とらドラ・スピンオフ! 幸福の桜色トルネード
竹宮《たけみや》ゆゆこ
[#地付き]イラスト:ヤス
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)放課後《ほうかご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中間|試験《しけん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
午後四時前、静かな放課後《ほうかご》の渡り廊下。
傾きかけた陽《ひ》が窓から穏やかに差し込むその場所に、一年生の富家《とみいえ》幸太《こうた》は一人にんまりと立っていた。
小柄《こがら》な身体の影が落ちるのは、今朝《けさ》から設けられた特設掲示板。長く貼り付けられた模造紙《もぞうし》に、彼の名前は載っていた。
五科目総合七位 富家幸太――先週終わった中間|試験《しけん》の成績《せいせき》優秀者《ゆうしゅうしゃ》として、見事認定されたわけだ。
不幸な病《やまい》によって一ヶ月入学が遅れたにもかかわらず、この好成積。担任も今朝から上機嫌《じょうきげん》で、幸太をわざわざ呼び出して激励《げきれい》の言葉をかけてくれた。同じクラスの友人たちの間でも、幸太の株は上がりまくりだ。
しかし、
「ま……こんなもんだ」
このクールさはどうだ。一応にんまりとはしているものの、落ち着き払った低い声。嬉《うれ》しくないわけでもないが、決して小躍《こおど》りしたりもしない。そもそも、別にこの栄光を眺めるためにわざわざやって来たわけではなかった。幸太は生徒会の庶務《しょむ》を務めている。生徒会のメンバーは、放課後に必ず生徒会室に集まらなければならない。その定めどおりに生徒会室に向かうには、この渡り廊下を通る以外の方法はない。あくまで途中の道すがらなのだ。
簡単《かんたん》に言えば、この手のことには慣れっこだった。
トップを取ったというなら話は別だが、『所詮《しょせん》』七位『程度』のこと。幸太にとっては、「ま、こんなもんか」ぐらいのできごとにすぎず、特別な感慨《かんがい》を抱くほどのモンでもない。
小学生のころから、勉強は得意なタイプだった。低学年のうちから担任に勧められて有名な進学塾に通い、そこでもそれなりの成績を収めてきた。本当ならば、今頃いわゆる「御三家《ごさんけ》」中高一貫男子校で、エリート教育を受けているはずだった。会否判定模試でも常に判定はAだったし、少々ランク下の滑《すべ》り止《ど》めだってちゃんと受験するつもりだった。
では、なぜ幸太はこの公立高校のボロい渡り廊下に佇《たたず》んでいるのだろうか。
忘れもしない小六の一月三十一日、自転車にはねられたからである。チャリの甲高《かんだか》いブレーキ音の響《ひび》く中、幸太の小さな身体はバランスを失ってガードレールを乗り越え、高さ十メートルの護岸《ごがん》から川の中へとダイブした。
中学受験は二月一日と二日――命に別状はなかったものの、幸太はその運命の二日間を白く清潔《せいけつ》なベッドの上で、加害者の女子大生の土下座《どげざ》とともに過ごした。
当然、高校|受験《じゅけん》でリベンジするつもりだった。……あの忌々《いまいま》しい事故さえなければ、今頃《いまごろ》全国の公立校の中でもトップの進学|実績《じっせき》を誇る有名校で、ハイレベルな授業を受けているはずだった。
あの事故……そう、受験前日に車にはねられさえしなければ。自転車よりはレベルアップ、しかし誰《だれ》も喜びはしなかった。
ひびの入ったあばらを摩《さす》りつつ、滑《すべ》り込みで受験できたのは中堅上位校の二次試験。無事に受験し、合格もできて、とりあえずは一安心と家族で食事に行った先で盲腸《もうちょう》に倒れたのが入学式前日。そのまま入院一ケ月、貴重な「高校生活最初の一ヶ月」を棒《ぼう》に振ってしまったのは記憶《きおく》に新しい。
――不幸体質なのだ。そうとしか説明しようがない。
なにか大事なことが控《ひか》えていると、その矢先、絶対に不幸な事故が幸太を襲《おそ》う。ちなみに今から十年前、国立小学校の受験の際には最初のくじびきであっさり落ちた。それよりもっと以前の話をすれば、幸太がオギャーと生まれたその日、叔父《おじ》の会社が不渡りを出した。三歳の七五三の日にはひい祖父《じい》さんが身《み》罷《まか》った。
とにかくつまり、もともとデキはいいわけだ。不幸体質によって実力以下の状況におかれている今、良い成績が取れたってそれは当たり前のことと思う。不幸さえ起こらなければこんなもんだ。これが重大な、たとえば入試かなにかだとしたら、なにが起こったかはわからないが。
まあ、一ヶ月遅れというハンデがあってのこの成績。七位とはいえ、もうちょっと喜ぶべきかもしれない。今から向かう生徒会室の住人たちにも、多少は驚《おどろ》きを与えられたと思うし。
そうだ。あの人たちもここを通るに決まっているのだから、きっと自分の名前も見つけてくれたはず。幸大の口元に、にんまり以上の誇らしげな笑《え》みが宿《やど》る。
使えねえ、やる気がねえ、おまえにゃなにより男気がねえ――日々、ボスである生徒会長に言われ続けている小言だ。幸太、てめえなあ、もうちょっとガッツを見せられねえのか? あ? それがてめえの本気かよ? え? ……男気溢れる巻き舌で、昨日《きのう》も事務仕事のミスを叱責《しっせき》されたばかりだ。まあまあ、過ぎたことを責めても、と副会長が間に入ってくれたおかげで鉄拳《てっけん》制裁こそ免《まぬが》れたが。
完全に、生徒会の面々にはバカにされきっていた。ダメでへなちょこで不幸な幸太、と。だが、この好成績を見れば、すこしは先輩《せんぱい》たちも自分を認めてくれるかもしれない。まあ、優秀《ゆうしゅう》さで肩を並べようとは思ってはいないが。
チラ、と視線《しせん》を横にずらせば、二年生と三年生の成績優秀者が貼《は》り出されている。三年生の第一位、しかも満点、そのうえ入学以来の連続トップ、そんな超人的成績を叩《たた》き出している奴《やつ》こそ、幸太のボスにして全生徒の心の兄貴《あにき》・頼《たよ》れる親分こと生徒会長だ。
そしで二年生のトップが、親分の絶対的|腹心《ふくしん》にして副生徒会長。痛点ではないにしろ、五〇○点中四八三点というのはやはり凄《すさ》まじい。
幸太《こうた》はやっぱり『所詮《しょせん》』七位、同じレベルとは言いがたいが……それでも、見方を変えるぐらいはしてもらえるはずだ。そこそこやるじゃん、程度には。
普段《ふだん》は面倒《めんどう》な生徒全室通いだが、今日《きょう》は少しだけ心が弾む。やんやの喝采《かっさい》、などあの頑固《がんこ》親分に求めても無理だろうから望んじゃいないが、まあ、少しぐらいは――
「少しぐらいは不安になってちょうだい!」
突然耳に飛び込んできた声に、幸太は思わず跳び上がった。しかしその声は幸太に向けられたものではないようで、
「い、一応、これでも不安にはなってるんですけど……」
「嘘《うそ》おっしゃい!そんなへらへらした顔して、どこが不安だっていうの!」
幸太の進行方向、少し先に、女子と国語科教師の姿があった。女子の方には見覚えはないが、教師は隣のクラスの担任だったはず。
二人は廊下の突き当たりにある面談室《めんだんしつ》(別名、説教部屋《せっきょうべや》)から出てきたところらしいのだが、「……すいません……」
「謝《あやま》ってすむ問題じゃないでしょう!だいたいあなたはねえ――」
うへ、と幸太は他人事《ひとごと》ながら肩をすくめた。嫌《いや》なところに遭遇《そうぐう》してしまった。
この学校では、教師に面談室へ来るように呼ばれた場合、確率《かくりつ》百パーでお説教を食らうことを意味している。その面談室から出てきてなお、教師は戸口の前に立ったままでくどくど説教を続けるつもりらしいのだ。女子の方は気の毒に、小さく背を丸めて所在《しょざい》なさげに俯《うつむ》いている。
その昌の前に仁王《におう》のように立ちはだかって、教師はわざとらしく息をつき、
「はあ、こんな生徒を受けもたされるのは初めてだわ……どうしていいか、私にはもうわからない。お手上げです」
嫌味ったらしいことこの上ない。
しょんぼりと萎《しぼ》んでしまった女子は、遠目にもほっそり白い指先でこぼれた髪を耳にかけた。
その耳はかわいそうなぐらいに真《ま》っ赤《か》に染まり、思わず幸太は目を逸《そ》らせなくなる。
「全教科追試。すばらしいわね、まったく」
「……ごめんなさい……あ、ごめんなさいじゃなくて……あの……その、す、すいませじゃ、なくて……」
気まずい沈黙《ちんもく》――しかし教師はいまだ女子を解放する気はないらしく、その場から動こうとはしない。
幸大までつられて息を殺し、そしてなんとなく事情も飲み込めてしまった。……なんとなくもなにも、聞こえていたわけだが。全教科追試。で、叱《しか》られている。
幸太はなるべく気配《けはい》を消しで、足早に二人《ふたり》の背後を通り過ぎて階段へ向かった。あの女子も全教科追試などという恥を見知らぬ野郎に晒《さら》したくはないだろうから、聞こえない振り・見てない振りで、足音も消して小走りに。
「あの、次は頑張りますから! 絶対、頑張りますから!」
「頑張るってどうやって? あなた、本当にこれから授業についていけるの? これからどんどん内容は高度になっていくのよ?」
気の毒に……階段を上がり始めても、背後からはいまだに女子の必死の弁明と教師の嫌味《いやみ》が聞こえている。
「それでも死ぬ気で頑張りますから! も〜、これっっっっっぐらい、こぉぉぉぉぉんなに、頑張りますから……あーっ!」
――悲鳴?
いったい何が起きたのか、バサ、となにかが落ちる音と、女子の甲高《かんだか》い声。偶然《ぐうぜん》開いていた窓から、タイミングぴったりの突風。
幸太は反射的に振り向きかけ、それと同時、階段を上がっていた足元に白くひらひらしたモノが重なりあったまま滑《すべ》り込んできていた。すべては一瞬《いっしゅん》のできごと。
踏んでしまうその直前、まるでスライドショーのように、真《ま》っ赤《か》に連なる文字が見えた。17、23、7、7、7――おっと、スリーセブン。珍しくラッキーな……わけがなかった。スリーセブンを視認するのと同時、幸太の足はその白いモノを踏み込んで滑り、世界はまっさかさまに。重力は一瞬ののち、脳天方向に。
まずいことになった――などと思いつつスローモーションで落下していく逆《さか》さまの視界に、薄桃色《うすももいろ》の三角が。そうか、突風でスカートがめくれ上がって……
「う、うぅ……っ……」
「やだぁどうしよう! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいー! 死なないでくださーいっ!」
失神のトンネルを抜けると、そこは天井《てんじょう》だった。……天井だけが、見えていた。
いったい何が起きたのかわかるようなわからないような、とにかく幸大はチカチカする視貞を天井から徐々《じょじょ》に壁伝《かべづた》いに下ろしていき、床《ゆか》に散らばった白いものを見つけた。ひどい点数の答案。そうか、あれを踏んづけて、数段分の高さから真後ろに落下したわけだ。
全身を打ちつけたひどい痛み、気がつけばうめき声しか上げられない……というか、本当になんというひどい点数なのだろう……。
「大変 !人を呼んでくるわ!」
顔色を変えた嫌味教師が背中を向けて駆け出していくのが見えた。え、置き去り? と思わず伸ばしかけた手を、
「大丈夫ですか!? 気を確《たし》かに!」
ほんにゃり、と柔らかな、かすかに湿った温かいものがしっと包み込んだ。じわりと染みるような温度は体温で、そのほんにゃりが手の平だと気づくまでに、数秒の時間を要した。
「あわ……っ」
そして、
「どこが痛みますか!? 苦しいの!?」
手を握ったまま、黒い影《かげ》が覆《おお》い被《かぶ》さってくる。そして幸太の肩をしっかり掴《つか》み、上半身を「よいしょ!」と抱えて、……大きな瞳《ひとみ》だ。いつか見た春の海みたいに、優《やさ》しくキラキラと光っていて、とても綺麗《きれい》で……
「大丈夫、すぐに先生も戻ってくるからね!」
抱きかかえられたのだ、と、そのときようやく理解した。
上半身はすっぽりと誰《だれ》かの両腕の中。
背中の下、弾力のあるクッションはどうやら太もも。
目の前に迫る薄桃色《うすももいろ》のぷるぷるとした物体が接近しつつある唇だと気づくまで、さらに数秒。
「……ふぐっ……」
痛み以外のぬるい衝撃《しょうげき》が、幸太の脳髄《のうずい》を熱《あつ》く滾《たぎ》らせる。自分の体勢に気づいてしまったのだ。情けなくも床《ゆか》に伸びて、女子に上半身を抱き支えられている。
泣き出しそうな目で幸太を見下ろす、かわいらしい小作りな顔立ち。頬をくすぐるのは零《こぼ》れた柔らかな髪の先だし、鼻先に香るのは彼女の熱《あつ》い吐息《といき》。あまつさえ肩のあたりでむにゅ、と潰《つぶ》れている、この恐ろしいほどに柔らかな盛り上がりは……
「大変、息ができないのね!? よしっ、人工呼吸!」
ぐっ、と肩が抱き寄せられた。顎《あご》を持ち上げられ、白い鼻先が躊躇《ちゅうちょ》なく接近し、
「……っ!」
瞬間《しゅんかん》の判断が、幸太《こうた》の首をねじまげていた。むちゅう、と生ぬるく蕩《とろ》ける軟体物質は、顎のあたりに歴史的不時着。その瑞々《みずみず》しく蕩ける甘い感触に脳みそが溶ける。
「で、できる、から! 息!」
なんとかそれだけを絞《しぼ》り由し、錯乱《さくらん》寸前、ゴキブリの如《ごと》く這《は》い逃《のが》れる。身体《からだ》は痛むがそれどころではない。たとえ五体がばらばらに砕《くだ》け散《ち》ったって、幸太は逃れずにいられない。顔面どころか全身血の色で地獄のように真《ま》っ赤《か》、灼熱《しゃくねつ》、脳天からは湯気さえ立ちかねない頭《あたま》沸騰《ふっとう》状態なのだ。
「……どうしよう……様子《ようす》がおかしい……」
おろおろと膝立《ひざだ》ち、全教科追試少女は興奮《こうふん》のせいか頬を綺麗なピンクに染め、瞳に涙を浮かべている。両手を祈るように胸の前で組み、そうだ! と唐突《とうとつ》に大声を上げる。
「きっとそうだ、頭を打ったんだ!? ああ、でも安心して、あたしが今すぐ保健室に連れていくから! そしたら先生のことなんか待ってられない、大急ぎで救急車を呼ぶからね!」
「ひっ!?」
さらに這《は》って逃げようとする幸太の目の前、女子は飛びつくかのようにすばやく跪《ひざまず》く。無防備なスカートがめくれあがって、目が潰《つぶ》れそうなはど真っ白な内腿《うちもも》と、その奥の薄桃色《うすももいろ》の薄い生地のなにかがチラリと視界をくすぐっていく。だがその正体に思いをめぐらせる暇《いとま》さえくれずに、
「せ一の……それっ!」
「な、な、なっ!?」
嘘《うそ》だろう、こんなのってない。いくら小柄《こがら》とはいえ一応平均値に収まる体格の幸太を、全教科追試女子は一息に抱えて背負ったのだ。
「しっかり掴《つか》まってて、すぐに助けるからね! ……ん……っ」
ふら、と危うくよろめくのは一瞬。ど根性で両足を踏ん張り、女子はバランスを整える。そしてそのまま走り出す。
「やややっ、ちょっと、ちょっと待って!」
こんなことがあっていいのか……女子に背負われて、しかも突っ走られるなんて。錯乱《さくらん》に冒《おか》された幸太の脳は、羞恥《しゅうち》の火照《ほて》りとサムすぎるみっともなさで交互に温度が乱高下、いくらなんでも、こんなザマは情けないことこの上なくないだろうか。
「や、ちょ、お、おろしてくだ……」
「大丈夫! 心配しないで、すぐつくからねっ!」
いや、大丈夫じゃないのだ。こんなところを誰《だれ》かに見られたら――そう、例えばあの生徒会長にでも見られたら、『てめえ、なにやってんだ!? 女子に背負われるなんて、恥ずかしいと思わねえのかよこの外道《げどう》!」ぐらいのことは絶対に言われる。超|叱《しか》られる。
「ごめんね、あたしが答案をばらまいたりしたせいでこんなことに! ごめんね! ごめんね!」
女子はといえばまったく人の話を開くどころではなく、火事場のくそ力全開状態で声に涙を滲《にじ》ませている。そして、来るぞ来るぞ、と幸太《こうた》の予感が囁《ささや》く。慣《な》れ親《した》しんだ感覚が、ぞわりとその背を震《ふる》わせる。
下ろしてくれ、と願《ねが》えば、この女子は絶対に下ろしてくれないのだ。
そして『あの人』に会いたくない、と思えば、『あの人』は絶対に現れるのだ。
今さら驚《おどろ》くものか、これが自分の人生なのだ。さあ、あの角を曲がれば……3、2、1……。
「きやあっ!」
小さな悲鳴を上げ、バランスを崩した女子が蹈鞴《たたら》を踏む。せめて俺《おれ》を落としてしまってくれ、と願うものの、そんなもんが通るなら不幸体質なとやっちゃいない。幸太の身体《からだ》はかろうじて彼女の背にひっついたまま、壁《かべ》にむぎゅ、と押し付けられる。
その目の前、やっぱりいた。やっぱり現れた。
教月室に向かおうとしていたのか、手には書類の束《たば》を持ったままで立ち尽くすほっそりとした立ち姿。驚いたように見開かれた、切れ長の綺麗《きれい》な二重の瞳《ひとみ》。抜けるように真っ白な肌に、朱色の唇が美しい。華奢《きゃしゃ》なその身はすらりと涼しげ、人形のように整った見目《みめ》と相まってまさしくやまとなでしこで、
「……おまえら……一体、なにやってんだ!?」
発するボイスは頼《たよ》れる兄貴《あにき》。眉間《みけん》に寄るしわは頑囲な親方。そう、全世界で今、最も会いたくなかった相手こと生徒会長・狩野《かのう》すみれが、二人の目の前に立っていた。幸太は呻《うめ》いて、天を仰《あお》ぐ。驚くものか、こんな不幸程度――
「お、お姉《ねえ》ちゃん……っ、これにはワケが」
「えええ――っっっ!?」
幸太の驚愕《きょうがく》の悲鳴が、放課後《ほうかご》の廊下に響《ひび》き渡《わた》る。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
幸太はいまだ信じがたい思いで、あまり似ていない兄妹……いや、姉妹《しまい》の顔を見比べた。
小さな拳《こぶし》を口元に当て、情けない表情で兄を……いや、姉を見上げる狩野さくら。
腕を組んだまま押《お》し黙《だま》り、巌《いわお》のような厳《きび》しい顔つきで妹の傍《かたわ》らに腰を下ろす狩野すみれ。
保健医にしばしの安静を命じられて白いベッドに寝付いたまま、幸太《こうた》はおずおずと片手を挙げる。
「あ、あの〜……会長がそこにいると心が休まらないんですが」
「黙《だま》ってろ」
低い一言に幸太はシーツに潜り込みたくなり、さくらはびくっと小さく震《ふる》える。全校生徒の心の兄貴にして生徒会の親方・すみれは、白い手に掴《つか》んだ数枚の紙片に、無言のままで目を落とし続けている。
痛む身体《からだ》のことも忘れ、幸太はいやはや、と息をついた。
『狩野姉妹《かのうしまい》』の存在を、校内で知らない者はいない。『あの』親方に妹がいて、同じ学校に入学してきたのだ。噂《うわさ》にならないわけがない。ただし妹そのものの実体について、語る者はそれほど多くはなかった。なにしろ兄貴のすみれの方が偉大かつ有名すぎた。すみれと比べられてしまえば、どんな女子だろうと影《かげ》が薄《うす》くなってしまう。ただ、『あの』すみれに妹などというリリカルなもんがいたのか、という意外性だけで、狩野姉妹は話題になっていたわけだ。
実際にこうして並べて見てみれば、印象はひたすら「似ていない」につきる。対照的とさえ言っていいかもしれない。
全教科満点のすみれに対して、さくらは全教科赤点。すっきり涼しげな和風美人であるすみれに対して、さくらはもやん、というか、とろん、というか、甘さばかり先に立つ、かわいらしいタイプの顔立ちをしている。スタイルも、鶴《つる》のようにすらりとしたすみれに対して、さくらはどこか柔らかく線《せん》が緩《ゆる》んだ印象だった。手足は驚《おどろ》くほど細いのだが。
そして、幸太の視線はなんとなくさくらに向いてしまう。すみれに見飽《みあ》きているというわけではなくて、いまやすみれがおっさんにしか見えない、というわけでもなくて、なんというのだろう。言葉では表現しにくい、妙に生《なま》ぬるいオーラのようなものが、さくらの身体からふんわりと立ち上っているような気がするのだ。それはちょうど体温ぐらいの温度があって、さくらの赤くなった耳たぶだとか、今の騒《さわ》ぎで解《ほど》けかけてしまった胸元のリボンだとか、不安げに唇をいじる指先だとか、そんなあたりから発せられている……気がする。
それがなんだか気になって、もっと見たいような、もっと嗅《か》ぎたいような、もっと味わいたいような……そんな五感を直接|刺激《しげき》するもやもやとした欲望となって、幸太の視線を釘付《くぎづ》けにするのだ。
「おい、さくら」
すみれの声に、ぼんやりモードに入りかけていた幸太まで息を飲んだ。
「う、うん」
「てめえ……この点数は、どういうことなんだ?」
豪快さで常に幸太の度肝《どぎも》を抜いてきたすみれには似つかわしくない、硬い声。その手には、幸太の足跡つきのさくらのひどい答案の束《たば》。
気まずげに息を詰め、さくらは青葉もなく肩を竦《すく》めた。すみれの方を見ることもできないのか、むき出しの膝小僧《ひざこぞう》に視線《しせん》を落としたまま固まってしまったみたいに見える。
「英語17点。国語23点。数理社でスリーセブン。……この答案をばらまいたわけか。そうしたら突風が吹いて、階段まで飛ばされて、幸太が踏んでコケた、と」
「……うん……」
視線は頷《うなず》いたさくらにではなく、幸太へ。
「……さすが不幸体質。普通ならねえぞ、そんなふうには」
「はあ、どうも……」
「とはいえ、うちの馬鹿《ばか》妹《いもうと》が招いた不幸だな、これは。申《もう》し訳《わけ》ない」
立ち上がり、すみれは深々と幸太に頭を下げてみせる。その男らしさに慌てたのは幸太だ。
「ちょっと、やめてくださいよ会長……そんなことされると後が怖いし、なんか変な夢見そうで……」
「人の心の機微《きび》がわからん奴《やつ》め」
軽く幸太を睨《にら》みつつ、しかしすみれは謝罪《しゃざい》をやめるつもりはないらしい。」
「とにかく、だ。一応|怪我《けが》はないみたいだが、もしも後々《あとあと》何かあったら遠慮《えんりょ》しないで私に言えよ。治療費《ちりょうひ》はうちで全額《ぜんがく》もたせてもらうから。本当に悪かった。ご両親にも後でお詫《わ》び状《じょう》を出させて頂くから。ほら、てめえも頭下げろ」
「あ、う、うん!」
弾《はじ》かれたようにさくらも立ち上がり、すみれの隣《となり》で頭を下げる。
「あたしのせいでこんなことになってしまって、本当にすいませんでした! 頭も打ったみたいだし、すぐに病院に行ってね……?」
「頭を? そうなのか? どら」
眉間《みけん》にしわを寄せて深刻そうに顔を覗《のぞ》き込みつつ、すみれは両手の指をわしっと幸太の髪の中に突っ込んだ。差し込まれた細い指先が、頭皮を力強く這《は》い回《まわ》る。
「あ、あの……」
「傷もコブもできてねえなあ……いや、それってかえってまずいのか」
「いや、頭は打ってないですって。肩から落ちたんで……いたたたたた! 会長、毛が抜けそうです!」
久しぶりに会った親戚《しんせき》のおっさんのような荒っぽい手から逃、幸太はべッドに身を起こす。
しかし、
「ううん、打ってたよ! だって階段から落ちた後、ちょっと様子《ようす》もおかしかったし! それに呼吸だって一時はできなくなって!」
必死に言《い》い募《つの》り、さくらは起き上がった幸太の肩を押さえて「安静!」と再び寝かしつけてしまう。その傍《かたわ》ら、
「呼吸が?」
兄貴《あにき》の眉間《みけん》にさらに深いしわ。さくらはうんうんと力強く頷《うなず》き、
「だから人工呼吸もしたの」「未遂《みすい》です」
「……」
両サイドからサラウンドで響《ひび》いた声に、すみれは一瞬《いっしゅん》口をつぐんだ。そして、
「……人工呼吸?」
嫌《いや》なものでも見たかのように険しく顔を歪《ゆが》める。
「そうだよ」「未遂です」
はあ――と深いため息。すみれは顔を上げるやいなや、
「同時にしゃべるんじゃねえ! こちとら聖徳太子《しょうとくたいし》じゃねえんだよ!」
「きゅー!」
「いたたたたた!」
右手でさくらの鼻を、左手で幸太《こうた》の鼻を、力いっぱいひねってむしる。
「ったく……どうでもいいんだよ、そんなことは。それより、幸太の頭が無事ってことなら、問題にしたいのはてめえのおつむのデキの方だな。え? さくら。てめえどんなツラさげてこんなもん、うちに持って帰ってくるつもりだったんだ?」
「……そ、その……」
「そのもゾノもねえよ。てめえがグウグウ寝てるとき、言ったよな? テスト勉強の方は大丈夫なのか? って。早朝から勉強するって言うから、起こしてやったこともあったよな? 朝の四時に。そんでてめえは朝飯食って、二度壊したんだよな? 何度も何度も、そういうことがあったよな?」
「……ご、ごめんな、さ……」
「謝《あやま》れなんて言ってねえよ。どういうことか説明しろって言ってんだよ」
荒っぽく答案の束《たば》を膝元《ひざもと》に返され、さくらは硬く身を竦《すく》ませる。思わず気の毒になり、
「まあまあ会長、過ぎたこと言っても……」
いつも自分が副会長に助けられているように口を出してみるが。
「家庭の問題に口出ししないでもらおうか?」
「それなら家庭で騒《さわ》いでください――あ、なんでもないです」
いつになく険しいすみれの視線《しせん》に、あっさり撤回《てっかい》。気まずい空間に黙《だま》って身を横たえ続ける他《ほか》の道はないらしい。
「あ、あのね、あのねお姉《ねえ》ちゃん、あたし……」
おずおず、とさくらが口を開く。
「なんだ」
「その……わ、わざとじゃなかったの……」
その瞬間《しゅんかん》、すみれのこめかみに青筋の稲妻《いなずま》が落ちるのを幸太《こうた》は目撃《もくげき》した。場の空気が一気に蒸発、真空の静寂はわずかに一瞬。
「バカが、わざとで、たまるか――――っっっ! こンの、ばかたれがあぁぁっっっ!」
ぼぐっ、と兄貴《あにき》の鉄拳《てっけん》が、さくらの脳天にめりこんでいた。
「……うっわあ……」
家庭外の人間を軽く引かせるだけの重い音。さくらは悲鳴さえ上げられないまま脳天を抱えて椅子《いす》から滑《すべ》り落《お》ち、
「う、うえ……っ、えっ、えっ……」
床《ゆか》でしゃくりあげること数秒。やがて真《ま》っ赤《か》になった顔を覆《おお》って、走って保健室から出ていってしまう。片手は脳天をしっかり押さえたままで。
「……あーあ……ひっどい……」
息をつき、幸太の視線《しせん》は自然に非難《ひなん》の色を帯びる。
「いつもあんなことしてんですか? 相手は女の子ですよ? 気の毒に……狩野《かのう》さんの成績《せいせき》がアレなのって、原因は会長の暴力《ぼうりょく》だったりして」
「んなわけあるか! ったく、あいつは甘えたところがあるから、誰《だれ》かが厳《きび》しく言ってやんねえといけねえんだよ」
「それにしても殴んなくたって……かわいそうに」
「随分《ずいぶん》肩入れするじゃねえか」
「いやあ、俺《おれ》もいつも会長に虐《しいた》げられてるもんで、他人という気がしなくて。なんだか親近感わいちゃうなあ、と」
ほーう、とわざとらしく唸《うな》りつつ、すみれは幸太の顔を覗《のぞ》き込んだ。その瞳《ひとみ》には見慣れた親方の父性愛|溢《あふ》れる支配者の色。新しい冗談《じょうだん》でも思いついたみたいな、かすかな微笑《ほほえ》みに緩《ゆる》む唇。
「……言ってくれたな?」
「な、なんですか……?」
来るぞ来るぞ――本日二度目の不幸な予感が、頭皮をざわざわとくすぐった。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
はい、来ましたよ――などと言っては失礼だろうか。
「昨日《きのう》は本当に、はんっっっ……」
弁当のにおいと喧騒《けんそう》に満ちた昼休みの1−A。狩野《かのう》姉妹《しまい》の妹の方は律儀《りちぎ》に教室と廊下の境界線を踏まないように戸口の向こうに立って、
「‥…っっっとうに、ごめんね!」
脳の血管が切れる寸前まで力んだ謝罪《しゃざい》を繰《く》り返していた。境界線《きょうかいせん》の内側、生まれて初めて他《ほか》のクラスの女子から呼び出されたりしてしまった幸太《こうた》に、向けられる視線は少なくない。あのかわいいこ誰《だれ》? 幸太のなに? と、友人たちがひそひそと肘《ひじ》を突《つつ》きあっているが、このほんわかとした優《やさ》しい輪郭《りんかく》をもつ女子が『あの兄貴』の妹だと気づいている奴《やつ》はいないらしい。
「いや、もういいよ、事故だったんだし……それにこの通り、ケガもなかったし」
「そっかあ」
ふう、と息をつき、さくらはやっと握《にぎ》り締《し》めていた拳《こぶし》を解いた。
「ああ、よかった……富家《とみいえ》くんになにかあったら、お婿《むこ》さんに来て貰わないとな、って思ってたんだぁ……」
「……へ、へえ……」
「宮家くんだってお嫁《よめ》さんは自分で選びたいもんねえ、あ〜よかったねえ」
うんうん、とさくらは頷《うなず》いて、白い指先が頬《ほお》にかかる柔らかそうな髪を耳にかける。その耳朶《みみたぶ》に、まるでピアスホ一ルのような小さなほくろを発見。見てはいけないものを見てしまった気がして幸太はどぎまぎと視線を落とすが、その鼻先、さくらは綺麗《きれい》に包まれた小さな箱を差し出した。
「これ、お見舞《みま》いです。うちの母の手作りクソキー。甘いの好きだといいんだけど」
う、と息が詰まるのは、唇が乾いたのか、さくらがぽってりとした唇を桃色の舌で舐《な》めた瞬間《しゅんかん》を見てしまったせい。あの部分の柔らかさを、幸太《こうた》は顎《あご》で知っている。
「あ、ど、どうも……甘党なんで、遠慮《えんりょ》なく」
「わあ、よかった!」
瞬間、綻《ほころ》ぶ花のようにさくらの笑顔《えがお》が弾《はじ》けた。薄桃色《うすももいろ》の頬を丸く膨《ふく》らませ、目元をくしゃくしゃにして子供みたいに無防備に笑う。つられて幸太もかすかに笑い、立ち話の間柄《あいだがら》、ようやく健全なほんわかムードが漂いはじめた。
「本当は自分でクッキー焼こうと思ったんだけど、お姉《ねえ》ちゃん……じゃなくて、姉に、これ以上幸太を不幸にする気か? って叱《しか》られちゃったんだ。あたしが焼くと、勝率は七割だから」
『幸太なら絶対に三割の負けを引き当てる』――幻聴《げんちょう》のように聞こえてきたすみれの声に、幸太は深く同意。クッキーを焼くのに勝ち負けがあるとは知らなかったが。
「まあ、叱られたのはそれだけじゃないんだけどね……」
さくらはあはは、と笑ってみせ、しかしすぐにその声は「はあ」と、淡《あわ》いため息にすりかわった。
「えっと……もしかして、帰ってからまた叱られた、とか?」
「うん、そりゃもう。富家くんにケガさせちゃったこともそうだし、それからあの点数のことも……毎日休まずに授業受けてて、なんでこんな点数になるのか理解できない、って言われちゃった。……呆《あき》れてたな、ものすごく」
教室の戸口に軽くもたれ、さくらはしょんぼりと背を丸めた。その拍子、シャツの胸元のボタンの隙間《すきま》に微妙な空間が生まれ、恐ろしいほど真っ白な膨らみが一瞬《いっしゅん》だけ――いや、もうちょっと長く、幸太《こうた》の鼻先で光り輝《かがや》く。
「はうっ……」
見たんじゃない。見えたのだ。網膜《もうまく》から伝わった電撃《でんげき》に、脳がプププと震《ふる》えて応《こた》える。戸口を通ろうとした男子の一人《ひとり》も口を開けてさくらの胸元を注視して、そのままドアに顔面から突っ込んでいる。奴《やつ》の脳も震えたのだろう。そんなことにはまったく気づかず、さくらは深刻そうに俯《うつむ》いている。
「お姉《ねえ》ちゃんは昔っからすっごく頭がいいんだもん……そりゃーあんな成績《せいせき》、理解なんかできないよねえ……」
「あっ、ああっ、そうだよなっ!」
いつにないテンンョンで激《はげ》しく頷《うなず》いてみせたのは、別に罪滅ぼしのつもりではないのだが。
「会長はそりやもう天才だもんな! なんでもできるもんだから、できない奴の気持ちなんかわかりっこないんだよ!」
「そう! そうそうそう、そうなんだよね! わかってくれる!? 富家《とみいえ》くん!」
「あうっ……」
ほんにや〜、と柔らかに湿ったさくらの両手が幸太の両手をさらっていく。強く握って、胸元に押し付ける。ブラウスの布地越し、マシュマロみたいな感触が幸太の手の甲をお迎えする。震えっぱなしの脳みそが、ぬるいゼリーに浸《ひた》される。甘くて溶けて、とんどんバカになっていく
「お姉ちゃんはいつだって完璧《かんぺき》! 凡人《ぼんじん》の気持ちをわかってくれないの! みんな、自分と同じにできて当たり前だと思ってるのよっ!」
「うん……うんうんうん……うんんぅ……」
幸太の手を胸に押し付けたままで、さくらはかすかに涙さえ浮かべて言《い》い募《つの》る。幸太はひたすらコクコクと、壊《こわ》れた人形のように頷きまくる。その目には膜《まく》がかかったようになり、うっとりと唇は半開き。緩《ゆる》みきった表情と裏腹《うらはら》、しかし身体《からだ》は鋼鉄《こうてつ》の硬直。
「あっ、ごごこ、こめん! あたしってば馴《な》れ馴《な》れしいよね! やだもー恥ずかしい!」
ぽっ、と頬《ほお》の桃色を濃《こ》くし、さくらは幸太の両手をようやく解放してくれた。そして照れたみたいに上目遣《うわめづか》い、
「……でも、富家くんと知り合えてよかったな。お姉ちゃんのこと相談できる子なんかいなかったから……とか言って、富家くんには迷惑だよね。ごめんね」
柔らかな曲線で作られた女の子らしい身体を揺らし、笑顔《えがお》を向けてくる。
「迷惑だなんで、とんでもないよ……」
偽《いつわ》らざる本心です。心から。
「本当に? あ、ありがとう……富家《とみいえ》くんって、優《やさ》しいねえ」
「いやいやいや……いやあ……いやいやぁ……」
「あ、そうだ。これ、お姉《ねえ》ちゃんから富家くんに手紙だって。あっぶない、これ渡すの忘れたらまた叱《しか》られるところだった」
会長からあ? なんでえ? 半ボケのままで訝《いぶか》しみつつ、幸太《こうた》は男らしいシンプルな封筒を受け取った。見事な達筆で表書き、それは別にいいのだが、なにも手紙なんかくれなくたって放課後《ほうかご》には毎日顔を合わせているのに。
「じゃあ、あたし教室に戻るね。またね、富家くん」
「あぁ……うん……」
さくらは満面の笑《え》みで手を振ってみせ、かろやかな足取りで廊下を去っていった。その背を見送り、はあ〜……ため息。幸せな目にあいまくった両手を乙女《おとめ》のように固く握り合わせ、幸太はしみじみと感触を反芻《はんすう》。なんという無防備さなのだろう。それを抜きにしたって、なんだか思っていたよりもずっと明るくてかわいくて、なかなかいいこではないか。知り合いになれて嬉《うれ》しいのは本当の本当にこっちのセリフだ。
いやらしくニヤつきながら、兄貴《あにき》からの封筒を開こうとしたそのときだった。例の予感が手を震《ふる》わせた。ブルブル震えながらゼリー漬けになっていたボケ脳に、冷たいショックがガツンと電源再起動。来るぞ来るぞ……いや、来てるぞ。もはや来たぞ、かもしれない。
見たくない。本能的に幸太は思うが、もちろんそういうわけにはいかない。取り出すつもりはなかったのに、傾けていた封筒から一枚の手紙がペラリと落ちてくる。
『昨日《きのう》は妹が本当に申《もう》し訳《わけ》なかった。その上、私ときたら日々おまえを虐《しいた》げていたとは。そんなふうに思われていたとは知らなかった。成績《せいせき》優秀《ゆうしゅう》にして上級生の虐待《ぎゃくたい》にも耐え、さらに初対面の異性に勝手に親近感を抱くおまえのその一方的な器《うつわ》のでかさにはまったく感服つかまつる。そういうわけで、優秀なおまえにさくらの追試の勉強を見てもらうことにした。全教科クリアできなければおまえの責任だ。』
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「……なんでですか」
「おう、おせえぞ幸太」
「なんで、俺《おれ》が」
「北村《きたむら》、こないだのメモどこやった?」
放課後の生徒会室に、微妙にかみ合わない会話が空《むな》しく響《ひび》く。
二年生の書記|庶務《しょむ》コンビは見ないふり、聞かないふりで、それぞれの作業に没頭《ぼっとう》。同じく二年生の副生徒会長・北村祐作《きたむらゆうさく》はすみれにメモを手渡してやりつつ、
「会長、なんか幸太《こうた》が不満そうな顔をしてますよ」
眼鏡《めがね》の奥で小さく苦笑。
「あん?」
その言葉にようやくすみれは幸太に視線《しせん》を向け、すぐに嫌《いや》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「……てめえは死神か? なんて顔をしてやがる」
「俺《おれ》の顔が暗いというなら、それは会長のせいでしょう。なんなんですか、あの手紙は」
「お、さくらのボケもさすがに忘れずに渡したか」
にっ、とすみれの真っ白な歯が口元から零《こぼ》れ、幸太は不吉《ふきつ》な予感に顔を背《そむ》ける。
「なにもくそもそういうわけだ。さくらのこと、よろしく頼《たの》む。いやーまったく驚《おどろ》いた、掲示されてた順位を見たぞ。おまえ、結構成績いいんだな。一ヶ月も他《ほか》の奴《やつ》らより遅れてるのに、あの成績は本当に立派だ。おら、全員柏手!」
「……」
パラパラパラ……と四人分の拍手の中、幸太だけは死神フェイスのままでむっつりと押《お》し黙《だま》る。昨日《きのう》想像した以上にめでたく褒《ほ》められているわけだが、全然|嬉《うれ》しくない。その顔を覗《のぞ》き込み、すみれはがばっと股《また》を広げて身体《からだ》ごと幸太の方を向いた。
「だから、辛気《しんき》臭《くせ》え顔すんじゃねえよ、鬱陶《うっとう》しいな」
「辛気臭くもなるでしょ、普通……こんな一方的な……」
「さくらのこと、嫌いとか?」
「えっ!? や、それは……ないですけど。正直、心から、ないですけど。……一瞬《いっしゅん》、狩野《かのう》さんに勉強を教えられるなんて嬉《うれ》しいかも、とも実は思ってしまったんですけど……」
「ならいいじゃねえか!」
だぁーほっはっはっはっは! と、力強い笑い声、そして背中を一発ドカンとどやされ、幸太は危うく足元からふらつく。普段《ふだん》はこの豪快すぎる強引さも決して嫌いではないのだが、この場合は別だ。
「……あのねえ、そういう問題じゃないんですよ。俺が嫌なのは、全教科クリアできなければ俺の責任ってところです。……会長のことだから、またどうせ変なペナルティ、考えてるんでしょう。だいいち、会長が教えてあげればいいじゃないですか。妹さんなんだから」
「ああ、だめだめ、私じゃだめ。毎日死ぬほど忙しいし、なにより私が教えたんじゃさくらに甘えが出る」
「だからって俺じゃなくてもいいでしょ」
「自信ねえのかよ」
「ないんです」
きっぱりと言い切り、幸太《こうた》はむっつりと部屋《へや》の隅《すみ》の指定席に腰を下ろした。ふとその奥、見慣れぬカーテンが吊《つ》られていることに気づくが今はそんなものどうでもいい。
「会長だって知ってるでしょう? あの、狩野《かのう》さんの壊滅的《かいめつてき》な成績《せいせき》を。スリ一セブンですよ、言いたかないけど、でも言います。中間テスト程度のモンであんな成績とってるようじゃ、手の施《ほどこ》しようがありません」
すみれは眉を上げ、
「壊滅的?」
悪く言い過ぎたかな、とは一瞬《いっしゅん》思うものの、今は己《おのれ》の保身をしなければならない。
「そうです。会長の妹さんにこんなこと言ったら悪いですけど、壊滅的です。絶望です」
「……だ、そうだ」
って、なにが?と問う間もなく、すみれはスタスタと部屋を横切って謎《なぞ》のカーテンを勢いよく開いた。
「ひっ!?」
声も出ないほど気まずい状況に、悲鳴の後が続かない。のけぞる幸太の目の前で特設勉強コーナーに陣取っていたのは、
「……か‥‥壊滅、的……絶望……そ、そうなんだ……」
目に涙を溜《た》めてぶるぶると震《ふる》える、狩野さくらご本人さまだった。机についたさくらは世にも情けない顔で幸太をじっと見つめ、
「壊滅的……!」
ぷわっ、と涙を頬《ほお》に零《こぼ》す。
「やややや、ちょ、そうじゃなくて! そ、そうじゃない、っていうか……なんでこんなとこに!?」
「あ、あたしだってこんなのヤダって言ったよ! 富家《とみいえ》くんに迷惑だよってちゃんと言ったよ! でもお姉《ねえ》ちゃんに騙《だま》されて連れてこられて、それで……か、壊滅的っ! 絶望っ!」
見ればさくらの下半身は、椅子《いす》にロープでグルグル巻きに固定されているのだ。なんてことを、と幸太は駆け寄って跪《ひざまず》き、
「会長、これはやりすぎでしょう!? あーあ、もう……こんなグルグルされちゃって……先輩《せんぱい》たちも見てたなら止めてあげればいいじゃないですか!」
「ま、会長がすることだからなあ」
「会長がやれっていったらなんでもやるんですか!?」
「やるだろうねえ……白は黒に、右は左に、下級生は椅子に……」
すみれ原理主義者の北村《きたむら》がのらりくらりと答える間にも、ロープを解《ほど》いて救出完了。だがさくらが立ち上がる気配《けはい》はない。拘束《こうそく》もされていないのに椅子に座ったまま、くわっ、と涙に濡《ぬ》れた両目を見開いている。あまつさえ、
「か、狩野《かのう》さん……? わっ」
にゅっと手を伸ばし、幸太《こうた》の制服の袖《そで》をがっちりと掴《つか》み締《し》めてくるのだ。
「……そんなにひどいとは、思ってなかった……っ」
思えパカ、とすみれの罵声《ばせい》が飛ぶが、さくらの耳には入らないらしい。さくらは勉強コーナーに今や自分の意志で座り、幸太をきっときつく見上げている。
「富家《とみいえ》くん! あたし……がんばるから!」
「……は、はあ……?」
そう言われても、とキョロキョロしている間にも、すみれの行動は素早《すばや》かった。そそくさとパイプ椅子を広げてさくらの机のトイメンに設《しつら》え、
「いやあよかった! さくらがやる気になってくれたのも、おまえのおかげだ!」
「えっ……」
背後から膝《ひざ》かっくん。バランスを崩したところをうまい具合に突き飛ばされ、幸太はすとんと椅子に座ってしまう。ちょっと待てよ、と立ち上がろうとするが、その手をがっちり捕らえたのはさくら。いつもの手管《てくだ》でほんにゃりと柔らかく、しっとりと両手を包み込み、幸太が一時的にバカになったところを狙《ねら》ったみたいに宣言する。
「富家くん、お願《ねが》い! あたしに勉強、教えてください!」
「……そんな……こと‥‥言われても……」
「お願い! 絶対がんばるから! 絶対迷惑かけないから! もう、富家くんしかいないの……お願いします!」
さくらの瞳《ひとみ》は涙に潤《うる》んだまま、しかし幸太をまっすぐに射抜《いぬ》いた。桜色に染まった目元も、興奮《こうふん》したせいか上気した頬《ほお》も、薄《うす》いピンクのオーラの中でふんわりと輪郭《りんかく》を甘くして……なんだかそのまま服を脱ぎだしそうな、妙に覚悟完了な雰囲気で……据《す》え膳《ぜん》食わぬはなんたらかんたら、そんな言葉がもやんと幸太の脳を蕩《とろ》かして。
「う、うん……ああっ!?」
思わず頷《うなず》いてしまっていた。
「いいの!? あ……ありがとう! 本当にありがとう!」
しまった、と思ったときにはもう遅い。背後にはすみれがスタンバっていて、幸太の肩をがっちりと頼《たよ》れる力強さで握《にぎ》り締《し》めてくる。
「悪いなあ、幸太。これから追試の日までおよそ十日間。その間は庶務《しょむ》の仕事は私が代わるから、ここで放課後《ほうかご》、さくらの勉強を見てやってくれ。途中で投げ出したり、さくらが追試を落とすようなことがあれば――」
「……ぼ、暴力反対!」
「いーや。私はこれから二年間落第を続けて、おまえと同じクラスになって、一緒《いっしょ》に修学旅行など楽しみつつ、自分の人生を狂わせてやる」
「……重いです、いっそ殴ってください」
「体育祭も一緒《いっしょ》、文化祭も一緒、写る写真は常に私とおまえとツーショット。卒業アルバム撮影《さつえい》の日には一緒に休んで、欄外枠《らんがいわく》でもツーショソト。おまえの高校時代の思い出を、狩野《かのう》すみれ一色に染めてやろう。ちなみに私は、そのときすでに成人を迎えている」
「……嫌《いや》すぎです」
「ならば頑張ってくれ」
涼しげな瞳《ひとみ》をそっと細め、すみれは方頬《かたほお》だけで男っぽく微笑《ほほえ》んでみせる。その向かいでは髪をまとめ、「よし、やるぞ!」……さくらが拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めて、目の前に積んだ教科書を力強く睨《にら》みつけていた。
強引な狩野家の遺伝子《いでんし》に挟まれた幸太《こうた》は、もはや覚悟を決めるしかない。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
分厚いカーテンで仕切られた、狭い生徒会室の一角。
「うぅん……う、んん……」
「ああ……あ、ああ……っ……そこっ! そこは……っ」
悩ましくも熱《あつ》い吐息《といき》が、むんむんとねちっこく二人《ふたり》の肌を汗に濡《ぬ》らす。
「そ、そこはだめ、だぁぁぁ……あーっ! か、狩野、さん……っ!」
「だめなのぉ!? いやっ、いやあ! 富家《とみいえ》くん、ここっ! ここぉぉーっ! ……はぁんっ!」
ぺろん、と音もなくカーテンの端がめくれ上がる。
「……な、なんですか会長」
「どうしたの、お姉《ねえ》ちゃん」
「……いや。なにしてるんだろうと思って……」
気味悪そうに中を覗《のぞ》き込んでくるのは、涼やかに整ったすみれの白い美貌《びぼう》。だが小さな机に教科書と参考書を積んで向かい合った二人の目は静かに厳《きび》しい。
「なにしてるって、見ての通りですけど」
「もう、せっかく集中してたのに」
「……すまん……」
再び音もなく、すみれの顔が引っ込んでいく。ふう、と息をつき、さくらは汗ばんだ額《ひたい》をハンカチで拭《ぬぐ》った。
「あ〜、暑いねえ、富家くん。ちょっと一休みってことにして、なにか飲み物でも買いに行こうか?」
手の甲で同じく汗ばむ額を擦《こす》り、しかし幸太《こうた》は厳《きび》しく首を振る。
「だめだよ、狩野《かのう》さん。……こんな間違いしでかして……せめてここを理解するまでは、このまま頑張らないと」
「……わ、わかった」
暑くないわけがないのだ。
季節は六月、ただでさえじめじめとぬるい放課後《ほうかご》。さらに当然旧校舎の生徒会室に冷房など入るわけもなく、しかも一畳ほどに区切られたこの空間。空気の対流からも取り残されて、勉強|部屋《べや》はほとんどサウナ状態だ。
それでも、幸太は席を立つことを良しとはしなかった。さくらがあんまりにもあんまり過ぎるのだ。
「……ここ、解説見ちゃっていいから、その通りに一回解いてみようか」
「うん! ……うぅん……うう〜〜〜ん……」
火照《ほて》った頬《ほお》を片手で支え、片手にシャーペンを持ちつつ参考書に目を落とすさくら。その手元を追う幸太。危うく目に入りかけるのは、暑さのせいかタイを外《はず》し、ボタンを開けたさくらの胸元。汗のしずくが白い素肌をツー、と転がり落ちていき――いや、本当にそんな場合ではない。ないんです。
さくらのシャーペンの動きが止まる。解説を見ながらやっているのに、だ。
「ううん……富家《とみいえ》くん……ここ、なんでこうなの……?」
「これは……こう、それでもって……こう」
口で説明するよりは、とサクサク計算を進めてみせて、
「……ふ? ……んぅ? ……ん〜? ………おお!」
「うわっ、全部解いてしまった!」
「すごーい……速すぎて見えなかったよ」
頭を抱えた。だめだ、さくらはついてきていない。
幸太の解いた計算の後を必死に指で辿《たど》り、ノートに自力で同じ道筋盲通ってもう一度解き直そうとしているあたり、さくらは決して不真面目《ふまじめ》ではないのだ。しかし、それでも、
「あっ! ああっ!」
「……ん?」
「そこっ! そこっ!」
「ああーんっ!」
……それでもなお、さくらは間準える。数学だけではない、英語も古文も、理社も同じ。まだ勉強を始めて二日目だが、幸太は早くもぐったりと疲労を覚え始めていた。こんな調子《ちょうし》で五教科全部、追試を乗り切れるのだろうか。まさに壊滅的《かいめつてき》で、絶望的な状況だ。
「幸太《こうた》、さくら」
再びカーテンの裾《すそ》をまくり上げ、すみれが顔を覗《のぞ》かせる。
「時間だ。そろそろ終われ」
「えっ!? もう!? これしかやってないのに!?」
衝撃《しょうげき》を受ける幸太の向かい、さくらは気まずそうに頭を掻《か》いた。ノートにはまだ数学一問分の計算の形跡しか残されていない。
「……会長、鍵《かぎ》、貸して下さい。もうちょっとだけ付き合ってから、ここは俺《おれ》が閉めて出ます」
ダラダテ垂れる汗も拭《ぬぐ》わずにそう言うと、「おお!」すみれは眉《まゆ》を跳ね上げた。
「初めて幸太のやる気ってモンをみた。てめえはいつだって口を開けば『はあ』『できません』『無理です』『なんで俺が』……どういう野郎なんだ、性根を叩《たた》き直してやんねえと、と思ってきたけど、なかなかどうして立派なもんじゃねえか!」
「はあ」
嫌味《いやみ》ったらしく唇を突き出したすみれの物真似《ものまね》にももはや動じている暇《ひま》はなかった。視界の端に捕らえてしまったさくらの計算ミスを指摘したくて仕方ないのだ。
「幸太に頼《たの》んで本当によかった。悪いな。じゃあ、頼むぞ」
すみれから生徒会室の健を受け取るのもそこそこに、
「狩野《かのう》さん、そこっ!」
「やっ……ああ……んぅ〜……っ」
素早《すばや》くミスを指摘。さくらが身《み》悶《もだ》えている間に、先輩《せんぱい》方が揃《そろ》って部屋《へや》を出ていく物音。そして扉が閉ざされる。
静かになった空間には、しばらくさくらがシャーペンを走らせる普だけが響《ひび》き、
「……あ、あれえ……?」
止まった。
「ううん……ごめん、富家《とみいえ》くん。やっぱりここがよくわからないみたい……」
どれどれ、と見てやって、さっきと同じところで止まってしまっているのだと分かり、もう一度解いてみせようとして、
「う、うーん……と……」
唸《うな》ってやめる。それではまたさっきと同じことの繰り返しだ。さくらを置いてけぼりにしないためには、一体どうすればいいのか――!どう教えればいいのか。
「ちょっと……待って……」
「……ん……」
さくらの計算の跡を睨《にら》みつつ、幸太は思わず考え込んでしまう。
人間を「すみれ側」と「さくら側」の二瞳類に無理やり分けたとしたら、幸太は明らかにすみれ側の人間だった。それでも指導《しどう》の才があるならこんなに苦労はしないのだろうが、残念ながら幸太はそうではない。なぜさくらがそこで間違え、これがわからなくて苦労しているのか、正直に言えばまったく理解できないのだ。自分なりに丁寧《ていねい》に噛《か》み砕《くだ》いて教えているつもりなのに、さくらはきょとんとしているばかりで理解している様子《ようす》がない。どうやって説明すればわかってもらえるのか、まずはそこで躓《つまず》いてしまう。幸太が躓けば、さくらもわからないまま躓いてしまう。自分が通った思考の道筋を、そのまま説明しても無駄《むだ》なのだ。その道筋の通り方を覚えても、次の道を通る時には、さくらは自分では歩き出せない。
「……ちょっと、このやり方は効率が悪いなあ……追試はもう来週か……」
思わず零《こぼ》してしまった独り言に、さくらは視線《しせん》をノートに向けたまま、申《もう》し訳《わけ》なさそうに呟《つぶや》く。
「……ごめんねえ、あたしがアホで……」
「……いや、俺《おれ》の教え方がまずいんだよ」
「ううん、そんなことない。もう一回、自分でやってみるよ」
たどたどしく最初から繰《く》り返されるさくらの計算をまどろっこしく見つめつつ、そういえば、と思い当たる。今はこんなさくらだが、受験《じゅけん》ではうまくやったのだ。だからここにいるわけで、ちなみにこの学校のレベルはそこそこ上位――幸太の第一志望だった高校よりは落ちるが。
「狩野《かのう》さん、受験の時は塾に行ってた? どうやって受験勉強したの?」
「自力」
「うそっ!?」
「奇跡、とは散々《さんざん》言われたよ。友達《ともだち》にも、先生にも」
「……試験のたびにその奇跡を起こせば……」
「……いやあ……そのつもりだったんだけど……受験前は本当に自分でも信じられないぐらい勉強したんだよ。学校でも勉強して、家に帰ったら一時間だけ寝て、起きたらすぐ勉強して、夜ご飯食べて、お風呂《ふろ》入って、そのまま一時ぐらいまで勉強して、四時には起きて勉強して、また学校に行って勉強して……の繰り返し。それをほとんど丸々一年」
「……へ、へえ……」
それからたった二ヶ月しか経《た》っていないのに、もうこのだめっぶりなのか……とは、さすがに口には出さないけれど、思ってしまうことまでは止められない。いわゆる『伸びきったゴム』状態というやつだろうか。
「同じようにやればいいんだろうけと……ちょっと気が緩《ゆる》んじゃったかな」
へへ、と笑い、さくらは一度大きく伸びをする。猫のように背を反らし、「うーん」……悩ましい吐息《といき》。会話が途絶《とだ》える、静寂の一瞬《いっしゅん》。
そうか、二人《ふたり》きりなんだ、と気づいてしまうのと同時、汗の染みたさくらの夏服のシャツに、薄《うす》く下着のレースが透けるのが見えて――幸太は素早《すばや》く目を背《そむ》けた。心臓《しんぞう》の音がバレてしまいそうだし、こんな密閉空間でそんなものを見てしまったら後は……まあ、カッコ、自主規制、カッコ閉じ、ということだ。
微妙な動揺をごまかそうとして、幸太《こうた》はどぎまぎと口を開く。
「も、もうちょっとランク下の学校に入ってたら、定期テストでこんなに苦労しなくてすんだのにな! ……っと、なんか失礼だな……」
失言だ、これは。
申《もう》し訳《わけ》なく頭を掻《か》くが、しかしさくらはほんわかと綻《ほころ》ぶ花の可憐《かれん》な笑顔《えがお》でいいのいいの、と手を振ってみせる。
「そのとおりだよ。自分でもわかってるんだ。先生にもそれは散々言われたし……奇跡が起きたのはいいけど、この後が大変だぞ、って。でもね、それでも、どうしても、どんなに大変でも、あたしはここに入りたかったの。そのためにならどんな苦労でもできた。どんなに眠くても、机に向かえば参考書を開けた」
「……」
なんとなく、だ。
そう言い切ったさくらの背後に男の影《かげ》をみたような気がして、幸大は微妙に黙《だま》り込んでしまう。残念なような、ここにこうしている自分がなんとなく場違いに思えてくるような……こういう場合は軽く尋《たず》ねた方がいいのだろうか。彼氏と一緒《いっしょ》の学校に来たかったんだ? などと。
だが、さくらはあっさりと幸太の予想を覆《くつがえ》す。
「どうしても、あたしはお姉《ねえ》ちゃんと同じ学校に入りたかったの」
「――か……会長と?」
「そうだよ」
さらりと言ってのけ、少し色素の薄《うす》い、茶色がかった瞳《ひとみ》をさくらは静かに細めた。そうしているとほんの少しだけ、すみれに顔立ちが似ている部分が際立《きわだ》つ。ほんのり染まる丸い頬《ほお》や幸せそうに緩《ゆる》む唇は、すみれにはない、さくらだけの甘やかな気配《けはい》だけれど。
「お姉ちゃんは元々、もっとすごいところを担任の先生に勧められてたの。合格すれば開校以来の大快挙だ、とかなんとか。でもね、三年前の秋、ちょっとうちの商売がうまくいかなくなって……うち、お店やってるの。それでお姉ちゃんは特待生で迎えてくれるっていうここに入学することにしたんだ。先生たちはもう大ブーイングで、校長先生までうちに何度も来て、今ならまだ間に合う、奨学金の可能性もある、考え直せって言いに来てた。でもお姉ちゃんはほら……ああいう人だからさ……ここなら家も近くて仕事|手伝《てつだ》えるし、って、親に金銭的負担のかからない、確実《かくじつ》な道を選《えら》んだんだ」
「あ、ああ……なんとなくわかる」
うるせえなあ、てめえら勝手な口出しするんじゃねえ。私が決めたんだからこれでいいんだよ――男らしい巻き舌で教師たちを圧倒するすみれの姿がありありと目に浮かぶ。
「親なんかもう泣いちゃって、ここまですみれにさせたんだからってそりやもう必死に働いて、次の年には売り上げも持ち直したんだ。それで、あたしはこれって最後のチャンス、って心の中で思ってた」
「……なんのチャンス?」
にっ、とさくらが歯を見せて笑う。すみれよりも少し優《やさ》しい目をして。
「お姉《ねえ》ちゃんと同じ学校に行く、最後のチャンス」
悪い妹だよね――小さな呟《つぶや》きだけは、広げたままのノートにばたりと落とすように。
「お姉ちゃんは昔っからものすごく出来が良くて、なにをやっても特別にうまくできちゃうの。……小さい頃《ころ》はいつもお揃《そろ》いの服を着て、あたしたちはずっと一緒《いっしょ》だった。でも、習い事を始める頃から差が出てきちゃったんだよね。お姉ちゃんはどんどん先のコ一スに行って、あたしはついていけなくて、つまらなくて止《や》めちゃう。小学校でも、中学校でも、お姉ちゃんは『みんなの狩野《かのう》すみれ』で、あたしのお姉ちゃん、じゃなかった。一緒の学校にいて、同じ行事をやってでも、お姉ちゃんは壇《だん》の上。あたしは下。みんなと一緒に見上げてるだけ。いっつもついていけなくて、置いていかれて、みんなに取られて、一緒に歩いていけない。そばにいられない。あたしのお姉ちゃん、はどこにもいない。中学の頃から思ってたんだ……同じ学校っていう共通点さえも、これで最後なんだな、って。お姉ちゃんが行くような高校には、私は絶対行けないから。だけど、お姉ちゃんはランクを落とした。それでも私にとってはものすごく無理なレベルだったけと、不可能ではない、って思えたの。これぐらいなら、ものすごく頑張れば、決して不可能じゃない、って」
「……なる、ほど……」
「大学は、絶対に一緒のところには行けない。それはわかってる。だからね、最後のチャンスだったんだよ。たった一年でもいいから、お姉ちゃんと同じ学校に通いたい。共通点が欲しい。同じ家に暮らしてるってだけじゃなくて……同じ世界が、見たかった。……こんな妹、お姉ちゃんにとっては恥だろうけど……それでも一緒がよかったの」
さくらの言うことは十分に理解できた。
ただ、一人っ子の幸太《こうた》には、そこまですみれと同じ場所にいることに固執する気持ちが少し遠く感じられる。そんなにも姉と近くにいたいと思うものなのだろうか。兄弟姉妹のいる友人たちの顔を思い浮かべてみても、こんなことを言いそうな奴《やつ》には思い当たらない。
「わからないでもないけど……そこまで自分の姉妹と一緒にいたいものなのか?」
「私、お姉ちゃんのこと大好きなんだ!」
ごくシンプルな回答に、幸太は思わず二の句を失う。
「大好きだし、それに、あまりにも出来が違いすぎるってこともわかってるの。ここまで出来が違うってことはね、大人《おとな》になってから、ものすごく遠く、完全に、道が分かたれるってことなんだよ。あそこまで出釆る人は、こんな狭い日本になんか留《とど》まってないよ。どんどん外国に行くだろうし、世界もどんどん広がるだろうし、……そうすることを求められるだろうし。凡人《ぼんじん》の私からは何万キロも、何百万キロも離れたところで、『みんなの狩野《かのう》すみれ』になるんだよ。そのために、ああいう人は、生まれてくるんだよ」
さくらの語る言葉を「言いすぎ」だとは言えなかった。幸太《こうた》だって、すみれの超人的な頭脳と圧倒的なカリスマ性を毎日|目《ま》の当《あ》たりにしているのだ。
「だから、せめて今だけは! 今だけは、どうしても……どう〜しても! お姉《ねえ》ちゃんのそばにいたいの! どんなに怒られても、嫌われても、お姉ちゃんにくっついてたいの! 後悔したくないの! ……そうしないと、決定的な別れの日に、笑顔《えがお》でお姉ちゃんを見送ることができないもん!」
ドン!と机を叩《たた》いて力説し、
「やらなきやね……! そのために、追試、クリアしなくちゃ! こんなところで躓《つまず》いてたら、転校しないといけなくなっちゃう……!」
さくらは唇を噛《か》み締《し》め、再びノートに視線《しせん》を落とす。勢いよくシャーペンを走らせる。
「……そこ、いつも間違えるところ!」
「うん! ……あ、あぁ……っ……んうぅ………!」
「あぁあ〜……あっ、あっ、あぁぁ……っ!」
――ものすごい、シスコン。
言ってしまえば、そういうことだ。
しかし幸太は呆《あき》れもしなかったし、気持ち悪いなんて絶対に思ったりしなかった。もしも、と自分の身に置き換えてみれば、その気持ちは十分に理解できたから。
今の幸太にとってすみれは「頼《たよ》れる兄貴《あにき》、豪快な親方、からかわれて迷惑もするけど基本的には超すごい先輩《せんぱい》」という有在だ。だけどもしもさくらのようにすみれのことが大好きで、そばにいたいと願《ねが》っていたとしたら。いや、すみれに恋をしていて、ともにありたいと願っていたら。並び立ち、すみれに愛され必要とされ、同じレベルでありたいと願っていたら――それはどれほどつらいことなのだろうと思う。ついていけない自分のちっぽけさに、どれほど苦悩することか。置いていかれる恐怖に、どれだけ震《ふる》えることか。
十分にそれが想像しきるから、だから幸太はさくらのために、もっともっと頑張ってやろうと思った。すみれの脅しも当然恐ろしいが、今はもはやそれだけではない。どうにかして、さくらを救ってやりたかった。
やがて外が暗くなった頃《ころ》、
「調子はどうだ?」
カーテンをめくって顔を覗《のぞ》かせたのは北村《きたむら》だった。
「北村せんば……あ、汗くさっ!」
ソフトボール部の部長でもある北村《きたむら》は、いつも生徒会の後にダッシュで部室に向かうのだ。汚れた練習着のままで幸太《こうた》の失敬な言葉にも屈託《くったく》なく笑い、
「すまんすまん、まだ電気がついてたから急いで差し入れに」
「わあ、ありがとうございます!」
「あ、すいません」
さくらと幸太に缶ジュースとコンビニのおにぎりをひとつずつ渡してくれた。……眼鏡《めがね》を鼻とこめかみでセロテープ止めにしているのが気にならないわけではないが。
「お、英語か。……懐《なつ》かしいな、去年|俺《おれ》たちがやらされてたのとほとんど同じところから出題されてる」
「覚えてるんですか?」
「ああ。しかしこりゃ、ひどい使い回しだな」
北村はさくらの点数には触れないまま、ばってんだらけの答案を見て笑う。しかし一年前のテスト問題を丸ごと覚えているというのもなかなかに凄《すさ》まじいのではないだろうか。そうだ、と幸太は思い立ち、
「先輩《せんぱい》、これ、わかりますか? 俺も答えはわかるんですけど、どう狩野《かのう》さんに説明したらいいのかわからなくて」
北村にひとつの問題を指差した。英作文なのだが、さくらがどうしてこんな間違いをしでかしたのかその意味がわからず、今も解説に難航《なんこう》していた。
「どれどれ。ああ、なるほどね。ええと、自動詞と他動詞の意味はわかる?」
「えっ……ええと……辞書とかにそう載ってるのは知ってますけど……よくわからないから今まで見ないふりで……」
「そこで躓《つまず》いたんだな。いい? まず自動詞というのは!」
軽《かろ》やかな北村の説明に、ふんふんと聞き入ること数分。幸太はほとんど感動していた。自分ではわかっていたつもりだったが、目からうろこというのだろうか、改めて本当に理解できた気がしたのだ。
「……って感じ。わかったか?」
「はぁぁ〜……っ」
「ああん……っ」
一年生|二人《ふたり》はうっとりと身《み》悶《もだ》え、北村が説明するために書いたテキストを見つめる。中学の時になんとなくわかったつもりでいたSVOC、なんていう文型が、生き生きとした意味をもって二人の脇をクリアに整理していた。
「わかった……そっかあ!」
改めて問題を見つめるさくらの向かい、幸太までもが何度も頷《うなず》いて納得する。
「なんか……先生の説明よりずっとシンプルで……ああ、そうなんだ。これでいいんだ。先輩、実はすごいですね…‥」
元来の頭の回転の良さで教え方のポイントも理解し、これからはさくらにも同じようにわかりやすく説明できるような気がしてくる。幸太《こうた》は尊敬の目で北村《きたむら》を見上げるが、
「いやいや、俺《おれ》なんか全然すごくないって。俺は教師の説明が全然理解できなくて、必死に自分で噛《か》み砕《くだ》いてやっと理解できたんだから。本当にすごい人は、どんな風《ふう》に説明されても、一回で全部飲み込んでしまうんだぞ。たとえば会長みたいに」
「いや、先輩《せんぱい》だって会長と同じレベルの人でしょ」
幸大は北村を見てしみじみと思っていた。北村のような人間だったら、さっき想像したようなすみれを追う事態になっても大丈夫に違いない。こういう男こそが、すみれの傍《かたわ》らにいるのにふさわしいんだ。
「先輩なら、会長に全然ついていけますね、きっと」
さくらもおにぎりのパッケージを破りながら頷《うなず》いてみせる。
「うんうん、北村先輩って、なんだかお姉ちゃんみたいです……お姉《ねえ》ちゃんはこんなに優《やさ》しく教えてくれないけど」
しかし北村は目を丸くして首を振るのだ。
「まさか。あの人についていくのなら、俺程度の人間じゃだめだ」
「……そうですかねえ」
「そうだぞ、力不足にも程《ほど》があるってもんだ」
ふと、幸太は思う。
こんな顔をしている北村を見るのは初めてだ。こんな――なんというか、寂しそうな、頼《たよ》りない目をしている北村は。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
幸太とさくらの勉強会は、その後も「ああん、あああんっ!」「そこっ、そこっ! ああ狩野《かのう》さんそこだよぉ〜!」「富家《とみいえ》くぅん、いやぁっ! ああーっ!」「ここぉぉ!」「そこぉぉ!」「あそこぉぉぉ!」……騒《さわ》がしくもピンク色に、ねちっこく濃厚《のうこう》に続いた。時に北村の教えを乞《こ》い、時にすみれに「うるせー!」と叱《しか》られつつ、毎日生徒会室で。
やがて放課後《ほうかご》だけでは時間が足りないことに気がつき、朝の七時から始業までを教室で、そして下校時間が過ぎてからは駅前のマックで、昼休みにもさくらはわざわざA組まで足を運び、幸太に質問をぶつけてきた。幸太はそのすべてにきっちり答えた。
小さな躓《つまず》きをひとつずつ見つけ出し、ひとつずつ潰《つぶ》し、さくらは胸のボタンをひとつふたつと開けていき、少しずつではあったが受験《じゅけん》前の脳みその回転を思い出しつつめった。
そして幸太もさくらの考え方の癖《くせ》をつかみ、間違えやすいポイントを先回りして解説できるようになり、さくらの暑さに紅潮《こうちょう》した肌やリップを塗ってぽってりと光る唇や意外なほどもっちりたわわな胸のふくらみにいちいち際《きわ》どいショックを受けた。
十日という短い時間はしかし刻一刻と過ぎていき、
「ああっ、いいっ、いいよ狩野《かのう》さーん!」
「んああ、富家《とみいえ》くぅん、ふあああーっ!」
「……はうっ!」
「……ふぁっ!」
そして――。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
――ついに、追試前日。泣いても笑っても、一晩明けたら本番だ。
「そこの角だよ。歩かせちゃってごめんね」
「いや、構わないよ全然」
放課後《ほうかご》の勉強会を終えた幸太《こうた》とさくらは、校門前から出ているバスに揺られること十五分。バスから降りて、さらに歩きで五分。
夕飯の支度をする主婦が騒《さわ》がしく行きかう商店街の曲がり角、二人はようやく狩野家にたどり着いた。が。
「これが狩野さんち、か……」
意表を突かれ、立ち尽くす幸大の前にはタイムセール目当ての人波が溢《あふ》れかえっている。幸太の想像では、狩野家は純和風の豪邸か(すみれのイメージ)、ペンション風のかわいい洋風一戸建て(さくらのイメ一ジ)という気がしていたのだが、どちらも大きくはずしていた。
「うん。うちね、スーパーなの」
主婦で盛れかえる店舗《てんぽ》の屋号は「かのう屋」!地元密着型の、大きくはないが流行《はや》っていそうなスーパーがすみれとさくらの自宅だった。
先導《せんどう》されて店舗の裏に回り、階段を上がると小さな玄関が現れる。ふわふわとしたひつじのキーホルダーつきの鍵《かぎ》でさくらがドアを開け、
「ただいまー、富家くんに来てもらったよー。ささ、上がって上がって」
「あ、お邪魔《じゃま》します」
ソックスは新品、ぬかりはないぜ、と革靴を脱ぐと、
「おーぅ、遅かったな」
見慣れぬ雰囲気のすみれが、玄関まで出迎えに来てくれた。口調《くちょう》こそいつものとおりに男らしくもぶっきらぼうだが、長い髪を耳の下で二つにしぼって垂らし、白いシャツに柔らかなロングスカート姿で、はんなり咲いた花のように優《やさ》しく微笑《ほほえ》んでいる。
「悪かったな幸太《こうた》、親御《おやご》さんにはちゃんとお許しをもらったか?」
「それはもう……っていうか会長……なんか、そうしてると……女の人のようですね……」
「フフフ、そうだろう。私は家では意外とスカート派なんだよ」
男らしく笑ってみせるスカート姿の兄貴にスリッパを勧められて中へ入ると、住居部分は綺麗《きれい》に片付けられ、意外なほどに広いようだった。すみれとさくらにもそれぞれ個室があり、さくらの部屋《へや》だけでも八畳ぐらいはありそうな感じだ。
「さあさあ、中に入って」
なんとなく照れつつさくらの部屋に入ると、ふんわりと清潔《せいけつ》な匂《にお》いが香る。フローリングの床《ゆか》に敷《し》かれたラグはベージュにピンクの大きな水玉|模様《もよう》、カーテンやベッドカバーもピンク系で揃《そろ》えられていて、女の子らしさ満開だ。思わずキョロキョロと辺《あた》りを見回してしまい、みっともないか、と慌ててやめる。
「ちょっとそこに座って待っててね、あたし向こうで着替えてくるから」
さくらはそう言って幸大に乙女《おとめ》チックなクッションを渡し、クロゼットから着替えの私服を取り出した。そして部屋から出ていくが、服を出した拍子にレースの固まりのようなものをラグの上に落としていった。一体なにを、と見てみて、動揺。……パンツだった。
見ちゃいけない! と激《はげ》しく首を捻《ね》じ曲《ま》げて目を固く閉じる。が、ほんの一瞬《いっしゅん》なら……どうせ誰《だれ》も見ていないのだし……どんなパンツなのかだけ……いやいやいや! なにを考えているんだ、そんなのだめに決まっている! ……しかし少しだけなら……と、内心の激しいせめぎあいをしまいには欲望の二文字で塗りつぶし、うすーく目蓋《まぶた》を開きかけたその瞬間。
「紅茶でよかったか?」
「わぁぁぁ!」
「……なにを一人《ひとり》で大騒《おおさわ》ぎしてるんだ、おまえは」
トレイを捧《ささげ》げ持ったすみれが現れ、幸太《こうた》は座ったままで三十センチほど跳ね上がった。すみれは訝《いぶか》しげに幸太を見つめつつ、トレイを置こうとローテーブルの前に跪《ひざまず》き、
「う」
ガチャン、とティーセットを取り落としかける。ぽつん、と床《ゆか》に残された、妹のパンツが目に入ったらしい。
「おっ、俺《おれ》はなんにもしてませんからね!? 狩野《かのう》さんが落としていったんですからね!?」
「……おまえに下着泥棒なんてやらかす度胸があるとは思ってねえよ……」
すみれは全てを悟《さと》ったように苦々《にがにが》しく呟《つぶや》きつつ、そっとパンツを拾い上げ、クロゼットの奥に突っ込む。その肩が、妙にげっそりと疲れて見えたのは気のせい、だろうか。
「……幸太よ……今のは見なかったことにしてやってくれよ」
「は、はあ……もちろんそのつもりで」
そうしてクルリと振り返り、
「……私からおまえにさくらの面倒《めんどう》を押し付けておいてなんなんだが……」
すみれらしくもなく、歯切れ悪く口ごもるのだ。
「……エロい妹で、申《もう》し訳《わけ》ない。自覚がないんだ、あれは本当に。……おまえなら、妙な勘違いをするようなパカじゃねえってわかっているが……一応、姉として謝《あやま》っておく」
「いや、別に……謝ってもらうようなことじゃ……っていうか、会長から見ても、エ、エロいんですね」
「ああ、エロい」
微妙な空気が流れる中、タタタ、と陽気な足音が部屋《へや》に飛び込んでくる。
「ごめえん、富家《とみいえ》くん、お待たせ! あ、お姉《ねえ》ちゃん、台所のおやつ食べていいんだよね?」
両手に抱えきれないはとの菓子類を抱え、さくらは満面の笑顔《えがお》。これから異性と一晩|徹夜《てつや》で勉強するというのに、柔らかな曲線を描く身体《からだ》にはゆったりとしたVネックのカットソーにひざ上丈のミニスカートという無防備すぎる眩《まばゆ》い私服姿だ。晒《さら》した素足も、胸元も首筋も、とこもかしこも溶けるような白さで――一
「……」
「……」
「あ、あれ? なんで二人《ふたり》とも黙《だま》ってるの?」
「……」
「……」
「え〜? なになに、どうしたの? なんなのお?」
――追試前日。
今夜はここ、狩野家《かのうけ》で、最後の詰め込みを泊まりがけで行うのだ。さくらにとっては勝負のかかった一夜、幸太《こうた》にとっても戦いの一夜である。
一体なにとの戦いか?
Vネック、との戦いだ。
Vネックなる着衣について、これほどまでに考えたことはなかった。少なくとも、幸太は。
「ん〜……ん、ん、ん……んっ」
眉間《みけん》にしわを寄せつつさくらは真剣に英文を睨《にら》み、傍《かたわ》らの辞書を片手でパラパラとめくる。ノートを手元に引き寄せてきて、ペンケースから消しゴムを取り出す。さっき訳した部分を答え合わせに読んでやる幸太の目の前で、さくらの両手は忙《せわ》しなくローテーブルの上を動き回る。
そのたびに、Vの字にあいた無防備なさくらの胸元は、幸太に真っ向|攻撃《こうげき》をしかけてくるのだ。静止していてさえ、視線《しせん》を釘付《くぎづ》けに捉《とら》える恐ろしいほど真っ白な肌と陰影《いんえい》を落とす鎖骨《さこつ》の罠《わな》。さらにさくらが腕を動かすたび、なだらかに華麗《かれい》に盛り上がる二つのふくらみが、存在を主張するようにむにゅむにゅふわふわ揺れる。そしてそのたび、ふくらみの中央、見事に深い谷間の影《かげ》が、広くなったり……狭くなったり……
「あ、っと……これは慣用句なんだ……なになに、between A and B……で……」
A(右)とB(左)の間に……挟まれて……あんなふうにむにゅむにゅと……
「……よし、できた。富家《とみいえ》くん、ここ訳し終わったよー」
A(右)とB(左)はまるで違う生き物のように……互い違いに……上下……左右……
「と、富家くん?」
「俺《おれ》が……between……されたとしたら……」
「……あたし、なにか間違ってたかな?」
「うっ……!」
我《われ》に返った――betweenの衝撃《しょうげき》を上回る視覚的効果によって。幸太の目の前のノートを取ろうと、さくらは膝《ひざ》立《だ》ちになって手を伸ばしてきたのだ。どアップで迫ってきたもはや言《い》い繕《つくろ》いようもない胸の谷間に、幸太はそのとき時空の歪《ひず》みを見た。と、思う。
だめだ――限界だ。
「あ、あの……狩野さ、ん……」
「ん?」
真剣に訳を読み返していたさくらは、きょとん、と目を丸くして幸太《こうた》の声に顔を上げた。
「なあに?」
幸太のいやらしい視線《しせん》にもまったく気づかす、その笑顔《えがお》には一点の曇《くも》りもない。うう、と言葉に詰まり、幸太は気まずく唇を噛《か》んだ。こんなさくらに、とんな風《ふう》に言えばいいのだろう――さっきから胸の谷間が全開だから服を着替えてくれ、なんて。
勝手にいやらしい目を向けているのも自分、真剣に勉強しているさくらを妄想で汚《けが》しているのも自分、溶けた脳みそが耳から流出しそうになっているのも自分。エロいのはさくらじゃない。自分の方なのだ。悪いのは全都、自分なのだ。
しかし、かと言ってこのままでは、幸太はまったく役に立てない自覚があった。集中しよう、と思うのに、目の前で揺れるマシュマロヒルズA棟B棟に気力も体力も吸い取られていく。
「富家《とみいえ》くん、どうしたの?お手洗い?」
「い、いや……」
……だめだ。言い出せない。
着替えてくれ、などと言うことは、今まで自分がいやらしい目でさくらを見ていたという証拠になってしまう。『えっ!? じゃあ富家くん、今まであたしのことそういう目で見ていたの!? どうして最初から言ってくれなかったのよ、胸が見えているって! 言ってくれればすぐに着替えたのに! ずっとあたしの胸を見ていやらしいこと考えていたのね! それならそうと早く言ってくれればよかったのに……』ぬぎっ。するするする。
「そうじゃなくてえ!」
「お手洗いじゃない。とすると……あ、そうか! おなかすいたよね? そういえばもうすぐ夜ご飯の時間だなあ。お母《かあ》さん帰ってきてるのかな?」
にっこり、さくらは笑って両手を胸の前で組んだ。潰《つぶ》れたヒルズがVネックからはみ出しかけた。幸太の脳が液状化した。そして、
「調子《ちょうし》はどうだ? もうそろそろ食事もできるから、休憩《きゅうけい》いれろや。な」
「あ、お姉《ねえ》ちゃん」
「か、会長、……っ」
ノックもなしに、すみれはドアを開けて顔を覗《のぞ》かせる。思わずすがる視線を向けた幸太の表情に、しかしなにかを感じ取ってくれたらしい。眉《まゆ》を上げ、なにがあった? と目だけで問いかけてくる。
さくらは幸太に背を向けて開かれたドアの方を振り返り、
「今日《きょう》のおかずなにかなあ? あたしも富家くんもおなかぺこぺこだよ〜。あ、台所の方からいい匂《にお》いがしてくるぞ、この匂いは……ハンハーグかな?」
真剣にクンクンとおかずの匂いを確《たし》かめている。
その隙《すき》をつき、幸大はさくらの背後、必死にボディランゲージですみれに窮状《きゅうじょう》を訴える。胸の前でVのラインを描き(狩野《かのう》さんのVネックから)、両手で胸のふくらみを表現し(胸がぽろんと溢《あふ》れそうで)、自分を指差して(俺《おれ》はもう)、激《はげ》しく首を振った(限界です!)。
通じるか――なとという不安は、杞憂《きゆう》。なにしろ相手は狩野すみれだ、状況をすばやく判断した上、幸太の決死の表情を読み取ってくれた、らしい。
「……おい、さくら」
「ん? なーに?」
「おまえ、顔色あんまりよくねえぞ。冷えてるんじゃねえか? ああ、やっぱりそうだ、この辺すごく冷たくなってる」
さくらの首筋に手を当てて、それらしいことをスラスラと語りだす。
「え?そうかなあ、別に全然寒くないけと」
「だめだめ、明日《あした》は試験《しけん》だろ。万が一|風邪《かぜ》》でも引いたらまずいぞ。ほら、これを着て、ちゃんと上までファスナー閉めとけ」
椅子《いす》にかかっていたジップアップの薄手《うすで》のニットを手に取ると、半ば強引にさくらに渡して袖《そで》を通させ、襟元《えりもと》までファスナーをグイグイ上げる。
「ちょ、ちょっと苦しいかも……」
「それでいいんだ、冷えたらまずいからな。おい幸太、さくらがこれを脱がないようにちゃんと見てやってくれ」
「は、……はい!」
寒くないのに、と不満そうなさくらの背後、すみれはさりげなく親指を立てて幸太に向ける。なんて頼《たよ》れる人なんだろう……やっぱりすみれは心の兄貴《あにき》だ。サムズアップを返しつつ、幸太は頼れる親方に心からの感謝《かんしゃ》を送る。これでやっと勉強に集中できそうだ。と
「ご飯あとどれぐらいでできるか訊《き》いてこよーっと」
さくらがひらりと立ち上がり、
「はぅっ……」
幸太はうめいた。すみれはその場で顔を覆《おお》った。
軽《かろ》やかに部屋《へや》を出ていくさくらのスカートは尻のあたりまでめくれあがり、薄いオレンジのかわいい下着がまるっと暴露《ばくろ》されていた。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「‥っ!」
ガバ、と跳ね起き、幸太は慌てて口元を拭《ぬぐ》う。
夜が更《ふ》けるにしたがって、胸の谷間もめくれたスカートもようやく理性の外に追い払って真剣に勉強を続けていたのだが――一瞬《いっしゅん》だけ、と目を閉じた記憶《きおく》はあった。そして時計《とけい》を見て驚《おどろ》いた。三十分も経っているのだ。
「ご、ごめん狩野《かのう》さん! 落ちた!」
「いいのいいの、大丈夫だよ。暗記してたから……もしよかったら、あたしのベッドで仮眠して?」
「いやいや……ああ、驚《おどろ》いた……いつの間に落ちたんだろ……」
肩にはさくらのカーディガンがかけられていて、その心遣《こころづか》いが死ぬはと申《もう》し訳《わけ》ない。勉強を教えに来ているのに、その目の前で眠りこける奴《やつ》があるか。
苛立《いらだ》たしく頭を掻《か》こうとして、右手がひどくしびれているのに気がつく。ローテーブルに突っ伏したままでいたせいだろう。それにみっともなく口を開けて寝ていたのか、ひとく喉《のど》が乾燥《かんそう》してしまった。何度か咳《せ》き込むと、
「はい。ぬるくなっちゃったけど」
「あ、あり……げほげほげほ……っ……ありがとう」
さくらが急須《きゅうす》からお茶をマグカッブに注いでくれる。いつもと同じに微笑《ほほえ》んでくれているが、さくらの員は眠たげに潤《うる》み、下《した》目蓋《まぶた》もほんのりと赤く染まっていた。眠気ざましのメンソレータムを塗りすぎたのかもしれない。ごめん、と心の中でもう一度|謝罪《しゃざい》、頭を勉強モードに切り替える。
「俺《おれ》が寝てる間、どこまで進んだ?」
「ここまで」
小さな声で交し合い、さくらの筆跡を芽でたどる。と、頬《ほお》のあたりをチョン、と指先でつつかれる。
「ふふ、ここ、跡になってるよ」
幸太《こうた》は慌てて指で頬を擦《こす》るが、転寝《うたたね》の証《あかし》がそんなもんで消えるわけもない。さくらはにっこりと笑って、かすれた声で「やーい」と小さく幸太をからかう。そして再び、ノートに視線《しせん》を落とす。走るシャーペンの勢いもよどみなく、しばらくは幸太の出番もなさそうだった。
気がつけば、窓の外にはかすかな朝のブルー。
幸太は頬を擦りながら、夜明けまでの時間を数える。あと三時間――三時間で、世界には朝がくる。
朝がきたら、追試本番だ。
さくらは長い睫毛《まつげ》を伏せて、ノートの隅《すみ》に幸太がメモした重要ポイントを読んでいた。
頬に落ちる睫毛の影《かげ》が美しいのも、上唇の少し上に小さなほくろがあるのも、集中しているときにシャーペンの尻《しり》を噛《か》む癖《くせ》も、すっかり幸太は知っている。さくらの俯《うつむ》いたこの角度を、幸太は何時間も真正面から見つめてきたのだから。
キリ、と今やったように、下唇を噛むのも。
左手で髪をかきあげる動作も。
そして……ふと目を上げて、交差した視線《しせん》に照れたように笑うのも。
「……へへ、目、合っちゃったね、富家《とみいえ》くん」
「俺《おれ》じゃなくて、こっち見ないと、こっち」
お約束のようにさくらの手元のノートをトントン叩《たた》いてやって、はーい先生、とおどける唇も――全部幸太は、今日《きょう》までの十日間、誰《だれ》よりも近い距離《きょり》で見つめてきたのだから。
今更《いまさら》のように理解する。追試が終われば、もうこんなさくらを見ることはないのだ。上唇のほくろとも、至近距離で微笑《ほほえ》む瞳《ひとみ》とも、お別れ。
無防備なさくらの動作に脳みそごと絞られるようなショックともお別れ。
息抜きにヒートアップする、すみれの噂話《うわさばなし》ともお別れ。
――狩野《かのう》さくらという女の子と、お別れ。
さびしいなあ、と声には出さずに呟《つぶや》いてみて、幸太はその感情の感触を確かめてみる。遠いところにあるようで、……遠いところにある振りを、したいようで。
「富家くん、ここなんだけど……」
「ん? どこどこ?」
さくらの問いかけに、幸太はいつも以上に真剣に答えた。これが最後になるのかもしれないのだから。
夜明けは近い。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「ごめんなさいねえ、富家くん。うちのさくらがここまで迷惑かけちゃって……」
「はあ、まあ、いいんです全然」
「おうちまで送らなくて本当によかったのかしら」
「生徒会室においてある荷物、持って帰りたいんで」
コホ、と小さく咳払《せきばら》いし、幸太はリアシートのドアを開けて車から降りた。車の横っ腹にはでっかく『(有)狩野商店』の文字。運転していたのは狩野さんちのお母《かあ》さんだ。
「さくら、ついたわよ。……さくら!」
「……」
助手席のさくらは真《ま》っ赤《か》になった目をくわっと見開き、
「五分ぐらい、寝てたかな?」
「ばかねえ、あんたうちから学校まで二十分は寝てたわよ」
「もうついたの!?」
驚《おどろ》いたように辺《あた》りを見回す。校門の前に車が横付けされていることに気づき、「やった!」とガッツポーズ。家を出る前にすみれに言われたのだ。
『記憶《きおく》は寝ている間に定着するんだ。だから車の中で、一分でも二分でもいいから寝ろ。そうすればおまえが詰め込んだ記臆は絶対に零《こぼ》れ落ちない』
「ほら、ばかなことやってないで早く荷物持って降りなさい! 忘れ物はないわね!? 富家《とみいえ》くんにお礼一言うのよ!? しっかり頑張るんだからね!? もしも追試を落とすようなことがあったら、わかってるわね!?」
「わかってるわかってる……ごめん、お待たせ富家くん」
降り立ったさくらの顔はいつにも増して真っ白で、その目の下には隈《くま》がどっしりと青く居座っていた。唇もかさかさで髪もどこかぱさついて、いつものしっとり湿ったような甘い気配《けはい》さえどこかに置いてきてしまったようだ。
「……本番だ。がんばらないとな」
さくらを迎える幸太《こうた》も同じく血色を失い、再び何度か咳《せ》き込んだ――喉《のど》が渇《かわ》いたようになって仕方ないのだ。
今日《きょう》は土曜日《どようび》。学校は休日だが、赤点を取ってしまった生徒にとってはまさに関ヶ原。追試本番、その当日。
人気《ひとけ》のない校門前で狩野家《かのうけ》の車を見送り、さくらは拳《こぶし》を強く握《にぎ》り締《し》める。
「がんばるとも! 今日まで富家くんにばっちり教えてもらったんだもん! 絶対大丈夫!」
「そうだそうだ、その意気……げほっ、ごほっ!」
「あ、あれ?だ、大丈夫?」
心配そうに顔を覗《のぞ》き込んでくるさくらに平気平気、と手を振ってみせ、幸太は多少無理やりに胸を張った。風邪気味《かぜぎみ》なのかもしれない。……ああそうだ。きっとこれは風邪の気配だ。
このゾクゾクと背を走る冷たい感覚はいつもの例のアレではなく、風邪ウイルスの活動だ。ほら、咳だって止まらないし。
「ごめんね、昨日《きのう》は無理言って徹夜《てつや》なんかさせちゃって」
並んで歩きつつ、さくらはすまなそうに眉《まゆ》をハの字にしてみせた。
「今日もわざわざ付き合ってもらっちゃって、本当にありがとうね」
「いや、忘れ物も取りにきたかったから……」
「富家くんには、何度お礼を言っても追いつかないよ。本当の本当にありがとう。ありがとうね」
いいっっ、と笑ってみせ、幸太は昨夜のことを思い出していた。
夕飯を差し入れてくれたご両親。二時間に一回|覗《のぞ》きにきて、結局徹夜に付き会ってしまったらしい兄貴《あにき》。そしでなにより目の下にメンソレータムをごっそり盛って驚異の集中力を見せたさくら。さくらは自分に礼を言うが、幸太はさくらの努力に報《むく》いたかった。さくらの両親や、すみれの応援にも応《こた》えたかった。それだけだった。
それもこれもすべて、今日《きょう》、この日の追試のため。
赤声がひとつでもつけば、この学校は容赦《ようしゃ》なく留年させる。昨夜、狩野姉妹《かのうしまい》のご両親はきっぱりと言っていた。もしも留年してしまうなら、いっそ転校した方がいい。一年生のはじめでこんなに躓《つまず》いてしまうなら卒業まで何年かかるかわかったものではないんだから、と。
せっかくここまで努力したのだ。受験《じゅけん》の時だって、もっとさくらは頑張った。だから幸太はなんとしても、さくらを転校などさせたくはなかった。すみれのいるこの学校で、頑張らせてあげたかった。
なんとしても――
「と、富家《とみいえ》くん?」
「えっ?」
「ねえ、本当に大丈夫? ぼーっとしてるけと、熱《ねつ》があるんじゃない?顔も少し赤いし」
気がつけば、幸太は自分の下駄箱《げたばこ》の前で上履《うわば》きも出さず、ぼけーっと突っ立っていたのだった。さくらは心配そうに顔をしかめ、幸太の上履きを取ってくれる。
「あ、悪い……徹夜《てつや》なんてめったにしないから、ちょっと疲れたかな」
「うー、ごめんねえ。今日はもう、ゆっくり寝てね」
一緒《いっしょ》に階段を上がり、さくらは追試の行われる一年生の教室へ。幸太は生徒会室に置きっぱなしにしてしまった辞書や教科書を回収しに旧校舎へ向かう。鍵《かぎ》は許可を得て持ち帰っていたから、ちゃんとポケットの中にある。
「じゃあ、頑張ってくる!」
「うん。とにかく落ち着いて」
「わかった!」
さくらが教室に入るところまで見送って、幸太は強く思う。頑張れ。ここまできたら、あとは応援しかできない。
頑張れ、狩野さくら。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「げほげほげほっ!」
思い切り咳《せ》き込み、思わず階段の途中でへたり込みそうになる。これはどうやら、本当に風邪《かぜ》だ――不幸の予感などではなく。
どうも夜明けのハンパな眠りから覚めて以来、喉《のど》がずっといがらっぽいのだ。時間が経《た》つにつれて、その症状はどんどんひどくなっている気がする。
咳も出るし、頭も重く、ものすごく寒くて気がつけばカタカタ震えていた。人気《ひとけ》のない旧校舎の階段を這《は》うように上りながら、幸太は自分の額《ひたい》を手のひらで押さえてみる。
「あー……完全に風邪《かぜ》だ、これ」
ひとりごちてため息。額《ひたい》はじんじんと熱く、ねばっこく汗ばんでいる。明日《あす》が日曜《にちよう》でラッキーだった。
微妙な気持ち悪さをこらえ、やっと四階に到着。明かりさえついていない廊下をよろよろと歩き、生徒会室の前までたどり着いた。鍵《かぎ》を出そうとポケットを探っていると、
「……う……」
一瞬《いっしゅん》のブラックアウト。すがりついたのは、廊下に置きっ放しになっている古びたロッカーだった。これはいよいよ本格的にまずい。頭を誰《だれ》かに揺さぶられているように世界はぐるんぐるん回転し、こめかみがきりきりと痛み出す。それでもなんとか体勢を整えようと両足を踏ん張った瞬間、
「うおーう!」
これはめまいではない。ぼろロッカーが幸太《こうた》の体重を支えきれずに大きく揺らいだのだ。危うくロッカーごとこけかけて、なんとか足元を確保《かくほ》。さっさと荷物を持ち出して、さくらには悪いけれど追試が終わるのを待たずに帰宅しょう。下駄箱《げたばこ》にメモでもいれておいて……幸太はつらそうに息を吐き、鍵を開けて生徒全室に踏み込む。
いつもと適って静まり返った無人の生徒会室の奥に、カーテンで仕切られた勉強コーナーはあった。ぼろい机と、椅子《いす》が二つ……少々感傷的になりつつも、具合の悪さがセンチメンタルにさえ浸らせてはくれない。
再び何度か咳《せ》き込んで、幸太は置いてあった勉強道具を胸に抱える。これがなくては月曜日《げつようび》に提出の宿題ができないのだ。
「さて……」
ふらつく足を踏みしめ、生徒会室を出ようとドアへ向かう。そのとき、かすかな寒気が背筋を舐《な》めた――はいはいわかってるよ、風邪だろう、と幸太はゾクゾクと身を震《ふる》わせたが、しかし。
ドーン! と凄《すさ》まじい音が、心臓《しんぞう》をぎゅっと掴《つか》み締《し》めた。
「わっ!? ……な、なんだ!?」
全身総毛立ち、幸太は辺《あた》りを見回す。音はすぐそこで聞こえた気がするのだが……廊下か? 訝《いぶか》しみながらドアから外へ出ようとし、
「……あれ?」
押し開こうとしたドアが、まったく動かないのに気がつく。鍵はかかっていないし、そもそも内健はかからない構造だ。
「は? うそ、なんで?」
少し力を入れて何度も何度もドアを開けようとしてみて、その異様《いよう》な感触に思い当たる。なにか硬いものに、ドアが外から押さえられているような感じだ。一体なにが、と体重をかけてみると、ほんの数センチはど隙間《すきま》ができた。顔を押し付けるようにして外を覗《のぞ》いてみて、
「……げ。うそだろ……」
幸太《こうた》は震《ふる》える。不幸|炸裂《さくれつ》。
さっきよりかかった古ロッカーが、生徒会室のドアをちょうど押さえ込むように倒れているのだ。
「ちょっとまじで……勘弁……」
こんな休みの日、こんな誰《だれ》も用のない旧校舎、閉じ込められた自分は一体いつ救出されるのか……ぞっとするのと同時、こらえきれない吐き気が幸太を襲《おそ》う。必死に口元を押さえて吐くのだけは我慢するが、胃袋ごと搾《しぼ》り出されるような痛みと目の前が真っ白になるようなめまい、立っていられずにしゃがみこんだ。
口を押さえた指は恐ろしいほど冷えて震え、ほんの数秒で全身が濡《ぬ》れるほど気味の悪い汗が染み出してくる。
これはまずい。本当にやばい。パニックに陥《おちい》る寸前、そうだ、携帯《けいたい》、と思い当たった。幸太は必死に鞄《かばん》を手繰《たぐ》り寄せ、携帯を取り出す。とにかく誰かに電話して、助けを求めなければ。フリップを開くと目に入るのは、点灯しているバッテリーマーク。電池が切れかけている。ならば最も効率よく話が通しそうな相手に、と思う間もなく、携帯がパイプに震える。着信だ。表示されている名前は狩野さくら――なにかあったのだろうか。試験《しけん》を控《ひか》えたさくらに助けを求めることはできない。しかし、出ないわけにもいかなくて、
「も、もしもし……っ」
『富家《とみいえ》くん?さくらです。あの……もうすぐ試験始まるんだけど……なんだか緊張《きんちょう》しちゃって……ああ、全然できなかったらどうしよう!」
「……大丈夫、だよ、きっと……狩野さんなら、できる。あんなに頑張ったんだから……」
よかった、さくらの方に非常事態が起きたわけではなかったようだ。一安心しつつ、なんとかさくらを励ましたくて普段《ふだん》どおりの声を出そうと必死に喉《のど》を開くが、
『え? ……なんか、声、おかしいよ? ねえ大丈夫?』
「全然、なんとも、ないよ……」
『うそ!  変だよ、ねえ、どうしたの?ねえ、富家くん! 富」
唐突《とうとつ》にさくらの声が途切《とぎ》れた。電池が切れてしまったのだ。昨夜は何度か自宅や北村《きたむら》に電話をかけた。電池の消費もデカかっただろう。でも――なにも、こんなタイミングで切れなくてもいいじゃないか。
「ていうか……どうしよ……」
役立たずになった携帯を放り出し、幸太は揺れる頭を抱え込む。視界がゆっくりと傾き、気がつけば床《ゆか》に倒れていた。立ち上がることもできないまま、今犯した失敗を薄《うす》らぼんやりと反芻《はんすう》する。さくらに言えばよかったのだ。助けに来てくれ、じゃなくて、生徒会室で困っているから、誰《だれ》か教師を寄越《よこ》してくれ、と。ただひたすらにさくらに余計なことを考えさせたくなくて、……やらかしてしまった。
発見されるのは、追試の後だろうか? さくらは自分を心配して、捜しに来てくれるかもしれない。もしそうでなければ――明日《あす》……じゃなくて、あさってか。あさっての、しかも、放課後《ほうかご》か。……すみれが第一発見者になるのだろうか。
発見されるのが屍《しかばね》でなければいいが、なにしろこんな自分のことだ。万に一つの不幸があれば、簡単《かんたん》にそいつをゲットしてしまう。……ああ、もうなにも考えられない。
恐怖も不安も熱《ねつ》に溶かされ、ぼんやりと回る天井《てんじょう》を眺めながら、遠いチャイムを聞いた。試験《しけん》が始まったのだ。
「……がんばれ……がんばれ、狩野《かのう》、さん……」
がんばれ、がんばれ、がんばれ。
がんばってくれ。
――白い幕がかかったように次第にぼやけていく視界《しかい》には、さくらの笑顔《えがお》が咲いていた。
満開の花吹雪《はなふぶき》。淡《あわ》いピンクの嵐《あらし》の中。さくらは自由に跳ねていた。
そうか、さくらは嵐の女王だ……幸太はゆっくりと理解して、そりゃーすごい、と微笑《ほほえ》んだ。
すみれもすごいが、さくらだってすごいじゃないか。ハートの形でピンク色で、甘く匂《にお》う花びらを、さくらは支配しているのだ。桜色世界の、女王様。嵐の中心、ハートのピンク。それがさくらだ、あの女の子だ。
誰よりエッチでかわいくて、まっすぐでひたむきでシスコンで花吹雪幸太もハートのピンクのひとつになって、さくらの嵐に舞《ま》い上げられた。
富家くん!
そう、そんな風《ふう》に呼ぶ声も、誰より甘くて優《やさ》しくて、お菓子でできた細工みたいで――富家くん! 富家くん! 富家くん!
ガンガンガンガン!
「富家くん! 富家くーんっ! 閉し込められてるのっ!? お願《ねが》い、返事してーっ!」
「……えぇ……?」
ガンガンガンガン! ……繰《く》り返される凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》に、夢の世界から引き戻された。一体とれだけ気を失っていたのか、まったく時間の感覚がない。
ただわかるのはたったひとつ。
「富家く――――んっ! やだぁっ、やだよおっ! お願いだから返事、してぇぇっ!」
ドアの向こうで、さくらが泣いている。
追試の真っ最中のはずなのに。
「か……狩野、さ……っ」
「富家くん!」
跳ね起きようとして、身体《からだ》が動かないことを思い知る。鉛を肌に縫《ぬ》い付けられたみたいに、全身が痛んでひどく重い。それでも這《は》いずるようにして、なんとかドアに近づいていく。
「つ、追試……」
「具合悪いの!? 大丈夫!? 大丈夫!?」
ほんの数センチの隙間《すきま》から、さくらの真《ま》っ青《さお》になった泣き顔が見えた。嘘《うそ》だ、こんなの嘘だ。冗談《じょうだん》じゃない、やめてくれ……叫び出したかった。声さえ出れば、喉《のど》が裂けるほど叫びたかった。
「……追試、受けろ……早く、早く戻って……」
しかし出た声は、蚊《か》が鳴くみたいにか細くて。
「試験《しけん》なんか受けてる場会しゃないよっ! すぐに助けるからね! とにかくこのロッカーをなんとかしなくちゃ……」
さくらの姿が視界から消え、廊下から「えい!」とか「そりゃ!」とか声だけが聞こえる。ロッカーは時折きしむものの、動く気配《けはい》はみじんも見せない。
「すぐだからね……すぐだから、待っててね! 絶対助けてあげるから!」
そんな――そんな。
そんなのってない。
なぜ、さくらなんだ。
あんなにがんばっているさくらを、どうして巻き添えにしないといけないんだ。なんでよりにもよって、さくらがこんな目にあわないといけないんだ。
不幸なら全部自分で引き受けるのに。
涙を拭《ぬぐ》う力もない。高熱《こうねつ》のために息は荒く、目の前はチカチカと明滅する。そして時間はどんどん過ぎていく。
もうやめてくれ、試験に戻ってくれ、そう叫ぶことさえできないのだ。最悪だ。朦朧《もうろう》としながら、幸太《こうた》は絶望した。試験が始まってからもう何分|経《た》ったのだろう……さくらはこれではもうだめだ……せっかくがんばったのに、自分のせいで……。
あんなに、がんばったのに……
「テコの原理だ! これをそっちに挟め!」
……揺れる世界を漂いながら、懐《なつ》かしい声を開いた気がした。
「ったくこのグズ! おら、それをかせっつってんだ!」
男らしいこの巻き舌。牽快な罵倒《ばとう》と頼《たよ》れる頭脳。
「会長、下がって! 俺《おれ》がやります! せーの……っ」
そして――穏《おだ》やかな、だけど強い、優《やさ》しいあの先輩《せんぱい》の声。
でもなんで? どうして?
「倒れるぞ!」
重い音が床《ゆか》を震《ふる》わせ、飛び込んできたのはやっぱりそうだ。
「幸太《こうた》!」
頼《たよ》れる親分……心の兄貴《あにき》……涼しげに整ったあの美貌《びぼう》は、会長。そして会長の傍《かたわ》らにあるのが一番似合う、眼鏡《めがね》の副会長。
「おいしっかりしろ! 北村《きたむら》、教員室行って誰《だれ》か呼んでこい、」
風のように北村は走り去り、戸口ではさくらがゆっくりと膝《ひざ》から崩れ落ちていた。
「富家《とみいえ》くん……ごめんね、富家くん……っ! 私が無理させたから……どうしよう、こめんね!ごめん……っ」
「……いいから……行って……追試……早く……」
ほっそりしているくせに力強い手が速《すみ》やかに、幸太の首の下を支えてくれる。息がつまらないように顎《あご》を引き上げられ、それでも幸太は声を出し続けた。
「……狩野《かのう》さん……早く……」
「いいの! もう、いいの! ……試験《しけん》始まってからもう三十分も過ぎちゃってるし……この教科はもう、いいの」
「よくない……よく、ない……よくないよ……よくないって……」
「いいんだってば、いこうせもうダメだもん、入室だってできるかどうか」
「行ってくれ……追試……行ってくれ……っ」
傾いた視界の端を男らしく歩いていくのはすみれのようだった。すみれはスタスタと背筋を伸ばして戸口のさくらの前に立ち、
「おらっ、行ってこ――――いっ!!!」
「きゃあっ!」
目を疑う。……もしも今見たのが高熱《こうねつ》ゆえの幻視でなければ……さくらはすみれに横《よこ》っ面《つら》を張り飛ばされて、廊下の壁《かべ》までぶっ飛んだ。
「目が覚めたかよ、こンの、くそばかったれが。とっとと行け!てめえはこの私の妹なんだ、誰《だれ》がなんと言おうがテストの一個や二個ぐらい、受けさせてみせるわ!」
「で……でも、でもどうせ……」
「どうせもくそもねえっつってんだよっ! いいかさくら、てめえは私の妹。何度でも言うぞ、てめえは、この、私の、妹っ! 同じ親から生まれたんだ、私にできておまえにできないわけがねえっ! 私なら何分で問題解くと思う!?」
「お、お姉《ねえ》ちゃんなら、……五分!」
「ならおまえにも五分でできる! とっとと行きやがれ! また横っ面はっとばされてえのか! あいつが言ってるんだそ――幸太が、行けって、言ってるんだぞっ!」
「あ……」
静寂は、一瞬《いっしゅん》だった。
「……う、うんっ! あたし……あたし、行く! 行ってきますっ!」
なんて、乱暴《らんぼう》な……呟《つぶや》く力ももはやなく、幸太はすみれを横目で見つめた。耳に響《ひび》くは、さくらの足音。全力ダッシュで、さくらは試験《しけん》会場へ向かっている。
「……なんちゅう目をして人を見るんだよ、てめえは。おとなしくそこでぶっ倒れてな。すげえ顔色してるぞ」
「……う……」
苦しさに目を閉じ、そのあとはほとんど夢の半ばだ。溶けていく現実感の中、最後に幸太は小さく呟《つぶや》く。
願《ねが》わくば、もう一度ピンクのハートが舞う夢を――
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
すみれはさくらが心配になって、後からバスで登校してきたらしい。なにしろ幸太と一緒《いっしょ》に行ったんだぞ、ここ一番でどんな不幸に巻き込まれるかわかったもんじゃねえからな、と。……今となってはその言い草にも、反論《はんろん》のしようがあるわけもなかった。
北村《きたむら》は部活で登校していて、すみれを見かけてその後をほけほけとくっついてきたのだと言う。そして二人《ふたり》して、生徒会室で追試が終わるのを待とうとしたら、偶然《ぐうぜん》あの大騒《おおさわ》ぎに出くわした、とか。
「あ、そうですか」
狭い生徒会室に、一瞬《いっしゅん》にして微妙な空気が満ちる。
「……『あ、そうですか』、じゃねえよ。もっとなんかねえのか、でめえは」
「はあ、そう言われても……まあ、ありがとうございました、って感じですかね」
「……北村。やれ」
「え? 本気ですか、会長」
「本気だ」
ちょっとちょっとちょっと、と幸太は怯《おび》えて指定席を立つ。すみれが北村に渡したのは、細くて丈夫なロープだ。一体何に使うのやら……首を絞めるぐらいしか用途が思い浮かばない。
「じゃあ幸太、ちょっとこっちに」
「あんた、殺しにまで手を染める気ですか!」
「やぶさかではないな」
副会長の迷いのない言葉に、書記|庶務《しょむ》コンビはただ目を見交わし、関《かか》わるまい、と仕事に没頭。とはいえ、今日《きょう》の幸太はいつもの幸太と一味違う。「この生徒会は変な人ばかり」とただ引いているばかりではないのだ。
「富家《とみいえ》くん、こっちに逃げな! 病気なんだから暴《あば》れちゃだめだよ!」
「うん、ありがとう!」
惨《むご》い兄貴《あにき》の傍《かたわ》らには、満開の笑顔《えがお》が咲いていた。
「……ったく……ま、さくらの追試……全教科クリアに免して、今日《きょう》の生意気《なまいき》発言はスルーしてやる」
「はあ、どうも」
にこにこと笑うさくらの手には、見事、五教科全部が合格ラインの七十点超え、英語と国語に関しては八十点を超えている答案が握られている。ついさっき、やっと採点が終わって渡されたばかりの追試の答案だった。まだ熱《ねつ》も下がりきらないのに根性で登校し、一日中|真《ま》っ青《さお》になって心配していた幸太《こうた》のために、わざわざ放課後《ほうかご》の生徒会室まで持ってきて報告してくれたのだ。
本当によかった――幸太の口元にも、さくらを見ていると自然に笑《え》みが浮かぶ。あんなに努力したのだ、見事に実って本当に、本当によかった。
しかし、よかった、と思う心の片隅《かたすみ》に、どうしようもない引っ掛かりのようなものがあることにも気づいている。それはあの試験《しけん》の日の早朝に見たブルーの朝焼けの色にも似た、寂しさ。
これでもう、さくらとの勉強会も終わりなのだ。終わってしまったのだ。
思ってはみた。またさくらが赤点を取れば、今までのように勉強を教えられる、と。しかしすぐに振り払って、幸太は自分を戒《いまし》めた。
そんなことは望んではいけない。さくらに苦しみを与えるなんて、絶対にそんなことはできない。できないから、だから、さくらの横顔になにか声をかけようとして、苦《にが》く飲み込む。
もっと一緒《いっしょ》にいたい。
その一言を、どうしても伝えられないまま――伝える方法がわからないまま。
「ああ、でもまさか本当に全部クリアできるなんて自分でも思ってもみなかったよ。これって富家《とみいえ》くんのおかげだね! あと、北村《きたむら》先輩《せんぱい》もありがとうございました」
さくらは礼儀《れいぎ》正しく幸太に頭を下げ、続いて北村に頭を下げ、その拍子、背中にくっきりとブラの線が透《す》ける。そして再び幸太に向き直り、
「富家くん、もし嫌《いや》じゃなかったら、またうちに来てね? きっとお父《とう》さんもお母《かあ》さんも、富家くんにお礼を言いたいと思うから」
父と母! 厳《きび》しい声で兄貴《あにき》から訂正されつつも、さくらは幸太の両手をしっかりと握《にぎ》り締《し》めてきた。ふんわりと柔らかい、三十六度の手のひらで。
「……う、うん……行くよ……」
もしかして――幸太の手に、じわりと暖かな予感が伝わる。
もしかして、もしかして、あの夜明けのブルーに想《おも》った別れは、こんな簡単《かんたん》な一言で繋《つな》ぎ直されるもの、だったのだろうか。
またうちに来てね――それだけで。
そして、
「絶対、行くよ」
そう答えて、頷《うなず》くだけで。
「ありがとう! 楽しみだな! 富家《とみいえ》くん、今度は勉強ばっかりじゃなくて……もし嫌《いや》じゃなかったら、もっと楽しいこと、一緒《いっしょ》にしようね!」
少し頬《ほお》を染めて笑うさくらの目の前、幸太《こうた》は何度も何度も領いた。
どうしてさくらはこんなに簡単《かんたん》に、自分にはわからなかったことがわかってしまうのだろう。できてしまうのだろう。そう言えばよかったんだ。君と離《はな》れるのは寂しいよ、だからこれからも一緒にいようよ、と。
「俺《おれ》は……狩野《かのう》さんと、とこかに、遊びに行ったりしたい。ずっと誘いたかったんだ、けど、もし……その……よければ、だけど……」
勇気を出して言ってみた。するとさくらの頬に桜色の魔法《まほう》がかかって、
「うん!」
見詰め合ったまま、さくらは深く領いた。ハートの嵐《あらし》の幻が、幸太を簡単にさらっていった。
もわっと頭に熱《ねつ》がこもるのは、もしかしたらまだ抜けきらない風邪《かぜ》のせい、かもしれないが、なんだか全身ピンク色。生《なま》ぬるい幸福の嵐にどこまでも舞《ま》い上がってしまいそうになる。それでも一応、言うべきことは言わなければならない。
「でも、狩野さんが数学を落とさないですんだのは、きっとお兄《にい》さんのおかげ……あ、お姉《ねえ》さんのおかげだと思うよ」
「うん、そうだよね。……お姉ちゃん、あのときぶっ飛ばしてくれてありがとうね」
「おう、また何度でもぶっとばしてやるよ。てめえが寝ぼけたザマ晒《さら》してたらな」
「わあ、本当!? 嬉《うれ》しいな!」
まるでちょっとマゾのようでもあるが、これでも一応、美しい姉妹愛の発露《はつろ》の場面、ではあった。さくらは満足そうに微笑《ほほえ》むと幸太の方へ向き直り、一瞬《いっしゅん》、瞳《ひとみ》をクルリと悪戯《いたずら》に巡らせてみせる。そして、
「……もしよかったら、富家くんもあたしをぶっ飛ばしてね。あたし、ダメな奴《やつ》だから」
などと呟《つぶや》き、幸太の右手を自分の頬に押し当てた。
「はぅ……っ」
そんなこと、できるわけがない。こんなに柔らかくて、マシュマロみたいで、かわいくて、ふわふわのほにゃほにゃを叩いたりなんてできるわけがないではないか。
「で、できないってそんなこと……狩野さんが俺をぶっ飛ばしてくれよ」
「えっ!? やだやだ、無理だよそんなの……富家くんが」
「いやいや狩野さんが」
「だめだめ」
「あっ、あっ」
「うふん」
……なにをしているわけでもないのだ。ただ、向かい合って両手をパタパタお互いに押し付けあっているだけなのだが、さくらと絡んでいる限りピンク色の世界に取り込まれずにはいられない幸太《こうた》だった。
「へえ」
すみれの声さえ、ボケ化している幸太の耳には入ってはいない。
「おまえたち、随分《ずいぶん》仲良くなったんだなあ。……ふーん……そういう展開もあるのか。……するってえと、将来的に、もしもアレがナニしたら……私は幸太の姉になるわけだ」
「えー!? もうやだあ! お姉《ねえ》ちゃんたらなに言ってんの! 富家くんが困っちゃうでしょ!」
笑いあう狩野姉妹《かのうしまい》の声に、ふと幸太は我《われ》に返った。今、すみれはなにを言っていたんだっけか……確《たし》か、そう、確か言っていたぞ……浅い記憶《きおく》を掘り返し、幸太ははっ、と思いつめた目をしてすみれを見る。指を差す。
「……ぎ、義兄《ぎけい》!?」
――シン、と一瞬《いっしゅん》生徒会室が静まり返ってしまったのは、微妙なタイミングのなせるわざだったろうか。
「あ、間違った、ぎ、義姉《ぎし》……」
「……なあ幸太」
すみれの力強い手が、幸太の肩をがしっと抱いた。
「な、なんですか……」
「私が、おまえたちの『アレがナニ』することを、歓迎《かんげい》すると思う?」
「……や、ちょっとその辺はわかりかねますが」
「当ててごらん? さあ、どっちだ。私がおまえたちを応援するか、しないか……おまえはどっちだったら嬉《うれ》しいわけ?」
そりゃもちろん、どっちにしたって放っといてほしい――と答えかけ、幸太はグッと息を飲む。お馴染《なじ》みの冷たい感触が、ペロリと背中を舐《な》めたのだ。
来るぞ来るぞ……いや、来てる来てる……。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
北村《きたむら》にボスからの指令が飛んだのは、とある週末を控《ひか》えた金曜日《きんようび》のことだった。
「……会長がそうおっしゃるなら、俺《おれ》は従いますが……ちょっと幸太が気の毒なような……」
「甘いよ、おまえは。幸太《こうた》は不幸のデパートだ。奴《やつ》と一緒《いっしょ》にフラフラ出歩いて、さくらがどんな不幸に巻き込まれるかわかったもんじゃねえだろう。これは親心だよ。別に妨害しろ、とは言ってねえ。二人を見張って、おかしなことになりそうだったらなんとかしてやれ、ってことだ。幸太《こうた》のためにもな。それに私もおまえと一緒《いっしょ》に行動するぞ。明日《あす》一時……じゃなくて十一時半に駅前で集合。いいな」
「……」
「なんだそのにやけヅラは」
「……い、いや……ランチのおいしい店を検索《けんさく》しようか、と」
「ばか! 幸太とさくらの後をつけて、同じ店に入るんだよ!」
[#改丁]
幸せの絶頂。
――という言葉がある。富家幸太《とみいえこうた》も一応人並みに、これまでの人生で幾度もそんな言葉に触れてきた。
一番印象に残っているのは親戚《しんせき》のお兄さんの披露宴《ひろうえん》で、きれいなお嫁さんが涙ながらにマイクでそれを言っていた。「今日! ゆみは! ヒロくんと! 家族に! なれましたぁぁぁ! 幸せの絶頂でぇぇぇす!」……ヒロくんとゆみはその四ヵ月後、離婚《りこん》したのだが。ゆみは式でスピーチもしてくれた大学時代の男友達《おとこともだち》と手に手をとって逃げてしまった。ヒロくんはしばらく酒びたりになった。
一番最近のは、夜の街で偶然《ぐうぜん》耳にしたこんなのだ。コンビニの帰り道で行き会った二人《ふたり》連れの学生風の男が、ほっかほっか亭の前で看板を指差しながら言っていた。「うそ!? 来週からからあげ一個増量キャンペーン!? マジかよ、幸せの絶頂だ〜!」……小躍《こおど》りせんばかりにウキウキと身をよじり、絶対食うぜ、ウォンチュ、とかなんとか雄《お》たけびをあげ、多分《たぶん》、というかほとんと絶対、単なる酔っ払いだったのだろう。そのまま看板に特攻、ヒップアタックをかまして連れに引きずられて去っていった。
……ともかくも、その言葉を口にする奴《やつ》らはみな幸せそうに笑っていた。幸太は披露宴会場の片隅《かたすみ》で、夜の地元の街角で、そいつらの笑顔《えがお》をどこか違い目で見つめていた。
自分には、おそらく一生あんな笑顔はできないのだろう、と。
投げやりになっているわけでもなく、安っぽい言葉とバカにしているわけでもなく、ただひたすらに、己の人生はそういうものなのだと観念《かんねん》して。
無邪気に幸せの絶頂、とやらを口にするには、幸太が生きてきた今日までの短い人生はあまりにもマイナス指向にできていたから。
そう。今日、この日までは――
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「これ、ありがとう。さ、」
まだ発音し慣れない呼び名に、いちいち律儀《りちぎ》につっかかる。
「……くらちゃんのおかげで助かったよ」
「いやいや、どういたしました。それにしても珍しいねえ、しっかり者の幸太くんが忘れ物しちゃうなんて」
休み時間。教室移動する生徒たちの波に紛《まぎ》れ、1−Bの戸口前。
狩野《かのう》さくらは淡《あわ》い微笑《ほほえ》みを薄桃色《うすももいろ》の唇に浮かべて、幸太《こうた》が差し出した数学の教科書を受けとった。その相子、一瞬《いっしゅん》だけ触れ合った指先の温度は、その微笑みそっくりに温かい。
たったそれだけのことで熱《あつ》くなる頬《ほお》をなんとかごまかそうと幸太は俯《うつむ》き、
「あ、じゃあ、その……また」
早口で別れを告げる。
「うん、またね!」
子どものようにバイバイ、と手を振り合い、しかし、
「……
「なあに?」
幸太はその場からまだ動けない。不思議《ふしぎ》そうな、しかし咎《とが》める色は皆無《かいむ》のさくらの眼差《まなざ》しの真正面、あー、だの、うー、だのとひとしきり呻《うめ》き、大きいとはいえないささやかな瞳《ひとみ》を画方八方にキョロキョロと惑《まど》わす。
実のところ、死にそうになっているのだ。心臓《しんぞう》が胸郭からはみ出しそうに脈打ち、眩暈《めまい》さえする。言おう、言おう、あのことを――口だけを金魚のようにパクパクさせ、しかし喉《のど》から言葉が出てこない。
ずっと温めてきて煮詰まり切り、今にも焦《こ》げ付きそうなこの言葉を、今日《きょう》こそ、今こそ、伝えたいのに。そのために、忘れてもいない教科書をわざわざ借りにきたりしたのに。
「どうしたの、幸太くんってば」
善意百パーセントの穏《おだ》やかな微笑みで、さくらは小首をかしげてみせた。柔らかく細められた眼差《まなざ》しは春の海の光を湛《たた》え、不審《ふしん》な幸太の挙動をそっと見守り続けている。
その、淡く滲《にじ》む水彩で描いたような薄紅《うすべに》の頬。
甘いシロップに浸した果実みたいにふっくら輝《かがや》く唇。
「そ、そのお〜……」
「ん?」
さくらの細い指先が、顔の輪郭《りんかく》にかかる栗色《くりいろ》の髪をかきあげた。晒《さら》された薄い朱色の耳朶《みみたぶ》には、まるでピアスホールのような小さなほくろ。幸太の死にかけ心臓をまっすぐに突く、見てはいけない艶《なま》めかしさ。
クエスチョンマークを発するひそやかな吐息《といき》の気配《けはい》を感じるだけでも身体《からだ》は震《ふる》えだしそうで、さくらの顔をまともには見られないまま、幸太はええい、と声を発した。
「ろ――68ページ!」
「……え? 68ページ?」
緊張《きんちょう》に耐え切れず、そのままさくらに背を向ける。駆《か》け出したいのをこらえ、平静を装《よそお》って大股《おおまた》で歩き出す。顔が熱くて火が出そうで、両手でゴシゴシと強く擦《こす》る。うわあ――想像していたよりも、もっとずっと、変な奴《やつ》みたいになってしまった……
本当に言いたかったのはナゾのページ数なんかではなく、もっとストレートな言葉だった。だけどうまく話す自信がなくて、こんな作戦になってしまった。
ちゃんと彼女は68ページを開いてくれるだろうか。本当なら、彼女のクラスでも数学の授業が始まって、そうして自然に68ページにはさんだ『アレ』に気づいてくれて、はさんだのが自分だと気づいてくれて、そして……などと思っていたのだが、なにしろ自分のことだ。とんな運命の因果《いんが》律《りつ》が働いて、68ページの『アレ』が彼女の手に渡る前に異次元へ消失するとも限らない。
だから。
……だから……ああ、どうか、神様……。
「幸太《こうた》くんっ!」
突然の大声に、弾《はじ》かれたように振り返る。
廊下の真ん中、さくらは仁王《におう》立《だ》ちしている。
その手には教科書と――68ページにはさんでおいた、『アレ』
首筋まで真《ま》っ赤《か》に染めて、頬《ほお》を膨《ふく》らませてさくらは笑い、グイ! と立てた親指を幸太に突き出してみせた。それは、つまり、
「……オッケー! 今週の、土曜日《どようび》ね! すっごく楽しみにしてる!」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
富家《とみいえ》幸太が狩野《かのう》さくらと出会ってから、およそ一ヶ月。二人《ふたり》はお互いを、下の名前で呼び合うまでに親しくなっていた。
幸太くん、と親しみを込めて彼女が呼ぶたび、幸太はしみじみと思う――こんなに幸せでいいのだろうか? と。これまでの幸太の人生は、不運と不幸に彩《いろど》られていた。生まれついての不幸体質、というやつだ。
ミステリーを買ってみれば乱丁していて解決シーンが本の頭に入っている。あたりクジつきアイスを買えば、当然ながらハズレるばかりか、店のしいちゃんにおつりを間違えられる。というか、じいちゃんは最後まで、この世に二千円札なんかない、と言い張った。
電車に乗れば「当駅とまり」、受験《じゅけん》があれば前日に入院、カブト虫を孵化《ふか》させりゃ全部メス、家族でグアムに行けば自分のリュックだけロストバゲージ……ついでにタイフーンにまで襲《おそ》われて、ホテルから一歩も出られなかった。ちなみに帰国する日は超のつく晴天だった。
そんな不幸な幸太だったから、人並みの幸せなどとっくに諦《あきら》めていたのだ。なにをやってもとうせ結末は不幸なんだ、と。
ところがどうだ、ここ数週間のハピネスっぶりは。あんなにかわいいさくらと、こんなに親《した》しくなれてしまった。
68ページにはさんでおいたのは、隣町《となりまち》にある水族館《すいぞくかん》のチケットだ。それとメモが一枚――もしよかったら、あさっての土曜日《どようび》、一緒《いっしょ》に遊びにいかない? と。
「……幸せだなあ……」
グフフフフ、と笑いが漏れる。さくらとデートの約束ができたのだ。できてしまったのだ。
もしもデートに誘うことができたら、その帰り道に想《おも》いを告白しようと思っていた。友達《ともだち》から恋人に、はっきり関係を進展させたいと思っていた。それがなんだかものすごく、うまくいってしまいそうな気がする。
「どうしたんだよ富家《とみいえ》、珍しいな、おまえがそんなに機嫌《きげん》よさそうにしてるの。なんかいいことでもあったのか? ニヤニヤしちゃって」
「へへ、詳細はまだ内緒《ないしょ》。ま、いわゆる……幸せの絶頂、ってやつ?」
休み時間の教室で友人とじゃれあいつつ、このときの幸太《こうた》の瞳《ひとみ》はハッピー色の期待と予感に明るく輝《かがや》いていた。自分でも意図しないまま、幸せの絶頂、なんて、一生|縁《えん》がないと思っていた言葉も口にしていた――のだが。
「……あれ?」
その日の放課後《ほうかご》。
幸太はいつものように旧校舎の生徒会室に向かったのだが、なんだか妙に人気《ひとけ》がなく、辺《あた》りは静まり返っている。見れば、鍵《かぎ》のかかったままのドアには一枚のメモが貼《は》り付けられている。
『本日の生徒会活動は休止。体調《たいちょう》が悪いので帰る。狩野《かのう》』
走り書きのわりに異様《いよう》に達筆なその文字は、生徒会長、狩野すみれのものに間違いなかった。
「へえ……会長が体調を崩すなんて……鬼《おに》の霍乱《かくらん》ってやつか……」
ひとりごちつつ、心配よりは驚《おどろ》きが大きい。五月に生徒会入りして以来、こんなことは初めてだ。あの頑丈《がんじょう》な会長が体調を崩すとは……そんな姿は想像することさえできない。
とはいえ、早く帰れるならラッキーか。会長には申《もう》し訳《わけ》ないが。
こんなこととわかっていれば、一緒に帰ろう、とさくらを誘ってみればよかったなー、でもまあ土曜日にはデートだしいいかー、などとお気楽なことを考えながら幸太は踵《きびす》を返す。
部活の連中を眺めながら校門を出て、久しぶりに陽のあるうちの帰り道。夕暮れ前の気《け》だるい暑気の中を暢気《のんき》にブラブラ歩いていく。
「お。かわいいな」
車は通行止めの歩道、幸太の目の前を一匹の小さな黒猫が通り過ぎる。まだ生まれて一、二ヶ月というところだろう、指のように細い尻尾《しっぽ》をピンと立てて、ちょこまかと歩道を横切っていく。不吉《ふきつ》だと? こんなモンにいちいちびびって不幸体質がやってられるか。ごく純粋にいいものを見た、とほんわか気分になったところで、
「あ、あれ?」
子猫の後を追うように、ほっそりした若い黒猫、同じようなのがもう一匹、一国り大きな奴《やつ》、さらに大きなオス猫――全都見事に真っ黒な一家が、一列に連なって幸太の目の前を横切っていく。これはさすがに不吉《ふきつ》というか、なんというか珍現象。携帯《けいたい》ででも撮《と》ればよかった、とその後を振り返り振り返りさらに進み、曲がり角に差し掛かる。そこを曲がれば、もう自宅まではほど近い。と
「どいたどいたどいたー!」
「わっ!」
ドン、と乱暴《らんぼう》に突き飛ばされ、よろめいてしりもちをついてしまった。
「い、いった〜……」
幸太《こうた》に目もくれずに走り去っていくのは、ジャージにTシャツ姿の近所のおじさん。いつもは会えば挨拶《あいさつ》もする仲なのに一体なんなんだよ、と憮然《ぶぜん》としたところで、
「火事だ火事だー!」
「邪魔《じゃま》だ邪魔だー!」
続けざまに蹴飛《けと》ばされる。さらに続く足音にほとんど転がるように道の端によけ、走り去っていく人々が抱えているものに気がついた。みんな手に手に消火器や、バケツを持ってダッシュしていくのだ。そういや、火事だ火事だ、って――
「た、大変だ……うちの近所じゃないか!」
幸太も慌てて走り出す。消防車のサイレンも聞こえているが、ここは木造一軒家が軒《のき》を連ねて入り組んだ住宅街、そうすぐには到着できるまい。全力で猛ダッシュ、前方に煙が立ち上っているのを発見。本当に幸太の家の方角だ。と
「あんた! 最後尾はここだよ!」
コミケ会場のようなことを言われ、おばちゃんに腕を掴《つか》まれた。しかし持たされたのは「最後尾」と書かれたボードではなくバケツ。すぐ傍《かたわ》らには共用の水道栓《すいどうせん》があり、バケツリレーだな、よしきた、と抱えた鞄《かばん》を放り捨てる。
バケツに水を入れ、ホイ、とおばちゃんにパス。すぐに幸太の足元には、これも使えあれも使え、と鍋《なべ》やらバケツやらが山積みになる。若い体力に任せて次々に水を手渡していき、
「幸太! あんたなにしてんの!?」
突然の声に顔を上げた。バケツリレーの列の脇《わき》で、母親がエプロン姿に裸足《はだし》というなりのまま、幸太を見つめて呆然《ぼうぜん》としている。
「なにしてんのもなにも、消火活動に参加してるんだよ! ご近所の務めだろ!」
「燃えてんの、あんたの部屋《へや》よー!」
バシャーンと手元が狂い、バケツの水を幸太《こうた》は全身に浴びる。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
――翌朝、午前八時。
幸太《こうた》はどこか魂《たましい》が抜けたようなツラで教員室を出た。登校してすぐ、昨日《きのう》のことを心配する担任に無事を報告してきたのだ。
自宅が火事を出したその翌朝だというのに、こうしていつもと変わらず無事に登校できたのは幸いだった。母親が無事だったのも幸いだったし、消防車の到着を待たずして集まった近所の人(と自分)が素早《すばや》く消火してくれて、ボヤ程度で済んだのも幸いだった。
でも、突然パソコンの電癖ケーブルが発火したのは、不幸だった。
ボヤは幸太の勉強机の周囲を焦《こ》がしただけですんだのだが、数年間地道に貯《た》めたお年玉で、ようやくこの三月に買ったばかりだったデスクトップは当然おじゃん。しかも後片付けの時にベッドからなにからひっくり返されて、さまざまな手を駆使してコレクションしていた、いわゆる18禁アイテムの数々がすべて白日の下《もと》に晒《さら》された。
そんなさまざまな不幸をうすらぼんやり思い返しつつ、重い足取りで教室へ向かう。昨日の富家家《とみいえけ》のボヤ騒ぎは、すでにクラスメートたちの周知のもとにあるのだろうか。騒がれて、説明するのもなんだか憂鬱だ……そんなことを思って表情を曇《くも》らせたまま、おなじみの引き戸をガラリと開ける。が、
「……あれ?」
朝八時の教室にしては、なんだか妙に人口密度が低い。席の半分はまだ空《あ》いていて、いつもの喧騒《けんそう》とは程《ほど》遠い状況だ。
一体どうしたのだろう、と疑問に思いつつも席につき、始業の支度を終える。女子たちも不思議《ふしぎ》そうに、「今日、なんかみんな来ないね?」「電車かバスでも止まってるのかな?」などと話をしている。
やがてさきほど会ったばかりの担任が現れた。クラス委員もいないために起立の号令もかからず、なんとなくおどおどと立ち上がった幸太たちに「いい、いい、ちょっと連絡事項がたくさんあるから」と座るように促《うなが》す。そして、半分空いたままの教室を見下ろしながら言うのだ。
「えー、気がついているとは思うが、今日、このクラス37名のうち、18名が休んでいる。突然このクラスでだけ、悪性の風邪《かぜ》が流行しているらしい」
――いまだ現れないクラスの半分は、みな高熱で倒れたのだ、と。この時期に風邪? それも、このクラスでだけ? 唖然《あぜん》と口を半開きにする生徒たちに、続けて担任は語る。
「手洗い、うがいを励行《れいこう》するように。えー、それから……昨日、富家のうちがボヤを出した。なにかあったらみんなで助けてやってほしい。ええと、それから、田沢《たざわ》は風邪ではなく食中毒だ。こわいな、鯖《さば》は。それから菊池《きくち》も食中毒だ。夏場だからな。吉田《よしだ》は捻挫《ねんざ》で遅刻だ。階段で転んだらしい」
シン、と静まり返る少年少女たちをどこか遠い目で見下ろし、三十路《みそじ》の男担任は独り言のように小さく呟《つぶや》いた。
「……呪《のろ》われているのかな、うちのクラスは」
クラスの半数が欠席、という異常な一日の授業を終え、放課後《ほうかご》。
今日《きょう》は貼《は》り紙《がみ》もなく、生徒会室からはちゃんと人の気配がしている。いつものように俯《うつむ》いたままドアを開き、
「遅くなりました」
「おお幸太《こうた》、昨日《きのう》は悪かったな。おまえんち昨日、ボヤ出したんだって? 大丈夫なのか? なんならしばらく休んでもいいんだぞ」
「はあ、よくご存知で……ちょっとしたボヤなんでだいじょ――」
顔を上げた瞬間《しゅんかん》、ドサ! と鞄《かばん》を取り落とした。言葉を失い、震《ふる》える指先で目の前のソレを指差す。
「あ、あわ、あわわ……っ!」
「……失礼な奴《やつ》だな……」
「あんた誰《だれ》すかー!?」
「私だよバカ野郎」
ビシャッ、と鼻先を力強く下から上へ叩《たた》かれ、ようやくソレがボスであると認識《にんしき》する。幸太のボス、生徒会長の狩野《かのう》すみれ――だがしかし。
「とうしたんですかその顔! うっわあ、ひどい!」
「……デリカシーのない奴《やつ》め……」
幸太の知っている狩野すみれは、全生徒|憧《あこが》れの兄貴《あにき》にして頼《たよ》れるみんなの親方。男気|溢《あふ》れて豪放磊落《ごうほうらいらく》、ボス中のボスたるお父《とう》さんにして天下無敵の絶対君主。そしてなおかつ、面《おもて》は見目《みめ》麗《うるわ》しき涼しげ和風美女――のはず。
「だってそれ、大事件になってますよ!? あ、もしかして昨日の体調《たいちょう》不良って」
「昨日は熱《ねつ》っぽくてな。で、下がったと思ったら、顔が壊《こわ》れた」
目の前のすみれは、ひどいありさまに成り果てていた。
言ってしまうと、ブサイクだった。
左目の目蓋《まぶた》が真《ま》っ赤《か》に腫《は》れ上がり、ほとんど目が開いていない。顔全体も赤くカサついてひとくむくみ、見るも無残にパンパンに張って、せっかくの目鼻立ちが埋もれている。しかも、
「そ、その左目はものもらい、ですよねえ……あの……右目とロのところはとうしちゃったんですか? 傷みたいな……なんか聞くのこわいですけと」
「殴られた。見知らぬ男子中学生に」
「ええ、なんで!? 痴情《ちじょう》のもつれですか!? あ、それはないか、会長に限って……決闘《けっとう》ですかぁ? 中学生相手になんてことを」
「うるせえな……痴女に間達えられたんだよ。……今朝《けさ》、バスで」
「ち――痴女ぉ!? マジですか!?」
マジらしい。
満員のバスで登校していたすみれは、朝から猛烈《もうれつ》に腫《は》れ始めたものもらいが痛み、鞄《かばん》から痕をおさえるためのハンカチを出そうとしたという。ゴソゴソ鞄を漁《あさ》るが身じろぎも憚《はばか》られる満員バスの車内、なかなかハンカチに手が届かず、仕方なく鞄を持ち上げたところ、
「パンパーン! 『この痴女! いつまで僕のケツまさぐってんだあ!』……あまりのことに声も出なかった。この私が、だぞ? ……泣いたよ。ちょっとだけ。学校についてからな。トイレでな」
往復ビンタの仕草《しぐさ》をして見せつつ、すみれはがっくりと机に肘《ひじ》をつく。その右目の縁《ふち》は無残な内出血、唇の端は切れているのだ。左目の腫《は》れと顔のむくみ、すべてが見事に相まって、涼やか美女はずんぐりむっくりの壊《こわ》れハンプティダンプティと化していた。
「うっわあ……最・悪。最悪ですね、それ」
幸太《こうた》は思いっきり眉《まゆ》をひそめ、身震《みぶる》いするかのように首を振る。落ち込むすみれの肩がさらにガックリ落ちるのにも気づかない。
「不幸だなあ、まるで俺《おれ》みたい。もしその場に北村《きたむら》先輩《せんぱい》でもいたらきっと弁護《べんご》してくれたのに。……って、そういや北村先輩まだなんですかね?」
「いや、あいつならさっき一度ここに――」
と、そこでちょうどタイミングよく、ボロいドアがきしみながら開く。現れたのは銀縁《ぎんぶち》メガネの下に端整な面《おもて》を隠した生徒会副会長・北村|祐作《ゆうさく》。しかし普段《ふだん》の快活さは鳴りを潜《ひそ》め、
「……はあ……」
会長の顔に驚《おどろ》きもせず、北村は現れるなり憂鬱《ゆううつ》なため息をついてみせる。そして、
「で、首尾は?」
すみれが話しかけるが、
「だめです。まだ見つかりません」
はあ……と再びため息。そのまま重い沈黙《ちんもく》が生徒会室に低く垂れこめ、微妙な空気の中、幸太は気まずく北村の肩をつついた。
「き、北村先輩、一体どうしたんですか? なんか元気ないみたいですけど……」
幸太を振り返る眼鏡《めがね》ヅラは、見たことがないほどしょぼくれている。
「それがな……情けない話なんだが……どこかで財布《さいふ》を落としたらしい」
「げ、マジですか? 校内で?」
「ああ。昼休みまでは確《たし》かにあったんだが、さっきここに来てからポケットを見たらなくなってて……盗難《とうなん》じゃないんだ、多分。今日《きょう》は体育もなくて着替えてないから……ああ、とにかくまずい、非常に。今日の放課後《ほうかご》、部の備品を買うんで部費を預かっていて……」
「い、いくらですか!?」
「……五万七千……」
聞いて、幸太《こうた》も黙《だま》り込む。なかなか高校生が簡単《かんたん》に「ま、立て替えとくわ」とは言えないリアルな金額《きんがく》だ。ブラス、部長の立場でありながら、という問題もあるのだろう。
「チャージしたばかりのsuicaも……いや、そんなモンより部費どうしよ……」
呟《つぶや》き、北村《きたむら》はぐったりと顔を伏せた。普段《ふだん》は完璧《かんぺき》男《おとこ》の北村だけに、そんな様子《ようす》はなんだか見ていられない。
「なるほどな」
不意に低く呻《うめ》いたのは、すみれ。
「なんとなくわかってきたぞ、この状況……。おい、おまえらはなんともないか?」
二年生の地味な書記|庶務《しょむ》コンビはすみれの問いかけに順に手を挙げ、
「今朝《けさ》、飼い大に手を噛《か》まれました」
その手には確かに二本の牙《きば》の痛々しい穴。
「全都正解だったのに、解答|欄《らん》をいっこずつずらして書きました」
その答案は確かに0点。
「……やっぱり……」
「な、なんですか。ちょっと、なんで俺《おれ》を見るんですか。なんですか、その異様《いよう》な目つきは」
「腫《は》れてるんだようるせえな。私に隠しとおせると思うなよ? もうネタは上がってるんだ。この状況はおそらく、いや、絶対に――」
白い指先が幸太の鼻先をズバリ指差したそのとき。
「……し、失礼しまーす」
かすかなノックが響《ひび》き、ドアがきしみながら遠慮《えんりょ》がちに小さく開いた。十センチほどの隙間《すきま》から片目だけを覗《のぞ》かせ、そこに立っていたのは、
「あ、いた、幸太くん……」
「あれ? どうしたの?」
顔の一部しか見えていなくても見間違えようわけもない、さくらだ。すみれの方をチラチラと気にしつつも生徒会室に足を踏み入れはしないまま、「ちょっとちょっと」と幸太を手招きする。先輩《せんぱい》方の注視の中でどうしたらいいのかわからなくなり、おどおとと幸太は立ち上がったままさくらとすみれの顔を見比べるが、
「ええい鬱陶《うっとう》しい! 用事があるなら入ってこい! うわー!」
苛立《いらだ》ったすみれがドアを思い切り全開にし、そのまま流れるような動作で大きく仰《の》け反《ぞ》る。声を上げたのはすみれだけではなく、幸太《こうた》を含めた他メンバーも、思い思いのやり方でコケてみたり叫んでみたり、生徒会室は一気にパニックの様相《ようそう》を呈《てい》する。
「そ、そんなにひどい!? ……ったぁ……いたたた……」
泣きそうな顔で戸ロに立ち尽くすさくらは、まるでさくらではないようだった。
さっきまでは見えていなかった右目は真《ま》っ赤《か》なタラコのように腫《は》れ上がり、しかも左|頬《ほお》から顎《あご》にかけて、シュウマイでも含んでいるかのようにパンパンに腫れてしまっているのだ。声を上げた拍子にひとく痛んだのか、顔をしかめて腫れた頬をそっと擦《こす》り、情けない顔をして幸太を見る。
「さっきまではたいしたことなかったんだけど……急に、こんなふうに……いたぁ〜い……」
「か、かわいそうに……その目は会長のが伝染したんだ!?」
今朝《けさ》のバスで他人のフリした報《むく》いだ――冷たくすみれが言い放つが、とりあえずシカト。
「ほっべたはどうしちゃったの? うわ、痛そう……かわいそうだなあ」
「親不知《おやしらず》が腫れちゃったみたいで……ほら……ここ……」
「あああ……そこ……うわ、すご……あ、あぁ……全部見える……見えちゃってる……っ」
「んぅぅ……いたっ……あ、そんなにひろげ……、幸太く……あっ……だめ……っ」
「平気? 無理しないで……あっ……だめだよさくらちゃ……ああぁっ、そんな、大きく開きすぎだよぉ……」
「んあっ……」
「なにやってんだおまえらは!」
すみれに二人同時に頭を叩《たた》かれても、幸太はきょとんとするしかない。ただ、さくらの腫れた口の中をそっと覗《のぞ》き込んでいただけなのだから。一方さくらは痛そうに顔をしかめ、
「い、今の響《ひび》いたぁっ……ああ、やっぱり無理だ、こんな状態じゃ……」
――ざわわ、とそのとき、非常に慣《な》れ親《した》しんだ感覚が幸太の背を走る。来るそ来るぞ……不幸が来るぞ……。
「幸太くん、ごめん。私、明日《あした》は無理そうだよ……楽しみにしてたんだけど、これじゃ……」
そんな!? なんて、言えるわけがなかった。
「そっ……い――いいんだ。……そうだね、やめた方が、いいよね……しょうがないよ……」
さくらは腫れた目元を桜色に――あくまでもものもらいの色とは別の――染めて、悲しそうに幸太を見つめる。腫れようがどうしようが損なわれようもなく綺麗《きれい》に透《す》き通る瞳《ひとみ》には、今にもこぼれそうな涙を溜《た》めて。
「……いいんだ。さくらちゃんの身体《からだ》の方が大事だから」
「幸太くん……」
「それより早く帰らないと。しっかり休んで、身体を治して」
「うん……ごめんね、ほんと……」
「いーからさくら、早く行け! 歯医者の予約取ったのか!?」
「ん、とっひゃ……はれえ!? はれへ、ろれつら、まわらなるなっれりらー! もうらめら!」
こうしている間にも日に見えて腫《は》れがひどくなっていく頬《ほお》を抱え、さくらは顔を隠して逃げるように生徒会室を後にする。送っていこうか、と言えばよかった、と幸太《こうた》が思い当たったときには、すでにさくらのプラ線が透《す》ける華奢《きゃしゃ》な背中は見えなくなっていた。
「……ああ……。……はー……」
項垂《うなだ》れた。これで明日のデートの約束は、なくなってしまった。火事にもめげず、決行の予定だったのに。……告白のセリフまで、考えてあったのに。
やっぱりこうなのか。結局幸せなんてこの手には本当には入らないのか。うっそり暗く考え込むその屑をむんずと掴《つか》むのは、
「顔を上げろ。ま、どうやらポシャったようだし……これで少しは、状況がマシになるかもしれねえな」
「……なんすか、それ」
悟りきった目をしたすみれ。幸太の顔を上げさせ、その鼻先に指を突きつけるところからやり直す。
「情報はとっくに掴んでたんだよ。おまえ、明日さくらと出かけるつもりだっただろう。ウキウキの幸せ気分でいただろう」
「なっ……人のプライバシーを覗《のぞ》かないで下さい!」
「うるせえ! それでこっちは迷惑|被《こうむ》ってるんだよ! そのおまえのウキウキの『ギャップ』のな!」
「はあ? ……一体なんの話ですか?」
「おまえのウキウキを打ち消すための莫大《ばくだい》な最の不幸が、こっちにまではみだしてるんだよ! この――不幸体質!」
「は……」
はみだしてる?
俺《おれ》の不幸が?
傷が痛んで苛立《いらだ》っているのか、すみれはいつもよりもだいぶ厳《きび》しい封建時代の親父《おやじ》の眼差《まなざ》しで、物も言えない幸太をまっすぐ睨《にら》みつける。
「否定できるか? できねえだろ? おまえが幸せ方向へ進むと、世界はさらに強い力でもっておまえを不幸へ突き落とそうとする。その力があまりあまって、周囲にはみだしまくっている。違うか? え?」
「ひど! そんな、セカイ系みたいな……よくわからないけど」
なんとか反論《はんろん》しようとするが、恐ろしいことに、すみれを納得させるだけの明快な理論が見つからない。もしかして……本当にそうなのかもしれない。自分でもそう思ってしまう。
本当に、この立て続けの不幸現象は、すべて自分の浮かれ気分が引き起こしたことなのかもしれない。
「……な、なんてこと……」
愕然《がくぜん》と立ち尽くす幸太《こうた》の肩を、ガシッ、とすみれは力強く掴《つか》む。
「ちょっとでも責任を感じたんなら、行くぞ。ほら立て」
「なんですか? どこに?」
「北村《きたむら》のアホ財布《さいふ》捜しに行くんだよ。おら、全員ついてこい! 今日《きょう》の生徒会活動は財布捜しだ!」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
幸太は廊下の壁際《かべぎわ》に等間隔《とうかんかく》をあけて並ふロッカーの上を見て回る。落ちていたのを誰《だれ》かがポン、と置いてくれていないかと思ったのだ。その傍《かたわ》らでは、
「……すいません、本当に……なんて詫《わ》びたらいいのか……」
「グズグズうるせえよ。いいから、今はでめえの財布のことだけ考えてろ。……もし見つからなかったら、私がなんとか考えてやるから。ほら、もうそんなツラすんな。どうにでもなる」
「会長……」
兄貴《あにき》節《ぶし》全開。ゴミ緒を漁《あさ》りつつ情けなく背中を丸めた北村は、ほとんど信者の目つきで今にもすみれの足元に五体投地《ごたいとうち》ですがりつきそうになっている。
これが本当に不幸がはみ出したせいで引き起こされたことなのなら、幸太こそ二人《ふたり》の足元に身体《からだ》を投げ出した方がいいかもしれない。
「はあ……」
生まれついての不幸体質。関《かか》わった人まで不幸にする、恐るべきこの自分。
分不相応《ぶんふそうおう》にもデートなんて考えたから、こんなことになったのだろうか。家の火事、クラスの奴《やつ》ら、生徒会の面々にさくらまで……ついでに北村も。まさか、と否定したいのだが、しきれない自分が恨めしい。
「ほら、幸太もいい加減死神みたいなツラやめろ。さっきは言い過ぎたよ。なにも本気でおまえのせいだと思ってるわけじゃねえよ」
「……俺《おれ》はちょっと、本気で思いつつあるんですけど」
すみれがかけてくれた声にも、振り返れないまま低く返事をかえす。実のところ、というか当然、明日《あした》のデートがなくなったことも胸を重たく塞《ふさ》いでいる。
言うまでもないことながら、ものっすごく、楽しみにしていたのだ。さくらのことを責めるつもりは当然これっぽっちもないが、それにしても、残念でならない。
「はあ……不幸だな……。デート、なくなっちゃった……」
シーン、と葬式《そうしき》めいた静かな空気が、三人の空間を喪服色《もふくいろ》に染め上げる。しかし、
「違うだろ? なくなったんじゃなくて、延期だろ。さくらのあのアホ面《づら》が治ってから、また約束すればいいじゃねえか」
「あっ! そっか!」
とりなすようなすみれの言葉に、急速に目の前が開けた。
我《われ》ながら単純だが――そうだ。あれは中止じゃなくて、延期。月曜《げつよう》にでもまた、いつにしようか? とさくらと相談《そうだん》すればいいのだ。
「なんだ、こんなにへこむことなかったな。そうだそうだ、延期なんだ、これは」
「……あんまり喜ぶなよ。またなにか不幸なことが起きる」
迷惑そうなすみれの声も、もはや幸太《こうた》の耳には届かない。ヘラヘラ笑いを復活させて、幸太はだらしなく顔を緩《ゆる》める。
「延期延期……楽しみだなあ、あと一週間、もっとねっちり計画練っちゃお」
結構立ち直り早いですよね。へこむときも簡単《かんたん》だからな。そんな先輩《せんぱい》二人《ふたり》の微妙に冷めた声も今の幸太には無関係だ。うきうきとハイテンション、ロッカーとロッカーの隙間《すきま》に挟まってニヤケ面《づら》は隠したつもり。もはや頭の中には財布《さいふ》のことも残っちゃいない。延期されたデートの妄想で、頭の中オールピンク色のアホに成り果てていた。
そのとき、廊下の向こうから、「だから先生にその辺の話を通してさあ、」「えー、でも誰《だれ》が言うの?」「部長の仕事だろ?」「無理、あいつ使えねえもん」――なにやら深刻そうな声。もちろん幸太には関係などない……はずだった。
「あーあ、畜生、どうするんだよあのカルメ焼き!」
彼らのうちの一人がうめき、ドン、と苛立《いらだ》ち任せにロッカーを蹴《け》る。そのまま階段を上がっていってしまう。するとロッカーはグラリと傾き、隣《となり》のロッカーにぶつかった。その衝撃《しょうげき》に耐え切れずに、次のロッカーも傾いた。その衝撃に耐え切れずに、以下略。
要は、ドミノ倒しだった。
「……え? えええ!? ええええええええっっっ!?」
ドーン、ドーン、ドーン、と続く轟音《ごうおん》のしめを飾ったのは、「ぐえええっ!」――逃げそびれて挟まった幸太の悲鳴。
「うわ!? な、なにやってんだおまえ!?」
「大丈夫か!?」
慌ててすみれと北村が駆け寄ってくるが、
「あー! あったー!」
北村は突然に方向転換、ドミノ状態で倒れたロッカーの裏に落ちていたと思《おぼ》しき黒い財布を慌てて拾い上げる。すみれも「おお!」と目を見開き、
「誰か……助、け……」
幸太《こうた》の存在を忘れたらしい。
「これ、誰《だれ》かが上に置いたのが裏に落ちてたんだ! うっわあ、見つかってよかった!」
「ほんっとによかったなあ北村《きたむら》! いやー、ラッキーだなー!」
「ほんとです、マジでラッキーです!」
キャッキャと喜び会う二人《ふたり》の背後、いまだ幸太は悶絶《もんぜつ》の真っ最中。下半身にのしかかっているのは、ロッカー数台分の重み――痛いも重いもクソもない、とりあえず息ができない。声が出ない。
「しかしまあよく見つかったよなあ、しみじみラッキーだよ、北村」
「ええ会長、これは奇跡的ラッキーですね。あのままじゃ見つかりませんでしたね」
すみれと北村はラッキーラッキーと繰《く》り返している。こっちはアンラッキーだ。非常に、アンラッキーだ。幸太は薄《うす》れる意識《いしき》を死ぬ気で保ちつつ、天井《てんじょう》を仰《あお》いだ。こんな目にあうなんて、心の底からアンラッキーだ。
あんたらのラッキーは俺《おれ》のアンラッキーと引き換えにもたらされたんだぞ! 見ろ、死にそうだ! などと北村たちに宣言できたら、どんなにかせいせいするだろう。
声が出ないから言えないけど。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「よう! おはよう、幸太! 身体《からだ》はなんともないか!?」
「……はあ……」
週が明け、月曜日《げつようび》の朝。
下駄箱《げたばこ》前で幸太の肩を叩《たた》いたのは、Tシャッツ姿の北村だった。朝練の途中なのだろうが、幸太を見つけて追いかけてきたらしい。だが幸太はそっけない返事とともに、暗い眼差《まなざ》しをため息と一緒《いっしょ》に足元に落とす。よく眠れずに目が覚めてしまったせいでいつもより時間はだいぶ早く、他《ほか》の生徒の姿はない。
「……朝から元気ですね。長生きしますよ先輩《せんぱい》は」
「なんだ、元気がないな。大丈夫か?」
「……あんまり。やることのない暇《ひま》な週末、思わず考え込んじゃって……」
本当ならば今頃《いまごろ》、さくらとデートのはずだったのに、とか。それを惜しむ一方で、だがあのまま幸せ絶頂まっしぐらだった場合、ヘタしたら人死《ひとじに》が出ていたんではないだろうか、とか。
「なんていうか俺《おれ》って、幸せを望んじゃいけない人間なんですよね、結局……。会長に言われたことが頭から追い出せなくて……」
「不幸がはみ出してる、云々《うんぬん》か? あれは会長も言い過ぎたと謝《あやま》ってたじゃないか。気にすることはない」
「……気にするに決まってるでしょ。実際、不幸な事故は起きまくっていたし、一転デートが延期になってからは周囲に被害が及ぶことはなくなったんだから。ま、俺はどっちにしても相変わらず不幸ですけどね」
どよ〜ん、と曇《くも》った目をして、幸太《こうた》は下駄箱《げたばこ》に背をもたせる。その拍子、1年A組と書かれたプラスチックの板が落下、幸太の脳天に角が突き刺さる。
「っ……ったいなあ……もう……」
誰《だれ》が悪いのでもない。運が悪いのだ。わかっているからそれ以上の文句は口にせず、黙々《もくもく》と板を拾い上げて枠《わく》に戻す。通りすがりの教師が「こら! それをイタズラするんじゃない!」――言い返さない代わりに、頭を下げつつ死んだ魚の目を向けてやる。
「……幸太……」
困ったように眉《まゆ》を寄せ、北村《きたむら》はダークサイドに転落しそうな後輩《こうはい》の姿をそっと見つめる。
「ていうか先輩、こんなところで抽売ってていいんですか? 部長のくせに」
「なんか心配でさ。おまえのこと」
「心配されても俺の不幸は治りません。……もういいんです。さくらちゃんとのデートの件も、このまま流そうかと思ってますし」
「えっ!?」
瞬間《しゅんかん》、ガタ、と北村の眼鏡《めがね》が鼻の辺《あた》りまでずり落ちた。
「……そんなにショックですか、俺の男女交際が頓挫《とんざ》しそうなことが」
大げさに声を上げた北村は、一体なにが心の琴線《きんせん》に触れたのか、眼鏡もずれたまま幸太の肩を掴《つか》みにかかる。
「本当にやめてしまうのか!? それでいいのか!? よくないだろう!?」
「……そりゃ俺だって、デートしたいですよ」
「ならばぜひともするべきだ!」
「……この際隠しでも仕方ないから言いますけど、俺は彼女のことが好きなんです。……好きな相手がまた俺のせいで病気になったり、もしかしたらケガしたりするかと思ったら、とてもじゃないけど……耐えられなくて……」
「不幸なんておまえの思い込みだよ! そんなことで想《おも》いを曲げられるような男なのか、おまえは!」
思い込みと言われても、あれだけのアンラッキーの数々を見せつけられては納得することはできない。そもそも、北村だって不幸のとばっちりをその身に食らっているくせにどうして理解できないんだ。幸太《こうた》は少々|冷《さ》めた目で、熱《あつ》い北村《きたむら》の顔を見る。
「……なんか……変ですよ、先輩《せんぱい》」
「へ、変か!? 変じゃないよ!」
バッ、と掴《つか》んだ眉を放《はな》し、北村は取《と》り繕《つくろ》うように乱れた前髪をかきあげた。それでも変には変わりない。先週の財布《さいふ》を落としてへこみまくりの様子《ようす》にも驚《おどろ》いたが、これはこれでまた奇妙だ。北村は後輩思いのいい先輩だが、他人が決めた事柄《ことがら》にここまで強く口を挟むようなタイプの男ではなかったはずだ。取り乱して声を上げるような奴《やつ》でもない。自分のためには――いや、例外はただひとつか。
「……なんか、企《たくら》んでます? もしかして」
「ないないない。ないって、それは」
北村が熱くなるとすれば、その原因には彼の真剣な……言うなれば〈信仰〉が絡んでいるはずだった。その対象は、あの親方。そう、北村のボスであるあの男が……いや、あの女が。
「そうか。さては会長と、なにか企んでたんでしょう。俺《おれ》とさくらちゃんのデート絡みで。あ、それで俺の動向を探りに来たんですね? 計画を進めようとさせるあたり……後をつけよう、とか思ってませんか?」
「えぇ!? ないないないない!」
「怪しい……」
幸太は疑心暗鬼《ぎしんあんき》もりもりの目で、声をひっくり返して首を振る北村の顔をじっと真正面から睨《にら》みつける。
「……わかっちゃいましたから、今更《いまさら》ごまかさなくてもいいです。会長に伝えで下さい。デート中止になったほうが、不幸の累《るい》が及ばなくて都会がいいでしょう、って。どうせ俺のことをネタにいつもみたいにおもしろがってやろうと思ってるんですよね、って」
「や! それは違うぞ!」
誠実なる忠犬の目をして、北村は本音《ほんね》の説得にかかる。
「会長は幸太と妹さんが心配なんだ。ほら、またなにかトラブルに巻き込まれやしないか、とかって」
「……やっぱり後をつける気だったんだ」
気まずげに口をつぐんでももう遅い。幸太は北村を冷たく睨み、ぷイ、と踵《きびす》を返した。
おもしろがらせてなんかやるものか――決意は一層《いっそう》強国になる。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
じりじりと照りつける真夏の強烈な日差しの中、太陽から逃げるみたいに二人して木陰のベンチに走りこんだ。
「うわあ、あっつー! 、ほんっとに今日《きょう》は暑いねえ……あっついあっつい、溶けちゃうよ〜」
腰掛けるなり手でパタパタと自分|扇《あお》ぎ、さくらは額《ひたい》に滴《したた》る透明の汗を手の甲で拭《ぬぐ》う。頬《ほお》は林檎《りんご》みたいに紅潮《こうちょう》し、首筋まで血の気の色が上っている。
それぞれ弁当箱と缶のウーロン茶を抱え、暑さのせいで無人の中庭、ベンチに並んで「えへ」「へへ」と微笑《ほほえ》み合った。
珍しく、というか初めての二人《ふたり》きりのお弁当タイム。幸太《こうた》はさくらと二人きりで話をするために、勇気を振り絞り、誘ってここまでやってきたのだ。
「ほら幸太くん、水分取らないと熱中症《ねっちゅうしょう》になっちゃうよ」
そう言ってウーロン茶を飲むさくらの白い喉《のど》が、ゴクゴクと勢いよく上下する。なめらかな肌は汗に濡《ぬ》れ、滴り落ちる汗はコロコロと鎖骨《さこつ》まで一気に転がり、
「……」
思わず無言で見つめる幸太の視線《しせん》を誘い込むかのごとく、二つボタンを外《はず》した胸元の淡《あわ》い影《かげ》の中へ。三つめのボタンはしっかり留《と》まっているものの、薄いシャツの下の膨《ふく》らみはほんのりと下着のレースを透《す》けさせながら丸く大きく張り詰めて、ボタンが重ね合わせるシャツの胸元は左右に引っ張り続けられてぴちぴちに緊張《きんちょう》を孕《はら》んでいるのが見て取れる。このままでは遅かれ早かれ――
「んっ!」
けほ! とさくらが軽くむせかける。幸太はベンチから転がり落ちかける。
左右にテンションをかけられていた第三ボタンが、のけぞった体勢にとうとう耐えられなくなったのだ。プチンと外れて胸元は左右に泣き分かれ、柔らかな膨らみ二つの合わせ目を真夏の光線の下に晒《さら》し出す。
「うわわっ……み、見えた!?」
慌てて幸太に背を向けて第三ボタンを留め直しつつ、さくらは顔を暑さのせい以上に真《ま》っ赤《か》に染めて顔だけで振り向く。もちろん答えは、
「見てない!」
「そっかあ、よかった…うわあ恥すかし」
女の子失格、と呟《つぶや》いて、さくらは頬を両手で挟み恥ずかしそうに身体《からだ》を揺らす。その拍子、短めのスカートの裾《すそ》がハラリとめくれて搗《つ》き立てのお餅《もち》みたいな太ももがハレーションを起こしたみたいに真っ白く日差しので照《て》り輝《かがや》く。
「はうっ……」
目を射《い》られ、眩暈《めまい》が。
「さ、お昼たべよ! 私、いつもお昼はお弁当なんだ〜。幸太くんもお弁当だね〜」
無邪気そのものの笑顔《えがお》で、さくらは太もも丸出しのままで自分の弁当箱を掲げてみせる。ぬるい風がぼんやりと吹き、ぜんぜん涼しくもないくせに、めくれたさくらのスカートの裾を戻す。ほっとしたやら恨《うら》めしいやらほっとしたやら恨めしいやら、
「こ、幸太《こうた》くん? どしたの、ぼーっとして」
「うん!? あれ、ぼーっとしてたかな、俺《おれ》」
「してたよお。大丈夫?」
パタパタパタ、とさくらは小さな手で幸太の真《ま》っ赤《か》な顔《かお》を扇《あお》いでくれる。大丈夫大丈夫、ありがと、と後ろめたさを隠すみたいに三倍の速さで頷《うなず》いてみせ、弁当箱のふたをぱかっと開けた。瞬間《しゅんかん》、
「あ、おいしそう!」
にっこり、とさくらの笑顔《えがお》が幸太だけに向けられる。谷間よりも餅《もち》よりも、さらに眩《まばゆ》い魅力《みりょく》全開で。くすぐったいような熱《あつ》いような、不思議《ふしぎ》な感触が腹をくすぐり、幸太も自然に笑顔になる。
「……そ、そうかな? よかったらなんでもつまんでいいよ」
「わーい! じゃあじゃあ、そのすっごく魅力的なシュウマイと、私のお弁当のおかず、トレードしてくれる? どれでも好きなの選《えら》んでくれていいから」
さくらが広げてみせた弁当に、今度は幸太がおお、と目を見開いた。色とりどりの見るからに食欲をそそるおかずも、海苔《のり》をのせたご飯のしっとりさも、本当にうまそうな豪華版だ。
「さくらちゃんの弁当こそ、すっごいうまそう! うわ、その玉子焼き、すっごい綺麗《きれい》に焼けてる……もらっていい?」
「どうぞどうぞ! えへへ、嬉《うれ》しいな、褒《ほ》められちゃった」
「……ってことは」
「そ。私が作ったの。毎朝お姉《ねえ》ちゃんのと二人《ふたり》分。ほら、うちスーパーだから材料には困らないしね」
「料理、うまいんだね。……わ、本当においしいよこれ!」
「ほんと!? やったあ」
玉子焼きをひとかじり、幸せすぎる優《やさ》しい甘みと中のとろとろチーズが口中にほんわかと広がる。うまいうまい、と決して大げさではなく心から感動しつつ、あっという間に全部食べてしまう。
「めちゃくちゃおいしい! さくらちゃん、絶対料理の才能ある!」
「そうかなあ。えへへ、もしそうだったら嬉しいんだけど……私って他《ほか》にいいとこ全然ないから」
「そんなこと、ないっ!」
思わず、大きな声が出た。
「さくらちゃんはいいところ、いっっっっぱいあるよ! 料理の才能も、たくさんあるいいところのうちのひとつだって!」
さくらに恋する男としては、そこは絶対に強く主張したい。さくらは最高の女の子だ、たとえさくら自身が発したものであっても、さくらの魅力《みりょく》を否定するような言葉には反論《はんろん》せずにはいられない。ほとんど本能の叫びだ、これは。
とはいえ、興奮《こうふん》しすぎたかもしれない。はた、と我《われ》に返ると、
「……幸太《こうた》くん。これも食べて。これも、これも」
さくらがまだ口をつけていない自分のお箸《はし》で、おかずをひょいひょいと幸太のごはんの上にのせてくれていた。
「そんなこと、言ってもらえるとは思わなかった。すっごく嬉《うれ》しい……自分が食べるのなんかより、幸太くんがそうやって言ってくれることのほうが、私には何百倍も嬉しくて、大事なことだよ」
「あ、でもさくらちゃんのおかずがなくなっちゃうよ! これ、これ食べて」
ひょいひょいひょい、と幸太は串《くし》に刺さった小さなから揚げを、全部さくらの弁当箱の蓋《ふた》へ。そのまま競《きそ》う合うように「うふんうふん」「あんあん」とおかずの交換をしまくって、
「……ふふっ」
急にさくらが頬《ほお》を膨《ふく》らませて笑い出した。
「最初っから、お弁当交換すればよかったんじゃない? もしかして。おかず、ほとんど入れ替わってる」
「あ。……そっか」
目が合い、ほぼ同時に吹き出す。
「あはははは! ばかだねえ、私たち!」
「ほんとに……うはは!」
真夏の日差しの下で笑いあうことしばし。「だめだ落ち着こう、汗が噴《ふ》き出す」とぬるくなったウーロン茶を飲み、はあはあ、と息をついたところで目が会ってしまい、また同時に笑い出す。
「ぶふっ……ぶはははは! なに、なんで笑ってるんだよ!」
「幸太くんこそ……あはははは! あは、苦しいよー! お弁当食べられないー!」
おかしくておかしくて仕方なかったのだ。なにがおかしいのかさえもう幸太にはわからないが、とにかく笑えて笑えてどうしようもない。さくらとこうしていることが、おもしろく楽しくて笑いが止まらない。
傍《かたわ》らのさくらも目じりに涙を溜《た》めたまま、お弁当を食べようとしては、ぶふっ、と笑って口に放り込めずにまた笑っている。さくらも自分といることを、同じぐらいに楽しんでくれていれば最高に幸せなのだけれど――と、
「あ、そういえば。目のところと親不知《おやしらず》、すっかりよくなったみたいだね」
今の今まで忘れていた。先週ひどいありさまだったさくらの顔は、そんなことを忘れてしまうほどに綺麗《きれい》に治っていたのだ。
滲《にじ》んだ涙を拭《ぬぐ》いながらやっと呼吸を取り戻し、
「そう! そうなの、土曜《どよう》と日曜、家でゆっくり休んだら、すぐに治まったんだ」
嬉《うれ》しげにさくらは腫《は》れの引いた顎《あご》の辺《あた》りを摩《さす》ってみせる。
「だから、今週こそは大丈夫だよ。今日《きょう》はその予定を立てるために誘ってくれたんでしょ?」
首を傾《かし》げるその表情は、笑いの延長線上のまま。――だがしかし。
「あ……その……」
そうだった。
幸太《こうた》は気まずく唇を舐《な》め、腹の底がひんやりと気まずく冷えていくのを感じる。どうしたものか、と汗に濡《ぬ》れた頭を掻《か》く。浮かれてる場合ではなかったんだった。
「どうしたの、幸太くん。今週末が都合悪いなら、他《ほか》の日にしてもいいよ?」
「いや、そうじゃなくて……ええと……」
歯切れ悪く口元を歪《ゆが》めるしかなかった。
だって、とう言えばわかってもらえるのかわからない。デートの約束は、なかったことにしたい。でもそれはさくらのことが好きだからゆえで――なんて。自分から誘っておいてこんなことを言い出せば、多分《たぶん》いや絶対、さくらに嫌《いや》な思いをさせてしまう。
ちゃんとわかってもらうためには、一から全部、自分の気持ちを語るしかないのかもしれない。正直な、嘘偽《うそいつわ》りのない真実だけを。
「……あのさ、さくらちゃん。ちょっと俺《おれ》の話、聞いてもらっていいかな」
「え……?」
「俺のうち、ボヤ出したの、知ってる……?」
――そこから始めて幸太の話は、自分が生まれたその日まで一旦《いったん》戻り、己《おのれ》の身に降りかかった理不尽《りふじん》かつ避《さ》けようもない数々の不幸をさくらに語って開かせた。さくらは目を丸くし、弁当に手をつけるのも忘れ、幸太の不幸体質についての話をただ聞いていた。
ここぞ、というときには必ず、大きな障害が幸太の前に立ちふさがる。
ここぞ、というときでなくても、幸太の頭上には硬い物体が落ちてくる。
万が一幸せになりかけたなら、そのブラスを通常のマイナス状態に戻すべくいつも以上のどマイナスが襲《おそ》い、幸太の不幸はその身体《からだ》から大きくはみ出し、関係する人々にまであらゆる苦難《くなん》となって襲い掛かる。
それはたとえば君のものもらいであり、君の親不知《おやしらず》だったのだ、と。
「……だから、なんていうか……こんな状態の俺は、幸せを求めたらいけないんじゃないかな、って……」
そんな言葉を口にするなり悲しくて、幸太は背中を情けなく丸めた。そりゃ幸せになりたいよ、俺だって――でも、現実が、それを許してくれない。
「ごめん、さくらちゃん。だから水族館《すいぞくかん》は誰《だれ》か別の人と行ってほしいんだ。……俺《おれ》の分のチケットも、あげようと思って持ってきた」
さくらの顔を見られないまま、尻《しり》ポケットから封筒に入れたチケットを取り出す。差し出し、唇を噛《か》み締《し》める。
せっかくのお昼休み、初めて一緒《いっしょ》に弁当を食べてるのに。せっかく楽しく過ごしていたのに。
せっかく、さくらの長所をまたひとつ知ることができたのに。
……せっかく、さくらをデートに誘うことができたのに。
好きだと、伝えたかったのに。
今はどんな喜びも、その存在を認めることはできない。悲しくて悔しくて手は震《ふる》え、多分《たぶん》、これで嫌われるのだと目を閉じる。
だが――――
「いっ!?」
訪れた衝撃《しょうげき》は、心にではなく、はっきり背中に。
詰めた息が肺から漏れ、閉じていた目を見開くぐらいに、唐突《とうとつ》に、力強く、背中をさくらに叩《たた》かれたのだ。
「さ、さくらちゃん……」
幸太《こうた》の背を叩き、さくらは幸太をまっすぐに見詰めていた。その頬《ほお》に今は笑《え》みはなく、
「しっかりしてよっ! 幸太くん!」
斎外なほどに強い言葉が、優《やさ》しいさくらの唇から飛び出す。
「幸太くんがわからないなら、私が教えてあげる! 幸太くんは、不幸体質なんかじゃないっ! 違う、絶対に、遵うっ!」
そう言われても、と幸太は情けなくさくらから目を逸《そ》らす。その頬をむぎゅ、と熱《あつ》い両手で挟み、さくらは自分の方だけをまっすぐに向かせる。
「だって私がその証拠だよ! 私は幸太くんに出会って、本当に、信じられないはとたくさんのハッピーをもらったよ! 楽しいことばっかりだよ! 幸太くんがいなかったら、どうなってたかわからないよっ! だからそんなこと、絶対にないんだってば!」
「ハッピーなんて、あげてないよ……こっちがもらうばっかりで俺はさくらちゃんに迷惑をかけてばっかりだった……」
「違う違う! だって私はいつもどうしてた!? 私、いつも笑ってたよ! 幸太くんが隣《となり》にいてくれるときは、いつも私笑ってる! 楽しくて、嬉《うれ》しくて、幸せで――」
そしてさくらはなにを思ったのか、自分の弁当から玉子焼きを箸《はし》で摘《つま》み上げ、幸太の口にポイと放り込む。驚《おどろ》きながらも咀嚼《そしゃく》しないわけにはいかなくて、噛み締めてしまえば、
「おいしい!?」
「……最高に、うまい」
「だったら……ね? お願《ねが》い、笑ってよ、幸太《こうた》くん。幸せになっちゃいけないなんてそんな悲しいこと、もう二度と言ったりしないで」
「そう言われでも……」
「水族館《すいぞくかん》にも、連れていってよ。幸太くんと一緒《いっしょ》に行くのが、きっと、一番楽しいから」
「で、でも……。それに、そうだ、会長と北村先輩《きたむらせんぱい》が、俺《おれ》たちの後をつけようと計画してるんだよ。それだって嫌《いや》でしょう?」
「そんなの、まいちゃえばいいもん。そうだ、お姉《ねえ》ちゃんには遊びにいく予定はなくなった、って言うよ。それで本当は土曜日……ね? そうしようよ」
「さくらちゃん……」
飲み込む玉子焼きのおいしさと、目の前のさくらの優《やさ》しすぎる微笑《ほほえ》み。――ここまできたら、認めざるを得なかった。今の幸太は、幸せだった。
大好きな女の子がそばにいてくれる。落ち込んだ背を、叩《たた》いてくれる。
幸せで幸せで、本当に――本当に、さくらと、出会えてよかった。ただそれだけしかもう考えられない。
「なんで……そんなに優しくしてくれるんだよ。俺みたいな、つまらない奴《やつ》に」
「……幸太くんが、優しいからだよ。私が聞きたいよ。どうして私なんかのために、幸太くんはいつも一生懸命《いっしょうけんめい》になってくれるの?」
さくらが笑う。つられて、幸太も笑ってしまう。不思議《ふしぎ》だった。むしろ心は泣きたい方向に流されていたはずなのに。
さくらがいると、なにもかもがハッピーな桜色に塗り替えられてしまうのだ。さくらという女の子は、そんな不思議な魔法《まほう》を軽々とかけてみせるのだ。
「幸太くんがもしもどうしても心配なら、私はとにかく絶対、怪我《けが》をしたり病気をしたりしないように気をつける。トラブルにも巻き込まれないように注意する。だから幸太くんもさ、」
さくらは優しく微笑みながらも、瞳《ひとみ》だけをほんの少しだけ、悪戯《いたずら》な子供みたいに光らせた。
「……週末までの一週間、幸せ、なんて思わないでね? ずっと不幸だ不幸だ不幸だ、って思い続けてれば、不幸ははみ出したりしないんでしょ? 私も協力してあげるから」
嬉《うれ》しいけど、協力ってなんだろう?
なんとなく聞き出せないままに、幸せな昼休みの気温はさらに上がっていく。
それからの一週間というもの、さくらの協力は本当に凄《すさ》まじかった。
さくらは毎日、不幸の手紙を幸太の下駄箱《げたばこ》に入れておいてくれた。そして幸太と顔を合わせるたび、すぐにわざとらしいまでの険しい顔を作って、
「……フン!」
とそっぽを向いてみせるのだ。
そんなさくらの背を見つつ、ああ不幸だ不幸だ……幸太《こうた》は超真剣に念じ続けた。なんて不幸なのだろう、毎日不幸の手紙をもらって、好きな女の子には嫌われまくって会話もろくにできないなんて。不幸だ不幸だ、不幸だあ〜。
「……っと、ごめんなさ……うわっ!」
「……あんたぁ……どこ、見てんのよ!?」
なかば目を閉じて自己暗示に取り組みながら廊下を歩いていた昼休み。
真正面から歩いてきていたのがこの学校最凶にして最強の生物・手乗りタイガーと呼ばれる二年生の女子で、その手に彼女は豆乳のパックを握《にぎ》り締《し》めていて、ぶつかった拍子に顔にぷしゅっと全部|噴《ふ》き出してしまった、なんて――
「ほ、ほんとに不幸だ!」
豆乳でビタビタの手乗りタイガーの顔が顎《あご》が外れそうなはどに歪《ゆが》み、その爛々《らんらん》と光るケダモノの瞳《ひとみ》に狂気にも似た殺意が匂《にお》う。背負った景色《けしき》はゆらゆらと揺れ、うわすごい、背中から猛虎《もうこ》の形のオーラを肉眼で捕らえられるほどくっきりはっきり噴射《ふんしゃ》している。ちなみに幸太はこの生き物の恐ろしさを、結構具体的に知っている。端的に言えば、ボコられたことがある。不幸なるアクシデントと勘違いの積み重ねが彼女を結果的に激怒《げきど》させ、ある春の夜、人気《ひとけ》の無い路上で襲撃《しゅうげき》されたのだ。
「不幸なのはこっちよ……っていうか、またおまえか!? おまえが現れるたび、必ず不幸が起きるのはなんでなの!? あぉわかった、いーから来い、もうキレた、いっそかかって来い、そしたら二秒で厚さ三ミリ以下にしてやるぁぁぁっっっ……」
チョイチョイ、と誘う指先は、怒りのあまりかプルプル震《ふる》え、
「おおっ! 手乗りタイガーが一年生を襲《おそ》っている!」
「やべえ誰《だれ》か救急車……いや、住職《じゅうしょく》を呼べ! 葬式《そうしき》が出るぞ、」
「っていうか高須《たかす》くんを呼んでやれよ! タイガーを止められるのはあの人だけだ!」
「やだよ高須くんこええもん!」
「俺《おれ》だってやだよ! こええもん」
集まるギャラリーは誰|一人《ひとり》、救いの手を差し伸べてはくれない。不幸だこれは、本当に不幸だ!
しかもギャラリーの中にはさくらの姿があった。さくらは襲われているのが幸太《こうた》だと気づくなり、顔を真《ま》っ青《さお》にして幸太の前に飛び出そうとした、みたいだが、
「……だめだめだめ、だめよさくら……」
ぷるぷるぷる、と首を横に振る。そして人が変わったように、
「へっへっへ! こりゃいいもんがみられそうだぜえ!」
「さ、さくら!? ……あんた、どうしたの!?」
「三ミリ! 三ミリ! 離《はな》せ、私は三ミリにのされた富家《とみいえ》幸太が見たいんだよぉぉ!」
「ちょっと、あんた絶対おかしいって!」
必死に鼻に皺《しわ》を寄せて友人たちの腕を振り切り、わざとらしい低い声で手乗りタイガーの応接に回った。それもこれも、すべては幸太の幸せの――いや、不幸のために。
手乗りタイガーが、駆けつけた相棒《あいぼう》のヤンキーに止められるまでのおよそ三十秒。幸太は掛け値なしに不幸の絶頂を味わいつくした。
それらが功を奏したのだろう、その週のうちに1年A組の生徒は全員クラスに無事復帰し、また、すみれの顔面も綺麗《きれい》に治り、痴女《ちじょ》扱いしてくれた男子中学生からはお詫《わ》びの手紙が来たそうな。そして言わずもがな、さくらの身の上にも、なにひとつトラブルは起こらなかった。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
ついに、今日《きょう》、このときが来てしまった。
ターミナル駅の改札前《かいさつまえ》、雑踏からすこし離れて幸太は直立不動――銅像のふりをしているわけではなく、めっちゃくちゃ、緊張《きんちょう》している。
このデートの最終|目標《もくひょう》は告白だ。つまり今から数時間後には、その瞬間《しゅんかん》が訪れているはず。緊張のあまり、今からもう手が震《ふる》えている。
うまくいくだろうか。ちゃんと喋《しゃべ》れるだろうか。ふられないだろうか。昨日《きのう》からずっと同しことをグルグル考え、いっそもう、叫び出したいのだ。叫んでここから、逃げ出したい。
汗にびっしょり濡《ぬ》れて震える手は、必死にシャツの袖《そで》に残る折《おり》皺《じわ》を押さえつけている。
手持ちの服ではどうにも納得できず、金曜日《きんようび》の放課後《ほうかご》、新しいTシャツとその上に羽織《はお》る用のボタンシャツを購入《こうにゅう》して、それを着てきたのだ。だがそのシャツの袖《そで》の部分にぴっちりとまっすぐ折り目がついてしまっていることに、ここについてから気がついた。さっきから必死に手で押さえているがどうにもならない。張り切って新しく買ってきた感バリバリだ。
中に着たこれまたおニューのTシャツはクタっとした素材だから、シャツを脱ぐこともできない。乳首が透《す》けてしまう。
ちょっと服選《ふくえら》び失敗したかも、かと言ってこれ以外に気に入った服はなかったし、手持ちのヤツなんかもっとやばいし……ていうか告白、どうしよう……あらゆる不安に震えながら、女々《めめ》しいため息をついたそのとき。
「幸太《こうた》くん!」
バッ! と顔を上げる。心臓《しんぞう》が一気に早鐘《はやがね》を打つ。うわ、きたきたきた、来てしまった!
「ごめん、改札《かいさつ》間違えちゃってさっきまで西口で待ってたの! 待った? ……はあ! 走ってきたから汗かいちゃったよ!」
照れたみたいに笑ってみせて、さくらは手にしていた小さなハンドタオルで額《ひたい》を拭《ぬぐ》う。
元から綺麗《きれい》な貝殻《かいがら》みたいだった清潔《せいけつ》な類い爪《つめ》は、淡《あわ》いパールのかかった桜色。
折れてしまいそうな手首には、キラキラと光るビーズが少しだけついた、細い銀鎖。
うわ、うわ、うわ、と幸太は熱《あつ》くなる頬《ほお》を隠そうと俯《うつむ》く。さくらの顔をまともに見られない。視界にはスカートから伸びるほっそりした白い脛《すね》、掴《つか》めてしまいそうな足首、手の爪と同じ色に塗られた薄《うす》くて小さな足の爪、ヒールのあまり高くない、女の子らしい華奢《きゃしゃ》なサンダル。
「どしたの、幸太くん」
「やっ、な、なんか……照れちゃって。今日《きょう》のさくらちゃん、なんかその……大人っぽいっていうか……」
「えへへ、実は昨日、新しく買った服なんだ。今日のために奮発《ふんぱつ》しちゃった」
眩《まばゆ》い光に誘われるように、そろそろと幸太は視線《しせん》を上げる。笑ってしまう顔を隠しきれないまま、さくらの姿に改めて目を奪われる。
素肌にさらりと着たワンピースは、白い肌をいっそう白く、透けるように見せる淡いブルー。肩紐《かたひも》をリボンで結ぶようになっていて、しかしほっそりした肩はレース編《あ》みの白い半そでカーディガンに守られている。
その薄青《うすあお》と純白の涼しげな服は、さくらの柔らかな桃色の頬《ほお》と相まって、本当に本当にかわいらしい。こんなかわいい女の子と自分みたいなさえない男が、並んで歩いていいんだろうか。しかし引け目も卑屈《ひくつ》さも、そんなもん感じる暇《いとま》さえさくらは与えてくれない。彼女の花開くが如《ごと》き笑顔《えがお》は、いつだって一瞬《いっしゅん》にして幸太《こうた》を恋の嵐《あらし》の中に巻き込んでしまう。理屈も理論《りろん》も関係なしの、くすぐったい桜色のトルネードのただ中に。
「幸太くんこそ、おしゃれさんだね。私服姿みたの、そういえば初めてなんだよね」
「えっ!? そう!? いやその、じ、実は俺《おれ》もこの服、昨日《きのう》の放課後《ほうかご》、今日《きょう》のために買ったんだ」
高く高く巻き上げられた抗《あらが》いがたい動揺のあまり、言わんでいいことまでつい口に出してしまうが、
「あれ、そうなの? どこで買ったの、もしかして駅ビルの中だったりして」
「うん、そうだよ」
やだっ、とさくらは白い歯を見せて笑い出す。
「それじゃあもしかしたら、すれ違ってたかもよ? 私もこの服、放課後に駅ビルで買ったんだもん」
「うそ! マジで!?」
「ほんとほんと! あはは、おかしいねえ、昨日っから同じ行動してたんだねえ、私たち!」
「な……なんだ……そっか。そうだったんだ」
つられて幸太も笑い出す。声を上げて大笑いしつつ、なーんだ、と緊張《きんちょう》が解けていくのを感じる。服に悩んで買い物までしてしまったのは、自分だけじゃないんだ。初めてのデートで緊張して、服も決められなかったのはさくらも同じなんだ。
なんだ――一緒《いっしょ》に悩んで、一緒に笑ってるんだ。離《はな》れているときも、そばにいるときも。
ようやく気持ちも落ち着いて、よし、と幸太は背を伸ばす。今日はとにかく目いっぱい楽しんで、さくらといっぱい笑い合おう。
さよなら、またね、と別れる前には、二人《ふたり》の関係が友人以上のものに変わっていることを信じて。
「じゃあいこうか。いつまでもこんなとこで爆笑《ばくしょう》してないで」
「幸太くんだって笑ってたくせに!」
「さくらちゃんが笑ってたからだよ。ほら、いこいこ!」
さすがに手をつないだりはしないが、ふざけあうみたいに早足で、二人並んで改札《かいさつ》の階段を下りていく。さくらは不意にもう一度だけ、くすり、と思い出し笑いをするように微笑《ほほえ》んだ。
「ん? なに?」
「いや、なんかさ……幸太くんと話すの、ほぼ一週間ぶりだな、って。ほら、ずっと不幸のためにがんばってたから」
「忘れてないよ、さくらちゃんが手乗りタイガーに襲《おそ》われてる俺《おれ》を助けてくれなかったこと」
「あっ……わ、忘れて、お願《ねが》い、すっごく葛藤《かっとう》があったんだから!」
「不幸の手紙もとってあるよ。『この手紙をもらった人を不幸の国の大統領に指名する』」
「やだもう、捨ててってば! どうしたら幸太《こうた》くんが不幸って思うかな、って、すっごい考えた未の行動だったの!」
「なんだっけ? 『アタイは三ミリにのされた男が好きなのさ!』とか」
「そんなこと言ってなーい!」
さくらに肩を叩《たた》かれながら、笑って踏み出す真夏の街は、休日の雑踏。今日《きょう》も眩《まぶ》しい太陽の光の下、幸太とさくらも街を騒《さわ》がすカップルのひとつになって、人々の中へ溶け込んでいく。
他《ほか》のカップルの中の一組が、視線《しせん》を向けていることになど少しも気がつかないまま――
「しかし、よくデートが今日だっていう情報、つかみましたね。俺なんかすっかり、幸太は本気で諦めてしまったんだとばかり思ってましたよ。……おごってやることなんかなかったな。ついつい同情して、こないだコンビニでアイスたかられました。しかもハーゲンダッツ」
「さくらは重大な出来事は必ず母親に言うからな。私と母親がグルとも知らずに」
「……にしてもいい天気ですよね。そうだ、海を見にいきますか」
停《と》めたバイクに再び跨《またが》ろうとする男のヘルメットを脇《わき》から強引に奪い去る美少女の姿に、道行く人の目線が留《と》まる。しかし彼女は注目になど完全に無頓着《むとんちゃく》、
「このばか! あいつらの後をつけるんだろうが! ……ったく、あいつらのこと二人にしたら、どんなアホくさいトラブルに巻き込まれるかわかったもんじゃねえんだから、私たちがフォローしてやんねえと」
浴びせかける猛々《たけだけ》しくも頼りがいのある温かい言葉は、兄貴分《あにきぶん》のそれだ。
「冗談《じょうだん》です。わかってますよ」
苦笑しつつ、しかし確《たし》かに本気で跨ろうとしていたバイクから降りる男は一見大学生風。しっかりと筋肉のついたすらりとしたスタイルに、細身のTシャツとこなれたデニムのシンプルな服装がよく似合っている。暑苦しい革製のグローブを脱いでフルフェイスのヘルメットの中に放り込み、
「もうちょっと距離《きょり》をあけてから追いますか。行き先はわかってますしね」
傍《かたわ》らの美少女に微笑《ほほえ》みかけるその男こそ、北村祐作《きたむらゆうさく》――意外なほど整った顔立ちをしているせいか、トレードマークの銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》をコンタクトにかえて鬱陶《うっとう》しい前髪を軽くあげただけで、たやすく見た目の印象が変わる。クラスメイトでさえ、すれ違う彼が北村だとは気づかないだろう。そもそも校則違反である二輪《にりん》免許を持っていること自体、ごく少数の友人しか知らないことだ。さすがにバイクは兄の借り物だが。
「しかしあっついな……ここに来るまでに頭が蒸れた」
「ヘルメット、持ちましょう」
北村《きたむら》の傍《かたわ》ら、いらん、とその手助けを断る涼やかな声の持ち主が、長い髪をかきあげる。クルクルと器用《きよう》に巻かれたカールヘアは、真っ白な背中まで柔らかく華やかに零《こぼ》れ落ちる。
しかし人目を引いているのはそのかわいらしい髪型だけではない。たとえばデニムのショートパンツから伸びたほっそりした太ももや、すらりと長い膝下《ひざした》だとか。それを支える腰高の尻《しり》だとか。
もしくは、鮮《あざ》やかなグリーンのキャミソールからわずかにのぞく臍《へそ》だとか。情しげなく曝《さら》け出された尖《とが》った肩とか、セルフレームの眼鏡《めがね》で隠したつもり、その実小さな輪郭《りんかく》が一層《いっそう》際立《きわだ》つ美貌《びぼう》だとか。
「日焼けしちゃいそうですね、会長」
「あ? かまわねえよそんなもん」
そう言われつつもさりげなく、大陽を遮《さえぎ》るように立ってやる副会長の思いやりにも多分《たぶん》全然気づいていない彼女こそ、生徒会長にして狩野姉妹の兄のほう・狩野《かのう》すみれ、その人であるのだが――おそらく、彼女がすみれであることにも、知り合いは誰《だれ》も気づくことはないだろう。たとえ実の妹であっても。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
えーっ、マジかよ!? うそぉ、ここまで来たのにっ!
そんな声が聞こえてきたのは、目的地である水族館《すいぞくかん》へ続く、整備された遊歩道の中ほど。
木の陰になって見えないカーブの先で声を上げたカップルが、釈然としない表情で引き返してきて、幸太《こうた》とさくらの脇《わき》を通り過ぎていく。
「……ねえ、幸太くん。あの人たち戻ってきちゃったけど、どうしたのかなあ?」
きょとん、と首を傾《かし》げ、さくらは通り過ぎていったカップルの背中を振り返る。
「なんだろうね? もしかして、今日は水族館、休みだったりして……」
「うそっ!」
「うそうそ、冗談《じょうだん》。あるわけないって。俺《おれ》、ちゃんとサイト見て、今日休みじゃないの確《たし》かめたし。ほら、あそこがゲートだよ」
フグを模したゲートを並んでくぐり、いつもよりテンション三割増しの幸太は「お!」と声を上げる。
「ラッキー 、誰《だれ》も並んでない。今日はすいてるみたいだ。さくらちゃん、ほら早く行こう!」
「あ、待って!」
笑顔《えがお》で視線《しせん》を見交わし、ついつい幸太は調子《ちょうし》に乗った。ちょっと小走りになって振り向きさま、さりげなく手を差し出してみたのだ。もしもさくらがこの手を掴《つか》んでくれたなら、水族館の中ではずっと、このまま手をつないでいられるぞ、と。
さくらは幸太に追いつこうとし、差し出された手に気がつき、一瞬《いっしゅん》だけ恥ずかしそうに目を逸《そ》らして笑い、だけど結局笑顔のままで幸太の顔をまっすぐに見つめた。そしてその手を伸ばしてくれる。幸太の心臓《しんぞう》がドキンと跳ねる。あ、うそ、どうしよう。本当の本当に手が届いてしまう――、と
「んっ!?」
唐突《とうとつ》にさくらが行き先修正。幸太に差し出していた手もひっこめ、脇をすり抜けてあさっての方向へ走っていく。
「え。あれ。……さ、さくらちゃん!?」
さくらが走っていったのは、二人《ふたり》には用のないはずのチケット売り場。追いかけ、やっと幸太も異変に気がつく。
券売機《けんばいき》にはすべて販売中止の貼《は》り紙《がみ》がしてあって、係員の姿がどこにもないのだ。というか、今更《いまさら》ながら、なんだか妙に付近一帯|閑散《かんさん》と静まり返っているような。
「……おかしいな、今日は休館日でもなんでもないのに、なんでチケット売ってないんだ?」
「た、大変、幸太くん! これ!」
さくらが指差すその先に、幸太《こうた》の疑問の解があった。
『本日|休館《きゅうかん》。機械《きかい》故障のため、緊急《きんきゅう》点検日とさせていただきます。ご迷惑をおかけします』
「は、はあ!? うそっ、ほんとに!?」
チケット売り場の脇《わき》に掲げられた看板の文字に、幸太はほとんど卒倒しかける。そんな。休館日はちゃんと避《さ》けたのに。こんなこともあろうかと、ちゃんと今朝《けさ》も携帯《けいたい》で(マンンは焼けてしまったから)サイトをチェックしたのに。
「あらら残念、せっかく来たのに。でも根城故障じゃしょうがないね、魚死んじゃうもんね」
「……」
「どうしようか、これから」
「……」
「……幸太くん?」
唖然《あぜん》としたまま凍りつき、幸太はさくらの言葉にも反応できないまま立ち尽くす。
どうしよう、今日《きょう》はずっと水族館で遊んで、お昼も館内にあるというオシャレなカフェで取るつもりでいた。だから周辺のお店なんかひとつもチェックしていない。これからどこへ行けばいいのか、まったく代案が思い浮かばない。こんなとき、己《おのれ》の経験値《けいけんち》の低さが恨《うら》めしくなるが――いや、これも見栄《みえ》だ。低いところか経験値は完全にゼロ。どうしようどうしよう、こんな炎天下でいつまでもこうしてはいられないのに。
「ど、どうしようかさくらちゃん!? 俺《おれ》、完全に今日はここで遊ぶつもりでいて……」
「うーん、別にどこに行ってもいいよ?」
そういわれても……どうしよう…映画? いや、なにをやってるか知らないぞ。しかも電車に乗って映画館まで移動して、結局そこから二時間待ちとかになっちゃったらどうしたらいいんだ。お茶を飲む? 高校生が入れるような喫茶《きっさ》店《てん》がちょうどよく見つかるだろうか?
「幸太くんは、いつもどんなことしてお友達《ともだち》と遊んでるの?」
「ええと、ええと、そうだなあ、俺は――」
……なにをしているんだろう。わからない。ゲームを買いに行くという友人について歩いたり、服がみたいという友人について歩いたり、友人の家でゲームをしたり……なんて無趣味《むしゅみ》な男なのだろう、自分という奴《やつ》は。
「……さ、さくらちゃんは、いつもなにしてるの? 俺はあんまり楽しいこと知らないから、さくらちゃんに合わせるよ」
「んーとねえ……買い物とか……かな?」
「買い物……」
それもう昨日《きのう》したじゃん! 心の中だけで大きく叫び、幸太はどんどん追い詰められる。
やばい、このままでは一緒《いっしょ》に出かけてもつまらない奴だと思われる。融通《ゆうずう》のきかない男だと思われる。どうしようどうしよう……カ、カラオケ? いやいや、歌えるような歌なんか知らない。そもそも音痴《おんち》だし、行《い》き慣《な》れてないからシステムとかもよくわからないし。ボウリング? ……もっとだめだ。生まれてから一回もしたことがない。
「とりあえず、ここ暑いから戻ろうか?」
「あ、う、うん」
さくらに促《うなが》され、二人《ふたり》は今歩いてきた道を引き返し始める。しかし幸太《こうた》の頭の中はもはやパニック、楽しい会話ところではない。これからの行き先どころか、今現在の話題さえ見つからない。
微妙な沈黙《ちんもく》が幸太の胃袋をキリキリと締《し》め上げ始めたそのとき。
「……あれ? なんだろ」
二人のちょうど目の前、一枚のチラシがヒラヒラと風に乗って舞《ま》い落ちてきた。何気なくさくらはそれを拾い、
「あ。これって……ねえ幸太くん、見て見て」
そう言って指すのは、「ふれあいこどもどうぶつえん」と印刷された大きな文字。
「ここから歩いてすぐのところじゃん。なになに……うさぎ、ハムスター、モルモットと遊ぼうよ抱っこできます。だって。……へえ、こんなのあったんだ。俺《おれ》、こういうの結構好きかも。さくらちゃん、動物は大丈夫?」
「うん! 大丈夫、っていうか、すっごく好き! あ、ほらほら、ヤギの赤ちゃん生まれました、だって! うわあ、見たい見たい! 絶対見たい!」
そう言うさくらの瞳《ひとみ》には、キラキラと好奇心の輝《かがや》きが灯《とも》っている。それを見て取り、幸太は決めた。
「じゃあ、今日はこっちに行ってみようか!」
「さんせーい!」
パチパチパチ、と柏手をし、さくらは頗閑の笑顔《えがお》で小さくぴょんぴょん跳ねてみせた。楽しそうに、頬《ほお》を染めて笑っている。幸太にも笑顔が伝染して、二人してにこにこと笑い合う。
「さすがのコントロールだな。見事!」
ひそめられた小さな声と同時、北村《きたむら》の肩を男らしく力強く叩《たた》いてくれるのはすみれの手だ。
「しかし、よくあんなチラシ持ち歩いていたな?」
「まさか水族館が休みとは知りませんでしたけと、幸太の目的地ですからなにがあるかわからないな、と思って、あれこれ用意しておきました。カラオケのチラシとか、ボーリング場のチラシとかもあったんですけどね」
「いや、おそらくベストな選択《せんたく》だろう。さくらは動物好きだからな」
「会長は?」
「結構好き」
「よかった。なら幸太《こうた》たちについていくのも楽しいですね」
砂に嬉《うれ》しげに北村《きたむら》は顔を緩《ゆる》めるが、その体勢は非常に情けないことこの上ない。遊歩道を挟む木立の奥、茂る植え込みの中に身を隠すように、要はうんこ座りしているのだ。もちろんすみれもその傍《かたわ》ら、同じ体勢で妹と後輩《こうはい》を見つめている。
息さえ重なりそうな至近|距離《きょり》で北村と頬《ほお》を寄せ合って――
「ん? なんだ、人の顔をじっと見たりして」
「いや……眼鏡《めがね》、意外と似合いますね。普段《ふだん》はコンタクトですか?」
「裸眼だ。これは伊達《だて》眼積。私、視力2・0超えてて測定不能だから」
――こんなとこでもなお、超人ぶりを見せつけたりして。
二人が見守るその先で、幸太とさくらは見るからに楽しそうに笑い合いつつ、遊歩道を引き返して歩いていく。背中が小さくなっていって、やがてカーブの先に消え、
「さて……それじゃそろそろ追いかけるか」
「……ですね」
「……に、しても、だ」
「……ええ」
目を見交わしてコクン、と頷《うなず》き合う。そしてその次の瞬間《しゅんかん》、
「かゆいっ! かゆいかゆい、かゆいー!」
「ぺっぺっぺッ! く、口の中に蚊《か》がっ!」
二人|揃《そろ》って植え込みからジャンプ、ほとんど転がり出るみたいにして日の当たる遊歩道へ。突如《とつじょ》現れて全身を掻《か》き毟《むし》る不審《ふしん》なカップルに、居合わせた家族連れが凍りつく。子供を守るようにして、道の反対側へ避《よ》けていく。
「くそっ、ここもここもここもここも……食われた!」
肌の露出《ろしゅつ》が多い分だけすみれの被害は甚大《じんだい》だった。首から腕は言わずもがな、むき出しの肩も背も、きわどい丈《たけ》のショートパンツから伸びるしなやかな足も、ありとあらゆるところに虫さされの跡が残っている。ひどいところでは三個分ほど連結して、でかい「蚊に食われ大陸」ができてしまっている。
「うわ、会長、大丈夫ですか!? そこ痒《かゆ》そうな……」
「おまえこそ! っていうかそれ、ブヨだろ!?」
目をむくすみれがつつく北村の肘《ひじ》には、蚊に食われた跡とはちょっとレベルの違うでかさの腫《は》れが。
「死っ、ぬっ、ほっ、どっ、痒いです! はっきり言って、かゆさ未体験《みたいけん》ゾーンです!」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「うっわあ! すっごいかわいいー!」
入園料四百円を払って柵《さく》の中に入るなり、さくらは大《だい》興奮《こうふん》のおおはしゃぎ。辺《あた》りに落ちまくっているヤギ糞《ふん》も恐れず、結構|厳《きび》しい獣《じゅう》臭《しゅう》にもひるまず、
「ほらほら幸太《こうた》くん、あの子見て!? かわいい、ヤギの赤ちゃんだよー!」
「待ってさくらちゃん、走ったら危ない!」
どうやら本当に、動物が好きらしい。のんびりと歩き回っているヤギや羊の群れの中から特に小さな子供のヤギを見つけ出し、そっとその背に触ってみている。
「うわ、柔らかい! かわいいー!」
「よし……そのままそのまま。写真|撮《と》るよ」
さくらの興奮を抑えるのは諦《あきら》めて、幸太は苦笑しながら、携帯《けいたい》のカメラを向けてやった。
「この子ヤギくんも全身入れて撮れる?」
「全身ね……うん、入る入る……るっ」
ズームアウトしてヤギの全身を入れようとして、危うく携帯を取り落としかける。ヤギに夢中駄態でしゃがみこんだ無防備な下半身、さくらの真っ白な大ももがスカートの裾《すそ》からチラリと覗《のぞ》き、純白の下着、ぶっちゃけパンツまで見えていた。
「ピース!」
すっかり撮《と》ってもらう気でさくらは満面の笑《え》み、子ヤギも学習済みなのか、愛らしい顔をこちらに向けて微動だにせずにシャッター音を待っている、ような。心なしか「はよとれや」的なプレッシャーも感じる、ような。だがしかし、撮っていいのか。……いいのか?
「……うう……くっ!」
結局、最後の最後に理性が勝つ。一瞬《いっしゅん》ピクリと持ち上がった腕が、さくらのパンツを絶妙にフレームから外《はず》した。
「と、撮ったよ!」
撮れるところは!
「ありがとう! 今度は私が幸太《こうた》くん撮ってあげるよ」
「いいよいいよ、今日《きょう》は俺《おれ》カメラマンに徹《てっ》することにしたから。ほらさくらちゃん、あっちはモルモットだっこコーナーだってよ」
「うわ、魅力的《みりょくてき》! いこいこ、早く!」
幸太が指差す方を見て、さくらは一瞬にして喜色満面《きしょくまんめん》。モルモットコーナー目指して走り出す。
丸太の手すりで簡単《かんたん》に囲われたそのコーナーは床《ゆか》が嵩上《かさあ》げされていて、テラスのようになっている。追いついた幸太と二人《ふたり》して階段を駆け上り、中へ入って順路を進むなり、
「わあ、モルモル! モルがいっぱいいる!」
さくらはほとんど飛びつくように、モルモットたちのケージに突進。パーマの奴《やつ》や、短毛の奴、実験《じっけん》に便われそうな奴、ものすごい長髪の奴。伸びた前歯がどいつもかわいらしく、幸太も思わず夢中になって携帯《けいたい》のカメラをモルへ向ける。
「あ、あっちにハムもいるよさくらちゃん、ほら!」
「うわうわ、ハムかわいいー! ちっちゃいよハム! かわいいよハム!」
「ああっ、こんな……小さい……うわ!」
「幸太くんこっちもすごいよっ! あ、ああっ、やっ……あんなに激《はげ》しく……!」
「動いてるっ! 動いてるっ!」
「へ、変になっちゃうっ! あ、ああんっ!」
「ああ〜っ!」
「はぁん!」
愛らしい小動物の挙動に、二人|揃《そろ》って身《み》悶《もだ》える。どうもさくらも幸太も、小動物系に弱いという点では趣味《しゅみ》の一致をみたらしい。しゃがみこんで展示ケージの前に陣取り、至近距離《しきんきょり》で超ガン見。
「あっ、いやんっ、ねえねえ幸太くん! こいつ見て、かわいい! 頬袋《ほおぶくろ》いっぱいにエサ詰め込んでる!」
「うわーほんとだ! パンパンだよ!」
「食べきれるのかな? 飲み込めないんじゃないの?」
「でも、誰《だれ》にも渡したくない、と」
「両手ではっぺた揉んでるみたい……噛《か》めないのかな? どうするつもりなんだろ」
「あ、むせた」
ブホッ! とエサを吹き出したハムの仕草《しぐさ》に、幸太《こうた》とさくらも同時に吹き出す。
「ブハハハハハッ! なにやってんだよ、こいつ! あはははははっ!!」
「ひぃひぃ……おなか痛いよー!」
笑いすぎて、もはや座り込んだポーズも保てない。アホなハムスターが呆然《ぼうぜん》と自分の吐いたものを見下ろしている様子《ようす》に二人《ふたり》してグニュグニュに脱力し、展示ケージにもたれかかる。笑えて笑えて仕方ない。
「お客さんたち」
不意にかけられた声に、まずい、騒《さわ》ぎすぎたか、と幸太は慌てて立ち上がるが、
「今なら待ち時間なしでモルモットだっこできますよ。しますか?」
「あ、ハイ! しますします! するよねさくらちゃん」
「するする、絶対する! すいません、騒がしくて」
「大丈夫ですよ〜。じゃあこちらにどうぞ〜」
にっこり笑った係員はモルモットのケージの奥へ二人を誘ってくれるが、
「ぶふっ!」
不意にさくらが再び吹き出す。必死に指差すその先には、係員の背中。
「?」
一体なにがそんなにおかしいのだろう、と係員を見てみるが、ちょっとハーフっぽく顔立ちが濃《こ》く整っている以外には変わった点は見えないような。
「じゃ、あの外の右手のベンチにかけて少しだけ待っててくださいね〜」
振り返って微笑《ほほえ》む係員を見つめ、ようやく幸太も吹き出した。係員はそんな二人の爆笑《ばくしょう》を見つめ、なんとなく満足げに目を細めている。
おそらく、顔立ちそのままに彼はハーフなのだろう。胸につけたネームプレートには、<孝義《たかよし》・フルハム>と。その真上、胸ポケットからはプライベートのペットなのか、小さなハムスターがちょこんと顔を覗《のぞ》かせているのだ。ちょっと窮屈《きゅうくつ》そうにみっちりと詰まって。
まさに、「フルにハム」状態で。
「ね、狙《ねら》ってやってるだろあの人……っ!」
「悔しい、笑っちゃったのが悔しいよっ!」
ベンチに腰掛け、しばし息もまともにできないほど二人は悶《もだ》えて笑いに耐える。幸太はほとんどつっぷして腹筋の痙攣《けいれん》に耐えつつ、その実しみじみと思ってもいた。
さくらはものすごく楽しそうだし、意外に立派な施設だし、他《ほか》の客もあまりいないし。水族館《すいぞくかん》よりもこっちに来ることになって、かえってよかったような気がするのだ。あながち、自分の不幸も損するばかりではないな、なんて。
「お待たせしました〜。大人《おとな》しいモルモットたちなんで、そっと抱いてあげてくださいねー」
やがて現れた孝義《たかよし》・フルハムは、両手にそれぞれ一匹ずつ、慣《な》れた手つきでフカフカとしたロングのモルモットを連れてきてくれた。ベージュ系のはさくらに。三毛《みけ》のは幸太《こうた》に。
「うわ、かわい……ぶはっ!」
さくらは三度、吹き出した。幸太も同じく吹き出した。
「さあ、もっとしっかり手を伸ばして。膝《ひざ》の上で落ちつかせてあげてくださいね」
……などとそ知らぬ顔でモルを差し出してくる孝義・フルハムは、今は胸ポケットにハムスターを入れてはいなかった。
それもそのはず、胸のネームプレートは微妙に変わって<孝義・モルダー>になっているから。「モルだー」……。
幸太もさくらもひくひくと身体《からだ》を震《ふる》わせながら、受け取ったモルモットをなんとか膝の上に無事座らせる。柔らかい毛をそっと撫《な》でつつ、
「へ、変なところ……」
「でも楽しいよ、私! それにさ、ハムもモルもかわいいけど、それ以前にここって、ヤギとか羊とかもメスか子供ばっかりだよね。他《ほか》のこういう系の動物園って、わりともっとこう、雄《お》ヤギに追いかけられて子供が泣いてたりとかするじゃない?」
「あ、そういえばそうだよな。かわいくて大人《おとな》しい奴《やつ》だけ放し飼いなのかな? 俺《おれ》って結構その泣いてる子供状態になりやすいタイプだからほんとにラッキーだ」
「私もそうだよー、小さいときからグズだから取り囲まれちゃって、いつもお姉《ねえ》ちゃんに助けられてたもん。うふふ、それにしてもモルモット、かわいいねえ」
「かわいいなあ」
孝義・モルダーも気を利かせたのか静かに立ち去り、ベンチに取り残されたのは幸太とさくらとモルモットたち。少し離《はな》れたベンチでは子供づれファミリーがのんきにウサギをだっこして、幸せそうに笑っている。
「そうだ、ちょうどいいから写真|撮《と》るよ」
幸太は自分の膝の三毛《みけ》モルモットもさくらの膝にのせてやり、立ち上がってベンチの向かいへ移動する。今度は大丈夫、きれいに足をそろえて座ったさくらのパンツは完全ガード状態だ。いざシャッターを押そう、とするが、
「よし、撮るよ〜。っと、大丈夫? モルモットが……」
「あら、あら、あら」
さくらの膝の上が混雑してきたのが気に食わないのか、三毛に尻《しり》を押し付けられたベージュの奴《やつ》が、居心地《いごこち》のいい場所を求めて立ち上がり、ワンピースを上っていこうとしている。
「こらこら、ちょっと、だめだよ、あららら」
さくらはベージュをそっと掴《つか》もうとするが、柔らかなロンゲが手を滑《すべ》らせる。ベージュは少々慌てたのか、爪《つめ》を立ててさくらの胸元まで這《は》い上がってしまう。
「いたたた……爪がひっかかってる」
「わ、大丈夫? こら、こっち来い」
幸太《こうた》は携帯《けいたい》をしまってさくらの正面で屈《かが》み、胸元に爪をひっかけているベージュの腹をそっと両手で掴んだ。嫌《いや》がってジタバタするのを持ち上げてやり、その拍子、
「はぉっ……」
「っとと……ありがと、幸太くん」
グイ、とベージュの爪が、大きくさくらの胸元を広げた。暴《あば》れるたびにグイグイ、チラチラ、と、細い鎖骨《さこつ》のその下の、純白のダブルマシュマロドームが形を変える。ワンピースの布地に押しつぶされたり、広げられて開放されたり。
「ふう、助かった……もう、悪い子!」
め、とさくらは幸太に抱かれたベージュに目を見開いてみせている。幸太は優《やさ》しくその腹を撫《な》で、心の中でだけ「いいこ! いいこ!」と繰《く》り返す。
そこへ現れたのは、
「え〜、モルモットのおやつ、百えーん」
人参《にんじん》の入った袋を持った孝義《たかよし》・モルダー。当然幸太は素早《すばや》く手を上げ、
「こっちに二つ!」
モルモットへの恩義を返すために大盤《おおばん》振《ぶ》る舞《ま》いの構えだ。
「……く、くさいっ……!」
「なんか、メタンガスみたいなのが発生してるような……っ」
その頃《ころ》、モルモットコーナーのベンチが並ぶテラスの裏手では、激《はげ》しい暗闘《あんとう》が繰り広げられていた。
んめえええぇえええええぇええ――唸《うな》りまくり、三日月《みかづき》の目を真横にしてすみれを睨《にら》みつけるは巨大な角《つの》をそなえた雄《お》ヤギ軍団。猛々《たけだけ》しい雄《おす》の臭《にお》いをむんむんに撒《ま》き散《ち》らしつつ、すみれに頭でプレッシャーをかけている。
すみれは腰を落とし、両腕を真横に広げて、グイグイと圧迫してくる雄ヤギ軍団に対抗。なぜだか奴らは徒党を組み、まるで荒れ狂う河の奔流《ほんりゅう》みたいに、さっきから幸太とさくらを狙《ねら》っているのだ。こうしてすみれが戦いを挑んでいなければ、幸太たちは入囲早々に雄ヤギ軍団の恐怖の追い回し攻撃《こうげき》を受けていたはずだ。
しかも奴《やつ》らの手口は荒っぽく、
「うわっ! 髪の毛をかじるなっ! いたたたたたっ!」
「か、会長、大丈夫ですか!?」
一方の北村《きたむら》は、巨大に膨《ふく》らむ雄《お》羊《ひつじ》軍団を一手lこ引き受けてコーナーに集め、スクラムを組むみたいにしてがっちり押さえ込んでいた。こちらの軍団も雄ヤギ軍団と目標《もくひょう》は同じ、幸太《こうた》とさくらをターゲットにして黄ばんだウールを膨らませている。
「うつ……目の前でおしっこされてるっ!」
「くそ、今引いたら私たちも危ないぞ! 相当うらみを買ってるからな!」
「そもそもこいつら、なんであの二人《ふたり》を狙《ねら》うんでしょうね!? これも幸太の不幸のなせる業《わざ》ですか!?」
「それもあるだろうし、さくらも結構動物の標的になりやすいタイプ……うわわわ……っ!」
「会長!?」
「ヤギの舌が黒いっ! うわ、やめろ舐《な》めるな……うわああああ!」
かい、ちょ――――――……副会長の悲痛な叫びは、しかしモルコーナーへは届かない。かわりにテラスからひょい、と顔を覗《のぞ》かせたのは、
「ヤギのおやつ、三百えーん。羊のおやつ、三言えーん」
妙に顔の濃《こ》い、外人っばい雰囲気の係員。
「「いらんっ!」」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「次はなに見ようか? って言っても、そんなに選択肢《せんたくし》ないけど」
「そうだねえ」
園内で買ったジュースとフランクフルトで空腹を紛《まぎ》らわせつつ、幸太とさくらはしょぼい案内板に見入る。
「昆虫館《こんちゅうかん》はちょっと地味だなあ……あ、幸太くん、ここは?」
さくらが指差して見せたのは、「暗闇《くらやみ》動物館」と名前がついているところだった。
「へえ、こんなのもあるのか。でも、なにがいるんだろう?」
「きっとももんがとか、やまねとか、フェネックギツネとか、夜行性の動物がいるんじゃないかなあ?」
「あ、それっていいかも。そうしよっか」
あっちだあっちだ、と疲れも見せずに順路を歩き出す二人の背後、
「……次は、なんだって!?」
「暗闇動物館、だ、そうです」
どことはなしにヨロヨロのボロボロになったすみれと北村《きたむら》が後を追う。
だがしかし、彼らのうちの誰《だれ》一人《ひとり》、恐ろしい罠《わな》に気がつかなかったのだ。さびかけた案内板の右上、暗闇《くらやみ》動物館《どうぶつかん》、と記された文字のすぐ上部のペンキは剥《は》がれていて、恐怖、の二文字が見えなくなっていたことに。
恐怖の暗闇動物館――向かう四人をそっと見送り、孝義《たかよし》・フルハム、またの名を孝義・モルダー(本名・吉田《よしだ》孝義、顔が濃いだけの純日本人)はそっと目を細め、抱いたモルモットの背中を撫《な》でた。
「……今日《きょう》は妙に受けたな〜、高校生に……」
「……あ、あれ?」
地下へ続くスロープを下り、暗闘動物館の入り口についた。だがしかし――なんというか、想像していた雰囲気と違う。
「ここでいいんだよな?」
「そのはずだよねえ」
首を傾《かし》げる幸太《こうた》の目の前には、わざと朽《く》ちたように作ってある扉。不思議《ふしぎ》そうに目を丸くするさくらの頭上には、クモの巣の模型《もけい》がひっかかっているおどろおどろしい照明。
これではまるで、
「お、お化け屋敷《やしき》、みたいな……」
「だよね……」
幸太の言葉にさくらは頷《うなず》き、一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》が二人《ふたり》の間に落ちる。あの愛らしいももんがややまねやフェネックギツネを展示するのに、果たしてこれはふさわしい雰囲気だろうか。
「……ま、でも、こういう小さい動物園だし、ちょっと演出を間違っちゃったかな?」
「……だ、ね。さっきの係員さんも変だったし、こういう……シュールさ? を売りにしてるのかも」
「さくらちゃん、見たいよね、ももんが」
「うん、見たい。大丈夫だよ、入ってみよ」
ギギィ……とわざとらしい音を立てて、扉が開いた。足を踏み込むその内部は、
「……えっ!? こ、こんなに本当にまっくらなの!?」
「大丈夫? さくらちゃん」
「う、うん」
本物の暗闇。グリーンの非常灯が並んでいるから通路はかろうじて判別できるが、それにしてもこんなに暗くては、展示してある動物も見られないのだが。
「……あ、幸太くん、足元気をつけて」
「っと……」
顔の判別もつかないほどの暗闇《くらやみ》の中、幸太《こうた》は設備の一部らしきものを踏んでよろめく。さくらはそっと、幸太の腕を掴《つか》んでくれる。
「あ、ありがと……」
柔らかな手のひらの感触。緊張《きんちょう》のためか、ほんのすこしだけひんやりと汗に湿っているのがわかる。
「このまま、掴まっててもいいかな……?」
え――ゴクン、と息を飲んだのも、陶の中に隠されたはず。幸太はドギマギと跳ね上がる脈を必死に抑えようと深呼吸しつつ、
「も、もちろん!」
腕に控《ひか》えめに添えられたさくらの手に、触れるまでの勇気はないが……ああ神様。このまま一生、二人《ふたり》でここに閉じ込められてもいいです……そんな願《ねが》いは本気も本気。
と、そのとき、
『ようこそ、哀れな餌食《えじき》どもよ……』
「ひっ――」
「……っ!」
さくらの爪《つめ》がギュッ、と幸太の腕に食い込む。幸太も半ば、飛び上がる。
伸びきったテープの声が流れ始めるのと同時に、突如《とつじょ》スポットライトが真正面の壁《かべ》を照らし出したのだ。その壁にはガラスの展示ケースが嵌《は》め込まれていて、
「び……びっくり……した……」
「なんちゅー演出を……」
ブラーンと逆《さか》さまにぷらさがる蝙蝠《こうもり》の群れがおどろおどろしく照らされていた。蝙蝠たちは一様に、迷惑そうに翼《つばさ》でしょぼしょぼする目を覆《おお》って「まぶしいよ!」と訴えている。
しかしすぐに辺《あた》りは暗闇に戻り、
「……もしかして、ここってずっとこの手の展示が続くのか?」
幸太の言葉に、腕を掴むさくらの指がじわりとさらなる汗に湿るのがわかる。そして、
「……なんか……なんとなく、『アレ』の気配《けはい》がする、ような……気が……」
震《ふる》える声。
「あ、『アレ』って?」
「……口に出したくもない、『アレ』……長くて、ウネウネとしていて……本当に『アレ』だけは苦手《にがて》なんだ……。でも平気だよね。ここは暗闇動物館だもんね。夜行性の動物の展示スペースだもん、関係ないよね……」
暗がりに響《ひび》くさくらの言葉は、もはや幸太|宛《あて》のものでさえない。まるで自分に暗示をかけているみたいに、さくらは『アレ』とやらの恐怖を払拭《ふっしょく》しようと声を出し続けている。
「『アレ』は夜行性じゃないから……そ、そうだよね? 夜も活動してるかもしれないけど、夜行性、とまでは言わないよね……ね、ねえそうだよね。うん、そうだよ」
「……だ、大丈夫? どうしたの? とにかくさ、ここ、なんか変だからさっさと出ようか」
「……う、うん……」
非常灯が示す順路に沿って、少し早足で歩き出そうとしたそのときだ。
前触れもなく「ダーン!」と衝撃的《しょうげきてき》な大音声《だいおんじょう》。「ひっ!?」「きゃあ!」驚《おどろ》いてほとんど跳ね上がる二人《ふたり》の目の前が、再び突然スポットライトに照らされる。
「さあ、そろそろおいしくいただこうか……愚《おろ》かなる旅人どもよ……』
その瞬間《しゅんかん》。
「ぎゃあああああああああああああ!!!!」
「だああああああああああああああ!!!!」
凄《すさ》まじい絶叫が、どうやら二人分、暗闇《くらやみ》の空間に響《ひび》く。あれ、俺《おれ》は叫んでないぞ? と幸太《こうた》が思うより早く、壁面《へきめん》の『アレ』――巨大なニシキヘビを照らし出したライトは消えて、空間は再び闇に閉ざされる。
「って、さくらちゃん!?」
「もうやだあああああああ帰る帰る帰るうぎゃああああああああっっっ!」
幸太の腕から指が外《はず》れ、傍《かたわ》らのさくらは走り出してしまったようだ。サンダルで猛ダッシュする足音がどんどん遠ざかっていってしまう。
「危ないっ! 待って待って!」
「ぎゃああぁぁいやああああぁぁっっっ! いっ……もうやだああっっっ!!!」
涙まじりの絶叫は、途中ガン! と壁《かべ》にぶち当たり、見えない曲《ま》がり角《かど》を左へと消える。
「ちょっと待って! 危ない! マジで!」
必死に走って恐怖状態のさくらを追いかけ、多分《たぶん》同じ壁に「ふがっ!」ぶちあたり、幸太はめげずに躊躇《ためら》わず左へ。と、
「さくらちゃ……うあっ!?」
「……っ!」
ボスン、と柔らかな衝撃《しょうげき》。
抗《あらが》うこともできずにつんのめり、幸太は目の前の柔らかな物体を抱きかかえて押し倒すようにして、そのまま床《ゆか》に転がってしまう。
「う……」
「っ……」
重なり合い、上から体重をかけているのは幸太。全身で下敷《したじ》きになった華奢《きゃしゃ》な物体を押しつぶすみたいにのしかかり、その頬《ほお》に、その腕に、手に足に、ひんやりと冷えてしまったなめらかすぎる肌の感触。この手の下の感触は……柔らかくて、すべすべで、触ったところから溶けていく甘い菓子みたいな……この窪《くぼ》みはへそ? ということは……。
……腹っ!?
「うわ、わわわわわっっっ! ごめん、さくらちゃんっ! 大丈夫!? 怪我《けが》は!?」
慌てて抱き起こそうとして、
「……あああっ!?」
「いっ……」
飛《と》び退《すさ》る。さくらではない、知らない人だ。
「どうしよっ、す、すいませんっ! 大丈夫ですか!?」
痛そうに声を上げて床に座り込んでいるのは、おそらく年上の女の人。非常灯に照らされてグリーンに光る髪はクリクリのカールヘア。キャミソールにショートパンツという、露出度《ろしゅつど》高めのセクシーなファッション。小さな顔を隠すみたいにかけたセルフレームの眼鏡《めがね》は鼻までずり下がり、しかしその顔はよくよく見れば恐ろしいほどに綺麗《きれい》に整ってい――
「わーっ!」
「うるせ――――――――――っっっ!」
――すみれだった。
服装も髪型も眼鏡も、どれも普段《ふだん》のすみれからは想像もつかないものだったが、顔をみればわかる。すみれだ。それにこんなに気合の入った男らしい怒鳴《どな》り声《ごえ》を響《ひび》かせる女は、すみれしかいない。
「な、な、ちょ、か、な……なっ!?」
なんで、なんでですか、ちょっと、会長、なんでここに……なんなんですかっ!? と言いたかったのだが、驚愕《きょうがく》のあまり舌が回らない。
凍りついた幸太《こうた》の目の前で、
「……あわわわわ〜……」
へたへたへた、とすみれが床《ゆか》に倒れ伏す。両手で自分の頭を抱え、
「『アレ』が……『アレ』がいたあ……っ! でっかいのが、いたああああああ……っ!」
暗がりの中でも見てわかるほど、薄《うす》い肩を震《ふる》わせる。
「……だ、大丈夫ですか!? アレって……さっきのヘビ、ですか!?」
「ぎゃ――――――っっっ! どこどこどこ!? どこだあああああ――――――っっっ!?」
――そう、らしい。
「と、とにかく落ち着いてください! ヘビはもういませんから! 会長ってば!」
「えっ!? こ、幸太!? えっ!? あれっ!? な、なんでだ!?」
「……今気がついたんですか……」
ぺたりと座り込んだポーズのまま、すみれは呆然《ぼうぜん》と幸太の顔を見つめた。幸太も言葉を失い、すみれの顔をただ見返す。……しかし、ひどいありさまだ。眼鏡はひん曲がり、水でもかぶったみたいな量の冷や汗で濡《ぬ》れそぼった頬《ほお》には髪がべたべたと貼《は》り付《つ》いて、サンダルは両方脱げて床《ゆか》に転がっている。
「……あれ、会長のサンダルでしょ? あんなとこまで飛んじゃって……っていうか、なんでここにいるんですか」
「……幸太……」
「はい、サンダル。ったく、本当に後つけてきてたんですね? 信じられないなあ、もう……変装までして。北村先輩《きたむらせんぱい》はどこですか? どうせ一緒《いっしょ》なんでしょ?」
「……幸太……」
「それにさくらちゃんはどこ行ったんだろう……俺《おれ》、捜しにいかなくちゃ」
混乱した事態についていけず頭はクラクラするが、とにかく今は、さくらだ。すみれと北村のことは後回し、早く見つけてあげないと。
だが立ち上がる幸太の手首を、汗に濡れた白い手が掴《つか》む。その手はカタカタと小刻みに震《ふる》え、
「……こ、こ、こ、幸太……」
「……大丈夫ですか?」
へたり込んだままのすみれは、凍えた人のようにかすかに声まで上ずらせている。その眼鏡《めがね》をずり落としたままの小さな顔はひきつったみたいにガチガチに固まって表情をなくし、幸太もさすがにこれはまずそうだ、と気がつく。
「……足に力、入らない……あ、歩けない……」
「……腰、抜けたんですね?」
ガクガクガク、と頷《うなず》くすみれは、幸太の手首に伸ばした指を決して外《はず》そうとはしなかった。
順路の途中に設《しつら》えてあったベンチに抱えてきたすみれを座らせ、幸太はようやく息をついた。
一応ここは休憩《きゅうけい》コーナーらしく、わずかとはいえ照明もある。
「大丈夫ですか? 落ち着きました?」
「……なんとか……」
脱力したようにすみれは仰《あお》のき、額《ひたい》を濡《ぬ》らす汗を手の甲で乱暴《らんぼう》に拭《ぬぐ》った。
「北村が来ないことを考えると……多分《たぶん》、さくらは北村が捕まえたな」
「ならいいんですけど。……さくらちゃんも会長も、そんなに嫌いなんですか? ヘビ」
「見ろ。その二文字を開いただけで」
「うわ」
すみれがグイ、と突き出して見せた腕には、細かな鳥肌がプツプツと見て分かるぐらいに立っている。
「昔、キャンプで連れていかれた山にすっごいのがいてな……以来、私もさくらもすっかりトラウマになってしまった。……はあ……」
まさかこのすみれに限って、怖いモノがあるとは思いも寄らなかった。幸太《こうた》はベンチの傍《かたわ》らに座り、改めてすみれの姿を盗み見る。
伊達眼鏡《だてめがね》は外してしまったが、胸元も背中もあらわな原色のキャミソール。きわどい丈《たけ》のショートパンツ。白い肌と黒髪が上品さを保ちながらも、華やかにカールした髪がいかにも『いまときのギャル』という雰囲気だ。意外なほどに似合っている上、そのスタイルも整った美貌《びぼう》も、相当に目を引くかわいさだった。
美人なのは知っていたが、なんだか今日《きょう》の変装スタイルは新鮮《しんせん》な衝撃《しょうげき》となって幸太の視線《しせん》を惑《まど》わせる。
「……ていうか……なんで後つけてきたんですか。どこからいたんです?」
目のやり場に困りつつ、ごまかすみたいにごにょごにょ尋《たず》ねてみる。
「最初からだよ。……心配だったから。さくらのことが……おまえのこともな。おまえの不幸体質はもとより、さくらも十分にトラブルメーカーだ」
「いらんお世話です。ちゃーんとさっきまでは、楽しくデートできてましたから」
「……なんちゅう言《い》い草《ぐさ》だ……。ったく……人の苦労も知らないで」
「なんか苦労したんですか?」
「……いーよ、もう」
はあ〜……とため息をつき、すみれはおもむろに自分の膝小僧《ひざこぞう》を覗《のぞ》き込んだ。白くて丸い膝には、血の滲《にじ》むすり傷ができている。
「うわ、痛そう……って、もしかして、さっき俺《おれ》がぶつかったせいですか!?」
「いや、これはその前に壁《かべ》にぶつかったときだ。思いっきり壁に膝蹴《ひざげ》りしてしまったから……いてえいてえと思ったら、血が出てる」
「あ、会長、ここも」
幸太の目を引く血の赤は、ほっそりとしたすみれの肘《ひじ》にも。膝ほどの傷ではないが、
「おお……これはおまえに無理矢理《むりやり》押し倒されたときだな」
「そういう言い方しないでくださいってば」
言い返しつつも責任を感じ、幸太はポケットからティッシュを取り出す。
「これ、使ってください。て……いうか、会長はティッシュとか持ってないんですか?」
「ない」
「男らしいですね」
「そうだろう」
どうでもよさそうにカールした髪をかきあげ、すみれは白い足をすらりと組み、膝にティッシュを押し当てる。そのまま肘にもティッシュを当てようとするが、
「手伝《てつだ》いますよ………なんか責任感じるし。俺が膝の方止血します」
「やめとけ。他人の傷なんかに触るもんじゃねえよ」
「わかってますよ、俺《おれ》も手、ばっちいし。できるだけ触らないように気をつけます」
淡《あわ》いライトだけが照らす闇《やみ》の中、幸太は立ち上がり、ベンチに座るすみれの真正面に膝《ひざ》をついた。雑菌が入らないよう慎重にティッシュを丸い膝に押し当ててやる。
「痛いですか?」
「痛い」
「俺には治せません」
「だろうなあ……」
すみれは腕を上げ、下から覗き込むようにして自分の肘《ひじ》の傷の具合を見ていた。
幸太の目線《めせん》の高さからは、その白すぎる脇《わき》から続いてキャミソールの中へ消えていく、微妙なふくらみのラインがすべて露《あらわ》になっている。穏《おだ》やかな影《かげ》が描く曲線は意外と豊かなカーブを描き、
「っつ……いってえ……」
強く押さえすぎた痛みにすみれが小さくたじろぐたび、ふるる、ふるる、と揺れるのだった。しかもそのふるふる揺れる、キャミソールの脇から溢《あふ》れた盛り上がりの部分に、
「……なんか……赤くなってません? そこ」
「どこ?」
「そこ……脇のところ」
「どこ見てんだおまえは。蚊《か》だよ、蚊」
ぷつん、と一円玉よりも一回り小さいぐらいのわずかな腫《は》れ。気がつけばその蚊にやられたという跡は二の腕の内側や肩、座っているせいで見えてしまっている怖いぐらいに白い脇腹、それから、
「せっかく忘れてたのに、思い出したら痒《かゆ》くなってきたじゃねえかよ」
すみれの細い指が爪《つめ》を立てないように、指の腹で擦《こす》る太ももにも。幸太が触れている膝にも、すらりと伸びた脛《すね》にもふくらはぎにも、組んだ足の、クリームみたいに肌理《きめ》細かい内ももにも――。
「なんか、今思ったんですけど、」
蚊に刺された赤みの部分を目で追いつつ、幸太はすみれに話しかける。すみれは「ん?」と眉《まゆ》を上げ、痒いのだろう、内ももの際《きわ》どい部分に残る赤みに指を這《は》わせる。
その指の動きはくすぐるようで、ときに爪で引っかくようで、緩急自在《かんきゅうじざい》のテクニックを見せている。そのサマに幸太はうんうん、と納得するみたいに頷《うなず》いてみせながら、
「会長もエロいですよね。さくらちゃんがエロいのは、遺伝《いでん》なんですよきっと。ってことは、そうか……あのお母《かあ》さんも若い頃《ころ》はさぞかしエロエロの……いだだだだだ」
嫌《いや》っそ〜〜……に顔をしかめたすみれは、幸太の右耳を掴《つか》んで一本釣りにトライし始める。
「おまえ、セクハラだぞ!? なんでさくらに対してはあれだけ気を使えるのに、私に対してはおまえはいつも、思っていることダダ漏れなんだ!?」
「だ、だって、会長が悪いんですよっ! そんな派手な服着て、ホットパンツまで穿《は》いて!」
「……ホットパンツ」
懐《なつ》かしの語彙《ごい》にすみれが一瞬《いっしゅん》絶句したそのときだった。
壁《かべ》をはさんだ通路の向こうから、かすかな呼び声が聞こえてきたのだ。
「幸太くーん!」
「会長ー、どこですかー!」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
気がつけば、強烈だった日差しもようやく翳《かげ》り、空には夕暮れが近づいていた。
他《ほか》の客たちはそろそろ帰る頃合なのだろう、そもそもそれほど多くはない家族連れやカップルが、出口へ向かって歩いていく。それを横目に、園内のフードコートに四人は座り、
「もー、僧じられない! プライバシーの侵害だよ、お姉《ねえ》ちゃん!」
「そうですよ、北村先輩《きたむらせんぱい》!」
世にも珍しい光景だった。ぷりぷりと怒っているのはさくらと幸太の一年生コンビで、恕られているのが、
「てめえらのためを思ってフォローしにきてやったのに、この恩知らずども!」
「会長も俺《おれ》も、結構苦労したんだよ……いや、ほんとに」
完璧《かんぺき》な優等生《ゆうとうせい》でならしている、すみれと北村の二人《ふたり》。幸太は嵩《かさ》にかかって二人をきっ、と強く睨《にら》み、
「一体どんな苦労があったっていうんです?」
「それは――」
幸太の問いに答えようとした北村の肘《ひじ》を、すみれはそっとつついていなした。いーよ、別に言わなくても、と。そして、
「……ま、確かに悪かったよ。ちょっと悪ノリしすぎたな。反省してる」
「二度とこんなことしないでくださいね」
「はいはい、わかったよ。もうしないし、北村にもさせない。誓う。……詫《わ》びのかわりになにか食うもん買ってくる。なにがいい? さくら、幸太」
「あ、私ハンバーガー! あとたこ焼き」
「俺はやきそばとアメリカンドッグで。遊ぶのに夢中でお昼食べ損ねたしね、さくらちゃん」
「……おまえらさっきでっかいフランクフルト食ってたじゃねえかよ。ったく……北村、買いにいくぞ。私だけじゃ持てねえ」
「うんうん」
北村《きたむら》を伴ってすみれが席を立ち――ようやく、幸太《こうた》とさくらの二人《ふたり》だけの世界が再開される。
「あの……ごめんね、さくらちゃん」
幸太の謝罪《しゃざい》の言葉に、さくらは大きな瞳《ひとみ》をさらに大きく見開いて不思議《ふしぎ》そうに首を傾《かし》げた。
「さっきは、なんていうか……守ってあげられなくて」
「やだ、いいんだよ幸太くん。すっかり私パニクっちゃって、勝手に逃げちゃったんだもん。すぐに北村|先輩《せんぱい》とも会えたし、大丈夫だよ」
「でもさ。でも……」
北村先輩とも会えたし大丈夫。
その部分が、微妙に幸太の心を抉《えぐ》るのだ。さくらが怖がっているときにそばにいてやれなかったという負い目と、自分じゃなく、北村がその役を十分に(いや、多分《たぶん》自分以上に完璧《かんぺき》に)果たしたのだろう、という悔しさ。
「……俺《おれ》が、守りたかったんだ。さくらちゃんのことは」
ポロリ、とトラブルに疲れた舌が、飾り気のない本音《ほんね》を零《こぼ》した。
瞬間《しゅんかん》、
「幸太くん……」
目の前のさくらの笑顔《えがお》が、水を与えられた花みたいに潤《うるお》いを増し、さらに大きく綺麗《きれい》に咲く。それを見て、幸太の笑顔も自然にとんどん膨《ふく》らんでいく。
またひとつ、さくらは幸太に魔法《まほう》をかけてくれたみたいだ。
その魔法は、真実の気持ちを伝える勇気が湧《わ》く魔法だった。どんなに下手《へた》な言葉でも、さくらならきっと、間違えずにわかってくれるに違いない。
「さくらちゃん――」
頭からは、完全に抜け落ちていた。デートがうまくいったら、告白をするんだ。そんな計画など、いまやなんの意味ももたなかった。
気持ちが溢《あふ》れたから、さくらに渡したい。そう思っただけ。
「もしもまた、さくらちゃんが怖い目にあっていたら、俺がさくらちゃんを助けたい。だって、俺は、」
さくらの瞳《ひとみ》が幸太を見た。その頬《ほお》が、眩《まばゆ》いまでの桜色に綺麗に染まっていくのがわかった。多分幸太の硬い煩も、同じ色に染まっているはず。
さくらの魔法の色――幸福な恋の嵐《あらし》が舞《ま》い躍《おど》らせる、満開の桜のハートの色に。
「俺は、君が――」
しかし、そのときだった。
「――くさっ!」
「なにこれっ!?」
むん、と鼻をつく濃《こ》い獣臭《じゅうしゅう》が、幸太《こうた》とさくらの顔を一瞬《いっしゅん》にして歪《ゆが》ませる。なんとなく、遠くからは幾多のヒヅメが大地を自由に駆けるみたいな、そんな音が近づいてくるような。
「……な、なんなんだ!?」
スタタタタタ、とテーブルの脇《わき》をダッシュで駆け抜けたヒヅメの群れの前触れは、あの濃い顔は見間違えようはずもない、孝義《たかよし》・フルハム、またの名を孝義・モルダー。
「今、あの人なにか言ってた、みたい……?」
さくらが不安げに首をかしげる。
「……柵《さく》が壊《こわ》れた……とか? 逃げろ高校生、とか……?」
しかしそれは正解とは言えない。正確《せいかく》に言えば、こうだ。柵が壊れた。逃げろ、笑い上戸《じょうご》の高校生。
「……ん?」
「……ん、ん、んっ!?」
やがて、彼方《かなた》から荒れ狂う白い河のような塊《かたまり》が、近づいてくるのが見て取れた。それはこちらに一直線《いっちょくせん》、ぶちあたるベンチやテーブルを跳ね飛ばし、迷わず二人《ふたり》を狙《ねら》ってくる。
どうやらそれは、巨大な角《つの》をそなえた雄《お》ヤギと、どっしり異様《いよう》に体格のいい雄《お》羊《ひつじ》の荒々しい群れ、というか、軍団のようで――
「ひ――」
「きゃ――――――っっっ!」
幸太とさくらはほとんど同時に飛び上がり、同時に群れに背を向けて、全速力のダッシュで逃げ出す。右手と左手が自然に繋《つな》がる。指を絡めて、もう離《はな》すまい、と。だけど頬《ほお》を染めるほどの余裕はもちろんあるわけなくて、
「きゃー! きゃー! こっちくるー!」
「くさー! なんでくるんだ!? エサなんかもってないのにーっ!」
ほとんど半泣きで右往左往、ヤギと羊に取り囲まれ、二人はあっちこっちとグルグル逃げる。しかし次第に逃げながら、
「……ぶふっ……」
「……ふははっ……」
「あは、あはは……あはははははっ! なんで追いかけられてるんだろー!?」
「うははははっ! 他《ほか》にも客いるのに、なんで俺《おれ》たちだけ……あはははははっ!」
興奮《こうふん》のあまり心のどこかが壊れたのか、二人は涙を流しながらも大爆笑《だいばくしょう》が止まらない。羊に尻《しり》を頭でどつかれ、ワンピースの裾《すそ》をヤギに噛《か》まれ、それでもなぜだか衆しくて、おもしろくて笑えて仕方がなかった。
二人は一緒《いっしょ》にいるだけで、楽しくて楽しくて仕方がなかった。必死で逃げながら、大笑いしながら、幸太はちゃんと理解していた。
今日《きょう》はこのまま伝えられなくても、きっとすぐ、もうすぐ、その日は絶対にやってくる――。
「……やっぱ、ああなるんだなー。あーあ、とうとうコケたぞあいつら」
売店二階のカフェテリア、外の喧騒《けんそう》が嘘《うそ》みたいに、窓際《まどぎわ》の席は静まり返っていた。
「でも、笑ってますね。楽しそうに」
「……そっか。私たち、やっぱりただの邪魔《じゃま》モノだったかもな」
冷めたタコ焼きを口に放り込み、すみれはふう、と息をつく。窓の外に向けた視線《しせん》は、なにかを諦《あきら》めたみたいに温度をなくして透《す》き通《とお》っている。
「……寂しそうですね」
「寂しいよ」
口元には、いつもの少し男っぽい笑《え》み。しかし伏せた睫《まつげ》には、本物のメランコリーが隠しようもなく影《かげ》を落とす。
「さくらなんかついこないだまで、私の後をついてくるしか能がねえ、ほんとに小さいガキだったのに……もう私の助けは必要ないんだな。幸太だって、友達もできねえなにもできねえ、暗いだけの奴《やつ》だったのにさ」
「ですよねえ。……つまらないもんです」
「ほんとだよ。勝手に大きくなっちまうんだ。……こんなに早く」
ふ、と小さく息を漏らし、すみれの視線が北村《きたむら》へ向く。にっこり、とコンタクトの目を細め、北村は視線を受け止める。が、
「……ん!?」
二人《ふたり》はほぼ同時、窓の外から聞こえる悲鳴に気がついた。きゃー、だの、わー、だの、メー、だの響《ひび》く叫び声に混じり、
「財布《さいふ》取られたぁぁぁぁぁ!」
「きゃーっ、一万円札かじってる――っっ!」
「うわ、携帯《けいたい》も取られたぁぁぁぁぁ!」
「いやーっ、液晶|舐《な》めてる――っっ!」
――ガク、とすみれの肩が落ちる。北村はこらえきれずlこ笑い出す。
ちゃんと耳に届いてしまった。助けてお姉《ねえ》ちゃん。助けて会長。そんな悲痛な叫び声が。
「……助けにいきますか、お姉ちゃん……じゃなくて、会長」
「……おう。ったくもう――あいつらは!」
立ち上がり、やっぱりそれほどは成長しきってなかった妹と弟分のために、すみれと北村は走り出した。
もう二度と、生意気《なまいき》な口はきかせねえ、と内心本気で決意しつつ。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
その後。
狩野《かのう》さくらが生徒会に庶務《しょむ》として籍《せき》を置くことになったのは、一学期の終わりのことだった。
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
長く、暗い冬。
大地は固く冷たく凍《い》てつき、作物は獲《と》れず、吹雪《ふぶき》に人々は封じ込められる。
太陽は翳《かげ》り、生命は死に、世界は沈黙《ちんもく》の中に落ちる。
しかし――
「あっ、いたいた! 幸太くーん!」
「ん? あ、さくらちゃん!」
冬はやがて終わるのだ。それが自然界の摂理《せつり》というものだ。
「待って待って、途中まで一緒《いっしょ》に帰ろう!」
「いいよ!」
冬が終われば、次にやってくるのは春。誰《だれ》がなんと言おうと、春。
ハートの形をした薄《うす》いピンクの花びらが甘い風に舞《ま》い踊《おど》り、柔らかな陽射《ひざ》しに照らされて暖まった新芽が顔を出し、すべては生き生きと命の喜びを取り戻す、あのハッピーな季節。
「よかった、追いつけて! お姉《ねえ》ちゃんたちがいないところで話したかったんだあ!」
息を切らして狩野《かのう》さくらは笑い、「はあ……あは!」と、照れたみたいに富家《とみいえ》幸太の正面で髪をかきあげる。幸太の心象風景的季節はまさに春まっさかりだが、現実の世界は夏ド真ん中。狂ったように鳴《な》き喚《わめ》くセミの声の中、さくらは丸い頬《ほお》を暑さに赤く染め、汗ばんでしまったこめかみを手の甲で擦《こす》る。転がり落ちた汗の雫《しずく》はそのまま首筋まで伝い、タイを外《はず》しでボタンをあけたシャツの胸元に転がり落ちる。
脈が透《す》けるはど真っ白な胸元まで思わず目で追ってしまい、幸太は慌てて視線《しせん》を外す。華奢《きゃしゃ》な鎖骨《さこつ》の下の柔らかな盛り上がりを意識《いしき》してしまう前に。
「どうしたの、幸太くん。黙《だま》っちゃって」
「え? い、いや、その……さくらちゃん、暑そうだなって」
「うん、暑い暑い! もう明日《あした》っから夏休みだもん、暑いよね」
うふん、あはん、と笑いながら目を見交わし、二人《ふたり》は並んでゆっくりと校門へ向かって歩き出す。息が切れちゃった、とさくらは自分の胸の辺《あた》りを手で押さえ、薄いニットのベストに豊かなふくらみの形がくっきりと浮かぶ。幸太はそっと目をやり、くっきり落ちる己《おのれ》の影《かげ》に視線を逃し、やっぱりもう一度横目でさくらを見たりする。目が会って、
「……うふふ」
「……えへ、へへ」
熱《あつ》くなる頬《ほお》もそのままに、二人《ふたり》はもう一度笑い合う。
時間を稼《かせ》ぎたいみたいにゆっくりと歩き、だけど手を繋《つな》いだりはしない。あくまで二人人してへらへらと笑いながら、肘《ひじ》の触れない距離《きょり》を清く正しく守っている。
富家幸太《とみいえこうた》と狩野《かのう》さくらは、いまだいわゆる「彼氏と彼女」ではなかった。お互いに好意があることはなんとなく以上にわかりつつ、決定打がないまま、単に仲のいい男子と女子として、ついに一学期の終業式を些えたのだ。
とはいえ、二人の身分は、おそろいの生徒会|庶務《しょむ》。毎日生徒会室で顔を合わせる仲なのだが、その場にはさくらの兄――いや、姉である生徒会長や、諸先輩方《しょせんぱいがた》がニヤニヤと顔を揃えているため、かえって身動きが取れなくなったという説もなくはない。
しかし、明日《あした》からは夏休みだ。幸太は少し日に焼けた頻をだらしなく緩ませ、笑顔《えがお》になっている自覚さえないまま、にこにことご機嫌《きげん》に笑い続けていた。明日からの夏休みが、楽しみで楽しみで仕方がない。
夏休み中も生徒会活動はあるのだが、午前中だけ。午後はあくまでフリータイム。つまり遊びにいき放題デートもし放題。しかも来月になれば、学校内一泊のしょぼいプランとはいえ、生徒会の合宿なんてものまである。決定打、とやらも、早めに打っておくに越《こ》したことはない。
「あのさ、さくらちゃん。追いかけてきてくれてありがとうね。俺《おれ》もちょうど話したいことがあったんだ。あとで電話でもしようかなって」
「え? なになに?」
「その……夏休み中さ、たくさん、遊びにいこうよ。二人で。……って、言いたくて」
幸太は暑さのせいだけではなく、さらに血の昇る頬を意識《いしき》して下を向いたまま、だけどはっきりと口にした。
さくらと出会って、恋をしてから、早くも二ケ月以上が経《た》つ。その間、あらゆる紆余曲折《うよきょくせつ》を乗り越えて、幸太は自分の好意をさくらにアピールしてきたつもりだ。そしてさくらも、幸太に好意を寄せてくれている――と幸太は信じている。デートだってしたことがある。アクシデントに見舞《みま》われながらも、さくらはそれでも楽しそうに笑ってくれた。そのとき限定ではあったが、トラブルの中で手も繋いだ。温かで柔らかな指を、彼女は自分に委《ゆだ》ねてくれた。
それはまさしく奇跡。好きな女子に想《おも》いが通じかけているとあれば誰《だれ》だって幸せ舞い上がり状態になるだろうが、特にこの幸太にとっては、超のつく奇跡的な大ハッピーといえるのだ。
思えば苦節十五年……生まれ落ちたその瞬間《しゅんかん》から、幸太は不幸体質という運命的な悲劇《ひげき》を背負って生きてきた。あらゆる人生の節目において、必ず、か、な、ら、ず、不運・不幸・理不尽《りふじん》な悲劇的事件が幸太を襲《おそ》った。受験《じゅけん》では、毎度毎度直前に事故に見舞われる。誕生日《たんじょうび》ごとに親戚《しんせき》に病人・ケガ人が出る。伯母《おば》の一人《ひとり》など、自分の癌《がん》の手術の日が幸太の中学校入学式にあたると知って、手衛の日程を強引にずらしさえした。もちろん、日常生活も不幸の渦《うず》の真《ま》っ只中《ただなか》。友人たちとプールに行こうと決めた日には必ず雨が降る。乗ろうとしたバスは、必ず遅れる。渡ろうとした信号は必ず赤だ。年末の商店街でクジ引きをしようとハンドルを回せば、くじ引きマシーンごと幸太《こうた》の上に落下してきて、額《ひたい》を三針|縫《ぬ》う怪我《けが》をする――中学三年の頃《ころ》の話だ。その二ヵ月後、高校|受験《じゅけん》のその日には、車に撥《は》ねられて入院生活を送る羽目になったわけだが。
そんな幸太に、ようやく訪れた雪解けの季節……春の、ぬくもり。それこそが、狩野《かのう》さくらという女の子なのだった。
さくらは本当に優《やさ》しくて、明るくて、かわいくて、誠実で、幸太はそんな彼女が大好きなのだ。こんなにも大好きになれる存在を身近に見つけられただけでもハッピーなのに、さくらはそんな幸太を優しく受け止めてくれている。幸太を追って、生徒会にまで入ってくれた。
こんな幸運が幸太の人生に訪れるとは、腹を痛めて生んだ母も信じられるまい。しかしこれこそが現実、長かった冬は終わり、ついに春が、
「あ、あのー……あのね、幸太くん」
「え?」
春が……?
「……そ、それがね。私が話したかったのって、そのことなんだけど……夏休みの前半、ずっと補習になっちゃったの。夕方まで、毎日……だから、逓びにいけないと思うの」
春が……なんだって?
「私も幸太くんと遊びにいくの、楽しみにしてたんだけど……ごめんね」
幸太は冬のトンネルに再び吸い込まれそうになりつつも、必死に足を踏ん鶴る。こんなところで吸い込まれてたまるか。まだまだ春は来たばかり、石にかじりついてでも耐えてやる。
「ほ――補習って、な、なんで!? だってさくらちゃん、確《たし》かに中間の成績《せいせき》はオール赤点だったけど、追試は全部いい点数とれたじゃないか!」
「追試の点数は、あくまでも落第はしない、ってだけなんだって。……期末も結構頑張ったんだけど、中間との平均点で引っかかっちゃって……恥ずかしい、もうやだなあ・……」
あああ……とさくらは口をへの字にして肩を落とす。このまま二人《ふたり》して真冬に突入しょうか、というその寸前で、幸太はまだまだ足を踏ん張っていた。ほとんど吹き飛ばされそうになりつつも、トンネルの入り口に指を引っ掛け、必死に春の世界に留《とど》まり続けていた。顔を上げ、努めて明るく笑い、さくらの肩をそっと叩《たた》く。こんなことで春を見失ってたまるかというんだ。
「だ、大丈夫だよさくらちゃん! 俺《おれ》もどうせ生徒会で学校には来てるしさ、毎日|一緒《いっしょ》にお昼、食べようよ! 自習しながらさくらちゃんの補習終わるの待っててもいいし……はら、宿題もどうせやらなきやいけないしさ! そうだ、俺が先に宿題進めておけば、さくらちゃんに教えてあげられるし!」
「幸太くん……」
幸太を見つめるさくらの瞳《ひとみ》に、花びらに落ちる朝露《あさつゆ》みたいな光がきらきらと宿《やど》り始める。幸太はうん、と頷《うなず》き、力強くさくらの瞳《ひとみ》を見返す。
「そうだ、それにさ、夏休みの後半になれば遊べるってことじゃないか。生徒会が終わったら、一緒《いっしょ》にプールに行ったりしようよ。寄り道したりさ、きっと毎日楽しいよ。合宿もあるし、俺《おれ》、楽しみだよすごく!」
「……あ、ありがと……ありがとう、幸太くん……嬉《うれ》しい、すっごく嬉しい! へこんでたんだ、私」
「元気出た?」
「うん! 出たよ! そうだ、私毎日、幸太くんの分もお弁当作る!」
「えっ!? ほんとに!?」
さくらはしゃきん、と背を伸ばし、ほとんど舞《ま》い上がりそうにつま先立って、幸太の目の前で何度も頷いてみせた。やる気満々で目を輝《かがや》かせ、顔全部を使ってスマイルも満開、
「超気合入れて、作っちゃう! ねえねえ、本屋さん寄っていい? 新しい料理本も仕入れちゃうんだ!」
今にも踊りだしそうなステップで元気一杯に歩き出す。元気になったさくらの姿に思わず幸太も笑顔《えがお》になり、待てよ〜、とばかりに大股《おおまた》でさくらを追いかける。
「へへ……さくらちゃんのお弁当、楽しみだな。絶対最高にうまいもん。補習になってくれて、かえってラッキーだったかも」
「えー!? やだよー、せっかくの夏休みなのに朝から勉強するんだよー!?」
「あはは、そっか。ごめんごめん」
「んも〜ひどいよう」
「うふんうふん」
「あはん」
二人《ふたり》してくねくねと身を捩《よじ》り、笑い、そして幸太は確信《かくしん》する。自分は春の世界に踏みとどまることができた。踏ん張りきることができた。
ブルーだったはずの補習もなにやら楽しいイベントになり、前途は洋々。しかしそのとき、唐突《とうとつ》に冷たい稲妻《いなずま》にも似た「前兆」が、慣《な》れ親《した》しんだ例の感覚が、幸太の背筋をべろんちょと舐《な》める。
来るぞ来るぞ……不幸が来るぞ。
幸太ははっ、と顔を引《ひ》き締《し》め、辺《あた》りに目を配る。そうだ、あまり浮かれてはいけない。春が来たとはいえ自分は不幸体質。どんな不幸が待ち受けているかわかったものではないし、それに落とし穴という言葉もあるではないか。調子《ちょうし》に乗って浮かれている奴《やつ》ほど、コロリと穴に転がり落ちるものだ。
車はこちらに向かってこないか。さくらの目の前で轢《ひ》かれたりしたら大事《おおごと》だ。財布《さいふ》は落としていないか。通《とお》り魔《ま》はうろついていないか。頭上からなにか落下してきたりはしないか。俺の家は燃《も》えてはいないか。
「さ、さくらちゃん。危ないからもっとはじっこを歩こう」
「え? 危ないって?」
「ほら、車が車線《しゃせん》から外《はず》れて暴走《ぼうそう》してきたりしたら大変だか――」
「あっ……」
さくらの驚愕《きょうがく》の表情がどアップで迫ってきたのは一瞬《いっしゅん》。まるでスローモーションのように、さくらの大口は上へ上へ上昇し――それが誤解で、さくらが上昇していたのではなく、自分が落下していたことに気づいたのは、底にたどりついでからだった。
全身が砕《くだ》け散《ち》りそうな凄《すさ》まじい衝撃《しょうげき》に、目の前が真っ暗になる。
ぐしゃこ。ぼきぼき。と、音は聞こえた。
「こ、幸太《こうた》く――――んっ! だ、誰《だれ》か、救急車ぁぁぁーっっっ!」
さくらの絶叫の中、幸太はゆっくりと幽体離脱《ゆうたいりだつ》を開始していた。透《す》ける足元に、みじめに白目をむいて頭から地面に崩れ落ちた自分の肉体が横たわっていた。
そう、落とし穴という言葉がある。
落とし穴、というモノもある。
たとえばそれは工事現場のすぐ脇《わき》に、塞《ふさ》ぐのを忘れて歩道にぽっかりとあいたままの穴であり、二メートルぐらいの深さであり、余所見《よそみ》なしていたアホな男が落ちるにはぴったりのものであり、落ちれば骨ぐらいは折れてしまうのであり――折れたのだった。
七月二十一日。一学期の最終日、午前十一時三十五分。
富家《とみいえ》幸太は手首と指三本を骨折。ついでに肋骨《ろっこつ》旦一本ぽっきりといき、首も腰も肩も傷め、搬送先《はんそうさき》の病院にて「これは〜動かせないねえ〜」……入院手続きがとられた。
冬が終われば春が来る。春、夏、秋、と来て、そして再び冬は来る。そして北国の冬は長い。とても長い。超長い。
それもまた、自然の摂理《せつり》であって、人間の力では到底劾かしがたい現実であった。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「幸太、あんた本当に大丈夫なの? つい昨日《きのう》まで入院してたってのに、せめて一日ぐらいうちで療養《りょうよう》してなさいよ」
「平気だよ、ギプスだってもう取れてるし。多少動かしにくいけど、不便はないし」
「……まあ、そうね。あんだけ事故にあいまくって、今も元気に生きてるんだものね。あんた、意外としぶとい子なのかもしれないわね」
「……せめて丈夫とか、強い子とか、そういう言葉は選べないのかよ」
母親の車からサブバッグを掴《つか》んで降りるなり、幸太《こうた》はグッ、と校門を強く睨《にら》みつける三週間ぶりの光景だ。この校門。暑さにゆらめくグラウンド。桜の並木。そして、少し竜びた校舎。
ちょうど三週間前、この校門を出た後に幸太は落とし穴に転げ落ちた。そこから病院に搬送《はんそう》され、そして今、この地へ再びしぶとく舞《ま》い戻ってきたわけだ。
二十回とちょっとの夜を病院のベッドで過ごし、同じ数だけの夢を見た。さくらの夢だ。さくらはあるときは水着で、あるときはチアガールの衣装でゆらゆらと立ち現れ、「幸太くん! ファイトー!」と応援してくれた。しかし手を伸ばすと、さくらはむなしく掻《か》き消えた。そして現実世界で目を開けると、伸ばそうとしていた手はギプスでガチガチに固められ、自分の腹の上で冷たい異物感を孕《はら》みまくっていた。
現実のさくらとは、あれ以来、今日《きょう》まで会ってはいなかった。会うところか、声も、メールも、なにひとつ接触がなかった。朝からずっと補習のさくらは、病院の面会時間に間に合わず、見舞《みま》いに来ることができなかったのだ。幸太の携帯《けいたい》は落とし穴の底で砕《くだ》け散《ち》り、入院中の身とあっては新品を手に入れることも不可能だった。公衆電話はナースステーションのすぐ脇《わき》にあり、電話をかけようとするたびに「あ、彼女ぉ〜?」「なになに、富家《とみいえ》くん、彼女いるのぉ〜?」……顔見知りになった看護師《かんごし》のお姉《ねえ》さまたちにクスクス笑われて、シャイな高校一年生は、ついに電話をかけることができなかった。
手紙は、来た。さくらが兄、いや姉のすみれに託し、生徒会のみんなで見舞いに来がてらそ
れを届けてくれたのだ。大丈夫? とか、補習は大変だよ、とか、早く元気になってね、お見舞いに行きたいよ、とか――なにげない言葉の隅々《すみずみ》に、さくららしい優《やさ》しさがひたひたに染み込んだ直筆の手紙だった。返事は書けなかった。右手の人差し指と中指、左手の中指が折れていたから。
悶々《もんもん》、どころではなかった。
さくらちゃんに会いたい、会いたい、会いたい会いたい会いたい、手紙ありがとうねと伝えたい、会えなくて寂しいと伝えたい、顔が見たい、話したい、会いたい会いたい会いたい。
念仏《ねんぶつ》のように唱《とな》え続け、医者も驚《おどろ》く驚異《きょうい》の回復力を見せ、そうして幸太は今日《きょう》、この地に帰りついたのだ。生徒会合宿の、今日、この日に。
「じゃあ幸太、事故とか怪我《けが》とか急病とかに気をつけるのよ。人様に迷惑だけはかけちゃだめよ。……ちょっと。聞いてる? 幸太。幸太!」
「……ふ……ふふふふふ」
母親の小言なぞ聞いていられるか。久しぶりにさくらと会える。なんて言おうか。どんな顔をしたらいいだろう。考えるだけで頬《ほお》がカッと熱《あつ》くなり、いてもたってもいられずにその場でピョンピョン飛び跳ねたくなる。逆さになって脳天で身体《からだ》を支え、グルグル回ってみたくなる。できないけど、でもそんな気分なのだ。
「あら、先日はどうも! 結構なお見舞いをいただいて!」
「ああ! お久しぶりです、富家《とみいえ》くんのお母様《かあさま》。うちの店の品物なんて失礼かとも思ったんですが」
「いえいえ、とっても見事な桃で、食べごろで! 私たちもおいしくいただきました。お父《とう》様《さま》お母様にもよろしく伝えてね」
「母ならちょうど、車にいます」
はっ……と気づいて背後を振り返る。
富家家の車の脇《わき》に止められているのは、(有)狩野《かのう》商店の、見覚えのある白い車。そして母親と向かい合って女子高生とは思えぬ落ち着きで談笑《だんしょう》しているのは――
「よーう! 富家くん! よかったなあおまえ元気になってなあ! だーっはっはっはっはっはぁ! じゃあお母様、富家くんは私が着任をもって一晩預からせていただきますから」
「いーえぇ、なんだかも〜信じられないぐらいしぶとい息子ですから、適当にその辺に放っておいてちょうだいね。あ、あんまり深く関《かか》わらないようにして。どんな不幸を運ぶかわからないから」
「だーっはっはっはぁー! 幸太、自分のおふくろさんにまでひとい言われようだなあ!」
「ほほほほほほ真実ですもの〜!」
夏服から伸びる一見しなやかな、しかし力強い親父《おやじ》力《りょく》を秘めた狩野すみれの腕が、がしっと幸太の首を抱えて締《し》め上げる。片手が親戚《しんせき》のおっさんの指使いで、少し伸びた髪を荒々しくごしゃごしゃとかき混ぜる。
「あいたたたたた!」
「じゃあ、お母様。責任もってお預かりします」
「幸太、くれぐれも狩野さんにご迷惑おかけするんじゃないわよ。不幸を振りまくんじゃないわよ」
「不幸だ! 俺《おれ》、今不幸だ! 母さん助けて、おっさんが俺を……っ」
「ほーう」
「いたいいたいいたい!」
まあ〜仲がいいわね〜、とにこやかに笑いつつ母親は幸太を軽《かろ》やかにシカト、狩野家の母親を見つけて「あらどうも、わたくし富家幸太の母でございますぅ〜!」「あらあら、狩野でございますぅ〜!」と高音のご挨拶《あいさつ》を繰《く》り広げる。
ギブ、ギブ、と腕を叩《たた》き、ようやく幸太は地獄のように馴《な》れ馴《な》れしい腕の拘束から解かれ、すみれを睨《にら》みつける。
「ひっ、ひどいじゃないですか! 退院したばっかりなのに!」
「悪い悪い、元気そうな姿見たらついな。ついつい」
「ついつい、で脊椎《せきつい》折られちゃたまらないですよ……まったくもう」
「折れてねえだろうが」
すみれは腕を組んだポーズ、真夏の陽射《ひざ》しの下で人の悪い笑《え》みを浮かべる。長い黒髪を肩に垂らし、涼しげな美貌《びぼう》はやまとなでしこそのものの和風美女だが、
「さあさあいつまでも突っ立ってねえで、いくぞ幸太! おまえは初めてだったよな、合宿! たぁのしーぃぞー! んだーっはっはっはっはっはっはあー!」
この、腹に響《ひび》く大音声《だいおんじょう》。男性ホルモンが匂《にお》い立つような笑い顔。生徒会長・狩野《かのう》すみれは、人呼んで狩野姉妹の兄貴《あにき》の方なのだ。頑固にして豪快、兄貴で父《とう》ちゃんで親分で、みんなの頼《たよ》れる親方なのだ。
「おら! 暑いから中はいっぞ!」
「はいはいはい……」
ほとんど肩を抱かれる、というか、乱暴《らんぼう》にどつかれるようにされ、幸太は歩き出しかける。しかし、大切なことを思い出し、足を止める。
「あ、あの会長。さくらちゃんは――」
「え? その辺にいるだろ」
首をめぐらせ、周囲を見渡し、背後を見て、そして幸太はブルッと震《ふる》えた。
さくらがそこに、立っていた。
夏服姿で暑そうに顔を赤くし、サブバッグを重そうに抱えて、少し離《はな》れた場所から、幸太とすみれを見つめていた。
数メートルの距離《きょり》を踏み切って、そのまま飛びつきたかった。
実際に飛びつかなかったのは、最後の自制心がその足を地面に縫《ぬ》い止めてくれたおかげだ。
会いたかったよー! と泣くのも我慢できたし、嬉《うれ》しさに我《われ》を忘れて駆け寄ってしがみつくこともギリギリのところでこらえることができた。
ぐっ、と、爆発《ばくはつ》しそうな恋心を、幸太はなんとか力ずくで抑えきったのだった。後は普通に笑い、普通に挨拶《あいさつ》をし、会いたかった、ぐらいのことを言えればここは満点だと思えた。
だが、一体なにが起きたやら。強引に抑制された身体《からだ》は、そのまま不自然に凍りつく。殴られたみたいに頭の中が真っ白になる。声が出ないのは、喉《のど》が貼《は》り付いたせい。心臓《しんぞう》は壊《こわ》れたみたいに凄《すさ》まじい16ビートを刻み、今にも口からはみ出しそうだ。ぴくりとも動けない。思わず俯《うつむ》き、目を逸《そ》らす。
さくらの顔を見た瞬間《しゅんかん》からそのまんま、幸太の全身は真っ白な炎のハレーションを爆心地《ばくしんち》から見つめているみたいに、ただ、衝撃《しょうげき》に嬲《なぶ》られるままになってしまった。ガチガチに筋肉が固まって、表情さえも変えられない。なんだろう、この感じ……背を向けてしまいたい。物陰に隠れたい。さくらの存在に、気がつかなかったフリをしたい。苦しくて死にそうだ。
さくらが一言なにか言ってくれたら――笑いかけてくれたら、きっと、きっと全部は前と同じになる、かもしれないのに。
それなのに、
「……」
さくらは、なぜか一言も声を発してくれない。唇を窄《すぼ》めるような微妙な表情で幸太を見て、それから姉を見て、もう一度幸太を見て、ふい、と視線《しせん》をどこかに逃がした。じゃれついていたすみれの腕がさりげなく幸太の肩から離《はな》れて、
「……どうした、さくら。行くぞ。なんだよ、幸太も黙《だま》り込んで」
さくらは姉の声にもなにも答えず、笑いもせず、少し早足で歩いてこちらに向かってくる。こちらに、というか、校舎の方に。そして幸太とすれ違いざま、
「……久しぶり。退院できて、よかったね」
なんだかいつもよりも硬度二百パーセント増しぐらいの声で言うのだ。しかし幸太は返事もできない。顔も上げられない。あれ、あれ、あれれ? あれ、どうして、こんな感じに? 脳内を酪け巡る困惑は叫ぶみたいに響《ひび》いているのに。
固まった幸太を見て、少しだけ返事を待って、そしてさくらは諦《あきら》めたみたいにそのまま追い抜いていく。
あ……あっれえー?
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「おっ! 幸太、ここにいたのか!」
「……」
「合宿に参加できるのか、よかったなあー! どうだ、身体《からだ》の具合は。もうすっかりいいのか?」
「……」
「こ、幸太?」
「……北村《きたむら》先輩《せんぱい》。脱がないで下さい」
「いやしかし、ちょうと部活終わりの時間でシャワーは混んでるし、俺《おれ》は汗|臭《くさ》いし……前に会長に、臭くて叱《しか》られたことがあってな」
「ここ、便所ですよ!? ……便所でパンイチになる人がどこにいるんすか!?」
そう怒鳴《どな》った次の瞬間《しゅんかん》、きょとん、と眼鏡《めがね》の奥で日を丸くした北村|祐作《ゆうさく》の下半身から最後の一枚までがつるりと下ろされ、
「すまん、俺《おれ》は便所で全裸になれるような男なんだ」
「……見ちゃったじゃないですかぁ……」
幸太は二足直立する力を失い、洗面台に突っ伏す。ただでさえへこんでいるときに、なにが悲しくて男のヌードなど見なけりゃならない。
これでも一応は「できる」ということになっている副会長、北村《きたむら》は平気な顔をしてタオルを濡《ぬ》らし、全身をゴシゴシと拭《ぬぐ》い始める。見たくはないが目に入るフルヌード姿は、いわゆる見事な土方焼けというやつ。顔と首、半そでから出る腕だけが焦《こ》げたような小麦色に焼けている。
「……部活、だったんですか」
「そうだよ。秋にはまた大会があるからさ、それに向けて毎年夏休みは結構ハードにやるんだ。うまい具合に生徒会と時間をずらせて助かってるけど」
すみれの右腕を務める傍《かたわ》ら、北村はソフトボール部の部長でもあるのだ。セロテープで鼻柱に貼《は》り付けた眼鏡《めがね》を外《はず》し、ザブザブと思いっきり顔を洗う。その勢いで首筋までビショビショに濡らし、仕上げに水道の下に脳天を晒《さら》して真水をかぶり、
「……っはー、やっとさっぱりした!」
爽《さわ》やかに濡れた髪をかきあげる――全裸で。幸太は全力で目を逸《そ》らし、変な人ばかりを吸い寄せてしまう己《おのれ》の不幸体質を呪《のろ》う。
「まったくもう……緊張感《きんちょうかん》がないんだから。こんなときだっていうのに……」
「どうかしたのか? なにかあった?」
もちろん、相談《そうだん》する気になんてなれない。なれるわけがない。全裸だからという理由だけでなく。幸太はなんでもないです、と小さく言い、乾いた洗面台に力なく寄りかかった。
北村は信頼《しんらい》できる先輩《せんぱい》だが(でも全裸だが)、さすがの北村とて、幸太本人も意味不明のこの状況を解決してはくれないだろう。会いたくて会いたくて仕方がなかったはずのさくらに、やっと会えたと思ったら、なんだか妙に距離があるというか――距離を開けたいような気持ちになってしまった、というか。
そうなのだ。動かなかったのも、声をかけなかったものも、顔を見なかったのも、全部幸太がしたこと。好きなのに。……大好きなのに、なぜだかわからないが、幸太は隠れたいような気分だったのだ。さくらの顔が見たくて仕方ないのに見られなくて、話したいのに話したくなくて。声が聞きたいのに、逃げ出したくて。そして自分がそんなわけのわからない状態になっていたから、さくらも多分《たぶん》むっとしたのだろう。
そこまでは一応自分でもわかって、幸太は生徒会室にいられず、便所に逃げてきて全裸男に会ってしまったわけだ。
「なんでもなくなったら、まあ、相談でもなんでもしてみてくれ。合宿の夜は長いからな」
髪を拭《ふ》き終えた北村は汗と土埃《つちぼこり》でドロドロになったユニフォームをビニール袋に詰め、持参したらしい清潔《せいけつ》なパンツと靴下を装着。Tシャツを着て、眼鏡をかけて、制服のシャツに腕を通す。やっと見られる姿になったところで、そういえば、と幸太《こうた》は顔を上げる。
「……聞くの忘れてましたけど……この合宿って、一体なにをするんですか? 持ち物も妙だし」
「ちゃんと忘れず全部持ってきたか? 昼の弁当に冬の制服に体育着フルセット、エプロン、水着」
「持ってきましたけど。もしかして、プール入れるんですか? あと弁当はいいにしても、冬服って……」
きちんとベルトを締《し》め、北村《きたむら》は濡《ぬ》れた髪を仕上げにゴシゴシ拭《ふ》きつつ軽く笑う。
「すぐにわかる。さあ、生徒会室に戻るぞ」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
テーブルの周りにイスをそれぞれ引き寄せ、顔をつき会わせた北村、幸太、二年生の書記|庶務《しょむ》コンビ、そしてさくら――生徒会の面々の目の前に、すみれがどさり、と積み上げたのは、過去十数年分に及ぶこの高校の生徒会活動誌だった。
「埃《ほこり》くさっ」
「ロッカー掃除はてめえの仕事だっただろうが。さぼってたな?」
すみれに睨《にら》みつけられてそっと距離《きょり》を取りつつ、幸太の視線《しせん》はさらに離《はな》れて座るさくらへ。
さくらはじっと机の上に積まれた活動誌を凝視《ぎょうし》し、幸太を見ようとはしない。幸太もまた、そんなさくらの視線が揺れるのに気がつくと、慌てて視線を自分の膝元《ひざもと》へ。……だめだ、これでは……。
そんな幸太の逡巡《しゅんじゅん》になど一切無関係に、
「見てみろ」
すみれは顎《あご》をしゃくり、開くように促《うなが》す。とてもそんな気分ではないが、従わないわけにもいかない。一冊を手に取り、開いてみた。
「うわ、すごい……昭和六十三年、第二十三代生徒会の記録《きろく》、だって……」
古びた、分厚い装丁《そうてい》の中身は、写真が貼付《ちょうふ》されたアルバムだった。入学式から始まって、遠足やバスハイク、球技大会、文化祭体育祭、生徒会|選挙《せんきょ》から入試に卒業式まで、なんだか異様《いよう》にもっさりと垢抜《あかぬ》けない、だけど楽しそうに笑う当時の高校生たちが学校行事を仕切る様子《ようす》が写真に収められ、きちんと整理されている。
「へえ……これって旧校舎だ。……で、これが一体なんなんです?」
「あ、若かりし日の会長発見」
「え、どれどれ? ……う〜わ……」
別のアルバムを開いてた北村の言葉に思わず手元を覗《のぞ》き込み、意味ありげな声を上げた幸太の後頭部にすみれの容赦《ようしゃ》ない鉄拳《てっけん》制裁が下る。
「なんちゅう声を上げるんだよ! 私にだって高校一年生だった頃《ころ》があるんだ!」
「だ、だって、お下げなんですもん!」
「悪いか!?」
二年前のアルバムには、一年生の庶務《しょむ》として写真に納まったすみれの姿があった。集会写真のすみっこで偉そうに腕を組み、足を開いて立つ姿といい、ニヤリと不敵に笑うその面構《つらがま》えといい、すみれはやっぱりすみれなのだが、お下げにした髪形も今よりふっくらした頬《ほお》も、なんだか幼くて――かわいいのだ。すみれに対してこんな修辞を発する日が来るとは思わなかったが。
しかし、
「あ、あれ? でも変じゃないですか、この年の分」
すみれだけに気をとられてしばらくは気がつかなかったが、よくよく見てみて幸太《こうた》は首をひねる。このアルバムの写真は、すべて様子《ようす》がおかしい。
どうおかしいかというと、たとえば、卒業式の写真の桜が、まるでベニヤで作ったような書き割りなのだ。そして一般生徒の姿がどこにもない。すべての写真が、決まったメンバー……おそらくは当時の生徒会の面々だけで構成されている。ちなみに季節感はゼロ、全員が髪形も変わらずに嘘《うそ》臭《くさ》い表情で嘘臭い書き割りの中に納まっている。
「……これ、なんとなくですけど……一日で撮《と》ってません?」
「そんなわけねえだろうが」
「そ、そうですか? でも、なんか……」
「一日じゃねえ。二日だ」
ふ、とすみれがニヒルに笑う。ああ、と幸太はつっこむ気力も失う。
「つまり、この合宿の目的はアルバム制作! ……というわけだ。今年《ことし》も伝統に則《のっと》って、一年間を二日で駆け抜けるぞ!」
おおー、と先輩《せんぱい》たちの間からはパラパラと拍手が湧《わ》くが、幸太はいまだついていけていない。
「……それ、変でしょ。俺《おれ》が見てたこの古い奴は、そんな捏造《ねつぞう》はしてないですよ」
「北村《きたむら》がもってるアルバムのその年、つまり私が庶務として生徒会に入ったおととしがいわゆる歴史の転換点だったんだよ。ま、大仰《おおぎょう》な言い方しても仕方ねえが、要《よう》はこいつだ。これが原因」
すみれの薄《うす》く透《す》き通《とお》る爪《つめ》が、集合写真の中の一人の男を指差す。大口を開けて笑う、なんだか大柄《おおがら》でラグビーでもやっていそうに健康的な……悪く言えば暑苦しい風貌《ふうぼう》をしている。
「この男は私の一つ上の先輩で、当時の副会長」
「……会長にも先輩っているんですねえ……」
「……私はなんだ? 時の流れを無視した生き物か? まあいい、とにかくこいつが言ったんだよ。自分は写真が趣味《しゅみ》だから、活動記録は全部任せろ。この自慢のカメラでばっちりやるぜ、と。それを真に受けて全部任せておいたある日、遠足先でカメラ、これまでのフィルム、一切合財《いっさいがっさい》置き引きに遭《あ》いやがってな……それまでの記録《きろく》を全部失って、もうヤケだ、全部|捏造《ねつぞう》しちまえ、と。どうせなら未来の分もやっちまえ、と」
「……なーんとなく、ですけど、その『しちまえ』発言したのって、会長でしょ……」
「おお、よくわかったな。そういうわけでこの年から、毎夏の合宿は捏造写真|撮影《さつえい》合宿となったわけだ」
「……次の年からも捏造を続けたんですか?」
「ああ。この男が会長になって、まあ今まで合宿といっても特にやることもなくてヒマだったし、毎年これでいこうや、と」
「……で、今年《ことし》も捏造を」
「ああ。そのやり方でやってきた私が会長になったからな。こうして歴史は作られるわけだ」
あほくさ……とはさすがに言えず、幸太《こうた》は半ば呆《あき》れて、去年のアルバムを開いてみる。書き割りの桜に彩《いろど》られた入学式に、生徒会メンバーしかいない体育祭の写真。これでいいんだろうか、本当に。と
「あ、北村先輩《きたむらせんぱい》が登場してますよ」
「俺《おれ》か。ほんとだ……懐《なつ》かしいな」
今よりだいぶ背が低く思える北村が、体育祭のページで一人《ひとり》、虚《むな》しい創作ダンスを披露《ひろう》している。妙に真剣な顔をして両手に長いリボンを持ち、タン! と踏み切って華麗《かれい》なジャンプを見せた瞬間《しゅんかん》だ。ほぅ、と幸太は思わず見入るが、
「……その写真は気に入ってないんだ。次に行きなさい、次に」
北村の手が強引に脇《わき》からページをパラパラめくってしまう。
「ああもう、せっかく笑えそうだったのに……あ、全員の集合写真」
最後のページに貼《は》られた大判の写真の中に、幸太は北村とすみれの姿を見つけた。そしてついでに、
「おお、書記先輩と庶務《しょむ》先輩もいますよ」
「……あのな、富家《とみいえ》」
「……私たちの名前は、書記庶務ではなくてね、ちゃんとした名前が……」
「へえ、これ将来の夢ですよね。いいなあ、なんかこういうの」
書記庶務コンビの声はさりげなく流し、幸太は生徒会メンバーの頭の上にマジックで描かれた吹き出しの中のコメントを読み始める。
「北村先輩は『考古学者になりたい』……うわ、それっぽい。会長は『運命のままに!』……無意味に偉そうだなー。書記先輩と庶務先輩は『未定』かあ、影薄《かげうす》いですねえ」
例の暑苦しい顔の前生徒会長の笑顔《えがお》の上には、妙にくっきりとした字でもって『世界一速い馬と走る』と書いてある。なーんじゃそりゃ、と思ったそのとき、あることに気づいた。
総勢九名の前代生徒会は、前に五人、後ろに四人の前後二列に並んでいる。前の中央に、前会長。その右隣《みぎどなり》に、当時は副会長だったすみれ。そして後列、前会長の左上に北村《きたむら》。
前会長は、正面を向いて笑っている。すみれは、その会長を見ていた。
すみれは、会長を見ている。北村は、そのすみれを見ていた。
「……?」
これって、と首をひねりかけたそのとき、
「じゃあさっそく撮《と》れるやつから始めるぞ。おいさくら、ちょっとそこのダンボール取ってくれ」
「うん」
すみれの声に、現実に引き戻される。はっ、と弾《はじ》かれたように顔を上げる。実はかなり意識《いしき》的に見ないようにしていたさくらは、すみれに言われて立ち上がり、幸太《こうた》に背を向けてなにやら小さなダンボールを棚の上から下ろそうとしている。腕を伸ばし、届かず、片足の膝《ひざ》だけをちょっと行儀《ぎょうぎ》悪くイスに乗せてさらに背伸びをし、折れてしまったプリーツスカートの裾《すそ》からむちっと盛り上がったお尻《しり》と真っ白な太ももの境界線《きょうかいせん》が刺激《しげき》強すぎのくっきりとしたカーブラインを描いて、
「……っ」
机に突いていた幸太の肘《ひじ》がガクッと落ちる。目から血が吹き出たような気がする。すぐに折れていたスカートの裾はハラリと戻り、ホッとする。残念でもある。いや、ホッとする。いやいや、そうではなくて。
手伝《てつだ》おうか?
一緒《いっしょ》にやろうか?
そう言いたかったのだ。でも――だめだ。言えない。声にならない……顔も見られない。真《ま》っ赤《か》に染まっているであろう己《おのれ》の顔を見せたくもない。手伝いたいのに、一緒にやりたいのに。さくらに気づかれる前に顔を背《そむ》け、自分でも意味がわからないまま、さりげなく背を向けるみたいに身体《からだ》を傾ける。心臓《しんぞう》だけは爆発《ばくはつ》寸前のタイムリミットを刻んだまま。
「……なにしてんだ、幸太。てめえも行くんだぞ」
「……あ、あの」
「?」
すみれに見下ろされ、頭を掻《か》く。あの、もなにも、どうしたいというんだ、この自分は。
「なに。どうしたんだよおまえ。え?」
「……別に、どうでもいいんですけど……この、前の会長は、競馬《けいば》の騎手《きしゅ》かなにかに?」
「はあ? 二メートルの大男がなれるわけねえだろうが。北大《ほくだい》の獣医学部《じゅういがくぶ》だよ」
「北大……随分《ずいぶん》遠いところに進学されたんですね。まあ、名門大学ですけど」
「そう、遠いぞー北海道《ほっかいどう》は。……よっぽど、覚悟がねえと行けねえぞ。さーほら、無駄口《むだぐち》は終わり。行くぞてめえら」
そらした話のネタにして、すいません――ちら、と写真の中で笑う男を見、幸太《こうた》は思う。すみれにこんなふうに見つめられていたことに、この人は気づいていたのだろうか。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「こ、これはどういう設定なんですか?」
「遠足。行っただろ? 春先に、ほれ、バスでしょぼい山に。高校生にもなってみっともなく」
「……俺《おれ》、入院してたと思います」
「ならよかったなー、体験《たいけん》できて」
そうかあ……? と幸太は思わず黙《だま》り込む。ジャージに着替えさせられ、グラウンドの端、芝生《しばふ》の植えられた木立の陰で弁当を食わされているところだ。ちなみに空は真夏の炎天下、全員が全身からダラダラと汗を流している。
「幸太、もっと笑って! ……うーん遠うな、そうだ、全員で弁当箱を持ち上げてみようか」
カメラを構えた北村《きたむら》の注文で、すみれ以下四名の遠足部隊はそれぞれの弁当を掲げて、へラ……と笑ってみせる。「あ、生徒会だ」「弁当食ってる」――陸上部の奴《やつ》らがこちらを見上げているのにもめげず。
しかも北村もとっとと撮《と》るモン撮りゃいいのに、
「……まだ違うなー、なんかわざとらしいっていうか、照れがあるっていうか。もつとこう肩寄せ合って、『わあ、山だ〜』的なアレが欲しいです」
したり顔で演出を重ねる。仕方なく幸太は手近な誰《だれ》かと肩を寄せ合おうとし、
「……はうっ……」
「……あんっ……」
手から握り飯を取り落とす。傍《かたわ》らにいたのはさくらだった。
息が止まり、隠しようもないほど顔が真《ま》っ赤《か》に、熱《あつ》くなる。至近|距離《きょり》のさくらの頬《ほお》、幸太をそっと見上げて震《ふる》える睫毛《まつげ》、血の色も艶《なまめ》かしいふっくらした蜜《みつ》がけの唇。
やばい。
こんなに、かわいかったっけ?
こんなにも生々《なまなま》しく、こんなにも鮮《あざ》やかな、こんな……こんな濡《ぬ》れて滴《したた》るみたいな表情を、するんだったっけ?
見たくなかったくせに、無視し続けていたくせに、一度ぶつかってしまった視線《しせん》は外《はず》せない。さくらも戸惑《とまど》ったみたいに瞳《ひとみ》を揺らし、幸太を見つめ返し続ける。息ができない。渇きすぎていた喉《のど》に、冷えた甘い蜜を一気に流し込まれたみたいに。
神様――死ぬなら、今、この瞬間《しゅんかん》に……
「……はあああ〜っ!」
「ふああ〜んっ!」
唐突《とうとつ》な衝撃《しょうげき》に、幸太《こうた》もさくらも悲鳴を上げていた。がしっ! と横暴《おうぼう》に背後から伸びてきたすみれの腕が、幸太とさくらを左右からくっつけるように抱きかかえたのだ。
「なんちゅう声を出してんだ! うるっせえんだよおまえらは!」
「かっ……かいちょぉぉぉぉおおおぉぉんっ」
「おっ……おねええええちゃああああんぅぅ」
「やーっかましい!!」
頭同士をガチンとぶつけられ、痛みに二人《ふたり》は「ううう」と揃《そろ》って唸《うな》り、黙《だま》る。
「さあ、撮れ! 北村《きたむら》!」
幸太もさくらも、それきり声も出せずにいた。背後で膝立《ひざだ》ちしたすみれに抱きしめられ、二人は頬《ほお》と頬でぴったり密着状態なのだ。全身はガタガタと震《ふる》え、それが誰《だれ》の震えかもわからない。目は開いているのに、なにも見えない。さくらの指からとうとう箸《はし》がカランと転がり落ちる。ややや、柔らかい。どこもかしこも、柔らかい。その上膝が、膝がくっついて……重なって……。
「あ〜、いいな〜」
「会長、私たちも仲間に入りたい……」
「おう、来い来い! 書記に庶務《しょむ》!」
わーい、と書記女史はすみれの右腕にぴったりとしがみつき、庶務|先輩《せんぱい》は左腕に頬《ほお》を寄せてサンドイッチを大口でかじるフリ。
「……い、いいな……俺《おれ》も仲間に……」
「いーから北村は早く撮《と》れ! 腕がプルプルしてきた!」
羨《うらや》ましそうな北村《きたむら》が羨ましそうにシャッターを切り、そして、
「ああ……っ!」
「はあん……っ!」
密着していた幸太《こうた》とさくらは弾かれたように飛《と》び退《すさ》って距離《きょり》を取る。お互いに触れなば落ちん横座り、さくらはじっとりと汗に濡《ぬ》れ、首筋も額《ひたい》も雫《しずく》に淡《あわ》く光らせ、なんだか酔った人みたいに目蓋《まぶた》を朱色に染めて唇を噛《か》む。なにやら全身から、むわ……っと湿るみたいな甘いオーラを匂《にお》い立たせ、手近な芝生《しばふ》を意味なく指先で弄《いじ》り回し、
「……幸太……なに? おまえ、気持ち悪いぞ……」
「え!? お、俺ですか!?」
すみれに嫌《いや》そうに見つめられていた。気がつけば、さくらと同じポーズで同じ表情、同じオーラをむんむんに発し、同じ芝生を弄っている。慌てて男らしく正座し直し、汗に濡れた前髪をかきあげる。こっそり盗み見たさくらも飛び起きるなり幸太に頑《かたく》なな横顔を向け、俯《うつむ》いてがさがさと弁当を勢いよく食べ始める。その頬に、米粒がひとつ。
は――話す、チャンス、だろうか。さくらちゃん、お弁当がついているよ……それ、夜食にでもするつもり?
幸太はゴク、と覚悟を決め、セリフも決め、ほとんどじい様のようにプルプル震《ふる》える指を伸ばし、
「……さ……」
「あっはっは! 狩野《かのう》、なにしてんだよ! そこ! 飯粒!」
「え?」
驚《おどろ》いたように、さくらが顔を上げる。セリフを取られて幸太も振り返る。ついでにすみれも「私も狩野だ」と振り返る。グラウンドから声をかけてきたのは、
「あれ!? どうしたの、若宮《わかみや》くん!」
「バスケ部の練習! 走らされてるんだ、今。おまえこそなにしてんの?」
「生徒会活動なんだよ、これでも」
「弁当食うのが?」
「悪い〜? 合宿中なの、今」
「え、マジ? 俺も合宿中。だっさいよなあ、学校で合宿なんてさ」
なんだこれは。なんだこいつ。
一瞬《いっしゅん》にして血の気が引いたようになり、軽妙な二人《ふたり》の会話を幸太はただ聞いていることしかできない。あの馴《な》れ馴《な》れしい、ちょっとイケメンの、いかにもスポ一ツのできそうな、濃《こ》い目の茶髪のあの男は――
「……一年B組、名前は若宮《わかみや》。バスケ部のホープで、成績《せいせき》は散々《さんざん》。補習で一緒《いっしょ》になったのがきっかけで親《した》しくなったらしいぞ」
パタン、とナゾの手帳を閉じて重々しく耳元で囁《ささや》くのは、すみれ。
「く、詳しいですね……」
「これはお姉《ねえ》ちゃん手帳だ。奴《やつ》が生まれ落ちてから今日《きょう》までの秘密がすべて、ぎっしりと……」
「売って下さい。五万、いや、七万まで出します」
あははははは! やだもー! ……と、楽しそうな笑い声に、幸太は脳内の計算機《けいさんき》を見失う。さくらはフェンスの方まで下りていき、若宮くんとやらとなにやらおしゃべりをしているのだ。入院前までの自分にしてくれていたように、眩《まばゆ》い笑顔《えがお》を振りまき、明るい笑い声を上げて。やがて「あーもう、あっつい!」とジャージを脱ぎ去り、汗に濡《ぬ》れたTシャツ姿になる。真っ白なTシャツは真夏の光を反射するみたいに輝《かがや》き、幸太の目を射《い》る。ついでに若宮の目も射たらしく、若宮は眩《まぶ》しいものでも見たように目を瞬《しばたた》かせる。さくらが湿って肌に貼《は》り付く髪をかきあげた拍子になめらかなミルククリームみたいなわき腹が覗《のぞ》き、そこを伝う汗の雫《しずく》が光り、ハッ、と幸太が目を見開くのとほほ同時、若宮もハッ、と――
「狩野《かのう》! 腹見えたぞ今!」
――指摘するのだ。余計なことを……じゃなくて、なんだろう、この気持ちは。
「え? おなか? 出てないじゃじゃん」
「そうやって下向いてたら見えないんだって。今みたいにこう腕上げると……ちょっとやってみ? 今みたいにもう一回。はい、せーの」
「……やだよ。おなか見えるんでしょ?」
「あ、わかった?」
腹の底に、じわっとなんだか嫌《いや》な感覚が広がる。なんだあれ。なにあいつ。なんだよこれ。合宿中だぞ。生徒会活動中だぞ。いいわけ? そういうの……。
「おまえも合宿してんなら、また会えるよな」
「どうだろうね? あ、ほら、さぼってるから先生怒ってるよ」
「おーっと、やっべ。じゃ、後でまたな!」
軽く手を上げ、若宮は再びグラウンドへ走り出す。見送り、さくらもこちらへ戻ってくる。幸太は目が合ってしまう寸前、思いっきりの全力で、顔をそっぽにそらして背を向ける。むしゃっと握り飯を口に押し込み、ぐいっとから揚げを食いちぎり、そうしてすみれにズイ、と詰め寄る。
「……次は、なんですか!? なにやります!? 体育祭、いきますか!?」
「口の中のから揚げが見えてるんだよバカ!」
額《ひたい》に拳骨《げんこつ》を食らい、から揚げと一緒《いっしょ》に舌を噛《か》む。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
体育館《たいいくかん》に舞台《ぶたい》を移し、北村《きたむら》を中心に庶務《しょむ》先輩《せんぱい》と幸太《こうた》の三人で「扇」のポーズ、組み体操《たいそう》写真を激写《げきしゃ》。
「たっ……体育館で、いいんですか!? これ、体育祭でしょ!?」
「おら、だらしねえ! プルプルすんな幸太! これでいいんだよ、グラウンドだと他《ほか》の部がうろちょろしてんだろうが! 笑え!」
にっ……こり。としたところで、フラッンュが閃《ひらめ》いた。
続いて誰《だれ》もいないスタートラインで、ピストルを天井《てんじょう》に向け、さくらはスタートの号令をかけるボーズ。そしてすみれと書記女史の二人《ふたり》で徒競走《ときょうそう》、ゴール際《ぎわ》の攻防、鼻の差ですみれが先行した、という設定の躍動感《やくどうかん》ゼロの写真――立ち止まって撮《と》ったせいだ。
創作ダンス写真は譲《ゆず》り合いの押し付け会い、最終的に幸太が額に長いはちまきを巻かれ、Tシャツの裾《すそ》をヘソチラの丈《たけ》で結ばれ、足が攣《つ》りそうなボーズで跳躍させられる羽目になった。先輩ズからは、昨日《きのう》まで骨折で入院していた人間とは思えない、と、あまりありがたくない賛辞をもらう。さくらはその間ずっと、なにやら小道具を作るんだ、とかで体育館の隅《すみ》、座り込んで俯《うつむ》いていた。
そんな写真を何パターンか捏造《ねつぞう》し、
「……まあ、こんなもんだな」
最後のスナップは意味なく男連中で肩を組み、ヴィクトリー! のVサインと作り笑顔《えがお》の汗|臭《くさ》いスリーショットだ。二年生二人の暑苦しい腋《わき》の下から逃れ、幸太はぐったりと床《ゆか》に体育座りになる。
「ああ、無駄《むだ》に疲れた……」
「無駄じゃねえだろ、立派な生徒会括動だ。さあ、何時だ? 五時過ぎか……そろそろメシを調達《ちょうたつ》しねえと」
髪をかきあげて時計《とけい》を見、すみれはさくらをちらりと一瞥《いちべつ》。さくらは相変わらず隅っこにしゃがみこみ、使ったピストルを箱に収めたり、また出してみたり、よくわからないことを一心不乱にやっている。……膝《ひざ》の間に挟まれたせいで、普通にしていてもふっくら豊かな二つの盛り上がりが、さらにぷくっと押し付けられてTシャツの下ではちきれそうに膨《ふく》れ上がってしまっているのだが。
「さくら! そんなとこでむちむちしてねえでこっちこい! 分担するぞ。バス停のとこの弁当屋に買い出しに行くのが二名。残りは明日《あした》の入学式と卒業式で使う桜の書き割りの制作。どうする?」
う、と幸太《こうた》は固まる。聞こえないふりで自分の足元をじっと見る。さくらの方なんか見ない。なにも思わない。なにも、別に、どうでも……すみれの指示があれば、そのとおりにしてもいいけど。それだけだ。
「……私、行ってくる」
心臓《しんぞう》が跳ねた。相変わらずの聞こえないふりで幸太はつまさきを凝視《ぎょうし》しつつ、当然その声が誰《だれ》のものだかわかっている。なぜだか祈れたあばらがズキズキと痛み出す。さっきの扇のせいだろうか、創作ダンスのせいだろうか、それとも破裂寸前の鼓動《こどう》のせいだろうか。
「誰と行くんだ? 私は行かねえぞ、大工仕事好きだもん」
「別にお姉《ねえ》ちゃんとなんか行きたくないよ、一人《ひとり》で行く。お弁当五個でしょ、それぐらい持てるし。お弁当屋さんなら、何回も行ったことあるし。お金ちょうだい」
――みんな、俺《おれ》が行けばいいと思っているんだろうか。すみれも、北村《きたむら》も、書記・庶務《しょむ》コンビも、俺が行くと言い出すのを待っているのだろうか。全身がひりつくはど自分勝手に視線《しせん》を意識《いしき》し、幸太は一人静かに身《み》悶《もだ》える。
みんながそう思っているなら、別に、そうしてもいいけど……貼《は》りつくようになった喉《のど》から声を出そうと、ひとつ咳払《せきばら》いをしたその瞬間《しゅんかん》だった。
「じゃあ行ってくる。……あれ? 若宮《わかみや》くんだ」
はっ、と顔を上げた。小走りに去っていってしまうさくらの視線の先に、体育館《たいいくかん》の脇《わき》にある部室棟から出てきたのだろう、濃《こ》い目のこげ茶頭を発見した。しかし時すでに遅し、
「よう、狩野《かのう》。また会えたな。どこ行くんだ?」
「お弁当の買出しだよ」
「へー、奇遇《きぐう》! 俺も今、先輩《せんぱい》に言われて買い出しに行くところだったんだ! 一緒《いっしょ》に行こうぜ、一人で弁当出来上がるの待ってるのやだなって思ってたんだよ」
――その後のことはよくわからない。頷《うなず》いてこちらに背を向けたさくらの言葉は、もう、幸太の耳には届かなかったのだ。ただわかるのは、二人《ふたり》はそうして連れ立って仲良く出かけていったということだけ。
どうでもいいよもう、とそっぽを向こうか。それとも、俺もやっぱり行くよ、と追いかけようか。そのどちらもできないまま、幸太は呆然《ぼうぜん》と二人の背中を見送る。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
生徒会室の冷たい床《ゆか》に座り込み、
「はあ〜……」
何百回目かもうわからないため息をつく。右手にカナヅチ、左手に釘を握《にぎ》り締《し》めたまま。
「鬱陶《うっとう》しい奴《やつ》だなあ……おら、おまえどうせまだうまく指動かねえんだろ。それはやんねえでいいから、ちゃんと押さえてろよ」
「……はあ……」
すみれはジャージ姿なのをいいことに大股《おおまた》開きで男らしく座り込み、ベニヤボードの桜の幹に、同じベニヤでできた花を釘《くぎ》で器用《きよう》に打ちつけていく。さらに塗装された枝や紙でできた桜も別の箱の中に用意してあって、緒構|面倒《めんどう》な作業になるのかもしれない。……そんなこと、今はどうでもいいのだが。
「なんちゅう顔してんだよ、ったく……」
呆《あき》れ顔《がお》で幸太《こうた》を一睨《ひとにら》み、すみれはトトトトト、と白い指で小刻みに釘を打ち込み、
「はあ〜……」
「いっ!」
どしっ、と少し違う音。息を飲むみたいな悲鳴。すみれは己《おのれ》の親指を掴《つか》んで幸太の視界の端でゴロン、と転がり、どうしたんだろう……と胡乱《うろん》な視線《しせん》を向けたそのとき、
「……わあ!?」
「ちゃんと押さえろっつってんだろうがー!」
カナヅチを振り上げ、すみれが襲《おそ》い掛かってくる。エモノを振り下ろす寸前で「……くそっ!」己の将来が大切に思えたか、上下を持ち替え、柄《え》の尻《しり》でポコン! とそれでも脳天を。
「いったあああ……」
「それは私のセリフ! 見ろこれ!」
幸太の目の前、すみれはカナヅチがかすめてわずかに血の滲《にじ》む親指をグイっと突きつける。
「うわ、痛そうな……え? 俺《おれ》のせいですか?」
「……ったく……もういい、怒鳴《どな》る気も失《う》せる無気力野郎め。北村《きたむら》! バンソーコー!」
「す、すいません………」
気まずく頭をかき、幸太はこめかみに青筋をむきむきと震《ふる》わせているすみれの横顔を見上げる。すみれは北村にグッジョブポーズで絆創膏《ばんそうこう》を巻いてもらいつつ、
「せっかくお膳立《ぜんだ》てしてやったのに、一体なんだってんだよてめえは。……さくらもだけどよ」
横目で幸太をジロリと睨《にら》む。反論《はんろん》の術《すべ》もなく、地味な釘打ち作業に戻る。俯《うつむ》いて、立てた膝《ひざ》に顎《あご》を乗せ、今の気分にはぴったりの作業だ。
「どうせまた『俺って不幸体質』とか思ってるんだろ」
「……思ってないですよ」
コツコツ、と慣れない作業を続けつつ、顔を上げずにすみれの言葉に返す。
「わかってるんです。馬鹿《ばか》なのは俺です。……これは不幸なんかじゃなく、自分が好んで招いた事態です」
低い幸太《こうた》の呟《つぶや》きに、シン、と生徒会室が静まり返ってしまう。すみれも、北村《きたむら》も、書記|庶務《しょむ》コンビまでもが、なんだか痛いものでも見るような目で幸太をじっと見つめている。
端《はた》から見ても分かるほど、自分は馬鹿《ばか》なことをやっていたのだ。改めて理解し、さらにドーンと大きく落ち込む。でも、どうしようもないのだ。
さくらと仲良くしたいのに、実際彼女を目の前にこすると、背中を向けたくなってしまう。こんなこと、前までは一切なかったのに。ただ幸せで、ただ大好きで、さくらちゃん! と心のままに彼女を呼んで、心のままに笑っていればそれだけでよかったのに。彼女の笑顔《えがお》を見ているだけで、それだけで張り裂けそうなはど幸せだったのに。
あの男となにを話しているんだろう、なんて、真っ黒な雲みたいな想《おも》いに囚《とら》われることなんかなかった。
こんなふうに鼻の奥が痛んで、意味もなくじわりと視界が滲《にじ》むようなことも――
「いっっっ……てえ!」
ガチン、と己《おのれ》が振り上げたカナヅチが己の親指をまっすぐ潰《つぶ》し、さっきのすみれと同じようにゴロンとその場に倒れて転がる。すっかり忘れていた……くっついたばかりの両手の指は、いまだリハビリの途中、いつものようには動かないのだった。
「こっ……こんの、バカ! 大丈夫か!? また折れちゃいねえだろうな!?」
「……ほ、骨は多分《たぶん》平気っていうか……おわー! 血が!」
爪《つめ》と肉の隙間《すきま》からはすみれの三倍ぐらいの血がじわじわと染み出してくる。すみれがティッシュで強く押さえてくれるが、たちまちそのティッシュにも赤い染みが広がる。唖然《あぜん》とそれをただ見詰め、なんてあほなんだろう、と己への自己|嫌悪《けんお》も同じ速歩しじわじわと胸を塞《ふさ》ぐ。
「ぼーっとしてないで、流しに行こう! 木片でも刺さってたら大変だ!」
北村が脇《わき》から抱えるようにして立ち上がらせてくれる。ほとんど引きずるようにして生徒会室から流しのある廊下へ運行してくれたおかげで、一瞬《いっしゅん》だけ滲みかけた恥ずかしい涙は誰《だれ》にも見られないですんだ。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「どうだ? 平気か?」
「……はあ。なんかもう血も止まったみたいです。たいしたケガでもないみたいで……すいません、おおげさに騒《さわ》ぎました」
「よかった、また骨でもやったかと思って肝《きも》が冷えたぞ」
搾《しぼ》り出すようにすればまだじわりと血が滲むが、もう流れ出るようなことはない。きゆっ、と水道を止める音が妙に甲高《かんだか》く、無人の廊下に響《ひび》く。
しかし幸太は生徒会室に戻る気にはなれず、そのままその場に立ち尽くす。北村はそれを咎《とが》めはせず、付き合ってくれるかのように流し台に腰を下ろす。
「……どうしちゃったんだ、幸太《こうた》。狩野《かのう》さんと全然話さないじゃないか。今日《きょう》は二人《ふたり》とも様子《ようす》が変だぞ」
あぐ、と一瞬|黙《だま》り込み、しかし、幸太は再び、なんとか顎《あご》を動かした。
「……あの。ですね……」
事態は、登校してすぐ、全裸の北村《きたむら》と向かい合ったあのときよりもさらに悪くなっている。あのとき話せなかったことが、喉《のど》の奥で塊《かたまり》のように幸太の胸を塞いでいる。
今、これを吐き出さなければ、多分《たぶん》一生この塊は喉を塞ぎ続けるだろうと思えた。目の前の北村がなにをどうしてくれると期待しているわけではなかったが、北村にしか、言えない気もした。頭を掻《か》き、顔を擦《こす》り、声を出す。
「じ……自分でも、わからないんです。なんでこうなっちゃったのか……久しぶりに会ったから、多分最初は緊張《きんちょう》、してたんですかね。見ないふりで、でも本当はずっとさくらちゃんのことばっかり考えて。ものっすごく、気にしてて。ちらちらこっそりずっと見てて。でもなんか……なんか、……なんなんですかね。こんなふうに……なっちゃいました」
北村の隣《となり》に同じように座り、幸太はがっくりと肩を落とした。廊下に射《さ》す陽《ひ》はもう落ちて、薄暗《うすぐら》い床《ゆか》には影《かげ》もない。薄く透《す》けるような藍《あい》の帳《とばり》を背負って、男二人は言葉少なくそれぞれのつまさきをじっと見つめる。
「……うまくいってたんじゃなかったのか?」
「いってたと、思います。でも、入院してずっと会えずにいて、……いい流れが一度断ち切れちゃうと、その、自分の中での気持ちの流れの作り方とか、全部忘れちゃって……水気が蒸発したみたいにただ濃《こ》くなって、カラカラにひっついちゃったっていうか……とにかく自然にできないんです。気持ちのとおりに、動けないんです。先輩《せんぱい》と違って、俺《おれ》はやっぱり気が小さいんですよ」
「俺だって同じだぞ」
眼鏡《めがね》をクイ、と中指で押し上げながら、北村は柄《がら》にもなく小さく肩をすくめてみせる。
「気持ちのとおりになんか、動けたことがない。二年にわたって、自然に振舞《ふるま》えない。よき後輩、よき片腕、よき副会長、っていう演技を常にしている気がする。いい流れって奴《やつ》も、あったような気がするけどな――今は思いだせん。見失った」
「……先輩、会長のこと、好きなんですか?」
その問いへの返事はなかった。
北村はややあって、よっこいしょういち、とジジむさく立ち上がり、
「さあ。やることはまだまだいっぱいあるぞ。指が大丈夫なら、戻って作業、続けよう」
幸太に向かって笑いかける。歩き出しっつボケットからは書き割りの完成図を示したスケッチを取り出し、あとは脇《わき》の小さい桜と、式次第の貼《は》り紙《がみ》と、などと小さく呟《つぶや》く。
これから作る式次第の貼《は》り紙《がみ》には、大きく、卒業生代表・狩野《かのう》すみれ、という文字が入るらしい。実際もそうなるのだろう。北村《きたむら》はその文字の辺《あた》りをじっと見詰め、おもむろにスケッチを畳んでポケットにしまい、言う。
「――なあ、幸太《こうた》。手が届く距離にいるうちに、やるべきことはやらないと。へたくそでも、失敗しても、恥かいても、できることは全部やらないと。離《はな》れてからじゃ、遅いんだぞ」
わかってる。
わかってるけど……でも。
何気なく窓の外へ視線《しせん》を投げると、偶然《ぐうぜん》にも校舎へと戻ってくるさくらの姿が階下に見えた。重そうなペットボトルを抱えた若宮《わかみや》と何か言い合って別れ、両手に弁当をぶら下げて歩いてくる。柔らかそうな髪を揺らし、なんだか妙に生真面目《きまじめ》な顔をして。
迎えに行く気には、なれなかった。北村の言うことはよくわかる。離れてからじゃ遅い。だけど、まだ行けない。きっとまだ――多分《たぶん》まだ、大丈夫。そっと北村の方を盗み見る。北村もさくらに気づき、それを迎えに行かない幸太にも気づき、口元には笑《え》みを浮かべたまま、小さく片眉《かたまゆ》だけを上げてみせた。それでいいのか? と問うみたいに。
不意に脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》るのは、入院中に繰《く》り返し見たあの夢だった。
幸太くん、ファイト! 笑顔《えがお》のさくらが元気一杯にジャンプして、痛みに落ち込む幸太を励ましてくれる。かすかな甘い彼女の香りまで匂《にお》う距離、嬉《うれ》しくて幸太は手を伸ばし、だけどそのたびさくらは消えた。
きっと届くと、触れられると思っていたのに、幸太の腕はぽっきり折れて、現実の夜の中ではまともに動かすことさえできていなかったのだ。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
さくらが買ってきた弁当を開く前に、なぜか全員制服に着替えさせられ、
「おら幸太、ぼーっとしてねえでこれ着ろ。これ持て。てめえらみんなちゃんと着たか!?」
はっ、と気づくと、持参したエプロンまでかぶせられて弁当を捧《ささ》げ持《も》たされ、
「はい、笑え! せーの、『へいらっしゃい!』」
「へいらっしゃい! ……じゃ、なくて……」
すみれと並んで写真を撮《と》られていた。
「な……なんですか、これ」
「いいから笑えってんだよ! 客商売だぞ! 私たちは今は生徒会じゃねえー『お弁当屋さん』だ! ヘイ、海苔《のり》弁当一丁!」
同じくエプロンに三角巾《さんかくきん》までつけ、すみれはへらっと笑って北村に弁当を渡している。その瞬間《しゅんかん》を再びシャッターが捉《とら》える。
「……もしかして、文化祭のつもりですか……?」
「そうだよ! これを見ろ!」
気がつけば幸太《こうた》とすみれの背後の壁《かべ》には、祝・文化祭、とだけ書かれたポスター……というか、紙が貼《は》り付けである。どこをどう見ても、いつもの生徒会室の風景の中に。
「……文化祭、俺《おれ》たち弁当屋なんかやるんですか……?」
「やるわけねえだろ! 全《ぜん》日《じつ》実行委員と組んで管理・監視《かんし》・警備《けいび》!」
「……なぜこんな写真を……?」
「警備してるところの写真なんて地味じゃねえかよ!」
「……夏服で、いいんですか……?」
「うるせえなてめえは、はら笑え!」
光るフラッシュから目を背《そむ》けつつ、幸太は虚《むな》しく愛想笑《あいそわら》いで弁当屋に扮《ふん》する。さくらは背を向けて黙々《もくもく》と買ってきたジュースの缶を並べ、机を拭《ふ》いている。薄《うす》い肩はなんだかいつも以上に華奢《きゃしゃ》に見え、それを眺めているだけで胸が痛むような気さえするのだが。
結局、なにも話せないままだ。なにも言えないまま、聞けないまま、幸太はどろどろと黒い感情を腹の底に溜《た》めていた。若宮《わかみや》と買い物に出ていた小一時間、どんな話をしていたのだろう。二人して自分の悪口でも言い合っていたんだったりして。……なんて、パカなことを、それでもやめられずに。さくらは絶対そんな子じゃないと思うのに。
「よっしや、文化祭終了! 冷《さ》めないうちに食うぞ! ……私、ハンバーグがいいな。どれだっけ? これか?」
「ハンバーグはこれですよ。俺はどうしよう、海苔弁《のりべん》じゃなくで、洋風のがいいけと」
「あ、俺《おれ》はこれにしよ」
「それはなに? 焼肉? 北村《きたむら》くんが持ってるのはミックスフライ? 見せて見せて、あ、そっちと換えてほしいなあ」
弁当を選《えら》ぶ先輩《せんぱい》たちの輪《わ》から外《はず》れ、なんとなく目の前にあった弁当を手元に引き寄せる。蓋《ふた》を開けると誰《だれ》かに避《さ》けられた海苔弁だった。好きでも嫌いでもない、どうでもいい。割《わ》り箸《ばし》を掴《つか》み取り、ほとんど無意識《むいしき》に先輩たちにほいほいと一膳《いちぜん》ずつ放って配り、
「……あれ?」
手の中に、二膳残る。気がつけば、さくらの姿が見えない。弁当も袋に入ったまま一つ残されている。
「よーし、それじゃあいただきまー……」
「会長、ちょっと待った! さくらちゃんがいません!」
「……えぇ? 手でも洗いにいったんじゃねえの? いただきまーす! さあ食え食え!」
いただきまーす、と唱和して弁当の蓋を取る面々を見渡し、幸太はしかし箸を置く。隣《となり》の北村と、反対隣の庶務《しょむ》先輩の蓋を再び閉めて押さえてしまい、
「が、合宿なんですよ!? 全員|揃《そろ》って食べなきゃ、なんていうかこう……生徒会の結束が保たれないじゃないですかっ!」
「……しらね」
バク、とすみれは幸太《こうた》を無視し、ハンバーグを口に放り込む。
「あーっ! 食べた!」
「私の弁当だ、私は私が食べたいときに食べたいように食べる」
「そっ、それが生徒会長の言うことですか!? 心配じゃないんですか!?」
「全然心配じゃねえもん。そのうち戻ってくるだろ。ガキじゃあるまいし、学校の外に行くとも思えねえし。ま、どうせ、……、ってことだろ」
「なに。なんですかそれ」
すみれは自分勝手に弁当をパクつきつつ、一人《ひとり》納得したみたいにうんうんと頷《うなず》く。そしてチラ、と幸太を見て、
「……鈍《にぶ》いよな。わかんねえのかよ。おまえ、ふられたんだよ」
「――え」
「弁当屋から帰る途中で、はっきりしねえおまえのことをさくらは若宮《わかみや》に相談《そうだん》してさ。さくらを気に入ってる若宮は当然、そこにつけこもうとするだろ。あとはもう……、なあ」
うんうん、わかるわかる、と書記女史が頷く。パクパクと付け合わせのポテトサラダを食べながら。庶務《しょむ》先輩《せんぱい》は妙な低い声で、
「『じゃあ、こっそり抜け出してこいよ。俺《おれ》、相談に乗ってやるからさ』……ですよねえ」
んだんだ、とすみれも頷く。北村《きたむら》も頷きつつ幸太の肩をポン、と叩《たた》き、
「……だから言っただろ。まあ、仕方ない。今夜は俺《おれ》がゆっくり話を開いてやるから……さあ、弁当の蓋《ふた》を開けさせてくれ」
「そっ……」
そんな、と声には出せずに幸太は震《ふる》え、立ち上がる。じりじりと後ずさりし、イスを倒したことにも気がつかない。
まさか、そんなことがあるわけがない。
あのさくらに限って、そんな、すぐに別の男に乗り換えるような真似《まね》をするわけがない。
いくら自分が冷たくて、意地悪で、黙《だま》りこくっていたとしでも、急に現れたスポーツマンのイケメンで明るくて楽しくて気が会ってさくらのことを気に入っている男になんて――
……あるかもしれない。
あるのかも。
頭の中が、ひどい想像に真っ白になる。それは北極圏のブリザードにも似た、真冬を超越した永久凍土の真っ白さだ。春も、夏も、秋もない、永遠の吹雪《ふぶき》の真っ白さだ。
さくらを失ったら、あの春の女神をなくしたら、幸太はもはや生きてはいけない。不幸純度百パーの、孤独な永遠の死の季節を生きるしかない。
「……」
あうあうあう、と唇を震《ふる》わせ、幸太《こうた》は声もないまま、さらにじりじりと後退する。ほとんど背中でぶつかるようにして戸口を開く。転がるように、そのまま廊下へまろび出る。
よろ、と一歩。よろよろ、ともう二歩。
間に合うだろうか――わからない。
まだこの手は届くだろうか――わからない。
でも、行かなくちゃいけない。遅すぎたパカは、身体《からだ》が燃《も》える寸前の速度で走らねばならない。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「――やーっと行ったか。ったく、あのバカが。これで、私の役目も本当に終わりかな。……ちえっ、つまんねえ」
凄《すさ》まじい勢いで遠ざかる駆け足の音を聞きながら、すみれは呆《あき》れたように笑った。そうして幸太の弁当の蓋を開け、
「心配をかけた罰だ。ちくわ天は没収しておいてやろう」
「ですね。ゴボウ天も没収です」
「海苔《のり》ご飯も少々没収だよね」
「うんうん、没収だよね。あ、結構おいしい」
「え? どれどれ……あ、ほんとだ」
「うん、海苔弁《のりべん》が一番の当たりだったかもな」
だーっはっはっは、ラッキーな奴《やつ》だ! ……先輩《せんぱい》たちの箸《はし》が、不幸な男の夕飯に伸びる。
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「さくらちゃ――――んっ!」
がむしゃらに走りながら、喉《のど》が枯《か》れるほどの声で叫んだ。
夏休み中の校舎は静まり返り、外はもう暗くなりかけているのに非常灯しか廊下を照らす明かりはない。己《おのれ》の不器用《ぶきよう》な足音だけが、ただ大きな音で反響《はんきょう》する。
「さ、さくらちゃん……ごめ――――んっっ! ごめんよ――――っっ!」
ごめん……本当に。
無我夢中で階段を駆け下り、再び廊下を猛然と走り出す。どこにいるのかまったくあてはない。学校中をこうして走り、捜して回るしかない。
バカみたいだった。それでも、そうしようと幸太《こうた》は思ったのだ。どうしてもっと早く、彼女の名前を呼べなかったのだろう。どうしてもっと早く、素直になれなかったのだろう。
緊張《きんちょう》して、意識《いしき》して、照れて、拗《す》ねて――あまりにも不器用《ぶきよう》な恋だった。煮詰まって戸惑《とまど》って、見失いかけるところだった。
たった一つ、忘れちゃいけないことがあったのに。どんなにへタクソな恋だとしても、これだけは忘れちゃいけなかった。それは、「君が好きだ」と、言葉にできなくても、顔に出せなくても、全身で叫ぶように想《おも》うこと。そっぽを向いてはいけなかった。己《おのれ》にウソをついてはいけなかった。
もう二度とあんなことはしないから。誓って、幸太はリノリウムの床《ゆか》を蹴《け》る。折れたあばらがひっぱられたように痛み、それでも立ち止まりはしない。
さくらのために、そして自分のために、心のままに走ることをもう誰《だれ》にも止められはしな
「……ああああっっっ!?」
もふもふもふっ! と膨《ふく》れた小さな塊《かたまり》の群れが、唐突《とうとつ》に幸太の足元をすり抜けていく。一体こいつらなんなのか、正体を見極めようにもあまりに周囲は暗く、
「あ、あ、あっ!」
踏みつけそうになって間一髪、幸太《こうた》はもんどり打って壁《かべ》に激突《げきとつ》。倒れたその背中の上を小さな四足がドドドド! と駆け抜けていく。
「な――なんなんだあ!?」
「ウサギだ、うちのウサギっ! 踏んでくれるなよー!」
「捕まえてくれ、オリがひっくり返ってウサギの赤ちゃんズが逃亡したー!」
「ふんが!」
起き上がろうとしたところをさらに二人《ふたり》の生徒に踏まれ、再び顔面から廊下に這《は》いつくばる。
あまりに理不尽《りふじん》に襲《おそ》い掛かった不幸に、しかしめげずに起き上がり、
「……な、なんでウサギが夏休み中に逃げるんだよ!?」
「おお、生徒会だな! 生物部十二名合宿中! 届け出てるんで今夜よろしくー! っていうか、ヒマなら一緒《いっしょ》に追いかけてくれっ!」
「だあっ!」
さらに一人《ひとり》に撥《は》ねられて、哀れ幸太は壁際に吹っ飛ぶ。このザマがヒマに見えるとは随分《ずいぶん》都合のいい視力じゃないか。生物部め、おぼえていろよ。いつか不幸にしてやる。ぐぬぬ、と壁を伝って起き上がり、
「ま――負けるもんか!」
再び走り出す。盛大によろけ、それでも前を向き、幸太の足取りに迷いはない。再び階段を駆け下り、
「さくらちゃ――――――んっっ! 返事してくれ――――――っっ! 君に、……君にっ、謝《あやま》りたいんだぁぁぁっっっ!」
全力を振り絞って叫ぶ。柱に掴《つか》まり、身体《からだ》を回転させて急ターン、廊下の直線《ちょくせん》にコンパクトに滑《すべ》り込む。暗い廊下に、しかしためらいはない。さくらを想《おも》う気持ちはまるで道しるべのように、いつだって、今だって、幸太の心を照らし出していてくれるから。
しかしそのとき、
「……っだあああぁぁー!」
全速力で回転していた両足が、つるりと滑って宙に浮く。床《ゆか》に叩《たた》きつけられる衝撃《しょうげき》を覚悟して目をつぶるが、
「ぁぁああああー!?」
みっともなく仰向《あおむ》けになった身体はボーリングの玉の如《ごと》くそのままぬめる廊下を凄《すさ》まじい勢いで滑って前進、暗がりになにやら積み上げられた壁際にストライク。ピンのかわりに跳ね上がったのは、
「っ……てええ……くさっ!?」
一休なんだというんだ。猛烈に油|臭《くさ》い液体がバシャッと頭から全身に滴《したた》り、仕上げになにかの缶がガコン、と脳天を直撃《ちょくげき》する。
「きゃー! ご、ごめんなさーい!」
照明がつき、エプロン姿の女子が顔を真《ま》っ青《さお》にして教室から飛び出してくる。己《おのれ》の姿を見下ろしてみれば、なんなんだ本当に。ぬるつく顔、それを触った手、そして制服、全身すべてが鮮《あざ》やかな青と黄色でドロドロになっている。
「廊下にオイル零《こぼ》しちゃってえ、拭こうと思って雑巾《ぞうきん》取りに行ったらすごい音がしてえ〜!」
見れば座り込んだ幸太《こうた》のすぐ脇《わき》にはイーゼルと、校舎の外の夜景を描いていたらしい油彩画《ゆさいが》が。
「かっ……片付けなよ!? 席を立つときにはさあ!」
「あ! 生徒会の人! おとといから美術部九人、展覧会《てんらんかい》に向けて合宿中でーす!」
「知らないよもう! くそっ、不幸になれ!」
ドーン! と罪のない女子を指差し、ひどーい! と叫ばれつつ、幸太はそれでも立ち上がる。全身油と油彩絵の具でヌラヌラのぎとぎと、それでもなんでも走り続けないわけにはいかない。
さくらに会うまで、立ち止まらない。
手を伸ばし、触れるまで、走るのをやめない。
もう見失わない。そう決めたのだ。油臭い髪をかきあげ、気合を入れ直す。一気に駆け出す。うさぎがなんだ。油彩がなんだ。こんなもの、不幸のうちには入らない。本当の不幸は、さくらを失うこと。さくらさえいてくれるなら、自分はハッピーでいられたではないか。
ハッピーエンドのために突っ走る今が、不幸なわけがないのだ。
「さ、く、ら、ちゃ――――んっっっ!」
長い廊下をひた走る。転んだときに痛めた関節がポキポキ情けなく鳴るけれど、構わずに幸太は走り続ける。
今にもあの気に食わないバスケ男が、さくらに触手……いや、食指を伸ばしている気がした。奴《やつ》は女好きそうなツラをしていたではないか。軽薄《けいはく》そうで、アホそうで、適当そうで、
「……今、『さくらちゃーん』って声、聞こえたか?」
「うん、確《たし》かに聞こえたなあ」
そう、目の前から歩いてくるあいつみたいな……
「あーっ!」
「えっ!? ……お、俺《おれ》!? 俺、違うよ! 俺、若宮京太郎《わかみやきょうたろう》だよ!」
バスケ男が目の前から接近してきていたのだ。他《ほか》の部員たちと一緒《いっしょ》に、重たそうなボールケースをえっちらおっちら運んでいる。幸太はがむしゃらに突っかかり、
「おいおまえー! さくらちゃんと今まで一緒にいたのか!?」
「そ、その格好、どうしたんだ!?」
「答えろよ!」
「さくらちゃんって……か、狩野《かのう》のこと? いや、俺《おれ》たち今まで練習で――あ! 生徒会の奴《やつ》じゃん! 俺たちバスケ部、あさってまで合宿中だからよろしくなー!」
「やだ! よろしくなんかしない! 届けなんか握《にぎ》り潰《つぶ》してやる!」
「えっ!? なんでそんなことすんだよ!? ひっでえなあ!」
「だっておまえ、さくらちゃんに近づくんだもん! やめてくれよ! 近づくな! おっ……俺、さくらちゃんのこと、大好きなんだからっ!」
おお……とバスケ部の中からどよめきが起きる。ぱらぱらと小さな拍手も。しかし恥ずかしくなんかない。引いたりしない。絶対に、負けない。
「……ふうーん?」
バスケ男こと若宮京大郎《わかみやきょうたろう》の目がワケをわかって幸太《こうた》を睨《にら》み返す。幸太だって、さらに睨みつける。負けるものか、こちとら伝説の親分・狩野すみれの直属の部下なんだ。あの手乗りタイガーとタイマン張ったことだって二度もあるのだ。猛獣《もうじゅう》女に比べたら、バスケ男なぞ取るに足らない小物だ。
「そういうことなら……俺だって狩野は気に入ってんだ! 負けねえぞ!」
「うわあ!?」
バスケ男は小物ではあったが、卑怯者《ひきょうもの》でもあった。手にしていたボールケースを、力いっぱい幸太に向けてぶちまける。ボールの奔流《ほんりゅう》に押し流されて幸太はこけ、弾んだやつの顔面|直撃《ちょくげき》を受け、
「あっ、あっ、あああああ――――つ!」
「うっひょーいけいけっ! ざまみろっ!」
幾十ものボールとともにゴロゴロ転がり、そのまま階段から雪崩《なだれ》のように落ちていく。もんどり打ちつつ、転落しつつ、しかし幸太もこんなことで黙《だま》りはしない。
「こっ、この後始末はおまえがするんだからなぁぁぁ――――っっ!」
弾みながら幸太ごとどんどん転がりゆくボールを見つつ、「そうだぞバカ宮」「俺たちしらねえからな」とバスケ部員からも声があがる。「う……」とバカ宮京太郎は黙る。
階下まで転がり落ち続け、幸太はそのまま後転、すたっと見事に立ち上がる。奇跡的に無傷、多少痛むところはあるが……断固、無傷! 伊達《だて》に生みの親から「しぶとい子」呼ばわりされてはいないのだ。
奴と一緒《いっしょ》にいなかったのなら、さくらは一体どこにいるのだろう。再びしぶとくがめつく走り出し、幸太は必死に辺《あた》りに目を配る。空《あ》き教室、女子トイレ、階段の陰、渡り廊下。すぅっ、と肺一杯に息を吸う、
「さ、く、ら、ちゃ――――んっ!」
愛と一緒に、全部吐き出す。何度でも名前を呼ぶ。さくらが見つかるまで、再び会えるまで、とんなトラブルに遭遇《そうぐう》しても、しぶとくしぶとく走り続ける。
そして、幸太《こうた》は見つけた。
一階の廊下の窓の外。
グラウンドの投光機《とうこうき》の光に照らされた、夜のプール。
飛び込み台の一つに腰をかけ、小さく肩をすぼめている。
窓を開けた。折れた右手首をポキポキ鳴らしつつ、よじ登って窓を乗り越えた。植え込みをシャンプで飛び越え、乾いたプールサイドを走り、
「さくらちゃんっ!」
「えっ!? うぎゃぁぁぁ――――っっ!」
背後から声をかけた。振り向いたさくらはほとんど白目をむいて絶叫し、
「わ、わ、わあっ!」
バランスを崩して幸太に手を伸ばす。その白い手を、幸太はしっかり掴《つか》む。自分の方に引き寄せ、プールサイドに転がる。二人《ふたり》は折り重なって倒れ込み、しかしプールに落ちることは免《まぬが》れ、
「よ……よかった……っ! ずっと捜してたんだよ、さくらちゃんのこと!」
「こ、幸太く……ぎゃあああああああっっっっ!」
顔を上げたさくらは幸太のなりをしっかり見て、再び絶叫した。
「どうしたのそれどうしたのそれどうしたのそれ!? 全身|緑色《みどりいろ》だよ!?」
「いいんだ、緑でいいんだっ! 俺《おれ》のことはいいんだあ! いいから――ご……っ」
言葉に詰まりかけ、俯《うつむ》いたのは一瞬《いっしゅん》。くっと強く下唇を噛《か》んで顔を上げ、あまりに眩《まばゆ》くて目を逸《そ》らしたくなる、絵の具の千倍も鮮《あざ》やかな色彩で輝《かがや》く女の子とまっすぐに目を合わせた。夜の闇《やみ》に翳《かげ》る肌、放射される光を映してゆらゆら揺れるみたいな瞳《ひとみ》。熱《ねつ》を発散しているみたいに、すこし開いた柔らかそうな唇。
そのすべてが怖くて怖くて仕方ないけど、
「……ごめん! 本当に……今日《きょう》は、俺、ずっと変な態度でごめん!」
怖いのは――大好きだから。普通を超えて、超好き、だから。そうなってしまったから。だからなんだと伝えるために、情けなく怯《おび》える顔ごとさくらに見せた。
「どうしていいか……わからなくなって!」
右手に力が入り、しゅっと前方に尖《とが》る。
「さくらちゃんのことが、好きで!」
左手にも力が入り、ぴゅっと横方にねじれる。
「好きなのに、一度話せないと、次も話せなくって!」
首にも力が入り、がくっと天を仰《あお》ぐ。
「意識《いしき》しすぎて! 緊張《きんちょう》しすぎて! 痛くて、苦しくて、なにもかも恥ずかしくって……それで! 好きで、好きで、好きでっ!」
もはや身体《からだ》はがちがちで、多分《たぶん》目だって開いていない。叫んでいるのか泣いているのか、涙か汗か鼻水か、とにかく幸太はグッと前へ出た。声を嗄《か》らして顎《あご》から前へ、さくらの方へ。
「息がもう……できない……っ!」
それが幸太の最期の……いや、最後の言葉だった。喉《のど》も体力も精神力も、もう限界。ほとんと断末魔《だんまつま》の告白を残し、グラリと卒倒しかけて傾く。それを救ったのは、
「ち……違うんだよーっ!」
ほとんど泣き声のさくらだった。さくらの強張《こわば》った左手がとぴゅっと前方へ伸びて幸太の右手を掴《つか》む。
「遠うんだよお、幸太くんっ! 謝《あやま》るのは私なんだあっ!」
震《ふる》える右手がしゅるっとねじれ、幸太の左手を掴む。そうして両手を掴まえ、ガクガクと揺すり、
「つまらない、嫉妬《しっと》なのっ! なんでお姉《ねえ》ちゃんとばっかり喋《しゃべ》るんだあ!? って、最初はそれでっ! お姉ちゃんと幸太くんのお母《かあ》さんばっかり仲良くて、彼女みたいじゃんかあ!? って、次がそれでっ!」
ひいひいと喉《のど》を鳴らし、さくらはズズイ、とつんのめる。さくらの額《ひたい》が幸太の顎にヒットし、
「いっ!」
「……たあ!」
ガツン、という音の後、二人《ふたり》は同時に後ろに転がる。先に飛び起きたのはさくらで、
「幸太くんっ……ごめんよ〜っ!」
「ふぐぁ!」
続いて跳ね起きようとした幸太の胴体にタックルを決めた。幾多の苦難《くなん》を乗り越えた肋骨《ろっこつ》にとどめの一撃《いちげき》を与えるべく全力で抱きしめ、体重をかけてそのまま押し倒す。柔らかな身体《からだ》の捨て身のプッシング、甘い花みたいなシャンプーの香りごと鼻に押し付けられて、
「さ、さくらちゃ……ああんっ!」
痛みとぬくもりの恍惚《こうこつ》の感触に、幸太は全力で身《み》悶《もだ》える。
「うふーん!」
これは、絵の具|塗《まみ》れの男の胸に口を押し付けての、くぐもった泣き声。
「ど、どうして普通にできないんだろ、って……私、悲しくてぇぇっ! 好きなのlこ……好きになればなるほど、私……素直に、なれなくなってぇぇ! 嫌《いや》な子に、なっていって……やだよ、やだよこんなの、ってぇぇ!」
「俺《おれ》だって好きなのに、やだよお! あはぁん!」
「私だって好きなの! やだあー! ふう〜ん!」
ひとしきり騒《さわ》がしく主張し、不意に二人は黙《だま》り込む。同じことが、多分《たぶん》同時に二人の脳裏《のうり》をよぎる。
好きなのに苦しいのは、好きな気持ちを自由に放ち切れないから。
力ずくで抑えたから。
精一杯の全力で、出したい限りを出し切れば、きっとこんなにも苦しくない。
だったら……それなら。
「……幸太《こうた》くん。あのさ。あの、よかったら、だけどさ……」
涙と絵の具に塗《まみ》れた顔を上げ、さくらは瞳《ひとみ》をきらきらと輝《かがや》かせた。その唇が続きを語る前に、幸太はあせりのあまり独自の高速言語を発していた。
「つって、」
「……つ? 吊《つ》って?」
「違う! それはおいといて!」
自分が、言いたかったのだ。これまでずっと、ピンチのたびに幸太を救ってくれたのはさくらだった。いつだってさくらばかりが、幸太のためにその手を差し伸べてくれていた。
だからこれぐらいは。
終わりぐらいは――いや、始まりぐらいは、なんとしても自分が。
「俺《おれ》と、ちゃんと、付き合ってください」
腹筋の要領でさくらの体重ごと頭を持ち上げ、ぷるぷる震《ふる》えながらも、まっすぐにさくらの目を見て言った。
「狩野《かのう》さくらさん。俺は、君が、好きです。……彼女になって、いつもそばに、いてください」
「こ……」
「……どんな不幸が、君を巻き込むかわからないけど……ああっ! もしそうなったら、ごめんね、ごめんね! 頼《たの》む、保険に入ってくれさくらちゃん!」
「……ば……」
ぽろり、と、宝石みたいな涙の粒が、見開かれたさくらの瞳《ひとみ》の縁《ふち》から零《こぼ》れ落ちた。笑《え》みにふくらむ頬《ほお》を伝い、星屑《ほしくず》みたいに光って消えた。
「……ばかだね、もう……っ……なんでわかんないかな?」
春の風に吹かれ、色づいて花開く瞬間《しゅんかん》の桜みたいに、さくらの頬がふんわりとしたピンクに染まる。誰《だれ》よりもハッピーな、女の子の表情になる。
「私は、富家《とみいえ》幸太が、誰よりも好きです。……幸太《こうた》くんと一緒《いっしょ》にいられるなら、いつだって、最高に幸せでいられるんだ。いつだって、どんなときだって……幸太くんが、私の、幸せそのものなんだよ」
彼女にしてよ、早く――星空の下で声をくぐもらせるさくらを抱きしめて、幸太はひとつ訊《たず》ねようとし、やっぱりやめた。訊かなくてももういいんだ、と思った。
どうして自分なんかを好きになってくれたのか、もはやそんな問いに意味はない。
わかったのだ。はっきりと。
ずっと自分の人生には、避《さ》けようもない不幸がそれこそ雨あられと降り注いでいた。不幸体質などと自称し、運がなかった、と諦《あきら》めてもいた。だが、言うではないか。人の幸せと不幸は、いつだって同じ量になるのだと。
そうとも限らない、それが自分だ、と思っていた。でも、やっぱりそんなことはなかったのだ。
見てくれ、世界中のみんな。やっぱり人間の幸せと不幸は均衡《きんこう》する。幸太《こうた》の人生には、さくらという一人《ひとり》の女の子との出会いが運命付けられていた。だから――それがあまりにハッピーな出来事すぎたから、幸太の人生にはそれ相応の不幸が待ち受けていたわけだ。
きっとこれからも、幾多の苦難《くなん》が自分を襲《おそ》うだろう。なにしろさくらはこんなにも素晴《すば》らしい、ハッピーの女王とも呼ぶべき女の子なのだから。
だけどその苦難がさくらとともにあることと引き換えならば、幸太は笑ってその身に受け止めようと思う。どんな痛みもどんな不運も、さくらが傍《かたわ》らにある証《あかし》ならば、それらはたちまちハート型をした恋の切片に形を変えるだろう。
舞《ま》え。
降り注げ。
春の嵐《あらし》に翻弄《ほんろう》されて、なによりハッピーなトルネードとなって、ピンク色でハート型の花びらは幸太とともにいつまでも天高く舞い上がり続ける。女王の魔法《まほう》でクルクルと、どこまでもいつまでも、永遠の季節を踊って浮かれるお調子者《ちょうしもの》になる。
「大好きだよ」
「大好きだよ」
ぴったり同じ言葉を言って、そうして、わかったことはもうひとつ。
好きな相手と接近すれば、もっともっと近づきたくなる。近づいて触れ合えば、もっともっと強く惹《ひ》かれ合う。惹かれ合って全力で抱《だ》き締《し》めていれば、自然と人の形というのは、唇と唇でくっつくようになっているのだ。
乗り越えねばならない特別なミッションなんかではなく、人という動物に生まれて、恋を知ったならそれは当然に――大切に慈《いつく》しみ合うために、手と指よりも柔らかな部分で、触れ合うものなのだ。
ちゅ、と子供っぽい音を立てて二人《ふたり》は離《はな》れ、もう一度。起きたことを確《たし》かめたいみたいに、今度は柔らかさも理解してみる。触れたところから溶けるような感触と、うっすらと甘いような味も知る。
そして、幸太は本格的に怖くなる。腕の中の生き物の柔らかさと、かぼそさと、力を込めればどうにでもできる弱さを知って、壊《こわ》すよりは大切にしたくなる。ゆっくりと腕から力を抜き、やっぱり高一なんてまだ子供だ、と濡《ぬ》れた唇を舐《な》め、
「……うふん……」
「……あはん……」
少し距離《きょり》をとり、照れて笑って、手をつなぐ。想《おも》いのままに触れ合い、指を絡め合い、好きだよ、と呼吸ひとつにも心を込める。まばたきひとつでも、恋を語る。
「……帰ろうか。きっと会長たち、心配してるよ」
「ふふ……おなか、すいたもんね」
そうして立ち上がろうとしたそのとき、二人《ふたり》の耳にちょっと……いや、だいぶ嫌《いや》な笑い声が飛び込んだ。
「だぁーっはっはっはっはっはぁ! いたいたいたいたいたーっ! ぬあーっはっはっはっはっはあ!」
――バカな。
恐る恐る振り返り、幸太《こうた》はほとんど卒倒しかけて天を仰《あお》ぐ。なんで、なんでこんなときにあんな人が、あんなナリでやってくる。
「ごめんな幸太、ごめんな……っていうかおまえ、なんで緑なんだ? 狩野《かのう》さんも」
「夜のプールってなんか怖いなあ」
「あれ? なにしてたの二人とも」
現れたのは、もちろんすみれ以下生徒会の面々。なぜだか準備万端、全員水着姿でプールサイドに勢ぞろいだ。
「なっ……なん、なん、ですかあ……!?」
「んなーっはっはっはっはっはー!」
「うっ……酒臭《さけくさ》い……酒!? 嘘《うそ》でしょ!?」
意味不明の爆笑《ばくしょう》を続けているすみれはなんと酒臭い息を吐きつつ、図々《ずうずう》しく幸太《こうた》とさくらの間に割って入る。細身に黒の競泳《きょうえい》水着姿は、ほとんど高校生|離《ばな》れしている魅惑《みわく》のボディラインをさらけ出してはいたが、
「あはっ! うはっ! なあ〜、おまえらあ、なにしてんだあ〜!? うへへへへへへ!」
「お、お姉《ねえ》ちゃん……股! 股!」
妹も目を逸《そ》らす大股開き、すみれはふにゃふにゃとさくらにしなだれかかり、ごろにゃん、と幸せそうに目を閉じる。
「どうしちゃったんですか!? ちょっと北村先輩《きたむらせんぱい》、いくらなんでも校内で飲酒はまずいでしょ!?」
「そうですよお! あーんお姉ちゃんが壊《こわ》れた!」
しかし北村はびっと締《し》まった裸体を鏡泳用パンツに収めて真面目《まじめ》ヅラ、
「これって、狩野《かのう》さんのせいなんだよ」
と、さくらを指弾《しだん》するのだ。
「ジュース買ってきた、って言って狩野さんが置いた缶をな、会長はグビグビっと一気飲みしたんだ。そうしたら、あのように。そして『水泳大会の写真撮るぞー!』と言って脱ぎ出して、俺《おれ》たちの服も脱がせ出して、抗《あらが》えずにこのように」
そう言う北村の眼鏡《めがね》は、よく見るとツルが曲がって斜めになってしまっていた。その視線《しせん》の先で、んにゃははははは〜! とすみれは水着姿で転がり、妹の股間《こかん》に頭を突っ込んで大喜びしている。
「う、うそ!? もしかしてお酒、でした!?」
「そうだよ。缶チューハイ。……気づかなかったの?」
さくらと幸太は顔を見合わせ、続いて正体を失《な》くしたすみれを見下ろす。しかし、いくらなんでも缶チューハイ一本でこんなにならなくてもよかろうに最強の超人類・狩野すみれのヘビに次ぐ弱点を見つけてしまったかもしれない。
「ふへへ……写真しゃし〜ん……しゃしんろれ〜! きたむらあ、はやくろれ〜っ!」
きゃっきゃと笑いつつ、すみれは写してはまずいレベルの大開脚スタイルで足指ピースを決めてみせる。紳士の北村ははっ、と顔を背《そむ》け、幸太はいっそ撮《と》って歴史に残してやろうかい、としみじみ生徒会長の股間《こかん》を眺める。
「しょうがないなあ……じゃあ、とりあえず俺たちでお茶を濁《にご》すか」
「そうねえ」
書記女史と庶務《しょむ》先輩《せんぱい》はそろりと水の中に滑《すべ》り込み、
「……おお……結構、これって楽しいかも」
「水面が暗くて、不思議《ふしぎ》な感覚」
「え、ほんとに?」
北村《きたむら》も後に続く。そして二年生トリオで「せーの」と水に潜《もぐ》り、
「……っぷはー! あはは、潜ると中は結構明るいんだなあ!」
「うんうん!」
トリオが笑いあったところで、幸太《こうた》はカメラを構え、シャッターを切る。
「あ! ちょっとちょっと、ポーズつけさせてよ!」
「いやあ、自然な感じが楽しげでいいかなあと」
「いや、俺《おれ》たちのポテンシャルはこんなもんじゃないぞ。作戦|会議《かいぎ》!」
ヒソヒソと顔をつき合わせてトリオは何事か相談《そうだん》、やがて、それでいこいこ、と等間隔《とうかんかく》に横並び、
「幸太、しっかり撮《と》れよ! 我《われ》ら二年生トリオの本気を見せてやる! いくぞ、書記に庶務《しょむ》!」
「おう!」
「せーの!」
一斉に潜り、数秒の沈黙《ちんもく》。幸太はカメラを構えて思わずゴクリと息を飲み、
「……つ!」
ざばあ! と水|飛沫《しぶき》があがった瞬間《しゅんかん》、吹き出してしまう。吹き出しつつも、必死に瞬間の奇跡を写真に納める。
男|二人《ふたり》の肩に乗り、シンクロよろしく、書記女史が地味なお下げをブン回して水面からロケットのように飛び出したのだ。もちろん一瞬でバランスを崩して全員がそのまま水没したのだが、
「……っぷはあ! 撮れた!? 富家《とみいえ》くん!」
「撮れたか、俺たちの捨て身のトライアングル!」
「……と、撮れましたぁ! あははははははは!」
なぜ笑う……と二年生たちは不満げだが、だっておかしくて仕方ないのだ。普段《ふだん》は堅苦しくて生真面目《きまじめ》で、突っ込む隙《すき》さえ与えてくれない先輩《せんぱい》たちが、今日はこんなにバカになっている。
「よおーし! 北村、第二弾いこう!」
「おう、いこういこう。次はもっとこうダンサブルに」
「私、逆立《さかだ》ちしようかな!?」
真顔で再び相談を始めるところも、一枚。なんだか笑えて手がブレるけど、これもぜひとも残しておきたい。
「おい! わたひたちも、ろれ!」
「おっと!?」
グイっと腕を引っ張られ、ファインダーには狩野《かのう》兄妹がすっぽりと納まる――片方は、幸太《こうた》のなによりも大切な彼女だ。……間違っても、兄の方ではない。
「ご、ごめえん……もーお姉《ねえ》ちゃんったら……」
「いいよいいよ、さくらちゃん笑って!」
「私は笑わんでもいいのかあ?」
「会長はどっちでもいいや。わあ! かわいいなさくらちゃん! そうそう、そのポーズ! あ、会長もうちょっとはじっこにいってください」
へらへら笑いながらさくらにピントを合わせたその瞬間《しゅんかん》、
「……てえーい!」
「あぁぁっ!?」
すみれは一回り小柄《こがら》な、制服姿の妹を抱え、そのまま夜のプールにダイブを決めた。さすがに幸太も飛び上がり、
「さ、さくらちゃん!? 大丈夫!?」
ごぼごぼと泡が立ち上り、
「……うっひゃっひゃっひゃっひゃあ! さあろれろれれぇ〜っ!」
「げほっ! ぎゃ、ぎゃああお姉ちゃんのばばばばばかぁぁーっ!」
幸太はカメラを取り落としかける。すみれは撮《と》れ、と叫びつつ、濡《ぬ》れた制服姿の妹の背後からその両腕を高々と吊《つ》り上げていたのだ。夜とはいえ、濡れたシャツにピンクのブラがくっきりと透《す》け、ふっくら膨《ふく》らむ胸の形もくっきりとリアルに透け、スカートはひらひらと水の中で泳ぎ、
「かっ……会長は、本当に、ばかだ――――――っっ!」
全力で叫んだ。せめて……せめてもう一瞬長くそのボーズを保っていてくれたら一枚くらい……違う!
「あらあらあら!」
半ベソでプールサイドにたどりついたさくらを、書記女史がバスタオルで包んでやる。だけど幸太はもちろん見逃さなかった。めくれあがったスカートから一瞬だけ、ピンクの布に包まれた丸みを帯びた部分が見えた。
この興奮《こうふん》を、どう表現したらいい。この喜びと、このバカ騒《さわ》ぎのおかしさと、このハッピーを――こうか!?
「ええいっ さくらちゃん、カメラは任せた! 俺《おれ》はやる!」
「こ、幸太くん!? なにする気!?」
靴だけは脱いで、飛び込み台に上がる。ビシッと両手を挙げ、叫んだ一言は「退院記念!」、透《す》けろ我《わ》が乳首!
「着衣、水泳ーっ!」
思いっきり、跨み切った。夜の宙を驚《おどろ》くほど高く飛び上がり、そのまま顔面から暗い水面へ。一度沈み、ゆっくり浮上し、
「撮《と》って撮って! うわっ、し、沈むっ!」
ゲラゲラと指差して笑うすみれの目の前、幸太《こうた》は水を吸ってからみつくシャツに動きを制限されつつもなんとか抜き手を切って泳ぐ。泳ぎは実は得意なのだ。いつ水難《すいなん》に遭《あ》ってもいいように、親にずっとスイミングに通わされていたから。
「おお! かっこいいよ幸太くん!」
「ほんと!?」
「最高だよ、撮るよ撮るよ、撮ってるよ!」
濡《ぬ》れねずみのさくらはバスタオルを風呂《ふろ》上がりのように身体《からだ》に巻きつけ、シャッターを切ってくれる。
「じゃあ……私、プールに潜《ひそ》む地縛霊《ぢばくれい》な」
「ふごごご……っ」
すみれに足を掴《つか》まれ、沈みゆく耳にはさくらの悲鳴と、大平楽《たいへいらく》な先輩《せんぱい》たちの笑い声が。助けろ、と思わなくもなかった。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
ひとしきり大騒《おおさわ》ぎした後。
幸太は水に濡れたシャツを脱いで絞り、緑の水がほとばしるのに改めて「うお!」と飛《と》び退《すさ》る。こんなに緑だったとは……絵の具は黄色と青だったのに。二年生トリオは広いプールを好き好きに泳いで横断し、すみれはまだ酔いが醒《さ》めないのか、それでも器用《きよう》に背中でぷかぷかと浮いている。
「……私たちも、水着になりたかったね」
「せっかく持ってきたのに」
バスタオルを巻きつけたままのさくらとプールサイドに並んで座り、目を見交わした。照れはする。でも、もう、怯《おび》えはしない。
「さくらちゃん、今度プール行こうよ」
「……うん!」
見られないようにそっと重ねた指先で、約束に恋の熱《ねつ》を帯びさせて。
「――そうだ」
ぷかぷか浮いたままで、すみれが不意に声を上げた。いつもよりも舌足らずなせいで、声は妙にあどけなく響《ひび》く。
「忘れるところだった……てめーら、考えたか? アルバムに書く、「『将来の夢』」
「ああ、そういえば去年のには書いてありましたね。あれって例年のお約束なんですか?」
「そーだよ。てめえは? 幸太《こうた》」
「え? お、俺《おれ》は……」
急に指名され、幸太は思わず首をひねる。弁護士《べんごし》だとか、警察官《けいさつかん》だとか、いろいろ考えはするが、
「……うーん、まだ文系か理系かも決まってないし……一応、生きていられれば丸儲《まるもう》けって感じです……」
「ふむ。『生きていたい』か……切実だなあ……」
「しょうがないでしょ」
「ま、幸太らしいよ。……さくらは?」
姉の声に、さくらはプールに浸した素足をバシャッとおてんばに跳ねさせる。そして、
「私、プロのシェフになる」
堂々とした声で、はっきりと言った。そして幸太と指先を重ねたまま、水面をキックして飛沫《しぶき》をきらきらと光らせる。
「……褒《ほ》めてくれた人が、いるんだ。私、初めて、自分に自信持てたんだ。だからその夢を……大事にする」
「……そか」
生徒会長というよりは、姉の微笑を声に滲《にじ》ませ、すみれはスイ、と背泳ぎでひとかき。水面をゆっくりと滑《すべ》り、夜空を見ながら目を閉じる。幸太は胸に沁《し》みる熱《ねつ》を抱えたまま、さくらの夢をできれば一生、一緒《いっしょ》に大事にしていこうと思う。
「書記と庶務《しょむ》。てめえらはどうだ?」
「……俺は、決めました。うちは病院なんで、跡を継いで医者になります。産婦人科です」
「おお。いい夢だ。それじゃーそのうち、我《わ》が子《こ》を頼《たの》む。書記は?」
「……私は……そうですね。なんとなくですけど、今のところ、実はミュージシャンに、なりたいな、と。趣味《しゅみ》で、その、やってるんです。バンドを」
「へえ? 初耳だぞ?」
「今年《ことし》やっと稼動《かどう》したところで……ボ一カルなんです。……恥ずかしいですけど」
「綺麗《きれい》な声、してるもんな。いいな、がんばれよ。……てめえはどうだ、北村《きたむら》。考古学者か?」
少し離《はな》れたところからそれとなくずっとすみれを見ていた北村は、壁《かべ》を蹴《け》ってほんの少しだけ、すみれの浮いている中央付近へ。
「はい。インディ・ジョーンズになろうかと」
「へっへっへ……うけるよな、それ」
「……な、なんででしょう? 会長は……相変わらず未定ですか?」
「未定じゃねえって。運命のままに、って書いたんだぞ、去年は。……で、運命は決まった。動き出した」
「え?」
北村《きたむら》の声が、妙に静まり返った夜のプールに響《ひび》く。
星空の下を優雅《ゆうが》に泳ぎ、すみれは双眸《そうぼう》を瞬《しばたた》かせ、つま先をすいっと天へ差し向ける。そして一言――
「frontier」
と。継がれた言垂は、酔っているにしても確《たし》かな声で、すみれはすでに揺《ゆる》ぎない未来を運命と呼んで、必ず来る明日《あす》に見据えたのだと誰《だれ》もが理解した。
「……私、行くんだ。宇宙に。誰も見たことのない、誰も行ったことのない、『限界』に。この私が、飛んでやる。超えてやる」
幸太《こうた》の身体《からだ》に、電流にも似た衝撃《しょうげき》が走る。
この人はやるだろう。そう思えた。誰にもできないことを、この変な、だけど誰より賢《かしこ》い人はきっとやる。このしなやかな身体で、この人なら、どこへでも飛べる。
「私にならそれができるって、認めてもらえたらしいよ。だから……卒業したらすぐ、私は一歩を踏み出せる」
「……留学、ですか?」
「そうだよ。それが宇宙への、第一歩」
さくらは知っていたのだろう、ただ嬉《うれ》しげに目を細め、自慢の姉を見つめ続けていた。幸太にとっても自慢の先輩《せんぱい》だ。新世界の開拓者と一緒《いっしょ》に過ごすこの一年が、ずっと未来まで、大人《おとな》になったその後まで、幸太の心を強く支え続けるに違いないと思った。
そしてきっと北村も誇らしく、嬉しく――
「せ……先輩?」
――嬉しく思っているのだろう、という幸太の予想を裏切って、北村はぶくぶくと暗い水底に沈んでいく。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「…眠れないんですか?」
すでに日付も変わった、生徒会室。カビ臭い布団《ふとん》を敷《し》き詰《つ》めた『男|部屋《べや》』には、幸太と庶務《しょむ》先輩、そして北村が枕《まくら》を並べていたのだが。
「おまえこそ」
北村は闇夜《やみよ》の中に身を起こし、壁《かべ》に背をもたせ、窓の外のいまだ暗い空を見つめていたようだった。眼鏡《めがね》を外《はず》した横顔はなんだか水気を帯びて見えて、幸太も思わず身を起こす。
「……なんだよ。寝てればいいのに。俺《おれ》に付き合って起きてなくてもいいんだぞ」
「いや……どうせ寝付けなくて俺《おれ》も起きてたんです」
「……いいことが、あったんだろ? 顔見ればわかる」
へへへ、と幸太《こうた》はだらしなく顔を緩《ゆる》ませ、布団《ふとん》の端を照れて噛《か》んだ。そう、いっそ三日ぐらい眠れなくてもいいや、と思えるぐらいの興奮《こうふん》状態なのだ。だが、
「……大丈夫ですか? なんか……」
北村《きたむら》の様子《ようす》を見ているうちに、お気楽な笑いもなんだか腹の底に掻《か》き消《き》えてしまった。元気がない、と言おうか。落ち込んでいるようだと言おうか。
目元を擦《こす》る北村はまるで泣いているみたいに見えた――とか言ったら、叱《しか》られるだろうか。
「……あはは」
力ない声が、闇《やみ》を震《ふる》わせる。北村はため息をつき、すこしためらいを置き、そして、
「もう、届かないよなあ――字宙まで行かれたら」
「……そ、んなこと……ない、でしょ」
庶務《しょむ》先輩《せんぱい》を起こさないよう、静かに幸太は北村ににじり寄る。
「先輩なら、ついていけるでしょ。俺、そう思います」
北村は無言のままで肩をすくめてみせる。幸太は本気でそう思うのに。
「……そんなふうにしてついてくるような男は、きっとあの人のお荷物にしかならない。……そんな余計なモンは、あの人は、いらないだろうな。絶対に」
「先輩……」
意味なく両手を握り、広げ、繰《く》り返し、北村はじっと俯《うつむ》いたままでいる。そして、一言。
「……だめだな。終わった」
幸太はブルブルと首を振った。強く、首ももげよとばかり。そんなわけはない。すみれが、北村を必要としていないわけなんてない。
なぜだかわからないけど、でもそう思うのだ。
誰《だれ》より近くで二人《ふたり》を見てきて、幸太はそう思うのだ。
「……俺、応援します。絶対、応援します。だからそんなこと……言わないでください」
「はは……おまえの応援って、なんか……すごそうだよな」
「冗談《じょうだん》じゃないですってば」
そのとき不意に、眠っているとばかり思っていた庶務先輩の身体《からだ》の山がもぞりと動く。起こしてしまったか、と幸太は慌てて口を塞《ふさ》ぐが、
「……今塞いだって遅いだろうがよ。起きてたよ、もっと前から」
もそもそと彼は芋虫《いもむし》のように動き、部屋《へや》の隅《すみ》のクーラーバッグを開く。中から三本缶を取り出し、北村に一本、幸太に一本、そして自分に一本。
「あ。庶務先輩、これって……」
「だーかーら、俺の名前は――まあ、いいか。野暮《やぼ》なことは」
すこしぬるまった缶は、さくらが聞違えて買ってきたチューハイだ。少し迷うが、北村《きたむら》は苦笑してその缶を手の中に収めた。それを見て幸太《こうた》も心を決め、缶をしっかりと握る。
「……細かいことはいいやな。でも、それぞれに、違法行為に走るだけの理由が今夜はありそうだ。ってことで、うん」
こほん、ともったいぶって庶務《しょむ》先輩《せんぱい》は北村と幸太の顔を見回した。そして下半身は布団《ふとん》に埋まったまま、グイ、と高く腕を上げ、
「――我《われ》らが居場所、生徒会に乾杯」
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
糊《のり》のフタを締《し》め、よし、と幸太は頷《うなず》いた。
「うん……我ながらなかなかいい感じ」
開け放した窓の向こうからは部活の連中の笑い声が響《ひび》いてくる。二学期が始まっても暑さは相変わらず、しばらく生徒会室にこもっていただけで、すっかりシャツは汗に濡《ぬ》れてしまった。
来月に迫った文化祭の準備はすでに始まっている。すみれ以下先輩たちは、文化祭実行委員会に出ていて今日《きょう》はここには現れない。おかげで、すっかり作業がはかどった。
幸太は糊付《のりづ》けした写真をもう一度|確認《かくにん》する。ミスがあったらてめえ一人《ひとり》でもう一度一年間を駆け抜けてもらうからな、とすみれには厳命《げんめい》されていた。ミスもくそもどうせ捏造《ねつぞう》写真しかないのだが。
しかも幸太がカメラを担当した合宿後半の分などひどい。完成した桜の書割をバックに、入学式と卒業式を同時に捏造したのだが、そのほとんどが在校生役・さくらの写真で埋まっている。ピースするさくら、ハンカチを目元に当て、泣いているふりのさくら、それを見てニヤつく自分、それを見てうんざりしている(か、もしくは二日酔いの)すみれ、そんな写真ばかりだ。
やっぱりかわいいなあ……とひとしきりさくらの写真をじっくり見つめつつ、最後のページまでたどりついた。右側のページには、集合写真と、それぞれの夢を。
そして左側のページ。
それは幸太が撮《と》った卒業式の場面だが、実はかなり気に入っていた。だからわざわざ大判に焼いて、いい位置に持ってきたのだ。
このアルバムをいつか思い出とともに開き、そして――気づいてくれたらいいけれど。ちょっと笑ったところで、
「幸太く一ん! こっち終わったよー!」
戸口で愛《いと》しい彼女が声をかけてきた。さくらは別の仕事があり、今まで教員室に行っていたのだ。
「どう、大変? 手伝《てつだ》おうか?」
「ううん、こっちも今終わったところだよ。そろそろ鍵《かぎ》閉めて出ようとしてたんだ。早く帰ろう、今日《きょう》はせっかく先輩《せんぱい》たちもいないんだし、早めに出てなにか食べようよ」
「あ、それいい! って、カバンは?」
「おお、カバン忘れるところだった」
信じられなーい! と笑う声。幸太《こうた》は慌ててカバンを掴《つか》み、窓を閉め、鏡を掴んで生徒会室から飛び出した。さあ行こう、と笑い、二人《ふたり》は吸い寄せられるように手をつなぐ。目を見交わし、「うふん」「あはん」と笑い合う。
鍵がかけられ、無人になった部屋《へや》に、そのとき一瞬《いっしゅん》の風が巻き起こった。ドアが閉められた勢いだろうか、ふわりと揺れた空気は、どこからか季節|外《はず》れの切片《せっぺん》を舞《ま》い上げてきた。
それは薄《うす》いピンク色で、ハートの形をしていた。
ひらりと舞い、踊りながら、閉じ忘れられたページの左側、一枚の写真の上に音もなく落ちる。その写真の中では、眼鏡《めがね》をかけた在校生代表が、壇上《だんじょう》の卒業生代表をきょとんと見上げていた。そして長い髪を肩に垂らした卒業生代表は、在校生代表になにごとか喋《しゃべ》りかけようとして片手を宙に浮かせていた。
二人の愛すべき上級生は、今年《ことし》こそ、ちゃんとお互いを見ていたのだ。
[#地付き]おわり
[#改丁]
「……み、見えたか?」
「だめ、あそこの木が邪魔《じゃま》で……もうちょい左」
「……ど、どうだ?」
「だめだめ、今度はあの木が邪魔。……ああもう! あとすこしなのに、イライラするっ! 切り倒してやろうかな!?」
――やりかねない。
高須竜児《たかすりゅうじ》は暴《あば》れん坊《ぼう》を肩車から下ろしてしまうべく、無言でしゃがみこむ。心ならずも両足で地面に降り立った暴れん坊は、
「くそ、」
口汚く全世界に向けて罵声《ばせい》を発し、苛立《いらだ》ちまかせ、花壇《かだん》に繁茂中《はんもちゅう》の罪無きシソの葉をむしりとった。真夏の真昼の地獄めいた熱気の中にシソの替りがふわん、と漂い、
「ったく、もういい、諦《あきら》めた。……あーあ、せっかく夏休み中だってのに学校くんだりまで来て、北村《きたむら》くんの部活姿ひとつまともに見られないなんて。私ってとことんついてな……あんた人が落ち込んでるのになにむしってんのよ!?」
しゃがみこんで真剣にシソを摘《つ》み取りに入った竜児のケツのど真ん中を、暴れん坊こと逢坂《あいさか》大河《たいが》はローファーのつまさきで蹴《け》り上げた。
「い……ってえなあこの馬鹿《ばか》野郎が!」
「馬鹿野郎だあ!? 生意気《なまいき》言いやがって犬ったれ!」
びしゃん! と今度は口にビンタを食らい、しかし竜児は刃物のように吊《つ》り上がった凶眼《きょうがん》を常にはないほど爛々《らんらん》と光らせ、一歩も引かずに大河に怒鳴《どな》り返す。
「殴られようとなんだろうと、俺《おれ》は、シソを、摘むのを止《や》めない! このシソはなあ、タダなんだよ! 取り放題なんだよ! そんなこともわかんねえのかよええ!?」
「……っぷ! ちょっと、唾《つば》! 汚い!」
「うるせえ! タダで、取り放題で、しかもシソは俺の好物だ! おまえだって毎日そうめんの薬味にしたりマグロのづけ丼《どん》に敷《し》いたりその恩恵に与《あずか》ってんだろうが! ついでにいうとここに、最初に、シソを、植えたのは、俺だっ! 乾いた日に水をやったのも俺、ついた虫を成仏《じょうぶつ》させたのも俺! だから俺にはこれを摘む権利があるっ!」
「……」
「無視すんじゃねえ! わかったらおまえも摘むのを手伝《てつだ》え! ……ああ思い出せてよかった、前回ごっそり摘みまくって、そろそろ次回の摘みごろだとは思ってたんだよな。うっかりうっかり、忘れるところだった。夏休みに入るとなかなか収穫《しゅうかく》にも来られなくて……しっかし、シソって強いよなあ。見ろよこの繁茂力《はんもりょく》」
にんまり――と全《すべ》ての目的を忘れ、いつしか竜児はシソ摘みに夢中になった。さりげなく一歩|離《はな》れて距離《きょり》を取り、気味悪そうにこちらを見つめる大河の視線《しせん》にも気づかない。
野生の肉食獣《にくしょくじゅう》なみの凶暴《きょうぼう》さで「手乗りタイガー」と呼ばれる大河《たいが》をもってしても、炎天下の黄金の太陽の下《もと》、一心不乱にシソを摘《つ》みまくる竜児《りゅうじ》にかける言葉はもはや見つからないらしい。竜児はへへ、へへ、と嬉《うれ》しそうに笑い声を上げ、時折|収穫物《しゅうかくぶつ》の香りをかいで「ん〜」と眼《め》を狂おしく細め、持参している財布《さいふ》や携帯《けいたい》の入ったサブバッグにシソを構わず放り込んでいく。そのイってしまった目つきといい、元来の顔のえげつない造作《ぞうさく》といい、北海道《ほっかいどう》あたりでこっそり栽培したいけない革を摘むいけないジャンキーにしか見えない。本人的にはただ単に、ごく小規模なマイ・ハーブガーデンでプチなアグリカルチャーライフを楽しんでいるだけなのだが。
「ああそうだ、大河!」
「……」
笑顔《えがお》を向けて目一杯のシカトで返されるなどいつものことだ。竜児は構わずシソの中から大河ににじり寄り、
「向こうの花壇《かだん》に、俺《おれ》、ナスときゅうりも植えてあるんだよ。なあ、できてるかどうか見にいかねえか!? 一応|苗《なえ》は育ってて、終業式前には花もついてたんだよ! 去年もチャレンジしたんだけど、あえなく園芸部員に発見されて抜かれちゃったんだよな……今年こそ!」
「やだ」
「なんで。……おい、なんで俺から距離《きょり》を取る。なんだその変な目つきは」
「あんた、いよいよ気持ち悪い! やっぱり一人《ひとり》で来ればよかった」
「なんだよそれ!」
そもそも夏休み中の学校lこやってきたのは、大河が宿題に使うテキストをロッカーに置いてきてしまったからだった。別に頼《たの》まれもしなかったが、死ぬほと暇《ひま》だった竜児は、散歩がてらついていくことにした。
連れ立って校門に入ったところで、グラウンドで部癌中のソフトボール部を発見した。大河の片思いの相手である北村《きたむら》もいるに違いなかった。終業式以来、大河は北村と会っていない。ぜひとも部活中の北村を遠くから一日でもいいから見たい、でも見ている自分の姿は見られたくない、という。
そこで竜児は大河とともに、草花の生い茂る校舎|脇《わき》の花壇までわざわざ分け入り、揺れるひまわりの間に身を隠して覗《のぞ》き見《み》してやろうとしたのだ。しかし、小柄《こがら》な大河の身長を超える真夏の図太い雑草に阻《はば》まれてなにも見えやしない。そこで肩車までしてやった。大河のために。広い心で。親切に。それなのに、
「気持ち悪いって、俺のどこが!?」
「いろいろ包括的に……具体的には顔とか、あとは背汗とか。あんた、シャツびしょ濡《ぬ》れ。うわ、そういえばなんだか……」
大河は自分のスカートの中に手を突っ込み、さっきまで肩車されて竜児の肩に密着していた己《おのれ》の尻《しり》の辺《あた》りを触ってみている。そしてハッ! と瞳《ひとみ》を見開き、すぐに小さな顔を歪《ゆが》め、
「うっ……おえー! あんたの背汗で私の尻《しり》まで濡《ぬ》れてる! おえー! おえー!」
舌をびろーんと出して全力での吐《は》き真似《まね》。いくら温厚な竜児《りゅうじ》といえども、さすがにこれは悔しかった。
「おっ、おまえの尻汗で俺《おれ》の背中が濡れたって可能性は考えねえのか!?」
「ないね!」
一言で斬《き》り捨《す》てるや否《いな》や大河《たいが》はクルリと竜児に背を向け、や! や! とトイレの後の猫の仕草《しぐさ》で足で後ろに土を蹴《け》り始める。汗で湿った竜児の肌に、土が水玉|模様《もよう》を作る。
「おうっ! おまっ……うぷ! やめろばかっ! おまえのために肩車してやったんだろうが!?」
「後悔お先まっくら! 汗で湿気《しけ》た犬なんて嫌い! 埋めたい! 埋まってしまえ!」
「このシソを天麩羅《てんぷら》にしておまえに今夜食わせようと思っている俺に、おまえはそんなことを言うのか!? ……天罰が下るぞ!」
「はっ! 雷にでも打たれりゃ殺菌になるでしょうよ! もういい、私はさっさと忘れ物取ってくるから、あんたはそこで熱射病《ねっしゃびょう》にでもなってな!」
稲妻《いなずま》みたいな罵倒《ばとう》でさらに竜児の心を傷つけ、大河は長い髪を躍《おど》らせて校舎へ向かって走り去った。竜児は確《たし》かに汗で濡れている背中にそっと手で触れ、髪についた土を犬みたいに身を振るって払い落とし、唇を噛《か》み締《し》めて思う。知ってはいたが、本当にひどい女だ。
――あんな奴《やつ》、絶対、ろくな死に方はしない。
灰色がかった不思議《ふしぎ》な淡色《たんしょく》の髪をかきあげ、大河は一人《ひとり》、人気《ひとけ》のない廊下を教室へ向かって歩いていた。その横顔は硬質のガラスを丹念に削り上げたかのごとき精緻《せいち》さを極め、フランス人形めいた甘いラインを描く。
口さえ開かなければ、いや、人格さえ「ああ」でなければ、大河は万人が認める美少女であった。色素の薄《うす》い大きな瞳《ひとみ》を気《け》だるげに揺らし、人目がないのをいいことに子猫みたいに大口を開けて、手乗りタイガーにしては愛らしすぎるあくびを漏らす。誰《だれ》も見ていないときこそ、大河は最も魅惑的《みわくてき》な顔をするのだ。
しかし、大河の眉《まゆ》の穏《おだ》やかなカーブが一瞬《いっしゅん》にして険しく吊《つ》り上がった。曲がり角の向こうから、なにやら騒々《そうぞう》しい足音が聞こえてくる。こちらに向かって走ってくるようだ。
うるさい奴は嫌い――自分のことは棚に上げ、大河はさっそくイライラと唇を尖《とが》らせる。このままでは曲がり角で衝突《しょうとつ》しかねない。
……してやろうじゃないの。
そこで進路を変えようとか、道を空《あ》けようとか思わない辺《あた》りが、彼女をして手乗りタイガーと呼ばしめる所以《ゆえん》だ。大河は、絶対に、自分の歩きたい通りに歩く。相手が相撲部《すもうぶ》の男子だろうと、教師の誰《だれ》かだろうと、己《おのれ》の行く道を曲げる気などない。きちんと歩いているこの自分が、規律を破って走っているイリーガル野郎に席を譲《ゆず》ってやる謂《いわ》れはないのだ。
硬く尖《とが》った肘《ひじ》をグッと前に突き出し、大河《たいが》は眼《め》を据《す》わらせ、そのままスタスタと飛び込んでくる獲物《えもの》へ向かって突進していく。そして案《あん》の定《じょう》、曲がり角に差し掛かったその瞬間《しゅんかん》、
「おるあっ!」
「いっ……きゃああ!」
ぼんよよよん、と肘に鈍い感触。勢いよくぶつかってきた相手は悲鳴を上げて尻餅《しりもち》をつき、走ってきた勢いのままに廊下に真後ろに転がっていく。岩石でできた像の如《ごと》く一歩も揺らかず、完全に無傷の大河の目の前で、その女子生徒の短めのスカートはひらりと大全開。真っ白な太ももも淡《あわ》いブルーのパンツもその縫《ぬ》い目《め》まで100パーセントご開帳《かいちょう》して、
「……っひゃあああ〜!」
みっともない己の姿に気がついたのか、もう一度叫んで慌てて廊下に座り込み、スカートの裾《すそ》を引《ひ》っ掴《つか》むみたいに引き下ろす。そして改めて「いてて……」と押さえるのは、ベストの上からでもかなり豊かだとわかる胸。しかし強く押さえすぎて、胸の膨《ふく》らみがくっきりと丸い形を浮かび上がらせているのを知っているのだろうか。
なぜ、とはあえて言わないが、そんな姿《すがた》を見下ろす大河の眇《すが》めた瞳《ひとみ》に、さらに険しい凶暴《きょうぼう》さが宿《やど》る。
「……あんた、気をつけなさいよ」
「あ、すいま……」
パンツ開帳の相手が同性だったと知って、女子が上げた瞳には一瞬だけ安堵《あんど》の色が。しかし瞬《まばた》きを一回して、そこにふんぞり返って偉そうに立っているのが「あの」手乗りタイガーだと気づいたのだろう。
「……ててて、ての……っ!」
ふっくらとした頬《ほお》から一気に血の気が引いていく。
大河の眉間《みけん》に、鋸《のこぎり》の刃《は》にも似た皺《しわ》が寄る。
自分のせいでぶつかっておいて謝《あやま》りもしない。被害者ぶって怯《おび》えてみせる。こういう輩《やから》が一番嫌いなのだ。ついでに言うと、無自覚な巨乳も大嫌いだ。……なぜ、とはあえて言わないが。
「……『ごめんなさい』も言えないわけ? それとも、あんたの国では、その『てててての』ってのが謝罪《しゃざい》の意味なわけ? え? この蛮族《バルバロイ》が!」
「ひい……っ!」
「まだ謝らないか!」
かるーく畳んだろかい。大河は怯える女子に向かい、容赦《ようしゃ》のない一歩をずいと踏み出す。相手が男だろうと女だろうと関係なしに、大河の凶暴さはいとも簡単《かんたん》にスイっチが入る。これぞ正しい男女平等だ。しかしそのとき、足の裏になにかを踏ん付けた感覚。
「……?」
女子がぶつかった拍子に落としたのだろう一冊のノートが、大河《たいが》の足の下にあった。それに女子も気づき、あからさまに顔を歪《ゆが》め、
「ああっ……幸太《こうた》くんのノートが……たった一つの絆《きずな》が……」
悲しそうな声を上げる。ちっ、と大河は舌打ちしつつも鷹揚《おうよう》な手つきでそれを拾い、返しはしないまま手の中で弄《もてあそ》び、
「被害者ヅラがお得意ねえ……踏まれて泣くほど大事なもんなら最初っから落としたりするんじゃないわよ……」
ギラギラ光る凶暴《きょうぼう》な眼差《まなざ》しで、女子の身体《からだ》を上から下まで嘗《な》め回《まわ》す。その鼻息は嗜虐《しぎゃく》の興奮《こうふん》にフンフンと荒くなり、かすれた語尾に本気の殺意が血みたいに滲《にじ》む。ひ、ひ、ひーん、と一年生らしい女子は泣き声を上げ、すでにその場から動けないらしい。
さあ、この生意気《なまいき》なパンツ丸出し巨乳をどう嬲《なぶ》ってやろうか――大河の薔薇《ばら》の唇を凶悪な笑《え》みが歪《ゆが》めたそのときだった。
「どうしたさくら」
廊下の向こうから、涼しげな声が凛《りん》、と響《ひび》く。
「お、お姉《ねえ》ちゃん!」
パンツ全開巨乳娘は脱兎《だっと》の如《ごと》く立ち上がって駆け出し、現れた女の背中に身を隠す。大河はその女の姿を認め、
「……出よったぁ……」
低い、ひくーい声で呟《つぶや》く。その小さな全身から、一トンを超える猛虎《もうこ》の巨大な気配《けはい》が獣臭《じゅうしゅう》とともにむわっと立ち上る。瞳孔《どうこう》の窄《すぼ》まった眼《め》に、もはや理性はなし――大河《たいが》はこいつが大嫌いだった。
「なにしてんだおまえは。……おお、逢坂《あいさか》大河。北村《きたむら》の友達《ともだち》だったな、確《たし》か。私は、」
「……知ってる」
黒髪を背に流し、涼やかに整った美貌《びぼう》に似合わない男言葉で豪快に喋《しゃべ》るこの女。大河は知っている。こいつは生徒会長だ。
生徒会長で、北村と毎日|一緒《いっしょ》に仕事をしていて、いつかの清掃ボランティアの時にはずっと北村と並んで歩いて、北村はご機嫌《きげん》でにこにこ笑っていて、話しかける暇《ひま》さえなくて――大河に苦《にが》い嫉妬《しっと》を味わわせたあの女だ。
「私のこと、覚えていてくれたのか。……で、なぜ、うちの妹に襲《おそ》い掛かろうとしているんだ? よかったらわけを聞かせてくれよ」
あくまで穏《おだ》やかに、怯《おび》える素振りなど欠片《かけら》も見せず、憎い生徒会長は大河に太っ腹な微笑《ほほえ》みで話しかけてくる。
「……妹、ですって?」
「ああ、妹。こいつは私の妹で、一年生の狩野《かのう》さくら。……下級生の女子に襲い掛かろうとは、さすがの手乗りタイガーも随分《ずいぶん》しけた獲物《えもの》を狙《ねら》ったものじゃねえか」
パンツ巨乳は生徒会長の後ろに隠れ、ぷるぷる震《ふる》えながらその身を竦《すく》めている。大河は躊躇《ちゅうちょ》なくそいつをびしっと指差し、
「なら、姉としてあんたはその露出狂《ろしゅつきょう》との血縁《けつえん》関係を恥じるべきねえ。あんたの妹は廊下を猛ダッシュしてきて、無辜《むこ》の私に激突《げきとつ》して、謝《あやま》るところか意味不明の言葉を発して私を悪者みたいに見て泣いて、今はあんたの背中にコソコソ隠れているのよ」
「ほう。……さくら。それは本当か?」
パンツ巨乳はびくっ、と顔を強張《こわば》らせ、姉を見上げて息も絶え絶え、
「お、おおむね……ふぇぐっ!」
頷《うなず》いてみせたと同時、脳天にカパーン! と、大河もちょっと引くぐらいに情《なさ》け容赦《ようしゃ》ないチョップを食らった。ふら、とおぼつかない足取り、ほとんど死に体のまま背中を押されて大河の目の前に突き出され、
「なら、悪いのはてめえじゃねえかっ! ちゃんと自分で謝れ! いつまで私の後ろに隠れてんだ!」
ビリビリと腹の底まで響《ひび》くような声で怒鳴《どな》られる。やがて目の縁《ふち》に涙を浮かべ、おどおどと視線《しせん》を惑《まど》わせながら、
「……す、すいませんでした……ごめんなさい……逢坂《あいさか》、先輩《せんぱい》」
大河《たいが》の前で深々と頭を下げてみせた。けっ、と大河は鼻でそんなザマを笑いつつも結局は戦意|喪失《そうしつ》、これで勘弁してやろうかと髪をかきあげて踵《きびす》を返そうとする。
が、
「あっ! あの……ノ、ノート……っ」
「……ああん!?」
か細い声に、振り返る大河の視線《しせん》には再び振り切れそうな殺気。しかしパンツ巨乳は震《ふる》えつつも姉の背には隠れず、震える両足を踏ん張って立ち、必死に手を伸ばしてくる。
「あの、あの、ノート……か、返してください! 借り物なんです! だ、大事な人との、たった一つの、絆《きずな》なんです! ななな、なんでもしますからあ〜!」
しかしその必死さが、かえって大河の胸を打っ……いや、生来《せいらい》ぶっちぎれたままの堪忍袋《かんにんぶくろ》に灯油をぶっかけて火を放った。
「う、るっっっ……さいっっっ! おまえっ、人をどこまで悪役にしたら気がすむ!? 返すの忘れただけでしょーがっ! こんなもんいるかボケっ!」
「うぐ!」
手の中に残っていたノートを、大河はパンツ巨乳の喉元《のどもと》めがけてスパーンと真横、いわゆるブッチャーで突き返してやった。そのノートを掴《つか》みつつも苦しげにうめいて膝《ひざ》から崩れ落ちるパンツ巨乳と、あーあ、と呆《あき》れてその肘《ひじ》を掴んでやる生徒会長を尻目《しりめ》に、大河は今度こそその場を立ち去ろうと踵を返す。
だがその間際《まぎわ》の一瞬《いっしゅん》。それはくっきりと明確《めいかく》な意味を伴って、大河の視界に飛び込んできたのだ。
22・5センチの上履《うわば》きの跡がくっきりとついた、パンツ娘の手の中のノートには、表紙にでかでかと持ち主の名がサインペンで書いてあった。――『1−A 富家幸太《とみいえこうた》』と。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「わあ〜、今日《きょう》はなんだか豪華《ごうか》だあ〜! 竜《りゅう》ちゃあん、エビ何本までえ?」
「一人《ひとり》三本」
「わあ〜、わあ〜」
口紅以外の化粧だけはきっちり終えて、明るい色にカラーリングされた髪にはホットカーラーをつけたまま、竜児《りゅうじ》の実の母・泰子《やすこ》は、ピンクのヒョウ柄《がら》キャミソールと竜児の中学時代のジャージズボンという狂ったいでたちで巨乳をふかふか揺らす。
箸《はし》を持ったまま無邪気に喜ぶその童顔は、メイクしてなお幼い少女にしか見えないが、綺麗《きれい》に伸ばされてローズピンクに艶《つや》めく爪《つめ》と、なめらかな鎖骨《さこつ》に落ちる一筋の髪だけが、実年齢《じつねんれい》相応の色香《いろか》と夜の仕事の甘い匂《にお》いとなって泰子《やすこ》の肌から立ち上る。
「ちゃんと野菜も食べろよ? シソも一杯あるからな」
「シソの天麩羅《てんぷら》、だあ〜いすき! 竜《りゅう》ちゃんもだあ〜いすき!」
ちゃぶ台にはところ狭しと、透《す》ける衣《ころも》から色鮮《いろあざ》やかな野菜の色が覗《のぞ》く竜児流の見事な天麩羅が並んでいた。味噌汁《みそしる》は豆腐と大根と青菜、ご飯は五穀米《ごこくまい》を混ぜてふんわりもっちり桜色、今日の漬物《つけもの》はちびたナスの浅漬け――学校の花壇《かだん》で秘密裏《ひみつり》に栽培されたブツだ。天麩羅には塩、レモン汁、おろしダレ、それぞれお好みでどうぞ。
夜六時半、高須家《たかすけ》の居間。ちゃぶ台には竜児《りゅうじ》、泰子、そして大河《たいが》が並び、いつもと変わらぬ夕食の時間が始まろうとしていた。
いただきまーす、と唱和して、泰子はいきなりメインのエビに手を伸ばし、竜児は味噌汁に口をつける。大河の箸《はし》はエビに伸びかけ、しかしなぜだか躊躇《ちゅうちょ》して宙を舞い、
「こら、迷《まよ》い箸《ばし》」
竜児に睨《にら》まれる。しかし大河は唇を尖《とが》らせ、言い返しもせず、そのままピタリと動きを止める。
「……どうした?」
「……どしたの? 大河ちゃん?」
似ていない親子|二人《ふたり》に尋《たず》ねられても大河は小さく正座したまま、「……」と口をつぐんでいる。いつもなら竜児の分のメインにまで箸を伸ばしかねない大河が。泰子ははっ、としたように箸を置き、
「そうかあそうかあ、ごめえ〜ん☆ やっちゃん、大河ちゃんのことももちろんだあいすきだよお〜☆」
「ふんが」
むぎゅう、と大河を抱《だ》き締《し》める。つむじにちゅっちゅとキスもする。たっぷんたっぷんの巨乳の間に埋まったままで大河はしばしじっとしていたが、やがて苦しそうに小さな手をぱたぱたと動かし始め、
「窒息《ちっそく》してる窒息してる!」
「ありゃりゃん……」
解放されると同時、肩で息をしながら座布団《ざぶとん》に倒れ込んだ。ややあって、竜児と泰子が心配げに覗き込むのを押しのけるようにしてゆっくり身を起こし、
「……な、なんでもない。ただ、なんかちょっと……食欲がないだけよ」
「おまえに食欲がない!?」
「それはたいへんだあ〜」
「……私にだって、ちょっと体調《たいちょう》がおかしいときぐらいあるの! ……これ、あげる。これも」
大河はエビの一本を泰子の方に、もう一本を竜児の方によけ、残った一本におろしダレをつけて、試すみたいにそっと自分の小さな口に運ぶ。
「無理するなよ、平気か?」
一口かじり、大河《たいが》はうん、と頷《うなず》いて今度は塩をちょん、とつけた。あぐあぐとそのまま食べ進み、
「……大丈夫。食べれる、おいしい」
白飯もかぱっと一口。
「ならエビ、返そうかあ? 食べられそうなら食べた方がいいよお、うちの食卓にエビが乗るなんてえ、年に一回とかだしい〜」
「ううん、あとは野菜とかさっぱりしたの食べる」
エビを一本食べたことで食欲が刺激《しげき》されたのか、大河は続けて味噌汁《みそしる》にもロをつける。その様子《ようす》に竜児《りゅうじ》はちょっと安心し、
「シソは一応薬みたいなもんだからな。たくさん食えよ」
大皿を回してシソのコーナーが大河の真正面に来るようにしてやる。大河は頷き、さっそく一枚を口に運ぶ。気に入ったようで、さらにシソ。
大河はそれから他《ほか》の野菜の天麩羅《てんぷら》をもモリモリ平らげ、ナスの漬物《つけもの》と味噌汁でご飯も一膳《いちぜん》〈これはものすごく珍しいことだ、いつもはベロリと三膳食うのだ)、一応は食べきった。
泰子《やすこ》もそれを見て安心し、いつもどおりにお宝のシャネルバッグを抱えて仕事に出かけたのだが――異変が起きたのは、それから数時間後のことだった。
「……竜児……私……死ぬかも……」
ショッキングな発言に竜児が振り返ったのは、夜の十時過ぎ。
いつもと同じにだらだらと食後のひと時を過ごし、二人《ふたり》して座布団《ざぶとん》を半分に折って頭の下に敷《し》き、だらしなく畳に寝そべってテレビを見ていた。そのうちどちらからともなく転寝《うたたね》を始め、
「……死ぬ……」
「な……なに?」
気がつけば大河は竜児の背後、寝そべるというよりは倒れた、という感じに横倒しになって腹を抱え、顔色を真っ白にしていたのだった。もとより大河は青みがかって見えるはとの色白だが、今の顔色はべージュ味を帯びて、いわゆる土気色《つちけいろ》というやつだ。竜児は慌てて起き上がり、畳に髪を散らす大河のもとへにじり寄る。
「どうした!? 腹が痛いのか!」
「い、痛いの……すっごく……」
「便所行くか!? 立てるか!? 吐き気は!?」
「トイレはいい……そういう感じの痛さじゃなくて……」
息を詰めては吐き、詰めては吐き、大河《たいが》は細かく震《ふる》えている。額《ひたい》に触ると冷《ひ》や汗《あせ》に濡《ぬ》れ、ひんやりと冷たい。
「胃か!?」
「わ、わかんない……この辺とか……っ」
ふわふわと膨《ふく》らむコットンレースを重ねたワンピースの腹の真ん中|辺《あた》り、へその付近を小さな手が撫《な》でた。その手まで震えているのを見て、竜児《りゅうじ》ははっきりと悟る。ただごとじゃねえ。
「びょ、病院に行くぞ!」
居間の片隅《かたすみ》に置かれた鳥かごの中で、ブサイクインコのインコちゃんも「それがいい!」と真剣な白目で頷《うなず》いている。
「そうだ、救急車……救急車を呼ぼう!」
「お、おおげさよそんなの……っ」
「でも歩けねえんだろ!? ……死ぬんだろ!?」
「おなか痛いぐらいで救急車なんて……だめっ……だったら我慢……するぅぅぅ〜……」
大河は声を振り絞り、しかし痛みに耐えかぬたみたいに身を捩《よじ》る。仕方ない――竜児はイエローページを素早《すばや》く開き、そう遠くはない大学病院が夜間救急をやっていることを確認《かくにん》し、携帯《けいたい》と財布《さいふ》と保険証をバッグに掴《つか》み入れ、
「お、俺《おれ》の保険証持ってどうすんだ!」
動揺を隠し切れない。保険証は出してバッグを斜めがけにし、ぐったりと顔を伏せている大河の軽い身体《からだ》を担ぎ上げる。大河はもはや言葉もなく、なされるがままに腹話術の人形みたいに竜児の腕に体重を預け、肩のあたりに顔を押し付け、
「……っ……っ……」
痛みをこらえるように小さくうめき続ける。
もはや家の鍵《かぎ》を閉めるのももどかしく、竜児はサンダルをつっかけてそのまま玄関から飛び出した。鉄製の階段をカンカン鳴らしながら駆け下り、大河を抱えたままでタクシーを捕まえられる大通りまで一息にダッシュ、
「すいません病人なんです! 譲《ゆず》っていただけますか!?」
サラリーマン風《ふう》の親父《おやじ》が今まさに止めたタクシーの前に飛び出し、懇願《こんがん》する。ライトに照らされた竜児の凶悪な三白眼《さんぱくがん》に親父は狩られる、と本能的な恐怖を覚えたのかカバンを取り落とし、一歩下がり、
「ありがとうございますっ!」
竜児はそれをイエス、と解釈、開いたタクシーのドアの中に滑《すべ》り込む。大学病院の名を告げて、「病人なんです、急いで!」と喚《わめ》くと、運転手もバックミラー越しに何度も頷いてみせる。状況を理解したのか、ハイジャックされたと思ったのかは確《たし》かめる術《すべ》はない。
「大河、しっかりしろ! すぐにつくからな!」
大河《たいが》は自分では座っていることもできず、竜児《りゅうじ》の膝《ひざ》の上に顔を伏せてしまい、痛みのあまりかプルプルと震《ふる》え続けている。
かわいそうに――どんな罵《ののし》りを受けても、暴力《ぼうりょく》を受けても、同じ釜《かま》の飯《めし》を食っている仲だ。それに、大河はやっぱり女の子だ。こんなふうに痛みに耐えている姿を見ていると竜児はほとんど泣きたくなって、ぐちゃぐちゃになってしまった長い髪をそっとかきあげてまとめてやる。
一体どうしたというのだろうか。食あたりか、盲腸か、それともなにかもっと悪い病気なのか。
「……死ん……」
「ばっ、ばか! 死ねとか言うんじゃねえ! 言霊《ことだま》ってもんを知らねえのか!?」
「……違う……私じゃなくて……あいつ……」
死んだのかも。
竜児の膝に伏せたまま、大河は意味の分からない言葉を絞《しぼ》り出す。死んだのかも、あいつ、あの黒猫男、死んだのかもしれない。これは、呪《のろ》いなのかもしれない。
「な、なに? どういう意味だ?」
「……あの、一年生の、女……最後の絆《きずな》とか、言ってた……あれって……死んだってこと、遺品《いひん》ってこと、なのかも……っ」
「一年生の、って……昼間の話か?」
竜児がシソやナスをきゃあきゃあと収穫《しゅうかく》している間、大河が校舎の中で一年生の女子と揉《も》めたという話はその帰り道に開いた。
「私が……あのとき踏ん付けた、ノート……ゲンが悪いから、言いたくもなかったけど……あれって、あいつの、だったの……『富家幸太《とみいえこうた》』の……」
まさか、と竜児は伏せた大河の耳のあたりを思わず見つめる。富家幸太のことなら知っている。北村《きたむら》の親しい後輩《こうはい》で、生徒会の一年で、そして大河|曰《いわ》く「黒猫男」――黒猫が目の前を構切ると不幸が起きると人はいう。大河にとっては、富家幸太こそが、不幸を運ぶ黒猫なのだ。富家幸太が大河の前に現れるたびに、大河の身の上には信じがたいアンラッキーが起こる。
昼食のサンドイッチを踏みつけられる。缶コーヒーが飛来して頭に激突《げきとつ》する。アジのフライの尻尾《しっぽ》を額《ひたい》にプン投げられたときにはとうとう切れて、いてこました挙句《あげく》に貢物《みつぎもの》もさせたというが、その後も道を歩いていれば校舎から洗顔フォームを放られて頭に直撃《ちょくげき》したり、ぶつかって豆乳を顔面に吹いたり――北村の後輩だから、というただそれだけの理由で命を永《なが》らえることを許可しているが、そうでなければとっくに大河の手によってあの世に送られていても仕方のない下級生なのだ。
そのことは竜児もよく知っている。彼にとっては大河との邂逅《かいこう》自体が不運な出来事だろうとも同情している。だがしかし、
「だ、だからって、なんで呪いなんて……」
「死んだんだ……あいつ、死んで……あのノートに魂《たましい》が……私、それを踏んで……っ」
大河《たいが》の身体《からだ》がさらに細かく震《ふる》えだす。竜児《りゅうじ》のハーフパンツから覗《のぞ》く膝頭《ひざがしら》を掴《つか》む指はゾツとするほど冷たく、
「……連れていかれる……あいつの、不幸に、魂をもって、いかれる……ぅぅぅ……」
大河のうめき声だけが、静まり返ったタクシーの車内に尾を引くように響《ひび》いた。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
「夜間|診療《しんりょう》の場合は、先にお電話いただかないと困るんですよね!」
……というのが、やっとたどり着き、震える大河を抱きかかえて到着した受付での第一声だった。
「そ、そう言われても……すいません。それで、その、診察は受けられるんですか?」
「どうしたんですかー」
化粧の異様《いよう》に濃《こ》い事務服姿の女は、竜児の強面《こわおもて》を前にしても動じず、抱えられている大河をジロリと見上げる。大河はもはや虫の息、答えられる状況ではなく、
「腹痛みたいで。食事の前から様子《ようす》はおかしかったんですけど、食べてからしばらくしてすごく悪くなったみたいなんです!」
「食事ってなんですかー」
「天麩羅《てんぷら》です!」
「……てんぷら!」
はっ!
と、鼻で笑われた気がするのだが――気のせいならいいのだが。女は一枚の紙を投げつけるようにしてカウンターに寄越《よこ》し、
「それ、記入してくださいー」
と言われても、大河を抱えたままでは腕があかない。竜児は女に断って、ロビーのソファに大河の身体をそっと横たえる。大河は眼《め》を閉じ、しかし気を失ったわけではなく、苦悶《くもん》の表情のままで痛みに耐えるように歯を食いしばっている。蛍光灯は切られ、小さな電灯だけが照らしだす広々としたロビーは薄暗《うすぐら》い。他《ほか》の患者の姿はなく、声は異様によく響《ひび》いた。
「ペ、ペン貸してください」
一睨《ひとにら》みの後にポイ、と放られたペンがカラカラとカウンターを転がる音もよく響いた。
とにかく名前や住所(番地は竜児の家の隣《となり》でいいのだろう)、症状を、気がせくままに殴り書きし、
「あ、あの、保険証は明日《あした》でいいですか?」
「ソファでそのままお待ちくださいー」
問いにも答えず、その紙を見もせず、女はそれを傍《かたわ》らのナゾの箱にポイ、と放り込む。そんな扱いかよ、と突っ込みたいが、今は女の言葉に従って待つことしかできない。竜児《りゅうじ》はうめく大河《たいが》のもとへ戻り、所在無く隣《となり》に腰掛け、なんとなくだが、しかし妙に疑いなく思う。
ここは、ヤブに違いない。
……どうしよう。今のうちによそに連れていこうか。受付の女は医者でも看護師《かんごし》でもないだろうが、それにしてもあの感じの悪さは、なにかが知れる気がしてならない。苦しむ大河をそっと横目で見、しかし一瞬《いっしゅん》逡巡《しゅんじゅん》したのが運のつきだったのだろうか。
「逢坂《あいさか》さん、どうぞー」
診察室から声がかかり、先ほどの女がガラガラと車イスを押してこちらに近づいてくる。
「これに乗ってくださいねー」
大河は薄《うす》く目を開き、なにか予感を察知したのか反射的に身体《からだ》を捩《よじ》って逃げようとするが、竜児の助けよりも早く女の手が伸びてきて、子供みたいに抱えられてそのまま車イスに放り込まれる。女は車イスを押してずんずん診察室へ入っていく。竜児はオロオロと車イスを追う。
患者さんですー、と女が戸口から中に声をかけたそのとき、開かれていた診察室のドアがなぜだか急に閉まり、
「……あうっ!」
ガッツン、と、大河の足を思いっきり挟んで止まる。引きつる竜児のことも声もなく悶《もだ》える大河も完全に無視、女は何事も無かったみたいにドアを再び開き、
「お願《ねが》いしますー」
車イスをついっ、と押して手を離《はな》し、
「あーい」
ゴロゴロと進む大河の車イスをスリッパの足で受け止めたのは、白衣姿の若い兄《にい》ちゃん――なぜか坊主の、医者だった。愛想《あいそ》良《よ》く笑いながら大河の脛《すね》を覗《のぞ》き込み、
「どうしましたー? あ、この足? 痛そうだなあ、でもこれならすぐ始りますよ!」
「それは今、あそこのドアに挟んだんです! 腹痛です!」
竜児がとっさに叫ばなくては、本当に足の治療《ちりょう》だけして家に帰されそうだった。あ、腹痛? どれどれー? と医者はおもむろに聴診器《ちょうしんき》で大河の腹の音を聞こうとする。
しかし大河の服が分厚いコットンレースを死ぬほど重ねたフリフリワンピースであることに気づき、とこから服を開いたらいいのかもわからないみたいに首を横に振る。
「ええい、まあいいや。ちょっと診察台に寝てみてねー、頭こっちねー、はいはいそうそう」
ストッパーもかけてもらっていない車イスは、大河が痛みをこらえて診察台に移ろうと身じろぐたびに前後にゆらゆらと揺れる。医者はカルテを覗き込んでいて、そんな様子《ようす》に気づく気配《けはい》はない。竜児は慌てて大河に手を貸そうとするが、
「あ、君は付き添い? ご家族ー?」
「えっ? あの、友人で……」
医者に急に話しかけられて竜児《りゅうじ》が振り返った瞬間《しゅんかん》、大河《たいが》はずいっと滑《すべ》った車イスから転げ落ちた。硬い床《ゆか》にゴチン、と鈍《にぶ》い音が響《ひび》き、
「おうっ! た、大河!」
「……っ……」
よろよろと診察台にすがって立ち上がった大河はもはや無表情、無言で額《ひたい》を押さえている。医者はおどけて、
「あっははははー、なにしてんの!? ……痛いのはここかなー!? なーんて」
ぶつけたらしい額に聴診器《ちょうしんき》を当てようとし、信じがたい思いでそいつを呆然《ぼうぜん》と見つめる竜児の凶眼《きょうがん》に気づいた。
「……君、顔、怖いねー! ちょっと気が散るから離れててくれる!? 怖いんだよもー!」
「え……で、でも……」
「大丈夫大丈夫! そこで待ってて!」
ほとんど押し出されるように診察室の戸口に追いやられてしまう。カーテンが閉められ、大河の様子は見えなくなる。しかしこんなダメそうな医者と大河を二人きりにするなんてできるわけがない、と未練がましく爪《つめ》を噛《か》んだそのとき、
「……」
「……」
目が合ったのは、診察室の隅《すみ》に座っていた小学生ぐらいの男の子だった。彼は喘息《ぜんそく》の発作《ほっさ》でも起こしたのか大きなロを開けて蒸気を吸入しており、両腕は「誰《だれ》にもいじらせまい、もうぜったい、二度と」というかのように機器《きき》を頑固に抱え込んでいた。その目は死んだ魚のようにどよんと濁《にご》っている――多分《たぶん》、病《やまい》による疲労のせいだけでなく。
絶対、ここに来たのは間違いだった。理解できてしまったそのとき、
「ふぎゃーっ!」
大河の泣き声が響《ひび》いた。罠《わな》にかかったクマの悲鳴そっくりに。
「大丈夫大丈夫、血を採るだけだからー! あーまた失敗。……ちえっ、なんだクソ。……ハイ今度こそ……あっれーないなあ、ちえっ! 血管がないなあ、ちょっと待って、」
「ふぎゃ、ふぎゃ、ふぎゃあー!」
「探してるから今血管……ちえっ! だめだこれ! 反対の手でやろ、こっちはもうだめだ、ちえっ! ちえっ! クソッ!」
世にも恐ろしい舌打ちが、診察室に高く何度も響く。立ちすくむ竜児には、大河の声が止《や》んでしまったのがかえって恐ろしい。頼《たの》むから、医者はヒステリーを起こさないで欲しい。舌打ちは続き、耳を塞《ふさ》ぎたくなるが、大河をここに連れて来てしまったのは自分だ。この恐怖から目を逸《そ》らすことは責任上許されるまい……というか、本当にもうやめよう。やめてくださいと言おう。連れ出してよそに行こう。
決意してカーテンを開けたそのとき、
「はーとれたとれた! はいこれで痛いのは終わり、血をみればおなかの中が膿《う》んでるかとか、出血しているかどうかとかわかるからねー!」
なんだか妙にドス黒く見える大河《たいが》の血を注射《ちゅうしゃ》器たっぷり採って医者はにんまり笑い、
「じゃ、ちょっと待っててね! これ、痛い思いさせたお詫《わ》びね!」
白衣のポケットから飴《あめ》を取り出し、包みを剥《む》いて半開きになったまま動かない大河の口の中に落とす。大河は瞬間的《しゅんかんてき》に竜児《りゅうじ》の手をとると、それを「ペっ!」と吐き出した。飴は竜児の手の中にべトベトと転がって張り付いた。……それはそうだろう、と、竜児はその手のやり場に悩みつつ思う。腹が痛くて病院に来てる奴《やつ》が、なぜ飴を舐《な》めなければならない……。
後は待つだけだから、と言われ、再び待合室のソファで待つこと二十分。大河は寝転がって時折|呻《うめ》き、ぷるぷる震《ふる》え続け、自分で必死に腹をのの字に擦《さす》っている。左手の内側は早くもひどい内出血、右手の内側には脱脂綿がテープで貼《は》ってあるが、ちょっとありえないほどの量の血が染みてしまっている。目は虚《うつ》ろな光を放ち、ただ顔色だけがとんでもなく濁っている。
「……大河。おい……」
「……」
返事はない。もう声も出ないのだ。唇はカラカラに乾いて皮がめくれ、痛みをこらえて噛《か》み締《し》められすぎ、うっすら血さえ滲《にじ》んでいた。確実《かくじつ》に、ここに来る前よりも状態は悪くなっているように見えた。
それでも腹痛の原因がわかって治るのなら仕方がないが、
「あのねー、わかんなかった!」
背後から、雑な声が無駄《むだ》によく響《ひび》いた。
絶望的な予感とともに振り返った竜児の背後にはさっきの医者がへらへらと立っている。手には銀の支柱に吊《つ》った点滴セットみたいなものを持って。
「さっきの採血じゃね、痛い原因はわかんなかった!」
「わ、わかんないって……」
「でも炎症が起きてないのは確《たし》かだから、盲腸《もうちょう》じゃない。ってことは、なんにしても、救急でできることはないから!」
にこ! と笑う医者の顔に今度こそ恐怖を感じ、竜児は大河をさりげなく背後にかばうようにしながらそれでも必死に問い続けた。
「腸じゃないなら、その、たとえば婦人科系の病気とかでは……」
「それは、救急で診《み》ても、しょうがないから! どうしても気になったら普通の時間に来てよ、あ、うちは大学病院だから紹介状がないとお金だいぶかかっちゃうけどー!」
「な、なんとかカタルとか……そういうのは……」
「だーかーらー、おなか下《くだ》してもないんでしょ!? 吐いてもないんでしょ!? 救急に来られてもこれじゃーしょうがないからさ! おなかの中での出血もないし、救急で診《み》るべき症状はなし! 食あたりかな、なんかそんな感じなんじゃないかな! 便秘とかさ! ガスとかさ! とにかく痛そうなのは痛そうだから、これ!」
ルン♪ となにがそんなに嬉《うれ》しいのか、それとも単なる夜勤のハイテンションか、医者は点滴セットを指差して見せた。まとめられていたチューブを手に取り、先端のキャップを取るや否《いな》や、
「痛み止めね! あーよかった、こんなこともあろうかとさっき針を残しておいたんだよね。この子、血管見つけにくいからさー」
大河《たいが》の右手内側の脱脂綿をハラリと剥《は》がす。微妙に血が漏《も》れている……っぽいゴムの口のついた針が、そこには刺さったままになっている。えええ……ともう引くしかできない竜児《りゅうじ》の目の前、医者は手際《てぎわ》よく点滴のチューブをそこに繋《つな》ぎ、落ちる速さをちょちょいといじり、
「終わったら、呼んでね!」
「……こ、ここでずっと点滴を……? この、ロビーで?」
「また次の患者さん来るからさー、診察室は空《あ》けておかないと。たまにすごいのが来るから」
「……すごいのが……」
「膿でろーんとか」
はみ出てもいない内臓《ないぞう》なんかに構ってられない、とさりけなく宣告しつつ、医者は診察室に戻っていってしまう。確《たし》かにこの大学病院は高度救命施設を持つ、日本でも有数の大病院だ。すごいのもでろーんも来るだろう……ヤブだけど。
だが、そうか、と竜児は妙なところで納得もする。きっと優秀《ゆうしゅう》なお医者さんは高度救命の方に詰めていて、こっちの方には腕前で見劣りのする若い医者が残されているのかもしれない。まあ、勝手な素人《しろうと》の想像だが、あの診察の適当さを見るにそれもあながち――
「大河!?」
ふと目をやって、竜児は甲高《かんだか》く叫んだ。痛み止めの点滴をされている大河の全身、特に点滴の針が刺さる腕の内側から広がるみたいに、真《ま》っ赤《か》な蕁麻疹《じんましん》がぶくぶくと肌を蝕《むしば》んでいた。蕁麻疹は見ているうちにもどんどん広がり、連結し合ってデカくなり、
「わ、わ、わわ……国取り合戦かよ!? 大河っ! ちょっと誰《だれ》かー!」
「……か、かゆ……」
「誰か助けてくださぃぃぃっ!」
何かのパクリみたいになっている竜児の傍《かたわ》らで、大河は初めて己《おのれ》の腕に突き刺さる点滴に……気がついたらしい。
「な、なに……息ができな……ひゅー! これ……な……かゆ……ひゅー!」
「大河《たいが》しっかり! これは痛み止めだって言ってたぞ!」
「……ち、鎮痛《ちんつう》、剤《ざい》……私……」
ヒューヒューと大河の喉《のど》から笛のような音が出る。苦しそうに身を捩《よじ》る。気道が狭《せば》まっているのだ。さきほどの医者と看護師《かんごし》が数名走ってやってきて、大河の顔を見て、その瞬間《しゅんかん》「ボン!」とふくれあがった目蓋《まぶた》も見て、
「あ、やばい」
サー、と顔色を青くする。大河はあっという間に抱えられてストレッチャーに乗せられ、竜児《りゅうじ》を置き去りにガラガラとどこかへ運ばれていく。竜児は必死に追いすがる。
私、鎮痛剤アレルギーなんだけど。
――苦しそうな息の下から、大河が漏《も》らしたのはそんな一言だった。じゃあこれはアレルギー反応か。医者よ、なぜ最初にアレルギーを聞かない。そして、なぜ患者の同意を得ずに勢いだけで点滴する。
しかし竜児はまだ知らなかった。大河ももちろん知らなかった。医者も看護師たちも知らなかった。すでに一つ上の階、この病院の二階では、新たなる苦難《くなん》……いや、呪《のろ》いの黒猫が大河を食《は》むべく右往左往と恐怖のステップを刻み始めていたのだ。
二階、ナースステーションには公衆電話が置いてある。
全身数箇所の骨折で入院している一人の高校一年生が、十円玉を何枚も握《にぎ》り締《し》め、さっきからずっとステーションの前を行き来している。
なあに、富家《とみいえ》くん。彼女に電話でしょー? テレカないの−?
なになに、彼女いるんだあ!?
えーどんな子? ギャル? 清純系? はらはら、早くかけないとまた402のおばあちゃんに長電話されちゃうよー。
聞いてない開いてない、私たち聞き耳なんか立てないからさー。
ほらほら、かけてみなよおー!
彼はモジモジと散々《さんざん》照れた挙句《あげく》、結局自宅にだけ電話をし、パンツの換えを頼《たの》み、そのままそそくさとナースステーションを離《はな》れる。年上の働くお姉《ねえ》さんたちの前で好きな女の子に電話できるはと、彼はまだ成熟していなかった。
握り締めていた余りの十円玉が数枚、そのとき偶然手の中からこぼれた。チャリンチャリンと音を立てながら階段を弾んで落ちていき、拾う間もないほどあっという間に一階へ転がっていってしまう。十円玉とは言えお金はお金、彼は慌ててそれを追いかけ、ロビーのある一階へと階段を駆け下りていく。コロコロと転がるコインを追って、人気《ひとけ》のない廊下を走り出す。
ストレッチャーに乗せられ、大河《たいが》はほとんど意識《いしき》を手放そうとしていた。久々の強烈なアレルギーが自分の身の上に起きていることを知る。目といいロの中といい気管といい、粘膜《ねんまく》という粘膜が膨《ふく》れ上がったようになって熱《あつ》く痒《かゆ》く震《ふる》えていた。腹痛はさらに酷《ひど》く、次第に視界に黒い霧《きり》のようなものが漂い始める。
竜児《りゅうじ》はそばにいるのだろうか、と必死に首をめぐらせて、そして大河はそれを見た。
進むストレッチャーの先、T字になった廊下のどんづまり。
左から右へ、ふわ〜、と、それは駆け抜けていったのだ。
死亡フラグ――そんな言葉が大河の脳裏《のうり》に浮かぶ。だってそいつは、多分《たぶん》そいつは、死んだはずの黒猫男にそっくりの横顔をしていたのだ。
「はうっ!?」
最初に叫んだのは看護師《かんごし》だった。猛スピードで進んでいたストレッチャーの車輪《しゃりん》の一つに、カチン、と突然小さく硬いなにかがはさまった。動きを止めた一つの車輪のせいでストレッチャーはそいつを軸に百八十度の方向転換、看謹師を一人《ひとり》壁《かべ》に挟み、その勢いで傾いて医者の足を轢《ひ》いた上、彼は他《ほか》の看護士ともつれあって転倒。竜児もその人間|団子《だんご》につまずいて顎《あご》から転げ、そして腹痛でアレルギー反応真っ盛りの大河は勢いよく宙を飛んだ――急停止したストレッチャーから投げ出され、壁にぶつかって一度バウンド、そのままずるずると観葉《かんよう》植物の鉢《はち》の中に尻《しり》からすっぽり埋まり込む。
大河が最後に見た光景は、ひっくり返ったストレッチャーと、その下敷《したじ》きになった人間団子。
その後丸々一分は誰《だれ》一人声も出せないほどの、それは大惨事であった。どこぞから現れた一枚の十円玉がそのきっかけだったとは、ついに知られることはなかった。
[#ここから3字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
結局、適切な投薬によって大河のアレルギーは日付が変わる前には一応引き、安静にしているうちに腹痛もマシになったらしい。タクシーで帰宅の途につき、大河を部屋《へや》の入り口まで送ってやって、竜児もひと眠りし、その朝。
「これはだめだよお〜!」
大河のマンションには、珍しく竜児だけでなく泰子《やすこ》の姿もあった。高須家《たかすけ》とは違って燦々《さんさん》と眩《まばゆ》い朝日が差し込む室内に、泰子ののんびりした声が響《ひび》く。
昨夜の顛末《てんまつ》を竜児にメールで知らされ、泰子はほとんど飲まずに早めに帰宅してきたのだ。そして大河の起きた頃《ころ》を見計らって二人《ふたり》で様子《ようす》を見に来たのだが、
「……昨日《きのう》は中まで上がらなかったから、気づかなかったぞ……」
「大河《たいが》ちゃあん、ちょっとはがまんしなくちゃあ〜」
パジャマ姿の大河はバツの悪そうな顔をして、寝室の戸口から高須《たかす》親子《おやこ》をそっと見つめ、黙ってガジガジと袖《そで》を噛《か》む。素足をふかふかのラグの上で、もじもじと重ね合わせる。
大河のマンションの広いリビングには、大河の悪行《あくぎょう》のすべてが証拠として残されていた。アイスのカップがまずローテーブルに二つ。その中にはチープな棒《ぼう》アイスのゴミがまるめて突っ込まれている。豪勢な42型テレビが置かれたおしゃれなコーナーカウンターにはポテトチップの空《あ》き袋《ぶくろ》が一つ、アイランドキッチンにはプリンのカップが一つ。ヨーグルトのカップが一つ。レアチーズケーキの専門店のゴミはソファの上に大胆にあしらわれ、
「……これを、昨日《きのう》、一人で? 櫛枝《くしえだ》とかが遊びに来てたわけではなくて?」
うん、と大河は頷《うなず》く。
「学校から戻ってきてから? 夕食までの間に?」
うん、と大河はもう一つ顔く。
ジャージ姿の泰子《やすこ》はあーあ、とラグに転がっていたミルクティのペットボトルも発見し、大河の頭をぽむ、と小さく叩《たた》いた。
「食べすぎだよお、これはいくらなんでもお〜。大河ちゃん! め!」
「……ごめんなさい……」
殊勝《しゅしょう》に俯《うつむ》く大河の頬《ほお》には、いまだかすかな蕁麻疹《じんましん》の跡。昨夜の顛末《てんまつ》を思えば、竜児《りゅうじ》はそれでも怒る気にはなれず、ただひたすらに呆《あき》れてゴミの片付けに入る。
「で、腹はどうだ?」
「……一晩寝たら、だいぶいいみたい……おなかすいた……」
これだ。
しかし泰子はふにゃ〜っと笑い、「んもう、しょうがないんだからあ〜☆ でも、よかったねえ」と大河の頬をぷにゅぷにゅしてやっている。大河が無事だったのが、心底|嬉《うれ》しいみたいだ。すっぴん顔でふにゃふにゃしたまま、
「そうだあ、お片づけが終わったらあ、病院に保険証持っていくついでに、みんなで朝ごはん食べにいこ〜! 朝マック? 朝スドバ? やっちゃんお給料出たからなんでもおごってあげるう〜!」
「やたっ! 朝スドバ! モーニングのキャラメルトースト!」
大河はほとんど跳ねるように同意、寝るときはお下げにしている長い髪を翻《ひるがえ》して寝室のドアを閉ざし、さっそく着替えに入るようだ。
思わず竜児は泰子の横顔を軽く睨《にら》み、
「……甘やかし過ぎじゃねえの?」
言ってやるが、泰子は竜児の煩も、大河にしていたのと同じようにぷにゅぷにゅしてくれる。いくら自覚有りのマザコンでもこれはちょっと……と竜児はそっと身を引くが、泰子は目を線《せん》にしたまま笑っていた。
「竜《りゅう》ちゃん、えらかったねぇ〜! 大河《たいが》ちゃんをちゃんと病院に連れていって、ちゃんと連れて帰ってきて……うん、ちゃんとお留守番、できたんだねぇ〜! 偉い偉い、男の子だあ!」
「……」
なにをいまさら。
とは、思いつつ。
ゴミを袋に放り込み、なんとなく気恥ずかしく顔を伏せる。大河の寝室からは、おおむねパジャマのズボンを脱ぎかけてコケたのだろう、ドスン、と重い音、「あいた!」と抜けたドジの声。どうした、と声をかけてやると、入ってくんなドエロ犬! とかなんとか。
元気そうでなにより、ではないだろうか。
ちなみに大河が病院に支払った金額《きんがく》は、各種検査費用も含めて最終的にとんでもない額になった。竜児《りゅうじ》と泰子《やすこ》の高須家《たかすけ》連合《れんごう》はもちろん、金銭的にはとんでもなくリッチな大河でさえ、顔をしかめて会計村のお姉《ねえ》さんを声も無いまま睨みつけるほどに。
帰《かえ》り際《ぎわ》に振り返って見た立派な大学病院は、いやな目を散々《さんざん》見たせいもあるのだろうが、なにやら不穏《ふおん》なオーラを放っているような気がした。例えばほら、今日はと快晴、真《ま》っ青《さお》な空が目を焼くような真夏日なのに、なぜか病院の真上にだけ黒い雲がかかっているように見える。
病室に死神でも飼ってるんじゃない? と大河は苦々《にがにが》しく呟《つぶや》き、二度と来るか、と決意を新たにしたようだ。
死んだはずの黒猫男とすれ違い、飲んでいたパック牛乳を全部吹くほど大河が動揺するのは、まだ夏の熱《ねつ》も冷めやらぬ新学期の初めのことだった。
[#地付き]おわり
[#改丁]
あとがき
このところ、眠る前のリラックスタイムにベッドサイドの明かりをつけて料理のレシピ本を読むのですが、「あ〜おいしそう〜こんな時間(午前三時)だけど、なんか作って食べちやおっかな〜」とか思ったその瞬間《しゅんかん》、頭上の豆電球が突然音を立てで粉々に砕《くだ》け散《ち》りました。
顔の右半分がガラスの破片まみれ……日も光の残像にやられ、耳もキーンとなりましたが、そして破片まみれの危険地帯になった枕一帯をそんな時間(午前三時) に掃除機《そうじき》がけしなければならない事態にもなりましたが、ケガもなく、かえって色々なものが守られたような気もします。そんなギリギリなリアルを生きています、ゆゆボリックです。
さて、「桜色《さくらいろ》トルネード」にここまでお付き合いいただきました皆様! 本当に、ありがとうございました! 皆様それぞれに続いていくのであろう日々のリアルに、ちょっとでも楽しみのひとときをご提供させていただけたなら、私はどんなことより、それを嬉《うれ》しく思います。
この話は、『とらドラ!』の番外編《ばんがいへん》となります。本編を知らない方にも読んでいただける話……で、あってほしい、と自分では思っているのですが、シリーズの番外編と気づかずに読んでしまわれて「?」状態の方がおられたら、本当に申《もう》し訳《わけ》ありません。もし幸いにも、ちょっとでも興味《きょうみ》を持っていただけましたら、本編の方もぜひとも! よろしくお願いいたします。
そしてこれまでも『とらドラ!』を読んでいただいている方には、本編の方をお待たせしてしまい、こちらも申し訳ありませんでした。あまり間をあけずに「とらドラ5!』を素早《すばや》くお届けしたいと思っておりますので、どうかもうちょっとだけ、お待ちください。
ところで、ホラーな創作物を製作するとその製作者に不幸が起きる、とか、よく開きますよね。ポルターガイストとか、四谷《よつや》怪談《かいだん》とか。この不幸男一代記は、「電撃《でんげき》hp」の連載を加筆修正したものなのですが、その作業中、私もすごく不幸な事件に遭《あ》いました。ぜひともその話をあとがきに書こう、書かなきや腹が収まらない、と思っていたのですが、今回のあとがきは2ページまで、と決められており、この悲しみと怨念《おんねん》はとても2ページに収まりきるようなモノではありません。だからまた別の機会にご披露《ひろう》します。絶対にだ……。豊かな草原で放牧されている乳牛みたいに穏《おだ》やかなこの私を、実の親をして「あんたの怒った顔を十年見ていない」とまで言わしめたこの私を、よくぞここまで苦しめよった〜! ……と思うような事件です。
それでは、最後までお付き合いくださった皆様。この本をお手に取っていただき、本当にありがとうございました。本を書いて、書店に並べて、そして選んでいただけた、というこのご縁《えん》の確率を、私は奇跡みたいなものだと思っています。そして少しでも楽しんでいただけたなら、こんな幸いは他《ほか》にありません。感謝《かんしゃ》の言葉ではもう足りない、一字一字に「愛」を込めて、これからも皆さんのお手元に……いや、ハートに、全体重ごとぶつかっていきたい。受け止めてください。そしてヤス先生&担当さま、引き続き、まだまだお世話になります!
[#地付き]竹宮《たけみや》ゆゆこ
底本:「とらドラ・スピンオフ! 幸福の桜色トルネード」電撃文庫、メディアワークス
2007(平成19)年5月25日初版発行
入力:ZZZfZ9sRSdyBF
2007年11月29日作成