に言い聞かせなくてはならなかった。
そうだ。
信じていたから、大河を行かせたわけではなかったじゃないか。
全部、自分のためだった。大河のことを考えているふりをしていた。
自分の欠損《けっそん》を、足りない部分を、大河が満たされることで補おうとした。自分が望んでも与えられないものをおまえは捨てられるのか、と、大河を脅《おど》すようなこともした。
大河が父親と幸せになれば、自分のせいで親と別れた泰子《やすこ》への贖罪《しょくざい》の代わりになる気もした。大河と泰子は別人なのに、贖罪さえ「一回」できれば、自分の心が救われる気がした。自分がいらない子だと、生まれてきたのは過《あやま》ちだったと、考えなくてすむ気がした。
そして、その内心で、本当は大河の父親が消えることを願《ねが》っていた。大河が自分のそばにいることを願っていた。自分の存在価値のために。
どこまで馬鹿《ばか》なんだろう。自分勝手で、利己的で、下《くだ》らない人間なんだろう。
そんな自分に、天罰は下った。こんな形で、
──大河にどう伝えたらいい。
嵐《あらし》のようなびっくりが心臓《しんぞう》も肺《はい》もすべて凍らせて、そして今、竜児は、死体みたいになっている。もうなにも考えられない。指先ひとつ、動かせない。どんな声も、耳には届かない。
「さ〜て、次の候補者はっ! 二年C組、手乗りタイガーと言えばおなじみですよね!? みなさんご期待のっ! ……逢坂《あいさか》、大河さんの登場で───すっ!」
うおおおおぉぉぉぉ──と低い歓声《かんせい》。来たぞ手乗りタイガー! マジで出るのか!? 檻《おり》とかいらねぇのか!? 危なくねぇのか!? 観客《かんきゃく》たちは盛り上がり、これまでで一番大きな拍手が湧《わ》き上がる。
「た、高須《たかす》ってば……タイガーの出番だぞ、なあ」
困り切ったように能登《のと》が顔を覗《のぞ》き込んでも、ただ、携帯《けいたい》を握《にぎ》り締《し》め、竜児は目を見開いていた。
会場が一瞬《いっしゅん》にして静まり返ったことにも、気づかなかった。
その人は……その女は、緊張《きんちょう》しているのだろうか。ゆっくりと舞台《ぶたい》に現れた。
ふわり、と薄《うす》い絹《きぬ》が彼女の足の歩みに合わせて舞《ま》った。
天使の翼《つばさ》が、その背で震《ふる》えた。
腰まで届く淡《あわ》い色の髪は、ゆったりと流れる音楽そのものみたいに、柔らかに空気を孕《はら》んで揺れていた。
華奢《きゃしゃ》すぎる身体《からだ》はドレスの中で、今にもポキリと折れそうに見えた。伏せた睫毛《まつげ》が影《かげ》を作り、硬質ガラスを刻んだみたいな繊細《せんさい》な面《おもて》は、こころなしか伏せられたままだった。
ゆるやかに。
流れるように。
大河《たいが》の歩みは、水の波紋《はもん》のようだった。
静寂の中を、その女の歩みだけが、空気を渡る風みたいだった。
透《す》けてしまいそうで、溶けて甘い水になってしまいそうで、誰《だれ》もが声ひとつ上げられなかった。
羽化《うか》したばかりの儚《はかな》い羽虫《はむし》を見守るみたいに、誰もが、その壊《こわ》れそうな美しいものを、息をするのも怖いみたいに眺めていたのだった。
「……うっそ……」
誰かが唸《うな》る。
「……すっげぇ、かわいいぞ……」
竜児《りゅうじ》は、──竜児は。
「え〜、今日《きょう》は、なんと逢坂《おいさか》さんのお父《とう》さまが、この会場に応援に来てくださっているとのことです! よろしかったらお父さま、応援のお声をお願《ねが》いしまーす!」
亜美《あみ》がイエーイ! とマイクを片手に手を大きく振る。そうしつつ、観客席《かんきゃくせき》を見回す視線《しせん》は少々心配そうでもある。
大河《たいが》は、舞台《ぶたい》の中央に羽根を休めて立っていた。それでもまだ信じる目をして、不安げに唇を噛《か》んで、この空間のどこかに自分のために声をあげてくれる誰《だれ》かがいる、と待っていた。
時の流れは、惨《むご》いほどにゆっくりだった。
「……え、ええと……え〜〜〜〜と……」
亜美の声が上《うわ》ずる。大河に応援のお声を上げる父親など、ここにはひとりもいなかった。滞《とどこお》った進行に、会場が次第にざわめきだす。それは麗《うるわ》しい天使への賛美《さんび》の声ではなく、状況をいぶかしむ声で。「来てねぇんじゃねぇの?」「次いっちゃえよ、次!」
大河の翼《つばさ》が、震《ふる》えた。
竜児はそれを、見た。
大河。
──大河。
「……高須《たかす》!?」
イスを蹴《け》り倒し、立ち上がっていた。大河の瞳《ひとみ》が、竜児を見た。眼差《まなざ》しが絡みあった。竜児の手には携帯《けいたい》が握《にぎ》り締《し》められたままで、そして、大河は誰《だれ》よりも聡《さと》かった。竜児の表情を見て、その姿を見て、一瞬《いっしゅん》だけ顔を歪《ゆが》めた。泣き出す寸前の赤ん坊みたいに、それは見えた。
大河は俯《うつむ》き、きつく目蓋《まぶた》を閉じた。
全部──父親がここには来ないことも、もう迎えにも来ないことも、全部わかった、と言うみたいに。驚《おどろ》くことさえ、どうしてかなしに。だったらもう、なにも見たいものなどこの世にはない、と言うみたいに。
小さな肩が力を失い、翼がゆっくりと下を向く。零《こぼ》れる涙のかわりに、抜けてしまった羽根がハラリとその足元に舞《ま》い落ちる。
竜児にできることは、なにもなかった。大河の立つ舞台は遠すぎた。手を伸ばしても、届きはしなかった。ここに親父《おやじ》を引きずってくることも、できなかった。
そして大河は、そのまま、衆人環視《しゅうじんかんし》の舞台上から逃げ出そうとしたらしい。
髪とドレスを翻《ひるがえ》し、クルリと観客に背を向ける、そのまま顔を伏せ、走り出そうとする。しかしこんなときでさえ、大河はやっぱりドジなのだった。
「……うあっ!?」
あああ! と観客席からも悲鳴が上がる。まさかのタイミングで、サンダルのヒールが、ドレスの裾《すそ》を踏んづけた。そのままバランスを崩し、自分の体重に引っ張られるようにして、大河の身体《からだ》は斜めにかしぎ、そして舞台《ぶたい》のド真ん中、
「……おう……っ!」
「うーわ……ちびタイガー……っ」
ズダン! と、ものすごい音を立てて転んだ。竜児《りゅうじ》も亜美《あみ》も見ていられないぐらいの凄《すさ》まじい勢いで、顔面《がんめん》から床《ゆか》にぶっ倒れたのだ。ドレスもめくれ、足も丸出し。舞台の端に並ぶ他《ほか》の候補者たちも、あまりの転びっぷりにフリーズ状態。誰ひとり身動きもできないまま、起きてしまった事態を見下ろす。
あまりのことに、誰もが声を出せずにいた。シン……と静まり返ってしまった体育館《たいいくかん》に、
「……いっ……たぁぁい……っ」
大河《たいが》の低い唸《うな》り声だけが、響《ひび》く。しかしいまだ起き上がれない。懸命《けんめい》に泳ぐ手が、なんとかドレスの裾《すそ》だけは直す。しかしドレスの裾は、破れてしまっていた。太もものかなりきわどいあたりで裂け、白い足を隠すこともできない。まさに赤っ恥。泣《な》きっ面《つら》にハチ。
一体、どうすりゃいいんだよ。天罰の雷《かみなり》に撃《う》たれ、自己嫌悪《じこけんお》の杭《くい》に深々と穿《うが》たれ、地に鱗《うろこ》を縫《ぬ》い止められては、ドラゴンだって飛べるまい。翼《つばさ》も風を生めるまい。犬の竜児はもっとどうしようもなく、ただ途方にくれるしかなかった。もういっそ、自分が声を上げて泣きたかった。大河はあんなで、自分はこんなところにいる。
「……う……っ」
大河は、ようやく顔を上げた。
恥のためか、昂《たか》ぶりすぎた感情のためか、その顔は血よりも真《ま》っ赤《か》に染まっていた。目には涙が零《こぼ》れる寸前までたまり、小鼻はふくらみ、唇を噛《か》み締《し》めていた。
なにもできない犬は胸で叫ぶみたいに思う。おまえが選べる方法は、二つだけだ。
ひとつは、そこでそのまま泣いて倒れ伏し、誰かがなんとかしてくれるのを待つこと。──
もしかしたら世界は都合《つごう》よく暗転し、誰かが大河を迎えに来て、この場からスマートに救い出してくれ。すべては後日談《ごじつだん》となった『次のシーン』へ連れ去ってくれるかもしれない。
それから、もうひとつ。
それは自分の足で、立ち上がること。
そうして転んだ傷も赤っ恥も抱えたまま、世間と感情に折り合いをつけ、ごまかしながらでも、傷を開きながらでも、どうにかこうにかやっていくこと。弱々しくても、ヘタクソでも、痛くても、幾度も幾度も失敗しながら、それでもなんとか歩き出すこと。
どっちを選ぶ。
おまえは、なあ大河、どっちを選ぶんだ──
「……あぁっ、もう……」
泣き言は小さく。
光は、強く。
強く、なにより眩《まぶ》しく。ライトを浴びて星みたいに、大河《たいが》の瞳《ひとみ》はゆっくりと生き返る。背中の翼《つばさ》が、弾んで揺れる。悔しげに目を眇《すが》め、放つのは獰猛《どうもう》な、強靱《きょうじん》な眼光《がんこう》。もぞもぞと小さな身体《からだ》はみじろぎして、眠りから覚めた動物の仕草《しぐさ》で何度か大きく首を振って、そして、
「さいっっっ……あく!」
ぶら下がる裂けたスカートを、思い切りよく一気に引きちぎった。うわっ……乱暴《らんぼう》なやり方に、観客席《かんきゃくせき》からどよめきが上がる。大河はその声の中、なぜだか妙に偉そうに、顎《あご》をつーんと突き上げる。胸を反らしていつもの不遜《ふそん》、でも赤くなった膝《ひざ》を擦《さす》り、よろけながら、自分自身の足で立ち上がる。
立ち上がったのだ。
やってられないよもう、とブツブツ文句を言い、顔を歪《ゆが》め、涙を瞳に溜《た》め、それでも再び歩き出す。舞台《ぶたい》の花道を、ひとりで堂々《どうどう》と踏みしめていく。衣装《いしょう》は最高にキュートなミニスカートで、誰《だれ》より前評判の高い、ミスコンの優勝《ゆうしょう》候補はどんどん進む。ずんずん歩く。
竜児《りゅうじ》は、
「……やるじゃん……」
歩く大河の翼が切る風を、確《たし》かに感じていた。
だけど風はまだ弱々しく、飛ぶには少し心細く、
「高須《たかす》?」
竜児は、いまだ混乱のどよめきに圧せられた観客席の只中《ただなか》、ひとり。
たったひとり。
思いっきりの拍手を始めた。全力で両手を打ち鳴らす。体育館《たいいくかん》の天井《てんじょう》に、その音は尾を引いて鳴《な》り響《ひび》く。
これが風だ。
ここから送る、おまえへの風だ。
おい、あれヤンキーの高須だ。ほんとだ、相棒《あいぼう》を応援してる──ヒソヒソ交わされる声も無視して、独断専行のスタンディングオベーション。堂々と歩くあの女のために、逢坂《あいさか》大河のためだけに、竜児は風を送る。最高の賛辞《さんじ》を送る。がんばれ、がんばれ、とエールも叫ぶ。どうか、がんばってくれ。
「でもまあ……応援、すっか? かわいいぜ、あれ」
「だなだな。とりあえず、手乗りタイガー万歳だ!」
「手乗りタイガー最強! ただし、超絶ドジ!」
次第に拍手は、波紋《はもん》のように竜児の周りに広がっていった。能登《のと》が、それから名前も知らない隣《となり》の奴《やつ》が、その隣の奴が、次々に立ち上がって大きな拍手を大河に送る。2−Cの面々も、当然|大騒《おおさわ》ぎの大拍手。呆《あき》れたみたいにちょっと笑い、司会の女王さまもマイクを脇《わき》に挟んで手を打ち鳴らす。ヒュー! と甘い声で煽《あお》りもする。綺麗《きれい》で危なくてとんでもなくドジな、花道をゆくミス候補のために、みんなで両手を大きく打ち鳴らす。それは追い風になって、進む大河《たいが》をしっかり支える。
やがて、打ち鳴らされる拍手が空間を一杯に満たしたそのとき。
「たぁぁぁぁぁいがぁぁぁぁぁぁぁぁ───────────────っっ!」
轟《とどろ》く奔流《ほんりゅう》みたいに空間を貫《つらぬ》いた絶叫は、竜児《りゅうじ》の喉《のど》からではなく。
「大河っ、ぐわんば、れぇぇぇぇ─────────っっっ! どんなときでもっ、なにがおきてもっ、大河はっ! 強い子だぁぁあ! 大丈夫、だあぁぁぁぁぁ─────っっっ!」
声が嗄《しゃが》れ、そいつは一度肩で息をした。
実乃梨《みのり》だった。実乃梨はずっと後ろの席で、イスに立って、もう一度叫ぼうとした。咳き込み、一瞬《いっしゅん》声がかすれた。それを竜児が引き継いだ。
「たい、があああああぁぁぁぁぁぁぁぁ────っっっ!! いいぞっ! そうだっ! いけっ! がんば、れぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇ──────────っっっ!」
叫んだ。能登《のと》が、他《ほか》の奴《やつ》が、みんなが驚《おどろ》いて竜児を見上げたが、だけど叫んだ。実乃梨と声を合わせ、がんばれと叫んだ。負けるなと叫んだ。スタンディングオベーションで、大河のために絶叫した。
大河の選択は、きっと、正しかったと信じている。
だって人生は、転んだって続いていく。なにが起きても、どんなにつらくても、痛くても、裏切られても、もうダメだと思っても、それでも人は生きている限り、こうやって何度でも立ち上がり、何度でも歩き出さなければいけない。何度でも何度でも、転ぶたび転ぶたび、もう立てないと力が尽きても、人はそれでも、歩き出さなければいけない。泣いても笑っても、二本の足で、己《おのれ》の道を踏みしめなくてはならない。
それが、生きるということだから。
しぶとく生きていく大河は、真《ま》っ赤《か》な顔を超|不機嫌《ふきげん》にしかめ、ときどき痛そうに膝《ひざ》と肘《ひじ》を擦《こす》り、のしのしと大またで花道を歩く。背中の翼《つばさ》からは羽根が舞《ま》い続け、大河の歩いた道筋を、淡雪《あわゆき》みたいに覆《おお》っていく。渾身《こんしん》の力で、竜児はその姿に拍手を送る。いいぞがんばれと叫び続ける。会揚中を覆い尽くす拍手の輪《わ》は、どんどん大きくなっていく。口笛が鳴り響《ひび》き、手乗りタイガーの名を呼ぶ声がそこここから湧く。
だが、マイクにたどり着いた大河はこめかみに青筋を震《ふる》わせ、全力を振り絞って吼《ほ》えたのだ。
「う───るせえええええぇぇえええぇぇぇぇ──────────────っっっ!」
スタンドマイクをYAZAWAよろしく抱きしめて傾け、裂けたドレスから覗《のぞ》く足を思いっきり踏ん張って、そしてなにを叫ぶかと思ったら、
「父親なんざ、ちぎってむしって、モ、モグ、モルグに捨ててやったわぁぁぁぁ───っ!」
うおぉぉ……と観客《かんきゃく》たちは一気に怯《おび》えて引きまくり。そして納得したみたいに低く唸《うな》る。さすがは最凶《さいきょう》にして最強の名をほしいままにする危険動物・手乗りタイガー。親子関係だって、血の戦慄《せんりつ》に彩《いろど》られているわけだ。
さらに大河《たいが》はここまでくればほとんどヤケの心境なのだろうか、
「アピールタイム、やってやるっ! おいアホ! 例のものをっ!」
「へ、へいっ!」
とっくに小道具は打ち合わせずみ、最前列に座っているのは春田《はるた》だ。投げさせて受け取ったのは、旅行用のボストンバッグ。なにをするかと思いきや、ファスナーをあけるなり大河は元より小さな身体《からだ》をコンパクトに折り曲げてその内部にすっぽりと収まってしまう。そうしてボストンバッグの中から、
「閉めろ───────────っっっ!」
怒鳴《どな》るわけだ。慌てて駆け寄ったのは、気の毒なほかの候補者たち。怯えながらもファスナーを閉め、そのコンパクトさに観客たちは再び惜しみない拍手を送る。
気を使ったのか、ファスナーを閉めた一年生メイドが、そのボストンバッグを持ち上げてみる。観客の歓声《かんせい》は一層《いっそう》大きくなる。が、
「持つな───────────っっっ!」
「ひぃ!」
大河的に、それはNGだったらしい。床《ゆか》に下ろされ、そして数秒、
「開けろ───────────っっっ!」
同じメイドにファスナーを開けさせる。乱れた髪をかきあげながらのっそりと偉そうに起き上がり、
「……フン! よかったわね、そこな下女! 仕《つか》えられて光栄だったろう!?」
倣岸不遜《ごうがんふそん》に胸を反らして凄《すご》んでみせている。……ついさっきまで、轢《ひ》かれたカエルスタイルでみじめに転んでいたくせに。
そして厳正《げんせい》に行なわれた投票の結果。
なんと、ほんとの、本当に、天使の羽をつけた偉そうな轢かれガエルタイガーに、ミスの栄冠は渡ってしまったのだ。決め手は見事すぎたコケっぷりと、どこぞのやせぎすエスパー芸人みたいなボストンバッグ芸か。
今度こそ誰《だれ》もが躊躇《ためら》いなく送る拍手の渦《うず》の中を、大河は仏頂面《ぶっちょうづら》で舞台《ぶたい》の中央へと再び進み出た。少し高いところに用意されたイスに、実行委員の導《みちび》きで座った。
舞台の下から、竜児《りゅうじ》はその姿をずっと見つめ続けていた。大河は正面を向き、偉そうに顎《あご》を突き上げ、だけどたったひとりぼっち。みんなに見られ、みんなを見ているけれど、抱いてくれる腕はどこにもない。連れて帰っぞれる人も、誰もいない。
ひとりぼっちで、大河《たいが》はそこに座っている。
「……高須《たかす》? ちょ、ちょっと!? なにしてんの!?」
竜児は少しでも大河のそばへ行ってやろうと、円の前に並ぶイスの列を跨《また》いで越えようとしていた。自分じゃダメだってことはわかっている。大河の心に穿《うが》たれた穴は、竜児の形で埋まりはしないと知っている。
でも、もしかしたら、腹に大穴開けたままで生きていかなくてはいけないあいつの、支えぐらいにはなれるかもしれないではないか。今こそ、それが必要なときかもしれないではないか。座る人の肩をかきわけ、迷惑なことに、どんどん前方へ突進しようとする。慌ててその肩を、能登《のと》が必死に押しとどめる。
「無理だってば! す、すいません……って、ほら! 俺《おれ》が怒られてるじゃんよ!?」
だけど体育館《たいいくかん》はこんなときばかりやたらと広く、いっぱいに詰め込んだパイプイスは竜児《りゅうじ》の強面《こわもて》をもってしてもずらすことができず、能登の腕力も意外と強く──
「……大河……っ」
胸がちぎれそうだった。
なにができるかはわからない。でも、あそこに行ってやらなくてはと思う。ひとりぼっちで座る大河のもとへ、一歩でも、一センチでもいいから、
そのとき。
「──さあ諸君《しょくん》、ラストゲームの時間だ」
響《ひび》き渡ったおっさん臭い、しかし凛《りん》と張った女の声に、懲《こ》りずに突進をかまそうとする竜児の足が思わず止まる。
***
「んだぁーっはっはっはっはっはっはっはーっ!」
制服姿に、つけた腕章《わんしょう》は真紅《しんく》。
現れたのは総勢六名。
舞台《ぶたい》の上にずらりと並び、その中央でハンドスピーカーを抱えて楽しげに呵呵大笑《かかたいしょう》するは、全校生徒の心の兄貴《あにき》にして生ける伝説、豪放磊落《ごうほうらいらく》なみんなの親分、
「おうおう、生きのよさそうなのが雁首揃《がんくびそろ》えて並んでいるじゃねえか! それではこれより、今年度の、ミスターコンテストを開催するっ!」
完全無欠の女生徒会長・狩野《かのう》すみれであった。
そしてその許されし右に、忠実に微動だにせず立っているのは、副会長たる北村祐作《きたむらゆうさく》。少し下がって居並ぶ奴《やつ》らは、生徒会のほかの面々。さらに続いて緑の腕章をつけた実行委員たちもがその後ろにズラリと揃《そろ》う。
観客《かんきゃく》たちはミスコンの興奮《こうふん》も引きずったまま、落ち着きを失ってざわざわと騒ぎ始める。これから一体なにが起こるのか。どうやって、ミスターコンテストを始めるつもりなのか。そもそも候補者だって決まっていないのに。
フ──唇に浮かべた笑いひとつで、すみれはざわめきを制す。
「ミスターコンテストの審査《しんさ》方法は……これだっ!」
すみれの合図で、生徒会のメンバーが、天井《てんじょう》からいつの間にやら垂らされた紐《ひも》を思いっきり引っ張る。ぱっかん! と開くは巨大なクス玉。紙吹雪《かみふぶき》とテープが一斉に舞《ま》い、クルクルと巻かれた紙がおもりの重みで落ちてきて、
「……あだっ!」
生徒会の不運な誰《だれ》かの脳天にヒットする。すみれはかまわずしゃがみ込んだそいつを押しのけ、見えてるっちゅーのに、わざわざ紙に大書きされた文字を読み上げる。
「今年《ことし》は──『ミスター福男』だっ!」
と、言われても。福男……ってなんだっけか?
体育館《たいいくかん》をぎゅうぎゅうに埋める観客の脳内に奇跡的なシンクロニシティ、みんな一斉に首を傾《かし》げる。並ぶイスの間に挟まったまま能登《のと》に心配されている竜児も思わず一緒《いっしょ》に首を傾げる。舞台《ぶたい》の上から一歩ずずい、と出てきたのは北村《きたむら》。マイクを手に、
「福男、というのは、つまり、兵庫《ひょうご》|県《けん》西宮市《にしのみやし》の西宮神社で毎年一月に行なわれる『十日《とおか》|戎《えびす》|開門神事《かいもんしんじ》』という風習のことだ。毎年報道で目にすることもあるだろう。毎年多くの人が十日未明に表大門《おもてだいもん》に集合し、そして開門と同時に、二百三十メートルの石畳をダッシュで駆け抜け、本殿《ほんでん》を目指す。着順により一番福、二番福、三番福まで賞品《しょうひん》が出て、一番福を『福男』と称すわけだ。まあ簡単《かんたん》に言って──グラウンドには既《すで》にコースが用意されている。参加希望者は今すぐスタート地点に集合せよ! 一着が福男、つまり今年のミスターコンテスト優勝者《ゆうしょうしゃ》だ!」
だ! ときっぱり言い切るや否《いな》や、
「文化祭に、徒競走《ときょうそう》やらせんのかよ!?」
歓声よりは、野次《やじ》の方が大きく響《ひび》いた。同調《どうちょう》するみたいに他《ほか》の奴《やつ》も文句を言い出す。
「女子はちょっと舞台に出てきて歌うたったりとかじゃねえか!」
「なんで野郎ばっかそんな面倒《めんどう》なことさせられるんだよ!?」
マイナスな意見はブーイングとなり、舞台上の生徒会に向けられる。しかしすみれはあくまで冷静、文句ばかりの野郎どもを前に包容力たっぷりの笑顔《えがお》で仁王立《におうだ》ち。
「出たくなければ出なくてもいい。これは自由参加だからな」
じゃあ誰も出ねえよ、さーいこいこ、と観客のボルテージは下がる一方。席を立つ音がそこここで響《ひび》く。しかし、
「ちなみに、福男に授与される賞品《しょうひん》は──まず第一に、この後のキャンプファイヤーで、今年《ことし》のミス・逢坂大河《あいさかたいが》にダンスを申し込む権利。そして第二に、ミスにこのティアラを手渡す権利」
ワゴンに乗せられ、件《くだん》のティアラとやらが運ばれてくる。恭《うやうや》しい手つきで生徒会のメンバーがそれを持ち上げる。ダンスを申し込む権利、と言われても、大河に断られれば終わりではないか。たいして興味《きょうみ》もなさそうに多くの奴《やつ》らはそのまま帰ってしまいそうになるが、
「……おい、なんかくっついてるぞ!?」
「でっかいもんがついてる!」
キラキラと輝《かがや》く貸衣装《かしいしょう》ものっぽいティアラの下に、なぞの布袋がずっしり重そうにぶら下がっているのだ、ニヤリ、と、すみれの赤い唇に笑《え》みが浮かぶ。
「おっと、言い忘れるところだった……このティアラには、付属品がついてくる。それは、スーパー・かのう屋の特製ショッピングバッグだ。三千円以上買い物するともらえるグッズだぞ。ちなみに中身はーまあ、いらんもんのリサイクルなんだが。この私の、三年間の、お古だ。一年生の四月からの各教科ノート、全定期|試験《しけん》の答案、解答、一ロメモ……私も意外にマメな性格なものでな、授業中のメモから教師からの質問、その答え、論点《ろんてん》の整理《せいり》……すべての教科できちんと残してあった。まあ捨てるのもなんだしな、卒業前に、私の勉学の足跡を、ミスと福男の幸せカップルに仲良く眺めてもらえたら、と──」
それまでのブーイングが、じわじわと波紋《はもん》が広がるように、その温度を変えていく。
「狩野兄貴《かのうあにき》の、ノート……?」
「全試験の答案……!?」
「メモに質問、答え、論点……!?」
「……入学以来三年間|成績《せいせき》トップ独走、満点マークも当たり前の、『あの』生徒会長の、勉学の、足跡……!?」
ざわめきはやがて、熱狂《ねっきょう》を帯び始める。帰ろうとしていた奴らの一部が話をもっと聞こうと戻ってき始める。特に、成績がやばそうな連中やそろそろぎりぎりがけっぷちの三年生が、こぞって顔を突きあわせて「出るか?」と相談《そうだん》を開始する。天才・狩野すみれの勉強グッズ、それはあまりに魅力的《みりょくてき》な景品であった。さらに盛り上がる観客《かんきゃく》たちの一部は、
「え、出る奴いんの!? マジ!? ……じゃ、じゃあ、手乗りタイガーと、踊っちゃったりするってのもマジ? でもどうせ断られて終わりだろ!? そうだよな!?」
「と、思うけど……ぇぇ〜……なんか……断られない、としたら!?」
「ありえるかそれ!?」
「でも人が出るって聞くとあせるよな……ダンスはさておき、タイガーと一緒《いっしょ》にコピーとったりできるのはガチってことだろ?」
「……仲良く、なっちゃったりして……」
「……ありえ……たりして……」
舞台《ぶたい》の上、生徒会の後ろに座ったままの大河《たいが》の姿をチラチラと見上げ始める。大河はすみれが自分の名前を出しても怒ったり否定したりせず、ただ、静かにちんまりとイスにかけている。その内心がどうであれ、暴《あば》れていないときの大河ほどかわいいものもないのは事実で。
「……決めた! 俺《おれ》は出る!」
「うそ! マジで!?」
「おっしゃ! 俺も出る、めざせ一番福!」
名乗りを上げる奴《やつ》らが出始める。さらに集団でなにやら相談《そうだん》を開始しているのは、
「陸上部としては、ここで他《ほか》の部に遅れをとるのはやばいだろうな」
「いよーし! 打倒陸上部! 今こそ俺たちバスケ部の実力を見せるときだ!」
「サッカー部集合! 足さばきで他を蹴散《けち》らせ!」
「フフフ、サッカー部の息の根をここで止めてやろう。フットサル同好会集まれ!」
素人《しろうと》にこの手のレースで負けるわけにはいかない運動部の連中だ。それぞれに集《つど》い、円陣を組み、声を上げて福男|奪取《だっしゅ》に勝負をかける。
「あたしも兄貴《あにき》ノート欲しい!」
「ミスは一クラス一名だったのに、なんでミスターは自山参加なのお!? ずるいー!」
文句タラタラに大騒《おおさわ》ぎを始めるのは女子たちだ。盛り上がる男子どもを見て、すっかりやる気になっているらしい、すみれはマイクを片手に舞台上、
「ミスターとはいえ……参加は男女関係なーし! 女子の出場も大歓迎《だいかんげい》だ! おら、心が決まった奴らは全員、グラウンドのトラック外周に集合───────っっっ!」
うぉーいっ! と野太い声の中に、女子の甲高《かんだか》い歓声も混じる。
そしてぞろぞろと移動を始める奴らの中に、竜児《りゅうじ》の姿もあった。
竜児は別に、兄貴ノートなんかいらない。
福男の名もいらない。
大河とダンスだって、別にいい。
とにかく、どんな手段ででも、誰《だれ》より早く大河のもとへ近づきたかった。ひとりぼっちで座っている大河のところへ、駆けつけてやりたかった。
それだけだ。
7
トラック外周のスター卜地点に集まった出場者は、男だけで四、五十名、女子は十数名という人数。
時はすでに夕暮れ。秋の冷たい瓜が吹くグラウンドには大勢の見物人がずらりと陣取り、イベントの開始を手拍子しつつ待っている。投光機《とうこうき》に照らされたゴール地点には、赤いマントを着せてもらってイスにかけた大河《たいが》と、彼女をグルリと囲んで守るように並んだ生徒会と実行委員。誰《だれ》も宝に近づけまいとでも言うように、頑固《がんこ》に「休め」の姿勢で出場者たちに睨《にら》みをきかせる。
スタート地点では、既《すで》に暗闘《あんとう》が始まっていた。当然みんなが仲良く横並びにスタートできるわけではなく、全員が少しでも有利な前方の位置を取ろうとして、
「押すなよっ!」
「うるせぇ、俺《おれ》は陸上部だ! 鈍足《どんそく》は邪魔《じゃま》だぜ、どいたどいた!」
「なにぃ!? 言いやがったな、てめぇこそ下がれ!」
「ちょっとー! 私たち女なんだから押さないでよ!?」
「転んで泣きたくなきゃトロい女ははじっこに行ってろ!」
「つーか女は出るなよ、マジで邪魔なんだから!」
「はあ? むかつくー!」
「死ね!」
肘《ひじ》で押しあい、足を踏みあい、肩で競《せ》りあい、非常に陰険なことになっている。が、
「──うおつ!?」
「……ま、マジかよ……高須《たかす》くんも出るのか!?」
ひとりの男の登場に、人垣は見事にモーゼing。慄《おのの》きながらもぱっかり二つに割れ、そいつは悠々《ゆうゆう》とスタート地点の最前線《さいぜんせん》に仁王立《におうだ》ちする。もちろんその名は、高須|竜児《りゅうじ》。小さな瞳孔《どうこう》をカタカタ揺らし、眼差《まなざ》しには「狂」の一文字。乾いてかさつく唇をペロ……と舐《な》め、あたりを圧するみたいに見回す。
視線だけで、周囲からはさらに人波がサーッと引いていった。普段《ふだん》なら傷つくシチュエーションだが、このときばかりは狙ってやった。本気で、一番になろうと思っていた。
誰より早く、大河のもとへ行ってやりたかった。びっくりして、一度死んで、そして真っ白になった竜児の腹は、今はまっすぐに定まっている。竜児は、死ぬほど怒っている。
大河をお姫《ひめ》さま、と呼んだあの男を、くしゃくしゃに丸めて捨ててやりたかった。大河と一緒《いっしょ》に罵《ののし》ってやりたかった。おまえなんていらない、と。おまえなんか、王様失格だ、と。この手で大河の頭にキラキラ輝《かがや》くティアラを授けて、おまえの手なんてもう二度と必要ない、と叫んでやりたかった。折れそうな大河の背に手を添え、大河がこれから先何十年も百年も、ちゃんとひとりで歩いていけるように力を添え、そうしてあの王様を完全なるゴミにしてやる。ついでに馬鹿《ばか》だった自分も捨てる。そうして生き返ってみせる。おまえももういらねぇんだ。
そのためになら、なんだってしてやる──そうしなければ、愚《おろ》かだった自分のことを一生許せない。二度と大河《たいが》の前にツラを出せない。
「注意事項がいくつかある! まずみんな、とにかくケガには気をつけてくれよ! ゴール地点にはクッション材を配置してある!」
スターターを務める北村《きたむら》が、ゴール地点を指差した。そこには確《たし》かにクッション材が配されている。
「ごっつぁんです!」
……ふくよかにして強靱《きょうじん》なるボディをもつ相撲部《すもうぶ》の部員たちなのだが。こんな季節に付き合いよく、アウトドアでまわし姿、真っ白な素肌を晒《さら》して脇《わき》の下をポンポン嶋らす。腰を落とし、股《また》を開き、じりじりと素足でにじり寄り。福男は我々《われわれ》がこの肉で受け止める、そんな強い意志を感じさせつつ、両手を広げて待ち構えている。ちょっとやじゃない……? と引く女子が一名、いや、かえってあれは萌《も》えだわあたし、と盛り上がる女子も一名。
どっちでもいい。相撲部だろうがアメフト部だろうが、その厚い胸板に真っ先に飛び込んでやるのはこの俺《おれ》だ。……少々誤解を招きそうなことを考えている竜児《りゅうじ》も一名。
「そして、コースを説明するからよく聞いてくれ!」
コースって、見てのとおりトラック半周だろ? と誰《だれ》かが言うが、北村は「否《いな》!」と眼鏡《めがね》を光らせて一言に斬《き》り捨てる。そして片手で合図をすると、
「おおっ!」
「すげえ、金かかってる!」
出場者たちが居並ぶスタート地点の足元から、一気に点灯したライトが道しるべとなって、ゴールまで出場者を導《みちび》く輝《かがや》けるラインとなる。が、
「確かにすごいんだけど……ていうか、これおかしくねぇ?」
「なんかライン、トラックに沿ってねえし、校舎の先で一旦途切《いったんとぎ》れてる?」
「よくぞ気がついた!」
北村はあくまでも得意げだった。鼻をフン! と膨《ふく》らませ、
「福男のコースはライン伝いにまず直線《ちょくせん》! 続いて旧校舎の袋を通り抜け、昇降口の脇から再びグラウンドに戻って、ゴールまでさらに直線だ! 一気に全力で駆け抜けろ!」
胸を張って宣言する。たちまち「はあー!?」と反駁《はんばく》の声が湧《わ》き上がる。
「待て待てバカ生徒会! 旧校舎裏って、あの片側フェンスの幅の狭い空間を走れっちゅーのかよ!? この人数で!」
「しかも昇降口の脇って、階殺だろ!? あそこもめちゃめちゃ狭いぞ!」
「……直線で頑張ればいいじゃないか。さて! それではそろそろ用意はいいか!?」
まったく意に介さない北村の声に、全員がこれ以上の議論《ぎろん》は無駄《むだ》と悟る。嫌《いや》なら出るな、そういうことか。
竜児はざわめく群れの中で位置取りをしつつ、コースの先を睨《にら》んだ。不満ならどうぞやめろやめろ、なんなら全員やめてもいいぞ。
距離《きょり》はそれほど長くはない。問題は旧校舎裂に飛び込むときだ。あそこはまるで狭いトンネル、あの内部で抜き差しの勝負はつくまい。とにかくトップで飛び出して、真っ先に旧校舎裏に侵人し、自分が栓《せん》となって誰《だれ》にも先行させなければいいのだ。その後の直線《ちょくせん》は──運を天に任せる。そこまでにどれだけリードを取れるかだ。これでも一応元運動部、中学三年問はバドミントン部だった。それほど足は遅くはない。竜児《りゅうじ》は唇を噛《か》み、おそらくは一番の強敵、普通に走っては多分《たぶん》勝てない陸上、部員たちの位概を確認《かくにん》する。睨《にら》みを効かせ、俺《おれ》より前に出るんじゃねえ、と凶眼《きょうがん》企開でじわじわ圧する。
「位置について! ──用意っ!」
きっ、とまっすぐ前を見る。……背後でなにやら行なわれている不穏《ふおん》な相談《そうだん》ごとには気がつかない。プロっぽいクラウンチングスタート組をさりげなくケツで牽制《けんせい》しつつ、シューズのつま先でギリギリまでスタートラインを踏み、
「スタート!」
──パンッ! とピストルが弾《はじ》けた。
竜児は文字通り命知らずの鉄砲玉の如《ごと》く飛び出す。一直線に走り出し、
「おうっ!?」
いきなり、してやられた。後ろから誰かがシャツを引っ張ったのだ。バランスを崩す。浮い
た足を誰かが払う。高須《たかす》くんから潰《つぶ》しとけ! みんなでやりゃーバレやしねぇ! そんな声が耳をかすめ、
「てっ、てめえら……っ!」
竜児はコースに倒れ込んだ。ご丁寧《ていねい》に、尻《しり》を思いっきり踏んづけられる。起き上がろうとして、土ぼこりが目に入る。
「く……くっそ……!」
そっちがその気なら、こっちだってただではやられてはいない。
「負けて、らんねぇんだよっ!」
土を掴んで素早《すばや》く起き上がりざま、身体《からだ》の脇《わき》を駆け抜けていく卑怯者《ひきょうもの》どもにブチまけた。もちろん目だ、目を狙って。「うわ!?」「いてててて!」数人が顔を押さえてフラついたところをまとめて抜き去る。ついでに手が屈いた奴《やつ》の背中も引っ掴み、
「悪く思うなよ!」
「うわわわわ……!」
力任せに引き倒す。そいつの巻き添えでもうひとりこけ、隠しきれないラッキーの笑《え》み。これで完壁《かんぺき》悪役の仲間入りだ。それがどうした、洗脳してやったっていいのだぞ。なにしろこちとらヤンキーの高須《たかす》、生まれたときから悪役ヅラを貼《は》りつけて強くしぶとく生きてきたのだ。
「うわあ!? 高須くんが生き返った!」
「こぇぇぇぇぇぇ────っっ! 顔がこぇぇ!」
「おらおらおらおら!」
観客席《かんきゃくせき》からも「ぎゃー!」と悲鴨が上がる。どうやら真下からコースを照らすライトがいい具合に相乗効果、全力|疾走《しっそう》する竜児《りゅうじ》の本気顔を禍々《まがまが》しくも怪しくヤバく、おどろおどろに薄闇《うすやみ》の黄昏時《たそがれどき》に浮かび上がらせてくれているらしい。振り返った奴が竜児の顔を見て勝手に足をもつれさせる。これで戦意|喪失《そうしつ》三人目、
「……おまえの名前を知っているぞ、おまえは確か……」
「うわああああすいませぇぇんっ!」
背後から耳元で囁《ささや》いてやって、驚《おどろ》いてこちらを見た知らない奴も転ぶ。これで四人日。だがまだまだ、目の前には何人もの野郎どもの頭が連なっている。さすがに陸上部の連中は速く、そもそも元のスピードが違う。スタートでの失敗はやはり痛い、痛すぎた。
「ち、くしょおおおおおおおお!」
「ぎゃああああ般若《はんにゃ》ー!」
五人目、と思いきや、叫んで尻餅《しりもち》をついたのは観客席の女子中学生だった。惜《お》しい、竜児は舌打ちしつつ、コースを睨《にら》む両目を眇《すが》める。先頭集団の奴らは、早くも校舎裏に飛び込んでいく。次々と姿を消していく。
やばいやばいやばいやばい、入られてはもう追い抜きができない。卑怯な手段も使えない。どうすりゃいい、わからない、とにかく順位は変わらぬまま竜児も狭いカーブにスリップしかけながら進入し、真っ暗な洞《ほら》にも見える片側フェンスの校禽裏へと飛び込んだ。
そして、
「おう!?」
「チッ! 仕損じた!」
大河《たいが》の後《うし》ろ回《まわ》し蹴《げ》りが目の前に跳んできた──かと思ったのだ。だが襲い掛かったブツのスピードは予想よりぬるく、危《あや》ういところでマトリックス。仰《の》け反《ぞ》って、目の前に突然突き出されたなにかをギリギリ避ける。
そのまま後ろに転がって、体勢を立て直して理解する。誰《だれ》かの手だ。フェンスの隙間《すきま》から突っ込まれた、腕。
「なんだてめえらはぁ!?」
「悪いが通さん! バスケ部以外は闇に葬《ほうむ》る!」
「あっバカ! 正体がバレる!」
一体いつの間に潜入《せんにゅう》していたのか、フェンスの向こうには怪しいタオル覆面《ふくめん》の野郎どもがズラリと並び、暗がりに乗じ、なにもわからずに突っ走ってくるミスター候補たちを引きずり倒しているのだ。見れば先には点々と、コケて踏みつけにされた奴《やつ》らが倒れ伏している。
「ふ、ふざけんな! 後で絶対先生に言うからな!」
「好きにするがいい! とにかくこの先は絶対通さねえぞ! おっと、またひとり来た!」
「来い来い、あいつフットサルの奴だ!」
竜児《りゅうじ》のすぐ後をついてきたひとりが、「うわあっ!」……無残にもフェンス裏の怪人どもの餌食《えじき》になる。なんという奴ら、しかしこんなところで時間を食うわけにはいかないのだ。とにかく前へ進むしかない。竜児は再び駆け凪して、
「いでっ!」
「おう! 悪い!」
倒れている誰《だれ》かのケツを踏む。が、立ち止まっている暇《ひま》はない。片側はじめじめ湿った古いコンクリの四階建て校舎、片側は怪人|跋扈《ばっこ》するフェンス。少しでも速度を緩めれば、
「ヤンキー高須《たかす》! 噂《うわさ》では実際はそこまで怖くねえらしいな!?」
「ああ、てめえらの方がよっぽどこええよ!」
フェンス裏を伴走《ばんそう》してくる奴らが次々に鉄線《てっせん》の間から腕を突っ込み、がむしゃらに服でも髪でも掴《つか》んでくるのだ。しかも足元には、
「うわわわ……っ!」
倒れた奴が障害物となって、竜児の足を引っ掛ける。転びかけてすれすれでたたらを踏む。
背後ではさらに誰かの悲鳴が響《ひび》き、前方でも障害物につまずいてコケて折り重なる奴がいる。ここはまさに地獄《じごく》の一丁目、もしくは人間版ゴキブリホイホイ。
「くっそ、めんどくせえっ!」
ホップ、ステップ、で竜児はフェンスに飛びつく。二メートルほどの高さをその勢いのまま素早《すばや》くよじのぼり、てっぺんにグラつきながらも立ち上がり、
「そんなんアリか!?」
「い、今の俺に話しかけるんじゃねえ!」
唖然《あぜん》と見上げる奴らより、やってる本人が一番こわいのだ。ヒー! と涙目、声にもならない悲鳴を上げつつ、幅数センチ、先も見えない暗がりを、竜児は一気に走り抜けるつもり。下を見るな、落ちるな俺、死ぬ気で自分に言い聞かせ、
「ええい小賢《こざか》しい、引《ひ》き摺《ず》り下ろしちゃえ──あいたたたた!」
もはや無我《むが》の境地《きょうち》、足首を掴もうと伸びてくる手も容赦《ようしゃ》なく踏みにじる。恐怖心も踏みにじる。一番になる。それだけだ、持っていていいものは。一番に大河《たいが》のもとへたどり着く。この先にあるのは、その想《おも》いだけだ。
下の真っ暗なコースでは、コケた奴につまずく奴らが続出。折り重なって団子《だんご》状態になり、後続が詰まる。渋滞《じゅうたい》発生、これが勝機《しょうき》だ。グラつく足元を必死に立て直し、
「は!? ヤンキー高須!? マジで? そこまでやんのか!?」
「やるんだよ!」
「なんのためにだよ!?」
「いろいろあるんだ、ほっとけ!」
竜児《りゅうじ》を見上げて驚愕《きょうがく》する団子《だんご》のグズどもをついに抜いた。もしかしなくても竜児がトップ、凄《すさ》まじい集中力でなんとかそのままフェンスの上を駆け抜け、旧校舎の切れ目からはコースの光が差し込んでくる。ゴールまで続くラインが輝《かがや》く。フェンスを蹴《け》って、飛び降りる。確《たし》かになった足元を全力で踏みつける。
暗闇《くらやみ》から誰《だれ》より先に飛び出して、急カーブを先頭、膨《ふく》らみつつもターン、四段の階段を一気に跳んで──
そのとき。
「……っ!」
逢坂大河《あいさかたいが》は、イスから立ち上がった。
人形みたいだった頬《ほお》に、鮮《あざ》やかな薔薇色《ばらいろ》が散る。
わずかに濡《ぬ》れて見開かれた瞳《ひとみ》には、たったひとりの男が映っている。
トップで走ってくる奴《やつ》は、自分のもとへ一番に飛び込んでくる奴は、そいつは──
「りゅ……」
そのとき。
「あっ!? うっそ!? 高須《たかす》くん高須くん高須くんだよきゃあああああーっ!」
「ほんとだほんとだ一番だすっごーい! すっこいすっこいがんばれぇっ!」
巻き起こる歓声《かんせい》の中、一際甲高《ひときわかんだか》い声を上げ、手を叩《たた》いてジャンプするのは木原麻耶《きはらまや》と香椎奈々子《かしいななこ》。その少し後ろで、ベンチコートを羽織《はお》った川嶋亜美《かわしまあみ》が呟《つぶや》く。
「……へーえ?」
腕を組んで呆《あき》れ顔《がお》、しかしその瞳に、不思議《ふしぎ》な熱《ねつ》を帯びた光が踊る。
そのとき。
「あれっ!?」
居並ぶ観客《かんきゃく》たちの数人が、事態に気づいて目を丸くする。信じられない展開に、誰かが低く一言|呟《つぶや》く
「……は、はえー……」
誰より早くグラウンドに戻ってきた、と竜児が確信《かくしん》し、観客も確信したそのときだった。
油断しきった右後方、コンパクトに急力ーブを走り抜け、音もなく竜児を抜き去る影《かげ》。そいつは一足先に階段を跳び、片足で着地、確《たし》かなキックで地面を蹴《け》り、低い位置で一瞬《いっしゅん》振り返り、目を細めて囁《ささや》いたのだ。
「──遅いね」
「……く!?」
櫛枝《くしえだ》、実乃梨《みのり》!?
結ばぬ髪を風に躍《おど》らせ、実乃梨は竜児《りゅうじ》を冷たく煽《あお》り、すぐに身体《からだ》を翻《ひるがえ》す。本気走りの男子でも追いつけない驚異《きょうい》の速度で、空跳ぶみたいに軽々と直線《ちょくせん》コースを突っ走る。振り向きもしない。突き放される。置いていかれる。光のラインはいまや実乃梨のために輝《かがや》き、実乃梨をゴールへ一漁線に導《みちび》く。
負けられない──竜児の心臓《しんぞう》にさらなるガソリンがぶちこまれる。
絶対、絶対、負けられない。負けられないんだ、おまえには。
ちゃんとその目を開けて見た? 実乃梨は竜児にそう問いかけた。
開けていたとも。
見聞違えたとも。
「くっそ……くっそー! くそくそくそ、畜《ちく》、生《しょう》────っ!」
間違っていたのは自分だった。実乃梨の心を疑った。よく考えてみればわかるじゃないか。毎晩|大河《たいが》を外食に連れ出したあの野郎。大河は顎《あご》にニキビを作り、胃を壊《こわ》しかけていたではないか。通行止めだから、と竜児《りゅうじ》を迎えに呼び出したあの野郎。自分で車を道路に置いて、送りにいくのは嫌《いや》だったわけだ、大河《たいが》に分不相応な大金を与えるあの野郎。金が足りない、という連絡が来ないようにだろう。決して家で手作りのものを食おうとはしなかったあの野郎。大河はなにも作れないし、自分が支度《したく》するのは面倒《めんどう》だからか。約束を反故《ほご》にする謝罪《しゃざい》さえ、竜児|宛《あ》てのメールですませたあの野郎。大河に直接|謝《あやま》ることもできないあの野郎。最初っから面倒なことは、すべて投げ出していたわけだ。あの野郎、あの野郎、あの野郎──ヒントはいくらでもあったのに!
竜児の目は、全部を見落としていたわけだ。自分のことばっかり考えて、なにひとつまともには見えていなかった。畜生《ちくしょう》なのは、自分自身。なんというバカ男。なんというアホ犬。大河を傷つけて、実乃梨《みのり》を疑って、この手はなお遠くその背に追いつかない。ここで負けたら、本当にただの馬鹿《ばか》野郎で終わってしまう。負けられないのだ、絶対に。
先を行く実乃梨は真剣そのもの、ぐんぐんスピードを上げて直線《ちょくせん》コースを突き進んでいく。竜児の背後に迫る奴《やつ》らが息を上げながら喘《あえ》ぐのが聞こえる。
「あの女、めっちゃくちゃ足はええ! くっそ、女はノーマークだった!」
「つーか女ソフの部長じゃねぇかアレ!」
「奴ははええぞ、潰《つぶ》されないように隠れてやがったんだ!」
軽《かろ》やかに走り抜けていく実乃梨の背中を、竜児も、そして他《ほか》の奴らも必死に追う。ゴールはともはや目前、スタミナで劣る実乃梨の背がわずかに近づく。だが背後から迫る足音もどんどん近づく。不意にコース脇《わき》から人影《ひとかげ》がのそりと近づくのも見える。対処できない、一体なにが、と竜児が目を見開いたそのとき、
「いい!? うわうわわ!? ひぇぇぇぇぇぇぇ────っっ!?」
トップ独走状態だった実乃梨が叫ぶ。接近してきた怪人物は、引きずって隠し持ってきていたらしいハードルをコースのド真ん中、実乃梨の目の前で起こしたのだ。陸上部員なら多分《たぶん》跳べるその障害物、多分犯人は陸上部。それはあっという間の出来事で、実乃梨はハードルを飛び越えようとするがバランスを崩し、突っ込むままにハードルを蹴り倒し、思いっきり転倒する。土煙がもうもうと上がる。もちろんそのすぐ後に迫っていた竜児も、
「あああああ危ねぇぇぇぇぇ───っっっ!」
倒れた実乃梨を避《さ》けようとして、横っとびにコースアウト、無念のすっ転び。コースに顔からぶっ倒れ、頬《ほお》が焼けるみたいに熱い。実乃梨はそれを見もせずに、バッタみたいに跳ね起きる。竜児もそのままクルリと前転、止まることなく走り出す。何度コケたって立ち上がってみせる。あいつみたいに──だが、痛恨《つうこん》のタイムロスであった。ひとり、二人《ふたり》、三人に抜き去られ、実乃梨はあっという間に四位転落、竜児は五位に。なにも考えず、ひたすら全力で突っ走る。まだ諦《あきら》めない、足も止まらない。しかしゴールはすぐそこに、今にも先頭の奴は飛び込もうとし、
もうだめか──
「櫛枝《くしえだ》せんぱ───いっ! これを────っ!」
観客《かんきゃく》の中から、そのとき白い物が放られた。実乃梨《みのり》は反射的に手を伸ばしてキャッチ、それは軟球、実乃梨は走りながらもそれを見て、先頭を行く奴《やつ》の後頭部も見て、
「……ぅおっしゃあぁぁぁぁ!」
唐突《とうとつ》なステップ。
両足が大地を掴《つか》む。背がしなる。右腕が全身のバネを乗せて豪速《ごうそく》で回転する。アンダスローで放たれた白球はまさに矢となって風を斬《き》り、弾道は一旦《いったん》沈んで光のコースを擦《こす》り、ふわりと浮いてスピンをかけつつまっすぐ的《まと》をぶち抜いた。
「いっ!」
「てぇぇぇっ!」
それは凄《すさ》まじく精密な、計算し尽されたストレート。まずは先頭の後頭部にテーン! と音を立てて一撃《いちげき》、弾《はじ》かれて二位の額《ひたい》にも跳ねる。二人《ふたり》は突然の衝撃《しょうげき》にそのまま膝《ひざ》から崩れ落ち、なんて奴だ!? と目を剥《む》く竜児《りゅうじ》の目の前、
「ナウシカくん頼む、行ってくれ! 大河《たいが》のために行ってくれ!」
誰《だれ》がナウシカくんなのか。言葉はふざけてこそいたが、声も視線《しせん》も真剣だった。実乃梨の目は、竜児だけを貫《つらぬ》いていた。そして次の瞬間《しゅんかん》、スライディングで前方に飛び込んだ。三位の奴の足元にしがみつき、
「死なばもろともアターック!」
「はあああ!? ふざけんなあああああ!」
悲鳴とともに、二人は絡まって転がる。竜児はその意図を理解する。先に行け、と。自分より先に行け、と。
大河のもとへ誰《だれ》より先におまえが行け、と──
「櫛枝《くしえだ》……っ」
地鳴りみたいな大歓声《だいかんせい》。
叫び声、文句、どよめき。
「ぃやったぁぁ〜〜〜〜〜っ!」──大興奮《だいこうふん》でグラウンドになだれ込む奴ら。
そのとき。
大河は立ち上がったまま、その展開を見つめていた。
真っ先にゴールへ飛び込んでくる、と思われた奴《やつ》は、その足をコケそうになりつつも一旦《いったん》止めたのだ。そしてコースを数歩分戻り、折り重なって倒れた二人《ふたり》の下敷《したじ》きになっていた方──ジャージ姿の女子を引っ張り出した。
彼らは、顔を見合せた。
なにも言わず、そのまま再び走り出した。
どちらからともなく手を取って、そして、追いすがる後続をギリギリで振り切り、同着一位でゴールに飛び込んだ。
大河《たいが》は、ゆっくりと再び、イスに腰をかけた。
その手は震《ふる》えていない。その足も震えていない。両目を開けてしっかりと、二人の顔を刻み込む。それでも波打ちそうになる心の地平を力いっぱい踏みしめて思う。ただ一言、大丈夫、と。巻き起こる歓声《かんせい》と拍手に頭が痺《しび》れた。「卑怯《ひきょう》だろ!?」「どっちがだよ!」そこここで巻き起こる荒っぽい言い争いが騒《さわ》がしかった。全部ひっくるめて祝福しちゃぇ的な、さらに大きな声援に圧倒されそうだった。そのすべての中心で、大河は、立ち上がったことなどないような顔をして、瞳《ひとみ》を静かに再び伏せる。そのイスに、座り続ける。
その髪に、ティアラが乗せられる間中、ずっと。
並んで一緒《いっしょ》にティアラを掴《つか》み、手を重ねあう二人が、大河の顔を気遣《きづか》わしげに覗《のぞ》き込む間中、ずっと。
大丈夫……口の中で繰り返す。ほんのちょっとの自負もある。そんなに心配しないでいいよ。見てたでしよ。私はひとりでも立ち上がれるから。
私はひとりで、生きていけるから。
***
「やったー! やったー! やったよー! 俺はやった俺はやった俺はやったよー!」
音を立てて爆《は》ぜる大きな炎の前で、実行委員、いや、総監督《そうかんとく》・春田《はるた》は歓喜の小躍《こおど》りを続けていた。よほど嬉しかったのだろう、クラス展示とミスコン、福男、すべての部門を2−Cは制し、ついに総合|優勝《ゆうしょう》を果たしたのだ。
福男の興奮《こうふん》を引きずったまま、グラウンドではつい先ほど賞品《しょうひん》授与式が行なわれ、春田の手には巨大な目録《もくろく》が誇らしげに掲《かか》げられていた。一日限りのお祭り騒ぎに最後まで付き合ったたくさんの生徒たちの姿を照らすのは、中央に焚《た》かれたキャンプファイヤー。後夜祭《こうやさい》が幕を開け、藍《あい》に染まった夜の天には数え切れない輝《かがや》く火《ひ》の粉《こ》が踊る。
ベンチコート姿の亜美《あみ》も春田の傍《かたわ》らで少々ショボ目の優勝カップを抱え、
「や〜ん、もう、ほんっとにうれしいよぉ〜! やだな、なんか涙が出ちゃいそう……」
クネクネとぶりっこ鉄仮面装着、嘘泣《うそな》きオプションも装備。囲む2−Cの面々は、口々に「亜美《あみ》ちゃんお疲れさまだね〜!」「亜美ちゃん泣かないで〜!」「あたしも感動してきちゃったよ〜!」「みんな頑張ったよね〜!」「春田《はるた》も春田のくせによく頑張った!」──根っから揃《そろ》って人がいいのだ。女子の中にはチラホラと本当に涙を浮かべている者もいる。そんな感動の坩堝《るつぼ》のど真ん中、したり顔で春田は頷《うなず》き、
「それで俺、思ったんだけどさ。今回のMVPって……ゆりちゃんじゃないかな」
「……えっ!?」
生徒たちの輪《わ》から少し離《はな》れて立っていた独身(30)を指差す。独身(30)はビクッ! と肩を震《ふる》わせる。一斉に振り返る生徒たちの目はなるほど、と頷き交わしながらキラキラと純粋に輝《かがや》き、
「……そういえばそうだよな……」
「そもそもゆりちゃんがプロレスショーを提案してくれたんだし」
「みんな頑張ったけど、やっぱりゆりちゃんが頑張るきっかけを作ってくれたんだよね」
「同感。MVPはゆりちゃんだ!」
「ゆりちゃん、ありがとう!」
「……ゆりちゃん、どうしたの?」
不意の注目を浴びて、独身(30)は苦悶《くもん》の表情でフラフラと足元を怪しくした。炎に照らされた髪はなんだか妙にパサついて、そのまま疲れ果てたように片膝《かたひざ》をついて眉間《みけん》を擦《こす》り、
「ん、ちょ、ちょっとね……自分の器《うつわ》の小ささが嫌《いや》になっただけだよ……いやだね、大人《おとな》って、本当に……」
生徒たちの目を見ることも叶《かな》わない。そっと歩み寄り、手を貸してやったのは亜美だ。
「先生しっかり、気を確《たし》かに。……ていうかぁ、先生、今思ったんですけどぉ、どうしていつもべージュなんですか? 服」
「……み、三十路《みそじ》だから……」
「やだ〜! 超ウケる〜!」
独身(30)の目に、じわっと涙が滲《にじ》む。あらゆる感情が入り混じった、それは一番ダシ並に濃厚《のうこう》な涙だ。自分だって、自分が…三十路なんて超ウケるよ──げっそりと肩を落とし、目の下にしわっとあってはならない影が浮かぶ。が、
「先生、ベージュあんまり似合わないですよお? 肌に透明感があるから、明るいパステルカラーの方が絶対いいと思うけどなあ〜。それに先生ってスタイルいいから、身体《からだ》のラインを出さなくちゃ。武器ですよ、ぶ・き。ていうか、今どきの三十でそんなに地味《じみ》にしてる人いないですって。独身なんだから、ラブもおしゃれももっと貪欲《どんよく》に楽しみましょうよ※[#ハートマーク]」
「か、川嶋《かわしま》さん……」
「こないだ見ましたよぉ? 学校出るとき、ガーデンパーティ持ってたでしょ〜? おニューですよね、超いい感じでしたぁ! あれいいな〜……あー!?」
ベンチコート姿の天使は、独身(30)に抱きしめられる。ありがとう、ありがとう、ありがとう……独身(30)は何度も繰り返す。
なんて麗《うるわ》しい光景なのだろう──二人《ふたり》を囲んで2−Cの生徒たちは感動の拍手|喝采《かっさい》。春田《はるた》は独身(30)の肩を抱き、さりげなく亜美《あみ》の肩も抱き、
「ゆりちゃん先生も、打ち上げ、来てね!」
「い、行っていいの? 悪いことできないよ!?」
「いいっすよいいっすよ、ぜんぜんいいっすよ、元からファミレスで健全にやる予定だし」
「私行くと平均|年齢《ねんれい》グッと上がっちゃうけどいいの!?」
「超余裕っすよそんなの」
騒々《そうぞう》しい奴《やつ》らの傍《かたわ》らで炎は二メートルほどにも燃《も》え上がり、地面に影《かげ》がゆらゆらと躍《おど》る。他《ほか》のクラスの奴らもみんな顔をオレンジに照らし出され、楽しそうだったり、ぐったり疲れていたり、笑ったり喋《しゃべ》ったり火を眺めてたり座り込んだり、それぞれのやりかたで終わりゆく狂乱の文化祭を惜しんでいた。他校の制服の女子となにやら盛り⊥がっている男の集団もいるし、やはりクラスで集まってなにかやっている奴らもいる。男女二人でくっついて座り、雰囲気出してる奴らも少なからずいる。実行委員はテントの下で早くも涙涙のお疲れ会状態だし、生徒会も並んで机に腰掛け、文化祭最後のイベントを見守っている。
──やっと、終わったのだった。一年にたった一日限りの、大騒動が。
「打ち上げ、行くだろ。ミス文化祭」
「……ま、あんたが行っちゃったら夕飯もないしね。行ってもいいわよミスター福男」
「あいたっ!」
独身(30)を囲む輪《わ》の外《はず》れで、竜児《りゅうじ》は悲鳴を上げて跳《と》び退《すさ》る。頬《ほお》に負った名誉の負傷を、お姫《ひめ》さまに絆創膏《ばんそうこう》の上からグリグリと乱暴《らんぼう》に触られたのだ。
「ケガしてやんの、だっさ。明日《あした》連れてってやろうか? 三宅《みやけ》クリニックさんに」
「みやけ……って、それ動物病院じゃねえかよ!」
きゃーっきゃっきゃっ、気づいた気づいた、と悪魔《あくま》みたいな声で笑う大河《たいが》の頭上には、スワロフスキーでできた綺麗《きれい》なティアラがちょこん、と乗せられていた。ドレスにも天使の羽にもそれはとってもよく似合い、その姿は誰《だれ》もが見とれるほどに愛らしかった。根性と容姿《ようし》は本当に無関係らしい。それとも反比例の関係か。
誰のためのケガだ、と竜児はそんな大河を睨《にら》む。
大河はつん、と傲慢《こうまん》に目を眇《すが》め、唇に毒を含んで笑う。
そう、笑ってやがるのだ──ずっと待ち続けた父親が逃げたと知っても、メールを見ても、今夜の大河はいつも以上に小憎《こにく》たらしく笑っていやがる。見せろと請《こ》われてメールを見せたその瞬間《しゅんかん》こそ、「でぇいっ!」……携帯《けいたい》を力いっぱいどこぞにプン投げられたとあせったが、すぐに大河は「……なんてね」と笑い、手の中にちゃんと握られたままのそれを見せた。そうやって竜児《りゅうじ》をからかい、あせらせて笑い、大河《たいが》は炎の輝《かがや》きを全身に浴びて、今も優雅《ゆうが》にミニのドレスをひらめかせているのだ。
こっちの心配も知らないで──竜児はもはや息をつくしか能がない。
「ったく……どこまでタフなんだよおまえは。絶対ヒステリー起こすと思ったのに」
「あんな奴《やつ》、最初からどうでもよかったんだもの。いいんだ、本当に、別にどーでも。なにも変わらない。それよりあんたこそ、孤独な私の目の前でよくも堂々《どうどう》とみのりんとイチャついてくれたわね。いつの間に仲直り、したわけ?」
「……いや、それは……」
仲直り……は、していないと思う、実乃梨《みのり》は二人《ふたり》とは離《はな》れ、他《ほか》の奴らと談笑《だんしょう》している。チラ、と見て、目を逸《そ》らし、頭を掻《か》き、そういえば混乱の中で手を繋《つな》いだような気もする。この手を──思い出そうとした瞬間《しゅんかん》、唐突《とうとつ》に身体《からだ》に震《ふる》えが走る。頬《ほお》が燃《も》えるように熱《あつ》くなる。
そうか。手を、繋いだんだっけか。
「お……おう……っ」
「な〜にが、おう、よ。おまえはホークスファンか、このうすらぼんやり野郎。こんなとこでもっさりニヤけてないで、さっさと謝《あやま》ってきな鈍《どん》グズ犬! 約束したでしょ!」
大河に背中をど突かれるまま、反撃《はんげき》することも叶《かな》わない。いたいいたい、と呻《うめ》きながらユラユラ逃げ回ろうとしたそのとき、
「……あ?」
「……音楽だ」
スピーカーから流れ始めたのは、ちょっと伸びたテープの、有名なワルツ。リズムを刻み、炎が照らす秋の夜空に、のんびりとした音符が踊る。
そういえば、と、竜児はちょっと笑った。その拍子、頬《ほお》の傷が引っ張られて痛む。福男の賞品《しょうひん》には確か、あんなものもあったっけ。あんなもの──
「櫛枝《くしえだ》に謝《あやま》りに行くけどよ。その前にさ、」
大河の瞳が強く光った。炎を映して熱く煌《きらめ》き、燃える宝石みたいに見えた。ガラじゃねえけどと、言《い》い慣《な》れ岨言葉を吐きかねる唇を舐《な》め、竜児は大河に手を差し伸べる。たまにはこんなのもいいではないか。
「俺と、」
しかし。
「……み、の、り────────────んっ!」
竜児の言葉を完全無視、力いっぱい遮《さえぎ》って、大河は思いっきりの大声で親友を呼ぶ遠吠《とおぼ》えみたいにそれは響《ひび》き、反射的に実乃梨は振り向き、
「なになになに!? どしたどしたどした!?」
大河のもとへ走ってくる。その喉《のど》を擦《こす》り、額《ひたい》を擦り、嘗《な》め回しでもしそうな勢いで髪から首から撫でまくる。
「みのりんみのりんみのりーん! 好き好き好き好きだーいすきーっ!」
「あいあいあいあいあい、わかったわかったわかった! あー大河《たいが》かわいいねー! ティアラがとってもよく似合うねー! お姫《ひめ》さまだね世界一だねかわいいかわいいかわいいよー」
「みのりんがくれたティアラだよー、だからすっごく嬉《うれ》しいんだよ〜」
「私だけじゃなくて、高須《たかす》くんも一緒《いっしょ》に一位だったんだよ?」
「それ知らない。なにも見てない、聞いてない」
いつもどおりに大河は動物化して、顔中|絆創膏《ばんそうこう》だらけの実乃梨《みのり》に全力でしがみつく。首のあたりの匂《にお》いをクンクンかいで、自分の顔を擦《こす》りつけ、安心しきったみたいに身体《からだ》の力を抜く。
なにをやっているんだか──そんな様子《ようす》に竜児《りゅうじ》は呆《あき》れ、もはや笑うしかなく、
「……ふはは……くすぐったいよー」
実乃梨もいつしか笑っていた。竜児の目を見て、視線《しせん》に気づいてちょっと肩を竦《すく》め、だけど優《やさ》しく。
リラックスしていた大河は、グリン! と急に首を曲げる。ちょっと暴《あば》れて、実乃梨の腕の中から抜け出す。独立独歩、仁王立《におうだ》ちで睨《にら》みつけるその視線の先には、
「あの、川嶋《かわしま》さん。俺《おれ》と踊ってもらえませんか?」
「いやいや、ぜひこの俺と」
「ずっと憧《あこが》れてたんです。……女王さま姿に、完全に惚《ほ》れました」
流れ始めたワルツの中で、男どもに取り囲まれている亜美《あみ》の姿があった。あらゆる学年、あらゆるクラス、他校の奴《やつ》まで入り混じって、彼らは口々に熱《あつ》い崇拝《すうはい》の言葉をお伝えしていく。ご本尊・亜美は眉《まゆ》をハの字にし、差し出された何本もの手を困ったような瞳《ひとみ》でゆっくりと、しかしその実、値踏みするみたいに楽しげに眺め、
「え、ええと……やだもうどうしよう〜! 困っちゃうなこういうの、あたし、ぜんぜん慣《な》れてないからぁ〜!」
もじ、もじ、とぶりっこ鉄仮面で困ってみせている。燃《も》えるキャンプファイヤーは近づけないほどに熱々だったが、この光景は薄《うす》ら寒い。亜美の本性を知るならば特に。
「そんなに困ってるなら私が相手してやんよばかちー!」
「……いぃ!?」
大河は、じゃれつく猫みたいにビョーン! と飛んだ。そうして亜美にしがみつき、かじり
つき、
「や、やだ、ちょっと、逢坂《あいさか》さんったら! 離《はな》れてよ、ねぇ、それマジで痛いんだけど……痛いってば……」
「さあ来い、おら、私が踊ってやるってば!」
「……いーたーいっつってんだくっそちびがぁ!」
ドス黒な本性が漏れるまで、背後から肩関節を決め統ける。振り落とされ、追いかけられて走って逃げる。……と見せかけて、
「どっせーい!」
「うぐぇ!」
ラリアット炸裂《さくれつ》。まるでプロレスショーの続き、真後ろにぶっ倒れた亜美《あみ》を地面にフォールの体勢で押しつけて、周囲からは「カウントカウント!」「ワーン! ツー!」……せっかくのかわいいドレスも、天使の翼《つばさ》も、凶暴《きょうぼう》な虎《とら》にくっついていたら意味はないのだ。
止めるべきか、こうなったらもう放っておくべきか。考えるのも鬱陶《うっとう》しい。亜美ならきっと大丈夫だろう、結構|頑丈《がんじょう》な奴《やつ》だから。呆《あき》れて眺める竜児《りゅうじ》の肩を、
「……ごめんな。高須《たかす》くん」
ちょん、と控えめにつつかれる。
気がつけば、傍《かたわ》らには実乃梨《みのり》が立っていた。
横顔の輪郭《りんかく》を炎の色に染め、実乃梨は亜美とじゃれている大河《たいが》を見つめている。竜児はちょっと迷い、しかし、頭を小さく下げた。
「謝《あやま》るのは、俺《おれ》だよな。……なにもわかってねえの、俺の方だった。ひどいこと、おまえに言った。悪い。……本当にごめん」
実乃梨はあせったみたいに目を丸くし、首を横に大きく振る。
「違うんだ! ……違うんだ、高須くん」
目を閉じて、搾《しぼ》り出すみたいに低く囁《ささや》く。
「私、高須くんにわざと言わなかったことがある。……わざとそれを言わないでおいて、そうして優位《ゆうい》に立っておいて、全部わかってて責めたんだ。……説明するべきことを、しなかった。フェアじゃなかった」
言葉はそこで一度|途切《とぎ》れた。ワルツは流れ続け、しかし誰《だれ》も踊っている奴《やつ》などいない、生徒たちはみんな地面に座ったり、立ったまま誰かと向きあったり、それぞれのやり方で炎の眩しさに目を細めている。そして亜美を取り逃がし、悔しげにひとり息をする大河の前には、いつしか眼鏡《めがね》の男が歩み寄っていた。
「なあ逢坂《あいさか》。福男じゃなかったら、ダンスに誘う権利はないのだろうか」
驚《おどろ》いたように、大河は目を見開く。キャンプファイヤーが、そのとき大きな音を立てて爆《は》ぜる。炎が揺らぐ。濡《ぬ》れる瞳《ひとみ》の球面に、きらきらと瞬《またた》いて映り込む。
「それは……そういうルールは、全部生徒会が、決めるんでしょ」
北村《きたむら》はちょっと笑い、ぎくしゃくと動きを固くする大河の前に、その手を迷わずまっすぐ差し出した。
「逢坂が決めるんだよ」
大河はそれを、じっと見つめた。
「イエスか、ノーか。……逢坂大河《あいさかたいが》。俺《おれ》と、踊ってくれますか?」
竜児《りゅうじ》はその様子《ようす》を、少し離《はな》れたままで見つめていた。大河の顔の色は、炎に照らされてよくは見えない。だけどきっと、真《ま》っ赤《か》にのぼせ上がっているはずだった。音が聞こえそうなほど、心臓《しんぞう》も脈打っているはずだった。
大河と北村《きたむら》を指差して、誰《だれ》かが驚《おどろ》いたように声を上げる。生徒会の眼鏡《めがね》が手乗りタイガーを誘ってるぜ、やめとけそれは無謀《むぼう》だ、とかなんとか。おもしろがってヒュー! と口笛を鳴らす奴《やつ》もいる。だけど北村はそんなことではビクともしない。手を伸べたまま一歩も動かず、大河の返事を待っている。
「せ……生徒会の仕事は……もう、いいの?」
「いいんだよ。こんな夜には、俺は友達と踊りたいから」
ふわり、と大河の頬《ほお》に、柔らかな微笑《ほほえ》みが広がった。大きな瞳《ひとみ》が、北村の顔を静かに見つめた。揺れる。滲《にじ》む。震《ふる》える。だけど一度目を閉じ、もう一度開けたら、もはや周囲の目など気にもせずに。
「北村くん」
大河は、想《おも》い人《びと》の名を呼んだ。
「……ありがと。ありがとね。……ほんとに」
その言葉に、北村は眼鏡の奥の目を笑うみたいにそっと細めた。
「なんで礼? 変だぞそれ。友達なら、ありがとう、なんて言わないものだ」
「……そうかな?」
「……そうでもないか。で、返事はまだくれないのか?」
「ふふ。……ダンスって、どうやるんだろう?」
「手を取りあって、見つめあって、飽《あ》きるまで回り続ければいいんだ。きっと」
大河は笑った。照れたみたいに一度天を仰ぎ、そして手を伸べ、北村と手を繋《つな》ぐ。あ、あいつらデキてる、あちちー、と命知らずの誰かが囃《はや》し立《た》てる。文化祭の興奮《こうふん》のせいか、調子《ちょうし》に乗って拍手する奴もいる。
だけどそんなのは気にしない。
気にしないまま、大河は笑う。
私なら大丈夫なのに、と。
だけじ私を呼んでくれて、私に手を伸べてくれて、本当に本当にありがとうね──そう語った心の色を北村にも、誰にも見せないまま、大河は優雅《ゆうが》にドレスを揺らし、クルクルと踊り始める。
ちょうど一年前にも、大河の父親は同じように現れたのだ、と実乃梨《みのり》は言った。
炎を囲んで大騒《おおさわ》ぎする奴《やつ》らを眺めながら、竜児《りゅうじ》と並んで立ったまま。
「大河《たいが》がひとり暮らししている事情を知ってたから、私は、すごく喜んだんだ。大河はお父《とう》さんと暮らせるんだ、よかった、って。……でもね、大河のお父さんは、いざマンションを決めるってその日になって、突然『仕事がある』って海外に行っちゃった。大河はずっと待ち合わせ揚所で待っていて、結局不動産屋さんから聞いたんだよ。逢坂《あいさか》さんは、ご契約なさいませんでした。マンションの売却も取《と》り止《や》めになりました、って。……準備、っていうか、計画するのは楽しいんじゃない? 大河は喜ぶし、でも、実行する気は……ないんだよね」
「……そうか」
聞けば理解できる。
大河が絶対に父親からの電話に出なかったわけも、現れたその股間《こかん》に膝蹴《ひざげ》りを食らわせたわけも。──自分が、そんな大河の心を、揺さぶってしまったわけだ。うっかり見せてしまった傷の色で驚《おどろ》かせて。大河の話も聞こうとはせずに。
「……あいつはさ、」
沈む竜児の気持ちを慮《おもんばか》ったのか、実乃梨《みのり》は大河の父を「あいつ」と呼び始める。悪いのは竜児ではない、あいつなんだ、と言い聞かせるみたいに乱暴《らんぼう》に。
「あいつは、後妻さんとケンカすると、大河と住もう! って思うみたい。それでも結局、最終的には紳直りして、大河の方を捨てるんだよ。私、そのことがあったとき、あいつの会社に電話して怒ったんだ。そしたらなんて言ったと思う? 『親子の縁《えん》はなにがあっても切れないけど、男女の縁は切れてしまう。だから、切れないようにメンテナンスしないといけないのは男女の縁の方』……だって。最低」
「大河をネタにして、盛り上がってるだけじゃねぇか。そんなの」
「そう。……そうなんだよね、ほんとに」
実乃梨はちょっと口ごもり、夜空に噴《ふ》き上がる炎の柱を瞳《ひとみ》に映す。
「……ってことをさ、あのとき、……言い合いになっちゃったとき、高須《たかす》くんに話せばよかったんだよね。でも。……でもさ。……言いたく、なかったんだ」
その瞳はどこか寂《さび》しそう、などと思ってしまったことは、多分《たぶん》目には出さない方がいい。
「大河は、私にはなにも言ってくれなかった。高須くんだけが知ってる。そう思ったら、なんだろうね、意地《いじ》なのかね。負けたくない、っていうか……私と大河が乗り越えたあのことを、高須くんには絶対分けたくない、っていうか……それがアドバンテージっていうか……そういう気分になっちゃったんだ、高須くんはあのことを知らない、間違っちゃってる。やっぱり私の方が、大河を正しくわかってる。そんなふうに。……間違っちゃったね、私。結局、大河をもう一回、悲しませた」
「おまえが悲しませたんじゃねぇだろ。……そもそも、なんで大河はおまえに今回のことをなにも言わなかったんだろう」
「言えば、私が怒るから──大河《たいが》のお父《とう》さんのことをね、それがわかってるからじゃないかな。大河は結局、それでも、お父さんのことを人に悪く思われたくないんだよ。……だから一年前のあの出来事以来、大河は私には、家のことを、なにひとつ話してくれない」
「……そっか」
長い間の疑問がひとつ、これでやっととけた。
なぜ家事全般が得意な実乃梨《みのり》が、メタメタだった大河の生活をサボートしてやらなかったのか。竜児《りゅうじ》はずっと不思議《ふしぎ》に思っていたのだ。
大河が、実乃梨を拒《こば》んでいたのか。
困っているとSOSを出せば、実乃梨はその分、父親を憎《にく》む。……自分はいくら父親を悪く言っても、他人には言われたくないのだ。嫌わせたくないのだ。もしかしたら、多分《たぶん》、今でも。どうでもいい、と言っておくのは、それ以上の言葉に蓋《ふた》をしてしまいたいからなのかもしれない。
実乃梨は両手をちょっと上げ、お手上げポーズで肩を竦《すく》めてみせる。
「大河のことが、大事なんだ。私、だから、大河が私に話してくれないことがあるのが、本当につらい……嫉妬《しっと》しちゃうんだよ。高須《たかす》くんにも」
伸びたワルツをBGMに、その声に混じったのはかすかな自己嫌悪《じこけんお》。こういう場合、どう慰《なぐさ》めたらいいのだろう。竜児がおろおろと困るのと同時、
「……私、レズなのか?」
「えぇ……っ」
実乃梨は妙に顔を生真面目《きまじめ》にして上げ、竜児と唐突《とうとつ》に視線《しせん》を合わせてくる。冗談《じょうだん》なのか、本気なのか、光る瞳《ひとみ》はただただ滑《なめ》らかに美しい。とにかく竜児に言えることはたったひとつだけだった。
「……ち、違うといいな、と……俺《おれ》は、思うけど」
少しだけ、実乃梨は笑ってくれた。
「……そうね」
そんなふうに言って。
気がつけば、二人《ふたり》の距離《きょり》はいつかの夏の海を見ていたときより、もっと、近くになっていた。竜児がその腕を仲ばしてみれば、実乃梨の肩は多分すっぽりと腕の中に納まってしまう。
でも、でも──
「あ。……私、普通に喋《しゃべ》ってるね」
「……ん? なにが?」
実乃梨の君葉はいつだって突然で、ほんのちょっと意味が不明だ。そして、
「いいのいいの、いいんだ。だ、大丈夫だぜ。俺は大丈夫。……だ、だだ、だいじょ……」
ぶほぉっ! げっほぉ! ──いきなり咳《せ》き込む背中を叩《たた》いてやろうとし、その気配《けはい》に実乃梨は急に慌てたみたいに仰《の》け反《ぞ》る。感電したみたいに躍《おど》り上がる。あわわと震《ふる》えて、クネクネと捻《ねじ》れて、挙句《あげく》、くすぐってもいないのに「ふひー!」……腐突に叫んで笑い出し、
「あひゃあああっひゃひゃひゃあ!」
「……普通じゃねえよ! おまえ全然普通じゃねえよ!」
その場で飛び跳ねながら実乃梨《みのり》はひとりで大爆笑《だいばくしょう》をおっぱじめる。逃げていくかと思いきやジャンプ、組んだ肘《ひじ》でガンガン竜児《りゅうじ》にぶつかってくる。一体実乃梨の頭と心ではどんな事件が起きているのか、
「……誰《だれ》か教えてくれ……!」
ガードすることもままなら組まま、呻《うめ》くように天に祈ったその数秒。
「おっしゃー! 高須《たかす》に櫛枝《くしえだ》、ゲットだぜ!」
「おう!?」
「うわあ!」
数秒のフリーズ状態が、竜児の明暗を多分《たぶん》「暗」の方へ蹴《け》り落とす。突然背後から現れたのは、なんだかロマンスな雰囲気で踊っていたはずの北村《きたむら》と大河《たいが》。二人《ふたり》は繋《つな》いだ両手の中に竜児と実乃梨をすっぽり嵌《は》めるようにして、乱暴《らんぼう》に振り回す。
「うーわあびっくりしたあー!? なにをするだー!」
「はっはっは! せっかくの文化祭のラストイベント、みんなで踊ろうじゃないか!」
解《ほど》けた北村と大河の手は、それぞれ竜児と実乃梨を捕まえ、四人で強制的に輪《わ》を作らされる。北村が輪をグイグイ引っ張り、人目ありまくりの炎のそばへと連行される。
「うひゃひゃ、はずかしいよー! こんなの踊りと違うじゃーん!」
実乃梨はしかし楽しげに大笑い、一方竜児は大河の耳元に呪詛《じゅそ》にも似た言葉を吹き込む。
「せ、せ、せっかくちょっといい雰囲気だったのに! 邪魔《じゃま》しやがって!」
「やあねぇ、楽しい思い出を作りに来たのよ。……っていうか、私だって、せっかくせっかくせっかく、北村くんと二人で踊れるって思ったのにぃぃぃぃぃ〜っ」
むぎゅぎゅ、と竜児の指を掴《つか》んだ大河の手に恐ろしい力がこもる。
「いだだだだ……っ」
低い悲鳴を上げつつ、しかし竜児はそれを心強く思っていた。いや、本当に、大河が元気でなによりだ。繋いだ指も、ほら、こんなにもパワーに溢《あふ》れて……おまえだけ幸せにはさせねー、と、万力の意志で竜児の拳《こぶし》を砕《くだ》きにかかっている。
「いっだあぁあ……って、いい加減にしろよ? 本当に折れるだろ!?」
「この租度で折れる指なら、最初っから折れてた方がいいんだ!」
ないない、それはない。一方、北村と実乃梨は猛々《たけだけ》しい二人の気配《けはい》なぞ完全に放置、無闇《むやみ》やたらなハイテンションで盛り上がり、
「いよーし! 亜美《あみ》を捕獲《ほかく》しにいくぞ!」
「おーうっ! あーみん待っていろっ!」
狩人《かりうど》の目をして、哀れな獲物《えもの》を狙《ねら》いにかかる。炎は今や天に噴き上がる勢い、パチパチと大きな音で爆《は》ぜるキャンプファイヤーの前で、何も知らない亜美《あみ》は、
「ほんっと、美人だよね、川嶋《かわしま》さんって」
「彼氏いないって本当? 嘘でしょ?「
「高嶺《たかね》の花《はな》ってみんなに思われてるんだよ絶対」
「ええー? やだやだもぅ、そんなことないのにい〜! あたしって、ほんとに全然モテないんだってばあ!」
「またもう、天然だよなあ」
「でたでた天然天然、そこがいいんだけどね」
「うっそだあー!? あたしが、天然!? やーん、なんでなんで!? もー、なんでみんなあたしのことを天然とか言うかなあ!?」
──ご満悦である!
と顔に書いて、それはもう嬉《うれ》しそうに愛想《あいそ》を振りまいていた。はべらせているのは、別のクラスの男子たち。みんなそこそこにイケメン、春田《はるた》の五百倍ぐらいは理知的なご面相を並べている。
北村《きたむら》に実乃梨《みのり》、そして竜児《りゅうじ》、大河《たいが》はこっそりとそんな亜美の背後から近寄り、そろそろと腕で作った輪《わ》を持ち上げ、
「ほんとにわっかんないなあ〜、なんでなんだろうなあ〜、み〜んなに言われるんだよなあ、亜美ちゃんてほんっと天然だね〜って、不思議《ふしぎ》なんだあ〜」
上機嫌《じょうきげん》でウッフー! と笑ったところを、
「よっしゃーー あーみんゲットだぜいぇいぇいぇいぇいぇいぇいぇーっ!」
「ぎゃああぁぁぁ!? なにっ、なんなのおぉ!?」
四人がかりでがっちり捕獲《ほかく》。驚《おどろ》く男どもを蹴散《けち》らし、ゲットした亜美をズリズリと引きずってきて炎の前で取り囲む。
「へっへっへ、あーみんったら、随分《ずいぶん》楽しそうにしていたじゃないの!?」
「俺たちのことは忘れたのか2 え?」
「俺もさっきこうやって捕らえられたんだぜ……」
「なーにが『ウッフー!』だ、きっしょく悪いっ!」
亜美は往生際《おうじょうぎわ》悪くあがき、身体《からだ》を締《し》めつける四人分腕の輪の中から逃げ出そうとジタバタ暴《あば》れる。
「やだやだやだってばっ! 絶対に、やだっ! こんなイイ感じの夜に、よりによってあんたたちの仲間になりたくなーいっ!」
しかしそんな悪あがきは無駄《むだ》無駄無駄無駄。両手をそれぞれ実乃梨と竜児にがっちり握られ、輪の構成員に無理やりさせられ、しゃがんでしまおうとしても引き上げられ、
「ほらほら諦《あきら》めろ! 俺《おれ》たち幼なじみじゃないか!」
「いやあ〜! 冗談《じょうだん》じゃないよ露出狂《ろしゅつきょう》〜!」
「ばかちーこそ露出狂だね! ミスコンのときのあの変態服、一体どこで買ったんだ?」
「なにぃ〜!? あんたのために頑張って盛り上げてやったのに恩知らずちびタイガー!」
「フォーゥ、美人は手まで柔らかくてあらせられるぜぇ〜?」
「いやあー! 実乃梨《みのり》ちゃん、指の股《また》責めてくる〜!」
「諦めろ諦めろ、大人《おとな》しくお友達ごっこしようぜ」
「ぎゃあ〜! 高須《たかす》くん、なんか手が湿ってるぅぅ〜!」
「ぎゃあ、っておまえ……体質なんだよ!」
そうして五人は、キャンプファイヤーの前で、くるくると回りだす。大笑いして、大騒《おおさわ》ぎして、怒って、怒鳴《どな》って、やっぱり笑って。周りの奴《やつ》らにも「ガキみてえ」と笑われながら、炎のぬくもりに暖められて。
この夜は、特別だ。
だから、きっと誰《だれ》もが胸に秘めている想《おも》いも今だけは一時棚上げにして、特別な夜をいつまでも、いつまでも、気分だけは永久|機関《きかん》。終わりなく続くこの時を、くるくるといつまでも踊り続ける。
今夜はこの後打ち上げに行くのだ。組任まで巻き込んで、クラスの誰一人《だれひとり》欠けることなく、全員|揃《そろ》ってファミレスに行くのだ。そうしてくるくる、くるくる回りながら、みんなで輪になって盛り上がり、大笑いしながら尽きないおしゃべりをするのだ。
笑うたびに走る痛みも、このつらい夜を乗り切れれば、多分《たぶん》、きっと、本当にーやがて大丈夫になっていくと思うから。
[#改丁]
あとがき
銀行で、ツボ押し棒をもらいました。この世にツボ押しグッズは数多《あまた》あれど、その棒は特別出来が良く、手放すことができません。意識《いしき》のあるときはほとんど常に、棒で激《はげ》しく首のあたりをグリッグリしています。あまりにもE気持ちで、もうやめられんのです。私はそいつを中毒性の高さゆえに、ちょっと過激《かげき》なワードですが、「麻薬の棒」と呼んでいます。外出中に禁断症状が出て、麻薬の棒をおっ始めてしまうと、世間様の目は厳《きび》しいです。若い頃《ころ》は平凡で、誰《だれ》にも注目してもらえないことが悲しかったものですが、今は奇異の目を向けられることが哀《かな》しいです……ゆゆこ(肉……いいや、29)です。入梅《にゅうばい》を過ぎても真冬用のダウン布団《ぶとん》で寝ていたら、ちょっと痩《や》せました。
さて、『とらドラ5!』をお手にとって下さいました皆様。今回もお付き合いいただき、本当にありがとうございました! 気がつけば、五冊目です、皆様に支えられて、ここまで巻を重ねることができました。少しでも楽しんでいただけましたでしょうか? 私は皆さんに、お返しすることができていますでしょうか? 書かせていただける喜びと感謝《かんしゃ》の気持ちを、作品で皆さんにお返しできますよう、これからも全力で(寝具を替えることも忘れて)ラブコメ道にもりもり精進《しょうじん》いたします! 季節感!? 俺《おれ》の人生にはもういらぬ! そして次はできれば年内に、『とらドラ6』をお届けしたい所存であります。よろしければどうか引き続き、パワーをお貸しいただけますよう、是非《ぜひ》とも! よろしくお願《ねが》いいたします!
そして、近況をちょっとご報告……鉢植えを、いくつか買っております。買う鉢植え、買う鉢植え、どんどん枯れていっております。
いとうせいこう氏の『ボタニカル・ライフー植物生活』(新潮文庫)という、ベランダで植物を育てまくる口々を綴《つづ》ったエッセイを読みまして、影響《えいきょう》を受けまして、私も鉢植え植物を育てまくるのを趣味《しゅみ》にしよう、とさっそくあれこれ買ってきてみたのですが。どうんどうん枯れていっております。買ったそばから枯れていっております。うちの玄関に踏み込んだその瞬間《しゅんかん》から「死」が始まり、止まることなく進行していー感じです。花屋では元気に上を向いていたミニバラのつぼみちゃんは、気がつけば黒ずんで死に体です。花という花はビラの端がドドメ色に腐れ、めくれ、危うくも破滅的に身を持ち崩しています。そんなの望んでない。水も適度にあげているのに、なぜなのでしょうか。私がなにをしたというのでしょうか。病んだ植物が部屋《へや》のあちこちでタナトスなオーラをぷんぷん発し、今、私のマンションは、とっても鬱《うつ》な空気に包まれております。「負」一色です。なんだろうなあ……いやだなあ……植物たちから生命力を分けてもらってイキイキ暮らそうと思ったのに。
それでは、最後までお付き合いいただきました皆様! 本当にありがとうございました! そして担当さま、ヤス先生、私のまといし「負」の気配《けはい》に、どうか負けないで下さい!
[#地付き]竹宮《たけみや》ゆゆこ