[#表紙(表紙.jpg)]
竹内久美子
浮気人類進化論 きびしい社会といいかげんな社会
この奇怪なタイトルの本は、
残念ながら浮気のすすめの書ではない。
想像を絶するほど多様な動物たちの
社会を巡り歩いたすえ、
人間成立の意外な本質に迫ろうとする
ちょっと他に例を見ない本だ。
滋賀県立大学学長
[#地付き]日高敏隆
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目 次
プロローグ
第一章 人間の起源
類人猿のコトバ
人間になりかけたヒヒの話
浮気をするから人間になった
理科系男の逆襲
第二章 さまざまな結婚
猛女とつきあうには カマキリ
浮気と嫉妬は両立するか トンボ
貞女の素顔 チョウ
がめついのは子のため? ガガンボモドキ
オスは悲しいね 魚
第三章 きびしい社会
夫より家を選ぶ旧家の娘 ハヌマンラングール
亭主は単なるヒモなのか ライオン
悲しき近親交配 マウンテンゴリラ
陽気な性格とは裏腹に チンパンジー
第四章 いいかげんな社会
弱者にもチャンスはある オランウータン
妻が多いのも考えもの? ゾウアザラシ
組織に入るか、ハナレザルになるか ニホンザル
究極の類人猿がつくった桃源郷 ボノボ
エピローグ
あとがき
文庫版のための少々長いあとがき
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プロローグ
男が女を、あるいは女が男を得ようとするとき、我々は大なり小なり人格が変わってしまう。
急にロマンチストになり、絵画や音楽に造詣《ぞうけい》が深くなる。人の痛みがわかる、やさしい心の持ち主になる。この世はウソやごまかしに満ちているけれど、ボクらには関係ないよね、という顔をする。通常では考えられない集中力や忍耐力を発揮するのもこんなときだ。でも、それはなぜなのだろう。
生物にとって繁殖はもちろん最重要課題ではある。脊椎動物門哺乳綱の一角をなす人間にしても例外ではない。ただ、生殖のために投入するエネルギー、あるいはそのためにあれやこれやと知恵をめぐらす過程は、どう考えても尋常とは思えない。
それに問題なのは、あの浮気という行為だ。命を賭けて一緒になったはずの二人。そのどちらかがトラブルの種をまく。そしてそれを必死に隠し、取り繕おうとする。これほどおかしな動物が他にいるだろうか。
こんなとりとめのないことを考えてはため息をつくというのが、ここ数年の私でした。それにしても人間とは何なのでしょう。なぜ我々は、こんなことになっているのでしょう。それは考えるだけ野暮というものかもしれません。ただ、私は動物行動学を学んでおり、人間を他の動物と比較検討して考えることはできます。この本は、動物行動学の一学徒が、人間とはいったい何か、なぜ人間は人間になったのかという大テーマに、野暮は承知の上で取り組んだ結果なのです。
また、残念ながらこれは女が書いた浮気擁護の本というわけではありません。私も女としてそう簡単に敵に塩を送るようなまねはできかねます(結局のところはかなりの塩を送ることになるでしょうが)。
第一章では、人間が人間となった謎に迫ってみました。その際、最も注目するのが、浮気やごまかしといった低俗≠ゥつ下世話≠ネ話題です。ここであなたは、早くもマユにツバをつけようかと思い始めるかもしれません。けれど、なぜそのようなことに私がこだわるのかということは第二章以降で説明して行きます。
第二章はかなり趣味的な内容になっています。主に昆虫を例にとり、各論的に述べてみました。
第三章、第四章では子殺し(他人の子を殺すという意味)の問題を扱っています。野生動物の世界では仲間殺しは起きない、彼らは人間のような愚か者ではない、というのがコンラート・ローレンツ(彼は動物行動学の父と言われています)の美しい神話でした。しかし、最近ではこの考えはまったく否定されています。あの百獣の王たるライオンも、我々の隣人であるチンパンジーやゴリラにおいても、子殺しは頻繁に行なわれているのです。ところが、興味深いのは子殺しの起きる社会と起きない社会とがあるということです。チンパンジーとボノボ(ピグミーチンパンジー)は互いに非常に近縁であるにも拘らず、そのような大きな違いがあります。こういう重大な問題は、どうもそれぞれの動物の社会構造と深く関わっているような気がします。しかも、そのことはこの本のテーマと意外なつながりをもっているのです──。
ともあれ、ややこしい口上など忘れ、最後までごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。
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第一章 人間の起源
類人猿のコトバ
チンパンジーの知能テストとして有名な問題に、天井からぶら下げられたバナナをどうやってとるかというものがある。
無論このバナナはちょっとやそっとのジャンプではまず届かないような高さにセットしてあるし、実験の行なわれる部屋には、チンパンジーが踏み台として使うことを期待されている木の箱が置いてあるだけである。
研究者はチンパンジーの行動に一喜一憂する。バナナを手に入れることはできなかったが箱に興味を示したということになれば、「この子どものチンパンジーは既にこの発育段階にまで到達した」などと解釈するのである。はたして彼らは研究者の解釈通りに行動しているものなのだろうか。子どものチンパンジーは、人間の幼児がそうであるように、バナナなんかちっとも欲しくなくて、ただ木の箱で遊びたかっただけのことかもしれない。
ヴォルフガング・ケーラーは、かつて、ある非常に賢いオスのチンパンジーにこの問題を出題した。彼はその場の状況を見てしばらく思案していたが、やおら箱とは違う方向に向かって歩いて行ったかと思うと、ケーラーの手を引いたのである。この著名な心理学者はチンパンジーの予想外の行動に多少とまどいを感じたが、その意味を知るためにも彼の要求に従ったのだった。
ケーラーは、その結果ひどく思い知らされるはめになった。この問題にはバナナの下に人間を立たせ、それを樹木にみたててよじ登り、目的の品を手に入れるという「別解」があるのだ。チンパンジーに導かれて部屋の中央まで静々と歩いて行くケーラーには、チンパンジーがバナナをつかむ際に嫌というほど頭を踏みつけられようとは、つゆほども予想できなかったのである(詳しくはコンラート・ローレンツ著『人イヌにあう』(至誠堂選書)参照)。
チンパンジーの知能は、知能テストをしようとした人間が逆にテストされてしまうというほどに高い。しかし残念なことに彼らには、音声による言語のような高度に洗練されたコミュニケーションの手段がない。さまざまな音声を発することには発するが、それらは学習された「言語」ではなく、喜怒哀楽の情を表す「間投詞」であったり、仲間に対する「合図」程度のものでしかない。
では、もしチンパンジーを人間の子と同様に育て訓練したなら、言語をしゃべることができるようになるのだろうか。アメリカのヘイズ夫妻はヴィッキーという名のメスのチンパンジーに、彼女がほんの赤ん坊の頃から言葉を教える試みを始めた。ところが夫妻の助けを借りてやっとの思いで発音できるようになったのは、「パパ」、「ママ」、「カップ」の三語にすぎなかったという。それはチンパンジーの学習能力が劣っていたからではない。それどころか、「カップ」が何をするためのものであるかも、「パパ」と「ママ」の力関係がどうなっているのかも、十分お見通しだったはずなのである。
チンパンジーは進化の過程で高い知能をもつようになった。しかし、複雑な音声を発する器官を発達させることはなかった。彼らのコミュニケーションは、さまざまな音声とともにいくつかのボディ・ランゲージから成っているのである。
アメリカのガードナー夫妻は、この点に注目した。ワシューという名のメスのチンパンジーに実際に人間界で使われている手話(アメリカン・サイン・ランゲージ、略してアメスラン)を教えることを思いついたのである。ワシューの上達ぶりは目ざましく、五歳になったときには百数十語もの手話の言葉をマスターし、しかもそれぞれを組み合わせて使い、人間と会話を楽しめるほどになった。
アメリカのF・パターソンはココという名のメスのゴリラで同様の試みをし、同じく成果をあげている。ワシューの場合と違い、パターソンはココに手話と同時に英語の発音を覚えさせることをも付け加えた。ココが手話と英語の発音を混同してしまうのではないかとも危惧されたが、それはいらぬ心配だったようだ。ココは手話と英語の発音とをまったく別々に理解し、驚くべきことに、英語の韻をふむ単語の例をいくつか挙げなさいという問いに対し、手話で「|Hair《ヘアー》 と |Bear《ベアー》」、「|All《オール》 と |Ball《ボール》」、「|Goose《グース》 と |Moose《ムース》」などと答えたという。つまりココにはヒアリングの能力も備わっていたのである。
ワシューもココも、なかなかの才媛であったことはたしかで、他にも何頭かが同様に「教育」されたが、この二頭ほどには成果があがらなかった。ただ、ワシューもココも自分より手話の未熟な仲間に対しては教師となり、ていねいに指導してやったということである。
一方、アメリカのD・プリマックはサラという、やはりメスのチンパンジーにこんな試みをした。プラスチックのシンボル(各々一定の単語に対応する色、形、大きさの違う図形)を使って文章を作らせたのである。アメスランではよくわからない文法能力を探るためである。それによるとサラは六歳のときから訓練を受け始めたが、五年の後には約一三〇ものボキャブラリーを習得し、重文、複文をも理解して作文することができるようになった。
さらに、有名なヤーキーズ霊長類研究センターでは、ラナというメスのチンパンジーがサラでの研究を徹底させる形で訓練された。彼女は図形文字の貼りつけられたキーボードをたたいて質問に答え、その回答は逐一コンピューター処理された。ラナはそれまでの言語を教えられた生徒と違って、一日中キーボードのずらりと並ぶ透明なプラスチック張りの部屋で過ごさねばならなかったのである。もっとも、キーボードは単に学習用としてでなく、食物や飲物、それに音楽や映画のような娯楽の要求のためにも使われたが……。
ラナに対して行なわれたような徹底した研究は、それが進めば進むほど、類人猿が基本的な言語能力においてほとんど人間と変わらないくらいのものをもっていることを示す結果になった。人間と類人猿との間にあくまで一線を引きたいと考える多くの学者は、結局、言語能力という最後の砦《とりで》すら、もはや風前の灯であることを思い知らされるにちがいない。
けれどもここでちょっと真剣に考えなければならないことがある。それは類人猿が潜在的に言語能力を持っていながら、なぜコミュニケーションの手段として、敢えて実用化を計らなかったのかということである。彼らにはその必要性がなかったのかもしれない。だとすればなぜ必要がなかったのだろう。そして人間が言語の必要性に迫られたのだとしたら、それはなぜだったのだろう。人間はいったい何を言いたくなったのか?
人間になりかけたヒヒの話
多くの家族が寄り集まって集落ができ、それらが統合されて村や町、さらには国家ができる。つまり、人間の社会は重層的な構造をしているのである。こういう複雑で密な構造をもった社会で、人間どうしが曲がりなりにもうまくやって行けているのは、「他人の妻または夫と性的な関係を結ぶことは極力避けなければならない」という暗黙の了解があるからこそだろう。
では、もし、人間社会からこの暗黙の了解事項が取り除かれたなら、どういうことになるのか。
初めは一部の好き者が、いや、かなり多くの普通の人々がフリーセックスの喜びを分かちあうだろう。けれども、遅かれ早かれ、生まれてきた子の父親が誰であるのか、誰であるかはっきり特定できなくても、だいたいどの範囲に存在するのか、そして子の所有権は誰にあるのかなど、子の所属をめぐる問題が持ち上がってくるに違いない。結局のところ人間社会は、次に述べる類人猿たちの社会のうち、いずれかに似たものに近づいていくものと思われる。
まず、テナガザル──彼らは一夫一妻制をとっており、夫婦と数頭の子どもから成る、いわば核家族を作っている。彼らは他の家族に対し非常に排他的で、家族ごとのなわばりは父テナガザルによって厳しく防衛されている。四六時中行動を共にするテナガザルの夫婦には、他者の介入する余地などほとんどあり得ない。
ゴリラ──彼らは一夫多妻のハレム制をとっている。一つのハレムにはリーダーの他に二〜六頭のメスとその子どもたちがいる。リーダー以外の成熟したオスがいることもあるが、それはリーダーの息子であり、いずれはそのハレムを継ぐ人物である。ゴリラの社会にははっきりしたなわばりがないので、ハレムどうしやハレムとあぶれオスとは頻繁に遭遇する。こういう場合、メスが力ずくで奪われることがある。ゴリラのオスは妻や子を防衛する争いを通じ、あのように巨大な体を進化させたのである。ゴリラのオスが交尾するのはハレムのメスか、他のハレムから奪い取り、今や自分のものとなったメスだけである。
チンパンジー──彼らは複数のオスと複数のメス、そして子どもたちから成る三〇〜八〇頭ぐらいの集団で生活している。集団内での交尾は乱婚的と言える。順位の高いオスは交尾に関してたしかに有利な立場にあるが、劣位のオスにもかなりのチャンスが残されているからだ。特定のオスが特定のメスを独占することもあるが、長期にわたることはない。集団内にはおおむね協調性が保たれている。ところが集団どうしとなると、これはもう大変に敵対しあった関係にある。その争いにおいては死者が出ることも珍しくない。集団間にメンバーの変動が起きるのは、メスが移籍する場合のみであり、オスは生まれ育った集団に一生留まり、他の集団のオスと敵対し続けるのである。
右にあげた三つの例は、いずれも重層構造をもたない社会、つまり集団なりハレムなりがあったとしても、それらが寄り集まってもう一段階上の構造を作るということがない社会である。類人猿たちは性的関係を結んでも不都合が生じないメンバーとのみ行動を共にしているのだ。だから、他人の妻または夫に対して性的な欲求を抑制しつつも行動を共にするという性質は持っていないし、また持つ必要もないというわけなのである。ならば、そういう「意志の力」は人間にしか存在しないのだろうか。
人間と同じように重層構造を持つ社会を作り、しかも性的な欲求を制することのできる動物が、実は、いる。
京大の河合雅雄氏(現兵庫県立「人と自然の博物館」館長)らは、エチオピアの高原地帯にすむゲラダヒヒを研究するうちに、彼らが分類学的には類人猿よりも人間から遠い存在であるにも拘らず、きわめて人間的な心の世界をもっていることに気がついた。
ゲラダヒヒは一夫多妻制をとり、一頭のリーダーオスが三〜五頭のメスとその子どもたちを引き連れて一〇頭ぐらいの家族(ワンメール・ユニット)を作っている。そして、この家族がさらにいくつも集まってバンドと呼ばれる大集団を形成しているのである。ゲラダヒヒの写真やフィルムを見ると、餌付けをしたわけでもないのに、必ず何百頭にものぼろうかという大集団のメンバーたちが、草を食《は》んだり、毛づくろいをしている様子が写し出されている。これが彼らの生活単位なのである。しかし、一日の行動を共にしていても、ユニットどうしは混ざらないようにしている。試しにユニットのメンバーを含む円を描いてみると、円どうしが交わることはほとんどないという。
この事実だけからも、ゲラダヒヒは相当に秩序と礼節を重んずる動物であることが窺える。が、さらに驚くべきは、ときどき一つの家族の中にれっきとしたオスが同居しているということである。セカンドオスと呼ばれるこのオスは性的に少しも異常ではないし、欲求も十分にあるのだが、生殖活動を行なっていない。一つのユニットに二頭のオスがいるのに、ワンメール・ユニット(「メール」はオスの意)という呼び名が通用するのは、このオスが性的に不活発なためである。
そもそも一夫多妻制をとっている動物では、オスがあぶれてくるのは当然のことである。ゲラダヒヒの場合、そういう独身オスの身の振り方としては、だいたい三つの道がある。何頭かが集まって作っているオスグループの一員となるか、フリーランスと呼ばれる、ユニットにもオスグループにも属さずバンド内を自由に行き来する風来坊のようなオスとなるか、それともこのセカンドオスになるか、である。
オスグループは青年期のオスの集団であり、ふつうはこの中からどこかのユニットの次期リーダーが誕生する。フリーランスにはシニアフリーランスとジュニアフリーランスの二種類があり、前者はたいてい引退したユニットのリーダー、後者は思春期のオスであることが多い。
そしてセカンドオスであるが、これがなんとも不思議な存在である。彼はいわばリーダーの補佐役であり、リーダーの妻たちが分散しないよう寄せ集めたり、毎日のように行なわれるオスグループとの闘争(といってもほとんど儀式的闘争である)のあいだ、メスや子どもたちを守っていなければならない。
彼はリーダーと血縁関係があるわけでもないらしい。人間にあてはめるなら、親分子分の関係とでも言うべきだろうか。日頃の忠勤に対して彼が与えられている唯一の報酬は、リーダーの第二夫人の地位にあるベータメスと仲良くしてもよいということである。ただし、これは毛づくろい程度のことならしてもよいという意味であり、性的関係などもってのほかである。それほどまでに忠義を尽くしたのなら、彼は跡目を継いで然るべきではないかと思えるが、ほとんどの場合そうはいかない。ユニットのリーダーの座は、ユニットを襲ってリーダーを追放したオスグループの中心人物の手におちてしまうのだ。メスたちは、ある日本気で行なわれるリーダー交代劇を静かに見守り、次期リーダーを支持するのである。
人生の楽しみや将来の展望といったものにおよそ縁がないと思われるセカンドオスである。が、彼とても人の子、いや、ゲラダヒヒの子である。性的欲求や、あわよくば自分がリーダーにという野心がないわけではない。常にユニットのメンバーと行動を共にし、リーダーオスに従い続けている彼にとって、唯一の反逆のチャンスは、あろうことかオスグループとの闘争の場面にある。
最初から最後まで儀式にのっとったこの闘争で、リーダーオスはできるだけ大袈裟な身振りと精一杯の大声を張りあげてオスグループを挑発、彼らをメスたちのもとから遠ざけるよう誘導する。オスグループも乗せられていることを承知の上で、わめき散らし、リーダーを追いかける。
くどいようだが、それはあくまで儀式なのであって、本当の闘争に移行することはまずない。そうはいっても、真剣に行なわれなければ意味がない。声や身振りは、本当の闘争になった場合のお互いの力量を測る重要な判断材料であるからだ。リーダーは一瞬たりとも隙を見せることはできないのである。
リーダーが真剣にこの儀式をとり行なっているあいだ、セカンドオスは時として妙な気を起こすものらしい。ゲラダヒヒの交尾時間はわずか一〇秒ほどである。たしかにこの機会を逃す手はない。河合氏は、あるセカンドオスがリーダーの妻と、そのようなことになりかけた場面を観察している。
ある朝、いつもながらのオスグループの襲撃に、リーダーであるギラがオスグループを誘導しながら丘の向こうに姿を消した。セカンドオスであるケンは、ここぞとばかりにギラの妻であるノラに歩み寄り、彼女の尻に両手を当てて持ち上げ、交尾を促す姿勢をとった。ところが彼女が拒否し、少々気まずいムードになったとき、ギラが戻ってきた。
ケンは慌ててノラから跳び退くと、ギラに向かってしきりに唇めくり(リップロール)をした。唇めくりというのは、ゲラダヒヒに特有の行動で、文字通り上唇を巻き上げ歯ぐきの肉色を見せるという行動である。これは体の中の弱い部分を見せることで相手に敵意のないことを示す、なだめの信号としての意味をもっている。すると、ギラにはこれだけでいったい何が起ころうとしていたのか十分推察できた。ギラはケンを威嚇すると、いつもの三倍もの時間をかけてノラと交尾したのだった──。
ゲラダヒヒは驚くほど人間とよく似た心の動きをもっている。けれども、彼らは進化史上類人猿よりも遥か昔に我々とは別の道へ歩み出した動物である。彼らがきわめて人間的な心をもつようになったのは、人間が人間になった背景とかなりの部分で共通しているのかもしれない。もしかしてそれは、重層的な社会とそれを円滑に運営していくための不文律のようなものなのか……。
浮気をするから人間になった
かのデズモンド・モリスは人間の起源や本質に関し、実に多くの興味深い仮説を提出している。彼は、代表作である『裸のサル』(河出書房新社)の中で、人間の高い知能は狩猟生活に対し必要不可欠なものとして発達してきたと述べている。
もっとも、狩猟が重要な要因であることは、モリスに限らず人間の進化に興味をもっている人なら誰もが認めている。
高い知能をもっている者ほど優れた道具を作ることができ、それを狩りに役立てることができるだろう。その道具は彼の家族や親類縁者の要請を受けて作られることもあり、そういう者たちほど集団による狩りを効率よく行なうことができる。つまり彼らはより多くの獲物を手に入れ、多くの子孫を残すことができた。こういうことが何世代にもわたって繰り返されるうちに人間の知能はどんどん高まってきたと考えられるわけである。高い知能は道具の作製だけでなく、集団をいかに組織するかという問題にも関わってくるだろう。
狩猟と並んでもう一つの重要な要因は戦争である。これも多くの人々が認めており、あのダーウィンも『人間の由来』という著書の中で既に指摘しているほどだ。
狩りと同様、より高い知能をもつ者ほど優れた道具、つまり兵器を作り、強力な集団、つまり軍隊を組織することができる。かくして、そういう者たちがそうでない者たちを駆逐し、人間の知能は急速に高まってきたというわけである。
このいずれもが的を射た議論である。私は少しも異議を唱えるつもりはない。ただ、どうも次に指摘する最も肝心な点を見落とし、その周辺の補強要因のみを取り扱っているように思えてならないのである。
他の霊長類と比較して、人間はさまざまな特徴をもっている。中でもとりわけ重要なのは「言語的コミュニケーション」の能力だ。先の主張はこの点をなおざりにしているのである。狩りよりも戦争よりも、他ならぬ言語が、いや言語の何らかの必要性が人間の知能、そして脳を発達させたのではないだろうか。
とはいえ狩猟や戦争によって脳が発達したから、あるいはその場合に言語が必要になってきたから、人間は言語能力を獲得したのだという論もあるだろう。けれども、狩猟や戦争によってどれほど言語能力が高まるだろうか。言語が必要なことはあっても、それほど複雑なものである必要はないのではあるまいか。
しかも決定的な事実は、狩猟や戦争というような組織的な活動に参加してきたのはもっぱら男であり、女は育児や食物の採集といった、協力や言語的コミュニケーションをあまり必要としない、霊長類の伝統的な仕事に携わってきたことである。つまりそういう生活そのものの中では、女は言語を切実には要求しなかった。ところが現実には違っている。現代人の男と女を比較してわかるのは、個人差はあるものの女の方が圧倒的におしゃべりだということだ。歴史をひもとくならば、科学や芸術などの領域にはほとんど登場しなかった女が、作家、詩人、はたまた女帝、シャーマンとして言語能力がものを言う領域には続々と登場してきたではないか。言語とともに生きてきたのはむしろ女の方なのである(もちろん、男も女とは違う意味で言語と深い関わりをもってきたのだが、それについては後で述べる)。
狩猟や戦争を重視する従来の考え方では、人間の言語能力の進化は説明できない。言語に対するもっと別の切実な必要性が、人間の知能を高め、人間を人間たらしめる最大の推進力になったのではないだろうか。
では、そのもっと別の必要性とはいったい何だったのか。どんなときに人間は言語が必要になるのか。
この問題を考えるためにまず、チンパンジーとゴリラ、つまり人間に最も近い二種の類人猿、とりわけその社会に目を向けてみよう。彼らと我々とはお互い類人猿と人間などという線引きをされるような存在ではない。この三者は、どれが最も進化しているとか、どれがどれより劣っているなどと言われる筋合いもない、それぞれが一枚看板を張ることのできるトリオなのだ。それはまた、遺伝子のレベルでの比較からもわかってきているのである。
ゴリラは、オスの体重が二〇〇キロを超えようかという巨体の持ち主である。メスはそれほど大きいわけではなく、オスの半分くらいにしかならない。オスの体が発達したのは、メスをめぐってオスどうしが格闘するからだ。体が大きくて強いオスほど多くのメスを獲得し、多くの子孫を残す。つまり、進化生物学の分野で言うところの「性淘汰」によってオスの体が大きくなったのである。
チンパンジーではオスの体重は四〇〜五〇キロぐらいである。メスはオスよりやや小さいが、ゴリラのような極端な差はない。それに動物園で飼われているチンパンジーは十分な食物と運動不足のせいでオス、メスともに六〇キロ以上になることがあり、その場合ますます性差は縮まるという。
人間とても、未開民族と「人間動物園」の住人である文明人とを比較すれば、体重についてチンパンジーと同様の対応づけができる。十分な栄養をとり、仕事といえば一日中デスクワークというような文明人が六〇キロ以上の体重をもつのに対し、背も低く引き締まった体をしているニューギニアなどの未開民族の人々の体重は五〇キロにも満たない。つまり、意外に聞こえるかもしれないが、チンパンジーと人間とは本来、体重に関してはとりたてて言うほどの差はないのである。
けれども人間とチンパンジーの体を詳しく調べてみると、それぞれに驚くほど発達した部分があることがわかる。それは人間の場合には脳であり、チンパンジーの場合には精巣《せいそう》、つまり睾丸である。人間の脳の容積はおよそ一四〇〇ミリリットルだが、これはチンパンジーやゴリラのものの三〜四倍に相当する。一方、チンパンジーの睾丸は(左右合わせて)一二〇グラムほどで、これも人間やゴリラの場合の三〜四倍に当たる。チンパンジーの睾丸の異常とも思える発達ぶりは、彼らの婚姻形態が大筋において乱婚的であることに原因があるらしい。
チンパンジーの社会では、メスが発情すると、オスたちが入れかわり立ちかわり彼女と交尾する。だから、生まれてくる赤ん坊の父親が誰になるかということは、精子のレベルでの競争にゆだねられている。あらかじめ格闘によってメスの所有権に決着をつけ、ハレムを作ったオスだけが交尾することのできるゴリラと違い、チンパンジーの交尾は精子レベルでの闘いのはじまりを意味する。チンパンジーでは睾丸を発達させた、精子製造能力に優るオスの子が生まれてくる可能性が高い。こうやって生まれてきた息子が父親譲りの大きな睾丸をもつことは言うまでもないのである。
このように、ゴリラの体の発達もチンパンジーの睾丸の発達も婚姻形態に注目することで説明がつく。ならば人間の脳の発達も同様の観点から説明してみてもよいのではないだろうか。脳の発達は人間の婚姻形態、その特異性に端を発しているのだと……。
人間の進化の過程で我々の祖先がどういう婚姻形態をとっていたのかというと、それはほとんど知るよしもない。人骨を発掘したところで、わかることと言えば男と女の体にどの程度の差があったかということなど、きわめて限られた範囲の情報だけである。しかし現代人の男がそれほど睾丸を発達させていないことからわかるのは、少なくとも彼らはチンパンジーのような乱婚的な婚姻形態をとってはいなかったということである。
それに一夫一妻制であったにせよ、一夫多妻制であったにせよ、霊長類の伝統的な生活様式であるオスとメスが常に一緒に遊動していくという方式を捨て去り、男が狩りに出かけ、女は家やその周辺に留まるという新しい生活様式を確立したこと、そしてそれはゴリラ、チンパンジーとは異なる独自の道であったということはまちがいない。
狩りをすることにかけては我々の先輩にあたる食肉類の動物たちを考えてみても、こういう方式は見当たらない。集団で狩りをするオオカミやリカオンでは、オスとメスが一緒に狩りをする。彼らの集団はパックと呼ばれていて、メンバーは一夫一妻の夫婦と彼らの未婚の血縁者である。キツネやタヌキも一夫一妻制をとり、夫婦ともども狩りをする。ライオンは二〜三頭のオスと三〜一二頭のメス、それに数頭の子どもから成るプライドと呼ばれる集団を作っている。プライド内での婚姻は乱婚的であり、よく知られているように狩りをするのはメスの方である。
こうしてみると、我々の祖先はかつてどの動物も選ばなかったきわめてユニークな生活様式を採用してきたことがわかる。夫婦である男と女は、時に一緒に、時に別々に行動するのだ。
人間の夫は妻の貞節を信じて狩りに出かけ、妻は夫が狩りにのみ精を出してくれるものと信じて送り出す。集団で出かける場合には、夫の仲間たちに彼の監視を依頼するかもしれない。もっとも、それがどれほどの効果をもっているのか、わからないが……。
狩りに出かけた夫たちは自分の家族のために仕事に励むが、余裕があればさらに多くの子孫を残すための「課外活動」も行なうだろう。そうして何食わぬ顔で帰ってくるのだ。そのとき狩りの獲物は少々減っているかもしれないが、自分の子どもと妻を満足させられれば十分である。「課外活動」の相手となる女は未婚、既婚を問わない。特に既婚の場合には、生まれてきた子を彼女の夫が自分の子だと信じて育ててくれるかもしれないではないか。カッコウに托卵される鳥のように。
男が「課外活動」において成功するには、うまい言葉遣いによっていかに女をその気にさせるかが重要なポイントとなる(言語はこういう場面でまず必要となるのである)。また、そういう男を父として生まれてきた息子もいずれ父譲りの口のうまさで大いに成功を収めることだろう。こうして男は「口説く」能力を進化させたのである。
一方、妻は夫の浮気を防ぐ手立てを考えなければならない。夫が「課外活動」に熱心になりすぎれば持って帰る獲物も少なくなるだろうし、最悪の場合には夫がまったく帰って来なくなることだってありうる。
そこで妻たちのとった対応策は、近所の奥さんたちと「立ち話」をすることだった(言語は次にこういう場面で必要となるのである)。近所にすむ女どうしはライバルとして牽制しあうのではなく、互いに情報提供者としての同盟を結んだのである。「誰がいつ、どこで、何をしていた」「いつもと違う方向へ歩いて行った」「あの人は最近オシャレになった」などという一見たわいのない会話こそが浮気発見のきっかけとなる。またこういった観察眼は男ばかりでなく女にも向けられ、特に新入りの若い女に対しては恐ろしいまでに厳しいものとなる。
女ならずとも道で人に会ったときなど無意識のうちに「どこ行くの」と尋ねてしまいたくなる性癖をもっているが、それは、こういうところに起源があるのではないだろうか。女が他人の服装などの観察に熱心なのも「そういう些細でつまらないことしかわからず、政局の動向≠ネどまるで無関心」だからなのではなく、亭主の動向≠ノ鋭い感覚を働かせるように進化してしまったからに他ならない。
女は夫の浮気を防止する一方で、自分はつまらない男にだまされないよう気をつけなければならない。それは未婚の女にとってはさらに重大な問題である。既婚の女の場合、その結果生まれてきた子はうまくすれば夫をだまして育てることもできようが、当の男の協力が得られない未婚の女の場合には不利な条件での子育てになる。だからこそほとんどの社会において未婚の母は厳しく取り締られるし、娘たちもそういう不幸な目に遭わないよう警戒する。その結果彼女たちは、注意すべき男の見分け方、あるいは現実に指名手配中≠フ悪い男に関する情報交換のために日夜おしゃべりに夢中になるのである。
こうして人間では婚姻をめぐるさまざまな場面で、男にも女にも言語が必要になった。人間は言語によって勝負する動物なのである。言語の必要性が脳を発達させ、人間を人間たらしめる最大の原動力になった。そう私は考える。人間は発達した箇所が体でも睾丸でもなく、偶然にも脳だったというわけである。
理科系男の逆襲
男は女を口説くために、また女は男に関する情報交換を行なうために、どちらも言語的能力を進化させた。
現代においても、女がおしゃべり好き、噂話好きであることに変わりはない。そして男は、女を口説く際に必要となった、相手を思わずその気にさせてしまううまい言葉遣いの能力をセールスや接客の商売はもちろんのこと、司会者や芸人、政治家や企業のトップなど話術の巧みさがものを言うあらゆる分野に応用している。女を口説く能力と、人間を相手にするあらゆる職業において言葉を自在に操る能力とは本来表裏一体のものなのである。ところが現代の日本では、それらの分野で成功を収めている男が、私生活上のスキャンダルをネタにせっかく築いた地位までも危うくされるという事態が頻繁に起こっている。本当に気の毒と言う他はない。
男が口説きの能力を進化させたといっても、すべての男が女たらしだというわけではない。口べたで女にどう声をかけてよいやらわからないというウブな男もかなりの割合で存在する。私が長年在籍してきた京大理学部など、まさにそういう男たちの巣窟《そうくつ》であった。こういう男は、これまでの議論からすれば、子孫を残す競争においてきわめて不利なはずである。そのハンディにも拘らず、彼らが今日、繁栄を築くことができたのはなぜなのだろう。
私は、一般に人類進化の二大要因であると考えられている「狩猟」と「戦争」とを補強要因程度に見なすべきだと思っている。しかし、今度こそは、これらの要因に注意を向けるべきだ。口べたで女を口説くことが苦手な男は、実はこの狩猟と戦争とを通じて子孫繁栄の道を開拓したのである。
狩りのための道具や戦争のための兵器を作ることが得意な男は、そのことによって自分の兄弟姉妹をはじめとする血縁者の生存に大いに貢献できる。血縁者どうしは同じ遺伝子を共有しあっている確率が高いから、たとえ彼自身が子を残さないとしても、血縁者が子を作れば遺伝子が間接的に受け継がれるのである。こういった過程は進化生物学の分野で「血縁淘汰」と呼ばれており、生物の進化を論ずる場合に決しておろそかにすることができない重要な概念である。指摘したのはイギリスのW・D・ハミルトンという人で、何でもないことのように思えても、この分野で今世紀最大の業績とさえ評されているのである。
さて、この本でこれまでに展開した論とほぼ同じ内容を、私は既に前著『ワニはいかにして愛を語り合うか』(新潮文庫)の中の日高敏隆氏との対談部分で述べている。私はそのとき日高氏から、この兵器を作るのが得意な男の存在について、「小さい血縁集団の間での戦争では、血縁淘汰が起こってくるだろうけれど、国家間の戦争のように大きな集団どうしとなると、そうはいかないのではないか」という指摘を受けた。
小さな血縁集団においては、優れた兵器製造能力をもつ男は、彼の血縁者だけを利することができるが、大きな集団や国家となると、アカの他人をも利することになってしまう。そういう他人も彼の血縁者たちと同じ軍隊に属しているわけだが、戦争以外の場においてはむしろ生存競争上のライバルとなりうる。そう考えると、彼が兵器製造能力を発揮することは、血縁者、つまり自分と遺伝子を共有しあっている者のみならず、それと競合関係にある非血縁者までも利することになり、結局意味がないのではないかという論理である。
日高氏の指摘に対し、たとえば集団の利益につながるのだから、そんな自己中心的なことは言わなくてもいいのではないかと皆さんお考えになるかもしれない。しかし、そういう全体主義的、集団の利益云々というような考えは、進化生物学の分野では誤りであることがわかってきている。あくまで個体や遺伝子の利益として大いに返ってこなければ意味がないのである。私は、こういう男はあくまで血縁者を利することができると思う。
優れた科学者や発明家は国家に重く用いられ、高い身分や高額の報酬を与えられるなど、さまざまな面で優遇される。その高名な人物の血縁者たちは、彼と血のつながりがあるという名誉ばかりでなく、彼から経済的援助など、直接的恩恵を蒙ることもできる。
さらに戦争下ともなると、そのような優秀な頭脳をもつ人物は特に大切に守られる。ナチスの台頭とともに、アインシュタインを初めとするユダヤ人科学者たちは、続々とアメリカなどへ移住したが、どこへ行っても彼らは、諸手を挙げて歓迎された。ロケットの父として有名なドイツのフォン・ブラウンは、第二次世界大戦中、彼が次々と考案する新型ロケットによって連合国側にとっては脅威の的となっていた。ところが、大戦が終わると、喉から手が出るほど彼のことを欲しがっていたアメリカの手によって連れ去られ、その後はNASAの中心人物として華々しく活躍するようになったのである。
アインシュタインやフォン・ブラウンほどの才能の持ち主でなくても、兵器の研究や製造について能力のある者、機械工学などの専門技術を持っている者には、兵役を免除されるという特典がある。かつて日本で行なわれた学徒動員にしても、文科系学生に限られたという事実を思い起こしてみるといい。この時代の学生の中には、兵役逃れのために無理をして理科系学部へ進んだ人さえいたほどだ。
ともあれ、少々不謹慎な言い方をさせてもらうなら、戦争は理科系型一族(女を口説くことは苦手だが兵器づくりなどに才能をもつ男──私はこれを理科系男と命名している──を輩出する一族)に有利に働き、彼らに繁栄をもたらすたいへん結構な代物であると考えることもできる。これらの人々にとって戦争とは、他の民族を滅ぼしたり、降伏させたりするだけのものではなく、場合によっては身近なライバルを潰す絶好の機会なのである。たとえ戦争に負け、他の国に征服されたとしても、この一族は専門技術を生かして有利に生き延びることもできる。理科系男は、文科系男(言葉遣いがうまく浮気に精を出すタイプをこう命名している)が平和時に繁栄した分を、戦争を通じて取り戻し、勢力を挽回することができるのである。
対談における日高氏の指摘はなかなか鋭いところをついており、私も一瞬ひるんでしまった。けれど今は、理科系人間は国家などの大集団においても血縁淘汰によって十分生き残ってこれたのだと確信している。
余談になるが、理科系の才能が兵役を免れることにつながるのであれば、この才能は早く開花しなければ意味がない。徴兵検査の行なわれる年齢頃までには、である。これを裏付けるものとして、理科系型の秀才は概して早熟だという傾向を挙げることができると思う。彼らはたいてい子どもの頃から非凡な才能を発揮して、周囲の人間を驚かせた経験をもっている。多くの科学者にとって、彼の最大の業績が、ほとんど例外なく二十代までか遅くとも三十代前半までになされた仕事であることを考えてみてもよくわかる。ノーベル賞を受賞した科学者にしても、受賞理由となった研究をそういう早い時期にやり終えているのがふつうで、再評価された遥か昔の栄光に、感激も新たに授賞式に出席するというわけである。
さて、もう一度人間の歴史の初期の頃へと立ち戻ってみよう。
人間の歴史は血縁集団による狩猟から始まった。その中で狩りのための道具はどんどん進歩していったはずである。しかし、そうなると少々困った問題が生じてきた。優れた道具によって食物がたやすく手に入り、人々が豊富な食物の恩恵に浴するのはよいが、人口は増え続け、ついには獲物を取り尽くしてしまうとか、人口に対し著しく食物が不足するというときが訪れたのである。
その点、狩りをする動物として、我々の先輩とも言うべきオオカミやライオンなどにはそのような問題はないらしい。彼らは案外狩りがへただからだ。進化の過程で狩りの技術をもっと進歩させようとすれば、できなくはなかったかもしれない。けれども、もしそうなっていたらどうだろう。自然のバランスは崩れ、最後は我が身を滅ぼす結果となっていたはずである。彼らは狩りがうまくならなかったからこそ、今日まで生き延びてこられたのである。
しかし人間は狩りがうまくなりすぎてしまった。皮肉なことに、狩りの道具をつくる技術はそのまま人間を殺す兵器をつくる技術に転用された。狩りと違って戦争は、そのための技術が逆に人口問題を解決してくれる。
たしかに農耕や牧畜が行なわれるようになり、生産力が飛躍的に伸びたときには、人口問題は平和的に解決されただろう。ただ、それはほんの一時|凌《しの》ぎに過ぎなかった。再び人口増加による食糧不足という悪循環が繰り返されたのである。おそらく、その度ごとにかつてなく大規模で組織的な戦争が引き起こされただろう。理科系一族は、こうした戦争があるたびに大きな利益を得てきたに違いない。
では、もし戦争が打ち続き、長期にわたり世情が理科系男に有利に働くとどういうことになるだろう。理科系一族ばかりが栄え、文科系一族は日の目をみなくなるのであろうか。戦争下においては婚姻外の性交渉は厳しく取り締られるのがふつうである。それは、もしそうしなければ国家としてのまとまりを欠き、人々のあいだに享楽的ムードが漂い始め、自分たちの国を防衛するという意識、あるいは他国を侵略しようとする野望が腰くだけになってしまうからだ。そういう意味でも、戦時においては文科系男の活躍の場は失われがちである。
しかし、物事はそう簡単に片付くものではない。打ち続く戦争により理科系男があまりに増えてくると、今度は理科系男どうしの競争が激しくなる。ちょっとやそっとの科学的才能の持ち主ではちやほやされなくなり、兵役を免れることさえ難しくなるだろう。女に対して信用度の高い理科系男の急増は、女の、男に対する警戒心を解きほぐす効果があるかもしれない。真面目で仕事一筋、女は女房一人で十分、他の女を口説くことに憧れはあるが、いざとなると尻込みしてしまう。男とは大概そうしたものだという認識が女のあいだで広まることになる。
そうなると俄然はりきってくるのが、口のうまい文科系男たちである。彼らは、やすやすと女を騙《だま》し、いたるところで成功を収めるはずだ。そうすると今度は文科系男の子孫が増えてくるわけだが、やはりこの場合にも増え過ぎには過当競争というおまけが付いてくる。女は再び男に対する警戒を強め、またしても理科系男が株を上げる……というサイクルが繰り返される。結局、理屈としては理科系男と文科系男の数は、各々が遺伝子を残す競争においてほとんど互角であるというぐらいのところで平衡に達するはずである。
人間のタイプ、あるいは子孫を残す競争における戦術といったものには、実際問題としてあまりにも多くのパターンがあるわけだし、人間の進化の過程をシミュレートするのにここに挙げた二つのタイプ(理科系男と文科系男)だけで済まされるはずもない。それに、男のタイプだけを問題にし、女に関してはまったく触れていないということに、同性の方々の非難の声が今にも聞こえてきそうである。しかし、この本を最後までじっくりとお読みになれば、そういった不満や疑問の大部分が解消、解決されるものと思う。今までに述べたことは、人間の進化を実に大雑把にシミュレートしたものと考えていただきたい。
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第二章 さまざまな結婚
猛女とつきあうには カマキリ
狩りの達人であり、強い昆虫ベストテン個人の部で文句なしの一位を獲得しそうなカマキリは、時に「昆虫界の猫族」とか「草むらにすむ小さなライオン」という呼ばれ方をしている(ちなみに団体の部の一位はアリだろう。アリの強さは徹底している。サファリアリやグンタイアリなどは、その大集団が通った道すじに小動物の骨格標本≠ェ点々と残されるというほどだ)。
カマキリは一瞬の技にかける武芸者である。それなのに人間たちは、滑稽な動物としていじくりたくなる衝動を抑えきれない。体の前で両手を合わせる「拝み姿勢」や翅を広げて自分を大きく見せる「威嚇姿勢」がたまらなく哺乳類的であるからだ。それに、昆虫には珍しく眼が顔の前についている三角頭も、妙に人間ぽくて親しみがわいてしまう。
カマキリの眼が前向きについているのは、狩りをするためである。我々霊長類の場合にも眼は前についているが、それは樹上生活をするうえでの必要性、とくに枝から枝へと跳び移る際の距離感に対する必要性が生じたからだ。だから、もともと狩りのためではなかった。我々の祖先が「狩りをするサル」になったのは進化史上ごく最近のことだが、樹上生活に対する適応として得た両眼視の能力が、樹を降り、狩りをするようになってからもそのまま役立ったのである。カマキリも人間も、前向きについた眼は、仕留めようとする動物までの距離を正確に読みとることができる。その動物が自分の背後に回らないかぎりは、眼を左右に動かすなりしてさらに両眼視の範囲を広げ、獲物との相対的位置を確認できるのである。
一方、逃げることに全精力を傾けているかのごときウサギともなると、両眼視による距離感を犠牲にしてでも敵の存在を見出すことを優先する。彼らはじっとしていても、ほぼ三六〇度の範囲を視野の中に入れることができるのである。
カマキリは、昆虫界でこそ王者であるが、我々人間ばかりでなく、動くものなら何にでも興味を示したがる子ネコにさえおもちゃにされる危険性がある。そこで前方しか見えない眼の欠点を補うべく、ときどき上体を起こして左右をキョロキョロと見回したり、振り返ったりと、いささか威厳を損う態度もとらざるをえなくなる。こういうところが、またまた人間たちのからかいの種になってしまうのだ。
しかし彼らが狩りのために傾ける努力は大変なものである。日本にいるカマキリには緑と茶色の二つのタイプがあり、どちらも隠蔽色として優れたはたらきをもっている。それに細長い体も、ナナフシほど完璧ではないにしろ、草や木の中に身を隠すには足りている。飛んだり走ったりすることは苦手な代わり、ピタリと身じろぎもせず何時間も過ごすことができる。そしてひとたび獲物を見つけたなら、そろりそろりと忍び寄り、気づかれそうになるとピタリと静止する。これを何回か繰り返すうち、いよいよ獲物の目前に到達するわけだが、狩りの達人はここであわてたりはしない。じっくりとチャンスが到来するのを待つのである。
彼らにとってチャンスとは、獲物の動く瞬間であるように思われる。カマキリが獲物を捕える様子を写し出したフィルムをスローで見ると、「カマ」が振りおろされる瞬間はすべて獲物の一瞬の動きにすばやく反応したものであるようなのだ。もちろん「カマ」の動きに即座に反応した獲物の動きを、あまりの早さにそう見間違えているだけなのだという考え方もできるだろうが、私がこう考えるのには次のような理由《わけ》がある。
ネコやイタチ、あるいはタヌキといった動物がネズミを捕える瞬間など、めったに見られるものではない。あるとき、これらの動物と人間が肩を寄せ合って生きているはずの我が研究室で、それぞれの動物がいるケージにマウスを入れ、捕食される瞬間をビデオカメラにおさめようというちょっと残酷な試みがなされた。マウスは危険を感じたときに、フリージングと呼ばれる、すべての動きを止め、まるで全身が急速に冷凍したかのような状態になることがある。捕食者はすぐそこに獲物がいるのがわかっていながら攻撃をしないし、またできない。このにらみ合いはしばらく続くのだが、もしほんの少しでもマウスが動くと、まさにその瞬間に捕食者の攻撃行動が解発《かいはつ》されるのだ。
「昆虫界の猫族」たるカマキリも、同じ肉食性の動物として似たような行動パターンが進化してきたのかもしれない。
生体工学の専門家であるドイツのH・ミッテルシュテットは、カマキリの攻撃行動のメカニズムをいくつかのモデルを仮定して調べあげている。これは、仮定したモデルと実際の動物の行動とを比較検討し、矛盾点や不明瞭な点を発見することでモデルを修正していくというやり方である。
それによれば、カマキリはまず獲物の方向と両眼の中心軸とのなす角ができるだけ小さくなるように頸を動かす。早い話、できる限り獲物の方を向くということである。しかしこのとき、頸ばかりを曲げるのではなく、それに合わせて体も徐々に動かし、獲物に対する頸の曲がり方と体の方向とがある一定の関係に落ち着くところまでもっていくのである。そうなってからやっと「カマ」を振りかざす。
彼はそこで、接着剤で頸を固定した、「頸の回らないカマキリ」を各種作ってみた。不思議なことに正面を向いたまま固定されたものは、獲物を捕えることができる。ところが頸を傾けたまま固定されたものは、日頃の実力を発揮することができなかったのである。やはり頸を動かし、頸と体とをある一定の角度にまで調整しないとダメということらしい。彼らは何ともややこしい狩りの方法を編み出したようである。
ところで、カマキリのメスが交尾中にオスを食べるという話はあまりに有名である。男の精気を吸いとる女の残忍さを表すたとえ話として嫌というほど引用されてきたが、アメリカのK・D・ローダーは、ウスバカマキリのメスがいったいどういう場合にオスを食べるのかということを研究した。
それによると、メスは交尾しようとしてやってきたオスに気がついたとき、もし空腹であればすぐさま捕えて食べようとする。この場合にはオスを獲物の一種として認識しているのである。ただオスの視力はメスより優れているので、彼は自分自身が獲物に近づくときと同様、メスに背後から近づき、彼女が振り返ったときにはピタッと静止し、そうでないときにそろりそろりと動くという作戦をとることができる。しかし、メスがオスを必ず見つけることのできるような小さなカゴの中とか、オスの眼を見えなくしたときとかには、メスがよほど満腹していないかぎり、オスはこの残酷な実験の犠牲者になってしまうのだという。
全身の注意を一点に集中しつつメスに近づいたオスは、ついにはメスの背中に跳び乗る。その場合オスには、メスに食べられずに交尾できる乗り方というものがある。捕獲肢をメスの翅のつけ根のところにある溝にあてがい、体をかっちりと固定させるのである。この方法に失敗すると、最悪の場合にはメスの餌食《えじき》となってしまう。それに、交尾を終えた後の降り方と逃げ方にももちろん要注意なのだ。メスはそもそも交尾という行為をなんと心得ているのか!
それにしてもメスの攻撃性が自分と同じ種のオスに対して抑制されないのはなぜだろう。カマキリと並んで恐ろしいメスの例としてよく引き合いに出される北米の|フォトゥリス《ヽヽヽヽヽヽ》属のホタルにしても、こんなにはひどくないのである。
このホタルのメスは、|フォティヌス《ヽヽヽヽヽヽ》属のホタルのメスの光の点滅信号を四種以上もまねることができる。その信号を見つけ「いざ、出陣」とばかりにやって来た|フォティヌス《ヽヽヽヽヽヽ》属のオスを、彼らがその理由を理解する暇もなく捕え、食べてしまうのである。
では、|フォトゥリス《ヽヽヽヽヽヽ》属のオスはこのおっかないメスにどうやって交尾するのか? 彼はまず他種のオスの信号を発しながら接近する。そして、ある程度近づいたところで自分の種に固有な信号に切り換え、メスに同種であることを気づかせる。そういう手の込んだ方法を用いるのである。なぜ最初から自種の信号を発しないのかという疑問もわいてくるが、要するにこの種のメスは色気より食い気を重んずる主義なのであろう。同じ種のオスの求愛信号にはいまひとつ心が動かされないのだ。その彼女たちにしても、最終的にはオスを自分と同じ種だと気づく常識は持っているのである。
カマキリの場合、メスはやって来た昆虫が自分と同じ種のオスであると気づく気配すらない。それどころか、必ず頭からかぶりついてしまうのである。いったいどういうつもりなのか、このメスは。
しかし、驚いたことに頭を食いちぎられ、見るも無残な姿になったときにこそ、オスは至福の時を感じるものらしい。昆虫にとって頭は、我々が考えるほどに重要な部位ではないからだ。胸部から腹部にかけて体節ごとに神経節があり、それらは脳とは独立の司令権をもっている。スリッパではたかれたゴキブリが、腹から内臓をはみ出させながらも触角や脚を動かし、「なんて往生際が悪いんでしょ」という罵言を聞かねばならない理由はこの点にある。
頭を食いちぎられたオスは、神経節の働きが脳による抑制から解放され、頭があるときよりもはるかに活発に交尾することができる。いわば脳は、放っておけば暴走する各神経節にほどほどというものを教える抑制器官なのである。実際、意地悪な研究者が実験的にオスのカマキリの頭を切断してみたところ、メスと思われるものには何にでもしがみつき交尾しようとしたという。なぜメスがオスを食ってしまい、オスも食われるがままでいるか……。この不思議な現象の本質は、こういう点にあるのかもしれない。
頭を食われても一発必中の交尾をするか、多少元気のない交尾であっても生き延びて次なる交尾につなぐか。オスにとってこの選択は相当に厳しい。ただ、自然界ではこういう悲惨な事件はめったに起きてはいないのだそうである。
浮気と嫉妬は両立するか トンボ
トンボはどうしてあんなつながり方をするのだろう。
オスとメスは交尾をするならするで腹の先端どうしをくっつけあえばよいものを、実にややこしいつながり方をする。オスは腹の先端に把握器があり、それでメスの首根っこをつかんでいる。そして、メスは腹をぐいと曲げて先端をオスの腹のつけ根あたりにくっつけている。こんなことで、はたして交尾できるのだろうか? 長年動物行動学を学んでいながら、私はこの問題の解答を知らなかった。重い腰をあげ、物の本を調べてみようという気になったのは、つい最近になってからのことである。
トンボの交尾はまるで手品なのだ。交尾器が腹部の先端にあることは他の昆虫と変わりがないが、彼らはこの交尾器どうしを結合させて交尾するのではない。オスの体をよく調べてみると、腹部のつけ根の下側に「副生殖器」(または「補助交尾器」)と呼ばれる精子の出張所がみつかる。手品のタネは実はここにある。オスは腹部をぐるりと曲げ、先端を副生殖器に結合させ、そこに精子を移しておく。次に腹部の先端にある特殊な把握器でメスの頸をつかんでつながると、今度はメスが腹部を曲げて先端をオスの副生殖器につなげ、精子を受け取るというしかけである。二匹が輪になったこの状態を「車輪姿勢」と言うが、腹部の長いトンボならではの芸当だ。
こうしてトンボは、たしかに精子の受け渡しをしている。しかし、なぜわざわざそんなややこしいことをするのだろう。何か特別の理由でもあるのだろうか。
まず考えられるのは、トンボがカマキリと同様、肉食性の昆虫であることだ。これらの昆虫では、交尾相手といえども捕食者に豹変することがある。だからこそカマキリのオスはメスの首根っこをつかんで乗りかかる。トンボでも事情は同じではないだろうか。オスは腹部の先端の把握器を使ってメスの頸を固定し、まずは身の安全をはかる。そして、そのために生じた問題点は副生殖器という新しいパーツを進化させることで解決する。トンボはこうして不思議なつながり方のきっかけをつかんだのかもしれない。けれどもそれは、同時に、こんな思わぬ利点をも彼らにもたらしたようだ。
トンボも含めて多くの昆虫は、鳥などの捕食者に常に狙われている。それはもちろん交尾中であってもだ。そんなとき、とりあえずは我が身の安全が第一だから、結合していてもパッと離れ、オス、メス別々に逃げるというのが一つの方法だろう。しかし、トンボのオスは少々欲張りであった。メスをつかまえたまま逃げる。それはタンデム(二輛連結)飛行と呼ばれる飛行法である。
チョウなどは交尾するとき腹部の先端でつながっている。一方が羽ばたいて他方がぶら下がれば、飛ぶには飛べるが飛翔能力においてかなり不利である。ところがトンボでは「車輪姿勢」になっていても、メスが腹部の先端をオスの副生殖器から離すという一回の操作だけで、オスが前の車輛、メスが後ろの車輛の二輛連結となり、ただちに飛行態勢に入ることができる。しかもそのとき両者の翅が互いに邪魔をしないので、両方とも羽ばたくことができ、方向転換も自在である。トンボの特殊な連結法には交尾中の捕食者対策という意味も含まれているのではないだろうか。
捕食者に豹変するかもしれないメスをオスが押えつけている。捕食者に見つかったときに、オスがメスを逃さぬようつながったまま逃走する……。
ところが、トンボがつながっていることには、まだ別の理由がありそうな気配なのである。
トンボの中には、交尾が終わりメスが池などで産卵するに及んでも、まだつながったままでいるという種類がある。交尾が終わったのに、なぜつながっている必要があるのだろう。
そうかと思うと、こういう種もある。交尾が済んだらオスはメスを解放するが、解放というのは見かけ上のことで、産卵場所の上空を旋回したり、付近に留まっていたりしてメスを監視し続けているのである。そういうオスは、もし他のオスが飛来でもしようものなら、すぐさまスクランブルをかけて追い払ってしまう。
石川県農業短期大学の上田哲行氏によるヒメアカネの研究は、この問題に重大なヒントを与えてくれる。このトンボのオスは周囲にライバルが多いときにはつながったままでいるが、ライバルが少ないときにはメスを離し、近くで監視の目を光らせ、しかも他のメスとも交尾しようとするのだ。
ヒメアカネは、トンボがなぜつながるのか、ついに本当の理由を公開した。そもそも交尾の当初からオスがメスの首根っこをつかみ続けているのも、メスが他のオスとは交尾しないように、つまりメスの浮気を防止するためであるからに他ならないのである。
トンボに限らず昆虫のメスは、オスにつきまとわれることが多い。それというのも昆虫の交尾は、即、受精を意味するものではないからだ。メスは受け取った精子をまず受精|嚢《のう》(誤解を招きやすい用語だが、単に精子を受けとる袋という意味で、この中で受精が行なわれるわけではない)に貯えておく。そして産卵の直前になると初めて取り出し、卵を受精させる。だから、もしメスが複数のオスと交尾していたとすれば、彼女がどのオスを父親とする子を産む割合が多くなるかということは、メスの体内で繰り広げられる精子どうしの競争に持ち越されているのである。
こういう激しい精子競争の究極的産物なのだろうか。カワトンボの一種では、前に交尾したオスが入れた精子を後から交尾したオスが引っ掻き出し、そのうえで自分の精子を入れるという驚くべき事実も発見された。この種では、オスのペニスに特殊なヘラ様の付属物までついているという。カワトンボの例ほどではないにしても、昆虫ではメスが複数のオスと交尾した場合、「遅い者勝ち」になるというのが通則であるらしい。
イギリスのG・A・パーカーはフンバエを使ってこの精子競争という現象を研究した。フンバエは牧草地などにいるハエで、ウシなどが糞をすると即座にやって来る。すぐに到着するのはすべてオスで、彼らは数分遅れでやって来るメスをめぐって激しい争奪戦を繰り広げるのである。メスがただ一匹のオスとだけ交尾したのなら、当然すべての卵はそのオスの精子によって受精されるわけだが、パーカーはメスが二匹のオスと交尾した場合、前のオスと後のオスとで受精率にどのような違いがあるかを調べた。
それによると、後で交尾したオスの交尾時間が一〇〇分を超えるというほどに長ければ、前のオスの精子を完全に駆逐し、メスの卵をすべて自分の精子で受精させることができる。しかし現実にはこれほど長く交尾し続けているフンバエはいない。平均的な交尾時間は四〇分程度である。詳しく調べてみるとこの値は、後のオスが前のオスの受精率を二〇パーセントくらいに抑え、残り八〇パーセントを自分のものにできるという時間を意味していた。
フンバエのオスにとって貴重な時間をただ一匹のメスのために費やしているより、途中で交尾を打ち切り、あとは他のメスを探して交尾するという方が、より多くの子孫を残すことができるのだろう。また実際そうであるからこそ、四〇分したら(彼らがどうやってその時間を測っているのか知るよしもないが)、交尾を打ち切るというフンバエが残ってきたのである。彼らの交尾時間には、オスができるだけ多くの子孫を残すための最適値というものがあり、それが四〇分という時間なのである。
トンボはどうだろう。メスが産卵を済ませるまでつながったままでいるという種のオスは、その間に他のメスと交尾することはできない。ただ、一匹のメスの卵をすべて自分の精子で受精させることはできる。産卵場所でメスを解放しつつも監視する方式をとる種のオスは、うまくやりさえすれば他人《ひと》の奥さんに手を出すこともできる。ただし、そのすきに自分の女房が自分と同じことをしようとしている他のオスの標的にならないとは言い切れない。
浮気と嫉妬を両立させるのは、やはりなかなか困難なことのようである。
貞女の素顔 チョウ
春の柔らかい陽差しの中を飛び回るモンシロチョウをその年初めて見つけたとき、蝶マニアたちは期待に胸をふくらませるという。モンシロチョウは春になってから羽化するチョウのうち、最も早く現われるチョウだ。彼らはシーズンの到来をいち早く告げに来るのである。
モンシロチョウのオスは、メスのそばに止まり翅を震わせながら求愛する。両者が腹部の先をくっつけあえば、交尾はめでたく成功。だが、時としてメスが翅を開き、翅に対してほぼ垂直に近い角度で腹部を持ち上げ、そり返ることがある。これは交尾を拒否するポーズなのだ。オスはメスにこのポーズをとられてしまうと、どうしても交尾できない。それは物理的に無理なのだ。
拒否のしかたはチョウの種類によって、またその場の状況によっても違う。激しく翅を震わせたり、とにかく逃げたりと、さまざまな方法があるが、ともかくチョウのメスが交尾を拒否する性質をもっているということはたしかである。そのために、チョウのメスは一度交尾したら、生涯にわたってどのオスとも交尾しない「貞女」であるという神話が生まれてしまった。
最近の研究でわかったのは、メスの貞節は、一度交尾したら、しばらくのあいだはオスを受け入れないという程度のものだということである。ただ、そのせいかチョウは交尾を終えてからも相手のオスにつきまとわれるようなことはない。産卵に及んでまでオスの監視を受けるトンボのメスに比べ、ずいぶんと信頼されているのである。
メスに交尾を拒否する性質があるのなら、彼女のめがねにかなったよほど見事なオスだけが選ばれているのかというと、必ずしもそうではない。彼女は羽化した直後に初めて自分を見つけたオスの求愛をいとも簡単に受け入れてしまう。その後どうふるまうかはチョウの種類によっても異なるが、少なくとも数日間ぐらいは交尾を拒否しながら産卵を続け、再び別のオスと交尾するというパターンが多い。
交尾をすませたメスが交尾拒否をするという習性は、そのメスと交尾したオスにとっては都合の良いことかもしれないが、そうでないオスにとっては、苦々しいかぎりである。昆虫の交尾は、トンボでみてきたように、続けて交尾できるのであれば遅い者勝ちであるからだ。ではオスとしては、どうふるまうのがベストか。それは羽化直後の未交尾のメスをいち早く発見し、他のオスに一歩先んずることだろう。オスは何回も交尾することができるから、未交尾のメスを多く見つければ見つけるほど自分の子孫を多く残すことができる。こういう事情もあって、未交尾のメスをめぐるオスどうしの競争はきわめて激しいものになっているのである。
いかにしてライバルのオスに差をつけるか。この問題に対し、モンシロチョウのオスたちがこぞって選んだ方法は、「早起き」と「勤勉」だった。彼らは羽化したてのメスをねらって早朝からキャベツ畑をせわしなく飛び回る。しかし、江戸時代の農民のように、まだ日が昇らないうちから畑に出るなどという無茶なことはしない。日が昇ってからでないと、今ではすっかり有名になった次のような理由で、メスを見つけることができないからだ。
モンシロチョウのオスとメスは、我々の目にはいずれも白っぽいチョウであり、飛んでいるところを見たかぎりではオス、メスの区別はつきにくい。けれども、こんな目に見える世界ですら、見る者によってまったく別の世界となることを、このチョウは教えてくれる。
彼らは人間の目には見えない紫外線を見ることができる。太陽の紫外線は、メスの翅ではよく反射されるのに、オスの翅ではほとんど吸収されてしまう。もし、我々が彼らと同じように紫外線を「見る」ことができるのなら、メスの翅とオスの翅とは違った色に見え、簡単に区別がつくはずなのである。
モンシロチョウのオスは紫外線を吸収する物体には目もくれない。それをよく反射する物体にのみ注意を払いながら飛び回る。その猛進ぶりときたら、紫外線を反射する紙切れにすらやって来て交尾しようとするほどである。もっとも紫外線の反射をたよりにメスを探すという方法は、紫外線なくしては成り立たない。雨が降っているときは言うまでもなく、太陽の紫外線が雲で遮られる曇りのときにもだめである。そんな日には、はやる気持ちを抑えて待機を余儀なくされているオスが草陰のあちこちに止まっている光景が見られるはずだ。
ところで、メスは多くのオスと交尾したからといって産む卵の数が増えるわけではない。メスが多くのオスと交尾することには意味がないのではと考えたくなるが、それは早計である。メスは、多くのオスと交尾することによって、多様なオスを父親とする多様な子孫を残すことができる。これは大変に意味のあることなのだ。
それぞれの生物には、大型の捕食者からバクテリアやウイルスに到るまで、さまざまな形の天敵がいる。やっかいなのは、これらの天敵自体が、標的とする生物をうまく攻撃できるように物凄い勢いで進化するということである。今は攻撃をかわすことができていても、安心するわけにはいかない。いつまた新手の戦略を用いて攻撃をしかけてくるかわからないからだ。そういう場合、一つの対策として考えられるのは、どんどん増殖することによって数で天敵を振りきろうとするものである。天敵の犠牲になるものの数よりも生まれてくるものの数の方が多ければ問題ない。無性生殖をする生物は、この方法で生き延びてきたのである。
一方、有性生殖をする生物は、遺伝子を混ぜ合わせ、できるだけ多様な子孫を残すという方法で天敵とわたりあってきた。天敵がどう進化し、どういう攻撃をしてこようとも、多様な子孫の中にはそれをうまくかわせるものがいるはずだ。無性生殖は数で勝負する方法であるのに対し、有性生殖は質で勝負する方法というわけなのだ。そもそも「性」とは、天敵の中でも特に変わり身の速いウイルスに対する対応策として発明されたものだとさえ言われているのである。
こうしてみると、メスの浮気≠ニは、多様なオスを父親とする多様な子孫を残そうとする戦略であることを意味し、大いに奨励されて然るべきだということがわかってくる。ならばトンボにはみられなかったメスの交尾拒否が、チョウに存在するのはどうしたことだろう。
交尾中のトンボがタンデム飛行という素晴らしいアイディアをうみ出したことはすでに述べたとおりである。トンボはこの方法で交尾中でも飛翔能力を落とすことはない。
チョウの交尾は、オスとメスが腹部の先端をくっつけあい反対方向を向いて行なわれる。交尾しながら飛ぶこともあるが、そのときには一方が羽ばたき他方はぶら下がっている。オス、メスどちらが羽ばたくかはチョウの種類によって違うが、両方とも羽ばたくというのは、胴に対して著しく大きい翅をもつ飛行物体にとっては、どういうつながり方をしたところで無理である。つまりトンボと違って、チョウには交尾中の無防備な状態について決め手となる対策がない。じっとしているより他はないのである。そこで、チョウのメスとしては交尾はできるだけ少ない回数で済ませ、産卵のためにエネルギーを投入しようということになるのだろう。交尾拒否は、メス側の必要性から生じた、まさに拒否権≠ネのだ。
そしてその一方で、チョウのメスはやはり本当は浮気≠オたがっていることを示す証拠がここにある。
南米にすむアカスジドクチョウは、黒の地にその名のとおり赤いすじのある実にけばけばしいデザインをもっており、ヘンリー・W・ベーツを祖とする擬態と警告色の研究分野で並々ならぬ貢献をしているチョウでもある。しかし、このチョウについてもっと注目すべきなのは、交尾を終えたメスが独特の匂いを発するということだろう。これはオスがメスの体内に残していった匂いで、驚くべきことに他のオスに対して「性欲減退臭(その気をなくさせる匂い)」としての働きをもつらしいのである。残念ながらこの現象については野外での詳しい研究があるわけではない。が、少なくとも交尾したオスがこの匂いを残さずに去って行ったなら、メスは他のオスと大いに交わるであろうことはたしかだ。オスはメスの浮気封じのためにこの匂いを残していくのである。
アカスジドクチョウのメスが浮気っぽさを身につけたのはなぜなのだろう。それはこのチョウが非常に味の悪いチョウであり、鳥などの捕食者に襲われる危険が少ないということと関係があるかもしれない。つまり彼らは、多くのチョウにとっての共通の悩みである、交尾中に捕食者に襲われるという心配から解放されているのである。
我々になじみのチョウたちが捕食者の脅威から解き放たれたらどうだろう。そうしたら、次々と現われるオスの求愛を断わり続けるメスなんて、いるはずはないと思うのだが。
がめついのは子のため? ガガンボモドキ
動物の行動を観察している研究者にとって、その動物がわが目を疑うような行動を示したとき、まず彼はあらゆる可能性を考え、なんとかしてそれを否定しようとするだろう。
「あれは偶然だった。いや、もしかしたら、自分は夢を見ていたのかもしれない」と。しかし、その後何度も同じ行動を観察し、いよいよこれは本物なのだと悟ったとき、彼の喜びと不安はどれほどのものだろう。残念なことに、私は研究者としてそういう幸福な思いに浸ることはなかった。
ここに紹介するガガンボモドキは、きわめて小さな脳しかもっていない動物でも、驚くほど複雑で策略に満ちた行動をとることができる、ということを説明するために、しばしば引き合いに出される昆虫である。
アメリカのR・ソーンヒルがガガンボモドキに興味をもち研究に本腰を入れ始めたのは、この昆虫の奇想天外な行動にひかれたということもあるだろうが、それだけではなかった。ガガンボモドキの婚姻に関するシステムが、かのチャールズ・ダーウィンが既に百年以上も前に提唱した「オスの形態と行動の進化にはメスによる選択が大きな役割を果たしている」という性淘汰についての説を検証するのに最も適していると考えたのである。
ガガンボモドキは藪の中などにすんでいる肉食性の昆虫で、ハエやアブラムシ、そしてガガンボ(!)などを捕えて食べる。食べるといっても、食らいついてムシャムシャと食べるわけではない。獲物の体に鋭い口吻をさし込んで消化液を注入し、内容物が柔らかくなったところで吸うというのが本当のところだ。この事実は、彼らが、たとえ強力な大あごはもたなくても、消化液という化学兵器を装備することでかなりの強い昆虫になりえていることを意味している。
もちろん、強いというのはたいへん結構なことだが、カマキリでみてきたように、肉食性でそれ相応の攻撃力をもった昆虫は、オスとメスの出会いの場面に必ず問題点を抱えている。メスが空腹であったりすると、オスを獲物と認識してしまうことがあるのだ。ただ、カマキリの場合には、たとえオスがメスに頭を食いちぎられても、それはそれでむしろ完全な交尾ができるという利点があった。ガガンボモドキの場合にはそうはいかない。消化液を注入されでもしたら、交尾どころではなくなってしまうだろう。
この昆虫では結局、オスがメスに口封じとしてハエなどをプレゼントし、メスがそれを食べているあいだに交尾してしまおうとする行動が進化した。「婚姻贈呈」と呼ばれている行動だが、この場合には単なる求愛のためではなく、第一の目的がこういうせっぱつまった状況に由来しているところがおもしろい。
オスはプレゼント用の獲物を捕えると、それを持って小枝などにぶら下がる。同時に腹部からはフェロモンを発しはじめる。ほどなくメスがやって来るが、彼女はまずオスと向かい合い同様のぶら下がり姿勢をとる。そしてプレゼントをつかみ、さっそく賞味しようとするのだが、オスはそう簡単に手渡したりはしない。両者はプレゼントをあいだにはさみ、まるで有名な大岡裁きに登場する実の母と継母《ままはは》のように、子ならぬエサの引っ張り合いを演じるのである。そうこうしているうちにオスが腹部を曲げて交尾にとりかかろうとする。しかしここで彼女は、昆虫のメスにありがちなように、交尾を拒否してしまうことがある。ガガンボモドキの場合、その理由の大半はプレゼントが小さいとか、まずいということにあるらしい。メスはエサの引っ張りあいの際に、プレゼントの値踏みをするのである。
とはいえメスは、もしプレゼントを気に入ったなら、二〇分とかそれ以上の長い時間にわたって交尾を許す。随分と手の平を返すような態度だ。ところが不思議なことに交尾を許すものの、たった五分かそこらで打ち切ってしまうということもよく起こるのである。これは交尾を受け入れていると考えるには短く、拒否していると考えるには長すぎる、なんとも中途半端な値である。プレゼントが大きいか小さいか、おいしいかまずいかなら、すぐにわかるはずではないか。その謎はソーンヒルが行なったこんな実験によって明らかにされた。
オスの精子がメスの受精嚢にいったいいつ受け渡されるのかを調べるために、彼はまず処女メスを六〇匹以上も用意した。各々のメスの交尾時間を、あるものは二分、あるものは一〇分というように、一分間から三九分間まで一分ごとに区切り交尾させたのである。それによると、五分までは精子の受け渡しはまったく起こらない。しかしそれ以降二〇分ぐらいまでは交尾時間に比例した数の精子が受け渡される。そして二〇分を過ぎるとこの数は頭打ちとなり、長く交尾していても意味がなくなるというのである。
五分間かそこらの交尾の意味がこうしてわかる。それはメスにとって、交尾はしていても精子は移行してこない、つまりそのオスの子を産むには至らない交尾だということである。貧弱な獲物しか手に入れられないような甲斐性なしのオスの子など産みたくない。とはいえ、プレゼントは魅力的だ。食べられるだけ食べてやろう。五分というのはその両方を満たすリミットなのである。
一方、プレゼントが満足のいくもので、二〇分以上ものあいだ交尾が続いた場合、メスは以後四時間くらいはどのオスとも交わらず、受精卵を産むことに専念する。といっても、この間に産む卵はたった三個ほどであり、妙な節約精神が発揮される。オスの求愛に対し十分な交尾時間をもって応えたのなら、もっと多くの卵を産んでもよさそうな気もする。
ところがメスというのはそういうふうにできてはいないようだ。チョウの話で説明したように、できることなら多様なオスを父親とする多様な子孫を残したいのである。だが、現実は厳しい。チョウの場合、交尾中に捕食者に襲われるという危険性からメスはやむなく交尾回数を絞らざるを得なくなっている。トンボはトンボで捕食者対策兼浮気防止用のタンデム飛行のせいで、メスはオスに首根っこを押さえつけられたままである。
それに比べればガガンボモドキは恵まれている。藪の中にすんでいるため、幸運なことに鳥などの捕食者に見つかりにくい。おかげでメスは捕食者を気にして交尾回数を減らすことも、交尾に関してオスに束縛されることもないのだ。それどころか、卵を小出しにして産み、そのぶん交尾回数を増やせば、オスからのプレゼントをより多く獲得することができるのである。これは単に狩りの手間を省けるというだけに留まらない。
ガガンボモドキにとって最大の脅威は、クモがしかけたワナである。狩りに夢中になりすぎて、小枝と小枝、葉と葉のあいだなどに注意を怠っていると、いつしか自分の方が獲物になってしまう。メスにとってオスが持って来るプレゼントは、狩りに伴う身の危険を減らしてくれるありがたい進物でもあるのだ。
ガガンボモドキのメスは、チョウやトンボのメスからみたら望んでも望み切れないほどの優雅な暮らしをしている。何しろオスを利用するだけ利用しておいて、あげくのはてに小さな獲物しか捕えられないオスの子を産むことはあっさりと拒否するのだから。
メスがオスの能力を厳しく評価したり、オスを徹底的に利用することは、メスの一方的な利益追求のように思える。だが、メスの生存が保障されるということは、とりも直さず受精卵の生存が保障されるということでもある。オスの狩猟能力を厳しく評価すれば、それだけ優れた子孫を残していくことにもなるだろう。この昆虫について我々が理解すべきは、まさにこういう点なのである。
さて一方、ガガンボモドキの場合、オスもオスでメスに劣らず、なかなかのしたたか者であることがわかっている。
メスは見せかけだけの短い交尾のあと、プレゼントを騙し取ろうとすることがある。オスはそればかりは断じて許さない。それにオスは、大きくて立派なプレゼントを手に入れたときには、何匹ものメスを相手に同じプレゼントで通してしまうことさえもある。なかなかやるのである。しかし、ガガンボモドキのオスの真のしたたかさはメスとの駆け引きにおいてではなく、むしろオスどうしの間で発揮されているようだ。
その第一は、ひったくりである。ひったくるものは、もちろんメスへのプレゼント。狙いをつけたオスが、まさにメスと交尾中であっても奪おうとする。そのときが最大のチャンスであるからだ。人間界の善悪の判断を抜きにすれば、ひったくりは、大きな獲物を捕えるために必要なエネルギーを節約できる、ずいぶん都合の良い方法だ。昆虫の世界に懲罰はないから、この場合やってしまった方が勝ちなのである。
ただ、だからといってこういう正道をはずれたちょっとずるいやり方、そういう生き方をしようとする者は、多数派にはなれないことになっている。それは、たとえばここではひったくりが増えれば正攻法の連中が相対的に減り、つまり、ひったくりにとってのカモが減り、彼らはある割合以上には増えないという理屈によるのである。やはりというべきか、ひったくりの成功率は一〇パーセントかそこらだという。
オスのひったくりにせよ、メスによるプレゼントの値踏みにせよ、こういった行動が彼らの脳にプログラムされる進化の過程は、そう複雑なものではなかっただろう。しかし次に示す、ガガンボモドキを一躍有名にさせた一連の行動に至っては、造物主の存在を認めさせるに十分ではないかとさえ思えてくる。
ガガンボモドキのオスとメスは、外見上、非常に似ている。しかし大きく違うのは、それぞれが飛ぶときの様子である。卵の重みのため、メスはゆっくりとしかも直線的に飛ぶ。オスはすばやくて、方向転換も自由自在にやってのける。そこで造物主、いや、驚くべき|淘汰のふるい《ヽヽヽヽヽヽ》は、メスがやって来るのを待ちうけているオスのもとへ|メスの飛び方をまねて近づく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という行動をオスの脳にプログラムした。
このオスは肉体的には正真正銘のオスである。したがってフェロモンにひかれてやって来たというわけではない。彼はプレゼントをかかえたオスを発見し、それを奪うことを目的として来たのだ。彼は相手と向かい合ってからもメスのふりを続け、念入りな「値踏み」の手続きまでもとってみせる。場合によっては交尾のまねまでしてみせる。こうして相手の隙に乗じて獲物を奪い、逃走するのである。この方法によれば、単なる「ひったくり」よりはるかに高い確率で成功を収めることができるらしい。それもなるほどとうなずける見事な戦略だ。
ところで、このオスは「ゲイ」だろうか「オカマ」だろうか。いやいや、心までメスになりきろうとはしていないから、ちょっと当てはまらない。英語で「Female Mimicking Strategy(メスをまねる戦略)」と呼ばれるこの戦略を、日高敏隆氏はうまい言葉を使って訳している。「女形《おやま》戦略」である。なるほど、日本にはぴったりの表現があるものだ。
オスは悲しいね 魚
子の世話は基本的に母親がするものだという主張に対し、残念ながらどの女性解放運動家も決め手となる反論材料を持ち合わせていない。むろんその最大の原因は、人間が哺乳類であり、乳腺を発達させているのは女の方だけだというところにある。
考えてみれば、一億年以上にも及ぶ哺乳類の進化の歴史の中で、地下にトンネルを掘るモグラから空を飛ぶコウモリ、海に帰ったイルカやクジラに至るまで実に多種多様の動物が現われた。それなのに、ついぞオスが乳腺を発達させた動物が出てこなかったというのも、不思議な話である。もし人間の男が授乳能力を獲得し、男も女も同様に授乳できるようにでもなれば、そのときこそ女性解放運動家たちに晴れて反論のための大義名分が与えられるというものだろう。しかし、今までがそうだったように、男が、あるいは他の哺乳類のオスが授乳の能力を身につけるということは、今後もとてもありえそうにない。
なのに、である。哺乳類以外の動物に目を向けてみると、子(あるいは卵)の世話をするのはメスの方とは限らない。それどころかメスが子育てを放棄し、オスに子を押しつけることさえ珍しくないのである。
マダライソシギやタマシギのメスなどは、卵を産むと抱卵の作業をオスに任せ、自分はさっさと次のオスのもとへ行ってしまう。コオイムシ(タガメの仲間の水棲昆虫)のメスは、オスの背中に卵を産みつけておいて知らん顔。オスはやむなく世話をし始めるが、背中の卵が干からびないよう気を配ったり、空気を送ったりで大わらわなのだ。ヤドクガエルのオスもオタマジャクシをおんぶして育てるし、タツノオトシゴのオスともなると、皆さんご存じのとおり腹に育児用の袋を備えていて、メスが産みつけた卵を孵化させ、難産の末、稚魚を世に送り出す。「クレイマー、クレイマー」物語の題材はいくらでも存在するのである。
それにしても不思議なのは、なぜこれらの動物ではオスが子育てにかくも熱心になれるのかということである。とくに魚では、オスが卵の世話をすることは常識にさえなっている。マグロやイワシのように卵の世話はしないが産卵数で勝負するという魚もおり、魚全体としてはむしろその方が多数派である。しかし、産卵数が少ない代わりに親が熱心に卵の世話をする魚については、オスの方が世話係になることが圧倒的に多い。実は、この問題についてかつて大論争が巻き起こり、それは今も継続中なのである。
これまでに提出された仮説としては、次のようなものがある。
まず、メスが卵を産み、その上にオスが精子を振りかける、つまり体外受精をする魚では、先に仕事を終えたメスが逃げ、後に残されたオスが卵の世話をせざるを得なくなるという「配偶子放出順番説」。この説を唱えた中心的人物は、動物行動学界の若きスーパースターにして、『利己的な遺伝子(セルフィッシュ・ジーン)』(紀伊國屋書店)の著者としても有名なイギリスのリチャード・ドーキンスである。
彼には多くの信奉者がおり、擬態の研究で有名なドイツのヴォルフガング・ヴィックラーのような大家によって支持されたこともあって、この説は一時大いにもてはやされた。ところが、「魚の種類によっては、オス、メス同時に精子と卵を放出するものや、オスがメスよりも先に放精するものさえある。しかも、それらの魚においても卵の世話をするのはむしろオスの方ではないか」という指摘がなされるに及ぶと、さすがのドーキンスも自説を撤回せざるを得なくなってしまった。
オスがなわばりをもち、そこへメスを誘いこんで産卵をさせるという魚の場合には、なわばりの所有者であるオスがなわばり内のものとより密接な関係にあるのは当然だとする「近接度説」。水中で卵を受精させるためには精子を大量に撒かなければならない。そのため、オスは精巣を発達させ、大変な投資をしている。ならば当然、卵の世話を他人に任せるわけにはいかないのだという「巨大精巣説」。そうかと思えば、メスは産卵のためにエネルギーを使い果たしてしまい、卵の世話をする余力はなく、やむなくそれをオスに任せるのだという「産後のくたびれ説」(これは私が勝手に命名した)もある。こうなると、もう、なんでもかんでも理由になりそうな気がしてくる。
このように様々な仮説が出てきては論争を巻き起こし、しかもそれぞれに問題点があることが指摘されているが、その中で私が最も有力ではないかと思うのは、次に示す「父性の信頼度説」である。提唱したのは、数々の奇行でも知られるアメリカの天才理論家、R・L・トリヴァースだ。
体内受精をする動物のオスには、いかにしてメスに確実に自分の子を産ませるかという永遠の課題がある。トンボのオスに極度の嫉妬深さが、アカスジドクチョウに「性欲減退臭(その気をなくさせる匂い)」が備わったのはこのためだ。ところが魚のように体外受精になると、自分が精子を振りかけた卵から生まれてくる子は、確実に自分の子である。そうなるとオスは卵の世話に無関心でいられなくなり、俄然張り切ってしまうというわけなのだ。
なるほど、それはよくわかる。自分の子はぜひ自分の手で育てたいのだろう。ただ、この説ではなぜ世話をするのがメスでなくてオスなのかという理由を明らかにしておらず、そこが弱点となっている。メスにとっても、自分が産んだ卵から生まれるのは確実に自分の子であるからだ。
ともあれ、この説は「魚ではなぜオスが卵の世話をするのか」という問題に対する一つの解答例として、かなりの高得点が期待できることはたしかである。しかもこの解答は、体内受精をする哺乳類において、なぜオスに授乳の能力が進化しなかったのかという疑問にもよく答えているのである。
さて、以上のような仮説に加え、及ばずながら私にも次のような考えを述べさせてもらいたい。なぜ魚ではオスが卵の世話をするかだ。
よく知られているように、魚はたいてい非常に多くの卵を産む。そして卵の状態のうちに(あるいは稚魚になったとしても)、その大部分が海や川にすむ多くの動物たちの餌食《えじき》となってしまう。メスはその一つ一つに栄養豊富な卵黄を与えるわけだから、思えばずいぶん無駄な投資ではないか。無駄とわかっていながらそんな投資をするのは、なぜだろう。我々が捨て金になるのを承知で投資をするのは、「まさかの時」に備える保険のようなものに対してだ。魚も同じことかもしれない。魚にとっての「まさかの時」とは何だろう。
それはおそらく何らかの原因でひどい食料不足にみまわれたときだろう。魚にとって卵とは子孫を残すためのものであると同時に、大切な非常食なのではないか。事実、メスは飢餓状態に陥ったときには卵を産んで食べ、飢えを凌ぐということもあるらしい。そういう魚の例はけっこう多く見つかっているのである。それに、親が食物に困っているような悪条件の下で、生まれた子がまともに育つとは思えない。そういう意味でも、卵を食料とすることには意味がある。
一方、オスは「まさかの時」のために投資をしているだろうか。精子は卵に比べ栄養価が低い。精子を放出して飲み込んでみたところで、さしたる腹の足しにはならないだろう。そこでオスは栄養たっぷりの卵を豪華版の弁当として確保することに決めた。私は、これこそがオスによる卵の保護行動(本当のところは保護しているように見える行動)が進化した最大の原因ではないかと思う。オスが卵を全部食べてしまえば、子孫は残らないから、そのような行動は進化しない。彼は子孫が絶えないという程度には食べるかもしれないが、他に食物があれば何も好きこのんで卵を食ったりはしない。卵はあくまで非常食なのである。
実は、私のこの仮説を力強くバックアップしてくれる魚がいる。トゲウオである。トゲウオはニコ・ティンバーゲンの行なった解発因《かいはついん》(リリーサー)の研究ですっかり有名になったが、オスとメスの間にちょっと珍妙な駆け引きが行なわれることもわかってきている。
オスは巣をつくりそこをなわばりとして他のオスから防衛する。メスがやって来ると誘い込んでは産卵させ、精子を振りかける。彼は卵が孵化するまではどうしても巣の近辺に留まっていなければならず、食料の調達など、不自由な生活を余儀なくされている。そうなるとますますもって卵はおいしそうなごちそうだ。事実、トゲウオのオスは自分の巣の中の卵を一部食べるということがわかっているのである。
そういうオスの習性をメスも心得ているらしく、すでに誰かの卵が産みつけられている巣には卵を産むのに、まだ一つも産みつけられていない巣は敬遠する。極度に空腹になっているオスが、初めから食べることを目的に卵を産ませようとしているかもしれないからだ。
それは考え過ぎというものかもしれない。しかし、今はそうでなくてもいずれ彼が空腹になったとき、卵に手を出さないとは言いきれない。誰かの卵が産みつけられているところに自分の卵を産むことには、最悪の場合でも自分の卵が食われる確率が下がるという意味があるのである。
ところが、こうしてメスが空っぽの巣にはなかなか卵を産もうとしないという自衛策をとると、今度はオスがどうやって最初のひとかたまりの卵を調達しようかと頭を悩ますはめになる。空っぽの巣の前で、「サァサァここに卵を産んで下さい。私は決して卵に手を出すような意志の弱いオスじゃありませんよ」とウソでもいいから誠意を示すふりをするとか、何でもいいからメスにその気を起こさせる方法を模索するというのが、動物界にありがちな話である。しかし、彼らが見つけた方法はまったく違っていた。ライバルのオスの巣から卵を盗んできて、自分の巣に並べるのである。なんという短絡、なんというご都合主義的解決法!
ティンバーゲンの有名な研究で示されているように、トゲウオのオスが他のオスのなわばりに侵入するのは、簡単なことではない。オスの腹の赤い色(婚姻色)がリリーサー(解発因)となって、ライバルの攻撃行動が解発されるからだ。ただ、チャンスはまったくないわけではない。それは実にライバルのオスがメスを口説いて≠「る最中に巡ってくるのである。
こうしてどさくさにまぎれて盗んできた卵は当然、受精卵、つまり他人の子であることも多い。しかし、それくらいのことは我慢しなければならないだろう。それに、早めの仕返しと言おうか、卵を盗みに入ったオスは、ついでにそこにある卵に精子をひっかけてくることだってできないことではない。
魚のような体外受精の動物においてすら、オスは油断することができない。子がたしかに自分の子である確率は一〇〇パーセントではなかったのだ!
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第三章 きびしい社会
夫より家を選ぶ旧家の娘 ハヌマンラングール
人間がめったに子殺しをしないのはなぜだろう。こんなことを言うと、大方の良識ある人々から「何をばかなことを言っておるのだ!」と一喝されそうな気がする。
たしかに、誘拐の後、惨殺された子どもであるとか、親が折檻《せつかん》した末、衰弱死した子ども、ひところ流行したコインロッカーベイビーなど、世の中にはあってはならない子殺しの話が山ほど転がっている。しかし、人間という動物の本性を問題にする場合、我々はこれらの話が本当によくあることなのかどうか、他の動物とも比較して考えてみなければならない。
人間は他の大型、中型哺乳類に比べ圧倒的に数が多い。しかも、「浮気をするサル」であるため、他人の行動を事細かく観察し、すぐさま情報交換せずにはいられないという困った性癖を身につけてしまった。そこで今や、地球規模での広くて緻密な情報交換網を発達させ、めったに起こらないような事件でも(いや、めったに起こらないような事件だからこそであるが……)逐一報道するようになった。情報の受け手は、それらがまるでしょっちゅうどこでも起きているかのような錯覚を覚えるのである。
このあたりの事情を、アメリカのE・O・ウィルソンは一九七五年に出版された彼の記念碑的大著『社会生物学』(伊藤嘉昭監修、思索社)の中で次のように言い表している。
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仮に火星人の動物学者が地球を訪れ、地球上の動物の一つの種である人間を非常に長期間にわたって観察するなら、単位時間あたり一人あたりの重傷率とか殺害率で測るとして、人間はかなり平和な哺乳類のなかにいると結論するだろう。たとえ、われわれの偶発的な戦争をこみにして平均化したとしてもである。
[#ここで字下げ終わり]
この一節には動物行動学の父と言われるコンラート・ローレンツに対する痛烈な批判の気持ちが込められている。それは、名著と言われているローレンツの『攻撃』(みすず書房)を読んだことのある方なら、すぐにお気づきのことだろう。
ローレンツは、人間の社会は残忍な殺戮《さつりく》に満ちた世界であるが、野生動物の社会はそういうことの防がれている理想の世界だと訴え続けてきた。ところが、ローレンツのこの神話は見事に崩壊した。今や野生動物の世界を美化しようとするのは、野生動物をだしに使って人間批判をしようとする一部の平和主義者か、野生動物の真の姿を知ろうとしない偽ナチュラリストだけである。人間にとって子殺しは何かのアクシデントであるというのが動物行動学の今の見方なのである。
この『攻撃』が発刊された一九六三年は、ローレンツ神話が全盛をきわめた時期である。しかし、皮肉なことにちょうどこの年、後に神話の権威を完全に失墜させることになった、まったく信じられないような発表がある若い日本人研究者によってなされている。
当時、京大の大学院生だった杉山幸丸氏はインドでの二年間にわたる調査を終え、身震いのするような大変な発見を携え帰国した。周知のとおり、日本のサル学はニホンザルの研究から始まった。ヨーロッパや北アメリカと違い、日本には実際にサルがすんでいる。まずそれを研究してみたのである。ニホンザルの研究は一九五〇年代に飛躍的に進み、その社会構造も明らかになってきた。そうなると、これもまた当然のなりゆきとして、研究者たちの関心は今度はチンパンジー、ゴリラなどの類人猿に向けられるようになった。当時類人猿の研究はほとんど手つかずの状態で、五〇年代末頃から日本のサル学者たちは我も我もとアフリカへ出かけて行き、この未知の分野の開拓に取りかかったのである。
ところが、なぜか杉山氏はそうしなかった。類人猿の研究を始める前に、ニホンザルとはまた少し違ったタイプのサルをもう一種研究してみようと思い立ったのである。
インドにすむ、ハヌマンラングールは、林のはしや寺院の庭など人里近いところにすむ、葉を食べるサルである。土地の人々からは神様のお使いとしてあがめられている。スリムな体に体長よりも長い尾、全身は銀灰色の長い毛に覆われ、まっ黒な顔には水晶玉のような大きな目が輝いている。杉山氏がこの美しいサルを選んだことには、特に深い理由があったわけではないようだ。しかし、科学上の新事実というものは得てしてこういう回り道や無駄とも思える作業の隙から顔を覗かせるものらしい。ここではまず、その発見の顛末《てんまつ》を氏の著書『子殺しの行動学』(北斗出版、講談社学術文庫)を参考に要約してみることにしよう。
ハヌマンラングールは一夫多妻制をとり、一頭のリーダーオスが五〜一〇頭のメスとその子どもたちを従えてハレムを作っている。ハレムのメンバーたちの仲の良さは、ほほえましいかぎりのものだ。子どもが生まれるとたちまち人気者となり、母親以外のメスたちが入れかわり立ちかわり抱きに来る。しかし、母親はそれを嫌がる様子もない。遊び盛りの子どもは父親の太くて長いしっぽにぶら下がりターザンごっこに夢中になるが、この場合にも父親は嫌な顔ひとつしない。きわめて寛容で穏やかな家族なのである。
しかし、この平和も長くは続かない。ハレムを形成する動物にありがちなことだが、いつかは離れオスたちによって家族が崩壊させられるときが来るからだ。第一章で紹介したゲラダヒヒでは、リーダーとオスグループとのあいだで毎日のように儀式的闘争が繰り返されていた。ところがハヌマンラングールでは、ふつう、離れオスのグループはハレムを遠巻きに観察しているだけで、少しも手出しをしない。実際に襲撃するのは、はっきりと自分たちの方に分があると見込んだときだけである。
この機会がいつ訪れるかということは、単純にハレムのリーダーの体力いかんで決まるらしい。世代の交代は四〜五年で起こる。一頭のリーダーに対し数頭の離れオスではどう考えてもリーダーに不利ではないかという気がするが、そういうわけでもないらしい。離れオスのグループの中でも襲撃に意欲を燃やしているのは、にわかに体力に自信をつけてきた一頭だけで、あとはしぶしぶ付き合っているような連中だからだ。したがって、もしリーダーが敗れ去ったなら、この意欲的なオスがハレムの新リーダーとなり、他の連中を追放する。
ハヌマンラングールのハレム攻防戦は、防衛する側にしてみれば文字通りの死闘である。リーダーは、たとえ耳をかみ切られ目をえぐられたとしても抵抗し続ける。しかし、ついに力尽き、敗走せざるをえなくなったとき、ちょっと異様な光景が展開されることになる。
リーダーの息子たちは父親につき従い、一緒に敗走していくというのに、妻と娘たちは、まだ一人歩きのできない乳飲み子たちとともにその場に留まるのである。ここで人間的感情を導入するならば、この場合の妻や娘たちの行動にはどうも首をかしげたくなる。何しろ長年連れ添った夫を見捨て、侵略者に屈服するわけだから。
けれど、ここで我々は、ハヌマンラングールの社会が母系制であること、なわばりの真の所有者が母娘、姉妹、あるいはいとこどうしといった血縁関係のあるメスたちであるということを知らなければならない。こういう危急の場合にメスたちがリーダーにつれなくなってしまうのも、やむにやまれぬ理由があるのだ。
ハレムの中で生殖活動を行なっている唯《ただ》一頭のオスのことをリーダーと呼ぶようになったのは、そもそも研究者の勝手な思い込みかもしれない。このオスは、実のところを言えば代々メスたちによって継承されてきているなわばりに迎え入れられた婿殿兼用心棒といったところなのである。彼は力が衰えてくればお役御免となる。その際、息子たちを連れて出て行く。彼らも新リーダーとは共存できないのである。おそらく離れオスとしてしばらく武者修行を続け、十分に力を貯えたところでどこかのハレムを襲撃するのだろう。
ハヌマンラングールのメスたちは、いわばたいへんな資産をもった旧家の娘なのだ。この家では代々娘が家を継ぐことになっており、簡単に家を捨て、夫につき従うというわけにもいかないのである。
では、新リーダーとメスたちはどのようにして新しい一家を築いていくのだろう。これはなかなかに興味深いことだ。しかし、新しく婿入りした彼が手始めにすることは、メスたちへの挨拶回りでもなければ、子どもたちを手なずけてやさしいおじちゃんという評価を得ようとすることでもない。彼の初仕事は、あろうことかメスの抱いている乳飲み子を一頭残らずかみ殺すことなのである。メスもさすがにこの時だけは子を守ろうとして必死に逃げまどう。ただ、なぜかなわばりの外にだけは決して出て行こうとしない。出て行けばあのなつかしい元亭主が、まだどこかに潜んでいて、我が子のために一肌脱いでくれるかもしれないのに。
新リーダーは乳飲み子殺しに異常なまでの執念を燃やし、ナイフのようにとがった犬歯ですべての乳飲み子に致命傷を負わせる。しかもこのとき、しっかりと子を抱いている母親にはカスリ傷一つ負わせないという徹底ぶりなのである。お尻や背中を深く傷つけられた子はしばらく母親の胸に抱かれているが、やがてハレムから消え去る。
こうして最終的にハレムに残るのは旧リーダーの妻たちと、すでに離乳していた娘たちである。新リーダーの他はすべてメスということになる。
ここでまたしても我々が疑問に思ってしまうのは、旧リーダーを追放し、そのうえ大切な子どもまで殺したオスをなぜメスは放っておくのかということである。メスは数の上で圧倒しているのだから、皆で力を合わせて追放するとか、総スカンを食わせてやるとか、何らかの手段を講じて復讐することも可能ではないか。
ところが、である。乳飲み子を殺されたメスたちは、早い場合には三日もたたないうちに、彼に尻を向け尾をはね上げ、体をぶるぶると震わせ始める。これはまごうかたなく求愛のディスプレイなのである。
彼女たちはなぜ発情したのか。その原因は何か。考えられることは一つしかない。乳飲み子が殺され、乳を吸う者がいなくなったことである。
哺乳類では一般に、授乳期間中には排卵が抑制されており、発情はしない。ところが、この抑制は常に一定の頻度で乳腺が刺激されることによって働くもので、子が離乳したり、途中で死んだりするとすぐに解除されるのである。高等な霊長類の授乳期間はとりわけ長く、サル類では一〜二年くらい、類人猿では四〜五年にも達する。オスにとってなんと長い待ち時間だろう。特に、メスが元の亭主との間にできた子を育てるために何年もオスを待たせるとしたら、それはきわめて深刻な問題となる。
もしハヌマンラングールでそういうことが実際にあるのなら、最悪の場合、自分自身の子を一頭も残さずにハレムを去るという気の毒なオスさえいるだろう。オスが非常手段に訴えるのも無理からぬことである。子殺しをすればメスが発情することや、そうなれば自分の子孫を多く残せるということをオスが知っているかどうかはわからない。ただ、ハレムを乗っ取ったオスは、なぜか乳飲み子を殺したいという衝動にかられる。リーダーはすべて、こうした手順を踏んでリーダーとなってきているのである。
ハヌマンラングールの父親にはすべて、子殺しの前科がある。ところが人間は、男がまず、女とその前夫とのあいだの乳飲み子を殺し、それから彼女と結婚するなどということはしない。ウィルソンが人間は平和的だと言ったのは、こういう意味なのである。
亭主は単なるヒモなのか ライオン
ライオンは古くから百獣の王として崇敬の的になってきた。人々がその強さにいかにあこがれたかは、王家の紋章など、権威の象徴として広く用いられてきたことからもよくわかる。彼らは、かつては中東やインド北部にも棲息していたというから、日本に古くからあるライオン(獅子)についての言い伝えは、おそらくシルクロードを通ってやって来たのだろう。ライオンは過去に一度たりともマイナスイメージでとらえられたことはなかったに違いない。ひたすら強くて完全な動物、それがライオン──であるはずだった。
ところが、動物行動学、社会生物学の分野での最近の研究は、ライオン社会の実態をあばき、その権威を失墜させてしまった。
狩りをするのは、王家の紋章に用いられてきたオスではなく、もっぱらメスの方である。オスは何もせず、日がな一日ぐうたらと過ごしている。それだけならまだしも、メスが獲物をしとめるとすぐに駆け寄り、真っ先にガツガツと食べるというていたらくなのだ。この情けないヒモ亭主に弁解の余地はあるのだろうか。
タンザニアのセレンゲティ国立公園内にすむあるオスライオンは、日本の某テレビ局のインタビューに答え、こう語ったと伝えられている。「私だって、できるものなら狩りをしたいんですよ。でもね、この立派なたてがみがどうも目立ち過ぎてしまって、正直、困っているところなんですよ、ええ」
たしかにライオンのたてがみは、オスのクジャクの尾羽根と同様、それ自体はふつう何の役にも立たない。けれども、メスがオスを選ぶ際、あるいはオスどうしが威嚇しあう場合には断然威力を発揮する。ライオンのメスはたてがみの立派なオスを選び続けた結果、オスを狩りに向かないダメ亭主に仕立てあげてしまったのかもしれない。ルックスのいいオス(男)は内容を伴いにくいという法則は、ここでも当てはまるのだ。
ただ、それはもう取り返しのつかないことである。メスはいやでも応でも狩りをしなくてはならない。頼りにならない亭主や子どもたちを養っていくのだから、メスはさぞかし腕のたつ狩人なのだろう、と思いきや、これもまた全然期待はずれなのである。
ライオンは時速六〇キロメートル近いスピードで走ることができる。しかし、俊足ランナーが目白押しのアフリカの草原においては、それでも鈍足と言わねばならない。そこで、彼女たちは足の速さで獲物を圧倒することをあきらめ、獲物に気づかれないようできるだけ近づいてから一気にとびかかるという方法を採るようになった。その過程は「草むらの小さなライオン」の異名をとるカマキリの場合とそっくりである。
サバンナでもトップクラスのランナーであるダチョウに近づくときはこうする。彼らが首を下げ、草などを食べているときを狙ってそろりそろりと匍匐《ほふく》前進する。ダチョウが首を上げると、ピタリと静止し、下げるとまた前進するのである。ダチョウにしてみれば、静止しているものを発見しにくいという弱点をつかれているわけだ。
しかし、そうなると今度はダチョウの方が対抗策をとってきた。それはできるだけ大きな集団を作ってエサを食べるということである。集団のメンバーは各々必ず何秒かおきに首を上げることを心掛けておく。そうすると集団全体としていつも必ず誰かが首をもたげていることになり、ライオンの前進の機会は奪われるというわけである。
さてまたしても分が悪くなったライオンは、単独で狩りをするネコ科動物の原則を打ち破り、集団で狩りをするという対抗策をとるようになった。それは何頭かのメスライオンがそれぞれ違う方向から獲物の集団に近づくという、なかなか高度な戦法である。ところが驚いたことに、それでも彼女たちの狩りは四回に一回くらいしか成功しないという。たてがみの目立つオスがこの狩猟集団に加わろうものなら、なおさら成功率を下げてしまうことだろう。
ライオンが、特にオスが強いというのは本当だろうか? もしそうだとするなら、彼らはいったいいつ、我々に百獣の王たる所以《ゆえん》を示してくれるのだろう。
しかし、その前にライオンの研究者たちから報告された衝撃的事実、つまり彼らも子殺しをするということを知っておかなければならない。ハヌマンラングールの子殺しの発見は、野生動物界には仲間殺しはないというそれまでの常識を大きく覆すものだったが、その一〇年あまり後、イギリスのB・C・R・バートラムはライオンでも同様の子殺しが行なわれることを発見した。
ライオンとハヌマンラングールとは社会構造の上で似た点が多い。ライオンの集団(プライドと呼ばれる)には、四〜一二頭のメスと数頭の子どもがいる。これはハヌマンラングールの集団と同程度の規模である。オスの子どもは成長すると誘いあうようにして一緒にハレムを出て行くが、メスは生まれ育った集団を一生離れない。そのため集団内のメスどうしは母娘や姉妹、いとこなどの血縁関係にあり、集団が持っているなわばりは、このメスたちによって継承されていく。この点もハヌマンラングールの場合とそっくりである。
ただ一つ大きく違っていることは、ライオンの集団にはオスがたいてい二〜三頭いて、乱婚的な社会を作っているということだ。このオスたちも元はと言えば同じ集団で生まれ育った兄弟などで血縁関係があることが多い。共に集団を出て放浪生活を続けるうち、どこかに適当な集団をみつけ、協力して襲ったあげく、そこのオスたちを追放して新しい亭主におさまったという経歴の持ち主たちである。
ハヌマンラングールの場合、乗っ取りに成功したオスたちは仲間割れをおこすので、ハレムの主になるのはそのうちの一頭だけであった。ところが、ライオンのオスたちは仲間割れをおこさず集団を共有する。それは、一つには彼らが兄弟などの血縁関係にある者たちだからなのだが、もう一つにはそうしなければそれ以降の集団の防衛に支障をきたすからかもしれない。
乗っ取りに成功したなら彼らも、乳飲み子をすべて殺す。そして、肉食性であるためそれを自分たちで食べてしまうのである。「いたいけな乳飲み子を……」という感情論はこの場合にも通用しない。乳飲み子だからこそ殺し、その母親の発情を促さねばならないのだ。ライオンのメスも、我が子を殺したオスを受け入れ、やがて子を産む。
新しいオスの連合は、当然のことながら、今度は乗っ取りを防止する側にまわる。彼らは何もしていないように見えても、集団の防衛という大変責任の重い仕事を引き受けているのだ。それに、オスが狩りをしないのは、実のところそれどころではないからだろう。もしオスが狩りに全力を傾けているときに離れオスが連合して襲って来でもしたら、誰が集団を守るのか。狩りという他の動物を相手にする仕事はメスに任せ、同種間の攻防戦はオスが責任をもって行なうという分業が生じたのである。
オスが真っ先に獲物に食らいつくことには、強い子孫を残すという意味があるらしい。オスたちが満腹すると、次に食事を許されるのはメスたちである。そして子どもは最後に回され、そのときにはもう、肉も内臓もそう多くは残っていない。子どもたちは他を押しのけてでも食らいつかないことには生きていけない。この争いに勝てない弱い子たちは実際、どんどん餓死していくという。ライオンは子どもたちの食事の順序をわざと最後に回すことで、彼らにサバイバルゲームを行なわせているらしいのだ。
もちろんこんなことをして面白がる親があるはずはない。大人になってから苦労をせぬように、早いうちに強い者のみを生き残らせておこうとする親の慈悲である。「獅子は千尋《せんじん》の谷に子をつき落とす」というが、本当のところは「獅子は子どもたちに十分な食物を残さない」というべきなのだ。
百獣の王であるライオンは、他の動物との競争において強さを増してきたのではない。同種内での厳しい生存競争によってはからずも「百獣の王」と呼ばれるようになってしまったのだ。彼らが強いのは本当だ。けれども、その強さが獲物に対してはどういうわけか発揮されず、時にとんでもないドジぶりを披露してしまったりする。そこがまた百獣の王の余裕と言うべきか。
悲しき近親交配 マウンテンゴリラ
近親相姦することを、まるで獣《けだもの》のようだ、などと表現する人がいるが、それは大きな間違いである。
近親交配《インセスト》は可能なかぎり回避する。それが動物界の習いである。たとえば、子が成長すると、今まで過ごしてきたすみ場所からオスもメスも分散し、親や兄弟姉妹との交雑を避けるという仕組み。これが最も単純な場合で、社会性に乏しい動物はだいたいこの方式を採用している。
ところが、親から引き継ぐに足るなわばりや資源をもつ動物、あるいはそういう財産はなくとも高度な社会性を発達させた動物となると、事情は違ってくる。子は成熟するちょっと前にオス、メスどちらか一方が(どちらであるかは動物ごとに違う)集団を出て行ったりするのである。オスが出て行くとしたら、それは母系制社会、メスが出て行くとしたら父系制社会である。彼らは誰に言われたわけでもないのに、時期が来れば自然と自分が属している種の慣習に従う。
しかし、よくよく考えてみれば、このような慣習が各々の動物できちんと守られているということ自体、ずいぶん不思議な話ではないか。インセストタブーは、それほど厳しく守られなければならないものなのだろうか。
そもそも、近親交配にはどのような問題点があるのだろう。ごく一般的な議論をすれば、こんなことになる。
異なる遺伝子を組み合わせて多様な子孫をつくる。そしてその中から最も適応的なものが生き延びていく。これが有性生殖の意義である。ではもし、有性生殖をする生物において近親交配がしばしば行なわれ、その多様性が徐々に失われてきたとき、はたしてどのような問題が生じるのだろう。伝染病などの流行によって一族の者が総くずれになる。これが最も起こりやすく、最も危険なパターンである。
かつて日本人の死亡原因の第一位は結核だったし、中世のヨーロッパではペストや天然痘が猛威をふるっていた。これらの病気によってほとんど全滅というところにまで追い込まれた家族も少なくなかったという。家族内感染によるところも大きいだろうが、やはりそれぞれのバクテリアやウイルスに対する抵抗力の弱い家系というものが存在するように思える。もちろん、こういう家系は近親交配を繰り返して多様性を失っていたというわけでもないだろう。そうでなくても、ほんのちょっとした遺伝的傾向により、このような憂き目に会ってしまったのである。そういう目にできるだけ会わないようにするには、どうしたらよいか。
それはやはりできるだけ多様な子孫を残す努力を怠らないことだろう。これらの病原体は遺伝子の組み換えなどによって変化し、攻撃のしかたを次から次へと変えてくるからである。この変幻自在な敵に対抗するには、常に新しい遺伝子を一族の中に取り入れ、一族が多様になることしかない。
近親交配の危険性として広く知られていることは、近親交配を行なうと劣性遺伝子がホモ接合になりやすいため、奇型などの遺伝的欠陥をもつ子の割合が増えてくるということである。近親交配がなぜよくないのかを示すために、おそらくこれ以上説得力をもった説明はないだろう。ところがこれは、近親交配を避けてきたために多様になっている集団において近親交配が行なわれた、というときに言えることである。このちょっと意外な点も見逃してはならない。何世代にもわたって近親交配を繰り返すことによって作られた純系のマウスに、欠陥をもつ子が多く生まれてくるのかというと、そうではない。彼らの場合、危険な遺伝子はすでに排除されてしまっているからだ。ただ、彼らが野に放たれたときには、遺伝子の多様性を失っているために生き延びることが難しくなるだろう。
一般には見落とされがちだが、近親交配による利点というものも一方では少なからず存在する。たとえば、生存上きわめて有利な性質とか、特殊な才能とかを発揮させる遺伝子(それは多くの場合、複数の遺伝子のセットとして存在しているのだろうが、ここでは単に遺伝子と呼ぶことにする)をある集団がもっていたとしよう。その遺伝子をできるだけ子孫に伝えるにはどうすればよいか。答えは簡単。近親交配をすればよいのである。彼の血縁者はそれと同じ遺伝子をもっている可能性が高いから、効率よく子孫に伝えることができるというわけである。
もちろんたまには奇型児出生などの問題は生じるだろうが、当の遺伝子がその欠点を補って余りあるほどの利点を備えていれば、システムとして残ってくるはずなのである。その意味で、かつて日本の社会でもよく行なわれていた適度に近い血縁者どうしの結婚や、地方の旧家どうしの縁組みは、階級ごとの特殊な進化に一役買っていたと考えられるかもしれない。
話は少々脱線するが、徳川家康など、歴史上の人物の十何代目かの子孫たちがそれぞれのご先祖様に生き写しだ(肖像画と比較してであるが)という話題をよくテレビや雑誌で見かける。が、これはあながち偶然のなせる業とは思えない。遺伝学者の計算によれば、十数代の後には当人の遺伝子はほとんど受け継がれず、先祖と子孫とはアカの他人になってしまうということである。しかし、何しろこれらの人々は遺伝学者の計算通りの交配のしかたをしていない。大名家や将軍家ともなればどこから奥方を迎えるかについて厳しい制約があり、結局はかなりの近親交配が繰り返されてきたのである。こうして家康公そっくりの徳川某氏が存在したりするわけである。私はある程度の近親交配ならもっと奨励されてもいいのではないかとさえ思っている。
そう考えてくると、多くの霊長類などが採用している、オス、メスどちらか一方が生まれ育った集団を出るという方式が、いかに優れたシステムであるかがよくわかる。この方式では、オス、メスどちらかが出ることで、まず親子や兄弟姉妹間の近親交配を避ける。一方では、他方の性がやって来ることで新しい優れた遺伝子の流入をもはかることができる。そして、もう一つ欲張りなことに、どちらかの性が留まることでその集団内に生じた貴重な遺伝子が分散するのを防ぐこともできるのである。
さて、そろそろゴリラの話をしよう。
中央アフリカのウガンダ、ザイール(現コンゴ民主共和国)、ルワンダ三国の国境付近には三〇〇〇〜四〇〇〇メートル級の高い山々がそびえ、それらの山腹には、今ではわずか二百数十頭にまで減ってしまったマウンテンゴリラたちが細々と暮らしている。ゴリラには西アフリカの低地にすむローランドゴリラや、中央アフリカの高地にすむ、このマウンテンゴリラなどの亜種があるが、いずれも生息環境が悪化したり、密猟などにより、急激に数が減ってきている。
特に危機的状況にあるのがマウンテンゴリラの方である。ダイアン・フォッシーらは、長年にわたる忍耐強い研究によって彼らの意外な生態を明らかにした(フォッシーは一九八五年、不幸な事件によって亡くなったが、彼女の自伝的著書『霧のなかのゴリラ』はシガニー・ウィーヴァー主演の『愛は霧のかなたに』として映画化されている)。
それによるとゴリラはオスもメスも生まれ育った集団を出て行くという霊長類としてはユニークな社会システムをもっているが、驚いたことに、それにも拘らずかなりの近親交配が見られるというのである。
ゴリラは一夫多妻制をとり、一頭のリーダーオスが二〜六頭のメスとその子どもたちを引き連れてハレムを形成している。ふつうオスは一〇歳近くになって性的に成熟する頃になるとハレムを出て行き、しばらく放浪生活を送る。そして、チャンスがあれば他のハレムからメス(それはハレムのリーダーの妻であることもあれば、娘であることもある)を奪い取って妻とし、自分自身のハレムを形成するのである。
ゴリラははっきりとしたなわばりをもたず、かなり自由に遊動していくため、メスをめぐるオスどうしの攻防はきわめて激しいものになっている。リーダーはぼんやりとしているわけにはいかない。彼はハヌマンラングールのリーダーのように、平和な年月を過ごした後、ある日突然襲撃されるというのでもなく、ゲラダヒヒのように毎日毎日儀式的闘争を繰り返しているというわけでもない。離れオスと遭遇するたびに真剣勝負を強いられるのだ。ゴリラのオスが、メスの二倍にも及ぶ体重(約二〇〇キロ)と見事に発達した筋肉をもつようになったのも、闘争による強い淘汰の力がかかったためである。
メスの方も七〜八歳になってそろそろ性的に成熟する頃になると、なぜか生まれ育ったハレムを出て行きたいという衝動にかられるらしい。もしそんなときどこかのハレムのリーダーか、あるいはこれからハレムを作ろうと勢いこんでいる若いオスが誘いをかければ、わりと簡単について行ってしまうようだ。それに、こういう若いメスでなくても、ハレム内の対人関係やリーダーに不満を抱いている、ちょっと中年にさしかかったメスも同じようにふるまう。フォッシーは、ゴリラではメスの移籍に関して相当に本人の意志が尊重されているらしいと考えている。
ゴリラのメスが移籍するのは、発情可能な時期に限られており、いくら何でも乳飲み子をかかえている場合にはそこまで考えたりはしない。
けれども、オスはこういう状態のメスですら獲得したいと思うことがある。そのときには哺乳類のあの必殺技、つまり子殺しという非常手段に訴える。
ゴリラの授乳期間は三〜四年くらいであり、その間当然メスの発情は抑えられている。出産から次の発情までは、もし途中で子が死ぬようなことがなければ、四年もの長きに及ぶのである。
子殺しはオスどうしの闘争のさなかに起こるらしい。子を殺され発情を再開したメスにはおそらく移籍したいという衝動が高まってくるのだろうが、我が子を殺したオスのもとへ本当に行くかどうかというところまでは、さすがのフォッシーも確認できなかった。
フォッシーは中央アフリカのヴィルンガ火山群の死火山ヴィソケ山の山腹で主に観察していた。ここには四〜五家族のマウンテンゴリラたちがすんでいたが、彼女はベートーベンと名付けたオスをリーダーとする一家と特に深く交流し、家族の一員として受け入れられるほどになった。そして、彼らの内情に通じていくにつれ、意外な事実が明るみに出ることにもなったのである。
リーダーであるベートーベンはフォッシーが研究を始めた一九六九年当時、推定年齢四〇歳。すでに男盛りを過ぎていたものの、数頭の妻とその子どもたち一〇頭ほどを率いていた。彼は最古参の妻エフィーとの間に息子イカルスをもうけていたが、この息子は性的に成熟して背中の毛が銀色に変わっても(この状態のオスはシルバーバックと呼ばれる)、いっこうにハレムを出て行かず、父の片腕となってハレムの防衛のために尽くしていた。イカルスは孝行息子そのものであった。しかし孝行息子というのは、得てして親の財産を狙っているものでもある。彼はベートーベンが老い、いろいろな意味で現役を引退すると、腹違いの妹のパンツィーと、そしてさらに同腹の妹のパックとも交尾し、子を産ませてしまったのである。イカルスの狙いとはこういうことだったのだろうか。
だが、父ベートーベンにしても、かつて実の娘パンツィーと関係をもち、子を産ませたという前科があるのである。この一家のオスには何か異常な血が流れているのだろうか。
けれども、ゴリラの交尾はメス主導型である。メスは発情するとオスを交尾に誘うポーズをとる。オスがいくらいきり立ってみたところで、こうしたメスの誘いがなければ交尾は始まらないのである。この父子の場合もそうであったはずであり、非難されるべきはこのメスたちということになる。特に父とも兄とも関係をもったパンツィーとはいったいどういうメスなのだろう。
しかしながら、このメスたちにも責任はないと言わなければならない。このような事態を招いた原因の一つには、彼女たちを奪っていってくれるオスがなかなか現われないということもあるからだ。彼女たちが魅力に欠けているというわけではない。このゴリラたちはきっと何か特別な事情を隠しもっているに違いない。
ハヌマンラングールを思い出してみよう。ハヌマンラングールのハレムの周辺には常に離れオスのグループがうろうろとしていて、隙をうかがっていた。杉山氏が研究地に選んだインドのダルワール地方では、ハヌマンラングールの棲息密度が特に高く、ハレムごとのなわばりはこれ以上新規開拓の余地がないというほどに混みあっている。こういう条件では、リーダーは自分の娘が性的に成熟する前に必ず離れオスによって追放されるし、息子も父とともに出て行く。つまり、棲息密度が高いハヌマンラングールでは、近親交配は早め早めにと防がれているのである。
マウンテンゴリラの近親交配には、その棲息密度の低さが関係しているのではないだろうか。ハレムは孤立化が進む。娘たちは花嫁になる準備がすっかり整っているというのに、いつまでたっても花婿がやって来ない。息子にしたところで、裸一貫から出発するより、父のハレムを継ぎ、それを足場にした方が有利だ。近親交配が起こるというのも、当然の成り行きではないだろうか。
マウンテンゴリラが現在のような絶滅の危機に追いやられていなかった頃、近親交配はめったに起こらなかったのかもしれない。多様な子孫を残したくても残せなくなっている彼らを、何とかして救う方法はないものだろうか。
陽気な性格とは裏腹に チンパンジー
我々がごくごく親しい人と言葉を交わすとき、会話の中身にほとんど意味がないということがよくある。喫茶店などで一時間も二時間もしゃべっているカップルの会話にしても、第三者にしてみれば退屈すぎて聞けたものではない。ところが本人たちはというと、楽しくて楽しくてしかたがないといった様子で、いっこうに飽きる気配もないのだ。
それに、顔見知りの人とすれ違いざまに交わされるあいさつの言葉ともなると、ますます言葉の意味は薄れてしまう。「いいお天気ですね」と言われて、「うむ。これは移動性高気圧が広く日本列島を被っているためだ」とか、「我々にとってはいいお天気と言えるが、稲作農家にとっては必ずしもそうではない」などといちいち真剣に思いをめぐらす人間がいるだろうか。
このいずれの場合においても、重要なのはとにかく言葉を交わすという、そのこと自体である。デズモンド・モリスはうまいことを言うもので、このような会話のことを「毛づくろい会話」と呼んでいる。毛づくろいは、多くの霊長類においてみられる行動で、配偶関係にあるオスとメスのあいだはもちろんのこと、親子や同性の仲間どうしのあいだでも頻繁に行なわれる。体を清潔に保つという本来の目的の他に、親愛の情を表わすという重要な役割もあり、我々の祖先のサルたちにしてもおそらく頻繁に毛づくろいをしていたことだろう。しかし彼らはひょんなことから言葉を獲得した。そして、それと相前後して、理由は明らかではないが体毛の大部分をなくしてしまった。体の毛をなくしたことと言葉の獲得とのあいだに、多少なりとも因果関係があるのか、それすら不明だ。ただ、言葉が毛づくろいの役割を果たせるものであるということは、実に都合がよかったようである。
人間も含めた霊長類で、オスとメスとの毛づくろい(あるいは毛づくろい会話)が許される範囲と交尾が許される範囲とを比較検討してみると、なかなかおもしろいことがわかる。
最もルールが厳しいのは、テナガザル、マーモセット、ティティモンキーといった一夫一妻制をとる霊長類である。彼らの社会では家族ごとのなわばりが厳しく防衛されているので、他人の妻または夫が介入する余地はない。しかも、この夫婦の絆は一方が死ぬまで続くから、彼らにとって毛づくろいのできる男女《ヽヽ》関係とは、すなわち交尾のできる関係を意味している。ゴリラのような一夫多妻の類人猿においても、これと同じことが言える。彼らの場合も、婚姻関係と毛づくろい関係とは完全に一致するのである。
ところが、第一章で述べたゲラダヒヒには、セカンドオスとリーダーの第二夫人とのあいだに、毛づくろいはしてもよいが交尾をしてはいけないという微妙な男女《ヽヽ》関係が存在した。
人間はどうだろう。言うまでもなく、人間にとってはあいさつ程度の毛づくろい会話をする相手は数知れない。おそらく数十人、交際範囲の広い人なら何百人、何千人といるだろう。これは人間界が、複雑に入り組んだ重層構造をもつ社会なればこそだ。ところが、「交尾」が、少なくとも社会通念上許される範囲は、極端に狭い。それは一夫一妻がたてまえとなっている国では夫または妻の一人だけ。一夫多妻がたてまえの国でも夫は法律上登録されている妻たちだけ、妻にとってはむろん夫一人である。厳しく戒律の守られている(と言っても、多くは相互監視と密告によって守らざるを得なくなっている)イスラム社会では、このたてまえと本音とは本当に一致しているらしい。
しかし、我々の知る多くの社会において、不義密通は日常茶飯事と言ってもいいほどである。たてまえとは別にウラでコソコソと通じ合うことこそが、人間を急速に人間たらしめる原動力だったではないか。だから、かのイスラム諸国にも太古の昔から今ほど厳しい性の倫理があったとは、とうてい考えられないのである。
さて、話はずいぶん脱線してしまったが、さしもの人間もあいさつするがごとく「交尾」するというところまでは至らなかった。中にはかなりそれに近いことをしている人間もいないわけではないが、そういう人々にしてもふだんは人間界のルールに従い、チャンスが巡って来るまで欲望を抑えている。
ところが、チンパンジーは本当にあいさつ代わりに交尾してしまう動物である。彼らの名誉のために断わっておくと、そういう交尾は主に対人関係の緊張緩和の方法として用いられているらしい。こういう芸当のできる動物はそうざらにいるものではないが、この点についてチンパンジーよりもさらに上を行くのが、ボノボ(ピグミーチンパンジー)である。ただ、彼らには第四章の最後に華々しく登場してもらう予定なので、ここではまだ触れないことにする。
チンパンジーの集団は、複数のオスと複数のメスから成り立っていて、大筋において乱婚的である。メスは発情すると集団内のオスたちと次々に交尾する。メスのお尻には性皮と呼ばれる毛の生えていない部分があり、発情するとそこが赤く大きく膨れ上がる。これがオスを交尾に誘う信号になっている。
三七日ほどの月経周期で、月経時にはしぼんでいる性皮が、その後徐々に膨らみはじめ、一〇日くらいたったところで最大限に膨らむ。この状態がさらに一〇日くらい続くと、その最後の日あたりに排卵が起こり、急速にしぼんでしまう。メスがさかんに交尾するのは、性皮が最大限に膨らんでいる約一〇日間である。
もっとも、厳密な意味ではこの発情期間のすべてにおいて乱婚的になっているわけではない。排卵日が近づきメスが妊娠する可能性が高まってくると、やはり優位のオスがメスを独占しようとする。だから、発情前期の交尾と後期の交尾とはかなり意味の違うものになっている。前者は、毛づくろいやあいさつなどと同様、集団内のオスたちの関係を和らげる、宥和の手段としての交尾である。後者は生殖を目的とした交尾だ。チンパンジーが生殖を目的としない交尾を行なうということは、メスが妊娠してからも交尾するという現象によく表われている。妊娠期間の前期には、排卵を伴わずに性皮が赤く大きく膨れ上がることが何度かあり、そのたびにメスはオスを受け入れることができるのである。
メスの発情後期における難題は、誰が彼女をより長い時間エスコートするかということである。最も順位の高いオスはたしかに優先的に連れ添っていることができるが、彼はそもそもチンパンジー社会の常として、ケンカの強さばかりでなく、他のメンバーたちからの人望によってリーダーの地位を保っている。権威をカサに着るようなやり方は得策ではないだろう。ひとたび他のオスたちの不平を買おうものなら、彼らの連合によってリーダーの座から引きずり降ろされることも、ままあるのだ。
こういう事態に陥らないよう日頃から対人関係に気を遣い、根回しをしておくのもリーダーの心がけとして大切である。彼らの精神活動は、我々の予想をはるかに上回る高度なものであるようだ。それはオランダのアーネム動物園で飼われているチンパンジーの集団(この動物園では、野生のチンパンジーと同じくらいのサイズの集団が半野生状態で暮らしている)を詳しく観察したフランス・ドゥ・ヴァールが、彼の著書のタイトルを「Chimpanzee Politics」(邦題『政治をするサル』どうぶつ社)と名付けていることからもよくわかる。
低い順位にある若いオスたちも、こういう状況をただ手をこまねいて見ているわけではない。彼らにしても、こんな大変興味深い行動をとることが知られている。
劣位のオスは、メスの発情前期にはかなり交尾のチャンスを与えられるというのに、後期になるとやはり優位のオスにメスを独占されてしまう。そのためいつまでたっても自分の子を妊娠させるチャンスに恵まれない。そのことがわかっていてかどうかはわからないが、彼は、一大決心をしてメスに誘いをかけるのである。
彼は恋するメスのそばに行き、じっとおし黙る。耳元で何か囁くのかというとそうでもなく、ひたすらおし黙るのである。驚いたことにこれがチンパンジーの世界では「どこか遠いところへ行こうよ」と誘いをかける合図になっているらしい。ふだん騒がしい連中だからこそ、こうした態度は効果的なのだろう。ちなみに、メスのOKのサインも、同じくおし黙ることである。こうして二人は一週間くらいの間、愛の逃避行に出かけるのである。
こういう二頭の関係は、コンソートと呼ばれている。だが、順位の低い一介の若造が特定のメスを一週間かそこら独占するわけで、思えばずいぶん大胆不敵な行為である。こういうペアは仲間を避けるために、五〜一〇平方キロメートルか、それ以上に及ぶ広いなわばりの境界付近にまで出かけて行く。しかし、なわばりのはずれに着いたところで安心はできない。そこは隣の集団からの攻撃を最も受けやすいところなのだ。チンパンジーの社会は父系制であるため、メスはいざとなれば隣の集団に移籍してしまえばよいが、オスはそうはいかない。もし隣の集団のなわばりに踏みこもうものなら、おそらく彼は再起不能というぐらいの大きな痛手をこうむることになるだろう。無事もとの集団に帰って来られたとしても、彼にはきついペナルティが待ちうけている。ただでさえ低かった順位が、さらに引き下げられるのである。
命の危険を冒し、順位の昇格の見込みまで棒に振りながら、彼がコンソートに意欲を燃やすのは、なぜなのか。それはやはりメスを妊娠させられることの魅力のためと言う他はない。低い順位にある彼は、集団内でおとなしくルールに従って行動していても、しょせん高い順位の者たちには太刀打ちできない。コンソートは、まさにこういうしがないオスの一発逆転の捨て身|業《わざ》なのだ。
チンパンジーの婚姻には、高順位のオスの政治的かけひきあり、若いオスの駈《か》け落ち(コンソート)ありで、この点に注目する限りは弱い者にも少しは道が開かれた、なかなか融通のきく社会ではないかと思えてくる。なるほど、そこまではよかったのだ。だが、何としても残念なのは、この社会においてすら、子殺しの悲劇が回避されていないということである。
チンパンジーが子殺しをする。しかも殺した子の肉を食べる。
この衝撃的な事実を発見したのも、日本人研究者である。京大の鈴木晃氏らはウガンダのブドンゴの森で観察を重ねるうち、この事実に行き当たった。杉山幸丸氏によるハヌマンラングールの子殺しの発見から五年ほどたってからのことである。
葉を食べるハヌマンラングールと違い、雑食性で、肉食の割合もかなりあるチンパンジーでは、殺された子は仲間の食卓にのぼってしまう。平和的なニホンザルに慣れ親しんできた日本の研究者たちにとって、これはもう身の毛もよだつ光景だったに違いない。どういう場合に子殺しが起こるのかということについては、まだ観察例が少なくはっきりしたことは言えないが、メスが移籍直後に子を産み、しかもその子がオスである場合──これが最も多く観察された例である。
その子は集団内のどのオスの子どもでもないし、メスならともかく、オスは将来自分たちのライヴァルとなるからだろう。早めに芽を摘《つ》んでおこうというわけだ。
オスによる子殺しは、抑制されていたメスの発情を促そうとするものであるとみられ、基本的にはハヌマンラングールなどの場合と同じ解釈をすることができる。
ところが、チンパンジーではこの他に、メスによる子殺しが起こることもわかっている。それはメスの連れている子を集団内の顔見知りの他のメスが殺すという、ちょっと恐ろしい話である。残念ながらその理由についてはまだ十分にわかっていない。
チンパンジーは政治的かけひきやコンソートなどによってオスとしての生き方にいくつかのルートを開拓し、かなり平和的な社会を作りかけたのだが、それでも子殺しを回避することはできなかった。集団どうしの深刻な対立関係についても未解決のままである。この二点において、チンパンジーの社会は残念ながら「きびしい社会」の方に分類せざるをえない。チンパンジーの社会が今一歩平和な社会へと近づくためには、どんな解決策をとればよいのだろう。その方法について、第四章で模索してみることにしよう。
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第四章 いいかげんな社会
弱者にもチャンスはある オランウータン
不謹慎だと言われるかもしれないが、私は野生動物の世界を知るようになってから、泥棒やひったくり、あるいはウソやごまかし、浮気といったことが世間で言われているほど悪いことには思えなくなってきた。
彼らの世界では、そういうことは少しも珍しいことではない。人間にはどう見ても卑怯と思われるやり方が堂々とまかり通っていることもある。中にはそういう動物たちを「レベルの低い連中だから、事の善悪がわからないのさ」と言って一笑に付す人もあるだろう。
しかし、そもそも善悪とは何だろう。彼らの世界では小さな悪が頻発する代わりに大きな悪が増殖しにくいというのも事実なのである。
私は、いくつかの抜け道や人生の選択肢があり、弱い者だからといって即、排除されるわけではない柔軟で融通のきく社会を素晴らしいと思っている。そして、それを敢えて「いいかげんな社会」と呼びたい。「いいかげんな社会」では、驚くべきことに、動物界最大の罪悪の一つとも言うべき子殺しが防がれているのである。
カエルの世界では、懸命に鳴いてメスにラブコールを送るオスがいるかと思うと、自分ではちっとも鳴かず、ただじっと黙って潜んでいるオスもいる。居候あるいはサテライトと呼ばれるこのオスは、鳴いているオスのところへやってきたメスを横取りしようとたくらんでいるのである。
ウシガエルは体が大きく、人間が食用としているくらいだから、大変肉づきのよいカエルである。ただ、そこまで成長するにはかなりの期間を要し、一口にオスと言っても、十分に成長した貫禄十分のものもいれば、まだまだ成長途中といった若いオスなど、さまざまな大きさのものがいる。こういう若いオスもすでに十分な生殖能力を身につけているから、メスを手に入れたいという気持ちに変わりがあるわけではない。ところが困ったことに、彼らにとって鳴くということは、メスをひきつけるどころか、かえって自分の貧弱さをさらけだす結果となってしまうのである。
カエルの声の低さは体の大きさと関係がある。声が低いオスほど体が大きいということを誇示でき、メスをよくひきつけることができる。しかし、体が小さいオスは高い声しか出せず、メスをひきつけることができない。それに、こういうオスはメスをめぐって他のオスと陣地争いをする際にも当然不利で、取っ組み合いや蹴り合いの末、大きなダメージを受けることもある。
そこで、若くてまだ体力に自信のないウシガエルのオスは、正攻法でメスを得ることをあきらめ、もっぱら居候という奇策をとるようになった。まさに弱者の戦略である。ただし、彼はなわばりを作っているオスに見つかれば、たちまち撃退されてしまう。たとえメスの背中に乗って抱接(カエルでは、オスがメスの背中に乗って、メスが産む卵に精子をふりかける。つまり、体内受精ではないので交尾とは言わない)にまでこぎつけたとしても、やはり、そういうオスに見つかればメスの背中からひきずりおろされてしまう。「居候」があまり成功率の高くない戦術であるのも、ガガンボモドキの「ひったくり」や「女形《おやま》」と同様、正攻法ではないからだろう。
カエルが居候というなんとも隠微な作戦をとることができるのは、まず彼らが静止したものを発見することを苦手としているからだ。そしてもう一つのより重要な理由は、メスをめぐる争いが暗闇の中で行なわれるということである。暗闇は弱者に味方をするのだ。
すると、暗闇とまではいかなくても、昼なお暗い深い森の奥とか藪の中というような場所にも、これと同じような条件が存在し、そこにはカエルと同様の戦術をとる動物がいても不思議はないということになる。実際、ボルネオやスマトラの深い森にすむオランウータンはカエルとよく似た戦術をとることがわかっている。
オランウータンの研究は、ボルネオから始まった。その結果まずわかったのは、彼らが単独生活を好む「孤独な森の住人」であること、メスが子連れのことはよくあるとしても、大人はめったに複数で行動せず、協力関係のかけらすら見られないということである。オランウータンがいかに変わり者の類人猿であるかは、すでにこの事実からもうかがえる。他の類人猿や高等なサル類は例外なく何らかの社会を形成し、協力関係を結んでいて、各人がバラバラに生活するなどとうてい考えられないからだ。
オランウータンのオスは、ロングコールと呼ばれる、二キロメートル以上離れたところからでも聞こえるような大きな声を発する。ロングコールは、なわばりをもち定住生活をしているオス、つまり優位のオスだけが発するのだが、これがカエルの鳴き声と実によく似た意味をもっている。
まず、この声はメスをひきつけるためのラブコールである。優位のオスにとって、暗闇とはいかないまでも視界のきかない森の中で、自分の居場所を知らせ存在を誇示するにはこの声を利用するより他はない。メスは約一ヵ月の発情周期をもっており、排卵期になると発情し、そのときにだけ優位オスのもとへやって来る。数日間、彼と行動を共にし、数回交尾をした後、再び単独生活に戻る。たいていはいとも簡単に妊娠してしまうが、そうすると彼女は出産と授乳を終えるまでの六〜七年ものあいだまったく発情せず、もちろん優位オスのもとへやって来ることもないのである。
ロングコールのもう一つの意味は、他のオスを排斥するためのライバルソングだということである。この声は、他の優位のオスたちに対してはなわばりの重複を防ぎ、無駄な争いを避けるための車間£イ整用として働き、劣位のオスに対しては威嚇の信号として働く。劣位オスがこの声の主を避けていることは、実際、彼らがこの声のしない方へと移動していくことからもわかる。
この劣位オスたちは徒党を組むわけでもなければ、ゲラダヒヒのセカンドオスのように優位オスにつき従うわけでもない。実のところどんな生活を送っているのか、とても興味深い。
彼らはもちろんロングコールを発しない。ただ黙って優位オスのなわばりの中を通過していく渡り者なのである。しかし、時には彼と同様に黙ってなわばりの中を移動しているメスとばったり出会うこともある。メスはたいてい発情しておらず、子連れのことも多いわけだが、このオスとのあいだに少々困った問題が生じることになる。
類人猿のメスでは、チンパンジーのようにお尻の性皮が赤く大きく膨れ上がるとか、ゴリラのようにメスがオスを誘うポーズをとるというように、発情していれば、そのことをはっきりと示すサインがあるのがふつうだ。ところが、オランウータンは視界のきかない森の中で生活し、メスは発情すれば自己申告的に優位オスのもとへ出かけて行く。そこで、メスがオスに発情していることを示すサインが発達しなかった。オスにしてみればメスが発情期にあってもなくても、等しく魅力的に見えるらしいのである。
渡り者のオスと発情していないメスとが出会うとどうなるか──オスは、嫌がって悲鳴をあげるメスに交尾を迫り、人間の言葉に当てはめるなら「レイプ」に相当する光景が繰り広げられるという。これは他の類人猿ではありえないことだ。発情していないメスは子を連れていることが多いので、その場合には子が見ている前での「レイプ」ということになってしまう。
メスの発情を示すサインがはっきりしないことを考えに入れたとしても、劣位オスのこの行動は我々人間にはとうてい好ましいことには思えない。しかし私はこれを敢えて好意的に解釈してみようとした。その結果たどり着いた結論は、これはひょっとして「性教育」ではないかということである。
子が乳を吸っている限り、母親は発情せず、そのため子連れで優位オスのもとへ行くということはありえない。子は離乳していったん独り立ちしたのなら、あとはほとんど単独で過ごす。つまり、子にとって(特にオスの子にとって)このとき以外に交尾のしかたを学ぶ機会はないのではないか、母親が「レイプ」される光景は数少ない学習の場として不可欠なものではないのか……。
もっとも、私がこう考えるのは、アカゲザルで次のような有名な話があるからである。ある人が集団から隔離して育てられたアカゲザルのオスを、集団の中でふつうに育ったメスと一緒にしてみた。すると彼は、彼女が発情していて魅力的なメスだということはわかるのだが、どうやって思いをとげてよいやらわからず、彼女のわき腹に一所懸命マウント(馬のりになること)しようとしたというのである。アカゲザルはニホンザルに近縁で、数十頭もの群れで生活しているサルである。このオスザルもふつうに生活していれば、いくらでも交尾の場面を目撃できただろうし、交尾ごっこをして遊ぶこともできたはずなのである。
ところで、オランウータンのオスどうしの争いは、しばしば熾烈《しれつ》を極めるものになるらしい。それは彼らが骨折をしていたり、片目を失っていたりと、無残な姿になっていることが多いことから推察されるわけだが、こういう争いはすべて、定住性の優位オスになるための試練のようだ。そう考えると、まだ体力的に勝ち目のないオスは、わざわざ優位オスに挑んで痛手を負うことはない。今は闘わず、まず渡り者となり、機が熟したところで勝負に出るということの方がよほど賢い選択となるだろう。旅から旅へと渡り歩くうちに、運が良ければ子を残すチャンスに恵まれることだってあるかもしれない。たまには発情しているメスに遭遇することだってあるからだ。こういう生活はウシガエルの居候と同様、弱者のために用意された貴重な抜け道として、むしろ大いに評価されるべきではないだろうか。
ここまではボルネオのオランウータンの話であった。そう断わらねばならないのは、スマトラでの研究が始められると、ボルネオとはかなり事情が違っているということがわかってきたからである。驚いたことに、スマトラのオランウータンのメスは渡り者のオスをかなり受け入れるらしい。メスは発情していない時期にあったとしても、ちょうど発情期に優位オスと数日間行動を共にするのと同じようにその渡り者と過ごすという。それに、オスにしても、ボルネオでは互いに敵対しあい、あくまで孤高を保っているのに、スマトラでは一緒に食べ物を食べたりするなど、かなりの社会性が認められるというのである。
ボルネオとスマトラで、なぜこうも違いがあるのだろう。オランウータン研究の第一人者であるジョン・マッキノンは、スマトラにはトラがいるが、ボルネオにはいないためではないかと言っている。スマトラでは集団でいることのメリットの方が単独生活によるメリット(主食である果実をめぐる争いを避けられる、あるいは伝染病対策など)を上回っているのだろう。集団の方がトラを発見しやすいし、協力して防衛に当たることもできる。それによしんば誰かがトラの牙にかかったとしても、他の者はその隙に逃げればよい。身の安全をはかることこそ緊急課題なのだろう。スマトラのオランウータンは、ボルネオのオランウータンがあれほどまでに固執している単独生活を、あっさりと捨ててしまったのである。
ともあれ、ボルネオでもスマトラでも、オランウータンが子殺しをするという話は聞いたことがない。それはおそらく彼らが「いいかげんな社会」を形成しているからに違いなく、喜ばしいかぎりではないかと思うのである。
妻が多いのも考えもの? ゾウアザラシ
ギネスブックによれば、世界で一番多くの子を残した男は、モロッコ最後の皇帝ムーレイ・イスマイル(一六七二〜一七二七)だという。彼は一七〇三年までに息子を五二五人、娘を三四二人もうけたが、その後も子の数を増やし続け、一七二一年にはとうとう七〇〇人目の息子をもった。それからも当然子を作り続けたのだろうが、本人も数え切れなくなったのか、最終的な記録については不明である。
一方、女の方のチャンピオンは、帝政ロシア時代、モスクワから東へ二四〇キロメートルほどの町、シューヤの農夫フィヨドル・バシリエフの最初の妻(名は不明)である。彼女は二七回の出産で合計六九人の子を産んだ。その内訳は、双子が一六組、三つ子が七組、四つ子が四組である。つまり、「一産一子」は一度もなかった勘定になり、おそらくこの類まれなる同時多産の能力が彼女を世界一の座へと導いたものと思われる。当時の女帝エカテリーナ二世(在位一七六二〜九六)は、修道院を通じてもたらされたこの報告に大きな関心を示したという。
それにしても男と女がそれぞれ人間としての限界に挑戦(?)した結果、はっきりとわかったことは、女がいくら努力したところで作ることのできる子の数には限りがあるが、男は条件さえそろえばほとんど無限と言っていいくらいに子を作れるということである。
野生動物の世界に目を転じてみるならば、ゾウアザラシ、アシカ、オットセイなどの一夫多妻の鰭脚《ききやく》類では、優位オスが何十頭ものメスを獲得してハレムを作り、きわめて多くの子孫を残すことが知られている。ゾウアザラシのハレムは特に大きく、あるハレムのリーダーなどは生涯に二〇〇頭余りの子をもったという。一産一子の野生動物で、もしかしたらこれはオスがもつことのできた子の数のギネス記録かもしれない。
一頭のオスが多くの妻をもち、子を産ませることは、それ自体は大変めでたいことである。しかし、オスの生殖活動には常に本当の父親は誰かという問題がつきまとっているのだ。ただ一頭(人)の妻の監視さえ難しいことなのに、これほど多くの妻をもつとなれば……。
もっとも、ゾウアザラシとは違い、人間界の皇帝は宦官《かんがん》という妻の監視役の男を雇うことができた。その際、男と妻とがデキてしまっては元も子もないので、彼らは去勢されたうえで登用されたのである。宦官は中国の宮廷のものが特に有名だが、古代の西アジア、ギリシア、ローマ、インドなどにも存在していたという。
ゾウアザラシのハレムのリーダーとなると、やはり頼れるものは自分自身しかない。ライヴァルのオスを追い払うために涙ぐましいまでの努力をする。繁殖期の数ヵ月間は、ほとんど何も食べず、ハレムを防衛することに専念するのである。
ゾウアザラシの繁殖期は、北アメリカやメキシコの西海岸にいるキタゾウアザラシの場合には一〜二月頃、南氷洋のミナミゾウアザラシでは十〜十一月頃である。彼らは海を回遊しながら魚やイカなどを食べ、十分に栄養をつけたところで、海岸近くの島など毎年決まった繁殖場所にやってくる。
ゾウアザラシの名は、成熟したオスの鼻がゾウのように長くのびていることに由来するが、時には三トン以上にも及ぶことがあるオスの巨体もゾウを連想させる。彼らは鼻に空気を送ってふくらまし、大きな音を出す。それを威嚇のために使い、激しく体をぶつかりあわせて闘うのである。攻撃の矛先は大切な鼻に向けられるという。
メスたちが回遊から戻ってくるよりも数週間早く上陸したオスたちは、こうしてあらかじめ順位決定戦を行なっておく。メスたちは頃合いをみはからって上陸してくるが、まず繁殖に都合の良さそうな砂浜などに集まって群れをなす。順位決定戦で高順位を獲得したオスたちは、そういう場所をなわばりとし、ハレムを作るが、その他のオスはハレムの周辺の波打ち際に追いやられる。
ハレムのリーダーとしては、せっかく手に入れた交尾権をすぐにでも行使したいところだが、そうはいかない。メスは、前の年の繁殖期に妊娠し、この一〇ヵ月ほどの回遊のあいだ、大切に育ててきたお腹《なか》の子をまずは出産し、独り立ちするまでに育てなければならないからだ。授乳期間は三〜四週間ほどで、メスは脂肪たっぷりの濃厚な乳を出し、大急ぎで子を成長させる。授乳期間が短いのは、二ヵ月ほどの繁殖期間のうちに出産、授乳、そして交尾というスケジュールを次々とこなさなければならないからだが、もう一つの重大な理由は、オスによる子殺しを防ぐためではないかと思われる。
ハレムのリーダーはメスとの交尾を今や遅しと待ち構えている。もしその年と前の年とでハレムのリーダーの顔ぶれが変化していなければ、メスにとってもオスにとってもそれほど事を急ぐ必要はないだろう。しかしゾウアザラシの社会では、オスどうしの競争が激しく、ハレムのリーダーは年ごとにめまぐるしく入れ替わる。メスが出産した子の父親は、多くの場合、その年のハレムのリーダーとは違うのである。メスにしてみれば、一刻も早く子が成長し離乳してくれないものかと一日千秋の思いだろう。そうしないと発情できないからだ。この時期のメスは、時間を節約し、子の保護に全力を尽くすためにほとんど何も食べずに過ごすというが、そういうメスの苦労のかいもあって、ゾウアザラシでは意図的な子殺しは起こらないという。ただ、「過失致死」ということなら時々起こるらしい。赤ん坊は時としてハレムのリーダーと下位のオスとの争いに巻き込まれ、圧死してしまうのである。
メスの所有権をめぐってオスどうしが格闘する動物では、ふつう大きくて強いオスが進化する。ゾウアザラシのオスの場合、首尾よくハレムのリーダーになれば平均四〇頭ぐらいのメスを獲得することができるが、この極端な現象を反映して、オスの体重はメスの三〜四倍にもなっている。オスの体重が二・五トンから時には三トン以上にまで達するのに、メスでは一トンにも満たないのだ。生まれたばかりの赤ん坊の体重は五〇キロ程度だから、オスどうしの争いに巻き込まれた赤ん坊は、巨漢レスラーどうしの本気の争いの最中にリングに投げ込まれたネコのようなものである。
ゾウアザラシの寿命は、もし天寿をまっとうしたのなら、オス、メスともに十数年ほどである。メスは三〜四歳頃から子を産みはじめ、毎年一頭ずつとはいえ、着実に子の数を増やしていく。メスはメスとしての人生の軌道からよほど逸脱しないかぎり、確実に一定数の子を残せるというわけである。
ところがオスには、当たりはずれの大きい試練に満ちた人生が待ち受けている。オスも四歳ぐらいで性的に成熟するが、この頃はまだ体の大きさも不十分で、成熟したオスであることを示す特徴的な鼻も伸びきっていない。彼らが一人前のオスとして認められ、オスどうしの順位決定戦に参加できるのは、どんなに早くても七〜八歳になってからだ。そして毎年行なわれる順位決定戦で上位数頭の中に残ればメスとの交尾権を手に入れ、だめならまた来年に希望をつなぐというわけである。
ただ、この争いが、毎年毎年同じような顔ぶれで行なわれるにも拘らず、順位についての年功序列的配慮がなされないというところが興味深くもある。順位がまったくの実力だけで決まるゾウアザラシの社会には、多少力不足に生まれついてしまったオスを一生ハレムのリーダーにはさせないという厳しい面もある。しかし、そういうオスは本当に一生報われないままなのだろうか。
我々がここで思いをめぐらすべきは、ゾウアザラシのオスが、性的に成熟しながらも順位決定戦に参加する資格を与えられていない青年期の数年間の過ごし方である。彼らがそういう大切な時期を無為に過ごすとは考えられないではないか。霊長類であれば、こういう繁殖に参加できない若いオスは、離れオスとして武者修行の旅を続けるとか、グループを作って行動し、実力が備わったところでどこかのハレムを襲うというような過ごし方をする。しかし、この時期のゾウアザラシのオスは、十分成長したオスに比べてはるかに体が小さく、彼らとはまるで勝負にならないへなちょこオスなのである。
アメリカのB・J・ルバフなど、ゾウアザラシの研究者たちの注意深い観察によってわかったことは、この時期のオスたちが、カエルやオランウータンにみられるように、弱者の戦略をとるということである。彼らは鼻が多少伸び始めているだけで、体の大きさや形態に関しては成熟したメスとそう変わりがない。そこで、姿勢を低くし、鼻を隠すようにしてメスに近づくという作戦が可能になった。ハレムのリーダーは、この見知らぬ「メス」に興味をもって近づいてくるかもしれない。が、要は真相がバレないうちにさっさと交尾してしまえばよいのである。
こういう「女形《おやま》」の例は、前にも述べたガガンボモドキの他に、サンフィッシュという魚やサンショウウオなどでも見つかっている。その方法は、今まさに交尾しようとしているペアの間に女形のオスが割り込み、ライヴァルのオスにはメスと錯覚させ、メスとの交尾権を盗むという手の込んだものである。もっとも、脳がそれほど発達していない動物がとるこの種の行動は、いかにずる賢くて巧みに見えても、それはみかけだけのことである。彼らはただ単に遺伝的プログラムに従い、いわば「無心に」行動しているだけのことだろう。
ゾウアザラシくらい発達した脳をもつ動物ともなると、自分の行動をかなり客観的にみることができる。「ハレムのリーダーはどうやらオレのことをメスだと思っているらしいぞ。シメシメ……」というくらいの認識をもっていることは大いに考えられるのである。
こうしてうまく女形を演ずる能力をもつ者は、裏でこっそりと子孫を残し、その能力を次代へ伝えていくことができる。ゾウアザラシでは、体が大きくなり力も強くなる正統派のオスとともに、女形をうまく演ずる能力をもったオスも進化してきているはずである。
惜しくもハレムのリーダーとなれず、かと言って女形を演ずるには成長しすぎてしまったオスは、繁殖期の大半をハレムを遠巻きにし、指をくわえて過ごすわけだが、彼らにもチャンスは残されている。繁殖期の終わりにメスたちがなぜか発情した状態のまま海に帰っていくからである。彼らはこの最後のチャンスをのがすまじと、メスを追いかけまわし海中で交尾する。まさにかけこみの交尾だ。
ゾウアザラシのハレムのリーダーはあまりにも多くのメスを独り占めしようとする。そのため、彼らはかえって損をしているのではないかとも思える。しかし、「もっと妻の数を減らして手堅く防衛した方がいいですよ」とアドヴァイスするのも考えものである。あぶれオスの繁殖成功の望みが絶たれ、彼らが結束してハレムを乗っ取ろうとたくらむ、続いて子殺しというお決まりの惨劇が起こるかもしれないからだ。せっかくの平和的社会も、リーダーのちょっとした方針変更によってたちまち「きびしい社会」へと変貌する危険性をはらんでいるのである。弱い者にも抜け道が用意されている──くどいようだが、そこが重要なのだ。
組織に入るか、ハナレザルになるか ニホンザル
一九六〇年一月一九日、サルになった男≠フ異名をもつ間《はざま》直之助氏は雪深い比叡山中でニホンザルの群れを追跡していた。
根本中堂《こんぽんちゆうどう》の裏手の、法然堂の大根畑にたどり着いたときのことである。そこではちょうどサルの群れが野生の植物とはまた一味違った栽培植物の味を楽しんでいるところだったが、突如として現われたこの人間にすっかりあわてたサルたちは、四方八方へと散らばって行った。ところが、中に一頭だけ悠然と大根を食べ続けるオスザルがいる。近づいて行ってもそいつは逃げるそぶりすら見せない。その顔をよく見ると、どこかで見たような気がする。当時、間氏は比叡山での餌付けを始めたばかりだったが、それに先立つ数年間は嵐山で餌付けを試み、成功していた。そのサルはたしか嵐山で見たことのある顔だったのである。
知らせを聞いた嵐山の研究者たちが駆けつけ、五ヵ月前まで嵐山群に所属していたが、以後行方不明となっているオスザル、チークシャであることを確認した。うれしいことにチークシャ自身も彼らのことを旧友と認めたという。
チークシャという奇妙な名前は、体が小さくて顔がクシャッとしているところに由来する。気が弱くてお人好し、おまけに尻を振って歩くクセがある。サルの世界でどう評価されているかは知らないが、人間の基準からするとおよそ風采の上がらない男だ。彼が所属していた嵐山群とは、文字通り京都市の西のはずれにある嵐山一帯を遊動域とするサルの群れのことである。
嵐山の渡月橋《とげつきよう》を見下ろす岩田山の観察小屋付近にはときおり群れが現われ、観光客を大いに喜ばせているが、この山の登り口の看板にはいくつかの注意書きと共に印象深い言葉が記されている。
「ここのサルは人に慣れていますが、なついてはいません」
ここでは金網越しにではなく、じかに野生のサルたちと接することができる。ただし、そのときなでたりするのはもちろんのこと、じっと見つめること(眼《がん》をつけることになるらしい)も厳禁で、人間とサルとがお互いに無関心を装いながら観察しあうという約束になっている。間氏らは一九五四年から三年がかりでここの群れに餌付けをし、このまたとない野生動物の観察の場を作りあげたのである。
比叡山はそこから北東方向へ、直線距離にして一八キロメートルほどのところにある。まさかサルが市街地を通り抜けて移動するわけはないから、チークシャは北山方面を回って来たのだろう。山を越え、谷を渡り、さぞかし難儀な旅だったろうが、間氏によれば、このように嵐山から比叡山までたどり着いたと思われるサルは他にもいるという。比叡山と嵐山とのサルのあいだには直接の接触があるとは考えられないから、彼らは初めから比叡山の群れをたよって行ったわけではないだろう。群れを離脱したことには何か深い事情があったものと思われる。
ニホンザルは複数のオスと複数のメス、それに子どもたちを合わせて、数十頭、時には一〇〇頭を超える集団で生活している。婚姻形態も概ね乱婚的で、チンパンジーの場合と似ている点が多い。ただ、チンパンジーの社会が父系制で、メスが集団間を移籍するのに対し、ニホンザルの場合には母系制で、オスが集団間を渡り歩くというところが、まず大きく違っている。それにハナレザルなる自由人が存在することもユニークな点である。
ハナレザルは例外なく大人のオスで、たまに群れの周辺に出没する以外は単独で行動している。こういう生活者はチンパンジー社会ではありえない。チンパンジーの社会では異なる集団のオスどうしは徹底的に敵対しあっており、一頭のオスが仲間から離れて放浪することなど、危険きわまりないからである。捕えられて暴行され、再起不能というくらいの重傷を負う。あるいは殺されてしまうのだ。ニホンザルの社会でも、まれに死者が出るほどの激しい戦闘が行なわれることもあるらしいが、それにしてもハナレザルのような自由人が存在しえるということは、やはり彼らの社会が平和的だからだろう。
ハナレザルは秋から冬にかけてよく群れの周辺に出没する。この時期が交尾期にあたるからである。メスたちはかなり一斉に発情し、群れの中は発情メス過多の状態になる。するとメスの中には、自らオスを求めて群れの周辺にまで出かけて行く者も現われる。ハナレザルは年に一度の集団との接触の機会を得ることになるわけである。
ところで、餌場などで数頭ずつ寄り集まっているサルたちのしっぽを眺めていると、おもしろいことがわかる。その中の一頭だけがしっぽを上げていることがあるのだ。そのサルはそこに集まっているサルたちのうちで最も順位の高い者で、もしもっと順位の高い者が現われれば、しっぽを下げなければならない。それに、二頭のサルのあいだにミカンなどを転がしてやると、まずまちがいなく順位の高い方が取る。たまに高順位の者が低順位の者に譲ることもあるが、そのときには低順位の者のお尻にマウントし、順位の確認を済ませてからにする。
ニホンザルでこうした順位の基準になっているものは、まず年齢、そしてその群れのメンバーとなってからの「勤続年数」であるらしい。ニホンザルの社会は基本的に年功序列制なのである。おとなしくルールに従っているかぎり、順位は徐々に上がっていくだろう。しかし、このシステムは、最終的にリーダーの座につくのが「同期」のオスのほんの一部にすぎないという厳しい一面ももっている。それに、リーダーとなるためには、年齢やケンカの強さもさることながら、メスたちからいかに支持されるかが重要なポイントであるらしい。
メスはふつう同年代のオスに比べて低い順位に位置づけられているが、それは表向きのこと。母系制のニホンザル社会ではメスの方がより固い結束力をもち、大いなる権勢を誇っている。いわば陰の支配者であるメスたちは、新リーダー擁立の黒幕として働く。リーダーの座を狙うオスは日頃から彼女たち、とくに年配のメスたちへの心配りを欠かすわけにはいかないのである。
一方、ハナレザルになるのは、必ずしも途中で昇進に行き詰まった者ではない。たしかに群れで生活していると、集団防衛によって身の安全が保障されるし、互いに毛づくろいをするので、自分では手が届かないような体の隅々まで清潔にし、健康を保つことができる。その代わり、順位制という厳格なルールによってがんじがらめにさせられていることも事実だ。しかも十分な昇進のためには各方面への多大な気配りが必要とされる。ここが思案のしどころなのである。オスがハナレザルという生き方を選ぶ際、その心理的過程は人間の「脱サラ」の場合とそう変わりがないのかもしれない。ニホンザル社会にもそういう道があるということを、同じ日本にすむ霊長類として我々は共に喜ぶべきだろう。不満分子がエネルギーを発散させようとしても、そのはけ口として適当なものがないと、子殺しなどの困った事態が発生するということを我々は学んできたではないか。
チークシャは嵐山群を離れ、いったんはハナレザルになったものの、比叡山の群れのメンバーとして落ち着いた。だが、とりあえずは嵐山にいたときよりも低い順位に甘んじなければならなかった。新入りは低順位から再出発するというのが習わしだからである。チークシャは結局、居心地の良い会社を選んだということだろうか(ハナレザルは、最近ではソリタリーと呼ばれるようになり、また少し見方が変わってきたようである)。
ニホンザルでは子殺しが見られたという報告がまったくないわけではない。しかし、それらは何かのアクシデントではないかと思われるものばかりで、少なくともハヌマンラングールのような恒例化した子殺しは行なわれない。それはなぜだろう。
この現象を説明するには、まず彼らの柔軟な社会構造に注目してみる必要がある。ニホンザルは乱婚制をとっている。しかし、まったく公平な乱婚というものはなかなか存在しにくいようで、この社会においても高順位のオスがメスを独占する傾向はやはりある。ただ、重要なのは、リーダーになるばかりがオスとしての生きる道ではなく、一方ではハナレザルという立派な生き方も用意されているということだ。オスが自分の子孫を残す手段としていくつもの選択肢があり、ある方法がダメだったからといってそれでおしまいというわけではない、他にもチャンスが残されている社会──そういう融通のきく社会だからこそ平和を維持できるのではないだろうか。
ニホンザルの社会が母系制《ヽヽヽ》の乱婚的《ヽヽヽ》社会であるということも案外重要かもしれない。ハヌマンラングールやライオンの社会もたしかに母系制であるが、オスがハレムの乗っ取りに成功したとき、メスが抱いている乳飲み子は絶対に自分の子ではない。ところが、ニホンザルではオスの出入りが五月雨《さみだれ》式に起こり、しかも乱婚的なルーズさにしたがって交尾が行なわれている。そのため子の父親が誰なのか、よくわからなくなっている。オスにとって子殺しは、もしかしたら自分の子を殺すことにもなりかねないのである。
しかし、乱婚的《ヽヽヽ》であっても父系制《ヽヽヽ》であるチンパンジー社会では、オスがメスの連れている子を絶対に自分の子ではないと確信できるケースがある。見知らぬメスが子を連れて迷いこんできたか、そういったメスが移籍後まもなく子を産んだ場合である。子殺しは、そのようなときによく起こるらしく、メスとしてはなんら対応策をもっていない。父系制であるために生ずる最大の問題点は、メスが結束する機会がなかなか得られず、子の所有に関して母親の立場が弱いということである。
さて、次のセクションでは、いよいよボノボ(彼らの社会は父系制《ヽヽヽ》であるにも拘らず、子殺しがみられない)に登場してもらう。彼らがいかにして母親の立場を強化し、独自の平和的社会を作り上げたか、とくとお手並みを拝見させてもらうことにしよう。
究極の類人猿がつくった桃源郷 ボノボ
人間の女には月経周期はあっても発情周期がない。つまり、発情期と非発情期という区別がなくなっているわけである。
もし人間の女に発情周期があって、チンパンジーのお尻の性皮のごとく、乳房が膨らんだりしぼんだりするとしたらどうだろう。乳房は実際、お尻の自己擬態だと言われているが、それが、あるときには膨らみ、大いに男たちの関心を集めるというのに、しばらくするとまたしぼみ、その途端に女は鼻もひっかけられなくなってしまうのである。こんな浮き沈みに、我々女は耐えられるだろうか。だが、幸いなことに人間の女の場合、乳房は年中膨らんでいて、いつでも男を惹きつけ、また受け入れられるというしくみが備わっている。これは同時に、交尾(性交)が生殖のみを目的としているのではないことを示している。
さらに、人間の女の乳房には、痕跡的にではあるが次のような驚くべき現象が起こっていることを男性諸氏はご存じだろうか。
月経の少し前の数日間に乳房がわずかながら大きくなるのである。膨張のピークが、排卵期にではなく、最も妊娠の可能性の少ない時期にあるということは、きわめて怪しい。人間の性的活動が明らかに生殖とは切り離された意図をもっていることを示しているのだ。ただ、生殖以外の目的といっても、それが何であるかについては、定説がない。
デズモンド・モリスは、かつて、「性は男と女の絆を強めるために用いられている」と述べた。夫が狩りに出かけ、獲物を持って妻と子のもとへ帰ってくるという人類の初期の生活様式の中で、夫婦の関係を長続きさせるためには、お互いの精神的絆を強化する必要があった。性はそのために利用されたというのである。夫が帰って来たとき、妻が発情して十分に女の魅力をふりまいているときがある一方で、まったく発情しておらず、単なる中性的な生き物としてふるまうときがあるというのでは、この絆は弱まっていくだろう。最悪の場合、夫は他の女のもとへ行ったきり帰って来なくなってしまうかもしれない。妻は夫を引き止めておくために、また夫が狩りに出かけているあいだにも自分の魅力あふれる姿を忘れさせないように、常に発情するようになったというわけである。
私も基本的にはこの説に賛成できる。ただ、世の男たちがいかにも悦びそうなこの解釈に少々不満の意を隠すことができない。モリスとはまったく違った観点から、この問題を考え直してみることにしよう。
夫が狩りに出かけ、しばらくのあいだ彼女が留守を守らねばならなくなっている状況を考えてみよう。そのとき、見知らぬ男がやって来て彼女に迫るという事態も起こりうるだろう。しかし、彼女が乳飲み子をかかえていて、そのために発情していないとしたらどういうことになるだろうか。男はあきらめて引き下がるだろうか。
賢明な読者の皆さんならもうお気づきのように、この場合、男は子殺しという強行手段に訴え、彼女を発情へと導こうとするかもしれないのである。
これを夫の側から考えてみるとどうなるだろう。発情した妻をおいて狩りに出かけることはたしかに心配なことではあるが、かと言って発情していない妻を残しておくのはもっと危険なことだ。彼にとっても子の生存が第一であり、そのためには妻の「不貞」にはじっと耐えるべきなのである。
女が発情しっぱなしになったのは、いつでも男を受け入れられるようにするためということには変わりがないが、その場合、男とは夫のみならず男一般を指すわけである。こういう緊迫した状況において子どもの命を守るために、夫以外の男でも受け入れられるということが重要なのである。
ただ、そのとき彼女にはその見知らぬ男の子どもを身籠りはしないだろうかという不安はあるだろう。妊娠したところで夫にさとられなければよいのであるが、そういうことはできれば避けたいところである。
好都合なことに、そういう心配は無用のようだ。人間の女は、授乳によって排卵は抑えられても発情は抑えられないという、トリックまがいの生理的機能を獲得したからだ。授乳期間中にある女のところに見知らぬ男がやって来て交尾(性交)をせまり、それを彼女が断われなくなったとしても、彼女には妊娠の可能性がないのである。
現代のいわゆる文明社会では、生後半年もたたないうちから子を徐々に離乳させていくことが常識となっているし、最初から母乳が出ず、人工乳で育てられる子も少なくない。だから、たいていの場合、出産後数ヵ月で排卵が再開され、年子《としご》も珍しくなくなってきている。その意味で、今でも狩猟採集生活を続けているブッシュマン(クン族)の女たちが平均四年という長い間隔をあけて出産することは興味深い。それは、彼女たちが非常に頻繁に、かつ長期にわたって子に授乳するという習慣をもっているからだが、人類のごく初期の頃にもおそらくそういう習慣があり、出産間隔はそれくらいあくのがふつうだったのだろう。ならばなおさら、性は夫との絆を強めるためだけでなく、子殺しという緊急課題に対処するために利用されてきたにちがいないと思うのである。
さて、一九七〇年代の後半になってようやく本格的な研究が始められたボノボ(ピグミーチンパンジー)は、研究者たちが我が目を疑いたくなるような事実ばかりを次から次へと披露する、ユニークすぎるほどユニークな類人猿である。
彼らの社会では子殺しがみられない。しかもどうやら、子殺しを防ぐ手段としてメスが性を利用しているらしいのである。子殺しが行なわれるということの確認に比べ、「行なわれない」ということの証明は難しい。そのため、どの研究者も「どうやら子殺しは行なわれないようだ」という一致した見方をするようになったのは、ごく最近になってからである。この研究に主として携わってきたのは京大の加納隆至氏や黒田末寿氏ら(黒田氏は現滋賀県立大学)である。一九五〇年代末からアフリカに出向き、数々の困難の中で研究を続けてきた日本人研究者たちも、かつてない大きな鉱脈を探り当てたという感がある。この類人猿こそが、人類の起源の謎を解くカギを最も多く握っているに違いないからだ。
ボノボは、アフリカの中央部を東から西へと流れるザイール川の左岸(つまり川の南側)にすんでいる、ちょっと変わったチンパンジーである。彼らはふつうのチンパンジー(以後単にチンパンジーと呼ぶことにする)と比べ体がひと回り小さいことや、頬の毛が長くて耳が小さいなど、かなりの相違がみられ、両者は亜種の関係というより別種であるとみなされている。それにボノボは、完全にではないが、立って歩くことが得意で、手に物を持ったまま二〇メートルくらいはスタスタと歩いてしまう。その後ろ姿といったら、ちょっと腰をかがめたガニ股気味の七、八〇歳くらいのおばあさんそのものといった感じである。
チンパンジーとボノボの性行動を比較してみると、驚くほどの違いがあることがわかる。一言で言うなら、ボノボは、チンパンジーにちらりとみられる不思議な性行動を一挙に開花させ、そのうえに独自の行動も加えた性の熟達者たちといったところだ。
ボノボのメスも、発情すると性皮を赤く膨れ上がらせる。ただし、生殖器は体の前寄りにあるため、お尻というよりは股間に近いところが膨れ上がるという趣きである。発情メスはオスたちと次々交尾するが、チンパンジーの場合よりさらに積極的にオスを誘う。チンパンジーではオスがメスのお尻に後ろからマウントする、つまり背面位交尾をするのがふつうであるのに、ボノボでは背面位だけでなく対面位交尾もよく行なわれる。メスは仰向けになって交尾するのがとても好きらしい。これはおそらく生殖器の位置によるものだろう。
チンパンジーでは月経周期(平均三七日)のうち、性皮が膨れ上がりオスと交尾する期間、つまり発情期間は一〇日ほどである。ボノボでは倍の二〇日間にもなっており、そのせいか月経周期全体も四六日間ほどにまで延びている。また、ワカモノ期(七歳から一二、三歳ぐらいまで)のメスは、驚いたことに性皮が膨れ上がったままでまったくしぼまず、成熟したメスよりもさらに頻繁に交尾する。しかも、この時期のメスは授乳しているわけでもないのに排卵が起こらず、ただ性皮だけが膨らんでいるという特殊な生理状態になっていて、いくら交尾しても妊娠しない。チンパンジーの若いメスの性皮がたいして膨らまず、オスを惹きつけるにはいまひとつであることを思えば、この娘《こ》たちは、なんとおませでしたたかなことだろう。
初めて妊娠を経験するのは、チンパンジー、ボノボ共にワカモノ期の終わり頃になってからである。しかし、そのときにも大きな違いがみられる。チンパンジーでは妊娠前期に性皮が数回膨らむ時期があるものの(このことは他の類人猿に比べたらすでに画期的なことではある)、後期になるとしぼんだままで、交尾も行なわれない。ところが、ボノボでは妊娠期間を通じて性皮の周期的膨張が繰り返され、交尾もふつうに行なわれ続ける。性皮の膨らみがおさまるのは、なんと出産の一ヵ月前になってからなのである。
それ以上に注目すべきことは、出産後の両者の違いである。授乳期間はどちらも四〜五年であるが、問題はその期間中の性行動だ。チンパンジーでは出産から子が離乳するまで、あるいは途中で子が死んで乳を吸う者がいなくなるまでのあいだはまったく発情しないし、交尾もしない。きわめて原則どおりなのである。ところが、ボノボは出産後一年以内に、排卵を伴わない発情周期を再開する。乳飲み子をかかえたメスが交尾するという、哺乳類としては革命的とも言うべき光景がみられるのである。ボノボは、極端なことを言えば出産の翌日からでも「交尾」可能という人間ほどに徹底して発情するわけではない。けれども、その他の多くのサル類、類人猿の仲間たちにとってはまったく信じられないような特殊な生理的機能を獲得したのである。
なぜボノボではそういうことになったのだろう。それは、やはり子殺しを防ぐためではないかと思えるのである。
ボノボの社会もチンパンジーと同様、父系制で、メスが集団間を移籍することに変わりはない。チンパンジーの社会では、そのことが一つの原因となって集団どうしが厳しく対立するようになっているが、ボノボの社会では、なぜかそうなってはいない。集団どうしでオスたちが闘うことがあったとしても、死者が出るほどの激しいものには至らないのである。
なぜオスたちは対立しあわないのか。一つの理由として、メスたちの団結が強く、陰で絶大な権勢をふるっているということが考えられる。メスは、それぞれ異なる集団から移籍してきている。もし集団のオスどうしが激しく対立するとなれば、実家と婚家との争いになることもあるだろう。そのような事態にならないよう、メスたちは結束してオスに対抗するのである。
ただ、そうは言っても血縁関係のないメスたちがどうして結束力を高められるのか。不思議なのはむしろこの点である。嫁入り≠オてくるという条件は同じであるはずなのに、チンパンジーのメスどうしは、まったくよそよそしくて冷たい関係にある。結束してオスを支配することなど、とうてい考えられないのだ。それに彼女たちは、一つの集団を一時の身の寄せ場程度にしか考えておらず、何か不都合なことが起これば、さっさと移籍してしまう。一方、ボノボのメスは、いったん嫁いだらそこを終《つい》のすみかと考え、まず移籍することはない。彼女たちの結束の固さは、一つには集団への強い定着性によって育まれるのだろう。
しかし、それでもである。この程度のことでメスどうしがそんなに仲良くなれるものだろうか。彼女たちには何かもっと、心の根底におけるつながりのようなものがあるように感じられる。それは、何なのか──。
ボノボのメスはある奇妙な行動を示す。もしかしたら、この行動が彼女たちの精神的絆を作り、結束力を固めるために絶大な力をもっているのではあるまいか。
メスたちは、一方が地上で仰向けになり他方が乗りかかるか、あるいは互いに枝からぶら下がりながら向かい合い、脚をからませ、腰を横に振りながらお互いの性皮(!)をこすり合わせるのである。
このような行動は食物などをめぐり何らかの緊張状態が生じたようなとき、その緩和のためによく行なわれる。それだけならこれは単なる儀式としての意味しかもたないのではないかという気がしてくるが、どうもそうではない。彼女たちは本当に愛し合っているらしいのである。性皮はこすり合わされるにつれ、興奮のため赤味を増していく。こうして身も心もホンワカとして、すっかりいい気持ちになると、さっきまで何が問題となっていたのか忘れてしまうのだろう。実際、こういうメスの同性愛行動を日本人研究者たちは「ホカホカ」と名付けた。日本語に起源があるのにどこかアフリカ風のこの絶妙なネーミングは、大好評を博しているのである。
ボノボではさらに、オスにも同性愛行動がみられる。オスどうしの単なるマウンティングならニホンザルなどでもよく見られ、少しも珍しいことではないが、それらは順位の確認など多分に儀式的なものである。ところが、ボノボではメスのホカホカと同様、オスの同性愛行動も本当に性的興奮を伴うものであるらしい。互いに反対方向を向いてお尻をくっつけあったり、一方が他方にマウントしたりと体位もさまざまであるが、彼らはいかにも満ち足りた様子をみせる。
もちろん、オス、メス間の「正常な」交尾も行なわれるが、かなり生殖とは切り離されたものになっている。交尾はほとんどあいさつの代わりとなっていることもあるし、時にはちょっとした駆け引きの手段として用いられることもある。
餌場で若いメスが、サトウキビをもっているオスに近づいていき、交尾に誘う。オスはたやすく誘いにのるが、そうすると今度はずいぶんと理不尽な要求をされることになる。メスが当然の権利とばかりに、サトウキビを奪い取っていくのである。
オスが確保しておいたサトウキビをメスが取ったときには、彼女はすぐさまプレゼンティング(尻をつき出すこと)し、オスにマウントをさせる。たとえオスがサトウキビを渡すことを拒否したとしても、プレゼンティングし、強引にマウントさせてしまうのである。
オスは毎度のことながらメスのお尻へと導かれ、知らず知らずのうちに怒りやわだかまりの情から解き放たれてしまうようだ。なんというメスの天国! メスは、人間を除いた霊長類としては初の快挙である、生殖とは切り離された性を、さて、どんなふうに利用してやろうかと手ぐすねをひいているかのようにみえる。それに彼女たちは本当の妊娠がいつどのようにして起こるのか、まったくわかっていないようにも思える。もしかしたら、一本のサトウキビと引き換えに子ができてしまうことだってあるかもしれないのだ!
けれども、彼女たちにとって赤ん坊の父親は誰だっていいのである。ボノボの社会は、チンパンジーやニホンザルとは違い、完全に乱婚となっている。コンソート関係もなければハナレザルもいない。こうなるとますますもって子の父親が誰であるのかわからなくなり、すべてのオスが父親としての責任を負わされる。要するにメスの狙いはそこなのである。ボノボではっきりわかるのは母子の関係だけであり、特に息子は終生、生まれた集団に留まる。母に対する息子の依存関係は半永久的に続き、彼はいつまでたっても母親に頭の上がらぬマザコン息子なのだ。
ボノボにも、オスの間に順位があるにはあるが、あまりはっきりしたものではないらしい。加納隆至氏は『最後の類人猿』(どうぶつ社)の中で、彼らは順位をつけることで問題を解決するのではなく、性行動によって解決するという道を選んだのだと指摘している。なるほど、こういう解決方法もあるわけである。しかし、たとえオスの間にはっきりした順位があったとしても、そんなものは結束したメスたちの前においては何の意味ももたないだろう。メスにしてみれば彼らは等しく「ハナタレ小僧」なのだから。
人間の社会でも、戦争や争いごとを防ぐためには、まず女がいかに発言力をもつかが重要だろう。母親が息子を、妻が夫を戦争に行かせないために一致団結したとしたら、それに対抗できるものがあるだろうか。ただ、決してそういうことにはならないようにしてきたのが、これまでの人間の社会であった。男たちが、おしゃべり好きで楽天主義、論理的思考は不得手だが直感力に優れているというような、せっかくの女の特性にきわめて低い評価しか下さないのは、女たちが大いに自信をもち発言力を身につけてくると、戦争遂行のために何かと不都合なことが増えてくるからなのではあるまいか。
人間と戦争との深い関わりの歴史について述べるのは別の機会に譲るとして、エピローグでは、人間が人間になるにあたってとりあえず大きな関わりをもったと思われる要因、つまり婚姻形態、子殺し、浮気、ごまかしといったものが、それぞれどういう位置関係にあるのかということについて、整理し直してみようと思う。
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エピローグ
日本の霊長類学者たちがアフリカでボノボという宝の山を探り当て、さあこれからと勢い込んでいた頃である。三重県鈴鹿市にあるサギの集団繁殖地では、何人かの男たちが布張りの小屋をたて、サギの観察に夢中になっていた。そこには、アフリカの奥地にまでわけ入って行った者たちもついぞ見出すことのできなかった、きわめて人間的な社会があったからである。
大阪市立大学の山岸哲氏(現京都大学)を中心とする研究グループは、アマサギやコサギなど数種のサギが合計一〇〇〇羽も集まってくるこの大繁殖地で、驚くべき事実を発見していた。アマサギやコサギは他の多くの鳥と同様、一夫一妻制をとり、巣づくり、抱卵、ヒナへのエサやりなどの作業をつがいで協力して行なう。そのことに関しては月並みの部類に入る鳥である。しかし、この鳥の特殊事情とも言うべき繁殖地の超過密性のためだろうか、さしもの人間もかぶとを脱ぐほどルーズな性関係が見られるのである。
オスが巣材などを取りに行き、メスだけが巣に居残っているような場合──近所のご主人がひょっこり訪ねて来て、彼女に言い寄ろうとするのである。彼女は攻撃して追い払うことがある一方で、すんなりと受け入れて交尾することもある。それに大声をあげて「人を呼ぶ」こともあるという。
山岸グループの観察によってわかったことは、まず、彼女が大声をあげて「人を呼んで」いるかのように見えるのは、実のところ大声をあげてみて夫がすぐ近くにいるかどうかを確かめているのだということである。声を聞きつけて夫が戻って来たのなら、「あんたの留守中にヘンな男が来て、私を誘惑しようとするのよ。あー恐かった。でも安心したわ」とでも言いたげなふりをし、もし夫が戻って来ないのなら、そのオスと交尾してしまうわけである。彼女がそういう不倫≠フ交尾に対して示す積極性は、相手のオスの順位と大きく関わっている。どうやらメスの狙いは、順位の高いオスの子を産み、それを夫に育てさせるということらしい。
これらのことを裏返して考えれば、彼女の夫もどこかで誰かと同じようなことを試みるであろうと推測される。実際、すべてのオスはエサを食べるためなどに出かけたついでに、マメに他人の奥さんにちょっかいを出すのである。
こうなるともうサギの社会は一夫一妻というより、乱婚といった方がよさそうな気もしてくる。だが、彼らはオスとメスとが協力して巣づくりや子育てをするし、メスはやはりパートナーと最も多く交尾する。彼らは当面の夫あるいは妻がありながら、ちょくちょく他人の夫や妻と浮気を楽しむという、人間と実によく似た婚姻形態をもっているのである。
こういう「つがい外交尾」は、集団繁殖性の鳥の社会ではよくあることらしく、多くの例が見つかっている。
ショウドウツバメもやはり集団繁殖性で一夫一妻をたてまえとする鳥だ。夫は妻を受精の可能性がある営巣期から産卵期にかけてだけ必死にガードし、それ以外の時期には他人の妻を追いかけまわすのである。彼らはジェット戦闘機の曲芸飛行にも似た見事な空中ショウを披露してくれるが、それは多くの場合、妻の後ろを夫がガードして飛び、その後を他のオスたちが追いかけている場面であるらしい。時として、夫は妻を見失うことがあるが、他のオスたちはうまくすればそのわずかな隙に交尾してしまう。
このようにショウドウツバメのオスが、ある期間は妻のガードに専念し、別の期間は他人の妻を追いかけ回すのに夢中になれるというのは、卵が体内で受精可能になるまでに成熟するタイミングがあり、それがメスごとに少しずつ違うからである。彼らはそれを、卵のせいで重たそうになっている飛び方から見抜くのだという。
サギやショウドウツバメの社会がこんなにも人間界と共通の話題に満ち満ちているとなれば、第一章で論じたような経過をたどり、彼らも脳を発達させ、羽根の生えた「人間」となったとしても不思議はないような気がしてくる。むろん、彼らはそうはならなかった。それは、ひとつには空を飛ぶという鳥ならではの事情から、脳に重さの制限があるためかもしれない。ただ、それなら地上性の鳥となって新たな活路を見出せばいいのではないかという疑問も生ずる。
私が注目したいと思うのは、彼らが皆そろって浮気しようとする性質をもっていることである。サギにしてもショウドウツバメにしても、すべてのオスがチャンスさえあればいつでも浮気を試みようとするし、メスとても然りである。皆が皆同じ戦略者なのだから、彼らに対しては「浮気」や「不倫」という言葉は本当は当てはまらないのである。
一方、人間はというと、すべての男が同じように浮気に意欲を燃やしているわけではない。言うなれば浮気派と非浮気派がいるわけだ(この二つのタイプを私はその男の才能的背景も含め、各々文科系男、理科系男と命名した)。実際、女が男の品定めをするとき、稼ぎのあるなし、外見の良し悪しもさることながら、その男が将来浮気しそうかどうかはもっと注目するところなのである。
人間の社会の特殊性は、男の信用度に著しく差があることではないだろうか。だからこそ、男は単に口説くためだけでなく、自分が不実な男ではないことを女に納得させるためにも、言語的能力を発達させる必要があった(おもしろいことに、不実な男であればあるほど、この能力は発達している)。女は女どうしで日々情報交換をし、男についての一般論、各論についての議論をする。そのためにやはり言語的能力が必要となったのである。
もし、我々の祖先の社会が浮気を奨励するものであったなら、我々は現在、人間たりえなかっただろう。おそらく羽根の生えていないサギにでもなっていたはずだ。浮気は、若干罪の意識を感じながらも、バレないようにと全知全能を働かせてとり行なう行為でなければならない。そうであってこそ人間を人間たらしめる原動力となってきたのである。
本書の後半部分では、さまざまな哺乳類(特に霊長類)の社会を紹介し、人間が哺乳類としてはかなり平和的な部類に入るということを強調してきた。しかし、昨今のように、誘拐した幼児を生きたまま橋の上から突き落としたとか、イタズラをした少女を口封じのために殺したなどという残忍な事件が相次いで報道されると、この主張について世間の人々から疑問の声が投げかけられるのではないかという不安にかられてしまう。私も皆さんも冷静になって考えるために、ある計算を試みたので紹介しよう。
ある日突然、一億二〇〇〇万人の日本人が全員ハヌマンラングールに変身したとする。ハヌマンラングールは、すでに紹介したとおり、銀灰色の長い毛のコートと長い尾、それに大きくてキラキラ光る目をもった、神様のお使いとして実に似つかわしいサルである。この美しいサルの島と化した日本では、いったいどれくらいの子殺しが起こることになるだろうか。
まず、ハレムのリーダーとなっているのはオスの一〜二割だから、全国には五〇〇万〜一〇〇〇万のハレムができる。リーダーの交代は四〜五年に一回起こるのがふつうだから、子殺しの件数は年間でざっと一〇〇万〜二〇〇万件にのぼるだろう。一回の事件につき殺される乳飲み子の数は少なくとも二〜三頭であるから、それを考慮すれば年間数百万もの犠牲者が出るという計算になる。
一方、現在の日本では、子殺しも大人殺しもひっくるめ、殺人事件と呼べるものは、未遂も含め年間千数百件|しか《ヽヽ》起きていない。つまり、ハヌマンラングールと人間とでは、血なまぐさい事件の発生率に関して、少なくとも三ケタの開きがあるのである。
哺乳類の進化史は、一面では子殺しをされまいとする母親の苦闘の歴史であった。とくに、チンパンジーやゴリラにも子殺しがみられるということは、この闘いが類人猿から人間に連なる系譜においてもまだ続けられてきていることを意味している。そしてその中で文句なく勝利を収めたと言えるのが、人間とボノボのメスなのである。授乳期間中に、排卵は抑制されても発情は抑制されないというトリック。哺乳類の歴史の中で、子殺しを防ぐしくみとしてこれ以上の発明があっただろうか。
方法は異なるものの、オランウータンのメスもこの闘いの勝利者と言えるかもしれない。彼女たちは、発情と非発情をはっきりと区別するサインをもたない。そのため、劣位オスによるレイプというやっかいな問題を抱えこむはめに陥っている。しかし、劣位オスにレイプされることには、「子を殺してこのメスを発情させよう」と考える余地を彼らに与えないというメリットもあるはずである。レイプをされても、それに対抗する手段を講じず、ほったらかしにしておく。それは彼女たちがそのことで何ら実害を被らず、優位オスからの制裁があるわけでもないからなのだが、オランウータンの場合、メスのこのいいかげんさが子殺しの防止のために案外効果をあげているようだ。このようにメスが自ら社会をいいかげんにしてきたこと──それが、人間、ボノボ、オランウータンに共通してみられる現象だと思うのである。
さらに我々の系譜をたどって行くと、本書では詳しく述べなかったが、小型の類人猿、テナガザルに行き当たる。彼らは厳格な一夫一妻制を守り、徹底して家族単位で行動するというきわめてユニークな社会を形成している。ところが、残念なことに、まだあまり詳しい研究が行なわれていない。地上数十メートルの木の上での彼らの生活をつぶさに観察しようと思うと、研究者自身も同様の樹上生活を余儀なくされるからである。当然、子殺しに関しても断定的なことが言える段階ではないが、私はかなりの自信をもって子殺しは起きていないだろうと予想している。それはテナガザルのメスがオスにひけをとらないくらいに強く、実力で子殺しを阻止できるだろうと思うからだ。テナガザルのオスとメスは外見的にほとんど差がなく、それどころか、ふつうはオスどうしの争いに使われる犬歯がメスにおいても同様に発達しているのである。
これに対し、たとえばボノボでは、メスは互いに結束することで体力的問題をカバーしてきた。その結果、まれにみる平和的社会を実現させたのである。社会を平和にするための秘訣の一つは、どうやらメスが力をもち、オスと対等かそれ以上になることのようで、それは、ニホンザルやゲラダヒヒなどの社会を見ても実によくわかるのである。
人間では、女が発情しっぱなしになって子殺しを防ぐことには成功した。しかし、男どうしの殺し合い、つまり戦争についてはまだ決め手となる防止策が見つかっていない。戦争が人間の歴史に残してきた功罪についてはここでは議論しないが、現代はもはや理屈抜きで戦争を防がねばならない時代である。人間は二度の大戦でもう戦争には懲りたはずなのに、まだ局地的な戦争を続けている。戦争をなくすことは本当にできるのだろうか。
私は、少なくとも現在の人間界のモラルの範囲内で考えても無駄だと思う。なぜなら、さまざまなモラルをもった部族なり、小国家なりが互いに戦争を繰り返し、その中で最も戦争に有利なモラルをもった者たちが勝ち残ってきた、それがここ数千年(あるいは数万年)の人間の進化史であるからだ。
我々はきっぱりと既成概念を捨て去り、平身低頭して、ボノボなど、平和的な隣人たちに教えを乞おうではないか。彼らを研究する人々を猿の国への使節として。
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あとがき
動物行動学の一学徒がここで取り組んだ人間に関する謎は、めぐりめぐって、結局のところ人生の諸先輩から見れば当然すぎるほど当然の結論に行き着いたのかもしれません。
考えてみれば、類人猿にはない人間としての醍醐味は、道具や火を用いることでもなければ、ましてや直立し二足歩行をすることでもないでしょう。それはまさに、言葉による男と女の駆け引き、騙しあい、あるいはそういったことから生まれてくる誤解や幻想などではないでしょうか。そういった一見何でもないようなことにこだわり、積極的な意味を見出したい。それどころか私は、それらこそが人間を人間たらしめた原動力であると考えます。
私の仮説に対し、「こんなことはみんなウソだ」と言ってもらってもかまいません。ただ、その場合に、「それにしても、よくここまでウソがつけるものだ」と付け加えていただければ嬉しく思います。
人類学、サル学を広く紹介しつつも、持論を展開するという形式をとったため、この分野を専門となさる方々にとっては、多少大胆と思われる仮定や推論が各所に登場してきたかもしれません。どうかその意図をご理解下さい。
同性の方々の中には、第一章でそろそろ血圧が上昇しはじめ、第二章でついに怒り心頭に発し、急遽このあとがきへと読み飛ばされた方もあるかもしれません。でも、どうか第三章へお戻り下さい。私は決して男にコビを売り、彼らに与《くみ》する者ではありません。かといって、女権拡大のために尽力するという者でもありません。私は、いわば人間以外の動物の視点に立ち、この人間に関する本を書いたのです。
内容についていくつか指摘をして下さっただけでなく、貴重な人間観察の場を提供して下さいました京都大学理学部動物学教室第一講座の皆様に心より感謝いたします。とくに日高敏隆教授からは、人間の何たるかを数多く教わったような気がします。
最後に、私を励まし続けてくれた数々の動物たちにこの場を借りて感謝の意を表したいと思います。
一九八八年四月一日
[#地付き]竹内久美子
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文庫版のための少々長いあとがき
この本を書いていたおよそ一一年の昔、私は今考えてみてもちょっと信じられないくらいの孤立感、絶望感の中にいた。
誰かに「書け」と命ぜられたわけではない。出版のあてなど、むろんあるはずもない。私は大学院を終え、かつ定職に就いていなかった。それまでの何年かの間に蓄積した、モヤモヤとした考えを吐き出す、いやもう、ただ出してスッキリしたいという思いで書き続けていたのである。
そうは言っても、ただ書くというだけではつまらない。このあたりが私の大いに身の程知らずなところである。
なるほど、そうか! と人に膝を打たせてみたい。
「いやあ、実にためになったなあ」と人を満足させてみたい。
イスから転げ落ちるほどに人を笑わせてみたい……。
しかしそうするためには、どういうスタイルを取るべきだろうか。
第一に心掛けたのは、各々のセクションはもちろんのこと、本全体にストーリーを持たせるということである。研究の紹介や自説の展開にとどまらず、読者がその人なりにストーリーを感じ取る本……。もっとも、言うはやさしいが、行なうは本当に難《かた》し、なのだ。
もう一つ心掛けたのは、ストーリー性とも大分《だいぶ》関係するのだが、独断色を強めるということである。
私はかねがね思っていたのだが、読んで面白い本というのは、たいていは独断に満ちている。独《ひと》り善《よ》がりではなく、独断である。自分の好みにピッタリ合った「独断」ほど爽やかなものはない。この世に自分と同じことを考えている人がいる。それを知るだけでも勇気百倍、生きていく希望が湧いて来ようというものだ。
そして「独断」がますますいいのは、それが「何を言ってるんだ、この人は」と猛烈な反発を感じさせるようなときである(読むのをやめたくなるほどの反発は困りものだが)。
反発を感ずるものに対しては、「あなたの考えはこれこれこういう理由で間違っているんですよ」「自分ならこう考えるのになあ」などとつい考えさせられ、勉強させられてしまう。内容についてもしっかりと頭に残る。私がこれまでに特に気に入った本の多くは、「そうだ、そうだ」と共鳴する一方で「それは違うんじゃないの」と大いに反発させられる、極めて独断的な本なのである。
一番いけないのが中立的な書き方だ。こういう考えもあれば、ああいう考えもあります、今の段階であれこれ言うのは危険です、今後の研究を待たねばなりません……とお茶を濁してしまう。共鳴もなければ反発もない。読者としては「ハア、それはごもっとも」と読んだような気になるしかないのである。
しかしいったい、私のこうした狙いや精神が読む人に正しく伝わるだろうか。私にそれだけの文章力があるのか。この女は少々アタマがおかしくて、研究の紹介はともかくも、その他の議論はほとんど妄想である──もしかしてそんなふうに考える人がいたりはしないのか……。私は来る日も来る日も、出るあてのない本に悩んでいたのである。出版についてはやがて、業界に明るい友人が仲介役を果たしてくれた(このあたりの詳しい経過、そもそもなぜ本を書く気になったのかということなどについては日高敏隆氏との対談集『もっとウソを!』文藝春秋、をご覧になって下さい)。
本が世に出ると、今度は予想外の反響に驚いた。取材の申し込みや、執筆依頼が毎日のように舞い込んでくる。嬉しかったのは、ほとんどの書評が私の精神≠理解してくれたことである。
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人間の「浮気」そのものの事例がもっと多ければ文句なしの快(怪)作(『ダイヤモンド・ボックス』藤脇邦夫氏評)
「まじめ」なことを「いいかげん」に読ませる著者の力量は、ただものではない(『宝石』郷原宏氏評)
まともに取り組めば難しい動物の進化を、そして人間と動物との比較を誰にでも解るように平易に、かつ楽しく読めるようにユーモラスに、興味深く書いてあるのが特徴である(『文藝春秋』戸川幸夫氏評)
知識と仮説と空想と冗談と論理とを織りまぜて語りつづける、男女論的人類学である。人間はトンボ、ゾウアザラシ、ライオンといっしょにされ、男女は雌雄と何ら異なることはない。それがどうも変だと思わず、おもしろいおもしろいと講義に聞きほれるのはなぜなのか。
着眼が奇抜で推論が着実、文章が生きがよくて巧妙なせいにほかならない。これは男女(雌雄)の仲について、人類学について、人間について、あれこれ教えながら、それよりもまず、考える技術を指南する本である(『週刊朝日』丸谷才一氏評)
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こんなに褒められてよいものか、と恥ずかしさのあまり穴があったら入りたいくらいだった。
一方、案の定、専門家の一部にはこういう精神≠ヘ理解されなかったようだ。
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本書の随所に「浮気コンプレックス」が感じられました。
学説紹介にも偏りが散見されます(『週刊文春』長谷川寿一氏評)
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ともあれこうして、実質的デビュー作は世に受け入れられた。私はこの仕事を続けてもいいかもしれない、と若干の手応えを感じ取ったのである。その後の道程は決して平坦ではなかったし、それは今もって同じことなのだが。
さて浮気進化論≠ニしてその後どんな研究が登場してきているか、少々触れてみたい。
私がこの本を発表したのは一九八八年五月である(それを遡ること二年の八六年、日高敏隆氏との共著『ワニはいかにして愛を語り合うか』の中で、既に本書の仮説と同様の議論を披露している)。
まず本書の数ヵ月後、『ネットワークス・イン・エヴォリューショナリー・バイオロジー』という日本語の雑誌の中で佐倉統氏(当時、京大霊長類研究所、現在は横浜国立大)が私と非常によく似た論を展開している。私は驚いた。と同時に心強くも感じた。ところが氏はその後、この件に関して何ら発言をせず、考えを変えられてしまったような様子がある。その真意はわからない。
私は本書で述べた仮説を日本語でしか発表していない。私の密かな期待は、欧米などで私とは全く別個に、似たようなことを言い出す人が現れると面白いのになあ、ということであった。
私の論と最もニアミスしているのは、アメリカのリチャード・ランガムという霊長類学者の発言である。ランガムは一九九二年、あるインタビューの中でこんなことを言っている。
狩りに行くなどし、家を留守にしている間に妻が浮気をしやしなかったかと男が疑う。彼は自分の母親や周囲の人間にあれこれ聞いて情報収集する。人間の言語能力とはそういう過程を通じて発達してきたのではないか、と。
言語によってよく情報収集する男ほど妻の浮気をよく発見、防止する。そういう男ほど他人の子を育てさせられてしまう危険を免れるだろう。彼は彼の持つ言語能力をよく次代に残す。こうして人間の言語能力は高まってきたというわけである。
人間の言語の発達に浮気が関わっているとする点がズバリ一致して心強い。言語の発達の原因としては狩りのときの合図であるとか、戦争において作戦を練ったり、集団を組織するために必要だとか、いろいろ言われてきたが、そういうものは今一つ説得力に欠けるのである。動物を最も急速に進化させるもの、それはやはりオスとメスの問題、男女の駆け引きの問題なのである。類人猿と比べた人間の特徴である言語が、これまた人間に固有である「浮気」というシステムに絡んでいる──そう考えるのはまったく正しい。
ところが私とランガムとで違うのは、浮気は浮気でも、私は男の浮気にむしろ注目しているという点である。
男はまず浮気の場で女を口説くために、ひときわ優れた言語能力を必要とされる。さらに男の浮気に対して女は同盟を結び、情報交換をする。実際、電話や路上や喫茶店で人の噂話をしながら長々とおしゃべりをするのは圧倒的に女の方だ。男どうしの長電話、男だけで喫茶店で何時間も噂話をすることなど(といっても昨今はそうでもないかもしれないが)あまり聞かない。ランガムの言うように、女の浮気の取り締まりのために男が言葉を頻繁に使うという見方は、ちょっと違うというような気もするのである。
もっともその一方で、女の浮気は男の浮気よりもはるかに重大問題だという事実もある。何しろ女が浮気をすると、夫の子か愛人の子か、どちらの子だかよくわからない子を身籠もることがあるのである。夫は自分の子ではないというよほどの確証がない限り、その子を育てざるを得ないだろう。こんな不合理なことはちょっと外にはないのである。女の浮気の発見と防止のために男が奔走する。それは重要なことなのだ。そのとき言語を使う必要性に大いに迫られるかもしれない。ただ駆使するまでに至るかどうか……。男が言葉を巧みに操るとしたら、それはやはり女を口説く(特に浮気で口説く)ときではないかと思うのだが。
文科系男と理科系男に似た議論としてはこういうものが登場してきている。
イギリスの動物行動学者で、拙著『BC!な話』(新潮社)でその研究を詳しく紹介したR・ロビン・ベイカーは、人間の男の繁殖戦略について二つのタイプを考えている。睾丸の大きい男と小さい男である。一九九六年に出版された『Sperm Wars』(邦訳『精子戦争』秋川百合訳、河出書房新社)によると、前者は浮気など性交《セツクス》に積極的なタイプ、後者は浮気や性交《セツクス》に積極的ではないが、その代わりに女を厳しくガードするタイプであるという。
ベイカーは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》、つまり卵をめぐって複数の男《オス》の精子が争うという現象の研究者である。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は、浮気、レイプ、売春など性をめぐる様々な場面で発生する。
|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝利するには、とにかく多くの精子を女の体内に送り込むことが重要である。浮気など|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の発生する状況に出くわす可能性が高い男は、より多くの精子を製造しなければならない。彼はその製造元である睾丸を発達させることになるのである。逆に|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に出くわす可能性の少ない男は、精子をあまり多く作る必要はない。よって睾丸も発達させる必要はない。いや、大きすぎる睾丸は傷つく危険性も大だ。無理して大きな睾丸を持つ必要はないのである。その代わり女のガードだけは厳重に。ベイカーは、睾丸の大きい男と小さい男の戦略的意味をこんなふうに考えているのである。
この分類は、私の言う文科系男と理科系男によく似ている。文科系男は女を口説くことに並々ならぬ情熱を持ち、パートナーがいても平気で浮気するような男である。彼は性交《セツクス》に積極的だ。一方、理科系男は大変な口ベタ。女を口説くことなど滅相もないが、その代わりに浮気をせず、子育てなどもよく手伝う。しかもしばしば驚くべき理科系の才能を持っている。
文科系男が台頭するが、やがて勢力を伸ばしすぎ、彼らどうしの間に過当競争が発生、勢力は頭打ちとなる。その後、文、理両者が拮抗しつつ互いに勢力を伸ばしたり、衰退したりする。それは世情の変化、特に戦争状態にあるか平和なのかという状況によって影響される──私はそう考えた。
ベイカーも同様に、まず睾丸の大きい男の台頭、そして過当競争を考える。その後睾丸の大きい男と小さい男とは主に性病の流行によって盛衰を左右されるとする。睾丸の大きい男は乱れた性関係を追求し、その勢力は性病の流行により衰退する。逆にこのとき睾丸の小さい男が勢力を増す。しかし性病の流行が収まれば、また睾丸の大きい男が勢力を盛り返し……というサイクルが繰り返されるのである。詳しいことは拙著『三人目の子にご用心!』(文藝春秋)か、ベイカーの著書を読んでいただきたいが、ともかく私とベイカーには、発想に似たところがあり、私としては嬉しい限りなのである。
ベイカーはさらに、弟子のマーク・A・ベリスとの共著書(一九九五年刊)中で、こんなことまで言っているのである。
人間の男のペニスがやたら大きく、先の方の形が変わっているのは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》のなせる業だ。
人間の男のペニスのサイズ(長さ)は、およそ一三センチメートルである(もちろん膨張時。しかもこれはかなり控え目な値で、人種ごとに行なわれた別の調査では、モンゴロイド[アジア人]一〇〜一四センチメートル、コーカソイド[白人]一四〜一五センチメートル、ニグロイド[黒人]一六〜二〇センチメートルとなっている)。
一方、ゴリラは大方の予想に反してたった三センチメートルしかない。オランウータンも四センチメートル、チンパンジーは八センチメートルくらいである。しかもいずれの場合も人間と比べて全体的に細く、形も単純で、先端はスーッと細くなっているのである。
ゴリラの社会は、この本でも紹介したように、一頭のオスが数頭のメスとその子どもたちを従えてハレムを作るというものである。ハレムのメンバーの行動はいつも一緒で、メスはオスの強力な監督下にある。他のオスの介入する余地はほとんどない。つまりゴリラの社会では卵の受精をめぐって複数のオスの精子が争うという|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の状況が滅多に発生しないのである。オスはペニスを発達させる必要もなく──ペニスを発達させれば、たとえば一つには精液を膣の奥の方まで飛ばすことができ、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝利することができるだろう──、精子の製造元である睾丸を発達させる必要もないというわけだ(実際、ゴリラの左右合わせた睾丸の重さは体重の〇・〇二パーセントしかない)。
オランウータンもゴリラと同様、一夫多妻の婚姻形態をとると言われる。とはいえゴリラの場合と違うのは、オスとメスとの行動が基本的に別々で、他のオスの介入する余地がたまにあるという点である。例のレイプだ。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は時々発生する。オスはペニスを少なくともゴリラよりは発達させるべきであるし、睾丸についても同様だ(オランウータンの左右合わせた睾丸の重さは体重の〇・〇五パーセント)。
そして人間はといえば、一夫一妻あるいは一夫多妻(稀に一妻多夫)の婚姻形態をとり、しかも夫婦はしばしば別行動をとるという不思議な社会を作っている。乱婚とまではいかないものの男と女には、かなり他者の介入する余地があるのである。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》はかなり頻繁に起きているだろう。
そこでベイカーとベリスは考える。人間の男のペニスが発達し、形がああいうふうに変わっているのは、射精に先立ち、まず女の体から、前回に射精した男の精液をかき出そうとするためではないのか。精液を膣の奥深く飛ばすためなら、長さが伸びるだけでいいはずだ。ところが人間の男のペニスは幅までもが広がっている。それはペニスが膣を押し広げ、ぴったりとはまり、奥にあるものを吸引しようとする、つまりピストンとしての役割を果たすための適応ではないのか。先の方はキノコ型にくびれているが、それはまさに何かをかき出すための形なのだ。彼らはこの、人間のペニスが主にかき出しのために発達したという考えを、サクション・ピストン仮説と名付けているのである。
しかしそうすると、人間よりもはるかに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しい社会に生きるチンパンジーは、いったいどうなるのかということになる。チンパンジーは複数のオスと複数のメス、子どもたちから成る数十頭から百頭くらいの集団で暮らしている。メスは発情すると、来る者は拒まずの精神で次々オスを受け入れる。凄まじい|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きているはずなのである。それなのにペニスは人間よりも短く、細く、かつかき出し型ではない……。
ベイカーらは説明していないが、チンパンジーの場合、「かき出し」はもはや、しても無駄な状況になっているのではないだろうか。何しろ発情したメスの周囲には、何頭ものオスが順番待ちの列を作っているほどである。「かき出し」に時間をかけていると、「早くしろ!」と他のオスにはせっつかれるだろう。かき出したところですぐにまた自分の精液がかき出される側に回ってしまう。「かき出し」は諦めた方がよさそうである。事実、チンパンジーの交尾はあっという間に終わってしまい、本当に「三こすり半」の場合もあるのである。代わりに彼らは精子の数で勝負する。睾丸の左右合わせた重さはおよそ一二〇グラム(体重の〇・二七パーセント)。人間(およそ四〇グラム、体重の〇・〇六パーセント)の三倍もあるのである。しかもこの人間の値はコーカソイドのもので、我々モンゴロイドはその半分しかない。チンパンジーの睾丸の重さはモンゴロイドの六倍あるのである。
人間のペニスは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》によって発達したとするベイカー&ベリスの仮説は、人間の脳は浮気(つまり人間における|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の最も一般的な形)によって発達したとする私の論とどこか似ている。ペニスと脳は、類人猿と比較した場合、どちらも人間が特別によく発達させている器官である。その双璧とも言える。我々はまたしても似かよった発想を抱いたということなのか……(ベイカーらのサクション・ピストン仮説については拙著『BC!な話』で詳しく紹介した)。
さらに脳の発達と言えば、こういう研究も出てきているのである。
一九九三年、イギリスのリチャード・バーンという心理学者は、様々な霊長類の脳の新皮質の大きさ、そしてその霊長類がどれほど戦術的な騙しを行なうかということについて議論した。
新皮質とは大脳の外側の部分である。進化的起源が新しく、知的能力や創造性に関わっているとされている。人間は脳が発達しているなどというわけだが、その場合の脳とは、主にこの新皮質を意味しているのである。
バーンによれば、相対的に新皮質が大きい霊長類ほど、仲間に対して戦術的な騙しをする。つまり悪だくみやはかりごとをよく行なうのだという。食べ物のある場所をわざと知らないふりをする。順位の高い者に追いかけられたとき、まるで捕食者がすぐそばに来ているかのように立ち止まり、あらぬ方を眺めてその注意をそらす……。
人間の男は浮気をする。そのときパートナーがいることを隠したり、隠さないにせよ、「彼女とはいずれ別れるつもりだ」などと言って女を口説く。浮気をした後にはパートナーにバレないようにいろいろ工作、バレそうになったらあれやこれやと言い逃れる。これらもやはり「戦術的な騙し」ではないだろうか。人間は浮気を通じて脳を発達させたという私の仮説。霊長類における戦術的な騙しが新皮質の発達を促したというこの研究。かなり共通するものがあるような気がするのである。
浮気が何か体の一部分を発達させる──実は、鳥では浮気をよくする種ほどオスが羽の美しさを進化させていることがわかってきた。
一九九四年、デンマークのA・P・メラーとイギリスのT・R・バークヘッドは、全部で五五種の鳥について調べてみた。彼らの浮気の度合い、そして羽の美しさとの相関を検討したのである。
鳥の世界が浮気天国であることは、観察などからかなりわかっていた。しかし一九八〇年代の半ばにDNAフィンガープリント法という手法が登場すると、その実態がますます容易ならざるものであることがわかってきた。この手法によれば、巣の中のヒナのどれとどれが浮気の子で、どれとどれがそうでないか、一目瞭然にわかってしまうのだ。
メラーとバークヘッドは、一夫一妻の種で、ヒナのうちのどれくらいの割合が他のオスの子か、言うなれば寝取られ率と、その鳥の美しさ、派手さとを調べた。すると見事な相関があった。寝取られ率が高く、浮気が横行している種ほどオスの羽が美しくて派手なのである。羽の美しさ、派手さは一つには浮気によって進化した、メスは浮気の際により羽の美しいオスを選び、交尾しようとしている、と考えることができるのである(詳しくは拙著『三人目の子にご用心!』を参照)。
本書で述べたことについて、その後私が大きく考えを変えたというものはない。今でも全くこれでいいと思っている。ただ、ルックスのいい男《オス》には内容が伴っていないことが多い(ライオンのヒモ亭主の件《くだり》)、と述べている点については今となっては補足が必要である。
カッコいい男に中身が伴っていないというのは、一種の偏見である。それは、「カッコいい男などというものは、どうせ中身はからっぽだ」「たいしたことはないはずだ」「ちくしょう、そうだったらいいのになあ」というカッコよくない男たちの、悲鳴にも似た願望なのである。この本で私は、こうした偏見についつられるかっこうとなってしまったが、今ではそうは思っていない。その後の鳥などの研究をヒントにすれば、それは全くの間違いであることがわかってくるのである。
カッコいい男は中身も優れている。外見の良さは中身のよさの反映である。
とはいえその中身とは、何か才能にあふれているとか、人格が立派だとかいうことではない。細菌《バクテリア》、ウイルス、寄生虫など、寄生者《パラサイト》に強いということである。動物にとってこれほど重大なことはないのだ。ここでは残念ながらこれ以上説明する余裕がないのでこれまた詳しいことは、拙著『小さな悪魔の背中の窪み』(新潮社)か同じく『三人目の子にご用心!』を参照していただきたい。
一〇年前、ピグミーチンパンジーと呼ばれるのが普通だった類人猿は、今ではもっぱらボノボと呼ばれている。文庫版ではボノボに変更した。
文庫化にあたり文藝春秋出版局関根徹氏、同じく飯沼康司氏にひとかたならぬお世話になった。ここにお礼申し上げる。
一九九八年八月一六日 大文字の送り火の日に
[#地付き]竹内久美子
単行本 一九八八年五月 晶文社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十年十一月十日刊