とらドラ スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋
食欲の秋。秋刀魚《さんま》、栗、きのこ……おいしいもの、たくさん……かくして虎は、太った。実乃梨考案の不思議ダイエット法を早々に断念した大河は、不倶戴天の敵、亜美とジムに行くことにするが、そこで彼らを待っていたものとは!?
春田浩次、十七歳。女子との理想の出会いは、川で溺れているところを助けて人工呼吸、そのまま彼女の部屋へ、その後は……フヒヒ! そんな妄想がなんと現実のものに。はたしてその顛末は? などなど「電撃文庫MAGAZINE」に掲載された短編を詰め合わせました。注目の書きおろしは独身話です!
超弩級ラブコメ、待望の番外編!
竹宮《たけみや》ゆゆこ
2月24日生まれ、東京在住。「このシューズはなんだ?」「ジョギング用シューズです」「何回履いたんだ?」「三回ぐらいです」「今は?」「単なる近所散策用超ラクチンシューズに転生しました」……段々自分がわがってきました。運動はできないタイプだと。
イラスト…ヤス
1984年8月3日生。O型。徳島県生まれで東京都在住。最近姉は彼氏が出来てウキウキらしいです。そのまま結婚しちゃうがいいさ!
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
|呪誼《じゅそ》を操る魔族
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とらドラ スピンオフ2! 虎、肥ゆる秋
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虎、肥ゆる秋
1
高須《たかす》竜児《りゅうじ》は、述懐する。
――そういや、こいつとの縁を結びつけたのは、そもそも食欲だったっけか。
「う〜〜〜ん」
友情でもなく、恋情でもなく、しかし確かななにがしかの情で繋がるこの奇妙な、それでいて複雑で強固で、いっそ擬似家族ともいうべき人間関係を形成することとなったきっかけ。それは、
「う〜〜〜〜ん」
具体的には、確か、チャーハン。そう、チャーハンだった。あの忘れたくとも忘れられない悪夢の深夜三時に食わせたチャーハンこそが、一番最初のきっかけだった。
「うぅぅ〜〜〜〜ん」
「……おう、ちょっと。いい加減にしろって。生鮮食品だぞ、手に持ったままじゃ温まっちゃって店にも他のお客さんにも迷惑になるだろうが」
「どぁーってるぉぃ!」
気圧され、哀しく口を噤《つぐ》む。力いっぱい巻き舌での返事は、黙ってろい、だったと思う。カッ! と一度牙を剥くようにそう怒鳴りつけ、逢坂《あいさか》大河《たいが》は再び「うぅぅ〜〜〜〜ん」……深い苦悩に飲み込まれていく。
その小さな右手には、豚肩ロースの塊のパック。左手には豚バラブロックのパック。肩ロースなら自家製チャーシュー(アンド、その煮汁で作るシンプルカレー)、バラならトロットロにとろける和風角煮、さあDOCCHI! と竜児《りゅうじ》に問われ、大河はスーパーの精肉売り場で豚肉を見比べたまま固まってしまったのだった。
ふわふわと淡く揺らいで腰まで届くウエーブの髪、透き通るみたいなミルク色の肌にフランス人形めいた精緻《せいち》な美貌。つむじの位置が竜児の胸辺りまでしか届かない、高校二年としては小柄すぎる華奢な体格と相まって、大河は今日もかわいらしい。両手に握り締めているのがどデカい豚の肉塊でも、その単純な構造の脳みそで考えていることが「いっそ両方食べられたら……」だとしても、大河はやっぱり美少女だ。
とびっきりの美少女で、そして、
「うぅぅぅぅ〜〜〜〜んぬぉぉ〜〜〜〜っ! もうだめだ、決められない! 竜児、あんたが選ぶのよ! あんたが作るんだから、責任もってせいぜいそのぶたっ鼻クンクン利かせて、おいしい方を選ぶんだ! さあやれぃ!」
死ぬっほど、偉そうだった。
「だーれがぶたっ鼻だよ! ……ったく。じゃあ安い方な。今日はロース、これでチャーシュー作る。決まり」
「……!?」
「なに。なんだよ。やっぱ角煮にするか? それならそれで別に、」
「……!」
「なんなんだよ、マジで。ロースでいいな? いいんだな? はい、決定。行くぞ」
未練がましく両手の豚肉をさらに見比べ、大河は結局、「ひゃー!」とかなんとか叫びながら目をつぶり、豚バラブロックを売り場に戻した。そうして竜児が手にしたカゴの中に、ロースの塊を素早く落とす。
「……『ひゃー!』……?」
「もう行こう、早く行こう、これ以上ここにいたらまた迷っちゃう! おなかペコペコなのに、これじゃ永遠にご飯の時間にならない! チャーシューって決めたらもうチャーシュー! あとはなんだ、付け合わせの材料か! ポテトサラダか、マカロニサラダがいい!」
竜児のカゴの端っこを掴み、グイグイ引っ張って大河は精肉売り場から必死に目を逸らしつつ退場。……退場しつつ、まだ未練たらしく、最後にチラっと豚バラの辺りを振り返る。竜児はもはや呆れるしかなく、
「なんかおまえ、最近食い気というか、意地汚さに磨きがかかっ……おう!」
「汚いいい!? なにを言うかこの野で租《そ》で卑《ひ》で俗であれこれ最悪な豚犬ブロックの三枚肉めが生意気な!」 ――罵倒はとっくに聞こえていない。大河は口で言い返すより早く、電光石火の目潰しをずぼっと深々、竜児の両目に下さっている。
「目、目があぁ…!」
「自分が悪いのよ、悔やむがいい。はっ、なーに大げさに痛がってるんだか、まったくイヤミな野郎だこと。……ちょっと、もうあんたってば恥ずかしい、ほら人が見てる」
目に第二関節まで刺さってたわよね……怖いわ……あそこの公立高校の制服よね……しっ、奥さん見ちゃだめ……善良なる世間の皆様の視線が、目を閉じていてさえ確かに痛い。痛いがしかし、竜児はスーパーの通路のド真ん中、学ラン姿で目を押さえ、うずくまったままいまだ立ち上がれない。痛いも痛くないも、死ぬほど痛いのだ。
そんなザマを腕組みスタイルで冷酷に見下ろし、大河は心底うざったそうに唇を歪める。乱暴で横暴で凶暴で、最強にして最凶な野獣――そう、彼女のまたの名は『手乗りタイガー』。虎にも迷惑な話だろうが、そんな通り名で知られているのだ、この女は。
「ほんっとにグズね、あんた。ま、いいわ。この心優しく清らかで超いい奴の私が、買う物揃えて持ってきてあげる。めっちゃくちゃおなかすいちゃってあんたの小芝居コントにも付き合ってられないもの。……にしても、ラッキーな男よねぇ、この私にお買い物を手伝ってもらうだなんてねぇ。さぞや感謝してもしきれない心境でいるのでしょう? わかるわー、でも大丈夫、その心のつかえを取るために、今後もせいぜいこき使ってあげるわよ」
フン。と。
……下れ、天罰! 竜児の禍々《まがまが》しくも吊り上がって狂おしいほどギラつく両眼が、血を噴くみたいに大河を睨む。ちなみに、目つきが悪いのは単なる遺伝、結膜《けつまく》が赤いのは目漬しを食らったせい。残念ながら、見た目どおりに呪誼《じゅそ》を操る魔族の血筋に生まれたわけではない。
だがその瞬間、
「ぎゃあ!」
大河はどべっとスッ転ぶ。なにもない通路で、きれいに一メートルも前方に飛んで。もちろん天罰などではなく、単に大河がドジなだけだ。竜児は己の恨みも忘れて慌てて立ち上がり、みっともなく伸びている大河に駆け寄り、
「おう、大丈夫か!?」
「……ったぁ〜……は! 今のショックでわかった! 私やっぱり、今日、角煮にする!」
「……そ、そうか……」
大河の意地汚さを再認識する。
カゴに入れていた肩ロースをバラブロックに変え、マカロニサラダの材料を揃え、牛乳、明日の弁当用の卵とハムと小松菜に、安かったパスタ。そして今が旬のキノコ類にも目が留まる。キノコたちはどれもこれも肉厚で大ぶりで値段も安く、
「おう、このしめじ……! この舞茸! 椎茸のでかいこと! エリンギもでかい! 見ろよこのブナピーの立派な株ったら……やっぱこれぞ秋の味覚、だよなあ! キノコ鍋もやりてぇなあ!」
キノコ売り場で竜児は目の痛みも忘れ、ほとんど小躍りでパックを漁り始めていた。大河も目をキラキラさせながら手を出してきて、
「ほんとおいしそう! やっば旬のものはいいわよねー! 竜児、これもこれも!」
「おう、それもそれも! って、あほか!」
差し出されたのはマツタケの桐箱。当然素早く大河の手から奪い取り、そっと丁寧に売り場に戻す。
そう、季節は秋だった。スーパーのそこここにプラスチック製のもみじの飾りがとりつけられ、鮮魚売り場では新鮮なサンマに主婦たちが群れをなしている。ちなみに高須《たかす》家では、サンマは昨日の晩に頂いた。じゅうじゅうパリパリに焼けた皮、脂がのった濃厚な身、醤油をたらして、大根おろしにすだちもたっぷりで……
「……栗ごはん……しちゃうかあ……!」
「……わあ……!」
ネットに入った丸々コロコロ膨れた栗に、竜児はサンマ回顧《かいこ》の延長線、ふらふらと夢見るように吸い寄せられていく。大河もふらふらとその後をついてくる。そして手を伸ばした栗の隣には、ぶりっと大粒、白いブルームで薄化粧した巨峰がずらりと並んでいて、その悶絶ものの香しさときたら。
「うあぁぁ……うまそう! 結構好きなんだよな、ブドウ……くっそ、なんで秋ってこんなに美味いもんが多いんだ!?」
「私も巨峰大好き! か、買う!? 買っちゃおうか!? デザートにさ!」
「か、か、か……だ……めだ! 七百八十円、まだ高い!」
栗だけを引っつかみ、竜児は逃げるように視線を巨峰からもぎ離す。そうだ、秋といえば食欲の秋。このところ妙に大河の食欲というか、食い意地というか、いっそ卑しさが増した気がしていたのだが、なんのことはない。この自分も、そして世間の皆様もきっと同じなのだ。
旬のものは当然においしいし、秋といえば実りの秋だし、そのうえ夏の暑さでバテていた身体がようやく調子を取り戻してきて、健全なカロリーを欲しだす頃。
それが秋という季節。馬もデブるというではないか。
「よーし、会計してくる! 混んでるから、おまえは出口で待ってろ!」
「んー!」
大河を先に行かせ、竜児は主婦たちに混じってレジの列に並ぶ。カゴの上に持参のエコバッグを乗せて、レジ袋はいりませんの意思表示。そこまでの動作にまったく淀みはない。
母子家庭に生まれ、竜児の主婦歴は高校二年にしてすでに五年以上に及んでいた。この春からは、生活の面倒を見てやらなければならない相手が実の母親の他にもう一人、なぜか増えてしまってもいた。そしてそいつに目潰し食らって元より悪どい目を充血させられ、
「いらっしゃいませー。ポイントカードお持ちですか」
「はい、あります」
「では……きゃー!」
「……」
レジのお姉さんに悲鳴を上げられたりもしているが――一応、主婦生活は今日も順調。季節の食材選びは楽しいし、なにより料理をはじめ、家事全般が竜児は大好きだ。買い物だってすこしも面倒だとは思わない。献立を考え、栄養を考え、季節感を考えながらあれこれ見比べて決断を下す。下手なゲームなんかより、竜児にはこの方がよほど感動スペクタクルだ。
ルンルン♪ と顔に似合わぬ上機嫌で、食材で一杯になったカゴをサッカー台に運び、大河はどこだ、と目で捜して、
「……おう!」
竜児は思わずーむ。
確かに秋だがbaa ー食欲の秋だが。ここー、と手を振る大河の姿に、さすがに驚きを禁じ得ない。夕食前だというのに、これから角煮を作るというのに、大河は竜児を待つわずかな隙にスーパーの一角のパン屋の前で、立ったままでかいマフィンに食らいついているのだ。「あ、これサツマイモマフィンだって。季節限定」じゃねぇ。
「なに食ってんだよ!? これからメシだぞ!」
「だーいじょうぶ、入る入る。ごはんちょっと控えめにするし」
でかい口でさらにマフィンに食らいつき、しかし大河は「はっ!」と唐突に深刻な顔をする。
「なんだよ。どした」
「……どうしよう、喉渇いちゃった」
「そりゃーマフィンなんか意地汚く立ち食いしてりゃ、喉ぐらい渇くだろうよ。家までガマンしろ、お茶いれるから」
「……どうしようどうしよう、カフエラテ飲みたいみたい。ほら、そこの、公園のとこのカフェの」
「なにい!? そんなもん、ダメに決まってるだろ! これからメシだっての! 俺の姿を見ろ! 豚肉持ってるんだぞ!?」
「すぐすぐ、すぐだから。保冷剤もらってくるし、ちゃ! っと飲んだら、満足するから。砂糖もいれないし。おごるおごる! そうだあんた、あそこのコーヒー好きって言ってたじゃん! 飲みなよ、ね!」
もんぐもんぐもんぐむぎゅー、とマフィンを口に詰め込みつつ、大河は竜児を引き連れて、本当にカフェまで行ったのだ。しかも砂糖なしのカフェラテの予定が、なぜかメニューを見たら「わー、メイプルシナモンクリームラテだって!」と、名前だけでもすごそうなブツになり、さらに竜児がちょっと手洗いに立った隙に、「これこれ! 秋の新作、カボチャのロールケーキ! 頼んじゃった、お〜いし〜い!」
……確かに、秋、なのだが。
食欲の秋なのだが。
――きっかけはチャーハンだったのだ。縁《えん》の始まりは大河の食欲だった。いろいろあって深夜に家に上がりこんできた挙句、空腹で倒れた大河に、チャーハンを作ってやったのが運の尽きだった。竜児の料理の腕に目をつけた大河は、それ以来、高須家の一員ヅラで毎日メシを食べに来る。その食欲たるや、本当に、はなっから大変なものだった。こんな華著な身体のどこに収まっていくのか、不思議なぐらいによく食う女ではあったのだ。
そして今。食欲の秋を迎え、逢坂さんの食欲はさらに留まるところを知らないらしい。その夜の角煮の晩餐も、「おかわり!」「おかわり!」「おかわ……ゲッフ」「……もうやめとけ」「り!」……と、炊飯器の栗ごはんがカラになるまで続いたのだった。あれだけ間食したというのに。
まあ、食欲がないよりは健康的か。間食のせいで食事を残すようなことがあれば一言いわないわけにはいかないと思っていたが――竜児はしゃもじについた飯粒を、お行儀悪く前歯でかじりとって食べる。竜児のおかわりの分まで、大河は平らげてしまっていた。そういえばここ一週間、竜児は一度もおかわりにありつけていない。よく考えればたいしたものだ、竜児が一膳、泰子《やすこ》が一膳、二人合わせても一合程度。炊く飯はいつも三合だから、大河は二合も一人で食べていることになる。
「はー……満足満足……お茶のもー」
のんきにドベーっとちゃぶ台の下に横たわる大河は、ユニクロで買ったスエットの上下という簡単な姿をしていた。そういえば、数日前からこんなスタイルでいることが多いなと気がつく。これまでの大河なら、隣のマンションから徒歩数秒の距離にある高須家に来るだけでも、フリフリフリルのバカ高い重ね着ワンピースファッションでキメてくるのが常だったのに。
洗い物をするために茶碗を重ねて立ち上がりつつ、竜児は何気なく尋ねてみる。
「今気がついたけど、最近おまえ、そういう簡単なかっこばっかりしてるのな」
大河はピク。と一瞬黙り、しかしすぐに同じく何気なく、
「……ん? ああ、まあね。……一回着てみたら楽だったから。なんとなくね。まあ、別に、ワンピとかいつもの服も普通に着るけどね。……ほら、ここ来てもご飯食べるだけだし。ゴロゴロしたいし。……いいかな、って……。いいよねぇ……?」
「いいんじゃねぇの、別に。そりゃ楽だろうなあ。おまえの服は全部くそっ高くて普段着にするにはもったいねぇしさ」
「う、うん……」
「ほら、そっちの皿寄越せ。ちったぁ手伝えよ、ちゃぶ台も拭いとけ」
「……うん……」
高須家の、秋の夜が更けていく。
***
「まーたなんか食ってる」
「うるっさいなあ。あんたには関係ないでしょ」
翌日、おなじみの二年C組の教室は、休み時間のざわめきで騒々しさに満たされていた。あちこちで響くそんなおしゃべりの声に紛れるように、大河は一人で自席に座り、アーモンドチョコをパクついている。通りすがりに見咎めて、竜児はついつい一言いいたくなってしまう。確かに関係ないにはないが、
「だっておまえ、さっきの休み時間もなんか食ってなかったか? 大丈夫かよ本当に」
「大丈夫って、なにが」
「腹具合だよ。前にも食いすぎで腹痛起こして、救急病院でひどい目にあっただろ?」
「ご心配なく。人間にはね、学習能力ってもんがあるの」
ふふん、と竜児を小ばかにするみたいに見上げつつ、大河がすちやっと取り出したるは、『鯨飲《げいいん》馬食《ばしょく》その後に!』とでっかく書かれた胃腸薬の小瓶。なにを偉そうに、大河の口の端はチョコでまっ茶色だ。
「ったくほら、口の周りを拭けよとにかく。みっともねぇなあ……」
「うーるさいっての! あっち行けや!」
「ティッシュもどうせ持ち歩いてねぇんだろ」
竜児はすっかり保護者気分。罵声もスルーでポケットからティッシュを取り出して手渡し、「拭け拭け、この辺」と鏡写し、自分の口を指差して、チョコで汚れたところを拭かせようとする。大河は「ん? こっち?」と逆側を拭こうとする。「違う違う、こっち」と、竜児は大河の口元を指差そうとし、そして。。そしてだ。
「………あ?」
そのとき、だった。至近距離でまっすぐに大河の顔を覗き込み、そして初めて、気がついたのだ。
「……あ、あれ……?」
「なに? どこ、ここ? この辺? ……取れた? まだ取れてない?」
大河は口の端のチョコをペロっと舐めてもう一度拭い、強張ってしまった竜児の顔を不思議そうに見上げる。竜児は動きを止めたまま眉間にしわを寄せ、大河の顔をガン見。動けない。まだチョコが取りきれないのかと大河はさらにゴシゴシとティッシュで口の周りを拭くが、違うのだ。そうではないのだ。その話題ではないのだ、すでに。
「ストップ。……おまえ。……おまえ、さあ……」
「ん?」
「……おまえ……なんか……」
大河の手首を、竜児はそっと掴んで押しとどめる。「馴れ馴れしいな触るんじゃないよ!」
と当然大河は牙を剥くが、
「……やっぱり……」
振り払われてカラになった手を、竜児は呆然と見詰める。掴んだ大河の手首は、なんだか妙にムチムチとして、……以前なにかの拍子に手首を掴んでしまったときに感じた「頼りない」とか「華著《きゃしゃ》」とか「うっかり力を入れたら折れてしまいそう」とか、そういう感じがまったくなくなっている。なんというかものすごく、ふ……太、く……。
「大河……」
「……キモい。こっち見んな」
大河の白い顔をじっと見た。大河は妙に気まずげに、視線をそらしてそっぽを向く。いや、
かわいいとは思う。大きな瞳も、通った鼻筋も、花びらみたいな唇も、今日も綺麗に整っている。大河はいつもどおりに美人だ。だけど、妙に、頼のあたりが丸くなってはいないだろうか。
硬質ガラスを削り出したみたいにシャープだった顎のラインも今はまんまる〜なカーブを描き、そして首回り。小さな顔を支えるにふさわしく、ほっそりたおやかな鶴か白鳥みたいだった首が、やたらとなんだか、なんだか……鴨? ……みたいで。
「……おまえ……」
グッ、と、竜児は有無を言わせぬ鋭い眼光で、大河の目をまっすぐに見つめる。そして、「なんだもううっとうしいな!」
言う。
「……太った、だろ……」
言った。
言ってやった。
見下ろした大河の肩が震える。竜児はおもむろに身を屈め、断固とした手つきで衣替えしたばかりの制服のジャケットの裾を、ハラリ、とめくってみる。
「……おう……!」
「ち、違う! わけがあるのよこれには!」
違わない。わけなどない。スカートのホックが留まっていない。ファスナーが閉じてない。きちんとウエストがしまっていない。
「夏服と同じサイズで作ったから、ほら、冬は下に着込むじゃない!? だからきつくなって当然っていうか、」
「……何を着込んでるんだよ。なにを、きこんで、いるんだよ……」
「……キャ、キャミ……」
太った。
大河が、太った。
いや、なにを今更驚いている。当たり前だ、あれだけ食って食って食いまくって毎日ろくに手伝いもせず、ゴロゴロ気楽に生きていりゃ太って当然、むしろ今まで大河のデブりに気づかずにいた己が不思議だ。年頃の女がこんなことでいいのか? いいわけない。竜児は大河の自業自得を責めてやろうと口を開きかけ、――いや待て。言葉を飲み込む。自問自答の渦に飛び込む。
(大河の食事の支度をしているのは誰だ)
(俺だ)
(大河の生活の管理をしているのは誰だ)
(俺だ)
……望んで始めたことではないにせよ、それはいまや事実。厳然たる事実。大河には毎月の生活費も入れさせているのだ。責任は免れまい。つまり大河のデブりは……自分の、せい、なのか?
グラン、と竜児の足元があやうくなる。健康管理は主婦の仕事、食事の一義はなにより健康。なのに、なのに、太らせてしまった。他所様から預かった思春期の少女を、己の料理で、己の管理下で、デブらせてしまったのか! プライドが崩れ落ちる、「俺ってかなりヤル主婦」という自負も崩れ落ちる、竜児の自我そのものがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。ガキに野放図にコーラやら肉やら菓子やら与え、ぶっくぶくに太らせてしまって小学生なのに立派なメタボにしてしまう――いつかテレビで見た典型的ダメ親の姿が、己の姿に重なっていく。じっと手を見て、プルプル震える。
「お……俺が……俺が自由に食わせたから……! だから、おまえ、デブったんだ……!」
はあ!? と大河はデカい目を剥く。
「ちょっとやだ、やめてよ!? 私太ってなんかないったら! 冗談じゃない、私太らない体質だもん! 確かに最近、食べ物がおいしいの! それは事実! いくらでも入っちゃうの! それも事実! 芋とかかぼちゃとか栗だとか、秋は好物も多いのよ事実! でも私って筋肉質だし、いくら食べてもたいして体型に影響ないし、」
「してんだろうがよ事実思いっきり! ……あっ! わかった……おまえ、さては、だからユニクロ着てたんだな!? 入らなくなったんだろ、服が!」
「……ー♪」
大河は口を噤み、そっぽを向いて口笛を吹く。
「おおおおおおまえ、おまえ、おまえ……おまえ、なにしてんだよ!? 十万も二十万もするフリフリ、着られないって、おま、おま、おま……あー! MOTTAINA〜〜I!」
気が狂いかけ、竜児は悶絶する。つま先だって、コマのようにクルクル回る。「高っちゃんどしたんだろ?」「思春期だからなー」少し離れたところから、友人達ののんきで他人事な述懐も聞こえる。くそ、くそ、誰も俺の苦悩など理解してはくれない、と捨て鉢に頭をかきむしったそのとき、
「どしたの高須くん、あんまり興奮すると脳の血管切れるでよー」
「……っ!」
背後からかけられた声は、至近距離。振り返って、竜児は死にかける。
「お、チョコ食ってる。YOU! それ恵んでくれちゃいなYO!」
びし! と大河を指差してウインクしてみせている変な女は、櫛枝《くしえだ》実乃梨《みのり》――変には変だが竜児にとっては輝ける太陽。眩くきらめく黄金の女神。かわいくて明るくて絶賛片想い中の、大河の親友の笑乃梨だった。
「みのりん……」
「なんだよ、元気ないじゃん大河。ほれほれ、ギャルのチョコレート、おーくれ!」
「う、うん……」
「へっへ、それじゃあ一個失敬。最近まーた体重増えちゃってさあ、蘇りしダイエット戦士なんだ〜私。あ〜、でも、めっちゃうま! もう一個おーくれ!」
「どうぞどうぞ……」
パクン、と実乃梨《みのり》は満面の笑顔、立て続けに大河のチョコを口に放り込んでいく。
「く、櫛枝《くしえだ》……」
「なんだい高須くん」
「……大河のチョコ、もう全部持っていってくれよ……最近食いすざなんだよこいつ」
「えー? いいよ、もう十分もらったから。第一、ほら私ったらダイエット戦士だもんよ、前述のとおり」
にこにこ笑顔で大河にチョコの箱を返す実乃梨の姿を、竜児は思わずじっと眺める。肩のあたりで跳ねた髪、やっと日焼けの抜けた挑色の頬、奥二重の瞳はキラキラ明るく、制服に包まれた身体は立体的に締まって見えて、とってもとっても、ああ、なんてかわい……じゃ、なくて。そうじゃないんだ、今はそんな場合じゃない。
「……櫛枝はダイエットの必要なんかねぇじゃんかよ。どこが太ってるんだ?」
「そうでもねぇんだって! 見えない腹とか腿とかが、いろいろ事件発生中で。ていうか、常にダイエットを気にかけてないと、本気でやばいわけ。私って食べるの大好きだし、もともと
大食いなタイプだし。気を緩めた瞬間にボンヨヨヨ〜ン、よ」
「……大河も、食べるの大好きで、大食いなタイプ、だよな……」
「でも大河は食べても太らない体質っぽいじゃん。ほっそり骨細っていうか、こう、全体に、永遠の少女の香り漂う華春さっていうかさー。うらやましいよ本当に」
「……ほっそり? 華奢? ……果たして本当にそうかな? いつも身近で見ているものほど、変化に気づかないってことはあるんだぞ」
「高須くんってばなんだってのよー、ほーら大河は今日もいつもどおり、ほっそり、華春な。……」
振り返り、実乃梨は笑いながら大河を見つめた。
大河は、目を逸らした。
「……おや……? 大河の様子が……」
くい、と実乃梨はその大河の顎を掴み、上を向かせる。舐め回すように見つめつつ、横にしてみて、さらに下も向かせる。なすがままに大河はされて、文句一つ言うこともできない。
やがて実乃梨は手を離し、一言、「アイヤー……」とだけ。そして竜児に向き直る。
「高須くん。今夜がヤマだ!」
「……だろ?」
「なにそれ!? ひっ、ひどいよみのりんまで竜児とグルになって! ヤマってなに!?」
ついに大河は席を蹴って立ち上がった。ぷく〜、と丸い煩を膨らませて実乃梨の胴体にしがみつき、駄々をこねるみたいに脇のあたりに歯を立てる。
「わからないかね……?」
「わかんない!」
実乃梨は噛まれながらも仕方ない、というみたいに首を振り、そして叫ぶ。
「――出《い》でよ! 黒あーみん!」
偶然だろうがとりあえずすごいタイミング。教室のドアがカラリと開いて、きゃっきゃうふふと華やかな声が2ーCの空気をお花畑色に変える。現れたのは、川嶋《かわしま》亜美《あみ》。親しい仲の木原《きはら》麻耶《まや》・香椎《しいな》奈々子《ななこ》と連れ立って、ハンドクリームをすりすり手にすりこみつつ、
「いやーん、次の授業数学? だる〜い、寝ちゃうかも〜」
「まあまあ亜美ちゃん、明日は土曜日、お休みなんだしガマンガマン」
「そっかあ(ハァト)あ〜ん明日が待ち遠しい〜(ハァト)」
甘ったるい声で周囲の男どもの注目を強欲に掻っ攫う。その、八頭身の奇跡的スタイル。きらめくようなツヤツヤストレートのロングヘア。薄紫に発光するような、色白を超えた真珠の肌。瞳は宝石で、うるうるチワワ。亜美はさすがの現役女子高生モデル様、微笑みながら登場するだけで、体育館履きの臭いに満ちている教室の濁った空気さえ、一気に芳しく変えてみせる。
そしてそんな天使の視線が、何気なく大河へ向けられる。興味なんかねーや、とばかりに一度はプイ、とそらされた視線は、しかし、
「……ん!?」
二度見。すごい勢いで振り返りつつ、かけてもいない眼鏡をわざとらしくひねる動作。そうして天使は大股で接近してきて、ニヤ〜、と腹黒な本性をチラ見せ。大河はカッ! と威嚇するように牙を剥き、
「な、なんだばかちー! 寄るんじゃねー! 爆発すんぞオルァー!」
猛々しくがなるが。
「ねぇねぇタイガーちゃん……あたし、今気がついたんだけど……あんたって、なんだか、最近……小デブ?」
「!?」
きゃははははははー☆ やっぱそうだ、太ってやんのー☆超笑える食欲の秋ー☆ ……ごもっともな罵声とともに、亜美は身体をくねらせて大爆笑。慌てたみたいにその肘を引っ張り、麻耶が言う。
「しっ! だめだって亜美ちゃん、はっきり言ったらかわいそーじゃん! みんな薄々気づいてたんだから!」
さらに駄目押し、今度は奈々子。
「大丈夫よ、タイガーちゃん。ちょっとぐらいふっくらしてる方が同年代の男の子たちにはモテるの、これほんと。……あたしは年上派だけど」
にっこり、と妙に色っぽい笑顔で、立ち疎む大河の頼をちょん、とつつく。
「や、やめーい! 触んなお色気ボクロ!」
大河はその奈々子の手を払いのけ、睨むは亜美だ。実乃梨に召還されし性悪腹黒魔女。
「てっめえばかちー、私太ってなんかないもん! 適当こいてんじゃねー!」
「あーららら、自覚ないんだあ? だったら亜美ちゃんが教えてあ・げ・る。あんた、最近めっちゃデブったよお? これマジで。こういうのばっか食ってるからじゃーん?」
亜美がひょい、と取り上げたのは、さっきまで食べていたアーモンドチョコの箱。大河はそれを力ずくで奪い返し、
「こ、これしきのチョコぐらいで太るわけがない!」
その場しのぎ丸出しに怒鳴る。その言葉に、「あらあ……」「へえ……」「まあ……」亜美・麻耶・奈々子の2ーC公式美少女トリオは、スラリと細いウエストを見せつけるみたいに、腕を組んでズラリと並ぶ。
「タイガー、あんた知ってるう? あたしの昨日の夕ごはん。たけのこだよ、たけのこ」
「あたしはシイタケ。あとプーアル茶」
「あたしはね、レンコンよ」
おう……と思わず竜児は慄《おのの》く。実乃梨も慄く。大河にいたっては、バケモノでも見るみたいな目で三人娘をジロジロ眺める。ふう、とわざとらしく息をつき、亜美は続ける。
「その結果ね、あたしたち、体脂肪率常に10パーセント台。服は7号。サイズならS。デニムは24インチ。……そういう自分たちでありたいから、いっつも死ぬほどガマンしてるの。炭水化物は朝と昼だけ。もしも放課後にカフェお茶なんかしちゃったら、その日の夜は駅ビルのヒグチで売ってる寒天スープ27キロカロリーのみ。お茶しなくても、夜は基本、四百キロカロリーまで。時間があればウオーキング、バランスボール、骨盤体操、ビリーにも入隊してるし、ジムにも通ってる。つまり超、超、超ガマンしてるの。努力してるの。そんなあたしらと、いっつもなにやらクチャクチャ食ってるあんたなんかと、同じ体型じゃたまんねぇっての。ガマンも努力もしてねぇあんたは、なるべくしてなったってわけよ。そのぽよよん小デブ体型にね。超・ざ・ま・あ(ハァト)」
――言いにくいことを、さすがにズバリと言ってくれる。竜児はほとんど息を飲み、高笑いする亜美を見た。性悪様をこの空間に召還した本人である実乃梨でさえ、怯えたみたいにストップモーション。そして大河に至っては、それだけで十分にいろいろあれこれショックだというのに、
「おい、そろそろ授業だぞ。支度はできてるのか? ほーら、亜美も席に戻れ。高須もいつまでウロついてるんだ。……おや逢坂。今気づいたけど、最近は随分健康的な雰囲気だな。なんていうかこう、体つきもまるっこくなって」
ひぃいぃぃぃぃいいいー! ……と。この追い討ち。声にならない、絶望の悲鳴。不意に現れて悪意ゼロ、しかしデリカシーも完全ゼロのセクハラ発言をかましてくれたのは、クラス委員長・北村《きたむら》祐作《ゆうさく》だった。いまどき見かけない坊ちゃん刈りに生真面目そのものの銀縁メガネで実は正統派美形のツラを隠した、大河の片想いの相手である。竜児の親友でもあるのだが。
フラフラと失神しかけた大河を慌てて支え、竜児は思わず義憤の人となる。
「た、大河、気を確かに……おい北村! てめえどこまでデリカシーがねぇんだよ!」
「え? なに?」
「なにじゃね……うおーうっ! 前! 前! バカ!」
「え? 前? バカ? ……おお、これは……!」
そして脱力。北村のズボンのチャックは全開状態、シャツの裾までチラ見せファッション。ぎゃー! いやー! 変態ー! と気づいた周囲からの罵倒の中、北村は「失敬!」と爽やかにチャックを閉める。が。
「……大河……おい、大丈夫か? まさか北村ゾーンの一部が見えたか?」
「見てない……見てないけど……! 竜児、みのりん……私……私……太っちゃったんだ……太っちゃったよ……自覚したよ! いや、実はしてたよ! もう逃げ場がないよ!」
へたり込むように席に座り、大河は頭を抱え込む。実乃梨とともに、その肩をそれぞれそっと擦り、断固たる決意とともに告げてやるしかない。
「大河……こうなったらもう、しょうがねぇだろ。わかるな……ダイエットだ。俺も付き合う。一緒にやる。俺にはその責任が、ある!」
ガバ! と涙目になったツラを上げてしかし大河は往生際悪く叫ぶ。
「ぎやああ! いやだあ! たけのこだけとかしいたけだけとかレンコンだけとかはいやだあー! こわいぃぃー!」
どうやら美少女トリオは、大河に新たに余計なトラウマを植えつけてくれたらしい。その頭を優しく撫でくり、頼もしく曝いてくれたのは実乃梨だった。
「大丈夫だよ、大河! このダイエット戦士・みのりんに任せておきな。そんな極端な食べ物ガマンじゃなくて、もっと健康的で楽しいプランを考えてあげっからよ!」
2
☆みのりんダイエットメモ☆
その1! <健康的に食べる! >
バランスよく三食きちんと食べること。食べすぎは当然ダメだけど、食べ足りなくてストレスためたら意味がありません。よく噛んで食べたらその後は散歩、一時間全力で走る。
その2! <健康的に運動する! >
部活に出て、二時間全力で走る。学校の帰りも、事故に気をつけて全力で走る。バイトは立ち仕事を選び、バイトからの帰り道は全力で走る。
その3! <常に動く! >
家の中では座らない。休まない。常にペットボトルを両手に持つ。トイレに立ったらついでに散歩、三十分間全力で走る。テレビをつけたらついでに散歩、十五分間全力で走る。電話が鳴ったらおしゃべりがてらついでに散歩、通話が終わるまで全力で走る。
その4! <時には自分にごほうび! >
ガマンできなかったら、たまにはオヤツも食べていい。オヤツを食べたら、ついでに散歩、三時間全力で走る。
「……はあ……はあ……はあ……」
「……はあ……はあ……はあ……」
「……はあ……はあ……は……げっふぉ! ごーっほ! ……うええ……っ」
「大河、だ……げーっほ! ……はあ……はあ……ゲホゲホゴホ!」
「おええ……うぅ……ぅえぇ……」
「……ーうぉっぷ……!」
――立ち上がれない。
というか、双方ゲロが出そうだった。
夜八時、小さな児童公園のベンチ。そう、真に受けた自分達が悪いのだ。普段運動なんか体育でしかしてないくせに、食後に全力疾走などした己らが悪い。実乃梨はすこしも、悪くない……竜児はベンチにしがみつくように突っ伏し、こみ上げる苦いものを必死に飲み込む。大河に至っては地面で四つんばい、ポニーテイルに結《ゆ》った髪もぐしゃぐしゃに乱し、散歩中のトイプードルに尻のニオイを袂りこむようにかがれているというのに拒否れない。
「た、いが……ベンチに……」
「……はあ……はあ……」
ジャージの袖を震える手で引っつかみ、大河をとりあえずベンチに引き上げてやった。大河はモノも言わず、座ることもできずにそのままベンチへ倒れこむ。そうしてなぜかポケットから携帯を取り出し、短縮ダイヤル。
『おーっす、大河! どした?』
「……はあ……はあ……み、みの……りん……」
『なに興奮してんの? あ、ちょっと待ってな。……っと。……うん、いいよー。なになに、なんの用ー?』
「……みのりん……あのさ……あの、学校で、くれた、ダイエットメモ、だけどさ……」
『ああはいはい。どうよ、実践してる?』
「……無理だわ……っていうかさ、みのりん……散歩と、全力疾走は、違うって思う……人間って、普通、あんなに走れないと思う……そ、それだけ、伝えたくて……」
『うっそお? そうかなあ、私いま、通話のついでに散歩がてら、全力疾走してるよー? っかー! ちーくしょーぉ! 秋の夜の全力ダッシュ、めっちゃ気持ちいーっ!』
「……はあ……はあ……。……ごめん、ちょっと気分悪い……切るわ……」
『え、やだ、風邪じゃん? 気をつけてあったかくして寝ろよー!』
通話を切り、大河は携帯をポケットにしまう。そして一言、「初めて、みのりんと気が合わないと思った……」と。
脳貧血寸前、クラクラと途切れかける思考を、竜児はなんとかまとめようとする。夕食はそれなりに努力した。肉ではなく魚メイン、副菜たっぷりで炭水化物を自然に減らし、ガマンすることなくカロリーは控えめなはず。食事はこの路線でしばらくいこうと思っている。だが、『控えめ』程度では、大河が着用したこの秋新作の肉襦袢を脱ぎ去ることは多分難しい。新たに着ることはないにせよ、だ。やはり運動もしなければならないだろう。
しかし、実乃梨のように、がむしゃらに全力で走りまくるのは無理だ。身をもって知った、実乃梨は変態だ。常人としては、いっそ、これをウォーキングにそのまま置き換えればいいのだろうか。なにも実乃梨が提唱するような「なにかってーと散歩=全力で走る」でなくとも、一日一回でもいいから、意識的にきっちり歩く機会を作れば――
「マロンちゃん! 行くよ! お姉さんのお尻はもうナイナイ!」
くう〜ん、とそのとき、大河の尻の谷間に無我夢中に鼻を突っ込んで嗅ぎまくっていたトイプーが、リードを引かれても四肢を頑固に突っ張り、大河を見上げて目を潤ませ、愛らしい声で切なげに鳴く。大河はつ、と目を眇め、
「……なんだ犬っころめ。この私に恋でもしたか、愛い奴……」
きゅぅん……と応えるその鼻先を、うりゃ、と両足スニーカーを脱ぎ、靴下の足で挟んでやる。あらあらあら! と飼い主のおばさんは驚いてリードをさらに引っ張るが、トイプーは大興奮、「はがっ!」といきなりぶっ壊れ、後はもう「あーひゃひゃひゃーひゃーひぃぃーやっはー!」と大騒ぎしながら大河の足に顔面押しつけ、靴下舐め回し、ほとんど白目を剥いて腹を見せつつじわっと嬉ションまで漏らす。世の中には、本当にいろんなペットがいる。
「……おまえ、足からなんのエキス出してるんだよ……」
「エキスじゃない。フェロモンよ。あんたの顔も挟んでやろうか」
「超結構だ。そんなことしてみろ、死んでやる」
いやだもう恥ずかしい、ごめんなさいと、飼い主のおばさんは狂ったトイプーを抱えて逃げるように去っていった。その姿を見つつ、竜児は思う。犬か……なるほど。散歩の理由としては最もそれらしい。
「……犬、いいよなあ。嫌でも毎日散歩に出るもんな。そうしたら自然にウオーキングが日課になって、ダイエットにもちょうどいいはずだ」
「あんた、あのおばさんの体型、目に入らないわけ?」
大河に言われて、竜児は思わず押し黙る。くりくり巻き毛のトイプーさんにばかり注目していたせいで気づかなかったが、改めて見れば飼い主さんは、申し訳ないが、大河などとは比較にならない本格的などっかんメタボ体型……。
「あんたの目って、どこまで節穴? あーあ、なんかもう嫌になってきた。走ったりなんかできないもん。意味なく町をウロウロ歩いたってあの人見る限り意味なさそうじゃん。しかも絶対コンビニとか寄っちゃう。そしたらおでん食べちゃう。アイスも食べちゃう。……こうなったらあの三バカが言ってたみたいに、毎日たけのことかしいたけとかレンコンとかだけ食って、イライラ過ごすしかないのかな……うわー、嫌すぎる……」
「とんでもねぇな、それ……」
ただでさえ大河は不機嫌がデフォルト、日々繰り出される暴力の最前線に晒されている竜児としては、その大河がさらにストレスを溜めてイライラするだなんて、想像するだに恐ろしい。今でこそまだ冗談で済むレベル、乱暴な女の子とそれを鷹揚に受け止める男子という図式がギリギリの線で成立しているが、病院送りにでもなればシャレにならない。警察沙汰だ、間違いなく。
「……極端な食事制限には、俺は反対だ。まだ俺たちには、手段が残されている」
「え、なになに? あ、わかった! 脂肪吸引だ!」
「すげぇとこに飛んだな。アメリカのセレブかよ」
竜児は自分の携帯を取り出し、アドレスから一つの名前を選択する。あんな女が金曜の夜に電話に出てくれるかどうかはわからないが――コールは二回、三回鳴って、
『……え、もしもし? なぁに急に、超びっくり。どしたの?』
出た。日本のセレブ代表・川嶋亜美だ。
「おう、いきなり悪い。その……ちょっと、頼みごとが、あって」
***
「――なんかあんた、私服の趣味変わってない!?」
「ばかちーのくせによくぞ気づいた。変わったのよ、趣味」
待ち合わせは、土曜の休日、朝十時。同じ沿線の三個先の駅、改札前。快晴。
竜児と大河が住む街よりもちょっと栄えたその駅前に、三人は微妙なツラをつき合わせていた。
竜児はロンTにデニム、パーカーを羽織ってVANSのスニーカー。手には中三の京都修学旅行で買った、帆布《はんぷ》バッグの有名店の大きめトート。怖いのは面構えだけで、至って普通の高校生男子スタイルだ。そして一方、亜美さまはさすがに芸能人だった。握りこぶしぐらいに見える小さな顔にはシャネルマーク入りのサングラス。長い髪はラフなお団子ヘアにまとめ、いやってほどに長い足には腰ヒモで締めるカーゴパンツ。その上には薄手の、しかし多分めちゃくちや高価なタンクトップと柔らかなニットのカーディガンを重ねて、シンプルスタイルのくせにモデルオーラ出しまくり。スニーカーはPUMAだが、肩にかけたトートには、やっぱりどでかくシャネルマーク。
問題は、大河だった。眺めて亜美は顔をしかめる。
「変わったっていうか……ぶっちゃけ、すっげぇださ! ちょっと離れてくんない!?」
「いいの、ださくても。どうせ会うのって竜児とばかちーだけだし、ジム行くのにオシャレしてたらかえって変じゃん」
大河は平然と答えるが。
元々、大好きなのはフリルとレース。オーバースカートの前ボタンを開けて、中に着込んだペチコートやらアンダースカートやらをもっさり見せるのが大河の定番ファッションだった。ふわふわもしゃもしゃの素材も好きで、カーディガンにもセーターにも、とにかくニットの花やらなにやらあちこちにぽわぽわくっつけて、乙女全開、花柄も全開、フリルとレースとコットン命で、重ね着するのがお約束。全身総額とんでもない値段になる某宥名フリフリブランドが、一番にして唯一のお気に入りだったはず。
そんな大河が今日選んだファッションは、まず、Tシャツ。ただの白のTシャツに見えるが、実は卒業した女子中時代の体操服だ。そしてグダグダの部屋着パンツ。グレーと白のストライプ、ユニクロで九百八十円。靴だけはかろうじて、乙女ブランドのかわいらしいオシャレスニーカーを履いてきたが、Tシャツの上に羽織っているのはサイズの合わないデカすぎウインドブレーカー。……実は竜児の服、なのだが。
大河はへっ、と開き直ったみたいに笑う。
「ま、ばかちー相手に気取ってもしょうがないか。正直言うとね、持ってる服、フリルたっぷりばっかりじゃない。ちょっと増量したこの身体で着ると、本気でやばいの。容積が。でかすぎるのよ、冗談抜きで。サイズが入らないわけじゃないんだけど、そういう理由で着られないの。……笑ってもいいよ、今日だけはね。ジムに連れてってもらう恩義もあるし。ジムなんて生まれて初めてだもん、やっぱ慣れた人と一緒じゃないと行きにくいから。ほんと、笑ってもらった方が気楽だわ。ほらばかちー、笑えってば。笑え」
淡いブラウンのサングラス越し、亜美は微妙な顔つきで大河の(正確には竜児の)ウインドブレーカーをちょいと摘む。中に着込んだ着古しTシャツのグダグダ感を確かめる。ちょっと離れて「うっわあ……」と首を振り、
「……ごめん。無理だ。亜美ちゃん笑えない。きっついわ、これ……」
大河は竜児をそっと見上げる。
「……笑われるより謝られる方が……ってこと、あるのね、竜児……」
「しょうがねぇよ。ま、今だけのことだ。痩せればなにもかも元通り」
竜児と大河はうむうむと少々のんきに頷きあうが、亜美は深刻な表情でついにサングラスを毟り取った。
「なにをのんきなこと言ってんのよ……! 正直、あんたたちに『ジム一緒に連れてけ』っていわれたときには心底うぜぇと思ったけどさ、なんか、亜美ちゃん、今目覚めた。ボランティア精神っていうのかな、この気持ち。タイガーあんた、マジやばいよ。服のことなんかもうどうでもいいから、早く行こう。一刻も早くジム行って身体動かさなきゃ、マジでやばいことになりすぎる。走っていこう、すぐそこだけど!」
言うや否や、亜美は実乃梨が乗り移ったかのように本当にいきなり小走り、駅前の交差点を渡り始める。慌てて竜児と大河も、その後を追いかけることになる。
――まあ、連れてきてもらっておいてなんだが。
「……意外と、庶民的な雰囲気だよな」
竜児はビジター料金千五百円と引き換えにレンタルしたTシャツとショートジャージ姿、女二人組の着替えを待ちがてら、マシンの並ぶ空間を見回す。あまり人はおらず、ぽつぽつとマシンを使っているのはいかにもご近所のおばちゃんばかり、あとは日焼けしたおじさん数人に、OLさんらしき地味な女の人が一人。
実は亜美にジム体験ツアーを頼んだときには、奴のことだから、ひょっとして実家の近くである麻布や白金、表参道あたりの、超有名ジムに連れていかれたりして……などと淡い不安と期待を持っていたのだ。結局蓋を開けてみれば、亜美が現在会員として通っているのは、いろいろあってホームステイ中の親戚宅の近所のここ。竜児にとっても十分近所だ。
勝手がわからないままに、とりあえず更衣室近くのベンチに腰を下ろす。館内マップによれば、この階にはマシンのスペースと、ガラスで区切られたいくつかのスタジオがあるらしい。スタジオメニューは多彩で、後ほどいろいろ試すつもりだ。そして地下にはプールとサウナ。大河が嫌がらなければ、ぜひともこちらも試したかった。
せっかく千五百円も払うのだから元は取ってやるつもりで、実は竜児はやる気まんまんなのだ。もちろん大阿の秋太りも解決してやりたいが、今はとにかく目先の千五百円。払ったからにはとことん貪欲に、ジムを体験し尽くしてやる。ギラリと三白眼が陰惨に底光りする。と、
「高須くん、お待たせー」
「お待たせ」
女子更衣室から、ようやく亜美と大河が姿を現す。大河は竜児と色違いのレンタル着、そして亜美は――
「……なんだよ……それかよ……!」
「そうなの、こいつこれなのよ。私も見たときにはガッカリ」
竜児と大河は亜美の姿に、思わずしみじみ文句を垂れていた。「な、なによ」と理由もわからず亜美は首を捻るが、その姿は、身体のラインが綺麗に出る薄手のTシャツにヨガパンツ。さすがモデルの超完璧スタイルはまるで二次元キャラのようだが、違うのだ。期待していたのはこれではない。
「川嶋なら『こういうの』かと思ってたんだよ。な、大河」
「そうそう。ばかちーなら絶対着るはず、って言ってたんだよね」
二人が『こういうの』と両手で示す形は、ぐいっと股間に食い込むハイレグレオタードだった。そして腰には、用途不明のひらひらスカーフ。
「はあ!? なに言ってんの!? ンなもん着るわけねぇっつの! あんたらあたしになに期待してんのよ!?」
「いやあ、学校のプールでビキニ着るばかちーだもん。ジムで食い込みレオタードぐらい余裕かと……あっ!」
「おう!」
そのとき三人の前を、顔面パレットの勢いでいろいろカラフルに塗りたくったパンチパーマのおばちゃんが、まさにキャッツアイレオタードスタイルで横切っていく。ぷ〜ん、と強すぎる香水の臭いの尾を引いて。大河は怯えて壁際《かべぎわ》に逃げ、竜児は思わず鼻を押さえる。
「な、なんか今、悪夢みたいなモンが通っていったぞ……!?」
「ああ、いるいる。こういう街中のとこだもん、この辺りのおばちゃんの溜まり場なのよ」
同じく鼻を押さえ、亜美はしかし慣れたもんだった。そのとき、トレーナーの若い女性が亜美に気づいて駆け寄ってくる。
「川嶋さま、こんにちはー! 今日はお友達とご一緒ですか?」
「あ、こんにちはー! お疲れ様ですぅー! この二人、ちょっと最近運動不足っていうから、ビジターで来てみたら? って誘っちゃいましたぁ(ハァト)」
「そうでしたかー! ひー!」
健康的な営業スマイルが、しかし恐怖に引き攣る一瞬。もちろん、竜児のツラを拝んでの出来事だ。こんなことには慣れているとも……竜児は哀しみをグッとこらえ、あくまで紳士的かつ高校生らしく、
「……高須といいます。ジムは初めてなので、いろいろ教えてください」
真面日に頭を下げてみせた。カタギとわかってもらうには、殊勝になるのが一番手っ取り早いのだ。トレーナーのお姉さんも一応納得したらしく、「は、初めましてこんにちはー! いろいろ体験してみてくださいねー!」と、営業スマイル復活。そして大河の方を見て、
「こちらも川嶋さまのお友達ですねー! えー、すっごくお綺麗ですねー! あっ、もしかして、モデルさん仲間とか?」
大河がなにか答えるより早く、
「やーだー! そんなわけないじゃないですかあこのちんちくりんがー! 同級生です同クラのー! パンピーですよただのパンピー! しかもめっちゃ秋太り!」
どしっと大河の背中を叩いてみせる。竜児はゴク、と息を飲む。あんな調子に乗ったりして、亜美は次に瞬きした後には死体になっていはしまいだろうか。しかし心配は杞憂で、
「……秋太りした、逢坂です」
自虐的に一言、そして目礼。大河はどうやら本気で肉襦袢をここで脱ぎ去って帰るつもりらしい。トレーナーはニコニコと笑い、
「でしたら、まずはあちらで体脂肪や体重をチェックしてプランを立てましょうか?」
「いや、それよりもさっそくいろいろ教室っぽいのを体験してみたいんですが」
――千五百円分は教えてもらおうか! 竜児のケチくさい根性が、そんな一言を言わせていた。この際マシン系には興味はないのだ、せっかくだから、一人ではできないことがしたい。トレーナーのお姉さんはにこやかに頷き、
「でしたら、ちょうどこれからBスタジオでヨガの初心者基礎コースが始まりますよ。準備運動がわりにいかがですか?」
三人の目がピカリと光る。第一ステージは、ヨガで決定。
「はい、ヨガマット。これ敷いて」
亜美に筒状に巻いたマットを手渡され、竜児と大河はちょっと困惑して立ちすくむ。講師はまだおらず、スタジオには既に十人以上の若い女性たちがそれぞれ陣取って、水を飲んだりストレッチしたり。その様子は皆馴れているように見え、初心者コースとはいえ、本当に初めて体験なのは竜児と大河の二人だけのようだ。
「……恥かきたくないから、私はじっこ行こう」
「おう、俺も。川嶋は慣れてるんだろ? あのド真ん中の最前列、空いてるからいけ」
「えー、あたしだってさすがにあそこは……あ、そこにしよ」
壁際に空いた一隅に、三人はマットを敷いて座り込んだ。他の人々はそれぞれ一人で来ているようで、会話しているのは竜児たちのみ。
「な、なんか……本格的じゃねぇ? 見学してからにすればよかったかな、男俺一人だし」
低く抑えた竜児の声が、ヒーリングミュージックの中、妙に目立つ。その前に座った亜美は胡坐のポーズで振り返りつつ、
「平気だって。自分のペースで、できるポーズだけやればいいのよ」
薄手のTシャツをするりと脱ぎ去る。ハイレグレオタードは無理でも、ヨガパンツにへそだしタンクブラ姿はOKらしい。「おう」「でたでた露出癖」竜児と大河の声にも動じず、亜美は「ヨガのときはこれが一番だもーん」と。
言われてみれば、他の方々も意外と露出度が高い。ローライズのヨガパンツは尻のラインにぴったり食い込み、ヘソだし腹だしも数人、タンクトップスタイルも数人、Tシャツの皆さんも身体のラインがくっきり浮き出る超薄手の素材をお召しになっている。気がついてしまい、改めて竜児は目のゃり場に困る。目の前の亜美にしても、ペタンコな腹や背骨のライン丸出し、しなやかに伸びる腕や脇がどうにもこうにも眩《まばゆ》くて仕方がない。あまりに「綺麗」すぎるせいで、かえっていやらしくないのが救いか。
「竜児」
ビックゥ! と大河の声に振り返る。この健全なるヨガスタジオに妙な雑念を漂わせたのがばれただろうか。
「頭やって、自分じゃうまくできない。お団子にしないとお尻で髪踏んじゃう」
「……あ、はい……」
大河が差し出してきたのは、Tシャツの裾にはさんで持ち込んだヘアピン数本。竜児はポニーテイルにした柔らかな髪をくりくり巻いて、器用にアップにしていく。「あまやかしー」と亜美は言うが、竜児にとって、今や視線の逃げ場は大河のこのダサダサレンタルウエアしかないのだ。亜美は言わずもがなだし、そして見知らぬお姉さま方の、妙にリアルな肌の質感……そんなモンに取り囲まれて、四方は磨きぬかれた鏡。あらゆる角度でいろいろ丸見え、天国なのか、試練なのか――
「わー上手! アタシの頭もやって!」
「……おう!」
――試練だ! と竜児は叫びだしそうになる。ぷわーんと猛烈な香水の臭いとともに目の前に頭を突き出してきたのは、ヨガパンにヨガブラの日焼け腹筋バキバキおばさん。バリバリに入れたファラオみたいな目張りに茶色のチークが超怖く、妙にさらっさらの真っ黒ロングヘアがまた怖い。そんな方が「ねぇ、やって!」と。これが試練以外の何ものか。
「ちょっとー、男の子からかうのやめなさいよー! ねぇ、やあよねーボク!」
「いいじゃないたまには! 若い男の子なんて珍しいしさー!」
「あっ! こっち空いてるこっち空いてる! 早野さん早くー! ここここ!」
「きたきた! ちょっとここ空けて、友達来るの! ねぇねぇこないだの講師のブス、辞めたらしいよー!」
「やっぱりい!? へたくそだったもん、当然よー!」
試練。試練。試練だ、これは。気がつけば竜児の周囲をオバサン軍団が取り囲み、挙句の果てに、
「ねぇボクー! これ、食べるう!?」
「……!」
エビセンを差し出される。ダウンライトにヒーリングミュージック流れる、ヨガのスタジオで。こんなときばかり、竜児の強面は効力を発揮しないのだ。なにしろ相手のツラの方が怖い。エビセンをなんとか曖味に断りつつ、亜美と大河は、と目を泳がせれば、
「お、ばかちー、腋毛《わきげ》腋毛」
「うそこけ。あたし永久脱毛だもん」
いつの間に脱出していたのだろうあいつらは。嫌がっていたド真ん中最前列に二人して音もなく移り、竜児を生贄に他人のフリをぶっ通している。
「あ、あいつら……こんなときばかり結託して……!」
すっかりお姉さんゾーンからそそりたつ鉄壁のおばさんウォールで隔てられ。竜児はええい、と首を振る。これでいいのだ。かえって集中きるってもんだ。
見様見真似でマットの上に胡坐をかいて、呼吸を静かに整えてみる。見たくないモンから逃れるみたいに目をぎっちり閉じ、精神を統一する。そうだ、こんなところで妙な心地にムラムラホカホカしちまうよりは、おばさんオーラで萎れていた方がよほどマシだ。
『アハハハハ! まーた太っちゃう!』『ギャーハハ、うちの旦那がさー!』『あそこんち貧乏だから!』『アーハハハ! エビセン食べるう!?』『ここここ、きたきた! 吉田さーんここ!』
聞きたくない――いや、もはやなにも聞こえない。心は明鏡止水。やがておばさんワールドが遠ざかっていった心地がしたところで、講師のお姉さんがスラリと立ち現れる。グレーのブラに、グレーのヨガパン。しかし竜児の呼吸は低く一定、整っている。
「遅くなりましたー、それではレッスンを始めます。……ゆっくりと呼吸でーす……吸います……吐きます……すー……はー……おへその下に意識を向けて……すー……はー……リラーックス……リラーックス……」
『新しい講師ってこいつう?』『なーんか鶏がらみたい』……リラーックス……。
「ゆっくりと……腕を天井に……そうです……呼吸して……胸を広げます……リラーックス……」
正座の姿勢で腕を上げ、身を反らす。肺が膨らみ、酸素がすーっとへそに届く。『ここあつーい!』『冷房きいてないんじゃないのお!?』……す――…はー……。
「そのまま膝並ちになって……手を前に。頭を床に近づけて……ゆっくりと、頭のてっぺんで大きな円を描くみたいに……伸びます。キープ……」
ぐぐぐっ、と反り返った名古屋城の鯱《しゃち》ポーズ。苦しくはない、講師のお姉さんの穏やかな語り口に、竜児も穏やかにキープ……『あんたできてないじゃん! ぎゃはは!』『えー、こうでしょおー!? やだ! 腰悪くしちゃう!』『ちょっとアタシ休憩だわー!』……キープ。
「ゆっくりと起き上がります……右手で右足首、左手は空へ……足は前後に大きく開いて、ゆっくりと……キープ……」
キープ……『お昼なんにするう!?』『そこのフレンチはまずかったよねー!』『高いばっかでなにあの量!』…逆の形でも、キープ。捻った背が伸び、腰が伸び、竜児は穏やかに半眼。意識はへそに……あ、大河がコケた……知らねぇ……。
「無理しないでくださいね……身体を起こします。まっすぐに立って……両手を上に。呼吸です。静かに……深く。目を閉じて……パワーを意識します。呼吸と一緒に、身体を巡ります……そのまま右手をまっすぐ前に。左足を後ろに上げて……膝が曲がってもいいです、左手で足首を掴んでできるだけ柔らかに…右足は揺れません…キープ」
…できた。
竜児はびしっと片足立ちを決め、へその辺りで清浄なる蓮の花がぷちり。開く感覚を覚えた。ババアの声? 聞こえねぇ……。大河がまたコケた? 知らねぇ……。
キープ……。
「なんかおばさん達が騒ぐせいで、全然集中できなかった!」
「あんたの場合、ポーズごとに勝手にあせって転ぶんだもん。あたしはそのせいで集中できなかったっつーの。ねー、高須くん。……高須くん?」
「……竜児聞いてる? ……あーあ、チャクラ開いてるよこいつ。おい!」
軽くどつかれて、はっ、と我に返る。竜児は目を開いた。気がつけばヨガのクラスは終わっており、スタジオ前に立ち尽くしていた。身体には心地よい疲労感とかすかな汗……全身が軽くなった気もして、なにより頭がすっきりしている。思わず両手をじっと見る。
「なんか俺……ヨガ、好きかもしれねぇ……!」
さもありなん、と亜美は領き、
「おばさん軍団の大騒ぎの真っ只中で、たった一人超然としてたもんねぇ。一種異様な迫力があったよ、鏡越しに見てたけど」
「やっぱり普段の生活で、いろいろ鍛えられてるのかもしれねぇな……」
「あー……」
「……なんで二人して私のこと見るの? そんなことより!」
きっ! と大河は眉をひそめる。
「こんな大人しい運動じゃ痩せないよばかちー! もっとこう、はあはあするような運動しなくちゃ!」
「はーいはい、もちろんあるっての。これはあくまで準備運動、そうだなあ、三人じゃスカッシュもアレだし……マシンで走りこむ? DVD見れるよ」
「えー! マシンってルームランナーとかでしょ? あれやだ、スタジオでこう、踊ったり騒いだり汗かいて痩せたい!」
「わっがままな奴……あー、あるよ。あるある、あんたにぴったりなのが……」
亜美に先導され、大河と竜児はガラス張りのスタジオが並ぶ廊下を歩き出す。大人の男女が一緒にバレエをやっているスタジオに、バランスボールをしているお年寄りだけのスタジオ。明らかに素人ではない連中が激しくヒップホップダンスに興じているスタジオも。いろいろあるもんだ、と竜児は興味津々、ガラス越しに見て回る。やがて、なんとなくシャンシャン甲高い音漏れが聞こえるようになり、
「……踊って騒いで汗かきたいんでしょ? だったらこれじゃん、あんたの望みは」
亜美が足を止め、ひとつのスタジオ前で指をさしてみせる。竜児も大河もある意味釘付け、目を見開いて、立ちすくむ。
エアロビクス・HARDと書かれた札のかかるそのスタジオの中では、蝶が――いや、毒蛾がビラビラと乱舞していた。さっきのキャッツアイおばさんもいる。似たような極彩色の、ドピンク豹柄タイツもいる。真っ黒に焼けたおじさんはVネックレオタード(! )から片乳首見せ、紫のレッグウオーマーにも毒々しいラメを散りばめて、たまに地味なジャージの人がいると思えば、メタボを通り越した完全関取体型、性別不明で年齢不詳、しかし妙に身が軽くて三回転ターンも軽々と決めてみたり。
汗の飛沫《しぶき》。曇るガラス。漏れるユーロビート。テンション高すぎの講師。「ヘイターン! ん、234、ヘイターンー。ん、234、次いくよ決めるわよ華麗にせーの! ん、へい!」「ん! へいー。」「ヒュ――。あっ、ジャンッ! ジャンッ! んおっ! あおっ!」「ワーオ!」
ンバババババ! と身を揺すり、全貝一斉にビヨーンとジャンプ。しゃがんだポーズから「……はっ!」顔上げ。んっぱ! んっぱ! で手を叩き、今度は左右にツーステップ! ツーステップ!
「……怖いよこれ……」
大河がぽつり、と呟く。でっしょー、と亜美は大河を見やり、「あたしらには無理っしょこれ。大人しくマシンしよ」と。竜児も否やの唱えようもない。三人はなにも見なかったふりでそっとその場を離れようとするが、
「ンワ〜〜〜オゥ! ウエイッ! ヘイ、カマンッ!」
びくっ! と三人揃って思わず振り向いてしまった。熱気で曇ったガラスの向こうから、毒蛾の親玉、黄金のてっかてか全身タイツで胸元だけくりぬかれているというすごいセンスの汗だく女(……か? )講師が、グルングルン回りながら見学の三人をロックオンしていた。あまりの恐怖に足が辣み、逃げそびれる。
「ッヘイ! ン、カマン! ッヘイ! ア、カマン!」
ん、ちゃ、ん、ちゃ、と手拍子、ちょっとクールダウンのステップを刻みながら、生徒達までガラスの向こうから「ン、カマン! ン、カマン!」を繰り返す。同じ表情、同じ目をして、同じステップを踏んで。いや、無理、マジで、と三人はじりじり後ろに下がるが、
「なーんでもエクスペリエーンスッ! あーおっ!」
ついに禁断の扉を開いて、黄金毒蛾が廊下に現れる。「ひー!」「ぎゃあああ!」「いやー!」悲鳴を上げて逃げ惑う三人をあっというまに絡めとり、香水と汗とスニーカーのにおいが入り混じるムンムン地獄空間に押し込まれる。耳に痛いほどのハイテンションユーロビート、マイクを通した講師の絶叫、「いやだいやだできないいい!」「許してくれー!」「無理無理無理無理無理!」踊る人々の群れの中央に放り込まれ、しかし三人の声は誰にも届かない。そして新たな振りが始まる。
「へぇぇぇぇ〜〜〜〜い……んっ! カマッ!」
ばっ! と一斉に大の字ジャンプ! 置き去りの三人は轟音の中で茫然自失。しかしいつまでもそうではいられない、なにしろ群れは右へ左へ激しく華麗に動きまくるのだ。「あいた!」
「す、すいま……おう!」「ちょっ、いやー! やめっ……あー!」腕がぶつかり、腹がぶつかる。ケツで倒され、踏み殺されかける。止まらない、もう誰も止まらない。死にたくなければ、同じ動きをするしかないのだ。
「ステーップ! ステーップ! ライッ! レフッ! ステーップ! ステーップ! スローなターン! んー……ワオッ! ハッ!」
汗がキラキラと弾けとんだ。頭は真っ白に塗りつぶされた。
ターンを決めたその瞬間、亜美の髪がハラリと解けて空を舞う。「んっ、セクスィー!」と飛ぶ声に、亜美は「ワーオ!」とさらにターン。「ヘイ!」で顔を上げた竜児に、「スマーイル!」と声が飛ぶ。竜児は「イエッ!」と歯を剥き出す。己より怖い顔の人が一杯いるから大丈夫! 大河が踊る。尻をシェイク! 「ヒャホー!」で仰け反り、思いっきりポーズ! 指を鳴らして大の字ジャンプ! 「ん〜〜〜〜……」と身体を丸めてつま先で前進、「エクスペリエーンスッ!」――声を揃えて叫びながらズダーン! と倒れてレッスン終了!
ワッ……熱気の中に巻き起こる拍手、拍手、大歓声……。
――はあ、はあ、と苦しい息の下。竜児はなにかを失った気がして、女二人のことも忘れ、一人、そのままスタジオで、泣いた。
5
なにもなかったのだ。
あれは、犬に噛まれただけ。
……そういうことで事態に終止符を打ち、結局大人しくマシンを試して、その後一時間。そろそろ昼ごはんどきだし、運動ならもう心が砕けるほど十分したし、この辺で切り上げるか、と竜児と大河・亜美は別れて更衣室へ向かった。
軽くシャワーを浴びて髪を乾かし、着替えて竜児が出てくると、いまだ女子二人はいない。女の身支度など時間がかかるに決まっているから、竜児はベンチに座り、大人しく待つことにする。行きかうおばちゃんの中にまたキャッツアイの人を見つけてしまい、「へーイ!」と手を振られ、「ハーイ!」と返せてしまう自分が嫌だ。
エアロビのことはもう忘れよう、ヨガだ。自分にはヨガが向いている。静かに習った呼吸を繰り返しながら携帯でポチポチとメールチェックなどしてみたり。それにしても遅い、と退屈顔を凶悪に晒して女子更衣室の方を振り返ったそのときだった。
きゃーあーあーあーあーあー……。
響き渡った悲鳴に、なんだなんだと人々が振り返る。キャッツアイの人も振り返る。スタッフが更衣室に駆け込んでいき、そして、
「おう……!?」
竜児は息を飲んだ。
スタッフに付き添われ、亜美に「お、重い……!」と背負われて現れたのは、大河だった。その顔面は蒼白で、もはや虫の息。竜児は慌てて駆け寄り、問う。
「どうしたんだよ!? 貧血か!?」
物言えない大河に変わって、答えたのは亜美だった。
「……ロッカールームに一体脂肪計があったのよ。随分運動したし、計ってみれば? ってやらせたらさ……タイガー、『軽肥満』だったの……」
「ひ……肥満……!」
「それまでは『太ったっていっても元が痩せてたの。これで普通になったってことよ』とか強気なこと言ってたんだけどさ、客観的に小デブ宣言されて、ショックで倒れたみたい」
大河は宿敵・亜美などに背負われて、しかし顔を上げることもできない。とりあえずおんぶを亜美と代わり、大河を背負うが――なぜだろう、小柄な身体はものすごくものすごくずっしりと感じる。なるほど、これが軽肥満の重みか。
「た、大河、元気出せって……な? またここに来ればいいじゃねぇか。そうだ、いっそ会員になっちゃえよ。俺は金銭的に付き合えねぇけどさ」
「そうそう。あたしは週一必ず来てるし、真面目にマシンとかやろうよ」
「……もういい……いいの……」
「そう言わずに頑張ろうぜ。な? 間食ガマンして、食事も気をつけて」
「……いいってば……こんなにがんばったのに、ダメなんだもん……もうやだ……」
「こんなに、って、あんたまだ初回じゃん」
「……いやなの……もういい……私のことは忘れて下さい……。今までどうもありがとう……」
思わず、亜美と顔を見合わせる。ここまでへこんだ大河というのも、なかなか見られるものではない。
亜美はサングラスの弦をちょっと前歯で齧り、思案顔。やがて「ん。そーだ」と眉を上げる。
「あんたがそこまで落ち込むなんてねぇ。……ま、珍しいモン見せてもらったってことで、亜美ちゃんが一肌、脱いであげる」
「いいよ別に……露出狂め……」
「そんな口利いたこと、後悔させてやるから。『亜美さまどうもありがとう! 亜美さまのおかげで痩せられました!』って、絶対言わせてみせる」
――一体なにを思いついたというのか、亜美はあくまでも強気で笑う。
***
週が開け、月曜日。
「おーっす! って、元気ないじゃん大河。やっぱり風邪? あ、それともダイエットきついとか?」
「……しっ。それ、いま禁句なんだ」
「う。……そ、そうなん?」
いつもの待ち合わせの、欅《けやき》並木の交差点。実乃梨は大河の暗い顔を眺めて心配そうに眉をひそめる。大河は無言、俯いて、ぼんやりと一人で歩き出す。
大河の元気は、あのジムでの一件以来、回復することがなかった。しかもそれで食欲が失せるならかわいらしいが、ストレスのあまりかえって過食、大河の小デブは止まらない。それで余計にストレスが溜まり……悪循環のルーレットはとっくに回り始めているのだ。
「大河〜。大丈夫かよ〜。なあ、お〜い……」
「……」
実乃梨の呼びかけにも答えない。ヒュー、と大河の足元にだけ、枯葉の旋風が寒々しく巻き起こる。どうしたことかと竜児がため息をついた、まさにそのときだった。
向かう先の方角から、なぜか頭に全員揃いの紙袋を被った十数人の集団が、学ラン姿で幻のようにこちらへと走ってくるのだ。悪い夢か、そうに決まっている、竜児は唖然と言葉を失いつつも瞬きを繰り返し、実乃梨は「山じゃ……山が騒いでおる!」……オババになりきって戦慄《おのの》いている。
大河も異常事態に気づき、さすがに驚いたように顔を上げた。紙袋集団はなにをするかと思ったら、
「ひ!? うぇぇぇ!?」
声もないまま、大河の両腕を左右から引っつかむ。二人がかりで肩を組んで、がっちり固定。さすがの手乗りタイガーもあまりに突然の事態に、振り払うこともできずにただ驚いて悲鳴を上げる。そして、
「うおおおおおおおおおおお――――つ!」
「走るぞタイガ――――っっ!」
「脱軽肥満だよタイガー脱軽肥満っつっ!」
紙袋集団が、一斉に叫ぶ。左右から肩を組んだ狢好のまま、そのままものすごい勢いで、奴らは大河ごと全力で走り出す。しかもご丁寧にもいつの間にやら大河の胴体にはタイヤつきロープが括り付けられ、「ぎゃあああぁぁぁ! なんなんだおまえらぁぁぁ!」――大河は叫びながらも、走らないわけにはいかない。足が止まればそのままズルズルと引きずられること必至なのだ。
呆然、とそれを見送ってしまい、竜児ははたと気づく。紙袋の中身の声の一人、あれはなんとなく、親しい友達の能登の気がする。他にも聞き覚えのある、クラスの連中の声が混じっていたような。
「うっわあ……タタリ神じゃあぁ……」
「ていうか……大河、連れていかれちゃったぞ!?」
実乃梨と間抜けヅラを見交わしたそのとき、「お・は・よ(ハァト)」――背後から耳元に囁かれた甘い声は、亜美だった。
「お! あーみんおっはよ! 今の見た!? 大河がタタリ神に拉致られちゃったよー!」
「うんうん見てた見てた、こっわーい! ……なーんてね」
うふふ、と亜美はかわいこぶりっこで笑顔を作り、実乃梨と竜児に語るのだ。
「あれ、うちのクラスの男子たちだよ。あたし昨日ね、何人かの男の子に、ちょ〜っと相談事を持ちかけてみたの。『実は、タイガーが小デブで悩んでて、高須くんも痩せさせたくて悩んでて、あたし、二人の力になろうと協力を申し出たの。一週間以内にタイガーが痩せられなかったら、それはあたしの責任。罰ゲームとして、高須くんとお付き合いするって約束しちゃったんだ〜。どうしよ〜』って。そうしたら伝言ゲームみたいにその話が広がって……高須くん? 聞いてる?」
「……はっ! あまりの事態に、チャクラが開きかけた! お、おまえ、よくもまあそんな意味不明にでっかいウソを……!」
「高須くんしっかり!」
実乃梨の応援に、竜児はなんとか卒倒せずに話を聞き終えることができる。
「そしたらね、『亜美ちゃんのために俺達がタイガーを一週間で痩せさせるよ!』ってみんなして燃えちゃってー。男の子たち、本当にやさしいよねー、なんだかんだいって、タイガーのこと、心配なんだヨネ!」
「あーみん、あんたすっげぇなー!」
実乃梨が拍手する音が耳に遠く響く。亜美はあくまでも天使の笑顔、「実乃梨ちゃん、そういうわけだから今日はあたしと学校いこ! 高須くんもついてきていいよお〜?」……と。
そして亜美は、本当にすごかったのだ。……いや、正確には2ーCの男子は、すごかった。竜児が登校するや否や、全方向から「なんでおまえばっかり亜美ちゃんとのフラグが立つ!?」と悪意バリバリの視線が刺さる。いつもどおりに付き合ってくれるのは北村だけで、能登も春田も口を利いてもくれない。
休み時間ごとに奴らは頭に紙袋をかぶって立ち位置をシャッフル、大河に誰がなにをしたか覚えられないように小細工かましつつ、「や〜〜〜め〜〜ろ〜〜〜〜……」ずどどどどど、と、大河を抱えて走り去るのだ。
廊下を。グラウンドを。階段を。間食する暇も与えず、昼休みにはわざわざジロジロと弁当の中身をチェックしに来て、そしてまた紙袋、ずどどどどどど! だ。
始めたばかりの頃は大河は何度も引きずられ、もしくは足が浮いて宙走り状態でコケ、タイヤの重みで引き戻され、とにかくひどい目にあいまくった。しかし見よ、二日目、三日目、四日目を過ぎるあたりになると、大河は軽やかに、紙袋軍団とともに廊下を猛スピードで駆け抜けていく。タイヤに紙袋が一人座っていてさえ、それを軽々と引っ張って走り抜ける。その様は馬車馬……いや、燃える戦場を華麗に駆ける、鋼鉄の騎馬のようでさえある。
「いやー、鍛えられてきたねぇ」
「おう、見ろよあの目つき。あれは走るために生まれた獣の目だぜ」
のんきに実乃梨と並んで風になった大河を眺め、竜児は「がんばれー!」と声をかける。うるせー! と遠くから返事が響く。
次第に大河の身体は、目に見えるほどにはっきりと絞られてきた。まず胴体のゆるみが完全に無くなって硬く引き締まり、次には面差し。野性味を帯びたシャープなラインで、顎も尖り、頬も鋭い。輪郭はどことなく猛々しさを帯び、その眼差しは一層燗々と光る。制服に包まれた身体は無駄なくシンプルなラインを描き、なにより動作が一番変わった。素早く、軽やかに、緩慢な部分など何一つない。そりゃあ毎日毎日、登校下校休み時間昼休み、いちいちタイヤダッシュさせられれば誰でも鍛えられるだろう。痩せもするだろう、超健康的に。食事は竜児が低カロリー高タンパクを心がけ、間食することはできなくなった。教室で、街で、スーパーで、紙袋軍団の手の者が必ず網を張っているのだ。家でならなにを食おうと自由だが、疲れきった大河の身体は間食よりも睡眠を欲し、健康的な食事の後には泥のように眠り込むのが常だった。
大河の元より恵まれていた筋肉が、今、まさに目覚めかけているのだ――。
***
そして、一週間が経った。
大河は、見事に、痩せていた。秋前までの完全フィギュア体型を取り戻し、顔立ちもいっそうくっきりとして、本当にかわいらしい見目を取り戻していた。
そして今。登校時間より少々早い朝七時半。大河は木刀を手に、2ーCの教室のド真ん中で静かに胡坐をかき、瞑想していた。頭の中は完全にクール。思考は研ざ澄まされている。まず、最初に入ってきた奴をブン殴る。そして次の奴をブン殴る。女子は省いて、三人目をブン殴る。……要は、北村を除いた男子全員をブン殴る。竜児もついでにブン殴る。そして最後に、亜美をブン殴る。亜美さまのおかげで云々、そんな感謝の言葉とともにブン殴る。それでこの、長くてつらかったダイエットウィークは終わりだ。……終わらせてやろう、この手でな!
うふふ、あたしって優しいでしょ? あ、もしかして惚れちゃったぁ? 冗談じゃなーい、やめてよねぇ? いっとくけど、気まぐれだよ。き・ま・ぐ・れ。
――なんで大河のために協力してくれたんだ? と尋ねて、それが返ってきた答えだった。その言い草はあまりにも亜美らしくて、竜児は思い出し、またちょっと笑ってしまう。ぶりっこで、意地悪くて、素直じゃなくて、でも結局は……やめておこう。あの亜美に、「根は親切」なんて言葉は似合わない。気まぐれなのだろう、言葉どおりに。それでいいではないか。
「……よし。完成」
ちょっと用があるから先に行く、とすでに学校へ向かった大河の分と、自分の分。そして今日はもう一つ。昼ごはんはいつも抜くか、サラダかサンドイッチぐらいしか食べていない性悪な誰かさんのために。玄米ごはんと炊いたひじき、豆のサラダ、きのこの煮たのにカジキのフライ。食後のフルーツには、やっと買えた巨峰。カロリー抑え目の、秋弁当だ。一体どんなツラで受け取ってくれるやら。ぶりっこ鉄仮面のキラキラ笑顔か、それとも稀に一瞬見せる、ちょっと情けないくしゃくしゃ笑いか。どっちでもいい、どっちも亜美だ。一緒にいれば結局笑える、あの美人のくせに意地悪で、そしてどこかアホな川島亜美だ。
竜児はこれから自分を襲う恐怖の地獄予想図も知らず、三人分の弁当を、丁寧に色違いのミニ風呂敷で包んだ。
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春になったら群馬に行こう!
1
十七歳の、夕暮れだった。
枯れた雑草がそっけなく土手を覆《おお》う、川沿いのいつもの帰り道。ママチャリのカゴに放り込んだナイロン製の通学バッグが、小石の悪路にカタカタと金具を鳴らす。晩秋の風は耳に冷たく、学ランの下に無理矢理着込んだフリースのパーカーが頼《たの》もしい。
十七歳の春田浩次《はるたこうじ》は、ペダルを漕《こ》ぎつつ、うすらぼんやり考えていた。パーカー着てきてよかったなー。……ではなくて、
「……あの人、飛び降りちゃったりして……」
目の前の光景について、だ。
午後四時過ぎ。師走《しわす》も近いこの頃《ごろ》では、空はすでにほの暗い。街灯がぽつぽつと点《つ》き始め、向かう先にかかる橋にも真横に灯《あか》りが並んでいる。その、しょぼく白けた灯りの下に、一人の女が立っていた。
長い髪が風に吹き散らされるのが見える。顔は見えないが若そうなその人は、小さな橋の真ん中あたりに、ぽつんと佇《たたず》んでいる。
――ただ、それだけだ。それだけの光景に「飛び降りるのかも」なんて思うのは、ついさっきまで放課後の教室で友人達《たち》と繰《く》り広げていたバカ話のせいだった。
高っちゃんこと高須竜児《たかすりゅうじ》は、世にも恐ろしい顔でこう言った。『スーパーのレジの近くに、生花が売ってるんだよ。でもあんまり買う人もいなくて、レジの近くってこともあって荷物をぶつけられたりもして、花が首から折れて床に落ちてることがあんだよ。俺《おれ》はそういうかわいそうな花を見かけると、店員さんに一声かけて頂いちゃうんだけど、そのときにな。こう、手を伸ばした瞬間《しゅんかん》に向かいから女の人が同じ花を拾おうとして、手と手がぶつかって、目があって、どうぞどうぞ、いえそちらこそどうぞ……
と譲《ゆず》り合ったりしてるうちにやがて、花、お好きですか? それほど詳しくはないんですが。
あの、よかったらお茶でも。……つて、どうだよ』――吊《つ》り上がった三白眼《さんばくがん》にギラギラとした欲望を滾《たぎ》らせて、それが彼の考える理想の女子との出会いらしい。雰囲気的《ふんいきてき》には優しげな、いい話にも思えたが、よく考えてみれば落ちた花を拾うのもらうのとなにやら諸々貧乏臭《もろもろびんぼうくさ》い。
能登《のと》っちこと能登久光《ひさみつ》は、黒ブチ眼鏡を拭《ぬぐ》いながらこう言った。『高須のと若干《じゃっかん》似ちゃうんだけどさ、CD屋で、俺以外こんなの聴いてる奴《やつ》いないよね〜とか思いながらどマイナーな変態バンドのCDに手を伸ばすと、同じCDを取ろうとしてる女子と指先がぶつかるわけ。で、え、もしかしてこういうプログレ好きですか?
あ、結構聴きます。え、私もなんです。あ、よかったらお茶でも。え、いいですけど。つて……
これどうよこれ』――俺のパクリじゃねぇか、
と高っちゃんが顔面凶器をギラつかせる一方、春田は違うことを考えていた。どマイナーな変態プログレを聴く女子って、カワイイ予感がまったくしない。
じゃあおまえの理想はどんなんだよ、と問われ、春田は真撃《しんし》に答えた。『通りがかりに、偶然川に落ちて溺《おぼ》れる女子を見つけるんだ。華麗《かれい》に助けて、ぶちゅっと人工呼吸。彼女は気がついて、俺に一目ぼれして、助けてくださったお礼にウチに来て下さい、つて言って、家に上げてくれるの。で、濡《ぬ》れちゃったので着替えますね、とか言って、スルスルっと……その先はフヒヒ!』……本気だった。二人の友人の答えに比べて、ドラマチックさ、運命っぽさ、そしてスピード感、すべてが上だと自信があった。
なのに二人は、リアリティがねぇだの、ありえなさすぎるだの、本当にアホだのなんだの哀《あわ》れ脳だのひどいことを散々言って、『じゃあ俺スーパー寄るわ』『俺はCD屋寄って帰ろ』と、それぞれが望む運命の出会いを求めて去っていった。負けていられるか、とチャリを漕ぎ、そんなわけで俺も川原に来たのだ! ……ということはまったくなく、単に家に帰る途中なだけなのだが。
そこにきて、橋に佇む女の人影など見つけてしまったものだから、ついついそんなアホなことを――
「あ?」
欄干《らんかん》を跨《また》いで乗り越え、躊躇《ちゅうちょ》はないみたいに見えた。
せーの、でそのまま、踏《ふ》み切ったように見えた。
水面まで、およそ、五メートル。
勢いをつけた身体《からだ》は踏み切ったポーズのまま、まっすぐに真下に落ちていく。
そして、バシャン! と、水しぶき。白い泡の中に、その人の身体は飲み込まれて消えた。
「……いやー実際、リアリティないなーとか言ってる場合でもないなー……どえぇぇー!」
と、パニック。一声叫び、顎《あご》まで伸びたロン毛が逆立った。周囲に他《ほか》に人影はなく、目撃者《もくげきしゃ》はつまり己のみ。必死にペダルを漕いで橋のたもとでチャリを捨て、土手を一気に滑り下りる。
ガキの頃から遊び慣れた川に、「うおりや!」と気合、そのまま踏み込む。冷たさに心臓がギユツと引き絞られる。川底が泥で足が沈むのも、意外と深くて流れが遅いのも、ガキの頃から変わっていない。
「ぅおーいっ! 大丈夫《だいじょうぶ》ですかあ!」
叫びながら、濁《にご》った水の中を飛沫《しぶき》を蹴上《けあ》げて進んでいく。すぐにスニーカーはソックスごと泥に取られて、裸足《はだし》になってしまう。腿《もも》まで濡らす水は息が止まりそうに冷たいが、川の中央付近でバタバタ跳ねる水飛沫と水面から出た白い手に、余計なことは考えられなくなる。どういう状況かだいたいわかる。この辺のガキはみんな必ず一度はやるのだ。自分もやった。低く思えるあの橋からこの川に飛び込んで、そして、川底に頭を打ち付けて死ぬ代わりに、刺さるみたいに泥土に埋まって身動きが取れなくなる。
手は水面から出てるのに、あと数センチ顔を上げれば息が吸えそうに頭上は明るいのに、その数センチが上がらない。そうなったらもう、
「おりゃああー! ……でーいっ!」
こうやって、誰《だれ》かが身体を引っつかんで、泥の地獄からひっこ抜いてやるしかないのだ。
「……っぷはぁ!」
水面にもがき出た身体を抱え、あとはもう無我夢中だった。どこを掴《つか》んでいるかもわからないままとにかく必死に抱え込み、足を飲み込む泥を蹴り上げ、鈍重な流れに身体を傾《かし》がせながら、ようよう土手まで辿《たど》り着く。もつれあうように倒れ込む。しかし引き上げたその人は、だらん、と濡れた枯れ草の中に身を横たえたまま、起き上がる様子を見せない。意識不明というヤツか。死んではいない……と思いたい。
「だ、大丈夫じゃなさそうだあ……うわーどーしよー! だーれかーぁ、おーたすけーぇ! あっそうだそうだ救急車救急車!」
いやその前に携帯はどこ!? カバン!? 胸ポケットか!? 濡れてたりして!? と一人慌てるアホの足元で、そのとき、
「……っげほ……!」
泥まみれの女が、息を吹き返した。苦しげに咳《せ》き込みながら身を震《ふる》わせ、くの字になって、さらに激しく何度か咳き込む、水を叶《は》き、喉《のど》を鳴らして呼吸を繰り返す。その手が、なにかを求めるみたいに伸ばされた。パニくりつつも春田は身を屈《かが》め、支えてやろうと背中に手を回す。
そうしながらも片手で己の胸ポケットをまさぐり、携帯を必死に探していたのだが、
「……わおっ!?」
唐突な、そしてものすごい力だった。
首に両手が回されて、すごい強さでしがみつかれる。押し倒される寸前で持ちこたえる。息ができなくなるぐらいの力で二本の腕は春田を抱きしめ、そして、首筋に吹きかけられた息は炎の熱さ。
「や、っつぱり……ゴホッ! 助けて……くれた……!」
とっさに振りほどこうとしても、がっちりと組み付いた腕は離《はな》れない。さっきまで溺れていたとは思えないような凄《すさ》まじい力で、その女はすがりついてくる。
「亮輔《りょうすけ》がいなきゃ……生きていけないよ……!」
などと熱く熱く囁《ささや》きながら。げほ! と苦しげに咳き込みながら。亮輔、亮輔、と繰り返しながら。
「俺は浩次なんですけど、なんて言える空気じゃないよなこれ……つて、オフスッ! 言っちゃってるよ!」
自分でもびっくりの明確な独り言が、彼女の耳にもこのとき届いたのだろう。しがみつかれたのと同じぐらい唐突に、その身体が離れた。
初めて、その人の姿を見た。
泥に塗《まみ》れて濡れた長い髪が、肌の色を透かす薄《うす》いニットの肘《ひじ》の辺りまで貼り付いていた。その肩も腕も薄く細く、汚れた顔は真っ青だった。
丸い額には浅い擦《す》り傷、細身のデニムから覗《のぞ》く足は裸足。春田を見つめた瞳《ひとみ》は猫のように大きく、ぴかぴかと強く光り、しかし怯《おび》えるみたいに長い睫毛《まつげ》が震える。
「……誰……? 亮輔じゃない……なんで……?」
「通りすがりの浩次っす」
「亮輔はどこ……? 男の人、いたでしょ……どこ?」
「わかんないっす」
「うそ……うそ、そんなの……りょ、」
「あぁっ!? そういえば、」
上げてしまった大声に、その人の目がハッと見開かれる。視線を熱く見交わして、春田は忘れないようにしっかと叫ぶ。
「俺あした日直だわ――っ!」
「……っ」
今にも死にそう――そんな風に見えたのは、日直情報の衝撃《しょうげき》のせいでなく。細すぎる身体のせいでもなく、泥に塗れて息も絶え絶えなせいでもなく、川に身を投げたのを目撃していたせいでさえなく、死んだみたいに凍りついたその瞬間の顔を目《ま》の当たりにしたせいだろう。そして次の瞬間、
「あっ、待って待って!」
脱力しきって倒れ伏したその人の身体は、再び川の流れに攫《さら》われかけていた。どんぶらこっこどんぶらこ……最後の気力も尽き果てたみたいに流されかける彼女の腕を、なんとか掴んで再び岸に引き上げる。
***
髪が、銀色に光って見えた。
「……これも使って」
差し出されたタオルを掴むのも忘れ、思わずぼけっと彼女の姿を見上げてしまう。いくらか年上、しかし社会人ではなさそうだった。大学生だろうか。彼女は静かな目をしたまま、そのタオルを座った春田の膝元《ひざもと》に落とす。そして、
「着替えも貸すから。……あげる、その服。サンダルもあるから履《は》いて帰って」
タオルに続いて、今度はグレーの男物の部屋着が上下一揃《ひとそろ》い、春田の膝元に。
「シャワーカーテン、閉めて使ってね。……聞いてる?」
「ぽえ〜」
――口あきっぱの間抜けヅラはリラックスの極致、全身弛緩《しかん》しきったように見えているかもしれないが、これでも結構内心は緊迫《きんぱく》状態にあった。
土手から道を一本挟んだだけのアパートの二階にその人は住んでいた。連れてこられるままにチャリを引き引き裸足でついてきて、狭いワンルームに上がりこみ、そして現在、春田はシャワーを借りようとしていた。先に浴びたのは彼女。さすがの春田も、自分以上にひどい有様のズブ濡れ女に
「先に入って」と言われて素直に領《うなず》くことはできず。
そんなこんなで、見知らぬ異性と二人きり。
しかもその異性は壁を隔《へだ》てて裸。シャワーの音など聞きつつ、所在無く座って待つこと数分。
やがて目の前に降臨せしは、お風呂《ふろ》上りでホカホカ濡れ髪の、薄着の、細身のラインばっちりの……ここに至った事情はもろもろあれど、この状況でリラックスできる男がいたら貴様などお坊さんになるがいい! と、思うのだがどうだろうか。
「……早く温まらないと。ほんとに風邪《かぜ》、引くから。……川の水、結構汚かったし」
ぼえ。と、なんとか領いた。
そうして今、満を持して、借りたタオルと着替えを脇《わき》に抱える。緊張を隠してズイッと立ち上がる。その姿はなんとすでに下半身裸――借りたバスタオルを惨《はかな》く腰に巻きつけているだけのセクシースタイルだ。シャワーの順番を待つ間にも濡れたズボンからは雫《しずく》が落ちまくり、足に冷たく貼《は》り付きまくりで座っていることもできず、こういうスタイルに相成《あいな》った。上半身はさほど濡れずに無事だったため自前のTシャツを着ているが、寒さで乳首は立ちまくり。
お風呂そこだから。と、彼女は濡れた髪をタオルで拭《ふ》きながら、玄関脇の小さなドアを指差してみせる。えっ、どこですか、とそちらを見ようと身体を捻《ひね》る。その瞬間、春田の下半身を包んだタオルがバラリと落ちる。
気づかずにいたのはたっぷり数秒。おや、なにやら急に冷えたな、と己の身体を何気なく見下ろし、
「ひゃあーん!」
悲鳴を上げる。不思議なことに下半身が丸出しではないか。友人の誰かと違って露出癖《ろしゅつへき》など持ち合わせていない。あまりにも恥《は》ずかしいこの事態に、カッと熱くなった顔を咄嗟《とっさ》に両手で覆い隠す。ああ、なんたるスキャンダル……顔だけを隠した仁王立《におうだ》ちのまま、指の隙間《すきま》からこっそりと彼女の様子を窺《うかが》う。まさかこの聖なるボトムレススタイルを見られてはいまいか――「……」
彼女は無言、かすかに眉間《みけん》に敏《しわ》を寄せ、黙《だま》り込んでいた。声も上げずにただ立ちすくんでいた。罵《ののし》りもせず殴《なぐ》りかかってもこない。いうことはつまり、
「――スェーフッ! うお〜びっくりしたぁ! 見られたかと思ったぁ〜! スェーフスェーフッ! あいったぁ……っ!」
腰を落として両腕をズバ! ズバ! とセーフに開いた勢い、小指を壁に思いっきりぶつける。あまりの痛さにしばらく声もなくもがき、余計にかいた恥《はじ》にさらに顔が熱くなり、耐えられず、ケツ丸出しのまま「ヒョー!」と叫んでバスルームに逃げ込んだ。
バスタブと同居しているトイレと洗面台の小ささに地味にびっくりしたりもしつつ、ドアを閉めて一人になって、ようやくまともに息をつく。熟《う》れ過ぎた林檎色《りんごいろ》に染まって熱い頬《ほお》を押さえ、項垂《うなだ》れもする。ああもう、自分はなんてドジな奴! 絶対絶対、ばかだと思われた! ……
通報されているかも、なんてあたりには当然考えも及ばない。
さっきまで彼女がシャワーを浴びていた薄暗いユニットバスには、いまだ熱気がこもっていた。狭すぎる空間で身のやり場に困りながら、結局バスタブの中に立つ。そうして身に着けていた最後の一枚、Tシャツをスルスルっと脱ごうとし、
「……あれ……? おやおや? これって……おお!」
そのときだった。
ようやくあれこれの混乱が収まって、春田の頭上の電球がビコーンと光る。下はとっくに聖ボトムレス、上はTシャツ脱ぎかけのハンパスタイルのまま、掌《てのひら》に拳《こぶし》を打ちつけようとしてガツンと肘を洗面台にぶつける。やり直してポン! と音を立てる。
「これって、俺の理想の出会いそのものじゃーん!」
若干、細部に違いはあるが――溺れた女を助けた。そして家に招かれた。彼女はシャワーを浴び、そして今度は自分の番。状況的には「かなり近い」と言っても差し支えないのではないか。ほーら見ろ! と、バカにしきってくれた友人二人のツラを思い浮かべる。
借りたタオルや着替えと一緒《いっしょ》に脱いだものも便座に置き、華麗に全裸になった。小躍《こおど》りしながらシャワーの蛇口を捻り、トイレやら床やら着替えやらに容赦《ようしゃ》なく飛び散る飛沫に
「ひええ……!」慌ててシャワーカーテンを閉ざす。
そうしてようやく、冷えきっていた身体に、ぬるいシャワーが降り注いだ。あっという間に湯の温度は上がり、肌を叩《たた》く熱いシャワーは心地よく全身を温めていく。その水音の中で、春田は一人、
「……えっへっへー!」
ご機嫌で笑顔を擦《こす》った。シャンプーもつけずに傷《いた》んだロン毛をがしゃがしゃかき回し、ぐねぐねと身をくねらせる。ほら見ろほら見ろ、あったではないか。こんな出会いがリアリティに。
『春田、おまえって超カチョイ〜な! バカにしたお詫《わ》びに大河《たいが》のおっぱい揉《も》ませてやんよ!』――想像の中で高っちゃんが言う。『春田、おまえはなんて賢いんだ〜天才だな〜! お詫びにはいこれ、十万円どぇーす!』――想像の中で能登も言う。やめてくれたまえキミたち、友達同士でそんなこと……まあ、でも、そこまでキミたちが言うなら受け取ってあげようか……クラスメートの怖い女の乳をぱふぱふっと揉んで『あ〜ん』とか泣かせ、十万円を財布にしまう。想像上とはいえ、そんなお詫びを受け取りたくなるぐらい、この現実は自分が語った通りに運命的だと思えた。
出会いはまさに筋書き通り。そして、タオルを差し出してきた風呂上りの彼女は、いいのか? と思うぐらいに無防備だった。濡れた髪もそのままに、痩《や》せた身体に薄手のTシャツとスエットパンツを着ただけの姿。あの素肌の白さ……薄着の艶《なまめ》かしさ。
「ヒョ〜! なんぞ興奮《こうふん》してきた〜!」
ボディソープで適当に足の泥を洗い流し、自由すぎる独り言を漏《も》らし、自分でもどうかと思うほどに浮き足立つ。いや、別にシャワーを順番に浴びあったりした後のことを期待しているわけではない。妙な期待なんかしていない。してはいないが、いないけれど……全然していないのさ! と言えばウソになるのだ! 申し訳ございませんでした! 誰にともなく頭を下げつつ、股間《こかん》を覗き込んで思いっきり洗う。……
違うのだ。本当になにかを期待しているからじゃなくて、汚い用の水に浸《つ》かったデリケートゾーンに変なモンが感染しては困るからで――まことに申し訳ございません……シャバシャバ!
そそくさとそれだけでシャワーを切り上げて、借りたタオルで身体を拭き、借りたジャージを躊躇《ためら》いなくノーパンで穿《は》く。穿いていたパンツは制服のズボンと一緒に、もらったビニール袋に封印してしまった。そして軽やかにワンルームの廊下に飛び出ようと思いっきりドアを開き、ゴン! と。
「はうっ……」
「うおお! ごめんなさい……つ!」
響《ひび》いたのは、乱暴に開けた風呂場のドアが、そのまん前に立っていた彼女の後頭部を直撃した音だった。風呂場のドアが開くギリギリの位置に小さな小さなキッチンがついていて、彼女はそこでお湯を沸かしていたらしい。後頭部を押さえて呻《うめ》く彼女の目の前で、油汚れの浮いた水色のケトルが間抜けな音で沸騰《ふっとう》を知らせる。
「こ……紅茶と、コーヒー……どっちがいい?」
「コーヒーで! 頭、大丈夫っすか?」
「えっ……なんか、その言い方……」
「は? なにが? マジで頭、大丈夫っすか?」
「……大丈夫。うち狭いから、よくあるの……」
立ち直って、取り出したのは揃いのマグカップを二つ。彼女は雑な手つきでインスタントコーヒーの粉を振り入れる。シンクに粉がこぼれてもまったく気にならない性質《たち》らしい。そしてケトルから適当に熱湯を注ぐ。二つのコーヒーの量が倍ぐらい違っても、それもどうでもいいらしい。
そんなふうに適当に入れられたインスタントのくせに、辺りにふわっとコーヒーのいい香りが漂う。春田はアホみたいにその一部始終を立ったままで眺めてしまう。
「はい。……飲んで」
その手に多くて薄い方のコーヒーを手渡してくれて、そして彼女は自分の分を、そのままそこで飲み始めた。幅一メートルもなさそうな、狭くて暗い廊下兼キッチンで。玄関から吹き込む冷気の中で。立ったままでだらしなく。
まあ、それしかないか――妙に納得し、春田も彼女にならって隣《となり》に並び、その場で熱すぎるコーヒーを畷《すす》りだす。すぐそこの狭い洋室はベッドとテレビ台も兼ねた大きな棚だけでいっぱい、お茶なんか飲めそうなテーブルの類《たぐい》は見当たらない。その上服やら化粧品やら紙束やら分厚い本やらがそこらに散らばり、あとはなんだ? クロッキー帳だろうか、何冊も束になって積み上げられ、ところどころ崩壊《ほうかい》しているタワーの材料は。バケツや意味不明なほど巨大な筆、ぽわっぽわな丸い筆、汚れたベニヤ板、オイルのような液体の瓶《びん》など、不思議なものも散乱している。床が見えているのは、さっきまで春田が座っていたクッションの周りぐらいだった。そのクッションのすぐ脇にある、踏まれたと思《おぼ》しき砕け散ったCDジャケットが若干気になるにはなるが。まさか……自分が? ……ヤバイか?
「……部屋、汚いでしょ」
不意に話しかけられ、ビクツと震える。小柄な彼女を、こっそり見下ろす。
しっとりと濡れたまま、まっすぐに胸下まで落ちる淡い茶色の髪が、やはり銀色に輝いていた。丸い額を見返しながら頷き、続く頬と鼻梁《びりょう》の白さに改めて目を瞬《またた》かせる。
白くて薄くてあちこち淡くて――透き通ってしまいそうだ。なんてことを思いつつ、
「ほんと、汚いですねぇアハハハハー! あとなんかくせー! 美術室? みたいな?」
気を使えるほど賢くはない。CD破壊犯=俺疑惑も当然とっくに記憶《きおく》にない。超正直に答えてしまい、しかし彼女は静かな表情を変えはしない。
「美術室って、いいセンついてる。……これ、油彩の臭《にお》いがこもっちゃって、取れないの。別にどうでもいいんだけど……あ、敷金《しききん》はやばいかも……」
「油彩ってことは――わ〜かった! お姉さん、もしかして画家の人? あの筆とかって、絵の道具っしょ?」
「違う。ただの美大生」
「びだい!? 絵、描いてるんだやっぱり! うっわーすっげえ、かっこいー! 絵描きさんの卵じゃん! 芸術家じゃーん! なんか見せて、絵とか見せて!」
「だめ。……ねぇ、制服着てたってことは、高校生だよね。そこの、公立?」
領き、春田浩次オブセブンティーン、と名乗る。彼女はふーん、とだけ返して表情も変えず、コーヒーを啜る。
そのしなやかな体つきをこっそり横目で窺い、捻った胴の細さや腰の薄さがまるで猫みたいだと思い、そして不意に思い出す。猫は猫でも、彼女は通学路でよく会うデブ野良《のら》なんかじゃない。昔近所の家にいたシャム猫にそっくりだ。
銀色に光る毛並みにアイスブルーの瞳をしていた、あのほっそりとして綺麗《きれい》だった外国の猫。
大事にされていたのに、あいていた窓からスルリとどこかに逃げてしまって二度と帰らなかったんだっけ――そのとき、幻の長い尻尾《しっぽ》がしゅるっと彼女の身体に巻きついた気がしてギクッとする。思わず目を擦る。気のせいに決まっている。けど。……なんて名前をしていたんだっけ、あいつは……
「……あのー、えっと。お、名前は?」
「……言いたくない」
「イイタ・クナイ? イイ・タクナイ? アー、すいませン、どこからが苗字《みょうじ》ですカ? 外人さんだったんダ、お国はどちらデ?」
二十センチ下方から、二つの丸い眼球が春田を見上げて一瞬光る。瞳の底が本当にブルーに揺らぐみたいに見えて、うわあ……と、感嘆の声を上げかける。そして、
「……ドコ人さんでも、も〜いいやあ〜! 綺麗だなあ〜! 美人だなあ〜! 寒くて死に掛けたけど、やっぱ助けてよかったなあ〜……!」
――−へらっ。と。
緩《ゆる》んだ口元から、上げかけて飲み込んだつもりの言葉が全部ダダ漏れになる。ああっ! と気づき、慌てて口を押さえるがもう遅い。そしてドカーンと赤面……このアパートに上がりこんでから、一体何度赤面すれば気が済むのだ自分は。
「……濱田《はまだ》」
はまだ?
なにが?
己の恥で脳のメモリはもう一杯。話についていけずにきょとん、と傍《かたわ》らに立つ声の主をしばし見下ろしてしまい、
「あっ! なるほど!」
ようやく合点がいった。意味が通じた。ポン! と手を打ち大きく領き、
「イイタは偽名で、本名はハマちゃんか〜! アハハハハ合体〜! じゃあ俺はスーさんて呼んでもら」
「呼ばない。……濱田、瀬奈《せな》……」
「アハハハ! 瀬奈さんか〜! わかったアイルトン! じゃあ俺のことはこ〜じって呼んでくれてい」
「呼ばない……」
「じゃ〜春田でいいや的な」
自分の呼ばれ方など本当はどうでもいいのだ。
それよりも、濱田瀬奈――ちゃんと覚えよう、と眉間に力を入れる。あまり出来の良くないこの頭は、深く物事を考えられないうえ、覚えたそばから記憶をぽとぽと落としていくのだ。だが珍しくこのときは、
「おや……?」
忘れかけていたある記憶を、再び頭上の電球がビコッと脳裏に照らし出す。ただし悲しいぐらいにしょぼいワット数、照らされた記憶は思い出そうとするそばから塵《ちり》となって風に散ってしまいそうに危うい。
「りょ、りょう……りょうさ……う〜ん……りょうさ、く? ……いや、ちゃう……なんだろなこの記憶……あ〜……あ? 前世……?」
「……もしかして、亮輔、って言いたいの?」
「あっ、そうそう、それそれ。なんだっけか、それ」
瀬奈は薄い唇を一瞬噛《か》み締《し》め、眉《まゆ》をひそめる。
嫌そうに、しかし、その日を再び開く。自分を救った春田に対して、ある種の義務感でも勝手に持ってしまっているのかもしれない。
「亮輔は――その服の、持ち主の、男」
「へー、そうなんだー。持ち主かー。……マジで、男かー。……くれるってさっき言ったから、ノーパンでこれ穿いちゃった……。あ、いや、別に瀬奈さんのだと思ったからノーパン接続したわけじゃないんだけどね、……あー……そーかー……男かー」
「……いいんじゃないの。もう、着ないと思うし。それ」
「あっ、ほんと? ホッ! よかったよかった、一応『風上』にはならずに済んだ、いろんな意味で!」
「……よくない」
「よくないぃっ!? 『風下』、なんかうつる!?」
一人バタつく春田を気にも留めず、濡れた髪を細い指で梳《す》き下ろし、瀬奈は視線を自分のつま先に向ける。本物のシャム猫だったなら、多分尻尾をくねくねと落ち着きなく宙でくねらせている。
「そうじゃない。……それ、着ないってことは、つまりもうここには来ないってこと。亮輔は彼氏……元カレ、に、なるかもしれない、奴の名前。さっきの、あの……川に飛び込んだりしたのも、それが原因」
「……あーららー……そうでしたかー」
そりゃ身投げするぐらいだから、なにか複雑な事情があるのだろうとは思っていたが。なるほど、恋愛沙汰《ざた》だったか。それはまたありがちな……とは、さすがの春田にも口には出せなかった。マグカップを手に持ったままで俯《うつむ》いている瀬奈の横顔は、透けてそのまま影に溶け込み、この世から消えてしまいそうに見えた。
「……フラれたんだけど、どうしても、別れたくなくて。話しさせてってウチに呼んで、やっぱりダメで出ていっちゃって。橋のところまで追いかけたんだけど、追いつけなくて、どうか振り返って、お願い、ってずっと背中見てて……でもどうしても振り返ってくれなくて。本気で死のうって思ったわけじゃない。あんな浅い川で、まさか本当に人間一人死ねるなんて思ってない。……まあ、そのまさかが起きかけたところを助けてもらったんだけど。でも、飛び込んでも振り返ってくれないなんて、……気づいてももらえないなんて、思わなかった……」
橋の上に呆然《ぼうぜん》と立っていた瀬奈の姿を思い出す。瀬奈は、道の先のどこかをじっと見つめていた。あの視線の先に、そのなんとかいう彼氏がいたのか。
しょんぼり、としか形容しようのない横顔に、春田は問答無用に同情モード。訳知り顔で領いて、元気付けようと「バキューン☆」――指先で瀬奈の肩を軽く銃撃。
「あぅっ……」瀬奈は熱々コーヒーを手に零《こぼ》し、しかし春田は気づかない。
「気づかれてたのに見捨てられるよりマシじゃーん! それにさ、気づいて欲しいんだったら『死んでやるぅー!』ぐらい叫ばなきゃ!」
「叫んだ。……叫んでるの。先月ぐらいから。何回も何回も」
「……あ、そうすか……」
さっそく腰が引けてくる。こんなにも一気にテンションを下げてくれる女の発言というものがあるだろうか。
「最初の三回ぐらいは、それで『ごめん』ってことになったの。効果あったの。とりあえずまた今度話しよう、つて、先延ばしできてたの。……でも四回目にね、『もう付き合いされない』って言われて……それ以来ちょっと、そろそろ先延ばしも限界かもしれなくて……」
「で、心機一転、身投げしてみたんだ。そして不発、と」
瀬奈は、頷きはしなかった。でも、そういうことのはずだ。あーあ、と思わず息をつき、
「……ていうかさ。先延ばしできてたって言うけど、それもう意味ないじゃん。彼氏はもう瀬奈さんのこと好きじゃないんでしょ? 自分のこと好きじゃない男を無理矢理に引き止めて、一緒にいてもらって、それって楽しいの? 相手の男は楽しくない、それどころかガマンしてるってのはシカッティング? 彼氏の方は苦痛でガマンでストレスっしょー? 好きな奴なのに、それはかわいそくないの?」
引いた勢いで、ぽろぽろっと本音を連ねてしまった。瀬奈の白い横顔は俯いてしまい、言い過ぎたかな、と濡れたままのロン毛をかく。
瀬奈はマグを水垢《みずあか》が白く残るシンクに置き、苦しげに唸《うな》った。
「そんなの……わかってるよ。亮輔のことも苦しめたくなんかない。それにもう、死ぬとかなんとか、こんな修羅場《しゅらば》になっちゃって……二度と元どおりにはならないのも、わかってる」
行き倒れかけの身体を支えるみたいに、シンクに手をつく。骨の形が見えるほど指は細く、爪《つめ》も小さくて、深爪寸前まで短く切られている。
手の甲には青い血管がうっすら浮いているのが見える。美人ってのは顔だけじゃない、こういうところまでいちいち椅麓にできてるんだなーなどとうすらぼんやり考える。
うん。綺麗だこの人、やっぱり。そしてフリーだ。本人が認める認めないにかかわらず、FA宣言済みだ。ビコーン……ならば早急に移籍先《いせきさき》の選定が必要なのではあるまいか?
「でも、まだ、好きなの。……それはどうすればいいの? どんなにひどいこと言われて泣いても、怒って恨んで悔しくても、また前みたいに二人で歩けたらって思っちゃうの。前みたいに二人でごはん食べられたら、って。二人で散歩するの、大好きだったの。話しながらブラブラ歩いて、お茶飲んで、本屋さん見て、疲れて帰ってきてごはん食べて、ふざけながらそのまま眠っちゃって……そういう時間が、すっごく、好きだったの。幸せだったの。あたしのすべてだったの。失いたくないの。……どうすればいいのよ」
ハイきました! ロン毛をついっとかきあげて、さっそく獲得に名乗りを上げてみる。「新しい彼を見つけて、それ、やればいいじゃ〜ん!」
たとえばおれおれ! おれだよ浩次だよ!
死ぬのなんのと確かにウザいよ! でもその辺さっぴいても瀬奈さんは十分魅力的《みりょくてき》! それにきっと瀬奈さんと別れたいなんて俺は思わないよ! 別れるならきっと瀬奈さんが俺を振るんだよ(泣)! だから瀬奈さんのウザい成分は俺には関係ないよ! 過去の男は忘れなくちゃ! だから、ね!? ねー!? 土下座《どげざ》ー!
……とまではさすがに。節度だ、節度。ただまあ、本気だ。顔もキッと引き締めて、自分的にはイケメンオーラMAX、むわっと全力でかもし出して勝負。だが、
「……やだ。亮輔とじゃなくちゃ、意味ない」
「あらまーそっかあー! アハハハハ!」
二秒で撃沈。笑うしかない。
「で、でもね! あのね! えーと!」
この会話が終わったら、じゃあさようなら。になる気配。瀬奈は「はあ〜」とため息などつきつつ、壁の時計をチラつと見た。その動きを察知してあせる。せっかくの出会い、せっかくの偶然、これで終わりで済ませたくはない。このくそっ寒い中、川に飛び込んで命を救ったのだから相応の礼をもらおうか! ……とまではもちろん言わないが(頼まれて助けたわけでもないし)、それにしたってもうちょっとなにかいい目を見たい。人工呼吸だってできなかったのだ。心底思う、もうちょっとでいいから、いい目を見たい。見たいったら見たい。
「え――ぇぇと、ね。……違うアプローチを、すればいいと、思うんだよね。俺」
「……え? どういうこと?」
必殺、喋《しゃべ》りながら考える作戦発動!
「だからさ、ええと……その、彼にとって瀬奈さんは、もういらないってことじゃん。つまりあのー、うん、そうだそうだ。過去の関係を保つ努力じゃなくて、新たにこう、出会い! 新しい関係、構築! みたいな」
「……どうやって?」
「た、たとえばさ、そのー、新しい瀬奈さんを見、せ、る、的、な……あっそうだ! わかったー! アハハハハー!」
生れ落ちたそのときから常に霞《かす》みがかかったような春田の脳みそに、そのとき久々に、知性の稲妻がドカーン! と落ちた。この閃《ひらめ》きは、ビコーンの比ではない眩《まばゆ》さだ。きた。たまにあるのだこういうことが。
「『超かっこいい、しかも高校生の彼ができちゃった!』って、どう!? あ、もちろんこれ作戦だよ!? 若い彼ができて幸せになっちゃって、すっかり昔の男なんて忘れてしまった瀬奈さんは幸せオーラでハッピーホルモンむんむん、そんな様子を見せつけまくって、ハッ!? あれが瀬奈!? 悔やんでいるのは、私!? あ、これ綾波《あやなみ》ね、みたいなさー!」
「……その高校生って、もしかして……?」
「イエス! 俺っす!」
「……超、かっこいい……?」
「イエス! 俺っす!」
瀬奈は春田をじっくり眺め、幾度か瞬きし、唇を噛んで少し考える。そして、
「ええと……要は嫉妬《しっと》させる、ってこと?」
「んー、ちょっとちゃうねー! 幸せむんむんな瀬奈さんに、もう一度改めて、新しく恋させるってことサー!」
もちろん春田の真・計画では、りょうさく君が「ハッ!?」となった頃にはもう、「ゴッコ」は「真実」になっているわけで。どんなに悔やもうとも、一旦《いったん》彼女にした瀬奈を手放すつもりなどサラツサラないわけで。
そう、自分で言うのもなんだが、バカそうに見えて実は意外と悪知恵が働くタイプなのだ。たとえばこんなふうに善人ぶって協力を申し出ておいて、おいしいところはパクッと――
「……でも、どうしてあたしのためにそんなこと、してくれるの?」
「そりゃーもちろん、その過程で瀬奈さんと親しくなって、あわよくばそのまま本物に格上げされる機会を狙《ねら》いたいからだよ! 瀬奈さんかわいいし美人だし! 美大生なんて超かっこいいし! せっかくこんな人と出会えたのにこのままお別れしたくないもん! ……ぬあー! 言っちゃってるよ俺!」
なんてこったい! 一瞬でカーッと血色に染まった顔を手で覆い、声も出せずにしゃがみこむ。せっかくの閃きドカーンがこれで台無しだ。終わった。
……やっぱり、本当にバカなのかもしれない。みんなが言う通り、自分はアホでバカで哀れ脳なのかもしれない。なにが真・計画だ、ボロボロ全部喋ってしまっているではないか。己でも信じられないほどアホな自爆の仕方をして終了しかけた春田に、しかし、
「……あはは!」
瀬奈は、笑ってしまっていた。あまりのアホさに、それが冗談に思えたらしい。口元を両手で覆って、背中を丸めてうずくまって、それでもまだクスクス笑いを漏らし、
「なにそれ、笑える……でも、いいかもしれない。それ、やろう。やりたい。うん、超かっこいい、つてとこは置いておいても、高校生ってだけでちょっとスゴイし。意外と効果、あるかも」
「ほ、ほんとに!? ほんとー!?」
狭いキッチン兼廊下に並んでしゃがみこんだ姿勢、瀬奈は何度も繰り返し頷いてくれる。しかも、
「本当。これはじゃあ、バイトね。そういうことにしよ。一回のバイトごとに……一回デートして亮輔に『新しい瀬奈』を見せ付けるたびに、三千円あげる」
「うっそー!? やっばい、マジで!? やったー!」
瀬奈とかりそめとはいえデートできる上に、お小遣いまでもらえるなんて! 春田は大喜びで拳を突き上げ、わーいわーいとノーパンではしゃぐ。
――春田浩次、十七歳。
これが援助交際の始まりであった。
2
「春田ー! 見て見て、親父《おやじ》に吉牛の株主優待券もらっちゃったー! 牛丼《ぎゅうどん》タダだよ牛丼! 行くっしょ!?」
「……気安く話しかけないでくれたまえ、能登くん。キミはその道端で拾ったタダ券で、ボクの分までオージービーフ丼を食ってくるといいのサ」
「株主優待だっつの。なに? 行かないの? マジでタダよコレ? おまえ昨日まで牛に生まれ変わって丼《どんぶり》にされたいぐらい吉牛好きって言ってたじゃん」
きょとん、とかわいくもないツラで小首を傾げて見せる黒ブチ眼鏡の友人に、優越感たっぷりの笑みを向けてやった。カブ畑で生えたタダ券がどうした、こっちはデートなのだ。
放課後の、いまだ喧騒《けんそう》の残る教室。ロン毛に生意気にブラシまでかけて、春田はそそくさと帰り支度《じたく》を整えていた。パーカーを着込み、学ランを着込み、バーバリーチェック(偽物《にせもの》)のマフラーを巻いて立ち上がる。悪いが今日は能登になぞ付き合ってはいられない。
「ちょっと用事があるんだよねー。ってわけでお先に! じゃな能登っち!」
「えー!? なになに、どしたの!? なんだよもー、付き合い悪いじゃん!」
「わりー、もめんぬー。っつか、高っちゃんか北村《きたむら》大先生誘《さそ》えば?」
「大先生はとっくに生徒会のお仕事に行っちゃったよ! それに高須はアレだもん!」
相変わらずかわいくないツラをむくれさせて能登が指差す方向を見た。そこでは般若《はんにゃ》にそっくりな顔をした友人が、鼻血をダラダラ垂らしてイスに座り込んでいた。結構すごい光景だ。
ゴク、と思わず息を飲み、急ぐには急ぐ身の上だが、一応ワケを訊かずにはいられない。
「た、高っちゃん!? どしたの!?」
「……この、ドジめが……! 俺を……!」
くわ! と凄まじい三白眼で睨みつける先には、「事故よ」と偉そうにふんぞり返るちびっこが立っていた。ふわっふわのロングヘアに、フランス人形みたいに整った美貌《びぼう》をもつクラスメート。手乗りタイガーこと、逢坂大河《あいさかたいが》だ。
「タイガー! 俺の高っちゃんになにすんだよお! かわいそうじゃんか!」
「だから事故だってば。フン、アホに説明するのもアホくさいけど、ただコレを、」
手乗りタイガーが春田に見せてくれたのはミルクセーキの缶。の、プルトップ。
「ちょっと硬かったから思いっきりこう、おりゃ! っと開けたら、そこにこのブ男犬のツラがね……不幸にも、ちょうど肘の真後ろに」
ブ男犬って誰だよ!? あんただよ。鼻血出てんだぞ!? 悲惨《ひさん》よねー。心配とかしねぇのか!? あーしてるしてる。おまえのせいだろ!? 事故って怖いわー。なに平気な顔してジュース飲んでんだよ!? ミルクセーキよ。……二人は鼻血がダラダラ垂れる中、結構余裕でいつもどおりの馴《な》れ合い漫才《まんざい》を繰り広げているが、傍目《はため》には。
「……ス、スプリンクラーな光景だよ、高っちゃん……!」
「スプラッター、な、春田」
そうそう、そう言いたかった。能登の協力によって気持ちよくワードが嵌《はま》ったところで、では急ぐので、と春田はカバンを片手。カブ畑の眼鏡と鼻血男とちびっこ虎《とら》にもう片手を振る。待ち合わせ時刻はもう間近に迫っていて、これ以上油を売ってる暇はなかった。しかし「ちょっと待て」と鼻血男に止められる。
「言っておきたいことがあったんだ、忘れるところだった。おまえのスラックス、妙にてかってるぞ。帰ったらすぐに酢水をスプレーしてアイロンかけろ。あ、くれぐれもコンセントの抜き忘れには気をつけろよ」
「おーさすが高っちゃん、ついにバレたか。クリーニングに出したたった一本のズボン、取りに行くの忘れちゃって。昨日から中学んときの制服のズボンなのよ実は。色同じだし、意外とわかんないっしょ?」
「わかんねぇけど。……ど平日に、替えもねぇのに制服をクリーニングに出すか普通。どうしたんだよ」
「フヒヒッ! ヒミツ!」
母ちゃんみたいな友人の問いには答えず、そのまま教室を出る。あの出来事は、秘密なのだ――秘密ね、と約束したのだ。だから守る。走り出しかけ、そのとき一つビコーンときた。忘れるところだった。そのまま素早く器用にバック走り、戻った教室のドアからひょいと顔だけ出し、
「よー、タイガー! 俺も言っておきたいことがあったよー!」
「馴れ馴れしいな! 早く帰れアホ毛野郎!」
反射的に牙《きば》を剥《む》き出し、低く怒鳴り返してくる手乗りタイガーに軽くウインク。想像の中でパイ揉みしたこともあるこの猛獣系《もうじゅうけい》ギャルに、ぜひとも告げてやりたいことがあったのだ。危うく忘れるところだった。
「だらしないのって、結構セクシーだったりする……んだぜ? つまり超粗忽《そこつ》で、高っちゃんにいっつも世話ばっかかけて、いかにも私生活がだらしなさそうなタイガーは超セクシーつてこと☆ おっぱ……じゃなくて、胸はれヨ☆ しかしタイガーのおっぱ……じゃなくて胸ってナゾだよなー、水着の時には意外とあるような気がしたのに、制服着てると抉《えぐ》れたみたいに平らなのなー」
小さなタイガーの手の中で、一瞬。鉄缶がバキッと握り潰《つぶ》されるのを見た。
逃げろ春田――――……友人達の叫びの中を「褒めてやったのになんで恕るんだろ?」と首を捻りながら駆け抜ける。問題は後半? いやいや、後半はあくまでもオマケ、言いたかったのは前半部分だ。
昨日の夜、瀬奈とのメール交換を終えた後。 その興奮の余韻《よいん》をかってのシークレットハッスルタイムの最中に考えたのだ。部屋の汚さといい、初対面の男の前に薄着で堂々現れるところといい、なんだか基本的にだらしなさそうな瀬奈は、結局とっても色っぽかった。想像力をかきたてまくるお方だった。あぁぁ〜、だらしないよぉぉ〜……と、何度もうっとり思ったものだ。そして悟った。
だらしない女の人は、いいものだ!
……そう悟ったから、深夜三時近くまで『クラス内だらしなさそうな女子カップ』を一人で脳内開催し、見事優勝したタイガーにその誉《ほま》れを授与したかっただけなのだが。校舎からまろび出て、自転車を引っ張り出し、全速力で漕ぎまくり。校門を出てしばらくは直線コース、青信号を点滅ギリギリでぶっちぎり、さすがのタイガーももう追いつけないだろうと思う。
運命の川原を走り抜け、運命の橋を通り過ぎた。向かうは自宅とは別方向の駅前。人が増えてきてペダルを漕ぐ足がゆるんだところで、待ち合わせした改札が見えてくる。
いるかな、と自転車を停《と》めてカギをかけつつちょっと目を上げた。
フォッ! と息を吸った。
もういた。すぐに見つけてしまった。瀬奈は柱を背に立って、携帯を片手でいじっていた。 なぜかその柱の裏側に一旦隠れてしまい、ガラにもなく少々……いや、盛大に心臓をドキドキ鳴らす。女の人と外で二人きりで待ち合わせするなんて、実はこれが生まれて初めてなのだ。
合コンのために多人数で待ち合わせたことは何度もあるが(そして全敗記録更新中だが)、二人というのは――これまた結構、緊張するものなのだと知る。
どう声をかけようか。どう登場しよう。柱一本隔てた裏側、少しでもかっこつけようと顎まで伸びたロン毛をせっせとかきあげたそのとき、
「あ。……なんだ、こっちにいたの」
「きゃあん! お兄ちゃんのばかあ、ノックぐらいしてよお〜!」
妹化。
内股《うちまた》で赤らむ頬を膨らませ、思わず瀬奈の白い顔をぷぅ〜っと睨む。だってびっくりしたのだ、急に柱を回りこんできて現れるなんて、そんなのってない。お兄ちゃんのばかばか。せっかくかっこつけたかったのに……イケメン化したかったのに。よりによって妹ってなんだ。自分のばかばか、大ばかの哀れ脳。
往生際《おうじょうぎわ》悪くジタバタする春田の一方、瀬奈は、
「……元気だね、春田くん」
どうでもよさそうに髪をかきあげ、その片手をひょい、と上げてみせる。それが挨拶《あいさつ》のつもりらしい。
真ん中分けにした薄茶のストレートが、今日も銀色に光っていた。とてもあの汚部屋の住人とは思えないほど端整な立ち姿で、瀬奈はそこにいた。
グレーのカットソーに白いニットのコートを羽織り、淡い水色のマフラーを首に引っ掛け、ベージュのカーゴパンツに茶色の革の大きなバッグを肩にかけ、今日もやっぱりシャム猫そっくりに見えた。華奢《きゃしゃ》なこげ茶のパンプスが、本当に猫のつま先のようだ。
広いおでこの下で、アイスブルーに底光りする瀬奈の瞳が、春田を見つめて静かに揺れる。 春田はそれを見返すこともできず、「ふへへ」とシャム猫のつま先に笑いかける。
***
あそこ、と瀬奈が指差した先には、見るからにお洒落《しゃれ》な店構えのカフェがあった。
ウッドデッキから続く階段の先には、ガラス張りのエントランス。レンガの壁際に並べられた瑞々《みずみず》しい観葉植物。そして読めない店名。……
自分一人では絶対に入れそうもないと思う。能登と一緒でも無理だ。高っちゃんとも大先生とも無理だ。そもそも男同士、それも高校生なんかは入店お断りの店なのだろう。
「……亮輔、あそこでバイトしてるの。水曜だから、今の時間はシフト入ってるはず」
「な、なんつーか、あんなオサレなとこに、こんな制服姿で入ってっていいのかな? なんか、急激に俺、引きつつあ……わーおぅ!」
「これぐらい、いいでしょ? ……いや?」
きゅ、と。
手を握られていた。ひんやりと冷えた指の細さ、重ねた手の平の柔らかさ――心臓がドキドキ、どころか、脳の血管がどっくんどっくんし始める。ただでさえ雑な造りの脳みそなのにこんなに急激に血流が増したら、余計にアホになってしまう。
「いや、じゃ、ないけどお……そ、そんなとこ触ったら汚いよお……っ」
「……手、汚いの……?」
瀬奈の指が素早く離れていこうとするのを察知、慌てて首を横に振る。遠慮がちにそっと力を込めて手を握り返す。
「うそっす、汚くないっす!」
身を隠した本屋の軒先、瀬奈はそれで安心したのだろうか。握った春田の手を、さらに自分の方へ引き寄せる。春田の腕全部に身を預けるようにくっついてきて、肩のあたりに頬を押し付ける。指の問に指を差し入れ、手と手は密着、真空状態。腕には瀬奈の細い身体の凹凸がすべてありありと伝わってくる。柔らかな薄い肉の層の下の、細い骨の形まで、すべて。
そうか−付き合っている、フリ、というのは、こういうことか。
「……なんか、掌に汗、かいてる」
「えっ? ‥やだ、はずい! 拭く!」
「平気、いいよ別に。……あ、もしかして春田くん。女の子と手を繋《つな》いだこととか付き合ったこととかなかったりして」
「ああああるよ!? わ、別れたけど!」
「……ほんと?」
うそっす……。
心の中でだけ正直に返事しつつ、でも恐らくはそんなのバレバレなんだろうとも思う。掌の汗は意識すればするほど止まらないし、視線はどこを見ていいのかわからず定まらない。手を繋いだだけで、腕を組んだだけで、恋人同士なら当たり前の形になっただけで、それだけでもうみっともないほど動揺している。顔だって当然熱く、さっきから鼻先にチクチクくすぐったい髪を払うこともできない。しかし瀬奈はそれをたいして気にした風もなく、時計を見て、
「じゃあ、行こうか。ちゃんと彼氏っぽくしててね。もしもなにか訊かれても答えなくていいから」
「イェッ!」
「かっこよく、ね」
「ィヤッ!」
猫のつま先が静かに歩み出す。ちょっと遅れて、春田も歩き出す。
瀬奈は幻の尻尾をシュルリ、と立てて、春田の身体に巻きつけたー気がした。歩幅を合わせる。同じ速度でゆっくりと、同じように揺れ、同じように進む。離れた腰がぶつかりそうになると見えない尻尾が絡《から》みつき、「合わせろよ」というみたいに、春田の歩調を整える。腰と腰とを、密着させる。
小柄な瀬奈は、すっぽりと脇の下に収まってしまいそうな気がした。尻尾が導いてくれるままに、繋いでいた手をおずおずと離し、肩にその手を回してみた。思ったとおりに瀬奈の身体が脇にちょうどよく収まる。身体全部がくっついて、服越しにも温かく、
「……な、馴れ馴れしいって、思ってる?」
「ううん。別に」
春田は、手の汗問題の解決にようやく息を吹き返す。
瀬奈は、静かな目をカフェのエントランスに向けたきり表情も変えずにいる。
そうしてデッキの階段を上がり、傍目にはイチャイチャとくつつきあったままでガラスの扉を春田が開き、瀬奈を店内に導き入れて、
「いらっしゃいませ」
お、さすがいきなりイケメンの店員さん、と思う。二人どえーす、と言おうとして、
「あ――」
イケメンが、春田の傍らの瀬奈を見たのに気づいた。一七八センチある自分よりもずっと長身、細身のくせにまくったシャツから伸びた腕には筋肉の束が盛り上がり、さりげなくアシンメトリーに立ち上げた髪もかっこよく、なめらかな顎に薄く残ったヒゲもかっこよかった。漆黒《しっこく》のシャツとパンツスタイルが、本当によく似合っていた。そんなイケメンが、瀬奈を見て、何度か瞬きしたのがわかった。
「……あれ、やだ。亮輔、今日シフト、入ってたんだ。いけない、忘れてた……ごめん、うっかり」
瀬奈が言う。
うわ、と思う。
いきなりのイケメンは、いきなりのなんとか君――りょうさく氏、なのだった。驚いて、思わず、
「こんちわー! ヒョー! イケメーン!」
バキューン☆ と、人差し指でなんとか君を銃撃していた。……ちょっとアホっぽかっただろうか、と思ったときには時すでに遅し。イケメンは言葉もなく、撃《う》たれた胸を押さえてポカンと春田を見つめ返し、
「……やだ……もう……」
瀬奈は自分の熱を計るみたいなポーズ。自慢のおでこを覆って顔を伏せてしまう。しかしそれでなにかが振り切れたのか、グッ、とやがて顔を上げ、
「……せっかくだから、紹介するね。この子、実は付き合い始めたぽっかりの彼氏なの。びっくりでしょ、高校生なんだよ。……春田くん、この人はね、ただの、単なる、大学の同級生」
そう言った。あっさり『単なる』と言い切った。すっげぇー思わず春田の方がいろいろビビって言葉を失《な》くしてしまうが、
「……店長いるから、私語は学校でな。いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
黙り込むのは、今度は瀬奈の方だった。なんとか君は、瀬奈の言葉にかすかな動揺すら見せず、オサレカフェのイケメン店員としてはパーフェクトな笑みも浮かべて、横に二人で並べる席を用意してくれる。水を出し、おしぼりはないシステムらしい。メニューはテーブルにすでに置いてあった。
その席に、座るしかなかった。そして瀬奈も春田も無言のまま、メニューを覗き込むしかなかった。そうしている間にも他の客が会計をしに立ち上がり、なんとか君はにこにことレジに立つ。
「瀬奈さん……なんか、超、普通にあの人働いてるけど……」
「……あたし、コーヒー。春田くんは?」
「あ? えっと、んじゃオレンジジュース。……つーかさ……」
「すいません。注文、いいですか」
瀬奈は春田の言葉を遮《さえぎ》り、近くにいたなんとか君ではない店員を呼ぶ。コーヒーとオレンジジュースを注文し、水を飲む。長い髪を指で何度も挽き下ろす。大きなバッグを唐突に膝に乗せ、荒っぽく中をかき回し、手帳だの携帯だの財布だのをテーブルに並べる。また水を飲む。
手帳は折れた付箋《ふせん》と挟まれた紙片だらけ、携帯は各地のお土産《みやげ》ストラップをとりあえずもらったそばから全部つけてみた状態(シーサーキティはまだいいとして、『日光』と書かれた将棋《しょうぎ》の駒《こま》とか、四国の地図入りひょうたんってなんだ)、財布を丸々と子豚のように膨らませているのも、きっとお札ではないだろう。
やっぱこの人だらしなーい……と春田がそれらを見守る中、手帳も携帯も財布も、瀬奈は再びバッグにしまっていく。というか、片っ端から放り込んでいく。挙句の果てにもう一度財布を出して、お札に混ざってグシャグシャになったレシートを取り出す。広げて、折って、小銭入れに突っ込む。
そうしつつ、視線はカウンターの中でなにやらやっているなんとか君の方をひたすら追っているのだ。バレていないとでも思っているのだろうか。
なんとか君が右に行けば右に。左に行けば左に。奥に入れば、出てくるのを待つように。出てくれば、テーブルの木目に視線を落として逃げるみたいに。
「瀬奈さん。ちょっと。ねぇ。……それやめなって」
「……え? ……はぅ!」
「あ、ごめん……」
なんとか君のことをガン見するのをやめろと言いたかったのだ。彼を追って動く顔を強制的に、クイッとこちらに向けてやろうとしただけなのだ。
まさか、その指先が目玉を突いてしまうなんて思わなくて……瀬奈は突かれた目を押さえ、オサレカフェのテーブルに声もなく突っ伏してしまう。
「ご、ごめん、マジで……でもやめた方がいいと思ったからさ〜……」
「……なにを?」
ゆっくりと顔を上げ、瀬奈が問う。宙をイライラとくねる長い尻尾に、頬をペシツと叩かれた気がする。実際には、突かれて潤《うる》んでしまった大きな瞳がチラリとこちらを見返しただけなのだが。
「なにをって、自覚ないの? 瀬奈さん、なんとか君のこと見まくってんだもん。それじゃ出ないよ、幸せホルモン。作戦にならないじゃん」
「……見てないよ……」
「見てたって。ひょうたんいじりながら超見てたって」
「ひょうたん? そんなの持ってない」
「携帯についてんじゃん。自分のストラップも知らないの?」
瀬奈は携帯をバッグから再び取り出して眺め、お土産ストラップの群れの中にひょうたんが混じっているのを確かめる。かすかに眉間に敏を寄せ、「なんだこれ……」とだけ|呟《つぶや》く。
「ほらね、ひょうたんあったっしょ。ガン見してたのもマジだから。そんなんじゃ全然ホルモン出ないし。枯れ枯れ状態の未練たっぷりのウザさ爆発のまま、いっこも前進してないのがバレバレだし。あれ、俺ってなんか言い過ぎてる?」
ひょうたんを掴んでテーブルに伏せたまま、どんぶらこ……と見えない川に流れそうになっている瀬奈に気がついて言葉を切るが、
「う……ううん。大丈夫。……そうか。そうだよね。そのとおりだと思う。……そうだそうだ。ちゃんと、用意はあるんだ」
瀬奈はしぶとく立ち直った。ひょうたんをしまい、なんとか君の姿を目で追うのもやめ、「はいこれ」と、バッグからなにかのパンフレットを取り出して春田の前にばさっと置く。草津《くさつ》だの鬼怒川《きぬがわ》だのの文字が躍るそれは、旅行会社の温泉ツアーのパンフレットらしく、
「あっ裸だ! えっ、これを、俺に!? わ〜ありがとう〜! 嬉《うれ》しいよお!」
表紙には露天に浸かるモデルさんの笑顔が『ねぇボク……お姉さん、あったかいわよ……』と春田を誘惑する。このまま二次元世界の広告温泉にダイブしそうになる。が、
「……春田くんにあげるんじゃないってば。さっき駅でもらってきたの。一緒に見よう。ほら、一緒に温泉行く計画立ててる、みたいな感じで」
「……ああ……そっか……。……そうだよね……。俺になんか……くれるわけないよね……こんないいもの……」
「……そんなに欲しいなら帰りにあげるよ……」
「いいの〜!? やりい!」
ルンルン、とぴったり並んで寄り添い、瀬奈と春田は一緒に一つのパンフレットを眺め始める。「草津いいよね」「いいよね〜! どこにあんの!?」「群馬」「群馬かあ〜! それどこ!?」「関東」「関東かあ〜! 草津いいよね〜!」「これは伊香保《いかほ》だって」「いいよね〜! どこにあんのけ!?」「群馬」「群馬かあ〜! ……えっ!? 群馬!?」「群馬」「群馬、なにげにすごくねぇ!?」「それだけじゃないよ。水上《みなかみ》温泉も、猿ケ京《さるがきょう》温泉も、四万《しま》温泉も、全部群馬」
「ヒョー! 俺、群馬好きになってきた!」「あたしも」「群馬いいよね〜! 幸せ!」「あたしも」――ぴと。 と、くっついたりして。
なにこれー、超カップルっぽーい、とへラへラ笑う春田の傍らで、瀬奈はおもむろにしみじみ、小さく呟く。
「……春田くんと会話してると、なんか、頭ぜんぜん使わないなあ……」
「えっ!? それ失礼っぽくない!? 自分のひょうたんも知らないヒトにそんなこと言われたくないよねー!?」
聞き捨てならない言い草に、ぴと。からちょっと身を離す。「ごめんごめん……」と瀬奈はとりなそうとするが、春田の機嫌は直らない。せっかく瀬奈とのカップルっつぷりに盛り上がり気分だったのに、せっかく群馬への愛に目覚めかけていたのに、なんてことを言うのだ。
「そんなら頭、使わせてあげんよ! これ、やってよ!」
「……うわ……」
腹いせに、バッグから数学の宿題プリントをつかみ出していた。シャーペンまで押し付けて、「やってよ!」ともう一度。
「やだ……なにこれ? うわ、xとかyとか……覚えてない、わかんない。できない。見たくもない」
「なんで!? 大学生っしょ!? はっ、怪しい……! 怪しいぞー! まさか瀬奈さん、学歴詐称!?」
「……人聞きの悪いことを。本気で考えればわかるよ。……よし、こっから本気モード……」
コーヒーとオレンジジュースを女子店員が運んでくる。オサレなテーブルの上に散らかされた数学のプリントに、微妙に冷たい視線を投げられた気がしなくもない。が、今はそんな場合ではないのだ。
本気モード瀬奈は眉間に敏を寄せてグッと問題を睨みつけ、呼吸も忘れてしばし考え込み、春田まで思わず息を止める。そしてややあって、サラサラ……っと、
「ファー? …超うめえ!」
「……ピノコも隣にいなくちゃね……」
天才・手塚《てづか》が乗り移ったとしか思えないような正確無比なるそっくりタッチで、某《ぼう》無免許医師とその相棒の幼女が解答欄《らん》に描かれていた。ささっと斜線の影をあちこちにつけていくだけで、急激に空気感が変わる。落書きがイラストになる。二人の姿は闇の中に浮かび上がって、行く先を照らす光を見つめているかのように生き生きとしだし、
「……さっすが美大生……! 感動! うそ、なんか、いつも使ってるシャーペンで描いたとは思えない……なんか、専用の絵の道具で描いたみたい……マジで超さすが……!」「いや、これは絵の勉強とは関係ないの。単に子供の頃から好きで、模写してただけ」
「にしてもすげーって!」
思わず拍手していた。許されるならスタンディングオベーションだってしたかった。あまりの絶賛に照れたのか、瀬奈の口元にもかすかな笑みが浮かぶ。
そのときだった。
「――他のお客様の迷惑になるので、勉強等は禁止させていただいております」
二人して、顔を上げた。なんとか君が、店員ヅラして(いや、店員なのだが)立っていた。さらに付け加えるみたいに小声、
「……出たところにマックあるから、そういう遊びはそこでやれば? うちは、高校生向けの店じゃないから」
すいません、と、謝る暇もあればこそ。
そんな余裕なんか、まったくなかったのだ。
――瀬奈には。
気づいたときには瀬奈の手が、春田の手を掴んでいた。有無を言わせずに立ち上がらせられ、プリントやらバッグやらを忘れないように抱えるのが精一杯だった。そのままグイグイと出口まで引っ張られる。二人分を合わせてぴったり千円、瀬奈は無人のレジに千円札と伝票を放り出すみたいに置いて、店から無言でまろび出る。
デッキの階段を駆け下り、そのまま道を早足で歩き、ゴミ屑《くず》の落ちる駅裏の汚い路地に入っていく。
「ちょっと待って! 瀬奈さん! あの、ちょっと、」
「……今日はもういい。やめにしよ」
「やめって……だめじゃん、まだなんにもやってないよ! ていうかあれしきのことで動揺してたら、」
「……いいんだったら。もうやめ。これで今日は終わり」
瀬奈は春田の顔を見ないまま、言葉も聞こうとはしないまま、乱暴にバッグをかき回す。髪に隠れて瀬奈の顔も見えない。丸々とした財布を掴み、千円札を三枚引っ張り出す。そして、
「これ。――じゃあ」
春田の胸の辺りに、押し付けた。ハラリ、と汚い地面に落ちかけ、思わず春田はそれをキャッチ。次に顔を上げたそのときには、
「瀬奈さん!」
瀬奈は、路地から走り去っていた。慌てて追いかけようとする。走り去る背中はすぐそこに見えていたが、手の中には三千円が握られていた。それに気がついた。三千円、もらった。その違和感――瀬奈から渡された、その金の意味。
ビコーン、と脳を震わせるのは、「ここまで」という四文字だった。つまり手渡された三千円が、春田と瀬奈の間にきっちり引かれた線なのだった。
踏み越えられない。踏み越え方が、わからない。三千円を投げ捨てればいいとかそんなことではないのだ。この手の中のお金を捨てたって、瀬奈が三千円を支払ったという事実は動かない。瀬奈の気持ちは、その事実は、変わらない。
この線を引くために、瀬奈はこれをバイト、と言ったのか。今になってやっとわかった。そして己の浅知恵を再び思い知る。なし崩しに彼氏になるつもりなのに、こんなふうにきっちり線を引かれたらなし崩せないではないか。三千円ぽっちの壁でさえ、アホな自分には踏み越えられない。そんなことも瀬奈は全部お見通しで、きっちり先手を打っていたのだ。
非常に嫌だ。そう思うのに、しかし足は動かない。こんな別れ方は嫌なのに、瀬奈を追うことはできない。手の中には三千円があり、それが瀬奈の意志なのだと思う。そうしているうちに、瀬奈の姿は雑踏《ざっとう》の中に紛れていってしまう。
これっきりになるのだろうか――群馬と無免許医師だけで、たったこれだけで終わりなのだろうか。
ぽつんと路地裏に残されて立ち尽くす背を、そのとき冷たい真冬の突風が押した。なにもできない奴はとっとと家に帰れ、とでも言うみたいに。両足はその強さに踏み堪《こた》えられず、さりとて歩き出すこともまだできず、アホの身体は情けなく揺らぐ。
3
「……な、なにかな?」
「ここにいたらいけない?」
「……いけないってことはない、けど……た、食べにくいな、なんか……」
「なんで? 食べればいいじゃん。へー、先生って、お昼に出前とか取るんだ。それなに? なんかおいしそー」
「う、うま煮そば。……おいしいよ」
「俺《おれ》、焼きそばパンとクリームパンとコロッケパン。購買の。まずいよ」
パク、とぱさついたパンをかじりつつ、春田浩次《はるたこうじ》は担任の恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりこと独身(30)が割り箸《ばし》を割るのを眺めていた。丼《どんぶり》のラップを外し、独身(30)はそっとうま煮そばに箸を伸ばし――
「げ。……ゆりちゃんて、うずらから先に食べるような人だったんだ」
「……いいじゃないの、別に……」
春田的には超ありえない。普通それはラストだろう、と。いきなりうずらの卵から攻めていくなんて、一体どういう担任なんだ。そんなんだから独身なんだよ、と意味不明気味に心中でひどいことを考える。昨日は瀬奈《せな》に置き去りにされ、一人微妙な気持ちを抱えたままトボトボ帰途についた。そしてそれきり連絡は途絶え、少年の心は荒《すさ》みっぱなしなのだ。やり場のない思春期の苛立《いらだ》ちの矛先は、時に担任にも向けられる。
昼休みの教員室。二年生を受け持つ担任たちの机で固められたコーナーの片隅。春田は独身(30)の机の端《はし》にちょこんと陣取って、己の担任のツラを眺めつつ、持参のウーロン茶を一口飲んだ。独身(30)は居心地悪げに、そんな春田のツラを見返す。言いにくそうに、小さく問う。
「……は、春田くんさ……、別にいいんだけどね、なんでここで食べるの?」
「なんかね。教室に、いたくなくて。……あんま喋《しゃべ》ったり笑ったりする気分じゃないんだけど、俺が静かにしてるとみんな気持ち悪がって、熱測ろうとしたり、保健室に連れてかれそうになったり、女子に鼻かんだティッシュ投げられたり、女子に『おめーが陰気なせいで携帯の電波悪いんだよ!』って罵《ののし》られたり……みんな俺のこと放っておいてくんないからさ」
「……そ、そうなんだー、人気者の証拠だよねー……そっかー、それでここに……わざわざ……それはそれは……」
「うん、そういうわけ」
あらー恋ヶ窪先生モテてますねー、生徒と一緒《いっしょ》にお昼なんてすっげえ楽しそー、と、若い国語の女教師が声をかけていく。どーも! とヤケクソ気味、箸で掴《つか》んだうま煮の豚肉を振って
独身(30)は声援に応《こた》える。
「……じゃあついでだから話すけど……春田くん、こないだの中間の英語、超赤点だから追試受けてね。ついに留年最終リーチだからね」
「あのさーゆりちゃん。変な話なんだけどさー」
「……聞いてないね、全然」
あまり食べる気のしないパンを片手に握り締《し》めたまま、春田は担任の横顔を眺めた。うま煮そばをゾゾーっとすするその顔は、瀬奈とは全然違うと思えた。顔の造作が、とかではなく。
皮膚感《ひふかん》が十歳分違うというのでもなく。どっちが美人、とかでもなく。そういうことではなくて、生き物として、まったく別の種に見えた。
春田の目には、瀬奈だけは他《ほか》の人間とは、全然違うモノに見えているのだ。
「すっごくかわいがられてる猫がいてね、」
「うんうん。……あ! なによもう、きくらげが入ってない……ついてねー」
「家族みんなに大事にされてたのに、ちょっと窓が開いてたらね、そっからしゅるっと逃げちゃったんだよね」
「うんうん」
ズゾゾー。
「真剣に話してるのに麺《めん》すすんないでよ!? それでも担任かよ!?」
「あ、ごめん。でも伸びちゃうのよ……」
「じゃあいいや……許すよ。で、なにが言いたいかっていうと、ええと……ゆりちゃんはさー、なんでその猫、逃げたんだと思う?」
「えぇ〜……ゆ、夢かなにかの話……かな? なんだろその深層心理、なんか怖い……」
「や、俺のことじゃないんだけどね。まー夢ってことでいいや。どう思う? 三十年もおめおめと生き永《なが》らえてるんだからさ、いろいろ人生わかるっしょ?」
「なんてことを言うのよ……。……んー、でも、まあねー。意外とねー、三十なんて、たいして大人でもないのよねー実際。先生にもわかりません」
「えっ! わかんないの!? 先生のくせに!?」
「わかりません。わからないけど……うーん、教師っぽい模範的回答としては、『管理に対する反抗と、それゆえの具体的な行動を自己に求める心理』――自立しようとしている若者の、思春期の不安? みたいな? ってとこかなー? あーなんかあったなー、教育心理学とかでそんな感じのなんかが……あー、忘れちゃったなあ、老化だなあ」
ズゾゾー。
「マジ老化だよ……つーかその答え、全然トンチンカンくさいよ……」
「あーそー、そりゃどーもすいませんねー」
ズゾゾー。
「じゃあさー、もう一問。……自分のことを好きじゃない男と一緒にいる女と、自分のことを好きじゃない女と一緒にいる男。どっちがより悲惨《ひさん》?」
「それならわかります! 明らかに男の方が悲惨! 相手のこと好きでもなんでもない女って、その相手にたいして、平気でひどいことできるからねぇ! 男ははっきり明確に『嫌《きら》い』な女でもない限り、あんまりひどいことしないんだけど……かえってそれが残酷《ざんこく》だったりするんだけどね……そうなのよ! そう、そうなの! 春田くんだってそのうちそうなるのよ! ああいやだいやだ、男ってやだ! ズゾゾー! げほ!」
「まあまあ、おっついて。じゃあさ、なんで女は男に平気でひどいこと、できるの? 好きじゃないなら、どうでもいいとか?」
「そうそう、どうでもいいの。好きな男しか目に入らないから。……なに、もしかして春田くん、変な女に弄《もてあそ》ばれてるの? やだもーちょっとーやめてー、変な問題起こさないでよ? ただでさえウチのクラス、なんだか変に目立って風当たりきついんだから」
変、なんかじゃないよ。
――ムッ。と、のんきな独身ヅラに、八つ当たり混じりに腹が立つ。悲惨で悪かったね、とも思う。
「……交換しようよ!」
「あっ! あああー! あたしのうま煮そばがあ〜……」
隙《すき》をついてラーメン丼を奪い、独身(30)が使っていた箸で思いっきりうま煮そばを食ってやった。思いのほかおいしくて、ビコーン。閃《ひらめ》いた。こうなったらうま煮そばのすべてを奪ってやる。食べかけのまずいパンを押しつけ、麹も白菜も人参《にんじん》も豚肉も、底に隠れていたきくらげも、全部一気に吸い上げてやる。
うーわー、ランチ交換してる。マージで仲いいですよねー。うらやましーい。と、飲み物を買って帰ってきた国語教師にさらに声援を受け、独身(30)は「代わってあげたいわ!」と、コロッケパンをがむしゃらに振って応える。
もしかしたらもう永遠にないのかも、などと想像していた瀬奈からのメールが入ったのは、担任のうま煮そばを食いつくし、教室へ戻る道すがらのことだった。
***
んっててれってれ〜!
んっててれってれ〜!
#は・は・はるたの大逃亡〜! 聞きたくないから耳塞《ふさ》げ〜! な〜んかやなこと言ってるぞ! 九九で〜も数えてやりすごそ! 九九で〜も数えて、や、り、す、ご、そ〜っててれってれ〜! んっててれってれ〜! (#からループ)
「……聞いてた?」
「聞いてなかった!」
ビシッ、とピースサイン、はっきり答える。
「九九数えてたんだ!」と続けると、瀬奈は「なぜ」と。今日の風みたいに冷え切った、アイスブルーに揺れる視線を向けてくる。
「だ、だって〜……なんか、すげえ鬱《うつ》っぽい話してるんだもん。そんなん聞きたくないもん、俺まで憂鬱《ゆううつ》になっちゃうもん……」
「別に春田くんが憂鬱になる必要ないんだよ。あたしの話なんだから」
そう言われても――瀬奈の話した憂鬱トークの内容は、ちょっと怪しい九九の間隙《かんげき》を縫《ぬ》うように、頭の中に忍び込んできていた。実はとっくに、春田浩次は憂鬱だった。次には溜息《ためいき》も出そうだった。いっそ消失したかった。……なんてふざけている場合でもなく、枯れ葉舞う中を並んで歩く道すがら、本当に憂鬱になるような話を問かされたのだ。
誘《さそ》われるままについてきた瀬奈の通う大学は、あの汚部屋《おべや》アパートの最寄《もよ》り駅から私鉄で十分少々のところにあった。大学に制服姿で侵入してもいいのだろうかと思ったが、学校見学の受験生にでも見えるのか、行き来する学生たちに注目を浴びることも、警備員に摘《つま》み出されるようなこともなかった。
枯れかけて黄ばんだ芝生《しばふ》の敷地《しきち 》を貫くような広い歩道を瀬奈と並んで歩き続けつつ、吹き抜けていく風の冷たさに思わず肩を竦《すく》める。さすが大学、とにかく広い。遠くに見える敷地の一角は冬枯れの雑木林、その手前には校舎が何棟か建っていて、その入り口の階段にも、そこここのベンチにも、石造りの建物のピロティにも、学生の姿はまだあちこちに残っている。もはや時は夕暮れの頃《ころ》だというのに。
「ちゃんと聞いてなかったなら、もう一回話すよ。あのね、」
「ああん! いいよいいよもういいってば、だいたいわかったから!」
「……なんだ。ちゃんと聞いてたんだ」
「嫌々《いやいや》ながら聞こえたんだよお〜」
──瀬奈、日《いわ》く。
それは、とある高校の、とある四人の少年少女の間に起きた事件だった。
まず女子二人。同じクラスで気が合って、入学してすぐに仲良しになった。二人は揃《そろ》って美大志望、美術部に迷わず入部して、そして別のクラスの仲良し男二人組と出会った。新入部員同士、四人はあっという間に仲良くなった。合宿や、展覧会や、文化祭……あらゆるイベントを四人でこなし、親友と呼び合える仲になり、その年の夏には一人の女子と一人の男子が恋に落ち、公式にカップルというべき仲に進化していた。
二年生になり、残っていた女子と残っていた男子が同じクラスになった。ひそかに男子を想《おも》っていた女子は、それを喜んだ。四人のうち二人はカップルなのだ、残りの二人だって自然と惹《ひ》かれあっていく。クラスという二人だけの接点もあって、どんどん引力は強まっていく。その年のうちに、四人組はカップル二組になっていた。
そして三年生。嵐《あらし》のような受験勉強が始まった。美大進学専門の塾に毎日通い、一年間、一日もさぼらず、石膏《せっこう》デッサンを繰《く》り返した。冬がきて、春がきて、第一志望の同じ美大に通ったのは後発カップルの二人。先発カップルのうち、女子は別の美大へ。男子は美大はすべて落ち、結局、私立大学の文学部へ。
それでも四人は週末ごとに、休みごとに、時間を作って会っていた。大学生になったのだ、居酒屋なんてところにも朝まで居座ることもあった。飲み慣れない酒に悪酔《わるよ》いしたりゲロまみれになったりもしつつ、何時間でも話すことはあった。近況報告に始まって高校時代の別の友人の話、それぞれの大学の話、新しい友人の話、変わり者の教授の噂、《うわさ》新進アーティストの噂。
どこの美術館でなにをやっているか。どこでなにを見てなにを感じたか。誰《だれ》が何歳でなにを造ったか。どんなものを造りたいか。自分の中にどんな衝動《しょうどう》があるか。どういうアーティストになるか。食っていけるか。生活と創作の折り合いをどうつけていくか――文学部の男は、誰も気づかぬ間に、深く静かに傷ついていた。
自分だって、美大に行きたかった。同じ夢を持つ仲間の中で学び、競いたかった。でもしくじった。浪人さえ許されなかったのに、再受験なんてとんでもなかった。四大卒という資格を得られないのが不安で、美術系の専門という道も自分は選ばなかった。絵は、受験以来描いていない。アーティストにはもうなれない。落伍者《らくごしゃ》になってしまった。レースから、下りてしまった。自分一人だけが。
大学二年生になり、三年生になり、春、夏、そして秋。男は彼女に別れを告げた。下りたレースに関《かか》わるモノは全部捨てて、やっと、新しいモノを集め始める気になったのだ。彼女は傷つき、そして──
「略奪。にも、ほどがある、って思う」
吹き抜ける冷たい風に、マフラーに収められていた瀬奈の髪が散らされて舞う。その傍《かたわ》らで春田は、冷えた両手を学ランのポケットに突っ込み、結局続いてしまう憂鬱トークに付き合うしかない。
「信じられない……別れてからたった二週間だよ。あたしと亮輔《りょうすけ》はその子が心配で、一人にしておけないからって毎日一緒に飲みに行って、泣くのにも毎日付き合った。……でもある日ね、亮輔が、一人で彼女を部屋まで送っていくつて言ったんだ。瀬奈は風邪《かぜ》っぽいし先に帰れよ、って。……駅のホームで、逆方面行きの向かいのホームで電車を待ってる二人を、あたしは一人で見てた。二人は並んで立ってて、あたしには聞こえない話をしてて……そのときにすっごく、嫌な予感がしたの。でもまさか、って思ってたら……当たっちゃったよ」
#は・は・はるたの……!
……だめだ。
瀬奈の今にも風に散ってしまいそうな細い声に、耳を傾けないわけにはいかなかった。だってあまりにもかわいそうで──なんて思っていることがバレたら、瀬奈はもっとかわいそうになるだろうが。
そのとき瀬奈の白い横顔が、強い寒風に、一瞬《いっしゅん》泣きそうに歪《ゆが》む。そんな表情だって見てしまった。
「……亮輔、あたしになんて言ったと思う? 本当は、高一の時からずっとあいつが好きだった、って。でも親友と付き合い始めちゃったからどうすることもできなかった、って」
「……え〜……」
「彼女は彼女で、実は最初から好きなのは亮輔だった、とか。でも亮輔はあたしのことが好きだと思い込んでて、……なんだって」
「……マジで〜……」
「……一生モノだと信じてた彼氏も、親友も、……あの頃の間抜けな自分も、許せない。今は全部、大嫌い」
「……あう〜……」
きっつい話、だと思う。瀬奈にとってもだが、聞いてしまった自分にとってもきっつい話だった。高校時代の楽しい日々が「大嫌い」で集約されてしまうなんて、現役高校生的には、あまりに微妙な気分すぎた。憂鬱すぎる。やっぱり考えてしまうではないか。友人達《たち》の顔を思い浮かべてしまうではないか。もしかして自分たちも、結局やがては色々あって「大嫌い」になるのだろうか……とか。
嫌だ。そんなのは嫌だ。そんなこと、想像もしたくない。ロン毛頭をかきあげ、目蓋《まぶた》を閉じ、精神統一。叫ぶ。全力で現実逃避《とうひ》。
「うひょ―――っ! 群馬―――っ!」
──脳裏に素晴らしき群馬県の形を思い描いた。それはかわいいハート型。本当の形はわからない。だけど群馬は素晴らしい。草津《くさつ》も伊香保《いかほ》も水上《みなかみ》も群馬。猿ヶ京《さるがきょう》も四万《しま》もみんな群馬。
群馬は楽しくてホカホカで、裸のひとがいっぱいいる。湯量も豊富で湯畑は圧巻。群馬大好き。裸大好き。だいだい大好き、ハートの群馬[#ハートマーク]
「アハハハハ! 思えばいきなりあったか〜い! うわ〜い群馬だ! 群馬だよ〜! た〜のし〜い〜! ねぇ瀬奈さん、群馬はいいねぇ! 楽しいよねぇ!」
「楽しいよね。あ、昨日、温泉のパンフあげなかった……ごめん、忘れちゃって」
「いいよいいよ、今度でいいよ[#ハートマーク] いつだって俺の心にはほかほかハートの群馬ちゃんが住んでるんだ[#ハートマーク] 群馬は俺の嫁[#ハートマーク] 群馬が好きで大好きで[#ハートマーク] 俺が群馬で群馬も俺で[#ハートマーク] 群馬どうしですることぜんぶ[#ハートマーク] 今夜のおかずは群馬の草津[#ハートマーク] にゃ〜ん[#ハートマーク]」
「群馬いいよね。……ところで昨日のひょうたん、捨てたんだ」
「あっ、そ〜なんだ〜! 別にいいんじゃん、あれ変だったもん! いらねいらね!」
「……ひょうたんくれたの、その略奪女だったって思い出したから……。思いっきり踏《ふ》み潰《つぶ》して、ベランダから投げ捨てた……」
「ぐ、ぐん……ぐ……ぐ……」
……ええい! 寒い! もっときっちり俺を包め群馬!
骨身に沁《し》みる憂鬱を噛《か》み締め、しかし春田は唐突《とうとつ》に立ち止まる。見つけてしまった超変な一群に、脳内特急・水上に乗りそびれる。群馬逃亡し損ねる。
瀬奈が憂鬱オーラをどよんどよんブン回すその向こう、だだっぴろい芝生の上で、十人以上もいそうな男女が肌色の全身タイツで揃いの太鼓《たいこ》を打ち鳴らしながら、うにょうにょ身体《からだ》をくねらせていた。群馬も裸足《はだし》で逃げ出すぐらい、それは奇妙な風景だった。
「キャー! なにあれ!?」
絹を引き裂くような春田の悲鳴に、瀬奈も全タイ軍団を見やる。
「ああ……あれは舞踏《ぶとう》の授業の発表があるから、練習をしてるんだと思う」
「でもめっちゃ変じゃない!?」
「変にしたいんだと思う」
「変な舞踏かあ〜! そんなのもあるんだ! 瀬奈さんもやるのかな!? ヒョ〜、超見た〜い! 絶対全タイ似合いますよフヒヒ!」
「ううん、あたしは舞踏しないから。……時間がもっと早かったら、この辺、いつもはもっと騒《さわ》がしいよ。あっちこっちで踊るわ歌うわ、落語やるわ芝居やるわ漫才《まんざい》の練習してる奴《やつ》らはいるわ……絵描きだけじゃないから、うちの学校は。エキセントリックでいることに価値を見出《みいだ》すような連中の吹き溜《だ》まりでもあるし」
「きゃっ……」
ドキン[#ハートマーク]と胸の群馬が跳ね上がる。
話しながら、瀬奈の手が、さりげなく春田の手に伸びていた。細い指をやんわりと絡《から》めるようにしてくる。高鳴る群馬。しかしそれに相反するように、なぜだかぞくっと腹の底から冷たい血が上がってくる。瀬奈の指は、なんて冷たい。
思わずその手を、解いていた。
「……どうして?」
アイスブルーに底光りする瞳《ひとみ》が春田の顔を静かに見上げる。幻の尻尾《しっぽ》が、手首にやんわり絡み付いてやり直そうとする。しかし逃げる。ちょっと距離《きょり》を取ろうと足を止める。
「いや、その、だってさー。手、繋《つな》いだりとか……また同じこと、すんの? なんか意味なくない? 昨日は全然ダメだったじゃん。瀬奈さんが全然ダメだったんだよ。それなのに同じことしたって逆効果くさくない? それに……あー、うー」
──本当は、昨日の別れ際《ぎわ》に思った微妙な心地のことも話したかった。しかしうまく言葉にできなくて、諦《あきら》めた。余計なことはベラベラだだ漏《も》れになるくせに、肝心なことはうまく言えない。これが哀《あわ》れ脳の本当の恐ろしさだった。
それきり立ち尽くす春田の目の前、しかし瀬奈は表情一つ変えやしない。
「今日はもっとちゃんとやる。そのために呼んだんじゃない。大丈夫《だいじょうぶ》、もしうまくできなくても報酬《ほうしゅう》は支払うから。……昨日は、確かに失敗しちゃった。びっくりして、テンパっちゃって……あんなふうに飛び出しちゃったら、意識してるのバレバレだったよね。反省したんだ。今日はもっと、ちゃんとやる。亮輔、もうすぐ作品発表があるからその仕上げで制作室に残ってるはずだし」
ポッ、と、そのとき、一滴。鼻先に雨が落ちてきた。口あきっぱのアホづらで、思わず空を見上げる。
瀬奈の指が隙をつき、春田の指を再び捕らえる。強く握り、これでいいの、と言わんばかりに強く見上げる。アイスブルーが揺れて語る。
三千円分の仕事でしょ。余計なことはしなくていいのよ。考えなくていいのよ。線を越えることは許さない。あんたは群馬のことでも考えてなさい。あたしもあんたのことは考えないから。
「あの、正面の建物が制作室棟。……雨、降ってくるから。ね。早く行こう」
──逃げ切れなかった。
脳内特急・水上にも乗れなかった。脳内特急・草津にも乗れなかった。
何も言えず、何もできず、瀬奈の細い指に、柔らかな手に導かれるまま走りだすしかなかった。「うわ、雨かよ!」「やっべ、傘ねぇよー」「うそ〜!? 明日までに乾いてくれなきゃ困るのに〜!」──暗くなりゆく雨雲の空を見上げ、口々に文句を言いつつ、学生たちも走りだす。散歩していたご近所さんらしきおじさんと犬も走りだす。
***
パラパラと零《こぼ》れ落ちてくる冷たい水滴から逃れるみたいに、瀬奈は雨の雫《しずく》で水玉模様になりつつある歩道を春田とともに走り続け、やがて、古びた建物の軒先に飛び込んだ。
「はあ、寒い……ここ。制作室棟」
「ふるっ!」
中に入るなり突っ込みいれたくなるほどに、春田が見てもわかるほど、それは古くてボロかった。天井《てんじょう》の隅には黒い黴《かび》がびっしり。窓ガラスは分厚くて全体的に白く曇《くも》り、そしてすべての窓には錆《さ》びた鉄格子とフェンスがはめ込まれ、並ぶドアの取っ手は鈍い色にくすんでいる。数十年分の空気の淀《よど》みまで目で見て取れそうな、それはそれは年代モノの……と言えば聞こえはいいが、とにかくオンボロな建物だった。
そして一歩足を踏み入れたその瞬間から、油彩の独特の臭《にお》いと、もっと強い刺激臭──シンナーかなにかの強い臭いが暴力的に鼻をつく。
春田は思わず
「くせー!」と顔をしかめるが、瀬奈は慣れっこなのだろう。顔一つ歪めもせず、切れかけた蛍光灯がチラつく暗い廊下を春田を引っ張り、迷いなく進んでいく。
ひび割れたコンクリもむき出しのままの階段を昇り、三階に到着。瀬奈の足が止まる。アルファベットの名前で並ぶ部屋が、廊下の果てまでいくつも並んでいるのが見える。巨大なデイパックとキャンバスを抱えた学生らしき男が部屋の一つから飛び出してきて、そのまま忙しそうに階段を駆け下りていく。
「……あの人、持ってたの絵だよね? 瀬奈さんも、ここで絵を描くの?」
「うん」
「見せてー」
「いや」
なんとなく声をひそめた短い会話が、薄暗《うすぐら》くて狭い廊下に響《ひび》き渡った。瀬奈はちょっと辺りを見回し、ややあって廊下を歩き始める。コツコツと、今日はブーツのヒールが鳴る。
なんたら君はこの階にいるのだろうか。手を繋いで傍《かたわ》らを歩く瀬奈の、ピアスホールだけが開いていて肝心のピアスの刺さっていない薄い耳朶《みみたぶ》を見ながら考える。本当に瀬奈は今日、ちゃんとやれるのだろうか。新しい彼氏ができて、幸せ一杯のフリをできるだろうか。
瀬奈はちゃんと本当の恋心を隠し通して、自分と恋をしているフリを――
「……?」
あいたたた。
なんだろう、と、胸のあたりを押さえる。
「どうしたの?」
「……わかんない。だいじょーぶ……」
痛い、のだろうか? 苦しいのか? 群馬?
わからない。わからないが、とにかく、息をするたびに喉《のど》が詰まった。もっと賢ければ、この痛みのわけも苦しみのわけもちゃんと言葉にできて、そして理解できるのだろうに。アホに生まれたこの頭では、自分のことだというのに理解することもままならない。春田は悲しくロン毛を乱暴に掻《か》く。とりあえず後で考えようと思考の脇《わき》にのけておき、三秒後にはそのまま忘れる。
3D、3E、と進み、3Fと札がつけられた白い引き戸の前に立った。瀬奈の横顔が、かすかに強張《こわば》るのがわかった。もしかしてこの部屋に、と春田が思った、まさにそのとき。
引き戸が、内側から突然に開く。
「……っ」
声を失《な》くしたのは瀬奈ではない。開けた、相手の方だった。なんとか君が、そこにいた。
髪はヘアバンドで全部上げて、黒縁の激厚レンズださ眼鏡。穴の開いたくたくたのデニムに安っぽいネルシャツ、冬だというのに裸足で健康サンダル、そして絵の具で汚れ果て元の色もわからなくなったシワシワのエプロン姿。昨日のびしっと美しかった漆黒《しっこく》のイケメン店員スタイルとはうってかわって、それは己の見目に向ける心の余裕をなくした、まさに『オタク』の姿だった。しかし多分、こっちがなんとか君の素なのだろうと思えた。だって春田の目にさえも、今日の適当な格好の方が意外なことに似合って見える。
……それにしても、だ。同じ黒縁眼鏡をかけていて、なぜ能登《のと》とはこんなにもなにかが圧倒的に違うのだろう。能登かわいそうだよ能登。
「ヒョ〜オ、今日もやっぱイッケメ〜ン☆ い〜よな〜、元がいい人はなに着ても結局似合うのよね〜。俺がこの格好してたらマジでやばいYOメ〜ン、セイホーオ! ホーオ! セイホッホ! ホッホ! ホッホッホ〜! ホッホッホ〜! ブサメンインナハウッ! ファオ〜!」
思わずイケメンにフラフラ歩み寄りそうになる春田の手を、しかし、きつく掴み締めた指があって正気を取り戻す。そうだ、イケメンに懐《なつ》いている場合ではない。
春田の傍らで、銀の毛並みの美しいシャム猫は、長い尻尾を優雅に振っていた――しなやかな細身を、くねらせて立っていた。新しい彼氏に全身でしなだれかかって甘えるようにして。
「……偶然。ここで作業してたんだ。よく会うね、昨日といい。……別にもう会いたくないな、とか思うと、かえって会っちゃうものなのかな?」
なんとか君は何も言わない。春田の顔をチラと見て、そして瀬奈の顔を見つめる。瀬奈はしかし、余裕の笑みを浮かべて視線を返す。痛いほどに力の入った指に触れている春田だけが、その心の動揺を知っている。
「休憩《きゅうけい》? コーヒー買いにいくの? コンビニ? 雨降ってきたよ、外」「……なにが偶然、だよ。俺がここでやってんのなんか、知りまくってんだろ」
「え? やだ、亮輔に会いに来たんじゃないよ。いるなんて思わなかった。ここきたら美紗子《みさこ》たちいるかと思って。あの子たちもここで制作してるじゃん、お茶する約束してたから捜してたの」
「高校生連れてか?」
「あっ、ども[#ハートマーク]」
ベロっと舌を出してかわいく挨拶《あいさつ》してみたが、春田の件は完全シカトのまま二人のチクチクと針で刺し合うみたいな会話は続く。
「あの子たちにも『彼氏』、ちゃんと紹介したくて。亮輔とのことはもう完全にケリついたんだ、きっちり終わったんだ、つて。きっと皆にも心配かけたと思うし。ね、春田くん。今度温泉、行くんだよね」
「え? 温泉? なにそれえ?」
たっぷり五秒後、ビコーンと春田は理解する。そうだそうだ、群馬のパンフだ、裸だ、温泉だ。そういうフリだ。ぐっと瀬奈の手を引き寄せ、
「あー群馬群馬! そう、俺たち群馬行くんで〜す! なぜなら群馬が好きだから〜! ね、瀬奈さん!」
アハハハハ!
――と響くのんきな笑い声に、しかし合わせてくれる声は一つもなかった。温泉話をフツた瀬奈さえ、笑ってはくれなかった。
幻の尻尾が宙をゆらゆらと泳ぐ。
なんとか君の目の奥が、怖いぐらいに険を含む。
「……温泉でも、なんでもいいけど。こうやって、制作室にまで乗り込んできて、邪魔《じゃま》するのはやめてくれない? 集中しきって、やっと休憩ってとこにこうやって来られて、この後の作業どうしてくれんの? 同じテンションで作業できるって思う? 締め切りはおまえだって同じなんだから、今どんなにヤバイ状況かわかってるだろ?」
「別に……邪魔するつもりじゃ、」
「邪魔してんじゃん。こないだだって泣かれてしがみつかれて、課題提出だったのに時間に遅れて……落とされたら、どうしてくれんだよ? おまえが会ってって泣くたびに時間作って、会いに行って、何時間も引き止められて、そのせいで展示会の作品も遅れまくって、今日も注意されたんだぞ? 三年の中で俺が一番、ヤバイ状況だって」
「……うそ。ごめん。そんなの、知らなくて……」
「知らないだろーな。おまえは有望で、課題も全部ぴったり指導ついてもらって、教授と仕上げて……俺の気持ちなんか、知らないんだろうよ!」
唐突に耳に響いた大声に、春田は思わず肩を竦めていた。傍らの瀬奈は、凍りついたみたいになっていた。そのブーツの足元に、なんとか君は力いっぱい何かを叩《たた》きつけた。手に握っていた五百円玉だった。それは一度床で大きく跳ね、妙にうまいことコロコロ転がって、チャリン、と昔を立てて壁にぶつかる。
「……もういいよ! わかったよ! じゃあもう俺はあいつとは会わない! 終わりにする、それでいいか!? そうしたら俺の邪魔しないでくれるか!? そうだよな、俺が、俺たちが悪いんだもんな! 俺たちがおまえを裏切ったことを、おまえは恨《うら》んで、俺の邪魔をしてるんだもんな! チャラにするよ! ……集中、したいんだ! 他の事考えたくないんだ今は!」
なんとか君は頭を乱暴に掻き毟《むし》り、それでも苛立ちを抑えされないみたいに顔を歪める。ヘアバンドが床に落ち、健康サンダルで踏みつけても気がつかない。
瀬奈は凍りついたままだった。不意にあの日、濁《にご》った川に沈み、苦しげにもがいて水面を叩いた白い手が、春田の脳裏にフラッシュバックする。握った瀬奈の手を、思わずきつく掴み締める。このまま瀬奈の手を引いてここから逃げてしまおうか、とさえ思う。しかしできない。瀬奈の足は泥に埋まったみたいに重く、動かない。
しくじったのだ。修羅場《しゅらば》だ修羅場。なんとか君がキレてしまった。瀬奈は踏んではいけない地雷を踏んでしまったらしい−そう思った、そのときだった。
きた。ビコーンがきた。
「……あの〜? ちょっと? 待って? 下さいよ?」
瀬奈をかばうように一歩前に出て、なんとか君の目の前に立つ。そして、言う。
「りょ……りょうさく君、だっけ? なんか言ってること、変じゃないかな〜? 他の事考えたくないって言いつつ、でも、彼女乗り換えたりとかはしたんでしょ? それにさ〜、色々全部瀬奈さんのせいにしてるけどさ〜、課題があるから会いにいけないとは言わなかったんでしょ? それをちゃんと説明してたら、瀬奈さんだって無理言わなかったんじゃん? なんで説明しなかったの? つーか、瀬奈さんに鎖《くさり》で繋がれて監禁されてたわけでもないっしょ? 課題はやらないって自分で決めて、瀬奈さんのとこにいたんでしょ? 課題とか作品とか、うまくできないからって、それを瀬奈さんのせいにするのはどうかなあ。な〜んか八つ当たりっぽいよ〜」
なんとか君の日が、初めてやっと、春田の目をまっすぐに見た。ほとんど殺意にも似た色が浮かんでいた。しかし全然怖くない。顔なら高《たか》っちゃんの満面の笑みの方が百倍怖いし、本気の意味なら手乗りタイガーの怒りの方が千倍怖い。だってあれは本物のケダモノ、軍事転用可能な恐るべき生体兵器だから。アホ丸出しの口半開きフェイスでまっすぐになんとか君の日を見返し、つ〜かさ、と続ける。
なんとか君の偉そうな言い草に微妙に腹が立っていたことに、やっと気がつく。若干《じゃっかん》、意地悪モードに入っている自分にも気がつく。
「そもそもこの騒ぎは、全部りょうさく君が始めたんじゃん。瀬奈さんだって死ぬ死ぬ騒いだり、うざいこと一杯したけどさ〜、りょうさく君さえ誠実でいたならそんなことする必要もなかったんじゃん。第一、友達グループの中で彼女取り替えるなんて、揉《も》めるに決まってんじゃんか。課題とかで忙しいのが分かってたのに、そんなこと始めたりょうさく君がやっぱ一番悪いんだよ。それとももっと簡単に始末つくと思ってたの? そんな自分の思い通りにはならないと思うよ? ちなみに、りょうさく君に振り回されまくってる瀬奈さんは、課題課題って騒いだりしないよね〜。課題で忙しいのに浮気された、略奪された、私の課題どうしてくれるの、なんて絶対言わないよね〜。……本当に才能がある人は、これしきのことで、ブレたりしないものなのかな? ってことは、この件で大慌て、落第寸前のりょうさく君は……」
パン!
――と、耳の近くで音が爆《は》ぜた。
「……うわ。男が男殴《なぐ》るのに平手かよ。だっさ〜」
少しも痛くなどなかった。毎日挨拶がわりに食らいまくっているタイガーのビンタの方が、よっぽど脳にビリビリ響く。身長百四十センチの女子高生より弱っちいビンタがナンボのもんか。
へら、と春田は笑ってみせる。
息を飲んだのは瀬奈だった。
春田と片手を繋いだまま、瀬奈は空気の抜けた人形みたいに、その場にゆっくりとへたりこんでいた。まるで自分が頬《ほお》を叩かれたような顔をして。
春田は慌ててしゃがみこみ、「大丈夫? どしたの? 叩かれたの俺だよ? どっか当たった?」とバカみたいに繰り返し、両手で覆《おお》われた顔を覗き込もうとする。
やがてなんとか君が発した言葉は、春田に向けて、ではなかった。
「――それを、言わせるために、高校生なんか巻き込んだのかよ!? なにしてんのおまえ!? ばっかじゃねぇの!?」
「……つき、あっ、て、る、んだ、よ」
油の切れたロボットみたいに、真っ白になった瀬奈の顔が上を向いた。なんとか君の顔を、すがるみたいに見つめた。なんとか君は逆に顔を真っ赤に染め、ほとんど呪詛《じゅそ》みたいに低く唸《うな》る。
「それなら好きにしろよ。言っとくけど、おまえ、淫行《いんこう》で捕まるぞ。おまえが警察に捕まるのは勝手だけど、自分の都合でガキまで巻き込むんじゃねぇよ!」
春田の指に引っかかっていた瀬奈の右手が、床に落ちた。「……あー」という細い声が、泣き声だと気づくのに何秒かかかった。立ち上がり、瀬奈は、歩き出した。慌てて春田も立ち上がり、憎たらしいなんとか君にもういっちょなにか言いたくて振り返るが、制作室のドアはとっくに閉ざされた後だった。
もうどうでもいいや、と振り切り、瀬奈を迫いかける。すぐに追いついた。瀬奈は泣きじゃくりながら歩いていく。その身体に触れることはできず、しかし春田は、すぐ傍らを一緒に並んで歩き続けた。
身体を濡らす雨は、氷みたいに冷たかった。
天気予報では、雨が降るなんて言っていなかった。
街を行く人々はみんな傘もなく、小走りに、瀬奈と春田を追い抜いていった。
***
アパートにつく頃には雨は小降りになり、瀬奈の泣き声は止《や》んでいた。
結局またもや中まで上がりこんでしまい、よかったのだろうか、と少々居心地悪く、春田は濡《ぬ》れた髪をかきあげる。散らかった部屋のわずかな隙間に置かれたクッションの上、ぶるっと小さく震《ふる》えた。
冬の雨に打たれた身体は、濡れたせいで芯《しん》から凍《こご》える。感覚のない手を擦《こす》り合わせる。
顔を洗ってくる、と瀬奈は洗面所に入っていったきり、もう十分以上も出てこなかった。シャワーの音は聞こえてこない。
なんとか君に幸せな姿を見せつけるどころか、結局、決定的にお別れの最終打をかっ飛ばしてしまった。堪《こら》えされずに文句をつけてしまった自分のせいかもしれない。そう思うから、寒くても居心地がどうでも、ここから離《はな》れることができない。どうしても心配でたまらない。あんなに泣いて――瀬奈は身投げの前科一犯、不安になるのも当然だった。
「……あ。……だ、大丈夫……?」
ドアノブの音がして、振り返った。
瀬奈が、立っていた。
電気もつけないままの暗い廊下に、雨に濡れた髪もそのままで、バスタオル一枚を巻きつけた姿で立っていた。
「……寒くないの?」
ゆっくりと、髪を頬に張りつけたまま、瀬奈は春田に頷《うなず》いてみせる。
「……あのー……風邪、引いちゃうよ……」
「いいの。いいんだ、別にどうでも」
白い踝《くるぶし》が、ゆっくりと音も立てず、こちらに歩いてくるのを見ていた。狭いワンルーム、瀬奈が春田の目の前まで来るのに、ほんの数歩しかかからなかった。
明かりはついていない。つけたかったが、スイッチの在《あ》り処《か》がわからなかった。外はもう夜の黒、しかしすぐ隣《となり》に立つ量販店の看板の明かりが窓から淡く差し込んで、散らかった部屋の中は安っぽいブルーに照らし出されていた。
瀬奈の頬も、ブルーに染まっていた。
「……シャワーとか、浴びなよ。ほんとに。……俺も浴びたい、寒くて死んじゃう」
「寒いけどいいの。……春田くんも、寒くても、大丈夫。死なない。……死なせない」
床のほとんど見えない、瀬奈の部屋。屈《かが》んだ瀬奈が膝《ひざ》をつくことができるのは、クッションに座った春田の目の前だけだった。ブルーの光の中に、真っ白な顔が浮かび上がる。睫毛《まつげ》の影が、頬に落ちる。氷よりも冷たくなった瀬奈の手が、春田の手首を掴む。その拍子に、身体に巻きつけていたバスタオルが腰の下まで滑《すべ》り落ちる。
首の後ろが、強張るみたいに震えた。
ガタガタ震えて、顎《あご》が固まる。息もできなかった。
おっぱいが見えてますよ……。
と、アホはアホらしく、囁《ささや》くのが精一杯。だけどその声も恥《は》ずかしくかすれて震える。瀬奈の匂《にお》いが、体温が、なんでもできる距離でむき出しに揺れている。銀色の髪が、ブルーに光る素肌に張りつく。
伸びてきた両腕に搦《から》め捕られ、あっという間に引き倒された。自分の体重で押しつぶされた瀬奈の身体の細さにギョッとなり、ほとんど恐怖さえ感じ、反射的に起き上がろうと手を床につく。しかしこのだらしのない部屋には片手をつくだけの余地さえなく、クロッキー帳のタワーが崩れてくる。二人して思わず転がってそれをよけ、そして――
「……淫行、だって。……バレなきゃ、いいんだよ……」
――そして、だ。
瀬奈の細い声が闇《やみ》の中でかすれた。上下逆転、春田の身体の上に体重をかけてのしかかった瀬奈の身体は全裸。バスタオルなんか、どこかへいってしまっていた。
外から差し込む光を映し、覗《のぞ》き込んでくる大きな瞳がアイスブルーに揺れる。 触れ合った肌も、その目も、どこもかしこも、なんて冷たいのだろうと思う。
これはまるで夢のようなできごと。年上の美人が、裸で自分を誘惑《ゆうわく》している。こんなことが現実に起きたらと何度願ったかしれない。このまま身体を横たえていれば、全部この人がしてくれる。
アホはアホなりに、余計なことは考えるのはやめて、流されればいいのかもしれない。いやむしろ、それが賢いのかもしれない。おいしいのかもしれない。正解なのかも。
瀬寮の息が首元光を這《は》い上がってくる。
指先が頬を辿《たど》る。
柔らかなその指の動きに夢見るような心地がして、身体から力が抜けかけて、……でも、やっぱり、己はアホだった。
アホだから、事態をコントロールすることができない。うまく事を運んで、大きな得を取ることができない。目先のことしかわからない。
そう、目先にあるのは瀬奈の裸ではなくて、こんなことでは『線を越える』ことにはならないんだという、たった一つのお寒い現実――
「……恋、というのは、大変な、こと、ですなあ……」
「……え……?」
「……なんとか君なんか、全然いい奴じゃないのに……瀬奈さんだって、それがわかってるはずなのに、それでもこんなふうにして、まだなんとか君の気を引こうとしちゃうんだもんね。川に飛び込むのと、同じことを、瀬奈さんはしようとしてるんだよね。……新しい彼氏の役の次は、身投げ用の泥川の役かあ、俺」
瀬奈の指の動きが、ぴたりと止まった。
天井を見上げたまま、春田はかすれる震え声で続けた。
「……ねぇ。考えてよ。ちょっとでいいから。俺のことも。……ひどいこと、しないでよ……。泥川と同じに扱われてさあ、こんなの俺、すっごい傷つくよ……」
瀬奈の目は見なかった。天井をずっと、見ていた。もう帰りたいのだ。
早く家に帰りたい。家に帰りたい、家に帰りたい、家に帰りたいんだもう。それだけだった。悲しくて寂しくて迷子だった。不安で怖くて、帰り道だけを探していた。
「……あーあ。あんな提案、するんじゃなかった。どんな役も、もうしたくない。俺は俺だもんよ。俺もう、瀬奈さんと一緒に、いたくないよ」
「は――」
家に帰りたい。
瀬奈の身体を、押しのけていた。いつのまにか外されていたいくつかの学ランのボタンもそのままに、靴《くつ》を引っ掛け、玄関から飛び出した。
走り出していた。
「待って! 待って、ごめん……ごめん!」
瀬奈の声が聞こえた。振り返った一瞬、半開きになった玄関ドアの向こうで全裸、追いかけることもできずにまごつく瀬奈の白い顔が見えた。一瞬、頭の中が爆発したみたいに真っ白に光り、わけがわからなくなる。気がついたら、叫んでいる。
「瀬奈さんのバカ! 謝らなくていいから……考えてよ! 自分のことも、俺のこともっ! ちゃんと、考えてくれよ……っ! 俺だってバカだから、考えなきゃいけないこと一杯あったのに、全部スルーしてきちゃったよ! その結果、こういうバチがあたったよ! 超痛い目、見たよ! 最後までりょうさく君呼び戻すためのエサでしかなかったよ! それでいいと思ったけど、ちゃんと考えたら、やっぱそんなの嫌だってわかったはずなんだよ! しかも、しかも、泥川の役なんて……そんなの……ないっ、しょお……!? 瀬奈さんわかっててやってんの!? どうせなんも考えてなかったんでしょ!? ……ねぇ! 頼《たの》むから! もっとちゃんと…… 考えてよ……っ! 大人じゃんかよ!」
「ごめん、ごめんごめんごめん……ごめん……ごめん許してごめんごめんっ」
涙を流しながら、瀬奈が裸のまま、ついに玄関から踏み出そうとする。
「来んなよバ――――カッ!」
声を嗄《か》らして、最後にそう叫んだ。踵《きびす》を返して、一気に階段を駆け下りた。
アパートから出て、後はそのまま全力で走り続けた。
小雨の中を走って走って、ひたすらに家を目指した。自転車を駅に置いたのも忘れて、そのまま走ってきてしまった。
だけどあまりにも風は冷たく、雨は冷たかった。途中で足が止まった。
コンビニの軒先で、しゃがみこんでいた。寒い。喉が痛い。目が眩《くら》む。冷たい。なにもわからない。家に帰りたい。まだ家にはつかない――まだ帰れない。
携帯を取り出し、こんなときには多分一番正しそうな人へかけてみた。五回のコールで、その人は出た。
「……ゆりちゃん……」
『……えっ! もしもし!? 春田くんですね!? ……いやだ、なんで携帯にかけてくるのよ…… はっ!? まさか万引きでもしたか!?』
「……ゆりちゃん、あのさー、あのさー……。えーん」
『どどど!? な、なな!? なに!? どうしたの!? 泣いてるの!? カツアゲされたの!?』「あのさー、あのさー、思い出したんだけどさー、シャム猫はね、帰ってこなかったんじゃなくて、そこんちの床下で死んでたんだよー。……なんで、死ぬ前に出ていったのかなあ? どうせ人間なんかには、自分のことは助けられないって思ったのかなあ? 助けられたくなかったのかなあ? なんでそんなふうに、関わる深さに、……線を、きっちり、引いたんだろ?」
『意味がわかりません! とにかく先生が迎えに行くから、そこで待ってなさい! そこどこ!? 動かないでよ、すぐ行くから! 今出るから!』
「……こなくていいよお……いいからさ、ゆりちゃん、教えてよ……。シャム猫はさー、自分が死にそうだってわかって、なんで人間から逃げていったの? それだけ、教えてよ。俺、自分で考えたいけど、頭が悪くて考えられないんだ。だからお願い、俺の代わりに、考えてよ。先生っしょ、わかるっしょ」
『ええ!? うっわ〜どうしよう、ええと……ええと……。う〜ん……あの〜……、えっとねぇ……多分、だけど。……シャム猫さんは、死ぬところを見せたら悪いって思ったんじゃない……かな?』
「……悪い……?」
『ほら、死ぬところを見せたら、人間がそれで悲しむのがわかっちゃって』
「……それが……最後の、一線? 死んだところを見せないで、悲しませないってのが、踏み越えさせないって猫が決めた線だったの?」
『それがご恩に対する礼儀《れいぎ》、とか思うんじゃない? ほら、動物って意外と義理固いところあるのよね……あーなんか思い出しちゃったー、昔、先生の実家の犬もね、』
「その話はいいや」
『……あ、そう……』
「……でもさー、俺は、死ぬとこも見たい、つて、思うんだけど。そりゃ死ぬところなんて見たら悲しいけどさ、そこを見られなかったら、ずっと捜しちゃうじゃんね? ずっと、心配で、どうしてるのか考えて、ずっと……悲しい、ままじゃんね? 見なかったからって忘れられるなんて、そんなの猫の浅知恵《あさぢえ》だよね。人間の愛って、そんなもんじゃないよね。なんでわかってくんないんだろ。……どうせ別れることが決まっているなら、死ぬとこも全部、別れの時もその姿も全部、見せてくれなくちゃ……好きになっちゃったら、そこまで見なくちゃ、納得できないよね。そこを見せずに逃げようなんて、なんか、なんかそれってさ、人間、舐《な》めてんよ! もっと、ちゃんと、考えてみろって……言いたいよ! ……言ったって、その言葉が通じるかどうか、わかんないけどさあ……っ」
『あー、ねー。動物はねー。そういえば、昔実家の隣の牧場にいた肉牛がね、』
「……その話もいいや」
『……あ、そう……』
――もう、自分でも意味がわからない。
十七にもなって、担任を相手に、コンビニの軒先で春田浩次は泣き続けた。
そして、大風邪を引いていた。
4
熱が下がって起きられるようになるまで、丸三日かかった。
週末明けにマスク姿で現れた春田を、心優しいクラスメート達は「春田にも感染するほどの風邪菌……!」と、バイキンみたいに避《さ》けてくれた。机まで遠ざけて、全員で、避けまくってくれた。そのおかげで、いまだ痛み続ける喉で言い訳がましく憂鬱な理由も語らずにすんだし、独身(30)もあの日の意味不明の会話を、「熱に浮かされてたのね、それに春田くんだしね」と余計な詮索《せんさく》はせずにいてくれた。
友人の高っちゃんだけが、ただ一人非常に鬱陶しく、「鼻をかんだティッシュは袋に入れて口をきつく縛《しば》れ! ゴミから空気感染するんだよ!」だの、「俺のマイイソジン使えよ、うがいしていいぜ」だの、「そろそろマスクを替えろ、俺のをやる」だの、「蜜柑《みかん》食え」だの「飴《あめ》ちゃん舐めろ」だの「ゆず茶だ飲め」だの、己もマスクに手袋の完全防備スタイルで、あれこれ面倒を見てくれた。
そうして一日が終わり、自転車をどうすべ……取りにいくか……コホコホ、などとぐったり考えながら校門を出た、そのとき。
「――あ。来た」
「うほっ!?」
校門の門柱を背に、細身のデニムとスニーカーにタートルセーター、ニットの上着にニット帽、マスク姿で、その人は立っていたのだった。白いニット帽の下から、銀色に透けるストレートロングが胸の下まで零れていた。
瀬奈は、ポケットに手を突っ込み、今にも「ニャー」とか鳴きそうな目をして、
「……マスク。どうしたの? 風邪?」
そっちこそマスクどうしたの風邪!? と喉さえ無事なら叫びたいほど、大ボケな真剣さで尋ねてくる。しかし春田はどう答えていいかわからず、あの夜のことも、いまだ忘れることはできず、
「ってか……ちょっと、まだ、なに話していいか俺わかんないから……」
一歩大きく、瀬奈から距離を取った。マスクで口元を隠した瀬奈はそんな春田を見て、突然に、
「……ごめんね、本当に……」
「あっ!? ちょっ!?」
頭が膝につきそうなはど、深々と頭を下げてみせたのだった。下校する他の生徒たちが、驚いたみたいに二人を見て通り過ぎていく。そりゃそうだろう、校内でもアホで鳴らしたロン毛パーカー野郎が、年上の美人に謝られているなんてそうそう見られる光景ではない。
しかも美人の方は、顔を俯《うつむ》けて、目の縁を真っ赤に染めている。マスクの下では、きっとその顔を泣き出しそうに歪めている。
「……ひどいこと、したよね。ほんとに、なんにも、考えてなかったの。……考えたよ。あれからずっと。ごめんね。本当にごめんね、ごめんなさい……」
「ちょっとも〜……やめてよ〜……マジで……泣かないでよ〜」
指先で目元を拭《ぬぐ》い、瀬奈はようやく顔を上げる。眉《まゆ》はハの字で、春田を見つめる眼差《まなざ》しは今日も綺麗《きれい》なアイスブルーに揺れていた。
「……俺こそ、ごめん、だよ……」
なぜ? と問いかけてくるアイスブルーに、うまく答える自信がなくて、マスクの下で唇を噛んだ。
寝込んでいた間、自分もずっと考えていた。考えに考え、そして見えてきた己の気持ちのたった一つの真実は、苦すぎる後悔だった。
裸の瀬奈を置き去りにした。傷だらけの瀬奈から逃げ出した。あの日の瀬奈を受け止められる度量が、己にはなかった。望まれるままに泥川になってやる度量も、俺は俺だと叫んで、ありのままの自分で瀬奈を抱きとめる度量も、なかった。
瀬奈の引いた線なんかブチ壊《こわ》して、腕を伸ばして、抱き締めてやれればよかったのに――苦い後悔は風邪菌と結託して、いつまでも春田の身体の中で増殖を繰り返し、その身を蝕《むしば》んでいった。
別れが二人の運命ならば、用が終わって去りゆく瀬奈を目の前にしても、自分はその悲しみに耐えなくてはいけなかった。それだけがたった一つ、「線を越える」方法だった。そんな線なんか引くな、と騒ぐのは簡単だけど、一度引かれた線を乗り越えるには、自分でそれをなんとかするしかなかったのだ。無理矢理にでも、瀬奈という面倒な女に、深入りしなくてはならかった。
でも、それをしなかった――あの夜の春田には、できなかった。
瀬奈は小首を傾《かし》げ、ポケットに両手を突っ込んだまま肩を竦めてみせる。
「……春田くんを傷つけたから、あたしにもバチ、当たっちゃったよ。……あれからずっとひどい風邪で……熱も出て、寝込んでたんだ」
熱が下がったから会いに来たよ、と続ける声は、まだかすれていた。
「……会いに、来てくれたんだ」
「うん。来たの。考えて、そう決めた」
「そっか」
考えてくれたんだ。
春田は、一歩、瀬奈に歩み寄った。
瀬奈は考えてくれたのだった。考えて、そして、線を引いたのは間違いだったと認めてくれた。ちゃんとお別れをするために、開いた窓から戻ってきてくれたのだった。春田が乗り越えられなかった一線を、なかったことにしてくれようとしていた。
だったら自分は、やらなくてはいけない。取り払われた線の先を――別れの瞬間を見届けなくてはいけない。どんなに胸が痛んだって、苦しくたって。これを、この再会を、最後の一目の挨拶を、喜ばなくてはいけない。
瀬奈は「ここまで」と引いたラインを、撤回《てっかい》してくれたのだ。自分のために。もう少し深入りしていいよ、と、ここまで会いにきてくれた。
それだけで――それだけで、もう、十分ではないか。助けた分の見返りとしては、もう十分だ。十分に「いい目」だ。
「……ねぇ、大学、ちょっとついてきてくれる? もう亮輔にも、つっかかったりしないから。あいつに用があるんじゃなくて、見せたいものがあるんだ。春田くんに、見てもらいたい」
絶対変なこともしないよ、と瀬奈は、両手をポケットから出して見せる。両手には帽子とお揃いの、ニットの手袋が嵌《は》められている、これなら、指先を搦め捕ることもできないだろう。こっそり学ランのボタンを外したりもできないだろう。
「イエス! いっすよ!」
マスクの下で、アホ全開ににっこり笑う。
正々堂々、瀬奈との別れのこの時を、笑顔で迎えてやるのだ。
***
古びたコンクリ造りの制作室棟に、瀬奈は春田を先導しながら入っていった。階段を上がり、二階のA室の引き戸を開けた。
「……へえ……こうなってたんだ……やっぱくせー……」
「オイルがどうしてもね。ガマンして、慣れるから」
教室ほどの広さの、真四角の部屋だった。瀬奈専用の部屋というわけでもなさそうで、ラックには何人か分の画材やら資料やらが乱雑に積まれ、私物らしきバッグもいくつか置きっぱなしになっている。ただ、今は瀬奈と春田のほかには誰もいない。
一面の窓にはフェンスも格子もなく、ちゃんと透ける綺麗なガラスが嵌っていた。ライトも明るく、廊下のように薄暗くない。しかしやっぱり壁や天井はひどくボロくて、ひび割れがそこここに走っている。床もなんとなくベトベトとして、むき出しの排気ダクトには埃《ほこり》。
「地震《じしん》がきたら一発だよここ! 瀬奈さん、そのときは窓から飛び出して逃げるんだ!」
「うん、そうする。……よっ、つと……」
春田が地震の恐怖に慄《おのの》きつつ制作室を見回している間に、瀬奈は部屋の片隅のラックから、身長ほどもありそうな巨大な板のようなものを一人でズルズル引き出していた。
「手伝うよ、危ない危ない! ――おわー!」
「そこの壁に立てかけちゃって」
すっげえ……唸って、春田はそっと手を離す。離れて改めて、一声唸る。すっげえ。その板のようなもの……見たこともないほど巨大なキャンバスは、
「……絵、見たいって言ったよね。これがあたしの、見せられるぐらいのデキの作品」
「すっっっ……げーよこれ!」
もう一声。
このか細い瀬奈の身体のどこに、こんな絵を描くエネルギーが潜《ひそ》んでいたのだろうと思う。
ダイナミックな、絵の具をぶちまけたみたいな凄《すさ》まじい描線が、巨大なキャンバスでもまだ狭いと荒れ狂うような激しさでまさに「躍《おど》って」いた。赤、オレンジ、紫、紺《こん》、そんな色彩が狂おしく躍り、跳ね狂い、破壊して笑って遊んでいた。舞踏はしない、と言った瀬奈の言葉が不意に思い出される。そりゃそうだ――瀬奈は、その肉体を踊らせる必要なんかないのだ。イメージの世界でこんなにも自由に、こんなにも大胆に、踊り狂えるとんでもないエネルギーを秘めた女なのだから。
「瀬奈さん、これマジで、俺……感動したかもー! ひょー! 群馬以来の衝撃だよおー!」
瀬奈を振り返り、そして「おや?」と首を捻《ひね》る。せっかくの賞賛も、聞こえていなかったのかもしれない。瀬奈はマスク顔のまま、静かにその場に佇《たたず》んで、両手に嵌めた手袋を外していた。
げ。と、びびる。
瀬奈の両手、十本の指は、すごいことになっていた。全部の指に鋭い石のついた指輪がぎっしり嵌められ、その上テープで固定され、小さな両拳《りょうこぶし》は即席アイアンナックル状態。
「ちょっとー!? なにそれ!? 瀬奈さんなんばしよっと!?」
「……これでね、これを、」
右の拳を、振り上げるのを見た。ぐっと腰が捻られ、瀬奈の右腕はそのまま――
「……っと。うん。こうしたかった」
仁王立《におうだ》ちのまま「ぎゃー!」と叫んだのは、春田だった。瀬奈が凄まじい勢いで振り下ろした指輪パンチは、巨大なキャンバスをド真ん中から斜め下に、引きちぎるように破っていたのだ。よかった、結構いける、と瀬奈は頷き、さらに左で指輪パンチ。泣き叫ぶみたいな音を立て、キャンバスの布地が引き裂かれる。塗りこめられた瀬奈の世界が、瀬奈の拳で、引き裂かれる。
「ちょちょちょやややなにしてんの!? マジでマジでマジで! せっかくの絵が、せっかく綺麗だったのにー! あわわわ、うわー!」
踊り狂うみたいに春田は大慌て。必死に瀬奈の肩を掴んで、とにかく破壊行動をやめさせようとする。しかし、
「……いいんだ。考えたの。わかったの。これは、これで、いいの。こうしたいの」
「あわわわ……っ!」
引き裂かれて開いた大穴に向かい、瀬奈は土足で蹴《け》りを入れる。バキ、と響いたのは、木枠が折れてしまった音のはず。春田はもはや棒立ち、それをただ見ているだけ、真っ青になって瀬奈のヤケクソの大暴れを見守ることしかできない。若干チビったかもしれない。
「あのね。この絵はね、」
バキメキメキ! ……ついにキャンバスが、床に倒れた。
「『未完成』がテーマ、だったの。未完成っていうか……ずっと続くもの、永遠に続く、みたいな」
ビリーッ! ……裂かれた部分を引っつかみ、瀬奈がさらに絵をちぎる。
「……これはね、亮輔のことを描いた絵なんだよ。あたしの、亮輔のことが好き、っていう気持ち……恋心を、描いたの。だからずっと続くって思ってた。ずっと未完成で、永遠に塗り重ねていくための絵なんだ、って。永遠に好きで居続ける、永遠に想いは溢《あふ》れ続ける、永遠に恋心はここに塗り重ね続けられる……とか、いって、ね!」
「ひええ……お兄ちゃん、も、もうやめてえ……っ」
ていっ、と瀬奈が飛んだ。
両足で、絵を踏みつけにした。
さらに蹴り飛ばし、壁にぶつかって原型もとどめなくなったそいつをもういっちょ踏んづけて平面の物体でさえないモノにした。
「だから、これで、完成。……壊れて完成。この形が、この絵の最後の姿。これであたしの描きたかったものが、形になった。できた。……まだかな、もっとかな。春田くん、ここ折っちゃって。この木枠」
「俺もやんの!? やだー! 後から訴えたりしない!?」
「しないしない。……芸術のためだよ。うん。げいじゅつげいじゅつ。アート。だから早く早く、ここ固くて」
「ひー、とんでもないことになった! マジで!? マジか!? ……マジっすね!?」
マジっす。と、瀬奈が頷く。殺せと言う。瀬奈の分身を一緒に殺せと。ヤッチマイナー! と。
――わっかりました!
「……せーの……! でいりゃぁー! いっけぇ――――特急水上号ォォォ!」
ひん曲がったキャンバスに、渾身《こんしん》のフットスタンプ! バッキ! とすごい音がして、キャンバスはほとんど四つ折になった。渋川《しぶかわ》駅まで大人二枚ー! と叫んで蹴りつけ、割り、破り、裂き、
「さすが男の子、力あるんだ」
嬉《うれ》しそうな瀬奈の声に、さらに張り切って殺害殺害また殺害! ――殺してやるんだ。瀬奈と一緒に、瀬奈を死なせてやる。さようならだ、これでお別れだ。
「特急草津もあるでよー! ちくしょー乗ってけ万座《まんざ》・鹿沢口《かざわぐち》ー!」
見えないところで死なせたりしない。
こっそり消えて、それでお別れなんか許さない。
やれと言うならやってやる。この手で、この足で、この目の前で、ブチ殺してやる。お別れするなら、全部見ててやる。瀬奈の最期《さいご》を、見届けてやる。
「瀬奈さん! これでラストだあ! ブチ破っちゃえ!」
「おー!」
瀬奈の死体を、両手で支えてやる。瀬奈が勢いをつけて走り、「えーい!」とそのまま肘《ひじ》で体当たり。瀬奈はずっこけて床に転がり、春田も壁にブチ当たり、そして死体は、
「で……できたぁぁぁぁぁ――――っっっ!」
二つに引きちぎれて、床に落ちていた。瀬奈が歓喜のおたけびをあげる。別人みたいに目をギラギラ光らせ、大声で幾度《いくど》も叫んで、「やったー! やったー! 完成したー!」ジャンプする。春田も一緒にジャンプする。できたできた! アートアート!
「さっきからドタンハバタンなにして……瀬奈け!?」
扉が開き、瀬奈と春田は揃って振り返った。なんとか君が立っていて、制作室の有様と殺人犯二人に顔色を変える。本当に一瞬で、イケメンの顔色がザーツ! と青くなるのを見る。
「おまえこれ……あああっ!? ウソだろ、なにしてんだよ!? ちょっ……ちょっ……うわあああ! これ、おまえ、瀬奈、これ、展示会の……ウソだろおお!?」
なんとか君はそのまま震えて、へたりこんだ。本気でショックを受けているようだった。しかし瀬奈は平気な顔、むしろ清々とはがらかに、
「やっと完成したの。これは、これが完成形なんだ。できあがった……やっと、納得いく形になった! やったー! イエー!」
「イエー!」
春田とハイタッチ。
「ざっ……けんな! これも……あてつけなのかよ!?」
ちがーう、ちがーう、と二人して、なんとか君に首を横に振ってみせる。バラバラ死体を指差し、マスクを顎下までずり下げ、瀬奈はちゃんと説明する。
「本当に、これが作品なの。こうしたかった……こういうふうに、自分を、表現したくて絵をやってるんだあたし。こういうふうに自分を探って、自分に潜って、自分の姿を確かめて、そうして実際にその姿を作ってみて、そうやって自分の目で自分の形を確認しないと、あたしは生きていけない人間なの。亮輔もそうだね。わかるよね。そうしないと生きられないんだ、あたしたちは。……でももうこれ、絵じゃないか。立体もおもしろいかも」
「……おまえ……ほ、本気なのか……?」
「本気。考えて、それで、こうしたの。今ね、すっごく気持ちがいい。ぴたっとはまって、これを終えられた。終わって、そして……早く次の形を造りたいの。産まれちゃったの、次の形が。あたしの中に、まだよくわからない形がある。それが見たい。見たくて死にそう。狂いそうよ。早く造らなくちゃ……作らなくちゃ。早く、早く……すごい……震える……!」
湧《わ》き上がる衝動を押さえ込むみたいに、瀬奈は本当に震えている身体を自分で抱きしめる。今まで見たどんな表情より、瀬奈は「気持ちよさそうに」していた。ひょー変態発見、と春田はそれを眺め、なんとなく拍手を送ってやる。
そしてなんとか君は、それで納得したのだろうか。「とりあえず、とりあえず」と繰り返しながら、破壊された作品の欠片《かけら》を大事にすべて拾い集め始める。その這いつくばった姿に、結局こいつも同類だ、と思う。「展示方法考えないと……俺、展示委員なのに……立体で出すか、マジで」――なんとか君にもなんとなく拍手。
なんとか君も、ちゃんと立派な変態なのかもしれない。変態同士、カップルではなくなっても、二人はそれなりに人間付き合いをしていくのかもしれない。それならそれも、出会った二人の人間の形として、一つのハッピーエンドじゃん。と、春田はアホなりに思うのだ。
***
さよならを言う前に、一つ訊いておこうと思っていた。
「あのさー、瀬奈さんは、高校時代の楽しかった思い出とか、全部ウソだったと思う?」
「……どうして?」
少し混んでいて座れず、電車に並んで立って揺られ、窓の外に目をやった。空はもう暗く、街の灯《あか》りが地味に眩《まぶ》しい。
「……だってさー、結局その頃の友達には彼氏奪われて、その頃の彼氏は心変わりして……いくら瀬奈さんが変態でも、やっぱつらいっしょ、それって」
「あたし変態かな……? ……あのね、高校時代の楽しかったこととか、大変だったこと、つらかったこと、笑ったこと、亮輔とのこと、あの子とのこと……全部、あたしはウソだったなんて思わないよ。忘れたいとも思わない。全部大事に思ってる」
「大嫌いって言ったじゃん」
「うん。大嫌いだよ。全部、今だって許せないって思う。でも、ウソとは思わない。なくなればいいとも思わない。大嫌いのまま、ずっと持ってくよ」
「……ほんとに? その思い出の先に、あんなにつらいことがあっても? 結局、楽しかった高校生活の果てに、ああいうことになっちゃったんだよ?」
「うん。思い出ってね、積み重なるものだから。その上に何が、どんなものが積み重なったって、その下にあるものは消えないし、変わらないの。それに思い出の色は、少し、透けてるんだよ。下に重なるものの色が、必ず影響《えいきょう》する。……そうやって重なる色が、あたしなの。重ねた色が、自分になるの。……学校、楽しい?」
「楽しい! ……楽しいからさ、不安になったんだー。こんなに楽しいのに、結局は色々裏切りや、嫌なことが待っていて、全部壊れちゃうのかな……とかさ」
「なにが起こるかなんて、誰にもわからないよ。でもね、この先の未来でどんなひどいことになっても、なにがあっても、なくなりはしないんだよ。今の春田くんの『楽しい』は、絶対になくならない。ウソじゃない。積み重なって、春田くんを作っていく」
「……マジでー?」
「マジでー。本当におもしろいよね、人間って。……だからおもしろいんだよね。そうやって、いろんな色を作っていくんだ、みんな。全員そうやって、自分だけの色を作るんだよ。瞬間ごと色を変えていく。いくら見ても、見飽きることなんか、多分一生ないな。……駅つくよ。降りるよね、自転車」
「あ、そうだった」
瀬奈のアパートの最寄り駅で一緒に電車を降り、改札を抜けた。雑踏《ざっとう》で少しまごついたその隙をつくみたいに、
「……じゃあ、またね。また、会おうね。今度はごはん食べよう。こないだの三千円で、なにかおごって」
「えっ!? また、会ってくれんの!? やったー!」
瀬奈が笑う。笑われたっていい、だってこれで終わりだと信じきっていたのだ。川に身投げした瀬奈をおせっかいに助け、たいして力にもなれず、でも瀬奈が死ぬところはちゃんと見届けた。生まれ変わったその先で、また出会えるなんて思ってもみなかった。
嬉しかった。心の底から、嬉しかった。なんて嬉しいんだろう。こんな気持ちがあることを、今まで知らなかったと思う。
「すっげえ嬉しいよー! ほんとに嬉しいよー! やったーやったー! メールするね、絶対するね! 会ってね! なんか食べようねー!」
「いいよ。そのうち群馬も行こうね」
「ヒョー!? 群馬ー!? 群馬行けんの!? 一緒に!? マジで!? なんでー!?」
「電車で」
「そーじゃないって! 瀬奈さんアホだなーアハハハー☆」
「……あのね。色々考えて、落ち込んだりして……あれ、と思ったの。春田くんと群馬行ったら、きっとすごく楽しいんだろうな、って。……で、一人で考えるのにも限界がきて、群馬、ネットで調べたんだ。風邪引いてるのに……ほんとアホだよね。春田くん、お肉、好き?」
「好きどぇーす!」
「じゃあ上州牛《じょうしゅうぎゆう》、食べよう。名物だって」
「わー! 上州牛−! つていうかヒョー! 瀬奈さんちにパソコンあるんだすげー! あんな汚い部屋に、パソコン置く隙間なんかあったんだー! 超すげー! 魔法みたーい!」
「……それぐらいのスペース、あるもん……」
すげーすげーと飛び回りながら、気がついた。やっとわかった。
恋をしたのだ。
瀬奈のことが、好きだ。
だからこんなに、これしきのことが嬉しくて、――自分のことを考えてくれて、ネットで群馬なんか調べちゃってた瀬奈のことが愛《いと》しくて愛しくて仕方がないのだ。
そうだったんだ。
「また会える! また会える! 嬉しいよー! 群馬も行こうねぇ! 絶対行こうねぇ!」
「電車で行こうね、あたし免許ないから」
瀬奈が笑っている姿を、いつまでもいつまでも見ていたかった。銀色の毛並みを、アイスブルーの瞳を、身体に沿わせたしなやかな尻尾を、ずっとこの目で見ていたかった。瀬奈と会える、会いたがってくれる、それだけで叫びまわりたいほど幸せだった。
永遠じゃなくても。
いつかこの恋が、ひどい結末を迎えたとしても。それでもこの喜びは、確かにここに存在している。消えたりせずに積み重なる。そして、自分を作る色になる。
どんな色になっていくのだろう。どんな色を、作れるだろう。やった、できた、完成した、そう叫びたくなる瞬間に、瀬奈はその色を、見てくれるだろうか。
見ていて欲しいな、と、小さく願った。
***
「え……っ」
「え……っ、じゃないっての! ちゃんと聞いてた!? 俺本気だから!」
とある日の、昼休みのひととき。教員室に能天気なアホ声が、いやってほどに大きく響く。出前でとった五目やきそばを抱え込むようにガードしつつ、独身(30)は、春田のツラをまじまじと見返す。
「だ、だって……春田くん、芸術選択も書道だったじゃない。それがなんでいきなり、美大の推薦《すいせん》欲しい、になるの……?」
「だってえ〜ん、恋、しちゃったんだもお〜ん」
「……」
「ねぇ、ゆりちゃん!? 聞いてる!?」
「あ、ごめん……思わず五目やきそばのきくらげ数えちゃった……」
「美術なら来年取るし! だからさ、ね? ね? 推薦取れるようにさー、担任的に、色々根回しっつーの? しといてよお〜! 担任でしょ〜?」
「……えー……担任でも、できることとできないことがありまーす……」
「そう言わず! お願い! ……しょうがないな、わかったよ! このクリームパンあげるよ!」
「いりません」
「ま、ま、そういわず!」
わ〜、今日も生徒とお昼してる〜。人気があって、マ・ジ・で、いいですよね〜。と、若い国語教師が今日も笑いながら通りすがる。いいだろー! と独身(30)はヤケクソ、握らされたクリームパンを振って答える。
「……ど、どこの美大? 恋しちゃったって……それは、その……付き合ってるの?」
「まだそこには至りません! が、まあ……早晩そうなるでしょうなあ? フヒヒ! 群馬が結ぶ愛特急!」
「ぐ、んま……? ……その人、ちゃんと女? ……人間?」
「なに言うんだよー! 美人だって! 人間だよ多分! 今三年生で〜、ほら、一緒に学校通えたら楽しいかな〜、みたいな〜! きゃ〜!」
「怪しいなあ……あ? 今、三年生って言った?」
「言った言った! 二十歳二十歳! 大人のお姉さん〜! おニャ〜ン!」
「……じゃあ、来年推薦とれてもダメじゃない。春田くんが入学する年には、その人は卒業してるでしょ」
はっ――沈黙が数秒、教員室に流れる。そして、
「……うっ……わあああ……! なんという運命の落とし穴……ギャー!」
「あ、それに春田くん、三年で卒業できるかどうかまだわからないからね」
「ちくしょー! ヤケ食いしてやるー!」
「あああ! 私の五目やきそばが!」
それにしても、だ。
なぜ担任から奪う出前中華は、こんなにもおいしく感じるのだろう――うずらの卵を大事に端に避けつつ、春田はにっこり微笑んだ。おいしいし、週末は瀬奈とデートだし、なんだか本当に毎日幸せだ。笑顔も絶えることがなく、最近の自分ってなんだかとってもエンジェリックスマイル……胸の群馬も元気に脈打って、今日もプリッとハート形。
「デビル! デビル! ランチ泥棒! うわーん!」
親身な独身(30)の泣き声も、己の心にしっかり重なり、己を作る色になる。そう思えば少しもうるさくはなく、やきそばの旨味《うまみ》と相まって、妙《たえ》なる調べに聞こえてきた。
おわり
[#改ページ]
THE END OF なつやすみ
1
この夏は、なかなかだった。
ゴシッ……! と、最後の一拭い。いまだ成長期の背を丸め、硬く絞った雑巾で洗面台の縁を舐められるほど丹念に磨き上げ、高須竜児は唇から笑みをこぼした。排水溝も蛇口も曇りなき銀色に輝き、床も壁も髪の毛一筋、水滴一滴残していないはず。洗面所の掃除は完壁。もちろん、洗面台の上部に取り付けられた鏡もだ。
鏡に映し出された己の姿に目をやり、竜児は満足げに前髪をかき上げた。本物の高須竜児は既に鏡の世界で息絶えた。俺が惨殺し、葬ったのだ。さあこちらの世界の皆さん、恐怖の人類全減ナイトメアが始まるよぉ――とか思っているわけではない。確かに鋭く吊り上がった三白眼が、長く伸びた前髪の隙間から蒼い底光りとともに狂乱の雷撃を放っているが、それは単にそういう顔に生まれついただけであった。
本人としてはごく平凡に、高校二年生男子らしい健やかな思い出をのんびり反芻していたのだ。今年の夏休みは竜児にとって、今までのどの夏休みとも違って特別だった。海辺の別荘、初めての親抜きの旅行、幽霊作戦、意外な反撃。そして、垣間見た『彼女』の素顔。
太陽の凶暴なまでの眩さとともに刻まれたこの夏の思い出は、本当に、なかなかだった。
「ふっふーん……♪」
今日と明日で、特別だった今年の夏休みも終わる。そしてあさってからは、待望の新学期。きっともっとなかなかな、心躍る展開が待ち受けているに違いない。この夏の続きを期待して、鼻歌交じりに前髪をいじり、竜児は鏡の中の己を眺めた。早く夏休みが終わらないかな、などと――
「『ふっふーん♪』」
「……」
振り向く必要もなかった。洗面所の戸口に立って前髪をグリグリ指に巻きつけ、鼻の下を右斜め下方に伸ばしたひょっとこ顔で同じ鼻歌。ちんまり揃った下の前歯まで丸出しにして竜児の浮かれるサマを悪意たっぷりに形態模写しているその女の姿は、鏡の隅にいらんほどばっちり映りこんでいた。
「……なに。なんだよ」
鏡越しに睨みつけるが、
「別に?」
逢坂大河は片眉上げて、からかうみたいにひょっとこ方向をひょいっと逆へ。
オレンジ系タータンチェックのコットンワンピースを涼やかに一枚で着て素足、まとめた淡色の髪は柔らかく揺れて腰のあたりまで届き、日焼けに頬と鼻だけ薄い桃色に染めた面差しはフランス人形のように精緻――ひょっとこでも、だ。高校二年生女子としては小柄すぎる体格に比して、整った美貌は決して幼くはなく、硬質ガラスから刻み出したが如く優美なラインで描かれている。
「なんでもないけど。ただ、鏡を見つめて浮かれてる恥ずかしい奴がいるなーって」
唇の端を根性悪く薄笑いに歪める、この、ちんまりとしたひょっとこ。こいつこそ、人呼んで「手乗りタイガー」であった。手乗りサイズの身の丈に、サディスティックなまでの暴虐を詰め込んで生まれたナゾの危険生物である。
なんの因果か大河と竜児はクラスメート、住んでるマンションはお隣さん、片想いの相手はお互いの親友――まるで竜児の世話焼き根性と善良さを試すために神様が追わした試練の如く、一人暮らしの大河はお隣の高須家に半居候状態、ほとんど生活をともにしているのだった。夏休みともなればなおさらに、大河は用もなく一つ屋根の下にいる。
そしてせっかく整ったツラをソラマメみたいに斜め下方向に伸ばし、嫌みったらしく顎までしゃくれさせて言いやがるのだ。
「ねぇ、あんた今こんなんしてたよねぇ。『ふっふーん♪』」
腹立たしくないわけがなかった。振り返り、竜児はむすっと言い返す。
「言いたいことがあるなら言えよ」
「いいぇぇ? でも、こうだよねぇ。『ふっふうーん♪』……ねぇ、それともこんな感じ? 『ンふっふうう〜〜〜ン!』、こうかな? 『ふっふぅぅ〜〜〜〜ンッ!』」
そこまでやって飽きたのか、大河は「けーっ!」と手を広げ、呆れたように大きな瞳を剥いてみせた。自分にうっとり酔い痴れやがって! と荒々しく言い放ち、白い顎を突き上げる。
「昔ギリシアのとあるアホが、水面に映った己の姿にうっとり見とれて池にはまって死んだという! その地縛霊はヒヤシンスに憑依して、今も池を訪れたカップルを破局に導いているのよ! あんたは顔からしてさしずめきのこ……熊をも倒す毒きのこ! あんたの魂は胞子となって永遠にこの洗面所に漂い続け、新たに入居した住人をがっかり落ち込ませ続けるのよ! うわー! きのこ生えてるー! ってね!」
むーかーしーぎりしゃーのーとあるーあーほー、いーけーにうつうったーぼくのーかーおー……したり顔で竜児を指差しながら歌う大河に、最初から最後までいちいち一言ずつ突っ込みたかったが、
「鼻歌ぐらい歌ったっていいだろ!」
向けられた指先をのけ、端的にまとめて言い返す。が、大河は眉一つ動かさないまま、
「ていうか、どけっていうの。このおナル坊が」
ぐいっと竜児の前に割り込んできて、尻で竜児を洗面台の前から押しのける。なんだよ、と洗面台を掴んで竜児は踏ん張るが、なおもずいっと力ずく、大河は竜児の前に身体を無理矢理押し込もうとする。
「いつまで洗面台独占してんの? 私だって鏡見たい」
「いつまでって、今の今まで掃除してたんだよ! 泰子《やすこ》の部屋の姿見使えよ!」
「やっちゃんは着替え中! それにあんた、止めてやらないと毒きのこになっちゃう!」
「ならねぇよ! ってか、俺んちの鏡だぞ!」
「ふっふーん♪」
「……話聞けよ!?」
狭い洗面台の前で尻相撲状態、互いに譲らず場所を奪い合う。素足を踏み合い、肘で脇腹を小突き合い、腰を振って相手を押しのける。結局大河に鏡の前を奪われ、
「ったくもー!」
仕方なく竜児は大河の頭越し、後ろから鏡を覗く羽目になる。とはいえ、大河の身長はせいぜい竜児の胸のあたりまでしかない。背伸びをするまでもなく己のツラぐらいなら眺められるのだが、悔しいのは気分の問題だ。
大河は一度鏡に鼻が触れるぐらいの近距離で自分の顔面を覗きこみ、ちょっと日焼けして桃色になってしまった頬やら首やら肩やらをチェック。あごや額のテカりもチェック。そして納得したように頷いて、ゴムで適当に結んでいたふわふわのロングヘアを解き、濡らした手で癖がついてしまった辺りを引っ張るように梳《す》き下ろす。柔らかな大河の髪は、それだけの仕草ですぐにしなやかに背まで零れる。
それを眺めて、見よう見まね。竜児も自分の手を濡らし、前髪に分け目をつげて同じように指で梳き下ろしてみる。首元にかかる部分も同じようにいじる。硬すぎる直毛は大河のようにはうまく扱えないが、ギザギザだった分け目は一応まっすぐにできた。だいぶ伸びてきた髪は襟足でちょっと跳ねるぐらい。現在、自分史上最長の長さだ。
「……で、あんた。それいつ切りにいくわけ?」
鏡の中から、きらきら光る透明ブラウンの瞳が向けられる。気づいて、
「髪のことか? これは伸ばしてるんだよ。まだまだ切らねぇ」
答えた途端、げー! と、大河は鏡越し、ベロを出して顔を大げさに歪めてみせた。
「学校始まってもその頭でいるつもりなの!? いやっ! 鬱陶しい!」
竜児はそのひどいツラを眺め、ほっとけよ、と言い返す。誰にいやと言われてもなんと言われても、これはこれでいいのだ。鏡を見ながらなおも襟足をちょいと引っ張り、長さを確かめる。確かに少々鬱陶しいかもしれないが、絶対これでいいのだ。
竜児はこの夏、ずっと髪を伸ばしていた。この髪はつまり『なかなか』だった今年の夏休みの総決算。そしてあさってに迫った新学期への布石。来る秋への大いなる助走。
ばさ、と伸ばしかけの髪をかきあげる。要はイメチェンしてやろう、と。
これまでの髪形は、我ながら真面目すぎたような気がしていた。顔の怖ささえカバーできればいいと、普通っぽさと学生らしさにばかり拘っていた。しかしそろそろヤンキー疑惑も薄れてきた今日この頃、新学期という節目を迎えて、少し変身してみようと思っているのだ。
もう少し伸びたら長さを変えないままで適度に梳いてもらって、トップは短め、襟足は長め、オシャレでロングめ、大人め、そしてキメ……。を、狙うつもりだった。今現在の鬱陶しさは、伸ばしている途中だからだと思う。
しかし大河はわざわざ振り返り、竜児のツラを見上げて至近距離。つま先立ちして顎に指を突きつけ、眉間に稲妻みたいに凄まじい皺を寄せ、
「絶対やめた方がいい! 絶っ対、さっぱりした方がいい! 夏休みだからと思って黙っててやったけど、にょろにょろばさばさ、あんたの頭はず―――――――――――……」
ビキビキビキ、とこめかみに青筋、「た、大河?」とちょっと不安になるほど溜めて、
「……っっつと! うざっっっ……たかったのよ!」
息の限りに喚いて下さる。
「これは忠告だよ、あんたのため! 本当に親切で言ってるんだからね!」
それはそれはご親切に……と竜児は鼻の穴をすぱすぱ掻く。正直大きなお世話であった。大河にはその考えがほぼ正確に伝わったらしく、
「そのツラはなんじゃい!」
「ふがっ!」
鼻の穴を掻く手の肘をドゥン! と真上方向に叩かれる。ズボォ! と第二関節あたりまで指が鼻の穴に嵌るが、
「……い、い、ん、だ!」
竜児の考えは変わりはしない。両頬にチクチク乱れかかる前髪をかきあげ、鼻の穴に嵌った指をそのままダイレクトに大河の鼻先につきつけて言ってやる。大河は「うひー!」と大げさに仰け反って汚染済みの指先を避ける。
「この髪は、俺なりのビジョンがあって伸ばしてるんだ! そのうちちゃんとさっぱりするから、今はこれでいいんだよ!」
「ビジョン! サルガッソーの昆布《こんぶ》地獄がか!」
「この程度の長さで大げさな……おまえこそラッコが寝床にしそうなほどの超ロングじゃねぇか! この真夏に暑苦しい」
「私のはいいの、天然茶髪だし、すかすかのねこっけだし、結べばまとめられるし」
「おう、俺だっていずれはカラーリングしたり、結んだり」
「きゃー! 怖いいいー」
「なんでだよ!」
「ていうか指洗えば!?」
「自分の鼻の穴なんか少しも汚いとは思わねぇ!」
狭い洗面所で騒ぐ二人の背後から、そのときTシャツにデニム姿の泰子が顔を覗かせる。
「さ〜! いつまでも騒いでないで〜、そろそろ行くよ二人とも〜!」
日焼け止めを塗っただけの素肌にコットン製のツバでか帽子。濃いピンクのペディキュアが光る足元には冷凍の肉を入れたクーラーバッグ。巨大なスーパーの袋には未開栓の焼肉のタレが三種類。準備はすでに整っているようだった。
竜児と大河は口を閉じ、目と目を「よっしゃ」と見交わしあう。つまらない口げんかはここでストップ、そろそろ家を出る時間だ。
八月三十日、午後三時。高須親子&大河が揃って向かうは近所の河原。この夏休み、多分最後のイベントだ。
***
「すっごーい……」
「おう! 垂れてる垂れてる!」
ベンチに座ったまま、大河は「うわー」と素早くサンダルの両足を開く。手に持った焼きとうもろこしから垂れたタレは、大河の足があった辺りにぼたりと落ちる。潔癖少年・竜児であろうと、さすがに大地に零れたタレまで拭く気はないが、「ぼーっとしてんなよ」と口うるさく一言。大河のワンピースの布地にも素早く視線を走らせてサーチ、服には垂れていないことを確認する。
「でもこの光景、ほんとにすごくない? もうグループの境界線が暖味だ」
「ここにはきっちり引かれてるけどな、境界線」
大河と並んでベンチに腰かけたまま、竜児はビーサンの足を伸ばし、自分たちの前の地面に線を引いてみせた。それは酔っ払いとシラフを分かつ絶対のラインであった。
八月も末とはいえ、季節はいまだ真夏。
午後をだいぶ回って日は傾いてきていたが、辺りは蒸し暑く、水のにおいも湿り気を帯びて倦んだように生ぬるい。ただ、肌を焼き尽くすようだった灼熱の猛暑はさすがに鳴りをひそめて、狂乱状態だったセミの声も、いまはどこか弱々しい。
だだっ広い河原には背の高い巨大な雑草がずっと遠くまで蔓延《はびこ》って、あまり綺麗とはいえないゆるやかな河川の水面は随分遠くに感じられた。その河原のあちこちに、カラフルなパラソルやテントの屋根が強い色彩を放っている。夏を惜しむバーベキューのグループが、開放されたこの空き地にいくつも訪れているのだ。
「多分、あの辺が毘沙門《びしゃもんてん》天国《てんごく》チームだよね」
うぎゃあああ! ほあああああ! んああああああ! ぼぇぇぇぇぇ! ――この世のものとは思えない怪鳥音を上げている女集団を、大河はとうもろこしで指してみせる。だろうな、と竜児は目を遠くする。
かすかにオレンジを帯びた陽射しの下、ほとんど金になるまでカラーリングした髪を揃ってクルクルとハーフアップに巻き上げ、色とりどりのチューブトップ、キャミソール、ミニスカートにショートパンツ、艶めかしいほどに白い肌は夜のお水暮らしのせいだろう。毘沙門天国チームは肩も胸も惜しげなく太陽に晒し、バーベキューもそこそこに酒、酒、酒、挙句の果てには「バキュ〜ムドリンク〜! きゃっは〜!」……ビールの缶を大口開けてがばっとくわえ、そのまま手放しで上を向き、中身をドポドポ喉に流し込むという荒業を披露しているのが泰子でなくて本当によかった。
一応子持ちの遠慮からか、デニムにサンダル姿の泰子は少し向こうで玉ネギの串を両手に掴み、隣にいた大学生グループに紛れ込んでいた。なにをしているのかと息子が目を凝らしてみれば、若い男女数人とともに「人〜生〜ごじゅーねん」――多分誰も正確には知りもしない敦盛《あつもり》をクルクル真剣に舞っているのだった。泰子にいたっては信長を知っているかどうかもあやしいかもしれない。
近くにいた別グループの爺さん婆さんが座り込んでそれを眺め、「はっ!」だの「よっ!」だの「いーっひっひっひー!」だの、適当な合いの手を入れて喜んでいる。その敷物にビール片手、ぼつぼつと横座りで紛れ込んでいる日傘の人々は多分近所の主婦たちで、毘沙門天国チームを派手なパラソルの下から嬉しそうに眺めているのはサラリーマンチームだろう。あちこちのグループが気がつけば渾然一体となり、名前も知らない同士で酒を酌み交わし、ビールと発泡酒を交換しあい、誰かが持ち込んだワインに歓声が上がる。
その光景は陽炎《かげろう》ではなしに、ゆらゆらと危うく揺れていた。もはや全員足元もおばつかないぐらい、完全に出来上がっているのだった。
「真っ昼間から……人間、あんなに酔っ払っていいのか? 大人ってあんなもんかよ」
竜児は思わず溜息、なかばヤケクソに手にした紙皿の上の肉に大口あけてかぶりつく。大河も負けじと前歯むき出し、でっかいとうもろこしに真横から動物みたいにかぶりつく。
「んー、うま! ……ま、やっちゃんたちは酔っ払うに決まってるって思ってたよ。持ってきてたお酒の量が半端なかったもん。こうなったら私たちも現実逃避、もう食いに走るしかないね。次のお肉焼けてるかな?」
二人して並んでもぐもぐしながら、サンダルを脱いでしまい、裸足になってベンチにあぐらをかく。竜児の足の甲にも、大河の足の甲にも、夏中はいていたサンダルの跡が白くくっきりと残っていた。太陽の下でよく遊んだ証拠だ。
「肉はいいけど、あの人ら、この後仕事あるんだぜ。店開けるらしい」
「ほんとに? すっごーい。……え、ていうか私たち、もしかして片付け要員?」
「もしかしなくてもそうだな。いや、俺は喜んでやるぜ。昨今マナーを守らない奴が増えているというこのバーベキュー業界に、俺こそが旋風を巻き起こしてみせる。三百六十度死角なしの完壁なるお片づけ、でな。この俺にとっては後片づけこそが、アウトドアレクリエーションの最大の見せ場にして山場」
「わーお……変態じゃん……」
アルコールに逃げられない子供二人は、一つのベンチにお行儀悪く足を上げて座り、この世の果てのような光景を眺めながら、とりあえずもくもくと食い続ける。今のところはそれぐらいしかやることがないのだった。竜児は頭に巻いたタオルでこめかみを押さえ、垂れてくる汗を拭う。はー、と暑さに煩を赤くして、大河は眩しいのか、片手で顔の前に庇《ひさし》を作る。
このバーベキューを発案してくれたのは、泰子が勤める毘沙門天国のお姉さんズだった。夏が終わる前に、やっばバーベキューやんなきゃっしょ! 車出して遠くまで行くと飲めないし、やっぱ近場っしょ! どうせならママの息子さんも呼んで、みんなでやるしかないっしょー! と。自動的に「高須家の子その2」ぐらいの存在感になっている大河も面子入り、肉だの野菜だの酒だの炭だの網だのなんだの、みんなで分担の上用意は万全、竜児も結構楽しみにやってきたのだが。
「おにくたべてるぅぅぅぅ〜〜〜〜〜!?」
「むすこちゃあああ〜〜〜〜ん! むすめちゃあああ〜〜〜〜ん! おいしいおにくだお〜〜〜〜!」
ひええ……と大河も思わずのけぞるテンション、黒地に『SEXY BOMB!』の金字入りチューブトップの姉さんと、白地に『I am crazy!』の黒字入りチュープトップの姉さんが、てんこ盛った髪をわさわさ揺らしながらでかすぎる肉の串を持ってきてくれた。酔っ払っているのにこの気追いはありがたく、しかし息は死ぬほど酒臭く、
「やっぱりママのむすこちゃん、ちょ〜〜〜にてな〜〜〜い! やばくな〜〜〜〜い!?」
「あ……どうも……」
長い爪で頬をつつかれ、きゃはー! と甲高い笑い声を浴びせられて竜児はおどおどと小さくなる。ずり下がったチューブトップからは盛り上がった真っ白な胸がほとんど半乳状態、目の前でSEXY BOMB! I am crazy! と言わんばかりにぷるぷる揺れていて、汗の雫が谷間に落ちていくのまで丸見えなのだった。なかなかだった夏のしめくくりがこれだ。
竜児は思春期特有の自意識過剰ゆえの潔癖さ、必死に汗に濡れた年上の人の肌から両目を逸ららそうと身を振る。それにそうだ、ここでへらへら半乳を眺めたりしたら、口の悪い大河になにを言われるかわかったものではない。またきっとエロ犬だのき犬だの汚がらわしいだのなんだの……と思うが、
「むすめちゃんおはだちゅべちゅべ〜〜〜〜! かわいいいいいい〜〜〜〜! もうお姉さんが食べちゃう〜〜〜〜ぱく〜〜〜〜!」
ベロンチョ、というか。
大河は大河で結構大変なことになっていた。ヘッドロックかまされた上、crazyのお姉さんにほっぺたを舐めまわされているのだ。
「むちゅっ! むちゅっ! んちゅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜!」
半乳のお姉さんに首をがっちり抱えられ、大河はとうもろこしを掴んだまま「んにゃあぉう!」と奇声を上げて悶絶、しかし逃れることは叶わずに頬肉を思うままにすわぶられる。コットンワンピの裾をはだけて足を必死にバタつかせ、腿の半ばまで晒したすごい格好になりながら、
「もういいっちゅーに!」
なんとか頬吸い攻撃から逃れようとするが、「おわー!」……大河の手はちょうどよく前方にたっぷり突き出た胸を掴むような形になってしまう。チューブトップもずり落ちて、真っ白な胸に食い込むショッキングピンクのブラのレースが陽の下に露わになる。竜児もどばっちり、見てしまう。
きゃー! 的な事態になるかと思いきや、しかし酔っ払いに常識は通じない。お姉さんズは顔を見合わせて「ひゃあーあっひっひっひーひゃあーっはっはー!」と唐突に手を叩きながら馬鹿笑い、そのまま抱き合ってグネグネとベンチの上に崩れ落ちた。
「おう、ちょっと! 水とか持ってきますか!?」
竜児がかけた言葉に二人×二本、計四本の足をぶるぶる振って返事、「おしゃけ!」「おしゃけくらさーい!」……だ、そうな。二人分のピンヒールがゴトンゴトンと脱げて落ちる。
「やだもう酔っ払い! 顔がお酒くさいー!」
「と、とりあえず拭いとけ!」
脱ぎ捨ててあったサンダルをつっかけて履き、二人はもはや安全地帯ではなくなったベンチから逃げ出す。竜児は大河にポケットのティッシュを渡したかったが、右手には食ってる途中の肉の紙皿、左手にはSEXY BOMB姉さんから渡された肉の串、両手に肉状態で通常動作もままならない。というか、
「でけえな!? こんなでかい肉をどうしろと!?」
お姉さんが持ってきてくれた肉は、スライス前の|塊肉《かたまりにく》にそのまま串をぶっ刺しただけの代物であった。一応表面には網の焼き目がついていて、塩コショウも振ってあるようだが。 そのボリュームに動揺したまま肉を見つめる竜児の傍ら、
「……こうなったら、もうこのままかぶりつくしかないでしょ!」
大河は覚悟完了の眼差しで、ずいっと肉に歩み寄る。串を掴む竜児の手に自分の手をしっかり添えて、
「ちょっとしっかり持っててよ」
大河もヤケクソな心境なのかもしれない。そのまま肉の真ん中あたりに、顎が外れそうなほどの大口をあけてがぶりとかぶりつく。そのハングリーさに竜児も思わず感嘆するが、
「あ、あかん……!」
突然のエセ関西弁。大河は上下半円の歯形だけを肉に残して撤退する。
「なんだよおまえ、食いかけでやめるなよ」
「だってこれ、全然焼けてないみたい」
見れば確かに肉の中はまだ赤すぎて、牛肉といえども食べるにはレアすぎるようだった。
「おう、ほんとだ、生焼けじゃねぇか。もっときっちり|炙《あぶ》らねぇと」
「焼き直しする? ……火の回り、あんな感じだけど」
――かつて原始人たちは、長く危険な夜を生き延びるため、貴重な火種を決して消さないように焚き火を囲んで暮らしたという。それがコミュニティの始まりである。
そして現代。煙の上がるバーベキュー台の付近には、真っ昼間からもはやどこの誰だかわからない酔っ払いどもが幽鬼の如く右往左往。人類滅亡前の一瞬の幻みたいに大笑いしながら彷徨っていた。進化の果てのバックステップか。
あまりにもステージの違いすざる人々の群れに飛び込んでいくのに躊躇《ためらい》いはするが、しかし肉は焼かずには食べられない。
「……行くか。焼き直し」
「……行くしかないよね」
竜児と大河は意を決し、肉の串を掴んでバーベキュー台へ歩み寄る。すでに焦げつつある綱に串を乗せ、もはやのっぴきならない状況になっているタマネギやらにんじんやらの焼死体をこそげ落とし、気配を消すように二人してちんまりその場にしゃがむ。竜児はいっそのこと、包丁でシュラスコよろしく肉を削いでしまいたかったが、魑魅魍魎《ちみもうりょう》のうろつく河原で刃物を持ち出す勇気はなかった。
学生たちは肩を組んで校歌を歌い出し、泰子は爺ちゃん婆ちゃんチームに紛れて敷物の上に丸く転がっていた。「おーよしよし」「かわいいねぇ」と立ち寄った野良猫みたいな取り扱い状態、背中を撫でられ、かわいがられている。少し離れた日傘の下では奥様数人が大の字に寝転んでなにやらクスクス、ヒソヒソ、あひゃあひゃと秘密の会話。サラリーマンチームはここにきて失速、てんでバラバラに距離をとり、一人ずつビールを手に石に腰をかけて静かにゆらゆら揺れている。毘沙門天国チームは巣立ちする鷲《わし》の雛のように踊り狂っている。
夏の夕暮れの陽射しの下、誰もが平和に酔っ払い、好き好きに適当なことになっているのだった。
火の前に座り込んだ二人の顔面にはじりじりと焼けそうな熱風、額にはたちまち玉の汗が転がり落ちた。
「あっちぃ……あーあ、夏休み、最後の最後に大変な思い出ができちまった」
熱すぎる頬を押さえながら、酔っ払った大人たちを横目で眺めて竜児は何度目かわからない息をつくが、
「まあいいじゃん。これで夏も終わりなんだし、いい締めになったわよ。……あー、ほんっと、あっつー……顔面焼ける……」
同じく並んで頬を擦りながら、大河も暑そうに目を細めて言うのだった。「みんな楽しそうだもん、OKでしょ」と。「知らん人もだいぶ混じってるけど」
「……それもそうか」
そののんきな言い様に、改めて大人たちを振り返ってみる。本当に、みんな楽しそうに見えた。意味不明の大爆笑に身をくねらせている毘沙門天国のお姉さんズを見やり、いつしか竜児も苦笑を漏らしていた。
「そうだな。これもいい思い出、ってことでいっか。肉食って、野菜も食って、きちんと最後に後片付けして、それで休み気分も一区切り。で、明日はちゃんと早起きして、新学期に向けて心身ともに準備する、と」
「そうそう」
珍しく和やかに、大河もトングをカチャカチャ開閉してみせる。同意の意思表示なのだろう。そしてそいつで肉を転がし、
「さて、もうそろそろお肉焼けたかな?」
「ひっくり返してみろよ」
二人して焼け具合を確かめようと、汗を拭いつつ立ち上がったそのときであった。へべれけに出来上がった学生の一人が、「火ぃよわいよお、これじゃあいつまでたっても内定でないよお」と泣きながら唐突にコンロの火を最大にした。同時にゴッ! と強い風が吹き上がり、誰かが持ってきて放置してあったビニールのビーチボールが吹き飛ばされる。運悪く、バーベキューの網の上に落下する。ガシャン! と網は音を立てて跳ね、その拍子に焦げた炭の欠片が火のついたままで激しく舞い上がり、あっという間に、
「うおおおお!?」
「ぎゃ―――っっ! 竜児、火ぃついてるついてる!」
竜児のタオル巻きにした頭に落下。ポッ! と風に煽られて火種は発火、慌ててタオルをむしりとって火傷はせずにすんだものの、
「うわわわわ、髪が……! 俺の髪の毛があ!」
パニクりながら手で頭を払うとパラパラと黒いコゲかす――焦げた髪の残骸が落ちる。辺りに美容院のような妙なニオイが漂い出す。
あまりにも不吉すぎる、それはたんぱく質が焦げたニオイだ。
2
アシンメトリーでファッショナブル全開。
街のオシャレBOYは断然遊びショート。
十大都市おしゃれ番長ヘアスナップ。
「……違う。違う違う違う」
なにもこんな大仰《おおぎょう》なことにしたいわけではないのだ。畳に広げた雑誌を、竜児は珍しくイライラと乱暴に閉じる。乱雑に放り捨て、積み上げてある次の雑誌に手を伸ばし、開く。
座り込んだ足元にはすでに新聞紙が身き詰めてあり、泰子の部屋から運んできた姿見も真正面にセット。はさみとクシ、水を入れた霧吹きも用意してあった。あとは「手本」となる髪形さえ決まればいいのだが、それがなかなか決まらない。
ああ――嘆きの溜息をつきつつ、鏡を覗き込んだ。何度見ても状態は変わらない。ほんの数時間前までの、鏡を見ては鼻歌など歌っていた己の気分が思い出せない。遠すぎる。
無残に焦げてしまったのは、トップに近い側頭部だった。それほど範囲は広くないが、明らかにその部分だけ、髪は短くなっている。ケガこそなかったものの、見た目的にはかなり最悪なことになってしまったのだった。しかも付近の髪の表面も焦げて縮れてしまっていて、全体的に最低でも、あと一センチはカットしなければならないだろう。せっかく伸ばしたところだったのに、しかもよりにもよってこのタイミング、張り切って新学期を迎えようというときにどうしてこんなことになる。
「あんた、まだやってたの?」
「……うるせぇな。おまえこそまだいたのかよ」
ひょいっと居間から首だけを伸ばし、異様な低位置から竜児の部屋を覗きこんできたのは大河であった。
軽い夕鈑もとっくに食べ終わり、窓の向こうにはすっかり夜の帳《とはり》が降りている。たいしておもしろくもなさそうなテレビの音声が、やけに白々しく居間から聞こえてくる。
「アイス食べる? 食べようよ」
「冷凍庫にあるから食ってろ。俺は忙しいから今はいい」
「取ってこーい」
「あほか」
竜児は大河に視線を向ける心の余裕も見失っていた。しかし大河は台所には向かわず、ずりっ、ずりっ、と、腹ばいに寝そべって座布団を抱えただらしないポーズのまま、呼んでもいないのに竜児の部屋に這って入ってくる。
「蛇女かよ……だらしねぇな」
畳にうつぶせに寝転がり、白い足を伸ばして首だけを持ち上げ、大河は仏像の如くあぐらスタイルで固まったままの竜児を見上げた。
「あんた、夜ごはん食べてから、ずーっとそうして鏡の前に座ってるね」
「座ってるんじゃねぇよ。雑誌見てたんだよ」
「髪形のこと、まだ悩んでるんだ。明日床屋行けばいいだけのことじゃん」
構わずに、再び雑誌に目を落とし、ページを開き始める。しかしやっぱりどいつもこいつも「やり過ぎ」というか「おしゃれ過ぎ」に見えてしまい、違う違うと先を繰るばかり。
今必要なのは、こういう、着飾るための手本ではないのだ。この状態をなんとか自分で誤魔化すための、「普通」の手本が欲しいのだ。
「あんた、気にしすぎなのよだいたいが。ほんのちょっと焦げただけでしょ。増えるワカメみたいに鬱陶しく伸びてたところだし、いっそちょうどよかったのよ」
ゴロゴロしながらの大河の言葉は無視したまま、竜児は雑誌を眺め続ける。全国津々浦々の野郎どもが、自慢の髪形で誌面を飾っている。最後のページまでいってしまい、これも役立たずだ、と畳の上に放り出す。
「ねぇってば。なにも、そんなに悩む必要ないのよ。明日一日あるんだし、朝になって床屋さんが開いたら、すぐに行ってさっぱりしてくればいいんだって」
「……そんな簡単じゃねぇんだよ」
「なんで? それが意味不明だわ。ケガがなくてよかったじゃないの。毛がなくなっちゃったけど……なんてねンフフ」寝転がったままで畳に肘をつき、大河は竜児の反応を待つかのようにしばらくそのまま黙っている。柔らかな淡い色の髪がふわふわとその頬を縁取り、肩から背中から畳にまでしなやかに零れている。
――けっ。と、竜児は八つ当たりも全開。大河の白い顔から目を逸らす。つっこんでなんかやるものか。結局綺麗に生まれついた奴に、凡人のつつましい望みなど理解できはしないのだ。とにかく今は、この最悪頭を目立たせたくない。気づかれたくない。それだけなのだ。
「床屋には、行かねぇ」
「それってまさか、伸ばしてる途中だからとか言うんじゃないでしょうね」
「……こんな頭、誰にも見せたくねぇからだよ」鏡に目をやり、泣きたい気分で焦げた部分を指で摘む。誰にも、には床屋の人も含まれるのだ、この場合。
「床屋に行って『どうしたの!?』とか言われたくもねぇ。説明するのも嫌だし、もしも笑われたりしたら……再起不能だ」
自分でなんとかわからないように誤魔化して、せめてもうちょっと伸びてから、何食わぬ顔をして床屋に行くしかないように思えた。だが誤魔化すにしても手本は必要で、
「……はあ……」
がくっ、と肩を落とし、息をついた。もはや次の雑誌をひっくり返す気力もない。悩みすぎて疲れ果て、畳の上に散乱する見終わってしまった雑誌の表紙を呆然と眺め回す。なにも、アシンメトリーなぞにしたいわけではない。とにかく目立たなくなればそれでいいのだ。床屋に行っても気づかれないぐらいに馴染ませたい、それだけなのだ。
焦げたところを切ってしまって、周りの髪と馴染ませられればそれだけで十分。なにも自分ではさみをいれて、美少年に変身しようなんて思っちゃいない。
……やっちまえばいいか。
ヤケクソ気味に意を決し、頭に霧吹きで水をかける。大河は黙ってそれを見ている。ささっと全体にクシを入れ、左手の指先で焦げた付近の髪をかきわけ、よりわける。床屋でよくやっているように、指で挟んで髪を持ち上げ、一気にはさみでざくっと、
「りゅ……っ!」
「……あれっ?」
大河が勢いよく名古屋のしゃちほこよろしく上体を持ち上げるのと、鏡越しに見ているせいではさみを進める方向がわからなくなり、刃がすかっと空振りするのがほぼ同時。
「……あんた! 今切れてたらやばかったって!」膝立ちになり大河は飛びつくようにして竜児の右手からはさみを取り上げる。
「なんで摘んだところより根元側にはさみ入れるのよ!?」――は? と竜児は首を傾げる。
「そんなことしてたか?」
「してたってば! ばかばかばか! ドジ! ハゲ! 焦げワカメよりずっとずっとやっばいことになるところだったよ! ああもう危ない、あんたって見てられない! ったくもーしょうがないなー!」
はさみを没収したままで、大河は畳に座り込み、竜児が放り出した雑誌をペラペラとめくりだす。中ほどのページで指を止め、
「あっ、ほら! こんな感じにすればいいんだよ!」
仔犬のような顔立ちに洒落た眼鏡をかけた、どことなく優等生風イケメンのスナップを指し示してみせた。竜児は思わずちょっと黙り、
「……おまえ、顔で選んだだけだろ」
大河の顔を横目で見るが。
「違うっての! ちゃんと見てよ、この人トップだけ短いでしょ? 焦げワカメのところを切っちゃっても、こんなふうにすれば誤魔化せるの。襟足とか全体は長めだし、長めにしたいんでしょ、あんた的には。とりあえずその焦げワカメをシャギー入れて馴染ませて、わからないようにして、それからこのページ切り取って美容院に持っていけばいいのよ」
「……その『シャギー入れて馴染ませて』ってところで今悩んでるんだけど」
わかった、と大河は頷いてみせる。そして、
「ちょっとクシ貸してみ」
膝で歩いて竜児の背後に回り、「もっと頭低くして」と脳天を押し下げる。竜児は素直に背を少し丸める。鏡の中には、前後に重なる自分と大河の姿が映りこんでいる。
大河は意外なほどに恭《うやうや》しい手つき、水で湿った竜児の髪に何度かクシを入れ、尖ったクシの。先端で丁寧にすーっと地肌に線を入れる。そこから躊躇いなく指を差し入れて髪に分け目をつけ、
「基本的に、生え際を立ち上げるとやばいのよ。できるだけ生え際を寝かすように、特に前髪はこうやって下方向に引っ張って、この分け目のところだけトップの毛をふわっとかぶせる。ほら、目立たなくなりそうじゃない? で、ここの毛先は……そうだな、三センチぐらい処理する」
左手の中指と人差し指で、焦げてしまった部分の髪をスッ、と真横に引き上げてみせた。鏡越しに見ていたその手際は、まるで本物の美容師のように手馴れている。かなり意外なその手先の動きに、竜児はちょっと目を丸くする。
「なんだよおまえ……へぇー、ドジのくせに、結構いい感じじゃねぇか」
「特別なことはできないけどさ、前髪ぐらいなら昔っから、それこそ小学生の頃から自分で切ってるもん。いくらぶきっちょでも、自然と手が覚えるのよ」
ひらひらと指を動かして、大河は鏡越しに笑ってみせた。おお、と竜児は尊敬の眼差しを向ける。これほどまでに大河が頼れる女に思えたことがあっただろうか。いや、ない、反語。 さすがは女子と言うべきか。普段は目を覆うほどに不器用な大河だが、やはりこういう美容のことに関しては、男の自分よりもずっと得意なのだ。
今まで意識して見たことはなかったが、改めて大河の前髪を見ると、ちゃんとうまいようにカットされているように思える。本当に自分でやっているならたいしたものだ。それに大河はいつも服にも髪にも随分気を使っているではないか。元々、そういうセンスのある奴ではあるのだ。最初から意地を張らず、素直に頼めばよかったのかもしれない。
「へぇー! よし、おまえに任せた! 切っちゃってくれその部分」
「いいよ! 任せて! こう、縦に細かくはさみを入れていくのよ。前髪もいつもこうやって切ってるんだ」
「へぇー!」
大河は指の間に挟んだ髪を、ちょっと強く、さらに真上に向けて引っ張る。
「この引っ張る向きがまたポイント」
「へえー!」
「はさみはあくまでも縦ね。横にするとバツン! ってなって変だから」
「へぇー!」
ちょん、ちょん、ちょん、と少しずつ、髪に対して縦に据えられたはさみの刃先が竜児の焦げワカメを切り落としていく。すこし切ってはバランスを見て、クシで一度梳いて、また先端でまっすぐに地肌に分け目をつけて髪を持ち上げる。
「……へぇ……!」
竜児はもはや目を細め、しみじみと感嘆するだけの生き物となっていた。頭皮に柔らかく感じられる指先に身を委ね、鏡の中の頼れる女に目を向ける。大河は真剣そのものの表情、丁寧に竜児の髪をカットしていく。
「ほーら。もうすぐ終わっちゃう、どうよ? 結構いい感じで……は、……は、」
が、そのときであった。
唐突に大河はむずむずと鼻をうごめかせる。予感というべきか悪寒というべきか、瞬間的にいやなビジョンが竜児の目の前に広がる。考えるよりも早く身を引こうとするが、意外なほどに強く指先につままれた髪が引っ張られてとっさに動けず、
「……っくしょーんっ!」
バツン! ――と、いっていた。結構な量の髪が新聞紙にばさりと束になって落ち、竜児はもはや自分の頭を確認することなどできない。まさに大仏状態、座り込んだままで魂をあの世へ飛ばす。
これは現実じゃない。こんな現実は認めない。ばっつり束になって切断された黒い焦げワカメは俺の髪なんかじゃない。
鼻を一度すすってから、大河は昼ドラの登場人物の如く、手からポロリとはさみを取り落とした。そして改めて、「きゃーっ!」……ではない。叫びたいのはこっちだ。
5
ついに、夏休みの最終日。
「……ど、泥棒コスプレ……」
「なんか言ったか!?」
いーえー、と大河は首を横に振ってみせる。しかしきっちり聞こえていたとも、泥棒コスプレ? それがどうした。
八月三十一日、午前十時。全国的に子供たちにとっては夏休み最後になる今日も、朝からよく晴れていた。太陽の光を眩しく反射する乾いたアスファルトには街並みの影がくっきりと焼きついている。
そして路地裏の影の中に、泥棒コスプレでキメた竜児と大河の姿はあった。頭にはタオルをかぶり、顔を隠すように手で押さえ、個性ゼロの黒いTシャツに普通過ぎるブルーのデニム。タオルの下から街の様子を窺うギラつく両目とあいまって、確かに竜児は今にもなにかやらかしそうな危険な雰囲気を全身からじっとり滴らせてはいた。単に、誰にも会いませんように――会ったとしても気づかれませんように! と思っているだけなのだが。
昨日大河に断髪された頭は、もはや素人の手に負えるものではなくなっていた。焦げていた部分の髪は真横にぶっつりと切り落とされ、長めの髪の中でそこだけがまっすぐ、段差植毛された新作歯ブラシの先端のようになっていた。
さすがの竜児ももはや過剰な自意識を守ってばかりはおられず、プロの手に髪を委ねるべく街へやって来たのだが。
「……いねぇよな。知り合いは誰もいねぇな」
「神経質すぎ、そんなバッタリ会うもんでもないって」
タオルをかぶった頭を押さえ、竜児はしかし路地から用心深く眩しい大通りを眺め続ける。本当は知り合いなど通るわけもない遠い街の床屋に行きたかったが、初めての店でこれ以上頭を失敗されてもかなわない。散々迷った末に、知り合いに会う危険性はあるが、通い慣れているいつもの店に行くことにしたのだった。
「この頭だけは、誰にも見られたくねぇ……」
「大げさなこと。自意識過剰だね」
「誰のせいだよ!?」
大河は少しだけ気まずそうに、肩を疎めてみせた。これでも大河なりに、一応責任は感じているのだろう。暑い中文句も言わずに、黙って竜児の後をついてきた。知り合いに万が一会ってしまったら、大河が話しかけて気を逸らし、その隙に竜児は現場から離脱するという作戦も立ててあった。
生成《きな》りのコットンでフリルを重ねたキャミソールに、揃いのボリュームたっぷりロングスカートを合わせ、大河は「ふー」と自分の手でパタパタ顔を扇ぐ。気温は早くもうなぎのぼり、今日も三十度を突破するだろう。
「……行くか」
意を決し、竜児は路地裏からそっと足を踏み出す。
竜児たちが通う高校からほど近いこの駅の周辺は、辺りでは一番の繁華街である。駅ビルを中心に商店街には若い連中が好むような店が立ち並び、遊ぶにしてもなんにしても、近くに住む奴らはとりあえずここを目指して来る。
大河は大げさと言うが、顔見知りと全う可能性は決して少なくはないのだ。
「おまえが前を歩いてくれ。で、知り合いがいたら素早く知らせろ」
「あー、めんどくさいことになった」
「そのために一緒に来てくれたんだろ! 責任は果たしてもらう」
小柄な大河の背に隠れるようにして、竜児はその後ろをひたひたとついて歩く。炭鉱のカナリア状態、大河は嫌そうに顔を歪めて振り返り、
「もっと離れて歩いてくんない? 背中が暑苦しい」
「おまえを盾に、前方の人から姿を隠してるんだよ。ほら、ちんたらしねぇでさっさと進め、歩け」
「えっらそうに……ていうか、元々はバーベキューの事故じゃんよ。私だってわざとじゃない、あんたが落ち込んでるからフォローしてやろうとしたのに」
「…」
「……な、なんて顔すんのよ……」
タオルの下の竜児の形相に、さすがの大河も口ごもる。とはいえ、竜児だってちゃんとわかってはいる。
「……確かに、全部おまえのせいだなんて思ってねぇよ。ただ、ひたすらに、俺は今、自分の頭が恥ずかしいんだ」
「そんなに気にすること?」
気にするとも。大河の後ろをぴったりついて歩きながら、竜児は一人、憂欝な溜息をつく。自意識過剰なのはとっくに知っている。まだ十七なんだからしょうがねぇだろ、とも思っている。
ただ、以前の「調子をこいていた」自分が恥ずかしいのだ。この夏を楽しんで、一生懸命髪を伸ばして、オシャレになろうと背伸びして、そして次の展開に繋げようとして――そんな浮かれ気分に、冷や水をかけられたような気がするのだ。
浮き足立っていたのは事実。自分を実際以上によく見せたいとも思っていたのも事実。そんなのは自分らしくなかった。わかっている。でも――
「……ちょっとは、『かっこよく』なりたかったんだよ」
大河の背中に低く呟く。大河はもう一度わずかに振り返り、白い横顔を向け、
「なんだそれ」
と。言葉ヅラこそそれっきり、大河らしく冷酷だったが、先を行く足取りは竜児を置き去りにはしなかった。
「この夏休みの旅行で、櫛枝《くしえだ》と過ごせてすっげー楽しかった。……だから、新学期が、楽しみだったんだ。これまで以上に近づけるかも、俺を見てくれるなら少しでもいいように見せたい、って、……ただそれだけのことだ」
「涙ぐましい努力よね」
「……で、これだ。落ち込むだろ、普通。なにもこのタイミングでこのザマはねぇよ」
「夏休みのうちにあんたが髪を切る気になって、私はよかったって思うけどね」
はあ、と長い息をつき、竜児は頭にかぶったタオルをもう一度しっかり手で押さえる。大河はそう言うが、素直に「だよな!」とはとても言えない。髪をカットしてさっぱり整えるのと、段差植毛状態を誤魔化すのとではだいぶ意味が違うと思うのだ。
「まあ、今日一日という猶予があってよかったのは事実だ。……今の状態だけは、本当に絶対、誰にも見せられねぇし」
「……もしみのりんが現れても、その頭じゃ会えない?」
「当然だろそんなの」
「わかった」
なにがわかったなのか、問いただそうとしたその瞬間、「うぐっ……!?」――前を行く大河が急に立ち止まり、どん! と尻を突き出して竜児を後ろにすっ転がす。バランスを崩して雑居ビルのエントランスに転がり込んでしまい、なにをする!? と喚こうとするが、
「みのりーん! 偶然!」
「……っ!?」
空気を読むこと夕立前のミミズの如し。竜児は状況を敏感に察知し、ビル入り口の耐震柱の陰に身を隠す。大河が手を振るその先には、
「あっれー!? ほんと偶然! どしたの大河、午前中から活動するなんてめずらしー!」
制服姿にスボーツバッグを斜めがけにした櫛枝実乃梨が――竜児の長い片想いの相手であるまさにその当人が、太陽よりも眩しい笑顔でこちらを振り返っているのだった。実乃梨の傍らには同じスタイルの女子たちが数人いて、
「ちょっと買い物。みのりんは部活?」
「そうだよ、さっき部活の夏休み総括ミーティング終わったところ! こいつらは知ってるよね、みんなソフト部の奴ら。大河も一緒に来いよ、あっついから今からお茶しに行くんだ。お茶ってか、シェイクシェイク! どーよ!」
イエー、シエイク! 逢坂さんも行こう! とノリ良く、こんがり陽に焼けた女子ソフトボール部の仲間たちは小躍りしてみせる。しかし大河は小さく首を横に振り、
「いや、下痢だから」
……他に言いようはないのだろうか。隠れて様子を窺っている竜児の方が思わず引くほどきっぱり言い切り、
「じゃしょうがねぇやな」
実乃梨もきっぱり、納得する。
「ってか大河、明日から学校だよ、わかってる!?」
「わかってるわかってる。明日またいつものところで待ち合わせしよ」
オッケー、じゃあねー、と大河に手を振ってみせ、実乃梨はスカートを翻す。そうして仲間たちと数人連れで歩いていくその姿を用心深く見送って、
「……くっそぉぉぉ……!」
泥棒スタイル、竜児はエントランスからこっそりとまろび出てきた。夏休み最終日にこんな偶然で出会えるなんて聞いてない。本当だったら今頃、もちろん一緒についていって、二人きりではないものの、楽しいひと時を過ごしていたはずだった。頭さえ、この頭さえ、段差歯ブラシでなければ……!
「よりにもよってみのりんと会うなんてねぇ。あーびっくり、シェイクってことはマックだよね。あっち方面は要注意だ」
「……はあ。会えないときに限って会っちゃうもんなんだな……ああ……! かわいかったなあ……! くっそー!」
「なにげなく出てくりゃよかったのに。あんたさえいいなら、みのりんたちと一緒に行ってもよかったんだよ?」
「そんなこと小器用にできるような奴なら、今頃もっと人生うまくいってるんだろ!?」
ついつい拳を握り締め、熱苦しく喚いてしまうが、「あーはいはい」と大河にあっさりいなされる。再び大河を先頭に、二人は通りを歩き出す。
いつもの床屋は通りのもっと先だ。予約などはしていないが、そう混むような店ではないから大丈夫だろう。こうなったらもう一刻も早く頭をなんとかしたくて、竜児は背後から大河を急かす。
「ほら、早く早く……もっと早く歩け!」
焦げ跡も失敗カットも全部なかったことにしてもらい、さっぱりと床屋を出たら、ちょうどまた実乃梨たちに偶然行き会ったりして……なんて都合のいいことも実は考えている。そうしたら今度こそ、正々堂々顔を全わせることができるではないか。
「うるさいなあ……そんなことうるさく言うなら、あんたが先行きゃいいじゃんよ。もうみのりんに会うことはないだろうし」
それもそうか、と大河に並ばうと足を速めたそのとき、
「あれっ!? なにしてんのあんた」
「……っ!」
竜児はそのままものすごい速度、大河を追い抜いてギュイン! と目先の角を直角に曲がる。なにげない素振りで知らない人のように、路地の隙間に素早く入っていく。
「うーわ! よりにもよってばかちー! すっごい偶然だ……」
さすがの大河も驚いたのか、足を止めたまま目を丸くする。真正面からやってきていたのは、大河の悪友にしてライバルにして天敵、ばかちわわことばかちーの名で(大河からだけ)呼ばれる現役モデル・川嶋亜美であった。
真っ白な顔は本当に小さく、潤んだように光る二つの瞳ばかりが零れ落ちんばかりにキラキラと輝き、スタイルはお見事としか言いようのない八頭身。カジュアルなデニムとタンクトップを合わせ、肩からは高級ブランドの大きなトートバッグを担いでいるその姿はまさに芸能人そのものの眩しいオーラだだ漏れ状態。
妖精めいた顎の小さい面は行き交う人皆振り返るほどに美しく、そして、
「はあ〜? よりにもよってってどういう意味よ? ふん、この突然現れいでたる亜美ちゃんの、かわいさ、美しさ、天真燗漫《てんしんらんまん》さの前に、びっくりぶっこいて立ちすくみ状態ってはっきり言えっての」
甘ったるい作り声は毒々しいほど腹黒いのだった。ばかちーこと川嶋亜美は、知るものは皆口をつぐむ、天下無双の腹黒様でもあったのだ。「あほか」と一言、大河はシンプルに斬り捨てるが、
「ってか、そ〜だ。あたし的にはあんたと会えてラッキーかもお?」
珍しく亜美は大きな瞳を友好的にぱちくりさせて、大河の方へ歩み寄る。
「今からあたし、麻耶と奈々子と待ち合わせして、ファミレスで宿題写しあう予定なの。でも英語だけみんな終わってなくてさ。あんた、英語得意だったよねぇ? とっくに終わってるんでしょ? 一緒に行かね? この優しい亜美ちゃんの取り計らいで、あんたも写しあいっこの仲間に入れてあげるぅ〜(ハァト)」
「やだね!」
しかし大河はもう一太刀。うるうるチワワアイズでぶりっこ鉄仮面を装着していた亜美もさすがにむっと口を尖らせ、
「えー、なんでよ!? いいじゃーん!? ってか、あんたは全部終わってるわけ? こっちは奈々子が数学全部終わらせてるよ? ほらほらー、写したいっしょ?」
「数学は竜児にもう全部見せてもらったもん。私たち、協力しあって宿題なんかとっくに終わってるの」
「は!? マジで!? ……あっそ、じゃあわかった。おごってあげる。ドリンクバー。ランチ。デザートもつけてよし。しかも好きなだけ。なんなら高須くんも呼んでいいし、二人におごっちゃう。これでどうよ!」
「だめ。今から用事あるの」
「えー!? ……じゃあ高須くんだけ呼び出そうかな」
「竜児も用事あるって」
チッ! と渾身の舌打ち、亜美は美貌を歪めて大河を睨む。「つかえねー!」と一言言い残し、不機嫌そうに去っていく。
「……ドリンクバーにランチにデザートか。んー、結構惜しかったかも?」
路地裏から這い出してきた竜児に大河は言うが、
「いーや! この頭を川嶋なんかに見られたら、ひ孫の代までからかわれ続けるぞ、絶対!」
「しかし結構会うもんだね。みのりん、ばかちー、次は誰? 北村くんだったりして」
「もしくは春田か、能登か。まあ、あいつらだったら別になにを見られてもいいけど。……ていうか、くそ、暑くなってきたな本当に」
こそこそ逃げ隠れしていたせいか、こめかみから汗が滴り落ちてきた。竜児は頭にかぶったタオルを外し、汗を拭うが、そのとき。
「マック混んでて入れなかったよー! って、高須くん?」
「……おう!?」
実乃梨が通りを引き返してきていた。ピンポイントでこのタイミング、竜児を見つけて実乃梨は笑顔、
「わーお、ひさしぶりじゃーん! 旅行以来! ん? あれ? どしたのそこ」
***
どよーん、と、耳の奥で音がしていた。冗談ではなく、本当に。
「……よりにもよって、極まれりだな。呪われてるのか、俺は」
「みのりん全然気にしてなかったじゃん」
「俺は気にしてるんだよ……」
ショックのあまり耳鳴りがするのだ。呆然と竜児は床屋の天井を見上げ、強すぎるクーラーの風を全身で受け止める。
赤と青がくるくる回る伝統的なポールが店先で迎えてくれる昔ながらの理容室には、平日の午前中だというのにおじさんやらおじいさん、そして伸びかけいがぐり頭の男子小学生から中学生、竜児も並べば高校生まで、まるで男の見本市のように客が入っていた。
ふわふわフリルファッションにふわふわロングヘアの大河だけが明らかに異質、竜児と並んでソファにちんまりと座り、似合わない親父向け週刊誌をつまらなそうにめくる。
「あーあ……だっせえ奴、って思われたかな」
ほとんど涙目、竜児はいまだにぐずぐずと、さっきの衝撃的瞬間を一人苦く味わっていた。
「どしたのそこ」と、実乃梨は無邪気に竜児の頭を指差してきた。誤魔化せばいいのに自分もばかだ、テンパるあまりに妙に調子こいて冗談交じり、バーベキューで焦がしちまって。なんとかしようとしてカット失敗だ。ははは、変だろ。……明らかに空回りだ。自覚はあった。そして実乃梨は頷いてみせ、「大変だのう!」と。
それは明るく、いつもどおりの調子に聞こえたが……実は、あーあ、グズな男だな、とか、思われたのではないだろうか。ださださの奴。かっこわるい、とか。
「そんなこと、みのりんが思うわけないじゃん」
「……でも、こんな頭見られて……」
「ばーか。もう、鬱々すんのもいい加減にしな」
大河は呆れたみたいに息をつき、バシッ、と丸めた週刊誌で竜児の膝を叩いた。ちょっと本気、痛くて竜児は思わず身を起こす。大河はソファにふんぞり返ったまま、竜児のそのツラをじっとまっすぐに見つめてくる。
「あんた、みのりんがそんなこと思う奴だって本気で思うの?」
「それは……」
確かに。そうでは、ない。だろう。
実乃梨は、人の失敗頭を指差して、ださい、なんて見下すような奴ではない。気にしているのは自分だけだ。自分一人で勝手に想像して、自分一人で勝手に落ち込んでいるだけ。
「みのりんにこの夏休み、仲良くしてもらえて嬉しかったんでしょ? みのりんは、あんたの外見がいいから、あんたと仲良くしてくれたわけ?」
「……違うだろうな。明らかに」
「そうよ。違うの。みのりんは、外見一つで人のこと判断するようなつまらない奴じゃない。あんただってそれがわかるから、みのりんのこと好きだと思うんでしょ?」
大河の言葉に、竜児は領かざるを得なかった。確かに大河の言うとおり、実乃梨がそういう奴ではないからこそ、自分はこんなにも彼女に惹かれている。
「だったら、見た目のことばっかり気にして悩むのはやめな、鬱陶しい! そもそもそれが、あんたらしくないの!」
「……いや、でもおまえがバツンと……まあいいや」
言い返そうとした言葉も飲み込む。大河の言うことは、正論だった。
「私だって、見た目のことなんか気にしない! そうよ、私もみのりんと同じ、外見だけで人を判断したりしない! 人の目ばかりを気にしたりしない! 私は、私の見た目がどうなろうと変わらずに接してくれるような人が好きだもん! あんただってそうでしよ!」
「……そうだよ。……そう、だよな」
好きな相手に、かっこよく思われたい。それは自然なことだろうが、かっこよく思われたいばかりに鬱々と考え込んだり勝手な想像で傷ついたり、そんなことではいけないのだ。どう見えるかばかりに囚われて、肝心の自分が揺らぐようではいけない。
実乃梨は、かっこよくなくては好きになってくれないような人間ではないのだから。
「正々堂々自分らしく、新学期を迎えることが大事だよな……」
「そうそう! その通り! ほら、あんたの順番来たよ! 刈ってもらいな思いっきり!」
「……おう!」
シャンプー台に呼ばれて座り、頭をプロの手に預ける。心地よいシャワーが、汗を流していく。太くて力を秘めた指先が、髪の根元をしっかりと擦っていく。
その心地よさの中で、竜児は少し前向きになれていた。外見ばかりに囚われなくてもいい、自分らしくある方がいい。そんなふうに無邪気なことを心から信じられるのは、多分、そこで待っていてくれる大河がそれを体現してくれているからだろう。
大河の前では自分だってなにも飾らず、失敗して泣きっ面でも、それを晒すことができる。今までずっとそうしてきた。大河だって、自分の前では飾り立てることなどなく、ありのままでいてくれているはずだ。
だからこそ――
「……えぇ!? あれ!? おまえ!」
「へっへー、私もやってもらうんだ。汗かいちゃったから頭洗ってもらって、顔そりもしてもらって、ついでに前髪もちょっと切ってもらうの」
――本当に、大河はありのまま。
さっき自分が発した言葉のとおりに、人の目ばかりを気にしたりはしないのだ。おっさんたちと竜児が居並ぶ鏡の前に、気がつけば大河もちん、と並んでいた。柔らかにウェーブした淡い色合いの髪を白いケープに垂らし、「本当にお人形さんだなあ、こりゃ」だのと店のおじさんに言われている。
「……なに? なに笑ってんのよ」
「いや、ただ、ちょっと……」
竜児は鏡越しに並んだ大河の顔を見て、笑いを堪えることができなかった。なんて妙なシチュエーション。街の床屋の鏡の前に、自分の強面ヅラと大河のお人形さん顔が同じ高さで並んでいる。なーによもー! と大河は唇を尖らせて竜児の方を向こうとし、はさみをもった理容師さんに顎をむんずと掴まれる。
「はい、前髪カットするから動かないで。女の子の髪を切るなんて、何十年ぶりだろうなあ。お人形さん風にしようね、きっと似合うから」
今時風のすかすかな、ななめに流せるようにカットされていた大河の前髪に、すっ、とクシが入れられる。そして銀に光るはさみがキラリと光り、理容師さんは迷いなく、
「……どぇぇぇっ!?」
ぱつん! と真横、一直線。傍で見ていた竜児も息を飲むほど、見事な直線で眉のライン、大河の前髪は切り揃えられていた。
それは決して、「失敗カット」というわけではなかったらしい。理容師のおじさんはご機嫌で、大河の前髪をどんどん短く、まっすぐに揃えていく。大河はなにも言えないまま、切られていくのに大人しく身を委ねている。思考停止状態で固まっているのかもしれない。その間にも鼻先に、ちょきちょき髪の束は落ちていく。
竜児も隣のシートから、口を出すわけにもいかずにそれをずっと眺めていた。かわい……くないことも、ない……かもしれない……が、そんなに真横、一直線、いわゆるオンザマユゲでいいのだろうか。見る間にどんどん短くなっていくのだが。
***
見た目のことを気にして悩むのはやめな。
私は人の目なんて気にしない。
「……なにも、言うんじゃないよ」
九月一日。
新学期の朝に、大河はむっつりと口をへの字に強張らせていた。相変わらずの晴天、朝の陽射しは早くも汗ばむような暑さだが、一瞬吹き抜けた風だけは静かなる秋。ひんやりと冷えていて、肌に心地よく触れていった。
「……おっす。おはよう」
「……なにも言うなってば!」
「挨拶しただけ、なにも言ってねぇだろ」
マンションのエントランスの、緑が滴るような植栽の下。大河は竜児を置き去りに、一人せかせかと歩き出す。
「あんたが言おうとしてることはわかってる。ちゃんとわかってるの。わかってるから」
大河はドまっすぐ真横眉上にされた前髪を、ヘアピンで全部上げて留めていた。丸出しの額
には微妙な心境を映すような縦のシワ、スカートを翻して大河は実乃梨との待ち合わせ場所へ向かう。
くっくっく、と、竜児は声を殺して一人笑った。「今、笑った!?」――大河イヤーは地獄耳。
夏休みは終わり、こうして、新しい季節が始まる。
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秋がきたから畑に行こう!
1
秋も深まる、十月の夜。
三人で囲む高須家の食卓には、今宵も旬の素材を生かしたメニューがつつましくも彩りよく並べられていた。脂の滴るような秋刀魚に山ほどの大根おろし、きのこたっぷりの味噴汁、生姜風味の里芋の煮つけ、そして昨日の残りのキンピラも再登板。浅漬けはカブだ。
しっとりと澄み渡る秋の夜を照らすのは静かなる月光のみ。そして虫の音ばかりが夜の帳を震わせて、ほら、耳を澄ませば……ガタガタ! ミシミシ! と。
「おうおうおう! 直撃コースじゃねぇか!」
「うわ、今夜中に上陸か、だって」
――少なくとも今朝までの天気予報によれば、今宵は『静かなる月光』に『虫の音ばかり』でファイナルアンサー! の、はずであった。実際ずっと心地の良い秋晴れの一日で、つい数時間前までは鈴虫が涼やかな音色を奏で、そのバックでクツワムシもガチャガチャなんぞかやっていた。しかし天気の異変を察知してか無料音楽隊はとっくに解散、どこかへ避難していったらしい。今響くのは、不穏な風が窓ガラスを揺らす音ばかりだ。遠い海上で発生した台風は、勢力を増しながら太平洋を渡り、この町をまっすぐ目指すみたいに接近しつつあるのだった。雨はまだ降り出していないが、それも時間の問題だろう。
「うへ〜、やだな〜、やっちゃん帰ってこられるかな〜」
高須家の大黒柱、泰子が不安そうに呟く。その口元には飯の粒がぶら下がっているが、息子の竜児の視線は台風の進路を地図上に示すニュースの画面に釘付けであった。その刃物のように吊り上がった不吉な三白眼。禍々しいほどに鋭い眼光。そしてチロリと舌なめずり……そう、この男こそが地デジの電波に届けられた地球崩壊の序曲映像をまったり味わう秋のグルメ魔王……ということは実は全然なく、
「早上がりした方がいいんじゃねぇか? 客もどうせ来ないだろ、これじゃ」
単に、夜の仕事に出かける母を心配しているだけである。気遣わしげにしかめたツラも地獄の官吏《かんり》にしか見えないのは、不運なる生まれつきにすぎない。
「いっそ休んじゃえば? 台風だから臨時休業でいいじゃん」
その向かいにチン、と座って、したり顔できのこ汁を啜る美少女の名は逢坂大河。隣のマンションの住人にして竜児のクラスメートだが、気づけば腐れ縁的に半居候の共同生活状態で、「それにしても、怖いほどごはんがおいしいな……あーやだ、また太る」
いまや「おかわりしていい?」の一言もなしに炊飯器を引き寄せ、三膳目のメシを手ずからこんもり盛り付けるほどに馴染んでしまっているのだった。
「実際のところ、おかずは、ちょこっとでいいんだよね。なにがおいしいって、ごはん自体がおいしいのよ」
大河はしゃもじを掴んだまま、満足そうにうっとりと目を細め、ごはんの小山を眺める。白い頼もニコニコとテカらせ、手乗りタイガーの呼び名も霞む食欲MAX、ご機嫌状態だが、「だめだよお〜」
「だめ!? 私やっぱり食べすぎ!?」泰子の言葉に慌てて顔を上げる。泰子は首をのんびり横に振り、
「ごはんのことじゃないよぉ、お店のこと〜。そりゃ〜もちろん休んじゃいたいけどさ〜、やっちゃんもおかわり〜」空になった茶碗を大河に手渡す。大河は息をつき、自分のと同じように炊きたてごはんを盛ってやる。そして、
「あんたは?」
ついでとばかりに竜児にも手を差し出してオラオラ状態で茶碗を招くが、
「……ていうか、大丈夫か」
竜児はテレビ画面を睨みつけたまま、眉間に皺を寄せているのだった。
「え! 大丈夫よ、きっと。なんだかんだいっても米は植物だもん。脂すすってるわけじゃなし、おかわりぐらいどってことないでしょ。でもさ、ねぇ、あんたもおかわりしなよ。仮に太るとしてもみんな一緒に同じペースで太っていったらそれほど目立たないと思うの!」
「……おまえの肉が、じゃねぇよ。『高須農場』だよ、心配なのは。台風直撃って、やばいだろ」
「ああ、そっちか……」
大河もちょっと口を尖らせ、う〜ん、と唸って首を捻る。そして「やばいかもね」と一言、手にしたしゃもじと見つめあう。そのとき、
「あ。降ってきたよぉ」
ボツボツボツ、と重い音を立て、大粒の雨が窓ガラスを叩き始めた。
――話は、数時間前にさかのぼる。
***
「完全にイモ畑の体《てい》ではないですかぁ!」
かすれた絵筆でなぞったような雲が浮かぶ高い青空に、はしゃいだ声が響き渡った。櫛枝実乃梨は振り返り、「お見事です殿!」と拍手まで送ってくれる。
竜児は我知らずニヤケ顔で鼻高々、珍しくも調子に乗って、
「ここから、」
大仰《おおぎょう》な手つきで大地を指差し、
「ここまで、高須農場!」
おどけて仁王立ちのポーズで胸を張ってみせた。ひょいっとその脇から嫌みったらしく顔を出し、大河は呆れたみたいに片眉を上げ、
「言い切ったよこいつ。不法占拠のくせに生意気」
ずごっ! とノリにノっている竜児の顎を、人差し指で突き上げる。その仕草こそ愛らしいが、ちょん、ではない。ずごっ! だ。さすがは暴虐で鳴らした手乗りタイガー、ちょっとしたつっこみにも手抜かりはない。
竜児もしかし、怯みはしない。いてぇな、とその指を払いのけ、
「今では許可を得たも同然なんだ。見ろ、このプレートを。園芸部の誰かが好意で作って、立ててくれたんだぞ」
足元の土に挿された、手の平ほどの大きさのプレートを堂々と指し示してみせる。マジック書きのしっかりした字で「サツマイモ」と書かれている。それが? と大河は唇を曲げてみせるが、このプレートには大きな意味があるのだ。
竜児に大河、そして実乃梨が見下ろすイモ畑――竜児が言うところの高須農場は、学校の敷地の片隅で、人知れず実りの時を迎えていた。
校舎の裏手一帯に学習用の大きな花壇があることを知る生徒は、恐らくごく少数だろう。忘れられ、打ち捨てられていたように見えたその花壇を竜児が見つけたのは一年生の頃だった。
以来、枯れ草を刈り、こっそりと耕し、種を蒔き、買ってきた腐葉土を盛り、折に触れては雑草を取り、乾く日には水をやり……この夏、竜児はシソの栽培に成功した。より日当たりのいい場所に植えていたナスやキュウリの苗はさすがに目立ちすぎたのか、正当なる管理者たる園芸部に引き抜かれてしまったが、この使う者のないエリアに関しては、彼らも見て見ぬふりを通してくれるようだった。
竜児は自分の畑の世話のついでに、園芸部の畑の雑草も抜いた。自分の畑の虫を取るついでに、園芸部の畑の虫も取った。自分なりの借地代のつもりであった。やがて園芸部は、大きくて使いやすい如雨露《じょうろ》を竜児が使えるように、畑の脇に置いてくれるようになった。竜児の畑にも、肥料を分けてくれるようになった。繁茂《はんも》し始めたイモのエリアに、プレートを作って、土に挿してくれた。
『ナツマイモ……』
『これはね、サツマイモだよ……』
『高須くんの、サツマイモ畑、だよ……』
つまり、高須農場が公式に認められた、ということなのだ。二者の間には、お互いを高めあうような、確かで温かな交流が生まれていた。
そしてこの秋。萎んだシソが倒れる向こうに、竜児がかつて仕込んだ種イモから、サツマイモが収穫の時期を迎えた。およそ二畳分ほどの範囲にわたって、長い蔓と色の濃い葉が見事に生い茂っている。
「うおぉミミズ! 大河踏むな!」
「ひぇぇ……」
女子二人が足をもつれさせるのを尻目に、竜児はマイ軍手を装着。クックック、と悪代官よろしくヒクつくような笑みを浮かべて、制服姿のまま畑の中にしゃがみこむ。女どもの足を見比べて、どっちが太いか決定してやる! とか思っているわけではもちろんない。
掻き分けたサツマイモの長い茎は、鮮やかな紫色。戦時中は代用食としてこの茎も麺感覚で食べたというが、さして旨い物ではないらしい。こんなに立派なのにMOTTAINAI……などとみみっちく考えながら、指で茎の根元を掘り込んでいく。しっとりと湿った粒子の細かい土が軍手の繊維に入り込む。そして、
「……おう、できてるできてる! よしよし、いいぞ!」
土の中から現れたのは、丸々太ったイモの一部。竜児が思わず漏らした声に、実乃梨と大河もその手元を覗き込んできた。そして「おおお……!」とユニゾンで唸り、
「出たー! THE・イモでございまーす!」
「おイモさんだ! わーお!」
竜児の背後でハイタッチ。小躍りしつつ、歓声を上げる。
「すっごいじゃん高須くーん! マジでちゃんとできちゃってるよ!」
「できてるできてる! 褒めてつかわすわ竜児! うわあ、すっごい! 早く食べたい、掘っていいの!? 掘りたーい! おイモ大好き!」
「うおお大河、奇遇! 私もイモ、超大好き! 焼いてよし、ふかしてよし、切って揚げて蜜に絡めてよし! 秋といったらやっぱおイモさんだよねぇ! ああ気が急《せ》く……! 早く芋掘りしようぜ!」
「そうだ、スコップ? シャベルみたいなのいるよね? 私取ってくる!」
待て待て、と盛り上がる女子二人を竜児は軍手で制する。確かにイモはちゃんと実っていて、もっと掘れば一つの弦にいくつも連なっている魅惑の光景が見られるはずだ。しかしそれを本気でやるには、この制服に革靴といラスタイルでは難しいだろう。
「ちゃんとジャージなりなんなりに着替えて、準備してから掘ろうぜ。持って帰る袋もねぇし。それに昼休みだってもうそろそろ終わりだ。……そうだな、今週末とかどうだ? 櫛枝は部活は?」
「あるけど午前中だけ! ていうか、えっ? マジで私にも掘らしてくれるの?」
「畑を見られたからにはな。分け前ももちろん持っていけよな」
「やったー! うおー! 超うれしい!」
いぇーい! と声を上げてコンクリの段を飛び降りる実乃梨に、竜児はこっそり、あったりまえだろ、と胸の中だけで呟く。
櫛枝実乃梨とひと時を過ごぜるなら、イモだってなんだって分けてやるとも。そのために、ここに誘ったのだから。
「……やったじゃん」
小さく耳元に曝いたのは、大河。サツマイモが収穫できそうだと聞いて、じゃあみのりんにも見せようよ、と実乃梨をここまで連れてきてくれた、竜児の片想いの応援者だ。
照れ隠しにちょっと肩を疎めてみせ、竜児も大河とともに、先を行く実乃梨の後を追って段を下りた。酸素をたっぷり含んだみたいな秋の風は清々として涼しく、澄み切った空の匂いが感じられるようだった。実乃梨の頭上をトンボが二匹、滑るみたいに飛んでいく。
じゃあ。今週末の土曜日、正午。ジャージに着替えて集合ね――そんな約束も取りつけた、ほんの数時間後。南の海で、台風は生まれた。
***
「高須『農場』ったって、俺が勝手にそう言ってるだけで、実はただの花壇だし」
「コンクリで囲って、土盛ってあるだけだしね。台風なんか来たらどうなっちゃうんだろ」
「去年、大雨が降ったときは大変だったんだぞ。土が流出して」
「おイモも流出しちゃう?」
「まさか。……いや、あったりして。……傷むのは、まあ、確かだろうな」
「すっごく楽しみにしてるのに……大学イモ、食べたいのに」
イモ自体ももちろん心配だが、竜児にとってはそれ以上に、実乃梨との約束が心配だった。せっかく取りつけた約束も、畑がダメになってしまえばそれきりだ。窓の向こうは大粒の雨、まだそれほど荒れているわけではないが、ニュースによれば、暴風域は確かに少しずつ接近してきている。
『関東地方に接近中の台風十三号は、現在、勢力を増しながら沿岸部を……』
竜児と大河は二人して思わず正座、真剣にアナウンサーの解説に聞き入るが、
「大河ちゃ〜ん、やっちゃんといっしょに出よ〜。遅くなると危ないから、今夜はもうおうちに帰ったほうがいいよ〜」
「はーい。って、やっちゃん……そのかっこで大丈夫?」
「え〜、だめかな〜?」
夕飯を終え、化粧も整えて髪も巻き、泰子はたった一つの宝であるシャネルのバッグを片手に大河の前で一回転してみせる。
「おう……! おまえ、それにハイヒールで行くのかよ」
その姿に、竜児は思わず仰け反った。
「だってぇ、タクシ〜に乗っちゃうし〜、長靴とかレインコートとかもってないし〜」
白黒豹柄、シースルーの膝丈スカートは、実は腿の辺りまで切り込みの入ったすごいデザイン。胸の谷間も丸見せの黒ベロアホルターネックキャミソールからはヘソが覗き、肩に羽織った銀ラメストールでは到底雨も風も防げはしないだろう。
派手なのはまあいつもどおり、スナック勤めなら仕方のないお色気肌見せファッションではあるが、今日はこのとおりの空模様だ。暴風雨にまともに煽られたら、そのまま服ごと引き裂けて素っ裸に剥かれてしまいそうだ。
「こんな天気なんだから、もういっそジャージで行け! ゴミ袋かぶって!」
「あはは〜☆ ゴミ袋は本当にかぶろっかな〜?」
とても高校生の母親には見えない童顔でのんきに笑う泰子に、竜児は深く溜息をつく。息子の心、親知らず。
「うちにレインコートあるから着ていきなよ、エントランスで待っててくれたらすぐとってくるから」
とにかく出よ出よ、遅刻だよ、と大河に促され、泰子は「いってきま〜す」と息子に手を振ってみせた。大河も軽く顎をしゃくり、泰子とともに居間から出ていく。
レインコートで武装すれば泰子は大丈夫かもしれないが――一人残されて、竜児は振り返り、暗い窓の向こうに目を離らす。雨粒はさっきよりも勢いを増して、窓ガラスを鮮らし、流れ落ちていく。風の音も低く尾を引き、歩道の木々はさぞや枝をしならせているだろう。
果たして、レインコートどころか傘を差すこともできない高須農場は、この夜の台風を乗り切れるのだろうか。明日はできれば朝一で、様子を見にいった方がいいかもしれない。
2
「こんなかよ!?」
びしっ……、と右手が虚しく宙を切った。
思わずつっこみを入れたくなるほどの天気というのも、なかなか体験できるものではないだろう。でも別に体験したいわけではない――窓辺に立って表を眺めたまま、竜児はしばし呆然とする。
予報によれば、台風は朝までにこの辺りからは抜けてしまっているはずだった。かくして、大ハズレ。夜半に雨が強くなっていたのは、寝ながらでも音でわかっていた。それが山だと思っていた。
それがどうだ、朝の七時だというのに空は真っ暗。窓の外では凄まじい音を立てて暴風雨が吹き荒れ、窓ガラスに叩きつけられる雨粒は白い飛沫になって見えた。頭上から響く音は耳を聾《ろう》するようで、屋根を打つ風雨の凄まじさがわかる。家ごと揺らぐような気さえするが、それは気のせいであってほしい。テレビを点けると、ニュースではさっそく上陸した台風の凄まじさが伝えられていた。
泰子は何時ごろに帰ってきたのか、襖も開け放したまま、布団に包まって眠っている。点々と脱いである服を拾って、竜児は思わず顔をしかめる。畳には水のシミ。服は濡れたままで放置されていたらしい。
洗面所には大河に借りたものだろう、レインコートがやはり濡れたままで一応ハンガーにかけられていた。そして玄関には、パキパキに骨の折れたビニール傘。小言を言ってやろうかと思ったが、帰途の苦労がありありと見え、寝かしておいてやることにする。毎朝のニュースでお馴染みの気象予報士も、『この台風は大型で勢力も大変強く、進むスピードが遅いのが特徴です。くれぐれもお気をつけ下さい』と天気図を指し示しながら深刻な表情を見せていた。その画面の上部を、運転見合わせ中の交通機関の情報テロップがズラズラと流れていく。暴風域の範囲は広いらしく、多くの地域で交通機関がストップしてしまっているようだった。
「……俺のイモ畑が……」
それどころではないのは重々承知、しかしやっぱり気になってしまう。高須農場は、今、どうなっているのだろうか。見にいけば分かるだろうが、そもそも登校できるのか?
夜叉《やしゃ》の如き渋面で荒れ狂う窓の外を眺めていると、こんな時間だというのに電話が鳴った。クラスメートからの連絡綱で、案の定、今日は台風のため休校になったという。とりあえず手早く次の奴に連絡を回し、「まじでー! やりー!」と喜ぶ声におざなりな愛想を返し、受話器を置く。
「はあ。……休校だってのに、まさかイモ畑の様子なんて、見にいけるわけがねぇよな……」
唇を噛んで、溜息をつく。学校が休みになったって、少しも嬉しいとは感じなかった。
せっかくできたサツマイモも、そして実乃梨との週末の約束も、このまま流れていってしまうのだろうか。
イモを掘ろうぜ! ……なんて今更ながら最高にアホくさいが、それでもこんなきっかけでもなければ、実乃梨を週末に誘うことなんて到底できはしなかった。口下手で不器用な自分が、教室以外で会うために、やっと見つけた自然な口実だったのだ。
実乃梨だって楽しみにしてくれていたのに。それに、そうだ。こうして実乃梨をイモ掘りに誘うことを思いついてくれた大河だって、イモ大好き! 早く食べたい! と意地汚くも張り切っていた。恩返しのつもりで、大河にはなんだって作ってやろうと思っていた。
みんなの楽しみを奪い去るのか、台風よ――恨めしく窓の外を見ていると、向かいあった部屋の窓のカーテンが開いた。
「……おう、大河」
聞こえるわけもなかったが、思わず声を出し、手を振ってみせる。
向かいの窓は、もちろん大河の寝室。パジャマのままで、大河はぼさぼさの髪を背中まで垂らし、とぼけたツラで目を擦りながら電話中だった。恐らく連絡網を回しているのだろう、竜児に気がついてこちらを見た。
電話を切り、肩を疎め、口をなにかパクパクと動かしてみせる。すごいあめねー、だか、すごいわねー、だか、そんなようなことを言っている気がするが、「は? なに?」竜児は耳に手を当てて、窓辺に張り付く。大河はもう一度同じように口を動かし、竜児には聞こえないのだと悟り、次のジェスチャー。
左手は、胸の前でなにかを抱えて。
右手は二本指、口元にさかさかと運ぶ仕草。
そしてフグのように、頼をぷくっと膨らませる。
「……ああ、メシか。朝飯か」
同じ仕草をしてみせると大河は大げさに頷き、自分を指差し、次に竜児の家を指した。普段は不機嫌丸出しの仏頂面がデフォのくせに、外人みたいな作り笑顔でなにやらパクパク言いながら(聞こえねぇ、っちゅーに)、暴風雨の向こうから小さく手を振る。
「……ん? こっちに来て食う? 今すぐ行く? ……アホか!」
竜児は大河の示した意味を理解し、慌てて両手を大きく振ってみせた。いくら徒歩数十秒の距離とはいえ、この天気の中、わざわざ家を出るなんてどうかしている。
「く・る・な! わかるか!? いえを、でるな! だ・め!」
両手で×を作り、嵐に隔てられたお隣の窓に向けて必死に意思表示。しかし大河はさっき竜児がやったみたいに耳に手をあて、「はあ?」――これだけはわかった、確かにそう言った。
「わかんねぇのかよ!? ったく……だ! め! くるな! ノー!」
渾身の拒絶。竜児は両手を大きく広げ、全力でびしいっ! とクロスしてみせる。大河はもう一度「はあ?」をやって、そして、おもむろに頷いた。やっと竜児のメッセージが通じたのか、指でOKサインを作ってパジャマの身を翻し、窓辺から離れてカーテンを閉ざす。
「どんだけ察しが悪いんだよ……無駄に疲れたぞ……」
はあ、と息をつき、竜児は再びテレビに目を向けた。しかしそのほんの数分後、
「……えぇっ!?」
目を疑う光景であった。
「きゃー! 濡れた濡れた! ほんと、すっごい雨だ! 外でた瞬間に傘飛ばされちゃったよ、あー怖かった! うちの前の通り、川になりそうだった!」
合鍵を使ってぬっ! と入り込んできたのは、全身びしょ濡れの逢坂大河。手乗りタイガーというか、アホ大河。パジャマから着替えた部屋着のワンピースは濡れて色が変わり、裾から板の間に雫が滴っている。腰まで届く髪もぐしゃぐしゃ、雨と風に曝されて、白い頬に貼り付 いている。「やれやれ!」と息をつきつつその髪をせっせと手櫛でまとめようとしているが、肩も背中もすでにびちょびちょだ。
「……お、おまえ……」
「朝ごはんにしよ! 学校休みだってね! で、あんたさっきなんて言ったの?」
「……なんで来たの?」
「えっ!? なにそれ、あんた、よくもそんなこと言うね!?」
やれやれモードで髪をかきあげていた大河の目つきに瞬間的な苛立ちの炎。むすっと不機嫌に竜児を睨みつける。
「あんたが一生懸命なにか言おうとしてるから、気になって、無理して急いでわざわざ聞きにきてやったのに! ……ふん、まあいい。それより気になる、なんの話だったわけ?」
「……いいんだ。……うん、もういいんだ」
「えー?」
とりあえず、竜児は立ち上がり、洗面所からタオルを取ってきて大河の頭をマフッと包む。鬱陶しそうに逃れようとするのを押さえ込み、そのままワシワシと髪を拭う。来てしまったものは仕方がないのかもしれない。
「とにかくもー、ほんっとすっごい雨で、寒いし、……えーっぶっしょい! ……ふあー」
大河の濡れた髪は冷え切って冷たく、ワンピースの肩も背中も、見る間に体温を奪われていくようだった。
***
「これはまたとんでもない生き恥ドレスがあったこと……!」
温かなシャワーを浴びて浴室から出てきた大河は、用意されていた着替えを身に纏い、わざとらしくクラクラと眩暈の振り、額に手を当てて足をもつれさせた。
「……それが気に入らねぇなら自分の服、着るか? びしょ濡れのそのデロデロワンピを」
「くっ……」
竜児が指差すのは、ハンガーにかけられた大河のワンピース。そのぐしょ濡れのザマを見て、大河は悔しげに唇を噛み、重々しく首を左右に振る。竜児が貸してやった上着の裾をぐっと引っ張り、目を眇めて見下ろす。
「……どんなに嫌でも、恥ずかしくても、それでも自ずから選ばざるを得ない……それがすなわち、生き恥ドレス……!」
部屋着――正確に言うなら、竜児の中学時代の緑色のジャージ(胸に大きく『3―1高須』の名札つき)を上下揃いで身に纏い、大河は大仰に嘆いた。
「……私も堕ちたもんだ。洗えども洗えども落ちきることのないあんたの細胞、それも思春期の中学生時代の細胞を繊維の中にびっしり孕んだこの衣を、素肌に纏うことになるとは」
「失敬なことを言うんじゃねぇ! それに見ろ、俺ともお揃いなんだぞ」
バーン、と仁王立ちになり、竜児は自分のTシャツを大河に見せつける。襟元と袖口には緑のカラーリング、胸にはやはり『3―1高須』。そう、これはジャージとセットになる、中学時代の体育着だ。
「ひい……! ペアルック!」
大河は悲鳴を上げ、大げさに頭を掻き毟ってみせる。せっかく貸してやったのになんという言い草だろうか。むっ、と竜児は口を尖らせる。
「おまえのために貸してやるのに、どこに文句があるんだよ! 乾いているし、清潔だし、おまえは風邪を引かずにすむ。そのジャージは生き恥ドレスなんかじゃねぇ、寒気と風邪ウイルスの盾となる、そう、言うなればおまえのための護法ドレス! おまえを守る守護ドレスだ! 嫁に行くときにも是非着てほしいな」
「これをウェディングに……! 花嫁はジャージ姿……しかも人のお古……ペアルックでもある……! なんという圧倒的な貧乏臭さ!」
「戦場に行くときもそれを着ろ。飛び交う弾丸からもきっとおまえを守るだろうから。……と、それぐらいの気持ちで俺は貸している」
「ていうか、端的に言えば裾が長いの!」
「それは単におまえの足がみじか……」
「……」
いわゆるKYD(空気を読んで黙る)をキめ、竜児は「……さあさあ、それそれ」と台所に向かう。フライパンに蓋をして、蒸し焼きにしていたメカジキの切り身がそろそろふっくら仕上がっているはずだ。
大河は勝手にマイザブトン、と決めた座布団に尻を落とし、座り込んでむっつりとジャージの裾を折り始めた。ちょっと振り返り、様子を見る。大き目の男子用ジャージの中で、大河の薄い胴が泳いでいるのが竜児にもわかった。肩の辺りもぶかぶかと余り、ほっそりとした身体のラインは、大きなサイズの服の中で一層ありありと目立つのかもしれない。
特に今のようにあぐらをかいて背を丸めていると、痩せて尖った肩甲骨が手の動きに合わせて動くのとか、姿勢を支える腰の華著さだとか、白すぎて光るみたいな足首だとかが、いちいちなんとなく目に留まる。
「お魚焼けた? ……あ、台風の進路が変わったって。テレビでやってる、昼頃にはまた海上に抜けるってよ」
――そういえば、大河が高須家の風呂に入ったのはこれが初めてだ。風呂上がりの様子を見るのも初めて。横顔の頼がふわふわのマシュマロのような桃色に染まっているのも、目元や唇が瑞々《みずみず》しく潤って薄い薔薇色を肌の下に透かしているのも、半乾きの長い髪がゆるいウエーブを描きながら肩や背中にゆったりとうちかかっているのも――
「……ねぇ。聞いてんの?」
「お、おう! こ――今度はおまえんちの風呂に、俺を入らせてくれよな! びょ、平等にいこうぜ!」
「はあ? なにトチ狂ってんのよおじいちゃん。テレビ見ろっての、台風がそれていくってさ。午後には暴風域、どっか行っちゃうみたい」
「……ほんとかよ?」
ジュッ! と聞くだけで涎が湧き出すような音を立て、フライパンの中でカジキの身をひっくり返した。焼き目がついているのを確認して、身を崩さないようにフライ返しで皿に盛りつける。窓の向こうは、相変わらずの暴風雨だ。どこかから飛んできた木の枝が、庇《ひさし》に引っかかって暴れているのも見える。
「むしろさっきよりも荒れてきてねぇか?」
「今がクライマックスなんじゃないの。んー、いいにおい……やっちゃん起こす?」
「寝かしておく。あ、インコちゃんにメシやるの忘れてた」
「私がやる」
ネギと豆腐の味膾汁を汁椀に注ぐ竜児の傍らに大河はてててと寄ってきて、勝手知ったる様子、インコちゃんのエサ皿を取り出す。そして袋から粟と稗の混合エサを出してやり、
「おらおらブサ子ー! エサをやるのはこの私、よーく覚えて……ギャ―――ッ!」
――なにを今更。竜児は醒め切った気持ちでお玉を置いた。呆れながらゆっくり振り返る。寝起きのインコちゃんの顔が天元《てんげん》突破していることなど大河は百も承知のはずで、それをわざわざなにがギャー……
「……どええええええええ!」
きっちり火元を確認してから、竜児も卒倒した。
鳥かごに巣食っているのは、なんだ。
小学生の頃から飼っているブサイクインコのインコちゃんは、昔っからブスだった。獣医をして「これ、鳥?」と訊かしめるような次元破壊のご面相であった。新幹線の「こだま」に似ているという噂もあった。だけど竜児にとっては唯一無二のペット、頼擦りしながらペロペロ舐めてしまいたいほど(しないけど)かわいくて仕方のない家族の一員であった。しかしこれはどうしたことか、
「なんじゃこりゃあああああ!」
思わず松田優作にもなるってもんだ。
「……あっ……はぁんっ……ふぅ……ん、んぅ……っ……あぁあ……ん……くっ……」
インコちゃんは、身悶えていた。
鳥かごの床にベショォ、と座り込み、ぐちゃッ、と羽根を広げていた。仰け反るみたいに鳥肌丸出しの首皮を伸ばし、欠けてひび割れた、死んだ爪そっくりの嘴をぐぱぁ〜とだらしなく開いていた。その端からは濁った涎が泡立ちながらトロトロ流れ出し、でろん、とはみ出たドドメ肉色の舌は痙攣。
目は――目は、完全に、イっていた。逝く、の方じゃない。エクスタシー状態だ。黒と緑の血管が透ける薄い膜がかかったような白目は、ぴっくんぴっくん波打つように戦慄いていて、そう、インコちゃんは、
「……こういうエステ、インドにある、らしいよ……」
「……ある……のか……?」
ぬれぬれに濡れている。
ぴたーん、ぽたーん、と一滴ずつ、水滴が鳥かごの上から垂れてくるのだ。それを頭のド真ん中にうっとり全部受け止めて、インコちゃんは快感しだるま、
「んぅぅぅ……っ! ああ〜クヤシイッ! でもビクビクッ!」
羽根をボッショォ……! とさらに広げるのだった。
見てはいけないものを見てしまった気分。しかし竜児は全力で気を取り直し、鳥カゴを抱え上げ、
「インコちゃんは、卵を産んだこともない清らかな身なんだ……! こんな悪い遊びを覚えさせるわけにはいかねぇ!」
部屋の隅へ移動させる。「忘れるんだあんなこと!」いまだホカホカ、うふん、あはん、と興奮状態のブサ鳥に厳しく言って聞かせるが、
「ていうか……雨漏りしてるんじゃないの? あれ」
「なにい!?」
大河の言葉に首がネジ切れる勢いで振り返る。
インコちゃんが快感に酔い痴れていた地点には、今もボタンボタンと水が滴り落ちていた。受け止めるブスと鳥カゴがなくなって、さっそく畳に滲み始めている。
「うっそだろ!? うわ、待て待て待て! タオル! じゃねぇ、雑巾!」
慌てて雑巾を掲んでスライディング&シッテイング、水の滲みた畳を押さえる。その手の甲に、さらに水滴が。
「はは、漫画の世界だよね、これって」
大河が持ってきたお椀を置くと、タイミングよくポタポタポタ、とさらにたくさんの雫が垂れてきて丸い底に落ちた。天井にはもちろん大きな水のシミが広がっている。
「のんきなこと言って笑ってんじゃねぇ。雨漏りがしてくるってことは……つまり屋根の中は水気でびっしょり濡れまくってるってことだぞ。雨が上がってもそう簡単には乾かねぇ。湿気はまるで毒病のように建物全体の柱を蝕み、目に見えないところからカビ始め、あっという間にジメジメ、フワフワ、不潔で、アレルギーが、こう、ああっ! いやぁ……っ!」
「あーきもっ! 御託はいいからご飯にしてよ」
震える竜児に付き合ってはくれず、大河はスタスタとちゃぶ台の前に座る。だが、
「……おう!?」
「大きい声出すんじゃないよ! 今度はなによ!?」
竜児の目は、再びあってはならないものを見てしまっていた。窓の向こうで吹き荒れる暴風雨にガタガタ揺すられる窓の下、サッシを埋め込んだ木の桟《さん》の部分に、雨水が滲み出してきているのだ。結露ではなく、確実に水が出てきている。滲みている。
「やばいやばいやばい、ピンチだ! 早くなんとかしねぇと……!」
「えー!? ごはんは!?」
「食いたいなら雑巾持ってきて手伝え! 洗面所のいつものところ!」
文句を垂れつつ大河が持ってきた雑巾でまず拭い、そして桟にぴったりと押し込むように、折りたたんだ雑巾を置いていく。
「桟を濡らしたくねぇんだ……カビるし、腐る……!」
「ていうか今時珍しいよね、木の桟なんて。アルミじゃないんだ」
「そう! なんならキノコも生える……!」
「げ。なにキノコ?」
「サルマタケ!」
そんなキノコあったっけか……? と首を捻る大河をよそに、竜児は畜生、とシリアスに顔を歪める。両手についた善人男女の血が落ちぬのだ……今さっき、虐殺してきたところ! というわけではなく、
「他にも雨漏り、してるんじゃねぇか? 押入れの中とか、悲劇だぞ」
「えー!? まだ!? もういいじゃん、ごはん食べようよ! おなかすいちゃった! 気持ち悪くなっちゃう!」
「ちょっと待ってろ、先にこっちだ」
ジャージ姿でわがままに喚く大河は放置、残りの雑巾を握り締めてまずは自室をチェック。天井はOK、窓の下もOK、押入れの中は、多少湿気ている気もするが、水のシミはなし。泰子の部屋も同じようにチェックし、洗面所、浴室と見て、
「……たたたた大河ーっ!」
「馴れ馴れしいなブス犬風情が呼び捨てするんじゃないよ! なに!?」
「髪の毛が残ってるじゃねぇか!」
「あ、ばれた」
大河が使った後の浴室の排水溝には、大河のものでしかありえない長い髪がひっかかったままになっていた。高須家ルールではこれは重罪。使い古しの歯ブラシとビニール袋を大河に手渡し、素早く回収させる。
「よし! えーと次は」
「まだなにかあんの!? もー! お魚冷めちゃうよ!」
「カジキは冷めてもおいしいから大丈夫。玄関はどうだ。こええぞ、靴に生えるカビ……」
玄関周りを総点検、OKを出す前にドアスコープから表を覗いてみて、息を飲む。吹きさらしの二階の玄関前は、真横から叩きつける豪雨の飛沫でまっ白にけぶっているのだった。
「くわばらくわばら……とんでもねぇな」
「これで終わり?」
「終わり。メシにしよう」
「やった!」手を洗って台所に戻り、焦《じ》れている大河に茶碗を運ばせ、ようやく二人はちゃぶ台についた。テレビのチャンネルも台風情報をやっている局に合わせて、
「いただきます!」
「いただきまーす! ああ、やっとだ!」
魚と味喧汁と白ごはんだけの、簡素にして究極の朝食にありつく。
二人してしばし無言、ふっくらしっとりに焼き上げたメカジキのミリン干しを口に放り込み、白いごはんを噛み締め、味膾汁をすする。食卓に聖なる三角図形を箸で描きまくる。と、
「あ。ほらほら、言ってる」
行儀悪く、大河は箸でテレビ画面を指してみせた。気象予報士が指示棒で天気図を示しながら、『この台風はお昼過ぎには東の海上に抜けていきます』と報じている。暴風域の円形も、昼前には竜児たちの住む町から遠ざかっていくらしい。
「昼過ぎ? この雨見ていると、とても信じられねぇよ」
窓の外は、今も相変わらずの暴風雨だ。喰るような風の音も、風に合わせてうねるように見える大粒の雨も、弱まっているような気はしない。大河も「だよね」と頷いて、
「高須農場、今頃どうなってるだろ」
箸の先をくわえ、盾をハの字にする。竜児も顎をちょっと擦り、口をへの字にする。
「荒れてるよな……俺のイモ畑……」
「……私のおイモ……」
「櫛枝ともイモ掘りの約束してたのに……」
ふう、と合わせて溜息。タイミングよく大河の携帯にメールが入り、「みのりんだ!」と言われれば、食事中なんだから後にしろ、とも竜児には言えない。
「えーとね、『学校休みになっちゃったのう。退屈すぎ、外にも行けないよ。高須くんのイモ畑は大丈夫か? イモ掘りしたいのに心配〜〜〜びっくりびっくり』……だって。今返信した方がいいよね」
「おう……櫛枝……! 俺のイモ畑を気にかけてくれるのか! しろしろ、返事しろ!」
「返信返信……『私も心配。竜児もあせってる。みのりんとイモ掘りしたかったのにーって泣いてるよ』……って送っていい?」
「……『みのりんと』は、消してくれ。あと『泣いてる』を『嘆いてる』に」
「保守的だ」
「俺はいつでも保守派の男だ」
大河が現代っ子らしく片手でピコピコメールを返していると、今度は泰子の部屋で勝帯が鳴った。ややあって、も〜〜〜し〜〜〜も〜〜〜し〜〜〜……と地獄から這い上がってきた二日酔い女のガラガラ声がそれに答える。
ちょっとテレビの音量を下げ、竜児と大河は再び朝食をパクつき始めるが、
「ふぇぇぇ〜〜〜や〜ば〜い〜よぉ〜〜〜」
襖の向こうから、ユニクロ部屋着の泰子がぼさっ……ぼさっ……と現れ出でた。爆発コントの後の鬼のような髪形になってしまっているが、かろうじて化粧は落としていてすっぴん、しかし全身酒臭い。
「おう、見ればわかるぞ、やばいだろうな……水飲むか?」
「やばいのはやっちゃんではなく〜〜〜……今、でんわでぇ、お店のとなりの酒屋さんがおしえてくれたのぉ……排水できなくなってきててぇ、お店の前の通りにい、水がたまりはじめてるってぇ……うちんとこ入り口半地下だしぃ、やばいぃぃ……浸水しちゃうかもぉ」
「げっ! マジかよ!? もしかして、大川の堤防が決壊したとか?」
「わかんなぃぃ……とにかく見てこなきゃぁ、おじさんたちが土嚢つんでくれてるっていうけどぉ、やっちゃんがいかないわけにはいかないよぉ〜、人手が足りなくて困ってるっていうしさ、ふぇぇ〜〜〜」
……このような場合、ついていって手伝わずして、なにが息子か。
3
玄関のドアを開いたその瞬間、ゴッ! と凄まじい風圧で押し返されて驚いた。しかし表に出てみれば、状況は想定よりももっとひどい。高須家のある二階の外階段から見下ろすと、さっき大河が言っていたとおりに、濁った水が音を立てて通りをすごい速さで流れていき、排水溝からは間欠泉《かんけつせん》のように、処理きしきれない雨水がごぽっ、こぽっ、と吹上がっている。
かつて、それこそ江戸時代の昔から、この辺り一帯は広大な田んぼだったのだ。そして街を隔てる大川は、歴史的にも何度も氾濫して水害を起こしてきた。堤防を築くことで近年は災害には至っていないが、盛り上げた堤防の向こうとこちらはいわゆる海抜ゼロメートル地帯、暗渠《あんきょ》になった大川の支流も街の地下のあちこちを走り、水はけがいいとは間違ってもいえない地域ではあった。
「やっぱおまえは待ってろ!」
竜児はジャージにレインコートを着た大河を振り返るが、
「やだ、一緒に行く! 私もお手伝いする! それに台風の中ちょっと歩いてみたいし……うわわわわっ! 飛ばされるっ!」
横殴りに叩きつけてくる雨と風に、大河が悲鳴を上げた。慌てて竜児は大河の盾になるように風上に立ち、小柄な身体を腕の中に挟むようにして鉄の階段の手すりを楓む。「ひゃ〜!」と泰子も声を上げて、二人の横からしがみつく。
「こ、これって傘も意味ないかもぉ〜! 大河ちやぁん、だいじょうぶ〜?」
「ひええ……だ、大丈夫……下に降りよ、とにかく! 階段こわいー」
「滑るなよ! 転ぶなよ! ていうか、おまえやっぱり家で待ってた方がいいんじゃねぇか!?」
「そ、そうかな? そうかも。そうし……あ、ちょ、う、わ、わ、わ!」
大河は竜児の身体の陰から身を離すと同時、凄まじい暴風に煽られて、バランスを崩した。体勢を立て直そうと手すりを掴むが、よろめいた足はそのまま鉄の階段に踏み出し、抗えないまま下りていってしまう。竜児と泰子も慌ててその後を追いかけて、
「きゃー!」
「おう!」
「ひ〜!」
それぞれザブン! と一歩ずつ、階段下の水溜りに足を突っ込んだ。ぬるっ、と泥の感触は不吉。これは溢れた下水か、もしかして。三人は揃って大慌て、足を引き抜いて向かいのアスファルトの道路へ逃れる。
冠水《かんすい》しきってこそいないが、しかし上から見ていたとおり、道路を左から右へすごい勢いで濁った雨水が流れていく。そして身体を叩くような、強風。豪雨。
思っていたより、全然すごい。状況は、誰の想像をも超えていた。
言葉もないまま三人は暴風雨の中を必死に前進、とりあえず大河のマンションのエントランスまで辿り着いた。徒歩数秒のはずの距離が、一体何分かかっただろう。大理石の階段の上には水はきておらず、ドアの中に入れてもらってようやく一息。
「す……すごすぎるだろ! おまえ、本当に一緒に来れるか!? 後悔することになるぞ!?」
濡れて額に貼り付く前髪をかきあげ、竜児は大河の顔を覗き込んでやるが、
「もう後悔してるよ! さっき来たときは、ここまでひどくなかったんだもん!」
全身濡れネズミ、手に持っていたはずの傘も気がつけば失くして、大河はほとんど半ベソで泰子の腕にしがみついていた。
「わかったわかった、このまま帰れ! な、戻ってきたら電話するから!」
「うん、そうす……あ! だめだ! あああ最低、私ってどこまでアホ……家の鍵、あんたんちに置いてきちゃった……」
「えええっ…ま…じでか」
こっくり、と大河は頷いてみせる。どーしよー……と呟くツラは常にない情けなさ。
「いい、大丈夫。ここであんたとやっちゃんが帰ってくるの待ってる」
ここで、と大河が見回したのはエントランス。風雨も凌げて確かに安全かもしれないが、座るイスもなければ濡れたレインコートをかける場所もない。まさか濡れて汚れた大理石の床にぺったり座り込むわけにもいかないだろう。
「……そうもいかねぇだろ。ったく、しょうがねぇな。じゃあ、大河を一回家に戻して、また戻ってくるから、おまえはここでちょっと待ってろ」
「だったら竜ちゃんもそのままおうちにいなよお!」
「おまえ一人じゃ行かせられねぇって! 大河、来い!」
心配そうな顔で見送る泰子をマンションのエントランスに残し、竜児は大河とともに台風の中に再び踏み出した。「うっ……」「ひぇぇ……」と二人して思わず声を上げる。まともに吹き付けてくる雨が顔に当たってもはや痛いのだ。自然と手を伸ばして腕を掴みあう。必死に寄り添ってゼロ距離接近、こうなっては大河も文句は言わない。お互いの身体を支えにして、大理石の階段をそろそろと下りようとしたそのとき。
「……おう!? タクシー!? 空車だ!」
「うそっ! 本当にタクシーだ! やっちゃーん! たいへーん、タクシー来た!」
まるで奇跡のように、雨でけぶる通りの向こうから、空車の赤いサインを灯した一台のタクシーがやってくるのが見えたのだ。この天気で、まさかこう都合よく車を捕まえられるとは誰も思っていなかった。
祈るような気持ちで竜児が手を振ると、タクシーは水を跳ね上げながら停車する。気づいて泰子も「やったやった〜!」と小躍りしながらエントランスの中から出てくる。泰子が最初に素早く乗り込み、竜児と大河はどうしようか、とちょっと顔を見合わせる。乗ってしまえば大河は高須家には戻れなくなる。が、
「雨が吹き込むから早く乗って! シートが濡れる!」
運転手に強く咎められ、慌てて一緒に乗り込んだ。バタン、とドアが閉まり、風雨から隔絶され、竜児は我知らず深い息をついた。ドジな大河を連れていくにはあまりに不安な天候だが、乗ってしまったからには仕方がない。
「竜ちゃん、大河ちゃん、どうするう? お店までこのまま行っちゃっていい〜?」
「……おう、そうする。最初はそのつもりだったんだし。いいよな、大河」
びしょびしよに濡れた顔を両手で猫みたいに必死にこすり、大河はこくこくと何度も頷いてみせた。
***
毘沙門天国《びしゃもんてんてんごく》に向かい、タクシーはゆっくりと走り出した。雨のために視界はけぶるようで、前を行く車のテールランプの光も滲《にじ》んで見えた。
「でも……ちょっとはマシになってきたかな? 雨、小粒になってきた気がしない?」
窓の向こうを見ながら大河が言うが、
「さっきよりはな。でも、まだまだすげえぞ」
風雨はいまだ治まらず、街路樹の枝は葉を落としながら揺れていた。道路のあちこちに折られた枝が転がっていて、車列ものろのろ運転だ。
「こんな天気でも、結構歩いている人いるのねぇ……」
大河の言葉どおり、歩道には、決して多くはないものの人の姿はゼロではない。傘を風にへこませながら、スーツ姿のサラリーマンとおぼしき人々が風に逆らって歩いていくのが見える。スカートの裾を押さえるために傘を捨てた、大きなバッグの女の人もいる。学校は休みにできても、仕事は簡単には休めないのだろう。
いつもは空車ばかりのタクシーも、こんな日は取り合いの奪い合い。何台かのタクシーとすれ違ったが、空車サインを見ることはなかった。
「ラッキーだったな、偶然にタクシーが来て」
「ほんとほんと。あ、いつものとこだ」
大通りの交差点に差し掛かり、大河と竜児は顔を並べて窓の外を眺める。毎朝登校前に、大河と実乃梨が待ち合わせている信号を右折。このまま通りをまっすぐ進めば学校だ。
「……さすがに、うちの学校の生徒は誰も歩いてねぇよな。休校なんだし、当然か」
「先生たちも休んでるのかな。あんたのおイモ、どうなってるんだろ」
「ちらっとでも見えねぇか。……無理だよな」
「無理だよ。あーあ……」
竜児と大河は二人して、通りの向こうの校舎に目をやる。そんなことをしても無意味なのはわかっているが、ゃっばり気になって仕方がないのだった。
そのとき、「うわー」と、不意に泰子が声を上げた。
「あそこにいるの、うちのお店の近所のおばあちゃん三姉妹だよ〜! やだも〜こんな日に、どうしたんだろ〜!?」
大雨の中、屋根もないバス停で傘をおちょこにしながら耐えているのは、カートを引いた三人の老女だった。みんなもう相当な年なのだろう、腰を曲げてつらそうに三人で身を寄せ合い、ひたすら雨と風に耐えている。
「バス遅れてるから、ずっと待ってるんだろうなあ。それでタクシーも混んでるんだよ」
ざっくばらんに運転手が教えてくれる。学狡の裏手には病院があり、その帰り道なのかもしれない。
「……竜ちゃあん……大河ちやあん……」
泰子が泣きそうな顔で、二人の顔を見る。健康な高校生二人は、もちろん、
「……おう……」
「……だよね……」
頷くしかなかった。
「運転手さぁん、われわれは降りるのでぇ、あそこのおばあちゃんたち拾ってあげてえ〜」
泰子がそう言うと、タクシーはウインカーを出しながらバス停に止まった。老女たちは天の助けでも得たような顔をしてタクシーを見るが、空車のサインが出てないのを見てすぐに落胆、乗り出しかけた身を引っ込める。
三人は急いで風雨の中に飛び出し、「おばあちゃんたち、乗ってえー!」と泰子が声をかけた。
「あれ!? 誰かと思えば毘沙門天国のママじゃない!」
「そうで〜す、魅羅乃《みらの》だよ〜! お店にいこうとしてたらおばぁちゃんたち見かけたからぁ、いそいで止めてもらったのお〜! よかったよも〜見つけられて〜! こんな雨に打たれたら身体悪くしちゃう〜! 早く乗って乗って〜!」
「でも、それじゃあんたたちが……」
「あたしたちはバスを待つからいいのよ」
「大丈夫だから気を使わないで……あっ」
そういう傍から、おばあちゃんが必死に掴んでいた傘が風に舞い上げられて捜われる。車道の向こうまで飛んでいって、ボスンと落ちる。
「ほらぁ、急いで急いで! こっちはいいのいいの! 魅羅乃もうちの息子ちゃんも娘ちゃんも、元気いっぱいで体力ありあまっちゃってるんだからあ〜!」
ワーイ☆ と竜児と大河(娘ではないがこの際スルーだ)は風雨の中で必死の空元気、笑顔を作って両手片足をグリコのポーズで上げてみせる。泰子はうふ〜んと懐かしのパイレーツ。乳を寄せてみせる。
それを見て老女たちは安心したのか、「助かりました」「ごめんね、ありがと」と頭を下げてタクシーに乗り込んでいく。
「あ☆ そうだそうだここまでのお金……」
泰子は濡れネズミのままで財布を出すが、竜児は助手席の窓をノックして運転手に合図、ドアを開けてもらう。
「おまえもこのまま乗っていけ、俺と大河はもうしょうがねぇし、ここから帰る」
リアシートにはおばあちゃんズが三人、あと一人助手席に乗れるのだ。母の手を引っ張り、ほとんど無理矢理にシートに押し込む。
「えー!? でもおー!」
「いいよやっちゃん、行って! お店、心配なんでしょ? 急いだほうがいいよ!」
「ふぇぇ、大河ちゃんまでそんな……ほんとにごめぇん! じゃあやっちゃんおばあちゃんたちと一緒に行くねぇ〜! ごめんねぇ〜、気をつけるんだよお!」
助手席のドアが閉まり、タクシーは雨煙の中を毘沙門天国の方へと走り去った。大河と竜児はそれを見送り、そしておもむろに顔を見合わせる。
己の行為に後悔はないが、帰り道に不安がないかと言われれば、思いっきりある、としか答えようがない。タクシーで来てしまったこの道のりを、なんとか家まで帰りつかなければ。
思わず二人して言葉もなくし、しかしそのときだった。
「……あっ!? 竜児、あれ! あれ見て!」
大河が指差す先では、通りを勢いよく流れていく雨水が排水溝に溜まってしまっていた。ゴミや折れた木枝が蓋にひっかかっているのだが、そこに白いカードのようなものも浮いている。近づいてみれば、それは確かに『サツマイモ』と書かれていて、
「……うそだろ……こんなとこまで流れてきてるのか!?」
「ってことは、畑は……」
竜児と園芸部の絆の証が、高須農場の危機を二人に知らせていた。
***
あまりにも愚かで、浅はかな思いつきであった。そんなことは重々承知の上。それでも竜児と大河は、
「うわ、教員室、明かりついてる!」
「先生たちは来てんのか? 見つかったら絶対やばいぞ!」
鍵のかかっていなかった校門を開き、人気のないグラウンドの端を走り抜けていった。
グラウンドはもちろんひどい状態だった。小川が蜘蛛の巣のように広がって、土は歩道まで流れ出している。その歩道を行く竜児と大河は暴風雨の中を傘も差さず、もはや完全に開き直っているのだった。身体を押し戻すような風に目を見開き、肌も雨に打たせるまま。頭の先から靴下の中、下着までも、水に浸かったようになりながら、
「……あくまで、見るだけだからな!」
「そうよ! 見るだけ見るだけ! 心配だから!」
「ただじっと不安でいるのより、この目で確かめた方が精神衛生上いいし!」
「別に氾濫している川を眺めにいくわけじゃないし!」
午前中だというのに真っ暗な荒天の下、イモ畑を目指して走っていく。
大河は生き恥ドレスジャージの上に、昨日泰子に貸したカーキ色のレインコート、足元は履いてきたレインブーツ。竜児は体育着にスエットのパンツ、黒のウインドブレーカーを羽織ってスニーカー。装備としては上々だったが、台風の暴風雨にはとても敵うものではなかった。傘なぞとっくに持ってはいない。フードを何度かぶり直しても風に吹き飛ばされて、竜児も大河も頭からズブ濡れだった。特にロングヘアの大河はつらい。頬にもレインコートにも髪が貼り付いて、不愉快そうに何度も髪を手で掴む。
だけど、イモ畑を見にいかないわけにはいかなかったのだ。竜児にとってはただのイモ畑ではなくて、それ以上の意味と価値が――約束がある場所だったし。
「……あんた、すっごいお調子こいてたもん」
大河だって、サツマイモが大好物だし。
「……みのりんに褒められて、約束もして、すっごい浮かれポンチだったもん」
大好物だし、それに、
「大河……」
「……あんだけウキウキ浮かれまくって、アホみたいに調子ぶっこいて、結局台風に全部持ってかれちゃいました、じゃ、そんなの……」
それに。
「……そんなの、だめよ……! 絶対!」先を走っていた大河が、白い横顔を見せて一瞬だけ振り返る。暴風に煽られ、雨に濡らされ、それでもなお大河の鼻先と口元を結ぶラインは繊細にして美しい。何者をも寄せつけない硬質さで触れがたく、しかし、
「……イモ、無事に獲れたらなんだって作ってやるからな! 好きなだけ食っていい!」
「ほんとに!?」
触れればきっと温かな血が通っているのだろう。不意に優しい曲線を描いて、大河の唇が嬉しげに解けて。それを見て竜児も我知らず、引き結んでいた口元を綻《ほころ》ばせていた。
「おう! いっちばん、でかいのを真っ先に食え!」
「そうでなくちゃ!」
身体を叩く雨は変わらずに猛々しい。しかしグラウンドを回りこんで校舎の裏に走りこみ、二人が泥水の流れ出る花壇に難りつくのとほぼ同時、東の空の向こうで分厚い雲に裂け目が入る。太陽の光が遠く一筋、透ける金色の帯を地に下ろす。
嵐が去るのは、きっともうすぐ――だが、
「うわ……っ! マジかよ!?」
高須農場は、すでに土の大半を失っていた。ひどーい! と大河も声を上げる。想像していたとおりのことが、まさにイモ畑を襲っていたのだ。
コンクリの囲いからはせっかく育てた土が泥水となって地面に溢れ、枯れかけていたシソも、そして昨日はあれだけ繁茂《はんも》していたイモの葉も、泥の中に沈んでしまっていた。
スニーカーで踏み込むと、「おうっ!?」「うわわ……っ!」ほとんど足首まで、泥水の中に埋まる。注意深くしゃがみこみ、覚悟を決めて手を突っ込む。泥に沈む茎を掻き分け、
「……ある! あるぞ! イモがある!」
力を入れて引き抜いた。泥の中から二つ、連なったサツマイモが姿を現す。
「竜児! 私も見つけた! ここになんかある!」
大河も泥に手を突っ込み、「どりやっ!」と力いっぱいに茎を引っ張った。しかしぶちっ、と音を立ててイモの茎はちぎれ、
「……ひぃぃ……っ!」
「大河!? うっわ……! おまえ……」
バランスを崩した大河は泥の中に思いっきり尻もちをついてしまった。あまりの事態にしばし二人して黙り込み、竜児は大河を立たせてやるのも忘れてたっぷり数秒見つめあい、そして、「……うおぉぉぉぉ! ちっくしょー、この野郎イモ太郎めがぁぁ!」
手乗りタイガー、覚醒。大河は泥を跳ね上げながら猛然と起き上がり、千切れた茎を掴んで力いっぱい再び引き抜く。横殴りの雨の中にずろっ! と引き出されたイモは小さいながらも三つも連なって、
「ぶわっ!」
勢いよく引き抜かれた拍子に泥を竜児に跳ね散らす。そのツラを見て、大河が笑った。腹を抱えて泥まみれ、手にはイモをぶら下げたままで「きゃーっきゃっきゃっきゃっきゃ!」と悪魔のような大爆笑。
「そうだっ、みのりんも呼ぼう! みのりんにも掘らせてあげなくちゃ、約束したしー。」
「はあ!? 無理だろ、こんな天気の中わざわざ呼びつけるなんて、」
「晴れるよ! ……ほら、見てごらん」
顔も手も、全身を泥水で真っ黒にして、大河はしかし自信たっぷりに天を指差した。まるでその合図を待っていたかのように、東の空の雲の裂け目が、ゆっくりと広がっていく。泥に沈んだイモ畑に立つ大河の頭上に、竜児の頭上に、温かい光が柔らかに注ざ始める。
実乃梨が笑顔でやってきた頃には、雨も嘘のように上がっていた。
三人は泥まみれになりながらイモを掘り、そして順番にそれぞれ携帯で写真を撮った。泥に汚れた顔があまりにおかしくて、記念に残そうと思ったのだ。
嵐は去り、そして、約束は守られた。
***
とある高校の生徒の間に、その写メールが出回り始めたのはその年の冬のことだった。顔を真っ黒にした謎の男が、サツマイモを両手に掴んで禍々《まがまが》しい笑みを浮かべているのだ。ピントがぶれて、目の奥の雷撃の如く凄まじい眼光だけがギラギラと光り、それはそれは恐ろし形。相《ぎょうそう》をしていた。
誰から回ってきたものなのかも分からないまま多くの高校生をビビらせ、やがて誰かがその写メの男を、妙な名前で呼び始めた。
その名も――サツ魔《ま》イモ。
「……ほーんと、不思議よねぇ。一体どこから流出したのかしらねぇ」
「おまえが撮った写メだろあれは!? ……あれは俺だ、なんて、今更誰にも言えねぇ……恥ずかしすぎるだろ、くそ、なんだよサツ魔イモって……!」
「ぷっ! しょーもな! 何度聞いても笑えるわよね」
「……手乗りタイガーよりはマシだろ」
「サツ魔イモの方が絶対笑えるっての。あー寒いっ! 今日の夜ごはん、なににする?」
「そうだなあ……」
[一頁(P280)抜け」
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先生のお気に入り
ふ、ふざけてるの? と恐る恐る問えば、
「ふざけてるんです」
きっぱり生真面目に言い切り、唇を結んで、北村祐作は銀縁の眼鏡を中指で押し上げてみせる。その澄み切った瞳の前で言葉に詰まるのは恋ヶ窪《こいがくぼ》ゆりの方であった。
「俺はいつだって全力投球です」今時どこでどうオーダーすればこんなふうにカットしてくれるのか、教師の間でも密かな謎を呼んでいるド黒髪の学生刈り。見ているだけでこっちの息が詰まりそうな、襟元まで隙のない制服の着こなし。天を目指してスクスク伸びる青竹みたいな背筋。眼鏡の奥を思わず覗き込みたくなるような端整な面差《おもざ》し。
こんなにも絵に描いたような優等生面をして、健全そのものの綺麗な目をして、
「全力投球で、失恋大明神になってみようと思うんですー」
――こうなのだからたまらない。
師が走る、でお馴染みの十二月。放課後の教員室。その隅に衝立の目隠しで囲って設けられた、ちょっとした面談スペース。かわいい教え子とソファにかけて向き合い、担任教師・恋ヶ窪は、ただ低く呻くことしかできずにいた。
「……そ……う、ですか……」
「そうです。先生も是非、ご協力をお願いいたします」
にこっ、と爽やかな笑みまで浮かべて、北村は小さなテーブに自《みずか》ら広げた『企画書』を数センチ、恋ヶ窪の方へと押しやる。薄笑いで覗き込む素振《そぶ》り、「ん〜……えっと〜」などと呟きながらさりげなくそれを北村の方に押し返すが、「ご覧下さい」とはっきり一言、さらにずいっと押し付けられる。
目を向けてしまえばそれだけで、承諾と取られかねない勢いであった。
「……いや、あの、なんというか……ものすごく、気乗りしない……というか、北村君。ごめん。先生はぶっちゃけお断りしたいと思っているのですが」
恋ヶ窪は視線を泳がせ、一日の授業を終えてくったり取れかけの巻き髪をいじりつつ、押しの強いクラス委員長に思い切ってお断りのメッセージを発してみるが。
「そう言わず、ご検討ください。企画発足当初から、恋ヶ窪先生にご出演いただきたいと思っていたんです。これは俺だけの考えではなく、生徒会の総意――ひいてはこの学校の生徒全員の総意。恋ヶ窪先生は先生方の中でも特に人気がありますから」
「えええ……みんな単に私のことネタにしていじっているだけでは……」
「人気です。それが人望ってものです」
「……私が出演しても、たいして力にはなれないと思うんですよねー……」
「生徒の興味をまず引けます。放送を聞いてもらわなければ話になりませんから」
北村は頑として譲らない。このまま担任を解放する気などなく、あくまでも、この独身ネタで生徒たちにいじり倒されている三十路《みそじ》未婚教師を、生徒会が企画した昼休み放送番組――その名も「あなたの恋の応援団」、記念すべき第一回にゲスト出演させようというのだった。要は、己の恋愛関係のエピソードを生々しく語れ、と。真っ昼間の職場で。教え子たちに向けて。明日。
そして北村祐作自身は、新生徒会長自ら『失恋大明神』と名乗って番組の語り部を務め、恋に悩む思春期の生徒たちに親しみをもってもらうのだ、と言い張る。本人曰く、どうやら本気でふざけているらしい。
冗談ではなかった。
恋ヶ窪は、じわっと嫌な汗がにじみ出た脇の下を両手で自らを抱きしめるように押さえる。色々な意味で、このオファーには首肯《しゅこう》できない。したくない。
ワードで作成したと思しき企画書には、生徒会による生徒のための昼休み放送番組! 恋愛を中心とした等身大の話題で学年・クラスの垣根を超えた絆づくりを! そして新生徒会に親しみを持っていただきたい! ……等々の文言が踊り、高校生の考えることにしては、それなりの説得力を持っているとは思えた。さすがは北村祐作、新生徒会発足早々から飛ばしてくれる、とも思う。しかし。
「やっぱり、変ですよ……。私のことはひとまず置いておいても、そもそもどうして新生徒会長が『失恋大明神』として生徒みんなの信頼を得ないといけないの? ありのままの北村くんで、信頼を得ればいいじゃないですか。なにもそんな無理矢理にふざけなくても、」
「……真剣なんです」
企画書を挟んで、視線が交差する。
「俺は、真剣に、ふざけなければいけないんです」
まっすぐな奴ほど危なっかしいのは、荒《すさ》んだときとのコントラストの強さゆえ――恐らくは無意識に、北村は真っ黒な前髪をかきあげる。骨ばった筋が肌に影を落とす、アンバランスなほど長い指に目がいく。
彼の髪がブリーチ剤で限界まで脱色されて痛々しいほど似合わない金髪頭になったのも、眼鏡の奥の眼差しが触れがたいほどに荒んで世間を反抗的に睨みつけたのも。思えばほんの数週間前のことだった。
つまり全校生徒の前で全力で失恋し、女友達が敵討ちに出向いて告白相手と流血|沙汰《ざた》を起こし、停学事件にまで至ってしまったのはつい先日の出来事。手乗りタイガーの二つ名をもつ女友達は、いまだ自宅待機のまま。
変ですよ、なんて、言ってはいけなかったかもしれない。恋ヶ窪は飲み込めない己の失言を悔やむ。目の前にいる十七歳の彼は、いまだ傷物以外の何物でもなかった。
「……先生もご存知の通り、俺は今、人生ドツボです」
素直さゆえにか取り繕うことも良しとはせず、北村は自らの治りきらない傷口を恋ヶ窪の前に晒し始めた。低く戦慄《おのの》くような声も、気まずくひそめられた眉も、落ち着きを失って貧乏揺すりを始めたサマも、いつもの「北村祐作」像からは遠い。どうやら少年は、本当のガケっぶちまで追い詰められているらしい。
「あんなふうに失恋して、それを全校生徒に知られ、会長は行ってしまい、……逢坂まで巻き込んでしまいました。彼女の人生に、停学なんて傷を負わせてしまいました」
カタカタと揺れるテーブルの上で、北村が放り出したボールペンもカタカタと踊った。落ちないようにさりげなくペンを押さえ、恋ヶ窪はフォローのつもり、
「……で、でもほら、再来週には、逢坂さんも登校してくるし」
言ってはみたが。
「そうです! だからこそそれまでに、俺は、ちゃんと立ち直っていなければいけないと思います! 変わらない様子で逢坂を迎えたいんです! ……もう、あんなふうにみんなに心配をかけて、迷惑をかけるようなザマは、二度と、あってはならない」
まるで独り言のように声を発し、傷物の優等生は演説でもかますかのようにグッと片手の拳を握ってみせる。あってはならないんだ、ともう一度はっきり繰り返し、どんどん危うさは増していく。そうですよね先生、などと熱く同意を求められるのも怖い。
「き、北村くん。しっかり……」
「はい! しっかりしたいんです! 俺はやらかしてしまいました! 先生も見ていましたよね!?」
「……いや、うん、まあ……」
「しかしああして転んだからには、なにかを得て立ち上がらなければならない! 人生収支は常に黒であるべき! この場合『得たなにか』とは、ずばり! 失恋キャラだろう、と!」
「……う、うーん……?」
「そこで失恋大明神です!」
妙な頑なさでもって焦点を結んだ眼差しに、恋ヶ窪がさらなる危なっかしさを感じていることになど、北村は気づきもしないのだろう。ただただ誠実に、真面目に、深刻に、己の本心を痛々しくも開陳《かいちん》し続ける。
「先生のお言葉どおり、とにかく一刻も早く、俺はしっかりしなくてはいけないんです! 収支を黒に立て直し、人生も早く立て直したいんです! あせっているんです! でもそれは結構難しい! 気合だけでは元気は出ない! ……正直、いまだぐだぐだグルグル色んなことを考えあぐねて、夜もなかなか眠れません……だから! だからこそ!」
ついに立ち上がり、恋ヶ窪の顔の目の前で北村の手がマントを払う仕草で宙を切った。
「俺は、真剣に、全力で、ふざけなければならないんです!」
「……」
恋ヶ窪は、ついに唸り声さえ上げられなくなった。振り上げられたその指先にも、決死の覚悟で光る眼差しにも、痛々しいまでの真摯《しんし》さが滴るほどに溢れているのだ。恋の応援団も、失恋大明神も、北村にとっては何一つ、冗談ごとなんかではありえないのだ。……真面目であろうとする奴よりも、生き難《がた》い奴っているだろうか? 己の失敗も傷も恥も、目を逸らさずに受け止めて、乗り越えなければと決めている奴なんて――
「……まあ。まあ、まあ、まあ……とりあえず座りましょう、ね」
暖味な笑顔を向けてやりつつ、ソファに再び腰を下ろす北村になんとかソフトな言葉をかけようと考える。適当にやりすごせ、見たくないものからは目を逸らしてお互い様の照れ笑い、なかったことで忘れちゃえ。そうすることが人生さ――なんて本当のところを言ったら、この真面目で頑なな良い子は「先生は俺の悩みを矮小化《わいしょうか》している!」とか思うのだろうか。
「あのー、なんていうかね、とりあえずさ、」
グロスもとれてかさつく唇をちょっと舐め、恋ヶ窪は言葉を選んで語りかける。
「人生ドヅボとかさ、それを言うのは早すぎますよ。北村くんはまだ十七年しか生きてないんだから。大人になったら、そりゃもう色々|怒涛《どとう》のような苦労が、誰の上にも等しく襲い掛かってくるんです。今からそんなこと言ってたらもたないって思います」
「……先生は、十七歳の頃よりも、今の方がご苦労なさっているんですか」
「そりゃそうですよ。まあ、若い頃はもちろんいろんなことを痛々しく悩んだりしたけど、なんだかんだいってすべてがシンプルだったもの。大人になるとどっとこう、生活だとかね、人間関係だとか、社会政治、毎月の支払い、行きたくない飲み会、中性脂肪に税金、親の経済状態、嫌いな親戚、逃れられない法事、そして出会い告白付き合いプロポーズ結納結婚|披露宴《ひろうえん》二次会妊娠出産子育て! 住む家! 義実家! うんたらかんたら! 複雑すぎるのよ本当に、母方が真言宗《しんごんしゅう》で父方が禅宗《ぜんしゅう》ででもお爺ちゃんは養子で本家筋の三男坊の姉が後家のうんたらかんたらがどうたらこうたらお墓は永代供養《えいたいくよう》で誰の筋はなんとか寺でお正月には毎年お爺ちゃんがいくらか包んでいくんだけどその額は祖母も父も母も知らないという――まだ続ける?」
「もういいです」
眼鏡をくいっと癖の手つきで押し上げ、北村は降参を示すかのように息をついてみせた。
「大人の世界が複雑なのは、よくわかりました」
「そうでしょう? 結婚してるヒマなんかないのですよ、大人になると。いや、ほんとに」
力技だがなんとか煙に巻いてやったつもり、さりげなく壁の時計で時間を見て「じゃあ私はそろそろ」と見合いの仲人《なこうど》の如く華麗に立ち上がろうとするが、
「では……先生の『人生ドツボ』は、今なのですか」
「え?」
不意打ち気味の質問に、焦げ茶のマスカラでカールアップした睫毛を思わず瞬《しばたた》かせた。私の人生ドツポ――その一言で瞬間的に蘇ったのは、回る自転車のスポークの音。きしむペダルの重い感触。車輪を隙あらば攫おうとする、泥に抉られた轍《わだち》。
あのド田舎の、あの日々が、連鎖反応的に呼び起こされる。
「私の人生のドツボは……ああ……うわあ……そうだ……」
「先生?」
首を傾げる教え子の前で柔らかすぎるソファに背中を預け、思わず脱力していた。ほんの何秒間かだけ教師ヅラも保てなくなり、コンタクト入りの視線が蛍光灯の付近を彷徨《さまよ》う。
そういえば、自分だって恥ずかしすぎるドツボ状態をなんとか生き延びてここにいるわけだ。顎に指をやり、息を吐いた。このところの忙しさの中ですっかり忘れてしまっていたが、はっきりあれがドツボだった! と思える最悪の日々の記憶がありありと蘇ってくる。一体どうやって、己はあそこから這い出したのだっけ?
少なくとも、適当にやりすごす、なんて上手いやり方で生還したわけではなかった。だって、そうだ。あの頃はまだ大学も出たてのぴちぴちの新卒。
恋ヶ窪ゆりだって生まれたときから三十路で独身だったわけではない。たったの二十二歳だったことがあるのだ。
***
若いギャル先生が様子見にきたら、喜んでホイホイ出てくるようになるでしょ――
「……はあ!?」
無神経、無神経、無神経! 一語一語が隅々まで、どうしようもなく無神経!
汗に濡れた顔を歪め、恋ヶ窪ゆり(22)は怒りとむかつきをパワーに変換、重いペダルを踏みつける。一足漕ぐたびに、ぎーい、ぎーい、とチェーンが鳴いた。
地元よりもよっぽど田舎のこの町の、山の中。人通りなど他にあるわけもない竹やぶを貫く未舗装道路……ちょっと広めのケモノ道の急勾配を、恋ヶ窪の自転車(九千八百円)は、危なっかしくぐらつきながらもゆっくり登っていく。が。
「そもそも……スニーカーで、バッグ斜め掛けで、チャリ通勤の、ギャルが、いるかって……はあ……! あーもー……きっつい……! 無理!」
サドルからよろめきながら下りて、ハンドルに半ばつっぷした。息は上がって服は汗まみれ、化粧なぞとっくに流れ落ちている。スニーカーを土で汚しながら、あとは自転車を引いてこの坂を上がっていくしかない。
絶対、こんなのが『ギャル先生』のわけがない。四月に張り切ってショートにした髪は、二ヶ月経ってみっともなく伸びかけて跳ねているし、服だってスーツのローテーションも尽き、我ながら意味不明のポロシャツと膝丈スカートのコーディネイト。こんなギャルがいてたまるか――いや、百歩譲ってギャルだとしよう。そうだとしても、やっぱり絶対にさっきの発言は許しがたい、と思うのだ。
「二十年も教師やってて、よくあんなこと……最低……」
いきなり副担任を命ぜられた二年生のクラスに、いまだ一度も登校してきていない男子がいることは当然恋ヶ窪も知っていた。大丈夫なのだろうか、原因はなんなのだろうか、彼について考えることは多くあったが、しかし日々の仕事もすべて責任重大にして不慣れ、そして膨大。それこそ這うようにしてなんとか最初の中間テストを乗り切り、一息ついたところで、突然先輩である担任教師から言われたのだ。放課後に、不登校の彼の家に行って、本人の様子を確認してこい、と。当然担任教師も同行するのかと思いきや、一人で行ってこい、と。
初対面の私が行ってもあまり意味がないのでは? と訊ねたところで、さっきのギャル先生発言が出たわけだ。
彼がどんな事情で学校に出てこないのかはわからない。ただ確かなのは、若い女が行けばホイホイ、だとか担任に思われていることを知れば、傷つくに決まっているということ。
「……ほんっと、無神経な奴って、人の心をピンポイントで抉りにかかるよね……」
あは、そうですかねぇ、あはーその場では暖昧に笑うことしかできなかった新米教師に、知ったような顔で味方ヅラをする資格がろるかどうかは、わからない。ついでに『魚のエサ』扱いされた悔しさのやり場もわからない。
それでもとにかく業務命令なのだ。自転車を引きずって、恋ヶ窪はひたすら坂道の上方向を目指すしかなかった。
ふと不安になって、コピーしてきた住宅地図をポケットから取り出して広げる。大丈夫、間違っていない。この山を越えた先の田んぼの奥に彼の家はある。
車さえあれば、こんなに苦労することもないのだが。「……っ!」力いっぱい、二の腕に止まった薮蚊《やぶか》を引っぱたく。叩いた己の肌も痛いが、漬れて死んだ蚊をふっと息で吹き飛ばし、生贄の命一つで少しは気も晴れ……は、しない。全然。
車。
事故ったのだ。
思い出すのも忌々しい、先週の週末。希望していたのとはまったく違う職《しょく》で馬車馬状態の彼氏(22、交際四年目)を癒してあげたかった。しかし誰が想像できただろう。ドライブに誘った己の一言が、「希望の職について公務員で本当におまえは恵まれてるよな。ドライブ? さっすが、税金から給料出てる奴は言うことがシャレてる、俺なんか給料も安くて身体はもうボロボロ、一生車なんか持てねぇよ」――けっ! と悪態つかれて電話が切れて、約束もできないまま会話終了、そんな事態を招くだなんて。「は? なんなの? 疲れてるのもわかるけど、なんで私が文句言われるわけ? 大体車買いたくて私がずっとバイトしてたのも知ってるでしょ?」……泣きたい気分で一人でドライブに出て運転ミス、車体の左前方からガードレールに衝突し、ヘッドライトはぐしゃっと砕け、そしてガ〜〜リガリガリガ〜〜〜リガリ……無人の路上、ケガもなく、ひとさまにも迷惑をかけなかったのだけは僥倖《ぎょうこう》か。再来週には車も修理を終えて帰ってくるはずではあるが、
「やって、らんないのよ! マジで……!」
喚きながら深呼吸。
蒸し暑い竹やぶの坂の頂点で、恋ヶ窪は頭上の青空を睨みつける。そして目の前には、一直線の下り坂。行ってやっか、と少々やけっぱち、サドルに跨り、バッグを背中に回す。坂の下には青々と稲穂の波が揺れる田んぼ、その端にあるのが不登校児の自宅のはずだ。学校を出る前に電話を入れたが、誰も出なかった。留守宅の可能性は高いが、とにかく行ってみるまでが仕事だ。
ブレーキをゆるく握ったまま、土の地面を蹴る。自転車は坂道を最初はのろのろと、やがてスピードに乗って加速し始める。顔に当たる風が強くなってきた辺りでブレーキを握り、一応安全運転、と思いきや、
「えっ!?」
ガシャン、と耳慣れない音を立て、握りこんだ左手のプレーキが唐突《とうとつ》に抵抗を失う。視界の端に細いコードのようなものが跳ね上がる。ああ、片方のブレーキが壊れたんだ、と理解しつつ、パニクリつつ、右手のブレーキを反射的に全力で握る。しかしどういう因果なのか、
「いっやああああああきゃああああ〜〜〜〜〜〜〜!」
そっちのコードもビヨーンと跳ねる。目の前で外れる。手の中のブレーキは両方ばかばか、タイヤの回転を止める術《すべ》はない。
どうすることもできなかった。「止めて止めて止めてひゃあぁぁぁあああぁ」脳天から甲高い叫び声をダダ漏らし、自転車は下り坂を一気に滑り下りていく。絶叫、落涙《らくるい》、ハンドルを死ぬ気で握り締め、とにかく田んぼにだけは落ちたくない、「絶対! カエル! だけは! 無理だから〜〜ぁあぁ〜〜〜!」全力で願いながら為す術もなく加速し、そして、
「……ひいぃぃっ!」
奇跡のハンドルさばきを見せた。タイヤは田んぼの端の植え込みを踏んでなんとか減速、肘と肩で石の塀にぶつかり、最終的にガッシャン! ――ものすごい音を立てながら、人様の家の門柱に激突する。自転車は当然真横に倒れ、恋ヶ窪は投げ出されて植え込みの中に膝から落ちる。そのまま転がる。真っ青な空を見上げて、数秒。
――これは夢だったのです。
「いっ……たあぁ……っ!」
現実だなんて、戯だ。うそうそ。とりあえず、起き上がってみる。座り込んだまま、己のとんでもない状況を恐る恐る確認する。少し離れて倒れた自転車。痛いのは肩、それから肘、手の平、膝……流血の惨事であった。ストッキングは破れ果て、土で汚れた擦り傷は生々しくやばい感じ、真っ赤な血が見る間に湊《にじみ》み出てくる。手の平にもだ。
これが現実だとは到底信じたくなかった。ポロシャツもスカートも大人にはあってはならない具合に汚れ、恋ヶ窪ゆりは路上に座り込んでいるのだった。……泣くかもしれない。というか、このナリで一体これからどうしろという。生徒の前になんか絶対出られない。そもそも帰れるのだろうか、あの山道をもう一度チャリで行けるのか、自分は。
立ち上がれもしないまま膝の傷を呆然と見つめていたそのとき、
「……え?」
背中にパサッ、と、なにかを投げつけられる。驚いて振り返り、そして、見た。
透けてしまいそうな――というのが、第一印象。
真っ白な顔は小さくて、六月だというのに黒のジャージを着込んだ身体は子供のように華奢《きゃしゃ》だった。人形みたいにつんと尖った鼻先まで、長い前髪が零れて揺れている。天然栗色の、ゆるく波立っ髪は、触れれば溶けそうなほどに柔らかに見えた。
潤んで光る双眸には、しかし、帯電しきったみたいにパチパチと火花さえ弾けそうな険が。
「……あ、も、もしかして……?」
植え込みの中に座り込んだまま、恋ヶ窪はその少年をただ見上げていた。……いや、不思議なことはなにもないのだ、ここはなぜなら彼の家だから。表の激突音を聞きつけて、出てきてくれたに違いなかった。
外気に触れてない奴特有のなめらかすぎる肌に、頼りなく揺れながらも防御壁よろしく眇《すが》められた視線は恐らく恐怖ゆえ――彼にとってはどんなものでも、自分以外は慣れない異物なの
だろう。ジャージも目つきも「近づくな」と叫ぶ代わりか、見てわかるぐらいにアンタッチャブル。彼はお母さんのものらしきつっかけサンダルの足で、そのままじりじり後ずさっていく。
恋ヶ窪は彼が背中に放ってくれたと思しき布を(……雑巾であった)掴み、座り込んだままで声を発した。
「……わ、私に、貸してくれるの……?」
頷いた、かどうかは定かではない。彼は人慣れない獣の素早さで、あっという間に玄関の中に飛び込んでいってしまった。ガラガラガチャッ! とすごい勢いで鍵がかけられ、しかし、曇りガラスのドアの向こうからはいまだこちらを窺うその姿が丸見えではあった。
「あ、あ、あの! 私、副担任の恋ヶ窪です、えっと……君の様子を、見にきました!」
君の様子を見にきて、君の家の前で、力いっぱい転びました――
「今にして思えば、あの子って逢坂さんに似てるんだわ」
「……へえ?」
「いわゆる、神経質な美少女タイプってやつ。美少年か。あ、ありがとー」
北村が差し出してくれた来客用の湯のみを受け取りながら、恋ヶ窪は記憶の中の少年の姿を鮮明に思い出していた。この面談スペースにはポットと急須《きゅうす》が置いてあり、話が長引きそうなときには勝手にお茶を飲めるのがいい。北村は自分の分のお茶も淹《い》れ、「これはあけてもいいんですかね」などと茶菓子の煎餅を勝手に缶から掴み出している。
「先生は海苔が貼ってあるので。……うん、なんていうんだろう、顔立ちや外見の雰囲気もだけど……なにか悶々と溜め込みきって、タイマーが既に入ってる子特有の切羽《せっぱ》詰《つま》りっぶりが本当に逢坂さんっぽかった、っていうか」
「男版逢坂ってことですか。なるほど……逢坂くん(仮)……」
煎餅をいくつか選んでソファに戻り、北村も遠い目をしてお茶に口をつけた。
「意外なようでいて、結構想像つくような……」
***
逢坂くん(仮)との邂逅《かいこう》は、それで終わりではなかった。意外にも展開は早く、その翌日の朝一番。
「これは……な、なにか――」
「……」
不登校児が出てきてる――教師たちの視線の真ん中で、恋ヶ窪は、ハンカチに包まれた謎の物体を逢坂くん(仮)から受け取っていた。
教貝室の出入り口に近い、下っ端教師の席の前。座席の主である恋ヶ窪と決して視線を合わせることなく、逢坂くん(仮)はむっつりと整った女顔を背ける。夏服の半袖シャツから伸びるほっそりとした白い腕を人目から隠したいかのように組んで、居心地悪そうに唇を噛み、それでも恋ヶ窪の正面に立っている。結構手にずっしりとくる、そのお弁当のような包みを恐る恐る開いてみると、
「……自転車のベルだ……」
なんのことはない。昨日、己が落とした自転車の部品であった。
「これを届けにきてくれたの?」
「……」
ガラス玉のように透ける瞳が左右に惑《まど》い、そして、小さな顎が一瞬だけ、頷くみたいに上下に揺れた。「わざわざありがとう」と声をかけると、逢坂くん(仮)は少女のような瑞々《みずみず》しい頼を引き攣らせ、唇をなんとか動かそうと試みた、ようではあったが。
「なんだおまえ! 登校してきたのか、久しぶりだなー! え、おい!」
無神経丸出しの馴れ馴れしさ、男性教師が夏服に包まれた薄い背を力いっぱい叩いた。その瞬間、少年の両目が膜を張ったみたいに虚ろになるのが、正面に座っていた恋ヶ窪からはばっちり見えていた。(うわ……)思わず息を飲む。
「ほんとだ珍しい奴が出てきてるじゃない」
「学校が恋しくなったか? ん?」
「これでまた明日から二ヶ月休みますっていうんじゃないんだろうな。わはは!」
バン! バシ! とすべてを冗談で流すみたいに次々肩の辺りを叩かれ、逢坂くん(仮) の身体はグラグラと揺れた。(もうやめてあげて……)恋ヶ窪はただおろおろと、俯《うつむ》いたその表情がドス黒く変化していくのを見ているしかなかった。毒でも食らったみたいに薄い唇を噛み締め、もはやどこを見ているかも定かではない視線ばかりがただギラギラと猛々《たけだけ》しく光る。やすやすと肉体周りの結界に踏み込まれ、彼が全身総毛立つほど苛立っているのは、小刻みに震える目蓋を見ていれば誰にでもわかりそうだった。
「だ……大丈夫?」
先輩教師たちが離れていってから思わずそう声をかけたのは、恋ヶ窪自身、彼の登校をどこか不自然に思っていたせいもある。
いや、いいことに違いはないのだろうが、それにしても早すぎる気がするのだ。昨日ああして玄関に隠れた不登校児が、二ヶ月ぶりに今日、こうして教員室を訪れる。一体なぜ、と思うだろう、普通。ギャル先生にホイホイ釣られたわけでもあるまいに――違うはずだ、きっと、多分。
だが、「なんで来たの?」なんて微妙すぎることを訊けるテクニックが恋ヶ窪にあるはずもなかった。せめて余計な地雷は踏むまいと、黙ったままで逢坂くん(仮)の白い顔を見上げる。逢坂くん(仮)はしかし、恋ヶ窪の気遣いも戯しく、とっくに『後悔』の表情で忌々しげに教員室の床を睨みつけていた。前髪を一度細い薯かきあげ、震える目蓋をぎゅっと一度強く閉ざす。恋ヶ窪の絆創膏《ばんそうこう》だらけになった膝のあたりを一瞬だけ見る。そして細い身体を翻す。「うわ!」「おっ、なんだおまえ、出てきたのか」――突進するみたいにズンズンと、教師たちに力いっぱいぶつかりながらも全部無視。そのまま教員室を出ていく。
その後を追って恋ヶ窪も立ち上がったのは、開きっぱなしにされたドアの向こうの廊下から、「いってーな! なんだおまえかよ?」と、尖った男子の声が聞こえてきたせいだった。登校してきた生徒たちが行き交う廊下に出てみれば案の定、
「ぶつかっといて謝るとかねぇのかよ、ヒョロ男!」
逢坂くん(仮)の前に立ちはだかるようにして、ぶつかられたらしい男子が眉を吊り上げていた。「つか、学校辞めたんじゃねぇのか」
「……ちっ」
妙によく響く舌打ちに、他の生徒たちも振り返って二人の方を見た。
「うるさい。騒ぐなブ男」
「なにい!?」
「道ふさいで邪魔なのはそっちなんだよ、消えろ」
先に手を出したのは、はっきり、逢坂くん(仮)の方。少女のようにか細い身体からは信じられないような運動神経、繰り出された掌底は鞭の如く見事にしなって――などということはまったくなかった。
小さな白い手は、幼児のケンカよろしく、ベチッと情けなく相手の男子生徒の肘のあたりに一応ヒット。ダメージを与えたようにはとても見えなかったが、しかし怒りに火をつけたのは事実で、「なんだてめぇこの野郎!?」「前からてめえにゃムカついてんだよこっちは!」「この際だ軽くシメとけ!」「ついでにやっちゃえ!」
あっという間に二人を取り囲んでいた他の男子たちまで一緒になって、生意気が過ぎる異分子への洗礼タイムが始まる。恋ヶ窪も、騒ぎに気づいた他の教師とともに慌てて生徒たちの中に割って入る。
遙坂くん(仮)が全校生従規模で"生意気ヒョロ男"と呼ばれていることを恋ヶ窪が知ったのは、その日のことであった。
「見た目も中身も逢坂そっくりで、あだ名は……生意気ヒョロ男」
「そう。腕っ節だけは、全然似てなかったのよ。かわいそうなぐらい弱々しいのに攻撃性ばかり異様に高くてねぇ。的にもなるよね、それは当然」
二枚目の煎餅を噛み砕きながら、北村はずいっと眼鏡を押し上げながら前のめりになる。暴力沙汰で停学を食らった女友達の姿が脳内で重なったのか、八年前の同級生が本気で心配になったらしい。
「それで、シメられた逢坂くん(仮)は無事だったんですか?」
「……あれは、無事だったっていうのかな……?」
命までは取られなかった――というのは少し大げさかもしれない。だけどやっぱり無事、ではないかもしれない。
「鼻血は、止まりましたか?」
おずおずと言葉をかけた恋ヶ窪の声にも、白いシーツの下のかたまりは反応しなかった。保健室のベッドに寝かされてシーツをかぶり、篭城《ろうじょう》することすでに数十分。これも副担任の務め、と、養護教員には席を外してもらい、辛抱強くシーツの繭《まゆ》から逢坂くん(仮)が出てきてくれるのを恋ヶ窪はじっと待っていた。
「……ああやって揉め事になるから学校に来ないの?」
これも無視されるかな、と思いながらの一言に、しかし逢坂くん(仮)は、
「……い、」
蜘蛛の巣に捕われた蝶がもがくようにして、深く潜りすぎたシーツの中から目元あたりまで這い出してきた。
「いじめられている、とか、では、ありません」
君泣いてるじゃん、とは、もちろん言えるものではなかった。彼の生傷だらけのプライドにかけて。「わかった」と頷いてみせ、恋ヶ窪は真っ赤に濡れた目元を隠すように、もう一度シーツを引き上げてやる。その中からくぐもった声で、逢坂くん(仮)はさらに低く呟く。
「ただ、」
何度か息を殺してしゃくりあげ、
「許せない。……それだけ。勝手に踏み込んでこられるのや、変な連中に、図々しく、世界を、調和を、乱されるのが、いやで……それだけ」
要は――他人と同じ空間に生きるのがいやなのか、と、恋ヶ窪は思った。自分がそれを許していないのに、他人が同じ場に存在すること。それ自体がいやなのか。自分の意図しないように生きる存在があること、それが許せないのか。だったら、なるほど。家にジャージで閉じこもるぐらいしか、ガキにできることはないかもしれない。
「……へ、変なのは、俺の方なんだ、って、わかってるんです。異物なのはこっち……っ……た、ただ、放っておいてほしくて……でも、一度学校休み始めると、それでまた、先生とか、他の奴らにあれこれ、言われ、……それで、っ……余計に……」
思春期ゆえに肥大しきった自意識。
自分だけが特別、という世界の中心は俺さま的錯覚。
リミットを超えた防衛本能ゆえの攻撃性。
ついでに言えば美形に生まれてしまったせいで、そこにいるだけで目立ちまくって他人の視線の只中に立たされるのも過酷な運命か。
……そんなふうに解説をつけて、子供の屁理屈を理解することはできそうだったが。
「き、昨日、先生が、ああやって現れて……ベルを落としていったのに、気がついて……これが、き、きっかけなのかもって、思っ……でも、でも、やっぱり……っ……だめで……っ」
「もういいよ」
ぽん、とそっと、本当にそっと、少年の結界を壊さないよう細心の注意でもって、シーツのふくらみの肩のあたりを叩いてやった。意外と素直に己の内心を語ってきかせようとする律儀な彼に、これ以上は喋らなくてもいいという合図のつもりだ。がっちがちに防御しているくせに、こちらに攻め込むつもりがないと分かると一転、自分から進んで跳ね橋を下ろして、城の本丸に案内してしまうわけか。
再び静かになった空間で、妙なことを考える。授業でよくやる、「感想を書け」というあの手のやり方。「感じたことを表現して」「自分の身になって考えてみて」「自分だったらどう思うか書いてみて」「自分に正直になって」「みんなの前で発表して」――本当に真面目に取り組む奴にとっては、胸を開いて生の中身を見せてみて、と同意だよなあ、だとか。そんなことばかりやらされている『生徒』なんて種族は……特に敏感な系統の奴らは、いずれ神経のどこかに無理がきても不思議ではないのかも。
自分で開けて見せて。これは心臓です。これは肺です。これは胃です。食道です。腸です。肝臓です。腎臓です。これが私の、ランゲルハンス島です、先生――肉屋よろしく、次々自分を構成する内臓を人様の目に晒していくのと同じ行為に違いない。何点でしょうか。これって平常点に加味されますか。適当に理論武装できる小ざかしい知恵者はいい。でも、教師如きを相手に真面目に己の中身を開陳《かいちん》しなければ、とか思っている奴にとっては、相応の恐怖と、生身の己に点数をつけられる覚悟がいる。
(……『生徒』だけじゃないや。恋愛も、同じことか)
真面目に恋やら愛やら考える奴ほど、正直に内臓をご開帳したがるものなのだ。どれだけ無防備に本当の自分とやらを――つまりは生の内臓と同義の部分を、相手に見せられるかで想いの質量が担保できる、みたいな。
シーツの下に潜った神経過敏な少年に、恋ヶ窪は視線を向けるのも気の毒な気がして、少し離れたスツールに座った。どうやら真面目なタイプらしい彼が、ろくに会話もしたことがない自分に本心を開陳してみせてくれたのだから、それにきちんと応えたいとも思う。結局恋ヶ窪ゆり自身、学生時代が終わった今も「内臓晒しタイプ」の現役なのかもしれない。
「許さなくてもいいからさ」
びく、と、シーツの下の暖かなかたまりが震えた。
「せめて、自分を守るやり方を覚えなくちゃ。目に入る異物みんなに腹立ててたってしょうがないでしょ」
恋ヶ窪の言葉は、教師らしくはないかもしれない、生身の二十二歳の女の声で静かに室内に響いた。その声をもっとよく聞こうとするみたいに、逢糠くん(仮)がシーツからそっと白い顔を覗かせる。赤い目で恋ヶ窪の顔を見上げる。鼻の穴には、血色に染まった栓が二本。
「だからさ、無視しちゃえばいいんだよ」
「……え……」
「でも、もし、どうしても無視できないような許せないことがあったら、私に言って。なんでもいいから、私に伝えてみて。そうだ、メールってできる? 私のメルアド教えるから」
逢坂くん(仮)が頷くのを見て、手近にあったメモを引き寄せ、恋ヶ窪は自分の携帯のメールアドレスをボールペンで書き込んだ。手渡して、笑ってみせた。
「用事がなくても、メールしたかったら、していいんだからね」
「……先生……先生って……」
メモを受け取ったそのときの、彼の顔。
「……せんせい、って……」
首筋からゆっくりとのぼっていった、真っ赤な熱の色。
(……あれ? あれれ? これは……? )
いや、でも、だって、副担任だし。なんなら、年だって現役高校生にまだ近いのが新卒の自分の「ウリ」だし。こんなふうに人間関係の第一歩を築いてみるのも方法の一つかな、なんて思っていたのだが。
恋ヶ窪は少年の上気しきった煩の色と、微妙な強張りで歪んだ唇のラインを眺めながら、手渡してしまったメモを「やっぱやめた」と取り返したいような気分になる。もちろんしないがそんなこと。
ただ、忘れていたのだ。逢坂くん(仮)は、一度出会っただけの恋ヶ窪に自転車のベルを返すために、二ヶ月ぶりに学校に出てくるような子。不登校の理由を、涙ながらに、馬鹿正直に開陳しようと口を開く子。恐らく真面目すぎるがゆえに、己に向けられた風向きに過剰にナーバスで、人間関係の距離の加減が読めないタイプ。
――そう。健康な皮膚に守られている人間には感知すらできない微風であっても、内臓晒して生きてるタイプの奴にとっては、心臓に直接触れて無理矢理揺さぶる、電撃のショックにもなりうるのだ。
メールってできる? とのんきに問うた恋ヶ窪は、その夜のうちに思い知ることとなった。逢坂くん(仮)は華麗なるPC使い。バリバリにメールができる子だった。
その日の午後三時ぐらいから、十分に一通間隔で、十数時間ぶっ続けで、百行以上に及ぶメールを、バリバリ、送信してくれた。
***
逢坂くん(仮)の生活が完全に昼夜逆転しているのがわかったのは、メールの送信が午後遅くから、朝方にかけての時間に集中しているせいだった。恐らくは午後三時過ぎに起きてきて、家の中でパソコンに向き合って、朝の八時頃に寝ているのだろう。あのジャージを着たままで。学校にも通わずに。
結局あの日から三日経過。彼は早退して以来、学校には来ていなかった。
「……あー……もう……」
ワンルームの部屋に敷いたアホみたいな花柄ラグ(二千八百円)に仰向けに寝転び、恋ヶ窪はほとんど呆然と携帯の画面に目をやっていた。テレビに誰それが出てる。衣装がおかしい。ブラジルのサンバみたいだから、自分はこれから誰それをサンバと呼ぶ。――だいたい毎回、こんな程度の内容なのだ。ただ恐ろしいのは、生活を侵食する怒涛《どとう》の勢いで送られてくる分量。
フードつきの部屋着のまま、開いた携帯を己の顔面に置く。「ん? ……くさい?」知らな
くてもよかった事実に気づいて思わず起き上がり、ダイヤルボタンの辺りに鼻を押し付けてクンクンかぐ。己の体勢が姿見に映り、その異様さに驚いてすぐやめる。
「……ていうか……ああ」
携帯をテーブルに投げ出して、進んでいない授業計画ノートに虚ろな視線を放った。携帯をニオっている場合ではないのだ。明日の授業の板書内容も、ちゃんと詰めきっていない有様だった。しかしそろそろ、なにがしか返信はしなければ。三通に一回は最低でも返信しなければ、逢坂くん(仮)のメールはより恐ろしいものになる。携帯の電源を切ってみた昨日の夜に、それはわかった。
恋ヶ窪の返信がしばらく途切れると、「?」「は」「え」「は」「??」「え」「は」……間断なき問いかけのみのメールが、ずっと、ずっっと、ずーっと、送られ続けるのだ。数秒間隔でズラリと受信トレイに並ぶそのメールを見て、本当に、卒倒するかと思った。
一応寝る前には「もう寝ます」とメールすれば、返信が途切れても許される。その代わりに深夜ノリ特有の濃厚な長文メールが、朝までにたっぷりどっぷり貯まっているのは覚悟しなければならない。
『頭がふわふわするよぉ〜ちょい寂しいカモ? です? 会いたいナ〜せんせ〜俺キモイ』
飛び交う顔文字は異様に細かく凝っていて――バリバリバリ! と全力で頭皮を掻いた。かゆい……かゆい! 脳みそがかゆい!
「……っどぁあ〜くそ〜! もういい! 食っちゃおう!」
立ち上がり、部屋の隅に設《しつら》えられた小さなキッチンへ向かう。棚を漁ってカップやきそばを掴み出し、カロリー表示は見ないようにしながらお湯を沸かす。夕食はコンビニ弁当でとっくに済ませたが、授業計画もまだやらなければいけないし、頭脳労働だし、これぐらいの夜食は許されるだろう。肌は荒れるかもしれないが。包装をやぶって紙の蓋を半分だけ開き、かやくの袋を取り出したところでテーブルの上で携帯が震える。また逢城くん(仮)か、ととりあえず後回しにしようとして、お湯を注ぐ。しかし着信パターンがメールではないのに気がつく。電話だ。電話してくる相手なら、親か、彼氏ぐらいしか思いつかない。
「っと……もしもし?」
『ゆり』
後者であった。先週末にケンカをして以来の。
『今からこっち来れる?』
返事をするより早く、とっさに壁の時計を見ていた。もうすぐ十一時。
「車修理に出してるって言ったじゃん、足ないよ」
『まだ電車あるでしょ』
「帰れなくなる」
『タクシーで帰るか、うち泊まって始発で帰れば』
「えー……きっついよ、ちょっとそれ」
『……お願い。お願いお願いお願い。ゆり来ないと……もう……』
酔ってるし、泣いてもいた。
都合よく甘えられてもいた。それでも、こうして情けなくすがってくる姿もまた、自分にしか見せることのできない彼の開陳された内臓なのかもしれない。もはや舞い上がるようなときめきや喜びは欠片ほども見当たらなくても、その生々しさは信じられるから、
「……わかった。いいよ。行く」
自分も、同じだけの露出度でもって応えたいと思うのだった。
「駅についたら電話するからね。それ以上飲まないで待ってて。いい? もう飲んじゃだめだよ」
通話を切るなり姿見で自分を見た。すっぴんにヘアバンドオールバック、部屋着――とりあえず脱ぎ、手近なシャツをかぶり、デニムを穿く。顔はもうしょうがない、せめて髪をとかして無理矢理ゴムで結ぶ。「あっ! やきそば!」……は、もうあきらめるしかないのかも。台所にお湯が入ったままで放置して、忘れてしまうことにする。携帯が震えて、メールが来たのがわかる。逢坂くん(仮)には悪いが後回しにさせてもらうことにして、とりあえず見もしないでバッグに放る。電車の中からでも返信すればいいだろう。
財布の中身は一万八千円。これだけあればどうにでもなりそうだ。財布もバッグに放り込み、思い出して授業用のノートや辞書、テキストも持っていくことにする。向こうについて、奴が眠るのを見届けたら始発までは進める時間もある。
なんだかんだとバタバタ支度をして、玄関で靴を履いたのは電話がきてから十五分ほど経った頃だった。家の鍵を持ち、自転車の鍵も持ち、平日の夜中だというのに蒸し暑い外気の中に踏み込む。鍵をしっかりと閉め、少し小走りにマンションの外廊下をエレベーターへと向かう。バッグの底でまた携帯が震える。ちったぁ待ってろ、すぐ返信すっから、胸のうちで逢坂くん(仮)に囁く。
心が急くのは、奉当に最近ちょっと心配な彼氏のためだ。労働基準法? は? なにそれおいしいの? 的な職場で心も身体も生おろし状態、自分だって楽な状況ではないが、それでも同情せざるを得ない。必要だというなら駆けつけたい。
蚊が封入されたボロエレベーターで四階から一階まで下りて、オートロックなどついちゃいない玄関ドアを開いて表に出る。裏手の自転車置き場に向かおうとして、
「うわっ!?」
「……っ」
悲鳴を上げたのは、黒いジャージの少年の方だった。恋ヶ窪はといえば、声も出せずに漫画のようにコケ、路上に尻餅をついていた。
彼は――逢坂くん(仮)は、乙女のように顔を覆い、彼のものらしい自転車の周りを意味なく小走りに一周し、そして、ゴミ置き場の屋根を支える鉄柱の向こうにかくれんぼするみたいにそっと身を潜《ひそ》める。くねっと身を傾け、白い美少女顔だけをちょこん、と覗かせる。……高原の恋人同士か。
「こ、ここここ、ここここここで、なに、してるの――」
落ち着こうと必死に声を絞り出すが、膝はガクガクとおもしろいほど笑う。だって、ほとんどホラーだ、ここまできたら。田んぼの奥の自宅の部屋でパソコンに向き合い、マシンガンメールを送信していたのではなかったのか、逢坂くん(仮)は。
「……メール……」
よくよく見れば少年の手には、ストラップ無しの携帯が握り締められていた。フリップは開いたまま、その親指がぽちり、とボタンを操作する。ややあって、「ひい!?」……恋ヶ窪のバッグの底で、携帯が震える。
「……先生から返信がないから、もしかして、マシンからのメールは間違って弾かれてしまっているのかも、と思って、携帯からメールをしていました……」
「い、いつから!?」
「……二十分ぐらい前から……」
メールの浮かれぶりが嘘みたいな低い、かすれた声。恋ヶ窪は自分の携帯を開いてみて、確かに送信者のメルアドがいつの間にか携帯のものになっているのを確認、
「ほ、ほんとだあ……!」
ははははあ、と、もはや笑うしかなかった。
「……ていうかさ……こ、来なくても、よくない……?」
「……機動性が高まったので……つい……」
「……こんなことをしては、いけないのよ……」
「……近いですね……うちからここまで結構すぐです……チャリで……」
「……い、急いで家に帰ってください……お、送ろうか……?」
「……先生は……いつも……デイリーヤマザキの前を通って学校に行くんですか……?」
「……おうちに、電話しようか……?」
話も噛み合わないままに、いたずらに時間だけが過ぎていく。帰れといってもゴニョゴニョ、送るといってもゴニョゴニョ、目的不明のままに立ち話をし続けようとした逢坂くん(仮)がやっと自転車に跨り、帰っていく背中が見えなくなるのを見送って、ようやく自分のチャリを引っ張り出した。
全力で真夜中の道を漕いだのだが、しかし時すでに遅し。駅についたときには。終電は行ってしまった後だった。
駅から状況を説明しようと電話をかけ、酔った声で返された言葉はごくシンプル。
――おまえ、もういいよ。
おまえ、もういいよ。おまえ、もういいよ。おまえ、もういいよ。おまえ、もう――
肩に担いだバッグの重みに、不意に耐えられなくなる。発作的に全部プン投げて捨ててしまいたくなる。シャッターの下りた駅の改札で、恋ヶ窪は一人、ほとんど呆然と自分の自転車を眺めていた。ブレーキは壊れたあの日のうちに修理してあったが、ベルはいまだつけるのを忘れたまま、部屋のどこかに放置されているはずだった。その部屋では今頃、やきそばがすごいことになっているだろう。考えたくない。せめて、お湯を捨ててから放置するべきだった。
***
「誤解を招くようなことをしてはいけない」
だとか、
「大人なのだから、うまく立ち回るべきだった」
だとか。
キーコキコキコ、と、自転車のペダルが甲高い音を立てて軋む。口を真一文字に結び、恋ヶ窪にはその耳障りな音も聞こえてはいなかった。
決して規模の大きな学校ではないのがマイナスに働いた。朝のホームルームが始まる頃には、その噂は全部の学年に回りきっていた。一時間目が終わる頃には、他の教師の耳にも詳しい内容が届いていた。「二年の生意気ヒョロ男と新任の恋ヶ窪が深夜にラブラブ密会していたらしいよ。見た奴がいるよ」……見ていた生徒がいたのだ。あの、マンション前の悪夢の立ち話を。
午前中のある授業では、ずっとなにやら紙片が教室を巡り、ヒソヒソクスクスと私語が絶えなかった。ある授業では嫌悪感たっぷりの女子たちの冷たい視線に晒され、ある授業ではおもしろ半分、時間を揃えて一斉に筆箱を落とされた。泣くのはギリギリ構えられたが、頭が真っ白になって言葉に詰まった十五秒間の空白は誤魔化しようもなかった。
昼休みには受け持ったことのない生徒たちが教員室に恋ヶ窪の顔を眺めにきて、そして放課後、校長と教頭と学年主任に呼び出された。恋ヶ窪にとっては待ちに待った呼び出しだった。事情を説明し、自分の携帯も見せ、決して「ラブラブ密会」なんかではなかったことを証明できた。
それでも全責任は恋ヶ窪にあると断じられ、叱責された。いや、それはいいのだ。確かに自分の立ち回りが下手だったのが、この事態を招いたのは事実なのだから。しかし、逢坂くん(仮)をこれからどうするか、という話を向けられると、揃って「あれは難しい子だからねぇ」だけで済ますというのはどういう了見なのだろうか。「とりあえず、今日は携帯を切っておけば?」 本気でそれが解決になるとでも?
まったく納得などできなかったが、上司たちの見ている前で携帯電話の電源は切らされた。怒涛のメールは朝の六時に『ばいちゃハァト』で一旦途切れ、逢坂くん(仮)は多分まだ就寝中なのだろう。それ以来電源を入れ直していないのは、上司たちの目が気になるからではなく、そうする気力が湧かないからだが。
残業を終えて学校を自転車で出る頃には、すでに空は暗かった。腕時計を見れば時はすでに八時。
「……なんか、食べなくちゃ……」
なにか……コンビニか、スーパーか、家にあるなにかか……考えるのも鬱陶しく、食欲もほとんどなく、恋ヶ窪の自転車はほとんど無意識にファミレスの看板の光に吸い寄せられるように向かっていた。
白々しい光に満たされた店内に入り、ウエイトレスが案内してくれた席につく。重いバッグを二人がけの席の向かいに放り、メニューを眺めて機械的に呼び出しボタンを押す。フェア、と大きくかかれたよくわからないハンバーグのセットを指差しで頼み、
「……はあ……」
ぼんやりと、シートに沈む。ドリンクつきのセットなのに、グラスを取りにいく元気も出なかった。矢尽き、刀折れ――そんな心境でただ一人、お冷のコップをじっと眺める。でも、このままこうしていても、どうにもならない。ただ座っていてもなにも変わらない。飲みたくもない水を飲み、感覚も危うい右手でバッグからようよう携帯を掴み出す。
はっきりと、メールや、家に来られては困ることを伝えよう。そう思ったのだ。傷つけないように言葉を選び、難しくてもわかってもらうしかない。ハンバーグが来る前に、さっぱり片をつけてしまいたかった。どれほどのメールが溜まっているのか考えるだけで恐ろしく、電源を入れる勇気を奮い立たせるのに、そこから丸々五分はかかった。画面から視線を逸らすようにしてようやく電源を入れ、息を詰める。しかし、
「……あれ? メールがない……?」
受信トレイには、朝方のばいちゃ以来、メールは一件も入っていなかった。なぜ? と思いながらも深々と安堵の息をつくが、あることに気づき、すぐにその息を飲み下す。メールがない、ということは、昨日の夜、寝る前に彼氏に送った「今日はごめんね」メールに返信もない、ということだ。
「……なんで……? ……つーか、こっちから謝ったのに……」
そもそも、謝る筋合いではなかった。向こうのわがままに、お願いに、こっちが付き合ってやろうとして、でも不可抗力の事態によって叶わず、それで謝って、返信もないのだ。おまえもういいよ――あのひどすぎる一言で与えられた傷も、こっちが努力して、忘れてやろうとしているのに。
色々な方向から、やられる一方か。
やられたい放題か。
携帯を見つめたまま、じわじわとドス黒い感情が胸を圧迫し始めるのに気づいていた。相手の都合に合わせてやっても、これだけ頑張っても、顧《かえり》みられることもないのか、自分という存在は。そんなモンなのか。
「季節の彩《いろど》りハンバーグとライスのセットでーす」
どこをどう見てもただのイタリアンハンバーグでしかない物体が運ばれてきて、恋ヶ窪の目の前に並べられる。フォークもナイフも、自分とはまったく無関係の地平にあるように思える。今の相手は、この手の中の、携帯だ。いや違う、男だ。
舐められている。
はっきり、そう思う。文句なんか、多分ほとんど言ったことはない。自分からケンカをふっかけたことだってない。物をねだったこともない。いい彼女だと我ながら思う。こんなふうに踏み付けにされて、黙っているなんて、してはいけないと思う。自分に対して、それはあんまりな仕打ちに思える。黙っていても誰も味方してはくれないのだったら、自分が立ち上がって、自分のために声を上げるしかない。
言わない方がいいと思うよ――もう一人の冷静な自分が、猛る自分を宥《なだ》めようとしているのがわかる。なにも言わないで、黙って忘れて、ハンバーグ食べようよ。スルーだよ、スルー。そうすれば、そのうち向こうもこんなこと忘れて、今までどおりやっていける。
「……今まで、どおり……?」
今までどおりに一方的に踏みつけられるこの関係を続けていける。
事態はなにも変わらずに、このままでいられる。
「……冗談じゃ、ないのよ……!」
短縮ダイヤルのゼロ番。コール音。やめておいた方がいいよ、絶対――迷う心を叩き伏せるように、声を発した。「もしもし」の「も」の部分から、もはや涙に沈みそうな鼻声になっていた。
『あ、ちょっと待って、会社だから……すぐ喫煙所に出るからちょい待ち』
五秒待って、
「もしもし。ねぇ、昨日のこと。私、悪くないじゃん! なんで私がキレられないといけないの!? そっちの都合でばっかり動いてられないの! できることはやろうとしてる、でもできることばっかりじゃない! そっちは私になにをしてくれるの!? 私ばっかりがんばらないといけないの!?」
必死に声を抑えながら、
「私もうがんばれないよ……!」
言ったそばから、頭を低くして返ってくるだろう仕返しに備えて対ショック体勢を取りたくなる。イライラ野郎からどんな恐ろしい言葉が叩きつけられるのか、早くも恐怖に打ち震える。しかし、
『……ごめんな』
たいして待たせもせずに返って来た言葉は、驚いほどに優しいのだった。意外な声音《こわね》に恋ヶ窪は思わず小首を傾げていた。そういえば、この人はこういうふうに話すんだっけ。懐しい声を聞いた気がした。そして、
『そうだよな。……ほんとに、そうだよな。自分でもわかってた。ゆりにばっかり負担かけてたよな。ちゃんと話しないとって思いながら、毎日忙しいのに逃げてたかも。ほんと、ごめん。こんなことになっちゃって』
「……えぇ……?」
これは――息を飲んだ。
びっくりしていたのだ。本当に。
『俺がダメな奴だった。ごめん。……ありがとうな。ゆりと出会えて、付き合えて、幸せだったよ俺、ほんとに、ほんとにさ……』
「……うぅ……?」
だって、これは――これはもしかして、世に言う、別れ話、というやつではないのか。もしかして。もしかしたら。……そうなのかも。本当に。
どうやら本当にそうなんだ、と理解したときには、もはや別れ話も佳境というか、最後のまとめに入っていた。
『がんばらせて、ごめんな。もうがんばらなくていいからな』
大慌てでここから恋ヶ窪がやったことといえば、
「……す、好きだよ。ねぇ。好きだってば。大好き。さ来年ぐらいに結婚して」
ご覧下さい、内臓でございます! 目の前のフォークとナイフで胸を切り裂き、中身を取り出して並べて見せる。ねぇ、これが心臓だよ。ねぇ、好きだよ。ただちょっと言ってみたかったの、私だってワガママを、でもほら、私は正直に心のすべてをあなたにさらけ出して――
『ありがとう。俺も好きだったよ、幸せだった。……好きだから……だから、じゃあ、な』
「……あぁ……?」
そそくさと、自分のモツを腹にしまいなおし、みっともないのや汚いのや血色をしている真実なんて全部隠し、傷を縫い上げ、パンツを上げてズボンを穿いて、シャツを着てスーツを着て手を振って去っていく男の姿が、今、見える。そう思う。
残されたのはハンバーグと、ライスと、水と伝票と、一人分の中身。いらない、とお返しされて、行き場のなくなった恋ヶ窪ゆり。あれれ? と首を捻った。これで終わりなんだ。
これが、終わりなんだ。
「……え! ……? うっそ! ……」
通話が切れた携帯を片手に、今度こそ身動きがとれなくなる。ほら、言わなきゃよかったのに。したり顔でもう一人の自分が囁いている。
手付かずのハンバーグを呆然と見つめ、意外と痛くはないんだ、と思う。意外となんとも思わないものだ、と思う。ただ、あっけなさに、すごく驚いてはいる。
「……うっそだー……」
窓の外に目をやって、気がつけば大雨が降り出しているのを知った。「うぇーん……」声が出て初めて、自分がこんな公共の場で、肩を震わせて泣いているのも知った。感情なんてなにも湧かないのに、涙が止めようもなく溢れ出て、顔がみっともなく歪むのを直すことはできなかった。
口をつけないまま泣きながら会計を済ませ、雨の降りしきる夜の大通りを、自転車でひたすらに進んでいく。一体なんだったんだろう、ただそれだけを泣きながら考えていた。
この恋が、ではなくて、自分のことだ。
一体なんなんだろう。髪から顔に伝う雨水が、流れるそばから涙を濯《そそ》ぐ。普通に死にたい。そんなことをリアルに思う自分のことなど想像したこともなかった。後悔や、怒りや、悲しみですらなく、ひたすらに消え去ってしまいたい。
なぜなら、圧倒的な事実として、自分には存在価値がない。
「私なにしてんだろ。こんなとこで、なにになれると思ってたんだろ。なんで、どうして、がんばってたんだろ。なにがしたかったんだろ」
結局こんなふうになるのなら、全部無駄だったのだ。頑張ってきたつもりの日々は、全部最初から意味のないものだった。この世にいらない不必要な存在が、どれだけあがいたって無駄だった。おまえはもういらない、誰かが発したその一言で、終わってしまう程度のあがきだった。
「……なにしてんだろ……なんのために……いるんだろ……」
それでも行く場所なんてどこにもないから、自分のあのワンルームに帰るしかない。
「……それで……どうすればいいんだろ……」
帰って、濡れた服を脱いで、メイクを落として、洗濯機を回して、風呂に入って、スキンケアをして、髪を乾かして、洗濯物を干して、明日の授業の準備をして、目覚ましをかけて、眠って、起きて――
「……どうすれば、いいんだよぉ……!」
朝が来れば何事もなかったような顔をして、また頑張らなければいけないのか。存在価値のない、誰にも欲しがられない、この50キロの肉を引きずって、日々のあれこれをこなしていかなくてはいけないというのか。腹から臓物垂れ流したゾンビ女でしかないのに。
「できるわけないよぉ!」
雨の中、自転車を漕ぎながら一人叫んでいた。頭なんか、とっくにおかしいに決まっている。泣きながら「うえええん! 会計お願いしますぅ!」とファミレスのレジで叫んだあのときから壊れている。
「無理だよっ! もうできないっ、もうがんばれないぃぃっ!」
九階建てのしょぼいワンルームマンションが見えてきた。このまま、道の果てがあの世ならいいのに。苦しむことなくこのまま消えてしまえればそれが一番いい。明日の朝なんかもういらないのだ。そうだ、今夜で地球滅亡ってことで、もういいや。それで決まりでいいじゃん。もうしらね、全部爆発して消えてしま
「せんせえええええええ―――――――っっっ!」
「うぎゃあわわわぁぁあわわわわぁぁぁ……!?」
真横から黒い影に飛びつかれ、この夜最大の絶叫が喉から飛び出した。
「せんせぇぇぇもう終わりですうわああああああ!」
「きゃああああいやああああなにいいいいいい!?」
よくぞ転ばなかったものだ、と我ながら思う。黒いジャージの、ズブ濡れの小さな影は、もちろんというかなんというか逢坂くん(仮)でしかありえなかった。意味不明の叫び声を上げながら恋ヶ窪の自転車のハンドルを脇から引っつかみ、力いっぱい揺さぶってくる。やめてぇぇぇ! と叫び返すのが精一杯、傘もないまま往来で、二つの影が危うく揺れる。
「せんせい、もう終わりなんですっ、もう終わりなんだあああ! わ―――っ!」
「ひいい……!?」
「お母さんが、お母さんが、マシンと携帯を取ったあ! 俺の小遣いで買ったのに、ましんとけいたい、俺の俺のおれのなのにっ、ぎゃあああ!」
「お願いだから落ち着いてええ! うわー! きゃー! いやー! 揺らさないで、マジで転ぶっ! ……えええ? な、なに? なんなの? どうしたの?」
「おれの、おれの、おれの、ひぎゃぁぁあぁぁぁ!」
整った顔をグシャグシャに歪め、逢坂くん(仮)の錯乱は収まらない。自分だって十分錯乱していたつもりだけれど、目の前に自分以上の錯乱っぷりを見せつけられて、もはや引くことしかできなかった。恋ヶ窪ゆり人生最大の精神的爆発は、早くも収束させられつつあった。
「ととと、とにかく落ち着いて! 話を聞かせて! どうしたの? なにがあったの? 今日はメールもくれなかったよね?」
ひっ、ひつ、としゃくりあげつつ、逢坂くん(仮)はさらに喚く。
「た、担任が、うちに、電話してきたんです! 恋ヶ窪せんせいに、俺が、迷惑かけてるって……かけてないですよね!?」
「……う、うーん……」
「ですよね! なのに、親に、変なふうにチクって! 親がキレて! パソコンと携帯を俺から取ったんだ! 車に積んで、どっかに持ってった! 中も絶対見られた! 絶対、どっかに捨てられた! 捨てられたんだ、俺のなのにぃぃぃうわああああ――――っ!」
「……ああ、ああ、ああ……」
それでも、逢坂くん(仮)は錯乱ついでに身体に触れてきたりは絶対にしない。恋ヶ窪の自転車のハンドルを脇から掴んでブンブン揺さぶり、なす術もなく悲痛な絶叫を聞かせ続ける。そうすることしか彼にはできないのだ。どうしようもなく彼は子供なのだった。
「俺は、もう、終わりだあ! ていうかみんなどうして平気で生きているのか、俺にはわからないっ! どうやって、普通に学校いったりできるんだ!? どうやって人とうまくやれるんだ!? わからないわからない、きっと俺は元から弱い奴なんだ、弱い種《しゅ》に生まれついたんだ、生き延びられる運命じゃなかったんだ! せんせいだけが、俺をわかってくれた! ……わかってくれたんですよね!?」
「……う……ううーん……」
「ですよね!」
――俺はつらい、俺は弱い、だからしょうがない、って、一日家で寝てられたらいいよな、とは思う。私だってそうしてたいよ、ってのが共感というならそうなのだろう。
「そもそも俺の小遣いで買ったものを取る権利なんて親にはないのに!」
内臓でろーんとはみ出させて、痛みに浸ってただ泣いていられれば、それっていいよな、とも眼う。
「どうしたらいいかもうわかんなくて、。とにかくせんせいにあえばなんとかなるって、」
話のわかる大人に守ってもらえるならいいよ――子供はいいよ、本当に。でも、こっちはもう子供ではないのだ。給料もらって毎日働く地方公務員なのだ。
(……ああ……そっか……。……そっかー……)
自転車ごと揺さぶられながら、雨の中で恋ヶ窪は両目をしっかり見開いていた。
私も内臓でろーんだよ、わかりあえるよ私たち、全部見せあえるよ……そんなことはもうしていられないのだ。でろーんだろうが引きずっていようが、逢坂くん(仮)に対しては――子供たちに対しては、傷なんて開いたことがないようなツラで、「あなたの内臓見せてみて? ふーんそうなってるんだあ、じゃあ先生が教育してあげる」と偉そうにして見せなくちゃいけない。無神経だと罵られても、わかってなんかやらないと、上から見下ろしていなくちゃいけないのだ。
「せんせい……! どこでもいいです、どこかに、連れていって……!」
「……いいよ。おいで」
――子供を、より強い力で、とにかく先に導いてやるために。明日の朝には「学校だよ!」と残酷に叩き起こしてやるために。
逢坂くん(仮)の、まだ自分よりも華奢《きゃしゃ》に思える身体に手を伸ばす。そして決然と、全力をもって、恋ヶ窪は叫んだ。「甘え、てんじゃ、ねぇぇぇぇええええええぇぇぇぇ―――っ!」
「……えっ……」
「そうです。こうです。こう」
眼鏡をひねる北村の目の前で、恋ヶ窪の手は、まるでUFOキャッチャーの如くわきわきと動いていた。上部から開いた指でがしっと掴む、あの動きだ。
「そんなに驚くことですか? こうやってね、頭を引っつかんで、とりあえずぐりぐりぐり、っとひねり倒し問やったんです」
「……気持ちはわからないでもないですが……世が世なら、ちょっと問題になるのでは」
「今だって十分間題ですよ」
三枚目の煎餅を前歯ではきっと砕き、恋ヶ窪は北村に笑顔を向けてみせる。
「だから、北村くんにしか話しませんよ?」
「……これは……つまり、俺への長めのアドバイス、なんですか」
そうだよ。頑張れクラス委員長――いや、みんなの生徒会長。
「毎日を生きていくのって、本当に『戦い』です。打ちのめされるようななにかにぶちあたっては、それを倒していかないといけないんです。……大丈夫だよ。もし倒す力が足りないときはね、その場になんとか踏みとどまって、機を待つしかないよね」
北村は生真面目に頬を引き締め、背中を伸ばして担任教師の目を見返した。改めて眼鏡をくいっと押し上げ、広げられたままの企画書を指で指し示す。
「……俺は、まさに今、機を待とうとしているところです。そのためには先生の手助けも必要です。全力でふざけながら俺は機を待つので、だから番組に出てください。そうだ、今の話をインタビュー形式でやりましょう!」
「いやいやいや! 問題だって言ったばっかでしょ!?」
「じゃあもっと最近の話を。なにかありました?」
「あったけどさー! ……そう。あったのよ……! あったんですよ……ひっどい話が!」
「じゃあそっちで。第一回め、というのはじゃあよしましょう。先生の心の準備ができた頃に、そのお話をうかがいます。先生の好きな曲もかけます。テーマソングとか、あります?」
「……それって、権利関係大丈夫かなー」
逢坂くん(仮)は、実はいまだにメール魔であった。
あの事件の後、親に引きずられるようにして学校に出てくるようになり、しばらくは死んだような目をして校内を漂っていたが、「辞めたんじゃなくてよかった、結構心配してたんだよ」と女子の一人に声をかけられたのがきっかけで、そのまま女子グループに愛玩《あいがん》される道を選んだのだ。かくしてそれは成功であった。
女子にモテるようになると、うまい具合にモテ系男子とも付き合えるようになる。彼女もでき、背も卒業までに二十センチ伸びた。
そして今朝も恋ヶ窪ゆりの携帯には、「萌香《もえか》ちゃんハクチョンでたです〜♪」と生まれたばかりの愛娘《まなむすめ》 (ハナタレ状態)のデコレーション過剰な写メを送りつけてきているのだ。なーんじゃそれ、と恋ヶ窪はちょっと眉をしかめ、それでも結局、「くっそー! 赤ちゃん、かわいいい〜!」溶けるみたいに微笑むしかない。
***
誰がどんな夜を過ごしたかは、傍《はた》からは窺い知ることはできない。
窺わせるような真似をしないのもマナーだし、窺ったりしないのもマナーだ。朝がくれば照らし出されてしまう世界で日々の業務を遂行するために、お互い様の精神で、大人たちは夜の秘密を守り抜くのだ。白々しい大人の世界は、そうやってみんなで回していくしかない。
その機構《きこう》の片隅に、自分も気づけば組み込まれている。それが幸せなことか不幸なことか、良いことなのか招かざる事態なのかはわからなかった。
ただ、大丈夫、と叫んだのだ。
あの雨の中。
「下ろしてええええ! ぎゃああああ!」
「絶対、大丈夫だから! 黙って先生にしっかり掴まってなさい!」
「前に同じことやってコケたんだろー!? わああお母さ――ん!」
「そのお母さんのとこに送り届けようっての! さあ、いっくよ―――!」
あの日の、あの坂道。あの夜の、あの闇。
竹やぶの中の、あの山の頂点。
大事な生徒を後ろに乗せた自転車二人乗りで、恋ヶ窪は大雨に波立つ田んぼを強く見下ろす。泥に滑る地面を蹴る。大丈夫、大丈夫。転ぶもんか絶対に――自信の出所は、本人にも不明だ。
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あとがき
このパソコンはすごく汚いのでは……? と思いながらあとがきを打っています。風邪を引きまして、咳とくしやみが止まらないのです。モニターやキーボードは、その度に私が噴き出したる風邪ウイルスの直撃を真正面から受け止めているわけです。そしてその汚染されたキーボードを触った手でパンとか掴んで食べている私……心胆寒《しんたんさむ》カラシニコフ。
さて、『とらドラ・スピンオフ2!』にお付き合い下さった皆様! お手にとっていただき、ありがとうございました! 予定ではこの後『とらドラ10!』で、あまり間を開けずにまたお会いできる、はず、です! なのでどうぞ引き続き、よろしくお願いいたします!
その予定を現実のものとするためには、風邪など引いている場合ではないのですが……この体たらくです。二十五歳ぐらいまでは、「風邪っぽいかも」と思っても、その夜たっぷり寝れば次の朝にはすっきり回復していたような気がします。しかし最近は「風邪っぽいかも」時点で食い止めることができません。薬を飲んでも、何時間寝ても、なにを食べても、ビタミン的なサプリを欽んでも、100パー発病するみたい。そして真面目に休養しても治らない。病院に行っても治らない。最低でも丸々三日は社会生活が営めない感じです。
昔はこんなではなかったはず……それこそ高校三年生までは、この我輩も、ブルマで(まだブルマが世間的にアリだった時代の人間なので)元気に駆け回っていたのです。今ブルマを穿かされて、マットの上を転がされたりしたら、風邪うんぬんの前にそもそも命が尽きると思います。主に社会的な意味で……ていうかブルマってなんだよ。なんであんなパンツ状のものだけを穿いて、平気で運動していたのだろう? 中高一貫の女子校だったので、体育祭なんてブルマのケツが500個ぐらい一堂に会していたことになるのですが、今思うとそれは猛烈に狂った風景だったのでは。たった十二年ほど前のことが、なんだか妙に遠く感じられる今日この頃で……おや……? 十二年……? 産まれたての赤ん坊が小六になってしまう……?
……遠い日の思い出はともかく、最近の私は免疫力が低下しているに違いない、と思うわけです。「笑う」ことが免疫力を高めるらしいので、日々笑顔で過ごしたいところなのですが、ちょっと目線を上げると視界に飛び込んでくる「心胆寒カラシニコフ」の呪わしき九文字。ああ凍りつきそうだ。自分がノリノリで書いた冗談を我に返って冷静に眺めると、心底ゾクゾクきますね。
それでは皆様! 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました! 次は本編『とらドラ10!』です! 応援して下さっている皆様に無事お届けして、楽しんでいただけることだけを祈りつつ、風邪ウイルスも気合で粉砕したいと思います! そして、二〇○九年一月現在、絶叫先生のコミック版が連載中、アニメも放映中です。どちらも原作者としては超感激級の作品になっております! ぜひぜひチェックしてみて下さいね!
竹宮《たけみや》ゆゆこ
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発行 二〇〇九年一月十日 初版発行
入力 どろん