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竹内久美子
浮気で産みたい女たち 新展開!浮気人類進化論
目 次
第一講 まずは男と女を分類しよう
人間はどれくらい「浮気好き」? チンパンジーよりは真面目だけれど
浮気をする男、しない男 二つのタイプに分かれるわけ
「いく」女、「いかない」女 それぞれの意味は?
第二講 浮気で生まれるのは男の子、女の子?
地位の高い男には息子が生まれる! 天才トリヴァースの大予言
愛人は息子を産む!? オス、メス格差のある組み合わせ
「楽園の鳥」の驚異の産み分け 裕福な家の娘≠ヘなかなか嫁に行かない
第三講 女の浮気には深いわけがある
浮気をするほど美しい 選んでいるのはいつも女
一夫一妻では夫に不満あり 鳥たちの猛烈浮気社会
魅力的なオスには限りがある すべては免疫力だった!
第四講 女は浮気をするため結婚する!?
クリスマスで、大停電で、SMで 女は興奮すると妊娠する!?
妻が浮気をして初めて子ができる男 「カミカゼ精子」とは
女が浮気をするとき 三人目の子にご用心
あとがき
[#改ページ]
第一講 まずは男と女を分類しよう
人間はどれくらい「浮気好き」? チンパンジーよりは真面目だけれど
※[#歌記号、unicode303d]タンタン タヌキの××は……
と歌にも歌われる、とても有名なタヌキの睾丸である。
近所のそば屋の店先にもあの信楽焼《しがらきやき》のタヌキが控えている。大、中、小と三頭も顔を揃えているが、「大」は「中」、「小」の後ろに位置し、残念ながら肝心の部分を目にすることはできない。
「中」の身長は一メートル弱くらいだろうか、睾丸は二つ合体したような膨らみとなっているが、ざっと見たところ全体で一五センチメートル×二〇センチメートルくらい。体に対して不自然なほどの大きさだ。
「タヌキの八畳敷」という言葉もある。これもまた、タヌキの睾丸はとてつもなく大きいという主張である。大きさを表すのに、なんで八畳敷などという広さを示す言葉を使うのだろう、とふと疑問を感じつつも、そうかと言ってそれ以上に深く考えることはなかった。荒俣宏著『世界大博物図鑑 第五巻 哺乳類』(平凡社)によると、それはこんな民話に由来するのだという。
昔、旅の商人が一夜の宿を尼寺に乞うた。尼さんはお堂でお経をあげている。ところがお堂の畳にはびっしりと毛が生えており、不思議に思った商人が毛を引っ張ると、そのたびごとに尼さんが顔をしかめてしまう。これはおかしいぞ、と今度はえいとばかりに畳に包丁を突き立てる。あれ不思議。お堂と尼さんは立ちどころに消え、あとには睾丸を引き裂かれたタヌキの死体が残されたのである。畳≠ヘタヌキの睾丸だったというわけだ。
丸いはずの睾丸が、どうして畳のような平べったいものにたとえられるのだろう。この疑問についても同書に示されていて大いに納得させられる。
江戸時代にはタヌキと金細工の世界とが切っても切れない関係にあった。表具屋はタヌキの陰毛を使って金粉を刷《は》き延ばし、一|匁《もんめ》(約三・七五グラム)の金は八畳もの広さに広がった。一匁の金をタヌキの皮で包み、かなづちでたたいてもやはり同じくらいの広さに延びたのだという。
この、金が大きく延びること、その際タヌキの陰毛や皮を使うこと、つまりタヌキ─金─大きく延びるという連想が「タヌキの八畳敷」、「タヌキの××はデカい」といった信仰を産み出したようである。そば屋とタヌキが結びついたのもやはり金が絡んでいて、表具屋がこぼれた金粉をかき集める際にそば粉を用いた、という習わしによるという。別にタヌキの皮や毛でなくてもいいような気もするが、タヌキと金とはよほどのこと相性がいいらしい。
民話や伝承のタヌキはともかくとして、実際のタヌキの睾丸はどのくらいの大きさだろう。タヌキは人里にひょっこり現れて愛嬌をふりまき、エサをもらう。猟師は射止めて解体し、タヌキ汁を作る。親しまれている動物なのに、実にこれがよくわからない。一説にはギンナンくらいの大きさしかないというのだが……。タヌキは中国北東部からインドシナ半島北部にかけて、そして朝鮮半島と日本にしかすんでおらず(沖縄地方にはいない)、そもそも研究者自体が少ないのである。私のかつての同僚にタヌキの研究をしている人がいたが、彼女のテーマはため糞であった。タヌキは生活圏のあちらこちらに共同のトイレとも言うべき、ため糞場を持っており、糞を重ねてコミュニケーションをする。しかしため糞では……。実物を測定しなくてもだいたいの大きさがわかる──そんな便利な予測の方法はないものだろうか。
そもそもすべての哺乳類の中で、わかっている限りにおいて最も大きい睾丸を持つ動物は、イワシクジラである。重さ一一キログラム(睾丸の重さは左右合わせた値とする)。もっともイワシクジラのオスの体重は一六トンもあって、そのことからすればさほどの重さではないのだが(体重の〇・〇七パーセント)、イワシクジラと同じナガスクジラ科の面々と比べるとそれはやはり並はずれている。
ザトウクジラ(オスの体重は約三三トン)で一・七キログラム、ナガスクジラ(オスの体重、約五〇トン)でも二・八キログラムしかないのである(以後「体重」はすべてオスの値であるとする)。ちなみにアフリカゾウ(体重四・四トン)の睾丸は、体重の〇・一パーセントに当たる四・五キログラムだ。けれども残念なことに、それら巨大睾丸を我々が目にすることはない。クジラ、ゾウのいずれもが睾丸はブラ下がり型ではないのだ。クジラにとっては水の抵抗を防ぐため、ゾウにとっては比較的体温が低いのでブラ下げて冷やす必要もなく、どちらもすっぽりと体内に収まっているのである。
体の割に大きい睾丸を持っている動物ということになると、その最たるものは、オオハダシアレチネズミ属やバッタマウス属というグループのネズミたちである。
オオハダシアレチネズミは、体重が九二グラム程度であるのに対し、睾丸は七・七四グラムもある。割合にして八・四一パーセント。英名はグラスホッパーマウスというのだが、和名がミナミバッタマウスというネズミの場合には体重二〇・三グラムに対し、睾丸は一・四八グラムで、割合は七・二九パーセントである。
八パーセント? たいしたことないじゃないか、などと思う人はご自分の、あるいは親しい方のヘソの下二〇センチメートルのあたりを観察されるとよい。人間の男の睾丸は、約五〇グラム(むろん左右あわせて、しかもこれはコーカソイドについてのデータ。我々モンゴロイドはこの半分とみてよい)。仮に体重が六〇キログラムであったとしてその割合は、わずか〇・〇八パーセントでしかないのである。逆に人間が、オオハダシアレチネズミ並みの八パーセントの睾丸を持っていたら、重さは四・八キログラムにもなってしまう。はたして前へつんのめらずに歩けるものか……。
それにしても睾丸というものは、どういう理由で発達し、また発達しなかったりするのだろう。
とはいえその前に、我々は一つ心得ておかなければならない。
ある動物の睾丸が大きいか小さいか、発達しているかいないかを議論するために、絶対的な大きさ(重さ)を問題にする──それが全く無意味であることはもちろんである。
体の大きい動物の睾丸が大きいのはごく当たり前のことだ。体が大きくなるにつれ、睾丸もどうしても大きくなってしまうのである。メスの体や生殖器も同様に大きくなり、オスとしては精子を多く作る必要がある。そのためにも睾丸を大きくしなければならないだろう。ところがそれなら、体重に対する睾丸の重さの割合、つまり体の割に大きいか、小さいかを基準にすればいいのかというと、これでもまだ不十分、完全ではないのである。
体の小さい動物は、いくら体が小さいからといって手抜きをして体を作るわけにはいかない。各々の器官はしっかりとし、ちゃんと機能するものでなくてはならない。睾丸もそうした大事な器官の一つで、そのためにはある程度の大きさが必要なのである。逆に体の大きい動物にとってどうかというと、むろん各々の器官は重要である。しかし、だからといってそれらが、体の大きさに合わせてバカデカくなる必要があるかといえば、そうではない。ある程度の大きさがあれば十分だ。つまり睾丸というものは、体が大きいにしても、その大きさほどには大きくなる必要はない。体が小さいにしても、その小ささほどに小さくなるわけにはいかない、ということができるのである。オオハダシアレチネズミ属などのネズミの睾丸が大きい(体の割には大きい)傾向にあるのは、彼らの体が小さいことも一つの理由になっているのだろう。
アメリカのG・J・ケナギーとS・C・トロンバラックは、全部で一三三種の哺乳類の睾丸について調べてみた。それはネズミ、リス、ビーバーなどの齧歯《げつし》目、人間も含めた霊長目、ハリネズミ、モグラなどの食虫目、キツネ、オコジョなどの食肉目、シカ、ウシ、ヒツジなどの偶蹄目、イルカ、クジラなどのクジラ目、ウサギ目、長鼻目(ゾウ)、ウマなどの奇蹄目、翼手目(コウモリ)、アザラシ、オットセイなどの鰭脚《ひれあし》目、有袋《ゆうたい》目とほとんどすべての哺乳類をカバーするものである。むろん、すべてが彼らの仕事というわけではなく、多くは他の研究者の研究データを使わせてもらっているのである(当然のことながら、この一三三種の中にタヌキの項目は見当たらない。ケナギーらの研究は『ジャーナル・オブ・マンマロジー』六七巻、一〜二二ページ、一九八六年)。
その膨大なデータについて検討していくと、個々の動物の体重と睾丸の重さとの間にはだいたい一定の関係が成り立っていることがわかった。もちろんそれは睾丸の重さが体重の一定の割合である、というような単純なものではない。今議論したように、動物の体と器官の大きさとの関係はそう単純なものではないはずだし、事実またそうはなっていないのである。
ケナギーらが、ある動物の体重と睾丸の重さとの間に見出したのは、
y=0.035x^0.72[#xの0.72乗]
という関係式である。xは体重、yは睾丸の重さである(単位はいずれもグラム)。
もしxの右上の指数(xを何乗するか)が〇・七二ではなく、一よりも大きい数だとすると、こういうことになるだろう。x、つまり体重が増えるにつれy、つまり睾丸の重さも増す。しかもそれは、体重が増えれば増えるほどに急上昇するという増え方である(いわゆる指数関数的な増え方)。xの右上の指数が一より小さい〇・七二であることは、体重が増えるに従い睾丸の重さも増えるが、その増え方はだんだんと鈍ってくる、ということを意味しているのである。体の大きい動物ほど相対的に睾丸は小さく、体の小さい動物ほど相対的に睾丸は大きいのだ。
もっともこの、y=0.035x^0.72[#xの0.72乗]いう関係式が示すのはだいたいの傾向である。たいていの動物の睾丸の重さは、この式から導かれる値の近辺に集中している。しかし中にはこの予想から大きくはずれる動物もいる。体重から予想されるよりもいやに大きな睾丸を持っていたり、あるいは期待はずれの小さな睾丸しか持っていなかったりする。ある動物の睾丸が大きいか、小さいか、発達しているのかどうか、を議論するにはこのズレこそが問題だろう。睾丸が大きいとは、予想される値よりも大きい方へ大分ズレていること、小さいとは予想される値よりも小さい方へ大分ズレていることなのである。
そうするとこのズレは──睾丸の発達具合というべきか──いったいどのような理由によって決まってくるのだろう。
ケナギーらが考えているものは、一つには繁殖シーズンの長さである。人間には決まった繁殖シーズンというものがないが、多くの野生動物には繁殖シーズンがある。これが長いか短いかは大問題である。もし繁殖シーズンが短いのなら、その短い期間のうちにオスは、できるだけ多くの回数、しかもできるだけ違ったメスと交尾しなければならないことになる。いきおい睾丸を発達させ、精子をどんどん製造する方向へと進化するだろう(繁殖シーズンのある動物の場合、睾丸の大きさとは繁殖期間中の大きさを指している。彼らの睾丸はその他の期間にはほとんど萎《しぼ》んでしまう)。
たとえばヒツジとウシとを比較すると、ヒツジの方が繁殖期間が短い。ヒツジは秋の数カ月間が繁殖シーズンだが、ウシは一年中、わりといつでも繁殖可能である。ケナギーらの論文によれば、体重はヒツジ三五キログラムに対し、ウシ六八〇キログラムである。これらを例の式y=0.035x^0.72[#xの0.72乗]に代入して予想される睾丸の重さを出すと、それぞれ六五・四グラムと五五四・〇グラムである。実際の睾丸の重さはヒツジ三一八・八グラムに対し、ウシ六八一グラムだ。つまりヒツジが予想値の四・八七倍であるのに対し、ウシは一・二三倍。やはりヒツジの方が睾丸が大きい、睾丸を発達させていると言うことができるのである。
メスの排卵の方式が自然排卵か、それとも交尾排卵か、ということもオスの睾丸の発達に関わってくる。人間の女の排卵は性交《セツクス》とは無関係に起きている。つまり自然排卵である。ところがネコ、ライオンなどネコ科、フェレット、ミンク、イイズナなどイタチ科、ノウサギ、飼いウサギなどウサギ科の動物では、常に交尾が引き金となって排卵が起きている(とはいえ人間の女にも多少その名残りがあって、時に性交《セツクス》が引き金となって排卵が起きることがある。オギノ式がなかなか完璧な避妊法とはならない理由の一つはここにある)。
メスが交尾排卵のタイプなら、オスの交尾には常に排卵を誘発する可能性が伴っており、とすればオスとしては無闇矢鱈《むやみやたら》と交尾する必要もないだろう。ところが自然排卵となるとそうはいかない。交尾が排卵に結びつくとは限らず、オスとしては往々にしてメスがいつ排卵するのかもわからない。その分余計に交尾する必要が出てくるわけである。交尾回数が多いのなら精子も余計に必要だ。よって睾丸も発達させなければならないことになるのである。実際、このような自然排卵派に比べ、交尾排卵派はいずれも睾丸をそれほど発達させていない。ヨーロッパヤマネコの体重は五・二キログラム、睾丸の重さは二・七四グラムで、これは体重から予想される値一六・六グラムの〇・一七倍でしかない。フェレットの祖先種であるヨーロッパケナガイタチの体重は一〇四七グラム、睾丸は三・二八グラムで予想値の〇・六三倍、イイズナは体重が一一五・八グラム、睾丸が〇・四二グラムで、予想値の〇・三九倍である。交尾排卵型の種で、オスの睾丸の重さが予想値を上回るということはあまりないようだ。
メスの発情期間の長さも、オスの睾丸の発達に関係している(注意していただきたいが、繁殖シーズンではなく発情期間である。発情期間は繁殖シーズンのうちに何回か現れる)。発情期間が長いほどメスがいつ排卵するかがわからず、オスはじらされ、常に交尾態勢でいなければならないだろう。交尾の回数も多い。ゆえに睾丸を発達させる結果となるのである。
しかしながらいくつかの種について調べていくうちにわかったのは──それは彼らが当初から見当を付けていたことではあるのだが──ある動物の睾丸が発達するかどうかを決める最も重大な要因は、繁殖シーズンの長さでも、排卵の起こり方のタイプでも、メスの発情期間の長さでもないということである。それは婚姻形態であった。一夫一妻制なのか、一夫多妻制なのか、あるいは乱婚的なのか……。繁殖集団の中にオスが一頭しかいないのか、それとも複数いるのか……。
とはいえ、社会がたとえ一夫一妻制や一夫多妻制であったとしても、そこには必ず浮気、つまり動物行動学で言うところのEPC(extra-pair copulation、ペア外交尾)という繁殖のルートがある。|EPC《ウワキ》が横行すればするほど、それは乱婚的社会との区別がつきにくくなるだろう。結局問題は、婚姻形態や繁殖集団の中にオスが何頭いるかということよりも、オスとメスとの関係がいかに乱れているか、卵の受精をめぐる複数のオスの精子どうしの争い、つまりは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》がいかに激しいか、ということだったのである。
ケナギーらが調べた一三三種の哺乳類のうち、体重から予想される睾丸の重さを最も大きく裏切っている(もちろん重い方へ)のは、実はネズミイルカである。体重五八キログラムだから、予想される睾丸の重さは 0.035×58000^0.72[#58000の0.72乗]で約九四グラム。ところが実際には二・三キログラムもある。二五倍近くも上回っているのだ。ネズミイルカに限らず、イルカはだいたいにおいて睾丸が大きい。予想値からのズレはマイルカで一三・一倍、アマゾンカワイルカで九・〇倍、マダライルカで八・六倍、コビトイルカで七・二倍である。
イルカの仲間が揃って予想値を上回るのは、まずその婚姻形態のゆえである。イルカの社会についてはよくわかっていないことが多いのだが、多くの場合乱婚型だろうと考えられている。
たとえばハシナガイルカというイルカなどは、数十頭からなる集団で暮らしていて、これがまるでチンパンジーの社会のようである。
メンバーはいくつかの小グループに分かれて行動し、小グループは次々メンバーチェンジする。ところがいくらメンバーを替えたとしても、相手は必ず同じ集団内の顔見知りである。こんなふうに小グループが入れ替わり立ち替わりにメンバーチェンジすることは、「離合集散」と言い表されている。チンパンジーの集団は複数のオスと複数のメス、その子どもたちから成っていて、メスは発情するとオスを次々受け入れる。婚姻は乱婚的である。似たような集団で暮らすハシナガイルカのメスが、オスを次々受け入れるということは、十分に考えられる。いや逆に、そういうふうに卵をめぐる複数のオスの精子どうしの争い、つまり|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しいからこそオスの睾丸が発達したのだろう。睾丸の大きさは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しさを示す動かぬ証拠というわけなのだ。
イルカのメスにはまた、ニセの子宮|頸部《けいぶ》≠ニ呼ばれる驚異の器官がある。子宮頸部とは、膣と子宮とを連結する部分である。たいていは細くくびれており、壁面には曲がりくねった洞穴《ほらあな》のような構造が無数に口を開けている。卵に到達しようとする精子にとっては最大の難所である。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しい動物ほどこの子宮頸部の構造がややこしいこともわかっている。複雑な構造によりメスが、精子どうしの争いを助長しようとしているらしい。ところがイルカのメスときたら、本物の子宮頸部だけでは飽き足らず、ニセの子宮頸部を持っているというのである。イルカの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は、メスがついにニセの子宮頸部などというけったいなものを作るに至った、それほどまでに激しいものなのだ。
睾丸の絶対的な重さが最大(一一キログラム)のイワシクジラはどうだろう。残念ながらこのクジラの社会についてもよくわかっていない。イワシクジラは体重約一六トンで、予想される睾丸の重さは約五・四キログラムである。実際にはその二倍の一一キログラムの重さがある。イワシクジラの睾丸はただ大きいだけでなく、予想されるよりもずっと大きいのだ。彼らの社会ではオスどうしの|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が、それ相応の激しさになっているはずである。
陸上で最大の動物、ゾウはどうだろう。彼らの社会についてはかなり多くのことがわかっている。
ゾウの社会の中心をなすのは、最年長で体も一番大きいメス、そして彼女が率いる母系集団である。それは彼女の娘たち、その子どもたちから成っている(この老メスがいない場合には年長の姉妹がリーダーをつとめる)。
オスは性的に成熟すると集団を離れ、若者だけのグループを作るか、一人で放浪する。発情したメスを探して東奔西走。メスもメスでそうしたオスの誘いに、一時集団を離れて交尾する。メスが交尾するオスはたいてい複数に及んでいる。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は相当なものであろうと考えられるのである。
そうするとゾウのオスの睾丸は、かなり発達しているに違いないということになるわけだが、事実そうである。体重四・三六六トンのアフリカゾウの睾丸は四・五三キログラム。これは予想される値の二・一四倍。体重四・五五トンのアジアゾウの睾丸は四・〇キログラムで、予想される値の一・八四倍である。アフリカゾウの方がアジアゾウよりも、より予想値を上回り、アフリカゾウの方が|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しい、メスはより多くのオスと交わるのではないかということが考えられる。
体重に占める睾丸の重さの割合が最も大きい、オオハダシアレチネズミの仲間などの場合はどうか。彼らの睾丸が体の割に大きいのは、そもそもその体が小さいからである。小さくてもある程度の大きさの睾丸が必要だからだ。ではそうした体の大きさから来る問題を補正した例の式を使い、体重から予想される値を出してみる。それでもまだ睾丸は大きいだろうか。
オオハダシアレチネズミの体重は九二グラムで、この体重から予想される睾丸の重さは〇・九一グラムである。ところが実際には七・七四グラム。八・五三倍もの重さがある。ミナミバッタマウスの体重は二〇・三グラムで、予想される睾丸の値は〇・三一グラム。実際には一・四八グラムで、四・八四倍の重さがある。オオハダシアレチネズミもミナミバッタマウスも、単に体重に占める睾丸の重さが大きいだけではなかったのだ。予想値のこの上回り方を見ると、彼らはイルカに勝るとも劣らない乱婚的社会を作っているはずで、事実またそうであるらしい。
こうした睾丸の大きい(発達した)動物に対し、睾丸の小さい(発達していない)動物としてはどんなものがあるだろう。
ケナギーらの調べた一三三種の動物のうちでは、たとえばビーバーである。体重一九・一キログラムに対し、睾丸の重さは九・三グラム。予想される値の〇・二二倍でしかない。
ビーバーは一夫一妻制の社会を作っている。オスとメス、そして彼らの年長の子どもたちも加わり、一家は総出であの素晴らしいダムを建設する。ダムでせき止められた池には無数の木の枝を組み合わせて巣を作り、池と池とを連絡させるためには運河をめぐらせている。縄張りは厳しく防衛され、他のオスの介入する余地は全くといっていいほどにない。ビーバーの社会には|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》というものがまず滅多に起こらないのである。なるほど、睾丸が極端に小さいのもうなずける。オスは食料を運ぶなど、実に熱心に子育てを手伝うが、それというのも子が自分の子であるという確信があるからである。
コモンマーモセットも睾丸が小さい。マーモセットは南米のアマゾン流域などの森林にすむ小型の霊長類である。コモンマーモセットの体重は三二〇グラム、睾丸の重さは一・三グラムで、予想される値の〇・五八倍である。この倍率からも推測されるように、彼らの社会はかなり厳密な一夫一妻制である。オスとメスとは協力して縄張りを防衛し、それには年長の子が加わることがある。夫婦に他のオスが介入する余地はまずないと言える。そしてオスは子を背中に乗せて運ぶなど、他の霊長類ではとても考えられないくらいに子育てに熱心だ。オスのこの子育て熱心を知っているためだろう。メスは一回の出産につき、たいてい双子を産む。オスの協力によって無事二頭とも育つのである。オスが子育てに熱心になれるのも、やはりまた子が自分の子であるという確信があるからである。
類人猿はどうだろう。類人猿は系統的にお互い近い関係にありながら、婚姻形態となるとまるで違うという面白い一面を持っている。
小型類人猿のテナガザルは一夫一妻制である。社会は、同じく一夫一妻制のビーバーやコモンマーモセットとよく似ている。夫婦は協力して縄張りを防衛、年長の子がそれに加わることもある。やはり彼らの睾丸は小さい。シロテテナガザルの体重は五・五キログラム、睾丸の重さは五・五グラムで、予想される値の〇・三二倍だ。ワウワウテナガザルの体重は五・六一キログラムで睾丸の重さは五・七グラム、これまた予想される値の〇・三三倍である。
ゴリラ、オランウータン、チンパンジーの大型類人猿トリオはどうか。
ゴリラは一夫多妻のハレム社会を作っている。シルバーバックと呼ばれる、背中から腰にかけての毛が銀灰色に輝く体の大きいオスが、数頭のメスとその子どもたちを従えている。オスはメスを力ずくで防衛する。他のオスがメスにこっそり接近し、交尾するなどということはほとんど無理である。もしメスと交尾できるとしたら、それはそのメスがオスの元を去り、新しいオスと行動を共にしようとする意志を固めているときである。こうしてゴリラの社会では、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きることはまず滅多にないと考えられる。ゴリラは体重が一三四キログラムであるのに対し、睾丸の重さは二三・二グラム。予想される値の〇・一四倍でしかないのである(一部のネズミ類を別とすれば全哺乳類中、これが最小の値)。
オランウータンは単独性の類人猿である。一頭のオスが数頭のメスを、ロングコールと呼ばれる音声を発しながら遠隔操作によって防衛する。確かに一夫多妻の社会であるが、ゴリラと比べるとこれではメスをあまりよく防衛することはできないだろう。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》はごく稀に起きているのかもしれない。オランウータンの体重は七四・六キログラム、睾丸の重さは三五・三グラムである。予想される値の〇・三一倍と、やはりゴリラに比べると相対的にやや大きくなっている(ゴリラ、オランウータンの睾丸はブラ下がり型ではなく、体内に収まっている)。
チンパンジーの社会は周知の通り乱婚的である。複数のオスと複数のメス、その子どもたちが集団をなし、発情したメスは次々とオスを受け入れる。メスがオスを拒否することは、まずないと言ってよい。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は相当な激しさとなっているはずである。チンパンジーの体重は四四・三キログラムであるのに対し、睾丸の重さは一一八・八グラム。予想される値の一・五三倍あるのである(チンパンジーの睾丸は人間と同じくブラ下がり型だ)。
では人間はどうだろうか。人間の社会がたいていの場合に一夫一妻、あるいは一夫多妻の婚姻形態をとっていることは皆さんよくご存じの通りである。少なくとも乱婚的ではない。しかし一方、それら婚姻形態が表向きのものでしかないということも皆さんよくご承知のはずである。人間社会の|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》というものは、おそらくチンパンジーほどには激しくはないが、ゴリラやオランウータンほどに低調というわけでもない……たぶんそう推測できるはずである。
人間の体重を六三・五キログラムとすると、予想される睾丸の重さは一〇〇・五グラムである。しかし実際には五〇・二グラム。予想される値のわずか〇・五〇倍なのである。確かにチンパンジーの値一・五三倍を下回り、ゴリラの〇・一四倍、オランウータンの〇・三一倍を上回るとはいうものの……いや、こうしてみると人間とは、案外真面目な動物だということもできるのである。予想値の半分とは……。さらにこれはコーカソイドについての値である。モンゴロイドの睾丸の重さはその半分で、予想値の〇・二五倍だ。つまりモンゴロイドとは男女の関係の生真面目さにおいてビーバー(〇・二二倍)に近い存在ということもできそうなのである。でも、ちょっと腑《ふ》に落ちないような……。
ともあれそうすると問題は件《くだん》のタヌキということになるわけである。彼らの睾丸は、実のところどれくらいの大きさと推測することができるだろう。タヌキの体重は『日本動物大百科 哺乳類I』(平凡社)によると四〜八キログラムである。中間をとって六キログラムと考える。この体重から予想される睾丸の重さは、(0.035×6000^0.72[#60000の0.72乗]=)一八・四グラムだ。この値よりもはたして大きいのか、小さいのか──。
タヌキの社会はかなり厳密な一夫一妻制をとることで知られる。夫婦は共同で巣穴や縄張りを防衛し、行動はほとんどいつも一緒である。しかもオスは、哺乳類随一というくらいの満点パパであるらしい。
メスの出産が近づいてくるとオスは次第にソワソワし始める。今か今かとその時を待ち、メスの苦痛を和らげ出産を促すためだろうか、彼女を毛づくろいしたり、生殖器のあたりをなめてやったりする。子が生まれると今度は子をなめる。メスに対する気配りも怠りなく、ご苦労さんとばかりにさっそくのことエサを運んで来る。全く何から何まで至れり尽くせりなのである。何日かしてメスは自分でエサを探し始めるが、そうすると今度は子守り番となる。オスは授乳以外の子育てをすべて完全にやってのけられるのだという。
一夫一妻社会、夫婦の行動はいつも一緒、おまけにオスが満点パパ……。どこをどう捉《とら》えたとしてもタヌキの睾丸が大きいとは思えない。かなり子煩悩の人間の男にしたところで、このパパぶりにはかなわないのではあるまいか。その人間の睾丸は予想値の半分(モンゴロイドはさらに半分)だ。タヌキがこれを下回ることは間違いない。タヌキは食肉目の動物で、このグループは全体的に睾丸が小さい傾向にあることもわかっている。
タヌキの睾丸をビーバー並みとみて、予想値の〇・二二倍としたらどうなるだろう。
一八・四グラムの〇・二二倍は四・〇五グラムである。もちろん左右あわせての値だから片方はおよそ二グラムということになるだろう。
タヌキの睾丸(片方)は二グラム……はて、これは……もしやこれはギンナン≠ナはあるまいか!
浮気をする男、しない男 二つのタイプに分かれるわけ
男には大きく分けてまず二つのタイプがある、と私はかねがね言い続けている。タイプとは、どういうやり方を得意として繁殖するか、つまり動物行動学で言うところの繁殖戦略のことである。
一つは文科系男である。この男の特徴は何と言っても口がうまいこと。言語能力に長《た》け、女を口説き落とすことに並々ならぬ意欲を燃やしている。彼は女の扱いに慣れており、女を喜ばせる術を心得ている。人間として華やかであり、面白い。当然と言うべきか、パートナーがいても平気で浮気、つまりEPC(extra-pair copulation、ペア外交尾)をする。彼の女は常に複数である。それが彼の大いなる自慢である。社交的で人当たりもよい彼は、口のうまさと相まって出世をし、高い社会的地位につくことがしばしばである。むろんのこと収入も多い……。ただ女性スキャンダルで失脚したり、|EPC《ウワキ》が元で離婚に至ることがある。それでもこの男は懲りない。彼は体力、気力の続く限り女を追いかけ、|EPC《ウワキ》し続けるのである。いい奴なのだが、|EPC《ウワキ》だけは収まらない……。
もう一つは理科系男だ。こちらは打って変わって大変な口ベタである。会話はせいぜい単語を並べる程度だ。婉曲的な言い回しというものを知らず、表現は常にストレート。それがために時に人間関係にヒビが入ったりするが、一方ではウソのない率直な男という評価もある。彼にとって女を口説くなど滅相もないことである。女の扱いもわからず、女を喜ばせようなどとは端《はな》から思っていない。いや、思ったとしても彼の能力ではギャグはすべり、その場になんとも白けたムードが漂ってしまうだろう。面白味に欠け、女にしてみれば物足りない存在である彼の美点、それは何と言っても|EPC《ウワキ》をしないことだ。真面目で誠実、子育てなどもよく手伝ってくれる。しかし社交的ではなく口もうまくない彼が社会でどんどん出世するかといえばそうはいかず、収入はお世辞にも多いとは言えない。その代わり、彼にはしばしば驚くべき理科系の才能が備わっていることがある。そうでなくともちょっとした家電製品の修理ならお手のもの、それに子どもの宿題の算数や理科の問題もスイスイ解いてくれる。実に便利な存在なのである。
文科系男と理科系男というネーミングは便宜的なもので、たとえば男の大学の出身学部などとは必ずしも一致しない。文学部出身の真面目で口ベタな編集者がいるかと思えば、工学部出身のプレイボーイのエンジニアもいる。それに純粋な形の文科系男、理科系男というのも滅多にいない。たいていはどちらか寄りの中間型か、あるいは状況に応じて両戦略を使い分けているといったところである。男性諸氏には、たぶんどちらのタイプの特徴にも思い当たる点がおありになるだろう。それにはこういう事情があるのである。
男を二つのタイプに分ける──論拠となっているのは主に日常の人間観察である。私の周囲にいる男であったり、巷で見かける男、ドラマなどに登場する男だったりする。文科系男と理科系男とはそれぞれ、昔から言われる軟派と硬派のようなものだと考えていただいても──大分違う部分もあるけれど──概《おおむ》ね結構である。
文科系男と理科系男とがどのように進化してきたか。それはこんなふうに考えてみた。
人間も含めたすべての動物は、自分の遺伝子のコピーをいかに増やすかという論理で生きている。人間の男はどうやって女を獲得するのだろう。彼の姿形のカッコよさ、社会的地位や財力も大きな要素となるだろう。しかし他の動物にはない、人間特有の女の獲得のしかたと言えば、言語である。男は文字通りに女を口説く。言葉によって女をその気にさせ、なびかせ、性交《セツクス》にまで持ち込もうとするのである。言葉巧みな男ほど多くの女をなびかせ、より多くの子孫を残すことになるだろう。それら子孫もまた言葉が巧みだ。こうして人間界には女を口説く能力、言語能力に優れた男、つまり文科系男が数を増し、進化してくるのである(ちなみに人間の言語能力は、一つにはこのような過程を通じて高まってきたのではないか、と私は考えている)。
ところがそうやって文科系男が増えてくるのはよいが、彼らにはやがて過当競争が発生する。男はある程度口がうまいのは当たり前ということになり、並の口のうまさでは女を獲得できなくなる。女も男に対して警戒を強めるだろう。口のうまい男には気をつけろ、と。
そういう間隙を衝《つ》くのが理科系男だ。彼は口もうまくはないし、女の扱いも知らないが、その代わりに誠実で|EPC《ウワキ》をしない。彼は男の|EPC《ウワキ》にはもうコリゴリだ、という女の心をガッチリと掴むのである。それにもし仮に女に全く縁がなかったとしても、彼はしばしば驚くべき理科系の才能を持っており、それは直接には繁殖しなくても遺伝子のコピーを増やすという、ちょっと逆説的な効果をもたらすのである。
狩りの場面で彼は理科系の才能を生かし、道具を改良し、工夫し、あるいは新しい道具を発明したりする。そうして彼の血縁者に得をさせる。部族ごとの戦争の場面では武器を改良し、新しい武器を開発し、あっと驚く奇襲戦法を考え出したりもする。むろん彼の血縁者が得をする。こうして彼は自分自身は繁殖しなくても、血縁者という共通の遺伝子を乗せている者たちの繁殖の手助けをする。そういう形で自分の遺伝子のコピーを残すことに成功するのである。逆に言うなら、理科系の才能さえ持っていれば、女を口説くことができず、自ら繁殖することができなくても構わない。自分の遺伝子を残すことは可能だということである。そういう効力を持った才能は、何も理科系のものに限られたわけではなく、他にもいろいろありうるだろう。音楽、美術など芸術系の才能、歴史、戦史、状況分析の才能……。けれども人間の社会にもっとも広く存在し、数も多く起源も古い、そして何と言っても重要な役割をはたしてきたのは理科系の才能ではないだろうか。
文科系男と理科系男の勢力は、互いにあるシェアを占めると平衡状態に到達する。釣り合いの点は、たとえば戦争が勃発したり、平和が訪れるなど世情の変化によって一方に傾いたり、他方に傾いたりする。戦時下には万事、享楽的ムードの漂う文科系男は活躍の場を失うだろう。逆に理科系男が株を上げるかもしれない。理科系男はそもそも武器の改良や発明をすることが得意だ。戦時下こそが彼にとっての本領発揮の場であり、稼ぎ時。彼の遺伝子のコピーが増えるだろう。一方、平和が訪れると人々は享楽的な人生を追求し始める。男と女のとびきり素敵な出会いと別れ、|EPC《ウワキ》、不倫……。こういうときこそが文科系男の出番である。彼は女を次々口説いては孕《はら》ませ、逃げる。文科系男の遺伝子のコピーが急速に増加する。しかしこうした揺らぎも長い目で見るならば、ある釣り合いの点を中心にした、ごく小さな振り子の幅でしかない。文科系男と理科系男とは拮抗《きつこう》しつつ、それぞれの勢力を保ち続けるのである。
と、まあざっとこんな考えを『浮気人類進化論』(晶文社、一九八八年、文春文庫)などで私は披露してきたわけである。その後男の繁殖戦略として新たにケチ男、バクチ男という二つのタイプを追加してみたりした(『そんなバカな!』文春文庫)。
最近になるとちょっと気が変わり、たとえば様々な鳥の研究などを知るにつけ、それら男の分類や特徴の説明に少し修正を加えたいという気持ちも起きて来ないわけではない。鳥ではモテないオス、順位の低いオス、地味であまりカッコよくないオスの妻は、モテるオス、順位の高いオス、カッコいいオスと頻繁に|EPC《ウワキ》をする。ダンナに不満な部分を|EPC《ウワキ》によってなんとかカバーしようとするからである(詳しくは第三講で)。何事にもスマートで華やかで、女の扱いにも慣れ、社会的地位も高い文科系男──彼はしばしば、たとえば理科系男の妻を寝取り、そういうことには全く気が回らない彼に、こっそり自分の子を育てさせようと企んではいないだろうか?
文科系男や理科系男という分類ではもちろんないのだが、社会階層ごとの妻の寝取られ率というものが調べられたことがある。それによると、地位の高い男ほど妻を寝取られにくく、しかも自分は他人の妻を寝取る側に回る。そのターゲットはたいていは地位の低い男の妻なのである。地位の高い男は一パーセントしか妻を寝取られないのに対し、中流の男は五〜六パーセント、地位の低い男は一〇〜三〇パーセントも妻を寝取られているのだ(この寝取られ率とは実際に子ができている割合である。データの出所はそれぞれ違い、地位の高い男についてはスイス、アメリカ、中流の男についてはイギリス、アメリカ、地位の低い男についてはイギリス、フランス、アメリカのデータである)。
とはいうものの理科系男の妻は、たいていの場合彼と同様の地味で貞淑な女である。文科系男がいかに甘い言葉を囁き、彼女を女王様の如く扱い、ひざまずいたとしても誘いには乗らない……?
ともあれこうした私の仮説を、あなたはどう捉えておられるだろう。どうせ冗談に決まっているさ、と思っておられるだろうか。
「男の繁殖戦略、だって? ふざけるんじゃないよ。こんなのはお遊びであってね、とてもまっとうな学問とは言えないね。学問とはもっとムズカシクて、ムズカシイ言葉や論理がゾロゾロ出て来て素人には皆目見当もつかない。厳密で鬱陶《うつとう》しくて、少しだって面白くはないもののはずだよ。アハハと笑えるようなもの、そんなのはもうそれだけで学問という資格はないね」などと。
なるほど、私は極力冗談と受け取られるような書き方をした。そう受け取ってもらう方が、何かと楽だからである。が、もはや冗談を装う必要などなくなった。嬉しいことに最近こんなことを言う人が現れたのである。
男には睾丸の大きいタイプと小さいタイプとがある! それはもちろん繁殖戦略の違いである。各々のタイプの男は性行動にも違いがある──。
私の前著『BC!な話 あなたの知らない精子競争』(新潮文庫)をお読みになった方なら覚えておられるだろう。仮説を提唱しているのはイギリスのR・ロビン・ベイカーとマーク・A・ベリスである。
ベイカーとベリスは一九八七年から九四年にかけて、人類史上初めてというくらいに画期的、革命的、そして呆れるほどに凄まじい研究を行なった。所属するマンチェスター大学の学生や職員に呼びかけ、被験者となってくれるボランティアを募る。そうして得た男女二十数組の実生活上のカップルに対し、驚くべき性の実態調査を行なったのである。
コンドームを渡し、性交《セツクス》のとき、マスターベーションのときの精液を回収し、提出してもらう。性交《セツクス》のあと膣から排泄される、精液と女の体液が混じり合った液《フロウバック》までも回収、提出してもらう。さらにはそれらの性交《セツクス》やマスターベーションが、前の性交《セツクス》やマスターベーションから何日空けて行なわれたものなのか、その間に二人はどれくらいの時間を一緒に過ごしていたか、性交《セツクス》の間に女がオルガスムスに達したか、達したとしたら男の射精とのタイミングはどうだったか、前なのか、ほぼ同時なのか、後なのか……などなどという大変立ち入ったことまで聞くのである。身長、体重、年齢というような基本的なことももちろん聞く。
そうしてわかったのは、常識や思い込みを覆す驚くべき新事実の数々である。
たとえば男が何日も間を空けてパートナーと性交《セツクス》したとする。すると確かに何日間か間を空けているわけだから、それなりの数の精子が放出される。しかし問題はそれよりも、その間にいかに彼女と一緒に過ごしたか、あるいは一緒にいなかったかということにある。彼女とべったり一緒に過ごした場合には、日数の割には精子は出て来ない。ほとんど一緒にいなかった場合には、非常に多くの精子が放出されるのである。これが少ない日数しか空けていない場合であっても話は同じである。彼女とほとんど一緒に過ごしていたなら、精子はあまり出て来ないが、一緒にいなかったなら、日数の割には多くの精子が放出されるのである。
どうしてこんなふうに精子の数が調節されるのだろう? 男は、このところパートナーとよく一緒にいたか、なんていちいち考えるわけではないだろう。それは無意識のうちに、たとえば久し振りだなあ、そんなに久し振りじゃないな、さっき会ったばかりだ、などといった感情によって調節されるもののはずである。しかし調節の方法はともかくとして問題は、なぜそのような調節がなされるか、ということだ。それは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》、つまり一人の女《メス》の卵《らん》の受精をめぐって複数の男《オス》の精子が争うという観点から説明されるのである。
男がパートナーである女と何日か間を空けて性交《セツクス》した場合、その間のほとんどを彼女と一緒に過ごしていれば問題はない。問題は、彼女と一緒に過ごした時間が短いときだ。つまりそのとき、残りの時間の彼女の行動がわからず、彼女が誰か他の男と|EPC《ウワキ》していたとしても不思議はないのである。もしそうだとしてどう対処するのか。女の|EPC《ウワキ》に対しては彼女をガードするというのが基本だが、この場合は肝心のガードが甘かったのだ。どうすべきだろう。
こういうときにこそ精子を大量に放出すべきなのである。多くの精子を彼女に送り込み、卵が他の男の精子によって受精する可能性を引き下げる。他方、彼女とよく一緒に過ごしていた場合には彼女にあまり|EPC《ウワキ》の心配はない。精子を多く送り込んでみたところで仕方ないのである。
ところがそうした精子の出方は、話がマスターベーションとなるとまるで様子が違ってくる。性交《セツクス》ではパートナーのガードの具合が数を大きく左右する。片やマスターベーションではそういうことは全く関係ないのである。たとえパートナーが横にいて、彼女の介添えのもとにマスターベーションしたとしても関係ない。ただ前回の射精からどれくらい時間がたっているかだけが問題なのである。
女のオルガスムスと男の射精とのタイミングがどうか、いったい何がどう関係するのかということだが、真相は意外だった。誰一人として予想しえないような、とんでもなく恐ろしい話であった。
女にオルガスムスがあったからといって、男は単純に喜んだり安心したりしてはいけないのだ。
男とほぼ同時か、少し後のオルガスムスなら確かに喜ばしいことである。子宮と膣との何回にもわたる収縮が、既に女の体内にある精液を強力に吸引してくれるからである。けれども男の射精より前の女のオルガスムスにはご用心である。それは男と同時や男より後のオルガスムスとは全く逆の効果を持っている。オルガスムスによって女は大量の粘液を分泌する。粘液がその後侵入してくることになる精液に対し、ブロックを築いてしまうのだ。男の射精にいくら勢いがあったとしても、このブロックを突き崩すことは難しい。何ともややこしい話になっているのである。ベイカーとベリスはこれらの研究結果を一九九三年に『アニマル・ビヘイヴィアー』四六巻、八六一〜九〇九ページに、九五年には『Human Sperm Competition』(Chapman & Hall)という本にまとめている。
そして……問題は睾丸である。この一連の研究の中で、彼らは被験者(もちろん男)の睾丸の大きさまで測定する快挙に及んでいる。
人間の男の睾丸は右のほうが左よりもやや大きいという傾向にある。ベイカー&ベリスが測定したのは左の睾丸である。おそらく被験者を目の前に立たせ、測定者であるベイカーないしはベリスが、右手で測るという手続きの問題からだろう。測定にはコンパスのような計測器を使った。睾丸の長径と短径を測り、睾丸を回転|楕円《だえん》体とみなして体積を割り出すのである。二四人の男性被験者のうち、測定に応じたのは一四人だった。
その平均は一八立方センチメートル。白人男性の平均値として概ね妥当なところである。ところがその値には驚くべき個人差があったのだ(被験者となっている男女のカップルには、姓とは無関係にアルファベットのイニシャルが与えられている)。
睾丸の大きさ第一位のG氏は三一立方センチメートル、第二位のS氏は二九立方センチメートル、三位A氏は二八立方センチメートルである。それに対し四位のI氏は二三立方センチメートルとガタンと落ちる。さらに一一位のM氏とO氏ともなると一二立方センチメートルで、上位三人の半分もないという状態になる。一三位T氏は一一立方センチメートル、一四位(最下位)L氏七立方センチメートルとますます寂しい状態となって来るのである。それどころか一位のG氏と最下位のL氏とは、G氏が身長一八〇センチメートル、体重七五キログラムであるのに対し、L氏は一七四センチメートル、六七キログラムで、体格にそうたいした差があるわけではない。しかも両者は三一歳という同い年だ。どうしてこんなにも違いがあるのだろう(ちなみにモンゴロイドの男の睾丸はコーカソイドの半分くらいしかなく、このランキングで言えば、一三位のT氏より小さく、最下位である一四位のL氏よりは大きいというレヴェルである)。
ベイカーとベリスが凄いのはこれから先の研究と考察である。彼らはまず、各々の被験者から回収したいくつかの精液のサンプルをもとに、各人の精子製造能力を算出する。それと睾丸の大きさとの関係をみるのである。
もちろん睾丸の大きい男ほど精子の製造能力も高い。睾丸の体積が一二立方センチメートル以下のごく小さい睾丸の持ち主は(日本人の男の大半はこの範疇《はんちゆう》に入る)一日に一億個くらい、一二〜一八立方センチメートルの小さめの睾丸の持ち主は一日に一億二〇〇〇万個くらいの精子を作る。これが一八〜二四立方センチメートルの大きめの睾丸の持ち主ともなると一億七〇〇〇万個くらい、二四立方センチメートル以上の特大の睾丸の持ち主は二億個もの精子を一日に作ってしまうのである。睾丸の大きさと製造される精子の数がきれいに比例、とまではいかないが対応しているところが素晴らしい。大きい睾丸はただ伊達《だて》に大きいわけではなく、ちゃんと実質を伴っているのである。そして小さい睾丸は小さいなりに機能している。もっとも睾丸の大きさと精子の製造能力との間に相関があるからと言って、別に驚くには当たらない。問題はそれからである。
彼らはそれぞれの男の日頃の行動面に注目し、精子競争指数(Sperm Competition Index、略してSCI)なるものを打ち出した。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は男女の|EPC《ウワキ》、レイプ、売春、乱交パーティー、スワッピングなど性を巡る様々な場面で起こりうる。ここで言う精子競争指数《SCI》とは、男がいかに|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》を追求するタイプであるか、自分の行動が元となってどれほど|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きる場面に遭遇するか、いかに乱れた男女関係の中にいるか、というようなことの目安だろう。男の行動については、研究の目的を知らず、まして彼の睾丸の大きさなど知るはずもない、しかし彼の日常についてはよく知っている人物たちに評価してもらった。こうしてSCIを算出する。
それによるとやっぱり、である。睾丸の大きさと彼の精子競争指数《SCI》との間には見事な相関がある。睾丸の大きい男ほどSCIが高い。睾丸の小さい男ほどSCIは低いのである。
睾丸の大きい男とは、おそらくこういう意味を持つのだろう。彼は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しく、男女の関係がややこしい社会に適応している。そういう社会で子を残す競争をしようとしている。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝利するにはとにかく毎日精子をどんどん作り続けることが重要だ。よって彼は睾丸を発達させているという次第なのである。
一方、睾丸の小さい男とはこういう意味になる。彼は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》があまり激しくはなく、男女の関係があまりややこしくない社会に適応している。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》がそう起きないとすれば、毎日そんなに精子を作る必要はない。彼は睾丸を発達させる必要もないというわけである。ただ彼自身は|EPC《ウワキ》をほとんどしないかもしれないが、妻がしないという保証はない。彼はおそらく妻を防衛することに大変熱心なはずである。
さらに──、私がもう少し想像を膨らませて考えを押し進めるとするなら、こういうことも言えるのかもしれない。
睾丸の小さい男は|EPC《ウワキ》の場において、睾丸の大きい男にはとても敵《かな》いそうにない。最初から勝負はついている。そこで彼は意識的にか、無意識的のうちにか反撃行動に出ようとする。|EPC《ウワキ》はよくないことだ、|EPC《ウワキ》するなどということは人間として最低の裏切り行為である、などといった考えを抱くのである。この倫理=Aあるいは正義≠彼は日常の会話や様々な言論の場で流布。そうして自分でも気づかぬうちに睾丸の大きい男たちの繁殖活動を妨害するのだ。そしてもちろん、かの男たちの毒牙から他ならぬ自分の妻を防衛しようとする……。
同じ人間の男でありながら人によって随分と睾丸の大きさが違うのは、こうした繁殖戦略に各々違いがあるからである。ベイカー&ベリスは残念ながらこの段階でそこまで明言しているわけではないが、睾丸の大きさと精子競争指数《SCI》との関係から自ずと読み取れるのはこういうことである。ちなみに前セクションの睾丸の議論では、人間の男が意外にも大変真面目であるという結論が導かれてしまった。それは、このように男には二つのタイプがあるにも拘らず、単に平均値から考えたからである。浮気をする男はしょっちゅうしている。浮気の発生率ということを考えると、人間はそんなには真面目でないはずである。
しかしながら一九九六年、ベイカーは『Sperm Wars』(邦訳『精子戦争』秋川百合訳、河出書房新社)という一般読者向けの本の中で、ついにこんな議論を展開した。彼はここではもはや|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》という言葉を使うことをやめ、すべて精子戦争《スパーム・ウオーズ》に統一している。違う男の精子どうしの争いは、競争などという言葉ではとても追いつかないくらい実戦的なものであるとわかってきたからである。精子どうしは頭突きによって相手を破壊しようとし、まるで空中で争う凧《たこ》のように尻尾を絡ませ、相手の尻尾を切り落とそうとする。さらには搭載している酵素を放ち相手を溶かす、などという化学戦までやってのけるのである。
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大きな睾丸を持つ男性は、精子戦争を行うのを得意とするようプログラミングされている。そしてその戦争には、大きな精子軍団を持っているので勝利しやすい。一方、小さな睾丸を持つ男性は、パートナーを守り、貞節で、精子戦争を避けるようプログラミングされている。そして、精子戦争には、少ない精子軍団しか持っていないので、負けやすい。では、いったい子孫繁栄のうえでは、どちらの男性が有利なのだろうか、小さな睾丸を持つ男性なのか、あるいは大きな睾丸を持つ男性なのか? 答えは、そのどちらでもないようなのである。(中略)まず、小さな睾丸を持つ男性たちの集団があるとする。彼らは自分のパートナーにほとんど精子を注入せず、他の男性のパートナーと性交しようとすることはまったくない。この集団に大きな睾丸を持つ一人の男性が入ってくる。この男は自分のパートナーだけでなく、他の男性のパートナーたちとも性交しようとする。最初は非常に首尾よくできた。他の男性のパートナーと性交するたびに大量の精子軍団を注入するので、彼の精子はどの精子戦争にも勝つようだった。そして、同時に、他の男性たちは自分のパートナーと性交しなかったので、「間男」が現れる可能性もなく安全だった。その結果、各世代を通じて、大きな睾丸を持つ男性のほうが小さな睾丸を持つ男性たちより子供の数は多かった。さらに彼らの男の子孫には、大きな睾丸と乱交、精子戦争に勝つ能力が遺伝で受け継がれていった。
しかし、この繁栄も最終的には自分で自分の首を締めることになる。世代を経るごとに初代の侵略者であった男性の子孫の大きな睾丸を持つ男性が増えていき、ついには彼らの有利さはもう何にもなくなるのである。まず、もはや精子戦争に勝つことは、確実ではない。なぜなら自分が性交した女性はすでに大きな睾丸を持つ他の男性とも性交しているからである。第二は、自分のパートナーも今や大きな睾丸を持つ他の男性たちから性交されるかもしれない。三番目は、ある集団内で乱交が激しくなればなるほど、病気になる危険性も誰もが高くなる──特に、いちばん乱交が盛んな自分たちが危なくなる。このようにして、ある集団内に大きな睾丸を持つ男性が増えすぎると、他の男性から自分のパートナーを守ることに集中する小さな睾丸をもつ男性たちは実際には有利になる。特に、彼らは病気にかかる危険性が少なく、また彼らの小さな睾丸は事故や損傷に対して傷つきにくいからである。
そこで、もし、大きな睾丸を持つ精子戦争の精鋭の男性たちがある集団でごく当り前の存在になりすぎると、彼らは実際には小さな睾丸を持つ男性たちより子孫繁栄のうえで不利になる。(中略)大きな睾丸を持つ男性の割合は、平均的には、小さな睾丸を持つ男性たちに比べて、よくも悪くもないレベルで落ちつくのである。
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[#この行3字下げ](『精子戦争』ロビン・ベイカー著、秋川百合訳、河出書房新社より)
睾丸の大きい男と小さい男とがそれぞれの繁殖戦略を持ち、前者が性交《セツクス》に対して積極派で|EPC《ウワキ》タイプの男、後者が消極派で|EPC《ウワキ》しない、しかし妻はしっかり防衛するタイプの男であるという分類。まず睾丸の小さい男たちの集団の中に睾丸の大きい男が現れる。すると彼は急速に勢力を伸ばし、彼の子孫たちを数多く残す。しかし増えすぎると互いに過当競争に陥り、今度は他方が勢力を伸ばす。結局は平衡状態となって安定するという議論は、私が男を文科系男と理科系男とに分けて展開したものと実によく似ている。実際、文科系男は睾丸の大きい男に、理科系男は睾丸の小さい男にかなりよく対応しているようだ。
ベイカーは睾丸の大きい男が、私の言う文科系男のように口がうまいとか女の扱いに慣れているとか、社会的に高い地位につきやすいとか──、そんなことまで言っているわけではない。けれど『精子戦争』のフィクション部分(この本はフィクションの提示とそれに対して解説が付くという構成になっている)には睾丸が大きく、プレイボーイで(ということは女の扱いに慣れており、口上手、一緒にいて面白い、そしておそらく性交《セツクス》がうまい?)、どんどん出世して金持ちになる男が登場する。ベイカーはこの人物を、男の一つの典型として挙げている。
ベイカーは睾丸の小さい男が、私の言う理科系男のように口ベタで妻にとって少々物足りない存在、非社交的で内気である、などとも言っているわけではない。けれど、同じく『精子戦争』には睾丸が小さく、妻にとって面白味に欠ける男、薄給のために子の養育もままならない男が登場する。私も彼も、考えることは似たようなものなのである。
とはいえベイカーの言う睾丸の大きい男と小さい男、私の言う文科系男と理科系男とを比べてみると、さすがにここは大分違うなあと思われる部分もある。たとえばベイカーは、睾丸の大きい男が増えて過当競争に陥る原因として、男そのものの競争にはむしろ注目していない。「精子軍団」による|「精子戦争《スパーム・ウオーズ》」というように、女の体内で繰り広げられる、睾丸の大きい男どうしの精子の争いに着目しているのである。個体のレヴェルではなく精子のレヴェルだ。そして睾丸の大きい男が衰退する原因としては性病を考えている。
一方、私は文科系男が過当競争に陥る原因として、まず文科系男どうしに争いが起きること、次に男に対する女の見る目が厳しくなることを考える。口のうまい男には気をつけろ、などと。私が注目しているのはあくまで個体レヴェルでの争いや選択だ。そして文科系男の衰退の原因としては戦争を考える。
ベイカーの論と私のものとでは、結婚に対する一部の男の願望という点でも大きく違っている。私の言う理科系男は結婚や結婚生活に対する憧《あこが》れがあまりなく、一生を独身で通すなどし、しばしば自身では繁殖しないことがある。彼は理科系の才能によって血縁者に利益をもたらす。血縁者を介して自分の遺伝子のコピーを増やすタイプなのである。そんな彼だから当然女に対する関心も薄く、もし結婚したとしても、妻とのつきあいを怠りがちである。彼女の服装に変化が現れようが、髪型が大きく変わろうが、そんなことは知ったことではない。彼は彼自身の創作や発明の世界に生きている。
ところがベイカーの言う(いや、たぶんこう言おうとしていると推測するのだが)睾丸の小さい男は何としても結婚する。結婚こそが人生最大の仕事であり、人間の務めであるかのように考える。彼は妻こそが命の男である。よく言えば愛妻家、悪く言えば恐妻家の彼にとって妻の防衛は何よりも大切なことだ。彼女が服装の好みを変えたり、髪型を変えようものなら目敏《めざと》く発見し、彼女の身辺を探ろうとする。服装や髪型は女心の変化を知る大切な手掛りなのである──。
と、まあ私とベイカーの論には多くの共通点があるが、その一方で明らかに異なる点も多々見受けられるのである。けれどそんなことは、あまりたいした問題ではない。重要なのは私とベイカーは人間の男の繁殖戦略にどういうものがあるか、それぞれどう進化したのかを動物行動学の観点から真面目に考えた、そして我々以外にこのようなことを考えてみた人物はほとんどいないということである。
サケやトゲウオのような魚、トンボやシリアゲムシなどの昆虫、カエル、オオツノヒツジ(ビッグホーン)、ゾウアザラシなど実に多種多様な動物でオスの繁殖戦略が研究されている。繁殖戦略にいくつかのタイプがあることもわかっている。人間の男についてはそのような議論を行なわない、という方がよほどおかしいのである。ちゃんと議論したのは私とベイカーだけだ。さらにちょっと自慢するなら私の方が八年も早い(!)というわけなのである。
それにつけても……世の文科系男というのは本当に睾丸が大きいのだろうか、はたして理科系男は小さいのか……まずはそのあたりから観察を始めてみることにしよう。
「いく」女、「いかない」女 それぞれの意味は?
どういうわけだか急に思い立ち、ひとつ『チャタレイ夫人の恋人』を読んでみよう、という気になった。私はまだこの名作を読んではいない。
私にはちょっと考えるところがあって、この作品がはたしてどういうストーリーであるのか、男と女はどう振る舞うのか、いつ、どのようなタイミングで子ができ、それは男の子なのか女の子なのか、などといったことを知りたいなと思ったのである。なるべくなら|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きているといい。
しかしともあれ、あの、「チャタレイ夫人」である。チャタレイ裁判として知られるくらいの問題作だ。大雑把なストーリーくらいは、元よりこの私でも知っている。
貴族の夫人であるヒロインが森番の男(森の管理人である)と通じ、肉体による真実の愛に目覚めるという話。この森番という言葉の響きが何とも古風で重々しい。
じゃあ最後にはどうなるのか、と聞かれると答えに窮するのだが、ともかく森番は教養もなく、粗野で野卑な男だ。彼女は彼の、夫にはない肉体の魅力に惹かれ、溺れていく。むろんそれは夫との掛け持ちである。……そうに違いないと思っていた。大きな間違いだった。
彼女の夫たる人物は、まず第一に性的に不能である。彼は新婚生活もそこそこに第一次世界大戦に出征したが、重傷を負って帰還する。下半身不随となって結婚生活を続けるのである。彼女は献身的に夫の看病を続けるが、あるときこの夫婦に子どもという問題が持ち上がる。こういう身分の人ともなると、地位と財産を相続させる後継者というものが何としても必要になってくるのである。
他の男との間の子であっても、君さえよければその子を育てよう、という意味のことを彼は言う。こうしてチャタレイ夫人は、生命のあるもの、新しい命に強い関心を抱くようになる。
森番の男が粗野で教養がないというのも、これが大きな間違いなのである。彼は痩せた、どちらかと言えば美男の部類に属する男である。教養もある。従軍し、肺を患った。世間、女、あらゆるものに希望を失った彼は、今は森番として逃避生活を送っているのである。
ヒロインが、夫と愛人という全くタイプの違う二人の男と交わり、どちらが父親であるのか本人にさえわからない子を宿す。どういう状況で交わり、結果、どちらの側の子ができるのか。その後の彼女はどういう運命を辿るのか……。私はそんなことを期待していた。『チャタレイ夫人……』はちょっと期待はずれだった。この物語で|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》は起こらない。彼女はやがて懐妊するが、子の父親はむろん夫ではなく、森番の男なのである。
とはいえ『チャタレイ夫人……』には、予想だにしない大きな収穫があった。そもそもこの作品にはセックスについての明らさまな議論がそこここに登場する。そのために本国イギリスの他にアメリカ、日本でも裁判沙汰に発展したわけだが、私が仰天したのはこんな件《くだり》である。チャタレイ夫人は森番の男との前に、ちょっとした浮気を試みており、相手はアイルランド生まれの作家である。作家はこんなことを言って彼女を非難する。
[#この行1字下げ] あなたは男と同時にいくことができないんですね。無理に自分のを終わらせようとしているんですね。自分も最後までやりたいんですね。
[#この行3字下げ](『チャタレイ夫人の恋人』ロレンス作、伊藤整訳、伊藤礼補訳、新潮文庫、完訳版より、以下の引用も同書から)
森番の男に至っては(いや、彼は本来物静かな男であるのだが、このときばかりは感情が激し)、こんなふうに前の女房をなじり倒している。
[#この行1字下げ] あいつは決しておれと一緒に済まそうとしなかった。絶対に! あいつはいつまでも待っていて、おれが半時間も持ちこたえると、あいつはもっと長く持ちこたえた。でおれが興奮して本当にいってしまう。すると自分で始めるので、あいつが済ますまでどうにか持ちこたえなければならない。あいつはもがいたり叫んだり、掴みかかったりして続けた挙句やっと興奮して済ませるのだった。
あなたはもうご存じだろう。女のオルガスムスと男のオルガスムスとのタイミングが、つまり男が先に「いく」か、女が先に「いく」か、それともほぼ同時かというタイミングが受精という一大事を大きく左右することを。
ロビン・ベイカーとマーク・ベリスの研究によれば、男のオルガスムス(射精)より大分前に起きた女のオルガスムスは、何と、受精を起こりにくくさせる効果を持っている。女はオルガスムスによって大量の粘液を分泌し、その後精子がやって来たとしても、その侵入をブロックする準備を整えてしまうのである。男とほぼ同時か、男より後の女のオルガスムスは、今度は逆に男にとって好ましい。オルガスムスのときの膣と子宮の激しい収縮が、精液を膣のいっそう奥の方へと吸い込んでいくからである。受精の確率は大変に高まるだろう。
女が自分と一緒に「いき」たがらないことを作家と森番の男、両者ともに非難するのは、なるほどそれは理にかなっている。同時に「いく」ことは受精の確率を大いに高めることになるからだ。しかし自分が「いっ」てから女が「いき」たがるのを非難するのは、どうしてだろう。それは男にとって本来、歓迎すべきことであるはずなのに。
確かに、男にしてみればそれはあまり気分のよいことではないだろう。自分が「いっ」てしまったのに、女はまだ自分の満足を追求しようとしている。自分は気持ちも体も萎《な》えてしまっているのに、女ときたら自分の欲求のことばかり考えている。自分勝手で、エゴ丸出し……。あるいは、女を「いか」せることができなかったことで男は少々劣等感に陥っており、そのためあまり気分がよくないのかもしれない。
けれども、男の気持ちがどうあれ、女が男の後に満足を追求することは彼に利益をもたらすはずである。どうして気持ちと真相との間にこんなズレがあるのだろう。
我々は自分にとって都合のよいこと、突き詰めれば自分の遺伝子のコピーが増えることにつながる現象や行動に対し、好ましい、気持ちいい、そうしたい、そうすることが楽しいといったプラスの感情を持つようプログラムされている(いや、淘汰の結果そういう感情を持つに至ったというのが本当のところだ)。そういう感情を持っていれば、人間は自然とそう振る舞うからである。一方、自分にとって都合の悪いこと、自分の遺伝子のコピーが増えることにつながらない現象や行動に対しては、よくないことだ、不快である、やりたくない、そうすることはつらい、などというマイナスの感情を持っている。そういう感情を持っていれば、人間なかなかそうは振る舞わないからである。
男の後の女のオルガスムスを、よいことだ、好ましい、そうして下さい、どうぞごゆっくり、などとする心のゆとりを男は持っていてもいいはずである。なぜならそれは男の遺伝子のコピーが増えることに直結するはずだから。ところがそうではない。どうしてだろう。ベイカー&ベリスの研究が間違っているのだろうか? それとも、彼らは間違っていないが、とにかく男は自分より後の女のオルガスムスを嫌う。嫌うことが(何がどう関係するのかわからないが)、結局のところ男の利益となって戻ってくる。……そういうことだろうか。いや、わからない。
『チャタレイ夫人……』の登場人物に限らず、そもそも男と女というものはベッドの上でしばしば意見の対立をみる。先に「いっ」た、いや、「いか」ない。早いだ、遅いだなどとかまびすしい言い争いが発生する。それは本当に大切なことだからである。『チャタレイ夫人……』はまずそもそもの議論を提示した。その意味でこの本は画期的で、表現をめぐる論争になったのも大いにうなずける。
私はしかし、この本の中にもっと驚くべき部分を発見したのである。驚愕《きようがく》という点ではこちらの方が何倍もの衝撃度を持っている。
心を開いた森番がチャタレイ夫人に、これまでの人生について長い長い告白をする(先ほどの彼のセリフもこの告白からの引用である)。その中でこんな考えを漏らす。いかにオルガスムスが起こりやすいか、体が感じやすく興奮しやすいか、どういう性交《セツクス》を好むか、などということをもとに女をタイプ分けしてみせるのである。
[#この行1字下げ] もっと古いタイプの女たちは、ただじっと横たわって、男に好きなようにさせているだけだ。終わったあとも平気な顔をしている。それでいて、女たちはあんたが好きだ、などと言う。行為自体は、女たちにとっては、少し下品なことという以外の何物でもない。たいていの男はそれで満足している。おれはそれではいやだ。だがこういう女でも少しずるいのになるとそうでないような顔をしている。感動して悦びを味わっているふりをする。だがそれは偽りだ。そういうふりをしているだけだ。──それから、なんでもかんでも好きだという種類の女たちがいる。どんな感じでも、どんな寝かたでも、どんないきかたでもいい。ただ正常なやりかたはごめんだという連中だ。その女たちは、男を、女のなかにいれさせないままいかせてしまう。それからもっと手ごわい連中がいる。あいつらは、いかせるのがたいへんだし、自分でいくのもたいへんだというひとでなしだ。おれの女房がその種類なんだ。自分が積極的な側にならないと承知しない。──その次はあの中が死んでいる連中だ。まったく死んでいて、自分でもそれがわかっている。それからもう一種類の連中は、男がいくところまでこないうちにやめさせて、男の腿《もも》に腰を擦《こす》りつづけていくというやつだ。これはたいてい同性愛型の連中だ。同性愛の女は、意識しているのといないのとを含めて驚くほど多数いる。女はほとんどみな同性愛型だと言ってもいいぐらいだ。
何でこんな大事なことを知っているんだ、この森番は!
私はこの件を読んで腰が抜けそうになるくらい驚いた。オルガスムスの起こりやすさ、体の感じやすさによって女を(その繁殖戦略を)分類するというのは、ロビン・ベイカーが『精子戦争』のほとんど結論部分で明かす考え方である。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》や性交《セツクス》の研究を極めたこの学者が、最終的に到達する議論がこれなのだ。どうして一介の森番が、いや正確には作者であるロレンスが、こんな性の核心に触れる考えを披露することができるのだろう。それは経験のなせる業というものか。多くの経験を積めば男は誰でもこれくらいの考えには到達するものなのか……。
ベイカーは、こんなふうに女を四つのタイプに分けている。
第一のタイプは、どんな場合にもオルガスムスに達する、つまり性交《セツクス》でも、マスターベーションでも、前戯、後戯でも、眠っている間でも達することができる(多くの女は気づいてさえもいないが、眠っている間にもオルガスムスに達することがある)、そして時にはわざとオルガスムスに達しないことも可能だという女である。彼女たちはそうプログラムされている。
第二のタイプは、性交《セツクス》、マスターベーション、前戯、後戯などのうち、すべてというわけにはいかないが、いくつかの状況でオルガスムスが起き、またその操作が可能だという女、そうプログラムされている女である。
第三のタイプは、性交《セツクス》のときに必ずオルガスムスに達し、そのタイミングを操作することができるという女。
第四のタイプは、性交《セツクス》、マスターべーションなどいかなる状況でもオルガスムスに|達しない《ヽヽヽヽ》、オルガスムスなんて生まれてこのかた知らないという女である。どれもこれも、遺伝的にそうプログラムされているのである。
一方の端には指先がちょっと触れただけでも声をあげて反応するような、しかもオルガスムスを自由自在に操れるという女。もう一方の端には、体がウンともスンとも反応せず、男にとっては丸太か石でも抱いているような何とも味気ない女、というように女を四段階に分けているのである。
ベイカー&ベリスは男の繁殖戦略を、睾丸の大きさにより二つのタイプに分類した。睾丸の大きさが、いかに繁殖するかという戦略、つまり多くの女と頻繁に交わるが、パートナーの防衛は手薄であるという戦略、あるいは多くは交わらないがパートナーの防衛は万全であるという戦略──大きく分けて二種類の男の戦略と対応しているからである。
ではなぜ女を分類する際に、オルガスムスの起き方、起きやすさ、そして体の感じやすさなどというものを問題にするのだろう。
睾丸の大きさなら実にわかりやすい。睾丸は精子の製造場所である。その大きさは男の精子製造能力を反映しているのである。睾丸の大きい男は精子を多く製造する。彼はより多くの精子を必要とする戦略を備えているのだ。より頻繁に、より多くの女と性交《セツクス》する……。ところが女のオルガスムスはどうだろう。オルガスムスが女の繁殖戦略といったいどう関係するのだろうか。
しかしながらベイカー&ベリス自身が示したように、オルガスムスが起きるかどうか、そのタイミングがどうか、ということで女は受精の確率を上げることもできれば、下げることもできる。女にとってオルガスムスとは、あるいは体の感じやすさというものは、彼女が繁殖していくうえでの最も重要な武器となりうるのである。特に、どのような状況でもオルガスムスが起き、しかもそれを抑制することさえできるという女は、受精の調節が思うがままだろう。睾丸の大きい男と同じで、彼女は性と|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》のスペシャリストなのである。女にとってオルガスムスとは、性交《セツクス》や受精という状況で自分がイニシアティヴをとるための、最強にして最大の武器というわけなのだ。オルガスムスや体の感じやすさで女を分類するということには、こんな重大な意味が含まれているのである。ベイカーの目のつけどころはさすがという外はない。
実を言えばこの私も、女の繁殖戦略、女のタイプ分けについて考えたことがないわけではない。しかしそれはせいぜい「美人」か「普通の顔」かというくらいの分類で、女のオルガスムスの起こり方や体の感じやすさなどということまではとても思いもよらなかったのである。
ベイカーがこのような分類を思いついたのは、第一に彼がベリスと組み、大掛りな性の実態調査を行なったからだろう。その結果、女のオルガスムスが持つ驚くべき効能を知った。そしてさらには、このような思いつきには彼が男であることも大いに関係しているに違いない。
男が女を観察するとき、いったいどんなことに関心を寄せ、チェックするだろうか。確かに美人かどうかは大事な問題である。どの男も決して見逃したりはしない。ではそれがすべてかというと、そうではないだろう。男が女をまじまじと見つめるとき、彼の頭を駆けめぐる思いとは、たとえばこんなことだ。
(この女、清楚なイメージでまとめているけれど、ベッドへ誘ったらどうかな。大胆なプレイが好きだったりして……)
(この女、イケイケねえちゃんのように見えるけど、ベッドの上じゃあおとなしいかもしれないな。案外男を立てる古風な女だったりして……)
女の夜の行動、女の極秘の部分についての空想なのである。男はついこんなふうに無意識のうちに女を、それも他ならぬ性行動によって分類してしまう。ベイカーは男である。彼は女の繁殖戦略を考える際に、男の思考回路というものをかなり参考にしているのではないだろうか。
逆に女である私は、男の繁殖戦略を考える際に、自分自身が男を無意識のうちにどう分類しているかを考える。
女が男を観察するとき、まず第一に彼がカッコいいかどうかをチェックすることはもちろんである。カッコよくないとしても、話が面白かったり楽しい人でありさえすればまあ合格である。では、ある程度の基準をクリアーした男に対し、次は何をチェックするだろうか。私だったらこんな具合である。
(この人、うまいこと言って私をおだてるけれど、同じ調子で他にもいっぱい女を口説いているんじゃないだろうか)
(この人、随分気前よくおごってくれて羽振りもいい様子だけれど、本当はお金なんてちっとも持っていないんじゃないのかな)
無意識のうちに文科系男かバクチ男か、などという分類を下しているのである。いやひとつには、こういう無意識のうちの分類から私は男の繁殖戦略というものを考えついたのである。
無意識というと、何か頼りないもののように思ってしまいがちだが、そうではないのである。それは我々が過去の淘汰の結果として得た、もはやわざわざ意識したり、頭で考えたりして判断しなくてもよい確たる心の動き、そして行動の拠《よ》り所である。私が男を分類する際には女としての無意識を、ベイカーが女を分類する際には男としての無意識を(おそらく)利用している。無意識という極めて|信頼のおける《ヽヽヽヽヽヽ》心の動きを論拠にする点で我々は一致する。それは大いに期待の持てる方法論だと思うのである。
──閑話休題。とはいうもののベイカーの言う女の分類で、体が敏感な方の女についてはよくわかる。オルガスムスは女にとっての最大の武器だ。武器をうまく使いこなせることは、もうそれだけで有効な戦略と言えるだろう。とすれば問題は、体が丸太か石のように沈黙してしまう、ウンともスンとも反応しない方の女だ。まあ、そこまでいかなくても、体があまり反応せず、オルガスムスも滅多に起きないという女である。それがいったいどういう戦略になるというのか。
ベイカー&ベリスは睾丸の小さい男にも戦略的意味を見出した。そういう男はパートナー以外の女とあまり性交《セツクス》しないし、そもそもパートナーとも頻繁には性交《セツクス》しない。それというのも睾丸が小さく、精子の製造能力が高くないからで、もし|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起きたとしても勝ち目がないからである。その代わり彼はパートナーを厳しくガードする。防衛することで彼女の卵が、他の男の精子によって受精する可能性を弱めるのである。いや、そればかりか彼が他の女とあまり交わらないこと、妻が他の男とあまり交わらないことは、感染症に罹《かか》るというリスクを回避する。華々しく活動するだけが戦略ではないということなのである。
そうしてみると、ウンともスンとも反応しない女にも……、そういう女にだって何か戦略的意味があっていいわけである。それはどういうことだろう。反応しないことが戦略になるなんて……。
ベイカーによれば、それは、パートナーに性交《セツクス》の練習をさせない戦略なのだという。
性交《セツクス》の練習?
練習をさせない?
確かに人間は(いや、人間でなくとも哺乳類は皆そうなのだが)性の入口にある頃、特に男の側にはしばらくの練習期間が必要である。女と初めて向かい合い、その場で立派にやり遂げられる男なんてまず滅多にはいない。行動が遺伝的に完全にはプログラムされていないからだ。しかし何カ月の後には、何回、何十回の練習の後には誰でも立派に性交《セツクス》できるようになるのである。練習はそれで十分ではないだろうか。
ところがベイカーによれば、ただ性交《セツクス》ができればいいというものではないことになる。性交《セツクス》とは男と女の真剣勝負であり、特に女のオルガスムスのパターンなどは千差万別である。早々と「いっ」てしまう女もいれば、最後の最後になってようやく「いく」女、「いっ」たり「いか」なかったりする女、「いっ」たと見せかけて実は「いっ」ていない女、と様々である。そして女のオルガスムスのタイミングは時に受精という運命を左右するのだ。男としてはただ性交《セツクス》し、射精すればいいというものではないだろう。女のオルガスムスをいかに予測し、自分とのタイミングを計るか、女をいかに「いか」せるか、また「いか」せないか、ということが実は大変重要になってくるのである。そのためにはとにかく練習を積むことなのだ。
ウンともスンとも反応しない女とは、まず第一に、全く反応しないというまさにそのことで男に情報を与えない。情報を与えないということは、案外重要なことなのである。情報次第で男は次の一手を考えることが可能だ。
第二に、彼女はパートナーに性交《セツクス》の練習をさせない。反応しないのであるから、男は練習のしようがないのである。練習が十分でない男は、パートナーとの受精をめぐる駆け引きで、常に不利な立場に立たされてしまうだろう。それに男はひとたび練習でうまくなると、さっそくあちらこちらで実践し、受精に成功し、子を作ってしまうに違いない。これらの女は、男が外で子を作り、それがために自分や子に対する投資が減ることをも防ごうとしているわけである。
ベイカーは反応しない女という一見不可解な存在をこんなふうに説明しているのである。凝った考え方だが、なるほど世の中には不感症の女というのも随分いる(らしい)。とすれば「不感症」だって一つの立派な戦略とみることもできる。「不感症、不感症」と揶揄《やゆ》するけれどその前に、なぜ「不感症」の女が結構いるのか、その意義というものを、ぜひ我々は考えてみる必要があるのである。
森番の披露する女の分類とベイカーが主張する女の戦略。しかしなぜこうも似かよっているのだろうか。『チャタレイ夫人の恋人』はイギリスを代表する性愛小説である。同じくイギリス人であるベイカーが考えをまとめるにあたり、この古典を参考にしたとしても不思議はない。そうかもしれない、いや、そうに違いない、そうだとしたら傑作だ、などとつい想像は膨らんでしまうのである。
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第二講 浮気で生まれるのは 男の子、女の子?
地位の高い男には息子が生まれる! 天才トリヴァースの大予言
私の友人に、こういう人がいる。
彼女と私とは名古屋の予備校時代からの付きあいである。同じ大学の、彼女は文学部、私は理学部へと進学したが、やがて彼女は出版社への就職を決め、上京していった。私は大学院へ進学するというコースである。
「突然のことだけどお、今度結婚することになって……」と彼女が恥ずかしそうに知らせてきたのは就職してまだ二年目のことである。相手はかなり年上の音楽プロデューサーで、何でも彼のテーマは「アジア」であるという。
音楽プロデューサーといってもピン・キリで、税金だけでも一〇億納める小室某氏のような人もいれば、税金が還付されたり、そもそも税務署とは無縁であるという人もいる。その人は、どこをどう見たところで後者の方に属していたのである。当然のことながら彼女は仕事を続けた。
彼女が子どもを産んだのは、結婚後一年半くらいたったときのことだろうか。女の子であった。
子どもを抱えて働くなんて大変だろうなあ、とこちらは呑気に考えていた。保育園と会社との往復は彼女をひどく疲れさせているようにも思われた。だから長女がようやく離乳食を食べ始めたというその矢先に、またしても身籠もったという話を聞いたときには驚いた。驚きを越え、心底心配してしまったほどである。
やがて女の子が生まれてきた。これで女の子の年子ということになる。それからの彼女の奮闘ぶりといったら……、いや、言うまい。とにかく一家は今日元気で生き延びていることだけは確かだ。
しかしながら実を言えばこの彼女、娘二人の他にもう一人、大きく年の離れた末っ子を産んでいるのである。ところが世の中は実にうまくできていて、その子が生まれる頃には一家の経済状態は驚くべき変革を遂げていたのだ。何と、かのダンナにツキが回ってきたのである。世間がようやく彼に追いついたと言ってよい。彼のプロデュースするバンドは大手レコード会社と契約し、メンバーは航空会社や生命保険会社のテレビCMにも出演した。曲はCMとタイアップしており、当然のことながらヒットチャートにも登場。ダンナは一躍高収入の人となったのである。このとき生まれたのは男の子であった。
私は三人の子宝に恵まれたこの友人を、娘二人の後に息子一人を産んだ人、上の二人はともかくとして三人目は経済状態が良くなったのでもう一人ということで作った、それがたまたま男の子であっただけだ、と単純に考えていた。女の子ばかりにならなくてよかったね、などと。
しかしである。最近になって私はあれこれ勉強した。するとちょっと見方が変わってきたのである。あれはただの偶然ではなかったのかもしれない──。
そもそも人間も含めた、たいていの哺乳類ではオスとメスとはほぼ一対一の割合で生まれてくる。それは性染色体の問題からである。つまりオスの性染色体はXY、メスはXXという状態。減数分裂によってそれぞれ精子と卵ができるとき、精子にはXを持つX精子とYを持つY精子の二種類が同じ数だけできるが、卵はXを持つものしかできない。よって精子と卵が融合して受精が起きると、XYの受精卵とXXの受精卵とが同じ数だけできてくる。だからオスとメスとは同じ数だけ生まれてくるのだ、とつい単純に考えてしまいたくなる。だが実際には、そうではないのである。
メスはあらゆる手段を使ってオスとメスとを産み分けることが可能だ。たとえば卵をいくつかの精子が取り囲み、今まさに受精が起きようとしている瞬間を考えよう。もしメスが卵膜の性質を操作し、X精子とY精子の通過しやすさを変えることができるとする。そうすればオス、メスの産み分けはある程度のところまで可能である。
そうでなくてもこんな方法でもOKだ。精子が膣から子宮|頸部《けいぶ》、子宮、輸卵管へと旅するその過程で、X精子、Y精子のどちらか一方をより有利に通過させる環境をメス自身が提供する。卵にまで辿り着く精子はX精子、Y精子のどちらかに偏るだろう。事実、X精子とY精子とでは前者が酸性に、後者はアルカリ性に強いことがわかっている。このようなことから人間では膣内がアルカリ性に傾く時期には男の子が、酸性に傾く時期には女の子ができやすいという説がある。
受精の後にも操作は可能である。受精卵は子宮に着床しようとするが、その際、それがオスの受精卵であるか、メスの受精卵であるかによってふるいにかける。どちらかに有利に、どちらかに不利に計らうのである。着床してからも流産という手がある。望まない方の性をより流産しやすくするというわけだ。
こういう過程はすべて確率的なものであって、絶対にオスを産む、絶対にメスを産むという話ではないのだが、メスはこうしてある程度までの産み分けをすることが可能なのである。またそれは無意識のうちに、つまり遺伝的プログラムとメス自身の体調、周囲の環境などとの相互作用によってなされていることである。メス本人がどうこうしようと思ってやっているわけではないのだ。オスの側の調節、たとえば出来上がったX精子とY精子に対し、どちらかを選択的に殺すというような産み分け法もありえなくはない。が、オスは普通、産み分けには関わっていないと考えられている。
それにしても、こんなにも産み分けができるというのに……それでもやはりオスとメスとがほぼ一対一で生まれてくる。なぜだろうか。むしろこちらの現象の方が不思議に思えてきてしまうではないか。それは、たとえばこんなふうに説明されているのである。
今ここに何頭かのメスがいる。息子を産む遺伝的傾向が強いメスと娘を産む遺伝的傾向が強いメスとがそれぞれいるとする。前者の、息子を産みがちなメスの数が非常に少なく、後者の、娘を産みがちなメスが圧倒的に多いとしよう。次の世代にはどうなるだろうか。
おそらくそのような遺伝的傾向に従って子が生まれ、集団はオスが非常に少なく、メスが大変に多いという構成になるだろう。では、彼らが繁殖する時期が来たらどういうことになるのか。
オスは数が少ないのだから非常にモテるはずである。彼らはあちらのメス、こちらのメスと引っ張りダコである。こうしてオスは何頭ものメスに子を産ませ、彼の遺伝子を効率よく増やしていくことになるだろう。それは同時に彼の母親の持つ、息子を産みやすいという遺伝的傾向をも彼を介してよく増やすことになるのである。こうして集団の中に「息子を産む遺伝子」なるものが次第次第に増えていく。
しかしながらこの遺伝子も、増えるに従いその希少価値を失っていく。それは息子を産み育てたとしても、娘を産み育てたとしても見返りが同じであるという点、つまり生まれてくるオスとメスとの性比がほぼ一対一である所まで続くのである。これがもし、娘を産むという遺伝的傾向を持つメスが少なく、「娘を産む遺伝子」が少ないという状況から出発したとしても話は全く同じである。
オスとメスとがほぼ同じ数だけ生まれてくるのは偶然のなせる業ではない。それは息子を産みやすいか、それとも娘を産みやすいかという二つの相反する遺伝的傾向が争った結果、結局どちらの傾向にしたところで遺伝的損得勘定は同じである──そうして得られた釣り合いの点なのである。この説明はたとえばゾウアザラシのように、一頭のオスが何十頭ものメスを率い、巨大なハレムを作るような動物にさえも当てはまる。
一見したところこういう動物では、どうせオスは十中八九あぶれるのであるし、メスとしては娘を産んでおいた方がいい。その方がよほど得策であるように思われる。けれどもオスは当たれば大きいのである。確実に何頭かの子を産む娘を選ぶのか、それともたいていははずれるが、当たれば大きい、何十頭、いや、ときには何百頭もの子の父親になりうる息子を選ぶのか……。そうした賭けで最も効率よく子孫を残そうとするなら、これもやはりオス、メスを一対一で産むことなのである。何だか騙《だま》されたような気に私自身でさえなってきそうだが、どう検討したところでそういう理屈になっているのである。
とはいうものの、ここまでの話は集団全体を均一化して考えたとき、それもかなり長い目で見た場合の話である。個々のメスに条件の違いはないとしている。ところがこれを個々のメスの問題として捉える場合、つまり彼女の資質や彼女が今置かれている状況というものを考えに入れるとすると、話は随分違ってくるはずである。事と次第によってはどちらか一方の性を産んだ方が断然有利になる。事実メスは、ある程度のところまでなら産み分けをすることが可能なのだから。
こうした、事と次第によってメスはどちらか一方の性を産んだほうが有利になる、という現象について初めて理論的に考えたのはR・L・トリヴァースという天才的な動物行動学者である。トリヴァースは奇人としても有名な人だが、そのエピソードについてはさておくとして、彼が一九七〇年代に発表した「親子の争い」や「互恵的利他行動」、「罪の意識の進化」といった数々のアイディアは、いずれも彼ならではの発想のユニークさが光っている。リチャード・ドーキンスが一九七六年に『The Selfish Gene』(邦訳『利己的な遺伝子』日高敏隆他訳、紀伊國屋書店)を著すことができた背景にはこうしたトリヴァースの存在があったのである。トリヴァースは一九七三年、同じハーヴァード大学に所属する数学者のD・E・ウィラードと組み、後に「トリヴァース−ウィラードの仮説」と呼ばれるようになる理論を発表した。この仮説はそれから三〇年近くも経ているというのに、未《いま》だ議論を白熱させ続けているのである。
トリヴァース−ウィラードによれば、そもそも動物のオスというものはメスに比べて当たりはずれの差が大きい。何頭、何十頭ものメスに子を産ませるモテモテのオスがいる一方で、全く子を残せない、空振りのオスもいる。一方、メスは着実な戦略者で、まず間違いなく数頭の子を産むことができる。何十頭もの子を産むメスもいない代わりに、全く子を産まないというメスもまずいない。
とすれば、である。もしあるメスが、息子を産み、彼を育てるという投資をしたとして、その見返りが大いに期待できそうなとき、つまり彼がメスにモテモテで孫をたくさん作ってくれる当たりの大きいオスになりそうなら、そのときにはぜひ息子を産むべきではないだろうか。娘ではなく息子をだ。逆にそういう息子を望めそうにもない場合、そういうときにこそ確実な手である娘を産むべきだろう。
彼らはオスどうしが体の大きさや逞《たくま》しさを張り合い、時には実際に闘って決着をつけ、勝者がメスを獲得するような動物(哺乳類)を考える。体の大きい方が争いに有利であることはもちろんである。メスとしてはどう産み分けるべきだろう。
自分自身の体が大きかったり、良い縄張りを占めているなどして栄養が十分であったとする。すると体の大きい息子を産めそうであるから、ぜひとも息子を産むべきだろう。息子は大きく生まれるだけでなく、自分から十分な栄養を吸収し、さらに大きく成長していくこともできる。離乳してからもその影響は消えることはなく、結局彼は非常に体の大きいオスへと成長するだろう。そうしてメスをめぐるオスどうしの争いに勝利し、よく子を残す。つまり自分にとっての孫を残すことになるのである。もちろん大きな子を産み、なおかつそれを育てるにはそれ相応のコストがかかる。これは、コストに対する見返りがありそうならという話である。
体が小さかったり、縄張りの質があまり良くなくて栄養状態が芳しくないようなときには、息子を産むなどという愚を冒すべきではない。息子は小さく生まれるばかりではなく、自分から十分な栄養を受け取ることができず、あまりよく成長することができない。それは大人になっても変わらず、結局彼は一目見ただけでも実力のほどがわかる弱体の身である。オスどうしの争いでは戦わずして敗者となることもあるだろう。いくら貧弱なオスであっても、メスよりは体が大きい。息子を産み育てることにはただでさえコストがかかる。それなのにコストに対する見返りが望めないのではどうしようもないではないか。こういう場合にはぜひとも娘を産み、遺伝子の道を確保すべきなのである。
トリヴァース−ウィラードはシカやブタ、ミンク、ヒツジなどの例を挙げ、メスの状態が良く、子に十分な栄養を与えられるときには確かに彼女は息子をよく産む、悪いときには娘をよく産む傾向があることを示している。
アカシカでは流産するか、子が生まれたもののすぐに死んでしまった、あるいはそもそも子を受胎しなかったりして前の年に子を育てあげていないメスは、その年には息子をよく産む。子に乳を吸われなかっただけに栄養十分の状態にあるからである。
妊娠中のメスブタにストレスを与えると、一腹の構成がオスよりもメスが多い状態になる。ミンクやヒツジでは一腹の子の数が多いほど、生まれてくる子にメスの割合が大きい。メスがいつ、どのようにしてそんな調整をするのかはわからないが、前者では自身の栄養状態が悪く、後者ではたとえ自身の栄養状態が良くても一頭の子に行き渡る栄養が少なく、いずれにしてもオスよりもメスを産む方が手堅くなってくるからである。それにハイイロアザラシやウエッデルアザラシではこんなことがわかっている。
出産シーズンの初めの頃の、まだ自分の栄養状態の良い時期にはメスは息子を多く産む。ところが、季節が進み状態が悪化してくると、今度は娘の方をよく産むようになる。たとえばハイイロアザラシの場合、出産シーズンを一四日ずつ四つに分けるとすると、最初の期間にはメスに対するオスの出生の比は一・三九とかなりオスに偏っている。次の期間には一・一一と少し偏りが小さくなり、その次の期間には一・〇〇と、ちょうどオス、メス等しく生まれてくる。そして最後の期間には〇・七四と非常にメスに偏ってしまうのである。出産の時期を見越し、どちらの性を産むべきかと調整しているようである。
こういう議論は実を言えば人間にも、ある程度のところまで当てはまっている。人間は男が互いに体の大きさを比べたり、格闘の結果、勝った方が女を獲得するというような動物ではないが、確かに体が大きいのは男の魅力である。
母親の妊娠前後や妊娠中の栄養状態が良いときには息子が、悪いときには娘が生まれる傾向にある。さらにシングルマザーは娘を産みやすいというデータもある。男からの援助が難しいときには何かと物質的に不自由する。なるほど娘を産む方が無難かもしれない。女が双子を産む場合──それはミンクやヒツジの例と同じで一腹子≠フ数が多いという意味である──一人当たりの栄養ということを考えると、やはり娘を産む方がいいだろう。事実、人間では双子で生まれてくるときには、一人で生まれてくるときに比べて男が少ない傾向にあるのである。
そしてこのような議論の応用編として、トリヴァースとウィラードはとうとう人間の社会経済的地位にまで言及する。それら地位と男女の産み分けとの相関を考えるのである。
地位の高い男は物質的に恵まれている。もし女が地位の高い男とつがったら、彼女はぜひ息子を産むべきだろう。地位の低い男を夫にしたなら、今度は息子を産むのはよした方がいいかもしれない。その場合には手堅い駒である娘を産むべきだろう……。もちろんこのような議論は絶対に息子を産む、絶対に娘を産むという話ではないのである。
トリヴァースらのこの予見を、最近になって検証した人がいる。ドイツのU・ミュラーという人類遺伝学者は「名士録」(Who's Who)に着目した。「名士録」には名士自身や妻(名士が女である場合には夫)とともに子どもについての情報も載っていて、息子が何人で娘が何人であるかが一目瞭然にわかる。
彼はまず、アメリカの「名士録」の代表である『American Who's Who』に注目し、一八六〇年から一九三九年までに生まれた名士(男)一〇一四人について調べてみた。するとそれらの人々の子どもの総計は、息子が一一八〇人で娘が一〇六四人だった。男女の比、つまり性比は一・一〇九である。同時代のアメリカに生まれた子どもの出生時の性比は一・〇六であり、そのことからするとこれはかなり息子の側に偏っている(性比は常に女の数に対する男の数の比として表される。このように比の値そのものの場合もあれば、一〇〇をかけて一〇六などと表されることもある。また出生時の性比は一・〇六など、一ではなく常に少し男寄りになっている。それは一生を通じて男の方が女より死にやすいからであり、子を作る年齢に達する頃には男女の比はちょうど一対一になる。というより、そうなるように受精するのであり生まれてくるのである。胎児の間にも男の方が死にやすく、受胎時の性比は一・〇六よりももっと男寄りになっている)。
一・〇六と一・一〇九ならたいした違いはないじゃないかと思われるかもしれない。これが大いに違うのである。これらの値を統計的に処理すると、一・一〇九という値が標準である一・〇六から|これほど《ヽヽヽヽ》ずれているという現象は、もしそれが偶然によるものだとすると二〇〇回に一回もないくらい稀なことなのである。何か強力な要因があるからこそ性比は男の方に偏っているのだ。それにそもそも基準になっている一・〇六という値は、子どもが生まれてくるときの性比である。一方、「名士録」に載っているのはある程度まで成長した子であり、幼いときに亡くなってしまった子については省かれているだろう。しかも男の方が女よりも乳幼児期や成長期に、そして大人になってからもだが、死にやすいという傾向がある。とすればなおさら名士には男の子がよく生まれていることになるだろう。地位の高い男には、いや実際には女が地位の高い男とつがうと、彼女は息子を産みやすいということなのである。
ミュラーは続いてドイツの「名士録」についても調べている。一八三〇年から一九三九年の間に生まれたドイツの名士(男)一七五七人の子どもは総計で息子が一四七三人、娘が一二九四人。性比は一・一三八で同時期のドイツの出生性比である一・〇五一二と比べてやはり息子に偏っている。しかもアメリカのデータよりも傾向が著しいのである。
名士は、息子については正しく公表するけれど、娘については時々省略してしまうかもしれない、それに婚姻外に息子ができた場合、それを正夫人との間の子として登録するかもしれない、だから名士には息子が多いような結果が出てしまう……。ミュラーはむろんそういう可能性もあるだろうと考え、検討した。しかしどうもそういうことはないとの結論を得たのである。名士にはやはり息子が多いと言って間違いないようである(ミュラーの研究については『ネイチャー』三六三巻、四九〇ページ、一九九三年参照)。
私の友人はダンナに収入のない、貧窮時代に娘二人を産んでいる。結婚はしていても彼女は事実上のシングルマザーだったのである。一方、ダンナに収入が、それもちょっと自慢できるくらいの収入が舞い込むようになって息子を産んだ。ダンナはまさに名士≠ノ変身したのである。それはただの偶然だったのか、それともセオリーどおりだったのか……?
愛人は息子を産む!? オス、メス格差のある組み合わせ
私の単なる思い過ごしかもしれないが、ちょっと気になることがある。いや、これは本当に、そういう気がするというだけのことで何の証拠もなければデータもない。ちゃんと調べてみたら全然違うという結果だって出てくるかもしれない。……でも気になる。
世の中の「愛人」と呼ばれるような女には、どうも娘より息子が生まれることが多い。一方、本妻の方にはそれに比べれば息子が生まれることが少ない──そんな気がしてならないのである。
東京目白に本宅を構え、そこから二キロメートルあまりの距離にある神楽坂に別宅を持った某元首相は、本宅に娘一人であったのに対し、別宅には息子二人を儲《もう》けていた。
二股ソケットや自転車用ランプの考案に始まり、次々新製品を開発、町工場を世界的な家電メーカーにまで育てあげた、さる経営の神様は大阪の本宅に娘一人であるのに対し、東京の別宅には息子三人、娘一人である。
それに大分前だけれど、テレビのワイドショーを賑《にぎ》わせた、ある有名服飾デザイナーの御曹司は、正式な結婚の前にある女性との間に一男を儲けている。彼はすったもんだの末に女優と結婚したが、この女優さんが懐妊したという情報を聞いたとき、私は「きっと女の子だ。いや絶対女の子のはずだ! 女の子が生まれますように……」と念じた。はたして生まれてきたのは女の子であった。
とこのように、本妻に比べると愛人にはなぜか息子がよく生まれるような気がするのである。
愛人は何も、政界や財界の男に限った存在ではない。学問の世界にももちろん愛人を持つ男は登場する。
私は哲学のようなお堅い学問はさっぱり理解することができず、哲学と聞いただけでも悪寒が走るほどだが、あるとき人に勧められてピーター・シンガーの『ヘーゲル入門』(島崎隆訳、青木書店)を読んでみることにした。シンガーが『動物の権利』や『動物の解放』といった、実験動物の悲劇について世に問う書物を著していることが、ひとつ読んでみるか、という気になった理由である。
ページをめくって私は驚いた。お堅いどころではないのである。シンガーは無類のジョーク好きの人物で、文章は軽妙洒脱、少しも肩が凝るようなことはない。さらにはこの本の各章の最後には練習問題が付いていて、中にこんな傑作なものを発見した。
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ヘーゲルには隠し子がいました。つぎの思想家のうち、ヘーゲル同様に隠し子がいたことが知られているのは誰でしょう?
(1)カント (2)マルクス (3)キルケゴール
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おわかりだろうか。正解は(2)のマルクスである。
いかに思想家とはいえ、人の子。愛人の一人や二人、隠し子の五人や一〇人いたところで私は少しも驚かぬのだが、これを私より少し年上の、いわゆる全共闘世代の人に見せたところ、彼はひどくうろたえた。よほどのショックであったらしい。
ヘーゲルは、ドイツ(プロシア)はイエナ大学の員外教授だった独身時代に、下宿の女主人であるC・C・J・ブルクハルトとの間に子を生《な》した。男の子である。この女主人というのが大変な人で、不仲であったとはいえ夫がおり、一女を儲けているというのに次々男を誘い、子を産んでいる。ヘーゲルは彼女の第何番目かの愛人だったというわけである。彼はやがて学者として大成するが、正式な結婚では息子二人と娘一人を得ている(娘は早世)。
ヘーゲルが下宿の女主人なら、マルクスは家政婦である。マルクスの一家はロンドンで大変な困窮生活を強いられていたというが、どういうわけだか使用人がおり、その家政婦ヘレーネ・デムートとの間に彼は息子を一人儲けている。それもあろうことか妻のイェニーが、金の工面のためにオランダに住むマルクスのオジのもとへ訪ねていった、その留守中の出来事によるものだ。彼は妻との間には二男四女を儲けているのである(うち二男一女を貧窮のために亡くす)。
いやはやそれにしても、愛人には息子ができやすいという法則をどうやら私は見出したような気がするのである。
そりゃそうだろうさ。愛人の相手の男は地位が高いし、経済的にも豊かだろうから彼女の栄養状態は十分だ。体の大きい息子を産むことができる。息子は体の大きいことで女にモテモテで……とトリヴァース−ウィラード流に考えれば、愛人は息子を産むべきなのさ、という意見もあるだろう。でもそれはちょっと違うのである。もしトリヴァース−ウィラード流に考えるのなら、愛人よりも本妻の方がむしろ息子を産むことになるだろう。本妻は愛人よりもリッチであるのが普通である。愛人の方が本妻よりもリッチだ、などということはまず滅多にないだろうから。
奥さんがいたっていい、この人の子を産みたいと女が思うとしたら、それは男によほどの魅力があるからではないだろうか。魅力の内容は様々で、地位の高いことや金持ちであることはもちろんだが、何か特別な才能を持っているとかルックスがいい、それに単に女に優しいとか話が面白いというだけのことかもしれない。今例に挙げた愛人を持つ男たちは、いずれも有名人なのでたまたま地位も高いという男が多くなってしまったが、地位はなくとも魅力がある、そして愛人を持つという男は世の中には意外と多いはずである。要はその男の息子を産んだとしたら、彼の魅力を受け継いだ魅力のある息子を得ることができる。息子は女にモテモテで大いに孫を作ってくれる。女が本当に欲しがっているのは彼の子というよりも、魅力の元となっている遺伝子なのだ。その遺伝子が本領を発揮するとしたら、子は娘ではなく息子でなくてはならない……。女が愛人という多少不利な立場においてさえ子を産むとしたら、それはぜひ息子でなくてはならないのである(もっとも、それは男がある程度まで生活の面倒を見てくれるような場合の話であり、もっと悪い状況、つまりシングルマザー状態では例の栄養状態という問題から娘を産む方がいいということになるかもしれない。とはいえ現代の日本でシングルマザーだからといって、子に十分な栄養が行き渡らないなどということはほとんどないだろうが)。
トリヴァース−ウィラードの仮説は残念ながらこの、相手の遺伝子をいかに取り入れるかという観点に欠けている。それはトリヴァースに落ち度があるのではなく、仮説が発表された一九七三年という時期的な問題である。
E・O・ウィルソンが大著『社会生物学』を完成させたのが一九七五年、R・ドーキンスが『利己的な遺伝子』を著したのは一九七六年である。遺伝子という観点はようやくその頃から強調されるようになった。トリヴァースはあまりにも早い時期に、あまりにもぶっ飛んだアイディアを思いついたのである。メスが自分の状態に応じて産み分けをすると主張するだけでも凄い。メスがオスの優れた遺伝子をいかに取り入れるか、という観点が登場してきたのは──今となっては信じ難いことだが──それからさらに何年もたってからなのである。
メスが相手のオスの魅力次第で息子を多く産み、あるいは娘を多く産む、という現象を初めて実験的に示したのはナンシー・バーリーという動物行動学者である。私は『そんなバカな!』(文春文庫)の中で、女の排卵がなぜ本人にすらわからないように隠蔽《いんぺい》されているかという問題に、女は夫や姑など、そもそも周囲からの圧力により本人が産みたいと思う以上の数の子を産まされている。もし排卵をはっきり自覚できる女がいたなら彼女はそのことによりバース・コントロールをし始め、あまり子を産まなくなるだろう。しかしそれは排卵を自覚できるという遺伝的性質を次代に伝えにくい結果となる。結局女は排卵を自覚できる性質を身につけなかったのだ、という仮説を唱えた人物として既に紹介している。
バーリーの研究は、研究の醍醐味とは一つにはこういうところにあると思うのだが、実に思わぬところに端を発している。
そもそも一九七八年のことである。彼女はキンカチョウという、ペットとして人気があり、実験動物としてもよく使われる小鳥を四〇羽ほど業者から購入した。大型のケージに放ち、半野生状態で飼育することにした。実験や観察用の鳥の常として、彼らは個体識別用の足環を付けられている。赤やピンクやグリーンなど七色のプラスチック製の足環を、しかもいくつか組み合わせて付けるのである。そうして五カ月ほどが過ぎたときのことである。彼女は不思議な現象が起きていることに気がついた。
赤やピンクの足環を付けた個体はそのほとんどが相手を見つけ、繁殖も既に済ませていた。ところがグリーンの足環を付けた者たちはまだ大半が繁殖していなかったのである。どうやら足環の色には魅力を増すものと、そうでないものとがあるらしい。
グリーンの足環を付けており、ケージに放してから七カ月以上たってもまだ繁殖できずにいるオスは五羽いた。そこで彼女は一計を案ずる。このモテない君≠スちのうちの三羽に対し、グリーンの足環をはずし、代わりにモテる色である赤の足環を付けるという大変身を遂げさせたのである。残る二羽は現状のままとした。
すると……やはり、であった。かつてはモテなかったが、今やモテる色を身につけたオスたちはたちまちのうちにモテ始めた。二カ月かそこらのうちに三羽とも相手を見つけ、繁殖に成功したのである。片やモテない色のままの二羽の状況は、依然として好転しなかった。
キンカチョウはオーストラリア原産の小鳥である。体重はスズメの半分ほどしかない。オスは鮮やかな赤いクチバシを持ち、頬《ほほ》には大きな茶色のパッチ模様がある。背は灰色、脇腹は白い点々の混じった茶色の羽で被われ、腹はオフホワイトである。喉から胸へかけては細かな、尾にはそれよりは大柄の白黒の縞模様がある。ゼブラフィンチというこの鳥の英名は、オスにある胸の縞模様に由来しているという。
メスはオスに比べれば全体的に地味である。クチバシはオレンジ色で、オスと同様に尾には白黒の縞模様があるものの、胸にはない。それ以外にはどこと言って特徴がなく、全体的に背は灰色で腹はオフホワイトである。ただオス、メスともに足はオレンジ色である。体の大きさに雌雄の差はほとんどない。
キンカチョウは一夫一妻の鳥である。オスとメスとは一度つがったら一生相手を替えようとしない。巣作り、抱卵、ヒナへのエサやり、とすべて協力して行なう夫婦の鑑《かがみ》のような鳥だが、彼らも所詮は鳥である。ご多分にもれず|EPC《ウワキ》をする。
足環の色の持つ魅力に気がついたバーリーは、いよいよ本格的な実験に取りかかることにした。はたしてどういう色が魅力のある色で、どういう色が魅力のない色なのか。それにはオスとメスとで違いがあるのだろうか。そして魅力のある色、ない色とは彼らにとってどういう意味を持つのか……。
詳しく知るために、彼女はこんな装置を作成した。それはこうした、鳥が異性に対して示す関心の度合いなどを測る実験でよく登場するタイプのものである。
まず真ん中に六五×六五×五五センチメートルの大きな四角い箱がある。それは四方向に伸びるアーム(小さな箱、三〇×三五×四〇センチメートル)を卍《まんじ》の形になるように接続させており、中心の箱からアームへ、アームから箱へと鳥の出入りは自由である。アームには止まり木が二本備えつけられている。さらにこの四つのアームには、アームと同じサイズの鳥カゴがそれぞれ接続できるようになっている。但しアームと鳥カゴの間は出入り不可能である。中央の大きな箱にはテスト用の鳥が一羽、各アームに接続する鳥カゴにはテスト用の鳥とは違う性の鳥がそれぞれ一羽ずつ、計四羽入れられる。テスト用の鳥がオスならばメスが、テスト用の鳥がメスならばオスが入れられるのである。テスト用の鳥はカラー足環を付けていないが、彼(彼女)を取り囲み、彼(彼女)による好みを試される四羽は、対照用《コントロール》のために足環を付けていない一羽を除き、各々が違う色の足環を付けている。
さてテスト用の鳥は中央の箱にいる限り、四羽の声を聞くことはできても姿は見ることはできない。彼(彼女)が四つのアームのうちのどれか一つに入り、止まり木に止まって初めて相手の姿を見ることができる仕掛けになっている。彼(彼女)がどの色の足環の鳥にご執心であるか、どの色の足環の鳥にはあまり関心がないかは一定の観察時間のうちの行動によって測られる。止まり木に止まり、じっと特定の相手を見つめている時間、それにオスならば二本ある止まり木をあっちこっちと行き来しながら求愛のダンスを踊ったり、歌を歌ったりもする、それらの時間の合計として判断された。足環の色の他にも、本人の持つ魅力や実験装置内でどの位置(方角)にいるか、という問題ももちろん発生する(鳥にとって方角というのは、巣に戻るためや渡りをするための大変重要な手掛りであり、影響が出る恐れがある)。そういう影響が出ないよう各人の足環の色を変え(そのうちの一回は足環なしの状態)、位置も変えるというローテーションを組んで実験は行なわれている。
そうしてわかったのは、メスは赤い足環のオスに最も惹かれ、青やグリーンの足環のオスにはほとんど興味を示さない、オレンジは中庸だということである。一方、オスは黒とピンクの足環のメスに惹かれる。しかしそれ以外はメスの場合と同じで青やグリーンを好まず、オレンジは中庸というものである。
これら好まれる色、好まれない色とはいったいどういう意味を持つのだろう。
バーリーによればまず、メスがオスの足環の色として最も好む赤という色は、何を隠そうオスのクチバシの色なのである。オスにとってはクチバシがいかに赤く、鮮やかであるかが一つの大きな魅力となっている(それは彼がたとえば回虫、ギョウ虫、ダニなどの寄生虫にやられていない健康体である、ということの確たる証《あかし》になっているからなのだが、詳しくは第三講で説明する)。その魅力をクチバシだけでなく、何と足にも備えた普通ではありえないオスを、これまた普通ではないくらいにメスが好むというわけである。
メスのクチバシの色はオレンジである。ではオレンジの足環を付けたメスがモテるかというと残念ながらそうはならない。彼らの足の色はオスもメスもオレンジで、オレンジの足環を付けても別段魅力に変化はないのである。実際、オレンジに対してはオスもメスも、好きでも嫌いでもない中庸の好みを示している。
メスが付けるとオスに人気の出る黒とピンクという色だが、ピンクについてはよくわからないものの、少なくとも黒については一応の説明がついている。
黒とは実はこの鳥が成熟する前の、つまり幼鳥の頃のクチバシの色なのである。幼いふりをしてオスの父《ヽ》性本能をくすぐる……人間の女がしばしば男に対して用いるテクニックだが、そんな効果が、もしかしたらこの鳥にもあるのだろうか。いや、黒は何と言ってもこの鳥にとってのオシャレのポイントだ。オスでは胸と尾に、メスでは尾だけだが、それぞれ白黒の縞模様がある。そういったことも黒い足環のメスがオスに好まれる理由になっているかもしれない。
オスにもメスにも人気のない青とグリーンだが、バーリーによればそれはまず、この鳥の体のどこを探してもそれらの色が見つからないということにある。青やグリーンは少なくともこの鳥にとっての魅力とはなっていないのである。しかしそればかりではなかった。
彼らが避けたり、嫌ったりするこれらの色のうち特に青は、実を言えば彼らに非常に近縁なカノコスズメ(ダブルバーフィンチ)という鳥のクチバシの色である(正確には青みがかった銀色)。にっくきライバルの、それも鳥にとって体の中で最も肝心な箇所とも言えるクチバシの色なのだ。こうした色に対する好き嫌いの傾向の違いが(特にメスの方の傾向が)、かつて二つの鳥を種として分化させる力になったのだろう、とバーリーは考えているのである。
こうして異性に対するオス、メスそれぞれの好みの色、好みでない色がわかった。しかしそれは研究のまだほんの序の口の段階に過ぎない。バーリーが行なった次なる実験はこんな大掛りで徹底したものだ。
足環の色の違いによる魅力のあるオス、中庸のオス、魅力のないオスという三種類のオスを用意する。メスの方も、同じく足環の色によって魅力のあるメス、中庸のメス、魅力のないメスという三種類を用意し、彼らに自由に相手を選ばせるのである。おそらく魅力のあるオスvs.魅力のあるメス、中庸のオスvs.魅力のあるメス、魅力のないオスvs.中庸のメス……などというようにいろいろな組み合わせでカップルが誕生するだろう。彼らの繁殖の結果はどうなるだろうか。オスのモテる色はもちろん赤である。中庸の色はオレンジ、そしてモテない色としてはグリーンが採用された。メスのモテる色は黒、中庸はオレンジ、モテない色としては青が選ばれた。
三色の足環のオスをそれぞれ一〇羽ずつ計三〇羽、メスもそれぞれ一〇羽ずつ計三〇羽、オス、メス合わせて六〇羽ものキンカチョウが大きなケージに放たれた。ケージの大きさは八×五×二メートル、中にはエサや水はもちろんのこと、巣作りや子育てのできる環境が十二分なほどに整えられている。
やがて足環の色のすべての組み合わせでカップルが誕生し、次々とヒナがかえった。無事大人にまで成長したヒナは計一二五羽に達した。これらの子について、親の魅力の度合いの組み合わせと彼らがどういう性比で生まれているかという関係を調べてみる。すると驚くべき結果が現れたのである。
魅力のあるオス(赤)が中庸のメス(オレンジ)とつがうと、合計でオス二一羽に対し、メス一四羽の子が得られた。オスの方がかなり多い勘定である。ところがこれが、魅力のあるオス(赤)と魅力のないメス(青)という大変格の違いがある組み合わせになると驚くべき結果となる。オス九羽に対し、メスは二羽と性比は強力にオスに偏ってしまうのである(これは偶然ではなく、統計的に見てもオスに偏っていると言うことができる)。さらには魅力のあるオス(赤)が魅力のあるメス(黒)とつがうというレヴェルの揃った組み合わせになると、オス五羽に対し、メス六羽と性比の偏りはほとんどなくなるのである。
魅力のあるメス(黒)が中庸のオス(オレンジ)とつがうと、合計でオス五羽、メス三羽の子が得られた。オスの方が多いとは言え、これだけでは何とも言えないような結果である。ところがこれが魅力のあるメス(黒)と魅力のないオス(グリーン)という格差のある組み合わせになると、オス一羽に対し、メス八羽とはっきりメスに偏ってしまう。魅力のある方に引っ張られるのである。魅力のあるメス(黒)と魅力のあるオス(赤)の組み合わせは既に述べた通りで、オス五羽、メス六羽、と性比に偏りはないのである。
中庸のオス(オレンジ)と中庸のメス(オレンジ)という組み合わせではオス四羽、メス四羽、魅力のないオス(グリーン)と魅力のないメス(青)ではオス一羽、メス一羽で、オスとメスとに格差のないときには、いずれの場合にも見事なくらいに偏りはなかった。中庸のオス(オレンジ)と魅力のないメス(青)の組み合わせではオス九羽、メス六羽、魅力のないオス(グリーン)と中庸のメス(オレンジ)の組み合わせではオス一三羽、メス一三羽であった。ただ、キンカチョウも鳥である以上、大なり小なり|EPC《ウワキ》をしている。だからメスについてはともかく、オスについては巣の中のヒナのすべてが自分の子というわけではない。ここに挙げた数値とオス、メスそれぞれの組み合わせによる実際の子の数と性比との間には少しズレがあるはずである。
しかし、ともあれこうしてみると、どうやら一つの法則が見出されてくるようである。
キンカチョウの子は親の魅力の度合いに応じ、たとえば父親がより魅力的ならばオスに偏って、母親がより魅力的ならばメスに偏って、しかも両親の魅力の格差が大きければ大きいほど、魅力のある方の性に偏って子どもが得られる。もし親の魅力の度合いが揃っているならば、それが高いレヴェルでの揃い方であれ、低いレヴェルでの揃い方であれ、オス、メスどちらにも偏らないように生まれてくる──そういう法則である。
親のどちらかにより魅力がある場合、たとえばオスの方に魅力がある場合、子は息子を儲ける方が断然有利である。魅力の元となっている遺伝子は、もし受け継がれるとしたらそれはオスであってこそ真価を発揮するものだからだ。これが魅力のある方の親がメスであっても理屈は同じである。魅力の元となる遺伝子はメスであってこそ真価を発揮する……。そして両親の魅力のレヴェルが同じくらいの場合には、オス、メスどちらを産んでも事態にあまり変わりはないだろう。両親ともに魅力のあるときに、オスを産んだとしてもメスを産んだとしても、それはそれぞれに利得がある。両親ともに中くらいの魅力であるのなら、これまたどちらを産んでも同じであろう。そして両親ともに魅力に欠けるのなら、これはもうどうしようもない。もはややけくそ。オス、メスどちらを産んでも同じことなのである。
魅力のある子はよく子を残す。親にとっての孫を残すのである。ただ魅力があるのが娘ではなく息子である方が効果は如実に現れてくるだろう。次講で詳しく説明するが、|EPC《ウワキ》で成功するのは常に魅力のあるオスで、妻が寝取られやすいのは常に魅力のないオスなのである。
しかしいったいこの鳥は、いつどのようにして子の性比を調節しているのだろう。バーリーはちょっと怖いことを考えている。それは産むまでの段階ではなく、産んでからだというのである。生まれてきたヒナの顔ぶれを見て、
「お父さんがあんなにカッコいいんだから、断然息子の方が大事。娘に用はないわね」
などと望まない方の性のヒナを差別し、いじめ、ついには衰弱させて死に至らしめるのだという。
そういうことが現実に起きているであろう根拠として彼女は、巣立ち直前のヒナについて、巣ごとのヒナの性比の偏りを考える。オスの方にであれ、メスの方にであれ、とにかく性がどちらか一方に非常に偏っている巣がある。そういう巣であればあるほどヒナがそれまでによく死んでいるのである。つまりそれは、親がいじめて殺したということなのだろう。
こういう操作はある程度育ってからというのでは遅い。それまでの投資がムダになってしまう。そこで親としてはなるべく早い段階で子の性別を判断し、措置を施そうとするのだが、ヒナにしてみれば親の都合で殺されるなどたまったものではない。当然対抗策を打ち出している。オス、メスの特徴が体や行動の違いとして現れないように注意しているのである(もちろんそれは遺伝的プログラムによってである)。
殺される側であるヒナほどには事態は深刻でないものの、親もヒナの性別を見抜こうと必死である。彼らの鳴き声の、オスとメスとのわずかな違いから見抜こうとしたりする。こうした親と子の争いは、追いつ追われつの競争として進化の世界では常に起きていることなのである。
そうしてみると逆に、こんなことが考えられるかもしれない。鳥の他にもオスとメスとの区別が、彼らが相当に育ってからでもわかりにくい動物がいる。たとえばパンダやゴリラだ。上野動物園で誕生したパンダが何年もたったうえでないと性別がわからなかったり、あるいはある動物園で飼育されていた|メス《ヽヽ》ゴリラが、あるときオスの行動を示して一同びっくり仰天。詳しく調べたところオスと判明、急遽オスの名に改名させられたという話もある。彼らにもやはりこの、親などによる子殺しや虐待の可能性がありはしないだろうか。性別がはっきりわかってしまうとたちまち殺されたり、虐待されたりする。だから子が防衛の手段として性別をわかりにくくしている……。
バーリーの研究は、残念ながら自然界で起きている現象を扱ってはいない。プラスチックの足環という人工の品によって魅力を増し、また減らすという実験である。その点を怪しいと言えば、確かに怪しい。それにキンカチョウ自体を見てみると美しくて派手なのはオスの方だけで、メスは全体的に地味である。オスの魅力という問題はよいとしても、メスの魅力は現実にはあまり関係がないのかもしれない。ただこの研究は、相手や自分の魅力というものが、子の産み分けの問題にいかに関わってくるのかを実に端的に示している。そこに意義があるのである。キンカチョウはオス、メスの体の大きさに差がなく、件の、メスの栄養状態によって産むべき性が違ってくるという問題はない。オスには社会的地位や財力云々という問題もありえないのである。
キンカチョウのこの実験を見てみると、人間社会の愛人がなぜよく息子を産むのかという問題を(もちろんそれは私の印象としてそうだというだけの話である)、今一度考え直させられるような気がする。
愛人はまず相手の男の魅力というものをよく評価しており、彼の魅力の元となっている遺伝子を取り入れたいと思っている。それが彼女の主たる目的である。遺伝子の真価を発揮させるためにはぜひとも息子を産むべきだ。具体的な産み分けの方法についてはともかく、それが愛人が息子を産みやすいことの第一の理由となるだろう。しかしここで敢えて第二の理由を考えるとする。それはこういうことであるかもしれない。
キンカチョウの場合、オスが特によく生まれるのは魅力のあるオスvs.中庸のメス、魅力のあるオスvs.魅力のないメスという組み合わせである。後者の、オス、メスの魅力により格差があるときほど、より多くの割合でオスが生まれた。オスにとってもメスにとっても、それが自分の遺伝子を最もよく残す道だからである。これを人間の男と愛人の関係に対応づけることはできないものか。いや愛人に魅力がないというのではない。愛人は本妻よりもむしろ魅力があるくらいだ。しかし男に対する立場の強さ、序列ということを考えると愛人は本妻よりも格下と言わざるを得ないだろう。男との格差によって愛人は息子を産む……? そういう解釈が、もしかしたら成り立ちはしないだろうか。愛人は本妻に対して引け目を感じる、あるいは逆に、なんの本妻になんか負けていられるかと発奮する。そんな感情面の問題が内分泌系(ホルモン系)にか神経系にか、とにかく肉体面に働きかけ、息子をよく産むという結果に至るのかもしれない。それが彼女にとっても、相手の男にとってみても、遺伝子のコピーを増やす最も優れた方法であることは言うまでもないのである。
私がここでさらに思い出すのは、件の「名士録」の話である。名士の妻が息子を産みやすいのは、確かに栄養状態云々ということもあるだろう。ただそれ以上に大きいのは、夫に魅力があること、つまり地位や財力や、あるいはそれらを勝ち得た能力という魅力があることだろう。
名士の妻が、確かに地位や財力という夫の魅力をもとに息子をよく産んでいるらしいことは、たとえば満足な教育も受けていないのに一代で財を成したような実業家の例を見てみるとはっきりする。ミュラーの研究では、一七八九年から一九二五年までの間に生まれ、一代で財を成したイギリスの有名な実業家一一七九人が話題となる。彼らの一代記を手掛りに息子の数と娘の数とを割り出すと、総計で息子一七八九人に対し、娘は一五二二人であった。性比は一・一七五四。これがいかに凄い値であるかは、もはやご理解いただけるだろう。
女は男の地位や財力という魅力を感じ取り、子を産み分ける。その際一代で財を成した男というように、能力がよりはっきりと証明されるような場合にはより頻繁に息子を産むのである。産み分けがどのような仕組みによっているかはわからないが、男の自信に満ちた態度や野心のありよう、エネルギッシュな発言や行動……それら男の放つ、男の匂いのようなものが(それこそ本当にフェロモン?)何らかの形で女に働きかけるのかもしれない。
それにしても残念なのは「名士録」が、名士の愛人とその子どもたちについて何ら情報を載せないことである。「名士録」にもし婚姻外の子も平等≠ノ載っていたなら、それは息子、息子、息子の大行進になる! はずなのだが……。
「楽園の鳥」の驚異の産み分け 裕福な家の娘≠ヘなかなか嫁に行かない
息子を産むか、娘を産むか……それが問題だ。
体の大きい息子が産めそうな栄養状態にあるならば、息子を産む。体の大きい息子はメス(女)にモテる。息子を介してたくさんの孫が得られるだろう。そうでないのなら手堅い駒である娘を産む……。
いや、体の大きさはあまり関係がない。問題は相手と自分、そのどちらにより魅力があるかということなのだ。相手のオスが滅茶苦茶カッコよければ彼の資質を受け継いだ、やはり滅茶苦茶カッコいい息子を得る。そして息子を介してたくさんの孫を得る。相手のオスがあまりカッコよくないのなら、彼の資質を受け継いだカッコよくない息子は産まない方がいいだろう。その場合には万事無難な娘を産むべきだ。
娘は多少器量が劣っていたとしても、そんなことはたいした問題ではないのである。器量の劣る娘を持った親、あるいは本人は我が娘、我が身の不幸を嘆き、時に自分たちには未来はないかのような思いに捉われるだろう。だが心配はないのである。メス(女)には子を産むことができるという最終兵器が備わっている。兵器が機能する限り、引き合いがないということはない。選り好みさえしなければ、文句さえ言わなければ、彼女があぶれ、一生嫁に行けないなどということはないのである。
それにまた娘にはこんな利点もある。女は男と違い、自分で産んだ子は絶対に自分の子である。パートナーの|EPC《ウワキ》の結果の子を騙されて育てさせられる、などというリスクはない。娘とはそういう意味でも手堅い存在なのである。
ともあれこれまで見てきた産み分けについての問題は、母親本人の栄養状態、相手や自分の魅力や資質というあくまで個人に関わるものである。メス(女)はそれらの事情と相談しつつ、産む。ところがその一方で、個人の問題と直接には関わらず、それでいて産み分けに関わる問題というものも存在する。
息子であるにせよ娘であるにせよ、どちらか一方が、十分に大人になったというのにまだ親の縄張りに留まる。そういう性質をある動物が持っているとする。たとえばよく留まる方の性がメスであるとする。そのとき彼女が親の次の子どもたちの子育てを手伝うとしたら、それは親にとって大変結構なことだろう。彼女は子へエサを運んでくれるだけでなく、縄張りを防衛したり、捕食者から子を守ってくれたりもする。しかし逆に、単に縄張りに留まるだけで何も手伝わず、食っちゃ寝しているとか、仮に親の手伝いをするにしてもそもそも食料不足であったりし、彼女が自分や次の子どもたちの食い扶持《ぶち》を奪ってしまう、結局は子育ての邪魔になるだけということだってあるだろう。
娘が留まることが親にとって好都合であるのなら、メスは大いに娘を産むべきだろう。娘が留まることが邪魔になるのであれば、メスはなるべく娘を産まず、さっさと縄張りから出ていってくれる息子の方を産むべきだ。留まるのが娘ではなく、息子であっても話は同じである。
動物行動学では前者のような、先に生まれた子が次に生まれた子の子育てを手伝ってくれる──つまりヘルパーとなる──など親にとって好都合な状況を、局所的資源拡充(Local Resource Enhancement, LRE)、後者のような、それらの子がエサを巡って自分たちと争うなど親にとって都合の悪い状況を、局所的資源競争(Local Resource Competition, LRC)と呼んでいる。留まる方の性がどちらであるか、それにLRE(局所的資源拡充)が起きているか、LRC(局所的資源競争)が起きているかによってメスとしては産むべき性が変わってくる。動物の産み分けには本人の問題の外に、こうした縄張りの経済に関する問題も時に影響を及ぼすことがあるのである。
LREの例としては、むろんいくつかの鳥や哺乳類などに見られるヘルパーが挙げられる。片やLRCの例としてはオオガラゴが有名だ。オオガラゴは霊長類の中でも原始的とされる原猿類に属している。縄張りを構えるのはメスの方である。樹液や果実、昆虫を主食とする彼らは、そこに樹液の出る木、花が咲き昆虫が集まる茂みを確保している。メスとしては、もし娘を産むとすると彼女は縄張りを出ていかず、食料をめぐり母娘で争うかっこうとなる。そこでなるべく息子を産み、争うことがないようにするのである。オオガラゴでは驚いたことに全体の六〜七割もの個体がオスであるという。
ところがこれから紹介するセイシェルヨシキリという鳥は、あるときにはLREを、またあるときにはLRCを、というようにコロコロ変わる状況を経験している。LREとLRCについて研究するには実にもってこいなのだ。しかも彼らはそれぞれの状況を、信じられないくらいに鮮やかな産み分けにより、時に利用し、時に回避してしまうのである。
セイシェルヨシキリは、オスの方がメスよりも若干体が大きいとはいえ、体重一五グラムほどの小鳥である。スズメよりもなお小さい。オオヨシキリなどと同様にオスもメスも地味な姿をしている。
彼らはインド洋の西のはずれ、アフリカ大陸から東へ一五〇〇キロメートル、マダガスカル島からは北東へ一〇〇〇キロメートルほどの、ほぼ赤道直下の島、セイシェル諸島にしかすんでいない。それもかつては九〇、いや一〇〇とも一一〇とも言われる数の島々の中でクーザン島(Cousin Is.)と呼ばれる小島にしか棲息していなかった。一九五九年には島全体でも二六羽しかいないという危機的な状況に陥ったことがあるのである。しかしそこで立ち上がったのが、当時まだセイシェルを植民地としていたイギリスで、ICBP(International Council for Bird Preservation,現在の名称は Bird Life International)と呼ばれる自然保護団体が島自体を買い取り、彼らの保護に努めることにした。その効果はてきめんで、一九七〇年には約五〇羽に、七二年は約九〇羽にまで増えた。そして七三年には二〇〇羽を超えるという驚くべき増加を示したのである。が、同時に彼らの間にはついにヘルパーが現れるに至った。
ヘルパーとは自身に繁殖の能力が備わり、既に十分に大人になっているにも拘らず、親の縄張りを去ろうとせず、親が次の子、つまり自分にとっての弟や妹を育てるのを手伝うという個体のことである。自身の子と弟や妹とは遺伝的な近さについては同じ(血縁度1/2)で、そう振る舞うのは決して損なことではない。ヘルパーは鳥や哺乳類のいくつかの種で見られ、どちらの性がヘルパーになるかは動物ごとにだいたい決まっている。それにハチやアリのワーカー(働きバチ、働きアリ)も一種のヘルパーである。
ワーカーはすべてメスだが、鳥や哺乳類の場合とは違い、自らの繁殖能力を失っている。生涯にわたりヘルパーとしての生活を送るのだが、ではそれは損なことかというと全くそうではない。それどころかむしろその方が、彼女たちにとって遺伝子のコピーをよく残す結果となるのである。それはハチやアリの性が、染色体を倍数体(2n)で持つか、半数体《n》で持つかによってそれぞれメスとオスとに決まってくることに秘密があるのだが……ともかく詳しいことは拙著『そんなバカな!』(文春文庫)を参照していただくことにしよう。
ヘルパーが現れることが知られる鳥で、若い、ヘルパーになりやすい方の性の個体なら、いつ、いかなるときにもそうなるか、というとそうでもない。彼らは縄張りにまだ空きのあるようなときには、ならない。親の縄張りに留まるよりも自分で縄張りを見つけ、繁殖する道を選ぶからである。とはいえ、縄張りに空きがあってもそれが親のものより質が悪く、行ってもしようがないようなときには留まる。しばらくヘルパーとして活動し、あわよくば親の後釜に収まろうと機会を窺《うかが》っているのである。クーザン島でヘルパーが現れたということは、この島におけるこの鳥の縄張りがそろそろ飽和状態に近づいた、特に良い縄張りはそのほとんどが占拠されたということを意味しているのである。
一九八二年頃には縄張りは完全に飽和し、鳥の個体数もその後は三〇〇羽くらいで横ばいするようになった。そこで一九八八年、この貴重な鳥の数を少しでも増やそうと、六組の夫婦を含む合計で二九個体の移住が決行されたのである。クーザン島から北へ九キロメートルのアリデ島(Aride Is.)という島へボートで移された。アリデ島も自然保護区である。一九九〇年にも同様に二九個体が、今度はクーザン島の南西わずか一・六キロメートルの小島であるクージーヌ島(Cousine Is.)へ移された。クージーヌ島は私有地である。一・六キロメートルしか離れていないこの島に、それまでなぜこの鳥が飛んで行かなかったのかと少々不思議に思えるが、ともあれこれら二つの島に移住することで各々の鳥の身の上には、大きな変化が訪れた。特に縄張りの経済状態に関しては重大な変化が発生した。それは後の研究で大いに役立つこととなったのである。
それにしてもセイシェルヨシキリという鳥は、本当に何から何まで不思議、不思議に取り囲まれて生きている。
何が不思議かと言うと、まず第一に多くは年に一回しか繁殖せず(これは別段不思議なことではない)、そのときたいてい、一個しか卵を産まないということである。彼らの婚姻形態は一夫一妻で、時にヘルパーがいる。ヘルパーは二羽、三羽いることもある。ところが卵はたった一個なのだ。つまりたった一個の卵、ないしはヒナに対し、大人が最低でも二羽、多いときには四羽、五羽と寄ってたかって世話をするのである。そんなことは、してもムダではないかと思いたくなるのだが、そうでもないらしい。ヘルパーが何羽かいる繁殖のユニットからヘルパーを取り除くという実験が行なわれたところ、確かにヒナが巣立つ前によく死んだり、一年後まで生き延びられなくなったりした。
セイシェルヨシキリが年に一個しか卵を産まないのは、何も彼らの繁殖力が弱いということではない。それが彼らにとっての戦略なのである。
これらの島には天敵となるようなヘビやイタチ、猛禽《もうきん》類がいない。ヒナにとってはわずかにセイシェルベニノジコというハタオリドリ類の鳥(セイシェルフォディ、現地では「トクトク」と呼ばれる)とトカゲ二種が脅威となるだけである。大人に至ってはもはや敵なしという状態だ。大洋に孤立した島々であるために伝染病の心配もない。インド洋に発生するサイクロンも、この島を襲撃することはまずないのだという。温暖な気候のおかげでエサとなる昆虫も多い、と結構ずくめなのである。そういったいくつかの好条件に恵まれてこの鳥は多くの、生まれては次々死んでいってしまうような鳥とは大分様子が違っている。卵が孵化し、ヒナが巣立ち、次の年まで生き延びる確率が非常に高い。場合によっては一〇〇パーセントという結果すら出ているのだ。大人の生き延びる確率も高く、当然のことながら長寿である。このように恵まれ、安定した条件の下で動物は、量より質の戦略をとることが知られている。なるほど産めば確実に育つのであるから、無闇に産まない方が賢明なのである。こういう量より質の戦略を動物行動学ではK戦略と呼んでいる。
一方、伝染病が蔓延《まんえん》していたり、天候、気候が不順で、エサの量が多いかと思えば逆に不足したりで、いつ何が起こるかわからない不安定な条件の下では、動物は質より量で勝負する。子やヒナが死ぬことを想定し、あらかじめたくさん産んでおくのである。それに条件が良ければ良いで、そのチャンスを逃さないためにもたくさん産んでおくべきだろう。こういう質より量の戦略はr戦略と呼ばれている。
r戦略が明日をも知れぬ、波乱の人生≠ニ裏腹であるのなら、K戦略は常におっとりとした、平和な人生≠ニともにある。実際、天敵もおらず、伝染病やサイクロン襲来の心配もないセイシェル諸島は鳥にとっての楽園である。中でもセイシェルヨシキリがかつては世界でもここにしか棲息していなかったクーザン島は、特に鳥の宝庫とされている。二九ヘクタールというから東京ドームの六個分くらいの広さである。そんな面積しかないこの島に実に二五万羽以上もの様々な鳥がすんでいるという。とはいえ、天敵がいないことや伝染病がないことは人間にとっても同様で、その美しい自然と相まってこれらの島々は「最後の楽園」、「インド洋の真珠」などと評されているのである。
セイシェル諸島は元々は人の住まない島だったらしい。七〜八世紀頃からアラビア人が航海の途中に立ち寄って水や食料を補給したり、インド洋の海賊の基地となったり、あるいは一六世紀になるとポルトガル人のあのバスコ・ダ・ガマがセイシェルの南西に位置する島を発見し、記録に残したりした。が、本格的に人間が入植し始めるのは一八世紀になってからである。まずフランスの探検隊が入り、調査を始めた。やがて既にフランス領だった、セイシェルの南二〇〇〇キロメートルのモーリシャス諸島から黒人奴隷が連れて来られたり、本国から移住する者があったりで人が住み始め、一七五〇年代には実質的にフランス領となった。セイシェルの名は当時のフランスの蔵相の名に由来しているという。
ところがこれらの島々に、やはりと言うべきかイギリスが目を付ける。一八世紀末になると英仏の激しい争奪戦が繰り広げられ、結局一九世紀初頭にはイギリスが正式に領土としてしまった。こういう歴史的ないきさつがあって住民は様々である。アフリカ系あり、フランス系あり、あるいはイギリス系、あるいはポリネシア系、インド系、そしてそれらが混血し、もはや何系とも言い難いこともある。Cousin 島の Cousin をカズンと読まず、クーザンとフランス風に発音したりするのもこの歴史のゆえである。
セイシェルを、おそらく公式に初めて「楽園」と評したのは、イギリスの将軍C・G・ゴードンだろう。彼は一八八一年、軍事測量のためにこの地に赴いた。セイシェル諸島の中でも二番目に大きい島であるプララン島の、「巨人の谷」と呼ばれる場所を訪れた彼はよほど心動かされるものがあったらしい。この地こそが旧約聖書に登場する「エデンの園」であるという珍説を唱えたのである。その根拠は、世界でもこの谷とセイシェルのもう一カ所にしか自生していない双子ヤシの実……つまりその特徴ある形にあるらしい。
双子ヤシの実は、その名の通り普通のヤシの実が二つくっついたような形をしているが、それがちょうど女のふくよかなお尻のようである。ところが中にはくっついたその割れ目から何やら怪しい蔓のような、茎のようなものがニョキと一本、伸び出ているものがあるのである。そこで将軍にはハタと閃《ひらめ》くところがあったのだろう。これぞ「禁断の果実」である! 従って「巨人の谷」こそが「エデンの園」なのだ、と。ちなみに元々セイシェルヨシキリがすんでいるクーザン島、移住によってすむようになったアリデ島、クージーヌ島はいずれもエデンの園≠フあるプララン島の沖合い数キロメートルの島である。
──閑話休題。そのセイシェルヨシキリだが、不思議なことはまだこれからである。それは卵を一個しか産まないことと少し関係がある。一個しか産まない卵を、百発百中とまではいかないにしろ、百発八五中というくらいの確かさでオス、メスの産み分けをするのである。そんな見事な産み分けをする鳥は、セイシェルヨシキリをおいてまだ他には知られていない。一九八五年から一〇年以上にもわたってこの鳥の研究を続けているJ・コムデューは、まずこの鳥本来の棲息地であるクーザン島で観察を行なった。
すると、どうやらヘルパーがいない夫婦は、息子を産むこともあれば娘を産むこともあるようである。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、ちょっと違う。息子を産むか娘を産むかは、それぞれの夫婦の縄張りの質と重大な関わりがあるのである。
エサの少ない、質の低い縄張りの夫婦はたいていの場合息子を産む。エサの豊富な、質の高い縄張りの夫婦はたいていは娘を産む。そして中くらいの質の縄張りの夫婦はといえば、息子と娘半々くらいの割合で産むのである。縄張りの質は、エサとなる昆虫がどれほどいるかということを調べ、それを基準にして割り出している。
実を言えばこの鳥でヘルパーとなるのは、たいていの場合メスである。質の低い縄張りでは仮にヘルパーがいたとすると、その食い扶持のために食料不足に陥る恐れがあるだろう(LRC、局所的資源競争)。となればヘルパーになる可能性が少なく、たいていは縄張りから出て行ってくれる息子を産むべきだ。一方、質の高い縄張りでは食料不足の心配はないのであるし、まずはヘルパー要員を作っておく。そうして次の子を確実に育て上げるための布石とする(LRE、局所的資源拡充)。よって質の高い縄張りではヘルパーになる可能性の高い、娘を産むべきなのだ。そして中くらいの質の縄張りでは、ヘルパーを作るかどうかについて、どちらを選んでも大差ないことになる。息子と娘、どちらを産んでも構わないのである。
実際、一九九三年から九五年にかけての三シーズンにコムデューが観察した、ヘルパーのいない夫婦についてみると、質の低い縄張りに生まれたヒナ五七羽は、うち四四羽が|オス《ヽヽ》(七七・二パーセント)だった。一方、質の高い縄張りの場合には三二羽中二八羽が|メス《ヽヽ》(八七・五パーセント)。中くらいの質の縄張りの場合には二七羽中一四羽が|オス《ヽヽ》(五一・九パーセント)と見事に産み分けられていたのである。
一九九五年には彼は、ヘルパーが既に一羽いる夫婦ついて観察した。するとヘルパーがいない夫婦の場合と同じような傾向が見出される。縄張りの質が低い場合には、もちろんそれ以上ヘルパーが増えては困るから息子を産む(ヒナ一〇羽中八羽がオス)。縄張りの質が高い場合には、もう一羽くらいヘルパーがいた方が何かと助かるだろうし、食料にもまだ余裕があるからと娘を産む(ヒナ一五羽中一四羽がメス)。そして縄張りの質が中くらいの場合には、ヘルパーがもう一羽いても、いなくてもどちらでもよいということになり、どちらの性にも偏らず子を産んだのである(ヒナ一二羽中五羽がオス)。
さらにこの年に彼は、ヘルパーが二羽、あるいはそれ以上いる夫婦についても観察している。さて、どうなっているのか。
縄張りの質が低い場合には、むろんそれ以上ヘルパーを増やすことなどもっての外であり、当然のことながら息子を産む。ヒナ五羽中四羽がオスであった(しかし縄張りの質が低いのに、そもそもなぜヘルパーを二羽も持つに至ったのだろう。それにこの期に及んでまたヘルパー要員である娘を産む親がいるのはなぜだろうと疑問は尽きないのであるが)。
縄張りの質が高い場合にはどうだろうか。またヘルパー用として娘を産むのであろうか。
ところが質の高い縄張りのヒナ一三羽中一一羽がオスであった。今度は完全に息子に偏っている。つまり、いかに質の高い縄張りとはいっても、収容できる人員には限りがある。このうえヘルパーが増えるとなると、そろそろ食料不足の状況が発生することになるだろう。それにヘルパーが三羽か、それ以上になったとしたら、両親も含め五羽以上の大人が一個の卵、あるいは一羽のヒナに対して世話をすることになる。船頭多くして何とやらで、かえって能率の悪い状態に陥るだろう。大人が寄ってたかって卵を暖めようとした挙句、卵が壊れてしまうことだってあるかもしれない。ヘルパーを増やすのはここらでやめ、息子を産んだ方がよさそうであると彼らは判断したのである。
質の高い縄張りにおいてさえ、もはや娘を産むことをやめ、息子を産む方に戦略を切り換えている。いわんや中くらいの縄張りにおいてをや、である。実際、中くらいの質の縄張りのヒナ六羽のうち四羽がオスだった(とはいうものの、まだこのうえに娘を産む夫婦もいるわけだが)。
つまり、こうしてみてくると、セイシェルヨシキリの卵の産み方には一つの法則が存在する模様なのである。
彼らはまず縄張りの質によって次に産む子の性を決める。同時にそれは既にいるヘルパーの数に応じても調節する──。
コムデューはこの「法則」を確かめるべく二つの実験を行なった。
第一は、何組かの夫婦を質の違う縄張りに移住させてみるというものである。縄張りの質が変わると彼らは産み方を変えるだろうか。
実を言えば、この法則を確かめるために移住を行なったというわけではない。一九八〇年代後半、クーザン島のこの鳥の個体数はすっかり飽和状態にまで到達した。そこで八八年にアリデ島に、九〇年にはクージーヌ島にいずれも二九個体が移された。彼はこの重大なチャンスを逃さなかった。移住の前後数年間の彼らの子の産み方を記録しておき、それを後にデータとして活かしたのである。
クーザン島にいるときに質の低い縄張りにすんでいた四組の夫婦は、いずれも移住先で今度は質の高い縄張りを占めることに成功した。彼らは突如としてリッチな夫婦に変身したのである。貧しかった頃、彼らはむろんのこと圧倒的によく息子を産んでいた。しかしリッチになった今、どうだろう。
たとえばある夫婦などは、貧しかった頃の数年間には息子を六羽産んだのに対し、娘は一羽も産んでいなかった。ところがリッチになると、今度は息子を全く産まない代わりに娘ばかり一二羽も産むようになったのである。別の夫婦は貧しい頃に息子六羽に対し、娘一羽だった。リッチになると息子二羽に対し、娘を九羽産んだ。また別の夫婦は貧しい頃に息子四羽、娘は全く産まずという状態だったのに、リッチになると息子二羽、娘五羽という具合に、いずれも娘をよく産むよう戦略を変化させたのである。
クーザン島にいたときに質の高い縄張りにすんでおり、移住してからも質の高い縄張りを占めることのできた三組の夫婦は、戦略を切り換えることはなかった。いずれの場合も娘をよく産んだのである。ある夫婦はクーザン島にいる間に息子一羽と娘四羽を産んでいた。移住先でも傾向は同じで息子一羽に対し、娘二羽である。別の夫婦の場合も同様に息子二羽、娘六羽だったのが、息子一羽、娘八羽といった具合である。
こうしてまずセイシェルヨシキリは、縄張りの質によってどちらの性の子を産むかを決めること、そのために性の調節をしているということがわかったのである。こうはっきりとした傾向が現れているのに、まさか産み分けはしていないという結論にはならないだろうが、念のために統計的な検討が加えられるとやはり彼らはちゃんと産み分けをしていることがわかった。
もう一つの、既にいるヘルパーの数によって子を産み分けるという問題だが、こちらは実際にヘルパーを取り除くという実験によって確かめられた。ヘルパーを取り除くと次に彼らはどう振る舞うだろうか。取り除かれたヘルパーを補うかのように子を産むのか、それとも取り除かれたこととは無関係に産むのか……。
クーザン島で質の高い縄張りを構えていた、ある六組の夫婦はいずれもヘルパーを二羽抱え、繁殖していた。彼らがある年に産んだ合計六羽のヒナはすべてオスだった。まさに「法則」通りである。いかに質の高い縄張りとはいえ、それ以上ヘルパーを増やすわけにはいかず、またその必要もないというわけだろう。そこでコムデューは一九九〇年のクージーヌ島への移住の機会を利用し、実験を試みた。彼ら夫婦から二羽いるヘルパーのうちの一羽をそれぞれ取り除き、それらを移民@pのボートに乗せたのである。
突然のうちにヘルパー一羽を失った≠アれらリッチな夫婦は、おそらく相当なショックを受けたに違いない。が、彼らはすぐに気を取り直し、次の繁殖に臨んだ。そしてコムデューの期待通りの振る舞いを示してくれたのである。
六組の夫婦が産んだのは合計でオス一羽に対し、メス五羽だった。つまり、ほとんどの場合、失ったヘルパーを補充すべく、ヘルパー要員である娘を産んだのである。念のために同じくヘルパーを一羽だけ持つ、クーザン島の質の高い縄張りの夫婦六組を対照群《コントロール》として調べてみると、驚いたことにと言うべきか、当然と言うべきか全く同じ産み方をしていた。オス一羽に対し、メス五羽なのである。
こうしてセイシェルヨシキリは、今いるヘルパーの数に応じても子を産み分けていることが証明された。縄張りの質とヘルパーの数──二つの事柄と相談しつつ、自由自在に子を産み分けているようである。言うまでもないことだが、質の高い縄張りであるにしろ質の低い縄張りであるにしろ、彼らがその場その場で使い分けている戦略は、それぞれがそれぞれに優れた方法である。その状況で自分の遺伝子のコピーを最大限に残すための手段である。質の低い縄張りだから将来は先細りである、質の高い縄張りだから子孫繁栄、お家は安泰、などと簡単に決めつけられるものでもないのである。
鳥のヒナはオス、メスの特徴に欠け、ちょっと見ただけでは性別の判定はできない。ヒナの性別をいかにして研究者が判定しているかだが、それはこんな方法である。
孵化して数日後のヒナの翼の血管からほんのちょっぴり血液を抜き取らせてもらい、DNAを調べる。鳥のメスにはオスにはないDNA配列があり、その有無によって判定するのである。さらに万全を期すために、彼らが成長してから示す性行動によっても確認している。
それにしてもこの鳥は、どうしてこんなに見事な産み分けをすることができるのだろう。これが受精卵やヒナの、性別による死亡率の違いなどという確率的な方法によるものではないことはもちろんである。そんな生やさしい方法で、こうはっきりとした現象が引き起こされるとは思えない。そもそもこの鳥においては、ヒナは滅多に死ぬことはないのである。彼らの産み分けはヒナの発育や孵化や抱卵以前の段階、要は卵の受精の段階でなされている、と考えるより外はなさそうだ。どうやって受精を調節するのだろうか。
我々哺乳類の性染色体はオス(男)がXY、メス(女)がXXという状態である。メス(女)が受精を調節しようとするのなら、たとえば一つの方法として生殖器を遡《さかのぼ》ってくる精子に対し選択をかける。つまり、受精したらオス(男)ができることになるY精子と、メス(女)ができることになるX精子のどちらかには有利な、どちらかには不利な環境なり条件なりを作り、オス、メス(男女)の産み分けをするというのがせいぜいだろう。それは多分に確率的な問題である。
ところが鳥の場合は事情が違っている。鳥の性染色体はオスがXX、メスがXYという状態で、哺乳類とは逆の関係にある(鳥ではX、Yとは呼ばず、Z、Wと呼ぶこともある)。実はここに秘密がある。性の決定権は精子ではなく、卵の側にあるのだ。メスがもし、自分の体内にある、次の受精のチャンスを待つ卵についてそれがXを持つ卵であるか、Yを持つ卵であるかを識別し、産む順序、そしてそもそも産むかどうかを調節する。それさえ可能なら、産み分けは思うがままなのである。セイシェルヨシキリはその技術を既に遺伝的に確立したということだろうか。
私はここでキンカチョウの研究を思い出してしまう。キンカチョウも鳥である以上、メスは卵の受精の段階で、ある程度のところまでなら性の調節ができるはずである。バーリーはヒナの性比の偏りは親のいじめによるものだと言っているが、それだけだろうか。産む前に調節できるのならそれに越したことはないのである。彼女はこのセイシェルヨシキリの研究などを見て、「なるほど、そうか」などと思っているかもしれない。
とにもかくにもまだその全貌を明らかにしていない、不思議な不思議なセイシェルヨシキリなのである。
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第三講 女の浮気には深いわけがある
浮気をするほど美しい 選んでいるのはいつも女
鳥の図鑑をパラパラめくりながら眺めていると、つくづく変だなあと思うことがある。
オスが目を見張るばかりに美しい鳥がいる。いや、ド派手と言っていいくらいだ。赤や黄色や緑の羽、変わった飾り羽や長く伸びた尾羽《おばね》……。これでもかこれでもかと装飾の限りを尽くしている。ところがメスの方はといえば、たいていはうす茶色や灰色。飾り羽や尾羽もオスほどには発達していない。デカデカと載っているオスの隅っこに、「メス」とわざわざ注釈つきでスペースを分けてもらっているくらいである。
どうしてだろう?
メスが地味であるのは、しかしよくわかる。そもそも鳥というものは、我々を喜ばせ、目を楽しませるために生まれてくるわけではないのである。彼らにとって大切なことは、まず第一に捕食者に見つからないよう生き延びること。そのためにはひたすら背景に溶け込むような地味な色、姿形を身につけることなのである。メスの姿が地味なのは、ひたすら我が身を守らんがためということになるだろう。
そうすると、問題はオスである。あの美しさ、あの派手さ加減にどう説明をつければよいのだろう。中には何でここまでと首をかしげたくなるようなものさえいるのである。
南米にすむあるハチドリなどは、オスは胸や腹に金属のように輝く緑の羽を持っている。尾羽は長く伸びて、そればかりか先の方にはテニスのラケットのような膨らみさえ加わる。しかも足はオレンジ色の羽が被い、まるでオレンジ色のブーツでも履いているかのような風体に見えるのである(実際このハチドリは booted racket-tail と呼ばれている)。
しかし壮麗にして豪華、邪を祓《はら》い、復活や再生の象徴としても崇められる、美の頂点を極める鳥と言えばクジャク(インドクジャク)である。オスが尾羽を広げた姿にはウットリとすると同時に、ゴージャスすぎて何だか目まいを起こしそうである。実際、全部で一四〇から一六〇個もあるというあの目玉模様は少しゆがんだ同心円である。それはメスに軽い催眠作用を引き起こすのだという。
そんなにも美しく、派手で、いったいどうしようというのだろう。捕食者の餌食となるのが落ちかもしれない美しさ、派手さに何故《なにゆえ》オスはこだわり続けるのだろう?
美しく派手なオスをメスが好み、交尾相手として選んでいる──そう考えたのはチャールズ・ダーウィンである。
なるほど、そうだ。いくら捕食者の目を逃れることができ、生き延びることができたとしても、メスに選ばれないのではなんにもならない。自分の遺伝子を次代に残すことができないのだ。それはただ生きてきただけの人生≠ニいうことになるだろう。なぜ美しく派手なオスなのか、ということは実は一つの大変大きなテーマなのだが、理由についてはさておくとする。メスは美しく派手なオス、より美しくて派手なオスというように古来飽くことなく選び続けている。それゆえオスは、時に「何でそこまで」と言いたくなるくらいに美しく、派手に進化してしまった。これからも美を追求し続けていくに違いないのである(とはいえ生存していくうえでの不利がメスに選ばれることの利益を上回るようなことになったら、その追求は止まるかもしれない)。
ところがダーウィンは、メスが本当にオスを選んでいるのか、というところまでは確かめることはできなかった。それどころかこの、メスがオスを選ぶという考え方は、貞淑と慎みを女の最大の美徳とするヴィクトリア時代のイギリスにあっては言語道断、大変な不評を買うこととなってしまったのである。彼はクジャクの尾羽を見るたびに、あの目玉模様のせいもあるだろう、気持ちが悪くなるのを抑えることができなかったという。
メスが美しく派手なオスを選ぶということが、ようやく確かめられたのは、ダーウィンの没後一〇〇年以上たった一九八〇年代のことである。アフリカの東部にすみ、繁殖期になるとオスの尾羽がやたら伸びるコクホウジャクという鳥で、そしてツバメでもメスがオスを選んでいることが示された。ところがこのいずれもがオスの尾羽を切ったり貼ったりして人工的に尾羽の長いオス、短いオスを作り、メスに選ばせるという実験である。人の手を加えない状態で本当に彼女たちが尾羽の長いオスを選んでいるのか、ということまではわからない。自然状態で確かにメスは美しく派手なオスを選んでいるという証拠は、他ならぬクジャクにおいて初めて示された。
クジャク(インドクジャク)はインドからスリランカにかけての森や林にすんでいる。体の大きさ(尾羽の先まで)は繁殖期のオスで二メートル以上、メスでも八五センチ〜一メートルくらいある。メスは全体的に灰褐色で地味だが、オスは頭、そして喉から胸にかけて光沢のある鮮やかな青色の羽で被われている。尾羽は周知の通りの絢爛《けんらん》豪華さで、緑色の地に中心が青、それを緑、オレンジ、黄色が取り囲む目玉模様が百数十個も配されている。しかしこの立派な尾羽は繁殖期だけのものである。その他の時期にはすっかり抜け落ち、オスはメス同様の地味な姿に変わってしまうのだ。
繁殖期になり、立派な尾羽で身仕度《みじたく》を整えたオスは、まずは求愛のための縄張りを確保する。それは茂みや木や、何か壁のようなもので囲まれた直径三メートルくらいの空き地である。オスはまさにそのステージ≠フ上で求愛のダンスを披露する。ちなみにロンドンの街中《まちなか》にあるリージェント・パークに放し飼いにされていたあるオスのクジャクなどは、公園の野外劇場のステージをちゃっかり自分のものとした。彼は我が物顔でステージの上を徘徊したという。
メスは簡単には誘いに乗らない。人間の女の子と同じで何羽かで連れだって行動し、あのオス、このオスと疲れも見せずに見て回る。このとき彼女らが「あのオスはカッコいいけど、このオスはダメね」、「あら、こっちのオスだって素敵よ」などとペチャクチャおしゃべりしているかどうかは知らない。そして最終的には気に入った一羽のオスと交尾する。当然のことながら、人気のあるオス、ないオスという格差が生じ、多くのメスと交尾できるオスもいれば、全くできないオスもいる。事実上、一夫多妻の婚姻形態なのである。メスは巣作りから子育てに至るまでオスの助けを借りることはない。
さて一九八〇年代後半のことである。イギリスのM・ペトリーらは、ベッドフォード州にあるフィップスネイド自然公園で飼われているクジャクについて研究した。ここには一八〇羽近いクジャクが放し飼いにされ、彼らは野生に近い状態で暮らしている。繁殖の際、メスは|本当に《ヽヽヽ》オスを選んでいるのだろうか、選ぶとしたらその基準とは、いったいどういうところにあるのだろう。
春になり繁殖シーズンが近づくと、公園内のあちらこちらにはレックと呼ばれる集団求愛の場が発生する。何羽かのオスが集まって群れをなし、レックの中にはさらに、それぞれのオスが確保する求愛のためのステージがある。ある年には全部で五カ所のレックが形成された。ペトリーらはそのうちの一つで、一〇羽のオスが集まるあるレックに的を絞り、観察した。
メスがやって来るとオスはいそいそとステージに現れ、得意の求愛ダンスを披露し始める。まず、メスを背にしながらゆっくりと彼女に近づいていく。このとき身を震わせ、カサカサという音を立てて尾羽を震わせながら持ち上げて広げていく。こうしないとせっかくの目玉模様が均一に現れず、全部見せることができなかったりもするのだ(この尾羽と呼ばれている部分だが、正確なところを言えば尾羽ではなく、腰のあたりにある上尾筒《じようびとう》と言われる羽が発達したものである。本当の尾羽はこの尾羽≠フ後ろにあり、尾羽≠広げたときにそれを支える役目を持っている)。
尾羽を完全に広げたオスは、今度はパッと身を翻し、正面からの図をメスに見せつける。最初から表を見せず、まず目玉模様の見えない裏を見せる、それから正面を見せるというパフォーマンスが心憎い。
それはそうと今はなきイギリスのロックグループ「クイーン」の日本公演のヴィデオを見ていたら、こんなシーンがあった。
フィナーレでヴォーカルのフレディ・マーキュリーが、英国国旗であるユニオン・ジャックの大判のものを背負って登場する。体の垂直のライン、旗をつかむために斜め上へ伸ばした腕のライン、そしてしっかと両側へ開いた脚のラインがユニオン・ジャックの放射状のラインと一致して素晴らしい。彼はそれだけでもやんやの喝采を浴びるが、頃合いを見計らうとパッと身を翻し、今度は背中の側を見せる。そこには日の丸が……。会場が失神しそうなくらいの興奮に包まれることはもちろんである。クジャクの演出はフレディ・マーキュリーのセンスにも通ずる……。いや、それどころか本当は彼らの方がずっとずっと元祖である。芸やパフォーマンスの起源とはこういうところにあるのかもしれない。
オスの熱演に対し、メスの反応はいたって冷淡である。彼女はそ知らぬふりをしてさっさと次のオスへと視点を変えてしまう。
オスは一〇メートル間隔くらいにディスプレイの場を構えている。何羽かのオスを渡り歩いた末に、メスはついに本命のオスのもとへと戻って来る。オスは熱心に求愛のダンスを開始する。最初は遠巻きに眺めているだけのメスだが、やがてステージの中へと入っていく。こうなったらしめたものである。ステージの中央に進んだメスがしゃがみ込むや、オスは素早く彼女に飛び乗って尾羽を後ろへ倒す。それはまるで自分たちの恥ずかしい部分をすっぽりと被い隠そうとするかのようである。こうして交尾が成立する。
メスはちょっと見にはオスになどまるで関心がなさそうにも思えるが、むろんそうではない。途切れることのない集中力、鋭く正確な観察眼で彼らを吟味している。ペトリーらは何羽かのオスを渡り歩いた末に交尾に至った一一のケースを観察している。その様子はあたかも我々が、冬物のコートを買おうとあちらこちらの店を回って何着か試着し、最終的にどれか一つに決めるとか、あるいは手狭になったアパートを脱出すべく不動産屋にいくつかの物件を紹介してもらい、迷いつつ決めていく過程のようでもある。一発直感、即決派もいれば、「これもいいけど、あれもよかった。いや、もう少し待てばもっといいのが出てくるかな……」などと慎重に吟味する者もいる(一一のケースについて、メスは1から11までの番号が付けられた。一〇羽いるオスにはAからJまでの記号が付けられている)。
メス1などは即決派である。彼女はオスAの次にオスBを見ただけで彼に一目惚れ。その場でBに決めてしまった。
メス4は慎重派であるうえに少々しつこい女≠ナある。彼女はまずオスFからスタート。次に念のためもう一度Fを観察するが、Aへと向かう。ところがまたFへ戻り、Fの良さを確認し、Fに決めるかと思いきや、Dへ向かう。そしてGを回り、Eを物色。このEがよほど気に入ったのか、それともそれでいいのかと不安だったのか、なんと連続七回もその都度《つど》出直し、訪れている。そうしたうえで八回目にようやくEに交尾OKのサインを出したのである。
メス5は極度の慎重派。彼女もオスFからスタートするが、次はDへ、さらにEを二回連続、またDへ戻ってF、D、というようにF、D、Eの間で揺れる。が、次にCという新顔を開拓するものの気に入らずEへ戻った。Eに決めるかと思いきや、いきなりGへ飛ぶ。Gも気に入らずDへ舞い戻り、Dを二度吟味。Dに決めるのかと思うが急に意を翻し、結局はEに決めた。いやはやお疲れさまである。
メス8などはノーマル派だ。彼女はAからスタートし、次にFへ。続いてDを二回訪れるが、Eを見るや彼に一目惚れ。その場でEに決めた。
メス11もノーマル派。彼女はF、Aと見て回るが、Bを訪れたところで彼にときめく。しかしここでちょっと考えるところがあるのか一回引っ込んで出直しをはかる。再度Bを訪れたところでBに決めた。その気持ちはよくわかる。
この一一のケースでメスは平均で三羽の違うオスを訪れ、多い場合には五羽訪れている(メス4と5)。一方、交尾に成功したのは一〇羽のオスのうち、B、D、E、Hの四羽だけである。Bが二回、Dが三回、Eが五回、Hが一回という内訳である。オスにはこんなにもモテる、モテないの差がある。
しかしそうはいってもメスは、いったいオスの何を吟味しているのだろう。メスがオスを選ぶ基準とは、はたしてどんなことだろうか。ペトリーらは基準になりそうな要素を七項目考え、オスが選ばれ、交尾に成功するかどうかとの相関について調べてみた。
求愛縄張り(ステージ)の占める位置、つまり中心部にあるか周辺部なのか、隣のオスとの距離、どれくらい頻繁に求愛コールを発するか、どれくらい頻繁に求愛のディスプレイをするか、侵入者をよく追い払うことができるか、他のオスの求愛をいかに邪魔するか、そして目玉模様の数……。しかし関係があるのは、なんと目玉模様の数だけなのである。目玉模様の多いオスほど多くのメスと交尾している。メスはオスを、目玉模様の数で選んでいるらしいのだ(尾羽の全体的な美しさ、色つや、対称性《シンメトリー》といったことなども当然関わってくるはずだが、それらを数量として表すことは難しく、ここでは考えに入れられていない)。
メスがいろいろ見て回った挙句に決めたオスとは、本当に一つのミスもないくらい正確に目玉模様の数が最も多いオスだった。
たとえば即決派のメス1は、オスAの次にオスBを見て、Bに決めている。目玉模様の数はAが一四七個であるのに対し、Bは一六一個でなるほどBの方が多い。
慎重派のメス4はF、F、A、F、D、G、E、E、E、E、E、E、E、Eという回り方をしているが、目玉模様の数はFが一四一個、Aが一四七個、D 一五二個、G 一四一個、E 一五七個である。ちゃんと一番多いEに決めている。
同じく慎重派のメス5もF、D、E、E、D、F、D、C(一五五個)、E、G、D、D、Eと回っており、初めはF(一四一個)、D(一五二個)、E(一五七個)の間で迷っている。が、そのうちEの目玉模様の多さに気づいたのだろう。それを確認しつつ、やはりEしかないなと最終的にはEに決めている様子である。
ノーマル派のメス8はA、F、D、D、Eと見てEに一目惚れ。その判断は非常に正しい。
同じくノーマル派のメス11はF、A、B、Bと回りBに決める。これも正しい。Bの目玉模様の数は全オス中で最高の一六一個だ。
目玉模様の数が最多のBにあまり人気がなく(と言うか、そもそもメスはBの存在に気づいていない)、むしろナンバー2のEに人気があるのは、たぶん求愛縄張りの位置の問題だろう。位置は関係ないということになっているが、Eはオスたちが最も集まっている繁華街≠ノディスプレイの場を構えている。Bの場所はそこから随分とかけ離れた僻地である。Eに決めてしまったメスにしても、もしBの存在と目玉模様の多さに気づいたならBに決めていたかもしれない。いや、それともこういうことだろうか。
メスは確かにBの存在に気づいてはいないが、それはそれでよい。いい場所を占める能力、場所取りの能力も大切だ。そういうことも含めてEを高く評価している……?
ともあれメスは見て回ったうちで、一つの間違いもなく目玉模様の最多の者を選んでいる。目玉≠一つ一つ数えられるはずもなく、いったいどのようにしてその違いを知るのだろう。何か瞬間的にパッと数の多少を捕えられる能力でも備えているのだろうか。
しかし実を言えばこれらのケースには一つだけ「ミス」がある。メス9がオスH(一五三個)の次にオスD(一五二個)を観察し、Dに決めたというものだ。とはいっても彼女はオスを二羽しか見ておらず、それも目玉≠フ数は一個違いという僅差である。これくらいはミスのうちには入らない。やはりメスは目玉模様の数の多い少ないを判定する、驚くほどの能力を備えているのである。一方の人間はといえば、これがほとんど無能に近い状態だ。瞬間的に数の多い少ないを判断することなど到底無理。ペトリーらは尾羽を広げてディスプレイしているオスを写真に撮り、それを大きく引き伸ばして目玉模様の数を数えた。そうしてようやく「なーんだ。メスがこだわっているのはオスの目玉模様の数だったのか」と真相に気づいたほどである。
クジャクの行動を詳しく見てみると、だんだんわかってくることがある。
一夫多妻の婚姻形態で、メスはオスを非常に厳しく選んでいる。オスにはモテる、モテないの格差が大きい。超モテのオスがいる一方で、全くモテないオスもいる。厳しい基準をクリアーしたオスでなければ次代に子を残すことができない──そういう現実である。
ここで見たケースだけで考えてみても、子を残す可能性があるのはいずれかのメスと交尾することができたB、D、E、Hの四羽だけである。一〇羽のオスのうちの半数以上が子を残せない。しかも四羽のオスの交尾回数は、Eが五回、Dが三回、B 二回、H 一回と大きく違い、残すことになる子の数にもおそらく大きな格差がある。目玉模様の数はEが一五七個、Dが一五二個、B 一六一個、H 一五三個である。仮に息子が父親の目玉模様の数をそのまま受け継ぐとするなら、次の世代ではオスの目玉模様の数は最低でも一五二個ということになってしまうだろう(もっとも実際の繁殖ではこんな極端なことにはなっていないはずだが)。
一夫多妻社会ではこうしてものすごい勢いでオスに進化が起きる。クジャクのオスの尾羽はこの世のものとは思われないくらいに美しく、趣向を凝らしたものに出来上がってきた。が、そこにはこんな厳しい淘汰の歴史があるのである。クジャクのオスの美しさを仕掛ける者……それは地味で目立たず、尾羽も短くて冴えない、メスたちなのだ。鳥の図鑑はメスの功績を称《たた》え、せめて同じ縮尺で姿を載せるべきだ!(なんてね)
そうはいうものの、鳥の世界ではクジャクのような一夫多妻制は多数派ではない。むしろ少数派だ。なんとその九〇パーセント以上が一夫一妻の婚姻形態をとっているのである。
それは卵をあたため、ヒナを育てるために大変な労力がかかるからである。巣も木の上にあったりで、メス独りで子育てすることが難しいからだ。クジャクなどの場合、巣は地上にあり、ヒナは孵化してすぐにでも歩ける状態にある。あまり世話がかからず、メスは独りでも子育てが可能である。しかし多くの鳥は違う。彼らは子育ての問題から、やむなく一夫一妻制をとっているというのが本当のところだ。
ところが一夫一妻制の鳥で、オスだけが妙に美しく派手だというものが、これまた案外な数に上るのである。一夫一妻制は一夫多妻制と違い、メスがオスをあまり厳しく選り好みできない婚姻形態のはずである。オスは少々冴えなくても子を残すことができる。もちろん魅力的なオスは繁殖シーズンの早い段階で相手を見つけ、エサなどの条件がよい時期に子を育て、さらにはもう一回繁殖するなどということもやってのける。そうして魅力に乏しいオスよりも多くの子を残すことになるだろう。しかしそれでもクジャクのように、魅力に乏しいオスが全く子を残せないというような事態は発生しない。一夫一妻の社会では、進化はモテないオスにも寛容だ。それだというのに、どうしたことか。
オスが美しくて派手、何もそこまでやらなくてもと思うほどに美を極めている──。オスが美しいということは、メスがオスを非常に厳しく選んでいること、一定のレヴェルに達していないようなオスは、時にあっさりと切り捨てられるということの確かな証拠であるはずなのに……。この矛盾をどう説明したらよいのだろう?
一夫一妻といっても、それは表向きのこと。この婚姻形態には裏がある。鳥のオスの美しさ、派手さはこの裏の部分と関係がある──。
そう考えたのはデンマークのA・P・メラーである。鳥の研究が驚くほど盛んな北欧にあってその代表格とも言える学者だ。彼は同じく鳥研究の大物であるイギリスのT・R・バークヘッドと組んだ。全部で五五種の鳥について羽の美しさ、派手さと彼らの|EPC《ウワキ》の頻度との間に相関があるかどうかを検討したのである。もしよく|EPC《ウワキ》する種ほどオスの羽が美しく派手であるとすれば、その美しさは|EPC《ウワキ》によって進化したということになるだろう。メスは|EPC《ウワキ》の場においてより美しいオス、派手なオスを選び、彼の遺伝子を取り入れる。それは息子へと受け継がれる。そうしてオスは、より美しく、より派手な方向へと進化してきたのである。
羽の美しさ、派手さの判定は主観が入らないように第三者の判断に任せた。研究の目的を知らない人物、二人に頼み、それぞれの鳥のオスとメスの美しさ、派手さについて図鑑を眺めながら一〜六までの六段階評価をつけてもらうのである。幸いなことに二人の評価の傾向は一致し、評点はその平均を採用することにした。二人とも揃って六をつけたケースはなかったが、一方が六で他方が五というものは存在した。この平均が五・五であり、結局評点は一・〇から一・五、二・〇、……五・五までの一〇段階評価ということになった。
では|EPC《ウワキ》の頻度をどうやって測るかだが、観察という方法はほとんど役に立たないと言っていい。そもそも鳥というものは個体ごとの違いが少なく、彼らを見分けることは大変難しい。足環を付けてやっと個体識別ができるくらいである。しかしそうしたところですべての|EPC《ウワキ》の現場を押えられるかといえば、そうではない。観察によって|EPC《ウワキ》の頻度を正確に測ることは不可能なのである。
ところが幸い、一九八〇年代の半ばになってDNAフィンガープリント法なる画期的な技術が登場した。細胞核に含まれるDNAそのものを調べる。それによって親子の鑑定、個体の特定などが非常に正確にできるようになったのである。我が子が本当に我が子なのか、違うとしたらいったい誰が本当の父親なのか、ということまで突き止めることができる。
哺乳類では血液を採取したとしても、この方法が使えるのは核のある白血球だけで、核のない赤血球は使えない。そのためかなりの量の血液を必要とする。ところが鳥では赤血球に核がある。血液はほんの少しで十分であり、ヒナから採血しても彼らに負担をかけることはない。そういうわけで鳥研究の分野にはいち早くDNAフィンガープリント法が導入され、ブームが起きた。九〇年代前半には動物学関係の専門雑誌のいくつかは鳥の|EPC《ウワキ》の研究で溢《あふ》れかえり、論文は押すな押すなの大ラッシュとなったのである。
メラーとバークヘッドはそれらの研究が出揃うのを待っていたのだと思われる。一九九四年、彼らは鳥の羽の美しさ、派手さと|EPC《ウワキ》の頻度との相関を検討する論文を発表した(『エヴォリューション』四八巻、一〇八九〜一一〇〇ページ)。
|EPC《ウワキ》の頻度といっても、もちろん実際の|EPC《ウワキ》が起きている回数ではない。すべてのヒナのうち|EPC《ウワキ》によってどれだけ子ができているか、つまり寝取られ率のようなものである(進化に関わるのはいかに|EPC《ウワキ》するかではなく、いかに|EPC《ウワキ》によって子ができるかであるから、寝取られ率を考えることは非常に正しい)。
メラーらが示した全部で五五種の鳥のうち、一夫一妻の婚姻形態をとり、しかもコロニーではなく分散して巣を作って繁殖する鳥二九種について見てみよう。それらのデータを基に、寝取られ率の高い種ベストテン、逆に全く「寝取られ」の起きていない種九種(すべて二一位)を挙げる。するとこういうことになる。
表1 寝取られ率と美しさの相関
寝取られ率(%)/美しさの評点《オス》/美しさの評点《メス》
一位 ルリオーストラリアムシクイ 七八・〇% 五・五 一・〇
二位 ムラサキオーストラリアムシクイ 六四・八% 五・五 一・五
三位 ミヤマシトド 三六・〇% 三・〇 二・〇
四位 クロズキンアメリカムシクイ 三四・五% 四・五 三・〇
五位 キタキフサタイヨウチョウ 二六・〇% 五・五 一・〇
六位 ユキヒメドリ 二五・〇% 一・五 一・五
七位 ルリツグミ 二四・〇% 五・五 三・〇
八位 オオサボテンフィンチ 二一・三% 三・〇 一・〇
九位 アオガラ 一七・九% 五・〇 五・〇
一〇位 ズアオアトリ 一七・〇% 四・〇 二・〇
二一位 アメリカカケス 〇・〇% 四・〇 四・〇
二一位 アカオカケス 〇・〇% 三・〇 三・〇
二一位 ガラパゴスフィンチ 〇・〇% 三・〇 一・〇
二一位 オウサマタイランチョウ 〇・〇% 二・五 二・五
二一位 アオヤマガモ 〇・〇% 二・〇 二・〇
二一位 キタヤナギムシクイ 〇・〇% 二・〇 二・〇
二一位 ヒメドリ 〇・〇% 二・〇 二・〇
二一位 イエミソサザイ 〇・〇% 一・五 一・五
二一位 クロコンドル 〇・〇% 一・〇 一・〇
[#この行2字下げ](A・P・メラー&T・R・バークヘッド『エヴォリューション』四八巻、一〇八九〜一一〇〇ページ、一九九四年より作成)
いかがだろう。オスが美しく派手な種では寝取られ率が高い、つまり|EPC《ウワキ》が横行していると言うことができるのではないだろうか。
全二九種の中でオスが最高点である五・五をマークした四種はすべてが七位以内に入っている。ルリオーストラリアムシクイ(一位)、ムラサキオーストラリアムシクイ(二位)、キタキフサタイヨウチョウ(五位)、ルリツグミ(七位)である。一方、寝取られ率がゼロで、実質的には|EPC《ウワキ》が発生していない九種のオスのうちでは、アメリカカケスの四・〇というのがせいぜいで他は皆評点が低く、美しくはない。オスの美しさは|EPC《ウワキ》と深い関わりがある。|EPC《ウワキ》によってそれらは進化してきたのだろう。
しかしこの表をよく見てみると、肝心の点はもっと別のところにあることがわかってくる。オスの美しさというよりも、問題はオスとメスとの差なのである。寝取られ率一〇位以内で|EPC《ウワキ》が横行している鳥のうち、六位のユキヒメドリと九位のアオガラを別とすれば、他のどの鳥にも性差がある。むろんオスの方が美しい。一方、寝取られ率ゼロの、|EPC《ウワキ》が横行していない九種では、性差があるのはガラパゴスフィンチ一種のみなのである。
メスではなくオスの方が美しいのは、クジャクと同じで、メスがオスを選んでいるからだろう。一夫一妻の婚姻形態をとりながら|EPC《ウワキ》する。その際、メスが美しいオス、いやもっと美しいオスをと厳しく選んでいるのである。|EPC《ウワキ》が盛んであればあるほど、オスが美しく派手で、メスとの差も大きく開いてくるのである。鳥は|EPC《ウワキ》をするほど美しいというわけだ。
オシドリはオシドリ夫婦などと言ってもてはやされている。けれど彼らのような鳥こそが怪しい。オスが色とりどりのきれいな羽、イチョウ形の羽などという手の込んだ飾りまで持っていて非常に派手。メスは地味。しかも一夫一妻……。オシドリの|EPC《ウワキ》の研究はまだ詳しくは行なわれていないけれど、十分に察しはつく。彼らは大変な浮気者であるうえに仮面夫婦≠フはずである。それはこの私が胸を張って保証しよう。
一夫一妻では夫に不満あり 鳥たちの猛烈浮気社会
アオガラという鳥がいる。頭のてっぺんから翼、尾にかけて輝くような青色、胸と腹がこれまた鮮やかな黄色という美しく愛らしい小鳥である。
鳥で美しいのはオスの方とだいたい相場が決まっているが、この鳥はオスとメスとの差がほとんどない。メスも同様に美しく、それに体の大きさにもいくらも違いがない。彼らはシジュウカラなどと近い関係にあるが、体はさらに小さいのである。アオガラがすんでいるのはヨーロッパのほぼ全域とアフリカの地中海沿岸地域、トルコ、イラクのあたりまでである。ヨーロッパでは庭にやって来る小鳥として定番で、人々にとても愛されている。
ベルギーはアントワープ大学のB・ケンペネルスらは、このアオガラの|EPC《ウワキ》について研究した。場所はアントワープの北にある古いお城の中の私有地である。持ち主はおそらく学問や研究に理解の深いお金持ちなのであろう。ケンペネルスは発表したすべての論文の中で、「その美しい所有地で研究することを許可してくださったブラハト家の皆さん」に感謝の意を表している。
一七ヘクタールというから、四〇〇メートル四方より少し大きいくらいの面積である。そこにはカシやブナの木が茂り、チェリーやツツジの下生えも生えている。アオガラは本来、木の洞《ほら》などを巣穴として利用するが、巣箱をかけてもよく入ってくれる。ここには既に一〇〇個の巣箱が仕掛けられている。ケンペネルスは一九九〇年から九二年までの三シーズン、この鳥の行動を観察した。毎年四〇組くらいのつがいが繁殖したが、一〇〇個の巣箱はこれらつがいが利用するのに十分な数である。
一月の末くらいになると、オスはまず自分の縄張りを確立する。歌を歌ってメスを呼び、やって来たならさっそく求愛のディスプレイを開始する。巣の近くで歌と踊りの披露。ある観察によると、チョウが羽ばたくときのような、ゆっくりとした優雅な動きを示すという。首を巣穴に突っ込んだり出したり、あるいは自分が巣穴に入ったりとまことに忙しい。「ほら、ここだよ、君とボクとの新しい住まいは。ね、素敵な家でしょ」とでも言っているかのようである。
つがいが出来上がると、オスとメスとは協力して巣作りを始める。巣の材料となるのはコケや草、木の枝、羽毛などである。そして当然のことながら、巣作りと並行して行なわれるのが交尾だ。オスとメスとは卵の受精が可能な時期には特に頻繁に交尾する。ところがその九〇パーセント以上は、メスが誘うことによって始まるという。オスの意志は全くといっていいほどに生かされることはない。これだけ見ても、交尾の主導権はどうもメスが握っているらしいということがわかる。
そのアオガラが、ご多分に洩れず|EPC《ウワキ》する。ケンペネルスがDNAフィンガープリント法によって調べたところによると、ある年には全部で三六の巣のうち一一の巣(三一パーセント)に|EPC《ウワキ》の子が発見された。全部で三一四羽のヒナのうち三三羽(一一パーセント)が|EPC《ウワキ》の結果の子であった。これは他の鳥と比較して特に多いとも、少ないともいえない。ほどほどの|EPC《ウワキ》といったところである。
しかしこの鳥の非常に面白い点は、|EPC《ウワキ》に対し、メスが大変積極的な姿勢を見せるということである。待つだけでなく、自分からオスの元へと出かけて行く。当然そこには彼の妻という恐ろしい存在が待ち構えており、時に彼女に攻撃を加えようとする。翼を震わせて威嚇、空中戦で翼でたたいたり、地面に突き落としたりもする。そういうことがあってもなお、出かけて行くのである。メスはまず夫との交尾、つまりIPC(in-pair copulation、ペア交尾)で主導権を握っている。しかしこうしてみると|EPC《ウワキ》の場面でさえ、自らが主導権を握ることに成功しているようである。
ところが、さらに驚くべきは、その|EPC《ウワキ》に対する積極性というものに、メスによってかなりの違いがあるということである。彼女たちの置かれている境遇によってそれは随分と異なっているのだ。
ケンペネルスによると、他のメスが盛んに|EPC《ウワキ》にやって来るようなモテモテのオスをダンナに持ったメスは、|EPC《ウワキ》にあまり関心がなく、出かけない。他方、他のメスがあまり|EPC《ウワキ》にやって来ないような冴えないオスをダンナに持ったメスは、非常によく|EPC《ウワキ》に出かけるのである。
たとえば一時間に三羽も四羽も|EPC《ウワキ》志願のメスがやって来るモテモテオスをダンナにしているメスは、自身は|EPC《ウワキ》に全く出かけない。あるいはほとんど出かけない。一時間に二羽くらいのメスがやって来る中くらいのオスをダンナにしているメスは、三〜四時間に一回くらいの割合で出かける。そして他のメスたちから全く見向きもされない、超冴えないオスをダンナにしてしまったメスは、二時間に一回くらいの割合でごく頻繁に|EPC《ウワキ》に出かけていくのである。
その結果は、如実に現れる。|EPC《ウワキ》の結果の子、つまりEPY(extra-pair young)についてDNAフィンガープリント法で調べてみる。するとEPYがいる巣(つまり、妻が|EPC《ウワキ》に出かけて行った結果、ダンナは妻の一部の卵を他のオスによって受精されてしまった)で他のメスの侵入は二時間に一回くらいしかない。つまりダンナにあまり人気がない。片やEPYがいない巣(つまり、妻が|EPC《ウワキ》に全く出かけて行っていないか、行っても子ができるには至らなかった)では他のメスの侵入は三〇分に一回と頻繁で、ダンナは非常に人気がある。モテるオスは|EPC《ウワキ》に成功するうえに、自分の妻は寝取られない、と二重においしいとこ取りなのである。一方モテないオスは、|EPC《ウワキ》に成功できないばかりか妻までも寝取られる。二重の不運に見舞われるというわけなのだ。
とはいっても、モテるオスの妻があまり|EPC《ウワキ》に出かけていかないことには、そもそもこういう解釈が成り立つのかもしれない。
モテるオスにはメスたちが次々たくさんやって来る。メスが出かけないのはやって来る他のメスたちを追い払うためではないのか。そしてモテないオスをダンナにしたメスがよく出かけるのは、どうせダンナはモテないのであり、他のメスがやって来るわけでもなし、家≠ノいてもしょうがない。だから出かける……。が、実際の観察からするとこういう解釈は、残念ながらどうも成り立たないようである。
アオガラのオスのうち、実は五羽に一羽くらいが二羽(稀に三羽)のメスを妻としている(つまり、彼はそれほどモテるのである)。巣は妻ごとにそれぞれ別である。要するに本宅と別宅がある。こういうオスは当然、各々の妻と一緒にいる時間が短い。彼女たちは|EPC《ウワキ》しようと思えばいくらでもできる。出かけるチャンスはいくらでもあるはずである。ところがそれでも出かけない。ダンナに魅力があり、彼に満足しているからである。
こうしてみるとメスの|EPC《ウワキ》に対する関心の度合いは、ダンナにどれほど満足しているかにかかっていることがよくわかる。ダンナに魅力があるならば、わざわざ|EPC《ウワキ》などというリスクを冒し、しかも彼よりも魅力の劣る、冴えないオスの遺伝子を取り入れることはないのだ。|EPC《ウワキ》には大変なリスクがかかる。夫にバレた場合、彼が子育てを手抜きするとか、時には自分の子ではないとわかったヒナを殺してしまうことだってあるだろう。メスが|EPC《ウワキ》をするとしたら、それはダンナに対しておおいに不満があるからである。|EPC《ウワキ》は不満を補う手段というわけだ。こうして|EPC《ウワキ》の相手は常にダンナよりいい男≠ニいう法則が成り立つ。第一、そうでなくてなぜ|EPC《ウワキ》などしよう。
アオガラのオスの魅力となっているものは、実のところ何なのか。まず誰でも思いつくのは、青や黄色の美しい羽である。こんなにも美しい衣裳をまとっているのは、そもそもメスがそれを魅力と感じ、より美しいオス、いやもっと美しいオスというように妥協せずに選び続けてきたからこそだろう(もっとも一夫一妻の婚姻形態では、その効果は主に|EPC《ウワキ》を通じて現れることになるのだが)。美しいもの、珍しい形やデザインはそういうステップがなければ進化してくることはないはずである。オスがメスに求愛する際にチョウのようにゆっくり羽ばたいて見せるのは、青や黄色の羽の美しさをメスにアピールし、じっくりと見てもらうためかもしれない。
ところが残念なことにというべきか、意外なことにというべきか、ケンペネルスの研究では美しい羽は考えに入れられていない。彼はオスの魅力、モテる、モテないを決めるものは足の長さであると言う。妻を寝取られたオスの足の長さが平均で一五・一ミリメートルであったのに対し、寝取られなかったオスの足の長さは平均で一五・七ミリメートルあったのである(これは統計的に見ても差があると言える)。
確かにアオガラや、アオガラに近いシジュウカラのような小鳥たちを見てみると足が妙に、不釣り合いなくらいに長い。足の長さは魅力になっているのだろうという感じがする。メスが足の長いオスを好み、選んできた。だからこそ彼らの足は妙に長いのである。ではアオガラのオスの美しい羽の色はどうなってしまうのかということになるのだが、ケンペネルスとは別の研究者は羽の美しさに注目し、メスはオスの羽の美しさに惹かれるとしている。私としてはこちらの観点を支持したいところだ。
一夫一妻の婚姻形態で、メスがダンナよりいい男≠ニ|EPC《ウワキ》するという実例はまだまだ他にもある。たとえばツバメである。ツバメのオスは、尾羽の一番外側の部分がそこだけ妙に長く伸びており、中央はくさび形に切れ込んでいる。メスの尾羽はオスほどには長くはなく、オスの魅力はまさにその点にあるらしい。
鳥のオスの美しさと寝取られ率との相関を調べたA・P・メラーは、ツバメを使ってこんな画期的な研究を行なっている。
彼は、はるかアフリカ方面の越冬地からの渡りを終え、縄張りを構えたばかりのツバメのオスを捕え、彼らの尾羽に細工した(「尾羽」とは最も外側の尾羽を指すものとする)。尾羽を途中で一部分切り取り、残りを接着剤でつなぎ短くする。その切り取った部分を別のオスの尾羽に、やはりまた途中で切ってつなぎ、残りもつないで長くする。こうして尾羽の長いオスと短いオスのグループを人工的に作ってみたのである。切り貼りした尾羽の長さは二センチメートルである。尾羽の長さは、本来平均で一〇・五センチメートルくらいだが、この操作により、長くした方のグループの平均は一二・七センチメートル、短くした方は平均で八・五センチメートルになった。もちろん普通の長さの者たちも用意する。尾羽になんら細工を施していない者と、いったん切ってまたつなぐという操作を加えた者である。後者は、切ったりつないだりすることの影響が出ないかどうかを検討するためである。こうしてまず、本当に尾羽の長さが魅力になっているのかということを実験的に確かめた。
するとやはり、尾羽の長いグループのオスはモテる。人工的に長くされていても、それは関係ないようである。彼らは元いた縄張りに帰されると、その日のうちか、せいぜい二〜三日のうちにメスを獲得した。
普通の長さのオスは(尾羽をいったん切ってつないだかどうかに関係なく)、普通のモテ方をする。一週間くらいで皆相手を見つける。
そして尾羽の短いオスはというと、全くというほどにモテない。大半の者は一週間たっても相手を見つけられず、だいたい二週間たってようやくという具合だ。中にはとうとう相手を見つけられず仕舞いという者さえいた。ツバメのオスにとって尾羽の長さとは、こんなにも容赦なくモテる、モテないを決定するようである。
尾羽の長いオスがただモテるだけではなく、|EPC《ウワキ》の場で活躍することは言うまでもない。アオガラと同じで、こういう魅力は|EPC《ウワキ》においてこそいっそうの効力を発揮する。但しアオガラの場合と違うのは、ツバメのメスは|EPC《ウワキ》に対して随分と控え目≠セということである。自分から出かけるなどというはしたないまねはしない。オスがやって来るのをひたすら待っているのである。そうは言っても|EPC《ウワキ》に対する熱意という点でなんらアオガラの後塵を拝することはないのだが。
ツバメのオスは、尾羽が長かろうが、そうでなかろうが、皆等しく|EPC《ウワキ》に対して意欲を持っている。彼らはあちらのメス、こちらのメスと盛んにアタックをしかけようとする。こうして一羽のメスの元にはいろいろな尾羽の長さのオス、細工を加えたオスが、皆同じような頻度でやってくる。尾羽の長いオスは四回に一回くらい、普通の長さのオスは二回に一回くらい、尾羽の短いオスは四回に一回くらいである(普通の長さのオスには何も細工を施していない者、尾羽を切ってまた付けた者の二グループがあるためこのように二倍の頻度になる)。ところがメスがその誘いに応じるとしたら、それは決まって尾羽の長いオスなのだ。尾羽の短いオスではダメなことはもちろんだが、普通の長さのオスでさえ、この|EPC《ウワキ》市場からは締め出されてしまう。
しかも、ああ、またしてもである。メスが尾羽の長いオスと|EPC《ウワキ》をするにしろ、その際、本当にするか、どれほど頻繁にするのかを決める大きな動機がある。それは彼女が置かれている立場、夫への不満度なのである。
尾羽の長いオスをダンナに持っているメスは、他のオスがやって来ても一切|EPC《ウワキ》に応じようとしなかった。尾羽の長いオスであってもやはりダメなのである。
尾羽の長さが普通のオスをダンナに持っているメスは、たまに|EPC《ウワキ》する。相手はむろん尾羽の長いオスだ。そういうオスが五〜六羽やってきて一回というくらいの頻度である。
そして尾羽の短いオスをダンナにしているメスはといえば、もちろん|EPC《ウワキ》をするが、それは尾羽の長いオスがやって来たときには逃さず、必ずというくらいに貪欲《どんよく》なものなのである。ツバメのメスもまた、自分が置かれている境遇によって浮気心に調節を加えているらしい。そしてまた、モテるオスは自分が|EPC《ウワキ》に成功するだけではない。自分の妻が|EPC《ウワキ》するという、|EPC《ウワキ》の被害を防ぐことにも成功しているのである。
アオガラにしろツバメにしろ、オスの魅力となっているものは外見、つまり視覚に訴える要素である。しかし鳥の魅力としてはもう一つ、聴覚に訴えるものがある。
──歌。Warbler(鳴鳥)と呼ばれる鳥たちは特別な歌上手だ。オオヨシキリ(great reed warbler、reed はヨシの意)ではこんな研究が行なわれている。
オオヨシキリは渡りをする鳥である。日本へ来るオオヨシキリは冬は東南アジア方面で過ごしている。ヨーロッパのオオヨシキリはアフリカ方面で冬を過ごし、春になるとヨーロッパ各地へ繁殖のためにやって来る。スウェーデン、ルンド大学のD・ハッセルキストらは一九八七年から九三年にかけてオオヨシキリの|EPC《ウワキ》について研究した。彼らは当然のことながらDNAフィンガープリント法を用いており、メスが|EPC《ウワキ》の結果産んだ子はもちろんのこと、その父親が誰であるのかも突き止めている。場所はスウェーデンのクビスマレン湖という小さな湖のほとりである。
繁殖地に到着したオスは、まず縄張りを構え、ご自慢の歌を歌ってメスを呼ぶ。そうして彼は一人の妻か二人の妻を得るが(オオヨシキリの場合、一夫多妻の割合は意外と多く、縄張りを構えたオスの四〇パーセントくらいは複数の妻を持っている)、当然の成り行きとして|EPC《ウワキ》活動にも精を出す。
ハッセルキストらによると七年間の研究期間中に誕生したヒナ六七八羽のうち、|EPC《ウワキ》の結果の子、つまりEPYは二三羽(三パーセント)であった。これを同時に誕生したヒナ(一腹子)という基準で見てみると、EPYは一六二腹のうちの一〇腹に発見された。つまり一〇のケースでオスは妻に|EPC《ウワキ》されたうえ、子までできてしまったというわけである。メスが|EPC《ウワキ》の相手としてどれくらいの数のオスと交尾したかはわからないが、少なくとも子どもまでできてしまったのは、いずれの場合も一羽の相手とだけだった。
さてここで興味深いのは、メスはまたしてもダンナよりもいい男≠ニ|EPC《ウワキ》し、彼の子を産んでいるということである。それは一つの例外とて存在しない。
オオヨシキリのいい男≠フ基準は、歌のレパートリーをいかに持っているかということである(レパートリーの数は、異なるシラブルをいくつ歌えるかでカウントされている。ここでは一シラブルを一曲と数えることにする)。
たとえば一九八八年に|EPC《ウワキ》をし、EPYも産んだあるメスについてみると、ダンナの持ち歌が三四曲であるのに対し、|EPC《ウワキ》相手のオスのそれは三八曲で四曲多い。一九九一年のある例では、ダンナの持ち歌が四三曲であるのに対し、|EPC《ウワキ》相手のオスは四五曲、と高いレヴェルで競っているが、やはり|EPC《ウワキ》相手のほうが多い。一九九二年のある例では、ダンナの持ち歌が二七曲であるのに対し、|EPC《ウワキ》相手は四一曲、と一四曲も多いといった具合である。すべてのケースで|EPC《ウワキ》相手の持ち歌の方が多かった。メスが男≠見る目、いや聴く耳とはそれほどまでに鋭く、正確なものなのである。
こうしてどの鳥にも共通するのは、メスは必ず、ダンナよりいい男≠ニ|EPC《ウワキ》するということである(わざわざダンナよりまずい男≠選んで|EPC《ウワキ》するバカが、鳥界ほどの浮気先進社会にいるだろうか?)。
このいい男≠ニは、いったいどういうことだろう。オスの魅力とは実のところ何を意味するのか。
もちろんメスがいい男≠ニ交尾し、彼の資質を受け継いだ子、特に息子を得るとすれば、彼は父親と同様のモテモテのオスに成長するだろう。息子を介し、多くの孫を得る。彼女がいい男≠ニ交尾することには、まずそういうメリットがあるのである。しかし、こういう過程でメスがただ単にモテるというだけの、何ら実質的な意味を持たない性質を選んでいたら、進化は真の意味では進行していかないのである。羽が美しいとか派手、持ち歌が多いというような現実に魅力となっている要素は、何らかの本質的で重大な問題にも通じているはずである。それを反映する手掛りであってこそ、魅力ある者を選ぶことに意義が生じて来るというものだ。
実を言えばアオガラのモテるオスは、生存力が強く、長生きであることがわかっている。魅力が足の長さにあるにせよ、羽の美しさにあるにせよ(それに歌の魅力が関係しているという見方もあり、そうであるにせよ)、である。
実験的に示されたところによれば、尾羽の長い(人工的に長くしたのではなく、元々長い)ツバメのオスは、彼らを悩まし、最大の敵ともなっているダニに対する抵抗力が強い。つまりたかられにくいのだ。ダニにたかられにくいことは、生存力も強いということになるだろう。
そして持ち歌の多いオオヨシキリのオスは生存力が強い。
つまりこうしてわかるのは、メスはオスの魅力を手掛りに生存力の強いオス、ひいてはその遺伝子を受け継いだ生存力の強い子を得ようとしているということである。メスの狙いとは、ただ単にモテるオスと交尾し、彼の遺伝子を受け継いだモテる息子を得る、そうして多くの孫を得る、そういう表面的な部分には留まらなかったのだ。メスの本当の目的は生存力に優る子を得るということ!
一夫一妻の婚姻形態で、メスは必ずしも思うような相手とつがえるわけではない。相手は往々にして今一つ魅力に欠ける、やや冴えないオスであったりする。その不満を解消する手段が|EPC《ウワキ》というわけである。|EPC《ウワキ》でダンナに足りない魅力の元を取り入れる。その魅力とは、何を隠そう生存力という極めて重大な問題に関わっている。メスが|EPC《ウワキ》をするのはただ浮わついた心からではない……?
魅力的なオスには限りがある すべては免疫力だった!
ビアトリクス・ポター作の絵本、「ピーターラビット」シリーズにはイギリスの田園風景、ウサギやネコ、リスやネズミ、ハリネズミといった小動物たちの生態が見事なまでに描かれている。私がポターに敬服するのは、その観察眼である。
たとえば『ピーターラビットのおはなし』(いしいももこ訳、福音館書店)のあるシーンでは、ピーターのお母さんが左手に片手鍋を、右手にしゃもじを持って鍋の中のものを掻《か》き回している。ウサギが何かを掴むなどということができるはずもない。ポターの手によるウサギは、もしウサギが物を掴むことができたなら、きっとこういう持ち方をするに違いないという、まさにそんな動作を示しているのである。ミッキーマウスやスヌーピーのようなキャラクターも人間の動作をするが、それはあくまで人間の置き換えでしかない。
ポターの絵本で主人公となっているのはたいていの場合、哺乳類である。ピーターラビット然《しか》り、子猫のトム然り、リスのナトキン然り……。しかしその傍《かたわ》らにしばしば登場し、お話と絵にアクセントを付けていくのが数々の小鳥たちだ。イギリス人の鳥好きは並大抵のものではないらしく、たとえば国民的鳥類学者《ヽヽヽヽヽヽヽ》としてデヴィッド・ラックという人がいる。彼は『ロビンの生活』(浦本昌紀、安部直哉訳、思索社)という本の中で「英国のロビンの人おじしない性質は、国の誇りである」とロビン(ヨーロッパコマドリ)と国とを自慢するくらいである。フランスやイタリアのロビンは食用にされてしまうので人を恐れるのだという。ロビンは英国の国鳥である。
さて『ピーターラビットのおはなし』でマグレガーさんの畑に忍び込んだピーターが、ラディッシュ(ハツカダイコン)をせっせと食べている。そのとき傍らの地面に突き刺さったスコップの柄の上でさえずっている、喉から胸にかけて赤い小鳥がロビンである。ロビンは、畑の野菜を食べすぎて胸がムカムカするピーターがパセリを探しに行くシーンにも、マグレガーさんに見つかり急いで逃げるピーターの靴が脱げてしまい、靴だけがポツンと残されるシーンにも登場する。ロビンはその他様々な場面で大活躍である。
『ティギーおばさんのおはなし』では洗濯屋でハリネズミのティギーおばさんが、きれいになった洗濯物を小鳥やネズミたちに手渡すシーンがある。向かって一番左にいる、頭から翼、尾にかけて青く、胸と腹が黄色い小鳥が前のセクションにも登場したアオガラ、その隣の胸が赤く、アオガラより少し体が大きい小鳥がロビンである。ロビンとアオガラは残念ながら日本にはすんでいない。
そして「ピーターラビット」シリーズでは当然のことながら、スズメも登場する。『ピーターラビットのおはなし』で、マグレガーさんの畑から逃げる際に服のボタンが網に引っかかり、身動きできなくなって泣いているピーターにスズメが三羽駆け寄り、話しかける。この三羽は、ピーターを捕えようとマグレガーさんがふるいを被せるシーンにも登場。ピーターが木戸の下をくぐって逃げようとするシーンでも登場し、木戸の上に止まって様子を見ている。
私はこの絵本に登場するスズメに、「なーんだ、スズメか。日本のスズメとおんなじじゃないか」と最初は少し物足りないものを感じていた。同じ出るなら日本にはいない、もっと珍しい鳥が登場すればいいのに……。
ところがよくよく見るとそうではないのである。喉と胸のあたりの様子がちょっと違う。真正面から描かれているものが少ないのではっきりとはわからないが、どうも日本のものとは違い、胸のあたりに黒い大きな模様がある。模様は日本のスズメにもないことはないのだが、こんなに大きくはない。
実は日本のスズメとヨーロッパなどでよく見かけるスズメ、つまりイエスズメとは種自体が違うのである。
二つの種はまず体の大きさが随分と違う。スズメの体重が二〇グラムくらいであるのに対し、イエスズメは三〇グラムもある。さらにスズメには雌雄の差がほとんどないのに対し、イエスズメの場合はそうではない。オスは喉から胸にかけて黒い大きなパッチ模様を持っているのである。洋なし形と言うべきか、とにかく喉から胸にかけて黒いよだれかけを着けているようにも見える。これはバッジと呼ばれるもので、オスは大人になって初めてこの模様が現れる。そしてこのバッジの大きさこそがオスにとっての命だ。冬の間は順位に関わり、繁殖期においてはメスに対してモテる、モテないを決めていくのである。バッジのサイズは遺伝することがわかっている。
イエスズメは現在ではヨーロッパから中東、アフリカ北部と南部、インド、シベリア、オーストラリア、そして南北アメリカ大陸の、その名の通りに人家とその周辺に住んでいる(オーストラリアやアメリカ大陸へは一九世紀に移入された)。しかしつい百数十年ほど遡《さかのぼ》ると、たとえばイギリスの市街地や民家に巣を構えていたのは、イエスズメではなくスズメの方だった。ヨーロッパではイエスズメとスズメの両方がすんでおり、その後イエスズメはスズメを人里から駆逐、山間部へと追いやったのである。そのためイエスズメがハウス・スパロウ(house sparrow)と呼ばれるのに対し、スズメはツリー・スパロウ(tree sparrow)である(ちなみにスズメの学名には「山のスズメ」という意味がある)。
日本で見かけるのはスズメだけである。が、それも本当に今のうちであるらしい。シベリア方面から樺太《サハリン》を経て日本列島へとイエスズメが上陸するのはもはや時間の問題である、と常々言われていた。どうせまだ二〇年、三〇年先のことだろうと思っていた。ところが一九九七年六月発行のある鳥の図鑑によると、なんと! もう北海道に来ている。体重でスズメを圧倒するイエスズメは、おそらくあっという間にスズメを山間部へと追いやるだろう。そして彼らは英名と学名の通りに山林にすむスズメとなる。一方、スズメと言えばオスが胸に黒い大きなバッジを持っている……。そう我々の認識が変わる日はもうそこまで来ているのである。
イエスズメの生態は、同じく我々に馴染みの深いシジュウカラなどの小鳥と似ている。冬にはオスもメスも、フロックと呼ばれる群れとなって暮らしている。一つのフロックには十数羽から二十数羽くらいの個体がおり、オスには一位から二位、三位……ときれいに直線的に並ぶ順位がある。
順位と言うと我々は、ひたすら不公平なルールという思いがあるが、必ずしもそうではない。エサなどを巡る争いで、いちいち争って決着をつける手間が省けるのである。もしその都度《つど》争っていたら、皆が皆ヘトヘトになってしまい、結局順位を作った方がよほどマシだということになるだろう。劣位の者は優位の者に譲るだけでいい。優位の者は劣位の者が譲ってくれる。たいていの者は相手次第で優位であったり、劣位であったりするから万事それでうまくいくのである(もっとも最下位の者は、エサ不足のときなどは常に惨《みじ》めということになるのだけれど)。
春になり繁殖シーズンが近づくと、オスはそれぞれに縄張りを構える。独身オスの歌を歌ってメスを呼ぶ(メスとつがうと、今度は既婚オスの歌というものを歌い始める)。やがて一夫一妻のつがいが出来上がり、彼らは力を合わせて巣作りを始める。家の屋根と梁《はり》の間のすきま、壁の穴などを利用する。オスのバッジは冬にはオスどうしの順位に関わっているが、繁殖シーズンには縄張りを得るために、そしてメスを獲得するための手段として大変重要だ。バッジは春先には特に大きく発達するという。
ツバメの尾を切ったり貼ったりの実験をし、さらには鳥のオスの美しさと寝取られ率との相関を調べているA・P・メラーは、イエスズメについても面白い研究をしている。彼によると、このバッジが大きいオスほど早く、よりよい縄張りを手に入れる。早く相手を見つけ、しかもそれは質のよいメスである。一方、バッジの小さいオスはなかなか縄張りを手に入れることができず、手に入れてもそれはあまりいいものではない。よって相手もなかなか見つからず、時にシーズンの終わるまで独身のままということさえあるという。
バッジの大きさはメスを獲得するという段階で、もうこんなふうにオスごとに差をつけている。それだけならまだしもだが、ああ、またしてもなのである。バッジの大きさは|EPC《ウワキ》の場面でも、いや|EPC《ウワキ》の場面だからこそ、いっそうの効力を発揮する。
メラーがイエスズメの研究地に選んだのはデンマーク、ユトランド半島の北部のホーレンステズという場所である。残念ながら私の持っている世界地図帳には載っていない、小さな田舎の町である。そこは山も丘もない広々とした土地で所々に畑や家の庭がある。落葉樹の防風林もあちこちにある。彼は一九八四年から八六年にかけて計二一九の個体(うちオスは一二四個体)に足環をかけて観察した。
イエスズメの|EPC《ウワキ》には二種類の形がある。一つは、亭主のいるメスに対し、求愛の過程を経てオスが交尾するというタイプのものである。我々が|EPC《ウワキ》としてごく普通に思い描くものだ。オスは翼をうなだれさせ、震わせて胸の羽毛をふくらませる。頭と尾を少し上げて上目遣いにメスに求愛する。メスが頭と体を低くし、翼をうなだれさせてそれを震わせ、尾を上げたならOKの合図である。このときメスは交尾コールを発することもある。
もう一つは、レイプである。受精可能な状態にあるメスが朝早く亭主のガードなしに飛んでいる。そのときまず一羽のオスが彼女を追いかける。オスは独特の追跡の音声を発するが、するとたちまち何羽かのオスが集まり、当然彼女の亭主もこの異変に気づいて駆けつける。総勢で二〜八羽のオスがこの追跡のゲームに加わるのである。
妻を守ろうと亭主は必死だ。盛んにアラーム・コールを発しては彼らの接近を阻もうとする。しかしこの追跡劇は、時に一羽のオスによるレイプという形で終わる。彼は彼女の背中に飛び乗り、クチバシで首すじの羽を掴んで交尾する。そんな荒々しい振る舞いは他のいかなる場面でもありえない。とはいえこういう追跡劇は、ただオスたちがメスを追いかけるだけで終わることがほとんどで、たいていは亭主が妻を守り切っている。レイプに至るのは二〇回に一回くらいであるという。二種類の|EPC《ウワキ》についてメラーは前者のタイプを求愛型、後者のタイプをレイプ型と呼んでいる。
メラーが調べたところによると、バッジの大きいオスは求愛型にしろレイプ型にしろ、どちらのタイプの|EPC《ウワキ》でも大活躍である。
求愛によって他人の奥さんを寝取ったオスのバッジサイズが、平均で四〇〇平方ミリメートルくらいであるのに対し、そうでないオスの平均は(妻を寝取られたかどうかに関わりなく)、三〇〇平方ミリメートルくらいである。他人の奥さんをレイプすることに成功したオスのバッジサイズが平均で四四〇平方ミリメートルくらいであるのに対し、そうでないオスは(これまた妻をレイプされたかどうかに関わりなく)、三〇〇平方ミリメートルくらいである。
一方、求愛により他のオスに妻を寝取られてしまったオスは、バッジサイズが小さい。平均で二八〇平方ミリメートルくらいしかない。さらに妻をレイプされたオスともなるともっと惨めで、バッジサイズは平均でたった二六〇平方ミリメートルしかないのだ。そういう被害に遭わなかったオスは(自分が他人の奥さんを口説い≠スり、レイプしたりしたかどうかに関係なく)、いずれの場合も平均で三六〇平方ミリメートルもあるというのに、である。やはりバッジの大きいオスほどメスにモテる。|EPC《ウワキ》で活躍する。一方、妻の|EPC《ウワキ》の被害に遭うのは常にバッジの小さい、モテないオスたちなのだ。
しかしここで興味深いのは、レイプ型|EPC《ウワキ》の方が求愛型|EPC《ウワキ》よりも、バッジの大きさの効果が大きく出ているということである。バッジの大きいオスほどレイプに成功する。そしてバッジの小さいオスを亭主にしている妻ほど他のオスによくレイプされる……。ちょっと変だ。
そもそもメスはバッジの大きいオスが好みのはずである。レイプのときのように交尾を嫌がるとしたら、それは相手がバッジの小さいオスだからであり、大きいオスだからではないはずだ。もし相手のバッジが大きいとしたら、メスはホイホイ交尾を許す──。そうであって当然のはずではないか。ところが抵抗するし、その結果レイプさせることになるのはバッジの大きいオスだ。
メスは、嫌がるふりをしつつもその一方で、オスの資質を試しているのではあるまいか。そうして結局のところモテるオス、優れたオスの遺伝子を取り入れようとする……。いや、この研究の示すところによれば、レイプに成功するのは常にバッジの大きいオスで、メスは実際にそういう遺伝子を取り込むことに成功しているのである。メスはまず、夫のガードなしに飛んでみせる。オスたちをそそのかしてできるだけ多くのオスに、亭主も含めて追跡させ、競わせる。勝ち残ったオスにはわざと抵抗してみせ、彼が本当に気力、体力に優れたオスなのかを確認し、そのうえで交尾する。どうもそうとしか思えないのだが……。
バッジのサイズは、バッジの長さと幅を測り、それをバッジの面積を求める式に代入するという方法で得られている。式は何羽かの標本を利用し、本当に測った面積との比較から導き出したものである。実際のバッジは、洋なしかよだれかけのような形をしているが、もしこれが正方形であったとすると、たとえば面積が四〇〇平方ミリメートルのバッジは二〇ミリメートル四方、つまり二センチメートル四方の大きさである。イエスズメのバッジは小さいもので二〇〇平方ミリメートルくらい、大きいものでは六〇〇平方ミリメートルか、それ以上のこともあるという。
こうしてイエスズメの行動を見てくると、またしても思い出されるのはあの法則だ。
一夫一妻の婚姻で、メスはまずなるべく魅力的なオスとつがおうとする。しかし何分、魅力的なオスには限りがある。メスが現実につがうのは、たいていの場合には理想とかけ離れた、中か中の下くらいのオスである。それでもつがうのは、取り敢えずのところ巣作りに協力するオス、子の面倒を見てくれるオスが必要だからだ。だが願わくば優れたオスの子どもが欲しい。その遺伝子を取り入れたい。そこで実行するのが|EPC《ウワキ》。|EPC《ウワキ》は亭主に対する不満を補うための手段というわけなのだ。「不機嫌な果実」というけれど、女はたいてい不機嫌な存在である。誰もが理想の相手と結婚できるわけではない。そして結婚とはそもそも|EPC《ウワキ》をし、|EPC《ウワキ》の結果の子をダンナに育てさせるための方便に過ぎない。もしいい男≠フ子どもを宿したとしても、その子を育てるのに協力してくれる夫がいなければ、いったいどうしようというのだろう?
それにしてもイエスズメのオスは、なぜバッジが大きいとモテるのだろう。メスはどうしてバッジの大きいオスを選ぶのか。
バッジの大きいオスは、まずよい縄張りを持っている。よい縄張りは巣穴の数や場所、エサの豊富さなど、子を産み、育てるための有利な条件を備えている。メスはよい縄張りを持つオスとつがうことで有利に自分の遺伝子のコピーを増やすことができるだろう。
まずはそうなのだが、では|EPC《ウワキ》で相手の縄張りの質が関係するかといえば、そうではない。産んだ子はそのオスの縄張りではなく、自分の、そのオスよりは冴えない亭主の、少々冴えない縄張りで育てられることになるのだ。バッジの大きさは縄張りの他の、何か本質的な問題を反映しているはずである。メスはバッジの大きさを手掛りに、いったい何を見抜こうとしているのだろうか。
メラーは、イエスズメのオスの体のいろいろな部分のサイズについて、相互の関係を検討した。バッジの大きさはもちろんだが、体重、足の長さ、睾丸の大きさ、体のコンディションなどである。体のコンディションは、体重を足の長さの三乗で割った値を出して検討する。鳥にとって足の長さは体の大きさ、つまり骨格全体の大きさの目安である。体重を足の長さの三乗で割った値はその鳥の体のがっしり具合を示すことになるのである。サンプルにしたのは剥製標本である。一九六六年から六九年にかけてデンマークのコペンハーゲンとその近郊で猟銃で撃たれたイエスズメで、たいていのサイズはその時点で測定されている。メラーはそれらのデータを利用した。そうしてわかったのは、こういうことである。
オスのバッジの大きさは睾丸の大きさと相関がある。バッジの大きいオスほど睾丸も大きい。
たとえばバッジサイズが四〇〇平方ミリメートルくらいのオスの睾丸の体積は五〇〇立方ミリメートルくらいだが、バッジサイズが七〇〇平方ミリメートルを超える者ともなると睾丸の体積は、その二倍の一〇〇〇立方ミリメートルにも達するのである。バッジサイズはその他の要素とはいずれもほとんど関係がなかった(ちなみに鳥の睾丸は腹腔内に隠れており、残念ながら我々は目にすることはできない)。
なるほどバッジの大きいオスほど精力旺盛な様子を見せている。彼らは求愛型、レイプ型と二種類の|EPC《ウワキ》で大活躍である。それに妻との交尾《IPC》までもが盛んであるらしい。バッジの大きいオスは睾丸が大きくて当然なのだ。しかもバッジはオスの二次性徴である。それは睾丸の働きによって現れ、発達する。つまり睾丸が大きいほどバッジも大きいということになるだろう。結局のところメスはバッジの大きさを手掛りとして睾丸の大きいオスを選ぼうとしているということになるのである。
睾丸の大きいオスは|EPC《ウワキ》でも|IPC(ペア交尾)でも活躍する。彼の子を得たなら、特に息子は父親と同様に|EPC《ウワキ》と|IPC(ペア交尾)両面で活躍することになるだろう。メスは息子を介して多くの孫を得る……。
しかしながらメスが目的としているものは、本当に睾丸の大きさだろうか。メスは精力旺盛なオスを理想の相手と考えているのか──。少々疑問になってくるのである。というのもオスにとって睾丸の発達というものには、単なる発達とは別の、大変本質的な問題が絡んでいることがわかっているからである。イエスズメではないのだが、セキショクヤケイという鳥でこんな有名な研究が行なわれている。
セキショクヤケイはニワトリの祖先種とされる鳥である。オスはまっ赤なトサカや肉垂《にくすい》(アゴの下のトサカ様のもの)、それに赤や黄、黒などの飾り羽を持っており、非常に派手、いや派手というよりは悪趣味に近いものがある。婚姻形態は一夫多妻である。
アメリカのマーリーン・ズックと、同じくアメリカ人でシリアゲムシやガガンボモドキの研究で有名なR・ソーンヒルらは一九八〇年代の後半にこの鳥を使い、大掛りな実験を行なった。実を言うとそれを遡る一九八二年に、ズックは動物行動学の大御所、W・D・ハミルトンと組み、後に「パラサイト仮説」と呼ばれることになる仮説を提出している。鳥のオスなどの美しい羽や複雑なさえずりは伊達《だて》にあるものではない。それは、自分がパラサイト、つまりウイルスやバクテリア、寄生虫などの寄生者にひどくやられていないのだということを、メスに対し、|ごまかしの利かない方法で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》アピールする手段だというのである。この実験は実際に鳥を使い、パラサイト仮説を検証してみようとするものなのだ。
ズックらはまず、セキショクヤケイのオスを五〇羽も解剖し、彼らがどんな寄生者《パラサイト》に、どれくらいやられているのかを調べた。それによるとどうも、この鳥にとっての最大の寄生者《パラサイト》は、回虫であると考えられる。サナダムシにやられている者もいる。結局、全体の七五パーセントもの個体が何らかの腸管寄生虫に寄生されていた。
一方、この五〇羽の鳥は解剖の前にいろいろな箇所を身体測定されている。トサカの大きさや首回りや背中の飾り羽、尾羽などの長さと色、足の長さ、睾丸の大きさなどである(睾丸は腹腔の中にあるので解剖してからだが)。すると測定箇所によっては、そのサイズや美しさは、個体が腸管寄生虫にやられているかどうかと密接な関係があった。トサカが大きく、首回りの羽の色が美しい、そして睾丸が大きいというオスほど腸管寄生虫にやられていない。トサカが小さく、首回りの羽の色が悪い、睾丸が小さいというオスほど腸管寄生虫にやられているのである。しかしこのトサカ以下の三つの箇所のうち、腸管寄生虫の有無と特に強い相関があったのは睾丸である。つまり、この研究からこんなことがわかってくるのだ。
セキショクヤケイのオスは腸管寄生虫にたかられると、その第一の効果が睾丸に現れる。睾丸は小さく萎《しぼ》んでしまう。睾丸は男性ホルモンの一種であるテストステロンを分泌する。それはオスの二次性徴であるトサカや飾り羽、尾羽などの発達を促している。睾丸の小さいオスはそれら二次性徴も発達していないのである。こうしてオスが腸管寄生虫にやられているかどうかは睾丸を介し、それらオスの二次性徴に現れるということになる。逆に言えば、メスはオスの二次性徴を手掛りに、彼の睾丸の大きさを、そして結局のところは彼が腸管寄生虫にたかられているかどうかを判断しようとしているのである。メスがオスの外見から得ようとしている本当の情報とは、睾丸の大きさではなく、オスが腸管寄生虫にやられているかどうかということだったのだ。
イエスズメの研究では、残念ながらオスの寄生者《パラサイト》に対する抵抗力にまで話が及んでいない。バッジのサイズは彼の睾丸の大きさと強い相関があるというだけである。しかしこうしてセキショクヤケイの研究を参考にしてみれば、イエスズメのメスはオスのバッジサイズを手掛りに、彼の寄生者《パラサイト》に対する抵抗力を見ようとしているのではないか、そう言って差し支えないようである。
ツバメのメスは、オスの尾羽の長さを手掛りに彼の寄生者《パラサイト》(この場合にはダニ)に対する抵抗力を見ようとしている。アオガラにしたところで、メスはオスの羽の色や歌の特徴を手掛りに、彼の生存力のほどを見抜こうとしている。オオヨシキリのメスは、オスの歌のレパートリーの多さから彼の生存力を見抜こうとしている。これら生存力も結局のところは寄生者《パラサイト》に対する抵抗力の問題に由来しているのである。こうして鳥などのオスが美しく、派手で、変わった模様があったり歌が複雑であったりするのは彼の寄生者《パラサイト》に対する抵抗力、そのウソ偽りのない証明ということになる。メスはそれらの装飾を手掛りに寄生者《パラサイト》に強いオス、生存力に優れたオスを選ぼうとしているのである。
しかしながらイエスズメについては一つ耳寄りな情報があるのでついでにお知らせしよう。
イエスズメのオスはバッジが大きいほど何かと有利である。早く、よりよい縄張りを手に入れる。早く、よりよいメスをも手に入れる。彼は|EPC《ウワキ》で活躍するだけでなく、妻との交尾《IPC》も盛んである。ではバッジの小さいオスはどうなるのか。彼はバッジの大きいオスに圧倒されっ放しで、やられっ放しということになるのだろうか。
なるほど|EPC《ウワキ》をしようにも、彼がバッジの大きいオスに勝てる見込みがあるかといえば、はっきり言ってない。それに自分が|EPC《ウワキ》に出かけている間に誰あろう、自分の妻が|EPC《ウワキ》を実行してしまうかもしれないではないか。相手は自分よりもバッジが大きいいい男≠セ。となれば、どうすべきか。彼にとっての選択肢は、自分が|EPC《ウワキ》するなどという望みは持たず、ただひたすら妻をガードすること。それしかないのである。用が終わったらさっさと家≠ヨ帰り、妻をガード、いや彼女を愛しているふりをするのである。
これが仕方なしの戦略かというと、必ずしもそうではない。イエスズメの世界では事実こういうオスも、れっきとした繁殖戦略者である。彼らはバッジや睾丸が大きく何かと派手なオスたちと並び、イエスズメ界の一大勢力をなしているのだ。
イエスズメのオスには二つのタイプがある。バッジが大きくてメスによくモテる、しかもいい女≠手に入れるオス。彼はいい女≠妻としていることに飽き足らず盛んに|EPC《ウワキ》をし、ついでに妻ともよく交尾する。睾丸が大きくて男≠フ間での地位も高い……。
もう一つはバッジが小さくてメスにはモテず、しかもあまりいい女≠手に入れることができない。|EPC《ウワキ》もあまりしないのだが、妻だけはしっかりガードする。睾丸が小さくて男≠フ間での地位は低い……そういうオスである。
どちらが有利でどちらが不利ということもない。それぞれがそれぞれに優れた戦略者なのである。
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第四講 女は浮気をするため結婚する!?
クリスマスで、大停電で、SMで 女は興奮すると妊娠する!?
一年も二年も家を空け、やっと戻って来たかと思うとわずか二週間かそこらでまた海に戻っていく。そんな生活を続ける船員さんたちにも、ちゃんと子どもがいる。それも二人も三人もいることが多いのはどうしてだろうか、と思ったことがある。
久し振りの帰宅である。しかも二週間の後にはまた離れ離れになってしまう。とすれば、さぞかし毎日励まれるのであろう。しかし毎日励んだとしても、その二週間のうちに奥さんの排卵期が含まれる確率は、月経周期が二八日、つまり四週間であるとして二分の一である。それに人間は、夫婦が子を作ろうと決めてがんばり始めても、そう簡単にできるものではない。たいていは妊娠までに数カ月を要するのである。女は必ずしも毎月排卵しているわけではないからだ。
この勘定で行くと、事態はかなり厳しい。船乗りの人々が奥さんを妊娠させることは、至難の業であるとさえ思われるのである。ところが現実にはそうはなっていない。ちゃんと子どもができている。どうしてだろうか(夫の留守中に妻が浮気する、などということは考えないことにしよう)。
実は、こういうたまにしか会えないというわずかなチャンスを──いや、それがわずかなチャンスであるからこそなのだが──逃さないという働きが、女の体には備わっているのである。
第一次世界大戦中、そして第二次世界大戦中のことでもあるのだが、ドイツ軍の兵隊が国境付近の戦場で戦っていた。そうこうするうち隊の配置転換が行なわれ、兵士たちは国を横断して次の戦場へと向かうこととなった。
しかしせっかく国を横切るというのに、である。ただそのまま通り過ぎるには忍びないではないか。兵士たちには二四時間、ないしは四八時間の束の間の休暇が与えられることになったのである。多くの兵士はまっしぐらに妻や恋人の元へと戻っていった。そしてこれまた大急ぎで隊へと帰って来たのである。
さて、それから然《しか》るべき日日《ひにち》がたったときのことである。兵士たちのパートナーは我も我もというように子を産んだ。それは、単に彼らがこのわずかなチャンスにせっせと励んだ、というだけでは説明のつかないほどの出産ラッシュなのだ。そのとき排卵期にあった女は、排卵期を四〜五日間、月経周期を二八日とすれば、全体の七分の一〜六分の一くらいのはずである。子を産んだ女の割合はそんな程度のものではなかった。
出産した女について詳しい調査が行なわれた。第一次世界大戦については八三八人、第二次世界大戦については一〇〇人のデータである。兵士たちが帰って来たとき、彼女たちは月経周期のいつ頃にあたっていたのだろうか。
するといずれの場合にも驚くべき結果が現れた。排卵期にあった女が妊娠するのは、それは当然のことである。しかしこれらのケースでは、月経から排卵期の前までの、まだ排卵が起きるには早い時期に妊娠していることが非常に多いのである。それどころか排卵が終わってから月経までの、妊娠しないはずの時期にさえ、かなりの頻度で妊娠している。この出産ラッシュは、性交《セツクス》が引き金となって排卵が誘発された、つまり「性交排卵」に原因があると説明するより他はなさそうである。前者の、排卵期の前のケースでは性交《セツクス》の刺激が本来の排卵を早めたということだろうし、後者の、排卵後のケースでは既に排卵は済んでいるものの、性交《セツクス》によって再び排卵が引き起こされたということになるだろう。それくらい、こうした場合の性交《セツクス》が及ぼす力は並はずれて大きいのである。
性交《セツクス》で排卵が誘発されるなんてことが、はたしてあるのだろうか、とお考えかもしれない。けれどもタヌキの睾丸の話で少し触れたように、動物の世界ではごく普通に見られる現象だ。
ネコ、ライオン、ウサギ、ミンク、フェレット、アライグマ……。いずれも交尾して初めて排卵するのである。ミンクではオスがメスの首筋を咬《か》み、血がほとばしってようやく排卵する。
一方、交尾に関わりなく排卵が起きるのは、人間の他にイヌ、キツネ、モルモット、ハムスター、ラット、ヒツジ、ブタ、ウマ、ウシ、アカゲザルなどである。ただ人間では(人間以外でももしかしたらそうかもしれないが)、久し振りにパートナーと再会し、その喜びの中で性交《セツクス》したりすると、女は通常とは違った反応のしかたをする。性交《セツクス》をきっかけとして思わず排卵してしまうことがあるのである。兵士がちょっとだけ家に立ち寄るなど男が女を一時的に訪問することは、「ショート・ヴィジット」(short visit)と呼ばれている。船員さんの一時帰宅で子ができることなども、まさにこの「ショート・ヴィジット」の効果だろう。
気持ちの高揚、楽しい気分やいつもの緊張から解き放たれたような気分によって女が排卵しやすくなる現象は、昔からよく知られている。欧米ではクリスマスのときに子ができやすいと言われている。むろん享楽的気分から、性交《セツクス》そのものの機会が多いということ、そしてアルコールが入ったりなどし、ついうっかり避妊するのを忘れるということだってあるだろう。そういう効果を差し引いたとしてもよく子ができているのである。
クリスマスと言えば、最近こんなニュースを耳にした。一九九六年のクリスマスのことである。英国航空《ブリティッシュ・エアウェイズ》の経営陣がスチュワーデスと女性パイロットに対し、クリスマスの期間中に勤務のある者は仕事先へ夫なり恋人なりを呼んでもよろしいという粋な計らいをした。それはそれでよかった。問題はその四カ月後である。
「妊娠しました」、「私も妊娠しました」と名乗り出る者が続々現れたのである。約六〇〇〇人の女性職員中、なんと五九一人がその粋な計らいによって妊娠したのだという。ちょっと信じられないくらいの数だが、テレビのニュースではお腹の目立ち始めたスチュワーデスさんたちが英国航空の制服に身を包み、ずらりと一列に並んでいる様子が映し出されていた。クリスマスというただでさえ気持ちが高揚する状況に加え、離れ離れになっていた女とパートナーとがしばし再会するという「ショート・ヴィジット」の効果が加わったのだろう。女は揃いも揃って排卵してしまったのである。
楽しい気分やうかれ気分、パートナーと久し振りに再会したようなときに、性交《セツクス》がきっかけで女が思わず排卵するというのはよくわかる。女は喜んでいるのである。排卵は相手の男の子を産もうとするための適応なのだろう。ところが……、一方で現実にはこんな現象さえ起きているのである。大きな、得体の知れない不安に襲われたようなときに、ほとんどパニックという状態のときにも女は思わず排卵するらしいのである。
一つの有名な例は、日本軍によるかのパールハーバー攻撃(一九四一年一二月七日、現地時間)のときのものだ。「パールハーバー」から約二六八日たったとき、アメリカで出産ラッシュがあったというのである。これもまた、戦争勃発という大きな不安の中でなぜか人々が励んだ結果、というだけでは説明のつかない数なのである。
人間の女の妊娠期間は約二八〇日とされる。しかしそれは、女の最後の月経から出産までの日数で、卵が受精してから出産までの、本当に子がお腹に宿る期間ということになるともう二週間近く短い。「パールハーバー」から約二六八日後の出産ラッシュというのは、まさにその日に性交《セツクス》が行なわれ、女が思わず排卵し、受精が起きたことを意味するのである。
もう一つの有名な例は、ニューヨークの大停電によるものだ。一九六五年一一月九日午後六時(現地時間)、ニューヨークを中心とするアメリカ北東部、そしてカナダにかけての一帯を突如停電が襲った。三〇〇〇万もの人々が暗闇で一夜を過ごし、エレベーターに閉じ込められた人、地下鉄から出られなくなった人は数知れない。刑務所では暴動が発生、商店は略奪のターゲットになったりもした。アメリカ政府は停電の原因として謀略説まで考えたほどである。人々を大きな不安が襲った。それから約二七〇日後、ニューヨークの産院はどこも満杯の状態となったのである。
こうしてみてくると、どうも女というものは……、いや自分も女であるわけだが、それでもどうにもよくわからない存在である。
嬉しけりゃ嬉しいで排卵、不安やパニックでも排卵……。実際、ニューヨークの大停電からしばらくたった一一月一二日付朝日新聞「天声人語」はこんなエピソードを紹介している。
[#この行1字下げ] 教科書をわきにかかえた女子学生が暗黒のニューヨークの大通りを歩きつつ、ウットリして叫んだという。「ジス・イズ・エキサイティング!」
そうなのだ。喜びであれ、不安であれ、それは興奮するということなのだ。興奮すると女は排卵する……。
とはいえ排卵するかどうかということは、女にとって何をおいてもと言っていいくらいの重要案件である。こんなにも簡単にゴーサインを出してよいものだろうか。特に不安やパニックの中で排卵するとは、いったいどういうことなのか。妊娠したところで子が無事に育つかどうかもわからないというのに。
戦争勃発とともに受胎した子は戦争という大変な悪条件の中で、大停電とともに受胎した子も大規模な停電が起こるという不安定な社会の中で、それぞれ胎児として成長し、生まれてくることになるだろう。どう考えたってそれは賢明なこととは思われない。女の体はなぜ排卵をストップさせる方向へ反応しないのだろう。そう進化しなかったのだろう……。
性交《セツクス》がきっかけとなって起きる排卵と妊娠とには、さらにこんな驚くべきケースさえ見つかっているのである。
初潮を迎えていない女が、性交《セツクス》によって排卵する。そのまま妊娠し、出産までしてしまう。そういう話である。
ある一八歳の女性はまだ初潮を迎えていない。性交《セツクス》の経験もない。それでも彼女は結婚したが、一〇カ月の後にはちゃんと子を産んだ。そしてその三カ月後にまた妊娠し、出産。こういうことを六年間に五回も繰り返した。ところがこの間に、彼女は一度も月経というものを経験していないのである。すべての妊娠は、性交《セツクス》がきっかけとなって排卵し、それが一度もはずされることなく受精した結果なのだ(もし排卵があっても受精が起きなければ、月経という結果となって現れるだろう)。彼女が生まれて初めて月経を迎えたのは、最後の出産から六カ月たったときである。それ以降は正常な月経周期を繰り返すようになったという。
もう一例似たような話がある。年齢のうえからすると、こちらの方がなお凄いと言えるかもしれない。
ある女性は三人の子の母親である。しかし彼女が初潮を経験したのは三三歳のとき、三人目の子を産んで四カ月後のことだった。この人も先の人と同様で、まだ初潮がないのに性交《セツクス》が排卵を誘発し、排卵したときには必ず妊娠するという変わった現象が起きているのである。
初潮が始まる前に、性交《セツクス》によって排卵が起きるというケースには──こちらの方がむしろノーマルと言うべきだが──こんな話もある。たとえば七歳の女の子が子を産んだという例(出産の最低年齢の記録は七歳である)。
七歳といえば、まだ初潮が始まっていない年齢のはずである。彼女は初潮が始まっていないのに性交《セツクス》が引き金となって排卵した(おそらくその性交《セツクス》は彼女の意志によるものではなく、彼女はほとんどパニックという状態の中にいたのだろう)。なおかつ体がまだ十分に発育していないのに、妊娠、出産という難事業を成し遂げたのである。
初潮前に性交《セツクス》で排卵が起きるのなら、その逆もまたありだろう。閉経後の女が性交《セツクス》に誘発されて排卵するのである。閉経後の例ではないかもしれないが、女の出産の最高齢は五七歳とされている。最近ではイタリアの医師が六三歳の女性の出産を成功させた話(この人は受胎促進の治療を受けていた)、アメリカでも同じく六三歳の出産、そして未確認情報ながら七〇歳の女性が出産した話もある。
さらに女の繁殖は、出産の直後からでさえ可能である。女は普通、出産の直後には妊娠しないことになっている。子どもに乳を頻繁に吸われていると排卵しない。子が乳を吸うという行為が乳腺を刺激し、排卵が抑えられるからである。ところがこうした状況でも性交《セツクス》は強力な刺激となる。女の子が初めて性交《セツクス》を経験するとき、男と同棲を始めて性交《セツクス》するときにも排卵が誘発されることが多いのだという。
排卵というものは極めてエモーショナルな問題なのである。女は喜びと期待の中にあって排卵、恐怖と不安のうねりの中で排卵……。それに確かめられているわけではないが、浮気をするときにもたぶん排卵はよく起きているはずである。何しろ浮気である。彼女はときめきの絶頂にある。それに浮気の最大の目的は、何と言っても相手の男の遺伝子を取り入れることにあるわけだから。
排卵がエモーショナルな部分と関係があることは実際、モルヒネ中毒、ヘロイン中毒の患者の例を見てみるとよくわかる。モルヒネ中毒になっている女は月経はなくても排卵があり、妊娠する。ヘロイン中毒の女には月経異常が起こる。モルヒネもヘロインも、脳に働きかけ、感情をコントロールする物質である。それが排卵や月経の異常にも関わってくるということだろう。女が大きな喜びとともに排卵するとしたら、それこそ脳内モルヒネ(?)の作用が働いているせいだろうか。
感情のうねりが排卵を誘発する、という現象をもう少し押し進めてみると、まず一つ、もしかしたらこれもそうではないかと私が思い至るのは、SMである。
残念ながら私にはその経験はなく、私の周囲にもそれらしき愛好家がいない。書物や伝聞に頼るしかないのだが、SMで得られる快感は普通の性交《セツクス》では考えられないような、とてつもなく大きなものであるらしい。SMによって初めて快感を得る人もいるのだという。
SMという行為は、特にMの側には大きな恐怖と不安、そして痛みを伴うものである。Mの人は実際に傷つけられることだってあるだろう。身体が傷つけられるということは、かのミンクのメスがオスに首すじを咬まれ、出血して初めて排卵する現象を思わせるではないか。
つまりSMとは、もし女がMの側に立つとすれば、それは一つには大きな感情のうねりを抱き、痛みを感じ、傷つけられるという行為である。それによって排卵が促されることはないだろうか。男の方にも快感が訪れるとしたら、それは痛め、傷つけるという行為によって女に排卵を促そうとしている、そういう行為であるからではあるまいか(もっとも男がMで女がSのこともある。そのときどういう現象が起きるのかと言えばわからない。いったい男と女、どちらがSで、どちらがMであることが多いのだろう。SMの愛好家に一度、そのあたりの詳しい事情を聞かせてもらいたいものだが)。
そう……、SMと言えばだ。最近私が気になっているのは、男が女に対して振るう暴力である。テレビや雑誌で盛んに話題になっている、いわゆる「暴力夫」、「殴る夫」である。
夫婦の離婚原因の第一は「性格の不一致」ということだが、この何だかあいまいな理由の中に、夫の暴力というものが実はかなりの割合を占めているのだという。世間体のゆえに女がなかなか明らかにしないだけのことらしい。
暴力夫というと、酒を飲んで暴れる男、職がなかったり、あっても低賃金で始終イライラしており、妻に当たる男というイメージがある。が、現実には必ずしもそうではないらしい。酒を飲まなくても暴力を振るう夫がいる。医者、大学教授など社会的地位が高く、外では柔和な紳士で通っている男、その風貌からは暴力など到底想像もつかない優男《やさおとこ》こそが暴力夫の典型例であるともいう。
彼らは暴力とともに妻に対して暴言を吐くことも特徴で、「お前は人間のクズだ」、「お前の悪い所をオレが直してやるんだ」などと変な理屈をつけては殴る。不思議なことに男は往々にして自分がなぜ女を殴っているかもわからず、中には殴った事実さえも覚えていないケースがあるという。
一方、暴力を振るわれる女は、初めのうちは自分に悪い所があってそうされているのだと考えてしまう。しかし相手の暴力はエスカレートするばかり。とうとう耐え切れずに家を出たり、離婚を提案したりするが、そうすると男は急に態度を変え、「オレが悪かった。もう一度やり直そう」などと復縁を迫り、懐柔策に出るのである。こうしていったん彼の病気≠ヘおさまるが、数カ月の後には再発≠オ、また同じことの繰り返しとなる。そんなわけで夫の暴力に耐え切れず離婚や家出に踏み切った妻の中には、たとえば二五年間耐えた末の決意であるとか、子を三人産んだ末の決断というように、彼女の人生に及ぼした影響という意味では、もはや取り返しのつかないようなケースが多いのである。
暴力男の息子もまた暴力男に成長することが多い。驚いたことに暴力男をそうとは知らず夫に選んでしまった女もまた、その父親が暴力男だったという不幸な例が非常に多いのだという。
こうした事例を見てくると、私はつくづくと考えさせられる。
もちろん男の暴力に悩む女は、一刻も早く彼と縁を切ること、駆け込み寺的な施設へと逃げ込むなど勇気を持って行動されることを願っている(実際、暴力がエスカレートした結果、女は殺されることだってあるのだ)。が、そういったこととは全く別に、つまりPC(politically correct、研究社新英和中辞典第六版によれば、「人種別、性別などの差別廃止の立場で政治的に正しい」)的立場を一時凍結し、BC(biologically correct、生物学的に正しい、但しこれは私の造語)的立場にのみ拠《よ》るとするなら、こんなことを考えさせられるのである。
男の暴力とは、彼自身さえ気がついていないことだが、女の排卵を促し、妊娠の確率を高めようとする行為ではないのか。
暴力とは、SMについて考えてみたのと同様、単なる暴力ではないこともあるはずである。女に向けられる暴力は、排卵という現象を導くかもしれないのだから。
女に暴力を振るうなど、むろん男として最低の行為である。しかしただただ最低の行為である暴力が、単に女を傷つけ、彼女に苦しみを与えるだけのものだとしよう。そうであるとしたら、なぜそんな行為が存在するのか。どうして世の中にはこんなにも暴力男がはびこり、進化してきたのだろう。それは暴力が彼の遺伝子のコピーを増やすことにつながるからこそではあるまいか。
どういう状況だったかはっきり覚えていないのだが、アメリカの何かのテレビ番組で中年婦人が若い女性に向かってこう忠告していた。
「男の浮気と借金と暴力は、病気だから治らないわよ。絶対に!」
浮気、借金、暴力は、男のどうしようもない本性だと言うのである。私は逆に、本性ならばこそ、それは遺伝子のコピーをおおいに増やす手段以外の何物でもないのではないか。そう考える。
暴力男がどうしようもない存在であることはもちろんだが、私はなぜこんなにも世の中には暴力を振るう男がいるのか、当の男さえもなぜ自分が暴力を振るってしまうのかわからない、という点に不思議を感ずる。そのからくりを考えたいのである。
女にとっての大きな恐怖と不安、男は傷つけ、女は傷つけられる……、そして性交排卵という現象の、さらに先にあるものはと言えば、それはレイプである。レイプで信じられないほどの高い確率で排卵が誘発され、子ができることは既によく知られている。
W・イエックルという医師は、第二次世界大戦後のドイツでレイプされ、妊娠した女性五四三人についてのデータを調べてみた。そうしたところ驚くべきことがわかってきた。排卵期の女がよく妊娠していることはもちろんである(それどころか排卵期にレイプされた女が|妊娠しなかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》という例は、まず見つからないくらいである)。ショート・ヴィジットやクリスマス、パールハーバー、ニューヨークの大停電などと同様、月経から排卵期の前までの期間にも、女はよく妊娠する。レイプが排卵を早めるからである。ところがレイプの場合にひときわ目を見張らされるのは、排卵が終わってから月経までの、妊娠しないはずの期間だ。この時期に女はもう一度排卵し、妊娠することが極めて多いのである。レイプが引き金となってまた排卵するということらしい。レイプの刺激とそれによって起こる女のパニックとは、それほどまでに大きな力となるようなのである。
こうしていくつかの現象を見てくると、喜びの感情の方はいいとして、一向にわからないのは不安や恐怖の感情である。そういったマイナスの感情が、なぜ女の排卵を促してしまうのだろう。開戦のパニックや大停電の不安の中で、あるいはレイプの大パニック状態で、子を作ったとして女はどうしようというのだろうか。
もっとも、敢えて探すとするならこれらの現象から読み取れるのは、女は何か特別な状況、格別大きな感情のうねりによって排卵するという文脈である。ショート・ヴィジット、クリスマス、パールハーバー、ニューヨークの大停電、レイプ(もしそれによって女が排卵するならSM、男の暴力も)……。
特別な状況というのは、まさか性交《セツクス》するとは夢にも思っていなかった状況で性交《セツクス》することになった、そんなことは初めてである、ということとして捉えられるかもしれない。とすれば、女にとっての初めての性交《セツクス》、初潮前の女の子の性交《セツクス》などもこの範疇に入るだろう。レイプなどはまさにそれそのものである。それにショート・ヴィジットだって「予想しなかった性交《セツクス》」だ。
女が傷つけられる、暴力を振るわれる、という文脈も一部では関わってくるだろう。SM、男の暴力、そしてレイプ。しかしそんな極端な話ではなくても、こんな例も関わってくるのかもしれない。男からのごく紳士的な、かつ肉体的な誘いに対し、女は軽く抵抗してみせることがある。「嫌よ、嫌よも好きのうち」というやつである。そうして女は、男がどれくらい本気であるか、女の抵抗に対する意志力があるのかを試そうとする。そういう性的なふざけあいの際にも、排卵は誘発されるのかもしれない。
それに、私は最近気がついたのだが、夫婦ゲンカというものも排卵にとって結構重要なのではないかと思う。口ゲンカ、物を投げたり、取っ組み合いのケンカ……。お互い感情は爆発し、女は軽く傷ついたりもする。排卵はおおいに誘発されるはずなのである。ケンカの仲直りとして性交《セツクス》するとよく言うが、それは実のところ逆の関係にあるかもしれない。つまりケンカの仲直りとして性交《セツクス》するのではなく、効率のいい性交《セツクス》をするためにケンカをする……? 一方、仲のいい夫婦にはなかなか子ができないという。それはこういうふうに、派手にケンカすることで排卵が誘発されるという機会が少ないからではあるまいか。
興奮すると女は排卵する……。しかしそれがどういう意味を持つのか、まだ定かではない。
妻が浮気をして初めて子ができる男 「カミカゼ精子」とは
中盤以降から見始め、しかも所々飛ばし飛ばしであるので細かい点は間違っているかもしれない。近頃私はテレビでこういう連続ドラマを見た。
薬師丸ひろ子扮する主人公は、ごく普通の主婦である。夫は一流企業に勤め、夫婦は都内にある、まあまあのマンションに暮らしている。生活は中の上といったところだろう。
ところが同居人として夫の母親がおり、このお姑さんというのが実に実に憎たらしい人なのである。いかに演技とはいえ、ここまで憎たらしいということは、やはり本人も普段から相当に憎たらしい人なんじゃないだろうかと想像させてしまう、それくらいの迫力なのである。そのうえこのマンションには夫の妹という小姑がしばしば訪れ(といっても実家だからしょうがないのだが)、いびるだけでなく、よけいな情報を吹き込んでは彼女を不安に陥れていくのである。
彼女と夫とは結婚して六年になるのだが、まだ子どもはいない。努力しているにも拘らず、できないのである。夫と彼女、どちらに原因があるのかはわからないが、とにかく彼女に子ができないということは姑や小姑の格好の攻撃材料となる。それだけならまだしもなのだが、そうこうするうち頼りの夫までもが社内の若いOLと浮気してしまう有様だ。八方塞がりの彼女。しかしそこへ現れるのが、白馬に乗った王子様ならぬ、若い新進の作曲家である(この人は自称作曲家などではなく、本当に有望な新人である。ちなみにこのドラマのタイトルは「ミセス・シンデレラ」となっている。なるほど意地悪な継母ならぬ姑、姉ならぬ小姑もちゃんといるわけである)。
彼と彼女がどのようにして出会い、惹かれあったのかは残念ながらわからない。私の見ていない初めの方の回に放送されてしまったようだ。ともあれ彼は、彼女の日常とは全く違う、異次元の世界の住人である。彼女はしばし現実を逃れ、逢瀬を重ねるようになる。やがて妊娠──。子の父親が夫であるのか、愛人の方であるのかは彼女自身にさえわからない。
夫とは六年間も子ができなかったというのに、今こうして子ができたとなれば誰しも父親は作曲家の方だと考えるだろう。実際、ドラマの中の彼女も最初はそう考えているふしがあった。海外へ留学する彼に、一緒に行こうと誘われ、パスポートまで用意する。ところがこれには思わぬ邪魔が入ったり、彼自身にアクシデントが起きたりで計画は頓挫した。やがて彼女は「(お腹の子は)あなたの子じゃないかもしれない」と夫に告げ、家を出る。ではそのまま作曲家の元へ走るのかと言えば、そうではなく(もっともそうもいかない事情もあるのだが)、結局どっちつかずの行動をとるようになるのである。
こういうふうに男からのしっかりとした保護がなく、産んでも子がよく育たないであろうと思われるような状況で、女はしばしば流産によって問題を切り抜けようとする(もちろん無意識のうちにである)。彼女も流産の危機を迎え、視聴者をハラハラさせるのだが、お腹の子は救われた。
さて私がこのドラマを最後まで見ようと思ったのは、実にこの、お腹の子の父親が誰であるかを見届けたかったからである。父親はまず圧倒的に作曲家の方である可能性が高い。それは、夫との間にこれまで子ができなかったという事実に加え、彼女にとって彼が浮気の相手であるということも大きく関わってくるからである。
拙著『BC!な話 あなたの知らない精子競争』(新潮文庫)をお読みになった方なら知っておられるだろう。何しろ「浮気は子どもができやすい」のである。
イギリスの動物行動学者であるロビン・ベイカーとマーク・ベリスが女性誌の読者を対象に行なった大々的な調査によれば、女は|EPC《ウワキ》をするときに、無意識のうちにそれを排卵期にあわせている。その一方で夫やパートナーとの性交《セツクス》は、これまた無意識のうちに妊娠の可能性の少ない月経前の時期を選ぶのである。もし排卵期に夫《パートナー》と愛人の両方と交わるとする。その場合にはより妊娠の可能性の高い日を愛人のために提供するのである。そうでなければ|EPC《ウワキ》をする意味がないからだ。|EPC《ウワキ》などという大変な危険を冒しておきながら、ただ性交《セツクス》を楽しむだけ。それでは、たとえ本人はそのつもりであったとしても意味はない。女にとって|EPC《ウワキ》とは、愛人の子を宿し、その子を何も知らない亭主に育てさせる──そういう恐ろしい企みだからである(それにまた女は、|EPC《ウワキ》のときには|IPC(ペア交尾)に比べ、無意識のうちに避妊を怠っているという)。
|EPC《ウワキ》で子ができやすいことには、男の方にも原因がある。
ベイカー&ベリスは男がパートナーである女と性交《セツクス》した場合、放出される精子の数は彼女との前回の性交《セツクス》からの経過時間、特にその間にいかに彼女と一緒に過ごし、ガードしていたかによって著しく変化することを発見した。女のガードが甘かった場合、もしかしたら彼女は他の男と性交《セツクス》しているやもしれず、そのことによる被害を食い止めるためにはとにかく精子を多数送り込むことだろう。そうして彼女の卵が他の男の精子によって受精させられる確率を引き下げるのである。女のガードがしっかりなされていたら、その場合には彼女が|EPC《ウワキ》をしている可能性は少なく、従って彼女の卵が他の男の精子によって受精させられる確率も低い。男としてはあまり精子を送り込む必要もないだろう。こうして男は女のガードの具合によって精子を多く出し、あるいは少な目に出す、そういう調節を加えているというのである。
この研究は──研究の都合上それはいたし方のないことなのだが──男と、パートナーである女との間に起こる現象についてのみ調べられている。しかし実のところ、男にとっての女はパートナーであってもなくても関係ない。要は、男が女と性交《セツクス》した場合、それまで彼女をよくガードしていたか否かによって精子の数を調整する、という話なのである。だから男にとって本当に重要なのは、相手がパートナーかどうかではなく、最近よくガードしていた女か、そうでない女なのかという違いなのだ。
男とその浮気相手、あるいはこのドラマのように女と愛人とが性交《セツクス》する場合、彼らはお互いパートナーではないわけだから、おそらくは前回の性交《セツクス》からほとんど一緒に過ごしてはいないだろう。男にとって女のガードは大変に甘い。精子はさぞかし大量に放出されるだろうと考えられるのである。さらにベイカー&ベリスの別の研究によれば、それら精子は生きのいい、精鋭部隊でもある。
ついでながらちょっとお耳に入れておきたいのだが、この、女のガードという観点はいろいろと便利で、こんな現象をも説明することができるのである。
恋人時代には男は女と、実にヤリたくてヤリたくてたまらない。ところが彼女と結婚し、晴れて夫婦となったとたん、なんだか急にその気が失せてしまう。性交《セツクス》はもはや義務でしかなくなってしまう……。
あるいは不倫関係にある男と女が会うと必ず、行なう。二時間しか会えなくても然るべき場所へ駆け込み、行なう。「私はヤルだけの女なの?」と女が不満を抱き、「逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月」(『チョコレート革命』河出書房新社)などという歌が俵万智さんによって作られたりもする。ともかくこれらいずれのケースにも女のガードという問題が絡んでいるのである。
恋人どうしの男と女は一緒に住んでいるわけでもなし、会うのはせいぜい週に一回か二回といったところであろう。女のガードはかなり甘い。男は、会えば必ずといっていいほどにヤル必要があるし、またそうしたいと欲している。ところが結婚して一緒に暮らし始めてみると、もはや女のガードは十分である。何しろ毎晩帰宅し、妻を監視している。そのうえ性交《セツクス》する必要が、あるのだろうか。
不倫の男女ということになると、恋人どうしよりももっと状況が厳しい。何しろ彼らは人目を忍ぶ仲である。逢瀬の時間は短く、かつ間隔も何週間に一度、何カ月に一度というくらいに長い。女のガードは極めて甘い。男は会えば必ず、何をおいてもまずヤラなければならないのである。「ヤルだけの女」なのではなく、「ヤラねばならない女」なのである。
──閑話休題。そして|EPC《ウワキ》で子ができやすいことには、例の性交排卵という現象もおそらく関わっているはずである。女はパートナーと久しぶりに再会したり、見知らぬ男にレイプされるなど、いつもと大分違った状況に置かれると思わず排卵してしまう。女が|EPC《ウワキ》で排卵しやすいということも大いにありうる話なのである。
こんなにもいろいろな意味で|EPC《ウワキ》で子ができやすい。ドラマの中の子の父親は、夫ではなく愛人の方である可能性が大変に高いのである。
しかしそれでも、父親は断固ダンナの方であると私は直感した。
一つは簡単なことである。ドラマの展開上の問題というものだ。つまり、平凡な主婦が浮気をしました。相手は別世界の人間で、子どももでき、彼と彼女は幸せに暮らしましたとさ、では(まあそれでもいいけれど)ちっとも面白くないのである。あるいは、浮気相手にもダンナにも捨てられ、彼女は不幸な最後を迎えましたというのでも冴えない。いずれにしても視聴者の共感を得ることができないのである。女は浮気のときめきを味わうだけ味わう。視聴者もおおいに味わわせてもらう。しかし結局、彼女はダンナとよりを戻し、最後はハッピーエンドとなりましたというのが最も無難なストーリーだろう。そのためには子の父親は、断固ダンナでなくてはならないのである。
そしてもう一つには、つまり子ができないはずの夫に突如子ができ、それも妻が愛人を何かと優遇したり、愛人も張り切って多数の精子を放出していても、なお夫が勝利するという大逆転劇には、こんな生物学的な説明が可能だからである。
この夫が|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》向きの男であり、彼は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に照準を合わせて進化してきている。彼は妻が貞淑である限りその真価を発揮することができない。が、一転して彼女が|EPC《ウワキ》をし、卵をめぐって複数の男の精子が争うという|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の状況が発生すると、そのとき初めて本領を発揮する。そういう男であるとする。そうとなれば、なぜ彼がそれまで彼女を妊娠させることができなかったのか、そして突如として今度は妊娠させることができたのかをきれいに説明することができるのである。
|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》に勝利するためには、男はとにかく精子を数多く生産することである。卵が他の男の精子によって受精させられてしまう機会を、多くの精子を送り込むことで阻止しようとする。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》向きの男は、精子の製造元である睾丸をさぞかし発達させていることだろう。
ところがここに一つ困った問題がある。こういう男は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》がたとえ起きていなくても、非常に多くの精子を女に送り込んでしまうのである。卵に到達する精子の数も、これまた大変に多い。多くても別に構わないじゃないかと思われるかもしれないが、そうではないのである。精子は卵の受精のために、卵膜を突き破る働きのある酵素を搭載しているが、それは卵を弱らせたり、殺すことさえもある。卵を取り囲む精子があまりに多いと、かえって受精が起こりにくくなってしまうのだ。それに精子が多いと、もし受精が起きたとしても、しばしば多精という結果に終わることがある。多精は卵が二つ以上の精子によって受精させられることだ。それによって卵は正常に発生することができず、流産になるなどし、これまた悪い結果となるのである。こうしてまずこの夫が、妻が|EPC《ウワキ》をせず、従って|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》も発生しなかった六年間、なぜ彼女を妊娠させることができなかったかという謎が解き明かされるだろう。
では、妻が|EPC《ウワキ》をし、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が発生すると、なぜ彼は彼女を妊娠させることができるのだろう。そのとき彼女の生殖器は、夫と愛人という二人の男からの精子で一杯である。卵を取り囲む精子も二人分のはずである。夫一人分の精子でさえ多すぎ、弊害が起きるというのに、そのうえ愛人の分も加わるとなれば……。それなのに夫が本領を発揮するというのは、これはいったいどういうことなのか。
さあ、皆さん! ここが最も肝心な点です。我々は、ある驚くべき仮説の存在を知らなくてはなりません。
精子と聞くと我々は、とにかく卵に向かってまっしぐらに突進し、卵を受精させようと必死になっている姿を想像する。精子はすべて卵を受精させるためのものだと考えている。ところが件《くだん》のロビン・ベイカーとマーク・ベリスによれば、それは全くの間違いだということになる。
精子はすべてが卵を受精させるためのものではない。人間なら一回に何億という数の精子を放出するが、そのうちで受精させる役目を持つ者はわずか数百万。残りは他の男の精子の侵入を阻んだり、あるいは本当に精子を殺したりする役目を持つと彼らは言うのである。
彼らは、受精させる役目を持つ精子を「エッグ・ゲッター」、他の男《オス》の精子の侵入を阻む役目の者を「ブロッカー」、他の男《オス》の精子を殺す役目の者を「キラー」と呼んでいる。さらにブロッカーとキラーとは、受精というおいしい部分をエッグ・ゲッターに譲り、本人たちはひたすら敵をやっつけるために命を惜しまない。その姿がまるであの「神風特攻隊」のようだということから、「カミカゼ精子」(Kamikaze sperm)と呼んでいるのである。この仮説自体も「カミカゼ精子仮説」と呼ばれている。
精子というものの大部分は、つまるところ他の男《オス》の精子の侵入を阻んだり、実際に殺したりするための兵士である。女がもし二人以上の男と何日(あるいは何時間?)も空けずに性交《セツクス》し、精子を取り込むとすると、彼女の体の中では|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が、いや、これはもはや「戦争」とでも言うべき事態が起きることになる。双方の「軍隊」どうしが邪魔のし合い、潰し合いをするのである。一方、女がいくら頻繁に性交《セツクス》したとしても、それが同じ男とばかりであるのなら「戦争」は起きない。従って邪魔のし合いも、潰し合いもないのである(とはいうものの同じ男の精子どうしの間にも、少しばかりの「戦争」が起きるものと考えられている)。
ベイカー&ベリスのこのカミカゼ精子仮説を知ったとき、実のところを言えば私はあまり驚きはしなかった。むしろ、「そりゃそうだろう、精子もやっぱりそうだったんだ」と思ったくらいである。というのもこういう、個体なり細胞なりの大集団の中に役割分担があるという現象は、生物の世界では珍しくないことだからである。
ミツバチのコロニー、アリやシロアリなどのコロニー、それに我々の体が体細胞と生殖細胞に分かれていることなども例に挙げられるかもしれない。つまり遺伝的に非常に近いか、時には遺伝的に全く同じという個体なり細胞なりが、大集団や一つの個体を作って何らかの働きを遂行しようとする。そのとき、必ず役割の分担というものが現れてくるのである。すべての個体や細胞が同じ一つの働きをするというのでは、おそらくあまり効率がよくないからだろう。
ミツバチのコロニーには繁殖を一手に引き受ける女王バチが一匹おり、その他のメスはワーカー(働きバチ)で繁殖しない。ミツバチのコロニーの大部分はこのワーカーで構成されている。残りは少数ながらオスで、彼らは一切仕事をしないが、さすがに繁殖にだけは関わっている。結婚飛行のときに女王と飛びながら交尾するのである。しかし交尾の直後、彼らは哀れにもショック死し、墜落してしまう。
アリのコロニーもミツバチとほぼ同様である。ただワーカー(メス)に兵アリと職アリの区別があることがある。
シロアリの社会には王と女王がいることが特徴だ。結婚飛行のときだけ交尾し、後は一切交尾せず女王がひたすら子を産み続けるミツバチやアリの場合とは違い、彼らは常に交尾しつつ子を産んでいる。シロアリのワーカーにはオスもメスもおり、さらに多くの場合、兵アリと職アリの区別がある。
そして我々の体だが、まず繁殖に関わる生殖細胞と、そうでない体細胞とに分かれている。体細胞はさらに、我々の手や足、頭、首、胴といった体の各パーツに、心臓や胃、肝臓、腎臓、腸といった内臓の各パーツにというようにいろいろと役割が分かれているのである。
繁殖に関わらない個体や細胞は、繁殖を担う者たちにおいしい部分を取られてしまって損ではないかと思われるかもしれないが、そうではない。それらが遺伝的に近いのなら、特に遺伝的に全く同じであればなおさらのことだが、繁殖役の者たちが代わりに繁殖してくれる、ただそれだけのことで決して損ではないのである(それどころかハチやアリでは、その方がワーカーにとって得であるという逆説的な現象すら起きている。詳しくは『そんなバカな!』参照)。すべての個体や細胞が繁殖しようとして能率が悪いという状況だけは避けなければならないのである。
精子の世界も同じことである。それは一人の男《オス》から作り出された、遺伝的に非常に近い細胞(生殖細胞)の何億という集まりである。それらに受精させる者、他の男《オス》の精子に対する防衛に当たる者というように役割の分担が存在したとしても、それは別段不思議なことではないのである。ただ、個々の精子どうしは遺伝的に全く同じというわけではない。その点において争いが起きることもあるのだが。
エッグ・ゲッターは頭が少し大き目のもの、我々が普通、精子として思い浮かべ、最もノーマルなものだと認識している、頭が卵形の精子が実はキラーである。数としてはキラーが最も多い。キラーは搭載している酵素を化学兵器として使い、他の男《オス》の精子を殺す。あるいは主に頭突きによる取っ組み合いで相手を破壊したりもする。ブロッカーは一般に年老いた精子である。女の体の中に入ると尾をコイルさせるという特徴を持っている。コイルした尾どうしを絡み合わせてネットを作り、それを他の男《オス》の精子をブロックするための障壁とするのである。キラーが古くなってブロッカーになることもある。
ともあれこうしてみると女の体内では、もし違う男の精子どうしが出会うとすると「戦争」が起きることになる。戦争が起きればお互い死者≠ェ出たり、負傷者≠ェ出たり、あるいは相手の男の精子にブロックされて行く手を阻まれたりするだろう。精子は戦争が起きていないときほどには卵に近づくことはできない……。ところが、実にここがポイントである。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》向きの男にとっては、こういうときこそがチャンスなのだ。いや、彼はそういうことが起きることを前提として、日頃精子を多めに作っている。彼は|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が起き、「戦争」が起きて、初めて|ほどよい《ヽヽヽヽ》数の精子を卵にまで到達させることができる。そして女を妊娠させることができるというわけなのだ。
件のドラマでは結局ダンナが、「血液鑑定が何だ。DNA鑑定が何だ。誰が何と言おうとその子はオレの子だ」と言い放ち、実にカッコよく、実に頼もしく、彼女とお腹の赤ちゃんとを引き取っていく。そして六年後、幼稚園の学芸会のシーンが映し出される。子の父親が誰であるのかの説明は全くないが、主人公《ヒロイン》が嬉しそうにヴィデオカメラを回す様子、一家が何より幸せ一杯である様子、そして子役の男の子が眉毛の濃い、長ーい顔の、夫役の俳優さんそっくりの風貌であることがすべてを物語っていた。やはりダンナは|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》向きの男であったのだ。彼は妻が|EPC《ウワキ》をし、|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が発生して初めて我が子を得ることができたのである。しかしその後この夫婦に子は生まれていない。夫婦の仲が円満で、彼女が|EPC《ウワキ》をするなどという事態が、二度と訪れることはなかったからなのだろう。けれど、それがこの男にとっていいことだったのか、悪いことだったのか……。
子ができなくて悩んでおられる男性《あなた》、一度奥さんに|EPC《ウワキ》してもらうなんて方法はいかがなものでしょう。
女が浮気をするとき 三人目の子にご用心
つい引き込まれてしまい、田辺聖子さんの短編を、気がついたときには三〇も読んでいた。
名人と言われるだけあって話の展開、人物の描写など聞きしに優る素晴らしさである。いかにも仕組んだ、取材しましたという様子が見られず、まるで主人公が半ばとくとくとして自分の体験を語っているような錯覚に陥ってしまう。中年男が主人公のものにはほどよい哀感が漂い、滑稽でもあって特に私好みだ。そんな哀れな中年物にこんな話を見つけた。
男は四三歳である。再婚の妻、笑子《えみこ》(三五歳)の他に、亡くなった前妻との間にできた女児(五歳)、妻の連れ子の男児(小学五年)、の四人家族である。
この笑子というのが実に大らかで明るく、妻、いや女の鑑《かがみ》とでも言うべき理想的な人物である。細かいことにはこだわらず、万事|鷹揚《おうよう》に構えている。それでいて家計がドンブリ勘定であったり、贅沢をするわけでもない。ダンナが会社で嫌な思いをしたときなど、熱心にグチを聞いてくれてそれだけでも有難いことなのに、
「いやなこと、会社であったかて、忘れてしまい。あたしが唄《うと》うたげるよって」
と陽気に踊りつきで島唄を披露するのである。彼女は九州の南方か沖縄方面かの離島の出身で、色白、眉毛は濃く、まつ毛も長くて目がパッチリとした(田辺さんは言っておられないが、おそらく二重|瞼《まぶた》で黒目の部分が大きい)、かわいい女である。そして何と言っても色っぽく、好色な一面さえも持っている。
それに引き換え前のヨメハンは……と男は亡き女房を回想する。彼女は日常の万事において口やかましい女だった。やれ座布団は二つ折りにして枕にするな、タバコの灰を落とすな。酒もタバコも大嫌い。日本酒は燗《かん》が面倒だし、ビールは場所をとるのがいや。そもそも酒もタバコも体によくないからと、なかなか呑ませてくれないのである。会社のグチを言おうものなら、
「会社の愚痴はいわんといて。聞いたかてわからへんし、こっちまで気が滅入るわ」
と冷たく突き放されてしまう。このヨメハンの出身地は地元大阪だ。
ああ、笑子はええヨメハンや、本当の幸せとは平凡でもいいから笑子のような女と温かい家庭を築くことや、などと男はつくづく感慨にふけるのである。
ところが、ある日──。笑子が書き置きを残して失踪《しつそう》した。男と駈け落ちした模様である。噂によれば、なんでも相手は彼女より一回りも年下ということだ。男は愕然《がくぜん》とするよりは、なぜあの女が……とひたすら不可解なのである。
しかし考えてみれば笑子の優しさは、自分一人のものというわけにはいかないのだ、「春風は大庭《おおば》(自分)にだけ吹くわけはなかったのだ」と男は妙に納得する。笑子はいつか必ず帰って来るさ、いや、帰って来られる雰囲気にしとかなあかん、そう彼は自分に言い聞かせるのだった。
この「おとこ商売」(『うつつを抜かして』文春文庫より)という短編を読んだとき、我が意を得たり、と私は思わず膝をたたいてしまった。
さすがはお聖さん、よう人間を見てはる!
九州や沖縄地方の人間(特に女)が大らかで明るく、細かいことにはこだわらない性格であること、ルックスがよくてカッコいい、そして最も肝心なことに色っぽくて浮気っぽくてスケベエであるということ、逆に関西人などはガミガミ屋で窮屈である、というのは私のかねてからの持論でもあるのである。
「吉本」の芸人さんなどを通してしか関西を知らない他地方の人々には、なかなか理解できないことかもしれないが、私の見るところ関西人の本質は、実にこのガミガミと口やかましいという点にある。他人の日常に干渉し、やたらと制約をつけたがる。彼らの口癖は、「何々せなあかん」、「何々でないとあかん」、「何々ではあかん」、であり、物事を四角四面に捉えたがる傾向があるのである。
私がまだ京大理学部の日高研究室にいた、二〇代後半の頃だった。研究室関係の何かの会に同席した初対面の男性が私の年齢を知るや否や、
「ほな、そろそろ結婚のこと、考えなあかんのとちゃうの」
と言った。二〇代後半の女は結婚を視野に入れて生きなければならない、となぜ言下《げんか》に決めつけてしまうのだろう。人それぞれではないか。
もっともその人は社交辞令のつもりで言ったのかもしれないし、私も私で、
「そうなんですう。誰かいい人いませんか」
とか何とかウソでもいいから言っておけばよかったのである。が、なにしろ私はそういう器用なことができない。もし言ったとしてもそうした後に、自分に対し腹が立って腹が立ってどうしようもなくなってしまうのだ。私は例によってそのまま口を閉ざし、二度とその人とは口をきかなかった(ように記憶している)。
あるいは九州出身の知人などはこんな体験をしている。
あるとき彼女は卒論の追い込みのために、午前二時まで起きて仕事をしていた。翌朝、出がけに別棟に住むアパートの大家さんにバッタリ会うと、大家さん曰く、
「ゆうべ遅うまで電気ついてましたなあ」
「よくがんばっていますね」という意味ではない。「そんな遅うまで起きていったい何しとんのや。どうせよからぬ深夜放送でも聴いとったんやろう」とでもいう意味なのである。しかしそもそも、そんな時間になぜ大家さんは起きていたのか……? 関西人が何やかやと口うるさく、人生を手堅く手堅く、抜け目なく生きようとしている、しかもその人生観を他人にまでも押しつける傾向があることは意外と知られていない事実なのである。
一方、九州、沖縄地方などの出身者が大らかで明るい性格で、ルックスがよい、色っぽくて何よりスケベエであるということは、まず私自身の経験からしてそう言える。それらの地方の出身で、異性の問題に縁が薄く、かつガミガミと口うるさい人間に私はまだ出会ったことがない。
さらにはそれは芸能の世界で九州、沖縄出身者がいかに目立っているかという事実を見てもよくわかる。
スキャンダル女王として君臨する某歌手、一回り年下のダンサーと結婚し、別れる、別れないでモメにモメ、結局別れた某歌手、などと九州出身者は年を重ねても旺盛で、常に色恋沙汰の渦中の人である。
『小説新潮』(一九九八年一月号)を読んでいたら、こんなルポがあった(「アムロに育てられた男」野地秩嘉執筆)。
アムロを育てた沖縄の芸能スクールの主催者は、東京の出身である。氏は自他共に認める、超女好きの超遊び人。過去にはジャズクラブを開いては失敗、スキー場の経営を試みるが雪が降らず倒産、と様々な遍歴を重ねた。その彼が「一発ではま」り、ついには住み着いたのは沖縄だった。理由は女であるという。氏曰く、
「郡山とか仙台じゃ、いくら僕が女好きでもはまらないよ。ところが沖縄って……」
沖縄は女のレヴェルが高いというのである(といって彼が言うのは主に酒場での水準だが)。
それにまた最近、九州女の実力をまざまざと見せつけられたのは、渡辺淳一さんのベストセラー『失楽園』である。ヒロインの凜子《りんこ》役を映画とテレビで二人の女優が競演した。前者は九州出身のHさん、後者は我が名古屋出身のNさんである(どちらも姓がKさんなので名をイニシャルとさせていただく)。
お二人とも甲乙つけ難い美女であることは間違いないのだが、色っぽさということになると残念ながらHさんの方に軍配を上げざるを得ない。
Nさんも確かにかなり色っぽいのである。名古屋人としては突然変異というくらいに色っぽく、かつ好き者である。しかしそれは、ちょっと無理をされているのではないかという感じが伝わって来なくもない。私はこんなに好き者なんですよ、と思わせぶりな言葉でアピールし、セクシーな仕草やポーズをとってようやく、ああこの人は好き者なんだと気づくようなものである。
そこへ行くとHさんは凄い。彼女がそこに佇《たたず》んでいるというだけで、もうそれだけで好き者。Nさんのように何か言葉を発したり、ポーズをとったりしなくても好き者なのである。好き者のオーラが体全体から発せられている。好き者の境地、ここに極まれり、である。
なぜ九州、沖縄地方の人々が性格が大らかで明るく、ルックスがよくてスケベエ、好き者なのか。
それは彼らが、日本人の中でも特に、縄文人の血を濃く受け継いだ人々だからである。この縄文人が、大らかで明るく、カッコよくてスケベエだった、と私は考えている。『縄文人は飲んべえだった』(岩田一平著、朝日文庫)という本があるが、彼らは同時にスケベエでもあったのだ。
日本列島に元々すんでいたのは縄文人である。縄文文化を花開かせた、縄文人だ。ところが紀元前三世紀頃から紀元七世紀にかけての約一〇〇〇年の間に、大陸から朝鮮半島を経て渡来《とらい》人の波が押し寄せた。彼らは縄文人を駆逐しつつ、混血し、最後には主に近畿地方に定着した。日本のほとんどの地域には、二つの勢力の大掛りな混血が起きているのである。その混血がそれほど起こらず、縄文の血を守り続けたのが九州(特に南九州)、沖縄地方、そして東北地方などである。渡来系の血が色濃いのはもちろん近畿地方だ。
渡来人は、大陸で寒さに対する適応を遂げた新モンゴロイドの一派で、縄文人はそういう進化を遂げなかった古モンゴロイドの一派である。
意外に聞こえるかもしれないが、人類史上において過去に最も厳しい寒さを経験し、それ相応の進化を遂げたのは普通考えられるように白人、つまりコーカソイドではなく、モンゴロイド、それも新モンゴロイドと呼ばれる人々である。ニグロイドはもちろんのこと、コーカソイドでさえ彼らほどの寒さは体験してはいない。新モンゴロイドは今から二万年くらい前の、最後の氷河期がピークに達する頃、地球上で最も冷え込んだシベリアの東部にすんでいた。その際に寒さに対する適応として、偏平な顔や一重瞼、胴長短足などという魅力とは程遠い特徴を備えてしまったのである。
一方、古モンゴロイドの一派である縄文人は、渡来人以前に日本列島にすんでいたものの、やはりまたその祖先は他の地域からやってきている。そのルーツの地ははるか南方の、現在で言うならマレーシアやインドネシアの島々のあたりであるらしい。彼らは新モンゴロイドのような寒さを経験せず、寒さに対する適応を遂げなかった、逆に高温多湿の気候を長年にわたり経験したのである。
そうすると、なぜ縄文人は性格が大らかで明るく、色っぽく、カッコよく、かつスケベエだったと考えられるのか。それが高温多湿の気候といったいどう関係するのだろう。
かつて南方の高温多湿の気候条件の下、縄文人は寄生者《パラサイト》の脅威をまともに受けた。女は男を主に寄生者《パラサイト》に強そうかどうかで選んでいたのである。そういう必要に強く迫られていたからでもある。そして一夫一妻制の常として、女は必ずしも寄生者《パラサイト》に強そうな理想の相手とつがえるわけではない。不満は大いに|EPC《ウワキ》することで補ってきただろう。そういう意味でまず彼らは浮気っぽく、スケベエだったと考えられるのである(逆に新モンゴロイド系である渡来人は、日本にやって来るまでの大半を寒冷な気候の下に暮らしており、寄生者《パラサイト》の脅威にさらされることは比較的少なかった。従って女が寄生者《パラサイト》に強そうな男を選ぶ必要に迫られず、まして|EPC《ウワキ》をしてそういう男の遺伝子を取り入れる必要もなかったのだ。彼らはその代わりにガミガミと口うるさくなった?)。
しかし寄生者《パラサイト》に強そうな男を選ぶとして、女はどうやってそれを見分けるのか。
鳥を思い出してみよう。メスがオスを選ぶ基準は(|EPC《ウワキ》の場合にはよけいそうだが)、羽が美しいことや胸のバッジが大きいこと、歌がうまいとかレパートリーが広いということ、それに求愛のダンスがうまいといったことである。それらが結局のところ、オスの寄生者《パラサイト》に対する抵抗力を知る手掛りとなっているからである。それらの魅力を魅力と感じ、魅力あるオスを選ぶメスは、ひいては寄生者《パラサイト》に抵抗力のあるオスを、そしてその抵抗力を受け継いだ子を得ることになるのである。少なくとも鳥において、メスは寄生者《パラサイト》に強いオスを、様々な魅力を手掛りにして選ぼうとしているのである。
人間についても同じことではないだろうか。女はカッコいいという魅力を感じた男を選ぶ。それが寄生者《パラサイト》に強い男を選び、ひいては寄生者《パラサイト》に強い子を得るという結果につながるのである。寄生者《パラサイト》に強いオスを、魅力を手掛りに選んでいるのだ(もちろんそんなことを女が意識しているわけではないが)。
カッコいいというのは何もルックスに限られるわけではなく、声がいいとか歌がうまい、ダンスがうまいといった、あらゆるカッコよさが含まれるだろう(それに異性に好かれるには、性格は暗いよりも明るい、神経質よりも大らかであることが重要なはずである。ガミガミと口うるさいなどもっての外)。
動物でわかったことを安直に人間に応用していると批判する人もいるだろうが、どう考えてもそうとしか思えないのである。寄生者《パラサイト》に対する抵抗力が体形やルックス、その他の性的な魅力として現れる。それらを寄生者《パラサイト》に対する抵抗力という生存に直結する大問題の手掛りとする。いや、そうであるからこそ、それら手掛りに対し、単なる手掛りであるという認識を超え、魅力である、カッコいい、どうしようもなく素敵だという激しい感情が女に備わってきたのではないだろうか。
何の意味もない、ただただカッコいいだけの体形、ただただ素敵なだけの声や歌のうまさ、ダンスのうまさ……。そういうものがはたして存在しうるだろうか。いや、そういうものが仮にあったとしよう。あったとしてそういう男を、女が選んだとする。どうなるのか。
二〜三代のうちはそれでいいかもしれない。ところがそれらの魅力には何の実質も伴ってはいない。魅力は持っていてもそれこそ寄生者《パラサイト》に弱いとか、とにかく生存していくうえで何も有利なことはない。そういう実質を伴わない魅力というものは、早晩淘汰される運命にあるのである。女が魅力と感じるもの、素敵で素敵でたまらないと感じる男の魅力には、それがたとえ寄生者《パラサイト》に対する抵抗力を示すものでなかったにしろ、深い深い存在理由があるはずなのである。
カッコいいという魅力のうち、少なくとも手足が長い、指が長いという件に関しては、私なりの説明をつけることができる。
手足とか指というものは、要は体の末端に近い部分という意味なのである。
体の成長期に寄生者《パラサイト》、たとえば回虫やギョウ虫のような腸管寄生虫にやられている人間はどう成長するだろう。おそらく栄養不足のために、手や足、特に指などの末端部の成長が阻害され、疎《おろそ》かにされるはずである。寄生虫の立場に立ったとしてもそれは同じで、末端部の成長など、どうでもいいこと。彼らにとって重要なのはすみ場所である腸管である。つまり、ゆったりとした胴体スペースを確保することである。そういう意味でも体は胴長短足、指は短いという傾向に成長するだろう。
手足の長さについてはともかくとして、指の長い男が素敵だと思うのは私だけかと長い間思ってきたが、何人かの知人に聞いてみたところ、指の長い男が好きだという女は物凄く多いのである。女は男の指の長さ、美しさに魅了されていると言ってもいいくらいだ。男の中には、
「何をバカな。指の長い男が好きだって? フン、つまらないものにこだわるんだねえ、女は。だから女はバカだって言われるんだよ!」
などと悪態をつく連中もいるに違いないが、何度も強調するように、女の好きなもの、魅力を感ずることには寄生者《パラサイト》に対する抵抗力という重大問題が関わっている可能性があるのである。女をバカにしてはいけない。
指の長さが男の魅力となっていることは、たとえば指にタバコをはさんでテーブルに肘をついたり、口元へタバコを持ってきたりするようなポーズが男の一つのカッコよさとなっていることからもうかがえる。タバコは指の長さを引き立てる小道具なのである。
タバコと言えば、以前、トヨエツこと豊川悦司さんがタバコのコマーシャルに出ていた。彼がやたら女の視線を集めるのは、結局のところ指の長さにあるのではないだろうか。とりたてて美男というわけでもない彼が滅茶苦茶にモテるのは、長身痩躯であること、足が長いことももちろんだが、何と言っても指が長いことに尽きると言える。実を言えば女にとって重要なのは、身長より手足、手足より指である。それは、より末端部を重視するという意味なのである。末端部の方が寄生者《パラサイト》の影響がよりシビアに現れるだろうから(女がなぜ男の美しい指に惹かれるかということを始めとする諸問題については、その後びっくりするような大展開があった。知りたい方は拙著『シンメトリーな男』、新潮社をご覧下さい)。
縄文人の女は、カッコよさや何か性的な魅力によって男を厳しく選び続けてきた。婚姻の後にはもちろん|EPC《ウワキ》し、その場合には当然のことながらとびきりの魅力ある男を選んだ。こうして縄文人はますますカッコよく、魅力的に、そして色っぽくスケベエになったのである。|EPC《ウワキ》をするほど美しい、いや、|EPC《ウワキ》をするほどカッコよくて色っぽいというわけなのだ。
鳥で美しくカッコよくなるのはオスの側と相場が決まっているが、人間では男も女もカッコよく、魅力的になる。それはたとえば、生殖腺刺激ホルモンは男においては睾丸を、女においては卵巣の発達を促し、それぞれ男の魅力、女の魅力を発揮させる元となっている。生殖腺刺激ホルモンの分泌が盛んな、魅力的な父親からは魅力的な息子だけでなく、魅力的な娘も生まれるからだ、というような具合に説明できるかもしれない。
縄文人の社会では|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しかったであろう。|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》が激しいのならさぞかし睾丸も……というわけなのである(最近、地域別の男の精子数というものが調査され、九州男は精子の数が多いという結果が出た。縄文系である彼らは睾丸が大きいはずで、それはあまりにも当然のことなのである)。
こうして縄文人(古モンゴロイド)はカッコよくスケベエだった、逆に渡来人(新モンゴロイド)はそれほどカッコよくもなければスケベエである必要もなかったという問題、そしてその背景を見てくると、もはやコーカソイドとニグロイドについては議論する必要もないくらいである。
コーカソイドやニグロイドの人々が、我々モンゴロイドよりもはるかにカッコよく、性的な魅力に満ち溢《あふ》れていることは疑いようがない。実際彼らは、睾丸の大きさで我々を圧倒する(コーカソイドはモンゴロイドの約二倍、ニグロイドについては詳しいデータがないが、それ以上であることが予想される)。睾丸や卵巣の発達を促す生殖腺刺激ホルモン、その分泌される元である脳下垂体の平均的な大きさにしても、モンゴロイド六〇〇ミリグラムに対し、コーカソイド七〇〇ミリグラム、ニグロイド八〇〇ミリグラムという違いを示すのである。彼らは間違いなく|精 子 競 争《スパーム・コンペテイシヨン》の激しい社会に生きてきた。女が男をカッコよさ、性的な魅力で選び、そのためによく|EPC《ウワキ》をするという社会に生きてきた。しかしそれというのも寄生者《パラサイト》の脅威のためだ。女が寄生者《パラサイト》に強そうな男を選び、彼の遺伝子を受け継いだ寄生者《パラサイト》に強い子を得ようとする。その大目的のためにやむなく(?)|EPC《ウワキ》をしてきたのである。ニグロイドの人々にとっては過去も現在も寄生者《パラサイト》は脅威であり続けている。コーカソイドについては現在はともかく、過去には相当な脅威にさらされていたのだろう。
その、|EPC《ウワキ》である。
女が|EPC《ウワキ》するのはいいとして、それはいつ、どのような状況の下で行なわれるものだろうか。若い頃は性交《セツクス》自体が盛んであるし、|EPC《ウワキ》もまた盛んなのだろうか。それとも|EPC《ウワキ》は主に中年になってからのものなのか……。
ロビン・ベイカーとマーク・べリスは、イギリス人女性を対象にアンケートを実施し、三〇〇〇人以上からの回答を得ている。それによると、女はまず年齢を重ねるにつれ、ある時期には|EPC《ウワキ》しにくくなったり、またある時期には|EPC《ウワキ》しやすくなったりする。
一四〜二〇歳の女が|EPC《ウワキ》する確率はおよそ六パーセントである(この確率というのは、すべての性交《セツクス》のうちで|EPC《ウワキ》の性交《セツクス》がどれくらいあるかという割合を示している。またこれらのデータはパートナーのいる女についてのみのものである)。二〇〜二五歳の女はおよそ五パーセント、二五〜三〇歳 四パーセント、三〇〜四〇歳 八パーセント、四〇歳以上 一〇パーセントという値である。若い頃には幾分浮気っぽいが、結婚年齢が近づくにつれ貞淑となる。しばらく貞淑のままでいるが、中年以降にはかなり浮気っぽくなる、それは若い頃を凌ぐ……と、このような傾向が読み取れるのである。
同じ調査を、子どもが何人いるか、という切り口で見てみると、もっとはっきりした傾向が現れる。
子どもがいない女が|EPC《ウワキ》する確率は、およそ五パーセントである。一人いる女の場合には、およそ三パーセント、二人いる女で一〇パーセントである。ところが三人いる女となると、一六パーセント、四人以上いる女の場合にはなんと三一パーセント、とウナギ登りに増えていくのである。最後の三一パーセントという値などは、女は三〜四回に一回の割合で|EPC《ウワキ》の性交《セツクス》をする、ということを意味している。もっともこれは平均値で、|EPC《ウワキ》する女はするのであるし、しない女はしない。「する」派の女は、もっと頻繁に、たとえば二回に一回くらいの割合で|EPC《ウワキ》の性交《セツクス》をしているのかもしれないのである。|EPC《ウワキ》というより、二股?
こうしてみると、女が|EPC《ウワキ》に積極的になるのはどうやら三〇歳代以降、ダンナとの間に二〜三人の子を生《な》してからということになりそうだ(実際、女の性欲が最も高まるのは、意外なことにと言うべきか中年期で、これらの事実とよく符合している)。でも、なぜだろう。
ダンナとの間にまだ一人も子がいない段階で|EPC《ウワキ》をし、子を作ったとする。夫にバレなければよいが、バレたときには大変である。その子はダンナの子ではないわけだから、彼は子ともども自分を見捨てるのがオチであろう。まだ子がいない場合には、あまり|EPC《ウワキ》しないのが得策なのである。
子が一人しかいない女の場合、彼女が|EPC《ウワキ》するのはまだ時期尚早、と言わなければならない。|EPC《ウワキ》の結果、子を作り、その子が実の子ではないと夫にバレたとき、どうなるか。まだ一人も子がいない場合と同様で、子ともども(その中には彼の実の子も含まれているが)ダンナに捨てられるという可能性がかなり残っているからである。もう一人くらいはダンナの子を産んでやってご機嫌をとっておくべきなのである。
では、ダンナとの間に子が二人、三人、それ以上いるとしたら、どうだろう。それだけの既成事実があれば、そろそろ大丈夫かもしれない。たとえ|EPC《ウワキ》の結果、子ができ、それがダンナにバレたとしても、彼は今やがんじがらめの状態である。妻と子を遺棄しようにも、自分の子までもが多数巻き添えをくらってしまう。仮に実の子だけを残し、妻と不義の子を追い出すにしても、残された子の面倒を誰が見るのか。もはやどうしようもないのである。彼としてはおとなしく振る舞う。家庭に波風を立てぬよう、その不義の子の面倒までをも見ることが最善の策ということになるのである。女の狙いはそこにある。女はその日が来るのを首を長くして待ち続けていたのだ。
女は|EPC《ウワキ》をするため結婚する!
女は必ずしも理想の相手と結婚できるわけではない。相手は往々にして今一つの、魅力に欠ける男である。その不満を補うのが|EPC《ウワキ》だ。|EPC《ウワキ》によって魅力ある男の、魅力の元となっている遺伝子を取り入れる。そうして魅力ある子を得る……。魅力は、寄生者《パラサイト》に強いなど必ず何らかの実質を伴ったものである。子の養育を保証してくれる男をキープしないままに、ただいい男の子どもを宿していったいどうしようというのか。まずは結婚。|EPC《ウワキ》をし、いい男の遺伝子を取り入れるためには取り敢えず結婚することなのである。
ところが……、女にとってのこのとっておきの戦略は、今やかつてないほどの危機に瀕している。DNA鑑定である。この画期的な父子鑑定法の登場により、我が子が我が子であることが、あるいは我が子が我が子でないことが、よりはっきりと認識できるようになった。本当の父親が誰であるかについてもよくわかる。
父子鑑定については、血液型などこれまでにもいろいろな方法があったが、DNA鑑定はそれらに比べて格段に精度が高い。しかも人間ではフィンガープリント法よりもさらに優れた、PCR法というテクニックを用いることができる。PCR法においてはサンプルにしても、わざわざ血液を採取しなくとも口の内側の粘膜を軽くこすり取るだけで事足りるという手軽さである。
男は、自分の子であると確定した子だけを養育の対象にすることになるだろう。そうでない子については関知しない。養育は実の父親の責任ということになるのである。こうして|EPC《ウワキ》の子をそうとは知らない夫に育てさせるという作戦が、ついに通用しなくなる。|EPC《ウワキ》をするため結婚する、という女にとっての結婚の意義がなくなってしまう。いや、そもそもこうなったら、結婚自体の意味が消滅することになるだろう。女が産んだ子の父親は彼女の夫である──そう疑問の余地なく決定し、世間に認めさせるための手続き。それが結婚なのだから。
世界に目を向けるなら結婚というシステムは、既に消滅への道を辿ろうとしている。
『ヨーロッパ統計年鑑』(猪口孝監訳、東洋書林)によれば、婚姻外出生児の全出生児に占める割合は、ヨーロッパ各国で次の通りである(値は一九九二年のもの)。
アイスランド 五七パーセント、スウェーデン 四九パーセント、デンマーク 四六パーセント、ノルウェー 三八パーセント、フランス 三三パーセント、イギリス 三一パーセント、フィンランド 二九パーセント……。
ヨーロッパの一七カ国のうち、一〇パーセントを下回るのはイタリア(七パーセント)、スイス(六パーセント)、ギリシア(三パーセント)、のわずか三カ国である。同書にはヨーロッパの他にアメリカ合衆国、カナダ、日本についても載っていて、アメリカ合衆国(一九九一年)が三〇パーセント、カナダ(一九八九年)が二三パーセント、そして日本は一九八三年から九二年にかけての一〇年間、ずっと一パーセントのままである(厳密にはこのところ少し増加傾向にあり、九四年が一・二パーセント)。
ヨーロッパやアメリカで割合が高いのは、むろんこれらの事例が、愛人が入籍もかなわぬままに私生児を産む、という昔ながらのケースで成り立っているわけではないからである。何年か前にゴクミこと後藤久美子さんが、フランス人F1レーサーとの仲を聞かれて、
「結婚なんて別にこだわっていない。子どもができてから結婚してもいいし……子どもが幼稚園へ行く頃になって初めて結婚するカップルなんてこっち(フランス)じゃ普通よ」
というようなことを言っていた。彼女は妊娠、結婚、出産という手順を実際には踏んだわけだが、なるほどゴクミの言う通りである。ヨーロッパなどでは男女が結婚しないで同居し、子どもを持つというケースが珍しくない。こういう傾向は二〇年以上前から現れ始め、今や常識とさえ言えるレヴェルにまで達しているのである。
とはいえヨーロッパなどで未婚のまま子を持つケースが多いのは、今のところDNA鑑定のせいというわけではない。
たとえばスウェーデンを例にとれば、日本で言う戸籍のようなものは存在しない。その代わりになっているのが住民票である。それも家族単位ではなく、個人単位のもの。夫婦も親子も別々だ。税金も個人単位で払い、配偶者控除なども関係ない。こうなるといったい結婚して何が得か、ということになるだろう。カップルが別れる際に、ちゃんと結婚しておいた方がいろいろ保証があっていいだろうと思われるかもしれないが、これもあまり関係がない。一九八八年に同棲法≠ネるものができ、同居していたカップルであれば、すまいや家具など財産を平等に分配できる仕組みになっている。もはや結婚とはいったい何ぞや、ということになるのである。
結婚がいずれ消滅の道を辿るとして、やはり私が懸念するのは、女のとっておきの戦略、つまり女が過去何十万年、チンパンジーとの共通の祖先まで遡《さかのぼ》るなら何百万年の間に築いた、|EPC《ウワキ》によっていい男の遺伝子、優れた男の遺伝子を取り入れるという方法が、効力を失うということである。人間がカッコよく、魅力的に、そして様々な能力を勝ち得、増すことに成功したこの方法が、だ。
人工授精という道があるではないか、人工授精によっていい男、優れた男の遺伝子を取り入れればいいではないか、という意見もあるだろう。
確かに人工授精の世界でモテモテなのは、容姿端麗、学歴充実のエリートたちである。写真、履歴書、いずれを見ても非の打ちどころがない。ところがこういう場合、現実に本人と会うとすると、なんか違っている。この人、勘違いしてるんじゃないのといった、そそられない男であったりするのである。
女がそそられ、この男の子どもだったら産んでもいいわ、とするのは、往々にして指が長くて美しいとか、ふとした瞬間に見せる表情が何とも陰がありげでいいとか、実につまらぬ、取るに足らないような理由である。それは写真や履歴書としてデータ化されないようなものである。そんなつまらない@摎Rになぜ女が惹かれるのか、女が決してバカではないということを今やあなたにはご理解いただけるだろう。
女がそそられるためには、男と直接会い、時間をかけて彼をチェックする過程がぜひとも必要なのである(かのクジャクのメスの慎重さを見よ!)。人工授精の世界では、たいていの場合そんな手間ヒマはかけられない。
女が|EPC《ウワキ》にときめく──そんな人間らしさを、人間は人間の英知《ヽヽ》によって失わぬことを私は願ってやまないのである。
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あとがき……この「浮気」とあの「浮気」とは違う!
一〇年ほど前に『浮気人類進化論』という本を書いた。
男は女を口説くために、文字通りに言葉を使う。男が言葉を弄《ろう》して女をその気にさせる──それが人間が人間たる所以《ゆえん》、人間独自の求愛の方法である。
しかし浮気の場で女を口説くのは……、これがなかなかに大変なこと。女は男に妻や子、そうでなくともパートナーがいることを疑っている。関係を持ったはいいが、子ができたと知るやそそくさと逃げ出すのではないかと案じている。男はパートナーを手に入れるときよりも、さらに高度な口説きのテクニック、ますます優れた言語的能力が必要とされるだろう。
それに浮気をしたらしたで、その後始末がまた大変だ。証拠の品が残らぬように処分、友人にはアリバイ工作を依頼……。それでも妻は勘を働かせ、追及の手を伸ばしてくるだろう。どうするか。
男はあれやこれやと言い逃れの口実を考え、話の辻褄合わせをするだろう。このときしゃべり過ぎには注意である。しゃべることで矛盾が生じたり、そんなにも多弁であるということにそもそも女は怪しさを感じてしまう。
ともあれこうして、言語能力に長《た》けた男ほど浮気に成功する。言い逃れの口実を考え、話の辻褄を合わせるのがうまい男ほど浮気の発覚を防ぐことに成功するのである。彼は浮気をしない場合よりも多くの子を残す。その言語能力、思考力は次代によく受け継がれていくのである。
女も女で言語能力、思考力を発達させる。浮気の発見と追及。亭主に浮気され、特に子ができたりすると、自分や自分の子に対する投資が減ってしまう。浮気はなんとしても防止し、発見しなければならないのである。
女どうしは道端でペチャクチャしゃべりながら互いに情報交換する。何でもない事実に実は浮気発見の糸口がある。よく情報交換し、亭主の言動に注意を払う、そして彼の話の矛盾に気がつく女ほど浮気の防止、発見に成功するだろう。そういう女ほど、そうでない女に比べよく自分の子を残す。彼女の言語能力、思考力は次の世代に受け継がれていくのである(とはいえ浮気の追及のしすぎは男を追い詰めることになり、要注意)。
言語能力や思考力の優れた男や女からは息子も娘も両方生まれてくる。こうして人間は、浮気を通じて言語能力、思考力を高めた、そして脳を発達させてきた、と私は考えるのである。これが「浮気人類進化論」だ。
こう考えることに今も変わりがあるわけではない。嬉しいことにリチャード・ランガムという霊長類学者などは一九九二年、あるインタビューの中で、妻の浮気について男が情報収集する、そういう過程を通じ、人間の言語能力は発達してきたのではないか、ということを言っているほどだ。私としては百万の味方を得たような気持ちなのである。しかしこういう好ましい展開とは別に、私はこの一〇年間にはっきりと思い知ったことがある。
男の浮気などたいしたことはない。肝心なのは女の浮気だ!
男が浮気をするとき、相手の女にはパートナーがいる場合といない場合とがある。
パートナーがいない場合、それは女にとって浮気とは言わないだろう。彼女はただパートナーのいる男とつがっただけである。彼女にもし子ができたなら、それは当の男の子どもであることにまず間違いないのである。
彼女にパートナーがいる場合、そのときこそそれは彼女にとっても浮気である。彼女に子ができたなら、夫と愛人、どちらが父親であるのかは、往々にして彼女自身にさえわからない。
一方、女が浮気をするときにも相手の男にパートナーがいる場合も、いない場合もある。しかしそんなことはこの際、関係ない。彼女に子ができたなら、その子の父親が夫であるのか、愛人の方であるのかは、彼女が浮気した以上、とにかくよくわからないのである。
つまり、こうしてみると女の浮気の方がより事態は深刻であることがわかる。女は浮気をすると、夫の子ではないかもしれない子を宿すのだ(当たり前と言えば当たり前のことだが)。浮気の最大の問題点はここにある。多くの社会で男の浮気には比較的寛容なのに、女の浮気に対しては厳しい咎《とが》がある。それは何も女を差別しようとしてのことではなく、女の浮気は実にこのような重大な問題を含んでいるからなのである。
女《メス》の浮気がいつ、どのようにして、どのような目論見のもとに行なわれるかは本書で議論した通りである。女《メス》がいかに巧妙に、かつ既成事実のうえに立った万全の構えで浮気を実行していることか! 誘われてついフラフラといってしまう男《オス》などとは大きな違いなのである。世の男性諸氏、どうぞ女の、この長期浮気計画にご用心を。
『浮気人類進化論』は文春文庫より刊行されている。まだお読みになっていないという方は、ぜひあわせて読んでいただければ有難い。浮気学≠フちょっとした権威≠ノなれること請け合いである。
本書では男と女、それぞれの繁殖戦略、それに女による(男による、ではない)子の産み分けについても議論した。男と女には、まずいかにして子を残すかという問題、繁殖戦略がある。しかし、話はただ残すというだけに留まらない。息子を産むか、娘を産むかでその後の遺伝子の残り方が大いに違ってきてしまう。これが意外に重要なことなのだ。
本書の執筆に際し、多くの学術論文、雑誌、新聞記事、書物などを参考にしていることはもちろんである。本文中に示すことができなかった文献も含め、ここに感謝する次第である。一例を挙げれば、昨今話題の「暴力男」については、『文藝春秋』(一九九八年新年特別号)、「実録・殴る夫」(梶山寿子執筆)、関西テレビ「夫・恋人からの暴力」シリーズなどを参考にした。
文藝春秋出版局の飯沼康司氏にはいつもながらの丁寧な読みで、適切なアドヴァイスを多数いただいた。『文藝春秋』編集長の平尾隆弘氏、同編集部の飯窪成幸氏にも内容についてのアドヴァイスをいただいた。
本文イラストと装画の沢野ひとし氏は、私のたっての願いに快く仕事を引き受けて下さった。読者が本書に思わず微笑んでおられるとしたら、それは氏の力によるところが大きいのである。装幀の南伸坊氏にはまたしてもお世話になった。氏のセンスあふれるブック・デザインにいつも助けられている。
本書を完成させるために尽力していただいたすべての人々に、この場を借りて感謝いたします。
[#2字下げ]一九九八年七月二七日
[#地付き]竹内久美子
本書は『三人目の子にご用心! 男は睾丸、女は産み分け』(一九九八年八月、文藝春秋)を改題し文庫化したものを底本としています。また、沢野ひとし氏の本文イラストは、電子書籍版には収録されていません。
〈底 本〉文春文庫 平成十三年七月十日刊