とらドラ!
竹宮ゆゆこ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)誰《だれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)前髪|如《ごと》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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あなたにとって、手乗りタイガーってなんですか?
「……知らん。いいから帰ってくれ、うちは今から夕飯なんだ。俺には関係ない。……えっ? この茶碗? い、いや、これは両方とも俺が食うんだ。 そう俺は飯を並べていっぺんに二杯食うタイプなんだよ」
なんでキレてるんですか?
「……キレてねぇよ」
高須竜児
きれい好き&料理も得意、どこに嫁に出しても恥ずかしくない高校二年生。目つきの悪さは単なる遺伝。いまだ眠れる竜……なのか?
「つっぱることがあのこの! たったひとつの勲章だって! みのりんはぁ信じて生きてきたー! ズダダダダダダダ!」
フォウ! イエー!
「や、その続きはありません。」
櫛枝実乃梨
いつもにこにこ超マイペース、変化自在の言動で周囲をほんわか翻弄するソフトボール部女子部長。その天然は、”手乗りタイガー”をも御すという。
「元気がよくて、いい子だと思うぞ! ところで皆さん、ソフトボール部は常に新しい仲間を求めています! 新一年生の君たち、未経験者大歓迎だ! 二年生諸君、今からでも遅くはないぞ! 三年生の先輩方、受験前の思い出作りはいかがかな!? それから新年度生徒会は、お手伝いしてくれる庶務を求めて、」
もういいです。
「あっ、ちょっと待っ」
北村祐作
生徒会副会長にしてソフトボール部の男子部長。文武両道、勤勉実直、硬軟自在の優れ者。どこかずれたところもあるが、女子にとってはそこがいいとか。
「北口改札を出て左、まっすぐ直進200メ〜トル! スナック毘沙門天国の魅羅乃ちゃんでぇ〜す! いくつに見えるぅ? 23? あったりぃ〜! だいせいかいサービスとしてビール一杯無料でぇ〜す! 遊びにきてねん?」
あの……。
「きゃ〜! 竜ちゃん、見てるぅ〜? やっちゃん今日は、4時ごろに帰るからねぇ〜!」
高須泰子
真の名は魅羅乃、永遠の二十三歳。二人暮しの高須家では深刻な竜児依存症だが、戦場(店ともいう)では華々しい活躍をしている……かもしれない。
「……結局誰も私のこと、わかってなんかいないじゃない」
手乗りタイガー∴ァ坂大河
これは、そんな手乗りタイガー≠めぐる恋と団欒のものがたり。
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この世界の誰《だれ》一人、見たことがないものがある。
それは優《やさ》しくて、とても甘い。
多分《たぶん》、見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ。
だからこそ、誰もそれを見たことがない。
そう簡単《かんたん》には手に入れられないように、世界はそれを隠したのだ。
だけどいつかは、誰かが見つける。
手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。
そういうふうになっている。
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1
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「……くそ」
朝、七時三十分。
天気快晴、ただし室内暗し。
木造二階建て戸建、二階部分の借家。私鉄の駅から徒歩十分、南向き2DK。
家賃、八万円。
「もうやめだ。どうにもならん」
苛立《いらだ》ちに任せ、曇《くも》る鏡《かがみ》を乱暴《らんぼう》に手のひらで拭《ぬぐ》った。ボロい洗面所には目覚ましに浴びたシャワーの湿気がこもったままで、拭ったそばからまた曇る。
だが苛立ちは鏡に対してなんかではなく、
「こんなもん、うそっぱちだ」
ふんわりバングスでソフトな表情――そんな言葉が躍《おど》る、最近流行の男子向け美容雑誌に、だった。
高須《たかす》竜児《りゅうじ》の前髪は、いまやまさしく『ふんわりバングス』。記事のとおりに長めに伸ばし、ドライヤーを駆使して自然に立ち上げ、軽いワックスでサイドに流した。全部全部、記事のとおりに。モデルの髪型と同じになるように。三十分の早起きの成果だ、果たして希望は叶《かな》ったと思えた。
だけど、しかし、それなのに。
「……前髪|如《ごと》きで変われるなんて、俺《おれ》が甘かったのかもしれん……」
恥を忍んで購入《こうにゅう》した軟弱雑誌を、力なく屑《くず》かごに放り捨てる。が、痛恨のコントロールミス。屠かごは倒れてゴミをぶちまけ、捨てられた雑誌はそのゴミの中で開き癖《ぐせ》のついたページをぱっかりとご開帳してみせた。
曰《いわ》く、
「今から間に合う新学期変身宣言・ソフトorワイルド!? 俺達のデビュー白書』……ひとつ言わせてもらえば、デビューがしたかったわけではないのだ。
だけど、変身はしたかった。
そして、失敗に終わった。
やけっぱち、せっかくのふんわりバングスを水に濡《ぬ》らした手でぐしゃぐしゃに掴《つか》み、いつもどおりの適当な直毛に直してやる。そして床に跪《ひざまず》き、こぼれたゴミを拾い集め、
「ああっ!? なんだこれ……カ、カビてる……カビてるぞ!」
浴室との境界に敷《し》かれた木材に、黒カビを大発見。
いつも気をつけて丹念に水気を拭《ぬぐ》っていたのに。つい先週も、丸一日かけてカビ掃除大会(水周り部門)を開催したばかりなのに。このボロ屋の貧弱な換気能力の前には、どんな努力も水の泡だということか。悔しげに薄《うす》い唇を噛《か》み、ダメ元でティッシュで擦《こす》ってみる。もちろん落ちるわけもなく、ティッシュのカスばかりが空《むな》しくポロポロと嵩《かさ》を増す。
「くっそ……こないだ使い果たしたから、またカビ取り買ってこないと……」
今は放置する以外になす術《すべ》はなかった。必ず殲滅《せんめつ》してやるからな、とカビを横目で睨みつつ、散らかしてしまったゴミを片付け、ついでに床をティッシュでざっと拭う。落ちていた髪ごと埃《ほこり》を処分し、洗面台の水気を手早く拭《ふ》き取り、顔を上げてようやく一息。
「……ふう。そうだ、エサをやらないと……インコちゃーん!」
「あーいっ」
高校生男子の野蛮な呼びかけに、甲高《かんだか》い返事がかえってきた。よし、起きてる。
気を取り直して素足のまま、板張りの台所へ。エサと替えの新聞紙を支度《したく》して、畳の居間に向かう。その一隅、鳥かごにかけていた布を取り払うとかわいいペットと一晩ぶりの対面だ。
他所《よそ》の家ではどうやっているか知らないが、とにかく高須《たかす》家《け》ではインコはこう飼っている。寝顔がすごく気持ち悪いので、インコが目覚める朝まではその姿を隠させていただいているのだ。
「インコちゃん、おはよう」
黄色《きいろ》いインコの、インコちゃんである。いつものようにエサを補充しながら話しかけてやると、
「お、おっはっ……おはよっ」
不気味かつ意味不明に目蓋《まぶた》を痙攣《けいれん》させつつも、賢《かしこ》いインコちゃんはなんとか日本語でお返事ができた。寝起きだというのになかなかのテンションだ。こんなところはかわいくない、こともない。
「インコちゃん、いただきます、って言ってごらん」
「いただき、だきま、ますっ……いただきますっ! いただきますっ! いただっ! きっ!」
「もういいもういい。じゃあ、今日《きょう》こそアレが言えるかどうかテストだぞ。自分の名前を、言うことができるかな。……インコちゃん、って言ってごらん」
「イ、イン、インイ、イン、ン、ンン……イン」
全身に力が入っているのか、インコちゃんは首を振りつつ激《はげ》しく身体《からだ》をバンクさせ、翼《つばさ》を広げてゆらりと揺れた。
「……イン……」
つ、とその目が細められ、くちばしの間から灰色《はいいろ》の舌がベロリと覗《のぞ》く。これは今日こそやるかもしれん――飼い主は拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》める。が、
「ポっ」
――ああ、なんて鳥って馬鹿《ばか》なんだろう。さすが脳みそ1グラム。
ため息をつきつつ、汚れた新聞紙をビニール袋に回収、他《ほか》のゴミも一緒にまとめて台所へ向かおうとしたその時。
「……ど〜こ〜い〜く〜の〜……」
開け放された襖《ふすま》の向こうで、もう一方の馬鹿《ばか》が目を覚ましたらしかった。
「竜《りゅう》ちゃん、制服着てるぅ〜……なんでえ〜……」
手早くゴミ袋の口を縛《しば》りつつ、声の主を振り返る。
「学校行くんだよ。今日《きょう》から新学期って昨日《きのう》言っただろ」
「……え〜……」
布団の上に大股《おおまた》開き、そいつは今にも泣きそうな声で、そしたら、そしたら、と繰《く》り返した。
「……そしたら、やっちゃんのお昼ごはん……おべんとうは……? おべんとうのにおいがしない……作ってくれなかったの?」
「ない」
「……ふえええ〜! ……起きたら、そしたら、やっちゃんどしたらいいの……食べるものないよう……」
「おまえが起きるまでに帰ってくるんだよ。始業式だけだから」
「なんだあ……そっかあ〜……」
へへへへ、と笑ったそいつは、ハの字に広げていた足を突然パンパンパンパン! と打ち鳴らす。足柏手……いや、拍足だ。
「始業式かあ、おめでとう〜! ってことは今日から竜ちゃん、二年生だねん」
「そんなことより、寝る前にはなにがあってもメイク落としだけはしろって言っただろ。面倒《めんどう》だって言うからちゃんとシート式のクレンジングだって買っておいてやったのに……あーあ、また枕《まくら》カバーにファンデーションがべっとりついてやがる……落ちねえぞ、これ。肌だって知らねえぞ、もういい年のくせに」
「ごめえん」
ヒョウ柄のパンツを丸出しにしたまま起き上がり、そいつはクネクネ、と巨乳を揺らした。胸の谷間に落ちた髪はほとんど金髪のウエーブヘアで、くしゃくしゃにもつれてしまっている。その髪を掻《か》きあげる仕草《しぐさ》も、その手が備えた長い爪《つめ》も、滴《したた》るように「女臭い」。
だが、
「飲みすぎちゃってえ、帰ってきたの一時間前だったのお〜……んあ〜ねむ〜い……ふわわわぁ〜……あ、そうだ……プリン買ってきたんだった〜」
あくびをしながらこってりとマスカラのついたままの目蓋《まぶた》を擦《こす》り、這《は》いずるようにして部屋の隅に投げ出されたコンビニの袋に接近。そんなざまも、プリンプリンと呟《つぶや》くおちょぼ口も、ふっくらした頬《ほお》もまん丸な目も、アンバランスなほどに子供っぽいのだ。
美人の部類ではあるだろうが少々奇妙なこの女こそ――
「あれえ……竜《りゅう》ちゃあん、スプーン見つかんないよう」
「店員が入れ忘れたんじゃねえの?」
「ううん、入れてくれたの見てたもん……あれえ……」
高須《たかす》竜児《りゅうじ》の実の母・高須|泰子《やすこ》(またの名を魅羅乃《みらの》)、三十三歳(またの年を永遠の二十三歳)である。職業《しょくぎょう》は、この町で唯一のスナック『毘沙門《びしゃもん》天国《てんごく》』の雇われママだ。
泰子はコンビニの袋を逆さにし、布団の隅をゴソゴソと探って、小さな顔を不満げに傾ける。
「この部屋、暗い……こんなんじゃ見つからないよう。竜ちゃあん、ちょっとカーテン開けてえ」
「開いてるよ」
「え〜?……ああ……そっか……こんな時間に起きてることってあんまないから、忘れてた……」
薄暗《うすぐら》い部屋の中、あまり似ていない親子は揃《そろ》って小さく息をついた。
南向きの大きな窓。
ここに引っ越してきてからおよそ六年の間、二人が暮らす小さな借家は、南からの明るい日差しに採光の一切を頼ってきた。北に玄関、東西には数十センチの距離《きょり》に隣家《りんか》、南の方角にしか窓がないのだ。とはいえ日当たりは超良好、日が昇ってから暮れるまでの間は照明をつける必要もなかった。特に午前中の光は眩《まばゆ》く、二人分の弁当を作る制服姿の竜児を、疲れ果てて眠る泰子を、雨の日以外はいつだって贅沢《ぜいたく》に照らし続けてくれていた。
しかしそれは、去年までの話。
「……でっけえマンション様だねえ……」
「どんな奴《やつ》が住んでるんだろうな。……電気、つけるか」
去年、この家の南の窓からほんの数メートルの距離に、地上十階建ての超豪華仕様マンションが建設されたのだ。当然ながら日差しはまったく入らなくなり、竜児は幾度となく狂おしい苛立《いらだ》ちに悩まされた――洗濯物《せんたくもの》は乾かないし、畳の隅は湿気を吸ってぶくぶくと膨《ふく》れて浮き上がる。カビも生《は》える。結露《けつろ》もひどい。壁《かべ》のクロスの端が剥《は》がれてきているのも湿気のせいに違いない。賃貸なのだから落ち着けよ、と言いたくもなるが、神経質な気のある竜児には、住《じゅう》環境《かんきょう》が不潔になることがどうしても許せなかった。
白い煉瓦《れんが》が貼《は》られた豪華マンションを見上げ、それでも貧しい二人はただ口を開いて肩を寄せ合うことしかできない。
「ま、別にいいんだけどね〜。やっちゃんはどうせ、午前中は寝てるしね〜」
「文句をつけたところでどうなるわけでもないしな……家賃も五千円、安くなったしな」
台所からスプーンを取って来て泰子に放ってやり、竜児はさて、と頭を掻《か》いた。親子の団欒《だんらん》などしている場合ではない。そろそろ家を出る時間だ。
学ランを羽織《はお》り、縦《たて》にばかり成長中の身体《からだ》を丸めてソックスを穿《は》く。そして持っていくものの確認《かくにん》をしたあたりで、わずかな胸の高鳴りを意識《いしき》した。
そうだ。今日《きょう》から新学期。
始業式をして、そして――クラス替え。
イメージチェンジには失敗したが、それでも憂鬱《ゆううつ》なばかりではない。希望か期待か、とにかくそんな名称で呼ばれるべき淡い感情も、確《たし》かに竜児《りゅうじ》の腹をくすぐっている。それが顔に出るタイプではないのだが。
「……行ってくる。ちゃんと戸締《とじま》りして、パジャマに着替えろよ」
「あ〜い。あっ、ねえねえ、竜ちゃん」
布団に転がったまま、泰子《やすこ》はスプーンを奥歯で噛《か》んで子供のように微笑《ほほえ》んだ。
「今日の竜ちゃん、なんかいつも以上にビッとしてるねえ! がんばってねん、高校二年生! やっちゃんは未体験《みたいけん》のゾーンだ」
泰子は竜児を出産するために一年生で高校を中退してしまい、高校二年生の世界を知らない。一瞬《いっしゅん》竜児も感傷的な気分になって、
「……おう」
ちょっと笑い、片手を上げる。自分なりの母への感謝《かんしゃ》の気持ちのつもりだった。だが、それが仇《あだ》になった。泰子はきゃあん! と悲鳴を上げ、ゴロゴロと激《はげ》しく転がって、その一言をついに放ったのだ。放ってしまったのだ。
「竜ちゃんかっこい〜! パパにどんどん似てくるねえ〜!」
「……っ!」
――言われた。
無言で玄関のドアを閉じ、竜児は思わず天を仰ぐ。視界がグルグルと回転し、足元から深い渦に飲み込まれていくかのような――いやだ。いやだいやだ、やめてくれ。
それは、それだけは、絶対に言われたくない一言だったんだ。
特に、今日みたいな日には。
パパに似ている。
……その事実がどれほど竜児を悩ませているか、泰子はまったく理解できないらしい。あんな雑誌を買って、『ふんわりバングス』なんて奴《やつ》を試してしまってみたりしたのも、すべてはそれが原因だったというのに。
自宅から徒歩圏内にある高校に向かいつつ、竜児はむっつりと顔を歪《ゆが》めた。それでも歩みは大股《おおまた》でまっすぐ、速度は風を切るぐらい。
ため息をつき、無意識に前髪を指先で引っ張る。目元を隠そうとする、竜児の癖《くせ》だ。そう――悩みは目元にあった。
悪いのだ。
視力が、じゃない。
目つきが。
ここ一年で急速に男臭くなってきた顔立ちは、絶世の美少年ではないかわりに、人間|離《ばな》れもしていない。まあ、一応、悪くはないはずだ。……誰《だれ》もそう言ってはくれないが、少なくとも自分ではそう思っている。
だけど目つきがすこぶる悪い。シャレにならないぐらいにやばい。
釣り上がっている、三白眼《さんぱくがん》である、そういう基本は当然押さえつつ、さらに眼球そのものが大きくて、青みがかった白目の部分がギラギラと強烈な光を放っている。色の薄《うす》い黒目は小さく、見る対象を斬《き》り殺そうとしているみたいに鋭《するど》く動く。竜児《りゅうじ》の意志とは無関係に、目が合った相手を一瞬《いっしゅん》にして狼狽《ろうばい》させることができる目であるらしい。……わかる。よくわかる。自分でだって、集合写真の自分を見て「一体こいつはなにをこんなに怒っているんだ……はっ、俺《おれ》か」とうろたえてしまったぐらいなのだから。
ついでにいえば、ぶっきらぼうな性格のせいで、物言いも少々|乱暴《らんぼう》かもしれない。それに神経質なところがあって、冗談《じょうだん》や軽口とも縁《えん》のないタイプ、かもしれない。あんな泰子《やすこ》と二人暮しで、無邪気さや素直さも失ってしまっているかも知れない……なにしろ実質的な保護者《ほごしゃ》は自分の方だと自負しているから。
でも、だからって――
『な、なんだ高須《たかす》、先生に反抗するのか!? だ、誰か、さすまたを! さすまたをーっ!』
――違います。提出物を忘れてしまったので、それを謝《あやま》りに来ただけなんです。
『ごごごごごめんなさいい、わざとじゃないんだ、あいつが押したからぶつかっちゃってええええ』
――肩が触ってしまったぐらいで誰が怒ると言うんだ。
『高須クンって中学の時、他《ほか》の中学の卒業式に乗り込んでいって放送室を占拠したらしいよ』
――俺は腐ったみかんじゃない。
「……また、誤解を解くところから始めないといけないのか……」
蘇《よみがえ》った苦い思い出に、思わずため息が漏れてしまう。
成績《せいせき》だって悪くはない。遅刻、欠席はゼロだ。人を殴ったことどころか、本気で口論《こうろん》したことさえもない。要するに、高須竜児はごく普通の少年でしかない。それなのに目つきが悪いせいで、ただそれだけのことで(あとはもしかしたら、たった一人の親が水商売だということもあって)、人はみな自分をものすごい不良だと思い込む。
一年も同じクラスで付き合えば、たいていそんな馬鹿馬鹿《ばかばか》しい誤解も解けるのだが――一年という時間は決して短いものじゃない。特に、高校生にとっては。それなのに、今日《きょう》からまたやり直しだ。イメージチェンジにも失敗したし。
クラス替えは楽しみでもあった。……同じクラスになりたい相手も、いた。でも、これからの苦難《くなん》について一度思いを馳《は》せてしまうと、無邪気な期待はしゅるしゅると半分ぐらいに縮《ちぢ》んでしまう。
それもこれも、余計な一言を吐いてくれた泰子《やすこ》の……いや、違うか。すべては余計な遺伝子を刻みつけてくれた父親のせいだ。
『パパはね、天国にいるのお〜。かっこいい人だったわあ、ビッと剃《そ》り込み入れたオールバックでいっつもエナメルの超|尖《とが》ったクツを光らせててねえ……首にはこーんなぶっといゴールドのチェーンしてソフトスーツでロレックスでえ、そんでおなかにいつも週刊誌入れてるのお〜。それなあに? ってやっちゃんが訊《き》いたら、いつ刺されてもいいように、って答えたのお〜ああ〜しびれるう〜』
うっとり語る泰子の表情を思い出す。そして、たった一枚残された写真の中の父を。
父は、泰子の言葉どおりの姿をしていた。
足を広げてふんぞり返った立ちポーズ。小脇《こわき》に抱えたセカンドバッグ。白のスーツ、ド派手《はで》なガラの開襟《かいきん》シャツ、両手にはいくつもの金の指輪《ゆびわ》が光り、片方の耳にはダイヤのピアス……そして、『ああン?』と顎《あご》を突き上げて、こちらに視線《しせん》をくれていた。片手で今より若い母の乳を揉《も》んでいた。母は大きなおなかを抱えて「みゃは☆」と能天気に笑っていた。父の前歯は金歯だった。
ほんとは優《やさ》しくて生真面目《きまじめ》で、素人《しろうと》さんに手を出したことは一回もないのお〜、などと泰子は言うが、本当に優しくて生真面目な人はいわゆるヤクザさんにはならないし、多分《たぶん》ずっと年下の高校生を妊娠させたりもしない。第一その――その、鋭《するど》い目。
正面から睨《にら》まれたら、財布ぐらいならポンと渡して穏便《おんびん》にすませていただきたくなるような、目。理不尽な暴力《ぼうりょく》や脅しの手段そのものである視線。それと同じものが、この自分の顔には嵌《は》まっている。……不意に竜児《りゅうじ》は思う。自分のことを誤解するな、という方が無理な注文なのかもしれない。自分だって記憶《きおく》のない父のことを、こんなふうに思うのだから。
ちなみに、父は恐らく生きているのだろう。泰子の言い分によると、手下を逃がすために蜂《はち》の巣になって横浜《よこはま》の港に沈んだ、らしいのだが、墓がない。仏壇《ぶつだん》もない。遺骨も遺品も位牌《いはい》もない。そんな事件の記録《きろく》もない。そして酔っ払った泰子はたまに、『パパが急に帰ってきたら、竜ちゃんどうするう? ふふふふ、なあんてねん』と意味ありげに笑うのだ。
多分、父は、冷たい塀の中で長いお勤めをしている。そんな気がする息子であった。
と、
「おっ、高須《たかす》! おはよう、いい朝だな!」
背後からかけられた声に気付き、振り返って手を上げた。
「おう北村《きたむら》、おはよう」
――仕方がないか。竜児は思い、友人が追いつくまで足を止めて待つ。傍目《はため》に見れば目をギラつかせて「あの野郎しめてやる!」という雰囲気だが、もちろんそうではない。
ただ、穏《おだ》やかに思っていただけなのだ。
誤解されても仕方がない。誤解されたら、解けばいい。時間がかかったって、こうやっていつかはわかってくれる奴《やつ》もいるんだから。そんなのは嫌《いや》だけど……そうするしかないのだから、そうするしかない。
青空を仰いで、眩《まぶ》しさに目を眇《すが》めた。今日《きょう》は快晴、風もなし。散り際の桜が音もなく舞《ま》い散り、竜児《りゅうじ》の髪に優《やさ》しく降りた。
痛々しいコンプレックスは捨てられもせずに抱えたまま、前夜磨いたローファーで再び一歩を大きく踏み出す。
今日は見事な始業式|日和《びより》。
***
うわ。高須《たかす》くんと同じクラスかよ。さっすが迫力あるよな。ちょっとこわいよな。誰《だれ》か話しかけてこいよ。いや、ムリだって。おまえ行けよ。って、ちょっと押すなよ。……云々《うんぬん》。
(……なにを言われたって、今の俺《おれ》は気にしたりなどしない)
自分を遠巻きに見ている新しいクラスメートたちの視線《しせん》を、竜児は超然とした態度で受け止めていた。椅子《いす》に腰掛けたままわずかに背を反らし、鋭《するど》い視線を遠くに投げて乾いた唇をそっと舐《な》める。足がカタカタいっているのは、無意識《むいしき》の貧乏ゆすりだ。傍《はた》から見れば、それはか弱い獲物《えもの》を求めて苛立《いらだ》つ肉食|獣《じゅう》の姿が如《ごと》し。だが。
「相変わらず、おまえのことを変に誤解をしている奴がいるみたいだな。まあ、そのうち収まるだろう。俺も一緒だし、他《ほか》にも元A組の奴が結構混じってるし」
「ああ。いいんだ別に、気にしちゃいない」
今年《ことし》も同じクラスになれた親友・北村《きたむら》祐作《ゆうさく》に、竜児は薄《うす》い笑顔《えがお》で答える。言っておくが、上《じょう》機嫌《きげん》なのだ。決して獲物を前にして、惨《むご》い期待に舌舐めずりしているのではない。本当ならばいっそ口が裂けるほどの満面の笑《え》みで、椅子からロケットで飛び立ちたいのだ。
それはもちろん、北村と同じクラスになれたことが嬉《うれ》しいからではない。そんなのはせいぜい「今年も一緒だな、北村」ニコリ、程度だ。
飛び立ちたいほど嬉しいのは――
「や、北村くん! 今年は同じクラスだね!」
――なんたることだ。
「ん? おお、櫛枝《くしえだ》もC組だったのか!」
「あれ、今気がついたの? もー冷たいなあ、せっかくの新学年なんだから、名簿《めいぼ》ぐらいちゃんと見てよね」
「すまんすまん、奇遇だな。今年《ことし》は部長|会議《かいぎ》がラクでいい」
「あはは、そーだね! あ、高須《たかす》くん……だよね? 私のこと、覚えてるかな? 何回か北村《きたむら》くんの周辺でニアミスしてるんだけど」
「……」
「あ、あれ? 高須くんでいいんだよね?」
「……あ、う……く、」
それはあまりに唐突な、女神|来襲《らいしゅう》の現場だった。
竜児《りゅうじ》の目の前で、明るい笑顔《えがお》が太陽そのものみたいに眩《まばゆ》く弾《はじ》ける。失われた南の窓から差す日差しみたいな暖かさで、視界が一瞬《いっしゅん》にして明るく照らし出されてゆく。振りこぼれる光の粒子がまとわりついて、竜児はもはや目も開けられない。
「……櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》、だろ」
ああ、なのになのになのに――! 自分の放った声のあまりにつっけんどんな響《ひび》きに、竜児は叫び出したくなる。
なんでこんな返事しかできないんだ、なんでもっと気の利いたことを――
「あらあらまあ! フルネーム覚えてくれてたんだ、嬉《うれ》しいかも〜! ……っと、いけねえ、あっちで呼ばれてる。そんじゃね、北村くん。放課後《ほうかご》、今年一発目の新二年生ミーティングだよ。くれぐれも忘れないように! 高須くんもまたね!」
クルリ、と向けられた背に、竜児《りゅうじ》は限界ぎりぎりの愛想を……手をわずかに、上げてみせた。
だが遅い、もはや彼女に見えちゃいないだろう。
けれど。
(嬉《うれ》しい、って言った……またね、って言った……)
櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》が。
(嬉しい、って言った……またね、って言った……)
念願《ねんがん》かなって同じクラスになれた櫛枝実乃梨が。
(嬉しい、って言った……またね、って言った……)
俺《おれ》のことを、俺とのことを。
(嬉しい、って言
「高須《たかす》?」
「……おぅっ」
突如至近|距離《きょり》から北村《きたむら》に迫られ、竜児は椅子ごとのけぞった。
「なにをニヤニヤしておるのだ?」
「い、や……別に」
そうか、とメガネを中指で押し上げる北村に、竜児はちょっとした感嘆を禁じえない。自分のニヤニヤを感知できる人間は、おそらくこの世でこいつぐらいだ。
そして、感嘆に値することはもうひとつ。
「……北村。おまえは、なんていうか……その……女子(=櫛枝さん)と喋《しゃべ》るのが、上手《うま》いよな」
「へ? なぜだ?」
メガネ越しに見開かれた北村の目には、謙遜《けんそん》ではなく、純粋な驚《おどろ》き。どうやら本当に自覚がないのだ。鈍感野郎を目の前にして、竜児は思わず二の句を飲み込む。
今の櫛枝実乃梨との軽妙な会話は十分に『上手い』と――いいや、今だけではない。北村は一年の頃《ころ》から、同じソフトボール部に所属する櫛枝実乃梨といつもいい感じに会話をしていた。竜児はいつもその傍らで、おこぼれの微笑《ほほえ》みやおこぼれの挨拶《あいさつ》を、涙ぐましい努力で拾い続けていた。サッカーで言うならリベロだった。だがまだ一度もオフェンスに参加したことはない。
そもそも「櫛枝実乃梨さんはかわいい、好きだ、仲良くなりたい」と竜児が思うようになったのも、北村と楽しげに会話をしているさまをすぐそばで見ていたのがきっかけだったのだ。
クルクル変わる明るい表情。
しなやかな身体《からだ》、おおげさな身振り。
屈託のない笑顔《えがお》。曇《くも》りのない声。
誰《だれ》もが恐れる自分の前でも彼女は最初からおおらかにほがらかで、一切態度を変えたりしなかった。
そんな櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》の、すべて。
竜児《りゅうじ》にとっては彼女を形作るすべての要素が、太陽の欠片《かけら》ででもできているかのように輝《かがや》いて見えていた。健全で、まっすぐで、なにより正しい女子の姿だと思えたのだ。
……それなのに、
「馬鹿《ばか》を言うな、俺《おれ》が女子と喋《しゃべ》るのが上手《うま》いなんてわけがない。女子たちに、俺がなんて呼ばれているかおまえも知らないわけじゃないだろう?」
竜児は我知らず深い息をつく。
羨《うらや》ましくて羨ましくて、こっちは北村《きたむら》の会話の様子《ようす》を見ているだけで目から血が出てしまいそうだというのに。しかし北村はさらに続けて、
「女子なんて俺は苦手だよ。男女交際なんて一生できる気がしない」
この発言だ。
「……そんなこと、ねえと思うけどな……俺は」
眩《まぶ》しい貴族様を見上げ、それ以上の言葉は飲み込むことにした。いくら言ったって、こいつにはきっと理解できない。こっちが惨《みじ》めな気分になる一方だ。
確《たし》かに北村は、女子たちに『まるおくん』と呼ばれている。
某国民的有名漫画の糞《くそ》真面目《まじめ》な優等生《ゆうとうせい》キャラにそっくりだから、という理由で。度のきついメガネ、生真面目な性格、抜群の成績《せいせき》、軽薄《けいはく》な流行とはあえて真逆を行こうとする普通とは大いにズレた価値観《かちかん》。なにかの拍子に「ズバリ」などと言おうものなら、クラスが軽く沸くほどにそっくりだ。ついでに言えば去年はクラス委員長だったし、生徒会の副会長にもなってしまっているし、ソフトボール部の新部長にも内定しているという。そんな奴《やつ》は、確《たし》かに冗談《じょうだん》のネタになってしかるべきだった。
ただし、決して顔立ちは悪くない。……いやむしろ、よく見れば意外なほどに綺麗《きれい》に整《ととの》っていると言える。さらに加えて裏表のない性格で、冗談だって通じる男で、嫌われる要素などそこにあろうわけもない。だからこそ女子にとってはからかいの対象ではあっても、嫌悪の対象とはなり得ないのだ。
ああそうだとも――竜児にはわかる。北村は、なんだかんだ言って女子に好かれている。櫛枝実乃梨にだけではない。他《ほか》の女子たちとも普通に会話をしているし、親しげに「あ〜、今年《ことし》もまるおと一緒だ〜」なんて声をかけられているし、「なんだ、不満か?」などと軽妙に返事もしているし。
そのザマで、どの口が女子は苦手だなんて言う。この自分のように、嫌われてもいないくせに。そんなことを思ったそばから、
「わ……こわ……」
ほら見ろ。まただ。
漏れ聞こえた声を、竜児は俯《うつむ》いてやり過ごすことにする。さっきまでは櫛枝実乃梨と同じクラスになったことで舞《ま》い上がって、なにを言われても平気な気分だったのだが、
「やっぱすげえな……ただ者じゃねえって気配《けはい》がするよ」
「ああ、あの目つき。気をつけろ、機嫌《きげん》を損ねたら消されるぞ」
……すっかり魔法《まほう》は解けてしまったらしい。悪気はないのだろうヒソヒソ声が、いつにも増して、効いてくる。
新担任が来るまでは、トイレにでも籠《こも》っていた方が精神|衛生上《えいせいじょう》いいかもしれない。そう思って席を立ち、通路に出たところで、ぼふんと腹に軽い衝撃《しょうげき》があった。
「っつ……?」
なにかにぶつかったようなのだが、目の前にはなにもない。不思議《ふしぎ》に思い、竜児《りゅうじ》はキョロキョロとあたりを見回す。しかし視界に入るのは、
「……げげえ……さすが高須《たかす》くん……先手を打って動いたか」
「早くも頂上決戦かよ……名簿《めいぼ》見た時からこのクラスはやべえっで思ってたけど」
ヒソヒソと囁《ささや》き交わす、新しいクラスメートの顔ばかりだ。自分の目つきのことをあれこれ言われているのだろうか。しかしそれにしても、
「……真の番長決定戦、だな……」
「いきなり最高のカードが実現しちゃったよ……」
どうにも様子《ようす》がおかしくはないか。頂上決戦? 番長? 最高のカード? 一体なんの話なんだ? 首をひねって状況を理解しようと――その時。
「……ひとに、ぶつかっておいて、謝《あやま》ることもできないの……?」
どこからか静かな声が聞こえてきた。
極端に感情の抑えられた、平板な、しかし爆発《ばくはつ》寸前のなにかを押し殺しているかのようなとても奇妙な語り方だ。
声の主の姿は、ない。
「え……?」
ほんの少しトワイライトな気分になって、竜児はゆっくりと右手を見た。誰《だれ》もいない。左手を見た。誰もいない。恐る恐る、一番怖い上を見た。……よかった、誰もいない。
「ということは……」
果たして、それはそこにいた。
目線《めせん》のずっと、ずっと下だ。竜児の胸よりもっと低いあたりに、そのつむじは存在していたの
第一印象は『お人形』だ。
とにかく小さかった。小さくて、長い髪がふんわりとその身体《からだ》を覆《おお》っていて、手乗りタイガー。
「……手乗りタイガー?」
唐突に思考に割り込んできた謎《なぞ》めく言葉を、思わずそのまま口にしていた。離《はな》れたところで誰かが呟《つぶや》いたのが耳に入ってしまったらしい。
手乗りタイガー。
それってつまり。
「誰《だれ》が……」
目の前で俯《うつむ》いているお人形さんのことなのか? 手乗りってのはまあいいとして、この子のどこがタイガー? ……などと、
「……手乗りタイガー、ですって?」
悠長に考え込んでいる場合などではなかったのだ。『それ』はわずかに顎《あご》を上げ、その二つの眼球が――
「――!」
――一秒の、三倍ぐらい。
無音状態だと思ったのは、しかし竜児《りゅうじ》の思い違いだったらしい。
爆弾《ばくだん》みたいに炸裂《さくれつ》した真空の一瞬《いっしゅん》が通り過ぎて、ざわめきが耳に戻ってくる。気がつけば、尻餅《しりもち》をついている。竜児だけではない。比較的近くにいた数人の奴《やつ》らも一緒になってへたりこんであわあわ言っている。這《は》って逃げようとしている奴もいる。
なにが起きたのか。
わかっている。
なにも起きてはいない。
ただ――ただ、この、目の前の彼女が。
「……鬱陶《うっとう》しい奴……」
彼女が、二つの大きな眼球で、竜児を睨《にら》みつけただけ。それだけ。
たったのそれだけのことに、そのほんの数秒の緊迫《きんぱく》に、竜児は圧倒されていた。圧倒されて、頭の中が真っ白になって、全身が絞り上げられ、緊縛《きんばく》されたように動けなくなり、そのまま文字どおり卒倒したのだ。
視線《しせん》≠ノ、もっと正確《せいかく》にいえばそれが孕《はら》んだ迫力に、吹っ飛ばされて尻から崩れ落ちたのだった。
モノが違いすぎる。格が、違いすぎる。完全に負けた。目つきの悪さでなら誰にも負けたことのない竜児が、圧倒的な差で負けた。
生まれて初めて理解できた。本物の凶悪な視線には、確《たし》かな質量にも似た暴力《ぼうりょく》が――いや、「殺気」が孕むのだ、と。
「……ふん……」
永遠にも思えた数秒の後、ぐっさりと心臓《しんぞう》に突き刺さったまま揺らぎもしなかった彼女の視線が、ようやく蔑《さげす》みを孕んで溶けた。
「竜《りゅう》、ね。……だっさ」
めくれあがったような、薄《うす》い花びらめいた唇。放たれた言葉の弾丸は幼い少女のそれのよう。
信じられないほどに小さな手が、ふんわりとした髪を乱暴《らんぼう》に払う。柔らかな目蓋《まぶた》に半ば隠され殺気を押し殺したその瞳《ひとみ》は、今は人形のガラスの目そのもの。透き通り、なにも映さない虚《うつ》ろさで竜児《りゅうじ》に最後の一瞥《いちべつ》をくれた。
――かわいいのだ。恐ろしいことに。
ミルク色の頬《ほお》も、灰色《はいいろ》にけぶるような不思議《ふしぎ》な色合いの長い髪も、華奢《きゃしゃ》な手足も細い屑も、光る瞳を和らげる睫毛《まつげ》も。彼女は致死量の毒を学んだ飴玉《あめだま》みたいに愛らしい。香りだけで人を殺す、花のつぼみのように可憐《かれん》。
しかし彼女に睨《にら》まれた瞬間《しゅんかん》、竜児はその瞳に襲《おそ》い掛かる肉食|獣《じゅう》の姿を見ていた。それはもちろんただの幻だが、現実以上のリアルさでもって竜児を数トンの重みで押し倒し、血を震《ふる》わす声で咆哮《ほうこう》し、この喉笛《のどぶえ》に鼻息をかけていった。おまえなどいつでも殺せる、と。
迫り来る、鋭《するど》い爪《つめ》と巨大な牙《きば》。充満する獣臭と血の匂《にお》い。小さな彼女の数倍の大きさにふくらんだその幻のイメージは――虎《とら》、だった。
「あ、ああ……ああ、ああ、ああ……はいはいはいはい……」
我知らず、竜児はこくこくと頷《うなず》いた。ポン、とひとつ手を打った。はいはいなるほど、手乗りタイガー。誰《だれ》が考えたか知らないが、
「…ぴったり、じゃねえか……」
センスを感じる。感服する。
そして彼女は自分を見て、竜《りゅう》、と呟《つぶや》き、蔑《さげす》んだ。その理由もすぐに知れた。
尻餅《しりもち》をついた拍子にか、それとも幻の虎《とら》に引き裂かれたか、学ランの前が開いてしまっている。そしてシャツを透かし、泰子《やすこ》が張り切って買ってきたヤンキーセンス丸出しの「昇り竜Tシャツ」が丸見えになってしまっていたのだった。こんな一層誤解を招きそうな代物《しろもの》、決して着たくて着たわけじゃない。だけど洗濯《せんたく》ローテーションの都合もあるし、どうせ見えるわけもないと思ったし。
妙に恥ずかしくなって、竜児《りゅうじ》は慌てて前を閉じる。みっともなく床に座り込んだまま、不埒者《ふらちもの》に乱暴《らんぼう》された女子のような仕草《しぐさ》で。その目の前をスタスタと横切って行くのは、
「たいがあ、遅かったじゃん! 始業式、さぼったね!?」
「寝坊しちゃったの。そんなことより、今年《ことし》もみのりんと同じクラスでよかった」
「うん! 私も嬉《うれ》しいよ!」
櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》、その人である。
手乗りタイガーにそのまんま「たいがあ」と呼びかけ、親しげに髪に触って笑いかけている。みのりん、などと呼ばれている。
呆然《ぼうぜん》とそれを眺める竜児の耳に、誰《だれ》かの囁《ささや》きが飛び込んだ。
「初戦は手乗りタイガー・逢坂《あいさか》の勝利だな」
「ていうか、高須《たかす》って見た目が怖いだけで別に全然ヤンキーじゃないらしいし」
「え? そうなん?」
「そりゃー手乗りタイガーには敵《かな》わないなあ。なにしろあっちは本物だから」
「高須くん、大丈夫? 逢坂にしょっぱなから噛《か》み付かれるとは災難《さいなん》だったな」
――誤解は、竜児が思っていたよりもずっと早く解けそうだ。
が。
***
手乗りタイガーには
「逢坂|大河《たいが》」という凄《すご》い本名があったこと。
その身長は百四十五センチであること。
逢坂大河と櫛枝実乃梨はいわゆる親友関係であること。
そして囁かれる話によれば、彼女の父親は極道で日本の裏社会を牛耳っている、だとか、もしくは天才空手家でアメリカの裏社会を牛耳っている、だとか。彼女自身も空手の有段者だが師匠を闇討《やみう》ちしたために破門になった、だとか。
入学当時は一見|儚《はかな》げな美少女ぶりに勘違いする奴《やつ》が続出し、言い寄る男も後を断たなかった
という。しかし全員見事に玉砕、凄《すご》まれ、咬《か》まれ、引き裂かれ、惨《むご》い言葉で嬲《なぷ》られて再起不能になる奴《やつ》も多数。逢坂《あいさか》が通ったその後は男の骸《むくろ》で道ができたとか。
とにかく逢坂|大河《たいが》に関しては、黒い噂《うわさ》が後を絶たない。嘘《うそ》も真《まこと》もとりあえず、校内最高ランク危険生物であるのは確《たし》かだ。
竜児《りゅうじ》がそんな話を知ったのは、始業式の日から数えて幾日か経《た》った頃《ころ》だった。
2
少々ショッキングな出だしではあったけれど、高須《たかす》竜児、高校二年生の新しい日々は、なかなかにうまくいっていると言えた。
そう言える理由は諸々ある。
たとえば、竜児が悲観《ひかん》していたよりもずっと早く、高須くん=ヤンキー説は払拭《ふっしょく》されそうだった。北村《きたむら》をはじめ、去年同じクラスだった奴らが結構な割合で今年《ことし》も同じクラスに割り振られていたのもラッキーだったが、なによりも始業式の日に、あっさり手乗りタイガーにビビらされていたことで「普通の子」として認められたらしい。(この点だけに関しては、逢坂大河に礼を言いたい)
そして面倒《めんどう》な委員にされることもなく、くじ引きで得た席も窓際の前から三番目。そこそこにのんびりできる当たり席だ。担任(|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり・孤独の独に身と書いて独身・29歳)も去年の副担任で馴染《なじ》みがあるし、いい年して独身ではあるが特に不満なところはない。
そしてそして――
「……そうしたらさあ、バケツの縁《ふち》の部分は固まってるのよ。この、なんつーのかね、円周に触れる部分は。ところが中央部は全然液体状態のままで、傾けたらこの円周部分のブルンブルンしたところがこう……」
「おぅっ……!」
「わあ、高須くん! ごめーん!」
一番大切な事項がこれだ。
晴れてクラスメートとなった櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》の存在。これこそが竜児の日常を綺麗《きれい》な薔薇《ばら》色《いろ》に染めてくれる、まさしく輝《かがや》ける太陽であった。……たとえ指で目を突かれたって、眩《まぶ》しさは損なわれることなく竜児の心を熱《あつ》く満たす。
「だ、大丈夫!? ごめん、後ろにいたの気がつかなくて〜! うおお……今、完全に中指がつるっとしたところ触っちゃったよ」
「……気にするな。たいしたことはない」
「本当にごめんねえ! ……ええとなんだっけ、そうそうさっきの続きだけど、そのバケツの縁《ふち》の固まった部分がね、こう、こんなふうに、」
「おぅっ……!」
「わー! 今度はもっと深くいったー! ごめんー!」
いい、いい、と寛容に手を振って見せつつ、竜児《りゅうじ》はそれでもまだ幸せだ。すまんすまん、と頭を下げる実乃梨《みのり》の髪からはえもいわれぬフローラルな香りがするし、なんと言ってもこうして謝罪《しゃざい》してくれる彼女の目は自分を、自分だけを今は見ている。二度目玉を抉《えぐ》られるぐらい、この幸せに比べたらどうってことはない。
会話の相手が自分でなくたって全然いいのだ。自分の席の近くで誰《だれ》かと会話をしてくれれば、それでいい。少し鼻にかかったような甘い実乃梨の声が間近で聞けるし、バケツの円周を表現しようと彼女が腕をブン回すたびに、その指先が自分の身体《からだ》に触れてくれる(眼球にだけど)。
しかし一体、さっきからなんのバケツの話をしているのだろう――そんな疑問が知らず表情に出ていたのか、
「バケツでね、私、プリンを作ったのです」
実乃梨は指をグッと自ら掴《つか》んで「もう誰も傷つけるまい」ときつく戒《いまし》めつつ、重々しく竜児に告げてくれた。いや、告げてくれたというか、
「高須《たかす》くんはプリン、好き?」
会話が始まってしまった。竜児の心臓《しんぞう》は急激《きゅうげき》に怒張《どちょう》するが、気の利いたことなどなにひとつ言えない。狂おしいほどにもどかしい。せいぜい、
「……おぅ……」
ぐらいが精一杯。つまらない奴《やつ》と思われているだろうか……もうこいつとは話したくねえと思われているだろうか……顔には出さぬままうろたえまくる竜児を置き去りに、実乃梨は「バケツでプリン。それは女の欲望番外地」などとうっとり頬《ほお》を染めている。
「でも、これがなかなかうまくいかなくてねえ。固めるのが難《むずか》しいんだ。なにしろでかいから、トローっとしたところとプリンプリンなところがこう揮然《こんぜん》一体《いったい》と……そうだ、高須くんにも見てもらおうかな〜目玉突いちゃったお詫《わ》びの印に」
「えっ? ……み、見る、って……」
もしかして、その手作りプリンの味を? この自分に、味見をさせてくれるというのか? 目つきを一層|鋭《するど》くして、竜児は実乃梨の愛らしい笑顔《えがお》を見つめてしまう。実乃梨はこっくり、と頷《うなず》いて、
「うん。見て見て、今持ってくるから」
こんな幸せが待っていたなら、本当に目玉を突かれてよかった! いそいそと自分の席へ向かう実乃梨の背中を眺めながら、竜児はしかし、唐突に逃げ出したくなる。
プリンなんかもらっちゃって、どんなツラでそれを食えばいいのか。昼休みでもないのに、男の自分がぺちゃぺちゃとプリンなんか食べていたらなんだか奇妙ではないだろうか。というかそもそも、もらったらその場で食うものなのか、それとも「ありがとう」と言って鞄《かばん》にしまうものなのか。
「わ、わからん……わからん……!」
おどおどと自分の頬《ほお》を撫《な》でて、しかし一応机の上のノートを片してみたりして。この場で食べてみる方向性で、心を決めてみたりして。
ものすごくドキドキ、ワクワクしながら竜児《りゅうじ》は戻ってくる実乃梨《みのり》の姿から巧妙に視線《しせん》をそらす。まぶし過ぎて見ていられない。実乃梨はにこにこと明るい笑顔《えがお》で小首を傾《かし》げ、竜児の目の前で立ち止まった。そして、
「ハイ、高須《たかす》くん。これどうぞ」
高須くん、の後にハートマークがついていそうな優《やさ》しい声で呼んでくれる。おどおどと顔を上げ、竜児はそれを恭《うやうや》しく両手で受け取る。
「……ほ、ほう。これはまた……」
予想していたよりもそいつは随分|薄《うす》く、軽く……
「……よく撮《と》れた、写真で……」
「でも、気持ち悪いでしょ」
見て、と言われたのは味ではなく写真――それも相当気味の悪いものが写っている、いわゆる精神的ブラクラとか言う類《たぐい》のものだった。ビニールの敷物《しきもの》の上にでかいバケツがドン、と置かれ、その中に薄《うす》黄色《きいろ》の死んだイカ……いや、スライムみたいなものが満タンに入っている。
実乃梨には悪いが、どうしてもプリンには見えない。二枚目の写真でスライムはでろりとビニールの上に垂れ流され、ところどころ固形だったり液体だったりしている。そして三枚目で、
「味も変だったよ。……バケツ、洗いが足りなかったかもね」
立膝《たてひざ》をついた姿勢の実乃梨が、でかいスプーンでスライムを食っていた。この写真だけは欲しいぞ、と竜児が思ったのも束《つか》の間《ま》、
「見てくれでありがと! これ大河《たいが》にも見せなきゃ。あれ? あの子どこ行った? さっきまでそこにいたよねえ?」
あっさりと回収されてしまう。そして実乃梨はいつの間にか姿を消したさっきまでの会話の相手、手乗りタイガーこと逢坂《あいさか》大河を捜して、竜児にそそくさと背中を向けた。夢の時間はこれで終わりだ。
――大河にも、か。
竜児は我知らず息をつき、親友を捜して廊下に出て行く思い人の姿をそっと見送る。
彼女と同じクラスになれたのは望外の幸せだった。授業中だろうがなんだろうが、毎日実乃梨の姿が見られる。こそこそと廊下から知らないクラスを覗《のぞ》かなくても、あの笑顔が確認《かくにん》できる。今のように、地道なリベロ活動が実を結ぶことだって時にはある。これを幸せと言わずしてなんと言おう。
だが、今よりももっと親しくなるためには、乗り越えなくてはならない大きな問題がひとつあった。実乃梨《みのり》の傍らには、かなりの高《こう》確率《かくりつ》で逢坂《あいさか》大河《たいが》がくっついているのだ。
竜児《りゅうじ》は始業式の一件以来、どうやら本当に本物のヤバイ人種であるらしい逢坂にはできるだけ関《かか》わらないようにしていた。だから逢坂を避けると、必然的に実乃梨にも接近できないという問題が生じた。……自分から実乃梨に話しかけられないのは、もちろんそのせいだけではないのだが。
ただ、逢坂はこちらに小虫の死骸《しがい》ほどの興味《きょうみ》も持ってはいない。竜児が近づかないようにしている限り接点はほとんどなかったし、実害もなさそうではあった。
竜児の目下の目標は、うまいこと手乗りタイガーには関わらないようにして、実乃梨だけとお近づきになること。今みたいな偶然の幸運をもっと有益に積《つ》み重ねられれば、あながち不可能ではないのかもしれない。
そんなわけで、竜児の甘酸っぱい日々は、一応|順調《じゅんちょう》にいってはいたのだ。
――この日、この放課後《ほうかご》が来るまでは。
***
「……っ……」
教室のドアを開けるのと同時、竜児は絶句して立ち尽くす。
椅子《いす》が二つ、いや三つ、宙を舞《ま》っていた。
それらは床にドカンドカンと落下し、その大音声《だいおんじょう》の中、つまりは椅子を蹴《け》り倒しつつ視界をよぎった影《かげ》がひとつ。
一体なにが起きている――竜児は凶悪に目を眇《すが》め、その実、息もできないほどビビっていた。
日直の仕事の後に雑用まで頼まれて、とっくに下校時間は過ぎている。この教室は無人のはず。だが、見てしまった。
今、確《たし》かに制服を着た女が一人、竜児の姿を見るや否やロッカーの陰に頭から飛び込んで姿を隠したのだ。その瞬間《しゅんかん》も見えていたし、すごい音を立てて蹴り飛ばされた椅子も見えていた。もっと言うなら、今も現在進行形でそいつの姿は見えていた。教室の壁《かべ》には姿見の鏡《かがみ》が設《しつら》えてあって、そこに後ろ姿と後頭部が全部まるっと映っているのだ。
そのドジは手足を驚異的《きょういてき》に小さく丸め、コンパクトサイズになってちんまりとうずくまっている。鏡にはまったく気づいていない様子《ようす》で、こっそりと首を伸ばして竜児の方を窺《うかが》っている。
ゴクン、と竜児《りゅうじ》は唾を飲み、知らない振りを通すことを決めた。なにしろそのコンパクトサイズの不審《ふしん》なドジには、……手乗りタイガー、という名前がついている。正体を知るには、鏡《かがみ》に映った後ろ姿だけで十分だった。あの長い髪に白い横顔、第一あんなに小さくなれる奴《やつ》は、知っている限り逢坂《あいさか》しかいない――よりにもよって、という気もするが。
そういうわけで、俺《おれ》はなにも見ていない。なにも知らない。気づいていない。
そう心に強く念じながら、竜児はとにかく中へと進んだ。手乗りタイガーが意味不明に隠れている教室になど入りたくないのはやまやまだが、鞄《かばん》は机に置いたままで、さすがに持って帰らないわけにはいかない。
夕暮れに染まる教室はシン、と静まり返り、まるで逢坂の張った罠《わな》の蜘蛛《くも》の巣か結界のよう。足を踏み入れた瞬間《しゅんかん》に、全身が引き裂かれそうな気さえする。竜児は注意深くそろそろと、あくまで自然を装って足を動かしていた。逢坂を刺激《しげき》しないように、その存在に気づいていることを気取《けど》られないように……と、
「あ〜っ……」
間の抜けている割に切迫感満タンのかすかな悲鳴が教室に響《ひび》いた。
そして、ゴロンと転がり出てきたものが、竜児の努力をすべて無にする。コンパクトになっていた逢坂|大河《たいが》は自分で勝手にバランスを崩し、そのまま前転でロッカーの陰から転がり出て来たのだ。運の悪いことに、ちょうど竜児の目の前あたりに。
「……」
「……」
見上げる逢坂と、見下ろす竜児。もはや知らないふりをできる距離《きょり》関係ではなく、二人の視線《しせん》は無言のままで交錯《こうさく》する。そのまま数秒、
「だ、……大丈夫か?」
竜児の喉《のど》が、やっとこさそんな言葉を搾《しぼ》り出した。そして迷いながらも、もそもそと起き上がろうとしている逢坂に手を差し伸べようとする。だがその返事は、聞き取れないほど小さな三文字――いらん、とか、しらん、とか。乱れた髪の隙間《すきま》からは、刃物めいた逢坂の視線が竜児を軽く袈裟《けさ》斬《ぎ》りに撫《な》でる。
竜児は思わず大きく一歩後退し、その隙をつくように逢坂はよたよたと立ち上がった。顔を伏せたままでスカートをパンパン叩《はた》き、大股《おおまた》でたっぷり竜児から距離を取る。窓を背にして目を鋭《するど》くし、それでも教室から出て行ったりはしないらしい。恥ずかしくないのだろうか……そんな凡人の思考など、手乗りタイガーには関係ないのかもしれない。
逢坂がこのまま居座るのならば出て行くのは当然竜児の方で、
「……か、鞄、鞄……」
わざとらしく呟《つぶや》きつつ、足早に鞄を取りに向かう。
逢坂大河は窓際に立ったまま、無言で竜児を見ていた。その表情は竜児にはわからない――逢坂《あいさか》の方を見ることができないから。とにかく足音さえ忍ばせて、できるだけ存在感を消して竜児《りゅうじ》は教室を横切っていく。視線《しせん》を感じる頬《ほお》のあたりがぞわぞわと粟立《あわだ》つが、反応してはいけない。刺激《しげき》してはいけない。なにごともなくやり過ごさねば……。
鞄《かばん》は自分の机ではなく、帰り際に話をしたまま北村《きたむら》の机の上に置いておいた。あれさえ取ればあとは教室から離脱《りだつ》するのみ。はやる気持ちを抑えて手を伸ばし、あと二十センチ、あと十センチ――
「あっ!」
――飛び上がった。
なにか、しでかしただろうか。
逢坂|大河《たいが》に呼び止められるようなことを、してしまっただろうか。竜児はギギギ、と振り返り、窓際に立つ小さなお人形を見た。
「なに、か……?」
「……あ、あんた……なにし、して、してん、」
思わず目を凝《こ》らしてしまう光景がそこに展開していた。手乗りタイガーが、悶絶《もんぜつ》している。
「……鞄を取りに来ただけ、だが……あ、逢坂? どうした? (さっきから)様子《ようす》がおかしいぞ?」
おちょぼ口をあうあうと開閉し、奇妙な踊りでも舞《ま》っているかのように足でもぞもぞとステップを踏み、頬のあたりで指をわきわきと動かして。さらにぶるぶると小刻みに震《ふる》え、
「あああ、あんたの、鞄、だって言うの? だってあんたの席は、そこじゃないでしょ? ななな、なんで、なんでそそそそそんな、」
激《はげ》しくどもって竜児を指弾。
「……なんでもなにも、北村としゃべってる途中で担任に呼ばれて……ここに置いたままにしておいて……うぉっ!」
数メートル先で悶《もだ》えていたはずの逢坂が、一瞬《いっしゅん》にして間合いを詰めてきていた。小さな身体《からだ》のどこにそんな機動力《きどうりょく》を秘めていたのやら、
「……っ、……っ、……っ!」
「ちょっとちょっとちょっと!? あ、逢、坂っ!?」
竜児が胸に抱えた鞄を引っつかみ、奪おうとするのだ。それはそれはものすごい力で引っ張ってくる。
「かっ、かし、な、さいよぉ……っ! よこせっ!」
至近|距離《きょり》で見た頬は夕日の色よりさらに真《ま》っ赤《か》に染まっている。愛らしい容貌《ようぼう》は夜叉《やしゃ》面《めん》のように歪《ゆが》み、鬼気《きき》迫《せま》る表情を見せている。
「かせって、よこせって、言われても……っ!」
「ふんぬぅ!」
離《はな》せない。竜児《りゅうじ》は男の意地で足を踏ん張る。だって今この手を離したら、逢坂《あいさか》の小さな身体《からだ》はそのまま後ろに吹っ飛ぶだろう。
せっかくそんなふうに気を使ってやっているというのに、
「ふんぬぅぅぅぅぅぅ〜っ!」
腰をひねり、鞄《かばん》に爪《つめ》を立て、顔を真《ま》っ赤《か》に染めて両目をぎゅっとつぶり、逢坂はこめかみに血管を浮かせて力比べに勝とうとしている。
じりじりと、竜児の指が引《ひ》き剥《は》がされていく。踏ん張った足ごと引っ張られる。はっきり言って、負けそうだ。もう耐えられない。
「あ、あぶ、な……っ、よせ、やめ、ろっ!」
「んぬぅうぅぅぅぅううぅぅぅっっっ……あ? ……は……」
もうだめだ……! そう思った瞬間《しゅんかん》、不意に逢坂がのけぞって遠い目をしたのが見え、その小さなおててがパッと広がって鞄を離し――離しやがった!?
「……あああっ!」
「っぶしゅん!」
ガンッ!
――あああ、は竜児。っぶしゅん、は逢坂。ガン、も竜児だった。悲鳴、くしゃみ、後頭部である。
突然くしゃみを放った逢坂に手を離され、必然的に竜児は後ろに吹っ飛んだのだ。鞄を抱えたままよろけて背後に倒れ、後頭部を教卓に強打していた。
「っっぁぁぁ……い……痛い! お、おまえ……なんてこと……いってえなぁっ……死ぬぞ!? 俺《おれ》が!」
半ば涙目で抗議《こうぎ》するが、
「う……」
変な音声でくしゃみをし、竜児を吹っ飛ばした逢坂は、周囲の状況などなにも目に入っていないようだった。鼻をぐしゅぐしゅ言わせたかと思うと、そのままふらつき、机の間にうずくまってしまう。
「あ、逢坂?……おい、どうしたんだ?」
長い髪を床まで垂らし、小さく丸まって低く呻《うめ》き、返事はない。具合でも悪いのだろうか。後頭部を擦《こす》りながらも思わず駆け寄って顔を覗《のぞ》き込むと、さっきまで真っ赤だった頬《ほお》は急速に色を失い、震《ふる》える唇は紙のように白い。額《ひたい》には変な汗をかいている。
「うわ……おまえ、顔が真《ま》っ青《さお》だぞ。貧血か? ほら、つかまれ」
泰子《やすこ》がいつか倒れた時と同じ症状だ。今度は迷わず手を差し伸べるが、
「……っ!」
氷のように冷たい逢坂の手に、勢いよく払いのけられる。逢坂は盛大にふらつきながら、それでも手近な机にすがり、自力で立ち上がった。
「あ、逢坂《あいさか》! 大丈夫かよ?」
返事はやはりない。一歩進むごとに机にガンガンぶつかりながら柔らかな髪をなびかせ、小さな背中は逃げるように走り去って行く。座り込んだせいでプリーツのスカートが後ろで折れ返り、きわどいあたりまで細すぎる足が見えてしまっているというのに。
「待てって、保健室で休んだほうがいいんじゃないのか?」
おせっかいかとも思いながら放ってはおけず、竜児《りゅうじ》は後を追おうとするが、
「――来るなバカ!」
切羽《せっぱ》詰《つま》った声で叩《たた》きつけるように叫ばれてしまう。急ブレーキ。まあ、叫ぶ元気があるなら大丈夫、なのだろうが――
「め、めちゃくちゃだ……」
廊下を走って行く逢坂の足音が遠ざかり、バカと呼ばれて教室に一人。
ぽつん、と取り残された竜児は、力なく呟《つぶや》いた。
後頭部はジンジン痛むし、大岡《おおおか》裁《さば》きのならなかった鞄《かばん》には逢坂の爪《つめ》の跡が無残に十本残されているし、それなりに整然《せいぜん》と並んでいた机の列は我慢できないほどに乱されている。
めちゃくちゃだ。
机も、逢坂も、めちゃくちゃだ。なんて困った奴《やつ》なんだ。
神経質に机の列を直しながら、竜児は必死に今のできごとを理解しようと試みる。誰《だれ》もいないはずの放課後《ほうかご》の教室、前転で飛び出した逢坂|大河《たいが》、奪われそうになった鞄、くしゃみ、後頭部、貧血娘……無理だ、理解などできない。意味がわからない。
「整理《せいり》整頓《せいとん》されていない状況は、苦手だ……」
重々しく呟《つぶや》き、竜児は一人、ため息をついた。
この出来事の意味を理解するには、あと三時間ほどの時間が必要だった。
***
――北村《きたむら》祐作《ゆうさく》さまへ。逢坂大河より。
「……こ、これ、か……」
午後七時。泰子《やすこ》は同伴出勤のために早めに家を出ており、一汁《いちじゅう》一菜《いっさい》の一人の夕食を終えた頃《ころ》。竜児はようやく、放課後の不可解な出来事をおぼろげながら理解した。
宿題を済ませようと四畳半の自室に戻り、教科書とノートを出すために鞄を開いたのだ。そして、見つけてしまった。
薄《うす》い桃色《ももいろ》の封筒。こういうのも和紙というのだろうか、漉《す》いた紙の目の間に桜の花びらの形をした銀の箔《はく》が織《お》り込まれてひらひらと舞《ま》っている。
表書きには、北村《きたむら》祐作《ゆうさく》さまへ、と。
ひっくり返すとその裏には、逢坂《あいさか》大河《たいが》より。……ご丁寧《ていねい》なことにカッコつきで、もしも迷惑だったらこのまま捨ててください、と。
わずかに滲《にじ》む、淡いブルーのインクペン。
さすがにこれはどう見ても、果たし状ではないだろう。クラスだよりでもなければ、返済するために包んだ借金でもないだろう。
「ラ、ラブレター……だよな……」
愕然《がくぜん》とする。とんでもないことになってしまった。
好奇心などとんでもない、竜児《りゅうじ》は両目を凶悪に眇《すが》める。無論《むろん》怒っているのではない、激《はげ》しくあせっているのだ。
要するに、手乗りタイガーは鞄《かばん》を間違えたのだろう。北村の鞄だと勘違いして、この鞄にこいつを忍ばせてしまったわけだ。だからあれほど必死になって、鞄を奪おうと。
「……『これ、間違えて入れたダロ〜? 中身なんか見てないから全然内容は想像できないけどサ、まあ、返しておくゼ〜』」
なんでもない様子《ようす》、という奴《やつ》を練習してみて、
「ないな、これは」
瞬時《しゅんじ》に我に返った。これはない。これはひどい。こんなセリフでごまかされる奴なんかいるわけがない。だが、かと言ってそれよりマシな考えも浮かばない。明日《あした》、これでササっと逢坂にさりげなく渡してしまうしかない。
ラブレターに決まっているが、ラブレターとは自分は思っていない。だから俺《おれ》が秘密を知ってしまっただとか、そういう面倒《めんどう》なふうには考えないでくださいよ、と。あり得なくてもそのセンだ。それしか活路はない。逢坂に恥をかかさず、自尊心を傷つけることなく、自分を恨ませないためにはそれだけが唯一の正解だ。
竜児は一人無理やりに納得し、その危険物をそっと鞄に戻そうとした。そして事件は起きてしまった。
「……ひぃっ……」
キュッ、と心臓《しんぞう》が絞り上げられる。
汚したり破損したりしないように、大切に手のひらの上で捧《ささ》げ持っていたはずの封筒が、目の前で自動的にぱっくりと開封されていくのだ。やめてくれ、開かないで、叫ぶように念じるが、どうやらもともと粘着力の弱かったらしい接着部が、自重で弓なりに反った拍子にピリピリと剥《は》がれてしまったらしい。
やがて、呼吸さえ忘れた竜児の手の上で、封筒は完全に開封された。
同時に、他人|宛《あ》での封書を勝手に開き見た犯罪者も誕生《たんじょう》した。
「ち、違う……違う違う、俺はなにも見ていないぞ! そうだ、貼《は》り直そう……! そうすりゃバレないよな!」
そうですね! と居間からインコちゃんがエールをくれ、竜児《りゅうじ》は糊《のり》を探そうと引き出しをかき回す。ようやく見つけ、証拠を残さないように元に戻そうとするが、
「……あ、あれ?」
思わず作業の手が止まった。
横長型の封筒には、中身が入っていないのだ。すこし躊躇《ちゅうちょ》しつつも改めて封筒を開き、中を覗《のぞ》き、明かりに照らして透かして見て確認《かくにん》する。やっぱり入っていない。からっぽだ。
……なーんだ。
気が抜けて、竜児は思わず机に突っ伏した。なんだまったく、人騒《ひとさわ》がせな――なんてドジな奴《やつ》なんだ。
逢坂《あいさか》大河《たいが》。バカはおまえだ。
隠れるところは丸見えだわ、前転で転がり出てくるわ、鞄《かばん》は間違えるわ、鞄をひったくろうとしてくしゃみしてしまうわ倒れてしまうわ、挙句の果てが中身の入れ忘れ。ドジにもほどがあるだろう。
気を取り直して、空の封筒に糊付けしなおすというアホ臭い作業を続行するが、いまいち竜児は自信がもてない。
明日《あした》、逢坂にこれを返す時、なにげない素振りができるだろうか。このまぬけな顛末《てんまつ》を思い出して、噴《ふ》き出してしまったりしなければいいのだが。万が一そんなことをしでかしたら、手乗りタイガーに今度こそ食い尽くされそうだ。
だがとりあえず、一段落。
奇妙な夜はそうして更《ふ》けゆき――
――午前二時。
不意に目が覚め、竜児は憮然《ぶぜん》と目を見開いた。
なにか夢でも見ていた気がするが……丑三《うしみ》つ時《どき》を指す時計を見て、ぼりぼりと腹を乱暴《らんぼう》に掻《か》く。いつもは朝までぐっすりなのに、一体どうしてこんな半端な時間に目覚めてしまったのだろう。竜児に思い当たる節はなかった。
Tシャツとパンツだけで寝ていたせいか、肌はひんやり冷え切っている。四月もいまだ半ばだというのに、窓を開けたまま寝入ってしまったらしい。どうせ窓の向こうはブルジョアマンションの塀だけだから、と、最近は少し気が緩《ゆる》んでいるのだ。盗まれるようなモノはなにもないが、とりあえず腕を伸ばして窓を閉め、しっかりと鍵《かぎ》をロックする。
通販で買ったベッドの上に身を起こし、落ち着かない気分で鈍いあくびを噛《か》み殺す。悪い夢だったのだろうか、やたらと心臓《しんぞう》がバクバクいっている。誰《だれ》かに見られているかのような、なんとも言えない妙な雰囲気。
「……胸騒《むなさわ》ぎがするな……」
ふらつきながら畳に降り、よもや泰子《やすこ》の身になにかあったのではないかと携帯を確認《かくにん》する。しかし店からのメッセージどころか着信さえない。杞憂《きゆう》だったか、と、息をつき、せっかくだから便所にでも行くことにして冷たい板張りの台所へ素足で向かう。
だがその瞬間《しゅんかん》、
「……うっ……!?」
首筋に、ゾッとするような気配《けはい》。反射的に振り向こうとし――床に落ちていた新聞を踏んで見事に滑って尻《しり》からこけた。ズダン! と尻餅《しりもち》、腰から脳天まで衝撃《しょうげき》が突き抜け、息が止まったのは一瞬。
「――っ!」
悲鳴さえ、出なかった。
凄《すさ》まじい勢いで、竜児の頭があるはずだった空中になにかが振り下ろされたのだ。それは勢いのままに空振りして、竜児の身体《からだ》のすぐ傍らに恐ろしい音を立てて打ち付けられた。
「……っ、……っ、……っ」
真っ暗な2DKに怪しく浮かぶ人影《ひとかげ》。竜児の居所を狙《ねら》って、そいつは再び棒状のなにかをぶんぶんとブン回し、大きく反って振りかぶる。……襲《おそ》われている。
しかし意味がわからない。夢であってほしい。誰《だれ》か助けてくれ。
声も出せないままに竜児は必死に、無我夢中で転がり回り、明かり、とか、警察《けいさつ》、とか、大家、とか、あとはもう真っ白だ。なにも考えられない。強張《こわば》る全身でひたすら逃げ回り、ひたすら玄関を目指して這《は》う。が、
「うああああっ!」
ついにやられる。脳天めがけて凶器が叩《たた》きつけられる。わけも分からずとっさによけようと伸ばした両手が、
「あ……っ? で、できてる……!」
なんとなく真剣白刃取り。真剣、では多分《たぷん》ないのだが、偶然凶器をしっかりと挟み込んでいた。
「……く……っ」
凶器をつかまれ、犯人は力で押し切ろうとする。竜児も渾身《こんしん》の力でもって押し返そうとする。無言の力比べ、暗がりに影が揺れる。小さな身体、輪郭《りんかく》をけぶらせるのは長い髪――そうだろう、とどこかで思っていた。多分ずっと最初から、そんなような気はしていた。
奥歯を噛《か》み締《し》めて耐えながら、竜児は妙に納得する。そうだろうそうだろう、こんなめちゃくちゃなことをするのは、奴《やつ》しかいないだろう。
しかし犯人がわかったところで……あぁ! もうだめだ! ブルブル震《ふる》える両手はもはや感覚さえない。強張った首筋も限界、押し切られる――
「……へ……は……」
っぶしん!
均衡《きんこう》が破られたのは、一瞬《いっしゅん》。
変なくしゃみの音とともに、唐突にふわりと重みが消える。押し返していた竜児《りゅうじ》の力に負け、相手はそのまま盛大によろける。あ、わ、と小さな声を上げながらヨタヨタと足をもつれさせ、ボフンとベッドに軟着陸。竜児は立ち上がるなりぶつかる勢いで壁際《かべぎわ》に突進、電気のスイッチをONに入れ、
「逢坂《あいさか》―――――っっっ!」
「……」
「ティッシュを使え――――っっっ!」
倒れこんだ素振りで上掛けにさりげなく鼻をこすりつけている手乗りタイガー・逢坂|大河《たいが》に、箱ティッシュを投げつけた。
***
背中まで垂らした長いふわふわの髪に、レースやらなにやらでやはりふわふわにふくらんだ何枚も重ねたようなワンピース。小さな身体《からだ》にボリュームのあるファッションが本当によく似合って……
「ぼ、木刀をこっちに寄越《よこ》せ……」
……竜児は逢坂大河から武器を奪わなかったことを、心から後悔していた。
電気がついたところで、ティッシュを渡してやったところで、危機的《ききてき》状況はなにひとつ解決していなかったのだ。逢坂はギラギラと両目を光らせて、檻《おり》の中から獲物《えもの》を物色している虎《とら》そのものの仕草《しぐさ》で狭い部屋をグルグルと歩き回る。もちろん竜児は距離《きょり》を取り、パンツ姿のままで同じくグルグルと逃げ回る。
しかしいつまでもこうしていては埒《らち》が明かない。そう思い、
「逢坂よ……おまえの要求はわかっている。あの、例のラブ……手紙を返せっていうんだろ? 俺《おれ》の鞄《かばん》に、間違えて入れたアレを」
「……っ」
勇気を出して言ってみた。が、その瞬間。息を飲んだように動きを止めた逢坂の全身が、ぶわっと大きくふくらんだ――ように見えた。奴《やつ》は爆発《ばくはつ》寸前の爆弾だ。とっくに導火線《どうかせん》には火がついているらしい。
「か、返すから! だから、落ち着いてくれ! 中身は見ていない!」
「……返すだけじゃ、」
地を這《は》うように、低い声。
「だめなのよ……あんたは、あの手紙の存在を、知ってしまったんだから……」
ぶぅん、と巨大な木刀が、大河《たいが》の頭上で優雅《ゆうが》に踊り、
「死んで!」
「ぎゃー!」
一直線《いっちょくせん》、竜児《りゅうじ》の脳天|狙《ねら》って振り下ろされた。一体こいつ、どんな速さだ!? 逢坂《あいさか》は一瞬《いっしゅん》にして数メートルの距離《きょり》から竜児の胸元へ飛び込んできていて、木刀が壁《かべ》にブチ当たらなければ(敷金《しききん》が!)確実《かくじつ》に命を取られていた。
「ちっ!」
「ばかやろー!」
半泣きで飛《と》び退《すさ》り、心の底から絶叫した。
「なんて奴《やつ》なんだ、クラスメートの命を狙うなんておまえは本当にどうかしている!」
「うるさあい! あれを知られてしまったからには、私はもはや生きてはいけないっ! あんな恥を晒《さら》してしまったんだ、私はもうもう死ぬしか、なーいっ!」
喉仏《のどぼとけ》を狙って突き上げられる木刀の切っ先、
「ひいい! し、死ぬしかないっていうか、俺《おれ》を殺そうとしてるじゃねえかっ!」
奇跡的な反射で竜児は避けるが、逢坂のパワーは凄《すさ》まじい。その勢いのまま襖《ふすま》を真一文字に切り裂き(張り替え代が!)、さらに突きを仕掛けてくる。その見開かれた瞳《ひとみ》に迷いはなく、必死、決死、そんなのだけが。
「死にたくないから、殺すしかないのっ! 悪いけど死んでっ! さもなくば記憶《きおく》を全部なくせーっ!」
「無理だーっ!」
「無理じゃないからだいじょーぶっ! こいつで、」
チラ、と磨き抜かれた木刀に目線《めせん》、
「脳天ぶっ叩《たた》きゃ、息の根止めるのは無理にしたって記憶ぐらいは飛ぶだろうよ!」
「飛ばすなーっ!」
なんてわがままなのだろう!? あまりの言い草に悟るしかない。奴《やつ》には言葉は通じない。常識《じょうしき》とかモラルとか、他人に迷惑はかけちゃダメとか、そんなの逢坂《あいさか》には関係ないのだ。
ああ――だから関《かか》わりたくなかったのに!
血を吐くような竜児《りゅうじ》の思いとは裏腹に、逢坂の破壊《はかい》行為は絶好調《ぜっこうちょう》だ。逃げる竜児を追い詰めようと箪笥《たんす》の上のかごをなぎ倒し、襖《ふすま》にずどんと穴を開け、小さな卓袱台《ちゃぶだい》を蹴《け》り飛ばす。そうしながらも、
「ラブレターのこと、忘れろーっ!」
手乗りタイガー、自爆《じばく》。言わなきゃあれがラブレターだなんてわからない(ということにできる)のに、自分で白状しているのだ。もうめちゃくちゃだ。いや、逢坂に関わってしまったあの瞬間《しゅんかん》から、すべてはめちゃくちゃになっていた。しかもその上、
「どうせ見たんでしょ! 読んだんでしょ! それで私のことバカに、バカ……バ……うっ、う、うう……っ」
「あっ!? ちょっ、おまっ、な、泣いて……」
「……なぁいっ!」
凶悪な唸《うな》り声の狭間《はざま》から、詰めた吐息を漏らしている。竜児を狙《ねら》って見開かれた瞳《ひとみ》はかすかに赤く、目じりをかすかに濡《ぬ》らしている。やっぱりほんの少しだけ、逢坂は泣いてしまっている。泣きたいのはこっちだというのに――このまま脱力できるものならしてしまいたいが、今は命に関わるだろう。
ああ、もう、なんてことだ。なんで襲《おそ》われている自分の方が、悪いことをしたような気にならないといけないんだ。
こうなったらやけっぱち、竜児は逃げ回ると見せ掛け、決死の覚悟で逢坂の手首をなんとか掴《つか》んだ。ぎょっとしたのは一瞬、折れてしまいそうなその細さに恐怖さえも感じるが、
「離《はな》せぇっ!」
今はとにかく切り札を見せねば。その一心で全力で叫ぶために息を吸う。ご近所さん、ごめんなさい。大家さん、許してくれ。
「離さーん! いいからよーく聞け! 逢坂、おまえはとんでもない失敗を犯していたんだぞ! あの、封筒の、中身は、」
「は、な、せ――っ!」
大暴《おおあば》れする手首が竜児《りゅうじ》の手からするりと抜ける。至近|距離《きょり》で狙《ねら》われる。逢坂《あいさか》の瞳《ひとみ》が殺気に輝《かがや》く。だが、
「からっぽ、だったんだ――――っ!」
声の方が早かった。
振り下ろされた木刀が、ピクリと竜児の脳天の真上、髪の数本をかすかに撫《な》でて危ういところで動きを止めた。
気まずすぎる沈黙《ちんもく》の数秒。やがて搾《しぼ》り出すように、
「……か……ら……っぽ……?」
幼い声が竜児に問う。ガクガクガクガク、と必死に頷《うなず》いて見せ、
「そ、そうだ。からっぽだったんだ。……だから俺《おれ》は中身なんか見てないし、それに、そうだそうだ! 北村《きたむら》に渡せなくてラッキーだったんだぞ、おまえは! あんな恥ずかしい失敗を晒《さら》さないで済んだんだから」
潤《うる》んだ瞳を見開いたまま、逢坂は凍り付いていた。その間合いから這《は》うように逃れ、襖《ふすま》の向こうの自室に飛び込み、震える手で鞄《かばん》を引《ひ》っ掻《か》き回す。大慌てで例の封筒を掴《つか》み出し、
「ほれ! ほれほれ!」
目を血走らせながら小さな手の中に押し込んでやった。木刀が音を立てて床に落ち、逢坂の身体《からだ》がグラリ、と揺れる。しかし彼女は足を踏ん張って持ち直し、返された封筒を照明にかざした。
「……あ……」
ぽかん、と半開きになるおちょぼ口。
「あ、あ……ああっ……あああ! うわーあ!」
もつれた髪を振り乱し、逢坂は封筒の封を切った。狂ったように逆さに振ってからっぽの中身を確《たし》かめ、竜児の顔を呆然《ぼうせん》と見返し、
「……ドジめ……」
言い渡された重々しい言葉に、そのままフラフラと座り込む。まなじりが裂けるほどに見開いた目が、やがてうすらぼんやりと膜がかかったようになる。開きっぱなしの薄《うす》い唇がぶるぶると震《ふる》え、顎《あご》だけがかくかくとなにかを伝えようとし、
「あ、逢坂?」
――強制終了。
竜児の見ている前で、その顔色が一気に真《ま》っ青《さお》になった。そしてそのまま、ワンピースでふくらんだ小さな身体は、ボロい2DKの居間に横倒しになったのだ。
「おい! 逢坂! 大丈夫か!?」
あまりのことに竜児《りゅうじ》は慌てて駆け寄り、意識《いしき》をなくしてぐったりとした人形めいた身を抱き起こす。
その瞬間《しゅんかん》だった。
ぐうぅぅぅぅ〜〜〜〜〜ぎゅるるるん
「……は、腹の音……か?」
***
高須《たかす》家《け》にはいつだって、冷凍の飯が保存されている。
ニンニクやショウガを切らしたことはないし、タマネギも常にストックしてある。あとは余りもののカブの茎と葉、それから朝食にしようと思っていたベーコン。卵。
もちろん、調味料《ちょうみりょう》を切らすような間の抜けたことは滅多《めった》にしないし、手抜き用の顆粒《かりゅう》コンソメも、中華味の素も鶏《とり》がらスープも、きっちり台所に揃《そろ》っている。
たっぷり一合半の飯で、ゴマ油を利かせ、カブの茎はシャキシャキに。飯粒を包む卵は黄金に輝《かがや》き、あとはタマネギの甘みとベーコンの旨《うま》みに任せておけばいい。中華味の素を適当に、塩コショウも少々、隠し味のオイスターソース、ストックのあさつきを仕上げにパラパラ。
お湯とタマネギの欠片《かけら》を入れただけの鶏がらスープまで添えてやって、ジャスト十五分だ。
ちなみに洗い物も手順の間に済ませてある。
たとえ今が平日の午前三時であろうとも、竜児の技に淀《よど》みはなかった。
「に、……にんにく……」
どぎゅるぅぅぅぅ……という冗談《じょうだん》みたいな腹の音に混じり、かすかなうわ言が聞こえた。
少々触れるのを躊躇《ちゅうちょ》しながらも、
「……逢坂《あいさか》。逢坂|大河《たいが》、起きろ。お望みのにんにくはたっぷりとゴマ油に香りを移しているぞ」
ベッドに浸かせた小柄な身体《からだ》を、そっと揺さぶってやる。
「……ちゃ……ちゃー……」
「そうだ。チャーハンだ」
「ちゃー……はん……」
淡い色をした唇のはたから、よだれがタラー、と垂れるのを見てしまった。……見てしまったからには拭《ぬぐ》うしかなかった。ティッシュでそっと口元を拭《ふ》いてやり、
「さあ起きろ。冷めるぞ」
睫毛《まつげ》をかすかに震《ふる》わせている逢坂の身体を、中身には触れないように、服を掴《つか》んでシーツから引き上げる。その途中で逢坂は嫌《いや》がるように身を捩《よじ》り、
「……あ……え?」
ようやく、覚醒《かくせい》したようだった。不機嫌《ふきげん》そうに眉《まゆ》をひそめて竜児《りゅうじ》の腕を払いのけ、額《ひたい》に乗せられていた濡《ぬ》れタオルを不信げに取る。そしで小鼻をひくつかせ、
「……なに? なんなの? ……にんにくの匂《にお》いがする……」
きょろきょろと辺りを見回した。
「だからチャーハンだって言ってんだろうが。さっさと食って、血糖値《けっとうち》上げろ。またぶっ倒れるぞ」
卓袱台《ちゃぶだい》に支度《したく》してやったチャーハンを指差して見せると、あ! と一瞬《いっしゅん》目を輝《かがや》かせる。が、
「……なんのつもり……」
すぐにむっつりと半目になって、ジャージ姿の竜児を睨《にら》む。
「なんのつもりもなにも、目の前で目を回されたらそりゃチャーハンしかねえだろうが。すごかったぞ、腹の音。学校でも貧血起こしてたみたいだし……なあおまえ、全然メシ食ってないんじゃないか?」
「ほっといてよ、余計なお世話。……この家、あんたしかいないの?」
「母親が約一人。今は仕事だ。殴りこみに来るんなら、家庭の事情ぐらいわかっとけよ。普通の家だったらおまえ通報されてるぞ」
「うるさい。……あんた、変なことしてないでしょうね」
逢坂《あいさか》はまだ青い顔をしているくせに、わざとらしく両手で身体《からだ》を守り、眇《すが》めた視線《しせん》で竜児をジロジロと挑戦的に睨んでくる。おまえの方がよっぽど変だよ!? と叫び出しそうになるが、
「……人の家に殴りこみかけて腹の減りすぎで倒れるような奴《やつ》に、そんなことを言う資格なんかねえんだよ。いいから食え」
なにしろ今は午前三時。世間様をこれ以上お騒《さわ》がせするわけにはいかない。
「いいってば――うぶっ」
スプーンに山盛りチャーハンを乗せ、いまだベッドでぐずぐず言っている逢坂の口に無理やり突っ込んでやってみた。相当勇気のいることだったが、もはや竜児は自暴《じぼう》自棄《じき》――ここまで来たらどうにでもなれ、そんな男気《おとこぎ》溢《あふ》れる精神状態だったのかもしれない。
「あ、あにふんのほ!」
目をぎらつかせて逢坂はスプーンを押しのけた。それでも口の中のものを吐き出すわけにはいかなかったか、小さな頬《ほお》をふくらませてリスのように口をモグモグさせ、
「あん……んぐ、あんた、こんなことして、ただで済むとは思わないでよ……」
ごくん、と一飲み。
「……さっきの話だって、終わってない」
押しのけた竜児の手からスプーンを奪い、
「第一、なぜ封筒の中がからっぽだったってわかったのよ」
長いスカートをずるずる引きずってベッドから降り、
「見ようとして開封したってことね。最低野郎。この覗《のぞ》き魔《ま》」
ぷいっ、と竜児《りゅうじ》に背を向け、卓袱台《ちゃぶだい》に座る。
「……違うっつうんだ。なんというかその……透けて見えた」
嘘《うそ》ではあるが、まあとりあえず。だがそれも聞いているのかいないのか、座り込んだ逢坂《あいさか》は、ほんのちょっとだけチャーハンの山をスプーンで崩し、妙に緊迫《きんぱく》した雰囲気で小さな口にそっと運んだ。
もぐもぐして、飲み込む。スープにも口をつける。はっ……としたような表情を一瞬《いっしゅん》して、さらにもう一口。そんな逢坂の向かいに座り、竜児はチャーハンを作りながら考えていたことを口にしようとしていた。
「っていうか、逢坂よ。ちょっと俺《おれ》の話を聞いてくれ。そもそもな、」
もぐもぐもぐもぐ。
「おまえはあの手紙……というか封筒を俺に見られたことを、恥だのなんだのと言ったがな、」
もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ。……くわっ! がつっ!
「俺の考えでは、」
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ!
「聞けよ!」
「おかわり!」
「おう!」
多めに作っておいてよかった、などと呟《つぶや》きつつ、竜児はフライパンの中身を皿に全部さらえてやった。そして逢坂の前に置いてやり、
「……だから話を聞けってば!」
喚《わめ》けども喚けども暖簾《のれん》に腕押し、馬耳《ばじ》東風《とうふう》。一心不乱とはこのことだろう。小さな身体《からだ》のどこに収まっていくのか、逢坂はわき目も振らずにチャーハンチャーハンチャーハンチャーハン、……一人チャーハン祭りだ。
このままでは埒《らち》が明かない、チャーハンの五文字もゲシュタルト崩壊《ほうかい》目前だ。竜児はある決意を秘めて、居間の隅からリーサルウエポンを持ってくる。
「おい逢坂、こいつを見てみろ。おいしいものだぞ」
「おいしいもの!?」
反応して顔を上げたところにバッ! ……と布を取り払って見せたのは、
「ぎゃっ!」
「どうだ、気持ち悪いだろう」
震度《しんど》4までは目覚めないのが実証済みのグロい寝顔@高須《たかす》インコちゃんである。痙攣《けいれん》、白目、くちばし半開き、ダラリと垂れた変な舌――効果《こうか》覿面《てきめん》。逢坂は跳ねるように飛《と》び退《すさ》り、
「気持ち悪いわよ! なんてもんを見せるのよ!」
ようやく竜児《りゅうじ》の話に耳を傾ける気になってくれたようだった。
「……悪かったなインコちゃん。ゆっくり寝てくれ。……さて、逢坂《あいさか》」
インコちゃんの布を戻してやり、竜児は正座して逢坂に対峙《たいじ》する。逢坂はようやく少々落ち着きを取り戻し、なによ、と竜児を睨《にら》み上げてくる。ただし、皿は抱え込んだまま、チャーハン祭りも続行中。
「食いながらでいいからとりあえず聞け。俺《おれ》が言いたいことというのは、つまり、そんなことは少しも恥なんかじゃない、ということだ。俺たちは高校二年生、好きな異性の一人や二人、いるのが当たり前だろう。ラブレターだって書いていい、別におかしなことじゃない。世の中のうまくいっているカップルは、皆そういうアレコレを乗り越えて、晴れてお付き合いしているわけなんだから」
「……」
口をモグモグさせつつ、逢坂は決まり悪そうに抱えた皿で顔を隠す。
「まあな。そりゃな。他人の鞄《かばん》に間違えて入れるような奴《やつ》は――しかも中身を入れ忘れるような奴はそれほどいないだろうけどな」
と、
「それよ!」
ドン、と唐突に拳《こぶし》で卓袱台《ちゃぶだい》を叩《たた》き、逢坂は顔を上げてスプーンを竜児に突きつけた。
「……あんた、さっきから随分勝手なことばかり言ってくれるわね。言っておくけど、私はあの時、まだラブレターを入れようかどうか迷っていた。鞄を開けてどうしようか考えていたらあんたが来ちゃって、気が動転してとっさに隠そうとしたらついつい中に放り込んじゃって、……そうしたらそれがあんたの鞄で……」
「あ、逢坂……口の端に思い切り飯粒がついているぞ」
「う、る、さ、い」
「う……」
凄《すご》みを増した鋭《するど》い眼差《まなざ》しが、刃物のようにギラリと光る。睨まれ竜児は、継句《つぎく》を手放す。
腹が満たされてパワー充電が完了したのだろう。ふん、と顎《あご》を不遜《ふそん》に突き上げ、人斬《ひとぎ》りの目で竜児を縫《ぬ》い止め、元気も殺気も復活した手乗りタイガーは低く長く獰猛《どうもう》に唸《うな》る。
「高須《たかす》竜児……あの時、あんたが大人《おとな》しく鞄を渡していればこんなことにはならなかったのよ。……どう落とし前つけるわけ。記憶《きおく》、どうやってなくすわけ。こんな恥かかされて、私はどうやって生きてけばいいの」
――またその話題に戻るのか。竜児は一瞬《いっしゅん》頭を抱えかけ、そして、
「だから、恥でもなんでもないって言ってんだろうが! いいか、待ってろ!」
捨《す》て鉢《ばち》になった。
居間から自室へ一旦《いったん》駆け込み、両手に一杯の荷物を持って戻る。それらを全部、逢坂《あいさか》の目の前に積《つ》み上げて置いてやる。何冊ものノートや紙の切れ端、CD、画帳、中古で買ったMDプレイヤーまである。こうなったら見せてやる、全部見せてやる。
「……なによ、これ」
「いいから見てみろ。どれでもいいから」
ちっ、と舌打ちをしながら、逢坂は面倒《めんどう》くさそうに手近なノートを一冊手に取った。パラパラとめくり、その指が止まる。気味悪そうに顔を歪《ゆが》め、ページと竜児《りゅうじ》を交互に見る。
「……本当に、なんなの? あんた、なにしてんのよ」
「その一覧《いちらん》表《ひょう》がなにか分かるか? わからねえだろうな。それはな、俺《おれ》が好きな女子のためにコンサートをやるとしたら、というテーマの元に作成したプレイリストだ。ちなみに春夏秋冬、それぞれの季節に合わせて四パターンある。もちろん、MDも作ってある」
それはここに、とMDプレイヤーの電源を入れ、嫌《いや》がる逢坂の耳にズポッとイヤホンを差し込んでやった。かすかな音漏れは、夏のコンサート、一曲目。
「それからこっちが作ってしまった詩だろ、こっちは『付き合うことになって最初のクリスマスに贈《おく》るプレゼントはなににするか』というテーマで考えた時のメモだ。香水、にしてみた。正確《せいかく》にはオードトワレという奴《やつ》だ。ちゃんとブランドも候補を絞ったし、それらが売っている店から値段まで、全部|調《しら》べて書いてある。……どうだ、俺はいつもこんなことばかりしている」
「ええい気持ち悪いわ!」
逢坂はむしり取るようにイヤホンを外し、汚物のようにブン投げ返す。そいつにビシッと鞭《むち》打《う》たれ、しかし竜児は怯《ひる》まない。
「気持ち悪くて結構だ! でもなあ、俺は別にこのことをおまえに知られたって、おまえを亡き者にしようなんて絶対に思わねえぞ! 女子を好きになってなにが悪いんだ! 告白する勇気が出なけりゃこうやって妄想するしかなくて、確《たし》かに情けないけど……それでも恥だなんて思わねえ!」
いや、少しは恥かもしれないが、とにかく言い切った――その瞬間《しゅんかん》だった。こちらは一応見せずにおこうと背後に隠していたブツが、身じろぎした拍子にバランスを崩し、逢坂の膝元《ひざもと》に滑り落ちていく。
「あっ! いけね……」
「……こっちはなによ。封筒?」
慌てて取り戻そうとした手が、一回り小さい手に一歩遅れ、むなしく宙を踊って悶《もだ》える。
「高須《たかす》竜児より……櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》さま……櫛枝実乃梨さま!?」
「そ、それは……ちょっと、ちょっと待て、そっちはちが」
「ラブレター!? っていうか……みのりん宛《あ》て!? あんたから!? みのりんに!? これも!? これも!?」
もはや否定の余地は残されていまい。出す予定のない、書くだけで満足していた三通の恋文が、すべて蛍光灯の明かりの下に晒《さら》された。
「うーわ……あんたってみのりんのこと……げえ!……嘘《うそ》でしょ? 生意気な……」
「ひっ、ひとのこと言える立場かよ!? なんだよげーって! だいたいおまえだって俺《おれ》の親友の北村《きたむら》のこと、」
「……うるさいわね。忘れろって言ってるのがまだわからないか? ……えいまどろっこしい、いっそ一思いに」
「お互いさまだろうがー!」
木刀を持つの持たないの、捨てるの捨てないの、殴るの殴らないの、いっそヤるのヤられるの――わあわあ、ぎゃあぎゃあ、と一通り揉《も》め、
「……はっ!」
竜児《りゅうじ》ははた、と我に返った。気が付けば、窓の外がほんの少し朝の気配《けはい》に白《しら》みかけている。
「いかん、もう四時になるじゃないか……」
もうそろそろ仕事を終えて、泰子《やすこ》が帰ってくる頃《ころ》だ。逢坂《あいさか》に家にいられるのはマズイ。泰子にあれこれ言われるのも鬱陶《うっとう》しいが、それ以上に「竜ちゃあん、やっちゃんはあ、えぐえぐぽええ〜ん」の泰子を他人にはできるだけ見られたくない。
それに朝刊がくれば下の階の大家さんが起きてきて、この騒音《そうおん》に文句を言いに来るかもしれない。……いや、すでに起きていて、文句をつける頃合を狙《ねら》っているのかも。竜児の顔色がさっと変わる。もんのすごく、あり得そうだ。まずい、今ここを追い出されたら、引越し資金が足りない……つい先月、貯金をはたいて分不相応にも薄型《うすがた》テレビを(泰子が)(勝手に)買ってしまった……。
「と――とにかく! とにかく、だ。俺はこの一件を絶対に誰《だれ》にも言ったりはしない。逢坂のことをバカにしたりもしない。俺だって同じ穴の狢《むじな》なんだから。というわけで、納得してくれ」
「……できない」
「なんでだよ!? ていうか帰ってくれ……帰って下さい……! 病気の母が帰ってくるんで……」
確《たし》かにアレはある意味病気だ。嘘はついていない。が、
「いや! あんたのこと信用できないし、それに……それに……」
突然逢坂は子供のように、コンパクトに膝《ひざ》を抱えて居間の真ん中に座り込む。ほっぺたを膝にグリグリ押し付け、古びた畳にのの字を書き、
「……ねえ、あの……ラブレターって、どうなのかな……なんとなく今時じゃないわよね」
逢坂は恋愛|相談《そうだん》を始めた! あああ、と竜児は頭をガリガリ掻《か》き毟《むし》り、
「そ、そういうのは、今度、ゆっくり相談に乗ってやるから! だから! な! 帰って……お願《ねが》いだから!」
「……本当に今度、相談《そうだん》に乗ってくれる?」
「乗る。絶対、乗る。なんでも乗るし、なんでも協力する。誓う」
「……協力、してくれるの? なんでも? 私のために?」
「する。するするする。なんでもする」
「なんでもね? なんでも、って言ったわね? ……犬のように、してくれる? 私の犬のように、私のためになんでもしてくれる?」
「する。しまくる。誓う。犬だろうがなんだろうがなんでもする。……だから、な? もういいにしようぜ? な? な?」
「わかった……じゃあ、帰る」
ようやく納得してくれたのか、逢坂《あいさか》は木刀を持って立ち上がった。よくよく見れば窓際に、小さな靴《くつ》がちょこんと脱ぎ捨ててある。やはり窓から侵入したのか……唸《うな》る竜児《りゅうじ》を尻目《しりめ》に靴を持って玄関に向かうが、不意にくるりと振り返る。
「ねえ」
まだなにかあったか、と竜児は思わず身構えるが、
「……チャーハン、まだある?」
「へっ? あ、いや……おまえが全部食ってしまった」
「そう。ならいい」
「おまえ、まさか食い足りないのか? ほぼ二合分はあったんだぞ、あれ。そんなに腹減ってたのかよ」
それには答えず、逢坂は背中を向けて靴に片足を突っ込みかけ、
「……襖《ふすま》」
再び前触れなく振り返って呟《つぶや》いた。
「おう、また随分話が飛んだな」
「襖、穴を開けてしまったけど……あれって随分お金かかるの?」
竜児の顔を見上げ、逢坂は大きな瞳《ひとみ》を二度、三度、と瞬《またた》かせた。不意に落ち着かない気分になって、竜児はそれを見返せない。怖いのではなく、戸惑った。怒っていない逢坂というのを、ほとんど初めて見た気がする。
「ああ……まあ……直そうと思えば自力でもできるかどうか、って感じ……かもしれねえ。さっき見たところだと、穴自体は小さいし。ただ、いい和紙があればいいんだけどこの辺じゃ障子紙どころか半紙ぐらいしか買えないんだよな」
「ふーん」
意図の読めない無表情のまま、
「……これ、使えば。和紙」
逢坂がグイ、と差し出したもの。しかし……使えば、と言われても。竜児はさらに困惑して、手の中に押し込まれたモノをまじまじと見てしまう。いくらなんでも、中身を入れ忘れたラブレターの封筒って言うのは……
「これで直せるなら、直しなさい。もしもお金がかかるなら、ちゃんと払うから」
「はあ、まあ、……うん」
食い足りないのか、と尋ねた質問には答えないままで、逢坂《あいさか》は面倒《めんどう》くさそうな靴《くつ》のストラップをごちょごちょと留め始める。その丸めた背中は、なんとなく、なんとなく――
「……よお、待てよ」
呼び止めずにはいられない風情《ふぜい》、ではあった。
「なによ」
「……おまえ、どれだけメシ食ってないんだ?」
「なんでそんなこと気にするのよ。別に、食べてない、わけじゃない。……コンビニの食べ物、なんか飽きちゃって……買ってきてもあんまり……」
「コンビニ? 三食、全部? それは身体《からだ》によくないだろ?」
「駅前に、お弁当屋さんあったでしょ。あそこ、潰《つぶ》れちゃったでしょ、先月。それであとはもうコンビニぐらいしかないから……スーパーのお惣菜《そうざい》って、なんか……どうやって買うのかわからないし」
「わからないもなにも、透明のパックに好きなだけ入れりゃいいんだぞ。そうすりゃ勝手にレジで重さ量ってくれて……って、親はどうしたんだよ?」
靴のストラップをパチン、と留め終え、起き上がりながら、逢坂はかすかに首を横に振ったように見えた。しまった、と思う。家庭の事情なんか家庭の数だけあるに決まっているが、特に謎《なぞ》めく逢坂家の場合は、常人では想像もできない事情があってもおかしくない。自分だって家庭|環境《かんきょう》のことでは微妙な扱いをされてきたガキのくせに、配慮《はいりょ》に欠けた言い方だったかもしれない。気まずくなってそれ以上は追及できず、玄関のドアを開けて出て行く長い髪を見送ってしまう。
「って、待て! 送って行くから! こんな時間に一人じゃ……」
「平気。近いし。……木刀あるし」
「いや、それがかえって危ないだろ」
「本当に近いから。じゃあね、竜児《りゅうじ》。また明日《あした》」
身を翻《ひるがえ》して、逢坂は駆け去って行ってしまう。慌ててサンダルをつっかけ、鍵《かぎ》もかけずに後を追おうとしたが、玄関から階下を見るとすでに姿はなくなっていた。やっぱり異様に足が速い。
「……一人で帰らせてしまった。っていうか……」
今、呼び捨てにされなかったか?
竜児は両目をきつく眇《すが》め、頬《ほお》を歪《ゆが》めて逢坂の消えた方向を睨《にら》んだ。……怒っているのではない、混乱しているのだ。
夜が明けて泰子《やすこ》が帰ってくる前に、部屋の片付けは完璧《かんぺき》に済んだ。普段《ふだん》からの整理《せいり》整頓《せいとん》の賜物《たまもの》だろう。
そしてこの日以来|高須《たかす》家《け》の襖《ふすま》には、器用に切り抜かれた薄《うす》桃色《ももいろ》の桜の花が、幾枚かの花びらと一緒に見事に貼《は》り付けられている。
3
明け方の喧騒《けんそう》が夢だったかと思えるような、静かな朝が高須家にも来た。
手乗りタイガーの襲撃《しゅうげき》を受け、竜児《りゅうじ》が再び眠りについたのは結局朝の五時。育ち盛りの身体《からだ》に寝不足は相当つらかったが、大きな口で力いっぱいあくびをし、気合を入れていつもと同じ時間にベッドから出た。やるべきことはいくらもある。
便所と洗面を済ませたら、まずはインコちゃんのエサ替えだ。いつものとおりに目覚めを確認《かくにん》し、鳥かごの布を取り払う。が、
「おはようインコちゃ……おぅ!」
仰天してのけぞった。インコちゃんが死んでいる。
「さ、さっき返事をしてくれたじゃないか! インコちゃん!」
「……ン……ン、ン……」
――いや、生きていた。鳥かごの底に横倒しになっていたせいで死んでいるように見えたのだが、ただ、なんとなく倒れていただけのようだ。竜児の呼びかけにむっくりと起き上がり、意味不明に羽毛をブク! とふくらませて見せる。これは相当気色が悪い。
「……俺《おれ》にはもう、おまえの気持ちがわからねえよ」
「おはよっ!」
やっぱり猫か犬が飼いたかった。そういう心の通じ合うペットがよかった。しみじみ思いながらエサ箱を交換していると、
「……ンコ……ン……ンコ、ちゃ……ンコちゃん……ンコちゃん」
インコちゃんは竜児の目をまっすぐに見つめ、なにかを必死に語りかけてくる。それはまさしく、これまで何年も練習してきてしかし一度も言えたことのない、あの言葉の一部に他《ほか》ならないような。
「まさかついに、インコちゃん、って、言うのか……ついに言えるようになったのか!?」
思わず興奮《こうふん》し、鳥かごにかぶりつきになった竜児の目の前で、インコちゃんは知的にピンと尾羽を伸ばした。ついに、ついにこの瞬間《しゅんかん》が――
「ウンコちゃーん!」
「くだらねえ!」
バッサァ! と思い切り夜用の布を鳥かごにかけ、竜児《りゅうじ》は静かに居間を後にした。人相は凶悪だが、心は落ち着いている。こんなことでいちいち気持ちをざわめかしたりなどするものか。男子の意地で平静に努め、寝ているはずの泰子《やすこ》の様子《ようす》を見ようと襖《ふすま》を開け放す。
寝入りばな、玄関のドアが開いた音は聞こえたから帰っていることは確《たし》かだが、
「……これはこれで、ひでえな……」
唸《うな》り、目を覆《おお》った。
部屋が酒臭くなるほど酔っ払って寝ているのだが、なぜかでんぐり返し状態で、尻《しり》を真上に向けて寝ている。ジャージに着替えてくれていて本当によかった。いくら母親でも――いや、母親だからこそこれは厳《きび》しい。パンチラまでなら許せてもこれは息子的にNGである。そして顔はメイク落としの途中で力尽きたのだろう、顔半分はすっぴん、もう半分はこってり化粧のアシュラ男爵《だんしゃく》づら満開。しかもやはりつらいのか、苦悶《くもん》の表情を浮かべている。
推測するに、布団の傍らにある小さなテーブルに行儀《ぎょうぎ》悪《わる》く座ってメイクを落としていたのだろう。で、その途中寝入って、頭から布団に落下した、と。
「よく首の骨折れなかったな……おい。ちゃんと寝ろよ、命に関《かか》わるぞ」
「……やっ……やっちゃ……ん……ん……っちゃん……」
インコちゃんと同じような状況で、インコちゃんと同じことを言っている。
泰子とインコちゃんの見えない絆《きずな》(頭脳レベル)を感じつつも、そっと下半身を正しく下ろし、布団にまっすぐ寝かせてやった。泰子もマイベッドを欲しがっているが、この寝相では絶対に買わせられないと思う。
部屋の隅に放られているコンビニ袋から、すっかりびしょ濡《ぬ》れになってしまったアイスを救出し、足音を殺して部屋を出た。そっと襖を閉め、溶けてしまったアイスはとりあえず冷凍庫に。
そして朝食と弁当の支度《したく》を始めようと冷蔵庫を覗《のぞ》き、
「あ、そうだった」
竜児は凶悪に両目を眇《すが》めた。怒っているのではない、うっかりしていたのだ。
チャーハン祭りで卵とベーコンは使い果たしてしまった。となると、朝食のベーコンエッグはなし。それに、冷凍の飯も終わっている。
「……朝飯は牛乳で済ませて、弁当は……手抜きするか。おかずになりそうなモンも里芋《さといも》だけだし」
どうせ飯を炊《た》かなければいけないのだから、竜児的には手抜きの範疇《はんちゅう》に入る簡単《かんたん》炊き込みご飯と簡単里芋の煮っ転がしに決定だ。
米を研ぎ、水を入れる前に酒、醤油《しょうゆ》、みりんを適当に注ぎ込む。コンブをハサミで切って放り込み、水煮タケノコと瓶のなめたけをありったけ投入。水加減をしてスイッチを入れれば、それで終わりだ。あとは炊けるのを待つだけでいい。
そして神技的速度で里芋《さといも》の皮をむき、鍋《なべ》に煮立たせた少なめの湯の中に放り込む。そのまままな板、包丁を洗い、流しのゴミを片付け終わると、湯が減って放り込んだ里芋の頭が見えてきている。そこにザラメ、みりん、酒、醤油、顆粒《かりゅう》ダシ、麺《めん》つゆを目分量で入れ、放っておくだけだ。弱火で焦がさないようにギリギリの時間まで煮ていれば、自然とつゆは煮詰まって、煮っ転がしになっている。正式な作り方など調《しら》べたこともないが、いつもこれでおいしいのだ。
ここまでで、まだ目覚めてから三十分も経《た》っていない。時間には余裕がたっぷりある。竜児《りゅうじ》はコップに牛乳をありったけ注ぎ、テレビをつけて座布団に座った。
朝のワイドショーを見ながら、しばしの朝食タイムだ。目と耳は昨日《きのう》のサッカーの試合を報じる新聞記事の紹介に夢中だが、手には台拭《だいふ》き。無意識《むいしき》のうちに卓袱台《ちゃぶだい》をピカピカに磨き上げている。
ひいきのチームは勝ったようだし、朝食が牛乳だけのことを除けば、まあまあいい感じの朝だった。これで去年までのように、窓から日差しが燦々《さんさん》と入ってくればさらによかったのだが。窓の外を眺めつつ、薄暗《うすぐら》い部屋の中で一息つく。が、
「……っと!」
突然の電話のベルに飛び上がった。こんな時間に電話なんて、親戚《しんせき》になにかあったのだろうか。とにかく泰子《やすこ》(ああ見えて大黒柱)の安眠を妨げてはいけない、飛びつくように受話器を取り、
「はい、高須《たかす》で――」
「おっそい! なにをしてる!?」
「――」
思わず、電話を切っていた。
なにをしてる? ……生活をしているのだ。突然の罵声《ばせい》に頭は真っ白になり、再び鳴った電話に律儀《りちぎ》に答えてしまっている。
「はい、高須で――」
「電話切ったわね? 今からそっちに行って、また大暴《おおあば》れしてやろうか」
反射的に、それは困る、と思っていた。大家は苦情こそ言いに来ていないが、さっきから玄関の前を激《はげ》しく箒《ほうき》で掃いている音がしている。おそらく、竜児が家を出るタイミングを待って文句を言ってやろうと、ずっと張っているのだろう。マークされているのだ。
こんな極道な脅しをかけてくる相手に心当たりは一頭しかいない。
「逢坂《あいさか》……大河《たいが》……っ」
という別名を持つ、獰猛《どうもう》で極道な手乗りタイガーだ。
「困るんなら早く来なさいよ。なにしてるの? それともあんた、さっそく誓いを破るってこと? ……そいつは筋が通らないわね」
「ち、誓いっていうのはおまえ、まさか、」
「犬のようになんでもするって言ったでしょ。誓ったでしょ。だから来て。今すぐ来て。これから毎日、登校前にうちに来るのよ」
「……ちょっと、待ってくれ。昨日《きのう》のあれは……あれだろ? その、協力するっていうのは、その、北村《きたむら》とのことを色々|相談《そうだん》に乗ってやるとか、そういう……」
「チッ」
電話の向こうから聞こえてくるのは、苛立《いらだ》ちをぎっしり詰め込んだ舌打ち。
「なんでもするって言ったのはあんたでしょ。いいからとにかく来るのよ。私は、やるっていったら、絶対に、やるわよ。……なにを、とは言わないけどね」
ものすごく、機嫌《きげん》が悪いのだろう――逢坂《あいさか》の声は地獄《じごく》から響《ひび》く鬼の罵声《ばせい》のように不吉な響きで竜児《りゅうじ》の鼓膜を震《ふる》わせた。これはもう、電話であれこれ言っても仕方がない。
「……と、とにかく、それじゃあ……行くけどよ……おまえの家なんか俺《おれ》は」
「窓に近づいてみなさい」
「え? 窓ったって、うちの窓からじゃ見えるのは――あぁ!」
子機《こき》を持ったまま悲しいほど狭い居間を横断し、暗い窓辺から外を見てのけぞった。ここから見えるのはブルジョアマンションぐらいだが、そのマンションの二階部分……ちょうど目線《めせん》の先の窓に、
「なにその変なパジャマ」
おしゃれな受話器を片手に持った逢坂|大河《たいが》が、白《しら》けたツラで貼《は》り付いていた。
「あっ、よせっ、俺を見るなっ」
肌寒くて羽織《はお》ってしまった泰子《やすこ》の「ぬくぬくカーディガン☆」(全面ハート柄)を両手で覆《おお》い隠し、竜児は般若《はんにゃ》の面になる。……怒っているのではない、恥じているのだ。
こちらも顔を歪《ゆが》ませて勢いよく高そうなカーテンを閉じ、
「見たくもないわ! 早く来るのよこの駄犬!」
逢坂は言い放つ。だが、竜児には少々事情があった。
「ちょっと待ってくれ! あと十分ほどでいいから!」
「……なんでよ」
「弁当にする炊《た》き込みご飯が、炊けてないんだ!」
「……」
黙《だま》り込んだ静けさの向こう、かすかに耳に届いたのは凄《すさ》まじい腹の音。あまりにでかい音声《おんじょう》に、聞こえない振りはできそうになかった。
「……お、おまえも食うか?」
しばしの沈黙《ちんもく》が続き、やがて窓の向こうのブルジョアマンションのカーテンが十センチほど開く。そして無言のままで逢坂《あいさか》は、竜児《りゅうじ》にこっくりと頷《うなず》いてみせた。
泰子《やすこ》、インコ、そして逢坂。
竜児のエサを待つ面子《メンツ》に、新たなメンバーが加わったらしい。
***
オートロック、なるものを生まれて初めて見た。
白い大理石で造られたエントランスは外気よりもひんやりとした空気に満たされ、竜児を警戒《けいかい》するかのように、異様に静まり返っている。
あまりの場違い感に目つきをどっしりと悪くして、竜児は目の前の謎《なぞ》めくマシーンを睨《にら》みつけた。腰ほどの高さの大理石の台に、ボタンと鍵穴《かぎあな》、スピーカーのようなものがついている。その向こうには中へと続く自動ドアがあるのだが、前に立っても開く気配《けはい》はない。すぐ右手には管理人室があるが、「清掃作業中」の札がかかり、中は無人のままになっている。このマシーンをどうにかしないことには、手乗りタイガーの檻《おり》へ行けないのは確《たし》かだが――どうしていいかわからずに黙《だま》り込んでいると、
「……おはようございま……す……?」
挨拶《あいさつ》をしてくれながらも、なんだこいつ、と胡乱《うろん》な目をした若い女が、中から出てきてドアが開いた。
「お、おはようございます」
気まずく顔を伏せ、竜児はそのドアの隙間《すきま》へ滑り込む。こんなふうに入ってしまってもいいのだろうか、と少々ドギマギするが、特に誰《だれ》に咎《とが》められることもなかった。
エレベーターに乗り、二階を押す。扉が開くと、そこは修学旅行で泊まったホテルのような絨毯《じゅうたん》敷《じ》きの内廊下になっていた。
家賃に思いを馳《は》せつつ、そういえば何号室か訊《き》くのを忘れたことに気がつく。だがすぐに不安は解消された。
その内廊下の先に、ドアはひとつしかなかったのだ。……このブルジョアマンションの二階フロアには、逢坂さんちしかない、ということらしい。
「金持ちなんだな……やっぱり『逢坂父は極道』説が真実なのだろうか」
しみじみ思いつつ、そして少々|緊張《きんちょう》しつつ(逢坂とはいえ女子の家だ)、チャイムを鳴らした。しかし誰も出てくる気配はなく、繰《く》り返し鳴らしても反応はない。
登校時間にはまだ間があるが、それでも時間は無限ではないのだ。気後れしながらも、そっとドアを開いてみた。
う、と息を詰める。開いてしまった。
「……お、おはようございま〜す……。逢坂《あいさか》〜……。高須《たかす》、ですが〜……。おーい」
中を覗《のぞ》き込んで声をかけるが、やはり返事はない。おーい、おーい、と繰《く》り返しつつ、大理石の玄関へ侵入してしまう。
「……お邪魔《じゃま》……しま〜す……。……いいのか? は・入るからな?」
来い、と呼ばれて、脅されて来たのだ。ここで突っ立っているのもなんだ。家の人、特にお父上と出会ってしまったらどうしよう、と怯《おび》えつつも、竜児《りゅうじ》はおずおずと磨いたばかりのローファーを脱ぎ、ソックスでフローリングの廊下に上がりこむ。
キョロキョロとあたりを見回しながら奥へと進み、竜児の口から漏れたのは「へ〜……」というため息だ。白い壁紙《かべがみ》も、ベージュのフローリングも、埋め込み式の間接照明も、どれも品があって並みの賃貸とは全然違う。実は結構インテリア好きの竜児は興味《きょうみ》津々《しんしん》の目つきになって、曇《くも》りガラスのドアをそっと押し開く。そして、
「おお……っ! ……おお?」
まずは感嘆。それから、異臭。
感嘆の方は、二十畳以上はゆうにあるだろうリビングに対してだ。真っ白なラグに淡いグレーのソファ、そして真っ白なテーブル、デザイナーの手によるものだろう凝《こ》った椅子《いす》。南向きにバーンと開いた窓からは、かっては高須《たかす》家《け》の景観《けいかん》だった隣《となり》の公園の木々が見えた。色を抑えた家具はリビングの広さを決して損なわず、しかし個性的なデザインで素人《しろうと》離《ばな》れしたセンスを発揮している。ガラスのシャンデリアもモダンでありながら、ひたすらに美しい。ただ異様なのは、ソファも椅子もそれぞれ一人分しかないこと。この広さのリビングなら、それぞれ五、六人分はあるのが普通だろうに。
そして異臭は――
「これか……っ」
酒落《しゃれ》たアイランドキッチンから。
せっかくの大型シンクには、いつのものとも知れない汚れた皿やらどんぶりやらが、汚水の中に山盛り漬かったままになっている。これでは排水溝の中もどうなっているやら、想像するだに身体《からだ》が震《ふる》える。さらにキッチンのステンレスは曇り、ところどころに、
「うおぉぉ……!」
もはや悶絶《もんぜつ》するしかないほど黒かびが。フラフラと吸い寄せられるように近づき、震える人差し指で調理台《ちょうりだい》を辿《たど》ってしまう。もちろん感触は、ぬめっ、とか、ぬる、とか……。
許せない。
こんなのは絶対に許せない。キッチンへの冒涜《ぼうとく》だ。生活への、冒涜だ。あんな2DKの狭い狭い暗いせまーい台所で、それでもせめて清潔《せいけつ》に、たとえるなら舐《な》めても抵抗がないぐらいに綺麗《きれい》に使おうと日々努力している人間もいるというのに、なぜこの見事なシステムキッチンを持ちながら、こんな、こんな――こんな!
「あ、い、さ、か―――――っっっ!」
ほとんど飛び上がるようにして、竜児《りゅうじ》は走り出した。もう耐えられない、こんな光景を見せられたら、
「俺《おれ》に、どうか俺に、このキッチンを掃除させてくれぇっっ!」
竜児の中のなにかが弾《はじ》けてしまうではないか。
青筋を立てながら鉄砲玉よろしくリビングを一周駆け回り、しかし逢坂《あいさか》を発見することはできず、興奮《こうふん》にギラギラと光を帯びた危ない瞳《ひとみ》が引き戸を見つけた。
「ここかぁ!」
力いっぱい引き戸を開けると、
「……あ」
――大正解。だが、なんとなく……大失敗。
逢坂|大河《たいが》は、そこにいた。
その静けさに、竜児は思わず口をつぐみ、呼吸さえ飲み込んでしまった。
北向きの窓にカーテンのかけられた、天井《てんじょう》の高い静かな部屋。真っ白な絨毯《じゅうたん》のそこここには、脱ぎ捨てられたままのひらひらとしたワンピース。片隅にはやはり真っ白なデスクと真っ白なチェアが設《しつら》えられ、部屋の中央に、これも真っ白なレースの天蓋《てんがい》つきのベッドが置かれていた。
ここは逢坂の寝室だった。
逢坂大河はレースに守られたベッドの中で長い髪をシーツに散らし、沈み込むように手足を丸め、一人静かに眠り込んでいた。
その枕元《まくらもと》には電話の子機《こき》が転がり、カーテンの隙間《すきま》からはちょうど高須《たかす》家《け》の窓が見えている。
「……二度寝、かよ……」
すう、すう、と規則正しい寝息だけが、静まり返った寝室に響《ひび》く。
近づくこともできないまま、竜児は眠っている逢坂の姿をただ眺めていた。――見たいわけではないのだ。だが、目が離《はな》せなかった。
ぶかぶかのパジャマに包まれた、元々小柄なのだろうにさらに痩《や》せて細くなった手足。今限定で穏《おだ》やかな頬《ほお》は、氷でできた彫像のように、透き通って溶けてしまいそう。小さな鼻、半開きになった小さな口、伏せられた長い睫毛《まつげ》……寝息が聞こえなければ生きているかどうかもわからないほど、逢坂大河は静かにシーツの海に沈む。
同級生の寝姿なんて生々しいものではなく、それは物語の中の世界のように作り物めいた光景だった。
さながら眠り姫のような、と女のようなことを思いかけて、しかし打ち消す。
これはお姫様ではない。
そうではなくて――彼女は、お姫様に忘れられた人形だ。抱き上げられれば目を開けるのに、忘れられてしまったから、眠り続けている小さな人形だ。
人形が寝ているベッドも、この部屋も、この家も、すべてはお姫様のもので人形のものじゃない。だからサイズが大きすぎる。全然その身に合ってない。
でも逢坂《あいさか》は人間で、この家は逢坂の家で――そうだ、家族はどうしたんだろう。
静まり返った家をグルリと見回し、竜児《りゅうじ》は静かに目を細める。一脚の椅子《いす》。一台のソファ。ここには逢坂しかいない。家族は、と訊《き》かれ、首を横に振った逢坂だけが眠っている。
腕時計を見る。登校時間まで、まだ間はある。
なんとなく起こすこともできず、竜児はそっと部屋から出た。音を立てずに扉を閉じる。ギリギリになっても起きて来ないなら、その時声をかけてやろう。
静かなる寝室と切《き》り離《はな》された空間で、竜児はおもむろに学ランを脱ぎ、シャツの袖《そで》をまくった。
「……よし!」
鋭《するど》い視線《しせん》のその先には、ドロドロのシステムキッチンが聳《そび》え立っている。制限時間は十五分。
男バーサス不潔《ふけつ》ステンレス、ガチンコ一本勝負の始まりだ。
逢坂|大河《たいが》が目覚める頃《ころ》には、そこには信じがたい光景が展開していることだろう。
まだまだ途中だ、明日《あした》にでも続きはやる、と宣言する高須《たかす》竜児《りゅうじ》。その背後には半年ぶりに片付けられた食器類に、すっかり綺麗《きれい》になったように見えるキッチンのステンレス。
そして、炊《た》き込みご飯とインスタント味噌《みそ》汁《しる》の朝食。
中身は朝メシと同じだけどな、たくさん持ってきてよかったぜ――と説明付きの、ずっしり重い弁当箱。
それらのすべては、うっかり二度寝してしまった、逢坂《あいさか》大河《たいが》のためのもの。
***
「遅刻したくないから迎えに来させたのに、なんでこんな時間になるわけ? あんたどうかしてんじゃないの?」
「はあ!? 俺《おれ》は早く食え早く食えっつってただろうが!? もっともっとって茶碗《ちゃわん》を放《はな》さなかったのはどこの誰《だれ》だよ!?」
「頼んでもないのにあんたがヘラヘラ朝ごはんの支度《したく》してるから、残したら哀れだと思って食べてあげたのよ。感謝《かんしゃ》すれば?」
「……返せよ。弁当返せ」
「うるさいなあ、寄るなエロ犬」
「てめ……返せ! もう、絶対返せ! 俺の優《やさ》しい気持ちごと返せ!」
「黙《だま》れ。そして腐れ」
「ひっ、人に腐れとか言う奴《やつ》に、食わせる炊き込みご飯はねえ!」
通学路をスタスタと並んで歩きつつ、竜児と逢坂《あいさか》は険悪な攻防を展開していた。緑の若葉が輝《かがや》く街路樹《がいろじゅ》の下、歩道いっぱいに広がって騒《さわ》ぐ二人ははた迷惑なことこの上ない。
逢坂の小さな手がぶら下げている弁当入りの巾着袋《きんちゃくぶくろ》を奪おうと、竜児は上方からアタックを仕掛ける。逢坂はそれを避け、小柄な体格を生かして早足で蛇行し竜児から距離《きょり》を取る。すれ違う人は皆、凄《すさ》まじく目つきの悪い高校生と、そいつに追われつつもそ知らぬ顔で無視を貫く小柄な美少女の姿に、関《かか》わりたくないと目をそらす。
「な、なんて恩知らずな女なんだ……呆《あき》れ果てるぜ! あのキッチンだって俺が綺麗にしてやったのに。まだ途中だけど」
「だから頼んでないって言うのよ」
「あれ、おまえ、言っておくけど最悪だったぞ? シンクにたまってた水が腐っててよお……排水溝の中はぬめりとカビと腐った生ゴミで地獄絵図でよお……一体いつから放置してあるんだよ、部屋中臭かっただろ」
「半年前ぐらい」
「……人間失格!」
ビシッ! と指差してやるが、逢坂《あいさか》は無表情のままで「知るか」と一言言い残し、さらにスタスタ歩いて行く。こんな奴《やつ》の言うことなど聞くのではなかった。心の底からそう思うが、あのキッチンがあのまま放置されていたのかと思うと――一度目にしてしまった不潔《ふけつ》な水周りを、竜児《りゅうじ》はどうしても放置できない。綺麗《きれい》にしたい、清潔にしたい、使いやすくしたい、そんな欲望がむくむくと頭をもたげ、自分では制御できなくなってしまうのだ。
「人の業、か……」
一人ごちて逢坂の後を追う、というか同じ通学路を進むしかない。そんな竜児をチラリと振り返り、
「そんなことより、あんた、学校についたらちゃんと私のために働くのよ。さぼったりしたら許さないから」
醒《さ》めた視線《しせん》で言い聞かせつつ、逢坂は小さく鼻を鳴らす。言わせておいてなるものか、と、足を速める竜児だが、
「あのなあ、そういう態度の奴に協力なんかできオフッ!」
唐突に歩みを止めた逢坂に追突。ちょうど胃のあたりに偶然の肘《ひじ》を一発食らい、
「きゅ、急に、止まるんじゃねえバカタレ……っ!」
不機嫌《ふきげん》さ込みで悶絶《もんぜつ》しながらも命知らずの文句をつけてやる。しかし逢坂の視線はぜんぜん竜児になど向いてはおらず、
「みのりん! まだ待っててくれたの?」
「おっそいよ大河《たいが》。今日《きょう》も先に行っちゃう所だよ」
「……おぅ!」
卒倒しかけて、危ういところで踏《ふ》み止《とど》まった。逢坂の視線の先、大きな十字路の一隅に、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》が立っていたのだ。
頬《ほお》のあたりだけ日焼けした肌にくりくりしたまん丸な目を光らせ、天真《てんしん》爛漫《らんまん》な笑顔《えがお》でこちらに大きく手を振っている。朝日に髪がキラキラと輝《かがや》き、スカートの裾《すそ》は風に踊《おど》り……だがその手の動きが不意に止《や》んだ。笑顔が消え、代わりにその目が大きく見開かれ、
「えっ! あれっ、うそっ、なにっ!?」
「どしたのみのりん」
「み、耳が……」
甲高《かんだか》い声で叫びつつ、並んで登校して来た竜児と大河を交互に激《はげ》しく指差し確認《かくにん》。
「どしたのじゃないよ! えっ、えっ、……そ、そっか〜、あたし知らなかったなあ、大河と高須《たかす》くんがツーショット登校キメちゃうような間柄だったなんて……」
「違うでしょみのりん、いまどきツーショットなんて誰《だれ》も言わないのよ」
「そっか〜! じゃあなんだ、あれか、いまどきは……ああっ、気が動転していま時の言い方がわからない! あっわかった! アベックだ!?」
「そうじゃねえ! そこじゃねえ! 一緒に登校してねえ! た、たまたま、そこで、会っただけだ!」
反射的にそんな言い訳がするっとできていた。嵩《かさ》にかかって馴《な》れ馴《な》れしく、
「なあ! そうだよなあ逢坂《あいさか》!」
ぐりんと振り返りつつ妙な愛想笑いを浮かべるが、
「なんだ、本当に偶然なんだ?」
「そうよ、なんか家が近いみたい」
二人はとっくにぴったり寄り添い、仲良く先を歩き始めていた。せっかくのこのチャンス、みすみす逃してなるものか。竜児《りゅうじ》はせかせかと後を追いつつ、しかしうっすらと想像をふくらませていた。
もしかしたら逢坂|大河《たいが》は、自分の実乃梨《みのり》への想《おも》いを知って、あえて一緒に登校する機会《きかい》を作るために呼びつけてくれたのでは、などと――
「それでは高須《たかす》くん、さようなら。また後で教室で会いましょう。……ふふっ、まさかとは思うけど、一緒に登校しようなんて思っていないでしょうねえ? 私たち、たまたまそこで会っただけなんだから」
ぐるん、と振り返った逢坂は、三秒と経《た》たずに妄想|撃破《げきは》。
「……えっ……や、あ、逢坂……」
「それじゃーまた後でね、高須くん! ねえねえ大河、昨日《きのう》のテレビでさ――」
なになに、俺《おれ》も昨日の夜はテレビを見ていたんだけど……必死に手を伸ばし、追いすがろうとする竜児に最終通告が発行された。それは、
――私より先にうまくやろうなんて生意気なのよこの駄犬。
「……うっ……」
もう一度だけ、と振り返った、一瞬《いっしゅん》だけの逢坂の視線《しせん》。鈍く重く輝《かがや》きながら、そんなふうに語っていた。
手乗りサイズの猛獣《もうじゅう》の目に、竜児はもはや立ち尽くすしかない。北村《きたむら》とうまくいくまでは実乃梨とのことを徹底的《てっていてき》に妨害する、と宣言されたようなものだ。
妨害なんかなくたって、実乃梨と交際しようなんざ果てしない望みだと言うのに……なんて、思わず情けないことまで思ってしまう。
いけない。こんなことじゃ永遠に逢坂の犬で終わってしまう。それは考え得る限り、最低最悪の未来予想図……。
遠ざかっていく女子二人の姿を見つつ、竜児は両目をきつく眇《すが》めた。上等だ、と。舐《な》めるなよ、と。踏みつけられて踏みにじられて、初めて燃《も》える闘志《とうし》もあるのだ。
逢坂と北村をうまくくっつけて、晴れて実乃梨と親しくなってやろうじゃないか。
4
計画は単純だ。
体育の授業では、今はバスケをやっている。体育館《たいいくかん》を半面ずつに分けて男女それぞれゲームをするのだが、準備運動までは男女混合だ。二人一組になって柔軟からパスボールまで、十分ほどかけて行う。
そして体育の教師は、誰《だれ》と誰が組もうがまったく気にしない。皆いつも友達同士で好き勝手な相手と組んでいる。
「……まあ、普段《ふだん》あんまり喋《しゃべ》らない同士なら、このあたりから始めるのがいいんじゃないか、と俺《おれ》は思う。北村《きたむら》と組め。以上」
体育着に着替えて体育館へ向かいつつ、竜児《りゅうじ》は作戦の内容を通告した。その傍らには、逢坂《あいさか》。お下げにした髪の先を弄《もてあそ》びながら唇を尖《とが》らせて、
「組めっていったって……男女で組んでる奴《やつ》らなんかいないじゃない。私はいつもみのりんとだし、北村くんとはあんたが組んでるし。いきなり一緒にやろうなんて……絶対、死んでも、言えない」
語尾を小さくかすれさせる。そこにチチチ、と指を振ってみせ、竜児は得意げに思いついた作戦を披露《ひろう》し始めた。
「ポイントはそこだ。いいか、あくまで自然に、さりげなく組むには、ちょっとした工作活動が必要になる。最初は、俺と逢坂で組むんだ」
不審《ふしん》げな目付きで、逢坂は竜児の顔を見上げる。
「……それで?」
「すると必然的に、北村は他《ほか》の誰かと組むよな。途中で俺がさりげなく、北村と組んだ奴にちょいっとボールをぶつける。怪我《けが》なんかしないだろうが、それでも大げさに騒《さわ》いで、保健室に連れて行く。すると、余るのは誰だ?」
「……私と、北村くん」
「だろ? そこで『しょうがないなー、じゃあ、余りモノ同士で一緒にやりますか!』……って感じで」
「なにその演技。バカにしてるの? っていうか……そんなにうまく行くかしら」
「行かせるんだよ、気合で」
並んで体育館|履《ば》きに履き替え、他の生徒たちと一緒に体育教師の下に集合した。
今日《きょう》もー、バスケットボールを試合形式で行うー、と形ばかりの説明があって、
「それじゃあ準備運動から始めるぞー。二人一組になっ」
「へい逢坂《あいさか》っ!」
「はいここっ! 組みましょう高須《たかす》くんっ!」
「おぅ組もう!」
「……て、広がれー。……なんか今日《きょう》は気合が入ってる奴《やつ》らがいるな……」
飛びつくように竜児《りゅうじ》と逢坂はがっちり組み合い、そそくさと体育館《たいいくかん》の一隅に散る。あちこちから「すげえ……高須って命知らずな奴だな……」「あの手乗りタイガーが飼いならされている……」などと怯《おび》える声が湧《わ》き上がるが、二人の耳には届いちゃいない。角突き合せてコソコソと、
「とりあえず第一段階はクリアだな」
「そうね」
小さく頷《うなず》き目を見交わす。
だが、竜児と逢坂の突飛《とっぴ》な行動に、クラスは妙な方向へと舵《かじ》を失いつつあった。怯える一群とは別のところから、
「えー、今日はそういう日なのか? じゃあ俺《おれ》も女子と組もーっと! 誰《だれ》か一緒にやろうぜ!」
能天気な声が響《ひび》いたのを皮切りに、
「はいはーい、あたしも男の子とやりたい!」
「そうだな、たまにはね」
「こういうのも楽しいかも!?」
きゃあきゃあ、と突然に盛り上がり、断固同性同士の結束を守る! と誓い合った奴ら以外は、軟派な様子《ようす》で男女混合を勝手に始めてしまう。
その結果、
「まーるお! じゃなくて北村《きたむら》ー、あたしとやろうよ!」
「む? ああ、構わないぞ。高須に裏切られたところだしな」
ひい、と呻《うめ》き、逢坂は竜児の背中を一発どついた。
「ちょっ、ちょっ、なんでよっ、北村くんが変な女とっ!」
変な女呼ばわりされたのは、クラスでも目立つグループに属する木原《きはら》麻耶《まや》ちゃん・弾《はじ》けるボディの十七歳。長い睫毛《まつげ》にはマスカラを塗り、唇には薄《うす》く透けるピンクのリップ、校則違反にならない程度の薄いメイクがかわいらしい。……と、竜児はひそかに評している。
「変な女ってことはねえだろ、あれは木原さんだ。一応クラスメートなんだからそういうこと言うな。しかしちょっと予想とは違うことに……んなっ!?」
今度は竜児が叫ぶ番だった。
「櫛枝《くしえだ》、俺と一緒にやんねえ!?」
軽薄《けいはく》に声をかけたのは、元A組で竜児とも仲のいい能登《のと》久光《ひさみつ》くん・フレッシュたわわな十七歳。おしゃれのつもりの黒ぶちメガネがまったくかわいらしくない。なんだあの野郎、と目をむく竜児《りゅうじ》の前で、
「おっけー! やろやろ!」
実乃梨《みのり》はピョンと跳ねて能登《のと》の傍らにくっつく。
「なっ、そっ、えぇ!? 櫛枝《くしえだ》さん、あんな変な男とやろやろ!? や、やるのか!?」
「……あんたの友達でしょ、アレ。ったく、これだから駄犬だっていうのよ。こんなことも予想できなかったわけ?」
「おまえだって反対しなかっただろ!」
お互いに醜《みにく》く責任をなすりつけ合ったところで、教師のホイッスルが体育館《たいいくかん》に響《ひび》き渡った。号令に従って整列《せいれつ》し直し、まずはラジオ体操《たいそう》から。
忌々《いまいま》しげに竜児の前へ出、逢坂《あいさか》はお下げを揺らして身体《からだ》を動かし始める。と、距離《きょり》を取り間違えて接近し過ぎた男子生徒を視線《しせん》と舌打ちで威嚇《いかく》。哀れな被害者は必死に謝《あやま》りつつ、逢坂に広々とした場所を譲《ゆず》る。
誰彼《だれかれ》構わず(ただし実乃梨を除く)気に食わなければ噛《か》み付くから、だから名前をモジって手乗りタイガーって呼ばれるようになったんだぜ――新しい友人が教えてくれた、逢坂の名づけ秘話を思い出した。確《たし》かにこれでは、虎《とら》呼ばわりされでも仕方ない。北村《きたむら》が見たらどう思うかとか、気にする乙女心《おとめごころ》は持ち合わせていないのだろうか。
だが、すぐ目の前でラジオ体操をしている逢坂は、背も低いし痩《や》せているし、とてもそんな獰猛《どうもう》なあだ名をつけられている女のようには見えなかった。彼女のことをなにも知らなければ、か弱い美少女だとしか思わないはずだ。実際、入学して最初の頃《ころ》は、新入生でナンバーワンの美少女としてひっきりなしに告白され続けていたというし、それは今も十分に納得できる。
他《ほか》の女子と比べても、その体格は一回り小さい。皆が普通に穿《は》いているジャージだって逢坂だけは引きずってしまうから、裾《すそ》を少し折り返している。並んだ尻《しり》も子供のように小さいし、骨格自体がひどく華奢《きゃしゃ》だ。
正直に言えば、散々な目に遭わされた今でさえ、竜児は逢坂を「かわいい」と思ってしまう。見た目限定の話ではあるが、不意に目線が会うたびに高鳴る心臓《しんぞう》は嘘《うそ》をつかない。……睨《にら》まれて滲《にじ》む汗も嘘をついてはいないけれど。
中身が虎でなければいいのに――いや、なにがいいんだ? ……などと、詮無《せんな》いことをしみじみ思っている間に、
「グズ。なにボケっとしてるの。ああ、もしかして本当に腐っちゃったってわけ?」
「……な、なんとでも言うがいい。俺《おれ》にはそんな突然の悪口に言い返せるようなボキャブラリーはないからな」
ラジオ体操は終わっていたらしい。
逢坂はつい、と冷たくそっぽを向き、竜児の正面に背を向けて長座した。次は柔軟体操だ。
「……なにが楽しくてあんたと柔軟|体操《たいそう》しなきゃいけないの。よくよく考えたら、ボールを使うのなんて最後の最後じゃない」
ブツブツ竜児《りゅうじ》の作戦に不満を垂れつつ、細い指がにゅっと伸びて軽々と運動|靴《ぐつ》のつま先を掴《つか》む。その背を押すためにはTシャツ越しに身体《からだ》に触れなければならない。躊躇《ちゅうちょ》したのは一瞬《いっしゅん》、しかし努めて冷静に、
「お、柔らかいな。……とか、こういう会話を北村《きたむら》とできたらよかったな」
「本当にそうよ」
そんな空《うつ》ろな会話をしてはみたものの。ものすごく、どぎまぎしていた。逢坂《あいさか》の見た目のことをつらつら考えていたせいだろう、妙に目の前の彼女の身体が意識《いしき》されて仕方がないのだ。
肩甲骨《けんこうこつ》の浮き出た逢坂の背中は、身体を動かしているせいか少し熱《あつ》い。しかもほんのかすかにだが、下に着込んだタンクトップ越しにブラジャーの線《せん》が浮き出している。
竜児は思う――俺《おれ》はこのクラスの男たちに、ものすごい幸福をプレゼントしてしまったかもしれん。
「ちょっ……ねえ、重いんだけど。そんなに強く押さないでよ」
だがその一方で、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》のことも気になるのだ。実乃梨もこうして逢坂のように、能登《のと》なんぞに下着の線をうっすら晒《さら》してしまっているのだろうか。
「……竜児。きついってば。ねえ! 重い! いたっ、お、も……っ」
そんなことを考えつつも、視線は逢坂のうなじから髪の分け目へ。日に当たらないせいか真っ白で、耳の後ろも頸動脈《けいどうみゃく》のあたりもシミひとつない大理石のようななめらかな肌をしている。触れば指紋がつきそうだ。眺めているだけで妙にドキドキし、息が苦しく……
「……っ、……っ、……っ」
「……ん? なぜおまえが苦しんでいるんだ?」
手を放《はな》すと同時、ガブァ! と潜水《せんすい》していた人のように思いっきり顔を上げ、
「すっ……すぐに、わかるわよ……。……さあ、交代しましょうか……」
逢坂はニター、と初めて見る表情で竜児に笑いかけて見せた。一体なにが起きたのか、竜児にはまったく理解できない。なにかいいことでもあったのだろうか。
そして数十秒後。逢坂に背中を向けて長座し、あんまり強く押すなよ、と言って竜児は後ろを振り向いた。
見た。
少し離れて助走をつけ、タン、と踏み切って高く飛び、
「ばっ、やめ……はぐぁぁっ……っ!」
全体重以上の加重で持って、己の脊椎《せきつい》をへし折らんとのし掛ってくる虎《とら》の姿を。破滅の音が、腰でした。
「くっそ……まだいてえぞ……!?」
「こっちだって痛いわよ。お互いさまでしょ」
無駄《むだ》にHPを削り合い、ようやく念願《ねんがん》のパスボールの時が来た。さきほど食らったジャンピングボディスラムのせいでいまだに下半身が砕け散りそうな雰囲気だが、なんとか体育に参加することはできている。奇跡的に。
「さっさとさっきの計画どおりやるのよ。いいわね」
逢坂《あいさか》はそう言って、五メートルほど距離《きょり》を取った。他《ほか》の生徒たちもパスの練習を始め、あちこちから小気味いいボールの音が響《ひび》いている。
もちろん、さっきの計画とは「途中で俺《おれ》がさりげなく、北村《きたむら》と組んだ奴《やつ》にちょいっとボールをぶつける」のことだ。だが、問題がひとつ。
逢坂の斜め背後、竜児《りゅうじ》から見れば斜め前方に場所を取り、北村と組んでいるのは木原《きはら》さん――女子、なのだ。
いくらちょい、とは言っても、さすがに女にわざとボールをぶつけるというのは……迷いつつ、竜児はとりあえず逢坂にチェストパス。
「……なに普通にパスしてくれちゃってるのよ……」
大きな瞳《ひとみ》を刃物のように物騒《ぶっそう》に光らせ、逢坂は竜児を睨《にら》みつけた。
「……タイミングってもんがあるだろ。ヘイ、パスパス」
「……」
不機嫌《ふきげん》丸出しの表情で、鋭《するど》いパスが返ってくる。そして竜児がボールを手にすると、逢坂は顎《あご》をくいくいと動かして、
やれ
と指令を送ってくるのだ。
「……まあ、まあ……まあ……」
適当にごまかしつつもう一度パス。そいつを受け取り、逢坂は口をへの字に歪《ゆが》める。
「ちょっと。さっさとやれっつってんで……」
そしておもむろにバスケ経験者《けいけんしゃ》のような安定感でバムバムバムバム! と何度かボールをバウンドさせ、
「しょ!」
「うお!」
弾丸のようなパスを顔面|狙《ねら》いで放ってきた。
「お、おまえなあ……」
危ういところでギリギリキャッチ、竜児の片頬《かたほお》が凶悪に引きつる。ちなみに怒っているわけではない。いや、怒っているのも多少あるが、それよりは恐怖が勝っている。
「へい竜児、へいパスパース」
一方の逢坂《あいさか》は平気なツラだ。小憎らしいほど華麗《かれい》なサイドステップを披露《ひろう》しながら運動|靴《ぐつ》をきゅっきゅきゅっきゅ鳴らしている。もちろん本当にパスを受け取る気なんかさらさらないのだろう、両手はぶらぶらと遊ばせて。いっそ本気の男パスをくれてやろうかい、と竜児《りゅうじ》の両手に力がこもるが、
「……あ」
不意に余所見《よそみ》をした逢坂にコケかけて踏みとどまる。
「どこ見てんだよ!?」
そっぽを向いた逢坂の視線《しせん》の先で、「も〜北村《きたむら》ってば、どこに投げてるのよ!」「すまんすまん!」転がり行くボールを追って、木原《きはら》麻耶《まや》が走り出していた。そのボールはよりにもよって、逢坂の足にぶつかった。
「……」
憮然《ぶぜん》。
としか表現のしようがない表情をして、逢坂はそれを手に取る。
「わ、逢坂さん! ごっめえん、怒ってる!? マジ勘弁、わざとじゃないって!」
同性同士の気安さか、男子ほどにはビビる様子《ようす》も見せずに彼女はにこやかに笑って「こっちに投げて」と手を振った。だが靴の紐《ひも》が解けたのに気がつき、それを結び直すために慌ててその場にしゃがみこんでしまう。
かわりに逢坂の名を呼んだのは、
「おーい逢坂! 悪いな、こっちにパスくれ!」
メガネを光らせた優等生《ゆうとうせい》、北村|祐作《ゆうさく》だった。さすが北村、というべきか、その態度は他《ほか》の女子に対するそれとまったく違わぬいわゆる「素」だ。
ギシ、と油の切れてしまったモーターのように、唐突に逢坂の動きが止まる。その表情は竜児からは見えないが、ひねった背中がかたーく板のように強張《こわば》っているのはよーくわかる。
ぎぎぎ……きしきしきし、と音が聞こえそうな危うい動きで、逢坂は数歩歩く。右手と右足、左手と左足が一緒に出ている。そして適当な位置まで接近すると、「いくよー」もなく、「投げるよー」でもなく、無言のままでペイ! とボールを投げた。いや、投げ捨てた。それはそれは、目を覆《おお》いたくなるようなぶっきらぼうさで。
適当に放たれたかに見えたボールは何度かバウンドし、ちゃんとまっすぐ転がってゆく。そして、
「おし、サンキュ!」
ぴったり北村の手元へ。彼は少々時代がかった身振りで、チャキ☆と二本指を額《ひたい》に押し当てて見せた。ちなみにTシャツの裾《すそ》は超びっちりとジャージの中に入っていた。ジャージの裾のループ部は足に超しっかりかけられていた。
逢坂は本当にあれが好きなのだろうか――眺めていた竜児の中に根源的な疑問が湧《わ》き上がるが、
「あ、逢坂《あいさか》……?」
「……」
あれが本当に好きらしい逢坂は、そのまま生命活動を停止してしまっている……ように見えた。竜児《りゅうじ》の呼びかけにも答えず、他《ほか》の組のパス練習をさりげなく邪魔《じゃま》する位置に佇《たたず》んだまま、ぴくりとも動こうとはしないのだ。
何度か呼びかけ、諦《あきら》めて、竜児はそっと逢坂に近寄る。刺激《しげき》しないよう、怒らせないよう、
「……逢坂よ」
「……」
Tシャツの袖《そで》をそっと摘《つま》み、ちょちょいと引っ張りながら歩いてみた。意外なほど素直に逢坂はついてきて、そのまま定位置まで牽引《けんいん》に成功。黙《だま》り込んだ顔を覗《のぞ》き込み、
「おぅ……!」
竜児は思わずのけぞった。逢坂|大河《たいが》は、ニヤついていた。決してわかりやすくはないが、接近すればわかる程度に。
満腹した猫みたいに線《せん》になって細められた目。ぷくぷくと空気を噛《か》んでふくらんだ煩《ほお》。△――こんな形に唇をすぼめて、首筋まで桃色《ももいろ》。もっと赤い耳たぶ。よくよく耳を澄《す》ませてみると、声には出さずに腹筋と吐息だけで、
「へ・へ・へ・へ・へ」
……笑っている。
「な、なあちょっと……逢坂、おまえどうしちゃったんだ?」
「へ……、……なによ。あんたこそなにぼさっとしてんのよ。あんたも喜びなさいよ犬なら犬らしく」
「……喜び? なさい?」
そんな意外な言葉を開いて、今度は竜児が静止する時の中の住人になる番だった。いったいなにを喜べというの……。だが逢坂は怒りながらも、やっぱり意味不明に上機嫌《じょうきげん》。両手に一本ずつ自分のおさげを持ち、そいつをブンブン振り回している。小さく飛んで、……踊っている?
しかしどうして? なぜなんだ? 今なら訊《き》ける、そんな気がする、竜児はおさげに腕をビシビシ鞭打《むちう》たれながらもぐっと眉間《みけん》にしわを寄せ、
「……なあ。なあなあ、いったい俺はなにを喜べばいいんだ?」
ごくシンプルに訊いてみた。とたんに逢坂ははぁっ!? と顔を上げ、
「あんたいまさらなにを言ってるのよ、私たちが今までなにを目標に邁進《まいしん》してたのかもう忘れたって言うの? あーあどこまで馬鹿《ばか》なんだろう、どんな脳みその容量してるわけ? はっ、まったく冗談《じょうだん》じゃないわよ付き合い切れない。でもまあ今の私はご機嫌だから解説してあげてもいいけど、聞く? 聞くわね? ……き、北村《きたむら》くんと、パス練習しちゃった! へへ!」
最終的には「へ・へ・へ・へ・へ」に戻っていった。しばし考え、やがて竜児《りゅうじ》は、
「……それは、なんというか……」
「なによ。あんたまさか……文句つけようっていうの犬の分際で」
「……文句っていうか……喜んでるとこ悪いけどよ、それは違うんじゃねえの? って話だよ。パス練習っていうか、一回ボール渡しただけだろう、今のは。第一おまえの目的は本当にパス練習なのかよ。練習を通じて会話したりして、親交を深めることなんじゃねえの?」
――はっ。
と、逢坂《あいさか》のニヤけたツラに、理性の鋭《するど》さが戻ってくる。そうだろう、と竜児は嵩《かさ》にかかり、さらに続けて言い募る。
「それがなんだよ、おまえがいま交わしたあれが『会話』か? おまえ無言だったじゃねえか。寝ぼけたボールをポイっと渡してサンキュー☆ってこんなんされただけだろ。こんなん」
片手にボールを抱えたまま、もう片手でちゃっ、ちゃっ、とさっき北村《きたむら》がやっていたバカポーズを繰《く》り返して見せると、
「……フンッ!」
逢坂の気合が一閃《いっせん》。小さなおててがブゥン! と唸《うな》りながら振り下ろされ、竜児の腕の中のボールを思いっきり床に叩《たた》き落としていた。
凄《すさ》まじい勢いで叩きつけられたボールは天井《てんじょう》近くまで跳ね上がり、
「ぼぐ!」
っと竜児《りゅうじ》の脳天を直撃《ちょくげき》。バウンドしたのをキャッチしたのは、
「……あんたの言ってることも一理あるわね。へーええ、たまにはいいことも言うんだ、あんた。ふん、ならば作戦を続けるまでよ」
えっらそぉぉぉ〜〜に、ふんぞり返った逢坂《あいさか》だった。膝《ひざ》から崩れ落ちた竜児を蹴《け》り上げるようにして立たせ、おらおらおらと責め立ててパス練習できる位置まで追い立てる。そして、
「へい竜児!」
「うわおっ!」
超高速のチェストパス。体勢が整《ととの》い切っておらずにキャッチというよりは胸にぶち当て、
「……ってえなあ!?」
思わず竜児は悲鳴を上げた。しかし逢坂の目は爛々《らんらん》と危なく瞬《またた》いて、狂気に近いやる気に燃《も》えている。さっきまでよりもずっと強く、その炎は燃え上がっている。どうやら一瞬《いっしゅん》の邂逅《かいこう》と喜びが、逢坂の恋心に火をつけてしまったらしかった。はた迷惑な話ではある。
「ほらやるのよ。計画どおり、今度こそ成功させるわよ」
「……や、だからさ……計画っていうか……」
「なにがだからなのよ。あんたが考えた計画でしょ! もう、時間が終わっちゃう!」
なにもかもがごもっとも、お説のとおり、ではあるのだが。
竜児はそっと北村《きたむら》のパートナーを横目で見、やっぱりできんと首を振る。いくら「ちょっとボールをぶつけるだけ」とはいっても、相手が女子ではどうしてもできない。いっそこのまま練習の時間が終わってしまえばいいのに――と。
そうか。
竜児ははっ、と目を見開く。そうだ、このままちんたらやって、練習時間が終わってしまえばいいのだ。当然逢坂は烈火の如《ごと》く怒るだろうが、仕方ない、わざとじゃない、その二言で逃げ切ってみせる。
「このグズ、なにをのんびりと……あぁっ、もう……こんな時だって言うのに鼻がなんか……むずむず……」
好機《こうき》。乱暴《らんぼう》に鼻をこする逢坂に、竜児はマシンガンのごとくおしゃべりトークをぶっ放す。
「なんだなんだしけたツラだな? そういえば、おまえ昨日《きのう》もくしゃみ連発してたよなあ。それ、鼻炎じゃないか? さもなくば風邪《かぜ》か? アレルギーか? ハウスダストのせいで鼻粘膜がやられたんじゃねえか? 最後に掃除したのいつだよ? どうせおまえのことだから掃除なんかろくにしてないんだろうな〜あんないいラグなのにもったいねえよ。そうそうあのラグ、どこで買ったんだ? あれいいよな〜日本製じゃねえんだろ? あこがれるな〜ああいうの」
「ああん!? うっるさいわね、なにぐだぐだ言ってるのよ! 知らないわよそんな……う……鼻が……うー……、ああっ、もー! そんなことどうでもいいから、とっととやれってば……うう〜!」
苛立《いらだ》つ逢坂《あいさか》は鼻をうごめかしてキレる寸前、
「ほらこーいっ! へいへいへいへい! ぱぁぁぁ――――――――すっ!」
低く唸《うな》って両手を女郎《じょろう》蜘妹《ぐも》のようにぐわぐわぐわっと広げて見せた。本当にこっちに投げたりしたら許さねえ、そんな目をして。
だがまあなんだ、一回ぐらいの時間つぶしパスはいいだろう。竜児《りゅうじ》は甘い計算をして、パスをもう一往復させる気になる。逢坂はまだ鼻がむずがゆいのか、顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》めている。
「……う、うぅ……ふぇ……っ」
「オッケーィ、いくぞ逢坂!」
竜児が強めのパスを放つ。
逢坂が不意にのけぞる。
それは、ほぼ同時に――
「っぶしゅん!」
「あぁぁっ!」
――起こってしまった。
体育館《たいいくかん》に響《ひび》き渡ったのは、くしゃみの音と、竜児の悲鳴……わざとじゃない。誓ってわざとじゃないのだ。
ただ、不幸なことに、くしゃみをした瞬間《しゅんかん》の逢坂の顔面にチェストパスがド真ん中、綺麗《きれい》にヒットしてしまった。逢坂はそのまま真後ろにぶっ倒れ、ボールだけが空《むな》しくテンテンコロコロと転がって行く。あまりのことに数秒|呆然《ぼうぜん》と立ち尽くし、竜児はようやく我に返った。
「す――すまん! 大丈夫か!? おぅ!」
慌てて駆け寄り、助け起こし、しかし震《ふる》える。大変だ、は、鼻血を出して失神している……なぜか脳裏に浮かぶのは、今朝《けさ》のインコちゃんと泰子《やすこ》の姿。奴《やつ》らは揃《そろ》って奇妙な姿でぶっ倒れていた。そして今、逢坂がこんなことに。まさかあれらは、こんな事件を暗示していたというのだろうか……自分は今、なんて意味のないことを考えているのだろうか。
「どうしたんだ高須《たかす》! 誰《だれ》が怪我《けが》した!? 逢坂か!?」
教師と一緒にクラス委員である北村《きたむら》が走り寄って来る。一瞬、このまま北村に逢坂の介抱を任せてしまおうかと思い、抱き起こした逢坂を見下ろし、
「……無理!」
ツラに問題あり、だめだこれはお見せできない! 罪悪感を力に変えて、竜児はそのまま逢坂を担ぎ上げ、
「たっ、大変なことをしてしまったっ! 責任を取って、保健室に運んでくる!」
大騒《おおさわ》ぎしながらその顔面を自分の身体《からだ》に押し当てて隠し、保健室へと猛ダッシュ。後には「手乗りタイガーが素人《しろうと》の高須《たかす》に仕留められた!」「目が離《はな》せねえ新展開だ!」と興奮《こうふん》する男どものざわめきだけが残される。
図らずも、アウトラインだけは当初の計画に沿っていた――アウトライン以外は何一つ、計画どおりにはいかなかったのだが。
高須|竜児《りゅうじ》が本気になったのは、つまりこの一件が大きく影響《えいきょう》していたのだった。
わざとではない、とはいえ、そして相手が手乗りタイガーとはいえ、鼻血を出させて失神までさせてしまった。仕返しももちろん恐ろしいが、それよりは良心の呵責《かしゃく》が竜児を責め立てる。
だから逢坂《あいさか》が無事教室に復帰した昼休みには、
「なあ逢坂! 突然だが俺《おれ》たちと一緒に弁当を食わないか? 体育の時のこともゆっくり謝《あやま》りたいし、構わないだろ、北村《きたむら》も櫛枝《くしえだ》も」
などと、お昼を一緒に食べる作戦を展開させるべく斥候《せっこう》として働いた。いつも実乃梨《みのり》と一緒に食べている逢坂を、北村と一緒に食べている竜児がさりげなく誘えば、逢坂は北村と同席できて幸せ。竜児も実乃梨とご一緒できて幸せ。そんな隙《すき》のない計画だった。
何も知らない北村は、すこしの迷いも見せずにあっさりと片手を上げて答える。
「おお、もちろん構わんとも。結構|新鮮《しんせん》なメンツだな。じゃあ机をくっつけて輪《わ》になるか。いいよな? 櫛枝アンド逢坂」
「いいねえいいねえ、ご一緒しましょ! ほら大河《たいが》、おいでよ。高須くんが誘ってくれてるよ? 体育のときのこと謝りたいって。よーよー隅に置けないねえ」
実乃梨に腕を引かれ、逢坂が竜児の前に引っ張り出されてきた。竜児お手製の弁当袋を胸に抱えて、逢坂はなぜか無言。妙に強張《こわば》ったその頬《ほお》に、「緊張《きんちょう》」の二文字がくっきり浮き出ているのを竜児は見た。大丈夫かこいつ、と不安が胸をよぎるが、そんな二人をよそに、
「机は四個もいらないか。ひとつの机を二人で分け合えばいいよな」
ガタガタと席を移動しながら、北村が大胆発言。そうだね、と実乃梨は答え、
「じゃあ私こことっぴー」
ストン、と椅子《いす》のひとつに腰を落とす。ハッ、と竜児がそちらに眼を向けるのと、北村が「じゃあ俺はここに」ともうひとつの机に陣取ったのは同時だった。
実乃梨の隣《となり》。
北村の隣。
無論《むろん》、竜児が選ぶべき選択肢はひとつしかない。当然ながら実乃梨の隣だ。ひとつの机を一緒に分け合う、ぴったり寄り添うあの場所だ。だが実乃梨は自分の傍らをポンと叩《たた》き、口を開き、今にも言おうとしているのだ――大河、ここ、ここ、と。
させるか、と竜児の両目が鋭《するど》く煌《きらめ》く。それでも自分から実乃梨の隣に飛び込む勇気まではないから、
「おーっと足が滑ったあ!」
コケた振りで逢坂《あいさか》の背中を思い切り突き飛ばした。
「っ!」
逢坂はしかし、竜児《りゅうじ》の意図を正しく理解したらしい。突き飛ばされた勢いのままに、北村《きたむら》の隣《となり》の席へ収まろうと小柄な身体《からだ》をピーンと伸ばす。尻《しり》でうまいことあの席に着陸しようと、絶妙にバランスを取って軌道修正を試みる。そうだ、いいぞ、と竜児は拳《こぶし》を握るが、どうにも突き飛ばす勢いが強すぎたらしい。逢坂は健闘《けんとう》むなしく座席からズレて、床にコケてしまい――
「まだまだぁっ!」
――そうになるが、コケさせてなるものか。必死の形相《ぎょうそう》で竜児は逢坂の手を掴《つか》む。そのまま足を踏ん張り、まるで競技《きょうぎ》ダンスのペアのように逢坂の身体をブン回し、ターンさせ、見事に北村の隣の席にその身体を押し込んだ。勢いあまって逢坂は椅子《いす》ごと転がりそうになるが
「ふんぬ!」
くわっ、と両足を大胆に開き、机を両腕でガッシと掴み、膂力《りょりょく》でなんとか持ちこたえる。椅子の四本足が無事に床に着地した時には、
「……はあ……っ」
ごく自然にフラフラと、竜児も腰砕けになって、実乃梨の傍らの席へへたり込んでいた。ちょっと暴《あば》れすぎたか、と我に返って顔を上げるが、
「どーした逢坂、机をそんなに揺らしたらお茶がこぼれるじゃないか。おてんばだな」
「今日《きょう》のおかずは♪今日のおかずは♪今日のおかずはなんだろ♪ ……あ、鳥のから揚げ! せーの、『とりからー』」
北村も実乃梨《みのり》も、それぞれにマイペースを貫いてご機嫌《きげん》でいるのだった。ざわめいているのはクラスの他《ほか》の奴《やつ》ら。「今、手乗りタイガーと高須《たかす》、すごくなかった?」「すごかったよね」……などと。
だが、逢坂の耳にそんな戯言《ざれごと》は届かない。なにしろものすごく、
「………………っ」
てんぱっている。弁当の蓋《ふた》を取る手もおぼつかない。硬く強張《こわば》った無表情のまま弁当箱の縁《ふち》を引っかき、瞳《ひとみ》だけをギラギラと危なく光らせている。会話さえろくにできない状態の逢坂に、いきなり隣で弁当を食えというのは少々|時期《じき》尚早《しょうそう》だっただろうか。
しかも至近|距離《きょり》から北村が、
「おお、逢坂も弁当か。お母上が? それとも、自分で作るのか?」
なにも考えていないツラで、そんなアドリブ力を必要とすることを訊《き》いてくるのだ。竜児は箸《はし》を握《にぎ》り締《し》め、思わず硬い息を飲《の》む。がんばれ逢坂、ここまで来たらもう逃げられん、その会話を端緒にさりげなく親しくなるんだ――と、
「……ん? 俺《おれ》?」
いっぱいいっぱいの顔をして、逢坂《あいさか》の箸《はし》が無遠慮《ぶえんりょ》にグイと指したもの。それは竜児《りゅうじ》の顔だった。ああ、と竜児は目を遠くする。……そういえば……その弁当を作ったのは……俺《おれ》か……
「え? 高須《たかす》? 弁当を作ったのが、高須?」
……でも、それは、言わないほうがいいんじゃないのか……? いや、言うとか言わないの問題ではなく……
「わっ!」
思わず声が出ていた。悲鳴だこれは。「なんだ?」と北村《きたむら》が視線《しせん》を向けるが、実乃梨《みのり》はから揚げだけを見つめているが、竜児はその口をモグと閉じてそのまま静かに硬直する。自分のバカさに呆然《ぼうぜん》だ。そういえば逢坂の弁当を作ったのは自分ではないか。しかも中身はまったく同じではないか。そんなモノを見られたら、北村と実乃梨に一体どう思われる?
震《ふる》える手で、まだ開いていない自分の弁当の蓋《ふた》をしっかりと押さえる。どうするよ、と横目で逢坂を見てみるが、……だめだ。すっかり北村ボケして、なにも考えていない動物の顔になっている。蓋を開いて地味な弁当の中身を晒《さら》し、視線をウロウロと惑わせている。箸は竜児を指したままになっている。
「……高須? どうした、顔色がおかしいぞ?」
「おっ、おかしいか!?」
そうだ、このまま突然気分が悪くなったことにして弁当を持って逃げてしまおう――天啓にも似た言い訳が稲妻《いなずま》のように脳天に閃《ひらめ》き、立ち上がろうとしたその瞬間《しゅんかん》だった。
「ん? 客? 俺に?」
不意に北村の視線が竜児を飛び越えて遠くなり、その背後に向けられる。竜児が思わず振り向くと、逢坂の箸が指した先――竜児の頭のその向こうで、一年生らしき男子生徒が「北村|先輩《せんぱい》、櫛枝《くしえだ》先輩」と声を上げていた。
「あれって、一年のマネージャーの子じゃない?」
実乃梨も気がつき、北村を促して一緒に席を立つ。そして二人はしばらく立ち話をして、戻って来るなり、
「悪い! ちょっと用ができてしまった!」
「ごめーん、これから緊急《きんきゅう》で部活のミーティングやるんだって! お弁当もって至急部室に集合って言われちゃった! 大河《たいが》、高須くん、私たち抜けるね〜! また誘って!」
そそくさと広げたばかりの弁当を抱え、謝《あやま》りながら教室から出て行ってしまう。
唐突な展開に思考力が追いつかず、去り行く背中をぼんやりと見送り、竜児が我に返ったのは完全に二人の姿が見えなくなってから。
「って、おい! あいつら行っ――」
逢坂の方を振り向いて、
「おう!」
さらに取り乱す。逢坂《あいさか》大河《たいが》は、落ち込んでいた。弁当の上に顔を伏せるようにして、両手でその顔を覆《おお》い、ぐったりと項垂《うなだ》れているのだ。元より小さな肩をさらに狭めて、背中をみじめに丸めている。
「あ、逢坂……」
ブツブツ、と呟《つぶや》かれる言葉に気がつき、耳を澄《す》ませてみる。すると逢坂は呪文《じゅもん》でも唱えるような声色で「なんで、せっかく、運悪い、ついてない、どうして、納得できない、こんなのって」……あて先のない恨み言を連ねているのだった。がちんがちんに緊張《きんちょう》しつつも、逢坂なりにこの席に、相当期待をふくらませていたのだろう。かける言葉もない、とはこのことか。
それでも放っておくわけにはいかないから、
「……ま、また明日《あした》にでも誘ってみようぜ。とりあえず弁当、食おう」
竜児《りゅうじ》は努めて明るく声をかけてみる。が、
「……あしたぁ?」
髪をかきあげて見上げてくる逢坂の両目に、半端ない殺気が宿った。
「じゃあ、あんたは明日も私の顔面にボールをぶつけるっていうの……?」
「そんなこと、誰《だれ》も言ってねえだろうが」
言い放ち、うっ、と竜児はひるむ――こっちを睨《にら》む逢坂の両目に、うっすら涙がにじみ始めているのだ。やめろ、泣くな、とあせるが、
「だってそうじゃない、あんたは今日《きょう》、私に謝《あやま》るからって言ってみのりんと北村《きたむら》くんを誘ってくれたんじゃない、そうでもなくちゃ自然になんか誘えないじゃない、それともなに、どうするっていうの、私絶対わざとらしいのなんか嫌《いや》だからね、そんなの絶対、絶対、……っ」
「い、いーから、ほれ! 食えって!」
言い募りながら睫毛《まつげ》を濡《ぬ》らし始めた逢坂の口を、竜児はとっさに「もがっ」と塞《ふさ》いだ。……箸《はし》に刺したサトイモで。
大きめに切ったそのサトイモは、ちょうど逢坂のお口にジャストサイズ。吐き出すわけにもいかず、逢坂はもがもがとそれを噛《か》み、必死に咀嚼《そしゃく》、「……ちょっとデカすぎたか?」と竜児が不安になるだけの時間をかけて、ようやくゴクンと飲み下した。そして、
「……し、」
「し? ……みとりなら得意中の得意だぞ」
「ばか犬っ! こっちは死ぬ寸前よっ!」
パックの牛乳をちゅうちゅうと一気飲み。ズオオオオ……ッ、と吸い上げ切ってパックを置いた頃《ころ》には、涙の気配《けはい》は乾き去っていた。
ようやく息をつき、竜児も自分の弁当を開いて食べ始める。今さらながらだが、北村たちに客が来てくれてものすごく助かった。あのまま自分が席を立って逃げていたら、一人残された逢坂が一体どんなドジをやらかしていたことか。それを思えば本当にラッキーだった。
竜児《りゅうじ》は一人納得し、うんうん、と頷《うなず》きながら口をもぐもぐさせていたが、
「あ。……竜児」
機嫌《きげん》悪《わる》く黙《だま》り込んでいた逢坂《あいさか》が、唐突に顔を上げ、ぐっ、と竜児を睨《にら》み付ける。
「なんだよ」
「……お弁当、お肉が入ってない……」
「しょうがねえだろうが。冷蔵庫にいつも肉があるおうちがいいならそっちんちの子になりなさい」
そうして今度こそ二人は落ち着き、もそもそと弁当を食べ始めたのだが。
そんな二人を見る周囲の目は、静かに「なぜだ」「どうしてだ」と。唐突過ぎる取り合わせに、しかし誰《だれ》もが強面《こわもて》の本人たちには問えないままに。
奇妙な空気のまま2年C組の時は流れ――やがて迎えた一日の終わり。
いまや竜児も逢坂も、教室の空気など気にしてはおれない。体育の時間、昼休み、二度の苦い失敗を乗り越え、本日最後のチャンスだけは逃すわけにはいかなかった。わずかにでもいいからなにがしかの成果を、北村《きたむら》のハートに残したかった。
だから、
「……心の準備はできたか? 逢坂」
「……」
「あ、逢坂。息をするんだ、してもいいんだ」
「……っぷは!」
帰りのホームルーム直前。
落ち着きなくざわめく教室の隅で、逢坂の顔は真剣そのもの。その傍らの竜児も真剣だ。なにしろ罪悪感の鎖《くさり》がネビュラチェーンの如《ごと》く全身に絡みついている。
「き、緊張《きんちょう》してきた……こんなことして、迷惑がられないかしらね」
「なにをいまさら。安心しろ、女子に手作りクッキーをもらって喜ばない男はあんまりいない。しかも北村は甘党だし、人の手作りが食えんタイプでもないし、おまえを嫌っているわけでもなさそうだし」
「そ、そうかな?」
うん、と頷いてやり、逢坂の強張《こわば》った表情をほんの少しだけ解いてやることができた。その小さな手には、午後の授業の調理《ちょうり》実習で作った手作りクッキーの包みが大切に握《にぎ》り締《し》められている。
男女一緒の授業だから「女子から男子にプレゼント」という感じでもないのだが、それでもやっぱり女子の焼いた余り物を欲しがる男はいたし、彼氏にあげるんだ、と勝手に特製クッキーを作る女子もいた。
そして逢坂《あいさか》も、誰《だれ》にも見られないようにコソコソと(主に竜児《りゅうじ》の身体《からだ》を盾にして)ちょっと手の込んだ市松《いちまつ》模様のクッキーを焼いたのだ。それをさりげなく、余ったからもらってくれない? と北村《きたむら》に渡す計画だった。そして好感度を上げよう、という。だがアクシデント発生のこっそり焼いた十枚のうち、六枚は真っ黒に焦げていた……オーブンの目盛りをどこかの手乗りドジが見間違えたせいだ。ちなみにそれは「証拠隠滅!」と竜児の口に突っ込まれた。
無事に残ったのは、四枚。逢坂|大河《たいが》は、その四枚に賭《か》けていた。緊張《きんちょう》した表情のまま、クッキーの包みを抱えてぐっと拳《こぶし》を握っている。三十センチ上方からそんな様子《ようす》を見下ろして、その気張りがまたなにかを引き起こしそうだ、と竜児は悪い予感に戦《おのの》かずにはいられない。
「な、なあ、いいか。あんまり力むな。あくまでさりげなく、だぞ。いきなり重々しくやるな」
「わかった。軽々しくね。うん、軽々しく……軽率に……」
お手軽に……尻軽《しりがる》に……と続けて呟《つぶや》く逢坂の小柄な身体が、
「はーい、席につきなさーい。ホームルーム始めますよー」
担任の声にビクッと跳ねた。三々五々自席に向かう生徒に混じって、百四十五センチの生き物はよろよろと机の間を歩いていく。
帰りの挨拶《あいさつ》を終えたらすぐに北村に話しかけろ、と逢坂には指令を出してあった。なにしろ多忙な北村は、生徒会室に顔を出して仕事を済ませてから部活、というハードワークな放課後《ほうかご》をほぼ毎日送っている。ぼやぼやしていたら、すぐに教室から出て行ってしまう。
だからこのホームルームが終わったら、速攻で声をかける手はず、だが。
「……おいおい、おいおいおいおい……」
チラ、と逢坂の様子を横目で見てみて、竜児は思わず息を飲む。
緊張しているのはわかっていた。が、予想の範疇《はんちゅう》を超えている。逢坂は机にしがみついて腹でも痛いかのように背を丸め、ガタガタと獰猛《どうもう》に足を揺すり、かわいいを通り越して顔色は蒼白《そうはく》、般若《はんにゃ》のような顔つきになっていた。
「あら……なんか今日《きょう》は教室が甘い匂《にお》いに包まれてるのねえ。この匂いは砂糖《さとう》に小麦粉、バター……ああそうか、調理《ちょうり》実習はクッキーだったよね。せんせいも、クッキーとか作るの結構好きなの。うふふっ、懐《なつ》かしいな……イギリスに留学してた時にはホストファミリーと一緒になって……」
「……チッ」
しょうもない話を繰《く》り広げようとしたちょっと頭がお花畑の担任(|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり・独身・29)に、逢坂は緊張と苛立《いらだ》ち紛れ、鋭《するど》い舌打ちをかましたのだ。ビク、と震《ふる》えた内股《うちまた》の担任(恋ヶ窪ゆり・独身・あと二ヶ月で三十路《みそじ》)は、おそるおそる逢坂を見下ろし、
「……せ、せんせいに舌打ちするのは、やめましょうね?」
教育的|指導《しどう》。逢坂の全方位に座っている連中が震《ふる》え上がっている中、なかなかの根性と言えたが、
「……チッ」
「……あ、あのね? 女の子がそういうことをするのは、ね?」
「……チッ」
「……ああっ、生徒の心に言葉が届かない……っ」
結局は顔を両手で覆《おお》い、泣き言を喚《わめ》く羽目になるのだ。それなら最初からなにもしなければいいのに己の力量を超えたことを引けずにやってしまうあたり、独身の原因があるのかもしれない。
「先生!」
ガタ、と椅子《いす》を鳴らして立ち上がったのは、北村《きたむら》だった。
「少々話も長引きそうですし、この件は一旦《いったん》クラス委員の俺《おれ》が預からせていただく、ということでどうでしょうか!? 放課後《ほうかご》に用事のある者もいますし、また明日《あした》の朝にでもゆっくり解決するという方向でご検討下さい!」
要するに、俺が忙しいので早くホームルームを終わらせてくれませんか、と。だが独身(|恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆり・担任・七年間彼氏なし)はクスン? と首を傾け、
「……せんせい、北村君の言っていることの意味がわかりません……?」
ぜんぜん通じていないのだった。思わず竜児《りゅうじ》もコケたくなる。だがそこはまるおこと北村だ、ぐっと両足を踏ん張ってこらえ、
「……明日は美術があるので各自忘れ物をしないように! 起立! 礼! さよーなら!」
さよーならー、と全員が唱和。かえろかえろ、とホームルームを勝手に終わらせてしまう。独身(略)もそれでいいのか、まだ小さくしゃくり上げながらも、「この仕事向いてないかも」と素直に教室を出て行ってしまう。
「あ、逢坂《あいさか》――」
竜児は立ち上がり、逢坂の姿を目で追った。逢坂は素早《すばや》く立ち上がろうとし、
「あわっ!」
自分の鞄《かばん》を机の上から落としてしまってまごついている。なんてドジな奴《やつ》なんだ、北村は、と目を向けてみれば、
「ああっもうこんな時間か……また会長に怒られてしまうな」
いそいそと自分の鞄を持ち、早くも教室のドアを目指して走り始めている。まずい、生徒会室に入る前に捕まえないと、その後は北村が一人になる隙《すき》はない。竜児は慌てて逢坂に駆け寄り、
「鞄なんかいいから早く呼び止めろ!」
「あ、え、……きっ。き――き、……」
なにをやってるんだ、と頭を掻《か》く。逢坂は立ち上がり、北村の背に手を伸ばしているくせにその名前を呼ぶことができないのだ。きたむらくん、その六文字を忘れる魔法《まほう》にかかったみたいにただ泣きそうに顔を歪《ゆが》めて、口を開閉しているのだ。
「ったく、行っちゃったじゃねえか! 走るぞ!」
「あ――うん!」
逢坂《あいさか》の小さな背中を強く叩《たた》いて突き飛ばすように走らせ、竜児《りゅうじ》も大股《おおまた》で一緒に走り出す。こんなドジな奴《やつ》、一人にしたらどんなマヌケをやらかすか知れたものではない。
クッキーの包みを胸に抱えた逢坂と竜児は、行ってしまった北村《きたむら》を追いかけて教室を飛び出す。廊下の向こう、曲がり角を曲がっていく目標の背中が一瞬《いっしゅん》見えた。
「あれだ! 追え!」
昇降口へ向かう他《ほか》の生徒たちの流れに逆行し、逢坂は速度を上げる。下校時間の人波を掻《か》き分けるのは困難《こんなん》にも思えたが、
「邪魔《じゃま》よどけ!」
そんなごく短い乱暴《らんぼう》な言葉だけで、逢坂の前に立ちはだかる奴らは「おわ! 手乗りタイガーだ!」「みんなよけろ! 危ないぞ!」と勝手にモーゼ状態で左右に別れていく。そして逢坂が通って行った後に割れた人波は元に戻ろうとして、
「すまん! ちょっと通してくれ!」
ごく普通の竜児の言葉に、「うわ! 高須《たかす》だ!」「二大番長が続けて通るぞ!」……再びモーゼ。高須は実は不良じゃない説は、いまだクラスの外には浸透し切っていなかったようだ。落ち込みかけて足が止まったのは一瞬、今はそんな場合ではないと、すぐに再び逢坂の後を追う。
だが一瞬の遅れの間に、すでに北村の姿は見えず、かろうじて階段を駆け上がろうとする逢坂の髪だけが視界をかすめる。北村も逢坂もとんでもなく足が速い。凡人竜児は息を切らして全力で階段を駆け上がり、二段飛ばしで追いすがる。
だがふと、なにも二人に完全に追いつかなくてもいいのではないか、と気がついた。逢坂が無事に北村を呼び止められれば、そこを確認《かくにん》できれば、それでいいはずだ。
「……は、はあ……っ」
破れそうな心臓《しんぞう》を押さえ、一旦《いったん》息をつこうと駆け上がる足を止める。そして何気なく、階段の上方を見上げると――なんて奇遇。思わず叫んじゃう。
「あわあああああ―――――っ!」
一番上の段に足を掛けようとしていた逢坂がズルっと滑り、そのままポーンと投げ出され、まっさかさまに落下してくるまさにその瞬間が竜児の網膜に飛び込んできた。
絶叫、そして火事場のくそ力が覚醒《かくせい》。
ありえないスピードで竜児は「跳んだ」。
「……っ!」
それはまさにスライディングキャッチ。踊り場に飛び込んだ竜児の腕の中に、奇跡的に逢坂の身体《からだ》がぼふんときれいに収まる。だが勢いまでは殺し切れず、竜児は小柄な身体を抱えたままで壁《かべ》に背中で激突《げきとつ》。ぐえ、と漫画のような声が出て、あまりの痛みに目を見開いた。そしてその視界の中で、見覚えのある小さな包みが逢坂《あいさか》の手から飛び出して、弧を描いて宙を飛び、開きっぱなしになっていた窓から外へ落下していくのが見えた。
ここは地上三階。
落ちていったブツは、苦労して焼いた四枚きりのクッキー。
ひい、と聞こえる声を上げ、逢坂は転がったままの体勢で窓の方へ手を伸べる。だがもう遅い、とっくに地面に叩《たた》きつけられてしまっているだろう。
「……あ、」
逢坂、と言おうとして、声が出ないことに気がついた。背中を打ってしまったせいで、うまく息ができなくなっている。
「竜児《りゅうじ》!」
すぐ背後の小さな声に、しかし逢坂は気がついたのだろう。顔色を変えて竜児に取りすがり言葉を失《な》くして眉《まゆ》を寄せる。毒を食らったかのように、瞬間的《しゅんかんてき》にその表情が凍る。
だが、たいしたことはない――なんとか息を吹き返し、竜児は大丈夫だと言うように手を振って見せた。逢坂がそんな顔をするほどのことはない。
それよりもクッキーだ。北村《きたむら》だ。窓と階段を交互に指差し、
「……お、……追いかけろ。あれ、拾って……」
なんとか絞り出せた声で逢坂の身体《からだ》を押しやった。意地もあるのだ。あんなに苦労して焼いたのだから、それを手伝った自分としても、ちゃんと北村の手に渡ってほしい。
あんなに頑張った逢坂の気持ちを、ちゃんと望む相手に届けてやりたい。
しかし逢坂は指さす方向を見ようともせず、
「竜児、大丈夫!?……ああっ、もう、なんてこと……っ」
必死に竜児の首や足首を触り、骨折してはいないかどうかを確《たし》かめているのだった。乱暴者《らんぼうもの》の手乗りタイガーも、自分をかばって怪我《けが》をさせたとあってはさすがに動揺するらしい。背中が痛くて本当ならばまだしばらくこうして座っていたかったが、
「大丈夫、だから。……な、ほら。怪我なんかしてないぞ」
無理やり作った平気な顔で、竜児は立ち上がって屈伸運動をしてみせる。幸運なことに、背中の他《ほか》にはいたむところもなく、背中も動かせないところはどこにもなく、本当に無傷で済んだようだった。その様子《ようす》を見て、ようやく逢坂も息をついた。
「竜児……わ、私……」
両手を竜児の方に伸ばし、初めて見せる表情でなにかを言おうとし、
「こらーっ! 誰《だれ》だ、今そこの窓から物を落とした生徒、降りてこーい!」
ぐっ、と口をつぐむ。厳《きび》しいので有名な生活|指導《しどう》教師の声だ。こうなってしまっては、もはや北村に渡すどころの話ではない。
「……ついてねえな。仕方ない、早く行って叱《しか》られて来いよ。俺《おれ》は教室で待ってるから」
「……でも……。じゃあ、竜児《りゅうじ》を教室まで送ってから、」
「いいって、一人で歩ける。それより急げ、騒《さわ》ぎになるぞ」
行け、行け、と背中を押しやると、逢坂《あいさか》は眉《まゆ》を寄せて何度も竜児を振り返りながらもようやく階段を下りて行った。
その間にも教師の声はさらにヒートアップし、逢坂は急いだ方がよさそうだ――天下の手乗りタイガーを、指導《しどう》できる奴《やつ》がこの世にいるかどうかは知らないが。
「……はあ……。つかっちまった……」
一人になり、竜児はゆっくりと歩きながら小さく呟《つぶや》いた。
小学生の頃《ころ》に泰子《やすこ》が言っていた言葉を思い出したのだ。泰子は本人いわく「薄《うす》〜い超能力者」で、死ぬまでに三回だけ、ワープする力があるのだそうだ。ちなみに泰子は二回使ったことがあるという。一度は子供の時、交通事故に遭って二十メートル宙を飛んだが、地面に激突《げきとつ》する寸前にワープしたために無傷で済んだらしい。そして二度目は竜児を生むために家を飛び出し、腹に雑誌を仕込んだ愛《いと》しい男のところへ向かう時に。多くは語らなかったが、無事にそいつの許《もと》へたどり着けたのは確《たし》かにワープの奇跡の賜物《たまもの》だった、と。
そして最後の一回分を、「竜ちゃんにあげるね! やっちゃんはもう、自分のために使いたいことなんかないんだから」と言って、子供だった竜児に「ぱっ!」とやって、くれたのだ。なにか危ないことがあったら、絶対に力を使って無事にやっちゃんのところに帰ってきてね、と。
そして竜児はその一回を、逢坂を助けるために使ってしまった。遅刻しそうな時などに、これまでに何度か使いたいと願《ねが》ったことはあったが――取っておいて、よかった。
泰子には悪いけれど、ごくシンプルに、そう思う。
***
「本当に大丈夫?」
「本当だって。もう百回は繰《く》り返してるぞ、この会話」
「……なら、いいけど……いくら犬でも、大《おお》怪我《けが》なんかさせたら寝覚めが悪い」
そう小さく呟いて、逢坂は窓ガラスに額《ひたい》をくっつけた。木刀を持って殺しに乗り込んできた奴がよく言うよ、と言い返そうとし、しかし竜児はなんとなく口をつぐんだ。
クッキーを拾って教室に戻って来て以来、逢坂の声には力がまったく入っていない。意気消沈、という状態に陥ってしまったらしかった。
静まり返った放課後《ほうかご》の教室に残っている他《ほか》の生徒はおらず、逢坂と竜児の二人きり。そんな手乗りタイガーの横顔を、竜児の他に見る奴はいない。
「……失敗してばっかり。全然、うまくいかない……」
独り言めいたその声は、昼間の元気はどこへやら、今にもかすれて消えそうに響《ひび》く。
「作戦開始からまだ一日目だろ。うまくいかなくて当たり前だ」
「……そういう、問題? 私があんなドジばっかしなきゃ、もうすこし……。それにあんたにまで痛い目見させて、いいことなんにもないじゃない……もう、やだ……」
逢坂《あいさか》は窓ガラスに背中を向け、そのままズルズルしゃがみこむ。そして傍らに立つ竜児《りゅうじ》の足元、小さく膝《ひざ》を抱えて床に座った。
長い髪を指で手練《たぐ》り、表情を隠したいみたいに髪の中に顔を埋める。
「今までずっと十七年間、自覚なんかなかったのよ。……でも、やっとわかった。私ってドジなんだ」
「……ん、まあ……」
「はっきり言いなさいよ」
竜児のズボンの裾《すそ》を引っ張るのは、子供のような小さな手。
「あんただって……竜児だって、そう思ってるでしょ。私のことドジな奴《やつ》だって呆《あき》れてるでしょ」
見下ろすと、こちらを見上げている逢坂と目が合った。抱えた膝に頬《ほお》を押し付け、どこか痛むみたいに薄《うす》い目蓋《まぶた》を震《ふる》わせている。
いつもの攻撃色《こうげきしょく》はなりをひそめ、代わりにその目に溢《あふ》れているのは――おそらくは自己嫌悪の奔流《ほんりゅう》、なのだろう。
「……体育の時のは、俺《おれ》が悪かったんだぞ。作戦自体もアレだったし」
「それだけじゃ、ないもの。……私の失敗は」
疲れ果てたように目を閉じ、逢坂はめちゃくちゃだった今日《きょう》一日を思い返しているようだった。
三時間目の体育。運の悪かった昼休み。そして、今さっきの大失敗。
クッキーの包みを落としたのが逢坂だったと知ると、生活|指導《しどう》教師も思うようには「指導」できないらしく、逢坂は結構すぐに竜児の待つ教室へ戻ってきた。
大事にならなかったのは幸い、だが――
「……せっかく作ったのに……しかも……。……はぁ」
呟《つぶや》く逢坂の顎《あご》には、竜児に助けられたときに袖口《そでぐち》のボタンが当たってできた小さな擦《す》り傷《きず》。それをそっと擦《こす》りながら、返されたクッキーの袋をポケットから取り出す。その中には、外には飛び出さずにすんだわずかなクッキーの欠片《かけら》だけが残されていた。
「ラブレターを書けば入れる鞄《かばん》を間違えるし、殴り込みかければおなかすいて倒れるし、バスケすれば顔面にボール食らうし、お昼に誘おうとすれば相手には用事があるし、クッキーを焼けば焦がすし、転ぶし、落ちるし、落とすし、それに……もうやになるな……ほんと……」
「……まだあるだろ。ラブレターの中身の入れ忘れ」
「……そうだった」
冗談《じょうだん》のつもりで言ってやったのだが、どうやら言い方を間違えたようだった。ドツボにはまった逢坂《あいさか》は膝《ひざ》の間に頭を突っ込み、そのまま黙《だま》り込んでしまう。
「あ、逢坂……」
返事はない。
妙な座り方のまま小さく丸まって、まるで殻に引きこもることを決めたカタツムリのようだった。そのままぴくりとも動かない。スカートに包まれた膝を掴《つか》み、細い指はかすかに震《ふる》えている。華奢《きゃしゃ》な肩が呼吸に揺れるたび、ゆるやかにかかる髪が一筋、零《こぼ》れ落ちる。
とんでもなく場違いにも、竜児《りゅうじ》は思っていた。
ずるいよな、女は、と。
普段《ふだん》どれだけ傍若《ぼうじゃく》無人《ぶじん》に振舞《ふるま》って人に迷惑をかけまくっていても、こんな様子《ようす》を見せられたら、男の自分は胸が痛くてたまらん気持ちになるのだから。
こんなにも、たまらんのだから。
とてもとても、耐《た》え難《がた》いのだから。
頭を乱暴《らんぼう》に掻《か》き、目つきを鋭《するど》く尖《とが》らせて、竜児は一旦《いったん》自分の席へ戻る。それから逢坂の傍らに同じように座り込み、
「……逢坂、交換しようぜ」
「……?」
肩をつついて顔を上げさせた。目元のかすかな水気は気づかない振りで、その膝にホイルの男らしい包みを放ってやる。そして代わりに、逢坂が抱えていたクッキーの袋を摘《つま》み取る。
破れかけた袋を開くと、クッキーは本当に欠片《かけら》だけになってしまっていたが、それでも一応摘めるぐらいの分は残っていた。
「え、ちょ、……竜児。それ、一度落ちた奴《やつ》よ? そ、それに、あの――」
「焦げた奴しかもらってねえから、どんな出来か気になってたんだよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、目を丸くしている逢坂に構わず指先で摘んで口に放り込む。そして、
「……」
無言。
焦げた奴を口に突っ込まれた時は、熱《あつ》いのと苦いのとむせたのと無理やりだったのとで、「ぶほあ!」とほとんど吐き出してしまっていたのだ。だから初めて味わった。が。……多分《たぶん》、砂糖《さとう》と塩を、間違っている……。
「それ……お、おいしい?」
「――ああ! うまい!」
不安げに揺れていた逢坂の目がまん丸になる。
「うん、ちゃんとできてるじゃねえかよ。あー、残念だったな、渡せなくて。また次の機会《きかい》にがんばろうぜ」
一世一代のポーカーフェイスで無事に乗り切った。そして渡した包みを食えよ、と促す。おずおずとそれを開き、逢坂《あいさか》はもう一度|驚《おどろ》き直したように、竜児《りゅうじ》の方を振り返った。
「わ。……すっごい、完璧《かんぺき》なクッキーだ。いいの? 私が食べても」
「おふくろに持って帰ろうかと思ってた奴《やつ》だから、別にいいよ。全部食っちゃえ」
薄《うす》く焼いたクッキーは、表面にざらめをかけたバター多めの特別製だ。逢坂はしばしその完璧な焼き目に見入ってから、
「……う、ま! おいしい!」
口に入れて目を見開いた。
「……おまえの口から初めてうまいという言葉を聞いたぞ」
「だってこれすごい、お店で売ってるのより全然おいしいじゃない!」
「俺《おれ》の経験上《けいけんじょう》、焼き菓子はたいてい店で買うより自分で作った方がおいしくできる。好みもあるけど、できたての柔らかい奴が好きなら特にそう言えるな」
「そうなんだ。……へえ!……私、これ好きだな。すごく、好き」
夢中になってクッキーを食べている逢坂の横顔は、まるで普通の女の子のようだった。おいしいおいしい、と頬《ほお》をふくらませ、唇のはたのざらめを舌で舐《な》め取る。紅茶があれば完璧なのに、と小さくひとりごちたりもして。
――一体、誰《だれ》が知っているだろう。
自分の他《ほか》には誰が、こんな逢坂《あいさか》大河《たいが》を知っているだろう。
本当に不思議《ふしぎ》な気持ちだった。つい昨日《きのう》までは、自分も他のみんなと同じように「手乗りタイガー」を恐れていた。噛《か》み付かれるのはもちろんのこと、彼女の世界と関《かか》わり合うのを恐れていた。逢坂大河がこんな奴《やつ》だなんて、まったく知りもしないままでいた。
こんな奴、というのはつまり、気性が荒くて、極道の娘か空手家の娘で、他人を犬呼ばわりするような非道な奴で、好きな男の前ではそいつの名前も呼ぶこともできなくて、信じがたいほどにドジで、そして自分のドジさを恥じてどん底まで落ち込んで、結構すぐ泣いて――いつも腹が減っていて、おいしいものや甘いものに目がなくて。
ものすごく、変な女だ。はた迷惑で、困った奴だ。
だけど竜児《りゅうじ》はその変さを、それほど嫌ってはいないのだ。そんなことに唐突に気がついてしまう。『こんな奴』だと知れてよかった。そんなふうにさえ思っている。今この時間を、妙に居心地《いごこち》よく感じている。
そうだ。迷惑だし困惑するし参ってはいるけれど、傷ついていれば慰《なぐさ》めたいと思ってしまう程度には、逢坂のことを――
「……ね、竜児。私、わかった」
――飛び上がった。
気がつけば、逢坂大河は至近|距離《きょり》から竜児の顔を覗《のぞ》き込んでいた。小さいくせに彫りの深い整《ととの》った容貌《ようぼう》。瞬《まばた》きするたびに星が散るような、大きな透ける色の瞳《ひとみ》。それはとても、綺麗《きれい》、だった。身体《からだ》はすごく小さいけれど、決して童顔というわけではないのだ。そのことに不意に気付いてしまい、背筋をゾクゾクとなにかが駆け抜ける。
ゴホ、とひとつ咳払《せきばら》いをし、
「……な、なにが!?」
妙にどぎまぎと返事を返す。すると、
「あんたがもっとうまくやらないから、失敗するのよ。ほんっとにダメな犬だ! この駄犬!」
「……」
はっ! と外人のように肩をすくめながら、逢坂は軽蔑《けいべつ》の一瞥《いちべつ》を下さった。なんというか――元気を取り戻したようで、まあ、ナニだ。
本当に腹立たしいが。なんて奴なんだ、とは思うが。それでも今、逢坂はかすかに微笑《ほはえ》んでいるから……今だけは黙《だま》って許してやることにする。
特別に。
***
少し離《はな》れて、それでも方向は一緒の帰り道。
校門の手前で先を歩く逢坂の足が止まった。そこからは植え込みの隙間《すきま》にグラウンドが垣間《かいま》見《み》えるのだ。
「どうした?」
「……ソフトボール部。みのりんがいる」
逢坂が指差す先には、夕暮れの中で生き生きとランニングをしている実乃梨《みのり》がいた。竜児《りゅうじ》の目には、いきなりそこにだけスポットライトが当たったかのように見えてしまう。
だが、わかっていた。逢坂の眼差《まなざ》しは人差し指が指す場所ではなく、その向こうでストレッチをしている男子の輪《わ》の中、カラーリングとは無縁《むえん》の真っ黒い髪をした北村《きたむら》の姿に注がれている。
立ち止まり、逢坂はそのまま静かに佇《たたず》んでいた。その横顔の輪郭《りんかく》を、暮れかけた橙《だいだい》の夕日が黄金に染めていく。少し冷たい風が吹いても、逢坂の背中は微動だにしない。
どうやら彼女は本当の本当に、北村|祐作《ゆうさく》のことが好きらしい。
「――なあ。そういや、聞いてなかったけど……なんで、北村なんだ?」
不意の問いかけに振り返り、しかし返事はなかった。ただ逢坂は瞬《まばた》きをし、色のわからない透ける瞳《ひとみ》で竜児の顔を見つめ返す。そして、
「私先に行くから、あんたはもう少しここにいたら?」
はぐらかされた、ようだった。だがその件は、もうそれでいい。尋ねてしまった自分の意図も竜児は測りかねていたから。
「……先に行くって、なんでだよ」
「あんたはみのりんのこと、いやらしい目でジロジロともっと眺めていきたいでしょう。いずれ結ばれるなんておこがましいことは考えない方がいいけど、眺めるぐらいはしていけば。……あの子、綺麗《きれい》だもの。あんたがみのりんを選んだ気持ち、私にはすごくよくわかるもの。……私もそこまで非道ではないのよ。今夜八時に夕食作りに来て。それじゃあね」
じゃあね、って。いや、そうではなくて夕食って……いや、じゃあね、って。
逢坂はなにを尋ねる暇も与えずに、そのまま背中を向けて一人で歩き出す。そしてすぐに、
「……うあ!」
ドジパワー全開。ちょっとした段差に突っかかって、地面にすっ転がる。持っていた鞄《かばん》も全部投げ出し、子供のように無防備に。
「……あーあ。もうなにやってんだよ」
竜児はため息とともに走り寄っていた。うるさいなあとかほっといてまとか喚《わめ》く逢坂を立ち上がらせ、鞄《かばん》を小さな手に持たせ、スカートについた汚れを払ってやる。そして、気がついた。逢坂《あいさか》の無防備な膝小僧《ひざこぞう》には、今できたのではない傷跡が無数に残っている。……きっといつも、何度も何度も、誰《だれ》も見ていないところでこいつは一人で転んでいるのだ。
そんな奴《やつ》を、どうやって放っておけるというのだろう――もう一度ため息。そして、顔を上げた。逢坂の顔を、まっすぐに見た。
「夕食って、なににするんだよ? 俺《おれ》も一緒に食っていいんだろうなあ? お袋の分も作って帰るぞ? 材料費はおまえんちの金から出すんだろうなあ? あ、おまえんちの冷蔵庫からっぽじゃねえか、あれじゃあなんにも作れねえぞ。スーパー寄っていかねえと……って、そうだ、あのキッチンと戦うためにカビキラーとキッチンハイター買わねえと!」
――仕方がない、と、思っていた。
逢坂がそうしろ、と言えば、断ることなんかできないのだ。昨日《きのう》と今日《きょう》とで十分わかった。なにしろこいつは強情で、強引で卑怯《ひきょう》で唯我《ゆいが》独尊《どくそん》で、脅迫なんか屁《へ》でもなくて、やると決めたら絶対にやる奴で、それから……とんでもなく危なっかしいところがあるから。
だから……放っておけないのだから、仕方がない。
ついでに言うなら逢坂家のアイランドキッチンも、まだまだ目の離《はな》せない汚れっぷりなのだ。
5
「ちょっと。頭よけろ、テレビ見えねえ」
竜児《りゅうじ》の視界の半分を覆《おお》う後頭部は振り向きもしないまま、
「うるさい。あんたがずれればいいでしょ」
平坦な口調《くちょう》で憎まれ口だけが返ってくる。
「はあ!? 俺んちのテレビだぞ!? そういうこと言うなら自分ち帰れよ! すぐ窓の外なんだから!」
「……」
「無、視、す、ん、な!」
喚《わめ》くように言ってやると、ようやく逢坂はチラリと横顔を見せた。長い睫毛《まつげ》越しに眼球の曲面が濡《ぬ》れたように光を宿し、
「テレビ見てるのよ。ちょっと黙《だま》れば? はあ、これだからしつけのできてない駄犬は」
冷たい視線《しせん》の一刺し。
「こっ、この……っ」
近所迷惑の四文字が、頭から掻《か》き消えるいつもの瞬間《しゅんかん》だ。竜児《りゅうじ》は卓袱台《ちゃぶだい》に身を乗り出し、テレビの真ん前を陣取っている自称ご主人に指を突きつけてやろうとした。が、
「竜ちゃあん、あんまりでっかい声出しちゃだめえ〜」
ガラリ、と襖《ふすま》を開いて現れた泰子《やすこ》に、やんわりとたしなめられてしまう。
「昨日《きのう》ね、やっちゃん、大家さんに叱《しか》られちゃったのん。前から騒々《そうぞう》しいおたくだったけど、最近は特にうるさいのね、とかゆわれちゃってえ」
「や、だってこいつが……おぅ! 裸じゃねえか!」
竜児の声に、さすがの逢坂《あいさか》も驚《おどろ》いた顔をして振り返る。インコちゃんも鳥かごの中から、「はっ!」とした顔で泰子を見つめる三対の視線《しせん》が泰子の白肌に突き刺さった。だが泰子は平然として、
「ちがうもーん。これはこういうお洋服なんだもーん。それにこの上から、これ着るもーん」
ほとんど裸状態の紐状《ひもじょう》ワンピースの腰をくねらせる。その手には確《たし》かに、ふさふさとした豹《ひよう》柄《がら》フェイクのなにやらものすごいジャケットが。
「……すげえな、その服」
「えへん! かわいいでしょ! 大河《たいが》ちゃんはあ、どー思う?」
えへ、えへ、と泰子はその裾《すそ》を揺らしてみせた。表情を変えずに逢坂はそれを見つめる。なんとなく、竜児は息を飲む。
「――そこ」
ス、と逢坂の小さな手が、泰子のケツのど真ん中を指差した。
「パンツが透けている」
「きゃー! ほんとだあ!」
しかし間髪いれずインコちゃんが、
「だがそれがいい!」
躊躇《ちゅうちょ》なく叫ぶ。あほくさい、鳥の言葉なんか真に受ける奴《やつ》なんかいるかよ、と眉《まゆ》をひそめる竜児の目の前、ぱっ、と実母の顔が明るくなる。完全に真に受けている。泰子は裾を掴《つか》んだままパンツ全開で一回転、
「じゃあこれでいっかー! お仕事いこーっと!」
満面の笑《え》みでぷるん、と巨乳を揺らしてみせた。そして小遣いをせっせと貯《た》めて買った唯一のシャネルをいそいそと抱え、ぶんぶんと無邪気に両手を振る。
「それじゃあ竜ちゃん、大河ちゃん、やっちゃん行ってくるからねえ〜」
「おう、気をつけろよ。飲み過ぎるなよ。変な奴がいたら携帯かけろよ」
「ほえー。あ、大河ちゃんはあ、あんまり遅くなったらだめだよん?」
「はい。いってらっしゃい」
――古いタイプの鉄のドアが、ぎちょん、と音を立て、高須《たかす》家《け》と世間の間を重く隔てた。
要は、つまり、簡単《かんたん》に言えば、
「はーあ。お茶のも」
「私の分も。あとお菓子ちょうだい」
「菓子ぃ? ……なんかあったかな……おまえたまには食うばっかじゃなくて気の利いたモン持って来いよ」
「……」
「だから、無視すんなって!」
高須|竜児《りゅうじ》と逢坂《あいさか》大河《たいが》は、気がつけばすっかり馴《な》れ合っているのだった。それも家族ぐるみで。だがそれも仕方がなかった。なにしろ今ではほとんど完全に、二人は共同生活状態になっているのだ。
朝、逢坂が寝坊しないように、竜児はマンションまで迎えに行く。弁当は家で作って持って行き、逢坂が支度《したく》をしている間に簡単に朝飯を用意してやる。
そして一緒に家を出て、実乃梨《みのり》と出会う少し前で距離《きょり》を取る。微妙な距離感のまま登校する。
学校では北村《きたむら》攻略のための戦術を日々研究する。そして実践に移しては、たいがい失敗する。
家に帰るとスーパーで買い物をし、少し前までは逢坂の家で夕飯を作っていた。だがそこで問題が生じた。竜児は逢坂と一緒に食べてしまえばいいが、泰子《やすこ》の夕食が面倒《めんどう》くさい。逢坂の分だけ作って、自宅でまた作るのは二度手間で大変だ。作って持って帰るのも数メートルの距離なのにかったるい。
ならば高須家で作って、三人で食べればいい。などと、ふとしたはずみに思ってしまったのだ。今思うに、その頃《ころ》は強制的な二重生括に疲れていたのかもしれない。逢坂家のキッチンがピカピカの清潔《せいけつ》になったわりに、意外と使いにくかったせいもあったかもしれない。包丁の切れなさや皿の少なさにイライラしたせいもあったかも。
だが結果的に、泰子は意外なほど普通に逢坂を受け入れ、逢坂もまた、泰子の特異なキャラクターにネガティブな関心は抱かないようだった。ただ一緒に夕食を食べ、泰子が出勤するのを竜児とともに手を振って見送る。
最初は泰子の出勤とともに帰宅していた逢坂だったが、テレビがどうの、漫画がどうの、かったるいの、眠いの、北村くんてさ、櫛枝《くしえだ》さんてよー……だのと、次第に高須家滞在時間が長くなっていき、
「……はっ!」
と竜児が気がつく頃には、こんなことになっていた。
垂らしていたよだれを手の甲で拭《ぬぐ》い、慌てて卓袱台《ちゃぶだい》の向こうに声をかける。
「おい、逢坂! 起きろ!」
「……ん……?」
だらだらとテレビを見ている間に、いつの間にか二人して寝入ってしまっていたらしい。畳の上に竜児《りゅうじ》はジャージで、逢坂《あいさか》はふりふりワンピースで寝転がったまま、時刻は今や午前三時。
「いくらなんでも泊まるってのはまずいだろ。ほら、ちゃんと起きて帰って、自分ちで寝ろ」
「……んー」
わかっているのかいないのか、座布団を折った枕《まくら》に顔を擦《こす》りつけ、逢坂は服越しに腹をぼりぼり掻《か》く。このおっさんめ、と座布団を勢いよく頭の下から引き抜いてやるが、
「う……っ……ん……」
後頭部を畳にぶつけ、眉《まゆ》をしかめたのは一瞬《いっしゅん》。しばし畳の感触を確《たし》かめるように頭をごりごりと動かして、ポジションが安定したのだろうか、再び安らかな寝息を立て始める。
竜児はその傍らに正座し、寝顔を見下ろして首をひねった。なんという馴《な》れ合《あ》いの関係。まさか自分がこんなに自然に、女子と過ごせる時が来るなんて……いや、それどころではない。ただの女子ではないのだ。相手は手乗りタイガーなのだ。しかし、これがあの凶暴《きょうぼう》さで鳴らした手乗りタイガーの姿だろうか。
桃色《ももいろ》の頬《ほお》には座布団の跡。唇の端には寝入る寸前まで飲んでいたホットミルク。髪は畳の止で柔らかにもつれ、安心し切った寝顔には緊張感《きんちょうかん》の欠片《かけら》もない。
男の家で、寝ているというのに。
「……おい。逢坂。……逢坂、起きろよ」
シン、と静まり返った2DKに、聞こえるのはかすかな冷蔵庫のモーター音のみ。夜明けにはまだ早く、泰子《やすこ》の帰宅にも少々間がある。インコちゃんも布の中で、安らかにブサイクに眠っている。
「逢坂、大河《たいが》」
伏せられたまま頬に長く影《かげ》を落とす睫毛《まつげ》。ほっそりとした首筋は、よくみると脈に震《ふる》えている。もっと耳元で言ってやろうと上体を伏せ、その一瞬。ギク、と身体《からだ》が硬くなる。妙に甘ったるい香りが竜児の鼻先で揺らいだのだ。これは、逢坂の匂《にお》いだ。
「起きないなら……お、襲《おそ》うぞ……?」
――本気、ではない。まさかまさか、まさか本気で逢坂をどうこうしようなんて思っているわけではない。想《おも》う人だって心にはいるし(みのりん……)、どうこうなりたいなんて思ってもいない。いや、本当に。……本当に。
ただ、あまりに図々しく目覚めないから、驚《おどろ》かせたくて言っただけ。それだけ。そう言えばガバッと起きて文句のひとつでも吐くかしら、と。
だが反応はまったくない。その代わり、気づいてしまう。逢坂の真っ白なほっぺたに、畳のケバが一本へばりついている。チクチクするだろうに……別にいやらしい気持ちではない……ただ気になるし……純粋な好意で……取ってやろうと思っただけで……ゴクン。と、竜児は生|唾《つば》を飲んだ。そしてそろりと手を伸ばしかけ――
「んがっ!」
部屋の隅まで吹っ飛んだ。
「……ん……? ……なに、してんのよ……」
「な……ん、でもねえ……」
偶然にしてはできすぎている、寝返りを打った逢坂《あいさか》の腕。そいつは力強いストロークで、接近しかけた竜児《りゅうじ》の顎《あご》に思いっきりのフックをくれた。
逢坂は髪を掻《か》きあげながら身を起こし、眉《まゆ》をしかめた胡乱《うろん》な目つきでもんどりうつ竜児を睨《にら》みつける。
「……気持ちわる……なに一人で騒《さわ》いでんの? 真夜中よ? 大家に怒られるわよ?」
「ほ、ほっといてくれ」
もしも逢坂の目が覚めていたら、今頃《いまごろ》竜児は生きてはいまい。眠っていてさえこれなのだから。
やはり逢坂は手乗りタイガーだ。凶暴《きょうぼう》なDNAを全身の血に注がれて、誰彼《だれかれ》構わず噛《か》み付いてみせる攻性の衝動《しょうどう》に生きる女だ。
馴《な》れ合いながらも高須《たかす》竜児は、だいたいそんなふうにして、折に触れてはきちんと再確認《さいかくにん》をしていたのだけれど。
***
証言その1。
「二年C組、春田《はるた》浩次《こうじ》です。確《たし》かに見たっす。部活帰りに菓子食いながら帰ろうと思って、駅の近くのスーパーに寄った時。あれは絶対、高須と手乗りタイガーだった。高須が買い物カゴ持ってて、魚かなにかを選んでいて、手乗りタイガーが肉をカゴに入れようとして『今日《きょう》は煮魚だろ』って怒られてそれを棚に戻してたっす。で、二人してネギやら大根やらを買い込んで、レジ前で『共通の財布から千円出せ』とか高須が言って、手乗りタイガーも素直に財布出して。共通財布って……なんつーか、ほとんど夫婦状態?」
証言その2。
「同じく、二年C組。木原《きはら》麻耶《まや》でーす。あたしが見たのは、朝、登校する時。あたしはチャリ通なんだけど、学校の結構近くに新しくて超豪華なマンションがあるんだ。いつもこんなところに住みたいなーって思いながら見てたんだけど、なんとそこから高須くんが出てきたのよ。え、ここに住んでるの? って思ったら、その後を追いかけるみたいに逢坂さんが出てきて、眠い、とかって言うわけ。で、もっと早く起こしなさいよ、って。うっそお、って思わず見てたら、高須《たかす》くんが振り向いて怒鳴《どな》ったんだ。『何度も起こしただろーが!』……それって、それって……ねえ?」
証言その3。
「えっと、二年C組、能登《のと》久光《ひさみつ》。俺《おれ》と高須は一年の時も同じクラスで、今もよくつるんでます。でも最近の高須は一緒に帰ろうと思っても先に消えちゃってて、どうしたんだろー、という感じで。昨日《きのう》は好きなバンドの新譜《しんぷ》が出る日だったから一緒にCD屋行きたくて、昼休みのうちに高須に声をかけてみたんだけど……やっぱ変なんだよな。ちょっと待って、とか言って、『おい逢坂《あいさか》、今日は一緒に帰れねえけどいい?』だって。『八時には行くから』だって。……どこに? なにしに? って感じ? CD見ながらさっきのあれ、なに? って訊《き》いても『気にするな』で終了だし……絶対変だろ、あれは」
証言その4。
「二年C組、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》。一応|大河《たいが》の親友、なんだけど……大河の奴《やつ》、あたしに隠しごとをしてるんです。毎朝待ち合わせして一緒に登校してるんだけど、なんつーかどーも……高須くんが、一緒なのよ……少し後ろから、そ知らぬ顔で歩いてきてんの。ツーショットなの。アベックなの。でも大河は『偶然そこで会った』とか『え? 気がつかなかったな』とか言っちゃって。まあ、去年は三日に一回は寝坊してたから、遅刻がなくなったってのはいいことなのかなーとは思うんだけど……ごまかされてるってあたりが気に食わないのよね。学校に来れば二人してひそひそこそこそやってるしさー……って、あれ、この感情って……もしかして嫉妬《しっと》!? 今はやりの薔薇《ばら》がどうしたの、赤やら白やら|姉妹《スール》がどうしたのって……なんつったっけ!? ああっ、いまどきの言葉がわかんなーい!」
――竜児《りゅうじ》は竜児で、その目つきの悪さから周囲の人間に誤解され、噂《うわさ》されるのには慣《な》れていた。というか、ある程度スルーする術《すべ》を身につけたのは、傷つきたくないという自然な防衛《ぼうえい》本能でもあった。
逢坂は逢坂で、その気性の荒さと素人《しろうと》離《ばな》れした迫力で誰《だれ》にも彼にも恐れられ、距離《きょり》を保たれることに慣れていた。そもそも他人の噂などに耳を傾けるような女ではなかったし、基本的には自分以外の人間に興味《きょうみ》を持つこともほとんどなかった(みのりんと北村《きたむら》除く)。
そんなふうに「注目されるのに慣れ切っている」二人だったから、こんな周囲の状況になかなか気がつくことができなかったのだ。
落ち着かない教室。囁《ささや》き交わされる言葉。チラチラと向けられる視線《しせん》。やっぱり、と頷《うなず》く声。
「……見たんだよ、同じマンションから出てくるところ……」「こないだほんとに二人でスーパーにいたよ」「またひそひそ話してる……」「あ、二人だけで消えた」「手乗りタイガーは高須《たかす》のこと、竜児《りゅうじ》、って呼んでたぞ」「高須も高須で、平気でばかだのあほだの言っている」「それでいながら、無事でいる……」「弁当の中身がまた同じだった!」
――高須竜児と逢坂《あいさか》大河《たいが》って、もしかして……。
「あ。いけない」
小さな手乗りタイガーの呟《つぶや》きに、周囲にいた奴《やつ》ら全員が肩をビクリと震《ふる》わせる。いったいなにがあったんだ、とばっちりを食いはしないか、と。だが当の逢坂は何食わぬ顔で、
「ねえ竜児。忘れるところだった」
てこてこてこてこ、と窓際の竜児の席に歩み寄り、聞き耳を立てている周囲の奴らにもまったく気を留めてはいない。
「なんだよ」
「昨日《きのう》……」
逢坂の声が小さくなる。聞こえねえ、と野次馬《やじうま》たちが身を寄せる。
「……伝え忘れてたんだけど……」
竜児はふんふん、と顔を上げ、逢坂の小さな声を聞いている。逢坂は竜児にだけ聞こえる声音でぽつぽつと話し続ける。教室中の耳という耳が、二人の方角を向いている。
「……今夜、家には帰らない……」
――びくぅっ! と、そのセリフが聞こえてしまった竜児の後ろの席の奴が、身体《からだ》を激《はげ》しく強張らせた。なになに、今なんだって、と声にならない質問攻め。伝えるセリフは、筆談《ひつだん》で。今夜、家には帰らない、だってよ、と。唖然《あぜん》とするクラスメートを置き去りに、さらに竜児は会話を繋《つな》ぐ。
「……泊まるのかよ?」
「……うん……」
「じゃあ……覚悟は決めたんだな……」
「……うん……」
うそ、うそうそ、マジで? ……と、ひそやかなざわめきがクラス中を伝播《でんぱ》していく。ねえ、今、まさか……まさか……泊まるって……覚悟って……。
「それって、つまり、手乗りタイガーが高須の家に泊まるってこと?」
生唾《なまつば》を飲みつつ、小声で長髪の春田《はるた》くんが言う。
「覚悟って……それっていうのは、つまり……デキてしまう、ってことか? う、ううっ……エ、エロいぞ、それは……っ」
春田くんに身を寄せて、黒ぶちめがねの能登《のと》くんも声をひそめる。
女子の誰《だれ》かがうわー、と呟く。クラス公認の初体験《はつたいけん》……、と。木原《きはら》麻耶《まや》は頑強に、「あれは初めてじゃないと思う!」と顔を真《ま》っ赤《か》にして力説。男子の誰《だれ》かが苦しそうに、「俺《おれ》、実はなんだかんだいって手乗りタイガーのことかわいいと思ってたのに……誰のものにもならないでって願《ねが》ってたのに……」と言えば、他《ほか》のところから「俺なんか、去年告白しちゃったし……そうしたら男なんか全員死ねばいいって思ってる、ってサラっと言われたんだけど……」と新証言が飛び出す。
一斉に、みんなが竜児《りゅうじ》と逢坂《あいさか》を振り返る。二人は静かにそこに佇《たたず》み、二人の未来を噛《か》み締《し》めているような風情。逢坂は窓の方を向き、誰にも顔を見せはしない。そして竜児は厳《きび》しく顔をしかめ、なにか――逢坂のオヤジだろうか――と戦う決意を秘めた表情を見せている。
「く、櫛枝《くしえだ》、なんかあんたの親友、今夜大変そうだね?」
櫛枝|実乃梨《みのり》は、黙《だま》り込んでいた。
「櫛枝?」
女子の誰かに背を叩《たた》かれても、肘《ひじ》をつつかれてもなにをされても、黙って二人を見つめていた。
ちなみにつまらないことではあるが、正解はこうだ。
「昨日《きのう》、あんたのお母さんご飯食べないで出ちゃったでしょ。そのとき伝言されてたのを『伝え忘れてたんだけど』、『今夜、家には帰らない』って。常連さんの誕生日《たんじょうび》で朝までパーティやるんだって」
「泰子《やすこ》の奴《やつ》、店に『泊まるのかよ?』」
「『うん』、そうだって」
「『じゃあ』やっぱあいつ、稲毛《いなげ》酒店《さかてん》のオヤジの愚痴《ぐち》を一晩中聞く『覚悟は決めたんだな』。常連って稲毛のオヤジだろ? 去年|離婚《りこん》したばっかの」
「確《たし》かそう言ってたわね。『うん』、稲毛さんがどうの、って言ってた。……あーあ、つまんない用事。家庭内の伝言に使わないでほしいんだけど」
「そんなこと言うなら、もうメシ食いに来るなよな」
「……」
「無視すんなって言ってんだろ!」
***
それは、一見いつもとなにも変わらない二年C組の休み時間だった。高須《たかす》竜児は日当たりのいい自席で漫画を流し読みし、逢坂|大河《たいが》はつまらなそうに、構うなオーラをガンガン出しつつ、パックの牛乳をちゅうちゅう吸っていた。
だがその逢坂の背を叩く根性の座った奴が一人。
「ね、大河《たいが》。……ちょっといい?」
櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》である。ついに動いたか――クラス中の視線《しせん》が、手乗りタイガーに向かい合った彼女の背中に注がれる。
「急に改まってなあに? ……ちょ、みのりん?」
いつになく真剣な眼差《まなざ》しで、実乃梨は逢坂《あいさか》の襟首《えりくび》をがっきと掴《つか》んだ。そのまま力ずくで椅子《いす》から引き上げて席から立たせ、小柄な逢坂はなすがままに。
「そ、そんなことしなくても自分で歩けるって……転んじゃうってば!」
「いいから来るのよ」
手乗りタイガーにこんなことをできるのは、この世に実乃梨しかいないこれが他《ほか》の奴《やつ》だったなら、多分《たぶん》三秒で噛《か》み殺されている。息を飲む衆人《しゅうじん》環視《かんし》の中、実乃梨はズルズルと荷物のように後ろ向きの逢坂を引きずり、
「……キミも来るのよ」
「……へ……? お、俺《おれ》?」
ずばり指差してご指名したのは、高須《たかす》竜児《りゅうじ》その人であった。動揺しつつも、キミ、と呼ばれてしまった――などとこっそり頬《ほお》を緩《ゆる》めているが、肉眼では確認《かくにん》不可能である。
風雲急を告げる校舎屋上――そうは見えないが、そうなのだ。
天気は穏《おだ》やかな快晴。頭上の青空は微風にしてのどかだが、
「み、みのりん……?」
「櫛枝……?」
強引に連れ出した竜児と逢坂に背中を向け、櫛枝実乃梨は尋常ではない雰囲気をムォォォ……と醸《かも》し出していた。なぜか制服の上、肩に羽織《はお》ったジャージを風に翻《ひるがえ》し、「太陽が乾いている……」などと一人低く呟《つぶや》いている。
竜児は思い切り声を押し殺し、
「おい……一体これはなんなんだ?」
三十センチ下方の逢坂の耳元に囁《ささや》くが。
「私だってわからないわよ……こんな顔をしたみのりんを見るのは初めてだもの。……なにか怒ってるのかな……」
逢坂もこの時ばかりは少々顔を曇《くも》らせて、落ちつかなげに首をひねっている。しかし意を決して一歩踏み出し、
「ね、ねえ……あの、みのりん」
手を伸ばしたその瞬間《しゅんかん》だった。不意に音が止《や》み、世界の機能《きのう》が停止したかのような感覚。振り向いた実乃梨の両目が一瞬|煌《きらめ》き、彼女は逢坂の目の前で、突如大きく跳ねたのだ。
うっ!? と逢坂が叫ぶ。とっさに正面をかばって腕を交差させる。一体なにが起きたのか――だが実乃梨《みのり》は身構えた逢坂《あいさか》の脇《わき》をタン! と跳んで音もなくすり抜け、
「高須《たかす》、く――――――んっ!」
「おぅ!?」
竜児《りゅうじ》の目の前、わずか数センチ。ズザアァァ! と滑り込みながら、彼女は華麗《かれい》なるジャンピング土下座をキメていた。
舞《ま》い上がるコンクリの砂塵《さじん》、翻《ひるがえ》るスカートとジャージ、そして、
「大河《たいが》のことっ、よろしくっ、お願《ねが》いしまぁぁぁぁすっ!」
天を割る、絶叫……。
「――え? あ? ……ええ!?」
つま先にかぶりつくようにして頭を地面にこすり付ける実乃梨を前に、竜児は身動きさえできない。逢坂も同じだ。ぽかん、と顎《あご》を落としたままで、
「高須くん、この子は……大河はあたしの大事な親友です! 気難《きむずか》しいところもあるけど、心根は優《やさ》しい女の子です! ……幸せに、どうか幸せに、してやっておくんなまし……!」
おおお、と泣き声を上げる実乃梨を逢坂はただ遠巻きに眺めている。そのまま一秒……十秒……三十秒……。
先に我に返ったのは、竜児の方だった。
「櫛枝《くしえだ》よ、ちょ、ちょっと、待ってくれ――その、それは一体――」
「やめてちょうだい!」
きっ、と実乃梨《みのり》は真剣そのものの顔を上げ、竜児《りゅうじ》をきつく睨《にら》み据える。
「おとぼけはもうナシで行こうよ! ね、高須《たかす》くん! もういいの。あたしはよーくわかってるから。味方だから!」
そう決然と語る実乃梨の瞳《ひとみ》は澄《す》み切っている。まっすぐに竜児の目を見つめたまま、暴力《ぼうりょく》にも似た純粋さで追い詰めにかかる。
「……気がついていないとでも思ったの? あなたたち、毎日一緒に登校しているじゃない。あたしはいつもお邪魔虫《じゃまむし》、いつ交際していることを打ち明けてくれるのかな〜とずっと待っていた……でも! いつまでたっても! 言ってくれやしない! だから!」
「いや、いやいやいや、いや、それは、その、櫛枝《くしえだ》、ちが……っ」
「もうコソコソしないでいいからね、高須くん、大河《たいが》! って言いたかったわけよ! 分かってるから、高須くんと大河が付き合っているんだってこと! あたしはずぅぅっと、そう言いたかったわけなのよ!」
土下座した体勢のまま、ずばり実乃梨は竜児を指差した。そしてこめかみに青筋を浮かべ、太陽みたいな笑顔《えがお》で深く、ふかーく、頷《うなず》いて見せる。
「絶対、ぜーったい、高須くんが大河の運命の人よ! その運命を邪魔する奴《やつ》は、このあたしが許さないっ! だから安心して交際を続けて下さいませっ! ……ね!」
ね! と言われても……竜児はまるで膝《ひざ》かっくんされたかのように、力を失ってその場にがっくりと崩れ落ちた。魂の死が訪れた瞬間《しゅんかん》だった。
ショックのあまり口が動かない。声が出ない。否定したいのに。しなきゃいけないのに――
「ち、ちが――――うっ! みのりん、なんか誤解してるっ! 私たちはそんな仲じゃないっ! いいからまずは話を聞いて、説明させて、立ち上がって!」
サイドステップで竜児の前に踊り出し、必死に訴え始めたのは逢坂《あいさか》だった。竜児、じぃん、と思わず感涙。そうだ逢坂、使い物にならなくなった俺《おれ》の代わりに、おまえが誤解を解いてくれ。コンクリの床に倒れたまま、声にならないエールを送る。
が。
「ふふふ、照れなくてもいいんだぜ。おめでとうよ、おふたりさん」
ダンディズムを薫《くゆ》らせながら、実乃梨は立ち上がってスカートをパン、と払う。そうして逢坂の肩越し、竜児を静かに見つめ、
「……高須くん。もしも大河を泣かせたら、……絶対に許さないからね」
一瞬本気の顔を見せるのだ。
いいやしかし、待ってくれ。そうじゃない。そうじゃないんだ。あうあうと喘《あえ》ぎながら、竜児は必死に声を絞り出そうとする。手を伸ばし、去り行く実乃梨に説明をさせてもらおうとする。しかし喉《のど》が。手が。あまりのショックに痺《しび》れたようになり、言うことを聞いてはくれないのだ。
そしてその無力な竜児《りゅうじ》の目の前で、言い訳できる最後の望みが――逢坂《あいさか》が、一《ひと》太刀《たち》で斬《き》り殺されるのを見た。竜児のビジョンの中でだが、小さな身体《からだ》は生命を失い、弾《はじ》けるように真後ろに吹っ飛び、そしてそのまま動かなくなる。噴《ふ》き上がった血《ち》飛沫《しぶき》が、逢坂の全身を真《ま》っ赤《か》に染める。
「そうだったのか……いや、最近よく一緒にいるな、とは思っていた。高須《たかす》、おまえに用事があって捜してここまで来たんだが……もはや用事などどうでもいいな。おめでとう! それにしても水臭いぞ。なぜ俺《おれ》に教えてくれなかったんだ、こんな大切なことを」
北村《きたむら》が、いたのだった。
出入り口に立っていて、一部始終を眺めていたのだった。実乃梨《みのり》の演説を聞いていたのだった。勘違いしているのだった。
そして小さい方の死体に近づき、最後の鞭《むち》を振るってくれる。
「逢坂。高須のこと、よろしく頼む。末永く慈《いつく》しんでやってくれ。なんだかおまえたち、言われてみればお似合いの二人だな」
大小二体の静かなるボディは、そのまま起き上がることもできず――
***
「あの、お客様。ご注文の方は……」
「……」
「……」
「……お、お客様。なにかご注文いただかないと……」
「……ドリンク、バー……」
「……もうひとつ、同じの……」
「……ドリンクバーを二つ、でございますね。カップなどあちらにございます」
お決まりの台詞《せりふ》を言ってウエイトレスは立ち去るが、しかしドリンクを取りに立つ者の姿はそこにはなかった。
午後十時を回った頃《ころ》。国道沿いのファミリーレストラン。窓際の禁煙席。死体が、二つ…… 大きい方は、まだ四月だというのに首周りの伸び切っただらしのないTシャツ姿。洗面用のヘアバンドまではめている。小さい方は長い髪もくしゃくしゃ、羽織《はお》ったシャツは赤のチェックで穿《は》いたスカートは緑のチェック。
二人|揃《そろ》ってボロボロで、どうしようもなくグシャグシャだった。一言も口を利かず、瞬《まばた》きさえもほとんどせず、ただ無為な時だけが刻々と流れ――
「なぜ……こんな……こと、に……」
先に声を発したのはでかい方の死体こと竜児《りゅうじ》だった。テーブルに肘《ひじ》をついて頭を抱え、独り言のように小さな声で呟《つぶや》きを落とす。
「お、俺《おれ》たちは……どこでなにを間違えたんだ……。なぜ櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》はあんな誤解を……」
竜児の知らなかった実乃梨の一面が、今日《きょう》めでたく明かされた。それは思い込みが強くって人の話を聞かない性格。言い換えるなら、超マイペース。逢坂《あいさか》と親友でいるのだから一癖《ひとくせ》あって当たり前、なのだろうが。
「よりにもよって……櫛枝に、あんな誤解……」
一年に及ぶ片思いの相手に、あんなふうにジャンピング土下座されてしまうなんて。だがそこに関しては、向かいに座った逢坂も同じ傷を負ったはずだった。
「……」
完全に魂の抜けた顔のまま、逢坂はうつろな視線《しせん》を彷徨《さまよ》わせている。ソファに浅く腰掛けて仰《あお》のき、今にもずるずると床に尻《しり》が落ちてしまいそうだ。これがあの手乗りタイガーの姿だろうか。視線だけで男もぶっ飛ばす、ド迫力で鳴らした2―Cの虎《とら》の姿だろうか――竜児は無性に切なくなって、
「あ、逢坂……しっかりしろ。気を確《たし》かに」
テーブル越しに手を伸ばし、小さな肩をガクガクと揺さぶる。だが、
「……」
逢坂の魂は戻って来ない。
「逢坂……」
最後の力も使い果たし、竜児はテーブルにぐったりと寝伏した。本当に……なんということだ。
傷つくのには、慣《な》れていたはずなのに。
誤解されるのにも、勘違いされて勝手なことを想像されるのにも、幼稚園の頃《ころ》から慣れ切っていたはずなのに。
「……ああ、そうか……」
竜児は気付く。なにも、誤解されたことだけがこんなにもショックなわけではないのだ。誤解された上に、満面の笑《え》みと真剣な言葉で応援されてしまったことが――完全に脈なし、とはっきり知らしめられたことが、どうやら心を折ったらしい。
バカな奴《やつ》だな、と自分を評する。そんなの当たり前のことなのに。特別に好かれていないのは承知の上で、好かれるための行動だってなにもしなかった。それで一体なにを期待していたのやら。落ち込む権利だって、本当はないのかもしれない。
そのままの体勢で数分を過ごし、やがて、かすかな気配《けはい》に顔を上げた。
「あ……」
コトン、コトン、と硬い音が二つ。
「……はい。なにがいいかわからなかったから、とりあえず……アセロラジュース。ビタミンC」
逢坂《あいさか》は静かに席を立ち、二人分の真《ま》っ赤《か》なドリンクを取ってきていたのだ。グラスをテーブルに並べて置き、滑り込むようにソファにするりと身を戻す。
「……逢坂……」
いつの間に息を吹き返していたのだろう。逢坂は竜児《りゅうじ》の目の前で深くひとつ息をつき、しゃんと背を伸ばして顔を上げる。そして、
「悪かったわね。こういうふうに一緒にいるから、……私がそうしろって言ったから、あんなことになった。……竜児のこと参らせてしまった。駄犬呼ばわりしてるくせに、飼い主失格だ……」
目つきだけはいつものように意地悪く尖《とが》らせて見せて、そんなふうに呟《つぶや》きを落とす。しかしどこか気が抜けたように、瞳《ひとみ》に灯《とも》る光は空《うつ》ろだ。
竜児の腹に、水気を孕《はら》んだ重いしこりが一粒落ちた。
こんなふうに一緒にいるのが原因で誤解されて、傷ついているのは逢坂も同じなのだ。逢坂も、自分も、同じようにとことんまで参ってしまった。こうして、向かい合っているせいで。いつも一緒にいたせいで。
だけど。
「……俺《おれ》は……こうしてること、別に……そんな……」
なにかを言いかけ、しかしやめた。傷ついているのは逢坂も同じ。だから――勝手な感情で「これ」を肯定するような真似《まね》はしてはいけない気がしたのだ。代わりに逢坂が口を開く。
「私……決めた」
ジュースの氷をストローでいじり、だがそれを投げ出して顔を上げ、竜児の目を真正面から見つめた。
「明日《あした》、北村《きたむら》くんに、告白、する。もうドジの入り込む余地もないほどストレートに……普通に、告白してみる」
ひどく不安げに揺れる瞳をしているくせに、さらにもう一度「決めたから」と付け加えて。
乾いた息を飲んだのは、竜児の方だった。
「……逢坂……いきなり、どうして……いや、どうしてもなにもないけどよ……」
「そうよ。どうしてもなにもないの。それに……」
こんな誤解されたままじゃ、あんただって――この部分だけはかすれた声で、独り言のように。
「……それで、終わりにする」
「終わり、って……」
「『こういうこと』を、終わりにする」
言い切った。
言い切って、そして、逢坂《あいさか》の視線《しせん》が透き通る。水に沈んだみたいに不意に面差《おもざ》しの輪郭《りんかく》が淡く見え、竜児《りゅうじ》は言葉も出なくなった。
「もう今日《きょう》であんたを解放してあげる。そしたら、あんたは……好きにするといい。なにもしたりしないから。みのりんに告白するなり、なんなり。……明日《あした》の告白の結果がどうだろうと、もう、従うことはない」
「……っ」
「今日で犬の奉仕はおしまいよ。明日からは、前までの……ラブレターの事件が起こる前の、私たちに戻ろ」
解放宣言。
もう、従わなくていい。
それは喜ぶべき瞬間《しゅんかん》のはずだった。
なのに、やっぱり、なにも言えないままだった。
よくも今まで、とも、ありがたい、とも、なにも。何ひとつ。そうか、寂しくなるな、とさえ。何ひとつ、竜児の喉《のど》は言葉を紡ぐことができなくなっていた。冷たいグラスを掴《つか》んだまま、指先はズキズキと痛み出すというのに。氷の温度になっていくというのに。
しかし逢坂はいつの間にだろう――笑っていた。声は立てずに、微笑《ほほえ》んでいた。竜児を見て、しかしちょっと照れたように視線を外し、口元を両手で覆《おお》って俯《うつむ》いて。
「……変なの。なんで私たち、こんなに一緒にいたんだろう。今日だって約束もしてないのに、ゾンビみたいに自然に集まってさ……おかしい。毎日一緒にご飯を食べて。ずっとゴロゴロして、ケンカばっかりして……」
その小さな手の中から、ふふふ、とかすかな笑い声が漏れる。大きな瞳《ひとみ》は細められて三日月形。逢坂は本当に笑っているのだ。初めて見る、竜児に向けられた本当の笑顔《えがお》だった。
「私――帰りたくなかったんだ。あの、私しかいない一人の家に。だからあんたんちに無理やり乗り込んでいって、ごはんまで食べさせてもらって、本当はすごく……うん、すごく――」
言《い》い淀《よど》んで逢坂は、一度|黙《だま》って肩をすくめる。一体なにを考えているのか、そのままゆっくりと視線を漂わせ、薄《うす》い目蓋《まぶた》を静かに閉じた。その目の中に、今まで見たなにかを大切に封じ込めるように、そっと、そっと、音もなく。
「すごく、……はは、なんだろう。ただ、……うん、そうだ。飢え死にしないで済んでよかった。そう、私はやっぱりドジなの。あの家に私、一人で住んでるでしょ?」
頷《うなず》いた竜児の表情は、逢坂には見えなかったはず。
「あれって、ひどい話よ。私、親と折り合いが悪くて、いつもケンカばっかりで、ある時私が『こんな家出て行きたい』って言ったら、そりゃ好都合とばかりに本当にあのマンションを宛《あて》がわれちゃった。……気がついたら本当に引越しすることになってて……でも、引っ込みなんかつかなくて。で、引っ越してみたら、私家事なんか一切できなくて。……困ってたんだ。ほんとに。誰《だれ》も、だーれも、様子《ようす》なんか見に来ないし。……一番ドジだったのは、そういう親だってわかってたのに、意地張って家を本当に出てきちゃったことよ。ばかでしょ。ドジでしょ。笑っていいのよ、もう怒ったりしない」
逢坂《あいさか》の目が、開く。
一気にそれだけを語り終えて、その肩から力が抜けていくのがわかる。
なんだそれは、と喉《のど》の奥で呻《うめ》く竜児《りゅうじ》を置き去りにして。
だって、そうだろう? なんだそれは、って、なるだろう? 妙に簡潔《かんけつ》だった逢坂の話は――かわいそうな捨て子の話でしかなかったのだから。王様一家に置き去りにされて、お城にひとりぼっちになった人形の言葉でしかなかったのだから。
だけど逢坂は笑っていた。竜児にも笑い飛ばしてほしいようだった。だから、
「は……はは」
だから。
「はははっ、はははは! ……ドジだな、本当に……」
「でしょ」
竜児は笑った。心はちぎれそうだったが、一生《いっしょう》懸命《けんめい》に、楽しく、優《やさ》しく、笑った。こんなにも笑いたいと願《ねが》ったことは今までになかった。
今日《きょう》でおしまい。明日《あした》からは前までのように。前までのように――挨拶《あいさつ》さえしない関係に。誰も寄せ付けない手乗りタイガーと、それを恐れるクラスメートの一人に。
それなら今夜は精一杯笑おうと思ったのだ。そうしてこのしょぼいファミレスで、最後の逢坂の笑顔《えがお》をしっかり眺めておこうと思った。
そして、だから、それを見せた。きっとウケると思ったのだ。
「はは、そうだ。いいモン見せてやる。これ、誰かわかるか?」
いつも財布の中に入れである、一枚の古い写真。
「え? あ……これって……あんたのお父さん!?」
「よくわかったな」
ぶっ、と盛大に吹き出してから、あははははははははは! と周囲から冷たい視線《しせん》が飛ぶぐらいの大笑い。大爆笑《だいばくしょう》。
「なっ、なにこれっ! そっくり! あはは、うける!」
「目元のあたりを見てみろ。瓜二《うりふた》つだろ、このチンピラ兄貴と」
「やだもう見せないでー! あはははははははは!」
身体《からだ》を捩《よじ》り、涙を零《こぼ》し、逢坂はテーブルに突っ伏して笑っていた。パンパンとはた迷惑にテーブルを叩《たた》き、足をじたばたと暴《あば》れさせ、声が嗄《か》れても笑い続けた。極悪ヅラのDNAが見事に受《う》け継《つ》がれているさまは、逢坂《あいさか》のなにかのスイッチを力いっぱい押してしまったらしい。恨んで恨んで恨み抜いた遺伝子だったが、ここまで喜んでもらえるのなら受け継いだ甲斐《かい》もあったってものだ。
「……誰《だれ》にも見せたことないぞ、この写真は」
「はあ、ああ苦しい……っ! こんなに笑ったことってない、なによその遺伝子!」
「おもしろいだろう」
「おもしろすぎよ! ああそうだ、それじゃ、あんたのヒミツを見た礼に、ひとついいこと――私のヒミツも教えてやろう」
あのさ、とひそめられる声。笑い出さないようにと窄《すぼ》められた唇。薔薇《ばら》色《いろ》に輝《かがや》く頬《ほお》がぷくぷくとふくらんで逢坂の瞳《ひとみ》は悪戯《いたずら》に輝く。手招かれ、その口元に耳を寄せ、
「……しょっぱかったでしょ。クッキー」
「んな!?」
囁《ささや》かれた声に竜児《りゅうじ》は声を上げていた。なぜ、どうして、あのクッキーの味を……
「くはは! 実は回収してすぐに、悔しくて自分でひとつ食べてたの! なにあれ、最悪! なのにあんたは止める暇もくれずに食べちゃうし――嘘《うそ》までつくし――っ」
不意に途切《とぎ》れた言葉。
息を詰めて、笑顔《えがお》も儚《はかな》くして、逢坂は見失った言葉を探しているようだった。そしてひとつ息をつき。深く俯《うつむ》き。顔を、隠し。
「あんたは……竜児は、犬としては駄犬だけど、人間としては――まあまあよ。だから……だから、それがわかったから、もうやめるの。……あんたはつまらない奴《やつ》じゃない。もっと、なんていうか……従えるのではなくて、並び立ちたいと思うような……」
意味がわからないね、と。
そんなふうに唐突に、その言葉を打ち切った。次に顔を上げた時には、いつもの逢坂のクールな面がちゃんとそこには張り付いていた。
そして「食欲出てきた」とメニューを開き、竜児もそれに付き従い、注文したのはハンバーグが二つ。この前作った奴のほうが全然おいしいと当たり前のことを言い合い、どっちがドリンクバーを取りに行くかで揉《も》め、蹴《け》り出されるように竜児が行かされ、そして――限りある時は、刻々と積《つ》み重なった。
淀《よど》むことなく、誰の上にも平等に。
会計を終え、深夜の住宅街を二人は家へと向かって歩き出す。
春の夜は妙に生ぬるく、渡る風も夢のよう。肌を撫《な》でられくすぐったくて、竜児は少しも黙《だま》っていられなかった。逢坂も酔っ払っているみたいに、奇妙に餞舌《じょうぜつ》になっていた。
二十分ほどの道のりを歩きながら、逢坂《あいさか》は実の母親が遠い他県にいること、後妻が本当に性悪で、追い出されたのもそいつが原因だったことなどをぶつくさと話す。
竜児《りゅうじ》も母親と二人の生活で、貧乏だったり馬鹿《ばか》にされたり、泰子《やすこ》のストーカーが気味悪かったことなどを話す。目つきの悪さで誤解され、苦しい現在進行形の思春期の日々の恥も話す。
それは竜児にとっては誰《だれ》にも見せたことのない傷に他《ほか》ならなかったし、そして多分《たぶん》、逢坂が見せたものも、自分以外には見せたことのない傷だっただろう。「そうだろ?」とはさすがに聞かないだけのデリカシーは持っていたが、だけどきっと、そうだと思えた。
そしてそれが、そんな時間が、本当にとっても嬉《うれ》しかった。過ぎ行く時間が惜しかった。
だけど時は誰にも止められず、ゆっくり過ぎて、そうしてやがて、
「……ああ、もう!」
曲がり角の街灯の下。
物言わぬ不幸な電柱に、逢坂の八つ当たりキックが炸裂《さくれつ》する。ドス、ガス、と繰《く》り返される暴行《ぼうこう》は、まるっきり酔っ払いの行動そのものだったが、
「ほんと、やになる……世の中は、私たちみたいなガキにはほんとに冷たくできてるんだ! 私たちがこんなにグジグジ、いろんなことで悩んでるってこと、なんで誰もわかってくれないのよ!?」
その声は、搾《しぼ》り出すみたいに苦々しく真夜中の住宅街にかすれて響《ひび》いた。だから竜児もそれを止めず、逢坂の傍らで、大きく頷《うなず》いて同意した。
「そーだそーだ! 俺《おれ》とか逢坂みたいな拗《す》ねたツラした奴《やつ》らでも、普通にへこんだりするってことを、どうせだーれも想像できねえんだ!」
「ああ、むかつく……むかつくっ! むかつくっ、むかつくっ、むかつく――っ!」
素人《しろうと》離《ばな》れしたキックを連続で繰り出し、肩で息をした逢坂が不意に振り返る。
「……ね、竜児。竜児も、みのりんのこと考えて、悩んだりする? なんでうまくいかないんだろう、どうすれば付き合ったりできるんだろうって苦しかったりする?」
「ああ。するとも」
答えてから思う。そういえばここしばらくは、逢坂との騒《さわ》がしい毎日を無事に過ごすので精一杯で、そんな感傷的な気持ちからは遠ざかっていたな、などと――
「じゃあさ、竜児も……泣いたりする?」
「……おまえ、泣くの?」
「泣くよ」
ぽつん、と零《こぼ》された、一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》。
そして逢坂はおもむろに夜空を見上げ、電柱から身体《からだ》を引《ひ》き剥《は》がす。乱れた髪を掻《か》き上げて、白い横顔を壊《こわ》れそうに透き通らせる。
「今日《きょう》、変に思われたかな、とか、このまま一生親しくなんてなれないのかな、とか、彼女がいるのかな、とか、……もっと、いろいろなこと……本当にばかみたいにいろいろなこと、一人で考えて……きっと誰《だれ》も、そんなの知らないだろうけど……私のことなんか、誰も……」
その先の言葉はか細くかすれて、竜児《りゅうじ》の耳にははっきりとは届かなかった。ただ寂しげな声の響《ひび》きだけが、薄雲《うすぐも》の夜空をひそかに満たす。
「……みんな、そんなおまえを知ったら驚《おどろ》くだろうな」
竜児も同じように夜空を見上げ、見えない月を探しながら囁《ささや》いた。
「おまえがそんなふうに泣いたりするなんて、誰も思ってねえもんな。……俺《おれ》だけだ、知ってるのは」
図々《ずうずう》しい、と逢坂《あいさか》は一言。息を吐き、視線《しせん》が揺れる。
「……竜児のことだって、誰もわかってないと思うけど。私だけが知ってること、かなりあると思う」
「なんだよそれ。……たとえば?」
「竜児はね……そんな顔してるくせに、本当は好きな子に話しかけたりもできない奴《やつ》。そんな顔してるくせに、本当は人を怒ったりなんか絶対できない奴。そんな顔してるくせに、人を傷つけたりなんか絶対できない奴。そんな顔してるくせに、料理も掃除も完璧《かんぺき》な奴。……誰も寄せ付けない怖い目をして、でも本当は誰よりも他人のことを考えてる奴。……当たってるでしょ」
「そこまで情けない奴かよ、俺は」
「……情けない、っていうかね……そうじゃなくてさ……」
柔らかな春の夜風に、振り返った逢坂の髪がレースみたいにひらひらと揺れる。細い指がかき上げて、その唇は、あんたは優《やさ》しい奴なんだよ、と。
とてもかすかな、静かな声で。
「逢坂……」
俺ばっかりつまらない善人か――そんな反論《はんろん》は、しかし言葉にはできなかった。逢坂の表情が、どこか痛むように歪《ゆが》むのが見えたせいだ。
「……私は、あんたとは正反対だね。私はだめだ。優しくなんかできない。許せないものが、たくさんあるから。……ううん、この世の中で、許せるものなんか本当に少ししか私にはないの。私の前にあるものは、みんな、みんな、みんなみんなみんなみんなみんな……」
長いスカートがひらりとめくれ上がった。真っ白な足が見事に伸びて風を切り、
「……む、か、つ、く、ん、じゃ―――――っっっ!」
クールな電柱に一撃《いちげき》必殺のハイキック。突然の感情の爆発《ばくはつ》に、竜児はビビって声も出ない。
一歩大きく後退して、うわ、などと呟《つぶや》きつつ、暴《あば》れる虎《とら》を見守るしかない。
「むかつくむかつくむかつくんじゃっ! なにが手乗りタイガーじゃっ! ぜんぜん、ぜんぶ、平気なんかじゃ、ないんじゃぁぁぁぁぁ――――っ! なんで、誰も、わかんないんじゃぁぁぁぁぁ―――――っっっ!」
虎《とら》の咆哮《ほうこう》に呼ばれたみたいに、黄金の月が二人の真上に。
冷たいアスファルトには、電柱を半殺しにしている逢坂《あいさか》の影《かげ》が伸びる。それをただ見守って、だけど再び距離《きょり》を縮《ちぢ》めようと歩み寄る竜児《りゅうじ》の影も伸びる。
二つの影は重なって、だけど、本当の身体《かちだ》は触れ合うことはしないまま。
「みんなっ、みんな――むかつくんじゃあ……っ! みのりんの、ばかっ……なんで話を聞いてくれないのよっ! 北村《きたむら》くんもそうよ、なんでみのりんの言い分だけあっさり信じちゃうのっ! なんでわかってくれないのっ! みのりんも、北村くんも、みんな……みんなみんな、ママもパパも、みんな、誰《だれ》のことも、私……許せない! だって、わかって、くれないんだもん……っ! 誰もわかってくれないんだもん!」
両腕で電柱を抱え込み、ハードな膝蹴《ひざげ》りを入れながら、逢坂は声を詰まらせていた。感情の昂《たか》ぶるままに泣きたい夜もあるのだろう。喉《のど》にこみ上げる涙の熱《あつ》さに苦しそうに息を跳ねさせ、そして、
「う、うぅ……っ!」
「わっ! ばか、やめろ!」
反り返って渾身《こんしん》の頭突き――の一歩手前。
危ういところで飛びついた竜児の手のひらが、逢坂の額《ひたい》を押しとどめる。さすがに頭突きでは電柱には勝てまい。
「でも、むかつくんじゃああぁぁっ!」
叫びと、涙と。
傍らの逢坂はすっかりナイーブになってしまって、春の夜に泣き続けていた。仕方ない、と竜児は腹を決めた。……とはいえ、たいしたことができるわけではないけれど。俺《おれ》はおまえのことがわかるよ、なんて、薄《うす》っぺらに響《ひび》きそうな言葉をかけるよりはましだろう、と。
「……加勢してやる」
宣言して、そして、肺一杯に息を吸う。吐き出すのは一気に、
「むかつくん、じゃぁぁぁぁぁぁぁ―――――っ!」
不慣《ふな》れな蹴りも入れてやるし、なんと回し蹴りだってしてやる。K―1で見たのをイメージしつつ、グラグラと揺れる頼りないバランスで。
そうやって竜児と逢坂は、卑怯《ひきょう》かもしれないけれど、二人がかりで電柱を襲《おそ》ったのだ。だって竜児には敵がいる。人生の道筋に置かれた石のようなものの存在を、竜児は確《たし》かに感じている。そして逢坂にも、敵がいる……と、思う。同じように逢坂の人生を阻むモノが、確かに存在していると、そう思う。その敵は誰かを好きになったり、誰かと結ばれたいと願《ねが》った時に、その質量をずっしりと重くしてみせる。コンプレックス、という名を持つかもしれない。運命とか、生まれつきとか、環境《かんきょう》とか、そういうふうにも呼ばれるかもしれない。思春期特有の自意識《じいしき》、とか、自分じゃどうにもできんこと、とか、もっといろんな名前があるかもしれない。でもとにかく、そいつらには殴ったり蹴《け》ったりできる姿がなくて、そして多分《たぶん》、そんな実体のない奴《やつ》とまだまだこの先ずっとずっと、ずーっと戦い続けなければならないのだ。こんなふうに電柱にでも蹴りを入れてやらなくては、一生死ぬまで発散できない。壁《かべ》でも布団でもよかったけれど、……電柱よ、運が悪かったな。
そういうわけで、やってやる。二人|揃《そろ》って、あほでもばかでも下らなくても、春の夜に吼《ほ》える獣《けもの》になってやる。
特に逢坂《あいさか》の敵は、なんだか自分のよりも大きく、重そうだった。竜児《りゅうじ》は傍らのつむじを見ながら思う。見えない敵と立ち向かうために、そうか、おまえは虎《とら》になったんだ、と。電柱なんかよりずっと大きくて、ずっと重くて、ずっと硬くて倒しにくい、そういう敵と戦う力を逢坂はずっと欲していたんだ。だから虎にならなくちゃいけなかったのだ。
不思議《ふしぎ》なことに竜児と逢坂の短い人生は、短いなりにどこか重なり合うようだった。だから、竜児には逢坂のことがわかったのかもしれない。ひどく疲れ切ったような顔をして、ひどく腹をすかせていた、そんな逢坂のことが放っておけなかったのかもしれない。
迷惑だったくせに、腹を立てていたくせに、本当の本気ではほっぽり出すことなんかできなかったのかもしれない。
そしてそのことは、竜児にとっては決して不幸なことでもなんでもなく、むしろ――
「竜児、離《はな》れてなさい!」
「なんだよ藪《やぶ》から棒に……うお!」
突然顔を上げた逢坂に驚《おどろ》き、その拍子、思いは霧《きり》になって解けた。
逢坂は笑っていた。それは惨《むご》い笑いだ。瞳《ひとみ》を爛々《らんらん》と凶悪に光らせ、殺気にギラギラと瞬《またた》かせ、手乗りタイガーのド迫力で、獲物《えもの》をそう、
「仕留めてやる!」
そんな感じに。
道の端まで一旦《いったん》寄り、逢坂は十分なスペースを取る。そしてスカートをたくし上げ、
「待ってろよ北村《きたむら》ぁっ! 告白、してやるぞぅおらああああああぁぁぁぁ―――――――っっ!」
オーディエンス(竜児)をひい、と叫ばせる、凄《すさ》まじい助走。完璧《かんぺき》なタイミングでの力強い踏み切り。小柄な身体《からだ》はしなやかに跳ねて、滞空。月光が映る、その瞳。そして右足が空を裂き、唸《うな》りを上げながら電柱へ。
「……っ」
あまりにあまりな光景に、思わず竜児は目を閉じていた。ぼてっ、と無様な音がして、ようやく慌てて目を開く。電柱の根元に尻《しり》から転がった逢坂に走り寄る。
「ばっ、ばかやろう! おまえ、足……っ」
「……竜児。ね、見てごらん」
「え?」
逢坂《あいさか》が指差したのは、天に伸びる電柱。それがどうした、と視線《しせん》を戻す竜児《りゅうじ》に、彼女はニタリと笑って見せた。
「こいつ、傾いてると思わない?」
「はあ!? まさか、そんなわけねえだろ! いくらなんでも人間の蹴《け》りなんかで傾くわけが――」
その後ろの塀と比べて見て、竜児はひとつ、息を飲む。
「――傾いてるじゃねえか!」
「でしょ!?」
やった、勝った、と逢坂は笑った。もちろん、電柱は最初から傾いていたのかもしれないし、後ろの塀が歪《ゆが》んでいるのかもしれない。逢坂の蹴り一発で傾いたと考えるよりは、よっぽどそんな説の方があり得そうだ。
だけど竜児は、信じた。
逢坂が、手乗りタイガーがキックでこいつを傾けたのだと、そう信じた。
だって逢坂が笑っている。
「……と、やばい。あれ、警察《けいさつ》か?」
少々|騒《さわ》ぎすぎたのかもしれない――道の向こうから自転車で近づいてくるのは、確かに制服を着た警察官だった。竜児は慌てて逢坂を振り返り、
「まずいぞ、さっさと逃げようぜ! って……なに!? どうしたんだよ!?」
そこに座り込んだまま、顔をしかめているドジを見つけた。
「い、いたーい……」
「は!?」
今まで元気一杯に電柱を襲撃《しゅうげき》していたはずの逢坂は、スカートの裾《すそ》を地面に散らし、右足の脛《すね》を小さな手で摩《さす》っている。そして情けないツラで竜児を見上げ、
「当たり所、悪かったかも……痛くしちゃった」
口をへの字に曲げて見せた。あちゃー! と竜児は頭を掻《か》き、
「あったりまえだろうが! うわ……これ腫《は》れそうだなあ……」
しゃがみこんで見てやって、思わず顔をしかめる。細い足首の少し上、真っ白い脛の皮膚《ひふ》の一部が、街灯のかすかな光の下でさえありありと分かるほどひどく内出血してしまっている。
「……やっぱり硬いんだ、電柱って……いたい、すっごく痛い……」
「そりゃ硬いだろうよ! ったく……」
竜児は深いため息をつき、仕方ねえ、と、しゃがみこんでいる逢坂に背中を向けてやった。これが男気ってもんだろう。そんな自分に酔ってもいたとも。
「乗れよ、まったくおまえは……ふぐう!」
おずおず、と乗ってくるのを期待したのだが――そこはそれ、手乗りタイガーだ。足が痛いと言っている割に、ビョーン! と力強い跳躍《ちょうやく》で竜児《りゅうじ》の背中にぶら下がってくる。ちなみに死にそうになるぐらい、きつく首が絞まっている。
「くっ、くる……し……」
気道と動脈を押《お》し潰《つぶ》す逢坂《あいさか》の腕を必死に叩《たた》き、生命の危機《きき》を伝えるが、
「やだ竜児! あれおまわりさんじゃない? 早く逃げないと」
最初からそう言ってるんだけど……。首をキメられて言葉にはできないまま、竜児は急《せ》かされて走り出す。
遠回りにはなるけれど人通りのない脇道《わきみち》に入り、足音を殺しながら、だけど懸命《けんめい》に夜道を駆ける。街灯もない真っ暗な路地に滑り込み、異様な静けさに言葉をなくし、だけど互いの体温だけを頼りに「怖い」とはどちらも言わないまま。
竜児はしっかりと逢坂の身体《からだ》を背負い。
逢坂は脈打つ竜児の首元に顎《あご》をそっと押し当て。
余計なことはなにも言わず、ひたすら道の先に見える大通りの明かりを目指し――
「いたっ!」
ガン、と鈍い音がして、逢坂が小さく叫ぶ。
「なに!? どうした!?」
思わず竜児は立ち止まり、背負った逢坂を振り返る。息が触れるほどの至近|距離《きょり》、暗闇《くらやみ》の中で視線《しせん》が交わる。
「な、なんか……看板が出てた……おでこにぶつかった!」
「えぇ!? なんで避《よ》けねえんだよ」
「いきなりだったんだもの! 暗くて見えないし、あんただって気がつかなかったでしょ! ……いったぁ、ああもう、やになる……」
「どこだ? ここか?」
手を伸ばし、竜児は逢坂の少し熱《あつ》い額《ひたい》に触れる――ここは暗くて、見ただけではわからないから。
「……血は出てないな。コブにもなってない。大丈夫だろ、きっと」
「ついてない」
「ついてないんじゃなくておまえがドジなんだ」
なによ、と鼻息を荒くする逢坂をしっかりと背負い直し、竜児は再び駆け出した。大通りまで出てしまえば、家はもうすぐそこだ。
「……傷にならなくて、よかったな」
クラクションが、遠く響《ひび》いた。だからかすかな竜児の声は、後ろにぶら下がっている奴《やつ》には届いていないかもしれなかった。
「明日《あした》告白するっていうのに、顔に怪我《けが》なんかしてたら大変だもんな。……本当に、よかったな」
逢坂《あいさか》はなにも言わない。
それでいい。
ただ逢坂の頬《ほお》の柔らかな感触が、首筋に触れている。怪我もせず、ちゃんと背中にくっついている。それでいいのだ。それだけでいい。
警察《けいさつ》の自転車が追って来ないのを確認《かくにん》しながら、ようやく路地から抜け出した。街灯の眩《まぶ》しい車道に接した広い歩道に復帰する。たまにすれ違うのは仕事帰りの勤め人や、犬を連れたおばさん世代。誰《だれ》も竜児《りゅうじ》と逢坂に余計な視線《しせん》をくれはしない。みんなそれぞれ、大変なのだ。リーマンもOLもおばさんもおじさんも、きっとみんなそれぞれに、それぞれの重さで敵がいるのだ。電柱をぶっ殺したくなる夜だって、みんなもきっとあるのだろう。大人《おとな》だからしないけど。
すれ違う彼らが電柱を血祭りに上げているサマが不意に頭に浮かび、竜児は思わず小さく笑った。それに気づき、
「なに笑ってんのよ」
逢坂がグイ、と身を乗り出して、竜児の横顔に息をかける。
「なんでもねえ。……下らないこと」
「え!? なによ、なになに! 言いなさいよ!」
「ぐえっ」
と、きつく締《し》められたのは、首。
「お、おまえなあ……」
「気になるってば。ねえなにを笑ったの?」
「……しようもねえことだから気にすんなって……く、くるしいっ!」
「言いたくないなら言えないようにしてやるまで」
「ぐえええっ!」
ああもう――本当に、なんて奴《やつ》なのだろう。気道を確保しようと暴《あば》れながら竜児は思う。こいつは横暴《おうぼう》で、我儘《わがまま》で、自分勝手。物思いにふけることさえ許してくれない暴君タイガー。こいつと関《かか》わったおかげで、どれだけ痛い目を見たことか。あの時も、あの時も、あの時も。
そう繰《く》り返し、繰り返し……繰り返し思うことで、痛みは和らぐと思ったのだ。しがみついてくる体温に、どんな感情も湧《わ》かなくなると思ったのだ。逢坂の暮らすブルジョアマンションが近づいても、胸は騒《さわ》がないと思ったのだ。
だけど、でも。
不意に首に絡む腕が緩《ゆる》み、
「ここでいい」
逢坂《あいさか》がそう囁《ささや》いて肩がひとつ叩《たた》かれる。
マンションのエントランスの前で、彼女はぴょこんと背中から飛び降りる。背中が急にがらんどうになり、重みもなくなり、ぬくもりも消える。すべてなくして振り返り、ガラスのドアの前に立つ逢坂を見る。
そうしてぎゅっ、と、掴《つか》み締《し》められた心臓《しんぞう》の苦しみは――いかばかりの、ものか。
「じゃあ、竜児《りゅうじ》。時間、ちょうどぴったり。ほら」
細い手首を掲げて見せて、逢坂は腕時計を竜児に指し示した。文字《もじ》盤《ばん》を指す二本の針は、ちょうど23時59分。
「ああ、疲れたね――無事に、帰れたね。今日《きょう》で、これで、終わりだね。あんたはもう、今日が終われば私の犬じゃない。あと三十秒……ねえなにか言うことないわけ?」
「……言うことって……なんだよ」
「駄犬として。ご主人さまに、最後になにかないの? 竜児」
「……そんな……急に言われたって……」
2メートルほどの距離《きょり》を置き、逢坂は薄《うす》く微笑《ほほえ》んでいた。微笑んでいるように、見えた。そうして小首を傾《かし》げ、竜児の言葉を待っているようだった。だけど言うことなんて――言えることなんて。
「……十秒……五秒……」
なにも言えなかった。
通り抜ける風が二人の間を分かち、逢坂が時計を見せた腕を下ろす。そして、
「……ばいばい」
「おう。……あ、明日《あした》! 明日、がんばれよ!」
たった、それだけ。
「ばいばい、――高須《たかす》くん」
6
寝坊した。
朝食と弁当用に米を炊《た》いたつもりだったのに、炊飯器《すいはんき》のスイッチを入れ忘れていた。
インコちゃんのエサやりと水替えも忘れた。
慌てて家を出て来たせいで、靴下も左右違うのを穿《は》いて来てしまった。
「……ど、どうかしてるな、本当に……」
低く小さくひとりごち、竜児《りゅうじ》は自分の足元を思わずじっと眺めてしまう。右は黒。左は紺の登校した学校の靴箱《くつばこ》前、ローファーから上履《うわば》きに履き替えようとして初めて気づいた痛恨のミスだ。今さらどうにもできない、さらに結構目立ってもいる。色味はくっきり違うのに、なんでこんな間違いを……。
だが考えている暇はなかった。遅刻寸前の昇降口には生活|指導《しどう》の教師が立っており、急げ急げと入ってくる生徒たちを急《せ》かし続けている。竜児も軽く項垂《うなだ》れたまま怒られない程度に急いでみせ、階段を上がり、教室を目指した。が。最後の一段を思い切り踏み外し、したたかに脛《すね》を打ちつける。声も出せずに悶絶《もんぜつ》し、狂おしく厳《きび》しい目を眇《すが》め、通りすがりの下級生を本当に意味なくビビらせる。
もはやため息も尽き果てて、脛を摩《さす》りつつ思うのはただひとつ。こんなにも調子《ちょうし》が出ないのは、やっぱり昨夜、逢坂《あいさか》と決別したせいだろう。
面倒《めんどう》だったはずの朝のお迎えや、一人前余分な弁当作りから解放されて、竜児の朝は楽になったはずだった。元どおりのそこそこ快適な生活に戻ったはずだった。それなのにこの体《てい》たらく――一度乱された生活ペースは、簡単《かんたん》には復調しないらしい。犬の生活がここまで身に染みていたのかと思うと情けないことこの上ないが、罵声《ばせい》なしの静かな朝は、奇妙に締《し》まりがないともいえた。
逢坂はどうなのだろうか。のろのろと歩き出しながら、詮無《せんな》いことを考えてしまう。奴《やつ》は自分の迎えなしに、ちゃんと起きられたのだろうか。遅刻などしていないだろうか。弁当は持ってこられただろうか(などと言いつつ、今日《きょう》は自分もコンビニ飯だけれど)。
考えたって意味なんかないか、と自嘲《じちょう》気味に思考を振り払い、竜児《りゅうじ》は教室の引き戸を開け放った。そして足を踏み入れかけ、
「……おぅ!」
大きくのけぞり、たたらを踏んだ。思わずドアも閉めてしまった。
なんだあれは。
廊下で一人、とりあえず、深呼吸を一吸い・一吐き。すこし落ち着き、考える。今見たあれは、一体なんだ。どういう状況でああなった。
気は進まないが確《たし》かめなければ――というか、教室に入らないわけにはいかない。グッ、と再び手に力を入れ、心を鎮《しず》めてもう一度ドアを開き、
「……わかったわね?」
今度こそ竜児は固まった。
耳に飛び込んできたのは、ドスの利いた低い声。逆らう奴《やつ》は容赦しねえ、そんな響《ひび》きで突き刺さる硬い言葉。
「つまらないことこれ以上ぐだぐだ言う奴がいたら……絶対に、私、許さないから」
教室の中央、竜児に背を向けて立って演説しているのは逢坂《あいさか》大河《たいが》。人呼んで、手乗りタイガー。
そしてその周囲、取り囲んだ逢坂から精一杯の距離《きょり》を取り、壁際《かべぎわ》に貼《は》りつくようにしてクラス全員がコクコクコクコク! と激《はげ》しく頷《うなず》いて見せている。
なんだこれは。もうそれだけしか言葉は出ない。何度でも言うぞ――なんだこれは。
「……本当にわかったのね。二度と、同じことを言わせるんじゃないわよ……」
小さな虎《とら》が、もう一唸《ひとうな》り。「はいぃ!」と情けない声を上げ、ブルルルルッ、と震《ふる》える男ども、女子ども。
よくよく見れば逢坂の周りの机と椅子《いす》は蹴《け》り倒されたみたいにあたりに転がり、鞄《かばん》や誰《だれ》かの持ち物が激しく散乱し、教室は本当にひどい有様だった。台風が通った後そのものだ。そして逢坂の声は静かではあったが、その肩は叫んだ後みたいに激しい呼吸に上下もしていた。もしかして、いやおそらく、これらは逢坂がやったのだ。でも、どうして。
「あっ……高須《たかす》……」
誰かが気がつき呟《つぶや》いた。確かに自分は高須だが、
「……な、なんだ……? なんだよ?」
なぜクラスの奴らはみんなして、一斉に奇妙な顔をする。幸いなことに嫌恵の表情ではないが、落ち着かないような、気まずいような、本当になんとも言えないツラ構えで奴らはズラリと雁首《がんくび》揃《そろ》えているのだ。
そして、逢坂《あいさか》が声もなく振り返った。竜児《りゅうじ》と静かに視線《しせん》を合わせた。おはよう、とさえ、逢坂は言わないのだった。その代わりにかすかに顎《あご》をしゃくり、クラスの連中に「散れ」と。
すると集まって震《ふる》え上がっていた奴《やつ》らは三々五々それぞれの席へと戻り出し、そして数人は竜児の下へ歩み寄って来て、
「……た、高須《たかす》……その、悪かったな。変な噂《うわさ》をして」
「は? 変な噂?」
「ごめんな、もう二度と妙な詮索《せんさく》はしないから」
「……な、なにが? なんの話なんだ、これは」
普段《ふだん》親しくしている能登《のと》に至っては、
「……高須よー、俺《おれ》、別に全然変なつもりはなかったんだよ。純粋におまえすげえな、って思ってただけで……うらやましいような感じもあってさー。ごめんな、でももう二度とそんなこと思わないから」
などと、神妙に顔を引《ひ》き締《し》めて見せている。去ろうとするその肩を掴《つか》まえ、竜児は慌てて真意を尋ねた。
「ちょっと待てって。だから、なんの話なんだよ? 一体なにがあったんだ? 逢坂が暴《あば》れたんだな、これは。あいつはなにをしでかした?」
「や、その……」
「はっきり言えって」
能登の顔が気まずそうに引きつり、目玉がきょろりと空を彷徨《さまよ》う。問い詰める竜児の三白眼《さんぱくがん》にも、いまさらビビりはしない仲だ。しかし竜児はその肩を離《はな》しはしない。理由を聞くまでは離すつもりはない。それがわかったのだろう、能登は「まあ、なんつうか」と濁《にご》った言葉で語り出した。
「ええと……聞かれちゃったみたいで……俺たちがおまえと手乗りタイガーのことを噂してたのを」
「噂?」
「あー……うん、二人は付き合ってるんじゃないのー、みたいな。……そうしたら烈火の如《ごと》く手乗りタイガーが切れちゃった。『私と高須くんはなんの関係もない』って大暴れしたんだよ……おっそろしいぜ、マジで……初めて手乗りタイガーの本領見ちゃった。俺もう絶対、あいつには逆らわない。下らないこと言うな、適当な憶測で勝手なこと言うな、そんな噂をこれ以上広める奴がいたらブッ殺す、えげつないやり方で本当に殺すからな、って……櫛枝《くしえだ》が止めようとしても全然ダメでさあ。なあ、そうだよな、櫛枝」
能登が呼び止めたのは、たまたま通りすがった櫛枝|実乃梨《みのり》――手乗りタイガーの唯一にして最大の理解者であるはずの、その人だった。だがいつもの太陽のような笑顔《えがお》はそこになく、
「あー……あのね、高須くん。あのー、あのさー……」
深くなにかを考えているような静かな視線《しせん》で、竜児《りゅうじ》の目の底を探ろうとしている。なにかを言おうとしている。だが、
「……みのりん。余計なこと、言わないで。私怒るよ、相手がみのりんでも」
その背後から見咎《みとが》めた逢坂《あいさか》が、硬い声で言うのだった。
「高須《たかす》くんに、みのりんも言ってよ。……昨日《きのう》のあれは誤解だったってわかった、って。ちゃんと、そう言ってよ。本当はクラスの奴《やつ》らなんかどうだっていいんだから。……一番、それを分かってほしいのは、みのりんなんだから」
「……大河《たいが》」
「言ってよみのりん」
口をへの字に歪《ゆが》め、子供のように逢坂は言い募る。実乃梨《みのり》から目を逸《そ》らさずに、竜児に視線を投げることはせず、眉《まゆ》をきつくしかめてみせる。
実乃梨はしばらくなにも言わずにその視線を受け止めていたが、やがて根負けしたように、わかったから、と再び竜児に向き合った。
「高須くん。昨日は誤解したりして、ごめんね」
「……や、別に……そんな……おまえに、謝《あやま》られるようなことは……」
「大河がね」
竜児の片思いの相手は、そっと視線を惑わせている。竜児に向き合いながらも、こうしていることに本当は納得していないような顔をして。
「……大河がね、そう言えって言うんだよ。誤解だったってわかったって言え、って。でもさ……こんなことを大河がするのはさ、」
多分《たぶん》、と彼女が口にしたところで、危うい均衡《きんこう》は破れてしまった。
「おっ!? なんだこの惨状は! クラス委員である俺《おれ》が遅刻するだけで、ここまで風紀が乱れるというのか!?」
騒々《そうぞう》しい音を立て、北村《きたむら》が登校してきたのだ。実乃梨はぱくりと口をつぐみ、言葉を継ぐのをやめた。踵《きびす》を返して竜児に背を向け、逢坂の頭をポン、と叩《たた》く。そんな顔するなよお、などといつものとぼけた声で言ってみせて、そのまま自分の席へと向かう。
そしてなにも知らない北村の指示で、倒された机や椅子《いす》が次々に片付けられ始めた。
「さあ急げ急げ! こんな状態を|恋ヶ窪《こいがくぼ》先生が見たら、ショックでまた婚期が遅れてしまう!」
竜児の見ているその前で、逢坂は北村へと歩み寄ったのだった。そして爪先《つまさき》立《だ》ち、北村にしか聞こえない声音で、なにかを囁《ささや》いた。
北村は、一瞬《いっしゅん》不思議《ふしぎ》そうな顔をしたが、すぐにいつもどおりの屈託《くったく》のない笑顔《えがお》で逢坂に頷《うなず》いて見せた。
竜児の目に逢坂の唇は、――話したいことがあるから、放課後《ほうかご》。と、そんなふうに動いたように見えていた。
ドジることもなく。緊張《きんちょう》のあまりどもることもなく。転ぶことも、なにをすることもなく。逢坂《あいさか》はちゃんと犬の手助けなしに、北村《きたむら》を呼び出すことに成功したのだった。
***
どこかギクシャクとしたまま2年C組の一日は終わり、実のところ、竜児《りゅうじ》は逢坂と北村から目が離《はな》せなくなっていた。
年《とし》甲斐《がい》もなく全身|薄《うす》ピンクのモテ系ファッションで決めた独身が終礼をして出て行き、教室は一気にざわめきを増す。部活に行く者、委員会がある者、誘い合わせて帰る者、やり残したお喋《しゃべ》りを続けようとする者、――目と目で合図しあって、連れ立って教室を出て行く者。
竜児は思わず尻《しり》を落ち着けかけた席を蹴《け》っていた。少し離れて歩く逢坂と北村を追って大股《おおまた》で歩き出していた。
悪《あく》趣味《しゅみ》だろうか。でも。そんなふうに迷ったのは数秒間。でも、でも、でも、と繰《く》り返し、でもやっぱりその足は、あまり音を立てないようにして駆け出さずにはいられなかった。
だって、あの逢坂のことだ。一体どんなドジをやらかすかわかったものじゃない。転ぶかもしれない。階段から落ちるかも。いざという時に緊張して、なにも言えなくなるかもしれないし、泣き出してしまうかもしれない。なぜなら逢坂は超弩級《ちょうどきゅう》のドジで、そしてその事実は自分しか知らないのだから。
だから――心配だから――目を離せないから――だから。
……だから?
「っ……」
階段を下りていく二人の背を追う、その足が不意に止まる。
竜児は、改めて自分に問いかける。
だから、なんだと言うのだろう。逢坂がドジで心配だから、それで自分がどうすると言うのだ。助ける? でも、どうして?
逢坂と自分の間にどんな関係が……いや、自分にどんな権利があって、逢坂を助けようなどと。これまでのことは全部なかったことにした。ラブレター事件の前の関係に戻ろうと、逢坂はそう言った。
ならば、自分だけが知っている逢坂、なんてものも、この心からは消し去らなくちゃいけないはずだ。いや、そんな感傷的な思いよりももっと現実的に考えろ。好きな男に告白しようとしている奴《やつ》がなにかドジをやらかしたからって、一体どんな手助けができる。その目の前に飛び出して、「大丈夫か! 俺《おれ》が見守っているぞ!」とでも言うのか。……なんだよそれは、コントにもならねえ。
竜児の眉根《まゆね》がグッと寄る。凶悪な瞳《ひとみ》が細められ、ギラギラと危ない光を放つ。でも、怒っているわけではない。これから出入りに行くのでも、気に食わない奴《やつ》を締《し》めに行くのでもない。そうではなくて……誰《だれ》もわかってはくれないけれど、そんなのでは、なくて。
ふっ、と強く、息を吐く。
「……帰ろ」
両足に力を入れ、そのまま方向転換。去り行く二人に背中を向け、竜児《りゅうじ》は放課後《ほうかご》の教室へ戻る。その背は誰も気づいていないが、ここ数日間で、また何センチか伸びたようだった。
能登《のと》と、最近話すようになった春田《はるた》がどこかに寄ろうと誘ってくれるが、それを断り、竜児は自分の席へ向かう。なんだかひどく落ち着かなくて、とても友達と遊んで帰る気にはならない。とはいえまっすぐ帰る気にもなれなくて、一人で本屋にでも寄ろうかと思っていた。
帰り支度《じたく》を整《ととの》えて、便所に行こうと廊下を一人歩き出す。
手を拭《ふ》きながら出てくる奴と入れ違いに中に入ると、竜児の他《ほか》には誰もいなかった。ガラン、と冷たく静まり返り、芳香剤の香りだけが異様に強く鼻をつく。
用を済まして洗面台に向かい、手を洗い、鏡《かがみ》の中の自分の顔を覗《のぞ》き込んだ。いつもとなにも変わらない、おもしろくもない自分のツラだ。いまさら見とれるモンでもないし、見飽きたモンでもあったから、だから、……やっぱり、どうしても。
竜児の思考の焦点は、自分の顔なんかに留まってはいなくて。思ってしまう。考えてしまう。
「……あいつ、すげえ顔してたな……」
今頃《いまごろ》どこぞで頑張っているのだろう、手乗りタイガーのことを。
今日《きょう》一日、授業中や休み時間、竜児はそれとなく逢坂《あいさか》の様子《ようす》を盗み見ていた。時を追うごとに逢坂の顔色はめまぐるしく変化し、つい今しがたのホームルームの最中なんてほとんど能面のようだった。赤や青を通り越して、いっそ真っ白になっていたのだ。
せっかく告白するのだから、かわいい顔をしていればいいのに。本当に不器用な奴だと思う。
そうだ、不器用といえば今朝のあの騒《さわ》ぎ。朝の教室で大暴《おおあば》れし、親友の実乃梨《みのり》にさえあんな表情で詰め寄った。いや、多分《たぶん》、実乃梨が相手だからこそ、本気の顔で詰め寄った。
それはつまり、自分の――竜児のために。
実乃梨に片思いをしている竜児が、実乃梨に誤解されないために。それだけのために、きっと逢坂は暴れたのだろう。
今にして思えば、逢坂は自分のためになんかこれっぽちも騒いだりはしなかった。つまり、北村《きたむら》の誤解を解くためには。だって今朝、逢坂が大暴れした時には、北村はその場にはいなかった。
つまり、ただ純粋に。竜児のために、逢坂は……
「……っとに……もう……」
吐息とともに、言葉は消えた。不器用だとか、ばかとかドジとか、……そんな言某ではあいつのことは、到底言い尽くせっこない。
なにもあんなふうにしなくたってよかったんだ。もっとうまい立ち回り方は、いくらもあったんだ。そうせずにあんな損なやり方を貫くあいつは――かわいそうなほどに、優《やさ》しいのだ。心からそう思う。逢坂《あいさか》は本当に、優しい女の子なのだ。笑いたくなるぐらい手乗りタイガーには不似合いな言葉だけど、でも、そう思うのだから仕方ない。
竜児《りゅうじ》は優しい、と呟《つぶや》いて、自分は人に優しくできないと泣いた、あいつが一番優しい。傍《そば》にいないとわからないけれど、だけど絶対、それは真実。少なくとも竜児にとっては。
「おわっ!」
突然の声音に、弾《はじ》かれるように振り返る。
便所に入ってきた他《ほか》のクラスの奴《やつ》が、叫んだ顔のまま固まっていた。一体なにごとか、と見ているうちに、そのまま後ずさりするようにして「おっ、お邪魔《じゃま》しましたー!!」と喚《わめ》いて出て行ってしまう。とっさに投げた視線《しせん》の鋭《するど》さに、怯《おび》えられてしまったらしい。評判だけなら手乗りタイガーと同等に恐れられているのだ、相変わらず。
きっと今頃《いまごろ》廊下では、便所には高須《たかす》が張っている、危険だ、などと触れ回られている頃だろう。しばらくは誰《だれ》も入って来るまい。誰とも顔を合わせたくないような、微妙な今の気分にはぴったりの状況だ。
とりあえず、しばらく誰も入ってこないならば風を通してやろうと思う。湿気は臭《にお》いの元にもなるし。潔癖症《けっぺきしょう》を発揮して、竜児は窓を開け放ちに奥へと進む。
鍵《かぎ》を回し、窓を開き、そして――固まった。
「北村《きたむら》くんっ! 私、北村くんが、……北村くんの、こと……っ……あのっ……そのっ……」
固まったまま、竜児は「……えぇ!?」声にならないままに呟き、頭を抱える。幻聴《げんちょう》、なんかではもちろんなくて、ええと、これはつまり。
逢坂の声が、ばっちり、くっきり、まるっきり、聞こえてしまっているのだった。
この男子便所は二階にあり、一階も来客用の便所になっている。そして外は、校舎……というか便所の窓と木立に挟まれた空間になっている。信じがたい気持ちで下を覗《のぞ》き込んでしまいなにかの間違いじゃないかという最後の希望が打ち砕かれる。
その微妙な場所に、逢坂と北村が、二人きりで立っていたのだった。ちょっと考えればわかるだろう、トイレにいる奴には筒抜けのその場所に。
「よりによって……なにも……便所の裏でやることねえだろ……」
――ドジ。
頭を抱えたまま低く呻《うめ》き、竜児は窓の下に座り込んでしまう。確《たし》かにそこは人通りもないけれど、人通りがない理由は……率直に言うならたまに臭いからなのだ。
開け放った窓の下、尻《しり》はつかずにしゃがんだポーズ、顔を膝《ひざ》に押し付けてもはや吐く息もなかった。やっぱり、結局、逢坂《あいさか》はドジだ。第一ここに誰《だれ》かが来て、自分と同じように窓を開けたらどうなる? 二人の姿は全部丸見えになってしまうんだぞ?
仕方ない。……仕方ないから、竜児《りゅうじ》はここにしばらくいてやることにする。誰かが来たら、悪いが睨《にら》んで帰ってもらう。ここでこうして見張ってやる。
とにかくまずは窓を閉めて、この耳にも声が届かないようにしなければ。そう思って身を伸ばしかけ、
「ちょっと待った」
聞こえてしまった北村《きたむら》の声に動けなくなる。
「なんとなく、だが、話の流れが見えるような気がするぞ。しかし誤解して恥をかくのもなんだから、おまえの話を聞く前に、ひとつ確認《かくにん》しておく。……単刀直入に聞くが、高須《たかす》はおまえと付き合っているんだよな?」
ギク、と跳ねたのは心臓《しんぞう》だ。立ち聞き……いや、しゃがみ聞きではあるけどとにかく、こんなことをしてはいけない。そうは思うのだけれど、でも、自分の名前が出てしまってはどうにも耳を塞《ふさ》げなくなる。いやだめだ、早く窓を閉じろ、そうでなければ逃げろ――
「たっ、高須くんの、ことは、」
――そう思うのに。
動けない。緊張《きんちょう》のせいか少し甲高《かんだか》くなった逢坂の声は、縛《しば》ろうとしているみたいにして竜児の身体《からだ》に絡みつく。そして、
「高須、くんは、その、その……その、その……その……」
その、の後が続かない。
ばかやろう、なにやってるんだ、なにをモタモタしているんだ、否定しなきゃだめだろ、おまえはなんのために便所の裏なんかに突っ立ってるんだ――頭の中だけで竜児は叫び、声も出せずにしゃがんだまま悶《もだ》える。だけど逢坂は先へ進めない。
沈黙《ちんもく》だけが積《つ》み重なって、ついに「その」さえ出なくなった。並の男なら、そろそろ緊張感に耐えられなくなって「用がないならこの辺で」となっていてもいい頃《ころ》だ。北村だって、……いや、北村は並の男よりもずっともっと多忙なのだった。そうだ、このままでは行ってしまう。北村は逢坂の気持ちを知らないまま、去ってしまう。
早く言え、言わないとだめだ――両手を硬く組み合わせ、竜児は奥歯を噛《か》み締《し》めた。息さえ忘れて、しかしなお、逢坂は声を出すことができない。永遠にも似た沈黙が、幾重にも幾重にも重なりゆくだけ。
最初から無理だったのだろうか。教室で呼び止めることさえできない相手に告白なんて、無謀《むぼう》だったのだろうか。もうだめか。目を閉じ、竜児は諦《あきら》めた。
その瞬間《しゅんかん》だった。
「高須《たかす》くんのことは、みのりんの誤解なの! 私は、北村《きたむら》くんが……」
風が。
「……好き……っ」
……ああ。
ずるずる、と、足から力が落ちていく。尻《しり》が床についてしまいそうになって、あやういところで持ちこたえる。
竜児《りゅうじ》は、まだ息を止めていた。声がなにか漏れてしまいそうで、固く唇を閉じていた。しまいには両手でその口を押さえつけた。心の中で繰《く》り返すのは、おまえ、すごいな、と。
声もかけられない相手なのに、あんなに緊張《きんちょう》していたのに、それでも逢坂《あいさか》は告白した。自分の気持ちを北村に伝えた。自分には、多分《たぶん》できない。同じように今、実乃梨《みのり》に告白しろと言われても、自分にはできないことだと思う。無責任に応援していたくせに、逢坂のようにはできない。あんなふうにまっすぐには、なれない。
響《ひび》いた二文字は胸を射たのだ。無関係の竜児の胸を、その覚悟と潔《いさぎよ》さとで、光のように突き刺した。逢坂の想《おも》いをまっすぐに乗せて、多分北村の胸をも刺したはずだ。刺して、そして、さらったはずだ。どこかへ運んだはずだ。
そう、これでいいのだ。これで全部、あらゆる心はあるべき場所に立ち返った。向かうべき場所へ向かって行った。
なにかをついに失った、などと思うのは、だから間違ったことなのだ。
「好き。俺《おれ》を。……高須《たかす》のことは、誤解。櫛枝《くしえだ》の誤解だったのか。逢坂《あいさか》と高須のことは」
「……そう、なの。私が言ったんじゃ、みのりんは全然信じてくれなくて……」
北村《きたむら》はすこし考えているように間を置き、やがて納得したようだった。
「そうか。それなら悪かったな、すっかり勘違いしてしまった。櫛枝も思い込みが強いからな。……わかった。ああ、わかった」
「……うん」
穏《おだ》やかな北村の声。
今にもかすれて消えそうな、逢坂の声。
そして――声を漏らさないように、自分の手で口を押さえた竜児の息。
それらは静かに交差して、ガランとした男子便所をゆっくりと満たしていた。一人声を殺してしゃがみこんだ竜児《りゅうじ》の周囲を、優《やさ》しい響《ひび》きで震《ふる》わせていた。
ざわめいて共振し続ける胸と息を、しかし竜児は振り切ろうとする。振り切って立ち上がり、窓を閉じて家に帰ろうと、
「で、でで、でもっ! でも、ね!」
その時だった。
窓の外、逢坂の声が唐突に弾《はじ》けて高く跳ねた。
「でも、その、別に、高須くんのことが嫌いなんじゃない! 全然、嫌いなんかじゃないの! 一緒にいると、息が苦しくないの! いつも苦しいのに……そう思ってたのに……でも高須くんは……竜児は、私においしいチャーハンを作ってくれたの! 傍《そば》にいてほしい時に、竜児だけが傍にいてくれたの! 嘘《うそ》をついてでも、私を元気付けてくれたの! ……一緒にいたいって、いつも、そう思うの! ……今も、そう思ってるの! ちぎれそうで、なんだか痛くて、私、竜児を……いつだって、いつだって……今、だって! 竜児が、いてくれたからっ! いてくれたから、私はこうやって……っ!」
呆然《ぼうぜん》と、竜児は全身を凍りつかせる。
なにをやってる。一体なにを、やらかし始めている。
今にも泣き出しそうな声をして、なにを宣言し始めているんだ。逢坂。
「……絶対、嫌いなんじゃ、ないの。私は竜児が……竜児、が……っ」
それじゃあ、それじゃまるで――まるで。
「そうか」
微笑《ほほえ》みの気配《けはい》を孕《はら》んだ、北村の声。
「大丈夫だ。逢坂の気持ちは、多分《たぶん》、ちゃんと正しくわかったと思う。とにかく……高須と親しくなった、っていうのは本当のことでいいんだな。それを聞いて、安心した」
「あ……安、心……?」
「ああ。ちゃんと覚えてるか? 俺《おれ》は今からちょうど一年前、おまえに告白したよな。おまえは綺麗《きれい》だし、その怒りを隠さないストレートな性格がいい! 惚《ほ》れた! ……って」
初耳だぞ――竜児《りゅうじ》は立て続けの驚愕《きょうがく》のあまりこぼれんばかりに目を見開くが、逢坂《あいさか》はなにも言わない。足がもつれるぐらいに驚《おどろ》いているのは竜児だけ。知らなかったのは、竜児だけ。
「まあ、一秒後には振られたけどな」
「……覚えてる。忘れるわけ、ないじゃない。あんな変な告白してきたの、北村《きたむら》くんだけだもの。あれからうちのクラスにやって来て、みのりんと部活の話をしてるたびに、いつも……あ、あの人だ、って……ちゃんと覚えてた」
「なんだ。完全に無視されてたから、告白のことさえ忘れられてると思ってた。あの時、おまえを綺麗だと思ったから俺は告白したけれど、高須《たかす》と知り合ってからの逢坂はあの時よりももっと魅力的《みりょくてき》だ。おもしろい顔を、するようになったからな」
「お、おもしろい、顔? ……私が?」
「そうだぞ。おまえは本当に、高須といる時にはおもしろい顔ばっかりしてた。だから、安心した。高須はすごくいい奴《やつ》なんだ。そしてあいつをあんなふうに思える逢坂は、本当に、素敵《すてき》な女子だと思う」
北村は、明るく笑っているようだった。そして、
「わ、私……なに言った!?」
失敗に気づいたらしい逢坂の叫び声。
「ちょっと、ちょっと待って……私、なに言ってるの……北村くんも、なに言ってるの! 竜児のことなんか関係ないんだってば、あの、……え!? 私の顔、おもしろい!? じゃなくて……ええっ!? やだ、待って、ちょっと! 好きって、言った!? 私ちゃんと、好きって言えた!? え、でも……うそ、あれ!?」
やだやだなにこれ……などと、うろたえまくり、我をなくし、手乗りタイガーは吼《ほ》えまくった。多分《たぶん》、北村でなければこの場を収めることなどできなかっただろう。
「逢坂。大丈夫だよ。大丈夫」
「だだだ大丈夫ってなにがっ!? 私、自分で自分がなにを言ってんのかもわからないのよっ!? それのどこが大丈夫っ!?」
「好意をもってくれて、本当にありがとう。ものすごく、嬉《うれ》しいぞ。これからは俺たち、きっとすごくいい友達になれる」
「とっ……とも……っ」
パニック状態のまま、逢坂の声はもはや言葉にもならないようだった。
「そうだ、友達に」
友達に。
それは逢坂が求めた関係ではなかったはずだ。だから当然逢坂は、そうじゃない、と言うはずだった。言うべきだと、竜児《りゅうじ》は思った。
それなのに、
「……友達……。私と、北村《きたむら》くん、が……」
それなのに。
逢坂《あいさか》は言わないのだ。私はあなたが好きなんです、友達ではなくて恋人になりたいんです、と。逢坂はそれを言わないまま、静かに声をかすれさせたのだ。
一度は告白されて振ったけれど、あなたを見ているうちに好きになりました。今はあなたが好きなんです。恋人になりたいんです。
――その一番大事な言葉をきちんと言い直さないまま。
自分勝手大王のはずの手乗りタイガーは、自らその爪《つめ》をおさめて引いた。「うん」――そんなたったの二文字だけの言葉で、その場から一歩退却した。してしまった。
「じゃあ、また明日《あした》!」
北村の快活な、よく言えば態度を変えない気遣いに満ちた、悪く言えば空気を読まない声が明るく響《ひび》く。
そして逢坂もパニックから立ち直り、いつもの平板な語り方を取り戻し、
「また明日。さよなら」
などと。
竜児はがっくりと頭《こうベ》を垂れた。髪を掻《か》き、目を閉じた。離《はな》れていく声から、二人が別の方向に分かれて歩き去ったのがわかっていた。呻《うめ》くしかなかった。
「……ドジな、奴《やつ》……」
――北村に、わかってもらえなかったじゃないか。
北村がストレート、と評したおまえの心の中に、どれだけの感情を――涙や、笑顔《えがお》や、怯《おび》えているのや寂しいのや、北村に対する恋心や、……本当にどれだけの壊《こわ》れやすい感情を隠しているか。
それらがどんなに痛々しくて、どんなに優《やさ》しいか。わかってもらえなかったじゃないか。おまえのことを、全然わかってもらえなかったじゃないか。
冷えて痺《しび》れる足を踏ん張って、竜児はゆっくりと歩き出した。
さよなら、と言って立ち去った逢坂は、きっと平気な顔をしていたはずだ。誰《だれ》にもわからない心を隠して、一人で歩き出したはずだ。
誰にもわからない声で泣きながら、北村に背を向けたはずだ。危なっかしい足取りで、誰も見ていないところで、一人で涙を零《こぼ》すはずだ。きっと。
だったら――それがわかるのが自分しかいないのなら。
問……高須《たかす》竜児はどうするべきか?
答……「そんなの、簡単《かんたん》だ」
強がりで答え、でも本当はわかってなんかいない。わかっているのは頭じゃなくて、この胸だろう。皮膚《ひふ》だろう。骨だろう、筋肉だろう、逢坂《あいさか》と長い時を過ごしたこの身体《からだ》の方だろう。
だから、動くに任せていれば――歩む方向を違えなければ、行きたい場所に行けるはず。
きっと。
***
いつかの帰り道のような夕暮れの中、
「……なに、あんた」
走った竜児《りゅうじ》はようやく追いつき、逢坂の肩を掴《つか》まえていた。人通りのほとんどない、静かな住宅街の小道。
振り返った逢坂はけげんな顔をして、息を切らしている竜児を睨《にら》みつけている。そして、
「やめなさいよ。……あんたはもう私の犬じゃないんだから、周りをうろちょろする必要はない」
冷たく言い放ち、手を振《ふ》り解《ほど》いて先を歩こうとした。その背中に言ってやる。
「泣きたいくせに。どうせ落ち込んでるんだろ、告白に失敗して。……ふられた、ってのともちょっと違うな、あれは」
「……っ!」
飛《と》び退《すさ》るように距離《きょり》を取り、逢坂は叫んだ。
「あ、あんた……見てたの!?」
「……言っておくけど、わざと覗《のぞ》いてたんじゃないぞ。おまえのドジのせいだからな。なんでよりにもよって男子便所の真下で告白なんかしたんだよ。便所に入ったら、偶然、聞こえちまったんだ」
夕日の下でもわかるほど、逢坂の頬《ほお》が赤くなる。くちごもった言葉は「そ、そうなの!?」と――どうやら本当に知らなかったらしい。
「で、どうする。夕飯の買い物に行くか。それとも告白の失敗記念に、また昨日《きのう》のファミレス行くか。愚痴《ぐち》も聞いてやるしおごってやるぞ、今日《きょう》限定だけどな」
「……なに……なによ。なに、言ってるの」
竜児に向き合い、逢坂は立ちすくんだ。信じがたいものを見たように大きな瞳《ひとみ》を見開いた。
「そういや今日は確《たし》か、豚肉の特売日だ」
「ぶ、豚肉じゃない!」
「牛《ぎゅう》、食いたいのか?」
「牛も違う! そうじゃなくて……なんでよ! ねえ、なんで!? あんたはもう……」
「自炊《じすい》にするか、やっぱり」
「だから――! だから……もう、いいってば! やめたんだってば! ……そういうのは、もう……っ」
「傍《そば》にいるぞ」
はっきりと、そう告げた。逢坂《あいさか》は言葉を失い、苦しげに眉《まゆ》を寄せた。その目を見たまま、竜児《りゅうじ》はもっとわかりやすく繰《く》り返す。
「おまえの傍にいる。メシも作ってやる。今までみたいに、うちに来い。弁当も作るし、朝も迎えに行ってやる。だから、」
「だからじゃ……だからじゃ、ないっ!」
悲鳴めいた声が、静かな小道に響《ひび》いた。
「なにを言ってるの!? そんなことしたら、また誤解されるじゃない! みのりんはまだ、納得し切ってないんだから! あんた、本当にみのりんにどう思われでもいいの!?」
「いいよ」
驚《おどろ》くほど簡単《かんたん》に、そんな言葉が口から出ていた。
「そうしたら今度は俺《おれ》が暴《あば》れるから。北村《きたむら》もいるところで、俺が誤解を解くために暴れてやる」
「な……な、んでよ……っ」
ポロリ、と、真っ白な頬《ほお》を涙の粒が転がった。ほら見ろ、と竜児は思う。やっぱりこうやって、逢坂は誰《だれ》も――自分以外の誰も――見ていないところで泣くんじゃないか。
「なんで、なんでよ……? なんで、そんなこと、するの! ……もう犬じゃないって言ってるじゃない! そんなこと、する必要はないんだったら!」
「……俺にだって、わからねえよ。でも、そうしたいんだ。……おまえ、泣くから。放っておけねえよ。腹減らしてないかとか、心配でたまらないんだよ。優《やさ》しい竜児くんとしては」
「なっ……なによ、それ!」
涙を零《こぼ》しながら、しかし逢坂は光の強い瞳《ひとみ》できつく竜児を睨《にら》みつけた。
「誰が、そんなこと頼んだ!? 子供じゃないんだから放っておいてよ! 別に心配なんかしてほしくないっ!」
そして竜児は、
「――ああ、そうか」
やっと頭でも理解したのだった。
なぜ、逢坂の傍にいたいと思うのか。
なぜ心配でたまらないのか。放っておけないのか。それはきっと、
「俺は犬じゃないから。……だから、おまえの傍にいるんだ」
「……はあ!?」
「犬は、本当にはおまえの傍《そば》にはいられないんだぞ」
そうなのだ。
犬ではないのだ。犬ではダメなのだ。
犬は呼ばれて来るもので、虎《とら》は誰《だれ》のことも呼んだりしない。虎は誰も呼ばないから、誰にも助けを求めないから、だから虎でいられるのだ。そういう獣《けもの》なのだ。
だから今、ここにいる自分は、犬ではない。
笑ってしまいそうだけど、そして笑われてしまいそうだけど、それでも竜児《りゅうじ》は言葉を継《つ》いだ。今、どうしても、それを言いたかった。逢坂に伝えたかった。
「俺《おれ》は、竜だ。おまえは、虎だ。――虎と並び立つものは、昔から竜だと決まってる。だから俺は、竜になる。おまえの傍らに居続ける」
手乗りタイガーと並び立つために、高須《たかす》竜児は竜になる。そう決めたのだ。笑われたって、バカにされたって――だが。
「……逢《あい》、坂《さか》……?」
誰もバカになどしなかった。笑っている奴《やつ》もいなかった。
ただ目の前の女は、声も出せないようだった。両足を踏ん張って立ったまま、涙で頬《ほお》を濡《ぬ》らしたまま、竜児をまっすぐに見上げていた。
怒っているようにも見えた。悲しんでいるようにも見えた。怯《おび》えているようにも、困っているようにも見えた。驚いているようにも、もちろん見えた。
小さい身体《からだ》に目一杯の感情を詰め込んで、爆発《ばくはつ》寸前の爆弾のように、強く拳《こぶし》を握っていた。
「……大《たい》、河《が》……」
名前を呼ぶと、弾《はじ》かれたように逢坂《あいさか》は――大河は目蓋《まぶた》を震《ふる》わせる。
「対等ってのは、そういうことだろ。……おまえは俺《おれ》を竜児《りゅうじ》と呼ぶ。だから俺も、大河って呼ぶぞ」
いいな、と念押ししてやったその瞬間《しゅんかん》。
「――なによ、それっ!」
足元に伸びる影《かげ》が、不意に大きくふくらんだ気がした。目の錯覚《さっかく》には違いないだろうが、
「なに、生意気言ってるの!? なんで私があんたなんかに呼び捨てにされなきゃいけないのよ! ……なにが、なにが対等よ図々《ずうずう》しいっ! 立場をわきまえろバカ竜児っ!」
「……え……」
爆弾が炸裂《さくれつ》したのは、うん、確《たし》かだった。
「はっ、自分が言ったことの意味さえわかってなんかいないんでしょっ! わかってたらそんな生意気言えるわけがないし! だいたいなによ、あーあ、そうか、あんたまさか――」
マシンガンのように罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》を並べ立て、唐突に大河は口を閉ざす。これだ、この瞬間が最も恐ろしいのだ。片目だけを凶悪に眇《すが》め、真下から身体を滑り込ませるように接近させ、全身から発する気迫で身動きできないほどに相手を威嚇《いかく》する。
これが、手乗りタイガーの本領なのだ。
「――まさか、私のことが好きなの?」
「……ばっ、」
「フン、まさかねえ!? そんな恐ろしい身の程知らずな真似《まね》、あんたなんかがしでかせるわけがないわよねえ!?」
「……おっ……あっ……」
ニヤリ、と歪《ゆが》む大河の口元を――びびってしまって目は見られないのだ――睨《にら》み返しながら必死になんとか叫んでやれた。
「あったり、まえだろうがっ!」
ああ、そうだ。そうとも。恋というのが実乃梨《みのり》への想《おも》いのようなものをさすのなら、それとは違う感情だ、これは。
だけど確《たし》かなのはただひとつ、そういう大河を、手乗りタイガーを、竜児は大事にしたかった。恋とは違っても、ただ、傍らにいたい。傍らにいるべき、そういう男になりたい。それだけ。それだけでいいだろ!? いけねえのかよ!?
「……くっそ! 行くぞ、スーパー! 豚肉買うぞ!」
思いっきりの大股《おおまた》で踏み出し、竜児《りゅうじ》はフン! と鼻息の気合。
まだまだ日常は続いていくし、時間はたっぷりあるのだから、これでいいということにした。もう、そうしたのだ。難《むずか》しいことは考えない。それよりとにかく今はメニューだ。
「今日《きょう》はいい豚肉があったら豚しゃぶにするか。ああでもシンプルに焼き肉も……って、なんでついてこねえんだよ!?」
大股でそのままスタスタ歩き、ついて来ていない大河《たいが》に気がつきUターン。早く来い、と急《せ》かしつつ、手を繋《つな》いだりはもちろんしない。鞄《かばん》の角で、その肘《ひじ》をつついてやるぐらい。
「竜児。……私、ヨーグルトパフェがいい」
「へっ? な、なんだよ、結局ファミレスかよ? せっかく作る気になったのに」
「その後、豚にする。しょうが焼き……ううん、やっぱ角煮。ちゃんとトロトロにしなさいよ」
「はあ? 角煮はいいけど、食えるのか? 今もう五時だぞ? うちの夕食は有史以前から六時半って決まってるんだ……って、無視するなよ! なんで先に歩いて行くんだよ!」
「……ね。竜児」
先を勝手に歩き始めていた大河が、不意に足を止めて振り返る。透明な眼差《まなざ》しが竜児を射る。
うっ、と思わず言葉につまり、
「……なんだよ、た……大河」
どぎまぎと返しながら視線《しせん》は夕暮れの空へ逃がす。が、
「――あんた、ちょっとは黙《だま》れないの?」
耳を疑うひどいセリフが竜児の耳をグサリと刺した。その竜児の目の前で、あーあ、と大河はわざとらしいため息。
「私は傷心なの。それぐらいはいくらなんでもわかるでしょ? ちょっとは気遣いとかないわけ? それからもちろん、この次の作戦にも協力するんでしょうねえ。まだまだあんなもんじゃ北村《きたむら》くんのこと諦《あきら》めたりしないから。それにあんた、さっきなんて言った? 竜だっけ? はん、竜でも犬でもどっちでもいいわよ、とにかく傍《そば》にいるって宣言したんだから、せいぜいキリキリ働きなさいよ。私の幸せのために」
さっきの涙はどこへ行ったやら――手乗りタイガーは、やっぱり手乗りタイガーなのだった。意地悪な言葉や嬲《なぶ》るような視線が、いとも簡単《かんたん》に竜児の心をさっくりいたぶる。
一体どれだけ尖《とが》った爪《つめ》と牙《きば》をもっているのだろう。気が荒くて凶暴《きょうぼう》で、この手乗りサイズの人食い虎はどこまでわがままを通すのだろう。
そして、そんな奴《やつ》の傍らにいる、などと宣言してしまった自分の未来はどうなるのだろう。
「は……早まった、か……」
思わず呻《うめ》き声を上げ、竜児はその場に立ち尽くす。失敗したのかもしれない。そんなふうに考え込んで、かたく両目をつぶって――だから、見ることはできなかった。
少し離《はな》れて、俯《うつむ》いて微笑《ほほえ》み、
「……『大河《たいが》』、だって……」
竜児《りゅうじ》を見つめる大河の姿を。腹の奥がくすぐったくてたまらなくて、やがてククク、と小鳩《こばと》のように笑い出してしまった彼女のその表情を。
今日《きょう》はまだ、この世界の誰《だれ》も。
[#地付き]おわり
[#改ページ]
あとがき
刻一刻と身体《からだ》の容積が増しております、たけゆゆです。己のぱんぱんに緊迫感《きんぱくかん》を孕《はら》んだ胴回りを見下ろすたびに、「これはもはや『おなか』じゃない、『腹』なんだ」と認識《にんしき》を新たにする日々です。でも、その腹に詰まっているのが希望だとしたら? 夢だとしたら? 笑顔《えがお》だとしたらどうでしょうね? ね? そんな腹なら……大きい方がいいね? 君がYESと言わなければ僕はどうなるかわからない!(横目で未開封のど○兵衛をギラギラ睨《にら》み……)
さて、「とらドラ!」第一巻はお楽しみ頂けましたでしょうか? お手に取って下さった皆様、本当に本当にありがとうございます! 少しでもお気に召《め》して頂けたら幸いです。
Q バトル分やセカイ分や燃《も》え分が見当たらない気がするのですが?
A 仕様です。
……とらドラの世界はそんな感じの、まったり日常モノです。地味に普通にラブでコメな感じで、この先ももわもわと続いていく予定です。よろしければぜひぜひぜひ、引き続きとらドラにお付き合い下さいませ。どうぞよろしくお願いいたします。
そしてもう一つ、「わたしたちの田村《たむら》くん」というシリーズも書かせて頂いているのですが、 感想のお手紙を下さった皆様、どうもありがとうございました! すべて超大切に読ませて頂いております。一通一通|抱《だ》き締《し》めて眠りたいほど、私とお手紙は真剣な交際を続けております。頂いた応援のお声にお応《こた》えすべく、「田村くん」の方にも新しい展開をお知らせできるよう努力していく所存であります。
ところで、この本が皆様のお手元に届くのは私の予想によると三月……(予想というか予定……)ですが、あとがきを書いている今日《きょう》は一月三日です。あけましておめでとうございます。松の内気分ゴリ押しで宣言させて頂きますが、今年《ことし》の目標はただ一つ、もりもり仕事に邁進《まいしん》することです。
この目標を決めた理由は、担当氏のこんな何気ない一言です。
「……竹宮《たけみや》さんは、普段《ふだん》、なにをしているのですか?」
言った方はきっと忘れていると思うのですが、言われた私は瞠目《どうもく》しました。そんな……普段なにを、って、私は専業ですが……バイトもしてないですし……。
そもそもなぜそんなことを尋ねられたのかを考えているうちに、やがて、声にはならなかった担当氏の言葉がフルバージョンで聞こえてきたのです。
「(新人でしかも専業なのに一年で文庫二冊、書き下ろしはうち一冊だけとあまり仕事をしている様子《ようす》がない)竹宮さんは、(社会人なら仕事をしているはずの)普段、(仕事以外の)なにをしているのですか?(あと、最近ちょっと太りましたか?)」
はた、と我に返りました。
私は普段《ふだん》なにをしていたか。確《たし》かに仕事もしました。ですがそれよりもずっと長い時間、お菓子を食べたり、パスタを茹《ゆ》でたり、牛乳を温めたり、パスタとたらこを和《あ》えたり、芋《いも》をふかしたり、たらこスパに海苔《のり》をかけたり、豚バラを煮たり、たらこスパに納豆もかけたり、……そんなことばかりしていました。……というか……たらこスパを食べすぎなのでは……?
そう、私はたらこスパをたぐる手を止めて、もっと社会人として仕事をするべきだったのです。一日二食もたらこスパ(しかも二百グラム)を食べている場合ではなかったのです。だからこんな腹に……! この肉をちぎって捨てられたら……!
そういうわけで、今年《ことし》は仕事に邁進《まいしん》しまくります。たらこスパも控えようと思っております。読者の皆様にもっともっともっと楽しんで頂けますよう、とにかくひたすら一意《いちい》専心《せんしん》、キーボードが粉々に砕《くだ》け散るほど頑張ります。
そして願《ねが》わくば、「一生《いっしょう》懸命《けんめい》働いたら、自然と身体《からだ》絞れてきたよー」という展開を希望いたします。編集部《へんしゅうぶ》にお邪魔《じゃま》してソファの席を勧められ、座ったら腹の肉がジーンズのウエスト部分に挟まって絶妙に痛くて席の移動をお願いする、なんて悲劇が、もう二度と起こらないで済みますように……。
それでは、ここまで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。前作に引き続きイラストを担当して下さったヤスさん、それから担当さま、これからもよろしくお願いいたします。「とらドラ!」の二巻で再びお会いできるよう、さっそく全速力で砕け散ったキーボードの欠片《かけら》を掻《か》き集めようと思います。
[#地付き]竹宮《たけみや》ゆゆこ