とらドラ! 2
[#地から2字上げ]竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暇《ひま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鳥的|興奮《こうふん》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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1
一週間近い大型連休となったゴールデンウイークの最終日、
「暇《ひま》だなあ」
時刻は午後一時。
「なあ。暇、だよな」
外の快晴が嘘《うそ》のように高須《たかす》家《け》は薄《うす》ら暗い。南に大きく開かれた窓の向こうには、隣《となり》のマンションとの境界壁《きょうかいへき》が手の届きそうな距離《きょり》にそびえ立ち、眩《まばゆ》い初夏の外光など入ってこようわけもない。
それでも室内は几帳面《きちょうめん》に片付けられ、どこもかしこも丁寧《ていねい》に掃除され、狭いながらも知恵と工夫《くふう》によって奇跡的にさっぱりとした生活の場が保たれている。その絶妙な居心地《いごこち》の良さ、暮らしやすさは、居間に背を向けて台所で昼の片づけをしている一人息子・竜児《りゅうじ》の家事スキルの賜物《たまもの》であったのだが、
「聞いてるのかよ」
それに対する感謝《かんしゃ》の言葉どころか、問いかける声に返事さえ返してくれる者もない。
洗い物をする手を一瞬《いっしゅん》止めて、竜児《りゅうじ》は背後《はいご》に寝そべっている生成《きな》り色《いろ》の塊《かたまり》に鋭《するど》すぎる視線《しせん》をやった。その塊は卓袱台《ちゃぶだい》の脇《わき》にだらしなくうつ伏せに寝転がり、折り重ねた座布団《ざぶとん》に顎《あご》を乗せ、ぼけて空《うつ》ろな顔つきのまま傍《かたわ》らに置いてある鳥かごの隙間《すきま》から指を中にグリグリと突っ込んでいる。
つっこまれた指の腹をそれはもうおいしそうにフガフガかじっているのは、黄色《きいろ》いインコのインコちゃん。ブサイクなのがチャームポイントで、懸命《けんめい》に開いたくちばしはドドメ色、ベロベロとはみ出す小さな舌は腐った牛タンの色。ちなみに白目《しろめ》を剥《む》いた目は今にも昇天寸前で、人類には理解できない危ない鳥的|興奮《こうふん》に目蓋《まぶた》がピクピク痙攣《けいれん》中《ちゅう》である。飼い主としては、ちょっと正視できない状況が展開していた。
「……大河《たいが》。それ、やめさせろ。インコちゃんが変になっている」
「……あ? やだ、ほんとだ」
ようやく振り向いた生成り色の塊――逢坂《あいさか》大河は、我《われ》に返って鳥かごから指を引き抜こうとした。らしいのだが。
「あれ。抜けない」
……ドジ。首をかしげたその姿を見、竜児はため息をつくしかない。
「なによあんた、ため息ついてる場合じゃないわよ。これほんとに抜けなくなっちゃったかも」
小柄な身を起こして畳の上にぺたりと座り、大河は不機嫌《ふきげん》に唸《うな》りつつも、懸命に指を引き抜こうと鳥かごを片手で抱え込む。インコちゃんは離《はな》すものかと一層|激《はげ》しく大河の指先にむしゃぶりつく。
「うわ……この舌使い……」
慄《おのの》く彼女の腰まである髪は、柔らかにもつれて淡いグレーにけぶる栗色《くりいろ》。華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》をふんわりと包む、レースを重ねたワンピース。生成りのオーバースカートを合わせた姿は優雅《ゆうが》なボリュームが愛らしく――
「ねえちょっと。何ぼんやり見てんのよ。あんたの鳥の不始末でしょ、早くなんとかしなさいよこのG.I.Y」
「ジー、アイ、ワイ?」
「グズ犬野郎。ちょっとソフトに言ってやったのよ感謝すれば?」
――言い返す気力さえ奪う、唐突《とうとつ》すぎるこの悪態はどうだ。喚《わめ》く言葉さえこうでなければ、大河は動くフランス人形のようなのに。
なにしろ瞳《ひとみ》は輝《かがや》く宝石、淡い唇《くちびる》は薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》、甘く整《ととの》った容貌《ようぼう》は練乳に浸《ひた》した罠《わな》の危うさ。だけど彼女はどうしようもなく、
「ええいもうかったるい、ふんぬっ」
みし、と抱えられた鳥かごの形が歪《ゆが》む――どうしようもなく獰猛《どうもう》で凶暴《きょうぼう》な暴《あば》れ虎《とら》の星の下に生まれていた。つけられた通り名は「手乗りタイガー」……手乗りサイズの小ささながら、その凶暴《きょうぼう》さは虎《とら》に比すべし。
とはいえ、対峙《たいじ》する竜児《りゅうじ》とて見た目の迫力は負けてはいない。
いまだ成長中の上背《うわぜい》に、長い前髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》く鋭《するど》すぎる眼差《まなざ》し。あまりにも、素人《しろうと》離《ばな》れしたその爛々《らんらん》とした危ない目つき。特段体格に優《すぐ》れているとはいえないにしろ、全身から立ち上るオーラはいかにもやばい、心に闇《やみ》が充溢《じゅういつ》してついにキレる若者のそれだ。
だが、
「ちょちょちょ、壊《こわ》すなって! だめ! 冷静に!」
竜児の場合、危ないのは見た目のみだった。ペットの住処《すみか》を虎から守ろうと、濡《ぬ》れた手を拭《ぬぐ》いながら大河《たいが》の傍《かたわ》らに膝《ひざ》をつく。鳥かごを取ってやるべく引っ張ってみるが、
「いたたたたたた!」
「おぅすまん!」
指を挟んだままの大河の悲鳴に跳《と》び退《すさ》る。その悲鳴に驚《おどろ》いたのか、それとも興奮《こうふん》のなりゆきでか、ドゥーン! とインコちゃんは大河の指の肉と爪《つめ》の隙間に鋭いくちばしを突き立てた。
「いぃいぃぃぃぃっ!」
そのドラスティックな痛みのあまりか、さらなる悲鳴を上げつつも大河の指がすぽん、とかごの隙間から抜ける。
そのまま指を掴《つか》み、畳の上で声もなく悶絶《もんぜつ》すること数秒。
「……ったいなぁ……もう……っ!」
顔を上げた大河は、わずかな涙に濡れて研《と》ぎ澄《す》まされた人斬《ひとき》り包丁のように光る目をインコちゃんに向ける。しでかしてしまった事の大きさが理解できたのか、
「……あわわわわわ」
インコちゃんは大河を見上げ、ガタガタガタと小刻みに震《ふる》えた。その全身からストレスなのか、羽毛《うもう》がはらはらと抜け落ちていく。竜児は慌《あわ》てて鳥かごを胸に抱え、
「うわわ、インコちゃんがハゲてしまう、しっかりしろ、気を確《たし》かに! 今以上ブサになったらもはや共同生活も危ういぞ! さあ向こうに避難《ひなん》しよう、大河がなにをするかわからんからな」
続けて大河も立ち上がり、
「ちょっと、なによそれ。私がインコなんかに本気になるわけないでしょ」
「じゃあなんだよその拳《こぶし》は!」
「あんたに制裁を与えるためよ」
竜児を壁《かべ》に追い詰めながら、小さな拳をかたーく握《にぎ》り締《し》めて見せる。
「俺《おれ》がなにをしたよ!」
「指! 痛いの!」
「知るか!」
鳥かごを抱えたまま逃げる竜児《りゅうじ》を追って大河《たいが》はグルグルと部屋を歩き回り、
「ふぎゃっ!」
びたん、と顔面から畳にスッ転んだ。わずかに開いた襖《ふすま》の隙間《すきま》からなにやら白いものがにゅっと突き出していて、大河はそれにつまずいたのだ。
ちなみに白いものの正体は、
「……なんではみ出しているんだ」
今にもキレて刃物でも振り回しそうな目をして鳥かごを置く、竜児の実の母の生足《なまあし》である――ちなみに竜児はキレてはいない、ただ困惑《こんわく》しているだけだ。
襖で仕切られた自室から足一本だけをにゅっと突き出し、家長・泰子《やすこ》は深い眠りの中にいた。街で唯一《ゆいいつ》のスナック・毘沙門《びしゃもん》天国《てんごく》の雇われママとして活躍《かつやく》中《ちゅう》の彼女は、酔っ払って帰宅したのが朝の六時。
「あ。起こしちゃったかな?」
わがまま、根性曲がり、唯我《ゆいが》独尊《どくそん》の三重苦を負った手乗りタイガーをして、転んだ体勢のまま声をひそめさせるほどに「ご苦労様」な大黒柱なのだ。
「いや、寝てる寝てる」
やはり竜児も声をひそめ、はみだしていた生足を抱えて襖の奥の寝室へ押し込んでやる。と、
「ん……んうぅ〜……」
甘えた鼻声。そして、
「……びえええ〜ん!」
「おぅ、なんだなんだ」
生足の本体、突然の爆泣《ばくな》き。息子の中学時代の体育着の短パンに、黒レースのブラが透ける薄《うす》いTシャツ一枚というなりで手足をじたばた暴《あば》れさせ、布団《ふとん》の上、白い頬《ほお》を手の甲で擦《こす》る。恐ろしいことにこれで今年三十三|歳《さい》、自慢の巨乳はFカップだ。
「オ、オムライスのにおいがするぅ〜! やっちゃんが寝てる間に、竜ちゃんと大河ちゃんだけで食べちゃったんだぁ〜! びえええ〜〜〜〜!」
「んなわけねえだろ、ちゃんと一人前残してあるって。台所にラップかけて置いてある。冷蔵庫《れいぞうこ》に入れておくから、目が覚めたらチンして食えよ」
「……ケチャップで、YASUCOって書いてくれた?」
「書いていない。ラップかけたら潰《つぶ》れちゃうだろ。それから、YASUKO、だ」
「……うぅ〜ん……やっちゃん、まだ眠いのに、難《むずか》しいことゆわないでえ……」
ぽすん、と再び枕《まくら》につっぷし、ワケありシングルマザーの泰子はすぐに軽い寝息を立て始めた。家事はダメでも稼《かせ》ぎはそこそこ、穏《おだ》やかで優《やさ》しい性格の母だが、どうにも頭のネジがゆるんでいる……息子の竜児は日々、母が落としたネジを探すようにして暮らしている。ちなみに泰子は中学三年の時、
『数学の偏差値が十七だったのぉ〜。担任の先生は声が出なくなっちゃってぇ、日が暮れるまでやっちゃんとじっと見つめ合ってたんだぁ〜』
……らしい。
それでもとにかく一応は、高須《たかす》家《け》の生活は破綻《はたん》することなく成り立っていた。大黒柱の泰子《やすこ》に、家事担当の竜児《りゅうじ》、ペットのインコちゃん、そして、
「いったあ……顎《あご》すりむいちゃった。ったく、そもそもこの家は狭すぎるのよ。ねえ竜児、夜ご飯はお刺身にしない? 全然関係ないけど、今の衝撃《しょうげき》で閃《ひらめ》いたわ」
「……本当に全然関係ねえな……」
「なによ。私がお刺身食べたらいけないっていうの?」
顎をこすりながら大きな瞳《ひとみ》で竜児を睨《にら》みつける、気性の荒い虎《とら》が一匹。一緒《いっしょ》に暮らしているわけではないにしても、
「……駅前のスーパーヨントクは、五時からマグロのタイムセールだったな。たしか」
「じゃ、一緒に買いに行きたいから四時四十五分に迎えに来てよね。私帰る」
「えっ、帰るのか?」
「文句あんの?」
休みの日の昼から一緒。夜も一緒。買い物に行くのも一緒。泊まりはなし、の不文律はあるものの、夕食後から深夜まで並んで転寝《ごろね》するぐらいは日常《にちじょう》茶飯事《さはんじ》。ほとんど共同生活状態といって差し支えない関係だ。しかも竜児《りゅうじ》は立ち上がる大河《たいが》の背後《はいご》をなおもウロウロとうろつき回り、
「なんで帰るんだよ。用事あるのか? どうせ暇《ひま》だろ? まだいいじゃねえか」
こんなほんのひと時さえも、ともに過ごそうと迫るのだ。うるさそうに髪を払い、大河は冷たい視線《しせん》を向ける。
「暇なのはあんたでしょ。私、そろそろ洗濯《せんたく》しないといけないの。お天気もいいし」
「洗濯? そんなもん、ぽちっとボタン押すだけだろ。おまえんちの洗濯機《せんたくき》は乾燥機《かんそうき》付きだし、干《ほ》す手間もねえし。だから帰るなんて言うなよ、な?」
チッ、と大河は苛立《いらだ》たしげに舌打ち、前に回り込んだ強面《こわもて》野郎を斬《き》り殺したいみたいに睨《にら》み上げた。
「あー鬱陶《うっとう》しい! 一体なんだっていうのよ! 言いたいことがあるならはっきり言え!」
もじ、と竜児は口ごもり、
「……い、一緒に、ファミレスに……」
「またぁ!?」
瞬間《しゅんかん》、大河の顔が苛立たしげに大きく歪《ゆが》む。しかし竜児はそこで引かずに、
「それぐらいしてくれでもいいだろ!? 俺《おれ》一人じゃ行けねえよ! 今日《きょう》だっておまえがオムライスがいいって言ったからオムライス作ってやったし、そうだ、それに普段《ふだん》どれだけおまえと北村《きたむら》のことで俺があれこれ苦労してやってると思ってんだよ! おまえだってちょっとぐらい俺のことを応援してくれよ! そんぐらいいいじゃねえかよ!」
「あーもーうるさい! うざい! 剥《は》ぐぞ!」
「なにを!?」
実りのない喚《わめ》き合いになったところで、襖《ふすま》の向こうから「う・う・う」――二日酔いらしい泰子《やすこ》の苦しげな呻《うめ》き声が。瞬間的《しゅんかんてき》に二人は黙《だま》り、
「……しょうがないなあ、ったくもう」
折れたのは大河。
「あんたのおごりだからね。あと、雑誌買って。あんたとグダグダしゃべってても、」
ペッ、とお行儀《ぎょうぎ》悪く唾《つば》を吐く真似《まね》をして、「でしょ?」……大河は心境を雄弁に語った。
それでも竜児は文句ひとつ言わず、おう、と男らしく頷《うなず》いたのだ。ファミレスに付き合ってもらえるならば、それぐらいの出費は仕方がないと思っている。
なぜならそのファミレスには――
***
「あーらよっ! 出前一丁!」
出前には見えないヨーグルトパフェが、大河《たいが》の目の前にドン、と置かれる。
「内緒《ないしょ》だけど、バニラアイス大増量の大河スペシャルだぜ。他《ほか》の客から隠《かく》して食べな」
「いいの? みのりん。こんなことして叱《しか》られない?」
「いいっていいって大丈夫! この連休中、ほとんど毎日来てくれたんだもん。これぐらいのサービスはしなきゃね! 高須《たかす》くんにもなにかサービスするけど? おすすめは抹茶《まっちゃ》パフェか、甘いのでなければポテトフライとか。盛るぜ〜、超盛るぜ〜」
「あ、いや、俺《おれ》は」
いいんですいいんです、と顔の前で手を振って、竜児《りゅうじ》はドリンクバーのコーヒーから顔を上げることもできない。というかそもそも、目が開かない。
眩《まぶ》しすぎるのだ。
ウエイトレス姿の、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》が。
つやめく髪をポニーテールにして、細いうなじは眩《まばゆ》く丸出し。淡いオレンジのワンピースに、真っ白のミニエプロンを重ねたキュートすぎる制服。普段《ふだん》は目立たぬ胸のふくらみも薄手《うすで》の生《き》地《じ》を柔らかに盛り上げ、笑《え》みに輝《かがや》く頬《ほお》は未熟《みじゅく》な桃の誘惑《ゆうわく》だ。
熱《あつ》くなる顔を俯《うつむ》いて隠し、竜児は一年に及《およ》ぶ片思いの相手の眼差《まなざ》しから必死に逃《のが》れる。見たいけど見れない、いや、見られない。恋する男子のアンビバレンツだ。
「いやーしかし、連休中毎日毎日二人でこうしてここでお茶飲んでるのに、それでも付き合ってないって言い張るかねえ。おふたりさんよぉ」
そんな実乃梨の一言にだけは、
「「ないない」」
大河と息を合わせて首を振って。
「そうなの〜?」
「そうよ」
呆《あき》れたように目を眇《すが》め、大河は極《きわ》めて陽性・悪意ゼロの親友の顔を見上げる。
「みのりんだってこの連休中、毎日毎日ここでバイトしてるけど、あの店長とか、あの厨房《ちゅうぼう》のおっさんとかと付き合ってるわけじゃないんでしょ。私たちだって同じ。一緒にここにいるからって、なんで付き合ってるなんて言えるのよ」
「……そういう考えに飛ぶかねえ、この子は」
「みのりんが言ってるのはそれぐらいしょーもないことなの」
一応、公式に「高須と逢坂《あいさか》は付き合っていない」ということになっているのだが、それでも今なお実乃梨だけは、ことあるごとに冗談《じょうだん》交じり、二人の仲を邪推するのだ。実乃梨にひそかな片思い中の竜児にしてみれば、これほど残酷な冗談もないのだが。
「はいはい、わかりましたよおじいさん」
「誰だがおじいさんさ」
「私は店長ともデキてないし、夜は隔日でバイトしてるしゃぶしゃぶ屋さんの店長ともカラオケ屋さんの店長とも、早朝行ってるコンビニの店長ともデキてませんよ。同じように大河《たいが》と高須《たかす》くんもデキてない。これでいいべ? さーて仕事に戻らあな」
「……どんだけバイトしてるんだよ」
竜児《りゅうじ》は思わずポロリと話しかけてしまった。しかし自然だ、よくやった自分。
「これでもセーブしてるんだよ? ほら、休み中も部活あるからさ。部長としては休んだりなんてできないし」
きょとん、と返された答えに、しかし竜児は二の句を失う。代わりに継《つ》いでくれたのは大河の
「十分働き過ぎだって。そんなに稼《かせ》いで、なにか欲しいものでもあるの?」
「時間あるもん、勤労《きんろう》しなきゃ。勤労怪奇ファイルだよ」
「……な、なに? それ」
「蘇《よみがえ》る勤労だよ。じゃ、また後で寄るね!」
なぞのキーワードだけを残し、実はハイパー勤労少女だった実乃梨《みのり》は厨房《ちゅうぼう》へ入っていく。その後姿を二人して目で追い、
「偉いなあ……かわいいだけじゃなくて、真面目《まじめ》なんだな。おまえとは大違いだ」
「……なによ」
「おまえは昼過ぎに起きて、頭も服もぐしゃぐしゃのままでうちに来て、昼飯をたかって、そのままゴロゴロしてテレビ見て、夕飯たかって、深夜までぐだぐだぐだぐだして、家に帰るだけじゃねえか。非生産的な」
ツン、と大河は偉そうに顎《あご》を突き上げ、
「お休みだもん、それでいーのよ。竜児だって大差ないでしょ。それに大事なことが抜けてるね。私はこうやって、竜児のために足を動かして、ここに付き合ってやってるじゃない。それにねえ、第一、」
パフェスプーンが竜児を指弾《しだん》。
「うっ……跳《は》ねた乳製品が目に」
「私がここまで暇《ひま》なのは、だいたい竜児のせいなのよ? わかってんの? あ?」
怒りよりは嘲《あざけ》りの色を大きな瞳《ひとみ》に滔々《とうとう》とたゆたわせ、ふんぞり返って大河は言う。
「そりゃーあんたはいいよ。あんたには私がいて、あんたが好きな人に会うために協力してくれるんだもの。でもね、私には私はいないの。私の恋路《こいじ》を応援してくれる、心優《こころやさ》しい私はいないの」
「……回りくどい言い方しやがって。北村《きたむら》に休み中会えなかったのは、全然|俺《おれ》のせいじゃねえだろ。協力したじゃねえか、ちゃんと」
「……」
「話の途中《とちゅう》で無視すんなよ!」
「うるさい」
言いたいことだけ言ってくれて、あとはむすっと黙《だま》りこくり、大河《たいが》は途中の本屋で買った女の子向けの雑誌に目を落とす。しかし竜児《りゅうじ》は納得《なっとく》がいかず、やる方のない憤懣《ふんまん》をブラックのままのコーヒーとともに飲み下すしかない。
あれは、絶対に自分のせいじゃない。思い出すのは連休初日の昼下がりだ。
竜児は大河にせっつかれ、親友であり大河の片思いの相手でもある北村《きたむら》祐作《ゆうさく》に電話をかけた。連休中、実乃梨《みのり》とともに彼が在籍《ざいせき》するソフトボール部の部活に三日ほど休みがあることを知り、大河はその休みの予定を竜児に聞き出させようとしていたのだ。とはいえ、大河自身が北村を遊びに誘《さそ》うような度胸はまったくなく、竜児に会う約束をさせ、偶然を装って途中で合流する、という涙ぐましい計画まで立てていた。
だが、脂汗を流す大河の傍《かたわ》らでかけた電話の返事はすげないもので、『いやー悪い! 俺《おれ》も一日ぐらい遊びに行きたかったんだけど、生徒会と家の都合《つごう》で、全部予定が埋まってしまった!』――どう考えても、タイミングが悪かっただけだ。竜児の責任の入り込む余地などどこにもない。
「……どうせ会えたって、ろくに会話もできねえくせに」
「……」
目を上げた大河は声には出さず、表情も変えず、唇《くちびる》の動きだけでそっと囁《ささや》く――じ・ご・ く・に・落・と・す。
「……落ちるよ、じゃねえんだ……おまえが落とすのか……」
「聞こえた? 耳いいじゃん」
ふん、と鼻先で冷たくせせら笑い、虎《とら》というよりいっそ悪魔《あくま》のような視線《しせん》を大河は竜児に向けた。
こんなとき、竜児は思わずにはいられない。
なんだって自分はこんな奴《やつ》と、こんなふうに、馴《な》れ合い、舐《な》められ、蔑《さげす》まれながら日常生活をともに過ごしたりなんか――
「あっ」
――思考を破ったのは大河の短い悲鳴。
「あーあ! なにやってんだよ、ドジ!」
頭を抱えかけつつも竜児は素早《すばや》くティッシュを持って立ち上がり、下僕《げぼく》よろしく大河のソファの傍《かたわ》らに脆《ひざまず》いた。大河の口元からテロン、と一滴、ブルーベリーソースがワンピースの膝元《ひざもと》にこぼれたのだ。白のレースに染《し》みる前になんとか拭《ぬぐ》ってしまわないと。
「うー、やっちゃった……シミになる? これ」
「いや、セーフセーフ。家に帰ってきちんと処理すれば多分《たぷん》セーフ」
ティッシュを軽くコップの水で濡《ぬ》らし、情《なさ》けなく呻《うめ》く大河のワンピースを神経質にトントン軽く叩《たた》く。なにしろこのワンピースの値段は、竜児《りゅうじ》の普段着《ふだんぎ》のざっと二十倍以上……たとえ竜児のモノではなくても、粗末に扱うなんてことはお金の神様に誓ってできない。つい今の今まで陰険なやりとりをしていたとしても、そんなのはもはや関係ない。そうして気がつけばいつものペースに取り込まれていて――そうだ。結局こうなのだ。
自分と大河《たいが》は、いつもこう。しみとりの緊急《きんきゅう》施術を行いつつ、竜児は思わず目を遠くする。
二人の接点は元はと言えば、互いに互いの親友に恋をしているというだけのものだった。偶然の事件によってそれが明かされ、やがて奇妙な共闘《きょうとう》関係のような……ほぼ一方的に大河に有利なものだったが、とにかくそんな関係になったのが運のつき。
一人暮らしの大河はやがて生活面で竜児に頼るようになり、生来家事好き、清潔《せいけつ》好《ず》きの竜児にその要請《ようせい》は断り切れるものではなく、微妙に複雑《ふくざつ》な家庭|環境《かんきょう》まで少々シンクロ、とどめにこれだ。
大河のドジ。
手乗りタイガーと恐れられる彼女の意外な一面、つまりどうしようもなく危なっかしい部分をこの世でただ一人知ってしまい、竜児は大河から目が離《はな》せなくなってしまった。放っておけば一日三回転ぶ奴《やつ》なのだ。後ろにいれば振り返ってしまうし、火を使っていれば声をかけたくなる。支度《したく》してやらなければ飯も食わない。そして体調《たいちょう》を崩《くず》す。なにか無茶《むちゃ》をしやしまいかと、日常レベルで付き添いたくなる。
しかもその上なんというか――一世一代の告白を、微妙にかわされた現場まで目撃《もくげき》してしまった。案外泣き虫なことも、知ってしまった。
そんなこんなが絶妙なバランスで積《つ》み重なり、竜児と大河は食事も一緒《いっしょ》、登校も買い物も一緒、ただしお互い別に好きあっちゃいない、という奇妙な関係に落ち着いてしまったわけで。
一応竜児に言わせれば、もうひとつくっついている理由はあった。竜児は竜《りゅう》で、大河は虎《とら》――竜虎《りゅうこ》は常にワンセット、などと、
「あっ!」
再び零《こぼ》れたブルーベリー色の雫《しずく》が、竜児の思考を分断する。
「……っぶねえなあ。 なんで今、よりによって拭《ふ》いてるのと同じ地点にもう一滴いくんだよ。指に落ちたからいいけどよ」
「うっさいなあ、わざとじゃないわよ。第一、別に拭いてなんて頼んでない」
「なんちゅう言い草だよ、そんならおまえに染《し》み抜きができるのか? できねえだろ? 言っておくけどおまえのためにやってるんじゃねえぞ、このワンピースのためにやってんだ俺《おれ》は」
「へえ〜あっそ〜、そんなに好きならあげよっかあ? あんたが着れば? このワンピース」
とにかく……今となっては激《はげ》しく早まったものだが。
それでもむざむざ目の前で高価な服にシミをつけるわけにはいかないから、竜児は前科三犯|懲役《ちょうえき》十年クラスの目つきになって(少々|不機嫌《ふきげん》かもしれない)、人目も憚《はばか》らずに再びたんとんたんとん作業に没頭する。と、
「あ」
「またなにかやらかしたか!?」
大河《たいが》の漏《も》らした無防備な声に、反射的に竜児《りゅうじ》は顔を上げるが、
「違うわよ。……これかわいい、買おう。絶対買おう」
大河は雑誌のページの端《はし》を少し摘《つま》んで折り曲げて、そんなことを呟《つぶや》いている。
「また無駄《むだ》遣《づか》いすんのか。どれだけ服買ったら気がすむんだよ、同じようなヒラヒラの、同じようなフワフワばっかり。どれ? いくらの奴《やつ》?」
「ちょっともう、あんたほんっとうるさい! あんた私のお母さんかなにか!?」
「どうせまた俺《おれ》が整理《せいり》させられるんだから、俺にはチェックする権利がある」
竜児は身を起こして喚《わめ》く大河の隣《となり》に座り、仲良く並んだ体勢で彼女が見ているページを覗《のぞ》き込んだ。先日、大河の部屋のクローゼットから溢《あふ》れ出した大量の高価な服を必死に整理し、しまいこんだ記憶《きおく》はまだ鮮明《せんめい》だ。無駄な買い物は断固阻止する権利があるはず。そして、
「……こ、これか? これは……どうだかなあ……」
思わず首をひねる。絶対買おう、と大河が呟いたページのモデルは、長い足を見せ付けるように細身のデニムを穿《は》きこなし、美しいポーズを決めている。ヒラヒラ、フワフワ、ではないが――
「……おまえのために言うけどよ……おまえがこれを穿いたら、松の廊下じゃねえかなあ……」
なにしろ大河の身長は百四十センチとあと少し。足の長さも推《お》して知るべし、だが。
「……私が欲しいのは、この、バッグ、よ」
ぐりぐりぐりぃぃぃ……と大河の爪《つめ》が、モデルが抱えている小さなバッグの部分を抉《えぐ》った。
「あ、あ……そうだったのか」
「悪かったわねえ、短足で」
妙に落ち着いた平坦な声が逆に恐ろしく不気味に響《ひび》き、竜児は思わず仰《の》け反《ぞ》って逃げをうつ。大河の瞳《ひとみ》は獰猛《どうもう》に細くなり、いっそ笑っているかのように、唇《くちびる》の端《はし》がめくれ上がる。
「ちょっと、ほら、冷静に……ここは櫛枝《くしえだ》の職場《しょくば》だし……で、殿中《でんちゅう》でござる」
「なにそれ!? ふざけてんの!? そーゆー態度が気に食わないのよ! 失言した自覚があるなら、まずは、謝《あやま》ったら、どうなの!?」
大河の鼻に獰猛なしわが寄り――慣《な》れない冗談《じょうだん》は射出失敗。まずい、本当に怒らせた。もちろん素早《すばや》く謝ってしまいたいのはやまやまだったのだが、
「ぐええ……っ」
「どうせ私は、チビの短足よ! でもそれで人様に迷惑《めいわく》をかけたことなんか一度もないわよ!」
大河は竜児の襟首《えりくび》を掴《つか》み、激《はげ》しく前後に揺《ゆ》さぶりにかかる。声が出ないというか、息ができない。じたばたとみっともなくテーブルを叩《たた》き、必死に伝えるのは「ロープロープ!」、それだけ。
すると大河《たいが》の手から、するりと唐突《とうとつ》に力が抜けた。解放されてソファに倒れこみ、竜児《りゅうじ》はゴホゴホとその場でむせる。
「あ、あのなあ……いつかおまえ、俺《おれ》を殺しちまうぞ!? ほんとに!」
「……わ、わ、わ……」
大河は口をぽかん、と半開きにして、両目を子供のようにぱちくりさせている。やっと自分の乱暴《らんぼう》さを自覚したかと竜児は重々しく頷《うなず》き、
「そうだろう、ショックだろう。これに懲《こ》りたら二度と人の首を絞めるような真似《まね》は……」
「はあ!? なに言ってんの、違うわよ! ほら、これ!」
苛立《いらだ》たしげに竜児を睨《にら》み、大河は雑誌の今見ていたページを「ほらほら!」と指し示して見せた。
「……そのバッグが欲しい、ってのはもう聞いたぞ」
「そーじゃないの! これ! この人!」
桜色《さくらいろ》の爪《つめ》の先には、長い足をすらりと組んだ美女――いや、美少女の笑顔《えがお》。黒背景のクールなセットの中で、数万円もするキャミソールともっと高価なデニムを着こなし、ゆるく巻かれた髪を風にたなびかせている。それはもちろんとても綺麗《きれい》なモデルだが、モデルなのだから綺麗で当たり前だろう。ありふれた雰囲気のページだとしか思えない。
それがどうした、と問おうとした瞬間《しゅんかん》、ぐっ、と頭を掴《つか》まれて、
「いででででで!」
そのままグリンとほぼ百八十度、背後《はいご》へ顔を向かせられる。そして、
「……おぅ」
思わず感嘆にも似た声が出た。
竜児と大河のいる席から少し離《はな》れた席に、ウエイトレスに先導《せんどう》されていく新しい客がいた。
その客を見ているのは大河と竜児だけではない。少々混みあった店内の客は振り返ったりヒソヒソ囁《ささや》きあったり、ほぼ全員がその客に視線《しせん》を向けている。
まず目を引くのは、小鹿《こじか》を思わせるスラリとした細い身体《からだ》つき。
身長はさほど高くは見えないが、あまりに頭部が小さいために八頭身の黄金バランス。
極限までサラサラ、ツヤツヤを追求した、丁寧《ていねい》に手入れされた髪。しかしきまりすぎてはおらず、ラフな雰囲気でそのまま肩に柔らかく落ちている。
子供のように小さな顔にハリウッドのセレブのような大きめのサングラスをかけ、歩く足取りは完璧《かんぺき》に優雅《ゆうが》。細いヒールのサンダルを履《は》いたその足首は、まるでそれだけで完成された彫像のようだ。
細いデニムにごくシンプルなニットを合わせているだけなのに、日本人離れした手足の長さがどんなドレスよりも彼女のスタイルを輝《かがや》かせていた。肩からかけたブランドバッグと、磨《みが》き抜かれたような真っ白な素肌が、ただの素人《しろうと》でないことを物語ってもいる。
要するに、超、美人。誰《だれ》もが視線《しせん》を向けずにはいられない、その外見の圧倒的求心力。
何気《なにげ》ない仕草《しぐさ》で彼女がサングラスを外すと、店中が一種異様な興奮《こうふん》に包まれた。
「おおおお……」
竜児《りゅうじ》も唸《うな》り、思わず鋭《するど》い目を狂おしく凝《こ》らす。
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が微妙な幼さを醸《かも》し出す、光り輝《かがや》くような美貌《びぼう》が現れたのだ。
小さな顔に奇跡のように収まった二つの大きな目。艶《つや》やかな桜色《さくらいろ》に上気したなめらかな頬《ほお》。柔らかに緩《ゆる》むその表情は優美《ゆうび》で繊細《せんさい》で甘やかで、洗練されたスタイルとのギャップが一段と人目を引く。
どこまでも愛らしく、清らかだった。優《やさ》しげで穏《おだ》やかでたおやかだった。まさしく彼女は天使のよう。こんなファミレスに降臨《こうりん》して、居合わせた一般人たちに美のオーラを燦々《さんさん》と振りまいてくれる博愛の天使だ。頭の上に眩《まばゆ》い光の輪《わ》まで見えそうだ。
そしてその美貌はどう見ても、
「……この人、だ……」
「……うん……」
大河《たいが》が指差す、ページの美人と同一人物。
「……モデルさん、だ……」
生まれて初めて見た『モデル』に、竜児は深くため息をついた。雑誌で見ればこんなにもありふれた美人でしかないのに、実物のこの眩さはなんだ。こんなにも、綺麗《きれい》に整《ととの》った人間がいていいのだろうか。
「あの人、『川嶋《かわしま》亜美《あみ》』って言うんだよ。先々月は表紙にもなってた」
大河も珍しく頬を紅潮《こうちょう》させて興奮《こうふん》気味、少々得意げに教えてくれる。
「そっか……はあ〜。……俺《おれ》、ファンになってしまうかもしれん……川嶋亜美さん……なんでこんななんにもねえ住宅街なんかに……」
「お母さんは、女優《じょゆう》の川嶋|安奈《あんな》。前に雑誌に載《の》ってた」
「ほお!……昨日《きのう》の夜見たばっかじゃねえか……『伊豆《いず》はよいとこ殺人事件・カピバラ温泉の誘惑《ゆうわく》・勝ち犬女検視官|夕月《ゆうづき》玲子《れいこ》シリーズ4』……あの夕月玲子の娘かあ……言われてみりゃ面影《おもかげ》あるな。よし、携帯で写真を」
「ちょっとやめなさいよ、怒られるわよ」
「そ、そうか。……とりあえず、いったん落ち着こう。ちょっと興奮しすぎた」
「小市民め」
「おまえだって興奮してただろ」
ひとつのソファに並んで座り、二人して数回深呼吸。
「いやあ、しかし……いいもん見たなあ」
「この連休で唯一《ゆいいつ》の思い出だわ」
うんうん、と頷《うなず》きあい、それぞれのカップを同時に掴《つか》んで、竜児《りゅうじ》はコーヒーを、大河《たいが》はミルクティーを、同時にくいっと口に含んだ瞬間《しゅんかん》だった。
「祐作《ゆうさく》〜! おじ様、おば様、席ここだって〜!」
「おー!」
「「ブボァ!」」
同時に激《はげ》しく吹《ふ》き出した。
げほげほ仲良くむせながら、二人は狂おしく悶絶《もんぜつ》する。……そりゃそうだろう、突然目の前に現れたモデル美女が、親しげに見慣《みな》れた野郎を呼んでいるのだから。
「な、な、なんで……なんでだ!?」
「きっ、きたっ、きたむっ、北村《きたむら》くんっ!? やだやだなんで!? どうしてなの!?」
動揺《どうよう》のあまり竜児は激しくペーパーでテーブルを拭《ふ》きまくり、大河はタコ踊り状態で、竜児の腕に腕を絡《から》ませる。そんな二人に気がついたのか、
「あれ? 高須《たかす》に逢坂《あいさか》じゃないか、奇遇だなあ! なにを絡まりあっているんだ? 相変わらず仲がいいなあおまえたちは!」
当たり前の顔をして、店に入ってきた北村祐作は手を振りつつ歩み寄ってくる。動揺のあまり竜児の眼光はナイフのように鋭《するど》さを増しに増し、大河はあらゆる感情の波に流され口を利くことさえできない様子《ようす》。それでも北村はお構いなしに、
「ここで櫛枝《くしえだ》もバイトしてるらしいな。見かけたか?」
あくまで朗らかに歩みを止めない。
「いや、櫛枝は見かけたが、……そうじゃなくて!」
ついに形相《ぎょうそう》を比叡山《ひえいざん》の僧兵レベルにまで険《けわ》しくし、竜児は能天気な親友に激しく詰め寄った。
「おまえ、なんでなんだよ!? なんで、あれ……」
「え? ああ、そうか。ちょうどよかった、紹介するよ。あれ、うちの両親。高須はうちの母親に、三者|面談《めんだん》のときに会ってるよな」
どうもぉ、高須くん、お母様お元気? と向こうから頭を下げてくれる北村のご両親には申《もう》し訳《わけ》ないが、
「違うっ! そうじゃない!」
激しく首を振らざるを得ない。
「そうじゃなくて、あの、あの、ほら、あの!」
感情表現のレパートリーに乏しい竜児にしては珍しく、全身をグニグニと左右に捩《よじ》って親友に動揺《どうよう》を伝えようとする。が、
「どうしたの? 祐作」
「おお、今紹介しようとしてたところだ」
――大変なことになった。
動揺《どうよう》の種が、自《みずか》らの足で、竜児《りゅうじ》と大河《たいが》の目の前に歩み進んで来ていた。きらきらと輝《かがや》く光の粒子みたいなものを身にまとわせ、甘い芳香《ほうこう》をふわふわと漂わせ、
「彼女、川嶋《かわしま》亜美《あみ》。こう見えでも俺《おれ》とタメで、昔この辺に住んでたんだ。彼女が引っ越すまではお隣《となり》さんだったんだよ。いわゆる幼馴染《おさななじみ》って奴《やつ》なんだ」
「こう見えても、ってどういう意味?」
微笑《ほほえ》みながらもちょっと拗《す》ねたように、プクン、と頬《ほお》を膨《ふく》らませ、彼女は普通の女の子のように、ふざけて北村《きたむら》を睨《にら》みつけて見せる。竜児の目の前で、現実に。実際に。三次元で。
この状況の、なんという奇跡っぷり……しかし北村はまったく平気な顔で、
「言葉のあやだ。で、こっちが親友の高須《たかす》竜児と、逢坂《あいさか》大河」
「ひとつのソファに並んで座った、ちょっと奇妙な男女コンビを天使に紹介してくれた。天使、川嶋亜美はにっこりと愛らしく笑って、
「初めまして! 亜美です、よろしくね!」
両手をぱっと無防備に伸ばしてくる。
竜児はその美しい両手をじっと見つめ……いや、見惚《みと》れ、その行動の意味さえ理解できないままにロボットのように硬直する。すると、
「ね、握手。祐作《ゆうさく》の友達なら、あたしにとっても友達だよね」
――手が溶けてしまう。手の平から、とろとろと。
「……あ、ああ、あ」
川嶋《かわしま》亜美《あみ》は、テーブルに乗せていた竜児《りゅうじ》の手を柔らかに掬《すく》い取って、自分の両手で包み込んでいたのだ。ひんやりと冷たくて、かすかに当たる指輪《ゆびわ》の部分はもっと冷たい……。
「え、あれ、もしかしてこれって」
薄《うす》らボケになった竜児の手をあっさり離《はな》し、代わりに彼女の綺麗《きれい》な指はテーブルに広げられたままの大河《たいが》の雑誌を指した。そして、
「きゃあ!」
甘い悲鳴。亜美は慌《あわ》ててそれを掴《つか》み取り、胸の前にきゅっ、と抱えて恥《は》ずかしそうに肩をすくめる。小さな顔を俯《うつむ》け、胸に抱えた雑誌で隠《かく》すようにしながら上目《うわめ》遣《づか》い、瞳《ひとみ》だけをキラキラと瞬《まばた》かせて呟《つぶや》く。
「やだあ……! こんな偶然って……なんで!? もしかして、……ああやだ、わかっちゃった? あたしがこれに……その……載《の》ってる、っていうか……こういうお仕事、してるってこと……」
そのキラキラにはどうやら本気の困惑《こんわく》が揺《ゆ》れていて――射抜《いぬ》かれること数秒。何を言ってるんだ、と半ば呆《あき》れて竜児は思う。
雑誌なんか見なくたってこれだけの外見だ、誰《だれ》でも亜美を一目見ればモデルかタレントだと思うに決まっているだろう。むしろ、バレないと思っていたらしい亜美の心情こそ理解できない。もしかして亜美は、自分が並外れてかわいいという自覚がないのだろうか?
そんな思いを凝縮《ぎょうしゅく》し、なんとか返事を搾《しぼ》り出す。
「いや……見るからに、モデル、って……感じだし……」
あまりにもそっけない言葉になったが、竜児にはそれが限界だった。しかし、
「えー? うそだあ!」
亜美は心から不思議《ふしぎ》そうに声を上げ目を丸くして、小首を傾《かし》げてみせる。
「全然そんなことないのに! あたし、メイクもしてないし、服だってこんな適当だし……一体全体、こんな地味な格好《かっこう》のあたしのどのへんがモデルっぽいの?」
つまり本当に全然、自分のことがわかっていないのだ、この天使は。無邪気というか、純粋というか。
「ほら、髪も起きたまんまぼさぼさだし、もう本当にそのまんま、これでいいや〜って、出て来たんだよ? なんでかなあ……おかしいなあ……わからないなあ……」
その思案顔に見とれつつ、竜児はなんとなく理解した。天然に美しく生まれついた者には、美しくあることの珍しさがわからないものなのだ、きっと。しかしそれ故《ゆえ》に、こんな風に純粋でいられるのかもしれない。そしてその純粋さが、また彼女を美しくする――うっとりとそんなことを思っていると、
「あ!」
亜美《あみ》の指先が、唐突《とうとつ》に竜児《りゅうじ》の鼻先を差した。
「今、あたしのこと『天然』って思ったでしょ」
「え……っ」
動揺《どうよう》して硬直した竜児の目の前、亜美は片頬《かたほお》を膨《ふく》らませ、悪戯《いたずら》な瞳《ひとみ》で睨《にら》む素振《そぶ》りをしてみせる。確《たし》かに天然、とは思っていたが、少々意味合いが違うような……いや、合っているのか、むしろこの場合。
「もう、わかるんだからね? 思ったでしょ?」
もちろん亜美の瞳の底には笑《え》みの気配《けはい》が揺《ゆ》らいでいて、竜児も思わず乗せられるように、そのまま頷《うなず》いてしまう。
「やっぱり!」
あーん、と甘ったるい泣き声を上げ、亜美は拗《す》ねるように唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「もう、いつも言われちゃうんだ。ほんっとに亜美は天然だよね〜って。なんでなんだろう、全然あたし天然なんかじゃないのに、みんなそう言うの。……どうせ祐作《ゆうさく》もそう思ってるんでしょ。呆《あき》れたような顔、してるもん」
「そんなことないって」
話題を振られた北村《きたむら》は、軽く苦笑して肩をすくめた。そして頃合《ころあい》を見計らっていたかのように亜美の背中を軽く押し、
「さあ、そろそろ席に戻るぞ。親父《おやじ》たち、注文できなくて困ってる」
「あっ、そうだった! いっけない、おじさまたちを待たせちゃったね」
悪いな、と竜児たちに手を上げて見せる。
「高須《たかす》と逢坂《あいさか》はまだここにいるだろ? 親父たち、メシだけ食ったら家に帰るって言ってるから、その後でまた話そう」
「あ、ああ」
「また後でね!」
手を振って踵《きびす》を返す亜美の身のこなしはあまりにも綺麗《きれい》で――あまりにも怒涛《どとう》の出来事。しかもこの怒涛っぷりは、まだまだこの先も続くらしい。
竜児は去って行く親友と亜美を見送りながら、疲れ果てたように背中をソファに預けた。そして二人が席につくところまでじっくり眺め、
「ああ……」
陶然《とうぜん》と何度目かのため息をつく。
あんなに美人で、しかも親は有名な女優《じょゆう》で、それなのにまったく気取ったところもなく、果てしなく純粋。心は清らかに澄《す》み切っている。自分が美人だなんて、欠片《かけら》ほどにも思っていないのだ。ちょっと天然ボケだけど、そこがまたかわいいではないか。あんな子がこの世にいるなんて……まさに完璧超人。
美少女ではあるが異様に気が荒く、悲しいほどにひん曲がりまくった某《ぼう》手乗りタイガーとは大違いだ。比較するのもお門違《かどちが》いの話だが。
「……おい、なんか川嶋《かわしま》亜美《あみ》って、芸能人なのにすごくいい子みたいだよな。顔もいいけど性格もいい……おまえ、ちょっとは見習った方がいいぞ。北村《きたむら》にあんな幼馴染《おさななじみ》がいるとは……なあ、た……」
「……」
「……大《たい》、河《が》?」
ゴクン、と唾《つば》を飲み込み、竜児《りゅうじ》は大きく尻《しり》でいざる。そのままさりげなくソファから抜け出し、向かいのソファへと移動する。
うかつなことに気がつかなかったが、傍《かたわ》らに、声もなく唸《うな》る虎《とら》がいたのだ。そういや妙に存在感が薄《うす》くなっていると思ったが――なんのことはない、ご機嫌《きげん》斜《なな》めの肉食《にくしょく》獣《じゅう》は獲物《えもの》を求めて姿を茂みに潜《ひそ》ませていたわけだ。――茂みから一歩姿を現したが如《ごと》く、いまや大河の身体《からだ》からは、匂《にお》い立つように渦巻く殺気《さっき》が発せられている。小作りな美貌《びぼう》は能面のようになり、かすかに歪《ゆが》んだ唇《くちびる》からは今にも肉を引き裂く野獣の牙《きば》が剥《む》かれそう。大きな瞳《ひとみ》は炯炯《けいけい》と凶暴《きょうぼう》な光を宿し、薄い瞼《まぶた》に半ば隠《かく》されたまま立ち去った亜美の背中を見つめている。小柄な身体をソファに収め、しかし倣岸《ごうがん》に顎《あご》を突き上げ、大河は凄《すさ》まじく不機嫌でいたのだ。
天使との差はさておいても、竜児はさすがに一言いわずにはいられない。
「……おまえ……なんつうか、それはどうかと思うぞ? 北村と仲がいい美少女が現れたからって、そんなあからさまにイライラするなよ。さっきまできゃぴきゃぴ喜んでたじゃねえか」
「……違う」
低くひそめられた声が、舌なめずりのように不吉に響《ひび》いた。
「そんなつまらないモンじゃないわよ。そうじゃなくて……」
だがそこで声は途切《とぎ》れ、大河は髪を一度かきあげる。ふっ、と小さく息をつき、虎の孕《はら》んだ緊張《きんちょう》が解けるのがわかった。
「……まあ、いいわ」
神経質に光っていた目は酷薄《こくはく》な笑《え》みに溶けたようになり、竜児へと向けられる。
「相手にするのも下らないか。そのうちわかるんじゃない? 鈍《にぶ》いあんたにも」
「……なにがだよ」
「私、こういうことには結構鼻が利くの。一応ひとつだけヒントをあげておくけど――自分で自分を『天然って言われる』、という人間に、まともな奴《やつ》なんかいないのよ」
「……そんなこと、言ってたっけか?」
「どうでもいい、もう」
フン、と得意げに薔薇《ばら》の唇を毒に歪め、大河は視線《しせん》を亜美から逸《そ》らした。そこまで不機嫌でいながら、しかし帰ろうと言い出さないのは、やはり少しでも北村《きたむら》と話がしたいからなのだろうと竜児《りゅうじ》は思う。
大河《たいが》はなにを考えているのかよくわからない表情のまま雑誌を読み続け、竜児はオマケについてきた弁当のおかずレシピブックレットを落ち着かないままめくり続け――半時ほどが経《た》った頃《ころ》だろうか。
「よう。うちの親、帰っていったわ」
悲しいほどにユニクロ丸出しのファッションでキメた北村が、光り輝《かがや》くようなモデル美少女を伴って席までやって来た。亜美《あみ》が店内を移動するたび、漏《も》れなく客たちの視線《しせん》がついてくるのはご愛嬌《あいきょう》だ。
「お待たせ!」
北村の一歩後ろで、亜美は天使の微笑を浮かべて竜児に手を振ってくれる。思わずつられて手を振り返してしまい、
「……ご機嫌《きげん》だねえ……犬がしっぽを振ってるみたいだねえ……」
大河の冷たい一言に、異様なほど恥《は》ずかしいものを見られた気がしてその手を下ろす。
さすがに、「川嶋《かわしま》さんは俺《おれ》の隣《となり》に。北村は大河の隣に座ってやれ」とも言えず、ごく自然に男同士、女同士でソファに座ることになった。
竜児の横に座った北村は、メニューを開いて向かいの亜美に尋《たず》ねる。
「亜美、時間はまだ平気だよな? なにか頼む?」
「ううん、さっきおなかいっぱい食べちゃったから大丈夫。……お二人は?」
突然に話題を振られ、竜児の眉がビクリと跳《は》ねた。大河は私服の北村の方が見られないらしく、俯《うつむ》いて自分の膝《ひざ》小僧《こぞう》を睨《にら》んだまま固まっている。
「え、ええと俺《おれ》たちは……ど、どうだろう? どうだ大河」
ふりふりふり、と大河は俯いたまま首を横に振り――話題終了。さあ、次はどうすればいい。
なにを話せばいい。
竜児は期待に満ちた目で、唯一《ゆいいつ》この場の全員と知り合いである北村が続けてしゃべり出すのを待った。この、おそらくは一生で最後のモデルさんとの相席《あいせき》。思い出に残すべく、楽しく盛り上がるひと時を演出してくれ、と。
ところが、
「あーあ、家族サービスして疲れたな。悪い、ちょっとトイレ」
いつも通りにリラックスしているたった一人の北村が、後の空気のことも考えずに席を立ってしまうのだ。
「えっ、ちょっ……」
慌《あわ》てて手を伸ばしかけるが、まさか行かないでくれ、とも言えない。
大河《たいが》を見た。俯《うつむ》いたまま石になっている。
亜美《あみ》を見た。にっこり微笑《ほほえ》み、「?」――挙動《きょどう》不審《ふしん》な竜児《りゅうじ》を見て不思議《ふしぎ》そうに小首をかしげている。
無理だ。どうやっても場をつなぐことなんか自分にはできない。竜児はさりげなさを装って頭などぼりぼり掻《か》いて見せつつ、
「あ、なんか俺《おれ》も便所……ええと便所はどっちだっけ……」
遅ればせながら北村《きたむら》を追いかけ、連れ立って席を立つフォーメーション……略して連れションを組んでしまう。
あんな機嫌《きげん》の手乗りタイガーと彼女を残して大丈夫だろうか、とはもちろん当然思うのだが、……情《なさ》けないことに、緊張感《きんちょうかん》に負けた。ただでさえ口《くち》下手《べた》なのに、相手は女子、それも超のつく美少女モデル。こんなときに大河は頼りにならないし、北村抜きで場を盛り上げる自信など竜児には欠片《かけら》もなかったのだ。
残した席の方を振り返ることもできず、そそくさと男子便所へ向かった北村の後を追う。情けないことこの上ないが、仕方ない。せいぜい用を足させていただこう。
だが、戸口の前で北村は不意に振り返り、
「……よし。来たな」
「な、なんだよ」
「こうすれば絶対おまえも席を立っと思った」
銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》を押し上げてそんなことを囁《ささや》きかけてくるのだ。一体何事かと眼光をギラギラさせる竜児をそっと手招き、煙草《タバコ》の自動|販売《はんばい》機《き》の陰に隠《かく》れ、
「聞きたいことがあるんだ。正直に答えて欲しい」
杏型《あんずがた》の目をまっすぐに向けてくる。そして一拍おいてきっぱりと、
「高須《たかす》は亜美のこと、どう思った?」
などと。
「……おまえ、小便は?」
「出ない」
その顔つきは真剣そのもので、どうやら北村は本当に、竜児と話をするためだけにここにやってきたらしい。問いの理由までは分からないまでも、答えないわけにはいかなさそうだ。答えたくない理由もないし。
「……どう思ったもなにも……おまえ、いきなりあんなかわいい子連れて登場するなよ。緊張して意味不明になったぞ」
「まあ、かわいいわな。それは俺も認めるところだ」
「いや、かわいいだけじゃねえだろ。すっごいいい子だな。なんというか……純粋っていうか……純粋すぎて危なっかしいっていうか……」
「……うーん……」
珍しく北村《きたむら》は口ごもり、眉《まゆ》をしかめて眼鏡《めがね》を額《ひたい》に押し上げ、疲れたように目を擦《こす》る。そしておもむろに竜児《りゅうじ》の背を押し、
「ちょっといいか。ちょっと……」
「おい、どこに行くんだ。便所は? 席には戻らねえのかよ?」
「まあまあ……とりあえず、屈《かが》め」
トイレとは逆方向、客席の方へ進んでいく。そうして背を丸め、観葉《かんよう》植物の陰に隠《かく》れ、喫煙《きつえん》席《せき》と禁煙席を分ける衝立《ついたて》の陰に身を潜《ひそ》める。意味不明ながら、竜児も同じように隠れるしかない。大回りしてきたわりに、その場所はちょうど大河《たいが》と亜美《あみ》が残された席の真後ろだ。二人の姿がばっちり見え、しかも向こうからは死角になっているはず。
「……ちょっと、なに考えてんだおまえは、スケベな野郎だ」
「いいから。……黙《だま》って見てろ」
北村が指を差したその先で、亜美はゆっくりと足を組み、腕をソファの背に放り出した。
「あーあ、だるーい。ねえねえ亜美ちゃん喉《のど》かわいちゃった〜、アイスティー持ってきてえ?」
綺麗《きれい》な髪をかきあげ、見るからにかったるそうに頬杖《ほおづえ》をついた姿勢のまま、亜美は目の前のグラスを大河の方へ乱暴《らんぼう》に押しやる。
「……」
大河はちら、とそれを一瞥《いちべつ》し、表情を変えずにそのまま視線《しせん》を自分の膝元《ひざもと》に戻す。軽く舌打ちしたのは、大河ではなく、亜美だ。
「はあ? つっかえねー、っていうか暗い奴《やつ》……態度悪くない? まあ別にいいけど。祐作《ゆうさく》が戻ってきたら祐作に持ってきてもらうし。それかあ、あの目つきの悪い変なヤローにでも頼んじゃおっかなあ。なんかあいつ、亜美ちゃんの言うことなんでも聞きそうなテンションだもんねえ」
甘ったるい声でそう語りつつ、苺色《いちごいろ》の唇《くちぴる》はわずかに歪《ゆが》む。それでも清らかな美貌《びぼう》だけは決して崩《くず》れることがない向けないまま尋《たず》ねる。そして命知らずにも、傍《かたわ》らで人形のように押し黙《だま》っている大河に顔も向けないまま尋《たず》ねる
「ねえねえ。あれって、あんたの彼氏?」
「……」
「亜美ちゃん、奪っちゃっていーい? 全然いらねえけど」
「……」
「てゆうかあの目つき、いまどきヤンキーなわけ? よくあんなへッボいの、相手にできるよねえ〜ちょっと尊敬〜」
「……」
大河《たいが》は口を閉ざしたまま、透明の目線《めせん》だけを亜美《あみ》に向ける。
「まあ、そーね。こんななんにもないとこじゃ、せいぜいあんな程度しかいないわけだ。あーあ、さ、い、あ、く〜」
歌うようにそう言って、亜美は結局大河の返事など待っているわけではないらしい。ブランドもののバッグを乱暴《らんぼう》に引き寄せ、大きな手鏡《てかがみ》を取り出し、愛らしい自分の顔を見つめ始める。
そのまま髪を何度か手櫛《てぐし》で整《ととの》えて、透明のグロスを丹念に唇《くちぴる》に塗《ぬ》り、表情キメ。横向いてキメ。もう一度正面で「亜美ちゃん、かわいい!」――嬉《うれ》しげにそう呟《つぶや》き、満足したようにニッコリ微笑《ほほえ》む。
「あーあ、ぱっと遊びに行きたいなあ……あんた、あんなのと普段《ふだん》なにして遊んでんの? 暴走《ぼうそう》?」
「……彼氏じゃ、ないから」
大河を知る者なら誰《だれ》もが震《ふる》える、感情を抑えた平坦な囁《ささや》き。
「あっそ〜なんだあ〜べっつにどうでもいいんだけどお〜。ま、そうだよねえ〜、いまどきヤンキーって……ありえないにもほどがあるっていうか? 亜美ちゃん、あんまりにもステージが違いすぎる相手にちょっとひいちゃうかもっていうか?」
鏡を覗《のぞ》き込んだまま、亜美は小馬鹿《こばか》にするように鼻を鳴らす。と、不意に鏡から目を離《はな》し、大河に不躾《ぶしつけ》な視線を向けた。
「ねえねえ、あんたって身長何センチ? 今気づいたんだけど、なんか縮尺《しゅくしゃく》おかしくない?」
「……」
そのままゆっくり大河の頭からつま先までジロジロと眺め、呆《あき》れたように眉《まゆ》を上げる。
「ふーん、そんなサイズの服、売ってる店あるんだめ。でもさあ、デニムとか買うときどんだけ裾《すそ》切るわけ? 亜美ちゃん、一回も切ったことないからわかんなーい」
「――というのが本性《ほんしょう》のわけなんだが」
「ほ、本性!?」
「そう。あれが幼稚園に上がる前からの、亜美の地の性格。甘ったれでわがままで横暴、典型的なわがままお姫様《ひめさま》」
竜児《りゅうじ》は親友の顔を見つめたままわなわな震え、掴《つか》み締《し》めた観葉《かんよう》植物のはっぱをそのまま握りつぶしそうになる。
「な、なんて性格が悪いんだ……なにが『亜美ちゃん』だよ! こええよ! 悪魔《あくま》が乗り移っているとしか思えねえ!」
「……だろ?」
これまでの人生で、あんな物言いをする女子を見たことはない。……いや、クラスにもいるのかもしれないが、少なくとも基本的に女子と接近することのない竜児《りゅうじ》の目には入ったことがないの唯一《ゆいいつ》日常生活をともに過ごす大河《たいが》は確《たし》かに相当性格が悪いが、亜美《あみ》の性格の悪さとはだいぶ方向性が違う気がする。バックボーンを知ってしまった判官《はんがん》びいきもあるかもしれないが、大河の方がまだマシだとさえ思える。
「亜美は外面《そとづら》だけはいいんだけど、どうにもこうにも……やや、人格に難《なん》があってなあ。『こいつはどうでもいいや』って思う相手の前では、地《じ》の性格が出てしまう。そういう相手って、大概《たいがい》は同性なんだけど」
「……や、やっぱりモデルなんかをやるような女は、あれぐらい性格が悪くないとやっていけねえってことなのか……?」
「むしろ問題は、モデルを始めてから身に着けたあの外面だと俺《おれ》は思うんだが。俺としては裏表なく、いつもああならそれでいい」
「それはそれで……どうだろう」
親友の言葉に軽く首をひねり、竜児はしかし、とさらに身を乗り出す。
どうしたんだ、手乗りタイガー。
「大河の奴《やつ》、あんなこと言われっぱなしでいいのか!?」
というか、早く俺はヤンキーではないと言ってくれ――クッ、と唇《くちぴる》を噛《か》み締《し》め、凶悪に両目をギラギラ光らせ、竜児は二人の美少女を交互に眺める。大河は黙《だま》ったまま、静かな表情を湛《たた》えている。
「あ、あいつ、もしかして奴が北村《きたむら》の幼馴染《おさななじみ》だからって遠慮《えんりょ》してるのか」
遠慮なんて二文字は逢坂《あいさか》大河には最も不似合いな言葉であったが、北村に対してだけはどうにもこうにも弱いのだ。きっとそうに違いない、それ以外に大河が黙《だま》っている理由が見つからない、そう納得《なっとく》しかけたその瞬間《しゅんかん》。
なにもそこまで、という光景が竜児の視界に炸裂《さくれつ》した。それは一般用語では、いわゆる『ビンタ』と呼ばれる技だ。
「……っ」
頬《ほお》をおさえて目を見開く亜美は、もはや言葉も出ないらしい。
「蚊《か》、よ。蚊がいたの」
その傍《かたわ》ら、瞬間的に牙《きば》を剥《む》いた虎《とら》が薄《うす》く笑う。その口元から、赤い舌が一瞬だけ覗《のぞ》く
「よかったわねえ、売り物のほっぺたが蚊に食われるところだった。あら、これ蝿《はえ》だ」
「ひえっ」
グイ、と開いて見せた小さなおててには、無残に散った小蝿《こばえ》の死骸《しがい》。それを見た亜美《あみ》の顔が、見る見る朱色《しゅいろ》に染《そ》まっていく。それは当然の、
「なっ、なっ、なんてことすんのよっ!?」
激昂《げっこう》だった。が、ハン、と大河《たいが》はそのザマを鼻先でせせら笑い、
「好意でしてやったのに。恩ってモンを知らない女」
「好意ぃぃぃいいいぃぃぃいい!?」
亜美の声はもはや超音波に近い。その騒《さわ》ぎに、周囲の客も気付きだす。
「ンなわけないでしょ!? あんたどうかしてんじゃないの!? 信じらんない、なによこれ最低、最低、最っっ低っっっ! だからこんなとこ、来たくなんかなかったのよっ!」
「……うるさいなあ」
大河の眉間《みけん》に、ついに一筋のしわが寄る。輝《かがや》く両目は物騒《ぶっそう》に眇《すが》められ、血色《ちいろ》のオーラが立ち上る。チッ、と零《こぼ》れた舌打ちにも、悪意の弾丸は装填《そうてん》済《ず》みだ。
「黙《だま》れ、クソガキ」
大上段から斬《き》りつける鋭《するど》さで吐き捨てられた侮蔑《ぶべつ》の言葉に、ついに亜美の声が止《や》んだ。――勝負ありだ。
「……う、……うっ、うっ……」
亜美の細い肩が、荒い呼吸に震《ふる》え始める。愛らしい顔がきゅっと歪《ゆが》み、「ああ、これはだめだ」……一言|呟《つぶや》いて立ち上がった北村《きたむら》に続き、竜児《りゅうじ》も気まずすぎる席へ急ぎ足で戻る。
そして男二人が到着したその瞬間《しゅんかん》、
「ゆ、」
少女|漫画《まんが》のように、振り向いた亜美の背後《はいご》に大満開の花が咲いた――気がした。それほどまでに亜美は華麗《かれい》に、ドラマチックに、
「ゆうさくぅぅぅ〜〜〜っ! ふえええ〜〜〜ん!」
涙を流しながら北村の胸に飛び込んだのだった。
華奢《きゃしゃ》な肩を涙に震わせ、言葉にならない言葉で「あたし、もう帰りたい」と子供のように舌ったらずに訴え、大粒の涙に濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》で至近|距離《きょり》から北村を見上げる。
「あーあーあーあー……なんで仲良くできないんだよおまえは。まったく……騒《さわ》がしくして悪かったな、逢坂《あいさか》。高須《たかす》も。俺《おれ》、こいつ連れて帰るわ」
頭を下げ、眉《まゆ》を下げ、申《もう》し訳《わけ》ない、と全身で表現しながら、北村は亜美を抱き止めたまま器用にバッグを席から拾い上げた。そして店中の注目をものともせず、そのまま亜美を引きずって退場。
あとに残されたのは、
「……た、……大河……?」
「……」
「……おい、気を確《たし》かに!」
勝負に勝って試合に負けた、と顔中に書いてある大河《たいが》。
大河はわずかに唇《くちびる》を尖《とが》らせ、しかし両目は鈍《にぶ》く据《す》わらせ、まるで大仏のようにむぅぅん……と黙《だま》り込んでいる。慰《なぐさ》める言葉も見当たらない展開とはこのことかも知れない。
「ま、その……あれだ。元気出せって」
「……」
「簡単《かんたん》に言えば、俺《おれ》と北村《きたむら》はすべてを見ていた。なにもおまえが一方的に川嶋《かわしま》亜美《あみ》をいじめたなんて、絶対北村は思ってないぞ」
「……じゃあ、全部見てた上で、納得《なっとく》ずくで、北村くんはあの女をかばって連れて帰ったんだ」
「……かばってはいないだろ」
「……優《やさ》しく抱きしめて、慰《なぐさ》めて、」
「……抱きしめでもいないと思う、けど……おぅ!」
ウエイトレスの悲鳴と同時にガラスの割れる音。下げた皿は床《ゆか》に落ちて粉々に砕け、さっきまで騒《さわ》いでいたどこぞのガキはなにかを感じ取ったか「ぎゃーん!」唐突《とうとつ》に泣き叫び始める。ドブゥバシュッ! とドリンクバーのミルクスチーマーは突然|壊《こわ》れて煙を噴《ふ》き出し、「きゃー!」「うわー!」並んでいた客は煮えたぎったミルクの雫《しずく》に散り散りになり、「店長! トイレが詰まってます……うわあああっ!」……なにがあったか知りたくない店員の声が響《ひび》いて消え――
「……嫌い、あの女!」
――大河の全身からは、稲妻《いなずま》にも似た殺気《さっき》が青い火花を散らしつつ、バチバチと凄《すさ》まじい勢いで大放出中なのだった。竜児《りゅうじ》はもはや手も出せない。噛《か》み締《し》めた大河の唇はほとんど色を失い、握り締めた拳《こぶし》はぶるぶると震《ふる》え、そして、
「わっ! 泣くな!」
「……っ」
せめて北村がいた時なら新しい展開もあったものを。今になって大河の目には、透《す》き通った涙が滲《にじ》み始めるのだ。
「人目があるぞ、こらえろ!」
「うう……」
悔《くや》しげに呻《うめ》いて、大河は服の袖《そで》で目を擦《こす》る。大変なことになってしまった。頭を抱えたくなる竜児の耳に、そのとき福音《ふくいん》が授けられる。
「あり? どしたの?」
「……みのりん……」
一体どこにいたのやら、ウエイトレス姿の実乃梨《みのり》が今になって現れたのだ。きょとん、と目を丸くして、
「大河《たいが》、機嫌《きげん》悪いじゃん。なにかあった?」
「……なんでもない。……手、洗ってくる。汚いモノに触ったから」
「わーお、蝿殺《はえごろ》しだ」
手のひらを見せつつ立ち上がった大河に道を譲《ゆず》ってやる。実乃梨《みのり》はそうして大河の背中をしばらく見送ってから、おもむろに竜児《りゅうじ》の方へ向き直る。
「……あの子、どうしたの? 私が休憩《きゅうけい》入ってる間になにがあったの?」
「……いや……まあ、ちょっとトラブルが」
口ごもったのはなにも緊張《きんちょう》のせいだけではなく、今の出来事をどう説明したらいいのか迷ったせいでもあった。しかし、どうしてよりにもよってこのタイミングで休憩に入っているのだろう。神がかったマイペースさを保つ実乃梨は「ふむ」と思案顔、
「なにがあったかわからんが、あれは相当怒ってるねえ。……おとなしい大河にしては珍しく」
「おっ、……おとなしい!?」
なぜだろう。
それがこの日一日で、竜児がもっとも恐怖を感じた瞬間《しゅんかん》だった。
***
それでも買い物を終えて高須《たかす》家《け》に戻り、竜児が米を研《と》ぎ始める頃《ころ》には大河の機嫌は回復しつつあったのだ。
「……二度と会うこともないだろうし。北村《きたむら》くんと付き合ってるわけでもなさそうだし。それになにより、あんなの相手にする方が下らないんだ」
「二合でいいよな? 二合半|炊《た》いとくか?」
「二合半」
顔つきはいまだぶすっと膨《ふく》れたままではあったが、台所の隅で砂糖《さとう》のツボをいじくりつつ大河は言う。
「……ここは私が大人《おとな》になって、この憎しみをぐっと飲み込んでやることにするわよ」
「ビンタまでした奴《やつ》が言うセリフか? ……おい、砂糖いじるなって」
「……」
「砂糖ツボの匙《さじ》を舐《な》めるなって!」
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2
次の衝撃《しょうげき》は、連休明けの爽《さわ》やかな朝に訪れた。
時間は朝八時ちょっと過ぎ。
いつもよりも早めに現れた担任、早めに始まるホームルーム、
「おぅっ……」
――地獄《じごく》の釜《かま》が開いた、とか。
これはおそらくそういう言葉で呼ばれるべき状況なのだろう。叫び出しそうになった口元を押さえ、竜児《りゅうじ》は我《わ》が目を疑った。信じがたい、いや、信じたくない。しかしこれは、どうやら夢ではない。
振り返って北村《きたむら》に口パク、「聞いてねえぞ」と早口で告《つ》げるが、北村は平気な顔をして「よう」とのんきに手を上げて見せる。
とにかく、もはや現実は覆《くつがえ》しようがないのだ。
竜児は半ば凍《こお》りつき、通常の三倍目つきを悪くして、おっぴらいてしまった地獄の釜の内部の様子《ようす》をあるがままに飲み込むしかなかった。
それは教壇《きょうだん》に上がる細い足で、歩くたび揺《ゆ》れる綺麗《きれい》な髪。
少し恥《は》ずかしげに正面を向き、朝の柔らかな日差しの中で微笑《ほほえ》みは眩《まばゆ》く溶けるよう。やがてゆっくりと瞳《ひとみ》を上げて――
「今日《きょう》からこちらの学校に転入してきました、川嶋《かわしま》亜美《あみ》です、よろしくお願《ねが》いします」
――清らかに純粋にいい感じに、満開の外づら仮面。
そんなバカな。
「……なんで、こんな、ことに……」
呻《うめ》く声に気がつく者など誰《だれ》もいない。なにしろ教室中が真っ白状態の竜児を置き去りに、
「えっ、えっ、あの子って、雑誌に載《の》ってなかった!?」
「そうだっけ!? なんだっけ!? でも、かわいいー!」
やだやだうそうそやばーいこれやばーい……主にミーハーな女子の声で、賑《にぎ》やかに大盛り上がり中なのだ。一方男どもは一様におどおどと挙動《きょどう》不審《ふしん》、奇妙なほどに押《お》し黙《だま》って、ただ壇上の清らかな天使を灼熱《しゃくねつ》の眼でうっとり見上げる。斜め前の席に座る友人・能登《のと》久光《ひさみつ》に至っては、ゆっくりと黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》の顔をこちらに向けて、
「大・当・た・り……!」
心から嬉《うれ》しそうに熱《あつ》く囁《ささや》き、拳《こぶし》をグッと握って見せてくる。
「……あ、ああ……」
それに暖味《あいまい》に頷《うなず》いて、しかし拳《こぶし》を握る代わりに、竜児《りゅうじ》は苦《にが》い唾《つば》を飲む。
壇上《だんじょう》の亜美《あみ》は美しかった。昨日《きのう》よりももっとなめらかなたまご色の肌に、昨日よりももっと強く輝《かがや》く、宝石みたいな大きな瞳《ひとみ》。唇《くちびる》の微笑《ほほえ》みを絶やさずに、彼女は小首をかしげてクラスを見下ろしている。幼く見えるのはきっと顎《あご》が小さいせいで、しかしスタイルは黄金の八頭身。現実味さえないほどに、亜美は絶好調《ぜっこうちょう》に美少女だ。竜児の頭痛も絶好調だ。
そっと首をめぐらせて中央付近の席に目をやる。そこにはおそらく今一番、内心絶好調に動揺《どうよう》しているはずの奴《やつ》が座っている。そいつの名前は、大河《たいが》という。
見た。
そして、
「……おぅ……」
すぐに目線《めせん》を戻す。見てはいけないツラであった。
眉《まゆ》はほぼ垂直に釣り上がり、両の瞳はどろりと滾《たぎ》る溶岩流に蕩《とろ》けて潤《うる》む。薔薇《ばら》の花そっくりな唇はわなわな震《ふる》えて禍々《まがまが》しくめくれ上がり、我慢ならない現実世界に暴発《ぼうはつ》寸前の怒りのためか、頬《ほお》は爆弾《ばくだん》を含んだみたいに不吉なふくらみを噛《か》んでいて――身体《からだ》の弱い奴ならば目が合っただけで死ねそうだ。
そして亜美も、見下ろした教室の中でリアルな殺気《さっき》を放ちまくる大河の存在に気が付いたのだろう。ピクリ、と一瞬《いっしゅん》、わずかに眉を上げる。だが、さすがは見られるプロ。
「みなさん! 亜美、って呼んでくださいね!」
パーフェクトに見なかったフリを決め、にっこりと愛らしい笑《え》みに目を細めて見せた。しかしそれだけで十分に、竜児にとっては恐ろしい。女って奴は、みんなこうか? ゾクゾクとおもーい寒気が走り、思わず開けていた学ランの釦《ぼたん》を留《と》める。
「みなさん! 新しい仲間と、仲良くできるよね! さー拍手!」
パラパラとした拍手の中、妙に朗々とした声を張り上げるのは独身でおなじみ、担任の|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり(29)だ。亜美の肩を馴《な》れ馴れしく抱き寄せ、「みんないいこだから、すぐに馴染《なじ》めるわよ!」グッ、とガッツポーズを作ってみせる。……休み中になにがあったのか、随分キャラを変えてきたようだ。以前は全身モテ系ピンクの愛されファッションで揃《そろ》えていたのだが、今はラフなジャージにパーカーという姿で、
「さあ、新しい二年C組の始まりですよ〜!」
力強くサムズアップ。
「……ちっ」
不機嫌《ふきげん》オーラをむんむん発しながら下から睨《にら》み上げる大河の舌打ちにも、今日《きょう》の独身はくじけない。
「……舌打ちなんて、やめようね! 笑顔《えがお》で一日、気持ちよく過ごそうよ!」
「……ちっ」
「……せっかく川嶋《かわしま》さんという新しい仲間を迎えたんだから、今日《きょう》ぐらい、」
「……ちっ」
んうぐんうぐう――としか表現しきれない声を上げ、独身は唐突《とうとつ》に頭をかきむしった。そのままもんどり打つようにグルグル回転、がっくりと教卓に腕を突くとそのまま顔を伏せてしまう。
「ゆ、ゆりせんせ……?」
「あれ、大丈夫かよ……」
さすがに教室中がシーンと静寂《せいじゃく》に包まれ、傍《かたわ》らの亜美《あみ》も頬《ほお》を引きつらせて独身を見ている。
やがて独身が顔を上げたのは、たっぷり十五秒は経《た》ったあと。ぶるぶる小刻みに震《ふる》えつつ、半ば俯《うつむ》いたままで搾《しぼ》り出すように痛恨のプライベートを披露《ひろう》する。
「……せんせえはっ、この休みの間にっ、最後の弾を……最後っぽい、弾をっ、……撃《う》ち損じましたぁ……っ! だから頑張らなきゃ、仕事頑張らなきゃいけない、でも、でも……いいの! 誰《だれ》にもわかんなくていいの! あ、あなたたちにも、きっと十年ぐらいしたらわかると思うからぁぁ……っ! 北村《きたむら》くんっ、どーぞ!」
「では」
すっ、とご指名を受けて北村は立ち上がり、ぐるりとクラスを見回して言う。
「みんな、聞いてくれ。実は亜美は俺《おれ》の幼馴染《おさななじみ》でもある。まさか同じクラスに転入してくるとは思わなかったが、まあ仲良くしてやってください。では朝のホームルームは以上! 起立! 礼!」
もうやだあ〜――独身の悲痛な呻《うめ》き声は、爆発《ばくはつ》したみたいな教室の喧騒《けんそう》に溶けて消えた。
***
「かっ、川嶋さん、こんなの俺《おれ》が運ぼうか!?」
「いや、俺が運ぶよ!」
「僕が運んであげます、ぜひぜひ!」
「いやいやこの俺が! っていうか、こんなの野郎に任せて座ってなよ!」
教室に机と椅子《いす》を運び入れようとする亜美の周囲には、あっという間に男たちの人垣ができた。シャイな奴《やつ》らはうらやましそうに、離《はな》れた場所からその人垣を眺めている。なんとかお近づきになりたいのはみんな一緒《いっしょ》、ここにいるかそこにいるかは単に行動力の差だ。
「いいのいいの! 自分でこれぐらいできるから! あたし、結構力もちなんだよ!」
亜美はしかし誰にも頼らず、よいしょ! と細い腕で机を持ち上げて見せる。
「あっ、危ないよ!」
「川嶋《かわしま》さん、俺《おれ》たちが!」
「いいっていいって大丈夫!」
手を出したがる奴《やつ》らの間を縫《ぬ》って一人でどんどん歩いてしまい、
「……ほらっ! ね? これぐらい軽い軽い!」
指定された場所に机と椅子《いす》を置いてにっこり朗《ほが》らかに天使の笑顔《えがお》。そうなってしまったら、もう男どもに声をかける口実はなくなった。名残《なごり》惜《お》しそうに、しかし「なにかあったら手伝うからね!」としっかり声をかけつつ立ち去る奴らと入れ替えに、今度は女子たちが亜美《あみ》に近寄る。
「えー、川嶋さん、それ自分で運んできたの? 男どもに頼んじゃえばよかったのに」
「そうだよそうだよ、っていうか、奴らみんな川嶋さんと話したくて必死って感じだもん。使ってやったら喜んだよ、きっと」
亜美は男子に向けていたよりもさらに明るい笑《え》みを女子に向け、ブンブンとおどけるように手を顔の前で振って見せた。
「大丈夫だよ〜、これぐらい軽いもん! ……ていうかね、ここだけの話、あたし結構男の子としゃべったりするの緊張《きんちょう》しちゃうタイプなんだあ」
「えっ、そうなの?」
「そうなの。それより、話しかけてくれてありがとう! 初めて女の子に話しかけてもらっちゃった、嬉《うれ》しいな! 亜美って呼び捨てにしてくれていいんだよ〜!」
気さくにそんなことを言って椅子に腰掛けようとし、
「いっ……たあ!」
机の脚に、脛《すね》をぶつけた。コミカルなほどに顔をくしゃくしゃにして亜美は大げさに痛がって、
「あ〜、もう! かっこ悪い! せっかく転校してきたから、今度こそオネエ系キャラで行こうって決めでたのに! 結局あたしって、お笑いタイプなのかも〜!」
その情《なさ》けない言い方に、女子たちは声を上げて笑い出した。
「川嶋さん……じゃなくて、亜美ちゃんて、もしかして結構ドジっこ?」
「なんか天然入ってるよねえ! も〜、せっかくかわいいのになんでそんなおもしろい顔しちゃうの!」
「おもしろいとか言わないでよ〜! オネエ系でいく計画なんだから〜!」
あははあははあははは〜――などと。
窓際《まどぎわ》の席で竜児《りゅうじ》は頬杖《ほおづえ》をつき、楽しげに盛り上がる亜美を囲む輪《わ》を声もないまま見つめていた。その日は珍しくも眼光を失って虚《うつ》ろ、こういうパターンの外面《そとづら》もあるのか、と。なんだか女性不信になりそうだ。
そんなことを思っていると、不意に亜美と目が合ってしまう。亜美は「あ」と口を半開きにし、そのままパチクリと大きな瞳《ひとみ》を瞬《まばた》かせた。大河《たいが》どころか竜児《りゅうじ》までもこのクラスにいたことに、今ようやく気が付いたのだろう。ほっそりした指で竜児を指し、
「え〜、うそだあ〜! 高須《たかす》くん、だよねえ?」
「……っ」
思わず、だ。
思わず聞こえないフリで、顔を背《そむ》けてしまった。まるで嫌《いや》なものでも見たかのように。とっさのことだったとは言え、あまりにも感じが悪すぎただろうか……しかし再び亜美の方を見るような勇気はない。このままわざとらしい無視を貫いて、女子たちの姦《かしま》しい声をやり過ごすことしか竜児にはできない。
「亜美《あみ》ちゃん、高須竜児と知り合いなの!? なんで!?」
「ええと、昨日《きのう》祐作《ゆうさく》とファミレスに行ったら偶然会ってあいさつしたんだけど……なんかあたし、嫌われてるみたい? みんなも見てたよね、今、ぷいってされちゃった……」
そっとひそめたつもり、なのだろう亜美の声は、しかしばっちりと竜児の耳に届いている。 いや、ひょっとしてあえて聞かせているのだろうか……亜美ならそれぐらいやりかねない、かもしれない。
「え〜、高須って無愛想な奴《やつ》だし、嫌ってるわけじゃないよ。照れてるんだよきっと〜」
「そうだよ、私らだって同じクラスになるまでは、高須っていつつも怖い顔してるから絶対すっごいヤンキーだと思ってて近づけなかったぐらいだもん」
――無愛想で悪かったな。窓の外をじっと見つめつつ、竜児の心はひそかに傷つく。
「高須くんって、不良なんじゃないの?」
「違うみたいだよ。一年生とか、他《ほか》のクラスの子はいまだにびびりまくりみたいだけど。だから亜美ちゃん、気にしなくて平気だって!」
「そうそう!」
「へえ……そ〜なんだあ……」
ふ〜ん……と首筋の辺《あた》りに、値踏みするような視線《しせん》。それはざわざわとうなじを撫《な》でて、耐えることのできないむず痺《がゆ》さを呼ぶ。聞こえないフリもできなくなって、ほんの一瞬《いっしゅん》だ。竜児はくすぐったい背中を捩《よじ》りつつ、ついつい亜美に視線を向けてしまった。
すると――亜美はふっ、とかすかに微笑《ほほえ》んで見せる。動揺《どうよう》のあまり、竜児の目つきは鋭《するど》い刃物の光を帯びる。
確《たし》かに一瞬だけながら、ぶつかった亜美の瞳には、滴《したた》るほどの水気が満ちていた。
すぐに女子たちの方へ笑顔《えがお》を向けて、彼女は輪《わ》の中に戻っていったのだが……あの、なんともいえない憂《うれ》いを含んだ眼差《まなざ》しはどうだ。網膜に焼きついてしまったように、記憶《きおく》から消え去ってはくれない。怒るでもなく、恨《うら》むでもなく、気遣《きづか》わしげに竜児を見た表情は今にも透《す》けてしまいそうに儚《はかな》かった。楽しげな人の輪の中にいてなお、亜美の瞳は静かな水面を映したみたいに静かに光を放っていた。まるで人知れず涙に濡《ぬ》れていたみたいで、声にはならない彼女の声が竜児《りゅうじ》の耳にも届いた気がする。『ねえ、どうしてそんなに冷たくするのかな……?』
「……い、いや、そんなつもりじゃなかっ……じゃ、ねえよ」
竜児はぶるぶると首を振り、透明な残像を脳裏《のうり》からかき消す。そうじゃないそうじゃない、そうじゃないだろう。
美しいことは恐ろしい、咋日《きのう》本性《ほんしょう》を目《ま》の当《あ》たりにしたはずなのに、危うく亜美《あみ》が本当に純粋な美少女に見えてしまうところだった。
気を取り直して立ち上がり、北村《きたむら》の席に竜児は向かう。このままでは昨日のできごとこそがまるっと夢だったのでは……などと思ってしまいかねない。現実を共有する証人と口をきかなくては。
「なあ北村……あれ、すっげえな」
声をかけながら軽く顎《あご》をしゃくって示してやると、北村も騒《さわ》がしい亜美たちの様子《ようす》を一瞥《いちべつ》し、苦笑交じりのため息をついた。
「ああ。さすが、人心を掌握《しょうあく》する術《すべ》を心得ているな」
「……なんで昨日、転校してくること言わなかったんだよ」
「あれ? 言わなかったっけ?」
「ごまかすなよ。すっげえ驚《おどろ》いたぞ、本当に」
北村の机に腰をかけ、竜児は低い声で親友を詰《なじ》る。その視線《しせん》はハンパないド迫力を秘めて北村を睨《にら》みつけていたが、もちろん北村はそれがわざとではないことを知っている。軽く頭を掻《か》いて笑い、
「いや、すまん。なんというか……俺《おれ》は亜美に、ありのままの性格で人とちゃんと付き合ってほしいと思ってるんだ。だから、昨日の時点で亜美には高須《たかす》たちが同じ高校になることは言わずにいたかった。言ってしまえば、亜美は完全に外面《そとづら》をかぶって適当にその場をごまかすことがわかってたからな」
「……十分、昨日のは外面だろ」
「逢坂《あいさか》に対しては、本性を見せた。だから高須も、それが見られた。だろ?」
「川嶋《かわしま》の本性をばらしたいのかよ。嫌われるだけだろ、それ」
「喧伝《けんでん》するつもりはないぞ、もちろん。そんな権利はないからな。でも、そうなればいいとは思ってる。『嘘《うそ》』よりはマシなはずだ、亜美としてもな。――それで嫌われるんなら、あいつだって納得《なっとく》するだろう」
「……納得するだろう、って……意味わからねえ」
「そうか? ふむ、わかりやすく言うとだな……」
北村は眼鏡《めがね》を外し、クリーナーで拭《ぬぐ》いながら意外なほど大きな目で竜児の顔をまっすぐに見上げた。
「俺《おれ》は、亜美《あみ》の本性が嫌いじゃないんだ。嘘《うそ》だってこれ以上つかせたくない。ありのままでいていいと思う。もっと言えば、今、こうやって外面《そとづら》で俺は接されていて、ちょっとがっくりきてもいる……モデルを始めたぐらいから、いきなり俺にもあのいいこ面《づら》をしだしたんだぞ、あいつは。……とにかく、本当の亜美を好《す》いてくれる人間が、もっと増えればいいのにと思う。って、ことだ」
理想に燃《も》える正義漢の目を見返して、竜児《りゅうじ》はなんとなく言葉を返せない。言ってやりたいのはただ一言だったのだが。
無理だろ、と。それだけ。
ジュースの自動|販売機《はんばいき》を使用できるのは昼休みだけと決められているが、うるさい教師に見つかりさえしなければいいのだ。特に二年生の教室は自動販売機のある別棟二階にほど近く、不正使用者は後を絶たない。
三時間目の数学が終わったところで竜児が小銭を持って教室を出たのも、校則違反の水分補給が目的だった。家から持ってきた常温のお茶もあるのだが、なにやら今日《きょう》はストレスフル。これぐらいの息抜きがなければとてもやってはいられない。
人気《ひとけ》のない廊下を急ぎ足、別棟の階段踊り場に三台並んだ自動販売機の前で立ち止まる。ブラックの缶コーヒーにするか、炭酸系《たんさんけい》にするか、みみっちく小銭を数えながら選定《せんてい》に入ったそのときだった。
「おさき!」
脇《わき》からすっと伸びた白い手が、竜児の手を遮るようにしてコインを投入口に放り込んだ。突然の割り込み行為に驚《おどろ》いて振り向き、
「……お……っ」
もっと驚いた。
「えへ、こんなところにあったんだあ、自販機」
天使のような無邪気な笑顔《えがお》が、至近|距離《きょり》で花開いている。
竜児を見上げて甘く微笑《ほほえ》むのは、ストレスの元凶《げんきょう》――亜美。小首をかしげて瞳《ひとみ》をキラキラと輝《かがや》かせつつ、
「高須《たかす》くんは、なにを買うつもりだったのかな。当ててみるね、うーん……これでしょ!」
幾種類もある見本の中から最もえげつないイラストのついたスタミナ飲料を選《えら》び、桜色《さくらいろ》の爪《つめ》の先で指して見せる。
「えっ!?……や……そのっ……コ、コーヒー、かな」
動揺《どうよう》のあまりみっともないほど上ずった声で答えると、亜美は「そっか」とひとつ頷《うなず》き、チョン、とコーヒーのボタンを押した。そうして音を立てて転がり出てきた缶を、竜児に向けて差し出してくる。
「はい。これはあたしのおごり。高須《たかす》くんが教室から出ていくのを見かけて、走って追いかけてきたんだよ」
「は? な、なんで?」
一体どういうことなのか理解できずに固まってしまい、あっさりと手の中に缶を押し込まれてしまう。亜美《あみ》は答えずに再びコインを投入、
「あたしはどうしよっかな……これかな?」
少し迷ってから、ストレートティーのボタンを押した。缶が落ちてくる音に我《われ》に返るが時すでに遅し、
「あっ、ちょっと待て! これ、これで買えよ!」
慌《あわ》てて竜児《りゅうじ》は小銭を差し出そうとするが、亜美はとっくにおつりの回収作業に入ってしまっている。そして顔を上げ、
「もう買っちゃったもん」
薄《うす》い舌をペロ、と出して見せていたずらな表情で眉《まゆ》を上げて見せた。
「いや、だめだ。そういうわけにはいかねえって。このコーヒー代、受け取れよ」
「だめだめ、いいのいいの! それはね、昨日《きのう》のお詫《わ》びだから」
「お詫びって……」
「ね、ここで飲んでいっちゃおうよ?」
そう言いながらさっさと缶のプルトップを開け、亜美は竜児の返事も開かずに校則違反の飲み物に口をつける。そうされてしまうと、さすがに転校初日の彼女を置いて先に戻るわけにもいかず、
「……昼休み以外に飲み物買うの、校則違反なんだぞ」
「そうなの? でも高須くんには言われたくないね、買いに来たのは高須くんだもん」
「……それもそうだ。ありがとう……いただきます」
竜児もコーヒーを飲み始めるしかない。二人して飲み物を飲んでいる間、静まり返った踊り場には自動|販売機《はんばいき》のモーター音だけがどこか陰気に低く響《ひび》く。気詰まりなのを隠《かく》すため、竜児は亜美を横目で見、先に口を離《はな》すことができない。なにをしゃべったらいいのかわからないのだ。そしてこういうときに限って、他《ほか》の生徒も厳《きび》しい教師も絶対に現れてくれたりはしない。
「ふう……冷たい。よく冷えてておいしー」
濡《ぬ》れた口元を指先で拭《ぬぐ》いつつ、口火を切ったのは亜美。竜児の隣《となり》に並ぶように自動販売機によりかかり、
「それにしてもびっくりしたよ、高須くんまで同じクラスにいるなんて。逢坂《あいさか》さんもいるし……祐作《ゆうさく》、昨日はなんにも言ってくれないんだもんなあ」
ねえ、と微笑《ほはえ》みかけてくる。しかし竜児は曖昧《あいまい》に頷《うなず》き、引きつった表情を返すことしかできない。もちろん目つきも荒《すさ》んでしまう。亜美《あみ》の本性《ほんしょう》はさておいても、さして親しくない超美少女と二人きりでいること自体が竜児《りゅうじ》の身体《からだ》の自由度を奪っている。
だが亜美はそれをどう取ったのか、
「……ね、高須《たかす》くん」
竜児の傍《かたわ》らから身を起こし、真正面。柔らかに光る瞳《ひとみ》をそっと上げ、睫毛《まつげ》をかすかに震《ふる》わせながらかすれた声で囁《ささや》くのだ。
「……もしかして、逢坂《あいさか》さんになにか聞いたのかな……。どんなふうに言われてるとしてもあたしにはどうすることもできないけど……でも、あのね。昨日《きのう》のことは、忘れて欲しいんだ。これは……逢坂さんのためにも」
「きっ、……昨日の、ことって、なんだよ?」
向かいあってしまった緊張感《きんちょうかん》から必死に逃《のが》れようと竜児はあとずさり背中を自動|販売機《はんばいき》にめり込ませる勢いで押し付ける。亜美はそんな努力を無にするように、さらに半歩、踏み込んでくる。目つきの悪い自分のことなど、彼女は全然恐れていないのだ。そして昨日のことというのはつまり、ファミレス・ビンタ・大泣きの三題噺《さんだいばなし》のことなのだろうが――
「高須くんは、逢坂さんに……なにがあったって聞いたのかなあ?」
探るような亜美の瞳は、なんだかうるうるとCMのチワワのように潤《うる》み、今にも涙を零《こぼ》しそう。真っ白になった頭で必死に最善の回答を考え、悲しげな亜美の美貌《びぼう》を見ないように見ないように目を逸《そ》らし続け、
「い、いや……なにも聞いてねえけど」
騙《だま》されるまい、と重々しく呟《つぶや》く。目の前の手を差し伸べたくなるような儚《はかな》い天使はニセモノなんだ。自分にそう言い聞かせつつ、答えた返事も嘘《うそ》ではない。全部この目で見ていたのだから、大河《たいが》からはなにも聞いていないとも。
「……そう? なにか聞いたのかな、って思ったけど……勘違いだったかな。それなら話すけど……昨日のことはね、あたしが全部悪かったの。逢坂さんはね、すこしも悪くないの」
チワワの涙目を輝《かがや》かせたまま、亜美はそっと薄《うす》い目蓋《まぶた》を伏せる。
「多分《たぶん》ね、その……あたし、天然っぽいところがあるから、それが逢坂さんをイライラさせちゃったんだと思うんだ……。逢坂さん、お喋《しゃべ》りしてたら突然すごく感情的になって、よくわからないことで生意気とか、調子《ちょうし》に乗ってるとか、あれこれ言ってきて……あたし、パニックになっちゃったの。え? え? どうして? ってそればっかりで……それで……」
よくもまあ、ここまで自分に都合《つごう》のいい話をこんな表情をして言うもんだ――軽く寒気を覚えつつ竜児はほとんど感嘆、小さく息をついてしまう。それを遮るように、
「……だからね! 逢坂さんは、悪くないの!」
ふるふるふるっ、と亜美は首を振った。チワワの瞳をもっともっとキラキラうるうると輝かせ、
「あたしが……っ……あたしさえ、もっと……もっと、しっかりしてる子だったら……。だから、忘れてほしいの。その……実は……実はね、あんなふうに女の子に急に変なことを言われること、結構……あるんだ……だからね! あたしは、ぜんぜん気にしてなんかいないから! 大丈夫だから! あたし、がんばれるから!」
被害者は、あたしだから! ――と全身で亜美《あみ》が訴えたところで、チャイムが鳴り始めた。ほとんど呆然《ぼうぜん》と亜美|劇場《げきじょう》を観覧《かんらん》していた竜児《りゅうじ》は救われたように気分になって、
「かっ、鐘《かね》だ。教室に戻らねえと……ほら、全部飲んじゃえよ、それ。川嶋《かわしま》の言いたいことは全部わかったから」
ああ、わかったとも。亜美はつまりこんなところまで、自分は悪くないという自己|弁護《べんご》と、余計なことは言うなという口止めをしにきた訳《わけ》だ。
微妙な気持ちごと飲み下すように、竜児は一気にコーヒーを呷《あお》る。亜美は満足そうな笑《え》みに一瞬《いっしゅん》両目をつと細め、
「急がないと、授業に遅れちゃうね!」
同じく缶に残っていたアイスティーを「んっく、んっく」と一気飲み。ゴミ箱《ばこ》に缶を放り捨ててから並んで廊下を走り出し、
「……ね、高須《たかす》くん。今の、約束だからね? 他《ほか》の人にも言ったりしないでね? それから――昨日《きのう》は泣いちゃったりして、本当にごめんなさい」
亜美、ダメ押しのチワワ涙目。竜児はごまかすように何度も頷《うなず》いて見せ、
「わかった……わかったから。ほ、ほら、急ごうぜ」
どっと積《つ》もった疲れを振り払うように、亜美の先に立って走り続ける。そのせいで、竜児は見ることができなかったのだ。後をついて走っている亜美が「やっぱこいつ、チョロすぎじゃん」と鼻先で小さく笑っていたことを。
ただし気がついたとしても、それほど驚《おどろ》きもしなかったはずだが。
『なんでかわしまあみといっしょになってギリギリで教室に帰ってきたの』
教師が板書のために背を向けるのと同時。
隣《となり》の奴《やつ》からポイと竜児の机に放られたノートの切《き》れ端《はし》には、そんな文字がピンクのボールペンで記《しる》されていた。名前はないが、その神経質な筆跡には見覚えがある。
中央付近の席に目をやると、ビンゴ。むすっと不機嫌《ふきげん》そうに口をへの字にして、大河《たいが》も竜児の方へ視線《しせん》を向けていた。突き放すような冷たい目をして、へんじ、と大河は偉そうに口パクで囁《ささや》いてみせる。
返事もなにも、答えないといけない義務があるかよ――今さっきのできごとをどう書いていいかもわからないし、そもそもこいつらのいがみあいに巻き込まれたくもない。竜児は大河に見えるようにその紙切れをポケットにしまいこみ、教科書を手元に引き寄せた。返事なんかしないからな、という意思表示のつもりだ。
だが、視界の端《はし》で大河《たいが》がアンダースローのモーションに入ったような気が……
「……ひっ!」
……した時にはもう遅かった。遅かったのだが、助かった。
偶然、皮製のペンケースを手にしたまま、頭をかいていたのだ。そのペンケースには、びよよん――シャーペンがダーツよろしく突き刺さっている。本来ならそいつは、こめかみのど真ん中でびよよんとしなっていたはずで。大河と竜児《りゅうじ》の席の間に不幸にも並んだ四人の生徒は、皆一様に大きく仰《の》け反《ぞ》り、強張《こわば》った顔で鼻先をかすめた弾丸の行方《ゆくえ》を見つめている。
「な……っ……んてことを……っ」
殺す気だ。奴《やつ》は自分を、殺す気だ。大河はしかし平気な顔で「チッ、惜しい」……白け切った冷たい目をして、指を弾《はじ》いて竜児を見ている。
そんな大河を狂犬の目で睨《にら》み、返事なんか絶対にしない、と強く心に誓う。二重人格も乱暴《らんぼう》なのも、竜児にしてみればどっちもどっち。同じぐらいに迷惑《めいわく》だ。
大河が口パクで文句を言っているのがチラリと見えるが、相手にする気は毛頭ない。第一、亜美《あみ》にさっき言われたことを大河にそのまま伝えれば、陰険な争いに火を焚《た》きつけるような結果になるのは目に見えているのだから。
完全に無視を貫こうと決めて、教科書とノートでさりげなく机の端《はし》に防護《ぼうご》壁《へき》を築《きず》く。これで乱暴者の迷惑な攻撃《こうげき》を防ぎきってやるつもりだ。
だが、それから数分。再び教師の目を盗んで、今度は前の奴《やつ》から折りたたんだメモが机に落とされた。また大河か、とそれをそのまま捨ててしまおうとするが、
「……お……っ」
To たかすくん
From みのり
――そんな文字を見つけてしまい、ため息にも似た声が喉《のど》から漏《も》れてしまった。見れば、教室の逆サイド、廊下側の席の実乃梨《みのり》が「お〜い」とこちらに向けて小さく手を振っているではないか。
無言のまま必死に手を振り返し、竜児はそのメモを震《ふる》える指でそっと開く。破らないように……汚さないように……生まれて初めて、好きな女子から手紙をもらってしまった。こんな小さな紙切れだけど、それでもこれは一生の宝だ。今日《きょう》この日のこの時間のことを、おじいさんになってもずっと忘れずにいようと思う。
が。
『コラたかすくん! みのりは怒ってるよ!』
なんだこの書き出しは……竜児はゴク、と苦《にが》い唾《つば》を飲み下す。
『たいがに聞いたけど、たかすくんは転校生ちゃんとなにやらアヤシイらしいね!? 前に屋上で言ったはずだよ、もしもたいがを捨てたらそのときは……おしおきだべ〜! ※[#「ドクロマーク」]』
……と、これが前半部分だった。
初めて好きな相手がくれた手紙には、ドクロマークがついていた。そんな、と理不尽を噛《か》み殺しながら続いて後半部分。
『いちおういっておくけどね、あの転校生ちゃんはたしかにとってもかわいこちゃんだ。でもねえ、完璧《かんぺき》なものっていうのは、おもしろくないんだぜ? その証拠《しょうこ》に、いつもは貪欲《どんよく》なみのりんレーダー(かわいこちゃん捕捉用《ほそくよう》触手)が、今回はビタいち反応しないぜよ』
いや、結構、なかなかどうして……川嶋《かわしま》亜美《あみ》はおもしろいのだけれど……ある意味……というか……大河《たいが》の奴《やつ》、チクりやがった。乱暴《らんぼう》なだけではなく卑怯者《ひきょうもの》め。横目で大河を睨《にら》んでやるが、大河はツン、と冷たくそっぽを向き、完全無視の体《てい》。その背中から叩《たた》きつけるような「あんたが悪いのよ」オーラをむんむんに発している。
行き場のない腹立ちに乾いた唇《くちびる》を噛み締《し》めつつ、竜児《りゅうじ》はそれでも憤重な手つきでノートの端《はし》を綺麗《きれい》な真四角に切り取った。大河に抗議《こうぎ》をするのは後回し、とにかく実乃梨《みのり》に返事を書かなければ。
櫛枝《くしえだ》へ
高須《たかす》より
『別に転校生とあやしくなんかないし、そもそも大河ともなんでもない』
几帳面《きちょうめん》に整《ととの》った字でここまで書いてちょっと考え、
『ところで全然違う話で悪い。自分で自分のことを天然だという人間のことを、櫛枝はどう思う?』
……などと足してみた。なんとなく、尋《たず》ねてみたくなったのだ。それに始めに書いた一文だけではなんだか怒っているみたいだし、よく言うではないか。メールのやりとりをうまく続かせるポイントは、質問文を必ず入れることだと。メールじゃないけど。
張り裂けそうに高鳴る気持ちを強面《こわもて》に隠《かく》し、竜児は前の席の奴に返事のメモを渡した。教師が板書したり、教科書に目をやるたびにそのメモは少しずつ実乃梨へと回されていき――やがて数分の後に、無事彼女の手に渡る。
意味なく緊張《きんちょう》しながらメモを開く様子《ようす》をじっと見ていると、一体なにを思いついたのか、実乃梨はおもむろに竜児の方を向いて立ち上がった。教師は背を向けて長い板書に入っているが、竜児も、大河も、北村《きたむら》も、亜美も、それから他《ほか》の生徒たちも、みんな驚《おどろ》いた顔をして立った実乃梨をついつい見つめてしまう。
実乃梨は目を閉じ、礫《はりつけ》にされたキリストの如《ごと》く静かな表情でゆっくりゆっくり両手をあげていく。死んだようだった表情は、ゆっくりゆっくり笑顔《えがお》に近づいていく。ついに両手が頭上で大きく○を作った……と思えたその瞬間《しゅんかん》。
くわっ!
顔は険《けわ》しく歪《ゆが》んで叫《さけ》ぶように口を開け、両手はズバッと激《はげ》しくクロス。×マークを作っていた。
「え〜と、で、あるからしてえ……」
教師がこちらを振り返るのと同時、実乃梨《みのり》はなにごともなかった顔をしてさりげなく席に座っていた。生徒たちの頭の上には、統一意志からなる巨大なクエスチョンマークが浮かび上がって見えるよう。
あの×マークは、後半部分に対する返事だよな……と、竜児《りゅうじ》も竜児で首を小さくひねっていた。前半部分に×を出されたのでなければいいのだが。
そして思う。天然というのは、ああいう人のことを言うのだ。
***
亜美《あみ》ちゃんであんなに美人なのに、全然気取ってないし、話しやすいし、すっごくいい子だよねー!
……という意見がクラスのスタンダードになるまで、時間はそうはかからなかった。
転校初日の亜美の手助けをしてやろうとする奴《やつ》は多く、そして亜美はそんな取らの誰《だれ》に対しても嬉《うれ》しげに、「教えてくれるの? ありがとう!」「あっ、そうなんだ〜! よかった、手伝ってもらえて助かったよ〜!」「え〜、私こそ、みんなとお話できて嬉しい〜!」……笑顔《えがお》の仮面をがっちりかぶって、純粋すぎる天使の眩《まばゆ》さで満遍《まんべん》なく愛を振りまくのだ。
亜美《あみ》の本性《ほんしょう》を知っているのは北村《きたむら》に竜児《りゅうじ》、そして大河《たいが》の三人だが、北村は必要以上には干渉しないようにしているようだったし、竜児にしても、わざわざ亜美の二重人格ぶりを宣伝して回る必要性は感じなかった。これ以上|係《かか》わり合いになりたくなかったのだ。
そして大河は、
「……なんか飲むもん、ちょうだい」
不機嫌《ふきげん》そうにぶすったれた顔をして、竜児の向かいの席の椅子《いす》を不法占拠。
昼休みも半ば過ぎ、からっぽになった弁当箱《べんとうばこ》を返しに来て、飲み物もついでにたかるつもりなのだろう。
「あのなあ、弁当箱は洗って戻せっていつも言ってるだろ?」
「学校のスポンジは腐っててキモいからやだっていつも言ってるでしょ?」
「俺《おれ》のロッカーに新品のマイスポンジがストックされてるっていうのも言ってるだろ?」
「めんどくさいってのも言ってるでしょ? ……やだやだ、なにイライラしてるんだか」
むっ、ときつい眼差《まなざ》しを大河に向けつつ、
「思い当たることならあるだろ。……なんで櫛枝《くしえだ》に変なこと言うんだよ」
家から持ってきたお茶のボトルを大河に手渡してやったりしてしまうのだが。大河はコップになっている蓋《ふた》の部分を外してお茶《ちゃ》を注《そそ》ぎ、
「あんたが変なことしてるからよ。それから言ってなんかないもん。書いたんだもん。……ねえ、あんたどこから飲んだ?」
「……その、マークの辺《あた》り」
「万が一にでも同じ飲み口からは飲みたくないもんだわ」
細めた目で竜児を疑うようにジロジロと眺め回してから、
「……南無三《なむさん》!」
嫌味《いやみ》ったらしく大げさに目を閉じて、蓋のコップに口をつける。そこまで嫌なら拭《ふ》けばいいのに、そうせずに文句を言っているあたり、ただの八つ当たりなのだろう。というかそもそも、ひとつの皿に盛ったおかずをともに食いあう仲なのだ。とっくに唾液《だえき》の交換なんかすんでるんだよ――などと今言おうものなら、多分《たぶん》三秒で殺される。
「で。……なに話してたの。川嶋《かわしま》亜美と一緒《いっしょ》にどっか行ってたんでしょ」
「またその話かよ、しつこいぞ」
「あんたが答えないから!」
珍しく余裕のない顔をして大河は声を上げ、
「あわわわ……っ」
手に持ったままだったコップからお茶を机に零《こぼ》してしまう。
「竜児《りゅうじ》、ティッシュ!」
「ったくもう、なにやってんだよ本当に……」
あきれながら机を拭《ふ》き、竜児は長い息をついた。きゅっきゅっとまず濡《ぬ》れたところを、そしてざっと隅から隅まで。お茶《ちゃ》は汚れをよく落とすから。
こんなふうに大河《たいが》のドジに付き合わされるのはもう慣《な》れっこだ。しかし――亜美《あみ》とのいがみ合いにはもう関《かか》わりたくない。大河がこんなふうに苛立《いらだ》っているのも嫌《いや》だし、さっきの休み時間のように亜美が陰謀《いんぼう》めいたことをしかけてくるのももうたくさんなのだ。
「……大河、おまえさ、昨日《きのう》夕食の支度《したく》してるときなんて言ったよ?」
「え? ……マグロ、薄《うす》〜く切って、って……」
「そうじゃなくて。川嶋《かわしま》のこと。相手にするのも下らない、大人《おとな》になって勘弁してやるって言っただろ」
「あ。……言ってない。……うそ。言った」
「本当にその通りだと思うぞ。相手にしなければいいんだよ、おまえが。昨日のことは忘れて、あとは一切近づかない。普段《ふだん》どおりにやっていく。なにも再び会っちまったからって律儀《りちぎ》にむかつき返すこともねえだろ。別になにもされちゃいないんだから……今日《きょう》のところは」
「……うん……そうだけど……。……そう、だよね……」
低く唸《うな》って黙《だま》り込んだ大河の瞳《ひとみ》から、やっとほんのわずかだけ、尖《とが》った色が和《やわ》らいでいく。
多分《たぶん》これでもう大丈夫だろう。天下の手乗りタイガーとは言え、大河だってなにも好き好んで他人を嫌いまくっているわけでもないのだ。心《こころ》穏《おだ》やかにいられるなら、それに越したことはないはずだ。
「さあ、じゃあ弁当箱《べんとうばこ》を洗いに行こうぜ」
「……はあ? やだ」
「ばか言うな、この気温だぞ? おまえは腐りメシが入った弁当箱を再び使うことができるのか? 嫌じゃねえのか? 俺《おれ》は嫌だ。だから今洗う。おまえの弁当箱のことは知らねえ」
「なんでよ。私のも一緒《いっしょ》に洗ってくれればいいじゃない」
「手間の問題じゃねえ、これは心の問題だ。作ってもらったら洗って返す。気温が高い春夏は弁当箱は清潔《せいけつ》にする。注意一秒カビびっしり、腐敗菌には油断大敵! ……俺がこの世で愛してる菌は、乳酸菌《にゅうさんきん》・納豆菌・お口と腸の常在菌ぐらいのもんだ」
げぇー、と思いっきり顔をしかめる大河の手に弁当箱を無理やり戻し、さあ立てやれ立てとはやし立てる。そうしてようやく大河の尻《しり》を椅子《いす》から五センチほど剥《は》がすことができたそのとき、
「高須《たかす》くん! さっきは楽しかったね〜!」
……なんでだよ、と叫びたくなる。
「お、おお」
「また、ああやってゆっくりお話したいな」
女子の輪《わ》を抜けてきた亜美《あみ》が、わざわざこちらに歩み寄ってくるのだ。竜児《りゅうじ》に向かって軽く手を振り、惜しげもなく美しい笑顔《えがお》を満面に貼《は》り付けて。スラリと伸びた手足にシンプルな制服は犯罪級に似合いまくっているが、かわいいとか美人とか、竜児の中では彼女はそういう範疇《はんちゅう》を超えた存在になっている。二重人格という名の超越者だ。
……そのはず、だったのだが。
「……ねえ、あのさ……さっきの内緒《ないしょ》の話だけど」
「う、うん!?」
亜美は唐突《とうとつ》に急接近。一体なにを考えているのか細い身体をそっと屈め、竜児の耳元に唇を寄せてくるのだ。耳朶《じだ》をくすぐる吐息《といき》の温度に、竜児の毛穴は全開になる。そして甘くかすれる声で、
「……あの、例の件。本当に忘れてね……お願《ねが》いだよ?」
しっとりと零《こぼ》していくのはそんな囁《ささや》き。当の大河《たいが》がその目の前にいるというのに。氷点下に冷え切った眼差《まなざ》しで、亜美と竜児を声もないままじっ……と見つめているというのに。
そうして耳元から唇を離《はな》し、「えへ」――すこし悲しげな瞳《ひとみ》をして、健気《けなげ》に微笑《ほほえ》んで見せるのだ。そして静かに大河に向ける、痛ましそうな、哀《あわ》れむような慈愛《じあい》に満ちた眼差し。長い睫毛《まつげ》が淡い影《かげ》を頬《ほお》に落とし、竜児は思わず陶然《とうぜん》と見入って――
「……授業の準備、しなきゃ」
大河の声で我《われ》に返った。いけない、またうっとり……いや、うっかり騙《だま》されていたではないか。
竜児を現実世界に引き戻した大河は、ばむっ、と思い切り弁当箱《べんとうばこ》を竜児の胸に放って返し、席を立ち上がる。とりあえず争いは避けられた、と竜児が息をついたのも一瞬《いっしゅん》。よせばいいものを、亜美は大河を追いかけていくのだ。「ねえ」などと声をかけられ、大河の髪が比喩《ひゆ》ではなしに、本当にぶわっと一瞬|膨《ふく》らむ。
「びっくりだなあ……まさか同じクラスになるなんてえ。で、これは今日《きょう》の午前中を終えての感想なんだけどお……逢坂《あいさか》さんてえ、高須《たかす》くん以外のお友達、いないのお?」
「……黙《だま》れクソガキ、また泣かされたい?」
――刃《やいば》が交差したのは、一瞬。
誰も――竜児以外は誰も気づかぬ一瞬の対峙《たいじ》、睨《にら》み合いもその一瞬のうちに。
二人はすぐにお互い顔を背《そむ》けあい、真逆《まぎゃく》の方向へ歩き出した。こんなもんですむのならいいけれど……竜児はゾク、と背を駆《か》けた嫌《いや》な予感に気づかぬ振り。
だがこのとき、二人はすでに互いに敵とはっきり認識《にんしき》しあい、導火線《どうかせん》にはとっくに火が放たれていたのだ。
3
表面上は何事もないまま、数日が穏《おだ》やかに過ぎていった。
大河《たいが》は相変わらず微妙にピリピリはしていたものの、亜美《あみ》に対しては完全無視を貫き、亜美もまた新しい友達に良い外面《そとづら》を見せるのに必死なのか、大河にケンカを売るような真似《まね》はしなかった。竜児《りゅうじ》にも時折チワワの瞳《ひとみ》を向けるぐらいで、あえて絡《から》んでくることもなかった。
とはいえ、お互いにとって気に食わない奴《やつ》が同じ教室にいるのだ。すれ違うとき、声が聞こえたとき、偶然のニアミス――静かな睨《にら》み合いや数秒の攻防がまったくなかったわけでもない。しかしそれでも大河と亜美が直接に言葉を交《か》わすことは、この数日間、竜児が見ている限り一度もなかったはずだ。
どうかこのまま、無事に一年間……いや、卒業までいって欲しい。そんな竜児の小さな願《ねが》いを粉々に粉砕《ふんさい》するできごとが起きたのは、衣替《ころもが》えも間近な五月の後半のことだった。
「高須《たかす》〜! これから暇《ひま》!? 超いい話があるんだけど!」
ホームルームも終わり、学校から解放された遅い午後。
黒いフレームの眼鏡《めがね》を光らせ、癖毛風《くせげふう》にアレンジした髪の毛先を指先でいじりつつ、能登《のと》が喜色《きしょく》満面《まんめん》で竜児の席までやってきた。
「なんと今日《きょう》、春田《はるた》が陸上部の一年女子、三人セットで紹介してくれるって! 行くだろ当然!」
「……いや、パスだ。ちょっと用事があって。それに俺《おれ》が行っても、どうせ『こわい人が一人いた』で終わりだろ。それかその場で逃げられて終わりか」
「んなことねえって! 俺と春田が一緒《いっしょ》だし、ばっちりフォローするもん! なあなあ行こうぜ、駅前のマックで待ち合わせ!」
よっぽど嬉《うれ》しいのか、能登はおおはしゃぎの満面の笑《え》みで竜児の肩にかじりつき、ぴょんぴょんアホのように跳《は》ねまくっている。だが竜児はその手をあっさり外し、
「本当に用事があるんだよ。ほら、あそこ見てみろ」
教室の戸口の辺《あた》りを指差して見せるのだ。そこには、
「……げ、手乗りタイガー。こ、こわ……」
腕を組んで仁王立《におうだ》ち、気づかずに通ろうとする奴らをもれなくビビらせつつ、大河が竜児を睨みつけていた。眉間《みけん》に寄ったシワからは、無言の圧力――早く来い、と。
「頼まれごとしてるんだよ、あいつに。そういうわけだから、今日《きょう》はパス。悪いな」
「え〜、なんだよ……つまんねえの。しゃあない、三対二で勝負かけてくるか。手乗りタイガー相手じゃなんも言えんわ」
諦《あきら》めて能登《のと》は踵《きびす》を返しかけるが、
「……っていうかさ、高須《たかす》」
不意にもう一度振り向いて、妙に思案深げに呟《つぶや》く。
「手乗りタイガーもいいけど……まあ、超美少女ではあるし、くっついてるの見ると正直ちょっといいな〜と思うときもあるんだけどね。でも、おまえは幸せになれないと思うよ? 机と椅子《いす》を三個ずつ重ねて、教室の隅から隅までブン投げるような猛者《もさ》とじゃさ」
机と椅子、の云々《うんぬん》は、先月の『私と竜児《りゅうじ》は付き合ってなんかねえの乱』のことを言っているのだろうが。
「……なんで大河《たいが》と幸せになんなきゃいけねえんだよ。そんな気はもともとねえって」
「まあいいけどさ、おまえがそう言うならね。でも、一応アドバイスな。他《ほか》の、普通にかわいい女子と、ちゃんと一回付き合ってみた方がいいんじゃないの? なにも川嶋《かわしま》ちゃんみたいなスーパーウルトラハイクオリティギャルと付き合えとは言わないから、せめて虎《とら》じゃない女の子とさ」
「それができりゃ苦労はねえだろ」
「まあまあ、とにかく『目を向けてみろ』 ってことだよ。このままじゃおまえ、一生手乗りタイガーのお世話で誰《だれ》とも恋愛できなくなるぞ? そんじゃ、また明日《あした》な!」
勝手なことを言うだけ言って、能登は足取りも軽く教室から出ていってしまった。他の普通にかわいい女子、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》に竜児が寄せる想《おも》いにも気づかないまま。
というか、失礼な――一生大河の世話を見てやる気なんかもちろんない。良きときに良き女子と、できれば実乃梨と、ちゃんと幸せになるつもりでいるというんだ。
「ちょっと竜児! すぐ行くすぐ行くって、あんたの世界の『すぐ』ってのは一体何万時間なのよ!? それともなに、あんたの時間軸はゆったり穏《おだ》やかに進んでいくって!? なにそのロハス気取り! はん……ロハス! けっ!」
「……はいはいはいはい……」
地団太《じだんだ》を踏む勢いの喚《わめ》き声に肩をすくめ、竜児は従順な駆《か》け足で大河のもとへ。そしてほとんど引きずられるように廊下へグイグイ連れていかれ、
「ほらこれ見てよ! も〜最悪よ、どうしよう!?」
「こ、これは……!」
大河が指差す光景に、心胆《しんたん》寒からしめられる。なんという地獄《じごく》だ……。
廊下には生徒のロッカーがずらりと並べられているのだが、その一番左端、開け放たれた大河のロッカーの内部には甘いいちご牛乳がめちゃくちゃにぶっかけられて、ジャージも教科書・辞書の類《たぐい》も、薄《うす》ピンクのミルキーな汁気にびしゃびしゃ状態になっているのだ。
犯人は亜美《あみ》……とかではもちろんなくて、
「なんでこんなことになるんだよ、信じられねえ!」
「わざとじゃない! しょうがないの!」
……自分でやったのだ、この歴史に残るドジ娘が。
大河《たいが》は帰り支度《じたく》をしようとして、いちご牛乳をちゅうちゅう吸いつつロッカーに向かった。そして戸を開き、必要のない教科書を置き勉して帰ろうとし――コケた。いちご牛乳ごと、自分のロッカーに頭から突っ込んだのだ。
「これは……思ったより骨の折れる作業だな……!」
低く呟《つぶや》きつつ、しかし、竜児《りゅうじ》の両目にはギラギラと危ない光が宿り始める。ゾクゾクと背中を駆《か》けていくのは、ほとんど欲望に近い熟《ねつ》だ。
まず中身を全部出して……ジャージは持って帰って洗濯《せんたく》……教科書などはきっちり拭《ふ》いて乾かさないと臭《にお》いが残ってしまう……そして内部を隅から隅まで徹底的《てっていてき》に……徹底的に!
「綺麗《きれい》になるかな? これ」
「……ああ……なるとも……してやるとも……」
常にストックされているマイゴム手袋をぎゅっと嵌《は》め、竜児は生き生きと若い頬《ほお》に血を滾《たぎ》らせていた。なんだかんだ言ったところで、結局好きなのだ――掃除だとか、隅から隅までとか、徹底的にとか。一見破滅的なほどに終末状態の汚れモノを、この手で蘇《よみがえ》らせることに、なにより生きがいを感じてしまうのだ。その証拠《しょうこ》が、大河のマンションのアイランドキッチン。出会った頃《ころ》はカビだらけ、排水溝も詰まって異臭《いしゅう》を発していたドロドロシンクが、今では余裕で舐《な》め回せるほど完璧《かんぺき》に磨《みが》き上げられている。暇《ひま》を見ては拭いてやり、シンプルモダンなキッチン周りを綺麗に整理《せいり》整頓《せいとん》してやり、今ではこいつこそが世界で一番幸福なステンレス、と竜児は堂々、自負している。
そして次はおまえの番だ……うっとり危ない眼差《まなざ》しで、竜児は大河のロッカーを熱っぽく見上げた。しかも今回は、ただ清掃欲を満たされるだけではない。
「大河……約束だからな。例のアレ、必ずくれよ」
「わかってるわよ」
竜児大変、最悪なことしちゃった――そう言って掃除を頼んだ大河は、確《たし》かにはっきり約束したのだ。以前から竜児が狙《ねら》っていた、未開封のエルメスの大箱《おおばこ》……肉厚のブランドものバスタオルが二枚入っているはずのそれを、掃除の報酬にあげるから、と。
「うう、憧《あこが》れのエルメスのタオル……ミーハーとでもなんとでも言え、あのエルメスオレンジのタオルを俺《おれ》のタオル庫にしまえるのなら、俺はどんなそしりも受けて立っ! 前にインテリア雑誌で見て、憧れてたんだよ……マジで……」
「か、勝手にすれば……」
「言っておくけど、俺《おれ》はおまえんちのエジプト綿のリネン類も狙《ねら》っているからな。未開封のヤツ、いっぱいあっただろ。こないだクローゼット整理《せいり》させられたとき見たぞ……なんかあったら次はあれをくれ」
「あっそ……私、教室で待ってるから」
主婦感覚|爆発《ばくはつ》状態の竜児《りゅうじ》に付き合いきれなくなったのか、大河《たいが》は薄気味《うすきみ》悪《わる》そうに竜児を冷たく一瞥《いちべつ》、長い髪をひるがえして教室の中へ入っていってしまう。
そうなったらもう、ここは竜児の独壇場《どくだんじょう》だ。両目を獣《けもの》のようにギラつかせながら作業を始めようとし、いや、エプロンが必要かと自分のロッカーへひとまず向かう。
鼻歌まじりに常に清潔《せいけつ》さを保たれているロッカーから常備品のエプロンを取り出し、いそいそと身につけ――はた、と思った。
自分はこの作業のために、一年生女子との出会いを蹴《け》ったのか。
それって。それって……
「……そりゃ……蹴るだろ……普通……」
深く納得《なっとく》し、大きく頷《うなず》く。だって掃除《そうじ》が大好きだから。
自分でも呆《あき》れるほどに、竜児は清潔好きだから。
これは別に、大河の世話をして恋愛のチャンスを捨てているのではないのだ、絶対に。大河が汚したものを綺麗《きれい》にしてやっているだけ。大河は本当に信じられないような失敗をやらかすから、その後始末をしてやるだけ。日常的に傍《そば》にいて、すかさずフォローをしたいだけ。だから、違うのだ。
――このままじゃおまえ、一生手乗りタイガーのお世話で誰《だれ》とも恋愛できなくなるぞ?
能登《のと》の言ったことは、ニュアンスが大きく違っている。そうじゃなくて、そういう意味ではなくて、これから未来も大河の傍で掃除のチャンスを虎視《こし》耽々《たんたん》と狙いたい、と。そう思っているだけなのだ。大河の後を追っていれば、奴《やつ》は息をするようにドジをして、必ずなにかを汚すから。
そう自分を納得《なっとく》させ、まるで危ない中毒患者のように「はあはあ」と息を吐きながら、竜児は大河の荷物を出しにかかる。確《たし》かになにかの中毒には、自覚もないままかかっているのかもしれない。
掃除を始めてからそろそろ一時間――いや、もうちょっとか。他人《ひと》のロッカーに頭を突っ込んで大掃除を開始している竜児を奇異の目で見る奴《やつ》らもとっくにおらず、廊下は静まり返り、教室の中にもおそらく大河しか残っていない。
「あと少しで完璧《かんぺき》だ……」
漏《も》れた独《ひと》り言《ごと》が、狭い空間に反響《はんきょう》する。
掃除はすでに佳境《かきょう》、竜児はロッカーの中に完全に入り込んで、携えた綿棒で重箱《じゅうばこ》ならぬロッカーの隅をちまちまといじくり回していた。いちご牛乳の影響《えいきょう》とはもはや関係なさそうだが、汚れているモンは汚れているのだ。
と、廊下を歩く小さな足音が聞こえた。女子のようだ。人気《ひとけ》のない校舎でこんな自分を見つけたら、さぞかし驚《おどろ》かせてしまうだろう。竜児《りゅうじ》は気を回し、半ば閉じかけたロッカーの扉に身を完全に隠《かく》して息を詰めた。だが目の前を通り過ぎていった人物を数センチの隙間《すきま》から見てしまい、う、と思わず呻《うめ》きそうになる。
見間違えようのない美貌《びぼう》は、川嶋《かわしま》亜美《あみ》でしかありえない。しかも亜美は竜児の存在に気づかぬまま、大河《たいが》しか残っていないはずの教室の中に入っていく。
嫌《いや》な予感がする。ものすごくする。
ロッカーの怪人はそっと廊下に這《は》い出し、教室に入るべきかどうか迷いながらもとにかく窓から教室を覗《のぞ》いてみた。
「やぁだ……なんであんたが残ってんの? 超目障りなんですけどお〜」
……予想はぴったり当たりまくっていた。イヤミったらしく間延びした語尾。教科書を拭《ふ》いている大河に向ける、侮蔑《ぶべつ》の眼差《まなざ》し。嘲笑《ちょうしょう》に歪《ゆが》む唇《くちびる》。川嶋亜美さん(本物)、久しぶりのご登場だ。
大河は席に座ったまま、つ、と両目を細め、
「寄るなクソガキ」
感情を見せない平坦な声で亜美の言葉の先を封じる。
チラリと見上げるその眼差しに、亜美が狼狽《ろうばい》したのはしかし一瞬《いっしゅん》。「ふん」と大河から顔を背《そむ》け、ミス二重人格は言い放つ。
「きゃ〜、こっわ〜い! さっすが逢坂《あいさか》さんだぁ! 先生たちにまでうざがられてるわけよねぇ! いま亜美ちゃん、ずっと職員室《しょくいんしつ》で授業の質問してたんだけどお、もう先生方み〜んな亜美ちゃんはかわいいかわいい、よくぞこの学校に来てくれた、逢坂にいじめられてないかって、そればっかりの大連呼なんだも〜ん! みんなだよみんな、超〜笑える〜! うざいんですけどー! いくら亜美ちゃんがかわいいからって、そんなに言わなくてももう知ってるっつーの!」
「……へえ?」
大河は鼻先で亜美の言葉を笑い飛ばし、おもしろそうに薔薇《ばら》の唇に笑《え》みを乗せた。
「それはよかったじゃない。それじゃあ私はその気持ちの悪い二重人格がどこまで保《も》つか、せいぜい楽しく見させてもらおうっと。ああ、クラスが変わっても、卒業しても終わらないわよ? ずっと、近くで監視《かんし》しててあげる」
「……は?」
「ああ楽しみだ、あんたがいつボロを出すか。言っておくけど、あんたの本性《ほんしょう》を晒《さら》してやるのなんて、『簡単《かんたん》』なのよ。でもそれじゃあつまらないから、手を出さないでいてあげるの。ずっと眺めて、ずっとずっと楽しませてもらうわよ。ただ……口には気をつけた方がよさそうねえ。人生はまだ長いんだし……長く続けたいとあんたが思うなら、だけど」
低い声は歌うよう、一瞬《いっしゅん》にして教室を呪《のろ》いの空間に黒く染《そ》め上げる。だが竜児《りゅうじ》には分かるのだ。まだ大河《たいが》は、本気で怒ってはいない。これはただ、気に食わない奴《やつ》を爪《つめ》の先で嬲《なぶ》って楽しんでいるだけ……なぜなら両目は穏《おだ》やかなままだし、全身の力も抜けている。虎《とら》が怒れば、こんなもんではすまないのだ。爪と牙《きば》で獲物《えもの》を完全に引き裂くまで、攻撃《こうげき》の嵐《あらし》は止《や》まないはずだ。
そんな引《ひ》き際《ぎわ》を、亜美《あみ》が心得ているはずはないのだが。
「この……ストーカー!」
大河に言われたことがよほど嫌《いや》だったのだろう。
顔を歪《ゆが》めて嫌悪感《けんおかん》を丸出し、亜美は鋭《するど》く一言そう叫んでいた。陰険な攻防が繰《く》り広げられる教室に、一瞬|緊迫感《きんぱくかん》が満ちる。
そろそろ何気《なにげ》ないふりをして中に入っていくべきか、と竜児も息を飲むが、
「……ははっ! ほんと、あんたっていちいち気に障るチビだわ」
髪をかきあげ、気を取り直したのか亜美は再び笑顔《えがお》で攻撃に入った。
「そんなだからあんたって、友達いないんじゃない? 一人ぼっちの嫌われ者、か、わ、い、そ〜。同級生になるってわかってたら、あの初対面のときもいいこバージョンの超かわいい亜美ちゃんで話しかけてやったのになあ〜? 残念でしたあ、人気者の亜美ちゃんとお友達になれなくてえ〜。……ふふ、高須《たかす》竜児はすっかり亜美ちゃんに夢中みたいだけどねえ? あいつ、いっつも亜美ちゃんの方を見つめてなんかギラギラしてんの。超うざい、あんたから一言いってやってくんない?」
――などと言われては、教室になど入っていけるわけがなかった。というか、ギラギラってなんだよ……それはただ目つきが悪いだけだ。遺伝《いでん》だ、単に。
「勘違いできて幸せね。……ねえ、早く帰ってくれない? あんたの薄気味《うすきみ》悪《わる》いツラを見てると、なんだかゲロ吐きそうになってくる」
「言われなくても帰るっつーの、あんたみたいなクソチビと違って人気者の亜美ちゃんは忙しいの。……てゆうかあ……亜美ちゃん、あんたのこと気の毒に思うなあ? 亜美ちゃんが知ってる人間の中で、一番心が広い祐作《ゆうさく》にさえ、あんた嫌われてるんだもん」
「……なんですって?」
大河の声のトーンが、さらに低くなる。亜美に向けた大きな瞳《ひとみ》に、血の色にも似た輝《かがや》きが宿る。どうやら亜美は――地雷《じらい》を踏んだ。
「だってえ、あの初対面のときからあれえって思ってたんだけどお、祐作ね、あんたのこと、同級生だなんて一言も言わなかったのよねー……。『あの子ってなんなの?』って聞いても、別に〜とか言って、全然相手にしてないみたい。……てゆうかねえ、はっきり言っちゃうと、亜美ちゃんの敵は祐作の敵なの。ファミレスであんたにされたこと、ぜーんぶチクっておいたから、多分《たぶん》相当嫌われたと思うよ? 博愛《はくあい》主義者《しゅぎしゃ》の祐作《ゆうさく》にまで嫌われるなんて、あんた、かなり終わってる」
吐き捨てた。
そして、
「それじゃあ、また明日《あした》ね!」
鞄《かばん》を持ってにっこり! と振り向いたその美貌《びぼう》に、毒の欠片《かけら》も貼《は》り付いてはいない。そのまま彼女はるんるん♪と鼻歌つきで歩み去り、
「う、うわわ……っ」
竜児《りゅうじ》はとっさにダッシュ。ロッカーに危ういところで滑り込む。
なにも隠《かく》れなくてもよかったのだろうが――隠れてしまったものは仕方がない。完全に亜美《あみ》の足音が聞こえなくなるのを待って、そして恐々《こわごわ》廊下に踏み出し、
「た、……大《たい》、河《が》」
窓から大河の様子《ようす》を確《たし》かめた。
残された大河は竜児に背を向け、ゆっくりと首をかしげていた。亜美に投げつけられた言葉の意味を考えているようだ。
あんた嫌われてるんだもん。
全然相手にしてないみたいだったし。
亜美ちゃんの敵は祐作の敵なの。
多分相当嫌われたと思うよ。
かなり終わってる。
「う、う、う、う……」
天を仰《あお》ぐ。
声にならない声で呻《うめ》く。
「……あ、の、ガ、キ……っ」
「おい、大河っ! 落ち着け!」
必死に声をかけると、大河は跳《は》ねるように振り返った。窓越しに竜児の姿を認めると一気に飛びつき、学ランの袖《そで》を掴《つか》んで至近|距離《きょり》。
「竜児ぃっ!」
「おう!」
大河のその目はもはや焦点も定まらず、ほとんどグルグルの渦巻き状態だ。
「竜児、竜児、竜児、竜児っ! 聞いてた!? ねえ、今の、聞いた!? 聞いた!? 聞いた!?…どう思うどう思う、あれって、あれって、あれって……ねえ、ほんとっ!? ほんとにっ!? 私、きらわれっ!?」
「ちょ、ちょっと落ち着けって! んなわけねえだろ、冷静に考えろよ!」
「だってでもあのガキ、わ、わ、わわわわわ私のこと、き、き、ききき、きた、きら……きぃぃぃっ!」
「……う、わあ……」
――倒れたくなる。
ついに大河《たいが》が、本気でキレた。手近な椅子《いす》を連続三個|乱暴《らんぼう》に蹴倒《けたお》し、大河は白い牙《きば》も剥《む》き出し、天に向かって低く吼《ほ》える。
「んぬぉぉおクソガキがぁぁっ! とりあえず、ブっっっっ……殺すっ!!」
「落ち着け! 早まるな、いいから深呼吸を」
「るせぇっ!」
「おう!」
巻き舌で怒鳴《どな》って竜児《りゅうじ》を主人の横暴さで突き飛ばし、大河はそのまま全速力で走り出した心外へ出て行った亜美《あみ》を追うつもりなのだろう。まずい、このままでは人死《ひとじ》にが出る。
扉へ向かった大河を諌《いさ》めようと竜児も同じ扉へ外側から走り、
「だめだ、行くな! 落ちつ……」
「――っ!」
ガン! と、凄《すさ》まじい音が。
竜児がドアを開け、大河もドアを開けた。お互いに反対側の戸をそれぞれに引いた。
そして大河はデコからまっしぐら、竜児が引いてしまった戸に激突《げきとつ》した。
あまりの出来事に、竜児《りゅうじ》は事態を確認《かくにん》して呆然《ぼうぜん》と息を飲む。大河《たいが》は酔っ払った猫のようにそのままフラフラ……っと二歩、三歩、後ろに歩き、
「……い……た……い……」
「大河っ!」
ほとんど悲鳴。
ゆっくりと仰向《あおむ》けに倒れる寸前の大河を、間一髪《かんいっぱつ》で支えてやる。
「すすすすまんっ! 大丈夫か!?」
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……だいじょうぶ……だい、じょ……」
これは本当にやばそうだ。罵倒《ばとう》する力さえ、大河には残ってはいないらしい。
***
「竜《りゅう》ちゃあん、大河ちゃんの部屋、電気も消えてるしカーテン閉まったままだよん」
髪をコテで巻きながら、泰子《やすこ》が素足《すあし》で台所に入ってくる。最後のトンカツを揚げ終えてしまい、竜児は眉《まゆ》をしかめた。
「マジで? ……揚げたてが一番うまいのに」
「う〜、おいしそ!……やっちゃんトンカツだいすきぃ」
親子は同じタイミングで、じゅうじゅうとおいしそうに音を立てている三人前のトンカツをじっと見つめる。顔こそあまり似ていないが、思うことはまったく同じ――早く食わないと冷めてしまう。
放課後《ほうかご》の事故以来、大河はずっと様子《ようす》がおかしかった。
ひどく額《ひたい》を打ったようだったが、流血や吐き気など心配な症状が出ることもなく、やがていつもの調子《ちょうし》を取り戻しはした。あんた、どこ見てんのよ。私を殺す気か犬の分際で、などと。
しかし、不機嫌《ふきげん》には不機嫌なのだが、なんだかやたらと「暗い」のだ。普段《ふだん》が暴発《ぼうはつ》花火だとすると、事故の後の大河は内側から自《みずか》らの猛毒で溶けていく果物のよう。一言二言文句を言ったらそれきり重く黙《だま》り込み、マンションにつくまで一度も口を開こうとはしなかった。亜美《あみ》のことにさえ、触れもしなかった。
無視、というのとも違うのだ。自覚的に竜児を無視しているのではなくて、物思いに沈んでいるというか、内部へ深く沈んだせいで外部への反応が鈍《にぶ》くなったというか。
そして大河は午後六時半、夕食の定刻になったというのにいまだに高須《たかす》家《け》に現れない。
菜箸《さいばし》を片手に腕を組み、竜児はトンカツを見下ろして呟《つぶや》く。
「もしかして、具合、悪くなったのか? それで病院に……一人で? こんなことなら無理やりにでも帰ってすぐ、病院に連れてった方がよかったかな……トンカツ揚げてる場合じゃなかったか、もしかして」
「いや〜、あの気配《けはい》は中にいるなぁ〜。なんか窓から気配を感じるもん」
泰子《やすこ》は派手《はで》なワンピースを胸の前にあて、鏡《かがみ》を見ながら断言する。
「やっちゃんは女子の気配にはビンカンだからねえ。インコちゃんもそう思うよねん!」
突然話題を振られた鳥類は、ポカンとアホ面《づら》で「え……? ああ、うん」妙に人間《にんげん》臭《くさ》く適当にその場をごまかした。
インコはともかくこういう場合、本当に泰子の勘はよく当たるのだ。自称「薄《うす》い超能力者」だけのことはある。
「竜《りゅう》ちゃん、心配ならお迎えに行っておいでよお〜」
泰子はそう言いつつ衣装《いしょう》を決定、ひとまず鴨居《かもい》にそれをかけて右手で引き続き髪をやり、左手で器用に携帯メールを乱打している。泰子らしからぬマルチタスクぶりだが、この時間はいつもバタバタと、営業メールと身支度《みじたく》に追われているのだ。
仕方ない、と竜児《りゅうじ》はトンカツに頷《うなず》いてみせる。いつまでもこうして心配していでも仕方ないし、出勤《しゅっきん》時間の迫った泰子もただ待たせておくわけにはいかない。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。支度できたら先食べてろよ」
「ぅわ〜お」
謎《なぞ》のセクシーポーズで返事をする実の母から目を逸《そ》らし、竜児はTシャツ姿のまま玄関を出た。
カンカンとサンダルの音を鳴らしながら鉄の階段を下りると、初夏の町はすでに夕暮れ。空は綺麗《きれい》な藍《あい》と紅《べに》のせめぎあい、渡る風は澄《す》み切っていた。
所帯|臭《くさ》く揚げ物油を吸った胸が清浄になっていく気がして、竜児は大きく深呼吸する。酸素《さんそ》がたっぷり頭に回ると、余計な悩みまで鮮明《せんめい》になる。
これから先、大河《たいが》と亜美《あみ》は同じクラスで一体どんな日々を送るつもりなのだろう。狭い教室で陰険にいがみあい、HPを削りあい、そしどちらかが倒れるとして――そこになにがあるというのか。竜児にはまったく理解できない闘魂《とうこん》の世界だ。
徒歩一分というか数十秒、お馴染《なじ》みのブルジョアマンションの大理石のエントランスに入って行きつつも、竜児の悩みは尽きることはない。彼女ら二人の気が合わないのは見ていれば分かるし、出会いが最悪過ぎたのも知っている。それでも思うのだ。同級生になってしまった以上、日々の平穏《へいおん》のために、もうちょっとお互い気を使いあってもよくはないだろうか。
脳裏《のうり》に浮かぶのは濃厚《のうこう》な殺意を剥《む》き出しに睨《にら》み上げる(最凶)大河と、ツンとそっぽを向いて薄笑いを浮かべる(性悪)亜美の姿。大河が手乗りタイガーなら、亜美はさしずめ、飼い主にだけは愛想のいい血統書付のチワワだろうか。キャンキャン吠《ほ》えて挑発し、危なくなったら飼い主(北村《きたむら》)の腕の中に飛び込んで舌を出す。ブランドものの服かなにかを着せられちゃっていたりして。
「……ぴったりすぎだ」
虎《とら》とチワワの睨《にら》み合いを想像して脱力、ぐったりとオートロックのチャイムを鳴らした。しばらく待つが誰《だれ》も出ず、首をひねりつつもう一度、二度。
泰子《やすこ》の勘が外れるわけはない、とややマザコン気味に思い込み、さらにもう一度。と、
『……誰』
おまえが誰!? と聞きたくなるようなテンションの低さで、大河《たいが》の声が陰気に響《ひび》いた。
「お……俺《おれ》。なあ、メシの支度《したく》できたから降りて来いよ。トンカツだぞ」
『……いらない』
ぎょっ、と竜児《りゅうじ》の鋭《するど》い目つきに狂気まじりの光が宿る――キレてはいない、驚《おどろ》いたのだ。食欲に関しては頼もしいこと限りない大河が、メシを食わないと言っている。これは思っていたよりも大事《おおごと》なのではないだろうか。
「おい、おまえどうしたんだよ? やっぱり具合が悪いのか? 頭、痛いか?」
『……うるさい。どこも痛くなんかない』
小さな身体《からだ》は燃費《ねんぴ》が悪く、大河は食事を抜くとすぐに痩せて貧血を起こす。それを分かっているからこそ、竜児は鋭《するど》く語気を強めた。
「メシ抜いたら、また倒れるぞ」
「とりあえずここ開けろ、なんで食わないのかちゃんと説明しねえ奴《やつ》には食事の配給は止まりません」
沈黙《ちんもく》と、やがてかすかな舌打ち。ややあってオートロックの扉は開いた。
「……おぅ」
最高級マンションの二階フロア。
ゆっくりと開かれた樫《かし》の扉から覗《のぞ》いたその顔に、竜児は思わず仰《の》け反《ぞ》って呻《うめ》く。
「な、なにがあった……?」
「……」
無言の大河は頭から毛布を被《かぶ》り、コットンレースのワンピースはくしゃくしゃ。髪ももつれてひどいありさま、顔を隠《かく》すように絡《から》まり合って、覗いた片目は真《ま》っ赤《か》に充血――頬《ほお》もべたべたに濡《ぬ》れていて、どうやら一人で泣いていたらしい。
大河はよく泣く生き物だが、それにしても……
「お、おい。待てよ」
毛布をずるずる引きずりながら、大河はベージュで上品にまとめられた廊下をリビングへ戻っていってしまう。躊躇《ちゅうちょ》しつつも靴を脱ぎ、竜児はその後を追う。
ガラスの重い扉の奥、二十畳を超える広さの見事なリビングは外国の雑誌に出てくるようなすばらしいインテリアで揃《そろ》えられているのだが、
「……あーあ……」
竜児《りゅうじ》は呟《つぶや》き、頭を掻《か》いた。
ソファを除《の》けたラグの上には寝室から持ってきたらしいシーツやら毛布やらがぐしゃぐしゃに丸まっていて、その中央、ちょうど大河《たいが》一人分の大きさの窪《くぼ》みができている。大河はそこに蹲《うずくま》り、すっぽり納まって丸まった。頭からかぶっていた毛布で蓋《ふた》をするように全身を覆《おお》えば、引きこもりタイガーの完成だ。
クリスタルのシャンデリアは今は灯《とも》されず、ダウンライトだけが照らす光を天井《てんじょう》に柔らかく映し出している。締《し》め切られたカーテンの向こうの空の色も知らないまま、大河はこの暗い部屋で、ずっとこうしていたのだろうか。
「……おい」
「……」
ひたすら陰気に、こんなふうに丸まって。
躊躇《ちゅうちょ》したのは一瞬《いっしゅん》。しかし意を決して蓋《ふた》の部分をぱか、とめくり、巣に隠れる雛《ひな》のような大河の傍《かたわ》ら、竜児は膝《ひざ》を抱えて座り込む。
「なあ 、どうしたんだよ? ……やっぱり、さっきぶつけたところ痛いのか? 病院、行くか?」
なにしろ、偶然とはいえ加害者は竜児。おせっかいと思われようと、声をかけないわけにはいかない。しかし大河は答えず、仔虎《ことら》のポーズで丸まったまま、顔をシーツに押し付ける。
「……大丈夫かよ……本当に……」
ややあって、ようやく蚊《か》の鳴くような声。
「……ね……」
「ん?」
「……北村《きたむら》くん、本当に私のこと……嫌いになったかな?」
伏せた顔をわずかに横向け、髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》く涙に潤《うる》んだ瞳《ひとみ》は必死の色。大河はごくごく真剣に、竜児をじっと見上げていた。
――長い長い、ため息が出た。
「あのなあ……おまえ、そんなことを気にしてたのかよ?」
「だって」
「言っただろ? 北村は、あのファミレスでの出来事を全部見てたんだよ。おまえが挑発されてあんなことをしたのも分かってるし、そもそも川嶋《かわしま》の本性《ほんしょう》だって知ってるんだ。それに北村がそんなことで人を嫌うような奴《やつ》じゃねえってこと、おまえが一番わかってるだろ? そんな下らないことで、落ち込むんじゃねえよ」
「……そう、なの……?」
「そうだよ」
「……じゃあさ……なんで私、こんなにチビなの?」
「えっ!?」
その質問はあまりにも不意打ち、他人の肉体的特徴の理由を考える趣味《しゅみ》はない。思わず数秒言葉に詰まり、
「そ、それは……遺伝《いでん》、じゃねえかな……」
可能な限り、当たり障りのないところへ着地。だが大河《たいが》はさらに低く言葉を継《つ》ぎ、
「……私はチビで、名前も変……自分の力じゃどうにもならない……」
それきり黙《だま》りこんでしまう。
初耳だった。大河は女子にしては壮大な名前と、手乗りと呼ばれる所以《ゆえん》でもある身長の低さを、どうにかしたいと思っていたのだ。言われてみれば、なるほど、大河はいつでも貪欲《どんよく》に乳製品を摂取《せっしゅ》していた。
「知らなかったぞ……そんなしょうもねえことを、おまえが気にしていたとは」
「……しょうもなくない。あんたと違って、繊細《せんさい》なのよ」
小さな拳《こぶし》で目元を拭《ぬぐ》い、大河はようやく身体《からだ》を起こして竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らにぺたりと座る。さっきは髪に隠《かく》れて見えなかったが、丸い額《ひたい》には冷えピタがぺったりと貼《は》られていた。コブでもできてしまったのかもしれない。心がチクリと痛み、竜児はほとんど無意識《むいしき》にその冷えピタ部分をそっと指先で撫《な》でていた。大河はされるがままになって、
「……なによ……自分は身長一六五センチだからって……」
唇《くちびる》を尖《とが》らせてそんなことを呟《つぶや》き、小さく俯《うつむ》く。俺《おれ》はもう少しあるぞ、と思いかけ、竜児は気づいた。これは自分のことを言われているのではなくて――
「……名前だってなんたらマーキュリーみたいな感じだからって……だからって、だからって……」
川嶋《かわしま》亜美《あみ》の話だ、これは。
八頭身のすらりとしたスタイルと、アニメキャラのようなかわいらしい名前。大河の欲しいものを兼ね備えた理想の女、それが川嶋亜美という存在なのだ。
なるほど、と竜児は息をつく。大河がこうして陰気にぐずっていたのは、北村《きたむら》にどう思われているかという悩みに加えて、亜美にコンプレックスを刺激《しげき》されまくったせいもあったわけだ。大嫌いな性悪女が、欲しくてやまないものを持っている。その点においては絶対に勝てない。……そりゃ誰《だれ》でも暗い部屋でうずくまり、鬱々《うつうつ》と引きこもりたくもなるだろう。
そんな心境が理解できない竜児ではない。重々しく頷《うなず》いて見せ、
「そのうえ北村とは幼馴染《おさななじみ》だしな。家族ぐるみで仲もいいしな」
「あぅっ……」
――わかるわかる、というサポートのつもり、だったのだが大河《たいが》の顔は溶けた氷の像みたいに情《なさ》けなく歪《ゆが》んでしまう。
「……しまった。最大のコンプレックスを刺激《しげき》しちまった……」
今になってさらにわかった。北村《きたむら》と親しいという一点がなければ、亜美《あみ》が八頭身だろうが名前がかわいかろうが、ここまで落ち込みはしないのだ。その一番大事なこと、大河にとっては最大の重要事項においてアドバンテージを取られているからこそ、ここまで鬱々《うつうつ》としているのだ。自分になくて亜美にあるものを、空《むな》しく追い求めてしまうのだ。
竜児《りゅうじ》はようやく間違いに気づくが、しかしもう遅い。大河は出番を間違えたビックリ箱《ばこ》の中身みたいに、しゅるしゅると引きこもりコーナーへ戻っていく。最後に毛布の蓋《ふた》がぴったりと閉まり、
「……なんでそんなに無神経なのかしら……もはや呆然《ぼうぜん》とするしかないわね、あんたのその無神経さの前には……」
低い声が恨《うら》みがましくくぐもって響《ひび》いた。そんなことを言うからついつい、
「……俺《おれ》はいつも、おまえの生き様の前に呆然と立ち尽くしているけどな……」
「なにぃ!?」
零《こぼ》れた失言に、大河はあっさりブチ切れた。毛布を跳《は》ね飛ばして起き上がり、
「げ、元気じゃねえか」
「なによっ、私のっ、どこがっ、あんたをっ、呆然とっ、させてるってっ、言うのよっ!」
「そ、それっ、だって! まさに! ちょっ! おうっ! あうっ!」
言葉の区切りごとにクッションで顔面を上下左右にブン殴られ、
「このっ! このっ! 犬がっ! 犬がっ!」
「ほこりがっ! たつからっ! やめろっ! うぶっ!」
「うるさいっ! 黙《だま》れっ! は……っぶしゅん!」
「おうっ! おうっ! ……うわっ鼻水っ!」
物理的|衝撃《しょうげき》よりは精神的屈辱……反撃《はんげき》の機先《きせん》さえ殺《そ》がれたところで、ゴゴゴゴゴ……と大河の腹が活断層の唸《うな》りのような音を立てて鳴った。
「あら」
きょとん、と目を見開き、攻撃を止《や》めた大河は凄《すさ》まじい音を立てる己《おのれ》の腹を不思議《ふしぎ》そうな顔で見下ろす。
「なんだろうね、今の音」
「あら、じゃねえ! 自分の腹の音だろ! ……ったく、やっぱり腹減ってんじゃねえか。ほら、トンカツ食うぞ」
「……いらないって言ったでしょ」
「俺はおまえの言葉よりも腹の音を信じる。泰子《やすこ》もそろそろ出る時間だし、ほら立て」
「……お肉、黒豚?」
「黒豚黒豚」
「……脂身《あぶらみ》のところ、食べてくれる?」
「あーいいよ」
しぶしぶ、といった顔で、やっと大河《たいが》は毛布の巣から立ち上がった。まず鼻をかませ、窓の戸締《とじま》りを確認《かくにん》させ、鍵《かぎ》を持たせ、素足《すあし》にサンダルを履《は》かせて、竜児《りゅうじ》はようやく大河をマンションから連れ出すことに成功する。
そしてさっきよりも藍《あい》が勝《まさ》る色合いになった空の下を少し離《はな》れて歩き、隣《となり》の借家の階段を上ろうとしたところで、
「竜《りゅう》ちゃあん!」
玄関ドアから泣き顔を覗《のぞ》かせたのは泰子《やすこ》。律儀《りちぎ》に今まで食べずに二人を待っていたらしく、
「トンカツなのにソースがないとは、これいかに〜!」
箸《はし》を片手に空のソース瓶《びん》を振り、衝撃《しょうげき》のニュースを息子に告《つ》げる。
急遽《きゅうきょ》方向転換、竜児と大河は小走りに駆《か》けて、最寄《もより》のコンビニに早足で飛び込んだ。竜児はまっしぐらにソースの棚へ、大河は自分勝手に雑誌の棚へ。
ソースの会計を終え、
「ほら、急いでんだから行くぞ!」
振り回したコンビニ袋で大河の尻《しり》を叩《たた》く。大河はむっつりと振り返り、
「わかってるわようっさいな、尻に触るなエロ犬。あとちょっと……あ」
パラパラパラ、とページをめくった指が不意に止まる。そして先に店を出ようとしていた竜児のTシャツの裾《すそ》を掴《つか》んで引き戻し、
「ねえこれ見て」
そのページを見せてくる。なんだよ、と振り返った竜児も、そこに出ていた写真に思わず歩みを止めた。
「……川嶋《かわしま》亜美《あみ》じゃん」
見開きページの下段には私服らしい亜美の小さな囲み記事があり、そこにはこう書いてあったのだ。
――亜美ちゃんは今月号から学業の関係でしばらくお休みになります。再会を楽しみにね!
「休業、ってことよね。これ」
「こっちに引っ越してきたから、仕事を休むのか? ……ウチの学校、それほど価値があっただろうか……」
なんとなく納得《なっとく》いかない気持ちになり、しかし、
「っと、こんなことをしている場合じゃなかった。早く戻らねえと泰子《やすこ》が遅刻だ」
雑誌を片付け、二人は小走りに店を出た。駐車場《ちゅうしゃじょう》を横切って通りに出ようとしたところで、
「……ん?」
「……なにあれ」
ほぼ同時、異様なものを見つけて再び足が止まってしまう。思わず顔を見合わせる。
二人の視線《しせん》の少し先に、入れ違いにコンビニに入っていく異様な姿の怪人物がいたのだ。全身|黒尽《くろず》くめのジャージ、マスクをして夜だというのにサングラス、そしてつばの大きなキャップ。だがその手足はスラリと長く、はみ出した髪の艶《つや》やかさ、顔の小ささ、スタイルの良さは、どこからどう見てもこの町におそらくただ一人のモデルさんにしか見えない――今しがた紙面で見たばかりの。
さすがの大河《たいが》も気味悪そうに眉《まゆ》をしかめ、
「あれって……あれよね……」
「……噂《うわさ》をすれば影《かげ》、というか……なんだあの格好《かっこう》は」
あまりの異様な姿に、彼女はかえって目立ってしまっていた。もしもここが広尾《ひろお》や麻布《あざぶ》なら、いかにも素顔《すがお》を隠《かく》したプライベートの芸能人という雰囲気で街に溶け込んだのかもしれない。だがこの住宅街では下手《へた》をすれば、スタイルのいいコンビニ強盗と間違えられて通報されても文句は言えまい。
亜美《あみ》はそんな姿でコンビニに入っていき、当たり前にカゴを持ち、そしてそこからがすごかった。凄《すさ》まじい勢いで棚に並ぶ菓子やアイスを片《かた》っ端《ぱし》から放り込んでいくのだ。さらに弁当、惣菜《そうざい》、菓子パンも。ペットボトル詰めのデブの元――甘い炭酸《たんさん》飲料も。店員もレジから身を乗り出し、彼女の行動を見守っている。
「……変な奴《やつ》……ホームパーティでもすんのか?」
「いや……違うね、あれは。ふ〜ん、そうなんだ……おもしろいもの見ちゃった」
ふ、と小さく笑い、大河は先に立って早足で歩き出す。なにか一人で納得《なっとく》したようだがそれを話す気はないらしい。そして、
「竜児《りゅうじ》、走ろう」
「あ、おう」
そういえば急いでいたのだった。今の出来事はとりあえず脇《わき》に、竜児と大河はアスファルトの道をトンカツの待つ高須《たかす》家《け》へ向かう。
しかしその間も大河は妙に楽しげに、口元をニヤニヤと綻《ほころ》ばせていた。
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二年C組の女子の中で「目立つグルーブ」の中核と言えば、
「亜美《あみ》ちゃん、昨日《きのう》出てた雑誌見たよ〜!」
休み明けにストレートロングの髪を明るめの色にカラーリングしてきて女子には絶賛《ぜっさん》・男子からはひそかなブーイングが出ている木原《きはら》麻耶《まや》。そして、
「しばらくモデルお休みするって書いてあったけど、あれって本当なの?」
口元の小さなほくろが妙に色っぽい、香椎《かしい》奈々子《ななこ》の仲良し二人組だと言えた。セットになることで足し算以上の華《はな》やかさを放つ二人組が亜美に話しかけると、その賑《にぎ》やかさに誘《さそ》われるようにしてさらに数人の女子が周囲に集まってくる。
「麻耶ちゃんたち、今月号見てくれたんだ! ありがと〜! そうなんだ、しばらくはお仕事の方はお休みさせてもらうことになったんだよ」
いまや「目立つグループ」の頂点に上り詰めた亜美が眩《まばゆ》いばかりの微笑《ほほえ》みを振りまくと、取り巻く女子たちからは「もったいな〜い!」の大合唱。
その様子《ようす》を見るともなしに眺めつつ、
「なんか、うちのクラスの女子のかわいさ偏差値が一気にアップした気がする……やっぱ、下級生とかじゃなくて、女子ってのはクラスの子が一番だよなー」
「そうそう、ちゃんとお互いどんな奴《やつ》なのか分かった上で、恋愛に発展。これが王道っすわ。あ〜、俺《おれ》、四月にこのクラスになった時、高須《たかす》と手乗りタイガー両方がいるなんてどうなるんだろ〜とか思って結構ブルーだったんだけど、今にして思えば最高にラッキーだったじゃん……麻耶もいるし香椎ちゃんもいるし、そしてなにより亜美タンがいる……顔だけ見れば手乗りタイガーだって超かわいいし……かわいいよみんなかわいいよ」
竜児《りゅうじ》を間に挟んで黒縁《くろぶち》メガネの能登《のと》久光《ひさみつ》と、軽薄《けいはく》ロン毛の春田《はるた》浩次《こうじ》は嬉《うれ》しげに目を細めていた。竜児は聞こえないフリで両目を眇《すが》め、取れかかっていた袖口《そでぐち》の釦《ぼたん》をソーイングセットでちまちまと修繕《しゅうぜん》中《ちゅう》。そう思っていられるなら幸せだよな――などと考えつつ、当然口には出したりしない平和主義者だ。ちなみに能登と春田の二人組は昨日《きのう》の一年生女子とのお見合いで、マックだカラオケだなんだかんだと散々おごらされた挙句《あげく》に「ごちそうさまー!」の一言で、メルアドさえも教えてもらえなかったと言う。
「あっ、まるおだ。ねえねえまるおも幼馴染《おさななじみ》として亜美ちゃんのこと、もったいないと思うよねえ? モデル、お休みしちゃうなんてさ」
通りがかったところを麻耶に呼び止められ、女子の間で親しみを込めて「まるお」と呼ばれる北村《きたむら》は眼鏡《めがね》を押し上げて振り返ったり
「別にいいんじゃないか? ズバリ亜美《あみ》がそう決めたんなら。きちんと高校を卒業してから、また再開すればいい」
「え〜! こんなにかわいいのに、絶対もったいないよ! まるお、亜美ちゃんに冷たすぎ! あとズバリとか言うな!」
そーよそーよと甲高《かんだか》い声が北村を囲むが、その声は笑いに華《はな》やいでいて、侮蔑《ぶべつ》や怒りは一切含まれていない。女子たちにとって北村は、あくまで『みんなのかわいい愛玩物《あいがんぶつ》』なのだ。
「……ひそかなるモテ男め……俺《おれ》もメガネ、かけよっかな……」
春田《はるた》の囁《ささや》きに、モテないメガネっ子・能登《のと》は微妙な表情になる。
だが北村は「はいはい」と苦笑《にがわら》いで肩をすくめ、かわいさレベルではクラス随一《ずいいち》の女子たちの輪《わ》からほうほうの体《てい》で抜け出してきて、
「おお、みなさんお揃《そろ》いで」
まるで救われたようなツラで竜児《りゅうじ》たちの傍《かたわ》らに足を止めるのだ。
「くそっ、帰れ帰れ! 貴族め! ここは蟹工船《かにこうせん》だ、おまえさんの来る場所じゃねー!」
「やあいいパンチだ。世界を目指せよ」
春田の攻撃《こうげき》を笑顔《えがお》で受け流し、北村はそのまま竜児の向かいに陣取った。亜美を囲むグループを陽とするなら、まるっきり陰と呼ぶべき四人の男組の完成だ。
「でも、ほんとにもったいないなんてことはないんだよ」
華やかな亜美の声が一際《ひときわ》明るく、休み時間の教室に響《ひび》く。
「あたしはこうやって、普通の学校生活を楽しみたかったんだ。だからこれでいいの。お友達もこーんなにいっぱいできたし。あたしはね、本当に今がいっちばん、幸せなんだよ。だってみんながいるもん!」
なんでそんなにいい子なの〜! 亜美ちゃんはいい子すぎるよお! ――女子たちの間から湧《わ》く声は、ほとんど感嘆のため息に近かった。竜児は思わず北村の整《ととの》った横顔を盗み見る。北村は春田とジャレあいを続けながらも、ほんの一瞬《いっしゅん》、かすかに小さな息をついたように見えた。
「そうかあ、そうよね。モデルさんやってたら忙しいだろうし、ダイエットとかも大変そうだし、なかなか普通の女子高生はやってられないものね」
奈々子《ななこ》が頷《うなず》き、それを継《つ》いで麻耶《まや》も「そうそう!」と大きな目をさらに大きく見開く。
「ずっと訊《き》きたかったんだ。亜美ちゃん、すっごい細いよね。ダイエットしてたでしょ? モデルさん御用達《ごようたし》の特別なダイエットとかあるの? ねえ教えて〜、お願《ねが》い!」
「うん、聞きたい聞きたい!」
「え? 亜美ちゃんのダイエット? 私も知りた〜い!」
話題がダイエットに及ぶと、亜美を囲む輪は一層大きく、また熱狂的《ねっきょうてき》になった。しかし亜美は「やぁだ」と呟《つぶや》いて小さく笑い、こう言い放ったのだ。
「あたし、ダイエットってしたことないからわかんな〜い。もともと太らない体質みたいで、食べたいものを食べたいだけ、健康的《けんこうてき》に食べてれば大丈夫なんだ〜。お菓子とか食べるの大好きだし、我慢《がまん》とかしない方がお肌にもいいしね!」
にっこり、と。
ほんのかすかに、嫌味《いやみ》っぽく、唇《くちびる》の端《はし》も歪《ゆが》んだかもしれない。
「……体質」
誰《だれ》かが小さく、呟《つぶや》いた。
「……ふーん」
「……そっかー」
「……わかんないんだ」
「……へーえ」
――亜美《あみ》は気づいていただろうか。彼女を取り巻く空気の温度が、一気に三度は下がったことを。
日々我慢に我慢を重ね、ここ半年、昼休みはウーロン茶《ちゃ》とサラダだけと決めている麻耶《まや》の口元が凍《こお》りついたことを。
昨日《きのう》も必死にウォーキングし、昨夜《ゆうべ》の父親の土産《みやげ》の寿司さえ我慢した奈々子《ななこ》のまぶたがひきつったことを。
どれほどいい子ヅラを繕《つくろ》っても、ふとしたはずみに本性《ほんしょう》が見え隠《かく》れするものだ――さすがの竜児《りゅうじ》にも見て取れるほど、女子の視線《しせん》が冷ややかになったその瞬間《しゅんかん》だった。
「……聞き捨てならねえな!」
ガタ、と音を立てて席を蹴《け》り、怒気《どき》を孕《はら》んで唸《うな》る声が冷えた空気を震《ふる》わせた。
こめかみに十字型の血管を浮き上がらせつつ両手の拳《こぶし》をボキボキ鳴らし、静まり返った教室の中、彼女はゆっくりと前へ歩み出る。
その名は櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》……部活だけでは飽《あ》き足らず、登下校、バイトの行き帰り、決して短くはない距離《きょり》を毎日早歩きでぶっ通すド根性娘である。
「こう見えて、私はダイエット戦士でねえ……」
嘘《うそ》だろ、と竜児は首を捻《ひね》った。彼女はつい先月、バケツプリンを一人で食っていたはずだが……しかし事実であったらしい。いつも笑顔《えがお》のその両目には、珍しくも本気の怒りの炎が燃《も》えている。そして実乃梨の傍《かたわ》らには、
「……大河《たいが》よ。そこにおるな?」
「おう!」
堅い友情で結ばれた野生の獣《けもの》・逢坂《あいさか》大河がゆらり、と。ダイエットなどとはこいつこそ無縁《むえん》なはずだと竜児は思うが、大河は親友のためになら、一肌もふた肌も脱げるタイプの女であった。トンカツ二枚をたいらげたくせに。
「行くぜ大河《たいが》!」
「へい、みのりん! リーリー!」
「オッケー大河! リーリー!」
二人は唐突《とうとつ》に大きく両手を広げ、サイドステップで素早《すばや》く女子の輪《わ》の中にがぶり寄り、
「えっ!? ちょっ、な、なによ!?」
中心に座っていた亜美《あみ》を囲い込みに入る。他《ほか》の女子はきゃあきゃあ言いつつも妙に冷淡にその場を離《はな》れ、亜美を守るものはなにもない。大河と実乃梨《みのり》の連携はパーフェクト、元々運動神経に優《すぐ》れた二人は逃げようと立ち上がった亜美をあっという間に追い詰め、その周囲をグルグルと回って逃がさない。
「なんなのよあんたたちっ!」
「ふはははは! 我《われ》らのガードから抜け出せますかなお嬢《じょう》さん!?」
「チビで悪かったわねえ! 変な名前で悪かったわねえ!」
「な、名前!? なにが!?」
垣間《かいま》見《み》える亜美の表情は困惑《こんわく》、当惑、しかし二人の鉄壁《てっぺき》のガードの前に手も足も出ないようで、ただオロオロと足を竦《すく》ませている。
助けなくていいのか? と竜児《りゅうじ》は北村《きたむら》の表情を窺《うかが》うが、「あらー」とおばちゃんのように呟《つぶや》いたきり、北村《きたむら》は立ち上がる様子《ようす》を見せない。
「いじめ発生だ!」
「手乗りタイガーと櫛枝《くしえだ》が、亜美タンをいじめている!」
気がつけば衆人《しゅうじん》環視《かんし》、しかし誰《だれ》も手出しはできないまま、
「行きますぞ? 川嶋《かわしま》くん」
ニヤリ、と実乃梨は妖《あや》しく唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。大河は亜美の背後《はいご》に回り、がっちりと細身を羽交《はが》い絞《じ》めにする。そして、
「やだっ、ちょっとあんたたち、な……やっ! んぎゃ――――――っ!」
亜美の悲鳴が響《ひび》く。実乃梨は蛇《へび》の動きで繰《く》り出した両手で、ブレザーの下に隠《かく》された亜美の下腹を激《はげ》しく掴《つか》んだのだ。
「……ほう……これはこれは……」
「うぐっ……」
ニヤリ、と笑《え》みが零《こぼ》れれば、亜美の表情は恐怖に強張《こわば》る。そして実乃梨は下唇を一度ゆっくりと舐《な》め回し、
「すぇんすえ―――――! 川嶋さんが、腹にお肉を隠していま―――――すっ!」
悪鬼に魂《たましい》を売った。掴んだ柔肉《やわにく》を揉《も》みしだき、
「おらおらおらおらおらおらおらおらおらぁぁぁ! 遠足に持ってくお肉は三百円までって決まってるんだよおっ! これが三百円分の贅肉《ぜいにく》か!? ええ!? バナナはお肉にゃはいらねえんだっ!」
「ややややめやめやめいやあぁぁっ!」
激《はげ》しく制服の中に突っ込んだ両手を震《ふる》わせる。男子たちの頬《ほお》がぽっと赤らみ、いけない妄想《もうそう》も加速する。
「おぅおぅおぅ結構|溜《た》め込んでるじゃねえか!? ああん!?」
「やだやだあわわわやめて――――――っっっ!」
「なにが体質だぁこんにゃろー! これはなんだぁ!? ああ!? こっちのこいつはなんなんだぁ!? ええ!?」
「いやぁぁ、やだぁぁ、うぎゃぁぁぁぁぁっっっ!」
「あーはははは! これは肉まんの分! あーははははははははは! これはハーゲンダッツの分! くらえっ、コンビニ神拳《しんけん》・ファミマバージョンの煌《きらめ》きっ! ハイ・カロ・リ―――――っ!」
「やめろっつってんだ……に[#「に」に濁点]ゃ――――――っっっ!」
実乃梨《みのり》の拳《こぶし》が黄金の軌跡を描き、薄《うす》いが確《たし》かに実存する腹の肉を、最後にぷるる〜んと八の字に抉《えぐ》り回した。
亜美《あみ》の悲鳴は長く尾を引き、やがて虚空《こくう》に溶けて消える。
……ゴク、と誰《だれ》もが息を飲む静寂《せいじゃく》。
ゆっくりと、大河《たいが》は羽交《はが》い締《じ》めにしていた身体《からだ》を戒《いまし》めから解き放つ。愚か者は膝《ひざ》から床《ゆか》に、声もないまま力を失って落ちていく。
実乃梨は拳を心臓《しんぞう》に押し当て、天を仰《あお》いだ。
「……星屑《ほしくず》と消えた、ダイエット戦士の涙に捧《ささ》ぐ……!」
「うっ、うっ、うっ……!」
ようやく解放された亜美は乱れた着衣を両手で押さえ、みじめに床に横倒し。真《ま》っ赤《か》に紅潮《こうちょう》した小さな顔を悔《くや》しげに俯《うつむ》け、泣いているのか震《ふる》えているのか、低くしゃくり上げ続けていた。
そのサマを見下ろしつつ、実乃梨は満足げに目を細める。
「……大河。あんたのタレコミはいつも正確《せいかく》だね」
同じく亜美を見下ろして、大河も嬉《うれ》しげに唇《くちびる》を綻《ほころ》ばせ、
「いやいや、さすがはみのりん。いい仕事ぶりだったわ」
そしてゆっくりとした足取りで亜美の正面に立ち、心から嬉しそうに両目をキラキラと輝《かがや》かせる。頬は悦楽の薔薇《ばら》色《いろ》、めくれた唇は血をすすった獣《けもの》の真紅《しんく》。
「川嶋《かわしま》さん。紹介するわね、これ、私の親友のみのりん。私にもちゃんと、竜児《りゅうじ》以外のお友達はいるのよ」
「4649!」
よぅ、と手を上げ、実乃梨《みのり》は笑う。そうして大河《たいが》はその傍《かたわ》ら、まっすぐに亜美《あみ》を指差して、
「というわけで――隠《かく》れ肥満っ! あんた、食いすぎよ!」
ど――――ん!
と、きっぱり宣言した。亜美の肩が力尽きたように落ちる。実乃梨と大河は肩を組んで立ち、なーははははは! と高笑いでハイタッチ。「おまえ最高」「おまえこそ最高」……悪魔《あくま》二匹は囁《ささや》きあい、頬《ほお》をちょいちょいしあいながら去っていく。そして最後に振り返り、
「……あんた、マラソンでもすれば? きっと黒いジャージがお似合いよ」
大河のダメ押しの一言に、亜美はくわっと顔を上げた。昨日《きのう》のコンビニの買い物を目撃《もくげき》されたことに思い当たったのかもしれない。目じりの涙をグイッと親指で拭《ぬぐ》い、
「マラソンでもなんでもやったるわよっ! ぐるぐるぐるぐる走り回ってやるこのクソチ……」
「亜美ちゃん、大丈夫〜?」
ビ、の一文字をぐっとこらえ、亜美は唇を噛《か》み締《し》めた。にっっっ……こり、となんとか外面《そとづら》を取《と》り繕《つくろ》い、
「だ、大丈夫……」
手を貸してくれる女子たちに笑いかけてみせる。感動のプロ根性だ。
「超かわいそ〜! 亜美ちゃん全然太ってないよ〜」
「や〜ん怖かったあ〜ほんとに逢坂《あいさか》さんたちって乱暴《らんぼう》だよね〜」
女子たちは言葉こそ優《やさ》しいが、どこか嬉《うれ》しげに皆にこにこと笑っていた。同じく笑って立ち上がりながらも、亜美は奥歯を噛み締め、屈辱に耐えているようにも見える。にっこり天使の外面仮面も、さすがに砕けて剥《は》がれ落ちそう。
「……あいつら、悪魔だな」
実乃梨の新たな面を見られた喜びは心の奥にしまい、それでも竜児《りゅうじ》は呟《つぶや》かずにはいられない。実は亜美は「救われた」のだろうが、それにしてもこれはどうだろう……いくらなんでもやりすぎだ。亜美が気の毒に思えてくる。だが、
「……なるほどね」
なぜか北村《きたむら》は、一人|納得《なっとく》したように小さく頷《うなず》いていた。
「ああいう感じでいけば、亜美はああなるわけだ」
一体なにがああなるのだろう、と竜児は思うが、休み時間の終わりを告《つ》げるチャイムの方が、それを尋《たず》ねるより早かった。
***
夕暮れも近づいて、初夏の長かった陽《ひ》もようやく傾きかけていた。
葉を繁《しげ》らせた欅《けやき》並木《なみき》の歩道には人の影《かげ》が賑《にぎ》やかに行き来し、買い物に出る主婦や自転車で連なる部活帰りの中学生、犬を連れた子供、白いコードのイヤホンを垂《た》らした学生たち、皆どこか忙《せわ》しなく、少し冷たい風の中を歩いていく。
混雑したスーパーでの買い物を終えた竜児《りゅうじ》と大河《たいが》もそんな人波の一部になって、薄《うす》い藍《あい》の空の下、高須《たかす》家《け》に向かっていた。
学校での一件が相当ストレス解消に役立ったらしく、
「ふん♪ ふん♪」
竜児の少し先を歩く大河は昨日《きのう》の腐りぶりとは一転、小さく頭を左右に振って鼻歌なぞを歌っている。珍しいこともあるもんだ――しかし竜児はなにも言わず、両手に買い物袋をぶら下げたままその後姿を追っていた。一言でも「珍しいな」などと言おうものなら、このへそ曲がりはすぐに歌うのをやめるだろう。やや調子《ちょうし》っぱずれの鼻歌には、なかなかレアな趣《おもむき》がある。
すれ違った小さな女の子が、傍《かたわ》らの母親に「あの人、お姫様《ひめさま》?」と尋《たず》ねるのが聞こえた。確《たし》かに大河のファッションは、子供にはおとぎ話のお姫様にも見えるかもしれない。薄いライムグリーンのカーディガンの下には小花模様のワンピース、ボタンを開けてのぞかせた純白レースのアンダースカートにはフリルが幾重《いくえ》にもたっぷりついて、ふわふわとボリュームたっぷりに大河の小柄な身体《からだ》を愛らしく見せている。ゆるやかにウエーブした長い髪には珍しくリボンまでついているし、小さなビーズのバッグも白の華奢《きゃしゃ》なサンダルも、竜児は初めて見るアイテムだ。
普段《ふだん》も同じようなファッションをしてはいるが、それにしても今日《きょう》は特別に豪華《ごうか》版《ばん》に思えた。本当の本当にご機嫌《きげん》なのだろう。
学校から帰るときにも「私、先に帰るから買い物に行くとき寄りなさいよ」などと微笑《ほほえ》んで(!)いたし、なんとなんと、竜児の傍らにいた北村《きたむら》にまでバイバイ、と手を振った――さすがに頬《ほお》は真《ま》っ赤《か》、両目は決然と釣り上り、声は出すことができないままで顔も相当|強張《こわば》っていたが。北村に「おう!」と返されて、大河がその場で小さく跳《は》ねるのを竜児は目撃《もくげき》した。
それもまた、今の大河の上機嫌に一役買っているのかもしれない。
「ねえ竜児」
「ん?」
唐突《とうとつ》に振り返り、大河はスピードを緩《ゆる》めて竜児と並び、歩調を合わせた。これも普段にはなかなかないことだ。主人然として先を行くか、ぶすっとむくれて後をついてくるか、大河のノーマルポジションはそのどちらかだ。
「今日《きょう》は鮭《しゃけ》、焼くの?」
穏《おだ》やかな声でアブノーマル大河《たいが》に訊《き》かれ、竜児《りゅうじ》はほとんど感動する。……こういうのもなかなか、悪くない。
「うーん……ムニエルにするかな。塩コショウして粉振って、バターで揚げ焼き。ケチャップで食うとうまいんだよな」
「それいい! おいしそう!」
まるで若夫婦のような穏やかな会話に激震《げきしん》が訪れたのは次の瞬間《しゅんかん》だった。
「そうだ、私サラダ作ろうかな」
「……」
バサッ、と竜児の両手から、買い物袋が滑り落ちる。
「なによ」
目を見開いた竜児の顔を見上げ、大河は不満げに唇《くちびる》を尖《とが》らせた。それでも怒気《どき》は通常の三割程度。
「……い、いや……ああびっくりした。今のは……なんだ、幻聴《げんちょう》か。そうだよな」
驚《おどろ》いた驚いた、と袋を拾い、再び歩き出しつつすべてをなかったことにしまうとするが、
「違う! 私だってサラダぐらい作れるもん!」
そうは問屋が卸《おろ》さなかった。食った後の茶碗《ちゃわん》を台所に運ぶことさえ稀《まれ》な大河が、サラダを作ると言っている。弁当屋が潰《つぶ》れたという理由で餓死《がし》寸前だった大河が。これは現実か……? あまりのことに言葉を失《な》くし、竜児はゆっくりと首を左右に振った。
「あ、ありえねえ」
「なんで。あんたは私を過小評価しすぎよ」
ふふん、と鼻先で笑い、大河は得意げに薄《うす》い胸を反《そ》らして仁王立《におうだ》ちになる。
「小学校のとき、授業でやったもの。サラダ。ドレッシングも自分で作れるもの」
「……じゃあ、手順をちょっと言ってみろ」
「そんなの簡単《かんたん》。まずレタスを買ってくるでしょ? 葉っぱむしるでしょ? ちぎるでしょ? お皿に乗せるでしょ? マヨネーズかけるでしょ? ……ほらできた」
「だめだな」
竜児は断固、首を横に振る。
「シンプルなのは嫌いじゃないが、まずはレタスを洗ってねえ。冷水に晒《さら》してねえ。ドレッシングはどこにいったんだ?」
「些細《ささい》なことを……」
「些細じゃねえ。特になあ、レタスは冷水でいっぺん締《し》めないと、ふにゃふにゃで食えたモンじゃねえぞ」
「……小姑《こじゅうと》」
「えっ!?」
思ってもみない名で呼ばれ、両目を鋭《するど》く光らせた竜児《りゅうじ》を置き去り、大河《たいが》はノーマルポジションで先を歩き始める。
「竜児は小姑《こじゅうとめ》だ。嫁《よめ》に家庭内での発言権を与えたくなくて、台所を絶対に使わせない小姑だ。かわいそうな嫁の私は、地味なお風呂《ふろ》掃除《そうじ》や便所掃除やまき割りばかりをさせられて……」
「俺《おれ》がいつおまえに風呂やら便所やらの掃除なんかさせたよ!? まき割り、できるもんならやっでみろよ!? ていうかおまえ、誰《だれ》の嫁だよ!?」
「……」
「無視すんな!」
「犬姑」
「なんて読むんだよ!?」
結局いつもどおりに険悪な言い合いを無益に重ね、やがて最後の曲がり角。大河のマンションと高須《たかす》家《け》のある借家の前までたどり着く。
だがその時、
「やっと追いついたあっ!」
背後《はいご》から追い抜かしざま、なにかが突然竜児の目の前に飛び込んできた。前を歩いていた大河の姿が視界から消える。
「な、なんだ!?」
そいつはほとんど飛びつくように、竜児の腕にぶら下がる。勢いよくしがみつかれた割にはひどく軽く、頼りない感触で右腕が捕らわれる。
「さっき見かけて、走って追いかけてきたの! お願《ねが》い……友達のふりして!」
「……あ……え!?」
息を切らし、白い顔を曇《くも》らせ、細い身体《からだ》を押し付けてきているのは落ちてきた天使――ではなく、よりによってランキング第一位・川嶋《かわしま》亜美《あみ》だった。キャップとサングラスこそ身に着けてはいないが、今日《きょう》も全身黒のジャージ姿、相変わらず地味な格好《かっこう》と良すぎる見目《みめ》のギャップによってかえって目立ってしまっている。まさか大河に言われたとおり、本当にマラソンでもしていたのだろうか。だが、
「高須くん、お願い……っ」
懇願《こんがん》の声には本気の怯《おび》えが滲《にじ》み、その息もか細く途切《とぎ》れ途切れ。竜児にはなにがお願いなのかまったく理解できていない。
「や、えっと……な、なにが!?」
「あいつ……」
竜児の腕を掴《つか》んだ細い指に力がこもった。その手は汗ばんでいて、しかも細かく震《ふる》えてもいで、尋常《じんじょう》な事態ではなさそうだ。慌《あわ》てて亜美の目線《めせん》の先を追ってみると、
「……なんだ、あれ」
少し先の曲がり角、電柱の影《かげ》。不自然に佇《たたず》む男の姿があった。思わず竜児《りゅうじ》の顔も引きつる。
この辺ではまったく見ない奴《やつ》で割とスラリとした体格、こざっぱりした服装は一見して大学生風ではあるが、それにしては荷物が多い。一目見てわかるいわゆる「変な奴」ではないが、じっと隠《かく》れて立っている様子《ようす》はどう考えても普通ではなく、それが逆に奇妙な雰圃気となってその男を周囲から浮き立たせている。
亜美《あみ》はそいつを見て怯《おび》えているようで、懸命《けんめい》に竜児の身体《からだ》を盾《たて》に身を隠そうとしている。だが男は見ていることがバレても構わないのか、亜美を凝視《ぎょうし》することを一向にやめようとはしない。
ちょっと……いや、かなり怖いかも、と亜美を抱えたまま竜児も後ずさりしたその時、
「そうね、そろそろ……決着、つけましょうか……」
さらに怖いものがその背後《はいご》にはスタンバイしていた。呪詛《じゅそ》めいた低い声の呟《つぶや》きに振り向くと大河《たいが》が――おそらくは、飛び込んできた亜美に吹《ふ》っ飛ばされて道の端《はし》に転がっていたのだろう大河が、ゆっくりと身体を起こし、
「マラソンしろ、とは言ったけど、うちの前で走っていいとは誰《だれ》も一言も言っちゃいないんだよこのクソガキ……ボロ雑巾《ぞうきん》に、してやる」
低い体勢から指をヒラヒラ、片手は拳《こぷし》の形に握りこんで両足は前後左右自在の構え。素人《しろうと》離《ばな》れしたフットワークで「来いよ」と攻撃《こうげき》を誘《さそ》いながら両目をギラギラ飢えさせて……
「……空気を読め。な、わかるだろ」
まさしく前門に虎《とら》(キレた大河)、後門に狼《おおかみ》(変態)。図らずも故事成語を体現してしまい首を百八十度ひっきりなしに動かしながら、竜児はとりあえず理性の色を失った猛獣《もうじゅう》からとりなしにかかる。亜美は大河の様子に気づきもせず、不審《ふしん》な男と目を合わせないようにウロウロ逃げ回り、最終的に、
「怖い……っ」
竜児の肩口にしがみついて顔をぎゅっと押し付けた。
その瞬間《しゅんかん》、大河のフランス人形めいた美貌《びぼう》がわなわなと震《ふる》える。少しずつ、少しずつ、斜め上と斜め下から引き伸ばされたように歪《ゆが》み、ある地点で――ブチィ! となにかがキレる音が竜児の耳には確《たし》かに聞こえた。そして、
「……はなしを、きふぇええええええ―――――っっっっ!」
興奮《こうふん》のあまりかファナティックな舌足らず。大河は叫んで力いっぱい、傍《かたわ》らのリサイクルゴミ用バケツを電柱さえぶっ倒す驚異的《きょういてき》な脚力で蹴《け》り上げた。重いはずのそいつはドォォン! と宙で回転し、亜美と竜児の頭上を越えて不審《ふしん》人物へ一直線《いっちょくせん》、数メートル吹《ふ》っ飛んで轟音《ごうおん》とともにその足元に叩《たた》きつけられる。
「……!」
さすがに男はビビったのか数歩後ずさり、そのまま方向転換。猛然《もうぜん》と走って逃げ去った。
「ん? ……なに、あいつ!?」
その後姿を見て、大河《たいが》もようやくその存在に気がついたらしい。膨《ふく》れ上がった殺気《さっき》は瞬時《しゅんじ》に散って、
「変態くさっ!」
嫌悪感《けんおかん》てんこ盛り、身《み》も蓋《ふた》もない呟《つぶや》きがその唇《くちびる》から放たれた。亜美《あみ》はようやく息を継《つ》ぎ、竜児《りゅうじ》の腕から身を離《はな》す。だがその足元はふらふらと頼りなく、
「大丈夫か?」
「あ、うん……久しぶりに、超本気で走ったから……やだ、膝《ひざ》が笑っちゃった」
冗談《じょうだん》めかして笑って見せるが、その笑顔《えがお》もいつもの完璧《かんぺき》さからはほど遠く、硬く強張《こわば》っている。
「なんなんだよ、さっきの男。知り合いか?」
手を貸してやりながら尋《たず》ねるが、亜美は曖昧《あいまい》に肩をすくめ、
「その……ええと……買い物に、行こうとして……それでなんか、絡《から》まれて……多分《たぶん》、変なファンの奴《やつ》……。時々いるのよね、ああいうの……」
落ちつかなげに目を泳がせている。その様子《ようす》に、竜児と大河は思わず顔を見合わせた。相当|怯《おび》えているわりに「ファン」と言ったあたりに、なんともいえない違和感があるような……しかし亜美は竜児に向かって両手を合わせ、
「ね、お願《ねが》い。ここから一人で帰るの怖いの。まだあいつ、その辺にいるかも……少しでいいから家に匿《かくま》ってくれない? お願い!」
そんなことを言ってくる。いつものいいこちゃんの外面《そとづら》でもなく、そこにあるのはあくまで本気の表情だ。
竜児は一瞬《いっしゅん》考えて、やがて告《つ》げた。
「……こっちの木造借家の二階と、こっちの築《ちく》一年・最高級|分譲《ぶんじょう》マンションの二階。どっちに匿われたい?」
「こっち!」
亜美の答えに迷いはなし、指はまっすぐにマンションへ。大河はどう出るか、と竜児は横目で様子を窺《うかが》うが、
「そっちは私のマンションよ。……いいわよ、来なさいよ。しばらく隠《かく》れてた方がいいと思う」
「え……あんたの!?……冗談《じょうだん》じゃないわよ、なにされるかわからないもの」
亜美は犬猿《けんえん》の仲である大河に険《けわ》しい視線《しせん》を向けるが、
「ばかね。緊急《きんきゅう》事態だってこと、わかってないの?」
大河はあくまで真剣な顔、ふるふる、と首を振って見せる。そして亜美の手をグッと力強く握り、
「なにかあってからでは遅いのよ。いいから私のうちにおいで」
「ちょっとあんた……ほ、本気なの? マジで言ってる?」
「言っておくけど、向こうの借家は竜児《りゅうじ》の家よ。ちょっと安全性に問題があってね……現にこの私、真夜中に窓から竜児をブチ殺そうとして忍び込んだことがあるわ……簡単《かんたん》だった。息をするより簡単だった」
まさか、と竜児の方を見上げる亜美《あみ》に、
「実話」
と竜児は頷《うなず》いてみせる。亜美はしばらく考えて、
「……いいの?」
そっと大きな瞳《ひとみ》を上目《うわめ》遣《づか》い、大河《たいが》を穏《おだ》やかに……そう、穏やかに、見つめた。
「ええ。もちろんよ」
そしてなんと大河もこっくりと、躊躇《ちゅうちょ》せずに頷いたのだ。竜児はちょっと本気で感動し、思わずしみじみと呟《つぶや》いてしまう。
「おまえ……いい奴《やつ》だなあ」
「こんなときだもの。私だって、鬼畜《きちく》ではないわ」
大河は鷹揚《おうよう》に微笑《ほほえ》み、まだ少し迷っているような様子《ようす》の亜美の肩をがっちりと掴《つか》む。ちょっと気になる力強さ、ではあったのだが。
「川嶋《かわしま》さん、私たちいろいろあったけど、今は一時休戦よ。竜児の家は忙しいお母さんもいるし、ブサイクな変態インコもいるの。私のうちを選《えら》んで正解だったわね」
その優《やさ》しさに免じ、竜児はペットへの暴言《ぼうげん》も聞かなかった振りで許すことにする。亜美はそれでも少々|躊躇《ためら》っているような様子《ようす》ではあったが、肩を掴んだ大河はほとんど彼女を引っ張り込むようにしてマンションのエントランスへ足を進めた。
「あ、大河の メシはどうするんだ?」
「取っておいてちょうだい、後でそっちで食べる。……おなかはからっぽの方が、動きが冴《さ》えると思うから」
謎《なぞ》めく言葉を問いただす暇《ひま》も与えず、大河と亜美はマンションの中へ消えていった。
かなり遅くなってから高須《たかす》家《け》に晩飯を食べに来た大河は、
「……盛り上がったわ! 最高に!」
妙ににこにこと機嫌《きげん》よく、鮭《しゃけ》一切れで白飯を三膳《さんぜん》たいらげて見せた。
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「……えっ!」
竜児《りゅうじ》は慄《おのの》き、思わず仰《の》け反《ぞ》った。
大河《たいが》と微妙な距離《きょり》を保ちつついつものように登校し、教室に入って席についたその時だ。「昨日《きのう》はありがとう」と言いながら近づいてきた亜美《あみ》の顔が、
「……な、なに?」
「いや……その……」
キラキラ眩《まばゆ》い初夏の朝日の中――妙にげっそりと、疲れ果てたようにやつれて見えたのだ。
声も少々|嗄《かす》れていて、随分《ずいぷん》昨日とは様子《ようす》が変わってしまっている。
「……なんというか……お疲れのようで……」
「……そう見える……?」
はあ、と彼女らしくない素《す》の表情で情《なさ》けない息をつき、亜美は手近なイスを引き寄せて竜児の机に肘《ひじ》をついて座った。そして憂鬱《ゆううつ》そうに眉間《みけん》にしわを寄せ、
「きっと、昨日の疲れが抜けなかったんだ……」
そのまま机に顔を伏せてしまう。シャンプーなのか石鹸《せっけん》なのか、はたまた香水《こうすい》をつけているのか、ふわりと甘い匂《にお》いが香《かお》る。竜児は少々|動揺《どうよう》して、両目をケダモノのようにギラつかせる。しかしなんとか平静を装い、
「……昨日は、怖い目にあったもんな。疲れても仕方がねえよ」
などと男らしく言ってやれたのだが。
「違うの」
きっ、と亜美は白い面《おもて》を上げ、なめらかに輝《かがや》く瞳《ひとみ》で竜児をまっすぐに見つめた。
「逢坂《あいさか》大河《たいが》のマンションで……かれこれ五時間……いや、六時間……」
「た、大河がなにかしたのか!?」
「踊り続けたのよ。そして、歌い続けたの」
踊り? ……歌い?
あまりに予想外の返事に首をかしげる竜児を置き去り、亜美はフー……とアンニュイに視線《しせん》を遠くする。
「……言うことを聞かないと外に放り出す、って脅されて……真夜中まで……やらされたのよ……」
「な、なにをさせられたんだ」
「……物まねメドレー・百五十連発……」
似るまで何度もやり直し……ウガンダ……ファルコン……亜美《あみ》ちゃん、死にたい……呻《うめ》くように呟《つぶや》いて、亜美は再び竜児《りゅうじ》の机に顔を伏せてしまう。遠くで春田《はるた》と能登《のと》がヒソヒソと「のとっち! あいつはブルジョアジーだよぅ!」「これからのお付き合いは考えさせてもらおう」と嫉妬《しっと》をむき出しにこちらを睨《にら》んでいるのに気がつくが、相手にしてはいられない。
「……惨《むご》い……!」
亜美をマンションに招き入れたときの大河《たいが》の一見|優《やさ》しげな笑《え》み、それから冬眠前の熊《くま》のように鮭《しゃけ》のムニエルをガツガツ食らっていたご機嫌《きげん》ぶりを思い出し、ゾクゾクと心が冷える。
見れば、今も大河は実乃梨《みのり》とくっついて、なにやら楽しそうにきゃっきゃきゃっきゃ笑っている。すっかり上機嫌モードで。ここにきてようやく竜児ははっきり理解した。大河の機嫌がいいときは、必ずその陰で誰《だれ》かが落ち込んでいるのだ――この目の前で倒れている、亜美のように。
恐ろしい奴《やつ》よ、と改めて大河の整《ととの》った横顔を眺めていると、
「ちょっといいか?」
大河と実乃梨の会話に北村《きたむら》が割って入る。一体どんな用件なのか話の内容までは聞こえないが、とにかく大河のご機嫌がさらに上昇することに間違いはなさそうだった。
北村の顔を見られずに実乃梨だけを凝視《ぎょうし》している大河と、「松本《まつもと》清張《せいちょう》……明智《あけち》光秀《みつひで》……」それをどうやって踊り、歌ったというのか、とにかく増えてしまった物まねレパートリーを回顧《かいこ》しているらしい亜美を見比べ、竜児は思う。
まさに、天国と地獄《じごく》。
――しかし、事態はそこまでシンプルではなかったのだ。
竜児がその勘違いに気づいたのは、
「ぬあーう!」
昼休み、いそいそと鞄《かばん》から弁当を取り出し、ロッカーに置き箸《はし》(当然毎日食後に洗ってしまっている)を取りに行こうと教室を横切りかけたそのとき。
「なにをする!? ぬあー!」
「……」
辻斬《つじぎ》りにあったのだ。
犯人はむっつり押《お》し黙《だま》った大河。犯行に使われたワザモノは、キンキンに冷えた買ったばかりのウーロン茶《ちゃ》。すれ違いざまにそいつを敏感な首筋に押し当てられ、竜児はつま先立ちになって身を捩《よじ》る。
「おまえなあ!? 言いたいことがあるなら……ぬあー! だからそれをやめ……ぬあー!」
逃げても逃げても執拗《しつよう》に、大河《たいが》はグイグイと冷えたウーロン茶を押し当ててくるのだ。今にもキレそうに目を眇《すが》め、奥歯を噛《か》み締《し》めて顎《あご》をずらし、鼻に獰猛《どうもう》なしわを寄せ、
「……胸が、張り裂けそうだわ……!」
「な、なに!?」
「つらいのよ!」
「ぬあー! やめろ! つらいのは俺《おれ》だろうが!」
ようやく小さな手から缶を奪い取り、それを高々と差し上げて大河の手の届かないところへ。大河はノイローゼになった動物園の虎《とら》のようにウロウロと竜児《りゅうじ》の周りを歩き、
「もう、やだやだ……! なんで……!?」
ぶつぶつと独《ひと》り言《ごと》を吐き続ける。
「なんだよ、一体なにがあったんだよ」
「……うう、やだやだ、でも、でもでも……」
「おい!」
「にゃあ!」
思わず手にした冷たい缶を、大河の鼻にむぎゅっと当ててみた。大河は鼻を押さえて飛び上がり、
「なにすんのよ!?」
「いででででで!」
つま先立ちして腕を伸ばして竜児の頬《ほお》をむにっと抓《つね》る。それでようやく我《われ》に返ったらしい。
「ったく……手にあんたの顔脂がついたわ!」
「こっちはおまえの爪《つめ》あとがついたよ! ほら、早く言いたいことあるなら言え! なにがそんなに気に食わないんだ!」
「……それは……」
うー、と大河は悔《くや》しそうに顔を歪《ゆが》め、唇《くちびる》を噛むこと一呼吸分。やがて声をひそめ、早口で、ようやく辻斬《つじぎ》り行為に及ぶほどの不満をぶちまけた。
「……北村《きたむら》くんに、朝、言われたの……川嶋《かわしま》亜美《あみ》と仲良くしてくれ、今日《きょう》はお昼も誘《さそ》ってやってくれ、って……」
「……な、」
口ごもり、竜児は大きく一度|瞬《まばた》きする。
「なんで……?」
「私が聞きたいわよ!」
喚《わめ》く大河の気持ちもわかる。いくらなんでもそれはないだろう。
ファミレスでの初ケンカも、実乃梨《みのり》と組んでの襲撃《しゅうげき》も、全部北村は見ていたはずだ。なのにどうしてそんなことを……まさか北村の目には、大河と亜美が仲良くなれそうに見えたのだろうか。だとしたら、奴《やつ》は眼鏡《めがね》を一刻も早く作り直した方がいい…
「……それは……誰《だれ》にとっても幸せではないような……」
竜児《りゅうじ》は低くうなり、世にも情《なさ》けない顔をしている大河《たいが》とそのまましばし見詰め合ってしまう。
朝、北村《きたむら》が何事か大河に話しているとは思ったが、まさかそんな話だったとは――大河が言うには、こういうことらしい。
『亜美《あみ》の性格が悪いのは俺《おれ》も知っている。でもああやって外面《そとづら》だけで接していたんじゃいつまで経《た》っても本当の友達なんかできないだろう? だから本性《ほんしょう》を知っている逢坂《あいさか》と、逢坂の一番の友達の櫛枝《くしえだ》に、亜美のことをお願《ねが》いしたいんだ。な、逢坂。俺にとっておまえは頼みごとのできる数少ない女友達なんだよ』――北村|談《だん》。
「あーん!」
北村の言葉を披露《ひろう》して、大河はくねくねと小柄な身体《からだ》をくねらせた。どうしようもない葛藤《かっとう》が、彼女の中で激《はげ》しく溢《あふ》れかえっているらしい。
「断りたい……断れない……でも冗談《じょうだん》じゃない……でも北村君の頼み……ていうかなんであの子のことばっかり気にして……うう〜ん、ううう〜〜ん、うううう〜〜んっ」
唸《うな》りながら、大河は頭を抱えてとうとう竜児の足元にしゃがみ込んでしまう。慌《あわ》てて竜児も身を屈《かが》め、
「おい、頭の血管切れるぞ!?」
「だ、だって……! ねえ、しかも……友達って……! やっぱり結局友達……! 私は頼りになる数少ない女友達……あれ、これって嬉《うれ》しいかも? ……違うっ! 嬉しくないっ! でも頼ってくれたんだ……嬉しい? ……嬉しくないっ!」
思わず竜児も息を飲む葛藤ぶり。ここまで悩んでいる人間を見ることも、めったにある体験《たいけん》ではない。かける言葉もなく、そのまましばらく見守ってしまう。
「あああ、でもっ……でも、でも、でも!」
大河はぎゅっと目をつぶり、竜児の袖《そで》を掴《つか》み締《し》めた。その指にギリギリと力が入り、大河は目を開けてはあはあと呼吸を荒くし、やがて「うむ!」と大きく頷《うなず》く。やっと心が決まったようだ。
「……耐えがたきを耐え……忍びがたくさん忍び!」
「……な、なんとなくわかるぞ」
頷く竜児の目の前、すっくと大河は立ち上がる。そのまま大股《おおまた》、スタスタスタ、と目指して歩く目的は一点。
「こっち来い。メシだ」
……ぽかーん。と、見上げて口を半開きにする川嶋《かわしま》亜美の目の前。
亜美は自分の席で弁当箱《べんとうばこ》を持って立ち上がりかけていたところで、すこし離《はな》れたところでは「亜美ちゃーん! 早く屋上いこー!」麻耶《まや》と奈々子《ななこ》が亜美を待っている。
亜美《あみ》は呆然《ぼうぜん》と何度か瞬《まばた》きを繰《く》り返し、「……は?」――ようやく自分のペースを取り戻したらしい。憎たらしいほど清らかな笑《え》みを大河《たいが》に返してみせる。
「なに言ってるのかな? あたし、麻耶《まや》ちゃんたちと約束してるんだけど」
「うるさい」
「……なっ……」
亜美の抗議《こうぎ》を一声で制し、麻耶&奈々子《ななこ》コンビに対しては「うー」と獣《けもの》の声で唸《うな》ってみせる。ただそれだけで、
「ああ、そうなんだ。逢坂《あいさか》さんがそういうなら仕方ないね。いこっか、奈々子」
「そうねえ、仕方ないねえ。じゃあ亜美ちゃん、また今度ねー」
二人はさして考えもせず、怯《おび》えているようでもなく、唸り声に当たり前に頷《うなず》いて見せてあっさりと亜美に手を振った。手乗りタイガーという生き物は、女子の中ではわりと理解されている存在なのかもしれない。
だが亜美は当然そんなことでは納得《なっとく》できないのだろう、
「……あんた、なに考えてるの? 来いってなんのつもり」
「お昼を一緒《いっしょ》に食べるのよ」
「はあ!? 冗談《じょうだん》じゃない、なんであんたなんかと! ……ふん、いいわよ。亜美ちゃん、他《ほか》にもいっぱいお友達はいる――」
「……バスガイドするマイケルジャクソン……」
ぼそ、と大河は唐突《とうとつ》に呟《つぶや》く。それはまるで独《ひと》り言《ごと》のようではあったが、
「ひっ!?」
「……時速二百キロでコーナーを攻めるモナリザ……歌えない洋楽を必死に歌おうとするつんく♂……すべてはうちのデジカメに……すでにしっかり焼いてある……タイトルは『某《ぼう》モデルがやっちゃった☆ナゾの物まね百五十連発』……ひょっとしたらなにかの拍子に、うっかり流出してしまうかも……」
「やっ、やめてよっ! いいわよっ! わかったわよっ! 一緒に食えばいいんでしょ!? それでいいんでしょ!? ちくしょー!」
ほとんど涙目、亜美は外面《そとづら》をかぶるのも忘れ、乱暴《らんぼう》に弁当箱《べんとうばこ》を抱えて大河の席へと移動して行った。
そこにはすでに実乃梨《みのり》がスタンバっており、
「よう、川嶋《かわしま》くん。先に始めているよ」
箸《はし》ではさんだでかいリボン……煮《に》しめたコンブみたいなものを、目の高さに持ち上げて見せる。
「……な、なんなのよ、あんたたち……っ……もう、意味わかんないっ」
「まあまあ、ここにおかけなさい、お客人よ」
実乃梨《みのり》の左隣《ひだりどなり》に座らせられ、左腕でがっしり肩を抱えられ、
「ほれ、あーん」
コンブを口元に運ばれる。
「いらねえっつうの!」
――などと亜美《あみ》は喚《わめ》くが、
「……いいな」
思わず呟《つぶや》いてしまったのは、事態の推移をなんとなく見守っていた竜児《りゅうじ》だ。あんな風に実乃梨と密着し、あーん、なんて言われて甘やかされて、リボン結びのコンブをお口にそっと寄せられたら……あー……
「高須《たかす》、なにぼけーっと口開けてるんだ。行くぞ」
「……ん? え? どこに?」
突然声をかけられ、いつの間にか傍《かたわ》らに立っていた北村《きたむら》に背中を小突かれる。
「亜美たちのところだよ。逢坂《あいさか》と櫛枝《くしえだ》に亜美を誘《さそ》ってやってくれとお願《ねが》いしたんだ。お願いするだけしておいて、あとはほっとくというのもなんだろう」
「……それと俺《おれ》と、どんな関係が?」
「弁当をつつきあっている女子のグルーブに、一人入っていけるようなタイプではないぞ、俺は」
おまえなら絶対大丈夫……とは思うものの、竜児《りゅうじ》は「しょうがねえなあ」と一言。実は内心ほくほくで北村《きたむら》の後をついていく。大河《たいが》には悪いが、思ってもみない大ラッキーだ。実乃梨《みのり》と一緒に昼休みを過ごせるならば、虎《とら》対チワワの対決に付き合うぐらいどうってことはない。
「よう、俺《おれ》たちも入れてくれ」
「あら、これはこれは北村くんに高須《たかす》くん。ここに座りたまえ」
女子グループに割って入った男二人を、にこやかに迎えてくれたのは実乃梨だけだった。その横に並んでいた亜美《あみ》は「なんで? なんでこうなるの?」いまだ眉間《みけん》にしわを寄せ、ブツブツと不満を漏《も》らしていたし、大河に至っては、
「……」
もはや無言。突然に現れて自分の右隣《みぎどなり》に座る北村の気配《けはい》を感じ取っているのか、視線《しせん》は向けられないまま恍惚《こうこつ》と瞳《ひとみ》を蕩《とろ》かせ薔薇《ばら》の唇《くちびる》を緩《ゆる》め、しかし、
「……っ」
不意に斜め向かいの亜美の存在を思い出したのか瞬時《しゅんじ》にブスッと顔をむくれさせ、さらに再び北村の気配にトローン、やはりまたもや亜美の存在にカッチーン、繰《く》り返すうちにどういう感情の摺《す》りあわせがなされたのか、
「す、すげえな……」
思わず竜児も息を飲むほど、見事に顔の右半分は対北村仕様のエロ惚《ぼ》けヅラ、左半分は対亜美仕様の不機嫌《ふきげん》ヅラ――左右完全非対称のアシュラ男爵《だんしゃく》化《か》、成功。
しかもその状態で顔も精神状態もプラマイゼロに均衡《きんこう》が取れたらしい。大河は亜美に食ってかかることはなかったし、北村がいる割には、動揺《どうよう》することなく手も震《ふる》わせず、スムーズに弁当の蓋《ふた》を開けている。顔はすごいことになっていたが、幸いというかなんというか、このメンツには大河の顔をアレコレ言うような奴《やつ》は含まれていない。
「さあさあ弁当だ。女子と一緒《いっしょ》に食べるのもたまにはいいもんだよなあ」
「……これって、祐作《ゆうさく》が仕組んだことなわけ?」
「ん? なんのことかな? わあ、櫛枝《くしえだ》の弁当はまたまたデカいなあ! ほら亜美、見てみろよ!」
「ふふふ、デカく見えでもこの弁当、中身はスカスカなんだぜ……? ほら、こいつはマロニー、こいつはこんにゃくだ」
楽しそうに弁当のおかずを自慢する実乃梨をそっと見つめ、竜児は小さな幸せを噛《か》み締《し》めていた。話題に入れなくたって全然かまわない。ただこうして傍《かたわ》らにいられるだけで十分に、十二分に、幸福なのだ。
前回の「一緒に弁当が食べたい」作戦の失敗からほぼ一月――今度こそ、実乃梨と一緒に弁当が食べられる。ああ、大河とチワワが険悪でよかった。
しみじみと思いながら蓋を開けようとし、はっ、と動きを止める。前回とまったく同じ失敗を犯そうとしている。大河《たいが》の弁当と、まったく中身が同じなのだ。
仕方あるまい……おかずを見られないようにみみっちく蓋《ふた》を立てて弁当を隠《かく》す。が、
「あー、こういうことする子、いるよねえ! ほれほれ高須《たかす》くん、なんで隠すのよう!」
「あっ!」
実乃梨《みのり》が蓋をさっと奪い取ってしまう。晒《さら》されたのは枝豆入りの玉子焼き、ベーコンと玉ねぎの炒《いた》め物《もの》、海苔《のり》の乗ったご飯……先に食べ始めている大河とまったく同じ構成の見事な手作り弁当。
「……えーと。……うーん」
実乃梨は二つの弁当を見比べ、しばしそのまま考え、
「……まあ、その、なんだ。ねえ。……高須くん、何座?」
さりげなく蓋を元に戻した。
「う、うお座」
「私便座。なんてね!」
あははははは〜――その目は微妙に笑っていない。
実乃梨なりに必死に考え、亜美《あみ》と大河の微妙な険悪さも察知し、竜児《りゅうじ》と大河の仲についての疑問をぶつけて大河を刺激《しげき》するよりは、今の奇跡的に保たれているバランスを守ることを取ったのだろう。
「しょ、食事中になんてことを言うんだ」
「ごっめーん! 本当は、ひ・ざ※[#「ハートマーク」]」
結果的になんとなく和気《わき》藹々《あいあい》、自然に会話を交《か》わしてしまってもしかしてちょっとラッキー、などと喜びかけたそのときだった。
まったくノーマークだった亜美の腕が向かいから伸びて、唐突《とうとつ》にヒョイと竜児の弁当の蓋を再び取り上げたのだ。その早業に、竜児は反応することができないまま固まる。
「なんで逢坂《あいさか》さんのお弁当と高須くんのお弁当って中身がまったく同じなの? そう言えば昨日《きのう》も一緒《いっしょ》にいたけど」
ピク、と大河の眉《まゆ》が震《ふる》えた。
同時に、昼休みの喧騒《けんそう》に沸《わ》いていた教室が、一瞬《いっしゅん》にして静寂に《せいじゃく》包まれる。
「……聞いた……」「聞いちゃったよ……」「触れてはいけないことを……」やがてひそやかに囁《ささや》かれる、恐怖が滲《にじ》む低い声。
「え? ……な、なに? なんで急に静かになっちゃったの? あたし、なにかした?」
転校してきたばかりの亜美は知らないのだ。
手乗りタイガーに竜児との関係を尋《たず》ねたりすれば、大破壊《だいはかい》の災厄《さいやく》が待っている。それはこのクラスの全員が身に染《し》みて知っている。だからみんな、あの二人ってどんな関係なんだろう……と思っても、絶対に口には出さないのだ。手乗りタイガーが付き合っていない、と言うのだから、付き合っていない。二度と下らないことを言うなというから、絶対に言わない。それなのに新参者がやっちまった……。
破裂寸前の緊張《きんちょう》でもって、誰《だれ》もが箸《はし》を動かせずにいる。おしゃべりも凍《こお》りついたまま、全員が手乗りタイガーの動向に耳をそばだてている。怒りの兆候が見えたなら、とにかく真っ先に逃げ出さなくては――
「……変な奴《やつ》ね。そんなことが気になるの?」
やがて静かに答えたのは、大河《たいが》その人だった。
意外なほど静かな、いつもどおりの平坦な声で、表情も普段《ふだん》のフランス人形のような美貌《びぼう》を取り戻して言う。
「なら、これで問題ないわね」
「あっ、俺《おれ》の……」
否やを唱える間もあればこその大河はにゅっと手を伸ばして竜児《りゅうじ》の弁当を奪い去り、そのまま口をつけてガツガツガツガツガツ! ……玉子焼きと炒《いた》め物《もの》のすべてを二秒で平らげて見せたのだ。
そして頬《ほお》は膨《ふく》れて満タン状態、口の端《はし》に食いカスをつけてもぐもぐやりながら、
「これで、問題、ないでひょ。……私のは、玉子焼きと炒め物の、お弁当。竜児のは、海苔《のり》弁よ」
寂《さび》しくなってしまった弁当箱《べんとうばこ》を竜児の手元に戻してくれた。クラス中のそこここから安堵《あんど》のため息が聞こえ、少しずつ、いつもどおりの昼休みの騒《さわ》がしさが戻り始める。手乗りタイガーの乱はどうやら回避《かいひ》された模様。
悲劇《ひげき》なのは、竜児だけだ。
「そんな……! 俺の弁当が……!」
あまりのことに思わず泣きが入りそうになる。が、向かいから箸が伸びてきて、ミートボールが一個恵まれる。
「はい。これで高須《たかす》くんのはミートボール弁当」
「か、川嶋《かわしま》……!」
亜美《あみ》が天使の微笑《ほほえ》みで、おかずを分けてくれたのだ。しかしその微笑みのまま、
「ねえ、なんでそんなに逢坂《あいさか》さんに好き勝手させてるのよ? なにか弱みでも握られてるの?」
痛いところをついてくる。弱みというかなんというか、俺には俺の考えがあって……色々なタイミングとかなにやらもあって……などとはもちろん言えず、無言のままで固まってしまう。代わりに答えてくれたのは、
「竜児はねえ、前世《ぜんせ》で私の犬だったのよ。主人が言うことにはなんだろうと、尻尾《しっぽ》を振って答えてしまうの。それが犬の喜びなのよ」
大河だった。艶《つや》やかな笑《え》みで偉そうに……なんてことを、と言い返そうとするが、
「またまた〜、二人は運命の相手のくせにぃ〜!」
実乃梨《みのり》的判断基準では、今はふざけていい場面だったのだろう。竜児《りゅうじ》と大河《たいが》は息を合わせ、
「「ないない」」
と揃《そろ》って首を振る。それが亜美《あみ》の目にはどう映ったのか、
「……ふ〜〜ん。仲、いいんだあ……」
彼女はわずかに目を細め、歌うように一人ごちた。かすかに聞こえた気がするのは竜児の聞き違いだろうか――亜美ちゃん、おもしろくないな〜……などと。
大河はフン、と鼻先で笑い、もはや亜美を相手にするつもりはないらしい。箸《はし》を持って自分の弁当に再び取りかかろうとするが、
「いやあ、それにしても逢坂《あいさか》はよく食べるなあ。ダイエットなんかするよりも、よっぽどいいと思うけど」
「……!」
北村《きたむら》の言葉にショックを受けたのか、思わず箸を取り落とす。
太っていようがやせていようが、「よく食べる」という一言は、女子にとっては死刑宣告も同じこと――特に、それが片思いの相手から発せられたとなれば。
あーあ……竜児はぐったりと疲れ果て、口をパクパクさせている大河の様子《ようす》をそっと見つめた。
***
大河に「大食い女」(誰《だれ》もそこまで言ってはいないが)の汚名を払拭《ふっしょく》するチャンスが与えられたのは、放課後《ほうかご》、終礼直後のことだった。
「おーい、みんなすまん! ちょっと聞いてくれ!」
騒《さわ》がしい教室に北村の声が響《ひび》き、帰り支度《じたく》を始めていた奴《やつ》らが顔を上げた。
「え〜本日これより、毎月恒例・生徒会主催ボランティア町内清掃大会が行われることはご存知かと思う! 実は今回、主力である三年生が明日《あした》校内模試を控えているため、参加者が非常に少ない! みなさん、お誘《さそ》い合わせの上、ぜひぜひご参加いただきたい!」
――帰ろ帰ろ、と、聞かなかったふりで三々五々、帰り支度は続行される。もちろん竜児もそのうちの一人だ。清掃は嫌いじゃないがこれは違う。なぜなら町内という奴は、いくら頑張っても完璧《かんペき》に綺麗《きれい》にすることはできない。フラストレーションがたまるだけだと十分理解している。
この毎月恒例ボランティア町内清掃大会というのは、実のところ内申《ないしん》の微妙な三年生のための救済措置みたいなもので、参加すれば「ボランティア活動にも熱心《ねっしん》に取り組み」とか「主導《しゅどう》的《てき》に取り組み」とか、場合によっては「めざましい活躍《かつやく》」とか、回数によって推薦状《すいせんじょう》にそんな一言を書き入れてもらえるスペシャルメニューなのだ。よって生徒会メンバー以外の参加者の大半は常に三年生、そして体育会系部活から強制的に毎回持ち回りで各部数名ずつ。一年生や二年生で体育部に所属していない奴《やつ》には無関係のイベントである。いくら北村《きたむら》が参加を呼びかけようと、わざわざ挙手《きょしゅ》する奴などいるわけが――
「おお、高須《たかす》! 来てくれるか!」
「――おぅ!?」
怪奇現象。
竜児《りゅうじ》の右手はなんらかの力によって、高く高く差し上げられていた。
「よし、待っているぞ。ジャージに着替えて校門前に集合だ! やあ、これで会長に顔が立つ……ゼロではさすがに立《た》つ瀬《せ》がないからな〜。さあ、もう名簿《めいぼ》に書き入れたぞ、逃げられんからな」
ご機嫌《きげん》で北村はペンを片手、軽いステップで教室から出ていってしまう。
「ちょ、ちょ、ちょ……っておまえ!」
竜児の右手を掴《つか》んで持ち上げているのは、いつの間にやら竜児の身体《からだ》の傍《かたわ》らに潜《もぐ》り込んでいた大河《たいが》だった。「ふんぬ!」と踏ん張り、肘《ひじ》を掴み、一生《いっしょう》懸命《けんめい》にその手を高々と差し上げている。
「おい離《はな》せ! なんてことしてくれたんだよ!? 一度参加すると言って行かないと、サボりとみなされて課外《かがい》活動から減点になるんだぞ!?」
大河は腕を取り戻して睨《にら》む竜児の目の前、なにやらもじもじと爪《つめ》を噛《か》み、
「責任は取るわ。……一緒《いっしょ》に参加してあげる」
「はあ? ……ええ!?」
――要はつまり、参加したいから竜児も道連れ、と。大河は恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を桜色《さくらいろ》に染《そ》め、制服のリボンを指先でいじりながら小さな声で呟《つぶや》くのだ。
「ただの大食いって思われたくないもの。……町内清掃大会に参加するために、思いっきり食べて、エネルギー補給してたって思われたいの……」
「……たんにちょっとでも北村と一緒に過ごしたいんだろ」
「…そうともいうかもしれない」
「俺《おれ》を道連れにしなくたっていいじゃねえか」
「だって恥ずかしいじゃん! それぐらい想像力でカバーしなさいよ、まったくなんて鈍《にぶ》い男なの!」
ひどい言い草になにか言い返してやろうと腹に力を込めたその瞬間《しゅんかん》だった。学ランの背中がチョチョイ、とつつかれ、振り向くと、
「高須くんも参加するんだ〜、よかった!」
そこには実乃梨《みのり》が立っていた。手には鞄《かばん》とジャージ。
「今回、女子ソフト部に強制参加の順番回ってきちゃって。部長の私がやらされることになってさー、面倒《めんどう》くさーって思ってたんだよ。お仲間お仲間!」
健康的《けんこうてき》な彼女の笑顔《えがお》は、今日《きょう》も太陽の眩《まぶし》さで竜児《りゅうじ》の心を一気に照らす。めくるめく体温上昇、竜児はほとんど恍惚《こうこつ》となって、
「そ……そうなの、か……?」
「そうなのよ。でも、まさか自主的に参加するとは。いやー、高須《たかす》くんは偉い子です! 感動した!」
うわわ、褒《ほ》められた……!
真《ま》っ赤《か》にのぼせてしまいそうな頬《ほお》を両手で必死に隠《かく》し、竜児は両目に殺気《さっき》を迸《ほとばし》らせる。恥《は》ずかしいのだ。
「みのりん、私も行くことにしたの。竜児のお付き合いで」
「あっそうなの!? やったあ、じゃあ一緒《いっしょ》に着替えにいこ! 廊下で待ってるよ」
「うん、すぐ行く」
るんるん、と教室を出ていく実乃梨《みのり》の背中を二人は並んで見つめ、
「……さあ、なにか言うことはないわけ?」
「……あ、ありがとう……!」
わかればよろしい、と大河《たいが》は納得《なっとく》したように頷《うなず》いてみせる。
「みのりんがいるってわかってたら、なにもあんたを誘《さそ》わなくてもよかったわ」
「……誘われた覚えはないが、強制的に手を上げさせられた覚えはあるぞ」
なんだかんだ言いつつ二人はそこそこ上機嫌《じょうきげん》、それぞれにジャージと鞄《かばん》を持って教室を出た。竜児は男子の更衣室へ、大河と実乃梨は女子の更衣室へそれぞれ向かおうと歩き出すが、
「待って!」
華《はな》やかな甘い声が、三人の足を止めた。竜児は振り向き、思わずかけてもいない眼鏡《めがね》をひねりたい心境になる。それは大河も同じだったろう、獰猛《どうもう》に見開いた目を向け、
「……なに?」
低い声で唸《うな》る。しかし、
「よかった、追いついたあ! あたしもこれ、行くことにしたの! 転校してきたばっかりだし、学校の行事に早く慣《な》れたくて!」
にっこり――天使の笑《え》みの川嶋《かわしま》亜美《あみ》は、大河の睨《にら》みにも動じない。
「ええと……北村《きたむら》が参加しろって言ったのか? やめた方がいいぞ、行事っていうほどのモンでもねえし」
思わず竜児は本気のアドバイスをしてやるが、亜美はんーん、と愛らしく首を横に振る。
「祐作《ゆうさく》にはなにも言われてないよ? あたしが自分で、参加したいと思ったの。運動しないとお肉もつくしねえ、そうでしょ? 実乃梨ちゃん」
「ほう、なるほど。ダイエットですな」
実乃梨《みのり》はさして驚《おどろ》きもせず、納得《なっとく》したように頷《うなず》いて見せた。それを横目で確認《かくにん》し、大河《たいが》はおもしろくなさそうに眉間《みけん》にしわを寄せる。
「ね、いこ?」
そして亜美《あみ》の細い腕がすっと伸び、竜児《りゅうじ》の腕に絡《から》みつきそうな――気がした、だけかもしれない。到達する一瞬《いっしゅん》前に、
「ぐえっ……」
「……女子の更衣室はこっちよ。新入り」
牢名主《ろうなぬし》よろしく、陰気に据《す》わった目をした大河の右手が亜美の襟首《えりくび》を背後《はいご》からがっちり捕らえていた。そのままズルズルと窒息《ちっそく》寸前の亜美を引きずり、大河と実乃梨は女子更衣室へと向かっていく。
「じっ、自分で歩けるわよっ、逢坂《あいさか》さんっ」
「いいのいいの、連れていってあげるわよ川嶋《かわしま》さん」
思わずその場に佇《たたず》んで陰険なやりとりを眺めてしまい、はっ、と竜児は我《われ》に返る。男子更衣室も途中《とちゅう》までは同じ方向ではないか。気を取り直して歩き出し……妙にざわつく胸を撫《な》でる。
ね、いこ? と首をかしげ、こちらを見上げた亜美の表情は、妙に甘ったるくて華《はな》やかで清らかで……とにかく死ぬほど、かわいかった。その本性《ほんしょう》はどうであれ。
モデルなのだからかわいくて当たり前なのだろうが、いいものを見たという事実は揺《ゆ》るがない。ちょっと嬉《うれ》しかった、という男としての正直な感慨《かんがい》も、また、揺るがない。
『ぅおーし野郎ども! 覚悟はできてるんだろうなあ! サボる野郎がいたら承知しねえぞコノヤロー! 根性据えて行くぞてめえらあ!』
厚い雲に覆《おお》われた銀色《ぎんいろ》の重い曇天《どんてん》の下《もと》。
拡声器を通じて、男らしすぎる巻き舌ボイスがグラウンド中に響《ひび》き渡っていた。そしてその傍《かたわ》らでは、
「今日《きょう》も胸に染《し》みるお言葉です。さすが会長!」
は〜ぃよいしょ! と生徒会副会長でもある北村《きたむら》が拍手を繰《く》り返す。
放課後《ほうかご》の校門前、二十人ほど集まった生徒たちは一様《いちよう》に気まずそうな顔をして、一段高いところでがなりたてるこの清掃大会のボス……つまりは生徒会長を見上げていた。帰宅の途《と》につく幸せな生徒たちはだらだらと歩きながら、またやってるよ、とおもしろそうにこちらを見ている。
「……な、なに、これ……」
初めて見る亜美の動揺《どうよう》もむべなるかな。
「……これがうちの学校の生徒会長だ。対立候補を得票ゼロで散らした、絶対君主のカリスマなんだ」
「へ、へぇ……じゃあこの人が、きっとそうなんだ……」
「きっと?」
「祐作《ゆうさく》が前にちょっと言ってたんだ。すばらしい先輩《せんぱい》がいるから、生徒会に入ることにした、とか……」
『軍手《ぐんて》ははめたかー! ゴミ袋は持ったかー! 清掃|範囲《はんい》の確認《かくにん》は済んだかー!』
おー、と情《なさ》けない返事が返り、
『ばっかやろ――――っ!』
生徒会長は股《また》を広げて立ったまま、白い喉《のど》を見せて激《はげ》しく仰《の》け反《ぞ》り声を上げる。
『街を舐《な》めるんじゃねえ! そんな根性じゃおめえら船から振り落とされるぞコンニャロー! 気合入れた返事しろぃ!』
「うおおおおおお――――っ!」
『うるせ――――――――っ! ……というわけで、今月も恒例の町内清掃活動を行う。怪我《けが》などしないようにくれぐれも気をつけること。買い食いは見つけ次第処分! ……ま、バレない程度にな、ってところだ』
にやり、と唇《くちびる》を歪《ゆが》めてニヒルに微笑《ほほえ》む生徒会長――三年生の狩野《かのう》すみれは、艶《つや》やかな黒髪をバサリと払う。
ジャージに軍手、ゴム長靴、という格好《かっこう》であっても、彼女はそれはそれは端正《たんせい》な立ち姿をしていた。真っ白な肌に切れ長の瞳《ひとみ》、サラリと零《こぼ》れる漆黒《しっこく》の髪束、口紅なしでも朱色《しゅいろ》の唇《くちびる》……楚々《そそ》としたやまとなでしこそのものの、涼しげ和風お姉《ねえ》さまなのだ。しかし中身は、
『いよーし。それじゃー行くぞおめえら。目標、一人当たりゴミ袋一杯! 今回は参加人数も少ないから、ノルマは軽くこなせるはずだ。まあノルマと言っても厳密《げんみつ》なものではないし、とにかく学校外の人々にだらしない姿だけは見せるなよ。おめえらのボランティア精神を世間様に曝《さら》け出してやれ!』
漢《おとこ》、の一字を魂《たましい》に刻む、統率力抜群の女将軍……いや、もっと端的に、兄貴か親方。
「……なんか、すっごい……綺麗《きれい》なのに、がらっぱちというか……」
竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》らで声を潜《ひそ》める亜美《あみ》も、ギャップのすごすぎる兄貴の姿から目が離《はな》せないようだ。最初は誰《だれ》でもそうなのだ。竜児はうんうんわかる、と頷《うなず》いて、
「でもあれで成績《せいせき》は入学以来ずっとトップ、壊滅的《かいめつてき》だった生徒会の財政を一代で建て直した生ける伝説とも呼ばれる名会長らしいぞ」
「高須《たかす》くん、くわしいのね」
「ぜんぶ北村《きたむら》からの受け売りだ」
北村は妙に楽しげに、壇上《だんじょう》の美しい兄貴の言葉にいちいち柏手を送り続けている。それで盛り上げているつもりなのだろう。
「……自慢の先輩《せんぱい》、か……」
竜児にとっては「リーダー」の印象の強い北村だが、なかなかどうして「部下」としても忠実に職務《しょくむ》を果たしているらしい。
だがその姿が、大河《たいが》にはどう映ったのか。少し離れて実乃梨《みのり》と並んでいるのだが、大河は完全にむっつりと不機嫌《ふきげん》顔《がお》。無意識《むいしき》なのかわざとなのか、もじもじ動かすつま先は地面に「殺」の一字を描《か》いている。
『では、これより一時間! 集合時間には絶対に遅れるなよ! 全員|揃《そろ》うまでは解散せんからな!』
拡声器でがなるすみれの言葉に続いて生徒会メンバーが鋭《するど》い音の笛を吹《ふ》き、二十数名の生徒たちがぞろぞろと校門から外の世界へ、ゴミを求めて繰《く》り出した。ちなみにこの中には約一名、生徒会副会長と親交を深めることを目的にしている奴《やつ》が混じりこんでいる。
「結構清掃|範囲《はんい》って広いんだな……お、さっそく一個ゲット」
竜児は校門を出るなり学校の壁際《かべぎわ》に古雑誌を見つけ、軍手《ぐんて》で掴《つか》もうと腰を屈《かが》めるが、
「ノー!」
ジャージのゴムの部分を掴んで引き上げられる。そのままずるずると引きずられる。股間《こかん》に食い込む甘い衝撃《しょうげき》に振り返ると、険《けわ》しい顔で背後《はいご》に立っているのは実乃梨《みのり》。チッチッチ、と人差し指を振って見せ、
「ノーよ、高須《たかす》くん。学校の周りは三年生の縄張《なわば》りなの。私ら下級生は面倒《めんどう》なとこまで遠征する、それが伝統なんだよ」
「そ、そうなのか?」
「そうとも! ほら、見てごらん!」
実乃梨が指差す先では三年生らしい地味な女子が、「これだからニワカは困るのよ……」とその雑誌をゴミ袋に放り込んでいる。受験《じゅけん》勉強で疲れているのか、はあ〜、と長いため息とともにババ臭《くさ》く腰を叩《たた》いて。
「なるほど……」
「さあ、二年坊主はもうちょっとあるこ」
にっこり――ああ、久しぶりに本物の笑顔《えがお》を見た気がする。実乃梨の笑顔は太陽のよう、眩《まばゆ》くて輝《かがや》かしくてまっすぐで、竜児《りゅうじ》はうっとりと見入ってしまう。両頬《りょうほお》のえくぼもちょっと陽《ひ》に焼けた鼻の頭も、健康的《けんこうてき》で本当に素敵《すてき》だ。この明るさに惹《ひ》かれているのだと、今、改めて竜児は思った。
なぜなら眩い実乃梨の背後では、
「あら、このゴミって川嶋《かわしま》さんにそっくりだわ。また物まねのレパートリーが増えたじゃない」
「やだあ、逢坂《あいさか》さんって冗談《じょうだん》きっつい〜! 笑える〜! あ、こっちのゴミは逢坂さんにそっくりじゃない? このどうしようもないほどチビなあたりがあ〜」
陰険に競《きそ》って咲きあうドス黒い妖花《ようか》が二輪《にりん》、チクチクと嫌味《いやみ》の応酬を楽しんでいる……心見ているだけでどっと疲れ、
「……大河《たいが》、やめとけ。行くぞ、ほら」
からっぽのゴミ袋で大河の尻《しり》の辺《あた》りをはたき、無理にでも引き離《はな》す戦法に出る。が、
「尻さわんなってば! ……もう……いらいらするったら……っ」
大河は神経質に牙《きば》を剥《む》き、そのままスタスタと先を歩いて行ってしまった。やはり北村《きたむら》と生徒会長のことが気にかかっているのだろう。亜美《あみ》も亜美でプイ、とそっぽを向き、大河とは反対の方を向いて腕を組む。
そんな二人の様子《ようす》を見てなにか感じるところがあったのか、実乃梨は声をひそめて「ねえねえ」と囁《ささや》きかけてくる。
「なんか……お昼も思ったんだけど、大河と川嶋さんってちょっと険悪な感じ? もしかして」
いまさらなにを、という話だが、実乃梨に問われれば答えずにはいられない。
「ああ、いろいろ感情の行き違いがあったみたいだ。微妙に気が合わないというか」
「そっか〜……そりゃ〜しゃあないねえ」
やがて二人は並んでゆっくりと歩き出し、――竜児は震《ふる》えるほど感動。今、自分は、実乃梨と二人で歩いている。まるでデートをしているように、新緑《しんりょく》の木立《こだち》の下をゆったりした速度でそぞろ歩いている。前後にいる揃《そろ》いのジャージの有象《うぞう》無象《むぞう》を見なかったことにしてしまえば、完全にデートの光景だろう、これは。こんなことが現実になる日が来るなんて……。
「大河《たいが》と川嶋《かわしま》さん、か。川嶋さんて、なんとなくだけど私が最初に思ってたような子じゃないっぽいんだよね、悪い意味じゃなくて。……大河には誰《だれ》とでも仲良くして欲しいけど、あの子もなかなか難《むずか》しいところあるからなあ……この組み合わせはやっぱ微妙なのかなあ……女同士は複雑《ふくざつ》なのだよ」
うんうん、と小難しい顔で頷《うなず》く実乃梨《みのり》。竜児《りゅうじ》も同じくうんうん、と頷き返す。なんだか、実乃梨との間に妙な連帯感のようなものが生まれかけている予感。もしもこの予感が本物ならば、大河も北村《きたむら》も介さない、初めての直接的な「ご縁《えん》」ということになる。
それなら大きく育てなくては――竜児はキッ、と目つきを鋭《するど》くし、珍しくも少々オフェンシブに振舞《ふるま》ってみることにする。
「く、櫛枝《くしえだ》がいるから、俺《おれ》はあんまり大河のことは心配してねえけどな」
少々声はひっくり返ったが、よし、一応普通に言えた。実乃梨は笑って竜児を見上げ、
「そりゃーこっちのセリフだって。高須《たかす》くんがいれば大河は大丈夫なのかなって思ってるよ、私」
相変わらず誤解されている……とはいえ、実乃梨の中で竜児の人物評価はかなり高いのではないだろうか、これは。好感触、とも言っていいはず。互いに微笑《ほほえ》み合い、竜児と実乃梨の視線《しせん》がぶつかる。さあ、もう一歩だ。もう一歩だけ、深く踏み込むんだ。今こそ言うんだ――男なら言うべきだ。竜児は滾《たぎ》る想《おも》いに目を充血させ、張り付きそうな喉《のど》を咳払《せきばら》い。
『大河だけじゃなくて、櫛枝の近くにも、もっといられたらいいんだけどな……』と。これだ。乾いた唇《くちびる》をそっと舐《な》め、緊張《きんちょう》に震《ふる》える拳《こぶし》をさりげなくポケットに。このタイミングでなら自然だ、変な意味ではなく、冗談《じょうだん》っぽくもフォローできる。今しかない、今しか――
「た、」
「竜児っ!」
ドーン! と力いっぱい突き飛ばされ、
「竜児、ねえ、大変! もーどうしよう!」
「……」
声も出ない。コケる寸前で踏み止《とど》まったものの、大河の顔を見上げたまま、竜児は声も出すことができない。
「ちょっと来て! こっち来て!」
そのまま引きずるように路地の陰へと連れ込まれ、
「北村《きたむら》くんがね、ずーっとあの生徒会長の傍《そば》にいるの! ずーっと、離《はな》れないの! 嬉《うれ》しそうに笑っちゃって、私がいることにも気づかないの! 勇気を出して言ってみたのよ、竜児に付き合って私も来たんだけど、って、そうしたらなんて言ったと思う!? 『あっ、そうだったのか。気がつかなかったなあ、ありがとう! 助かる!』――それだけ。それだけよ! それが一度は告白した女に言うセリフ!? ねえ、どう思う!?」
息継《いきつ》ぎもなしに一気にそこまで言い募《つの》り、大河《たいが》は竜児《りゅうじ》にさらに詰め寄るのだ。
「これって……やっぱり脈なしってことなのかな!? ど、どうしよう!? あんたはどう思うのか、怒らないから正直に言って!」
「ど、どう思うもなにも……正直に言えばな、」
「うんうん」
「……放っておいてほしかった……ちょっと櫛枝《くしえだ》とうまくいきかけてたのに……」
「……なによそれ」
至近|距離《きょり》、大河の表情に静かなる怒りが満ちる。
「私がこんなにうまくいってないのに、竜児の分際《ぶんざい》でうまくいきかけてた!? はあ!? 竜児のくせになまいきよ!」
「い、いいじゃねえか別に! 怒らないんじゃなかったのか!?」
「怒るよ! だめ、そんなの許さない! 言ったはずでしょ、私が北村《きたむら》くんとうまくいくまでは、あんたを幸せになんかさせないからって! この……薄情者《はくじょうもの》!」
横暴《おうぽう》な大河はそのままずんずん路地から出ていき、
「大河、どうしたのさ? 現れたと思ったら消えちゃってさー」
「みのりん!」
所在なさげに立っていた実乃梨《みのり》の腕に、がしっと抱きつくように腕を絡《から》めた。
「私、もうここにはいたくない……二人だけでどこまでもどこまでも遠くへいこ!」
「駆《か》け落ちかい? かまわんよ、ボクは」
実乃梨の笑顔《えがお》は包容度満点、大河の小さな肩をそっと彼女は抱いてやる。
そうしてそのまま二人は寄り添い、遠くへ歩み去ってしまった。一度も竜児を振り返らずに、なんだか妙に楽しげに。
「く、くそ……っ」
悔《くや》しさに呻《うめ》いて立ち尽くし、置き去りの竜児は離《はな》れていく実乃梨の背中をじっと眺めることしかできない。せっかく前進しかけていたのに――
「大丈夫?」
「え?」
突然に話しかけられ、弾《はじ》かれたように振り向いた。憎い大河が消えたから出てきたのか、亜美《あみ》がちょこんと傍《かたわ》らに佇《たたず》んでいたのだ。
「さっき逢坂《あいさか》さんに突き飛ばされてたでしょ? 見てたんだ。大丈夫だった?」
「え……あ、まあ……慣《な》れてるし」
「高須《たかす》くん、かわいそ。逢坂《あいさか》さんも実乃梨《みのり》ちゃんもいなくなっちゃったね、祐作《ゆうさく》もどこ行っちゃったのかわからないし」
「あ……おう」
ふと気がつけば、同じようにそぞろ歩いている他《ほか》の生徒たちはチラチラと亜美《あみ》を眩《まぶ》しそうに見ている。噂《うわさ》の美少女を熱《あつ》く見つめながらも、その隣《となり》にいるのが「あの高須《たかす》」とあって、誰《だれ》も話しかけることができずにいるらしい。いまだに高須|竜児《りゅうじ》の名は、手乗りタイガーと並んでクラス外では恐怖の代名詞となっているのだ。
と、勇気ある数名の女子がすれ違いざま、「亜美ちゃ〜ん」と手を振った。亜美がにっこり笑って手を振り返してやるときゃあきゃあ騒《さわ》いで喜んでいる。亜美は彼女たちにしかしすぐに背を向けて、
「じゃ、残された者同士、仲良くやりますか! ね、どっち行ってみる?」
眩《まばゆ》い天使の笑顔《えがお》で竜児を見上げた。
「え……っと……今のあの子たちと一緒《いっしょ》に行かなくていいのかよ」
「いいのいいの、全然知らない人たちだし。あたし、高須くんと行く。そうだ、土手の方行ってみようか。向こうも清掃の範囲《はんい》だったよねえ?」
「……構わねえけど……」
俺《おれ》なんかと行ってもしようがないんじゃ? という問いを発する暇《ひま》さえ与えてくれず、亜美は嬉《うれ》しげに大股《おおまた》で歩き出す。そしてくるりと振り返り、
「ほら、置いてっちゃうよ!」
――まるで映画のワンシーンのように、しなやかな手を差し出してみせるのだ。まさかそれを握るわけにもいかず、竜児は早足で歩いて亜美を追い抜かしてしまうしかない。まるで根性曲がりな野郎が、照れてそうしているみたいに。
***
ぷるぷるぷる……と震《ふる》える棒きれの先が、水辺《みずべ》を漂うペットボトルをようやく捕らえた。
「とっ、とど、い、た……っ!」
「がんばれー!」
河の流れに逆らうようにその空きボトルを引き寄せ、竜児はようやく息をつく。思いっきり伸ばしたせいでダルくなった腕を振り、あまり触らないようにしながらゴミ袋に落として一個クリアだ。
「はあ……これでやっと半分か……」
「あたしの方も同じぐらい。もうちょっと探さなくちゃね、元気出していこ!」
町の境を流れる一級河川の川岸、竜児と亜美は運動靴を濡《ぬ》らさないように気をつけながらコンクリの護岸《ごがん》の下を再び歩き出した。薄《うす》ら暗くなってきた雲の下、草むらは手入れする人間もいないのか好き放題に生《お》い茂り、コンクリートの隙間《すきま》からはみ出しまくっている。
かすかな草いきれと、あまり綺麗《きれい》とはいえない河の水の臭《にお》い。亜美《あみ》の先を歩きつつ、竜児《りゅうじ》はこっそりと息をつく。想像以上にダルい作業になってきた。それぞれの手にぶら下げたゴミ袋の中身は、一杯というには程遠《ほどとお》い量のゴミしか入っていない。ノルマは厳密《げんみつ》ではないと言っても、さすがにこれでは通用しないだろう。
さっきまでは土手の上の遊歩道でゴミ探しをしていたのだが、めぼしい嵩《かさ》のあるゴミなどほとんど落ちてはおらず、結局ここまで降りてきてしまったのだ。と、
「おっと……」
「きゃっ」
ちゃぷん、と風向きによって寄せてくる波を危ういところで避け、竜児は亜美を振り返る。
亜美も無事に波を避けられたようだが、
「はあ……ちょっともー……最悪なんですけどお……」
ゴク、と竜児は息を飲む。
聞こえてしまった低い独《ひと》り言《ごと》は苛立《いらだ》ちにかすれ、亜美の眉間《みけん》にはあってはならない険《けわ》しい皺《しわ》がめりめりと深く寄っていた。竜児がげんなりしている以上に、亜美も疲れてきているのだろう。外面《そとづら》に破綻《はたん》の予兆あり。
確《たし》かに空は暗いし風も強い、作業も退屈なことこの上ない。肌寒くなってきたのに、まだまだ終了時間は遠い。ゴミも集められていない。こんな状況下にあれば、亜美でなくても普通は不機嫌《ふきげん》にもなろう。その上、この微妙すぎる二人きり空間だ。会話も保《も》たないし、気まずいし、シャイな竜児は気の利いた冗談《じょうだん》のひとつも言えない。キモいと思われないように平静を装うのが精一杯なのだ。
「だ、大丈夫だったか?」
「えっ? うん! ぜんぜん大丈夫だよ〜! こういうのって探検みたいで楽しいよね! あたし、こういうの好きなんだ〜!」
顔を上げた亜美の美貌《びぼう》には、無事に天使の笑顔《えがお》が貼《は》り付いていたのだが――そのギャップがまた怖かった。いっそ不機嫌のままでいてくれた方が、いくらかマシな気さえしてくる。
「なあ、その……無理するなよな。疲れたら休んでてもいいんだぞ。別にノルマ達成できなくても殺されるわけじゃねえし。結構これ、女子にはきついよな」
それは竜児なりの、精一杯のご機嫌|伺《うかが》いだったのだが、
「やぁだ、ほんとにだいじょぶだってば!」
それに対して亜美は外面全開。大げさに顔の前で手を振って見せながらチワワの瞳《ひとみ》をきらきら輝《かがや》かせて上目《うわめ》遣《づか》い、小首をかしげてことさら甘く言葉を紡《つむ》いでくれる。
「あたし、ずっと思ってたんだよ? 高須《たかす》くんとこうしてゆっくりおしゃべりできる機会があればいいなって。だから……おわあっ!」
そのときだった。
悪戯《いたずら》な強風が、今までになく強い波で水面を揺《ゆ》らしたのだ。竜児《りゅうじ》はとっさに斜面へ逃げて難《なん》を逃《のが》れることができたが、ゼロメートル地点でかわいこぶっていた亜美《あみ》は、
「……うっ……そお……っ」
逃げ遅れた――気の毒なことに。
「大丈夫か!? お、俺《おれ》ひとりだけ逃げるなんて……なんてことを……」
「……」
さすがの性悪も、これには取《と》り繕《つくろ》う術《すべ》がないらしい。びしょびしょに濡《ぬ》れてしまった運動靴とジャージの裾《すそ》を亜美はじっと見下ろして、言葉もないまま無表情でじっと佇《たたず》んでいる。
「か、川嶋《かわしま》……」
しかし、やがてグググ、と亜美の唇《くちびる》の端《はし》がゆっくりと持ち上がるのが見えた。険《けわ》しくつり上がった眼差《まなざ》しが、震《ふる》えつつも懸命《けんめい》に和《やわ》らいでいくのも見えた。
「おお……」
感動のプロ根性。少しずつだが確実《かくじつ》に、亜美は天使の仮面を取り戻そうと必死の努力をしている。そして七割がた外面《そとづら》の体裁《ていさい》が整《ととの》ったところで、
「ひっ――」
再び美貌《びぼう》が凍《こお》りついた。濡れた亜美の足元、運動靴の紐《ひも》の上、なにやら黒っぽい濡れ濡れとした変な物体が、うごうご、ぶるぶる、ぷるんぷるん、と……たっぷり三秒はそいつを見つめ、
「いっっっ……」
絶叫。
「やあああああああうぎゃあああああああとってとってとってぇぇっっっ!」
身《み》も蓋《ふた》もない悲鳴を上げて、亜美はその場にぶっ倒れる。ブンブンぶん回すその足先には、
「う、動くなっ! 動くなって! 俺の顔を蹴《け》るな、おたまが落ちるっ! 潰《つぶ》れるっ!」
おたまじゃくしが二匹、いや三匹、平気な顔をして乗っかっていたのだ。発狂寸前の声を上げて人事《じんじ》不省《ふせい》の亜美の靴をなんとか脱がせ、
「サルベージッ!」
竜児は小さなおたまたちを川に戻してやることができた。
「……っ、……っ、……っ」
が。
仰向《あおむ》けに倒れ込んだ格好《かっこう》のまま亜美は顔面を硬直させ、息も絶え絶え、凍り付いている。髪は無残に振り乱されて無造作に足は開いたまま、ジャージはすねのあたりまでびしょ濡れで、ソックスは言わずもがなの泥水まみれ。「川嶋亜美ちゃん」にはあるまじきひどい状態だ、これは。
竜児《りゅうじ》はおそるおそる近づいて、
「く、靴……ここに置くから…な。濡《ぬ》れてるけど、もうおたまは乗ってねえ」
その足元にそっと運動靴を揃《そろ》えて置いてやった。亜美《あみ》の大きな眼球が、グリン、と動いてその靴を見下ろす。そして、
「あ、あ、あ、……」
亜美ちゃん――と、低い呟《つぶや》きが聞こえた。
聞こえて、その次の瞬間《しゅんかん》。
「もーこんなこと、したくねえっつ―――――――――――――――のっっっっ!」
白い手が靴を掴《つか》み、そのままどっせーい! と土手へ投擲《とうてき》。
「……わ……うわ……」
思わず口元を手で押さえ、竜児はそれ以上の声も出ない。ついに仮面が剥《は》がれ落ちた……。
亜美ははあはあと獣《けもの》のよう肩で息をし、早口でさらに何事か「もー耐えらんない」だとか「超やってらんない」とか「亜美ちゃんもう帰る絶対帰る」、そんな悪態をつき続け――
「ああっ!?」
振り返り、竜児と目が合う。ようやく存在を思い出してくれたらしい。そのまま数秒、二人は声もないまま見詰めあって、
「……えへっ!」
亜美は拳《こぶし》を目元に充《あ》て、必殺のピュア・スマイル。
「なーんてね! 冗談《じょうだん》だよお、冗談! やっだあ、高須《たかす》くん、こわい顔〜!」
こわいのはあんただよ……とはもちろん言えるわけがない。亜美はえへえへ、と笑顔《えがお》で何度か振り返りつつ、ソックスのままで健気《けなげ》なふうに土手を登り、
「よいしょ、よいしょ……あ〜! あったあ! よかった、見つかったよお〜!」
両手に自分がブン投げた運動靴を掴《つか》んで満面の笑《え》み、ものすごい無理やりな甘ったれ声を放ちつつドラマチックに振り返って見せる。そしてそれをその場で履《は》き、
「高須くん、土手まで兢争《きょうそう》しよっか!」
「…えっ……」
「負けた方が集めたゴミを、全部勝った方にあげるんだよ! それでノルマ達成だ! いっくよ〜、よーいどん!」
――どんどん土手を走って上がっていってしまう亜美の背中をじっと見詰め、竜児は思う。ゴミをあげる、っていうか……ゴミ袋、置いて行ってるじゃねえか、と。
仕方なしに両手に二人分のゴミ袋を持ち、土手を早足で登って行く。ついていけないが、ついていくしかないだろう、この場合。
亜美の背中は草むらの中、とっくに視界から消えている。今頃《いまごろ》、人目のないところで、破綻《はたん》した外面《そとづら》を必死に取《と》り繕《つくろ》っているのだろうか。すこしゆっくり行ってやった方がいいだろうか。と、
「おっそーい!」
土手の上、草むらの陰からぴょこん、とすっかり愛らしく整《ととの》った美貌《びぼう》が覗《のぞ》いた。
「高須《たかす》くんの負け! でも、ちゃんとゴミ拾い手伝ってあげるから、心配しなくて大丈夫だよ!」
そう明るい声で言ってこっちを見下ろす亜美《あみ》は、いつもの笑顔《えがお》を完璧《かんぺき》に取り戻したようにも見える。だが、
「……もういいだろ、そういうの」
「え? そういうのって?」
言葉とは裏腹に、困惑《こんわく》したように揺《ゆ》れる眼差《まなざ》しまでは隠《かく》しようがなかったのだ――亜美の瞳《ひとみ》は大きすざるから。そして、もはや本音《ほんね》を取《と》り繕《つくろ》えないほどに疲れたのは竜児《りゅうじ》も同じだった。
「……それ、どんな意味があるんだ? そんな苦労して俺《おれ》に好《す》かれて、それにどんだけの価値があるんだ? ……俺は誰《だれ》にもなにも言ったりしねえよ。だからもうその辺で休んでるか、なんなら先に戻ってろよ」
ぶっきらぼうになってしまったその声に、
「……なんのことかな? 意味、わかんないなあ」
亜美はきょとん、と目を丸くして見せる。意地でもやり抜くつもりらしい。とっくに破綻《はたん》しているのに、やはり並みの図太《ずぶと》さではないのだ。だけど竜児の図太さも負けてはいない。なにしろ手乗りタイガーに毎日毎日かわいがられているのだから。
「……わかんねえって言うなら、それでもいいよ。勝手にしろよ。でも、俺の方がもっと意味がわかんねえ。なんでおまえ、こんな面倒《めんどう》な作業に無理して出てきたんだ? 意味ねえだろ、こんなことしても」
別に責める気はないのだが、問わずにはいられなかった。だってこんな面倒なこと、外面《そとづら》形成の一環《いっかん》にしては割の合わない作業だと思ってしまうのだ。こんなことまでしなくても、十分に亜美のいい評判はクラス中に広まっていたのだから。
だが亜美は、
「……意味、わかんない? ……わかんないんだ。 へえ……」
不意に笑《え》みを消し、呟《つぶや》いた。
その透明な眼差しに、一瞬《いっしゅん》竜児の歩みが止まる。どんな顔をしているのか思わず目をこらしてしまうが、風が吹《ふ》いて亜美の髪が散り、その表情は隠される。
「……意外と、それほどチョロくはないわけだ。高須くんは。……通じないんだ、こういうの……」
あのチビと遊んでやるだけのつもりだったけど、これって調子《ちょうし》狂うよね――かすれた声は、どこか自嘲《じちょう》気味に響《ひび》いた気がする。
「……え? なにが遊び、なんだ……?」
だが、聞き返したときには、
「ん? なあに? そんなふうに、聞こえた? おかしいな、聞き違いでしょ」
髪を耳にかけ、亜美《あみ》は天使のように穏《おだ》やかないつもの笑《え》みを浮かべて竜児《りゅうじ》を見下ろしている。
「さっきも言ったけど、あたしがこうしてここにいるのは、高須《たかす》くんと二人でゆっくりお話したかったからなんだよ? それって、そんなに意味不明かなあ?」
その甘い言葉、美しい笑顔《えがお》……そこにあるのはまさしく、見慣《みな》れた亜美のうわっつらだった。なにを言っても通じはしない、他人を舐《な》めくさったいつもの亜美だ。
竜児は息をつき、それ以上の質問をやめた。なにを言ってもこの亜美には、どうせ通じはしないのだ。頑張りたいなら頑張ればいい、自分にはもはや無関係だ。
と、不意に亜美が天を仰ぐ。
「……雨……?」
竜児の頬《ほお》にも、冷たい雫《しずく》がボタリと重く落ちてきた。
「……すごいことになっちゃったね……」
土手の遊歩道の脇《わき》に据《す》えられた東屋《あずまや》のベンチ、亜美は細い足を抱えて座り、呆然《ぼうぜん》としたように呟《つぶや》く。
彼女が外面《そとづら》を取り戻して、ものの十分ほどしか経《た》っていないのだが――もはやゴミ拾いなどできるような状況ではなかった。
亜美の言葉どおり、屋根とそれを支える柱だけの簡単《かんたん》な造りをした東屋の外はすごいことになっていた。突然の豪雨《ごうう》に襲《おそ》われたのだ。
分厚い雲が天を覆《おお》い、まだ四時ごろだというのに異様な暗さが辺《あた》りを包む。横殴りの雨粒は柔らかい土の大地に激《はげ》しく降り注《そそ》ぎ、弾丸のように土の表面を抉《えぐ》っていく。降り始めてまだ数分なのに、早くもあちらこちらに水溜《みずたま》りができて小川のように流れていて、土手の下の一級河川はすぐそこなのにけぶったように霞《かす》んで見えた。
強風の轟音《ごうおん》が東屋をきしませ、
「……ここ、屋根ごと飛ばされちゃったりして……」
「まさか」
笑い飛ばそうとするが、亜美は本気で怯《おび》えているようだった。
「大丈夫かな、ほんとに……」
「この降り方なら、あと何分かすれば止《や》むだろ」
柱に寄りかかって立つ竜児の言葉にも顔を曇《くも》らせたまま、亜美は白い頬に濡れてしまった髪を貼《は》り付けている。もはや外面も本性《ほんしょう》も関係ない。微妙な気まずさもなにもかも、豪雨の前にはふっとんだ。亜美《あみ》はただ寒そうに小さく震《ふる》え、不安そうに荒れる空を見上げている。その薄《うす》い肩を包むジャージもすべて全身ずぶ濡《ぬ》れで、
「……くしゅん!」
子ネズミのような小さなくしゃみ。大河《たいが》の変な音のくしゃみとは大違いだ、思わず着ているものを脱いでその肩にかけてやりたくなってしまう。が、竜児《りゅうじ》のジャージも同じくびしょ濡れで、
「寒いだろ。……使ってないゴミ袋あるけど、着るか? 頭通すところに穴あけて」
「えっ!? そんなのやだっ!」
間髪《かんはつ》いれずに拒否される。外面《そとづら》の亜美なら、きっと笑って受け入れてくれたのに。
「……だよな。ゴミ袋の貫頭衣《かんとうい》なんてやだよな」
「やだよ、絶対にやだ。そんなのするわけないじゃん! もう……信じらんない……」
甘えるような鼻声で、亜美は子供のようにぷいとそっぽを向いた。
それは、普段《ふだん》の亜美なら絶対に見せないだろう不機嫌《ふきげん》さ。多分《たぶん》、一度|壊《こわ》れてしまった外面は、なにがしかのきっかけで簡単《かんたん》に壊れてしまうものなのだ。たとえば、突然の集中豪雨で全身冷え切って最悪、だとか。
「……これはきっと、おたまじゃくしの呪《のろ》いだな」
気詰まりな沈黙《ちんもく》を解こうとして、くだらない事を言ってしまった。亜美はつまらなそうに竜児《りゅうじ》を見上げ、
「……なんで呪《のろ》われなきゃいけないの?」
「命の危険に晒《さら》された八つ当たりだろう」
「……助けたじゃん、高須《たかす》くんが」
「……実は助けたと見せかけて、その辺の草むらにぽいっと……」
「えっ!?」
ガバッ、と身を起こし、亜美《あみ》はそのまま声を失う。口をぽかんと半開きにし、今にも零《こぼ》れ落ちそうに瞳《ひとみ》を見開き、
「……嘘《うそ》に決まってるじゃねえか。俺《おれ》がそんなことができる奴《やつ》に見えるか?」
「なっ……なんだ! もー! 一瞬《いっしゅん》本気でビビっちゃったよ、だって高須くん、そんなことができる奴に見えるもん!」
失礼なことを言ってくれる。
「なんだよそれは。悪いが俺は、相当|優《やさ》しい奴なんだぞ。自分で言うのもアレだけどよ……でも本当に動物とか大好きで、今の借家でも卵から孵《かえ》したインコを大事に飼ってる」
「インコ? ……それ、逢坂《あいさか》大河《たいが》が言ってたブサイクな変態インコのこと?」
「大河の奴、なんてことを言うんだ……なかなか愛嬌《あいきょう》があっていいインコなんだぞ」
「インコにいいも悪いもあんの? 名前は?」
「インコちゃん」
「……」
亜美は一瞬《いっしゅん》黙《だま》り込み――
「あはははっ! なにそれーっ!」
唐突《とうとつ》に笑い出した。意味が分からずきょとんと目つきを悪くする竜児を指差し、
「普通つけないよ、そんな名前! それ名前じゃないじゃん、種類じゃん! 変変変、絶対へーん!」
「……そうか?」
「そうだよ!」
濡《ぬ》れて雫《しずく》を零《こぼ》す髪をかきあげ、丸いおでこを全開。両手を小さく叩《たた》きながら亜美はなおも笑い続ける。足をパタパタと動かしてよほどツボに入ったのか、
「インコちゃんって! なんだそれっ! 高須くん、見た目と中身違いすぎるよあの生徒会長ほどじゃないけどー!」
竜児に向けた瞳《ひとみ》の目じりには、笑いすぎの涙まで溜《た》めて。だが、
「――っ」
亜美の笑い声が、始まりと同じぐらい唐突《とうとつ》に止《や》んだ。まるで石化の魔法《まほう》でもかけられたみたいに。硬化した亜美の視線《しせん》は竜児を通り過ぎてその背後《はいご》に向けられ、その表情はまさしく石像のようになっていく。そして、
「どうした? ……ちょっと、おい! 川嶋《かわしま》!」
竜児《りゅうじ》の声に答えもせず、亜美《あみ》は東屋《あずまや》から豪雨《ごうう》の中へ出て行ってしまうのだ。あまりに脈絡のない彼女の行動に、竜児はペースが掴《つか》めない。亜美は止めるのも聞かず、生《お》い茂る草むらに身を隠《かく》すように身体《からだ》を屈《かが》めて小走り、冷たい雨に打たれながらもどんどん離《はな》れて行ってしまう。わけがわからないが追いかけないわけにもいかず、
「待てって!」
竜児も横殴りの雨の中に飛び出す。そして追いついた亜美の背を無理やり抱えるようにして、東屋から少し離れたところにある打ち捨てられたボロ駐輪《ちゅうりん》スペースの中になんとか押し込んだ。
一応ここにもトタンの屋根はついているが、さきほどの東屋とは天と地の差。ほとんど吹《ふ》きさらしと変わらないうえに座るところもなく、傍《かたわ》らには錆《さ》びた自転車が雑然と積《つ》み上げられているありさまだ。
「一体どうしたんだよ!? なんでわざわざこんな濡《ぬ》れるところに……」
「しっ!」
「……っ!」
冷たい手が竜児の首筋に伸びた。その冷たさと、至近|距離《きょり》の亜美の香《かお》りに竜児は声も出ない、息もできない。
そのまま体重をかけるように、亜美は竜児にしがみつくのだ。そして押し倒す勢いで荒っぽく、その場にもつれ込むようにしゃがみ込まされてしまう。
「お……っ、ちょ……っ、……っ」
「……しー、だってば!」
ぴったり触れた身体は異様なほどむにゅむにゅと柔らかく、しかし儚《はかな》いほどにほっそりとして、くっつきあった皮膚《ひふ》の部分からじわりと溶けて混ざっていってしまいそうなほどに亜美の肌はなめらかだ。
溶けてしまうわけにはいかない……竜児は本気の超必死、顔を真《ま》っ赤《か》な血の色に染《そ》めて、亜美に体重をかけないように柱を握って身をもぎ離す。雨に濡れた匂《にお》いも甘く、溺《おぼ》れた人のように無我《むが》夢中《むちゅう》で仰《あお》のいて、竜児は息を虚空《こくう》に逃がす。
だが、
「……しばらくここで、こうやって……隠《かく》れてて……」
わずかにかすれた囁《ささや》き声。
そして亜美は身体を小さく丸めてしゃがみ、竜児の身体を盾《たて》にするようにその胸の中にすっぽりと納まってしまう。閉ざした目蓋《まぶた》は真珠色《しんじゅいろ》、雨に濡れた長い睫毛《まつげ》に透明な雫《しずく》が光るさままで見えてしまう至近距離。
「あ、あ、あ、……ちょ、ちょ、……こ、これは……」
針でつつけば血を噴《ふ》き出しそうな表情で、竜児《りゅうじ》は恥《は》ずかしながらもせっぱつまりきった声を上げた。こんな超絶急接触、しかも超絶美少女と、これで普通でいられる奴《やつ》がいるならお目にかかってみたいものだ。
「……あそこ……」
か細い声で囁《ささや》いて、亜美《あみ》は小さく指差して見せる。どこか夢心地《ゆめごこち》のままそちらを見て、その瞬間《しゅんかん》。竜児の煮詰まった血液は一気に氷点下に凍《こお》りついて、冷たく足元まで流れ下がった。
「……あ、あいつ……」
元いた東屋《あずまや》に雨を避けるように駆《か》け込んできた男には、嫌《いや》な見覚えがあったのだ。
傘《かさ》を畳んで辺《あた》りを見回す、その学生風の一見普通な佇《たたず》まい――この大降りの中で手にしているのがデジカメでなければ、異様さもここまでは際立《きわだ》つまい。
思わず鳥肌が立ち、竜児は亜美と身体《からだ》を入れ替えて亜美の姿をなんとか完全に覆《おお》い隠《かく》す。
「昨日《きのう》の変態……だよな。なんでこんなところにいるんだよ。偶然にしてはできすぎ、だろ……」
「……ほんとに偶然だと思う?」
「……」
亜美の声に、返事はできない。絶対偶然のわけがない。
「学校で待ち伏せして、つけてきてたんだ……私たちのこと……」
その気持ちの悪さに、竜児は思わず小さく震《ふる》える――それは寒さだけのせいではない。
「なんで学校まで知られてるんだよ。おまえ、昨日は偶然会ってしまった変なファン、みたいなこと言ってたじゃねえか」
「……そう、なんだけど……」
口ごもる亜美の声に、苦《にが》い逡巡《しゅんじゅん》が混ざるのがわかった。何度か口を開きかけ、しかしつぐみ、竜児の腕の中で亜美は息を詰める。そのまま身体を硬くする。
「言えよ。ここまできて、隠し事なんかなしだろ」
冷えた肩をそっと揺《ゆ》すぶってやると、その背中がわずかに霞えた。そして亜美はゆっくりと、
「あのね……あいつ、はっきり言うと、ストーカー……なんだよね」
低い声を、ようやく吐き出す。
その言葉の響《ひび》きに、竜児は以前に聞いた亜美の固い叫びを思い出していた――この、ストーカー! 大河《たいが》との陰険な喧嘩《けんか》の中で、それはほとんど唯一《ゆいいつ》の、亜美が感情を露《あらわ》にした瞬間《しゅんかん》だったと思う。
「昨日は、なんていうか……恥《は》ずかしくて言えなかった。大げさになるのも嫌だったし……あいつ、業界では有名な迷惑《めいわく》野郎なの。どうやって調《しら》べるのか、カメラ片手に自宅とか実家とか、学校なんかにまで出没するの。私以外にも何人か、他《ほか》の雑誌のモデルの子たちも周りをうろつかれて困ってる」
「……まじかよ……」
呻《うめ》くような竜児《りゅうじ》の声に、亜美《あみ》は頷《うなず》き、さらに言葉を継《つ》ぐ。
「私がこっちに引っ越してきたのもあいつのせいなんだ。うち、ママも芸能人でしょ。ママの事務所から、自宅付近を変な男にウロつかせるのは困るって言われちゃって……私だけこっちの親戚《しんせき》の家にお世話になることにしたの。パパも仕事が忙しくて都心の事務所|離《はな》れられないし。でも……まさか、引越し先まで突き止められるなんて……」
「そう、だったのか……」
「うん。引越してきたことは仕方ないって思うんだけど、でも……怖いんだよね。親とも離れちゃったし、ほとぼりが冷めるまでモデルの仕事も休むことにして、事務所もいったん休むことにしちゃった。だから、守ってくれる人がいないの……前はマネージャーがいたから車で送り迎えもしてもらえたんだけど……ああもう、信じられない……こっちに来てまであいつに追いかけられるなんて……」
そりゃ怖いだろう。
男の自分でさえ寒気がするほど怖いのだから、ターゲットになっている亜美の恐怖はそれこそ計り知れない。
思わず亜美を抱えた腕に力がこもり、
「……高須《たかす》くん……」
「あいつが諦《あきら》めて行っちゃうまで、隠《かく》れていよう」
俺《おれ》がぶっとばしてくるぜ、などとは言えない小心者ではあるのだが、一緒《いっしょ》に隠れているぐらいなら竜児にもできる。そのまま二人は息をひそめ、身を寄せあって時が過ぎるのを待つ。しかし男も雨に往生《おうじょう》しているのか、ベンチにそのまま腰をかけ、濡《ぬ》れたカメラをのんびりと拭《ふ》き始める。
そうしている間にも容赦なく雨は吹《ふ》き込み、竜児のジャージも濡れて重くなっていく。一体いつまでこうしていればいいのか――と、
「お〜い! 高須く〜ん! 川嶋《かわしま》さ〜ん! おっかしいねえ、どこにもいないよ。 しっかしこの雨……なんだっちゅーのよ。大河《たいが》、寒くない?」
「大丈夫。みのりんは?」
「平気平気! でも、ほんとにどこにいるんだろね。土手に向かってくところ、見てた子がいるのになあ……」
「この雨だから、途中《とちゅう》で引き返したのかな。先に戻ってたりして」
「引き返したなら私たちと途中で会うべ?」
多少はマシになってきた風雨の中、聞こえてきたのは間違いなく実乃梨《みのり》と大河の声だった。救われたのか、それとも事態は悪化したのか、行動の読めない二人組だけにあまり頼りにはできない気がする。それでも竜児《りゅうじ》は思わず振り返り、
「おい、あの声って絶対に大河《たいが》と櫛《くし》……ぶっ!」
吹《ふ》き出した。こんなときだというのに。
だってひどいのだ――実乃梨《みのり》はゴミ袋に穴を開け、まさしく話題の貫頭衣《かんとうい》状態・陽気なスケスケポンチョ姿。大河に至ってはなにやら小さな透明パックのようなものを傘《かさ》にして頭に乗せ、
「ところでみのりん、さっきのたこ焼き、あんまり熱々《あつあつ》じゃなかったね。今さらだけど腹立ってきたわ。文句言ってこようかな、今から」
その正体はたこ焼きパック……しかもそんなモンで、小さな身体《からだ》はきちんと雨から守られているのだ。頭に青のりや鰹節《かつおぶし》がくっついてもいいのだろうか。本当はあいつ、ものすごくあほなんじゃなかろうか……だめだ、どうにも笑えて腹筋が……緊張感《きんちょうかん》が途切《とぎ》れてしまう。
必死に笑いをこらえようとする竜児の顔を覗《のぞ》き込み、
「……高須《たかす》くん、なんか震《ふる》えてるよ」
亜美《あみ》は咎《とが》めるように唇《くちびる》を尖《とが》らせる。だが、
「すまん……なんか……ツ、ツボに入っ……たこ焼きパックの傘って……ぶはっ」
あんな感じの妖怪《ようかい》がいた気がしてしまって――脳内ではすっかり水木《みずき》絵《え》が展開中。
だがその異形《いぎょう》になにやら刺激《しげき》されたのは竜児だけではなかったらしい。東屋《あずまや》を占拠していたストーカー男はハッ! と振り返り、
「かわいいミニサイズ妖怪発見!」
不躾《ぶしつけ》にカメラを構えるのだ。だがそんな動きに百獣《ひゃくじゅう》の女王・手乗りタイガーが気づかないわけがない。
「……妖怪、……だあ?」
一瞬《いっしゅん》で大河は顔を歪《ゆが》め、血を求める牙《きば》を剥《む》き出しにする。正確《せいかく》に声のした東屋へ凶悪な視線《しせん》をグリッと向け、
「そこのあんた! どういう了見《りょうけん》してんだか知らないけど、あんた相当気持ち悪いわよ! あんたみたいな不審者《ふしんしゃ》風情《ふぜい》に、妖怪呼ばわりされる覚えはないわねえっ!」
赤い舌でべろりと一度|唇《くちびる》を舐《な》め回す――大河の殺気《さっき》は出し入れ自在、見知らぬ他人だろうが変態だろうが、お構いなしに爆発《ばくはつ》する。
傘にしていたたこ焼きパックを手の中でクルクル丸め、簡易《かんい》ドスの完成だ。それを両手でしっかり握り締《し》め、脇《わき》を締めてがっちりホールド、
「この雨なら証拠《しょうこ》も流される」
吐き出すように呟《つぶや》くのと同時にそのまま猛然《もうぜん》とダッシュをかけるのだ。
「え? わ、うわ!」
無言のままドスのようなものをがっちり握り、異様なスピードで顔は般若《はんにゃ》、ヤる気まんまんで突進してくるナゾの妖怪が怖くないわけがない。
「な、なんなんだよ!?」
男は慌《あわ》ててリュックを掴《つか》み、傘《かさ》を差すのもそこそこにして大河《たいが》に背を向けて走り出した。大河はそのまま追跡を開始、
「どこのどいつだ野郎っ……わあ!」
つるーん、と泥に足を掬《すく》われた。ちょうど竜児《りゅうじ》たちの隠《かく》れている廃屋《はいおく》の目の前だ。そのまま顔面から泥の中にすっ転ぶ寸前、
「……こっ、この……」
奇跡のタイミングで飛び出した竜児に襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、雨の中、捕まった獣《けもの》のポーズで間一髪《かんいっぱつ》の空中停止。
「ドジッ!」
そのままの体勢で強張《こわば》ったまま、
「……も、もう完全に転んだと思って、息止めてた!」
さすがの大河も濡《ぬ》れた髪を腰まで垂《た》らし、竜児の腕にすがって必死に足元を確《たし》かめる。車に轢《ひ》かれ掛けた猫の顔つきになって、細い息を長く吐く。
「知らん人を追いかけ回すんじゃない! こんなのポイしろ! ポイ!」
その手から簡易《かんい》ドス=妖怪《ようかい》傘《がさ》を叩《たた》き落とし、……なんだか、つむじがちょっと鰹節《かつおぶし》くさいような。思わず大河の脳天をじっと凝視《ぎょうし》してしまったところで実乃梨《みのり》が追いつき、
「大河なにやってんの!? っていうか、あの男なに!? っていうか、高須《たかす》くんどこにいたの!?」
顔中にクエスチョンマークを貼《は》り付け、泥の跳《は》ねた大河の頬《ほお》を拭《ぬぐ》ってやる。そこに同じくびしょ濡《ぬ》れの亜美《あみ》も這《は》い出して来て、
「……っていうか、川嶋《かわしま》さんもどこにいたの!?」
驚《おどろ》いて振り向き、その肩に貼り付いた朽《く》ちた草のゴミを取ってくれた実乃梨の目の前。
「……っ」
ポロリ、と一粒、雨に濡れた亜美の頬を透《す》ける雫《しずく》が転がり落ちた。
***
「ストーカー!?」
叫んだ拍子にずり落ちた眼鏡《めがね》を指で押し上げ、
「……そんなこと、ひとつも言わなかったじゃないか。モデルやるの疲れた、今の学校も合わない、親も自宅にはあんまり帰って来ないしって、おまえそう言って……」
「……言いにくかったの。だって、言ったら祐作《ゆうさく》、心配するでしょ」
綺麗《きれい》に成長しすぎた幼馴染《おさななじみ》の顔を見つめ、北村《きたむら》は珍しくも口ごもってしまう。
清掃大会参加のお礼と大雨に濡《ぬ》れた慰労《いろう》と言って、北村《きたむら》が招待してくれた夕方のファーストフード店。一度大きく崩《くず》れた天気のせいか、小雨《こさめ》になった今でも他《ほか》に客の姿は見当たらない。
亜美《あみ》は憂鬱《ゆううつ》すぎる事態を北村に話し終え、なんとなく気まずそうに白い顔を俯《うつむ》ける。竜児《りゅうじ》は一応|目撃者《もくげきしゃ》として、その傍《かたわ》らで発言は控えている。実乃梨《みのり》は眉間《みけん》にしわを寄せて心配そうな視線《しせん》を亜美に向け、大河《たいが》は――
「……あっ……」
北村がいるこの場の緊張感《きんちょうかん》に負けたのか、手にしたポテトからケチャップを垂《た》らす。竜児は無言のまま大河のドジ用に持ち歩いているウエットティッシュを出し、素早《すばや》くスカートを拭《ぬぐ》う。
このメンバーにしては珍しく、囲んだテーブルは静まり返っているのだった。
「――とにかく、だ」
口火を切ったのは、北村。
「とにかく、一度|警察《けいさつ》に……」
「もう相談《そうだん》してあるってば、そんなの……。他の事務所の子で被害届を出した子もいるらしいんだけど、あの男ってずる賢《がしこ》くて、身元の手がかりになるような証拠《しょうこ》は残さないんだもん……この程度のことじゃ、警察だって本格的には捜査《そうさ》してくれないし……」
「じゃあ、俺《おれ》がとっつかまえて警察に突き出してやる。おまえの周りをうろついてるんだな? うちの部員にも事情を話して手伝ってもらって、」
「やめなよ、危ないって。それに、そういうの……あんまり大事《おおごと》になるの、困るの。わかるでしょ? こういう事件って結局おもしろおかしく言われちゃうもんだし、そういう『被害者』になったことだけで、十分傷になるんだってば。それに、祐作《ゆうさく》や他の子に万が一なにかあったりしたら責任取れないし、あたしはとにかくママが……ママの事務所が、許さないと思う」
そう言われては正義漢も黙《だま》り込むほかなく、低く唸《うな》ったきり腕を組んでしまう。
「……しかし、このままじゃ……」
「む! そうだ!」
人差し指を突き上げ、唐突《とうとつ》に声を上げたのは実乃梨。大きく瞳《ひとみ》を見開き、これしかない、と語りだす。
「警察がそいつを捕まえられないのは、身元がわからないからなんだね? ならさ、こっちが逆にそいつをストーキングしてやろうぜ。川嶋《かわしま》さんのあとをスト〜クスト〜クしてるところを、写真とか、ビデオとかで証拠として押さえてやるの。それを警察に持ち込んで、とっとと人物特定させて、そんで捕まえてもらおうよ。それならいいよね?」
「櫛枝《くしえだ》……! それだ! すばらしい! さすがは女子部部長! いや、俺は今、おまえに男子部さえ譲り渡していい気になった!」
「でしょでしょ!? ちょうだい男子部! 肉体改造しておなごにして、全員女子部にしちゃうんだ〜」
「あはは、おまえはほんっと、マニアックだな〜!」
きゃっきゃっと北村《きたむら》と実乃梨《みのり》は手を合わせて盛り上がるが、竜児《りゅうじ》は割って入らずにはいられない。……いや、自分も手を合わせたいわけではなくて。
「待てって。それ、誰《だれ》がやるんだよ?」
「私やってもいいよ?」
実乃梨はなんのてらいもなく、竜児をとりこにする眩《まぶ》しい笑顔《えがお》でそう言うのだ。
「腹肉の友は心の友さ! それぐらい、余裕で協力するって」
イエイ、とピースポーズ――やっぱり、実乃梨は地上に舞《ま》い降りた心《こころ》優《やさ》しき女神様だった。竜児はその優しさ・器《うつわ》のでかさに感動、口元を押さえて目玉を狂気にギラギラさせる。キレているのではない、ちょっと潤《うる》みそうになっているのだ。
「お、俺《おれ》も微力ながら協力するぞ」
腕っ節には自信がないが、好《す》いた実乃梨にここまで言わせて自分はなにもしないなんて、そんな無様《ぶざま》な真似《まね》は男としてできるわけがなかった。そしてチラ、と存在感を消している大河《たいが》を見てみる。
アシュラ男爵《だんしゃく》がそこにいた。
……なんとなくだが、竜児には想像がつく。右半分の渋面《じゅうめん》は、北村に心配される亜美《あみ》への嫉妬《しっと》。左半分の興奮面《こうふんづら》は、北村と一緒《いっしょ》になにかできるかもしれないという期待。全体にまぶされた微妙な憂《うれ》いは協力すると言い切る実乃梨が心配なのと、それから多分《たぶん》だが、……多分、本当にわずかにスパイス程度、亜美のことも心配なのだろう。……と、思いたいが。
「おい大河」
とにかく助け舟を出してやらないことには、大河はこのまま石になってしまいそうだった。
「もちろんおまえも協力するよな。あの男には恨《うら》みもあることだし。ほら、言われただろ? ひどいことを……」
「……言われた。妖怪《ようかい》って、言われた」
同じ事を思っていたとは欠片《かけら》も言わず、竜児は重々しく頷《うなず》いてみせる。
「なら、仕留《しと》めてやらねえと」
一瞬《いっしゅん》口をつぐみ、竜児の方へ向けられた大河の視線《しせん》にはもはやそんな瑣末《さまつ》事《じ》への怒りどころか関心さえ消え去っていたのだが。
「……そうね。……そうだわ。……うん、そうする。あんたのことは気に食わないけど、ここは共闘《きょうとう》よ」
大河は亜美に向かい、大きく一度|頷《うなず》いて見せた。
「今、我《われ》らの心がひとつに!」
盛り上がって演説を始めそうなテンションの北村の向かい、――しかし亜美は憂いに沈んだ顔のまま、声もなく唇《くちびる》を噛《か》んでいる。それに気がついて、
「大丈夫か?」
思わず問いかけた竜児《りゅうじ》の声に、亜美《あみ》は弾《はじ》かれたように顔を上げた。そして素早《すばや》く笑顔《えがお》を取《と》り繕《つくろ》い、
「……え、うん! みんなが助けてくれるんなら、あたしも元気百倍だよ! ほんとにありがとう、頼もしいなあ!」
妙に軽いその言葉が、空《す》いた店内にむなしく響《ひび》いた。
6
「恐怖の強肩キャプテン・櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》!」
「おう! 関東《かんとう》を制した『弾丸バックホーム』は伊達《だて》じゃないぜ!」
「料理|上手《じょうず》は邪眼持ち・高須《たかす》竜児!」
「お、おお……五時までには終わるよな、今日《きょう》は鶏肉《とりにく》のタイムセールなんだ」
「最強の名はおまえのためにある・逢坂《あいさか》大河《たいが》!」
「……」
「――そしてこの俺《おれ》・北村《きたむら》祐作《ゆうさく》! 全員|揃《そろ》ったな!」
居並ぶ面々をぐるりと指差し確認《かくにん》、北村はグッと拳《こぶし》を堅く握る。いつもは多忙な北村も、今日は部活は元から休み、生徒会活動は特別に休みをもらって来たらしい。
午後四時の教室に、残っている生徒は他《ほか》にはいない。北村を囲むように座る手下三人と、少し離《はな》れて立っている亜美《あみ》の姿だけを淡い日差しが照らし出している。
さて、と北村は委員長ヅラを丸出しにしてよく通る声を張り上げた。
「これよりさっそく、昨日《きのう》立てた作戦通りに行動を開始する。役割分担は、俺と櫛枝と逢坂がストーカー激写《げきしゃ》係。使うのはこのデジカメと、あと一応各自の携帯。高須は万が一に備えて、亜美と一緒《いっしょ》にいてやってくれ」
竜児は挙手《きょしゅ》し、北村の許しを得て発言。
「……俺とおまえがストーカー激写係、女子二人が川嶋《かわしま》についてた方がよくないか?」
大河はとにかく、実乃梨にそんな役割は危なくはないかと思ったのだ。だが北村は竜児の言葉を制し、
「いや、なにかあってストーカー激写係がまかれたとき、女子だけになる方がまずいだろう。俺たちがこんなことをしているというのがバレて、それが刺激《しげき》にならんとも限らん。万が一のときにはおまえが亜美を守るんだぞ、その強面《こわもて》で」
「……なんとなく納得《なっとく》だが……俺《おれ》は荒事にはまったく自信ねえぞ」
生まれてこの方一度も他人に向けたことのない拳《こぶし》を見つめ、竜児《りゅうじ》は情《なさ》けなく声を低くする。しかし傍《かたわ》らに歩み寄ってきた亜美《あみ》はその腕になんと両手を絡《から》め、
「大丈夫! 高須《たかす》くんって、頼れるもん! きっとあたしのことを守ってくれるって信じてるよ!」
「えっ……あっ……えっ!?」
突然の接近に竜児は言葉も出なくなる。どうやってもぎ離《はな》せばいいのかなんてわかるわけもない。そっと掴《つか》まれた腕を取り戻そうと、もぞもぞ気まずく身じろぎながらも、みっともないほど頬《ほお》が熱《あつ》くなってしまう。大河《たいが》の視線《しせん》が冷たく突き刺さるのが心地良《ここちよ》いぐらいだ。
「よし。では行動開始だ。どこから見張られているかわからないから、下駄箱《げたばこ》を出たら高須と亜美は先に行ってくれ。道順は昨日《きのう》話した通り、適宜《てきぎ》携帯で連絡取りあおう」
北村《きたむら》の号令でぞろぞろと教室を出、廊下を連なって歩き出す。と、
「……おまえ、これなんだよ?」
竜児は前を行く大河の襟元《えりもと》に、妙なものを見つけてしまった。
「万が一のために持ってきたのよ。……懐《なつ》かしいでしょ、こいつの感触」
ニヤリ、と唇《くちびる》を歪《ゆが》める大河の髪の間からは、わずかに木の棒のようなものが突き出しているのだ。一体なにが、とそれを少し引き抜いてみて、
「……おまえ、これ振り回したら大事《おおごと》になるぞ」
「わかってるわよ、だから万が一のためだって」
見てしまった木刀《ぼくとう》の柄《つか》を、そっとジャケットの襟元に突っ込み直す。ああ、懐かしいとも――あの春の夜、こいつで殺されかけたっけ……。よくよく見れば大河は妙に姿勢よく、背中に一本まさしく筋が通っていた。長い髪がかぶさっているせいで目立ちはしないけれど。
「……そんなことよりも、竜児」
不意に大河は声を潜《ひそ》め、大きな瞳《ひとみ》でこちらをじっと見上げた。背中に木刀を隠《かく》し持ったまま。
「ん?」
「あんたって、ほんとにどうしようもないエロ犬だねえ……さっきのデレデレした顔……だらしないったらないわよ、主人の恥《はじ》だわ、正直あれは」
「なっ、……なんの、話だよ……」
尋《たず》ねながらもなんの話か、もちろん当然分かっている。そんな竜児の顔に、はあ〜、と大河はおおげさなため息を吹《ふ》きかける。
「すっかり仲良しになったってわけだ、川嶋《かわしま》亜美と。……まあ、いいんじゃない? 脈のないみのりんのことはさっさと忘れて、仲良くしてくれる美人に乗《の》り換《か》えるんだね。あんたってそういう奴《やつ》なんだね。覚えておこう」
「それは、おまえ……な、なにか誤解してるぞ」
「そうかしら。ま、お好きにどうぞ。私にはあんたの発情の面倒《めんどう》までは見られないし」
「……なんてこと言うんだ」
フン、と最後に毒気たっぷりの微笑。大河《たいが》は倣岸《ごうがん》に顔を背《そむ》けて竜児《りゅうじ》を置き去りに小走りし、そのまま淡くけぶる長い髪を揺《ゆ》らして先を行く実乃梨《みのり》にぺたりとくっつく。
「よう、大河ちゃんじゃねえの。今日《きょう》もかわいいねえ」
ゴロゴロと喉《のど》を鳴らしつつすり寄る大河のスカートの裾《すそ》の奥、見えるか見えないかギリギリのところに収まっている木刀《ぼくとう》の切っ先を、なんと実乃梨は尻《しり》をまさぐるかのような仕草《しぐさ》でさすさすと触り、
「硬いの仕込んでるじゃねえの」
「用心に越したことはないもの」
……竜児は思わず凝視《ぎょうし》、いや、呆《あき》れて嘆息。エロ犬エロ犬と人を呼ぶが、おまえらの方がよっぽどエロじゃねえか、と。
それに、いくら大河でもあまりにひどい言い草ではないか。一体|俺《おれ》がなにをした。言い返すタイミングはとっくに逃がしてしまっているが――
「高須《たかす》くん、どうかしたの?」
「あ……いや、なんでもねえ」
いつの間にか隣《となり》に追いついていた亜美《あみ》の笑顔《えがお》にビク、と緊張《きんちょう》。ほとんど肩と肩がぶつかる距離《きょり》に並ばれて、怒りさえうやむやに散っていく。妙にもどかしい気分になる。
とにかく川嶋《かわしま》亜美という女は、唐突《とうとつ》に接近しすぎなのだ――頬《ほお》の熱《あつ》さの理由を唱え、竜児は亜美から視線《しせん》を逃《のが》して唇《くちびる》をへの字に曲げる。
住宅街を並んでゆっくりと歩きながら、
「……それでえ、あたしはそのとき、薄《うす》いピンクの方を試着させてくださいって言ったの。なのにお店の人がね、亜美ちゃんには絶対白が似合う、白しかありえないって言ってえ、そのニットをむりやり試着させられたの。そうしたらもう、あたしも白って意外といいかも? みたいな感じになってきてえ、でもその前の日に買ったニットもそういえば白だったな〜って、あ、白っていうかあ、薄いグレーがかったような……ベージュ? ベージュかも?」
亜美はにこにこと微笑《ほほえ》み、延々買い物の話を続けていた。これはいわゆる『買い物のことで頭がいっぱい、難《むずか》しいことはなんにも考えない、かわいいおしゃれな女の子』ヅラなのだろう。
「高須くん、聞いてる?」
「……おぅ」
「白とピンク、高須くんならどっち?」
「……俺にピンクはちょっと……」
「やあだあ! あたしの服の話だよ!」
「なんだそうか」
あはははは――ははは、はは、は……。
今になって竜児《りゅうじ》は、やっと北村《きたむら》の真意が理解できていた。大河《たいが》に亜美《あみ》と仲良くしてほしい、と頼んだ奴《やつ》の眼鏡《めがね》に狂いはなかったのだ。
「あたし、お洋服買うの大好きなんだあ」
昨日《きのう》のことなど記憶《きおく》からはとっくに消去《しょうきょ》しているのだろう。甘えるように子供っぽく言い、亜美は天使の笑顔《えがお》を見せる。だがこんな亜美よりも、大河と険悪ににらみあっている素顔《すがお》の亜美の方がよっぽどマシな気がするのだ。おたまじゃくしの乗った靴を土手に放り投げて悪態をついた亜美の方が、よっぽどわかりやすかった。
外面《そとづら》の亜美とこうしているのが退屈だとか、薄《うす》ら寒い気持ちになるのとはまた別に、なんだか危ういものを見ている気がしてしまう。なぜなら、これは嘘《うそ》の顔だから。
まさしくこの外面は薄氷《はくひよう》――踏み抜いたその下の素顔は不安に沈んでいるのに違いないのに、どうしてそれを隠《かく》すのか。性格がいいとか悪いとかとは別にしても(まあ悪いのだろうけれど)、すでにばれてしまっている本当の姿をそれでもなお隠そうとするその行動に、どうしてわざわざそんな無理を、と思ってしまう。
「あ、電話鳴ってるよ」
貝殻みたいな亜美の指の先、ポケットの携帯がいつからか震《ふる》えていた。慌《あわ》ててフリップを開き、
「……もしもし」
『高須《たかす》隊員! そちらの様子《ようす》はどうだ!』
熱《あつ》く張り切る北村の声に、至極《しごく》普通に応答する。
「変わりねえよ。そっちは?」
『例の男をさっそく発見した。おまえたちの十五メートルぐらい後ろを歩いてる。俺《おれ》たちはさらに距離《きょり》をとって追跡してる』
「高須くん、祐作《ゆうさく》でしょ? かわってかわって!」
亜美は脇《わき》から手を伸ばし、竜児から携帯を受け取った。
「もしもし〜、祐作? うん、こっちは大丈夫、高須くんがいるし! あのさあ、あたしなんだか足が疲れちゃってぇ……うん、うん……あ、そう? じゃあそうするね!」
勝手に通話を切ってフリップを閉じてしまい、
「祐作がね、どこかお店に入っちゃえって。お茶《ちゃ》飲めるようなところで、窓際《まどぎわ》の席」
亜美は嬉《うれ》しげに微笑《ほはえ》んでそんなことを言ってくる。
「この辺に、そういうお店あるの? どこか連れていって」
「お茶飲めるようなところっていうと……この近くだと、あの通りの向こう側の看板、見えるか?」
亜美《あみ》と喫茶店《きっさてん》でお茶なんてどうしようもなくツラい気もするのだが、北村《きたむら》の指示では仕方ない。竜児《りゅうじ》は少し先にある、緑《みどり》を基調《きちょう》にした丸い看板を指差して見せた。
「あれ、スタバじゃん! この辺にもあったんだあ、やった、久しぶりにラテが飲める!」
「スタバに見えるだろ? それが……」
「……ん? ……あれ? ……え?」
どんどん近づくにつれて、亜美の首もどんどん不審《ふしん》げに傾いていく。確《たし》かにその看板は、有名な北米系コーヒーチェーン店にそっくりなのだ。丸い形、緑《みどり》の縁取《ふちど》り、よくわからない人型《ひとがた》のイラスト――
「こ、ここって……」
――そのイラストは、店主のおっさんの似顔絵なのだが。
「須藤《すどう》コーヒースタンドバー……俺《おれ》たちはスドバ、と呼んでいる……」
「……げ……」
ちり〜ん。
と、いまどきそりゃねえだろと言うようなベルの音の中、竜児と亜美はスドバヘ入った。内装はそれでも一応、なんとか本家スタバに近づけようとしたのだろう。座り心地《ごこち》の良さそうなソファに、女子大生っぽい店員のいるセルフのスタンド。それほど空《す》いた店でもないのだ。
「ひええ……スドバ……結構雰囲気いい……」
きょろきょろと辺《あた》りを見回し、亜美は興味《きょうみ》深《ぶか》げに頷《うなず》いている。と、窓際《まどぎわ》の席から立ち上がろうとしていた一人のおっさんが、
「おお! 魅羅乃《みらの》ちゃんとこの!」
親しげに竜児に声をかけてくる。毘沙門《びしゃもん》天国《てんごく》の常連で、この春に離婚《りこん》したてで傷心の稲毛《いなげ》さんだ。
「あ、こんちわ」
「うわ〜、どしたの! 今日《きょう》はまたえらいべっぴんさん連れて……あのちっこいおっかない子とは別れたんだ? ねえ、別れたんでしょ? いいねえ、再婚……じゃなくて、新しい彼女……」
「いや、違いますから。川嶋《かわしま》、あのおっさんの席が空くから座ってろよ。俺適当に飲むもの買って持って行く」
「はーい」
かわいいね〜、綺麗《きれい》な子だね〜、女優《じょゆう》の川嶋|杏奈《あんな》にちょっと似た感じだねえ〜、はい〜、よく言われますぅ〜、……などと朗《ほが》らかに交《か》わされる世間話に背を向け、竜児はスタンドへ。
「須藤バックスへようこそ!」
店員の女子大生(黒のポロシャツにグリーンのエプロン姿)が適当な店名を言うのもいつものことだ。そこまでパクっているわりには普通の喫茶店《きっさてん》メニューからアメリカンを二つ頼み、竜児《りゅうじ》は亜美《あみ》の待つ席へ戻る。
「コーヒーでよかったか?」
「うん。ここって居心地《いごこち》いいかも……なんか宿題やりたくなってくる」
ソファに身体《からだ》を沈め、亜美はすっかり須藤《すどう》バックスのとりこのようだ。そうだろうそうだろう、この町の人間は、みなスドバが大好きなのだ。本家のスタバなど百年待ってもやって来ちゃくれないこともわかりきっているし。
「ケーキも結構いけるぞ。ここんちの娘さんのお手製で」
「……ケーキ……ケーキ、は……超食べたい、けど……」
だめだめ、と亜美は頑固に首を横に振る。その手は無意識《むいしき》にか自分の下腹に。よほど先日食らったコンビニ神拳《しんけん》が堪《こた》えているのだろう。それ以上は勧めずに、竜児は携帯で北村《きたむら》に連絡を取る。
「もしもし、今|川鴫《かわしま》とスドバに入った」
『ああ、入るところ確認《かくにん》してたぞ、了解! スドバはいい店だ、とても』
うんうん、と地元民同士、電話の向こうで頷《うなず》き合う。
『ストーカー男もちゃんとついて来て、窓のところじっと見てる。交差点の向かいのビルのエントランスの陰に、奴《やつ》は隠《かく》れてるぞ。そのまましばらくそこにいてくれ』
「了解」
携帯を切ると、さっそく亜美が話の内容を聞いてくる。
「祐作《ゆうさく》、なんだって?」
「向こうのビルんところに、あの男が隠れてるってよ。しばらくそのままここにいろって」
「……げ。気持ち悪い……やっぱ見てるんだ、こっち」
亜美はカーテンの陰に隠れようとし、すぐに「あ、そうか」と元の姿勢に戻る。
「これであたしが隠れたら、意味ないんだよね」
「そうそう、奴が写真を撮《と》らねえことにはその姿を俺《おれ》たちも撮れねえから」
「……わかってるけど……いやだな……気持ち悪いな……」
亜美は俯《うつむ》き、ウエー、と控え目に美貌《びぼう》を歪《ゆが》めて見せた。
「まあ、確《たし》かに気持ち悪いよな。あんなわけわかんねえのにコソコソ写真撮られてるなんて」
「それはそうなんだけど、本当に嫌《いや》なのはそれだけじゃないんだ。もっと前にね、あいつが隠し撮りした写真をうちのポストに入れていったことがあって……それがもう、本当に嫌だったのよ」
「ポ、ポスト!? 玄関先まで入って来たってことか! そりゃあ……」
絶句する竜児にいやいやいや、と手を振って、亜美はさらに顔を苦くしかめる。
「うちに来られるのも当然嫌だけど、それと同じぐらい、あたしにとってはその写真自体が問題。あたしが一人で仕事帰りに買い物してるところだったんだけどね、なんかもう……いかにも性格悪そうな顔して、むすっとしてるの。見るからにもう、いじめっこ顔なんだよね。あれ見て、ほんとうんざりして……あたしってこんな顔!? 素《す》だとここまでやばい!? って」
それにしたって断然美人なのだからいいじゃないか、と竜児《りゅうじ》は思ってしまうのだが。
「だめだめ、もう本当にやなの……あの顔。本当に嫌い。大嫌い。……あんなの、見せられたくなかった」
吐き捨てるように唇《くちびる》を歪《ゆが》めて語る亜美《あみ》にとっては、心底《しんそこ》許せないことらしい。しかし、悪いが竜児に言わせれば、その手の悩みに関しては自分の右に出る人間はいない。
「そんなこと言ったら、見ろよ、俺《おれ》のこの人相を。川嶋《かわしま》だって俺のこと、最初はヤンキーだと思ってただろ? 性格悪そうどころか、道行く他人《ひと》にまで後ろ指差されるんだぞ。おまえなんかまだいいぜ、それでもかわいいだのなんだの言ってもらえるんだから」
「じゃあ高須《たかす》くんも、かわいこぶった顔作ればいいじゃん」
「どうやって」
「こうやって。『ボクってかわいい〜! 最高にかわいい〜!』って超真剣に念じつつ、こう」
亜美は両手の人差し指で自分の頬をチョン、と触り、目を線《せん》にした甘い笑顔《えがお》でにっこりちょこん、小首を愛らしくかしげて見せた。やってやろうじゃねえか、後悔《こうかい》するなよ、と竜児は気合を入れ、
「こうか?」
チョン、にっこりちょこん、をやって見せる。
「……ぶっっ!」
亜美は口に含みかけていたアメリカンを吹《ふ》いた。そのまま苦しそうにしばらく噎《む》せて咳《せ》き込み、
「……っ、……な、……げほっ……た……たかっ……、げほげはげほっ!」
「……言いたいことはすべてわかった。というか、やる前からわかってんだよ」
必死に掴《つか》み出したハンカチで口元を押さえ、亜美は涙まで浮かべていた。噎せたせいで顔は真《ま》っ赤《か》、テーブルにつっぷして苦しそうに呼吸を継《つ》いで、それでもなんとか竜児を指差し、
「こっ、こわー……っ、げほげほっ……ほと、んど……ホラー!」
「だから、わかってるって言ってんだろ!」
反応は予想の範囲《はんい》内《ない》、それでもやっぱり傷ついた。傷ついたから言ってやるわけではないが、
「……言っておくけどな、おまえだって同じことしてるんだからな。顔立ちがいくらかわいくたって、本質的には怖くてほとんどホラーなことをやってるって点で同じなんだぞ」
「はあ〜、苦しかった! もうやーだ高須くんてば、このあたしとそれの、どこが同じだっていうのよ〜!」
けたけたけたけたけた……楽しそうな笑い声と『それ』呼ばわりに、もはや遠慮《えんりょ》する理由はなくなった。
「同じだね。言いたかねえけど、昨日《きのう》の豹変《ひょうへん》は十分ホラーだったね。川嶋《かわしま》がキレたことそのものがじゃなくて、その後平気な顔でまだまだ外面《そとづら》が通用すると思ってるあたりがな」
さすがに、初対面のあの日からおまえの本性《ほんしょう》を知っていた、とは言わないが――いや、それでももしかして、言い過ぎているかもしれないが、だけど今更《いまさら》撤回《てっかい》することはできない。一度口から溢《あふ》れた言葉は、言い終えるまでは止まらない。
「もうやめろよ、その外面。全部とっくにばれてんだ。取《と》り繕《つくろ》った外面なんか、かわいかろうがなんだろうが、見てる方にしてみりゃ気分いいもんじゃねえんだよ」
結局そこまで言ってしまって、
「……川嶋……?」
やっぱり言い過ぎた、だろうか――ようやく亜美《あみ》の表情に気がつく。
亜美はにっこり微笑《ほほえ》んだまま、……不自然なほどに天使の柔らかな笑《え》みのまま、じっと竜児《りゅうじ》を見つめていた。感情のわずかな揺《ゆ》らぎさえも、すべて笑顔《えがお》の中に押し込めるようにして。
「昨日のこと? なんだっけ? ――なんて言うのは、あたしにとっては息をするのと同じぐらい、超《ちょう》簡単《かんたん》なことなんだよね。その程度じゃあたし、ひるまないよ?」
まっすぐに竜児を見つめる視線《しせん》は、冷たいのか熱《あつ》いのかさえわからない。わかるのはただひとつ、なにを言おうとどんな言葉をかけようと、この笑顔の鉄仮面に弾《はじ》き飛ばされ、彼女の生身《なまみ》の部分にはなにも届きはしないということ。
「あたしはね、この顔じゃなきゃダメなの。わかってるのよ、自分が一番」
「え……っと……」
返事の仕方がわからない。だが亜美は別に返事を期待しているわけではないようで、笑顔のままで言葉を継《つ》ぐ。
「意味とか、価値とか、そういうのがあるとかないとか、それとこれはまた別の話の……昨日は確《たし》かになかったかもね。意味も、価値も。あったのは……あのむかつくチビへの嫌《いや》がらせ根性だけかな? あたしが高須《たかす》くんにくっついてるときのあのチビの顔、面白《おもしろ》すざるからさ。そういうのに関してだけは、あたしメチャクチャやる気出すから。……おたまじゃくしは想定外だったけど」
「……すまん、なんか……よくわかんねえけど……俺《おれ》、言いすぎたか」
「んーん? 何の話? 高須くん、あたしになにか言ったっけ? 覚えてないなあ、ぜ〜んぜん」
不思議《ふしぎ》そうにまん丸になる亜美の瞳《ひとみ》に、竜児は軽く息さえ飲んだ。ここまで頑固に本性を隠《かく》し続けるのか、この女は。
「やあだ、なにその顔。そんな真剣に考えないでいいんだよ。これはねえ、作戦だから。不思議なことを言ってやって、あたしのことを考えさせるための作戦。……これには意味はないのよ」
「……ほんっとに、川嶋《かわしま》のこと、俺《おれ》はわからなくなってきた……」
亜美《あみ》は竜児《りゅうじ》のそんな言葉に、かわいらしく小首をかしげて満足そうにさらに笑う。
「いいのいいの、それでいいの。あたしはほら、『天然』だから」
わからなくていいのなら……それなら本当にもう考えないぞ。竜児は肩をすくめて自称天然の二重人格娘を見、場をごまかすようにアメリカンに口をつけた。
やがて、ろくな会話も続かないまま十分ほどが過ぎた頃《ころ》だろうか。竜児の携帯がバイブに震《ふる》える。
『もしもし、高須《たかす》か? ちょっとあんまりよろしくない事態だ。どうも奴《やつ》の場所からは亜美をうまく撮《と》れないみたいで、奴は諦《あきら》めて漫画《まんが》を読みながらおまえらが店を出るのを待ってる。入ってもらったところ悪い、出てきてもらえるか?』
「ああ、わかった」
亜美に事情を説明し、手早くトレイを片付けて二人はスドバを出た。北村《きたむら》たちはその様子《ようす》を近くで確認《かくにん》しているらしい。
『悪かったな。そのまま最初の予定どおり、北西に国道を進んで公園の方面に回ってくれ』
「了解。……川嶋、こっちに歩こう」
亜美と並んで竜児は再びゆっくりとした速度で歩き出すが、『それと――もう一つ悲しい報告があるぞ。櫛枝《くしえだ》隊員が脱落した』
「……は!?」
思わずその足が止まる。
言いだしっぺが? もう? な、なにもしないうちに?
驚《おどろ》きのあまり思わず上げてしまった声に、亜美が目を見開いてこちらを見た。……いかんいかん、平静を装《よそお》わなくてはストーカー男に怪《あや》しまれる。
「な、……なんで?」
『バイト先から緊急《きんきゅう》連絡が来て、風邪《かぜ》による欠員補充とのこと。来ないとクビにするぞというか櫛枝が来ないと俺《おれ》がクビだ、と雇われ店長に泣かれ、本人も泣きながら戦場を去った……櫛枝からの伝言だ、また会おうぜ・っていうか本当にすいません、と……いい兵士を失った……』
竜児はゴクリと息を飲む。実乃梨《みのり》が戦線《せんせん》離脱《りだつ》した、ということは、つまり必然的に、
「……じゃ、じゃあ、今そっちは、おまえと大河《たいが》の二人きり……」
『逢坂《あいさか》隊員はよくやっているぞ』
「ちょ、ちょっと大河に替わってくれ、緊急に!」
ややあって、
『……っ』
独特の泣き出しそうな息遣《いきづか》いと無言のコラボレーションが電話口からトロトロと溢《あふ》れ出てくる。大河《たいが》だ。
「た、大河……おまえ、大丈夫か!?」
『……う……うぅ』
大丈夫ではなさそうだ――竜児《りゅうじ》は乱暴《らんぼう》に頭をかく。北村《きたむら》と二人きりなんて、今の大河に耐えられるシチュエーションではないのだ。接近するだけで石化してしまうというのに、二人きりで歩いているなんて……大河は死ぬんじゃなかろうか。
「おい、しっかりしろ! 会話は弾《はず》んでいるのか!? 話題はあるのか!?」
「……き、……き、』
「き……もちいい!?」
『……緊張《きんちょう》、す』
ブッ、と唐突《とうとつ》に通話が切れた。
「え……ええ!?」
一体なにごとが、と竜児は電話を思わず見つめてしまう。素《す》の状態でもドジな大河が北村と二人きりでいて、会話もできないほど緊張していて、そしてストーカーの後をつけていて、電話は突然に切れて……不安、無限大。
「ねえ、どうしたの? 今の祐作《ゆうさく》たちでしょ? 電波悪いの?」
「あ、ああ……なんか急に切れちまって……」
「こっちからかけ直してみなよ?」
亜美《あみ》のもっともなアドバイスに頷《うなず》いてかけ直してみるが、流れてくる音声は『おかけになった電話は電源が切れているか……』と。もう一度|繰《く》り返しても結果は変わらず、ため息をつき、電話をポケットにしまう。
「かからないの? 祐作たち、なんて?」
「な、なんか櫛枝《くしえだ》が脱落して、大河がトラブってるっぽくて……どうなってんだ、ほんとに……もう一回かけてみるか。いや、まだ電波入らねえか……」
不意に、亜美がこちらをじっと見上げているのに気がつく。
「……な、なに?」
亜美は、無言。
ストーカー男に怯《おび》えている視線《しせん》というよりは、竜児の内心を探ろうとしているような視線だ。その透明な、しかしまっすぐに澄《す》み切った眼差《まなざ》しになにやらどぎまぎ落ち着かなくなり――
「な、なんだよ」
「……別に?」
ふっ、とかすかな笑《え》みとともに視線から解放される。救われたような気分になる。
「ただちょっと思っただけ。高須《たかす》くんて、本当にすごく優《やさ》しいみたい。特にあの子のことになると……」
あの子ってどの子だよ、と聞こうとするより少し早く、再び携帯がポケットで震《ふる》えた。やっと電波が入るようになったか、と通話ボタンを押し、
「おう」
『うっ……うっ……』
「……た、大河《たいが》!?」
思わず電話を耳に思いっきり押し付けた。電話の向こうでなにが起きたのか、大河の声は泣き声に聞こえる。
「おい、どうしたんだ!」
『き、北村《きたむら》くんが……っ』
「北村になにかあったのか!?」
その言葉に、亜美《あみ》も弾《はじ》かれたように竜児《りゅうじ》の顔を見上げる。
『北村くんがドブにはまったぁ!』
「ど、……ドブ!?」
『さっき、横断歩道で振り切られそうになって、慌《あわ》てて走ったら側溝《そっこう》のドブに落ちちゃって……北村くん全身ドロドロで、俺《おれ》のことは置いていけって……!』
「はあ!?」
『そ、それで、行けるところまで行ってくれって言われてデジカメ持たされて……っ……今、私ひとり……!』
そんなバカな、と思う竜児の耳に、電話の向こうからかすかに聞こえる……逢坂《あいさか》〜、気をつけろよ〜……遠いその声は確《たし》かに北村の声だ。
『……もう、私、なんのためにこんなことしてるのか、わかんなくなって……っ』
「な、泣くなって! ええと、そうだな……そ、そうだな……とりあえず、ええと」
『あーっ!』
「どうした!?」
思わず立ち止まり、息を飲む。今のは大河の悲鳴だ。
『……お、……お知らせが、あるわ……』
無事に続いた言葉に一瞬《いっしゅん》胸を撫《な》で下ろすが、
『私もドブに落ちた。今日《きょう》はもう、無理……全身ドロドロ、デジカメもドロドロ……作戦は失敗、通信を終了する』
「え……ええ!? 大河!? おい、大河! ……き、切れた……」
――なんということだ。
竜児はほとんど呆然《ぼうぜん》として、切れてしまった携帯を見つめた。ドブってなんだ? そんなにそこらにあるものか? 簡単《かんたん》に落ちるものか? ドブって、……ドブって……
「祐作《ゆうさく》たち、どうしたの!? なにかあったの!?」
理解しがたい事態でも、それでも説明はしなければなるまい。竜児《りゅうじ》は決然と、心配そうに見上げてくる亜美《あみ》の方へ向き直った。
「……全滅だ。北村《きたむら》と大河《たいが》はドブに落ちた」
「……は? ド、ドブ?」
しばしきょとん、と見詰めあう午後四時。取り残された二人にはもはや行き場もなく――
「……っ」
亜美の肩が震《ふる》える。反射的に竜児が振り返ったのはほぼ同時。
北村と大河を振り切ったストーカー男が、ほんの数メートルの距離《きょり》に立っていたのだ。自分がマークされていたとは思ってもいないのだろう、平気な顔をして片手に携帯を持ち、メールをいじっているような顔をして――携帯のカメラのフラッシュは光りっぱなしになっている。動画でも撮《と》っているのかもしれない。
「い、いこ……」
眉間《みけん》にしわを寄せ、亜美は顔色をなくして小走りに走り出す。竜児も慌《あわ》てて一緒《いっしょ》に走り、まさか追いかけては来るまい、などと甘いことを考えていたのだが、
「ちょ……っ、なんなんだよ、あいつ……」
男は大胆にも、携帯カメラをかざしたまま走って後をついてくるのだ。
辺《あた》りに人気《ひとけ》はないし、なにかあっても竜児一人ぐらいならなんとかする自信があるというのだろうか。
逃げながら竜児は思う。なぜ普段《ふだん》、いらんところでは散々怖がられている自分なのに、肝心《かんじん》のときに睨《にら》みが利かないのか。今はこんなに舐《な》められているのか。後ろをちょっと振り返ってみてその答えがわかった。男は携帯の画面を見るのに夢中、そこにはおそらく亜美しか写ってはおらず、竜児のことなどただのガキだと――実際そうなのだが――見くびっているのだろう。父親(極道《ごくどう》)譲《ゆず》りのこの眼光で睨んでやれれば事態は好転したかもしれないのに。
「どうしよう、まだついてくる!」
切羽《せっぱ》詰《つま》った亜美の声に、自然と竜児の胸も詰まる。なんとか切り抜けなければ、なんとか何事もなく、日常の世界に戻らなければ。
「ええと……ここから一番近い交番は……ああくそ、結構距離あるぞ! でもなんとか交番まで駆《か》け込めば!」
「もうやだ……!」
亜美はかわいそうにほとんど半泣き、声を涙に震《ふる》わせる。
「なんでこんな目にあわなきゃいけないの!? 全部、あいつのせいでめちゃくちゃだよ! 祐作だって怪我《けが》してるかも……もう、もうどうしたらいいの!」
せめてここに居残っていたのが北村なら、真正面から戦いを挑《いど》んで打ち負かせられたかも。ドブに落ちるようなバカだが、奴《やつ》の度胸と正義感は本物だ。そしてこんな声で、女を泣かせなくてすんだかも――せめて、せめてだ。
せめて力づけるように、走る亜美《あみ》の手を握ってやりたかった。だが、必死に走る亜美はそれどころではないらしく、拳《こぶし》を捕まえることさえ竜児《りゅうじ》にはできない。できないまま、守れないまま、亜美の声の震《ふる》えは大きくなっていく
「あんなつまらない野郎のために、あたし、仕事休んで、引越しして、転校までしたんだよ……! それなのに結局、また同じ目にあってるじゃん! なんなのよ……結局また、こうやって逃げるしかないんじゃない! どこに逃げても、また追いかけられて……どうしろっていうのよ!?」
「か、川嶋《かわしま》!」
次第に興奮《こうふん》してきたのか、亜美の声はどんどん大きく、またキレそうに甲高《かんだか》くなっていく。涙に震えていたはずの声は、いつしか怒りに塗《ぬ》り込められていくような。
「おい、奴《やつ》に聞こえるぞ! ……あんまり刺激《しげき》すると……」
「だって、むかつくじゃん!?」
噛《か》み付くように、亜美の声が爆《は》ぜた。
「あの野郎のせいで、イライラして、ストレスたまって、お菓子とか超食っちゃうよ!? おなかブヨブヨになっちゃうよ!? このままじゃ、本当にモデル廃業……って、なにそれ!? はあ!? ありえなーいっ! どんだけ苦労したと思ってんのよ!? でもこんな肉じゃ……こんな……こんなおなかじゃ……肉じゃ!」
横目でその形相《ぎょうそう》を見、うわあ、と竜児は息を飲んだ。さっきまで涙をにじませていたはずの横顔は、唇《くちびる》をめくりあげ、こめかみには血管を脈打たせ、両目を眇《すが》めて鼻にしわをよせ、まさしく牙《きば》をむいたチワワそのもの。……亜美の本性《ほんしょう》、そのもの。
「畜生……くっそ……それって、亜美ちゃんが、あのくだらない野郎に負けてるってことだよねえ!?」
出た。亜美ちゃん、出た。
「この、亜美ちゃんが、あんな変態に、負けて、ダメにされてるってことだよねえ……! あ!……くそ!……畜生!……むかつくなあ〜……むかついちゃうなあ〜亜美ちゃんはあ……っ」
「か、川嶋……おい、ちょっと……」
「高須《たかす》くん、言ったよね……取《と》り繕《つくろ》うのなんてやめろって、さっき言ってくれたよね……わかった。やめるよ。亜美ちゃん、もうやめる。やめてやる、やめてやるやめてやる、や、め、て、や、るっっっ! この性格悪いツラのまま、生きていってやるっっっ!」
「ちょ、ま、それは……ちがっ……」
「うるさーいっ! あのチビは、逢坂《あいさか》大河《たいが》は、あんな男に負けてなんかいなかった! 亜美ちゃんだっていつまでもやられっぱなしじゃねえっつーの! こっちは男連れだ、目にモノ見せてやるっ! 女優《じょゆう》の娘を――なめん、なあっ!」
言葉を失う竜児《りゅうじ》の傍《かたわ》ら、亜美《あみ》は突然百八十度の方向転換。くるっと踵《きぴす》を返したかと思うと、
「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっっっっ!」
追ってきていた男目掛けて、猛然《もうぜん》と全力ダッシュをかけ始めた。手にした鞄《かばん》を振り回し、美貌《びぼう》も鬼のように歪《ゆが》め、
「は!? ええっ!?」
男が逃げ出すのは無理もない。追うのと逃げるのが突然の攻守交代、
「待てテメ――――――――――――っっっっ!」
必死に逃げる男を追って、亜美は野太い罵声《ばせい》を浴びせる。当然竜児も従わないわけにはいかなくて、
「ばかっ! やめとけ! 落ち着け! 俺《おれ》はこう見えて、本当に全然ケンカとかダメなんだっ」
だが竜児の言葉なぞ、すでに耳には入らないらしい。男が公園に逃げ込むと見るや、
「ぅおりゃあっ!」
小鹿《こじか》のような見事な跳躍《ちょうやく》で植え込みをジャンプ、亜美はショートカットで先回りして、仕上げに、
「でえええ――――いっ!」
鞄《かばん》をブン投げた。長方形の鞄はグルグル回りながら低く飛び、
「うがっ!」
走る男の足元に命中。男は荷物をバラ撒《ま》きながら、顔面から砂場にダイブした。
亜美《あみ》はすかさず男が落とした携帯を拾い、
「……はあ……はあ……はあ……っ!」
鬼の形相《ぎょうそう》で息を切らしたまま無言、バキバキバキ! ……真っ二つに、そいつを折った。
「ひ、ひぃ……」
恐れをなして後ずさる男の脇《わき》に残骸《ざんがい》を二つ、投げ捨てる。そしてさらに、
「はあ……まだ、あるでしょ……亜美ちゃん、見たもん……出せ……デジ……カメ……おら! 早く出せ!」
「……そ、そこに……」
震《ふる》える男が指差すのは、ぶちまけてしまった荷物の中身。そこにはたしかに最新型のデジカメも転がっていて、亜美は腰を屈《かが》めてそいつを手にする。しばらくひっくりかえしたりボタンを押してみたりと、データを消去したいのかいじくり回してみていたが、
「や、やめろお! 壊《こわ》れちゃうじゃないかあ!」
「……はあ……はあ……」
立場をわきまえていない男の声が癇《かん》に障《さわ》ったらしい。荒い息のままカメラのストラップを手にひっかけ、
「えい!」
ブンブンぶん回した挙句《あげく》に遠心力でコンクリのベンチに打ち付ける。
「わあああああああ!」
男の悲鳴が響《ひび》く中、それでもさすがは最新型カメラ。一度や二度の衝撃《しょうげき》には持ちこたえていたが(中身はどうかしらない)、
「えい! えい! えい! えい! ……えぇぇーいっ!」
繰《く》り返される暴虐《ぼうぎゃく》に、ついにガシャ、と小気味いい音を立てて、取れてはならないところが取れた。しかし亜美はそのまま何度も、
「でえーい! でえーい! でえええーいっ! 壊れろお……壊れろお……粉々にい……こ、わ、れ、ろおおおおっ!」
――よほどストレスが溜《た》まっていたのだろう。カメラがカメラの形を完全に失うまで、ストラップを手にひっかけたまま、何度も何度も打ちつけ続ける。男は砂場に半ば埋まり、もはや声も立てずに泣いていた。竜児《りゅうじ》はその地獄《じごく》絵図《えず》を前に、どちらにかける言葉も見つからない。
「うっ、うっ、僕のカメラがあ……」
「さあ……次は、なにを壊してやろうかなあ……? 亜美ちゃん、なんか、楽しくなってきちゃったよお? ええ?」
砕け散ったデジカメの残骸《ざんがい》を足で執拗《しつよう》にニジニジニジニジニジと踏みにじり、亜美《あみ》は酷薄《こくはく》に唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑う。
「ねえ、壊《こわ》していーい? 亜美ちゃんがぜーんぶ、壊しちゃっていいかなあ? っつーか聞いてんのかあ? 返事しろよああ? 壊してやろうかおまえもこんな風に」
「もう、もう勘弁してくださあい!」
男はそのまま砂場に土下座《どげざ》し、震《ふる》える両手を亜美に向かって硬く合わせた。
「……これ以上、亜美ちゃんの周りをうろつかないって約束できる?」
「誓うっていうかもうたくさんだよお!」
妙に子供っぽくなってしまった男の泣き声が無様《ぶざま》に響《ひび》いた。
「あんな鬼のような形相《ぎょうそう》見せられて、もう萎《な》え萎《な》えだよお! 亜美ちゃんはもう、僕の天使じゃない! うそつきだあ、本当はあんた、鬼だあ! あんた、真っ黒だよお! 詐欺《さぎ》だこんなの、もうあんたなんかとは関《かか》わりたくないよ! かわいい天使の亜美ちゃんなんか、本当にはいなかったんだあ〜! 亜美ちゃ〜ん! っていうか、なんでそんなおっかなそうなヤンキーなんかと付き合ってるんだよお〜今気がついたけどお〜!」
「お、俺《おれ》のことか、ヤンキーって……」
携帯やカメラを壊されたことよりも、男にとっては夢を壊されたことが一番つらかったらしい。反撃《はんげき》してくる様子《ようす》も見せず、そのまま声を上げてみっともなくも泣き続けた。――たとえば刃物を振りかざすような『本当に』危ないヤツではなくて、亜美はラッキーだったのだ。そして男の最後のセリフはこれだ。
「あんた、性格悪いねっ!」
「それがなーに?」
亜美は冷たく言い返し、思い出したように制服のポケットから手鏡《てかがみ》を取り出す。そして自分の顔を映し、にっこり笑ってぶりっこポーズ。
「亜美ちゃん、こんなにかわいいんだもん※[#「ハートマーク」] 性格なんてどーでもいいの※[#「ハートマーク」]」
***
――そんな強がりが保《も》ったのは、公園を出て最初の曲がり角までだった。
「ほら、座れ! そこ、新聞どかして!」
「……う……う……っ」
抱えるようにして連れて来た亜美を座布団《ざぶとん》に座らせようとするが、
「ゆ、指が外れないぃ〜」
亜美は泣き声を上げて竜児《りゅうじ》を見上げる。竜児の腕を掴《つか》んでいた指はもはやガチガチに固まって、自分では外すこともできないのだ。
「力抜け、ゆっくりでいいから」
静かな夕日の差し込む高須《たかす》家《け》の2DK。焼けた畳に座り込んで、亜美《あみ》は必死に呼吸を整《ととの》えようと目を閉じる。
ストーカー男を幻滅させたところまではよかったのだが――のしのしと歩道を歩いていた亜美は曲がり角を曲がったところで唐突《とうとつ》に膝《ひざ》から崩《くず》れ落ちたのだ。曰《いわ》く、「こ、……こわかったよお〜!」
身体《からだ》はガクガク震《ふる》えて目からはボロボロと涙、緊張《きんちょう》のあまりか全身が硬く強張《こわば》って、竜児《りゅうじ》が抱きかかえてやらなければ歩くどころか立つこともできない有様《ありさま》だった。乾いた唇《くちびる》まで震え出して、とても一人にできるような状態ではなかったのだ。
公園をグルリと回れば、高須家までは近い。だからなんとか肩を貸して、ここまで連れては来たのだが。
「……ばか泰子《やすこ》、どこに行ってるんだ?」
亜美を座布団《ざぶとん》に座らせて台所に立ちつつ、竜児は困ったように静まり返った我《わ》が家を見回す。まさか誰《だれ》もいないとは思わなかった。分かっていれば、タクシーを使ってでも亜美の自宅へ送ってやっていた。泣いている女子を誰もいない自宅に連れ込む、なんて、竜児に捌《さば》き切れる行動ではない。泣いていない女子でさえおそらく無理だ。大河《たいが》? あれは超例外。
とにかく亜美を落ち着かせてやろうと、レンジで温めた牛乳に蜂蜜《はちみつ》を少々|垂《た》らして持っていってやる。
「あ、ありがと……」
「おかわりならいくらでもあるからな。甘いのがいやだったら、お茶《ちゃ》でもコーヒーでも……コーヒーはさっき飲んだばっかか」
「……ううん、これがいい……」
一口飲み、亜美は長い息をやっとひとつついた。
「おいしい……ねえ、もっとお砂糖《さとう》入れて?」
「蜂蜜だけど、いいか?」
頷《うなず》く亜美の手元のカップに、そっと蜂蜜を垂らす。クルクルとスプーンでかき回してやると、やっと亜美の唇に淡い笑《え》みが灯《とも》った。
「……意外。高須くん、こういうの飲むの?」
「いや、俺《おれ》はあんまり。大河がそうやって飲むの好きなんだよ」
ポロリと言ってしまってから、チラ、と竜児を見上げた亜美の目線《めせん》に気がつく。
「……大河。高須くん、いつも逢坂《あいさか》大河のこと、そう呼ぶよね」
「変に隠《かく》すのも余計おかしいから言うけどよ……」
別に言《い》い訳《わけ》ではないのだ、だって言い訳するような理由はないし――と、前置き。
「たまたま近所に住んでて、あいつんちは一人暮らし、うちも母子家庭でほとんど一人みたいなモン、それで……まあ、なんだかんだ……家事を手伝ってやってるっていうか……メシとか一緒《いっしょ》に食うような、兄弟みたいなモンになって……」
「……ふーん。そうなんだ」
納得《なっとく》したのかしないのか、しかし亜美《あみ》はそれ以上はなにも言わず、
「これ、本当においしいね。今度うちでも真似《まね》しよう」
蜂蜜《はちみつ》がたっぷり入ったホットミルクのカップを両手で持ち、少しずつ舐《な》めるみたいにして飲み続ける。
「具合はどうだ?」
尋《たず》ねる声に瞳《ひとみ》だけをくるりと上げ、カップに口をつけたままで照れたように亜美は微笑《ほほえ》んだ。そしてプイ、と横を向いてしまい、
「あーあ、もう……恥《は》ずかしい! せっかく決まった! って思ったのに……結局ほんとはガクガクブルブルだったのバレちゃったね」
「そんなの当たり前だろ。俺《おれ》なんか、おまえが走り出した瞬間《しゅんかん》からガクガクブルブルだったんだからな。ほんと、あいつが暴《あば》れたりしなくてラッキーだったんだぞ」
「……ごめんね」
亜美はやっと振り向いて、空になったカップを卓袱台《ちゃぶだい》に置いた。その頬《ほお》は差し込む夕日のせいか淡い橙《だいだい》にかすかに染《そ》まり、茶色《ちゃいろ》の瞳《ひとみ》も琥珀《こはく》のように透《す》き通る。
「自分でも信じられない……ママに知られたら殺されるね、あんな危ない真似したりして。もしかしたら、逢坂《あいさか》大河《たいが》の影響《えいきょう》かな? 昨日《きのう》、土手であの子が簡単《かんたん》にストーカー野郎を追い払ったの見ちゃって……そしたら、ビビってる自分が急に恥ずかしくなったんだよね。なんか……負けたような、気分になったっていうかね……」
「……大河はちょっと普通とは違うから、あれを基準にするのはどうかと思うぞ」
「手乗りタイガー。でしょ? 麻耶《まや》ちゃんたちに聞いたんだ。……ふふ、ぴったりすぎだよね、そのあだ名。手乗りタイガーと張り合って、あたしもちょっとは鍛《きた》えられたのか」
「……川嶋《かわしま》は最初っから、強い子だろ」
「強い子? あは、歪《ゆが》んでるだけだね。自分で言うのもなんだけど、亜美ちゃんはすっごく歪んだ子、腹ん中真っ黒な、意地悪っ子――高須《たかす》くんもわかってるでしょ、昨日か、……もしかしたら、それより前から。もう取《と》り繕《つくろ》ったってどうしようもないや」
肩をすくめて亜美は笑い、それはいつもの外面《そとづら》ではなかった。大きな瞳はどこか人を食ったように醒《さ》めていて、口元には酷薄《こくはく》とも思える微妙な歪み、天使の純粋さはそこには一切ない。代わりに彼女はずるくて惨《むご》くて、底意地が本当に悪そうで、人を人とも思わない倣慢《ごうまん》ささえその表情には滲《にじ》んでいて、だけど、……美しい。批判したい気持ちと同じ強さで魅《ひ》きつけられて――
「あ……忘れてた。ドブに落ちたあいつらのこと……」
「祐作《ゆうさく》と一緒《いっしょ》なら平気だよ」
むしろそれが危ないんだが。しかしそう言う亜美《あみ》の表情に、せっかく思い出した二人のことが儚《はかな》く霧散《むさん》していく。
笑った顔はやがてゆっくりと強張《こわば》って、亜美は静かに息を詰めた。かすかな痛みを耐えるみたいに。
「……あの子は、いいよね」
「あの子って……大河《たいが》のこと、か?」
それには答えず亜美は俯《うつむ》く。
「……たとえばね、さっきのストーカー男みたいな……あいつみたいな奴《やつ》に、好きになってもらうのは簡単《かんたん》なんだよ。写真の中やテレビの中でかわいくしてれば、ほとんどの人は勝手に好きになってくれる。……ほら、亜美ちゃんはすっごくかわいいから」
冗談《じょうだん》めかした最後の言葉に、しかし竜児《りゅうじ》は笑う気にはなれなかった。言葉を落とす亜美の横顔の硬さを見ていれば、とても笑ったりなどできない。
「……同じぐらい、嫌われるのも簡単だよね。おまえらの見てる亜美ちゃんは、本当のあたしじゃねえんだよって、……素《す》の亜美を見せたらいいんだもの。そうしたらみんな、勝手にあたしを嫌うよ」
自嘲《じちょう》の色を浮かべる瞳《ひとみ》から、竜児は思わず目をそむける。痛々しくて、見ていられない――などと言えばきっともっと傷つけるだろうが。
「……そんなこと、言うもんじゃねえぞ」
「でも本当だから。さっきのあいつもそうだったでしょ。……難《むずか》しいのは、本当のあたしを好きになってもらうこと。それだけ。だからあの子のこと……逢坂《あいさか》大河のことが、あたし、うらやましいんだね。あの子は少しも自分の気持ちを取《と》り繕《つくろ》ったりしない。それでも高須《たかす》くんはめちゃくちゃなあの子のことを少しも嫌ったりはしていない。それがちょっと、……いや、かなり、悔《くや》しかった。あの子が悔しがるのが見たくてあたしは高須くんを奪おうとしてるのにさ、全然奪えないんだもん。そんなの初めてだよ。なんで? って。亜美ちゃんの方がかわいいのにどうして? 亜美ちゃんが一番になれないってどういうこと? こんなパターンってありえなくない? 許せなくない? そんなに……あたしとあの子は、違う? ……って。……あの子に嫉妬《しっと》してるんだね、あたし」
竜児はひそかに息をついた。
亜美はこうして大河をうらやましがる。大河は亜美がうらやましくて、一人うずくまって泣きじゃくる。お互いにないものを欲しがっている。結局はそういう奴らだから、あんなにもうまくいかないのかもしれない。二人の想《おも》いはいつだって空中でぶつかりあうばかりで、たとえば大河と実乃梨《みのり》のように、優《やさ》しく寄り添うことは絶対にできないのだ。それはもう、仕方がないことなのだ。きっと。
だけどただ一つ、大河《たいが》のために言ってやりたいことはあった。「気持ちを取《と》り繕《つくろ》わない」と言われた大河が竜児《りゅうじ》以外の誰《だれ》にも見せずに必死に繕っている部分のために。
「……川嶋《かわしま》には、北村《きたむら》がいるじゃねえか」
「祐作《ゆうさく》?」
「あいつ、本当におまえのことを心配して、考えて、大事にしてるぞ。本当のおまえ、とやらをちゃんと理解して、それでもおまえのためにドブにまではまったんだぞ」
「……そうだね。でも……祐作は、だめだよ」
髪が一束滑り落ち、瞬間《しゅんかん》、亜美《あみ》の表情が竜児から隠《かく》される。
「祐作にはもう、『たった一人の好きな女』がいるんだもん」
「……え?」
思考停止。
不意に思い浮かぶのは、入学してすぐに北村が告白したという相手――大河。しかし北村は大河に対し、はっきりと友達でいようと告《つ》げている。大河が納得《なっとく》したかどうかは別にしても、好きな女に対する態度ではない。少なくとも現時点では。では誰《だれ》だ? 親しいと言えば実乃梨《みのり》? それとも麻耶《まや》? それとも――
「高須《たかす》くんは……」
ギク、と、心臓《しんぞう》が跳《は》ねた。
猫のように身を屈《かが》めたまま、亜美が音もなく顔を寄せてきていた。ミルクの息が香《かお》り、竜児は亜美の顔も見られず、そのまま尻《しり》でうしろにいざろうとする。しかしすぐに背中が壁《かペ》にぶつかった。
亜美はそれ以上接近してはこない。
接近するのではなくて、琥珀《こはく》の潤《うる》んだ瞳《ひとみ》の底からゆっくりと引き込んでいくみたいに――
「……高須くんは、あたしが、本当のあたしを見せたら……どうする?」
「ど、どう、って」
「……好きに、なる?」
世界中が音を失う。
みじろいだ竜児の足が卓袱台《ちゃぶだい》の足にぶつかり、無音の中、からのカップが畳に転がる。
鼻と鼻が触れあうまで、二人の距離《きょり》はあと五センチ。
冗談《じょうだん》で済むぎりぎりのところで、亜美の唇《くちびる》がようやくニッ、と吊《つ》り上がった。
「――なんちゃって、冗談よ。ドキドキした?」
……の、だが。
「ありゃりゃりゃりゃん……」
冗談で済むと思っていたのは、当事者の二人だけだった、らしい。ドサドサ、とビニール袋詰めの荷物が畳の上に落ちる音がして、竜児はほとんど飛び上がる。
反射的に振り向いた亜美《あみ》は竜児《りゅうじ》の下半身をまたぎ。
反射的に振り向いた竜児はそのウエストをさりげなく支え。
「……やっちゃん……わざとじゃないのよん? ……そのお……お買い物行ったらね、北村《きたむら》くんと大河《たいが》ちゃんがドブにはまってて……それでえ……えっとお……あ〜ん、ど、どうしよ〜!?」
すっぴんの泰子《やすこ》は両手を頬《ほお》に、ムンクの叫びポーズで身体《からだ》をもじもじくねらせ。
その背後《はいご》、玄関の北村は全身泥水まみれ、ひん曲がった眼鏡《めがね》をなんとか鼻柱《はなばしら》に押し上げたひどいツラで、木刀《ぼくとう》を杖《つえ》に立っていて。
同じく全身泥水まみれの大河は――
「……うそ……」
大河は、北村の背に背負われて、それっきり黙《だま》って瞳《ひとみ》を大きく見開き。
誰《だれ》も気づかない部屋の片隅、図らずもすべてを見ていたインコちゃんの全身から、羽毛《うもう》がふわふわと抜け落ちていった。
[#改ページ]
とらドラ・スピンオフ! 幸福の手乗りタイガー伝説
旧校舎の三階。
下校時間だというのにその廊下は薄暗《うすぐら》く、生徒たちの気配《けはい》はない。切れかけた蛍光灯《けいこうとう》は時折音を立てて明滅し、その下を歩く富家《とみいえ》幸太《こうた》の憂鬱《ゆううつ》なツラをさらに陰気に照らし出す。
やがてたどりついたドアの上部には、エンピツでなにかを殴り書きされたノートの切《き》れ端《はし》がセロハンテープで貼《は》り付けてあった。
曰《いわ》く、「生徒全室」と。
幸太はああ、とため息をつき、暗い目をして古びたドアノブを見下ろした。一体自分はなんのために、毎日こんなところまで通っているのだろう――
『だぁーはっはっはっはっは!』
「……会長だな」
ドアの向こうから響《ひび》いた豪快《ごうかい》すぎる笑い声に存在感ごと吹き飛ばされかけ、あやういところで踏みとどまった。思わず脳裏《のうり》に浮かぶのは、笑い声の主の姿。
頼りがいのある人柄に、時に厳《きび》しい父性愛……兄貴、とか、親方、とか、そういう呼び名の似合うまさしく『漢《おとこ》』な人物であった。幸太は決してその人物を嫌ってはいない。が、
「失礼します」
ドアを開いて踏み込むのと同時。
「おーう! 遅いぞ一年坊主! さっさとそこに座った座った!」
「……はあ」
出会ってそろそろ数週間、いまだに慣《な》れることができない。
「なんだあ? やる気のない返事をしやがって」
チッ、と舌打ち、しかしすぐに白い歯を見せて鷹揚《おうよう》に笑い、「これでも食ってろ」と菓子を投げてよこしてくれる男らしいその人に、狩野《かのう》すみれという本名があるという事実に。
しかもその上その人は、
「会長すいません、この昨年度の予算案のデータなんですが」
「おう、こっちで見るからよこせや」
サラ……と黒の絹糸の髪を華奢《きゃしゃ》な肩に柔らかに垂《た》らし、伏目の目元も涼やかな和風色白美人の外皮をかぶっているのである。
生徒会長、狩野すみれ。
入学して以来、一度たりとも成績《せいせき》トップの座を譲《ゆず》ったことのない筋金入りの超|優等生《ゆうとうせい》。ちなみに二つ下の一年生には妹の狩野さくらがおり、校内では狩野姉妹と呼ばれている。すなわちすみれは会長であり、親方であり、狩野姉妹の兄貴の方、なのであった。
「おい幸太。おまえ、今日《きょう》も一人でメシ食ってただろ。おまえのクラスの前通りかかって目撃《もくげき》したぞ、孤独な姿を」
「……放っておいてください」
股《また》を広げて窓際《まどぎわ》の椅子《いす》に座り、片手に資料を持ったまま、すみれはニヤニヤと幸太《こうた》を眺めている。放っておいてくれる気など毛頭ないらしく、
「まーだ友達できないのか。もう五月も終わるとこだぞ? 入学してから二ヶ月も経《た》つじゃねえか」
淡い桜色《さくらいろ》の唇《くちびる》が紡《つむ》ぐ言葉に気遣《きづか》いは皆無。む、と幸太は押し黙《だま》り、すみれに背を向けて活動日誌に目を落とす。
「一年坊主のくせにシカトかよ」
「まあまあ、会長」
助け舟を出してくれたのは、二年生の副会長・北村《きたむら》祐作《ゆうさく》だった。銀縁《ぎんぶち》の生真面目《きまじめ》な眼鏡《めがね》を光らせながら、穏《おだ》やかな口調《くちょう》で割って入ってくれる。
「幸太は一ヶ月遅れで入学したから、まだ一ヶ月しか経ってないはずです」
「おう、そうだったな!」
すみれはポン! と粋《いき》な仕草《しぐさ》で手を打った。
「なんだっけ、確《たし》か入学式前日に車に轢《ひ》かれて……」
「……違います。車に轢かれたのは第一志望校の入試前日です」
「そうだったそうだった、ええと、ああそうか、隣《となり》の家が火事になって、放水で自宅も水浸しになって……」
「……それは、中学のときの修学旅行前日です。入学式前日のは、ひどい腹痛だと思っていたらそれが盲腸で、お祝いに食事に行った店で破裂して、他人のテーブルをなぎ倒しながら倒れて、」
「ああ! そのまま入院一ヶ月!」
――と指をさされ、幸太は黙ってうつむくしかない。すみれが次に放つ言葉は、もはやわかりきっていた。
「ほんっと、おまえは不幸体質だなあ!」
だーはっはっはっはっは! ……なにがおかしい。
「会長、笑いすぎです。幸太が落ち込んでいます」
北村がたしなめてくれるまで豪快《ごうかい》な笑いは響《ひび》き続け、書記に庶務――二人の二年生の先輩《せんぱい》も、己《おのれ》の仕事に没頭するフリで肩をひそかに震《ふる》わせていた。
笑うなら笑え、とすねた幸太は口を結び、むすっとそっぽを向く。不幸体質で悪うございました。確かにそれは事実ですとも。
ここ一番、というときに、必ず幸太の運命はトラブルの方へと転がっていく。この世に生まれ落ちたときから、今日《きょう》までずっとそうだった。ちなみにオギャーと母の子宮《しきゅう》から生み出された瞬間《しゅんかん》、父の回していたビデオカメラのバッテリーが切れ、そっちに気を取られた医者は母の一仕事終えたばかりの股間《こかん》に幸太を取り落とした。
そして、トラブルは今も現在進行形である。なにしろこの生徒会に、自《みずか》ら進んで入ってしまった。
高校入学、という人生の一大事に遅れを取ってしまった幸太《こうた》は、気が付けばクラスから浮いた存在になっていた。元より陽気な性格ではないし、友達作りといえば部活か、とも思ったが、新人|勧誘《かんゆう》のシーズンはとっくに過ぎてしまっていて、すっかり入部の機《き》も逃《のが》していた。
嫌われているわけではないにしろ、休み時間を一緒《いっしょ》に過ごせる友人の一人もいないのはさすがにこたえる。どうしたものか、と思案にくれた幸太の目の前に、ある日そのポスターは現れてしまったのだ。
『庶務求む! 新入生大歓迎! 生徒会』
庶務……要は、事務手伝いのことだろう、と思った。生徒会にも事務手伝いにも興味《きょうみ》があったわけではない。が、新入生大歓迎、という言葉が、そのときの幸太には輝《かがや》かしいものに見えた。乗り遅れてしまった電車の最後尾、最後のドアがまだ開いていた――そんな気がしてしまった。
同じ一年の庶務と親しくなれればいい。もしくは、生徒会の富家《とみいえ》幸太、になれば、今のような存在感皆無の空気状態からは抜け出せる。そう思ってしまった。
勇気を出して生徒会室に向かい、初めてあのドアを開いたときの気持ちは今もはっきりと覚えている。
驚《おどろ》いたように振り返った、綺麗《きれい》な黒髪のやまとなでしこ。こんな美人と一緒に生徒会活動ができるなんて想定外だ、珍しくもラッキーだ、そう思った。が、美人は「おーぅ!」と男らしく片手を上げた。股《また》を開いた格好《かっこう》で椅子《いす》にどっかと腰掛けて、「一年だな!? どうした!? ま、座れや!」パーン! と、空いた座席を叩《たた》いて見せた。……ガクッ、と膝《ひざ》から力が抜けた。そこで幸太を待ち構えていたのは、やまとなでしこの皮をかぶった頼れる『兄貴』だったのだ。
しかも一年生の庶務は他《ほか》にはおらず、そもそも生徒会にそんな役職《やくしょく》があることも「え? 庶務になった?」報告した担任さえ知らなかった。
しかし、勝手な思惑《おもわく》が外れたからといって辞《や》めるわけにもいかず、幸太には毎日|放課後《ほうかご》には生徒会室に寄ること、という面倒《めんどう》な日課だけが残された。
本当にもう、ついていない。
「――あーあ。『手乗りタイガー』に触りたい……」
ため息混じりに漏《も》れた、それは独《ひと》り言《ごと》だった。が、
「…ん?」
最初に反応したのは北村《きたむら》。
「今、『手乗りタイガー』がどう、とか言ったか?」
「……北村|先輩《せんぱい》、『手乗りタイガー』のこと、知ってるんですか?」
「質問に質問で答えるんじゃねえよ」
幸太《こうた》の脳天にすみれの愛のムチであるノートの角《かど》がゴツ、と刺さる。
「いっ! ……なにするんですか。しょうがないでしょ、ちょうど知りたかったことだったんだから」
刺さったままのノートの角が、幸太の脳天をゴゴゴ、と高速の鋸引《のこび》き開始。
「あああ熱《あつ》い!」
「ノートを舐《な》めるな、パルプの本質は木だ。知りたかったってなんでだよ」
「ら、乱暴《らんぼう》なんだから……クラスの奴《やつ》らが、言ってたんですよ」
――『手乗りタイガー』に触ると、卒業するまで三年間、ずっと幸せに過ごせるらしいよ!
そんな学園|七《なな》不思議《ふしぎ》のひとつめいたことを幸太が聞いたのは、ちょうどすみれに目撃《もくげき》された今日《きょう》の孤独な昼休みのことだった。背後《はいご》でしゃべっていた奴らの話が、聞くともなしに耳に入ってしまったのだ。
「ふむ。で、不幸なおまえさんはぜひ触りたいと思ったものの、友達じゃないから詳細を聞くことができなかった、と」
どこまで内気なんだよ、と続けるすみれの声にまたも背を向け、幸太は暗くもそもそ呟《つぶや》く。
「もういいです。放っておいてください。……別に、ちょっと気になっただけですし。本気になんてしてませんから。おまじないみたいなもんでしょどうせ」
「いいや、違うぞ」
北村《きたむら》の声が、不意に大きく部屋に響《ひび》く。
「『手乗りタイガー』は実在のものだ。俺《おれ》は見たことがある」
「えっ!? そうなんですか?」
驚《おどろ》くべきことに、すみれもしなやかな手を上げて見せ、
「私だって見たことある」
他《ほか》のメンバーも目を見交《みか》わしながら、会長に続いて「あるある」と手を上げるのだ。
「先輩《せんぱい》たちはみんな、目撃したことがあるってことですか?」
「ああ、特に俺たち二年生の間ではかなりメジャーなものだぞ、それは。……しかし、幸福の手乗りタイガー伝説か。……出世したものだな、そんな大層なことになっていたとは……」
こらえきれない、というふうに、北村は「くふ」と笑い声を上げる。すみれ以下、他のメンバーも妙ににやにやと顔をゆるめている。
「……な、なんなんですか、この空気は一体……」
幸太は一人事情を飲み込めず、状況を探ろうと辺《あた》りを無駄《むだ》に見回すが、
「そうだ!」
唐突《とうとつ》な声を上げたのはすみれ。
「幸太、おまえ『手乗りタイガー』に触れ」
「……はあ?」
「おまえみたいな不幸体質が身内にいると、生徒会全体にまで累《るい》が及びかねん。これは会長命令だ、必ず『手乗りタイガー』に触って、その不幸を治せ」
「……治せ、と言われても、『手乗りタイガー』がなんなのかさえ俺《おれ》は知らないんですけど」
「聞きゃいいだろ、クラスの奴《やつ》らに。さっそく明日《あした》から情報収集に努めることだな」
「……無理っぽいんですが」
なにぃ? と両目に険《けん》を点《とも》すすみれとの間に、北村《きたむら》が「まあまあ」と再び割って入ってくれる。
「いきなりじゃさすがに難《むずか》しいでしょう。幸太《こうた》、まずは俺からひとつヒントをやるぞ。うちのクラス、二年C組の櫛枝《くしえだ》という人物を訪ねてみろ。俺の知っている限り、この学校でもっとも『手乗りタイガー』のことをよく知る人物だ」
「櫛枝……先輩《せんぱい》、ですか?」
ああ、と頷《うなず》く北村は、人のよさそうな笑《え》みを浮かべて幸太を見下ろしているが、
「……北村先輩」
「ん?」
「楽しそうですね」
「うん、ちょっと」
眼鏡《めがね》の奥の理知的な瞳《ひとみ》は、なんだかいつも底知れないのだ。今も笑みを孕《はら》んだまま幸太を見|透《す》かすみたいにして、静かな眼差《まなざ》しはまっすぐ前へ突き抜けている。
優《やさ》しい先輩だとは思うが、さすがはすみれの片腕、ということか――生徒会室に集《つど》う輩《やから》は、みんなどこかどうかしている気がする。
スーパー不幸体質の幸太は自分の異常を棚に上げ、胡乱《うろん》な目つきで先輩方の顔を眺めた。
***
いいか幸太。まず『手乗りタイガー』は実在のものだ。そして、恐ろしくて凶暴《きょうぼう》で、触るのはとても難《むずか》しいものだ。
――すみれが特別サービスと言いつつ語ってくれたヒントだ。しかしこれだけのヒントでは『手乗りタイガー』がなんなのか、まだその正体はわからない。こういう場合、だいたい普通は銅像みたいな物だよな、などと予想しつつ。
「……これは脅迫だよ、もはや」
翌日、幸太は割と素直に二年C組のドアの前に立っていた。
なにしろすみれにはきつく言い渡されたのだ――おまえ、会長命令を無視したら大変なことになるからね、と。
『えーとつまり……クビ、ですか?』
それならいっそそれでも、と思わなかったわけではない。が、
『いいや。おまえを次期生徒会長に無理やりしてやる』
『……次の生徒会長は今の二年生でしょ』
『祝! 初の一年生会長|誕生《たんじょう》』
『いやです』
というわけで、憂鬱《ゆううつ》ヅラをぶら下げて、ひとり上級生の教室の前までふらふらやってきたのだった。しばらく所在なく教室を覗《のぞ》いていたが、頼りの北村《きたむら》の姿はなく、途方《とほう》に暮れ中まっただなか。自力で誰《だれ》かに声をかけ、櫛枝《くしえだ》なる人物を呼び出すほかはなさそうだ。
「あの、すいません」
「はい?」
ちょうど通りかかった女の先輩《せんぱい》に思い切って声をかける。振り返ってくれたその人は、
「なにかな?」
明るい笑顔《えがお》を浮かべ、優《やさ》しそうな茶色《ちゃいろ》い瞳《ひとみ》を幸太《こうた》に向けてくれた。丸い頬《ほお》はにっこりぴかぴか、ピンクのリップはつるつるきらきら、隅から隅まで眩《まばゆ》くて、まっすぐで素直そうで健康的《けんこうてき》で、どこぞの兄貴とは大違いだ。
「あ、ええと……その、このクラスの櫛枝先輩という人を探し」
「はーい!」
「て……るん、ですが」
びよーんとまっすぐ天に伸ばされたその人の手を見る。幸太はしばし首をひねる。ええと、この展開で「はーい!」びよーんということは、
「櫛枝でーっす」
「はあ」
なるほど、かわいいけど少し変な人……なんだか改めて少々落ち込む。このところ出会う人出会う人みんな変な気がするのだが、それもやっぱり自分の不幸体質が呼び寄せている事態なのだろうか。
「こらこら、はあ、じゃないでしょ! 呼び出しておいて!」
馴《な》れ馴《な》れしく肩をひとつ突き飛ばされ、足元が危うくふらつく。それでもなんとか踏ん張り前を向き、
「……北村先輩に、ご紹介してもらったんですが」
すみれにいびられたくない、その一心で櫛枝に挑《いど》む。が、
「北村くん? んーん、なんにも聞いてないけど?」
「えっ……」
眼鏡《めがね》ヅラを思い浮かべ、幸太はそんな、と口ごもった。ということは、今この場で一から『手乗りタイガー』を探している事情を話さなければいけないということか。それはすこし、恥《はじ》じゃなかろうか。一年生がわざわざ上級生の教室まで来て「手乗りタイガーってどこにあるんですか?」――なんだか相当本気っぽくて、それってちょっと……
「よう櫛枝《くしえだ》! こいつ、一年の富家《とみいえ》幸太《こうた》。『手乗りタイガー』のことを調《しら》べてるというから、俺《おれ》からおまえのことを教えてやったぞ。櫛枝という奴《やつ》がその件には詳しい、と。じゃあな!」
……一陣の風のようにちょうど通りがかった北村《きたむら》が、恥《は》ずかしいことをすべて簡単《かんたん》に説明しきってそのまま去っていったことに気づいたのは、
「え」
櫛枝の目が突然に険《けわ》しく翳《かげ》ったのと同時。
「君、『手乗りタイガー』のことを調べているのかね……?」
「……先輩《せんぱい》、口調《くちょう》がなんか」
「だまらっしゃい」
幸太の退路を断つように、戸口によりかかった櫛枝は腕を伸ばして壁《かべ》につく。明るかった笑顔《えがお》はもはや完全に引っ込んで、顎《あご》を若干《じゃっかん》しゃくれさせ、
「『手乗りタイガー』のことを調べて、そしてどうしようというのかね……?」
低く作ったしわがれ声で探るように睨《にら》んでくる。
「はあ、その……触ろうと……」
「触る。触るの。触りたいんだ。触りたいんだ」
「……四回言いましたね。ええ、まあ」
ふぅーっ。と、櫛枝の長い息が幸太の前髪を揺《ゆ》らす。
「……君は、保険に入っているかね? もちろん、傷害保険だ」
「入ってます」
なにしろ生まれついての不幸体質、どんな事態に巻き込まれてもとにかくどうにかなるように、保険だけは各種みっちり満額《まんがく》で入っていた。
うむ、とその答えを聞き、櫛枝は深く頷《うなず》く。
「いいかね、若いの……君はまだ、『手乗りタイガー』がどんなものか知らないようだわい……」
「はあ。だから訊《き》きに来てるんですが」
「このババめの口からなにを聞いても、今はまだ理解できるまいよ……ひとつだけじゃ、ババが教えてやれるのは……『手乗りタイガー』の『手乗り』の部分は、大きさのことを指しているんじゃよ……」
……馬場《ばば》? ついていけない幸太の前で、
「うっ! ごほ! ごほ、ごほ、ごほ!」
「く、櫛枝《くしえだ》先輩《せんぱい》、大丈夫ですか? ……ええっ!?」
ごーっほ! と偉大な画家の名を呼びつつ、自称|馬場《ばば》こと櫛枝は髪を振り乱し、ズルズルと崩《くず》れ落ちて片膝《かたひざ》をつく。
「あの、演技ですよね? ふざけてるんですよね?」
「ババは……もうダメじゃ……あとのことは……高須《たかす》、という者に……聞くが……いい……」
そしてそのまま休み時間の廊下に、ばったりと死んだフリで倒れ伏した。スカートがべろんとめくれて白い下着の尻《しり》も丸出し、しかしあせる気配《けはい》も直す気配もなく、普通の状態なら鼻血モノの大ラッキーだが……ああどうしよう、少しどころではなく変な人……。
「……あの……高須、って、誰《だれ》ですか?」
通行するクラスメイトは櫛枝の身体《からだ》をまたいで通り、やがて一人の女子が「おい、パンツパンツ」とめくれたスカートを直してやる。それでもなお倒れたままの櫛枝は、人差し指ですっと教室の中の一隅を指し示してくれた。その指の先では数人の二年生男子が楽しげに談笑《だんしょう》している。
ぐ、と幸太《こうた》は息を飲んだ。その中の一人がこちらに気づいて振り返り、
「……櫛枝はなにをしてるんだ……」
ブッ殺してやろうか。
そんな雰囲気で低く呟《つぶや》いたのだ。その、素人《しろうと》ばなれした鋭《するど》い視線《しせん》。苛立《いらだ》ちに歪《ゆが》む、酷薄《こくはく》そうな容貌《ようぼう》。カタカタと貧乏ゆすりをして辺《あた》りを威圧し、全身から危なすぎるオーラをむんむんと放ちまくっている。なぜこんなそこそこレベルの高校に、あんな超絶レベルの不良がいるのだろう。
そして、ピンときた。
絶対あの不良が、高須だ。
一番「こうであって欲しくない」という方向に幸太の運命は流れゆく。だから絶対あれがそうだ。もういいや、教室に戻ろう。その判断は幸太にしては正しく、素早《すばや》かったが。
「高須くんや……この若者が、君に用事があるらしいぞい……」
「な!?」
それよりも一瞬《いっしゅん》早く、死んでいるはずの櫛枝がご丁寧《ていねい》に高須を呼んでくれていた。
その声に「なにぃ?」と反応したのは、いまさら驚《おどろ》く気にもならない、やっぱりあの不良男だ。目をギラギラと光らせて、椅子《いす》を鳴らして席を立つ。さほど大柄でもないが、立ち上がったその身から立ち上る迫力は凄《すさ》まじく、背景がぐにゃりと歪んでさえ見えた。
かさつく唇《くちびる》を舐《な》めて湿らせ、高須はこちらに近づいてくる。まっしぐらに大股《おおまた》で、スタスタスタスタやって来る。
「ひ、ひぃ!」
反射的に、幸太は踵《きぴす》を返していた。跳《は》ねるように方向転換し、そのままダッシュで逃げ去ろうと――
「あっ!」
「……っ!」
胸の辺《あた》りに軽い衝撃《しょうげき》。誰《だれ》かとぶつかってしまったのだ。たたらを踏んで振り返り、
「すいませんっ!」
慌《あわ》てて頭を下げてそのまま駆《か》け出そうとする。が、
「……い、ったあ……」
思った以上に重大事故だったらしい。廊下の隅には小柄な女子がうずくまり、どうやら幸太《こうた》が勢いよく跳《は》ね飛ばして転ばしてしまったようだ。驚《おどろ》いて駆け寄ろうとし、
「っと!」
むぎゅ、と足の下にいけない感触――その女子が持っていたのだろう、廊下にはサンドイッチが転がっていて、そのうちの一つを踏んづけてしまった。だが高須《たかす》は迫っているし、女子は転んだままうずくまっているし、パンに構っている余裕などなかった。とにかく女子を助け起こそうと腕を差し伸べ、
「だいじょう……」
言葉を失う。
人形のように長い髪が、小さな身体《からだ》を柔らかに覆《おお》っていた。彼女はそっと顔を上げ、幸太の顔に視線《しせん》を向けた。
その、透《す》き通るように真っ白な横顔。
宇宙の色を映したような、煌《きらめ》く不思議《ふしぎ》な色の瞳《ひとみ》。
小さく開いた薔薇《ばら》の蕾《つぼみ》のような唇《くちびる》。
もつれた髪の隙間《すきま》から覗《のぞ》いていたのは、瞬間《しゅんかん》呼吸さえ忘れるような、凄《すさ》まじく艶《つや》やかな美貌《びぼう》。
「……わ……あ」
脳天に稲妻《いなずま》が落ちたような衝撃《しょうげき》に、幸太は降りかかろうとしているすべての運命を瞬時に忘れ、陶然《とうぜん》とその瞳に見入ろうとしていた。星の煌く夜の空に素っ裸で飛び込むみたいな、それは危ない衝動で――周囲の状況などもうなにもわからない。その場に居合わせた二年生たちがなぜか凍《こお》りついたように動きを止めたのも、一斉に息を呑《の》んだのも、なにもなにもわからない。
ただ、目の前のその美しいものを……
「走れ!」
「……っ!?」
高須だった。
いつの間にか接近していた不良男・高須が、突然目の前に躍《おど》り出たのだ。背後《はいご》に少女を隠《かく》すようにして立ちはだかり、世にも恐ろしい形相《ぎょうそう》をして、
「行け、命が惜しければ行くんだっ!」
「……はあ?」
叫んでいる。手をしっしっと振り、
「立ち止まらずに、行けーっ!」
「は、はいっ!」
それはまさしく恫喝《どうかつ》だった。幸太《こうた》はわけもわからぬまま、しかし高須《たかす》の声に抗《あらが》うこともできず、少女をその場に置き去りにして走り去るしかなかった。
つまり、彼女は囚《とら》われの身の上なのだ。
一連の出来事を振り返り、幸太はそんな結論《けつろん》に至っていた。不良の高須が力ずくであの人を、恐怖政治で籠《かご》の鳥なのだ。具体的にはよくわからないが、きっとそういうことなのだ。
「……助けたいなあ」
ふー……。と、思わせぶりにため息をついてしまう放課後《ほうかご》の生徒会室。
そんな幸太の横顔を、二人分の眼差《まなざ》しが微妙な速度でスルーしていく。
「さすが幸太だな」
妙に感心したように呟《つぶや》いたのは、すみれ。その傍《かたわ》らで腕組みしつつ、
「自《みずか》らどんどん不幸な方へ、吸い寄せられるように驀進中《ばくしんちゅう》……我々《われわれ》の予想の斜め上を、目隠《めかく》して突っ走る不幸ぶりです」
北村《きたむら》もそんなことを言う。
うんうん、と他《ほか》のメンバーも同意して、さほど広くない空間に妙な連帯感が生まれつつあった。
「……どうぞ、勝手に好きなことを言っていて下さい」
プイ、とひとりハブられて、幸太は先輩方《せんぱいがた》に後頭部を向ける。
はっきり言って今の幸太は、不幸など恐れてはいない。それどころか、自分が不幸になることであの二年生の美しい人を救うことができるのなら、いくらでも不孝になってやらあとさえ思っている――要するに、一目《ひとめ》惚《ぼ》れしてしまったのだ。
彼女をあの場に置き去りにしてしまったことが、今も激《はげ》しく悔《く》やまれてならない。あの不良に目をつけられるぐらい……いや、全面的に敵対関係になるぐらいの不幸がなんだ。少々の痛い目に耐え抜けば、その後には幸せ絶好調《ぜっこうちょう》のトゥルーエンドが待っているじゃないか。
「会長。俺《おれ》はやりますよ」
きっと顔を上げ、幸太はすみれの杏型《あんずがた》の瞳《ひとみ》を強く見据《みす》える。すみれは一瞬《いっしゅん》押し黙《だま》り、ややあってゆっくり首を横に振る。
「やるな。張り切るな。余計なことはなんにもするな。今、寒気が走ったぞ……己《おのれ》の不幸体質をよーく理解した上で、おまえは人間として最小限の範囲《はんい》で行動しろ」
「いーや! 俺《おれ》はやります。絶対にやり遂《と》げます。あのかわいそうな人を救い出してみせます。そして、『手乗りタイガー』に触って幸せになります! ……あの人と一緒《いっしょ》に触るんです……一緒に幸せになるために……それに、最初にやれって言ったのは会長でしょ」
「……あのかわいそうな人、とやらを救えとは一言も言っていないはずだが」
幸太《こうた》はしかし夢見《ゆめみ》心地《ごこち》、人の話など聞いちゃいない。思うのはあの白い横顔。潤《うる》んだような星空の瞳。儚《はかな》い硝子《ガラス》でできたみたいな表情。妖精《ようせい》めいた、柔らかな輪郭《りんかく》をもつ佇《たたず》まい……あんな人は、この世に二人といるまい。
「えーと。幸太、あのな、ちょっと聞いて欲しいことが」
「放っておいてください」
心地いい妄想《もうそう》を破ろうとする北村《きたむら》の声にも、もはや振り返りさえしなかった。己《おのれ》の妄想に浸りきり、幸太はいまや夢世界の住人なのだ。自分とあの人と手乗りタイガー、幸福の三位一体ビジョンがありありと脳内に浮かびまくっている。
「あー、いい。いいよ北村、放っておけ。こうなったらもう行き着くところまで行かせてやれ」
言い放ったすみれの声も、幸太の耳には届かない。
「幸太が放っておいてほしいって言ったんだから。与えられたアドバイスを拒否してまでな。せいぜい頑張ってもらおうか」
「……いいんですかねえ。ま、……いっか」
***
い、いた!
叫び出しそうになるのをグッとこらえ、幸太は目立たぬようにいったん教室の前を通り過ぎた。さっきから何度も二年C組の前を通りがかるふりをして廊下を往復し、さりげなく窓から中を覗《のぞ》き、やっとあの人の姿を発見したのだ。櫛枝《くしえだ》や高須《たかす》に見つからなかったのは僥倖《ぎょうこう》だった。
曲がり角の壁際《かべぎわ》、身を潜《ひそ》めて垣間《かいま》見《み》た姿を反芻《はんすう》する。彼女は休み時間だというのに、誰《だれ》と話すでもなくひっそりと自分の席に座っていた。小柄な肩を孤独に震《ふる》わせ、しかし薫《かお》り高い薔薇《ばら》のように。友達がいないのは自分と同じだ……一瞬《いっしゅん》そう思いかけ、すぐに幸太はかぶりを振る。
彼女はきっと、嫉妬《しっと》深《ぶか》い高須に脅されて、人と親しくすることを禁じられているのだ。そうに違いない。高須、なんて奴《やつ》。どこまで心が狭いんだ。
「……頑張ってください。俺がもうすぐ、『手乗りタイガー』を持って迎えに行きますから」
小さく呟《つぶや》き、再び何気《なにげ》ない素振《そぶ》りでスタスタと廊下を歩き出す。ポケットの中に手を入れて、仕込んだ彼女へのプレゼントを握《にぎ》り締《し》める。それはさっき買ったばかりの、まだ温かい缶コーヒーだ。
手渡すことができればもちろん一番いいけれど、まだそこまでの関係ではない。だから今はとりあえず、『名も知らぬ誰《だれ》か』のままで、
「……てい!」
届け、奇跡のコントロール――窓から愛《いと》しい彼女めがけて、熱々《あつあつ》の缶コーヒーを放った。頭の中で描いたシーンは、「ほら、飲めよ!」「えっ?」シュッ! くるくるくる……パシッ! 「あ……あったかい……」両手で缶をぎゅっ……的なヤツ。はたして缶はビジョンの通り、綺麗《きれい》な軌跡を描いて彼女の頭部へくるくると一直線《いっちょくせん》、そこまで見届けてあとはダッシュでその場を離《はな》れる。
ゴン、という音が背後《はいご》で聞こえていたが、夢中で走る幸太《こうた》は気にも留《と》めない。なにしろやらかしてしまった大胆な行動を、幸太自身も信じられずにいるのだ。こんなドラマみたいにキザなことを内気な自分がしでかせるなんて。ああ、この恋を知ってから、自分はどんどん男らしくなっていく……火照《ほて》る頬《ほお》を両手で挟み、走って逃げながらこっそりニヤける。
温かな缶コーヒーのプレゼントには、幸太なりの深い意味が込められていた。いつかもっと温かな……暖かなものを、プレゼントしますからね、と。そう、それはすなわち、日常の幸せ。高須《たかす》からの解放を意味していた。
この分なら、救い出した彼女とともに『手乗りタイガー』を触りまくる日もそう遠くない。手と手を重ねあい、頬と頬を寄せ合い、手乗りサイズの虎《とら》の像かなにかを二人してつるつる、すべすべ、と触りまくるのだ。『幸せになろうね※[#「ハートマーク」]』とか言っちゃって。『うん※[#「ハートマーク」]』とか言われちゃって。
「……やばい。ようやく俺《おれ》にも幸せがやってきてしまう……」
ブルブル、と幸太は喜びに打《う》ち震《ふる》え――
「っ」
その震えが新たな震えに相殺《そうさい》されてピタリと静止したのは、放課後《ほうかご》。生徒会室でいつもの気だるいひとときを過ごし、ようやく家路につこうとして覗《のぞ》いた下駄箱《げたばこ》の前だった。
幸太の靴箱には、几帳面《きちようめん》に畳まれたルーズリーフが一枚、物言いたげに収められていたのだ。なんだろうかと開いてみて、一気に心臓《しんぞう》が凍《こお》りついた。
そこには殴り書きのような字で、
夜道に気をつけろ 二―C高須
そんなただ一言が、
「ほう」
「わっ!」
かけられた声に跳《と》び上がり、幸太《こうた》は腰を抜かしかけて大げさな音を立てて下駄箱《げたばこ》に尻《しり》を打ち付ける。
「な、なんですか!? あんた、部活じゃないんですか!?」
「今日《きょう》は休みだ」
あんた呼ばわりされても穏《おだ》やかな笑《え》みを絶やさず、北村《きたむら》は幸太の背後からその手の中のルーズリーフを覗《のぞ》き込んで、
「高須《たかす》から警告《けいこく》のメッセージか。あいつも結構苦労するなあ」
などという戯言《たわごと》を呟く。
「そんな場合じゃないんですが! こ、これって、つまり、……つまり、ですよね」
「つまり、夜道に気をつけろ、ということだろう。高須は優《やさ》しいな、こうやって見ず知らずの後輩《こうはい》に注意を喚起してくれるんだから」
あまりののんきさに、幸太はもはや言い返す気力もなかった。夜道に気をつけろ、なんて、まるっきりヤクザの脅しの常套句《じょうとうく》ではないか。要は妙な真似《まね》をしたら許さねえぞ、覚悟しろよ、と。
「おお……っ」
ゾクゾクゾク、と寒気が背筋を駆《か》け上る。彼女のためなら高須とも敵対する覚悟だったが、いざこうなると、あのギラつく危ない視線《しせん》を思い出して全身の震《ふる》えが止まらなくなる。
あんな狂った目をしたあいつならやりかねない、夜道でいたいけな後輩を闇討《やみう》ちするぐらいのことは奴《やつ》にとっては息をするより簡単《かんたん》だろう。きっと磨《みが》き抜かれた木刀《ぼくとう》かなにかを振り回し、こちらの命を狙《ねら》ってくるのだ。
「それじゃ、また明日《あした》な」
怯《おび》える幸太を一人置き去りにして、薄情《はくじょう》な北村はさっさと校舎を出ていってしまう。反射的にその背を呼び止めようとして、
「……いや!」
グッと伸ばしかけた手を握《にぎ》り締《し》めた。
心には彼女の儚《はかな》い横顔。不幸になったって救うと決めたではないか。それならこんな高須の脅しぐらい、いちいちビビってなどいられないはずだ。北村に助けを求めたりはしないはずだ。
無理やりなやせ我慢で強がって見せ、幸太はルーズリーフを一息に握り潰《つぶ》した。そしてろくに辺《あた》りを確《たし》かめもしないまま、くずかごがあるはずの方角へそいつをポイ! と投げ捨てる。
「わははっ、これでよし! 捨ててやったぞ!」
「楽しそうだな」
苦《にが》い声に振り向くと、少し離《はな》れたところにすみれの姿があった。
「……会長、なにをしてるんですか」
「よく聞いた」
頭のてっぺんに紙くずをひとつ、驚異《きょうい》のバランスで乗せたまま、すみれは眉《まゆ》を寄せて渋面《じゅうめん》を作っている。
「これが小石か何かだったら、私は脳天から血を噴水《ふんすい》のように吹《ふ》き上げて無様《ぶざま》に死んでいるな」
「はあ……皿だったら河童《かっぱ》ですねえ」
曖昧《あいまい》に頷《うなず》いて見せてから、ようやく事態が飲み込めた。すみれの頭上のあれは、今自分が投げ捨てたあれか。
「……会長も結構、運悪いですね。普通こんなに綺麗《きれい》に乗らないでしょう」
はいはいすいませんでした、と呟《つぶや》きながらすみれに歩み寄り、頭上の紙くずを取って差し上げ、今度こそくずかごに放ろうとする。が、不意に笑いがこみ上げてきた。
「ふふ、さっきの会長の格好《かっこう》……あはは、こんなんでしたよ」
高須《たかす》の脅しに打ち勝った――そんな高揚した気持ちが、幸太《こうた》を妙なテンションに導《みちび》いたのだ。手にした紙くずを頭に乗せ、すみれの方へ向き直る。マヌケな格好《かっこう》を再現したまま、笑い声は止められない。すみれは表情を動かさず、ずっと幸太を見つめている。あ、これってちょっとまずいかな、という自覚は一応あったのだが、
「十八にもなって、ははははは、頭にゴミ乗せちゃって」
笑いの発作は身体《からだ》を震《ふる》わせ、ゴミが鼻先をかすめて落下するまで収まらなかった。
「はははは、ははは、はは……はーあ」
ようやく息をつき、発作をおさめるまでたっぷり一分。身体を屈《かが》めてゴミを拾い、改めてゴミ箱《ばこ》に投げ捨てる。そしてやれやれ、と笑いすぎて一気に汗ばんだ額《ひたい》を拭《ぬぐ》い、
「それじゃ、さよなら」
そのまますみれに背を向けて、帰宅しようと歩き出した。が、
「なんですか?」
肩を力強く掴《つか》んだのは、すみれ。
「幸太よ」
にっこり。と、微笑《ほほえ》む生ける日本人形が、幸太の手の中に鍵《かぎ》を一つ落とす。
「これは、生徒会室の鍵だ。今、教頭室に戻しに行くところだったが、大変なことを忘れていた。ロッカー、あるだろう。あの中に歴代生徒会の活動日誌が百冊近く入ってる。その一冊一冊に、テプラで活動年度を貼《は》らないといけなかったんだ。表紙、背表紙、と貼って、見やすいように並べないと。今日中《きょうじゅう》に。……よろしく、庶務くん」
「……は? これから、ですか? 俺《おれ》、一人でですか?」
「そうだ。明日《あした》の朝|確《たし》かめて、ぜんぶ終わってなかったら……わかるな? じゃあ、がんばれ」
「無理なんですが」
「がんばれ」
綺麗な二重《ふたえ》の瞳《ひとみ》の中に静かなる「怒」の一文字を光らせ、すみれは白い手を振って見せた。
***
三時間以上かかって、ようやく命じられた作業を終えることができた。
気が付けばとっぷりと日も暮れて、夕方もとうに過ぎている。校門を出て大通りを渡り、人気《ひとけ》のない住宅街に差し掛かる頃《ころ》には辺《あた》りはすっかり夜、だった。
街灯《がいとう》に照らされたアスファルトの道を、幸太《こうた》はせかせかと早足で歩く。夜道に気をつけろ――あのひとことのメッセージが、やたらと思い出される暗い帰り道……。
ビビったりするものか、と前向きに誓ったはずではあったが、こうして実際に夜道を歩くとどうしようもなく辺りが気になる。いつもこんなに静かだっただろうか? 前にも後ろにも、まったく人の気配《けはい》がないのだ。
思わずその場に立《た》ち竦《すく》みそうになり、
「……いや。俺《おれ》は、別にまだなにもしてないぞ」
小さくそんな風に呟《つぶや》いてみて、不安に打ち勝つべく顔を決然と上げた。そうだ、なにも気にすることはない。必要以上に恐れることもない。脅されたのは確《たし》かだけれど、あれからなにをしたわけでもないのだし――と、
「うわっ」
茂みがガサ、と音を立てた。
死ぬほど驚《おどろ》き、幸太はサイドステップで跳《と》び退《すさ》る。そのままダッシュで逃げようとするが、
「にゃあ〜ん」
かすかな鳴き声。
「な……なんだ、猫か」
闇《やみ》に紛《まぎ》れるようにして、真っ黒な子猫が茂みから顔を出していた。ちょい、と踏み出した足先だけが、ソックスを履《は》いたみたいに白くてかわいい。
息をついた幸太の顔を見上げ、子猫はもう一度甘えるように鳴く。そして尻尾《しっぽ》をピンと立てて、スラックスの足元に擦《す》り寄ってきた。
そのサマはなんとも愛らしくて、幸太は思わず恐怖も忘れ目じりを下げる。指を出してちっちっ、と呼べば、子猫は嬉《うれ》しげに頭を足首に押し付けた。
「あ、やめろやめろ、毛がついてしまう……そうだ」
弁当箱《べんとうばこ》の中に、アジフライのしっぽが残っているのを思い出した。幸太はその場にしゃがみこみ、鞄《かばん》の中から弁当箱を取り出す。にゃんにゃんと手を出す子猫をいなしつつ、包みをといて蓋《ふた》をあけ、指先でアジのしっぽをつまみ出した。
制服に毛がつくのも困るし、いつまでもここで戯《たわむ》れているわけにもいかない。だから別れのお土産《みやげ》のつもりで、そいつを子猫が出てきた茂みに投げ込んでやろうと思ったのだ。子猫はそれを追いかけて戻るだろうから、自分もそれをキリにして家に帰ろう、と。
「はーいはいはい、今あげるからな。それっ!」
ぽーい、と斜め前方へ投げたつもりだった。だが子猫の金色《きんいろ》の瞳《ひとみ》は幸太《こうた》の背後《はいご》へ。アジのしっぽは手からすっぽ抜けて、真後ろへ綺麗《きれい》に飛んでいってしまった。
いけね、と呟《つぶや》く幸太を無視して、子猫はそちらへ駆《か》け出そうとする。が、
「にゃ……っ」
幸太の膝元《ひざもと》で、突然ぶわっ! と全身の毛を逆立《さかだ》てた。二倍ぐらいに膨《ふく》れ上がり、背を丸くして耳を伏せ、わなわな震《ふる》えて後ずさりし、そしてそのまま弾《はず》む毬《まり》のように茂みの中へ飛び込んでしまう。
「あれ? いらないのか?」
どうしたんだろう、と立ち上がり、投げてしまったアジのしっぽを回収しようと振り返って――
「……」
声をなくした。
そこに、彼女が立っていた。
食いかけのアジのしっぽを奇跡的に眉間《みけん》に貼《は》り付け、愛《いと》しのあの人が立っていたのだ。
「――富家《とみいえ》、幸太」
低く低く唸《うな》るような、地を這《は》うひどく平板な声。あまりに唐突《とうとつ》すぎる出会いに、謝《あやま》らなくちゃ、というとっさの判断さえ、夜の闇《やみ》に散っていく。なぜ名前を知っているのかも問うことなどできない。
彼女のその瞳。その、視線《しせん》。
「私はね……許そうと、思っていたのよ」
パニックを起こして痺《しび》れた頭の片隅、おかしいな、と幸太は思っていた。
長い髪も美しい顔も小柄な身体《からだ》も、見紛《みまが》うことなくあの彼女だ。焦《こ》がれてやまない、囚《とら》われの人だ。でも、なぜだろう。
「ぶつかったのも、サンドイッチが踏みつけにされたのも、わざとではなかったみたいだし……北村《きたむら》くんの後輩《こうはい》だというし。……私にしては、珍しく、寛大に、許してあげようと思ったの」
可憐《かれん》な春風のようだった彼女は、こうして夜道で出会って見ると、妙に大きく揺《ゆ》らいで見えて、そして、そして、
「あ、あ、あ、あ……?」
対峙《たいじ》した自分は――なぜ、震《ふる》えが止まらないのだろう。
足が竦《すく》んで、どうして声さえ出せずにいるのだろう。
「それから、コーヒー缶を頭に投げつけられたこともね、我慢して飲み込んでやろうと思った。北村《きたむら》くんが、必死に謝《あやま》ってくれたから。自分に免じて許してやってくれ、って。……今思えば、北村くんは、あんたのことを甘やかし過ぎていたみたい……私も甘かったわね」
彼女の影《かげ》が、ゆらりと伸びた。
幸太《こうた》は全身|凍《こお》ったようになり、無意識《むいしき》に一歩後ずさる。
彼女の瞳《ひとみ》は、闇《やみ》に塗《ぬ》りつぶされた洞《ほら》のよう。
幸太は呼吸もできなくなって、必死に事態を理解しようと。
「え、えっと……え? あ、あれ?」
「高須《たかす》竜児《りゅうじ》も、私を止めたのよ。新入生なんだからひどいことするなよ、って。……だから、私がここにいたのは、本当にただの偶然。美術の課題《かだい》が終わらなくて、帰りが遅くなっただけ……そうしたらたまたま、あんたが前を歩いていた」
「お、おかしいな……」
か細い幸太の声は、無我《むが》夢中《むちゅう》の独《ひと》り言《ごと》だった。
「さっき振り向いたときには誰《だれ》もいなかったはず……あ、もしかして……そうか、この人が小さすぎて見えなかった……?」
独り言だった――が、小柄な彼女の耳にもそれは届いてしまったらしい。白い頬《ほお》がぴく、と引きつるのが見えた。そしてそれは決して吉兆《きっちょう》なんかではなくて、
「……そうね。ええ、そう、……そうよ」
彼女はゆっくりと眉間《みけん》から、うまいこと貼《は》り付いていたアジのしっぽをつまみとった。それを一瞬《いっしゅん》だけ見つめ、「ふ」と唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑い、
「――ふんぬ!」
びちぃ! と凄《すさ》まじい勢いで幸太《こうた》の足元に叩《たた》きつける。幸太は声も出せずに飛《と》び退《すさ》る。弾丸のようにアスファルトを抉《えぐ》ったアジのしっぽを、茂みの中から靴下子猫が見つめている。震《ふる》える前足をそっと伸ばそうとして、
「富家《とみいえ》……幸太……」
地獄《じごく》で奏《かな》でる毒ハープのような細い声に、ビク、と震えて音もなく引いていく。
「寛大な私にも、我慢の限界というものは、あるのよ」
彼女は音もなく顔を上げた。その眼差《まなざ》しが、幸太を貫く。
「……ひ……」
足がもつれた。
尻餅《しりもち》をついた。
見下ろすその人の目は――狂気に染《そ》まった、殺意の色。
ギラつく眼球が放つ血臭、飢えた獣《けもの》の狂った光、語るのはただひとつ、「獲物《えもの》がいた」――噛《か》み殺したら食ってやる、肉を裂いて腹から食ってやる――その獰猛《どうもう》な唸《うな》り声が、
「……許さない……」
ニタァ、と陰惨な笑《え》みに飲み込まれる。
血の色に裂けた目はさながら猛《たけ》る虎《とら》のようで、
「……は……? と、……虎……? あ?」
恐ろしくて、凶暴《きょうぼう》で、……小さくて……手乗り、サイズで……?
「……手乗り……タイガー……?」
思考が空白になったその一瞬。
夜の住宅街に少年の悲鳴が響《ひび》き渡り、やがて――かき消えた。
***
朝、七時十五分。
他《ほか》の生徒たちの姿はまだなく、幸太は誰《だれ》にも見られずに二年生の下駄箱《げたばこ》が並ぶ昇降口へとやって来ていた。
二年C組、女子の下駄箱の一番上の一番左。
両手に抱えた紙袋を、命じられたとおりにそこへ突っ込もうとする。しかし入りきらず、一旦《いったん》袋から出して嵩《かさ》を均《なら》すように詰め直す。
駅の北口にある「まるや」の限定十食サンドイッチボックスと、一番人気のトマトベーコンチーズサンド。二番人気の照り焼きチキンサンド。それとローカルコンビニでしか売っていないとろとろ純生プリン、カスタード味とカフェオレ味。バニラビーンズ入りヨーグルト三連パック。一リットル入り牛乳パック一本。
品物に間違いはないはずだ、なにしろ死ぬ気で確認《かくにん》したから。
多少コンパクトになった袋を再び押し込め、今度こそきっちり奉納完了。最後にもう一度、下駄箱《げたばこ》の位置を確認し、名前《なまえ》欄《らん》も確認し、
「……は……ははは……」
ぐったりと膝《ひざ》から崩《くず》れ落ちた。確《たし》かに彼女は、生ける伝説『手乗りタイガー』だ。なにしろ名前が、逢坂《あいさか》大河《たいが》。大河……手乗りサイズの、たいがさん。
「……誰《だれ》が、こんなくだらないあだ名を考え付いたんだ……?」
笑う気力もなくなって、手乗りタイガーの下駄箱の下に蹲《うずくま》った。ぎっちり収めたあれこれは、求められた詫《わ》びの品だ。
「あれ? 幸太《こうた》、おまえこんな時間になにして……」
背後《はいご》からかけられた声に振り返り、
「……ぶっ!」
吹《ふ》き出す北村《きたむら》の姿をうっそりと見上げる。
「お、おまえ……その顔! やられたのか、逢坂に!」
「……見りゃわかるでしょ……先輩《せんぱい》はなんですか……部活ですか」
「そうだ、ぶか、ぶかつ……ぶ」
ぶあーっはっはっはっは、と唾《つば》のおまけつきでバカ笑いされ、しかし言い返す気力なんかあるわけがない。これからしばらくこのツラで、生きていかなければならないのだ。
昨夜《ゆうべ》、幸太を散々どつき回した挙句《あげく》、身体《からだ》を完全に制して手乗りタイガーは言った――『おまえのような天然バカは、風水の力を借りて生きろ!』
かくして幸太の顔面には、鼻を中心に東西南北……油性マジックでしっかりと、顎《あご》を北に八方向の矢印が風水盤《ふうすいばん》のようにフリーハンドで書き込まれた。擦《こす》っても洗っても、決して消えない幸せ探しの羅針盤《らしんばん》である。
「……ほんっっっっとに、恐ろしい思いをしました。確かにあれは虎《とら》です。手を出してはいけない野獣《やじゅう》です。危険人物だから、あんなに……伝説になるほど有名だったんですね。……先輩たちは、全部知ってて俺《おれ》をけしかけたんですね」
「そんなつもりじゃなかったんだぞ。だから俺は教えてやろうとしたのに、おまえが放っておいてくれって言ったんじゃないか。それに会長も放っておけと仰《おっしゃ》ったし」
「……あんた、会長が言えばなんでもそれに従うんですか」
ま、だいたいそうだわな、と北村《きたむら》はフンフン平気なツラで頷《うなず》いて、
「……ふはは!」
改めて大爆笑《だいばくしょう》。
「それにしてもおまえ、その顔! 顔面に肛門《こうもん》があるみたいだ!」
「わ、笑いたければ笑えばいいでしょう……先輩《せんぱい》たちの言葉を真《ま》に受けた俺《おれ》がバカでした。……ていうか、手乗りタイガーの正体は分かりましたけど……あの人たちは一体なんだったんですか? 櫛枝《くしえだ》先輩とか」
「櫛枝は、ああ見えて逢坂《あいさか》の一番の友達なんだよ」
「と、友達! ……あの人とあの人が! 友達! ……衝撃的《しょうげきてき》な展開だあ、これは。じゃあ、あの怖そうな高須先輩は手乗りタイガーのなんなんです? あれも友達? も、もしかして……彼氏、とか?」
それを尋《たず》ねると急に北村は笑《え》みを引っ込め、
「それが知りたいか? 残念ながらそれだけは、俺の口からも言えないんだ。あの二人の関係は、なにしろ本物の学園|七《なな》不思議《ふしぎ》のひとつだからな」
「なんですか、それは……あー、もういいです!」
結局、生徒会の面々に遊ばれただけなのだ。からかわれただけだったのだ。それだけは十分に理解できた。
幸太《こうた》は憤然《ふんぜん》と北村に背を向け、そのまま走り出す。どうせ顔に肛門だよ、どうせ不幸体質だよ――!
「あっ、幸太! 待て!」
振り返ったりもするものか。北村の声を完全に無視し、そのまま幸太は走り続ける。
「手乗りタイガーに触ったんだろ! どうだ、幸せになれそうか!?」
「――っ!」
無言で階段を駆《か》け上がり、その問いかけを振り切った。否定の返事さえしたくない。ああそうだ、確《たし》かに触ったとも、手乗りタイガーに。馬乗りにのしかかられ、顔面に押し付けられた油性マジックを押し返そうと、必死の本気で暴《あば》れたとも。そして完全に、力負けしたとも。あの小柄な女子に、まったく抵抗できなかったとも。
一体何者なんだあの女――やっぱり自分の前には、変な奴《やつ》しか現れないのか。悔《くや》し涙を振り払い、不幸な幸太は廊下をひた走る。そして無人のはずの教室へ飛び込み、
「あ……っ」
慌《あわ》てて両手で顔を隠《かく》した。だが、遅かったようだ。
なぜか早くも登校していたクラスメートの奴ら数人が、驚《おどろ》いたように声を上げて幸太の顔を見つめている。
そりゃそうだ、いきなり顔面方位男が現れたら誰《だれ》だって驚《おどろ》くだろうよ。幸太《こうた》は半ばヤケになり、落書きされた顔をさらけ出したまま自分の席へと歩いて向かう。ああ、これでまた一層、このクラスから浮くことになるのだ……。と、
「わはははははっ! 富家《とみいえ》、その顔どーしたんだよ!?」
「見せろ見せろ、なにやってんだよおまえー!」
明るい笑い声が、唐突《とうとつ》に幸太の周りを取り巻いた。駆《か》け寄ってくるクラスメートたち、伸ばされた指が乱暴《らんぼう》に、しかし傷つけるんじゃなくてじゃれるみたいにして幸太の頬《ほお》を擦《こす》る。
「や、その、これは、」
「え、なになに? どしたん?」
「言えよ、ほれほれ! なんでこんなことになってんだー!?」
幸太の机を囲み、彼らは幸太が喋《しゃべ》り出すのを目を輝《かがや》かせて待っていた。こんなアホくさい事態になるなんて、一体どんなことがあったのか、と。
「……これ、実はさあ、」
身を乗り出す奴《やつ》らと顔を突きあわせ、この出来事の始めから、幸太はすこし早口に喋り出していた。彼らが思っているよりも、ずっとこれはすごいこと。話が進むほどに、「げー!」「まじで!?」「すげえ!」合いの手の興奮《こうふん》も増していく。
だって伝説の手乗りタイガーと、幸太は実際に対峙《たいじ》したのだ。
触ることも、できたのだ。
旧校舎の三階。
「また明日《あした》なー!」「おう、じゃーな!」……騒々《そうぞう》しくクラスメートたちと別れ、幸太は足早に廊下を歩いていた。
庶務なんかもうやめたろか、とさえ思い詰めてもいたのだが、今、その足は迷うことなく生徒会室へ向かっている。もうすこし続けてみようかとも思っている。あの意地悪な先輩《せんぱい》たちに言いたいことがあったのだ。
手乗りタイガーに触りました、と。
いいことが少し、ありました、と。
いいことと言っても、どうせ「それっぽっちのこと」とすみれあたりには笑われるだろうが……遅れて入学してかれこれ一ヶ月、ようやく話せる奴らができたことは、幸太にとっては手乗りタイガーのご利益《りやく》を信じたくなるぐらいのハッピーなことだった。今日《きょう》一日だけで入学してから昨日《きのう》までの、三倍ぐらいは笑った気がする。
だから幸太はいつもより少し明るい目をして、お馴染《なじ》みのドアを押し開いた。なんだか新しい日々が始まるような、そんな予感さえしていて――
「遅くなりました……うわ!」
瞬間《しゅんかん》、瞬《またた》いた眩《まばゆ》い光に目をやられ、慌《あわ》てて顔を背《そむ》ける。今のは一体……
「ふ、フラッシュ!?」
「大当たり! 記念にもう一枚!」
細く目を開けた途端《とたん》、デジカメを構えたすみれが真正面から再びフラッシュを焚《た》いた。その背後《はいご》にはいつもどおりに仕事をこなす二年生の書記・庶務コンビ。そして、
「お見事です、会長」
すみれの傍《かたわ》らには拍手する北村《きたむら》。
「な……なにすんですか!?」
「おまえの顔がおもしろいというから、記念に残しておこうと思ってな。……いや、それにしても、ほんと……ぶふっ! そのツラ!」
だぁーっはっはっはっはっはっは! ぬぁーっはっはっはっはっは!
普段《ふだん》より男らしさ二倍増しの大爆笑《だいばくしょう》が、生徒会室に響《ひび》き渡る。結局こうか、と幸太《こうた》がいじけるその寸前、
「あー笑った笑った! ほら、記念の写真も撮《と》れたことだし、さっさとこれで落として来い!」
涙を拭《ぬぐ》いながら、すみれは小さなチューブを幸太に投げてよこした。
「……なんですか、これ」
「市販品の中で最もよく落ちると言われているメイク落とし。なにしろマニキュアも溶けるという代物《しろもの》だ、それでダメなら皮膚科《ひふか》だな。ほれ、これも持っていけ」
さらにタオルまで投げ渡され、幸太は背中をグイ、と押された。いつもならそのまま、言われるがままにはいはいわかりましたよ、となる場面だが、
「……会長」
振り向いて、そして言った。
「なんだ」
「優《やさ》しいですね」
きょとん、とすみれの目が丸くなる。その唇《くちびる》が継句《つぎく》を忘れ、小さく半開きになって――幸太はそのまま部屋を出た。廊下を歩きながら小さくガッツポーズ。
「勝った……!」
すみれがあんな顔をするなんて、……うん、初めてあの「兄貴」を困らせて、黙《だま》らせてやった。言葉を継げなくさせてやったぞ。
なんだか結構いい調子《ちょうし》。顔面方位男ではあるが、それでも今日《きょう》というこの日は、とっても順調に回っている。手乗りタイガーに触ったことで、本当に運が向いてきたのかもしれない。
そう思えるせいか、自分をこんな目に遭《あ》わせた手乗りタイガーのことも恨《うら》んでいるわけではなかった。もちろん怖かったし、二度と関《かか》わりたくないとも思うが、
「ま、美人は、美人だよな」
間近で見た手乗りタイガーは、恐ろしくも最高ランクの美少女だった。先輩《せんぱい》たちが彼女をあんなあだ名で呼ぶ気持ちが少しだけ分かった気がする。怖い、関《かか》わりたくない、怒らせたくない、でも、ただビビって無視することはできない。
無視できないなら、遠巻きに『みんな』で綺麗《きれい》な彼女を見ていましょうね――抜《ぬ》け駆《が》けはなしの、この安全圏《あんぜんけん》から。安全圏をはみ出して彼女に近づけば襲《おそ》われる。幸太《こうた》は不幸にも、なにも知らずに一歩はみ出してしまった。その結果が、この顔面方位男の刑だ。
そしてすべてを理解して、幸太はどうすることにしたか?
安全圏に、収まることにした。
不幸な自分がどんなアンラッキーによってどんな事態を招こうとも、手乗りタイガーをこれ以上キレさせることのない距離《きょり》から、彼女をこっそり見つめ続けることにしたのだ。安全圏の居心地《いごこち》は、まあまあ悪くなさそうだった。そんな微妙な心情もコミで、これからようやく高校生活が始まっていくのだ。
鼻歌交じりに調子《ちょうし》に乗って、廊下の手洗い場、幸太は思いっきり窓を大きく開け放った。と、勢い余って、
「……しまった!」
すみれに手渡されたチューブを外に落としてしまう。慌《あわ》てて身を乗り出し、外を見下ろし、硬直する。凍《こお》りつく。やっぱり結局こうなのか。安全圏に引っ込んだって、己《おのれ》の不幸はそんな囲いなど軽々と跳《と》び越えてしまうのか。
「あ、あわ、あわわ……っ」
開いた窓のその下。
鬼のような形相《ぎょうそう》をして頭を押さえ、小さな手にチューブを持ったままこちらを見上げているその人物は――
[#地付き]おわり
[#改ページ]
あとがき
順調《じゅんちょう》に肥《こ》えております、ゆの字です。口癖《くちぐせ》は「じゃあ相撲《すもう》で決着つけようぜ!?」、欲しいものは土俵、必殺技はえぐり込むような張り手です。どうだ、この下半身の安定感は……もう、うっとりものだろう? ……早い者勝ちだからね?(相撲部屋関係者へメッセージ)
さて、『とらドラ2!』をお手に取ってくださった皆様、本当にありがとうございました! なにやら殺伐《さつばつ》とした気配《けはい》漂う第二巻ですが、楽しんでいただけましたでしょうか? 次巻も引き続きお付き合い下さいますよう、どうかどうか、よろしくお願《ねが》いいたします! 皆様にまったり楽しいひと時を送っていただくためなら、私は女として一番大事なもの(肌年齢《はだねんれい》)をラブコメの悪魔《あくま》に売り払ってもいい……! これもやるよ、ポイ!(っと女性ホルモンを)
そしてすでにご存知の方も多いと思いますが、『わたしたちの田村《たむら》くん』が「電撃《でんげき》コミックガオ!」で漫画になります。漫画というフィールドで田村たちがどんな青さを見せ付けてくれるか、私も楽しみにしているところであります。『とらドラ!』ともども、よろしくお願いいたします。
で。相変わらず、たらこスパ狂いです。ただものじゃないおいしさに震《ふる》える日々……もう、変態的なおいしさ。そして冬限定で私をさらに狂おしく肥えさせたのは、肉まん界の宝石、極旨《ごくうま》チャーシューまんです。それも……まあ、あの……チャーシューまんというか……チャーシューめん……(複数形)。一日二めんも三めんも、これで肥えなきゃおかしいわけです。
とはいえ、ただ漫然と肥えていたわけでもなく、しました。ダイエット。低炭水化物ダイエットです。一週間続けるメニューだったのですが、丸一日|経《た》った頃《ころ》、米のことしか考えられなくなりました。頭の中はもう米だけ。あの白くてもちもちとしたあま〜いあの子のこと百パーセント。担当氏から仕事の電話をもらったのですが、頭が働かず、ろくに返事もできませんでした。ひもじくてちょっと泣いて、実家の母に電話をかけたりもしました……声が聞きたくて……。それでまあ、や、やめました。担当氏からも「仕事に障《さわ》りが出るのでもうしないで下さい」と言われたので、もう二度と食べ物制限系ダイエットはしません。あんな苦い涙はもう流したくない! そして米飯への愛情を再確認《さいかくにん》し……あっ!?……愛、米……。……ラブ、コメ……? ……なんてことを思ってしまった私は丸めた方がいいかな……? 頭を?
それでは、ここまでお付き合い下さいました読者の皆様! 改めまして、本当に本当に、ありがとうございました。両親を紹介したいほど愛してます。皆様に少しでも楽しんで頂けたなら、私は最高に幸せです。また、ヤス先生、担当さま、いつもお世話になっております。これからも三位《さんみ》一体《いったい》でばりばりよろしくお願いいたします。そして今回、帯にコメントを頂きました奈須《なす》きのこ先生。お忙しいところ、どうもありがとうございました。奈須先生になら、私、竹宮家《たけみやけ》に代々伝わる正装(髷《まげ》にまわし姿)を見られでもいいです……。
[#地付き]竹宮ゆゆこ