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パラサイト日本人論 ウイルスがつくった日本のこころ
竹内久美子
目 次
プロローグ 尾曲りネコのはるかな旅路[#「尾曲りネコのはるかな旅路」はゴシック体]
第一章 二つのルーツを持つ日本人
日本人の祖先のたどった道 先達はニホンザル[#「先達はニホンザル」はゴシック体]
頭の形と日本人 関西人はちょっと特別[#「関西人はちょっと特別」はゴシック体]
ミトコンドリアは語る 縄文人はどこから来たか[#「縄文人はどこから来たか」はゴシック体]
第二章 男と女とパラサイト
外見にこだわるのはなぜ? ツバメに見る恋愛の現実[#「ツバメに見る恋愛の現実」はゴシック体]
暑い国から来た男尊女卑=@そして人はカッコいい[#「そして人はカッコいい」はゴシック体]
寒い国から来た平等主義=@私の見た京都人[#「私の見た京都人」はゴシック体]
第三章 日本人の死生観
私は象ゴリラ 類人猿の死生観[#「類人猿の死生観」はゴシック体]
浄土真宗が最大勢力になったのは 日本人の死生観[#「日本人の死生観」はゴシック体]
あの世を想う気持ちを強めるものは またも負けたか八連隊[#「またも負けたか八連隊」はゴシック体]
第四章 ウイルスがつくった日本のこころ
友≠ニなった白血病 ウイルスから日本人を探る[#「ウイルスから日本人を探る」はゴシック体]
ATLは残った なぜ縄文人だけが持っていたのか[#「なぜ縄文人だけが持っていたのか」はゴシック体]
ウイルスがつくった日本のこころ ATLと相互協力、あるいはおせっかい[#「ATLと相互協力、あるいはおせっかい」はゴシック体]
謝 辞
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プロローグ
尾曲りネコのはるかな旅路[#「尾曲りネコのはるかな旅路」はゴシック体]
あなたの身近なネコたちを、ぜひじっくりと観察していただきたい。尾は曲がっているだろうか。
尾が曲がるとは、尻尾がまるで途中で切れてしまっているかのように見えること、先が丸く固まってこぶ状になっていること、あるいは本当に曲がっていることを言う。要するに長くて真っすぐな尾以外は、曲がった尾とみなすのである(切れているように見える尾も、骨がいびつに曲がっているだけで切れてはいない)。こういう曲がった尾は英語で kinky tail と呼ばれている。尾曲りネコがいるのは本来アジアの一部の地域だけである。アメリカで作られたジャパニーズ・ボブテイルという品種は、この尾曲りネコを原種としているのである。
さて、もしあなたが福井や滋賀、京都、奈良、長野などの府県にお住まいなら、尾曲りネコを見かけることはそんなにはないに違いない。私は京都市の東のはずれの北白川という所に住んでいるが、近辺でここ数カ月のうちに見かけたネコ三九匹のうち、尾曲りはたった四匹であった。私の師匠である日高敏隆氏は大変なネコ好きで、洛北のお宅には常に五〜六匹、多いときには十数匹のネコ(雑種)が飼われている。野良ネコさえ我が物顔で出入りするほどだ。ところが先生によると二〇年前に京都へ来てからこの方、尾曲りネコを飼ったことも、出入りを許したことも(それは別に避けたわけでもないのに)一度もないそうである。
一方、あなたが長崎、鹿児島、宮崎、熊本、茨城などの県にお住まいなら、尾曲りネコを見つけるのはいともたやすいことだろう。ネコと言えば尾が曲がっている方が普通なのである。
実は全国のネコの尾曲り状況をつぶさに調べた人がいる。京大霊長類研究所の野澤謙氏(現、中京大学)らで、その観察例たるや膨大な数に上っている。野澤氏はこの十数年間というもの、休日には日本各地に出かけ、駅前でレンタサイクルを借りるなどしてネコの観察を続けた。路上や塀の上にネコを見つけると、素早く毛色のタイプと尾曲りかどうかをチェック。早朝の飲み屋街が特に収穫が上がるそうである(ということは観察例の、おそらく半分以上が野良ネコということになるだろう)。そうして集められたデータは実に一万二〇〇〇匹を上回る。都道府県別尾曲りランキングは表に示す通りである。
ランキングを見て気づくのは、尾曲りはまず九州に多いということである。長崎を筆頭に驚くべき高率だ。九州のネコの尾は、少なくとも三匹に二匹は曲がっている勘定である。私は九州をまだ時間をかけて旅したことがないが、今度行く機会があったらじっくり観察してきてみたいものである。
九州に次いで多いのが、地理的には九州とかけ離れた茨城、千葉、埼玉、群馬、東京など関東勢だ。半分強が尾曲り。次いでベスト二〇位入りを果たしているのは山口、静岡、愛媛、高知、大阪、広島、和歌山で、地域的傾向があるような、ないようなといったところである。
それに対し、ランキングの下の方を見て驚くのは、最下位福井の飛び抜けて低い値である。六・五パーセントというのは、だいたい一五匹に一匹しか尾曲りがいない勘定である。そして滋賀、京都、奈良、と福井ほどではないが、やはり随分と低い地域が続く。私は京都市北白川|界隈《かいわい》における独自の観察で、三九匹中四匹(一〇・三パーセント)という結果を出したが、これは野澤氏のデータとそう違わない。京都|府《ヽ》は一五・六パーセントだが、京都市内に限った観察によると、一二・四パーセントと、さらに低い結果が出ているのである。福井から内陸へ向かい、滋賀、京都、そして奈良へと続く、尾曲り不毛地帯とでも呼ぶべき地域が存在するようである。しかし、もし京都から大阪へ抜けるとすると、そこはもう十分に尾曲り地域になってしまうのである(ちなみに、京のネコの尻尾が真っすぐで大阪のネコの尻尾が曲がりがちであることに昔の人はとうに気づいており、江戸時代の書物にも記されている)。
尾曲りネコ ランキング
[#挿絵(img/fig1.jpg、横344×縦464)]
『在来家畜研究会報告』13号51〜115ページ(1990)
「日本猫の毛色などの形質に見られる遺伝的多型」(野澤謙、並河鷹夫、川本芳)より作成。
ランキングをもう少し全体的に見てみよう。そうして一つ気がつくことは、尾曲りネコはどうも内陸部に少なく──内陸に少ないことは前出の奈良、長野の他に山梨、岐阜などの県も下位にランクされることからもうかがえるだろう──海岸部に多い、しかも黒潮(日本海流)や対馬海流など、暖流のよく到達する場所に特に多いということである。
軒並み高率の九州各県は、いずれも暖流との関わりが著しい。鹿児島、宮崎などはもっぱら黒潮に、長崎、福岡などは主に対馬海流に洗われる。そして九州で最下位の大分(全国では一七位)は瀬戸内海に面し、暖流の影響を比較的受けにくい位置にあるのである。
四国に目を向けるなら、黒潮に洗われる愛媛(一五位)、高知(一六位)、徳島(二二位)で尾曲り率が高いのに対し、完全に瀬戸内側である香川でかなり落ちる(三二位)というわけだ。
茨城(五位)、千葉(八位)、静岡(一二位)、和歌山(二〇位)にも黒潮は達している。それに半島は漂流物を捕えやすい構造をしているから、千葉、静岡、和歌山などにはひょっとして半島効果のようなものが加わっているかもしれない(ただ埼玉、群馬などの内陸でなぜ高率なのかは全くわからない)。
では、福井の最下位はどう説明されるだろう。福井は海に面し、対馬海流も到達しているはずなのに、なぜだろう。もしかして半島効果≠フ逆の湾効果≠ニでも言うべきものなのか。福井県の西半分を占めるのは若狭湾である。それ自体、巨大な生け簀《す》のような大きな湾曲だ。半島なら漂流物を捕えるだろうが、湾はなかなかそうはいかない。海流ははるか沖合いを通り過ぎていってしまうだろう。するとなるほど納得が行く。能登半島を抱える石川県でいったん尾曲り率が上がるが(四〇・八パーセント)、福井県と同様に大きな湾を抱える富山県になるとまた下がってしまう(二四・〇パーセント)のである。福井は海に面しているけれど、面していないのと同じような状況にある、だから最下位に位置する……。ともあれ、こうしてみてくると一つの仮説を立てることができるかもしれない。
尾曲りネコは(正確には尾曲りネコの尾曲り遺伝子なるものは)、かつて暖流に乗り、南方から渡来してきたのではないのか──。
もちろん椰子の実ではあるまいし、ネコがプカプカと浮いてやって来たわけではない。尾曲りネコは貿易船に、積み荷を食い荒らすネズミ対策として乗せられ、あるいは難民の船に家族の一員として乗り込み、はるかな航海をともにして来たのではないだろうか。それがいつ頃のことなのかはよくわからない。ただ、どの地域からであるのかは明確にわかってきているのである。
野澤氏らは尾曲りネコなど日本のネコのルーツを探るべく、何回もの海外調査を行なっている。マレーシア、インドネシア、バングラデシュ、スリランカ、ネパールなどである。それによると、尾曲りネコの故郷はどうもインドネシア方面にあるようなのである。スマトラ、ジャワ、その東のバリ、ロンボク、スンバワ、そしてスラウェシ(セレベス)などの島々では特に詳しい調査が行なわれた。
観察されたのはインドネシア全体で二八七六匹で、そのうち尾曲りは一七一一匹、つまり五九・五パーセントであった。これだけでも日本の平均である四一・七パーセントを優に上回る。しかし驚くべきは、スマトラ島南端のランプン州の八六・四パーセント(四四匹中三八匹、以下分数で示す)、スンバワ島の八四・五パーセント(153/181)、ロンボク島の八一・七パーセント(98/120)という値である。どうやらこのあたりが尾曲りネコの発祥の地と言えそうだ。そして観光地として有名なバリ島は、インドネシアでは最も低い割合だが、それでも四七・八パーセント(76/159)であった。
マラッカ海峡を越えてマレー半島へ渡っても、尾曲りネコは健在である。西マレーシアのネコ八一匹中三八匹、つまり四六・九パーセントが尾曲り。しかしその北のインドシナから中国方面にかけては(まだ本格的には調査が行なわれていないものの)、どうやら尾曲りネコは徐々に少なくなっていく模様である。中国北部ともなると、もはや皆無と言っていい状態になる。そして南アジアにもほとんどいない。バングラデシュのネコ一七七匹のうち尾曲りは一匹だけ、スリランカでも二九三匹中一匹、ネパールでは一匹も見つからなかったのである。尾曲りネコの本場はアジアの南東のはずれあたり、やはりマレー半島からインドネシアの島々にかけてであるようである。
ついでながら日本でしばしば見かける白ネコ(八パーセントくらい)は、東南アジアでは極めて珍しい。せいぜい一パーセント程度しかいない。白ネコはロンドン、アテネなどの調査ではさらに珍しくなるという。それにまた、日本では結構見かける茶色の入った毛色のネコ、つまり茶トラ、茶と白の斑、三毛などはネパールに行くと全く見られない。ネパールではほとんどのネコが野生型≪キジトラ≫だそうである(野澤氏らの研究については『ネコの毛並み』野澤謙著、裳華房、に詳しい)。
尾曲りネコのルーツの地についてはほぼわかってきた。問題は彼らが、いつ日本にやって来たかということである。もっともその前に、尾曲りネコとはかかわりなくネコそのものはいつ日本にやって来たのかということを知らなくてはならない。それはネコ自体の起源と同様、意外に最近のことなのである。
飼いネコの起源や歴史については諸説がある。しかし少なくとも、紀元前一六〇〇年頃のエジプトで、既にネコが家畜化されていたという証拠がある。ネコは神聖な動物として崇拝され、死ぬとミイラにして保存されていた。だから家畜化は、それよりも何百年かは前のことだっただろう。野生のリビアネコが飼い慣らされたと考えられている。
ネコがヨーロッパにもたらされたのは紀元元年前後で、ちょうどローマ帝国が栄えていた頃である。しかしアジアへの渡来がいつ頃であるのか、残念ながら定かではない。紀元前一〇〇〇年前後に編纂《へんさん》されたリグ・ヴェーダ(インドの叙事詩)にネコの記述がなく、その臨終に際し、数多くの動物たちが集まってきて嘆き悲しむ様子が描かれたシャカの涅槃《ねはん》図にも、ネコの姿は見当たらない。シャカは紀元前六世紀から五世紀にかけての人である。そのネコが日本へやって来た時期はわりとはっきりしているのだ。六世紀の仏教伝来の頃。つまり仏典をネズミの被害から守るため、そのお目付け役として同行したという。それ以前の日本にネコが存在したという証拠はないのである。
ネコが一般に飼われ始めたのは、また随分と後になってからである。イヌとネコの研究家として知られる平岩米吉氏(故人)は『猫の歴史と奇話』(築地書館)の中で、日本文学に登場するネコを手掛りにそれを推定している。平岩氏によれば、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』のいずれにもネコは登場しない。その初登場は『日本霊異記』においてであるという。文武天皇の時代の慶雲二年(七〇五)の頃、豊前の広国《ひろくに》という人の父親が亡くなったが、彼はやがてネコとして生まれ変わる。そして息子の家にやって来る、というものだ。
九世紀になると宇多天皇(八六七〜九三一)が愛猫について詳しく日記に記している。唐土から渡来した黒猫で、父君である先帝から賜わったこと、ネコがうずくまったり伸びたりするときの様子、言葉が話せないだけで私(帝)の心の動きがまるで手に取るようにわかっているようだ、などとまさにネコ可愛がりの様子が表現されているのである。
一〇世紀から一一世紀にかけて、『枕草子』や『源氏物語』にはネコが随分登場するようになる。『枕草子』では、一条天皇(九八〇〜一〇一一)が愛猫を「命婦《みようぶ》のおとど」と名付けて五位の位まで授けた話がよく知られる。『源氏物語』の若菜の巻ともなるとネコが重要なモチーフとなって登場する。柏木(源氏の友人である頭中将の子)がある屋敷を訪れたところ、綱につながれた唐猫が走り回っていた。そうこうするうち綱は御簾《みす》に絡まり、その奥の女三の宮(源氏の妻)の姿が露わになる。その息を呑むほどの高貴な美しさ。柏木は画策の末にこのネコをもらい受け、ネコはやがて女三の宮に対する柏木の、狂おしいまでの思慕の投影となっていくのである。物語の中でネコがこれほど重大な役割を担うのはもちろん初めてのこと。丸谷才一氏によれば、「日本文学史を闊歩《かつぽ》するすばらしい猫二匹」のうちの一匹だそうである(もう一匹は言わずと知れたあのネコ)。作者である紫式部は「ねうねうと、いとらうたげに鳴く」とネコの鳴き声を表現するものの、残念ながら尻尾について記してはいない。記すことがないのは真っすぐで特徴がないからだろうか。それにしても宇多天皇の日記に唐土から渡来したネコが登場すること、『源氏物語』における「唐猫」という言葉、そして今日、中国大陸に尾曲りネコがほとんどいないことを考え合わせると、これら平安文学に登場するネコの尾は曲がっていなかったように思われるのである。
平岩氏は画家でもあり、絵画に登場するネコにも大いに関心を払っている。鳥羽僧正(一〇五三〜一一四〇)の作とされる「鳥獣戯画」には三匹のネコが登場するが、いずれも尾は真っすぐだそうである。その後数百年間の絵画にも、尾曲りネコはまず登場しない。尾曲りネコが現実にほとんどいなかったからなのか、尾は真っすぐの方が美しいとしてもっぱら長い尾のネコが描かれたのか、はたまたそういうネコはステータスの証であり、物語や絵画には結果として上流階級の尾の長い飼いネコしか登場しなかったのだろうか……。
ところが江戸時代の後期に、事情は一変する。尾曲りネコは絵画の世界に突如、氾濫し始めるのだ。喜多川歌麿、歌川国芳、安藤広重などの浮世絵に尾曲りネコが続々と登場。ネコ好きとして知られた歌川国芳は、「猫飼好《みようかいこう》五十三疋」というネコ百態とでも言うべき絵の中で、計七三匹のネコを描いているが、うち五二匹(七一パーセント)が尾曲りであるという。絵画の世界の尾曲りネコブームは、現実のネコたちの反映とみて間違いない。しかしそれは、たぶんやや誇張された反映でもあるだろう。というのも、当時尾の長いネコは歳を取ると尾が二股に裂け、化け猫に転ずると信じられていた(猫股伝説)。そのため人々は、尾曲りネコを好んで飼っていたからである。絵画の世界には、それはいっそうのこと反映されたはずである。こうして尾曲りネコは、江戸後期になってようやくその市民権を獲得した模様である。我が国へネコが伝来したのが六世紀頃、一般に飼われ始めたのが中世以降、そして尾曲りネコについてみるならば、江戸後期にはすっかり人々の間に定着したということになるのである。
それにしても尾曲りネコはいつの間に日本にやって来てしまったのだろうか。鎖国をしていた江戸時代に、そうたびたび貿易船や難民の船が彼らのルーツの地である南方からやって来たとは思えない。尾曲りネコの渡来は、少なくとも江戸時代よりは前のことだろう。渡来の時期としてまず考えられるのは、南蛮貿易の頃である。
一六世紀から一七世紀にかけて南蛮人(ポルトガル人、スペイン人)が、後には紅毛人、つまりオランダ人、イギリス人も、交易などのために日本にやって来た。彼らはジャワ、シャム(現在のタイ)、ルソンなどを経て鉄砲、火薬などの品々をもたらした。そうした南蛮船には食料を食いあさるネズミ対策として、当然のことながらネコが乗せられていたはずである。その中に尾曲りネコが含まれていたであろうことは想像に難くない。ネコはしばしば逃げ出し、そのまま日本に居着いてしまった。再び船に戻るにしろ、オスならば彼の尾曲り遺伝子≠しっかり置き土産として残していったのかもしれない。こうして尾曲り遺伝子≠ヘ、次第次第に日本列島に定着してきたことだろう(すると、尾曲りネコが京に少なく、大阪に多いのは、堺が南蛮貿易の港であったことと少なからず関係があるのだろうか?)。
もう少し時代を遡るなら、おそらく倭寇《わこう》との関係も考えられるだろう。一四世紀から一六世紀にかけて、瀬戸内海や北九州を根城とする海賊たちは日本沿海はもとより、東シナ海や南シナ海、そしてシャム方面まで出かけていった。倭寇とはむろん被害を受けた側からの呼び名であるが、彼らはネズミ対策としてのネコを当然乗せていた。しかし現地で新たに調達したこともあっただろう。海上で貿易船を襲い、品々を奪った際にはついでにネコも奪っておいたかもしれない。こうしたルートで尾曲りネコがもたらされるケースも、あるいはあり得たはずである。倭寇の本拠地は潮の流れの辿り着く、辺鄙《へんび》で目立たない場所にあっただろう。北九州や瀬戸内海などのそうした無数の入り江にも尾曲りネコはもたらされたことになるわけである。
南方からの難民の船が、たとえば江戸時代以前の日本の歴史の中で、どれくらいの数に及んだのかはわからない。それは滅多になかったことだろうか。それとも、公式な記録がないだけで積算すれば膨大な数に及ぶのか……。ただ尾曲りネコの渡来ルートの本星は、案外この半ば漂流によるものであるような気がしないでもない。先の都道府県別尾曲り率と暖流との、見事なまでの対応ぶりを見てみても、今日、中国大陸南部などからやって来る難民船が長崎、鹿児島など九州に、あるいは日本海側の山口や島根など、いずれも尾曲り率の高い地域に漂着する現実を見てみても、そう思われてならないのである。
しかしそうすると沖縄はどうなるのか。沖縄は暖流の流れのまさに途上にあるのだが、尾曲り率は意外なほど低い値を示すのである。
沖縄の歴史の特異な点は、江戸時代などに中国大陸と盛んに交流を続けていたことである。一五世紀の初めに成立した琉球王国は、明《みん》に対して朝貢を行ない、それは一七世紀に薩摩藩の支配を受けるようになっても続いた。明が滅び清《しん》の時代になっても、事情は変わらなかったのである。尾曲りネコもやって来るが、尾の長いネコも入ってくる。それが沖縄の低い尾曲り率の原因ではないだろうか。それに野澤氏が指摘しておられることだが、戦後米軍が、本国からネコ(もちろん尾の長い洋ネコ)をペットとして持ち込んだ効果もあるかもしれない。
尾曲りネコの存在は南方のジャワ、スマトラ、インドシナ方面からの人と物の流れを示すよい手掛りとなっている。日本人の祖先が日本列島にやって来たのは、実際にはそれよりはるかに昔のことだ。ただこのネコが、我々の祖先の渡来について、一つの局面を物語ろうとしていることは確かである。
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第一章 [#「第一章 」はゴシック体]二つのルーツを持つ日本人[#「二つのルーツを持つ日本人」はゴシック体]
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日本人の祖先のたどった道
先達はニホンザル[#「先達はニホンザル」はゴシック体]
私が京都へ来て間もない頃だから、もう二〇年も前のことである。当時私は、まだ動物学を志してはいなかった。動物に対して可愛らしいと感ずることはあっても、ただそれだけ。学問的に見てどうか、などと考える余裕も知識も持ち合わせていなかったのである。
あるとき京都市動物園に行ってみた。ライオン、トラ、ゾウ、キリン、ペンギン……と一通り見物し、少し疲れたこともあり、柵にもたれかかってサル山のサルを眺めていた。サル山といっても動物園のことであるから、極めて人工的なものである。それでも子ザルたちは元気一杯で、岩から岩へと跳び移る姿はまさに「猿《ましら》の如く」であった。
そうこうするうちそのサルが、何だか妙なサルであることに気づいてきたのである。ニホンザルなのに尻尾が変に長い。そういえば顔つきも幾分角ばっていて、あの愛らしいおサルさん顔のイメージとは大分かけ離れている。私はしばし考えた。
〈そうだ、ここのニホンザルは特別なのかもしれない。何しろ伝統ある京都市動物園のサル山ではないか。ニホンザルだって群れによってはそれくらいの違いはあるだろう。動物というものは偏見の目で見てはいけないのだ。今後の戒めとしなくては……。でも、やっぱり変。|ニホンザル《ヽヽヽヽヽ》なのに、どうして?〉
その疑問は呆気《あつけ》なく氷解したのである。柵の前のプレートに掲げられたサルの名は、「あかげざる」。ニホンザルに大変近く、インドや東南アジアにすむサルである。私は、サル山のサルはニホンザルに違いないという極度の先入観(あるいは無知)によってアカゲザルをニホンザルと見間違えていたのだった。
ニホンザルもアカゲザルも、オナガザル科マカク属のメンバーである。オナガザルというくらいだからこのグループのサルは皆尾が長いかというと、そうでもない。今問題にしているニホンザルとアカゲザルは、オナガザル科には似つかわしくない存在だ。
マカク属には全部で一九種のサルが属している。うち、カニクイザル、タイワンザル、アカゲザル、ニホンザルの四種は生殖器の特徴などから特に近縁とされる。互いに交配すると繁殖力のある雑種さえ生まれてくるほどだ。ところが四種の尾の長さを比較してみると、著しい違いが見えてくるのである。
カニクイザルの尾は体長(頭胴長)と同じくらいかやや長め、タイワンザルの尾は体長より少し短め、アカゲザルのそれは体長の約半分、そしてニホンザルの場合は体長の五分の一にも満たないくらいなのである。カニクイザル以下ニホンザルまで、体長はあまり変わりない(四〇〜六〇センチメートル)。ところが尻尾の方はどんどん短くなっていくのである。
この現象の裏にあるものは、彼らのすんでいる土地の気候である。カニクイザルはインドシナ半島からフィリピン、インドネシアにかけて、タイワンザルはその名の通り台湾に、アカゲザルは冬には雪さえ積もるパキスタン北部やアフガニスタン、そしてインド、インドシナ半島北部、中国南部にかけて、ニホンザルは日本列島の、南は屋久島(屋久島のサルは他のニホンザルよりもやや小型でずんぐりしており、ヤクザルとして区別される)から本州最北端の下北半島まで、とそれぞれ異なる気候にすんでいる。カニクイザルが最も暑さの厳しい土地に暮らし、ニホンザルが最も寒冷な土地に進出していることは言うまでもない。
暑さが厳しい場合には熱を効率よく放散させるため、尾などは長くして体の出っ張りを増やし、表面積を大いに稼ぎ出すべきだろう。逆に寒さに対しては体形は丸く、尾など体の出っ張りは少なくして表面積を減らすべきなのである。気候に対する適応としてこのように体形が変化することは、動物界に普遍である。寒さとともに出っ張りが少なく、体形が丸味を帯びる現象はアレンの法則として知られている。
そんなわけで、たかがサルの尻尾とはいえ、その長さには重大な意味が含まれているのである。戦後間もなくの頃、京都市動物園のサル山に移入されたカニクイザルの一頭は、凍傷のため自慢の尻尾がポロリと落ちてしまったそうである。日本列島で暮らすには長い尻尾は無用の長物なのだろう。かつてニホンザルが日本列島に進出しようとしたときに、この、サルとしては寒すぎる気候に対し、尻尾の改造が最優先の課題であったことは想像に余りあるのである。
ニホンザルが(正確にはニホンザルの祖先が)日本列島にやって来たのはいつ頃のことだろう。ニホンザルの骨は北海道と南西諸島を除く、本州、四国、九州の日本各地の縄文貝塚から多数見つかっている。下北半島のむつ市郊外の遺跡からも出土した。貝塚から骨が発見されるということは、おそらく人々がサルを食していたからこそだろう。あるいは何か別の目的のためでもあるのか……。ともかく縄文時代の日本にニホンザルが生息していたことは疑いない。それは現在の分布とも概《おおむ》ね一致するようである。
では縄文以前の、地質時代で言うところの更新世(約一八〇万年前〜約一万年前)についてはどうだろう。更新世は氷河期と間氷期が幾度となく繰り返した時代である。氷河期は従来言われてきたよりもはるかに数多く存在したようで、最近では二〇回という説さえ登場している。しかし最終氷期とその前の氷河期が、ウルム氷期とリス氷期であることに変わりはなく、前者が今から約七万年前から約一万年前まで、後者が約二〇万年前から約一三万年前までとされている。
更新世の地層からもニホンザルの骨(化石)が見つかっている。本州の七カ所(下北半島の尻屋崎も含まれる)と四国の一カ所、の計八カ所で、一番古いのが山口県秋吉台で発掘された下アゴの歯。約五〇万年前のものであろうと言われている。どうやらニホンザル(の祖先)は、少なくとも五〇万年前には日本列島に到達していた模様である。
しかし、こうした地理的な移動とは別に、ニホンザルがアカゲザルたちと、種としてはいつ分かれたのかという問題がある。先ほどネコの尻尾の話で登場した野澤謙氏は(こちらの研究が本業なのだが)、これらサルの血液を採取し、血清や血球のタンパク質に注目、相互の違いを調べている。それらが分子としてどう違うかを比較する、分子の進化という観点からこの問題を考えようというわけである。
DNAは時間がたつにつれ(といっても何万年、何十万年という進化に関わるような時間)、塩基が置き換わったり、欠落するなどしてだんだんと変化していく。それらの変化は生物に深刻な影響を与える場合もあれば、逆に新たな適応につながるような場合もある。しかしいずれにせよそういうことは滅多に起こるものではない。ほとんどの場合それは、生物に可も不可も与えない中立なものである。DNAの変化は確率的なもので、その速度はある特定のタンパク質に限ってみれば生物種に関係なくほぼ一定。こうしてDNAは、タンパク質をコード(暗号化)するという本来の情報とは別に、進化の時計としての情報をも提供することになるのである。そしてタンパク質もまた、進化の分子時計としての役割を担うことになるのだ(なぜならタンパク質はDNAの情報に基づいて作られるわけだから)。
野澤氏はカニクイザル、タイワンザル、アカゲザル、ニホンザルから血液を採取し、それぞれの血清や血球のタンパク質約三〇種類について分析、比較検討した。電気泳動法という方法によってそれらのタンパク質を調べると、ニホンザルに最も近いのはアカゲザル、次に近いのはタイワンザル、そしてカニクイザルの順であることがわかった。
次にこの電気泳動法によって得られたデータを基に、遺伝的な近さを示す遺伝距離なる数値を割り出してみる。ニホンザルを基点としたその距離は、アカゲザル 〇・一〇〜〇・一二、タイワンザル 〇・一三、カニクイザル 〇・一七〜〇・二三という結果であった。遺伝距離は共通の祖先から分かれた時間の尺度で、距離〇・一はおよそ五〇万年に相当するという。ニホンザルとアカゲザルとは遺伝距離〇・一〇〜〇・一二、つまり彼らは共通の祖先から五〇万〜六〇万年前に分かれた勘定なのである。なるほど、日本で見つかったニホンザル最古の化石が約五〇万年前のものであることを考え合わせると、話はほぼ符合する。化石の主は、日本へやってきたニホンザルの祖先第一陣といったところだろうか。
ニホンザルがおよそ五〇万年前にやって来たとして、その後彼らが経験した気候の変化は相当に目まぐるしいものだったはずである。氷河期と間氷期は、一説には約一〇万年周期で繰り返されるという。五〇万年前からこの方、彼らは少なくとも三〜四回の氷河期を経験した。日本列島は本来、彼らにしてみれば相当に寒冷な土地である。そのうえ氷河期の寒さが追い討ちをかける。彼らの体形は丸く、尻尾はますます短くなる方向へ進化したことだろう。さらに、氷河期には海面が下がり、大陸との間に陸橋が出来上がる。そこでまた第二陣、第三陣のサルたちがやって来たかもしれない。実際、日本各地のニホンザルの血液中のタンパク質を調べてみると、彼らが何回にも分けて日本列島へ渡来した形跡が浮かび上がるのである。
ニホンザルは日本列島にすみ着いた最初の霊長類である。では、日本列島におけるもう一種の霊長類である人間、の場合についてはどうだろう。
日本列島で発見される人骨や化石としてよく耳にするのは、明石原人≠站告人(旧人)の名である(実は明石原人は原人ではなく、もっと新しい時代の人骨がそれと間違えられていたことがわかってきている)。しかし、「原人」も「旧人」も、同じ人間の仲間ではあるものの、現在生きている人間とは直接何の関わりもない。彼らは遠い昔、我々の祖先と袂《たもと》を分かち、別の道を歩み始めた。そうこうするうち滅んでしまった人類である。彼らと我々の祖先とが、さらに遡るなら共通の祖先を持つ、と言うことだけはできる。しかし、彼らが我々の祖先だということはないのである。そんなわけで「原人」や「旧人」については、たとえかつて日本列島に住んでいたにせよ、日本人の祖先を考える際には無視して差し支えない。現生の人類の直接の祖先とされるのは「新人」だ。「新人」はいつ、どこで登場してきたのだろうか。
アメリカ、テキサス大学の根井正利氏(現在はペンシルヴァニア州立大学)らは、ニグロイド(アフリカ人)、コーカソイド(ヨーロッパ人)、モンゴロイド(アジア人)、の三大人種が分かれた時期を突き止めている。方法は、野澤氏がニホンザルやアカゲザルについて用いたのと同じで、血液中のタンパク質の電気泳動による。
それによると、まずニグロイドの祖先とその他の人々とが分かれたのが一一万五〇〇〇年〜一二万年前。後者からはコーカソイドとモンゴロイドのそれぞれの祖先が五万五〇〇〇年くらい前に分かれてきた。遺伝距離はコーカソイドとニグロイドが〇・〇二三、コーカソイドとモンゴロイドで〇・〇一一、ニグロイドとモンゴロイドで〇・〇二四と算出され、遺伝距離〇・一=約五〇万年であるから、この分岐年代が導かれたのである。このように三大人種の最初の分岐が一一万五〇〇〇年〜一二万年前であるわけだから、新人自体の登場はそれよりも何万年か前ということになるだろう。新人と旧人はしばらく共存するが、旧人は滅び、人類はやがて新人のみの世界となるのである。
新人──つまり我々の直接の祖先は、おそらくアフリカのどこか奥地で誕生した。やがてニグロイドの祖先とその他の人々の祖先とが分かれ、後者はアフリカを後にした。彼らがヨーロッパから中東方面にかけて進出したと思われるのが一〇万年くらい前。そうこうするうちウルム氷期が襲う。新人として経験する初めての氷河期である。ウルム氷期は約七万年前に始まり、二万年前くらいを寒さのピークとして約一万年前に終わったとされている。コーカソイドとモンゴロイド、それぞれの祖先が分かれたのが約五万五〇〇〇年前というが、何とそれはウルム氷期の真っ只中であったわけだ。
とはいえ、氷河期というのは我々が想像するほどに厳しいものではなかったらしい。気温の低下は今よりも六〜八度Cくらい。ちょうど東京が札幌に、那覇が東京に置き換わった程度であるという。熱帯は亜熱帯に、亜熱帯は温帯に、というように気候は一段階くらいずつずれていた。地球全体が雪や氷に被《おお》われたイメージは誤りで、所によっては熱帯雨林さえ存在したのである。
モンゴロイドの祖先はやがて東方への移住を開始する。ある者たちはインドや東南アジア方面を回って大陸の東岸へ、ある者たちは中央アジアを経由して東部シベリア方面にまで進出した模様である。
このシベリア方面への進出が、非常に注目すべき点である。シベリアは現在でも世界最極寒の地だが、当時の寒さはまた一段と厳しいものだっただろう。それなのになぜそんな所に住み着いたのかと思うが、マンモスなど大型の獲物が魅力であったのかもしれない。こうしてモンゴロイドの一派は最極寒の地に住み着いた。そのような気候条件は、我々の祖先の歴史の中でも初めての経験だったに違いない。そうして彼らは、寒さとの戦いの産物を得るのである。一重瞼や扁平な顔、細い目、胴長短足、丸味を帯びた体形に薄い体毛、薄い眉、乾いた耳垢……。扁平な顔や長い胴は体表面積を少なくし、放熱を防止する。厚い瞼や目の細さは目のレンズが凍らないように、体毛が薄いのも水分を含んだ毛が凍るのを防ぐためであるという。こういう寒冷適応を遂げたモンゴロイドを人類学では新モンゴロイドと呼んでいる。
一方、南回りの経路をとり、寒冷適応を遂げなかったモンゴロイドは古モンゴロイドと呼ばれる。彫りの深い顔、二重瞼、ぱっちりとした目、比較的長い手足、濃い体毛、濃く太い眉、湿った耳垢、大きな耳たぶ……と人類に多数派の特徴を備えているのである(もっとも、新モンゴロイドこそが特殊な進化を遂げたのだから、それは当然のことなのだが)。そして日本列島に「新人」として初めて住み着き、日本人の原集団となったのは古モンゴロイドの方である。
約二万年前をピークとするウルム氷期が終わりに近づき、気温が上昇しはじめた頃のことである。中国大陸の南部からだろうか、あるいはインドシナ半島やジャワ、スマトラ方面からであろうか、少なくとも古モンゴロイドの一団がたびたび日本列島に到達するようになった。彼らは、当時まだかろうじて残っていた陸橋を利用して、あるいは丸木舟に乗り、島づたいの航海を続けてきたのかもしれない。ともかく古モンゴロイドの集団が何回にも分けて、アジアの様々な地方から日本列島にやって来たのである。これが後の縄文人──約一万年前から始まり約二三〇〇年前まで続く縄文文化の担い手となった人々の──祖先である。
縄文人は日本人の基礎となった。言わば原日本人たるべき人々である。日本各地に残る土着的信仰や奇祭と呼ばれるようなもの、風習、習慣のかなりのものは縄文人の遺産と考えてよい。しかしそうした精神文化とは裏腹に、遺伝子、とりわけ身体的特徴の遺伝子ということになると、彼らの影はやや希薄になってくる。日本人の過半数は二重瞼よりも一重瞼、ぱっちりした目よりも細い目、彫りの深い顔よりも扁平な顔である。胴長短足は(今の若い子たちは別として)日本人の代名詞のようでさえある。外見に限るなら、日本人は圧倒的に新モンゴロイド的特徴を保持しているのである。
縄文人は原日本人だが、日本人が日本人として真に成立するのは少し間をおいてからである。つまり紀元前三世紀頃(約二三〇〇年前)から紀元七世紀頃にかけての約一〇〇〇年の間、大陸から(朝鮮半島から)続々渡来した新モンゴロイド系の人々──彼らとの混血をもって日本人は完成するのである。日本人とは、古モンゴロイドと新モンゴロイドとの、非常に大掛りな混血の産物であったのだ。
何から何まで違う二つのモンゴロイド(その違いは何も身体的特徴ばかりではないだろう)。その融合と対立。日本人という民族を解くカギは、どうもこのあたりに隠されているような気がするのである。
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頭の形と日本人
関西人はちょっと特別[#「関西人はちょっと特別」はゴシック体]
人間の頭を真上から眺めているとする。まず眉間を基点とし、後頭部の一番出っ張った所までの長さを測る(頭のカーブに沿うのではなく、ノギスのような計測器で挟み、直線的に測る)。これを頭長と呼ぶ。側面の最も出っ張っている所の間も同様にして測る。これは頭幅。このとき頭幅《ヽヽ》を頭長《ヽヽ》で割って一〇〇を掛けた値が、大いに問題である。頭長幅示数と呼ばれるこの値は、自然人類学の分野で大変重要な指標となっているのである。
値が大きいほど、幅に対して前後の長さが短いことを意味する。逆に、値が小さいことは、幅に対して前後の長さが長いことを意味する。そこで前者の傾向の頭を短頭、後者の傾向の頭を長頭と呼ぶのである(厳密には長頭、中頭、短頭という分類がある)。長頭、短頭といっても、いわゆる顔が長いかどうかということとは全く関係がない。
日本人の頭の標準サイズは、成人男子で頭長一八・〇〜一九・五センチメートル、頭幅一五・〇〜一六・〇センチメートル、成人女子で頭長一七・五〜一八・五センチメートル、頭幅一四・五〜一五・五センチメートルといったところである。たとえば頭長一八・五センチメートル、頭幅一五・五センチメートルの人の頭長幅示数は、(15.5\18.5)×100 で約八三・八と出る。これはかなり短頭気味の頭である。頭長幅示数は七〇近かったり、九〇に近く出ることもある。しかし日本人なら八〇前後というのが普通で、女の方が男よりも短頭気味であることが人類共通の傾向として存在する。
さて、頭長幅示数がなぜ重要視されているかというと、この値が、人種や民族、あるいは同一民族でも地域によって驚くほどの差を見せつけるからである。そして日本は、同じ日本人の中にその違いが極めて著しく現われる国なのである。日本人が単一民族だなどという幻想は、この例一つを取ってみても簡単に打ち消されてしまうだろう。
日本人の頭の形を初めて大々的に調査したのは、東大の松村|瞭《あきら》という人類学者である。一九一〇年代のこと、男、約六〇〇〇人、女、約二〇〇〇人について測定をした。学生を中心に集められたそれらのデータは、彼らの出身地別に(都道府県別ではなく、七二の旧国名ごとに)整理された。それによると短頭の日本一は山城(京都府南部)の出身者である。頭長幅示数の平均は八三・三(以下、これも含めて身体測定結果はすべて成人男子のものである)。一方、長頭の日本一は隠岐の出身者で、示数は七六・六であった。短頭と長頭のそれぞれベストテンを示すと表の通りになる。旧国名の前の数字は、短頭順に並べたときの順位である。
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短頭ベストテンを見て気がつくことは、近畿勢が多いことである。一〇のうちの六を占めている。薩摩、大隅の鹿児島勢がなぜ入っているのかよくわからないが、近畿とは別系統であるように思われる。飛騨、美濃の岐阜勢は、近畿の余波だろうか。
長頭の方には一見してこれといった傾向は見出されないし、何だかバラバラのようでもある。しかし、よくよく見るならば、ある共通点が存在する。これら一〇の国のほとんどが古来、王朝の地から遠くはずれた辺鄙《へんぴ》な土地だったということである。松村自身がこういう考えを示したかどうかはわからないが、この研究が日本人の起源を考えるうえで後に大変重要な意味を持つことになるのである(松村瞭の研究については『形質人類誌』金関丈夫著、法政大学出版局、に詳しい)。
松村の仕事は何人かの研究者に引き継がれた。一九四〇年〜五〇年代には詳しい全国調査が行なわれている。それによるとやはり近畿は短頭勢力の牙城である。頭長幅示数は平均でも八三〜八四。山城南部や近江の湖東地方南部では、場所によって八五〜八六という驚くべき数値が得られている。短頭勢力はまた、関ヶ原を越えて岐阜、愛知へ、東海道を通って南関東まで達し、西は山陽方面へと及んでいる。これらの地域では八二〜八三くらいの値である。九州の南端には松村の調査と同様、やはりまた短頭勢力が現われるが、これがどういうことなのかは依然としてわからない。
長頭の方はというと、やはり隠岐が群を抜いている。隠岐は島前《どうぜん》(本州に近い方)と島後《どうご》に大別される大小の島々から成るが、中でも一番長頭だったのは島前の知夫里《ちぶり》島で何と示数七六・三。その他の島々ではだいたい七七〜七八といったところである。隠岐が長頭なら、佐渡、壱岐、対馬などはどうなのか、といささか気になるが、長頭ではあるものの、どうも期待するほどではないようである。長頭勢力は本州や九州の日本海側、それに東北地方を基盤としており、たとえば近畿地方にしても丹後(京都府北部)や湖北地方では大分長頭側に(示数八一くらい)傾いているのである。
そして一つよく覚えておくといいのは、本当の長頭日本一はアイヌの人々だということである。和人と混血していない純アイヌの人々は、平均で示数七六・六だった。隠岐の知夫里島にはやや及ばないものの、隠岐全体と比較すれば、やはりアイヌの方が長頭の王者なのである。
頭の形やその他の身体の測定は日本の周辺地域にも及んでいる。大東亜共栄圏構想が打ち出されていた時代に、まさに共栄圏≠フ人々を中心として頭の形が徹底的に調べられた。
それによるとまず、朝鮮半島は見事なまでの短頭王国である。全域にわたり頭長幅示数は八四〜八五。特に最南端の全羅南道では八六を超え、日本の短頭の牙城である山城南部、湖東地方でさえ届かない。この短頭傾向は満州から蒙古へと連なっている。
中国はどうだろうか。中国で最も短頭であるのは揚子江下流域の江蘇省(南京、上海のある省)、その西隣の安徽省のあたりだが、示数は八三前後。日本の近畿地方全体の平均をやや下回る程度で、むろん朝鮮半島や満州、蒙古の短頭には遠く及ばない。長頭にしたところで黄河下流域の山東省、タイ国境に近い雲南省などで示数八〇を少し下回るくらいだ。中国は国が広い割には頭の形に差がないということになる。チベット、ネパールについても中国と大差ない。
東南アジアに目を移し、少し驚かされるのはタイである。タイは世界でも指折りの短頭の国で、示数八七という結果さえ得られている。インドネシアも同様に短頭だが、示数は八四〜八五くらい。但し、これら東南アジアの短頭は、主に頭長が短いことから導かれる結果であり、主に頭幅が大きいことから導かれる、朝鮮半島や満州、蒙古、そして日本の近畿地方の短頭とは別系統である。
パプア・ニューギニアなど太平洋の島々にも目を向ける。驚いたことに今度は極端な長頭なのである。示数は七四〜七六くらい。さらにオーストラリア原住民《アボリジニ》ともなると間違いなく世界一の長頭で、示数は何と七二〜七三。しかし、これらの人々の長頭と日本のアイヌや隠岐などの人々の長頭とは、やはりまた系統が違う。前者が主に頭幅が短いことによる長頭であるのに対し、後者は頭長が長いことによる長頭だからである(日本とその周辺の民族についてのデータは、『人類学雑誌』五〇巻、四二一〜四二九ページ、昭和一〇年、同じく五三巻、四一九〜四二八ページ、昭和一三年、『人類学輯報』一八〜三六巻のそれぞれ該当箇所、金関丈夫の前掲書などを参照)。
頭の形
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身長測定値
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注・身長以外の身体測定値は、身長で割って100を掛けた値
こうしたいくつかの結果を総合的に分析する際に威力を発揮するのは、座標を利用することである。この場合なら、たとえば横軸を頭幅、縦軸を頭長とし、それぞれのデータを座標面上にプロットする。こうすればそれぞれの関係が鮮明に浮かび上がってくるのである。こうして小浜《こはま》基次という戦前から戦後にかけて活躍した阪大の解剖学者が作ったある有名な図には、我々のルーツの一つが自ずと指し示されている。
日本人の頭の形は実に広い変異の幅を持っている。そのカバーする範囲は、時に周辺の民族と重なり合うほどだが、興味深いのは日本人の広い変異幅の中に、ほとんど取り込まれてしまいそうな民族がいることである。朝鮮半島(あるいは満州、蒙古)の人々である。その重なる部分とは、既にお気づきの通り、関西の人々の領域にほぼ相当するのである。
もっとも、関西人と朝鮮半島の人々とが一致するのは頭の形だけ、ということもありうる。頭だけでなく、足の長さ、胴の長さ、手の長さ(肩から中指の先まで)、肩幅、骨盤幅についても見てみよう。関西からは近江人、朝鮮半島からは南朝鮮(半島南部)の人々を代表させ、アイヌ、隠岐の人々、東北の代表として津軽人も含めた比較検討をしてみる。頭長、頭幅はミリメートル、身長以外の体に関する値はそれぞれ身長で割って一〇〇を掛けたものである(これらのデータは、『日本人の起源を探る』歴史読本特別増刊、新人物往来社、における小浜基次執筆「日本人とアイヌ」、『人類学輯報』二〇巻、七三〜八五ページ、昭和三三年、より)。
こうして見てみると、関西人と朝鮮の人とは頭の形ほどではないが体形もよく似かよっている。両者は、背は高いのに手足が短い。肩幅、骨盤幅が狭く、全体的にすらりと華奢である。一方、アイヌ、隠岐人、津軽人は長頭であるうえに身長は低い(隠岐人は身長が高い)、しかし手足は長い、肩幅、骨盤幅が広くてがっしりしている、という特徴が浮かび上がってくるのである。
関西人と朝鮮の人々とがなぜこれほどまで似ているのか。結論から言えばそれは、両者の主たるルーツが同じであるからである。いずれの場合にも、最後の氷河期に寒さに対する適応を遂げた、新モンゴロイドの系統の人々。そして歴史的に見るならば、かつて関西に、朝鮮半島から多数の人間が渡来してきた事実があるからである。
ひと昔前の見方の中には、日本には大陸からの人間の渡来などということはほとんどなく、縄文人がそのまま弥生人(弥生時代に生きていた人)に進化し、現代までつながっているとするものさえ存在した。しかし今や、大陸、特に朝鮮半島からの人々の大量の渡来、そして先住の縄文人との混血は疑いようのないことなのである。それは頭の形や体形など、自然人類学からの研究の他に、考古学の成果からも裏付けられている。縄文人と渡来人との混血の結果が、日本人であるわけだ。
ある仮説によれば、人々の渡来の最初のきっかけは気候変動にあるという。今から三〇〇〇年くらい前、というから、ちょうど縄文時代の終わり頃である。世界的に一時気候が寒冷化したことがある。そのとき農耕に適した新天地を求め、大陸方面から多数の人間がやって来始めた。彼らは稲作などの技術を伝え、結果としてそれは縄文時代を終わらせたのである。
この渡来人到来の波は、紀元前三世紀頃から約一〇〇〇年間にもわたり断続的に続いていたらしい(ということは奈良時代頃まで続いていたのである)。自然人類学者の埴原《はにはら》和郎氏の試算によると、一〇〇〇年間で一〇〇万人もの人間がやって来た勘定になるという(但しこの値は、年平均に直せば一〇〇〇人ということになる。これを大したことないと見なすか、やはり多いと見なすかは難しいところだ。埴原氏は、今ではすっかり定説となった「日本人の二重構造」について長年力説してこられた)。
渡来人は初め北九州に住み、子孫たちはやがて中国、近畿地方へと地盤を移していった。この過程で邪馬台国や大和朝廷が誕生したというわけである。近畿地方の人々に渡来系の特徴が強いのは、まずこうした背景があるからである。この渡来人の子孫たちの移動のいかんにより、「縄文」対「渡来」の濃度比のようなものがそれぞれの地域に特徴として残されているのである。
それにしても、関西人の渡来人的傾向の強さはちょっと不思議である。それは、渡来人の地盤の畿内への移動だけで説明できるものだろうか。いや、大陸から近畿地方への直接の渡来、それもかなり集団としてまとまった渡来を考えないことにはそれは土台無理な話なのである。そこで思い当たるのが帰化人だ。帰化人とは少なくともこの本では、四〜五世紀以降、大和朝廷の求めに応じ、朝鮮半島方面からやって来た何らかの技能集団、あるいは何か組織的に渡来した人々を指すことにする。帰化人という言葉は今ではあまり使われなくなったが、その他の時期の渡来人と区別するために敢えて使う。帰化人は一定の居留地を与えられ、それはたいていの場合、朝廷のお膝元である近畿地方だった。
帰化人としての歴史が最も古く、かつ最大の勢力を有していたのは秦氏《はたうじ》である。一説によると秦氏は、四世紀末〜五世紀の頃、新羅や加羅《から》(新羅は朝鮮半島南東部、加羅は同、最南部)から渡来した。政治の中心がまだ飛鳥地方にあった頃、早くも京都盆地の開拓にあたったのだという。その勢力のほどは『日本書紀』に、欽明期(六世紀)に全国の秦氏が召し集められたところ、「秦人《はたひと》の戸の数、総《す》べて七千五十三戸」と記されている。一戸がどれくらいの人数に相当するのか、残念ながら正確にはわからない。しかし、仮に一戸=五人として約三万五〇〇〇人、一戸=一〇人として七万人以上の値が得られるのである。その少し後の八世紀末、建都間もない頃の平安京の人口は一〇万人程度であっただろうと推定されている。秦氏は、相当な勢力を占めていたに違いない。
秦氏と並ぶ勢力で、やはり歴史が古いのは漢氏《あやうじ》(東漢氏《やまとのあやうじ》)である。百済や高句麗方面(百済は朝鮮半島中西部、高句麗は同、中北部)から渡来した模様だ。本拠地は奈良盆地南部の高市《たけち》郡で、ちょうど飛鳥の地に相当する。『続日本紀』には、八世紀の高市郡の人口は、実に八〜九割が漢氏一族によって占められていることが記されている。
さらに、奈良盆地から大和川沿いに西へ下ると河内平野が開けているが、ここもまた古くからの帰化人の土地である。中心勢力は文氏《ふみうじ》(西文氏《かわちのふみうじ》)。朝鮮半島から渡来したことは確かであるものの、詳しいことはわからない。一族は南河内の古市《ふるち》郡のあたりを拠点として住んでいた。
しかし帰化人が最も大量に入り込み、その影響が今もありありと残されているのは近江の地だろう。近江には元々秦氏などの勢力が多少及んでいたが、七世紀、朝鮮半島の政治不安が発端となり、この土地に大量の政治亡命者が移入してきたのである。
六六〇年、百済が新羅、唐の連合軍によって攻撃を受け、王が捕えられるという事態に陥った。当時、大和朝廷は百済を支配下においており、中大兄皇子(後の天智天皇)らは援軍を送った。しかし唐の水軍との決戦の末、大敗(白村江《はくすきのえ》の戦い、六六三年)。そこで百済から王族、貴族を始めとして僧侶、農民に至るまであらゆる階層の人々が大挙して亡命してきたのである。移入の記録は関東にも少なくないが、ほとんどは畿内へ、そして新しく大津に都が置かれるという事情もあって(大津京《おおつのみやこ》遷都は六六七年)、琵琶湖東岸の神前《かんざき》郡や蒲生《がもう》郡などが主たる入植地となっていた。『日本書紀』はその数を、六六五年神前郡に「男女四百余人」、六六九年蒲生郡に「男女七百余人」と記している。当時としては驚くべき大量移住ではないだろうか。この白村江の戦いの直後が、どうやら約一〇〇〇年にわたる朝鮮半島からの渡来の波の、最後にして最大のピークであるようなのである。
近畿地方とは、渡来人の影響が特別現われている地域である。渡来人の到来、彼らと先住の縄文人との時間をかけた混血により日本人は出来上がってきた。ただそれは、近畿地方、特に京都周辺に関しては少し別にして考えなければならないような気がするのである。
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ミトコンドリアは語る
縄文人はどこから来たか[#「縄文人はどこから来たか」はゴシック体]
縄文人は日本の先住民である。縄文人の住む日本列島に渡来人がやって来た。渡来人は縄文人を圧倒し、その一部は辺境地方、山岳地方へと逃れていった。しかし他方で、渡来人と融和し、混血する者たちも現われた。縄文の血が色濃く残るのは、沖縄など南西諸島、南九州や西九州である。そして山陰や南四国、南紀、北陸、中部山岳、東北や明治以前の北海道などである。
アイヌはその日本人離れした、威風堂々とした風貌からコーカソイド(ヨーロッパ人)ではないかと言われたことさえある。けれどもアイヌは、誰にも増して原日本人≠ノ近いことがわかっている。北海道の縄文人は渡来人とほとんど混血しなかった。その子孫がアイヌだ。彼らは縄文人のほぼ直系の子孫と考えられているのである。
縄文人は、古モンゴロイドに属するとみられている。古モンゴロイドは元来アジアの南部に住み、ウルム氷期の時代にもさしたる寒さを経験しなかった。だから寒さに対する適応を遂げる必要がなかった人々である。古モンゴロイドの特徴は、彫りの深い顔、二重瞼、ぱっちりした目、体毛の濃さ、比較的長い手足、湿った耳垢、等々で、縄文人も概ねこのような特徴を備えていただろう。その他、人骨から推定される縄文人の特徴は、長頭、肩幅が広くがっしりした体形、比較的低い身長などである。
一方、渡来人は新モンゴロイド的傾向が強い。新モンゴロイドは、ウルム氷期の頃にユーラシア大陸北東部の極寒の地に住み着いていた人々で、その際、寒さに対する著しい適応を遂げた。新モンゴロイドの特徴は、突出の少ない扁平な顔、一重瞼、細い目、薄い体毛、胴長短足、乾いた耳垢……などである。渡来人も概ねこのような特徴を備えていたはずで、その他に短頭、比較的身長が高い、肩幅が狭く華奢だったことなどもわかっている。
しかしながら、縄文人が日本列島の先住民であるとはいうものの、まさか太古の昔からずっと住み続けていたわけではない。結局のところ彼らの祖先も、どこか他の土地から日本列島にやって来たということになるのである。
縄文人が古モンゴロイドで、その起源がどうも南方にあるということを示す一つの良い証拠は、耳垢である。耳垢にはドライとウエットの二つのタイプがあり、人によってどちらかに決まっている。日本人はドライが圧倒的多数を占めるが、ヨーロッパ人、アフリカ人などではほぼ全員がウエットで、人類全体としてはウエットの方がよほど普通である(ウエットは米国白人で九七・五パーセント、米国黒人で九九・五パーセント)。ドライタイプの耳垢はモンゴロイドにしかまず現われない。それもユーラシア大陸の北東部に多く、寒冷適応を遂げた新モンゴロイドの特徴と考えられるのである。
日本周辺の民族についてかつて大々的に行なわれた調査によると、ウエットの割合は、まず北シナ人で四・二パーセント、韓国人で七・六パーセント、ツングース人九・四パーセント、モンゴル人一二・一パーセント、日本人一六・三パーセント、南シナ人二六・〇パーセントといったところである。ところがさらに南へ下ると、琉球島人で三七・五パーセント、海南島|黎《れい》族(海南島はヴェトナムに近い、中国最南部の島)五五・四パーセント、ミクロネシア人六二・九パーセント、台湾高砂族七一・四パーセント、メラネシア人七二・二パーセント、とだんだんウエットが増えてくるのである。そして縄文人のほぼ直系の子孫とみられるアイヌの人々はと言えば、何と八六・七パーセントという高率でウエットなのだ。つまりアイヌとは、南方に起源を持ちながら、なおかつあれほどまで北へ進出した──しかも遺伝的な純粋性を保ちながら──非常に貴重な人々なのである。
そして最近になって、さらに心強いことには縄文人が南方に由来することを示す、有無を言わさぬ証拠が現われてきた。それはミトコンドリアのDNAに注目した研究である。現代人だけでなく、縄文人の人骨のミトコンドリアそのものについても調べている点がミソである。
そもそもなぜミトコンドリアが注目されたのだろうか。ミトコンドリアとはご存じの方も多いと思うが、細胞内に存在する、半ば独立した器官である。ATP(アデノシン三リン酸)と呼ばれるエネルギーのもとを作るのが主な仕事だ。ミトコンドリアは驚くべきことに細胞核のDNAとは別の、自分自身のDNAを持っているが、一つの細胞には何百というミトコンドリアが含まれている。しかも一つのミトコンドリアが五〜六コピーものDNAを持っている。つまり、まず早い話が、ミトコンドリアを研究材料にするとDNAを簡単に大量入手できるという利点があるのである。
しかしミトコンドリアの利点は、それだけに留まらない。そのDNAは核のDNAに比べ、塩基の置き換わりや欠落、挿入など、塩基配列の変化が非常に速い。そのため核で調べるより、生物の進化についてのより詳しい情報を得ることができるのである。たとえばチンパンジーとゴリラとでは、どちらが人間に近いだろうかという問題がある。核のDNAを調べる限り、塩基配列の違いが互いに少ないためなかなかはっきりとはわからなかった。しかしミトコンドリアのDNAを調べると、それぞれの塩基配列は相当に違っている。ある八九六塩基の領域を調べると、人間とチンパンジーでは七九塩基違う。人間とゴリラとでは九二塩基違う。かくして人間により近いのはチンパンジーの方であろうと結論されてくるのである。
だが、そんなことよりも何よりも、ミトコンドリアをミトコンドリアたらしめている最大の特徴──それは次の一点に尽きると言える。
ミトコンドリアは母から子へしか伝わらない。父親のミトコンドリアの遺伝子は一切関係ない……。
それは受精とそれに続く卵割について考えてみるとよくわかる。卵を受精させる際に、精子は核のDNAを送り込むのみである。精子にもミトコンドリアはあるにはあるが、卵《らん》へ入ってすぐに働きを抑えられてしまう。受精卵はやがて卵割を始める。同時に卵のミトコンドリアも増えていく。こうして我々の体は、すべて母親由来のミトコンドリアで満たされることになるのである(一部の生物で稀に父親由来のミトコンドリアが伝えられることなどが報告されているが、人間では確認されていない)。
ミトコンドリアのDNAに注目すれば母から母へ、そしてそのまた母へというように、人間の祖先をどんどん遡っていくことができるだろう。人間がいかに混血し、元の民族の特徴がほとんど失われかけようとしていても(それはちょうど日本人の現状に相当するのだが)、ある人間のルーツを母系に限って探ることが可能である。ミトコンドリアは母系で伝えられる、その家系に特有の苗字か家紋のようなものと考えればよいわけだ(もっとも、その苗字≠竍家紋≠ヘ何万年という年月のうちには少しずつ変化する)。
国立遺伝学研究所の宝来聰《ほうらいさとし》氏は、ミトコンドリアDNAの情報から日本人のルーツを探ろうとしている人である。宝来氏はまず、現代人のミトコンドリアを調べ、DNAの塩基配列の違いから分類、系統樹を作成した。メンバーは日本人が六二人、日本人以外のアジア人が二九人、ヨーロッパ人二〇人、アフリカ人一〇人という内訳である。およそ一万六六〇〇の塩基が並ぶミトコンドリアDNAのすべてを調べたわけではなく、Dループと呼ばれる、遺伝子をコード(暗号化)していない領域に注目した。塩基配列の個人差は、こういう領域に著しく現われるからである。
それによると、既にこれだけでも大変興味深い結果が導かれる。系統樹の一方の端の方にはアフリカ人しか現われない。次いでアジア人、日本人、そしてアフリカ人が続々登場するが、ヨーロッパ人は中盤にさしかかるまでほとんど現われない。そしてひとしきり何人かが登場すると、また姿を消してしまうのである。一方、アフリカ人は、ほぼ全体的に登場、アジア人も最初のアフリカ・オンリーの箇所を除き、全体的に登場する。
この系統樹からまず読み取れるのは、三大人種の分岐についてである。ヨーロッパ人はミトコンドリアDNAのバリエーションが少なく、系統樹の一カ所にほぼ固まっている。それはヨーロッパ人が、最も新しく分かれてきた人種であるからだろう。ヨーロッパ人のかたまりの両側は、実はアジア人ががっちり挟んでいるのだが、それはヨーロッパ人がアジア人の一部と共通の祖先から分かれてきたことを匂わせる。そしてアフリカ人は、系統樹のすべての領域にわたって現われ、しかも他の人種にはないタイプまで持っている。アフリカ人は三大人種中、最も起源が古いこと、他の人種の生みの親的人種であることがわかるのである。人類誕生の地がアフリカにあることは、この研究からみても間違いないだろう。ミトコンドリアを手掛りに人類を母系、母系で根気よく遡って行ったなら、ついには現生の人類全体の祖となった、イヴとでも呼ぶべき女に到達することになる。エデンの園を追われたイヴ≠ェ姿を現わしたのは、実はアフリカの地だったのだ。
アジア人は系統樹のあちらこちらに登場する。しかしよくよく見るならば、いくつかの傾向が存在することがわかってくる。日本人を別にして考えると、まず、枝分かれの初めの方には、中国人、韓国人、タイ人、マレーシア人、インドネシア人、と様々なアジア人が登場する。しかし、枝分かれの最後のひとかたまりには、マレーシア人とインドネシア人しか現われて来ないのである。これが第一に目につく点。もっとも、それ以上に驚かされるのが、日本人の分布である。日本人はアジア人全体をすっかりカバーするほどで、マレーシア人、インドネシア人しか登場しない最後のひとかたまりにさえ現われてくるのである。くどいようだが、日本人は単一民族などではないのである。
では、縄文人のミトコンドリアを調べたなら、系統樹のどこに位置することになるだろうか。とはいえ縄文人のミトコンドリアを調べるのは、当然のことながら容易なことではない。現代人なら血液や胎盤などを利用すれば済むから、材料の入手にも、量にも困ることはない。しかし人骨、それも何千年もの歳月を経た試料からどうやって目ざすDNAを取り出すのか。取れたところで量は十分だろうか。ところが幸い、そういう困難な問題を解決する方法が何年か前に開発された。PCR法(PCRは Polymerase Chain Reaction の略)と呼ばれるその方法によれば、DNAの狙った箇所を何万倍、何十万倍にも増幅させることが可能である。古い人骨からでも十分な量の材料を手に入れることができるわけで、宝来氏はいち早くこの方法を取り入れた。
宝来氏がまずPCR法を用いたのは、浦和一号と呼ばれる縄文人骨である。一九八八年に埼玉県浦和市の地下五メートルの所から発見され、約五九〇〇年前の、縄文前期のものと推定されている。
まず浦和一号の頭蓋骨のてっぺんを、二センチメートル四方ほど(重さにして約一グラム)くりぬく。よく洗った後、歯科医用のドリルで粉々に砕く。そして塩酸を加えてカルシウムを溶かし、有機溶媒でタンパク質などを溶かし出す。こうして最後にDNAだけが残される。ただ、この段階のDNAはミトコンドリアのみならず、核のものも含んでいるし、まだ終わりではない。そこでPCR法の登場となる。DNAの狙った箇所(この場合なら、ミトコンドリアのDループの一部)を驚くべき正確さで増幅させることができるのである。浦和一号の塩基配列は、こうしたいくつかの手続きを経て明らかにされた。
浦和一号と比較して、その塩基配列(一九〇塩基)が完全に一致する日本人は、残念ながら一人もいなかった。六二人のうち、一カ所違うという人が一五人(全員同じ箇所)、二カ所違うという人が八人、残る三九人は三カ所以上(最高八カ所)で違っていた。
ところが興味深いことに、アジア人の中に、完全に一致する人が二人ほど見つかったのである。マレーシア人とインドネシア人だった。それにまた一カ所違いの人が一人おり、その人もマレーシア人。しかもその配列は、浦和一号と一カ所違いである日本人一五人のものと全く同じなのである。二カ所違いの人も一人で、マレーシア人であった。しかしその他のアジア人(韓国人三人、中国人四人、マレーシア人八人、インドネシア人三人、タイ人四人、フィリピン人、パプア・ニューギニア人、スリランカ人各一人、以上合計二五人)はいずれも三カ所以上で違っていた。ヨーロッパ人二〇人は、二カ所違いの人が一人いる他はいずれも三カ所以上の違い、アフリカ人一〇人は全員が三カ所以上で違うのである。
系統樹の中の浦和一号は既に想像されるように、マレーシア人、インドネシア人が多く(むろん日本人も含まれる)、中国人、韓国人が全くいない最後のかたまりに位置する。縄文人とマレーシア人、インドネシア人との間の浅からぬ因縁がうかがわれるのである。
縄文人一体で事を論ずることは、もちろん危険である。同様にして縄文人骨四体、近世アイヌの人骨六体についても調べられている。縄文人骨のうち一体は埼玉県戸田市から出土したもので、年代は浦和一号とほぼ同じ約六〇〇〇年前、残る三体は北海道で出土し、少し新しくて三〇〇〇年くらい前の縄文後期のもの、アイヌは六体とも北海道で出土した二〇〇〜三〇〇年前のものである。
驚くべきことに戸田の縄文人、北海道の縄文人のうち二体、そして近世アイヌのうちの二体は配列が全く同じであった。それは浦和一号とは一カ所違いであり、浦和一号と一カ所違いであるとされた日本人一五人の配列そのものだったのである(ということはそれは、浦和一号と一カ所違いのマレーシア人一人とも一致)。北海道の縄文人の残る一体は浦和一号と二カ所違いで(そのうちの一カ所は今挙げた人々と同じ箇所)、その他の近世アイヌにしても一〜二カ所を除けば必ずいずれかの縄文人に一致したのである。縄文人とアイヌ、マレーシア人、インドネシア人というラインがますます鮮明に浮かび上がってくる。
ついでながら昨今大変話題になっている「アイスマン」とは、宝来氏の研究における浦和一号のような存在である。アイスマンは一九九一年、アルプス・チロル地方の氷河から発見された凍結遺体で、ちょうど日本の縄文時代に当たる約五〇〇〇年前のものと推定されている。彼の左もも付近の骨や筋肉からはサンプルが採取され、ミトコンドリアDNAの塩基配列が調べられた。同時におよそ一三〇〇人の現代人(ヨーロッパ人が中心)のミトコンドリアDNAと比較された。するとアイスマンのものとぴったり一致する人が、一三人見つかったのである。それらの人々には「アイスマンはあなたのご先祖様ですよ」と報告されたそうだが、正確にはご先祖様というより、アイスマンとその一三人とが共通のご先祖を持つということだろう。しかしともあれ、目出たい話である。現代日本人の中に浦和一号とぴったり一致する人が一人でもいたら、話はさぞかしエキサイティングだっただろうに(もっとも戸田の縄文人と一致する日本人は一五人もいるのだから、こちらが話題になってもよかったのだが)。
宝来氏の研究からわかるのは、まず縄文人の起源についてである。彼らがマレーシア、インドネシアの一部の人々とどうも起源を同じくしているらしいということだ。ミトコンドリアDNAの塩基配列が同じ(あるいはほとんど一致する)ということは、母系で伝えられる苗字や家紋が同じ(あるいは似ている)ようなもので、両者がかつて共通の母系集団に属していたことをうかがわせる。両者はやがて地理的にか、文化的にか互いに隔絶しはじめた。その過程で日本列島に足を延ばしたのが我が縄文人の祖先、というわけなのだ。とはいえ、マレーシアやインドネシアの人々が一貫して現在の地に住み続けているはずもはなく、縄文人がどこからやって来たのかについては(南方からであることは間違いないにしろ)依然としてよくわからないままなのである。
宝来氏の研究はまた、アイヌが縄文人のほぼ直系の子孫であることを強力に裏付けている。例数は十分ではないものの、アイヌ(近世)のミトコンドリアDNAに、縄文人と同一か類似の塩基配列しか見つからないからである。さらにまたこの研究は、日本人の中に縄文人とは一線を画す、中国人や韓国人に近いミトコンドリアDNAの持ち主がいることを明らかにしている。かつて一部に疑いが持たれていた、大陸からの大量渡来という事実さえ、あっさりとミトコンドリアが証明してくれたというわけである(耳垢の調査については『日本人の起源を探る』歴史読本特別増刊、新人物往来社より松永英執筆、「ミミアカの多型とその生物学的意義」、宝来氏の研究については、『日本文化の起源』佐々木高明、森島啓子編、講談社より「日本人はどこからきたか──遺伝学からみたモンゴロイドの拡散」、などに詳しい)。
縄文人と渡来人……我々は概ねその混血の産物である。混血ははたして融和を生んだだろうか、それとも対立を生んだのか。何しろこの二つの勢力は、片や南方に、片や北方に起源を持っている。少なくとも気候という点では、それぞれまさに正反対の淘汰を受けてきたのだ。寒冷な気候は体形を、顔つきを著しく変貌させた。温暖な気候もそれなりの影響を及ぼしたことだろう。しかしそうした淘汰が働いたのは、体形や顔つきなど、目に見えるものに対してだけだっただろうか。私が考えるところによれば、淘汰は婚姻形態や社会の仕組み、人々の物の考え方や性質、そして心……それら無形のものに対しても同様に働いたはずである。
異なる環境でそれらはいかに進化しただろうか。正反対の淘汰をあわせ持つはずの日本人が、なぜ自己分裂を引き起こしたり、あるいは人間どうしでそれほど激しく対立したりしないのだろうか。こんなにもバリエーションを持つ人間の集団が、なぜ「我々は日本人という単一民族である」などという幻想を抱いてしまうのか……。
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第二章 [#「第二章 」はゴシック体]男と女とパラサイト[#「男と女とパラサイト」はゴシック体]
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外見にこだわるのはなぜ?
ツバメに見る恋愛の現実[#「ツバメに見る恋愛の現実」はゴシック体]
エサをくわえたツバメの親が戻ってきて巣の縁《へり》に止まるや、ヒナたちは一斉に黄色い口を開ける。飛んでいるときもさることながら、こうした瞬間のツバメの姿もなかなかに美しい。目が行ってしまうのはやはり尾羽《おばね》だ。一番外側の尾羽が不必要と思えるほど長く、針のように伸びている。中央はまるで誰かがハサミを入れでもしたかのように深く切れ込む。ツバメは本当に燕尾服《えんびふく》を着た鳥なのだ。けれども続けて観察していると、巣にやって来るツバメには尾羽がより長いものと、そうでないものとがあることに気づいてくる。尾羽の長い方がオス、短い方がメスである。ツバメは一夫一妻の鳥で、こうして両親が協力してヒナを育てているわけである。オスとメスとでは、尾羽以外にはさしたる外見上の違いは見当たらない。
オスの尾羽が長いといっても、個体によって随分と開きがある(尾羽とは、一番外側の最も長い尾羽を指すものとする)。平均で一〇・五センチメートルくらい。長いもので一二〜一三センチメートル、短いもので八〜九センチメートルといったところである。しかもオスの尾羽は、歳とともにだんだん長いものに生え換わっていくのだという。一方、メスは平均で九センチメートルくらい、個体差はオスほどには大きくない。
オスの求愛方法は、木に止まりながら、飛びながら、メスに向かって尾羽をうち震わせるというものである。このとき長い尾羽を持つオスほどよくモテる。デンマーク出身の動物行動学者A・P・メラーは、巧妙な実験によりそれを確かめた。
メラーがツバメの調査地に選んだのは、デンマークの田園地帯である。そこには毎年五月頃になると、アフリカ方面からツバメが渡ってきて繁殖する。九月頃まで滞在し、うまく行けば二回の繁殖を成功させる。ツバメは日本で普通見かけるものと同じ種だが、コロニーを作るという点が違っている。
メラーは、渡りを終え、ようやく縄張りを構えたばかりのオスを四四羽ほど、彼らの寝込みを襲って捕獲した。尾羽は長いもの、短いものと様々だが、平均値がほぼ同じになるよう彼らを四つのグループに振り分けた(一グループ一一羽)。そしてグループごとに尾羽に異なる細工を施したのである。つまり、尾羽が非常に短いオス、尾羽の非常に長いオス、長さは普通だが、尾羽をいったん切ってまたくっ付けたオス(次に説明する尾羽を切断することによる効果を見るための対照群《コントロール》)、何も細工を施していないオス(単なる対照群《コントロール》)という役割をそれぞれに与えたわけである。
尾羽の短いオスは、尾羽を途中で一部切り取ることで作った。根元から二センチメートルくらいのところで長さ二センチメートルほど切り取る。然る後に瞬間接着剤で残りを接続するのである。尾羽の長いオスを作る場合にも、やはり根元から二センチメートルほどのところで切るが、そこへ先ほど尾羽の短いオスを作る際に切り取られた二センチメートルの断片をくっ付ける。そして残りを接続させるという手順である。前者の尾羽の長さは平均八・五センチメートル、後者は平均一二・七センチメートルになった。実験用に特に大袈裟にしたわけではなく、こういうオスは現実にも存在する。対照群《コントロール》の二グループのオスの場合、いずれも平均一〇・六センチメートルで、現実のオスたちの平均とほぼ同じであった。
さて、オスたちは、それぞれが元々構えていた縄張りに戻された。広さは、一〜二メートル四方くらいである。尾羽をいじられてもその防衛には支障なかったようで、どのオスも縄張りを失うようなことはなかった。けれどもメスに対するモテ方という点で、あまりの違いが現われたのである。
尾羽を長くされたオスは、わずか二〜三日のうちに(早い者はその日のうちに)相手を見つけ、巣作りと交尾に勤《いそし》むようになった。一方、対照群《コントロール》のオスは一週間くらいで。しかし尾羽を短くされたオスは、さっぱりダメで、一週間たってもまだという者が大半、平均すると二週間かかってやっと相手を見つけるという有様《ありさま》だった。三週間かかる者、とうとう相手を見つけられず仕舞いという者さえ(二羽)存在したのである。
遅まきながらでも相手を見つけられればいいではないか、と思われるかもしれない。けれど、ツバメにとってはそうも言ってられないのである。ツバメはワン・シーズンに二回の繁殖を試みる。相手を変えることはない。だから一回目のスタートが遅れることは、二回目のスタートが遅れることでもある。二回目の遅れは、エサの不足する時期へずれ込む危険をいっそうのこと募らせるだろう。ヒナはよく育たず、悪くすれば餓死することだってある。実際、尾羽を短くされたオスは二回目の繁殖にほとんど失敗、長くされたオスはほとんどが成功、対照群《コントロール》のオスは成功、失敗半々であった。繁殖シーズンを通してだいたい何羽のヒナを巣立ちさせたかという基準でみても、短くされたオスで三羽、対照群《コントロール》のオス五羽、長くされたオス八羽、と著しい違いが現われたのである。
だが、驚くのはまだ早い。鳥の世界では(人間界でもそうだが)、浮気という現象が大変盛んで、これがまた見過ごすことのできない問題なのである。そしてツバメのオスにとって、浮気の成否のカギを握るのがまたしても尾羽の長さなのだ。それは、ほとんど決定的といっていいくらいに重要である。
ツバメの夫婦は営巣期から産卵期にかけて、驚くほど頻繁に交尾する。メラーが観察したところによると、オスがメスに求めていくのは一時間に平均で五回くらい。しかし断わられることの方が多く、実際の交尾に至るのはそのうちの一回程度である。浮気についてはどうかというと、オスは自分の尾羽が長いかどうか(といっても実験的に操作されているだけなのだが)とは関わりなく、皆等しく意欲を燃やしている。妻との交尾は一時間あたり平均一回だが、よその奥さんにちょっかいを出すのは平均〇・一回。つまり妻との交尾を一〇回くらい済ませると、浮気の虫がうずいてどうにもたまらなくなるらしいのである。但し、それが成功するとは限らない。浮気に成功するのは、残酷なことに尾羽の長いオスだけなのである。尾羽の短いオスはもちろんのこと、普通の長さのオスでさえダメだった。
さらに残酷なことには、浮気の成立にはメスの、現状への満足度というものが深く関わっている。長い尾羽のオスを亭主に持つメスは、他のオスからの浮気の誘いに一切応じようとはしなかった。ところが普通の尾羽のオスを亭主に持つメスは、二〇〜三〇回に一回、短い尾羽の亭主を持つメスともなると三〜四回に一回、浮気に応じてしまったのである。特に後者の場合、よく考えてみると恐ろしい値であることがわかってくる。
オスは、どのオスも等しく浮気に意欲的であるから、メスのもとには四つのグループのオスが代わる代わる、ほぼ同じ頻度でやって来るはずである。しかしその中で浮気に成功するのは尾羽の長いオスだけである。メスが三〜四回に一回、浮気に応じることは、つまり彼女が、尾羽の長いオスがやって来たときに限り、待ってましたとばかりに逃がさず交尾しているということなのだ。
尾羽の長いオスは、まず自分自身の子を数多く育て上げることができる。さらに浮気を通じても子を残している。その浮気の結果の子を育てるのは哀れ、自分では浮気に成功することのできない尾羽の長くないオスたちである。こうして尾羽の長いオスが残すことのできる子の数は、見かけよりも実はかなり上回っており、尾羽の長くないオスの場合には、明らかに下回っているのである。こうして一つの結論が導かれるだろう。
メスは尾羽の長いオスを好み、そういうオスは事実、より多くの子を残している。かくしてオスの尾羽はどんどん長くなる方向へと進化してきているのである──。
しかしそうすると、ツバメのメスはなぜまた尾羽の長いオスを好むのだろうかという疑問が湧いてくる。長い尾羽が、たとえば飛ぶのに有利であるとか、何か実用的な意味を持つのであれば話は簡単である。メスは長い尾羽のオスを選ぶことで飛ぶのがうまい子を得る。その子はエサを捕るのが上手であるなど、生存に有利であるわけだから、その子を通じ、自分自身の遺伝子をより多く残す結果となる。大変目出たい。けれども長い尾羽は、とてもではないが実用的でないことがわかっている。メラーは鵜飼いのウよろしく、ヒナたちの喉を縛り、彼らがひとしきり親からエサをもらった後に吐き出させ、中味を調べるという研究をした。それによると、どのヒナもほぼ同じ量のエサをもらっている。しかし尾羽の長い(長くされた)オスから与えられたエサは、一匹一匹の昆虫が小さく、数で量を補うという形だったのである。苦労の跡がうかがえるではないか。長い尾羽は飛んだり、昆虫を捕えたりするのには、まさに無用の長物と言えそうだ。それなのにメスが目を輝かせるのは、いったいなぜなのだろう? こういう問題について、最近注目されている考え方は、パラサイト仮説と呼ばれるものである。
メスがオスの持つ、何らかの飾りの美しさ、立派さを好み、問題にするとき、彼女は彼の寄生者《パラサイト》に対する抵抗力をみている。それらを手掛りに寄生者《パラサイト》に強いオスを選び、ひいては寄生者《パラサイト》に強い子を得ようというわけである。寄生者《パラサイト》とは本来、細菌、ウイルスなどの病原体、そして寄生虫などの寄生生活者を指すが、鳥のオスなどの派手で美しい特徴に関わってくる寄生者《パラサイト》は主に回虫、サナダムシのような腸管寄生虫、ダニ、シラミのような外部寄生虫である。パラサイト仮説は一九八二年、動物行動学の大御所であるW・D・ハミルトンとM・ズックとが共同で発表した(この寄生者、パラサイトという言葉だが、私が『小さな悪魔の背中の窪み』新潮社、の中で紹介し、後に瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』角川書店、を著して今ではすっかり有名になっている)。
パラサイト仮説を実験的に検証したのも当のズックら数人の研究者である。セキショクヤケイという、やはりオスが派手な飾り羽や大きくて立派なとさかを持つ鳥について調べた。セキショクヤケイはニワトリの祖先種である。詳しくは『小さな悪魔の背中の窪み』か原著論文(『ビヘイヴィアー』一一四巻、二三二〜二四八ページ、一九九〇年)を参照していただきたいが、簡単に言うとこういうことである。
ヒナの頃に回虫の卵入りのエサを食べさせ、回虫持ちにしたオスとそうでないオスとを登場させ、メスがどちらを選ぶかを見る。むろん多くの場合メスは、回虫持ちでない方のオスを選ぶ。次に、回虫を持っているオスは本当に羽やとさかの状態が悪くなっているかを確かめる。むろん、持っているとその影響はてきめんに現われる。そしてメスが選ぶのは、確かに羽やとさかの状態がよいオスであることも確認する。こうしてメスは、外見を手掛りに寄生虫のいないオスを、つまりは寄生虫に抵抗力のあるオスを選んでいるのだろうと結論されるのである(ここでは簡単に言っているが、実験自体は厳密で用意周到なものである)。ただ、この研究では、寄生虫に対する抵抗力が本当に遺伝するか、ということまでは残念ながら調べられなかった。遺伝することがわかれば、この仮説は進化の議論の場にもっと堂々と登場することができるのに惜しいことである。メラーはツバメの研究を通じ、その点を明らかにした。
メラーは、寄生虫がツバメのヒナの成長を阻害し、無事に育つヒナの数を左右することを、そして寄生虫はオスの尾羽の伸びを左右していることを証明した。こうしてまず、先の尾羽の長さを細工する実験と合わせ、セキショクヤケイの研究とほぼ同様の内容を明らかにしたのである。ツバメのメスも、寄生虫に対するオスの抵抗力を、やはり尾羽の長さという外見を手掛りに見極めているらしい。そして彼は、その抵抗力が遺伝するということを、またしても巧妙な実験を組み立てて証明したのである。
ツバメにとって最も深刻な寄生者《パラサイト》は、ダニである。巣によっては時に一万匹を超えるダニに取りつかれており、ヒナは明らかに成長を阻まれる。死に至ることだって珍しくはない。
けれど、巣ごとのダニ事情には、驚くべき差が見られることも事実である。メラーは試みに、メスが卵を産みつつある時期を狙い(この時期にダニはほとんどいない)、巣あたり五〇匹のダニを加え、その後のダニの増え具合を観察した。するとその違いたるや目を見張るばかりのものだったのである。
ある巣では孵化後五日目のヒナ一羽に約五〇匹、一〇日目では一〇〇匹以上、そして一五日目には三〇〇匹以上と、どんどんダニの数が増えていった。ところが別の巣では五日目数匹、一〇日目でもまだ数匹、そして一五日目でようやく二〇〜三〇匹という結果だったのである。初めに加える五〇匹というのは、通常のその時期の巣にはまずありえないような数のダニである。つまり、このような過酷な条件を与えられたとしても、巣のメンバーに抵抗力があれば大丈夫。また過酷な条件によってこそそれは見事な差として現われ、証明されるというわけである。この、巣による違いとは、遺伝的な差とみて間違いない。巣の父親の尾羽の長さとヒナ一羽に取りついているダニの数(孵化後七日目)とを調べてみると、尾羽一〇センチメートル以下の父親の場合、ヒナのダニの数は三〇〜一〇〇匹、一一センチメートルくらいだと五〜五〇匹、一二センチメートル以上ではせいぜい五匹という驚くべき結果だったのである。尾羽の長いオスはダニに強い、だからその子どもらもダニに強いということだろう。ただ、それはたとえば親が一所懸命ダニを取り除いてやっている、という「努力」の問題かもしれない(もっとも、努力するかどうかも遺伝的な問題なのだろう)。
そこでメラーは、こんな操作を加えてみた。孵化直後のヒナを巣と巣の間で半数ずつ交換する。巣には例によってあらかじめ五〇匹のダニが加えられている。もし、ダニに対する抵抗力が遺伝的に決まっているのなら、どの巣でどんな親に育てられようと、それはほとんど関係ないことになるだろう。
それによると、やはり予想通りであった。ヒナのダニの数は、生まれた巣に留まっていようが、養子に出されようが、あまり変わりがない。それは本来の親(特に父親)との相関が圧倒的に強いのである。抵抗力の強い親の子は、たとえ抵抗力の弱い親の元へ預けられ、実子であるヒナは大いにダニを増殖させていようとも、自身にはあまりダニを寄せつけない。逆に、抵抗力の弱い親を持つヒナは、抵抗力の強い親に托されたとしても、やはりダニを増殖させてしまうのである。こうしてダニに対する抵抗力は、はっきりと遺伝することがわかった。しかもそれは、母親よりも父親との相関の方がはるかに強力なのである。そういう意味でも、メスがオスの尾羽の長さを吟味することに大きな意義があるのだろう(メラーの研究については、『ネイチャー』三三二巻、六四〇〜六四二ページ、一九八八年、『エボリューション』四四(四)巻、七七一〜七八四ページ、一九九〇年、などを参照されたい)。
ツバメやセキショクヤケイでわかったことは、メスは寄生虫に強いオスを、彼の外見を手掛りに選んでいる、ということである。そのときメスは、はたしてどんな感情≠抱いているだろうか。
尾羽の長いオスに対し、
「ああ、このオスは尾羽が長いんだなあ」
と思っているのだろうか。
とさかが赤くて立派なオスに対し、
「ああ、このオスのとさかは赤くて立派だなあ」
などと感心しているのだろうか。
私は、そうではないだろうと思う。メスが抱く感情≠ヘただ一つで、ひたすらカッコいいかどうかということだ。カッコいいという感情が湧く原因が、ツバメの場合には尾羽の長さであり、セキショクヤケイの場合にはとさかの赤や羽の美しさということではないだろうか。
こういった感情の湧くメカニズムというものは、結局のところ人間においてさえほとんど変わりないに違いない。女が男をカッコいいと思うとき、いちいちどの点がカッコいいかなどと検討してはいない。カッコいいからカッコいいだけなのだ。そしてそのカッコよさの根底にも、やはり何らかの寄生者《パラサイト》が関わっているであろうと思うのである。
そんなわけで私は『小さな悪魔の背中の窪み』の中でこんな議論を繰り広げてみた。
女が男の外見で特に重要視しているのは(それはほとんど意識しているわけではないのだが)、脚の長さである。身長も確かにそうだが、どちらかと言えば脚の長さの方が重要であるように思われる。それは、脚の長さが何か寄生虫に対する抵抗力を示しているからではあるまいか。類人猿とは違い、人間は地上のみの生活へと進出した。地上生活は樹上生活に比べ、はるかに糞まみれ、尿まみれの生活である。川へ出かけるなど、水と接する機会も格段に増えた。そうして人間にとって新たな問題となったのは、回虫、ギョウ虫などの腸管寄生虫、そして川にすむ貝を中間|宿主《しゆくしゆ》とする住血吸虫などであったはずである。それら寄生虫が、成長期の人間に多数取りついていたとする。寄生虫は彼(彼女)のプロポーションをどのように操作するだろうか。脚を伸ばすか、胴を伸ばすか。おそらくそれは胴の方だろう。なぜなら胴は、彼らの大事なすみかなのだから。逆に、成長期にあまり寄生虫を持っていないとすると、彼(彼女)は脚がよく伸びるという結果となるだろう。脚の長い男をカッコいいと思い、惚れてしまう女は、やがて彼の資質を受け継いだ、寄生虫に強い子を得ることになるのである……。
この議論が妥当なものかどうかは別として、この先に当然の結論として導かれるのは、こういうことだろう。
女が男の、寄生虫に対する抵抗力を重視しなければならない環境であればあるほど、女は男の外見を、特に脚の長さを厳しくチェックする。即ち、男の脚は長く、胴は短くなる方向へと進化が起きる……。
もちろん女は寄生虫のことなど知る由もない。カッコいい男に惚れるという、それだけのことである。ただ、そのような環境ではカッコいい男に惹かれる性質が、結局のところ適応的である。そういう性質を持った女がより多くの子孫を残す。だから女がカッコいい男に惚れる性質も、男が実際に脚が長くてカッコいいという現象も、ともに進化してくるのである(もちろん同時に、女の脚も長くなる方向へ進化する)。
これは現実に起きていることと、実によく一致しているように思われる。寄生虫からの脅威が大きい地域といえば、熱帯や亜熱帯で、それらの気候に最もよく適応している人種といえば黒人《ニグロイド》である。彼らの脚がいかに長く、お尻がプリッと引き締まってカッコいいことか! それは女が男を、ひたすらカッコよさで選び続けてきた結果に違いないのである。実際、アメリカのS・W・ガンゲスタッドとD・M・バスが世界の二九の地域について調査したところ、寄生者《パラサイト》からの脅威が大きい地域ほど、男も女も相手を外見の魅力で選ぶ傾向にあることがわかったのである(この研究は後で詳しく紹介します)。
寄生者《パラサイト》が影響を及ぼすのはツバメやセキショクヤケイだけではない。それは人間をもカッコよく、カッコよく変えてきているのである。寄生者《パラサイト》あってのカッコよさだったのだ。
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暑い国から来た男尊女卑
そして人はカッコいい[#「そして人はカッコいい」はゴシック体]
女たちが頭の上に恐ろしく重そうな荷物を載せている。それでも楽々、山道を登って行く。男はなぜか全員手ぶらである。
そんな様子をテレビの自然紀行番組(それも「秘境もの」とでも呼ぶべきもの)などでよく見かける。これまで特に何とも思わなかったのだが、最近ちょっと気になり始めたのである。女が重い荷物を担ぎ、男がぐうたらしているような社会が……。
気のせいかもしれないが、そういう光景がピタリとはまるのはアフリカのジャングルやアマゾンの奥地、ニューギニアなど、あくまでも暑く、陽の光が高い梢に遮られて地上にはあまり届かない、うす暗くてジメジメとした土地柄である。女は半裸で腰ミノ程度、男もフンドシかペニスケースの着衣である。そして婚姻形態は一夫多妻……。
しかしこういう、いわば一見女が虐げられている状況に対し、文明化≠オた人間の洩《も》らす感想は、おおよそ次のようなものだろう。
それは文明化≠オていないからだ。未開≠ナあるがために、女の権利がまだ確立していないのだ──。
生理学者で鳥の研究家でもあるジャレド・ダイヤモンドは、かつてニューギニアで体験した出来事を憤慨を込めてこう記している。
「今日のニューギニアの農民社会でも、女性が野菜やら薪やらを頭上に満載して歩いているのをよく見かけますが、男はたいてい手ぶらで歩いています。ある時私は、飛行場から山の上のキャンプまで食料その他を運ぶために、村人にお金を出して雇うことにし、何人かの男や女や子どもが志願しました。一番重かったのは50キロの米の袋で、私はそれに棒を通して、4人の男が一緒に担ぐように指示しました。私がやっと村人たちに追いついてみると、男たちはみんな一番軽い荷物を持っており、例の米の袋は、その袋よりも体重が軽いと思われる小柄な女性が、額に回したひもでしょって歩いていたのでした。」(『人間はどこまでチンパンジーか?』長谷川真理子、長谷川寿一訳、新曜社より)
「目覚めよ、女たち!」という怒りが、淡々とした文章の中にもよく伝わってくる。けれども、もしこの状況が未開≠ナあるからというのなら、それは違っているのではないだろうか。たとえばイヌイット(エスキモー)、ラップ人、ツンドラの遊牧民、のような人々も同様に未開≠ナある。彼らの社会で女の権利が著しく侵され、女が重い荷物を運ばされているかというと、全くそうではないのである。私は最近、本多勝一氏の初期の三部作、『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』(いずれも朝日文庫に所収)を読んでみたのだが、氏によればカナダ=エスキモーは世界屈指のカカア天下社会だそうである。
本多氏とカメラマンの藤木氏は、インテリの評判も高いカヤグナという人物の家に居候した。カヤグナにタバコを渡すと、彼は自分の分のほかに必ず妻の分も受け取っておく。本多氏らがコーヒーを沸かすと、妻が寝ていてもやはり彼女の分を取っておき、枕元にそっと置いてやるのである。重要な件については必ず妻に相談。本多氏らがカヤグナ家に住み込むことができたのも、この奥さんの承諾があったからこそである。彼は優しいというより、ひどく妻を恐れている様子である。妻は妻で堂々と夫を尻に敷く。それは何もカヤグナ夫婦に限ったことではなく、イヌイットは総じてカカア天下社会なのだ。『カナダ=エスキモー』によれば、デンマークのある人類学者はこう言ったそうである。
「エスキモーの女が男の奴隷だという従来の見方は、完全にでたらめだ。尻に敷かれた男の割合は、文明国よりも確実に高い。おそらくはアメリカ合|州《ママ》国を唯一の例外として」
もっとも、イヌイットなどは農業をやっておらず(そもそも農業ができるような環境ではないが)、社会は狩猟採集という極めて原始的段階に留まっている、だから男女の地位の格差がまだあまり生まれて来ていないのだ、という考えもあるだろう。実際、前出のJ・ダイヤモンドはここに引用した箇所の直前の部分で、農業が階級の差を生み出し、男女の不平等を拡大させたこと、それとともに女がすっかり労働の奴隷となってしまったことを述べているのである。
しかし、どうだろう。イヌイットの凄まじいカカア天下を、アメリカ合衆国やいわゆる文明化した国々の女権の確立を、そしてニューギニアや熱帯アフリカなどの、一見女がひどく虐げられた状況を、はたして文明の発達段階の問題として捉えるべきだろうか? もちろん人間には、文明の発達段階に応じた価値観の変遷というものが明らかに存在する。しかし、そんなことよりもこの問題の非常に根深いところには──私が考えるところによれば──まず第一に気候条件というものが存在するのである。
アメリカの文化人類学者であるB・S・ロウは、世界の一八六の民族、部族の、社会的に認められている婚姻形態について検討した。婚姻形態とは、一夫多妻か一夫一妻か、はたまた一|妻《ヽ》多|夫《ヽ》か、である。一夫多妻についてはさらに三つに分け、結婚している男のうち、複数の妻を持つ男の割合が四〇パーセントを超える場合(これを仮に「著しい一夫多妻」と呼ぶことにする。以下同様)、そのような男の割合が二〇〜四〇パーセントの場合(「中程度の一夫多妻」)、同じく二〇パーセント以下の場合(「緩やかな一夫多妻」)と分類した。
それによると赤道に近く、高温多湿の気候条件にあればあるほど、婚姻形態は一夫多妻の傾向が強まるのだ。「著しい一夫多妻」はアフリカの赤道付近やアマゾン流域などに、「中程度の一夫多妻」はアメリカ大陸のあちらこちらに(といっても先住民についての話)、アフリカの、赤道からやや離れた地域、インド、アラビア半島などに、そして「緩やかな一夫多妻」は東南アジアなどに……といった具合である。ちなみに調査対象の中で一|妻《ヽ》多|夫《ヽ》と認められたのは、インドや南太平洋の島などの数カ所だった。
ロウは同時に、それぞれの地域における寄生者《パラサイト》の脅威を検討した。対象とした寄生者《パラサイト》は、リーシュマニア(吸血性のハエであるサシチョウバエによって媒介される鞭毛虫)、トリパノソーマ(睡眠病を引き起こす鞭毛虫)、マラリア原虫、住血吸虫、フィラリア(象皮病の原因となる糸状虫)、スピロヘータ、らい菌、の七種類である。そうしたところ、寄生者《パラサイト》の脅威の強さと一夫多妻の程度との間に目覚ましい相関があることがわかったのである。
寄生者《パラサイト》からの脅威が強い地域ではおそらくそのことと関連し、婚姻形態は大きく一夫多妻の側に傾いているということなのだ。
文化人類学者であるロウが、なぜまた寄生者《パラサイト》などという観点を持ち出すに至ったかと言えば、彼はパラサイト仮説の提唱者であるW・D・ハミルトンに直接教えを乞うたからである。ハミルトンはこんなふうに考えていた。
人間の婚姻形態を決める要因としては、まず男の経済力や地位などといったものが考えられる。しかしそれは極めて個人的な問題で、社会全体の傾向として見るならば一番の要因は寄生者《パラサイト》ではないだろうか。寄生者《パラサイト》の脅威が強い地域では、女は男を寄生者《パラサイト》に抵抗力がありそうかどうかで選ぶ必要に迫られる。だが、女の望む、寄生者《パラサイト》に強そうな男とは、そうそういるものではないだろう。女の要求水準がひどく高いものだとすると、そういう男の数はますます少なくなってくる。かくて限られた特定の男に女の人気が集中する。婚姻形態は大いに一夫多妻に傾くという次第である……。
男は女を選ばないのかというと、もちろんそんなことはない。けれども人間も動物である以上、メスがオスを選ぶという大原則からはずれてはおらず、女が男を選ぶ基準の方が実ははるかに厳しいものなのである。ロウの研究は、ハミルトンのパラサイト仮説から導かれるこの当然の帰結を見事に実証してみせたというわけである。
ついでながら、女が男の、寄生者《パラサイト》に対する抵抗力を見抜く際の手掛りは、やはり外見であるらしいということが最近になってわかってきた。
アメリカの心理学者であるS・W・ガンゲスタッドとD・M・バスは、異性をどういう点を重視して選ぶかということについて世界二九カ国、計七一三九人の男女に質問した。質問事項は全部で一八だが、性格や収入などの他に、見た目がよいか("goodlooks")ももちろん含まれている。それぞれの項目について、「非常に重視する」、「重視する」、「あまり重視しない」、「重視しない」という四段階の答えを用意し、各々に得点を当てはめる。他方、ロウの研究の場合と同じ七種類の寄生者《パラサイト》について、それぞれの地域におけるそれぞれの病気の流行の歴史、激烈度をやはり点数を当てはめて表した。
それによると、女が男の外見("good looks")に最もこだわるのは、インド、ブルガリア、ギリシア、ナイジェリア(以下略)の順だった。こだわらない方は、南アフリカ(ズールー族)、フィンランド、日本、オランダの順である。そして外見重視に関するスコアと寄生者《パラサイト》の脅威を表すスコアとを比べると(このときそれぞれの国の経済的な問題などについて補正する)、極めて強い相関があることがわかったのである。外見を重視する地域ほど、寄生者《パラサイト》の脅威も大きいのだ。
確かにそうかもしれないという気がする。外見重視一位のインドは、問題にされている七種の伝染病以外にも常にいろいろな伝染病に見舞われている。そもそもインド周辺は、コレラやペストの発祥の地でもあるのだ。ブルガリアとギリシアは隣りあう国だが、少なくともギリシアが温暖な土地で様々な伝染病流行の過去を持つことは歴史書からもうかがえる。ナイジェリアはまさしく熱帯アフリカの国である。他方、外見を重視しない方の一位である南アフリカ・ズールー族は、カラハリ砂漠の南に住む人々である。砂漠という乾燥した気候が伝染病の南下を防いでいるかもしれない。フィンランドもオランダも緯度が高く、確かに伝染病には比較的縁が薄いようである。しかし日本の、下から三位というのはどうも腑に落ちない。日本の女は男の外見を結構厳しくチェックしているような気がする。日本人はこういうアンケートに対してすら本音を言わないということだろうか。
ガンゲスタッドらは男が女を選ぶ基準についてももちろん調べているが、外見重視の度合いと寄生者《パラサイト》の脅威の度合いとには、やはり強い相関が見出された。彼らは明言していないが、外見を重視して相手を選んでいると現実にも外見がよくなっていくことは──尾羽の長さを重視してオスを選んでいるツバメで、実際に尾羽が長くなっている現象を引きあいに出すまでもなく──自明の理なのである(B・S・ロウの研究については、『アメリカン・ゾオロジスト』三〇巻、三二五〜三三九ページ、一九九〇年、などを、ガンゲスタッドらの研究は『エソロジー・アンド・ソシオバイオロジー』一四巻、八九〜九六ページ、一九九三年、を参照されたい)。
さて、こうしてみてくると、温暖な気候……寄生者《パラサイト》の脅威……一夫多妻の婚姻形態……これらの相互の関係はかなりはっきりしたものになってきたようである。温暖な気候は寄生者《パラサイト》の脅威を増し、寄生者《パラサイト》の脅威が婚姻形態を一夫多妻に傾かせる……。ではそうした一夫多妻社会で、人の性質は、物の考え方は、文化は、どう進化するのだろう。男女の関係は、どう折り合いがつけられてきているだろうか。多分に空想を膨らませながら考えてみることにしよう。
ここに抜群のカッコよさを誇る男がいたとする。彼には既に一人の妻がいる。しかし抜群にカッコいい男であるから、彼に惹かれる女が当然のごとく現われる。彼もまんざらではないとして、次に彼はどうふるまうだろうか。一夫多妻が当たり前の社会であるなら、さっさと彼女を第二夫人に迎えてしまえばいいではないかと思ってしまう。けれど、ここに第一夫人の嫉妬、そしてあの手、この手を使っての妨害工作が必ずや登場してくるのである。女は我と我が子に対する夫の投資を少しでも多く獲得しようとする。社会一般の婚姻形態がどうあれ、基本的には一夫一妻を望むものだからである。彼が新しい女を第二夫人として迎え入れられるかどうかは、ひとえにこの第一夫人を説得させられるかどうかにかかっているだろう。彼女の反対を押し切れるだけの強い意志力を持った男、日頃から妻の尻に敷かれず強い立場を確立している男こそが第二夫人以降の女の獲得に成功する。こうして彼の、寄生者《パラサイト》に強いという遺伝的性質も、妻の尻に敷かれないという強い意志力も、同時によく次代に受け継がれていくわけである。こういう社会では男に男らしさが、頼り甲斐や力強さが備わってくるに違いない。社会全体としては男尊女卑≠フ風潮が強まってくるのである。断わっておくが、男が重い荷物を担がないこととこうした力強さや頼もしさとは別物である。
一方、女はひどく虐げられているように見えるかもしれないが、それはほんの表面的なことに過ぎない。こういう一夫多妻は、裏返すなら寄生者《パラサイト》に強いという遺伝子を自分の子孫に取り込むためには、実にこのうえないシステムなのである。彼女は寄生者《パラサイト》に強い子を得るだけでなく、夫の資質(寄生者《パラサイト》に強く、しかもカッコいい)を受け継いだ息子は一夫多妻を活用し、大いに繁殖してくれもするだろう。裏で糸を引いているのはむしろ女の方かもしれないのだ。重い荷物を担ぐ女を見て、さぞかしつらいことだろうと想像してしまうが、そうでもないかもしれない。そうすることで自分の遺伝子のコピーが増えるのなら、お安いご用である。彼女たちは少なくともつらいとは思っていないはずで、むしろそれを喜びとするような心さえ進化してきているのではないだろうか。これが男尊女卑≠フ実態ではないかと思うのである。温暖な気候が寄生者《パラサイト》の脅威を生み、寄生者《パラサイト》の脅威が一夫多妻を促す。一夫多妻の社会では、表面上男尊女卑≠ニいうことになって社会が安定するのである。
男尊女卑%I一夫多妻社会では、男は妻の尻に敷かれず、複数の妻はたいていはそれぞれ別の場所に住んでいる。男の行動は勢い、自由で解放されたものになってくるだろう。それにまた、この社会には女を獲得できない独身の男も多数|徘徊《はいかい》し、そうした男たちも交え、男どうしの社交の場があちらこちらに誕生するはずである。そこにはむろん女は立ち入り禁止、男だけの会員制クラブのようなものだ。こうした男社会が厳しい順位や序列に基づくものであろうことは、十分に察しがつく。不公平=A不平等≠ヘ当たり前、下位の者は上位の者に絶対服従が原則である。そういう背景から生まれてくる社会全体の価値観も、人間どうしや男女の間に順位を設定するものだろう。貧富の差があるのもごく当たり前のことなのだ。
とはいえそれは、現在あまり恵まれていない状況にある者に対し、「不満は言うな、一生そうしていろ」と強制することでは決してない。順位があるということは、順位が覆《くつがえ》される可能性もあるということである。彼が、「いつか金持ちになってやるんだ」、「この地方に名を轟かすひとかどの人物になるのだ」と大志を抱くことは大いに自由で、事実それはしばしば叶えられたりもする。彼の心の内にあるのは、「金持ちが憎い」、「高い地位にある人間を何とか引きずり降ろしてやりたいものだ」などというケチな根性ではないのである。彼はむしろそういう人物を尊敬し、目標とする。
こうした価値観や物の考え方、心理は文化のレベルだけでなく、長い時間がたつうちには遺伝子のレベルにも組み込まれてくるだろう。人に教えられたり、周囲がそうだからというのではなく、本質的にそういう物の考え方、価値観を持った人間たちが現われてくる。その傾向は、文化によってますます強化されるというわけである。
男社会が出来上がってくると、彼らがまず始めることと言えば何だろうか。日常的にはバクチや酒盛り。けれど男たちの最大の仕事と言えば戦争である。それも女の獲得のため近隣の部族などに対して仕掛けられる、極めて利己的な動機による戦争だ。今日のニューギニアや南米のいくつかの部族のように、多分に儀式化された戦争がそこここで繰り広げられてきたことだろう。男がぐうたらしているように見えるのは、我々が平時の彼らしか見ていないせいなのである。
戦争が日常的であるとすると、男社会の結束はますます強まっていく。戦争にとって不可欠な協力や自己犠牲の心、同志愛などが人々に(遺伝的にも、文化的にも)備わってくるのではないだろうか。それにまた戦争においては、奇襲や奇抜な作戦の案出、新兵器の開発や武器の改良といった事柄が関わってくる。誰も真似のできない、独創的なアイディアこそが宝である。これらの社会では独創的であることに、より大きな価値の基準が置かれる。またそういう人間を誉めたたえる風潮が生まれる。他と違っている人間を変人≠ニして排除するのではなく、暖かく見守るか、むしろ珍重する精神が生まれてくる……。
と、まあ思いつくままに言い放ってしまった。翻《ひるがえ》って我々自身の問題として考えるなら、どういうことになるだろう。日本人の祖先の二大勢力は、縄文人と渡来人である。しかし、かつて気候条件が温暖で寄生者《パラサイト》からの脅威が大きい、従って婚姻形態は一夫多妻に傾くという社会に近いものを形成していたと思われるのは、縄文人の方である。日本列島に来る前の縄文人は、南方の温暖な土地に住んでいた。現在縄文の血が色濃く残る地方で、人間とその社会に、今論じたような傾向がはたして見出されるだろうか。
男尊女卑≠フ風潮、そして男らしさが強調される土地と言えば、何と言っても九州である。九州にはそもそも九州男児なる言葉が存在する。九州が全体的に縄文系の土地であることは言うまでもないが、「薩摩隼人」、「肥後もっこす」という言葉が示すように南九州などの、より縄文的な地域ほどその傾向も強いようである(そう言えば「土佐のいごっそう」の土佐も十分に縄文的な土地だ)。
九州、東北などの縄文系の土地の兵隊が勇猛果敢で、戦場で目覚ましい働きぶりを示す(その代わり果敢すぎてしばしば自滅する)ことも古くから知られた事実である。片や関西の兵隊が腰抜けであることは、「またも負けたか八連隊」(八連隊は編制地大阪)というはやし言葉があるくらいで、これまた周知の事実なのである。
バクチはどうだろうか。一九八三年の、人口一〇〇〇人当たりのパチンコ台数なるものを見てみると一位は宮崎(二五台)、二位福岡(二四台)、三位愛知、高知(二三台)、五位熊本、大分(二二台)、七位栃木、群馬、新潟、静岡、大阪、香川、佐賀、鹿児島(二一台)……という結果である。全国平均は一七台だが、やはりまた九州勢の活躍が目立つ。九州勢は、パチンコ発祥の地とされる我が愛知(私は名古屋の生まれである)をさし置いての一位、二位独占だ。九州では最下位の長崎が一七台と、ようやく全国平均並みである。
ところが関西勢はというと、大阪の二一台、和歌山の一八台を別とすれば、兵庫一五台、滋賀、京都一四台、奈良一一台といずれも全国平均を下回るのである。奈良(一一台)は、全国最下位の沖縄(九台)に次ぐ低い値である。縄文系の土地である沖縄が最下位であるとは(私の考えからすれば)、少し意外な気もするが、沖縄ではパチンコよりもパチスロが盛んだという話があり、そのせいであるのかもしれない。
東北勢を見てみると、青森、福島一六台、岩手、宮城一五台、秋田、山形一四台、と皆あまり元気がなく少し期待はずれだが、東北には過疎地が多く、雪に閉ざされる冬場にパチンコ屋がはやらないから、とでも解釈しておくことにしよう。ちなみに東京は一六台である(都道府県別パチンコ台数は『パチンコと日本人』加藤秀俊著、講談社現代新書、による)。
では今の日本の中で社会の仕組みに対する考え、物の考え方、価値観などについてはどう違いがあるのだろうか。縄文系の土地では、たとえば社会の不平等=A不公平≠ネどに対する感覚が比較的緩やかだろうか。逆に渡来系の土地では敏感なのか。次にそれらの問題について見てみたい。
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寒い国から来た平等主義
私の見た京都人[#「私の見た京都人」はゴシック体]
京都の喫茶店などで、中年の男性どうしの会話に耳を傾けていたとする。どうしても気になって仕方ないのが「ヨメはん」という言葉である。
「うちのヨメはんが言いよるには……」
「こんなこと言うたら、ヨメはん怒りよるやろな」
「そら、有難いことで……。ヨメはんも喜びますわ」
と、まあ事あるごとにその場にはいない「ヨメはん」が登場して話を引っ張っていくのである。
私の理解しているところでは、男が男どうしの会話で、妻の話題をあまり頻繁に持ち出すのは恥ずべきこと《のはず》である。持ち出すにしろ、何かここぞという際に、たとえば、飲みに行こうと誘われたが気が乗らないようなときに、恐妻家を装い、妻との約束を口実に断わる、といったテクニックとして用いられるのが普通である。ところが京都の男ときたら、「ヨメはんが」、「うちのヨメが」と「ヨメはん」を濫用して何らはばからないのである。彼らは、自身を恐妻家などとは夢にも思っていないことだろう。自分は妻に尽くす良き夫である、女性を蔑視しないフェミニストである、とむしろそれを誇りにさえ思っている様子なのだ。
話は変わるようだが、京都人、あるいは広く関西人が、男女の平等や人間の平等など、強い平等思想の持ち主であることは、政党支持率によく表れているような気がする。知る人ぞ知ることだが、特に京都は共産党支持率が極めて高い土地柄なのである。試しに全国の都道府県別共産党支持率を、一九九二年七月の参議院通常選挙(比例区)での得票率をもとにランク付けしてみよう。(データは『朝日選挙大観』、「自民党敗北と連立政権誕生の軌跡」、朝日新聞選挙本部編、朝日新聞社、による)。
1992・7・26参議院選挙(比例区)における共産党得票率
[#挿絵(img/fig5.jpg、横337×縦465)]
『朝日選挙大観』のデータよりランク付け
京都のダントツぶりがよくおわかりだろう。しかし一九・八二パーセントという値は、当然のことながら北部の丹後地方なども含めた府全体の平均である。同書をもとに京都市に限った共産党支持率を割り出すと、何と二二・〇二パーセントにまで上昇する。さらに私の住む左京区に限ると学生や大学関係者が多いせいであろうか、二四・三八パーセントとまた一段とアップし、市内一となるのである。ちなみに同選挙での自民党(当時)の得票率は、府平均で三〇・八八パーセントであった。
もっとも、京都で共産党支持率が高いのは、都市効果とでも言うべきものがあるからかもしれない。二位に大阪、三位に東京が登場してきているところを見ると、なるほどそれは大いにありえそうである。共産党の政策は、確かに都市生活者の要請によくフィットしている。けれど、それだけで京都のダントツぶりを説明することは到底不可能だ。それなら、なぜ東京がトップではないのか。
京都は学生の町だから、という考えもあり、事実それは支持率を高める一因となっているようだ。しかしこれもまた重要な要因とはなりえていない。学生といっても高々数万人で(有権者はそのうちの半分強)、そもそも学生はあまり投票に行かないのである。
共産党はとにかく近畿に強いのである。一位京都、二位大阪、七位和歌山、八位奈良、一一位滋賀、一二位兵庫と、三重を除く六府県が一二位以内にランクインしている。一方、下位の県をリストアップしてみると、四七位熊本、四六位鹿児島、四五位佐賀、四四位栃木、四三位富山、四二位福井、四一位宮崎、四〇位大分……と九州、北陸などの県が並ぶ。九州などは福岡を除くすべての県が下位一〇位以内に入っている。つまり、共産党を支持しない方のランキングには、縄文系の土地が多く見出され、支持する方には渡来系の土地が多いと言えそうなのだ。縄文系の人々は、やはりというべきか平等という事柄に(もちろんそれは比較の問題として)、あまりこだわらないようである。そして平等という問題に鋭敏であるのは、渡来系の人々であるらしい。京都がダントツであるのは、そこが特に渡来色の濃い土地柄であるためではないだろうか。
ちなみに高知、沖縄が縄文系の土地でありながら、なぜ支持率が高いのかといえば、前者については地元出身の中江兆民や幸徳秋水以来の反権力精神の伝統かもしれないし、後者についてはむろん戦争や米軍基地問題が絡んでいるだろう。
渡来人の本質は、新モンゴロイドの形質を非常によく受け継いでいるということである(純粋な新モンゴロイドではない)。新モンゴロイドは、かつて最後の氷河期に著しい寒さを体験し、寒さに対する適応を遂げた人々である。そのとき婚姻形態はどのようなものだっただろうか?
考えられるのは一夫一妻である。厳しい寒さにさすがの寄生者《パラサイト》もあまり出る幕はなかったはずである。ならば女は、男を寄生者《パラサイト》に対する抵抗力で選ぶ必要はなく、男に関してあまり選り好みをしなかった。とりあえずは男一人を確保すればよかったからである(つまり新モンゴロイドの胴長短足の体形は寒冷適応のせいばかりではないということになるだろう。女が男をカッコよさで選ばなかったのである)。こうして渡来人の性質、価値観を考える場合には寒冷な気候、それから起こって来る一夫一妻の婚姻形態というものをまず前提に考えなければならないのである。
一夫一妻の婚姻形態で、女が男に最も求めることとは何だろう。外見は良いに越したことはないが、それが一番でないことはもちろんである。では、経済力? それもあるだろう。しかし、それにも増して女が男に要求するのは「誠実さ」ではないだろうか。
女はそもそも夫の投資が、我と我が子にのみ注がれることを望んでいる。自分以外の女にちょっかいを出したり、ましてやその女との間に子を生《な》すなど言語道断である。ところが男が特定の女以外にも繁殖のチャンスを求めることは、動物のオスとしてあまりにも当然の行為である。結局、男の「誠実さ」とはそういう行為に踏み切ることのできない「気弱さ」ということになるのかもしれない。
女が男を「誠実さ」、いや「気弱さ」で選んでいると、そうした性質は次代によく受け継がれ、「誠実な」、いや「気弱な」男が増えてくる(逆に女は強くなる)。社会全体としては、男女は平等(あるいは女の方が偉い)、浮気はいけないことだなどという価値観が生まれてくるのではないだろうか。ついでに人間は外見より中味であるという価値観も、疑いようのない真実として人々の心に刻み込まれてくるかもしれない。それらは遺伝的にも文化的にも、である。
話は少々はずれるが、現代社会にはこの、寒冷な気候に適応した一夫一妻社会の価値観というものがどうも幅を利かせているように思われるのである。男女の平等、妻に誠実であることが男の美徳である、人間は外見よりも中味である……。もしも時間が逆戻りし、熱帯社会の論理が幅を利かせるように歴史が展開していたなら、今頃これらの価値観はことごとく逆転していることだろう。男女は不平等≠ェ当たり前、重い荷物を運ぶのは常に女である、妻を一人しか持っていないのは男として情けないことである、人間は外見こそが重要である……。こちらでなくて私としてはよかったと思うが。
一夫一妻の婚姻形態のもとでは、男の行動はとかく制限を受けがちである。いや、そもそも彼は、「誠実さ」によって選ばれた妻に忠誠を誓う男であるから、用が済んだらまっすぐ家に戻ってくる習性を持っている。男が家庭の外に出かけ、男だけの社会を作る機会は著しく失われる。
男社会は、即ち順位制社会である。男社会の形成が低調であると、社会に順位や地位の開きがあまり生じない。人がそれらの現象に接する機会も自ずと少なくなることだろう。こういう背景からも、やはりまた平等主義という価値観が生まれてくるのではないだろうか。
社会に順位や地位、貧富の差が少ない──それは男にとって、目標が見つけられないこととほぼ同義である。男が夢や大志を抱くことが難しくなるのだ。誰かを目標として憧れること、人を尊敬してやまないという精神は持っていてもあまり役に立つ機会に恵まれない。こうしてこの社会では人を尊敬する心が不足しがちになる。人を崇拝したり、特定の人(それは宗教の教祖や位の高い人も含まれるだろう)に心酔するのは愚かであるという風潮も生まれるかもしれない。大成功を望まない代わりに破滅もない。彼らにはひたすら安定と平和を願う心が備わってくる。
男社会が発達していないのだから、当然バクチは低調である。酒についても同様。
酒といえば、酒が全く飲めない、いわゆる下戸やあまり強くない人が存在するのはモンゴロイドだけである。コーカソイドもニグロイドも全員、酒は滅法強いのである。こうした下戸遺伝子≠ニでも言うべきものは、かつて新モンゴロイドにおいて突然変異によって発生したと考えられているが、今この議論からすれば、かの遺伝子にとってそれは大変幸運なことだったかもしれない。何しろ男にとって酒に弱いことは、男社会のメンバーとしてやっていくうえでかなり不利なことである。下戸遺伝子≠ヘ登場したとしても、コピーを増やすことが難しい。ところが男社会が発達していない社会でなら、それはあまり関係ないことである。いや、酒をあまり飲まないことで家計に負担をかけず、また酔って妻と言い争い、それがもとで家庭が崩壊するなどということも少ないわけで、むしろ適応的なこととさえ言えるかもしれない。こうして下戸遺伝子≠ヘ、新モンゴロイド社会でこそコピーを増やしてくることができたのだろう。一方、古モンゴロイドに下戸はいない。そういうわけで縄文人は全員、酒は滅法強かったはずであり、『縄文人は飲んべえだった』(岩田一平著、朝日文庫)というタイトルの本が存在するのである。
男社会から発生する動きと言えば、何といっても戦争である。だが男社会が発達していないと、戦争さえも起こりにくくなってくる。いや、寒冷な気候が戦争の発生を防ぎ、それがために男社会を強固に作る必要がないということだろうか。戦争が日常的でないために男どうしの協力、同志愛、自分を犠牲にする心といったものはあまり強くは備わらない。家庭が第一、暮らしを守る、自分を犠牲にするのは損という考えこそが適応的である。戦争にとって重要な、相手の意表をつく奇策、独創的なアイディアはあまり必要ない。人と違っている人、奇人、変人にとってそこはあまり居心地のいい社会ではないかもしれない……。
と、まあ、またしても言いたい放題言ってしまったが、ここで論じたことがそのまま渡来人に、ましてや現在の関西人に当てはまるわけではない。そもそも渡来人は純粋な新モンゴロイドではないのだ。我々はある面において渡来的であり、またある面においては縄文的である。それは地域によっても人それぞれによっても違っているのだから。しかし京都人のあの恐妻家ぶりだけは……。
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第三章 [#「第三章 」はゴシック体]日本人の死生観[#「日本人の死生観」はゴシック体]
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私は象ゴリラ
類人猿の死生観[#「類人猿の死生観」はゴシック体]
人間が死後の世界に想いを巡らすようになったのは、いつ頃からだろう。こういう問いかけに対し、決まって引き合いに出されるのはネアンデルタール人(旧人)である。彼らが行なった、極めて宗教色の強い埋葬についてである。
一九五〇年代から六〇年にかけて、イラク北部のシャニダールの洞窟ではネアンデルタール人の人骨が次々と発掘された。それらは地下一〇メートルくらいまでの様々な地層の中に埋まっており、地質年代に直せばだいたい七万年から四万年前までに相当する。この洞窟はかなりの大きさで、どうやら何万年にもわたりネアンデルタール人たちの住居、そして時に埋葬の場所として使われてきたようなのである。
いくつかの遺体は腰と膝を折って横を向け、まるで眠るような格好で横たえられている。石の枕が添えられ、石器や焼いた動物の骨(元々は骨つきの肉だったのだろう)も時として副葬品として供えられている。そしてそのうちの一体からは何種類かの花粉が見つかったのである。分析してみるとそれらの植物は、タチアオイ、ヤグルマギク、アザミなど、いずれも晩春の頃に美しい花を咲かせるものだった。ネアンデルタール人が死者に花を手向け、冥福を祈っていたであろう様子がうかがえるのである(もっとも、これらの植物はいずれも現在この地で薬草として使われているもので、花は手向けられたのではなく、薬師《くすし》か呪術師であった被葬者の、単なる副葬品ではないかという説もある)。ともあれ、このような埋葬方法から、ネアンデルタール人は死者を弔《とむら》い、死後の世界を想った最初の人間であろうと考えられているのである。
しかしながらネアンデルタール人が脚光を浴びているのは、このように確かな証拠を残しているからである。人間が実際に死について考え、死後の世界に想いを巡らし始めたのは、もっとずっと以前のことだろう。ネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルタレンシス)に先行する、ホモ・ハビリスやホモ・エレクトスといった人類が、死について何も考えていなかったとはとても思えない。何しろホモ・エレクトスなどは火を使い始めた人類でもあるわけだから。彼らは単に証拠を残さなかっただけなのである。本当に、人間が死について考え始めたのはいつ頃のことだろうか。しかしせめて我々にできることといえば、現存する動物に目を向けてみることなのである。
人間以外の動物で、何か死者を弔うような行動を示すのはゾウである。ゾウは数頭の老齢のメス(姉妹など)とその娘たち、そして彼女らの子から成るメスの血縁集団で暮らしている。仲間が死ぬと、遺体の上に木の枝を何本も載せ、それを被い隠すような処置をとる。何か実質的な意味も含まれているのだろうが、弔いや埋葬に近いことをするのは私の知る限りゾウだけである。
類人猿はどうだろう。類人猿が弔いをするという話は聞かない。しかし身近な者の死に際し、彼らがどうふるまうかということについては実にいくつもの観察例が知られているのである。
チンパンジー研究の第一人者であるジェーン・グドールによれば、チンパンジーの子どもが母親を失うと、彼らは大なり小なりうつ状態に陥るという。気力を失い、食欲も失せ、あの騒々しいチンパンジーの子どもが一日の大半をうずくまって過ごすようになる。身体をゆすったり、自分の毛を引きむしったり、とかなり深刻な症状を示すこともある。それでも母親の死が、離乳後や離乳間近の四〜五歳の頃であれば、あまり心配する必要はない。兄や姉などの存在が支えとなり、彼(彼女)は徐々に気力を回復していくのである。ただ、心や体の発達はどうしても遅れがちになるという。
悲惨なのは、離乳までにまだ間のある子どもである。ときにはキョウダイの養子となって保護を受けることもあるが、それが母親の代わりになろうはずもない。こうした子どもは、数週間のうちには母親の後を追うことになるのである。
グドールは少し変わった例を目撃している。観察したチンパンジーの中でも彼女が特に深い思い入れを持ったのは、フローと名付けたメスである。フローは、グドールがタンザニアのゴンベ・ストリーム保護区(後に国立公園)で研究を始めた頃、ちょうど女盛りでオスたちの人気の的だった。やがて歯などボロボロという老体となってしまったが、それでも人気は衰えない。彼女が発情すると、集団中のオスが駆けつけ、さながら順番待ちの列ができるほどであった。
フリントは、フローの最晩年の息子である。本当の最後の子どもは他にいたのだが、フリントが五歳のとき、生後わずか六カ月で死んでしまった。そういう事情もあって、彼は異例ともいえるほど長い間、母親を独占した。超マザコン息子の出来上がりだ。
フリントが八歳半のとき、母子にとうとう別れのときが来た。ある朝フローは、川を渡ろうとして力尽きたのか、水面にうつぶせになって倒れているところを発見されたのである。グドールはこの旧友を偲び、遺体とともに川岸で一晩を過ごした。フリントは少し離れてじっとうずくまっていた。時折フローの手を引っぱっては虚しくその死を確認していたという。
数日後、川岸の高い木に登り、ぼんやりとあらぬ方向を眺めるフリントの姿が目撃された。グドールが視線を追うと、その先にあったのは彼と母親とがつい先日、いっしょに夜を過ごした樹上のベッドだったのである。彼は母を亡くした多くの子どもと同様、深いうつ状態に陥った。そして母親の死から三週間が過ぎたとき、衰弱のためついに命を失ったのである。
八歳半といえば、普通なら何とか立ち直れる年齢のはずである。グドールが言うように、彼はまさに悲しみによって死んだのだった。彼の遺体を解剖したところ、胃と腸と腹膜に著しい炎症の跡が発見されたという。
では、子を失った母親はどうふるまうだろうか。インドネシアでオランウータンの研究を続け、現地の男性とも結婚したビルーテ・ガルディカスが目撃したところによると、我が子を失った母オランウータンはこんな様子を示すという。
「その母親は死体をグルーミングしてやり、死体から蛆をとりのぞいて食べた。彼女は死体をそっと運び、ついにその目玉が落ちるまで抱いていた。数日たってやっと、そのミイラ化したあかんぼうを手放し、自分が前夜寝た樹上の巣に置き去りにしたのだった。」(『彼女たちの類人猿』サイ・モンゴメリー著、羽田節子訳、平凡社、より)
ガルディカスはこの一件について、「こどもが死んだ直後のあんなやさしさは見たことがありません」と語っている。
類人猿やサル類のメスが、死んだ我が子をミイラになるくらいまで抱いているのは、よくある話である。類人猿はともかくとして、サル類では死というものがわかっていないからではないかと言う人もいるが、そうではないだろう。聞くところによると、ニホンザルのイモ洗い文化の発祥の地である宮崎県|幸島《こうしま》で、死んだ我が子を特に長い間抱いたままでいるのは名門エバ家のメスたちなのである。エバ家はイモを最初に洗ったメスの子ザルの「イモ」を輩出し、その後も多彩な人材を生み出している、幸島の湯川家とも評される優秀な家系である。サルも類人猿も、我が子の死を理解できないなどということはない。我が子を抱き続けることは、気持ちを整理し、我が子を鎮魂するための儀式ではないのか、と少し大袈裟《おおげさ》かもしれないが私には感じられるのである。ガルディカスが観察した、やはり子を失った別の母オランウータンは、十代の息子を自殺で失った女性と全く同じ目の表情を見せていたという。
チンパンジーにしろ、オランウータンにしろ、ゴリラにしろ、それにたぶんニホンザルのような、かなり高等なサル類にしても、彼らが血縁者の死にいかにショックを受け、悲しみに打ちひしがれるかは疑う余地のないことである。死者に魂があると考え、死者が甦《よみがえ》ることさえ期待しているかのようでもある。それにしても彼らは、もし死を自分の問題として捉えるのなら、どう考えているのだろうか。死は恐怖なのか、それとも死は別の世界への旅立ちで、少しも恐れることではないのか。聞けるものなら聞いてみたいところである。
ところがそれは、できないことではないのである。手話を教える、あるいは図形を記したキーボードなどを使い、彼らと会話することが可能だからである。
類人猿に言語を教える試みは、既に一九五〇年代からかなりの例数が行なわれてきている。たいていはチンパンジーを対象としたものだが、私が最も印象深く思うのは、ココという名のメスのゴリラの場合である。ココは手話(アメリカン・サイン・ランゲージ、略してアメスラン)を訓練された。手話を教えられた他のほとんどの類人猿と違うのは、研究者がココと話す際、手話と同時に音声も発するということである。おかげでココは英語のヒアリングができるようになった。その影響が大きいと思うのだが、ココは人間世界の複雑な事情に通じ、同時に自身の内面について実に様々なことを率直に語ってくれるのである(ココの世界については彼女を研究しているフランシーヌ・パターソンらが一冊の本にまとめている。以下に引用する会話は『ココ、お話しよう』F・パターソン、E・リンデン著、都守淳夫訳、どうぶつ社、から)。
ココ──本名、ハナビコはメスのローランド・ゴリラである。一九七一年七月四日、アメリカの独立記念日にサンフランシスコ動物園で生まれた。ハナビコという不思議な響きの名は、独立記念日に打ち上げられる「花火」に日本風に「子」を付けたものである。生後一年のとき、ココは心理学者のフランシーヌ・パターソンに托され、研究がスタートした。
手話《アメスラン》で使われる単語は普通五〇〇〜一〇〇〇語である。これに指文字やパントマイム、表情などを加えて表現する。トレーニングを始めて五年半ほどたった六歳半のとき、ココは六〇〇語以上の単語を修得した。一回に発する£P語も、平均で二〜三語という立派なものである。彼女は独自の表現を生み出すことや言葉に新しい意味を持たせること、手話のサインを本来とは違う体の位置に作るなどして言葉のニュアンスを変えることさえもやってのける。
たとえばピンセットを「Pick face」、嫌いな食べ物であるレモンを「Dirty orange」、マスクを「Nose fake(ニセの鼻)」、ざくろの果粒は「Fruit red seeds」などと表現する。「lip」に女性、「foot」には男性の意味を、独自の発案によって持たせている。彼女は「bird」や「nut」のサインを通常とは違い、体の側面や耳のあたりに作ることがあるが、それは単語に ≠付けるような意図があるらしい。"bird" も "nut" も罵《ののし》りの言葉で、"bird"の方はどうも、かつてココが赤ん坊だった頃、部屋の窓にカケスが現われてはしわがれた声で鳴いたという体験に基づいているようである。彼女はまた、「dirty」や「toilet」を何かを罵るためにも使う。これは人間の感覚と全く同じで、興味深いことにやはり手話を覚えたチンパンジーのワシューも同じ使い方をしているのである。
ココはウソをつき、ジョークを言い、もったいぶった言い回しで相手を翻弄することもある。研究者は手続きとして、わかりきったことでも何度も繰り返し質問しなければならない。そんなとき彼女はわざとわからないふりをする。気の利いた会話を何より好むココの、七歳のときのエピソードにはこんなものがある。
ある日の午後、ココはジュースやコーラを欲しがっていたが、パターソンの助手のバーバラは、もう飲み物はないよとはねつけた。がっかりしたココは、「かなしい象(Sad elephant)」とサインした。実を言えばこの日、ココは水を飲む際に、いつものようにストローとコップの組み合わせではなく、太いチューブで直接水入れから飲んでいたのである。ココの比喩をすぐには理解できなかったバーバラは、こう質問した。
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バーバラ:それ、どういう意味なの?(What do you mean?)(引用者注:英文部分は手話)
ココ :象のこと。(Elephant.)
バーバラ:あなた、かなしい象なの?(Are you a sad elephant?)
ココ :かなしい……象は わたし……のどの渇いた かわいい 象。(Sad……elephant me……elephant love thirsty.)
バーバラ:あなたゴリラだったでしょう。私そう思っていたわ。(I thought you were a gorilla.)
ココ :のどの渇いた 象 ゴリラ。(Elephant gorilla thirsty.)
バーバラ:あなたゴリラなの? それとも象なの?(Are you a gorilla or an elephant?)
ココ :わたし わたしは 象……時間になった。(Elephant me me……Time.)
バーバラ:何の時間なの?(Time for what?)
ココ :コーラの 時間なの わたし お利口な 象 知っている。(Time know Coke elephant good me.)
バーバラ:あなた飲みものほしかったの? お利口な象さん。(You want a drink, good elephant?)
ココ :果物の 飲みもの。(Drink fruit.)
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ゴムのチューブから象の鼻を連想し、水を飲む自分の姿を象にたとえているのかもしれないと気づいたバーバラは、次にココにチューブを見せ、「これ何?(What's this?)」と質問した。すると、「それ 象の におい。(That elephant stink.)」。「それで、どうしてあなたが象になるの?(Is that why you're an elephant?)」、「それ お鼻なの。(That nose.)」。
ココが死についての見解を語ったのも、やはり七歳のときである。パターソンの助手のムーリンは四種類の動物の骨格図版を見せ、ゴリラはどれかと質問した。ココは正しく答えた。そこでムーリンは、このゴリラは生きているのか死んでいるのかと尋ねてみた。
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ココ :死んでいる カーテン。(Dead drapes.)
ムーリン:念を押しますよ、このゴリラは生きているの、それとも死んでいる?(Let's make sure, is this gorilla alive or dead?)
ココ :死んでいる さようなら。(Dead good bye.)
ムーリン:ゴリラは死ぬとき、どう感じるかしら?──しあわせ、かなしい、それとも怖い?(How do gorillas feel when they die─happy, sad, afraid?)
ココ :眠る。(Sleep.)
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「カーテン」というのは、毎晩ココが眠りにつく前に、部屋の窓にカーテンが閉められることを意味している。ココはカーテンと眠りを結びつけ、さらには眠りと死とを結びつけているらしい。彼女は道端などで動物の遺骸をいくつも目撃しているし、ペットにしていた金魚やカエルの死にも遭遇している。そのような体験もこの回答には反映されているようである。ムーリンは続けてこう質問した。
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ムーリン:ゴリラは死ぬと、どこにいくの?(Where do gorillas go when they die?)
ココ :苦労のない 穴に さようなら。(Comfortable hole bye.)
ムーリン:いつゴリラは死ぬの?(When do gorillas die?)
ココ :年とり 病気で。(Trouble old.)
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この会話からわかるのは、ココは死を大変安らかなものとして捉えていることである。「苦労のない」と訳されている「Comfortable」という言葉がそれを象徴する。彼女は病気や老いが死の原因であることも、どこから情報を得たのか、はたまた生得的に察知しているのか、知っている。だが、「穴」はどうだろう。「穴」が純粋にココの想像力による「死んだら行く場所」だとしたら、大変なことである。ゴリラは埋葬をしないが、埋葬という概念だけは持っている! しかしパターソンによれば、人間たちがココの聞いている所で埋葬の話をしたことはないが、『ナショナル・ジオグラフィック』(有名な自然雑誌。写真が素晴らしい)の熱心な読者≠ナあるココが何か埋葬のシーンを見た可能性もなきにしもあらずとのことである。いずれにしてもココが、我々と極めてよく似た死生観を持っていることは確かだ。たとえば彼女は、このように死を安らかなものとして捉える一方、自分やパターソンの死など、現実の死の話題となるとひどく動揺してしまう。何が心配事かと聞かれて、「穴を埋めること」と答えたこともあるという。自分や親しい者の死についてはやはり恐ろしいのである。
ココは人間との生活の中で、大いに社会化され、人間化されたゴリラである。ココの意見をそのままゴリラの意見として採用するのはちょっと無理かもしれない。しかし、どうだろう。ココが人間から情報を得、それを処理して人間とそっくりの感想を洩らすのは、オウムがオウム返しをするのとはわけが違う。それは他ならぬココ自身の中に、既に我々とほとんど同じ死についての思考回路が存在しているからこそではないだろうか。ゴリラに(他の類人猿にも)あるのは、萌芽的な、あるいはほぼ準備が整った形の我々の死生観かもしれないのである。
類人猿と人間で違うのは、死や死後の世界を想う心が、実際に埋葬や儀式を行なうほどに強いかどうかということだろう。むろん類人猿は、それをやりたくてもやれないだけのことかもしれない。しかし、たとえばチンパンジーは道具を作り、薬草の存在まで知っている。その彼らが現実に死者を弔う行為を行なう様子はない。それはやはり、まだそこまで強い死生観を持つに至っていないからのように思われる。人間は死や死後の世界を想う、強い気持ちを持っている。それはいったい、いかなる理由によって強められてきたのだろうか。
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浄土真宗が最大勢力になったのは
日本人の死生観[#「日本人の死生観」はゴシック体]
人間が死や死後の世界を想う気持ち……それはどんな事情によって強められてきたのだろう。社会構造、婚姻形態、それとも単なる文化? だが、その前に、日本人があの世を想うとき、それはどのような世界であるのだろうか。あの世を想う気持ちの強さには地域ごとの差が現われるのか。そういうことを検討すれば、この問題を考えるヒントが自ずと姿を現わしてくるかもしれない。
NHKが一九七八年に行なった調査に、「全国県民意識調査」というものがある。全国の都道府県から一六歳以上の男女を九〇〇人ずつ無作為に選び出し(回答に協力したのはそのうちの七〜八割)、合計で三万人以上の人に面接調査をした。質問内容には、どんな色が好きか、どんな花が好きかというような他愛のないものから、夫婦以外の性的関係をどう思うか、などと微妙な問題まで様々だが、その中に、「あなたは何か宗教を信仰していますか。(「信仰している」と答えた人に)それはどういう宗教でしょうか。おさしつかえなかったら、おっしゃってください」という項目がある。宗教の選択肢としては@仏教、A神道、Bキリスト教、C創価学会、Dその他の宗教、Eわからない、無回答、の六つが与えられているが、残念ながら宗派までは答える形にはなっていない。創価学会が独立した選択肢になっているのは、何らかの配慮がなされた結果のようである。
ともかくそれによると、日本人の約二八・五パーセントが何らかの信仰を持っている。それ以外の答えである、「信仰はしていない」と「わからない、無回答」はそれぞれ六九・九パーセントと一・六パーセントである。ちなみに、信仰を持つ人二八・五パーセントの内訳は、仏教一九・三パーセント、神道一・九パーセント、キリスト教一・四パーセント、創価学会三・三パーセント、その他の宗教二・二パーセント、わからない、無回答〇・六パーセントである。
日本人の三割弱が信仰を持つということは、日本にはだいたい三〇〇〇万人くらいの信仰篤い人々が存在するということである(この調査には一六歳未満の人間は含まれていないから、その分については全く除外して考える)。同様にして仏教信者は約二〇〇〇万人、創価学会は三〇〇万人余りの信者を持つ勘定である。真宗門徒、東西本願寺あわせて約一二五〇万人(公称)、創価学会約八〇〇万世帯(公称)との食い違いについてはさておくとして、仏教が日本の宗教の最大勢力であることに間違いはない。そこでこれから先、信仰心の目安として取り敢えず仏教に着目して考えることにする。まずはNHKのデータをもとに、都道府県別仏教信仰ランキングなるものを作ってみた。
都道府県別仏教信仰ランキング
[#挿絵(img/fig6.jpg、横609×縦475)]
1978 NHK「全国県民意識調査」より
ご覧の通りの結果である。北陸や九州地方の人々の、圧倒的信仰心のほどがうかがえる。しかし興味深いのは、富山以下佐賀までの一一県のうち、富山、福井、長崎、鹿児島、熊本、香川、宮崎、佐賀、の八県が、同時に先の共産党支持率の下《ヽ》位から一〇位のうちにランクインしていることである。仏教信仰と共産党支持とは、まるで正反対の関係にあるようだ。もちろん共産主義は宗教と相容れないものだから、当然と言えば当然かもしれないが、それにしても見事な対応ぶりだ。
上位にランクされる県を見てつくづく思うのは北陸各県、そしてそれと同じ文脈にあると思われる、滋賀、岐阜の健闘ぶりである。言うまでもないことかもしれないが、これらはこの地方への浄土真宗の圧倒的な浸透ぶりを物語っているのである。かつて真宗のもとに結集した民衆のエネルギーは、一向一揆となって爆発した。加賀の国では守護の富樫政親を敗死に追い込んだ後、国の自治を一〇〇年にもわたり掌握したほどである。とはいえ、浄土真宗の勢力は北陸やその周辺だけに限られるのではなく、真宗は本当に掛け値なしに日本一の宗派である。真宗がなぜこれほどの勢力を得るに至ったのか。そもそも真宗の教えとはどういうものなのだろう。それらを考えることにより、日本人の死生観の一端を覗《のぞ》いてみることにしよう。
真宗の布教に貢献した最大の人物と言えば、蓮如である。蓮如は一四一五年、当時は京都東山にあった本願寺に第七代法主、存如の子として生まれた。開祖親鸞の子孫という血筋である。今日でこそ真宗最大の勢力を誇る本願寺だが、当時は数ある真宗の分派の中でも最弱小の一派で、しかも蓮如は、存如と下働きの女性との間に生まれた庶子だった。そのため四〇歳を過ぎるまで不遇の生活を強いられることになるが、存如の死後、嫡子、応玄との後継争いに見事勝利し、第八代法主の座に就任した。そして八五歳で亡くなるまでのおよそ四〇年間を、真宗の教えの普及のために献身したのである。
蓮如が布教の地に選んだのは、まず第一に近江であった。対象としたのは、一般の農民の他、職人、馬借、車借などの運送業者、商人などで、どちらかと言えば偏見の目で見られていた人々である。しかも彼は、あの親鸞でさえ多少のわだかまりを持っていた、女の往生に関しても実に革命的な考えを示している。女であっても往生に何ら障りはない、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、弥陀の本願にすがりさえすれば誰でも極楽往生できる、と説いたのである。親鸞は女の往生について、女は念仏によっていったん男の姿に変わり、その後に救われるのだ、と何とも不思議な教えを説いていた(変成男子《へんじようなんし》)。
蓮如には有力な支持者が幾人か現われ、布教は軌道に乗るかのように思われたが、やはり出るクイは打たれる。地元延暦寺の武力による弾圧に、彼はしばらく地下に潜伏して活動するものの、やむなく近江を脱出することとなった。そして元々念仏信仰が盛んであるという事情もあり、かねてから目をつけていた北陸の地への転進≠はかるのである。ついでながら滋賀県が共産党支持率とともに仏教支持率が高いという矛盾≠抱えるのは、前者についてはこの地が概ね渡来人の土地であること、後者についてはこのように蓮如が精力的に布教活動を行なったこと、そして古くから山門、即ち天台宗延暦寺や寺門《じもん》、即ち天台宗園城寺のお膝元として栄えてきたことなどが影響しているのかもしれない。
北陸布教の拠点とされたのが、有名な吉崎の地である。加賀との国境に近い越前の、湖に突き出た岬の高台で、まるで要塞のような場所である。この高台に本堂、書院などが建てられ寺としての形式が整うと、末寺の出張所であり、門徒たちの宿泊施設でもある多屋《たや》(他屋)がいくつか建てられた。この吉崎御坊には、北陸各地や遠く信州や奥州からも門徒たちの来訪が絶えることがなく、文字通り門前市をなす賑いであったという。多屋はやがて二百軒も軒を連ねるほどになった。
訪れる門徒たちに夏は冷やして、冬には燗《かん》の酒が振る舞われ、雑煮や魚などもたっぷりと用意されていた。夫婦揃っての来訪など大歓迎。近隣の村々からは一日の労働を終えた農民たちが、楽しみを兼ねて法話を聞きに来る。蓮如は彼らに、決して堅いことは言わず、なるべくリラックスした姿勢で聞くようにと言い渡したという。真宗の教えや門徒へのメッセージは御文《おふみ》(御文章)と言われる手紙形式の文面で言い表され、内容は極めて簡潔、平易なものだった。親鸞と対比した蓮如の庶民性、俗性を五木寛之氏は『蓮如──聖俗具有の人間像──』(岩波新書)の中でこう述べている。
「親鸞の名前を聞けば、人びとは襟を正し、居ずまいを改めて、おのずと敬虔な表情になります。しかし、蓮如さんと聞けば人びとは思わず頬をゆるめて、春風に吹かれるような和《なご》やかな目つきになる。寺での行事のときは、形式にしたがって頭を下げても、陰ではときにいたずらっぽい口調でけちをつけたりもする。一般に、親鸞さん、とはあまり言いません。親鸞聖人、と呼ぶのが自然でしょう。しかし、蓮如に対して表むきはお上人さまと呼んだとしても、本当の気持ちはあくまで蓮如さん、です。」
蓮如の俗性は、その結婚生活に最もよく表れているかもしれない。彼は生涯に何と五回も結婚しているが(最後を除き、いずれも死別)、男一三人、女一四人、計二七人の子宝に恵まれた。最後の二人など、八五歳で亡くなる前年と前々年の生まれである。
難しい話はしない、聴衆が飽きてきたら別の面白い話をして座を和《なご》ます。門徒は酒、料理でもてなされる。そして何より蓮如さんは、僧であることを忘れさせる親しみに溢《あふ》れている。こんな楽しい信仰の集いに人気が沸騰しないわけはなく、浄土真宗は北陸の地にかつてないほどの広がりを見せたのである。しかし門徒たちの熱狂は日増しに増大し、彼らはしばしば暴徒と化して体制に反抗、他宗を激しく非難する言動すらとるようになった。それはやがて蓮如をもってしても抑え切れるものではなくなったのである。彼はわずか四年の布教の後に吉崎からの退却をやむなくされる。
蓮如は続いて山城、河内など畿内でも布教を行ない、それなりの年月を費した。だが、どういうわけか北陸ほどの熱狂は、ついぞ生まれて来なかったのである。畿内と北陸とでは社会構造に、経済や文化の発達状況に、当時ならなおさら大きな違いがあり、それはある意味では当然のことだったのかもしれない。実際、浄土真宗は農民層を主たる信者とし、商工民は日蓮宗などを支持したという歴史があるのである。それにそもそも畿内は無数の仏教勢力がしのぎを削り、元はと言えば真宗の弱小一派である本願寺派に、そう開拓の余地は残されていなかったのかもしれない。
しかし……、それらを斟酌《しんしやく》したところでやはり疑問が残される。暴徒まで現われるに及んだ北陸の、いや信州や奥州からも門徒が訪れたというからそれらの地域も含め、人々の異様な盛り上がりぶりはどうだろう。それは彼らの、何か本質的な嗜好と無縁ではないような気がするのである。真宗の教えの本質とはどういうもので、日本の仏教のうちでそれはどのような位置を占めているのだろうか。
梅原猛氏によれば、日本の仏教は浄土真宗をもって一つの完成をみるのだそうである。六世紀に仏教が伝来してからというもの、仏教は徐々に日本独自のものに変貌し続けた。その集大成が浄土真宗だというのである。
梅原氏の説明によると、親鸞の教えの中心をなし、またその思想を特徴づけているのは次の三つの理論である。仏性論、戒律論、浄土論。
仏性論とは、どういう人間が仏になりうるか、仏性の存在する範囲はどこまでか、という問題である。仏教は元々、仏になりうる人間の範囲を、ごく一部の者に限定している。難行苦行の修行を積んだ者や非常に徳の高い人などである。ところが日本において仏性は、ややもすると無節操と思えるほどその範囲を広げてきた。天台宗を開いた最澄が、まずすべての人間が仏になりうるのだと説く。これが平安初期のこと。それだけでも随分革命的なことなのに、仏性の範囲はますます広まり、やがて人間のみならず人間以外の動物、草や木など植物、そして国土のような無機物までもがその範疇《はんちゆう》に収まるようになる。鎌倉時代以降の仏教は概ねこの見解で、法然よりも弟子の親鸞に、栄西よりも道元に、そして日蓮において最もその傾向が強まるのだという。
戒律論とは、その名の通り戒律についての問題である。仏教には元々、実に何百という細々《こまごま》とした戒律が存在する。しかし衆生の救済を旨とする大乗仏教(日本の仏教は大乗の流れを汲み、仏教本来の流れからの改革派)が、自己の解脱《げだつ》を目的とする小乗仏教(大乗から批判された保守派)と同じだけの戒律を守ることは土台無理である。最澄は戒律を簡素化し、内面を重視したものに変えることを主張した。戒律がいくらあっても、それが守られなければ意味はなく、量より質にしようというわけである。この傾向もやはり時代を下るにつれて強まり、親鸞に至ってはついに肉食妻帯を宣言するに及んだ。
とはいえ肉食も妻帯も、多くの僧が秘密のうちに行なっていたことで、彼はそれを正直に申告したに過ぎない。梅原氏は最澄以降の戒律論を、キリスト教の戒律論にも匹敵するとしている。キリスト教はユダヤ教の戒律を単なる形式であるとして否定し、代わりに懺悔《ざんげ》を強調した。なるほど親鸞の肉食妻帯の宣言には、他ならぬ懺悔の響きがあるのである。
梅原氏が親鸞の教えの中で最も重要視しているのは浄土論、つまりこの世とあの世の関係など、世界観が示された部分である。
仏教本来が教える涅槃《ねはん》は極めて特殊な境地である。人間は人間界を含めた苦の世界を輪廻《りんね》しているが、涅槃は悟りによりそれを断ち切った者のみが到達できる。だから大多数の人間は、苦の世界を永久にさまよい、輪廻しなければならないことになる。
『往生要集』を著し、浄土思想を広めた源信も、これとよく似た世界観を展開する(但し、日本では仏性の範囲が広がったため、人間以外の魂も含まれている)。源信によれば、人間も含めた生きとし生ける者は、人間、天、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、の六つの世界を輪廻する(六道輪廻)。六道はすべて苦の世界である。ただ、人間界から浄土へは道が開けており、脱出するための方法というものがある。それが念仏と修行と寄進である。念仏といっても、口で唱える念仏ではなく、ひたすら阿弥陀仏と阿弥陀浄土を想い浮かべる観想の念仏で、平安時代に貴族が競って寺に寄進し、阿弥陀堂を建てては来迎《らいごう》図を描かせていたのはこの源信の浄土論によっているのである。
これに対し法然は、この世と浄土とから成る世界観を呈示した。しかも、この世から浄土へは、|誰でも《ヽヽヽ》、|ただ念仏を唱えるだけ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》で往生することが可能だというのである。修行も寄進も、関係ない。弟子の親鸞もほぼ同様の考えである。この世と浄土とから成る世界。阿弥陀仏の本願にすがり、絶対他力の念仏を唱えれば誰でも救われ、極楽浄土に往生する──。ところが親鸞は、その前駆的な考えが既に法然において少しばかり示されてはいるものの、それまでの浄土論からすれば、ちょっと考えられないくらいユニークな世界観を打ち出しているのである。
親鸞によれば、あの世(浄土)へ行った人間(と衆生)の魂は、しばらく滞在した後に、またこの世へと戻ってくる。衆生を救済するために、戻って来なければならないのである。行きの過程を往相廻向《おうそうえこう》、帰りを還相廻向《げんそうえこう》という。あの世は最終目的地ではなく、人間(と衆生)は常にこうしてこの世とあの世とを行ったり来たりしているわけなのだ(輪廻とは普通、苦の世界を循環することで浄土は関係しない。だからこの過程はいわゆる輪廻とは別物)。
二種類の廻向という考えは、親鸞の代表作である『教行信証』の教の巻の冒頭に示され、そのことからもわかるように彼の思想の中心をなすものである。そして梅原氏が浄土真宗をもって日本仏教が完成したとみなしておられるのは、まさにこの点においてである。この、あの世観が、原日本人とでも言うべき、アイヌや沖縄の人々のあの世観と、なぜか不思議によく一致してしまうからである。
アイヌと沖縄では、この世とあの世とはあべこべの世界とされている。この世の上はあの世の下、この世の右はあの世の左、この世の夜の始まりはあの世の朝、などと。あの世では人間は足を上にし、上下逆さまになって歩いているという。そしてこの世とあの世の間を、人間はもちろんのこと生きとし生ける者が行ったり来たりしているのである。そうした日本人の原あの世観≠ェ最も象徴的に表れているのは、アイヌのイオマンテ(熊送り)の儀式であるという。
アイヌの人々は、人間を始めとしてあらゆる動物、植物に魂があり、死ねばあの世へ行くと考えている。人間と関わりの深い、クマ、シマフクロウ、キタキツネ、イヌなどは特に重要な存在で、神にも相当する。霊は丁重に供養され、その代表的な儀式がクマを送るイオマンテである。
クマは人間に「身」を「上げる」(提供する)ためにこの世に現われた動物である。そこで「身」をおいしくいただいた後は、今度は丁重にあの世へと送り返さなければならない。生け捕りにした子グマをまず一〜二年飼育する。いい具合に肉が付いたところで出番となる。人々の見守るなかクマは引き回され、いくつかの手順の後に殺される。解体され、肉は人間たちの食するところとなるが、クマに対してはあの世への土産《みやげ》があり余るほどに渡される。干し鮭や団子などの食物、そして酒。それに花矢、矢筒、弓、器といった道具類である。彼(彼女)があの世へ着いたとき、仲間のクマを集め、盛大な宴会を催すことができるようにという心配りであるという(クマが道に迷わぬよう、あの世の朝に当たるこの世の夜の始めにこの儀式は行なわれる)。彼(彼女)が、「お土産もこんなにいっぱい持たせてもらったし、人間界はいい所だったぞお」などと吹聴すれば、「じゃ、オレも今度行ってみるか」ということになり、次の年のクマの豊猟が期待されるという理屈である。つまりこのように、クマの魂もこの世とあの世とを行ったり来たりしているわけである。沖縄のあの世観もアイヌとほぼ同じだが、魂の帰る場所がアイヌの場合は山の上であるのに対し、当然と言うべきかこちらは海の彼方だそうである(梅原氏は以上のような考えをいくつかの著作の中で述べておられるが、『日本人の「あの世」観』中公文庫、が最も詳しく、わかりやすい)。
こうして見てみると、なるほど仏教の日本化は、言うなれば原日本化、つまりは縄文への回帰の過程であったと言えるわけである。それは、あの世へ行ってまた帰って来るという二種類の廻向という考えのみならず、仏になりうる者の制約がはずれ、ついに生きとし生ける者が往生できるのだということになったこと、それにここでは触れなかったが、死後の審判がなく、地獄と極楽の区別がない、などという点にも当てはまる。仏教は日本において、どうやら日本人の心にフィットするよう、少しずつ少しずつ縄文好みに変えられてきたようだ。その集大成が浄土真宗で、とすればかの宗教が縄文の色濃い北陸でよく受け入れられたのは、あまりにも当然と言えるかもしれない。さらに蓮如のような天才的布教者が現われたとしたら、人々の熱狂が頂点に達したとしても不思議はなかったのではないだろうか。
北陸には古来、白山信仰という土着の信仰がある。山をご神体として拝むということからして極めて縄文的な信仰なのだが、蓮如を巡るエピソードの中にこういうものがある。
ある老婆が、息子夫婦の吉崎通いをやめさせようと、鬼の面をかぶって嫁を脅かそうとした。ところが面が顔に食い込んで取れなくなってしまった。焦った老婆が息子に事情を話すと、彼はこれからいっしょに吉崎へ行こうという。蓮如に教えを受けた老婆は念仏を唱える。すると不思議や不思議、面はたちまちハラリとはずれて落ちたのである。念仏とはかくも有難きものなのである──。
エピソード自体はよくあるパターンではないかと思うが、注目すべきは嫁を脅す際に、実はこの老婆が、「われこそは白山権現のお使いなり」と名乗っていることである。他の仏教勢力ではなく、土着の縄文的信仰の名を語る。五木寛之氏によれば、蓮如に対する地元反対勢力の怨念が、姑の思いとしてこのエピソードに表れているということである。おそらく土着信仰が、次々と真宗に置き換わるという事態がそこここで発生していたのだろう。しかしそれはとりも直さず真宗の、強い縄文性ゆえの出来事だったのではないだろうか。蓮如が北陸ではなく、九州や山陰など、別の縄文系の土地で布教していたとしても、やはり同じような熱狂が巻き起こっていたに違いない。
浄土真宗は強い縄文性ゆえに縄文的心をしっかりと捉える。それゆえ日本で最大の宗派となりえたのかもしれない。蓮如の天才的布教術がその後押しをしたことは、むろん言うまでもないのである。
しかしながら仏教が縄文化してきたのはいいとして、では、なぜそんなにも縄文へ、縄文へとなびかねばならなかったのか。日本という国は、遺伝的にみるならば渡来系の勢力の方がはるかに勝《まさ》っているというのに、である。
文化人類学などの議論によれば、そもそも文化というものは、基本的なものであればあるほど征服者より先住民のものの方が多く残るのだそうである。たとえば、征服者側の男が先住民の女を妻とする。するとその子どもらに関する限り、文化は先住民のものの方がより多く伝えられる。子に基本的な物事を教えるのは、たいていは母親だからである。一方、征服者側の女が先住民の男とつがうことは非常に少ない。こうして文化は先住民のものの方が残りやすいということになるわけである。仏教が縄文化してきたことには、こういう状況も関わっているかもしれない。
しかし、こうは考えられないだろうか。縄文系の人々と渡来系の人々の、信仰心、あの世を想う気持ちの強さに違いがあるとする。それが縄文の方に軍配が上がるとすれば、宗教の本流は縄文好みの方向へと傾いていくのではないのか。
縄文人があの世を尊び、精神世界を重んずる人々であっただろうとはよく言われることである。縄文土器の複雑な文様は、飾りというより強い呪術的意味を持つという。それにまた先のNHKの調査をもとに、とにかく何か信仰を持っているという人の割合を出してみる(信仰をしていない人+信仰しているかどうかわからない、無回答の人のパーセンテージを一〇〇から引く)。するとやはり一位長崎、二位福井、三位滋賀、四位富山、五位鹿児島、六位熊本、七位奈良、八位石川、九位宮崎、一〇位岐阜……と、縄文系の土地が圧倒的なのである。
宗教にとって最大の問題は、布教しようとする対象にいかに受け入れられるかということだ。宗教の盛衰はまさにその点にかかっていると言える。宗教は、布教者が意識する、しないに拘《かかわ》らず、対象に合わせ少しずつ少しずつ教義を変えていくことになるだろう。そして信仰心がより強い者と、それほどでもない者たちの集団があったなら、教義は自ずと前者が受け入れやすい内容を盛り込んだものへと変貌する。いや、彼らに受け入れられやすい内容ほど教義としてよく残ってくる。そういった、文化における淘汰のような過程が、仏教の歴史の中でも起きてきたのではなかろうか。
最澄にせよ、法然にせよ、あるいはまた親鸞にせよ、まさか人々の受けを狙って教義を変えてきたわけではないだろう。彼らの思想は彼ら自身の所産のはずである。それは自己と対話し、呼び覚まされた、はるかな縄文の記憶のようなものではないだろうか。
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あの世を想う気持ちを強めるものは
またも負けたか八連隊[#「またも負けたか八連隊」はゴシック体]
たしか昨年のことだったと思うが、文藝春秋の雑誌『クレア』が「死」の特集を組んだことがある。若い女の子向けの雑誌にしては重たいテーマだなあ、とそのとき思ったが、内容はなかなか工夫されていて決して「暗い」一辺倒ではない。我々を巡る「死」が、実に思いもよらぬ角度から検討されている。
しかし、はたしてこれで売れるんだろうか、でも今、「死」はちょっとしたブームだし……などと考えていたら、なぜかちょうどいいタイミングで編集長のH氏(当時)から電話がかかってきたのである。私は少し思うところもあり、せっかくの機会にこう尋ねてみた。
「売れ行きはどうですか。特に大阪方面の」
H氏はちょっと驚いた様子を示し、「売れ行きはまあまあなんだけど」としたうえでこう答えたのである。
「それがねえ、営業に聞いたら大阪の取次が注文を減らしたって言うんだよ。驚いちゃったよ。売れ行き以前の問題なんだからね」
ああ、やっぱりと思った。「死がテーマでは、さっぱり売れまへんで」とその取次氏が言ったかどうかは知らないが、大阪人、いや関西人が死や死後の世界にあまり関心を抱いていないことは、私の日頃の経験が知るところである。「この世が第一」、「人間、死んだらしまいや」の世界なのである。
では、関西人には信仰心がまるで欠けているのかというと、決してそんなことはない。私の住む京都では道路際や家々の庭の奥など、至る所に小さな祠《ほこら》があって、花や線香の絶える暇がない。どんな人が供えているのかと思うが、それは必ずしもお年寄ばかりではないのである。先の信仰ランキングにしたところで、さすがに九州や北陸のようなわけにはいかないが、関西勢の信仰率はいずれも平均を上回っている。
日蓮宗などは、そういう関西人の心を捉えるのにちょうどいい宗教性を持っているのかもしれない。そもそも日蓮宗には、浄土思想に対するアンチテーゼとして登場したという経緯があるのである。
日蓮の世界観によれば、浄土は浄土として独立して存在するのではなく、人間界の中に同時に存在する。それを理解し、体得するための最も重要な行ないは、「南無妙法蓮華経」の題目をひたすら唱え続けることだという。題目も念仏も似たようなものではないかと思ってしまうが、日蓮の眼はあくまで現世に対して向けられているのである。彼はあの世に往生することばかりを夢想し、現実を見据えようとしない浄土教を厳しく批判した。梅原猛氏によれば、日本の独創的な宗教の筆頭は浄土真宗だが、もう一つ挙げるとすれば日蓮宗だそうである。真宗が縄文系の人々の心を捉えた一方で、日蓮宗は渡来系の人々の心を捉えてきたということなのかもしれない。日蓮没後二〇〇年近くを経た応仁の乱の頃(それはちょうど蓮如が、北陸や畿内で布教に励んでいた時期と重なるのだが)、京の町衆の実に半数以上が日蓮宗に帰依していたのだという。
関西人が「死んだらしまいや」と思い、この世に並々ならぬ執着を持っているらしいこと──それは過去の戦争で、関西兵たちに浴びせられた数々の悪評にこそ表れているようだ。
「またも負けたか八連隊」とは西南戦争の頃、鹿児島の兵隊たちが言い出した言葉である。八連隊は大阪で編制された連隊で、正確には「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」と言うのだが、「九連隊」は九州弁の「くれんたい(くれないだろう)」にかけている。それほど関西兵の腰抜けぶりは全国津々浦々に鳴り響いていたわけだ。
児島襄氏の『日露戦争』(文春文庫、全八巻)を読んでいたら、なるほどやっぱりそうだと思わせるエピソードに遭遇した。
日露戦争で最後にして最大の地上戦と言われる奉天の会戦の、総攻撃第一夜のことである。日本軍第九連隊と第三八連隊は合同で攻撃を仕掛ける手筈《てはず》になっていた。三八連隊の編制地は京都で、片や九連隊は滋賀県大津である。
合同攻撃とはいうものの、何しろ陣地が狭すぎた。長時間にわたり多数の兵隊が集合するのはちょっと無理のようである。そこであらかじめ九連隊だけが待機する。三八連隊は直前になって別の場所から移動。準備が整ったら銃声を三発鳴らして合図し、一斉に攻撃を仕掛けるという作戦がまとまった。夜間ということもあり、当時まだ無線は実用化されておらず、やむなくこういう伝達方法を採用したのである。その夜、三八連隊は約束通りに銃声を鳴らした。
ところが……、九連隊方面になぜだか動く気配がない。どうしたのだろう。何かあったのか。しかしその原因を考える暇もなく、三八連隊の頭上には弾丸の雨が嫌というほどに降り注いできたのである。銃声に気づいたロシア軍が、音だけを頼りに素早く攻撃をしかけてきたのだった。結局、三八連隊は思わぬ大打撃を食らう羽目に陥った。
後でわかったことには、三八連隊の合図の銃声は九連隊には聞こえていなかった。それにまた、別の日本軍の銃声に驚いて爆薬を積んだ馬が逃げ出し、とても攻撃どころではなかったのだという。敵軍には聞こえた銃声が、すぐそばの味方には聞こえていなかった……?
しかしそんな話の一方で、『日露戦争』にはこんなエピソードさえ登場するのである。
開戦間もない一九〇四年四月末のこと、満州と朝鮮の境をなす鴨緑江の川岸である。日本軍、ロシア軍それぞれ数万の大軍が、川をはさんで睨み合いを演じていた。中央にいくつもの中洲を持つ鴨緑江に対し、日本軍は急ごしらえの橋を渡し、あるいは舟に分乗して渡河し、じわりじわりとロシア軍の本丸たる九連城へ迫っていた。
いよいよ九連城攻撃という日、第一軍第二師団長は師団内の一部の連隊から捜索隊を編制して派遣し、ロシア軍の動向を探ろうとした。ところがこのわずかな動きに対し、第一二師団の面々が敏感にも反応してしまったのである。彼らは、まだ攻撃命令が出ていないことなどすっかり忘れ、遅れをとっては男がすたるとばかり、続々と渡河し始めた。この血の気の多い人々は、第二四連隊と第四六連隊、つまりそれぞれ福岡と長崎の出身者たちである。これをきっかけにまもなく本格的戦闘が始まった。
日本軍の果敢な突撃にロシア軍はついに退却を開始する。が、当然のことながら彼らも必死である。窮鼠《きゆうそ》猫を噛むのたとえ通り、日本軍も多大な被害を蒙った。二四連隊のある中隊などは退却するロシア軍の反撃をまともに受け、中隊長が戦死、代わって指揮をとった将校までもが犠牲となった。中隊の兵力が、何と三分の二も失われるという惨事に発展したのである。ロシア軍を退却させることには成功したもののこの無謀さに、さすがに国内からは激しい非難の声が湧き起こったという。関西兵とは対照的に、九州や東北の兵隊がすこぶる勇猛、かつ果敢、時に手のつけられないほどの暴走ぶりを示してしまうことも、古くから言われ続けていることなのである。
では、かつて戦場で語られたこの正反対の性質を、現在の日本の社会に求めるとして、どういう場を考えたらいいだろうか。むろん本物の戦場やそれに近いものさえないわけで、ここはひとつ自己犠牲の精神、他人のために体や命を張って尽くすという精神が発揮される場を考える。そこでは、たとえば出身地に偏りがあったりはしないだろうか。幸いここに『防衛ハンドブック』(朝雲新聞社、平成六年版)という便利な本がある。見るとその中に、自衛官の本籍地別隊員数の一覧なるものが掲載されているのである。
隊員数は一位北海道(三万三二六二人)、二位熊本(一万二六六七人)、三位鹿児島(一万二三五八人)、四位福岡(一万一七三六人)、五位青森(一万九五四人)、六位長崎(一万八九六人)、七位宮崎(八八八一人)、八位東京(七四〇四人)、九位宮城(七四〇〇人)、一〇位大分(六五三七人)……(以下略)という結果である。これだけではあまり参考にならないので、各々を本籍地人口で割って、たとえば人口一〇万人当たりの自衛官輩出数のようなものを出してみたいところである。ところが残念ながら本籍地別人口というものは公表されていない。そこで一応、一九五〇年における都道府県別人口をそれに代用させることにする。高度成長期以前の人口分布なら、本籍地別人口をかなり反映させることになるだろう(いろいろ検討してみたが、ランキングという点ではこの方法が最もよいように思われる)。
それによると本籍地別自衛官輩出数≠ヘご覧の通りのランキングである。
本籍地別自衛官輩出数(人口10万人当たり)
[#挿絵(img/fig7.jpg、横298×縦446)]
『防衛ハンドブック』(平成6年版・朝雲新聞社)のデータより作成。
何と一位から一七位までを九州、東北など縄文系の土地、土地が独占している(一八位山口、一九位石川まで含めて考えてもいいかもしれない)。逆に近畿の七府県は、ビリから一〇位以内に実に見事に収まってしまうのである。
むろん自衛隊駐屯地が北海道、東北、九州に多いこと、それらの地域に他にあまり就職口がなく、結果として自衛官の道を選んでいる人が少なくないことが一つにはこのような結果を招いているのだろう。しかし東京や大阪の生まれであるが親が東北や九州の出身で、本籍地はまだそちらにあるという自衛官も少なくはない。結局、古くから言われる縄文系の男と渡来系の男の気質の違いが今なお鮮明に残されているような気がするのである。
二つの気質の違い──それはやはり日本列島へ到達する前の、人々の受けた淘汰に求める他はないだろう。それが結局のところ、何が人間にあの世を想う気持ちを強めさせたのか、という問題の解答を与えることにもなるはずなのである。
日本列島へ到達する以前、縄文人の祖先たちは氷河期にも拘らず相当に暖かい環境に暮らしていた。ところが同じ頃、渡来人の祖先はといえば、過去に人類が体験したことのないような寒さの直撃を受けていたのである。既に議論したように、気候、寄生者《パラサイト》、婚姻形態などといった要因が絡みあい、前者では男社会が強固に出来上がった。後者では、それはあまり形成されていなかったはずである。そして前者において、男社会の形成とともに盛んになってきたであろうものの一つが戦争。但し、一つ重要なことは、それは相手を皆殺しにしたり、互いに決着がつくまでやるという類のものではなかったはずだということである。多分に儀式化された、様式美さえ漂うものだったのではないだろうか。縄文人の祖先の生活やかくありき、と思われるのは、たとえばニューギニア高地人の社会である。
『ニューギニア高地人』(本多勝一著、朝日文庫)によると、彼らの社会に金属器がもたらされたのは、わずか数十年前のことである。それまでは土器さえ存在しなかった。交易により斧《おの》、ナイフなどの品々が入り込んできてはいるが、物によっては彼らの伝統的な石器の方が優れていて、愛用されてもいる。基本的な生活はまだ石器時代の名残りを留めているのである。高地のため朝夕には冷え込むが、日中は穏やかで気候は温暖だ。
婚姻形態はむろん一夫多妻である。彼らは酒を造ることを知らないが、それでも強すぎるくらいの絆で結ばれた、男だけの社会を作っている。本多勝一氏が交流したニューギニア西部(インドネシア領、イリアンジャヤ)、ウギンバ村のダニ族の集落では何と男たちが一カ所に集まり、男だけの共同生活を営んでいる。「男の家」に集うのは集落の男のすべて。独身者はもちろんのこと、何人もの妻を持つ一家の長さえも含まれる。妻と子に対しては別に「女の家」があり、そこに家族単位で暮らしているのである。男の子は三歳くらいになると早くも母親のもとを去り、「男の家」の住人として暮らし始める。こうしてやがて独立心旺盛、少々のことではへこたれない男の出来上がりとなる。
このダニ族の男社会が少し極端なものであるにせよ、ニューギニア高地には強い絆で結ばれた男たちの集団がそこここに点在する。それらが、隣接する集団といつ果てるともない小競り合いを繰り返している。ニューギニアはまるで戦国時代だ、と評する人もあるくらいである。ところがその戦いとは(ここが最も肝心な点だと思うのだが)、非常に儀式化されたものなのである。金属製の武器などが登場したら、その様式美はいっぺんに失われてしまうに違いない。
本多氏によれば、戦争の原因の多くはブタか、さもなくば女が盗まれることにあるという。戦闘に使われるのはもっぱら弓。狩猟用とはまた別の、先が鋭く、返しのついた矢尻が付く。それは木製とはいえ相当な殺傷力を持っており、事実、死者が出ることもある。しかしだからといって戦いが、皆殺しや決着がつくまでやるというほどにエスカレートすることはない。夕方になれば休戦、天気が悪くて戦争日和でないときも休戦。戦いに関係のない第三者が通りかかると、弓を引く手を休めて道を空けたりもするのである。そして何より女たちは、そんなことにはまるで構う様子もなく、いつも通り陽気に畑仕事に精を出している。
こういった、滅多に死者が出るわけではないが、たまに死者が出ることがある、負傷などはしょっちゅうである、という犠牲者の少ない戦争で、あるいは儀式的なルール重視の戦争で、男に問われることとは何だろう。それはまず勇気を示すこと、そしてできれば手柄を立てることだろう。さらに仲間たちに対しては、「あいつは腰抜けだ」、「ケガを恐れたり、命が惜しいと思っている」などとは間違っても認識されないよう気をつけることである。そう疑われる素振りすら見せてはいけない。敵に対しては、「あいつらは汚ない手を使いやがる」と思われてはならないし、「敵ながらあっぱれ」と敬服させるくらいのパフォーマンスも必要である。
これがもし、皆殺しや相方決着がつくまでやるという戦争なら、こんな悠長なことは言っていられないに違いない。誰に勇気があるのか、誰が手柄を立てたかなどいちいちチェックしていられようか。勝つか負けるか。汚ない手やルール違反は、やった方が勝ちである。男本人としては、いかに生き残るか、手を抜きつつもそれがバレないようにするにはどうしたらいいか、ということこそが課題となってくる。
勇気や手柄は、まずそれが人の目を引くものであること、そして生き残った者たちに語り継がれてこそ初めて価値が生まれるものなのである。戦死や負傷についても同様。名誉として評されるのは、戦死者、負傷者がそう多くはない戦争の場合である。
勇気のある者、手柄を立てた男、名誉の負傷を負った男、あるいは名誉の戦死を遂げた男でもいいだろう。そういう男はニューギニアのような社会で、男として大いに名をあげる。とびきりの英雄にはその雄姿を一目見ようとして、あるいはぜひ英雄と親しい間柄になりたいものだと、女たちがキャーキャー言いながら群がってくるだろう。彼ならずとも彼の息子、そして兄弟などもそのおこぼれに与《あずか》ることになる。戦場で名をあげた男は、自分と血縁者の繁殖を(戦死した男の場合には血縁者のみを)、その後大変有利に展開することができるのである。戦死や負傷のような自己犠牲≠ヘ、このような原始的な形の戦争では犠牲とは言い難い。進化論的には十分採算が合う行為なのである。こうして男には戦場における勇気ある行動、男らしくない、腰抜けだと指摘されることを何より恥と思う心、死ぬことなど少しも恐くはないのだという心理が進化し、強まってくるはずである。
そしてその際に、もう一つの重要な心も強まってくるように思われる。死後の世界を信じる心、あの世を想う心である。他より少しでもあの世を信ずることのできる男は、勇気ある行動、死を恐れない行動をより抵抗なく実行することができるだろうからである。あの世を想う心、勇敢な行動、そして死を恐れぬ心などはこうして一つのセットとして進化したのではないだろうか。こういった性質は、もちろん女の側にも少なからず備わってくる。女の場合にはむしろ、勇者をたたえ、勇敢な男に惹かれる性質というべきかもしれない。結局、このような過程を通じ、縄文人の祖先も戦場での勇気、死を恐れない性質、あの世を想う心を強めてきたのではないだろうか。類人猿と比べ、人間があの世を想う心を強く持っているとしたら、それは程度の差こそあれ人間は、皆このような過程を経てきているからだろう。
日本列島へ到達してからの彼ら、つまり縄文人がどんな戦争を、どれほど頻繁にやっていたのかはわからない。縄文時代は争いのない、極めて平穏な時代だったことを力説する人もいる。しかし、たとえ戦争を頻繁に行なっていたとしても、金属器を知らない彼らが皆殺しや犠牲の多い戦争へと傾いていったとは思えない。それはやはり、それまでと同様の、勇気や卑怯でない態度が問われる戦争だったのではないだろうか。彼らの血をよく引く九州兵や東北兵の戦いぶりが、それをよく物語っているようでもある(とはいえ、近代以降の犠牲の多い戦争で、彼らの勇気はむしろ悲劇を招く結果となってしまったのだが)。
渡来人の祖先はどのような状況に置かれてきたかと言えば、これとは全く逆である。戦争は滅多に起こらない。そもそも寒さそのものが戦争の発生を抑え込んでいた。けれど、もし戦争が起きたとしてもそれは、少なくともニューギニア高地人や縄文人の祖先たちの場合のように、日常的で儀式化されているというものではなかったはずである。男が、勇気を示す機会もない代わりに、腰抜けと侮辱される機会もない。名誉の負傷もなければ、名誉の戦死もない……。このような社会で、あの世を想う心、死後の世界を信ずる心にさし迫った必要性はないはずである。
大切なのは現実である。この世でいかに生きるか、子や孫に対し、いかに直接的な利益をもたらすかということだ。男がヨメはんにサービスし、彼女の機嫌を損ねないよう気を配るのは日々の勤行《ごんぎよう》のようなものである。関西の男を恐妻家と呼ぶのは、少し謹まねばならないようである。
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第四章 [#「第四章 」はゴシック体]ウイルスがつくった日本のこころ[#「ウイルスがつくった日本のこころ」はゴシック体]
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友≠ニなった白血病
ウイルスから日本人を探る[#「ウイルスから日本人を探る」はゴシック体]
九州、沖縄地方に白血病が多いことは、医者の世界では古くから言われていた。白血病は周知の通り血液のガンである。普通なら一立方ミリメートル当たり五〇〇〇〜一万個くらいの白血球が、何万、何十万という数にまで異常増殖する。かつては不治の病の代名詞のように言われてきたが、今では相当数の人々が薬物投与や骨髄移植などにより完治する。そうでなくても一時的に病状を安定させること(寛解)が可能である。しかしそれでも、残念なことに全国で毎年五〇〇〇人ほどの人がこの病気で亡くなっている。
白血病が九州、沖縄地方に多いといっても、はたしてどれくらいの違いだろうか。一九九〇年の人口一〇万人当たりの白血病死亡者数を県別で比べると、以下のような結果である(データは『日本アルマナック』一九九三年、教育社、より)。
一位鹿児島 一一・〇人、二位長崎 八・七人、三位宮崎 八・一人、四位熊本 七・七人、五位沖縄 七・六人、六位佐賀 七・五人、七位大分 六・二人、八位岩手、香川(同率) 五・九人、一〇位鳥取 五・七人、一一位高知 五・六人、一二位石川、滋賀、島根、福岡(同率) 五・一人……(以下略)。全国平均は四・六人である。
なるほど、想像以上の違いである。鹿児島、長崎などは全国平均の二倍か、それ以上にも達している。なぜこんなにも差がついてしまうのだろう。医療の問題でないことは、もちろんである。では何か環境面の問題だろうか。温暖な気候? 暖流? 食生活、習慣……? この顕著な傾向が、どのような原因によっているのか。それは長い間、誰一人として見当もつかない大きな謎であり続けたのである。
謎が徐々に解かれるようになったのは、一九七三年のふとした出来事がきっかけである。当時、京大病院の医師だった高月《たかつき》清氏(現、熊本大学)は、ある中年の白血病患者(女性)が眉の濃い、いかにも九州か南西諸島の人々の特徴を備えていることに気がついた。尋ねてみるとその人は、沖永良部《おきのえらぶ》島(鹿児島県)の出身であるという。
彼女の白血病はやがて、次のような特徴を持つものであることがわかってきた。骨髄性ではなくリンパ性のもので、しかも普通のリンパ性白血病とは違ってリンパ球のうちのT細胞が異常増殖する。さらに増殖するT細胞は、若いものではなく成熟したタイプのものなのである(リンパ球は白血球の一種。リンパ球にはT細胞、B細胞、そしてナチュラルキラー細胞の三種があり、それぞれにいくつかの成熟段階がある)。
意外なことだが、リンパ球の諸細胞を技術的に区別できるようになったのは、そのわずか数年前のことである。それにより、リンパ性白血病にもいろいろとタイプがあることがわかってきた。病気自体は前々から存在していたが、病気の区別が可能になったというわけである。彼女はこのタイプの白血病患者、第一号と認定されることになった(幸い、彼女の場合は慢性のものだったのでそれほど激しい症状を伴うことはなかった)。
そこで、さっそくこの白血病についての本格的な調査が始まった。関西の主だった病院を調べるうちに一六人ほどの患者が見つかった。何とそのうちの一三人が九州の出身者。当然九州などでも調査が始まったが、驚くべきことに鹿児島や長崎など全国平均の二倍《ヽヽ》もの白血病多発地帯では、そのおよそ半分《ヽヽ》がこのタイプの白血病だったのである。その他の多発地帯でもこの白血病の占める割合はそれなりに大きい。全国で毎年七〇〇人ほどの患者が発生するが、六〜七割が九州、沖縄で、残りは四国の太平洋側、紀伊半島南部、隠岐、三陸海岸、北海道などである。要するに、骨髄性にしろ、リンパ性にしろこれ以外の白血病の発生については全国どこでもそれほど大きな差がみられない。が、この白血病に関しては驚くばかりの地域的偏りがある。九州や沖縄の白血病多発は、普通の白血病のうえに、この特殊な白血病が加わった結果であったというわけなのだ。この白血病は、リンパ球のT細胞をガン化させること、四〇歳〜六〇歳台という中年以降にならないとまず発病しないという特徴から、成人T細胞白血病(adult T-cell leukemia)、略称ATLと名付けられることとなった。発見者はもちろん高月清氏である。
それにしてもATLはなぜ九州、沖縄地方に多いのだろう。いや、本当にこの地域に密集していると言える。原因として思い浮かぶのは、まずは温暖な気候、マラリアのように何か昆虫が病原体を媒介する? いや、患者は九州、沖縄の他に四国の太平洋側、紀伊半島の南部、隠岐、三陸海岸などに見つかるからやはり暖流の関係か……という程度のことである。
しかし人間以外の動物では、ウイルスが原因となって白血病が起こることが既に知られていた。ニワトリ、マウス、ウシ、ネコ、サル……いずれもウイルスによって白血病が引き起こされる。ウイルスは、レトロウイルスと呼ばれる特殊なタイプのものである。レトロウイルスは|R《ヽ》NAを遺伝情報とし、RNAからDNAへという、普通ではありえない方向への情報転写が可能である。そのために逆転写酵素なる酵素を持っている。こうしてこのウイルスは、宿主のDNAへ、自身のRNAから逆転写したDNAを組み入れる。そうすることで自らを生き永らえさせているウイルスなのである。ATLも、もしかするとウイルスが引き起こしているのかもしれない。そうだとすればレトロウイルスが……。
日沼頼夫氏は、元々EBウイルスというガンウイルスを専門としている人である(EBウイルスはレトロウイルスではない)。一九八〇年、熊本大学から京大ウイルス研究所へ移籍したばかりの氏は、勧められてこの幻のウイルス探しを開始する。そして分子生物学、生化学などのエキスパートとの共同研究の末、わずか数カ月の後にATLの原因ウイルスを発見し、翌八一年には学会発表の運びとなったのである。
それはやはりレトロウイルスだった。人間で発見されたレトロウイルスとして当時二つ目、しかし実質的にそれは初めてのものだったのである。
というのも一九八〇年に、アメリカのR・C・ギャロが人間のレトロウイルス第一号を発見したと発表した。それは彼が、菌状息肉症という皮膚に腫瘍ができる病気の患者(西インド諸島出身の黒人)から採取したものだった。ところが後になってわかったことには、その患者の病名は菌状息肉症ではなく、他ならぬATLだったのである。
無理もないことで菌状息肉症の腫瘍細胞も、ATLと同じく成熟したT細胞である。そうかと思うとATLの場合も、皮膚に発疹や腫瘍状のものが出て来ることがある。両者を見分けるのはなかなか難しいことなのである。しかも菌状息肉症は世界中どこにでもみられる病気であるのに対し、ATLは欧米には限られた地域を除き、まず存在しない。実は日本の他は、西アフリカ、西インド諸島などカリブ海沿岸地域、ニューギニアや南アメリカ(先住民)といったところにしかありえない。ギャロは実に強運だったといえるだろう(それにしても彼は他の、本当の菌状息肉症患者をちゃんと調べてみることはなかったのだろうか。菌状息肉症の原因は現在でもよくわかっていない)。
結局、ウイルス発見については時間的にはギャロが先だが、正確さにおいて日沼氏らが勝る。専門書をひもとくと、発見者の欄には一九八〇年、ギャロ、日沼の順で並んでいるのである。ATLウイルスの正式名は human T-cell leukemia virus、略称HTLVとすることで落ち着いた(但しこの本ではATLウイルスと表現することにする)。
ちなみに、その三年後の一九八三年、人間のレトロウイルス第二号として発見されたのがエイズウイルス(HIV)である。人間のレトロウイルスとして見つかっているのは今のところこの二つだが、このときにもギャロは発見劇に関わっている。但し、またしてもゴタゴタ付きだ。
一九八三年、フランスはパスツール研究所のL・モンタニエらはエイズウイルスと思われるウイルスを発見したと発表した。翌八四年、R・C・ギャロらもエイズウイルスの発見を発表。ところがその後わかったことには、両ウイルスの塩基配列が、別個に見つけられたものにしては似すぎているのである。エイズウイルスは自身の塩基配列をどんどん変えていくのが特徴で、同じエイズウイルスであっても普通は相当配列が違っているものなのである。ところが両者の発見したウイルスは、同じサンプルを使ったとしか思えないほどに似ていた。結局、モンタニエがギャロに送ったサンプルが、誤ってか故意にか、ギャロのサンプルの中に混入したということがわかり、ギャロもその事実を認めた。この、故意か不注意かという点を巡り、またエイズ検査法の特許の問題も絡んで両者、両国間は数年にわたり揉めに揉めたが、現在なんとか和解が成立し、少なくとも発見者に関してはモンタニエ、ギャロの順とすることで結着をみているようなのである。ギャロの実験助手は、その後ウイルス混入の責任をとる形で辞職させられている。
さて、ATLという病気の特徴だが──それは、同じくレトロウイルスを原因とするエイズとも大きく重なり合う問題なのだが──第一に、驚くほど感染力が弱いということである。
ウイルスと聞くと我々は、インフルエンザや天然痘の場合のように、空中を漂い、人から人へとあっという間に移って大流行を引き起こすようなものを想像してしまう。しかし、このウイルスは(レトロウイルスだからこそなのだが)、たいていは宿主のリンパ球のDNAの中に、逆転写されて組み込まれている。さらにリンパ球から離れてフリーの状態になると感染力をほとんど失ってしまうという、レトロウイルスとしても特に変わったウイルスなのである。感染が起こるのは非常に特殊な状況で、ATLウイルスに感染したリンパ球が相手のターゲットとなる細胞と直接接触、細胞融合を起こしたときに限られる。
実際にはこういう場合である。母から子への、母乳を介しての感染。母乳にはリンパ球が含まれている。そのリンパ球の中にATLウイルスに感染したものが混ざっており、それが赤ん坊の喉や腸の細胞と細胞融合を起こすと感染が成立するのである。母から子に対しては、胎盤を通じてや出産の際の産道感染もありうるが、前者についてはともかく、後者はまず滅多にないと考えられている。
母乳に次いでありうるケースは、夫から妻への精液を介しての感染である。精液の中にリンパ球が含まれているからだ。ここで「男から女へ」ではなく、「夫から妻へ」であるのは、一度や二度の性交渉では(たぶん数十回かそれ以上でも)移らないからである。キャリア(感染者)の夫から長年連れ添った妻に、まだ感染していないというケースも珍しくはない(ちなみに日沼氏によれば、夫婦間感染でキャリアになった人が発病したという例は見つかっていないそうである)。
結局、感染の大部分が、母乳による母子感染とみられている。しかもキャリアの母親から子へ移る確率は、わずか二〇〜二五パーセントであるという。こんな感染力の弱いウイルスが、よくまあ今日まで生き残って来られたものだと驚かされるが、かつての母親は一年、二年という長い間にわたり子に乳を与え続け、ミルクなどの代用品に頼ることも少なかった。時代を遡るなら感染は、もっとずっと確実なものだったのだろう。母乳が主な感染ルートであるとわかった今、キャリアの母親は子に母乳を与えることを控えるよう助言されている。輸血も授乳、性交渉に次ぐ感染ルートだが、むろん現在では献血などの際に厳重にチェックされている。いずれにしてもATLの消滅は、特に若い層では、もはやカウント・ダウンの段階なのである。
ATLの特徴……その第二は、感染から発病までの期間が、ちょっと考えられないくらいに長い、そしてほとんどのキャリアが発病しないまま一生を終えるということである。たいていのキャリアは赤ん坊の時、母乳により感染している。ところが発病するとしたらそれは、感染から五〇〜六〇年も経てすっかり歳を取ってからなのだ(平均発病年齢は五五歳)。それまでは何ら健康上の不都合はない。
発病すると急性の場合には残念ながら今のところ打つ手なし、という状態で、だいたい一年以内に死亡する。しかし実際に発病に至るのはキャリア二〇〇〇人に対し、毎年一人程度という低い割合である。患者一人の背景には何百人という数のキャリアが存在する。大多数のキャリアは、その他のガンや心臓病、あるいは不慮の事故など、ATLとは無関係にこの世を去っていく。人生五〇年と言われた昔なら、それはなおさらのことだったのである。
それにしてもATLは、なぜこのように長い潜伏期間を持っているのだろうか。それは、ウイルスの立場に立って考えて初めてわかってくることである。
ウイルスを始めとする病原体は、実のところ宿主を殺したり、苦しめたりすることなどは目的としていない。彼らの目的は宿主の体を利用すること、遺伝子複製やタンパク合成のシステムを一部借用してとにかく自分のコピーを増やすことである。増やしつつ他個体に乗り移る。そのため宿主には、ぜひとも元気で長生きをして欲しい。子孫も増やして欲しい。逆説的に聞こえるかもしれないが、それが彼ら本来の願いである。発熱や不快な症状は、往々にして我々の免疫反応の副産物なのである。
たとえば宿主の集団をあっという間に壊滅状態に追い込んでしまう毒性の強い病原体は、たとえ出現しても長続きはしない。宿主が滅びるより先に、自らが滅びる運命を辿ることになるからである。逆に病原体本来の生き方を全《まつと》うし、成功していると言えるのが、喉カゼや鼻カゼのウイルス、青ばなの原因である緑膿菌、水虫の白癬菌のような、どうということのない病原体たちである。彼らは我々の体を利用しつつも、我々にさほど迷惑をかけず、しかも彼ら本来の目的をよく達成している。
ATLウイルスは、残念ながら毒性については恐ろしいものを持っている。発病したら急性の場合にはほとんど打つ手なしである。しかしこのウイルスにとって、たぶんその代償と思われるのが長い潜伏期間である。長く潜伏することでお得意様である人間の人生をほぼ全うさせる。おそらくそれは、人間との共存の歴史の中で、次第次第に実現されてきた解決策なのだろう。
ついでながらATLウイルスの長い潜伏期間を実現させているのは、調節遺伝子なる、自らの増殖を抑え込む遺伝子の存在である。リンパ球に感染したウイルスは、調節遺伝子により活動を抑えられた状態になってしまう。調節遺伝子によるタガがはずれたとき、初めてウイルスが激しく増殖する。それがウイルスに感染したT細胞のガン化、つまりATLの発病である。
人間のもう一つのレトロウイルスであるエイズウイルスも、調節遺伝子を持っている。やはり我々に発病まで数年、時には一〇年以上の猶予を与えている。その間に他人に移すことはあっても、本人には何ら不都合を起こさず、この点もまたATLウイルスと同じである。エイズウイルスはリンパ球のうちのT細胞(ヘルパーT細胞)にのみ感染し、やがてそれを破壊する。一方、ATLウイルスはすべてのタイプのリンパ球に感染するが、ガン化させるのはT細胞(ヘルパーT細胞)のみである。いずれにしてもT細胞をターゲットにしていることに変わりがない。ATLは太古の昔のエイズ≠セったのではないだろうか。とすれば逆に、エイズの未来の姿がATLということになるだろう。事実、エイズは少しずつ潜伏期間を延ばしてきているのである。
ATLはほとんど家族内でしか移らず、大々的に流行するということはない。だからこの病気は、ほぼ限られた地域にしか発見されないのである。原因がウイルスであるというのに。しかもこの病気は、宿主を殺すということが滅多になく、たぶん人類との相当に長い共存の歴史を持っている……。
そう考えてきて気づくのは、この病気が、日本人の起源を探るうえでまた一つの大きな手掛りを提供するのではないかということである。母子間で移るという点で、ミトコンドリアの研究にも匹敵するだろう。夫婦間でも移るから、その点でまた興味深い。実際、医学やウイルス学の研究と並行し、この観点からの研究が進行してきたのである。日本各地の血液センターに保存されている血液でまず予備的な検査が、続いて実際に患者が見つかるような高キャリア地域で、それぞれ何百人という単位で住民の血液調査が行なわれた(いずれも対象は四〇歳〜六四歳。キャリアは血清中にウイルスに対する抗体を持っている)。それによると、全国で推定一〇〇万人以上ものキャリアが存在することがわかった。全人口の約一パーセント程度である。
キャリアが多いのは、当然のことながら九州、沖縄地方である。全キャリアの半数以上がここに集中する。他に比較的多いのは、四国の愛媛県宇和島あたりから高知県にかけての太平洋岸、紀伊半島の熊野・新宮地方、隠岐、東北地方の三陸海岸、日本海の孤島である飛島(山形県)、その対岸の秋田県|象潟《きさかた》近辺、北海道の日高山脈の西側といったところである。佐渡については、日沼氏らの調査ではキャリア「ゼロ」という結果であったのに対し、「数パーセント存在、患者も発生している」という報告もあり、よくわからない。日沼氏らとは別の調査では、北陸の富山、石川両県にも患者が何人か発見され、ここもまた高キャリア地域と言えるかもしれない。
一方、キャリアがまず発見されないのが京阪神地方、中部地方、関東地方(但し、伊豆諸島のような離島は別)などである。見つかったとしてもそれは、高キャリア地域の出身者であることがほとんどだ。
キャリアの分布について興味深いのは、日本の中心からはずれた地域に集中することもさることながら、高キャリア地域にしろ離島や僻地へ行くとまた一段とその割合が高まるということである。たとえば九州全体でキャリア率は八パーセントほど。ところが五島列島、天草、対馬、壱岐、種子島、屋久島、奄美大島などでは軒並み二〇〜三〇パーセントを超える。熊本の山あいの盆地である人吉、阿蘇山麓に位置する小国《おぐに》、ニホンザルの生息地として有名な宮崎県幸島に近い串間、漁港として名高い鹿児島県枕崎なども高率である。
過疎地は中高齢者の割合が高く、それらの人々ほどキャリア率が高いはずだから(なぜなら昔ほど母乳に頼ることが多く、母子感染の確率が高かった)、そういう結果が出るのだろうとお考えかもしれない。しかし調査はすべて四〇歳〜六四歳の人々を対象にし、年齢分布にも偏りはない。過疎地にキャリアが多いのは、たぶんそこが過疎地だということ自体に原因があるのではないだろうか。
沖縄地方についてもみてみよう。沖縄は沖縄本島からして既に高率で、全体的に二〇〜三〇パーセント、場所によっては四〇パーセント近い値を示すことさえもある。日本最西端の与那国島、その手前の石垣島はいずれも三〇パーセント前後、本島から東へ大きくはずれた南大東島もほぼ同じレベルである。石垣島の手前の宮古島は一〇パーセント、あるいは場所によっては〇パーセントと、なぜか例外的に低い値を示している。実は、宮古島は一三世紀頃になってようやく人が住み始めた島であるという。その核となったのは、おそらく沖縄近辺ではない、どこか低キャリア地帯の人々だったのだろうと日沼氏はみているのである。
ATL分布の本質はどこにあるのだろう。暖流? しかしそうすると、山間部の高率をどう説明したらいいのだろう。その謎が解けてきたのは、日沼氏が隠岐を訪れ、神官で博物館の館長も務める土地の古老と交わしたある会話がきっかけである。日沼氏はこの古老に、隠岐の人たちはどこから来たのでしょうかと質問した。思えば随分率直な問いかけである。するとその人は、どこから来たということはなく隠岐の人はずっと隠岐で、それは縄文時代からなのだと答えたのである。
なるほど、離島は人が出て行くことはあっても、入って来ることはまずない。山間部や陸の孤島と言われる所にしても同様である。それらの人々がそこに住み着いたのがいつかと言えば、この本でもみてきたように、他ならぬ縄文時代なのである。それにまた、かつて渡来人たちが先住の縄文人を駆逐したときに、彼らが逃げ込んだのもそういう場所ではなかったか。
この、ATLと縄文人を関連づけるという仮説にとって決定打となったのは、アイヌの人々の調査結果である。いや、むしろその結果が、アイヌが日本の先住民であることの高らかな宣言となっているかもしれない。既に一九六〇年代に採血し、東大人類学教室に凍結保存されていた四〇〇人分ほどのアイヌの人々の血清が使われた。それによると、キャリア率は四五・二パーセント! 日本最高、世界でもまず間違いなく最高記録だろう(その後、一九八〇年代に現地調査が行なわれたところ、アイヌのキャリア率は四〇・〇パーセントにまで落ちていた。それでもまだ世界最高レベルを保っている)。
こうして縄文人とATLの関係は、もはや疑いようのないものとなってきた。ATLウイルスは(少なくとも渡来人と対比するならば)、縄文人に固有のウイルスであったと言えそうなのである。ウイルスは縄文人の母から子へ、ときには夫から妻へと受け継がれた。渡来人との混血の後も、その血が色濃く残る地方では、やはり連綿と伝え続けられてきたのである。
しかしそうすると、ATLはなぜ縄文人にあって渡来人にはなかったのだろうか。かつて縄文人だけがATLウイルスに感染し、渡来人は感染しなかったという経緯があるのだろうか。それとも、縄文人も渡来人もかつてはATLウイルスを持っていた、しかし後者では何らかの事情により、それは途絶えてしまったのか……。何しろこのウイルスは極めて感染力が弱いのだから。
その真相を探るためにはぜひとも世界のATL、さらには霊長類のATL(霊長類にもかなり広い範囲にわたって存在する)に目を向けてみる必要があるのである(ATLについては、『新ウイルス物語』日沼頼夫著、中公新書などに詳しい)。
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ATLは残った
なぜ縄文人だけが持っていたのか[#「なぜ縄文人だけが持っていたのか」はゴシック体]
ATLウイルスを、縄文人は持ち、渡来人は持っていなかった──どうもそれは間違いないことのようである。
なぜそのような違いがあったのだろうか。しかし、それを考える前にまず、現在の世界のATL分布を見てみることにしよう。世界の民族のうち、どの民族にキャリアがおり、どの民族にはいないのだろうか。実際、早くも一九八〇年代前半に、日沼氏らが近い所でアジアなどを調査した。その後外国人も含めたいくつかのグループが、世界中を調査して回っているのである(対象はいずれも四〇歳以上の人々)。
まずはお隣の韓国──キャリアはほぼゼロである。ソウル、釜山、済州島などで調査されたが、驚いたことに三〇パーセントもの高キャリア率を持つ対馬の対岸の、釜山ですらゼロという結果だったのである。
中国大陸──ゼロ。内蒙古、雲南省、チベットなどを含め、一万人もの人々が調べられたがそれでもゼロ。但し、実を言えば一例だけキャリアが見つかっている。馬さんという初老の男性である。ところがよくよく尋ねてみるとこの人は、戦前に中国に渡り、中国に帰化した日本人だった。出身は鹿児島県。馬さんの奥さん(中国人)を調べてみるとこれまたキャリアで、どうやら夫から感染した模様である。中国大陸で見つかったのはこの二人だけである。
台湾──驚いたことに、一〜二パーセント、場所によっては三パーセントという割合で見つかる。
台湾の人口構成は、だいたい三つのグループに分類されるという。第二次世界大戦後、中華人民共和国の成立とともに大陸から政治亡命してきた人々(とその子孫)、今から四〇〇年ほど前、中国福建省から集団移住してきた人々の子孫、そして高山族(高砂族)と呼ばれる先住民族(九部族)である。
中国大陸にはキャリアがおらず、従って第一のグループと第二のグループがウイルスを運んで来た可能性はないとみてよい。では台湾のキャリアは、先住民である高山族に由来するものだろうか。
先住民を調べると確かにキャリアは見つかった。ただ、八〇〇人ほどを調べたうちのたった一人という僅かな数値である。この低い割合から、三パーセントにも及ぼうかというその他の地域の高率を説明できるとはとても思えない。
結局、日沼氏らが指摘していることには、かつて台湾が日本の統治下にあった時代に、日本人の男から台湾人の女へと(特に婚姻を通じて)感染したのではないかということである。台湾のキャリアは、家系的に存在しても集団としては存在せず、それがごく最近の感染であることを物語っているからである。しかしそうすると似たような状況にあった韓国に、なぜキャリアがいないのかという疑問が湧くが、それは台湾と朝鮮半島とで婚姻を巡る事情に違いがあったからであろうと考えられている。つまり、台湾では日本人と現地の人との正式な結婚が盛んであったのに対し、朝鮮半島では男女の関係が一時的で、婚姻にまで至るケースが少なかったのである(ATLは長い夫婦関係がないと移らない)。
フィリピン──ほぼゼロ。フィリピンでは様々な人種、民族が混血し、混在している。キャリアは、マニラなどで調べる限りでは全くのゼロである。しかしアエタと呼ばれる、ルソン島の狩猟採集民を調べたところ七四六人中一七名、つまり二・三パーセントもの高率で見つかった。アエタはフィリピンの中でもやや特殊な存在で、ネグリトと呼ばれる東南アジア一帯に散在する先住民の流れを汲んでいる。ネグリトは身長が低く、皮膚も黒い。縮れた髪の毛などはニグロイドを思わせるが、モンゴロイドの一派である。縄文人と同じ古モンゴロイド。
タイ──ほぼゼロ。
マレーシア──ほぼゼロ。但し、マレー半島山岳部のオラン・アスリという先住民、マレー半島の西方、アンダマン島の住民(行政的にはインドに属する)に若干のキャリアが見つかる。
インドネシア(ニューギニア西半分のイリアンジャヤを除く)──ゼロ。
バングラデシュ、ネパール、パキスタン──ゼロ。
インド──北インド、西インドではゼロだが、南インドのケララ州で、何と二名の患者《ヽヽ》が見つかった。患者一人の背景には何百人というキャリアが存在するはずだから、ケララ州は相当な高キャリア地帯であってもおかしくはない。しかしここでは予想されるほどのキャリアは見つからなかった。この土地の住民は、北部のアーリア系とは大きく違うドラビダ系の人々で、かつてアーリア人のインド侵入とともに南部へ追いやられたという歴史を持っている。彼らはインドの先住民だが、一方では古来、貿易などを通じて他民族と盛んに交流している。ATLが住民に固有のものか、どこからかもたらされたものかはわからない。
スリランカ──ゼロ。
しかし太平洋、オセアニア方面へ目を向けるなら、次々と高キャリア地帯が現われてくるのである。ニューギニア、オーストラリア(原住民のアボリジニ)、ソロモン諸島、バヌアツ、パラオ……。
パプア・ニューギニアの、ほんの一〇年ほど前に初めて他文明との接触を持った高地のある集落ではキャリア率一四パーセントだった。近くに空港もある比較的開けた地域の一七の村で合計六二四人を調べたところ、キャリアは八七人(一三・九パーセント)。但し村によって一〇パーセント以下だったり、三〇パーセント近いこともある。ニューギニアから東へ数百キロメートルに位置するソロモン諸島で数パーセント、さらに南東へ千数百キロメートルのバヌアツでは二〇パーセント近いキャリア率だった。ニューギニアの北約一〇〇〇キロメートルに位置するパラオでは三四人中一人(あえて言えば約三パーセント)である。まだ調べられていない地域も含め、太平洋の島々はATLにとっての楽園であるかもしれない。
オーストラリア北部のアボリジニ一二〇人を調べたところキャリアは七人(五・八パーセント)だった。彼らはオーストラロイドに属し、モンゴロイドとは一線を画している。片や太平洋島民はモンゴロイド、それも縄文人と同じ古モンゴロイドである。ハワイ出身の武蔵丸が薩摩の西郷さんにそっくりなのは決して偶然ではないのである。二人とも古モンゴロイドの特徴を実に余すところなく備えている。ハワイにもキャリアはいるが、見つかっているのは今のところ日系人だけである(ニューギニア人については人種としての帰属がはっきりしていない)。
アメリカ──南北アメリカには様々な背景を持ったATLキャリアが存在する。それは大きく二つの系統に分けられるようである。
一つは南北アメリカ大陸にまたがる先住のモンゴロイド。すなわち北米(とグリーンランド)のイヌイットとコロンビア、ペルー、チリなど南米各地のインディオたちである。キャリア率は、たとえばアラスカのイヌイット三〇〇人強を調べたところ九人で、三パーセント程度であった(その他、ブラジル、ペルーなどの日系人にもハワイと同様、キャリアが見つかる)。
もう一つの系統はジャマイカ、ドミニカ、バルバドス、セントビンセント、グレナダ、トリニダードトバゴ、パナマなどカリブ海沿岸地域の住民、そしてそこからアメリカ合衆国、カナダへと移住していった人々である。キャリア率は、カリブ海沿岸諸国でだいたい数パーセント、アメリカ、カナダなどへの移住者ではそれよりも大分少なくなる。とはいえ、カリブ海沿岸地域の人々自体が古くは移住者≠ナ、そのルーツの多くは西アフリカにあるのである。
アフリカ──アフリカはいわばATL大陸である。西アフリカの赤道付近、つまりセネガル、ギニア、ガーナ、リベリア、ナイジェリア、ガボンからその南のザイール、そしてタンザニア方面にかけて、実に広い範囲にわたりキャリアが存在する。たとえばガーナのある地域では八・一パーセント、ガボン東部九・五パーセント、ガボン西部五・〇パーセント、ザイール南部二〇・二パーセント(これがアフリカ最高記録)、タンザニア北部一三・二パーセントといったところである。アフリカではその他に、ケニア、南アフリカ共和国(先住民)にもキャリアが存在。しかしサハラ砂漠やその北のモロッコ、エジプト方面にはほとんど存在しないか非常に少ない。
ヨーロッパ──いわゆる白人にキャリアはほとんどいないと言ってよい。イギリスなどで見つかるキャリアは、ほぼ例外なくカリブ海沿岸地域からの移住者である。
ヨーロッパでキャリアが見つかっているのは、北欧のラップ族である。スウェーデンとフィンランド国境付近のラップ族一〇〇人を調べたところ五人、つまり五パーセントという結果が得られたが、その他の地域では一パーセントにも満たなかった。ラップ族はモンゴロイドの一派で、北米のイヌイットなどと起源を同じくしている。
中東──イスラエルの黒いユダヤ人と呼ばれる人々にキャリアが見つかる。それも三〇パーセントを超える高率である。これほどの高率を示すのは、日本のアイヌや沖縄地方を除けば彼らだけかもしれない。黒いユダヤ人とは、一〇年ほど前にエチオピアからイスラエルに強制移住させられた人々で、ATLはアフリカからの手土産である。しかしさらに遡るなら、彼らは数千年前に中東からアフリカへ移り住んだという経緯を持っている。現地の人々と混血する過程でウイルスキャリアとなったようである。普通のユダヤ人にキャリアはいない(と思っていたら、イラン北東部のある地域からイスラエルに移住したユダヤ人に、最近になってキャリアが発見された。それも一二パーセントという高率である。なぜ彼らだけが持つかは不明)。
ロシア沿海州のギリヤーク、ウリチなどの新モンゴロイド系部族にキャリアがいるという話もある。これらの人々とアイヌとは古くから交流があり、そちらからの流れかもしれない。
インド洋の西のはずれ、マダガスカル島に近い、セイシェル諸島にもキャリアは存在。
こうしてみてくると、どうだろう。世界のATL分布にはいくつかの流れがあるようである。アフリカ、カリブ海沿岸、アメリカ大陸、日本(縄文系の土地)、ニューギニアから南太平洋にかけて……。実際、ウイルスの塩基配列を調べてみるといろいろなことがわかってきた。たとえばニューギニアやソロモン諸島のウイルスは際立って特徴的で、他のどの地域のものとも一線を画している。カリブ海沿岸地域のものは、当然と言うべきか西アフリカのものに近い。しかしそれらが、中央アフリカやその他のアフリカ地域のものにも近いのかというと、残念ながらそうは問屋が卸さなかった……。ともあれ、これら塩基配列を詳しく調べたなら、人種や民族の起源について実にあり余るほどの情報が得られるはずなのである。いや、まったくATL民族学≠フ前途には洋々たるものがある、と思われた。ところがここに思わぬ問題が立ちはだかってしまったのである。
人間以外の霊長類にもATLが存在する。ある意味で人間の場合に事情は似て、種によってあったり、なかったり、ある場合にしてもキャリアの率が群れごとに大きく違っていたりするのである(霊長類のATLウイルスは人間の場合と区別し、STLV、Simian T-lymphotropic virus、と呼ばれる。Simian はサルと類人猿を合わせた意の形容詞)。それだけなら驚くにあたらない。問題は、STLVの塩基配列が|人間どうしの違いよりも人間に近い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》場合があるということである。このウイルスには過去に人間とその他の霊長類間を、母乳か血液か、はたまた性交渉か、とにかく何らかの経路を辿り、何回か行き来した経緯があるらしいのである。そうなると多分に話は違ってくる。ATLウイルスの塩基配列を人種、民族の分岐と詳しく対応づけることは控えた方がよさそうなのである。
そもそも、霊長類にもATLが存在するらしいとわかってきたのは、人間のATLウイルスが発見されてまだ間もない頃のことである。一九八一年の末、高知県の田舎でたびたび畑に出没しては人を困らせるお尋ね者のサルが捕まった。高知医科大学の三好勇夫氏はある期待をふくらませる。
三好氏は日沼氏らとの共同研究で、ATL患者からガン化したT細胞を分離して培養、貴重な研究材料を提供した人である。ウイルスはこのサンプルから発見された。しかし今度はガン化したT細胞(もちろん人間の)にこのサルのリンパ球を混ぜる。培養してどうなるかを見てみようというわけである。
すると……、ニホンザルのリンパ球はATLウイルスに感染したのである。ということはつまり、野生のニホンザルに、人間からATLを移されている者がいるかもしれない、いやいや、サル自身がATLを保有しているかもしれないということなのだ。その後実際にニホンザルのATLウイルスが分離された。そしてわかったことには、ニホンザルのATLは人間から移されたものではなく、ニホンザル自身のものだったのである。
先進国として珍しいことに、日本には野生のサルがいる。そのためもあって日本の霊長類学は終始、世界をリードし続けているのである。さっそく京大霊長類研究所などに保存される、日本各地のサルの血清が調べられた。
これら血清コレクションを揃えていたうちの一人は、本書で既に何度も登場した野澤謙氏である。野澤氏はサルの血液タンパクの型を調べ、それをもとに群れどうしの関係、個体が群れ間をどう動いているかを探っていたが、膨大なサンプルが思わぬところでまた役に立ったわけである。
それによると、ニホンザルのATL保有の割合はとても人間の及ぶところではない。しかも群れによってキャリア率が、驚くばかりの違いを見せる。たとえば伊豆半島や房総半島では、キャリア率七〇〜八〇パーセントという群れがいる。その他の群れではだいたい五〇〜六〇パーセントといったところ。しかしその一方で四国のいくつかの群れなどでは全くのゼロといった具合である。
感染ルートは人間の場合と同様で、母から子へ、あるいはオスからメスへである。後者については、たとえばキャリアのオスとそうでないメスとを同居させる、逆にキャリアのメスとそうでないオスとを同居させる、などして実験的に確かめられている。しかしそれらは状況証拠だけでも十分に証明されうるのだ。
群れによっては長年の研究で家系についてわかっており、誰がどのメスの子であるかが確認されている(ニホンザル社会は乱婚的なので父親についてはわからない)。それによると、キャリアでないメスの子はキャリアではなく、キャリアであるメスの子はキャリアであったりなかったりする。母から子への感染は、一〇〇パーセントとはいかないまでも相当に確実のようである。一方、オスからメスへ感染することは、メスのキャリア率が歳とともに急上昇することからうかがえる。ニホンザルは乱婚のため、メスが交わったオスのリストは歳とともにどんどん増えていくからである。
他の霊長類についてはどうだろう。霊長類なら程度の差こそあれATLを保有するものなのだろうか。複数のグループが行なった調査結果を総合すると──。
まず、原猿にはATLは存在しない。原猿とは、霊長類を大きく二分した場合の、下等≠ニされる方のサルで、ツパイ、キツネザルなどである。原猿に対するのが真猿で、我々がサルとしてイメージするのはこちらの方である。
真猿についてみるならば、まず新世界ザルには全く存在しない。新世界ザルとは、オマキザルやリスザル、クモザルなど主に南米にすむ真猿たちである。結局、ATLが存在するのは類人猿も含めた旧世界ザルだけ。そのうちの何種かに、どういう理由によるのかわからないが、飛び飛びに存在する。それはまるで人間のATLが、民族ごと、地域ごとに存在したり、しなかったりする様を見るようでもある。
ATLが存在するとわかった種は以下の通りである。サバンナモンキー、サイクスモンキー、アヌビスヒヒ、ベニガオザル、セレベスマカク、トクモンキー、ボンネットモンキー、タイワンザル、アカゲザル、ニホンザル、ブタオザル、カニクイザル(ベニガオザルからカニクイザルまではマカク属のメンバー)、チンパンジーなど。
一方、調べたもののATLが見つからなかったのは、ブラッザモンキー、パタスモンキー、ゲラダヒヒ、マントヒヒ、ハヌマンラングール、カオムラサキラングール、テナガザル、オランウータン、ゴリラなどである。
いったい何がどう違ってこのような結果が導かれるのだろうか。ATLが存在する種とは、ウイルスに感染した種であり、存在しない種とは、まだ感染していない種なのだろうか。それとも、実はこれらの種はその昔、いずれもいったんはATLウイルスに感染した、しかし長い年月を経るうちに、中にはほとんど失うか、あるいは完全に失ってしまう種も現われた、ということなのだろうか。
日沼氏らは後者の可能性を考えている。たとえばニホンザルを調べてみると、地域ごと、群れごとにキャリアの率が全然違う。中には全くゼロの群れもある。その現象を、感染か未感染かで説明することはできないからである。ニホンザルの個々の群れを、旧世界ザルや類人猿の様々な種に置き換えたとしても、理屈はそう違わないだろう。
では、いったいどういう条件がATLを残し、また残さないのだろうか。ここから先は私なりに考えていこう。
ATLの感染経路には大きく二つある。母乳と性行動だ。この二つの経路について検討を重ねれば、答えは自ずと引き出されてくるのではないだろうか。
まず母乳である。野生のサルがまさか家畜の乳の世話になるはずもなく、サルと類人猿はすべて母乳で育てられている。すると問題は授乳期間だろう。授乳期間が長ければ長いほど、母から子への感染の確率は高まる。そういう種であるほど、よりATLが残される傾向にある……。ところが授乳期間とATLの有無との間には、まるきり関係がないのである。オランウータンは四〜五年もの長きにわたって授乳するのに、キャリアはなし。チンパンジーも同じくらいの期間授乳するが、キャリアは存在。マントヒヒとアヌビスヒヒは系統的に非常に近く、授乳期間はどちらも一年弱である。ところが前者がキャリアなしであるのに対し、後者はキャリアあり……。人間以外の霊長類を見る限り、ATLの有無と授乳期間とはどうもほとんど関係がないようなのである。
では性行動はどうか。ATLウイルスはオスからメスへと移る。オスとメスの性関係がきっちりと定まっていなかったり、交尾回数の多い婚姻形態の場合の方が、そうでない場合よりもATLはより残されているのでは?
実を言えば、先に挙げたサルと類人猿のATLの有無は、既にそれ自体がある分類になってしまっているのである。つまり、ATLを保有するサバンナモンキー以下の面々は、すべて乱婚的婚姻形態をとっている。ATLを持たないブラッザモンキー以下の面々は、ブラッザモンキーとテナガザルが一夫一妻である以外はすべて一夫多妻で、いずれにしても乱婚的な婚姻形態をとっていないのである。この対照は、アヌビスヒヒとマントヒヒの場合に最も劇的に現われている。両者は野生の状態で混血児が生まれるほどに近い存在だが、婚姻形態は正反対でアヌビスは乱婚的、マントは一夫多妻。そして前者にキャリアが存在するのに対し、後者では見つかっていないのである。人間以外の霊長類でATLが存在するか否かは、どうも乱婚度のようなものが決め手となっているらしい。
人間についてはどうだろう。人間の人種や民族にATLがあったり、なかったりするのも、やはり残り方の問題だろう。人間は過去に、いったんはほぼあまねくATLに感染していた。やがて人種ごと、民族ごとの諸事情により残り方に差が生じてきたのである。それはサルや類人猿と同じように婚姻形態や乱婚度の問題だろうか。
人間の婚姻形態は、どんな人種、民族を例にとったとしても、間違っても乱婚とは言えない。では厳密な一夫一妻や一夫多妻かと言うと(皆さんもよくご承知のように)、これまたそうとは言えない。結局、人間の婚姻形態は適度な乱婚性を含んだ一夫一妻や一夫多妻なのである。しかしその程度の乱婚性で、たとえばアイヌや九州、沖縄地方のような驚くべき高キャリア率を説明できるだろうか。それらの人々が特別乱婚的ではないことも、もちろん言うまでもないのである。
人間において、婚姻形態などよりはるかに重みを持っていると思われる要因は、母乳である。何しろ人間の場合、感染の大部分が母乳によっているというのだから。そのうえ人間は、母乳を家畜の乳《ミルク》で代用するという、どの霊長類にも真似のできない離れ業をやってのけるのだ。ATLの有無に関しては、おそらくミルクを習慣として飲むかどうかということが非常に大きく関わっているに違いないのである。
一九七〇年代に行なわれたある調査によると、世界の諸地域のうちでミルクを習慣として飲むのは、ヨーロッパ、中央アジア、中東、アフリカの北部(中にはほとんどミルク以外の食物を口にしない部族もいる)などである。なるほど、これらの地域にATLは存在しない。
一方、ミルクを習慣として飲まないのは、熱帯西アフリカから南東のザイールやケニア、そして海をわたってマダガスカルにかけて、中国(中央アジアを除く)、朝鮮半島、台湾、日本など極東地域、東南アジア、フィリピン、インドネシア、ニューギニア、オーストラリア(原住民)、そしてインドの中部、南部である(この調査には南北アメリカが含まれていない)。
中国、朝鮮半島、東南アジアなどを別とすれば、ATLの存在とミルクを飲む習慣がないこととがかなり見事に対応しているではないか。やはり、ATLの存続には、母乳への依存度というものが最も大きく関わっているらしいのである。中国、朝鮮半島、東南アジアなどの人々がなぜATLを失ってしまったかは全くわからないが、ひょっとして彼らには過去にミルクを飲んでいた時期があり、そのときにATLが途絶えたのかもしれない。そして渡来人の祖先もまた、そのときにATLを失ったのではないだろうか。原因についてはともかく、モンゴロイドのうち新モンゴロイド系の民族にはATLは全く見つからない。見つかるのは古モンゴロイド系だけなのである。
それにしても、どうだろう。ミルクを飲まず、そしてたぶん長い授乳期間という生活習慣だけで、日本のアイヌ、九州、沖縄地方のあれほどまでのキャリア率が説明されるだろうか。何かもっと積極的な理由を考えなくては無理なのではないか。これから先はいよいよもって夢の話をしようと思う。ATLを日本でより存続させてきたもの──それは今や多くの日本人が忘れかけている、懐かしくも美しい日本の精神なのである。
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ウイルスがつくった日本のこころ
ATLと相互協力、あるいはおせっかい[#「ATLと相互協力、あるいはおせっかい」はゴシック体]
群れで暮らす動物が仲間に対し、「気をつけろ、敵が来たぞ」という意味の音声(警告声)を発することはよく知られている。
ニホンザルは数十種類もの音声バリエーションを持っているが、そのうち警告声として有名なのは「クワン」という音声である。ニホンザル研究の先駆者の一人である伊谷純一郎氏は、初期の研究を回顧したエッセイで、「クワン」が発せられるときの様子をこう記している。
「彼らは、回避のためにきわめて巧妙な警戒の音声を用いることがあった。それは、〈クワン〉という歯切れのよい声の連呼で、森の中に分散して思い思いに呼びかわしていたサルたちは、この〈クワン〉の発声と同時に静まりかえる。回を重ねるにつれて、次第にこの術策の手管《てくだ》は明らかになっていった。外敵の接近を知った雄の中の一頭が、みずからの逃走したいという気持ちを抑え、群れの全体に成り代わってその場に踏み止まり、この音声を発するのである。この声を聞いたほかの個体は鳴りをひそめて林床《りんしよう》を逃走し、私の目の前の雄は仲間が安全地帯に逃げのびたのを見計らって、連呼を止め姿をくらますのである。」(『自然がほほ笑むとき』平凡社より)
仲間に危険を知らせるという行動は、ごく当然のことのように思われがちである。仲間だから知らせる。当たり前ではないか。しかし、ここに示される通り、実は相当に矛盾を孕《はら》んだ行為なのである。音声を発する本人は、そのことにより自分を目立たせてしまう。最後まで踏み留まらなければならない。自分が敵の、まず第一の標的になりかねないのだ。それでも知らせるのは、たいていの場合、次のような事情が隠されているからである。
その一──知らせる相手が血縁者である。知らせた本人は捕食者に見つかるかもしれないが、おかげで血縁者が救われる。そのメリットが彼のリスクを補って余りあるものであるならば、警告声を発するという行動が進化するのである(血縁者とは、彼と共通の遺伝子を血縁の近さに呼応して持っている者という意味である。厳密な議論をするには、この場合なら警告声を発するという行動の遺伝子に着目しなければならない)。
その二──ともかく敵を見つけた群れのメンバーが警告声を発する。しかしその後立場が変わった場合には、今度は仲間から警告声のお返しを受ける。つまり、その相互の関係がきっちり保証されている。この場合の仲間とは、血縁者であることもあれば、非血縁者のこともある。
警告声を発すると、そのたびに彼は身を危険にさらすことになるだろう。しかし他個体が発した場合には、その分においてはメリットを得る。こうしたメリットとデメリットの積み重ねの末、結局どの個体にとってもメリットの方が上回る結果となるのなら、警告声は進化する……そういう理屈になっているのである。ただ、この話が成立するためには仲間の裏切りがないということが条件として必須である。日頃は他人の警告声の恩恵に浴しておきながら、いざ自分がそれを発すべき立場に立ったとき黙って逃げる。そういう裏切り行為がしばしば介入すると、話はたちまちご破算となってしまうのだ。警告声を発する個体はバカを見るわけで、やがて誰も警告声を発しなくなってしまうことだろう。
ニホンザルの群れなどで裏切りが起こらないのは、彼らが裏切りのない社会を実現させているからこそだ。しかし、それはたとえばリーダーが、「皆の者、裏切るなよ」と命令しているわけではない。皆が約束事として決め、守ろうと努力しているわけでもない。その秘訣は彼らが、同じメンバーで末長く付き合っていくという何とも単純な設定にあるのである。
付き合いが長く続くという状況では、裏切ることによる目先の大きな利益よりも、裏切らず、少しずつではあるがメリットを重ねる方が最終的には得をする(なぜなら裏切りの効力は一〜二回しか持続しない)。どのメンバーにとってもそれは同じである。長い目で見て自分が得をするために裏切らない。それだけのことなのである(長い付き合いが裏切りを防止するという理論については、拙著『賭博と国家と男と女』文春文庫、に詳しく解説したのでよろしければ参照して下さい)。
ニホンザルの警告声には、人間やイヌなどに対して発せられる「クワン」の他に、猛禽類に対する「キイッ」というものもある。警告声を使い分けること自体、さすがはニホンザルと言わねばなるまい。
しかし、アフリカのサバンナには、おそらく危険が一杯のサバンナであるからこそだろうが、ニホンザルよりもはるかに多くの警告声を持ち、それぞれを実に見事に使い分けているサルがいる。サバンナモンキー(ベルベットモンキー、ミドリザルとも言う)がそれで、ニホンザルと同様に母系の乱婚的社会を作っている。群れの大きさは二〇〜三〇頭くらいである。
アメリカのT・T・ストルーセイカーは一九六〇年代に、キリマンジャロの北側の山麓に位置する、ケニアはアンボセリ国立公園でこのサルの研究を行なった。サバンナモンキーの体重は、オスで四〜五キログラム、メスで三キログラム程度というから、ちょうどネコほどの大きさである。顔はまっ黒で体の毛は薄い灰色か茶色。ところがオスのペニスはまっ赤、陰嚢《いんのう》はそれを引き立たせるかのように鮮やかなエメラルドグリーンをしているのである。
ストルーセイカーによれば、サバンナモンキーは次の三つの警告声を使い分けている。
群れが地上にいて草などを食べていたとする。誰かがヒョウの接近に気づくとその者は「抑揚のある短い叫び声」をあげる。すると皆はいっせいに木に登って難を逃れる。既に木の上にいるときには、木のさらに高い所へと登り、あたりをうかがう。
上空にタカが舞っているときには「断続的な低い声」が発せられる。すると皆は今度は木に登らずに(あるいは木の上にいるときには木から降りて)、空に注意を向けつつやぶの中に逃げ込む。
そしてヘビを見つけた者は「さえずるような高い声」を出す。皆は、ヘビがどこにいるのだろうかと立ち上がり、あたりをキョロキョロ見回すのである。
ストルーセイカーの後継者である、R・M・セイファースとD・L・チェニーは同じくアンボセリ国立公園で、音声の再生実験を行なった。あらかじめ録音した三つの警告声をやぶに隠したスピーカーから流し、彼らの反応を見る。すると確かに、ヒョウの警告声の場合には本当にヒョウが来たときのように、タカの場合にも、ヘビの場合にもそれぞれ本物の敵がやって来たかのようにふるまったのである。
セイファースらはサバンナモンキーの音声をさらに詳しく分析し、この三つの他に、ヒヒや見知らぬ人間に対してなど、まだいくつもの警告声があること、彼らどうしの出会いの際に自分より優位の者、劣位の者、見知らぬ者に対し、それらを区別した音声が発せられることなどを明らかにした。そしてさらに研究を進めると、彼らがどうも仲間の声を一人、一人聞き分けており、その際相手との関係において(たとえば親しいとか親しくないとか)、自分の取るべき行動を決めているらしいこともわかってきたのである。そこでこんな実験が組み立てられた。
それぞれの個体が仲間に助けを求めるときの声を録音する。例によってやぶにスピーカーを隠して音声を流し、Aの声に対するBの反応、Bの声に対するAの反応、Cの声に対するDの反応、Dの声に対するCの……というように、いろいろな組み合わせで調べていくのである。声の聞こえてくる方向(つまりスピーカーの方向)をどれほど長く見つめているか、ということを反応の強さの目安とした。
それによると、声の主とその行動を注目している個体とが互いに近い血縁者(親子とかキョウダイ)であるときと、そうでないときとでは話が全く違ってくる。前者の場合、注目個体が示す反応の強さは最近の二頭の親密さがどうあれあまり変わらない。つまり、最近会って毛づくろいなどしていようが、いまいが、一様に二〜三秒程度見つめるのである。
ところが後者の、二頭に互いに血縁関係がないか、あっても非常に遠いという場合には、状況次第で行動に著しい差が現われる。二頭がついさっき会って互いに毛づくろいをした間柄であると、一方は他方の声のする方を実に長々と──たとえば五〜六秒かそれ以上──見つめ続けている。しかし、もし二頭がこの何時間かの間に会っていないとすると、ほんの一瞥《いちべつ》を加える程度(一〜二秒)なのである。この、会って毛づくろいをしたのがついさっきかどうかの基準だが、実験の三〇分前から一時間半前までの間か、それとも二時間以上経過しているかによって区別した。
この実験が示すのはまず第一に、サバンナモンキーが互いの声をきちんと識別する能力を持っているということである。そして同時に示される重要な点は、彼らが高度に洗練された、極めて相互協力的な社会を築いているということだ。
助けを求める声に対し、それが血縁の近い者ならば、真剣に注意を向けるのはあまりにも当然のことだろう。最近会っていようがいまいが、毛づくろいをしていようがいまいが、そんなことは関係ない。何しろ血縁が近いのだから。
しかし血縁のない者や、あっても遠い者の場合、彼らは求めに応じるべきかどうかの判断に迫られる。その判断の基準が、最近の付き合いの程度、親密度なのである。これがもし個体間に相互協力関係があまりないか、あっても単純な協力関係であるとすれば、そもそもそういう高度な判断など必要ない。知らんふりをするか、助けるにしても血縁者や近くにいる者が助けるという基準で事足りるのである。
サルにとって毛づくろいとは、人間でいえば挨拶か、もう少し念の入った挨拶、つまりはおしゃべりをしたり、一緒に食事をするとか飲みに行くような行為に相当する。そして毛づくろいをすることは、この実験によるとどうも「これからもよろしくね」という相互協力関係の確認のような働きをするらしい。最近確認がとれている相手のことは大いに心配し、協力も惜しむべきではないが、そうでない奴のことなら放っておいて、別に構わないようなのである。
サバンナモンキーは何種類もの警告声を持っている。仲間一人、一人の声を聞き分け、しかも相手との関係において自分の行動を決めていく……ということから察するにこのサルは、我々の知らない、まだまだ高度で複雑な人間関係≠築いている可能性があるのである。その複雑さは、霊長類界でもおそらく第一級のものではないだろうか。そしてこのサルには──そのことと多分に関係があるのでは、と私は睨《にら》んでいるのだが──もう一つの注目すべき特徴が存在するのである。ATLだ。ATLのキャリア率が、霊長類界一と言っていいくらいに高いのである。
かつてドイツのG・フンズマンという人が二七種の霊長類を調べたところ、三種からATLキャリアが見つかった。サバンナモンキー、チンパンジー、カニクイザルで、キャリア率は順に六〇パーセント(五三頭中三二頭、以下32/53というように分数で示す)、五パーセント(2/37)、一パーセント(1/123)である。サバンナモンキーがダントツの高キャリア率であることがわかる。
日本のグループも三四種の霊長類を調べてみたが、九種に見つかり、ボンネットモンキー 五七パーセント(8/14)、サバンナモンキー 四七パーセント(17/36)、タイワンザル 二七パーセント(7/26)、ニホンザル 二五パーセント(670/2650)、ベニガオザル 二五パーセント(2/8)、アカゲザル 二〇パーセント(20/98)、チンパンジー 一四パーセント(11/76)、ブタオザル 一一パーセント(1/9)、カニクイザル 八パーセント(24/299)という結果だった。惜しくもトップの座は逃がしはしたが、サバンナモンキーのキャリア率は依然高率である。それに何分にも一位のボンネットモンキーの調査個体数は少ない。たまたまということもありうるだろう。サバンナモンキーがATLの王者であることにやはり変わりはないのではないだろうか。
それにしてもATLの王者たる(と言わせてもらうことにしよう)サバンナモンキーが、同時に稀に見る高度に相互協力的な社会を築いている……何か関係があるのだろうか。仮にこの二つの事柄に本当に因果関係があるとして、それはどう説明されるだろう。
まず考えられるのはこういうことである。ATLウイルスにとって宿主《しゆくしゆ》となる動物が相互協力的であるのは、願ってもない幸運だということ。何しろこのウイルスは母乳によって、性行動によって、あるいは血液と血液とが何らかの形で混ざり合うことによって感染するのだ。
宿主が相互協力的な性質を持っていると、まずたとえば乳の出るメスが、実の子ではない赤ん坊に乳を分けてやるという行動も、時には現われてくるかもしれない。人間では事実そういう行動は珍しくなく、乳を売ったり、雇われて乳母になるなど、少なくとも金銭と引き換えの授乳≠フ例ならいくらでも存在する。もっとも人間以外の霊長類ではどうか、というと残念ながら定かではないが、サバンナモンキーではこういう例が知られている。アメリカのJ・B・ランカスターが観察したところによると、サバンナモンキーの群れに赤ん坊が生まれると、彼(彼女)はメスたちの間で大人気となる。入れ替わり立ち替わり子守り役が現われ、抱っこしたり、赤ん坊に乳房をまさぐらせて喜んだりする。そういうメスは、たいていはまだ子を産んだことのない若いメスで、将来に備えて子育ての練習をしているのだろうと考えられている。しかしランカスターによれば、中にはそういう子守り役として、自分自身が子育て中で、乳も出るメスも含まれているという。彼女が赤ん坊に乳首を含ませることがない、とは言い切れないのではないだろうか。
宿主が相互協力的であると、オスとメスの交尾の機会も(特に異なる組み合わせの個体どうしでの交尾の機会が)、また一段と増えてくるはずである。サバンナモンキーではないが、やはりアフリカのサバンナにすむアヌビスヒヒで次のような例が知られている。
アヌビスヒヒの社会は乱婚的とはいうものの、完全な乱婚とまでは言えないものである。オスはしばしば特定のメスをひとり占めにしようとする。あるときオスAが、発情したメスをガードし、連れ回していた。そこへ立ちはだかったのがオスBとC。BがCに向かい、「じゃ、段取り通りにな」とでも言いたげに小さく首を振った。するとCは、Aとメスとの間に分け入り、Aと闘い始めたのである。ガードがはずれるメス。Bは悠々、彼女と交尾した。しかし後日、似たような状況が発生したとき、この二頭の役割は逆転した。今度はCが指図し、Bが邪魔に入る。そしてCがメスと交尾したのである。
これは霊長類の相互協力、同盟関係の例として動物行動学のテキストによく登場する話である。一方が、自分がケガを負うかもしれないリスクを冒してまで相手の繁殖活動に協力する。しかしそれは、次に立場が逆になったとき、自分にも交尾のチャンスが巡ってくるという確約がとれているからである。警告声の場合と同じで、長い付き合いの続く集団でしか成立しない話である。乱婚的だからオスどうしの間に同盟が成り立つとも言えるし、同盟が乱婚性を促進しているとも言える。乱婚とオスの相互協力性とは切っても切れない関係にあるようだ。
こうして仲間が互いに協力的で、特にオスどうしの間にしばしば同盟関係が成立すると、交尾の機会が増大する。友だちの輪は交尾の輪なのであり、機会は連鎖反応のように増えていくのである。ATLウイルスにとって何と好ましい社会であろうか。
相互協力というと聞こえはいいが、それは相互干渉やおせっかい、いざこざやトラブルといったことと常に裏腹である。相互協力的な社会では即ち、ケンカやトラブルも日常茶飯事であることだろう。ところがそういう困った事態さえ、ATLにとっては好都合なことかもしれない。ケンカによる流血はウイルスに感染の機会をもたらす……? ケンカの後の仲直りは新たな交尾の機会をもたらす……? ともあれ、宿主が相互協力的である、あるいは親切で、おせっかいでケンカっ早い、はたまたオスどうしが同盟を結び、義理人情に厚い、などという性質を持っているとATLにとって何かと都合がよいようなのである。不都合なことなど、これっぽっちもありはしない。
しかし……、私はここで、加えてもう一つの可能性を追求してみようと思う。それは今考えてきたことのまるで逆である。
宿主が相互協力的な性質を持っているとATLウイルスが得をすることは言うまでもない。だがATLウイルスは、もっと積極的な生き方をしているかもしれない。かのウイルスは自分に都合のよいようにキャリアの行動を操作する、つまり他個体へ感染しやすいようキャリアを相互協力的に、親切でおせっかいでケンカっ早く、同盟を結び、義理人情に厚くふるまうよう操作しているのではないのか……。
ウイルスが宿主《キャリア》の行動を操作する? そんなバカな! と思われるかもしれない。だが、ウイルス、バクテリア、寄生虫などの寄生者《パラサイト》が時に宿主の形態や行動を操作するということは今や生物界の常識である。その可能性が指摘される現象は、数限りなく見つかっている。
たとえばある種の吸虫に寄生されたカタツムリは、触角の部分が異様に膨らんでくる。そればかりかカタツムリ本来の習性に反し、なぜかしきりに明るく開けた場所へと出かけていくのである。そうして空に向かい、パンパンに膨らんだ触角を扇ぐようにして揺り動かす……。実は触角の中には吸虫が入り込んでいて、触角を膨らませるとともにカタツムリの行動を操作しているのだ。目立つ場所で目立つ触角を揺り動かせば、鳥が昆虫の幼虫と見間違え、食いちぎって飛び去っていくだろう。そうして吸虫は、次の目的地である鳥の腸管へと達するわけである。
シロアリは本来、自分自身ではセルロースを分解することができない。それが可能であるのは、そもそも腸に、セルロースの分解専門の微生物(鞭毛虫やバクテリアなど)を飼っているからである。微生物も居ながらにして食物にありつける。つまり、これはシロアリにとっても微生物にとっても目出たい、相利共生の例である。しかし微生物は、ただ労働≠ニ引き換えに食物を得るに留まってはいない。
そもそも微生物は、常に他個体へ乗り移る必要に迫られている。そこでシロアリを操り、彼らが口移しで食物を交換するようふるまわせる(唾液に混ざって乗り移る)。成虫から幼虫へは食物の口移しだけではなく、成虫の糞を幼虫が食べるよう操作して乗り移るのである。もっとも、シロアリにとってもこれら微生物は不可欠であるわけで、操作されているように見えて、その実そうではないかもしれないが。
さらにシロアリについてはもう一つの重要な指摘がなされている。微生物が、シロアリの社会構造まで操作しているのではないか、というものだ。主張しているのはかのR・ドーキンスである。シロアリは、王と女王がおり、職アリ(ワーカー)や兵アリまでいる、高度に階級分化した社会を作っている。その黒幕が腸内の微生物だというのである。にわかには信じられない話だが、ともあれシロアリに限らず、カタツムリに限らず、寄生者《パラサイト》(共生者)はしばしば宿主(共生の相手)をまさかと思うような局面で操っているものらしいのだ。こういった信じられないような話の数々については、『延長された表現型』(R・ドーキンス著、日高敏隆他訳、紀伊國屋書店)、『昆虫を操るバクテリア』(石川統著、平凡社)などを読まれるといい。ここでは、回虫に操作されるセキショクヤケイの例を少し詳しく見てみよう。
セキショクヤケイは既に紹介したように、ニワトリの祖先種と言われる鳥である。メスは、羽の状態、とさかの赤など外見を手掛りに寄生虫(特に回虫)にたかられていないオスを選んでいる。婚姻形態は一夫多妻で、オスを中心にハレムが形成されている。
この一夫多妻社会には、当然のことながらメス獲得競争に敗れた、あぶれオスなるものが存在する。そういうオスは、ハレムに付かず離れず行動するのが常である。しかしよく見るとその中には、いつかは自分にもツキが回って来るであろうことを夢見、虎視|眈々《たんたん》とチャンスをうかがっているオスがいる一方で(それらのオスはそれほど外見の状態が悪いわけではない)、そんなことにはすっかり興味を失い、人生を諦めてしまったかのようなオスがいる。彼は、他にすることがないからというわけでもあるまいが、自分の子でもないヒヨコと仲良く遊んでやって一日を過ごすのである。
彼をよく観察すると、羽やとさかの色が冴えないし、睾丸も相当萎縮しているのである。つまり彼は、回虫などの寄生虫にひどくやられてしまったオスというわけなのだ。この、寄生虫にひどくやられたオスが、なぜ世捨人のように欲がなく、あるいは良寛さんのように子どもと遊ぶのが好きなのだろうか。これら一連の研究を行なったM・ズックらは、おおよそこんな説明を与えている。
それは寄生虫によって操作されているのである。たとえば回虫にとって、望ましい宿主のあり方とはどういうものだろう。それはとりあえずは元気で長生きをしてくれることである(もっとも、回虫は栄養の搾取というおのれの目的のために、宿主を生かさず、殺さずの状態に陥らせているのだが)。続いては他個体への感染の機会を頻繁にもたらしてくれる、ということだろう。その理想に少しでも近づけるため、回虫はセキショクヤケイの行動を操作するのである。
実はオス自身にしてみれば、時にはハレムのオスと闘うことも重要である。そうこうするうちに、ツキが回ってくることだってあるかもしれない。そうして晴れて自分の子を残すことになるのである。ところが回虫にとってはそんなことなどどうだっていい。それよりも彼が、戦いの過程でケガをしたり、死んだりすることの方がよほど問題だ。何しろ彼は、ただでさえ栄養不足で衰えているのである。そういうことがないよう回虫は、彼から戦意を喪失させるよう細工する。それが睾丸を萎縮させることなのだ。かくして男性ホルモンが抑えられ、攻撃性を失ったオスは世捨人のようなふるまいを始める……。
では、ヒヨコと遊ぶとはどういう意味なのだろう。ヒヨコと遊んでやることで仲間うちの評判を高め、メスたちには「家庭的な人ね」と好感を持たせ、あわよくば交尾を……などという魂胆だろうか。否、ズックらによればこれまた回虫の操作なのである。
ヒヨコとは、寄生者《パラサイト》に未感染の者という意味である。同時に、これからの長い人生が期待できる、若くて生きのいい個体という意味でもある。宿主をヒヨコと遊ばせておけば、感染の機会は苦もなく訪れるだろう。彼の落とした回虫の卵入りのフンが、エサと混じりあう。そのエサを食べたヒヨコが晴れて回虫持ちになる、という筋書きだ。
とはいえ、なぜこういうオスがヒヨコと遊びたくなってしまうか、という問題だが、よくわかっていない。しかし、たとえば男性ホルモンの分泌の抑制が、彼を多分に女性化≠ウせ、ヒヨコのように母性をくすぐる生き物にひどく惹かれるようになる、といったところだろうか。
では問題のATLウイルスが、もし仮にキャリアを操作しているとして、どう操作している可能性があるだろう。いや、その前に、ATLウイルスがキャリアを操作する可能性自体について検討してみよう。しかし、それはほとんど疑いようのないことのように思われる。何しろこのウイルスは、何十年にもわたって宿主にすみ続ける。キャリアのリンパ球のDNAの中に、自身のDNAを組み込ませるという何とも大胆な方法ですみ着いているのである。ただの間借り人とはとても思えないではないか。それに、もしキャリアを何らかの方法で自分に都合のよいよう操作するATLウイルスが現われたら、そうでないATLウイルスに比べ、明らかに自身のコピーを多く残していくだろう。もっとうまく操作するATLウイルスが現われたら、今度はそのウイルスがコピーを増やしていく。結局、ATLウイルスはキャリアをより巧妙に操作する方向へ進化する……。そういう意味でもこのウイルスがキャリアを操作している可能性は高まってくるだろう。ATLウイルスは回虫などとは違い、性行動や授乳を感染経路としている点がミソである。
ATLウイルスはまず第一に、キャリアの性欲を高め、性行動を非常にアクティヴなものにするだろう。キャリアが盛んに性行動を実行してくれたら、感染の機会が増し、こんな結構なことはない。さらにオスについては性欲を高めるだけでなく、何が何でもメスを独占したいという気持ちを失わせ、関係のあるメスが他のオスとも交尾することを許す、しかしその後には自分がまたしっかりと交尾するというように相互協力的で寛大に(もしくは単にだらしなくてスケベエなように)ふるまうよう操作するかもしれない。ATLウイルスにとって、それがやはり大変都合の良いことだからである。
授乳期のメスは乳が張って痛いくらいのときがある。そんなとき自分の子以外の子に乳を吸わせることは、よほどの血縁者なら別として、メス本来の遺伝的損得勘定からすれば明らかに損である。けれども、乳が張っているのにもし子が飲みたがらないのなら、誰でもいいから乳を吸ってもらいなさい、とこのウイルスはキャリアであるメスを促すのかもしれない。それが、やはりまたATLウイルスにとって都合がいいからである(もっとも、人間以外の霊長類では、自分の子以外に乳をやる行動は確認されてはいない)。
ATLウイルスは、キャリアがともかくこのように相互協力的に、個体と個体とが何やかやと関わり合いを持つように操作するだろう。
しかし、どうだろう。ATLウイルスに操作されることはちょっと考える限り、損と言えることはあっても、あまりいいことはないように思われる。オスにとってメスはやはりしっかり防衛した方がいいような気もするし、メスにとっては乳を他人に分けてやるなど論外だ。なぜ操作に対抗するような方策が打ち出されて来ないのだろう。
こういうことかもしれない。たとえば、たとえウイルスの操作であるにせよ、高度に相互協力的な社会が作り上げられているとする。するとその組織力は、捕食者をも撃退するだろう。まさにそのことにより集団も、集団のメンバーそれぞれも、利益を得ることになるのである。寄生者《パラサイト》と宿主との関係は、その関係が長く続けば続くほど、寄生する側、される側の格差が縮まってくる。最後には互いになくてはならないほどの関係にまで変貌するものらしいのである。
ATLウイルスが直接操作するのはキャリアだけかもしれないが、キャリアでなくとも同様の性質が備わってくるのではないだろうか。たとえばATLウイルスは、自身の感染の機会を広げるためにキャリアを相互協力的に、性的にはアクティヴにふるまわせる。そのとき、そういう行動を示す仲間に対し、非キャリアの個体がとるべき態度、自分自身も最大の利益を追求することのできる付き合い方はといえば、相手と同じようにふるまうことなのである。相互協力には相互協力でお返しをする、スケベエにはスケベエで対抗する……。
ATLキャリアになるかどうかは確率の問題だ。ある程度のキャリア率が保たれている霊長類の種や集団では各人に、相互協力的な、他者に非常に親切で、ときにはおせっかいとも言えるほど干渉する、そして性的にはアクティヴであり、メスを独占することに特に執着しない……という性質が、|キャリアであるなしに関係なく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》かなり広く獲得されてきているはずなのである。サバンナモンキーやアヌビスヒヒ、チンパンジーなど、いずれもATLを保有し、乱婚的な社会を作る霊長類を見ているとつくづくそう思うのである。
人間はどうだろう。人間についても議論の大筋は変わらないはずである。しかし注意しなければならないのは、人間の場合、ウイルスの感染経路が大部分において母乳にあること、母乳を家畜の乳で代用する民族がどちらかと言えば世界の主流だということである。ミルクを飲む習慣はたちまちのうちにATLを駆逐してしまう。そしていったん駆逐されたATLが再び集団に定着するということは、まずもって考えられないのである。人間の場合、ある集団がATLを持っていないからといって即、人々が相互協力性に欠ける、などという議論にはならないだろう。しかし、ATLを持っており、それがかなり高いキャリア率で保持されている集団でなら、人々が非常に相互協力的である、人に親切である、おせっかいである、他人と自分との間にあまり垣根を作らない(プライバシーが守られない、個人主義ではない)、物事に寛大である、男どうしの絆が固く、受けた恩には必ず報いる、性的にアクティヴだ、他人の子に乳を与えることを厭《いと》わない……などという議論を当てはめても、そう間違いではないのではあるまいか。
ニューギニアは所によってはキャリア率一〇パーセントを超す、世界でも有数のATL地域である。それは日本の九州、沖縄地方、そして西アフリカなどに次ぐほどのものだろう。かの地の人々としばらく生活を共にした本多勝一氏は、彼らについての印象をこう述べている。
「日本の農村を訪れた場合の一般的雰囲気と、ニューギニアの奥地でモニ族の家を訪ねた雰囲気とは、驚くほどよく共通している。だから私たちは、モニ族とはすぐ親しくなった。親しくはなったが、彼らはシンから親切かつ純朴なのではない。日本の農村の純朴さの裏に、ある種の|ずるさ《ヽヽヽ》がかくされているのと、この点でも通ずるところがある。」(『ニューギニア高地人』朝日文庫より)
純朴の裏にずるさがあるにせよ、ともかくこの共通した雰囲気を、単に文明化されていないことや田舎であることからのみ解釈すべきだろうかという気がする。
さらにニューギニアの人々は母乳を、大切な家畜であるブタに、それも子ブタの口を直接乳首に当てがって吸わせるという習慣を持っている。何とブタを大切にしていることだろうか、とかつては考えていた。しかし今は違った見え方がするのである。そして今回、ATLについていろいろ勉強したうえで本多氏の本を読み返した私は、ある言葉を発見して腰が抜けるほどに驚いた。
ニューギニア、モニ族の間では「アマカネ」という言葉が頻繁に飛び交っている。アマカネは便利な言葉で、「こんにちは」にも「おはよう」にも「さようなら」にも使える。「初めまして」、「ありがとう」、「どういたしまして」、「ごめんなさい」、それに「どうした? 大丈夫か」にもアマカネで通用する。あるとき本多氏に同行していた文化人類学者の石毛直道氏が、誤って山道を踏みはずし、崖を転げ落ちてしまった。するとあちらこちらから湧き起こったのは「アマカネ!」、「アマカネ!」の大合唱。
しかし私が驚いたのはアマカネではなく、「アマノエ」という言葉である。アマノエはアマカネと同様に挨拶の意味を持つが、古い言葉なのか、たまに用いられるだけで、使うのはもっぱら女の人である。
本多氏らが村に住み始めて間もなくのこと、あるおばあさんが親切にもイモやら野菜を煮た食事を持ってきてくれるようになった。本多氏らは大いに感謝し、お礼にとタバコの空缶を差し出した。土器さえ存在しない彼らの社会で、空缶は貴重な容器である。するとおばあさんの発した言葉が「アマノエ(ありがとう)」。アマノエを直訳すれば、「|あなたはこの乳房を吸え《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(傍点、筆者)ということになるのである。
「ありがとう」や「こんにちは」など、相互協力関係の確認の意味を持つはずの挨拶の言葉……その本来の意味が「乳房を吸え」……。ATLウイルスが言わせているのではなくて、何が言わしめているのだろうか!
いや、待て待て、早まってはいけない。女にとって相手に対して示しうる最大の感謝の表現が、「乳をあげる」、「乳房を吸え」ということかもしれないではないか。乳とはどんな食料にも代えられない栄養源である。その栄養を我が子をさし置いて他人に提供する。これほどの真心の示し方が他にあるだろうか。ニューギニアの人々の真っすぐな心がひしひしと伝わってくるようだ。
ATL高キャリア地域としてもう一つ、熱帯西アフリカの例を見てみよう。アフリカにはもう三〇年以上も前から日本の霊長類学、人類学の研究者たちが次々と出かけて行っている。そのうちの一人で、ボノボ(ピグミーチンパンジー)の研究者である古市剛史氏は、ザイールの人々の日常生活を活写した文章を書いている。研究地のワンバは、ほぼ赤道直下の村である。
『ビーリャの住む森で──アフリカ・人・ピグミーチンパンジー』(東京化学同人)によると、着く早々から古市氏は村人たちの底知れぬ好奇心の餌食となる。家にいるとニワトリや酒の手土産を持った村人がひっきりなしに訪れ、タバコや百円ライターと交換して帰っていく。子どもたちは森へ行って果物を集め、それをノートやボールペンに換える。さして病気でもない者までやって来て薬を分けてくれと言う。交換品もさることながら、要は古市氏の様子を見物したいらしいのだ。そうこうするうちに村人が、ぜひとも嫁さんを世話させて欲しいと言い出す始末。もう結婚しているから、と古市氏はウソをついて切り抜ける。だが二年後、村人を説得するためもあって本当に新婚の奥さんを連れてワンバを訪れると、村人の言うことには、「では、第二夫人を紹介しよう」。村長も自分の娘を第二夫人にと真剣に考え始め、驚いたことにまず第一夫人≠フもとへ伺いを立てにやって来るのである。
この人なつっこさ、おせっかい、好奇心旺盛ぶりが、未開≠セから、古市氏が珍しいから(氏は白人とみなされている)という理由だけからとは思えない。たとえばアフリカや中東の砂漠地帯に、中央アジアやシベリアの奥地に珍しい外国人が住み着いたとして、村人がこんなにもゾロゾロと登場してくるだろうか。古市氏によれば、ワンバの人々は必ずしも誰に対しても親切というわけではなく、協力関係にあるのは血縁者など、ごく身近な者に限られるという。そうでない相手には意外なほど冷たいそうである。しかしそれは、親切さにおいて世界でもトップレベルの日本人から見て、の話ではないだろうか。ワンバの村人の、いや熱帯アフリカ全体に通ずる、人々の人なつっこさ、他人との間に境界を引かず、プライバシーなどまるでないかのような雰囲気にはやはり独特のものがある。その雰囲気を作り上げている一因として、私はATLの存在に注目したいのである。
いよいよ日本人について見る。日本、特に九州、沖縄地方などの縄文系の土地は間違いなく世界一のATL地域である。それは古来、一貫して家畜の乳を飲む習慣がなかったことがその原因の一つだろうが、加えて人々が元来非常に相互協力的な性質を持っていたであろうことも、大いに関係しているのではないだろうか。
縄文人の祖先は、かつて温暖な気候の下で淘汰を受けた。その際、多少の乱婚性を身につけ(なぜなら寄生者《パラサイト》の脅威に対抗するには、まず一夫多妻が有効だが、一夫一妻にしろツバメのように、メスがちょくちょく浮気をして寄生者《パラサイト》に強い遺伝子を取り入れる必要がある)、乱婚ゆえの相互協力性を獲得したかもしれない。そして何より縄文人は、渡来人に先がけて日本列島に住み着き、それは一万年もの長きに及んだ。人と人とが長く付き合っていくという、そのこと自体がいっそう相互協力性を、あるいは人を裏切らないという性質を強めたかもしれない。そして相互協力性には、おそらくATLウイルスによる操作の効果が加わった……。縄文人のほぼ直系の子孫と考えられるアイヌの人々は、一九六〇年代に採取された血液サンプルでキャリア率四五パーセント以上という世界最高記録をマークしているが、時代を遡ればもっと高率だっただろう。同時に彼らは、今以上に相互協力的な、親切で寛容な社会を築いてきたはずなのである。
本多勝一氏は自身の体験から世界の諸民族の行動を検討し(もちろんそれは極めて主観的なものではあるのだが)、アラブ的価値観を一方の極とした遠近図なるものを作成している(『アラビア遊牧民』朝日文庫)。
誤って他人のお皿などを割ってしまったようなときに、すぐにあやまるかどうかを基準にしたその図によれば、アラブ・ベドウィン(決してあやまらない)の最も対極がアメリカ先住民プエブロ、次がイヌイット、そしてアイヌ、日本(ヤマト)、ニューギニア高地人(モニ族)と続くのである(アイヌがヤマトの前に位置することに注目)。ちなみにこの五民族からかなり距離を置いて続くのがカンボジア、フィリピン、インドネシア、タイ、ベトナム、中国で、また少し間をあけてスラブ、東欧、西欧、アメリカ合衆国が続く。アラブ側に近いのは、近い順にイラン、インド、パキスタンである。
すぐに自分の過失を認めるのは、裏返せば、「いいよ、いいよ。気にしないで」という相手の許しが保証され、甘えが許されているからこそだろう。もしそういう寛容な社会でないとしたら、そこでは謝罪の言葉は不用意に発すべきではないのである。そしてその寛容な社会のベスト・ファイヴが、いずれもATLウイルスの存在が確認された、あるいは予想される社会であることに、あなたはお気づきだろうか!
日本人の体の中には縄文系の遺伝子と渡来系の遺伝子とが入り混じり、文化もまたそれらの入れ子状態である。とはいうものの縄文系の人や土地、渡来系の人や土地というものは明らかに存在する。
私は名古屋から京都へ移り住んで、この土地の人々が極度にドライで個人主義的であることに驚かされた。人と人の間に強固な一線を画するのである。それは私が、関西訛りのない、明らかなヨソ者であるからいっそうのことだったのだろう。偉大なる田舎である名古屋の、ベタベタとした馴れ合い的人間関係を嫌ってやって来たはずなのに、「これじゃ、まるで外国だ」とかつてはひどく落ち込んでしまったものである。
たとえば京都では件《くだん》の、他人のお皿を誤って割ってしまったようなときに、すぐにはあやまらない方が安全である。相手がよほど親しい人なら別だが、知らない人、あるいはアパートの大家さん、たまに行く店のご主人という程度の付き合いの場合には(もちろん人にもよるが)用心するに越したことはない。むろん京都も日本のうちであるから、あやまるのが王道だが、少なくとも相手の許しを一〇〇パーセント期待し、すべて私が悪うございました、というあやまり方をするのだけはよした方がいい。自分で自分を弁護しながら、「おたくにも多少の手落ちはあるのと違いますか?」と含みを持たせてあやまるのである。そういう態度は潔くないので最初は非常に嫌な気分だったが、かと言って対策を講じていないとそのうちだんだんカモにされ始め、果ては私に何ら責任のないことまで責任にされてしまう。やはり「郷に入らば、郷に従え」で、京都人には京都人のやり方で対抗するしか道はないようなのである。日本の常識は世界の非常識だが、京都の常識は日本の非常識。つまりは京都の常識は世界の常識というわけで、そういう意味でも京都はインターナショナルな都市なのである。
私が「郷に入らば、郷に従え」で、次第に京都流に馴染んできているように、縄文人と渡来人が混血する過程でも似たようなことが起きていたはずである。但し、その場合の「郷」は縄文人の側にあり、パターンは逆なのだが。
日本列島における混血の基本的パターンは、土着の縄文人の集団に渡来人が少しずつ入り込んで来たというものである。この場合、「郷に入らば、郷に従え」であるから渡来系の人々も縄文的ふるまいを身につけ、同化されていったことだろう。それは遺伝、文化の両面においての出来事であったはずである。日本の大部分の地域がこのパターンに属していたのではないだろうか。
しかし、例外は京都とその周辺の地域である。これらの地域には四〜五世紀以降になって渡来人が集団で移住してきている。先住の集団に少しずつ入り込むのではなく、そっくりの移住。つまりその集団内には元の、大陸、朝鮮半島の論理がそのまま保存されるわけである。逆に、この集団に入り込もうとする他地域の人間は、やはり「郷に入らば、郷に従え」で大陸の論理に同化することを期待される。ちょうど現在の私のように。こうして日本列島には、京都を中心とする大陸論理の集団と、その他の縄文的、古い日本的論理の集団とが、対立する二方向に分化してきたのではないだろうか。後者の集団では、人はたとえ目の上の脂肪が厚く、一重瞼で胴が長いというまるきりの新モンゴロイド的特徴を備えていても、そしてATLをほとんど失っていたとしても、心は古い日本人であり、古モンゴロイドのままなのである。数のうえではそういう人が圧倒的だ。日本人がアジアの中でも、たとえば中国や朝鮮半島の人々と比べ少し異質な心を持つように感じられるのは、結局のところATLを介して獲得した古モンゴロイド的精神のゆえではあるまいか。
この本で検討した日本人についての様々な地域性のうち、たとえば信仰心の度合いや自衛隊員の本籍地別出身者数など、心や行動についての項目を見てみると、九州にとりわけ強い縄文的傾向が現われた。縄文人の遺伝子、特に身体的特徴の遺伝子ということなら東北なども十分に縄文的なはずなのに、である。私はこれぞ、かの地の人々がまだ十分にATLを保有していることの表れではないかと思う。同じくATL高キャリア地域である沖縄は、日本本土との過去のいきさつから、これらの項目については九州などとはむしろ対極に出てしまうことがしばしばである。しかし私は沖縄の人々の助け合いの心や親切な心、寛大で陽気な性格をよく知っている。そしてあの太平洋戦争の末期に、不幸にも唯一地上戦を行ない、多くの犠牲者を出しながらも大和魂を示したのは沖縄の人々ではなかったか。米軍が沖縄ではなく、まず大阪湾に上陸していたなら、どう違っていただろう。かの地の人々は抵抗することなどはなく、さっそく商売の話でももちかけていたかもしれないのに。
最近、ある雑誌(『諸君!!』一九九五年四月号、文藝春秋)を読んでいたら、太平洋戦争後のミクロネシア、パラオ諸島で伝説の英雄となってしまった元日本兵の話が載っていた(パラオに残る「日本伝説」)。
筆者の樋口和佳子氏(グアム大学講師)によると、この「モリカワさん」という人は日本軍の単なる島民指導係の将校(大尉)だったのだが、どこでどう間違ったのか島民には、日系のアメリカ人スパイと誤解されてしまった。終戦後、彼が島を去ると誤解は誤解を呼び、まるでスーパーマンのように神格化され、歌までできてしまった。歌詞にはこんな件《くだ》りが登場するのである。
ああ、なんと、あの日本軍が我々を殺そうとするなんて
ガスパンの防空壕で……
もし、あの方がいなければ
パラオの島民はみんな殺されていただろう
命の恩人、ローズベルトのスパイ、
モリカワさん(樋口氏訳)
日本軍と島民との関係は、あまり良好なものではなかったはずである。ここにも歌われるように、島民は虐殺の危険さえ感じ取っていただろう。ところがそういう状況においてさえ日本人を(もっとも日系のアメリカ人スパイ≠ニ無意識のうちに歪曲《わいきよく》しているようだが)、英雄として崇める思考が生まれてきたのだ。
さらに樋口氏によると、「義勇斬込隊」と名付けられた島の若者による戦闘部隊は、いよいよ米軍上陸となった場合には敵陣に斬り込む覚悟でいたという。終戦後、彼らと生活を共にした日本軍の少尉が島を去る際には涙、涙の見送り。一緒に連れて行ってくれとすがる者まで現われた。彼らは今でも、大和魂を授けてくれたこの少尉に感謝の念を忘れていないという。
どうしてこんなに心が通じあうのだろう。諸外国からは奇異の念を持たれる「大和魂」が、なぜいとも簡単に受け入れられてしまうのか。そして日本人のヒーローが生まれる背景には何があるのか……。私はどうしてもATLの存在を考えたくなってしまうのである。パラオでATLについての調査が行なわれたところ、率は低いものの確かにキャリアが存在したのである(三四人中一人)。
私が今、少し複雑な思いでいるのは、ATLウイルスの今後である。このウイルスはもう間もなくして人間界から消え去ろうとしている。むろんそのこと自体に何ら異論のあるはずもない。ATLの撲滅は一刻も早く達成されなければならない。そして発病の抑制や治療法の開発が急務の課題であることも、もちろん言うまでもない。しかし一方で気になるのは、ATLは人間との、いや霊長類との長い共進化の過程を通じ、共生関係を成立させた。そのことで、おそらく何らかの利益を我々にもたらしてくれているだろうということだ。
ATLウイルスを持つことで、何らかの病気に対する抵抗力が高まるのかもしれない。ATLの存在にも拘らず沖縄地方の人々の平均寿命が長いのは、それこそATLのおかげだろうか? ATLウイルスはキャリアの性欲を高め、中年になっても恋の炎が一向に衰えないように操作するかもしれない。しかしともあれ、この本の議論からすれば、ATLは何より我々に相互協力的で親切、他人を思いやる(しかしおせっかいな)、美しくも懐かしい日本のこころをもたらしてくれたのである。
ATLが消え失せたとしても、しばらくは「こころ」は保存され続けていくだろう。しかしATLからのフィードバックがないということは、いずれ「こころ」も失われていくであろうことを意味する。そのとき日本は、日本人は……。
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謝 辞
本書を執筆するにあたり、多くの方々の研究成果、著書などを参考にさせていただきました。本文中に紹介しきれなかった方々の分も含め厚くお礼申し上げます。
文藝春秋出版局の飯沼康司氏には、一言の催促の言葉も発せず原稿の完成を待ち続けて下さった我慢強さ、適切なアドヴァイス、著者に対する濃やかな気遣いなど感謝のしようもありません。
内容についていくつかご指摘下さった日高敏隆氏、「週刊文春」編集長の平尾隆弘氏、「諸君!!」編集部の飯窪成幸氏、いつもながら素敵な装幀の南伸坊氏、そしてその他お世話になった方々にもこの場を借りてお礼申し上げます。
一九九五年九月十日
[#地付き]竹内久美子
単行本 一九九五年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十一年六月十日刊