とらドラ! 4
[#地から2字上げ]竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)精悍《せいかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)野性味|溢《あふ》れる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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1
本っ当に、かわいくないのだった。
かといって精悍《せいかん》だとか、野性味|溢《あふ》れるとか、理知的とか、そういうモンでも一切ない。
ただひたすらに、情けないツラをしていた。貧相《ひんそう》で、ぼそぼそで、みっともないことこの上なかった。
どうしようもなく、己《おのれ》は犬だった。
気がつけば一|匹《ぴき》ぽっち。歩くだけで息が切れる有様《ありさま》で、とにかく寂《さび》しくてどうしようもなかった。どうしようもなくて――土下座《どげざ》するしかなかった。
『彼女』に土下座し、ひれ伏し、懇願《こんがん》したのだ。どうか、どうか一緒《いっしょ》になってくれませんか、と。一匹ぽっちでは生きられない、どうか結婚してください、と。
仕方ない、と『彼女』は犬の頭を土足で踏みつけ、鼻から長いため息をついた。侮蔑《ぶべつ》と哀れみの入り混じった複雑な目をして唇を歪《ゆが》め、あんたがそこまで言うんなら、やぶさかではないわねえ、と。
そうして犬と『彼女』は結ばれた。
新居は高須《たかす》家《け》――匠《たくみ》の技でほら、このとおり。なんということでしょう。二階建ての借家《しゃくや》はすっかり三角屋根の犬小屋スタイルに早変わり……。
竜《りゅう》ちゃあん、ほらほら見て見てえ、こんなに赤ちゃんたくさん生まれたよぉ〜。白いのでしょお、ブチのでしょお、茶色《ちゃいろ》いのでしょお、ほら、子犬がたくさん生まれたよぉ〜。大河《たいが》ちゃん、たくさん生んでくれたよぉ〜。
やっちゃん、子犬たちのおばあちゃんになったんだねえ〜〜〜〜。
「……」
ぱか、と目を開いた。
目を開いてもしばらくはまだ、心臓《しんぞう》を搾乳機《さくにゅうき》にかけられているみたいな心地《ここち》でいた。
生まれて初めての金縛《かなしば》りから解放され、高須|竜児《りゅうじ》はもはや額《ひたい》をびっちょり濡《ぬ》らす汗を拭《ぬぐ》うことさえできない。幾度かひゅー、ひゅー、と息をして、ようやく転がり落ちるようにしてベッドから脱出。清潔《せいけつ》だが古びた畳に犬の如《ごと》く四つんばいになる。そして額をこすりつける土下座《どげざ》の体勢で腹の底から二酸化炭素を絞りだし、
「ゆ、め、かあぁぁぁぁ……っ」
それきりうめき声も出ない。硬直したまま動けない。Tシャツは冷たく汗に濡れそぼり、全身の筋肉が悪夢の名残《なごり》にいまだプルプルと震《ふる》えっぱなしだ。シャワーでも浴びた後みたいに汗が滴《したた》る髪の中に強張《こわば》る指を突っこみ、ぐしゃぐしゃとかきむしる。
――なんて夢。なんという、悪夢。
犬の己《おのれ》が人生をしくじり、大河に土下座をして一緒《いっしょ》になってもらい、犬の仔を生んでもらってしまった。これより情けない未来があるだろうか。あるなら知りたい、聞かせてほしい、この夢のショックをそうして少しでも薄《うす》れさせたい。それほどまでに衝撃《しょうげき》の暗黒未来を垣間《かいま》見た。犬で土下座で大河で犬小屋で、しかも相当貧乏だった……そんな設定だった気がする。ばあちゃん泰子《やすこ》も犬の仔を抱いた大河も、原始人みたいな獣皮《じゅうひ》の貫頭衣《かんとうい》スタイルだったのだ。大河のはちゃんと虎柄《とらがら》で。
あまりにも、衝撃的な午前四時だった。真夏の明け方、すでに窓の外は白みかけていた。早くもセミの声が聞こえていた。
息をつき、脱力する。思い当たる節ならあった。
昨夜《ゆうべ》の夕食後だ。あまりにも暑くて、テレビも退屈で、やることもないうえクーラーもへぼで、だから怖いDVDが見たくなって大河と二人でレンタルしてきたのだ。
実録《じつろく》・恐怖列島日本。そんなタイトルだった。なんとなく、で選《えら》んてしまった一本だったが、チープを通り越し、もしかしてギャグのつもりなのか? と思うぐらいのお粗末な出来だった。CG丸出しところか、死体に見立てたマネキンを吊《つ》るロープが思いっきり見えていた。……それどころか、それを引っ張るスタッフらしき男の姿まで見えていた。ちなみにその男は、次のドラマでは俳優《はいゆう》として、長髪ワンレンにトレンチコートというなにかのパクリ臭《くさ》いストーカー女に追い回されていた。
そんなあまりに下らない三本仕立てのミニドラマを、悪態《あくたい》つきつつ結局最後まで見たのはまさしく退屈のなせる業《わざ》だったと思う。
その三話目が、ソレだったのだ。「恐怖列島・関西編《かんさいへん》〜私は犬の赤ちゃんを産んだ!〜」……見たこともない安い女優が凄《すご》い形相《ぎょうそう》で叫んだ声だけは確《たし》かにちょっと怖かった。「いやあああっ、赤ちゃんにびっしりと斑点《はんてん》が浮かびあがっているやんけえぇぇっ!」――ダルメシアンの子犬を抱いて、エセ関西弁丸出しの熱演《ねつえん》であった。
ゲラゲラと笑い飛ばして、あー金の無駄《むだ》だった、時間の無駄だった、と言い合い、やがて大河《たいが》は眠くなったから、と隣《となり》のマンションに帰っていったのだ。
あんな下らないドラマに影響《えいきょう》されて悪夢を見てしまうなんて、自分が情けない。そこまでしてでも、レンタル代の元を取りたかったのだろうか。こんな恐怖なら、金を払ってでも回避《かいひ》したかった。
「ほんっっと……最悪だぞ、あんな……」
いちいちどこがどう最悪だったとあげつらうまでもなく、すべてがあらゆる意味で最悪のみじめさだった。我《われ》知らず何度目かの長いため息を吐き、冷や汗にべっとり濡《ぬ》れて冷える首筋を擦《こす》る。
せめて早朝のさわやかな空気でも吸って、この最悪な気分をなんとかしよう、と竜児《りゅうじ》はベッドの向こうの窓をカラリと開いた。しかし予想を裏切る蒸し暑い空気に、うへえ、と思わず舌を出す。
そして、
「……っ!」
凍りついた。
ある意味、夢見よりももっと恐ろしい現実が窓の外に展開していた。
塀《へい》で隔《へだ》てられた隣の高級マンション、ほぼ同じ高さのお向かい、二階。その窓は逢坂《あいさか》大河の寝室のはずで、開け放った窓からしどけないキャミソール姿で竜児を睨《にら》みつけているそいつは、大河以外の何者でもなかった。
一体《いったい》なにがあったのか、眉間《みけん》に稲妻《いなずま》みたいなしわを寄せ、溢《あふ》れる嫌悪《けんお》に上唇をめくりあげてピクピクと震《ふる》わせ、自分でかき乱したのか爆発《ばくはつ》コントの後みたいなひどいぐちゃぐちゃ頭で、彼女はそこに立っていた。ごんぶと毒蛇《どくじゃ》を一本飲み下ししようとして喉《のど》に詰まらせた虎《とら》みたいな狂気|溢《あふ》れる眼差《まなざ》しで、一体いつからそうしていたのか、くわっ、と竜児を――高須《たかす》家《け》の窓を睨みつけていた。
おはよう、などとは到底《とうてい》声もかけがたい、全身から放たれているのはバチバチと火花が散るがごとき凄《すさ》まじいマイナスの毒電波。
「竜児《りゅうじ》……」
ゾク、と腹の底から冷たい血が湧《わ》きあがった気がする。そして、
「……嫌《いや》な夢を見たわ。とっても、とっても……嫌な夢……あんたが犬で、犬が夫で、子供が犬で、虎柄《とらがら》が私で、とにかくとっても最悪だった……」
ごくん、と息を飲み、反応なんてできるわけがない。
まさか。
まさか本当に、同じ夜、同じ時間、同じ悪夢をお隣《となり》同士で? シンクロ率はほぼMAX、このままではこの借家《しゃくや》と高級マンションが溶けて一つになってしまう?
どうかこれも夢であれ。竜児はそのままおもむろに窓を閉じ、なにもかもを見なかったふり、聞かなかったふりで再びベッドにもぐりこんだ。
もうなにも考えたくない――
***
けーこくむ、と、逢坂《あいさか》大河《たいが》は呟《つぶや》いた。
「……けいこどっとこむ? そりゃどこのエロサイトだ……おうっ!」
「ばか、違う。警、告、夢」
聞き違いぐらいでこの女は、人の目を狙《ねら》って刻みネギを箸《はし》て飛ばしてくるのだ。
「今朝《けさ》のあのおっそろしい激《げき》悪夢《あくむ》のこと。ああいうの、警告夢っていうんだと思ったわけ。例の旅行を明日《あした》に控えた今だからこそ、私たちの深層心理がああいう夢を見せたんじゃないかしら」
「……なんだよ、それ」
顔にはねた麺《めん》つゆを拭《ふ》き拭き聞き返す竜児をチラ、と一瞥《いちべつ》、彼女はぞぞぞっ、と素麺《そうめん》を勢いよくすする。その口元を見つめつつ、竜児はチマチマと薬味《やくみ》の茗荷《みょうが》をかじる。その目つきは人の血を吸いすぎて妖気《ようき》を帯びた日本刀の如《ごと》くギラギラと光を放っているが、別に脱法食品をかじって七色の夢を見ているわけではない。ただちょっと、夢見の悪さを引きずっているだけだ。
すでに窓の外は炎天下《えんてんか》、日差しは射さなくとも蒸し暑い午前十一時の2DK。
夏休みとはいえ、高須《たかす》家《け》にはあってはならない遅すぎる朝食タイム。
卓袱台《ちゃぶだい》をはさんで向き合った大河は、あんたはモノを知らないねえ、と偉そうに呟きながら欲張ってごっそり素麺をさらおうとして、
「うー!」
箸《はし》ごと素麺《そうめん》を取り落とす、竜児《りゅうじ》は無言のまま自分の箸で適量の素麺を綺麗《きれい》につまみあげ、大河《たいが》のつゆの中に入れてやる。もちろん礼などあるわけもなく、つるるん、と真っ白な麺は薔薇《ばら》色《いろ》のおちょぼ口に一瞬《いっしゅん》にして吸いこまれて消える。それを飲み下し、
「……つまり読んで字の如《ごと》く、あの夢は警告《けいこく》なの。対策を講じなければこうなりますよ、っていう」
「なるほど……寝る前に、変なDVD見るもんじゃねえってことだな。で、それと今度の川嶋《かわしま》んちの旅行とどんな関係が?」
はーあーあー、と大げさなため息。大河は呆《あき》れ果てたみたいに箸を置き、顎《あご》を突きあけて竜児を見下しつつ偉そうに頬杖《ほおづえ》をついた。
「今日《きょう》ばかりはあんたの察しの悪さが忌々《いまいま》しくも神経に障《さわ》るねえ。おかけて食欲も失《う》せた、もう下げていいわ」
「……一人で二|把《わ》も食っておいて……食い終わった食器ぐらい自分で下けろよ」
「おなかいっぱいで動けない」
「牛になるぞ」
「無能な犬より役に立つわよ」
言い返すよりは引くほうがいくらか早いうえ消耗《しょうもう》も少なかろう。なれなれ牛に、そしたら乳を搾《しぼ》ってやるから、と呪《のろ》いつつ、竜児はのたくたと空《あ》いた器《うつわ》を重ねていく。一生|犬《いぬ》奴隷《どれい》の未来よりは、まだ虎柄《とらがら》牛《うし》との酪農家生活の方が気も晴れよう。
「で、話の続き。あの夢ってのは、つまりみのりんに告白さえできずに終わったあんたと、北村《きたむら》くんに相手にされないまま終わった私の、それはもう悲しい未来の姿なわけ。こうなりたくないでしょう、恐ろしいでしょう、なら頑張らなくちゃいけないでしょう! って、こと。嫌《いや》でしょあんなの、あんただって」
「そりゃ……あんなんなりたくねえに決まってるだろ」
後片付けの手伝いもしない大河を鈍《にぶ》く光る目で眺め、竜児は噛《か》みしめるように苦々《にがにが》しく呟《つぶや》く。
「……自分から土下座《どげざ》しておいて生《なま》意気《いき》な……でもまあ、そうよ。あれはつまり、今度の旅行という最大のチャンスをきっちり生かさなけりゃ私たちの未来はああなるぞ、っていう警告。と、私は見たね」
つらつらとそう語ると、大河は尻《しり》に敷《し》いていた座布団《ざぶとん》を二つに折り、そいつを枕《まくら》にこてんと畳に寝転んだ。そうしてシンクロナイズドスイミングよろしく、寝そべったまま白い足を垂直に上けて壁《かべ》にぺたりと足裏をくっつける。
行儀《ぎょうぎ》わりいなあ、と眉《まゆ》をしかめつつ、しかし話の内容に関しては竜児も反論《はんろん》の余地はない。夢が警告でうんぬん、といううさんくさい部分を抜きにして、だが。
大河の言う最大のチャンス、今度の旅行、というのはもちろん、川嶋|亜美《あみ》のうちの別荘に泊まりにいく、明日《あした》からの二泊三日ツアーのことだ。
一学期のラスト、散々《さんざん》行くの行かないのともめて、クラスを巻きこんでプール対決までして、結局決定した北村《きたむら》、実乃梨《みのり》、亜美《あみ》、そして竜児《りゅうじ》と大河《たいが》の五人での旅行。なんだかんだいって、諸々《もろもろ》の事情によって家族旅行などとは無縁《むえん》の竜児と大河の二人にとっては、退屈すぎる地味な夏休みで唯一《ゆいいつ》のイベントごとだった。今となってはお互い口には出さないまでも、しかし相当楽しみに旅行の日を指折り数えてもいた。今日《きょう》もこれから、旅行の買い物に駅ビルまで行く予定なのだ。
楽しみな理由のトップはもちろん、互いの想《おも》い人《びと》とのお泊《とま》り旅行……ひょっとしたらいい雰囲気にもなっちゃうかも、な部分にあるのは間違いない。竜児の場合は、もちろん櫛枝《くしえだ》実乃梨と。
片付け物の手は止めないまま、竜児はホクホクと頬《ほお》を緩《ゆる》ませる。
「そんなもん、警告夢《けいこくむ》なんてわけわかんねえこと言い出すまでもねえだろ。こんなチャンス滅多《めった》にねえ。学校じゃなかなか喋《しゃべ》ったりもできねえし、俺《おれ》はできれば今度こそ、櫛枝ともうちょいでいいからうまいこと親しくなりたいと思ってるとも」
「でた。それよ」
寝転んだまま、大河は大きな瞳《ひとみ》を物騒《ぶっそう》に輝《かがや》かせて竜児を見据えた。
「な、なんだよ」
「あんたがそんなだから、警告夢なんて嫌《いや》なもんまで見ちゃうのよ」
柔らかに畳に流れる長い髪をかきあげ、大河は座布団《ざぶとん》に頬杖《ほおづえ》をついて顔を上げる。長い前髪の隙間《すきま》から、汗のにじむ丸い額《ひたい》と精緻《せいち》なラインを描く鼻が覗《のぞ》く。薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》を思わせる薄《うす》い唇に、竜児を見上げる眼差《まなざ》しはまどろむ魔性《ましょう》の宝石のよう。長い睫毛《まつげ》を伏せてなお、眩《まばゆ》い光をきらきらと放ち、
「まったく、骨の髄《ずい》まで生粋《きっすい》の愚図《ぐず》犬《いぬ》。あんたのダシは濃厚《のうこう》鈍《どん》くさスープだね、超マニア向け」
――性格さえこれでなければ、目の前のこの女はお見事な美形なのだが。
「……なにジロジロ見てんの? 畳むよ?」
「……」
彼女の場合、口だけではなく実践《じっせん》しかねない。
逢坂《あいさか》大河はその名の如《ごと》く、虎《とら》のように猛々《たけだけ》しくも乱暴《らんぼう》な女だった。人呼んで「手乗りタイガー」――百四十センチ台という高校二年生にはあるまじき小柄《こがら》さながら、そのパワー、気の荒さ、凶暴さで、周囲の人間たちからは恐怖の対象として遠巻きにされている。
とはいえ、その傍《かたわ》らで正座している竜児とてその外見だけは手乗りタイガーの相棒《あいぼう》として十分に相応《ふさわ》しい。凶悪な眼光を放つ三白眼《さんぱくがん》は、並みのヤンキーなら睨《にら》んだだけて五人ぐらいは殺せそうなほどに壮絶な禍々《まがまが》しさを孕《はら》んでいる。だけどそれは、ただの遺伝《いでん》なのだ。そういう顔というだけなのだ。
几帳面《きちょうめん》で不器用《ぶきよう》で、強く出られぬお人よしで、家事全般を息をするように自然にこなす、高須《たかす》竜児《りゅうじ》はそんな男でしかない。そんな自分がよくぞここまでこんな女と生活をともにできている、と竜児は改めて思う。
だけどそんな繊細《せんさい》な感慨《かんがい》など当然この大河《たいが》には伝わるわけもなくて、
「いーい? 鈍《どん》くさいあんたのために私が一から説明してあげるからよく聞きな」
「うぐ」
真下から突きあけてくる細い指が、竜児の顎《あご》をグイ、と支配的につつく。睨《にら》みつけるようなその瞳《ひとみ》には、暴虐《ぼうぎゃく》にも似た侮蔑《ぶべつ》が揺れる。
「あんたはこう言ったね、できれば、とか、もうちょいでいいから、とか、うまいこと、とか」
「い、言ったよ! それがなんだよ、人の顎をつくんじゃねえよ」
「あんたはいつもそうなの。できたらあ〜、もしよかったらあ〜、うまいこといったらいいけどお〜、うふふぐねんぐねん、ってさ。これまでずっとあんたは……いや、私たちはそうやって、偶然のラッキーをお気楽に待って、そうしていっつも失敗してきたの。それがもはやパターン化しているの。このままでは一生このパターン、はっ、と気がつけば犬があんたで嫁《よめ》が私で、そんな二人の犬小屋|披露宴《ひろうえん》では多分《たぶん》みのりんや北村《きたむら》くんが『ずっと二人を応援してきましとぁー!』なんて感動のスピーチしちゃうの」
「……う……そ、それは……」
うふふぐねんぐねん、なんてした覚えはないが――パターン化している説はごもっとも。あるかもしれない。否定しきれない。大河は竜児の表情に深く一度うなずいて、
「でしょ? だからこその警告夢《けいこくむ》だったわけ。ここで一発、きっちり決めて、いつものダメダメパターンから脱しないと本当に犬の未来が待ってるぞ、って。こんなせっかくの千載《せんざい》一遇《いちぐう》のチャンス、これを逃したら次の機会《きかい》なんてもうないかもしれない」
「……ってことは、旅行中、また協力し合ってお互いなんとかうまいこと……」
「ほらまた! それもいつもの負けパターンなのよ。思ったの。そうじゃなくて今回は、私もあんたも真剣勝負。絶対絶対、あんな悪夢みたいなことにはなりたくない。だから、どっちかがどっちかのサポートに、全力で回るべきじゃないかしら。共倒れよりマシ、ってことで」
「おお……」
顎を指で突きあげられたままでうなずくことはできないが、それは正しい、かもしれない。大河にしては賢《かしこ》いことを言うこともあ――
「だからよろしくねあんた自分のことは忘れて今回は私と北村くんのためだけに行動するのよ頑張ってよね私たちの運命がかかってるんだからってことでよろしく」
「……あっ?」
それはとんでもない早口。書面にしたならおそらくは、悪徳《あくとく》金融《きんゆう》の契約書の書面、ぐらいの字の小ささだったはず。竜児を完全に置き去りにしたままきっぱり断定的に言いきって、大河は再び座布団《ざぶとん》に寝転がる。
「あー喉《のど》渇いた。ねえあんた、麦茶《むぎちゃ》もってきて。氷入れて」
ちょっと待て、と竜児《りゅうじ》は思わず正座、まじまじと寝そべった大河《たいが》のツラを見下ろす。さすがに今の重要事項説明はスルーしきれない自分がいる。
「……おまえ、ふざけんなよ。ちゃんと聞こえてたぞ。なんで自動的にそういう話になるんだ? おまえが俺《おれ》のサポートに回ってもいいわけだろ、今の話からすると」
「……」
「無視すんな!」
「うるさ……いだっ!」
大河の頭の下から座布団《ざぶとん》を引き抜いてやる。
「冗談じゃねえぞ! 散々《さんざん》喋《しゃべ》り倒して、結局言いたかったのはそれか!? どこまで我田《がでん》引水《いんすい》なんだ!?」
「なにすんだこのハゲ!」
「ハゲてねえ!」
「私は私のたんぼが一番大事! それのどこが悪い!」
「ひ、開き直りやがった……」
「枕《まくら》返せ」
「これはうちの座布団だ!」
「私の枕!」
「座布団!」
しばし無言で座布団の奪《うば》い合い。二人して座りこんだまま、まるでそれを奪ったほうが勝ちだと決まったみたいに全力で引っ張り合う。
「んぬ……っ」
「……うー……っ」
しかしピリリ、と生地のどこかが裂けた音がし、竜児は思わずその手を離《はな》してしまう(※これを大岡《おおおか》裁《さば》きという)。すると当然大河は真後ろに綺麗《きれい》にすっ転がり、
「いっ!」
後頭部を卓袱台《ちゃぶだい》に強打。ガン、とものすごい音の余韻《よいん》の中、そのまま身体《からだ》を丸めて戦利品の座布団を抱きしめ、声もないまま頭を押さえる。
「お、おい……大丈夫か?」
洒落《しゃれ》にならない音だった。これ以上アホになったら大変だ。竜児はそろそろとその背後に接近して声をかけると、
「……っ!」
「うおっ!?」
大河は無言のまま、華《はな》の如《ごと》き顔を痛みと憎悪に引き歪《ゆが》ませて夜叉《やしゃ》になり、座布団で竜児をブン殴りにかかる。ボスン、ボスン、と振り回されるそいつを避《さ》けようと竜児《りゅうじ》はみっともなく逃げ回り、
「やめろ、暴《あば》れんなって! 埃《ほこり》も立つし!」
「るせえ!」
手乗りタイガー渾身《こんしん》の座布団《ざぶとん》アタックを避けたそのときだった。ガラリ、と竜児の背後の襖《ふすま》が開き、大河《たいが》の動きは止まらなかった。そして、ペットのブサイクインコのインコちゃんがハッとしたようにブサイクさ三倍増しで叫んだ。
「オ、オイ!」
しかし止まらなかった座布団アタックは、
「ふぐっ!……えぐ……えぐ、えぐ、えぐ……」
ボスン! と綺麗《きれい》にヒットしていた。――開いた襖から顔を出した竜児の実母、ロリータ三十路《みそじ》の泰子《やすこ》ちゃんの顔面に。帰宅時間は朝八時、さっきやっと寝ついたばかりのお疲れさまな大黒柱に。
「ごごご、ごめ、ごめ……っ」
さすがの大河も座布団を投け捨て、顔を押さえて泣きそうになっている泰子に飛びつく。しかし泰子はその衝撃《しょうげき》にも耐えられなかったみたいに、竜児の中学時代の体育着の短パンにゼブラ柄《がら》キャミソールというすごいなりでペタリとその場にくずれ落ちる。
その母の顔に、竜児は言葉を失った。大河も異常を察知して飛《と》び退《すさ》る。今ならわかる。さっきのインコちゃんの「オイ!」は漢字で書けば「老い!」だったのだ。
泰子はいきなり老いていた。暑さのせいか、寝不足のせいか、化粧《けしょう》もろくに落とさないまま酔いに任せて眠りこんだせいか、いつもはプリプリの女性ホルモンみっちりな卵肌《たまごはだ》が、今に限ってシワシワにしぼみ、見るも無残な年齢《ねんれい》相当肌に成り果てていたのだ。
「ど、どうしたんだその老いっぷりは……一体なにがあったんだ!? 早く飲め、なにかサプリを! 顔になにかつけるんだ急いで!」
「ふ、ふえええ〜……だって、騒《さわ》がしくて、眠れないんだよお〜……眠れないと、やっちゃん、老《ふ》けちゃうんだよお〜……」
涙をポロポロ流す実母に、もはやかける言葉もなかった。
息子と居候《いそうろう》はひたすらごめんと謝《あやま》り続け、安眠タイムを確保《かくほ》するべく慌てて家を出るしかない。
***
「……これでよし。準備できたか!?」
「いつでもこい!」
大河《たいが》のマンションと道を挟んだお向かいに、その公園はあった。
欅《けやき》の緑道《りょくどう》が周囲を取り囲み、その中央部はかなりのスペースをとった広場になっていて、犬を連れた飼い主たちが散歩もそこそこにくっちゃべっていたり、近くの保育園から集団で遊びにきた幼児たちが「あちー」「だりー」と木陰に座っていたりする。周囲は爆音《ばくおん》のようなセミの鳴き声、風はあるがドライヤーの熱風《ねっぷう》を吹きつけられているのと大差ない。
そんな真夏の、目も焼けるような真昼間。竜児《りゅうじ》と大河の二人は、大家《おおや》に借りてきたバドミントンのラケットを持って、つま先で適当に引いたラインの中で向かい合っているわけだ。汗をダラダラ額《ひたい》に流し、頬《ほお》を熱気に赤くして。
視線《しせん》はお互い超真剣。大河に至っては着ていたヒラヒラワンピースを一旦《いったん》マンションに帰ってTシャツ短パンに着替えている。長い髪もきっちり結《ゆ》って、ギラつく瞳《ひとみ》に炎を燃《も》やす。
「ルールは三点先取な。泣いても笑ってもそれで終わりだぞ。負けたほうが……わかってるな?」
「それでいーってば」
これはただのバドミントンではない。未来をかけたゲームなのだ。負けた方は旅行中、勝ったほうのサポートのみに徹《てっ》しなければならない。
草いきれむんむんの中でシャトルを軽くもてあそび、しかし竜児はひそかにほくそ笑《え》む。いくら野生動物なみの運動神経(水泳除く)の大河と言えども、この勝負、悪いがもらったようなものだ。実は竜児は中学時代、こう見えてバドミントン部だったのだ。
長方形の真ん中を割っただけの即席コート、ネットがないだけ勝負はシビア。ライン際《ぎわ》に決めまくって、それで終わりだ。じゃんけん勝負でサーブ権はゲット済み、せいぜい熱中症になる前に、さくっとゲームをしまいにしよう。
あの悪夢が警告《けいこく》というならそうなのだろう。絶対ああはなりたくない。正直、大河の応援などたいして役に立つとは思えないが、大河を応援しなければいけないとなればその負担は甚大《じんだい》だ。せめてジャマだけはされたくない。せっかくの楽しみな旅行のために――実乃梨《みのり》との輝《かがや》ける未来のために。
「いくぞ!」
シャトルをふわりと青空に浮かせ、竜児はしょっぱなから全力でラケットを振った。スパン! と心地《ここち》いい音がして、シャトルはまっすぐ斜めに地面へ突き刺さる。
と、思いきや、
「おらっ!」
獣《けもの》のように駆けた大河のラケットは芝生《しばふ》ごと土をえぐり取りながら、シャトルをわずかに跳ねあげた。まさか間に合うとは――慌てるのは竜児だ、センターラインギリギリにちょい、と浮かされたシャトルを追って、思わず本気ですべりこむ。
危ういところでシャトルはポヨン、と山なり、しかし大河は「ふ」と笑った。ゆっくり落ちてくるシャトルを振りあげたラケットのど真ん中で綺麗《きれい》に捕らえ、
「……っ!」
「いよっしゃっ!」
ガッツポーズ。一方|竜児《りゅうじ》は声も出ない。身体《からだ》の傍《かたわ》らを今突き抜けていったのはなんだ? ロケットか?
「ほらほら、なにボヤボヤしてんの! 一点いただき!」
ブンブンラケットを振り回して大河《たいが》は笑っていて、シャトルは竜児の背後に落ちていた――というか、突き刺さっていた。柔らかな土の中に。
「お、おまえ……経験者《けいけんしゃ》か!?」
そういう問題でもない気がするが、一応|尋《たず》ねてみる。すると大河はしれっと言うのだ。
「んーん? でも私、小学校と中学校は私立の女子校だったんだけど、九年間ずーっとテニス部だったの。それって関係あるかもねえ」
ビュッ!
……と、目の覚めるような高速の素振《すぶ》り。もしも手にしていたのがラケットでなくて牛刀《ぎゅうとう》だったら、大地を駆け抜けるバッファローの群れを丸ごと真横に分断できそうなパワフルさ。大河は平気な顔をして「あっつー、早く終わろうよ」などと自分を扇《あお》いでいるが、ちょっと待て、と。竜児はシャトルを拾いながらおどおどと視線《しせん》を惑《まど》わせずにはいられない。なんだこれは、全然有利なんかじゃないではないか。絶対負けられない戦いだというのに。
「じゃあ次は、私がサーブね」
「お、おう」
早くも汗が滲《にじ》む額《ひたい》を拭《ぬぐ》いつつ、できるだけのポーカーフェイスで大河《たいが》にシャトルを渡す。大河はそいつを軽く手の中で何度かぽんぽんと跳ねさせ、そして、
「……せーえのっ!」
真《ま》っ青《さお》な真夏の天高く放る。細い腕を目いっぱいしならせ、全身のバネを使ってラケットを振りあげ、竜児《りゅうじ》は左右どちらに振られても対応できるよう中央で息を詰め――
「……あれっ!?」
全力で、空《から》振りした。
大河のラケットはすかっ、と宙を斬《き》り、シャトルはぽてん、と情けなくその足元に落ち、竜児はといえば、
「おっしゃ一点、一点な! 同点同点、同点な!」
大人《おとな》げを失った。
「うそうそ、今のなし! なーし!」
「だめだそんなの、だめにきまってんだろ!? ドージドージ!」
必死の形相《ぎょうそう》で大河の陣地《じんち》へ走りこみ、落ちたままのシャトルをラケットの先端で器用《きよう》に跳ねさせて持ち帰ろうとする。しかしその襟首《えりくび》を引っつかまれ、
「ちょっとあんたぁっ、そういうことするわけ!? ズルだ、ずるだずるだずるだー!」
「なんでだよ! おまえ落としただろ! あれはダメなの! だから俺《おれ》のサーブ!」
芝生《しばふ》の上で二人はしばし醜《みにく》い押し問答を繰り広ける。ラケットでお互いをグイグイ押し合い、大河は竜児の手の中のシャトルを取り戻そうと拳《こぷし》で拳をガンガンぶっ叩《たた》きにかかり、竜児は身長差を生かして爪先《つまさき》立ち、手を高く上げてガード。尻相撲《しりずもう》の要領で大河を遠ざけようとクネクネ動く。
そんな二人を遠巻きに見つめ、ヒマそうな犬の散歩軍団の奥さんたちはゲラゲラと笑っている。「暑いのによくやるわよねー」「男の子のほう、見るからにグレてるのにねー」「それにしては元気よねー」「そのうち熱中症《ねっちゅうしょう》で倒れるんじゃないのお?」……心なしか連れられている犬たちも、エッへッヘッへッへ、と皆口をだらしなく開けて笑って見ているみたいな。
しかしそんなもんに構っている余裕はないのだ。
「いーからよこせっ! 今のやり直すんだーっ!」
ムキになった大河はついにラケットを放り投げ、両手の拳をボキバキと鳴らし、竜児に襲《おそ》い掛からんと一歩踏みだす。が、
「ギャイン!」
投げたラケットは意外なほどに遠くまで飛び、犬軍団の中の一頭の頭にスコーン! とクリーンヒット。やべ、と竜児が振り返り、大河も振り返り、飼い主が声を上げた。
「あらあらあら、大丈夫チーコちゃん!?」
「ウ、ウウウゥ……」
あまり大丈夫じゃなさそうに顔を上げて大河《たいが》を睨《にら》んだチーコちゃんは、この辺《あた》りではあまり見かけることもない、筋骨《きんこつ》隆々《りゅうりゅう》、猛犬注意、真夏にむっちむちのダブルコートの被毛《ひもう》も頼もしい巨大なハスキー犬だった。
般若《はんにゃ》そっくりの容貌《ようぼう》が、大河をじっと睨みつける。鼻にしわが寄り、ズイ、とチーコが前に踏みだす。おめえだな? とその目が語る。謝《あやま》るんなら許してやるよ、と。
大河はチーコのその顔を一瞥《いちべつ》し、すぐについ、と顔をそらす。そして背後にいる飼い主だけにちょこん、と頭を下げ、すいません、と素直に反省の態度を示した。
そして片眉《かたまゆ》を上けてもう一度チーコを見、フン、と鼻息を鳴らし、倣岸《ごうがん》に顎《あご》を突きあげる。主人には謝罪《しゃざい》しても、犬|如《ごと》きに下げる頭はない、と、口には出さないがそんな態度で。
その瞬間《しゅんかん》だった。
「いえいえ、いいんですよー。チーコは顔はこんなに愛らしいのに、見た目と違ってすっごく丈夫な子でうでっぷし自慢、仲間内ては横綱《よこづな》チーコって呼ばれてるぐらい……あっ!」
飼い主のリードを振りきり、チーコは大河めがけて猛ダッシュ、きゃー! と飼い主軍団も悲鳴を上げ、竜児もその般若の形相《ぎょうそう》に思わず後ろ走りで後ずさる。
しかし大河は真正面、
「やんのかぁ!」
「アオーンッ!」
ドォォォォォォン! と、チーコの巨体アタックを受け止めたのだ。
真夏の芝生《しばふ》広場、立てばほとんど身長の変わらぬ女子高生とハスキー犬ががっぷり組み合った。パワーは均衡《きんこう》、ほとんど互角。チーコの後脚がプルプル震《ふる》え、大河のスニーカーがジリジリと下がる。このまま千日戦争が始まるかと思われたそのとき、「……チッ!」「わふっ!」……一人と一|匹《ぴき》は、一旦《いったん》離《はな》れて素早く距離《きょり》を取った。
う〜、とチーコが低く唸《うな》る。尻尾《しっぽ》を高く巻き上けて首を下げ、薄青《うすあお》の瞳《ひとみ》で大河を睨《にら》み上げる。大河もなんだよ、と唸って応戦、爛々《らんらん》と猫目を吊《つ》り上けて、両腕をゆらりと自在対応形に構える。互いの目の中にはすてに理性の色はなく、ケダモノ同士の一騎《いっき》打《う》ちだ。
等距離を保ったまま円を描くように二頭の獣《けもの》はグルクルと回り、先に手を出したのはチーコ。後脚で立ちあがり、巨大な爪《つめ》を具《そな》えた前脚で、
「うっ!」
大河の腹の辺りをドシッ! と押す。大河はよろめき、チーコを睨み、
「やったね!?」
「キャン!」
チーコの長い鼻先にビンタを返す。
「動物相手になんちゅうことを!? ……す、すいません、マジで……!」
気が気ではないのは竜児《りゅうじ》だ。人様のペットになんてことを、と飼い主さんにしどろもどろで頭を下げるが、二頭の間に割ってはいるまでの勇気はない。
「い、いえいえ……こっちこそごめんなさいねえ。大丈夫なのかしら、あの小柄《こがら》なお嬢《じょう》さん」
と、飼い主のおばさんは竜児のツラを見てポ、と赤面、「あら美少年」と。周囲の飼い主軍団はヒソヒソと「やっぱ目ぇおかしいわ」「奥さん、またマニアだから」とかなんとか。放っておいてくれ、どうせチーコと自分は同じ顔面カテゴリーだ。
ギャラリー一同があらゆる意味で息を飲んで見守る中、大河《たいが》とチーコはほぼ互角の戦いを演じている。何度か張り手を応酬《おうしゅう》し、睨《にら》み合い、互いを敵と認め合い、
「せいっ!」
「ウォフッ!」
再びがっぷり四つに組んだ。
すっかり大河は竜児の存在など忘れ、荒い息をした犬とのケンカに夢中だ。竜児はちょっと考えて、
「……なあ、大河。さっきの点はやっぱりなしでいいから、俺《おれ》がサーブな」
呟《つぶや》いた。大河がハッ、と顔を上げ、
「えっ!? えっ!? 今なんて!? このバカ犬の鼻息で聞こえない!」
聞こえなくていいんです。
シャトルとラケットを手に一人即席コートまで戻り、竜児はポテン、と小さくシャトルを打つ。大河の陣地《じんち》にそれが落ちる。歩いて拾いに行く。またポテン、と打つ。大河の陣地にそれが落ちる。歩いて拾いに行く。またポテン。
「……はい、終わり。三点先取、俺の勝ち。旅行ではおまえは俺のために尽力《じんりょく》しろよ」
「は、はあ!? ちょっとあんた勝手に一人でなに言ってんの!? 冗談《じょうだん》じゃないって、……ちょっとどいてよ、もうあんたと遊んでる場合じゃないっ!」
大河は我《われ》に返り、チーコを押しのけようとする。しかしチーコは大河とがっちり組み合ったまま、般若《はんにゃ》の形相《ぎょうそう》(というか模様)で動こうとはしない。この力比べに負けたら、横綱《よこづな》と慕《した》われた己《おのれ》のプライドが崩れてしまうと思っているみたいに。
「もういいっつーの! ……あーもうはいはい、わかったよ、ギブ、ギブ! 私が悪かった! 謝《あやま》るわよごめんっ! はい、どいて! ハウス!」
大河がそう言って身を引こうとしても、チーコにそんなもんは通じない。次第に大河の顔は真《ま》っ赤《か》に高潮し、汗がダラダラと噴《ふ》きだしてくる。
「ていうか……あ、暑い……暑い! 毛皮暑い! 毛皮超暑い、死んじゃう!」
確《たし》かにチーコとみっしり抱き合ったこの状況では、炎天下《えんてんか》に毛皮のコートを着ているのと変わらないだろう。
無理やりチーコを引き剥《は》がそうと、大河《たいが》は身体《からだ》をひねってのけぞる。それに合わせ、チーコは一歩後足を踏みだしてズイ、と接近。さらに大河は逆斜め後方に。チーコも華麗《かれい》にもうワンステップ。
必死の形相《ぎょうそう》の大河(とチーコ)には悪いが、見物している竜児《りゅうじ》の目にはまるでサルサかなにかのステップにしか見えない。
「なにやってんだあいつら……息合ってるじゃねえか」
飼い主の心の琴線《きんせん》にもなにかが触れたのだろう、おもむろに携帯《けいたい》を取りだし、自分ちのペットと近所の女子高生の奇妙なダンスを撮《と》り始める。無論《むろん》動画でだ。
「離《はな》れろ! 離れろってこいつー! ああ、息も熱《あつ》いー!」
夏真っ盛り。容赦《ようしゃ》なく日差しはジリジリとチーコの毛皮を熱し、がっちり組み合う大河をも熱する。ステップは加速度を増し、さらにダンサブルに情熱のリズムを刻み始める。しかし大河はほとんど涙目、汗ダラダラでフラフラし始め、チーコにステップの主導権《しゅどうけん》をも奪《うば》われ始め、
「だーっ、もうわかった! わかったから! あんたたちの勝ちでいいから! 竜児、あんたも犬なら早くこいつ剥《は》がして! 言ってわからせてーっ!」
ターン、とのけぞり、ついに竜児に助けを求める。
「……俺《おれ》の勝ちで本当にいいのか?」
無言の逡巡《しゅんじゅん》が一秒、二秒……やがて沈黙《ちんもく》に荒い息が混じりだし、
「い……いいからそれでーっ!」
――竜児と飼い主の必死の説得によって、チーコはしぶしぶ勝負を投げた大河を許したのだった。そして竜児は、勝利した。
正直なところ、そんなふうに勝利を手にした竜児ではあったけれど、ドジ神の恵みを一身に浴びたような女である大河の助けなど、本当はたいして期待してはいなかった。こいつの頑張りほど、期待できないものもないのだ。
しかし、
「……すっごくいい方法、あるんだけど」
涼《りょう》を求めて入ったスドバにて、Tシャツを犬の足跡マークだらけにした大河はアイスミルクティを飲みつつ顔を上げた。須藤《すどう》バックスへようこそ〜……バイトの女子大生の声が響《ひび》く店内に、かすかな囁《ささや》き声が漏れる。ちなみにここは須藤コーヒースタンドバー、バックス部分など名称にはない。
ひそ、ひそ、ひそ、と大河が囁き、アイスコーヒーを口に含んだまま、竜児の三白眼《さんぱくがん》が大きく見開かれる。
「マジか? なるほど、そりゃー……っつったって、でも、一体そんなのどうやって……」
「私たちでやるのよ」
大河《たいが》の細い指先が、己《おのれ》と竜児《りゅうじ》を交互に指した。そして言う。
「あんな勝負のつけ方ズルだし、あんたのためになんか頑張りたくないし、みのりんにふさわしいとも思わないけど、あの悪夢だけは勘弁《かんべん》だから、今度こそまともに協力するわよ。……ま、いつまでも叶《かな》わぬ夢を見てないで、さっさとブチあたって玉砕《ぎょくさい》すればいいんじゃない? 玉砕して人間的にちょっとでも大きく成長できれば、多分《たぶん》あんな夢みたいななっさけない未来なんかこないはずよ」
「……玉砕前提かよ」
「わがまま言うんじゃない。今のあんたは、本末ならば、玉砕するために爆弾《ばくだん》を積もうとして、腰を痛めて入院して、天井《てんじょう》を『はあ〜』って眺めてるぐらいのポテンシャルしか持ってないんだからね」
向かいに座った竜児を見返す大きな猫目には、真夏の太陽より強烈な侮蔑《ぶべつ》の色が揺れる。
***
――白昼《はくちゅう》のバドミントン対決の翌日、朝六時。
「……よし!」
竜児は薄暗《うすぐら》い台所にて冷凍庫の中身を確認《かくにん》し、納得したようにひとつうなずく。
炊《た》いた白飯は余裕を見てたっぷり五合、一膳《いちぜん》分ずつラップにくるんでストック完了。おかずは申し訳《わけ》ないが、冷凍ものとレトルトものを各種取り揃《そろ》えておいた。
「お前をおいて旅行に行く前に、言っておきたいことある。かなり面倒《めんどう》な話もするが俺《おれ》の注意を聞いておけ。いいか、全部レンジだけで事足りるように支度《したく》してあるからな。くれぐれも火は使うなよ」
「……よ……」
「カスピ海ヨーグルトは、今できてる分は食べていい。小さい瓶《びん》の奴《やつ》、あれは次回の種の分で完全|滅菌《めっきん》を保ちたいから触るな。糠床《ぬかどこ》は毎日忘れずかきまぜろ。手にビニール袋かぶせていいから、心の中で『いつもありがとう』と囁《ささや》きながら大切にやれ。ちなみにきゅうりは今夜、ナスは明日《あした》が食べごろだ」
「……だ……」
「インコちゃんの水はなくなってなくても最低朝晩二回は換えて、エサもまだあるように見えても、同じく最低二回は換えろ。カゴの下に敷《し》いてある新聞紙は毎日父換。たまに話しかけて、仕事に行く前には布をかけてやってくれ。できる範囲《はんい》で構わないから」
「……ら……」
「集金関係は済ましてあるから来ない。多分《たぶん》来ないと思う。……来ないんじゃないかな。ま、ちょっと用意はしておけ」
くどくどと関白《かんぱく》宣言、いや、注意事項を言い立てる息子の目の前、母は無言のまま、グラグラと前後左右に揺れていた。
「おい、ちゃんと聞いてたか? 理解したか? 復唱《ふくしょう》してみろ」
「……よだら……」
相変わらず朝日の差しこまない薄暗《うすぐら》い2DK。母……泰子《やすこ》の吐《は》く息はまだまだ思いっきり酒臭《さけくさ》い。それもそのはず、帰宅したのがつい一時間前で、寝入ろうとしたところを無理やり起こし、台所まで引きずってきたのだ。
グラグラ揺れ続ける泰子は、目も二ミリほどしか開いていない。しかしまあ、世間には睡眠《すいみん》学習なるものもある。復唱の結果は「よだら」だが、一応言って聞かせたのだから大丈夫だろう、と思うことにする。二年前、中学の修学旅行で三泊四日家を空《あ》けたこともあったのだ。洗濯《せんたく》物《もの》は山になり、店屋《てんや》物《もの》の器《うつわ》はシンクで臭《にお》いを発し、出せなかった生《なま》ごみがムンムンに発酵してはいたが、一応泰子もインコも生きていた。
「じゃあ、俺《おれ》は行くからな」
「……いっへらっさーい……。……ふぇ?」
Tシャツにハーフパンツ、リュックを手に持った息子のなりにようやく気づいたのか、泰子はいぶかしげに眉《まゆ》を寄せ、首を傾《かし》げる。
「竜《りゅう》たん……ろこいくろ……?」
「旅行。言ってあっただろ、前から」
「……りょ……? りょ……」
理解できたのかできなかったのか微妙な線《せん》ながら、泰子《やすこ》はふんふん、と幾度かうなずき、りょだら、と呟《つぶや》き、ペ夕ペタと素足で布団《ふとん》へと戻っていった。まあいいだろう、と竜児《りゅうじ》はターン、
「インコちゃん……行ってくるよ」
窓際《まどぎわ》に置いた鳥かごに歩み寄り、かけてあった布をそっと持ちあげる。
「……おうっ……」
眠るインコちゃんのフェイスフラッシュは、別れの朝もガンガンに出力MAXだった。どうしてくちばしがきちんと閉じないのか、はみでた舌から泡みたいなものが垂れているのか、目は白目を剥《む》いてさらにロンパっちゃっているのか、身体《からだ》は痙攣《けいれん》し続けるのか、いまだに答えはもたらされていない。
それでも、どれだけグロくたってかわいいペットには違いないから、愛情を込めて新しい水とエサをセットしてやり、
「さて……行くか!」
竜児は立ちあがり、几帳面《きちょうめん》に荷詰めされた準備万端のリュックを背負った。
玄関のきしむドアを開くと、まだひんやりと涼しさの残る夏の朝の風が竜児のまぶたを冷やしてくれる。家の中にいてはわからなかったが、天気は快晴。遠い空には早くも入道雲が湧《わ》きあがり、今日《きょう》の暑さを予感させる。
暑くなるころには、多分《たぶん》もう別荘についているだろう――なんだかんだいって、口元が緩《ゆる》むぐらいに楽しみだった。
さて、この二泊三日。どんな楽しいことが待っているだろう。実乃梨《みのり》とどんな話をして、どれだけ親しくなれるだろう。北村《きたむら》と会うのも久しぶりだ。亜美《あみ》と大河《たいが》が繰《く》り広げるであろうバトルを思うとさっそく気疲れしそうな予感もするが、それでもしかし夏休みだ。親のいない小旅行、楽しいことのほうが多いだろう。きっと。
鉄の階段を大家《おおや》に気兼《きが》ねして足音を忍ばせて下り、早朝の空の下、徒歩数十秒の隣《となり》のマンションを目指す。
奴《やつ》のことだから、まだ支度《したく》が終わっていないかもしれない、と早めに家を出たのだが、
「……あ」
大理石のエントランス、階段に立っていた大河が竜児を見つけて顔を上げる。右手を上げて、朝の挨拶《あいさつ》。
「おう。なんだ、珍しいな、時間前に来てたか」
「……たまたまね」
たまたまにしては、今朝《けさ》の大河《たいが》は真新しいミントグリーンのワンピースに身を包み、髪は綺麗《きれい》に整えられてサイドだけを編《あ》みこみにし、唇には薄《うす》い色つきリップまでつけている。夏の朝に咲く薔薇《ばら》みたいな清らかさで、なにか照れているみたいに目をそらす。そうしながらも左手を上げ、挨拶《あいさつ》を返してくれる。
サポートに徹《てっ》する、と言ったところで、好きな男と旅行に行くのだ。結局楽しみで目が覚めてしまったのは大河もきっと同じなのだ。竜児《りゅうじ》は少し笑いたいような気分になって、ごまかすように先に立って歩きだす。
待ち合わせ時間は十五分後。ゆっくり歩いても間に合うだろうが、なんだかせかせかと急ぎたい気分だった。
そうして少々早めに待ち合わせ場所であるターミナル駅の改札口《かいさつぐち》にたどり着いた二人を迎えたのは、
「……ん?」
「……あれって……みのりん……だよね? あれ?」
旅行客や家族連れ、出張に行くらしきサラリーマンたちが多くはないが行き来する、決して無人ではないその空間に、その人物は立っていた。
「おっはよー!」
竜児と大河の目には、しなやかな体つきをした笑顔《えがお》の少女――櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》の姿しか見えていなかった。そして実乃梨は二人に気づくと、突然にゆっくりと大きく足を広げ、膝《ひざ》を曲げ、上半身を前傾させてゆっくりと顔で円を描くように動かしだす。するとその動きからズレたタイミング、同じ回転する動きで、背後からおなじみの眼鏡《めがね》ヅラがにゅっ、と覗《のぞ》く。
「よう! 時間|厳守《げんしゅ》、偉いぞ二人とも」
ぐりん、ぐりん、と二人は前後に身を重ねたまま回転する動きを続け、竜児と大河は反応に困って立ち尽くすしかない。周囲の視線《しせん》は不思議《ふしぎ》な若者たちを無《ぶ》遠慮《えんりょ》に眺め続け、ズーだ、あれはズーの動きだ、と懐《なつ》かしそうに目を細めるのは三十代と思《おぼ》しきリーマンコンビ、正しくはサラリーメン。
実乃梨と北村《きたむら》のソフト部部長コンビはプロペラみたいに交互に顔を突きだしながら、
「はははー、引いてる引いてる! 引いてるよ北村くーん!」
「せっかく練習したのになあ」
嬉《うれ》しそうにニコニコと笑いながらも左右にバッ、と別れ、肩を叩《たた》き合って健闘《けんとう》を称《たた》えあう。
「ナイスダンス!」「ナイスズー!」……旅行が楽しみでハイテンション気味なのは、なにも竜児と大河だけではなかったらしい。
「……おまえら、朝っぱらから元気だな……ズーってなんだよ?」
「気にしない気にしない。楽しみで早めに来ちゃったら北村くんも来ててね」
「そこにちょうど姿見があったもんだから、それでついついこんな迎え方を練習してしまった」
「あほだな、本当に……よう眼鏡《めがね》、久しぶり」
「ようよう三白眼《さんぱくがん》!」
などと言いながら北村《きたむら》と脇腹《わさばら》をどつきあったりしつつ、実のところ、竜児《りゅうじ》は顔面全部で微笑《ほほえ》んている櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》の姿に目が釘《くぎ》づけになっている。
朝の日差しの中、奇妙な踊りをやめた実乃梨は太陽の申し子のように輝《かがや》いていた。大河《たいが》の髪をいじり回しつつ、大河ににおいを確認《かくにん》されつつ、誰《だれ》よりも眩《まばゆ》く光っていた。
膝丈《ひざたけ》のショートパンツに半そでのパーカーを合わせただけのシンプルな服装ながら、とんでもなくとんでもなくかわいいのだ。前に会ったときよりも日に焼けただろうか、頬《ほお》と鼻の頭だけを子供のように赤くして、実乃梨は両目を線《せん》にして笑っている。そんな姿が、本当にとんでもないのだ、竜児にとっては。片方の肩にひっかけたリュックがダラン、としているのもかわいいし、スニーカーを履いた足首が細いのもかわいいし、超|上機嫌《じょうきげん》でにこやかに笑っているその顔が、なにより眩くて正視できない。
「ん? どうしたの、高須《たかす》くん! せっかくの旅行だぜ、声出していこー!」
「お、おう」
ポン、と実乃梨に肩を叩《たた》かれて、茫然《ぼうぜん》自失状態から緊張《きんちょう》ガクガク状態へ移行。久々に顔を合わせると、緊張感もひとしおだ。
一方|傍《かたわ》らの大河はと言えば、
「いやしかし、逢坂《あいさか》、久しぶりだなあ。終業式以来だよな、顔合わせるの」
「あ、い、う……」
こちらもにこやかな北村に声をかけられて、棒《ぼう》切れのように突っ立っている。「いつもと違う私」のアピールなのか、それとも単にもじもじしているのか、編《あ》みこんだ部分の髪を指先でいじり、挨拶《あいさつ》さえもままならないらしい。そうして挙動|不審《ふしん》に目をきょろきょろさせ、口をあうあうと開閉する。言葉が見つからないのだろう。
「ところで、川嶋《かわしま》はまだか?」
助け舟のつもりでもないが、沈黙《ちんもく》を破るように竜児は北村に話しかける。
「まだだな。メールもないし、一応まだ約束の時間にはちょっと早い」
「そうか。……ふむ、それなら……ちょっとみんな、集合!」
実乃梨は大河と竜児、北村を鏡《かがみ》の前に手招いた。え!? やだ! ――そんな竜児と大河の声も、実乃梨の「まあまあまあまあまあ」にかき消され、飲みこまれ、そして。
数分遅れて改札口《かいさつぐち》に現れた川嶋|亜美《あみ》は、
「あれ、みんなどこだ……ん? ……んん!?」
小さな顔を半分隠すようなサングラスをわずかにずらし、花びらみたいな唇をポカン、と愛らしく半開きにして言葉も出ないようだった。
「……よう、川嶋《かわしま》」
「二分遅刻だぞ、亜美《あみ》」
「おっはよー、あーみん!」
「……やりたくてやってるんじゃないから。みのりんがやれって言うからだから」
竜児《りゅうじ》、北村《きたむら》、実乃梨《みのり》、大河《たいが》の身長順にずらりと縦《たて》に並び、前から順に、腕の高さを変えて突きだして動かしている。亜美から見れば、竜児の身体《からだ》に腕が八本くっついたように見えているはず。
そして亜美はどうしたかというと
「……どこかな。みんなはどこかな……」
「おい川嶋!」
「亜美、俺《おれ》たちはここだぞ!」
「あーみんってばどこいくの!」
「逃けるなアホチワワ!」
「……どこかな、どこかな……」
完全に他人のふり、超早足で逃げていく。四人はそれをおいかけて、腕を見事にウエーブさせながらカサコソと追いかけていく。
練習時間五分にしては、見事な阿修羅《あしゅら》っぷりだった――とは、後《のち》の実乃梨の述懐《じゅっかい》である。
2
亜美の別荘までは特急列車でおよそ一時間半。
夏休みとはいえお盆《ぼん》の時期を外《はず》したせいか、自由席でも座席は半分ほどしか埋まっていない。五人は三人がけの席を前後に確保《かくほ》、一列を向かい合わせになるように動かして、グループ席のセット完了。
亜美はいち早く超高級ブランドのボストンバッグをこともなげに荷台へ放りあげ、
「やっだあ〜! みんなひっさしぶりぃ! 元気だったあ? あ〜ん、実乃梨ちゃん、会いたかったよぉ〜!」
夏休み限定なのか、わずかにカラーリングされて一層《いっそう》美しく流れる髪をさらりとかきあけ、懐《なつ》かしさに涙さえ浮かべそうなノリで天使の笑顔《えがお》を実乃梨に向ける。逃げたくせにー、と実乃梨の小さなつっこみは完全スルーだ。
「祐作《ゆうさく》ったらも〜、相変わらずなんだからあ〜! ねえ〜、眼鏡《めがね》! あはは〜!」
幼馴染《おさななじみ》の北村《きたむら》には中身ゼロの適当な甘え声と若干《じゃっかん》投げやりな笑顔《えがお》、そして、
「高須《たかす》くんってばあ〜!」
くるんと振り返り、ほとんど竜児《りゅうじ》の胸に飛びこまんとする間合いで、にっっっこぉぉぉ〜……と無邪気な赤ん坊のように頬《ほお》を丸くふくらませて見せる。竜児は思わず一歩後ずさる。赤ん坊スマイルのまま亜美《あみ》も一歩追い詰める。
「やぁだぁもぉう〜〜〜! ねえ、ねえ、夏休みの間どうしてたのぉ? 全然電話とかメールとかくれないんだもん〜! あたし、つまらなかったよお〜!」
「……おまえ、俺《おれ》に電話番号もメルアドも教えてねえだろ……」
「あっれえ、そうだっけー? ふふ、そんなことよりさ、楽しみだね、旅行……。……ねえ? 楽しみだよねえ?」
話も聞かずに声をひそめ、亜美は竜児にしか向けない瞳《ひとみ》の奥にだけ、邪《よこしま》な炎を燃《も》やすのだ。こっそりと一瞬《いっしゅん》、竜児の手首に冷たい指を這《は》わせるなんていうオマケつきで。
イヤミなほどに長い手足をシンプルなタンクトップとデニムに包んだその八頭身のスタイルは、今日《きょう》も凄《すさ》まじく人目を引きまくっていた。「なんかあの子って見たことがある」「確《たし》かモデルじゃない?」などと女子大生風の二人連れがひそひそ囁《ささや》いているのに気づき、満足げに微笑《ほほえ》み、うなずき、
「あっ、いっけなーい! 今日、顔洗ったあと、日焼け止めしかつけてないよ、あたしったらすっぴんだよー! やだもう、お肌、あんまりきれいじゃないのにぃ〜……困ったなあ〜……」
つるっつる、すっべすべのミルク色の頬を両手で挟んで困ったように眉《まゆ》を八の字に。すっぴん、素顔であの綺麗《きれい》さ……周囲から向けられまくる羨望《せんぼう》の視線《しせん》を全身に余すところなくシャワーの如《ごと》くザブザブと浴び、
「でも、旅行だもんね! お化粧《けしょう》なんて、必要ないよねえ〜! ふ、つ、う!」
きゃは! ととどめの一撃《いちげき》。こってりファンデを盛った罪なき車内の女性陣をまとめてぶった斬《ぎ》り、亜美の美貌《びぼう》は生贄《いけにえ》の血を吸ったどこぞの伯爵《はくしゃく》夫人のようにさらに眩《まばゆ》く輝《かがや》きを増す。チワワを思わせる大きな瞳をきらきらと光らせ、ミルク色と薔薇《ばら》色《いろ》だけで構成された脅威のすっぴん小顔はまさに天使の愛らしさ。全力で「あったっしっはっ、美っっっ人っっっ! のけのけ醜女《しこめ》ども、この選《えら》ばれし亜美さまと同じ空気を吸えるだけ幸福に思えよガハハ! 拝んでよーしっ!」と叫んで回っているようなオーラを振りまいて、今日も亜美は絶好調《ぜっこうちょう》だった。
仕上げに、
「あっ、そうだそうだ高須くぅん、逢坂《あいさか》さんまだ来てないみたいだからあ、電話してあげたほうがいいんじゃないかなあ〜? 来ないなら来ないでぜぇんぜん構わないんだけどぉ〜」
目の前の大河《たいが》を完全無視、傍《かたわ》らの竜児に擦《す》り寄りつつ困ったような視線《しせん》を向ける。そのときちょうど電車はガタン、と動きだし、
「おい、座れ淫乱《いんらん》」
「あうっ!」
亜美《あみ》は尻《しり》から窓際《まどぎわ》の席にへたり落ちる。真正面から繰りだされた大河《たいが》の目潰《めつぶ》しが、ゴリッと両目につき刺さったのだ。第一関節分ぐらい。
「……いっ……痛いじゃないの……っ!?」
「役に立たない目なら潰してやろうかと思って。いるわよ、私」
「……へ、へえ〜……小さいから見えなかったなあ……」
「やっぱ役に立ってないじゃん」
さてもう一発、次は根元まで、と小さな手で禍々《まがまが》しいXサインを作る大河の手を押しとどめ、
「まあまあ! 今日《きょう》はこの実乃梨《みのり》の目に免じてそのへんで!」
間に入った実乃梨は、愛らしい奥二重《おくふたえ》の目蓋《まぶた》を爪《つめ》でグイ、と押しこんで、わざとらしいくっきり外人二重を作って見せる。おう、と思わず竜児《りゅうじ》ものけぞる不気味な目元、しかし大河は惑《まど》うことなく、
「みのりんも変な目つきしてないで座って、転んじゃうよ」
と、実乃梨を亜美の隣《となり》に座らせる。続けざま、通路に立ったままの竜児の手をさりげなく掴《つか》んで、投げ捨てるように実乃梨の隣に座らせ、自分は亜美の正面へ。大河サポートが発動したのか、と竜児は心の中で小さく感動。必然的に北村《きたむら》は実乃梨の向かい、つまり大河の隣に座るが、大河は努めて身体《からだ》を窓際にくっつけ、その存在を意識《いしき》しないようにか頑《かたく》なに顔を亜美のほうだけに向ける。
「なんかすごい圧迫感……低いけど分厚い壁《かべ》みたいななにかを感じる……」
亜美は嫌《いや》そうに顔を背《そむ》けるが、
「私どーせ小さいんだから、圧迫感なんてないでしょ」
足をドン、と踏ん張り、大河は亜美の顔を断固ガン見し続ける。そして、
「あ。ばかちー」
バカチワワ、の略であるところの亜美の大河使用限定ニックネームを呼んだ。
「もしかして、それあたしのこと!?」
「すっごいクマ」
「ええっ……」
びしっ、と亜美の目元を指差し、肉体的欠陥を指摘。さらに追い討ちで実乃梨まで亜美の顔をまじまじと見つめ、
「えー、あーみんの美肌にそんなクマなんてあるわけが。……あらら……」
ご愁傷《しゅうしょう》さまです、と深々と礼をする。なぜか北村がいえいえご丁寧《ていねい》にどうも、と頭を下げ返す。そう言われてみれば確《たし》かに、竜児の目から見ても、いつもは薔薇《ばら》色《いろ》に発光するみたいな亜美《あみ》のパーフェクト美肌が、今日《きょう》は目の下だけわずかな青みを帯びている。それでも一般人よりも十分に美しいことに変わりはないのだが。
「なんだおまえ……ちょこっとシワシワしてるぞ。寝不足か?」
「ちょ、ちょっとなによ高須《たかす》くんまで、人の顔見てクマだのしわだのって。このあたしの肌にそんなもんがあるわけ……ぬおー!」
シャネルマーク入りの手鏡《てかがみ》を取りだして己《おのれ》の美貌《びぼう》を覗《のぞ》きこむなり、亜美は騒々《そうぞう》しく悲鳴を上げた。カラーン、とその手から鏡を取り落とす。
そしてぷるぷると震《ふる》える指先で目元をそっとなぞりつつ、大げさに声まで震わせる。
「ああもうなんてこと……信じられない。確《たし》かに最近忙しかったのよ、すっごく……あーあ、やだもう、どうしよ……死のうかな……」
眉間《みけん》を押さえて目を閉じて、どうやら本当にショックを受けているらしい。その肩を実乃梨《みのり》は抱いてやり、なんとか元気づけようと揺する。
「あーみん、気を確かに! 一体どうしちゃったの?」
「……夏休みに入ってからずっと実家に戻ってて、向こうで集中的に仕事してたの。で、やっとオフをとって、昨日《きのう》の終電でこっちに戻ってきてるつもりだったんだけどタッチの差で終電に行かれちゃって、結局乗れたのが今朝《けさ》の始発。三時間しか寝てなくてさあ……はー……」
あららー、と実乃梨アンド北村《きたむら》の視線《しせん》に同情が滲《にじ》む。竜児《りゅうじ》もあららー、と思ってはいるのだが、どうにもその目に滲《にじ》むのは殺意か狂気にしか見えない。ついでに大河《たいが》にいたっては、手を伸ばして件《くだん》のクマを触ろうとして亜美に思いっきり嫌《いや》がられている。
「そっかあ、大変だったんだねあーみん。じゃあ今日からがやっと短い夏休みなんだ?」
実乃梨の気遣《きづか》わしげな言葉に、亜美は「そーなの」と。
「うむむ……それならせっかくの旅行、あーみんには思いっきり楽しんでもらわなくちゃ。いいかねみんな、打者はなあ、好き勝手に打ってもダメなんだ。打線に繋《つな》げていかないと。ってことで、男子軍団からあーみんのお疲れを癒《いや》すべくお楽しみトークの本塁打《ほんるいだ》を狙《ねら》ってもらおうか。へい、りーりー」
そう言われても、軍団の構成員はわずかに二名。実乃梨の正面でその一方てある北村は、
「打線なあ……では、共通のお題でディベート大会などしてみよう。さあ亜美、どんなお題がいいのかな? 今年のペナントレースの行方《ゆくえ》、甲子園《こうしえん》の行方、それとも来年の受験《じゅけん》に向けて大学全入時代の是非《ぜひ》を問うてみたり」
大きく空振《からぶ》り。となれば次は竜児の出番である。
「問うなそんなもん。……とりあえず朝飯でも食おうぜ。おにぎり持ってきたんだ」
「うっそ、マジ!? ……やったあ、嬉《うれ》しい!」
飛びあがって実乃梨は拍手。その隣《となり》で大河と攻防を繰り広げていた亜美も、「おにぎり!? やだ、感激《かんげき》かも! 朝から飲まず食わずだったんだあ!」と目を輝《かがや》かせる。ついでに北村もきゃあきゃあ喜んで眼鏡《めがね》をずらしている。初打席初ヒット、と言ってもいいかもしれない。
竜児《りゅうじ》はテキパキと荷物に詰めてきた風呂《ふろ》敷《しき》包みを開き、一人に二つずつほいほいと渡していく。大河《たいが》はできるだけ北村《きたむら》のほうに身を寄せないように亜美《あみ》と「ちょっとお!」実乃梨《みのり》の「Wow、おぱいの感触」膝《ひざ》の上にほとんど腹ばいで乗りあげつつ、竜児に手を出して握り飯ゲット。両手に持って満足そうに席に戻る。
実乃梨はかぶりつくなり大喜びで、
「うっわー、おいしいよ! 高須《たかす》くんが握ったの!? おにぎりおにぎり、超うめー! っていうか、梅入ってるー! 超梅ー! しょっぱなからホームランかっ飛ばしてくれるじゃないの!」
ジタバタと脚を動かして向かいの北村の脚をドカスカと蹴《け》り、北村も「いや、本当にいけるなこれ」とご機嫌《きげん》に蹴られるままになっている。
「シンプルなおにぎり、電車の中で食べるのって最高だよね〜! 高須くんさすが、……お嫁《よめ》にくるぅ?」
大きな瞳《ひとみ》をくるん、と光らせ、亜美は悪夢が蘇《よみがえ》りそうなことを口にするが、
「いかねえ」
即答。唇に海苔《のり》をくっつけたままのチワワの誘惑《ゆうわく》になど乗る暇《ひま》はない。ちっ、と冷《さ》めた目で舌打ちする亜美を横目に、竜児はサラリとなにげない素振《そぶ》り。
「ところでおまえら夏休みなにしてた?」
お楽しみトークの本塁打《ほんるいだ》狙《ねら》い……というよりも、大河と決めてあった前フリなのだこれは。
「あたしはもー、ずーっと仕事だった」
あー疲れた疲れたー、と、亜美。続いて口をモグモグさせながら、
「部活、バイト、部活、部活、バイトバイトバイト、部活、部活、部活、バイト」
バイトやりすぎの実乃梨。北村もうなずき、
「俺《おれ》もほとんど部活と生徒会の往復だなあ。去年ひいじいさんが亡くなったんで、その法事やりに田舎《いなか》も行ったけど」
そして大河だ。それいけ、と竜児が視線《しせん》で合図、大河はわかってる、と小さくうなずいて、
「私、CDに入ってる心霊《しんれい》音声ばっかりを編集したMP3作ってた。みのりんはい、これ聞いて」
準備万端に整った白いイヤホンコードをおもむろにバッグから取りだし、実乃梨の両耳に差し入れる。大音量の音|漏《も》れが、「♪……せんぱ〜い……♪」と有名すぎる謎《なぞ》音声を再生し、その瞬間《しゅんかん》、ブッ! と実乃梨の口からなにかが発射された。それはまるで弾丸のように、真正面の北村の額《ひたい》にコツーン! とブチ当たる。撃《う》ち抜かれたでこを押さえて北村は呻《うめ》き、顔を伏せ、その股間《こかん》にぽとりと落ちたのは種《たね》だ。実乃梨が噴《ふ》きだした梅干《うめぼし》の種。
「ごっ……ごめん北村くん! ていうかさあ……大河!?」
北村《きたむら》に謝《あやま》り、イヤホンを引き抜き、大河《たいが》を叱《しか》り、実乃梨《みのり》の頬《ほお》は一気に高潮していく。声もひっくり返っている。
「ごめんー」
と言いつつ、大河は肩をすくめるが、
「ごめんじゃないよお!? 今のなに!? アレでしょ!? あの、死んだ後輩《こうはい》が黄泉《よみ》の国から呼んでいるっていう……ややや、ややややや! どうしよー呼ばれちゃったよ私ー! 私も黄泉の国に引きずりこまれるー! っていうか、後輩の怨念《おんねん》ふけー!」
「まあまあ櫛枝《くしえだ》、落ち着いて……まずはこの種《たね》をなんとかしてくれ」
「おっと、櫛枝シードデスティニーが」
北村は股間《こかん》に落ちた梅干《うめぼし》の種を実乃梨に手渡しで返しつつ、大河に誠実な笑顔《えがお》を向ける。
「逢坂《あいさか》、そういうホラーもの好きなのか?」
「えっ! ……や……好き……か……どうか……好き、かし、ら……?」
「へえ、意外だなあ」
唐突《とうとつ》に至近《しきん》距離《きょり》からの笑顔|爆撃《ばくげき》を受け、大河はしどろもどろ、もじもじと指先についたままの飯粒を爪《つめ》の先でカリカリと剥《は》がしにかかる。実乃梨は座席を乗り越え、亜美《あみ》の膝《ひざ》の上に座り正面の大河の肩を掴《つか》んでガクガク揺らし、
「なんで!? そんなの初耳じゃん!? そんな趣味《しゅみ》なかったじゃん!?」
必死に否定しようとする。公共の場だというのに大きな声を上げ、顔を真っ赤にし、じたばたと暴《あば》れている。尻《しり》の下で亜美が苦しそうに「重い……」と呻《うめ》くのにも構わず。
その様子《ようす》に、大河と竜児《りゅうじ》は目を見交わし、かすかにうなずきあう。実乃梨はどうやら本当に、ホラーな系統が苦手《にがて》なようだ。
そう――大河が考えた、この旅行の目的にして最大の作戦とはこれだ。題して「みのりんをこわがらせて騎士《きし》登場作戦」。
『みのりんはね、ホラー、心霊《しんれい》、オカルト全般、本当にダメなんだって。入学したばっかりのときの自己紹介で言ってた。街中でホラー映画の看板《かんばん》見るだけで全身に鳥肌立ててたし、多分《たぶん》本当だと思う』……というのが、大河がスドバでもたらした情報だ。
だからこの旅行中、竜児と大河で協力して、幽霊《ゆうれい》役も二人でやって、死ぬほど実乃梨を怖がらせまくって、そして最後の最後、恐怖のどんぞこで竜児が現れるのだ。『大丈夫だ、なにがあっても俺《おれ》が守るから!』――そしてホラー現象はそこでピタリと止まり、実乃梨はうっとり。『高須《たかす》くん、本当に実乃梨のことを守ってくれたんだ……高須くんは、実乃梨だけの、大魔神《だいまじん》……』とか。これぐらいドラスティックなことをすれば、嫌《いや》でも二人の距離は縮《ちぢ》まるだろうという公算《こうさん》だ。
そんなこととは知らない実乃梨は「これはぼっしゅーと!」と大河のiPodを自分のポケットにしまいこみ、
「もー大河《たいが》ってば……とにかく、怖い話は禁止っ! 変なもん聞いちゃいけません! そんなことより、もっとこう、あーみんの疲れを癒《いや》すようなワンダフルかつアカデミックな話題で盛りあがろうよ! おにぎりの具はなにがすきー? とか、子供とかラーメンとか動物とかさあ!」
「あーそうそう、怖い話といえばさあ、あたし先週ね、」
亜美《あみ》が唐突《とうとつ》に口を開き、子供のように膝《ひざ》にのっかった実乃梨《みのり》の身体《からだ》をがしっ、と抱きしめる。実乃梨は忙《せわ》しく首を振る。
「ややややややややや! いーよ! あーみん、その話はしなくていーや!」
「んーん、そんな怖い話じゃないってばあ。笑い話笑い話」
にっこり、と微笑《ほほえ》み、亜美は実乃梨の耳元で、甘い声で語りだす。
……先週ね、雑誌の撮影《さつえい》でとあるスタジオにはいっていたときの話なんだけど。
メイクを直そうと思って控え室に戻ったの。そこのスタジオはメイクルームがすごくせまくて、洗面台なんかも室内にはあるんだけどいかにもふるーい感じ、配水管なんかも剥《む》きだしで照明も暗くて、鏡《かがみ》もちょっと欠けてたりして、あたしあんまり好きじゃなかったのね。でもスタジオなんかこっちで選《えら》べるわけないし。
そのときさあ、メイクさんが先にはいって今のメイクオフしておいて、って言うから仕方なく一人でそこに入っていったらさあ……血まみれなの。
洗面台、鏡、その足元、そこらじゅう……血まみれ。真《ま》っ赤《か》、もう完全に臭《にお》いが生臭《なまぐさ》くって、それって多分《たぶん》、やっぱり、……血液なの。誰《だれ》かの。
「――怖いじゃん……」
両手で顔を覆《おお》い、実乃梨はスー、と全身の力を抜く。ふざけてるのかマジなのか、グリンと見事に白目を向いて、亜美の膝からずるずるとすべり落ち始める。その実乃梨の身体をしっかり抱いて引きあげてやりつつ、
「やだぁ〜、ごめんごめん!」
亜美は明るく笑ってみせ、赤ん坊をあやすみたいに膝で実乃梨をゆらゆらと揺らし、
「違うの違うの、オチがあるの、オチが! あはは、それってえ、スタッフの鼻血だったの! そのときのカメラマンがすっごい気難《きむずか》しい人でえ、気に食わないことがあるとフィルムボックスをブン回すおっさんなんだけどお、それを顔面で受けちゃったスタッフがいてえ〜! 鼻が九十度曲がったとかいってえ〜! おばかだよねえ〜!」
あはははは、と亜美一人だけのかるーい笑い声がガタコン、ガタコン、と揺れる特急列車内に響《ひび》く。黙《だま》りこんでいる竜児《りゅうじ》的には、そのオチだって十分|嫌《いや》だ、という感想しか抱けなかったわけだが。
「……そ、そっかあ〜……なんだよかった〜……」
実乃梨《みのり》は顔を上げ、ふう、と亜美《あみ》に抱きしめられたまま、額《ひたい》に滲《にじ》む興奮《こうふん》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。
「私はまたてっきり、上の階で猟奇《りょうき》殺人があって、切り刻まれた遺体《いたい》が下水に流されて、それが途中で詰まっちゃって下水管が破裂して、洗面台のあの排水溝からゴポッ、ゴポッ、って死人の血肉が噴《ふ》きだしてきたのかと思っちゃったよ……こう、髪の毛がみっしりからまってチャーシューみたいになった肉片とか、でかい奥歯がゴロン、とか……うわ、こえっ」
そしてすぐに再び汗をダラダラかく。今度は亜美も黙《だま》りこみ、実乃梨の身体《からだ》を隣《となり》の座席にさりげなくのける。微妙な沈黙《ちんもく》がグループを襲《おそ》う。
亜美の話よりもオチよりもなにより、その想像が一番グロい気がするのだが――気のせいだろうか。しかし実乃梨は止まらない。意味なく両腕をねじねじと捻《ひね》りつつ、
「しかも、しかもだよ、眼球がポッコーン! と飛びだしてきてさあ、目があっちゃったりしたらどうするよ……? ねえ大河《たいが》、そのうえそのぐちょぐちょがもし私だったらどうするよ? ねえあーみん、どうする!? やだあ、排水溝に流されエンドなんてー!」
そんな死に方したくないぃぃ、と実乃梨は捻った両腕を股の間に挟んで雄《お》たけび。そんな実乃梨を見つめつつ、竜児《りゅうじ》は眼差《まなざ》しを切れすぎる刃物のように光らせる。今度はその処理でいくか、とか思っているわけではない。ただ考えていたのだ。
こういうタイプはなんというのだろう。自爆《じばく》型《がた》怖がりとでも呼ぶべきか? 自分の中で勝手にどんどん怖い妄想をふくらませ、勝手にどんどん怖くなっていくタイプだ。とりあえず、思いも寄らなかった亜美のアシストにより、実乃梨こわがらせ計画のスタートは順調に思えた。
そのとき不意に、
「おっ――」
北村《きたむら》が声を上げる。
窓の外が眩《まばゆ》さを増し、窓際《まどぎわ》の亜美が、そして大河と竜児が、最後には実乃梨も顔を上けた。そして一気に顔色を取り戻し、いつものように目を輝《かがや》かせる。
「う……っわーお! きたきたあ! きれーい!」
五人を乗せた特急列車の窓の外、青銀に輝く太平洋の水平線《すいへいせん》がきらきらと真夏の太陽を浴びて輝きを増していく。
真夏の青空の下、ブルーに光る八月の風景はどこまても遠く、眩く続く。
***
「す・ん・げ――――――――――――――っっっ!!」
すんげー、んげー、げー……と実乃梨の声が大空に響《ひび》き渡った。
別荘のある駅に降り立ち、山を大きく迂回《うかい》するみたいに開かれた道路を二十分も下ったころだろうか。
白砂の散る林道を抜けると一気に視界が明るく開け、それは現れたのだ。
「みんな歩かせてごめんねえ〜」
亜美《あみ》が振り返る。大河《たいが》は「ほんとだよ」と顔をしかめ、そして存分《ぞんぶん》に叫び終わった実乃梨《みのり》、北村《きたむら》、竜児《りゅうじ》の三人は、もはやそれ以上の言葉もない。ただまん丸に目を見開き、臆病《おくびょう》な小動物のように自然と集《つど》い、固まり、怯《おび》えるように眼下の景色を見つめ続ける。
海の近くの別荘、とは聞いてはいたが……これほどのものとは予想していなかった。
「……か、金持ちだったんだなあ、やっぱり……下品な言い方だが、今、しみじみと胸にしみたぞ……どうりで亜美の家はうちの三倍ぐらいあったはずだな……」
北村はようやくといった風情《ふぜい》で声を絞りだし、いやはやモードで首を振る。
「やーだもう祐作《ゆうさく》ってはなに言ってんの、こんなの普通よ、ふ、つ、う」
じゃあ俺《おれ》たちは普通以下か。なんて、すねている場合ではなかった。
林の中から続く小道は、下る石段へと続いている。急なそれを下った先は、海だ。
眩《まばゆ》い真っ白な砂浜と、深いブルーに透《す》ける海――真夏の天から射《さ》す強烈な光の下で波は幾重《いくえ》にも翻《ひるがえ》り、飛沫《しぶき》が星のように弾《はじ》け、どこもかしこもキラキラと輝《かがや》いている。水平線《すいへいせん》の彼方《かなた》まで続くその風景はまるで絵のようで、肌を湿らせる風に混じる潮《しお》の匂《にお》いや、打ち寄せる静かな波の音だけが、かろうじて現実感を帯びていた。
ビーチは完全に無人で、ただ透《す》き通る波だけが綺麗《きれい》な波紋《はもん》を輝《かがや》かせながら、岩の切り立つ入り江まで続く。おそらくはビーチ丸ごと川嶋家《かわしまけ》の所有地なのだろう。
楽園のようなビーチ。繰り返される波の音、風の音、夏の匂《にお》い、太陽の日差し、そして……豪邸《ごうてい》。
ビーチに向かって張りだすように丸太作りのウッドデッキが続き、その向こうにはヨーロッパのプチホテルのような、瀟洒《しょうしゃ》な白い石造りのエントランスが開いているのだ。どれほどの広さがあるのか、建物の全貌《ぜんぼう》は見事な砂防林の枝々に隠されて見ることは叶《かな》わないが、それにしたって、凄《すさ》まじかった。日本では到底《とうてい》お目にかかることのない乾いた石積みの壁《かべ》、ビーチを這《は》う浜木綿《はまゆう》が屋敷《やしき》の足元を緑《みどり》に敷《し》き詰め、濃《こ》いピンク色の花を咲かせ、切りだされた窓は普通の家屋の二倍ぐらいの高さがあった。
「こ、こ、こ、」
ズイ、と一歩石段に踏みだし、
「ここに泊まれるのっ!?」
実乃梨《みのり》は勢いよく振り返り、亜美《あみ》に飛びつかんばかり。その拍子にぶぅんと振り回された彼女のリュックが竜児《りゅうじ》と北村《きたむら》の鼻先をかすめる。男二人は決死ののけぞりで難《なん》を逃れる。
「やだもう実乃梨ちゃんってば、もっちろん! あたりまえじゃないの」
「んぎゃー! うわあうわあ、超すてき、すてきすぎるよ! もう感激《かんげき》ものだよー! こんなところに泊まれるなんて夢みたい! ああもう早く行こうよあーみん、大河《たいが》! そして男軍団!」
「あはは、おおげさなんだからあ〜」
大喜びの実乃梨の様子《ようす》に、亜美もまんざらではなさそうだ。ほとんど転がる勢いで石段を駆け下りる実乃梨の後を、長い脚を生かして悠々《ゆうゆう》と一段飛ばしで追いかけていく。
「あっこらこら! 危ないぞ女子軍団! 転ぶなよ!」
北村も女子二人の後を追って駆け下り、
「……おまえは絶対転ぶから、あせるんじゃねえぞ」
「ええ? 私がいつ転んだりしたよ」
竜児は同じく後を追って走りだそうとする大河の襟首《えりくぴ》をがっきと掴《つか》む。ドジなだけではなく、最近は健忘症《けんぼうしょう》まで患《わずら》っているご様子だ。
「ゆっくり下りろ。砂ですべるから下をよく見て」
嫌《いや》がる大河の肘《ひじ》を掴み、そろそろと一緒《いっしょ》に踏みだしてやろうとするのだが、
「気安いんだよこのせっくすおふぇんだー!」
「せ、せ……っ!?」
「性犯罪者! なに想像してんだエロス野郎!」
一瞬《いっしゅん》の動揺の隙《すき》をつかれ、腕を乱暴《らんぼう》に取り返される。ついで大河は容赦《ようしゃ》なく竜児の背中をドン! とつき飛ばし、
「おうっ!」
二段ほど踏み外《はず》して危うく踏みとどまったその背の後ろに偉そうに仁王《におう》立《だ》ち。炯炯《けいけい》と光る瞳《ひとみ》を凶悪に眇《すが》めて竜児《りゅうじ》を見下ろし、
「先を行くんだ。そして万が一私が落ちたら、全身で食い止めるがいい。あんたにはその際、この身に触れる許可をやる」
倣岸《ごうがん》不遜《ふそん》にふんぞり返る。竜児は冷たい汗に全身を濡《ぬ》らし、もはや呆然《ぼうぜん》と立ち尽くし、
「こ……言葉も出なくなるほどとんでもねえ奴《やつ》だな……俺《おれ》は今、心底ぞっとしたぞ……」
「出てるじゃんかよ。つくづくおしゃべりな奴……チャック!」
「え?」
「閉めろ! 口チャック!」
言葉なぶりの嵐《あらし》に好き放題|翻弄《ほんろう》されまくる。
そんな二人のある意味|熱《あつ》い様子《ようす》に気づいた実乃梨《みのり》は振り返り、
「あー、大河《たいが》と高須《たかす》くんがアチチだアチチだ……あぁぁぁー!」
などと指差しながら二人をからかい、最後の一段で見事にすべる。ズザー! と顔面から砂浜にダイブ、大の字に焼けつくビーチへ投げだされる。
「ぅあっちぃぃぃぃー!」
「み、実乃梨ちゃん大丈夫!?」
慌てて亜美《あみ》が駆け寄るが、
「だいじょーぶっ! 少々顔面が摩擦《まさつ》と砂の高温で焦《こ》げただけー!」
にっこりブイサインでくるんと前転して立ちあがり、ビーチについた人型の跡をものともせずに蹴散《けち》らして「電車道!」などと喚《わめ》きつつ、別荘のウッドデッキに向かって再びダッシュ。
一方、
「うー……サンダルに砂がはいっちゃう……」
ようやく石段を下りきった大河はさっきの勢いはどこへ行ったやら、おっかなびっくり、砂浜にサンダルが埋まるたびに立ち止まり、もぞもぞと足を振るったり、片足ケンケンしてみたりとどうにもビッとしない。
「そんなもん気にしてたら砂浜なんか歩けねえぞ?」
先を歩く竜児が言っても眉《まゆ》をしかめて、砂が熱いのなんのと唸《うな》るばかり。なかなか次の一歩が出ない。わがままな奴《やつ》、もう知らね、と呆《あき》れ返ったそのとき、
「どうした逢坂《あいさか》。大丈夫か? 荷物持ってやるよ」
「あ……」
さらり、と現れた北村《きたむら》が、やはりさらり、と大河の大きなカゴバッグを手からさらってしまう。軽々と荷物を二つ持つ腕は意外なほどくっきりと筋肉の彫りも深く、
「足痛いのか? 結構歩いたもんな……気づかなくてごめんな」
気遣《きづか》わしけに大河《たいが》の顔を覗《のぞ》きこむ綺麗《きれい》な二重《ふたえ》の目はどこまでも慈愛《じあい》に満ち溢《あふ》れている。
「うっ、ううんっ! へーき!」
「そか。じゃあ行こう」
ぶんぶんと首を振る大河の先に立ち、しかしあくまても置き去りにするではなくちゃんと様子《ようす》を窺《うかが》いつつ、北村《きたむら》はゆっくりと歩調《ほちょう》をセーブして歩きだす。
もちろん大河は顔面|真《ま》っ赤《か》、ほとんどプルプルぴくぴくと震《ふる》えつつ、笑うとも苦しいともつかない表情で頬《ほお》が窪《くぼ》むほど奥歯を強く噛《か》みしめている。その背中は板のようにつっぱり、ついていく右手と右足が同時に出てはいるが、一応ちゃんと歩いていけている。
竜児《りゅうじ》はしみじみと、自分がもてない理由を思う。あんなふうにさらりと女子に優《やさ》しくなんかしてやれねえし、あんなに身体《からだ》もかっこよくねえし――同じことを今ここで実乃梨《みのり》にできているような男だったら。さらりと実乃梨の荷物を持ってやり、「顔、火傷《やけど》しなかったか? 転んだとき助けてやれなくてごめんな」とか言えたなら。……実際にはただ彼女がコケて笑って立ちあがって走りだすところを見守っていることしかできなかった。
だからダメなんだ、進歩がないんだ、などと鬱《うつ》モードに入りかけるが、
「今年は誰《だれ》も来てないから、最初にみんなで掃除しないと埃《ほこり》がすごいかもー」
「なにぃ!?」
ウッドデッキに荷物を置いて振り返った亜美《あみ》の言葉に、竜児はハッ、と顔を上げた。
「そ……掃除!?」
常から危ない三白眼《さんぱくがん》に、ぎらぎら滴《したた》るような欲望の炎が燃え滾《たぎ》る。掃除なんかかったりい、火をつけてやろうじゃねえか、燃えろ燃えろ全部、などと思っているわけではない。掃除が好きなのだ。竜児は本当に本当に、掃除が大好きなのだ。
たとえばそう、埃《ほこり》の積もったフローリング。最初の一拭《ひとふ》きでいきなり真っ黒になる雑巾《ぞうきん》が好きだ。長い間放って置かれて、黒かびでべとべとになってしまった水回り……カビキラーをかけまくり、時間を置いてどうなったかな、と見に行くその瞬間《しゅんかん》も好きだ。
濁《にご》った排水溝に歯ブラシを差し入れ、ごそっと詰まっていた汚物が引きずりだされてくるのもゾクゾクするほど好きだし、赤い麹菌《こうじきん》が繁殖《はんしょく》してしまった風呂《ふろ》釜《がま》を擦《こす》り、綺麗になったかな? と指先できゅっきゅ、と確《たし》かめて見る瞬間も堪《たま》らない。目地《めじ》に詰まった黒カビなど、見つけた瞬間に「なんだよもー」などと言いつつも、唇には隠し切れない愉悦《ゆえつ》の笑《え》みが浮かぶのだ。
そんなふうにして、清潔《せいけつ》になった生活空間が大好きで大好きでどうしようもなかった。どこを舐《な》めろと言われても躊躇《ちゅうちょ》する必要がないほどに清潔に磨《みが》きあげ、使いやすく道具を揃《そろ》え、家事をしやすく、掃除もしやすく、常に綺麗に保てるように計画的に整理|整頓《せいとん》することが心の底から大好きなのだ。なぜといわれても仕方ない。世の中にはアニメが好きな奴《やつ》もいる、ゲームが好きな奴もいる、音楽が好きな奴もいる、芸能人に血道《ちみち》を上げる奴がいれば、掃除愛|一筋《ひとすじ》に生きる奴《やつ》だっている。
ついでに言えば竜児《りゅうじ》のひそかな趣味《しゅみ》は海外のインテリア雑誌を紐解《ひもと》くことで、金銭的な余裕さえあれば、いつか贅沢《ぜいたく》なファブリックやリネンをきちんと色別に揃《そろ》えてみたいとも思っている。その手のお見事なセンスに触れてみたい欲望は、大河《たいが》の暮らす高級マンションに家事を手伝いに行くことで普段《ふだん》はかなり解消されているが、
「すげえぞ……これは、大変なことになるぞ……」
竜児は思わず乙女《おとめ》のように両手を組み合わせ、うっとりと別荘を見上げてしまう。こんな豪邸《ごうてい》を掃除できる日がくるなんて。
さすがは負け犬検視官・夕月《ゆうづき》玲子《れいこ》の別荘だった。日本的な成金《なりきん》っぽさなどかけらほども感じない、まさにパーフェクトなセンス。さぞや内部も贅沢にハイセンスに、それでいてたっぷりと埃《ほこり》を積もらせて竜児を待ち構えていることだろう。ウッドデッキに荷物を置き、ああ、とため息。
「いいぜ……掃除ならいくらでも、俺《おれ》、いいぜ……」
低く熱《ねつ》っぽく一人ごち、常に携帯《けいたい》しているマイ雑巾《ぞうきん》と高須《たかす》棒《ぼう》(一部マニアの間では有名な『松居《まつい》棒』なる掃除グッズを、竜児なりにアレンジした割《わ》り箸《ばし》とコットンで作られた品)をリュックから取りだす。
そうして準備|万端《ばんたん》、さあ川嶋《かわしま》、鍵《かぎ》を開けてくれ、中に入れてくれ、と振り向くが、
「いやいやあーみん、こんなに綺麗《きれい》な海目の前にして、掃除なんてしてられないってー!」
えっ――信じがたい発言は、いとしの実乃梨《みのり》の口から。実乃梨は身軽にウッドデッキの木柵《きさく》をジャンプで乗り越えてビーチに着地、
「いやっほーぅ! 海海海っ! うーみだーっ!」
走りながら蹴散《けち》らすようにスニーカーも靴下も脱ぎ捨ててしまい、そのまま波打ち際《ぎわ》へ走って行くのだ。寄せる波もものともせずにくるぶしまで海に浸《つ》かり
「ひゃーつめたいー! あはは、波つえー! 負けねーぞ!」
真夏の強烈な光線《こうせん》に輝《かがや》く水しぶきの中、重なり寄せる波にローキック。そうして笑いながら「みーんなー! 早くおいでよー!」とこちらに手を振る。それを見て亜美《あみ》もそそくさとサンダルを脱いでデニムをまくり、
「気持ちよさそー! あたしもいこーっと!」
「掃除はこの後だな!」
北村《きたむら》まで裸足《はだし》になって走りだす。きゃーだの、つめたいだの、楽しそうな歓声《かんせい》があがり、
「おいおいおい! まずは掃除だろ!?」
異端・竜児の声など潮風に一瞬《いっしゅん》でかき散らされてしまう。なんてこった、と振り返ると、さして海に興味《きょうみ》のなさそうなカナヅチが一人、デッキに残っている。そうだ、こいつがいたではないか。
「おう、大河《たいが》! そうだよな、おまえがいるよな! なあなあ、海よりまずは掃除したいと思わねえか!? そうだ、今から二人で掃除しながら、例の計画をもっと練《ね》って――」
だが近寄ろうと踏みだした一歩は、汚いものであるかの如《ごと》く素早く避《さ》けられ、
「いやだ、寄るんじゃないよ! ……あんた、今、変態の目してる」
「えっ……」
「きも」
大河は眇《すが》めた瞳《ひとみ》に侮蔑《ぶべつ》の色を満々に湛《たた》え、プイ、と冷たく顔を背《そむ》けて竜児《りゅうじ》を完全無視。小さなサンダルをよいしょよいしょ、と脱ぎ、波打ち際《ぎわ》の皆のところへ走っていってしまう。
「おっ、きたきた! 大河こっちおいでー! お魚がいっっっぱいいるよー!」
「え、どこ? 見たい! ……うーっ、冷たいー!」
「慣れればだいじょぶだいじょぶ!」
スカートの裾《すそ》をつまみあけ、真っ白な脛《すね》を晒《さら》し、こわごわ波打ち際に入っていく大河は実乃梨《みのり》の腕にしがみつく。一人取り残され、竜児はポツーンと果てしなく孤独。みんな笑っている……それはもう楽しそうに。
掃除への欲望はいまだ捨て去れないまでも、こうなってしまってはここに一人残っていても仕方がなかった。せっかくの空気を壊《こわ》すのも嫌《いや》だし、竜児は別荘を何度も振り返りながら、不承《ふしょう》不承《ぶしょう》ウッドデッキを下りた。騒《さわ》がしい波打ち際までやってきて、とりあえず裸足《はだし》になるか、といまいちなテンションのまま足元をゴソゴソやっていると、
「うわっぷ!」
「やーい!」
冷たい水を顔にかけられる。唇を舐《な》めるととんでもなくしょっぱくて鼻も痛くて目にしみて、笑っているのは亜美《あみ》だった。
「ほらほら高須《たかす》くん、こっちで一緒《いっしょ》に遊ぼうよ!」
「あそぼって……うっぶ、おまえなあ!」
「うふふ、早く早く〜!」
誘っている割には容赦《ようしゃ》なく、白い手は水しぶきを服のままの竜児にぶっかけてくるのだ。笑顔《えがお》は甘く天使のよう、誘《いざな》う声はそよ風のよう、
「ほらほらほらあ〜!」
ぶっかける水は的確《てきかく》に目や鼻を狙《ねら》い、手口はまさしく腹黒にして性悪《しょうわる》。
「くっそ……やったな!?」
「きゃー!」
こうなれば遠慮《えんりょ》の必要もない。手加減なし、倍にしてやり返してやると、亜美は笑いながら海の中を後ずさって逃げようとする。水しぶきは真夏の日差しにキラキラと輝《かがや》き、竜児の短パンの裾もいつしか波に洗われて、輝く太陽は肌をジリジリと焦《こ》がしていく。
「やだもー、冷たいっ! 冷たいよー!」
笑って逃げる亜美《あみ》もデニムの裾《すそ》を惜しげなくまくりあげて膝《ひざ》まで丸だしにしてしまっていて、その性格はともかくとして、ビジュアルだけはまるで炭酸飲料かスポーツドリンクのCMのワンシーンのようだ。水を掛けあい、笑いあい、なんだかこれぞ夏、という気持ちになってくる。掃除への欲望も掻《か》き消える。青空に湧《わ》きあがる力強い入道雲も、この夏のシーンを盛りあげる。
気がつけば声を上げて大笑い、本気で亜美を追いかけ、汗と海水の区別もつかなくなって――
「冷たいったらー! もう、高須《たかす》くんのいじわるう〜!」
だが。
「そうかそうか、冷たいか。そんなに冷たいか」
「あんっ! やだっ! あん……あ!?」
「そんなにフナ虫は冷たいか」
「う……っぎゃあああああああああああああ!!!!」
竜児《りゅうじ》の背後、いつの間にか亜美の相手は大河《たいが》に変わっていた。その大河が亜美にポイポイ投げつけているのは、その辺の岩場にびっしりついているフナ虫だった。真っ白なタンクトップにたちまちフナ虫がひっつきまくり、
「てめえこのクソチビなにしやがんだあ!?」
般若《はんにゃ》の形相《ぎょうそう》で亜美はブチきれ、すぐさまかき集めたフナ虫を大河に向けて投げつけ返し始める。
「うるせえフナ虫でも食らってろバカチワワ!」
「あんたにこそフナ虫はお似合いだよチビすけ!」
世にも醜《みにく》い争いが、真夏の海の風景の中でうすらどんよりと繰り広げられる。おお……と竜児は怯《おび》えて逃げを打ち、そこに割ってはいる勇気があるのは、
「こらこら! せっかくの旅行なのに、どうしてケンカするんだ!」
正義の学級委員長、北村《きたむら》祐作《ゆうさく》その人しかいない。しかしド真ん中に立ちはだかった北村のシャツには、二人がヤケクソで投げつけあったフナ虫がびっしりとくっつき始め、
「うわ、ちょっとこれ……おまえたちよく触《さわ》れるな!? 俺《おれ》はちょっと……だ、だめだ、と、とってくれ……亜美! とってくれよ!」
「やだっ! 祐作きもい! こっちこないで!」
「なにい!? じゃあ逢坂《あいさか》、おまえがとってくれよ!」
「う……。……ご、ごめん……」
「なんでだよ!? とってくれよ!? おまえたち今まで素手で握ってたじゃないか!」
そうは言われても、全身にびっしりフナ虫をくっつけた男に追いすがられるとさすがに気持ちが悪いらしい――悪いが竜児に至っては、北村を正視することさえままならない。だってメガネにまでぶら下がっているんだもん……。
やがて女子二人は、とってくれ、と追いすがる眼鏡《めがね》フナ虫男からきゃーきゃー叫《さけ》んで逃げ惑《まど》い、並んで波打ち際《ぎわ》を走りだす。こんなときばかりは息が合っているようだ。
そして、
「あはは、アホだなーあいつら! よく掴《つか》むよねえ、フナ虫なんて」
「お、おう」
竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らには、いつの間にか実乃梨《みのり》の眩《まばゆ》い笑顔《えがお》が。実乃梨は猛烈なダッシュを繰り広げている三人を見て笑いつつ、
「ま、私もナマコ掴めるような女なんだが」
「すげえな!?」
両手に握りしめたナマコをずずい、と竜児に見せてくる。思わず竜児はのけぞるが、
「ナマコがいる海は綺麗《きれい》な海なんだよー。ナマコは海を綺麗にするからね、おいしいしね」
実乃梨はご機嫌《きげん》、超ご機嫌。両手のナマコを一旦《いったん》無意味に「クロスボーン」と重ね合わせてから、ポチャン、と海に返してやって、
「あははー手が磯臭《いそくさ》いよー」
両手の匂《にお》いをクンクンかいでさらににこやかに笑っている。竜児もその屈託《くったく》のない天性の明るさを前にして、思わず笑顔になってしまうが、
「……なあ、ときに櫛枝《くしえだ》」
「なあに?」
この旅の目的を、忘れるわけにはいかなかった。こういうときにこそ少しずつ、できるところから追い詰めていかなければいけない、と思うのだ。
「あそこに漂っているの、人間の頭みたいに見えねえ?」
「っ……!」
指差す先には、海面に漂うただのワカメ――見ようによっては漂える人間の頭部に見えなくもない、かもしれない。とりあえず実乃梨なら、勝手にどんどん妄想をふくらませて怯《おび》えてくれる気がする。その予想通り、見る間に実乃梨は全身にぶつぶつぶつ、と鳥肌を立て、
「ぐ……っぎゃー! 死体……死体! ってことはこの海水には腐乱《ふらん》した死体エキスが……うおわあ!」
もんどり打って逃げようとしてバランスを崩し、竜児の腕に掴まる。体重をかける。その指の感触に、思ったよりも熱《あつ》い掌《てのひら》の温度に、
「だ――大丈夫、か!?」
一瞬《いっしゅん》で息の根が止まりそうになる。首の後ろからこわばりと震《ふる》えが脊髄《せきずい》を伝って尻《しり》まで痺《しび》れさせる。これはちょっと……いや、だいぶ、イイ感じかもしれない。
「大丈夫じゃないよ私たち死体エキスに浸《つ》かってるぅぅぅー!」
しかし興奮《こうふん》する竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らで、実乃梨《みのり》は顔を真《ま》っ赤《か》に高潮させ、本気で怯《おび》えているのだった。さっきまであんなに明るく笑っていたのに。さすがに一人で興奮《こうふん》しているのにも少々罪悪感が湧《わ》き、
「へ、……変なこと言って悪い……やっぱあれ、ワカメだよな」
思わず竜児は日和《ひよ》ってしまうが、
「だぎゃー! ってことは、ワカメの死体ぃいぃぃいー!」
実乃梨は立ちあがりかけていた中腰の姿勢から、再びもんどり打って濡《ぬ》れた砂浜にズザー! と転がる。そんなこと言ったら、スーパーなんて動物魚類その他の死体だらけじゃねえか……と思うが、そんな慰《なぐさ》めを聞く間もなく、実乃梨は全速力でウッドデッキへと逃げていく。少し離《はな》れたところで亜美《あみ》が、半ば呆《あき》れるようにしてこちらを眺めているのが見える。
まだまだ計画はほんのプロローグに過ぎないというのに、実乃梨はすっかり仕掛けの中に嵌《はま》りこんでいるのだった。
3
「なあ高須《たかす》、亜美がバイクあるから今のうちに買い物してこいって。女子たちが掃除してる間に二ケツして――」
「……ん?」
顔を上げた竜児の形相《ぎょうそう》に、北村《きたむら》の端整な眼鏡《めがね》顔が一瞬《いっしゅん》強張《こわば》る。
竜児の右手には高須|棒《ぼう》。左手にはマイペット。腰には乾いた雑巾《ぞうきん》、傍らにはバケツと濡れ雑巾。パーフェクトな体勢で竜児はマイゴム手袋をはめて四つんばいになり、外国製システムキッチンのシンク下を高須基準で舐《な》められるほどに磨《みが》きあげ中であった。
北村の声に答えるべく起きあがり、ゴム手袋を外《はず》し、
「なに? なんていったんだ今」
「あ、いや……もういいわ。随分《ずいぶん》とまた……丁寧《ていねい》に掃除してるんだな」
「ああ、やりがいがあるぜ」
ふう、と床《ゆか》に正座しつつ、竜児は一見危なくギンギンに血走った目で改めて辺《あた》りを見回す。ベロリと獰猛《どうもう》に舌なめずり――単に唇が乾いただけだが。
予想した以上に、この別荘は素晴《すば》らしかった。二階建てになっていて、一階部分に軽く二十畳以上はありそうな暖炉《だんろ》つきのリビングがあり、その隣《となり》にはビーチが一望できるダイニングがあり、カウンターで隔《へだ》てられたこのキッチンにもテーブルが置かれて、こちらも六畳以上の広さがありそうだ。そして二階部分にはベッドルームが五室あるという。ちなみにトイレもシャワーも、両方の階にそれぞれあるとか。
「5LDKとか川嶋《かわしま》の奴《やつ》言ってたぞ……すげえよな、うちなんてあのリビング一部屋よりも狭い気がする」
「うちの近所に住んでいたころの亜美《あみ》の家はここよりもっと広かったし、今の都心のマンションはさらにさらに広いらしいぞ……意味がわからん。とにかくなんというか、セレブだよな!」
「セレブかあ……」
男二人、ふむん、とおばちゃんのように頬《ほお》に手を当て、ついついしみじみと高い天井を《てんじょう》眺めてしまう。海外ドラマに出てくる家のように、頭上ではファンがくるくると回っている。本当にここは別世界だ……なんのためにあのファンはあるのかすら、竜児《りゅうじ》にも北村《きたむら》にも理解することができない。ぼんやりとため息などついていると、
「祐作《ゆうさく》ー、はいこれキー。どうするの? 高須《たかす》くんと買い物行くの?」
戸口からちょこん、とセレブが顔を出した。買い物ってなんだ? と竜児だけ話についていけていないが、
「いや、高須は熱心《ねっしん》に掃除中みたいだから、俺《おれ》一人で行ってくる」
「えーっ 無理無理、カゴとかついてないし、スクーターじゃないから足元に荷物置けないもん。荷台にくくる紐《ひも》? もないし、荷物もちいないと無理だって」
「じゃあおまえ行くか?」
「あたしいないと、この別荘のことわかる人間いなくなっちゃうじゃん」
なるほど……話の流れを掴《つか》むやいなや、竜児はハイ、と手をあげた。
「大河《たいが》と行けよ。あいつ掃除なんかできねえから、いても役に立たねえし。おーい大河ー!」
「なに、大きい声出して」
「おう!」
驚《おどろ》いた。意外と近くに大河はいたのだ。
床《ゆか》掃除をしていたのか単に座りこんでいたのか、北村の気配《けはい》を察知してこっそり近寄ってきていたのか。なぜか床に四つんばいになって、亜美の長い脚の間からにゅっと顔を突きだしている。
「なによあんたー! 変なところくぐんないでよ!」
喚《わめ》く亜美の声をものともせず、まだやってる? と暖簾《のれん》から顔を出した常連の仕草《しぐさ》で膝《ひざ》の内側に手をかけて、大河は北村のほうを見ないように竜児だけをうっそりと見あげる。
「いや、北村《きたむら》が一緒《いっしょ》に買い物行く奴《やつ》捜してるから、おまえ行けばいいかなって」
竜児《りゅうじ》の言葉にあわせ、北村は亜美《あみ》から受け取ったキーをチャラチャラと顔の前で振ってみせた。
「ああ、行かないか? いま下りてきた山道、バイクで走ったらかなり気持ちいいと思うぞ」
「……っ!」
大河《たいが》はびくぅっと硬直し、口を小さな三角形に窄《すぼ》める。丸い頬《ほお》は桃色に染まり、両目がシャキーンと線《せん》になって吊《つ》りあがる。それは大河なりの驚愕《きょうがく》と緊張《きんちょう》と歓喜《かんき》の表情だ。そうだろうそうだろう、と竜児は一人うなずく。北村と二ケツでビーチサイドツーリング……こんなシチュエーション、夢にも思わなかったことだろう。なんというナイスアシスト。なんだかんだいって、結局こうやって大河の手助けをしてしまうのだ自分は。だがまあそれも、自然の成り行きなら仕方ないわけで――
「い、行かない」
「なに!?」
自分の善良さに酔っていた竜児は、思わず鬼の形相《ぎょうそう》で振り返る。怒っているわけではない、驚《おどろ》いたのだ。せっかくのサポートを、せっかくのチャンスを、どうしてこいつは無にするのだ。
竜児の思いも知らずに大河は亜美の膝裏《ひざうら》に頬を押しつけ、木の陰からジャイアンツ入りを目指す弟とちょっとパラノイアな父を覗《のぞ》く貧乏一家の姉のようにもじもじと顔を隠し、
「私バイク怖いから……行かない」
「……ちょっとあんた……」
ついでに亜美の尻《しり》を無《む》意識《いしき》だろうが揉《も》みしだく。嫌《いや》そうに身体《からだ》をよじった亜美に逃げられ、今度はもじもじと壁《かべ》伝いに立ちあがり、
「みのりんが行くと思うから、みのりん呼んでくる」
みーのーりーんー、などと言いながらてけてけ廊下を去っていってしまうのだ。
自分のチャンスを無にするだけじゃなく、竜児と実乃梨《みのり》のトークタイムの可能性まで無にしようというのか。なんてことを、と竜児はすばやく立ちあがり、大河の後を追いかける。肘《ひじ》を掴《つか》んで引き戻し、
「ちょっと待てって! なんでだよ!?」
キッチンの北村たちに聞こえないよう小声で問い詰めに入ってやるが、
「……っるさいなあ」
「ふが!」
みぞおちに鋭《するど》い肘鉄が突き刺さる。声をなくして膝をついた竜児を、大河は万年氷の最下層から発見されたサーベルタイガーの冷凍死体みたいな絶対|零度《れいど》の眼差《まなざ》しで見下ろし、
「考えがあるのよ。あんたとは違って、私は計画的かつ論理《ろんり》的《てき》に行動してんの」
「……て、照れてるだけなくせに。俺《おれ》には全部お見通し……おぶっ!」
「……蚊よ。蚊がいたわ」
ビシャン! と口にビンタまで食らい、もはやこれ以上の追及は不可能だった。
買い物? 行く行くー! ……と屈託《くったく》なく実乃梨《みのり》はクイックルワイパーを投げだし、北村《きたむら》と二人、バイクに跨《またが》って駅前のスーパー目指して去っていった。風になろうぜ、とか呟《つぶや》きながら。
それを見送ったウッドデッキから続く玄関で、大河《たいが》はこっそり声をひそめる。
「いーい? 今からみのりんが戻ってくるまでの間に、例の計画に使えそうな場所を探るのよ。例えば屋根裏とか、みのりんの部屋の窓に外から上れるかとか。この別荘の中の隠れられそうなところ、みのりんを脅《おど》かせそうなところを全部チェックするの。あんた犬だもん、そういうの得意でしょ」
さりげなく付け加えられた悪口は聞かない振りで竜児《りゅうじ》はうなずく。
「……なるほど、OK。しかし川嶋《かわしま》に見つかったら面倒《めんどう》なことになるぞ。っていうか、川嶋はどこに行ったんだ?」
気がつけば亜美《あみ》の姿はなく、辺《あた》りを見回しても気配《けはい》はなかった。大河はふん、と肩をすくめ、
「わかんない。まあ見つかっちゃったらそのときそのときで、うまくごまかすしかないでしょ」
早く行け、とばかりに竜児の背中を張り手でつっぱる。計画的かつ論理《ろんり》的《てき》な行動にしては行き当たりばったりなセリフだったが、確《たし》かにそれ以外に方法らしい方法もないだろう。急《せ》かされるままに別荘の中へ戻り、
「あんたは二階を見て回って。階段から近い順に、北村くんの部屋、あんたの部屋、私の部屋、みのりんの部屋、ばかちーの部屋だって。さっきばかちーがそう言ってシーツとか運び入れてた」
「わかった。おまえは一階だな。ゴキブリがいたから気をつけろよ」
「えっ……」
微妙な表情で固まる大河を置き去りに、竜児は階段を一階にあがる。大丈夫、大河ならゴキブリと戦っても勝てる。
幅の広いパイン材の床《ゆか》を踏みしめ、広々とした廊下と、ずらり南面に並ぶ居室のドアに改めて感嘆《かんたん》する。下手《へた》なペンションやプチホテルよりも、よっぽど気の利いたつくりをしている気がする。
大河の家といい、亜美の家といい、世の中意外と金持ちは多い……しみじみとちんまりした己《おのれ》の借家《しゃくや》を思い浮かべつつ、竜児は足音を忍ばせて実乃梨の部屋を目指す。こっそり中へはいり、外部から窓を叩《たた》いたりすることは可能かどうかを確かめるのだ。余裕があれば屋根裏まで上がってみるつもりだ。
かなり本格的に、大河と竜児は実乃梨を怖がらせてやるつもりでいた。かわいそうだとはもちろん思うが、今日《きょう》、明日《あした》と思いっきり怖がらせておかないと、明日の夜にナイト登場を気取っても効果が薄《うす》い気がする。それもこれも、あの犬で土下座《どげざ》で子犬の未来を回避《かいひ》するためには仕方がなかった。とんでもないエゴイズムもあったものだが、片思いなどそもそもエゴ以外の何者でもない。そもそもが自分勝手な妄想と都合のいい勘違いのなせる業《わざ》なのだ。……なんて開き直ったところで、罪悪感まで都合よく消え失《う》せてはくれないが。
部屋の中まで入るなんてかなりストーカーっぽいと我《われ》ながら思う。しかし今ならまだ荷解きもしていないだろうし、私物には触らないし、ちょっとだけのことだし……などと心中で自己|弁護《べんご》を繰《く》り返しつつ廊下を進むと、
「……あれ? ここはなんだっけ」
南側に並ぶ居室と向かい合わせ、階段の並びに見慣《みな》れぬドアが二つある。一つをそっと開けてみて、なんだ、と竜児《りゅうじ》は肩をすくめた。まだ確認《かくにん》していなかった、これが便所だ。あとでここも掃除に入ろう、覚悟しとけよ、と便器を指差し、猶予《ゆうよ》をやる。
それならこっちはシャワーか、とドアを開け、一応中を覗《のぞ》いてみた。
「ん? ……なんだよもう」
電気がつけっぱなしになっていて、洗濯機《せんたくき》置き場|兼《けん》の脱衣所は煌々《こうこう》と照らされている。別に竜児が払う電気代ではないが、無意味な無駄《むだ》は許せない性質《たち》だ。しかし消そうと思ったが、スイッチのありかがわからない。その奥、半ば開いたままのガラスの引き戸の中だろうか。足を踏み入れて見回す。洗面台と、シャワーカーテンに閉ざされたバスタブがある。スイッチはガラス戸のわきの壁面《ヘきめん》にあった。
一瞬《いっしゅん》、あれ、とは思ったのだ。なんとなく湿気っぽいような――だけどまさかそんなわけは、と無《む》意識《いしき》がその違和感を打ち消し、明かりのスイッチを切った次の瞬間。
「きゃ!?」
「おう、すまん! ……ん?」
女の悲鳴。反射的に電気をすぐにつけなおし、竜児ははた、と首を捻《ひね》る。一体今の声は……
「んもー、高須《たかす》くんなの? 女の子のシャワー中に、入ってこないでくれるぅ?」
……シャワーカーテンの向こう。
……蛇口《じゃぐち》を捻《ひね》る音、滴《したた》り落ちるシャワーの音。
……立ちこめる、湿気。
……声の主《ぬし》は、亜美《あみ》。
う。
「うわわわわっっっ、わ、悪いっ! 気がつかなくて……あーっ!」
「……ん・ふ・ふ……※[#「ハートマーク」]」
閉じたままのシャワーカーテンの内側から、白い腕がにゅっと伸びてくるのだ。必死に目をそらし、逃げだそうとするのだが、濡《ぬ》れた手はどういうわけだか竜児の腕をがしっと掴《つか》む。すごい力で引き寄せられ、竜児《りゅうじ》の足はタイルの上をむなしくすべすべと空《から》回り。
「おまっ、おまっ、おまっ、一体なにを……っ!?」
「ねーえ」
亜美《あみ》の声はまるで子猫の鳴き声のように、甲高《かんだか》く甘く、狭いシャワールームにこもる。
「高須《たかす》くんて、結構|大胆《だいたん》なんだあ? 知らなかったなあ〜……欲しいもの、もらいにきたんだぁ?」
「違う! わざとじゃねえ! 気づかなかったんだ!」
「またまたぁ……言い訳《わけ》なんかいらないんだよ? だって、ここならだーれも、見てないもの……完全に、二人きり……」
「あほか!?」
閉ざされたままのカーテンの内側からは、くぐもるひそやかな笑い声。亜美はまるで悪魔《あくま》のようだ。竜児をしっかり捕まえたまま、動きを止める呪文《じゅもん》のように溶けるみたいな囁《ささや》き声を甘ったるく響《ひび》かせ続ける。
「嬉《うれ》しくないの……? いまなら誰《だれ》にも内緒《ないしょ》であげるよ……祐作《ゆうさく》にも、やきもちタイガーにも、……実乃梨《みのり》ちゃん、にも、内緒で……」
「ふぁーお!」
カーテンがゆらりと揺れる。薄《うす》い布地の向こうに、ゆっくり立ちあがる影《かげ》が透《す》ける。ちょっと待て、待ってください、竜児《りゅうじ》はほとんど半死《はんし》半生《はんしょう》でわけもわからないまま片手で必死に目を覆《おお》う。
「ななななに考えてるんだおまえは!?」
「いいんだよ……高須《たかす》くんが、望むならさ……」
「望まない望まない!」
「ほんとに? ……ねーえ、ほんと? ……本当に、いらないの……?」
「なにをだ!?」
「――これをよ!」
きゃ――――――――――――――っっっ!
「……あ?」
勢いよく全開になったシャワーカーテンの内部から必死に目をそらし、顔をそらし、声にならない悲鳴を上げてしりもちをついた竜児を見下ろし、
「……ぷぷーっ!」
悪魔《あくま》は頬《ほお》を膨《ふく》らませ、盛大に吹きだす。そして、
「きゃーはははははははははははははははははーっ!」
マシンガンみたいな哄笑《こうしょう》を、いまだ立ちあがれないまま横座りになったアホに向けて非人道的に乱射するのだ。
「……な、な……な?」
泡のついたバスタブの中に立つ亜美《あみ》は、邪悪な高笑いに身をよじっていた。ほとんど涙を流さんばかりに嬉《うれ》しそうに楽しそうに小躍《こおど》りし、情けない姿の竜児を措差して身もだえ、
「やーだーもーう! たーかーすーくーん!? あなた、一体なにを期待してたのかしらあ!? そのツラったら……きゃーはははは! ひーおっかしー! けっさくー! あははははは!」
Tシャツにデニム姿、手にスポンジを持ったスタイルで壁《かべ》をどかどか叩《たた》いて大喜び。
「おまえ……な、なにをしてたんだ……?」
「お・ふ・ろ・そ・う・じ※[#「ハートマーク」] お掃除大好きな高須くんが望むなら、代わってあけてもいいかなーって※[#「ハートマーク」]」
「あ、竜児! 二階はどうだった? こっちは屋根裏に行くはしご見つけた……なに?」
竜児はいろいろな衝撃《しょうげき》と悔《くや》しさと恥ずかしさでもはや人事|不省《ふせい》、逃げだすみたいに駆け下りた階段の踊り場で、捕まえた大河《たいが》を相手に必死のボディランゲージ。今の出来事を告げ口する。吊《つ》りあがった狂乱の三白眼《さんぱくがん》はほとんど半ベソで赤く血走り、相手が大河でなければ逮捕・起訴・有罪・お勤めコースで間違いなかったかもしれない。
「ええ? ふんふん……ばかちーが? まるで? シャワーを浴びているように見せかけて? 自分……竜児《りゅうじ》を? からかった? 裸を見せて。誘惑《ゆうわく》するような振りで」
どうしてうまく伝わったのか自分でも不思議《ふしぎ》だが、竜児は耳たぶをつまんだポーズで「そのとおり」とこっくり深くうなずいてみせた。
「……で、首尾はどうだったわけ? みのりんの部屋とかちゃんと見てきた?」
ぶるる、と激《はげ》しく首を横に。
「役立たずが!」
間髪《かんはつ》入れない見事な罵声《ばせい》に、ただでさえ弱っている状態の竜児は情けなく壁際《かべぎわ》に逃《に》げ退《すさ》り、無《む》意識《いしき》に尻《しり》ポケットの携帯《けいたい》に手を這《は》わす。……今なら家に電話すれば泰子《やすこ》が出て、インコちゃんと話させてくれるかもしれない……。
「癒《いや》しを求めるんじゃない! ほんっとに使えない奴《やつ》、ばかちー如《ごと》きに翻弄《ほんろう》されてどうする!? ったくもう、いい、わかった。私が見てくるついでに、一言《ひとこと》ばかちーに文句いったる!」
一言で済むかどうかは謎《なぞ》だが、今の竜児は全面的に大河《たいが》に頼りたい気分だった。そうだ言ってやってくれ、あの悪魔《あくま》に一言でも千言でも、文句でも呪《のろ》いでも言ってやってくれ。情けない? なんとでもいえ。竜児の男のプライドと純情は、見るも無残に砕《くだ》かれたのだ。
大河はきっ、と目つきを鋭《するど》くするなり階段を駆けあがり、「こらー! ばかちー!」と大声で怒鳴《どな》る。一階で待っている竜児の耳に、それはとても頼もしく聞こえる。
ガラ、と引き戸を開ける音がして、悲鳴じみた声が聞こえ、なにやら揉《も》める気配《けはい》がして、――沈黙《ちんもく》。
しばし、気まずいほどの静けさが続き、なにがあったのかさすがに竜児も気になり始めたころ。
「……し、しんじらんない、もう、なんなのよ、なんだっつーのよ……」
ぶつくさ文句を吐きながら階段を下りてきたのは、亜美《あみ》だった。さっきとは違うスエット姿、苛立《いらだ》っているのか踊り場の竜児をほとんど突き飛ばすようにして押しのけ、濡《ぬ》れた髪がその拍子にふわりと甘く匂《にお》い立つ。
……濡れた髪?
さらに続いて下りてきた大河は、
「ど――どうしたんだ!?」
なんだかしとしとに全身濡れて、その上、頬《ほお》にくっきりと赤い手形をつけていた。車にひかれかけた猫そっくりのまん丸に凍ったような目をして、そして一言、
「……ばかちー、ほんとにお風呂《ふろ》はいってたよ……」
と。
「余計なこと言わないでいいっ!」
噛《か》みつくように亜美が振り返り、竜児は二人の間になにがあったのか恐ろしくて聞くことができない。わかることはただひとつ――大河《たいが》が寄り目になっている。
「た、大河……? しっかりしろ、おまえはなにを見てしまったんだ?」
「竜児《りゅうじ》、あのね……ばかちーはね、ぼん! で、」
右乳のあたりで右手を開き、
「ぼん! で、」
左乳のあたりで左手を開き、そして最後に下半身のあたりで、大河は重ねて丸めた両手を思いっきり開いてみせる。
「……っっぼぉんっ! ……だった」
亜美《あみ》はほとんど宙を舞《ま》うように一足《いっそく》飛びに戻ってきて、
「だからやめろっつーの!」
大河の頭にチョップが刺さる。もちろん、いつもならそんなことをされてただですます手乗りタイガーではないのだが、しかし大河はどこかまだうすらぼんやりとした様子《ようす》でふらふらと電話台のメモ帳とエンピツを手にし、
「竜児、あのね……ばかちーはね、ここがこう……意外とこうなって……ここが、ぼんっ!」
「人の裸体をイラスト化するんじゃなーい!」
へタクソなせいでかえって妙にリアルなイラストを奪《うば》われ、びりびりに引きちぎられている。
その後、大河が正気を取り戻すまで、実に三十分という時を必要としたのである。
***
それから小一時間も経《た》ったころだろうか。表からバイクのブレーキ音が聞こえ、しばしあって、
「ただいまー! おーい、高須《たかす》くーん!」
竜児は拭《ふ》きかけの食器から忠実な犬のように顔を上げる。実乃梨《みのり》の声は確《たし》かに今、自分を呼んだ。
長い廊下をスリッパで走って声のした玄関のほうへ向かうと
「ごめんごめん、これ持つの手伝ってくれる?」
「うわ、買いすぎじゃねえか!?」
「そうかなあ、でも五人分の今日《きょう》の夜、明日《あした》の三食、できればあさっての朝だからさ。あとウーロン茶とか、調味料《ちょうみりょう》とか」
「残すわけにはいかねえんだぞ」
「全部たべちゃえばいーんだよ。っとっと」
ウッドデッキを引きずるようにして実乃梨が玄関に持ちこんだのは、大きな買い物袋にたっぷり四つ分の食料品。ガチャン、と下になっている割れ物が音を立て、竜児は慌てて実乃梨の手から袋を奪う。
「引きずるなって。ったく、北村《きたむら》はなにやってんだ?」
「バイク置いてくるって。悪いのう、これは私持つよ。大河《たいが》とあーみんは?」
「川嶋《かわしま》はテレビの映りが悪くてヒスって実家に電話中。大河は……便所かな。全部|一旦《いったん》台所へ運ぼう」
おう、とうなずく実乃梨《みのり》と、なんだか嬉《うれ》し恥ずかしな新婚気分。でへへ……とゆるむ頬《ほお》を隠すために竜児《りゅうじ》は先に立って重い荷物を台所へと持っていく。だが、ただのんべんだらりと一瞬《いっしゅん》の快楽に身をゆだねているわけにはいかないのだ。大丈夫、ちゃんと目的は忘れていないとも。
もちろん準備は万端《ばんたん》――大河とて、ただ亜美《あみ》の風呂《ふろ》を覗《のぞ》きにこんなところまで来たのではないし。天井《てんじょう》がわずかに軋《きし》んだのを確認《かくにん》し、竜児はよし、となにげなく距離《きょり》を測る。……この辺か。
「あ、ちょっと買い物一旦そこに置いてくれ。冷蔵庫《れいぞうこ》に入れるものと入れないもの分《わ》けるから」
「ほーい」
台所に入る手前でさりげなく実乃梨にストップをかける。実乃梨は廊下にしゃがみこみ、袋の中を漁《あさ》り始める。
「えーと……ソースって常温か? カレールーは……常温か。おまえはどっちだ? たまねぎ」
竜児もその向かいに膝《ひざ》をつき、袋の中を覗きこむ素振《そぶ》りで、俯《うつむ》く実乃梨の意外なほどになめらかな頬《ほお》をじっと見つめてしまったり、つややかな髪の分け目がちょっと日に焼けて赤くなっているのを発見したり、上唇が薄《うす》くてちょっと尖《とが》っていることに気づいたり。本当にかわいいなあ――じゃなくて。ないのだ、そんな場合では。
緊張《きんちょう》に喉《のど》が渇き、なにげなく咳払《せきばら》い、
「く、櫛枝《くしえだ》。これは冷蔵庫か? なあ、どこかに書いてあるかな?」
「んー? どれどれ、貸してみ。えっと……」
トマトピューレの缶詰(こんなもん、冷蔵庫のわけがねえ)を実乃梨に手渡して、細かい字を読んでもらう。実乃梨は字を読もうとくりくり光る目をふむ、と細め、そして、
「……ひ!?」
唐突《とうとつ》にひきつった悲鳴を上げた。
「ん? どうした?」
顔を上げ、竜児は驚《おどろ》いたそぶりでしかしさりげなく問いかける。
「や、やややややややや、や……」
稲川《いながわ》淳二《じゅんじ》化した実乃梨は目を見開き、顔を強張《こわば》らせ、竜児の顔と自分の背後を必死に何度も振り返って見比べる。
「ややややや、い、今……今、なんか、私の背後になにか……あれ、あれ、うおお……なんだよ」
なにかを探すようにきょろきょろと辺《あた》りを見回して、納得いかないとでも言いたいみたいに前髪を乱暴《らんぼう》にかきあげ、もう一度|確認《かくにん》するみたいに竜児《りゅうじ》の顔を見るのだが。
「気のせいだろ、なにもないぞ?」
「……」
「どうかしたのか?」
「……いや……なんでも……ない……の、かな。勘違い……かな。そうだよな……だよなだーよなそーうだーよな」
実乃梨《みのり》は顔を強張《こわば》らせたまま自分に言い聞かせるように一節歌い、ついでに頬《ほお》をバシバシと叩《たた》いて、再び缶詰に視線《しせん》を落とす。
その背後だ。
もう一度――今と同じことがもう一度、繰り返されようとしている。もちろん竜児にはそれが見えている。
天井板《てんじょういた》が一部だけずらされて、その隙間《すきま》の暗がりから、ビーチでさっき拾ってきたばかりの新鮮《しんせん》なワカメが糸で吊《つ》るされてヌーン、と実乃梨の首筋へと降下中なのだ。ワカメは「ぼんっ!」と丸くふくらむように縛《しば》られていて、無防備な実乃梨のパーカーの首元へ。やがてヌル柔らかい先端がぬとん、とその肌に触れる。当然その原始的な機構《きこう》は、パワード・バイ・大河《たいが》@屋根裏である。ちなみにワカメのぼんっ! は、大河|曰《いわ》く「これは浮遊型ニセ霊魂《れいこん》・ばかちー一号」……らしい。やめてやれよ、と思わなくもない。
「……っ……」
びく、と実乃梨の表情が凍る。ゆっくり、ゆっくり後ろを振り向く。もちろんすばやくばかちー一号は回収済み、痕跡《こんせき》など皆無《かいむ》。
「どうしたんだよ、櫛枝《くしえだ》」
ごめんよ……と思いつつも、竜児は白々しく不審《ふしん》げな視線を向ける。実乃梨はあうあう、とあらぬ方向を指差し、視線を惑《まど》わし、
「い、いま、確《たし》かに、絶対、なにか触ったんだよ……なんかこう、ぬるっ、ていうか、ぬめっ、ていうか……まるでこう……ワカメ? みたいな……」
それはもう、ワカメだから……
「……ワカメみたいな死人の髪みたいな……ワカメに巻きつかれて死んだ動物|霊《れい》、みたいな……ラッコ? ワカメ巻きといえば、ラッコ? ラッコの死体? ……皮のポケットに、ホタテの死体ぎっしりのラッコか!?」
出た、と竜児は嘆息《たんそく》。さすが実乃梨、薄《うす》気味《きみ》悪いものにどんどん事実を増幅していく才能は底なしだ。やがて彼女はいぎー、と前歯をガチガチと噛《か》み合わせ、
「ぬ、濡《ぬ》れてる……触られたところ濡れてるよ! この臭《にお》いは……」
クン、と首筋のワカメ汁に手を触れ、その手を実乃梨はくんくんと嗅《か》いで、
「ぎゃーっ! やっぱりワカメの臭いがするうううううーっ!」
大正解、なのだが。
「お、おい!」
「ラッコの死体だあ! ワカメの呪《のろ》いだああああーっ!」
手をばっちいものを触ったみたいに遠くへピンと伸ばし、実乃梨《みのり》はものすごい勢いで廊下を走って逃げて行ってしまう。こんな程度のことでこんなに怖がってくれるなんて……竜児《りゅうじ》はほとんどありがたいものを拝むみたいな心地《ここち》になって、しみじみとその背中を見送る。
そしてややあって、
「……なんか、気が咎《とが》めるわ……」
足音が遠ざかるのを確認《かくにん》。天井板《てんじょういた》が大きくずらされて、覗《のぞ》いた白い顔はもちろん大河《たいが》だ。
埃《ほこり》に鼻をぐしゅぐしゅ言わせながら竜児を見下ろし、
「あんた、こんなことして地獄に落ちるね」
どこぞの占星術師《せんせいじゅつし》みたいなことを言う。
「……実行犯はおまえだろうが」
「主犯はあんたよ。さ、ばかちー一号片付けてこよっと。ここから飛び降りれるかな?」
「荒っぽいことを……やめとけよ、あぶねえぞ」
大河は「平気平気」と天井板をさらにずらし、一旦《いったん》顔を引っこめると今度はつま先がにゅっと天井から伸びてくる。
「また梯子《はしご》使って下りてくのめんどくさいからさ」
「おい、ちょっと……マジかよ? 落ちるなよ?」
「やあねえ、私がそんなドジするわけないじゃないの」
これは落ちる。確実に落ちるパターンだ。
竜児は確信し、大河が降りようとしているその真下でなにかあったら支えてやろうと腕を伸ばして待ち受ける。大河の素足はゆらゆらと揺れながら床《ゆか》までの距離《きょり》を図《はか》りかねているように宙を蹴り、やがてズルズルとゆっくり下半身が天井板の隙間《すきま》から這《は》いでてくる。そして、
「うっ……」
なんだ今の声は――と問う間もなく、ずるっ、と大河は一気に数十センチ落下。危ないところで竜児が素足を抱きとめ、床に落ちるのは免《まぬが》れるが。
「う、う、う……やばい……かも……手がすべる!」
わきの下で危うく天井板にひっかかり、大河は腕だけで身体《からだ》を支えている状態だ。もがく足はむなしく揺れるばかり、声にも切迫が滲《にじ》む。
「あ、上がるも、下りるも、できなくなったかも……っ」
「ほらもう、だから言っただろ!? 支えてやるから、そのまま手を離《はな》せ!」
「や、やだ!」
「なんで!?」
「パンツ見えるじゃんこのエロ犬! こんなときでさえパンチラ狙《ねら》いとはおっそろしい奴《やつ》だ!」
「おまえのがおっそろしいよ! パンツのパの字も思い浮かべちゃいねえよ!」
せっかく支えてやっているのに大河《たいが》はジタバタとその足で竜児《りゅうじ》を蹴《け》ろうとし、素足がぺたーん、と頬《ほお》に当たり、いっそこのまま引きずり下ろしてやろうか、と思ったところで、
「ええーん! 本当にワカメの霊《れい》が出たんだよおおー」
「ワカメの霊〜? なにそれ?」
「石立《いしだて》鉄男《てつお》の霊かもしれないよおおー」
「え〜? それだれえ? 実乃梨《みのり》ちゃんの親戚《しんせき》?」
「さもなくばラッコの霊だよおおー」
「ラッコの礼〜? それってちょっとかわいくな〜い?」
サー、と一気に竜児の顔色が青くなる。凄《すさ》まじい急勾配《きゅうこうばい》で吊《つ》りあがった三白眼《さんぱくがん》は近寄ってくる乙女《おとめ》二人をワカメ|〆《じめ》にしてやろうと企《たくら》んでいるわけではなく、心臓《しんぞう》をケロっと吐けるほどにあせっているのだ。
「うわ、やばいやばいやばいやばいやばい……っ」
近づいてくるのは当然実乃梨と亜美《あみ》、その声が聞こえたのか大河も激《はげ》しく足をジタバタさせる。迷った挙句《あげく》、天井裏《てんじょううら》に戻ろうとしているのだ。ぺたくたと足の裏スタンプを顔面に浴びつつも竜児は慌ててその素足を両手で支えてやり、思いっきり腕を伸ばして大河を天井裏に戻そうとする。が、
「いそげいそ……だっ!」
慌てた大河が落とした懐中電灯《かいちゅうでんとう》が、スコーン! と綺麗《きれい》に鼻にヒットする。痛みに崩れ落ちた瞬間《しゅんかん》、大河の身体《からだ》は引きあがり、天井板がパタン、と元に戻される。
「えー、どこにそのなんとか鉄男さんの霊がいるのよお。高須《たかす》くんが座ってるだけじゃん。……っていうか、高須くん、なにしてんの……?」
「あっれえ、おかしいなあ……高須くん、どしたの?」
「いや、ちょ、ちょっと……」
なんでもねえ、と二人を振り返ったその瞬間、
「げえええええええ―――っ!?」
超人風の絶叫が同時に実乃梨と亜美の口から漏れる。一体なにが? といまだ痛む鼻になにげなく手をやって、
「……おう!」
ぬるり、と熱《あつ》いぬめりに自《みずか》ら仰天《ぎょうてん》。見れば触った手は真《ま》っ赤《か》にベタつき、思いっきり鼻血を垂らしていた。バチが当たったのかもしれない……正確《せいかく》には、当たったのは大河の懐中電灯だが。もはや言い訳《わけ》することもできずに無言で台所に駆けこんで手と顔を洗い、
「高須《たかす》くんいきなりどーしたの!? ワカメの霊《れい》にやられたの!?」
心配そうに首筋をチョップしてくれる実乃梨《みのり》の質問にもまともに答えることはできない。滴《したた》る鼻血を必死に流し、鼻をつまんで上を向く。亜美《あみ》も呆《あき》れたようにそんな竜児《りゅうじ》の顔を覗《のぞ》きこみ、
「とりあえずはいティッシュ! ていうかも〜、一体どうしちゃったわけえ!? あ、もしかしてさっきの『アレ』、刺激《しげき》強すぎたかな?」
うふ※[#「ハートマーク」]と空気を読まない亜美の囁《ささや》きは思いっきり聞こえないふり、
「違う。鼻をほじりすぎた」
「小学生かよ!」
プライドを傷つけられたらしい亜美の的確《てきかく》な突っこみに羞恥《しゅうち》心《しん》を掻《か》き立てられる。そして実乃梨に見られないように小さく身体《からだ》を丸めて鼻にティッシュをそっと詰め、ああ、と自己|嫌悪《けんお》……最悪だ……最悪……。
「おい、どうしたんだみんな揃《そろ》って」
そこへさわやかな北村《きたむら》の声が。
「いやあ、それが高須くんがワカメに鼻血を……どぅおーしたのおおおおー!?」
唐突《とうとつ》にひっくり返った実乃梨の悲鳴に、亜美と竜児も振り返って北村を見た。そして唖然《あぜん》と言葉をなくす。
「あっはっは」
「いや、笑い事じゃなくてさあ!?」
「バイクを納屋にしまおうとしたら、ちょっと微妙に狭くて、その辺の重機《じゅうき》をちょっとずらそうとして……かるーく下敷《したじ》きに」
笑う北村は全身黒い油でドロドロ、眼鏡《めがね》もサングラス状態になって、頬《ほお》やら肘《ひじ》やらすり剥《む》いた傷からはうっすら血も滲《にじ》んでいる。完全に、竜児の鼻血のインパクトはぶっ飛んだ。
「やだもー信じられない! 祐作《ゆうさく》ってば大丈夫!?」
亜美も竜児の手元からティッシュを取りあげ、より重症そうな北村へ押しつける。すると、
「……この騒《さわ》ぎはなに? 一体どうしちゃったの?」
最後に現れたのは大河《たいが》だった。油まみれの水鳥みたいになった北村と、ダブル鼻栓《はなせん》状態の竜児を見て、驚《おどろ》いたように眉間《みけん》にしわを寄せて、
「――っくしょん!」
豪快にくしゃみをぶっとばす。しかし、だ。
「いやあ……いやいやいやいや……大河も十分、どうしちゃったのだよ!?」
「ええ? ああ、まあ、ちょっと……っくしょい! 掃除をして……っぶしょい! たら、すっごい埃《ほこり》でちょっと鼻炎《びえん》が……っしょーい! ……うあー……っっしゅん! ……はあ……」
ずるる、と情けなく鼻をすすりつつ、大河は赤くなった目をこする。その髪も、服も、手も足も、大河の小さな身体にはどこがどうとも言えないほどに埃の塊《かたまり》がびっしりとくっついているのだ。多分《たぶん》懐中電灯《かいちゅうでんとう》を失って、相当屋根裏で這《は》いずり回るはめになったのだろう。ちょっと身体《からだ》を動かすごとに埃《ほこり》がもわもわと辺《あた》りに漂い、くしゃみなどしようものならブワッ! と少女漫画の大ゴマよろしく、花のかわりに埃が舞《ま》う。
「……みんな、変! あんたたちみーんな、変だよ!」
北村《きたむら》からさらに鼻水たらたら状態の大河《たいが》にティッシュ箱を移籍《いせき》させつつ、亜美《あみ》がきっぱりと言い放つ。大丈夫、おまえも相当変だから、とは、なかなかこの状況では言えることではない。
***
別荘へ着くなり海で騒《さわ》いだり、大掃除したり、買い物にでかけたり、ばかちー一号を製作したり、ばかちー一号に襲《おそ》われたり、とみなそれぞれに大忙しだったせいで、結局昼食を食べないままの午後四時過ぎ。
「……きれいな日暮れだなあ……」
竜児《りゅうじ》は自《みずか》らぴかぴかに磨《みが》きあげたキッチンに一人立ち、目の前の現実から逃れるみたいに無理やり視線《しせん》を窓の外へ向ける。ちなみに鼻血もすっかり止まり、磯臭《いそくさ》かったTシャツも着替え、開け放った窓から香る海風はこころなしかひんやりと心地《ここち》いい。ああ……ここは本当にいいところだ。
窓から差す陽射《ひざ》しもようやく穏《おだ》やかに傾き始め、窓から一望できる水平線は見事なオレンジ色に輝《かがや》いていた。外から聞こえるのは波の音と風の音のみ、そこにときおり海鳥の声が混じる。
都会とは言えなくともそれなりに人口の多い街に暮らす竜児にとって、ここはまさに別天地だった。好きな女の子を散歩にでも誘いだして、波の音に耳を傾け、ビーチをゆっくりと歩きながら将来の展望でも語ってみたい雰囲気なのだが……きぇぇぇーい、と聞こえる金切り声が、竜児を力任せに現実世界へと引きずり戻す。
「離《はな》せっつーの! このくそちびっ!」
「やだー! 私|辛口《からくち》じゃやだっ! このルーじゃやなのっ!」
「うっるさいわねえ、わがまま言うんならあんたが買い物行けばよかったでしょ!? これでいいの! あたし辛口派だもーん! はい、パスパス高須《たかす》くん!」
「……」
亜美にカレールーの箱を手渡され、ついに巻きこまれた、と思った次の瞬間《しゅんかん》には、
「おう……っ!」
苦痛に顔を歪《ゆが》めるはめになる。大河はジャンプ一番、竜児の片腕にブラーンと飛びつきぶら下がり、素足で竜児の足やら腰やらをカニばさみして上り詰めるというアクロバティックな大技《おおわざ》に出たのだ。
「いーやーだー!」
「いてえ……いてえ!」
そのまま木をゆする大猿のやり方でぎっしぎっしと全身揺さぶられ、腕が抜けそうな恐怖に震《ふる》える。
「なんなんだよ!? なにするんだよ!? なんで俺《おれ》にのぼるんだよ!」
「竜児《りゅうじ》はルーなんかなくてもおいしいカレー作れるよね!? 前にやったもんね!? 小麦粉|炒《いた》めて、スパイス混ぜて、それでできるもんね!? 今夜もそれがいいの、このルーじゃやなの!」
わっがまま、と亜美《あみ》は竜児の返事も聞かずに大河《たいが》をとにかく引き剥《は》がそうとし、
「ルー使うのが一番|簡単《かんたん》で、それなりにおいしいのよ!」
「竜児が作るほうがずぇーったいに、おいしいー!」
耳元で喚《わめ》かれ、腕をぐいぐい引っ張られ、好き放題に身体《からだ》を揺さぶられ、竜児はとうとう膝《ひざ》をつく。片手で大河を剥がし、片手で亜美を押しのけ、
「……わかった! わかったから! ……大河、俺《おれ》のお宝スパイスコレクションがここにない以上、いつものあの味はここでは出せねえ」
「えー!?」
ふふん、と亜美が鼻で笑う。ほら見ろ、と。
「でもまあ、あれだ……辛《から》いのが嫌《いや》なんだろ? おまえの分だけ別|鍋《なべ》に小分けにして、牛乳たっぷりのケチャップたっぷりで甘い奴《やつ》にしてやるから」
「……うー……」
ぶすっとしたまま、しかしとりあえず喚くのはやめた大河の代わり、
「それって甘やかしだぁ!」
今度は亜美がぷぅ、と頬《ほお》をふくらませる。眉《まゆ》を寄せて目を細めてみせ、子供のように手を腰に。
「高須《たかす》くんってば、まーた逢坂《あいさか》さんのことばっかり特別扱いして! そういうのってぇ、女の子に嫌われちゃうよ?」
と、それでもここまではいつものぶりっこポーズだった。怒って見せるのも芸のうち。しかし亜美は不意に唇を歪《ゆが》め、片頬だけでニヤリと笑い、瞳《ひとみ》の奥に尽きることなく湧《わ》きあがる底意地の悪さを満たしてみせるのだ。限界までひそめられた声は、大河にさえも届かないだろう。
「――実乃梨《みのり》ちゃんにも、嫌われちゃうかもね」
「な……っ!」
何を言いだす。ギク、と全身こわばったところに、耳に息が触れる距離《きょり》、まるで歌の一節みたいにさらなる追い討ちが竜児を襲《おそ》う。
「あ、やっぱりここであせるんだ。ふーん……」
つつー、と舐《な》めるみたいな亜美の視線《しせん》が、竜児の身体を上下になぶる。ふ、と唇の端がゆるい微笑《ほほえ》みにわずかにほどけ、
「高須《たかす》くんがそういう態度を続けるんならあ、あのこと、実乃梨《みのり》ちゃんに言っちゃおうかなー……高須くんが、あたしのシャワーを覗《のぞ》いて、ってぇ……」
「あ、浴びてなかったじゃねえかよ!」
「……ふふ。そんなの、今更《いまさら》確《たし》かめようもないよねえ?」
髪をかきあげ、亜美《あみ》は身体《からだ》を離《はな》す。白い美貌《びぼう》には魔性《ましょう》の笑顔《えがお》、造りだけは美しいのにやっぱりどこか歪《いびつ》なのは、腹の黒さがにじみでているせいだろう。一方|竜児《りゅうじ》は二の句も継げない。なんでいきなりこんなことを――こいつ、つまり、自分の実乃梨への気持ちに気づいているのか? 微妙に緊迫《きんぱく》する二人の間に、大河《たいが》がにゅるりと身体をすべりこませ、
「……みのりんが、なんだって?」
いぶかしそうに竜児の顔と亜美の顔を見比べる。亜美は「べっつにぃ〜」と相変わらずの天使の微笑、竜児はうぐ、と息を飲むばかり。さらにそこにもう一人、
「呼んだ? 私のこと、呼んだ?」
にゅるん、と大河《たいが》と亜美の隙間《すきま》にみっちり挟まっているのは実乃梨――一体いつからここにいたのやら。きょとん、と笑顔をあどけなくし、罪なき瞳《ひとみ》をキラキラ光らせて友人たちをやさしく見つめている。どうやらさっきの亜美の発言には気が付いていないようだ。竜児はひそかに乾ききった唇を舐《な》める。
「あれ、みのりん具合よくなったの?」
「うん。ちょっとベッドで横になったら気分もマシになってきたし、お台所手伝おうと思ってさ。へっへっへ、噂《うわさ》の高須|神拳《しんけん》も見たいもんね。一説によると高須くん、タマネギ一個を十秒でみじん切りにするんだってー?」
ああ、と竜児は実乃梨の笑顔の前に土下座《どげざ》したくなる。実乃梨は竜児と大河がばかちー一号で驚《おどろ》かせたせいで、今までずっと休んでいたのだ。だというのに、主犯、実行犯、ついでにばかちー一号のモデルまで揃《そろ》ったこの場所で、誰《だれ》よりも愛らしく微笑みを振りまいてくれている。
「十秒は無理だな……でも」
眩《まばゆ》さに潰《つぶ》れそうな目を必死にそらしつつ、それでも実乃梨の期待にならできるだけ応《こた》えたい。ぐっとタマネギを片手で三つ器用《きよう》に掴《つか》みだし、
「十五秒、あれば」
きっぱりと言いきってみせる。
「おっ! 言うねえ言うねえ! ならばお手並み拝見。私はなに手伝おうか? 今宵《こよい》の料理番長は高須くんでいいのかな?」
じーん、と鼻にこみあげる水気は、まだ刃を入れていないタマネギのせいではない。私はなにを手伝おうか――この一言《ひとこと》だ。基本的に誰に言われても嬉《うれ》しいこの一言を、この世で一番言ってほしい相手が言ってくれた。思わず振り返り、
「……ん? なによその目つきは」
大河《たいが》をじっと見てしまう。もちろん手伝う気はゼロなのだろう、イスにどっかと腰掛けて、テーブルに出してあるヨーグルトをさも食べたそうに指先でいじって亜美《あみ》に取りあげられている。こいつもある意味、実乃梨《みのり》とは別ジャンルで言ってほしい相手第一位ではあるのだがまあいい。いいにしよう。
「じゃ、じゃあ櫛枝《くしえだ》にはそうだな……ジャガイモの皮を剥《む》いてもらおうかな」
「オッケーイ。ピーラーはないのかな? 何個入れる?」
実乃梨が袋に手を突っこみ、細い指でこぶりのジャガイモを二つ掴《つか》みだしたそのときだった。
「あーさっぱりした!」
ぺたくた、と唐突《とうとつ》に裸足《はだし》の足音が台所へと近づいてきて、
「お、さっそく夕飯の準備始めるのか。料理じゃ俺《おれ》は全然役に立てないなあ、皿運びぐらいなら手伝えるから声かけてくれな!」
ポン! と石鹸《せっけん》の匂《にお》いも爽《さわ》やかに、油を流すために一足《ひとあし》先にシャワーを使った北村《きたむら》が竜児《りゅうじ》の肩を叩《たた》く。のだが。
「……お、おい! その格好《かっこう》……」
「いやーあついあつい……おっと! いや失礼、女子がいたのか」
「……っ!?」
北村の声に振り返った大河がヨーグルトを取り落とす。イスごと真後ろに倒れかけ、後頭部で壁《かべ》にぶち当たり、床《ゆか》に転げ落ち、猛毒を食らったかのように顔色をめまぐるしく赤、青、白、と点滅させ、逃げ場を探し、壁を伝い、結局今の今まで争っていた亜美の背中にすっぽりと隠れる。事態にいまだ気づいていない亜美は迷惑《めいわく》そうに身をよじり、
「ちょっとあんたいきなりなにして……はあ!?」
気がついた。目を疑うみたいに、ぱちくりとしばし瞬《まばた》きを繰《く》り返《かえ》して幼馴染《おさななじみ》をじっくり眺め、そして満を持して出た言葉が、
「祐作《ゆうさく》――正気!?」
これだった。竜児も全面的に賛成したいところだ。しかし北村はてへへ、と悪びれもせずに濡《ぬ》れた頭をかき、
「着替えを部屋に置いてきてしまった。だから今から着てくるところで」
「なんでその前にここに寄るのよ!?」
「いやあ、高須《たかす》が見えたから」
「ばかじゃねえの!?」
はっはっは、まさかおまえたちもいたとは……と笑う学級委員長|兼《けん》副生徒会長兼ソフト部部長のこの男、なにを隠そう……いや、隠しどころが足りていない。彼はタオル一枚で、下半身に生まれながらに陳列された猥褻物《わいせつぶつ》のみを隠しただけのワイルドスタイルで仁王《におう》立《だ》ちしているのだった。男の竜児《りゅうじ》の目から見ても、スポーツで鍛《きた》えられた身体《からだ》はうらやましいほど細いくせに引きしまっていて……とか言っている場合ではない。プールで披露《ひろう》した水着姿以上の露出度《ろしゅつど》である。後ろから見たら多分《たぶん》、ケツが全開なのではなかろうか。
「た、大河《たいが》、しっかりしろ!」
「……ふぁ……」
そんな馬鹿《ばか》野郎を後ろからばっちり目撃《もくげき》していた大河は壊《こわ》れかけていた。目は完全に光を失い、ちんまりと体育座りのポーズになって壁《かべ》のほうを凝視《ぎょうし》している。見てしまったのかもしれない、オープンソース状態のケツを。よくよく他人のヌードに縁《えん》のある奴《やつ》だと思う。
「露出狂の気があるんじゃないのお? さいってー」
幼馴染《おさななじみ》ならではの気安さで亜美《あみ》は冷たい視線《しせん》を北村《きたむら》の裸体に向けているが、
「ふふふ……この櫛枝《くしえだ》、露出狂を相手にするのもさほど嫌いではない……」
実乃梨《みのり》は低く唸《うな》るように呟《つぶや》くなり、ガバ、と伏せていた顔をあげ、
「このナルキッソスの申し子め! おヌード頂戴《ちょうだい》!」
パーン! とバッタかなにかのように、横っ飛びに床《ゆか》へ。そのままズザー! と肩で床をすべり、裸族《らぞく》・北村の足元にブレイクダンスよろしく転がり、
「なんだよ、よせよ、よせったら」
「今更《いまさら》なに言ってんだぁ! こんなとこまできてそんな格好《かっこう》して、ええ!? いやだもよせよもねえだろが、このカマトトが、あぁん!? 郷に入ったら郷に従え、ヌーディスト村ではヌードになりやがれ、おら激写《げきしゃ》だこのやろー!」
ポケットから引っぱりだした携帯《けいたい》のカメラを熱烈《ねつれつ》に北村へ向けるのだ。本当に撮《と》っているのかいないのか、足を開けだのケツを向けろだの、早口での言葉責めも忘れない。
「きゅ、急激に羞恥《しゅうち》心《しん》が湧《わ》いてきた!」
遅すぎる恥の意識《いしき》に目覚め、ようやく北村はモジモジとキッチンから退散しようと後ろ歩きの足をだす。その瞬間《しゅんかん》、
ハラリ
「……っ!」
猥褻物《わいせつぶつ》隠匿《いんとく》タオルが床に落ちるのと、好いた女の眼球を汚れる寸前で救うべく竜児が飛んだのがほぼ同時。決死のダイブは北村の股間《こかん》を皿で見事に覆《おお》い隠し、
「……なんか今、なにかの残像が……なにかこう……。……黒くて……?」
実乃梨は渋《しぶ》い顔で自分の目頭《めがしら》をぎゅっ、と押さえる。床にちんまりと正座し、首を傾《かし》げる。
「ワ、ワカメの霊《れい》だ。多分」
全身で裸族の身体を覆い隠しつつ、竜児は念じる。忘れろ、忘れるんだ。そうして実乃梨に向き直り、
「櫛枝《くしえだ》、おまえこっちはもういいから、しばらく居間で休んでろよ。な、カレーできたら呼んでやるから」
「……そう? ……そうしようかな……なんだかワカメ霊《れい》の残像が脳裏《のうり》に揺れて……目にしみるっていうかなんていうか……」
実乃梨《みのり》は怪《あや》しい足取りでよろよろとキッチンを出でいく。見送るやいなや竜児《りゅうじ》は両目を鬼神《きしん》の如《ごと》く凶暴《きょうぼう》に吊《つ》りあげ、
「おっまえなあ、本当に最低だぞ! 最低!」
皿で北村《きたむら》の裸尻をぶっ叩《たた》いた(この皿は後《のち》ほど大河《たいが》が使えばいい)。
「こんなことするためにおまえはこの旅行に来たのか!? 今度の選挙《せんきょ》でおまえが生徒会長に立候補しても俺《おれ》は絶対投票しねえ!」
「反省してるんだこれでも!」
親友と呼んだこともある男をそのままキッチンから蹴りだして、二階の部屋へと追い立ててやる。本当になんて奴《やつ》なんだ、この姿をこそ麻耶《まや》やら奈々子《ななこ》やら北村|親衛隊《しんえいたい》の女子たちに見せてやりたかった。「いじりがいがあるけど、本当は結構本命なまるおくん」がこんな奴《アホ》であることを、きっちり知らしめてやりたかった。なあ、そうだろ、能登《のと》、春田《はるた》――と、ついついここにはいない友人たちの笑顔《えがお》を思い浮かべてしまう。幻影《げんえい》となった彼らがクルクル回転しながら囁《ささや》く。ああそうだよ高須《たかす》……あいつばかりがモテるのはおかしいよ……ぜんぜん納得いかないよ……あいつだってアホだよ……いや、あいつこそがアホだよ……ああそうだそうだ、そのとおりだ。
「……ったく、くっそ、あの野郎……」
中断していたタマネギの皮むきを再開するべくゴミ袋をセットし直しつつも、まだ悪態が止まらない。せっかく実乃梨と台所に並んで立てるチャンスだったのに、よもや北村に妨害されるとは思わなかった。
「あーあ、実乃梨ちゃんてばお気の毒〜」
まったく気の毒ではなさそうなお気楽声で呟《つぶや》いたのは亜美《あみ》だ。八つ当たり半分に振り返り、
「……川嶋《かわしま》、おまえ手伝えよな。おまえの幼馴染《おさななじみ》の不手際《ふてぎわ》で、働き手を一人失ったんだから」
顎《あご》をしゃくって実乃梨のやりかけのじゃがいもを指し示すが、
「はあ?」
この返事までかかった時間、わずかにゼロコンマ一秒。
なにもそんな顔までしなくても、と言いたくなるぐらい、亜美の顔が瞬間的《しゅんかんてき》に引き歪《ゆが》む。じょーだんでしょ、と唾《つば》でも吐くみたいに前置きすると、亜美は竜児の目を下からねじりあげるように薄《うす》い笑《え》みさえ浮かべて見つめ、
「なんで亜美ちゃんが?」
――これほどまでに端的に、わがままさ、横暴《おうぼう》さ、狭量《きょうりょう》さ、思いあがり、その他|諸々《もろもろ》の性質を表現しきる一言《ひとこと》もないだろう。なんで亜美《あみ》ちゃんが料理なんか? なんでこの美人でかわいい亜美ちゃんがじゃがいもなんか? このモデルでリッチでセレブな亜美ちゃんが、どーして、あんたごときの、お手伝いなんか?
竜児《りゅうじ》は亜美の言いたかったことをおそらくは正確《せいかく》に理解して、一つうなずく。
「……なら、櫛枝《くしえだ》に麦茶《むぎちゃ》でも持ってってやれよな」
「え〜? ここで高須《たかす》くんがお料理するの『見てようと』思ったのに……うぷ!」
すばやくタマネギを一つ半割りにしてやると、手元を覗《のぞ》きこんできた亜美は即座に顔を背《そむ》ける。タマネギ汁は亜美の目と鼻を確実に襲《おそ》ったはずだった。
「……わ、わかったわよ! 麦茶持ってってやればいいんでしょ! ……なんか、追いだされるみたい……気に食わないなあ……」
さっそく盛大に目を真《ま》っ赤《か》にし、亜美は悪態を垂れつつもグラスを片手にキッチンから出て行った。これでキッチンに残ったのは竜児と大河《たいが》だけになってしまったが、
「おい、大丈夫か?」
「……」
大河はといえば、いまだ壁際《かべぎわ》にへばりついてゼイゼイと肩で息をしている有様《ありさま》なのだ。よほど北村《きたむら》のケツがショックだったのだろう。いまだ亜美のボン! のトラウマも乗り越えきってはいないというのに。思わず手を差し伸べ、立たせようとその腕を掴《つか》むが、
「……あんた、人の心配してる場合じゃないでしょ」
大河はその手を振りほどき、壁伝いによろよろと立ちあがる。
「私は大丈夫よ……なにより強いトラウマでもって、トラウマを制するから……やっちゃんの巨乳、やっちゃんの巨乳、やっちゃんの巨乳……おおお……」
「ひとんちの親をトラウマ扱いするなよ」
それでも大河はようやく頭を一震《ひとふる》い、やっとまともな呼吸を取り戻したらしい。心配して顔を覗きこむ竜児の目を睨《にら》みあげ、一言。
「この、グズ犬」
はあ〜あ、とわざとらしく息をつき、大河はさらに言い募《つの》るのだ。
「今日《きょう》という今日こそ呆《あき》れ返ったわよ、なんでせっかくみのりんとお料理できるチャンスをふいにしちゃうわけ? あんたのほとんど唯一の長所をアピールする機会《きかい》だったのに」
「そんなこと言ったってしょうがねえだろ、俺《おれ》のせいじゃねえよ。北村のせいだ」
「まーた人のせいにする! これだから犬は根性がよつんばいなんだ! あんた、危機感ないでしょ、全然」
大河は髪をかきあげ、心の底から鬱陶《うっとう》しそうに顔を歪《ゆが》めて、いっそ哀れみの色さえ湛《たた》えて竜児をじっ、とまっすぐ見つめる。
「な、なんだよ危機《きき》感《かん》って」
「今回のこの旅行、今のところぜんっぜん、うまくなんかやれてないんだからね。怖がらせるのも中途半端、あんたの自己アピールなんて皆無《かいむ》。……あんた全然、みのりんと親しくなるための努力なんかしてないじゃん。呆《あき》れるね」
「……そんなこと言うなよ。それに一応、さっきは怖がらせるのも成功したじゃねえか。ほら、あれ。ばかちー一号」
「でも次の計画なんて一切ないじゃん。まさかあれだけで終わりとでも?」
「……そういうわけじゃねえけど」
冷たく舌打ち、大河《たいが》は肩をすくめ、煮えきらない竜児《りゅうじ》の返答を聞く価値もないとでも言いたげに遮《さえぎ》る。
「ぐだぐだ言うんじゃないよ。私は協力する、犬未来を潰《つぷ》すためならなんだってする。でも、みのりんの心までは操作《そうさ》なんかできないんだからね。それはあんたの努力次第。はっきりいって、ここまで、あんたの努力なんて全然見えない」
「……」
ここまで言われては返す言葉もございません。竜児は二つに切られたまま忘れられたタマネギを見つめ、確《たし》かにそうだ、と黙《だま》りこむ。
「あーあ辛気《しんき》臭《くさ》いツラ……せいぜいこれから、挽回《ばんかい》のために汗水たらしてみるがいいわ。私は私にできることを協力するだけよ。協力ったって、今はこれぐらいしかできないけどさ……」
大河はブツブツ言いながら、おもむろに冷凍庫を開く。そうして取りだしたのは、いずれまた出番があるかも、と隠しておいたばかちー一号。通称ワカメ霊《れい》。
ビニール袋から掴《つか》みだし、わさわさ、と振るってボリュームをなんとか取り戻そうとし、
「……こんなワンパタ、ダメ元だけど、なにもしないよりは多分《たぶん》マシよ」
天井裏《てんじょううら》から吊《つ》りあげるためにくくってあった長い糸を手で引きちぎる。そうして今度は台所の隅《すみ》に立てかけであった箒《ほうき》の先端にワカメを取りつけ、言うのだ。
「できた。刺突《しとつ》形ニセ霊魂《れいこん》・ばかちー二号」
「……簡単《かんたん》だな、おい」
大河の視線《しせん》はキッチンのわき、おそらくはゴミを出すための開口部なのだろうが、ウッドデッキに直接出られるようになっている掃《は》き出し窓へ。猫のように注意深く辺《あた》りを見回し、
「ここから出ると、リビングの外のデッキまで行けるのよ。もしみのりんが窓際《まどぎわ》のソファに座ってたら、そっと窓開けて、こいつでなんとか驚《おどろ》かせてみる。……あんたはここに私がいるように演じるのよ」
「演じるって、おい、どうすれば……」
「自分で考えろそんぐらい」
大河はスリッパを脱いで足音を殺し、そっと外へ出ていこうと――
「っ!」
クワンワンワンワン……ボールを落とす。二人して一瞬《いっしゅん》動きを止め、壁際《かべぎわ》にへばりついて息を詰めるが、誰《だれ》も気づいていないようだ。大河《たいが》はボールを慎重に拾い、改めて、するりと吐き出し窓からウッドデッキへ出ていく。
そして大河がここにいるように演じる、というなら……こういうことか?
「……おっ! いい手つきじゃねえか大河! 意外と器用《きよう》なもんだなあ!」
トトトトトトトト、と自《みずか》らの手でタマネギを見事な包丁さばきで細かなみじんにしていきながら、竜児《りゅうじ》は大きな声でしゃべってみる。できるだけみんなに聞こえるように。
「ちょっとそこのボール取ってくれよ! おう! サンキュー! じゃあ、次はニンジン頼むな! おお、うまいなあ! 大河、結構やるよなあ!」
自作自演の一人|芝居《しばい》はとんでもなく空《むな》しい。それでもやるべき時なのだ、今は。竜児は顔を引きつらせながらも超必死に声を張る。
「よーし大河! 次はこの……」
そのときだった。
ぎぃゃーあーあーあーあーあーあー……凄《すさ》まじい悲鳴は、リビングから。よし、と目を上げた次の瞬間、
「……やったやった、嘘《うそ》みたいな大成功……!」
キッチン脇《わき》の掃《は》き出し窓から、大河がこっそりとすべりこんでくる。注意深く窓を閉め、音を出さずに小さくハイタッチ。
「ちょうどみのりんだけソファに座ってた、だから外からカーテン越しに、こいつで肩|叩《たた》いてきた!」
「よっしゃ!」
ぐっ、と親指を立てて頷《うなず》きあい、それぞれ包丁やらニンジンやらをおもむろに手に握りしめて、
「どうした今の悲鳴は!?」
「みのりん、大丈夫!?」
慌てる演技。ドタバタとリビングに走りこんでみる。するとラグには実乃梨《みのり》が大の字に倒れていて、
「実乃梨ちゃん、どうしたの!? しっかり!」
「櫛枝《くしえだ》、気を確《たし》かに持て!」
亜美《あみ》と服を着てきた北村《きたむら》が実乃梨を介抱している。実乃梨は苦しげに身体《からだ》をこわばらせ、なぜか北村を指差し、
「で、で、で、でた……でたよ……北村くんの生霊《いきりょう》……北村くんのドッペルゲンガーがあ……!」
「俺《おれ》か!? なぜだ!?」
なぜか北村《きたむら》の生霊《いきりょう》という話になっている。そしてそれっきりガックリと脱力、全身に見てわかるほど鳥肌を立てて、なんだかぷるぷると震《ふる》えている。顔色は蒼白《そうはく》を通り越したのか、ひどく興奮《こうふん》したかのように桜色に火照《ほて》ってもいる。
「み、みのりん……」
実行犯、大河《たいが》が恐る恐る近づいていく。良心のうずきはおそらく大河も、竜児《りゅうじ》と同じぐらいには感じているはずだ。実乃梨《みのり》の傍《かたわ》らにちょこん、と座り、
「た、大河……かね……」
「うん」
申し訳《わけ》なさそうに実乃梨の額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》う。
「……大河……気をつけるのだ……この館《やかた》にはなにか邪悪な思念《しねん》が漂っている……ぅぅぅ」
「そ、そう……?」
大河のその目が怪《あや》しく泳ぐ――そうだろうそうだろう、邪悪な思念の当人としては、非常に気まずい状況だろう。竜児とて、実乃梨の目をまっすぐ見れずにチクチクと走る胸の痛みを味わっているのだ。
「み、みのりん、私になにかできることはあるかしら……」
「……カレーは……カレーはできたのかね?」
「さすがに竜児でも五分やそこらじゃできないよ、みのりん……」
「そうか……ならば……うーんと、うぅぅぅーんと、辛《から》いカレーにしておくれ……この恐怖が全部ぶっとぶような奴《やつ》を……頼むぞよ……」
震《ふる》える手が大河《たいが》の頬《ほお》をそっと撫《な》で、実乃梨《みのり》はガクリと力尽きて目を閉じた。大河はコクン、とうなずき、力強く「やったるで」と呟《つぶや》いた。実乃梨のためになら、小鍋《こなべ》のわがままだって捨て去る決意を固めたらしい。
竜児《りゅうじ》の決意もがっちり固いとも。辛いカレーでこの良心の疼《うず》きが軽減されるなら、いくらでも辛くしてやろうじゃねえか。
そして竜児は炊事《すいじ》の鬼と化した。
「うーわ! すっごくない!?」
覗《のぞ》きこんだ亜美《あみ》が絶句するほどの華麗《かれい》なフライパンさばきで自在に材料を宙に躍《おど》らせ、亜美の父親の洋酒でデザート用のフルーツの一部をフランベしてから鍋《なべ》にかけ、簡単《かんたん》高須《たかす》流チャツネまで作り、
「俺《おれ》になにかできることはあるか?」
と問う元ヌーディスト村の村長・北村《きたむら》に「拝むように研《と》げ! 米を拝むんだ!」と指示を飛ばして米を研がせ、
「……大河。わかってるな!?」
ギラリ、と鋭《するど》いドスの切っ先みたいな視線《しせん》を大河に向ける。なにも大河を借金のかたにどこかに売り飛ばそうとしているわけではなく、ただ決意を促《うなが》しているのだ。
「うん。竜児のお宝スパイスコレクションがない今、これを使うしかない……」
大河はうなずいた。その手には、ルーに付属していた「辛味増量スパイス・衝撃《しょうげき》HOT(大変辛いですので、加減してごくごく少しずつお使いください。あなたの健康に害を及ぼす危険があります)」と書かれた赤いスパイス。実乃梨が望むなら、仕方あるまい――そんな目をしてすべてのスパイスの封を切る。中辛以上は未《み》体験《たいけん》ゾーンである大河にとって、これは冒険、いや、無謀《むぼう》な蛮勇《ばんゆう》であった。
さらさらさら……とそいつが鍋の中に溶けて、煮こむことおよそ十五分。さらに亜美が「こんなのあったよ。去年のだけど使えるかな?」と台所の引き出しから発見してきたカレー粉と唐辛子《とうがらし》も迷わず投入、そこからさらに十五分。
そうして、「あえて」煮こみすぎないで給食のカレーっぽさを残すという竜児のひそかなテーマどおり、じゃがいもゴロゴロ、タマネギも原型をとどめ、ニンジンと焼き目のついた豚肉がたっぷり入った素朴なカレーが完成した。
「……辛い、と一口《ひとくち》で表現しても、たとえば塩辛い、ワサビがツーンとする、唐辛子が舌を焼く、喉《のど》を焼く……その他もろもろの辛味があると思う。今夜のカレーは、俺《おれ》がさっき味見したところ、眉間《みけん》にガツンとくるスパイシーな辛口カレーだ。櫛枝《くしえだ》のリクエストに忠実に、それでいて別荘の食事っぽく素朴に仕上げてみた」
各々《おのおの》の皿にごはんとカレーを盛りつけ、ダイニングのテーブルにずらり並んで腰掛けて、メンバーは解説をおっぱじめた竜児《りゅうじ》の唇を注視する。腫《は》れあがっているのだ、パンパンに。
味見をしただけでそんなタラコ唇になってしまうとは、一体どれほどのポテンシャルが秘められているのか――波音が響《ひび》く静かなる食卓に、スパイシーな香りが早くも漂っている。
「……というわけだ。心して食べろよ。いただきます!」
いただきまーす! と唱和《しょうわ》、全員がスプーンを手にし、ぱくり、と一口|頬張《ほおば》った。静寂がテーブルを包んだのはわずかに一秒。
「……ん? あんまり辛《から》くないね?」
と、実乃梨《みのり》。
「うんうん、普通においしいじゃん」
と、亜美《あみ》。
「豚肉、脂身《あぶらみ》のとこだ……」
と、大河《たいが》。
「うん、いけるいける! さすが高須《たかす》!」
と、裸族《らぞく》。
なあ〜んだ、的な雰囲気が、声にならない悲鳴にはじけるまでたっぷり三秒。
「……っ……」
と全員が二口目《ふたくちめ》を頬張《ほおば》ろうとしたスプーンをピタリ、と止め、
「きっ……きたきたきたあ! ガツンときたよこれ!」
「かっっっ、らあああああー! 水っ、水っ、みずううう!」
「熱《あつ》いっ、痛いっ、辛いっ、ぎにゃー水こぼしたあー!」
「うっ……ごほごほごほげほごほ、これっ、喉《のど》に……がほっ!」
のたうち回る面々を眺めながら、竜児はそっと実乃梨に焦点を合わせる。実乃梨は「きたきたあー! はい、ガツーン! いっただきましたー! おっしゃまたきたー!」……己《おのれ》に気合を入れながら、がつがつ男らしくカレーを食らっている。そして竜児の視線《しせん》に気づき、
「た、高須くん! あんた最高だ! 超辛いし、うまいよ! 辛い、プラス、一本線! すなわち、幸せ! 期待してた以上だぜ、怖いのも憂鬱《ゆううつ》なのもふっとんだあ!」
ぐいっと親指を立てて見せてくれる。口の中は炎の煉獄《れんごく》に焼き尽くされるが如《ごと》くだが、腹の底はなんだかじわじわと嬉《うれ》しくて恥ずかしくてたまらん気分になってくる。
「いやその……おまえが辛いのがいいって言ったから……」
「えっ、それで本当にこんなに辛くしてくれたの!? やっべ、感激《かんげき》! こりゃおかわりしなくちゃね!」
実乃梨は辛さで顔を真《ま》っ赤《か》にしながらにっこりと笑い、綺麗《きれい》に空《から》になった皿を竜児に見せてくれた。うわあ、と内心、悶絶級《もんぜつきゅう》の幸福感が湧《わ》き出《い》でる。こんなんでそんなに喜んでくれるなら一生毎日作ってやるよ――とはもちろん言えないままに、竜児《りゅうじ》は無言で実乃梨《みのり》の皿を奪《うば》って、おかわりをてんこ盛りにしてきてやることにする。
4
衝撃《しょうげき》の大辛カレーの夕食が終わり、
「よーし、それじゃ洗い物は私に任せろ!」
実乃梨だけが意気|揚々《ようよう》と、空《から》になった皿を積み重ねてキッチンへ持っていく。他《ほか》のメンバーは皆どこかぐったり、辛《から》いのにうまい、うまいのに辛いの波状《はじょう》攻撃に見舞《みま》われて、唇も口もビリビリ痛いのにおかわりせずにはいられなくて、満腹と唇の腫れと疲労によっていまだ立ちあがることもできずにいた。
しかし実乃梨一人に後片付けをさせるわけにもいかない。竜児も手伝おうと立ちあがりかけたそのとき、Tシャツの裾《すそ》を大河《たいが》にひっぱられる。
「ん? なんだ?」
「……なんか、いっぺんに辛いの食べ過ぎたかも。胃薬飲みたい……」
「腹痛いのか?」
「……微妙……」
大河は眉《まゆ》を寄せ、自分でも自分の調子《ちょうし》がよくわからないみたいに胃のあたりを撫《な》て回し、首を傾《かし》げている。
「胃薬は持ってきてねえぞ。川嶋《かわしま》、薬あるか?」
「えー、ないなあ……頭痛薬しか持ってきてない」
あらどうしよう、と大河のデコに手を当てて熱《ねつ》はないのを確認《かくにん》したそのとき、北村《きたむら》が立ちあがった。
「俺《おれ》持ってきてるぞ。痛み止めと消化剤と二種類あるから、部屋に来いよ。説明書読んで自分でどっちがいいか選《えら》んでくれ」
「……」
「どした?」
大河は袖口《そでぐち》のレースをかじり、せっかく北村がそう言ってくれているのになにやらもぞもぞと猫の天気予報の仕草《しぐさ》で顔を擦《こす》ったり、耳の後ろを擦ったり。照れてる場合じゃねえだろう、と肘《ひじ》を掴《つか》んで無理やり立たせ、
「ほら、ついてけ」
竜児《りゅうじ》は小さな背中をトン、と押してやる。大河《たいが》はその勢いにつんのめりそうになりつつも、なんとか足を動かして、先を行く北村《きたむら》の後をついてリビングを出ていった。思わずその尻《しり》を心配げに見守ってしまい、
「……おう!」
「ぼーっとしちゃって」
亜美《あみ》の接近に気づくのが遅れた。音もなくすり寄ってきていた亜美は気がつけば竜児の目の前に回りこみ、テーブルに身を乗りだすようにして、
「そんなにあの子が心配なら、高須《たかす》くんもついていけばいいのにねえ」
大きな瞳《ひとみ》を底意地悪そうに薄《うす》く眇《すが》め、しかしどこかおもしろいものでも見るみたいに薔薇《ばら》色《いろ》の唇には笑《え》みを湛《たた》えている。
「……俺《おれ》が大河の心配してなにが悪い」
「おっと、開き直っちゃった」
「腹がいてえって奴《やつ》がいれば、それが北村でも櫛枝《くしえだ》でもおまえでも、俺は同じように心配するんだよ」
「へーえ、それ本当? そしたら亜美ちゃんもぉ、なんだかおなか、いたいかもぉ〜」
くぅ〜ん、とチワワな瞳を潤《うる》ませながら、亜美はちょこん、と竜児の隣《となり》に座り、
「なんてな」
騙《だま》される暇《いとま》も与えてはくれずに、そっけなく笑《え》みなぞかき消して小さく舌を出し、肩をすくめてみせる。こいつは本当になんなんだ――竜児はもはや翻弄《ほんろう》されることもできず、ただただ亜美のクールな美貌《びぼう》を見つめ返すのみだ。
「……おまえよお……」
「なあに〜?」
竜児が呆《あき》れているのも完全にわかってやっているのだろう、亜美はにっこりとエンジェルスマイルを再び貼《は》り付け、唇をすぼめて瞳を見開く。きらきらとその目には星が散る。奇跡のように顔立ちは美しく、しかしテーブルの下を覗《のぞ》けばまるで場末《ばすえ》のヤンキーだ。どっしりと座って長い片足を膝《ひざ》の上に組み上げ、お行儀《ぎょうぎ》悪く股を開いて踝《くるぶし》をクルクル回している。隠すつもりもないらしい。
あーあ、と竜児は天を仰《あお》ぎ、全国の亜美ちゃんファンに同情し、しかし思わず笑ってしまう。
「……なんていうか、飽《あ》きねえな、おまえ見てると」
「……それって、褒《ほ》め言葉」
「微妙な線《せん》だなあ……」
しみじみと思うのだ。変な奴《やつ》だよ、と。
一見、宝石みたいな類《たぐい》まれなる美少女。だけどその実、腹黒な意地悪女。そうかと思えば、
「微妙な線? え? あたしって……微妙? ……どうよ、それ……このあたしが微妙……」
真面目《まじめ》な顔をして竜児《りゅうじ》の前で首をひねる素《す》の表情だけは、妙に親しみが湧《わ》く気がする。驚《おどろ》くほど普通というか、意外にも普通というか。こいつとて当たり前の十六歳だか十七歳だかの女の子でしかないのだと、改めてしみじみ理解できてしまうというか。
こんなにも、どの角度から見ても見た目どおりではないモノが見える女というのも珍しいと竜児は思う。そういうところは嫌いではないのだ。
「……なあに、あたしのことじっと見つめちゃって。あらら、もしかして見とれちゃった? んーん、いいのいいの、しょうがないよねえ、あたしって本当にかわいいから……」
うんうん、わかるわかる、とうなずく得意げなしたり顔は、やっぱりかなりキテると思うけれど。と、不意に亜美《あみ》のしたり顔に妙に子供っぽい笑《え》みが花開くようにふんわりと浮かび、
「そうだ。ねえねえ高須《たかす》くん、あのさ、今からビーチにでも――」
なにかを言おうとしたそのときだった。
「おっと、まだ洗い物残ってるじゃん」
お気楽な足音が二人の耳に届いた。キッチンから実乃梨《みのり》が鼻歌交じり、ダイニングへ戻ってきたのだ。手伝いもせずに話しこんでいるようにしか見えない亜美と竜児を責めることもなく上機嫌《じょうきげん》、テーブルの上で忘れられていたサラダの取り皿とグラスを重ねて両手で持っていこうとし、
「……グラスだけ持ってけ、危ないから」
わきから竜児に皿を攫《さら》われる。
「あ、手伝ってくれるの? いいんだよ高須くん、お料理番長してくれたんだから、後片付けはこのあっしめがやりやす」
「いいよ、俺《おれ》もやる」
片手に皿を持ち、ついでに台拭《だいふ》きで要領よくテーブルをさっと拭く。亜美にもなにか手伝わせようかと振り返るが、
「台所仕事って苦手《にがて》なんだよね〜、迷惑《めいわく》かけないうちに、あたしは撤収《てっしゅう》〜」
亜美はそんなことを囁《ささや》きつつ薄《うす》く笑い、とっくに席を立っていた。声をかける間もなく出ていってしまい、逃げ足の速さに舌を巻く。そこまで手伝いが嫌いか、と。だけど、実乃梨と二人で片づけをできるならラッキーだ。亜美の女王気質にも、今だけは感謝《かんしゃ》したい気分。
「いいの? 亜美ちゃんと話の途中だったんじゃない?」
実乃梨が言うのに「いらんいらん」と手を振ってみせ、二人はキッチンへ向かう。
キッチンはすっかり実乃梨によって綺麗《きれい》に片づけられていて、さすがの竜児も納得してしまうほどに、きちんと鍋《なべ》から包丁まで整理|整頓《せいとん》されていた。さらに実乃梨はうっとりとキッチンを見回す竜児の手からさっさと皿を奪《うば》い去り、あ、それは俺が、と言う間もなく、
「はい、洗い物終わり!」
あっという間の見事な手際《てぎわ》。もちろん洗いあがりも文句なしのレベルでささっとすべては水切りカゴに並べられる。
「……なんだ、おまえすごいテクを持ってるじゃねえか」
「へへ、そうかな? バイトで散々《さんざん》後片付けはさせられてるからねえ、いつも一刻も早く終わらせたーい! ……と念じながらバタバタ走り回ってたら、段々《だんだん》手際《てぎわ》よく動けるようになってきたんだ」
そうしてまたひとつ、実乃梨《みのり》のいいところを見つけてしまった。それは褒《ほ》められて照れて恥ずかしそうに、しかし少しだけ誇らしけに胸を反らす笑顔《えがお》の愛らしさだ。本当に素直で、まっすぐで、自分もこんな人間に生まれつきたかったと思う。この衒《てら》いのない純粋さに、心から憧《あこが》れる。もしも自分が実乃梨のようなら、とんな境遇《きょうぐう》に生まれつこうと、どんな顔に生まれつこうと、今の自分のように少々|自虐的《じぎゃくてき》にすねることもなく、竹みたいにまっすぐ育ってこられただろう。そうだ、いっそ世の中の人間がみんな実乃梨みたいならば、争いも悲劇《ひげき》もなくなりそうだ。みんな幸せに、こんなふうに笑って生きていけそうだ。
実乃梨は竜児《りゅうじ》のそんな眩《まぶ》しげな視線《しせん》にも気づかずに目を線にして笑い続け、そうだ、と顔を上げる。
「高須《たかす》くんにいいものをあげよう」
冷凍庫をあけて顔をつっこみ、ほい、と取りだしたのは小さなアイス最中《もなか》の包みがふたつ。食後にみんなでひとつずつ食べたのと同じだが、
「二つだけ余ってたんだよね。あとで相撲《すもう》大会でもして血で血を洗う奪《うば》い合いを繰り広げようと思ったんだけどさ……へっへ、秘密だぜ。二人で食べちゃおう。バニラと抹茶《まっちゃ》、どっち?」
「ま……抹茶」
「オッケーイ」
ニヤリ、と実乃梨は笑い、包みの一つを竜児に放ってくれる。そうしてきょろきょろと辺《あた》りを見回し、
「大河《たいが》あたりに見つかったらやばいぜ、奴《やつ》はくいしんぼだから。高須くん、一口《ひとくち》で食べるんだ」
かなり大きいそいつを一口でいく覚悟を決めて、包みをびり、と引き剥《は》がす。待て待て、無理《むり》無理、と竜児はその手を押し留《とど》め、
「……そこからデッキに出られるから、外でこっそり食おう」
さっき大河がばかちー二号とともに飛びだしていった掃《は》き出し口を指し示す。へえ、と目を丸くする実乃梨に「しー」、静かにのポーズ。音を殺してドアを開き、スリッパのままで砂にざらつくウッドデッキへ出る。
身体《からだ》を押し戻すような、強い潮風に目を閉じる一瞬《いっしゅん》。……気がつけば、海上の天にはすっかり夜の帳《とばり》が降りていた。星と月だけが打ち寄せる波頭《はとう》を青白く照らしだし、波の音は静寂よりも静かにひんやり冷える闇《やみ》をさざめかせる。
「足元、気をつけろよ」
「おう」
足音を殺してリビングとは反対側、海へせりだすほうへと歩き、やがて二人は海に向かって足を投げだすようにしてデッキに腰を下ろした。実乃梨《みのり》は最中《もなか》を剥《む》くのも忘れて、夜の海を見つめる。
「……なんか……真っ黒だねえ……あれってもしかして、月光が反射して?」
指差す沖合いには差しこむ月光が海面に映りこみ、白く光る道が伸びているようにも見える。不意に光る星のひとつがゆっくりと動いていることに竜児《りゅうじ》は気づき、しかし、UFOだ、なんて言いはしない。知っているのだ。あれは人工|衛星《えいせい》だ。
竜児は沈黙《ちんもく》を恐れるみたいに忙《せわ》しなく指を動かし、最中を剥き、
「き……綺麗《きれい》、だな」
ぱく、と一口《ひとくち》かじりつく。もちろん味なんかわかるわけもない――なんだかうまい調子《ちょうし》に、二人でこっそり隠れてしまった。潮風に実乃梨の髪が翻《ひるがえ》り、強い月光に横顔の輪郭《りんかく》が光り、
「……高須《たかす》くん」
ビク、と肩が震《ふる》える。夜の実乃梨に気がつけば魅入《みい》られ、視線《しせん》は食いつくように引き剥《は》がせなくなっている。
「抹茶《まっちゃ》、おいしい?」
「……おいしい」
「さっきなに食べた?」
「……小倉《おぐら》」
「どっちがおいしい?」
「……抹茶」
二口《ふたくち》、三口《みくち》とアイス最中を必死にかじった。勢いでこんなところに行き着いたが、この先一体どうしたらいいのかわからないのだ。これは多分《たぶん》『チャンス』なのだろう。でも、一体なんの『チャンス』なんだ? こんなとき、人は一体なにを話すんだ?
「あ、あのさ、く、櫛枝《くしえだ》、おまえさ」
「うん?」
「か、彼氏とか、いるのか?」
――やっちまった。一瞬《いっしゅん》で後悔する。あせりのあまり、ついつい踏みこみすぎてしまった。言ってしまった。
実乃梨はなにも言わない。聞こえていなかったみたいに、ただ黙《だま》っている。この沈黙がなにより恐ろしい。櫛枝実乃梨、頼むから、いつものように素《す》っ頓狂《とんきょう》な言動で早くこの空気をかき回してくれ。今の問いをなかったことにしてくれ。
こんなふうに二人して沈むみたいな静けさの中で、そんなふうにじっと黙っていないでくれ。
あと一秒、そうしていられたら、多分《たぶん》自分はこのまま死んでしまう――
「ねえ、高須《たかす》くん。さっきのワカメ霊《れい》、今もこの辺にいるのかな?」
「えっ……えぇ?」
「おーい。ワカメ霊やーい。おまえはどこのワカメじゃ?」
「……ぶふっ」
思わず最中《もなか》を吹きだしかけ、しかしこらえる。出た、このとんちき発言。いいぞいいぞその調子《ちょうし》、いつものおまえの変な調子で、そういう変な話で、やりすぎた自分の発言を取り消しに……と実乃梨《みのり》の顔を見返し、竜児《りゅうじ》の心臓《しんぞう》が一瞬確《いっしゅんたし》かに止まる。息の根も止まる。
「高須くんは、幽霊、見たことある?」
実乃梨はじっと竜児の目を見ていた。話の変さとは似ても似つかないごく真剣な瞳《ひとみ》で瞬《まばた》きもせず、しかしいつになく壊《こわ》れ物めいた柔らかな眼差《まなざ》しで。
「なんだそりゃ……いや、ねえ、けど……」
「私はさ、幽霊いるって信じてるんだよね」
うんうん、とうなずき、しかし「でも」と継ぐ声の方が大きく響《ひび》く。
「でも、実際に目にしたことはないし、世の中にいる霊媒師《れいばいし》とか? いわゆる『見たことがある人』っているじゃない。そういうの、実は全然信じてないの。幽霊なんか見えるわけないじゃん、話したりできるような人間なんかいるわけないじゃん、全部お金|儲《もう》け目当てのインチキだ、って思うの」
話の意図が掴《つか》めず、竜児は実乃梨の横顔を思わず見つめる。実乃梨は今は視線《しせん》を暗い海へ向けて、竜児にはわからないなにかをじっと目を凝《こ》らして見つけようとしているみたいに息を潜《ひそ》めている。
「……それとさ、同じように思うことがあるの。私はね、いつか心から愛せる人ができて、付き合ったりして、結婚して、幸せになるんだって信じてる。でも、実際に、誰《だれ》かとそんな感じにうまくいったことってないんだよね」
ブラブラと海に向かって投げだされた実乃梨のつま先が、白い光の軌跡《きせき》を描くみたいに竜児の視界の隅《すみ》で揺れる。
「世の中には当たり前に中学生や高校生ぐらいの年からずっと誰かに恋をして、付き合ったりふられたり別れたりをしている人たちがいて、当たり前に恋愛をしてる。そこに愛がある、っていう。……私には、そういう人たちの存在が、すごく遠いんだ。よくいるじゃない、いわゆる『霊感が強い』『見えちゃう』っていう人。あっ肩が重い、そこらへんにうじゃうじゃいるよ、ほらそこにも、なんて言ってみせるタイプ。それと同じに思えるの。本当に幽霊見えてるの? って疑いたくなるのとまったく同じに、本当に恋をしているの? ……そう思うのよ。だって私には見えないんだもん。私の世界ではいくら信じていたって、その当たり前、は永久に現れないもん。あったことがないもん。他《ほか》の人は当たり前、って言うことが、私には起こらない。だから信じることができない。私は蚊帳《かや》の外……信じたいけど、ちょっと諦《あきら》めかけてもいる。私にできることは、せいぜいが、『見える人たち』を羨《うらや》ましく眺めて、指をくわえて憧《あこが》れて、蚊帳の外から応援するだけ。それだけが、接点、ていうか。……そんなの全部嘘っぱち! 目の錯覚《さっかく》! 気のせい! ……って叫ぶほどには、まだ思いきれてないからさ。だからさっきの質問の答えは、『いない』」
一気にそこまでしゃべり、理解してもらえたかどうか不安だとでも言うように、再び竜児《りゅうじ》の顔を見る。
「……高須《たかす》くんは、幽霊《ゆうれい》、見える人?」
ゆっくりと唇を舐《な》めた。
声がひっくり返らないように、あせって震《ふる》えたりしないように、竜児は慎重に声を絞りだした。
「……見たことはねえけど、存在を信じてる人……だと、思う」
「私と同じだ?」
ううん、と首を横に。
「俺《おれ》は『見たい』んだ。見たいから心霊スポットにも行くし、夜闇《よやみ》を覗《のぞ》きこむ。……おまえはただ、信じてるだけだろ。違うぞそれは。ついでに言うと、怖くもあるんだろ。さらに、本当は幽霊なんかいるわけないとも思ってるんだろ。いるわけないのに存在を感じることがあるから、だから怖いんだろ」
実乃梨《みのり》は珍しくも黙《だま》りこみ、竜児の顔をじっと見つめたまま瞬《まばた》きするのも忘れている。必死に自分が言い募《つの》る理由に、竜児はやっと思い当たる。実乃梨にそんなことを言ってほしくないのだ。永久に現れないなんて――それはつまり愛する人が――そんなことは絶対に言ってほしくない。いつか実乃梨と相思《そうし》相愛《そうあい》になれたらと思うこの自分の前で、そんな、死刑宣告にも似たようなこと言わないでほしい。
今、実乃梨が自分に恋をしていないなんてことは、言われなくたって重々《じゅうじゅう》承知だった。こんな話を聞かされて、胸が痛まないわけじゃない。でも、今は痛いと泣くよりも、未来の誰《だれ》かになる可能性にかけたいのだ。
そして、なぜそんなふうに思うのか、ごく普通にかわいくて、ごく普通に男どもとも話ができて、ごく当たり前の女の子にしか見えない実乃梨が、なぜそう思うに至ったのか、理解したくて仕方ない。
「……多分《たぶん》、だけどよ。霊感人間たちにとっても、幽霊|目撃《もくげき》は、当たり前のことじゃなかったかもしれないぞ」
「え……?」
「幽霊が見えて、すっごくびっくりした奴《やつ》もいるんじゃねえの。見たけど、やっぱりありえねえ、って無理やり打ち消した奴もいるんじゃねえ? 一度見えたけれど次は見えなくて、あれは幻《まぼろし》だったのか、って、思い悩んでる奴《やつ》とか。それに、最初はおまえみたいに絶対見えない、と思っていたけど、意外にも見えてしまって、宗旨《しゅうし》替えした奴もいるんじゃねえ? つまり、なんていうか……誰《だれ》にとってもそれが当たり前だなんて、そんなのわかんねえじゃん。見たくて見たくて努力の果てに、やっと見つけた奴だっていると思う。だからおまえも、なにも一生絶対見えない、なんて、今決めつけなくてもいいじゃねえかよ。全部|嘘《うそ》だ、なんて、思う必要もないじゃねえか。……俺《おれ》は、その、なんていうかさ……」
実乃梨《みのり》が目を見開いて竜児《りゅうじ》を見たまま、息を詰めたのがわかる。なにを思ったのかまでは理解できないけれど、竜児が継ぐ言葉を待ってくれているような気がする。
だから、その言葉を、声にすることができた。
「……俺は、おまえが、幽霊《ゆうれい》をいつか見れたらいいな、と思う。見たいと望んでほしい。怖がりのおまえにこんなこと言ったらかわいそうかもしれねえけど……おまえに見てほしがってる幽霊が、多分《たぶん》、この世にはいる……とか、思うから」
声にしたことを、後悔もせずにすんだ。
「……だからほら……今日《きょう》は妙なことが、たくさん起きてるだろ? アピールしてるんだよ、見てくれ、ここにいるぞ、見つけてくれ、って……どこかの幽霊が」
というか、この俺が。……とまでは、もちろん言えずじまいだが。
「あ――」
一瞬《いっしゅん》の間をおいて、実乃梨は不意に口をつぐんだ。夜空を仰《あお》いで、なにかに戸惑《とまど》っているみたいに、それきり言葉を紡《つむ》ぐのをやめる。
「……なんで、そんな話を俺にしたんだ?」
俺にとっての幽霊はおまえだ、と心の中でだけ囁《ささや》いて、竜児は実乃梨の横顔から目をそらす。夜空を見つめるその瞳《ひとみ》の漆黒《しっこく》に、存在ごと溶かされるような気分になって恐ろしかった。実乃梨はすぐ隣《となり》ですこし長く息をつき、気配《けはい》だけでやっと小さく微笑《ほほえ》み、答える。
「今日はさ、なんでだか妙に幽霊に驚《おどろ》かされるなあ〜ってずっと思ってたんだよね。そのわりには姿が見えないじゃん、って。そうしたら、さっき、見たんだよ。UFO――によく似た人工|衛星《えいせい》を。あっ、と思って、でもやっぱ違う、って思って……結局見えてねえや、存在は近くに感じたのに……って。それでなんだか、こんなことを高須《たかす》くんに話してみたくなったんだ」
「……変な奴……」
そんなふうに答えてみたけれど、それなら竜児も見ていたのだ。あの、UFOそっくりに夜空をすべって光る星を。そして、実乃梨を驚かせているものの正体も知っていた。自分の恋心だ。
それは幽霊やUFOみたいに、不思議《ふしぎ》な世界のものじゃない。実乃梨の傍《そば》に実在している。見ようと思えば、それらは見えるはずなのだ。
実乃梨と並んで風に吹かれ、揺れる黒い海をただ眺め、竜児は思う。実乃梨がそれを見てくれたなら、それだけで幸せになれるのに、と。たとえ見て、意外とつまらないや、と捨てられたとしても、気づかれないよりはずっといい。
***
「……竜児《りゅうじ》……」
トイレで用を足し、手を洗ってそっとドアを開けたそのときだった。
「ん? ……大河《たいが》か……?」
午前一時。
早起きしたせいか大騒《おおさわ》ぎしたせいか、皆早い時間からさっさと眠りについてしまい、シンと静まり返るばかりの深夜。小さな顔がちょこんとドアのひとつからこちらを覗《のぞ》いているのが、トイレの薄《うす》い明かりに照らされている。
「どうした? 眠れねえのか?」
声をひそめ、みんなを起こさないようにそっとトイレのドアを閉める。大河は猫のように部屋から抜けでて、ひたひたと裸足《はだし》のままでスリッパも履かず、廊下をこちらへ近づいてきた。
「……足音が、竜児っぽかったから」
「……どんどん人間|離《ばな》れしてきたな」
長い髪を眠る時用のお下げスタイルにして、家でも愛用のガーゼ素材の夏用パジャマの袖口《そでぐち》で鼻を擦《こす》り、大河はうん、とうなずく。子供のような仕草《しぐさ》だが、眠いわけではないようで、大きな猫目はちゃんとぱっちり開いている。竜児もトイレに立ったせいでなんだか目が冴《さ》えてしまったところで、
「……下、行くか」
階段を指差して言うと、大河は「行く」と。
「……明日《あした》のこと考えなくちゃ、ってちょうど思ってたんだ」
「ああ、そうだよな……いつまでもばかちー一号・二号に頼ってはいられねえ」
ひそひそと囁《ささや》き交わしながら、二人は階段を足音を立てずに下りていく。廊下を曲がって暗いリビンクに入り、小さなテーブルランプだけをつけてソファに腰掛けた。
静かなる闇《やみ》の中にはかすかな波音が響《ひび》き、柔らかなランプの光はテーブルばかりを照らしだして、お互いの顔はほとんど輪郭《りんかく》しか見えない。竜児はランプを傾けてもう少し光がこちらを照らすようにしようとし、
「おお……こういうランプって結構高いんだよな……」
凝《こ》った細工《さいく》に改めて気がつく。全体が薄桃色《うすももいろ》のすりガラスでできていて、細かい飾りは紫《むらさき》のガラス。電球の火の色に似た穏《おだ》やかな光は、すりガラスを通してふんわりとした暖かみをまとうように計算されている。森の草花を模《も》した風景の中に蜻蛉《とんぼ》が舞《ま》うという典型的なアールヌーボー風のデザインで、まさかラリックやガレなんて超有名級|逸品《いっぴん》ではないだろうが、それにしたってなかなかこんなものはお目にかかれない。
しかしうっとり見つめる竜児《りゅうじ》の視線《しせん》の前に、不躾《ぶしつけ》な指がおもむろにニュッ、とつきだされ、
「なんかこれ、きもい」
「……おまえさあ……」
ぐりぐりぐり、と大河《たいが》は繊細《せんさい》な蜻蛉《とんぼ》の彫りを無造作に抉《えぐ》る。趣味《しゅみ》が合わないというか、風雅《ふうが》を解さない奴《やつ》の前にはアールヌーボーも地獄のなんたらぬ〜ベ〜も同じ、というか。
やだなこいつ……と大河の妖精《ようせい》めいた無駄《むだ》な美貌《びぼう》を思わずじっと見つめたところで、
「カレーの残り、食べようかな」
ときたもんだ。あっためてあっためて、と続くもんだ。はあ、と竜児はため息、
「……やめとけよ、一時だぞ? また腹の調子《ちょうし》おかしくなるぞ? ……っていうか、もう平気なのか?」
「平気。なんか夕食のときは最初っから胃が変な感じで、おかわりもできなかったから食べたりなくって」
「おかわりしなかったのか、気がつかなかったけど……珍しい。そりゃ本当に調子悪かったんだな」
「そう。北村《きたむら》くんに薬もらったときも、飲むまでずっと傍《そば》にいてくれてさ、『水足りるか?』『ちゃんと二|錠《じょう》飲んだか?』『どうだ、効きそうか?』……って、緊張《きんちょう》しちゃってさらにキリキリきちゃって、ついさっき、ちょっと寝て起きたらやっと痛くなくなったの」
「おまえが腹痛起こすなんてなあ……」
「……ところであんた、私が薬飲んでるときどこにいたの? 姿見えなかったけど」
それが実は櫛枝《くしえだ》と――とは、なんとなく言いがたいのだった。なぜだか自分でも理由はわからないまま、う、と一瞬《いっしゅん》だけ喉《のど》が窄《すぼ》まり、淡《あわ》い光に照らされた桃みたいな大河の頬《ほお》のラインを見つめ、竜児はなんとなく、本当になんとなく、
「自分の部屋の掃除してた」
嘘《うそ》をついてしまう。大河の長い睫毛《まつげ》が、ランプの明かりの中、ほんのかすかに震《ふる》えるのがわかる。丸い眼球が、さして興味《きょうみ》などなさそうにふいっと窓の暗闇《くらやみ》の方へすべって光る。
「……ふーん」
「……カレー、あっためてきてやるよ」
なんとなく――竜児は大河の瞳《ひとみ》に見つめられる前に、そそくさとソファから立ちあがった。
アールヌーボー風ガラスランプが柔らかに照らしだすリビングは、いまやすっかりカレーの匂《にお》い。
「……あー、食べた食べた……」
「なぜか俺《おれ》まで……」
気がつけば目の前には空《から》になった皿が二枚――おそろしい、少し寝かせたカレーのおいしさは風雅《ふうが》にも勝《まさ》ってしまうのだ。
皿をキッチンへ持っていき、さっと洗って麦茶《むぎちゃ》のグラスとともにリビングへ戻ると、
「おい……そこで寝るなよ?」
満腹タイガーはソファの上、だらしなく伸びて長くなっている。裸足《はだし》の指をわきわきと動かしつつ大きな口を開けてあくびをし、
「あふ……寝ないってば。明日《あした》の計画を話そうって言ったじゃん。ただやっぱちょっと……気が張っちゃって……疲れた。まだ一日しか経《た》ってないのに」
「……また随分《ずいぶん》と眠そうだな……」
これまでに何度も何度も満腹、寝転ぶ、気がつけば爆睡《ばくすい》、という大河《たいが》の牛化まっしぐら三連コンボを目撃《もくげき》している竜児《りゅうじ》には、「寝ないってば」なんて到底《とうてい》信じられる言葉ではない。しかもそんなコンボが炸裂《さくれつ》するときには、たいてい自分もよだれタラタラで畳の上に転がっているのだ。眠る大河の幸せそうなアホヅラを見ていると、次第に身体《からだ》が弛緩《しかん》してしまうらしい。こいつの身体から眠気を誘う催眠《さいみん》オーラでも出ているとしか思えない。
「……こんなところで寝てたら、川嶋《かわしま》になにを言われるか……」
「……ばかちー……?」
「んー……」
「……」
……床《ゆか》に座って、大河が伸びているソファによりかかって、頭を乗せて、でこの一部が大河のわき腹のあたりにくっつくような体勢でいると、でこがほかほかと暖かくて、ぼんやりと視界に膜がかかって……自然に……
「……寝てるじゃねえか」
無理やりにむく、と竜児は起きあがる。いかん、これでは本当にこのまま眠りこんでしまう。
「大河、寝転がるな。座れ、きちんと」
「……」
「おい」
後頭部に手を差し入れ、力ずく、伸びきった身体を直角に立て直す。大河はふにゃふにゃになってそのまま丸まろうとし、
「寒い……なんか寒い……」
「あああくすぐったい! あっ、やめて……!」
大河を起こそうとソファに立てひざをついている竜児の膝元《ひざもと》、腿《もも》の間に、猫科動物特有の仕草《しぐさ》でゴロゴロとからみつくように頭を突っこもうとするのだ。が、
「……っ」
唐突《とうとつ》に憮然《ぶぜん》、と起きあがる。ぱか、と線《せん》になっていた目が開く。
「股間《こかん》じゃんかよ……!」
「おまえが自主的に潜《もぐ》ろうとしたんだよ!」
嫌《いや》っっっそぉぉぉぉ〜〜〜〜……に竜児《りゅうじ》を睨《にら》みつけるその頭を、張り倒してやれたらちょっと幸せかもしれない。
「ったく……いまので完全に目が覚めたわ……顔の皮全部むいて消毒液につけて貼《は》り直したい」
目が覚めたと言いつつまたあくび、大河《たいが》はようやくソファの上に竜児と並んで、ちゃんと正しく座り直した。そうしてなにを言うかと思えば、
「とにかくわかったことが一つ。……旅行って疲れる」
「なにを今更《いまさら》」
大河はそのまま無防備に腕を突きあげて伸びをし、天井《てんじょう》を仰《あお》ぎ、
「なんかこう、ずーっと張り詰めたままっていうかさ……北村《きたむら》くんと朝から晩までずっと一緒《いっしょ》なんて、どんだけ幸せなんだろう、と思ってたけど……幸せよりは緊張《きんちょう》のほうが大きいもんだ」
「まあ、そうだなあ……いきなり全裸《ぜんら》で登場されちゃな」
「……あんただって同じでしょ? みのりんは全裸で登場したりしないけど、疲れてるでしょ?」
「そりゃな」
大河にも言えない、静かな時間は二人の間にあったのだけれど――疲れていない、わけではない。緩急《かんきゅう》つけて乱れ打ち状態の心臓《しんぞう》も、今日《きょう》だけで何年か分は老いただろうし。
「……結婚て、すごくいいもののように夢見てたけど、やっぱ大変だな……好きな人とずっと二人っきりでいるんだもんね……こんなのが続くんなら、早死にしそう」
大河は編《あ》んだ髪を解き、ふわり、と暗闇《くらやみ》に躍《おど》らせる。そうして髪の先をもてあそび、夜目《よめ》にも白い手で何度も梳《す》き下ろす。小さく付け足した言葉は、どうりでうちのママとパパも離婚《りこん》したわけだわ、と。まだ痛むはずの傷まで晒《さら》してみせるほど、今の大河は無防備なのだ。
なにも答えずにただその声を聞いていた竜児の顔を不意に見つめ、大河は鼻先で小さく笑う。
「あんたとだったら、全然平気でいられるのに。……もう身体《からだ》に、あのせまい2DK根性が染《し》みついちゃったみたい」
「……失礼な。なんだよそれ」
「ほら。こんなに広い部屋にいるのに、私たちばかみたい。結局六畳間の距離《きょり》感《かん》で、せせこましくくっついてるのよ」
「あ。……なるほど。六畳間の距離感、だな」
大河の言葉に、竜児は思わず納得してしまった。言われてみればそうだった。ソファだって一つではないし、話をするならテーブルだってあるのに、自分たちはだらしなく、こうやって足も伸ばせないゼロ距離《きょり》で寄り添うように話をしている。裸足《はだし》のくるぶしが重なり合っているのにも今の今まで気づかずに。
しかし大河《たいが》は特に嫌《いや》がっているようではなく、どけ、とも離《はな》れろ、とも言ってはこない。深夜だし、声をひそめて話すにはちょうどいい距離でもあるのだ。竜児《りゅうじ》だって、別に離れたいわけではない。
「……好きな相手といるのは楽しいけどな。やっぱこれは非日常だな。毎日じゃたまんねえ」
「ん……っぷし」
大河は小さくくしゃみをし、上体を起こす。手を伸ばしてティッシュを取ってやると、その体勢のまま鼻をおもいっきりかむ。
気がつけば、二人の距離は数十センチ。足と足は重なり合い、波音だけが響《ひび》く深夜。思春期の男女がこうしていれば、普通はもっとなにかありそうなものではあるが――
「もう一枚。かみきれない」
「おう、大量だな」
「鼻炎《びえん》」
ちーむ、と鼻をかんでいてさえ優美《ゆうび》な曲線《きょくせん》を描く大河の横顔を見つめ、竜児は不思議《ふしぎ》なほどに心|穏《おだ》やかにいるのだった。騒《さわ》がしい非日常の世界から、やっと息つける我が家に帰ってきた、みたいな。大河は美少女で、かつ、手乗りタイガーで、本来ならもっとも「息つける」などという存在には遠いところに生息している希少《きしょう》生物のはずなのに。
「……んあー……これってアレルギーかも……」
「鼻炎《びえん》の薬は持ってきたか?」
「ない。……やだな、北村《きたむら》くんの前で鼻ずるずるじゃ……」
ぽつぽつと言葉を交わしながら、竜児《りゅうじ》も思わずあくびをする。くわっ、と開いた口を手のひらで覆《おお》い、ぼんやりと考える。
大河《たいが》とこうしている限り、セレブな別荘も借家《しゃくや》の二階も、大差ない空間になってしまうのかもしれない。同じ空気になってしまうというか。その辺にインコちゃんの鳥かごがあって、そのうち泰子《やすこ》までべろんべろんで帰ってきそうな気さえする。今にもほら、「たらいまぁ〜」と舌たらずの甘い声、千鳥足《ちどりあし》でハイヒールを鳴らして。大河と一緒《いっしょ》にいる、この空間に。
それはなんとも不思議《ふしぎ》な感覚で、しかし決して嫌《いや》なものではなかった。むしろ、お守りにも似た安心感というか――安心と言ってしまうには、大河はあまりに獰猛《どうもう》な奴《やつ》ではあるが。
当の大河はどう思っているのやら、少し眠たそうに目元を擦《こす》り、
「ね、竜児。私、思ったんだけどさ……こないだの、あの夢さ……意外と……」
いつもよりもあどけない声で囁《ささや》きかけてくる。
「ん? 警告夢《けいこくむ》のことか?」
顔を向けてやると、不意に大河はパク、と口を閉じた。そして少し迷うように目をそらし、
「……やっぱいいや。そうじゃなくて……それよりさ。明日《あした》、どうしようか? またばかちータイプの奴じゃさすがにワンパターンだし」
なんとなく話の行方《ゆくえ》が気になるが、明日の計画も立てないわけにはいかない。竜児は改めて起き直り、姿勢をただし、考えこむ。
「あー、そうだなあ……明日は海で遊びたいとか言ってたよな?」
「海じゃ明るいし、隠れる場所もないし、どうしようもない」
「だよなあ……どうっすっかな……」
「みのりんが怖がりそうなこと……」
うーん、と二人|揃《そろ》って同じ角度、首を傾けたそのときだった。
「――櫛枝《くしえだ》が怖がりそうなことって、なんだ?」
突然の声が暗がりに響《ひび》く。
二人はほとんど飛びあがり、声も出ないままソファからラグに転がり落ちる。気が動転するままになんとかごまかそうとソファの下に折り重なり合って一応その身を隠してみて、
「なあ、なんなんだ?」
「ひっ……!」
「おうっ……!」
グイ、とその肩を掴《つか》まれる。引き剥《は》がすように持ちあげられる。覗《のぞ》きこんでいる眼鏡《めがね》ヅラは――裸族《らぞく》こと、北村《きたむら》。もう逃げきれない。
「おまえたち……喉《のど》が渇いたから下りてきてみたら、なんの悪巧《わるだく》みしてるんだよ。……カレーの匂《にお》いがするな」
「わ、悪巧みなんてそんなんじゃ……」
「さては、今日《きょう》櫛枝《くしえだ》が騒《さわ》いでたのは全部、ずばりおまえたちの犯行か?」
ずばりど真ん中を言い当てられ、竜児《りゅうじ》も大河《たいが》も言葉を失《な》くす。ただ気まずくて、ただ動揺して、言い訳《わけ》もできないまま引きつった顔を見合わせる。そんな様子《ようす》はもちろん「はい、やりました」と白状したも同然で、
「……まったく……」
北村は眼鏡《めがね》を押しあげ、呆《あき》れたように息をついた。
「一体なんでまたそんなことを……櫛枝がかわいそうじゃないか」
その声に、さすがは委員長の硬さがまじる。叱《しか》られている気分になって竜児はソファに思わず正座、両手て膝《ひざ》を掴《つか》んで継ぐべき言葉を必死に探すが、
「あ、あれは……みのりんへのプレゼント、なのよ」
同じく並んで正座していた大河が、苦し紛《まぎ》れに言い訳を開始する。
「プレゼント?」
「そう。みのりんはああ見えて、本当は三度のメシよりホラーが好きなの。……親友の私が言うんだから間違いない。ああやってビックリさせられて、怖がるのがもう大好物なんだって。だから驚《おどろ》かせてあげて、夏の思い出を作ってあげたくて……」
そんな言い訳でどこの誰《だれ》が納得するものか、と思ったその次の瞬間《しゅんかん》、
「ほう!」
いた。
暗がりに眼鏡を光らせて、ぽん、と手を打っている奴《やつ》が目の前にいた。
「なーるほど、そういうことだったのか。どうりで櫛枝も怖がっているわりに目を妙に貪欲《どんよく》にぎらぎらさせていたはずだ」
それは多分《たぶん》北村の勝手な思いこみなのだが、そう思いこんでくれるならありがたかった。竜児も大河もうんうんと激《はげ》しくうなずき、このまま北村が見ざる言わざる聞かざるを決めこんで退散してくれること心から願《ねが》うが、
「よーし、わかった。そういうことなら、俺《おれ》だって仲間に入れてくれよ」
だめか――竜児は虚《むな》しく一人ごちる。
「みんなで協力して、明日《あした》はもう、もっともっと本格的に驚かせてやろうじゃないか」
竜児と大河は目を見交わし、どうする? どうしよう? と互いに問い合うが、しかしどうするもクソも、とっくに北村はやる気なのだ。さらになにを思ったか、
「そうだ、亜美《あみ》も呼んでこよう」
「えっ!」
「ばかちーも!?」
「ああ。なんといってもあいつはここら辺には詳しいし、それにほら、亜美《あみ》だってきっとこういうのやるの好きだぞ、本当は。あいつだけ仲間はずれじゃすねるだろうし。俺《おれ》、呼んでくるな」
止める理由を考える間もなく、北村《きたむら》はいそいそと階段をあがって亜美を呼びにいってしまう。北村の背が見えなくなるなり二人はガバ、と身を寄せ合い、
「ど、どうする大河《たいが》!? 当初の計画からどんどんずれてくぞ!」
「もうどうするもこうするもないよ! こうなったらもう、このままいくしか」
「このままいくったって――」
みんなで怖がらせましたー、実乃梨《みのり》怖がりましたー、竜児《りゅうじ》がナイトとして登場しましたー、全部みんなの仕業《しわざ》でしたー、怖がりの実乃梨が怒りましたー、だって高須《たかす》と逢坂《あいさか》が……この流れでどうやって、ドラスティックに距離《きょり》を縮《ちぢ》められようか。怖がらせた&偽《にせ》情報|流布《るふ》の罪で、嫌われるだけではあるまいか。しかもあの亜美が、素直にこんな計画に乗ってくるだろうか。奴《やつ》のことだ、おもしろがって、もしくは大河への嫌《いや》がらせの一環《いっかん》として、すべてぺロっとばらしたりするのではないだろうか。
しかし大河は唇を舐《な》め、腹を決めたようにきっ、と暗闇《くらやみ》の宙を見据《みす》える。
「しょうがないわよ……こうなったら、計画見直し。あんた、とにかくみのりんをかばいなさい。それですべてが詳《つまび》らかになった後、こう言うの。『俺は止めようって言ったんだ。心配で、だから守りたかった』って」
「そ、そんな……それでいいのか!? うまくいくか!?」
「いかせるしかないでしょ! 他《ほか》に方法はないの! ……やなんでしょ、犬未来は」
暗がりに、大河の瞳《ひとみ》が光を放つ。竜児がうなずくより早く、「眠いぃ!」と苛立《いらだ》つ亜美の声と二人分の足音がリビングへ近づいてくる。
――ばっ……かじゃねえの? もっと他にすることねえの? 眠いんだよもー……ったくよー。
というのが、北村に引っ張られて下りてきた亜美の第一声だった。もはやぶりっこ仮面どころか、本性《ほんしょう》の腹黒ささえも眠気と不機嫌《ふきげん》によってより禍々《まがまが》しく彩《いろど》られ、
「まあまあそう言わず」
「さわんなうざいし!」
とりなそうと背中を叩《たた》く幼馴染《おさななじみ》を、冷たい一瞥《いちべつ》で突《つ》き放す。そんな亜美に大河はちょこん、と寄り添い、
「ねえばかちー」
「……ああん?」
「協力してくれたら、ばかちーの大好きな竜児《りゅうじ》を三日三晩|弄《もてあそ》んでよし」
クイ、と竜児の顔を両手で挟んで、亜美《あみ》の目の前に突きださせる。竜児は慌てて「なんで仲間に引き入れるような真似《まね》を」と非難《ひなん》がましい目を向けるが、
「……仲間にできなきゃ、こいつ全部バラすよみのりんに」
小声の早口で囁《ささや》かれた内緒《ないしょ》話に、ぐ、と言葉に詰まる。それは確《たし》かに、そうかもしれない。
「ほらばかちー、なんなら裸族《らぞく》バージョンでも」
「おうっ」
大河《たしが》は亜美の目の前、竜児のTシャツを大胆《だいたん》にべろんと捲《まく》りあげてセクシー黒乳首まで見せるが、
「……いらねー」
目を逸《そ》らした亜美に思いっきり押しのけられ、竜児はソファから転落。なんだか無性《むしょう》に傷つく展開だ。大河はしかし少しもめげず、
「やだやだやだ、ばかちーと一緒がいい、一緒にやりたい! ねえねえやろうよ、一緒にやろうよー!」
「あうあうあうあう……」
ソファにあぐらをかいた亜美の腹に猫の仕草《しぐさ》で顔をぐりぐり擦《こす》りつけ、しがみついてゆっさゆっさとその身体《からだ》を揺らす。亜美は今にも眠りたそうに目を半分閉じたまま、のけようとする手にも力が入らず、迷惑《めいわく》そうに揺すられ続ける。子供のようなやり方で甘えるみたいに文字どおり亜美を揺すぶりながら、さらに時折、
「……物真似百五十連発……」
「なっ……」
大河は顔を上げ、低い声で脅迫《きょうはく》も交える。くわっ、と亜美の目がようやく完全に見開かれる。
「ねえねえねえねえー! ……さらし者……。やろうよやろうよー! ……ネットに流出……。いいでしょいいでしょー! ……永遠に消えることのないデータ……」
さすがの亜美も目が覚めたのか、大河の頭を掴《つか》んて引き剥《は》がすなり、
「だーもう! わーかった! わかったってばもー! ……乗り物酔いしやすいんだからやめてよもー……」
乱暴《らんぼう》に頭をガシガシと掻《か》いて、大河と北村《きたむら》を睨《にら》みつける。ついでに竜児のことも。
「……実乃梨《みのり》ちゃんを楽しませるために怖がらせるって……なんだってまたそんなこと亜美ちゃんがしなきゃいけないのよ……ああ、ったくうざいったら……ちょっと祐作《ゆうさく》、なんか書くもんとって」
幼馴染《おさななじみ》を使いまわし、亜美はボールペンでさらさらと紙に地図のようなものを書き始める。
「……ここが今いるこの別荘。これが、ビーチの奥に見えてた入り江ね」
「……きったねえ字……」
呟《つぶや》く大河《たいが》を鬱陶《うっとう》しそうに睨《にら》みつけ、再開。
「ここ、切り立った岩場になってて、洞窟《どうくつ》ができてて中へ入れるの。二、三人は並んでぶらぶら散歩できるぐらいの……まあ、結構広いんだけど、日の光は入らないし、足元は細い足場だけで海水が流れこんできてるし、懐中電灯《かいちゅうでんとう》持っていって肝試《きもだめ》し……なんて脅《おど》かしてやれば、かなり怖いんじゃないの?」
おお……と薄暗《うすぐら》いリビングに小さな拍手が巻き起こる。
「さすが亜美《あみ》、地元民だな」
「悪巧《わるだく》みにかけちゃ川嶋《かわしま》の右に出るものはねえよな」
「……地元民じゃねえし、なんか悪口言われた気がする……」
嫌《いや》そうに男子軍団を睨みつける亜美の肩にかじりつき、
「よくやった! うちに来てペットのインコとなにかしていいぞ!」
大河はバンバン、と背中を叩《たた》くが。
「うちっておまえ、それ俺《おれ》んちだし、俺のペットだろ……」
「……なにか、って、なんなんだ逢坂《あいさか》……」
「……あ、あのブサイクハゲインコ? 別になにもしたくない……」
迷惑《めいわく》そうに顔を歪《ゆが》めつつ、亜美はしかし一瞬《いっしゅん》だけ、竜児《りゅうじ》の顔をじっと見据《みす》えた。取り巻く友人たちの喧騒《けんそう》とはまったく別次元のことを考えている目で――まるで普通の、よくわからない女の子みたいに。
***
小一時間ほど洞窟《どうくつ》の肝試《きもだめ》し計画について話し合い、亜美と北村《きたむら》はそれぞれの部屋に帰っていった。竜児と大河はと言えば、
「……おまえ、便所ぐらい一人でいけよ……」
「だって暗いんだもん」
大河のトイレにつき合わされ、少し遅れて階段を上がる。そして竜児の部屋の前で別れ、竜児は一人、暗い自室へ戻る。
「……さて、寝るか……」
さすがに眠気が波の音のように断続的に押し寄せてきていた。すっかりぬくもりも冷《さ》めたタオルケットをまくりあげ、再び身体《からだ》をすべりこませるが、――そのとき。
「っ……なんだこれ!」
声をひそめるのも忘れ、跳ね起きる。なにげなく枕《まくら》に触れた手になにかがからみついた感触があったのだ。細い、長い、糸みたいな……そしてなにか、ぬめるような?
とにかく明かりをつけてみて、暗がりに慣れた目が光をようやく捉《とら》えて、
「う……」
薄《うす》気味《きみ》の悪さに、思わず凍りつく。
長い髪の毛が、枕《まくら》に敷《し》いた持参タオルに何本もへばりついていたのだ。ごそっとついているわけでもなく、まるで女が一人、今までここに寝ていた跡みたいにリアルよりちょっと多目の分量で。しかも触れてしまった手を持ちあげると、ネバ……と透明な糸を引く。生理的な嫌悪《けんお》感が、反射的に吐き気を催《もよお》させる。飛び退《すさ》るようにベッドから下り、ティッシュでゴシゴシとその手を拭《ふ》く。
明らかに、それは竜児《りゅうじ》の髪の長さではなかった。それに、さっき起きだしたときにはこんなものなかったはずで――いや、起きだしたとき、明かりはつけなかったのだ。
それなら、一体いつこんなものが?
押し寄せる疑問に答えてくれる声はもちろんなく、竜児は背中を舐《な》めるような薄気味の悪さに、我《われ》知らず息を飲む。窓の外は波の音……風の音……。
……いや、たいしたことではない。こんなこと、全然たいしたことではない。きっと初めからついていたのだ。間違って泰子《やすこ》が使用済みのタオルを持ってきてしまったんだ。泰子の髪だ。このネバネバは……自分の、よだれか、なにかだ。そうでなくては説明がつかない。
平静を装《よそお》いつつ、竜児は後ずさりするようにして部屋からすべりでる。もしかしたら、大河《たいが》の髪かもしれない。どうやったかは知らないが、大河がなにやらどうにかして、こんなことをしたのかもしれない。別にどうでもいいけど、と繰り返し自分に言い聞かせつつ、足は今にも駆けだしたいみたいに素早くスタスタと動いている。向かった部屋は隣《となり》、大河の部屋。ノックもせずに扉を開き、
「た、大河、おまえ、なんか、俺《おれ》の部屋……あれ……?」
「竜児……」
明かりが煌々《こうこう》とついたその部屋に、大河はつっ立っていた。ベッドにも入らずに。
「ねえ、これ……なんだと思う……?」
さりげなく竜児の背中に隠れながら、大河が指差すその先には、脱ぎ捨てられた大河のワンピースが畳まれもせずに床《ゆか》に放ってある。
「……おまえが脱ぎ捨てた服だろ? いつもちゃんとかけろって言って」
「違うの。……それ、着てないの。明日《あした》着ようと思ってた奴《やつ》で、バッグに畳んで入れておいたの……」
「……な、なにかの間違いだろ……?」
「……私もそう思って、拾おうとしたら、……温かいの。誰《だれ》かが脱いだばっかりみたいにそれで……あれ……」
大河の指が、竜児のTシャツの裾《すそ》をぎゅぅ、と掴《つか》みしめる。心臓《しんぞう》ごと掴まれたみたいに、竜児は一歩も動けなくなる。脱ぎ捨てられたワンピースの周りには、濡れたような足跡がぺたくたと残されているのだ。それもさらさらとした水ではなく、粘《ねば》り気のある液体がぷっくりと足の形に盛りあがっている。
「お、俺《おれ》の部屋も、なんか変なんだよ……誰《だれ》かが、ベッドに寝た跡、みたいで……ああいうネバネバが枕《まくら》に残ってて……」
「……」
シン、と部屋に沈黙《ちんもく》が落ちる。寄せては返す波の音ばかりが、通奏《つうそう》低音のようにただただ繰り返されて――
「ひっ!」
突然、窓が揺れた。
風、なのだろうとは思うのだが、大河《たいが》はそのままへたへたと崩れ落ちる。手を貸すことも忘れて、竜児《りゅうじ》はデクの坊《ぼう》と化す。
感じるのだ――気配《けはい》を。なにかの気配を。大河は猫のようになにもない宙を振り返りながらキョロキョロ見回し、壁《かべ》伝いに必死に立ちあがり、
「や、やだ……ちょっと……ねえ、なんか変よ……だ、誰かの部屋に……」
竜児の腕を引っ張った。そうして開いたままのドアから廊下へ出ていこうとするが、しかし、バム! とドアは外から閉じられる。
「……っ!」
大河はひっくり返った。見ていた竜児も腰が抜け、もはや立ちあがることもできない。這《は》いずるように二人は身を寄せ合い、壁際《かべぎわ》で固まり、
「こここここれって、夢!? そうだよね、夢だよね竜児!」
「そうだ夢だ、犬の仔《こ》を生んでそして犬小屋で暮らしている、あの夢の続きだ!」
「目を閉じてればいつか覚めるね!」
「覚める覚める!」
――死ぬ気で目を閉じる。目を開ければ、なにか異様なことが起きている気がして、身体《からだ》の震《ふる》えも止まらないまま。
5
「……疲れたなぁ……」
「……んー……」
朝日が差しこむキッチンにて、大小二つの影《かげ》は向き合いながらも鬱々《うつうつ》と、テーブルの上に置かれたパンの袋を見つめていた。
サンドイッチを作ろうと思ったのだ。朝|兼《けん》昼にしようと思って。ハムやレタスも昨日《きのう》ちゃんと買ってきてもらっていたし。
だけどその手は動かないまま、竜児《りゅうじ》は通常の三倍|禍々《まがまが》しく血走った睡眠《すいみん》不足の目を惑《まど》わせる。大河《たいが》もイスに座ったきり、髪もとかさず、顔も洗わず、かろうじて着替えただけのなりでぼんやりと窓の外へ視線《しせん》を投げる。
結論《けつろん》から言えば、二人はとっても、寝不足だった。とってもとっても、眠かった。
昨夜《ゆうべ》は結局、あのまま部屋にはいられなくなって、手に手を取って小さな物音一つに飛びあがりながら再び階下へ下りてきたのだ。明かりをつけ、テレビをつけ、「今夜はもう寝ない!」「徹夜《てつや》しよう、一日ぐらい寝なくても平気だ!」などと言い合いながら、朝の六時まではニュースを見ていた。
ビーチを散歩でもしようか、と大河にもちかけた記憶《きおく》はある。大河がいいね、とうなずいた記憶もある。だが気がつけば、二人はいつの間にやらテーブルに突っ伏すようにして半端《はんぱ》な眠りに落ちていた。頬《ほお》の下敷《したじ》きになっていた手の痺《しび》れに目が覚めたのがついさっき。隣《となり》で同じ体勢になっていた大河を揺り起こし、現在七時。
窓の向こうには、爽《さわ》やかに輝《かがや》ける朝のビーチの光景が広がっていた。雲ひとつない晴天の下で今朝《けさ》も海は静かに波を重ね合わせ、ざざーん、と繰り返される音に耳も洗われる心地《ここち》がする。ゴールデンレトリーバーでも連れて砂浜を散歩するには多分《たぶん》絶好の時間だろう。だけどここにはレトリーバーなんて立派なもんはいやしない、寝不足の駄犬《だけん》と虎《とら》がアホ面《づら》つき合わせて呆然《ぼうぜん》としているだけだ。
竜児はがしがしと目を擦《こす》り、なあ〜おい〜、とどこぞのじいちゃんばりに呆《ほう》けた声で大河を呼ぶ。
「やっぱ、眠いな……朝飯は置いといて、部屋戻って、今からベッドで寝直すか……」
んあ〜、と顔を上げる大河も相当の呆け声。
「……いいやぁ……それしたら、多分、午後まで起きられないと思う……」
「そうかあ……そうだなあ……」
首を捻《ひね》る。硬くなった肩の筋が、コキ、とセブンティーン男子にはふさわしくない音を立てる。変な体勢で寝ていたせいか身体《からだ》の節々が凝《こ》って痛いが、超短時間とは言え睡眠《すいみん》は睡眠、寝不足でボケているなりに、記憶はなんとか再構築《さいこうちく》されて頭の中は整理されている。
そして思うのだ。やっぱり昨日のアレは、なにもかもがちょっとした勘違い、思い違い、だったのだろう。あんなに怯《おび》える必要などなかった――きちんとベッドで寝ればよかった。
きっとタオルは洗ってない奴《やつ》を間違えて持ってきていて、最初から泰子《やすこ》か大河の髪の毛がついてしまっていて、大河の服は、風呂《ふろ》上りにバッグを引っ掻《か》き回したときに自分で出して忘れた。そういうこと、だったはず。ネバネバはよだれと……大河の足汗で。
あーあ、と大きく伸びをし、竜児《りゅうじ》は無理やりに勢いをつけて立ちあがる。
「おっし、作ろうぜ、サンドイッチ。カレーの残りをちょっとだけ使って、カレーポタージュも作ろう」
「ポタージュ? ……それ、おいしそ……」
そうしてなんとか気を沸《わ》き立たせ、大河《たいが》の目の前、竜児はようやくパンの袋を開封する。そしてパンをじっ……と狂おしい眼差《まなざ》しで見つめる。パンに欲情できる変態《へんたい》嗜好《しこう》があるわけではなく、ただ乾いた眼《め》でぼーっと……じゃ、なくて。
「……なにをしているんだ俺《おれ》は、パンと見詰め合ってどうする。具材を用意しねえと」
やっぱり頭の芯《しん》はまだボケている。
「具材って?」
「そうだな……卵ゆでて刻んでマヨであえたやつと、ツナ缶もあったよな? あと、レタスとトマトとハムで……おまえなにか手伝えよ。なにやってくれる?」
「ここであんたを応援してるわ」
こいつ、と血走った目が大河の白い頬《ほお》をギンギラ、と睨《にら》みつけたその時だった。
トトトト、と軽い足音が廊下から聞こえ、
「ん? あれー? もう起きてたんだ! おっはよん大河!」
現れたのは、実乃梨《みのり》だった。
真っ白くも眩《まばゆ》い光の中、顔を洗ってきたのだろうか、前髪をターバンで上げてつるつるのおでこを全開にし、洗顔フォームのいい香りをさせつつ大河の鼻をむぎゅ、とブタさんに押しあげる。そして、
「あーらら高須《たかす》くんってば! さっそく朝ごはんの支度《したく》してくれてるの? 昨日《きのう》は作ってもらっちゃったし、今朝《けさ》は私がやろうと思って起きてきたのに出遅れた!」
Tシャツに短パンを合わせただけのほぼ寝巻き状態で朝から笑顔《えがお》全開、
「いやー、いいお天気だ!」
竜児に向かって挨拶《あいさつ》代わり、ピーン! と見事なY字バランスを決める。だが、
「お……おう」
パンの袋を軽く持ちあげるぐらいが、今の竜児の精一杯。朝一番にいきなり出会ってしまうには、実乃梨は眩い存在すぎる。
「あれ? なんか二人とも顔色あんまりよくないね? 眠れなかった?」
「あ、ああ……ちょっと、あんまり……」
「夜中ずっと、テレビ見ちゃって……」
「えー、なんでまた! 大丈夫? 体調《たいちょう》悪い?」
ぷるぷる、と大河は首を振って返事。ついでに実乃梨に抱きついてみたりして、なんだか甘えたモードに入っている。俺だって甘えたいよ、と竜児はそのさまをうらやましそうにただ見守る。
実乃梨《みのり》は大河《たいが》の背中をよーしよしよし! と思いっきりかいてやり、愛情こめて尻《しり》の少し上をペンペンと叩《たた》いてやり、そうだ、と顔を上げた。
「二人とも順番にシャワー浴びてきたら? 少しはさっぱりするんじゃないかな。まだ亜美《あみ》ちゃんと北村《きたむら》くんは寝てるみたいだったし」
大河はその申し出に「えー」とめんどくさそうに眉《まゆ》をしかめて見せ、しかし不意に動きを止める。そして振り返り、不思議《ふしぎ》に静かな目で一瞬《いっしゅん》だけ竜児《りゅうじ》の目を見て、
「……やっぱシャワーしよっかな。みのりん、そのタオル貸して」
「これ? フェイスタオルだぜ? しかも使っちゃったし」
「いいの。私の代わりに竜児を手伝ってあげて」
「高須《たかす》くんは大河が先でいいの?」
え、俺《おれ》は、とまごつく竜児を大河はふん、と鼻息で遮《さえぎ》り、
「竜児が入った後は毛と油が浮くからいや!」
と一刀両断――そんな、半年振りに風呂《ふろ》に入った迷い犬みたいなことになってたまるか。だが当然|反論《はんろん》は一切受け付ける気なし、実乃梨の首からタオルをしゅるんと取り、そのまますたすたと大河はキッチンを出ていってしまう。朝にシャワーを浴びてさっぱりするような爽《さわ》やかタイプではないのに、と竜児はその背を見つめ、
「それじゃー大河に代わって、この櫛枝《くしえだ》めがお手伝いしまーす」
そうか、と理解した。竜児が実乃梨と二人きりの時を過ごせるように、大河としたことが気を使ったのだ。……たまにこういうグッドなジョブをするから侮《あなど》れない奴《やつ》。
「えーと、どうする? なにしよう? 今なにしてるの?」
にっこり、と目を三日月型にして、実乃梨は竜児の手元を覗《のぞ》きこんでくる。その瞬間、実乃梨の髪の甘い香りが鼻先に漂い、あわわ、と竜児は手を震《ふる》わせる。
「そっ……それじゃあ……俺はゆで卵作るから、櫛枝はタマネギ薄《うす》くスライスしてくれるか?」
「了解。なににいれるの?」
「サンドイッチの具」
「おう、ドイッチ、いいね!」
実乃梨は竜児の緊張《きんちょう》になどまったく気づかない様子《ようす》で「ぼかぁなにより英語がにがてでぁ」(2-Cのクラスメートの土井《どい》くん、通称どいっちの真似《まね》)と呟《つぶや》きつつ、さっそくちゃっちゃと手を洗い、タマネギを一つ掴《つか》み、包丁で根と頭をざっくり落とす。皮を剥《む》いて手早くゴミ袋に捨て、鼻歌交じりにスライスを始め、
「……おまえ、かなりいい手つきしてるな……」
竜児は思わず素《す》に立ち返った。トトトト、とリズミカルに包丁を使う実乃梨の様子に、同年代でこれぐらい台所仕事ができる奴をはじめて見た気がするのだ。はらはらと剥《は》がれるスライスされたタマネギは、見事に透《す》けるほどの薄《うす》さで均一。もちろん、竜児《りゅうじ》のゴッドハンドテクには及ばないまでも。
「え、今ほめてくれた? いえーい、やったね!」
「昨日《きのう》の後片付けの手際《てぎわ》といい、かなりのレベルだろ。それもバイトの賜物《たまもの》か?」
「お料理はね、昔からそんなに苦手《にがて》でもないんだ。うち共働きで、よく食う弟がいるからさー」
「弟? 初耳だな……」
「ばりばりの高校球児だぜよ。フハハ! 見ろ、タマネギが透《す》けラン(透け透けランジェリー)のようだ!」
包丁から目を離《はな》さないまま、実乃梨《みのり》はにこにこと笑う。笑いながら、
「おっとしみるっ……目が、目があ〜」
涙をぽろぽろと流してもいる。すすりあげた鼻が赤いのも含めてなにもかもがかわいらしくて、
「……そうだ……レタスを水にさらさねえと……」
竜児はとても正視などできない。そもそも実乃梨がこうして隣《となり》で立ち働いているという現実そのものが、嬉《うれ》しくて恥ずかしくてやりきれない。傍目《はため》にはそうは見えなくとも、相当もじもじしながら、竜児はレタスを華麗《かれい》にビリバリちぎる。ちぎる端から水にさらす。余計な水は使わないよう、ちゃんと清潔《せいけつ》な洗い桶《おけ》に水も貯《た》める。氷もポイポイ投げ入れる。最後にちゃっちゃとシンクの水気も片手で拭《ぬぐ》う。残りの片手はゆで卵の火加減を。
「いやーしっかし、高須《たかす》くんこそ、本当に料理|上手《じょうず》なんだねえ。大河《たいが》に聞いて知ってはいたけど、感動ものだわ。昨日のカレーも最高だったし、そうやってレタスちぎるだけでも速度が違うよ。そもそも高校生の男で、レタス水にさらさなきゃ、なんて言う子はそうそういないぜ。いや、感心」
「そ、そうか? ……そんなたいしたことしてねえけど……」
おまえが望むなら、きゅうりとにんじんと大根の飾り切りテクも見せてえけど……竜児は野菜で鳳凰《ほうおう》が作れるのだ。
「んーん、お見事です。高須くんのそういうきちんとしたところ、とってもステキたと思いますです。……ふふ、こんな高須くんのこと、クラスの子なんかは知らないんだよねえ? 大河と私と、亜美《あみ》ちゃんだけだ。ちょっとなんていうの? 優越感《ゆうえつかん》、感じちゃう」
よせやい! と心の中で叫びつつ、竜児は肩をすくめて見せる。そんな、それはちょっとよく言いすぎだ。それともこの女、自分を悶《もだ》え殺す気なのだろうか。
「高須くんのお嫁《よめ》さんになる子は、幸せだね」
――とどめだった。
パッカン、とツナ缶を開けつつ、ゆで卵の火加減を見つつ、竜児は「なに言ってんだよ」とだけ。しかし内心、もう死んでいる。
「きゅ……きゅしえだぁ!」
「なんだい! たきゃすきゅん!」
ひっくり返った声を必死に飲みこみ、なんだ今の、と一瞬《いっしゅん》遅れて恥をかき、さらに気が動転しまくった。だからついつい、
「き、昨日《きのう》のことだけど!」
なんてことを言ってしまう。一体なにを言おうとしているのだか自分で自分がわからない。その次の言葉が継げないのも当たり前で、竜児《りゅうじ》は慌ててパク、と口を閉ざす。どうしようどうしよう、沈黙《ちんもく》が怖い……どうしよう。
しかしあせる竜児の傍《かたわ》ら、実乃梨《みのり》は透《す》け透けタマネギをレタスの脇《わき》に放りこんで一緒《いっしょ》に水にさらしてしまいつつ、
「高須《たかす》くん、そのことだけどさ、」
代わりに言葉を続けてくれる。ちら、と黒目がちの瞳《ひとみ》で竜児の顔を覗《のぞ》きこみ、人差し指を口元に。そしてしー、と小さく声をひそめ、
「……あのことは、誰《だれ》にも内緒《ないしょ》ね。あんな話、誰にもしたことないんだ。あれってちょっと……まあなんちゅうか……油断した。失言だわ」
眼差《まなざ》しを笑《え》みに緩《ゆる》めてみせる。
「失言だけど、でも、高須くんが話した相手でよかった。……ありがと、聞いてくれて」
「……櫛枝《くしえだ》……」
思わず真正面から目を合わせてしまい、その瞬間。実乃梨の眼差しに微笑《ほほえ》み以外のなにかがあるのがはっきりわかって、不意に時間が止まったような――
「っと、うわわわわっ! 卵が!」
じゅわっ! と音を立てて鍋《なべ》がふきこぼれる。沸騰《ふっとう》して溢《あふ》れだした湯がコンロの火を消してしまう。二人して駆け寄り、スイッチを切ってガスの臭《にお》いを確認《かくにん》し、
「大丈夫……かな?」
「ああ、多分《たぶん》」
ふきんで五徳《ごとく》を拭《ふ》き、気がつけば至近《しきん》距離《きょり》。うわ、と慌てて距離を取ろうと竜児が後ずさるその直前、
「ドジっこだな〜たきゃすきゅんは。かわいいやっちゃ」
無防備な笑顔《えがお》を蕩《とろ》けさせ、唐突《とうとつ》に実乃梨はそんなことを言いだすのだ。「〜〜〜〜〜っ」と竜児は絶句し、顔が火を噴《ふ》くのも見られたくなくて、もてあそばれている気分にもなって、
「……いて」
実乃梨の肩をとりあえずどついてやった。好きな子に対する初・どつきだ。実乃梨は「ふへへ」と笑って腰をゆらゆらさせている。
***
「……じゃあ、あとは計画どおりに」
水着姿にタオルを肩にかけただけの北村《きたむら》が早口でそう言い、すばやく離《はな》れて先を歩きだす。竜児と大河《たいが》も小さくうなずき合い、それぞれ手に荷物を持った。それらは一見ビーチに持ちこむサンドイッチや飲み物、タオルのたぐい。しかしその実《じつ》、透《す》ける素材のバッグの奥には、懐中電灯《かいちゅうでんとう》や亜美《あみ》お手製の地図、その他|諸々《もろもろ》の秘密道具が隠されている。
午前中の穏《おだ》やかな光が照らす別荘のリビング、「お、待って待って」と遅れてやってきた実乃梨《みのり》はタオル地のパーカーに光沢《こうたく》のある素材のハーフパンツ、鼻緒《はなお》に花がついたビーサンスタイルだ。竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らを通り過ぎて大河と並ぶその瞬間《しゅんかん》、くくったポニーテールがぴょこぴょこと弾み、日焼け止めの甘い香りが竜児の鼻先に漂う。
その竜児も、濡《ぬ》れてもいいTシャツに水着のパンツという格好《かっこう》だ。ちなみにTシャツをわざわざ着込んでいるのは北村とスタイルを比べられたくないからだ。大河に至っては偽乳《にせちち》水着の上に、白とグリーンのギンガムチェックのひらひらワンピースまで着こんでいる。肩が紐《ひも》になっていて白い背中も見えているが、それにしてもおまえは着すぎじゃねえか、と思う。自分のことは棚に上げて。おそらく亜美と水着で並ぶのが嫌《いや》なのだろうが――
「……あれ? 川嶋《かわしま》は?」
「あーみんは上でまだ日焼け止め塗りたくってたよ。行こうよーって声かけたら、先行ってて、って」
「でもあいつ、パラソル持っていくって言ってたよな。……一人じゃ持てねえだろ。俺《おれ》見てくる」
実乃梨と大河を先に行かせ、竜児は一人階段を駆けあがる。海に行く、といっても、どうせウッドデッキから下に下りていくだけだ、置いていかれても問題なし。
先にパラソルを持っていっておいてやろうと辺《あた》りを見回すが、それらしいものは見当たらない。亜美の部屋か、とドアをノックし、
「おい、パラソル持ってってやるよ。どこだ?」
と声をかけると、中から「ここにあるから入ってきて持ってって〜」と返事がかえってくる。 横着な奴《やつ》め、とドアノブをひねり、中へ踏みこみ、
「パラソルはそこね」
「……な、なにしてんだ?」
「見とれてたの」
姿見の前に立ち、くっくっく、と満足げに笑いつつ髪を持ちあげたり下ろしたりしている水着姿の暗いナル(アホともいう)を一名発見。なるべく相手にしないように距離《きょり》を保ちつつ、目標物たるパラソルにそろそろと接近するが、
「この水着、どう?」
ナルこと亜美《あみ》は唐突《とうとつ》に振り返り、竜児《りゅうじ》に向けてポーズをとってみせる。デニム素材のビキニは真っ白な肌によく映えて、八頭身のスタイルをもちろん見事に際立《きわだ》たせている。
「……いいんじゃねえの?」
「えー? それだけ?」
それだけもなにも、他《ほか》になにを言えと言うのだろうか。そりゃ竜児とて、「いい」以外のことも色々思っている。胸から尻《しり》にかけてのラインが魅惑《みわく》のSラインを描いていることや、白い腹の腹筋の彫りが大理石の女神像みたいに美しいことや、そのなりで今書店に並んでいる雑誌のグラビアの巻頭を飾ればおそらくいきなりトップアイドルの座を得られるだろうと思えることや、とにかく綺麗《きれい》で美しくて感嘆《かんたん》の声しか出ないことや――しかしそれを全部口にすれば、普通は『セクハラ野郎』と呼ばれるはずだが。
「んー、ビキニは水泳の授業で披露《ひろう》しちゃったからなあ……ちょっと新鮮《しんせん》味《み》がなかったかなあ?」
亜美は勝手に一人|難《むずか》しい顔をして首を捻《ひね》り、
「でも、ここ外《はず》れるんだよ?」
「おう!」
ピン、とビキニのカップの上部、大きなリボンを首に回すスタイルのストラップを外してみせる。一体どこが外れるのか、とびびりまくって悲鳴を上げた竜児の目の前、小ばかにするように亜美のバストはぽよよん、と弾み、
「このほうがいいかなー?」
露出度《ろしゅつど》一層《いっそう》アップのチューブトップスタイルになる。ミルク色の谷間もくっきり、鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこもうと身をかがめると、今にも零《こぼ》れ落ちそうに柔らかそうなふくらみがたわみ、
「つけとけつけとけ!」
竜児はほとんど恐怖に近い感覚を覚えて叫ぶ。
「なんでえ?」
「なんでも!」
「じゃあ……つけて※[#「ハートマーク」]」
「やだ!」
一気に言い募《つの》り、パラソルに飛びついた。さっさとこれを運びだしてしまおう、この女と二人っきりの空間はとにかく危険だ。天使の笑顔《えがお》や潤《うる》むチワワ瞳《ひとみ》がいくら偽物《にせもの》とわかっていても、危険なものは危険なのだ。誰《だれ》かこの女の尻のあたりに、「危」マークをつけてくれ。
「も〜。高須《たかす》くんってば、冷たいんだから〜」
唇を尖《とが》らせ、亜美は作ったすね顔でプイ、とそっぽを向いてみせる。しかしちら、と一瞬《いっしゅん》だけ竜児《りゅうじ》に向ける視線《しせん》は突き放すような、いや、試すような底意地の悪さを秘めていて、
「……たまに優《やさ》しいくせに」
と。そりゃ優しくもするとも、俺《おれ》は善良な人間だ、と竜児はあっさり開き直った。
「おうおう、そりゃどーもな。いつまでナルシズムに浸《ひた》ってねえておまえもさっさと支度《したく》しろ。俺は先に行ってるからな」
「えー? なにその言い方」
言い方が気に入らないなら態度で見せてやる。竜児はおもむろに「ふん♪ふん♪」と鼻歌まじり、さっき亜美《あみ》がしていたように鏡《かがみ》の前に陣取《じんど》って、短い髪を上げてみたり下ろしてみたり、顔をじーっと覗《のぞ》いてみたり、くるっと回ってみたり。我《われ》ながら鳥肌立つほどおぞましい姿だが、これこそが亜美のしていたことなのだ。駄目押《だめお》しに、
「なあ川嶋《かわしま》、この水着どうだ? 似合うか?」
Tシャツをまくりあげてつまらない4980円の海水パンツを見せつけてみる。亜美の柳眉《りゅうび》がみるみる寄り、嫌《いや》っそ〜〜〜うに口元がぴくぴく引きつり、天使の美貌《びぼう》に戦慄《おのの》くような素顔が覗く。
「どうだ、嫌だろう。めんどくさいだろう。しかしこれがおまえだ」
「……高須《たかす》くん、手乗りタイガーにやり口が似てきたんじゃない?」
「ここ、外《はず》せるんだぞ」
「外すんじゃねー!」
もちろん外す気なんか初めからない前ボタンに手をかけて、突き飛ばすように押しとどめられる。亜美はすっかり素《す》のツラ、色素の薄《うす》い瞳《ひとみ》で竜児を睨《にら》みつけながら唇を皮肉っぽくめくりあげ、
「……そういう態度とるんなら、今日《きょう》は協力してあげないからね」
痛いところをついてくる。協力、というのはもちろんこの場合、例の実乃梨《みのり》を怖がらせる作戦のことだろう。竜児は慌てて亜美を振り返り、
「そ、そんなこと言うなよ!?」
「うわ。まさに掌《てのひら》を返したような反応」
ぐ、と言葉に詰まる。そのツラを見て亜美は逆に天使の仮面を取り戻し、にっこり余裕で微笑《ほほえ》んでみせる。そして、
「あのさあ、この際率直に聞いちゃうけど。……高須くん、どうして実乃梨ちゃんをそんなにまでして、楽しませてあげようとしてるわけ?」
「……っ」
「ねえ、どうして? 答えられないわけでもあるのかなぁ?」
ぱちくりと潤《うる》む大きな瞳を瞬《まばた》かせ、ずい、と竜児の懐《ふところ》に踏みこんでくる。答えるまでは逃がさない、とでも言いたげに、逃げても逃げても追い詰めてくる。答えはわかっているのだろう――多分《たぶん》。わかっていて、なお、竜児《りゅうじ》の口から言わせたいのだろう。そうしてからかいたいのだろう。……これも、多分。
「ねえ。ねえ。ねえってばあ。言わないんなら、協力してあげなーい。あと十秒ね。十、九、八、七、六、五、四、……ほらほら、いいのお? さーん、にーい、いーち……ねえ、いいのかなあ〜?」
「……」
ぐ、と唇を噛《か》みしめた。言えない。言いたくない。亜美《あみ》みたいな爆弾《ばくだん》娘《むすめ》に心の秘密をばらすわけにはいかないし、第一、こんなふうに冗談めかして、こんなふうに脅《おど》かされて、彼女への気持ちを軽々しく口にはしたくない。下らない意地だけど、意地も通せない奴《やつ》にはなれない。
亜美の瞳《ひとみ》がつ、と眇《すが》められる。睨《にら》むみたいに、笑うみたいに、竜児を至近《しきん》距離《きょり》から見あげた。そして、
「……ゼロ。協力、やめ」
不意に身体《からだ》を離《はな》されて、竜児は自由の身になる。亜美は髪を翻《ひるがえ》して踵《きびす》を返し、竜児を置いて一人、スタスタと部屋から出ていってしまう。パラソルを抱えて慌てて追いかけるが、亜美が振り返ることはなかった。
目を射《い》る真夏の日差しと、むせ返るような凄《すさ》まじい熱気《ねっき》。
触れたそばから肌を焼くような灼熱《しゃくねつ》の砂にレジャーシートを広げて敷《し》き、パラソルを立てて固定し、
「いやっほ――――――――――――っっっ!」
実乃梨《みのり》はいの一番にサンダルを吹っ飛ばして青い海へとダッシュする。砂を蹴散《けち》らしながらパーカーをその辺に脱ぎ捨て、白い波頭《はとう》が飛沫《しぶき》を煌《きらめ》かせる波打ち際《ぎわ》まで一気に駆けて、
「せーのっ、」
なんと驚き《おどろ》のロンダート。おお! と声を上げる竜児の目の前、ステップを踏んで勢いをつけて、見事に高く跳ねあがる。着地は水の中へ座りこむように落ち、波にそのまま巻きこまれ、
「……あはははははっ! 目にしみるー!」
ぷは! と海面に顔を出すなり、子供のように目を擦《こす》る。そして「早くおいでー!」と大河《たいが》に手を振る実乃梨は、まさに夏の女神だった。
パーカーを脱いだその中は、ストライプ柄《がら》のビキニ! なのだ。日焼け止めが水滴を弾《はじ》く肌はどこまでも眩《まばゆ》く光を反射し、透《す》けるブルーの海の中、実乃梨はきらきらと輝《かがや》くよう。真夏の炎天下《えんてんか》の真下で彼女が大きく両手を振るたび、結構ふっくらと重量のありそうな胸はスポーティな形のブラ(といっていいのかどうか)の中で、ぽよよん、と陽気にたっぷり揺れて、竜児の視線《しせん》をがっちり攫《さら》う。懸念《けねん》のおなか周りはハーフパンツ型のボトムでカバーされていて、しかし腹筋はなんと見事に引きしまっているし、へそも綺麗《きれい》な縦型《たてがた》だ。
一方シートに座った竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》ら、女神に呼ばれている大河《たいが》は陰気に唸《うな》って眉《まゆ》を寄せている。長いワンピースの裾《すそ》の中で鬱々《うつうつ》と身体《からだ》を丸め、パラソルの影にすっぽりと隠れ、掴《つか》んだ長い髪で顔まで覆《おお》って。この落差はどうだ。
「どうしたんだ? また腹が痛いのか? ほら、櫛枝《くしえだ》が呼んでるぞ」
「んー、だって、でもさー……」
ワンピースの上から不安そうにさわさわと揉《も》むのは、自分の薄《うす》い乳付近。
「パッドが……波で外《はず》れたりして、とか思って……」
「……やめなさい、みっともない」
その手を押さえてやって、竜児は力強くうなずいてみせる。
「その点はもう大丈夫だ。ちゃんとこないだの失敗をふまえて、今回はホック式じゃなくて裏地にきちんと縫《ぬ》いとめたから」
「……そ、それだけじゃないもん。私、泳げないもん」
「それも大丈夫。全員そんなの知ってる。誰《だれ》もおまえにシンクロしろとは言わねえ」
「……海に本格的に浸《つ》かるの、初めてだもん……」
「それもだ……ほんとか? それ」
もじもじと大河はワンピースの裾を揉み、うなずきながら素足の指をいじくる。パラソルの中に隠れ、行ってみたいけど海怖い、行ってみたいけど水着になるの恥ずかしい、と全身から迷いのオーラを発して。しょうがねえな、と竜児はその背を日陰から押しだしてしまい、
「なにもかも大丈夫だから、行ってこいよ。今日《きょう》がおまえの初・海水浴だ。ほら、日焼け止め塗って」
「……うー……溺《おぼ》れたらどうなる……?」
「櫛枝が助ける」
「……波、怖くない?」
「おまえのほうが確実《かくじつ》に強い」
おずおず、もじもじ、とくねりながら万歳《ばんざい》をした大河のワンピースをひっぱってやり、すぽん、と脱がせる。白い肌がパラソルの影に溶けるみたいな細い身体には、赤の小花が散るワンピースの水着――おととい、駅ビルで三時間も粘《ねば》ってヒスって大騒《おおさわ》ぎして悩んだ挙句《あげく》にやっと買ったXSサイズの一着だ。透《す》けるような肌の色によく映《は》えて、竜児から見てもなかなか似合っていると思う。
そして日焼け止めを手渡し、全身くまなく自分で塗らせ、はいそこ塗り残し、ちゃんと首にも塗って、ほら背中塗れてない、よし、できたらいってこい、とここまできっちりけしかけてやる。大河はもじもじと北村《きたむら》の姿を捜し、こちらを見ていないのを確認し(なんのためにあんなに迷ったんだ?)、もそもそと髪を簡単《かんたん》にまとめ、ぺたぺたぺた、と波打ち際《ぎわ》を走って実乃梨《みのり》のところまで行こうとして、
「……つべた!」
うっかり熱《あつ》すぎる風呂《ふろ》にはいってしまった人みたいに、波に洗われた足を跳ねあげている。恨《うら》みがましく静かに寄せる波頭《はとう》を睨《にら》む。やっぱり大河《たいが》は猫科、水は性《しょう》に合わないのだろう。……虎《とら》は一応、泳げるはずだが。
一方|北村《きたむら》はなにをしているかといえば、少し離《はな》れたところで亜美《あみ》と何事か言い争っているのだ。波の音に紛《まぎ》れて時折聞こえてくる言葉は、
「計画では俺《おれ》とおまえでって……」
「え〜? なんかだってぇ、だるいんだもーん」
「おまえがいないと内部のこととかわからないだろ?」
「地図書いてあげたからいいじゃーん。めんどくさいし〜」
――予定では、実乃梨《みのり》を大河と竜児《りゅうじ》で足止めしておいて、その隙《すき》に北村と亜美が洞窟《どうくつ》へ向かい、数々の驚《おどろ》かせ仕掛けをセットしてくるはずだった。しかし亜美はご覧《らん》のとおりの「だるい」「うざい」「かったるい」状態。もはや北村に対しては、ぶりっこの気遣《きづか》いもする気はないらしい。
「あったし昼寝しよ〜っと。悪いけど祐作《ゆうさく》、あんた一人でがんばってよ。あたしはもうパース、関《かか》わらない、っと」
話を勝手に打ちきり、亜美《あみ》はパラソルの下に戻ってくる。シートに座っている竜児《りゅうじ》の隣《となり》に優雅《ゆうが》にその身を横たえながら、
「あら、聞こえてたあ? 文句はないはずだよねぇ、高須《たかす》くんの選択《せんたく》だものぉ〜」
笑顔《えがお》だけは完璧《かんぺき》な愛らしさ、ただしきっちり見下し目線《めせん》で囁《ささや》くのだ。
「……もしもどうしても、って言うなら、もう一回質問からやり直してあげてもいいけどぉ? なーんてね、うっそーん。はなっからそれほど興味《きょうみ》なんかねえし」
「……」
屁《へ》でもかけてやろうか。
とはいえ、そんなに自在に出せるもんでもない。竜児は亜美をへっ、と無視して立ちあがり途方《とほう》にくれている北村《きたむら》のもとへ歩み寄る。
「あいつはもうしようがねえ、俺《おれ》とおまえで行こうぜ」
「ったく、亜美の奴《やつ》……いいよ、高須はここにいてくれ。俺と亜美なら別荘のブレーカーがどうのこうの、亜美だけじゃ手に負えないからなんのかんの、とか言って抜けることもごまかせるけど、俺たち二人じゃ怪《あや》しまれる。俺一人で行ってくる」
「……平気かよ?」
「仕掛け自体は準備済みだ。楽勝楽勝……ってことで、おーい! 櫛枝《くしえだ》ー! 逢坂《あいさか》ー!」
ほえー? と能天気《のうてんき》な声で、実乃梨《みのり》が波の中から返事をする。おっかなびっくりの大河《たいが》の腕を引っ張って、海の中を歩かせながら。
「俺、うんこ―――――っっ!」
腹から響《ひび》く太い声で北村が叫び、実乃梨がズコー、と海中にこけて没する。大河も道連れ、あわあわと沈む。これでいいのか……? と竜児は多少息を飲むが、それでいいらしい。
「じゃあ高須、後の監督《かんとく》は任せた」
すちゃ、と敬礼のポーズをして、北村は秘密道具をこっそり持ち、別荘のほうへと歩いていく。戻ったと見せかけて、裏を通って入り江へ行くのだ。
その北村と入れ違い、
「あひー、口の中|塩辛《しおから》いー……っていうか、北村くんってなんなのさ!? 裸になってみたりおトイレ宣言してみたり、なんのアピだよ」
「疲れた……」
びしょ濡《ぬ》れの実乃梨と大河が手をつないで戻ってくる。しかし大河はつい今さっき、やっと海に浸《つ》かりにいったばかりなのだ。
「おまえ行ったばっかだろ、なにに疲れるんだよ」
「……波に巻きこまれて砂浜で五回転もすりゃ誰《だれ》だって疲れるんだ」
ギン、と向けられた猫目は充血して真《ま》っ赤《か》、今にも火でも噴《ふ》きそうに竜児を凶悪に睨《にら》みつける。
それはそれはそうでしたか……と思わず無言になる竜児《りゅうじ》の目の前、実乃梨《みのり》と大河《たいが》はゴクゴクと持ってきたペットボトルのお茶を飲む。そして実乃梨は亜美《あみ》の肩をつつき、
「あーみんも海で遊ぼうぜ! それとも、もしかして体調《たいちょう》いまいち? 疲れちゃった?」
気遣《きづか》わしげに白い横顔を覗《のぞ》きこむ。
「……うーん、そうねー……後で行くわぁ」
てきっとーに、それでも一応|薄《うす》い笑顔《えがお》だけは顔に貼《は》りつけ、亜美は実乃梨をやんわり拒否する。大河はお茶を顎《あご》にダラダラ垂らしつつ(水着だからいいとする)、そんな亜美の顔をじっと見た。そしてなにを思ったか、
「……ばかちー、泳いでみて」
白い背中に手をかけて、ゆさゆさと揺さぶってみるのだ。
「えぇ? なんでよ、やだ。あたし寝たいの」
もちろんすぐにプイ、と無視される。しかし大河はそれでもめげず、
「いーじゃん、いつもみたいにアホ臭《くさ》いド淫乱《いんらん》ぶりで私を楽しませてよ」
「……あんたねえ……いい。しらない。あんたなんか、相手にすんのも下らないもん」
「……じゃあこれ食べてみて」
大河は濡《ぬ》れたままの手でサンドイッチを一つ掴《つか》みだし、ずい、と亜美の口元に持っていく。無視されてもぐいぐいと唇に押しつけて、
「んもう、なによあんた!? うるっさいんだから! ……食えばいいのね?」
亜美は起きあがり、鬱陶《うっとう》しそうに大河の小さな手からサンドイッチを奪《うば》い、ヤケクソのようにでっかく一口《ひとくち》かぶりつく。が、
「あ。あーみん、それ……私が自分用に作った奴《やつ》だ……」
「みのりんがあんまりおいしそうに食べてるから、どんなのかな、と思って」
「……あぐふぐ……うぐ……っ」
亜美、悶絶《もんぜつ》。ぼとり、と取り落としたサンドイッチの断面は、カラシて末期色……いや、真っ黄色。激《はげ》しく咳《せ》きこみ、ウーロン一気飲みでなんとか呼吸を取り戻し、そして息を飲む竜児の腕を、
「た……高須《たかす》くん……ちょっと……」
ゆらり、と俯《うつむ》いて立ちあがりつつ、がっしり掴む。そのままずるずると波打ち際《ぎわ》まで竜児は連行され、
「お、俺《おれ》になんの関係があるんだ!? 八つ当たりすんじゃねえ!」
「うるっさい。黙《だま》れっての。……あのくそちびタイガーの不始末は……高須くんの! 不始末! よっ!」
不意打ち気味にケツを蹴《け》られた。竜児はもんどりうって海の中に倒れこみ、そのまま波に攫《さら》われて砂浜を一回転二回転三回転……目の前は波のあぶくで真っ白、上下がわからなくなりながらもなんとか砂を掴《つか》んで立ちあがる。次の亜美《あみ》の腹いせの標的は実乃梨《みのり》で、
「……実乃梨ちゃん。とっても楽しい計画があるのよ」
にっこりん、と亜美は悪魔《あくま》の笑顔《えがお》を実乃梨に向ける。
「なあにあーみん」
「……入り江の方にね、とっても綺麗《きれい》な洞窟《どうくつ》があるの。すごくすてきなところだから、午後はみんなで探検、ていうか、お散歩しにいかない?」
「へえー、楽しそうだねえ! 行こう行こう!」
恨《うら》み骨髄《こつずい》。そんな表情を押し殺して亜美は結局計画に協力、さらに大河《たいが》の腕を掴《つか》み、
「そおだ〜、ねえねえ逢坂《あいさか》さん、あたし、泳いでみせてあげる。泳ぎ、教えてあげる」
「い、いい。いい、いい、いい……いいってば! ちょっとばかちーあんたただじゃすまないよっ! やだ! やーだーってばーっ! 竜児《りゅうじ》、助けろーっ!」
びきびき、と顔面を引きつらせたまま大河の身体《からだ》を引きずり、びちゃびちゃと波打ち際《ぎわ》に踏みこみ、そのままずんずん沖のほうへと歩いていく。
さらば大河――。というのはもちろん冗談《じょうだん》で、遠浅《とおあさ》の海はどこまでいっても大河のへソの辺《あた》りまでしか深さはないのだ。
***
海でひとしきり遊んだ後、別荘に戻って順番にシャワーを使い、頭も洗ってさっぱりと着替え、残りのサンドイッチとポタージュを平らげて一休《ひとやす》み。するとようやく日差しもいい感じに傾きかけてきた。
あまり明るいうちに出かけても風情《ふぜい》がなかろう、と、あえてゆっくり、のんびり支度《したく》をし、
「へー、ここかあ! ……ここ、かあ……」
別荘からビーチを歩いて十分程度だろうか。
「そうだよ、ここだよ」
薄《うす》い笑顔で振り返る亜美と、洞窟の入り口を交互に見て、実乃梨は「……」と言葉を失《な》くした。
入り江はごつごつとした岩場になっていて、波に洗われる巨岩はそのまま山まで続く崖《がけ》になっている。真っ暗な洞穴《ほらあな》はそのどてっぱらに、今更《いまさら》どう言い訳《わけ》のしようもない不気味さでもってぱっくりと口を開いているのだ。
その間口、縦《たて》におよそ三メートル、横にもおよそ三メートル。そして奥行きはここから見てはわからない深さまで続いていて、その上、入口には「危険!」とだけ大書きされた木の看板まで立っている。実は北村《きたむら》が勝手に立てただけなのだが。
実乃梨《みのり》はおずおずと覗《のぞ》きこみ、Tシャツから伸びるしなやかな腕をそっと自《みずか》ら抱くようにし、
「……な、なんか、お散歩っていうか……き、肝試《きもだめ》し? みたいな? 雰囲気……だよねえ?、へーえ、危険、だって。あはは……はは……わ、私、ここで待ってよっかな〜……」
なにげなーい素振りで踵《きびす》を返そうとする。その実乃梨の肩を、
「おいおい、なに言ってるんだよ」
がっちり掴《つか》んだのは北村。すっかり日に焼けた北村は実乃梨を引っ張り、強引に背中を押し、洞窟《どうくつ》の入り口に押しつけるようにして笑うのだ。
「とっても素敵《すてき》な散歩スポットじゃないか。この夏最後の思い出作りだぞ」
「い、いやあ……でもなんていうか……私、怖がり、じゃない? なんかここ……不気味で……なんか出そうっていうか……こういう思い出は別にいらない、っていうか……ごめん、やめようよ、マジで。危険だってよ? 危険なんだよ?」
「あたし小さいころからこの中入って遊んでたし、平気だよ別に」
さらり、と亜美《あみ》が言い、さらにかぶせるようにして、
「櫛枝《くしえだ》、そういうことを言うと本当に出るぞ?」
なにが、とは問えない明確《めいかく》な語り口で、北村は実乃梨をじっと見つめる。実乃梨はひく、と目元を引きつらせる。
「おまえも知らないわけではないだろう、コックリさんをやっていると本当に異界のモノが現れてしまう、だとか、百物語のオチだとか」
「……怖がりって言ってる人間にそういうこと言うかね……」
「はい、だから全然怖くないって思っておけばいいんだよ。本当になんでもないんだから。自然界の営みをこの目で観察《かんさつ》するチャンスじゃないか。見たことのないような生き物もいるかもしれん」
「……そーっすね……生き物ならいいっすけどね……」
竜児《りゅうじ》と大河《たいが》は少し離《はな》れて、そんな二人の様子《ようす》を嘆息《たんそく》して眺めていた。
「北村を仲間に引き入れたのは正解だったかもしれねえな」
「あの口車、かっこいい」
そうかな、と竜児は首を捻《ひね》るが、目をきらきらさせてニヤついている大河にはつける薬も草津《くさつ》の湯もない。それでも北村の誘いを実乃梨が断りきれないのは確《たし》かで、実乃梨には悪いが、ここまできたら全力で怖がっていただこう。竜児に残されたチャンスは、怖がる実乃梨を守りまくることしかないのだ。当初の計画とはだいぶ違ってしまったが、こうなってしまった以上、やり抜くしかないのだ。
「よーし、それでは行くぞ北村探検隊! 俺《おれ》がレッド、高須《たかす》がブラック、櫛枝はブルー、逢坂《あいさか》はピンク、亜美もブラックだ!」
わー、私ピンク……とか、なんであたしブラック!? とか、おまえは肌色だろ、とか、上がる声をレッドはシカト。
「みんな懐中電灯《かいちゅうでんとう》は持ったか!? 黄金のコブラと会いたいか!?」
おう、と隊員たちも後半部分はシカト。一本ずつ手に持った懐中電灯をスイッチオン、少々頼りない光線《こうせん》が暗い洞窟《どうくつ》の内部を照らす。大人《おとな》がゆうゆう両手を広げてすれ違えるほどの広さが奥まで続き、真ん中の岩場の窪《くぼ》みには海水が川のように流れこんでいる。広さと高さがあるぶん中に入っても安全そうに思えたが、しかし実乃梨《みのり》をびびらせるには十分過ぎるほどに深く暗い。
「進軍開始ー!」
「うぅ、暗いなあ……待ってよ北村《きたむら》くん」
実乃梨はおっかなびっくり北村の後をついていく。大河《たいが》と竜児《りゅうじ》もその後に続き、
「……おい、川嶋《かわしま》。行くぞ」
「……」
最後に亜美《あみ》がついてくる。はいはい、とわざとらしくため息、見るからにダルそうに頭を掻《か》きながら。
ざり、ざり、と五人分のサンダルが濡《ぬ》れた岩場を歩く音と、小川みたいに流れこむ海水の音だけが、狭くうすら寒いほど涼しい空間に響《ひび》く。
「……うぅ……暗いよー、狭いよー、こわいよー……」
実乃梨はなにもしていないのにすでに半泣き、へっぴり腰で辺《あた》りをキョロキョロと見回しながら不安そうに歩いている。
そろそろ北村の言っていた第一関門だ、と竜児は鋭《するど》い視線を左右に走らせた。そうしつつ、片手はがっちりと大河のワンピースの肩紐《かたひも》を掴《つか》んでやっている。最初は「うざい!」「痴漢《ちかん》!」と大騒《おおさわ》ぎだった大河も、ついさきほど転びかけるのも四回目、竜児に半ば吊《つ》りあげられるように助けられるのも四回目を数えたあたりで口をつぐんだ。
その大河も少々神妙な顔つきになり、竜児を一瞬《いっしゅん》だけ振り返る。もうすぐだ――北村|曰《いわ》く「第一関門……飛来物、襲来《しゅうらい》」。
それがどういうものなのか聞きそびれてしまったが、とにかく北村が言うには、物理法則を生かして最小の人力で稼動《かどう》するアイデア賞ものの恐怖マシーンを設置してきた、らしい。そんな大仰《おおぎょう》な説明をされ、なんだか竜児まで心臓《しんぞう》が高鳴ってしまう。一体どんなすごいことが起きるというのか。そして実乃梨をその恐怖からかばうことができるだろうか。
そのとき、先頭を歩く北村が、さりげなく後続の竜児に意味ありげな視線を投げた。ついになにかが始まるらしい。ぎく、と身体《からだ》を緊張《きんちょう》させる竜児の見ている前で、北村は足元の岩と岩の間に張られた糸のようなものを実乃梨《みのり》に気づかれることなく蹴って外《はず》す。すると、正面からなにかが勢いよく飛来、というか吊《つ》られた糸で振り子運動、「なんだか不気味だなあ……」と左を向いた実乃梨の右側をすらーっと音もなく通り過ぎ、竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》ら、
「はうあ……っ」
大河《たいが》の顔面をべちょーと舐《な》め、さらに振り子で戻ってきて、
「うっ……」
亜美《あみ》は危ういところでのけぞってセーフ、
「……おうっ……」
竜児の後頭部にべっちょん、と当たって静止する。
後に残されたのはブラリと気ままに吊られた厚揚《あつあ》げ一丁。微妙な引きつり顔で振り向く北村《きたむら》一名。そして、
「うわおぁっ! ……おお、びっくりしたぁ! なんだよもー、ナマコかよ!」
ぬらー、と岩場に佇《たたず》むナマコ一匹。それを見かけて腰を抜かしかけている実乃梨一名。
「か……顔が……」
厚揚けが舐めていった大河の頬《ほお》は油にまみれ、暗がりでもわかるほどになにやらてかてかと輝《かがや》いていた。これはひどい、と北村を睨《にら》もうとした竜児も大河のザマに気づき、思わず「……ぶふっ!」と吹きだす。後頭部油まみれの自分の身の上を棚に上げて。そうして当然静かなる肘《ひじ》の一撃《いちげき》を肝臓《かんぞう》に食らって声もなく片膝《かたひざ》をつくが、これにも実乃梨は気づいていない。
第一関門……失敗。そうだった、と竜児はある事実を思いだす。北村は成績はいいが、基本的に根本的に、どうしようもなくアホなのだ。「それがまるおのいいところー※[#「ハートマーク」]」「まるおくん、かわいいー※[#「ハートマーク」]」――暗がりに北村|親衛隊《しんえいたい》の女子どもの幻影《げんえい》がひらひらと踊る。
曲がりくねる洞窟《どうくつ》内をしばしそのまま進み、やがて、
「おおー!」
北村が声を上げた。これは第二関門の合図だ。第一関門のしょぼさからしてもはやほとんど期待はしていないが、北村によるとこの第二関門こそが一番|手間《てま》隙《ひま》かけた仕かけなのだという。これこそ題して「見知らぬ、どざえもん」。竜児の傍《かたわ》らでほっぺたてかてかタイガーがぐっと身を乗りだす。こいつはまだまだ北村の仕掛けに期待を抱いているようだ。
北村の声に、実乃梨が盛大にびびりつつ振り返る。
「えっ、なになに!? どしたの!? ナマコ!?」
「いや、ちがーう!」
北村は大騒《おおさわ》ぎしつつ実乃梨の肩を掴《つか》み、グイッと前に押しだす。当然実乃梨は泡《あわ》を食い、サンダルの足を必死に踏ん張り、
「やだやだおいおいちょっと! ちょっとちょっと!」
しかしそんな抗議《こうぎ》を北村《きたむら》はものともせず、容赦《ようしゃ》なく懐中電灯《かいちゅうでんとう》で少し離《はな》れた岩の陰を照らしだしてみせるのだ。そしてよく通る声で一声、
「ほら見ろっ、あれは一体なんなんだー!」
うるっせー、と亜美《あみ》の覚めた呟《つぶや》きが響《ひび》き、そして――沈黙《ちんもく》が落ちる。
「……ん? なに? 見えない」
あああ、と頭を抱えるのは竜児《りゅうじ》と大河《たいが》だ。なぜだ、なぜこう……ああ、もういやだ。
「い、いや、ほら、なんかあそこ……あるの見えないか?」
「んん〜? 見えないけど。そうだ、北村くん、矯正《きょうせい》視力いくつ? 私も眼鏡《めがね》作ったほうがいいのかなめ、最近遠くがよく見えなくてさあ。一応、春に視力を測ったときには0・5はあったんだけど」
「えっ! そりゃあ立派な近視だぞ」
「……マジ? やっぱりそう? うへー、いやだなあ……授業なんかでは今のところ困ることはないから、しばらくこのままでいっかな〜と思ってるんだけど」
「でもそれじゃ試合のときに差しつかえるだろ? やっぱり眼鏡かコンタクトを考えないと」
視力の話をしてどうする。もはやそう突っこむ気力もなく、竜児は油に塗《まみ》れた頭を掻《か》く。どうでもいいが、さきほどの厚揚《あつあ》げは、きちんとポケットに入っている(竜児はいつだって小さなビニールを持ち歩いている)。
さらにもはやどうでもいいが、岩の陰には北村作のどざえもん……投棄されていた古い魚綱《ぎょもう》と使い古しのシーツで作った謎《なぞ》の人型決戦オブジェが置いてあったのだった。さらにさらにどうでもいいが、口を○で描くのはやめてほしい。なにか他《ほか》の用途に使うモノに見える。
「おい大河、どうする? 北村の奴《やつ》、アホだぞ」
「北村くんのこと悪く言うな。きっとこれからまだなにかあるのよ」
こっそり内緒《ないしょ》話、大河は顔をしかめて竜児を睨《にら》みつつも、
「いやーしかし、洞窟《どうくつ》って涼しいんだねえ?」
などと言いながら実乃梨《みのり》が完全スルーした岩壁《がんペき》の地味〜な赤い染《し》みが、赤ペンキで作られた第三関門「消えない、血|飛沫《しぶき》」だったことに気づくや、
「……どうしよっか……」
と声のトーンを暗く落とす。
竜児は息をついたきり、北村を責める気にもなれない。ただ脱力――だって北村はこう言っていたのだ、「櫛枝《くしえだ》を襲《おそ》う三つの恐怖の関門! 第一の関門であいつは泣き叫び、第二の関門で半失神、第三関門で完全に魂《たましい》を抜かれる! はず!」と。惜しむらくは、仕かけ作りに亜美か、もしくは自分が参加しなかったこと。このままではこのハンパにぬるーい雰囲気のまま、洞窟探検が終わってしまう。たいして進展がないまま、竜児の夏も終わってしまう。
どうするか、と思わず歩みを止めて腕組み思案《しあん》したそのとき、
「あれ、どうしたの高須《たかす》くん。そんなところで立ち止まってると置いて行っちゃ――うぎゃぁぁぁぁぁぁっ!」
待ちに待った実乃梨《みのり》の絶叫が、暗がりに尾を引くように響《ひび》き渡った。まさか、まさかとは思うが……
「……ご、ごめん! 高須くん……あの……こういう暗いところでさ、懐中電灯《かいちゅうでんとう》で顔を下から照らさないほうが、いいぜ……」
そんな。
愕然《がくぜん》と立ち尽くす。なんてことだ。己《おのれ》の顔が十分にホラー機構《きこう》として使用に耐えうる出来だとは……。
「きゃーっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃっきゃーっ!」
その傍《かたわ》らで、大河《たいが》は地獄《じごく》からこの世を覗《のぞ》く怪鳥のような声で大爆笑《だいばくしょう》。竜児《りゅうじ》を指差し、心からおかしそうに顔を歪《ゆが》め、腹をかかえ、涙を流し、笑い過ぎて「げほげほげほっ!」一旦《いったん》むせ、しかし竜児の顔を見、改めて「うっぷー!」と噴出《ふんしゅつ》し直し、
「うきゃーっきゃっきゃ! 竜児、あんたって……なんちゅう……きゃーっきゃっきゃっきゃっきゃーっ!」
「お、おまえなんか嫌いだっ! ……おう!」
怒り心頭《しんとう》で大河から顔を背《そむ》けようとしたそのとき、濡《ぬ》れた岩場で足がすべる。ステーン! とみっともなく尻餅《しりもち》をつき、
「わ、大丈夫高須くん! 気をつけなくちゃ!」
実乃梨に駆け寄られてしまう。顔が火を噴《ふ》くように熱《あつ》くなり、手を掴《つか》んでくれようとするのをいい、いい、と断った。そうしてあせりつつ立ちあがろうと岩場に手をついたそのときだった。
ペとり。
「……っ」
その手に、濡《ぬ》れた感触。からみつくような……糸みたいなこれは……持ちあげ、懐中電灯の光にかざし、
「ひ……」
実乃梨が後ろにずっこける。声もなく這《は》いずって、大河の足にしがみつく。竜児の手を指差し、あうあうと口だけを必死に動かし、しかし声は出ていない。
やった、怖がっている――とか言っている場合でもなかった。竜児も驚《おどろ》いたのだ、一瞬《いっしゅん》。手にからみついていたのは、長い髪だ。濡れて指にからまって、ずるり、と粘着質の水滴を垂らしながらぶら下がる。なんだこれは、と狼狽《ろうばい》しかけて、やっと思い当たった。
北村《きたむら》の奴《やつ》、やっと本当に気味の悪い仕掛けをしてきやがった。引っかかったのは竜児だったが、実乃梨も十分に怖がっている。第四関門もあったのか。さしずめ「髪、抜けてしまった後」とか。
「たたたた、高、高須《たかす》、くりにっくん……っ! そそそ、それは……!?」
「髪の毛だな……なんだこれ、気持ち悪い!」
手を振り、絡《から》みつく髪を振り払い、大げさに顔をしかめてみせた。しかしそこでようやく、あれ、と思い当たる。そういえば昨日《きのう》、枕《まくら》についていた髪の毛はこんな感じではなかったっけ――その髪の毛の話は北村《きたむら》にはしていないが。
「や……ぎゃー! ぎゃー! やっぱこわいじゃん! こわいじゃんかあああ! 呪《のろ》われてるよお、なにかいるよお、うぎゃあああー!」
胸のひっかかりは誰《だれ》も理解してくれないまま、実乃梨《みのり》が先にパニックに陥《おちい》る。岩壁《がんペき》をぶったたき、「出してくでー!」と大騒《おおさわ》ぎ、北村はそれをなだめながら小さく竜児《りゅうじ》に耳打ちするのだ。
「……高須。ナイスアシスト。おまえもちゃんと仕こんできたんだ」
え……?
一瞬《いっしゅん》、顔に誰かが冷たい水をぶっかけてきたのかと思う。
だが、違う。血の気が引いたのだ。一気に全身の血が足元に下がり、顔も指先も氷みたいに冷たくなる。
「た、た、た、」
大河《たいが》の腕を掴《つか》んだ。肩を掴んだ。「気安くすんな」と振り払われた。でもまた掴んだ。
「んもー、なんだよホラー顔!」
「……大河……今の、今の髪の毛……」
「うん見た見た。……北村くん、やっとそれらしいことしてくれたじゃん。ほらね、やっぱり北村くんは有能」
「違う。北村じゃないって。それに俺《おれ》――昨日のこともあいつには話してない。気づいてねえのかよ、あれと同じじゃんかよ! なあ、昨日の枕の髪、あれはやっぱり、」
暗がりの中で大河のおちょぼ口が「ぽあ」と開き、猫目が光を放って丸くなったその瞬間、
「うわーん! 大河、手つないでてー! 一緒《いっしょ》に歩いてー! 北村くんなんでまた奥にいくのおおおおー!」
「いや、こっちが出口なんだって。本当に」
はっはっは、と笑う北村の後を、実乃梨は大河をがっちり攫《さら》ってついていってしまう。取り残され、竜児は震《ふる》える。まずい、なんだか足が竦《すく》んで歩けない。
「か……川嶋《かわしま》っ」
最後尾をかったるそうについてくる亜美《あみ》に気がつく。必死に手を伸ばし、名前を呼び、
「なに? どうしたの? ……もしかして、怖いの?」
だっさ、と一言《ひとこと》で切り捨てられる。だが今はそんなことに傷ついたり腹を立てたりしている場合ではないのだ。
「い、いいから一緒《いっしょ》に歩こう! なあ!」
「い・や」
「なんでだよ!?」
プライドを捨てて放ったセリフも袈裟懸《けさが》けに容赦《ようしゃ》なし、亜美《あみ》はフン、と凶悪に顔を歪《ゆが》めて言い捨てる。
「あーあ……なんか、もうたくさん。こんなアホ騒《さわ》ぎ全然楽しくないし、だるいし、付き合いきれない。言ったよね、あたしはもう協力しないって。結局しちゃったけどさ……ここまで付き合ったんだからもういいでしょ? あたし違うルート通って一足《ひとあし》先に別荘に戻るわ」
「ちょっ……おい! 川嶋《かわしま》!」
引きとめようとし、しかし追いつけず、どうしようかと竜児《りゅうじ》は北村《きたむら》たちのほうを見る。しかしちょっと立ち止まっている間にすでに三人の姿はなく、置いていかれたことを悟る。となればもう選《えら》ぶ道は一つしかなく、
「……俺《おれ》も一緒に行く!」
「なに? ちょっともー、うざいんですけどー。高須《たかす》くんはかわいい実乃梨《みのり》ちゃんや気がかりな手乗りタイガーのお世話があるんじゃないのぉ?」
「うるせえ!」
だって置き去りにされたんだもん、とも言えず、竜児は後ろをそれでも気にしながら、横道に入る亜美についていく。
***
「お、おい……おまえ、本当に道わかってるのか?」
「わかってるわよ。小さいころは秘密基地とか作ってここで遊んでたんだから」
亜美は長い足をいかしてスタスタと大また、濡《ぬ》れた岩場も通路まで溢《あふ》れる海水も物ともせずに歩き続ける。竜児はついていくしかないが、不安な気持ちは隠しきれない。落ち着きなく周囲を見回し、亜美から離《はな》れすぎないように情けなくも後を追う。
「北村たち、俺たちが別行動してるの気づいたかな? 捜してたりして……」
「なに、おどおどしちゃって。みんなと離れたのがそんなに不安?」
不意に亜美は足を止め、振り向いた。その瞳《ひとみ》が懐中電灯《かいちゅうでんとう》のかすかな光に、星の如《ごと》くきらきらと光る。
「や、だって――」
よっぽど言ってやろうかと思った。
昨夜《ゆうべ》の奇妙な現象、そしてさっきの現象。確《たし》かになにかおかしなモノが、竜児の近くで息づいているのだ。しかしそれを亜美に聞かせれば、きっとひどく怯《おび》えるに違いない。こんな暗闇《くらやみ》で頼りない自分と二人きり、そんな話をされては落ち着けというほうが無理に決まっている。
「――あんまり、得意じゃねえんだよ。暗いところとか」
「ふーうん?」
つい、と大河《たいが》がするように顎《あご》をあげ、亜美《あみ》は竜児《りゅうじ》を見た。そうする顔は本当に美しく、綺麗《きれい》に整っているが、瞳《ひとみ》の中をいくら覗《のぞ》いてもどんな感情が渦巻《うずま》いているのか理解することは難《むずか》しい。多分《たぶん》一番正解に近いのは挑発、だろうが。
「……じゃあさ、あたしがここで高須《たかす》くんのこと置いていっちゃったらどうする?」
ふ、と口元が意地悪な笑《え》みに歪《ゆが》んだ。
「ねえ、怖い? あたしと離《はな》れ離《ばな》れになると、不安? ……寂《さび》しい?」
「……は?」
「答えてよ。……高須くん、あたしと離れたくないって、思ってくれる? あたしが、必要?」
ひた、と亜美が一瞬《いっしゅん》で距離《きょり》を詰めてくる。大きな瞳をわずかに細め、眼差《まなざ》しはしかし決して逸《そ》らさず、竜児の顎《あご》を鼻先で持ちあげるようにして身体《からだ》をすりつけ――だけど憩いが竜児はそんな攻撃《こうげき》になぶられている心の余裕は持ち合わせていない。柔らかな肌の感触に動揺しつつも身体を押しのけ、
「そ、そういう場合じゃねえんだって!」
本当に妙な事件の只中《ただなか》に自分たちがいることを、どうすれば亜美にうまいこと伝えられるかと考える。怖がらせず、だけどふざけている場合じゃないと知らせるにはどうすればいい? しかし、
「そういう場合じゃない。か。ヘーええ、なーるほどぉ? 早くみんなと合流して、一緒《いっしょ》に櫛枝《くしえだ》を怖がらせよう、って言いたいのかなあ〜?」
亜美にはもちろんそんな努力は通じていない。ああもう、と身もだえする竜児の目の前、亜美の美貌《びぼう》に薄《うす》ら寒い笑《え》みが花開く。そしてちょっと上体を屈《かが》め、人差し指を唇に押し付け、上目|遣《づか》いの必殺ポーズ、
「……高須くんに実乃梨《みのり》ちゃんは、合わないと思うよぉ?」
なんてことを言い放ちやがる。
「なっ……俺《おれ》はっ……別にっ……そんなっ……なんだよいきなり!?」
「動揺してる」
いっひっひ、と邪悪な笑いとともに亜美は身を翻《ひるがえ》し、背を向け、不意に素《す》の声に戻って呟《つぶや》く。
「高須くんに合うのはね、たとえば――」
一旦《いったん》言葉を切り、吐息《といき》。そして、
「――知りたい?」
振り向かないままの挑発。タンクトップの背に落ちる髪がかすかにうねり、白い横顔の精緻《せいち》な輪郭《りんかく》が見えるのも一瞬。しかし翻弄《ほんろう》されるのなんて悔《くや》しいから、竜児は努めて低い声で、
「……別に、知りたくねえよ」
と、シンプルに。
「じゃあおしえなーい。 お、さ、き、に。バーイ※[#「ハートマーク」]」
「え!?」
それはまさしく、電光石火の嫌《いや》がらせ。亜美《あみ》は竜児《りゅうじ》が怯《おび》えていることも承知の上で、いきなりダッシュで走りだしたのだ。
「か、川嶋《かわしま》! おい、待てって! 川嶋!」
もはや亜美は返事もしない。振り返りもしない。岩場だというのにまるてカモシカのように軽い足取りでどんどん駆け抜けて、水音を立てながらものすごいスピード、竜児を振りきりたいみたいにクネクネと曲がる細い横道にどんどん入っていってしまう。
小さなライトの光だけを頼りに竜児は必死にその背を追い、息切れとともに不安に喘《あえ》ぐ。なんだか亜美の走りっぷりは、ただがむしゃらにダッシュしているだけみたいに見えて、
「おいっ! ちょっ! ちょっと! 頼むから待ってくれ! 本当に道わかってるのか!?」
やっと肘《ひじ》を捕まえたそのときだった。亜美は意外にもその手を振りほどいたりはせず、不意に辺《あた》りを見回してみて、
「――あれ? 迷っちゃってる」
言うのだ。そんなことを。へたへたへた、と腰が砕《くだ》けた。だから言ったのに、とか、これからどうすれば、とか、どういう状況かわかってねえだろ、とか、言葉にならない思いが津波のように押し寄せる。それでも必死に立ちあがり、
「だ、大丈夫だ! きっと北村《きたむら》たちが捜しにくる! 怖がるなよ、俺《おれ》がいるから!」
今にも崩壊《ほうかい》しそうながらも濁《にご》った笑顔《えがお》を作れたのは、亜美が不安にならないように、と。ただその一点のみ。思わずその肩を力強く掴《つか》んでみてしまったりして、
「……高須《たかす》くん、ごめーん」
「いや! 謝《あやま》ったりなんかしなくていい!」
「ううん、ごめんごめん。迷ったっての、うそだから」
ぱっかーん、と、顎《あご》が落ちたのが自覚できた。亜美はくねっ、と身をよじり、上目|遣《づか》いのうるうるチワワ瞳《ひとみ》で竜児を見つめ、
「やあねえ、いくらあたしでもそんな無茶《むちゃ》するわけないじゃないのぉ〜。頭使って考えてえ?」
お、ば、か、さ、ん※[#「ハートマーク」] と鼻先をチョイ、と人差し指でノックする。その指を竜児はむんず、と掴み、
「……っ! ……っ! ……っ!」
「わっ! やだ! ちょっと! ごめんって! いやー!」
逃げられないようにしつつ、ビニール袋入りの厚揚《あつあ》げを振り回して亜美に襲《おそ》いかかる。腹が立ったのだ、本当に。人がせっかく本気になって心配したのに――こいつは、こいつは、この女は!
「……ぷ。……あははっ!」
厚揚《あつあ》げでブン殴られながら、なにがおかしいのか亜美《あみ》は笑いだす。言っておくが、今おもしろいのはこいつのほうだ。顎《あご》やら頬《ほお》やらにぼよん、ぼよん、と厚揚げパンチを食らっているのだから。
「わ、笑ってる場合じゃねえ! 俺《おれ》は本当にびびったんだからな!?」
「うふ、あはは! ごめんごめん……だってさあ! だって、高須《たかす》くん、ガキみたいなんだもん! あははは、やめてよ厚揚げー!」
「くっそ……ばかにしやがって……」
げらげら笑って身をよじる亜美を解放してやり、竜児《りゅうじ》は厚揚げをじっと見つめる。うん、大丈夫。さすが厚揚げ、崩れたりしていない。
「高須くんってさあ、ほーんと、なんていうか……結構しょうもない奴《やつ》だよねえ?」
「うるっせえ」
いまだひいひい言いながら岩壁《がんぺき》に寄りかかって立ち、亜美は目じりの涙を拭《ぬぐ》う。
「てもさ、そういうしょうもないところ……怒って厚揚げ振り回すようなところ、あたしは嫌いじゃないな。……ほら、ねえ。厚揚げなんて見つめるのやめてよ。話、聞いてよ」
「聞いてるよ」
「高須くんは実乃梨《みのり》ちゃんとは合わない、って、言ったでしょ? あれ、本気だよ。だって高須くんは、実乃梨ちゃんのことは厚揚げでぶったりできないもん。実乃梨ちゃんの前でナルシストの真似《まね》したりもできないもん」
亜美はようやく笑いをひっこめ、いつものクールな瞳《ひとみ》を光らせ、竜児の足元をじっ、と見つめる。
「それにさ……高須くんは、月、だから」
「……なんだよそりゃ」
「実乃梨ちゃんは太陽。傍《そば》にいたら、焼きつくされて消えるだけ……だと思うな。憧《あこが》れだけじゃ、対等にはなれないよ。対等になれるのは、たとえば、あたし――みたいな」
「……俺とおまえが対等なのは、身長ぐらいのもんだろ」
実乃梨は太陽――そんなことはわかっているのだ、初めから。太陽みたいに眩《まばゆ》い女の子だったから、一目《ひとめ》で憧れたのだ。恋に落ちたのだ。そんなこと、いちいち亜美に文句を言われる筋合いでもないだろう。
「……っ」
「あたしがそう思うんだよ。……高須くんとなら、対等でいられるんだ、って」
ひんやりとした指が、気がつけば竜児の手首にからみついていた。亜美は竜児の傍《かたわ》らに立ち、指で触れるより先には進まず、ただ表情を静かに打ち消して、素《す》のままの顔で竜児を見あげる。そして、
「逢坂《あいさか》大河《たいが》のこととは、もう関係ない。ただそう思うだけ。……思ったから、言っただけ。勘違いする必要はないよ」
離《はな》れるのは一瞬《いっしゅん》。近づくよりも速く。身を翻《ひるがえ》し、踊るように振り向き、髪をかきあげて天使の笑顔《えがお》を向けて言う。
再び歩きだし、しばらくしたころ。
「あれ? ……電池、切れかけなのか?」
竜児《りゅうじ》の持っている懐中電灯《かいちゅうでんとう》は不意に明かりが弱々しくなり、点滅し始めてしまう。
「え。あたしのもだよ」
そう言う亜美《あみ》の懐中電灯も、ほぼ同じタイミング、チカチカと今にも切れてしまいそうに明滅を繰《く》り返す。
「おい、やばいぞ。明かりがなくなったら真《ま》っ暗闇《くらやみ》だ」
「げ……それ、さすがにあたしでも出られなくなっちゃうかも……出口はまだ先だよ」
「北村《きたむら》たちに合流しよう」
顔を見合わせ、うなずいて、そして同時に走りだす。冗談《じょうだん》ではない、これは本物のピンチだ。
しばらく二人は必死に本気走り、やがて人の声が耳に入る。
「川嶋《かわしま》! 大河《たいが》たちの声だ!」
「うん、聞こえた!」
明滅するライトを頼りに再び細い横道に入り、
「うわ、あたしのやつもうだめだ!」
「……つかまれ! 早く!」
先を行く竜児《りゅうじ》は、手を差しだした。亜美《あみ》の懐中電灯《かいちゅうでんとう》がついに息絶え、そして細い指が、竜児の指をそっと掴《つか》む。強く握り返してやる。怖いに決まっているのだ、亜美だって女子なんだから。守ってやらなければいけないのだ。
そうしてようやく広い本道に二人はほとんど転がりでてきて、
「うぎゃああああああ! ……っくりしたあ!」
「うにゃー!」
実乃梨《みのり》の悲鳴と、それに驚《おどろ》いてコケる大河に迎えられる。
「高須《たかす》に亜美! どこ行ってたんだよ、はぐれたのかと思ったぞ!?」
「は、はぐれてたんだよ! 置いていきやがって! それより、俺《おれ》たちの懐中電灯おかしいんだよ。川嶋のなんかもうつかなくなったし、俺のももう消えそうで」
「おまえたちのもか!」
北村《きたむら》の一言《ひとこと》に、竜児はほとんど絶句する。見れば実乃梨に手を引っ張られて起きあがる大河の懐中電灯はもう死んでいて、実乃梨と北村が持っているのもちかちか、ゆらゆら、と頼りないのだ。……などと言っている間にも、
「……うわ、終わった!」
竜児のライトが掻《か》き消える。
「うっそ、ちょっと、やだやだやだ! 全部消えちゃったらどうなるの!? 出られなくなっちゃうんじゃないの!?」
実乃梨のほとんど涙が混じりそうな悲鳴。
「い、いや、岩壁《がんぺき》伝いにずっと戻っていけば……ここまで一回も横道には入ってないし」
「そんなあ! だってもうだいぶ歩いてきてるじゃん! 同じ距離《きょり》なんか戻れない、絶対無理! それに壁《かべ》伝いにあるいたら、知らない横道にもどんどん入っちゃうって! 同じとこグルグル回っちゃうよ! って、うわあ消えたーっ!」
悪いことは重なるもので、その瞬間《しゅんかん》、実乃梨のライトもふっ、と消える。わずかに残る北村の懐中電灯の光の中、実乃梨が亜美の腕と大河の腕を、必死にまとめてきつく掴む。竜児もすぐ近くに寄って、せめて離《はな》れ離《ばな》れにならないように、と女子たちの後ろにぴったりとくっつき、
「おいおまえもこっちに――」
シン、と静まり返る。
北村《きたむら》の懐中電灯《かいちゅうでんとう》も掻《か》き消えた。辺《あた》りは漆黒《しっこく》の暗闇《くらやみ》。一条の光も差してはこない。鋭敏《えいびん》になった耳に、誰《だれ》かがゴク、と息を呑《の》んだのが聞こえる。サラサラと水は流れ続け、
「ごめん……ちょっと、私……騒《さわ》ぎすぎて気持ち悪くなっちゃった……立ってられな……」
「え!? み、みのりん!?」
「やだ実乃梨《みのり》ちゃん!? マジで!?」
「櫛枝《くしえだ》!」
ドサ、と闇《やみ》の中、実乃梨が倒れた音が響《ひび》く。竜児《りゅうじ》はほとんど無我《むが》夢中《むちゅう》、倒れた実乃梨を抱え起こそうと両手を動かすが、
「……大丈夫、櫛枝は俺《おれ》が抱えてる!」
北村の声に安堵《あんど》する。しかし――
「な、なんだよ……この音」
「やだ、なにか引きずってるみたいな……え? なんなの?」
ズル、ズル、と低い音が、すぐ近くで聞こえているのだ。それから息遣《いきづか》いのような……なにかが這《は》い回っている、みたいな。
「竜児……どこ? 竜児……」
「ここだ!」
小さい手が頬《ほお》をかすめた。大河《たいが》の手だ、と反射的に理解し、腕を伸ばして腰を掴《つか》まえていてやる。今だけは大河も喚《わめ》かずに、身体《からだ》をぴた、とくっつけている。しかしいまだ怪音はやまず、竜児はほとんどぶっ倒れそうだ。
これは夢だろうか。悪夢だろうか。
現実だとしたら……ここでなにかに襲《おそ》われて、ひょっとして死んだりするのだろうか。脳裏《のうり》に泰子《やすこ》の顔が浮かぶ。自分になにかあったりしたら、泰子も死んでしまうだろう。そうして後にはなにも残らないのだろう。……死んでしまうのなら、実乃梨にさっさと告白すればよかった。振られるにしろ、気持ち悪がられるにしろ、これまでどおりの友情めいたものが壊《こわ》れてしまうにしろ、死んでしまうなら関係なかったのだ。
それにこんな現実ならば、「あれ」のほうが数倍マシだった。あの、大河と自分を震《ふる》えあがらせた犬未来のほうが。しょうもないけれど、情けないけれど、それでもなんだか幸せ――だったかもしれない。今になってそう思うのだ。
大河がいて、泰子がいて、ついでにインコちゃんもいて、犬小屋だけど家もあって、犬だったけど子供もいっぱい産まれて、泰子は幸せそうに孫を抱いていて……大河にも言ってやればよかった。きっとブン殴られただろうけれど、一言《ひとこと》でもいいから。
意外と「あれ」もアリかもしれねえぞ、と。
「きゃーっ!」
想像が悲鳴に破られる。悲鳴の主《ぬし》は、亜美《あみ》だった。
「聞こえる!? ねえ、聞こえるよねえ!? やだもうなんなの、なんだっていうの!?」
竜児《りゅうじ》の耳にもそれは届いた。低く地を這《は》うような鳴き声だ。人間の声ではありえない、不気味で、恐ろしくて、まさに怪物の声にしか聞こえない。
「く……っそぉぉぉ……っ」
大河《たいが》が怪物に負けないぐらい、低い声で呟《つぶや》く。
「……こうなったら……やったら――――っっっ! かかってこいっ、しゃらくせえっっ!」
虎《とら》の本能が目覚めたのか、大河は暗がりの中で叫ぶやいなや竜児の手を振り解《ほど》いて立ちあがろうとしているのだ。ちょっと待て、頼むから戦うな、と竜児はその身体《からだ》を力ずくで引き戻す。
「やめろ大河! いくらおまえでも危ないぞ!」
「うるっせえ! 黙《だま》ってやられてたまるかっ、どうせ死ぬなら戦って死んだるっ! ……もうちょっとで、見える!」
「ウソだろ!?」
猛虎《もうこ》の星の下《もと》に生まれ、暗視能力さえも見につけた猫科の女。これが逢坂《あいさか》大河だった。
こいつは気に入らなければ牙《きば》を剥《む》き、敵とみなせば爪《つめ》を突き立てる。小さな身体に人間|離《ばな》れした闘志《とうし》と凶暴《きょうぼう》さを満々に湛《たた》え、「がるるっ!」と唸《うな》ってみせるのだ。それはそれは逞《たくま》しいが、なんとも頼れる力強さだが、
「おるぁぁぁ! いくぞ――――――――――っっっ!!」
「やっ、めっ、ろぉぉぉぉぉぉぉ――――――――っっっ!」
大河の声よりさらに大きく竜児の絶叫がビリビリと洞窟《どうくつ》中に響《ひび》き渡る。無我《むが》夢中《むちゅう》で暴《あば》れる大河を引き戻し、亜美《あみ》とまとめて必死に抱え、
「いいから全員落ち着くんだっ! こんなときにパニクってどうするっ! まずは点呼ーっ! いーちっ!」
「に、にー!」
震《ふる》えて半ベソの亜美の声が返る。
「さぁぁんっ!」
吼《ほ》えるみたいなこれは大河。しかし、
「……四と五がいねえぇぇぇ――――っっっ!!」
竜児はほとんど倒れそうになる。四と五、それは実乃梨《みのり》と北村《きたむら》だ。大河がとうとう弾《はじ》けるように竜児の腕から飛びだし、
「みーのーりーんっ! きーたーむーらーくーんっ!」
声の返らない親友と想《おも》い人を必死に呼ばわり、そして、
「……うあ!」
すべった。コケた。暗くて見えないが、多分《たぶん》。竜児の手が外《はず》れ、大河の悲鳴が響く。そして、バシャン! と水音が。
「た、大河《たいが》ぁ!? 落ちたのか!?」
「……っぷ! うっぷ! ふええええーん!」
竜児《りゅうじ》は暗闇《くらやみ》のなか無我《むが》夢中《むちゅう》、バシャバシャと響《ひび》く水音の方へ四つんばいで這《は》いずり寄る。必死に腕を振り回し、大河の腕らしきものをとにかく掴《つか》み、早く引きあげてやらねば、と――
「大河大丈夫!?」
実乃梨《みのり》の声が妙に大きく響いた。そして続けて、
「ストップ! スト――――ップ! 北村《きたむら》くん、事故発生ー! 大河を救出せよ!」
「了解っ!」
ついたのだ。ライトが。懐中電灯《かいちゅうでんとう》が、二つ。
そのうちの一つは北村が持っていて、北村は少し離《はな》れたところに立っていた。そしてもう一つは、
「……お、おま……」
「くくく……バレてしまっては仕方あるまい……もはや逃げも隠れもせん! 我《われ》こそは櫛枝《くしえだ》実乃梨、通称みのりん!」
手にしたマイクで、最後の一声《ひとこえ》……人間のものとは思えない、怪物の声めいた音声を発生させてみせる。マイクが向けられているのは口ではなく、腹、だった。
そして竜児が掴んでいたのは大河の腕ではなく、足、だった。大河は水深二十センチぐらいのところて竜児に片足を掴まれて持ちあげられ、必死にパンツを隠そうと暴《あば》れているのだった。いまだこの状況に気づいていない。というか、竜児も、そして亜美《あみ》も、いまだ事情を理解できていない。
なぜ? なに? 通称みのりんが、一体どうしたんだって――?
6
「犯人は――俺《おれ》だ!」
びし!
……と自分を指差した実乃梨を見つめ、竜児、大河、そして亜美はほとんど呆然《ぼうぜん》、声も出ない。ソファに並んで腰掛けて、あほの子のようにぽかんと口を開いている。
さらに実乃梨は傍《かたわ》らの北村をずい、と指差し、
「共犯は、おまえだ!」
「ごめんな、みんな」
「すんませんでしたー!」
並んで深々と頭を下げる。
別荘のリビングにはしばしの沈黙《ちんもく》と、いつでも変わらぬ穏《おだ》やかな波の音。すっかり日も暮れ、窓の外はすでに透《す》ける藍色《あいいろ》の帳《とばり》が降りている。
「……なに……どういうこと……?」
大河《たいが》の弱々しいうめき声がパニック寸前の緊迫感《きんぱくかん》を生《なま》ぬるく震《ふる》わせた。
実乃梨《みのり》と北村《きたむら》が犯行を自供したのは、まず竜児《りゅうじ》の部屋の枕《まくら》。そして大河の部屋の脱ぎ捨てられた服。揺れた窓に、閉じられたドア。洞窟《どうくつ》の中の髪の毛。そして最後に、あのナゾの怪物。
「いやあ、ついね。ついつい……君たち全然甘いぜ、こうやるもんだぜって、大河と高須《たかす》くんに知らしめてやりたくなってさ。ちなみにあのネバネバ粘液《ねんえき》はしっとり濃厚《のうこう》化粧水《けしょうすい》。髪の毛は自前ですわ」
ひょい、と実乃梨がつまんでみせる後頭部|辺《あた》りの髪は、確《たし》かにほんの数束だが、短く切られて跳ねていた。
「甘いぜ、ってことは……その……ばれてた、のか? 俺《おれ》と大河の計画が」
恐る恐る問う竜児の声に、実乃梨は重々しく、「イエス」とうなずいてみせる。
「最初からねえ、おっかしいな、とは思ってたのよ。妙なことは次々起こるし、大河と高須くんはやっぱり妙にこそこそしてるし。これはなにか企《たくら》んでるな、と。でも決定的だったのは、カレー作ってるときの北村くんの生霊《いきりょう》だよね。高須くん、ずっと大河と一緒《いっしょ》にキッチンにいるように芝居《しばい》してたでしょ?」
「お、おう」
「あれでははーん、と。やっぱりね、って。だって大河は家事|苦手《にがて》なのに、高須くんはずっとうまいぞうまいぞ、って言ってるんだもん」
だって、北村が聞いていたらちょっとでも好印象になるように、って、そう思ってしまったんだもん……そんな言い訳《わけ》はもちろん口にできるわけがなかった。
北村は少々申し訳なさそうに頭を掻《か》きつつ竜児に言う。
「でも、おまえも気づかなかったか? あの洞窟《どうくつ》の、あまりにあほくさい失敗の連続に。『まさかあのしっかり者の北村がこんな失敗をするわけはない!』だとか」
「いや、しみじみ、本当にこいつアホだな、と……」
「そ、そうか」
親友からの評価の低さを知り、北村の表情にほんの少しだけ哀《かな》しみの色が宿《やど》る。そんなもんは知ったことではないのだ、それよりも、
「……櫛枝《くしえだ》の名演技に、完全に騙《だま》された……マジで怯《おび》えてると思ったんだよ」
「えー? わざとらしくなかった? あんな変なリアクションで怖がる女子なんていないでしょ?」
「いや、櫛枝《くしえだ》だし、びびるときもこんなもんだろうな、と……」
「そ、そうか」
実乃梨《みのり》の表情にもやはりほんの少し、微妙な色が宿《やど》る。それにしたって本当に騙《だま》されていたのだ。人を騙すような器用《きよう》さとは無縁《むえん》の人種だと勝手に実乃梨を決めつけていたが、それも早計《そうけい》だったかもしれない。
「……あーあ……なんだもう……全部ばれてたのか……」
がっくりと脱力する大河《たいが》の肩を叩《たた》き、しかし実乃梨は微笑《ほほえ》んでいる。
「んーん、楽しかったよ! ありがとね、大河。それから高須《たかす》くん」
「……怒らねえのか? 俺《おれ》たち、おまえがホラー系が苦手《にがて》と知ってて脅《おど》かそうとしてたんだぞ? まあ、失敗したけどよ……」
「怒らないよん」
実乃梨はダブルピースで頭を左右にほわんほわんと振り、
「というのもね、私が怖いの苦手、と公言しているのは、こういう事態を待ちわびているからなのだよ。つまりあれだ……ホラーが怖い、ホラーが怖い、ホラーが怖い……最後に、グロ〜いゾンビが一体、怖い……っていう。まんじゅう怖いメソッドですわ」
「ええと……え? なんだって?」
「だからね、怖い怖い、って言っておくと、必ず誰《だれ》かが『じゃあ驚《おどろ》かせてやろう』ってイタズラ心を出すわけよ。私はそれをおいしくいただきたいわけ。まとめると、本当は、大っっっ……好物、なの。ホラー、スリル、オカルト、ゾンビ、この手のものがたまんないわけ。きゃーきゃー騒《さわ》いで大暴《おおあば》れするのが、私、なにより楽しいわけ。ついでに言っとくとジェットコースターも大好物よ」
やられた――完全にお手上け、竜児《りゅうじ》は天井《てんじょう》を仰《あお》ぐ。大河も唖然《あぜん》と口を開き、やがて脱力、頭を抱えて目を閉じる。昨日《きのう》の夜、大河が苦し紛《まぎ》れに北村《きたむら》に語った適当な嘘《うそ》が、まさか的《まと》を射《い》ていたとは。実乃梨の演技力に、大河も竜児も、それはもうコテンパンにしてやられていたわけだ。最初っからすべて。
「実は夜中にね、事態を悟った私は北村くんを仲間に引きこんで、すでに作戦|会議《かいぎ》中《ちゅう》だったのよ。そうしたらちょうど大河と高須くんも会議を始めるじゃない。それでまあ、渡りに船とスパイを送り込んだというわけ」
「亜美《あみ》はちなみにオプションだ」
オプション呼ばわりされた亜美はもはや言葉もなく、ただ口元を引きつらせるばかり。もしかして、今回一番貧乏クジを引いたのは亜美だったかもしれない。
竜児は天井を仰いだまま微動だにできない。一体、なにをしていたやら。
せっかくの旅行、せっかくのチャンスに、一体全体、なにをしていたやら。
大河とておそらくは同じ心境で、ソファにくるんと丸まって、悶々《もんもん》と眉間《みけん》にしわを寄せている。北村《きたむら》へのアプローチのチャンスをふいにしたというのに、得たものはなんだ? なにひとつ、ないのではなかろうか?
虚《むな》しかった。これで今年の夏は終わりだ。
なにも残せないまま、実乃梨《みのり》との関係も変わらないまま、たった一度の十七の夏が終わっていくのだ。
「さて、というわけでー……じゃかじゃん!」
罪悪感があるのだろうか、実乃梨と北村は殊更《ことさら》に明るく振《ふ》る舞《ま》い、大きな袋をブラ下げてみせる。
「昨日《きのう》、実は花火も買ってきてあったんだ! ビーチでやろうよ!」
楽しく騒《さわ》いで盛りあがって、という気分ではまったくないが、今の自分にはお誂《あつら》え向きかもしれない、と竜児《りゅうじ》は思う。パッと咲いて、散るだけの火の花――いや待てよ、自分は咲くこともできなかったんだっけ……。
ビーチを渡る風は涼しく、山のほうからはヒグラシの物悲しい声が響《ひび》いている。日が暮れるのも意外なほど早かったし、季節は思っていたよりも、すでに秋に近かったらしい。
波の音を聞きながら、竜児はビーチサンダルで驚《おどろ》くほど冷たくなった砂浜を歩く。ついさっき歩いて戻ってきたときには、まだ真昼の熱《ねつ》を感じさせるほどだったのに。
「うわ……っ! こわい、こわいよみのりん!」
大河《たいが》の声に振り返る。
「大丈夫だって、こわくないよ、ほら! きれいきれい!」
大河は腕をピンと伸ばし、実乃梨に花火の先に火をつけてもらっていた。たちまち大河が持っている細長い筒《つつ》のような花火からは薄《うす》い緑《みどり》の炎が勢いよく噴《ふ》きだし、パチパチと音を立てて爆《は》ぜ、辺《あた》りに小さな熱の星を咲かせる。大河はどうしたらいいのかわからないみたいに、突っ立ってその炎をただ見つめる。炎は大河の白すぎる頬《ほお》を照らし、実乃梨の笑顔《えがお》をも照らしだす。
「よーし、私はどれにしよっかなー。これかな?」
そして実乃梨も袋から気に入ったらしい一本を取りだし、自分でライターで火をつける。少しちりちりと間をおいて、
「おっと!」
「うわ!」
実乃梨と大河の声の中、弾《はじ》けて溢《あふ》れた火の玉の色は鮮《あぎ》やかなピンクだった。次第に勢いを増して炎は眩《まばゆ》く輝《かがや》き、
「あはは! これ結構すごいよー!」
はしゃぐ実乃梨がクルクルと回る。ピンクの炎が光の軌跡《きせき》で長い尾を暗闇《くらやみ》に引いて、実乃梨の回りを輝《かがや》くリボンみたいに彩《いろど》っていく。
なんて眩《まぶ》しい笑顔《えがお》なのだろう、と竜児《りゅうじ》は思う。花火なんかよりも、笑う実乃梨《みのり》の口元からこぼれる白い歯のほうがずっとずっと眩しい。瞬《まばた》く瞳《ひとみ》のほうが、ずっと、強く輝いている。
そしてそれを眺めている自分は、おそらく、実乃梨の人生になに一つ残さないまま、存在していた証《あかし》さえも残さないまま、消えていくのだ。恋人になるどころか、接近するどころか、驚《おどろ》かせることも満足にできやしなかった。……驚かせて怖がらせて、なんて卑怯《ひきょう》な手段まで使ったのに、結局それさえ失敗したのだ。楽しませることなんて、もっともっと、できなかった。
なんだか泣きたい気分なのは、夏の終わりが近いせいだけではないだろう。
少し離《はな》れたところでは北村《きたむら》が設置した打ち上げ花火に火をつけて、ヒューン! と甲高《かんだか》い音が天に伸びていく。「わーお!」と実乃梨の歓声《かんせい》。大河《たいが》は声もなくそれを口を開けて見上げている。女子たちの視線《しせん》を浴びつつ弾《はじ》きだされた光の玉は、やがてパーン! と爆発《ばくはつ》して、波の重なる海の上、緑と赤に輝く火の華《はな》を開く。
そのさらに向こうには、亜美《あみ》が座りこんでいた。打ち上げ花火の光を見るような顔をして、しかしその実《じつ》、なにも見ていない。なにも見ず、ただ膝《ひざ》を抱えている。退屈そうにも見えるし、寂《さび》しそうにも見える。
亜美は、自分が実乃梨に向ける想《おも》いに気がついているらしい。一体どうしてばれたのか――思わず亜美の横顔を見つめていると、亜美も竜児の視線《しせん》に気づいたようだ。
竜児を見て、そして、肩をすくめてみせる。笑ったりもせずに、ただ、小さく。
そういえば亜美は、洞窟《どうくつ》の中でこんなことを言っていた。――高須《たかす》くん、寂しいって思ってくれる? と。寂しいと竜児が答えることはなかった。もしかしたら、と竜児は今になって思うのだ。
そんな自分の返答が、もしかしたら、亜美に今の自分と同じような気持ちを昧あわせていたかもしれない。自分の存在が誰《だれ》かにとって、あっても消えても変わらない。そんなふうに思わせたかもしれない。自分にとっての実乃梨の価値と、亜美にとっての自分の価値は、どう考えても等価ではないだろうか。
竜児は立ちあがり、歩きだした。拒絶されるのも織《お》りこみ済みで、その傍《かたわ》らに立ってみる。
「よう。……とんでもなかったな、今日《きょう》は」
「……」
亜美は迷惑《めいわく》そうに竜児を見上げ、すぐに顔を背《そむ》ける。
「さっきの話の続き。さっきは返事しなかったから。……俺《おれ》は、おまえがいないと寂しいぞ。でも、なんていうか……」
言葉を継ごうとして、気がついた。
「……なんていうか……誰かが寂しがるかどうかが大事なんじゃなくて、自分が寂しいかどうか、なんじゃねえの? 寂しいと思ったら、寂しいなりに、どうすれば寂しくなくなるか……を、考えればいいんじゃねえか。ほら。俺たちはあれだ。おまえ曰《いわ》く……対等、なんだから。寂《さび》しいならまっすぐに、それを表現すりゃいいんじゃねえの」
頑《かたく》なに振り返りはしない亜美《あみ》の目が、強く光る。北村《きたむら》が打ちあげた花火が大きな眼球に映りこんでいるのだ。それはとても美しかった。ウソも本当も関係なしに、ただひたすらに、美しかった。
「……高須《たかす》くん……」
ややあって、亜美はやっと口を開いた。
「あたしはね、あたしは――」
顔を向けないまま、目をあわせないまま、声にならない声で囁《ささや》く。波の音にかきけされ、花火の音に霧散《むさん》するようなかぼそいかすかな声で。
――寂しいかどうかなんて、考えたこともない。と。
「考えろよ。ちゃんと」
「……それ……つらくない?」
「打てる手があるなら、別につらくねえだろ」
寂しいなら寂しいなりに……竜児《りゅうじ》は納得して、歩きだす。亜美に語った言葉は、そのまんま自分に当てはまる。打てる手ならもちろんあった。対等になりたいなら、打たなければいけない手もあった。それは実は、結構|簡単《かんたん》なことだった。
「なあ、櫛枝《くしえだ》」
「ん!?」
花火を持ったまま、実乃梨《みのり》が振り返る。実乃梨の中に自分がいないことが寂しい。対等じゃない、というのは、きっとそういうことだ。だったら、話しかけてみようと思った。可能性を探るために、余地を見出《みいだ》すために、なんでもいいから声をかけて、俺《おれ》はここにいるぞ! と叫んでみたかった。
「あのさ……」
実乃梨の傍《かたわ》らから、大河《たいが》がするり、と抜けだしていく。「ばかちーに花火もっていこ」と呟《っぶや》きながら、竜児のための場所をあけてくれる。その協力に報《むく》いるためにも、よし、と勇気を振りしぼる。
「……あのさ、櫛枝。あ――ありがとうな」
「え?」
「マジで怖かったけどよ。今になってみりゃ、楽しかった。完全にダマされた。おまえといると、なんていうか、意外性の連続だ。おまえがいると――楽しい。どんなことでも」
不意をつかれたように実乃梨《みのり》は黙《だま》りこみ、しかし、
「……あはは、それってこっちのセリフ!」
いつもの笑顔《えがお》で竜児を見つめ返してくれる。
「本当にこの旅行、楽しかったよ。こっちこそ、ありがとうね。たくさん楽しませてくれたよね。ワカメ霊《れい》、それからあの辛《から》いカレー。おいしかったなあ……あ、二人でサンドイッチも一緒《いっしょ》に作ったよね。カラシたっぷりの実乃梨《みのり》スペシャル、味見してくれたよね。それに……それから。……私の変な話も、笑わないで聞いてくれた。ちゃーんとわかってくれた」
実乃梨は両手の花火をゆっくりと回転させてみて、炎の尾が輝《かがや》くのをうっとりと眺めて、さらに笑う。
「それからさー、怖がらせたりして、ほんとにごめん。タオルも汚しちゃってごめん。今度プレゼントする。……どうしても、高須《たかす》くんに幽霊見せてあげたくて、悪乗りしちゃったんだ」
「俺《おれ》に……?」
「うん。そうだよ」
実乃梨は俯《うつむ》いて花火を見つめ、そしてゆっくりと瞳《ひとみ》をあげる。花火の映《うつ》る輝く瞳で、竜児《りゅうじ》の顔をまっすぐに見る。
「幽霊、見たいって思ってるって言ったじゃん。だからさ、それなら見せてあげよう、って思ったんだよ。――高須くんが私に幽霊を見せようと、一生懸命《いっしょうけんめい》になってくれたみたいに。怖がってみせたのは演技でも、あのとき話したことは全部本当のことだから。全部、本当の気持ちだから」
実乃梨の語る言葉の真意を図《はか》りかねて、竜児は思わず口をつぐむ。その隙《すき》を拾うみたいに、さらに実乃梨が言葉を継ぐ。
「高須くんはさ、なんで私を怖がらせようと思ったの?」
「えっ――それは……だから、おまえがホラー嫌いって大河《たいが》が教えてくれたからさ……」
「イタズラ心で? からかってやろうって? ……違うね。高須くんは、人が嫌い、って言っているものを披露《ひろう》して楽しむタイプの子じゃないもんね。人を喜ばせたい、いつもそればっかり考えてるタイプだもんね」
う、と言葉に詰まる。言葉に詰まった竜児を、実乃梨は怒るでもなく、しかし笑うでもなく、ただまっすぐに見つめている。
「……私を怖がらせて、高須くんはそれでどういう喜びが生まれると思ったんだろう? 私は本当に、それが知りたいと思っているのよ。……本当に、不思議《ふしぎ》に思っているのよ」
「それは……」
乾いた唇を舐《な》めた。心臓《しんぞう》は打ちあげられた魚みたいに跳ね続けていた。
でも、言った。
言いたかった。
「……幽霊がいることを、信じさせたかった。幽霊を、おまえに、見せたかった。嘘《うそ》なんかじゃねえ、おまえは蚊帳《かや》の外なんかじゃねえ、だから――だから、だよ」
どうか実乃梨がこの早口を、間違わずに理解してくれますようにと祈りながら。
「……そか」
実乃梨《みのり》はただ、それだけ言って、眼差《まなざ》しを柔らかく、優《やさ》しく緩《ゆる》めるのだ。どこまで竜児《りゅうじ》の気持ちを理解したかもわからない。どこまで受け入れてくれたのかもわからない。
ただそうして微笑《ほほえ》み、そして続けるのだ。
「……高須《たかす》くんは、幽霊《ゆうれい》、見た?」
竜児はゆっくりとうなずいた。自分は見た。ちゃんと幽霊を、見つけた。
実乃梨は見つけられたのだろうか。幽霊を――この自分の存在を、ちゃんと見つけてくれただろうか。問えないまま、竜児は足元の砂を見つめる。
見つけてくれたならいいのだけれど。
実乃梨の中に、すこしでも自分の存在が……幽霊とはいわない、人魂《ひとだま》ほどにでもあればいいのだけれど。
「……じゃあ次はさ、そうだな……ねえ高須くん。一緒《いっしょ》にUFOでも探そうか。人工|衛星《えいせい》じゃないやつ」
実乃梨は不意に天を仰《あお》ぎ、にっこりと目を細めて笑う。
「幽霊の次はUFO……その次はつちのこにしよう。そうやってどんどん世界を変えていったら……見たいものを見つけていったら……私の世界を変えていったら、そしたら、もしかしたら、いつかさ……」
そのときだった。
竜児の目の端に、それが光るのが見えた。
とっさに海を指差した。
実乃梨が振り返り、竜児が指差したものを見た。
それは暗い水平線《すいへいせん》からシュルシュルと上がっていく火の玉。そして、弾《はじ》ける。
藍《あい》に透《す》ける彼方《かなた》の天に丸く、大きく、光と炎の鮮《あざ》やかな華《はな》が咲く。一瞬《いっしゅん》遅れて、ドーン! と低い音が遠く響《ひび》く。
まるで実乃梨の頭上に、光る星の欠片《かけら》が降ってくるみたいに見えた。
両手を広げた実乃梨が、瞳《ひとみ》を見開いて星よりも強く輝《かがや》かせる。その鼻先を花火の光が眩《まばゆ》く染める。そして呟《つぶや》く。誰《だれ》にも聞かせるつもりではなく、多分《たぶん》、ただ己《おのれ》だけのために。
「爆発《ばくはつ》した――UFOが」
北村《きたむら》も気づいて空を仰《あお》いだ。
大河《たいが》も亜美《あみ》も、同じように空を仰いだ。
そして誰《だれ》もが言葉を失う。それはあまりに突然すぎる、炎の華の乱舞《らんぶ》だった。
立て続けに打ちあがり、眩《まばゆ》く開き、音を立てて散っていく。紅《あか》、黄色《きいろ》、青、緑《みどり》、目が眩《くら》む眩《まぶ》しさで、空を焼く煌《きらめ》きで、真夏の花火が打ちあげられる。
「銀河《ぎんが》戦争、勃発《ぼっぱつ》……か……?」
空に大きく両腕を伸ばし、実乃梨《みのり》はまだ信じられないみたいに呟《つぶや》いた。繰《く》り返し、繰り返し、夢みたい、見ちゃったよ、と。
眩《まばゆ》い天のその下で、そして竜児《りゅうじ》は最後まで気づくことはなかった。
大河《たいが》はゆっくりと、上げかけた腕を下ろしたのだ。花火すごい、ねえ見てる、ねえバカ犬――そんなふうにいつもならつかめたはずのTシャツの裾《すそ》をつかめずに、大河の手はそのまま落ちた。
そして、やっと本当に理解できた。自分は全然わかっていなかったのだ。
そうか。
――こういうこと、なのか、と。
傍《かたわ》らの亜美の視線《しせん》だけが、そんな大河の横顔を見つめていた。花火の乱舞《らんぶ》する天の下で、同情よりは呆《あき》れるような目をして、しかし、誰《だれ》にも言わずに秘めることを決めて、ただ傍らに居《い》続ける。
***
「……っ!」
目が覚めたとき、大河《たいが》は一瞬《いっしゅん》そこがどこだか理解できなかった。奇妙な夢を見ていた気がして、夢の中の気分に囚《とら》われたまま、なにか恐ろしいところにひとりぼっちで取り残されたみたいに怯《おび》えていた。
「なにしてんだ、ほら、降りるぞ!」
「……あ? え?」
目の前には、竜児《りゅうじ》がいた。その傍《かたわ》らには北村《きたむら》がいて、亜美《あみ》の荷物を荷台から下ろして手渡してやっている。亜美はそれに気づかず、シャネルマークつきの手鏡《てかがみ》を覗《のぞ》きこんだまま「あーん、やっぱり電車の中って乾燥《かんそう》するー!」と喚《わめ》いている。
「大河ー! いくぞーい!」
手を引っ張られ、座席から立ちあがった。実乃梨《みのり》が顔全部を口にするみたいにして笑っていて、かごバッグを抱えさせてくれる。
そうか、旅行が終わったのだ、と思う。特急電車はいつの間にか見慣《みな》れたいつもの駅に停《と》まっていて、すでにホームには電車を降りた客たちが溢《あふ》れている。
慌ててバッグを抱え、実乃梨の手に掴《つか》まり、狭い通路を歩きだす。いつから眠っていたのやら、おそらくは寝すぎで頭がガンガンと痛む。ついでに胃のあたりもなんだかきりきりと。
「みのりん……おなかいたいかもしれない……」
「え? ほんとに? ありゃあ、大丈夫? 高須《たかす》くーん、大河おなか痛いって!」
なにー、と竜児が振り返った。北村も振り返る。
「薬飲むか? ちょっとホームのイスに座って」
眼鏡《めがね》越しの、見ているだけで涙が出そうな優《やさ》しい眼差《まなざ》しがそっと大河の顔を覗きこんでくれる。だけど大河は首を振り、いいの、と目をそらした。
いいの。
これで、いいの。
あと何日かで、夏休みが終わる。そうしてまた、いつもの生活が始まる。
変わらないメンツ、変わらない教室、変わらない朝と夜。そうして、すこし、変わったなにか。
しかし大河はそれでいい、と思うのだ。だってよくない理由がない。
二日前に待ち合わせをした改札《かいさつ》で、
「家に着くまでが旅行だぞ! みんな、気を抜かずにまっすぐ帰路につくように!」
北村《きたむら》が少々恥ずかしい演説をかます。完全に無視して竜児《りゅうじ》は思案顔《しあんがお》、
「スーパーに寄って買い物していくか……今日《きょう》は金曜《きんよう》、ってことはまぐろが安いな」
大河《たいが》、どうする? と声をかけてみて、
「うるっさいなー つかれてんの! 主婦|臭《くさ》い用事でいちいち話しかけるんじゃない」
冷たく突き放されている。
亜美《あみ》は亜美でうーん、と思案顔《しあんがお》。どうもわずかに日に焼けてしまった鼻の辺《あた》りが気になるらしく、
「今日《きょう》はこのまま実家に戻って、エステめぐりしよっかなあ〜……」
セレブ発言。そんなまとまりのない集団を「そーらそらそら! こっちこい! 寄りたまえ!」とグイグイ無理やり引きよせ、まとめ、実乃梨《みのり》は重々しく語りだす。
「えー、今回のこの旅行、事故もないまま終われたのはなにより! ってわけで、それじゃあみんな! また、新学期! 学校で会おうね!」
――明日《あした》俺《おれ》たち部活だぞ、と空気を読まない北村《きたむら》の声だけが、手を振る輪《わ》の中で取り残された。そうして実乃梨は北口の自転車置き場へ向かうために、みんなに背を向ける。しかしすぐに振り返り、竜児《りゅうじ》の名を呼び、「今度タオル持って行くねー! 何色がいい?」と。「あー、青!」「えー? どピンク?」「青だって!」「えー? ぎんぎらぎんの金ラメ?」「あ・おー!」「わかった、国防色ね!」わかってやっている実乃梨の笑顔《えがお》はしかしいつにも増して眩《まばゆ》く、「あ、う、うん……国防色……」と。
大河はばかじゃん、と冷たい目をしてその場に座りこむ。その大河を亜美はフン、と一瞬《いっしゅん》だけ眺め、竜児の背中を「じゃね!」と叩《たた》き、サングラス装着。夏休みの高校生の顔から澄《す》ましたモデル顔に戻り、都心の実家へ戻るべく乗り換えの改札《かいさつ》のほうへ歩きだす。北村は大河に胃薬を渡して手を振り、「俺も自転車おきっぱなしだ!」と実乃梨と同じ方向へ走りだす。
そうして、高須《たかす》竜児の高校二年の夏は終わりを告げた。
[#改ページ]
あとがき
ひょんなことから今日《きょう》もズボンのボタンが弾《はじ》け飛びます。
信じたくないけどこれが現実――竹宮《たけみや》(ゆ)です、こんにちは。どうでもいいですけど、いまどきズボンとか言わないですよね……ごめんなさい。パンツですよね。あと、女用の黒い股引《ももひき》……いや、ズボン下……じゃなくて、スパッツ。あれってもうスパッツって言わないんですよね。レギンス、って言うんですよね。どう発音するのかわからないから、おそらく人前でその語を発することはないと思いますが……れ、ぎ、ん、す……(微老《びろう》の私にも、書くことはなんとかできるみたい)。れぎんぬ (やっぱり書けてないみたい)。
いや、それよりもなによりも!
二〇〇七年最初の文庫になります『とらドラ4!』をお手にとって下さった皆様。今回も、本当にどうもありがとうございました。心からお礼を申し上げます。
当たり前だと思って使った言葉が、気がつけば死語となっていて、時の流れに愕然《がくぜん》とすることがあります。おもしろいと思って入れてみたギャグが(ギャグももう言わないか……ネ、ネタ……?)、日本語的ミスだと思われて訂正されて、そのサムさに気付かされることもあります。そんなアクシデントに見舞《みま》われながらの作業となったこの本ですが、楽しんでいただけましたでしょうか? 皆さんの炬燵《こたつ》タイムのおともに、ちょっとでもお役に立てたなら、もうもう、なによりの喜びであります! この先もぐんにゃりと続きますので、もしよろしければどうか次巻も、引き続き応援《おうえん》いただけますよう、よろしくお願《ねが》いいたします!
今日は、私からこの本を手にとって下さった皆様へ、お礼といってはなんですが、小さな魔法《まほう》のプレゼントがあります。よろしければ受け取って下さい。
食の細い方でも、一食につき白飯一合、楽々食べられるようになる魔法です。
一。たらこをひとはら、皮から外《はず》して軽くほぐす。
二。ネギの白い部分を、お好みの量だけ刻む。あんまり多いと味が薄《うす》くなるので注意。
三。卵の卵黄《きみ》だけを、たらこ、ねぎと和《あ》える。(白身は味噌《みそ》汁《しる》にでも……)
四。炊《た》き立てのごはんと対峙《たいじ》する。
……気がつけば、白飯一合がご飯釜《はんがま》から消えているはずです。スパなら二百グラムはいけるんだよ!(決意のびっくりマーク)
この魔法を毎日かけ続ければ、私と同じ村の村民になれます。それがどんな村かは、村民になればすぐにわかります。さあ、早くこっちへ。カロリー? それは後で教えるから、とにかく早くいらっしゃい。怖くないから……おいしいから大丈夫。さあ!
それにしても、この魔法《まほう》(っていうかおかず)はすごいですよ。タラになるはずだった数万の可能性を、ニワトリになるはずだった可能性に混ぜて、稲穂《いなほ》になって数百の米を実らせる可能性だった米粒、しかもこれも数千粒、一気に食してしまうわけですから。コレステロールもすごいけど可能性はもっとすごい。無限といっても差し支えない。もしかして、私の好物は、可能性そのものかもしれません。言われてみればイクラ丼《どん》も好きです(数百のシャケの可能性×数百の米の可能性×数千)。いや、シャケの切り身も全然好きですけど。
まあつまり、私は可能性をもりもり食らって、己《おのれ》の人生の「娘」としての可能性をバンバン捨ててきたわけですね。おわー、キーボードを打つ指先から血が噴《ふ》きだしたー!
……。
さ、さて! こんな私の戯言《たわごと》に最後までお付き合いくださった皆様、本当に本当に、どうもありがとうございました! また本をお手にとっていただけますよう、超全力でこれからも頑張ります! 頑張れるパワーを頂いております! そしてヤス先生、担当様、多分《たぶん》ですが、私はお二人よりも重いです。でも、そんなことはおくびにも出さず、これからも呪《のろ》われしラブコメ三連星として一蓮《いちれん》托生《たくしょう》に頑張って参りましょう!
[#地付き]竹宮《たけみや》ゆゆこ