とらドラ! 3
[#地から2字上げ]竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)抑揚《よくよう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全方位|噴射《ふんしゃ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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1
あんたのせいよ――抑揚《よくよう》のない、しかしひどく不《ふ》機嫌《きげん》なことだけは確《たし》かな低い声が、静まり返った夜間急患外来の廊下に響《ひび》いた。
「あんたのせい……あんたが全部、悪いのよ」
繰り返し念を押すように、ソファの右端ぎりぎりにちょこんと座った逢坂《あいさか》大河《たいが》は、もう一度かすれた呟《つぶや》きを落とす。
同じソファの左端、限界まで距離《きょり》をとって座った高須《たかす》竜児《りゅうじ》は、凶悪に吊《つ》り上った鋭《するど》い視線《しせん》をただ己《おのれ》の爪先《つまさき》に向け続けていた。何を言い返しても無駄《むだ》だと悟っているのだ。それに争う気力もない。今はそんな場合ではない。
窓の外、また一台滑り込んできた救急車のサイレンに身がすくんだ。サイレンの大音声《だいおんじょう》はすぐに絞られるように止《や》み、回る赤色灯の眩《まばゆ》さだけが竜児と大河の影《かげ》をリノリウムの床にくっきり映し出す。高度救命センターのある大学病院は、平日の夜でも盛況らしい。
「……今、何時?」
腕時計忘れた、と独り言のように付け足して、大河《たいが》は夜目にも白い顔を竜児《りゅうじ》に向ける。ただし、視線《しせん》は頑《かたく》なに合わせない。構わず竜児は携帯のフリップを開き、
「十時前」
短く答えた。ということは、ここにタクシーで駆け込んでからもう一時間近くが経《た》ったわけだ。改めて、ぐったり疲れた気分になる。思わず小さな溜息《ためいき》を落とすと、傍《かたわ》らの大河も息をついて腰まで届く長い髪を乱暴《らんぼう》にかきあげた。そんな様子《ようす》が見えたから、
「もういいから。おまえは先に帰ってろよ」
疲労を慮《おもんぱか》って言ってやったのだが。
「犬におまえ呼ばわりされるとは、私も落ちたもんだねえ。いーから放っておいてよ。私のやることにこれ以上一言でも注文つけたら……」
地を這うような低い唸《うな》りが、一瞬《いっしゅん》にして辺りの景色《けしき》を血臭漂うジャングルに変える。そして大河はその只中《ただなか》、沈黙《ちんもく》で世界のすべてを圧したまま、バキバキボキ、と右手の関節を鳴らして見せる。小一時間ぶりに竜児へ向けた眼差《まなざ》しに湛《たた》えられているのは、凄《すさ》まじい怒気と溢《あふ》れんばかりの侮蔑《ぶべつ》。
外見上は竜児とて負けてはいない。黒目の小さな青光りする瞳《ひとみ》は、刃物めいたギラつきを放ってアブなく大河を見返している。……のだが。実のところ、それは単なる遺伝上《いでんじょう》の外見的特徴でしかなかった。
「なんだよ。なら勝手にしろよ」
小さな声でそんなふうに言い返すのがやっとで、竜児は獰猛《どうもう》な野獣《やじゅう》と同じソファに座っていることにも耐えられず、さりげない素振《そぶ》りでそそくさと席を立つ。
「……フン」
倣岸《ごうがん》不遜《ふそん》に鼻を鳴らして、大河は独占したソファの中央に尻《しり》でいざった。そして王者の仕草《しぐさ》て薄《うす》い胸を反らし、冷たく顎《あご》を突き上げる。
こんなときでさえ、彼女は肉食獣の王――凶暴なる野生の虎《とら》、なのだ。
甘く整《ととの》った小さな美貌《びぼう》、高校二年生には見えない小柄すぎる華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》、レースとフリルでボリュームを出した花柄のワンピースに、その背に零《こぼ》れる淡い栗色《くりいろ》の柔らかな髪。大河を形作るすべてのものは恐ろしいほどに精緻《せいち》を極め、フランス人形めいた可憐《かれん》さは薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》の清らかさ。だがその薔薇は残念ながら、致死量の毒を秘めていた。いや、全方位|噴射《ふんしゃ》で撒《ま》き散らしていた。
凶暴で獰猛で残酷《ざんこく》な彼女こそ、人呼んで『手乗りタイガー』。
そんな手乗りタイガーとあれこれあった挙句、奇跡的な馴《な》れ合い生活を送っていたはずの竜児だったのだが――
「はあ……」
身を屈《かが》め、両手で目をゴシゴシとこする。本当にひどいことになってしまった。
奇妙ながらも穏《おだ》やかだった竜児《りゅうじ》の日常は、いまや怒濤《どとう》の緊迫《きんぱく》。夜中に病院に駆け込んで、なす術《すべ》もなく立ち尽くし、閉ざされた診察室のドアをじっと見ていることしかできない。薄暗《うすぐら》い廊下で待たされ続け、いまだ医者は姿を現さないのだ。診察室の中でどんな治療《ちりょう》が行われているのか、状況はどれぐらい深刻なのか、まったく知らされないまま時が過ぎる。二人分の息遣いだけが空気を震《ふる》わす静けさの中、竜児の腹の底では不安ばかりが増幅していく。
「……どうなるのかな……」
やがてぽつり、と零《こぼ》された大河《たいが》の声も、いつしか覇気《はき》をなくしていた。不《ふ》機嫌《きげん》なくせに決して帰ろうとしないあたり、大河も竜児と同じく不安なのだろう。もしかしたらさっきの「あんたのせいよ」という言葉とは裏腹に、多少は責任を感じているのかもしれない。
どうなるのだろう。本当に。
どうにかなってしまったら――いやだ。考えたくもない。思わず目を閉じ、首を振って最悪のシナリオを脳裏《のうり》から追い出そうとしたそのときだった。
「高須《たかす》さん、中へどうぞ」
診察室のドアが開き、かけられた声に弾《はじ》かれたように顔を上げる。
「せ、先生! どうなんですか、容態《ようだい》は!?」
「とにかく中へ」
促されるままに急ぎ足で診察室に飛び込み、その明かりの強烈さに一瞬《いっしゅん》たじろぐ。眩《まばゆ》さに白くハレーションを起こしたようになった視界がようやく色を取り戻した時、竜児の目の前には、力なく横たわる家族の姿があった。
「ま……まさか……っ」
ぬくもりも生気も一切感じられない、物言わぬその肉体。
後をついてきた大河も息を飲んだように押《お》し黙《だま》り、壁際《かべぎわ》に一歩後ずさる。
医者がそっと震える竜児の肩を支え、静かに横たえられた姿を指差してみせた。
「……ブサイクな顔、してるでしょう」
その指先がツン、とつつくのは、ドス黒くなったくちばし。デロン、とはみだした舌は、インコにはあるまじき青みがかった恐ろしい灰色《はいいろ》をしている。
「生きてるんです、それ」
――一瞬の沈黙《ちんもく》は、きっちり二人分。
「……え、えぇ!?」
「うそ!? 絶対死んでるでしょコレ!?」
大河の声にも医者は――獣医《じゅうい》はゆっくり首を振った。「生きてます。身体的な問題は一切ありません」
信じがたい思いで恐る恐る、竜児は高須家の大事なペット・インコちゃんのもとへと歩み寄った。インコちゃんは台に仰向《あおむ》けに寝かされていて、小枝のような脚はぐちゃぐちゃに絡まりあってなにがなんだかわからなくなっている。口元は前述の通りモザイクをかけたい雰囲気で緩《ゆる》み、カッ、と見開かれた両目は完全な白目だ。翼《つばさ》もなんだかボサボサになってだらしなく半開き状態だし、くちばしの端からはよくわからない汁がでろ〜と糸を引き、しかも、ここに運び込まれたときはハラハラ抜けつつもまだ一応全身を覆《おお》っていた羽毛が、いまやところどころ円形ハゲになってしまって、キモい斑模様《まだらもよう》になり果てているのだ。
「イ、……インコ、ちゃん……? 俺《おれ》だ。わかるか?」
「……」
「インコちゃん! 生きてるなら、答えてくれ! 返事してくれよ!」
「……」
グロい屍《しかばね》にしか見えないインコちゃんは、それでも不気味に転がったまま返事をしない。死後硬直の気配《けはい》さえ濃厚《のうこう》に漂っている気がするのだが。
「先生! 返事がないんですけど!」
「……インコって、あんまり返事とかしないでしょう、普通」
「うちのインコちゃんはするんだよ!」
すがるように素人《しろうと》離《ばな》れしたアブない視線《しせん》を竜児《りゅうじ》が向けると、獣医《じゅうい》は無言で目を逸《そ》らす。そのまま大きく三歩、距離《きょり》を取る。……なんて奴《やつ》だ。しかもそういやさっきは人の家のペットをブサイク呼ばわりしやがって。
温厚な竜児と言えどもさすがに時間差でカチンときたそのとき、
「ちょっと、そこどきなさい」
竜児の肩を押しのけ、大河《たいが》がつかつかと治療台《ちりょうだい》に歩み寄った。
「身体的な問題がないってことは……つまりこれ、仮病、ってわけなのね?」
寝ているインコちゃんに覆いかぶさるようにしてその異形《いぎょう》を見下ろしつつ、大河は静かに確認《かくにん》を取る。その横顔は垂れた髪に隠《かく》れて見えないが、
「……た、大河? ちょっと待て。なにをしようとしてる?」
「仮病。仮病、だって。こんなに心配させて、タクシー代二千円も使わせて、仮病なんだって。……おかしいわねえ。ねえ、竜児。……笑えるわ」
……笑っていない、ことは確《たし》かだ。
「フン……病気だって言い張るつもりなら、それだけの根性見せてもらおうじゃない。え? ブサ鳥」
そのとき竜児は見た。
断固動かずにいたインコちゃんの片目が、ピク、と一瞬《いっしゅん》、不気味に痙攣《けいれん》した。大河もそれを見ていたはずだが、
「……鳥って背骨、あるんだっけか」
あくまでスルーのつもりらしい。不吉すぎるセリフの余韻《よいん》の中、
「いや、身体的に問題がないといっても、仮病ってわけじゃないんですよ。つまり精神的な」
「上からいこうか。それとも下からいこうかな」
取り成すような獣医《じゅうい》の言葉も、引き続きスルーのつもりらしい。止めねば、とあせる竜児《りゅうじ》の目の前、かすかに身震《みぶる》いしたように見えたインコちゃんのくちばしからプクプクプク、と水滴が……汗だ。
鳥類が冷や汗を掻《か》いている。
「インコちゃん! 目を覚ますなら今のうちだぞ!」
「竜児は引っ込んでて! あんたが甘やかすからこのブサ子もつけあがるんだ! そのブサ根性、私が叩《たた》き直してやるっ!」
飼い主の必死な声も空《むな》しく大河《たいが》の小さな手が唸《うな》りを上げて空を切った――その、次の瞬間《しゅんかん》。
「アイッ、キャンッ、フラ――――イッ!」
「あ、飛んだ」
……というか、跳ねた、というか。とにかく生命の神秘。瀕死《ひんし》だったはずのインコちゃんは妙な声を上げて背をバネのようにしならせ、パァン! と高く跳ね上がったのだ。おお! と目を見開く飼い主の目の前、しかしその勢いのまま天井《てんじょう》にブチ当たり、
「わー! イ、インコちゃーん!」
無様《ぶざま》に床に墜落《ついらく》。
「大変だ!」
慌てて獣医はぼさっとひしゃげたインコちゃんのもとに駆け寄り、そっと掴《つか》み上げて怪我《けが》の具合を見てくれようとするが、
「うぐっ……!」
そのツラを見て改めて大人気《おとなげ》なく仰《の》け反《ぞ》る。非難《ひなん》がましい竜児の目に気がついたのか、素早《すばや》く獣医の顔に戻ってインコちゃんの身に異常がないか診察してくれる。が、
「大丈夫、特に怪我はしてないようだけど……しかし……つくづくブサイクだねえ、このインコ……どこで買ったの? こういうの、よく売ってたよね? ……インコ、なんだよね?」
挙句の果てに、
「ちょっと写メ取っていい? うちの娘、こういうの好きなんだよね……変でしょ、まだ六歳なんだけどグロ画像とか収集してるの」
「……それ、ちょっと危ないんじゃないんですか」
そーかなー、とのんきな獣医の手から愛《いと》しいペットを奪い取り、竜児はそっと胸に抱いた。確《たし》かにブサイクではあるが、だからって種まで疑うとはあんまりだ。グロ画像扱いなんてひどすぎる。できることならもう二度と、ここの獣医には来たくない。
高度救命センターを擁《よう》する大学病院。……の、隣《となり》。
ここは必死にイエローページをひっくり返し、片っ端から電話しまくり、ようやく探し当てた夜の救急|診療《しんりょう》をしてくれる数少ない大型の動物病院だった。
「まあ、とにかく……悪い病気じゃなくてよかった。……な、インコちゃん」
竜児《りゅうじ》は「獲物《えもの》とったど」寸前のギラつく目をして、インコちゃんの頭をそっと撫《な》でる。頭から生で食おうとしているわけではない。愛《いと》しいのだ。
「ンコちゃンコちゃンコちゃンコ……ン……ウ……ンコ」
「うんうんそうだな」
甘えているらしいインコちゃんの耳……かどうかはわからないが側頭部の辺りに唇をくっつけ、
「……危なかったな、せっかく病気じゃなかったのに危うく大河《たいが》に仕留められるところだったよな。……ったく、八つ当たりもたいがいにしてほしいよな」
「なにぃ?」
鳥にしか聞こえない小さな声て語りかけていたつもり、だったのだが。
「……聞こえたのか?」
「聞こえたわよ。誰《だれ》が、八つ当たり、だって?」
常軌を逸した聴覚《ちょうかく》をもつ大河は苛立《いらだ》ちにまかせてダン! と拳《こぶし》で治療台《ちりょうだい》を打ち、
「……わわわ、ちょ、なによこれ」
常軌を逸したドジ、というか、普通予想もつくだろうに、打った衝撃《しょうげき》で並べられていた治療器具の盆をひっくり返し、一切合財《いっさいがっさい》床に落とす。
「あーあー、消毒してあるのに……。君たち、そんなことじゃいつまで経《た》ってもそのインコの病気治らないよ? ストレスで相当参ってるみたいだから」
大河が落とした器具を拾い集めながら、疲れた様子《ようす》で当直の獣医《じゅうい》は竜児と大河の顔を見比べた。
「いつもそんな調子《ちょうし》で喧嘩《けんか》してるんだろう? ペットは意外と敏感だから、飼い主の状態が不安定になると、ペットもそれを感じ取って体調を崩してしまうことがあるんだよ」
なるほど、とわが身を振り返る竜児の傍《かたわ》ら、
「喧嘩なんてしてないけど?」
はっ! と外人のように肩をすくめて両手を広げ、大河は鼻先で獣医の言葉をせせら笑う。
「ただ、この目つきの悪い下半身制御のエロ犬野郎がありもしない妄想で変な言いがかりをつけてくるから、『訂正』してやろうかな、って思っただけよ。ま、無視してやってもよかったけど、なにしろ私、とっても人がよくできてるものだから我慢できなくて。ほほほ」
そこまで言われては、さすがの竜児も黙《だま》ってはいられない。
「……は? 言いがかりじゃねえだろ。……ったく、気に食わないことがあるからって、か弱い動物相手に八つ当たりすんじゃねえよ」
だが、ひとはそれをときに『無謀《むぼう》』と呼ぶ。『蛮勇《ばんゆう》』でもよかったかもしれない。端的に言えば『余計な口答え』だったのだが、
「へぇ―――え。あんたは結局、少しも私のありがたい『訂正』を聞き入れる気はないんだ。ふう――――ん。それならそれで、もっとはっきり言ってみたらどうかしら。あんたは、私が、一体なにをどうして八つ当たりした、って言いたいわけなんだろうねえ? え? なにかしら、私が気に食わないことって。ぜーんぜん思い当たらないから、よかったら聞かせてくださる?」
ズイ、と詰め寄る手乗りタイガーの目の奥に、殺すと決めた獲物《えもの》を爪先《つまさき》で弄《いじ》る獣《けもの》の欲望がギラギラ強烈にうねり始める。恐怖に息を詰めたのはしかし一瞬《いっしゅん》、もはや退《ひ》くも進むも地獄、ならば進もうと竜児《りゅうじ》は決めた。
「おまえこそ、言いたいことがあるなら言えばいいだろうが! ずっと不《ふ》機嫌《きげん》にイライラして、たちが悪いんだよ!」
一瞬の沈黙《ちんもく》。
静けさの中で大河《たいが》はゆっくりと右手を右耳にかざし、わざとらしく身体《からだ》を傾けてその右耳を竜児の口元へ、そして顎《あご》を盛大にしゃくれさせて左手は腰に。そのポーズで放つ言葉は、
「――はあ?」
ごくシンプルに、そんな一言。
キコエマセーン、ワカリマセーン、ソモソモソレホドキョウミアリマセーン……軽く片頬《かたほお》を歪《ゆが》めるだけで見事にそれだけの言葉を表現してみせる奴《やつ》も、世の中そんなに多くはないだろう。
「お、おまえなあ……」
行き場をなくしたヤケクソは竜児をがっくりと脱力させ、そこへさらに追い討ちがかかる。大河はツン、と顎を上げ、三十センチの身長差など物ともせずに竜児を見下し、王の仕草《しぐさ》で言い放つのだ。
「あのねえ、竜児。この際はっきり言っておくけど、私、あんたみたいなヒマ犬野郎の妄想に付き合ってられるほど暇じゃないのよ。今後、私に対して口を開くときには、ゆっくり三つ数えて考えな。ひとつ、私にとってそれは必要な情報なのか。ふたつ、私にとってそれは嬉《うれ》しい情報なのか。みっつ、私にとってそれは聞く価値のある話なのか。……わかったわね?」
「わ――わかるかバカ! なにが妄想だよ!? おまえがイラついてるのも、不機嫌で八つ当たりしまくってるのも事実だろ!」
「……あらそう」
ふ、と大河の声がひそめられる。異様にギラつく両の瞳《ひとみ》は眦《まなじり》が裂けるほどにきつく吊《つ》り上り、理性の箍《たが》を失ったように、瞳孔《どうこう》がキリキリと窄《すぼ》められる。やばい――本能的な恐怖が竜児の胃袋を締《し》め付ける。気の小さい善男善女ならば、大河のこの目で睨《にら》まれただけで二回は昇天するだろう。しかしさらに恐ろしいことに声だけは静かな波紋のように、
「あんたがそこまで言うんなら――私、不機嫌になってあげてもいいけど」
などと。
死人が出る家の扉《とびら》を叩《たた》く不吉な妖精《ようせい》の手のように、大河《たいが》の真っ白な手がひらりと舞《ま》う。ガッキ、とありえない力強さで、竜児《りゅうじ》の下唇を指先が引っつかむ。
「ん、んぐ」
「でもねえ、私が不《ふ》機嫌《きげん》になった理由はねえ……ただひとつ。あんたが、いつまでも、くだらない妄想――私がイライラしてるとかなんとか、そういう意味不明の妄言をがなり続けているからよ」
「いだだだだだだだだっ! と、取れる!」
「取れろ!」
下唇を引っつかまれて上下左右にブン回される竜児の胸の中、インコちゃんの羽毛がまたひとふさ抜け落ちる。ちょっと気配りにかける獣医《じゅうい》は「もう帰って」と小さく呻《うめ》く。
おまえは不機嫌だ。
不機嫌じゃない。
じゃあなぜイラついている。
あんたが不機嫌だとかなんとか、くだらないこと言うからよ。
――幾度繰り返されたかもはやわからないこのループの発端は、今からおよそ五時間前にさかのぼる。
要は、からかわれたのだ。亜美《あみ》に。
そんなことがわからないほど竜児はおめでたい野郎ではない。だから驚《おどろ》きこそすれ納得ずく、たちの悪い冗談《じょうだん》の一環《いっかん》として、その光景は静かな夕暮れの2DKで繰り広げられていたわけだった。
高須《たかす》竜児と川嶋《かわしま》亜美、ちょっとしたいきさつから少しだけ距離《きょり》が近づいた……かもしれない二人は半ば抱き合うようにして、その窓辺にたたずんでいた。もっと言えは、押し倒されて畳にそのまま倒れ込む寸前にも見える体勢で。
しかしそれを最初に目撃《もくげき》した母・泰子《やすこ》は、冗談とは思わなかったらしい。両手に持っていた買い物袋を取り落とし、息子に何事か語りかけた。その言葉は、しかしほとんど竜児の耳には届かなかった。
「……うそ……」
泰子の背後。
玄関先で親友・北村《きたむら》の背におぶわれた泥まみれの大河のクリアな声が、脳みそを占有したような状況になっていたのだ。
大河と亜美は天敵同士で、自分は今、その亜美と誤解されても仕方のない体勢でいて――とにかく、まずい。と竜児《りゅうじ》は思った。虎《とら》の怒りが爆発《ばくはつ》する、と。
罵声《ばせい》だけでは絶対にすまない。キレた大河《たいが》は暴虐《ぼうぎゃく》の限りを尽くし、こんな借家などブチ壊《こわ》されるに違いない。いっそ、今度こそ本当に殺されるのかもしれない。なにしろ大河は手乗りタイガー、それぐらいのことは軽々とやってのけるだけのポテンシャルを秘めている。
「こ、これは……違うんだ」
まずは亜美《あみ》の身体《からだ》を押しのけ、離《はな》れて、正座して、それから我ながら言い訳がましい情けない声が喉《のど》から出た。これではまるで浮気男のよう、しかし今はどんな文句も言うべきではない。
大河は大きく目を見開いたまま、竜児と亜美の姿を交互に見比べている。もちろん、こんなときに亜美が竜児のために言い訳してくれるなんてこともなく、
「あれ? なんかヤバめ? 亜美ちゃん、タイミング悪すぎかも?」
あまりやばくなさそうな声で囁《ささや》き、「えへ※[#「ハートマーク」]」……笑っている。
「えーと、えーと」
泰子《やすこ》は必死に事態を把握しようとしているのか、両手の指を繰り返し折って、
「え――――と」
謎《なぞ》の計算を繰り返している。ついに緩《ゆる》みまくっていた頭のネジが全部落ちてしまったのかもしれない。
そして、北村《きたむら》が動いた。
なにを考えているかよくわからない表情で、北村はモノも言わずにバックオーライ……そのまま後退したのだ。大河をその背におぶったまま。ドブに落ちてドロドロで、メガネもひん曲がったナリのまま。そしてそのまま外に出て、竜児の視界から消えてしまう、と思った瞬間《しゅんかん》、
「……ふんぬっ!」
大河は両手を北村の肩から外し、玄開《げんかん》扉《とびら》の上の枠を引っつかんだ。そして腰に絡めた両足でUFOキャッチャーよろしく、北村の身体を吊《つ》り上げるようにしてガッチリ押さえ込む。
「あ、逢坂《あいさか》! ちょっと……っ」
「……北村くん、なんで、逃げるの? 竜児のうちで、シャワー借りるんでしょ? 別に、逃げる必要なんか、ない、でしょ?」
ていっ、と――それでもおそらく大河にしてみれば最大限の気遣いでもって北村の身体を捻《ひね》ってのけてしまい、そのままドア枠を掴《つか》んでピンと伸ばした両腕の凄《すさ》まじい膂力《りょりょく》だけで身体を吊る。そして勢いをつけて、膝《ひざ》から血を滲《にじ》ませている二本の足で見事に着地。
「……あの、あのね、大河ちゃあん……やっちゃんの計算によるとお、そのお、竜ちゃんはあ、ええと……あっ、あっ、あっ……」
ノーブラの乳を揺らしてクネクネ悶《もだ》える泰子の脇《わき》もなんなくすり抜け、のし、のし、と大河は、並んで座った亜美と竜児のもとへと歩み寄る。ひ、と竜児は息を飲んだ。ドブの泥にまみれた髪はおどろおどろしく頬《ほお》に貼《は》りつき、その隙間《すきま》から覗《のぞ》く片目は嵌《は》め込まれたガラス玉のように冷徹《れいてつ》。まさに、殺人マシーンのクールさで竜児《りゅうじ》と亜美《あみ》の真ん中を見つめている。
大河《たいが》は二人の正面で足を止め、その片頬《かたほお》が強張《こわば》るように動くのを竜児は見た。
そして――
「高須《たかす》竜児は、私のものよっ! 勝手に触るんじゃないわよっ!」
――信じがたい叫びに誰《だれ》もが息を飲んだ、しかしその次の瞬間《しゅんかん》。ガラスの目玉が、にぃ、と溶けたみたいに眇《すが》められる。
「……なんて、言うとでも思った?」
言葉も出ない竜児の傍《かたわ》ら、さすがというかなんというか、
「あっれえ? 言わないのぉ〜? おっかしいなあ〜、な、ん、て、ね」
この状況でこの言い草、ブリッコポーズで唇を尖《とが》らせている亜美の度胸はどうやら本物らしい。
「フン…言うわけがないでしょ。残念だったわねえ、川嶋《かわしま》亜美。悪いけど私、このエロ犬が誰とどう番《つが》おうと、まったく興味《きょうみ》なんかないのよ」
くっくっく。……と零《こぼ》す苦笑は、亜美だけに向けて。竜児には侮蔑《ぶべつ》の視線《しせん》さえ向けてやる気はないらしい。大河はそのままクルリと身を翻《ひるがえ》し、
「どうぞごゆっくり。私、家に帰るから。……北村《きたむら》くん、さっきは言い出せなかったんだけど、実はうちのマンションここからすごく近いの。せっかく連れてきてもらったけど、自分のうちでシャワー浴びるわ」
淡々とそれだけ告げて、北村に返事をする暇も与えず、大河はそのままスタスタと高須家を出ていってしまった。
その後は結局、「コンタクトがずれちゃってえ、高須くんに見てもらってたんですう〜」と目を瞬《またた》いてみせた亜美の嘘《うそ》八百《はっぴゃく》て泰子《やすこ》も北村もひとまずは納得したらしく、シャワーを浴び終えた北村が亜美を自宅まで送っていき、なんとなく丸く収まったような雰囲気になってしまったのだが。
『いつもどおり』に大河が夕食を取りにきたあたりで、事態は綻《ほころ》び始めた。
きっかけは泰子だったのだ。
よかったあ〜、大河ちゃん、今日《きょう》のこと気にしてごはんしに来ないかと思っちゃったあ――と、いつもの調子《ちょうし》で出勤の支度《したく》をしつつ、ぽえぽえ口を開いたその次の瞬間。
にっこぉ……り……と、大河は笑った。笑いながら顔だけは頑《かたく》なにテレビに向け、
「来るに決まってるじゃない。なんで、そんなふうに思うの? おっかしい。笑える。ナイスジョーク。一体全体、私がなにを気にするって言うのかしら」
さすがに高須家のボス・泰子に対して怒りの感情を見せることはなかったが、
「あっ、そうか。やあねえ、私ったら、すっっっっ……かり忘れてたわ。そういや竜児、あんた今日は随分とまた色気づいた真似《まね》していたんだったわねえ? は! そんなことどーでもいいわよ、それより今日《きょう》のごはんはなに? あら、炊き込みごはん? へーええ、お赤飯にすればよかったじゃない。ほほほほほ!」
片手を腰に、片手は口元に、大河《たいが》は背を反らして偉そうに高笑い。――目は笑っていない。全然、笑っていない。くわっと見開かれたまま、イライラと辺りに殺気をばらまきまくっている。
これは、やはり、ちょっと弁解が必要みたい。台所で食事の支度《したく》をしていた竜児《りゅうじ》はそう思った。もちろん、頭のどこかでは俺《おれ》がなにをした、とか、誰《だれ》となにをしていようと大河にチクチクいびられる謂《いわ》れはない、とか思いはする。思いはするが、
「あの……大河?」
それとこれとは話は別だ。
大河という女はただでさえ、この世の大半の事柄は気に食わなくて怒りまくっている手乗りタイガーなのだ。大嫌いな川嶋《かわしま》亜美《あみ》と仲良くしていた(ように見えた)というだけでも、自分はおそらく有罪判決を受けている。なにより見よ、あの姿を。
「あーあーあーお気楽で結構だこと! ねえ、ブサ鳥! ほほほ!」
うんこ座りでしゃがみこんでインコちゃんの鳥かごを両手で抱え、その背中からはバチバチ閃《ひらめ》く青い火花にも似た殺気を放ちまくっているではないか。どーでもいい、と吐き捨てながら、大河はすでにキレまくっているのだ。
家庭生活を円滑にするためには、たとえ悪いことはしていなくても謝《あやま》らなければいけない局面はある。だから竜児《りゅうじ》はもう一度、
「大河《たいが》、なあ」
「――なに」
声をかけつつ歩み寄り、背中をチョン、とつついてやった。ほほほ笑いがピタリと止《や》んで、泰子《やすこ》の使うドライヤーの音だけが高須《たかす》家《け》に取り残される。
「なんというか、あの、夕方のアレのことだけど……」
「アレってなに。私知らない」
冷たく向けられたままの背中にひるみそうになるが、
「……川嶋《かわしま》に、からかわれたんだ。まあ、そんなこと分かってると思うけど、一応……なんというか、気分悪くしたみてえだし。ごめんな」
「ヒ……」
呻《うめ》いたのは、インコちゃんだった。竜児からは見えない大河の顔を見上げ、後ずさりしようとして止まり木から落ちる。
「……どうして、謝ったりするの? 変な奴《やつ》ねえ、竜児は。ああそうだわ、私|今日《きょう》はブサ鳥見ながらごはん食べる。持ってきて」
背を向けたままで手を伸ばし、大河は茶碗《ちゃわん》を要求する。その表情はインコちゃんしか見ることができない。
「お、おかずはどうするんだよ……煮魚……キンメ……」
「ごはんの上に乗っけて。茶碗じゃなくて、どんぶりにして。煮汁、かけて」
そうして大河は食卓に背を向けて黙々《もくもく》と夕飯を食べ、泰子と竜児はなんとなく会話も交わせないままやはり黙々と夕飯を食べ、
「や、やっちゃん、もうお仕事いこ〜っと……」
泰子はいつもより少し早めに出勤した。つまり、逃げた。
そして取り残された、『いつもどおり』ダラダラ高須家で過ごすつもりらしい大河と、竜児。テレビの音だけが空《むな》しく響《ひび》き、大河は断固インコちゃんを見つめたまま動こうとはしない。
竜児は意を決して立ち上がり、そっと、鳥かごを脇《わき》から抱え上げた。
「……」
グリン、と綺麗《きれい》な曲面を光らせている大河の眼球が、言葉もないまま竜児の顔を見上げる。
「いや……そろそろ、インコちゃんに布かけて、眠らせようかと」
「……なんで? いつも、もっと遅い時間じゃない」
「……な、なんとなく……ほら、インコちゃん疲れてるみたいだし」
「まだ見るから、ここに置いておいて」
にゅっと伸びた大河の白い手が、下から鳥かごを掴《つか》む。鳥かごが揺れて、水がこぼれる。
「……なんで? 普段《ふだん》、別にインコちゃんのこと見たりしねえだろ」
「……なんで? 悪い? おかしい? 迷惑かけてる?」
そのまま二人は無言になって、しばし鳥かごを引っ張り合い、
「わかった! ……わかった。わかったから。とにかく、インコちゃんはこっちに寄越《よこ》せ」
――大河《たいが》の目が、つ、と細められた。
「……なにが、わかったって? なに? なんなの? なにが言いたいの?」
インコちゃんの鳥かごはいまだ二人の間にブラ下がったまま、部屋の空気が一気に氷点下まで凍りつく。
「あ、いや、だからその……おまえがムカついてるのはわかったから、って」
「ムカついてる? 私が? そう見える? どうして? もしかしてあんたはこういうことを言いたいわけ? 川嶋《かわしま》亜美《あみ》と自分がイチャついていて、それを目撃《もくげき》した私はやきもち焼いて嫉妬《しっと》に狂って怒ってキレてムカついて、あんたに謝《あやま》らせるのが当然だと思ってる――私がそういうみじめな女で、あんたにはその価値があると、私が嫉妬に狂うだけの価値があると、そう言いたいんだ?」
大河はそこまで早口で一気に言うとおもむろに立ち上がり、ズイ、と一歩前に踏み出す。鳥かごを胸に抱き、思わず竜児《りゅうじ》は一歩下がる。しかし背中が壁《かべ》にすぐにぶつかって……38平米の哀《かな》しさだ。
「お、落ち着け。そういうことを言ってるんじゃなくて、ただ俺《おれ》は、平和に普通に暮らしていきたいってだけで、」
「……あんたが言ったんじゃない。ムカつけって、怒れって、あんたさっきからずっっっと言ってたじゃない。私は普通なのに、いつもと変わらないのに、勝手に私が怒ってるって決め付けてたんじゃない。だからいーわよ、って言ってんの。怒ってやるって言ってんの。そりゃあムカつくのは簡単《かんたん》だわねえ。私はドブに落ちて、膝小僧《ひざこぞう》も擦《す》りむいて、泣きたくて臭《くさ》くて最悪だった。北村《きたむら》くんにあんな姿絶対見せたくなかったのに、見つけられちゃって、くっさくなってるのに背負われちゃったりして、……それなのに、あんたはその間、よろしくやってたのよねえ。あのいけすかない女と」
さらに踏み込んでくる大河は、肉食獣《にくしょくじゅう》の仕草《しぐさ》で鼻に皺《しわ》を寄せて竜児をきつく睨《にら》みつける。
その瞳《ひとみ》にはいまや爛々《らんらん》と怒りの炎が点《とも》り、淡い唇の歪《ゆが》みは甘い微笑《ほほえ》みそっくりになる。
「でも、そんなことよりなにより気に食わないのは、あんたが、私の内心を、勝手な妄想で決め付けたってところよ。穢《けが》した、ってことよ。……ねえ、聞かせてくれる?」
まるでキスをせがむ恋人のように大河はつま先立ち、クイ、と顎《あご》を突き上げて、今までのどの罵声《ばせい》よりも冷たく惨《むご》い声で言い放った。
「――なんでこの私が、あんたが誰《だれ》かと仲良くしたからって、怒らなきゃいけないの? 犬ごとき、誰に尻尾《しっぽ》を振ろうがまったく興味《きょうみ》なんかないんだけど?」
最初から怒ってたじゃねえか――などと一言でも言おうものなら、多分《たぶん》このまま殺されるのだろう。言い返したいことはいくらでもあった。でも、
「……」
竜児《りゅうじ》は何も言わないことを選択した。そしてそれは、おそらく正しかったはずだ。
「……これ以上、下らないこと言うんじゃないわよ。これからの人生が大事ならね」
大河《たいが》はフン、と侮蔑《ぶべつ》の視線《しせん》を一瞬《いっしゅん》だけ竜児に送り、押し付けていた身体《からだ》を離《はな》した。そして踵《きびす》を返し、
「私は今日《きょう》のことなんかぜんぜん気にしてなかったけど、今のあんたの言い草は腹立たしいわ。だから帰る」
靴下でのしのしと畳を踏みしめて玄関に向かった、そのときだった。
「……119……」
誰《だれ》かが、呟《つぶや》いたのだ。119……渋谷? あ、それは109か……ていうか、今のは誰の声? もしかして、インコちゃん? 涙ぐましい現実|逃避《とうひ》で、竜児は手にしていたインコちゃんのかごをそっと覗《のぞ》き込んだ。そして、
「わあああああああっ!」
叫んだ。同時に理解した。119、それは救急車だ。
竜児の叫びに驚《おどろ》いたように振り返った大河も、
「いいっ!?」
のけぞるように声を上げた。慌てて駆け寄り、鳥かごに顔をくっつける。
「うそ、もしかして今かごを揺らしたせい!?」
鳥かごの中で争いの小道具にされた哀《あわ》れな被害者は、羽毛を辺りに撒《ま》き散らし、カチンカチンに固くなって倒れたというか、失神して止まり木から墜落《ついらく》したのだろう。頭から床板の隙間《すきま》に突き刺さっていた。
やだやだどうしよう! と泣き出しそうな大河の声と、救急車! じゃなくて、獣医《じゅうい》! 慌てるあまり甲高《かんだか》く裏返った竜児の声が葬送曲。
――高須《たかす》インコちゃん。享年《きょうねん》六歳、になるところであった。
「あっ、なんだよ今の空車だったのに……」
乗車拒否したタクシーのテールランプを見つめ、竜児は思わず「ちくしょ」と控えめな悪態をつく。これで二台目だ。
ただでさえタクシーのあまり通らない夜中の国道沿い、すでに動物病院を出てから十分が経《た》とうとしていた。
「……高校生なんか乗せてるヒマはねえってことかよ」
「あんたの人相が危ないからじゃない?」
死の国から生還《せいかん》したインコちゃんを入れた小箱を胸に抱えてガードレールにちょこんと座り、大河《たいが》は退屈そうに流れる車列を見つめ続けている。
「いーわ。ちょっと歩いて交差点のところまでいこ。駅から流れてくるタクシーがいると思うし」
ふ、とつまらなそうに息を吐き、ガードレールから飛び降りて、「うあ!」……小さな悲鳴。ガードレールの継《つ》ぎ目《め》にワンピースのフリルが引っかかってしまっている。
「ちょっともう……なによこれ」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて力任せに引っ張ろうとするのを竜児《りゅうじ》は慌てて止めた。
「ああっ、生地《きじ》が破れる! もっとそっと!」
そして道路に跪《ひざまず》いてン十万のワンピースのフリルを傷《いた》めないようにそっと外してやろうとしたのだが、
「うるさい」
ビッ! と高い音を立て、大河が引っ張った方向に薄《うす》いコットンが無残に裂ける。そして竜児に鳥入りの箱をグイ、と押し付けると、大河は不《ふ》機嫌《きげん》丸出しのブンむくれ顔をそむけて踵《きびす》を返した。
「……ったく……」
夜道をそのまま大股《おおまた》で歩いていってしまう大河の後を追って竜児も小走りになるが、
「まあ……反省すべき点は、あるわね。下らない争いをして、インコちゃんには悪いことをしたと思う。ねえ竜児――あんたが『私が怒っている』なんていうバカらしいことも極まった奇天烈《きてれつ》妄想をしてしまうその責任は、もしかしたら私にもあったかもしれない」
「……え?」
背を向けたままの大河の呟《つぶや》きはなかなかに意味|不明瞭《ふめいりょう》で、竜児はやっと並んだその傍《かたわ》ら、大河の表情を盗み見る。
大河は、
「私は、確《たし》かに無愛想《ぶあいそう》なところがあるもの」
うんうん、と頷《うなず》いていた。頷いて、そして、
「だから、笑っていることにするわよ。怒ってなんかいないんだもの、本当に。心の底から、っっっっっっどぉぉぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜〜〜っ、でもっ、いいんだもの。あんたのことなんか」
「……」
むかつきよりは疲労が勝って、もはや竜児は文句もつけられずに力なく大河の顔を見つめていた。大河は一度長い髪を邪魔《じゃま》くさそうに払い、にっこりと微笑《ほほえ》んで見せ、
「では、お先に行くわね。あんたなんかと仲良く並んで歩きたくないのよこのエロ犬」
……なんというひどいセリフだろう。
貼《は》り付けたような笑顔《えがお》をプイ! と背け、大河《たいが》はのしのしと真夜中の湿った靄《もや》の中を音もなく歩いていく。その歩みを邪魔《じゃま》する奴《やつ》がいたら視線《しせん》だけでブッ殺す、小さな背中でそう雄弁に語って。
やがて大河はタクシーを無事に捕まえた。お隣《となり》さんとはいえこんな奴と同乗したくないと思うが、その願《ねが》いも空《むな》しく「グズグズするんじゃないっ!」――死刑台に向かうような足取りで、竜児《りゅうじ》は大河の隣に乗り込む。やがて高須《たかす》家《け》と大河のマンションのちょうど間に停《と》めてもらうまで、大河は一言も口を開こうとはしなかった。
慣《な》れた様子《ようす》で料金を支払い、一度も竜児を振り返ろうともせずにマンションのエントランスへ入っていってしまう。タクシー代は全部竜児が払おうと思っていたのに。
――あんなこと、から、かれこれ五時間。事態はますます深刻だった。
***
ああいやだいやだ。
一体なにを間違って、こんなことになったのか。いやだいやだいやだ、朝が来ればまた大河にいらいらチクチクと責められ続けるに違いない、学校に行けば大河は亜美《あみ》と角《つの》突《つ》き合わせ、トゲトゲいらいらと怒りを暴発《ばくはつ》させまくるに違いない。
いやだいやだ、いやだ――などと一晩中苦しく呻吟《しんぎん》して、なかなか眠りにつけなかったせいかもしれない。
「……ん……ん? んっ!?」
目覚まし時計の音が聞こえないな、と思いつつ、竜児はゆっくり目を開けた。そして、時計を見て、
「ん―――――――――っっっ!」
ガバッ、とタオルケットを跳ね上げる。頭の中は一気にクリア、目に入った8:05という数字が冷たい現実|認識《にんしき》となって竜児の脳内を駆け巡る。
「やばいやばいやばい……っ!」
一時間も寝坊してしまった、このままでは皆勤賞《かいきんしょう》が危うい。とにかくまずは便所、と思いつつその場でとにかくTシャツを脱ぐという混乱、どうしようどうしようとうろつき回り、
「――いかん! 大河!」
竜児が起こすまでは断固起きないと決めているらしい大河の存在を思い出す。マンションまで行って、起こして着替えさせたのでは絶対に間に合わない。
仕方ない――ついに秘密兵器を使う時がきた。以前から、こういう緊急《きんきゅう》事態がきたら使用しようと決めていたブツがあるのだ。竜児《りゅうじ》は物入れから使う機会《きかい》のないままになっていたデッキブラシをつかみ出した。こいつさえあれば大河《たいが》を起こせる。
「おーし!」
気合を入れて自室の窓を開け、下を見ないようにしながら窓枠に足をかけ、さらにもう一方の足は隣《となり》のマンションとの間の境界壁《きょうかいへき》に。腕をギリギリまで伸ばせばデッキブラシが届く向かいの窓は今更説明するまでもなく、
「大河ーっ! 起きろーっ! 寝坊したーっ!」
逢坂《あいさか》大河の寝室だった。ガンガンガンガン! とブラシの尻《しり》でガラスを突付きまくり、しかし大河が起き出す気配《けはい》はない。もしかして、とっくに起きて寝坊した自分をシカトして学校に行ったとか? ……あるかもしれない。そしてハッ、と今更すぎる逡巡《しゅんじゅん》。昨日《きのう》はあれだけ陰険《いんけん》にやりあったのだ、こっちはいつもどおりに起こしてやっても、向こうはどう出るかわかったもんではない。いっそ起こさないでこのまま放っておいた方が……いやいやしかし。起こしてやらなければ、多分《たぶん》事態はもっと最悪な展開を迎える。
ええいままよ、いなければいないでそれでいい、これで最後だ、ともういっちょ、デッキブラシを突き出した時、
「……一体な……だっ!」
「わーっ!」
突如マンションの窓が開き、デッキブラシの柄が寝ぼけヅラのデコを力いっぱい突いた。まるで漫画のように大河の身体《からだ》は真後ろに倒れ、竜児の視界から消えた。
「た、大河ーっ! しっかりしろ!」
ややあって、
「い……いたいぃ……っ」
窓枠にすがるようにしながら立ち上がった大河はほとんど半ベソ、なんというか本当にお気の毒だが、しかし今はこんなことをしている場合ではないのだ。
「ご、ごめん! ていうか……寝坊した! もう八時過ぎてる!」
「え……? ……あ? ……なんで? ……いたい……いたいー……」
いまだ寝ぼけ状態らしい大河はうにゃうにゃと子供のように目をこすり、グス、と鼻をすする。涙と鼻水がついたその手をゴシゴシとこすり付けるのは真っ白なコットン地の夏用パジャマの腹の部分。
状況をまったく把握できていないのか、くしゃくしゃにもつれた長い髪の中に頬《ほお》を埋めるようにして、
「……朝ごはん、なに? なんで今日《きょう》は、こんな起こし方するの……?」
などと怒ることも忘れているらしい。怒られずにすんでラッキーにはラッキーだが、
「朝ごはんも弁当もねえ! とにかく大急ぎで顔洗って歯磨いて制服着ろ! 五分で出ないと遅刻だ!」
「……んー……?」
わかったのかわからないのか、とにかく大河《たいが》はもう一度目をこすり、
「……ん」
頷《うなず》いた。よし、わかったということにしよう、と竜児《りゅうじ》は自分の部屋に無事着地。
「ほら急げ急げ! 窓しめて! そう! しめて! カギもしめて! そう!」
大河の顔が引っ込んで、窓が閉じたことを確認《かくにん》して、竜児は自分の着替えに取り掛かる。……というか今気がついたがパンツ一丁で窓から身を乗り出し、大河と会話していたらしい。
「寝ぼけててくれて本当によかった……っていうか、誰《だれ》にも見られなくてよかった。俺《おれ》も寝ぼけてたのか?」
大急ぎで夏服に替えたズボンに両足を突っ込み、半そでシャツのボタンを慌しく留め、とりあえず歯だけはガシガシと磨いて顔の方は洗顔フォーム省略、簡単《かんたん》な水洗いで今日《きょう》は済ます。
靴下を穿《は》こうとタンスの引き出しをかき回しつつ、
「あ、インコちゃんと泰子《やすこ》のエサとメシと水……っと、時間がねえ」
置手紙を残すしかない。大急ぎで母親あてにインコの世話と己《おのれ》の世話を頼むメモを書き、鳥かごにかけた布だけは取り払ってやることにする。
昨夜《ゆうべ》は獣医《じゅうい》から帰ってからもずっとグロッキーだったインコちゃんは、
「……おう!」
いまだ眠りの中にいた。飼い主でさえ仰《の》け反《ぞ》るような白目と痙攣《けいれん》のグロい寝顔はいつもどおり、止まり木に止まったまま、儚《はかな》くなってしまった羽毛をかろうじてブクブクとふくらませている。
「……昨日《きのう》はごめんな。安らかに眠ってくれ……」
思わず両手を合わせた時、
「……インコちゃん……死んじゃったのぉ……? ……ふええ〜ん……」
鳥かごのすぐ脇《わき》で酒臭い寝息を立てながら眠っていた泰子が薄目《うすめ》を開けた。そして目を開けた次の瞬間《しゅんかん》には、情けない泣き声を上げた。そのままゴロゴロと部屋の隅まで転がっていって、
「……くすん……」
タンスの真下、再び静かに寝息を立てる。
「な、なんてこと言うんだ……死んでねえよ」
聞こえていないとは思うがそれでも律儀《りちぎ》に返事してやって、タオルケットをそっとかけてやる。そうして大慌てで靴下を履き、鞄《かばん》だけを引っつかんで家を飛び出した。
薄曇《うすぐも》りとはいえ、朝の日差しはかなり眩《まぶ》しい。凶悪に両目を眇《すが》めつつ、飛び込むのは隣《となり》の高級マンションのエントランス。
オートロックの操作盤《そうさばん》で201を連打し、返事がないことに焦《じ》れ焦《じ》れとあせるが、
「ちょっとあんたうるっっっっっさいのよっ!」
ガラスの扉《とぴら》が静かに開いて、大河《たいが》が喚《わめ》きながら走り出してきた。
「起きてたのか!」
「あんたが起こしたんでしょ!? ……デコが痛いっ!」
プイ! と首がねじ切れんばかりの勢いでそっぽを向き、大河はそのまま竜児《りゅうじ》に背を向ける。一瞬《いっしゅん》の一瞥《いちべつ》には、滴るような怒りと侮蔑《ぶべつ》。
うわあ――寝ぼけていても、その間の記憶《きおく》がなくなるわけではないらしい。朝っぱらからゾクゾクと背を震《ふる》わせながらも、竜児は大河と並んでエントランスから外へ出た。
そのまま梅雨《つゆ》の気配《けはい》が青臭く香るいつもの木立の下を猛ダッシュ、
「大河、コンビニ寄らねえと昼メシがねえ!」
「……」
「た、大河? 聞こえたか?」
「……」
「いっ……ケツを蹴るな!」
「横に並ぶんじゃないっ! エロ犬の分際で! 聞こえてるわよコンビニでしょ!」
「……」
理解した。罵声《ばせい》かシカト、そのどちらかしか今日《きょう》の大河とのコミュニケーション方法は存在しない、ようだった。
大河の機嫌《きげん》が悪いのも自分に対する態度がひどいのも日常といえば日常なのだが――なんとなく、いつも以上にひどいように感じる。それは朝の起こし方がアレだったせいだろうか。それとも、寝坊してしまったせいだろうか。己《おのれ》を騙《だま》すように竜児は考えてみるが、……やっぱり、どう考えても、大河は昨日《きのう》のことでいまだに怒り続けているのだった。
フンッ! と再び思いっ切り顔を背けた大河は、口元を硬く歪《ゆが》めたまま、決して竜児の目を見ようとはしない。あーあ……今日もまた、昨夜《ゆうべ》と同じイライラの嵐《あらし》に晒《さら》されるのか、と暗澹《あんたん》たる気持ちになった次の瞬間《しゅんかん》、
「……黒乳首」
「えっ!?」
ダッシュしながら、大河がボソリと呟《つぶや》くのが聞こえた。
「あんたの黒乳首が、網膜に残ってむかついて仕方ないわ……っ!」
ギリ、と奥歯を噛《か》み締《し》めるようにしながら吐かれたその言葉は、つまり本日不機嫌なのは、竜児の乳首が原因だから、と。昨日のことなんかどうでもいい、なぜならあんたのことなんかどうでもいいから、と。
「……そ、そんなに黒くねえぞ……」
「黒いっ! あんたの乳輪《にゅうりん》のデカさに私の黒目が拡散しそうにドス黒いっ!」
え、うそ――ここにきて、新たに身体的コンプレックスが生まれる高須《たかす》竜児《りゅうじ》・16の夏。
いつも実乃梨《みのり》が待っている交差点に差し掛かるが、今日《きょう》はさすがに遅刻寸前、砕け散りそうな竜児の心を支えてくれる女神も先に行ってしまったようだった。
「あ、やっと来た〜! 昨日《きのう》はあたしのために、本当にどうもありがとう!」
ギリギリセーフで教室に飛び込むなり、
「あれれ、ここ寝癖《ねぐせ》になってるよ? さては寝坊だな?」
竜児の目の前に立ちはだかったのは、翼《つばさ》を置き忘れてきた清冽《せいれつ》なる光の大天使――にしか見えない性悪チワワ・川嶋《かわしま》亜美《あみ》だった。宝石みたいに輝《かがや》く大きな瞳《ひとみ》をうるうると潤《うる》ませて、夏服のシャツからすんなり伸びたこわいほどに真っ白な細い腕をそっと竜児に差し伸べる。そして起きたままの跳《は》ねた髪をからかうように指先で弾《はじ》き、
「もう、高須くんってばお寝坊さんなんだから!」
グラビア撮影用《さつえいよう》(唇すぼめ&目見開き&ちょっと屈《かが》んで胸の谷間|強調《きょうちょう》ポーズ)パーフェクト笑顔《えがお》で「カワイイ※[#「ハートマーク」]」と。
「……」
「あらあ? どーしたの?」
どーしたの、と言われても、どうしようもないほど微妙な気分……竜児は朝の挨拶《あいさつ》も返せない。今日もまた、亜美は鋼鉄《こうてつ》のぶりっこ外面《そとづら》パーツを装着したままで竜児に相対《あいたい》するつもりなのだろうか。さんざんあれだけドス黒い本性を見せておいてなお、この女はぶりっこ亜美ちゃんで通せると思っているのだろうか。冗談《じょうだん》じゃない。そんなもん見せられたって、こっちがどんな顔をすればいいのかわからない。と
「あ、誤解しないでね? カワイイ、ってのはぁ、もちろん高須くんが、じゃなくてぇ、この亜美ちゃんが! だからね? 高須くんはいつもどーり、ピン! ときたら、系ダヨ!」
「……ピ、ピンときたら系……?」
亜美は横にしたピースサインをパチリと片目に当ててポーズ。
「110番※[#「ハートマーク」]」
ぐったり――早くも体力の半分を抉《えぐ》られるように削られて、竜児は深い溜息《ためいき》をついた。どうせ自分は指名手配ヅラですよ。
「騙《だま》された……」
「んふふ? なんのことかなぁ〜?」
笑う亜美の瞳の奥には、人の悪そうなからかいの色。これのどこが、鋼鉄のぶりっこ外面パーツだって? よくよく見れば完全に、亜美は性悪チワワの腹黒な目をして、竜児の前に立っているではないか。
「朝っぱらからよくやるよな……顔面|痙攣《けいれん》するぞ」
「プロだもん。そんなへマしませ〜ん」
んべ、とめったに他人に見せはしない素の性悪顔に戻って舌を出すのは一瞬《いっしゅん》。すぐに彼女はうるうる・ぷるぷるの美少女スマイル仮面を取り戻す。しかしさらにその次の瞬間、
「……ほぐっ!」
「通行の邪魔《じゃま》よバカチワワ」
カリスマ美少女にはあるまじき苦痛の呻《うめ》きは、竜児《りゅうじ》の後から教室に入ってきた手乗りタイガーの鞄《かばん》の角……通りすがりに挨拶《あいさつ》程度、若干きつめに下腹に入った、かもしれない。
「あ、あらあ……逢坂《あいさか》さん、おはよ。今朝《けさ》もすっごい感じ悪いわねえ……?」
「おはよう、川嶋《かわしま》さん。そっちこそ朝から発情お疲れ様」
大河《たいが》は亜美《あみ》と竜児をジロジロ眺め回し、冷たい一瞥《いちべつ》とせせら笑いを残して背を翻《ひるがえ》した。が、
「あ〜そっか〜!」
わざとらしい大声を上けつつ、亜美はポム、と手を打ち鳴らす。
「逢坂さん、ごめんねえ? 昨日《きのう》のこと気にしてるんでしょ? やだなあもう、あれって誤解なんだからあ! 完全に逢坂さんの勘違いなんだよ? だから、あれしきのことでそんなにやきもち焼かないで? ね? 妬《ねた》みとか、嫉《そね》みとか、逢坂さんらしくないよぉ! あ〜あ、もう困っちゃうなあ……ほら、あたしって天然だから、変な誤解されちゃうことが多いんだあ……」
「……」
ピタリ、と大河の足が止まる。ゆっくりと振り向き、
「……あんたも、わからない女ねえ?」
歪《ゆが》んだ唇には殺意|剥《む》き出《だ》しの血なまぐさい微笑《ほほえ》み。語る言葉は死神からのメッセージそっくりに辺りを暗雲渦巻く魔《ま》空間化《くうかんか》する。そして、
「私は、昨日のことなんか、これっぽっちも――」
「わっせろーい!」
ドーン! と大河が宙に浮いた。ついに武空術まで……唖然《あぜん》と口を開いた竜児の目の前、差し上げられた大河の細い身体《からだ》の脇《わき》から眩《まばゆ》い本物の太陽スマイルが顔を出す。
「おっはよ〜! 大河も高須《たかす》くんも遅刻寸前ですよ〜!」
「み、みのりん……下ろして」
背後から小柄な大河の脇の下に手を差し入れ、軽々と頭上まで持ち上げて見せたのは、
「大河、あんた相変わらず軽いねえ? なんでだろ? 私と同じぐらい食べてるのにな〜」
「筋トレしないで」
櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》、その人だった。「二の腕細くなるかも」と呟《つぶや》きつつ大河を上下に抱き上げるその笑顔《えがお》は健康そのもの、眩い恒星の光そのもの、竜児にとってはなにより正しい女子そのもの。
夏服になるとしなやかな体つきがいっそうあらわになって、竜児は反射的に目をそむけるよりほかの術《すべ》を失う。昨晩《ゆうべ》から大河《たいが》の猛毒に晒《さら》されまくった今、実乃梨《みのり》の健全なかわいらしさはちょっと刺激《しげき》が強すぎるのだ。どぎまぎと脈を飲み込みながら、逸《そ》らした視線《しせん》をギラギラさせる。キレているのではない、ときめいているのだ。
そして一方実乃梨はといえば、そんな竜児《りゅうじ》の様子《ようす》には一切お構いなし、
「ていうか川嶋《かわしま》さんもやっぱり細いよなー、最近も走ってるの?」
などと他人の腕の太さばかりを素早《すばや》くサーチしまくっている。人はこんな状況を、片思いとも呼ぶのだが。
ふぅ、と竜児は切ない息をそっと吐いた。一体いつになったら、実乃梨は自分の気持ちに気づいてくれるのだろう。こんなに一筋に、憧《あこが》れ続けているのに――
「なんだか元気ないなあ、お二人さんよお。あ、もしかして大河も高須《たかす》くんも寝坊して朝ごはん抜き? それならちょうどよかった、おやつにするつもりで持ってきたんだ。これ食べなよ」
鈍感なんだか敏感なんだか、実乃梨はポケットから小さなジップ袋のパッケージをさっと取り出して、摘《つま》みだすなり言い放つ。
「THE 黒乳首!」
――レーズンの粒を両手で摘み、己《おのれ》のバストトップにくっつけて。
「長靴いっぱい食べたらいい! ……あれ? 高須くん、なんで落ち込んじゃった?」
実乃梨の肩をポン、と叩《たた》いて諭《さと》すのは大河。
「竜児は今、己《おのれ》の自我が映し出す自己像と客観的《きゃっかんてき》事実との狭間《はざま》で地図をなくした旅人になっているの」
「ほう! なんかすごいね、がんばれ高須くん! 大きく振って当てていこう! っていうか!」
がっくり肩を落とす竜児に右黒乳首をそっと渡してやり、実乃梨は振り返って亜美《あみ》の手にしっかと左黒乳首を持たせる。
「川嶋さん、昨日《きのう》は本当にごめん! 反省してます! 私が言いだしっぺだったのに、どうしてもバイトに出ないといけなくなっちゃって……ごめんよぉ。大丈夫だった? さっき北村《きたむら》くんからだいたいのところは聞いたけど、ストーカー退治に成功しちゃったんだって?」
「謝《あやま》ったりしないでいいよー! そう、一応なんとか結果オーライ! こっちこそありがとうね、実乃梨ちゃんにはすっごく感謝《かんしゃ》してるよ。黒乳首もいただくね!」
続いて実乃梨は大河《たいが》と竜児にも改めて向き直り、
「大河も、高須くんも、ごめんよぉ」
「いいのよみのりん、しょうがないもん」
「申し訳ないっす」
細い背を丸め、何度も頭を下げてみせる。その心から申し訳なさそうにしかめた眉《まゆ》と、こちらを見上げるピュアな瞳《ひとみ》が、竜児を乳首の懊悩《おうのう》から一気に救い上げた。緊張《きんちょう》のあまり言葉にならないが、竜児《りゅうじ》は実乃梨《みのり》の顔をそっと見上げ、必死にプルプルと手を振って見せる。気にしないでくれ、と言いたいわけだ。それを見てとり、大河《たいが》がフォローを入れてくれる。
「竜児も全然気にしないって。ね、竜児」
コクコク頷《うなず》きつつ、どんなに喧嘩《けんか》してもこんなときには助けてくれる大河って、本当はいい奴《やつ》なのでは……などとほんわか思ったのもつかの間。
「あのね、みのりん。竜児はみのりんが途中で抜けて好都合だったのよ。私と北村《きたむら》くんはドブに落ちて作戦から離脱《りだつ》したんだけど、そのせいで川嶋《かわしま》さんと二人っきりになれた竜児は彼女を自宅へ連れ込んで、」
「わ――――――っ!」
何を言い出す!? ほとんど反射、竜児は大河に鋭《するど》いタックルをかましてその口をがっちり塞《ふさ》ごうとするが、あっけなくその指はむしりとるように外されて、
「夕暮れの高須家で二人はぴったりと寄り添って、」
「こら――――っ!」
「黒ち」
わっせろーい! 無我夢中で黙《だま》らせんと、大河の熱《あつ》い脇《わき》の下に手を差し入れて実乃梨がやっていたように力任せに抱え上げる。軽い大河はあっさりと持ち上がり
「ぎゃあ!? 離《はな》せエロ犬っ!」
激《はげ》しく喚《わめ》くが離すものか! そしてあっちにいってらっしゃい、とそのままブゥン! と振り回すと、
「おお、逢坂《あいさか》おはよう!」
「……っ!」
ほとんど大河と鼻先がぶつかる距離《きょり》、北村|祐作《ゆうさく》が爽《さわ》やかに片手を上げていて、大河はそのままダラリと全身の力を抜く。竜児に罵声《ばせい》を浴びせるのも忘れ、
「お、おは、おは、おは、」
誰《だれ》にも聞こえないかすかな声で、壊《こわ》れたレコードの真似《まね》を開始。手を差し入れたままの脇の下の温度が一気に二度ほど上がったような。
「なんだなんだ、相変わらずジャレてるのか、仲がいいなあおまえらは」
ようやく床に降り立った大河の肩と竜児の肩を交互に叩《たた》き、北村の視線《しせん》は大河へ。
「はい。これ、昨日《きのう》うっかり返すのを忘れて持って帰ってしまった」
「……あ……うん……」
「ちょっと欠けたところがあったから、勝手にやすりかけておいたけど……よかったか?」
「……あ……ありがと……」
顔を真《ま》っ赤《か》に染め、唇を小さな三角形にして震《ふる》わす大河と、その片思いの相手であるクラス委員長――忘れ物を渡すその光景はまるで少女漫画の一ページのようだが、
「あんまり振り回すなよ、危ないから」
「……う、……うん」
爽《さわ》やかヒーローから赤面ヒロインへ手渡されたブツは、使い込まれた木刀一本。そいつでブチ殺されかけたこともある竜児《りゅうじ》は複雑な思いで一見|綺麗《きれい》なその光景を見つめる。と
「……さっきの話って、なあに?」
「ん?」
ほとんど無《む》意識《いしき》、振り返るとそこには実乃梨《みのり》が首を傾《かし》げて立っていて、茶色《ちゃいろ》に透《す》ける瞳《ひとみ》で竜児をじっと凝視《ぎょうし》していた。
「さっき大河《たいが》が言いかけたのって、なんなの? 高須《たかす》くん」
「や……別に、なんでもねえよ……」
そっけない言葉とは裏腹に、もちろん内心は爆弾《ばくだん》暴発《ぼうはつ》タイマーオンしまくり。助けを求めてさりけなく亜美《あみ》の方を見てみると、……とっくに姿を消している。「えー、それってどこで買ったの、かわいいー!」「駅ビルの二階だよ、超やすかったしー!」「うそー! あたしもほっしー!」「ほっしー!」ずっと離《はな》れたところで麻耶《まや》や奈々子《ななこ》ときゃぴきゃぴ女の園を作っている。なんて頼りにならない奴《やつ》――いや、いっそのこといなくなってくれてラッキーか? 大河ほどではないにしろ、亜美も十分に口のついた爆弾だ。
実乃梨はチラ、とそんな竜児を上目《うわめ》遣《づか》いに見つめつつ、
「ま、高須くんがそう言うんなら信じることにしようかね。前から言っている通り、もしも大河を不幸にしたら実乃梨は獣《けもの》になりますぞ……? なんてなー」
「おふ……っ」
――さくっ、と冗談《じょうだん》まじりに軽くなで斬《ぎ》り。片思いの相手から言われて、これほどつらい言葉もあるだろうか。そして奇遇なことに同じタイミングで、
「な、逢坂《あいさか》。昨日《きのう》の高須と亜美のことだけど、あれはコンタクトがずれたのを高須に見てもらっていただけらしいんだ。だから、あんまり気にするなよ? 高須のことも怒らないでやってくれよな。これからも仲良く! な!」
「あう……っ」
大河も北村《きたむら》の気遣いという名の鮮《あざ》やかな一太刀《ひとたち》を浴びていた。
頭を抱えたくなる……あの出会いの春から、大河も竜児もなにひとつ、想《おも》い人《びと》との関係が変化していないではないか。いや、変わった点なら一つあるか。
「……あんたのせいで……あんたのせいで……また北村くんが私とあんたの仲を応援するぅぅぅ……!」
「それはこっちのセリフだっ、おまえが人の足を引っ張るような真似《まね》をするからバチがあたったんだ!」
足を踏み合い、肘《ひじ》で押し合い、強烈な眼光を競《きそ》うようにギラつかせながらチクチク嫌味《いやみ》を応酬《おうしゅう》し――大河《たいが》と竜児《りゅうじ》の関係だけは、明らかに険悪に変化中だ。
***
この日の独身・|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(29)はラッキーだったかもしれない。
「みなさんおはようございます!」
にこやかにクラスを見回すその目は無残に腫《は》れて、自慢の二重《ふたえ》瞼《まぶた》は丸々太ったたらこのようになってしまっていたが、それを指摘するようなデリカシーのない生徒はこの2―Cにはいなかった。教員室にはいたのだが。一年生を受け持っている後輩《こうはい》教師(27、彼氏あり、自称『プロポーズされちゃって迷ったままキープ、早一年』)だ。なにが「恋ヶ窪先生、その目どうしちゃったんですか? なんとかした方がよさげですけど」だよ。てめえなんかにわかってたまるか。
「なんだかさっぱりしないお天気ですけど、いいお知らせがありますよ〜!」
昨日《きのう》の夜だ。
一人でファミレスごはんを済まして(お一人様だよ、文句あんのかよ)、コンビニで買ったビールを一缶だけ空けてみて、不意に人恋しくなったのだ。
そういえば、最近とんと学生時代の友達と遊んでいない。時間もまだそれほど遅くないし、今から電話かけても平気だよね、と、久しぶりに仲の良かった理沙《りさ》に電話をかけてみた。理沙はすぐに出て、「うそーゆり!? 久しぶりー! え、うそうそ、遊ぼうよ遊ぼうよ! 今週末? あ、それはちょっと無理なんだあ、実は結納《ゆいのう》なんだよー。そうそう、あの公務員の彼と。いやー、もう腐《くさ》れ縁《えん》だもん、いまさらって感じだけど親がうるさくてさ。そういえばさやか赤ちゃん生まれたんだって! 今度赤ちゃん見に行こうよ! 美穂《みほ》の結婚式以来あたしら会ってないもんねえ。そういえばゆり、最近どうなの? 前にちょっと有望な年下の子がいるとかいってなかった? ゴールデンウイーク、旅行に誘うって言ったよね。あれどうなったあ〜? あれ? もしもーし。もーしもーし」……どうなったあ、じゃないんだよ。どうもなってないから言わないんだろうがよ。察せよ……察せよ!
呷《あお》ったビールは計三缶。物足りなくなってワインも開けたし、塩分カロリーてんこもりのつまみ(午前二時に豚キムチ)まで作っちゃったし食べちゃったし、しまいにはわけがわからなくなって気がつけば号泣しながら眠り込んでいた。
そんな翌日の朝八時半……が、まさしくナウ・ヒア、なわけだが。
「今週から、いよいよプール開きです! 楽しみですねえ、体調《たいちょう》を整《ととの》えて、万全で挑みましょう!」
無邪気な高校生たちは、「やったー!」と「げー!」の二重奏。男の子たちは無邪気に笑って喜んでいて、女の子たちは「おなかが〜」「ふともも〜」「にのうで〜」「水着になれない〜」などと生意気なことを言っている。
ばかたれが……独身は静かに息をついた。あんたたち、高校生ってだけでいいじゃんかよ……若いってだけて、いいじゃんかよ!
「え〜! この学校って男子と水泳|一緒《いっしょ》なのー!? やだやだ、はずかしいー!」
――川嶋《かわしま》亜美《あみ》! あんたなんか、超やせてるし超かわいいじゃんかよ! ていうかモデルじゃんかよ! なにが恥ずかしいだ、なにが、なにが……
「先生! それではホームルームはこの辺でおひらき、ということで!」
「はい、しめちゃって!」
……有能すぎるクラス委員長・北村《きたむら》に後を任せ、起立する生徒たちを教壇《きょうだん》の上からむなしく見下ろした。北村の「起立! 礼!」号令に合わせ、みな適当に頭を下げる。
と、不意にそのとき気がついた。あれ。今日《きょう》ってちょっと、ラッキーなんじゃない?
教員の間でも手乗りタイガーと呼ばれて恐れられている問題児・逢坂《あいさか》大河《たいが》が、苛立《いらだ》ちを舌打ちに乗せてぶつけてくることもなく、今日はおとなしく押《お》し黙《だま》っている。……礼こそしてはくれないが、すこしぼんやりしたかのように窓の外をじっと見つめて。
うらやましいほどすべすべとした薔薇《ばら》色《いろ》の頬《ほお》は特に体調が悪そうにも見えないし、上の空で教壇の担任の存在にさえ気づいていないのかもしれない。
今日は朝から手乗りタイガーにHPを削られずに済んだ――それだけでもラッキーに思えた。
こんなあたしって、ちょっとかわいいのではないだろうか。幸せ体質になれるのではないだろうか。結婚力がアップするのではないだろうか……独身は小さくガッツポーズ、明日《あした》への気力を奮《ふる》い立たせる。
が、己《おのれ》のクラスが愛憎うずまく魔《ま》空間《くうかん》に取り込まれていることにも気づかないあたり、やはり仕事に生きるのは無理そうだ。
2
「私、ぜんぜん怒ってないよ。いつもどおりよ」
――そう言い張りつつ、言い終える前にはすでに怒髪天《どはつてん》をついている大河《たいが》との険悪な日々はそのまま数日の間続いていた。
たちが悪いことに、いつもどおり、にこだわるあまり、大河は高須《たかす》家《け》での生活を中止しようとはしなかった。食事に来て、夜遅くまでいりびたって、それでいて常にピリピリツンケンし続けていて、万が一|竜児《りゅうじ》が『あの件』を弁解しようとしたり、『あの件』で苛立《いらだ》ち続けていることを指摘しようものなら、
「私、ぜんぜん……」以下略。
結局、高須家においては『あの件』に触れることはタブーになり、しかしタブーになったことそのものがまた、「なんでそんなこと気にしなくちゃいけないのよ!? まるで私が怒ってるみたいじゃないっ!」――大河の怒りに火をつけるのだった。
こんな日々はもうたくさんだ。そもそも俺《おれ》がなにをした。……などと、さすがの竜児でも考え込まずにはいられない神経衰弱|継続中《けいぞくちゅう》のある日。
「もー大河、行こうって約束したじゃん」
「……」
帰りのHRを終えた放課《ほうか》後《ご》の2―Cに、手乗り地蔵《じぞう》様が誕生《たんじょう》していた。
「今日《きょう》しか部活、休みないのに」
「……」
自分の席に鎮座《ちんざ》したまま動かざること山の如《ごと》し、手乗り地蔵様こと逢坂《あいさか》大河はむっつりと口をへの字に曲げている。その肩を掴《つか》み、懸命《けんめい》に揺さぶりをかけるのは親友・櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》。
「大河ってばー!」
――実乃梨の上げる声に、竜児は当然気がついていた。普段《ふだん》ならば会話のチャンス、どうした? と駆けつけてみたい天から下されたラッキーチャンスのはずなのだが、ここ数日の大河《たいが》との険悪な日々を思えば、とてもあの地蔵《じぞう》様エリアに接近する気にはなれない。
しかし実乃梨《みのり》のことは気になって、離《はな》れた場所から指をくわえてアブない視線《しせん》を輝《かがや》かせる。二人の女子を物陰から狙《ねら》っているわけではない。思春期特有の自意識《じいしき》と恋心の狭間《はざま》で揺れているのだ。男心が。
と、そこに予想外の援軍《えんぐん》が登場する。
「実乃梨ちゃん、どーかしたの?」
帰り支度《じたく》を調《ととの》えた亜美《あみ》が、天使の笑顔《えがお》を携えて博愛精神を見せ付けるべく実乃梨と地蔵様のもとへと歩み寄っていく。
途端《とたん》、大河の地蔵変化も解け、「うー」と唸《うな》って牙《きば》を剥《む》き出し、
「これ! おやめ!」
実乃梨に鼻をつままれる。苦しそうにもがいて、大河は意外なほどあっさりと戦闘《せんとう》解除。なるほど、ああやって手なずけるのか……メモメモ、と竜児《りゅうじ》は思わず書くものを捜し始める。
「いやあ悪いねえ、川嶋《かわしま》さん。まったく、この大河めには今日《きょう》という今日は手を焼きますわい。昨日《きのう》、駅ビルに水着買いに行こうって約束したくせに、今日になって行きたくないって言うんだもん」
「水着? ああ、そっか、明日《あした》もうプール開きだ! 楽しみだねえ!」
「川嶋さんは水着どうするの? もう用意した?」
「うん、ジムで着てたのがあるからそれでいいかな〜って。地味な競泳用《きょうえいよう》だし、平気だよね。こう、全体に薄《うす》いグレーで、サイドにオレンジのラインが入ってて、」
「あ、まずいよそれ。校則で、水泳のときの水着は黒か紺《こん》の無地、ラインは白のみ、って決まってるんだ」
「え! そうなの!?」
席に座ったままの大河はそうしてしばらく頭上で行きかう実乃梨と亜美の会話をおとなしく聞いていたが、
「……」
竜児は見ていた。
大河は足音を忍ばせてそっと鞄《かばん》を掴《つか》み、ただでさえ小柄な身体《からだ》をさらにコンパクトに折りたたみ、イスからコロリと見事に前転。実乃梨の足元を素早《すばや》くすり抜けて重心を下げた獣《けもの》の姿勢、そのまま一気にダッシュをかける。
「あっ、逃げたっ! 高須《たかす》くーん、捕まえてー!」
「お!? お、おう!」
たまたま竜児の脇《わき》を走り抜けようとしていた大河を、偶然の奇跡、ほとんど反射的に襟首《えりくび》を掴むことに成功していた。
「わーお! 高須《たかす》くんグッジョブ!」
「離《はな》せエロ犬っ! 主人に楯突《たてつ》くかっ、この裏切りものっ! しししししんちゅーの虫っ!」
し、がふたつほど多めの大河《たいが》の喚《わめ》きは完全に無視の方向性で、駆け寄ってきた実乃梨《みのり》に身柄を引き渡す。
「応援に感謝《かんしゃ》する!」
「当然の義務だ」
嬉《うれ》しすぎるおふざけ敬礼を交わし合い、実乃梨の視線《しせん》は大河の方へ。
「こーらーたーいーがーっ! なぜ逃げーる!」
「や、約束したわけじゃないもん! みのりんが行きたいって言うから、いいんじゃない? って言っただけだもん! 私……行きたくないんだもん!」
「なんで!?」
「……水着、買いたくないんだもん!」
「じゃーどうすんのさ!? 去年の水着、腐らせたんでしょ!?」
コクン、と気まずげに頷《うなず》く大河の傍《かたわ》ら、「水着はすぐに洗って干さねえと……」と竜児《りゅうじ》は天を仰いで低く唸《うな》る。
「買わなきゃいけないじゃん! 水着なしでどうするの!?」
「……プールの授業、全部サボるからいいの」
「あいたー!」
今度は実乃梨が天を仰ぐ番だった。なんとなくその場に留《とど》まっている竜児の背中をドシッと叩《たた》き、「選手交代!」と声にならない呻《うめ》き声《ごえ》で伝える。いつの間にやら巻き込まれているが、
「サボったりしたら体育の点数つかねえぞ」
男として、実乃梨のパスを受け取らないわけにはいかない。
「あんたには関係ないでしょ!?」
くわっ、と睨《にら》みつけてくる大河の視線には、唐突すぎる満々の殺《や》る気。だが実乃梨の目の前で、情けなく退却などできようか。少々|卑怯《ひきょう》な手かもしれないが、
「き、北村《きたむら》! 大河に言ってやってくれ!」
だいぶ離れたところて帰り支度《じたく》をし、生徒会室へ向かおうとしていた北村を呼び止めた。北村はきょとん、と眼鏡《めがね》をひねり、
「ん? なにを?」
「大河が水泳の授業を全部サボる気満々らしいぞ!」
「それは聞き捨てなりませんな!」
「……っ」
まずい、と言うように大河は瞬間的《しゅんかんてき》に顔を歪《ゆが》めるが、自業自得だ、この場合。つかつかと北村は近づいてきて、
「逢坂《あいさか》、体調《たいちょう》が悪いのか?」
「う……っ……ううん……」
「なら、授業には参加しないと。遊びみたいなモンではあるが、授業は授業だからな」
嘘《うそ》をつけない不器用な大河《たいが》に、北村《きたむら》は直球の正論《せいろん》で対峙《たいじ》、そして勝者は当然北村。「わかってもらえてよかった! じゃーまた明日《あした》!」と爽《さわ》やかに手を上げて教室を出ていく正論野郎の背を、大河は少々|恨《うら》みがましく見つめているように見えた。
「というわけだ! さあ行くよ、大河! あ、川嶋《かわしま》さんも一緒《いっしょ》に行こうよ」
「え? でもお……」
チラ、と向けられた亜美《あみ》の透《す》き通る視線《しせん》の先には、ただでさえ機嫌《きげん》が悪いんだ、着いてきやがったら容赦しねえ、メラメラとそんなメッセージを全身から発揮《はっき》して、今度こそ武空術で浮かびそうになっている手乗りタイガーのブンむくれツラが。
「もー、大河ってば、なんちゅー顔してんの! 川嶋さんは引っ越してきたばっかりで、水着売ってるお店もよく知らないんだよ!」
「いいのよ、実乃梨《みのり》ちゃん。あたしのことなら大丈夫」
すっかり大河の教育モードに入ってしまった実乃梨に、亜美はしかしにっこりと優雅《ゆうが》な笑顔《えがお》で首を振って見せた。
そしてぴょこん、と一歩後ろにバック、
「高須《たかす》くんに付き合ってもらうから。ね、高須くん、いいでしょ? いいよね? ……だめ?」
「えっ!?」
ひんやりとした白い腕を、絡《から》める寸前、そっと竜児《りゅうじ》の肘《ひじ》のあたりに押し付けてくる。
「……だめ、かな?」
「え、え、……俺《おれ》!?」
コクン、と頷《うなず》いてこちらを見上げてくる亜美の白い美貌《びぼう》は、拙《つたな》い仮面だとわかっているのについつい見惚《みと》れる華やかさ。清らかさ。動揺《どうよう》のあまりまじまじと、亜美のうるうるアイ・ぷるぷるリップ・心細げな表情のチワワ三連コンボを食らってしまう。頷いた……かもしれない。
それはほとんど操《あやつ》られるように。
「ほんと!? よかったー! 嬉《うれ》しいな、やっぱり高須くんって頼りになるぅ〜! ……あ。構わない、よね? 逢坂さん」
チラ、と大河に向けられた視線には、隠《かく》しようもない挑戦的な煽《あお》りの青い炎。「あ、あれ? なんだこの空気」……戸惑《とまど》う実乃梨は大河と亜美の顔を交互に見つめ、竜児はといえば、身動きができない。
「――いいんじゃない? 別に」
長い髪をうざったそうにかきあげ、大河は――笑った。薔薇《ばら》色《いろ》の唇だけを甘く歪《ゆが》め、発射する毒は全方位に。
「竜児《りゅうじ》がいいって言ってるんだもの。私には関係ないわよ。別に竜児が誰《だれ》となにをしようと私はぜんっっっっっっ…」
っっっっっっぜん、気にしないわ。とかなんとか、続けようとしたのだろう。が、しかし。
「……いっ!」
ガン! と凄《すさ》まじい音が、セリフのために力んで屈《かが》んだ大河《たいが》の額《ひたい》と机から発せられ、最強のはずの手乗りタイガーはデコを押さえて教室の床に片膝《かたひざ》をついた。
「た、大河っ!」
「うわ、いたそ……」
慌てて大河の様子《ようす》を見る竜児と実乃梨《みのり》の背後、
「もしかして逢坂《あいさか》さんって、結構、ドジ?」
あまりのことに毒気を抜かれたように、亜美《あみ》は小首を傾《かし》げていた。彼女は世界の秘密のひとつを知ってしまったかもしれない。
***
「なんで!? なんで結局こうなるの!? 竜児と一緒《いっしょ》にヨーロッパでも北極圏でも魔界《まかい》都市《とし》新宿《しんじゅく》でもどこへでも行けばいいじゃない!」
「あらあ、わざとじゃないのよ〜? 水着売り場があるお店って、ここしかないって言うんだものお〜。フンフンフーン……あ、逢坂さんにはこれがお似合いだわ、きっと。ほら、ジュニアサイズ、六歳から九歳用だってえ〜! やだあ、かわいい〜! ほらここ、フリル〜!」
「……川嶋《かわしま》さんにはこれがいいんじゃない? 発情中のメスチワワにはきっとぴったりよ。ほらここ、幅五センチ〜」
「それ男用ブーメランパンツでしょ!」
「ヘーえ、そうなの。これじゃだめなの。なるほどぉっ! 休業中モデルのぉっ! 川嶋亜美さんはぁっ! これじゃー毛がボーボーにはみ出してしまうんだとぉっ!」
「おっきい声でなにいってんのよ!?」
陰険なやりとりがぎゃあぎゃあと響《ひび》くフロアの片隅。
「……恥ずかしいぞ、俺《おれ》は……」
ただでさえ女性用水着売り場に迷い込んだ男子高校生という立場で赤面を禁じえない状況だというのに、さらに重ねて連れがアレだ。
「あーあ、もう大河たちはまったく……ごめんねえ、高須《たかす》くん。なんか変なことに巻き込んじゃったみたい」
「いや、別にそれは……構わないけど」
駅ビルのしょぼい観葉《かんよう》植物の前に立っていてなお眩《まばゆ》い実乃梨が一緒でなければ、ほとんど状況は絶望的だった。……一緒《いっしょ》なので、絶望的ではない。
平日の夕方、午後四時過ぎ。これでも街で一番のショッピングスポットである四階建での駅ビルには、ほとんど人気《ひとけ》がなかった。特に水着売り場は寂《さぴ》れていて、アロハの伸びきったBGMばかりがむなしく流れている。
そんなすいたフロアの片隅、実乃梨《みのり》は地味な水着をひとつずつチェックしながら、竜児《りゅうじ》に話しかけてきてくれていた。
「高須《たかす》くんは水着あるの? あの柱の向こうは男子用だって」
「……いや、俺《おれ》は去年のがあるから」
「そつか。そうだよね、腐らせちゃう大河《たいが》とは違うよねえ」
「大河は特別だらしねえんだよ」
そだね、と微笑《ほほえ》みつつ、実乃梨は一着の水着を手に取った。
「あ、私は腐らせてないからね? 単に新しい水着買いたいだけだぜ。っと……これどうかな?」
こんなとき、とっさに「いいじゃん、似合ってるぜ」的なことが言えるキャラならば、多分《たぶん》もっと生きやすかっただろうに――竜児の喉《のど》はさっきから異様にいがらっぽく、少しも気が利いたことを言えずにいる。
だめな男だ、と無言のままで自己《じこ》嫌悪《けんお》……せっかくの、こんなすばらしい機会《きかい》なのに。実乃梨と水着を選ぶなんてシチュエーション、自慢ではないが想像の世界でさえ体験《たいけん》したことはない。現実が竜児の想像力を軽く凌駕《りょうが》してしまっている。
実乃梨はもちろんそんな竜児の懊悩《おうのう》になど気づくわけもなく、
「うーん。ちょい、ハイレグ?」
三十度……と両手でXの字を作りつつ股間《こかん》の角度を測ってみて、その水着をあっさりラックに戻す。そしてゆっくりと別のメーカーの売り場に向かいながら、
「ところでさ、いつも思ってたんだけど、高須くんって制服もジャージもすっごく綺麗《きれい》にしてるし、アイロンもいっつもきちんとかかってるよね」
「……え?」
おもむろにそんなことを言い出すのだ。あれ……まさか……これ、褒《ほ》められているのか!? あまりに突然の事態に頭の中は真っ白になるが、なんとか平静を保って実乃梨の横顔を見つめ返す。
「そ、そうか? いや、その……うちはおふくろが仕事してるから、そういうのは全部自分でやるしかなくて、結構そういうことするの、嫌いじゃねえし……」
「えー! すごい、本当に高須くん、自分で家事やってるんだ!」
カッ、と頬《ほお》が熱《あつ》くなり、思わず顔を逸《そ》らした。何気ない風を装って水着など見ているフリをして、うっかりマネキンの胸部を鷲《わし》づかみにしてしまう。だが、実乃梨が継《つ》いだ言葉はさらなる衝撃《しょうげき》を竜児《りゅうじ》に叩《たた》き込んだ。
「いやあ、大河《たいが》がね、前に言ってたんだよ。『竜児は家事とか、全部すっごくうまいんだよ』って。『私にはできないことをいっぱいできて、すごいんだ』って、褒《ほ》めてたんだ。大河が男の子を……っていうか、人のことを褒めるのなんて初めて聞いたから、私すっごく驚《おどろ》いちゃった」
「……」
「あら、高須《たかす》くんだめだよ、マネキンだからってそんなに激《はげ》しく揉《も》みしだいたらポロリしちゃう」
「……た、大河が? 俺《おれ》のことを? ……は?」
眼球だって今ならポロリできそうな心境だった。
だってそんなバカな。そんなわけはない。だって大河はいつだって、エロ犬としか自分を呼ばないではないか。犬としか見ていない自分を、褒めるなんてありえない。
そうだ――わかった。竜児はははーん、と目をギラつかせる。実乃梨《みのり》は嘘《うそ》を言っているんだ。まるっきり嘘とまではいかなくても、一を千にふくらませるような言い方はしているに違いない。だって彼女は、大河が自分と付き合えばいいと普段《ふだん》から公言しているではないか。
「そんなの信じねえよ、俺は」
「信じてくれないの? ……ま、そのへんは高須くんの自由だけどさ〜」
肩をすくめ、実乃梨は「もったいないねえ」と呟《つぶや》きながら小さく笑って見せた。そう言われたって、信じられないものは信じられないのだ。いくら憧《あこが》れの実乃梨の言葉であっても。
それはそうだろう、大河が――なんて、信じられるわけがない。特にここ数日の険悪状態といったら、本当にとんでもない状況に成り果てているのだから。と、
「この水着、どうかなあ?」
背後からかけられた声に、実乃梨と竜児が振り返ったのはほぼ同時。
「おうっ!」
「わあ!」
えへ、と小首を傾《かし》げてはにかんだような笑《え》み。
ここが寂れた駅ビルなんてことを一瞬《いっしゅん》にして忘れさせる、輝《かがや》くばかりの存在感。
磨き抜かれたミルク色の肌は、無駄毛《むだげ》もくすみも一切皆無、現実|離《ばな》れしたなめらかさ。
「どうかなあ? おかしくないかなあ? この地味な水着なら、変に目立っちゃったりしないよね? 男子と一緒《いっしょ》のプールなんて、やっぱりちょっと恥ずかしいし」
ゆっくりと瞬《まばた》きしてみせるたびに周囲は星の欠片《かけら》がちりばめられたような眩《まばゆ》さに包まれて――
「なんじゃあその足の長さはあ! おまん、目立ちまくりじゃいっ!」
――実乃梨がキレた。
しかし竜児もそれに同意、これは反則だろうどう見ても。亜美《あみ》は心底|不思議《ふしぎ》そうに大きな瞳《ひとみ》をさらに見開き、髪を揺らして首を傾《かし》げる。
「え〜、すっごく地味な水着を選んだんだけどなあ? おかしいなあ、なにが目立っちゃうんだろう? わからないなあ、不思議《ふしぎ》だなあ、なんでなのかなあ?」
隠《かく》れ肥満のレッテルを貼《は》られてから早数週間。ストレス食いの癖《くせ》も止《や》んだのか、亜美《あみ》の腹はいまや完全にぺたんこで、ボディラインは見事を超えるレベルで引《ひ》き締《し》まっていた。
身にまとったのは、漆黒《しっこく》の少々|大人《おとな》っぽい水着。そこから伸びる真っ白な長い足に、ほっそりしなやかな腕。
すらりとした長身のくせに小作りな美貌《びぼう》は目ばかりが目立ち、幼い妖精《ようせい》のような儚《はかな》い風情《ふぜい》をかもし出すさまは心臓《しんぞう》が止まるほど妖《あや》しいのだ。
これが、プロのモデルか……試着した水着を「へんだなあ、わからないなあ」と鏡《かがみ》の前でチェックしている亜美を目の前に、竜児《りゅうじ》も実乃梨《みのり》も言葉をなくした。あまりにも、完璧《かんぺき》すぎる。足が長すぎる。細すぎる。白すぎる。美しすぎる……。と、実乃梨は夢から覚めた人のようにグッ、と一歩亜美に詰め寄った。
「かっ、川嶋《かわしま》さんっ! その水着どこのメーカー!? 近づけるなんて思わないけど、ちょっとでも私も細く見せたいの! 私もそこのメーカーのにする!」
「試着室の裏にたくさんあったよ〜。あ、おそろいにしよっかあ、実乃梨ちゃん」
「それだけは堪忍《かんにん》しておくれやすー!」
おーいおいおい、比べられたくねえ〜! と、亜美と同じ水着メーカーの売り場を目指し、実乃梨が駆け出していったその次の瞬間《しゅんかん》。
「……ふっふーん」
己《おのれ》の姿が映る鏡を見つめる亜美の目つきが色を変える。……そうくると思った。竜児はあくまで冷静に、その豹変《ひょうへん》を見守る羽目になる。
亜美はクルッと見事なターンを決め、片手は腰に。片手は口元に。そうして胸を強調《きょうちょう》するように上半身を屈《かが》めてみて、
「やっばいよねえ、これ……やばすぎだよねえ……。亜美ちゃん、超! 超! 超! かわいすぎ! なんだけど……こわくねえ? こんなにかわいくて、亜美ちゃん、大丈夫? なんか去年より今年《ことし》、そして昨日《きのう》より今日《きょう》の方がずぇんずぇん、かわいいんだけど! どこまでいっちゃうの? このかわいさ、美しさ! この水着でだよ? この、地味な、ありきたりの、一万円しない水着でだよ!? やーん、かわいいビキニとか着ちゃったら、本当に亜美ちゃんどうなっちゃうのー!」
ご満悦、らしい。
「いっやあ、自分でもこわいわあ……ていうかさあ、あっれえ、亜美ちゃんってばもしかして、グラビアとかそっち方面目指した方がよさげなのかなあ? このスタイルを隠しておくのはほとんど犯罪じゃねえ? みたいな※[#「ハートマーク」] ねーねー高須《たかす》くんもそう思うよね」
「……おまえ、そんな格好でウロついて恥ずかしくねえのかよ。ここ、店ン中だぞ?」
「はあ〜? 冗談《じょうだん》は目つきだけにしてよ高須《たかす》くんったら〜。亜美《あみ》ちゃん、こーんなに! かわいいのに、一体なにを恥ずかしがれってぇ? 見られた人は本当に幸せだよぉ、一人三千円徴収したいぐらい〜。あ、一秒につき三千円ね」
髪をゆっくり持ち上げながら亜美は天使の仮面を完全に引っ込め、本来はひどくクールに透《す》ける瞳《ひとみ》を意地悪そうに光らせる。片頼《かたほお》だけに浮かべた笑《え》みには美人の自覚がある奴《やつ》特有のきつい驕《おご》り、からかうように突き出した唇には腹黒の証《あかし》を満タンに詰めて。ついでに、
「もち、永久脱毛!」
サービスのつもりなのかなんなのか、完璧《かんぺき》にツルツルになった脇《わき》の下までセクシーポーズで見せてくれる。
「……あのなあ……」
「あ〜ん、亜美ちゃん、今日《きょう》も最高にかわいい〜※[#「ハートマーク」]」
鏡《かがみ》に向かってウインクを決め、亜美は大層|上機嫌《じょうきげん》だった。よほど自分のパーフェクトな水着姿が気に入ったと見える。
だが、今の竜児《りゅうじ》にとってより重要な事項は、
「ううん……こ、これ……どうなのかな!? 一応入るには入ったんだけと……」
試着室のカーテンからピョコ、と顔だけを出して亜美を呼ばわる実乃梨《みのり》の存在。
「えー、どれどれ? 見せて見せてー!」
借り物のサンダルをカコカコ鳴らしながら、亜美《あみ》は実乃梨《みのり》のもとへ走っていく。えー、どれどれ? と竜児《りゅうじ》もカコカコついていきたいが、さすがにそれはダメだろう。……ダメ、だろう?
タオルやゴーグルを見るフリをしてなんとか少しだけ横歩きで接近、必死に聞き耳だけは立てまくる。
「実乃梨ちゃん、出てきちゃいなよ〜。大きい鏡《かがみ》で見ないとサイズ合ってるかわからないよ?」
「ええ!? だだだだめだめっ、むりむりむりむりむりむりむりむりむり!」
「明日《あした》になったらどうせクラスのみんなの前に出るじゃなーい」
「それとこれとは別だってばー! うぎゃー!!」
「えーやだやだ、超かわいいじゃーん! すっごい似合ってるし、実乃梨ちゃんどこも太ってないよお! 肩の辺りなんか筋肉も綺麗《きれい》についてて、超いいかんじー!」
「そ、そそそ……そう? かな? かな?」
「そうだよー! そうだ、せっかくだから高須《たかす》くんにも見てもらいなよ、男子の目って大事だよ? ねえ高須くーん!」
「ぎゃーす! だめだめだめっ! 高須くん、来ちゃダメ! 見ちゃダメ!」
グッ……とその場に立《た》ち疎《すく》むことおよそ十秒。ダメ、と言われるなら絶対に見るまい。スケベ心との戦いは決して表に出すことはなく、青光りする目だけをギラギラ危うく輝《かがや》かせ、聞こえないフリを貫いた竜児《りゅうじ》の理性はなんとか勝った。噛《か》み締《し》めた唇からはタラリと流血――紳士の証《あかし》だ、これが。
実乃梨が試着室の中に無事に引っ込んだのを気配《けはい》で察知してから振り向くと、
「……あっれえ〜」
「な、なんだよ……」
水着姿のままの亜美が、竜児をじー……っと見つめている。底意地の悪さを隠《かく》さない目で、まるでレントゲン写真でも見ているような顔をして。
「高須くんはあ、実乃梨ちゃんの水着姿『は』見られないんだあ。……ふーん」
「え!? そんなの別に、なんでもねえよ! 見るなって言われたから、だからっ、」
「なに慌ててんの? まーどうでもいっか。あたし服着てこよーっと」
ヒールの高いサンダルを脱いでしまって亜美は素足、竜児の言い訳など聞く気もないのか、そのまま無視して水着売り場のフロアをスタスタと横切って行ってしまう。
一人ぽつん、なんだあいつは、と残されて、……なんとなく。
改めて、いないわけではない他《ほか》の客や店員の視線《しせん》が気になりだした。一人で女性用水着売り場に佇《たたず》む男子高校生って、実は相当危なくないだろうか。救いを求めるように落ち着きなくウロウロと歩き回ったところで、
「……そういや、大河《たいが》は?」
見慣《みな》れた奴《やつ》が姿を現さないことに気がついた。試着室は四角いフロアのコーナー四隅にそれぞれ、計四つあり、そのうちのひとつは空き、ふたつは実乃梨《みのり》と亜美《あみ》が使っている。もしかして、と近づいてみると、見覚えのあるサイズの小さなストラップシューズが脱いであった。
なんだ、ここで大河《たいが》も試着しているのか、と思ったその矢先、試着室のカーテンがほんの十数センチほどそっと開く。顔だけをにゅっと突き出したのは、やはり大河だった。キョロキョロと何かを探しているように辺りを見回し始め、その口は真一文字、どこか不安げに眉《まゆ》を寄せている。なにか困っているような、助けを求めているような表情にも見える。
声をかけてやった方がいいだろうか、と思うのとほぼ同時、
「……竜児《りゅうじ》……っ」
大河の方が、先に竜児を見つけた。声をかけてきた割には嫌《いや》そうに顔を歪《ゆが》めて、それでもカーテンの隙間《すきま》から出した白い指でちょいちょい、と竜児を呼びつける。
昨今の冷戦状態を思えばろくなことは起きそうにないが、
「なんだよ」
呼びつけられれば行かないわけにはいかない。後からなにをされるかわからないではないか。……悲しい犬根性? なんとでもいえ。
「いーからちょっと来て……もっと来て! もっとよ! こっち!」
苦虫を口いっぱいに含んだようなツラをして、大河は辺りを憚《はばか》るような小声ながらも切迫感を剥《む》き出《だ》しに、必死に竜児を手招きし続ける。それに従って一歩、また一歩と試着室に近づいていく竜児だが、近づくに従って気にかかるのは――
「……おまえ……まさかとは思うけど、その中は裸じゃねえだろうな……おうっ!?」
――襲《おそ》われた。
ぬっ、とカーテンの隙間《すきま》から伸びた二本の腕に、あっという間に試着室の中に引き込まれたのだ。獲物《えもの》を捕らえた食虫花のように試着室のカーテンはぴっちり閉じて、すぐに内部は薄暗《うすぐら》くなる。声も出ないほど驚《おどろ》いて、バランスも崩して鏡《かがみ》にぶつかる。そのまま思い切り尻餅《しりもち》をつき、
「い……っ……なにすんだっ!?」
「静かにっ! 変態だと思われるっ!」
半畳ほどしかない狭い空間に、大河と二人、閉じ込められたことを知った。大河は制服をちゃんと着た姿で(裸ではなかった)床にぺったり座り込み、
「……もう……とうしていいかわかんないのっ!」
「ちょ、ちょ、ちょ!?」
竜児の腕を掴《つか》み締《し》めたまま、唐突にぶわわ! と目の縁《ふち》を真《ま》っ赤《か》に染める。まずい、このパターンは泣くぞ。
「なんだよ、どうしたんだよ!?」
二人して狭い床に座り込んだ体勢のまま声を限界までひそめ、なんとかなだめようと竜児《りゅうじ》は大河《たいが》の顔を必死に覗《のぞ》き込んだ。
「泣くな! 櫛枝《くしえだ》も川嶋《かわしま》も何事かと思うぞ!」
「……だ、だってっ! だって、どうしても……決められないんだもんっ!」
見れば二人の足元には、似たような黒や紺の水着が何着も散乱してしまっている。裏返しになっているあたり、すべて試着済みなのだろうが。
「水着が決められないぐらいでなんで泣く!? あーあ、これ売りモンなんだからもっと丁寧《ていねい》に扱えよな……」
「いろいろ思うところがあるのっ!」
ほとんど大河はかんしゃくを起こし、駄々《だだ》をこねるように大きく首を横に振る。下手《へた》すればこのままジタバタと暴《あば》れ出しそうで、
「わ、わかったから……とにかく落ち着くんだ。まずは泣くな。で、柄《がら》がいやなのか? 色がいやなのか? 他《ほか》の持ってきてやろうか?」
思わず竜児は気遣いモード。しかし大河はさらにイヤイヤ、と激《はげ》しく首を振る。
「違うのっ! ……サ……サイズが、合わないのっ! それがやなの!」
なるほど――思い当たって納得。この小学生クラスの小柄な体型では、大人用《おとなよう》の水着は無理かもしれない。
「えーと……子供サイズとかは?」
「死んでもいやっ! 川嶋|亜美《あみ》とおんなじこと言わないでっ!」
くわっ! と半ベソの顔を上げ、大河は抑えた声で喚《わめ》いた。
「……ていうか、そういう問題なら俺《おれ》よりも櫛枝とか川嶋に聞いた方がいいんじゃねえの」
「そうできるならしてるよっ! ……でも、二人はちゃんとサイズがあるのに、私には合うサイズがないなんて、恥ずかしくて言えない! ていうか二重人格女なんか問題外っ!」
「そんなこと言われたって、俺だってどうすりゃいいのかわかんねえよ……あ、これは?」
商品を几帳面《きちょうめん》にハンガーに戻していた竜児は、他《ほか》のものに比べてより小さく見える一着を見つけた。
「へー、これ、サイズXSだってよ。かなり小さいじゃねえか、着てみたのか? これでもダメなのか?」
「着た。着た、けど……それは、……まあまあ、マシ、だった、かもしれない。でも……なんというか……か、身体《からだ》の一部が……」
どんどん小さくなっていく声は、後半以降はほとんど聞き取れない。
「じゃあこれでいいじゃねえか。多少ならサイズ直しもしてやれると思うし。あ、これもXSだ。……これはダメそうだな、全然でかい」
十枚以上あった水着のうち、特に小さそうなものを三枚なんとか選び出した。大河いわく、いちおうそれらはどれも「まあまあマシ」レベルではあるらしい。
「じゃあここから決めろよ。そうだな……おう、これは? 値段も手ごろだし、素材も厚くてしっかりしてるし、……ふむ、乾燥機《かんそうき》にもかけられるな」
洗濯《せんたく》表示をしっかりチェックして、「これがいいと思う」と大河《たいが》に手渡してやると、大河は意外なほどおとなしくそれを受け取った。
じっと見つめ、何度か竜児《りゅうじ》の顔と見比べ、
「……うん……そうね……。……これが一番……マシ……だね……」
はあぁぁぁ……。
どんよりと憂鬱《ゆううつ》な空気は溜息《ためいき》で掻《か》き乱され、葬式のようなオーラが狭い試着室に充満する。
――スドバ(須藤《すどう》コーヒースタンドバー)に寄っていこうよ、という実乃梨《みのり》と亜美《あみ》の誘いを大河は断り、そうなると竜児だけが女子とお茶を飲むのもなんとなく憚《はばか》られ、二人きりになった帰り道。大河は久しぶりに怒っても苛立《いらだ》ってもおらず、低い声で「あんたは寄ってけばよかったのに」とだけ呟《つぶや》いた。
***
怒っても苛立ってもいない。よかった、大河の機嫌《きげん》はなぜだかわからないけどやっと快方に向かっているようだ。
……などという勘違いに竜児が気付いたのは、午後六時三十分のことだった。
「よーし、メシ炊けたぞー」
「……」
「味噌《みそ》汁《しる》も会心の出来だ、なんと食後にはプリンまであるぞー」
「……」
夕食の支度《したく》を手伝いもせず、卓袱《ちゃぶ》台《だい》の下てゴロンと転がるふわふわにふくらんだコットンフリルのかたまりは、一言も言葉を発さないまま鳥かごにクリップ留めした菜っ葉を指でいじくっている。その目はどこを見ているともつかず、時折|漏《も》れるのは長い溜息。
長い髪がぐしゃぐしゃに乱れるのも構わず、大河はひたすら、『憂鬱《ゆううつ》』なのだった。
家宝のヌカ床から出したきゅうりを洗いながら、またインコちゃんがストレスを溜《た》めるのではないかと竜児は思わず遠巻きに見守ってしまう。しかし、
「……う、じゅ?」
大河がいじる菜っ葉をそっとくちばしでカゴの外、大河の方へ押し出すインコ。それはもしかして、would you? だったかもしれない。そして、
「……いらない」
静かに首を振る、大河《たいが》。
――大河とインコは、会話していた。だが大河は、鳥類にまで気を遣わせているというのにまるで深海に沈む水死体そっくり。全身の力は完全に脱力、ぼんやりと見開いた瞳《ひとみ》にはおよそ光というものがなく、怒りどころか自我さえ放棄してしまったかのような鬱《うつ》っぷりを見せている。そんな唐突すぎる憂鬱の理由が竜児《りゅうじ》にわかるわけはなく、……いや、なんとなく、時系列的には水着のことが原因のような気はするのだが、それがどうしてそこまで鬱なのかはわからない。だって水着なら買えたじゃねえか。
「……た、大河。今日《きょう》はチキン南蛮《なんばん》にしてみた。初めて作ってみたんだけど、結構成功したかもしれねえ」
「……」
「マヨ、かけるんだぜ。この上から」
「……」
食欲でも釣れない。昨日《きのう》まで続いた冷戦状態よりはマシなのかもしれないが、辛気《しんき》臭《くさ》いことこの上ない。と
「あ〜んちこくちこく〜! 女の子の面接一件あるの忘れてたあ〜! あと十五分で家出なくちゃいけないんだったあ〜!」
足音も騒々《そうぞう》しく飛び込んで来たのは母・泰子《やすこ》だ。
「え!? なにやってんだよ、ほら急いで食べ……おう! 今日の服はまたすげえな!」
「そ〜かな〜?」
息子の声に「みゃは☆」と嬉《うれ》しそうに笑い、泰子はその場で両手を天井《てんじょう》に向けて上げてみせる。YASUKO、のYのつもりらしい。片足をちょい、と上げているあたりもしかしたらグリコかもしれないが、息子にも真実は分からない。
そのとても三十路《みそじ》には見えないナリは、真っ白のチューブトップに尻《しり》ギリギリのミニスカート。泰子のFカップ巨乳はそれはもうのびのびと、華奢《きゃしゃ》な胸板の上で揺れている。
たっぷんたっぷん、よくもまああんな餅《もち》のような突起物を身体《からだ》の前面に二つもつけていられるよ女って……と、しみじみ竜児が首をひねったその時、
「きゃあん! 大河ちゃんのえっちすけっちわんたっち〜!」
何を思ったのか、寝転がったままの大河はグイッと背筋で上体を反らし、傍《かたわ》らの座布団に座った泰子のたっぷんたっぷんに触っていた。
「大河! ひとんちの肉親にセクハラすんなよ!」
「やーん、いいのよう竜ちゃん! だってえ大河ちゃん、なんだか今日は久しぶりに怖くないからやっちゃん嬉しいんだもん〜! えへえへ!」
たっぷんたっぷんたっぷんたっぷん――はしゃぐ泰子の乳を触り続ける大河の目は、しかし死んだ魚の濁《にご》り色《いろ》のまま。
「な、なんか怖い光景だからやめろよ、ほんとに……さあほら! 夕飯だ! 乳やめやめ!」
竜児《りゅうじ》は二人の間に割り込むようにして、テキパキと卓袱《ちゃぶ》台《だい》に茶碗《ちゃわん》やら皿やらを並べだす。ごはんごはん、と泰子《やすこ》は素直に箸《はし》を手に取り、大河《たいが》も無言のままとはいえ、身体《からだ》を起こしてぺたりと座る。
「いただきま〜す! わ〜おいしそ〜! 竜ちゃんだいすき〜!」
ポヨン、と胸を弾《はず》ませながらご機嫌《きげん》な泰子はばっちりメイクの童顔でにこにこ笑っていたのだが、
「やあ〜ん」
「あ! こら!」
大河は箸《はし》の尻《しり》でもう一度、泰子の乳をつついてみているのだった。
泰子が大事な唯一のシャネルを抱えて慌しく出勤していき、高須《たかす》家《け》には気まずい沈黙《ちんもく》が垂れ込めていた。
大河は食事こそ普通にとったものの、相変わらず畳にだらしなく寝そべって、天井《てんじょう》と壁《かべ》の境目あたりをうっそりと見つめている。見つめている、というか……目を見開いている。
本当に、どうしたのだろう。大丈夫なんだろうか。竜児は洗い物を終えて手を拭《ぬぐ》いながら、そっと大河のそんな様子《ようす》を盗み見ていた。気になりつつも昨日《きのう》までと違って攻撃性《こうげきせい》は皆無、実害もないことだし、そっとしておくか、とも思ったのだが、
「えーと……大河。おまえ、明日《あした》のプールの支度《したく》はしたのか? タオルとか持ったか? バッグに入れたか? そうだ、今日《きょう》買った水着のサイズ直ししてやるから持って来いよ」
なんとなく、やっぱり血の気を失った大河の白い頬《ほお》を見ていると、やはり声をかけずにはいられない。まるで覗《のぞ》き込んだ茂みの奥で、いつもおかずを盗んでいく野良《のら》猫《ねこ》が病気になっているのを見つけてしまったような、おせっかいとも同情ともつかない気持ちが胸を塞《ふさ》ぐのだ。
「なあ」
しかし、大河は聞こえないふりで、ゴロリと寝返りを打ち、竜児に小さな背中を向けてしまう。
「なあ。水着のサイズ合わねえんだろ。おまえがいいんなら、もう知らねえぞ」
背を向けたままの大河の返事は、ごくごく小さな声で一言。
「うるさい」
と。その冷たい言い方。吐き捨てるような声。手負いとはいえさすがにタイガー、ピンポイントでハートの一番|繊細《せんさい》な部分をグサリと刺してくれる。竜児といえどもカチンとくる。
気を使ってやってるのに、下手に出てやってるのに、水着のサイズ直しまでやってやると言っているのに。それもこれも、突然に元気をなくした大河が多少なりとも心配だからだ。それなのに、うるさいってのはどういう返事だ。
「……おまえなあ……」
もちろん、今日《きょう》までのむかつきの蓄積《ちくせき》だって忘れちゃいない。ちょっと亜美《あみ》にからかわれて抱き合っていた現場を目撃《もくげき》しただけで、なぜあそこまでネチネチ責められなくではいけないんだ。しかも本人は竜児《りゅうじ》を責めていることを一切認めようとはせず、怒ってなんかない、あんたがなにをしようと気になんかならない、そう言いながら何日も何日も不《ふ》機嫌《きげん》をぶつけてきていたのだ。そうして今に至って、
「……うるさいもんはうるさいんだ」
ときた。もういい、と竜児も両目を毒蛇《どくへび》のように酷薄《こくはく》に眇《すが》める。世界の終わりを呪《のろ》ったわけではない、堪忍袋の緒《お》が切れたのだ。
「あーそうかよ! それならほんとにもう知らねえからな! おまえの面倒《めんどう》なんかもう見ねえ! サイズの合わない水着で泳げ!」
「……プール、休むから別にいいもん」
「はいはい、勝手に休むでもなんでもしろ! おまえがそれで進級できなくたってもうしらねえ! ったく、だいたいおまえはわがまますぎるんだよ! なんで俺《おれ》が川嶋《かわしま》と抱き合っていたからって、おまえにそうやって罵《ののし》り続ける筋合いがあるんだ? 誰《だれ》がどう見たって、おまえはあのことを根に持ってるじゃねえかよ!」
むく、と大河《たいが》が身体《からだ》を起こす。壊《こわ》れたと思っていた機械仕掛けの人形が突然起き上がったような恐怖に、思わず竜児は続けようとしていた言葉を飲み込む。
「――なんで今、その話が出てくるの」
振り向いたその目は怒りのあまりか真《ま》っ赤《か》に充血、歪《ゆが》んだ唇は真っ白な歯にちぎられる寸前まで噛《か》みしめられ、まさしく死人形のおぞましさ。……まずい。地雷を踏んだらしい。
「……や……その……」
とりあえず距離《きょり》を取ろうと竜児は立ち上がって後ずさりする。ひた、と大河の素足が畳を踏み、一歩竜児へ歩み寄る。濡《ぬ》れたように輝《かがや》く大きな眼球には血色の殺気が匂《にお》うほど溢《あふ》れ、
「ねえ……竜児……」
低く抑えられた声が竜児の首筋を冷たく舐《な》めた。
「私、何度も、何度も、何、度も、言ったわよねえ……そんなの気にしてなんかない……怒ってなんかない……怒って見えるとしたら、それは、あんたが勝手な妄想で私の内心に踏み込んだから、って……。まだわからないの? ねえ、あんたは本当に、わからないの? ねえ。ねえ。ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ!」
「あうっ……」
鋼鉄《こうてつ》の戦車のようにじりじりと前進を続ける大河の肘《ひじ》が、竜児の胸板をガンガンつつく。さりげなく素足のつま先は竜児の足をきつく踏みしめ、これで竜児はこのゼロ距離から逃げられなくなる。
「ねえっ! ちょっとあんたっ、なんとか答えたらどうなのよ!?」
「だからその、」
「うるさぁいっ! だまれっ! いい!? 私が今から言う言葉を肝《きも》に銘《めい》じるのよ! こないだのことなんかもうどうでもいいっ! あれと、これとは、全然話が別なのっ! いいね!?」
「だからその……これ、ってのはなんなんだよ」
「帰る」
言いたいことだけ勝手に怒鳴《どな》り、そそくさと髪を翻《ひるがえ》して大河《たいが》は玄関に向かおうとするが、
「ちょっと待てっ! そうは問屋が卸《おろ》さねえぞ、自分の都合のことばっかり好き勝手言いやがって!」
「いいっ! うるさいっ! しらんっ!」
大河の正面に回って1オン1、竜児《りゅうじ》はほとんどヤケになって大河を逃がすまいと両手をブンブン振り回す。どうせ地雷は踏んでしまったのだ、あとはこの爆発《ばくはつ》跡地でどう暴《あば》れようと同じだろう。
「ひとんちでメシ食ってあんなツラして鬱々《うつうつ》として、『帰る』ですむと思うなよっ!? 一体なにがあったんだ!」
「下の大家と井戸《いど》端会議《ばたかいぎ》でもしてろこのヤジ犬っ!」
「いくらでもしてやるっ、ただしおまえの憂鬱の原因を聞いてからな!」
「あんたには関係ないっ!」
「なぜプールを嫌《いや》がる!」
「じゃー教えてあげるっ! 私泳げないのっ! それがやなのっ!」
「そんなふうにさらっといえることは本当の原因なんかじゃねえ!」
舌打ちと同時に大河はピボットターン、小柄な身を低くしたまま天オ的身のこなしで竜児の脇《わき》を突破する――と見せかけて、
「うわっ!?」
「チャーンス!」
こんなとき、大河は決して期待を裏切らない女なのだった。
「いっ……なぜこんなところに豆が!?」
畳に転がっていた大豆を踏んで尻餅《しりもち》、ぺったりと座り込んでしまったところを竜児は思い切り踏みつけた。大河を、ではない。大豆を、でもない。ふくらんで広がったスカートを、だ。
「ちょっとなにしてんだこのバカ犬っ! 離《はな》せ、どかせ、犬の足跡がつくっ、犬水虫がフリルにつくーっ!」
「うるせえなんとでも言え!」
じたばたと大河は立ち上がろうとするが、竜児がウエストに近い部分を踏んでいるため、まったく身を起こすことができない。あろうことかもがくたび、ゴムのウエスト部分が伸びてずり落ち、恐ろしいほど真っ白なわき腹や腰、下着の一部までチラリと覗《のぞ》く。
「んなーっ!? もーやだあっ! 竜児《りゅうじ》に豆で犯されるーっ!」
「人聞きの悪いことを言うなっ! この豆は泰子《やすこ》が起きたときに飲む手作り豆乳の名残《なごり》だー!」
「やっちゃんが!? 飲むですって!?」
「いつからそんなフランクな呼び方を!? あーっこのバカ!」
大河《たいが》はなにを思ったのか、突然その豆を摘《つま》み上げると高く放って口で受けた。……食ってしまった、踏んだ豆を。ボリ! ボリ! ボリ! と三回|噛《か》んで嚥下《えんか》、
「……まずい! もう一粒!」
言い放つ。
「当たり前だろ!? ああもうばっちい、なにやってんだ! 腹痛くするぞ!?」
「だってイソフラボン取りたいもんっ!」
「……はっ……」
スカートを踏まれたまま必死に喚《わめ》く大河の顔を見下ろし、そのとき竜児の脳裏《のうり》に稲妻《いなずま》が走った。
豆乳これから毎日飲むの〜、と泰子が言った時……
『だってえ、イソノボンボンとかいうのがあ、おっぱい大きくするってテレビでみたんだもん〜! しぼんじゃったらこまるから予防なの〜! やっちゃんかしこいっ!』
水着が決められない、と試着室で大河が泣いていた時……
『……でも……なんというか……か、身体《からだ》の一部が……』
イソフラボン。大豆。拾い食い。そしてプール拒否……水着|鬱《うつ》……
「……た、大河……おまえ……もしかして……」
「い、いや……いや! 言わないで……それ以上言わないで……」
怯《おび》えた目をした大河は胸の前でしっかりカーディガンをかきあわせ、すがるように竜児を見上げる。はいずって壁際《かべぎわ》に逃れ、首を必死に横に振り、言葉には、言葉にだけはしてくれるなと。
だが、言わなければなるまい。
言って真実を確《たし》かめなければ、大河との日常生活をこのまま続けることはできない。だから――
「……おまえ、貧乳なのか……っ!?」
「ひ――」
その夜、借家中に響《ひび》いた小さな虎《とら》の悲鳴こそが、後年竜児を苦しめる家賃の値上げに繋《つな》がったことは誰《だれ》も知らない。
***
げっそりしているわりに、憑《つ》き物《もの》が落ちたような妙にこざっぱりした顔をして大河《たいが》は言った。
――ここでしばらく待っていて。このドアを開けたら、ブチ殺すからね。
大河の暮らす超高級マンションのリビング。あれから二人して、高須《たかす》家《け》から徒歩数十秒のこっちに歩いてやってきたのだ。
相変わらずセンスよくまとめられた一人暮らしには広すぎるその部屋で、竜児《りゅうじ》はソファのはじっこにちょこんと座り、大河が現れるのを待っていた。大河は寝室にこもり、なにかゴソゴソやっている。
煌《きらめ》くモダンなシャンデリアがうっすら照らし出すホワイトとベージュの空間は、妙にシン、と静まり返っていた。高須家とはそりゃ遮音性能はまったく違うだろうが、それにしても嵐《あらし》の前のなんとやら風な腹にこたえる静寂に思える。
「……そんな、気にすることかよ……乳の大きさ程度のこと」
ポケットからマイ布巾を取り出して、とりあえずガラスのローテーブルを拭《ふ》いてやりながら竜児は一人ごちた。
春に出会って以来というもの、竜児は大河と短くも濃厚《のうこう》な共同生活を送ってきた。そして思うのだ。大河はどうも、小さなことをクヨクヨと気に病みすぎるきらいがあるのではないだろうか。
ついこの前も、名前が変だの背が小さいだのグジグジ悩んで引きこもっていた。出会ったあの頃《ころ》は北村《きたむら》が好きで、しかしどうにもできなくて、爆発《ばくはつ》しそうなほどにテンパっていた。そもそも異様に神経質で、それが気の荒さにつながっているようでもあった。そして今、大河は自分の乳の大きさが憂鬱《ゆううつ》なのだと言う。
あんなに綺麗《きれい》な顔をしていて、実乃梨《みのり》というすはらしい親友に愛されて、こんな贅沢《ぜいたく》なマンションに住んで、なにがそこまで不満なのかと――いや、この部屋に関してはむしろ憂鬱要因のひとつか。竜児は思わず息をつく。この部屋は、大河にとっては親に見捨てられた象徴でしかないのだった。
もしかして、そういう家族関係の軋轢《あつれき》が、あのアンバランスすぎる不安定な性格の原因なのだろうか。なにもかもをトラウマだのなんだのいう今の風潮《ふうちょう》に乗る気はないが、しかしそう思わずにはいられない。
怒りっぽくて、鬱っぽくて、情緒不安定ですぐ泣いて、罵倒《ばとう》の次の瞬間《しゅんかん》にはまっすぐこっちに助けを求めてきて――とんでもない手乗りタイガーもいたものだ。しかし竜児は結局、そんな大河の世話を焼かずにはいられなかった。傍《かたわ》らを離《はな》れることはできなかった。大河のことを野に放たれた肉食獣《にくしょくじゅう》と信じて疑わない学校の奴《やつ》らには、到底理解できない境地だろうが。
ここは、開き直るしかない。テーブルの足までぴかぴかに磨き上げながら竜児《りゅうじ》はそう思う。不安定な憂鬱《ゆううつ》タイガーに、今回は付き合ってやろうと決めた。
俺《おれ》は竜、おまえは虎《とら》、二人はいつでもワンセット……などと、大きくでてしまった言質《げんち》もとられ済みでもある。結局サポートせずにいられないなら、ここは真剣に、精神的な方向からアプローチしてみるべきだろう。
そうだ。乳の大きさが問題なのではなくて、それを問題だと思うおまえの心の大きさが問題なのだ、的な――
「……竜児……」
「……おうっ!?」
「……どうよ……」
「……ああ……っ……」
――いや。いやいやいや……やはり……しかし。
驚愕《きょうがく》のあまりソファから転落し、逆さの視界に映った衝撃《しょうげき》映像。
寝室のドアからぬっ、と出てきた大河《たいが》は、自分の悩みを証明するためだろう、今日《きょう》買ったばかりでまだ値札つきの紺《こん》の水着を着ていた。
腰まである長い髪が柔らかにまとわりつく細すぎる身体《からだ》。
間接照明に浮かび上がる、真珠色《しんじゅいろ》に輝《かがや》く肢体。
小柄なために勝手に幼児体型と決め付けていたが、意外なほどにウエストはくびれ、華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》はただ細いだけではない。
「……なに納得してんのよ‥…」
むっつりと落ち込む表情は暗いが、もとより精緻《せいち》なガラス細工めいた繊細《せんさい》な美貌《びぼう》だ。水着でスタイルをあらわにした大河《たいが》は、そのままフィギュアにして飾っておきたい見事な造形美でそこにあった。
あった、のだが――
「……確《たし》かに……平ら、かも、しれねえな……」
厚手の布地に大河の胸は、いとも簡単《かんたん》にぴったり押さえ込まれている。全然ないわけではないのはわかる、雪みたいに白い胸元のあたり、鎖骨《さこつ》のすぐ下まで微妙に薄《うす》い盛り上がりが影《かげ》を作っている。あれは多分《たぶん》押しつぶされた胸の肉で、多分大河の『平ら』の原因は、胸自体のサイズではなくて肉質が柔らかいせいなのだろう。
そして脇《わき》の下から背中にかけての水着のラインはあるはずのふくらみがないせいで、見て分かるほど悲しくたるみ、ちょっと動いただけで危うくずり下がってしまいそうになっている。要はここが、どうしてもサイズの合わない身体の一部分、というわけだ。
「……カップは?」
「……入ってるけど……ははは、ヘ……へこむんだ……はは」
大河は無表情のまま笑うという離《はな》れ技をやりつつ息をつき、北欧の有名デザイナーの手による革張りのイスに身を投げ出した。そして竜児《りゅうじ》は、
「……あ、あれ……?」
妙なことに気づく。大河が貧乳に見えてしまう原因をもっと真剣に探ってやりたいと思うのに、それ以上|視線《しせん》を大河に向けることができない。
晒《さら》された純白の肌や、捧《ささ》げ持つだけで砕けそうに華奢なガラスの器みたいな腰や、痩《や》せているのに骨ばっていない女らしい身体つきに、ほとんど恐怖に近い感情を覚えている。
この視線を向けることさえ暴力《ぼうりょく》めいてしまうというか――そんなひどいこと、かわいそうで絶対できねえ、というような。……したらいけない、と自分を鎖《くさり》で縛《しば》り付けたいみたいな。
「……平らでしょ……貧乳でしょ……だからやなのよ、プールなんか……」
大河の低い声も、今は耳穴を右から左へ。
言ってしまえば、駅ビルで見た亜美《あみ》の水着姿の方が綺麗《きれい》だった。スタイルもいいし、すみずみまで洗練されていた。しかし亜美を前にして、そりゃあドギマギも妄想もしたが、こんな恐ろしいような気持ちにはならなかった。亜美は休業中とはいえ人気モデルで、見てもらうことが仕事だからだろうか? 美しく完成されすぎていて、現実感がないせいだろうか? だけどだけどでも、でもでも――
「竜児《りゅうじ》、聞いてるの?」
こちらを見据える大河《たいが》の姿は、超リアルにそこに存在している。痛々しいほど、生々しく。手を伸ばせば簡単《かんたん》に掴《つか》めてしまう形をして。三十六度の体温で。
「と……とにかく、なにか羽織《はお》って来い。風邪《かぜ》ひくから」
竜児の言葉に大河は頷《うなず》き、バスローブを取りに寝室へと戻っていった。一旦《いったん》閉 じたドアを見て、
「……あ、あ、あ、あ、あ……」
両手を顔に。ゴシゴシと。
なんだろう。なんだというんだ。なぜ、こんな妙な気分にならなければいけない。しかもその上ものすごく、全身を震《ふる》わすほどの罪悪感があるのだ。なにもしてないのに、なにもなにもしていないのに――一体何が罪だという。
去年はね、ここまで悩んではいなかったの。と、バスローブ姿の大河は語る。
「悩んでいなかった、というか……気づいていなかったのよ。自分が貧乳ってことに。中学のときは水泳の授業なかったし」
やっとナゾの変調《へんちょう》から立ち直り、竜児はふむふむ、と大河の話を聞いていた。大河のマンションだが、お茶を入れたのも、菓子を出したのも竜児だった。
「去年は普通に、プールに入ったわ。でも、最後のプール授業の後で、あるモノを見つけてしまったの。……他《ほか》のクラスの男どもが、私の水着姿の写真を盗《ぬす》み撮《ど》りして流通させてたのよ」
「……そういや、そんなことやってる奴《やつ》らいたなあ……」
「もちろん、アジトだった写真部部室に殴りこみして真《ま》っ赤《か》な雨を降らしてやったけどね」
「……そういや、写真部って唐突に潰《つぶ》れたなあ……」
「で、これが、そのとき押収した写真よ。……これを見たら、私の悲しみがすこしはあんたにも理解できるでしょうよ」
ズイ、と裏返しのままて大河が突き出してきた写真を何の気なしに手に取った。表に返し、
「――おう! ひでえな!」
「……うぅぅ……」
写真の中の大河は今よりも短い髪を後頭部でお団子にし、むすっとつまらなそうなツラでプールサイドに立っていた。
その水着姿の胸の部分には油性マジックで矢印が引いてあり、持ち主の野郎が書いたのか売り主の野郎が書いたのか、ごく端的に一言、『哀《あわ》れ乳』……と。
「哀れ乳って、……哀れって! そこでやっと気づいたのよ! 私、乳の平らさで哀れまれてたんだって!」
「や、ちょっと待てって! これは単にこれを書いた奴《やつ》の感想であって……」
「違うね! だって私だって鏡《かがみ》見て思ったもんなにこれ哀《あわ》れって! ……うう、いやあ〜……」
大河《たいが》は情けない泣き声を上げ、とうとうテーブルに顔を突っ伏してしまう。
「北利《きたむら》くんの前で、この哀れな姿を晒《さら》さないといけないんだあ〜……今何時? もう九時過ぎだあ〜……あと十二時間でプールだあ〜……いやだあ……いやだよ〜……」
竜児《りゅうじ》は両目を刃物のように研《と》ぎ澄《す》まして口をつぐんだ。肌もあらわな大河を襲《おそ》う計画を立てているわけではない。静かに考えていたのだ。
「……わかった。俺《おれ》がなんとかする」
「……え?」
顔を上げた大河と真正面から目を合わせ、竜児は重々しく頷《うなず》いてみせる。
「サイズ直し、してやるっていっただろ。俺に秘策がある。水着脱いで一晩預けろ、夜なべになるかもしれねえけど、なんとか胸張って北村の前に出られるようにしてやる」
「りゅ……竜児……」
そのとき、見開いた大河の両目には、ほとんど一週間ぶりになる無防備な光が戻ってきていた。竜児を疑いなくまっすぐに見詰め、子供のようにあどけなく瞬《まばた》きし、
「……本当に? どうしてそこまでしてくれるの……?」
「だから、言っただろ。俺は竜、おまえは虎《とら》。……それだけだ」
――まさか、妙な気持ちになってしまった私的|贖罪《しょくざい》、などとは言えるわけがない。
***
「いいからもう帰って寝ろよ」
「ううん、ここでできるの待ってる」
再び高須《たかす》家《け》に戻ってきて、狭い2DKには久しぶりにまともな会話がかわされていた。いや……まともとは言い切れない。
「竜児がそれを終わるまで、私も起きて待ってるの。ゲームしてる」
「……大河……おまえ……」
こんなに竜児に優《やさ》しい視線《しせん》をくれる大河が、まともなわけがなかった。亜美《あみ》との例の事件が起きる前も、ここまて穏《おだ》やかな声など聞いたことはなかった。
しかも、こうだぞ。
「……なんか……。……なんかね、ずっと、意地を張って変な風になって……その……悪かったわ……」
――面倒《めんどう》でも、捨てたくなっても、ずっと大事に見守っていた卵はいつか割れてちゃんとかわいいヒナが出てくるのだ。そんな鳥のお母さんめいたじんわり温かな感慨が、ホームドラマにはとことん弱い竜児《りゅうじ》の涙腺《るいせん》を刺激《しげき》した。ラッキーなことにその感慨は、ほのかに残っていた罪悪感の残滓《ざんし》まで、綺麗《きれい》に流し去ってくれた。
結局夜中の三時を過ぎても竜児の渾身《こんしん》の針仕事は続き、
「……え? ちょっ? えーっ! なんだそれ! すごくねえ!?」
「竜児はそっちに集中してろってば」
ふと振り返ったテレビの画面では、見たこともない36連鎖《れんさ》の文字が躍《おど》っていた。
3
「なんかさー、俺《おれ》、ヘソが汚いんだよ……昨日《きのう》の夜|風呂《ふろ》で気がついて、姉《ねえ》ちゃんの綿棒に油つけてチュクチュクしたんだけど、かえって真《ま》っ赤《か》になっちゃってさあ……目立つ? ねえねえ能登《のと》っち、俺のヘソが汚いの見てわかる?」
「ヘソなんか誰《だれ》も見ないだろ。それよりさあ、俺、なんか脇毛《わきげ》長くない? 濃《こ》くない? 腕閉じでも正面から見るとはみでてんだけどこれどうなの? 乳毛だけははさみで切ってきたんだけど……高須《たかす》、おまえの脇ちょっと見せて?」
「やめろよ……おまえらなんか全然変じゃねえって。それにへソも脇も隠《かく》せるじゃねえか。……俺、最近これが気になってんだよ……俺の乳首って、黒いか? もしかして日に焼けたら、もっと黒くなるのか?」
はあ〜……。
真横に並んだ軽薄《けいはく》ロン毛の春田《はるた》、黒縁《くろぶち》メガネをタオルで包んで持ち歩く能登、そして水着姿の男どもの乳首をギラギラ光るケダモノじみた目で見つめまくる竜児――むしってやることを夢想しているのではない、自分のそれと色を比べているのだ。
男子といえどもお年頃《としごろ》、三者三様の肉体的コンプレックスを腹に抱えたまま、
「うわ〜、冷たそ〜……」
プールに浸《つ》かる前のお約束、ずらりと並んだシャワーの正面に立ち尽くす。
もちろん真水で出しっぱなし、素足にビチャビチャと跳ねてくる飛沫《しぶき》は鳥肌が立つほど冷たく感じる。しかし、浴びないわけにはいかない。
「……うぅぅぅううううっ! 冷てえーっ!」
二時間しか寝られなかった睡眠不足の肌に、遠慮《えんりょ》一切なしの真水シャワーが突き刺さるようだ。友人たちはどうしたか、と必死に薄目《うすめ》を開けて両脇を見ると、
「要は股間《こかん》が綺麗《きれい》ならいいんだろ? これでいいじゃん」
春田《はるた》は極力水がかからない距離《きょり》から水着のウエスト部分だけを開け、その中にシャワーを浴びて縮《ちぢ》む縮む、とかなんとか喚《わめ》いている。一方|能登《のと》は、
「ひー冷たいっ! なんか小学校の頃《ころ》とかさあ、絶対このシャワーの下で修行! とか言う奴《やつ》いたよな!」
唇を真《ま》っ青《さお》にしながら、懐《なつ》かしネタを出してくる。と、その隣《となり》、
「心頭滅却すればシャワーもまたぬるし! なーんみょーほーれーんそーにゃーんわーんにゃーん」
「……いたよ! 高校にも!」
なぜか眼鏡《めがね》をかけたまま、クラス委員長・北村《きたむら》祐作《ゆうさく》が両手を忍者のように結んでシャワーの下に立っていた。ばかだなあ……と思わず竜児《りゅうじ》も親友のはずの北村を遠巻きに見守ってしまうが、
「あ、眼鏡眼鏡!」
シャワーの勢いに眼鏡を落とされ、アホな修行僧は排水溝に流れていくのをへっぴり腰で追いかけていく――大河《たいが》、本当にこれがいいのか?
だが、男から見る北村と、女子が見る北村は、どうやら違う北村らしい。
「わーい気持ちいーっ!」
「あっ、まるおまるおー! 腕の筋肉見せてー!」
「腕の筋肉? ……こうか?」
きゃー! と女子たちの明るい歓声が、真っ青に抜ける眩《まばゆ》い夏空の下にきらきらと弾《はじ》ける。
天気は快晴!
水を張られたプールの水面はブルーのさざ波に輝《かがや》くよう!!
夏だ!!!
夏がきたぞ―――――っ!!!!
「……って感じだよね。あそこだけ……」
「うん……ここは寒いよな、なんか……六月にプールって早すぎねえ?」
んだ、んだ、と陰陰滅滅三人組は輝く女子たちのグループとその中心にいる北村を見ながらプールサイドに並んで腰掛け、ちゃぷちゃぷと淡いすね毛を漂わせながら水面を蹴る。この学校のプールの授業はその大半が自由時間で、泳いでいようと、プールの縁《へり》で拗《す》ねていようと、誰《だれ》も文句を言う奴などいない。
拗ね男たちの視線《しせん》の先では、北村を囲んだ女子たちがさらに明るい笑い声を上げている。「腹筋とかすごくない!?」「すごいすごーい!」だ、そうだ。部活をやっているせいか、北村の上半身は遠目にも見事に引き締まっていて、制服姿のときとはいい意味でまったく違う雰囲気に見えた。眼鏡《めがね》も外して実は整《ととの》っている容貌《ようぼう》も夏の眩《まぶ》しい日差しに晒《さら》し、時折見にくそうに切れ長の目を眇《すが》めてみせるのもなんだかすごくいい感じだ。
「まるお、眼鏡ない方がいいんじゃん!? コンタクトにしなよー!」
ビーチボールに掴《つか》まってプールに浮かびながら、木原《きはら》麻耶《まや》は明るい笑顔《えがお》をプールサイドの北村《きたむら》にむけている。
「……俺《おれ》だって今日《きょう》は眼鏡かけてないのにな……なんかたまに、ふと思うんだけど、俺って女子たちの目には透明《とうめい》に見えてるんじゃないかな、って……俺、いる? ちゃんと存在してるよね?」
「……怖がられて避けられなきゃそれでいいじゃねえか」
「まあまあ二人とも、そんなお葬式みたいな顔しなーい」
真ん中に座った春田《はるた》が双方を力づけるように肩を抱いてくれる。気味悪くくっつきあった男組の視線《しせん》の先で、
「きゃー! もう、やったなー!」
「やーん! つめたーい!」
弾《はじ》ける笑い声。飛び散る飛沫《しぶき》。女子たちの歓声。
水をかけあって大笑いしている麻耶は、ストレートロングの髪を今日はクシュクシュとした髪留めでルーズにまとめている。ほつれた髪が濡れた首筋に絡まっているのがなかなかいい感じかもしれない。
水着は黒、首の後ろで留める形になっていて、麻耶の背中は丸出しだった。華奢《きゃしゃ》な肩甲骨《けんこうこつ》と背骨の窪《くぼ》みが、日差しを浴びて金色《きんいろ》に輝《かがや》いているように見える。
「……83点!」
「おっ、きたねえ。能登《のと》っち早くも八割越え。ん〜……85!」
「……おまえら結構木原のこと好きだよな。俺は……77点」
「そんなもん? まあ、高須《たかす》はギャルっぽいの苦手だからなー」
「苦手っていうか……こわいんだよ……」
あー、なんとなくわかるわかる、と竜児は友人たちの同意を得る。傍《はた》から見れば竜児が一番こわいのだが、その辺は友情でカバーされたらしい。その六つの視線の前に次に現れたのは、
「眼鏡やめちゃったら、まるおくんはまるおくんじゃなくなっちゃうよねえ。あたしはまるおくんは眼鏡の方が似合うと思うな」
麻耶の親友、香椎《かしい》奈々子《ななこ》。2―Cの目立つ系女子・ツートップの片割れだ。プールサイドをのんびりと歩いて、北村の脇《わき》に寄り添うように立つ。
「あれ、なんだ香椎、プールに入らないのか?」
まるおと呼ばれて女子にかわいがられている貴族・北村に声をかけられて、ふるふる首を横に振るさまはどことなく優雅《ゆうが》。
「日焼け止め塗《ぬ》り捲《まく》ってるところ先生に見つかって、今日《きょう》は水に浸《つ》かるなって言われちゃったの。ついてないんだあ」
ゆるい巻き髪を泳ぐ気ゼロのまま肩に垂らし、口元のほくろが今日もなにやら色っぽい。体つきも麻耶《まや》に比べると多少ふっくらと柔らかなラインを描いていて、紫に近い紺色《こんいろ》の水着は肩紐《かたひも》の部分をリボン結びにするデザインになっている。
「ほどきたい! 86!」
「ほどきたい! 81!」
「多分《たぶん》、あれは結んであるように見えて縫《ぬ》ってあるぞ。……でも85」
うんうんうんうん、と頷《うなず》き合い、三人組はニヤニヤと笑う。約一名、スケベ以上のアブない目つきになっている奴《やつ》が混ざっているが。
そして、
「あ、亜美《あみ》ちゃんきたきたー! うっそー、超かわいいー! ほっそーい!」
「ごめえん麻耶ちゃん、髪がうまくまとまらなくて遅くなっちゃったあ〜!」
春田《はるた》がズイ、と前のめりになる。
能登《のと》がバッ、とタオルに包んでいた眼鏡《めがね》をかける。
竜児《りゅうじ》は――微妙な表情で、友人二人のためにちょっと身体《からだ》を引いてやる。
「嬉《うれ》しいなあ、あたし、プールって大好き! みんなとお友達になれて、最初のプールだもん! それってちょっと、特別だよね? すっごく楽しみにしてたんだあ!」
プールサイドに現れた亜美は、少々|内股《うちまた》気味に立ち、無垢《むく》な天使の笑顔《えがお》でプールの中の女子たちに大げさに両手を振っていた。
昨日《きのう》買った黒の水着に包まれたボディは当然のようにパーフェクト、その場にいた全員の視線《しせん》が一気に亜美に釘付《くぎづ》けになり、
「なんかもう、……感動した!」
「生き神さまじゃあ!」
見つからないようにこっそりと、春田と能登は拍手を送っている。竜児だけはうすらぼんやりと、
『ふっふ―――んっ! 亜美ちゃん、今日もさいっこうにかわいい! さあ、この天使様の降臨《こうりん》をひれ伏して拝むことを許可してやるわい愚民ども! さあ影《かげ》を舐《な》めろ、貴様らにはそれが最高のグルメだろう!? がはははははは!』
とか思っているに違いない亜美の本体を想像している。
亜美の外皮はむろんそんな中身の様子《ようす》などこれっぽっちも漏《も》らしはせず、
「あー、泳ぎたくってむずむずする! こっちに越してきてからジム通ってないんだもん! ちょっと一本、思いっきり泳いじゃおうかなあ!」
バレリーナのような優雅《ゆうが》な動きで腕を伸ばし、足を伸ばし、大注目の中を飛び込み台へ向かっていく。
「あ! おい亜美《あみ》、もっとちゃんと準備運動しないと」
幼馴染《おさななじみ》の忠告も「わかってるってば、祐作《ゆうさく》ったらおせっかいなんだからあ」と軽くいなして、
「――うーわ! かっけー!」
春田《はるた》の感嘆の声も然《しか》り。見事なフォームで滑り込むように水面へダイブ。浮き上がってきたと思ったら、あっという間にスピードに乗り、あきらかに泳《およ》ぎ慣《な》れている人間の余裕さえ見せる完璧《かんぺき》なフォームで、亜美は一気に25メートルを泳ぎきる。そして当然のように美しすぎる見事に小さなクイックターン、復路はなんとバタフライだ。
さすがの竜児《りゅうじ》もほれぼれと見惚《みと》れた。イルカのような素晴《すば》らしいスピード、素晴らしいフォーム、上がる飛沫《しぶき》の煌《きらめ》きさえ宝石のように輝《かがや》いて見える。
「……ぷは! あー、ゴーグルなしじゃ目が痛いなあ」
軽く息を切らして水から上がった亜美に、
「え? やだやだ、なに?」
クラス中から満場一致の大拍手が上がった。亜美はきょとんと大きな目を見開いて、戸惑《とまど》ったみたいに首をかしげる。それが今の泳ぎへの賞賛《しょうさん》と知るや、
「え〜!? も〜みんなやめてよ〜はずかしい〜! ただちょっとジムで毎日泳いでただけなんだってばあ〜! そうやって優《やさ》しくしてくれるみんなにこそ、拍手したいよ〜!」
顔を赤く染めて、小さく両手を叩《たた》いている。その仕草《しぐさ》がまた「かわいい〜!」「優しい〜!」「天使みたい〜!」とさらなる賞賛を呼ぶわけだ。
「いやー、ほんっと! 亜美タンと同じクラスになれてよかったー! な! 能登《のと》っち! な! 高須《たかす》! ……高須、なんで遠い目になってるんだよ……」
「……な、なんとなく……」
いやあ〜しかし! と唸《うな》ったのは能登だ。
「……いいもんだな! プールってさ!」
眼鏡《めがね》からは水滴を滴らせ、満面の笑《え》みで水面をバチャバチャと蹴《け》る。それに同意するように、春田も竜児もバチャバチャキックをして、
「いいもんだ!」
「いいもんだ!」
――やっとここにも、夏が追いついてきた。
結局、学校のプールというのはこれだ。これぐらいしか楽しみはないというか、これこそが醍醐《だいご》味《み》、というか。
普段《ふだん》は制服姿の身近な女子たちが、どんなスタイルをしていたのか。普段見ることのできない胸元の肌や、内腿《うちもも》や尻下《しりした》や、脇《わき》の下……そんな部位がどんなふうになっているのか。一年のうちのこの時期だけは、誰《だれ》でも平等に、合法的に楽しむことができるわけだ。特にこの学校のプールの授業はほとんどが遊びみたいなもので、面倒《めんどう》な検定だとか、何級がどうしたとか、そういうことは一切なし。これで体育の時間も潰《つぶ》れるのだから、大方の生徒にとっては一番楽しい時間なのだ。
とはいえ、もちろん女子は亜美《あみ》や麻耶《まや》や奈々子《ななこ》だけではない。
「うむむ……10、10、15、20……あいつらのグループは低調《ていちょう》だなー。もっと頑張ってくれよー」
だの、
「55、54……うーん、48。なんで女って、同じぐらいのかわいさレベル同士でつるむんだ? ま、きゃつらが平均ってところだな」
だの、おのれ等《ら》のことは棚に上げての辛口採点の場合もある。
「……ていうか、なんで|恋ヶ窪《こいがくぼ》が来てんだよ。あいつ英語教師だろ」
能登《のと》の視線《しせん》を追うと、確《たし》かに担任の恋ヶ窪ゆり(29・独身)が、ジャージに日傘、手袋、帽子、サングラス、という完全紫外線防備姿で、見学組の女子たちの中に混じり、騒《さわ》がしいプールの様子《ようす》を眺めている。春田《はるた》はそれを見上げてちょっと笑い、
「ゆりちゃんは多分《たぶん》、黒マッスル狙《ねら》いなんでしょ」
すごいあだ名で呼ばれている独身男性体育教師(34・本名|黒間《くろま》なんたら……下の名前は忘れた)を顎《あご》で指した。プールサイドに寝そべって、黒マッスルは肌をさらに黒く焼くのに専念しているらしい。確かに独身担任のサングラス越しの目線は、その油でギラギラした逞《たくま》しい背中に向けられている……ような気がする。竜児《りゅうじ》は思わず嘆息。
「……必死な感じ、とか言ったら気の毒だよな」
「気の毒だろ。俺《おれ》のヒミツ情報によると、ゆりちゃんの誕生日《たんじょうび》は九月。えーと、一ヶ月かけて交際して、一ヶ月婚約、三十路《みそじ》突入前に入籍! を狙《ねら》っていると見た。……そんなの、別にあせんなくてもいいじゃんねえ。つーか、よりによって黒マじゃなくても。俺、ゆりちゃんが『春田くん、付き合って!』って言ってきたら、多分付き合うよ」
「なんか、恋ヶ窪の必死さと春田の妄想が暑苦しい! ちっと泳ごーぜ高須《たかす》」
「そんなこと言うなって〜、俺も泳ぐ」
そろそろいい具合にジリジリ熱《あつ》く炙《あぶ》られていた肌を冷やそうと、男三人はプールに身体《からだ》を落とす。さっきまでは寒かったが、熱《ねつ》視線《しせん》を放つ担任のおかげだろうか、バカな友人のせいだろうか、今は冷たさがちょうどいい。
「おーし潜水《せんすい》対決ー! 潜水で向こうの端までな! ビリはジュースおごり!」
「おっしゃやろやろ!」
「じゃあいくぞ、せーの! ……」
で、潜《もぐ》ろうとしたそのときだった。
竜児は友を裏切って、肺いっぱいに孕《はら》んだ空気を「ぷぅ」とすべて吐いてしまった。プールの縁《へり》にしっかり掴《つか》まり、潜水《せんすい》レースを始めた奴《やつ》らのことなど振り返りもせず、邪悪な光を宿す両目を限界までギラギラとアブなく見開く。シャブが切れたわけではない。――きた。きてしまったのだ。
そんな竜児《りゅうじ》の心の声は、多分《たぶん》、誰《だれ》にもバレなかったはず。
さっきから、実はずっと探していた。
ずっと、いないなあ、とは思っていた。
「あ、高須《たかす》くーん! どうどう!? 水、冷たい!?」
タッタッタッタッタッタ、と走ってくるのは、太陽よりもなお眩《まばゆ》い、真夏が一番似合う最高の笑顔《えがお》。
「みのりん、走らないで! また髪の毛崩れちゃう!」
その後を追ってくるのは、長い髪をうまいこと大きな二つの団子にし、中国の娘さんのように耳の上でまとめて水着の上に白いパーカーを羽織《はお》った大河《たいが》。竜児に気づいた大河は、さりげなく小さく頷《うなず》いてみせる。頷きを返し、夜なべで作った「例のブツ」の順調《じゅんちょう》な稼動を確認《かくにん》。
とはいえ今はそれどころではない。実乃梨《みのり》が、竜児に笑いかけているのだ。手をふって、まるでストップモーションのように、きらきら輝《かがや》きながらこちらに走ってくる。
髪は高い位置でポニーテール。紺色《こんいろ》の水着は正統派。なぜダイエットなんかする、ウエストはきゅっと見事に締《し》まり、実はボリュームのある胸もちゃんと水着におさまっている。伸びやかな四肢は部活のせいだろうか、二の腕から先と膝下《ひざした》から先(靴下ラインより上)だけはかすかな小麦色に焼けていて――
「あははははー! ちょっとこのままプール一周するぐらい走って準備運動するかあ! と思わせてえ!」
「おうっ!」
竜児《りゅうじ》のうっとり熱《あつ》い視線《しせん》の目の前、実乃梨《みのり》は走り続ける体勢のまま、突如プールへ方向転換、そのまま突進。ザバーン! と笑顔もそのままに、水《みず》飛沫《しぶき》を上げて真正面から転落する
「み、みのりん!」
さすがの大河《たいが》も口を開いて見守る中、
「……あははははははー! 気持ちいいーっ!」
ザバッ、と実乃梨は顔を出す。そしてすぐ傍《かたわ》らで同じくプールに浸《つ》かっている竜児に「よう!」と軽く片手を上げ、
「大河、手かして! 一回上がるわ!」
「う、うん!」
「と思わせてえ!」
パッと大河の手を放し、プールの縁《へり》から上がろうとしていた体勢のまま、真後ろに再びダイブ。というか、再転落。
「……あははははははー!」
潜水艦《せんすいかん》のように急浮上、髪もなにもぐちゃぐちゃで構わないのか、そのまま心から楽しそうに大笑いしている。これが、昨日《きのう》あんなに水着姿を恥ずかしがっていた実乃梨だろうか。
そんな心の声が聞こえたのか、ズブ濡《ぬ》れの実乃梨は竜児にイエーイ、と親指を突き出して見せ、
「いやー、高須《たかす》くん! 私わかったんだよー、プールの中に入っていたら誰《だれ》にもこの腹を見せないですむってさー! ってわけで、泳いでくるぜ! チャオ!」
――荒っぽいクロールで行ってしまった。
「……な、なんだったんだ、あいつは……」
思わず呆然《ぼうぜん》と見送ってしまい、はたと気づく。実乃梨の水着姿を、結局二秒ぐらいしか見ていない。突然の登場に驚《おどろ》いてしまったせいで、その貴重な二秒の記憶《きおく》もうすらぼんやりしてしまっている。
「……しまったあ〜……っ」
「だらしない顔しちゃって……エロ犬だねえ、本当に」
気がつけば、パーカー姿の大河は置いてけぼり、プールの縁にちょこんと座り、
「……つめたい……」
真っ白なつま先をちょん、と一瞬《いっしゅん》水につけただけで、むっつり唇を尖《とが》らせている。その顔めがけてなんとなく、
「……それ!」
「にゃっ!」
手で水鉄砲を放ってやった。小学校六年のときに開発した、超高圧|高須《たかす》式水鉄砲だ。大河《たいが》は目をしばしばと瞬《しばたた》かせ、濡《ぬ》れた顔をごしごしとパーカーの袖《そで》てこすり、
「なっ、なにすんだこのばかー!」
「せっかくのプールなのにつまんなそうなツラしてんじゃねえぞ」
「いーの! プール嫌いだもん!」
真っ白な素足をざんざんざんざん! とバタつかせ、水|飛沫《しぶき》……というか、二メートルの水柱で竜児《りゅうじ》を襲《おそ》う。
「ぶわっ、やめろ!」
「えーい! さっきの仕返しっ!」
プールサイドにのんびり座ってなにが仕返しだ、
「見てろっ!」
竜児は思いっきり大河に向かって水をかけようと手を振り回し、大河は素早《すばや》く身体《からだ》をそらしてそれを避け、
「おっぷっ!」
――顔面に思い切り水を食らったのは、いつの間にか大河の背後に立っていた北村《きたむら》だった。
「……鼻に入った! びっくりした、おまえらまたじゃれあってたのか!」
大河はといえば、
「た、大河?」
想《おも》い人《びと》が半裸で登場、しかもその身体は男でもうらやましいほど引《ひ》き締《し》まり、眼鏡《めがね》を外した素顔はもはやまるおとは呼べない端正さ、ときて――パーカーのフードを頭にかぶって鼻の下まで思いっきり引っ張り、もじもじと身《み》悶《もだ》えて声をなくしている。
「あれ? どうした逢坂《あいさか》――だよな? 眼鏡がないからよく見えないが、その大きさは逢坂だ。なんで頭隠しちゃったんだよ、その頭、ねずみみたいでいいな、って言おうと思ったのに。なんだ、具合でも悪いのか?」
のたうち回るサマがよく見えていないらしいのを幸いに、大河は存分に身をくねらせ、
「なんでもない、なんでもない」
と呪文《じゅもん》のように繰り返す。そうしてさらに「あっちいってて!」などと後から後悔しそうな発言、
「えっ。……俺《おれ》、なにか悪いことを言っただろうか? なんか俺に冷たくないか? 高須、俺の悪いところになにか気づいたなら指摘してくれ」
悲しそうに北村が眉《まゆ》を寄せるのにも気づかない。というか、フードのせいで見えていない。竜児《りゅうじ》はプールの中から「しらねえ」と肩をすくめるのみ。
「いーの! いーから! いいんだってばっ!」
フカヒレを切り落とされて甲板《かんぱん》で暴《あば》れる鮫《さめ》のように、大河はさらにジタバタと激《はげ》しくのたうちまわって本当に北村《きたむら》を退散させてしまって、
「……どぅあ――――――――――――っっっ! 死ぬかと思っとぅぁ!」
バシャーン! とプールの水で、真《ま》っ赤《か》に火照《ほて》った顔を洗う。
「あーあ、なにしてんだよ。なんでせっかくの機会《きかい》だったのに話しなかったんだ? 後からぐじぐじ言ってもしらねえぞ?」
「いーのっ! だってっ、だってだってだって……恥ずかしいんだもん!」
さらに洗顔! 洗顔! と両手で水を思いっきり自分の顔にかけて、前髪までびちょびちょにしてしまって、
「……へへへ。頭、かわいいっていってたよね……?」
「かわいい、じゃねえだろう。いい、とは言ってたよな」
「(かわ)いい、ってことよね。……いひひ」
「眼鏡《めがね》がないからよく見えないけど、とも言っていたよな」
「ねずみみたいだって。……ねずみってかわいいよね? むふふ!」
大河は両手でそれぞれ右のお団子と左のお団子を軽く握って首を傾《かし》げ、眠たい猫みたいな顔で笑う。フードをかぶったせいでせっかくの団子は崩れかけてしまっているが、その辺までもはや回る頭はなさそうだ。
あーあ、と竜児は頭をかく。夏が来ても、せっかくのプールでも、やっぱり大河は変わらないか。
しかしまあ――平和だ。
水面は真《ま》っ青《さお》にキラキラと光り、プールには友人たちの歓声が響《ひび》き渡っている。
天気は快晴、風はなし。
夏の気配《けはい》はすでに濃厚《のうこう》。
これがいい。竜児は前髪を気にして触っている大河をそっと見守り、うん、と頷《うなず》いた。こんな日常が、やっぱり一番いい。
大河はへらへら北村ボケして、実乃梨《みのり》は……向こうでワニのようにザバザバ泳いで、ビーチボールで遊んでいる麻耶《まや》たち女子チームを怯《おび》えさせている。退散した北村は出席簿《しゅっせきぼ》を手に黒マッスルと何事か話をしていて、春田《はるた》と能登《のと》は大河がここにいるのを見て怯え、こっちに戻ってこれずにいる。担任は黒マッスルを熱《あつ》く見つめ続けていて、……そういえば亜美《あみ》の姿がないな。そんな事実に気づいてしまったその瞬間《しゅんかん》。
「あらあ〜、逢坂《あいさか》さん? やぁっと来たのぉ? なかなか出てこないからあ、もしかして水着のサイズがぶかぶかでぇ、みっともなくてみんなの前に出てこられてないのかと思っちゃったあ〜」
……いた。
濡《ぬ》れた髪をぎゅっと絞って全身から水をポタポタと滴らせ、亜美《あみ》はまるで日焼け止めのCMそのものみたいに太陽の下で微笑《ほほえ》んでいる――嫌味《いやみ》ったらしく声を甘くして。
せっかくの平和な日常が、虎《とら》対チワワの陰険対決によって壊《こわ》される。と竜児《りゅうじ》は苦々しく二人の様子《ようす》を見守ってしまうが、
「水着のサイズ? はあ? なに言ってんの? 寝言? あんた寝てんの?」
大河《たいが》は一転、冷静だった。眼差《まなざ》しこそ侮蔑《ぶべつ》に冷え切っていたが、口元には余裕ともとれる笑《え》み。そう、大河にはいまや(水着に関する事柄において)なんの憂《うれ》いもないのだ。
「ま、そうね……アホがつまらないこと言ってるし、そろそろ暑くなってきたからパーカー脱ごうかな」
するり、と大河は立ち上がり、細身に羽織《はお》った上着を脱ぎ去った。
顎《あご》をツン、と突き上げ、倣岸《ごうがん》に胸を反らし、太陽の真下に華奢《きゃしゃ》な四肢があらわになる。小柄ながら、精緻《せいち》なフィギュアのような無駄《むだ》のないバランス。獰猛《どうもう》な虎の名をもつ大河の裸体を隠《かく》すのは、いまや薄《うす》い水着一枚だけの危うさ――。
静まり返ったのは、数秒間だ。
やがて、おおおおお――地鳴りのようなうめき声がクラス中から湧《わ》き上がるのを、竜児は聞き逃しはしなかった。
う、と亜美は口をつぐむ。クラスの奴《やつ》らのひそやかな視線《しせん》は、大河の真っ白な肌に集まっている。
きっと皆、昨日《きのう》までの竜児と同じく誤解していたのだ。あんなに小柄な手乗りタイガーは、絶対に幼児体型に違いない、と。平らな胸板も哀《あわ》れを誘う、ひたすら痩《や》せて、背が小さくて、起伏に乏しいスタイルなのだ、と。
しかし見よ。
「あーあ、日に焼けたらやだな……赤くなるから」
憂《うれ》いを帯びた伏せ睫毛《まつげ》で頬《ほお》に影《かげ》を落としつつ、身体《からだ》をひねった大河のウエスト。まっすぐしなやかに伸びた背中。膝下《ひざした》が長い、組んだ足。どこもかしこもスラリと伸びて、華奢《きゃしゃ》には華奢だがしっかりと女らしい曲線を描き、そしてどうだ――どうだ、あの乳は。思わず竜児は片頬に、ニヤリ、と実刑寸前の笑《え》みを浮かべる。
完璧《かんぺき》すぎるデキだった。
でかい、とは言わない。だが、決して小さくはない。あくまでも水着を自然に盛り上げる、完全お椀型《わんがた》の見事なドームが左右にちゃんとひとつずつ。大河がさりげなくも得意げに身をそらすたび、柔らかにぷるぷると震《ふる》えるわけだ。
題して、『偽乳パッド』。それこそが高須《たかす》竜児作、夜なべで縫《ぬ》った最高傑作だった。
泰子《やすこ》の着なくなった服から外したパッドを微妙に厚みがグラデーションするよう、ずらしながら切りそろえて重ね、一針一針、慎重に丁寧《ていねい》に縫《ぬ》い合わせ、プロ顔負けの完璧《かんぺき》な針運びでほつれひとつ作らぬままに、水着にそっとスナップで固定されている。あまりにも超自然なその出来栄えに、試着した大河《たいが》は感動に頬《ほお》を赤らめて、嫁に行くときは必ず持っていくと竜児に誓った今朝《けさ》の明け方、午前四時――。
「……なーんだ。普通にスタイルいいんじゃん、つまんねえの。まあ、縮尺《しゅくしゃく》は相変わらずまちがってるけど」
心の底からつまらなそうに亜美《あみ》は呟《つぶや》き、腹黒な素顔を一瞬漏《いっしゅんも》らす。大河は「ばかね」と顔をそらし、亜美に背中を向けておいて、
「……やったね……」
竜児《りゅうじ》に小さなガッツポーズ。竜児も水中でガッツポーズ。
周囲からかすかに漏れ聞こえてくる男どもの囁《ささや》きは、おそらく去年の哀《あわ》れ乳写真を見ていたのだろう、「……一年でよくぞここまで……」「無事に胸部の成長|確認《かくにん》……」「俺《おれ》はやっぱりタイガー派だ……」などと。完全に誰《だれ》もが騙《だま》されていた。大河は珍しくも上機嫌《じょうきげん》、無防備な笑みに頬《ほお》をふくらませてプールサイドに再び座り、水の中に足だけつける。
「竜児、さっきのアレのやりかた教えて。さっきのぴゅーってやつ。みのりんにやってやるんだ」
両手を組み合わせて見せ、ねだっているのは水鉄砲のやり方らしい。
「おう。まず両手をぴったりくっつけるだろ。そしたらそのまま水に入れて、」
「こう?」
大河は素直に教えられたとおりに手を組んで、前かがみになってプールの水にその手を入れる。ばかだなあ、と竜児は接近してきたその顔|狙《ねら》って、
「こう」
ぴゅ、と水をぶっかけた。
「うぷっ……あんたねえ!」
濡《ぬ》れた顔を手の甲で拭《ぬぐ》って竜児を軽く睨《にら》みつつ、
「……いいもん、やり返してやる。動かないでよ……そこにいてよ……」
大河は同じようにやってみようと両手を軽く膨らませ、勢いよくきゅっ、と握って水を噴射《ふんしゃ》。
「うぷっ!」
自分の顔にぶっかけている。ものすごいドジだ。実はドジなのと同じレベルでばかなんじゃなかろうか。竜児は思わず吹き出して、嵩《かさ》にかかってさらに攻撃《こうげき》。
「こうだよこう! なんでできねえんだよ! こう!」
「やっ! ちょっ! うぷっ! 竜児っ! あんたただじゃおか……はぶっ!」
大河は避けようと必死だが、目を開けることができなくて、立ち上がれないまま両手で懸命《けんめい》に顔を覆《おお》っている。もしかして、生まれて初めて大河《たいが》の優位《ゆうい》に立ったかもしれない。
「おらおらこうだっ!」
だが、おごれるものは久しからず、
「こらー! 大河をいじめるんじゃなーい!」
「ぶわっ!」
ドゥンッ! と今まで受けたことのない重い衝撃《しょうげき》が鼻を襲《おそ》う。鼻から喉《のど》まで水が沁《し》み、それが弾丸のように打ち込まれた水だと気づくまで数秒、さらに射手が結構|離《はな》れたところにいる実乃梨《みのり》だと気づくまでにもっと数秒。
「ふはははは! どうだ、櫛枝家《くしえだけ》に伝わる秘伝の水鉄砲の威力は!」
「ど、どうやったんだ今の!? 超痛かったぞ!?」
「大河をいじめる人には教えませーん」
いえーい、とブイサインを作り、実乃梨は一番深いプールの中央に近い辺りで器用に立ち泳ぎをしている。さすがは関東を制した狂犬……じゃなくて、強肩、スポーツ全般お手の物なのかもしれない。
「みのりん、助けてくれてありがとう!」
大河は瞳《ひとみ》を情熱的《じょうねつてき》にきらきらさせて救いの主に微笑《ほほえ》みかけるが、実乃梨はそんな大河をチラリと見、にや、と笑い、
「……偽乳《ぎにゅう》特戦隊……」
――とだけ言い残して、潜水《せんすい》開始。水底を滑るアリゲーターよろしく、不審《ふしん》な影《かげ》は去っていく。
「ば、ばれてる……」
「さすがはみのりん……」
思わず二人は手を取り合い、震《ふる》えて肩を寄せ合いたい気分でそっとプールサイドに佇《たたず》む。
と、プールの反対側でドーン! と乱暴《らんぼう》な水《みず》飛沫《しぶき》があがった。驚《おどろ》いてそちらを見てみると、
「うわははははっ、どうだっ! 自分ばっかりモテやがって!」
「俺《おれ》たちは格差社会に疑問を呈すっ!」
プールサイドで高笑いしているのは能登《のと》に春田《はるた》。そしてようやく水面に顔を出し、
「……っげほっ! お、おまえらなあ……っ! ええいくそっ、やりかえーすっ!」
抜き手で二回、あっという間にプールから上がり、逃げそびれた能登を捕らえたのは大河に追い払われて傷心(?)の北村《きたむら》だ。クラス委員長ともあろうものがなんと高々とバックドロップ、
「ややややめ眼鏡《めがね》が眼鏡が……うわああああああ――――っっっ!」
「これが夏だドロ―――――ップ!」
思い切り背を反らし、諸共《もろとも》にプールへ背面ダイブ。ド派手《はで》な水柱がもう一発上がる。さらにその向こうでは、春田《はるた》が別の奴《やつ》らに捕まって両手両足を持たれて振られ、勢いのついたところで、
「それゆけ地獄のゆりかご―――っっっ!」
ザバーン! と水中に放られている。
「さあさあ祭りだっ!」
「ブチ落としてやるっ!」
あっと言う間にプールサイドは阿鼻《あび》叫喚《きょうかん》、落とした奴が突き飛ばされ、這《は》い上がってきた奴は蹴《け》り落とされ、
「きゃーやめてやめてやめ……いや―――っっ!」
優雅《ゆうが》に昼寝を決め込んでいた奈々子《ななこ》も向こうで思い切り放られている。男子も女子も関係なしのバトルロワイヤルがおっぱじまった。
「うわっ、ちょっ……あぶねえぞこれ!?」
すぐ目の前に落ちてきた奴の飛沫《しぶき》を思い切り浴び、慌てて竜児《りゅうじ》はプールから上がろうと足を縁《へり》にかけるのだが、
「獲物《えもの》発見伝!」
「いくぞソフト部同盟!」
「は? ……わ、わわわっ!」
右には実乃梨《みのり》。左には北村《きたむら》。気がついたときには竜児の身体《からだ》は腕を掴《つか》まれて宙に浮き、背中からプールに放り投げられていた。
真っ白な泡の中を必死にもがいて顔を出すと、
「あ、あいつら……っ! げほごほごほっ!」
とっくにソフト部同盟は次の獲物を捕らえに走り出している。「きゃー!? うそ!? うそでしょー!?」……甲高《かんだか》い悲鳴は麻耶《まや》らしい。
正面では大河《たいが》がコロコロと笑い、
「やーい、落とされてやんの! よかったじゃん、みのりんに触ってもらえてさ」
などと竜児を楽しげに見下ろしている。さすがに手乗りタイガーを水中に放れるような人材はこのクラスにはおらず、それを自覚しているために大河もこんなに余裕なのだろう。
「ち、ちくしょー! いっそ俺《おれ》が落として……」
やろうか、と思ったその次の瞬間《しゅんかん》、
「みぃ〜つ・け・た※[#「ハートマーク」] まだ落とされてない子※[#「ハートマーク」]」
世にも底意地の悪そうな声が、大河の背後で不吉に響《ひび》く。そういえばいたか、この逸材が――川嶋《かわしま》亜美《あみ》。
「あ、あんた……っ!」
すっかり余裕ぶっこいていた大河は、反応が遅れて立ち上がりそびれる。そこを亜美はわき腹を掴《つか》んで「わっせろーい」の要領でヒョイ、と抱き上げてしまい、
「遊びよ遊び※[#「ハートマーク」] 本気で怒っちゃや〜あよっ! おるぁっ!」
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っっっ!」
ザバーン! と大河《たいが》を放り投げた。派手《はで》に飛沫《しぶき》を上げて大河の身体《からだ》は水中に沈み、
「きゃはははっ! ザマーみろ!」
「お、おまえそんなこと言ってる暇があったら逃げた方がいいんじゃねえの!?」
「へっへ、あの生意気タイガーの泣きっ面拝んだるんじゃいっ!」
今にも小《こ》躍《おど》りしそうな亜美《あみ》の目前、しかし大河は浮かんでこない。泡だけがポコポコと浮かび、やがてそれも、ポコ……と消えた。
「……あ、あれ?」
竜児《りゅうじ》は永遠にも思える時間を無《む》意識《いしき》に数えながら思っていた。そういえば大河はなにか言ってなかったか? 確《たし》か、確かええと――なぜプールを嫌《いや》がる! と、自分が聞いて、大河は……じゃー教えてあげるっ! 私泳げないのっ! それがやなのっ! ……とか、なんとか。
ええとつまり。
「……本当に泳げねえのかっ!? 溺《おぼ》れてるっ!?」
「は? ……マジで?」
さー、と亜美の顔が青くなり、同時に竜児は速攻、一息に潜《もぐ》って壁《かべ》を蹴《け》った。
必死に三回|掻《か》いたところで、水中で丸くなっている大河の身体に手が届く。一気に浮上、
「ぷはっ! おい、大丈夫かっ!? って、おいおいおいおいっ!?」
「そそそそれどころじゃなばばばばばいっっ!」
しかし大河はもがき、暴《あば》れ、竜児の腕から逃れようとするのた。顎《あご》を押し返された拍子、二人の身体は水中に沈む。水を大量に鼻から飲みつつ、それでも無我夢中、竜児は再び大河を支えてなんとか水面に顔を出すが、
「やばばばばばばいいいいいっ! ぶがぶがぶぐっ! どぼぢよーっ!?」
「な、なんだってんだばばばばばばっ!」
大河は水をがばがば飲みつつ、真《ま》っ赤《か》になった両目で何かを必死に探している。その手は竜児にも捕まらずに自分の胸元を掴むように隠《かく》し――
「まっ、まさかばば!?」
「とれちゃったばばばばっ! か、片方だけぇベベベベっ!」
取れた、といわれりゃあれしかない。そう、あれだ……あの、
「ひーっ!?」
数メートル先に漂っている、あの、偽乳パッド。竜児は片腕に大河を抱えたままで必死に誰《だれ》にも見つからないままパッドの回収に成功するが、
「うそでしょっ!? なんで泳げないっていわないのよっ!」
「うぎゃっ、やだっ、来るなばばばばばっ!」
もがく大河《たいが》と竜児《りゅうじ》の姿は、亜美《あみ》には溺《おぼ》れているようにしか見えなかったらしい。見事なフォームて亜美は飛び込み、こっちに救助に来てしまう。まずい、こんな片乳ふっくら片乳ホライズンな様子《ようす》を見られたらなにを言われるか――ええいままよ!
「ふぎゃっ!?」
一瞬《いっしゅん》竜児は大河とともに水中に沈み、早業だ。……本当に、秒の世界の早業。ガボガボともがく大河の水着の胸元をグイ、とその手で――その手で、開けた。
その手をえい! と暖かな内部に差し入れて、パッドを定位置にはめた。そうするしかなかったのだ。なにかに触れたかもしれない。しれないけど、でも、仕方なかった。
その瞬間、水中で、大河が何事か叫ぼうとしたのだけはわかった。大きく開いた虎《とら》の口から、でかい泡が一気にボコボガと弾《はじ》けたから。
***
「え、なになに、どーしたの!?」
「亜美ちゃん、手乗りタイガーのことプールに落としちゃったじゃん。あれで……」
「ひえぇ、やばいんじゃないのぉ〜?」
――などと、クラスの奴《やつ》らがヒソヒソ肘《ひじ》をつつきあうが、事はそんな小さなモンではないのだ。
「だからあ、泳げないなんて、あたし本当に知らなかったのよ! ごめんって言ってるじゃなーい」
「ごめんで済む問題じゃない……っ」
大河はもはや亜美を前にして吼《ほ》えることさえできず、自分の机に突っ伏して、長い濡《ぬ》れ髪《がみ》の隙間《すきま》からギラギラした目を光らせている。
そう、ごめんで済む問題てはないのだ。竜児はほとんど凍りついたまま、二人の成り行きを見守っている。
屈辱――それが『あの』後プールサイドに引き上けられ、大河が発した唯一の言葉だった。もちろんそれが指すのはプールに放られたことなんかよりも、むしろ、竜児がやらかした『あれ』のこと……。よかれと思ってやったことだが、今になって思い返せば、確《たし》かにやりすぎたと思う。手の甲になにか触ったし、泡の向こうにも、地平《ちへい》線《せん》みたいななにかが見えていた気がする……。
「あんたが、あんな下らないことしでかしたせいでっ、わ、私は……っ」
「『私は』なによ。なにかあったの?」
「……とにかく謝《あやま》れっ! 謝れ謝れ謝れーっ!」
突っ伏した机をガタガタ揺らし、大河《たいが》は顔面を机にこすり付ける。なんだか『手乗りタイガー』にしては迫力の足りない怒り方だが、まさかその原因が、乳を見られた(かもしれない)屈辱に塗《まみ》れているせいだとは誰《だれ》も気がつくまい。……竜児以外。
「もう、一体どうしろっていうの? さっきから何度も謝《あやま》ってるのに」
なんとか天使の仮面を被《かぶ》ったまま大河に対峙《たいじ》していた亜美《あみ》だったが、さすがにそろそろ、苛立《いらだ》ってきたのかもしれない。フン、とごくごくわずかな毒を湛《たた》えた笑《え》みを唇の端に乗せ、
「それにしても逢坂《あいさか》さんがカナヅチとはねえ……なんだかお気の毒〜。かわいそ〜。今まで随分恥をかいたんじゃないかしら〜。泳げなくって放課《ほうか》後《ご》残されたりとかあ?」
声をひそめ、同情めかした嫌味《いやみ》攻撃《こうげき》。クラスの奴《やつ》らはそんな嫌味にはまったく気づかなかったと見るや、「そっかあ〜」とわざとらしい甘い声で頷《うなず》きながら、周囲の視線《しせん》を十分に意識《いしき》しながらの嫌味の上塗り戦術に移行する。
「せっかくの夏なのに、泳げないんじゃ海とかプールとか行けないよねえ? やだー、それって最悪ー。あ、それに、逢坂さんが行けないってことは、もしかして仲良しの高須《たかす》くんも行けないってこと? うっそー、超不幸ー! 高須くん、あたしでよかったら誘うから、一緒《いっしょ》に行こうね※[#「ハートマーク」]」
……どういう理論《りろん》でそうなったかは知らないが、とにかく亜美は対大河戦において一番有効と信じている竜児いじりを開始したらしい。だが、困るのは竜児だ。
「え……なんで高須《たかす》くんが亜美《あみ》ちゃんに誘われてるの……?」
「高須ばっかりなんで!?」
目に見えるほど唐突に、事態の推移を見守っていたクラスの奴《やつ》らの目の色が変わる。いや、ちょっと待て、と竜児は無関係を貫きたいが、
「そうだ! あのね高須くん、うち別荘があるのー! もしよかったら、一緒《いっしょ》に別荘で過ごさない?」
「……は?」
亜美は大河《たいが》の脇《わき》を素通りして竜児の傍《そば》まで歩み寄り、
「うん、そうしようよー! 決まり! いいでしょ?」
チワワの瞳《ひとみ》をうるうると輝《かがや》かせ、ちょこん、と首を傾ける。ざわ、とさらにクラスの雰囲気が妙な具合に盛り上がる。
なぜ高須? なぜ別荘? なぜなの亜美ちゃん!?
「ちょっと待て! なんでいきなり俺《おれ》とおまえの夏の話になるんだよ! おまえは大河に謝《あやま》ってたんじゃなかったのか!?」
「え? そーだっけ?」
わすれちゃったあ〜、とえせ天然の笑顔《えがお》でコツン、と頭を叩《たた》いてみる亜美の背後、
「……ああもうくだらないっ! もういいっ! 勝手にどこへでも行けド淫乱!」
思い切り音を立てて席を立ち、大河は集まってきていた奴らの間をモーゼ状態でズンズン歩いていってしまう。亜美はちょっとつまらなそうに唇を尖《とが》らせ、しかし追い討ち。
「絶対絶対行こうねー、高須くん! きっと楽しいよ、夏の間ずっと一緒に過ごすの!」
「あのなあ、おまえいい加減に……」
「えー、だめえ? それじゃあ……そうだ、祐作《ゆうさく》も一緒ならいいでしょ?」
ピタ。
と、大河の歩みが止まる。
グルン、と踵《きびす》を返すなり、再びドスドスと大股《おおまた》でやじうまたちの間をとって返し、
「おう!?」
無言のまま。
亜美ににじり寄られていた竜児の手首を万力のような強さでガッキと掴《つか》み、
「……あらあ〜?」
「……なによ」
振り回すようにして、竜児《りゅうじ》を自分の背の後ろに隠《かく》したのだ。亜美の目が、おもしろいものを見つけたみたいに楽しげに細められる。クラスは休み時間だというのに今や沈没直後のタイタニックのごとく静まり返り、隣《となり》のクラスの喧騒《けんそう》さえ聞こえてくる。そりゃそうだろう、傍目《はため》には『手乗りタイガーが高須を無理やり亜美から引《ひ》き離《はな》した』としか見えないのだから、無責任なギャラリーどもは息だってなんだって飲みまくりだろう。
でも、竜児《りゅうじ》には、わかる。ちゃんとわかる。大河《たいが》が引っかかったのは、もちろん竜児がどうのこうのなんかではなく、「祐作《ゆうさく》も一緒《いっしょ》なら」の部分なのだ。
「どうしたのかな? 逢坂《あいさか》さん」
「勝手な真似《まね》は許さないわよ……」
「……さっきと言ってることが違うじゃない? 勝手に行けって言わなかった?」
「……夏休みずっと、となれば話は別よ。竜児には私のごはんの支度《したく》とか、いろいろやることがあるの。だから、行かせるわけにはいかないのよ」
「……へーえ? 『竜児は私のもの!』……ってことお? 大胆ねえ」
「……誰《だれ》がそんなこと言った? 耳鼻科行った方がいいんじゃない? それとも私が貫通させてあけようか、その詰まった右耳と左耳」
上から見下ろし、唇を引きつらせる亜美《あみ》。
下から見上げ、倣岸《ごうがん》に胸を反らす大河。
もはや竜児など二人の視界には入っておらず、垂れ込める気配《けはい》は一触即発。
先に動いたのは大河だ、ズイ、と一歩前に出て、甘く蕩《とろ》けてさえ見える笑《え》みを白い美貌《びぼう》に浮かべ、内緒話をするみたいにつま先だって亜美に囁《ささや》く。
「あんた、これ以上勝手な真似したら、こないだの物真似百連発映像を流出させてやるからね……あ、百五十、だったかしら?」
亜美の顔色が一瞬《いっしゅん》、ドス黒い血の色に影《かげ》を帯びる。が、天使の仮面はそれしきのことで剥がすわけにもいかないのだろう。に[#「に」に濁点]……っごり[#「り」に濁点]、と、なんとか清らか笑顔《えがお》を返し、そっと屈《かが》んて大河の耳元、
「そんなことしたら、こっちこそ肖像権侵害で訴えてやる……さすがの手乗りタイガーも、法の裁きには勝てないでしょ〜?」
「くっ……ふふふ……」
「……あはは……」
「うふふふふふふ!」
「あはははははは!」
クラス全員が見守るその只中《ただなか》、ビキビキ、と双方こめかみに浮かべた青筋が今にも血を吹くと思えたその瞬間。
「やめたまえ! ……拳《こぶし》に傷がつくぜ?」
「み、みのりん!?」
繰り出し準備完了されていた大河の拳をきつく押さえ、二人の間合いに飛び込んだ命知らずは実乃梨《みのり》だった。
「さあさあ! 双方|離《はな》れて! 離れて離れて!」
てい! と大河《たいが》と亜美《あみ》の胸を押して距離《きょり》を取らせつつ、実乃梨《みのり》は高らかにお説教モードに入る。
「二人とも、いい加減にしなさーい! 大河と川嶋《かわしま》さん! 無理して親しくしろなんて言わないけど、いくらなんでも君たちは仲が悪すぎーる! 最近の様子《ようす》は目に余りますよ!?」
「でもでもだって実乃梨ちゃん、逢坂《あいさか》さんがあたしのことをね、」
「このアホチワワが悪いのよ! あんたが転校なんかしてこなけりゃ、あんたがこの世に存在しなけりゃ、」
「あーもー! だまらっしゃいっ! ほらそこ大河っ、胸倉《むなぐら》掴《つか》まないっ! 肉弾戦なんてしちゃいかん! 拳《こぶし》で友情を育てたいのはわかったから、それなら喧嘩《けんか》じゃなくって、尋常にスポーツで決着をつけなさーい!」
「えええっ!?」
……と声を上げたのは、しかし大河だけだった。竜児《りゅうじ》を含めたギャラリーたちは声もないまま「……?」と首をかしげ、実乃梨のとっぴすぎる思考についていけずに眉《まゆ》をしかめる。意外にも亜美はふふん、と余裕、
「あ、それって楽しそうかもー※[#「ハートマーク」]」
眩《まばゆ》い笑顔《えがお》を器用にクラス中に振りまいて、
「あのねあのね、あたし、みんなにわかって欲しいんだけどね、本当は逢坂さんと仲良くしたいの! 高須《たかす》くんとふざけてるのとか羨《うらや》ましくて、ついつい高須くんにも誤解されちゃうようなこと言っちゃうこともあるんだけど、本当はいっつもね、逢坂さんとお友達になりたいなあって思ってるんだ! ……ほら、あたし、ちょっとぶきっちょだからなかなかうまくできないけど、けどね、でもね、これって……ほんとなんだよ?」
今の騒動《そうどう》で危うくなったあちこちの綻《ほころ》びを、うまい具合にフォロー完了。
だよなあ、亜美ちゃんが本気で高須|狙《ねら》いなんてあるわけないもんなあ――そんな囁《ささや》きを耳にして、亜美はにっこりさらに微笑《ほほえ》む。竜児にはわかる、してやったりの表情で。
納得いかないのは大河の方だ。
「なんで!? どうして!? なによそれ、冗談《じょうだん》じゃないっ! くっだらないにもほどがあるわよこのアホチワワとスポーツぅ!? 笑い事にもなりゃしないっ、末代までの恥さらしだわっ、なんでそんなことしなきゃいけないのよっ! だいたいみのりん、なんで私の味方してくれないの!?」
「あほたれがー!」
「あうっ」
実乃梨の手加減なしの本気チョップが大河の脳天に突き刺さる。
「大河、これはあんたのためなんだぜ!? 学生のうちはこれでもいいけど、あんた社会に出たらそんなんじゃ通用しないんだよ!? 気に食わない会社の人とか仕事相手の人とかみんな、そーやって襲撃《しゅうげき》して回るんか!? いい、言うこときかなきゃ、私も川嶋《かわしま》さんの別荘についていって、夏中友情を深めちゃうからね! あーみん! ちゅっちゅっ!」
「やだー実乃梨《みのり》ちゃんたらー大胆ー」
亜美《あみ》に実乃梨はしがみつき、真っ白な頬《ほお》にむしゃぶりつくような接吻《せっぷん》を繰《く》り返す。「女っていいよな……」と男の誰《だれ》かが低く呟《つぶや》き、大河《たいが》は「むきー!」と地団太《じだんだ》を踏んだ。
「……いいわよ! わかったわよ! そこまでみのりんが言うんなら、なんだって受けて立ってやる! ただし、私が勝ったらあんたの物《もの》真似《まね》映像の鑑賞会《かんしょうかい》を開くからね!」
「それじゃああたしが勝ったら、高須《たかす》くんはうちの別荘で夏中あたしと過ごすってことね※[#「ハートマーク」]」
――あんたはそしたら夏中ずーっと一人ぼっちよ、と、亜美が毒づいた最後の一言は、多分《たぶん》野次《やじ》馬《うま》たちの耳には届かなかったはずだ。
「それじゃあいきます! ドゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル」
人間の口から発せられているとは到底思えない巧みな口ドラムロールで場を盛り上げつつ、実乃梨は目をつぶり、コンビニのビニール袋の中に手を突っ込んでかき回す。その中には同じように折りたたまれた、同じ大きさの紙切れが二枚。そのうちの一枚には大河が望む対戦方法が、もう一枚には亜美が望む対戦方法がそれぞれの手によって書かれている。
「……ジャカジャン!」
口ドラムロールが終わり、実乃梨はついに一枚の紙切れを掴《つか》み出した。
大河と亜美を先頭に、竜児《りゅうじ》も含めたクラス全員が、教壇《きょうだん》の上で実乃梨の指が開いていくその紙を注視。読まれる内容に耳を澄ませる。注目の中、コホン、と実乃梨は改まって咳払《せきばら》い、
「ヒョー! ショー! ジョー!」
……ぽかん、と2―Cの仲間たちの頭上に巨大なはてなマークが浮かぶ。わざとに違いない外人っぽさで放たれた、今の言葉の意味はなんだ……?
「あー、今のは故デビッド・ジョーンズ氏の物真似だな。大《おお》相撲《ずもう》本場所で優勝《ゆうしょう》力士にパンアメリカン航空|賞《しょう》を贈呈《ぞうてい》していた千秋楽《せんしゅうらく》の名物外国人だ。ちなみに結構似ている」
北村《きたむら》の「なぜおまえが知っている」的解説に、さらなるはてなマークが追加されるが。
「なんてな! さあ、遊びの時間は終わりだぜ、皆の衆。発表します! えー、今回のスポーツ対決の競技《きょうぎ》は――」
実乃梨は一旦《いったん》言葉を切り、亜美の方へ「にっこ!」と笑って見せ、大河の方へ「んーあ」と口をひん曲げて見せた。
「――川嶋《かわしま》さん提案の、『25メートル自由形一本勝負!』」
おおー、パチパチパチ! と拍手が湧《わ》く中、亜美は「よかったあ、ラッキー!」と周囲に愛想《あいそう》を振りまき、大河はわずかに口元を歪《ゆが》ませる。竜児もまた、その傍《かたわ》らで、きつい両目をギリリと吊《つ》り上げる。公平なくじびきで決まった結果とはいえ、カナヅチの大河《たいが》にはあまりに過酷《かこく》な競技《きょうぎ》方法だ。さっそく周囲からは、「こりゃ勝負は決まっちゃったようなもんじゃん」と呟《つぶや》く声が漏れ聞こえてくる。
勝負の日は、今学期最後のプールの授業に設定された。ちなみに破棄された大河の提案は、「バーリトゥード」だったという。
4
「このクラスは優秀《ゆうしゅう》だなあ。一年生の水泳やったクラスなんか、ほとんど全員居眠りしてたぞ」
教壇《きょうだん》の上からにこやかに教師が見下ろす2―Cの生徒たちは、確《たし》かにプール後の授業とは思えないほど、みなきっちり目を見開いて静かに授業を受けていた。だが、その静けさの中に押し殺したような妙なテンションが生徒たちの間を電流のように駆け抜けていることに、教師はまったく気づいていない。
もちろん竜児《りゅうじ》も、ギラつく両目を見開いている一人だ。その目はもちろん、テキストなどまったく追っちゃいない。落ち着きを失っておどおどと焦点をぼやけさせ、思うことはただひとつ――さっきの休み時間のできごとのみ。
なんだってこんな騒《さわ》ぎになった。なぜ、巻き込まれなくてはいけない。
ああ……とエンピツの尻《しり》を噛《か》み締《し》めたときだ。
「……ん?」
後ろの席から、小さく折りたたまれたメモのようなものが頭越しに放られ、前の席の奴《やつ》の椅子《いす》の背に当たって竜児の机の上にポトン、と落ちる。後ろからは「あ、やべ……」と小さな呻《うめ》き声《ごえ》。竜児を飛ばして前の席へ手紙を渡そうとして、しくじってしまったのだろう。心優《こころやさ》しい竜児は目の前の背中をつつき、そいつを回してやろうとするが、
「……俺《おれ》も見ていいのか?」
表に書かれた文字に気がつく。曰《いわ》く、『2―C全員目を通せ!』と。なんだ、俺も2―Cの仲間だぜ、と、教科書を立てて隠しつつ、B5サイズのそれを広げた。その瞬間《しゅんかん》、通常状態でも十分吊り上った三白眼《さんぱくがん》が、さらにギラリときつく光る。
『第一回! 高須《たかす》争奪杯開催! あみたん VS 手乗りタイガー戦、一口五百円! 注:あみたん・タイガー・高須・ジャッジくしえだを省いて回せ』
「……なんだ、これは……」
ギラギラと底光りする眼球でぐるりと教室を見回すと、「誰《だれ》だよドジ……っ!」「あぁっ……ばか!」みんな竜児の視線を避けて、気まずそうにそっぽを向く。
……ひどい!
こんなのあんまりじゃないか、と竜児は薄《うす》い唇を噛《か》み締《し》めた。みんな他人《ひと》事《ごと》だと思って、自分のことを遊びのネタにしているのだ。
そのルーズリーフには、すでに多くの奴《やつ》が参加表明コメントを残している。真ん中に線が引かれ、左には「あみたん」、右には「タイガー」と書かれていて、それぞれの欄《らん》に名前を書いた奴がその勝利に賭《か》けるという訳らしい。
ちなみにここまで全員が亜美《あみ》の勝利に賭けていて、大河の欄は真っ白のままだ。残されたコメントには、
『これ、賭けになんのー?』
『水泳対決ならあみたんに決まってるゼ☆ タイガーは沈んでたぞ』
『殴り合いならタイガーだけどな』
『タイガーは勝ち目ゼロでしょ! すでに負け決定!』
『ところでここにきていきなりたかすくんブレイクしたね。なんで?』
『そりゃー単にあみたんとタイガーの政権争いのネタにされてるだけだろ』
『亜美タンが本気で相手にしてるわけねえっつの』
『そだね。結局あみちゃんが勝って、別荘うんぬんはスルーで終了くさい』
『タイガーとたかすはガチ。でも、亜美の本命は俺《おれ》』
『ばかじゃねえの』
『いや、あみたまは俺の嫁』
『妄想の中でだけ結ばれてろ』
『あみちゃんはおれがもらった』
『超→おなかへったんですけどお昼まだ→』
『おれも争奪されたいけどどうしたらいいんだ?』
『あみは俺のだからごめんな> arl』
『もしかして all って書こうとした?』
『オールも書けないってヤバくない?>春田《はるた》』
『おまえ裏口入学だろ?>春田』
……春田、おまえって……いや、そうじゃなくて。
「なんだよ……勝手なことばっかり書きやがって……っ」
これは、非常に不愉快だ。竜児はむっつりと、親父《おやじ》譲《ゆず》りの目つきを限界までアブなく不《ふ》機嫌《きげん》にする。理由もなく怖がられるのも嫌《いや》なものだが、なんだかこうしてネタにされると、あまりに舐《な》められているのも同じぐらい嫌なものだと思うのだ。
だって見ろ、この女子たちの残したコメントを。
『たかすくんは顔と違って実はゆうじゅうふだん男、こういうときに使われちゃうんだよね(笑)』
『そーだね同意っス。高須《たかす》=振り回され男(笑)』
『なにされても黙《だま》ってついてきそー(笑)』
『すでに相当たいがっちに貢《みつ》いでるらしいよ(笑)』
――ひどい。ひどすぎる。ここまで自分の姿が情けなく、女子たちに見えていたとは気づかなかった。その軽い気持ちで書かれたのだろう(笑)が、どれだけ竜児《りゅうじ》の心を抉《えぐ》ったか。
「くっそ……そんな情けねえばっかじゃねえぞ」
見てろ、と竜児は太字のマーカーを取り出し、キュキュキュ、と大きく自分の名を書く。もちろん、大河《たいが》の方の欄《らん》に、だ。しかも六口|賭《か》けてやる。三千円だぞ、三千円。
誰《だれ》も知らないだろうが、竜《りゅう》と虎《とら》はワンセットなのだ。ちなみに竜児は結構泳ける。勝負まではまだ時間もあるし、今から必死に特訓すれば、なにしろ大河のあのポテンシャルだ。十分|亜美《あみ》とも戦えるまでに成長するはず。
「……こうなったら総取りしてやるからな……」
低く唸《うな》って、さらにもういっちょ嫌《いや》がらせ――大河とべったり付き合って、こういうやり方もできるようになってきた。竜児はその紙を器用にひこうきに折り直し、身体《からだ》を捻《ひね》って、目指すは斜め後ろ一直線《いっちょくせん》。
「へい、大河」
「……ん? ……なに、これ……」
ひー! と誰《だれ》かが声もなく叫ぶ。ついっ、と飛んだ紙ひこうきをすばやく空中で掴《つか》み取ったのは、もちろん手乗りタイガーこと逢坂《あいさか》大河だ。大河は小さな白い手でそれをゆっくり開き、ただ一言、
「……ヘーえ……」
とだけ。
だがその一言は冷たく叩《たた》きつけるよう、にたぁ、と野獣《やじゅう》めいた凶暴《きょうぼう》な微笑に薔薇《ばら》色《いろ》の唇は妖《あや》しく歪《ゆが》み、血よりも赤い舌が舐め濡《ぬ》らす。わずかに頬《ほお》には血色がのぼり、白い喉《のど》は興奮《こうふん》に震《ふる》える。
「えーとじゃあ、この問題を誰か前に出てきてやってください。……お、珍しいな。じゃあ逢坂」
スク、と立ち上がった大河の目つきは、もはや肉食獣の色。理性の欠片《かけら》も残らない純粋野生の煌《きらめ》きで、獰猛《どうもう》な視線はクラスメートどものツラを一人ずつじっくり拝んでいく。
「……あ、逢坂? 教室の中を練り歩かないでいいんだぞ? あ、いや、その、練り歩いてもいいけど……問題も解いてね?」
教壇《きょうだん》に向かわずに机の列の間を品定めするみたいに歩き回る大河の背には、2トンの虎の幻影《げんえい》が。その殺気の重圧は見る間に教室中を圧迫していく。あっちこっちで「ひい」だの「ごめ……」だの、震《ふる》える声が命乞《いのちご》いする。竜児《りゅうじ》の席を通るときだけは、「にやり」「にやり」とアイコンタクトで同志の絆《きずな》を再確認《さいかくにん》。次の瞬間《しゅんかん》、誰《だれ》かの椅子《いす》の足につまずいて転びかけるが、竜児にスカートのウエストを掴《つか》まれて「にやり……」生還《せいかん》。ついでに教壇《きょうだん》に上がろうとして、ガクッとつまずき、「に……にやり……」やり直す。……どこまてもしまらないドジなのだ、やっぱり。
そして事情を知らない亜美《あみ》は妙な雰囲気に気づきながらも、
「あれ? なにがあったの? なんであの子キレてるの?」
不思議《ふしぎ》そうに首を傾《かし》げて目を瞬《しばたた》いている。
そしてただ一人、廊下側の席に座る実乃梨《みのり》だけは、
「……すぅ……すぅ……」
黙《だま》りこくったように静か。
よくよく見れば目蓋《まぶた》は閉ざされ、修正液とマジックで、決して閉じない目が書かれている。
「大河《たいが》、俺《おれ》はもう全面的に協力するからな。絶対負けるんじゃねえぞ」
「あったりまえでしょ。あのチワワ女、クラスの奴《やつ》らみんなの目の前で、ぎったんぎったんのボロ雑巾《ぞうきん》にしてくれるわ」
『スイムスピード王を目指せ!』とでっかく書かれたアスリート雑誌をパラパラめくりつつ、大河はうざったそうに菜箸《さいばし》を持ったままの竜児を見上げる。
「それに、あんたが協力するのも当然のことよ。私がチワワに負けたら、あんたどうなるかわかってんの?」
「おう、わかってるとも。夏中|川嶋《かわしま》の別荘に監禁《かんきん》だろ? そんなの冗談《じょうだん》じゃねえって。その間の洗濯《せんたく》、風呂《ふろ》掃除、炊事に支払いにその他もろもろ、一体誰がやるってんだよ。……ほれ、ちっと手伝え。酢味噌《すみそ》混《ま》ぜろ」
ガラスの器に入れた調味《ちょうみ》料《りょう》とスプーンを大河に手渡し、竜児はせかせかと卓袱《ちゃぶ》台《だい》の上を布巾で拭《ふ》く。
「なにに和《あ》えるの」
「ウドとワカメ」
「げー。それ、あんまり好きじやない」
「身体《からだ》にいいから食べなさい。乳もふくらむぞ」
「うそこけブサイク」
「ブ、 ブサ……って……」
さっくり竜児を傷つけつつも、大河は一応グルグルとお手伝い開始。子供のようにぺったりと座り、さらに唇を尖《とが》らせて言い募る。
「あんたも当然わかってると思うけど、私はね、」
「あーあーはいはい」
もううんざりだ、この手の話は。竜児《りゅうじ》は忙《せわ》しく立ち働きながら、大河《たいが》の言葉を制してしまう
「ちゃんとわかってるよ。どうせ『あんたが誰《だれ》とどこに行こうがどうでもいいけど』って言いたいんだろ? わかってるって。おまえが嫌《いや》なのは、北村《きたむら》が一緒《いっしょ》に行っちゃうかもしんねえ、ってとこだろ」
しかし、
「……違うわよ。もちろん北村くんのこともあるけど、私はね、あんたを行かせたくないの。あんな女の別荘なんかに」
「……え……」
ぷく、と頬《ほお》をふくらませ、拗《す》ねたような表情で酢味噌《すみそ》をかき混ぜまくっている大河の横顔を見つめてしまう。あれ、と浮かぶ、小さな疑問。
それって――もしかして。
もしかして、大河は本当に亜美《あみ》が言っていたように、自分のことを……と、
「あんた、私の食事の世話はどうすんのよ? 一日三回別荘からこっちに戻ってくるってんなら話は別だけど」
「――あ、それね。……はいはい、わかってるよ」
えっらそうに……と小さく付け加えたのが聞こえたのかどうか、
「……りゅーうーじーぃ?」
酢味噌をタン、とテーブルに置き、味噌にまみれたスプーンがグイ、と竜児の鼻先に突きつけられる。ゆっくりと名を呼ぶ大河の声は、まるで幼児に言って聞かせるよう。
「あんたねえ、自分の立場わかってんの? あんたは犬よ。私の犬。さあ、私のために働くことがなによりの生きがいだとお言い! 私に仕えるまでの十六年間、自分は死んでいるも同然でしたと言うんだこのオス犬!」
「は!? そんなこと言うわけねえだろ!」
「……言うのよ、あんたは……私が言えって言ったら、言うの」
ニタァ、と、瞳《ひとみ》の奥を真っ黒な洞《ほら》のようにして、大河は陰鬱《いんうつ》に微笑《ほほえ》んでみせる。
「……あんた、私の胸、見たじゃない……。……触ったじゃない……。あの屈辱《くつじょく》。あの大失態。思い出すたび心臓《しんぞう》が鼻から絞り出されそうになるわ……。あんなことしでかしたんだから、あんたは残りの一生を丸ごと私に捧《ささ》げてもなお足りないの……。おつりをもらうのは私の方なの……。わかる……?」
ぐ、と竜児は言葉に詰まる。それを言われては言い返すことは――いや、あるぞ。
「お、おまえだって俺《おれ》の胸見たじゃねえか! 同じことだろ!? しかも俺は見たっていっても水ん中であせりまくって、なにがなんだかわかんなかったし……」
「はーあ!? あんたの胸ぇ!? もしかしてあの、真っ黒なゴミレーズンのことか!?」
「ゴミレーズン……!」
竜児《りゅうじ》はへナへナとその場に膝《ひざ》から崩れる。こんな悪口、斬新《ざんしん》すぎだ。今までで一番ひどくなかろうか。けっ、と大河《たいが》は唾《つば》でも吐き掛けたいようなツラをして、酢味噌《すみそ》を混ぜる作業に戻る。が、
「わ!」
勢いよく混ぜすぎて、スプーンを思いっきりぶっ飛ばす。俯《うつむ》いた竜児のこめかみにそれはブチ当たり、
「いっ……! この……悪魔《あくま》ドジ!」
酢味噌がべっとりと、傷心の竜児の頬《ほお》まで垂れる。と、
「あれれん、ごはんまだなのかに〜?」
出勤の支度《したく》を調《ととの》えた泰子《やすこ》が居間にやってきて、竜児は「ちょ、ちょっと待ってて、もうできてるから」と酢味噌を拭《ぬぐ》いつつ、いびられている嫁の仕草《しぐさ》で台所へ立った。
味噌汁を椀《わん》によそうその背後、
「あ〜! 大河ちゃあん、酢味噌|和《あ》えててえらいねえ〜! お手伝いしていいこだねえ〜!」
「……そ、そう?」
「やっちゃん、ウド好き〜!」
泰子はズイ、と大河に詰め寄る。綺麗《きれい》に化粧された童顔にはいつもと変わらぬ毒気ゼロの満面の笑《え》み、なにやら妙に嬉《うれ》しそうに、泰子は大河の真正面に陣取った。
「あのねえ、やっちゃんねえ、大河ちゃんになら見せてもいいかな〜って思ったの」
「え? なにを?」
お盆に味噌汁とおかずを載せて卓袱《ちゃぶ》台《だい》に運ぼうとする竜児の目の前、泰子は息子に背中を向けて大河だけに向き合っている。一体なにをしているのか、とそちらを思わず見たその瞬間《しゅんかん》、
「はいっ、どーぞ! 大河ちゃん、昨日《きのう》なんだか見たそうにしてたからあ〜!」
実の母は服をべろんちょと胸の上までまくりあげていた。
「……は……?」
お盆を取り落とした息子から見えているのは、幸いなことに真っ白な背中だけ。その背中の向こう、正座していた大河が目を見開き、ぺたん……と畳にくずおれる。
聞こえたのは、かすかな鼻声――みぃ〜、と情けなく漏《も》れた、捨てられた仔猫《こねこ》のような大河の悲鳴だけだった。でかい乳が怖かったのだろうか。
***
とはいえ、巨乳ごときにびびっている暇は二人にはないのだ。
その翌々日、早くも今年《ことし》二度目のプールの授業。やや薄曇《うすぐも》りの天気はプール日和《びより》とは言いがたかったが、
「よし。やるぞ、大河《たいが》」
「いくわよ、竜児《りゅうじ》」
プールサイドに現れた竜児と大河は四つの眼に青白く光る超高熱《ちょうこうねつ》の殺気……じゃなくてやる気を湛《たた》え、腕を組んで胸を張り(約一名は偽乳だが)、ドン! と力強く仁王《におう》立《だ》ちで辺りの空気を一変させる。ここはもはや賑《にぎ》やかな仲良しプールなんかではないのだ。意地とプライドと夏休みをかけた、真剣勝負の陸続き。
まずは竜児が、続いて大河がプールに入る。すると二人の周囲には、毒でも撒《ま》かれたかのように、自然と人気《ひとけ》がササー……と引いて綺麗《きれい》な空間ができあがる。誰《だれ》も声をかけてこないわりに、遠巻きの囁《ささや》きとさりげないふりの幾多の視線《しせん》。
だいたいわかるぞ――竜児は片目を眇《すが》めて思う。カナヅチの大河をどうやって、亜美《あみ》と対等に競《きそ》えるまでにするんだ、とみんなは言いたいのだろう。突き刺さる視線に背中を向け、
「練習、始めるぞ」
「ええ、始めましょう」
力強く頷《うなず》く大河と目を合わせる。言いたい奴《やつ》には言わせておけばいい。大河の身体能力をもってすれば、すぐに25メートルぐらいの距離《きょり》は泳げるようになるはずなのだ。
「いいか大河、まずはシンプルに壁《かべ》を蹴《け》って身体《からだ》を浮かせるところから始めよう」
「竜児」
「おう」
「壁を蹴るって言うことは、その前にこの手をここから離《はな》さないといけないのね」
「そうなるな」
しっか、とプールの縁《へり》に掴《つか》まって、大河はごく真剣に竜児の顔を見つめ返している。その白い頬《ほお》に、揺らめく水面の波紋が青く光を映している。
「手を離したら、溺《おぼ》れるわね」
「……」
「足、つかないし」
――想像していたよりも、もうちょっと、基礎《きそ》的《てき》なところからやる必要があるのかもしれない。というか、つかないのか……足。んー、と眉間《みけん》を押さえ、プランを練り直すこと数秒。
「……よし。まずは面かぶりからいこう。水に顔をつけるんだ。できるか?」
大河《たいが》はほほほ、と高笑い、
「やあね、バカにしないでよ。そんぐらいのことできるに決まってるでしょ? ほれ」
あ、なんだ、よかった……と竜児《りゅうじ》は息をつくが。
「……た、大河? そ、それは……?」
ほれ、と得意げに言い放った大河は確《たし》かに水に顔をつけている。両手をピンと伸ばしてプールの縁《ヘり》に掴《つか》まったまま、ソロソロと身を沈め、鼻のギリギリ下あたりまで……大きな瞳《ひとみ》を水面でキョロキョロと愛らしく瞬《しばたた》かせ、
「……っぷは! ね? できてたでしょ?」
ふん! と偽乳パッドの胸を偉そうに反らすのだ。眉間《みけん》を再び押さえ、説明の仕方を考えることまた数秒。
「えーと……面かぶりっていうのは、つまり、こうだ」
竜児は大河の隣《となり》、同じようにプールの縁に掴まって、ゆっくりと顔を正しく水につけて見せた。正確《せいかく》に三秒ほど数えて、
「っぷ……な? 違うだろ、おまえがやってたのと……って見てろよ!?」
そっぽを向いている大河の肘《ひじ》を思わずド突く。
「ったいなあ!」
「見てたのか!? できんのか、今の!」
「えぇ!? ……あー……うん?」
威勢だけはいい割に、大河はおどおどと視線《しせん》を惑わせ、決して竜児と目を合わせようとはしない。はっ、と竜児の胸に嫌《いや》な予感がむくむくと湧《わ》き上がる。
「あ! ……おまえ、できないんだ……面かぶり……」
「……ん? なに?」
白々《しらじら》しくそっぽを向いたまま、ひゅー、すかー、とまったく音の出ていない口笛を吹く大河を見て、嫌な予感が現実に変わる。泳げる、泳げない、だけの問題ではなくて、こいつの場合は水に慣《な》れるところから始めなければいけないらしい。
もはや眉間を押さえて考え込む心の余裕もなくし、竜児はポン、と大河の頭を元気付けるように叩《たた》いた。気安くさわんなよ、と振りほどかれつつ、
「と、とにかく、今日《きょう》はまず、面かぶりだけはマスターするぞ。それができねえと話になんねえし、」
基本の重要さを説いて聞かせようとするのだが、その竜児の背中越し。
「おい、面かぶりからだってよ……」
「いくらなんでも、レベル低すぎねえ……?」
「小1でやることだよな、それって……」
「つーかそんぐらいできろよ……」
ヒソヒソとギャラリーの噂話《うわさばなし》が聞こえてくるのだ。プライドを傷つけられたらしい大河《たいが》の眉《まゆ》がみるみる寄って、頬《ほお》に血の色が差してくる。
余計なことを、と振り向いて噂話の主を制そうとするが、「……め、面かぶりはできるからやらない」
遅かったらしい。大河は唇を尖《とが》らせ、小さな鼻をふくらませ、顔を赤くしたま言い募る。
「そういう、低レベルなことは、飛ばしてやる」
「い、いいのかよ!?」
「いいの!」
そして、大河にしてみれば決死のジャンプ――プールの縁《へり》から手を離《はな》し、竜児《りゅうじ》の腕にすがりつく。顔は水につけられないまでも必死に身体《からだ》を伸ばして浮かべ、ジタバタとバタ足をしてみせた。
「引っ張って! とにかく、泳ぐ感覚を身体に覚えさせればいーのよ!」
「そうか! ……そうかぁ?」
「いいからやれ!」
噛《か》み付く勢いで怒鳴《どな》られて、竜児はしぶしぶ後ろ向きに、大河の身体を引っ張って進み出す。
「うっぷ! うっぷ!」
大河は顔の半分を水につけ、ほとんど目をつぶったままで必死にキックを続ける。だが竜児は少々|懐疑《かいぎ》的《てき》だ――これで練習になっているのだろうか? 手を握るぐらいではとても大河は浮いていられず、二の腕のあたりを掴《つか》んで腕全体を支えてやらないと、バタ足を続ける下半身がどんどん水中に没していって、水柱も上がらなくなってしまうのだ。しかし一方、
「うっぷ……むはははは! 快調《かいちょう》快調っ! できてるできてるっ! 泳ぐのなんてっ、簡単《かんたん》っ、じゃないっ!」
大河は泳げているつもりなのだろう。必死の形相《ぎょうそう》ながら機嫌《きげん》はすこぶる上々、顎《あご》をむぐむぐと上げながら苦しげな笑い声を発している。
と、竜児はふと思い出した。自分が自転車に乗れるようになったときのことだ。小学校一年生の時、補助《ほじょ》輪《りん》を初めて外してみた。しかしまったくバランスが取れずに、転んでばかり。そこで泰子《やすこ》が『やっちゃん支えて一緒《いっしょ》に走ってあげるからあ、竜ちゃんは一生懸命《いっしょうけんめい》漕《こ》ぐんだよ〜』と言って、後ろから自転車を掴んでくれた。ペダルを漕ぐと、泰子が支えてくれているおかげでなんとか自転車は倒れずに進み出した。よっしゃいい感じ、とそのままスピードを上げ、快調に自転車は進み、あるときふっと気がついたのだ。後ろの泰子がいない。自分は一人で、ちゃんと自転車を漕げている。――泰子は走り出したところでつまずいて転んだらしく、数十メートル後ろでよその家の生垣の中にスケキヨよろしく突き刺さっていた。
スケキヨはとにかく、それだ、と思った。このままそろそろと手の力を抜いていって、最終的には大河の手を離してしまって、『あれ!? 私、泳げてる!?』『やったじゃねえか大河!』みたいな。よし、その線《せん》で――
「グガゴボ」
「わー!」
一瞬《いっしゅん》、支える手の力を緩《ゆる》めただけなのだ。大河《たいが》はあっさりと水中に没し、
「だ、大丈夫か!?」
「……げほっ……な、なにが起きたの今……ここどこ? 私だれ? あんたは……」
記憶《きおく》さえも失っていた。えらいこっちゃ、と息を飲んだ一瞬の後、
「あんた、手を離《はな》したね!? この裏切りもんっ!」
ビシャッ! と濡《ぬ》れ手のビンタが水面を舐《な》めてから水《みず》飛沫《しぶき》ごと頬《ほお》に炸裂《さくれつ》。ああよかった、記憶も戻ったし、
「あ!? おまえ浮いてるじゃねえか!」
「え? あれっ? うそ!?」
そういえば大河の両手は完全にフリー。足のつかないはずのプール中央付近で、竜児《りゅうじ》にもしがみつかずに大河は水面に顔を出している。二人は思わず、
「うわ、やったー! 泳げるようになったー!」
「もはや勝ったも同然っ!」
はしゃいでハイタッチしようとするが、
「……んなわけ、ないべさあああ〜……」
ズモモモモモモモ……と、大河の背後、ポセイドン――のイメージなのだろう、水中からゆっくりと浮上してきたのは実乃梨《みのり》、だった。
その片手は大河の胴体に回っていて、
「……高須《たかす》くんが落としたのはぁ、このカナヅチの大河かな……? それとも、このカナヅチの大河かな……?」
どうやら実乃梨が大河を水中で支えてくれていたらしい。
「こ、このカナヅチの大河だ」
「そうだぁ……大河はカナヅチだぁ……」
竜児に大河の身体《からだ》を押し付けると、実乃梨は再びズモモモモモモモ……ポセイドンのモノマネをしながら沈んでいく。
そしてゆらゆらと水中を泳いで、いったいどこへ行くのかと思えば、
「きゃっ!? な、なに!?」
「……あくまでも今回は中立……大河を助けたからには、あーみんのことも助けるべさぁ……」
「実乃梨ちゃん、どうしたの!? まるでポセイドンみたいよ!? いやん、くすぐったい!」
麻耶《まや》たちとビーチボールで遊んでいた亜美《あみ》を、背後から抱き上げてみている。なにか間違っている気もしないではないが、
「……さすがみのりん。公明正大、スポーツマンの鑑《かがみ》だわ」
大河《たいが》が言うならそうなのだろう。竜児《りゅうじ》も眩《まばゆ》いポセイドンの濡《ぬ》れた肌を見つめ、うんうんと激《はげ》しく頷《うなず》いて応《こた》える。
そしてとにかく一旦《いったん》プールサイドに戻ろうと、大河の腕をしっかり掴《つか》んで竜児はプールの中を歩いていくが、
「……ありゃー、ぜんっぜん、だめだな……」
「……勝ちはないだろ、あの状態じゃ……」
「……そもそもタイガーには泳ぎのセンスがないよな……」
「……マーメイドあみたんとは比べ物にならねえ……」
そんな二人の周囲を、またもやあきれたみたいな囁《ささや》きが取り巻くのだ。大河はグギギ、と唇を噛《か》み締《し》め、
「く、悔しい……っ!」
「いだだだだだ!」
竜児の肩に、力んだ爪《つめ》を突き刺してくる。
「だってあんな言われ放題! ぜんぜんだめって、センスがないって……うう……心が折れるぅっ!」
「周りのことなんか気にするな!」
「わかってるけど悔しいっ! 恥ずかしいっ! もうやだっ、こんな姿晒《すがたさら》したくないぃっ!」
「くそ……さては奴《やつ》ら、川嶋《かわしま》に賭《か》けてるんだな……俺《おれ》たちに恥をかかせて、練習できねえようにするつもりか……」
そう考えて周囲を見回せば、なんだか見慣《みな》れたはずのクラスメートたちが全員敵のように思えてくる。しかもその上、さらに悪いことに、
「お、どうだ逢坂《あいさか》! 調子《ちょうし》の方は! 高須《たかす》と力を合わせて頑張れよ!」
プールサイドからかけられた明るいエールの主は、北村《きたむら》。大河《たいが》はうー、と唸《うな》ったきり、なんともいえない微妙な表情をして、返事をかえすこともできない。それはそうだろう、大河にしてみれば、頑張れば頑張るほど北村《きたむら》に竜児《りゅうじ》との仲を誤解されていくようなものなのだから。はたから見れば、今の大河は、竜児のために勝負に挑もうとしているようにしか見えない。
竜児は仕方ない、と息をつき、決めた。
「……しょうがねえ、学校のプールで練習すんのはやめようぜ。よそでたっぷり練習して、勝負の日に度肝抜いてやろう」
「……そういえば、駅の向こうに温水プールあったよね」
「おう、それだ」
ちょうどそのときお誂《あつら》えむきに、ポツン、と一滴。大河の白い鼻先に冷たい雨の雫《しずく》が落ちてきた。クラスの奴らも口々に「冷たい!」「降ってきた?」と言い合いながら、慌てて冷えたプールから上がっていく。
プールの時間はこれにて終了だ。
「まずはそうね……オリンピックの聖火ランナーに選ばれた松本《まつもと》清張《せいちょう》……しかし不意に現れた怪しい影《かげ》! はっ、貴様は太宰《だざい》治《おさむ》! しまったぁ! 聖火が奪われる! させるか! 清張は下唇に気を集めてそれを太宰に叩《たた》きつける! 太宰はひらりと身投げジャンプでそいつをかわし、その背からはブワスワァッ! と傷ついた翼《つばさ》が――」
「なんだよ、その文人バトルは」
「決まってるでしょ!? 私が勝ったあかつきに開かれる、バカチワワの物《もの》真似《まね》DVD鑑賞会《かんしょうかい》で奴が披露《ひろう》する前説がわりの新ネタよ!」
「清張と太宰、どっちをやるんだよ」
「両方よ。一人二役――奴にはそれができるだけの技量がある」
「……あ、あるのか……」
「私が開花させたの」
楽しみー、楽しみー、と妙にハイテンションな大河は、元気に傘を上下に揺らしながら雨夜の歩道を歩いていく。それを半ば呆《あき》れながら追いつつ、しかし竜児も大河に負けず劣らず元気なのかもしれない。昼間学校で泳いだばかりだというのに、再びわざわざ夕食後に、町外れの温水プールにまで出かけてきてしまっているのだから。それもこれも、大河《たいが》のうちの強力|乾燥機《かんそうき》が水着を乾かしてくれたおかげだが。
しかも日が落ちてから、雨は本降り。大河がラベンダー色の傘を揺らすたび、水の飛沫《しぶき》が竜児《りゅうじ》を襲《おそ》う。それを自分の傘で巧みに避けつつ、
「まずはやっぱり面かぶりだろ……そしたらビート板でとにかく身体《からだ》を浮かせて、キックの練習をして……」
竜児は自分がスイミングスクールで泳ぎを習ったときのことを思い出しつつ、真剣に大河の練習スケジュールを立てていく。
とにかく日にちはまだあるのだから、今日《きょう》から毎日温水プールに通って――と
「あれ?」
大河の声に顔を上げた。
そして竜児も唖然《あぜん》とする。
「は? ちょ……ちょっと……嘘《うそ》だろ!?」
温水プールに続くはずの門には、がっちりと鉄の錠《じょう》がかけられているのだ。せっかくやる気できたのに、まさか今日《きょう》に限って休館日《きゅうかんび》? と建物の方を見てさらに愕然《がくぜん》。
雨のせいか時間のせいか、動きを止めたブルドーザーが二台。左右から温水プールだったはずの建物を壊《こわ》して瓦礫《がれき》にして踏みつけた状態で停止しているのだ。
「え……ええー!?」
声を上げた大河の足もとに、なにかが落ちているのに気づく。竜児はプレートにマジックで殴り書きしたようなそれを拾い上げ、読み上けて、仕上げの呆然《ぼうぜん》。
「『長い間、ありがとうございました。当温水プールは閉館となりました。再来年には図書館になります』……と、図書館……?」
「ならんでいい!」
雨の夜道を震《ふる》わせる大河の声を聞きながら、竜児は己《おのれ》の計画がガラガラと音を立てて崩れていくビジョンを目の前の瓦礫に重ね合わせていた。
大河は面かぶりもできない。
大河は学校のプールでは練習できない。
大河は泳げない。
大河は――負ける。
大河は負けて、そして、竜児は亜美《あみ》の別荘に、夏中連れて行かれることになる。てことは――
『うふふ※[#「ハートマーク」] いーじゃなーい、きっと楽しいよ? さあ、フルーツを召し上がれ※[#「ハートマーク」]』
リゾートホテルの一室で、フルーツを捧《ささ》げ持ってきたのは水着姿の亜美だ。のしかかるようにして、白い身体《からだ》がソファに座った竜児《りゅうじ》の下半身を大胆にまたぐ。
『はい、あーん※[#「ハートマーク」] うちの別荘で取れた、完熟《かんじゅく》パイナップルよ※[#「ハートマーク」] め・し・あ・が・れ、ってばぁ』
ちょ、やばいって、あんまりくっつくなよ……そうは思うのだが相手は水着だ、その肌を押しのけるために触れるのも憚《はばか》られ、竜児はおとなしく口を開けるしかない。さらにそこにやってきたのは、
『高須《たかす》くん、私とも一緒《いっしょ》に遊んでくれなくちゃ! 大河《たいが》もいないし、退屈なんだもん! ねえ、ソフトボール、しよ? 高須くんは、どこのポジションが好き? ファースト? セカンド? それとも……サード……?』
やはり水着姿の実乃梨《みのり》が、グローブを片手にはめた姿で戸口に立ち、竜児にこいこいして見せているのだ。なんたる極楽。本能と欲望の赴《おもむ》くままにフラフラ、とそちらに歩み寄りそうになり、
『やーん、高須くん、亜美《あみ》ちゃんとパイナップルしようよお』
『だめだめえ、高須くん、みのりんとセカンドゴロしようったらあ』
『亜美ちゃんと亜《あ》熱帯《ねったい》植物《しょくぶつ》ぅ』
『みのりんと弾丸ライナぁ』
いや――だめだだめだ、そんな……俺《おれ》には待っている奴《やつ》らがいるんだ。あの日当たりの悪い真っ暗ジメジメな2DKに、俺を待ってる奴らが……そうだ、メシはどうしたっけ? いかん、炊飯器《すいはんき》さえセットしてきていない。あいつら、腹を減らしているぞ。亜美と実乃梨の白い腕をなんとか解《ほど》いて竜児は走り出し、借家の二階に駆け上がり、玄関のドアを開けた。が、時すでに遅し。
2DKの床に、三つのミイラが横たわっていた。ひとつはインコ。ひとつは大河。そして最後のひとつは泰子《やすこ》だ。泰子の指先が畳に遺《のこ》したダイイングメッセージは<ママ餓死《がし》ばくはつ>と――なんだそりゃー!
「……ねえ。気持ち悪い」
「……は?」
「あんたの顔! さっきからニヤついたり涙ぐんだり、気持ち悪いの!」
瓦礫《がれき》と化した元温水プールの正門前、竜児は大河の罵倒《ばとう》によって、やっと現実時空へ舞《ま》い戻った。そうだ、いかんいかん……やっぱりどうしても、なにがあっても勝たなければいけないのだ、この勝負。
だがしかし――。
「ああ、もうどうしたらいいの!? やっぱり学校のプールで練習するしかないの!?」
「もうそれしかねえだろ。開き直って、周りの奴らの目なんか無視して……」
「開き直れないよ! ……北村《きたむら》くんも、見てるんだもん……」
大河《たいが》のシンプルな嘆きに、竜児《りゅうじ》は返事のしようもない。
***
翌日からなんと丸二週間、ジトジトと雨が降り続いた。
当然その間、水泳の授業はすべて中止。大河はまったくのカナヅチ状態のまま、練習することもままならない。学校のプールで練習するべきかどうかなど、悩む必要さえなかったのだ。
「雨続くな〜」
「これはもう、高須《たかす》カップまて雨天中止か?」
昼間だというのに窓の外は暗く、教室の中は蛍光灯に生白く照らされている。今も本当ならプールの授業のはずだったのに、退屈極まりない自習になってしまった。
ひそひそと辺りでは大河と亜美《あみ》の水泳対決の開催自体も危ぶまれる声が上がり
「……気が散る……」
「気にするな」
大河はイメージトレーニング――アスリート系雑誌の水泳特集号に落としていた視線《しせん》を上げてしまう。隣《となり》の席に陣取った竜児はほとんどコーチ気取り、
「こうなったらもう精神力で勝負するしかねえだろ」
ぶすっと不《ふ》機嫌《きげん》そうな大河の前に、同じ雑誌のバックナンバーをさらに積《つ》む。
「……こんなの読んだって泳げるようになるわけないじゃん」
「ぼーっとしてるよりはマシだ。それにうちで毎日、バタ足の練習だってしてるじゃねえか」
ちなみに竜児の言うバタ足の練習とは、畳の上に座布団を並べ、腹ばいになってひたすら足をバタつかせるだけのこと。『いいぞいいぞその調子《ちょうし》! もっと強く! 速く! ……へ〜、浅草《あさくさ》の行列ができるハンバーグ屋だってよ。うわ、うまそう』『なんでテレビ見てんのよ!?』『いだだだだだだっ!』――そのキックは背中に当たるとものすごく痛い、というのは身をもって確《たし》かめてはあるが。
「あんなの練習のうちにはいんないよ」
「おまえ、風呂《ふろ》でも練習してるだろ?」
「してる。……まあ、そうね……あれは結構成果が上がってるかもね」
にやり。と大河は自信ありげに唇を歪《ゆが》める。ちなみにその風呂での練習とは、バスタブにぬるめの湯を張って、潜《もぐ》って目を開けて息を止めるだけのこと。
「目、もう余裕で開けられるようになったし」
「おお、すげえな!」
「くくく、息だって止められるわ。三秒」
「勝ったも同然だぜ!」
イエイイエイ、と身内(というか二人)で無理やり盛り上がってみて、ハイタッチしようと手を振り上げて、しかしスカッ、と外れてコケる。
「……あー、くっだらない……。……ちゃんとプールで練習したい。なんで温水プール、潰《つぶ》れちゃうのよ」
「……だな」
我に返ってぐったりと、同じタイミングで天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。遠くで誰《だれ》かが小さく「ありゃーもう負け確定《かくてい》だな」と囁《ささや》いたのが聞こえても、大河《たいが》は下唇を突き出して押《お》し黙《だま》り、怒鳴《どな》り込むことさえできずにいる。と
「へい」
「う! ……なんだよ、おまえか」
仰《あお》のいた竜児《りゅうじ》の顔面に、紙束がポン、と乗せられる。慌てて首を捻《ひね》って見ると、北村《きたむら》がにこやかに微笑《ほほえ》んでいた。同時にガタ! とすごい音がして、見れば大河が椅子《いす》ごとひっくり返りそうになっている。
「なんだよってのはないだろ? で、調子《ちょうし》はどうだ? もうすぐ亜美《あみ》との水泳勝負だろ」
「どうだもくそも……これじゃあ練習もできねえし。なあ」
大河はわずかに頬《ほお》を赤らめて、小刻みに頷《うなず》きながらイスにちゃんと座り直している。机の位置を直そうとして、「あわわ」アスリート雑誌の雪崩《なだれ》に巻き込まれている。
「だよな、この天気じゃな。そいつも使えるかどうかわからないけど、一応俺からの贈り物」
「そいつって……これか?」
さっき顔の上に置かれた紙を見てみると、それは市民プールの入場券だった。
「うちのおふくろ、保険の外交やってるだろ? サービスで配ってた奴《やつ》の余り、二名様分。使ってくれ、俺は実は逢坂《あいさか》に賭《か》けた」
「……え……」
きょとん、と大河は声をか細くして、しかし驚《おどろ》いたように北村を見上げる。
「こないだ回ってきた賭けの紙を見たら、あまりにも自信満々に高須《たかす》が逢坂に賭けてるから、よっしゃ、俺も乗っかろう、と。あの後、何人か逢坂に鞍替《くらが》えしたんだぞ。高須の責任だな、これは」
眼鏡《めがね》を押し上げ、北村は楽しげに喉《のど》の奥で笑う。大河は少し慌てたように、何度か咳払《せきばら》いをしつつ、
「わ、私に……賭けてくれたの? 私が勝つって、思ってくれるの?」
「ああ」
ぶわ! とアレルギー反応を起こした人のように、大河の顔面にさらに鮮《あざ》やかな赤が散る。
「逢坂はそうだな……さしずめ、『火事場のクソ力』タイプだから。最後の最後にものすごいひっくり返し方をしてくれそうだ。超人で言うとキン肉マン。二世じゃない方な」
それは果たして褒《ほ》め言葉か? と竜児《りゅうじ》は首を傾《かし》げるが、
「……あ……王子……主役……」
大河《たいが》は真《ま》っ赤《か》な顔を俯《うつむ》け、にやぁ、と頬《ほお》を緩《ゆる》めている。なんだ、喜んでるじゃねえか。
「その通り。しかも亜美《あみ》は、あれで意外と本番に弱いタイプなんだぞ。まだまだ勝負の行方《ゆくえ》はわからん。……と、俺《おれ》は思う」
「……これは、こういうふうにはならねえのか?」
竜児は二枚もらったプールのチケットを、一枚は大河に、もう一枚は北村に向けて差し出してみた。その途端《とたん》北村の反応を待たずに大河は目をまん丸にし、
「だーぉ!」
妙な声を上げながら竜児の腕にかじりつく勢いで、北村《きたむら》に差し出していたチケットをむしりとってしまう。そして胸の前にかき抱き、今にも炎を上げそうな真っ赤に熱《ねっ》しきった顔で竜児をギッ! と睨《にら》み上げる。そんな様子《ようす》を見て北村は、
「と、いうわけだな。がんばって練習しろよ。雨、止《や》むといいな」
少しも気を悪くしたふうはなしににこやかに笑い、片手を上げ、去った。
大河を見下ろす。大河は泣きそうに顔を歪《ゆが》め、目を逸《そ》らす。
「あーあ。……ばーか」
思わず、そのふっくらした熱《あつ》い頬《ほお》を拳《こぶし》でむぎゅ、と嘘《うそ》パンチ。大河は文句も言わず、頬に拳を押し付けられたまま、竜児を見ずに押《お》し黙《だま》る。
溜息《ためいき》をひとつ、小さな手に握《にぎ》り締《し》められたプールのチケットを取り上げた。
「おまえに持たせておくとどうせなくす。これは今度の週末だな。晴れりゃいいけど。……喉《のど》渇いたからジュース買ってくる。なんかいるか?」
大河はそのままぷるぷると、首を横に振って見せた。
「あ」
「……おう」
なんだか、デジャブ。
使用禁止の時間帯の自動|販売機《はんばいき》前に、校則違反の奴《やつ》らが二人。
「高須《たかす》くんたら、さぼり〜?」
「おまえには言われたくねえよ」
壁際《かべぎわ》にしゃがみこみ、一人でミルクティを飲んでいたのは亜美だった。竜児がアイスコーヒーを買うと、「こっちこっち」と近くに座るように促す。
「……おまえ、一人でこんなところにいたのかよ。暗い奴」
「高須くんには言われたくな〜い」
結局は同じ穴の狢《むじな》同士、壁際《かべぎわ》の暗がりに並んでしゃがみこむことになる。思わず「どっこいしょ」なんて言ってしまい、ぷ、と亜美《あみ》は吹《ふ》き出した。
「やだもう、なんかお疲れモード?」
「……そりゃーもう、お疲れだよ。誰《だれ》かさんのせいで、このところずっとな」
「あれ? それってもしかしてあたしのせいって言いたいとか?」
「当たり前だろ。ったく……おまえが妙なことをやらかすたびに、一番迷惑こうむってんのは俺《おれ》だってんだ」
「妙なことってなにかな〜? 亜美ちゃんわっかんな〜い」
「おまえなあ……いつまでもやってろ、顔面が痙攣《けいれん》するまで」
くふふ、と笑う亜美の表情は、いまはすっかり休憩《きゅうけい》モード――ぶりっこの清純仮面は脱ぎ捨てて、奇跡のように整《ととの》った顔立ちは、底意地の悪いクールさに薄《うす》く翳《かげ》るよう。
「……おつかれさんだよ、おまえこそな」
なんとなく、せっかくの自習時間だというのに取り巻き一人連れずにこんなところでこもっているわけも分かったような気がして、思わず亜美が持っている缶に自分の缶を軽くぶつけて乾杯。亜美は琥珀《こはく》色《いろ》に透《す》ける瞳《ひとみ》を一瞬《いっしゅん》だけ驚《おどろ》いたように瞬《しばたた》かせ、
「あれぇ?」
すぐにおもしろい冗談《じょうだん》を見たように目を眇《すが》める。
「なんか、今日《きょう》の高須《たかす》くんは珍しくあたしに構ってくれるじゃん。どうしたの? あ、手乗りタイガーにいじめられたとか?」
「……うるせえ。そんなのいつものことだよ。……おまえが俺に抱きついたのを見られてから、俺がどれだけ大河《たいが》にネチネチ責められてきたか……」
ククク、と鳩《はと》のような笑い声。
「かわいいじゃん。やきもちタイガー」
「……かわいくねえし、やきもちでもねえ。あいつはただ単に、気に食わないおまえが挑発してくるのがむかつくだけなんだよ。おまえが抱きついた相手が俺じゃなくて櫛枝《くしえだ》でも、あいつは同じように腹を立てたはずだしな」
「そんなわけないじゃん。高須くんてばか? あたしが実乃梨《みのり》ちゃんにああやってくっついて、それをあの子が見て、本当に高須くんにしたのと同じようにネチネチ実乃梨ちゃんを責めると思うの?」
「……ばかっていうな。それは、おまえ……アレだろ。女同士だし、親友なんだから……」
「あーはいはい、そうですね。あれはやきもちなんかじゃない、と。……はは、あの子としゃべってるみたい。『やきもちやいたでしょ?』『これはやきもちなんかじゃない』――同じこと言うんだ、高須くんも。たーのしーい」
亜美は飲み終わった缶を軽く放り、見事にゴミ箱にホールインワン。決して中身を零《こぼ》したりしないし、缶を落としたりしないし、ゴミ箱を外したりもしない。対ドジ用に配備されている、ポケットのウエットティッシュの出番はない。
「……たーのしーくなんか、ねえよ。おまえ、そういう態度で大河《たいが》のこと挑発するのやめろよな。俺《おれ》が一番迷惑してんだよ。だいたい、なにが別荘だよ……最初っから誘う気なんかねえくせに、本当に勝っちまったらどうするつもりなんだ? どうせ何事もなかったようにスルーするつもりなんだろうが、大河のことだから、嫌《いや》がらせに本当に俺を行かせかねねえぞ」
竜児《りゅうじ》は歩いて空き缶を捨てに行き、
「……スルーするつもりなんかないけど?」
意外な声に、思わず亜美《あみ》を振り返る。
亜美は壁際《かべぎわ》に座ったまま、竜児の方を見て微笑《ほほえ》んでいる――天使の外面を貼《は》り付けて。
「悪いけど、あたしは本気で勝つつもりだし、勝って高須《たかす》くんと夏を一緒《いっしょ》に過ごすつもりよ? 逢坂《あいさか》大河に恥かかせてやるのも楽しみだけど、そんなのより、もっとずっとちゃんと本気で、勝った後のこと考えてる。……なに、その顔。驚《おどろ》いた?」
竜児は言葉もない。――亜美の言葉はいつものタチの悪い冗談なのか、そうではないのかさえわからないのだ。そんな竜児を見て、亜美はにっこりいいこの笑顔《えがお》のまま、自分と竜児を細い指先で指してみせる。
「楽しいと思うけどな。結構ほら――気、合うじゃない、あたしたち」
「……あ、合ってねえよ!」
「あは、怒った怒った」
「おまえなあ! ……ったく……人をからかうのも大概にしろよ。ほら、飲み終わったんなら教室戻れ」
「あたしまだここにいるもーん。高須くんこそ帰ったら?」
「言われなくても」
まだまだ教室に戻る気はないのか、亜美は「ほなさいなら〜」と竜児にひらひら手を振ってみせる。もう飲む物もないのに自動|販売機《はんばいき》の隙間《すきま》に座って。
意外と暗い奴《やつ》、なのかもしれない。
***
「気がつけば、勝負はもう明日《あした》なんだな」
「……」
「なんか天気、ハンパだよなあ……降ってはいねえけど」
「……」
「明日も予報では曇《くも》りだったけどなあ……」
「……っぷはっ! 竜児《りゅうじ》、今の見てた!? ねえねえ見てた!?」
見てなかった、お天気見てた、とは言いにくい雰囲気の中、竜児はコク、と頷《うなず》いてみせる。
「えへへ、結構すごいよね! 私今、絶対十秒は顔つけてたよね!」
それはもう得意げに偽乳パッドの胸を張る大河《たいが》は、子供用プールの縁《へり》に掴《つか》まってずっと「面かぶり」をしていたらしい。
「あー、つけてたつけてた」
竜児はといえばその縁に腰掛け、
「いやだわ、ヤンキーがいるわ!」
「だめよあーちゃん近寄っちゃだめ!」
子供づれの奥様方に無用のビビリを振りまいている。そもそも子供用というか、恐らく幼児用なのだろうこのプールは竜児の膝《ひざ》ぐらいまでの深さしかなく、
「あ。ねえ竜児、私泳いでるみたいに見えない?」
縁から手を離《はな》した大河は両手を底につき、余裕で「ワニさん」をやってみせる。しかし、
「わっぷ!」
手が滑ったのかゴボゴボと沈み、ばっちゃばっちゃと水面を両腕で叩《たた》いてようやく起き上がり、ひぃひぃ言いながらむせているところに、
「あららー! あーちゃんだめよー!」
小さなあーちゃんがゾウさんのジョウロで、びしょ濡れの大河の頭からさらに水をちょろちょろかけた。
「やだもうごめんなさいねえ〜、めっ、よ! あーちゃん!」
「あー」
あーちゃんは若い母親に抱きかかえられて退場、大河はなんとも言えない微妙な表情で立ち上がって竜児のもとまでザバザバ歩いて戻り、
「……さすがの私も、あの無垢《むく》なる悪意には対処のしようもなかったわ……」
世にも珍しい、手乗りタイガーの敗北宣言。
「そもそも、高校生が子供用プールにいんなよ、って話だもんな」
「あーちゃんの怒りの原因はそこか」
北村《きたもら》がくれた市民プールの入場券を使えたのは、ようやく雨も上がった日曜日《にちようび》。
バスに乗っておよそ二十分、竜児と大河は張り切ってここまでやってきたのだが、雲が晴れることはなく、空はいまだ鈍《にぶ》い銀色《ぎんいろ》に塗りこめられたままだった。
気温も上がらず、水も冷たい。そのせいか客はあまりおらず、せっかくの「四つのプール」には歓声もまったく響《ひび》いていない。
「大河、向こうのでかいプール行こうぜ。……しかし、ウオータースライダーぐらい作りゃいいのに」
「波のプールとかね。かろうじて流れてるのはあるけど。うわー、ばかね、あいつら」
小さな足跡をザラつく地面に残しつつ、大河《たいが》は「滝のプール」で滝の下に座禅して修行している中学生たちを笑う。北村《きたむら》もやっていたぞ、と言ってやってもよかったが、ちょうど都合のいいものがすぐそこに転がっているのに気づく。
「ほい」
「げ! やだー! なによこれ!?」
スポ、と上から大河にはめてやったのは、浮《う》き輪《わ》――無料貸し出しで誰《だれ》かが借りたまま、ほっぽってあったヤツだ。
「しょうがねえだろ。溺《おぼ》れたくなかったらそれに掴《つか》まってな。どーせ足つかねえんだから。ほら、行くぞ、流れるプール」
「げえ〜……みっともないったら……」
どよ〜ん、となんとなく淀《よど》んで見えるほど流れの遅い円形のプールに、竜児《りゅうじ》は足から飛び込むように、大河は浮き輪が引っかからないようにおずおずと、それぞれ入っていく。
「うわ、わ……ほんとに足、つかないよここ」
「浮き輪があれば平気だろ。あがる時は俺《おれ》が引っ張る」
ぷかぷか浮かんで流されていく大河の浮き輪に竜児も掴まり、
「とりあえず、もう今からクロールとか練習しても無理だろ。明日《あした》も浮き輪とか、ビート板とか使うしかねえな」
「うっそぉ! ……あー、かっこわるー……なんでこんなことになったんだろ!?」
「それ以外に方法はねえだろ? 今更、泳げるようにならなかったからやめます、なんていったら、それこそ川嶋《かわしま》の思う壺《つぼ》だぞ。第一クロール勝負じゃなくて、あくまで競技《きょうぎ》は『自由形』なんだから、別にビート板くらいいいんじゃねえの?」
「……自由形、ねえ……どこまで自由にしていいのかねえ……」
「ほら、悪巧みヅラして笑うのはやめて、ちっとそのままバタ足してみろ。流れがあるから楽に進むはずだし」
「……うー……」
竜児は手を離《はな》してちょっと浮き輪を押してやり、顔を上げたままの平泳ぎで一緒《いっしょ》に進もうとするが、
「……こう?」
ざんざんざんざんざん! と水柱が上がる。浮力を得た大河のバタ足は凄《すさ》まじかった。流れがあるとは言ってもあまりにも非《ひ》常識《じょうしき》なスピードで、ドドド! と爆進《ばくしん》また爆進、平泳ぎなぞでは追いつかずに慌てて本気の抜き手で追う。
「ちょ、ちょっと待て!」
水柱が止《や》み、大河はぷかぷかのんきに浮き輪で流れつつクルリと方向転換、追ってくる竜児を不思議《ふしぎ》そうに眺めた。
「……あれ? 私って泳ぐの……実は速い? でも流れるプールだから当たり前?」
「い、いや、結構速いんじゃねえか? 俺《おれ》だって流れてるわけだし……うわ、ちょっ……息、切れる……」
「そう? そうかなあ。じゃあ今度はもっと本気で泳ぐから、あんたも本気で追いついてみて」
ざんざんざんざんざん! 再びの力任せのバタ足が始まり、大河《たいが》の身体《からだ》をグングンスピードに乗せていく。普通、浮《う》き輪《わ》をつけている人間は、こんな速さでは進まない。
「うそだろ!?」
もはや抜き手でも追いつかず、とうとう竜児《りゅうじ》は本気のクロール。これでも結構泳ぎは得意なキャラのつもりで今日《きょう》までやってきたのだ、浮き輪の奴《やつ》に引《ひ》き離《はな》されるわけにはいかない。が、
「あ、ありえねえ……!」
大河の水柱は近づくどころかどんどん離れ、必死に泳いで流れにも乗って、竜児もものすごいスピードを出しているはずなのにまったく追いつくことができないのだ。
と、水柱が止《や》む。大河は泳ぐのをやめて、呆《あき》れたように竜児を振り返る。
「あんた、本当にグズ犬だねえ? ていうか、結構私がすごいのかも? もしかして、これで勝てちゃったりして」
「油断、禁物! ここは、流れて、るんだから!」
顔を上げた竜児はすっかり息が切れてしまい、ようやく追いついた大河の浮き輪にしがみつき、
「やだ! ちょっとはあはあ言ってんじゃないわよ! 変態!」
「……息が切れて……はあ……しょうがねえだろ……はあ……くるし……っ」
しばらく流されるままに漂って、なんとか息を整《ととの》える。
「あ〜……必死に泳いじゃったよ、久しぶりに……」
あっそ、とかなんとか言おうとした大河は、開いた口から「ほわあ……」とあくびを漏らした。目じりに一滴|溜《た》まった涙が水滴と一緒《いっしょ》に流れ落ちるのを、竜児もなんとなくうすらのんびり、ぼけーっと見つめてしまう。
――こうしてぷかぷかとのんびり流されていると、水音の効果なのか微妙な揺れの効果なのか、妙になごんでしまうのだ。しばし二人して言葉もなくし、ゆるい流れに身を任せる。
「……なんか……このまま寝られそうだな……」
「だめだめ、練習しにきたんだから……勝負は明日《あした》……う、ほわあ……」
二発目の大河のあくびにつられ、竜児も「くわ……」と大あくび。ふと横を見れば、かなりよいよいのじいちゃんがマットに寝転んだままのんびりゆったり流されていっている。その向こうには孫らしき幼児が、同じくおまる型あひる浮き輪でじいちゃんの隣《となり》をぷかぷかと流れ旅。
このプールにいる奴は、つまりいまや誰《だれ》一人、己《おのれ》の推進力で進んでなどいないのだった。すべでは流されるままに身をゆだね、ゆったりたっぷりの〜んびり……、と。
「あ〜……なんか、のどかなプールに来ちゃったわね……」
「マジで眠くなってきたぞ……」
「……私も……」
それもそのはずだった。朝の七時から天気を気にしてスタンバって、天気予報を見ながらようやく家を出ることを決めたのが朝八時。
そこからインコちゃんのエサがどうしたの、寝起きのツラがブサイクだのなんだの、泰子《やすこ》が起きてきてグズったり二日酔いだったり寝ぼけたり、大河《たいが》が家に髪を結ぶゴムを置いてきたり、さんざん騒《さわ》いでバスに乗れたのが朝の九時。水着に着替えてプールに入れたのがやっと十時、というところだ。
ここにたどり着くまでに、無駄《むだ》な体力を使いまくってしまった気がする。
「明日《あした》の天気はどうなのかな……」
「結局、雨でプールごと潰《つぶ》れそうだよな」
んあー、と二人して口を開いてマヌケ面、浮《う》き輪《わ》に掴《つか》まったままでうすら暗い空を見上げる。そして大河は眠たい猫みたいに上を向いているのも億劫《おっくう》になったか、浮き輪に頬《ほお》をぺったりとくっつけてしまい、
「なんかこーやってると……いっそ、それが一番いいのかもね……とか、思っちゃう……」
などと無気力発言。その気持ちはわからないでもないが、
「そんなこと言うなよ。北村《きたむら》はおまえに賭《か》けてるんだぞ。嬉《うれ》しいだろ? そういうの」
大河の身体《からだ》に火を入れる、唯一無二の燃料《ねんりょう》投入。大きな瞳《ひとみ》に恋の炎が輝《かがや》くのを待つが、
「……んー……」
「……なんだよそれ。んー、て」
大河は白い頬を潰《つぶ》して浮き輪にしがみついたまま、頼りない視線《しせん》を水面に向けるのみ。長い睫毛《まつげ》についた水滴がキラキラと光りながら細い手首に零《こぼ》れていく。それを見つめながら、竜児《りゅうじ》は我知らず薄《うす》い唇を尖《とが》らせた。
「こんなところまでせっかくきて、北村だってせっかく応援してくれてて、そういう態度はよくねえと思うぞ」
だが、大河はそれきり言葉を発しない。揺れる水面に髪の筋を流し、薄い目蓋《まぶた》を閉じてしまう。こいつ、本当に勝負なんてどうでもよくなってきているのだろうか。
竜児はなんとなくムッとしつつ、亜美《あみ》の言葉を思い出した――悪いけと、あたしは本気で勝つつもりだし、勝って高須《たかす》くんと夏を一緒《いっしょ》に過ごすつもりよ? と。
竜児は大河とともにぷかぷかゆらゆら流されながら初めて思う。大河は負けるかもしれねえ。気力ではすでに、負けてるのかもしれねえ。だってこいつにはカナヅチというハンデ以外にも北村の前では竜児のために頑張っているように見せたくない、という縛《しば》りがあるのだ。大河なりに勝負に勝ちたいと思ってはいるのだろうが、ふとした拍子、こんな無気力状態の落とし穴に嵌《はま》ってしまいもするだろう。
こんな調子《ちょうし》で明日《あした》、大河《たいが》が本当に負けてしまったら、そうしたらその場合、つまり自分は……
「……と。今、ポツってきたぞ?」
「うっそぉ……」
顔を上げた大河の鼻先にも、冷たい雫《しずく》が天から一滴。
ちょうどお昼どきだし、と、二人はランチ(というか売店の焼きそば)を取りながら天気の回復を待つことにするが。
「なんか、みんな諦《あきら》めて続々と帰っていくみたい?」
いまや単なる雨傘と成り果てたうそ寒いパラソルの下、水着姿のままで焼きそばを手繰《たぐ》る大河の手が止まる。
「人は人だ。雨が止《や》んだら今度は流れてないプールで泳ごうぜ」
「うん。……でもあんた、唇青いけど」
「……おまえなんか青のり思いっきりついてるけど」
大河は口の周りの青のりをまったく気にする様子《ようす》もなく、眉《まゆ》をしかめて手を伸ばし、パラソルの外の雨足を見た。そしてさらに眉をしかめ、
「なんか、すごい降ってる」
「……本降りになってきたか?」
「気温も下がってきてるよ」
ほら鳥肌、と大河は自分の腕を見せてくる。確《たし》かに白い肌はぷつぷつと粟立《あわだ》っていて、吹いてくる風も濡《ぬ》れた素肌を容赦なく冷やしていくのが分かる。
「風邪《かぜ》引いてもつまんねえか……食い終わったら帰るっきゃねえかな」
その提案は、さっきの無気力状態を慮《おもんぱか》ってのものでもあったのだが、
「……帰るの?」
大河は妙に子どもっぽく表情をあどけなくし、どこか不満げに竜児《りゅうじ》を見返す。
「おまえ鳥肌だろ。俺《おれ》だって唇ブルーだし。大丈夫かよ?」
「そうだけど……でもまだ全然練習してないよ。さっきちょっと流れただけじゃん」
焼きそばを「ずぞ!」と大口で頬張《ほおば》る大河の横顔を見る。そのどこか意固地《いこじ》に強張《こわば》った表情は、どうも内心|逡巡《しゅんじゅん》したすえ、帰りたくない、の方に傾いているらしい。
「帰らない? 寒くなってきたけど、まだ練習するか? そりゃ俺はその方がいいと思うけどよ」
「……うん。練習まだする。寒いけど……迷うけど……迷うんだけど……いろいろ……でもやっぱり、もうちょっと頑張ることにする」
気《き》難《むずか》しい奴《やつ》――首を捻《ひね》りかけ、あ、そうか、と竜児《りゅうじ》は思い当たる。さっき注入した恋の燃料《ねんりょう》が、やっと身体《からだ》に巡り始めたのかもしれない。
「だよな。せっかく北村《きたむら》がくれた入場券だ。わざわざもって来てくれた、北村の応援の気持ちそのものだ。無駄《むだ》にしたらもったいねえよな」
しかし大河《たいが》の眦《まなじり》が、そのときキッ、と切れ上がった。
「そういうことじゃないの! そうじゃなくて、私が頑張るって言うのは、それを決めたのは、……もう、いい。どーせ犬になに言っても無駄だ」
「なんだよそれは」
「いい」
食べ終わった焼きそばのあきパックを乱暴《らんぼう》に重ね、大河は割《わ》り箸《ばし》を荒っぽく投げ出す。なにが気に障ったのだか知らないが、唐突に不《ふ》機嫌《きげん》になったらしい。だがそんな風にいきなり不機嫌になられても、竜児だって困る。というか、カチンとくる。
「……私だって、迷いはあるのよ。わかるでしょ? こんなことで頑張っちゃったら、北村くんがまた私とあんたのことを誤解するのかも、とかね。でも、……でも、頑張ろうと思うのよ。思ったのよ。それは、つまり、あんたが――」
一瞬《いっしゅん》、大河と目が合った。
暗い空の下で、パラソルの下で、大河の瞳《ひとみ》は強い光を放っていた。
いつもなら、そんな光もまっすぐに受け止めて、大河が本当はなにを言いたいのかとか、大河の本心はどこにあるのかとか、どうすればうまい具合に機嫌が直るのかとか、情けないほど大河に甘く接することはできたのだ。竜児はそもそもどうしようもなく心優《こころやさ》しくできていたし、同じ釜《かま》の飯を食べている大河のことはほとんど妹か戦友かなにかのようにも思えることがあったから。大河がどれだけ不器用で、本当は口《くち》下手《べた》な奴《やつ》かということもわかっていたから。
だけど、今はそれができなかった。
「……あんたのことには、全っっっっ然! 関係ないんだけどね!」
大河がいつもと同じ発言をして、思いっきり顔を背けて冷たい横目で睨《にら》みつけて、そして竜児は、無性にむかついた。
なぜだったのだろう。
寒くて、ダルくて、疲れていたから? 焼きそばがまずかったから? それとも、賭《か》けのコメントに書かれていた情けない言葉の数々が実は傷になっていたから?
それとももっとシンプルに、自分はこんなに大河を、なんというか、気遣っているのに、大河はいつも、いつもいつもいつも、……いつだって、「竜児のことなんかどうでもいい」とそれしか言葉にしないから?
「……あーそうですか。ならもういいだろ。頑張んなくていーよ。……おまえ、なんかやる気ねえみたいだしな」
実はそれが今日《きょう》このときまで、結構腹の底に重くこたえて沈んでいたから?
竜児《りゅうじ》の硬い声に、大河《たいが》の目の色も変わる。
「……なによ、それ……やる気ないなんて誰《だれ》が言った? ……だから、練習しようって言ってるんじゃん、私は。帰らない、練習もっとする、って」
「無理することねえよ。俺《おれ》のことなんかどうてもいいんだろ。なら、明日《あした》の勝負なんかやめればいいんだよ。頑張る意味なんかねえじゃん。そうすりゃ北村《きたむら》にだって、おまえが俺のことなんか気にもしてないって分かるだろ。それに俺から川嶋《かわしま》に言ってやるよ。北村誘うのやめようぜ、って。櫛枝《くしえだ》も誘わないでおこうぜ、って。そうすれば万々歳だろ、おまえは。なんの憂《うれ》いもなくなってよかったな。コンビニ飯でも食ってろよ、夏中ずっと。駅前の中華屋の出前もまあまあだぞ」
大河の瞳《ひとみ》が静かに据わる。ギラつく怒りを放ちながら、きつく竜児を睨《にら》み据える。
「――どういう意味?」
「そういう意味だよ。練習なんかなし。勝負もなし。それでいいんだろ。北村が別荘に行かなくて、自分のメシの心配もなければ、あとはどうでもいいんだろおまえは。俺が誰《だれ》とどこに行こうが、おまえには文句つける筋合いも理由もねえもんな」
「……ああ、そう!」
は、と笑うような声が、大河の色をなくした唇から漏れた。
「あんたもバケの皮が剥《は》がれたねえ!? 最初っから気づいてればよかった! そうすればこんな苦労……ばかみたい!」
「ああ!? なんだよ、バケの皮ってのは!」
「行きたいんでしょ!? 『川嶋|亜美《あみ》ちゃんの別荘』、だって……大笑いだわ! かわいい女の子と夏中|一緒《いっしょ》に過ごしたいんだ!? そりゃそうだ、私なんかとせっかくの夏休み、過ごすんじゃあもったいないもんねえ! 最初っから行きたいってはっきり言えばよかったじゃない! あーそれとも、なるほどね! 私のこと利用したんだ!? 行きたい行きたいってしっぽ振ったんじゃ格好つかないから、私の気持ちにかこつけて、行きたくないけどしょーがねーなってポーズつけたかっただけなんだあんたは! ばっっっかじゃないの!?」
「……おまえ……っ」
なんでそうなるんだよ、と叫びたくなるような腹立ちが竜児の頭を真っ白にした。なんのために毎日一緒に天気を見て、なんのためにバタ足練習して、なんのためにこんなところまで一緒に来て――それでもこいつはそういうことを言うのかよ、と。一体この俺のなにを見ているんだよ、と。
「ぜんっっっ、ぜん! わかってねえんだなおまえって女は!」
「それはこっちのセリフよ!」
叫ぶみたいに叩《たた》き付け合い、しかし大河《たいが》の言葉の意味を、竜児《りゅうじ》は分かっていたとはいえない。逆もまた然《しか》りかもしれないが、とにかくただただむかつくまま、腹の立つまま、言葉の応酬《おうしゅう》を続けるだけだ。
「前のときもそうだよな! おまえはいつもそうだよな! 俺《おれ》の事なんかどうでもいいって言いながら、勝手に悪いように解釈して、俺を悪人に仕立て上げて俺を攻撃《こうげき》するんだよおまえは! なんでいつもそうなんだよ! 俺が川嶋《かわしま》と抱き合って、それが一体なんだっていうんだ!? なんでおまえにいちいち責められないといけねえんだ!?」
「またその話をするの!?」
大河がキレた。
立ち上がり、テーブルを蹴《け》り倒し、パラソルを引き抜いて投げつけた。雨が降る中、人はもうおらず、静まり返ったプールサイドにただ風の音だけがぴゅうぴゅうと鳴る。
「なんで!? なんでよ!? なんで、わかってくれないの!? 私は怒ってなんかないっ! そうじゃないっ! 最初っからそう言ってるじゃないっ! ただ私は他人が私の心の中をっ、」
大河は拳《こぶし》で自分の心臓《しんぞう》をドン! と強く叩く。叫ぶみたいに声を嗄《か》らす。
「勝手に想像してわかったような顔をする! それが嫌《いや》なのむかつくのっ! 私が竜児に怒っているって!? 竜児は自分のものって言いたい!? なによ……なんなのよ……っ! てめえらになにがわかるっていうんだ!? 私が竜児をどう思ってるかなんて、どこの誰《だれ》が本当にわかるの!? どこの誰が知ってるよっ!? 誰にもわかるはずなんかないっ、だって誰にも言わないもん! ……自分だって、知らないもん!」
怒鳴《どな》るみたいな大河の声は、半分も竜児の耳には届かない。なぜなら竜児はパラソルをよけようとして、幼児用プールにはまっていたから。必死に這《は》い上がり
「げほっ……なにが……なんだって!?」
「だからもう――勝負なんかしないってことよっ! 勝手にどこへでも行けっ!」
目元を拭《ぬぐ》いながら女子用更衣室目指して走っていく大河の水着姿の背中を見る。
知るか、とか、ばかたれ、とか、口走りながらも心のどこかでは思っている。どうせすぐに大河はドジって、例えば転んだり、大事なものを落としたりして、結局竜児を頼ってくると。そうしたら溜息《ためいき》をついて、「ドジだな」と言ってやって、それですべてはいつもどおり。元通り、のはずなのだが。
大河は一度も振り返ることなく、一人でタクシーで先に帰った。
夕食も食べには来なかった。
竜児も呼びには行かなかったのだが――どうやら大河と本当に、ケンカになってしまったらしい。
「……俺《おれ》は、悪くないよな」
思わず鳥かごに呼びかける、午後十一時の静かな高須《たかす》家《け》。
インコちゃんはまるで普通のインコのように、「チチチ」としか言ってはくれなかった。竜児《りゅうじ》の目を見てはくれなかった。
5
――むく。
と、起き出したのは、空もうっすら明るくなりかけた午前五時。
よくわからない夢から覚めた竜児の腹の中には、一晩寝てもまだムカムカと、小さな腹立ちが火を残していた。ただ、昨日《きのう》のようにカッと熱《あつ》く己《おのれ》を焼いたりはしない。炎は点《とも》さないままに、じりじりと胸のうちを焦がすような熱《ねつ》だ。
あまりにムカつくから目が覚めてしまったじゃねえか、と竜児は思う。さらにムカつく。
ベッドから抜け出して頭を掻《か》き、トイレに行き、冷たい板張りの台所を素足で踏んで手を洗い、とりあえず、と戸棚を開ける。
取り出したのは、少し前に泰子《やすこ》が店から持ってきたとっておきの高級ハム。お客の一人がくれたらしい。いつかここぞ、という日に食べようと思ったまま、もったいなくてしまいこんであったのだ。
とりあえず――弁当を作ろうと思う。
目が覚めてしまってもう眠れないし。何かしなくてはイライラするし。……もう大河《たいが》と亜美《あみ》の勝負なんてどうでもいい。天気もプールも夏休みも後回し。とにかく、弁当を作ってやる。幸いなことにひき肉も残してあるし、なんなら今日《きょう》の夕飯用の鳥腿肉《とりももにく》を使ったっていい。野菜もたまねぎを筆頭に、なす、ピーマン、しいたけがある。手の込んだボリュームたっぷりのおかずに、メインはハムステーキの海苔《のり》巻《ま》き。バターたっぷりにきつめの塩《しお》胡椒《こしょう》で焼いたハムステーキと甘い玉子焼きを具にして、酢メシにしないごはんででっかい海苔巻きにするのだ。
やってやる、とほとんどやけっぱち、冷蔵庫《れいぞうこ》を開けておかずの材料を取り出そうとしたそのとき、ガチャ、と玄関の鍵《かぎ》が開いた。
「……ありり……?」
不思議《ふしぎ》そうな声を上げて泰子がひょこ、と顔を出す。息子を見るなりにっこり笑い、
「ろ〜して竜ちゃん起きてるの〜?」
酒の匂《にお》いをプンプンさせつつも、嬉《うれ》しそうにぴょこぴょこ跳ねる。
「目ぇ覚めちまったから、弁当、作ろうと思って」
グラスに冷えた麦茶を入れて渡してやると、酔っ払い泰子《やすこ》は白い喉《のど》を見せてそれを一気に呷《あお》る。
「……っあ[#「あ」に濁点]〜、うンま〜! ……そいでえ、大河《たいが》ちゃんとぉ、仲直りれきたぁ〜?」
「まだ」
たまねぎを刻みながら、竜児《りゅうじ》は素直に首を横に振った。酔っ払い相手に格好つけても仕方がない。
「そっかぁ〜……れもぉ、竜ちゃんさあ、誰《だれ》かとケンカしちゃうなんてぇ、初めてらよねえ〜……」
「ああ」
母親の言うとおり。
恥ずかしながら、竜児はこれまで一度だって他人と声を上げて本気のケンカなどしたことはなかった。軽い言い争いだとか、言われたことに笑っていたけど実は内心腹を立てていたとか、そういうことならいくらもあったが、あんなふうに悪感情をむき出しにして相手に叩《たた》きつけたのは初めてだった。感想としては、極めて最悪な気分。
あふ、と泰子も息をつく。
「ろ〜して、ケンカに、なっちゃったんらろーねぇ……? せっかく仲良くプールに行ったのにねぇ……」
そうしてズルズルと台所の床に座り込み、しかし竜児《りゅうじ》はそれを叱《しか》りはしなかった。
「……大河《たいが》が、俺《おれ》のことなんかどうでもいいって言うから、むかついた。……んだと思う」
「んにゃ〜そっかあ〜……でもぉ、竜《りゅう》ちゃん……わかってるよれ……? 大河ちゃんはいつらって、言うことは、反対の、ことなんらよ……?」
見事な包丁さばきで、まな板の上のたまねぎはあっと言う間にみじん切りにされていく。目にも鼻にもつんときて、いいたまねぎだな、と竜児は思う。
「大河ちゃん、ちゃんと……ヒントはくれてたれしょぉ……? 大河ちゃんは、ちゃ〜んと……竜ちゃんのこと、好きらよ……? きっと……ろ〜れもいくなんか……そんなわけ、ないよ……」
もう一個ぐらい、みじん切りにしてやろうか。
「付き合いたいとかぁ、そういうのはわからなくても、ね〜……竜ちゃんのことがほんと〜に嫌いらったらぁ、あーゆー子はぁ……どんなにおなかがすいてたって、同じお皿のおかずなんかぁ、死んでも食べないと……思うんら……やっちゃんは……」
ひんやりとした泰子《やすこ》の手が、竜児の脛《すね》にそっと触れた。
元気付けるように、あやすみたいに何度かポンポンと優《やさ》しく叩《たた》いた。
そして、
「……すぅ……」
その手が床にポトリと落ちる。酒臭い寝息を立てて、今夜も飲みすぎた泰子は沈没。
「……ったく……またメイクも落とさねえで……」
たまねぎ臭い手をざっと洗い、酔っ払いを抱えて寝室まで運んでやる。寝る前に竜児がいつも敷《し》いておいてやる布団に横たえ、そのとき、不意に懐《なつ》かしく思う。
泰子の胸元から匂《にお》う香水は、昔と同じだ。変わらない。スパイスのような、甘みの少ないさっぱりとした香りは、意外と泰子の雰囲気に似合う。
ふと蘇《よみがえ》る記憶《きおく》は、ここよりもっと猥雑《わいざつ》な街の、ビルの一室にあった託児所の薄暗《うすぐら》さ。明け方になって泰子が迎えに来て、起こされて眠たくても嬉《うれ》しくて飛びついて、『竜ちゃあん! ごめんねえ! ごめえん!』――抱き上げられるとこの香りがした。しがみついた首筋は真冬でも汗に湿っていた。ハイヒールでもミニスカでもなんでも、泰子は店から全力ダッシュで竜児を迎えに来てくれたから。
普段《ふだん》は忘れかけているけれど、やっぱりこいつが親なんだなあ、と、竜児は妙に納得した。こんな年になったって、一人で眠れるようになったって、やっぱり泰子の甘やかしの言葉になんだか落ち着いてしまうのだから。
自分の分の弁当箱の横に、大河の弁当箱も出して並べる。憎たらしいが、ケンカ中だが、泰子の言葉に免じて弁当だけは作ってやることにする。なにしろめったにないような立派なハムだし、めったにないような豪華弁当を作るつもりだから。
……マザコン?
それの一体なにが悪い。
空を覆《おお》う銀色《ぎんいろ》の雲から、しとしとと小雨が降り続いていた。
「大河《たいが》! なあ、待てって!」
水溜《みずたま》りを避けて走りつつ、淡いラベンダーの傘を追う。大きな欅《けやき》の並木の下でやっとその正面に回りこみ、
「一緒《いっしょ》に行こうなんて言わねえよ! ……弁当! ……これだけは、持ってけよ。せっかく作ったんだからよ……どーせ昨日《きのう》はなんにも食ってねえんだろ。朝飯の分は別にしてタッパに詰めてあるから、学校ついたら食え」
「……」
大河は妙に強く光る目をして無言――怒りの感情さえ見せず、ただ己《おのれ》の通行の邪魔《じゃま》をする石ころでも見つけたみたいな冷たい表情で竜児《りゅうじ》の足元を見下ろしている。
差し出した弁当の袋はむなしく二人の間でブラ下がったまま。
さらに一歩、近づいてやる。弁当の袋を手元に押し付けてやる。竜児の手の甲に雨の雫《しずく》がはぜる。
「……雨、降ったな」
「……」
「……本当は、晴れて欲しかった。俺《おれ》はな」
大河の瞳《ひとみ》が一瞬《いっしゅん》だけ、竜児の顔を見た。竜児は弁当を差し出したまま、かける言葉を探していた。話すべきことがあるのかどうか、そんなことは自分でもわからない。ただ、ケンカの延長線上《えんちょうせんじょう》で、弁当を渡すという行為の矛盾《むじゅん》をなんとかしたかった。言い訳がしたかった。許して欲しいわけじゃねえからな、と。
「晴れて、それで……おまえが水泳勝負、出てくれたらいいな、と……」
……あれ。
話しながら竜児は首を捻《ひね》る。そうなのか? 大河に勝負に出てほしかったのか? ……出てほしかった、ようだった。だって口はそう動いている。
でもなぜだ?
なぜなら川嶋《かわしま》の別荘に連れていかれたら困るから。
そんなの、川嶋にはっきりと「俺《おれ》は行かない」って言えば済む話じゃなかったのか? 無理やり拉致《らち》されるわけでもあるまいに。
そうだけど、言えなかった。言わなかった。
なぜ言わなかったのだろう? 言わずに、大河《たいが》に勝負で勝ってもらおうと思ったのはどうしてだ? 有無を言わさず巻き込まれたから? 否やを唱える間も与えられなかったから? ……そう、言い訳をしたのだ。あいつらは本当に強引だ、と。俺《おれ》の気持ちなんか無視だ、と。でも、本当の気持ちは……どこにあった?
――今更の自問自答が竜児《りゅうじ》の言葉を飲み込ませた時。
「……あ」
竜児の手から、弁当が奪われる。
大河は冷たい目をしたまま、しかしやっと、口を開く。
「……お弁当に罪はないから、これだけはもらう。でも、あんたのことは許さない。許さないから、」
ラベンダーの傘が勢いよく閉じられる。
眩《まばゆ》い光が竜児の目を射る。思わず目蓋《まぶた》を硬く閉ざす。
「プールの勝負だって、私はもう知らない」
知らないもなにも天気が……と思いかけて、竜児はようやくその目を開いた。驚《おどろ》いて、傘を持つ手から力が抜けた。
一瞬《いっしゅん》の間に、銀の雲は裂けていた。
見る間に差し込む夏の日差しが肌を容赦なく焦がし、青い空がグングンと力強く広がっていく。大河の伏せた長い睫毛《まつげ》に、きらきらと光の粒が輝《かがや》き始める。
***
「ほらぁー、いつも先生は体育教官室にいらっしゃっててぇー、あんまり教員室にお顔出されないじゃないですかぁー。だから、なんか、思ってたんですぅー。先生とゆっくりお話してみたら、楽しいんじゃないかなーなんてぇー。飲み会とかにも先生いらっしゃらないじゃないですかぁー」
「いや、お酒苦手なんです」
「えー、じゃあ夜とかぁー、なになさってるんてすかぁー? お休みの日とかぁー。もしかして彼女さんとかとご一緒《いっしょ》とかぁー?」
「プロテイン飲んで、ジムに行きます」
「えー、そうなんですかぁー! えー、えー、いいなー、私、実はいまジムに通いたくてぇー。ヨガとかぁー、ピラティスとかぁー、始めたいなーって」
「ジムはいいですよ! マシンとか!」
「ホットヨガとかぁー、あるじゃないてすかぁー」
「あとウエイトね! 筋肉増強・パワー増大!」
「ええと……あんまり、その、筋肉とかはぁー……」
「最近ねえ、結構ボクいい感じなんですよぉ! カラダ! できてきちゃって! どうですか!? これ! この背中! 肩! 太もも! どうです!?」
「……た、逞《たくま》しいですよねー、すごーい……ムキムキ、っていうかぁー……」
「『デカい!』って言ってください! ふんむ!」
「……で、でかい」
「『キレてる!』って! ほぉーら! はぁっ!」
「……きれてる」
だめだ、話通じねえ、やっぱ無理、と|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(29・独身)が首を振って立ち上がる。それを指差し、笑うのは春田《はるた》だ。
「うぷぷ! ゆりちゃん退場! みじめー!」
久しぶりの真《ま》っ青《さお》な空の下、春田と並んで座った竜児《りゅうじ》の肌は、早くも日焼けし始めてジンジンと熱《ねつ》を持っている。
「それにしても、今日《きょう》の主役が全然現れないじゃんかよー」
「せっかく晴れたのに」
2―Cの生徒たちは眩《まばゆ》い真夏の太陽に照りつけられ、しかし誰《だれ》一人として青く輝《かがや》きながら揺《ゆ》らめくプールに浸《つ》かろうとはしなかった。全員がプールサイドにずらり座って陣取って、口々に「おせえー!」だの「おまえ何口|賭《か》けた? どっち?」だの、好き勝手なことを言っている。黒マッスルこと体育教師も、今日は生徒たちがなにやら自主的にイベントをする、ということで、日焼けという名の安全管理に静かに没頭するつもりらしい。
竜児も春田や能登《のと》、北村《きたむら》のいつもの面子《メンツ》で並んで座り、こめかみから滴る汗を拭《ぬぐ》った。唇を尖《とが》らせ、その肩を春田がつつく。
「なー高須《たかす》。ちゃんと来るんだろうなあ、手乗りタイガー」
「……どうだろうな。わかんねえよ奴《やつ》のことは」
昨日《きのう》ケンカしたから来ないと思う、とは、たとえ相手が能登でも言えない。知らぬ間にクラスは違法|賭博《とばく》て盛り上がりまくり、気がつけば亜美《あみ》と大河《たいが》の人気はほぼ拮抗《きっこう》しているのだ。二十口賭けた猛者《もさ》もいるという。しかも大河に賭けた奴らはほとんど全員「高須が自信満々だったから」とその理由を語る。その竜児が原因で大河が勝負を放棄したとなっては、さすがに雰囲気的にマズかろう。
実乃梨《みのり》は今回は中立の審判《しんぱん》役。ホイッスルを胸にかけ、むん、と押《お》し黙《だま》ったまま飛び込み台に座っている。
突然、ギャラリーの一角がとよめいた。何事か、と顔を上けると、
「ごめんなさぁ〜い! 髪まとめてたら時間かかっちゃったぁ〜!」
うおおおおぉぉぉぉぉぉ……と、大地を揺《ゆ》るがすような、これはなんだ、感嘆の声か。さすがの竜児《りゅうじ》も思わず身を乗り出し、どよめきの一部を担ってしまう。
小走りに現れたのは、亜美《あみ》。
綺麗《きれい》な三《み》つ編《あ》みに髪をまとめ、顔がかわいいのもスタイルが完璧《かんぺき》なのも先日|披露《ひろう》された通り。ただ今回は――
「ビ、ビキニっ!」
「俺《おれ》、多分《たぶん》この日のこと死ぬまで忘れねえ……っ!」
――漆黒《しっこく》のビキニ、なのだった。
くっきりと影《かげ》を落とす魅惑《みわく》の谷間。結構ずっしり重そうなバストを支えるのは三角形の頼りない布地。彫刻のように腹筋の筋が美しい腹に、小さな縦型《たてがた》のへそまで晒《さら》し、亜美はもはや天使も卒業、これは悪魔《あくま》だ。美と色香の悪魔。
「ずっと雨だったから、いつもの水着乾かなくって! って、もうやだぁ! なんなのみんな! そんなに見られたら恥ずかしいったらー! でもでもこれって校則違反かなあ? 心配だなあ……」
亜美は頬《ほお》を赤らめて、ちょっと困ったみたいに唇を尖《とが》らせる。水着乾かなくて……? 最後のプールの授業は先々週なんですが……などという突っ込みは、この場合無粋かもしれない。アホのように口を半開きにして竜児はそのサマを眺めていたが、唐突に耳を引っ張られる。
「あの綺麗な亜美たんは、今からプールで泳ぐんだろ……?」
「それは高須《たかす》を別荘に連れていくためだろ……?」
「高須ばっかりなんでなんでなんでなんでなん」
「でなんでなんでなんでなんで高須ばっかり!」
「いてえいてえいてえ!」
右耳は春田《はるた》、左耳は能登《のと》。嫉妬《しっと》の視線《しせん》で睨《にら》まれながら、竜児は痛みに身を捩《よじ》る。
「ったく、やめろよおまえら! ……勝負なんて、本当にやるかどうかわかんねえぞ!? 第一、大河《たいが》が来なかったらお流れだろうが」
「え? 来ないの? 手乗りタイガー。なんで?」
「……なんでもなにも……知らねえけど……アホらしくなったんじゃねえの。もともとあいつは、別にこんな勝負なんか、」
うわああぁぁぁぁぁぁぁ! と、そのとき、再びのどよめき。しかしさっきのどよめきとは微妙に雰囲気が違い、竜児も何事かと視線を投げた。そして、
「……うわあ……!」
これは――驚愕《きょうがく》のどよめき。
「びびったぁ! 俺、ついに手乗りタイガーが武装してきたと思っちゃった!」
「絶対フルメタルジャケットに見えたよな、あれ!」
現れたのは、大河。
ふたつに分けた大きなお団子に髪をまとめ、水着はビキニ――なんてことはない、前と同じ、偽乳パッド入りの紺色《こんいろ》の水着。しかしギャラリーを驚《おどろ》かせたのは、その小さな身体《からだ》に抱えまくったありとあらゆる浮き具の類《たぐい》だ。ふくらませた浮《う》き輪《わ》を大小とりまぜていくつもかぶり、両手にはビート板、ビーチボールや小さなマットも脇《わき》やら肘《ひじ》やらに挟んで持ち、とにかくありとあらゆる「浮く」ものを、全身にびっちり取り付けている。ほとんど肌も見えないぐらいに。
「ちょ、ちょっとあんた! その格好で泳ぐ気!?」
亜美《あみ》が指差して声を上げると、大河《たいが》は平然と顎《あご》をしゃくる。
「そうよ? いけない? それとも一切の『異物』は持ち込み禁止?」
「あったり前でしょ!? 泳けないんならあんたの不戦敗よっ!」
「あっそー。なら水着も脱ぎなさいよ。水着だって異物でしょ。それとも全裸で泳げるのあんた。ヘー、すごいわね。さっすがー。でも逮捕されると思うけど」
「き、詭弁《きべん》よ!」
「ああ、それとも……負けるのが怖い? そうよねえ、泳げない私に万が一負けちゃったりしたら、あかっ恥! だものねえ……。わかるわー、その気持ち」
グ、と亜美は声を詰め、だがすぐに余裕の笑《え》みを取り戻す。
「……ふん。それならどうぞ、ご勝手に。そんなんでまともに泳げるとは思わないけど、ま、こないだみたいに溺《おぼ》れさせるよりはマシかもねえ?」
「お気遣い、どうもありがとう。そっちこそ気をつけてね? 水の事故って怖いから……なにが起きるかわからないわよ」
けっ! と顔を背け合い、陰険な前哨戦《ぜんしょうせん》はこうして終わった。さて、と実乃梨《みのり》が腰を上げる。
「それではこれより25メートル自由形、一本勝負! あーみん、意気込みを一言!」
「はぁーい! とにかく楽しくやれたらいいなって、それだけでーす※[#「ハートマーク」]」
激《はげ》しい拍手と、「あみたーんっ! かわいいよーっ!」「あみたんがんばれー!」「大好きだー!」「俺は真剣だー!」男どもの暑苦しくも野太い歓声がプールサイドから上がる。そして、
「大河、あんたも一言いいな!」
「……そうね。それならこの際はっきり言っておくけど――そこの目つきの悪いおまえっ!」
唐突に名指しされ、竜児《りゅうじ》はビク! と跳ね上がる。こちらを差す大河の人差し指には海苔《のり》の欠片《かけら》……よく見ると唇の端にも海苔……朝食用の海苔巻きをちゃんと食べてくれたらしい。
「調子《ちょうし》に乗るんじゃないよ……おまえのために私はここに来たんじゃないんだ。私はただ、このバカチワワの、」
「誰《だれ》がバカチワワよ!?」
「思い上がったバカビキニを見て、恥をかかせてやろうと思っただけ!」
「なにがバカビキニよ!?」
「それがバカビキニよ。初めて見たわ、学校のプールでビキニ着てるばか」
「文句あんの!? かわいいじゃないよ!」
「(ば)かわいい」
「なによそのカッコは!?」
竜児《りゅうじ》にはそれっきり、侮蔑《ぶべつ》の視線《しせん》さえも送られはしない。しかし竜児は目をギラギラと危なく吊《つ》り上げて、大河《たいが》を見つめ続けていた。視線で水着をビキニに切り裂いてやろうと思っているわけではない。ただ、改めて驚《おどろ》いていたのだ。身に着けた浮《う》き輪《わ》の数なんかにではなく、大河が現れたそのこと自体に。
まさか、勝負に出てくるとは思ってもみなかった。だって言っていたではないか、許さない、勝負なんか知らない、と。それが、亜美《あみ》がビキニだからって……。
竜児を置き去りに、ギャラリーたちの間から亜美の時と同じぐらいに盛大な拍手が湧《わ》き上がる。「儲《もう》けさせてくれーっ!」「最強伝説はまだ続くぞーっ!」「闘魂《とうこん》ーっ!」「師匠ーっ!」……少々毛色の違う、しかし十分に熱《あつ》い声援も真夏のプールを震《ふる》わせる。
「うるっさいっ! ほっとけボケどもがぁっ!」
牙《きば》を剥《む》く大河の声も気合十分、闘志十分、応援チームをさらに熱く興奮《こうふん》させる。
そして実乃梨《みのり》の指示で二人はきちんと準備運動、心臓《しんぞう》にもちゃんと水をかけ、
「それでは……位置についてっ!」
亜美は慣《な》れた様子《ようす》で、水泳選手のように飛び込み台で身体《からだ》を屈《かが》める。そして大河は――
「おいおいおい……飛び込めるのか!? 手乗りタイガー」
「下からいった方がいいんじゃねえの!?」
「無理すんなーっ!」
――観客《かんきゃく》さえも不安にさせる、飛び込み台での仁王《におう》立《だ》ち。
亜美が横目で大河を見、ふふん、と小さくバカにしたように笑う。
大河は亜美の笑いを見、完全にシカトでそっぽを向く。
「用意――」
月手を上げた実乃梨がホイッスルを口にくわえ、一転あたりは水を打ったように静まり返る。亜美の足がグッと力を孕《はら》んて飛び込み台を掴《つか》み、そして大河はその亜美の下腹部あたりを唐突に指差し、
「あ。毛」
「へっ!?」
ピィ――――ッ! と鋭《するど》いホイッスルの音が響《ひび》き、競技《きょうぎ》スタート。が、亜美は動揺《どうよう》したように顔を上けてしまい、そこに、
「ふんぬっ!」
はあ!?
目を剥《む》いたのは、全員だった。もちろん竜児も、そして亜美も。
スタートの合図とともに大河《たいが》は手にしていた浮《う》き輪《わ》やらなにやらを、全部|亜美《あみ》に投げつけたのだ。ボヨン! と弾《はず》む浮き輪たちに襲《おそ》われ、亜美は飛び込むタイミングを逃す。飛び込み台の上でグラグラとバランスを失う。
そして、虎《とら》が牙《きば》を剥《む》いた。火を噴《ふ》くように瞳《ひとみ》が輝《かがや》き、振り上げた片手にはなんと木刀。身体《からだ》を隠《かく》すもろもろの浮き具はそいつを隠していたわけだ。もう片手には一枚きりのビート板を抱え、真《ま》っ赤《か》な口を開けて亜美に飛びかかる。
「うぉらっ!」
「きゃ――――っっっ!」
音もなく踏み切り、高さは十分。美しすぎる見事な回《まわ》し蹴《げ》りが一閃《いっせん》――さすがにヒットはさせずに絵のような滞空、浮かせた軸足でトン、とダメ押し、バランスを崩した亜美をそのままプールに頭から突き落とした。荒っぽい水柱が激《はげ》しく上がり、大河は後を追うようにプールに飛び込んでいく。
沈んだ亜美にしがみつき、水中でバチャバチャと掴《つか》み合い? 殴り合い?
「どうなってんだぁ!?」
「熱《あつ》いっ! 熱すぎるっ!」
絶叫と歓声の中、竜児《りゅうじ》はもはや口ポカーン……なんて奴《やつ》だ。逢坂《あいさか》大河。おまえはそれで……それでいいのか!? この勝負!
四本の白い腕が交互に水面を叩《たた》き、沈んだままでの暗闘《あんとう》が続き、
「っぷはぁっ!」
先に顔を上げたのは、大河。ビート板にしがみつき、ニヤリ、と悪魔《あくま》も裸足《はだし》で逃げ出すような歪《ゆが》んだ笑《え》みを唇に乗せる。
亜美も続いて顔を出すが、その大きな瞳に浮かぶのは驚愕《きょうがく》。大河が片手で突き上げた木刀の先には、
「いっっっ……」
「だから言ったでしょ? バカビキニ、って。こんなに簡単《かんたん》に脱げちゃうなんて、本当にバカね、水着もあんたも!」
高々と掲げられる、亜美のビキニの「上半身分」。
「ぎゃ――――――――――――――――――っっっっっっ!」
天まで届く大絶叫を上げたのは亜美。
「うぉ――――――――――――――――――っっっっっっ!」
地を裂くような轟《とどろ》きは男ども。
晒《さら》されてしまった胸を両手で隠《かく》し、亜美はもはや天使の仮面もクソもない。必死に水着の行方《ゆくえ》を見つめるが、しかしそこはさすが大河だ、
「てぇーいっ! 取れるもんなら取ってこぉぉぉいっ!」
見事に木刀を釣竿《つりざお》のように一振り、濡《ぬ》れた水着は空をヒラヒラと舞《ま》い、スタート地点の背後の柵《さく》にぴちょん、と情けなく引っかかる。
「信じられないっ! 信じられないっ! しんじらんなーいっっっ!」
どんなに泣いて騒《さわ》いでもこれが現実、両手で胸を隠したまま、亜美《あみ》は一歩もその場から進めない。
大河《たいが》はその隙《すき》にビート板をしっかりホールド、凄《すさ》まじいキックを蹴《け》りだして水面を滑るように進み出す。普通にはありえないスピードで。
「はええっ! 手乗りタイガーの勝ちだぞこれは!」
「ちくしょー卑怯者《ひきょうもの》めっ!」
「あみたんは俺《おれ》が救うっ!」
グングン進む大河に亜美側のギャラリーも当然|黙《だま》ってはいない。水着を取って亜美に返すべくダッシュでビキニへ向かうが、
「させるかーっ!」
「亜美ちゃんには悪いが、このまま動きを封じさせーるっ!」
反対側から同じく走り込んでくるのは、大河側ギャラリー。ふたつの敵対勢力はもつれこむようにビキニにスライディング、結局どちらの手に渡ったやら、
「あ、ちょっと待って、匂《にお》いかがせて」
「一瞬《いっしゅん》でもいいから触らせて」
男どもの間で大義なき奪い合いが始まる。しかもそのうち、
「ここはひとつ共闘《きょうとう》だ! 俺《おれ》はもはや金などいらねえ、亜美《あみ》たんのあの姿を拝み続けたいっ!」
おおおっ! と納得する声多数、視線《しせん》はプールの中で白い素肌を晒《さら》す亜美へ。亜美は顎《あご》まで水中に沈み、「早く返してー! もーばかぁ!」と叫ぶしかない。
「もうっ、エロ男子っ! よこせっ! へい亜美ちゃん、パースッ!」
「ナイス麻耶《まや》ちゃん!」
男の群れに切り込んでいった麻耶がなんとか水着を取り返し、亜美目指してそれを放ってやるが、
「あみたーん! 俺が今助けるからねー!」
「俺も接近したーいっ!」
「させるかー! 金も水着もあみたんの白肌も俺のもんだー!」
「フラグを立てるのはこの俺様!」
「いやーっっっ!」
エロにすっかり脳をやられたバカどもが、いろいろなものを目当てに水着を追って一緒《いっしょ》にプールに飛び込むのだ。実乃梨《みのり》が激《はげ》しく笛を吹き、
「こらそこ選手に近づくなーっっっ! セクハラ罪で逮捕するぞーっっっ! だーっ! もうっ! 言うこと聞けってばーっっ!」
警告《けいこく》を与えるが聞く奴《やつ》はいない。
「あみたんの水着ゲーット!」
「俺によこせ!」
「あみたん大丈夫!? ケガしてない!?」
「ひー! 来ないで来ないで来ないでー! ……って、来るなっつってんだろうがぁぁぁっっ!」
「あ、あみたん……?」
「今、なにやら恐ろしい声が……」
「いやん※[#「ハートマーク」] なにか聞こえたぁ?」
女子たちは目配せ、「もー許せない!」と怒りの表情で立ち上がり、
「あんたたちいい加減にしなさいよ!?」
「このセクハラ野郎とも!」
男どもを亜美から引《ひ》き離《はな》し、力ずくてプールから引き上げてしまおうと、さらに続いてプールに飛び込む。春田《はるた》も能登《のと》も「参戦!」「こんな楽しいこと黙《だま》ってられっか!」と飛び込んでいってしまって、道連れに北村《きたむら》も「おまえも付き合えっ!」と突き落とされる。
あっけに取られたまま残された竜児《りゅうじ》は、ビキニを奪い合う喧騒《けんそう》の輪《わ》からうまいこと外れた主役となんとなく目が合ってしまう。
亜美《あみ》はこんなときだというのにニッコリ竜児《りゅうじ》に微笑《ほほえ》みかけ、
「うふふ、見たい〜?」
「……この……ばかっ!」
胸を隠《かく》す両手をそっとずらしかけるのだ。実はまだまだ余裕があるのか?
その背後、亜美の頭上を黒いビキニが怪鳥のことく舞《ま》いまくる。「こっちパス!」「男に渡すな!」まるで水球かなにかのように、女子たちは見事な連携プレイで亜美の水着をパスしていき、
「亜美ちゃんいくよーっ! パースッ!」
「おっしゃサンキュー!」
ようやく亜美の手に水着が戻った。亜美は一瞬《いっしゅん》深くプールに沈み、顔を上げたときには水着装着。無駄《むだ》口《ぐち》を叩《たた》く余裕もなしに、一気に本気のクロール開始。
ギャラリー全員の目が亜美に集中し、竜児だけが大河《たいが》を見た。大河はちゃんと泳いでいるだろうか。溺《おぼ》れずちゃんと進んでいるのだろうか。ドジはしていないか、なにか困ってはいないか――昨日《きのう》あんなにケンカをしたというのにそれでも結局目が離《はな》せなくて、そして、
「……おうっ!?」
喉《のど》にこもった悲鳴をあげた。
ジタバタと進んていた大河だったが、竜児が視線《しせん》を向けた次の瞬間《しゅんかん》、小さな身体《からだ》は唐突に水中に没したのだ。
立ち上がる。誰《だれ》にも気づかれないままに、夢中でプールサイドから走って飛び込む。全力で水を掻《か》いて泳ぐ。
見えるのは水面を叩く大河の両腕のみ。溺れているのはまちがいない。しかしビート板があるのになぜ!? どうして!? と泳ぎながら考えても、本人に聞かなければわからない。
「大河っ! 大丈夫か!? 器用な溺れ方しやがって!」
抱きかかえるようにしてその顔を水面に出してやるが、大河は必死に四肢をばたつかせる。溺れているくせに竜児の手をもぎ離そうとする。苦しげに顔を歪《ゆが》め、両目を涙で真《ま》っ赤《か》にし、何を言うかと思ったら、
「離せぇっ、このっ、あっち行けぇっ!」
「離せるわけないだろこの状況でっ!」
「うるさいっ、あんたなんか大っっっきら……いたたたたたたっ!」
「どうした!?」
「あっ、足が、つってるー!」
「卑怯《ひきょう》な手口の天罰だ!」
もう泳げるまい、勝負は中止だ、と竜児は実乃梨《みのり》に伝えようとするが、
「ええいっ、まだいけるっ! ビート板! ビート板!」
痛そうに顔をしかめているくせに、大河《たいが》は何度か咳《せ》き込んで息を整《ととの》え、本当に竜児《りゅうじ》の手をはたき飛ばし、再びビート板を引っつかむのだ。痛めたらしい右足をグイグイ引っ張って無理やり伸ばし、
「い、いくのか!?」
大河はギラリと前だけを見ている。
「いくの!」
「でもおまえ――」
もう知らないって言ったじゃないか。バカチワワに恥をかかせたいだけと言ったじゃないか。恥ならもう十分過ぎるほどにかかせたじゃないか。言葉にならない竜児の顔を一瞬《いっしゅん》強く睨《にら》み、大河は言う。
「嬉《うれ》しいでしょ!?」
「な……っ」
「な、じゃないっ! 主人がおまえのためにがんばってんだ、もっと喜べ! この鈍犬野郎!」
再び泳ぎ出そうとする大河にもはや言葉をかける余裕もない。竜児はあれこれ考えず、とにかく大河の腰を掴《つか》んだ。そして勢いをつけて、
「――よっしゃ、そんなら行けっ! 尻尾《しっぽ》でもなんでも振ってやるっ!」
思いっきり前へ放り投げた。そのスピードに乗って、大河は再び無事にバタ足を開始、順調《じゅんちょう》に泳ぎを再開する。が、信じられないアクシデント。
すでに全員がプールに飛び込んで、水着の奪い合いからむちゃくちゃな男女対抗戦に発展し、あっちこっちで沈め合い、投げ合いの水しぶきがあがっていたのだ。
そして泳ぎ始めた大河の背後、竜児のすぐ傍《かたわ》らでも誰《だれ》かが力いっぱい放られて、
「ええっ!? りゅ、竜児ーっ!?」
「……ぶがぶぐぼご……」
その肘《ひじ》だか膝《ひざ》だかなんだかが、竜児の頭にクリーンヒット。全身の力が一気に抜けて、自分が沈んで行くのがわかる。一瞬で消えた視界では、水柱に驚《おどろ》いて振り返ったらしい大河が、目を丸くして自分を見ていた。プールの喧騒《けんそう》は一層|激《はげ》しく、他《ほか》の誰も気づいていないのもわかる。
「うそでしょ!? 竜児! 竜児ーっ!」
大河の声が次第にくぐもり、息が……いや、できた。
動かない身体《からだ》はなにかに強く引き上げられ、ビート板に乗せられた……のか?
「誰かっ……ねえ誰、かっ……ぶぐぶぐ……げほっ! くそーっ!」
身体を抱える小さな手も、とても頼りがいがあるとは言いがたい。しかし自分の腕は動かず、視界も真っ暗、これはきっと半分失神状態なのだ……それはわかるのだが。わかるだけ。自分ではどうすることもできないまま、支えてくれる腕にもたれ、ビート板にくっつけた頬《ほお》も上げられない。
グラグラ揺《ゆ》れるビート板からずり落ちそうになって冷たい水が口に入る。むせそうになるその寸前、小さな手がしっかり首に回されて、温かく、柔らかく、顎《あご》のあたりまでぐるりと支えられる。肌に触れる水は滑らかに流れてくすぐったく、多分《たぶん》ぐんぐん進んでいるのだろう。
薄《うす》く、やっと目蓋《まぶた》を上げることができた。景色《けしき》は思った以上に荒っぽく揺れ、すぐ目の前では、
「ええーんっ!」
大河《たいが》が泣いている。それでも竜児《りゅうじ》の首に回した腕だけは外さず、半分沈みながらもとにかく必死に片手でビート板を掴《つか》み、水を掻《か》き、ゴール地点を目指している。こんなことになってもなお、あきらめのあの字も口にせず。たとえ子供のように泣いていたって、負ける気なんか少しもないのだ。
しかしその背後から、なにやらものすごい速度のもの……イルカみたいなものがグングンスピードに乗って近づいてくる。誰かが叫ぶ。「なんで高須《たかす》とタイガー二人乗り状態なんだ!?」「わーっ、抜かれるっ!」「高須てめー!」「いけいけあみたーんっ!」
なにを言われても反論《はんろん》もできない半失神の竜児の視界を、イルカがあっさり横切っていくのがわかった。嗄《しわが》れた絶叫と声援の中、そいつは不器用な二人乗り状態のビー卜板チームなどいとも簡単《かんたん》に抜き去って、そのまま水を切るように突き進み、
「……ゴールッ! 正義はかーつっ!」
とか、なんとか。
その声と同時に、「あふっ」――ビート板を抱えていた小さな手から、最後の力が失われた。
歓声が上がりかけ、……すぐに止《や》む。誰かが呟《つぶや》く。
「……高須とタイガー、あれ、溺《おぼ》れてない?」
そうなんです。
溺れているんです。
というか――もとより足を痛めていてついに力尽きた大河は、竜児とビート板を水面に残したままぶくぶくと水底に沈んでいく。
「なんでええぇぇ!?」
再び高らかに響《ひび》く亜美《あみ》の悲鳴。ドーン! と飛び込んだ重量感のある肉体は、異常にキレてて、デカかった。
黒マッスル、監督《かんとく》責任のピンチである。
「げほ……げほげほげほげほっ!」
引き上げられた大河は苦しげに膝《ひざ》をついて咳《せ》き込んだ。
その傍《かたわ》ら、いまだ竜児《りゅうじ》は半失神。ぐったりとプールサイドに寝かされて、指一本動かすことはできない。誰《だれ》かが言うのが遠く響《ひび》く。
「高須《たかす》、大丈夫か!?」
「息はしてるぞ!」
「よし、このまま保健室《ほけんしつ》に運ぼう!」
いや、平気だ――ようやく肺いっぱいに酸素が入り、クラクラしていた頭もクリアになっていくのがわかった。竜児はみんなを安心させようと、肘《ひじ》をついて身を起こそうとし、
「触るな―――っっっ!」
薄《うす》く開けた視界で、とんでもないことが起きているのを知る。髪もとけて目も真《ま》っ赤《か》、ひどいなりになった大河《たいが》が虎《とら》の姿勢で竜児に跨《またが》り、
「ばかばかばかばか、ばかばっかりだおまえらは――っ! なんで気がつかないのなんで助けてくれないのばかばかばかばか近寄るんじゃなぁぁぁ――――いっっ! あっちいけっ! おまえらみんな大っっ嫌いだっっ! 来るな来るな来るなばかぁぁぁぁぁ――――――っっっ!」
キレていた。キレまくっていた。たじろぐ黒マッスルの筋肉などとは比べ物にならないほどに、虎の名を持つ女はキレていたのだ。
ガルルと唸《うな》りは野生の匂《にお》い、叫ぶ声は涙まじり。
「竜児は、私のだぁぁぁぁぁ――――――――――――っっっ! 誰も触るんじゃ、なぁぁぁぁぁ――――――――――――いっっっ!」
シン、と静まり返る2―Cの面々。
無音状態になる真夏のプール。
空は青くて、ジリジリと照りつける日差しは暑くて、
「……ん……? ……あれ……?」
とっさに叫んだ言葉の意味に、大河が気づいてしまうのと同時。
……もうちょっと、気を失ったふりをしていよう。竜児はすべての思考を放棄、目を固く閉ざして意識《いしき》を手放した。
だがしかし、文字通り無意識のなせるわざなのだろう。竜児はほんの少し微笑《ほほえ》んでいる。嬉《うれ》しかった。素直な気持ちだ。
大河が叫んだ言葉は嬉しかった。それに、そうだ――ずっと嬉しかったのだ。
大河がこの手首を掴《つか》んで背後に自分を隠《かく》したとき。
亜美《あみ》の別荘に行かせたくない、と言ったとき。
雨が降っても頑張る、練習する、と言ったとき。
それから多分《たぶん》、亜美と抱き合っているのを見られて、大河が怒り出したとき。
気がつかなかったけれど、なんとはなしに嬉《うれ》しくて、だから否定されて、むかついてケンカして、そして今は、微笑《ほほえ》んでいるのだ。
もっと喜べ、と言ったな、大河《たいが》。喜んでるぞ、俺《おれ》はずっと最初から――にこ、にこ、にこ……。
「ひぃ!?」
「た、高須《たかす》がなにかを企《たくら》んでいる……っ!」
「総員|退避《たいひ》ーっ!」
***
「……地獄のようだったわっ!」
ガン!
「……お、おい……大丈夫かよ……」
テーブルに思いっきりの頭突きをしたまま、大河は鋭《するど》い両目だけを上げて竜児《りゅうじ》を睨《にら》みつける。滴るほどの殺気に瞳孔《どうこう》は爛々《らんらん》とかっぴらき、
「大丈夫、なんかじゃ、ない、よぉ……」
低い声はしかしどこか情けない。さすがの手乗りタイガーも、あの最後のプールの日から期末|試験《しけん》を挟んでの二週間あまり。延々と食らい続けた精神的被害はあまりに甚大《じんだい》過《す》ぎたのだろう。
いつものファミレス、いつもの禁煙席のソファ。終業式が終わって時間は昼時だというのに、世間は平日のせいだろうか、あまり他《ほか》の客の姿はない。
人目がないのをいいことに、大河《たいが》はジタバタと両足を子供のように跳ね上げ、正面の竜児《りゅうじ》を糾弾《きゅうだん》する。
「あんたのせいでしょこの犬がっ! あんたのせいで、この私が今日《きょう》までどれだけつらい思いをしたか! メニュー!」
竜児は言い返すこともできないまま、メニューを取って渡してやる。
確《たし》かに大河にはきつい日々だったろう。あの発言――世に言う「竜児は私のだぁ」事件によって、クラスの奴《やつ》らはもう完全に大河と竜児はできてるのだと判断した、らしい。
大河がどれだけ否定しようと暴《あば》れようとその判断は覆《くつがえ》らず、しまいには北村《きたむら》や実乃梨《みのり》まで「長い道のりだったなあ」だの「ようやく認めましたなあ」だのと、おそらくは冗談《じょうだん》半分なのだろうが、そんなことを言い出したのだ。
「ご注文はお決まりですかぁ〜? いひひ、昼下がりから熱《あつ》いねお二人さん!」
――こんな風に。
「みのりん! もう、やだっていってるのにっ! ひどいよっ!」
「ごめんごめん! 冗談冗談! 泣かない泣かない!」
一足先に店に入っていた実乃梨は、薄《うす》いオレンジ色のウエイトレス姿で大河の頭をお盆で撫《な》でる。そして竜児の方を見て、
「大変ですのう」
「おまえだよ、泣かせたのは」
「そうだっけ? にゃは!」
「にゃはじゃねえよ。仕事しろよな」
……なんちゃって。これぐらいの冗談は言い合える仲にもなっていたわけで。
竜児はそっと実乃梨の笑顔《えがお》を見て思う。やっぱり眩《まぶ》しい。まっすぐ見られないほどに意識《いしき》してしまう。しかし――胸はあやしくざわめくのだ。以前のように無邪気には、実乃梨に片思いしている! とは思えない。いや、片思いしているのは確かなのだけれど。
その理由は、目の前でグズっているアレだ。実乃梨に頭を撫でくられていやいやしている、あの小さい奴だ。プールでの一件以来、竜児はちょっと悩んでいた。
まず最初に、自分のこと。「竜児は私のだぁ」発言を、竜児は嬉《うれ》しく思っていた。嘘《うそ》をついても仕方がない、それが真実だ。だけどまあ、感情の落としどころはあった。大河のことは、好き、なのだ。好きでなければ面倒《めんどう》なんか見ていない。虎《とら》と竜《りゅう》はワンセットだし、それを言い出したのは自分だし。
しかし好きという感情は、男女のそれだけではないだろう? と。例えば友情とか、家族愛とか、いろいろあるじゃないですか、と。そういう類《たぐい》のものなのだ。だからこれはこれとして、大河《たいが》は大河として、好きは好きでいい、ということで。竜児《りゅうじ》は一人で勝手に考え、勝手にそういう結論《けつろん》に達していた。だからこれはいいとして――問題は、大河。
果たして大河はどういう気持ちで「竜児は私のだぁ」発言をしたのだろう。もしかして……もしかしたりして、と竜児は思ってしまう。するとなにやら落ち着かなくて、どうしようもなく腹がざわめいて、
「ちょっと! それやめろって言ってるでしょ!? この貧乏犬っ!」
激《はげ》しく貧乏ゆすりをしてしまう。
さらに他《ほか》のテーブルから「すいませーん、注文いいですかー」と声がかかって、バイト中の実乃梨《みのり》は慌てて小走りにそちらへ向かって行ってしまい、
「……なによあんた……」
大河の声は、ますます不《ふ》機嫌《きげん》。
「えっ!?」
なんとなく、二人きりの魔《ま》空間《くうかん》には微妙な気配《けはい》が漂うのだ。
「……今、あんた私のこと見てたでしょ? なに? なんなの? なんか文句あんの?」
「い、いや……見てねえよ」
「見てたじゃん! ……さいってー、真昼間から私のことをジロジロ眺めてなにやら人には言えないような妄想を……」
「なんでだよ!? なんでそういう結論に達した!?」
「……」
「無視すんな!」
喚《わめ》いて動揺《どうよう》まじり、思わず立ち上がったその視界に、見慣《みな》れた奴《やつ》らの姿が入った。
「よう! 待ったか?」
「高須《たかす》くん、お待たせー! あ、ついでにそこのちっさいのもお待たせ」
四人がけのテーブルに、亜美《あみ》は当然のように竜児の隣《となり》に詰めて座る。そうなると必然的に、
「どうした逢坂《あいさか》、水なぞガブ飲みして。どうせならドリンクバーを飲めよ、どうせ頼むんだから、その方がお得だぞ?」
大河の隣には北村《きたむら》が。大河はそっぽを向いてグラスの水を呷《あお》り、それっきり顔を戻すことができない。ガラン、と氷がグラスの底から大河の鼻先まで転がり、
「あーあーあーあー! 大河! こぼれてる!」
「……うー」
顎《あご》のはたから子供のように水を垂らす。竜児は手早くポケットティッシュを取り出してテーブルを拭《ぬぐ》う。几帳面《きちょうめん》に大河《たいが》が肘《ひじ》をつきそうなあたり全般をきっちり綺麗《きれい》に拭って、処理完了。
よし! と納得して頷《うなず》く竜児《りゅうじ》の腕に亜美《あみ》は甘えるようにしなだれかかり
「ねえ高須《たかす》くん、どうしてここにあたしのこと呼んてくれたのぉ? あ、もしかして、別荘のこと? それなら今度待ち合わせしてぇ、一日かけてゆっくり計画練ってぇ、」
「呼んだのは私よバカチワワ」
「は!?」
大河は全体的に右に傾いて、左側に座った北村《きたむら》に触れないようにしつつ、しかし顔の左半分はほんのり器用に桜色《さくらいろ》に染めて言う。
「あのね、私も行くことにしたから。あんたの別荘。ほら……私、勝負に負けたじゃない? 竜児は行くじゃない? そうなると、やっぱり私の身の回りの世話をする奴《やつ》がいなくなって困るのよ。竜児のお母さんは自分のことはどうとでもなるけど、私の面倒《めんどう》までは見られないしね。だから仕方なく! しょうがなく! 我慢して! ついていってあげることにしたの。そう決めたの」
「……え? ちょっと待って? あんまりにも自分勝手な話を聞いて、亜美ちゃん混乱中。……は? なんて?」
――北村が言い出したことなのだ。本当は。大河も一緒《いっしょ》に、亜美の別荘に行く旅行の仲間に入ってくれないか、と。そうなるように、うまいこと亜美を納得させてもらえないだろうか、と。
自分も行くつもりだし、櫛枝《くしえだ》も行くつもりだし、せっかくなら仲良しみんなで行きたいだろー? などと北村は言うのだが、竜児も大河もその真意はいまだ測りかねていた。とはいえ、それでも大河にしてみれば北村と旅行に行けるチャンス。不安も動揺《どうよう》も飲み込んで、はっきり断られたらそこで引く、という条件つきながら、大河はそれを了承したのだ。
北村は楽しげに眼鏡《めがね》を押し上け、ルーズリーフにフリーハンドで線《せん》を引いただけのお手製カレンダーをテーブルに広げる。
「よし! というわけでスケジュール決めな。まず俺《おれ》はここが生徒会の合宿で、ここがソフト部の合宿で、ここが練習試合で……」
「ゆ、祐作《ゆうさく》!? ちょっとなに勝手に――」
「おーい櫛枝ー、今平気か? 旅行のスケジュール立てるんだが」
「お! どれどれ!? ええとねー、北村くんと一緒にここは部活、ここも部活で、この辺ずーっとバイトのシフト入れてるから、この辺がベストかなー」
「俺は特になにもねえな。もしかしたらちょこっと墓参りぐらいは行くかもしれねえけど、いくらでも予定はずらせるし。大河もなにもねえよな?」
「ない。家族旅行なんて死んでもいかないし、そもそもそんな予定はない」
「ってことは、この週の――」
「ちょっ、ちょっ、ちょっと! ちょっと待ってってば! なによ勝手に、うちの別荘よ!? なんでみんなが勝手に決めちゃうのよー!」
亜美《あみ》が声を上げて立ち上がる。北村《きたむら》が広げたカレンダーを奪うみたいに取り上げる。赤く紅潮《こうちょう》した亜美の顔を見上げ、大河《たいが》がいつもの抑揚《よくよう》のない声で囁《ささや》いた。
「……狭いの?」
「は!? 狭いわけないでしょ! 両親|揃《そろ》って高額《こうがく》納税者よっ!」
「……ああ、あんまり他人《ひと》様《さま》に見せたくないようなボロい別荘とか?」
「んなわけねえっつーの! すっごく広くて、綺麗《きれい》で、景色《けしき》がよくてぇ、あんたのマンションなんかよりずーっといいところよ!」
「じゃあ、見せてよ」
「……なっ……」
「いいでしょ? 私にも見せて。私も一緒《いっしょ》に行きたいもん」
あんぐり、と口をあけ、呆《あき》れたように亜美はしばし言葉をなくし、
「……なによ……もう……っ」
むすっ、と不《ふ》機嫌《きげん》そうに顔を歪《ゆが》める。天使の亜美ちゃんはどこかへ飛び去り、どすっ、とソファに荒っぽく座る。手にしたカレンダーも放るように投げ出して、
「……いーわよ。思いっきり、自慢してやるから。超セレブな別荘であんたの度肝抜いてやる。……第一、いやだっつったって、あんたはどーせどうにかして来るんでしょ」
と、一言。大河は軽く唇を歪め、「よかった」とだけ。
北村は心底|嬉《うれ》しそうに笑い、「亜美、この夏は楽しくなりそうだな」と小さく囁《ささや》くが、亜美は聞こえなかったのか聞こえないふりなのか、とにかく返事はしなかった。
そうして再びスケジュール決めに話題が戻りかけた頃《ころ》、
「……あ。なーるほど」
にっ、と亜美は声を笑いにくぐもらせて言う。転んでもただでは起き上がらないあたり、やっぱり只者《ただもの》ではないのかもしれない。
「逢坂《あいさか》さん。もしかしてえ、高須《たかす》くんと離《はな》れるの、不安なんだぁ? そーでしょ? 亜美ちゃんに取られちゃう、とか思ってぇ、それで着いてくるんだぁ? なにしろ『竜児は私のだぁ』……だもんねー※[#「ハートマーク」]」
うわ、やばい、と竜児は思わず大河を見る。地雷の上にジャンピングボディスラムを食らわせられたようなものだ、無事に済むわけがない、と。
しかし、
「……そうね。はっきりここで言っておこうかな」
意外にも、顔を上げた大河の表情は穏《おだ》やかなのだ。顎《あご》を上げ、姿勢を正し、亜美にというよりはその場の全員に向かって静かな声で語りだす。
「あのね、なんというか……認めざるを得ない、という気がするの」
動揺《どうよう》するのは竜児《りゅうじ》だった。……なんだこいつ。一休なにを言い出そうとしている。
「そう――認めるわ。私、前にバカチワワと竜児が今にも合体しかからん、としている様子《ようす》を見てね、やっぱり本当は、めちゃくちゃむかついていたのよ」
手が空いた実乃梨《みのり》までやって来て、大河《たいが》の告白に盆を取り落としそうになっている。北村《きたむら》は眼鏡《めがね》をグイと押し上げ、亜美《あみ》は言いだしっぺのくせに、ゴク、と息を飲んでいる。
なんだか、大河は今にもとてつもないことを言い出すような気がするのだ。そんな真剣な顔をしているのだ。
「竜児は私の……、って、言ったでしょ。あれもね、なかったことにしてくれ、とは言えない。そういう気持ちがあるのは事実だから。……だってね、それは……つまり……」
大河は静かに目を閉じ、白い両手を自分の胸の前に重ねる。誰《だれ》もが言葉を失い、竜児は口から心臓《しんぞう》が飛び出しそうだ。
そんな。そんな、なにもこんなところで……そんなことを言わんでもいいじゃないか、と。そういうことはなんというか、普通、もっとこう、二人っきりの、落ち着いたところで――
「おう……っ」
大河が目を開き、まっすぐに竜児を見詰める。竜児は動揺《どうよう》のあまり限界までのけぞる。綺麗《きれい》な二重の、黒目がくっきりと輝《かがや》く美しい目。そして薔薇《ばら》の唇は、惑《まど》うことなく声を発する。
「こいつ、私の犬だから」
「……え?」
「犬なんだからどこで誰となにをしようと私には関係ない、って思おうとしたわ。でも、そんなことはないのね。主人としてはやっぱりね、自分の犬がね、たとえばよその知らないオッサンにムハムハ、ハアハア、って興奮《こうふん》して、腰を思いっきりカクカクカクカクやっちゃってたらマズイ! って、思うわけよ」
竜児は思わずずるずると、ソファから落ちてしまいそうになる。気が抜けたのか、安心したのか、それとも……まあいい。……いいんだよ、本当に!
「……なんて顔してるのよあんた。なにか期待してたわけ?」
フン、と世にも冷たい目をした大河が、真正面から竜児をそっけなく見下ろす。からかうように、薔薇の唇には猛毒の笑《え》み。
「してねえよ、なんにもな……」
なんとかソファに復帰し、気を取り直してカレンダーに目を落とした。明日《あした》からはもう夏休みだ。つまらないことは全部忘れて、思いっきり遊ぼうじゃねえか。遊んでやろう じゃねえか、と。
休みの大半をともに過ごすのが、いつものこいつ、だとしても。どうせ愛すべき日常は、この夏休みも続くのた。
ちょん、とその肘《ひじ》に冷たい感触。テーブルの下で、亜美《あみ》が指先を竜児《りゅうじ》の肘にかけている。
「……なんだよ」
横顔だけで亜美は小さく微笑《ほまえ》んだ。誰《だれ》にも聞こえない小さな囁《ささや》きは、「ふたりきりじゃなくて残念――でも、そうなるチャンスはいろいろあるからね」――とかなんとか。まるで本物の天使みたいに、その横顔は穏《おだ》やかに清らか。邪悪な中身の存在は、いまだけは欠片《かけら》ほども見出《みいだ》せない。誰にも気づかれないままに、心臓《しんぞう》だけが小さく跳ねる。
「よし! じゃあ旅行はこの日に決定!」
北村《きたむら》の声に同意の拍手がパラパラと上がった。
――高須《たかす》竜児、高校二年の一学期は、こうして幕を閉じた。
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あとがき
よく当たる、と話題になっていた占いサイトで己《おのれ》のことを占ってみたら、「特別に鈍感《どんかん》な人です。気に入ったものがあるとそればかり食べ続けます」という結果がでました。当たってんなー……タケミヤングてす、こんにちは。
たらこスパばっかり食べてたら身体《からだ》に毒ですよ、と会う人会う人みんなが忠告してくれるので(あと占いでも当てられたので)、最近はちょっと気をつけて、たらスパの時にもちゃんとおかずをつけています。
冷凍のから揚げです。一食ごとに四個ずつ(=レンジで2分)食べるのですが、どうやらお気に入りのメーカーのから揚げは一袋十七個入りらしく、四回目には五個になります。
その五個になる回がもう楽しみで楽しみで、その日は朝早く目が覚めます。「あっ、今日《きょう》は五個の日だった〜」ムクリ! ……野菜? ……野菜ねえ……。
ちなみに、おかずをつけたからといって麺《めん》の量を控えたりはしません。だって最近はちょっと暑いし、夏バテなどしてしまったら仕事に支障がでますから。
一人前の社会人として、己の体調《たいちょう》管理には責任をもって、きっちり二人前食べてます。
さて、『とらドラ3!』をお手にとって下さった皆様! 今回も本当に本当に、どうもありがとうございました! 楽しんでいただけましたでしょうか? いつになくお胸関係に焦点を絞ってみましたが、個人的には飛び道具に手を出してしまった感もなきにしもあらずです。でも別に平気……まだまだ私のラブコメ砲には、尻《しり》の弾丸とか、その他もろもろの弾丸とか、結構たくさん残ってるような気がします。乳の弾丸もまだまだ撃《う》ちきってはいないので、この先も躊躇《ちゅうちょ》することなくガンガン撃っていこうと思います。
よろしければまた引き続き、お付き合いいただけるとありがたいです。どうかどうか、よろしくお願《ねが》いいたします!
ちなみになんとなくですが、読者の皆さんは私が泳げないと思っていませんか? 泳げるんですよ。ていうかね、沈まないです。別に泳いだりしなくても、身体の力を抜くと自然にぷかぷか水面に漂ってしまうタイプです。むしろ潜水《せんすい》しまうとすると、尻からプッカ〜と浮き上がってしまって、そのまま水中で頭を底に逆立ちしてしまいそうになります。
そんな淡い存在感の私ですが、最近すっかり『おいでよ どうぶつの森』に嵌《はま》ってしまい、毎日右手でスパを手繰《たぐ》りながら左手でタッチペンを操《あやつ》りまくっています。から揚げは舌を伸ばしてからめとっています。それはうそです。……うそだといいよね。
ゲームばっかりやっているせいで今まで以上に運動不足が進行中ですが、ゲームの中では毎日村を走り回って、虫取りをしたり魚釣ったり化石掘ったり、すごくアクティブに活動できています。だから、これでいいはずです。
ただし、よくないことに、真剣にゲームをしているせいで持病の肩こりや腰痛がすごく悪くなってしまい、かかりつけのマッサージの先生に「最悪の状態、すでに五十肩(あと、どんどん太っていく)」と言われています。どうりで腕が上がらないと思った。揉《も》み解《ほぐ》しても揉み解しても、再び最悪の状態で現れて「ゲームやりすぎちゃいましたあ」と笑うこの私に、先生がどれほどの徒労感を覚えているかは計り知れません。
そんな感じで嵌《はま》ってしまっている私なのですが、どうもなかなか、村のどうぶつたちに真心が伝わらない日々です。「ねえ〜、ゆゆこっし〜、アタイ、○○がほしいんだあ〜」……と唐突におねだりされて、仕方ないから必死にねだられた品を探し、なんとか手に入れてそいつにくれてやったら「うわあ〜、ありがとう! さすがゆゆこっし〜だね〜!」みたいなことを言って甘い笑顔《えがお》を向けてくれたくせに、次の日にはそれがゴミ箱に捨ててあったりします。普通に傷つく……。しかもおのれがそうやって捨てたくせに、次の日ぐらいには「ねえ〜、ゆゆこっし〜、アタイ、○○(同じもの)がほしいんだあ〜」……えー!?
……ちょっと空しくなって、他《ほか》のゲームもやってみようと思い立ちました。話題のアレです。脳力トレーニングです。
まずは脳《のう》年齢《ねんれい》を調べる、とのことで、声に出して回答する形式のテストを受けます。……みなさん、どうせこんなふうに思っているでしょう。「すごく老いた年齢の結果が出て、それをオチにするつもりだなゆゆこ」と。違います。
声がか細すぎるのかなんなのか、認識《にんしき》されませんでした。
まあね……ここ最近、現実の人間とあまり会話してませんでしたからね。……声の出し方を忘れてしまったみたいです……。
べ、別にいいや。さ、村にいって虫取ってこよー。こっちの世界では、五十肩でも網を振れるからね……。
――というわけで、最後までお付き合いいただきました皆様! 本当にありがとうございました! 次回は『とらドラ4!』です。ぜひぜひ引き続き、ご支援いただけるとありがたいです。それから、ご感想のお手紙を下さった皆様、どうもありがとうございます! 編集部《へんしゅうぶ》の担当さんともども、全部大切に読ませていただいております。食べかねない勢いです。
また、「電撃《でんげき》コミックガオ!」にて『わたしたちの田村《たむら》くん』を連載中の倉藤《くらふじ》倖《さち》先生にイラストとコメントを頂きました。ありがとうございます、これからもよろしくお願いします!
そして、ヤス先生、担当さま、今回もお世話になりました。これからもガンガン乳弾丸をラブコメ砲で撃《う》っていきましょう!
[#地付き]竹宮《たけみや》ゆゆこ
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