[#表紙(表紙.png)]
パリのマリア
―― ヨーロッパは奇跡を愛する ――
竹下節子
目 次
パリのマリア ヨーロッパは奇跡をどう扱ってきたか
――カトリーヌ・ラブレーの物語
1 腐らぬ体
2 マリアの御出現
3 奇跡のメダル
闇の中のロゴス 村娘はいかにして聖女になったか
――マルト・ロバンの物語
1 アルプスのマルト
2 断食論
3 聖痕論
4 ふたたびマルト・ロバン
天翔る聖女 戦う修道女はいかにして愛する男のもとへ飛んでゆく力を得たか
――イヴォンヌ=エメの物語
1 修道女イヴォンヌ=エメ
2 聖者と超常現象
3 飛ぶ文化と飛ばない文化
4 超常現象と飛ぶ聖女
あとがき
[#改ページ]
パリのマリア
ヨーロッパは奇跡をどう扱ってきたか
カトリーヌ・ラブレーの物語
[#改ページ]
1 腐らぬ体
ステージの上の「貴重な体」[#「ステージの上の「貴重な体」」はゴシック体]
セーヌ左岸の庶民的なデパート「ボン・マルシェ」の前はいつも沢山の買い物客で賑わっているが、その中にグレイの修道服を着た女性達が連れ立って歩いているのが時々目につく。デパート本店と食料品部の間に通っている道をセーヌ河の方向に向かって少し歩くとすぐ左手に、十七世紀に聖ヴァンサン・ド・ポールがブルジョワの未亡人ルイーズ・ド・マリヤックと共に創設した愛徳姉妹会の扉がある。中に入って構内を少し行くと右手に、一八三〇年に二十四歳の見習修道女カトリーヌ・ラブレーの前に聖処女マリアが三度にわたって姿を現したことで有名なチャペルが建っている。通りからチャペルまでの僅かな間に、右にトイレと、一八三二年の発売以来八年後にはなんと一千万個を売り尽くしたという「不思議のメダイ」と呼ばれるメダルの販売所(自動販売機もある)が並び、左にはマリアの御出現からメダルの霊験(ボン・マルシェの火事の際チャペルが奇跡的に類焼を免れたことなど)までを説明した壁画と、絵葉書やパンフレット類のセルフサービスの販売所があって、世界中からやってきた巡礼者がそぞろ歩いている。チャペルの中ではラオスから来た巡礼グループがラオス語でミサを挙げていたり修道会の定例ミサがあったりするが、大抵はさして広くもないチャペルにいっぱいの人々が各々の祈りや瞑想に耽っていて、静かなどことなく家庭的で平和な雰囲気が漂っている。内装も荘厳というよりは修道女会にふさわしく薄青と金色を基調にした優美で華麗なものだ。正面奥のアーチの後ろがドーム状に出っ張った祭壇になっていて、金ピカの大きな冠と金色の十二の輝く星を頭上に戴いた白いマリア像が腕を下の方に広げ、こちらに向けた手のひらからは光線を模したまばゆい宝石の帯が幾条も流れ落ちている。アーチ部分には、一八三〇年の第一回目の御出現の模様、すなわち椅子に腰掛けたマリアと脇に跪いてマリアに寄り添っている若きカトリーヌ・ラブレーと二人を取り巻く天使達を描いたフレスコ壁画があり、中央奥の祭壇のマリアをはさむように向かって右に、十字架の付いた金の地球を胸のところで両手に抱いたもう一人のマリア、左側に幼いイエスを抱いた聖ヨセフが、各々、美しいカーブのモザイク模様をバックにレリーフのように浮かんでいる。地球のマリアの下方には金色で前がガラス張りになっている棺が置いてあり聖カトリーヌ・ラブレーの「貴重な体」というのが見えるようになっている。ここまでが一段上がった一種のステージみたいになっているのだが、さらにその両脇には、右手に、貧しい子供達を連れたこの修道会の創設者、聖ヴァンサン・ド・ポールの像と彼の心臓が収まっている金細工の聖遺物入れがあり、左手には、華麗なモザイク画の下にこれも金色で豪華な棺型の聖遺物箱があって、もう一人の創設者聖ルイーズ・ド・マリヤックの姿が見えている。装飾のない部分の壁は殆ど、マリアやカトリーヌ・ラブレーやヴァンサン・ド・ポールに祈って治癒を得た人々が奉納した感謝の文句を彫った大理石板で埋まっている。今でも末期癌の人が治癒祈祷を頼んで全快したなんていうケースが頻繁にあり、ここに来て祈っていく人の多くは家族や本人の健康上の深刻な悩みをかかえていると言っていい。だからこのチャペルの雰囲気も敬虔かつ深刻であってもいいはずだし、まして心臓だの遺体だのが陳列されているのだから、もっとおどろおどろしいかと思うが、実は何故かやけに明るくて華やかなのには面食らってしまう。いわゆる大聖堂などの聖遺物コーナーは牢獄風に格子の奥に隠れていたり、聖遺物が肉眼で見えないほど小さいか、割と大きい干からびた骨が並んでいる時も、どっちにしても埃にまみれているのと薄暗さとで由来書きも遺物自体も判別できないという場合が殆どなのだからなお、このチャペルの明朗明快公明正大風の演出が楽しく感じられる。
もっともガラス張りの棺型聖遺物箱を安置している所というのは大抵演出が派手なケースが多くて、日本の東北地方の即身仏なんかを拝む感覚でいるとたまげてしまうことになる。ボン・マルシェの先を五分ほど歩くと、こちらも聖ヴァンサン・ド・ポールの創設で、奇跡のメダル・チャペルからすぐ近くにもかかわらずいつもがらんとして人気のないラザリスト会(布教修道会)礼拝堂がある。かなり広い内部はどちらかと言うとあっさりした内装だが、中央祭壇の遙か上に、スポットライトをあびたような眩さで豪華絢爛なガラス張りの金の棺が据えてある。この中でかなりリアルな死相を見せて横たわっているのが、奇跡のメダル・チャペルの聖遺物入れに収まっていた心臓の持ち主である聖ヴァンサン・ド・ポールである。人も少ないことだしもっと近くでじっくり覗いてみたくなるのが人情だが、そこはよくしたもので棺が置いてある所は一種のバルコニーになっていて、祭壇の両脇に付いている狭い階段を昇って棺の前に出られるようにしてある。ぴかぴかに磨かれたガラス越しにしげしげと睫や髭の生え具合まで拝観しても、棺の前に付いている賽銭箱(下からは見えない)に小銭を入れておけば、そう罰当たりな感じも持たなくてすむようになっている。一六六〇年に死んだ聖ヴァンサン・ド・ポールの遺骸は、一七一二年に棺を開けられた時、鼻と両眼が腐っていた他は、上下九本ずつ数えられた歯や僧衣を含めて完璧に残っていたという。遺骸は一八三〇年にノートルダムからラザリストに移され、その折りの華々しい路上行列とセレモニーにはシャルル十世も出席した。その僅か三日前に見習修道女として愛徳姉妹会の付属神学校にやってきたばかりだった二十四歳のカトリーヌ・ラブレーも創設者のきらびやかな遺体を見ることが出来て、感動のあまりその日のうちにバック通りのチャペルで彼の心臓が三色に変化したという幻視を体験することになる。それが三ヶ月後のマリア御出現の引き金となったのだ。当時のチャペルにあったのは死亡時に摘出された心臓ではなくて、おそらく同時に摘出されていた腸の一部と思われる小片だったが、それでも姉妹会創設者の聖遺物としてガラス張りの小さな金属ケースに入れられてチャペルのメインになっていた。カトリーヌ・ラブレーがその前で祈っていた時、聖遺物入れの上方に心臓が現われたというわけだ。本物の心臓は聖ヴァンサン・ド・ポールの死亡時に摘出された後、イタリアなどを経て一八〇五年にリヨンに戻っていた。バック通りのチャペルに収まったのは、後年カトリーヌ・ラブレーの幻視を記念してのことである。
医師による遺体の確認[#「医師による遺体の確認」はゴシック体]
聖ヴァンサン・ド・ポールの体は心臓と腸を摘出されただけで他の防腐処置は施されていなかった。(第一、防腐処置の記録があれば、体が腐敗を免れたときに奇跡と認定される資格がなくなることになっている。)死後五十年たったとき胃の開腹部から覗くと、まだ鮮紅色を保っている肝臓が見えたという。これは法王庁による聖人候補の審査にともなう手続きとして行なわれた遺体の確認の際のことで、聖職者だけでなく複数の医師(外科医を含む)が立ち会い、遺体の残存状況について詳細な報告書が作成され、かなり信頼性のあるものである。しかも、聖人認定されるためにはその前提として、より下位の福者として認定されていなければならず(公式礼拝が認められる)、その審査の時にも聖遺物確認として棺を開くのだから、聖人と呼ばれる人は少なくとも二度は遺体を外気に晒されているわけで、その度に保存状態が悪くなっていくことは当然ある。聖ヴァンサン・ド・ポールにしても最初の遺体確認の後、鉛の棺に入れ直したにもかかわらず、さらに二十五年後の再審査の折りには体の大部分が芳香を発する埃状になっていたという。それなら一八三〇年にカトリーヌ・ラブレーが見、現在一般公開されている豪華な棺の中の遺体は大幅に修復されたものだということになるが、そういうことは誰も気にしていないらしい。カトリーヌ・ラブレーの前にマリアが現われた後で、奇跡のメダルを首にかけた十四歳の少女ベルナデットが、後に霊泉として有名になった南仏ルールドの洞窟で何度もマリアを見たことはあまりにも有名だが、彼女の遺体も聖別に至る三度の遺体発掘の度に、法王庁から奇跡認定を受けるに足る良好な残存状態を示した。ベルナデットの「腐らぬ体」はやはり麗々しく公開されて信仰の対象になっているが、あまりにも美しいその姿が、度重なる検査のせいで黒ずんできたのをカバーするための蝋製のマスクと手の複製(つまり修道服の外に出ている部分の全て)を被せられていることは誰も問題にしていないようだ。バック通りのチャペルの聖ルイーズ・ド・マリヤックの聖遺物箱にいたっては、彼女の体が腐らなかったという記録はないのだから、ガラス張りの棺状の部分に横たわっているのは彼女の死姿を模した蝋人形であり、その下の部分に骨を主体とした聖遺物が収まっているのだろうが、私の知っている限りでもその姿を遺体だと信じて有り難がっている人々がいるのは確かだ。「腐らぬ体」としてメインになっているのは勿論カトリーヌ・ラブレーの棺の方だが(プレゼンテーションは聖ルイーズのものと殆ど同じ)、死後五十六年を経た遺体確認の際には死後硬直もなく完璧な残存状態だったという聖女は、修道女の角頭巾に隠れて顔が余りよく見えないし、胸のところで合わされた両手も屍蝋化しているのでないとしたら蝋のカバーめいて見える。
中世の遺体信仰[#「中世の遺体信仰」はゴシック体]
大体において、遺体或いは遺体と信じられているようなものを麗々しく飾ったり、かといってそれが実は蝋細工であっても別に問題にしないというメンタリティはどういう歴史的文化的背景を持っているのだろうか。教会が礼拝を公式に認めるカトリックの聖者認定システムが今のように複雑になったのは中世以降のことであるが、どちらにしても「腐らぬ体」が聖性の条件になるということはない。現に聖フランシス、聖ドミニコ、聖ベルナルドのような有名な聖者もノーマルな自然の法則に従ったし、イグナチウス・ロヨラのように防腐処置までしたのに腐敗を免れなかったというケースもあれば、スウェーデンの聖ブリジッドのように一三七三年七月二三日に死亡して九月一日には既に骨しか残っていなかったなんて例もある。もっとも聖ブリジッドのケースでは骨の中に心臓だけが色も形も生き生きしたまま残っていたということで信仰の対象になり、他にも聖エチエンヌの「腐らぬ手」とか、聖エディット・ド・ウィルトンの「腐らぬ親指」とか、聖アントニウスの「腐らぬ舌」とか体の一部だけが残っても別にグロテスクといった拒否反応はなかったらしく、麗々しく凝った意匠の聖遺物ケースに収められることになる。聖者の体が腐らないというのは四世紀頃から通念としては存在し、ロシア正教会などでは殆ど列聖の条件になっていることは「カラマーゾフの兄弟」のおかげで我々も知っている。この作品の中では、聖者の噂の高かった或る苦行僧が、死後延々と続く葬儀の間に腐臭を発し始めたせいで、偽善者だという烙印を押されるのだ。キーエフのローラは有名な墓所であり、七十三人の聖者の棺が開かれて置いてある。パレルモのカプチン会の地下墓所と同じ状況だと聞くが、パレルモを見るかぎりでは、キーエフの方も新品同様なのは衣服だけで、体の方はそれなりに干からびているのではないかと想像してしまう。
カトリックでも聖者候補とかそれらしい重要人物が死ぬと、どこかに「腐らぬ体」や「芳香を発する遺体」などを期待する気持ちがあるのか、埋葬までの間やたらと長く遺体の公開が行なわれている。マドリードで一六二四年に死んだ福者マリア・アンナのように、内臓摘出も受けていなかったのに、七年後の発掘の際、死後硬直もないばかりか天上的な香りを漂わせ、医師団による精密な解剖報告でも、内臓に至るまで弾力を失っていないと書かれているケースも実際にある。検査に当たった医師達の手にまで「超自然」の芳香が移り、残り香を惜しんだ外科医達はその後数日にわたって手を洗おうとしなかったとすら報告されていて、こういう例外的な場合には遺体残存そのものが法王庁によってめでたく奇跡の認定を受けている。(マリア・アンナの体は三十五年後の三度目の発掘においてついに硬直と乾燥を見せたが、それは福者認定そのものには何の影響も及ぼさなかった。)
ジェノバの聖カタリナのように「腐らぬ体」自体が民衆の崇拝の原因となりそれが列福列聖の引き金となったケースもあるし、少なくとも民衆レベルでは「腐らぬ体」が聖性と結び付けられていたのは間違いないだろう。この背景には中世以来の受難文学の変遷がある。初期キリスト教迫害時代の殉教者というのは多くの場合、体を大幅に損傷されて殺された。ひどいときは文字どおり八つ裂きにされるとか、生きたまま全身の皮を剥がれるなど、肉体が原形を留めないというのも珍しくなかった。しかし、ばらばらに解体した体が昇天=再統合するというのは古代世界における病の治癒のイメージに適っていた。それゆえ聖者として崇められた殉教者たちの体の一部である聖遺物が奇跡的治癒を惹きおこし、礼拝の対象となっていったのだ。教義的には、体がばらばらでも魂は無傷という対照の妙で、強い信仰心のモデルとして表現されていた。ところが少しずつ、肉体自体が受難=解体に対抗するというモデルが出来てきた。例えばスペインの聖女ユラリー(〜三〇四)の聖女伝のように、焼き殺されたあと三日間外に晒されていたが、きらきら光る雪で火傷の跡は隠れ、体も美しいまま変化しなかった、などという記述が現われ始める。つまり魂の優越性が肉体までも無傷に保つというパターンが生まれてきたことがうかがえるだろう。
事実、後日聖者認定を受けたような人々の間で遺体の反自然的残存の確率が高いことは統計的にも確認されている。(ハーバート・サーストンによれば一四〇〇年から一九〇〇年にかけて生きた四十二人の聖者中、二十二人が完全残存、七人が一部残存か芳香などの特異現象を示し、十三人だけがノーマルな死者の運命を辿ったことになっている。また、埋葬に至るまでの長い遺体公開中に、腐敗臭を発したがために埋葬を早めたという例は百件中僅か二〜三件ということだ。)この理由は定かではなく、修道僧の断食に近い食生活のせいだとか、後日の聖遺物認定を期待してなされる内臓摘出の結果だと言う人もあるが、大飢饉の時期に飢えて死んだ「普通の人々」が特に腐敗を免れていないことや、内臓摘出や防腐処置後の埋葬が通例だった王家や貴族の遺体が殆ど全部骨と化していることから考えても説得力がない。
神、王、蝋人形[#「神、王、蝋人形」はゴシック体]
フランスにおける王の埋葬というのは、聖者の埋葬にまつわる人々のイメージを映していて実に興味深いものだ。前述したように、カトリック教会そのものは別に「腐らぬ体」を聖性の条件にしているわけではない。民衆レベルでかなり広く信じられていたような、最後の審判の時に体ごと復活できるようになるべく完全な形で埋葬するなんてことは神学的な根拠を持っていない。ドグマ上は肉体の復活にはいかなるヒューマンな準備も必要とされないのであり、聖アウグスチヌス以来、ドグマの体現者としての「教会」は、一貫して遺体の扱い方に関して宗教的無干渉という立場を取ってきた。すなわち新しい宣教地における葬送儀礼の変更を強制しなかったということであり、それこそがキリスト教が世界宗教として発展するにあたっての大事な要因の一つとなったものなのだ。
王権というものが古来から不死性を強調するのに対して、ローマ法王は「死んだ」し、死ねば埃に帰るのだという無常観も伝統的にあった。そういうイメージは十三世紀以降フランシスコ会などの托鉢修道会の僧達によって一般に広まってもいたから、ヨーロッパにおける死に対する感覚はかなり錯綜していたと言える。遺体発掘や遺体分断なども、前述した民間の土着の宗教感情とは別の歴史的コンテキストも持っている。初期キリスト教殉教者の聖遺物はもともと、墓布とか墓石を掻いた粉、墓を洗った水や葡萄酒、墓の前の灯明油などといった巡礼記念風のものが主体であったのだが、九〜十世紀頃のノルマン人などの侵略をはじめとする蛮族侵攻に備えて聖者の墓を暴き骨や遺体を避難させるということが多くなったと思われる。白日のもとに現われた聖遺物は人々の感銘をさそったらしく病人の奇跡的治癒があったりして、遺体を含めた聖遺物の崇拝や行列の習慣が確立した部分もある。
一方、貴族や王や高位聖職者の体をばらばらにして埋葬する習慣ができたのには十二世紀以来の十字軍の背景が考えられる。すなわち十字軍の途上で死亡したり戦地で殺されたりした時に、故国へ遺体を運び帰りやすいように心臓と腸を別にする方法が取られた。残りの体は、防腐処置をしたうえで持って帰るか、煮て肉と分けた骨だけが持ち帰られた。こうして十三世紀頃には心臓、腸、残りの体、と三ヶ所に分けて埋葬することが流行ったりして、見かねた教皇ボニファティウス八世が一二九九年についに禁止令を出している。その時代は「祈りの効果」という信仰が生まれていた。つまり、遺体を家族廟に安置して子孫が直接|祠《まつ》るという形態から、遺体の一部をあちこちに委託し、それを通して祈りの専門家集団(ドミニコ会、フランシスコ会など)に代祷してもらう方が霊験あらたかである、子孫繁栄などに効果があると考える風潮があったのだ。
こうして死がだんだんと即物的な様相を見せ始める。こういうベースの上に、いわゆる医学解剖などというのも十四世紀前半からイタリアで行なわれるようになる。フランスでは一三七六年が最初と言われていて、十五世紀末からはなんとカーニヴァルの時期に見せ物風に公開されたという記録がある。これはむしろ、前述した托鉢修道会風の無常観、人は死ねば皆同じ、という神の前での人間の基本的平等イメージを前提にしているといえるかもしれない。つまりローマカトリック的ヨーロッパにおける遺体や遺体の一部に対するやけに即物的な感覚の中には、シニックな無常観とともに、聖遺物の霊験を熱烈に信仰することなどにうかがわれる一種のフェティシズムが共存していて、アンビヴァレンスをなしているのである。
王の体にまつわる儀礼や民衆感情もこのアンビヴァレンスの上に成り立っている。フランス王がその死去の際、次の王の戴冠儀礼が整うまでの、時には数ヶ月にわたる準備期間を通じて、まるで生きているかのように寝室に安置され食事を初めとする日常儀礼が続けられていたことは歴史家に良く知られている。王の死は埋葬の瞬間に初めて宣告され間をおかずに新王万歳が叫ばれる。単純に言えば王権は不滅なので王の肉体の死によって王の聖性が宙に浮いてはならないという理屈が考えられる。しかしローマ教会との関係で考えれば、どの王も戴冠式の時に行なわれる聖油の注油秘跡によって新たに聖性を注がれるのだから、新王の神聖さというのは前王との肉体的断絶によっては損なわれない筈だ。
王の注油というのは旧約聖書の詩編[四五―八]の「喜びの油」あたりに起源があって、サムエル記上にもサウルやダビデの注油の話があり、注油は神の選びの外面的証しであり選ばれた王は堰を切った奔流さながらに神の霊を授与されるのだとある。メシアという言葉の語源も「注油された者」なのだから、フランス王が自らを神の子になぞらえる意識を持つようになったことも不思議ではない。ルイ十三世などは、自分は金曜日はいつも幸福だから金曜日に死ぬものだと思い込んでいた。(もちろんキリストの受難日を意識しているのである。彼は結局金曜日には死ねず、一六四三年五月一四日、木曜ではあったがキリスト昇天祭に他界した。)
ではフランス王が王の機能としての肉体の死を認めずに手の込んだ王権移行儀礼を続けてきたのは、ローマ教会とは別のアルカイックな伝統の名残なのだろうか。私はむしろ、その逆で、王権神授の建前やメシア志向にかかわらず、王達が民衆レベルで解釈されたキリスト教に一信者として支配されていたことを示しているのではないかと思っている。つまり彼らの葬送儀礼の中にこそ、ドグマとは別の民間信仰としてのキリスト教の姿がそのアンビヴァレンスを含めて表現されていると思う。
死姿を模した蝋人形というのもフランス王の埋葬儀礼において一四二二年(シャルル六世)から一六一〇年(アンリ四世)まで使われている。これはひとつには、旧王と新王との間のつなぎという実用的な用途に供された。すなわち王権不滅の建前上、王の死去から新王の樹立までの長い期間埋葬が出来ず王が存命しているかのように事が運ばれるわけだが、聖者ならぬ王の体は腐ってくるのだから公開用と葬儀の行列用に蝋人形が使われたのだ。そして実際人形は一種の「聖体」として扱われたので、人形の埋葬をもって聖体拝領が完了し、新王が誕生したと見なされていたようだ。しかし別の見方をすればこの人形システムも、最後の審判に備えて肉体を保存しておかなくてはいけないという民間に流布していた強迫観念の反映であるとの解釈も出来る。王の墓所でも一般人の墓でも墓石の上に着衣の寝姿と裸の屍の姿とが並べてリアルに彫ってあることがよくあるが、埋葬用蝋人形もそれと同じような意味を持っていたのではないかと思われる。墓の上の二つの姿の彫刻はこの世の姿と復活後の姿という体の二面性を表していたのだが、要するに復活を待つという、死後の世界を期待する民衆の宗教感情の上に成り立っていた。単純に言えば、いくら遺体をそのまま(或いは防腐処置を施したうえで)埋葬したからといって「腐らぬ体」の恩寵を受けるとは実は誰も期待していなかったので、最後の審判で体を復活させてもらう際に念のため生前の姿のモデルを残しておいたのに他ならない。
不浄の両義性[#「不浄の両義性」はゴシック体]
フランス革命の後一七九三年十月には、王の聖性の否定と棺に使われていた鉛の回収を兼ねて、サン・ドニ大聖堂にある代々の王家の墓所暴きが執行された。このときのかなり詳細な記録を見るかぎりでは、脳の替わりにリキュールの詰めものをしたり水銀散布とか塩漬とか、ありとあらゆる防腐処置にもかかわらず、殆どの遺体が黒化するか液状に腐敗していた。十月十四日の記録では、大量の遺体発掘のせいで黒い濃密な蒸気が発生し強烈な腐敗臭のために作業に当たっていた者たちが一過性の発熱や下痢の症状を呈したとある程だ。王の聖性の冒涜という散文的なコンテキストにかかわらず、多少なりとも保存状態の良かった遺体は、それでも根強い「腐らぬ体」信仰の格好の対象となった。ボシュエによってプロテスタントからカトリックに改宗した三十年戦争の英雄チュレンヌ(一六一一〜七五)の遺体が明るい錆び色で乾燥しているとはいえ殆ど完全な姿で発掘された時などは、八ヶ月の間、教会で拝観料付きで公開されたし、防腐剤の強い香りを放っていたアンリ四世(〜一六一〇)は三日間無料公開され、感動したある兵士が頬髭を切り取って聖遺物のように持ち帰り、フランスの敵を討ち取ると誓ったというエピソードが伝わっている。
つまりこの時代には既に、王権とかカトリシズムを超えた遺体信仰(アンビヴァレンスの感情を含む即物的なこだわり)みたいなものが確立していたと考えられる。だからこそ、無神論的で近代的であったはずのフランス革命の最中、革命の立役者の一人であったマラーが暗殺されたとき、人々は傷を強調する形で遺体を見せて行列したり、埋葬用蝋人形を教会で公開したり、心臓を摘出してケースに収めたりと、国王の葬礼やひいては殉教者礼拝のパロディを繰り広げたのである。反対に、革命以前の、国王の全盛時代にだって既に遺体に対するシニックで即物的な態度の方も存在していたのは前に述べたとおりである。王の体にさえこの妙に醒めた視線が注がれていた。防腐処置のためもあるとは言え、王の遺体を内臓摘出も含めて徹底的に解剖するということは十六世紀以来システマティックになっていた。(医学解剖のベースのない単純な心臓摘出はもっと古くからあった。)
解剖は医師達の手によってやけに無雑作に事務的に行なわれていたようである。ルイ十三世の近習などは、主君が解剖されている部屋に入って偶然見てしまった模様を書き残しているが、摘出された内臓に寄生虫がウヨウヨしていて腎臓の中からもまだ生きているのが出てきたなどという恐ろしいことを、わりに淡々と描写している。
「腐らぬ体」信仰自体も当然、短絡的に聖性に結び付けられたわけでなく、中世後期以降の人々の意外に醒めた目にとってはむしろ先ず不信の念を起こさせるものであった。「腐らぬ体」は不死に通じ、聖者どころかいわゆるヴァンパイア伝説もここに根ざしている。墓を発掘して生き生きした体を見いだした時は、普通の場合はヴァンパイアの可能性をまず疑われたので、改めて焼かれて聖水をふりかけておいたりされた。十八世紀のベルサイユの宮廷では一種のヴァンパイアブームも起きたらしく、ルイ十五世がイエズス会の宣教師達に調査を命じたという記録も残っている。一七三二年にはウィーンで七人のヴァンパイアが公式に断罪されている。しかしローマ教会が厳格で、魔術や異端っぽいものをいつもヒステリックに排除していたかのような通念は間違っているので、むしろ、イエスの血のシンボルから始まって余儀なくされた不浄の両義性を生きるために常にレトリックを駆使してきたと言える。もともとキリスト教は、拷問を受けた末、十字架上にさらされて血を流して死んだ男という凄絶なマイナスイメージをかかえていた。それを隠さずに「聖」のシンボルにしたてあげたために、アルカイックな社会に本来あった「血」や「死」の不浄観とのバランスをとるためにアクロバチックなテクニックがたえず必要とされたのだ。「腐らぬ体」に対しても、それが恩寵の現われなのかヴァンパイアの徴しなのかはひとえに教会への寄与度によってのみ判定された。実際的には病の即時治癒があるかどうかというのがバロメータとされた。超常現象を伴う聖者候補の聖別基準は、生前の教会への服従度と死後の奇跡認定(つまり病治癒祈願にあたってその聖者候補に神への仲介を祈って叶えられたケースがあるという認定)が主に問題とされるのであって、超常現象そのものでは聖性判断はなされない。例えば聖金曜日毎に血を噴き出すというだけではヒステリーとも聖痕とも認定しないので、逆に言えば超常現象が病気(特異体質とかヒステリー)からきているとわかっても、教会への服従や治癒の霊験さえ実証されれば問題はないと解釈されている。(奇跡的治癒の定義も、「その時点での医学によっては説明できない」と証明さえすればいいシステムになっているのでかなり明快である。なお、殉教者と認定されたときは死後の治癒霊験は聖別の必要条件ではない。殉教者にいたる英雄的勇気そのものが神の恩寵と見なされるからである。)
民衆レベルでは、教会への服従という基準は消えて、ひたすら霊験が問題となる。さらに言えば、「腐らぬ体」の真偽は最優先の関心事ではなくて、それが蝋人形であろうと干からびた骨の小片であろうと、治癒に効験があると期待できるときにのみ有り難いので、肉体そのものについてはその儚さに対してどこか醒めた侮蔑感があったと思われるのだ。
バック通りのチャペルで麗々しく礼拝されている遺体の真偽のほどに人々が意外に無関心であることの背景にはこのような両義的肉体観の錯綜した歴史がある。
2 マリアの御出現
ではこのバック通りの女子修道会のこぢんまりしたチャペルに、何故どうやってマリアが御出現するに至ったかに目を向けてみることにしよう。
九歳で母を失った農家の娘カトリーヌ・ラブレーが見習修道女として初めてバック通りにやってきた日の三日後に、聖ヴァンサン・ド・ポールの聖遺骸棺の路上行列を観て感銘を受けたことは前に述べた。彼女はその日から三日間にわたってチャペルの聖遺物箱の上方に聖ヴァンサンの心臓を見ることになる。平和と純真を表す肉の白、愛と慈悲を表す火の赤、試練を表す暗い赤と毎日色を変えてかなりシンボリックな形でメッセージが伝えられた。それは一八三〇年の四月末のことで五月一日の告解の折りにカトリーヌは既に告解僧にこの話をしているが、「(悪魔の)誘惑に耳を傾けてはいけない、愛徳姉妹会のメンバーは貧しい人々への奉仕が仕事なので夢を見ている暇はない」と一蹴された。
修道女がヴィジョンを語るというのはもともと珍しいことではなかった。十七世紀のカトリック改革の時代、愛徳姉妹会を初めとする多くの修道女会が創設され、一人一人の修道女について死後必ず伝記が書かれるという風潮があったが(殆どは内部供覧用であって手書きのまま残されている。十七世紀フランスのものだけで約八千名分の記述を今日読むことが出来る)、その中には、夢のお告げから、動くマリアの彫像、イエスの聖心、その他ありとあらゆるヴィジョンが報告されている。「見たように思う」、「聴いたように思う」と描写されるいわゆるテレパシー風の内的ヴィジョンと、実際に肉体的な五官で感知したとされる外的ヴィジョンとに分けられるが、後者のことを一般に御出現と呼んでいるのである。
超常現象とカトリシズム[#「超常現象とカトリシズム」はゴシック体]
女子修道会というのは本来は修道院の中だけで手仕事や礼拝、瞑想にのみ耽るものを指していた(カルメル会、クラリス会、ベネディクト会など)。十七世紀初頭に初めてフランソワ・ド・サルが貧者や病人の訪問を企画した社会事業的意味を持つ聖母訪問会を創設したが、修道女閉じ込めというローマ教会の方針と反するせいで、創立後九年目には従来通りの瞑想型修道会に変身せざるをえなかった。その十四年後にヴァンサン・ド・ポールが貧者を救う活動を開始して愛徳姉妹会を組織するのだが、社会活動のために敢て従来のタイトルを捨てた。つまり修道女らは公式には「尼僧」という資格がなく、世俗の組織だったわけである。事実上はこれをかわきりに瞑想型ではない宣教型の修道女会が増えていくことになる。閉鎖型修道院はしばしば、結婚を望めない体の弱い女達の永久就職先の機能も担っていた。それゆえ修道女の伝記群というのは医学症例史として使えるくらい病状の羅列が多く、幻覚、ヒステリー、催眠状態、自己暗示、各種心身症も珍しくなかったと思われる。ヴィジョンをはじめとする超常現象が告解僧のようなヒエラルキー上位者からどう扱われていたかと言うと、腐らぬ体の場合と同様で、現象自体の真偽は必ずしも問題にならなかった。もっともカトリシズムは当時すでに極度に発達した体制であって、今更ヒエラルキーを無視した個人的啓示や神のお告げは必要とされないばかりか迷惑ですらあった。特に対外的にはまずかったので、ことが修道院内部に留まっているかぎりは神秘主義的ファンタジーは黙認していたようだ。どちらにしても、たとえヴィジョンが神経症的幻覚ではなくてれっきとした超常現象だと判定されたところで、それが神の御業であるか、サタンの仕業であるかの認定が必要になり、その判断基準はヴィジョンを見た後の生活態度である。
ヴィジョンを見たことで自分を選ばれたものだと考えて少しでも傲慢な態度を見せれば即ちそれは悪魔の誘惑だった証拠だし、以前にも増して教会やヒエラルキーに従順な態度を取れば神の栄光が称えられるというわけで、公式にはヴィジョンを見た者自身の徳が称えられることはないシステムになっている。だからこそヴィジョンが超常現象であろうが神経症の症状であろうが深刻には検討されないわけで、外部に漏れる宣伝活動があった時のみ目くじらを立てて異端審問さながらの調査が行なわれた。奇跡や超常現象の認定があったとしてもそれはその現象に関しての礼拝を認可するというだけの意味で、信者は教会の認定に反して奇跡や超常現象を否定する権利を持っている。教会がその真正さに対する信仰を信者に強要する唯一の奇跡はキリストの奇跡(治癒行為や復活を含めて)のみである。そういう点でキリスト教は醒めた官僚的ドグマ体系を持っていると言ってよい。
だからカトリーヌ・ラブレーがヴィジョンについて告解した時に告解僧のとった態度はクラシックなものであったわけだ。しかし先に見たように、カトリーヌは病弱者の多い瞑想型修道院のような群衆心理に左右されやすい所にいたわけではなく、社会奉仕を目的とする開かれた修道会にいたのだし、しかも本人も病気とは程遠く十二歳の頃から主婦として農場を切り盛りしてきた実績のある頑健なタイプの娘だったので、簡単に幻覚を見たとは考えにくい。にもかかわらず心臓のヴィジョンから僅か一月半も経たない一八三〇年六月六日の三位一体祭の日のミサの最中に王の姿をしたイエスのヴィジョンを見てしまう。この背景には多分、当時の王政復古の時代に四十年前のフランス革命で処刑されたルイ十六世を一種の殉教者と見なす風があったこと(しかもイエスとのアナロジーで)、聖ヴァンサン・ド・ポールの聖遺物行列の際出席していたシャルル十世(ルイ十六世の弟に当たる)の姿をカトリーヌが見ていたことなどが考えられるだろう。どっちにしてもカトリーヌは後に、すでに心臓のヴィジョン以来三位一体祭に至るまで、告解僧の警告にかかわらず聖餐式(聖体拝領)の度にしょっちゅう聖体パンがベールのように半透明になりその中からイエスの姿が現われてくるヴィジョンに悩まされていたと語っている。
聖体パンの奇跡[#「聖体パンの奇跡」はゴシック体]
もともと聖体拝領というのはカトリックで信者に授けられる秘跡の中でも洗礼などに比べ最も神秘性の強いものだけに倒錯の対象になることも多かったし、これを信じるか信じないかは信仰の中核にかかわる大問題であった。イエスは自分のことを「天から下ってきた生きたパンである。(……)私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である。」[ヨハネ六―五一]と言っていたし、彼の肉を食べ血を飲む者は「私におり、私も又その人におる。」[同五六]と言う後年キリスト教神秘主義が語られるとき必ず引合に出されるフレーズを口にした。食べることの神秘主義そのものは多くの宗教に流布している感覚である。滋養物というのは体全体に浸透し最小の部分にまで同化される。「神的なもの」は被創造物が持っているような「部分」を持たないというところから、「浸透してゆくもの」は、しばしば神性のアーキタイプをなしていたのだ。
では無酵母パンは最後の晩餐でのイエスの言葉「これわが体なり」を再現する司祭によって聖別され、本当にイエスの体になったのだろうか、或いはキリスト者はそれを文字どおり信じていたのかそれとも象徴として比喩的に解釈していたのかという点を考えてみよう。聖餐式が本当に定着したのはヨーロッパでは十一世紀以降のことと思われるが、民衆のレベルでは、聖体パンは拝領によって神との合一感を得るものだけでなくむしろ一種の護符的に見なされていた節がある。教会でもらう聖体パンをその場で食べずに、蜜蜂が死なぬように巣箱に入れておくとか家畜の健康を祈って豚小屋や牛小屋に入れておくなどという例がかなりあったという当時の審問官の報告が残っている。言い換えれば、聖体パンの中のキリストの現存ということはナイーヴには信じられていなかった。十一世紀には既にキリスト現存の解釈について神学的にも異論が出ていた。現実にミサで無酵母パンを「聖別」して聖体パンへと化体させる儀礼を行なわなければならない司祭達は、その手続きの有効性に対する懐疑に苦しめられていたこともあったと思われる。十三世紀にはこの悩みを一気に解決してくれる聖体パン信仰が花開いた。ゲルマンの田舎のボルゼスの司祭(名は伝わっていない)も、自分の聖別するパンがはたして主の体になるものかどうか確信が持てず、たいていの聖職者や聖者が信仰を深めるときに一度は通過する、いわゆる「信仰の夜」に苦しんでいた一人だが、一二六三年のある日の聖餐式に於て聖体パンから血が滴り落ちて下に敷いてあった聖体布まで血まみれになるのを目撃した。たまたま近在にいた、時の教皇ユルベイン四世はトマス・アキナスとボナベントゥーラという錚々たるメンバーを調査に送った末に事実認定を下している。この事件は聖餐の歴史に文字どおり新しい血を注いだ。一二九〇年にはパリの公園通りで古着屋を営んでいたユダヤ人ジョナタスの家で有名な聖体パンの奇跡が起こった。貧乏な女の着ている服を借金のかたに取らぬ替わりに彼は聖体パンを所望し、女がミサに行ってこっそり持ち帰って渡した聖体パンを、切ったり突いたり鞭打ったり釘を打ち付けたりと、キリストに見立てて受難を再現した。聖体パンは血を流し始め、それを見て一層怒り狂ったジョナタスがパンを沸騰した湯の煮えたぎる鍋の中へ投げ込んだところ、キリストのヴィジョンが忽然として現われたというのである。パリ司教の調査によって奇跡は認知され、ユダヤ人宅はチャペルに改造されジョナタスは死罪となった。その他聖体パンがユダヤ人のシナゴーグで冒涜された時に血を流すという事件は相次いだが、これはこの時期のユダヤ人迫害の一手段としても考察される必要があるだろう。
一般の民衆の間でも聖体パンにキリストの体が現存していることを示す奇跡は次々と起こったらしく、ル・ロワ・ラデュリーの示したモンタイユーの村の十四世紀の民俗学調査にも、ミサ用の無酵母パンを司祭のために焼いた女が、あれは自分の焼いたパンでキリストの体になるわけがないと言って嘲笑した時、司祭の祈りに応えてパンが子供の指のような姿に変身し、女は畏れおののいたというエピソードが語られている。この頃の聖体パンのパン型には曼陀羅風のイコンの非常に美しいものも残っている。聖体パンのリアルな肉体性というのはペスト流行などを背景にした一種の信仰のデカダンスとも関係しているのではないかと思われる強迫性も時には帯びていた。十四世紀の有名なシエナの聖カタリナ(〜一三八〇)は、聖体パンを噛んだとき血まみれのキリストを食べたように血の味がしたと言っている。こういう経緯を経て十六世紀のトリエント公会議で、聖体に於けるキリスト降臨は真実であること、聖別によってプロテスタンティズムで言われるようなキリストとパンとの共存共体が実現するのでなく、パンはキリストの体へと「化体」するのだと教義が明確化された。こうなると一見無味乾燥に見える聖体パンをこれが血の通った肉体なのかとつくづく観察してみたくなるが、実際のところローマ・ミサ典礼書総則によれば、「キリストはパンと葡萄酒の形態のもとにご自分の体と血をささげ」云々と書いてあるから、つまりパンが人の体になってしまうというよりはキリストの体がパンの姿になってしまったともとれるので、パンが普通のパンにしか見えないのもそれなら納得できると何だかほっとしてしまう。
それにしても聖体パンが血を流すなどという話が有り難がられたのを見るかぎりでは、聖体パンを即物的肉体的にとらえるカニバリズム的感覚というのは根強く存在していたと思われるし、だからこそそれを受け入れない者にカトリシズム離れを起こさせたとも言えるだろう。聖ヴァンサン・ド・ポールの聖遺物行列を見てすぐに彼の心臓のヴィジョンを見ることが出来たカトリーヌ・ラブレーなら、聖体拝領の度に聖体パンの内にキリストを見るのも何ら驚くことはない。彼女の告解僧が今回もあっさりとよくある悪習を戒めるかのようにあしらったのも当然だった。彼女は食事中にもヴィジョンを見たらしく、ぼうっとしていて神学校の副教頭に当たるシスター・カイヨーに「おやおや、シスター・ラブレーは御法悦中ですか?」と皮肉られたとある。このことは、当時のしかも瞑想型でない社会事業型の修道会には、ヴィジョンを見ることに憧れる雰囲気が特には無かったことを物語る。加えてカトリーヌの肉体的条件も神秘主義的信頼感をそそらなかった。彼女は農家を切り盛りしていた頑丈なタイプの田舎娘で、幼友達も、後の修道会仲間も口を揃えて彼女がむしろ醜い娘だったと言っている。一九八〇年代にクラリス会修道院に見習修道女として二年間を過ごした元ミス・フランスの手記によると、彼女が修道院生活に対応できなくてどんどん痩せていったとき、周りの修道女達が皆、「貴女はなんて繊細で美しくて、まるで透けてみえるようだわ。きっと聖女になるんだわ」と感嘆したということだから、聖女や神秘家についての単純な肉体的先入観が宗教者の間にも定着しているのはほぼ確実だ。カトリーヌはそれにもめげずヴィジョンを見続けてついに七月十八日がやってくる。
聖母のヴィジョン[#「聖母のヴィジョン」はゴシック体]
翌日の聖ヴァンサン・ド・ポールの祝日をひかえて、神学校の教師シスター・マルタが見習修道女達に修道会創立者についての講話を行なった。特に聖ヴァンサンが聖母マリアに傾けていた信心が強調された。(マリアは服従の模範として修道院のヒエラルキーを支えるのに重宝されている部分もある。)聖ヴァンサンもキリストも既に見ることが出来たカトリーヌが今度はマリアに会いたくなったのも不思議ではない。特に九歳で母を無くした彼女にとってマリアはこれまでにも母のイメージに代わる親しいものであった。
シスター・マルタはこの講話の後で生徒達に小さなプレゼントをした。それは聖ヴァンサン・ド・ポールが生前身に着けていた僧衣の切れ端である。いわゆる聖遺物であるが、法王庁によって正式な聖遺物認定をされたものならこう簡単に分配するとは思えないから、おそらく修道院に創設者の形見として内輪に伝わっていたものなのだろう。憧れの聖ヴァンサンの聖遺物を自分の手にしたカトリーヌはどうしたかというと、小さな布の切れ端をさらに二つに分けて、マリアに会わせてくださいと願を掛けつつその一片を飲み込んでから床に着いたのである。白い服を着た四〜五歳の子供が「シスター、シスター」と言ってカトリーヌを起こしに来たのはその夜の十一時半頃のことだった。「急いで起きてチャペルに来てください。マリア様が貴女をお待ちです」と言われて支度した彼女が通っていった通路は不思議なことにどこも灯りが耿々と輝き、チャペルの扉はひとりでに開いた。祭壇左手の肘掛け椅子に座っていたマリアは、側に跪いて両手を彼女の膝の上においたカトリーヌに、修道会での生活を始めとするこまごまとしたアドバイスを与えた。次にカトリーヌが神の特別な使命を与えられるであろうが恐れずに信頼することを言ってきかせ、修道会の未来や社会不安やパリ大司教の死などについて涙を流しながら予言した後、灯りがふっと消えるように姿を消した。「行ってしまわれました」と言う例の子供の声で我にかえったカトリーヌがもと来た道を通って自分のベッドに戻ったのは午前二時頃だったという。二十六年後に書かれた自伝によると子供は不思議な眩い光を放っており、おそらくカトリーヌの守護天使であったとされている。
カトリーヌの告解僧アラデルは今回も彼女の訴えを幻覚だとして斥けたが、同じ月の末に勃発した七月革命で、反動的だったシャルル十世が王位を捨てて亡命し、パリの治安とカトリシズムの安定が大きく揺さぶられた時にはマリアの予言の事を考えざるを得なかった。しかしアラデルはこの時点でもカトリーヌのヴィジョンを煽ったわけではなく、彼女が「普通の修道女」に戻ることを期待していた。こうして四ヶ月後の十一月二十七日午後五時半の祈祷の時間にカトリーヌ・ラブレーは予告されていた使命の啓示を受ける。今回のマリアは前のように気安く駆け寄れる母のようなイメージではなくて、両手から輝く光を迸らせた堂々とした姿で現われた。その周りには金文字で「無原罪の宿りのマリアよ、御身に頼る我等の為に祈り給え」というフレーズが浮かび上がった。「この光線はマリアが人間のために獲得してくれる神の恩寵のシンボルである」と言う声が続く。しばらくしてこのヴィジョンは回り舞台のようにくるりと返り、小さな十字架の上に乗っている大文字のM、その下にマリアとイエスの聖心とが現われ、「これをモデルにしてメダルを作るように、それを首に掛けてこの短い祈りを唱える者は聖母の特別な保護を受けるであろう」とメッセージがなされた。
カトリーヌはこのヴィジョンを当然告解僧に報告したが、アラデル師はこの娘のヴィジョンの再登場を悪い兆候だととり、「紛れもない幻覚だ! 聖母を敬いたいんならマリア様の徳を真似るといいんで、想像力は抑えておきなさい」と諭した。しかしこの後十二月にもう一度、三度目で最後の御出現がやはりチャペルでの瞑想の後に見られてカトリーヌ・ラブレーは己の使命を確信するに至ったのだ。このあと様々な紆余曲折を経た後でバック通りのマリア御出現は真正という認定を受け、一八五四年の法王ピオ九世の教書に於てマリアの無原罪受胎(マリアは原罪なくして母アンナの胎に宿った)が宣言されると共に、その後今日に至るまでのマリア御出現の一大ブームの引き金となったのである。
マリア信仰[#「マリア信仰」はゴシック体]
マリア御出現の意味を探るにはマリアがローマキリスト教の中でどんな位置を占めてきたかを多少なりとも考察しなくてはならない。マリア信仰の歴史というのは、ごく単純化して言うとヨーロッパのキリスト教化の過程において異教の多神教的な部分は各種の聖者礼拝によって代替し得たものの、大地母神的なものに置き換える女性的なものがユダヤ教的男性神のコンテキストではマリア以外に見つからなかったという出発点をもつ。つまりマリアはユダヤ的男性神の抱え込みきれなかった部分をカバーするために必要とされたという側面がある。大地母神の他に巫女的な処女信仰の要請にもマリアは応えたので、キリスト教初期(二世紀末)に成立した聖書外典ヤコブ原福音書(東方教会では高く評価されていた)などを見ると彼女はヨアキムの荒野での四十日の断食の末に授けられた恩寵の子であり幼時から神殿で育てられ、ヨセフとも事実上の夫婦であったことは一度もなかったように永久処女性のシンボルとされている。カトリックの教義的にはマリアはしばしば教会のシンボルであった。中世においては、神から信者達に伝えるべき「智恵」のメッセージを聴いている「教会」としてのマリア像のイコンが見られる。(それは例えば王の言葉に耳を傾けている王妃のように表現されている。)フランスでは十二世紀以来のカテドラルの時代と都市の発達が軌を一にしているのだが、それとともにマリア信仰も拡がった。
これには中世に愛(アムール)が謳歌されたことも関係している。特に十三世紀以降は中世の衰退と共に一種の宗教の非神話化がみられ、それを補う形で愛が神話化されていった。コスモスの消失とテクノロジー化に対抗することと、唯一の愛の対象であった神が衰退することからくるノスタルジーから、新しいエロチシズムが誕生した。すなわち唯一者の不在が「手の届かぬ女」の信仰を生んだので、その意味で騎士物語の貴婦人達とマリアは重なってくる。聖職者のレベルでは、前述したように修道女にとってマリアは服従の模範だったし、産褥死が頻繁であった時代に必然的に多かった孤児出身の修道者にとっては母に代替するイメージを提供したのも事実だろう。終生独身を誓願しなければならなかった僧や聖職者にとっては唯一想いをかけることの許された女性であったことは言うまでもない。
男尊女卑的傾向の強かったユダヤ的伝統から出発したキリスト教のもとで長い間服従を強いられてきた女性(「女よ、喜べ、お前は選ばれて神の子を身ごもるぞ」式の処女崇拝がベースにあったのだから!)の地位は十七世紀あたりから向上する傾向を見せた。改悛した罪の女としてのマグダラのマリアの礼拝もこの頃盛んになってきたし、聖母マリアの母である聖アンナがマリアの教育者として脚光を浴びたりする。カトリーヌ・ラブレーがマリアの御出現を見た当時のバック通りチャペルには、少女マリアに読み書きを教える聖アンナという、当時よく見られた主題の絵が掛かっていた。カトリーヌ自身この母娘の図に愛着を持っていたようだし、御出現のマリアのことを初めは聖アンナではないかと思ったととれる発言を残している。敢て言えば、肘掛け椅子に腰掛けたマリアのそばに跪いて敬虔に教えを聴くカトリーヌの姿は、母アンナの教えを聴くマリアの姿に限りなく似ていたと言える。
御出現のヴィジョンというのにはサイクルがあって、大きく分けると初期には聖霊が白鳩の姿でよく現われたようだし、十四世紀から十六世紀にかけてはキリスト像が主流を占め、十七世紀以降はマリアが増えてくる。十九世紀後半からは無原罪受胎の教義の確立もあってマリア崇拝と御出現はブームをなすが、そのきっかけを作ったのが一八三〇年のバック通りの御出現なのだ。
ローマ教会の審査[#「ローマ教会の審査」はゴシック体]
ヴィジョンそのものは前に述べたように修道院内部などでは日常茶飯事とは言わぬまでも珍しいことではなかった。そして「教会」はヒエラルキーを脅かすプライベートな啓示は全て基本的に警戒していたのだから、必要とあらばヴィジョンを制裁できるように高度に発達した審査システムを創りあげていた。調査委員会はヴァチカンのルーティンワークの一つになっていて、誘導訊問を含む複雑な訊問リストが司教区(地方教会)にまで行き渡っていた。それは、ヴィジョンを見る恩寵にあずかるような暗示傾向の強いしばしば非常に若く教育もない者たちが罠にはまらず対抗できるような代物ではなかった。もともと超常現象といえるものが起こったとされた場合、修道院内部のような限られた舞台であるときは、その場では徹底無視(本人が死んだ後伝記のエピソードとして書くのは差し支えない)、それが広く知られて公衆を惹きつけ、教区の教会に影響を及ぼした場合にのみ調査がなされるというのが原則である。司教の責任で組織される調査委員会は複数の神学者、医学者(心理学者や現代なら精神分析学者も含まれねばならない)、社会学者、歴史学者からなり、検事と弁護人をたてて裁判形式で審理された結論はローマに送られて説明され、手続きの正当性の確認が行なわれる。しかしヴァチカンは超常現象の判定結果について判断を示すわけではない。司教区は、ヴァチカンの決めた審査形式に従っているという事さえ示せば判断決定権を持っている。さらに言えば最終決定権は司教区の責任者である司教にあるので、この後司教には三通りの選択が可能である。つまり、調査委員会の結果をもとにして公式発言をするか、委員会の結論に反して判断を下すか、或いは全く公式発言をしないで沈黙を守るかの何れかの態度を取ることになる。超常現象を肯定するについてはそこに神性の臨在、恩寵を認めることで、超常現象に対する公式の礼拝やら巡礼が認められることになる。超常現象を否定するときは、幻覚や詐欺行為とされたり、或いは単に神の介在があるというに十分な裏付けが取れないということで、その件に関する一切の宗教的行為やプロパガンダが禁止され、特に聖職者の不服従は破門を以て罰せられるとされる。超常現象がヴィジョンに関する場合、恩寵であると認定されるということは当然ヴィジョンを見た者の聖性が暗に肯定されることになる。超常現象が恩寵であってサタンの業ではないことを判定する基準は殆ど全てヴィジョンを見た者のその後の教会への服従度にかかっているということは先に述べたとおりである。
修道者や僧がヴィジョンを見た場合は従って事は比較的簡単である。しかし世俗人や子供がヴィジョンを見た場合は、恩寵の認定は事実上その人物が修道院へ入るか聖職を選ぶか、さっさと夭折するかといういずれかの見通しがあって始めてなされることになる。実際、恩寵(または啓示)を受けた者を改宗させたり聖職の道へと目覚めさせる力もないような恩寵が恩寵の名に値するだろうか、という理屈も成り立つわけである。教会は概してヴィジョンの認定に否定的なわけだが、複雑な審査を経ていったん肯定的判断を下した後はそれを啓蒙手段にし、個人的恩寵だったものを体制内に組み込むためあらゆる手段が取られることになる。ヴィジョンを見た者が控えめに生きて無事修道院で天寿を全うした暁には、死後の奇跡(治癒祈願の達成)を検討しつつ福者認定の審査への長い道程が始まり、運がよければさらに上位の聖者認定にまでこぎつけるというわけだ。
カトリーヌ・ラブレーは七十歳で死んでから後ヴィジョンを公式に認められ、聖女の列に加えられたのは死後七十一年を経た一九四七年である。ベルナデットのヴィジョン(ルールドでのマリア御出現、一八五八年)は僅か四年後に認定されたが彼女自身が列福されたのは半世紀後の一九〇九年で列聖は一九二五年である。一八四六年のサレット(フランス)での御出現は五年後に認定され、一九一七年のファチマ(ポルトガル)の御出現は十三年後、一八七一年のポンマン(フランス)のそれは一年後の認定となっている。あまり早々と認定するのはやはりまずかったらしく、ポンマンの村(今日も年間三十万人の巡礼者が訪れている)の納屋の屋根にマリアを見た十歳前後の子供達のうち、当時九歳だったジャンヌ=マリー・ルボセは、十九歳でボルドーの聖家族修道会の修道女となったが、五十九歳になった一九二〇年に実はマリアの御出現を見ていないと告白した。彼女は他の子供達に口を合わせてしまった罪悪感に悩まされ、見習修道女になってすぐ告解僧に告白したのだが告解僧はそのことを誰にも言わぬようにとアドバイスしたというのだ。このことは「教会」が、出発点での懐疑主義にもかかわらず、一度認定したヴィジョンの正当性にはこだわることを物語る。
ヴィジョンのおまけというか万人に認められる証拠になるような事が付随している場合は当然恩寵の説得力は増し、それだけ認定にかかるリスクは少なくなると言える。カトリーヌ・ラブレーのヴィジョンは世界中に広まった奇跡のメダルの治癒霊験によって正当化されざるを得なかったし、ベルナデットのヴィジョンは、人々を納得させるに足る証拠を見せてくださいと頼まれたマリアの指示に従って少女が地面を引っ掻いたときに湧き出てきた泉の水の治癒霊験によって証明された形になり、ファチマではやはりヴィジョンの真偽を疑われた子供達の嘆願に応えた奇跡が、噂を聞いて駆けつけた何万人もの群衆の目の前で起こった。俗に「太陽のダンス」と言われているもので、これはなにしろ「普通の人」にも見えるとあって人気を博し、これ以後の各地のヴィジョンでもしばしば見られることになる。この時には「花びら」の雨というのも空一面から降ってきて写真撮影もされたが、日本の現代の或る種の霊能者の起こすいわゆる「金粉現象」と言うのと同じで、降ってきたものはすぐに消えてしまうようで、それが何だったかという記録は残っていない。
御出現の増加[#「御出現の増加」はゴシック体]
バック通りのマリア御出現は詳しい公式調査記録が残っている最初の御出現ということでも重要である。マリアの御出現自体はキリスト教初期以来しばしば言い伝えられて巡礼地をなしてきた。フランスのロワール県ル・ピュイには一世紀と五世紀と二度にわたって天使に伴われたマリア御出現の記録がある。どちらもヴィジョンを見たのは病の奇跡的治癒を得た大人の女性で、マリアはその都度その場所でのマリア礼拝の要求をメッセージとして残し、夏の雪とかマリアの所へ導く鹿の御出現とかが多くの人に語り継がれた。ただしその場所はもとケルト人のドルメン(何らかの礼拝などの宗教儀礼と結び付いていたと思われる巨石遺跡)のあったところで、もともとの地霊みたいなものがキリスト教的イメージをとって喚起されたのかもしれないが、古代異教の聖地をキリスト教化していくという初期キリスト教の方針に沿って公認されたことはほぼ間違いないだろう。その他にも新宣教地であるメキシコ(一五三一年十二月、グアダルーペ)で四十八歳の農夫に現われた御出現の例では、荒地の鳥の声や奇跡のバラや農夫のマントに奇跡的にプリントされたマリア像等かなり華々しい付帯現象があり、バラも消えなかったしマントのマリアも今も拝めるわけだが、この御出現の場所も古いアズテカの聖地ではなかったかと言われている。
一八三〇年のバック通りの御出現以来は、記録がはっきりしていて統計がとりやすいのだがその件数は飛躍的に増えている。しかも意外なことに現代になるほど増えているのだ。ヴァチカンのマリア研究所のマリア学教授ジュゼッペ・ベズッチが一九七二年に出した統計では一一〇〇年以前のマリア御出現十九件に対して一一〇〇年以降は一七一件となっているし、アンナ=マリア・チュリーの統計(これには御出現の他に涙を流すマリア像等の超常現象も含まれる。)では一八三〇〜一九八七年の間に二七二件を数える。しかも一九三九〜八七年の僅か半世紀の間に二百十三件となっている。一九三九〜四五年という第二次世界大戦の間には十六件と意外に少なく、かえって戦後の一九四六〜四九年に五十八件と集中している。これにはチュリー女史は戦後の窮乏の中で禁欲、断食、苦行という宗教的エクスタシーを得るテクニックに近い状態が生まれたからだろうという解釈を試みている。第二のブームは一九八〇年以後であり、これは世紀末意識が生まれてきたことと関係するかもしれない。この中に数えられる御出現は教会が現象を黙認しているものであり、奇跡認定がされたわけではない。実際のところカトリック教会によって認められたマリア御出現の最後のものは一九三二〜三三年にかけてベルギーであったものである。(ボーランではルールドの洞窟のレプリカでそれは起こり、バヌーではその後泉が湧き出した。)それ以後認定されていないのは何故かと言うと、別にその後に見られた御出現が教会の厳しい審理調査に堪えないというわけではなくて、御出現の数の多さとインパクトとに教会が対応しきれないというのが実情なのだから驚かされる。もとよりこの御出現のインフレ状況は教会の望むところではなくて、マリアの聖地の多さについてローマは慎重発言をしている。一九七四年二月二日付けで時の法王パウロ六世は「マリア礼拝のいくつかの誤ったアスペクトについて」その内容と形式の誇張を否定している。つまりそれが教義を歪めるものであってはいけないし、精神の偏狭さを招くものであってもいけないというわけだ。実際のところ教会が一番嫌がるのは個人の啓示に基づく新しい聖地が増えることなので、既に存在しているキリスト教聖地で御出現が起こる場合は問題ないわけである。既に述べたように教会による奇跡認定というのはその地での礼拝や巡礼を公認するかどうかのために行なわれるものだから、例えばローマの巡礼地(聖パウロの殉教地)で一九四七年以来今日まで劇的な御出現と奇跡的治癒が続いているケースなどは黙認されている。一九六八年四月からカイロの郊外で十四ヶ月にわたって連日のようにあった御出現などは、光り輝く雲や白鳩が舞い、イスラム教徒の住む町の真ん中で、万人の目に見え、写真も撮られ、観光客や巡礼者、ジャーナリストで賑わった。一九六八年六月八日の夜などは夜九時から翌朝四時半まで七時間半も途切れずにマリアの姿が見られたというが、そこはもともとマリアとヨセフがヘロデ王の幼児殺害を逃れるためイエスを連れてエジプトへ逃げた時に通った場所で、それを記念して建てられたコプト正教会の教会の屋根の上だった。(御出現の最初の目撃者達は教会の尼僧が投身自殺しようとしているのだと思って騒いだ。)この期間に奇跡的治癒を期待して多くの病者が訪れたが、尿道癌やヘルニア、甲状腺異常などいくつかの劇的治癒については専門家による診断と確認がなされた。アレキサンドリア教皇キリヨス六世は調査報告をもとに「この奇跡の真性と恩寵の中に」彼が確認した「深い信仰心」を発表し、コプト教会の首長は「聖家族を迎え入れた場所に天が徴を現すのは何ら驚くに足らない」と宣言し、イスラム教を国教とするエジプト政府ですらマリア御出現を認めた。こういうケースは個人のエクスタシーとは関係ないので、地霊現象に近いのだろう。カトリック教会は口をはさまなかった。
御出現の場所はそれでもカトリック教会の本拠地イタリアが断然多い。ベルナール・ビエの『真正の御出現と偽の御出現』(一九七三年)に依ると、一九二八〜七〇年に起こったマリアに関する超常現象二〇六件のうち、七一件がイタリア、二十七件がフランス、十九件が西ドイツ、十七件がベルギー、以下スペイン(九)、アメリカ(八)、カナダ(六)、アイルランド、ブラジル、ポーランド、スイス(各四)、オランダ、チェコ、レバノン(各三)その他である。中国やウクライナにも一件ずつあるが日本には見られない。イタリアに多いのは、先に述べたようにもともとの聖地に御出現があった場合は黙認されやすいからということもあるが、いろいろな記録を見るかぎり、まさに超常現象の宝庫と言えるほど不思議なことが続々と起こっている。御出現に伴う治癒現象を期待して大挙して巡礼にやってくるのは殆どがフランス人スイス人西ドイツ人であり地元イタリア人はあまり熱狂を示していないのも興味深い。フランスでは個人的なヴィジョンを見たという例が多いせいか、教会が介入して真偽の判定をすることもしばしばある。
最近の割合有名な例ではサンテチエンヌの郊外ラ・タロディエールの御出現があった。一九八一年の夏頃から十四歳の少女ブランディーヌ・Pが週に何度もマリアの御出現を見、物がひとりでに動いたりするという噂が広まった。村の司祭が無視し続けたところ、ブランディーヌの家族は司教に直訴した。翌年一月父親に伴われて司教と会見した少女は殆ど毎日自分の部屋に現われるというマリアとの会話やメッセージを書き留めた分厚いノートを持参した。司教は、少女が嘘をついているのでなく自分の言っていることを信じているのだとは思うがヴィジョン自体の真偽のほどは判らぬと言い、この事は誰にも言わず黙っているようにと諭した。この方針に父親が不満を持ったのかどうかは定かではないが、とにかくその年の復活祭前にはフランス全国や西ドイツやオランダまでから問い合わせが殺到し、TV局二局を含む五千人の群衆が復活祭の日に御出現を期待してこの村へ押しかけた。人々はマリアとまではいかぬまでもせめてファチマでのような太陽のダンスの超常現象を見ようと太陽を見つめ続けたので、超常現象の代わりに目を痛める人が続出した。この大騒ぎの末ついに教会が公式干渉を行なった。つまり精神医学的な観点からもこの少女のヴィジョンと称するものは単なる幻覚であって神的なものの何らの介在もない、マリアの礼拝をしたい者は既にある聖地に行けばいいので巡礼地には事欠かないはずだ、という趣旨の発表がなされた。このケースはそれでも現代のフランス人のヴィジョン感覚とそれに対応する教会の方針をよくあらわしている。そしてそれは全て、一八三〇年のパリのバック通りの小さなチャペルに現われたマリアから始まったのだ。
3 奇跡のメダル
三度のマリア御出現に立ち会ったカトリーヌ・ラブレーは翌一八三一年神学校を卒業して正式に修道女となった。この間彼女の見た聖ヴァンサン・ド・ポールの心臓のヴィジョンの噂は、修道女達の間に多少は広まっていたようである。カトリーヌは質問責めにもあったらしいが、告解僧アラデル師の懸念をよそに沈黙を守り通した。それはアラデル師の心証を良くはしたが、彼はカトリーヌを自分の監督下に留めておくためパリ近郊の養老院に配属した。彼女はここで五十人分の給食を作ったり、掃除や老人の世話等の地味な仕事をしながら、七十歳で死ぬまでの四十五年間を過ごすのである。一方アラデル師はマリアのメダルの刻印の可能性についてパリ大司教に伺いをたててみたところ、思いがけなく好意的に迎えられ、早速パリの彫師に制作を注文した。同時にカトリーヌの名は伏せたまま、バック通りの御出現を公にし、愛徳姉妹会には入会志願者が殺到したという。
こうして御出現から二年後の一八三二年に最初の二万枚のメダルが世に出た時は、パリ大司教ばかりか法王グレゴリオ十六世の手にまで行き渡った。姉妹会のメンバーにも配られて、カトリーヌも他の修道女と一緒に、あんなにも実現を夢見たメダルを受け取った。メダルは最初から、異教徒の回心を初めとして次々と「御利益」をあらわしたらしい。この、いわば御守りがどうしてこの時期に爆発的な成功を収めたのかは、社会心理学的考察にも値するが、満足な説明を見つけるのは難しい。ちょうどこの頃ヨーロッパはコレラの流行に襲われていて人心が不安定だったことも確かである。小学校でメダルをつけていた二人の子供だけがコレラの感染を免れ、人々はコレラ予防のため争ってメダルを手に入れたなどという話も伝えられている。しかしパスツール研究所によると、社会心理学的には、ペストは神罰の感情を抱かせ民衆を宗教へと向かわせるが、コレラはその下痢症状のせいで嘲罵の感情を抱かせ、神というより社会的権威に対する怒りの感情を誘発するというのだ。どちらにしても一八三二年の時点ではコレラの流行も下火になりつつあったし、他の病気の奇跡的治癒例も増えてきた(一八三四年六月十日にコンスタンチノープルからやって来た唖の女性の劇的治癒など)。由来書きも版を重ね、一八三九年には世界中に一千万個のメダルが行き渡ったと言われている。
しかしこれでカトリック教会なり愛徳姉妹会なりが莫大な利益をあげたとは考えにくい。現在バック通りで売られているメダルは、一センチメートルに満たないブルーの透明のアクリルを被せてあるものから、二センチメートルを越す銀のものまでいろいろあるが、どれもマリアの指定したイコンに従って非常に精巧に細工されている。安いものは金色や銀色に塗られたアルミ風で、十フラン(約二百円)も出すとメダルが二十個くらいじゃらじゃら入っている袋が買えるし、一番立派なモデルでもひとつ九フランという安さである。もともと愛徳姉妹会は貧者病者への奉仕を目的にして創設されたのだし、メダルは万人に手の届くものでなければならないわけだ。むしろメダル制作は宣教用の必要経費で賄われていると言った方がよいだろう。実際この値段で毎日飛ぶように売れていくのだから目的は立派に果たしていると言える。十九世紀半ばにこのメダルが成功を収めたのは、その頃には、手軽に個人用に持ち歩けて安くて霊験あらたかというキリスト教の御守りが他に見当たらなかったからかもしれない。言い換えれば昔ながらの聖体パンやら聖別されたロザリオなどだけではもう人々の要求を満足させられなくなっていたので、フランス革命の中を残存していた宗教感情に火をつけるには、ブームになりつつあったマリア信仰にのっとった新しいグッズが必要とされたということだろう。ルールドの水の信仰もこの流れにあるのだが、巡礼を必要としたり、瓶に入れて持ち帰っても身に付けておくには不便だという欠点がある。
ではこれらの、いわば民衆が日常に組み込める聖なるグッズは本当に病治癒を初めとするご利益をもたらしてくれるのだろうか。聖地に巡礼して聖遺物の前などで集団で祈るようなケースだと、それなりのサイコメカニックというか、群衆の放つ心霊エネルギーみたいなものを期待できるかもしれないが、個人の所有物になった聖水や聖油やメダルなどでは聖性が矮小化しないだろうか。今でもフランスの田舎に行くと多くの家に、マリア像をかたどった安物の瓶に入ったルールドの水(お祖母さんの友達が巡礼に行ったときのお土産だったりする)だの、古いオーデコロンの空き瓶に入れた聖水(普通の水を聖別したのを蛇口のついた樽に入れて誰でも勝手に汲んでいけるようになっている教会もある)だの、リール郊外の聖リータの教会の売店で八フラン出して買ってきた聖油の小瓶だのが、暖炉の上に埃をかぶって置いてあり、信じて使う人には勿論効くこともある。その治療行為で有名になり福者となったカナダのアンドレ修道士(〜一九三七)は、訪ねてくる病人の疾患部を聖油でさすりながら聖ヨセフに快癒を祈願するのを常としたが、聖油が病を治すのかと訊かれた時、聖油は単にその人の信仰心を強くする支えにするためのもので、治癒はあくまで信仰心と神の恩寵にかかっているのだと答えている。猜疑心の強い人々の信仰心を引きだすためか神は多少干渉するようで、聖水聖油と呼ばれているものは何故か腐ったり濁ったりしない。ルールドでの水浴治療が恐ろしく非衛生的な条件で行なわれていることは良く知られているが、それが原因で伝染病が発生することは何故かないということも知られている。顕微鏡で見てバクテリアがうようよしているのが判っているにもかかわらずである。素人が何十年前かに瓶に入れた聖水が完全な透明度を保っているのを見るのは印象深いものだ。メダルは残念ながらそういう外見の不思議を示さないが、その普及力の凄まじさ自体が一種のオーラのように個々のメダルを支えている部分が確かにある。こうなると由来と関係なく、メダルを身に付ける人全ての共有する共同幻想が問題となってくるのであり、「鰯の頭」をたった一人で信心する時の超人的ボルテージの高さは必要でなくなる。ともかくカトリーヌ・ラブレーのヴィジョンに基づくマリアのメダルは世に出るやたちまち恩寵を示し続けて奇跡のメダルと呼ばれるようになったのだ。
こうなるとローマも公式的な態度を示さざるを得なくなった。十六世紀のトリエント公会議と十八世紀のブノワ十四世によって確立した超常現象の判定基準に従って、バック通りの御出現、マリアのメダル、数々の奇跡と呼ばれた治癒例等が全て綿密に調査されなければならない。教会はまず、事の起こりであるところの修道女カトリーヌ・ラブレーへの尋問を開始しようとした。一八三五年のことである。この時点までカトリーヌが御出現に関して申し立てた全ての情報は告解の秘密の原則に従って、告解僧であるアラデルだけの知るところであった。メダルの由来書きにはカトリーヌの名は一度も出ていない。司教区調査委員会の要請で匿名が解除されたのだが,彼女への尋問は結局行なわれなかった。御出現のことは告解僧にのみ話すようにと聖母に言われたのを忠実に守り通したとも伝えられるが、アラデルはこれについて委員会に驚くべき説明をしている。すなわちカトリーヌは僅か五年前に起こった数々の御出現についてもう何も覚えていないというのだ。「驚くべきことですが、件のシスターはヴィジョンの状況を殆ど何も覚えておりません。それ故、彼女から情報を得るためのいかなる試みも全く無駄な事だと思われます。」というのが彼の正式な陳述である。カトリーヌの「記憶喪失」が、神の配慮によるものか、病理的なものか、ある種のかけひきだったのかは謎である。とにかくそのお陰で彼女が、調査官の厳しい追及や煩雑な罠に満ちた審問を免れたのは間違いない。(超常現象に関する審理システムがもともと個人的啓示を制裁する目的で成立したということを想起しよう。)言い換えれば、奇跡のメダルのように既に霊験の実績が先行して宣教的効果を挙げている場合、今更無知な田舎娘に出てこられてメダルの真性を疑わせるようなことを言われたら教会としてもいたく困るわけでもある。しかしこの種の超常現象に関しては教会は既成宗教として異例な程に懐疑主義的態度を取っているのだから、もしカトリーヌが審問に耐えられなければ一番困ったのはメダルに関して終始イニシアティヴをとってきたアラデル師であったろう。告解を利用してカトリーヌに打診してみた彼が、彼女を証言台に立たせるのは益がないと状況判断したとも考えられる。一応「記憶喪失」の二十年後になって御出現の様子を語った自伝があるから、ヴィジョンやメダルの物語が全くアラデル師一人の創作だったとも思えないがともかく一八三六年のカトリーヌ・ラブレーが「鶏小屋のシスター」と呼ばれながら修道会で家畜の世話などに励んでいるだけの娘だったのは間違いないだろう。
こうしてバック通りの一連のヴィジョンと奇跡のメダルの公式認定をめぐる調査と審問法廷はそもそも恩寵を受けた修道女を抜きにした一種の欠席裁判として進められて行った。これはこの種の手続きとしては異例のことであり、この間のカトリーヌの修道会での従順振りがこの例外的な裁判を正当化するネックとなった。一生をかけた誓願に縛られた瞑想型修道院と違って、愛徳姉妹会は原則として毎年新たな誓願を立てて帰属を確認するシステムになっている。つまりカトリーヌの忠誠度は理論的には不安定なものであったので、なおさら彼女の動向は重要な意味を持っていた。カトリーヌの前に修道会に入り彼女の志願の直接のきっかけを作った長姉(十一歳年長)のマリー・ルイーズは十二年間の修道生活の後人間関係の摩擦が原因で一八三四年四月に修道会を去っていた。このことはカトリーヌにもショックを与えたが、恩寵認定の審理にも微妙な影響を及ぼしたとみえ、妹から姉への再入会の勧告など、すったもんだの末にマリー・ルイーズは一八四五年に五十歳で異例の再入会を認められている。カトリーヌも農婦だった経験を生かして修道会の経営を好転させたり多少の才覚を見せたせいか、審問欠席もむしろ謙譲の現われとして有利に解釈されていった。その後パリは一八四八年の二月革命や一八七一年のパリ・コミューンなど動乱の時代が続くのだが、その中で愛徳姉妹会は五百人に膨れ上がった修道志願者の為に神学校を改築したりチャペルにマリア像を飾ったりと奇跡のメダルの実績を前提とした発展を続けていった。
教会の正式認定を待たず霊験の実績を重ねていったメダルのオーラはカトリーヌにも及んだらしく、晩年の彼女はヒロイックな行動のエピソードを数々残し、長老として一種のカリスマ性も備えていき、少なくとも修道会内部では奇跡のメダルの生みの親として認められていたらしい。告解僧アラデルは一八六五年に世を去っていて、カトリーヌは御出現のマリアの望んだとおりにチャペルをしつらえるために、新しい告解僧やラザリスト総会長などに精力的に働きかけ始めた。関節炎を初めとする持病と闘っていたカトリーヌは一八七六年の大晦日に「主よ、聖母よ、聖ヴァンサンよ」という言葉を残して、涙を流し微笑を浮かべて七十年の生涯を閉じた。それと共に奇跡のメダルの新しい時代が始まった。カトリーヌの死をもってヴィジョンに関する秘密は解除されたので、彼女自身がヴィジョンを語った自筆の記録の公開を初めとするお祭り騒ぎがもちあがった。彼女の死姿は衣装を替えて何枚も撮影され、群衆も押しかけ、「聖女」の声があちこちであがり、元帥夫人の肝いりもあって遺体は樅、鉛、オーク材の三重の棺に収められて地下墓所へ安置された。奇跡のメダルを身に付けた群衆が葬送行進に加わり、修道女の死=聖女の誕生に興奮した。地下墓所を訪れた脚萎えの十二歳の少女はその場で快癒し、巡礼者に奇跡が続いた。一八八〇年御出現五十周年を記念してようやくバック通りのチャペルにマリアの祭壇が完成し、一八九四年についに公式に奇跡のメダル御出現の典礼式が祝われた。一八九六年には、あるスペイン人司祭が彼女の墓所まで礼拝堂に改造する許可を得た。ここに至るまでにはヴァチカンによる福者認定に先行する礼拝行為を禁じる権威筋との間で多少の悶着があったとはいえ、教会がカトリーヌの死によって、奇跡のメダルの恩寵を完璧に自らの体制に組み入れ得るようになったことは確かである。
カトリーヌの死後五十六年を経た一九三三年、聖別に必要な手続きである「聖遺物の確認」のために、枢機卿ヴェルディエの立会のもとに墓所が開かれた。はたしてカトリーヌ・ラブレーは安置されたときと寸分変わらぬ姿で現われた。先に述べたように「腐らぬ体」は本来聖者の条件とされているわけではない。だがバック通りの聖女にとってこれ以上ふさわしい奇跡があるだろうか。死姿の美しさは、四十五年にもわたって決して公の席に出ずひたすら修道会の肉体労働に携わってきた「醜い」修道女の聖性の勲章として熱狂的に迎えられた。それは「記憶喪失」や「欠席裁判」の曖昧さを補って余りある恩寵ではないか。世界中に行き渡った奇跡のメダルに寄せる人々の信仰エネルギーは、カトリーヌの「腐らぬ体」によってめでたくも報いられた。聖性の収支が合ったのである。一九三三年の列福のあと、一九四七年にピオ十二世はカトリーヌ・ラブレーを聖女として宣言した。一九八〇年にバック通りに「巡礼」したヨハネ=パウロ二世は、世界中から集まった修道女の前で奇跡のメダルの祈りを唱えた後で、「我々が子供のように信頼と大胆さとシンプルさを以て祈って始めてマリアが神に恩寵をとりなしてくれるのだ」と語った。遺体発掘の際に医師が硬直のないカトリーヌの瞼をそっと上げてみたら、若い日にマリアを見たという青い目が美しく澄んだままあらわれたということである。
[#改ページ]
闇の中のロゴス
村娘はいかにして聖女になったか
マルト・ロバンの物語
[#改ページ]
1 アルプスのマルト
「奇跡の女」マルト・ロバン[#「「奇跡の女」マルト・ロバン」はゴシック体]
フランスアルプスを東にあおぐドローム県の小村シャトーヌフ・ド・ガロールで、農家の六人兄弟の末っ子として生まれた娘が、一九八一年二月の第一金曜日に聖女と崇められつつ息をひきとった。七十八年の生涯の五十年間を、ガロールの峡谷を見下ろす高台にぽつんと建った一軒家で寝たきりですごしたこの女性は、世界中に六十の「慈悲の家」を創立し、ローマ教会による聖別をまたずして、カトリック百科事典にその名をつらねた。彼女は、四十年にわたって、飲食物を摂らず、眠らず、金曜日毎に両手両足と脇腹に穿たれた聖痕から血を流し続けてきた。
アナトール・フランスの主治医でリーデル出版の反キリスト叢書の創始者でありイエスの歴史的存在を否定していたポール=ルイ・クシュー博士は、彼女のことをこう語った。「病が彼女を凝縮した。彼女は眠らない。ゆえに絶え間なく考える。彼女は一つの脳である。」彼女の思考はパスカルにおとらぬ正確なものである、とも言った。
フランス学士院会員で、ベルグソンの弟子でもあり、サルトルと同時代を生きた哲学者ジャン・ギトンは、二十五年間に四十時間にわたって彼女のそばで過ごした証言と考察を、『マルト・ロバンの肖像』という本にして一九八五年に出版した。彼は彼女のことを「天才」と呼んでいる。マルト・ロバンというのが、この「奇跡の女」の名前である。
マルト・ロバンの前に、となりの国のドイツは、ふたりの有名な「奇跡の女」を生んでいる。ウェストファリーの小さな村で生まれたアンヌ=カトリーヌ・エメリッヒ(一七七四〜一八二四)と、ババリアのテレーズ・ニューマン(一八九八〜一九六二)である。
カトリーヌ・エメリッヒは、二十八歳の時、アウグスチヌス会の修道院に入った。一八一一年ナポレオン軍がやってきて、修道院を閉鎖したとき、三十七歳だった彼女の身柄は亡命中のフランス人司祭ランベール師に託された。修道院の厚い壁から出た「奇跡の女」は、またたくまに世間の大評判になってしまった。彼女は、飲み食いをせず、透視力があり、人の心を読み、キリストの受難を生きては聖痕から血を流し、空中に浮かび揚がるなど、はなばなしい奇跡を示した。当時のこの地方は、カトリック、プロテスタント、革命派、王党派と入り乱れていて、政治的にもこの「奇跡」は、ほうっておけなくなった。一八一三年、知事は、七〜八人の軍医と外科医(プロテスタントの医師を含む)を彼女のもとにおくり、「聖痕」を「治療」するためにありとあらゆることをした。包帯で巻いて封印したり、石膏で固めたり、腐食剤をつかったり、三週間、交代でつきっきりで観察したりしたが、「聖なる血」を止めることも、いかさまを立証することもできなかった。一八一九年には、強制的に入院させて徹底的に調べたが、結果は同じであった。彼女は、後にローマ教会から正式に福者認定を受けている。彼女は、マルト・ロバンと同じく当時の一部のインテリ層のアイドルとなっていたふしがあるところが興味深い。
有名なのはロマン派の小説家クレメンス・ブレンターノで、彼はワイマールの宮廷よりもカトリーヌ・エメリッヒのそばにいて秘書役を勤めることを好んだ。彼女の見た「受難」のシーンを逐一記録した彼はこう書き残している。
「彼女の言うことは簡潔にして深遠で、生とぬくもりに満ちている。彼女は野の花だ。いつも病の床にいながら繊細で生き生きとして、高潔で、バランス感覚がある。」
ユイスマンスは『大伽藍』の中で、旧約聖書に出てくるエルサレムの王、メルキゼデクについて登場人物にこういわせている。
「明確な記述が聖書にない以上、透視術にでも頼るほかはないでしょうが、この点はどうなんでしょう。エメリッヒ尼はメルキゼデクについて何か言っていますか?」
これは、神秘家の霊言が、聖書解釈学の一例として学者達に参照されたという事実を物語っている。
マルト・ロバンと重なる時代を生きたババリアのテレーズ・ニューマンの方は、インテリ層というよりも、マスコミをひきつけた。彼女の視力の喪失や全身麻痺は、ヒステリー性のものであるという診断が下されたし、数々の透視や予言も催眠状態のものとされた。神秘家の生の中心を「観想」におくローマ教会にとっては、テレーズの神経症的な法悦におけるヴィジョンは予言として認めることができないものだった。教会が認めたのは、彼女の「宣教師」としての価値だけであった。しかし、公式筋の懐疑的な態度を知ってか知らずか、白いヴェールに白い寝衣をつけたテレーズが、両手を胸の前で合わせて、聖痕から血を流しているセンセーショナルな写真は、長い間、繰り返し、ヨーロッパ中の週刊誌を賑わせてきた。白い衣は、血に染まり、両眼からは血の涙がたらたらとしたたり落ちている。テレーズはいわば「マスコミの聖女」としてその生涯を終えた。
第二ヴァチカン公会議以来、ますます民間の奇跡を排除しようという傾向のカトリック世界に「奇跡の女」として生きて、マスコミに一枚の「血まみれ写真」を発表することもなく、なおかつ、一般人から、インテリ層、教会権威筋にいたるまでのアイドルとなることは、至難の業と言ってもいい。スキャンダラスな「奇跡の女」が、宣教師としても、慈悲の人としても、確固たる足跡を残すことは、それだけですでに奇跡に近い。
マルト・ロバンはそれを成し遂げた。アルプスの田舎娘がいかにして聖女となるに至ったかを考察するには、ヨーロッパ文化全体の歴史と状況をパースペクティヴにいれねばならないだろう。
告解室の体験[#「告解室の体験」はゴシック体]
マルト・ロバンが生まれたローヌ・アルプス地方は、フランスの中でも、北と南の中間、ゲルマン的世界とラテン的世界の境をなすところだった。ケルト文化とローマ文化のはざまと言ってもよい。シャトーヌフの村の中心には、丘から降りてくるひとつの通りがある。その通りをはさんで両側に、魚の骨状に重なった丸い砂利石を積み上げた家が並ぶ。中心部から二キロメートルばかり、斜面を登っていくと、地元の人が「平原」と呼んでいる高台が広がっている。マルト・ロバンの生家は、平原の上の耕地の端にある二階屋の農家だ。周りには何もなく、空が広く、畑やガロールの峡谷を隔てて隣村のクレルモンの城がみわたせる。白っぽい壁に、白く塗られた雨戸が二階に三つ、一階に二つ並んでいる間をぬって、木の枝が這うようにしてはりついている。左手に粗末な白い、木の扉。右手には一九四〇年に建て増しされたマルトの寝室が張りだしている。
マルト・ロバンは、一九〇二年三月十三日の午後遅くこの家で生まれた。五歳でチフスで死んだ姉を含めて四人の姉と一人の兄がいた。父ジョゼフ・ロバンは、農民で、十ヘクタールに満たない耕地は、この地方では、ささやかなものと言っていい。短く刈った髪に、ぴんと張りでた両耳、堂々とした口髭を持ったがっしりしたジョゼフは、独裁的な父親であったようである。小柄で働き者の母アメリーは、レース編みのスカーフをいつも頭に被って、あまり外に出かけない物しずかな人だった。
ルールドの洞窟で有名になった十九世紀のフランスが生んだスター聖女であるベルナデットのように、貧困なうちにもひたすら敬虔な家族と子供達という図式は、マルト・ロバンにはあてはまらなかった。今世紀初頭のシャトーヌフは、キリスト教離れしていたばかりでなくむしろ積極的に聖職者を揶揄するような風潮にあった。この時期のフランスで、洗礼を受けていない子供が六パーセントにのぼったというのはかなりのことである。もっともたいていの子供は、それでも公教要理のクラスにかよって、十歳で最初の聖体拝領を受けてから教会を離れた。その結果他の地方に見られるようなキリスト教の青年組織は皆無だったという。
その理由は、シャトーヌフの産業人口に工場労働者が多くを占めていたことにある。すでに十九世紀の末には、ガロールの水を動力源とする製粉工場をはじめとする八つ以上の工場があったという。工場労働者の共産主義化はそのままカトリック離れにつながった。一九三〇年代のドローム県のコミュニストは、人口の十九パーセントにのぼったこともあったらしい。詳細はさだかではないが、シャトーヌフには十九世紀にカトリック司祭の醜聞らしいものもあったようである。マルト・ロバンが生まれたころの村には、共産主義とともに一種のリベラリズムの空気が支配していた。マルトの父も、むしろリベラルな人間で、クリスマスや復活祭などの大きな行事の時にしか教会に顔を出さなかったが、この辺ではそれでもまあ信心深い方にはいっただろう。しかし、とても「聖女の父」というほどのものではなかった。
マルト自身も、世紀末のフランスの生んだもう一人のスター聖女リジューの聖テレーズのように物心つくころから教会好きだった、などという逸話はまるでない。平原から二キロメートルの道を歩いて学校に通いだしたマルトは、家では従順、(「私の人生はいつも服従だった。」と彼女自身も後年語っている。)学校でもごく普通の子供だったらしい。この頃のエピソードで、「普通でない」ものといえば、病人の看護が趣味で、胆汁病に苦しむ母の世話をよくしたこと、学校ですでにほとんど物を食べなかったということくらいだ。昼食代わりのゆで卵一つを食べきれずに、学校のとなりの畑にこっそり捨てたのを見たという当時の同級生の証言が残っている。しかしこれは、後年の奇跡的な断食と強引に結びつけられて語られているのだろう。どこか滑稽で、卵を貧しい子供に分けてやったという脚色でもしたほうがよほど聖女の少女時代にふさわしい気がする。
マルトは十歳で最初の聖体拝領を受けた時に、初めて「主にとらえられた」という感覚を得た、とされている。しかし、散文的な環境で生きている少女が、イエスの肉を食べるという考えようによってはショッキングないいまわしを聞かされて聖体パンを口にしたのだ。強い印象を受けたとしても特に不思議なことではない。もともと第二次ヴァチカン公会議での近代化以前の田舎の教会は、なにやら怪しげな雰囲気を持っていた。とくに少女達にとって暗い禁断の場所だった。それは聖体拝領に先だって不可欠とされた告解のシステムのせいである。聖体拝領する前には、一定の断食や贖罪が必要とされていた。普通は、朝食を摂らずにミサに行くことで、前日の夜から断食したことになる。というよりも、この断食の条件が楽に満たされるために、ミサを朝に挙げる慣習が出来上がったと言ってもいい。
告解は、告解室で、仕切を隔てた司祭の前で、傲慢、怠慢から、過飲過食、淫乱にいたるまで、細かく自己批判して、その罪に対応する祈りを課せられるものである。昔は誰でも持っていた信者用の祈祷書に、各種の大罪、軽罪のチェックシートがついていて、誰でも何かの罪にひっかかるようになっている。罪の軽重に応じて、主の祈り二十回とか、各種の祈りを課せられたのを、うちに帰って数を間違えないようにロザリオの粒を指で繰りながら唱えて贖罪を果たすというのが普通のスタイルだ。この告解と贖罪は民衆の生活にとってカトリシズムの核をなしていた。紀元一世紀においては洗礼が唯一の罪の救済であると考えられていた。キリスト者の罪は聖別された水で洗礼を受けたその瞬間にあがなわれているのが論理というものである。しかし、実際問題として洗礼を受けた者がそのあとで明らかな「罪」を犯すことはありうる。これではまずいというので、二世紀においては、洗礼を受けた後で犯した罪は、公開の席で、一度だけ贖罪のチャンスを与えられた。では、一度きりの贖罪のあとで、またまた罪を犯したらどうなるのか? だいいち、キリスト教がヨーロッパ社会に定着するにつれて洗礼を受ける年齢は下がっていき、生まれてすぐというのが慣例になってしまっては、キリスト者は、成長しながら無数の罪を犯すことになる。洗礼は戸籍の役割を果たすようになっていく。これではだれも聖体拝領を受けるにたる無罪の身ではありえない。かといって、聖体拝領を禁止されることは破門ということであって、六世紀初めの公会議(五〇六年)で法令化した究極の懲罰だった。それでなくとも罪あるものが聖体拝領を受けると死んでしまうと言われていたし、民衆がそれに戦々兢々としていたのは事実である。試行錯誤を重ねて贖罪システムが成立したのは、七〜八世紀のことである。これとともに、聖体拝領の前に何度でもできる告解は告解僧と信者の間での秘密めいたものになってくる。告解=懺悔の義務づけが成文化したのは一二一五年の第四次ラテラノ公会議で、教会法二十一は、信者が一年に最低一回、復活祭の聖体拝領の前に告解するよう義務づけた。これは告解僧の仕事を膨大なものにした。ありとあらゆる罪の告白にそれ相応の罰を与えなければならない。良心的な告解僧なら対応しきれないのが当然だったろう。リヨンの聖シャルル・ボロメ(〜一六七二)が告解僧向けのマニュアルを書き、考えるかぎりの罪や悪徳を並べ挙げて、それぞれの贖罪に要する苦行や祈りを呈示したのは、それゆえありがたい虎の巻であって、十七世紀フランスの聖職者の間で爆発的な成功を収めたのも無理はない。
告解―贖罪―聖体拝領という教会の専横システムは普通の信者にとって恐ろしいインパクトをもっていた。民衆のレベルでは、聖体パンを食べても死なないかどうかというのが一種の偶然刑として使われていたという記録すらある。戴冠式の注油によって聖なる者とみなされていたはずのフランス国王も例外ではなかった。王と王の告解僧との関係は波乱を含んだ。複数の寵妃を公然とかかえていたルイ十四世をはじめとする歴代の王達は当然姦通の罪を犯しており、「神罰」は怖いが生活を変えるつもりはさらさらなく、何年もの間、復活祭に告解も贖罪も聖体拝領もしなかった。へんに正直で真面目で合理的でさえある。
告解の条件付けは、それゆえ公教要理とともにこどもたちに繰り返したたきこまれてきたものである。現代のフランス人ですら、第二次ヴァチカン公会議以前に子供時代をおくった世代なら告解にたいして過剰反応をしめすことはけっして珍しくないほどである。もっとも告解が最近まで市民権を得ていたということは、たんに罪ある身で聖体パンを食べて死んだら困るなどというプリミィティヴな感覚からだけではないだろう。これには一昔前までの若者の性感覚と関係があるという説明をする人もいる。つまり思春期からの性的な妄想だの自慰行為にまつわる罪の意識に悩んでいる青年にとっては、告解すれば必ずゆるされるというシステムは精神衛生にすばらしくいいことだったに違いないというのである。
逆に言えば、青少年を相手にする告解僧は、性的な罪をかなりの率で扱っていたということである。しかし聖職者は原則としては生涯童貞の誓いを立てているのだから、告解マニュアルにびっしり書き込まれた性的な罪のすべてを知り尽くすことは、告解僧の精神衛生にはよいはずはないだろう。ある種の告解僧にとっては、少女達が少年達に比べて性的な罪を告白することが極端に少ない理由がわからなかったらしい。告白を促すために、窮屈な告解室のなかで、まだ年端のいかぬ少女達に遠回しにあれこれ質問することもあったと思われる。
マルト・ロバンの同時代の老婦人達の多くは、子供のころ性的な情報のほとんどは教会の告解室で知らされたと語っている。その秘密めかした雰囲気に嫌悪の情をかきたてられた人もいる。マルト・ロバンの場合、田舎のどちらかと言えばからりとした環境で育っていた娘にとって、薄暗い教会や、告解室で顔の見えぬ仕切の向こうから聞こえてくる性的な言葉や、もってまわった祈り、キリストの肉の拝領という一連のイメージがトラウマを形成したということは大いに考えられる。それが彼女の「主にとりつかれた」体験だったのかもしれない。主にとりつかれた十歳のマルトは、しかしまだ「聖女」ではなかった。
苦痛こそ選ばれた者の証[#「苦痛こそ選ばれた者の証」はゴシック体]
一九一四年五月二十一日、十二歳のマルト・ロバンは、正式の聖体拝領のセレモニーをすませた。これは普通の子供にとっての一種の通過儀礼であり、このセレモニーをもって公教要理も終わり、学校も終わり、社会に出ていかなければならない。マルトは次の日から山羊番をするため野に出た。しかし、なにやら秘密めいた夢を見ることを教会で体験した娘にとってそれはあまりにもものたりないことだった。仕事の合間をぬって彼女は教会へ出入りする。彼女は、蚕の世話も豚の世話も嫌いだったと言っている。それなら家事を引き受けたほうがましで、一九一五〜一七年にかけて、夫が第一次世界大戦に出征中で留守だった姉の嫁ぎ先に寄宿して、姉の義父や子供達の世話をしている。冬の夜の習慣である近所同士の集会ではダンスをするのも好きだった。モラトリアムの自由な遊びの世界に生きていたのだ。モラトリアム人間が大人になるのを拒否して必ずしも病気になるなどというわけはない。しかしマルト・ロバンは、次の年、十六歳で、最初の決定的な病にたおれた。
しばしばめまいに襲われたマルトは眼と頭の強烈な痛みを訴えた。ある日台所で村の司祭が見ている前で転倒し、苦しみながら吐き続けた。その時から、麻痺状態と半睡状態がなんと二十七ヶ月続く。眼は光を受けつけず、何も食べなくなった。時々、夢うつつの状態で姉の持ってきてくれるコーヒーか紅茶をすするだけだった。後年の「奇跡の女」の要素がすでに出てきた。若いマルトが、仮死状態に「味をしめた」などというつもりはない。しかしこの二十七ヶ月の間、マルトは思うさまに夢を見続けることができたし、いつ終わるかもしれない不安定なモラトリアム状態どころか、現実世界と隔絶するという離れ業を知ったのだ。医師はマルトの症状に「嗜眠性脳炎」という診断を下している。後年のマルトが「眠らない」という奇跡で医学者を驚かしたことと合わせて考えると、「嗜眠性」という形容は皮肉ですらある。
ロバン家の眠り姫は、二年以上眠った後で,「司祭さんは、もうお帰りになった?」という言葉とともに眼をさました。一九二一年五月まで床についていた。眼を覚ました娘が次に見たのは白昼夢だったのだろうか、五月二十日に聖処女マリアの御出現を体験する。残念ながらこのときの御出現についての詳細はわかっていない。もっともこの後、「奇跡の女」にとってはヴィジョンなどというのは日常茶飯事となり、マリアも足しげく寝たきりのマルトを訪れている。ほぼ二十年後の一九四二年八月一日の御出現は、かなり詳しく書かれているが、「銀白の衣と帯をつけて、雨の後の晴れ間のような明るい青のマント、濃い栗色の髪で、母性的なしぐさで両手を広げて立っていた」そうで、頭に頂いた金の冠は、小さな金の十字架がぐるりを囲んでいて七色に輝く真珠が三列連なっていたという。とはいえマルトは、一九四〇年以来完全に視力を失っていた。当時の腹心のフィネ神父の許可を得て、わずかに残っていた視力を「神に奉献」したので、それはすぐにかなえられ、医師は、彼女の瞳孔がもう全く光に耐えられないと診断を下した。それなら一九四二年の「光り輝く」御出現というのは、当然「眼で見た」ものではないはずだ。こればかりでなくマルトの証言のあれこれを針で突くようにあら探ししていくと、彼女の言語は「科学的正当性」とは別世界のシンボリックなものなのだと納得したくなる。しかし、それにもかかわらず後年の彼女の言葉、彼女の生は、人を説得する真実の響きを持つ。そのパラドクスそのものがマルト・ロバンの奇跡ともいえるのだが、そのことについては少しずつ見ていこう。マルトがそうそうたる哲学者や一流の神学者までまきこんで、聖女となっていく奇跡は、創造の秘密にも似てドラマティックなのだ。
さて目覚めた眠り姫に戻ろう。二十七ヶ月の寝たきり生活の後でいわゆる「脚萎え」の状態になっていたマルトは松葉杖の助けをかりなければ歩くこともできなかった。父親は大きなソファーを買ってきて、台所の窓のそばにおいた。ここに座ってマルトは刺繍したり、教区の図書館から借りた本を読んだりという生活に入る。もう山羊の番をすることも豚の世話をすることもなくなったのだ。このころに、イエスの御出現を見たイタリアの聖母訪問会の修道女について書いた本を読んで強い印象を受けたらしい。修道女になることがマルトの新しい夢になっていったと想像することは可能である。実際彼女は少しずつ恢復に向かっていったので、このまま永久にうちに閉じこもっているわけにはいかないだろう。野良仕事に戻らないですむひとつの選択を彼女は発見したのだ。彼女は健康を取り戻せたことをマリアに感謝し、カルメル会の修道女になることを決意する。観想型修道院に入るということは究極のモラトリアム状態を生きることである。
この決意の背景には、リジューのカルメル会の聖テレーズがいる。十九世紀末に夭折したテレーズは,その著書ですでにポピュラーな存在になっていた。死後の奇跡(彼女の墓で祈った人の病が治癒した)も相次ぎ、一九二三年福者に、二五年聖者として認められた。これは異例のスピードである。十八回のマリア御出現を経てルールドの泉を掻きだしたベルナデットですらテレーズの二十年近く前に世を去りながら、聖女の称号を得たのは、一九三三年でしかないのをみてもわかるだろう。テレーズの著作には、信仰について自信をなくして苦しんだ赤裸々な心の記録が書いてあり、それまでのお定まりの従順一方の聖女伝によってはもう新しい世紀の懐疑主義を支えきれなくなった教会にとって、彼女を聖化することは思い切った近代化路線の表明でもあったからである。この作戦は効を奏し、いわばテレーズは当時のフランスの「時の人」となったわけで、ジャンヌ・ダルクとならんでフランスの守護聖人であると宣告されさえした。前述のババリアのテレーズ・ニューマンも、聖テレーズと同名ということから深い影響を受けたと言っている。マルト・ロバンがカルメル会入りを志願したのも不思議なことではない。
しかしマルトは、結局修道院へは入らなかった。そのかわりに姉の家の屋根裏部屋に入った。そこで題名を忘れてしまった「運命の書」を手に取るのだ。そこにはこんなふうなフレーズがあった。「歓びよりも苦痛を求めよ。」「汝は苦痛のためにある。苦痛の中で自分を準備しなくてはならない。」この本は、当時のたいていのうちの屋根裏部屋に埋もれていた『キリストのまねび』ではなかったかと想像される。この古典は十四世紀に書かれたと見られるキリスト教世界の大ベストセラーであるが、徹底して卑下と苦行を勧め、「イエス・キリストの全生涯は十字架であり長い殉教であったというのに、汝は休息と喜びを求めるつもりか?」といったフレーズに満ちている。健康な人から見ればほとんど病的にも思える厳しさも、病みあがりの若い娘、家族を捨てて修道院にいくという期待と不安とに引き裂かれていた娘にとっては、劇薬のようなものだった。それでは、病気は、稼ぎがないという恥ずかしいことではないのだ。苦痛は選ばれた者の証ではないか。マルトは稲妻に撃たれたようになる。「すべてを神に捧げよ」のフレーズが痩せた胸にこだました。マルトは教会に駆けていった。十字架像の前に身を投げ出して「ウィ」と答えるために。
絶食のまま生きる[#「絶食のまま生きる」はゴシック体]
この日を境にして、マルト・ロバンはふたたび、二度と恢復を知ることのない病へと舞い戻った。眼と歯と背中の激痛を訴え、医者から医者へと渡り歩いた。一九二三年村に着任したフォール司祭は、マルトの「気の病」を叱り飛ばして彼女を震え上がらせた。父親はマルトのことを「稼ぎにもならない」と言って嘆息した。彼女は、主としてアスピリンであった薬代をまかなうためにベッドの中で刺繍や編み物のアルバイトに励んだ。その他の時間は祈りをすることと読書に費やした。うちからは出ないがケーキを自分で焼いて友をもてなすことはたまにあった。このころの友人には後にクラリス会にはいってアルデーシュの修道院長にまでなったジャンヌ・ボンヌトンのような信心深い女がいて、マルトの秘書のような役割をした。話題も信仰に関するものが多かったという。
一九二三年には、家族に勧められてサン・ペトレィという有名な湯治場に三週間滞在した。心身症がなおるはずもなく、家族の期待も空しくマルトはもっとひどくなって帰ってきた。しかしこのころの彼女はすでに独特の敬虔なオーラを発していたらしく、湯治場で知りあった男爵夫人マダム・デュ=バイにみそめられて、以後、一九四二年の夫人の死まで、運転手つきの車が時々日曜日の午後マルトの家の前に停まることになる。夫人は、マルト・ロバン巡礼の記念すべき最初の人で、彼女が次第に村のスターになっていくきっかけともなったにちがいない。また、夫人は信仰の書のかなりの量の蔵書を持っていたといわれ、マルトにイエスの受難について語ったことは想像に難くない。後年のマルトは、ソルボンヌ大学で「神の存在」について講義するのに備えて質問しにきた哲学者ジャン・ギトンに答えて、「聖痕者」の存在など自分が聖痕を受けるまで知らなかったと述べている。つまり聖痕の暗示を受けていたわけではなかったというのだが、一九二〇年代のマルトの読書や交友関係から推すと、聖者伝にまったく通じていなかったとは考えにくい。彼女は信仰についてのいっぱしの権威になっていたふしもあって、聖痕の存在を知らなかったとは思えない。ただマルト・ロバンのすごいところは、何十年も聖痕から血を流しつつも、決して「聖痕」ということばそのものは口にしなかったというところだ。ジャン・ギトンの質問に答えるのにもいつも細心の注意をはらってこの言葉を避けている。彼女は直感的に、ローマ教会をおびやかすようなすべての言葉を避けた。自分を、無知でへりくだっているゆえに神に近づけたつつましい存在と位置づけるレトリックの天才みたいなところがある。
すでにこのころ彼女のうちに出入りしていた友人達も彼女の印象を、「謙遜した人」だと言っていると同時に会話術にたけていたことを認めている。マルトが神について語るときには、友人達は涙を流し、悪魔について語るときは、皆が怖さに震えたという。
一九二五年には半分雨戸を閉めた薄暗い部屋の安楽椅子を離れなくなった。果物と飲み物以外には、何も口にしなくなった。その年、ヴァランスの司教区が組織するルールドへの病治療の巡礼に参加する割当が与えられた。病の中に自分の生きる道を見いだしはじめていたマルトにとっては、このチャンスは危険な誘惑だったに違いない。彼女のような信心深い女の病気がもし精神的なものだったとしたなら、このときルールドの水浴で劇的に治っていた可能性は大きかったろう。彼女はこのディレンマをスマートに解決した。巡礼のチャンスを隣村の病人に譲ったのである。マルトの寛大さは美談として残り、病を生きる決意をいや高めたであろう彼女は、これをひとつのターニング・ポイントとした。十月十五日アヴィラの聖テレサの祝日に自己奉献の誓いを立てたのだ。
翌一九二六年十月三日、前年に聖別されたリジューの聖テレーズの初の典礼式の日、聖テレーズは、マルト・ロバンの枕元に三度「御出現」して彼女にこの世での「使命」を伝えた。(聖テレーズは宣教の守護聖人ともされていた。)マルトはその後で昏倒し、三週間にわたって仮死状態になる。弱々しい呼吸以外に彼女が生きていることを示す兆候は何もなかった。こんな田舎では、信心深い娘が仮死状態になるというだけで、充分「普通の人々」の度肝を抜いたに違いない。げんに彼女の友人は、マルトをベルナデットにたとえてすでに「聖女」と呼んでいた。彼女らの語彙には、「神秘家」ということばはなかったからだ。マルトの「気の病」を叱り飛ばしていたフォール司祭も、こうなるとほうっておけない。うかうかしていると、この小娘は、教会のヒエラルキーを無視した「村のカリスマ」になってしまう。一九二八年、もうオレンジを吸ってだけ生きていたマルト・ロバンは、神父の勧めで、フランシスコ会第三会(男子修道会、女子修道会に続く在俗の組織である)に入会する。もともとマルトには教会の権威にたてつく意思は毛頭ないので、カルメル会には入れなかったけれどこれで、家に寝たきりで公式なタイトルをもらえるというわけだからいたく満足した。手紙の末尾に「フランシスコのシスター」と署名したりしている。次の年から、両脚は完全に麻痺した。神父が週一〜二回届けてくれる聖体パン以外何も口にしなくなった。それと同時に永遠の不眠がはじまる。本格的な寝たきり生活に備えて、彼女は特製ベッドを注文した。幅九十センチ高さ五十センチの頭板のついた広くて短いベッドである。ここに彼女は頭と肩をもたれかけさせていた。麻痺した両脚はMの字の形に折れ曲がり、両膝を支えるのにクッションを当てがっていたという。かすかに左に傾いた頭は少しでも動かすと肩の上に落ちて自力では戻せなかった。右手は胸におかれ、左手は、体に添ってまっすぐに伸ばされた。ベッドの長さが一メートル十しかなかったわけは、先に述べたアクロバチックな姿勢に脚が折れ曲がっていたからである。彼女はこの姿勢で、以後五十年近くを過ごすのだ。後に、医者の残した所見によると、こうなっている。「股は腰の上で軽くたわんでいて内転し、両膝は互いにくっついて頭の高さのところでクッションに支えられている。両ふくらはぎの裏側は、左股の内側に接している。両足の先は右側をベッドにつけている。」詳細な記述にもかかわらず想像を絶するではないか。マルトが死んだときもこれはかわらず、死姿を拝観するためにおしかけたひとびとから脚を隠すために、聖体拝領の儀式に使うたっぷりした白い衣を着せなければならなかった。心身症であろうが奇跡であろうが、マルトのこの姿を思い浮かべるとき、痛ましさがつのる。この姿で「聖女」を演ることができたなら、それだけで聖女に値すると思いたくなる。
物を食べないのだから聖体拝領を受ける条件である最低十二時間の断食には困らない。神父は、午後でも夜でも好きなときに聖体パンを運んでくることができた。聖体パンは、軽い小さな薄い無酵母パンであり、口に入れるとほとんど溶けてしまうような物で、これを週二回口にしたからといってとても栄養の足しになるものではない。しかもマルトは、一滴の水も飲まないようになっていた。嚥下機能が完全に麻痺していて、舌の上においた聖体パンだけがするりと飲み込まれていくのがそもそも奇跡だった。彼女が、ひそかに飲食物を摂取していたかもしれないという疑問はナンセンスに近い。五十年間である。腸はすべて萎縮して張り付き、腹から背骨がはっきりさわれたという。排泄行為があったかどうかを記録したものは見たことがないが、医師のカルテには、血尿という表記がしばしば見られる。
後年の聖体拝領は、腹心となったフィネ神父の手で毎週火曜日にのみ行なわれた。(週の他の日はほとんど「受難」を生きるようになっていたからである。)まず神父は、からからに乾いたマルトの口を水かコーヒーで湿らす。舌も口蓋にはりついているので、白ワインと混ぜた水で舌をぬらして聖体パンをおけるようにする。これらの液体は、嚥下機能のないマルトの口からあふれて顎をつたって流れてくる。それをあらかじめ当てがっておいた容器に受けて捨てるのである。そのあとでいよいよ聖体パンが授けられる。その瞬間は、絶え間ない苦痛の連続だったマルトの日常のなかでの唯一の歓喜の時であった。パンの通過は痛みを伴いはしたが、マルトはエクスタシーにおちいった。聖体パンが「ひりついた喉を落ちていくときは、痛みさえなかったら、この世の天国のようなひとときなんです。」と彼女は語っている。「神秘の結婚」と呼ばれるこのエクスタシーは二時間続いたそうで、意識を取り戻した後もまる一日の間幸福感は消えなかった。エクスタシーの二時間は離魂現象のおきる二時間でもあった。彼女はこうしてローマやコンスタンチノープルなどあらゆるところを旅したり、イエスやマリアや天使達に自由に会うことができた、と後年語っている。注目すべきことは、この種のことを語るたびに彼女は、次のように付け加えることを忘れなかったことだ。
「どっちにしても、こんなことはぜんぶ本質的なことではありません。むしろ超越してしまわなければならないことです。(超常現象が)あるのはけっこうだけど、ないほうがもっとけっこうなことなんですよ。」このレトリックはたくみである。彼女の「奇跡」に興味を持つ人々の気をそらし、その「真偽」を確かめようとする根拠をくずす。同時に彼女がそういう「すごい」ことすらを超越した悟りの人のように見せ、個人の奇跡に眼をひそめる教会の警戒心をとく効果もある。そしてなにより、教会や一般人の嫉妬や揶揄から身を守る最大の武器である「へりくだり」の証となるからである。
金曜日ごとの受難[#「金曜日ごとの受難」はゴシック体]
こうして絶食と全身麻痺を二十三歳で「達成」したマルト・ロバンであるが、「奇跡の女」となるためには、あとふたつの決定的な出来事を待たねばならなかった。
ひとつは受難の体験と聖痕の出現であり、もうひとつはフィネ神父との出会いである。
一九三〇年八月十一日、二十八歳のマルト・ロバンは、マリー=ベルナール神父から「処女奉献」のセレモニーを執りおこなってもらった。すでに自分自身では五年前にアヴィラの聖テレサに身を捧げる誓いを立てている。それがこれで晴れて教会によって確認されるのだ。初めのうちはこの奇妙な病気の娘に当惑していた教会筋も、マルトがフランシスコ会に属したこと、教会の独占する秘蹟である聖体拝領を尊ぶことを確認し、だいいち寝たきりの不具者になってしまったのでもうこれからさき意を翻すという可能性も薄かろうとふんだのかもしれない。在俗のまま処女を奉献するという誓いを受け入れた。マルト・ロバンは聖テレサへの供物ではなく、イエスの手足であるところの「教会」への供物となったのである。
その日はマルトにとって、憧れのカルメル会で「修道女=イエスの花嫁」として終身誓願をすることに等しかった。しかも修道院入りの持参金もいらなければ生家をはなれることもなくである。生涯最高の日だったろう。麻痺した体を花嫁衣装につつむ。今残る数少ないマルトの写真は、死姿を除いては、この日の「晴れ姿」がしめている。異様に短いベッドの中でレースと刺繍でふちどられた白いクッションに上半身をもたせかけた彼女は、やはりレースのふちどりのある白いヴェールと寝衣をまとっている。左手はシーツの中にあり、ミイラのように細い右手は曲がって胸の前におかれている。カットワークの飾りのついた胸元には大きめの十字架といくつかのメダルが細い鎖にかかっている。
広く秀でた額、はっきりした眉、大きな眼はどこか遠くのものを見ているようだ。意思的に結ばれた唇は乾ききっている。ベルナデットのような農家の娘というタイプではなく、こづくりで繊細な、むしろ愛らしい感じの娘である。健気な、という形容がぴったりくる。彼女の病が、たとえ彼女が意識的にか無意識にか望んだことであったにせよ、寝たきりで教会に処女を捧げる娘の姿は、運命に鞭打たれた苦悩の人の姿にも見える。病が彼女を強くし、透明にしていった。肉体を投げ捨てた彼女から懍性が立ちのぼってくるようだ。
この日から彼女は、足しげく通ってくるフォール司祭と、ほとんど対等に語り合うようになる。村にキリスト教の女子学校を創立しようという話し合いもなされる。今や教会に属するマルトは、司祭といわば同じ業界人というわけである。司祭にとっても、自分の教区に「はねかえり分子」を出すのは立場を危うくすることで今まで距離を保っていたものの、いまや上位のヒエラルキーの神父達もマルトを容認したということで、責任感からも解放された。このままいけばマルトは優等生の信者として無事生涯を終わったかもしれない。
ところがことはそう簡単にはいかなかった。それから一月半たった九月末、マルトはついに究極の人イエスの御出現を経験するのである。
「おまえは私のようになりたいか?」とイエスは質問した。姉の家の屋根裏部屋で『キリストのまねび』をひもといたあの日から、いったいマルトがそれ以上のことを望んだことがあっただろうか? 少女のように暖かい澄んだマルトの声がそれに答えた。「わたしのわたしは、イエス様、あなたです。わたしの生があなたの生とそっくり同じになりますように。」
マルトは祈り、期待と不安に身を震わせて、待った。その日はくる。十月二日のことである。ふたたび、イエスの問いかけ。「おまえは私のようになりたいか?」
か細いがメロディックなマルトの声が、恋する人のように答える。
「わたしは、あなたからくるものぜんぶを、愛とともに受けいれます。」
イエスの心臓から暗い赤色に燃える火の矢が放たれて、十字架となり、寝たきりのマルトの背にはりついた。マルトはのけぞる。焼けつく熱さ。次の火の矢。両足が鋭い痛みとともに貫かれる。そして両手。次の火の矢は、左の脇腹にうがたれた。すべての傷から、やがてゆっくりと血が流れはじめた。頭部には、茨の冠のように火の輪が襲った。血が噴き出す。両眼からは、血の涙がしたたりはじめた。
娘の悲鳴を聞いたように思ったロバン夫人は、寝室のドアを開けて血まみれのマルトを発見した。カタストロフ。娘の死? ロバン夫人の語彙に「聖痕」がなかったのはほぼ確実である。医師と司祭が呼ばれる。娘の脇腹の傷は十センチの口を開いていた。
歴史上聖痕現象といわれるものにはあらゆるバリエーションがあるが、マルト・ロバンのそれは教科書的に完全なものであった。司祭がこの衝撃をどう受けとめたかは定かではない。「毒くらわば皿まで」の心境だったか、心の底でこれを期待していたか? 数年前にそう遠くないババリア地方でテレーズ・ニューマンが聖痕を得て関係者の耳目を集めていたのだ。きたるべきものがきた、というところだったかもしれない。
イエスの言葉や火の矢を立証するすべはもちろんない。しかしある種の似非神秘家が試みたような聖痕と見せかけて自分で傷つけたり血をなすりつけたりといった類のごまかしがあったわけでは絶対にない。マルトは、この日以降死にいたるまでの五十年間、毎夜血の涙を流し、毎金曜日体中の聖痕から血をながすのだ。一九四〇年に完全に視力を失って寝室の雨戸を閉めきってしまうときまでマルトの聖痕は何万人もの人によって目撃されている。もともとこの世から隔絶しているかのような生活をしていた彼女は、おのれの体に別世界からのメッセージを刻むことで、村のスターとして脚光を浴びた。聖痕が彼女を聖女にしたわけではないが、聖痕によって彼女の世界は途方もなく広がった。ヴァランスの司教ピック猊下が直々に訪れた。彼にとっても聖痕はどう対応すべきか当惑させられるものであったに違いない。司教には司教区でおこるあらゆる「奇跡」について公式の見解を表明する全権が与えられているのだ。彼は魂の師と仰いでいたイエズス会士で神秘神学の専門家でもあるアルベール・ヴァランサン師にマルトを紹介した。三時間にわたってマルトのそばですごしたヴァランサンは、司教にこう言った。「マルトは教会の子だ。」
この言葉は、他の仲介なしに神との関係を生きる神秘家がローマカトリックの中で生きる上で考えられる最大の賛辞であろう。マルトは「奇跡」にともなうリスクをクリアーしたのだ。
毎金曜日にマルトは、キリストの受難を生きた。どの教会にも、ぐるりを「十字架の道」とよばれるキリストの受難図が順を追って描かれているように、キリストの最後の日に感情移入してその跡をたどるというのは、キリスト教ではクラシックな手続きである。特に復活祭の時期には、イエスの最後の場面を忠実に観想していくことが重要だった。ある種の修道院や信者が、イエスが鞭打たれた時間に合わせて一斉に自分を鞭打つという慣習も広く行なわれていた。(第二次ヴァチカン公会議以降は、この習慣も他の多くのことといっしょにすたれ果てた。)
マルトの受難は、木曜日の最後の晩餐のシーンからはじまってゲッセマネの園での苦悩、逮捕、鞭打ち、十字架での死から復活までのすべてのサイクルを経験するものだったらしい。マルトの内部で何がどういうふうに展開していたのかはもちろん想像できない。彼女の言葉から察するに、それは一種の離魂現象であるとともに、時間と空間の旅でもあったようだ。つまり彼女はイエスとなって受難を生きたのだ。外部からはっきりわかることはそれが激しい苦痛をともなうものらしいということである。「受難」の継続時間は次第に長くなり、晩年には、毎週木曜日の夕方に始まって、次の週の月曜の夕方か火曜日の朝まで続いた。まさに受難を生きることが、生活の大部分をしめたと言える。受難の間は、激痛のためほとんどしゃべることもできなくなり、彼女にとってすらそれは恐怖で、木曜日になるとフィネ神父にこういったそうだ。「神父様、きょうは、木曜日ですわね、」「ご存じですわね、神父様、今夜は……。」「神父様、私はもう……。」試練への不安。フィネ神父は、「大丈夫です、我が子よ」といってマルトを励ます以外になすすべとてなかった。一九三七年八月二十日には、受難に立ち会ったフィネ神父が分秒刻みにつけた記録が残っている。それは木曜日の午後九時に始まった。痛みは続き、マルトは新生児の泣き声のような弱々しい呻き声をあげ続ける。モノローグは、劇的な調子ではなくささやくようなものだった。ゴルゴタへの道をたどるときは、十字架の重さに三度膝をつき、その時には、三度首ががっくりと垂れた。十字架の上での苦しみはひどく、聖痕は血を噴き出し、頭はのけぞってベッドの板に打ちつけられた。血の涙と祈り。午後三時五十五分、「神よ神よ、どうしてわたしを見捨てられるのですか?」という最後の言葉とともに深い吐息が漏れる。そのあとまる二時間にわたって仮死状態におちいるのだ。そのあと聖なる父の赦しを得てから仮死状態からは戻るが、半睡状態で呻き続ける。マルトを受難から完全にひきもどすには、一種の呪文が必要だった。マルト自身が口述してフィネ神父に書き取らせたものであった。その文句はこうである。「我が子よ、父と子と聖霊の御名において、我等が母マリアによって命令する。われにかえりたまえ。」
マルトは意識を取り戻し、聖体拝領をし、巡礼者に会ったり手紙を口述したりという火曜〜木曜のルーティーンワークにとりかかる。じつに驚くべき五十年間ではないか。
一九四〇年以後は、眼が明かりを受けつけないというので雨戸は閉められ、豆電球のかすかな光しか寝室にはなかった。これもマルトのすごいところで、自分が視力を「奉献」したばかりか自分の姿までも闇にほうむってしまったのだ。マルトを訪れる人はみな、自分の視力も犠牲にするという状況におかれた。彼女の網膜がどんな光にも耐えられないというのは本当だったらしく医師の診断もあるし、ベッドに触られただけで全身が痛むという状況だった。だからテレーズ・ニューマンとちがってマルトの聖痕写真というものは残っていないし、したがって見せ物を嫌う教会の迷惑にもならなかった。
もっとも彼女を訪れてシャトーヌフまでわざわざ出かけてくるような信仰あつい人々には、聖痕はかっこうの教育材料だったので、時と場合によっては惜しみなく見せられた。たとえば一九四六年の復活祭の聖金曜日には、地元の高校生のクラス全員がマルトの寝室に招かれている。足と脇腹は見えないにしても、眼を閉じたまま横になっているマルトの血の涙や、額を点々とかこむ血や、両手の聖痕ははっきり見えたとの証言が残っている。フィネ神父は、みんなによく見えるようにと、懐中電灯でマルトの顔を照らしだしたそうである。マルトは眠っている人のようだった、と高校生は言っている。
ヴァランス司教ピック猊下は、リヨン大学医学部のドゥショーム博士と、リヨン病院の外科医リカール博士とに、マルトの検査を要請した。カトリック内部の超常現象を認可したり、あるいはたんに野放しにしておくだけでも、そのためには神学者の意見だけでは充分ではない。医師の説明、あるいは医師が「説明不能」というお墨付きを与えなければならないのだ。マルトのすべての症状は確認されたが、解明はされなかった。一九四二年四月十四日付けの二十頁にわたる医学報告を私達は読むことができる。それによると聖痕の状態は必ずしも一定していたわけではない。最初の聖痕は、赤みがかった青の皮下溢血のまま二年間残り、そのあとではかさぶたも出血もない擦り傷状に六ヶ月残った。それが金曜日ごとに出血したわけである。その後はふだんの傷は消えて、ただ金曜ごとの出血だけが残った。一九三四〜六年にかけては聖痕のないときもあった。とくに一九三六年には二ヶ月間出血のないこともあった。マルト自身も、晩年に自分の聖痕のことを「永遠ではあるけれど少しずつ内面的になっていく」と語っている。「もう何年も前から、私は十字架につけられているのではなくて十字架そのものになってしまった」とも。晩年には数々のヴィジョンも「卒業」して、イエスの本質のみを見るようになったという。超常現象をいわばプリミティヴなものと認識するに至ったのはマルト・ロバンの最大の知恵であった。闇と苦しみが彼女を研磨していったのかもしれない。しかし彼女の「超越」の契機になったものは、一九三六年におけるフィネ神父との出会いであった。病と「奇跡」にがんじがらめになっていた彼女の天才はフィネ神父を得て花開いた。フィネ神父を通してその天才を社会的に燃焼させることができたからこそマルトは見せ物芸と紙一重の奇跡を超越することができるようになった。新しい次元での奇跡の成就である。脚をねじり曲げた血まみれの不具者はベッドの中のひとつの宝石となって輝きを世界中に投げかけたのである。
オーガナイザーとの出会い[#「オーガナイザーとの出会い」はゴシック体]
フィネ神父は、ブルジョワの出身で、一八九八年九月八日、ババリアのテレーズ・ニューマンに少し遅れてリヨンに生まれた。一九二三年に司祭叙品をうけた。徹底的に活動的で精力的な人だったようで、寝るまも惜しんで仕事するワーカホリックのタイプであったらしい。教育事業に熱心で一九三六年当時はローヌ県とロワール県のキリスト教系の学校全部を統制する責任者であった。とても田舎の神秘家に気をとめてあれこれ詮索することなどする暇のない立場であった。
しかしこの実務家にもたったひとつの泣きどころがあった。マリアである。彼は十八世紀の初めに無名で死んだフランスの聖者グリニョン・ド・モンフォールに傾倒していた。この聖者は十九世紀半ばになって発見された著作『真の聖処女信仰とマリアの秘密について』によって認められた。バック通りでのマリア御出現以来ブームになりつつあったマリア信仰の時代の波に合ったのである。グリニョン・ド・モンフォールが内輪の供覧にふすためにひそかに書いたものであったらしい。(彼の列聖は一九四七年である。現在はヨハネ=パウロ二世が傾倒していることで知られている。)フィネ神父は、当然ながらマリアに自己を奉献した。しかしその時に、付帯的な誓いを自らに課したのである。いわく、「マリアの御名によって頼まれることは絶対に拒否しないこと。」
一九三五年、リヨンの南方の小村の農家のベッドに寝ていたマルト・ロバンにひとつのアイディアが訪れた。村の学校に「マリー・メディアトリス(仲介者マリア)」の図柄の絵を飾りたいということだ。この学校は、マルトに催促されたフォール司祭がやっとのことで開設にこぎつけた苦心の結晶であった。正直のところこのころマルトは一介の田舎司祭にとっては手に余るようなパースペクティヴを備えた存在となってきていた。
さてマルトの希望を聞いたリヨン在住のブランク嬢は、絵を注文した。王冠を頭に頂き両手を十字架のように広げたマリア像は、バック通りのそれにも似てシンボルに満ちていた。のっぺらしたノスタルジックな表情、蛇にまとわりつかれた足元からはひとつの植物が伸びていて、マリアの胸のところで聖体パンの花を咲かせている。頭上には白鳩、依て立つ半球からは、蛇が立ちのぼっている。絵を届ける役は、車を持っているという理由でフィネ神父に割り当てられる。いそがしい身の神父は、それでもマリアの画像のつかいを断るわけにはいかない。
一九三六年二月十日午前十一時フィネ神父は地図をたよりにシャトーヌフの村に着いた。司祭館をたずねて絵をことづける。神父は注文主の名前すら知らなかった。
「うちの信者(司祭はマルトのことをこう呼んでいた)にお会いになりますか?」とフォール司祭は質問した。
「おたくの信者とは誰のことですか?」
「マルト・ロバン」
「何者なんですか?」
「ひとつの選ばれた魂です。」
リヨンで告解僧として多くの婦人達を知っていたフィネ神父にとって「信心深い女性」は珍しいものではなかった。気のり薄の彼を、それでも司祭はマルトの家まで案内した。うちではロバン夫人がスープを温めていた。十一時半である。四ヶ月後に世を去るロバン氏もいあわせた。フィネ神父が絵の包み紙をといている間にフォール司祭は、マルトの寝室に姿を消した。しばらくして出てきたフォール司祭は「マルトはあなた自身が絵を持ってきてくださるようにと言ってます」と言う。敬愛するマリア画像をかかえてフィネ神父は寝室へ入った。それ以降彼が生涯をかけることになる寝室である。
マルトは絵をほめたたえ、ビロードのようなやわらかな声で祈りを捧げた。「午後にもう一度いらっしゃって。」何かがおきた。マルトの磁力がフィネ神父をとらえた。大きな絵をかかえて半信半疑で寝たきりの女の寝室に入ったフィネ神父は聖女マルト・ロバンの戦う使徒となって寝室を出てきたのである。
二人の男は司祭館にもどって昼食をとった。午後二時にフィネ神父は運命の女の部屋に舞い戻って三時間を過ごした。最初の一時間はマルトがマリアについて語った。マリア学の講演さえ受け持っている神父にむかってである。神父はこのときのことを忘れられずあちこちに記録が残っている。彼の受けた印象は驚くべきものだった。「マリアとマルトはお互いによく知り合っている」という直感である。二時間目は、教会の将来についての予言が続いた。マルトは第二次ヴァチカン公会議を予見し、これからのキリスト教世界での在俗者の役割の重要性を述べた。世界中に光と慈悲と愛との家を創らなくてはならない。それは今まであるような修道会とちがったまったく新しいコンセプトをもつものでなくてはいけない。神父や司祭に指導されながらも在俗者の自由な開かれた奉献の場であるべきだ。淡々と、しかし静かな確信に満ちて話してきたマルトは、三時間目にフィネ神父にむきなおる。「神父様、私は神にかわってあなたにお願いがあります。」
「なんですって? マドモワゼル」
「最初の慈悲の家を創るためにあなたがこのシャトーヌフにいらっしゃらなければなりません。」
「私が? だって私はここの司教区じゃありませんよ。リヨンの人間ですよ。」(シャトーヌフはリヨンと反対側に四十キロ離れたヴァランスの司教区に属している。司教区を越えることは高度に発達したカトリックの官僚制度では無視できない政治問題だといっていい。)
「それがなんだって言うんです。神がお望みなんですよ。」
「なるほど……でもいったい何をするんですか?」
「観想修行にくる人達に説教をするんです。」
「いったいだれが修行に来るんですか?」
「女性です。」
「なるほど一種のサークル活動ですか?」
「とんでもない、マリアさまは五日間の完全な沈黙を要求しています。」
「女性が集まって五日間も黙っていられるなんて本気で信じているんじゃないでしょうね?」
「マリアさまがそうお望みなのです。」
「でもどうやってその集まりのことを宣伝するんですか?」
「マリアさまにまかせるのです。イエスも恩寵をたまわれます。あなたが心配するにはおよびません。」
「でもどこで?」
「女子学校です。」
「でも合宿するにはベッドも台所もいりますよ。だれが工事するんですか?」
「あなたです!」
「そんな金がどこにあるって言うんですか?」
「心配なさらないで、マリアさまがついています。」
「いつが最初の合宿の説教になるんですか?」
「九月七日です。」
フィネ神父がいかにマルトに引き込まれたとはいえ巨大なローマカトリックの宮仕えの身である。彼がリヨンにかえって最初にしたことは上司の判断を仰ぐことであった。報告を受けたボルネ助司教の答えは意外なことに明解であった。
「マルトが頼むことならききいれざるを得まい。」
このころのマルトはすでに教会内にしかるべき説得力を持っていたのだ。神秘神学のアルベール・ヴァランサン師も「マルトはシエナの聖カタリナをおもわせる。」とフィネ神父に太鼓判をおした。ヴァランサン師がマルトに出会ったのはヴァランス司教の仲介だったことは先に述べたとおりである。フィネ神父は安堵して司教区の壁を乗り越える決心をした。ヴァランスのピック司教が両手を広げてリヨンのフィネ神父の介入を受け入れたのは当然の成り行きだった。村の人々の思いがけない協力を得て、学校の改造は実現し、予定どおり九月七日に最初の観想修行がはじまった。参加者は三十三名の女性であった。九月八日の夕方、聖体パンを授けるためにマルトのもとを訪れたフォール司祭は、マルトの告解を聞こうと腰をかがめた。ところがマルトが告解をはじめたのは、同行してきたフィネ神父にであった。それはあたかも慈悲の家を実現させたフィネ神父を慰労するかのようである。フィネ神父はこの瞬間からマルトの告解僧として彼女の唯一の魂と肉体の糧である聖体パンを授ける人となった。マルトは祈り、フィネ神父は使徒となり、マルトの死にいたるまでの四十五年間、この絶妙のコンビは世界中に六十の「慈悲の家」組織を創設するのである。慈悲の家システムは以後少しずつ検討を加えられ、男女、聖俗、宗教、階層を越えた混合の開かれたものになっていった。マルトとフィネ神父の念頭にあったのは、エルサレムの原始キリスト教会のイメージであった。マルトに個人的に会見したい希望者の巡礼システムもフィネ神父によって確立した。フィネ神父も辣腕のオーガナイザーであったのだろうし、マルトのオーラがすべての参加者に浸透していったのも事実である。
教会・神父・神秘家[#「教会・神父・神秘家」はゴシック体]
マルトとフィネ神父の結びつきがもたらした果実をみると、近代日本のいくつかの新興宗教における教祖とオーガナイザーとの関係を思い浮かべるむきもあるだろう。シャーマン的な女性教祖が、インテリで組織力のある理論家に出会って巨大な信仰の帝国をつくっていくというケースは、確かにあった。シャーマンがシャーマンとして崇められるには、王と戦士を必要とするというわけだ。しかしマルトとフィネ神父の関係にそれを見ようとするのは一部分しかあたっていない。マルトの奇跡はカトリシスムという象牙の塔の制約の中で、しかし、今では必ずしも機能しなくなっているカトリシスムの有機的構造を最大限に利用してメッセージを広めたということである。
マルトとフィネ神父の関係を考察するためには、カトリシスムにおける神秘家や権力者と彼らの告解僧との関係についてまず考える必要がある。神秘家は、原則として自分と神あるいは絶対者との間の直接な関係を生きている、本質的に反体制的な存在である。王は自らを絶対者にしたいのだから神を頂点とするピラミッドと相容れない。王と神はライヴァル関係にある。これはローマカトリックの核をなすシェーマとかかわっている。すなわちローマカトリックがたった一つの神、たった一つの聖職者体系、たった一つの教会法体系からなっているというシェーマだ。聖職者とは何かというと、聖体パンという「依り代」に「神下ろし」をするという権限を独占している集団である。これがあるゆえに、「聖―俗」分離は動かせなく、また、高度に発達した聖職者内部の官僚機構の複雑なヒエラルキーにもかかわらず、すべての聖職者は平等な「全体」なのだ。ローマ法王も枢機卿も、世界の果ての名もない教区のたったひとりの貧乏司祭も、イエスの手足=教会の一部であり、聖体拝領によってイエスの体を再生産していくことにおいて等しい。彼らの一人一人は教会の一部であると共に教会そのものである。司教は司教区における「教会」=神の代理人である。彼の決定には本質的にローマ法王は介入できない。彼を縛るものは決定に際する複雑な形式主義だけであり、ローマ法王がチェックできるのは形式の正当性のみである。いわば聖職者のひとりひとりは完璧な全体性を備えたシャーマンである。しかしこのシャーマンの唱える呪文は、複雑にコード化しており、記号の世界へと疎外されているのだ。この膨大な手続きや、それをまた二千年もひねくりまわしてきた神学の厚い雲にかくれてカトリシスムの驚くべき有機体構造は見えにくくなっているが、その本質的なホロン的構造こそがイエスというパレスチナの一人の男を世界宗教のスターにしたかなめとなったのだ。
在俗の信者にとっては、イエスと合一し、イエスの体の一部、教会の一部、一部でありつつ全体であるようなホロン的な有機体の組織になるてだては、聖体拝領という秘跡に尽きる。ひときれの無酵母パンという矮小化された形にしろ、それを食べるという官能的な行為によってキリスト教宇宙に同化するのである。その意味で、聖体拝授の特権がある聖職者は信者の生殺与奪の権を一手にしていた。一国の王と言えども無酵母パンを聖体パンにかえる聖別の権利がないという点では所詮象牙の塔の外側の人間だった。フランス王のようにあらゆるレトリックを駆使して、「在俗司教」とよばれたり、戴冠式の注油で神性を付与されるとしたりいわゆる王権神授説を確立した場合でも同じだった。フランス王は法王とすったもんだした末、一五一六年にフランソワ一世が法王レオン世との間でフランス国内のほとんどの修道院と司教の実質支配権を得る協定を結びさえした。しかし最後の一線である聖体拝授の権利だけはどうしても自分のものにできなかった。
王がその「神性」を広く民衆に見せつけるのは、有名な「瘰癧患者の治癒」の折だけだった。戴冠式で注油を受けた王が結核性のリンパ病である瘰癧患者を一堂に集めてひとりひとりに手を触れると奇跡的な治癒が得られたというそれである。これはよく効いたらしく患者は他国からも訪れるほどで、イギリス王が嫉妬したという話も有名である。復活祭にもこの儀式は行なわれ、馬に乗った伝令が町中に布告してまわり、王宮に病人がかけつけた。治っても治らなくても王宮を下がるときになにがしかの布施をもらえたために、貧乏人が瘰癧をよそおって肩にこぶをつけて続々とあらわれたので、王のいる広間に通される前に医師が診断して偽患者を追い返すほどだった。なぜ瘰癧患者だけかというと、昔ケルト暦の冬の終わりである五月一日におこなわれていた闘鶏と関係があるらしい。古代の伝統をキリスト教的伝統におきかえていく時点でこれはランスのカテドラルでこの日に無数の赤い鳥を放つ儀式にとって変わった。雄鶏はゴール地方の象徴でもあり、ランスのカテドラルはその昔聖霊の白鳩によって戴冠式の聖油が運ばれてきたところである。(聖油は不思議なことにいくら使っても減らなかったと記録されている。フランス革命のおりに容器は叩き壊されたが、ひろわれたガラスについていた油を他の油とまぜて王制復古のシャルル十世の戴冠式の時に使ったなどという記録がある。)五月一日は聖マルクーの祝日であり、マルクーという聖者の名が「首が痛い」というフランス語表現 mal au cou と似ているところから瘰癧が連想されたらしい。瘰癧患者が聖マルクーに治癒を祈るというベースがあった。いっぽうキリスト教はイエス以来治癒行為と無縁ではない。しかも民衆の間で古くからあった植物療法や自然療法やそれと結び付いた民間の「治療者」の権威を排除する必要もある。それゆえキリスト教の聖者のとりなしで病の治癒を得た者を優遇するシステムが早くからできていた。地方の封建領主に属する農奴も、聖者の墓に巡礼して「奇跡的治癒」を得れば聖域に留まって教会のために働くことができた。社会的地位を変えることができたのである。つまり封建領主よりも上の「見えざる主」からの恩寵という縦の関係を導入して民衆の支配体制を確立したのだ。これは八世紀頃にあった伝統である。のちに中央集権的な王権が確立したフランスでは、これをほうっておく手はなかった。民衆は王の持ち物であって王によって癒されなくてはならない。ケルト暦とそれを書き換えたキリスト教暦にフランス王が登場する。癒された者の所属関係を変える「神の治癒する右手」は、フランス王の右手になりかわった。(治る人も確かにいたらしくて医師の記録した統計だって残っている。)
つまり聖体パンへの神下ろしは無理でも、王は自らの手に「神下ろし」をすることを思いついたのだ。しかし「神の手」をふりかざす王を、教会が指をくわえて見ているわけではなかった。王といえども日々かずかずの罪をおかす。王が神の恩寵を伝える依り代となり得ないとは言えないまでも、それにふさわしく身を清めなくてはなるまい。贖罪が必要である。そして贖罪は告解を前提とした。フランス王の「瘰癧治し」は、戴冠式の日を除いては、必ず復活祭の聖体拝領のすぐ後で行なわれた。普通の信者が洗礼を受けただけでは日々の罪から自由になれずしょっちゅう司祭に告解しなければいけないように、王も戴冠式の注油のご利益だけでは身を清く保てなかったのだ。王は一介の告解僧の前で膝を屈して贖罪を乞わねばならない。王と教会の権力争いの堂々めぐりである。告解と聖体拝授の巧妙なシステムの中では王に勝ち目はなかった。フランス王がその全盛を極めたころ、公式の愛人を持つ王には贖罪が禁止され、したがって聖体拝領はなく、瘰癧患者が王宮に列をなすこともなくなった。敬虔だった王制復古のシャルル十世は「瘰癧治し」をやってみたが、数えるほどの病人しか集まらなくて、しかもあまり効きめがなかったようである。
それはともかくとして、告解システムが、神と在俗者とのショート・サーキットを妨害するためのシステムとして有効にはたらいていたということは明らかだ。危険人物は王であり神秘家である。神秘家が聖職者である場合は問題はずっと少なくなった。危険にさらされるのはカトリックの根底をなす神=教会制度ではなくて、内部のヒエラルキーだけである。神秘家の言動が「世俗」に漏れないかぎりは「内輪の問題」ですむ。マルト・ロバンにしたところで、もし彼女が囲い込み修道院に入っていてくれたらずっとことは簡単だった。フランシスコ会だとか処女奉献とかで二重にも三重にも絶縁体でくるんだものの、もっとも頼りになる番人は告解僧をおいてはほかにない。教会のお目付役である。
告解僧と神秘家との関係はそれゆえ本質的に緊張をはらんでいるといえよう。王と王の告解僧とのディレンマと似ている。神の恩寵に直接あずかっている者が、コード化した神下ろししかしない田舎司祭にすら生殺与奪の権を奪われるのである。あるいは告解僧が神秘家の魅力にうちまけてしまったらこれも微妙なことになる。どんな田舎司祭でも理論的には神の代理人としての全教会を代表しているのだ。彼がぱさぱさの聖体パンよりも生身の神秘家のうちに神の啓示を見るとしたら一大事だ。自分の能力に疑問を抱くようになっても同じことである。自尊心の問題もあろう。しかも告解僧として彼は神秘家の告解に立ち会う。秘密を共有するのである。マルト・ロバンはフィネ神父を「モン・ペール(わが父)」と呼んだ。暗い部屋で寝たきりのマルトは声だけの存在だった。ジャン・ギトンはマルトのことを「夜のささやき」と形容した。彼女は飲食物のかわりにパロルを食べて生きているようだったと。その声は、ビロードのように優しくなめらかだったかと思うと、突然部屋にみちあふれる音量となったりしたという。少女のささやきから威厳に満ちたしっかりした祈りの朗唱まで自在に変化したとも言う。彼女のオーラは懐中電灯で照らさねばならない聖痕や麻痺した体からではなくすべて彼女の「語り」から発していたといっていい。マルトとフィネ神父は四十五年間暗闇の中で秘密と聖体と血の匂いの中でふたりの祈りの時を過ごした。「モン・ペール」とマルトが呼びかける。「わが子よ、」とフィネ神父は答える。ひそやかな祈りのデュエットがふたりの共同幻想を育む。
ある種の新興宗教の教祖が実質的にはオーガナイザーの傀儡であったようにマルトがフィネ神父のロボットだったとは思えない。むしろフィネ神父がマルトの催眠術に誘導されたかのような印象すらときとしてある。一九四〇年ごろを境にしてその独特の関係が成立した。ひとつには先にも述べたマルトの「視力の奉献」でありこれを機にマルト・ロバンは闇の神殿に閉じこもることになる。もう一つはすでにロバン氏が亡くなり、兄のアンリのみを保護者に残すにいたった重度身体障害者のマルトを「慈悲の家」が正式に負担することになった事実である。これを契機にフィネ神父はマルトの寝室を生家に建て増しした。新しい父と娘の新居とでも言えるかもしれない。彼は正式にシャトーヌフへ本拠を移せるように大司教に申請する。週に二日はリヨンに来るようにという条件でそれは許された。同時に地方司祭が「慈悲の家」の修行に参加するようになる。教会内部でも男女が席を分けたこの時代に画期的な男女混合が実現した。
罪なくしてイエスを宿した聖母が幼いイエスを慈しみつつも畏怖の念をいだいたであろう図が、フィネ神父とマルトの姿に重なる。フィネ神父は選ばれてマルトの「父」となった。マルトの口を湿らせてやり、あごを伝って流れるワインをていねいに拭いてやる。聖体パンをそっと舌にのせてやる。たずねられれば神学の疑問にもわかりやすく答えてやっただろう。巡礼者が寝室を訪れるとき、マルトが疲れているといってそばについていてやることもあった。巡礼者はベッドの足側の低い椅子に腰掛けて氏名と住所を述べてから相談事をもちかけたり悩みを話しだす。マルトはたえず襲う苦痛に低い呻き声をたてている。そんな時、巡礼者の話の切れ目にフィネ神父がこう言う。「お話はよくわかりました。マルトはあなたのために祈ります。」そして彼はおもむろに三〜四種の短い祈りを唱える。すると呻いていたはずのマルトが思いがけぬ頼もしいはっきりした声で朗々と和したという。
教会体制内の神秘家[#「教会体制内の神秘家」はゴシック体]
フィネ神父はこうしてマルトを守った。大きな使命を担った幼子を不憫に見守る母のように。マルトを守るのは、数多い訪問者だけからではなかった。彼自身がその一部であるところの巨大な有機体である「教会」からもかばってやらなくてはならない。教会との関係をどう生きるかということが二人の結びつきの最大の課題であった。
ふたりに幸いしたのはなんといってもヴァランスのピック司教がマルトに好意的だったことである。カトリックのホロン構造においては司教は独立した小宇宙の神のようなものだ。慈悲の家の創設期にピック司教の陰の応援を得たことはふたりの成功を約束した。もっとも、聖職者でない神秘家がその性格上カトリック教会に有害無益であることは先に述べたとおりであるから、ピック司教もうっかりしたことを公に口にはできない。彼が最初にマルト・ロバンを擁護した文書を発表したのは、一九四三年八月のことである。立場上日陰に留まっていたかった彼が重い腰をあげたのは、そのころマルト・ロバンと慈悲の家のことを誹謗中傷したパンフレットが出回ったからである。マルトについての医学報告が二人の医師によってその前年に提出されて、「聖痕」や「絶食」の信憑性を確認できたという安心感もはたらいたのかもしれない。
ともあれいったん肯定的な立場を表明したらあとは積極的になるしかない。一九四八年五月十七日にはじめて本格的な慈悲の家の建物がオープンしたとき開館式の音頭をとったのはピック司教だった。今までは女子学校の休暇の間にだけ開かれていた観想修行がこれで常時可能になった。同時に奉納されたマリア像を聖別したのも司教である。その年の七月十二日にはシャトーヌフという小村の司祭に過ぎないフォーレ司祭をヴァランスのカテドラルの名誉参事会員に任命して褒めたたえた。この辺がカトリックのヒエラルキーのバランス感覚の天才的なところである。これらの晴れがましいセレモニーにはもちろん暗がりで寝たきりのマルト・ロバンは出席できない。教会は自らの権威をあますところなく見せて、末端細胞であるフォーレ司祭も有機体の全体を担う部分であることを強調したのだ。それに対してマルト・ロバンは聖職者の独占である聖体拝授をほどこされてはじめて有機体の生命と全体性を獲得しうる一信者でしかない。ではマルトのオーラはどうあつかえばいいのか? マルトの肉体の不在がことを簡単にした。マルトは自分の寝室の中においてすら声の存在、脳そのものだなどといわれたが、カトリック教会の中ではひとつのコードと化して君臨したのである。その意味でマルトは聖女にならざるを得なかった。カトリック教会という有機体が発明した最大の潤滑剤が聖者である。聖者は死後聖別される。ひとつのコードとなってカトリックの宇宙をかけめぐるのである。マルトはまだ生きていたから列聖はできないが、肉体性はすでになかったといっていい。神秘家をあやつる傀儡師がいたとしたらフィネ神父ではなくてローマ教会だろう。
しかしことはいつも簡単にはこんだわけではない。一九五一年、ピック司教のあとを継いでユルタザン猊下がヴァランス司教の座に着いた。彼は司教区のスターであるマルト・ロバンに懐疑的だった。どうせ聖女というコードとして使うなら、すでに奇跡の真偽などさしたる問題ではないかもしれないが「実証的精神」の持ち主だったのだろう、さっそくシャトーヌフの平原の上の一軒家にマルトを訪れた。真っ暗な部屋に豆電球がひとつ、暗さに慣れた目にはじめてマルトの白い顔がぼうっとうかんで見えてくる。帰ってきた司教が側近に洩らした言葉はこうだった。「暗くてなにも見えなかった。この件はもっと近くでじっくり見てみないとだめだ。」
そんなユルタザン司教も後にはマルトの信奉者となった。マルトがフィネ神父とコンビで祈りと受難と人助けを続けるうちに、ますます精神化していったのは間違いない。自分の天才を慈悲の家プランを軌道に乗せることで発揮できたので一種の平安の境地に達したのかもしれない。ジャン・ギトンをはじめとする一流の頭脳とわたりあったことが彼女を磨いたということもあろう。マルトは劇的でスキャンダラスな肉体に住みつつ自らを限りなく精神化していった天才だ。マルトはひとつのコードとなることで教会体制を生き延びたが、ただのコードであったらあれほどの人々をひきつけなかったにちがいない。皮肉なことにマルトの肉体もひとびとをひきつけた。ユダヤ―キリスト教の根本にある「苦痛の人」の概念に彼女は合致していたからである。肉体を捨てることで彼女はコードとなったのだが、そのコードを成立させているのは、ゆがみ痛めつけられた肉体であった。旧約聖書の詩編二十二章やイザヤ書五十三章にイエスを予言した「苦痛の人」が出てくる。
「彼には我々の見るべき姿がなく、威厳もなく、我々の慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。……彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。」
そして十字架の上のイエス。
スケープ・ゴートが必要だからだけではない。時として苦行者は人を魅惑する。ひどい病者やひどく不幸な人も同じだ。ある種の人々の心の深いところにある「救済」のバランス感覚に訴えるのであろうか。聖痕に絶食に全身麻痺という想像を絶するすさまじい肉体を生きているマルトと空間を共有すれば恩寵にあずかれるかもしれない。あたかも神がマルトの肉体に穿った苦痛と同じ量の恩寵がマルトをとりまく空間に余分にただよっているはずであるかのように。
実際、マルトのもとを訪れて祈りを請い、病気の末期的症状から劇的な恢復を遂げたとする多くのケースが報告されるようになった。重病人やその家族が次々とマルトのもとを訪れた。そうなってもマルトは慎重であった。彼女はその異様な存在の仕方にかかわらず自分からシャーマンや治癒師を演じたことは一度もなかった。教会の一番嫌う民間のカリスマになりすますことを意識して避けた。「人事を尽くす」ということが彼女のモットーであった。事実彼女のもとには近郷の名士やその家族が多く出入りするようになっていたので、寝たきりの彼女のもつ人脈はとてつもなく豊かなものになってきていたのだ。彼女は病に苦しむ人に良い病院や良い医師を紹介した。あれこれ手を尽くしてそれでも手遅れで子供の片足を切断しなくてはいけないなどというケースではじめてマルトは本格的に介入した。「なんですって。そんなことをマリアさまがほうっておかれるわけがありません。」マルトは祈り、願いはかなえられ子供は奇跡的に恢復する。マルトはあくまでも「マリアさまへのとりなし」を受け持つ役割に徹した。治癒の栄光はマリアに属する。ローマ教会にとってまさに優等生的な態度である。そのモデルはマリア自身であって、マリアそのものも祈りを「イエスへとりなす」というステイタスをつつましく守っている。もともと絶対者であるユダヤ的神とあまりにもへだたった民衆のために仲介役としてつかわされたのがイエスであった。そのイエスもカトリックがあまりにも神化してしまったのでおそれおおいものになってしまった。そこでイエスと民衆を仲介するものとしてマリアが登場し、諸聖人が登場する。(もっともポピュラーな諸聖人はあまりにも民衆宗教化してしまって近代では効き目が薄れ、十九世紀半ば以後はマリアがブームを独占していた。)神―イエス―マリアといわば段階的な神下ろしのシステムが確立していたのだ。そのマリアにまたマルトがとりなしをする。マルトはなんといっても手の届くところにいる人間だから、「よろしい、祈りましょう」という頼もしい言葉を実際に聞くことができる。汚れだらけの自分がひとりで祈るよりずっと効き目がありそうである。民衆の素朴な宗教感情とカトリックの必要としていたプロパガンダがちょうど重なる微妙なゾーンをマルトは占めていた。
マルトの存在の仕方、聖と俗の間、肉体と魂との間、生と死の間、闇と光の間、スケープゴートとカリスマの間という両義的な存在の仕方が彼女をとりまく宗教的環境(信者も教会も含めて)に独特のインスピレーションを与えていたのだ。
第二次世界大戦によって大きく揺さぶられたカトリック世界はこのインスピレーションを必要としていた。教会はイエス以外の奇跡を理論的には必要としなかったが転換期におけるオーラの更新は不可欠である。びっしり固まったヒエラルキーのシステムからそれを汲み出すことはむずかしい。半俗の観想修行会という画期的な開かれたシステムである慈悲の家に各地の司祭がぞくぞく参加し始めた。その中にはのちに海外の司教となる者もいた。彼らは、原始教会を思わせる慈悲の家のシンプルで効果的な合宿で自分自身を充電し、当然同じものを自分の教区でも実現させたいと考えた。慈悲の家のノウハウはすごい速さであちこちへコピーされた。それらは全て「慈悲の家」と呼ばれる。いわばチェーン店システムである。しかもカトリック教会の持つホロン的構造はこの「支店システム」に最高にマッチしている。世界のどの教区にいっても「キリストの手足」である教会はクローン人間のように同じ顔をしたひとつの全体である。慈悲の家はシャトーヌフの観想修行に参加した司祭や司教たちに「テイクアウト」されてひろがった。カトリックの持つ構造をフルに活用しながらしかも同じ構造の持つ官僚的なチェックシステムの制限は受けずにすんだ。半俗のステイタスだったからである。
こうしてあちこちに「店開き」した「慈悲の家」チェーンのトレードマークは、もちろん「奇跡の女」マルト・ロバンである。マルトは分魂したり招魂したりできるような一種の魂であった。「慈悲の家」とともにコード化したマルトのオーラは遍在していった。実際のところ半俗のカトリック組織というのは聖職者の不足も原因して戦後雨後の竹の子のように出現した。今のフランスのカトリック教区をささえているのはこうした半俗組織だといっていい。時代の要求に合ったわけである。第二次ヴァチカン公会議もこういった傾向を推し進める方向であった。マルトはその意味で時代の先駆者であったわけである。しかし個々ばらばらの組織よりも一定のノウハウを保証するチェーン店の方が有効であるのは当然だ。マルト・ロバンという商標の強烈さがそれを可能にした。しかも教会は巧みな手を打っていた。マルト・ロバンが慈悲の家を持っているのではなく、慈悲の家がマルト・ロバンを所有しているのだ。マルト・ロバンは法律的にも慈悲の家が百パーセント養っている障害者である。コードとしてのマルト・ロバンがどんなに有効に慈悲の家に君臨しても教会の脅威とはなり得ないのだ。マルトは教会の庭に咲く花なのだ。しかしどこに咲いたところで全身麻痺の盲目の女が花を咲かせたということ自体が奇跡ではないか。巡礼者はたえることがなかった。
超常と日常の混在[#「超常と日常の混在」はゴシック体]
マルトは多いときは日に五十人にものぼる訪問者を寝室に迎えたという。常連もいたし知識人や有名人もいた。しかしそれはサロンを形づくることはなかった。原則として一人ずつと対談したからだ。彼女は有名人が来ると彼らの交友関係や家族関係に興味を示していろいろ聞きたがったということだ。ジャン・ギトンにはサルトルや特にボーヴォワールについて質問した。彼女は「噂話」から真実を汲み上げた。かなり手きびしい批判をくわえることもあった。豊かな洞察力に類まれな記憶力があった。それだけ多くの人とありとあらゆることを話しているのにかかわらず、何年かおいて二度目に訪れた人の遠い親戚の話題まで正確に覚えていたりした。記憶力を駆使した人脈作りと人生に対する観察力の鋭さのおかげで、困っている人に的確なアドバイスを与えることができたので、身の上相談に訪れる人がおおぜいいた。問題に解決を与えるというよりは光明を投げかけるようなやりかただったらしい。訪問者からエスプリのきいた小話を聞くのも好きだったというからユーモア感覚もあったのだ。なんだか田舎のミス・マープルを思わせるではないか。
手紙で相談を持ちかける人も多く、死の前日まで毎日平均二十通の返事を口述筆記させていたそうだ。マルトは奇跡の女という登録商標であっただけでなく絶えず増幅されるパロルでもあったのだ。手紙ばかりか口述した韻文ですら残している。もともと話術に長けていたところに何十年にもわたる膨大な人間関係をフルにいかして、洞察し反省を加えてきたのだからマルトの語りがひとつのアートの域に達していたとしても驚くにはあたらない。語りと祈りが彼女の全活動をしめていたのだからマルトは「闇の中のロゴス」と化してしまったのだろう。しかし彼女は決して霊感を受けてとうとうとしゃべったのではなく、あくまでも慎重であった。哲学者が人類の将来についてマルトの意見を求めるなどといった場合にはたくみに話題をそらしている。天使やマリアについては詳細な描写を惜しまなかった。自分自身の超常現象についてはすべて肯定はしたがそれを「超えられるべきもの」だとすることを決して忘れなかった。超常現象そのものを「恩寵」だと言ったことは一度もない。例えば「奇跡の絶食」についても、それは「食べない」というよりも「食べられない」ので、昔はとてもコーヒーが好きで今もその香りを思いだすとか、食事の話題を出してさぞやおいしかろうなどと言っているほどだ。つまり常識を超えた状態に身をおきながらほとんど「普通の人」のようにふるまっていたわけで、これは「へりくだり」の美徳としては完全に教会の要求にかなっていたといえる。この態度は同時に人々にかえって深い印象を与えた。
彼女が特に関心をもってかかわったのは死刑囚であった。死刑囚へせっせと小包を送らせたり手紙を口述したりした。二十七歳でギロチンにかかったジャック・フェッシュのようにマルトのおかげでカトリックへ回心し、平穏のうちに死をむかえたものもかなりいた。もともと「聖女」とよばれる人が死刑囚に深い同情を寄せるのは珍しいことではない。リジューの聖テレーズも同時代のプランズィニという有名な殺人犯の死に感銘を受けたことを記している。死刑が贖罪の過激な形であると認識したからかもしれないし、イエスが一種の死刑囚として十字架にかけられたことももちろん意識されただろう。もともと「死刑囚の魂の世話」は教会の主要な仕事のひとつだった。死刑囚が死刑の前に回心するかどうかというのが共同体全員の関心事だった時代もあったほどである。聖ロック兄弟団(良き死のための兄弟団)というのがあって処刑の前日に死刑囚の独房を訪ねた。十八世紀のフランスの記録では、深夜に黒い布を掛けた十字架をかかげた兄弟団が二十人で牢獄まで行進したとある。その後ろからカプチン会修道士などが数名続く。独房の中で四本の黒い灯明に照らされた十字架のイエスのもとで彼らは死刑囚に罪を悔いて刑を受け入れるようにと迫った。受刑者の中には「魂を悪魔に捧げる」と捨てぜりふを吐いたものもいたけれど、告解をして祈りを捧げ朝にはめでたく聖体拝領にこぎつけた者もかなりあったようだ。とくに、刑死者の死体は医者に渡されて研究用の解剖に使われた後で刑吏に戻されて皮脂をとられたので、最後の審判の日に肉体が復活するときに妨げになるのではないかという恐れを慰めるために何度もミサにあずかれるのだった。皮脂はそのころの痛み止めの原料として薬局方で広く使われていたのだ。もっとも神学上は死体がどうなったところで復活には関係ないので、あるイエズス会士は「死刑囚にライオンに食われた殉教者聖人の話をして慰めよ」と書き残している。「どっちにしても墓の中で蛆虫に解剖されるよりもひどい状態というわけじゃない」からだ。カトリック教徒にとって死に方は死後の運命にかかわる一大事だった。しかし受刑者は、改悛さえすればイエスや殉教者のように華々しく死ねるのであるからその死の演出に第三者が心を砕いたわけである。もちろん遺恨を残して死なれては悪霊がこの世に残ってしまうという懸念もあったろう。皮脂以外の髪や血や骨が呪術などに使われないかということにも注意が払われた。それだけに受刑者が劇的に改悛したときは「恩寵」であり神の栄光がたたえられる。見物人も受刑者自身も宗教的熱狂の中で最後の時をすごすこともあった。
特にキリストの受難を自分で生きている聖痕者は、「血を流す」という共通点があるせいか死刑囚に深い関心を寄せることがあった。シエナの聖カタリーナが死刑囚のもとを訪れては「勇気を出して、優しい兄弟よ、婚礼はもうすぐです。」と励まし、処刑の日には首切り台の上で死刑囚の頭を膝の上で支えていたというのは有名な話である。
こういう背景を考えるとマルト・ロバンが死刑囚に関心を寄せたということもあながち驚くべきことでもないことがわかるだろう。マルトは文通していた一人一人の死刑囚の魂を見守り、祈り、息子のように慈しんだ。彼女自身が生きながら肉体を失ったような存在だっただけにそのインパクトも大きかったのだろう。ジャック・フェッシュは処刑前の最後の手紙でマルトにこう書いた。
「ぼくの眼は十字架に釘付けになっています。ぼくの救世主の血まみれの傷から目を離すことができません。ぼくは何度も繰り返します。『主よ、あなたのためにぼくは死にます。』と。」
マルトの死[#「マルトの死」はゴシック体]
マルトが生と死の間の両義的な世界を生きていたからだろうか。彼女の周りには不思議な出来事が日常的に起こっていた。すでに全身麻痺と盲目と断食によって五感のほとんどを失っていたかわりに、時間と空間に関しては彼女はある種の特権的な自由な立場にいたらしい。離魂現象もそうだが、透視能力や予知能力を顕著にしめして訪問者を驚かした。分身能力もあったといい、祈りを約束していた女教師の死の床にやってきて最後をみとってやったりした。女教師の寝室からマルトのはっきりした祈りの声が聞こえてきたのを家族が不思議に思ってあとから尋ねたら、マルトは約束をはたしに行ったのだと答えたそうだ。離れた場所で起こっている事故の模様を正確に語って、犠牲者のそばで祈ったとも言った。
マルト・ロバンの存在の仕方においては肉体と精神とか時間と空間とかいう区別はもうあまり意味をなさなくなっていたのは事実である。普通の人にとっての自然と超=自然という境界もあやふやになっていたし、実体と象徴の関係も曖昧だった。言い換えるとマルト・ロバンが生きていたせまい寝室の中は実存の枷をのがれた「曖昧な空間」だったのだ。こういう空間では、記号に疎外された外部の空間ではもう生き延びえないような「曖昧な存在」が侵入することを許された。マルトの寝室は彼らに残された自由の天地となった。「いたずら者」は家具を動かしたりマルトを揺さぶったりありとあらゆる悪さをしょっちゅうした。ポルターガイスト現象は日常茶飯事であった。ドアは誰かに押さえられているように急に動かなくなったし、電球が突然落ちてきて、しかも壊れることはないのだった。マルトの体はしばしば壁に打ちつけられたりベッドからずりおとされそうになった。暗闇で絶えずがたがたと音がした。それらが誰かによって仕組まれたことだということはありえない。それはおそれおおい聖女の部屋の演出としてはあまりにも馬鹿げている。むしろ人々の当惑の種だったのだ。それは降霊会でなら呼び物になったかもしれないが、カトリックの中では「悪魔」だと見なされるものだった。事実マルトが常に悪魔と戦っていたと記述している人もある。歴代の聖者でこのような悪魔に悩まされていたという人の例も確かに少なくない。マルト自身はこの「いたずら者」を、頭がよくて美しいいたずらなキューピッドだと呼んでいた。いたずらはあくまでいたずらにすぎなく本質的な害を及ぼすものでは決してないというのだ。悪魔は堕天使で、カインのように父に叱られて絶望したものの、いたずらを続ける能力だけは残っているのだという。この「天使―悪魔―トリックスター」というイメージはマルトだけがいだいたものではなく、一五七九年十一月十日にデカルトが見たと言っているものに非常に近いという意見もある。ともかくマルトはこのいたずら者と悲愴な戦いをしていたというよりは不思議な共存関係を受け入れていたようである。マルトの寝室の「悪魔」の話は、聖女の物語の不協和音であったけれどそれだけにむしろ信憑性を帯びてくるように思える。あるいは、マルト自身の存在のありようの未分化なエネルギーが、ロゴスの形をとって現われていないときには、自在に駆け回るトリックスターのように遍在していたのかもしれない。マルトはそれを「彼」と呼び慣らしていたけれど、ほほえましいよりもどこか痛ましい気がする。五十年間食べず飲まず動かず痛み苦しんできた一人の女の抑圧された欲動エネルギーが、自由にきらめくことのできる唯一の「曖昧な空間」を翔けている、そんな気がしてしまうのだ。
そして彼女の死は、その「彼」によって、もたらされた。一九八〇年の末からマルトの背骨はねじれてきて激しい痛みを伴うようになった。はげしく咳こむようにもなった。彼女はフィネ神父に「悪魔がとことんいくと言いました」と語っている。一九八一年の二月六日第一金曜日にマルトはこの世と自分を結びつけていた唯一のしるしであった「痛み」から永遠に解放された。前日に「受難」にはいったマルトを残して去ったフィネ神父が金曜日の午後五時頃に戻ってきた。前々日の水曜の夜、最後の聖体拝領のおりには慈悲の家の関係者がかなりやってきてマルトとともに長い祈りを唱和した。聖体拝領とともにマルトはエクスタシーにはいって翌朝にフィネ神父の「命令」で我にかえり、その夜ふたたび「受難」がはじまったのである。当時八十二歳になっていたフィネ神父は、不安ではあったがつききりでいてやることはできなかった。金曜の夕方は受難のクライマックスである。フィネ神父は苦しむ「わが子」についていてやるために老体をふたたび平原の家にはこんだ。はたしてマルトはベッドの脇の床に投げ出されていた。手は冷たくなり両脚は曲がったままである。マルトはフィネ神父の腕の中で「彼に殺された」とひとこと言いのこしたという。助けを呼んでマルトをベッドの中へもどしてからフィネ神父は二時間必死で祈り続けた。祈りもむなしくマルトは冷たくなり、医師とヴァランス司教に連絡がとられた。午後十時に駆けつけたマルシャン猊下はマルトの死の床で「一粒の麦もし死なずば……」とつぶやいた。
マルトのシーツをかえた人は、足と頭の部分にかなり大きな真新しい血の染みを認めた。マルトの静かな死顔の額には茨の冠のあとをたどるように点々と血が出たまま固まっていた。闇の中で五十年間受難を生きてきたマルト・ロバンの聖痕はその死姿といっしょに初めて白日のもとにさらされて、つめかけた会葬者の目に触れ、写真にも撮られた。
二月十日、フィネ神父がマリアの絵をかかえてマルトの待つ薄暗い部屋へ入っていってからちょうど四十五年後の同じ日にマルトは納棺された。二月十二日、「慈悲の家」内につくられたマリアの聖域で葬儀が行なわれた。数えきれない人々がマルトを偲んでやってきた。シャトーヌフの道路は車であふれ百人の憲兵が出動した。フランス中から信者のための特別バスも出された。追悼ミサではなんと六千の聖体拝授がおこなわれたという。ヴァランス司教マルシャンのほかに四人の司教を含む二百人を越す司祭が出席した。マルトの受難の謙譲ぶりがたたえられた後で四十人の司祭が群衆の中に散らばって聖体パンを配った。五十年間マルト・ロバンがそれだけで生きていた聖体パンである。祈りの唱和。
このパンを取り給え、主よ、このパンを取り給え。
このパンが祈りになりますように。
このパンを取り給え、主よ、このパンを取り給え。
このパンがあなたの御体になりますように。
マルシャン司教はこう語った。「マルトの地上的な生は終わりを告げた。イエス・キリストに続いて、彼女は死を通って新しく生まれたところだ。すべての死はひとつの復活である。」マルト・ロバンは「曖昧な世界」から解放されて「聖女」となったのだ。彼女がローマ教会に対して果たすべき最後の義務である死がまっとうされたのだ。
「聖女の死」にしては、それにしてもあまりにも散文的な光景だった。ベッドから床に落ちていた寝たきりの老女。「悪魔に殺された」植物人間。荘厳な臨終や敬虔な祈りや安らかな大往生を思わせるものはあまりない。天国に行く絶対条件であるはずの臨終の告解と聖体拝領と終油の秘跡はどうなったのだろう。最後の聖体拝領から死まで二日経っていることは問題にならないのだろうか。もっともマルトは肉体的には長い間死も同然のすさまじい状況にあったのだから死は聖女というイコンの単なる画龍点睛にすぎないのか?
マルトの死は「教会の子」としてはそれなりにつじつまの合っためでたい出来事だったかもしれない。しかし彼女の奇妙な生の意味を探るキイとなるにはあまりにもそっけなかった。マルト・ロバンの生の秘密に迫るには、彼女が模範的な謙譲の美徳の中で生きた数々の「奇跡」の意味を探ってみるほうがより有効だという気がする。
マルト・ロバンの症例をみる医学者は、医学的に言うと断食よりも不眠の方が奇跡的だと言っている。でもよく考えてみたら週一度の聖体拝領の度に長い時は十八時間にわたるエクスタシー状態が続き、週一度の受難の最高潮の時に二時間の仮死状態、その前後に三日間にわたる受難の半睡状態があるのである。しかも眼は使っていないし体を動かすことも消化活動もない。「眠り」に相当する休息はこれで足りていたという感じがしないでもない。離魂現象や予知能力や透視については証言はあっても個々のケースの追跡をすることは困難である。マルト・ロバンの生きた「奇跡」の中で私たちの考察のきっかけとなりそうなのは医師による詳細な確認もある断食と聖痕の二つだと思う。
次の章では断食と聖痕をキイワードにしてカトリシスムの超常現象の不思議な海に思い切って航海に出てみよう。
2 断食論
断食の歴史(1)[#「断食の歴史(1)」はゴシック体]
マルト・ロバンが生きた超常現象としての断食を考察する前に、西欧キリスト教社会における「普通」の断食の持つ意味を探ってみよう。
宗教的な「精進潔斎」の一環としての断食は苦行の一つの形として世界中の宗教に見られる。断食が苦行として成り立つのはもちろん「食べる行為」がひとつの快楽であるという文化を前提とする。実際多くの文化において食事はしばしば祝祭の香りを持っていた。神に食物を供えたり、祭礼において日本の祭りの直会《なおらい》のように、饗宴が大きな位置を占めることも多い。客を飲食でもてなすように神と食事を共にするというシンボリズムがあったのだ。食事はまた生の賛歌でもあり、快楽の源泉ともなった。それゆえ食を断ったり制限するということは、快楽の抑圧であり、自分の快楽を供物にするという意味で犠牲の一つの形として成立しえた。
一方、「食べること」を存在被拘束としてネガティヴにとらえる考え方も古くからあるにはあった。食べることは原始時代から進化せず、アメーバと変わらぬ生理的な行為で、人間の尊厳をおびやかす屈辱的な自然の法則だというわけだ。この見解から生まれる断食は、当然、むしろポジティヴな状態である。
どちらの断食も意思によって遂行されるのだが、そのベースとなる発想はまるで反対であり、これだけでも宗教的な断食現象を語るのがたやすくないことがわかるだろう。
ユダヤ=キリスト教の伝統における断食の歴史をざっとながめてみよう。旧約聖書の初めにすでにモーゼの絶食が語られている。紀元前一二五〇年頃で、一度目は十戒を得るため、二度目は神の許しを得るため、ということで、「主と共に四十日飲まず食わず」[出エジプト記三四―二八]などとある。食べないのはともかく、飲まなかったのだからこれなどはむしろ後で検討する超常現象にはいるだろう。このほかに予言者エリヤは紀元前八五〇年頃、やはり四十日絶食した。アハブ王が異教の神バアルに仕えたとき、ユダヤ民族は嫉妬深いエホバの怒りに触れた。死を免れたエリヤは何も食べずに四十日かかってホレブ山にたどり着いた。四十日というのは、ノアの箱舟の大洪水が続いた期間でもあるし、イエスがヨルダン河での洗礼の後で荒野に入って断食した期間でもある。(イエスはこの間に悪魔の誘惑をはじめとする様々な試練を受けるわけだが、小川の水は飲んでいたようで、断食としては生理的に可能なものであった。)四十日という期間が持っている神学的な意味には定説はないが、ユダヤ人がモーゼに導かれてエジプトから脱出したときに、海の水が割れたという劇的な紅海の渡りから、ヨルダン河を渡って約束の地にたどり着くまでの長い荒野の旅の期間が四十年かかったことと関係がありそうだ。四十年という期間は当時の人間の一生の活動期間のほぼ全部に等しい。一つの民族にとって、人一人の一生分の試練が要求されたので、それが個人にとっては、四十日として、新生に必要なひとつの命のサイクルを象徴していたのかもしれない。
ユダヤ人全てに戒律として課せられた断食ももちろんある。ここにも、前述したようなポジティヴとネガティヴとのふたつのニュアンスがすでにある。たとえばレビ記[一六―二九、三〇]には「永久に守るべき定め」として、七月の十日の休息と断食が定められていて、それは、罪を浄めるためとされる。しかしそれは、積極的な意味も持たなければならない。ゼカリヤ書[八―一九]では主はこう言った。「四月の断食と五月の断食と七月の断食と十月の断食とはユダの家の喜び、楽しみの時となり、陽気な祝いの時となる。」
実際のところ、断食をつらく苦しいこととのみとらえると、それはときとして偽善におちいったり、苦行に対する見返りを要求する心へとつながる恐れがあった。「われわれが断食したのに、(主は)なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか。」[イザヤ書五八]と不平をいう者もあったらしい。これに対して「断食は、その声を上に聞こえさせるものではない」「わたしが選ぶところの断食は……飢えたものにあなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者をあなたの家に入れ……」という見解が示された。「おのが楽しみを求めず」ということが「主によって喜びを得」るという、ネガティヴをポジティヴに転換するという発想も生まれた。このイザヤ書第五八章は、のちのキリスト教のカレム(復活祭に先立つ四十日の贖罪期間)の最初の金曜日のミサでかならず読み上げられることになる。初期キリスト教はこの解釈を取り入れて、断食を慈悲の行為として位置づけようとした。つまり、断食によって浮いた食費を貧しいものに施すという具体的な行為で、断食と祈りと布施とが一組として実践されるようになる。
イエスの断食は、戒律に従った結果でも慈悲の行為でもないイニシエーションとしての苦行だった。紀元二八年の冬の終わり、イエスは精霊に導かれてエリコの近くの荒野に向かった。南は死海につながり、太陽は焼けつくようで、土は塩辛い。北には万年雪を頂くヘルモン山、東にヨルダン河、西にはオリーブの樹の銀色に光る葉を通してはるかにエルサレムの町がある。不気味なジャッカルの声と、猛禽類の鳥が時々空を横切る羽音。
四十日の試練を終えたとき、イエスは空腹になった。これは生理学的にもごく人間的な現象だ。長期にわたる断食をする人は、最初の数日の飢餓感を乗り越えると空腹を感じなくなることは知られている。しかしその後に激しい飢餓感がもどることがある。現代の長期の断食のエキスパートによれば四十日というのは生理的精神的に完全な自浄サイクルであるという。イエスは断食を体を苦しめる行為としてでなく力を汲む方法論として認識した。また、そういう自覚をもっての断食以外は、意味をなさない。実際、この後のイエスは人々と飲み食いするのを積極的に楽しんだし、弟子たちもそれにしたがった。カナの婚礼で水をワインに変えさえした。この点、あくまでも禁欲的で暗い定めを思わせる洗礼者ヨハネとはえらいちがいだ。ヨハネは母エリザベトの胎に宿ったときから天使に「彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず……」などといわれているしまつだ。イエスはユダヤ教の偽善に堕したような戒律を嫌がった。無意味な断食だの動物の生贄だのを否定した。彼自身の四十日の断食と十字架の死によってそれら全てを止揚しようとした。自分が全てを引き受けて周りの者を救った。ルカ伝[五―三四、三五]では、断食をしない自分の弟子たちへの批判に答えて、自分の生存中は弟子たちが断食する必要はないとほのめかしている。もちろんユダヤ教の慣習となっていた断食を禁止したわけではないが、「断食をする時には偽善者がするように陰気な顔つきをするな」[マタイ伝六―一六]、むしろ人に知られないように顔を洗って頭に油を塗れと言っている。これはイザヤ書が、「断食の見返りを神に求めること」を戒めて実践的な布施の行為に転換しろと言ったのとは違って、「断食の見返りを他人からの尊敬に求めること」を戒めているわけで、一種のダンディズムの提唱としてもおもしろい。同時に、イエスの時代には断食がそれほど形骸化していたことも示している。洗礼者ヨハネの率いる一派のように禁欲的な断食をしている人々もいるにはいたが、イエスはむしろ生きる喜びを高らかに伝えようとした。断食どころか全ての人にパンを分け与えようとして、自分のことを「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者はいつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは世の命のために与えるわたしの肉である」とまで言った。このことは聖体拝領の秘跡としてキリスト教の根幹に残り、修行としての断食と聖なるパンの拝領のパラドックスを形成していくことになるのだがそれについては後でもっとくわしく考えてみよう。
断食の歴史(2)[#「断食の歴史(2)」はゴシック体]
さて、イエスのあとでキリスト教を確立したパウロも、断食については基本的には同じ路線を守った。つまりパウロ自身は個人的には行としての断食を採用した。使徒行伝[一三―二、一四―二三]には各地の教会をまわって祈りと断食をしたことが書かれている。しかし一般の信者に対しては、やはり無益な断食を禁じている。これには形式に堕した様々な戒律を課す他の宗教を牽制する意味もあっただろう。テモテへの第一の手紙に次の一節がある。[四―一、三]「ある人々は、惑わす霊と悪霊の教えとに気をとられて、信仰からはなれ去るであろう。……これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を求める者が感謝して受けるようにと神の造られたものである。」これはのちにルターがトリエント公会議(一五三七年)に向けて書いた聖職者の結婚の弁護の根拠となったことで有名な節だ。断食と肉体的な禁欲は多くの場合対をなしていたのだ。
だから少なくとも初期キリスト教においては断食は重要なものではなかった。断食が要求されたのは聖体拝領をするにあたっての「みそぎ」的な意味が主体だった。それでも一世紀の末頃には水曜日と金曜日の断食が定着していたようだ。四世紀頃には復活祭の聖体拝領の前の二日間の断食の習慣ができてきた。断食の法令化は六世紀に復活祭の前四週間のカレムが定義されたあたりに始まる。これはイエスの生涯を追体験するために荒野での四十日の断食を模したものだ。カレムの最初の日である灰の水曜日のミサでは旧約のヨエル書[二―一五]から「シオンでラッパをならし、断食を命令せよ」という節が高らかに読まれることになっている。実際にはもちろん絶食が要求されたわけではなく、いわゆる「パンと水」の食事が許された。四十日のうちの四日間は半分肉食がOKの日があった。そのほかにも厳密には、一年中、カレムの期間、肉食の期間、魚が食べられる日などと、復活祭とクリスマスを中心に細かい食事のカレンダーが存在した。とくに東方教会はユダヤ教的リゴリズムを残して、食事の制限のつくカレムの期間が一年に通算百二十日にも達したり、普通の期間でも一週間のうちに火木土は禁欲しろだとか多くの戒律があった。ローマ教会の戒律は、宗教的な意味よりも、主として「異教の習慣を打破するため」の政治的な意図で少しずつ確立していった。たとえば冬至の祭りをキリスト生誕の日にかさねた初めの項は十二月二十五日から御公現の祝日である一月六日までは本来は祭りの期間であって、金曜日も含めて何を食べてもいいことにしていた。しかしこの間には一月一日というローマ暦の年の始まりが入っている。この日にはマスカラードという、動物に仮装して行列するというローマ風の風習が根強く残っていた。しかしこういう「変身」は、ユダヤ=キリスト教人類学の根本にかかわる創造者の秩序を乱すことになってはなはだ具合が悪い。それをやめさせるために、祭りの中断として一月一日を断食日とすることにした。イエスの生涯の何かを記念するミサをするために割礼記念日というのを新たに当てはめることにした。このこじつけは五六七年のトゥール公会議で教会法十七条として残っている。
そのほか四世紀頃から行なわれていた四季の断食(十二月十三日の聖ルチアの祝日、灰の水曜日、聖霊降臨祭の日曜日、九月十四日の栄光の十字架の日)というのが、葡萄の栽培と収穫にともなう各種の古代の祭のおきかえだということは定説である。
キリスト教が定着した後では、だからこれらの恣意的な断食は自然に重要性を失っていた。そのうえたとえばフランスでは一五六四年にシャルル九世がローマ教会に対抗する王権の強化と古代世界への憧れの意味もあって一月一日を一年の始まりとした。(一月とはローマのヤヌス神の月で、前の年と次の年を見る双面を持った神だった。)当然イエスの割礼記念日は影が薄くなり断食の習慣も事実上消え失せることになる。復活祭の前のカレムでも実際に食事の規制があったのは近代以降は灰の水曜日と聖金曜日だけで、それも朝と夜に軽食、昼は肉とアルコール抜き、という程度までに軽減される。(修道院などではもちろんこのかぎりではない。)
秘跡にかかわる断食である聖体拝領前の絶食はさすがに、前の日の夜十二時から飲まず食わずという制限が三九三年の公会議以来長く守られたが、一九五三年ピオ十二世が、病人は例外とすること、水は制限されず、アルコールと食物は聖体拝領の三時間前から断ち、他の飲み物は一時間前まで飲んでもいいことに改革した。(これによって夕方のミサが事実上可能になった。)これも一九六四年にはパウロ六世によって全て一時間に短縮され、現実には今では聖体拝領前の食事は不問に付されていると言ってもいい。それでも今のフランスでも金曜日の魚食は習慣として多少は残っていて、金曜日には魚屋の前に列ができたり、カトリック系の団体や学校などの食堂では金曜日は魚料理になったりする。復活祭の聖金曜日となると肉屋が店を閉めてしまう田舎もある。
とはいえ、こう見てくるとキリスト教世界において、厳密な意味での断食は本質的な重要性を持っていなかったと言わざるを得ないだろう。少なくとも、イエスのイニシエーションというシンボリックな意味をのぞいては、完全な断食の実践的な伝統は成立しなかったと思える。しかし、それとは別に、断食は西欧の一部のインテリ階層の知的な興味をひいてきたふしがある。それゆえそれは一部の神学者によってはメジャーな神学的問題ですらあった。そのベースには、すでにギリシャの賢人が断食の効用を認めていたという伝統がある。ヒポクラテスは療法としての断食を認識していたし、ソクラテスも十日間単位の断食を定期的に繰り返していたらしい。プラトンもそれに倣った。それを知った現代のドイツのある有名な物理学者は、知的な関心から自分も十日間試してみた。確かに断食は知的能力を高めるのに有効だと体験して、三週間の断食の愛好者になったという話もある。ピタゴラスは、当時随一のアレキサンドリアの学校の試験を受ける前に四十日間の断食を試してみた。おそらく旧約聖書やインドのヨギの断食の伝聞があったのだろう。知的な効果を認めたらしく、後にクロトンの自分の学校の入学希望者にも断食体験を要求している。初期キリスト教世界で断食が復活祭の準備として定着したのは前述した(東方教会では復活祭の聖週間いっぱいの断食がおこなわれた)が、政治的なオーガニゼーションのほかに、熱烈な思い入れも生まれた。その背景には聖アントニウス(二五〇〜三五六!)に代表されるようないわゆる「荒野の隠者」タイプのキリスト者がいて、肉体の蔑視と苦行としての断食黄金時代を築いていた。それはまず煩悩との戦いというアスペクトを持っている。断食は「腹の狂気を抑制する」という目的の苦行であった。フィロクセネスは、「腹の貪欲は汝を下へと引っ張る重力である。大きな腹からは繊細なインテリジェンスは生まれようもない」ときびしいことを言っている。
しかし四世紀から五世紀にかけてのいわゆる教父時代に断食賛美があったのは、自虐的なものだけではなくて、長期間の断食におけるヒエロファニー(聖なるものの啓示)という現象が知られてきたからだと思う。現代フランスのモンペリエ大学癌研究所で食生活と癌の関係を研究しているアンリ・ジョワイユー教授は、「断食は単なる体の問題ではなく存在全体にかかわっている。自分も他人も透明になる」といって、長期断食者がしばしば人生や自然や食物の中に聖性を見るという体験を認めている。聖レオ一世(〜四六一、教父)は、「神に近づくのには断食よりも確実なものはない」と言った。断食者は「神への食欲」を熱烈に語った。
信者に向けては、断食に祈りと施し(自分が食べなかった分を貧者に分け与える)というふたつの翼が付け加えられて、具体的な慈悲の効用と、それによる罪の浄めという効用が強調されたのは前にも述べたとおりだ。しかし修行者にとっては、断食は聖性と至福へ向かっての挑戦みたいな意識があったのだ。これはイエスの教えとは本質的な関係のない一種の強迫観念になって中世へと受け継がれていく。特にヨーロッパの守護聖人とされる聖ブノワなどをとおして、修道院の伝統の中に浸透していった。十二世紀の聖ベルナルドは「永遠の断食とは地獄でのそれである。この世での断食は救いをもたらすもので、地獄の断食を贖うものだ」と位置づけた。もっとも度を過ごすのはやはりまずいようで、聖ベルナルドは、のちになって、激しすぎる断食で体をこわしてしまったと後悔している。中世最盛期にはトマス・アキナスが教父時代の断食観を受け継いだ。断食は「肉体の重力を断ち、精神を神へと解放する」ものであった。トマスは聖書にある「喜びの断食」を引用して、断食者の精神の軽やかさを説いた。断食によって「新しい人」に生まれ変わるというパースペクティヴもはっきり打ちだした。同時に断食を健康法としても認識していたようで、「重病の多くは栄養失調からではなく過食からくる」として、治療としてのダイエットにも先見の明をしめした。心身医学的な発想があったのだ。
しかし近代以降のカトリック世界では断食を支持するインテリ層は姿を消す。田舎司祭というと赤ら顔でまるまる肥った姿が連想されたほどで、聖職者は信者の家の祝宴に席を連ねて飽食するのが一般的だった。高位聖職者もそのほとんどが貴族階級の出身者だったということもあって美食の習慣を捨てなかった。もちろんその反動としての宗教改革もあり、ピューリタンのように非常に禁欲的な層も生まれたわけだが、それに対抗するカトリック改革においては、禁欲主義の強化は主として修道院生活者や宣教師にのみおしつけられた。そしてカトリックの聖職者はみな独身者なのだから、禁欲的傾向が家族共同体の中で伝わっていくということもなかったわけである。
断食の歴史(3)[#「断食の歴史(3)」はゴシック体]
近代以降で断食の影響力をもっともひろめたのはインドのガンジーだろう。彼はほとんどトマス・アキナス風の断食観に到達した。彼が最初に断食をしたのは、夜中に突然「明日から二十一日間の断食をするように」という啓示の声を聞いたからだ。彼は聖書を読んでいたし、母譲りのジャイナ教の禁欲観もあっただろう。神と相対するには食物と思考とパロルとの禁欲が要る、とした。断食を実践するようになってから夫婦の契りについても禁欲の誓いを立てている。断食は心の中を見るための眼であり、断食の中にはすばらしい歓びがある、ともガンジーは書きのこした。彼の断食は法悦をともなった信仰告白だったのだ。
もっとも一般の人々に多大な影響を与えたのはガンジーの断食の「非暴力の抵抗」という側面だった。社会的な意思表示の行為としての断食が成立した。断食は完全なるエスプリの行為として、周りの人に強烈なインパクトを与えることが可能だったのだ。それは緩慢な「抗議の自殺」になりえた。一九二〇年、アイルランド独立を求めたイギリスのハンストではマーフィーが六十八日後、マックス・ウィニーが七十四日後にそれぞれ死亡した。現代のフランスのハンストでは、一九八三年八月六日の原爆記念日に生物学者の妻で四人の子供の母親であるソランジュ・フェルネクスがおこなった四十日間というのが話題になった。
死に至った断食では人間がどういう状態になるかというと、脂肪の九一〜九七パーセントを失い、筋肉の重量の三〇〜四三パーセント、肝臓の五二〜五六パーセント(脂肪とグリコーゲンで)を失うというデータが出ている。腎臓や骨はほぼ正常を保ち、完全に近いのは脳と神経系だそうだ。このことからも、断食者が死に至るまで、明晰なエスプリを持つ「意思」のエッセンスのような存在になりうることがわかる。行為そのものが、普通の人に実存的な不安をいだかせる過激なものであり、かつ、精神の権化、清浄さの権化という印象を与えるというふたつの効用があるのだ。だから、ある種の神秘家にとって断食状態が存在の根本にかかわっていたとしても驚くにはあたらない。
ハンストは別にしても、宗教的コンテキストをはなれた断食の心身療法的価値の方も現代的にとらえかえす動きもある。西ヨーロッパでは、ドイツにおいて十九世紀の初めから公式の医学の中で断食療法が認められるようになった。断食の学会ができたのは一九八六年にすぎないが、断食療法センターはドイツのほかにオーストリアやスイスにもある。(これらはアメリカの場合と違ってその基本において東洋医学の影響を受けてはいない。)
不思議なことにラテン諸国では公式医学は断食療法を毛嫌いしている。しかしたとえば、断食の間に消化活動のために要する重荷から解放されて内臓は完全な休息をとり自然治癒力を十全に発揮できるし、心臓も日に二万回以上の拍動を節約できるという。慢性の病に薬づけになっていた人が断食で劇的に回復するという例は多くある。もちろん断食療法はドイツといえどもマイナーなものにはちがいない。断食で、長年悩まされてきた結核と心臓病の治癒を得たある高校の美術の教師は、自分も半信半疑で始めたこの療法を広めたくて、ケルンで公開断食にふみきったりしている。公証人が立ち会って封印したガラスの檻の中で四十九日間がんばった。食を断っても病気にならずに健康に過ごせるということを証明するためだった。こうなると見せ物で、彼は、見物に来る人の煙草の煙に苦しめられて衰弱し、たいした成果をあげられなかったようだ。このエピソードはしかし、すくなくとも断食は、それに成功した人を極端に走らせるぐらいに魅惑的であり得るということを物語っている。断食は「癖になる」身近な超常体験になり得るのだ。実際、隠遁とか瞑想だとかいう、日常から離れる行為をすることが困難になった現代生活においては断食が一番てっとり早く心身の健康にいいエスプリの訓練法だと言っている人もある。
現代のカトリシズムのコンテキストでも断食はもはや苦行とか戒律とかではなく、純粋な「魂の謙譲の行為」としてみなおされようとしている。多くの先進国でダイエットブームと神秘的なものへの回帰の傾向の中で、聖母マリアの御出現やそのお告げとしての禁欲や贖罪の勧めが研究された。医師とマリア学者は共著で「メジュゴルイのマリア御出現の医学的科学的研究」といった種類の本を出す。お告げのあった場所では、それまで無信仰だった若者達を含めて毎週金曜日にはパンと水しか摂らないというブームも起こった。断食のもともと持つ実存的なインパクトに加えて、ダイエット志向というきわめて現代的な感覚や、科学技術第一主義の中で失われていったように思えた神秘なものへの回帰の傾向などが重なる時代に、いわば新生を目ざすイニシエーションの方法論として断食が脚光を浴びることはおおいに考えられる。
ただし、マルト・ロバンを生んだフランスでは必ずしも事情が同じではなかった。もともとローマカトリック世界の文化の全体の流れとしては美食は必ずしも罪ではない。過飲過食は確かに七つの大罪のひとつに名を連ねていはしたけれど、フランスでは美食はまず文化としての市民権を持っていた。今でも、たとえば先進国の労働者階級の日々の食事を比べてみればフランス人の食のこだわりぶりははっきりする。美食の文化は宮廷を頂点とする上流階級からひろがってきた。たとえば日本のように、支配階級が長い間儒教的禁欲主義を基本的にカルチャーの基礎においていた国とは根本的に違う。その上王権がカトリシズムに食い込んでいたためプロテスタントの禁欲主義の影響もほとんど受けなかった。西欧の中で群を抜いて農業に適した温和な気候と土壤に恵まれていたことももちろんある。キリスト教の根本にかかわる主の肉と血であるワインとパンとをつくる葡萄と小麦の生産には特にむいていた。そしてワインは食事をしながら飲む酒であり、食事量を増やしてしまうタイプの酒だ。パンを食べるためには各種のソースが発達しやすかった。もともといたゴール人も猪の丸焼きのイメージで有名な大食家だった。アンリ四世が農業を推進し、一六〇〇年前後という時代に、全ての国民が日曜日毎に鶏を食べられるように、ということをスローガンにしたということは、すでに農民が美食をするということがポジティヴな感覚としてあったことを示している。中央集権的な国家が出来上がっていて、上の美食に下が倣うという方向性もあった。つまりフランスは政治的にも宗教的にも自然条件としても、層の厚い文化としての美食が育まれるのに理想的な状況にあったのだ。
今のフランスでもだからヘルシー志向やダイエット志向、自然食やまして断食などいうのは趨勢としては圧倒的にマイナーなものである。マルト・ロバンの生きた時代と場所から考えるかぎり、若い娘を断食状態に憧れさせるような背景はなかった。ましてや断食者を前にして周りの人々が聖性を感じただろうとは想像できない。マルト・ロバンの断食はむしろうさんくさいか、せいぜいハンディキャップとして見られていただろう。自然界における動物の断食には二種類ある。活動性のものと不活動性のものだ。活動性のものとはある種のオットセイや川のぼり中の鮭などで、不活動性のものは冬眠や夏眠である。人間も、長期の断食をする人の中に(超常的な場合でも)、ひじょうに精力的に活動する人と体の消耗も最大限におさえて寝込む人の二つのタイプがある。マルト・ロバンは薄暗い部屋で全身麻痺状態で寝たきりだったのだから、もちろん不活動型だ。マルトの断食状態は超常的なものだったわけだが、たとえ「普通の断食」にさえもともと病気に近いような感覚しかもっていなかった人々にとっては、それも気の毒な「重症」として映ったというのが、少なくとも初期の頃の正直な反応だったと思う。まともな人には起こりえない「アクシデント」だったと言ってもいい。マルトは食を断つことに願をかけたりしなかったし、食欲を「奉献」したりもしなかった。即身仏のような緩慢な自殺を宣言もしなかった。断食はそれをささえる思想やパロルから切り離されたときにはその実存的インパクトを失う。意思の力という「状況」の援護のない断食はどこか滑稽なアクシデントの相貌を帯びる。そしてアクシデントを嫌う人々というのはたしかにいるから、断食は蔑みや中傷の対象にすらなりかねない。ではそんなマルト・ロバンの断食が「奇跡」になりえたのはどうしてだったのだろうか? それを考えるために次に超常現象としての断食を見ていこう。
意図せざる断食[#「意図せざる断食」はゴシック体]
超常現象としての断食とは、生命維持に必要なカロリーを食物の形で摂らないという状態を常識を越えた期間続けているということである。その中には食ばかりか水分も断っているというケースも少なくない。もちろん生理学的には説明不可能なことだ。食べるという行為は人間の生物的条件に本来不可欠なものだから、何らかの意思をもって超常的な断食を行なっている人というのは、そういう人間としての限界を越えようとする意思を持っている場合が多い。当然それは「行」という性格を持つことが多いし、宗教的ヴィジョンに支えられていることが多くなる。よく知られているのはインドのヨギの断食で、ヨガの苦行では断食は喉の辺りにあるヴィシューダチャクラのコントロールであり、生きていくためには全てのものに共通するエーテルを摂っているなどといわれる。一九五〇年に六十八歳だったギリ・バラというインドの聖女は十二歳四ヶ月の時以来なにも食べていない理由を尋ねられたとき、「人は精神だということを示すため。神に近づくと人は食物によってではなく神の光によって生きるようになると示すため」だと答えている。
意思によってではなくアクシデント的に超常的断食に入った人も多い。しかしその場合も一種宗教的な段階へとたどり着くことが多いようである。それは、前述したように断食状態がヒエロファニーを招くことがあることや、断食者がその人間として特殊な状態にあることから実存的な考察を強いられるせいもあるだろう。「ある日突然」断食状態に陥るのは十二歳前後の女性が多いことから一種の内分泌障害が引き金になっているのかもしれない。それなら先のインドの女性も断食の始まりは行として自覚されたものではなくてアクシデント的なものだったかもしれない。始まりが意思的であったにせよなかったにせよ、多くの超常的断食者はヒエロファニーどころか透視を初めとする超能力を獲得するに至っている。十六世紀のイエズス会神父のエミリオ・デ・ボニスは完全な断食状態で寝たきりとなった牛飼いの女アルパイデが遠方を見たり、地球を宇宙から見たり、数々の予言をしたという記録を残している。摂食と消化という永遠の奴隷状態から解放されて、隠れていた別の能力が発達してくるのかもしれない。だからこそ、意思の介在にかかわりなく、超常的断食者がカリスマをもつ宗教者として成長していくケースが多いのだ。カトリック世界の例では、いわゆる聖者と認定されている人々の大部分はこのような断食をしているわけではない。しかし、歴史的に超常的断食をしている人の大部分は聖者である。(それも圧倒的に聖女が多い。)聖女リュドビナ(〜一四三三)は二十八年の間何も食べず、ドミニカ・デル・パラディソ(〜一五五三)は二十年間、福者エリザベス・フォン・ロイテ(〜一四二〇)は十五年間食べなかった。有名なのはシエナの聖カタリナ(一三四七〜八〇)だ。十六歳で修道会入りをした彼女はまもなく飲食物を受けつけなくなり、二十八歳で聖痕者となる。注目すべきなのは彼女がその異常な断食状態と戦っていたということだ。断食は聖性の現われと結びつけられるよりも悪魔の仕業と見なされることがあった。苦行についての神学の中では、悪魔は自殺をさせるという目的で人々を断食に追いやることがあるとされていたのである。たとえ死にまではいたらなくとも問題がないわけではない。げんにカタリナは断食で衰えるどころか、精力的に旅行し、文を書き、教育活動にも当たった。一三七六年にはフロレンス大使として、当時アヴィニヨンにいた教皇のもとに行ってさえいる。しかし、食べずに生きることができるのは悪魔も天使も同じことだ。マルティン・デル・リオは「悪魔に喉をふさがれて」、やせることも疲れることもなく六十日間飲まず食わずだった少女の例を報告している。救いを求めて修道院へ連れていかれ、さらに十五日を経た後で悪魔は聖体ミサによってめでたく追い払われた、とある。十五世紀末の年代記作者ロマーニャはドミニコ会修道女ペロサのシスター・コロンバが四十日のカレムの間完全な断食をしたと書き、「すごいことで、聖女か悪魔かという噂でもちきりだ。」と伝えている。これらのことから見ても、キリスト教的環境内の超常的断食が、断食者にとって大きなリスクをかけた両刃の剣であったと推察できる。
カタリナの告解僧も食べることをしつこく命令した。それはカタリナの強迫観念にまでなったけれど、どうしても不可能だった。「私は毎日に一、二回食物をとろうと努力し、神にも祈っています」と彼女は書き残している。しかし「私の体は一滴の水も受けつけないのです」という状態で、告解僧に「食べずに死ぬのと食べ過ぎて死ぬのとどっちが罪が重いのですか」などと質問している。十三世紀のフランスの福者マリー・ドワニーについてヴィトリーの枢機卿が残している記述では、完全絶食におちいったマリーにむりやりにパンを食べさせると、「泣きながら、胸がはりさけるのではないかという勢いで吐いた」そうである。近代のカトリック系断食者も同じ症状を呈し、チロルのドメニカ・ラザーリ(〜一八四八)は砂糖を一個舌の上にのせられただけで、二十分我慢したのちに激しく痙攣して嘔吐したという。彼女の症例はトレントの病院長デイ・クローチェ博士によって詳細に観察され、一八三四年以来医学雑誌に継続的に発表された。トーストパンの匂いを嗅いだだけで顔の筋肉を歪めて昏倒したらしい。ベルギーのルイーズ・ラトー(一八五〇〜八三)も有名で、七年以上飲まず食わずという状態を続けたことがかなりくわしく観察された。農民の娘だったルイーズは十三歳の時に雌牛に踏まれるという事故にあった。十七歳でひどい喉の病気にかかった。十八歳で両手両足の聖痕をあらわした後、食べるのを嫌悪するようになった。脊髄や喉は断食に関係あるチャクラがあるとされているところであるのが興味深い。
政策に有効であるとき以外の超常現象を嫌ってきたカトリック当局は、当然ながらこれらのドラマチックな断食者を牽制するのに苦労した。悪魔の仕業を吹き込み、自殺の罪で脅し、告解僧を目付につけ、できることなら修道院に隔離した。聖者認定における超常現象や奇跡についてはじめて明確な規準を設けたブノワ十四世は、超常的断食に「超自然」が介在している(つまり神の恩寵でありえる)と言いえるには、その原因が科学的に説明できず、かつ断食が日常の活動を妨げていてはならないとした。逆に、病的な原因が明らかであり、断食状態が忘我の状態(仮死状態やエクスタシー)でいわゆる「病気」の観を呈しているときは超自然とは認めないとした。ただし断食そのものが奇跡認定を受けるか受けないかということ自体は聖者認定と直接関係がない。(必要なのは教会への従順さと、ヒロイックな生き方と、周囲の人々による自然発生的な尊敬の念の発生と、「死後」においてその聖者候補に祈った病者の「奇跡的治癒」の証明なのだ。)人間の存在の条件にかかわる超常現象についての判断を教会が慎重に回避しているのがわかるだろう。
では宗教的なコンテキストから切り離されたところでの超常的断食はどうだろう。この件に関して必ずひきあいにだされる有名な例は一八四八年ブルックリンで生まれたモリー・ファンチャーという女性である。十七歳と十八歳で二度にわたる事故にあった後、彼女は九年もの間カタレプシー(強直症)の発作を起こし、それ以来何十年にもわたって超常現象に興味を持った医学者によって観察を重ねられた。彼女は視力も失ったが、「頭の先」で見えるのだと言って完璧な透視力を示した。封印された手紙を読み、色も見分け、頭の後ろにまわした両手(片腕は後頭部で膠着していた)で刺繍などの手仕事をした。絶食絶水状態も理由のわからぬまま確認された。すでに十八歳のある六ヶ月間にモリーが口にしたものはスプーン四杯の牛乳、スプーン二杯のワイン、バナナ一口、ビスケット一口でしかなかった。なにも胃に入っていないことを確かめるために吐剤をかけても消化液すら出てこなかった。のちには胃ポンプで栄養分を送り込む試みもなされたが、激しい喉の痙攣と共におしだされた。さまざまなほとんど非人道的な検査のあとでモリーは「ブルックリンのエニグマ」などと呼ばれていたらしい。彼女は敬虔なキリスト教徒だったが、超常現象については自分自身も周囲もまったく散文的な感覚しか持っていなかった。それが宗教とか神秘とかいうパースペクティヴではただの一度も見られなかったのはほとんど驚くべきことだ。モリーの超常現象はあくまでも病気であり、科学主義の残酷な好奇心の対象であり続けた。彼女は寝たきりであったが睡眠障害があった。そのかわり四つの人格をかわるがわるに脈絡なく生きたらしい。興味深いのはマルト・ロバンと同じく下肢の萎縮とねじれと、失明があったことだ。彼女の両脚は三ヶ所で曲がり、しかも膝が杵臼関節ではまっすぐになって反対側に折れ曲がり、足首も反対方向に反りかえって脚の裏を上に向けて硬直していたという。いつもベッドにあたっている右の腰の下は肉がおちて骨の上に皮がはり付いていたが不思議なことにいわゆる床ずれの状態には一度もならなかった。
常態としての絶食[#「常態としての絶食」はゴシック体]
絶食絶水で生きていられるということは、人間の体に根本的かつ劇的な新陳代謝の変質があったということである。呼吸が停まった例はないのだから空気の中から生きる全てを摂っているとしか考えられない。多くの例では、事故その他による脊髄の損傷に関係があるらしい。それからくる神経障害や内分泌障害が代謝障害を引き起こす。低血糖や血中コレステロール低下、血中カルシウムの増加などの症状がみられ、それは、破傷風や癲癇、子癇といったひきつけをともなう病気にも同様に現われる。モリー・ファンチャーは激しい硬直や痙攣を繰り返し、呻き声を発しながらすさまじく暴れた。手は髪をかきむしり、薄い胸をどんどんと叩き、ベッドを揺さぶって床を鳴らした。その衝撃で体がベッドからはねとんで床にたたきつけられることもあったらしい。このことはマルト・ロバンを激しい力で揺さぶった「悪魔」のエピソードを連想させるではないか。
いわゆる癲癇にともなう精神障害の例として四割以上の患者が神秘体験をしている(スイスのセリ養護院の統計。癲癇にはいわゆる発作前兆として輝く明るい光を見るという視覚前兆があることは知られている)というし、その発作の様子から癲癇は古来から悪魔の病、または神聖な病と二極にわかれた見方をされてきた。カタレプシーが死の疑似体験であったこともある。ウィリアム・ジェイムズは宗教的回心経験を分析して、ある種の精神障害(癲癇、分裂病急性期など)において患者が急激な多幸感、統一感、恍惚感を体験することがあると紹介している。
マルト・ロバンの病も神と悪魔のきわどい綱渡りであったのかもしれない。ひとつ確かなことは、病の原因や症状がなんであれ、その結果生きることのできた超常体験や神秘体験を人格の中に有機的に組み込むことができるか否かによってすべてが決まるということである。断食によってヒエロファニーを体験するだけでは宗教者は生まれない。発展性とコミュニカビリティを確立するかどうかにかかってくる。ある超常現象に病気のレッテルをはることができるかというのは聖性の本質とは関係がないのだ。「体験」したもの、あるいは「獲得」したものが、その人間を閉じ込める方向にではなく、自然や他者に向かって限りなく開いてゆくという方向に働くかどうか、恩寵というものがあるとしたらそこにこそ介在するのだろう。その意味でブノワ十四世の定義は正しい。奇跡の認定はキリスト教という有機的な宗教の中で「機能する」かどうかにかかっている。それは組織を守る自衛感覚というよりは、一部が全体でありえないような真実はないというホーリスティックなバランス感覚を示していると考えたい。
しかし先にも述べたように、何らかの事故の後遺症を初めとする病的なアスペクトを持っていない断食者もいる。飲食物をまったく摂らないか、説明不可能な小量(一ヶ月に何グラムという単位でしかない)で、痩せもせず寝込みもしない人々が確かに存在するのである。実際古来からの記録が多すぎるので、その全てに詐欺やペテンを疑うのは無理というものである。その中には子供もたくさんいる。宗教的な正当性を問われるよりも見せ物に近い運命をたどった者もいた。十七世紀初頭のフランスの少年ジャン・ゴドーは奇跡の子供として珍重され貴族に愛玩された。(それまでには遠慮のない好奇心と検査とにさらされたことはいうまでもない。)彼は小柄ではあったが痩せもせずに、父親と長い散歩をしたりしたが、十三歳で風邪をこじらせた肺炎で死亡した。解剖が行なわれたが、少年の食道上部は収縮して物を通さない状態であり、直腸も硬化して固まり、何も出ていけない状態だったらしい。(このころの解剖技術は信頼すべきものだった。)
完全断食者が社会心理に深刻なトラブルをおこすという事実は、ハンガーストライキという行為も可能にしたが、「見せ物としての断食」の成立も可能にした。それは思いがけない悲劇も生む。一八五七年生まれのイギリスの美少女サラ・ジャコブの断食は痛ましい最後を迎えた。農民の娘だったサラは、まれにみる美しい少女だったが十歳の時に猩紅熱にかかって生死をさまよい、十八ヶ月の間飲まず食わずで半睡状態を続けた。カタレプシーの症状もあり、頭が弓なりに反って足についたという。その後回復したかに見えたが食物を受けつけなくなってしまった。娘に食べさせようと必死の努力をした父親も、ついにあきらめてしまう。食べずに生きる美少女の噂は広まった。十二歳の春、サラは訪れてくる何人もの医師の観察の目にさらされる。彼らはサラの「奇跡」を肯定する記録を残した。多くの人々が奇跡の美少女を一目見ようと集まってきた。サラは愛らしい服を着てベッドに横たわり、髪飾りをつけていた。子供向けの信仰の書が贈られベッドのそばには小さな書棚ができた。リボンをつけて人々の称賛の目で見られることは少女の満足感をました。彼女は求めに応じて信仰の書を手にとって美しい声で朗読した。この世の天使、小さな聖女の姿を見ることができて感動した人々は小銭をおいていくようになった。父親に金を渡そうとする人もいたが彼はそれを拒絶して、娘になにかプレゼントしてやってくれ、と答えた。サラの薄い胸にはしばしば「賽銭箱」がぶら下がっているようになった。噂を聞き付けたある権威ある医学者はサラの奇跡の厳密な調査をするとマスコミに発表した。四人の看護婦が交代でつきっきりになり、毎日医師が診察することになった。サラは微笑みを絶やさず、不満を洩らすことも、飢餓を訴えることもなかった。イギリス中の新聞が小さな寝室の断食の聖少女の容態を書きたてた。サラの脈拍は早くなった。少女は衰弱し、一週間後に死んだ。三人の医師が少女を解剖し、腸の中にわずかの便を認めた。正常な摂食と消化を妨げる生理的な障害は見つからなかった。「実験」以前のサラは小量ではあるがものを食べていたと思われる。もっともそれは常識では十二歳の少女が生きていくには足りない量であったろう。不思議なことに切り裂かれた少女の喉から下腹部にかけては皮下脂肪さえ残っていた。ともあれ一週間の完全断食が彼女を死に追いやったのはまちがいない。好奇の目をむけていたマスコミは今度はいっせいにこの事件の非人道的なグロテスクさをあげつらった。責任の所在が問われた。罰を引き受けたのは結局少女の両親であった。父親に一年の母親に六ヶ月の懲役が言い渡された。しかし両親がサラの断食を信じていたのは間違いないとする意見も多かった。彼らが本当に娘を聖女にしたてることで金儲けを企てていたのだとしたら、金蔓である娘をむざむざ死なせるようなリスクは冒さなかったであろう。娘がどっちにしても常識を超えた少食で生きていたのはほぼ間違いがなかったし、彼女自身が断食状態を望み、飢餓を訴えていなかったのも明らかである。
断食によって死ぬ人は食物の欠如で死ぬのではなくて、飢餓とそれが生む恐怖や不安や不眠によって死ぬのだという説がある。飢餓感のない断食はそれだけでは人を殺さないというのだ。実際「病的な断食者」の中には、起きている間けっして飢餓を訴えず、食に対する激しい嫌悪を示し、夢遊状態においてのみ食物を受けつけるというケースがある。二重人格症状を起こして、断食をしている時は飢餓を自覚せず、人格を変換しないと食行為が不可能であるという例もある。こういうときは、本人は物を食べたという自覚も記憶もなく、周囲の人を煙にまくこともあるだろう。サラの場合がどうだったのかは定かではないが、ほかの「奇跡」にくらべて奇跡的断食が詐欺の材料になりにくいことは納得できる。断食状態が長いことを証明すること自体が難しいし、みたところもドラマチックではない。聖痕のほうがはるかにスペクタクルになりやすいし演出も簡単だろう。子供を使うにしてもいっそ奇形を見せ物にするほうがてっとりばやい。子供を断食者にしたてあげるのはどう見ても労多く、リスクも大きく、効果もメリットも少ないことである。にもかかわらず子供の奇跡的断食の例が歴史的に数多く報告されているということは、実際に超常的な事例があるからだと言わざるを得ない。そしてそれは時として、周囲の人ばかりか本人までもを巻き込む危険な誘惑的な香りを漂わしていたらしい。美少女サラはその痛ましい犠牲になったのかもしれない。問題はもはや断食そのものではなくて、超常的断食をどう生きるかということである。断食者が超常的状況の中で自分と周囲の精神の平衡を保ちつつ生きることはそれだけで困難な戦いであり、その戦い自体が存在と自然への挑戦となる。
聖体パンという特権的食物[#「聖体パンという特権的食物」はゴシック体]
キリスト教はこの挑戦に有効な武器を備えていた。キリストの体である聖体パン(hostia=ささげられた犠牲という語源を持つ)だ。聖体パンはキリスト教世界に生きた断食者を三つの意味で支えた。まず、聖体パンで神と共に生きるという精神的な支え、そして断食者の唯一の食物としての肉体的な支え、そしてしばしば悪魔の業とみなされた断食者を制裁から守る免罪符としての支えである。逆に言えば超常的断食者の唯一の命の糧となることで聖体パンの聖性もまた高まった。キリスト教世界の断食は聖体パンをぬきにしては語れない。
聖体パンは軽くて薄い味のない無酵母パンだ。ユダヤ民族のエジプト脱出に先立って、神がある夜、エジプトの神々や人々や動物に攻撃を加えた。神はその時にユダヤ人の家には危害を加えないための目印として傷のない牡の小羊を食べてその血を家の入り口の二つの柱と鴨居に塗っておくようにと言った。そしてそのことは「過ぎ越しの祝い」として永久に記念されなくてはいけない。その祝いは七日の間種を入れないパンを食べねばならない。七日の間は家にパン種をおいてさえいけない。種入りパンを食べたものはイスラエルの会衆から切り離される、とされた。過ぎ越しの祝いは今でもユダヤ人の中心的な祭りだ。イエスが弟子達ととった最後の食事はこの過ぎ越しの祝いの期間に当たっていた(とされている)。だから彼が手にとってちぎり、「取って食べよ、これは私のからだである」と言ったパンは無酵母パンだったわけである。彼は自分を記念してパンと葡萄酒を取れと言った。その時がもし過越祭にあたっていなければイエスは普通のパンを与えたわけで、もともとユダヤ教の形式主義を乗り越えようとしていたイエスがパン種の有無に必ずしもこだわったとは考えにくい。聖体パンが無酵母パンとして定着していったのは、初期キリスト者がユダヤ人であり、過越祭をキリストの復活祭に変えていくときにそれがごく自然であったからだろう。もちろんシンボリックな意味もある。練ったパン粉をふくらます酵母は「悪」のイメージでとらえられた。パウロはコリント人への第一の手紙の中で次のように提唱している。[五―七、八]「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい……古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いずに、パン種の入っていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」
ただしオリエント教会はその違いを無視して普通のパンを使っている。どちらにしてもイエスの体をパンとして食べるということは、敬虔に考える人々にとってはかえって混乱をもたらすことでもあった。聖体パンは天球を現す丸い形をとるようになり、十七世紀のバロック詩がうたったように審美的なイメージに洗練されていった。しかし今でも北フランス地方でクリスマスイヴにだけ焼かれる赤ん坊の形をした「イエス」というブリオッシュを見ていると、イエスの体をたべることをもっと肉感的にとらえていた伝統もあったような気がする。一昔前までは、大きく丸いフランスパンは、祈りと共に十字を切られてから食べられた。イエスがパンをちぎったせいか、イエスのイメージにナイフを入れるのがおそれおおいのか、今でもフランス料理の正式のマナーではパンは手でちぎるものとされている。ともかくパンという主食がキリストの体と結びつけられたことは、長きにわたって人々の食に関する不思議な共同幻想を育ててきた。
イエスがパンになったことは神学的には、「卑下」のシンボルとして強調されてきた。旧約の神がロゴスだの光だのとなかなか堂々としていたのに、救済と受肉の歴史は神の謙譲をあらわす。十七世紀頃にはそれを「悲惨なアクシデント」と見る説も出た。まず普通の人間イエスとして生まれ、十字架刑という屈辱刑で死に、さらに人間よりもっと卑小で軽い存在であるパンにかわり、人間に食われてしまう。パンとなって人の内臓に入ってしまうことは、人として生まれるためにマリアの子宮の中に入るのをいとわなかったことと呼応しているとも言える。教会がへりくだりと屈従とを第一の徳とするのは、たんに体制の安定のためという政治的意味だけでなくその神学の根本義にかかわっているのだ。
イエスがほかの食物でなくパンというありふれたものに化体してくれたのは、生肉では食べにくいからわざわざ食べやすくなってくれたのだという説もある。ともあれ主の肉をみんなで食べるという感覚がトーテム的効用を果たしてきたことは想像できる。とはいえどうみても味もそっけもない無酵母パンを、一定の儀式の後とはいえ主の生々しい体だと思い入れるのには限界があったらしく、プロテスタンティズムは聖別によってパンとイエスの体が同時に存在するのだ、とシンボリックな解釈をした。カトリックは聖別されたパンはもはやパンでなくなりイエスに化体するのだとあくまで言い通した。パンとしての実体を失うのなら、「悲惨なアクシデント」が解除されて「カエルが王子になる」ようにイエスの姿に戻ってもいいはずで、実際不信心者の目の前で聖体パンが生肉になったり血を流しだしたりという言い伝えはけっこうある。もっとも神学的には、化体とは、聖別によって、奇跡的に、何の助けもなく、血と魂と神性を備えた体がそのままパンの中に隠れるのだから、パンがパンのままに見えたっておかしくないことになっている。
聖体パンの聖と俗[#「聖体パンの聖と俗」はゴシック体]
聖体パンは、イエスの体という肉のイメージと、それが人の体を通過するという肉のイメージとで二重の肉体的イメージをになっている。教父のひとり聖クリュソストモス(〜四〇七)はすでにその説教[六七]の中で、聖体パンのことを、「聖処女の中に種をまかれ、肉の中で発酵し、墓というオーヴンの中で焼かれ、教会の中で味つけされたパン」だと比喩している。そしてそれが、聖餐によって、いよいよ卑小なひとりひとりの神の僕《しもべ》の肉体の中を通過するのだ。古来食べ物と神とが重なる場面は神秘主義の土壤になりやすかった。食べ物は、体に入り、食べた者の一部となる。食物ほど親密に合一できるものはない。その上食物が肉体の器官のぬめりとぬくもりとを通っていくという感覚は、センセーショナルで官能を刺激するものだ。それは聖なるものと汚れたものとのぞくぞくするような出会いでもあった。小さな頼りない無酵母パンの摂取は、ときには「無垢の小羊の体が、消化器官のグロテスクな汚いものに触れている」という実感にまで達した。その合一の感覚はあるときは結婚のイメージとなり、あるときは不死の体と死する体との出会いでもあった。それは神と教会の結婚、最後の審判で勝ちうる永遠の命のイメージと呼応していた。
聖体パンは食べ物として体をさしだすというイエスの謙譲の象徴であり、信者への見本であった。しかしイエスの体が人間の腹の迷宮を落ちていきながら消化されていくということはイエスにとってたえず繰り返される「死」でもある。それは同時に、聖体拝領する者にとっては、自らの肉体が墓となり神殿となるという、めくるめく錬金術だ。
清らかなものが汚穢の中へと落ちていく、あるいは堕ちていく、という感覚が堂々と中心秘跡において味わえるということは、一部の人にとってよほど魅力があったらしい。悪趣味というよりほとんど倒錯的なこだわりを感じる記述が残っている。聖体パンは旅をする。「口と胃という汚らわしさを通り、淫奔なはらわた、寄生虫の迷宮、至るところがくぼんででこぼこした暗い穴、下水道、ねばねばした子宮を通る」旅だ。「子宮を通る」というのはすこし無理な気もするが、そもそもマリアの子宮に宿った時がイエスの肉の旅の始まりだという感覚なのかもしれない。イエスをマリアの内臓の果実とする肉体的表現は祈りの中でも月並みなものだった。臓器的表現は聖書の中にも少なくない。(なぜか日本語訳だとなくなってしまうことが多いのだが。)
しかしなんといっても聖体拝領にまつわる臓器でもっとも重要なのは「胃」であった。胃は聖餐の秘跡についての神学的考察の中でも大きな位置を占めている。胃はまず何かをひそやかに醸成する「熱い袋」だった。それは自然のオーヴンであり、鉛を金に変える錬金術師の甕だ。聖体パンが人間のからだと奇跡の融合をするとしたら、そこは外気に触れる卑俗な口の中ではなくて胃の熱く湿った暗闇の中でなくてはならない。
キリストの体が嚥下され、湿った悪臭を放つ内臓に落ちていく過程は、不安をもって神学者に観察された。もともと聖餐式は、ユダヤ教のパンと葡萄酒の共同の食事の典礼を置き換えて定着してきた。キリストの霊的な実体と合体するという意味のほかに、共同の飲食によって教会というキリストの「神秘なからだ」において兄弟達と一体になるという意義がある。初期教会ではだからミサはしばしばかってな会食だった。食べ過ぎるものや酔っ払う者までいた。[コリント人への第一の手紙、一一―二一]パウロはこれを嫌った。飲み食いのための飲み食いは各自の家でせよ、教会で会食するなどは貧しい人々をはずかしめる行為だ、とした。聖餐はしだいにシンボリックになっていき、教会内でのいわゆる飲み食いは禁じられていく。それどころか聖餐を汚さないようにミサの前の断食までがのちには強要されていくのだ。(パウロは、空腹のため聖餐で食べ過ぎないように家で食べてこいと言っている。)教会内であった病気や死は神聖さを汚す聖体拝領のせいだともパウロは言った。「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」[同一一―二七〜二九]
ともかく時代と共に、キリストの体を口に入れるなどというおそれおおいことは神学者を当惑させ、主を汚すことのないように慎重なうえにも慎重が期されるようになる。それはほとんどマニアックなまでの潔癖症である。もしも聖体パンに食べた人を清める力があるならば、受けるほうの準備は必要ないという理論が成り立ってもいいはずなのだが、聖体拝領者の清潔さが強要されたということはそれだけ当時の人々が不潔だったからだとも考えられる。少なくとも聖餐式の前の日の夜の十二時から食を断たないと聖体への冒涜になるという考えは、胃を空にしておかなくてはいけないということだろう。胃は卑俗な消化器官ではなくて祭壇として準備されなくてはならない。胃という祭壇の上でイエスが血肉をもって再現するという陶酔の詩も生まれた。
胃が空なだけでは充分ではない。口腔衛生が確立していず歯ブラシもなかったころだ。うっかり歯の間にはさまって残った食物の小片も、「秘跡に飢えた者」と呼ばれたトマス・アキナスのような神学者にとっては深刻な神学的問題となった。口の中で起こる全てのことが議論の対象となった。口の中で唾液、血、鼻汁その他の体液を飲み込んだときは断食を破ったことにはならないという解釈はやっと十八世紀に明らかにされた。新大陸の発見でもたらされたタバコはどうか? もとはインドの草としてそれ自体悪魔的とされた嗅ぎタバコは、一七七九年にローマに法王庁直轄のタバコ工場ができたことから公認された。断食においては唾液と同様のものとみなされ、鼻から吸うぶんには問題ないとされた。
しかしたとえ口や胃を空にして完璧を期して聖体拝領に臨んだところで、聖体パンが並の食物のように消化液にまみれてどろどろになり、寄生虫に食われたり、排泄されたり、体の一部になるというのは神学者にとって許されないことだった。神学的には聖体パンは体の中で変質したりしない。食べた者のほうが「霊的に」変わるのである。ではどのあたりで恩寵があるかというと、喉を落ちていくときをもってそれが始まるとされた。たとえば死にゆく者の最後の聖体拝領で、聖体パンを口に入れてもらっても飲み込むことなく死んでしまえばそれは無効となるという説(十八世紀)もあって、死者の口の中を確かめなくてはならなかった。では胃の中で聖体パンが効力を発揮する時間はどれくらいかという疑問がおきる。ある枢機卿はこれについてローマ医師団の意見をあおいだ。答えは胃の温度によるとのことだった。パンが消化液による変質を免れている期間に対応するのだろうか。司祭の場合は飲み込んでから十二分間、普通の信者は一分間などという答えもある。デリューゴ枢機卿は十八世紀になって、聖体パンは十五分で全て消費されるという結論を出した。つまりそのあとは聖体パンはただの無酵母パンにもどり、降臨していたキリストはもういなくなるとされたのだ。これで少なくとも主の肉は腸の迷宮を旅する必要はなくなった。神学者の悩みは軽減される。
では一度胃に達した聖体パンを吐いてしまったときはどうなるのだろうか? それが十五分以内でまだ原形を保っているときは、当然まだキリストが残っているとされる。そういうときはもう一度飲み込んでももちろん有効である。もう一度飲み込まないときも捨ててしまうことは不可能で、聖体器にもどされて礼拝の対象となる。聖体拝領で受け取った聖体パンを落としてしまったときはどうなるか? 司祭が落とすこともあるだろう。なにしろ主の体である。落としたときは拝礼しながらただちに拾い、元の場所に戻す。一部が欠けていないかどうか注意深く確かめて、欠けていればそのかけらを見つけてやはり拝礼しながら拾わなくてはならない。パンが落ちて触れた場所は、はぎ取ることができるなら掻き削り、それをもやして灰にする。その灰を聖体器に入れておく。(この灰はカレムの初日である灰の水曜日に司祭や信者の額につけるのに使われたのだろう。)しかしまず、吐き気を恐れずに落とした場所をなめることを考えよ、ともされていた。掻き削れないような場所に落としたときは、その場所をきれいに洗って、洗うのに使ったものを聖体器に入れておかねばならない。なんだか即物的で滑稽だ。しかし聖体パンを真性の主の体と認めた神学の当然の帰結とも言える。神が、人間が食べるのに抵抗を示さないように生肉を避けてわざわざパンになってくれた、という説はそのまま、わざわざ人間に扱いやすい形にしてくれたのだとも言えそうだ。血の滴る生肉だったりしたら、父の肉を食う子供というトーテム儀式のイメージは強まったかもしれないが、もし落としたらずっとやっかいだったろうし、保存や準備も大変だったにちがいない。キリストの血であるワインが一般の信者に授けられなくなったのも液体の方が何かとあつかいが大変だったからだ。聖別されたワインは普通司祭と助祭だけが代表して飲む。杯をまわすという問題も、こぼしてしまうリスクも少なくなる。もちろん聖体パンとワインと両方を摂る方が恩寵が増すと思っていた人もあって、特別扱いしてもらっていた人もあった。しかし一般的には飲むよりも食べるほうがより「栄養があり」「濃い」と考えられていたので、人々は聖体拝領だけすることで満足した。恩寵を増すためにサイズの大きいパンをもらったり、複数のパンをもらったりなどというケースもあったらしく、ついに見かねたイノケンチウス十一世が禁止している。現在ではもちろんこのような病的なこだわりはないが、司祭は聖体器や聖杯の中にパンのかけらやワインのしずくを残さないように細心の注意を払うようにと要請されている。
聖体パンの恩寵には栄枯盛衰がある。プロテスタントも数多くの異端者もパンの化体を否定した。そんな中でカトリックは「パン=キリストの肉」の魔術を譲らなかったため、科学的精神の発達してきた近代になってますます苦しくなった。そのためにも聖体パンの恩寵の奇跡が強調されなければいけない。十三世紀のパドワの聖アントニオは聖体パンがキリストの体であるということを疑う人の前で実験をして見せた。三日間何も食べさせないで飢えさせた牝ロバをパンの前に引き出した。はたしてロバは、パンの前で膝を折り、頭を垂れたという。馬小屋で赤ん坊イエスを見分けたというイメージが重なっている。このエピソードも十八世紀になってからの記述だ。
聖体パンのアニミズム[#「聖体パンのアニミズム」はゴシック体]
聖餐式を行なう司祭も降神術者としての自信がないときは悩んだ。聖餐式は司祭の信仰の根幹をなすところである。また教会の主要秘跡であり、化体というミサのクライマックスをなす錬金術ショーの演出はすべて司祭の力にかかっていた。ショーとして説得力があるばかりでなく、煩雑な決まりを完全にクリアーしなくてはならない。秘跡の手順の失敗は宗教上の大罪に価した。タイムも重要で、ミサを急いですましてはいけない。それなりのもったいをつけなくてはいけず、それには三十分はかかるとされた。二十分ですますと軽罪であり、十五分以内だと大罪である。聖体器をかかげ、朗々と神降ろしをする司祭は教会という劇場の、祭壇という舞台で、信者という観客を前に独演する役者でなくてはならない。一番の迫力を要求されたのは、最後の晩餐のイエスの言葉をそのまま述べるところだ。ここは一種イエスが降臨して喋っているような思い入れが要求される。それは典礼のほかの部分と同じく長い間ラテン語のみでなされてきた。「HOC EST ENIM CORPUS MEUM」(これはわたしのからだである)という有名なフレーズだ。これはイエスの一人称で言われるのだから責任は重大である。「語りかけるようではだめで血が騒ぐように発音せよ」と言われていた。これでは良心的な司祭を尻込みさせるのに充分だ。聖フランシスでさえ自分はその任にあらずと思ったと伝えられている。言い間違いやとちりは当然まずい。hoc を hic というとよくないが、たとえ文法的にまずくとも中性を男性形で言うのは大丈夫、meum や corpus の最後の子音を発音しなくても意味は変わらないので聖別は有効だが、est の t.. を発音しなければ二人称となってしまうので大問題である。しかしわざと間違えたのでなければ必ずしも無効にならない、などとあらゆる種類の失敗が吟味された。これでは司祭が聖別の文句の発音に戦々兢々としたとしても不思議はない。おもしろいのは、このフレーズを演るときに「人の嘲笑の対象になってはいけない」とあることだ。これはつまり、おおげさに演りすぎて失笑をかうという例があったということだろう。オーバーでなく、おごそかに、感銘を与えるように聖餐式を執り行うのは相当な演技力を必要としたに違いない。
しかし完璧なミサをするために全ての司祭が心を砕いていたわけではない。十八世紀前半に(一七一四年頃)ブノワ十四世が出した通達を見るかぎり、司祭のミサに対する姿勢はかなりいい加減なものになっていたと思われる。言葉をとばす者、演技過剰な者、副業に農業をする者、付け毛やかつらをする者、女を追いかけまわす者、夜遊びをする者、外食する者、カーニバルでマスクをつける者に対してそれぞれ禁令が出た。ミサを挙げるときに、手をポケットに入れるな、金を数えるな、頭を掻くな、爪を噛むな、耳掃除をするな、手でハエをはらうな、つばを吐くな、声を立ててあくびをするな、手鼻をかむな、物乞いにどなりちらすな、犬を追い立てるな、という禁止もある。これは参列している信者に対してなのか司祭も同様なのかよくわからないけれど、犬や物乞いが出入りする雑然とした当時の様子がうかがえる。教会の劇場的性格、聖餐式の芝居的要素が時としてたどった運命が皮肉である。
聖餐式そのものの敬虔さの喪失や聖職者の堕落(司祭職に神学校での一定の教育が義務づけられ、実際に機能したのは近代後期以降のことである。)以外に、聖体パンそのものへの冒涜という伝統も昔からあった。これは聖体パンの軽視というよりも、聖体パンが民間信仰の護符として機能していたことをむしろ示している。十三世紀のドイツ人シトー会士ハイステルバッハのセザリーは司祭による聖体パンの冒涜について記録している。女にいいよるために聖体パンを口に含んでキスをしたというのだ。「聖なる力によって」女を思いどおりにすることができると考えられたらしい。恋の成就のための聖体パンの借用はよくあったらしく、自分で半分食べて残りの半分を想いをかける女に食べさせるという方法もあった。そのほかに、願いの言葉を血で書いておいた聖体パンを教会の祭壇の布の下に隠しておき、一度か複数のミサの間おいておいて聖別を受け、後でそっと取りだしてその粉を想う相手のスープの中に入れて食べさせるなんていうのもある。聖体パンの盗難があまりにも多いので、イノケンチウス三世(〜一二一六)は、聖油も聖体も鍵付きのところに保管するように条例を出した。しかし司祭自身がプリミィティヴな感性を持っていたとしたら鍵を付けても意味はない。司祭達が雨乞いの目的で、死にかけたロバの口に聖体パンをつっこんで賛美歌を歌いながら生き埋めにしたという事例もある。ただし当局はこういう「異教の風習」を排除することに必死になったので、司祭や信者による呪術的使用はかなり少なくなっていった。しかし、十六世紀には、聖体パンを口に含んで吐きだすということが、聖餐式のパロディであったサタンの儀礼の中心となったので、またブラックマーケットでの需要が増えた。聖体パン専門の故買商もいたと思われる。ユダヤ人のシナゴーグでキリスト教の聖体パンの冒涜がしばしば行なわれたというのは政治的な背景のある言いがかりだけではないかもしれない。だが、本当にプロに狙われたのは、シンボリックな価値しかない無酵母パンではなく、それをおさめていた聖体器である。聖体器は金銀細工師が贅の限りを尽くして生んだ芸術作品で、真の商品価値があった。一部の愛好家や盗人達の垂涎の的となっていたのは当然のことだ。しかし、聖体パンそのものに価値をみとめて盗む者もいた。その中でもカバネルラ事件は有名である。
一七二三年七月二一日、イタリアのカララの公爵領で聖体器が盗まれた。町中がこの重大事件にショックを受け、神の怒りを恐れて集団ヒステリーをおこした。贖罪のしるしに断食や深夜の祈りが行なわれた。傷心の大公にやがて天啓が与えられた。犯人の名がわかったのだ。証拠はなかったが大公の家来のひとりがこうして逮捕された。カバネルラである。はたして彼は犯行を自供する。聖体パンを聖体器から汚いハンカチに全部あけて、なんと二一五個の聖体パンを一人で食べてしまったというのだ。これは考えようによればかなり不思議な話ではある。聖体パンは汚れた者が食べれば命を落とすなどと言われていて、罪人を裁くための一種の偶然刑として使われていたことがあったほどだ。カバネルラはそれがいんちきだと示したくてそんなことをしたのだろうか。一人で隠れてそんなことをしても意味がないし、見つかれば死刑である。リスクが大きすぎるではないか。あるいはいつもひとつしか食べられない聖体パンを腹一杯食べて効果のほどを見たかったのか。不治の病にでもかかっていて聖体パンの物量作戦に賭けてみたのか。彼が腹をこわしたかどうかはわからない。聖体パンを多量に食べるとどうなるかを試した人はいなかったのだから彼の症状に好奇心を持った人もいたのではないか。だとしたらなんの変わったこともないと知って物足りなかったかもしれない。聖体パンは結局主の体なのだから、それ自体に冒涜者を罰する力があってもいいはずだ。カバネルラがけろりとしているのは、大量に食っても不都合がないということかもしれない。しかしそういう好奇心とは別に、実は無酵母パンを食ったとか食わないとかが問題なのではないことを当局はよく心得ていた。カバネルラは一定の典礼に従った司祭の手を経ずに聖体パンを食べたのがまずかったのである。聖の本質よりも秩序の問題が重要であった。彼の身柄はまず異端審問法定にあずけられた。ここで審理されるのは、彼の秩序紊乱行為が、カトリックの体制全体をおびやかす性質を持っているかどうかである。キリストの神秘のからだであるきわめて有機的なカトリック生命体を有機体として冒し得るか。つまり異端という癌細胞であるかどうかのチェックがおこなわれた。鍵となるのは第三者の示唆があったかどうかである。癌の場合は外科手術の道しかなかった。火刑である。審理の結果、カバネルラの異常な行為は、「悪魔に導かれただけ」、つまり「個人的」なものだということで決着がついた。「治癒可能」な外傷にすぎない。異端審問で「悪性でない」とされたカバネルラは晴れて「普通の」法定へ引き渡される。共同体による世俗の裁判である。教会の中に黒い布をしきつめて即席の演壇がつくられた。公開裁判は十二月十二日のことであった。どのみち町中の集団ヒステリーで始まった事件である。興奮した雰囲気の中で絞首刑がいいわたされたのは不思議ではない。
しかし共同体がこうむった外傷は、取り除くとしても、本来「治癒」されるべきものである。有機体のハーモニーを回復するためには、刑死者の悔悟が必要であった。つまるところ「個人的」な「悪魔のささやき」というものはだれにでもおこり得ることである。告解して課せられた贖罪をして回復するという治癒システムがちゃんとある。絞首刑は悪性細胞の手術としてでなく「贖罪」として生きられなければならない。ここで共同体の聖ロック兄弟団(善き死のための兄弟団)が登場する。黒い布を被った二十七名の行列が死刑前夜の十二月十九日に牢獄まで続いた。カバネルラは、勧められた葡萄酒をしりぞけた。しかしロザリオの祈祷を二度聴いた。狭い獄内に人がひしめき、黒い十字架が燈明をあびてうかびあがっている。唱和される祈りがこだまする。彼は、改悛を勧め慰めを与えるためについてきたカプチン会修道士に告解をはじめた。何度も何度も告解を繰り返し、祈った。夜明けの最初のほのかな光が獄を照らす頃にはカバネルラは聖餐を望むようになった。ミサが執り行われ、彼は聖体パンを食べた。今度は司祭の手を経た聖体拝領である。カバネルラはその聖体パンによって「修復された」。そしてカトリック有機体の一部である共同体は治癒された。なにしろ事件が起きたときに集団で断食禁欲したような体質である。罪人の「悔い改め」=神の恩寵に熱狂したであろうことは想像に難くない。カバネルラはなんといっても聖体パンを二百以上食べたほど聖なるものにこだわりをもっていた男である。被暗示性も強かったのだろう。すっかり宗教的昂揚に巻き込まれていった。彼は刑場に歩いていくのにイエスのように裸で歩きたいと強調した。キリストの体を拝領したのだ。論理的には永遠の命が約束されたはずだ。最後の審判で復活できる。カバネルラは雄弁になった。ほとんど恍惚として天国を語り始めた。死刑台の彼の周りでは詩篇がたからかに謳われた。急に殉教者と化した男に聖水がふんだんにふりまかれた。彼は朝から日暮れまで吊るされておかれた。黒くて恐ろしかった死体は、降ろされたときには美しく赤くなったということだ。カバネルラは「聖者のように死んだ」と書かれている。
このエピソードは聖体拝領のパラドクスを垣間見せる。そもそも聖体拝領の冒涜は、異端や法王への侵害や法王の同意なしに司教を任命したりすることなどとならんで破門の理由の条項に入っている。そしてカトリックにおける破門とはそもそも「聖体拝領」からの追放なのだ。だとするとカバネルラのように聖体パンを冒涜して死罪になるような者は当然共同体の聖餐の秘跡から切り離されるのが神学的な筋というものである。ところが実際には刑死者はミサにあずかって、それによって「修復され」、あまつさえ「聖者のように死ぬ」という恩寵さえ受けて死んだりするのだ。これでは聖体パンの冒涜が罪として成立することすらあやしくなる。これはしかし、有機体としてのカトリック共同体の持っていた「自然治癒力」の強さを物語っているのだろう。神学的なロジックよりも共同体の生命的なバランスの方が優先的に機能したといってもいい。冒涜の罪を犯した者は「救済」されて死ななければならない。彼の死は神の怒りを鎮め、共同体全部の贖罪となるべきものだ。死は供儀としての機能を果たす。しかし生贄となる供物は無垢の子羊でなくてはならない。ここにディレンマがある。共同体は冒涜者をまず無垢に「修復」してから屠らなければならないのだ。そしてその手っ取り早い手続きが聖体拝領だった。冒涜者を破門するわけにはいかない。
聖体パンの快楽[#「聖体パンの快楽」はゴシック体]
そういう便利な解毒システムが有効でないケースはもちろんあった。異端審問でクロとされる癌細胞である。だいいち、秩序の紊乱者をいちいち殉教者にしたてて天国に送っていたのでは共同体のストレスのはけ口がない。救いようがなく切り捨てられるべき「悪」もまた必要だった。
カトリック当局の規準では、神聖不可侵なのは聖体パンではなくて、聖体拝領の権利を一手に独占している司祭職の神聖である。聖体パンはつまるところそれ自体が聖なる力を持っているはずだから冒涜者を罰する潜在力もあるはずだ。しかし聖体パンへの神降ろしという特権を完全に信者から分けていることが体制としてのカトリックの依って立つ基盤である。司祭を守ることは司祭の叙任権を守ることである。それは司祭を叙任できる司教の叙任権を守ることであり、法王の司教叙任権を守ることだ。片田舎の小教区の司祭も聖体パンに神降ろしができるという点でキリストのからだの全部を体現できるというホーリスティックな構造を有するカトリシズムが、同時に強固なピラミッド構造をも持つことができるというトリックはすべて叙任権をめぐるヒエラルキーにかかっているのだ。だから、カトリック当局にとっての「究極の悪」は叙任を受けていない司祭活動、「偽司祭」にほかならない。とはいっても実際に偽司祭になって聖餐式を挙げる者が数多くいたわけではない。偽司祭の断罪は極めてまれなことだった。普通異端審問にひっかかるのはむしろ神学的な問題か、民間療法などでカリスマ的地位を得て教会を脅かす者に限られていた。共同体が「悪」を必要としたときは魔女狩りが手軽な方法だった。黒ミサという聖体拝領の冒涜は異端を認められやすく、共同体は魔女を「救済」することなく葬ることができたからだ。
一七一一年には有名な偽司祭ドメニコの火刑があった。ドメニコは、聖体器などの盗人でおたずね者だったが、司祭に扮装して罪を重ねていた。そのうちに聖餐の真似事もするようになった。何も知らない信者に囲まれておごそかなミサを挙げているうちに自分も影響されたのか、信仰篤くなっていった。聖餐を挙げることに召命感すら覚えるようになった。よほど劇的な演出に向いていたのか、彼のミサは信者に感銘を与え、すっかりプロになってしまったドメニコはなんと五年間もローマ市内の主要教会やバジリカでミサを行ない続けた。彼は高名になりあちこちでミサを請われるようにすらなる。調子にのってつい前に盗みをしたことのあるロレットに司祭として入り込んだ。そこで彼のことを覚えていた人がいて御用となった。ドメニコは吊られた後で灰にされた。当時の異端の最高刑である。彼は盗みは別として、司祭活動では別にだれに迷惑をかけたわけでもない。敬虔に信仰をもって活動した。そこらの司祭より説得力もあったらしくて信者にもありがたがられていた。彼の神降ろしが無効だったとしたら、無酵母パンは聖体にはならなかったのだから聖体パンを冒涜したとさえいえない。昔を知っていた者に見つかってさえいなかったら優等生的な司祭として一生機能したかもしれないのだ。教会はこういう「人材」を許さなかった。彼の罪はあがなわれず、灰にしてその存在を消したのだ。教会は自らを調和のとれた有機体として成り立たしめている神経系統のシステムをよくわきまえている。命の琴線に触れるものは切り離して捨てた。供物として使うような過ちは犯さない。
カバネルラもドメニコも、本当の意味で聖体や聖餐を冒涜したとはいいきれない。神降ろしの魅惑、あるいは神の宿った聖体パンの誘惑に負けたのかもしれない。隠れて目に見えぬ神がパンになって降りてくる。軽くてふわふわして手のひらに乗る「超自然」、飲み込むことのできる「神秘」、聖体パンに魅せられた者は、悪魔に魅入られた者よりももっと危険な旅に発つ。
聖体パンに魅せられたのは、教会から制裁された人々だけではもちろんなかった。ある種の人々にとっては聖体パンは阿片のように甘美なものだった。聖体パンの中毒症状を呈した聖者も多くいる。神学的論議はどうあれ、聖体パンが消化されて体の一部となったところで「神との合一」が実現されるのだという感じ方は根強くあり、それゆえ聖体パンがいわば遅効性の麻薬とみなされてきた歴史は長い。ジェノアの聖カタリナは、司祭の手の中の聖体パンを見ただけで飢えて「早く、早く」と叫び、気絶するほどだった。聖イグナチウスも、人生の他の快楽はゼロだが聖体拝領にだけは真の歓喜を感じる、とローマ人への手紙に書いている。普通の食物は何一つ受けつけなかったシエナの聖カタリナも、聖体拝領から受ける「肉体の快楽」を語っている。
麻薬とまではいかなくとも、もともと聖体パンにはセラピー的な効用があるとされてきた。もともとイエスは偉大なる治癒者として登場した。当然キリスト教もその伝統を受け継いだ。告解と聖餐と終油という三つの方法は、シンボリックにせよ治癒行為を目指している。特に聖体パンはイエスの体である。当然その効き目は類推魔術的なベースに支えられて大きくなる。十七世紀のイタリアの書物では、当時の医学者が類推魔術的な治療法が時として効力を発することを認めている。いわく、死人のからだの一部を治療不可能な患部にくっつけたら、(手と手、口と口というように)共感によって治ることがある。ましてやキリストの体を食べることが力の源とならぬはずがない。
受難の歴史をたどった初期のキリスト教においてすでに聖体パンは永遠の生命のパンとして英雄的食物であった。それはしばしば拷問、十字架刑、虐殺の時の非常食とされた。聖体パンを口にすることで受難における体の苦痛も消えて殉教者達が笑って死んだというからモルヒネみたいなものだ。家庭用や旅行用の常備食ともなっていたらしい。もともとはイエスを記念することと、復活の時の特別な権利を得る効用があった。復活の後で神とダブルの体になるという意味で不死になるとされた。瞬間的な効用は神学的には根拠がなかったが、期待して食べればすぐに鎮痛剤ふうの効果があったであろうことは、心身症をはじめとするかなりの種類の症状については大いに想像できる。
聖体パンは万能薬としてのタイトルのほかに活力剤としても市民権があった。聖者も推薦した。聖フランソワ・ド・サルは聖体パンを昼食の一時間前に食べるとよいと言った。戦争の時に兵隊の力をつけるのにもうってつけだった。一種のヘルシー食品だったのだ。現代のダイエット食品としても無酵母パンは確固たる地位を占めていることと考えあわせてもおもしろい。もっとも中世では一般信者の聖体拝領はせいぜい年二、三回の機会しかなかった。ミサを毎日でも受けられるようになるのは十六世紀後半以降からである。こうなると聖体パンをビタミン剤がわりにとれるというものだ。もっともこの頃の聖体パンは悪魔憑きに対する一種のワクチンのように意識されていたふしもある。魔女ブームとともにこの考え方が発展した。これはユマニスムの凋落とも呼応している。中世の終わりと宇宙観の転換からくる不安感がその背景にあった。地動説は人間を盤石の地球から追放し、人々は天体の脅威を強く感じざるを得なくなった。人間存在の卑小感は無常感へとつながり、托鉢修道会の説く煉獄から天国へのパスポートとしても聖体拝領は魅力的だった。生と死の統計の観念も生まれた。一七六六年ボロメ枢機卿はフランスのある町の例をあげている。同じ年に生まれた百人のうち七年後には四十二人が死んでいる。二十六年後にはさらに二十五人が死んでおり、三十六年後には十九人が死んでいる。五十六年後に残っているのは六人だけである。それもペストや飢饉のない比較的平和な世代の例だ。洗礼や埋葬で戸籍を握っていた教会にして初めて可能な統計だ。「良き時代には人は八〜九百年生きた」ものだとしており、こうも人が早く死ぬのは司祭に悪徳があるのではないかと反省を促した。死は集団の強迫観念となり、ひとりひとりの悪夢となった。聖体パンの霊験に期待する風潮があらたに生まれてくるのも不思議はなかった。命のパンという伝統がみなおされてくる。そんな聖体パンの効用を裏付ける最高の証明が、超常的断食者の唯一の命の糧としての聖体パンだった。
テーバイの隠世修道士アベ・ヨハネは洞窟の中で立ったまま祈祷を続けたが毎日曜の聖体拝領は欠かさなかった。アテネの司教リベラルも聖体パンしか食べなかった。フランシスコ会第三会福者アンジェラ・デ・フォリィニョは十二年間聖体パンだけで生きた。フランスで最初の超常断食として記録されているのはナンシーの西方コメルシーで、復活祭の聖体拝領を受けた後で三年間の断食断水状態に入った十二歳の少女である。在俗の女性神秘家が花開いたカロリング朝の八二五年のことだ。同じフランスのロワール河畔のツールでは、一三二二年やはり十二歳の少女が生まれて初めての聖体パンを食べた後で同じく三年間断食した。この少女たちはその後ノーマルに戻った。思春期の内分泌障害と関係があると思えなくもない。同じころ二十歳のパロムバという娘も七年間断食して生きた。イノケンチウス八世は詳しく調査して確認している。法王庁は偽の断食やエクスタシーの調査専門の法医学者を常にかかえていた。超常的断食は確かにあり、それは聖体拝領をきっかけにして起こったか、聖体パンだけで命をつないでいたか、その混合型にわけられた。どっちにしても、そのいずれにもわけられない時は悪魔憑きとして悪魔祓いの対象とされかねなかった。聖体パンは超常的断食者が存在を許されるためのいわば「踏み絵」の機能を果たしていたのである。ハイステルバッハの奇跡集(一八五一年)には、毎週の聖体拝領だけで生きている女に、試しに聖別されていない無酵母パンをそれといわずに与えると、空腹を訴えたと書いてある。聖体拝領を受けつけることで教会への従順さを示すだけではだめでキリストの体なしには断食が成り立たないことも示さなくてはいけないのだ。スイスの守護聖人である聖ニコラ・ド・フリュエ(一四一七〜一四八七)の超常的断食はその意味で教会筋にとって都合のいいものではなかった。スイスのウンテルワルデンに生まれ、十人の子供の父親であった彼は、オーストリアとの戦争で戦い、判事としても活躍したが、一四六八年五十歳を越えて召命を得、山にひきこもった。ある日激痛と共に体の中を光が貫き、それ以来飢えも渇きも失ってしまった。彼の超常的断食は死ぬまで二十年間続くのだが、最初の頃はインチキだと疑われ、州政府が彼のこもる小屋の前に一ヶ月間見張りをおいたりした。しかしニコラは断食のほかにもいろいろな超能力を発揮しだしたらしく、霊媒としても有名になった。彼の評判は確立し、のちに州の金で礼拝堂を建てることになる。そのチャペルを神に奉献するセレモニーで司教が聖体パンと葡萄酒とをニコラに授け、食べるようにと命令した。司教への服従を示すためにニコラは非常な苦労をして飲み込んだ。その結果ひどい病気になって四十日間苦しんだという。
これは摂食行為が完全に不可能になってしまうタイプの断食者は聖体パンですら受けつけないことがあることを物語っている。しかしきわめてわずかではあるが摂食行為のある断食者(その摂取量は、普通なら新生児が一週間生きるのにも不十分だという)もいるので、その場合はそれを週一、二回の聖体パンに置き換えられる場合には全てが丸くいくというわけである。聖体パンは断食者の従順の証明となると同時に唯一の命の糧としてその霊験の証明ともなるのだ。教会がたんに神秘現象をきらっただけではない。聖体パンを認めるということは、無酵母パンへの神降ろしを有効と認めることで、それは独占的に神降ろしをする司祭の独占的な叙任権のある司教の権威を認めることである。つまり司教の独占的な叙任権を持つローマ法王を頂点とする教会のピラミッド構造を強化することであった。その意味においてのみ超常的断食者は存在を許されたし、時として必要とされたのだ。もちろん神経障害に関係があるといわれる断食状態には実際に断食者の聖体パンへの思い入れがことを左右しているかもしれない。ある種の断食の持続を決定するのは自己暗示の強烈さであるとも言われている。その場合にもキリストの永遠のいのちである聖体パンがあるからこそなりたっている暗示もあっただろう。
聖体パンは「天使の食物」とよばれた。マルト・ロバンが四十年にわたる断食断水状態で聖体パンの摂取が可能だったことは彼女にとっても教会にとっても僥倖だったと言わざるを得ない。聖体パンはマルト・ロバンを肉体的に生き永らえさせただけでなく、もうひとつの「キリストの体」である教会の中でも生かしめた。聖体パンが嚥下機能を失った寝たきりのマルト・ロバンの喉にするりと入っていったとき、彼女はカトリック教会をも飲み込んだのだ。マルト・ロバンは教会を消化した。拒絶反応をおこさない同じ有機体の一部であることを証明した。彼女を聖体パンや教会と同じ「キリストの神秘の体」だと認めることができなければ、いったいどうして教会がマルトをひとつのコードとするリスクをおかしただろうか? マルト・ロバンは新しいシニフィアンではあったかもしれないがその意味するところシニフィエは新しいものではいけなかった。同じ有機体の再生産されていくクローン細胞でなくてはならない。
マルト・ロバンはちいさくて軽い聖体パンを飲み込んだ。それをじっと見ていた巨大なカトリック教会は、やがて用心深くそっと近づいてちいさなか細いマルト・ロバンを飲み込んだのだ。
3 聖痕論
ノーマン・ジュイスンの「アグネス・オヴ・ゴッド」(一九八五年)という映画を覚えているだろうか。閉鎖型修道院で見習修道女アグネスが赤ん坊を生んだ。ジェーン・フォンダ扮する女性精神科医リビングストン博士が極秘で呼ばれて事件の調査をする。アグネスはアン・バンクロフトの演じる修道院長の妹の生んだ私生児である。ジェーン・フォンダは赤ん坊は神の子だと言い張るアグネスや修道院長の秘密主義の中で何とか合理的な説明を見つけようとする。ところがアグネスを追い詰めていったリビングストン博士は、彼女を発作に追い込んだ。インテリ女性の前で、若い修道女は絶叫し、広げた両手の手のひらから血が流れ出す。そしてそれを見ていたリビングストン博士の中でも、何かが壊れて血を噴いた。聖痕現象は時としてそばにいる者の人格を揺さぶるほどのインパクトを持つのだ。
聖痕者は存在する。近代以降多くの神経医が少なからぬ興味を示してきた。確かにヒステリー発作に分類される聖痕現象もある。しかしそれを目の当たりにしたとき、人は血の洗礼を受ける。聖痕者が両手両足をとおして、心の傷から赤い血を流してみせるのに立ち会うとき、ひとはたじろぎ、体と心のあらゆる傷と、傷の記憶がいっせいにうずきはじめるのを感じるのだ。
聖痕の歴史[#「聖痕の歴史」はゴシック体]
聖痕という言葉はギリシャ語のスティグマからきている。刻印されたもの、刺青、または奴隷にあてられた焼き鏝の印を意味する。カトリックの歴史の中でいわゆる最初の聖痕者は有名なアッシジの聖フランシスだと言われている。一二二四年九月十四日、夏以来アルヴェルナ山の奥深く孤独と祈りの静修生活に入っていたフランシスは、突然おそったエクスタシーのうちに十字架にかけられた熾天使に蔽われ、聖痕を受けた。二年後の十月三日に死ぬまで彼は生々しい傷を持ち続けた。両手の傷は袖の中に隠していたが、さわってみた弟子もある。もともとキリスト教にはえらく実証的な伝統がある。復活したイエスを疑った聖トマスは「釘あとを見てそこに指を指しいれなければ信じない」と言い張った。イエスは「見ないで信ずる者は幸いである」と言ったものの、トマスが傷あとにさわるのをゆるしたというものだ。フランシスの聖痕は、一部が盛り上がって釘の頭のように見えたという「精巧な」ものだったらしい。それを押してみた弟子もいた。死んだ後は、「五つの真珠」と呼ばれた聖痕は晴れて会葬者の目にさらされて、かき抱いたり接吻したりした人もいたようだから、聖痕が即物的に「存在した」のはほぼ確かだろう。それ以来聖痕はカトリックの歴史の中に市民権を得て、クレルモンフェランの医学部教授グルベイル博士は、三二一件を数えたことがある。最初が聖フランシスなのに、あとに続いたのは圧倒的に女性が多く、三四一人中二八〇人が女性だという統計も出ている。教会が列聖するいわゆる聖者との関係でいくと、三三〇人の聖痕者のうち六〇人だけが聖者として認められており、しかし、聖痕は一度も彼らの列聖の理由に加えられてはいないということだ。理由にはならなくとも、個々の聖痕における超自然的性格の査定が行なわれることはある。その結果は発表されることもされないこともある。今世紀のもっともスキャンダラスな聖痕者だったババリアのテレーズ・ニューマンには、司教や医師ら六人からなる調査委員会が編成されて、一九三八年の復活祭の聖金曜日にくわしい調査がなされたが、「重症のヒステリー症状」を確認されたにとどまった。実際ある種の聖痕には世俗の人をほっとさせるような「病名」がつけられた。いわく「心因反応性精神障害」「ヒステリー性の限局性水疱形成」である。
聖痕は不思議なことに西方教会に固有の現象である。もともと東方教会のイコンでは父なる神と子なるキリストと聖霊との三位一体のものが多い。当然、偉大な、立派な、堂々とした表現に傾いている。イエスの受難に感情移入して追体験してゆくという伝統がない。キリスト像にも一般的に苦痛の表現が欠けていて、見る者の感性をかき乱す要素はずっと少なくなっている。だいたいにおいて神性にイメージを付加するのがプリミィティヴだという感覚があり、キリストの苦難を分け合うという志向は育たなかった。このことをもって聖痕がたんなる自己暗示の産物であるというのは短絡的かもしれないが、ひとつの文明の感受性と信仰の形態が神秘主義に影響していくことの例のようには思える。
聖フランシスの以前に聖痕者がいたかどうかは、定かではないが、九二〇年にオザンヌという女性の記録が残っていて、フロドアールの証言によれば、彼女は二年間にわたって断食断水をし、数々のヴィジョンを見、血の汗をかき、額から首まで血が滴ったという。これは厳密には聖痕ではないかもしれないが、血の秘跡に分類できる。額から流れ落ちる血は、ひとつには茨の冠で傷ついたイエスの額を連想させ、ひとつには逮捕される前の日にイエスがゲッセマネの園で流した血の汗を連想させるからだ。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」[ルカ二二―四四]ともかく今世紀初めには、だれが最初の聖痕者かということが一時歴史家の話題になったことがあり、各種の聖人伝が調べられた。その研究はやがて立ち消えになった。九〜十世紀の歴史編纂者であるビザンチンのスイダスが、紀元前三世紀ソシビウスの書物を引用しており、その中で、クノッソスのエピメニデスが聖痕を有していたと書いてあったからである。実はエピメニデスは長い間伝説上の人物だと思われてきたのだが、ドイツ人のギリシャ学者ヘルマン・ディールスによって歴史上の人物だと証明された。エピメニデスはクレタ島の神の洞窟で五十七年も過ごし、苦行をし、断食をし、いろいろな予言をしたという。その彼が紀元前四三八年に死んだとき、肌にはスティグマが刻まれていた。この聖痕の場所や形状はよくわからない。しかしそれは肌に現われた聖性の不思議なしるしであった。このエピソードが示すことは、古代ギリシャでも人間の聖性が断食だの予言だの聖痕だのと結びつけられていたという事実だろう。宗教的なコンテキストの中で信仰を肌の刻印として表現する人がいることは何もローマキリスト教の特殊状況ではなかったのだ。
とはいっても、その開祖が手足を十字架に釘で打ちつけられて殺されたというすさまじいイコンを中心に据えたローマ教会である。聖フランシス以来、イエスの傷跡を模倣するというすばらしいアイディアにめざめたらしく数々のドラマチックな聖痕者が輩出した。十八世紀の福者「五つの傷のマリー・フランソワーズ」はその名に恥じない立派な聖痕を持っていた。もともとこの種の「奇跡」は、少なくとも本人の生存中は、目立たないこと、宣伝しないことが、列福列聖の条件である「英雄的な信仰」の必要条件とされている。だから聖痕を思う存分観察したり検査したりできるのは、密室で秘密を共有することが可能である告解僧をおいてほかにない。マリー・フランソワーズの列福にあたっての裁判で彼女の聖痕について証言したのも告解僧であった。両手のひらの釘穴状の傷は相当深かったという。聖痕は消えることがなかったが、復活祭前のカレムの期間や三月の金曜日ともなるとますます深くなり、穴に差し入れた告解僧の指は、手の反対側にあてた親指に触れたということだ。もともと復活祭の聖週間に修道院をあげてイエスの受難を模倣するというのはかなり一般的な行事だった。イエスが鞭打たれた時間にあわせて自分で自分を鞭打つ習慣は今でも残っているところがあるほどである。修道院長のキャラクターにも関係があっただろうけれど、修道院中が一種の集団ヒステリーにおちいるケースもあった。修道女の集団ではそれがこうじて奇怪な行動もしばしば見られた。特に伝統的な女子修道院はまったくの閉鎖的な環境である。拘禁反応のひとつである異常体験反応もでてくる。それに加えてカレムの期間の断食や粗食と長い祈りがある。深夜の勤行も多かった。沈黙の規則もある。いわゆる祈祷病におちいり心的自動現象を起こすのに理想的な条件である。感覚遮断、飢餓、不眠、疲労が被暗示性を高め、反応性の急性錯乱症状を起こすことがあるといわれている。
オーベルワイマールの修道女シスター・ルカルディスの聖痕の話はとても奇妙だ。一二七六年から一三〇九年を生きたこの修道女の記録は十四世紀以来、一八九九年まで埋もれていた。彼女はイエスの釘打ちの受難に取りつかれていたらしい。(実際のところ、イエスは出血多量で死んだわけではなく、十字架刑はローマ風の窒息刑だ。だから、首を切られた洗礼者ヨハネなんかとちがって、血の幻想を育てるに足るほどの血は流さなかった。イエスの受難のシーンで、追体験するのに一番ショッキングなのは手足の釘打ちのシーンだったかもしれない。)シスター・ルカルディスはほとんどエクスタシーの状態で、自分の中指を使って、反対側の手のひらに釘を打つ動作を繰り返したという。五〜六センチ離したところから、精力的に、ドリルのように打ち続けた。中指は硬直してがちがちになり、打つたびになんと金槌で釘を叩くような金属音がしたというのである。その音も並のものでなく、激しい響きが修道院中に鳴り渡って、鐘がわりになったほどだったらしい。それだけでも鬼気迫る話だが、もっと不思議なのは、彼女がこのように猛烈な打撃を両手に与えたのにもかかわらず「聖痕が現われなかった」ということである。つまり彼女は金属音が鳴り渡るほどの自虐を繰り返したのに無傷のまま二年間を過ごした。ところが二年後にヴィジョンを見て、その瞬間からはじめて、毎金曜日に両手両足から出血しはじめた。その後も奇行が続き、寝ながらくるくる回転したり、駆けだしたり、頭と片方の肩だけつけた状態で何時間も逆立ちしていたという。これらのエピソードは信仰の強さを示すなどというポジティヴな印象を与えるものではなく、むしろナンセンスに近い。超常的なものをみとめるとしても、恩寵としての意味を賦するにはあまりにも当惑させられるものだ。そこにかえってリアリティがあったりする。
逆に意思や暗示の力で聖痕を得ることが可能だと仮定したところで、それが周りにいる人々を当惑させることにかわりはない。近代科学の実証精神で徹底的に調べられた有名な聖痕者はルイーズ・ラトーである。一八五〇年ベルギーの貧村に生まれたルイーズは、十三歳で雌牛に踏まれるという事故にあい、十七歳で喉の病気にかかって吐血する。十八歳でエクスタシーにおちいりヴィジョンを見、同時に聖痕を受けた。それは毎金曜日に出血した。(彼女がそれから超常的な断食状態に入ったことは前章でふれたとおりである。)彼女の症例はルーヴァン大学医学部の病理学教授ルフェーブル博士の興味をひきつけた。彼の発表した詳しい記録によると、ルイーズの聖痕は、金曜日以外はピンク色の痣のようになっていて、皮膚は完全な状態で傷はなくなめらかだった。手のひらにもそれに対応する手の甲の側にも直径二・五センチくらいのピンクの円形が観察された。足の方も甲と裏側と両方に三センチ角くらいに見えていた。その部分が、木曜日になると、少しずつ水膨れになっていく。半球型に盛り上がり、中は透明な漿液がつまっている。そこにだんだん血が混じっていく。金曜日には表皮が破れて一回平均して二五〇グラムの出血があるというのである。表皮が破れないときもたまにあるが、その時は内出血が中で固まるのが見える。この記録は、聖痕の原因は解明できないにしても、その詳細を知らしめたことで画期的なものとなった。それを読んだ医師たちがあらゆる国から禿げ鷹のように寄ってきた。かわいそうなルイーズは、ヒューマニティを無視した研究の対象になる。それでも彼女は血を流し続けた。
聖痕と医学[#「聖痕と医学」はゴシック体]
聖痕が自己暗示の産物なら、自ら聖痕者をつくってみたいと思うのが医学者の人情らしく、一九三三年にドイツ人のアルフレッド・レヒラー博士があるオーストリア女性をつかって実験してみた。(患者も医師もルター派のプロテスタントである。)そのころにはテレーズ・ニューマンの聖痕写真が有名になっていたこともある。患者はヒステリー性のひどい神経症だった。ある日彼女はキリスト受難の映画を観て感銘を受けた。レヒラー博士はそれにヒントを得て、「貴女に足りないのは聖痕だけですね」などと暗示をあたえた。そのあと催眠術を使ってみて、聖痕らしき水疱を得たとも、場所は限定できなかったともいわれている。(もっともジャン・レルミットは「神秘主義者と似非神秘主義者」(一九五二年)の中でそのデータは科学的に信頼できないとしている。)しかし、汗の中に赤血球の混じる血汗症や、ストレスによって毛細血管が切れる症状、事故にあった子供の外傷部位と同じ場所に瞬間的に内出血を起こす母親の例などはまれにではあるが実際に存在する。だからこそ多くの医学者が聖痕の秘密を解明しようと努力してきたのだ。にもかかわらず現代医学において聖痕の解明が棚上げにされているのにはいくつかの理由がある。
ひとつには、聖痕が、聖痕者をとりまく文化的コンテキストに整合した形でのみ現われるということがはっきりしたからである。たとえば多くの聖痕者にとって、金曜日やその中でも復活祭の聖金曜日というのが重大な意味を持っているのは、もちろんイエスの受難の日とされているからである。しかしこの日付が、キリスト教の典礼が確立していく過程で多少なりとも恣意的に打ち出されてきたのは周知のことであった。(初期には、ユダヤ暦の過越祭つまり春分後の最初の満月に祝われていたが、キリスト復活の日曜日を祝うという一派と妥協した結果、春分後の最初の満月のあとの日曜日ということに三二五年の最初の公会議で決まっていた。)ましてや、グレゴリオ十三世が、一五八二年に太陽暦を採用してからは、陰暦を守るギリシャ正教会とすら十三日ものずれが生じた。だからローマカトリックの聖痕者たちはローマカトリックのカレンダーに従って聖痕から血を流しているにすぎない。聖痕の現われる位置についても異論がある。長い間、十字架のキリストは手のひらに釘を打ちつけられたイコンで表現されてきた。ほとんどの磔刑図や磔刑像はそうなっているし、復活のイエスが見せる聖痕も同様だ。ところが解剖学的に考えて、手のひらに釘を打つのでは体重を支えきれないということがわかってきた。手のひらが裂けてしまうのである。実際は手首に近い部分を釘打たれていたと思われる。ローマ時代の最高の屈辱刑だった十字架刑は、文書の記録を別にして考古学的な跡がほとんどなかった。十字架刑の刑死者の骨が最初に発掘されたのは一九六八年にすぎない。そんな中で、磔刑のイコンは手のひらに釘を打たれたかたちで定着していたのである。多くの神秘家が、十字架のイエスのイコンに目を凝らし、祈り、イエスの苦痛を分け合おうと想いをかけてきた。図像を頼りにした観想法のマニュアルも存在した(神学的にはプリミィティヴな方法だと但し書きがついていたにせよ)。「できるだけ解剖学的にリアルな」磔刑図がはやったこともある。こうして聖痕者はイコンに忠実な場所にできる聖痕から血を流した。十字架の形に血の跡がつくというユニークな聖痕も存在したほどである。
もちろん自己暗示だけで説明のつくような現象ばかりではなかった。たとえば寝ている聖痕者の聖痕から、血が重力と反対の方向に流れるというケースがある。まるで十字架にかけられているとそうなるであろうという方向に血がしたたっていく。血が腕を這いのぼっていく様子はまさに超常的で人々を瞠目させた。しかしこれらの奇怪な現象を「科学的に」観察することにはそれだけで非常な困難がともなう。聖痕者には寝たきりの者も多く、検査のため病院へ移すことは難しい。家族や本人の同意を得ること自体がまれだし、本人が積極的に拒絶しないまでも、告解僧の反対に出会う。そして聖痕者はまず熱心なカトリック信者なのだから、告解僧のアドヴァイスには絶対従う。カトリック教会の方針は一貫して、生きている人間の個人的な奇跡を封じ込めることだから、聖痕者を表に出すのはきらうのだ。(ただし聖痕者が教会を脅かすような形でカリスマ性を発揮してしまっているような場合は、野放しにしておけない。インチキを糾弾できると見たときには、くわしく調査して、見せしめの制裁とする。本物らしいときは、告解僧を通じて本人にはへりくだりを要求し、体制のプロパガンダとしてとりこみにかかる。どれもうまくいかない時には、「悪魔の仕業」のレッテルをはるという奥の手もある。)どちらにしても聖痕者が真にすぐれた信仰者ならば聖痕の真偽を正す必要もなく、その徳は自然にカトリック共同体全体を潤すはずだという理論が成り立つのだ。
人権の概念の発達した現代では、科学の名のもとに聖痕現象を研究するのは不可能に近い。聖痕を科学的に研究しえるのは教会が関わっている場合に限られる。熱心な信者である聖痕者の同意が得られるからだ。現在見られる、医学的な価値のある数少ない聖痕写真は、聖痕者を病院ではなく修道院に隔離して検査したものがほとんどであるというのも、このへんの事情を物語っているのだろう。
実証の難しさに加えて、聖痕現象がきわめて特殊な症状であるということもブレーキになっている。非常な困難を排して研究を深めえたとしても、医学者の業績としてのメリットは限られているのだ。これは聖痕だけではなく、宗教神秘主義に付随するほとんどの超常現象に共通することである。科学者たちは聖痕に魅力を感じながらも、聖痕を一種の禁断の実として残した。聖痕の魅力は血の魅力であり、聖痕の禁断は血の禁断でもある。わたしたちは西欧キリスト教世界における血のシンボリズムを語らずには聖痕を語れない。
ローマ帝国とキュベレ神信仰[#「ローマ帝国とキュベレ神信仰」はゴシック体]
まず最初に西欧社会にかなり根強い「血」のアーキタイプを植えつけたキュベレ神の伝統を振り返っておいたほうがいい。キュベレ神はギリシャ・ローマ神話ではウラノスとガイアの娘ということになっているが、プリュギア(今のアナトリア)を中心に崇拝されていた大地母神である。農業神であるが、全能であった。アッチカに紀元前五世紀後半ごろに伝わっていたらしい。紀元前二〇五年、カルタゴ戦争に疲弊していたローマは、景気づけに新しいご利益のある神を必要としていた。キュベレ神は、紀元前二〇二年、ペッシーヌスにある聖石の形でローマ入りした。聖石は黒い隕石だったと言われている。これはのちに、ユダヤ的コンテキストの中で、創世記二十八章にでてくる神の宿る石[一六〜二二]と重ねて語られることになった。さて、聖石はパラティヌスの丘の神殿に奉られた。
キュベレ神は当時ミトラ神と並んで、不死の象徴として勢力があった。冬に枯れて春に芽をふくという植物神の再生イメージが、不死とイニシエーションに重なっていた。特徴的なのは血の洗礼の儀式(トロボール)である。このイニシエーション儀礼は三日間続き、洗礼を受ける者は喉を切られた牡牛の血を注がれた。キュベレには動物の性器が供えられる。これはアッチスの葬礼を模したものである。(キュベレは、もともと両性具有だったのが去勢されて女神になったので、切断された部分から生えた植物の実が女を身ごもらせて生まれたのがアッチスだという神話もある。)オヴィディウス(前四三〜後一七)の詩によると、キュベレは若い羊飼いアッチスに恋をした。その恋はプラトニックなもので、キュベレはアッチスに貞潔の誓いを立てさせた。しかし若いアッチスはやがてほかの女に恋をして結婚しようとする。怒り狂ったキュベレは、アッチスを狂気に追いやった。アッチスは狂気の果てに、自らを去勢して死んだ。怒りのさめたキュベレは、アッチスを松の木の姿で復活させた。
キュベレ信仰の中には古い自然信仰のテーマがほとんど全部入っていた。木(葉を落とさず緑のまま残る松は永遠の命の象徴である)、石(聖石)、動物(猛獣の支配、キュベレはライオンの引く戦車に乗っている)、植物の生と死(血と性器は土地を肥やすために捧げられる)などだ。儀式は熱狂的なもので、叫びながら踊り狂い、最高潮に達したときは、自分で自分を去勢した。これはアッチスの故事に倣っているわけで、去勢によって魂が永遠に復活されるものとされた。自己去勢者はガッルスとよばれる神官となり、サフラン色の女物の長いローブを身にまとい、化粧していたり、金色に染めた長い髪を垂らしていたらしい。倒錯的な色合いが濃い。キュベレ神を招請したローマにとってもこれは思惑外のことだった。ローマ宗教は、先祖神を中心としたかなり醒めた、謹厳なものである。オリエント的熱狂とは相容れない。しかしキュベレ神が対カルタゴ戦争にとって利益をもたらしたことは認めざるを得なかった。そこで、三月二十四日の「血の日」を含めた儀式をすべて神殿の中でのみ行なわせるように封じ込めた。ローマ人は神官になれなかった。それとは別に、聖石がきた日を記念して、四月の四日から十日までを年祭とした。メガレンシア(メガレとはギリシャ語で偉大な女性という意味である)とよばれたこの祭では、アッチスの神話は無視された。祝祭劇などが催され、オリエンタルな要素は消された。
ところが、その後ローマには、オリエントの奴隷が増えてきた。彼らの中にはキュベレ神を崇拝するものが多い。キュベレ神の信仰は、だんだん本来の姿を取り戻してきて、アウグスチィヌス帝(後一四)の治世になって復権する。ローマ帝国は、先祖神のほかに国神を設けたり、皇帝を神化したりしていたが、それらのどちらかといえば醒めた形式主義の宗教では民衆の宗教心は満たされなかったらしく、一世紀になってオリエント系の救済宗教がいっせいに花開いた。イシス神やオシリス、シリアのアドニス、ディオニソスもあったが、特に人気があったのは、キュベレ神と、イランから一世期末に伝えられたミトラ神だった。ミトラ神は太陽的な男性的な神で、キュベレ神とうまく調和したらしく、ふたつの儀式は重なっていった。二〜三世紀には、ローマ帝国の発展と共に、キュベレ=ミトラ信仰はスペイン、イギリス、フランス、アフリカへと広がっていった。
これがイエスとパウロのキリスト教が発展していった当時のローマ的世界の宗教環境だ。イエスの刑死という事実をうまく消化できなかったユダヤ的世界から脱して、イエスの「復活」信仰をヘレニズム的な密儀宗教(再生による永遠の命)のコンテキストに乗せることでキリスト教は翼を得た。春に再生する植物神であるキュベレの血の祭にあたる春分の日はイエスの復活祭に置き換えられた。ミトラの誕生日は冬至である。(その日を境にして陽が長くなるということで、冬至はギリシャ・イラン系のほとんどの太陽神の誕生日だった。)それはイエスの誕生日に置き換わる。キュベレ神の儀式の食事がパンとワインだったのも都合がよかった。キリスト教は迫害時代をのりこえて発展していった。三二五年にはニカイアで最初の公会議が開かれたし、三九二年にはキリスト教以外の異教が禁止されるほどになった。ローマにあった最後の「血の洗礼」の場所にヴァチカンが建てられた。キュベレ神の大地母神的な要素は、イエスの母であるマリア信仰に少しずつ入れ替わった。ミトラ神の伝統はといえば、のちにマニ教(マニ、二一五〜二七六)を通じてカタリ派へと続いていった。キリスト教が西欧を支配していった歴史には、イエスが死と再生の密儀をカバーし,聖処女マリアが母神のキャラクターをカバーしていくというメカニズムがあったのだ。血の洗礼は水の洗礼へと置き換えられ、生贄の血はイエスの血であるワインに置き換えられようとした。しかしキュベレ神の血の影は、形を変えて執拗に尾を引きキリスト教文化のハーモニーに不吉な低音部を鳴らしてきた。
血のフェティシズム[#「血のフェティシズム」はゴシック体]
それではユダヤ的伝統においては血はどんな位置を占めていたのだろうか。体と精神の二分論というのはギリシャ的な伝統からきたので、ユダヤ的世界ではその区別はなかった。旧約聖書の人間像では、脳は存在しなくて、意思や知性や記憶は心臓と結びつき、力は腕と手に、愛や感動は内臓(腸)に、血は喉と結びついていた。(聖痕者や断食者が喉の病を得ていたり、喉のチャクラをコントロールしているといわれているのが思いだされる。)そして血は「命の宿るところ」とされた。「命である血」と創世記[九―四]にあるし、レビ記[一七―一一]の「肉の命は血にあるからである」というのは今でも献血車のスローガンにつかわれている。そして命は神が与えたものであるから、血は神に属した。だからこそ神のものである血を流すことが禁止され、動物の血を食べるなという戒律ができたり、人を殺すことが戒められた。(カインがアベルを殺したとき、それを主に知らせたのは、土の中から叫んだアベルの「血の声」であった。)
もちろん血は浄める力としても有効だった。「血は命であるゆえに、あがなうことができる」[レビ記同上]ゆえ、供犠のために使われた。ユダヤ教の司祭の叙品の儀式にも必要とされた。アロンとその子が司祭となるには、牡羊を屠り、その血をとって右の耳たぶにつけ、右手右足の親指にもつけなければならなかった。エジプトでユダヤ人の家が小羊の血を戸口に塗りつけることによって主の攻撃から「過ぎ越し」を受けたことはもちろんだ。血は生のしるしだったからだ。イエスはこの生贄の風習を「野蛮」と見た画期的なユダヤ人だった。
もともと旧約の予言者は、メシアが救済のために血を流すとは言っていない。イザヤ書の六三章の一には救済者が「エドムとボズラから、血に染まった服できた」(日本語訳にはたんに「深紅の衣を着て」というのもある)という表現もあるけれど、イエスのことを予言したとされている、他人の罪のために傷ついて死ぬ「苦しみの人」を描写したところ[五三章]ではとくに血の暗示はない。だからエルサレムで予言者の書や詩篇を学んだイエスが自分を救済者として自覚していったときには、自分の血を流すというようなはっきりしたイメージはなかったというほうが自然だ。むしろ、エルサレムの神殿で喉を掻き切られる獣のうめき声や、いたるところにたちこめる血の匂いは、健全なイエスにショックを与えたに違いない。彼は「犠牲の供物」という不健康な観念をしりぞけた。血の儀礼を昇華することがイエスの使命となったといってもいい。ルネ・ジラールやバルトマンは、もともと血腥い犠牲を廃止させるためにあらわれたイエスなのに、皮肉にも自分が犠牲になってしまったという見方をした。受難によって実際に流れたイエスの血は、ひとつのアクシデントに近いというわけだ。
キリスト教にとって、イエスの血は、彼自らが昇華した聖餐のワインと、イエスの体から皮肉にも流れてしまった受難の日の血のふたつがある。イエスの打ちだした基本方針が血の昇華なのに、後に続く者はイエスの流した血に異常にこだわった。イエス自身は窒息刑で死んだのだから、犠牲の小羊ほどに多くの血を流したわけではない。しかし初期キリスト教は血腥い迫害にあい、何万人もの殉教者が文字どおり血の海の中で死んでいった。そういった殉教者の流した血の中に布を浸して、礼拝の対象にするという行為ははやくから行なわれた。イエス自身は復活昇天したのだから骨すら残していないのに、殉教者聖人たちは、血まみれの聖遺物を多量に残して、一部には病的なほどの死へのフェティシズムを形作ってしまった。もともとユダヤ教自体には、血を命と見ることと平行して生まれた数々の戒律があった。それは結果的には死体や血に関して煩雑なケガレの体系をつくっている。ところがキリスト教は、ユダヤ的戒律主義に反旗をひるがえす意味と、殉教者崇拝のコンテキストとのせいで、血や死のケガレを聖なるものへと転換していく方向性をもってしまった。少なくとも「死のケガレ」を管理するということをしなかった。イエスが血と肉とをワインとパンに置き換えたこと自体は天才的なアイディアだ。ユダヤ教はひとつのケガレ観の表裏をなす「死の不浄の排除と犠牲の供物」の戒律に縛られていた。イエスは、それを昇華するために、肉とか血とかを排除したり抑圧したりするのではなくて、コードとしてばらばらにとりいれたのだ。「からだ」がばらばらにコード化されることで失われる全体感というのは、最後の審判で生身の肉体が復活するという思想によってバランスをとることができていた。
このようにアイディアは秀抜だったが、ではそのコード化がうまく機能したかというと必ずしもそうでない。コードシステムは、殉教者の体を即物的にばらばらにしても礼拝が成り立つという奇妙なフェティシズムを生んだ。死からアルカイックな不浄の枷がはずされたので、聖者の体をめぐって反動的なネクロフィリアが生まれ、聖餐をふくめた血や肉のシンボルに、抑圧されたセクシュアリティーのはけ口を求める者もいた。キュベレ神的な血の熱狂が形を変えて生き延びるチャンスはおおいにあったのである。
一方で、多分人間に本能的にある死の不浄感というのも、ユダヤ的戒律と共に疎外されてしまった。(なにしろ、コード化されているとはいえ肉や血を食べることが最大の秘跡となっているのだ。)ケガレは、血や死というアルカイックで普遍的なおちつき場所をうしなって、どんどん末梢的なところに転化していった。体毛だとか排泄物だとか、ある種の動物だとかである。それらのものは、共同体におけるケガレのメカニズムをもろに支えたばかりではなく、ファナティックな聖遺物信仰のパロディとしての両義的な価値を持つオブジェとしても機能した。糞や屁や尻や性器は体制的なコード化を免れ、公式に抑圧されることもなく、かなり自由にキリスト教世界のシンボルの迷宮を駆け回って賦活剤の役割を果たした。それにくらべると血や死体は、聖なるものとしてコード化されながら、アルカイックな幻想が体制内で生き延びるチャンスを提供した。それは時として倒錯的に醸成され、キリスト教神秘主義の温床ともなったのである。
フランス国王は絶対王権を確立していくうえで、ローマ教会の介入をできるだけくいとめるために、神やイエスや聖霊と国王との間に特権的、直接的な関係を打ち立てようとした。サン・ルイ王のようにローマ教会の子としても模範的だったカトリック教徒もでたので、フランス王は「世俗の司教」としてローマからも認められていた。しかし王権が最高潮に達したルイ十四世の頃には,王はもう機能的にはローマを必要としなくなった。リヨン美術館にあるルイ十四世の宮廷画家シャルル・ル・ブランの絵を見てみよう。復活した栄光のキリストがルイ十四世に祝福を授けている。二人の間にいるのは天使だけである。その脇にそっとひかえて見守っているのはサン・ルイ王だ(彼は聖別されたから天国に行っているはずなのだ)。教会の介在はない。仏王は司教ではなくてイエスの跡取りになりたかった。そして国民もそれを支持していたふしがある。フランス革命ではカトリシズムの破壊が行なわれた。しかし破壊されたのは、高度に体制化してしまって民衆の宗教的な要求を満たさなくなってしまっていたカトリシズムであって、神やイエスではない。宗教そのものが否定されたのではなくて、体制=教会に対する民衆信仰の反抗という面が強かった。(理性の女神などを創ってエジプト風の再生フェスティバルが仰々しく行なわれた。カトリックの聖職が廃止されたものの、聖像破壊の嵐の中でも教会の鐘や聖具などは意外に残された。村の所有物と見なされていたからで、警鐘がわりに取っておかれたりした。典礼書などの焼却はほとんどなされず、修道院の蔵書などはそのまま市立図書館のベースとなった。特に古代の写本などには敬意がはらわれ、エリートの世襲財産として残った。)
革命当時の仏王は、国民の大半にとっては憎悪の対象ではなかった。彼の死は予定されていなかった。ところが、革命の動乱の中、体制=教会の否定の流れの中で、孤立した個人となった国王にむけて、一種の世直し信仰の期待が寄せられた。カトリシズムの底の方で育まれていたアルカイックな幻想が、悲劇の市民ルイ・カペー(ルイ十六世)にむけて高まっていった。王と国民が、長い間、ローマ教会に背反する形でひそかに共有していた「仏王=キリスト」という危険思想が、枷を失って舞い上がった。ルイ十六世は自分に課せられたこの役割を理解したらしい。最後の頃の裁判での彼は、あくまでも静謐で、崇高で、共和国側の検察官であるエベールでさえ、彼の態度に「人間とは思えない超自然的な尊厳を感じた」と書き残している。断頭台に着いたとき、ルイ十六世は縛られることを拒絶した。まだその機能を果たしていた彼の告解僧は、「殿、この犠牲を受け入れなさい、この最後の侮辱こそ、陛下と神の究極の類似点ですぞ」とささやいた。ルイ十六世はこたえる。「では好きなようにするがいい。イエスのようにこの杯をなめ尽くすまでだ。」
ギロチンの刃が落ちた後、一人の市民が駆けよって、両腕をルイ・カペーの流した血の海に浸した。彼は両手いっぱいに血塊をすくいあげて、三回、ふりかけた。ルイ・カペーの血を額にひとしずく受けようと群集が集まった。この熱狂は、どことなくアルカイックな匂いがする。殉教者の血の記憶か、ユダヤの祭司の幻想か。古代アズテカの血の儀礼にすら似かよっている。
血の代替物としての水[#「血の代替物としての水」はゴシック体]
カトリシズムの歴史の中で、教会は血をワインと水とに必死になって置き換えてきた。しかし「なまのまま」の血はいつもそれらをすりぬけて、民衆がひそやかに醸成していた信仰にふりかける赤いスパイスになっていた。だからこそ体制宗教が疲れたとき、信仰にデカダンスの影が忍び寄るとき、いつも枯れることのない「イエスの血」がキリスト教社会を潤した。騎士はイエスの血を受けた聖杯を求めて旅に出て、修道女は手足に愛の聖痕を穿つ。
血はまず水へと薄められた。キュベレ神の血の洗礼はキリスト教の水の洗礼になる。ローマ時代に、癩病を治す方法として、子供を生贄にしてその血に入浴するというのがあった。コンスタンチヌスが癩病にかかったとき、聖シルベストルは、その蛮習をやめさせて、洗礼の水につけて治したという故事がある。いかにも「効きそうな」血を、信仰という味のついた水に置き換えた。異教徒は、洗礼によって、罪から解放され、浄らかになった。洗礼は一種の水垢離でもあり全身を清めるものだった。洗礼が子供の頭に水をつける(洗髪するように水をかけるのから、脱脂綿を湿らせて額に押し当てるものまでいろいろある)だけになったのは十二世紀以降のことだった。洗礼の機能も変わってくる。受洗者はほとんどが新生児であるから、罪を悔い改めるというアスペクトは消える。幼児死亡率の高い時代にとりあえず死んでも天国へ生けるというお墨付きをもらえること、そして、洗礼と共に「信仰」を授かるのだということになった。信仰とは、神からのひとつの贈り物だが、成長していく間に減らすこともなくすこともあるものだ。そのかわり滋養を与えて育てていくこともできるものだ。ここに複雑な告解=贖罪システムが入り込む。
もともとイエスは血をワインに置き換えるように言い残した。それを水にも代用させるという根拠はどこにあるのだろうか。イエス自身がヨルダン河で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという事実は当然重要だ。だがそのほかにも、イエスがその体から血と水とを同時に流したという事実もある。ゲッセマネの園で「血の汗」を流したことがそれだ。イエスがある種のヒステリー患者にみられるような血汗症だったのかどうかは定かではない。ともかくここでイエスの流した「血の汗」は、後に贖罪の二つのシーニュである血と水としてシンボル化されていく。もうひとつは、イエスの脇腹から流れ出たとされる血と水である。十字架刑は窒息死を待つ長い刑だった。最後に完全に息を引きとったかどうかを確かめるために、脇腹を槍で突き刺した。ヨハネ伝一九章三四にこういう記述がある。「しかしひとりの兵卒が槍でその脇を突き刺すと、すぐ血と水が流れでた。」これが血と漿液みたいなものだったのかよくわからない。しかしこれも、のちのキリスト教によって、二つの秘跡、すなわち水による洗礼と、ワインによる聖餐を示すものだと解釈されるようになった。
それにしても死体の脇腹に口を開いた傷から、血と水がたらたらと流れてくるというのは、生身の手足に釘を打ち付けるという凄惨さとはまたちがった幻想を育んだ。「湧き水」の幻想である。各種聖者やそれに準ずる人の聖遺骸の中には、死後硬直がないとか、腐敗しないとかの奇跡をあらわすものが少なくないが、その「新鮮さ」を示すのに一番効果的なのが「赤い血の色をした内臓」とか、流れだす血だった。血と水の「奇跡」の例を三つ挙げよう。レバノンのある神父の死体からは、二十七年間にわたって毛穴から「血と水」が出てきた。その量は、一九二七年から一九五一年の間になんと二十リットルにものぼったという。生きている人間が全ての血を出しても五リットルに満たないのだから、合理的な説明のつけようがない。
水だけの奇跡は、ルールドのようにマリアのお告げの後で泉になって湧きだすというのがあり、巡礼者は初期キリスト教徒の洗礼のように全身を浸せる。もちろん難病治癒の効験がある(ということになっている)わけだ。そのほかに水が墓からしみだすというパターンがある。ピレネー山脈のふもとにあるアルル・シュル・テクの聖墓は、十三世紀にギヨーム侯の鼻ガンがそれでなおったという記録があり、それ以来、毎日約四分の一リットルという水を出している。墓は、二つの石に支えられた四世紀ローマ風の大理石の棺で、サンタ・マリア教会の中庭にむき出しでおかれている。その端の方に小さな穴が開けてあってサイフォン式に水を汲みだせるようになっている。透明な水は、信者の要請によってわけられる。この墓は、三百年頃にローマでディオクレティアヌスの迫害によって殉教したペルシアの二人の王子アブドンとセネンのもので、九六〇年頃この地に移されたという記録がある。一七五二年にフランス国王の正式の調査団がこの謎に挑戦したらしい。一九五〇年の調査では、墓の中には、確かに、人間の頭蓋骨のかけらがいくつかと、蹠部がはいっていたらしい。それがここに招来された聖者の聖遺物だったのだろう。その部分は湿っておらず、棺には種も仕掛けもなかった。一九六一年には、またもや調査が行なわれて、棺の蓋の部分の大理石が多孔性なのに対して、本体の大理石が不浸水性であって、雨水が四〜六日かかって下の穴の部分へ達するのだという説明が試みられた。だがこの説に異論を唱える者もおり、なによりも、過去に水が三回ぴったり止まったことの理由が説明できなかった。三回とは、フランス革命の時と、第一次世界大戦と、第二次世界大戦である。ほかにも水を出す棺はふたつほどあって、イタリアの聖ニコラのそれは、ノーベル医学賞受賞者がふたりがかりで調査したが解明するに至らなかった。
血の奇跡で知られているのはブルージュとナポリにある聖ジャンヴィエの血だ。両側を王冠状の飾りではさまれたクリスタルのシリンダーにはいった褐色の物体が、毎年決まった日の決まった時間に液体に戻り、ついには沸き立ちさえするというものである。聖ジャンヴィエは四世紀のはじめ(三〇五年)の司教であり、殉教者である。彼は九月十九日、乳母の目の前で首をはねられた。乳母が採取した血は、約三十年後コンスタンチヌスの代になってナポリに移された。乾いていた血がこのとき液化したと伝えられる。はっきりした記録に出てくるのは一三八九年以降だが、なにしろ毎年五月一日や九月十九日の朝八時半にきっちり「奇跡」が起こるのだから、現在まで四五〇〇以上の証言が記録されている。件の瞬間にチャペルに入ることを許される者は緑色のチケットをもらう。「奇跡への招待状」だ。笑い話に、ルールドにやってきたアメリカ人が「ところで奇跡は何時からはじまるのかね」と尋ねるというのがあるが、ナポリの聖ジャンヴィエの血の奇跡は、まさに予約可能なショーになっているのだ。八時半に、暗いチャペルのろうそくの火のあかりのもとで、つめかけた熱狂的な信者や聖職者が固唾を呑んで見守る。司祭がおごそかに聖遺物入れを振り始める。(要するにこの日この時以外は振らないのだから、ほかの日にだって振れば奇跡が起こるんじゃないかという疑問もわかぬではない。)するとゆっくりと褐色の物体は、液状になっていき、最後には、すっかり生き生きとした赤い血に戻るのだ。若い司祭らは法悦境に入り、年寄達は感涙にむせんでこの血を流したナポリの守護聖人に接吻をおくる。もっとも飢饉の前とか戦争の前とかにはこの奇跡が起こらないこともあって、ナポリ市民は一喜一憂する。液化しないときは、「奇跡の失敗」と呼ばれる。実際のところ奇跡を可能にしているのは出席している信者達が集団で発する霊的エネルギーだと説明する人もいるほどだ。「失敗」した年は、思い入れが足らなかったというわけだ。ちなみに、クリスタルの中身は、一九〇二年にナポリ大学の調査班がスペクトルで調べたところによると確かに動脈血だということだった。
血や水の奇跡は、そのほかにも涙を流したり血を流したりする聖像があり、その数はおびただしいけれど、しかしこちらの方は細工するのも簡単なのか、はっきりとペテンだとわかったケースも多く、全体としてインパクトは少ない。
血と肉のシンボリズム[#「血と肉のシンボリズム」はゴシック体]
究極の血と水はもちろんイエスのそれである。イエスがせっかくワインを血のかわりにしたり洗礼の水を残したというのに、イエスのなまの体から出た血や水に必死にこだわり続ける人達がちゃんとでてきた。ヨルダン河への巡礼は今も多く、子供や孫の洗礼のために河の水を持って帰る人は結構いるが、イエスを洗礼したまったく同じ水とは言いがたい。イエスの水できわめつきはやはり涙だろう。イエスは三回泣いたといわれている。一回は、エルサレムを前にしたとき「いよいよ都の近くにきてそれが見えたとき、そのために泣いて言われた。」[ルカ伝一九―四一]、次はラザロの死に遭遇したとき「イエスは涙を流された。」[ヨハネ伝一一―三五]、そして受難の時である。このうちラザロのために泣いたときは、悲しみのあまり、もう布でぐるぐる巻になって墓に納められていたラザロをわざわざ蘇らせたりしたほどなので涙もたくさん流れたのだろう。この時の「聖涙」というのが十一世紀以来フランスのヴァンドーム地方にあって、仏革命の嵐も逃れてきた。
血の方は、ニコデメスがイエスの墓の中で採ったという三滴の血が有名で、マントゥに伝わって一六〇八年に聖血騎士団が結成された。ブリュージュには、フランドル侯アルザスのティエリーが一一四八年に聖地エルサレムから持ち帰ったとされる聖血のために聖血礼拝堂が建てられて、一三〇三年以来、毎年五月三日に聖血行列という行事が続いている。アンシャンの修道院にも一二三九年以来聖血の数滴があると言われている。もっと古くて「真性」だとされているのはノルマンディのル・アーブルの近くフェカンプの聖血だ。ニコデメスがガラス瓶に入れた聖血をその甥のイザクがフェニキアのシドン河畔にあった無花果の木の幹に隠しておいた。それがいつのまにか、流れ流れてノルマンディの砂浜に漂着したというのだ。十二〜三世紀には聖血礼拝はひとつのブームを迎えた。十字軍による聖遺物もちかえりブームがその背景にあることは言うまでもない。聖ベルナルドが書いたとされる「血まみれの主よ」という歌曲が残っている。
大きなしずくとなって、お前(主)の両の手から、たらりたらりと血が流れる。
薔薇よりももっと紅い、われらの救いの聖なる代価よ。
聖血礼拝やそのイコンには移り変わりがある。ひとつの大きな流れは、円卓の騎士伝説の聖杯だ。これはイエスが生の血を昇華しようとしてワインを飲ませたことと、生身のイエスの血へのこだわりとをミックスした折衷案の一つだ。つまりイエスが最後の晩餐の時に使徒達と分け合ったワインの杯をアリマティーのヨセフがとっておいた。それからイエスの死後、死体の引き取りをピラトに願い出て、ニコデメスの力を借りてイエスを十字架から降ろし埋葬した。そのときに、イエスの体の「千の傷」から血を採って杯を満たしたという。もっともランスロー物語の挿絵の細密画では十字架のイエスの脇腹から落ちてくる血をヨセフが直接杯に受けているのが普通だ。聖杯そのものを持っているとされる聖地もいくつかある。イタリアのジェノア、スペインのバレンシアの大聖堂、フランスのトロワ(パリ南東一五八キロメートル)などがそうだ。スペインのものは、聖ペテロがエルサレムからそっとローマへ持ち込んだものが、ヴァレリアヌスの迫害の時代に、助祭だった聖ローランに託され、彼の故郷のスペインにわたった。その後アラブ人の侵攻を避けて転々とした末に一四三九年以来バレンシアに落ち着いたと言われている。フランスのは、もとビザンチンのビュコレオンの宝物殿にあったものを、コンスタンティノープルの聖遺物分けの際にトレネルのガルニエ司教の手から一二〇五年にトロイの教会に渡されたという。
イコンとしてはとにかく、十字架上のイエスから流れる血を直接杯に受けるというのが、一般的だと言っていいだろう。比較的初期のものはあまり生々しくなかった。十世紀終わり頃の図柄には、たんに十字架のイエスの足元に杯が置かれてあるだけというのがあって、血も描き込まれていない。擬人化された「教会」が血を受けているというのもある。十三世紀頃には、「『徳』によって十字架に架けられたイエス・キリスト」という表題で、「慈悲」がイエスの脇を槍で刺し、「従順」と「寛容」と「謙譲」とが両手足に釘を打ち付け、「教会」が血を受けているという構図の細密画がある。徳が擬人化された長い髪の女性達はなかなか恐ろしい厳しい顔をして無念のイエスを取り囲んでいる。十三世紀の祈祷書には、アダムが血を受けているというイコンもある。このヴァリエーションには、アダムの頭蓋骨の中にイエスの血を受けるというのもあって、祖先の犯した原罪をイエスが自分の血で贖ったという神学的解釈を現しているのだ。そのほか男なら聖ヨハネが血を受けていたり、女なら擬人化された「寛容」が杯を持っているのがよく見られる。彼ら彼女らはイエスの足元に跪いて杯をかかえ、イエスの脇腹からは、血が勢いよく弧を描いて落ち、杯の中に命中している。これでは血の流れ方は不自然さを免れない。それを解決するのに天使が登場する。天使なら跪かなくても空中に浮かんで血を受けられるのだから便利だ。数が多くてもいい。足の聖痕に天使が一人つき、左の手の傷にもう一人、右の手と右の脇腹には、両手にそれぞれ杯をもった天使が一人ついていて、総勢三人という図柄もある。
脇から出た血と水とを別々に受けている絵もある。十五世紀のパリの祈祷書の細密画では、槍に突かれた右脇腹から血がたらっと斜めに落ちてくるのを一人の天使がすぐに受けとめて、水はざあっと流れてくるのを股の辺りの高さでもう一人の天使が受けていたりする。
これとは別の系統に、イエスを子羊で置き換えて、掻き切られた喉から迸る血を杯に受けているというイコンもある。これは明らかにヨハネの黙示録を意識しているわけで、デューラーの版画(一五一一年)やヴァン・アイク兄弟の絵(一四三二年)などに劇的な構図が見られ、神学的には重要なシンボルで埋まっている。しかし、かんじんの子羊が、十字架の上で悶え苦しむイエスに比べるとあまりにもしらっとして不動の姿勢をとっているせいか、民衆のアルカイックな血の嗜好を満足させるにはいたらなかった。
これに対して、もっと直接的に血の洗礼や血の入浴の幻想を満たすイコンはちゃんと存在する。「命の泉」だ。聖餐によって永遠の命が約束されたように、血は豊饒性を現した。それは古代の農業神の機能に置き換わるものであり、エデンの園を流れるという四つの川の源にもイメージを重ねられる。命の泉そのもののイコンはわりと古くからあった。ソワソンにある九世紀の福音書の細密画では、命の泉は、オリエント風の装飾を施された八本の柱に取り囲まれた六角形のプールだ。「洗い、癒す」ものであり、周りに鹿や孔雀やあひるなどの動物が配されている。それが、十五世紀になると、イエスを張り付けた十字架が四角い池のように囲ってあるところに直接立っていて、イエスの手足や脇腹から糸を引いて流れた血がそのまま溜まっているという構図になる(アヴィニヨン、カルヴェ美術館の「憐憫の泉」)。十六世紀には、終わろうとする中世の最後の神秘熱に呼応して、イエスの血の泉に人が群がった。汚れた魂が命の泉に入浴することで浄められるというテーマがもろに擬人化された。
フランドル派の画家ジャン・ベルガンブ(〜一五三二)の描いた「聖血と神秘の入浴」をリール美術館に見てみよう。背景に人家も見える屋外に、台座付きの立派な浴槽が据えてある。巨大な杯のようにも見える。その中央に十字架が立っていて、頼りなげなイエスの聖痕から血が流れ落ちて浴槽を満たしている。そこに、擬人化された魂たちが、腰布ひとつの老若男女の姿で詰めかけている。六〜七人も入ればいっぱいになりそうなのにどんどん入ろうとする。浴槽の縁は高くてひとりで入るのは大変だ。ちゃんと服を着た貴婦人姿の「希望」と「慈悲」が、魂の足をささえて持ち上げてやったりしている。浴槽の血がイエスの生き血だということはみんな承知のことで、十字架に抱きついて見上げている者もいる。ここにはもうワインの影はまったくない。
血の主要な出所である脇腹の傷そのものへも異常な執着があった。復活のイエスを疑って、脇の聖痕へ指を入れてみた聖トマスのその指までも貴重な聖遺物として伝えられていた。十五世紀の祈祷書の細密画には、脇腹を刺した槍の直径からわりだした「原寸大の傷」というのも登場している。それは多少の異同はあるが大体九×四センチメートルの横長の菱形をしている。真っ赤にぬられたこの菱形を金の翼を持った四人の天使が支えていたりして、その真ん中に、右脇から血を流したハートが描きこまれている。(イエスの脇から流れた血が、左側ではなくて、つまり心臓からの血ではないということは民衆感情とぴったりとは合わなかった。だからこのようにイエス自身を血を流す心臓にたとえて、心臓の右脇に傷をつけることでつじつまを合わせたりしたのだ。これは、十七世紀以降は、独立した聖心臓(サクレ・クール)の信仰に発展して十九世紀末に花開いた。)
生き血だけではなくて、イエスの残したスマートな「血→ワイン」の教えの方も、けっこうなまぐさいイコンを生んでいる。それは「神秘の圧搾機」というテーマだ。要するに、イエスを葡萄のかわりにワイン製造用の圧搾機の中に入れて血をしぼってしまうという、かなりすさまじいものだ。もともと旧約の民数記[一三―二三]の中に、「カナンの地の葡萄」というのがあって、これをふまえて聖アウグスチヌスもイエスを葡萄にたとえている。いわく、「イエスは約束の地のぶどうの房であり、圧搾機の中で潰されたぶどうの粒である。」
ここから、ワインというより、実際は大量には流れなかったと思われるイエスの血を最後の一滴まで絞りとろうというイメージが生まれた。子羊の喉を掻き切るより凄惨だ。もっとも十二世紀頃のイコンには、たんに、イエスがワイン用の葡萄を足で踏んでつぶしているという穏やかなものもあった。しかし十六〜七世紀には、イエスを圧搾機の上に直接跪かせたり寝かせたりして、聖痕から絞り出る血を下で受けるという「神秘の圧搾機」テーマが圧倒的に多くなった。その中でも典型的なのは、肩に十字架を背負ったイエスが圧搾機の上に立ち、父なる神がねじをぎりぎりと回している構図だ。下で、流れてくる血を受けているのは、天使たちというわけだ。
「血→ワイン」のイコンがリアルでショッキングなものになったのに対して、イエスを聖体パンにみたてて粉挽き機にいれるというイコンはなぜか発展しなかった。ステンドグラスの絵柄の中にはマリアが幼子イエスを頭から製粉機の漏斗状の口に投げ入れて、十二使徒がそれを回すというのもあるにはあるが、下から出てくるのは挽き肉ではなくて丸い聖体パンだ。法王が跪いてそれを受け取っている。それも例外的なもので、普通は、イエスの姿さえ現われなくて、旧約の予言者イザヤが製粉機に麦を入れて、聖パウロが出てきた粉を受けるといった図だ。つまり旧約が新約へと精練されていったということをあらわす聖書学的なイコンなのだ。聖体パンの幻想が実際に聖体を拝領したときの口と喉のセンセイションに集約されたのに対して、聖血ワインの幻想の方は、聖餐式でのワインの聖杯が早くから一般人が触れなくなったせいもあって、聖痕と血のイコンに集約していったのだと言えるだろう。
火の力[#「火の力」はゴシック体]
血がかように視覚的な魅力に満ちていたことについては、教会も警戒心を抱かざるを得なかった。キリストの聖痕の血の誘惑は、サタンの誘惑にさえたとえられた。サタンは、全ての人と、イエス自身をも欺くために両手両足と心臓に魅惑の赤い徴しをつけたのだ(ニコス・カザンツァキ)、と。それくらいだから、ましてやイエスならぬ一個人が聖痕を表すなどとは、恩寵という前にまず危険信号として扱われた。教会は、キリストに倣え、イエスの受難に思いをはせよと口を酸っぱくしていっているわりには、信者の自虐を実は嫌った。キリストのまねびは、従順や屈従、忍耐においてのみ期待されたので、強者の自力救済につながる苦行は歓迎されなかった。中世に、鞭打ち集団というのがドイツ、オランダ、フランドル地方を駆け巡ったことがある。彼らは、白い服をすっぽりかぶって、両の目と背中だけをだしているという異様な風体で、司祭たちに連れられて、声たかく歌いながら自らを鞭打って村や町をめぐった。背中にはみみずばれができて、血がしたたった。フランスでの最盛期は、イタリアからの影響を直接受けたとされた十四世紀半ば(一三四九年)のことである。こうした贖罪のパニック集団は、本来僧や聖職者の特権であるべき苦行を侵害するものとして迷惑がられ、一四一七年のコンスタンツの公会議でも問題にされている。教会は、イエスの「神秘のからだ」として、イエスの肉体と肉体性とを占有し、秘跡ばかりでなく苦行も特権化しようとしたのだ。断食も法令化し、世俗における血は水へすり替えられた。聖水は気前よく分け与えられた。聖別されていないワインは食文化を盛り上げた。そして血の幻想はイコンの中では赤く暗い魅惑の花を咲かせたものの、殉教者でない個人の肉体では、日陰の花とならざるを得なかったのだ。
とはいっても、信仰にデカダンスが訪れるとき、血はいつも、死のように音もなくしのびよっていたるところに沁みだした。十四〜五世紀頃のカトリック世界では受難と血のイメージは増幅していった。プライベートなチャペルが林立し、典礼はひとつの強迫観念にまでなっていく。ペストの流行の影響もあるだろう。一三八〇年から一四二〇年まで続いた教会分裂の時にそれはひどくなっていった。シエナの聖カタリナが、聖体パンを噛みしめると血の味がして血まみれのキリストを食べたような気がしたと言ったのもこのころだ。
純白の無垢の子羊の胸から迸る血の赤さは強烈だ。無垢は「光=白」に通じる。聖なる色として受け入れやすい。ヨハネ黙示録にも「天の軍勢は純白で汚れのない麻布の衣をきて、白馬に乗って彼にしたがった」とある。しかしその「彼」は、「血染めの衣をまとい、我々は彼を『神の言葉』と呼んだ。」[一九―一三]
民衆のイメージの中で、ロゴスは白い服と血染めの衣の間で揺れ動く。血は少なくとも白い服を「汚す」ものではなかった。同じ黙示録に天国の聖者が描写されている。彼らは「白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って」[七―九]いる。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」[同一四]それは、殉教のために流した血が魂を浄化するということの比喩ではあるが、血の赤で洗った衣の白が意外である。そして「小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。」[同一七]これはイエスの血の泉のイコンにつながっていく。「イエスの」あるいは「小羊の」血であるところが重要なので、ただの「血の海」というのは、地獄のイメージだ。これでは旧約の血の不浄観の両義性がそのまま継承されたようなものだ。
イエスのものでない「普通の血」が、聖なるものに転化するためのキイとなるのは「火」だろう。火は水と同じく浄化力をもつ。火は焼きつくす。火は赤い。少なくとも旧約の世界では神による浄化は「焼き滅ぼし」のイメージがあった。それは身をはむ強烈な感覚だ。「それは、私の骨の中を食い尽くす火であった。私の中のものは全て塵と化した。」[ヨブ記三一―一二]火は貪る。マルト・ロバンは言った。「それは本当です。神は貪欲な火です。」聖痕者が聖痕を初めて受けるときは必ずといっていいほど「火の矢」や「火の投げ槍」が飛んできてそれに刺し貫かれる。それは「焼きつくような」痛みをともなう。聖痕(スティグマ)の語源が焼き鏝でつけられた徴しだったことも思いだされる。ジャン・ベルナールは、血は液体状の火であると形容した。聖痕は、貪り尽くす火である神の放った「火の矢」によって聖痕者につけられるものでなくてはならない。ギリシャの奴隷のように神の僕であることを受け入れる焼き鏝でなければならない。異端者が火刑で焼き尽くされたように、聖痕者は聖痕によって「焼かれ」浄められていなければならないのだ。その限りにおいてのみ聖痕は「聖―痕」となる。
イエスは血をしりぞけてワインの杯を残した。教会と民衆はそれでもなお異教の血の夢をイエスの生き血(そして夥しい殉教者の血)に託してきた。しかし「普通の人」が自分の血を流すという行為は教会の厳しい管理下におかれた。それは修道服の下にそっとつける鋲付きの苦行帯を染める限りで「徳」であると認められた。聖金曜日の決まった時間に房にこもって一斉に行なわれる鞭打ちでのみ許される恍惚だった。
こう見てくると、聖痕者が教会の体制の中で生きのびるためには、いくつかの条件を満たさなくてはならなくなってくることがわかる。聖痕が神の火によって焼かれた跡であること。その徴しは、優越性を示すものではなくて、神の(教会の)奴隷としての忍従の証しであること。この忍従は歓びと共に受け入れなければならないが、聖痕はイエスの受難の苦痛を分け合うことを示すそれなりの苦痛と共に受け入れるべきものであること。
マルト・ロバンはたった一人で寝たきりで、神の火に焼かれたうえにこの無言の要請を理解した。彼女は光に耐えられないという形で視力を奉献し、自らの聖痕を闇の中に葬ったのだ。マルト・ロバンの聖痕は、教会が信者に見せたいときに懐中電灯で照らすときにのみひっそりと浮かびあがる闇の花になった。ババリアのテレーズ・ニューマンの聖痕が世界中のジャーナリストのたくフラッシュに輝いて、司教調査団から「重度のヒステリー」と言われたことが思いだされる。カトリシズムの神秘の海を遭難せずに泳ぎきるのは、かように難しい。
4 ふたたびマルト・ロバン
マルト・ロバンのような人、イエスやマリアのヴィジョンを日常的に体験し、彼らの「声を聞いた」り、彼らに寄り添って、時にはアイデンティティを重ねたりして信仰生活をおくっている人は、キリスト教の「神秘家」といわれる人々に属する。これらの人々は、実存的な存在である自分を越えた「おおいなるもの」との接触、あるいは合一といわれるような体験をしている。ウィリアム・ジェイムズなどは、プロティノスからヤコブ・ベーメまで、すべての神秘家は同類だとしたが、たとえばベルクソンにとっては、キリスト教神秘主義は特別なものだった。神秘体験におけるエクスタシー(extase)は、精神がその枠組みを離れてしまうことだが、キリスト教神秘主義では、その後で non-extase から en-tase へむかうベクトルを持っているものだとされた。神に対しては受動的だが、人に対してはアクティヴになる。神秘体験の昇華は、使徒的使命によって実現されるというわけだ。これはかなり正しい。というより、キリスト教とくにカトリシズムにおいては、使徒的、つまり宣教的成果(早く言えば不信心者を回心させること)を持ちえた神秘家のみが市民権を持つという意味において当たっているのだ。「奇跡」と呼ばれるものについても同様である。たとえば現在のカトリック当局がはっきりと「奇跡」と公認して世に知らしめるものは、「神やイエスやマリアや諸聖人または聖人候補者に取次の祈りをした病者の奇跡的治癒」にほとんど限られている。ここで奇跡的というのは「その時代の医学で説明不可能の」という規準がある。(これにはカトリック以外の医学者の鑑定書も要る。)つまり、病者の治癒という具体的な「救い」があって、そこに当然病人およびその周囲の人のひとかたならぬ喜びと「感謝」があって、それが入信または、信仰の深まりに通じるという結果をもたらすときにのみ、教会が「奇跡」とよぶものが成立するのだ。非常に明快だ。だから教会の認めた「奇跡」を、治癒を体験しなかった信者が認めようと認めまいと教会はいっさい関知しない。教会が信者に要求するのはイエス・キリストの奇跡を認めることだけである。イエス・キリストの奇跡には鑑定の規準はない。それを無条件で信受するかどうかがそもそも信仰の問題だからだ。そして教会はそれ以外の信仰を本質的には要求しないのだ。それ以外の奇跡も神秘家も啓示も教会は必要としない。それらが教会史に足跡を残し得るとしたら、それは「宣教的足跡」だけなのだ。カトリシズム(特に近代以降の)は、その意味で、ほかの多くの宗教が必要とする「びっくりさせる」ショーを排除した驚くべき醒めた宗教だと言ってもいい。神秘家は、だから、常に教会と対立するという点で民衆宗教と結びついてきたくらいだ。
カトリック対神秘家[#「カトリック対神秘家」はゴシック体]
現在のカトリック当局が、いわゆる神秘家や神秘的な現象や「神との合一」体験に対してとっている公式の見解は次のようなものである。
まず「信仰とはヴィジョンでも神との合一でもない」という前提がある。
――そしてそれらの体験は、求められたものであってはならない。
つまり、ヴィジョンや神とのショートサーキットは、神秘家を突然おそうアクシデント的なものでなくてはならない。それは、病気みたいなものか、さもなければ神の一方的な気紛れな恩寵であって、神秘家が自分の努力とか優越性によって得たものではない。パウロはこのことについてすでに第一コリント書で明確にしていた。[一二―四〜一一]つまり「霊の賜物は種々あるが、御霊《みたま》は同じである。」「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ」たり、別の人には「同じ御霊によって知識の言葉が」、ある人には「治癒能力の賜物」が、ある人には「奇跡をなす賜物」が、ほかの人には「預言」の能力などが与えられたりするけれど、これらはみんな、ひとつの同じ御霊が「思いのままに各自に分け与える」ものなのだ。つまり、奇跡を現したり、啓示を受けたりする人がいるとしたら、それはみんな神が勝手にひょっとしたら気紛れに分け与えた賜物なのであって、各人はそんなものにこだわっていてはいけない。そんなものは所詮おおいなる全体性の一部でしかないというのだ。
――神秘体験は、自らを罪ある身であると知っている神秘家を回心に導くものでなければならない。
教会にとって理想的なのは、神秘家がヴィジョンを見たりした後で聖職を志したり、修道院に入ったり、体制の中にすすんで組み込まれることだろう。さっきのパウロの言葉で言えば、「各自が御霊の現われを賜っているのは、全体の益になるためである」となる。神の共同体のコンテキストの中にちゃんとはまらないような「賜り」は成立しない。
――神秘体験は福音と教会の伝統と矛盾していてはいけない。
伝統に整合しないヴィジョンだの啓示だのは異端者の騙りか、悪魔の仕業に違いない。合一体験は、教会の創始者ナザレのイエスである生けるキリストを通してのみOKである。(キリストは死んでいない。カトリック教会が口を酸っぱくして繰り返させる「生けるキリスト」というのは、イエスの体である聖体パンの拝領によって結びついた有機体である教会と信者の共同体だろう。どっちにしても、イエスかイエスの母たるマリアの名が最後まで出てこない「深遠」のようななにかと合一を唱えるのは神秘家にとってとても危険な賭けだった。)
――神秘家自身が、自分の神秘体験を「慈悲の生」よりも重要ではないと認めていなければならない。
神秘家ではない普通の他人に尽くし、他人の役に立つという生き方ができるということを立証しなければならない。いいかえれば神秘体験は、たとえそれが聖書的神学的整合性を持っていようともそれ自体で判断できるものではない。
ここでもパウロは先見の明を見せた。[コリント人への第一の手紙一三]「たとえ御使達の言葉を語っても、預言をする能力があっても、あらゆる奥義に通じていても、もし愛がなければわたしは無に等しい。」そして、その愛は、「高ぶらない、誇らない」、「自分の利益を求めない、恨みをいだかない。」「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを耐える」というのだ。そもそも神秘体験をはじめとする能力は神の恣意で偶然与えられたような「賜物」にすぎない。賜った者は、へりくだりと忍耐の愛をもって生きなければすべては無意味だ。(ここでパウロが愛をもっとも大いなるものだと主張したのは、へりくだりを強要するご都合主義というよりは、のちに中世後期にでてくる愛にのみよる神の認識「愛のグノーシス主義」の前奏曲みたいに聞こえてなかなかすてきだ。)
――神秘体験は神の近くにあるとともに、神の神秘(ミステール)の体験であるべきである。つまり必然的に、神とその被創造物との「距離」の体験でもあるべきだ。
これは少し苦しいが重要なレトリックだ。プロテスタントを中心に、神学は十九世紀の自由神学から二十世紀の弁証法神学へと流れてきた。パウロ的福音信仰に依らずにイエスに帰るという流れの中で非神話化と奇跡批判がなされてきた。ブルンナーのシュライエルマッヘル批判があり、「神秘体験」は「神と人間の相違を消失させる単純な神人合一である」という否定的な観点が主流になった。ここのところをふまえて、カトリック教会も、神秘体験において、神秘家の魂は神に限りなく近くなるだけで、創造者と被創造物とのヒエラルキーを越えるわけではないと言っているのだ。
もともとカトリックの神秘主義のもっとも深い流れは、魂がその元となるリアリティである神のうちに帰還するというパースペクティヴの中にあった。被造物、疎外型としての自己を無にすることで神と分かたれない真実の姿を回復するという直感だ。これはアレキサンドリア教父たちの根本主題のうちにもあったけれど、西欧の中では、九世紀のスコトゥス・エリゲナあたりをのぞいては、無視されるか忘れられていた。それが、十二世紀になってギヨーム・ド・サンティエリーが、ギリシャ的主題を積極的に導入し、恩寵によって神との霊の一致が得られるのだと主張した。彼のあとで、エックハルトやベギン会修道女などに継承されるいわゆるライン=フランドル神秘主義が花開いた。これらの神秘主義がローマ教会からどう見られたかというと、大体のところ、著作がラテン語でされたときは、パスして、俗語(フランス語やドイツ語)でなされたときは厳しい粛清の対象になったと考えてもいい。(要するに一般人への普及力がネックになったわけだ。聖ベルナルドだって、神のロゴスと魂の関係についてのテキストの中でとってもエロティックなリリシズムを適用している。でも彼の説教の中で俗語に訳されていたのは、正統中の正統とされていたものだけだったのだ。ビンゲンのヒルデガルドも、聖職者の腐敗を批判し、神への熱烈な感情の率直な表現をしたがラテン語で書いたおかげで異端の烙印を押されずにすんだ。)
俗語の発展は、都市の発展と軌を一にし、ベギン会のような、女性の自由の発展とも軌を一にした。(ベギン会とは、ローマに公式に認められていなかった半俗の修道会で、高い持参金を要し、増員もしなかった修道院にかわるシステムとしてでき、十三世紀では貴族かブルジョワ階級の女性――彼女らは独身のままでいると収入の道がなかったのだ――が大半で、のちには貧しい女達の避難所にもなっていく。)実際、俗語で書かれたこの種の本のあるもの(たとえばマルグリット・ポレットの「へりくだった素朴な魂の鏡」、この本の異端審問にはソルボンヌの全権威者が出席した)は各国語に訳されてベストセラーのようにひろまり、教会の特権を脅かした。
ギヨームは神との合一に「愛の希求」を導入した。人は、神になりたく、神以外のものになりたくない、という愛の意思によって恩寵を受ける。愛はそのまま神になる。人の心により、人の心の中で、神が己を愛するという、神の自己愛のイメージも出てくる。ギヨームから発展した神秘主義の流れの中には、神が与えたものは神自身ではないから、神とは神がわれわれに伝達する全てのものの残りだ、というふうな神的な「無」の観念も出てきた。けれども、一般の読者にもてはやされたのはやはり「愛の賛歌」の方だった。騎士である魂が、貴婦人である「神=愛」が要求する全ての試練を受け入れるという愛の詩は、騎士が貴婦人に捧げる愛の奉仕という新しい概念に基づいた文芸伝統の始まりだったのだ。それは、中世における女性蔑視、女の象徴であるイマジネーションや感覚を下位におく、男の象徴であるスコラ哲学の知性偏重の伝統からの飛躍であり、新しいスタイルの確立だった。(これはやはり俗語のイタリア語で神の愛の神秘をうたったダンテなどにも受け継がれる。)
このように、愛の知性への優越は、自由な感性の勝利となって、中世の終わりと近代の始まりとに重なっていった。しかし、それは西欧近代文学の源流にはなりはしたが、教会の歴史の中では結局弾圧されていく。ヒルデガルドのライトモチーフだった「神の前での魂のへりくだり、清貧=新規=自由」は、聖フランシスなどのはじめた「清貧=自由」の托鉢修道会のエスプリと同じだった。それは高位聖職者の退廃がすすんでいたキリスト教界での一種の宗教革命になったけれど、「自由になった魂はミサも説教も望まない」という危険思想でもあった。教会は、俗語の本の検閲と、托鉢修道会の体制への組み込みとに腐心する。それは一応の効を奏し、のちのプロテスタンティズムの攻勢の時代には、修道会や宣教会がカトリック建て直しにとって、内部からの大きな力になった。
神秘体験から愛の覚醒へ[#「神秘体験から愛の覚醒へ」はゴシック体]
けれども、中世の終わりの神秘主義のおかげで一種の大衆性を獲得したかに見えた「受動性による解放、欲望からの解放」という新しい自由の価値は、近代に入ってからのとめどのない現実原則の欲望の能動的文明の中で忘れられていった。神秘熱そのものも、合理主義や実証主義の中で急速にさめていく。思弁的なスコラ的知性のかわりに、「普遍的」で科学的な理性が王座につく。フランス革命の時に奉られた「理性の女神」は、それまで教会(=神)の差し出す価値規準に縛られていた人々が、人間が自分で認識し判断できるのだという可能性に託した新しい信仰だった。
そんな中で、神秘家の多くは修道院の内部で閉じこもっている人達になった。近代になっても、出版を目的としない修道院の内部供覧用の手書き本には、ヴィジョンや啓示の体験録が豊富にある。けれどそれらが出版されるときには、厳密な検閲によって「非科学的な」体験だの奇跡だのは丹念にカムフラージュされた。神秘家は、神学的に見ると一種の奇形学の中で扱われる「聖なる怪物」に近かった。プロテスタンティズムの影響もあって、西欧でのキリスト教は全体としてとても倫理的で抽象的なものになった。たとえ熱烈な信者がいるにしても、宗教的熱狂というのは、人前で見せるものではなく、ピューリタン的な羞恥の感覚の中でオブラートにつつまれるものになった。(イギリスではさらにこの傾向が強く、チャーチルの娘が父に「神を信じているか?」ときいたら、「なんと大陸的な質問だ!」と答えたなんていう話もある。)信じているとかいないとかいうことは、ごく内面のことであって人前では話さないという伝統がでてきた。キリスト者は、社会的な場面では、現実原則にのっとり、科学主義にしたがってひたすら行動するようになった。大学でも、キリスト教は、スピノザ的な、明晰だが、具体的なイメージのない精神的なものになった。(もっともカトリックに回心したユダヤ人であるベルクソンのように神秘主義の流れを汲みとった大学人もいて、マルト・ロバンに寄り添ったジャン・ギトンのようなインテリへの系譜へとつながっていった。)
修道院の中にいた神秘家が外へ出てくるケース(たとえばカトリーヌ・エメリッヒがそうだ)や、在俗の神秘家たちは、科学主義の好奇心の対象になって病理学的に検査されるようになった。ローマ教会がブノワ十四世(十八世紀)の頃からかなりはっきりと、今日超心理学とよばれている学問的な立場を築いていたのに対して、一般の医学は実証主義の限界から長い間抜けられなかった。だから神秘現象の「調査」は、いくつかの「いんちき」神秘家のケースを立証できた以外は暗礁に乗り上げざるをえなかった。
でも多くの神秘家は、このせいで「病人」としてクラス分けされてしまった。実際のところ、超常現象一般は、普通の人に畏敬の念を抱かせるオーラをもつにはあまりにもばかげたアスペクトを見せていることが多かった。そういうオーラをもっているのは、しばしば商業主義の「いんちき」宗教家の方だった。真性の神秘家に時としてまつわる超常現象は、ローマ教会がひた隠しにしたがるのも無理もないほど、過剰で、滑稽で、見せ物の世界と紙一重だったりするのだ。彼らは神秘現象を生きるときの劇的な真面目さによって、ほとんど道化的な役割を演じることさえあった。
マルト・ロバンだってそうだった。彼女の「奇跡」は、それがたとえパウロの言う「御霊の与えた賜物」だったとしても、実際にはむしろ「試練」に近かった。彼女はローマ教会の審査に耐え、科学主義の禿鷹どもからも身を守り、真の神秘にひきつけられる少数の人々の魂をとらえるのに成功した。そしてついには、懐疑的なローマ教会を味方につけることにまで成功した。ローマ教会には、なんといっても十字架の上で裸でねじれて悲惨に死んだイエスにそのままオーラを与えるという錬金術の実績がある。寝たきりの天才マルト・ロバンと老獪な錬金術師であるローマ教会とのコンビは絶妙なハーモニーをみせ、世界中に「慈悲の家」を創立するという「奇跡」を達成したのだ。
その上マルト・ロバンは絶妙のタイミングで世を去った。この世を去ることで彼女は、苦しくて時として惨めな超常現象から解放され、新しい使命へと旅だった。聖女への熟成である。時代もちょうど少しずつその流れを変えていくところに当たった。たとえば二十世紀の消費社会的コンテキストの中で一時姿を消してしまった断食も、豊富で人工的すぎる食生活の弊害の認識の中で新しい意味を持つようになった。また、地球上の国の貧富の差の認識は、扶助のエスプリを育て、それは初期教会における「断食=布施」のエスプリをよみがえらせるきっかけにもなった。(たとえばチャリティ昼食会に会費を払って、パンと水だけの食事をし、食費を飢餓の国に送るなどというのがよくでてきた。)
公害問題に代表されるような生産性とテクノロジー万能主義の見直し、共産主義的理想のゆきづまり、現代物理学の不確定性理論から発した近代科学的計量主義の見直しと新しい地平の展望、東洋思想の発見または再発見、マルト・ロバンの晩年にはそういう新しい潮流がシャトーヌフという小さな村の小さな聖女のカリスマにまで微妙な影響を投げかけた。これらの潮流にやがて世紀末の不安感までが重なってくる。紀元千年の集団パニックというのは、都市も道路もなく説教師もほとんどいなかった時代には大きなものになり得なかった。(このパニックの伝説は、十五世紀に生まれ、ロマン派の歴史編纂者によって増幅されたのだ。)西暦二千年を前にして、西欧世界では、前代未聞のキリスト教的ヴィジョンや御出現や奇跡やお告げ(そのほとんどが人類の暴走を戒めて、人類滅亡を予告しているのを見ると、はっきり言って背筋が寒くなるほどである)が相次いでいる。
マルト・ロバンの生きたフランスでは特に民衆宗教のルネッサンスとでもいうような状況ができつつある。ジャーナリズムはそれを「ヌーヴォー・ミスティシズム」などと呼んでいる。多くの治癒宗教が林立して、癌やエイズにおびえる人々の不安をカバーし、「信者=客」という関係をつくりつつある。カトリックの聖者や聖地もこの流れの中で新たな脚光を浴びつつある。超心理学が市民権を得て、一昔前の「非合理」は「超=合理」となった。パリでは超心理学の見本市(タロットカードなどの実演もこれに入っている)が開かれて、六万人が入場した。(八二年には二万五千人だった。)税の申告によると、フランスには四万人のプロの占い師がいて、一件五千円から二万円の料金で毎年延べ一千万人(フランスの人口の五分の一だ)の客をとっているらしい。これは医師の数(四万九千人)より少ないけれど、カトリックの司祭(三万八千人)より多い。精神分析医は五千人にも満たなく、民間の治療士と魔術師は三万人だという。企業のコンサルタントになっている占い師もいる。
もっともさすがデカルトの国で、公式にはそういう流れに光が当たることは滅多にない。(たとえば占い杖で地下水脈を発見する占い者であるイヴ・ロカールについてのテレビ・ルポルタージュは、彼がフランス首相の父親であることが災いしたのか、政府の圧力で打ちきられてしまった。)アカデミズムでは、サルトルなどに代表される左翼インテリが根強い心情的無神論者だったことも事実で、あとに続く世代に大きな影響を与えた。それはかなり長い間「インテリの信仰離れ」になってあらわれた。
けれど、ヒッピーを第一次十字軍として始まった新しいタイプの知的な若い層も存在する。彼らは、東洋哲学、オカルティズム、ポスト・フロイト心理学がめざす新しいハーモニーを模索しているのだ。でも彼らは、前の世代が捨て去ったキリスト教的伝統を処理するのにはまだずいぶんぎごちなかったりする。彼らの方法論で一番面白いのは、広告社会で育った世代だけあって、創造性とコミュニカビリティを同時に追求しているところだろう。何を言うかということと同時に、どのように伝えるか、どのように伝わるかということが問題になる。彼らの創造性は、観客によって完結する。「他人の眼」との共作なのだ。真実も創造性も、「他人の眼」との関係性、手ざわりの中でのみ成り立つことになる。
これは、キリスト教世界で神秘家が真に生きていく生き方とどこか似ている。神秘家は、神との甘美な親密なひとときに没頭してはいられない。神との関係をいかにして「他人の眼」(それはローマ教会の眼であり、村人達の眼であり、科学的実証主義者の眼であり、無神論者の眼でもある)にコミュニケートしていくかということが神秘家の生の全てになる。神秘家はコミュニケーションの天才とならざるを得ない。彼らは、聖霊によってパロルを与えられている、と感じている。彼らにとってコミュニケーションがクリエーションの形なのだ。カトリックの神秘家の生き方は、ほかにない。そうしないと、精神病院が、見せ物小屋が、修道院の壁が、異端審問が彼らを待っている。
彼らの多くにとって神秘体験はまず愛の体験だ。だから彼らは愛のグノーシスを伝えようとする。コミュニケーションは愛の行為でなければならない。彼らの発するパロルはローマ教会にとっては宣教のパロルになるだろう。でもそれは、まず、神秘の中で獲得され、他者との関係の中で醸成された愛のパロルなのだ。そしてマルト・ロバンは、愛の天才だった。
イエスを抱くマルト[#「イエスを抱くマルト」はゴシック体]
平原の上の一軒家の、死のように暗い部屋に置かれた丈の短いベッド、私達のマルト・ロバンは五十年という長い間をその中で過ごした。そして、その小さなベッドからさえ放り出されて、死んだ。彼女の死の知らせをきいた人の多くが、思いがけないことをきいたように思った。多くの人にとって、マルト・ロバンは生きながらにして生と死のロマンの彼方にある存在だったからだ。
「わたしは神に自分を捧げた。絶対的な方法で。カルメル会修道女になることを選ぶことでなく、なにも選ばない、というそのことによって」と彼女は言った。
この言葉のもつ意味は深い。マルト・ロバンは何にもならないことで、ひっそりと神のそばにたたずんだ。彼女は透明なガラスのようにそこにあっただけだったけれど、神の光はガラスを透ることによって、きらきら反射して、内側にいる人にもよく見えた。ひかりはガラスのむこうで、輻射熱を発して、それとわかるほど温かくなった。
マルト・ロバンは「単純」だった。ジャン・ギトンはマルトのことを、「春の朝のように、暖炉の火を囲んでの夜長話のように」単純だった、と言った。彼女は説明しようとしなかった。矛盾対立するものを論理や詭弁で止揚しようとしなかった。パウロの手紙の一番すてきなところ[コリント人への第一の手紙一三]にこういうのがある。
「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。」
マルトは部分的であることを選ばなかった。マルトは、単純で、部分的な対立だの異論だのを、神の光の熱の中で溶かしてしまった。マルトの単純さの中には、崇高なものがあって、そのふたつは、深い直観によってつながっていた。彼女の単純で深い信仰は、聖フランシスを初めとする多くの宗教改革者たちに共通する。農村的といってもいい。十九世紀末のリジューの聖テレーズのほうが、「信仰の夜」を経験したりして、疑い、苦しみ、ずっと近代的だった。その犠牲の感覚でマルトと共通するシモーヌ・ヴェイユは、単純というよりも純粋を追求した。教会のために死んだが、教会の中へは入らなかった。親友のシモーヌ・ペトレマンによるとヴェイユは、人が食べずに太陽の光だけで生きられないものかと知りたがっていたらしい。マルトはなにも追求しなかった。教会が必死で求める「へりくだり」ですら、マルト・ロバンにとって、受動でいることによる解放となった。
マルトは四十年間飲まず食わずで信仰を肥えふとらした。聖痕と受難は、暗やみに封じこまれることによって神と彼女の間でそっと繰り返される睦言となった。神から浴びる光をそっくりそのまま教会にわたした。彼女が「何でもなかった」からこそ、教会は、彼女を通してやってくる光をプリズムで分けて配ることができた。彼女は一方では奇跡の女マルト・ロバンという教会御用達のコードとなって、カトリック世界を駆け回り、もう一方ではねじくれた体をベッドの中に固定して神とのはてしもない寝物語を続けた。彼女は晩年になって自分自身が十字架になってしまったようだ、と言った。マルトは十字架になってイエスを抱く。彼女の部屋を訪れる人々にとっては、彼女は闇の中の一つの祈りの声だった。彼女というガラスをたよりに、ひとはそれぞれのプリズムを闇のむこうの光にむかってさしだした。
ひとがときどき光を見失ったように思って、あちこちをめくらめっぽう突き進むような、そんなとき、どこかで「神秘家」のガラスが陽をうけて、きらきらひかっている。そんな神秘家は、みんな愛の神秘家なのだ。だから私達はうなずいてしまう。「奇跡の女」マルト・ロバンの物語は、神と人とのラブストーリーなんだった、と。
[#改ページ]
天翔る聖女
戦う修道女はいかにして愛する男のもとへ飛んでゆく力を得たか
イヴォンヌ=エメの物語
[#改ページ]
1 修道女イヴォンヌ=エメ
愛の超能力[#「愛の超能力」はゴシック体]
イヴォンヌ=エメは、ふくよかで、エネルギッシュな肝っ玉母さんふうの修道女だ。一九四五年には、戦争中に修道院を起点にして百人以上のレジスタンスの闘士をたすけた功労でドゴール将軍の手からレジオン・ドヌール勲章を授けられ、翌年には、フランス、イギリス、南アフリカに広がる女子アウグスチヌス会病院連合の総会長の地位にのぼりつめている。当時のニュースフィルムの中で、英米軍の軍功章も含めた勲章でずっしり重そうな修道服に身を包んだ小柄なイヴォンヌ=エメがヴェールの下で屈託なく笑っている。一時期彼女はヒロインだった。彼女の出てくる白黒のニュースフィルムは、なぜかいつも背景がまぶしいほど明るい。解放後のフランスの勝利の明るさなのだろうか。彼女と彼女をとりまく修道女たちは、音のないフィルムの中で笑いにはじけているように見える。
でも修道女の輝く戦後はそう長く続かなかった。ふくよかな外見とは裏腹に、イヴォンヌ=エメは満身創痍の病身で、その体をかかえての精力的な活動、修道会の運営や拡大、修道女の教育、ドイツ軍占領下にあった修道院のクリニックでのレジスタンス活動などの遂行は、すでに主治医をして「奇跡的」といわしめるほどだった。一九五一年二月三日、イヴォンヌ=エメは五十歳に満たずに力尽きて世を去った。
そして、それと同時に、彼女を聖女として崇めていた人々による熱狂的な、ローマによる福者認定への運動が始まった。
公式に歴史のページに書き込まれた表の顔がすでにじゅうぶんはなばなしいというのに、記録の隙間から堰を切ったように吹き出してきたもう一人のイヴォンヌ=エメはおどろくべき超常のひとだった。イヴォンヌ=エメは、修道院という限られた場所から驚くべき多くのことを成し遂げたことでもすでに人々を感嘆させていたが、実は、一生を通じて、時と空間の制約を超えて文字どおり世界中をかけまわっていたというのだ。予言、聖痕、分身、速歩、幽体離脱、遠隔操作、透視、物体移動、もっとも効果的でもっとも信じがたいあらゆる種類の超常能力を駆使してイヴォンヌ=エメは彼女のイエスの命に従い、実行し、危機にある人を救い、励ました。夜も昼も、二重にも三重にも、ここでもかしこでも、あらゆる場所で、あらゆる言葉を使いながらである。それは目立たずひそやかに行なわれはしたけれども、修道院のせまいサークルでの人目を避けることは不可能だった。彼女を囲む人々は煩雑に繰り返される超常現象を前にして、最初は、疑い、あきれ、怒り、ささやきあい、異端を恐れたが、やがて、その効力を検証し、互いに見たことをつきあわせ、ついにはその煩雑さと異常さとの圧倒的な過剰ゆえにそれらを受け入れた。修道院からかき消えたり、修道院にいながらにして別の場所で別のことをしてきたり、ドアも開けずすっと別の修道女の枕元にたったり、イヴォンヌ=エメの遍在は、いわば彼女の生活の風景みたいなものと化した。結局のところ、表の生活でさえ、実務を人並み以上にこなして、人望を集め、その実際的な行動力とカリスマ性とをじゅうぶんに認められた人物である。裏で超常能力を駆使して八面六臂の活躍をしていたところでなんらの非難にあたらない。人々は、慣れ、彼女を敬愛し、慕い、彼女の助けを求めた。しかし人々の心のどこかに、いつかこの信じられない奇跡の数々の証人として名乗り出たいという気持ちが醸成していったのも無理はない。
彼女の死とともにすべてのタブー、逡巡、沈黙は打ち破られた。相手はドゴール将軍から勲章を贈られた正真正銘の国民的ヒロインだ。修道院の奥深くひっそりと祈りにあけくれて世を去った寝たきりの神秘家などではない。福者認定の条件は、「表の顔」だけでもそろいすぎているほどなのだ。彼女のそばでその超常現象を目撃してきた人達が、ここにいたって、異端や幻覚や非合理的などと一笑に付される心配なしに、先をあらそうようにして証言をはじめたのは当然ともいえるなりゆきだった。
戦争中、若い兵士だったラビュット神父は、ブルターニュのマレトロワ修道院にいてレジスタンス運動を援けていたはずのイヴォンヌ=エメに十三回にわたって訪問を受けたことを確信している。彼はイヴォンヌ=エメが戦場での出来事を正確に描写してみせるのに何度も驚かされた。平服を着てパリに出て対ゲシュタポ工作に携わっていた当時のイヴォンヌ=エメは、ナチスに逮捕されて拷問をうけていた同じときに、メトロの駅で師にすれ違い、苦境を告げている。使命を終えて疲労困憊してパリのアジトに帰ってきた彼女のまわりをいつのまにか無数の花がとりまいていたのも師は目撃した。修道院の付属の療養所のために闇で肉を配達していた肉屋は、真夜中のいつどんな時刻に肉を届けても、イヴォンヌ=エメが、待っていたかのように門の前にすっとたっているのに驚いて、彼女は眠ることがないのかといぶかった。彼女がまだ修道女になる前に病後の療養のためにマレトロワに滞在していたころから不思議なことはたくさん起こっていた。修練女となってからはなおさら、修道院の厳しい規律の中で、修練女教育係のシスターや修道院長の目の前で失神状態になって幽体離脱による瞬間移動であちこちにいっていろいろなものをもって来るなどの芸当が記憶された。彼女のそばにいる人々は、当初は驚きあきれ、当惑し、妙なことの責任をとらされないように内密に上司に報告し、かかわりあいを避けようとさえした。のちにイヴォンヌ=エメが、修道女として、順調な出世を続けて責任ある地位につき人々に慕われ敬われたのは、超常現象の故であるどころか、その超能力の奇矯さにもかかわらず、真摯で実際的な行動力と人徳が結局すべての人の認めるところとなったからだというほうが正しい。しかし一度でも彼女の超人ぶりを納得して受け入れた人々が、その能力をも含めたイヴォンヌ=エメを愛するようになったのは当然のなりゆきだった。福者認定の調査準備資料には、彼女のしめした「不思議」の証言が、何らかの方法で検証可能なものもふくめて山のようにつみかさなった。死後六年と四十九日を経た一九五七年三月、四人の医師が公式調査の最初の手続きとしてイヴォンヌ=エメの棺を開いた。地下墓所で、浸水のため五センチの水に漬かっていた棺の中の修道女の遺体は、生前のままの姿だったと報告されている。
けれども、福者認定、ひいては聖者認定のプロセスは、熱狂的な信者や修道会関係者や彼女を知る人々の期待どおりにはすすまなかった。それどころか現代史にアクティヴに参加したことですぐれて同時代的であるこの女子修道会長が、聖女の認定を公式に受ける日は永遠にこないかもしれない。ヴァチカン聖庁は、一九六〇年六月一日の日付で、イヴォンヌ=エメの福者認定の調査をすべて停止するとの勅令を下した。そればかりではない。以後の二十五年間にわたってイヴォンヌ=エメに関するすべての情報の箝口令が敷かれたのである。理由は簡潔で、「修道女の常識を超えるカリスマは徒に天啓論をあおる危険性があるので慎重を要する」というものだった。福者認定の推進者だったヴァンヌ司教区の関係者はこの決定に打撃を受け、ローマまで行って審査書類を確認した。その結果イヴォンヌ=エメの業績、行状そのものはなんら懐疑や非難の対象になった訳ではないこと、ただ審査を続けるうえでこれ以上彼女の不思議な能力が表立って取り沙汰されるのは合理主義をめざす戦後カトリックの教化政策上好ましくないことなどを確認して、涙を呑んでひきさがった。背の高いドゴール将軍のそばでにこやかに笑っていたレジスタンスのヒロインは、こうして、二度死んだ。
しかし、イヴォンヌ=エメのカリスマを間近に見た人々の記憶から彼女が消え去ったわけではない。戦争中の出来事やイヴォンヌ=エメの言動の細々としたことはこれらの人々の胸中で、二十五年間ずっと反芻され続けた。紅顔の若者だったラビュット神父の心の中では、イヴォンヌ=エメはすでに聖女であり、心の母であった。神父として多忙な彼の信仰の底にはいつもイヴォンヌ=エメが生きていた。二十五年とは重罪ですらとっくに時効が成立してしまう長い時間である。しかも、戦後の歴史の激しい変動を経て、カトリシズムそのものも近代化を余儀なくされ、政治の季節、世俗の季節を通り過ぎ、人々の関心も、テクノロジーの勝利から地球の生命系の危機感へ、アメリカ文化の席巻、共産圏への恐怖から、東洋宗教の再発見、新興宗教やセラピーへと、絶え間なく翻弄された二十五年だ。この長い間を、信仰を養い、イヴォンヌ=エメのことを後代に伝えるという使命感に支えられて生き抜いた、ひとにぎりの信仰者がいたのだ。そんなひとりローランタン師は、箝口令の時効が成立した一九八五年、『愛の異才、マレトロワのイヴォンヌ=エメ』という本を出した。直訳すると、「超常的な愛」となる。彼女を識った人々にとって、彼女の超能力は、まず「愛の超能力」だった。
聖女願望[#「聖女願望」はゴシック体]
イヴォンヌ・ボヴェは、一九〇一年七月十六日にマイエンヌ県のコセに生まれた。父親のアルフレッドは三十四歳のブルジョワジーで、年金で暮らしながら女中、執事、庭師をかかえていられるほどのまずまずのゆたかさだった。当時の男の常として立派な口髭をたくわえているうえに、すぐれた狩猟家で食通でもきこえていて、よく肥えた堂々とした体躯の持ち主だった。彼は童顔で、陽気で活力に満ちており、使用人たちからも好かれていた。母のリュシーは二十六歳で、華奢だがしっかりしていて、頭がよくて実際的で厳格だった。イヴォンヌは、父から生きる喜びと、人をひきつける魅力と包容力、ふくよかで堂々とした体をひきつぎ、母から実際的な知性と勤勉さを受けついだように思える。父は自分に似て丸々と愛くるしい赤ん坊を「ぼくのちっちゃなボール」と呼んでかわいがった。
けれどもイヴォンヌの出生がばら色だったわけではない。狩猟が第一の趣味というアルフレッドのような男にとって、二歳上の姉娘のあとにまた生まれた二人目の娘は失望の種だったし、家族が増えたために年金だけでは生活も苦しくなってきた。彼は人がよくてだれからも愛されたが商才はなかったらしく、ワインの小売を始めたものの他人のために保証人になってやったことが原因で破産した。その上健康を損ない視力まで失ってしまい、失意のうちに一九〇四年十月三十八歳で死んだ。当時のブルジョワのカップルにはよくあることだが、夫が生きている限りは、どんなに妻に実際的な能力があっても実際の家計の運営にタッチすることはできなかったらしい。リュシーは、夫の死後、その実際家としての才覚をあらわし、意気阻喪することなく昂然と借金取りの相手をし、使用人にひまをだし家具と家を売り払い、二人の娘をつれて自分の父親が市会議員をつとめるル・マン市の実家へもどった。普通のブルジョワ夫人ならこのまま父親の世話になるところだが、彼女は、働くことを選び、イエズス会の叔父トレガール神父の勧めで、教師になるためにブーローニュ・シュル・メールに出発した。当時のフランスは、政教分離政策の最高潮で、カトリック系教育機関にたいするしめつけが厳しくなっており、修道女が教壇に立てなくなってしまっていたため、カトリック女子学校を存続させるには女性教師の養成が緊急事とされていたのである。
リュシーは当時六歳で学齢に達していた長女シュザンヌを伴った。ヴォネットという愛称でよばれていた四歳のイヴォンヌは自分も連れて行ってもらえるよう泣き叫んで嘆願したが祖父母のもとに残されることになった。この頃のイヴォンヌは、金髪で愛らしく、健康そうで利発で実にかわいらしかった。通りすがりの人でさえ感嘆したほどの魅力にあふれていた。そして頭のよいイヴォンヌはそれを十分意識して満足していた。そんな彼女にとって、母親に「捨てられた」ということは、世界が揺さぶられるような衝撃だったろう。しかも二つ上の姉は「選ばれた」。これはイヴォンヌにとって、みんなで分けることのできた父の死の悲しみよりも強烈だった。
年の近い二人だけの姉妹というのはしばしばすさまじい葛藤の中に少女時代を過ごすことがある。特に父親が男の子をほしがっていたような場合、長女は父親の夢にこたえようとして普通のいわゆる長男よりももっと野心的に雄々しく人生をスタートしたりする。あるいは、そういう状況で母親が未亡人になって働いていると、母親の片腕となって、戦友のような立場になることもある。イヴォンヌの時代に近いフランスでは、キュリー夫人の娘たちや、ボーヴォワール姉妹がいる。どちらも姉娘は、頭がよくて、社会的に認められるという道をはっきり目指していたし、妹の方は、より女らしく可愛らしいと、少なくとも周囲の目から見られていたが、それにもかかわらず長女と親との親密さの前で深刻な疎外感にさいなまれていたふしがある。結局どちらも妹のほうがとてもアーチスティックな道に進んでいるのはおもしろい。
イヴォンヌはこうして最初の悲嘆を経験した。もともと祖父母はこの末娘を愛していたが、彼女が毎日のように涙にくれるのを見て、いっそう情愛をそそいだ。祖父はヴォルテールやルソーを愛する啓蒙的なインテリで、祖母は、信心深い人だったが、ともに、この時期のブルジョワ家庭によくあったように、貧しい人への慈善や施しを熱心に実践していた。祖母は毎夜イヴォンヌの枕元でその日が祝日にあたる聖者の伝記を読んでやった。それは昔のフランスではどこの家にもあった類いの毎日の聖者のエピソード集で、民衆にとっては聖書よりもなじみが深いことすらあった。この種の聖者伝は、子供達のためには慈悲の精神とか服従や謙遜の大切さとを教えるための道徳の教科書的な役割を果たしていたのだが、一方で、殉教者たちの屈辱的で野蛮な死に方だとか、聖者たちのマゾヒスティックな過激な苦行などは一種倒錯的な別世界へ子供達をひきこむ力をもっていた。イヴォンヌは自分も聖女になりたいと言い、聖者たちが腐って虫のわいた食べ物を平気で食べていたことをまねようとした。彼女は一気に飲み込んだものを吐き出し、祖母は、そんなことは普通の人にはまねできないのよ、とたしなめた。こういうエピソードは、しかし、この時代に信心深い祖父母に育てられた子供にとって決して特殊だというわけではなかったといえる。事実イヴォンヌも、普段は食いしん坊で、シュークリームを食べすぎて病気になったりしている。動物が好きで、戸外でもよく遊ぶ元気な子供だった。学校にあがっても優等賞をいくつももらってきて祖父母の自慢の種となった。
ル・マンでのイヴォンヌは、祖父母に愛され、ある程度裕福でもあり、頭もよく、素晴らしく可愛らしい子供であることを満喫した。けれども心の中で母親を絶望的に恋い慕っていたのは変わっていなかったらしく、一九〇七年、ある全寮生のカトリック系女子校の校長に就任したリュシーに合流できるようになったときは、祖母の悲しみをよそに狂喜して旅立った。しかしここで六歳のイヴォンヌは、ふたたび失望と欲求不満に突き落とされる。
もともと使命感に満ちた厳格なタイプだったリュシーは校長職にすべてを捧げていて、ゆっくり子供達と顔をあわせる暇すらなかったし、イヴォンヌは、ふつうの寮生といっしょに大部屋のベッドで寝なければいけなかった。集団生活の規則は厳しく、祖父母のところでの生き生きした自由な暮らしに慣れていた彼女にはつらかった。その上、寮には同い年の生徒がいなく、年上の子供達と同じクラスに編入されたので、成績が最下位になってしまった。長女のシュザンヌが模範的な優等生であったことを誇りにしていたリュシーはこのことに苛立った。イヴォンヌは母親を喜ばせられないことに罪悪感をもった。このようなシチュエーションにおかれた子供にとって、祖母に聞かされた聖者伝の「苦難と試練の道」があらたな意味をもってきたとしても不思議はない。イヴォンヌはひどいしもやけに悩まされていたが、祖母がおくってくれた薬をつけずに放置して痛みに耐えることを選んだ。やがて傷は潰瘍状になり、結局母親に手当してもらうことになり、イヴォンヌは二重の敗北感におそわれた。
一九〇九年の秋、リュシーは二人の娘とともに、ドイツに近く軍事色の濃いアルザスの近くの町に女子校の校長として赴任した。ここではシュザンヌと同じ寝室をあてがわれ、多少なりとも家族生活が送れたものの、それはかえってシュザンヌとちがって自分は母親の愛情を得ていないという苦痛を強める結果にもなった。あるときなどは、ビスケットが足りなくなったことで疑いをかけられ、自発的に告白して許しをこわなければもう話もしなければキスもしてやらないと母親に申しわたされた。そのことは全生徒に知れ渡っていた。四日間母親の冷たい目にたえたイヴォンヌは、がまんできなくなって、自分がビスケットを盗み食いしたと言った。あれほど飢えていた母親のキスをもらったイヴォンヌは、ほっとするどころかわっと泣き伏した。リュシーは、それが娘の悔恨のしるしだろうと思ったが、イヴォンヌは、自分のついたばかりの嘘が悲しくて泣いたのだった。ほどなくリュシーは、料理女の娘が盗み食いの犯人だったことを発見したが、そのことで料理女を傷つけてやめられるのをおそれて、イヴォンヌにも何も言わずに不問に付した。おそらくリュシーは自分の娘の無実に満足したにちがいない。しかしそれを彼女に伝えて自分の誤りの許しをこうことはしなかった。
リュシーは、シュザンヌがクラスで一番の優等生だったのが自慢であったが、校長の娘に贔屓があると思われるのを恐れてわざといつも二番の席次をつけていた。娘たちを愛していたが、その身内愛を抑制しようとし、少なくとも他人の目に公平であろうとするあまりに我が子をおとしめるタイプの親だったのだ。この時代に、未亡人であり、カトリック教育機関の女校長としての公的立場を尊重し優先させようとしていたリュシーにとってはそれは当然の処世術だともいえる。リュシーは、人々から自分や娘たちが後ろ指を指されることを何よりも恐れただろうし、それをさけるためには自ら卑下するほうを選んだ。彼女自身にとってはそれは自己防衛であるとともに一種の裏返された自負心というべき自己満足でもあったのだろうが、子供たち、特にすでに母の愛を確信できずに苦しんでいたイヴォンヌにとっては残酷でしかなく、ますます自信をなくさせる結果になった。
最初の聖体拝領[#「最初の聖体拝領」はゴシック体]
そんな中でイヴォンヌの聖女願望は強くなっていった。健康にまでかげりが見えるようになり、頭痛に悩まされ、後に手術することになる慢性の虫垂炎の痛みが学業を妨げた。けれどもイヴォンヌは、痛みをこらえてじっと耐えることが聖女の道に通じると信じていたのでだれにも訴えず、人は彼女を怠け者だと思い、母親は期待をすてた。シュザンヌは修道会にでも入って社会的な使命を尽くすだろう、イヴォンヌは、適当な男に嫁がせればいいという図式がなんとなくできあがり、花嫁どころかひそかに聖女を志願しているイヴォンヌはこのイメージの不当さをますます一つの試練と受け取った。この頃のイヴォンヌは、とても美しい上品な少女に成長していたが、幼時のころのあのほとばしるような生きるよろこびは姿を消して、どこかおびえの漂う張りつめた雰囲気をもつようになってきた。聖女願望のほかに、イエスにたいする思い入れも育ってきた。公教要理では初めての聖体拝領にむけてイエスの受難と秘跡について教えられたし、カトリック系の学校にいたから、茨の冠をかぶせられて苦しんでいるイエスの胸像とか十字架像は身の回りにあふれていて、すでに苦痛とか試練とかに過敏になっていた少女の心を憐憫で満たした。キリスト教は、抽象的な一神教の中に、父なる神、息子であり夫であるイエス、母なるマリアに加えて、すべての教会メンバーを兄弟、姉妹とよばせる家族投影のレトリックを徹底させていて、家族関係の欠損や欲求不満にある人々を吸収しやすくなっている。しかも神父や修道女らは、独身を義務づけられているので、愛に飢えながら実際の人間関係を恐れて結婚に飛び込めないタイプの求道家を受け入れやすくしている。男兄弟がいず、父親も欠けたイヴォンヌがイエスを唯一の男、聖女たちの共通の愛人として渇望するようになったのも不思議ではない。(のちに修道院長になったイヴォンヌは、求めて与えられなかった母の愛を投影したのか熱烈なマリア崇拝者にもなっている。)
カトリック信者の家庭に育った子供たちは当然幼いときから教会に出入りしてミサに出席しているわけだが、決してミサの中心である聖体拝領の列には加われない。聖体拝領は、聖体パンを食べるという官能的な行為なので子供たちの本能に訴えるし、ふだんは家族とわけあっている食事という行為に教会でだけ仲間外れにされるという一種の不満足状態にとめおかれるわけだ。しかも、一定の公教要理を習ったあとで司祭と二人きりの場で罪の懺悔をしてそれ相応の罰をこなしてはじめて最初の聖体拝領のセレモニーにのぞむというかなり子供にとってドラマチックなお膳立てがある。これは昔は成人式にかわる通過儀礼のようなものだったが、イヴォンヌの頃(一九一〇年)には法王ピオ十世が七歳以上の子供にセレモニーを許したので、子供たちの間での期待感は一層高まった。聖体拝領は、たんに大人と子供を分けるだけではなくて、子供同士の中での通過儀礼になったからだ。最初の聖体拝領のセレモニーをすませた子供はその次の定例のミサからは大人たちの列に加わって聖体パンを食べることができる。ほかの子供たちは、先週までの仲間たちが「イエスの体」を大人たちと一緒に食べるのを見るのだ。感受性の強いタイプの子供が期待感と感動のあまり最初の聖体拝領で気絶してしまうことだってあった。
一九一〇年十二月三十日、九歳半のイヴォンヌは最初の聖体拝領をパリで行なった。四日間の静修のあと、前日には慣例に従って貧者の家に施しにいった。イヴォンヌの心は愛であふれていた。彼女はイエスにありったけの愛を熱烈に告白した。聖体パンを食べる前には、「イエス様、私は罪をおかすくらいなら死んだ方がましです。ずっと無垢のままいたい。聖女になりたいんです」と必死に祈った。次の日は、親戚であるトレガール神父から聖体を拝領した。この時のことを後にイヴォンヌは、「イエスとの甘美な出会いでした」と書いている。
「私はイエスに、リジューのテレーズのように愛の殉教者になって多くの魂を救いたいと言いました。(……)イエスは、私の欠点は全部おしゃれだとか不服従とか自尊心から出ていて、私が何でも自分を正しいと思って自分で決めてやるからだと私にわからせました。(……)なんて傲慢だったんでしょう。もし、他人の意志を全部受け入れるなら、私のおかす罪の四分の三は避けられるでしょう。今からは絶対にそうしなくては、と自分にいいきかせました。」
十歳に満たない少女にしては驚くべき洞察と決断だ。しかもイヴォンヌは、それを一生貫くことになる。ここで注目すべきなのは、「他人の意志に従う」という受動の生き方が、完全に自分の意志の構築物であるということだ。聖女願望はイヴォンヌの中で一種の強迫観念になっていたが、幼いなりにその方法についてすでにいろいろ試行錯誤を繰り返し、いわば知性で練り上げた「服従の志」にたどりついた。その証拠に彼女の絶対謙譲と絶対服従には、たとえば恐怖による服従にみられるような卑屈さがかけらもない。知性という腕力で自分を高圧釜の中に閉じ込め、他者への服従を唯一絶対の行動様式にした。そこからは当然だんだんと肉体性が消えていって、他者と他者(それは教会だったり神であったり修道女だったり兵士であったりした)を仲介する記号に昇華していった。イヴォンヌはこの意味で自分の嫌っていた肉体から解放された。美少女だったころから彼女は自分は神に捧げるに値する美しさをもっていないと嘆いていたし、後には腎臓病のためにむくみはじめた。彼女の自己イメージと当時流布していた聖女のイメージはかけはなれる一方だったといわざるを得ない。リジューのテレーズや、ディジョンのエリザベスといった同時代のフランスが生んだ聖女たちは、みな結核ですきとおるようになって夭折している。やつれてはりつめて咳き込みながら聖女になった女たちには、病気をかかえながらも外目には元気そうに肥え太って聖女を目指している女の苦しみは想像できないだろう。イヴォンヌはきわめて観念性の高い服従を孤高に持続することに成功して自らを記号化した。イエスとのあれほど熱っぽい生々しい交歓(彼女は後に聖痕者になり、さまざまなイエスの託宣を告げる)にかかわらず彼女が自分を消したイエスの仲介者として他者に受け入れられたのはこのためだろう。イヴォンヌほど一生聖女願望を隠さなかった人も珍しい。たとえていえば何かの記録を目指してチャンピォンになりたいと思っている人は、それが遠くにあるときは願望を気軽に口に出せても、いざ手に届くところへきてしまうとかえってそれにふれなくなるように、修道会の創設者とか、奇跡をなしとげたとか、カトリック界でそれなりの名を残してしまった人は「聖者になりたい」などとはめったに言わないものである。これは、イヴォンヌが聖女というものを自分を抹消した愛と慈悲の機能存在としてとらえ、自らもそのような存在として徹しているという自信があったからだろう。(もっともその境地に真にたどり着くには、「醜い肉体」の代償を払って余りある超能力の獲得を待たなくてはならなかった。)
私のイエス様[#「私のイエス様」はゴシック体]
最初の聖体拝領におけるイヴォンヌの決意がただならぬものであったことは、彼女がパリで二日続けて聖体拝領を終えたあとに正月でがらんとした寮に戻ってから書いたイエスとの契約書を見るとわかる。この契約書は生前その存在をだれにも知られることなく彼女がひそかに保存していたもので、彼女の死後に修道女が引き出しの中に発見したものである。
「ああ、私のイエス様、私をあなたに、全部、いつまでもささげます。いつもあなたの望むことだけを望み、あなたがしろということを全部します。あなたのためにだけ生きて、黙って勉強します。あなたが望むなら黙って苦しみもします。私が聖女になれるようにしてください。うんと偉大な聖女に、殉教者に。いつもあなたに忠実でいられるようにしてください。私は多くの魂を救って、だれよりもあなたのことを愛していたい。でもあなたにより多くの栄光が来るように私はうんと小さくなっていたい。イエス様、あなたを自分のものにしてあなたをいっぱい放射したい。あなただけのものになりたい、でもなによりもあなたの御心のままに。
[#地付き]あなたの小さなイヴォンヌ  一九一一年一月一日」
これだけの文を、九歳半のイヴォンヌは、二枚にわたって乱れもなく整然と血で書いている(彼女の福者認定調査のとき顕微鏡によって確認された)。最初の一枚の上に小さな十字架がかかれていて、ところどころに血がにじんでいる。この時代に彼女のような育ち方をした少女が満たされない愛情をイエスに投影するということ自体は理解できる。しかし、くりかえすようだがこの時期のイヴォンヌは本当に美しい少女だった。こんな少女が、クリスマス休暇中の寮の一室でイエスにラブレターを書くために血をしぼったということは、想像するだに尋常のこととは思えない。この手紙の裏に透けて見えるイヴォンヌは、聡明で、分析力もあり(後年に残した会議の報告書や講演記録を読むと、水も漏らさぬロジックが組み立てられているのが分かる)、独占欲も強く、野心や権力欲すらあったと思う。彼女はそれらすべてを宗教的コンテキストの中で正当化し昇華するすべをもう獲得し、確信をもっていた。イエスの愛を独占すること、それは、自分を最小に縮めて、自分に与えられたイエスの愛をすべて他者の救済のために放射放出するという条件のもとにのみ可能だった。実際彼女はそれを貫徹し、イエスの愛という自分自身が恋い焦がれたものをひたすら他者にふりむける反射鏡になろうとした。そしてそのために自分を調整することにのみ全野心と全知性をかけたのだ。
いったい全ての知性にはどこか悪魔的なところがある。アダムとイヴは知恵の実を食べて楽園を追われた。金持ちが天国に行くことがむずかしいようにインテリも天国に行きがたい。実際イヴォンヌほどのすぐれた個性と頭のよさがある人は、本来修道院というような集団生活では異常人に近い。修道院というのは一見俗世界から離れているが、規律性が高く、それゆえ逆説的に日常性が非常に高いともいえる。イヴォンヌは修道女として受け入れてもらうまでに非常な屈辱を伴った紆余曲折を経験することになる。彼女のような人が修道院にはいる入り方は、最初から特殊な場所を用意しておいてもらう以外にない。たとえていえば、身長が高すぎたり低すぎたり、外国人で体型が違ったりして群舞で踊るのが不可能というタイプのバレリーナが、オペラ座バレエ団に入るためには、コール・ド・バレエの試験を受けずに最初からソリストとして認めさせる以外には道はないというのと似ている。イエスはそれにこたえてイヴォンヌを奇跡の人にしてしまったし、イヴォンヌはそれを、あくまでも自己を消しさってイエスの愛を讃えて増幅する機能にのみ専心することで、慎重で疑り深い教会関係者に受け入れさせてしまった。この孤絶の中で持続する自己透明化の努力は、まさに荒行にもあたるもので、ここにイヴォンヌの野心や知性は高い精神性に結晶するのだ。だからこそ、修道女としての居場所を得たあとのイヴォンヌの顔や雰囲気には、自己愛や気取りやエゴのかけらも見えずに、会う人を直接神の愛に誘わずにはいられない、えもいわれぬ優しさだけがあふれていたのだ。
一九一三年五月、血の契約書の二年後にイヴォンヌは信仰告白と堅信礼というふたつのセレモニーを終える。これはカトリック共同体の一員としての総仕上げのステップだが、健康がすぐれなくなったこと、そのことでいくら神にすがっても答えてもらえないような気がしたことでうちのめされていたイヴォンヌにとってはむしろ苦しいものだった。同じ年の七月、三人の母娘はパリ近郊の高級住宅地ヌーイ市のサントマリー女子学院へ移り住む。シュザンヌはここでも優等生ぶりを発揮したが、イヴォンヌは、慢性虫垂炎の苦痛を隠していたため勉強するどころではなく落第を強いられた。やがて生徒監の部屋で気を失って倒れ、検査した医師に病気を発見されて緊急手術を受けた。これによって体調は多少よくなり、上の学年へ復帰できたものの、ほとんど厭人的症状を起こして孤立するようになった。血の契約が強いる試練が始まっていた。イヴォンヌはイエスにのみ語りかけながら体のあちこちの痛みに苛まれ続けた。
一九一四年の夏からの数年間は第一次世界大戦の勃発にもかかわらず、イヴォンヌの少女時代でもっとも明るいものになった。当時のフランスは過激な政教分離政策によって多くのカトリック系教育機関を国外にしめだした。そのおかげで全世界にフランス系のミッションスクールが伝播していったのだが、イヴォンヌはイギリスにあるブルターニュ系のミッションスクールで二年間勉強する機会をあたえられた。ここの教育は自由な雰囲気だったのと、母親のいる学校から離れたせいか、イヴォンヌは生き生きして課外授業にも精をだし、フランスへ戻ってきたときには、ロンドンのコンセルヴァトワールのピアノ科の教師免状、美術学校の絵画の免状、製図の免状を携えていた。これはこの年のフランス人の少女のイギリス留学二年間の成果としては驚くべきものだといえるだろう。帰国の船が英仏海峡を渡るときに敵潜水艦発見の警報で立ち往生してしまったときも、船客の子供の退屈をまぎらわせるため気軽にバレエを踊ってみせた。この彼女の一種ふっきれたような積極さの裏には、寄宿先の修道院でシスターたちにまじって祈りを捧げるようになって自分の修道女としての将来に自信をもったという背景がある。もっともイヴォンヌは、その決意を母親に書きおくってもまったくとりあってもらえなかったため、胸のうちにしまいこまざるをえなかった。
次の一年間は祖父母のいるル・マン市にもどり寮に入り、続く二年間は母と姉のいるパリに合流して、ヌーイ市のドミニコ会系の高校に入る。自信は友人たちにふりむける愛情に変わり、成績も優等になった。しかし一九一九年のはじめにひどい猩紅熱にかかってから彼女の長い苦難がはじまった。聡明な教育者としては不思議なことだが、母親はイヴォンヌを相変わらずできの悪い子だときめつけていた。病気をきっかけに高校をやめさせ花嫁学校に入れた(ここでもイヴォンヌはいい成績をおさめた)。姉のシュザンヌはソルボンヌで勉強を続けており、教師になる準備もしていた。リュシーとシュザンヌの間には使命感を持ったインテリ同士という強い絆が育っていてイヴォンヌの入るすきはなかった。イヴォンヌは、家事がうまくて結婚に向いていると思われていただけではなく、なんと信仰心や宗教的使命感も薄い娘だとリュシーからみなされていた。それでも黙々と母のいいつけに従い、彼女の愛情は貧しい人々へふりむけられていく。パリ近郊の労働者街は大戦のためにますます荒廃し、多くの孤児がいた。イヴォンヌはどんな危険な汚い町もくまなくまわってこづかいを全部つかって施しをしたり、子供や老人や病人の世話をしたりした。ある病人の脚が膿んで爛れているのを手当したときには、あまりの悪臭に目をそむけたくなり、そんな自分を罰するためにあえて傷口に唇をあてた。これはシエナの聖カタリーナなどにもある挿話で、おそらく聖女願望のイヴォンヌの意識にのぼってきたのだろう。しかし彼女はこのことをトレガール神父に話して、そういう過剰さは信仰にとって不健全で危険だからやめるようにと言われている。
イエスの呼びかけ[#「イエスの呼びかけ」はゴシック体]
一九二一年、イヴォンヌが二十歳になる年から、リュシーはイヴォンヌに見合いをさせはじめた。エンジニアや貴族やさまざまな候補者が現れたがイヴォンヌの心にはイエスしかいなかった。だから、親戚でもあるトレガール神父がリュシーの意向をいれてイヴォンヌに結婚をすすめたのはつらいことだった。では自分は勉強ばかりではなく信仰にも無能力なのだろうか、神は私のことを呼んでくれていないのだろうか、と悩んだが、神父の言葉には服従するしかない。どうせ結婚しなければならないのなら相手は自分で決めたほうがよい。イヴォンヌは同い年の医学生である幼なじみのロベールに声をかけた。ロベールは天にも昇る心地でこの提案を受け入れたが、まもなく当時は死病とされていた結核に冒されて、この婚約はだれにも知られぬまま解消してしまった。同じ年の末に今度はイヴォンヌが重いパラチフスにかかった。高熱が続き、回復が思わしくなく、結局パリを離れてブルターニュのマレトロワ修道院付属のクリニックで療養をすることになるのだが、これがイヴォンヌとマレトロワとの運命的な出会いになった。彼女はマレトロワのクリニックのために一生を捧げ、多くの病人を救うのだが、皮肉なことに、彼女自身の健康は、このときを境にして、二度と回復することがなかった。肺結核による喀血、腎結核による血尿、不整脈、腰痛、ネフローゼ症候群(尿タンパクと全身浮腫)、高血圧と眼圧昂進のための一時的失明、リューマチ、子宮繊維腫に乳癌と、全身をむしばまれつつも決して苦しみを人に見せることなく超人的な活躍を続けることになるのだ。
アウグスチヌス会の慈悲のイエス施療修道会は、観想型の閉鎖修道院と病人の看護とをむすびつけた女子修道会で、中世から存在していた。ブルターニュには一六三五年ヴァンヌに創設されたが、その後市当局との折り合いが悪くなって一八六六年にマレトロワに移っている。ウルスラ会の修道院跡を修復したもので、ナポレオンが造らせたナントからブレストへいたる運河を前にして石造りの堂々とした景観をもっている。イヴォンヌがやってきたころは手術室を備えた病棟が完成し施設は整いつつあったが、修道院内の人間関係は近代化の要求をかかえて緊張したものであったらしい。
イヴォンヌは一九二二年三月に修道院付属のクリニックにパラチフスの予後で疲れた体を癒しにやってきた。ここで六ヶ月を過ごすことになるのだが、この半年がイヴォンヌの一生を決定した。イヴォンヌは、当時の医者の証言によると、大柄で落ち着いた自然な感じの娘で、よくうちとけて、柔らかい音楽的な声で明快に話した。高熱が続いたため脳膜炎の検査もしたが、神経系統に何の障害もなく、チック症状もなく、穏やかで年よりもしっかりしているという所見を得ている。トレガール神父は前年末になくなっていたが、ここでイヴォンヌはクレテ神父という告解師に出会い、この神父は彼女の召命意識をすぐに理解してくれた。
六月十二日の朝のミサでイヴォンヌは突然の神秘体験におそわれる。イエスが彼女にやってきて彼女の中に入り彼女を至福で満たした。イヴォンヌはイエスへの愛を確認したがイエスが自分に何を求めているのかはわからないまま、彼からの愛以外の一切の愛を求めないことを誓った。この誓いは夜と沈黙と壮絶な孤独の感覚をイヴォンヌにもたらし、彼女はふるえあがった。七月五日ベッドの中で「イヴォンヌ」という呼びかけの声を聞いた。声が聞こえてきた暖炉のほうをふりむいたがだれもいない。もう一度ねむろうとしたが同じ声がまた呼びかけた。イヴォンヌはおそれて毛布に顔をつっこみ祈りを唱えはじめた。
「イヴォンヌ」
ひざまずいた彼女の前にうっすらと明かりがさして、輝く十字架が現れた。
「これを背負いたいかね?」
声はこの上ない優しさにあふれていた。
あわてて「もちろんです」と答えたとたんに痛いほどの幸福感に貫かれた。
「魂をすっかりゆだねなさい。私が愛する魂への最大の恩寵として送る試練を受け入れなさい。その意味やどれだけ続くかなどを考えないで、我慢して受け入れなさい。それを自慢してもいけない。お前にふりかかる苦難や屈辱にまけてはいけない。私をごらん。お前を愛している。お前の心にはそれで十分ではないかね。」
「もちろんです。でも、本当にあなたなのですか。本当に?」と当惑するイヴォンヌの前で、一つの手が十字架の前に現れて一本の百合の花を手折った。その花を受け取ったとたんえもいわれぬ平和な心で満たされた。そこへ修道女マザー・マドレーヌが入ってきた。彼女はイヴォンヌのもっている花に驚いた。クリニックの庭に咲いていた百合だと思ったが、その花は水につけられることもなく家具のうえに放置されて一週間たったあとも枯れずに生き生きしたままなのを見てイヴォンヌの言葉を信ぜずにはおれなくなった。七月十三日にこの百合は消えた。イヴォンヌのこの後の奇跡には何度も花が登場する。喀血の中から赤いカーネーションがでてきたことを神父に目撃されたこともあった。一九二八年には部屋中が花で埋まっていたのを修道女全員が見にきたし、一九三一年にはエクスタシーに入ったイヴォンヌの脇腹の聖痕から茎の長さが二十五センチメートルというバラがゆっくりと出てきたのをある修道女が見た。(これと似た話では、現存する南米の女性聖痕者の聖痕から花が出てきたというのがある。少なくともそれが本当の植物であることは証明された。)
この夏のイヴォンヌはこの後も原因不明の高熱を発したが、看護婦や修道女たちの見ている前で、イエスからの指輪を受け取ったり、馥郁とした香りがたちこめたりと不思議なことが続出した。もっと後では、イヴォンヌがエクスタシーの最中で幼子イエスを腕に抱いたあとに赤ん坊の姿をした蝋人形が残ったということが何度もあった。(この人形は、蝋人形の外観の内部に人体の器官がそのまま埋まっているなどという伝説を生んで今でも崇拝の対象になっている。)その突飛さ、その目撃者やシチュエーションの多様さ、コンテキストから考えて、これらの出来事が全くの作り話やトリックであったとすることは不可能である。実体が残ったのだから幻覚ともいえない。イヴォンヌはもちろんこれらをすべてイエスからの贈り物として納得していた。超心理学の立場の仮説では、イヴォンヌに強く心に描いたものを実体化する能力があったのか、実際にどこかにあったものをテレポートしてくる能力があったのかどちらかということになる。イエスもパンを増やしたし、多くの聖者伝にも似たような話が必ずあるのは注目できるがいわゆる科学で説明できることではもちろんない。とにかく修道院中がこのパリからきた若い娘の噂でもちきりになった。イヴォンヌから逐一報告をうけていたクレテ神父は彼女を興味深く見守り、神の仕業と悪魔の仕業とを混同しないようにくれぐれも慎重であるようにと言った。
実際これと同時期にイヴォンヌは正体不明の傷を体にうけるようになり、悪魔の仕業だと言っている。一九二四年二月からは聖痕を受けるのだが、聖痕の方はいわば謙譲のために隠し通すことができた。(もっとも一九二五年エグゾシストであるトンケデック神父がどうしても奇跡が起こるのをこの目で見たいと主張したときには、彼の目の前で額から茨の冠状に血が流れ出してその場をすくわれた。)けれども悪魔の攻撃の方は時と所をかまわず、イヴォンヌは、衆目の前で倒れ苦しんで、顔と首以外の全身を切り刻まれた。これはほとんど一生つきまとい非常な苦痛をイヴォンヌに与えた。はじめのうちはヒステリーによる自虐を疑った医者も結局サジを投げてしまった。(この傷は列福調査のために遺体の検査をされたときにもはっきり残っていたという。)
瞬間移動・分身[#「瞬間移動・分身」はゴシック体]
ともあれマレトロワでの最初の夏にイヴォンヌは毎日のようにイエスに会いそれは一日四回にまで達した。イエスのお告げは、熱烈な睦言から、試練の予告、具体的な使命の内容の細部にまで至った。イエスはマレトロワの修道女の一人一人に告げるべきメッセージを託して、イヴォンヌはそれを一々書きとめては、意味が分からぬままに伝えた。すでにイヴォンヌのまわりの不思議な出来事が修道女たちに十分なインパクトを与えていたうえに、イヴォンヌがイエスの名で告げる個別のアドバイスや訓戒が当を得たものであったらしく、やがて修道院中が一種の宗教的昂揚の中に団結してしまった。一九二二年八月二十二日には、毎朝毎夕に修道女が唱えるべき新しい祈りの文句が告げられた。「愛の主であるイエス様、あなたの御慈悲と御慈愛を頼みにしています。」という短いものだったが、御名を讃えるとか悪の誘惑からまもってくれとかいう祈りがほとんどだったその当時としては画期的に人間的で、素直な感情移入を可能にするものだった。この祈りは修道女たちに熱狂的に受け入れられたばかりか、その後法王ピオ十一世やヨハネ二十三世に認められ、カトリック世界全体に広まるようになった。イヴォンヌ自身も第二次世界大戦の初期にこの祈りに愛の幼子イエスの見事な聖画を加えた。イエスからのインスピレーションとはいえ、いってみれば彼女は天才的なコピーライターでありイラストレーターでもあったわけだ。
実際イヴォンヌは恐るべき多才の人であり、貧しい人への施しの資金を得るためにヴァイオリンのプライヴェートコンサートを開いて稼いだり、子供のための本を出版したり、ベストセラーとなった小説を書いたり、修道院のために建築設計士としての仕事もしたし、修道会間の連絡紙を発行してジャーナリストとしての才も発揮したりもした。組織力も抜群で、細心に一人一人の修道女の個性を見抜き、見事に修道会の発展と調和をもたらした管理者でもあった。偉大なカリスマであったにかかわらず、ヒステリックなシャーマン的なところが毫もなかったとすべての人が証言しているのも不思議ではない。それともこれほどの天才が自分を限りなく押さえ込んで無私の境地にとどめた反動として、悪魔の攻撃等という奇怪な現象を招いたのだろうか。ともかく、指導者の器のある人として八面六臂の活躍をしながら、その一方では、病気、聖痕、傷、イエスとの激しい愛の交歓、超常の世界での活動をするというすさまじい生き方が始まりつつあったのだ。
やっと成人に達したばかりの若いイヴォンヌは九月にパリへ戻ったが、そのころにはマレトロワの立て直しとそこを手足にしてイエスのために尽くすこと、道を外れた司祭たちの魂を救うこと、というふたつの使命をイエスから受け取っていた。イエスの言葉をマレトロワに書き送り、その中でマレトロワがいわばイエスに選ばれた場所だといっている。修道院の主だった七名の修道女には特別にきめ細かく心得と使命を書き送った。修道女たちも「貴女は限りない幸福をもたらしてくれました。私の人生はまるで二つに別れてしまったようにもう喜びだけであふれています」などという返事を書き送っている。
それからのイヴォンヌは、相変わらずの慈善活動に加えて、イエスの言葉に従って意味も分からずにあちこちへとびまわった。この頃には瞬間移動か縮地術に似た超常現象によって行動するようになっていたと思われる。その典型的なものは、まるで電気ショックを受けたような感じがして気を失い、気がついたら大きな街の通りの中にいるというようなものだった。何をイエスが求めているのか分からぬままに十五分ばかり歩くとある建物の前で止まる。扉がひとりでにひらき彼女は中に入る。階段を上がってあるアパルトマンの呼び鈴をならす。だれかがでてきて例えばドイツ語で用件をたずねる。イヴォンヌはドイツ語は話せないはずなのだがどういうわけかちゃんと答える。このアパルトマンの主が隠して冒涜している聖体を回収しにきたのだといっているのだ。ドイツ人は真っ青になって否定するがイヴォンヌは、つかつかとサロンの中に入っていって、棚にある本の中に隠してある聖体パンを見つけてしまうのだ。冒聖者は、この若い娘を恐れて許しを請うこともある。
そういう聖体パンを回収する場所はフリーメーソンの集会所であることもあったし、悪魔の誘惑に負けてしまった司祭の家であることもあった。イヴォンヌのこのタイプの活動はかなり頻繁だったと思われる。一九二三年四月には猩紅熱以来併発していた腎炎がひどくなり、リュシーはふたたび娘をマレトロワに送った。この滞在は四ヶ月に及んだが、この時にもイヴォンヌはしばしば「使命」のために寝室から抜け出した。不思議に思った看護の修道女が監視したが、イヴォンヌの病室はいつの間にか空になっていて、しばらくすると音も立てずにぐっすりと眠りこけているイヴォンヌを発見したりするのだった。イヴォンヌはそんな時に質問に答えて、イエスに導かれてドイツやイギリスにいっていたのだと詳細を語っている。驚いた修道女はこのことを記録したし、イヴォンヌはクレテ神父にはすべて報告していた。瞬間移動は、この後にイヴォンヌが正式に修道女になってからは見られなくなったようである。修道院から勝手にでてはいけないという修道女としてのイヴォンヌの立場をイエスが考慮したのか、分身または幽体離脱という形に変わっている。それも修道院の活動に迷惑をかけない夜中に集中するようになった。典型的な例は、一九二九年六月の幽体離脱である(この頃のイヴォンヌは修練女にすぎない)。イヴォンヌはエクスタシーの状態(多くは硬直と感覚麻痺をともなう忘我状態である。)に入り、修道院長がほかのシスターをよんできてこの風変わりなパフォーマンスの観客は五人になった。イヴォンヌはエクスタシーから醒めて、しばらくシスターたちと言葉を交わしたかと思うと急に眠り込んだようにみえた。つぎに体ががくんと激しく動いて樫の木のベッドを揺らし、骨がきしむようなみしりという音がした。それから突然外国語で話し始めた。次にまたがくんと動いた後、英語で話し、祈り始めた。次がドイツ語で次は何語かだれも分からなかった。イヴォンヌは話しながらいろいろな動作もしていた。はじめ呆然としていた修道院長は次第に憐憫の情を抱き、「さあ、もどっていらっしゃい、シスター・イヴォンヌ=エメ」と呼びかけた。イヴォンヌは最後の痙攣のあとでただちに我にかえった。汗まみれでぐったりつかれている様子のイヴォンヌはマザーの質問に答えて、アルゼンチンとイギリスとドイツとポーランドにいってイエスにいいつかった用事をしてきたのだといった。よく見ると彼女の傷に巻いていた包帯は外れ、血がにじんでいた。
このような「出張」から帰ったときに腕が折れていたり怪我をしていたこともあった。「出張」先の距離が遠いほどそれに先立つ痙攣や音が激しいという意見もあった。皮肉なのは修道院からの不在を避けた分身のために、かえっていろいろな人にその様子を観察されたことだ。観察者にとってはショッキングな光景だったとはいえ、イヴォンヌ自身はこのことをドラマチックに見せようとしていたわけではない。マザーの疑問に答えるために旅行の証拠を見せますともいっているし、実際彼女の旅してきたという外国から後になって感謝の手紙が届いたりした。
日常的な超常現象[#「日常的な超常現象」はゴシック体]
こういう出張で一番多かったのはやはり冒涜された聖体パンの回収と冒聖者の改心と救いという使命だったようだ。一九二七年から一九二八年にかけてはイヴォンヌがマレトロワの修練女であったために上司であるマザーやシスターの監視下にあり特に詳細な記録が残っているが、実に四十七個の聖体パンを世界中のあちこちから持ち帰っている。修道院のクリニックには療養中の司祭や教会関係者がいることも多く、修道女たちはイヴォンヌがエクスタシーに入ると彼らをよんできて立ち会わせることもあった。あるときは、イヴォンヌは、ベッドの脇に立ち(普段よりもずっと大きく見えたと目撃者は言っている)、目を上に向けて何かを中空に手探りしていた。修道院長とシスターの一人と告解師ともう一人の神父とある実業家(彼らは一緒に夕食をとっているところを呼び出されたのである)の五人の目の前で、イヴォンヌの左手に突如として血まみれの聖体パンが現れた。イヴォンヌの手も血で汚れた。彼らはイヴォンヌを椅子に座らせて聖体パンを拝み、司祭はそれをチャペルにもって行なった。部屋には強い香の匂いがたちこめていた。居合わせた実業家はこの光景に驚いたものの、もっとも印象的だったのはすべてがこの上ない落ち着きの中で過ぎたことだったと言っている。(この人はこのときの聖体パンのデッサンを残している。)
イヴォンヌのこういうおそらく幽体離脱による出張は、日常的になったこともあるかもしれないが一種おそるべき実務的感覚で行なわれた。聖体パンは作られる場所によって表面にさまざまなデザインの十字架などの模様が描かれていたりする。イヴォンヌはこれらの出張のレポートとして、回収場所、日時、回収した聖体パンのデザインなどを自分用に書き留めておいた。それは何のけれんもてらいもない素っ気ないものである。時には一日に十個の収穫があったこともある。聖体パンの回収のほかにも、信者の家の火災の消火を手伝ったりした。ある日、エクスタシーの後で泣き伏したかと思うと窓のほうを見て「火事!」と叫びふたたびぐったりとなった。何分か後に意識を取り戻したイヴォンヌは、シスターたちの「火事はどこですか」という質問に答えて「トロワです」と言った。数日後トロワから手紙がきて、「夢を見ていたのでしょうか、炎の中に蒼白なあなたがいて、消火をしてくださるのが見えました。お礼を言う前に行ってしまわれました。あなたのお陰でぼやですみました」という感謝のことばが残っている。病に倒れた人の病床を見舞うこともあった。その人は回復してから感謝の手紙を送り、「あなたが来てくださったので驚きました。あなたの修道院長が修道院から外出するのを認めてくれたのはなんと慈悲深いことでしょう」などと言っている。彼女が訪問したとされている時間には、イヴォンヌは修道院の中でシスターたちの見ている前で眠り込んだようになり、我にかえった時に「パリにいる病人を見舞っていました」と答えていた。
イヴォンヌは幽体離脱先で必ずしも目撃されたわけではなく、ル・マンの教会のミサに出てそのとき聞いた説教の感想をあとでマレトロワにやってきた司祭に述べて驚かしたりしている。戦争中は従軍した神学校生につきそって励ましたり保護したりしたが、彼は彼女の姿を見ておらず、後でマレトロワに来てイヴォンヌの話す戦場の詳細をきいて自分の受けた加護を納得した。
修道院内での分身ももちろん自在だった。修練女棟の寝室のベッドの中にいて別棟の別の階にいる修道院長に話しかけているのを修練女指導のマザーが目撃したことがある。「もし、お休みにならないんなら普通に帰りますわ」という言葉の意味を知りたくてマザーはイヴォンヌの分身の帰還を待っていた。やがて例のがくんという音がしてイヴォンヌが我に返った。彼女がイヴォンヌに聞いた説明と、後で修道院長の語ったことは完全に一致した。修道院長は、具合が悪く苦しんでいて、イヴォンヌはイエスから彼女を悪魔から守ってやるようにというお告げをきいた。修道院長は寝室と廊下を隔てる二つの扉が開かなかったのに突如としてイヴォンヌがそばに立っているのを見た。「シスター・イヴォンヌ=エメ、あなたですか? どうやって入ったんです? ドアが開く音がしなかったのに」と修道院長に問われて、イヴォンヌは「それはたいしたことじゃありません」と答え、イエスの言葉を告げて親指で修道院長の額に十字をきった。
「もういいわ、さあ、自分の部屋に戻りなさい。」
「はい、そうします。」
「あなたがどうやって出ていくのか見ていることにしましょう。」
「だめです。見ていないでください。お休みにならないんなら、普通にドアから出ていきますわ、修道院長さま。」
修道院長はイヴォンヌから目を離さず、イヴォンヌはドアを開けて出ていった。
イヴォンヌが幽体離脱するときは、エクスタシーや仮死状態に陥ることもあれば、移動先での言葉や動作をなぞることもあった。しかし昼間二種類の活動を同時に行なうこともあった。修道院の台所でソースを作るためにかき回していた動作が急にのろくなったその間に、自分の部屋で机に向かって手紙を書き始めたのを別の修道女に目撃されたこともあった。
もっとも修道院内での分身現象はイヴォンヌが修道院長になってからはほとんど報告されていない。それが周知の事実であり、修道院の風景みたいになってしまったうえに、イヴォンヌの指導者、管理者としての才能にすべての人が感服していたからだ。イヴォンヌはこれらの不思議な出来事を口外することを修道女たちに禁じたし、「出張」は深夜に集中した。修道女たちは、既に昼間常人以上の任務をこなしている院長が毎夜のようにイエスの「特別任務」にでかけて疲労困憊するのをむしろ気の毒がっていたようである。確かなことは、イヴォンヌが患者としてマレトロワに滞在していたときから修練女時代を経て修道院長になったときを通じて、これほどの超常現象が彼女の回りに勃発していたのにかかわらず、マレトロワ全体と彼女を取り巻く人々の間にはいつも平穏で暖かい空気が支配していたことである。普通はこういうタイプの異常な修道女が集団の中にいるときは、隔離されるか病で寝こんでいるか少なくとも孤立するという結果になる。それが女子修道院長という立場の人に起こったら、ヒステリックで神秘的な昂揚感は修道院中に伝播し、収拾がつかなくなってしまうだろう。中世の女子修道院の集団悪魔憑きの歴史はそれを物語っている。イヴォンヌとマレトロワとのように、完全な冷静さを保ちながら、優れた常識人ときわめて機能性の高い集団として存続した例は希有である。彼女らが生きた嵐のような超常現象の中にもし神の恩寵というものがあったなら、まずその点だといわざるを得ない。
悪魔と超能力[#「悪魔と超能力」はゴシック体]
けれどもその恩寵がすべての人の眼、とくに疑い深く嫉妬深い教会関係者たちの眼に明らかになるには、長い年月を必要とした。マレトロワへ入って修道女としての使命を果たすというイヴォンヌの願いですら実に五年間にわたって妨害を受けることになった。修練女として修道会へ入るには、教区司教の認可がいるのだが、すでにイヴォンヌの異能やエクスタシーやイエスのお告げについてクレテ神父や修道女たちの報告を受けていたヴァンヌ司教グローは頭から反対した。このような娘は病気か嘘つきかのどっちかで、とても修道院の生活には向いていないばかりか、すでに修道女たちに悪影響を及ぼしはじめている。司教はイヴォンヌを召喚したが、あらわれたのは信心深い謙虚な娘であった。もしもこの娘がスキャンダルのもとになっているとしたら、むしろ何かの悪意の犠牲なのかもしれない。司教はイヴォンヌに心酔し始めていたクレテ神父に彼女の告解師の任を禁じた。イヴォンヌにとってつらく苦しい時期が始まった。イエスの命令で超常的使命を果たしつつ、貧者の施しに心をくだき、マレトロワに拒絶されているのを心得ていながらイエスのお告げにしたがってマレトロワ近代化のプランを教区の担当者に書き送ったりした。彼女の健康はすぐれず、その後にも療養のためマレトロワに滞在することがあったが、司教の拒絶を通達されていた院長の冷たい態度に出会わねばならなかった。結核菌が発見され、タンパク尿が出て、全身がむくみだした。「体の具合はあまりよくありません。でもおかしいことにどんどん太っていきます。ほおが赤くて丸々しているのでみんなが私のことを元気そうだとほめてくれるのです。だれが私の具合の悪さに気づくでしょう?」と当時の手紙にある。ありとあらゆる災難が降りかかった。三階のテラスから何者かに引き込まれたように身を投げたり(そのとき受けた背中の傷に一生悩まされることになる)、イエスからは脇腹の聖痕や血の涙をあたえられ、高熱にもさいなまれた。全身浮腫は彼女の美しさと自己愛とにピリオドをうった。聖女願望のあった一人の女がイエスの愛を信じ、恩寵を信じ、全身を病と傷に冒され、超常現象に翻弄されながら、なおかつ太っているということには凄惨な残酷さがある。イエスはどんな試練にも耐えよとはげまし、愛するからこそ苦しめるのだと言った。イエス自身がこの上もない屈辱の中に死刑に処せられたという認識なしには、いくら聖女でも主なる伴侶のこの途方もないサディスティックな要求の前では躊躇するにちがいない。イエスと聖女たちのラブストーリーにはいつもめくるめくような過剰さがついてまわる。万人への慈悲の愛と平和とを祈りながら、聖女たちはイエスとはぎりぎりの男と女の愛を生かされるのだ。オランダの聖女リュドビナのように全身が腐って爛れて蛆をわかせていたというのもものすごいが、女が病気でありながら元気そうに見えて丸々太るというということには逆説的にもっとつらいものがある。イヴォンヌは真の謙譲に至るまでにおそらく非常な苦しみをなめたにちがいない。けれども、このふくよかな外見は結果的には彼女を救った。あれだけのエクスタシーや超常現象のただ中にいながら、まわりの人を不安にさせるヒステリックな印象を与えることがなかったからだ。肥満のため年より老けて見え、堂々とした貫禄は慈母のイメージを提供し、実際に修道会の規定に満たない三十三歳という若さで例外的に修道院長に就任することになった。人々に安心感と信頼感を与え女たちの嫉妬心を消した。
この効用は大きい。イヴォンヌは、そんな外見に見合うだけのエネルギッシュで実際的な活動をこなしたし、自分の体型が人々にもたらす豊かな暖かさをよく心得るようにもなったと思う。聖女の中には、スエーデンの聖ブリギッドとその娘聖カタリーナのように悪魔の化身かと思われるほどの絶世の美女も存在した。美しすぎる女が聖女になるときにはそれなりの十字架を背負わなくてはならず、別の種類の残酷さに絶えずさらされていなくてはならない。拒食症や肺結核の透き通るようにやせた聖女のイメージからは裏切られたけれども、イヴォンヌの肥満はある意味では超常現象の奇矯さをやわらげるクッションとしての機能を果たしたのである。カトリック教会という本質的な男社会で一人の女が聖女になるためにはいつも苦しく微妙な綱渡りを要求される。
イヴォンヌは最終的に修練女としてマレトロワ入りを許されるにいたる前に司教の指名したエグゾシストによる検査を受けねばならなかった。カトリック教会では、どの教区にも一人の公認の悪魔払い師のタイトルをもった神父がいてそれに専任している。とはいってもどんな地方にも治療の効験があらたかといううわさの高い修道士や司祭がいるもので、通常は民衆はことが起こるとそういうカリスマ性の強い人のところに集まっていた。人々がもってくる問題も難病や憑き物から呪いや魔術までと幅広い。現在のカトリック教会は、エグゾシストをきちんと管理して登録し、公式のエグゾシスト以外の聖職者の介入をよしとしていない。セレモニーもちゃんと手続きが決まっているが、教義的にはいわゆる悪魔払いの文句を最後に唱えるまでには悪魔が憑いていることを確認しなくてはならない(悪魔の存在というのはイエスのころから認められてきた事実だとして公式に認められている。一九七五年六月)。その確認のためにはエグゾシストは教会内外の医者や心理学者の意見をきいて調査することが許されている。では最終的に悪魔憑きを判断する基準とはなにかというと、宗教的価値を嫌悪する発言が口にされること、サタンとの関係を公言している結社に属していること、悪魔の存在を示すいくつかの特徴があること(法王パウロ六世が例に挙げたもので、キリストという名前に激しい憎悪の反応を示す、絶望的になっている、冷たい酷薄なエゴイズムを示し愛のかけらもない、だれの目にも明らかな嘘をつく、過激な言葉で神を否定する、などがある)というのが一九八五年の公式マニュアルに見られる。もちろんこれらの症状がただの心の病気によるものである可能性はあるとし、実際のエグゾシストたちは、異常心理学についても勉強するし、時々会合をひらいてはお互いの教区の症例を交換し試行錯誤を繰り返している。(この結果、正式の悪魔払いのセレモニーが必要とされることは非常にまれで、たいていのケースは慰めや励ましの祈りでことたりることが多い。)
しかしイヴォンヌの頃(一九二四年)には、まだエグゾシズムの近代化というのは徹底していなかった。悪魔憑きのめやすは伝統的に三つあるとされていた。知らない外国語を話すこと、知られていないことや遠いところにあるものを明らかにする(読心、透視、予言)こと、ノーマルな力以上の怪力を発することである。
これらの現象は今日では宗教的コンテキストを離れたヒステリー症状においても見られることが確認されているし、超心理学の分野で研究されてもいる。聖別された公式の聖者伝にだって似たような現象の記述もあるのだから、超能力がすべて悪魔の仕業とされていたわけでないのはもちろんだろう。けれどもこれらの現象はおそらくヒステリー症状とともに観察されることが多かったのでいつのまにか悪魔の仕業にむすびつけられたのだろう。カトリック教会が、公式の奇跡を事実上奇跡的治療能力に限ったということは、他者の救いという結果論を優先した宣教的知恵とでもいうべきものであった。
ヒステリーという疑いと修道女たちの信頼[#「ヒステリーという疑いと修道女たちの信頼」はゴシック体]
イエズス会士であるトンケデック神父は哲学者としても有名なパリのエグゾシストだった。顎ひげと口ひげを蓄えた青い目の神父はイヴォンヌを何度も召喚し、彼女の神秘体験や超常体験がすべて想像の産物ではないかと考えたことはないのかと問いただした。イヴォンヌ自身も自問を重ねたが、その間にもイエスの指示にしたがって黒ミサをあげている司祭を発見して糾弾したり、窮地に陥っている信者を助けたりという活動を休みなく続けていた。それらの多くは瞬間移動によってなされたらしくそのことで冒聖者を恐れさせたりした。
トンケデック神父はイヴォンヌの周りの人へのききこみを開始したが、みな口をそろえて彼女がバランスの取れた柔順さの持ち主でありシンプルで親切であることを保証した。彼女の超常現象については、だれも信じられなく当惑していたが彼女が芝居をしているわけではないということについてはみな意見が一致した。しかしトンケデック神父は容疑者の自白をせまる刑事のように執拗にこの若い娘を責め立てた。イヴォンヌは医師による精密検査を受けるように申し渡された。婦人科医の診察、泌尿器科医の診察、どれも皆つらくて屈辱的なものだった。フランスでは前世紀の末のシャルコー医師の有名なヒステリーの研究があるように、女性のエクスタシーや妄想をすべて性的異常に還元するという異様に根強い偏見があった。(シャルコーの研究対象になった若い女性患者たちは体中の血と分泌物とを採集された。医師たちはヒステリーの発作と、涙や失禁、汗やよだれやおりものとの間の幻の相関性を求めることに倒錯的な熱心さを見せた。)医師はイヴォンヌの胃の上の傷に手をおいて質問をし、悪魔の攻撃による傷だという告白を聞いて薄ら笑った。彼らはイヴォンヌが頭の弱い娘なのだと思った。皮肉なことにイヴォンヌの精神状態の検査を受け持った神経科の医師のみがイヴォンヌはまったく正常だという結論を出した。イヴォンヌはこれら全ての試練に柔順に耐えて、冷静に自分のつらさを分析したり、こうすることを義務としているトンケデック神父のために祈ったりしている。
イヴォンヌがヒステリー患者だというトンケデック神父の仮説はくずれた。神経科医は、イヴォンヌの超常現象は、本当のことか計算された演技かのどちらかでどっちにしても何ら神経症の結果ではないと断定した。
結局トンケデック神父の調査は結論を出せなかった。イヴォンヌが一九二七年の三月にマレトロワの修道院入りを果たすことで自然解消してしまったのだ。イヴォンヌ・ボヴェは、イヴォンヌ=エメ・ド・ジェジュ(イエスに愛されたイヴォンヌ)という修道女に生まれ変わったのだ。一度ははっきりと「あなたの超常現象は集団生活に向かないから」と拒絶されていたのが受け入れられたのは、イヴォンヌが修道会の教会側責任者であるピコー副司教の信任を少しずつ勝ち得たからである。彼女はピコー師がやがて司教に昇進することを予言したり、さまざまな有益なお告げをもたらした。(そのほとんどは彼女自身にはその時には意味をなさないものであった。)イヴォンヌは、彼女とピコー師とマレトロワとが神に選ばれた運命共同体であって大いなる使命をおっているのだという考えをピコー師に鼓舞した。師は神学の教授でもあり批評精神に満ちた切れ者であったが、イヴォンヌの異能に感じ入って彼女に賭けてみる決心をしたのだろうか。イヴォンヌという人のすごいところは、自分のカリスマの中に修道会という組織をとりこんで、それを有機化し増殖させて文字どおり手足として自在に操ったことである。すでに自分ひとりでも分身や瞬間移動によって人間業ではない時空の範囲を駆けめぐっているのに、修道会の実際のシェフとしては全ての人の心をつかみつつ最大限に慈悲の救済活動をおしすすめたのだ。
ふつうイヴォンヌのような超人的な活動をする人なら修道院などに閉じこもらずに在野にいて不幸な人々の救援活動を続けた方が自然なのではないかと考えることもできる。実際祈りを中心とする観想修道院に入る人のことを「教会の寄生虫」だと批判する者はいつの時代にも存在した。しかし在野で活躍していた人が修道院へ入るのは必ずしも逃避とはいえない。そういう経歴をたどった多くの宗教者は、「自分一人で救える人の数はどんなにがんばってもたかがしれている、全人生を神に捧げてこそ神の無限の力でもっと多くの人を救えるのだ」という具体的な確信に至ったうえでの転身がほとんどなのだ。所詮人間は他の人間とかかわっている限り少しずつ消耗していくにすぎない。まして自己愛を他人に投影して生きている人などはさまざまな障害にあってずたずたになるのがおちだ。その点自己愛も人生もすべて神に投影した人は強い。それは純粋培養され増幅され、こわいものなしの巨大なエネルギーになり得る。こういう状態でなされる祈りのサイコエネルギーは強烈であり、実際に外部世界を変革する力があるとする考え方も流布している。(これを計算して、もしフランス政府が公務員として七千人の人間をひたすら国のために祈らせるために雇ったら全ての政治社会問題が解決するはずだとしたレポートもあるほどだ。集団による祈りで特定の人の難病治癒を目指す有名なグループも存在する。二十一世紀を前にした今の時代の方がイヴォンヌの生きた時代よりも祈りへの嗅覚が鋭くなってきたというのはおもしろい。)
こうしてイヴォンヌは修練女として修道院の囲いの中でエクスタシー、幽体離脱、分身、お告げ、予言を繰り返しながら一九二八年九月二十九日誓願を済ませ、一九三二年には修練女教育係のマザーとなり、一九三五年には先例のない若さでマレトロワ修道院長に就任した。その背景には、修道院の拡張、食堂の建設、英国風庭園の造園、ばらばらだったアウグスチヌス会系の医療修道院の会則や教育体系を統一するなどの華々しい活躍があった。そのひとつひとつは、イヴォンヌに告げられたイエスの意志によって始まり、イヴォンヌの祈りがその実現を招き、イヴォンヌが自ら設計し、金策をし、教会側を説得し、各地にある修道会を実際にたずねてまわるという努力によってフォローしたものだった。
カトリック教会は一般に個人の啓示を嫌い、カリスマのある人をマージナル化しようとする。それは組織の自衛策として当然の反応だ。特に公式の聖職者とはなれない女性の神秘家を相手にした場合は、孤立させるか、異端または悪魔憑きとして糾弾するか、腕力で修道院に封じ込めるかという策がとられる。イヴォンヌにもあらゆる試みがなされたが結局イヴォンヌの方が教会側をとりこみその内部で公式の権力の階段を上りつつ、例外的なカリスマ性を体制的にも認めさせるという結果になった。こういう人並みはずれた人物や出来事を前にしてすべての策が尽きてどういう反応をしていいか分からなくなったときには、カトリック教会には奥の手とも言うべき判断の基準がある。つまり、なる実によって木を判断しろという金科玉条である。(木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。[マタイ一二―三三])
イヴォンヌの活躍はその基準を悠々とクリアーするにたるものだった。治療という古典的奇跡もあった。修道院の内部でも病気の修道女のために祈ったし、クリニックの病人のためにも祈った。しばしば祈った対象の病人と同じ症状がイヴォンヌの体に現れ、そんなときはまるでイヴォンヌが病を我が身に移しとったかのように劇的な回復が見られるのだった。政教分離のフランスのこの時期にマレトロワには、修道女志願者が殺到した。イヴォンヌに直接接する人々はその母性的な人柄に魅せられスーパーウーマンぶりに感嘆し、超常現象の異常さも有無をいわさぬ証拠を毎日みせつけられているのだから尊敬と信頼を高めるばかりだった。
しかし修道院外部の男たちによる疑いが完全に消え去ったわけではない。イヴォンヌの名声と実績がカトリック教会中に知れわたるようになり、前例のない女子修道会連合の責任者という地位についた事は、一部の男たちの権力志向を刺激したにちがいない。イヴォンヌは母性的なオーラと絶対的優位をもって女たちの嫉妬心を封じ込めた。女たちは熱烈にイヴォンヌを愛したといっていい。男たちの中でイヴォンヌに母性を見た人々もそうだった。しかし少数の男はイヴォンヌの「栄達」を怪しんだ。男が権力にからんで女を嫉妬するときは陰湿ですさまじい。カトリックでは神降ろしのミサ、告解と赦しという司祭の機能はすべて男の独占になっているから、修道女はその意味で一般人と変わらず少数の神父の絶対支配下にある。女子修道院という独身と服従の誓願をした修道女の集団にかかわる神父がある種の支配欲を満足させることがあってもおかしくない。そんな男たちにとってイエスの寵愛を楯にして女たちの絶対崇拝の対象になってしまったイヴォンヌは嫉妬のたねとなった。(イヴォンヌもイエスとの特権的な愛を公言することが男社会のヒエラルキーの侵犯になることを悟ったのか、晩年はマリア崇拝を前面に押し出して言わば女の帝国をイメージすることに成功した。意識的ではなかったかもしれないが彼女の組織力と演出力には天才的なものがある。)
そんなころ『十字架のマドレーヌ、悪魔の修道院長』という研究書が出版された。十五世紀末に生まれたクラリス会修道院長マドレーヌは、素晴らしい出世と成功を収めたが、それはサタンと契約していたからだということがわかって一五四六年に宗教裁判にかけられたというものである。この本はイヴォンヌの潜在的な敵にインスピレーションを与えた。イヴォンヌの若いころに熱心な弁護をしてくれたクレテ神父までが「あなたは今でも昔のように謙虚だといいきれますか。あなたがイエスだと信じていたものがすべてサタンにだまされていたのではないと確信できますか」と書いてきてイヴォンヌを苦しめた。彼女を宗教法廷に密告するものも出てきて、イヴォンヌは召喚された。イヴォンヌは二十年前と同じように服従してじっと耐えた。しかしどんな聞きこみ調査もイヴォンヌの完全なへりくだりと謙譲の美徳の証言を引き出すだけだった。イヴォンヌは修道院長でありながら修道院のどんなつまらない労働もすすんでしたし、完璧に自己という物を消し去って神の栄光のみを伝え続けていた。イエスのお告げを独占したとしてもその仲介としての自分をひたすら透明化したし、自分のそういう記号的立場を修道女に徹底して納得させていた。その結果自分というものを消し去ったイヴォンヌからたちのぼるオーラはひたすら精神性の高い純粋な平穏と優しさの結晶みたいなものになっていた。謙虚というテーマで質問される限り修道女たちの答えはひとつだった。イヴォンヌは謙虚が修道服を着て歩いているに近い存在だというのだ。イヴォンヌは、あれほど願っていた聖性の本質を体現した。「謙譲と勇気」という二つのキーワードである。
戦う修道女[#「戦う修道女」はゴシック体]
イヴォンヌの勇気は大戦中のドイツ軍による占領時代にもっとも発揮された。レジスタンスの将軍を偽名でクリニックの病室にかくまったり、アメリカ人パラシュート兵をかくまったりした。修道院とクリニック全体が占領されていてドイツ軍が駐留していたのだからこれは相当な危険を伴った。イヴォンヌたちはドイツ軍の傷病兵もわけ隔てなく世話したが、フランスの民間患者を退去させることは断固として拒否した。占領軍将校はイヴォンヌの人望を理解し、要求を受け入れた。レジスタンスの闘士を、追ってきたゲシュタポから隠すために修道女の服を着せてチャペルにかくまったこともあった。マレトロワは抗独戦線のアジトとして知られるようになった。修道院長イヴォンヌ=エメの決断力や機敏さ、敵に対する毅然とした態度、慈愛に満ちたほほ笑みと心のこもった祈りは多くの闘士に強い印象を与えた。実際イヴォンヌの加護で窮地を免れたと感じた人は多かった。彼らは絶体絶命の状況でイヴォンヌに祈り、イヴォンヌはそのたびに救いにかけつけた。ラビュット神父が捕虜になってつらい行軍を強いられていたときは、赤十字のマークのついた青いヴェールをつけたイヴォンヌが、自転車に乗って合流しまっすぐラビュット神父のところへやってきて食料を渡した。もちろんその間にイヴォンヌは、マレトロワでの任務を果たし、修道会のパリ事務局(これもイヴォンヌが創設したものだ)を起点にパリの抗独戦線と連絡をとるなどの活動を同時に行なっていた。この頃のイヴォンヌの遍在ぶりはあちこちで目撃者の証言を残している。寝食を忘れたまさに超人的な活躍ぶりだった。それについて驚きをもらした人々には遍在を否定しなかったが口外しないようにというのを忘れなかった。修道院長になってからのイヴォンヌは、他人に四六時中監視されることはなかったうえに修道院中の絶大な信頼を得ていたから自分の超能力を自在にオーガナイズしていたと思われる。彼女の残した偉大な足跡の何がどこまで超能力を利用してなされたものかを確かめるすべはない。確実なのは、彼女が一度としてその能力を自分のために使おうとしなかったことだ。彼女は自分でも自分のすることに驚いていたが、それをあえて分析せずに信仰の力でそのまま受け入れることを学んだ。彼女はイエスの指示にしたがって行動し、苦境にある人の祈りに答えてどこへでも現れた。家族愛の葛藤やさまざまな欲望や苦しみや絶望などというものはすでに知性の腕力で封じ込めていたが、さらにそれを信仰の力で空にした。愛と勇気だけが残っていたが、その在り方は、人が彼女を必要とすればするほど彼らに与えるためにのみどこからか与えられるという在り方だった。彼女は一つの無になって愛と勇気の伝達者として遍在する。丸々と太ったいかにも修道院のマザーらしいイヴォンヌがこの軽やかさ、この自在さをもって時空を超えてかけまわったのは痛快でもある。
教会の近代化と腐らぬ遺体[#「教会の近代化と腐らぬ遺体」はゴシック体]
大戦が終わりマレトロワとイヴォンヌ=エメの名は自由の勝利のシンボルとなった。一九四五年六月に戦時大臣から軍功章が送られ、七月にはド・ゴール将軍がヴァンヌにやってきて、「フランスの名においてあなたに感謝します」という言葉とともにレジオン・ドヌール勲章を授けた。翌年にはレジスタンスの勲章、フランス感謝章、アメリカからアイゼンハワーの感謝状つき自由功労章、一九四九年には、マレトロワのクリニック全体に改めて軍功章、イヴォンヌにはイギリス領事から国王よりの勲章が手渡された。いわば時の人となり、栄光に包まれたわけで、戦前からの悲願であったアウグスチヌス会施寮修道会連合をヴァチカンに認めさせて、第一代の総会長に就任した。英仏南アの三十二の修道院、一五〇〇人の修道女の総帥になったのである。
イヴォンヌの晩年はその国際的立場上、旅行につぐ旅行となった。皮肉なことに一九四八年以降は幽体離脱や分身の記録がぷっつりと途絶えている。戦時中の大活躍を可能にしていた奇跡的な抵抗力にも見離された。一九四九年には繊維腫のため子宮摘出、乳癌で左乳切除、血管の炎症で左腕は二倍に膨れあがった。勲章に飾られた堂々とした外見と晴れ晴れとしたエネルギッシュな雰囲気をよそにイヴォンヌは苦しみ抜いた。修道会連合総会長の地位は重労働を強いた。疲労と高血圧のため目が見えなくなることもあった。さいわいイエスとの親密な関係は絶えることがなかったらしく、イヴォンヌはこのころでも宗教的エクスタシーに入っているところを何人かの修道女に目撃されている。そんなときのイヴォンヌの心臓は不思議な発光現象を見せていたという。修道女の一人は、イヴォンヌが彼女をじっと見つめながら愛を語ったときはまるで火に焼かれている人のようだったと証言している。
一九五一年二月三日の夕方、五日後の南アフリカ出発にそなえて残った仕事を執務室で片付けていたイヴォンヌは、突然頭を手で抱えて机につっぷした。頭の痛みを訴えながら南ア行きのことを気にかけて、「もし行けたら行きます。それが私の仕事ですから」と言い残した。恐らく脳溢血で、わずか三十分の苦しみの後に亡くなった。その死になんら超常的なものはなかった。エクスタシーもなく、奇跡もなく、痛みのうちに死んだ。あまつさえ、冬だというのに翌日からすでに遺体が膨張してきた。死臭が漂いはじめ、納棺を急がねばならなかった。脳溢血で亡くなった人に特有なあらゆる兆候が出てきた。彼女の死姿を拝みにくる人、なんらかの奇跡を期待していた人はたくさんいた。医師は左鎖骨下の血管にフォルマリンを注入したがすでに手おくれで、崩れはじめた顔を覆わずにはいられなかった。二月八日に葬儀が行なわれ、彼女のために大急ぎで掘ってコンクリートで固めた地下墓所に葬られた。マレトロワの修道女共同墓地は湿地帯のため遺体がすぐ土に帰っていくことで知られていた。イヴォンヌは一九四七年にディエップの修道院を訪問したとき、そこの修道院長に「私が死ぬときは体は屈辱的な状態でしょう」と言っていたらしい。リジューの聖テレーズは、謙譲のために死後に体を腐らせてくださいと神に祈っていたといわれその願いは聞き届けられている。イヴォンヌは、一九二五年のテレーズの列聖式にわざわざ母親とローマまで行っているぐらいだからそれが頭にあったのかもしれない。けれども聖女リュドビナの死後に全ての傷が消え去って光りにつつまれたり、イヴォンヌの同時代人ではパードレピオの手足を貫いていた聖痕が一九六八年の死後すぐに跡形もなく消えてしまったことなどと考えあわせると、生前すでに全身浮腫の醜さを意識していたイヴォンヌが死後も膨張を強いられたというのはやはり痛ましいというしかない。
イヴォンヌの死に様にひそかに失望した人はあったかもしれない。ともあれ墓所に錠がおろされたその瞬間からイヴォンヌの列福列聖へむかっての運動がまるで火がついたように起こった。当時のカトリック教会は、共産主義の台頭に脅かされつつ、自身も第二次大戦中の戦争責任の一端について批判されていた。そんなおりに対ナチの英雄として社会的に認められた修道女の聖性をクローズアップすることはむしろ歓迎すべき材料であっただろう。ところが調査の蓋を開けてみると、今までイヴォンヌの勇気と謙譲の美徳という人間性を讃えていたはずの人々が、タブーから解放されたかのように先を争ってイヴォンヌの超人性を証言しはじめた。イヴォンヌの超常現象は多岐にわたっているうえに、分身だの、幽体離脱だの、瞬間移動などという科学に挑戦するような類いのものが多すぎた。同時代のイタリア人カプチン会士パードレピオも聖痕のほかに分身や空中浮揚を見せ、連合軍の爆撃機が修道院のある町の上空にやって来るたびに、パイロットの前に姿を現して阻止するという芸当を見せた。そのために目撃者も多岐にわたって、とても事実関係を疑えるような状況ではなかったが、彼は大戦の敗戦国の人間だったし、神父という正式な聖職者だったし、何よりも一九六八年まで長生きしてくれたので冷却期間があり、教会側にも準備期間ができた。ところがイヴォンヌは早く死にすぎた。一九五〇年代半ばから六〇年にかけてのカトリック教会の第一の問題は教会の合理化と近代化だった。この近代化路線はその後では反動も出てくるとはいえ、当時においては過激といえるほどの新しさをもっていた。そんな流れの時に、中世の聖者伝をほうふつとさせるようなイヴォンヌ=エメの冒険譚はむしろ迷惑なものである。伝説や迷信を思わせる超常現象に熱狂するなど、改革前夜のカトリック教会が一番見せたくないイメージである。
一九六〇年六月一日、法王庁は、イヴォンヌ=エメに関するすべての調査を差し止めた。そして二十五年間にわたってこの修道女について公に語ることを禁じたのである。カトリック教会が近代化のためにその歴史の中でももっともおおがかりな第二ヴァチカン公会議を開催する二年前のことであった。
イヴォンヌの棺は列福調査の手続きのひとつとして一九五七年にあけられた。急造の墓所はコンクリートが割れて浸水しており、棺を締めていたネジ釘は錆びついていた。墓所から検査のための部屋までの三百メートルを、棺からしたたる黒っぽい汁が点々とあとをつけた。遺体はこの黒い液体に浸っていて、修道服は腐ってぼろぼろになっていた。体は滲みだした皮脂がロウ状になったものに覆われていたがよく保存されたミイラのように完全な形を保っていた。これは、納棺されたときに既に腐敗が進んでいたことから考えると信じられないことだった。すっかり灰色だった髪も、幾筋かの白髪を数えるだけになっていた。四人の医師は死後変化が逆行したこと、説明不可能な残存状態であることを報告した。イヴォンヌの目と口は開いていた。これがイエスの恩寵だとしたら、生前あれほど彼女に試練を課して人生を揺さぶった男からのものとしてはまことにささやかにすぎる。
イエスは彼女を天高く連れ去るべきだった。カトリック界の聖女は聖別されて初めて真に天空を翔る資格を得る。イヴォンヌは法王庁の書類の中で二十五年間ねむらされた。生前のイヴォンヌは囲いこみ修道院に所属しながら世界を自由にかけまわるという離れ業をなしとげた。そしてまさにその時空を超えた自在さこそが彼女の死後の羽ばたきを妨げたのである。
御出現、聖痕、拒食などという比較的ひそやかな超常体験のみをする聖女にはまだ死後の希望がある。けれども時空を超える超常体験にはいつもタブーの枷がかかっている。それがわれわれの奥深いファンタジーと離れがたくつながっているからだろうか。しかしだからこそ超常現象を前にした時の人々や社会のかけひきのようすは検証に値するし、すぐれた今日的意味をもち得るのではなかろうか。
超常現象への旅は、いつも危険で魅力的な旅である。
2 聖者と超常現象
三次元からの自由[#「三次元からの自由」はゴシック体]
分身、幽体離脱、時空を超えて駆け回るというのは、神秘家がときとしてみせる超常現象のうちでも、もっともドラマチックで目を奪い、それゆえ、スキャンダラスで信じがたく、少しでも合理主義を標榜する者なら声をひそめて語らずにはいられないようなカテゴリーに入るだろう。
もちろん神秘家の超常体験の中には、ヴィジョンや、お告げのように、メッセージの有効性を検討する以外には、そのものの真偽のほどは確かめがたいものもある。
しかし、ひとつ確かなことは、エリアーデが、エルネスト・デ・マルティノのシャーマンの超能力の研究に応じて言っているように、プリミティヴなものから高度に洗練されたものにいたるまで、宗教と名のつくものには、一貫して超常現象の記述が存在しているということだ。そしてそれは予言や透視といった能力だけに限らず、幽体離脱や分身、瞬間移動や空中浮揚といったもっとも華々しいものにいたるまでそうである。教祖や聖者の奇跡譚という形を取っていることもあるが、宗教の中でも、苦行―神秘主義という体系においては心身構造の改変によって人間の条件を変えるというテクニックとイデオロギーがしばしば組み込まれている。
キリスト教ではヨガのような体系は発展しなかったが、初期キリスト教での砂漠の隠者といわれるような人々の中には、何年も動かなかったり、片足で立ったり、柱頭で生活するなど、ノーマルな生き方を少しずつ打破して、体を天使と人間の中間のアパテイアという状態に行きつかせるという伝統も確かにあった。隠者の生活には、自分の属する時代や社会から離れて、アダムの時間、キリストの時間、初期殉教者の時間とパラレルに生きようとする理念がある。マケールはギリシャ人の頭蓋骨をもって会話していたし、異教徒の墓で眠り、話していたという隠者もいる。そんな生活の中での「奇跡」は、当然、過去の時間をシンボライズするものが基本になっていた。獣を従える隠者の姿は原罪以前のアダムのエデンの園での生活にオーバーラップするし、水上を歩く隠者はイエスの奇跡を繰り返すものだ。その意味では、宗教的コンテキストにおける奇跡は、いつも一種の機能的現象である。そこでは超常現象は、歴史的、相対的に機能する。奇跡の背景にある「真実」や、信仰の強さの証明という必要に応えるものとして現れる。重力から自由になる、空間を自由に移動するという能力は、天使の条件に欠かせない。聖アモンは、ナイルをわたっているとき、自分の裸を見るのを恥じて、突然河の向こう側へ移動したし、エジプト人マリアは、東方の空に目を向けて祈りながら五十センチ浮き上がっているのを僧ゾジムに目撃された。聖シェヌーチは、晩年、異教の寺院を破壊したかどでアンチノエで裁判にかけられたおり、自己弁護がよく聞こえるようにと法廷の上方へと浮き上がった。驚いて叫んだ民衆は、そのあとゆっくりと降りてきた彼をつかまえて教会へ連れて行ったという。
しかしその後のキリスト教の歴史においてはこの手の超常現象はあくまでもアクシデント的な出来事にとどまった。神秘主義の系譜においてもそうで、十字架の聖ヨハネと二人で祈りながらいっしょに宙に浮いていたという有名なエピソードのあるアヴィラの聖テレサは、イエスとの神秘の結婚にいたる魂のステップの中で、静寂な祈祷である第五段階から、最終段階へたどり着く前に、究極の準備として、内にも外にも、エクスタシーやさまざまな超常現象を体験する第六段階を通過すると書いている。しかしそれは、最終段階において達成されるキリストの中での神との安定した合一においては超越されてしまう現象にすぎない。魂は、神と合一した状態で、新たな「普通」の自由を獲得して、他者への奉仕に向かうのだとされている。空中浮揚というドラマチックなできごとは、超能力の獲得という形ではなく、通過すべき嵐のようなものとしてとらえられているのだ。テレサは祈りのたびに法悦状態に入り、床から六十センチメートルばかり浮き上がっていたのを何度も目撃されているし、自覚もしていて、自伝の中でこの現象のことを大きな悩みのたねだったと書いている。これが人々のうわさに上るのがいやで、目撃した修道女たちにかたく口を閉ざしているように頼んだ。最初のころ彼女は自分の体が浮いてくるのに非常な恐怖をおぼえて抵抗しようとしたと言っている。しかしその度に大きな力に持ち上げられた。浮き上がった後でも感覚は消えてしまうわけではなく、自分が宙に浮いているのをはっきりと意識していた。イエペスの司教は、ある夕方テレサが、絶望のうめき声を上げながら、体が持ち上がるのをとめようと鉄柵にしがみついているところにでくわした。努力もむなしく、テレサは手を放し、司教の目の前で、天井のほうへとゆっくり浮き上がっていった。べつのある時は、必死で床に敷いてある茣蓙にかじりついたために、茣蓙と一緒に舞い上がったという。テレサにとって空中浮揚は恥と当惑のたねでしかなく、神秘体験の次の段階である神との合一に至る途中で通過する必要悪のようなものだったのだ。実際のところ、キリスト教の歴史の中で、傑出した聖者といわれる人々の伝記には、多かれ少なかれこのタイプの超常現象の記述が存在する。それは時として、反生理学的だったり病的であったり、どうしようもなくバロック的であったりする。それゆえ、この種の超常現象は、ひとたび人目にふれれば社会のシステムの破綻を招くインターフェイス現象となりうる。その意味で、聖者たちの三次元からの自由は、型通りの世界からはみ出る魔女やトリックスターや、詩人や精神病者たちの自由と同じように、社会からの封じ込みを要するものなのだ。
教会・奇跡・科学[#「教会・奇跡・科学」はゴシック体]
とはいえ、聖者たちの、自らの肉体をバロック的なタブローと化するパフォーマンスは、教会のオーソリティが一方的におさえこむのが難しいほど、魅惑的で挑発的なリアリティをたたえていた。超常現象のメッセージは、公式神学の神よりももっと底知れぬ神のディスクールとして受け取られてきた。トレント公会議(一九四五〜六三)では神の徴しの現存が宣言された。偶像崇拝の非難を浴びることなく、聖像や聖画をとおした「徴し」のシンボル化の欲求はカトリシズムでは正当なものとみなされるようになったのだ。超常現象は、教会秩序にとっても、それを表す聖者たちにとっても、ひとつまちがえば自らを葬りかねない両刃の剣であるが、ひとたびレトリックとして成功すれば、強いインパクトをもった宣教手段となる。
近代の科学主義はもちろん奇跡譚にマイナスにはたらいた。スピノザは当時の神学者に、「もし神が自然の法則に反する奇跡を起こすならそれは神が自分自身を破壊することになる」と言った。二十世紀のフランス作家フランソワ・モーリアックの兄であるモーリアック博士が、「私は奇跡ゆえにではなくて、奇跡にかかわらず信ずるのだ」と言ったのは有名だ。聖者の奇跡も、超常ではなくて、信仰の熱烈さのあまりの錯覚として解釈しなおされる傾向になった。
しかし信仰上動かせないのは聖書の中のイエスの奇跡である。福音書の中には二十件ばかりの奇跡的治療、三人の死者の甦り、七件の驚異が伝えられている。驚異の中には、水をブドウ酒に変えたり、嵐をしずめたり、水上歩行が含まれているのだ。最悪の決定論である「死」を克服するという、死者の甦りの奇跡は、神が勝利する未来を示唆する意味では最も重要だし、治療行為は民衆宗教の基本的な活動目録の中に入るといっていい。しかしそれに加えてイエスにおいても、瞬間移動や空中浮揚に通ずる、反物理的な超能力があったという点で、水上歩行の記述は注目に値する。
この出来事は、イエスが五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させたという奇跡の後でおこった。イエスは群衆を解散させている間に使徒たちを舟に乗せ、しいて先に発たせた。「しいて」とあるのは、小舟が一艘しかなかったので使徒たちがイエスを待とうとしたからだろう。とにかくイエスは舟を送り、群衆と別れてから、ひそかに山へ登って祈った。夜明けの四時ごろ、舟はもう数丁(マタイ伝による。マルコ伝では海の真ん中、ヨハネ伝では四、五十丁)も陸から離れてはいたが、逆風のために進みかねていた。これを見たイエスは「海の上を歩いて」彼らに近づいていった。暗い荒れ海を歩いてくる主を見た使徒たちの反応は、「幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげる」というものだった。これは後に、受難の後復活したイエスが姿を現したときの反応と同じだ。イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言った。この時のペテロの答えは、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上をわたってみもとに行かせてください」である。これもやはり、復活のイエスを、自分の目で見てその傷に手を差し入れて見なければ信じないと言ったトマスに似て、実際的で懐疑的だ。イエスはおいでなさいと言い、ペテロは舟からおりて水の上を歩いて主のところまでいく。しかし、風の強さ、波の高さに恐ろしくなり、おそらく自分のしていることが恐ろしくなったのだろう、おぼれかけて主の救いを求めた。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った。これも、現実的な疑いが超能力の発現を妨げるという伝統的な一般的考えに合致している。ともかく、水上を歩くというのは、重力をゼロにするという点で空中浮揚や速歩術に通じ、しかもイエスがこの種の能力をコントロールしていたらしいことがうかがわれる。このほか、復活のイエスは、しばらく使徒たちと過ごした後で、結局「天にあげられて」いった。聖者が宙に舞い上がっていくイメージはこの点でもイエスとつながっているわけだ。
しかし近代の神学は福音書の中のこれらの記述を前にして焦った。主流となった見方は、聖書を、奇跡の証明を求めるルポルタージュ、客観的なドキュメンタリーとして読むのは誤りであるということであった。個々の記述の歴史的真偽をさぐるのは無意味とされた。第一次ヴァチカン公会議(一八六九年)では、当時の信仰絶対論と合理主義との両方の行き過ぎに対して、「どの奇跡が実際に起きたかどうかを検討する必要はなくて、単にイエスは奇跡をなした、と要請するだけでよい」という見解を明らかにした。つまり、イエスは「彼の同時代人にとって超常的と見られた行為をなした」し、「それはある人々にとっては神の国の到来の証しとして解釈された」という総論が承認されたのである。
しかし二十世紀が進むにしたがって、科学主義は揺さぶられ、人々はふたたび奇跡に目を向けはじめた。価値の変革期には一種の自由が生まれ、機能的現象としての奇跡に場所が与えられる。聖アウグスティヌスの奇跡観が新たな意味をもって現れてきた。つまり、神は自然の法則を作って、人は人を生み、植物は植物を生むようにはしたが、天使と人間には、隠れた力、秘密の力を与えた。それは、神のアクションを自らに通過させるときにのみ現れる。それ以外のときは、圧力をかけられていて決定論に閉じ込められているのだ。神がイニシアテイヴを取り、働きかけて、人がそれを受け入れるとき、ひとつの解放として奇跡が現れる。これは、奇跡を超常的な出会いの場として新しく位置づけた。今は、奇跡は神の存在を証明する証拠ではなくて、信仰を助ける神の徴しとして機能しなければならない。現代の科学そのものも、半世紀前の量子論革命以来、物理学と神秘的超越的宗教との間に対応現象のあるのを認めてきた。もはや「霊」は、否定されていないと言っていい。結局のところいくら科学が発展しても人間の体や意志の能力を我々は完全には知らないことが認められた。たとえ検証が困難であろうとも、イエスの水上歩行が不可能などといいきれない。神は天地創造を終えて配達して去ったのではなく、干渉し続けているのであり、特殊な理由によって時々奇跡というドラマチックな形でその存在を現すのだ、というのが今のカトリック神学の平均的な見方だといえるだろう。
事実から奇跡へ[#「事実から奇跡へ」はゴシック体]
では、現在のカトリック教会は、実際に宗教的コンテキストで起こった個々の超常現象にどう対応しているのだろうか。
まず超常的と思われる事実が孤立して起こった場合は、何よりもその検証が行なわれる。つまりそれが「実際に起こったのか」という事実関係だ。それが事実だと認められると、その説明が科学者や専門家に託される。そして、今の科学のテクニックでは説明できない、あるいは、デカルト=ニュートン的体系では説明不可能だという結論を得る。ここにいたって、カトリシズム独特のシフト=位相変換が行われる。説明不可能な事実が、奇跡という信仰のカテゴリーに組み込まれるのだ。そこでは信仰は、想像や思い込みではない、判断の一形式なのである。このシェーマは、たとえばルールドの奇跡の泉での奇跡的治癒の承認の手続きで見事に機能している。ルールドにやって来る夥しい数の巡礼者の中には、多くの瞬間治癒が報告されているが、カトリック教会が実際に奇跡として公認したのは、一八五四年以来六十五件にすぎない。多少なりとも自己暗示で治った心身症として説明できるものは、最初から問題にされない。一番最近公認された奇跡治癒者はシシリア人のデリジアという少女で、末期となった膝の悪性腫瘍をかかえてルールドに巡礼に行ったが、治癒のないまま帰ってからもやせ細り、二十二キロにまでなってマリアの形のビンから母親が直接口に注ぐ聖水しかうけつけなくなった。しかし母親の必死の祈りが通じたのか、突然この少女は起き上がって、治癒を告げたのだ。カタランの医者とルールドの医者が綿密な検査を繰り返した結果、少女の治癒は、自然で、再発がなく、現在の医学では説明不可能であるという三条件を満たした。たとえ心理的なインパクトによってある種のホルモンが分泌されて免疫抗体システムが機能しはじめるのだという仮説が可能だとしても、今のところそれを確認するテクニックは何もないというのが結論である。一九七七年の治癒から、一九八九年の奇跡の公認まで実に十二年間が経過している。しかしこの慎重さの後でいったん科学から信仰へのシフトがなされたときには、少女は信仰深い若い女になり、ルールドで他の病人の世話をする看護婦になっていた。治癒は、ポジティヴな啓示の場となり、デリジアは神の愛の生きたプロパガンダである。治癒は神の徴しであるという解釈をする可能性がひらけるときにはじめて「奇跡」として機能するのだ。「科学」が判断停止をしたその場所から「神」が歩きだす。希望という甘美なレトリックが実現するのだ。
では、超常的だと思われる現象が、科学的な検証を受けつけないような場合はどうだろう。たとえば、マリアが現れたとか、イエスの御出現があってお告げが聞こえたとかいう場合である。ヴィジョンや御出現といわれているもののほとんどは、そのメッセージに遭遇した本人にしか確認できない。「奇跡」の「場」になった人の証言だけが問題となる。ルールドの治癒の奇跡公認のような場面では、当人の申し立てだけのケースは最初から問題にすらされない。しかし、ルールドの泉そのものは、羊飼いの少女ベルナデットの前に現れた聖母が、奇跡の証拠を求める人々の要望に応えて湧かせたものだとされているのだ。このような場合、超常的事実が実際にあったかという検証は困難なので、結局、検証されるのは、超常現象の目撃者の信仰の質ということになる。感覚的分析的な知り方で取り組むに値するデータが最初からないので、超常現象の目撃者または参加者のその後の行動や、その現象のもたらした宣教的価値によって「奇跡」を公認するかどうかの判断がなされるのだ。これは使い方によっては、カトリシズムにとってフルに活用できる次元の奇跡とも言える。目撃者は、一度死んでしまえば、宇宙に遍在する霊となっていつでもとりだせるレトリックと化す。聖人認定の条件はそもそも、死後に、彼に祈った別の信者の検証可能な奇跡的治癒の原因になったかどうかである。聖者は死後にカトリック教会によって翼を与えられ、天使の位置に取って代わるのだ。このようなケースでは、超常現象の事実関係は結局のところ不問に付されたまま聖者をコード化するための洗練されたテクニックが要求される。聖者とそのシンボルは、さまざまなイコンへとシフトされる。様式化され、演出されて提出された聖者とその奇跡はもはや事実のもつインパクトはなくなるとはいえ、真偽を超越して機能する。近代カトリシズムが見つけた聖者コード化のテクニックの一つは、写真術だ。写真術が世界に先駆けて発達したフランスは十九世紀後半にふたりの国民的聖女をこうして創り上げた。ルールドの聖ベルナデットとリジューの聖テレーズだ。女性でありしかも若くして死んだ二人はフォトジェニックなイコンの理想だった。ベルナデットは、聖母を見たときの服装を再現した写真と修道女姿の写真を両方演出されているし、テレーズは修道女姿のほかに修道院内でジャンヌ・ダルクの扮装をしている写真も残している。(彼女は死後にジャンヌ・ダルクと同じくフランスの守護聖女に列せられた。)当時のフランスにおいて、それだけで魂を映すような神秘的な強烈なインパクトをもたらしたであろうポートレート写真なしにはこの二人の聖女は誕生しなかったかもしれない。
ところが、このような、奇跡の物理的検証をぬきにしても宣教システムに取りこみ可能な都合のいい聖者ばかりがいるとは限らない。まれにではあるが、万人に目撃されうるタイプの恒常的な超能力を発揮する聖者もカトリックの歴史の中には常に存在した。この種の人々は、神の奇跡の証人というよりは、自らの肉体を超常現象の舞台にするのである。個々の現象は、体系的にでも意図的にでもなくて、アクシデント的に発生するのだが、不可思議な事実の件数が多すぎる上に、長い年月にわたって繰り返されることもあり、すべての事実関係を実証的に確認することは不可能に近い。
何十年にもわたる断食や、毎週流す聖痕の血や、ミサの最中の空中浮揚、イヴォンヌ=エメのように、同じ修道院の中で同時に二ヶ所にいたりという、これらの超常現象は、多くの人の「普通の知覚」にさらされてきた。一概に「事実はなかった、錯覚、幻覚だった」とはとてもかたずけられない過剰さを備えている。一人の人物がしめす数多い不思議な現象のうちの、いくつかについては教会の定めたシェーマを満足させる検証(知覚されたものの実在の事実性を認める)と、その科学的説明が現段階では不可能という結論が出せるとしても、すべてについてはデータがそろっていない。実際、一人の聖女の超常的パフォーマンスの中に、真性の奇跡と、病理的現象や思い込みが混在していないという保証はどこにもない。神学上も、神の啓示を受けやすい状態にある人間は、同時に悪魔の介入を受けやすいという危険な状態にあると思われている。そのうえ、このタイプの超常現象の多くは、畏敬の念を起こさせるというより、あまりにも奇異すぎて、往々にして宣教的価値はむしろマイナスだと判断される。かといって野放しにするのは危険である。教会の公式のシェーマからはみ出したカリスマは所詮ひとつの挑発でしかない。教会がイヴォンヌ=エメの夥しい超常能力を前にして、「科学的」検証や判断を放棄して、それゆえ、次のステップである信仰への揚棄もなせぬまま、関係者の沈黙を要求したのは、当然の政策的解決であったといえる。もっとも、たとえば聖者認定審査の際に対象にされる奇跡の中には空中浮揚などは最初から入っていない。聖者がカトリックの宇宙の中で有効に機能すると判断されたときには、彼らはその奇異な超能力「にもかかわらず」聖別され得る可能性を残されている。前述のアヴィラの聖テレサもそうだったし、幽体離脱、分身ではランジャックの聖アニエスなどがいる。アニエスは、ランジャックの修道院にいながら、パリにいるオリエ神父を訪れて、オリエ神父は、わざわざ修道院まで確認に来ている。彼女の聖者認定審査のおりには、この種の報告が八〇件にのぼって審査され、審問官を悩ましたが、結局事実関係を否定するに足る反証は何も見つけられず、事実はあったと結論されるにいたった。今世紀に入っても、パードレ・ピオの名で知られるフランチェスコ・フォルジオーネなどは、ジャーナリストをはじめとして何百人もの目撃者の証言を残して、分身だけではなく空中浮揚も見せた。
空飛ぶ修道士、聖ジュゼッペ[#「空飛ぶ修道士、聖ジュゼッペ」はゴシック体]
しかし華々しく空を駆け回るという超能力を示した聖者の中でチャンピオン的存在は何といってもイタリアの聖ジュゼッペだ。(彼は飛行士の守護聖人になっている。)ブーツの形のイタリア半島のかかとにあたるコペルチーノに一六〇三年に生まれたフランシスコ会の司祭ジュゼッペは、司祭になって間もなくのクリスマスイヴの日、依頼されて教会にやってきた羊飼いたちのかなでるミュゼットの音楽に満足して、足を踏み鳴らして踊りはじめたかと思うと、突然息をつき、鋭い叫び声と共に教会の内陣を文字どおり飛び抜けて二十五メートル先の祭壇に口づけをした。そのまま十五分間じっと聖櫃をかき抱いていたジュゼッペは、やがて涙にぬれながら降りてきた。それからは、極度に感受性が強くなり、聖画を見て感動しては飛び上がり、聖歌を聴いては、昂揚して飛んだ。新鮮な草花に心を動かされては舞い上がり、天気がいいからといっては飛んだ。時には、そばにいた小羊を持ち上げて肩にのせ、二時間も木々の上を鳥のように飛び回ったこともあった。それが始まるときはいつも異様な叫びを発することもあって、ジュゼッペは、悪魔憑き、魔法使いだと疑われ、教会の行列セレモニーから外され、やがて内陣への出入りも禁止された。朴訥で人のよい、夢見がちで感じやすいこの僧を本気で邪悪な存在だと思うものはいなかったにしろ、この度肝を抜くスペクタクルをいつやられるか分からないというのでは、修道院の秩序と権威を保つのは不可能である。あるとき僧たちの食堂で席についていたジュゼッペは、皿にあったウニの幾何学的な形の美しさに感心して見入っていたが、奇声をあげて、ウニを手にしたまま突然食堂の天井へ舞い上がった。それは沈黙の規則にあるはずの僧たちの高笑を誘った。このとき以来彼は、食堂からも追放された。何度も審問や注意監察の対象になり、修道会での共同生活から追われて、一六三九年にはアッシジへ送られた。一般の人々の目に触れない孤絶した修道院で暮らすことを条件付けられ、その後一六六三年に死ぬまで最後の六年間はオジモの修道院ですごしている。しかし彼は、その奇矯な超能力以外にこれという功績も残していないにもかかわらず、死後、立派に聖者に列せられている。没後二年ですでに福者認定の調査が始まったのだ。ジュゼッペのケースは、カトリック教会が派手な超能力者にどう対処するかという一つの例になるのでもう少し詳しく見ていこう。
貧しい家庭に生まれたジュゼッペ・デサは、幼少のころからじっと動かずに祈りにふけっているようなことがあったようだ。八歳で最初の宗教的エクスタシーを経験したとも言われている。神経病や膿瘍や、いろんな患いをくりかえし、菜食に徹し、断食や苦行のまね事をしょっちゅうしていたらしい。周りの人からは、敬虔だというよりも、いつもぼうっとして何の役にも立たない若者だと思われていた。実際、十七歳でカプチン会修道院の門をたたいたときは、手仕事のために手渡された道具をちゃんともっていられないほどで、修道院での共同作業に不適格ということで八ヶ月後に追い出された。その後コペルチーノの近くのグロテルラのフランシスコ会第三会で俗人のままラバの世話係として受け入れられた。黙々と働きつつ、釘つきの鞭で自らを打ったり、金属の破片がぶら下がった鎖を肌に巻き付けていたりの苦行を続けていた。そんなジュゼッペが「普通の人」でないことが、自然と僧たちの目にとまったのか、すでに何らかの超常的インパクトを与えていたのか、やがて彼は聖歌隊に加えられ正式の修練士として認められ、二十五歳で司祭となる。しかしその後すぐに彼の空飛ぶスペクタクルが報告され始めた。修道院の中ばかりか、村の道でもこの異常なひとりサーカスがくりひろげられ、空飛ぶ修道士を見に近郊からやってくる人々を相手にひともうけしようとして民宿をひらく村人もいたほどだった。
ジュゼッペは修道院生活からの締め出しをくい、スキャンダルは法王庁に通達された。ジュゼッペはナポリのサンロレンツォ修道院に召喚されて三度にわたって異端審問を受ける。ところが聖庁直属のチャペルの中で衆人環視のもとに、ジュゼッペは、腕を十字のようにのばして宙に舞い上がり、祭壇の花の上に、蝶がとまるようにとまったのだ。祭壇を取り囲む大蝋燭の火に焼かれることもなく、花を圧しつぶすことすらなしにそっと床に降り立った後で、今度は後ろ向きにチャペル後方へ飛んだかと思うと、ひざから着地し、聖母の名を呼びながらこまのようにくるくる回り始めた。何の弾みもつけずにときどきすっと浮き上がりながらである。ここまで奇矯なパフォーマンスを見せられた後では異端審問も色あせずにはいられない。審問官がどんなに調べて見ても、ジュゼッペは、自分に厳しい苦行を課す習慣があるという以外は、これというカリスマも徳も備えていると思えない素朴で虚弱な田舎僧でしかなかった。強烈なパーソナリティがあるわけでもなく、悪魔とも聖者とも思えない。結局彼はローマのフランシスコ会の責任者のところへ送られることになる。そして当時の法王ウルベイン八世のもとに連れていかれるのだ。この法王は貴族の出で、政治的にもやり手であり、実際感覚にすぐれた現実家であった。役たたずの田舎僧ジュゼッペは、畏敬の念にうたれつつおずおずと、作法どおり法王の足に接吻するためにひれふした。そこで感極まったジュゼッペは、突然忘我状態におちいり、例の鋭い叫び声をあげて床から浮かび上がった。付き添っていたフランシスコ会責任者は呆然と見上げる法王のそばであわててジュゼッペに、もういいから降りてくるように命じた。懐疑主義者だったはずの法王は、たった今目にしたことの調査や確認を命ずるかわりに、もしジュゼッペが自分より先に死ぬことがあったなら、福者認定の審査のときに自らこの奇跡の証言に立つつもりだと言い残した。(結局ジュゼッペは法王より十九年後に死んだのでこれは実現しなかった。)
ジュゼッペが、宙に浮くという奇行以外にはまったく廉直で控えめな人物であることは明らかだった。しかし教会のシステムの中では彼が生きている限り、この超能力をどうすることもできないのが実情だ。ジュゼッペは、フランシスコ会の総本山であるアッシジの本部へ託された。体のいいやっかい払いで蟄居に近い。サーカスの獣を檻に入れて管理するようなものともいえる。一六三九年四月のことである。ここでジュゼッペに試練が待っていた。本部の修道院長は、ジュゼッペの噂をきいて、彼がとんでもないいかさま師だという偏見をいだいていた。侮蔑を隠さずに彼をむかえ、無能な修練士のようにあつかった。修道院のような絶対服従の規律のあるヒエラルキーのはっきりした閉鎖空間で上司からの嫌がらせを受けては、逃げ道がない。謙譲の気持ちをもってじっと耐えていたジュゼッペもついには自分は修道僧として失格なのではないかと悩むほどだった。この虐待は約二年続き、不思議なことに空中浮揚の記録もない。思えば彼の場合、空中浮揚はいつも感激や感動や歓喜、文字どおりの高揚感とともに現れていた。召命に自信をなくすほどつらかったこの時期にそれが起こらなかったのも納得がいかぬことではない。アッシジからはローマのフランシスコ会総責任者へ、ジュゼッペについての敵意に満ちた否定的なレポートが送られていた。これを不審に思ったローマ側は、ジュゼッペをふたたび召喚した。哀れな僧はしばらくローマにとめおかれたが、人々は、彼のかわらぬ謙虚さを確認して安心してアッシジへさしもどした。華やかなローマの偉い僧たちの間で居心地の悪い思いをしたであろうジュゼッペは、敬愛する聖フランシスコの遺体の眠るアッシジのバジリカを再び目にした時、心から嬉しくなった。おりしも祝日のセレモニーのため町の名士をふくめた信者でいっぱいだった教会の中で、十八メートル先の祭壇上方にかかっていた聖母の絵を見つめたジュゼッペは、叫び声をあげて人々の頭上を飛び越え、聖画に接吻した。
超常能力=恩寵論[#「超常能力=恩寵論」はゴシック体]
この時からふたたび彼は飛びはじめる。聖者認定の審査中には七十件にのぼる証言つき事例が報告されているが、実際にはほとんど毎日ジュゼッペは重力を失ったらしい。ミサを挙げているときの彼は、いつも足の爪先がかろうじて床に触れているかどうかという状態であったといわれる。ある日ある司祭がサンタキアラの女子修道院で、新しい修練女を認める厳かなイヴェントを準備していたとき、後方でひざまづいて祈っていたジュゼッペは、聖歌を歌っていた修道女たちの見ている前で司祭の方に飛んで行ったかと思うと、儀式用の荘重な衣を着込んでいた司祭の手をとって、いっしょに舞い上がり、空中をくるくると回りはじめた。教会側がこの奇天烈なアクロバットを快く思わなかったということは十分想像できる。彼がそばにいた人を空中浮揚にまきこんだという事例にはいくつかの目撃談が残っている。それはいつも教会の権威をだいなしにするようなコミックなものばかりというわけではなかった。気が触れて発作を起こすといううわさのバルダサーレ・ロッシという貴族の男が彼の前に連れられてきたときは、「信仰をおもちなさい、バルダサーレさま」と声をかけて男の髪をつかんでいっしょに宙に浮かび上がってそのまま降りてこなかった。十五分後にようやく降ろされたバルダサーレは、憑き物が落ちたように全快していたという。ジュゼッペに治療能力があったとしたら、それは空中浮揚とむすびついたショック療法だった訳で、その効用が当時すでに認められていたことがこのエピソードからうかがえる。
とにかく、彼の空中浮揚は、周りの人々にとっては、その頻度においても派手さにおいても、原因(神か悪魔か)や真偽(事実かトリックか)を議論するというレベルを超えて、日々繰り返される衝撃と化してしまった。この超常現象を悪魔の仕業であると決めつける材料がないからには、人々の目にジュゼッペが次第に畏れ多い敬遠すべき存在になっていったのは当然のなりゆきだった。目撃者はみんな多くを語らなかったにしても、心の底では、ジュゼッペの死後に聖者認定審問で証言したくてたまらなかったであろう事は察せられる。自分の目でそれを見たことのない人はもちろん好奇心のかたまりとなった。このころのジュゼッペは教会の管理下で隔離状態にあったから、面会を求められるのは、教会の実力者か、政治や外交の有力者、貴族や王族に限られた。結果的には、これらの名士たちの証言が書簡や回想に残っているということがジュゼッペの超常現象の信憑性を増すことになった。その上これらの人々は見世物に対する好奇心を正当化するため、ジュゼッペのイメージに徳に満ちた神秘のヴェールを投げかけ、信仰のコンテキストを織り上げた。現に、ドイツのサックス公で、後に哲学者ライプニッツの保護者ともなったヨハン・フリードリッヒ・ブルンスヴィックのような明晰な精神の持ち主が、ジュゼッペの超常現象を目撃したことで、新教のルター派からカトリックに回心したような劇的な出来事があっては、教会側にとってもジュゼッペの超常能力を暗に恩寵とむすびつける以外になんの手立てもなくなった。
イタリア旅行中のブルンスヴィック公がもう一人の、やはりルター派である貴族ヨハン・ハインリッヒ・ブルーメとともにアッシジの修道院を訪れたのは一六五一年二月のことだった。彼らの訪問はもちろんジュゼッペに知らされていない。翌日曜日の朝に、二人は案内の同行ドイツ人と共にそっと、ジュゼッペがミサを挙げるチャペルをのぞいた。ミサが始まった。ジュゼッペは、高い叫び声を放ち、宙に浮いたかと思うとひざまづいた姿勢のまま数メートル後ろにとんだ。同じ姿勢で宙に浮きながら、祭壇のほうに顔を向けた法悦状態が続き、やがて、もう一度さけんで、飛びながら前に戻って、忘我から覚め、ミサの続きを始めた。我が目を疑った三人の目撃者が最初にしたことは、次の日にもう一度観察する許可をねがうことだった。次の日のミサでは、ジュゼッペは祭壇の上をすうっと二十センチメートルばかり浮き上がって十五分間ほどじっとしていた後で降りてきた。サックス公は、自分の見たことに対する衝撃をどう処理していいかわからず、カトリックに回心する道を選んだ。大のカトリック嫌いだったハインリッヒ・ブルーメはといえば、受けた衝撃が、怒りの念に変わった。彼は、この旅行が呪われたもので、これ以来自分の宗教的信念と折り合えなくなってしまった、と言っていたが、二年間の煩悶の後、結局カトリックに回心してしまった。このことは、少なくとも当時の目撃者が、ジュゼッペの空中浮揚は絶対否定出来ない事実だと確信していたことを物語る。
スペインがローマ法王に送った大使であったカスティリアの海軍大将フアン―アルフォンソ・エンリケ公は、ローマに赴任する途中アッシジでぜひ空飛ぶ僧に会いたがった。彼は修道院の質素な僧房での会見を実現したが、僧の厳しい超脱した人柄に感銘を受けて、同行していた妻に「聖フランシスを見るようだ」と告げた。
公爵夫人は自分もぜひ会いに行きたいと望んだが、ジュゼッペがふだんから女性との接触を避けていることを承知している監督僧に断られた。しかし彼女はどうしてもと言いはり、公爵の機嫌をそこねるのを恐れた監督僧は、ジュゼッペを呼び出して、修道院付きの教会の中で公爵一行と話をするようにと命令した。ジュゼッペは当惑して、「命令どおり教会堂へはまいりますが、お話しをできるかどうかはわかりません。」と答えて、僧房から教会堂へ降りて行った。階段から教会堂へ通じる小さな扉は、聖母像の立つ祭壇に面していた。扉を開けるとすぐにジュゼッペの視線は聖母像にそそがれ、短い叫びと共に四メートルばかり浮き上がった。そのまま、公爵や公爵夫人やお付きの者たちが悲鳴を上げる中を、彼らの頭上を飛んで、聖母像の足元までいった。宙づりの姿勢のままそれをしばらく拝んだあと、ふたたび高い声を発して来たとおりのルートを後ろ向きに飛び、もといたところに戻ると床にひれ伏して接吻し、ひとことも話さずに身をひるがえしてそそくさと僧房へ戻ってしまった。公爵夫人をはじめとする何人かの人々はあまりの驚きに気を失って、気付け薬を処方された。剛の人として知られていた公爵は気絶こそしなかったものの、目をむき腕を広げて硬直して動けなかったという。(彼はこの二年後に死んでいる。)
ジュゼッペの空中浮揚については、このほかに、オーストリアの女帝カタリーナの娘でサボォワの公妃マリーも回想録の中で語っているし、医師や外科医による記録も残っている。ジュゼッペの晩年、外科医ピエルポロは、主治医のカロジ医師の指図でジュゼッペの右脚に焼灼器をあてることになった。ジュゼッペはいすに腰掛けていて、脚を外科医のひざに乗せていたが、両腕を広げ、口を半開きにして目を空に向け、法悦状態に入った。呼吸はとまっているかのように思われ、鏝をあてられたまま、座ったままの姿勢で、いすから二十センチメートルばかり浮き上がった。外科医は僧の脚を引き下げようと引っ張ったが無理だった。大きく開かれた瞳孔の上に一匹の蠅がとまった。外科医が何度追い払っても不思議なことに蠅は同じ場所に戻って来た。二人の医師は非常な興味をもってジュゼッペの前にひざをついていろいろな検査を始めた。ジュゼッペが、宙に浮いてとまっていること、一種のまひ状態にあって無感覚であるらしいことがあらためて確認された。十五分ほどこの状態が続いたころ、シルベストル神父が部屋に入ってきた。神父は二人の医者と一緒にジュゼッペの様子を確認した後で、彼に、服従の誓いに従って目を覚ますようにいいわたし、僧の名を声高く呼んだ。ジュゼッペの顔に、かすかなほほ笑みが浮かんで、彼は我にかえった。
ジュゼッペの事例は、彼の時代にあっても、この手の超常現象が容易に信じ難いものであったこと、信仰心の前に好奇心の対象となってあれこれ調べられたこと、事実を否定するのが不可能な段階にまで達したとき、権力によって封じ込みと管理が行われたことを示している。そして、たとえ、教化的であるにはあまりにもコミックな様相を呈しているとはいえ、超常現象とプレイヤーのもつ磁力が強烈であるために、権力の管理下における「内部公開」に踏み切らざるを得なかった事実がある。一度こうして宗教的舞台でプライベートなパフォーマンスが組織されたからには、それなりの聖性の賦与が必要とされた。観客の方にとっても、信仰という名の思考停止で理性を操作するのが一番無難な受け入れ方だった。ジュゼッペ自身はこの超能力を別に活用したわけでもなく、人のために使ったわけでもない。超能力者には能動的なタイプと受動的なタイプがあって、ジュゼッペは、この現象をコントロールできなかった。もっとも彼の空中浮揚が実用に役立ったこともないではない。修道院のメンバーが、グロテルラの丘の上にイエスの受難を記念した三本の十字架を建立しているときだった。十人あまりの僧と信者たちは、両脇の二本の十字架は立て終えたが、三本目の真ん中の十字架は十二メートルもの高さで、重くもあり、まっすぐに立てる作業が難航していた。ちょうどそこへジュゼッペが修道院の扉のところに現れた。彼はすぐに舞い上がり、修道院の扉から、前方の丘までの数十メートルを飛んで、大きい十字架のてっぺんにつくと、両手で十字架の先をかかえて、「まるで羽根をもつように」軽々と十字架を予定の穴に差し込んだという。
このことは、ジュゼッペが超能力にたいして受け身であったとはいえ、それが全くのアクシデントとして起こったのではなく、常に彼の信仰心が第一のファクターであったこと、それゆえ信仰心を具体化するような行為なら、聖母像への接吻にしろ、十字架の建立にしろ、ある目的のもとに超能力を方向づけることが可能であったことを示している。加えて、時代は、宗教改革を経験し、迷信や民衆宗教や管理宗教が渾然となってひとつの怪物のようになっていたカトリシズムは、シンボルをシンボルとして認めるピューリタン的でプラグマチックなプロテスタンティズムの脅威にさらされていた。カトリシズムとしても、大時代的なパフォーマンスは、精神性の優位を示すには逆効果となり得るので避けたいところであったが、ジュゼッペの超能力のように有無をいわせぬところまでいくと、宣教的に使わざるを得ない。現に彼の空中浮揚の神話的インパクトの前でカトリックに改宗した新教の有力者たちが出たのである。しかしジュゼッペの超能力の宣教的取り込みと正当化は、彼の聖者認定をもってのみ真に完成されるものだった。それは聖者を、死後も天と地を結んで信者と神のとりなしをなす、翼をもった天使のカテゴリーに入れることである。これによって、聖者の生前の空中浮揚は、たんに死後の機能を先取りしたものだということになってつじつまがあう。信仰とは「意味の期待」だ。信仰に答え、信仰を練り上げることにおいては、カトリック教会は老練であった。
天使、昇天[#「天使、昇天」はゴシック体]
もともとキリスト教は天と地という上下の二元論で発達してきた。天と地との間の空《くう》をうめていたのは天使だった。当然、天使は、空中浮揚や瞬間移動などといった空間を制するタイプの超常現象をキリスト教が扱うときのアーキタイプとなる。
エンジェルの原型であるキューピッドは、ギリシャのエロスのローマ名だ。(前一世紀のウェルギリウスが叙事詩アイネーイスの中で使っている。)エロスはヴェヌスの子で恋の神である。そのイメージは、恐るべき神から、プシケーと結婚した美しい若者へと変化した。(「黄金のロバ」にはヴェヌスの嫁いじめがでてくる。)恋の戯れに長けたキューピッドは、ばらの花の上を軽やかに歩む有翼の神だった。それが弓と矢をもつ子供の姿に変化し、ポンペイ壁画に見られるような幼児の姿の複数の神々になった。多産豊饒の神として信仰された跡もある。
旧約聖書の中では、アダムとイヴが生命の木に近づくのを防ぐために神がおいた番人のケルビムが天使のカテゴリーに入る。(天使にはヒエラルキーなしの九種があるとされている。天使、大天使、ケルビム、セラピム、王座、公国、力、支配、徳)具体的なイメージとしては、ユダヤ人のバビロン捕囚(前五七八〜五三八前)の間にバビロンの宗教のイメージを多く取り入れたようで、セラフィン(セラピム、熾天使)は火の蛇として(イザヤ書)、シェルバン(ケルビム)は、バビロンの神殿の入り口を守る有翼の牡牛として(エゼキエル書)表されるようになった。そのほかに、人それぞれに守護天使がついているという信仰もすでにユダヤ人にはあったらしい。(マタイ伝一八―一〇には、信者たちの御使いたちは天にあって、天にいる父の御顔をいつも仰いでいるとある。)四大天使としては、癒す神という意味のラファエル、神の英雄という意味のガブリエル、神のような者という意味のミカエル、神の光という意味のウリエルなどがいて、(エルとは、ヘブライ語で神の意味である。)特にキリスト教の初期の数世紀は、ミカエルは、イエスとの関連で考えられてきた。イエスのころのユダヤ人には、救世主キリストは天使として待たれてきたこともあって、これがキリストの死を信じないという流れにもつながった。エンジェルは、ギリシャ語のメッセージ、使者という言葉が語源になっていて、神の使者、あるいは神が人に見えるときの現れともされていた。(士師記では、マノアの妻がサムソンを身ごもる前に主の使いが現れたが、マノアは「私たちは神を見た」と言っている。つまり神の姿というメッセージとして理解されているわけだ。)どちらにしても、天使は神の命に服す自由で力強い存在として意識されていた。パウロは、位、主権、支配、権威(コロサイ一―十六)、権力(エペソ一―二一)という天使の類別をしたことになっていて、どれもみなキリストに従うと言っている。そして新キリスト者が天使の礼拝に傾いてイエスをないがしろにしないように警告した。ヨハネの黙示録では、天使は救済への戦いの戦士としてイメージされているし、大天使ミカエルは異教神話の怪物退治の英雄にとってかわるものとして長い間人気をたもった。(フランスではサンミッシェルのバジリカの奉献の日を記念して九月二十九日がミカエルの祝日となっている。)しかし、全体としては、イエスの登場以降、天使は、神の命に服すばかりか、イエスとの間のヒエラルキーが導入されたことによって、その立場があいまいになってしまった。といっても初期の砂漠の隠者の時代には、まだ天使は隠者たちを取り巻く日常の自然の中に充満していて、彼らの生活に干渉したり、彼らの分身のように機能したりして生き延びていた。しかし少しずつ、初期殉教者が聖者として礼拝の対象になり、イエスと同じく「人間出身」で、イエスの下にあって、イエスと下界とを仲介する存在として機能しはじめた。殉教者の死のインパクトが強いこともあって、天使の方は、ますます抽象的な存在となってしまった。聖アウグスティヌスは、『神の国』第十巻の中で、「殉教者は、その謙譲の重さと人間的死によって、天使よりも神と人間を緊密につなぎ得る」とはっきり言った。一方で、イエスの受難図や殉教者の受難図が残虐で血ぬられたものであればあるほど、天使の図像はそれを補うように優美に女性的になっていった。受胎告知のガブリエルや、若い騎士ミカエルの像をのぞいては、キューピッドのイメージとむすびついて幼児化すらしていき、天国の修飾イコンになってしまった。聖者が昇天するときの道案内の童子群となり、力強いイメージは姿を消した。翼は存続したが、それは人間の条件を超えて飛び立つシンボルであるとともに、審美的な価値があったからでもある。天使の存在とその属性について考察する天使学は、神学の一部門ではあるものの、だんだんと下火となり、ほとんど研究の対象にされなくなってしまった。聖グレゴリー法王は、説教の中で、天使というのは、何かを伝えたときにそう呼ばれる、機能につけられた名前であり、もっとも大きな秘儀を伝えたときには大天使と呼ばれるのだ、と規定している。十二世紀のオノレ・ダンタンはこれを踏まえて、天使の位置の公式化をおこなった。今のカトリック教会は、天使への信仰の伝統に敬意は払ってはいるが、信者に強制はしないという立場を取っている。カトリックの近代化をはかった一九六九年の第二バチカン公会議以降の典礼カレンダーにもこうして十月二日の守護天使の祝日が残されることとなった。
キリスト教のイメージの歴史の中でイエスに続いて天へ昇ったのはその母マリアである。福音書にはマリアの死の記述はないが、二世紀の聖書外典には昇天の記述がある。晩年はトルコに行って死んだとされているが、その時期もイエスの死後三年から五十年と異説が多い。昇天の日は七世紀初めのビザンチン皇帝マウリキウスが、昇天のマリアに奉献した教会の落成を記念して八月十五日ということに法令化された。カトリックでは聖グレゴリー・ド・トゥール(六世紀)から、聖トマス・アキナスや聖ボナヴェントゥール(十三世紀)まで大神学者たちがマリア昇天信仰を育んできた。聖ベルナルドも「マリアを語って語り過ぎることはない」と言っている。ギリシャ正教では、マリアの死は、横たわったマリアのそばで、キリストが彼女の魂を新生児の形で抱くというイコンであらわされたが、八月十五日は正教の十二の大祭のひとつとなっていて、マリアは、天に迎えられた最初の女性であり、新しいイヴとみなされている。キリストは新しいアダムであり、楽園(楽園は、長い間地上のどこかにあると思われていたのが、いつの間にか天国のイメージにとってかわられた)から追われた二人の転倒したシンボルになったのだ。ただし、正教ではマリア信仰が強いとはいえ正式の教義には取り込まれていない。プロテスタントはマリア昇天を疑問視していて、マリアはアブラハムやモーゼと同様に、信仰の証人でしかないという見方が強い。カトリックの国フランスでは八月十五日は長い間国の第一の祝日だった。ルイ十三世はフランスをノートルダム(われらの貴婦人=マリア)に奉献し、この日の聖母行列を国中に奨励した。(今日のフランスでは、この日は右翼やカトリック教条主義たちのマニフェストとして再び異様な盛り上がりを見せている。)しかしカトリシズムにマリア昇天が正式に教義として取り入れられたのは一九五〇年十一月一日のことにすぎない。当時の法王ピオ十二世は、「無原罪の神の母、聖処女マリアが、地上での生の終わりに魂も肉体も栄光の天へと上げられていったことが、神によって顕らかにされた教義であることを宣言」した。この宣言には、近代以降の西欧のカトリック離れの傾向の中で、あらたなブームを起こしつつあったマリア信仰に公式に肩入れするという意味があった。(といってもあくまでカトリックの内輪のマリアへの愛の告白という面があり、その後新教や正教と共に何度ももたれたキリスト教徒の合同会議ではテーマとされなかった。)これは十九世紀から頻繁になったマリア御出現の信仰にもかかわっている。マリアの御出現は、最初のころは、パリの奇跡のチャペルでカトリーヌ・ラブレーに現れたときのように、いすに腰掛けているといった地上的なスタイルをとることもあったが、しだいに高みに浮く天上的なスタイルに変わっていく。ヨハネの黙示録の中に、「また、大いなるしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた」[一二―一]という御出現の記述があり、マリア昇天教義の根拠としては異論もあるのだが、この姿がマリア御出現のイコンを刺激したらしい。マリアはしだいに、慈母のイメージに宇宙の女王のような絢爛さを加えていく。それはパリのサンシュルピスのマリアのチャペルに見られるような、渦をなす雲にのり、天を駆けるようなドラマチックな姿へまですすんでいった。御出現も、屋根の上(ポンマン)とか、洞窟の高み(ルールド)とか、木の上方の半透明で宙に浮いている(ファチマ)とか、霊か天使のような様相を呈してくる。宙に浮く、出没自在である、という点で、マリアはまさに、空中浮揚や瞬間移動の「天駆ける聖女」のアーキタイプといっていい。昇天した後で神の右側に落ち着き、三位一体の三角形に安定したイエスに比べて、昇天のマリアは教義があいまいな分だけ自由で永遠に宙を駆けめぐっている。マリアの戴冠という豪華なイコンも獲得しながら、その息子の死の哀しみからはいつまでも癒やされることがないという、「涙を流す女王」というキャラクターも新たなインパクトで民衆のイメージに浸透した。カトリックの修道女たちは、その身を神に捧げながら、司祭にはなれない。つまり神降ろしの巫女という機能から疎外されている。すぐれた巫女の資質をもちながらヒエラルキーに圧しつぶされている修道女が超常能力を発揮してしまうとき、その姿は、マリアのあいまいな立場の悲劇性とだぶって、独特のオーラを発揮する。「空飛ぶ僧」のどこかコミックな様相とはちがって、本質的な痛みがどこかについてまわるのだ。
アグレダの修道女マリアは、エクスタシーに入ると、羽根のように軽くなったというが、聖女扱いされるどころか、ほかの修道女たちはマリアに息を吹きつけて移動させて楽しんだ。フローレンスの守護聖女マリー=マドレーヌ・ド・パジはカルメル会の修道女だったが、一六〇四年、三十八歳にしてやせこけて歯は全部抜け落ち、寝たきりで床ずれに苦しんでいるというすさまじい姿にかかわらず、空中浮揚や透視をはじめとしてさまざまな超能力を見せた。彼女は修道院長に空中浮揚を厳禁されたが、告解師は彼女が裁縫をしているときに目隠しをして透視力を試したりした。マリー=マドレーヌはエクスタシーに入ったときに体がフライパンのように熱くなることでもしられていた。
多くの修道女の超常現象は危険な賭けみたいなものだった。エクスタシーは、しばしば硬直や無感覚や仮死状態と結びつき、聖女よりも悪魔憑きを連想させた。それは十九世紀の末にフランスでシャルコーが観察し発表したような宗教的妄想のある女性ヒステリー患者のバロック的姿にいきつく。ときとして告解師や医師という名の残酷な男の目が彼女らをなめるように見つめることもある。一方には修道院の鉄柵があり、もう一方には精神病院の鉄格子が待っている。しかし空を見上げると、わが息子が十字架にかけられたのを見た悲劇の母マリアが、天使にかこまれて雲のかなたに漂っている。だから超能力の聖女たちは、マリアの姉妹、マリアの分身としてカトリックの宇宙を駆けめぐりつづけるのだ。
3 飛ぶ文化と飛ばない文化
超常現象をどう了解するか[#「超常現象をどう了解するか」はゴシック体]
分身、瞬間移動、空中浮揚といった、時空にしばられない超常現象を理解するには、普通の物理学での原因―結果の推論を用いることはできない。直線的論理的な思考過程を非線形の次元に適用することはもともと無理である。にもかかわらず科学は何度か超常現象の解明を試みてきた。心霊現象や、超感覚器官知覚現象は、ながいあいだアブノーマル心理として、経験科学的心理学の対象外とされていた。しかし一九三〇年にライン博士がデューク大学内に超心理学のラボラトリーを創設し、管理実験を通して、これらの超常現象の存在を証明し統計的に計量する学問を体系化しはじめた。被実験者に、裏返されたカードの種類を当てさせたり、ある数を念じてサイコロを振ったときに、統計的にノーマルな回数以上にそれが現れることを確認したりして、人間の精神が、物理法則に何らかの影響を与え得るらしいことを明らかにしようとした。しかしデカルト主義やニュートン物理法学の秩序の中では所詮壁にぶちあたらざるをえなかった。日本でも心霊現象の解明を試みた先駆者(福来友吉博士)はいたが、催眠心理学に吸収されて発展しなかった。結局超心理学が合意に達した結論は、人間には時間空間に制約されぬ心の作用があるらしいこと、感覚器官を用いない認知力があること、その能力は意欲や興味によって条件付けられること、それはある程度存続する可能性があることなどにとどまった。超常的知覚現象ですら分析困難であるわけだが、それが瞬間移動といったような現象になると、「存在の場が時空上ごく近い要素とのみ結合関係をもつだけで、遠く離れた要素とは直接の関係をもたない」とする近代物理学と折り合うわけがない。これらの現象を説明するのは無理にしろ、理解しようとすれば、空間の三次元性や線形的時間進行によるイメージやシンボルを全面的に改訂する以外にない。つまり時間と空間とエネルギーというものは、我々の感覚器官に読み取られるときのみ線形で三次元的な様相を呈してはいるが、実際には、多次元的にねじれた一種のメビウスの帯として相関しているのではないか、という仮説である。しかしこれが仮説にとどまる以上、超常現象の受け入れは信仰のレベルとどうしても重なってしまわざるを得ない。信仰とは、客体的には不確実なものを内面性の情熱において固守することであり、言い換えると、理性的な受け入れ操作が不可能な情報を、そこに語られていない背後にある全宇宙と共に信受することである。超常現象への信仰は、それゆえ、それを前にした人の全歴史、全世界観にかかわってくる。
それではたとえば空中浮揚だの分身だのを前にしたとき、人々にはどんな反応が可能だろうか。
もっとも明快なのは、これを何らかのトリックであると考えることだ。つまり、説明できないような事実は存在しない。だから超常的「事実」はなかった、仕組まれた見せかけである、というロジックだ。シルクハットからウサギが出てくるはずがない。だから巧妙な仕掛けがある。実際この仮定のもとに仕掛けを突きとめようとした人は多かったし、暴かれたトリックも数あるだろう。しかしその頻度、そのコンテキスト、その異常さにおいて、トリックを推定する方が不可能に見えてくる超常現象も少数ながら存在する。そういう時にこの種の反応をする人がどうするかというと、「見ない」というのが一番多い。そんな事実は存在しないのだから、存在しないものは見ない、ということになってくる。
第二のタイプは、超常現象を感覚器官の錯覚で説明しようという反応だ。たとえば、酔っ払っているときに部屋がぐるぐる回ったり、めまいがして床がせり上がってくるなどという経験をする人は、そんなことがあり得ないことを「知っている」。そのように「見える」だけで、実際はなにも動いていない。ステレオスピーカーの真ん中から臨場感あふれる音楽がきこえてくるとき我々はそれが実は両側のスピーカーがなっているのだということを「知っている」。そのように「きこえる」だけなのだ。つまり経験的知識によって不思議を封じ込めるというやり方である。これは一見「科学的」ではあるが、人間の脳という知覚システムの謎そのものが完全に解明されていない限り、一種のすり替えによる判断停止につながる。それは、我々が客観的観察者たる神ではなくて、一定の構造をせおわされている生物にすぎないという認識へとつながってくる。世界の厚みは見えないが、我々の前に現れたものだけを、不完全な感覚器官を通して、イメージ構成し直すというのが我々の知の過程なのだという観点を導入した新しい世界観なしには、それ以上の「科学的」な検証は不可能である。
第三の対応方法は、超常現象を実在する現象として認めることである。つまりいわゆる物理学的因果関係は検証できないが、とにかく超常現象が事実として実在するということをひとつの「公理」として受け入れる。そのうえでいろいろなケースを比較検討して、超常現象間の法則を抽出し、その有効性を検証する。このやり方では、ひとつの超常現象がある状況のもとに必然的に起こっている、というような、ある種の機械論的ロジックに手が届く。原因の説明は放棄するが、現れ方のメカニズムは疑似科学的に分析し得る。
この方法を反対方向におしすすめると、まず超常現象をみとめて、今度は、これらを事実として成り立たせるような物理学のほうを変えていくというプロセスも出てきた。つまり超常現象を説明できる新しいパラダイムを創る、新しい柔軟な宇宙観を構築していくやり方である。これは、神経科学者プリブラムや、物理学者ボームなどがかかわっているホログラフィ理論などに顕著である。しかしこのような模索で現れてくる物理学というのは本質的に精神的なものが介入してくる。ベイトソンのような生命世界におけるサイバネティックな理論から、そもそも生命世界の成り立ち自体にある種の「聖性」を認めるような知の様式へまで至るのだ。それは信仰をとりいれた知の様式と言いかえてもいい。
第四の対応は、第三を超えたところに出てくる。ここでは、もう超常現象の実在性は問題にされない。いったい、ある話が真実であるためには、それが本当に起こったことでないとだめなのか、というところまで問題はほりさげられる。超常現象ないし超常的だと見える現象は、あくまでひとつの「情報」であって、この第四の対応の仕方では、その情報の裏にある(かもしれない)事実や実態は問われない。情報は、そのコンテキストとの関係性においてのみ解読され解明される。たとえば夢の化学的生理学的メカニズムやプロセスがわからなくとも、夢の解釈学というものが成り立つのと同様である。夢判断が脳生理学の役に立たなくとも、精神分析的治療に利用できるのと同じように、超常現象を情報としてホーリスティックに見るとき、ひとつの解決に向かうセラピー的効果が生まれ得る。超常現象は、我々をとりまく宇宙にとって限りなく挑発的な出来事であるゆえに、宇宙的生命体全体のセラピーとして超常現象を読みとることができるかもしれない。しかしこのタイプの知の冒険がセラピー的に機能する地点では、最終的には、分析的理解ではなくて、直接的、非二次元的覚識が要求される。本質的に神秘主義的な知にいたるのだ。この意味でも神秘家の見せる超常現象というのは情報として二重の価値をもっている。
私たちは、キリスト教という宗教的コンテキストの中で現れた「時空を制する」タイプの超常現象をたどってきた。それらに対して第四のアプローチに向かう前に、ここで、別の宗教的文化的コンテキストで現れる同じタイプの超常現象に少し目を向けてみよう。第三のアプローチによるある種の機械論的検証の可能性はやはり魅力があるからだ。
仏教と超能力[#「仏教と超能力」はゴシック体]
この手の超常現象が最もよく見られるのは、カトリシズム以外の宗教でも、やはりいわゆる神秘家の瞑想または祈りの過程で起こるエクスタシーにおいてである。例えばイスラム教のスーフィズムの十世紀初めの殉教者で傑出した神秘主義者であるアル・ハルラージは、瞑想中に浮き上がっていたというエピソードを残している。彼は思弁的でなく直感的な内的照明を経由して「真実」に達するタイプの人で、キリスト教神秘家と似ている。
仏教ではどうだろうか。釈尊は、すでに入胎出胎時に地動や放光などの不思議現象を仏伝文学に残しているが、これは聞法者の注意を喚起するための方便としての神通神変と解釈されている。仏伝における神通示現は法数として定型化していて、仏陀の智恵に入らしめるための方便としての奇跡は教説として分類されている。原始仏教で法数に数えられているのは、三明、六通だ(宿命智、天眼智、漏尽智の三明に、神足通、他心通、天耳通を加えた六通)。三神変としての分類もあった。分身や、「水に沈まずして行くことあたかも大地を行く如く、また虚空を結跏趺坐のまま遊行することあたかも翼ある鳥の如く」という神通神変、知他心神変、教誡神変の三つである(『等誦経』、『堅固経』)。一般論としても思議を超えた力の存在である五大不可思議(衆生力不思議、業力不思議、座禅力不思議、意力不思議、仏力不思議)はみとめられていた。
いわゆる神通力には五神通がある。神境智通(自分の意のままに環境を変える)、天眼智通(現象界のあらゆる存在を如実に見る)、天耳智通、他心智通、宿住随念智通(過去一切の事象を照見して現在あるべき相を如実に知る)の五通そのものは、常人でも正しい修行をつめば会得できるものであるので、菩薩や聞法者、聖仙と呼ばれる人は当然神通力があるとされた。楞厳経には地行仙、飛行仙、空行仙、天行仙などの十仙がでてくる。法華経にもその記述はあり、般若経類にも仏、菩薩の神通は言及されている(『大智度論』二十八。五通は菩薩、六通は仏、の所得)。菩薩は神通を離れては衆生を教化することを得ず(『大智度論』九十四)という教化的意義は認められる。仏陀は隠形もしたらしい。
しかし、釈尊自身は、悟りのレベルでの「非合理」は排除すべきものという態度をとっていた。仏教に未帰依の者が、比丘の見せる神通力について、「その程度は他にも見られる」と批判することが釈尊の時代にもあったらしい。教化の方便として効果を発する場面もあるとはいえ、神通力そのものは、仏教者に特有の能力というわけではないからだ。それゆえ仏陀は、そのような批判を耳にしたとき、「私は神通神変に過患を見、懸念し、恥じ、忌み避けるのだ」と答えている(『堅固経』)。同じ理由で知他心神変もしりぞけられた。弟子たちに、衆人の前で故意にこれらの通力を現すことを禁じた。勧められたのは、教誡神変、漏尽通とよばれるレベルの能力だけだった。つまり人を驚かすいわゆる超能力は、所詮レベルの低い方便にすぎず、そこに仏教者の徳を加え、一段上の悟りの境地での自在の慈悲力が要求される。小乗仏教では羅漢になるまでの修行の段階があるが、その究極の阿羅漢地は真人といって、もはや神通力も必要がなくなり、天眼も、神足も要せずして、ただ意念力だけを以て千里の遠方の者でも救済できる。釈尊は、はっきりとこの境地をめざすようにいっているわけだ。
釈尊以降の仏教の展開の中で一番超能力のイメージが強いのは密教系の行者だろう。龍樹の弟子で真言宗では密教相承の第四祖とされている龍智菩薩などは超常能力によって利他行を実践して崇められたと漢訳やチベット訳の伝記資料にあるし、歴史的にたどれるところでも、八世紀の金剛智三蔵(第五祖、インド生まれ、中国で活躍)は秘術に巧みで、食事ごとに食物が天から下り、金剛菩薩がつねに出現したといわれている。速足や飛行となると役《えん》の行者が有名だ。『日本霊異記』(上二八)の行者の略伝には「孔雀王の呪法を修持修得し異験力を得て以て現に仙となり天に飛ぶ話」が出てくる。彼は「夜毎に五色の雲に掛かりてはてなき空の外に飛び」、「飛ぶこと鳳の如し」だったし、伊豆へ流されたときも、「身は海上に浮かび、走ること陸を履むが如し」という水上歩行を見せている。行者は、代々葛木の神を奉じ呪占を司る家系の出だった。道教や山嶽信仰に加えて、密教の大孔雀明王経を奉じて行中心の山岳宗教を確立して山伏の始祖となった。『行者本記』にも、十七歳で出家した後、三昧を発得し、雲に乗ったとあるから、この手の超能力行使者としての評判が定着していたと言える。
同じ密教がチベットへも渡って残っているが、チベットのラマ僧の空中浮揚のイメージはどういうわけかヨーロッパでもキリスト教の神秘家の空中浮揚よりずっと広く行き渡っている。ヒマラヤという空気の希薄な高所のイメージがそれを助けているのかもしれない。チベット仏教のコンテキストのなかで、それがどうして扱われているかというと、まず、非仏教者のヨガ行者によるいわばフォークロリックな空中浮揚は民衆に観察されて受け入れられてきたという背景がある。これが仏教の幾つかの宗派(主にニンマ派。カギュ派にもたまにみられる)においては修行の体系のうちに組み込まれた。呼吸法の訓練の後で、いわば師による試験として、地に穴を掘った中に僧を座らせて、浮揚上昇によって脱出させるというメトードがちゃんと存在する。アメリカの研究チームがやってきて観察したこともあるし、中国共産軍がチベットを占領して、僧たちを監禁したときに、彼らが特殊な瞑想状態に入って、何週間も飲まず食わずで生きていたりという記録が中国側の手によって残っている。これらの記録は宗教的コンテキストからはなれた第三者の手になることで注目できる。
しかしチベット仏教の主流派(ゲールク派)では、こういう超能力ははっきり禁じられている。寺院内でその規則が破られたことが分かれば破門に価するほど厳しくコントロールされている。今世紀に入っても、ある僧のグループが、河を渡ろうとしているとき嵐にあったので、水に漬からず空中浮揚によってわたり、それを責任者の僧正に見つかって全員寺から追われたという記録も残っている。どちらにしても彼らの間では空中浮揚は、瞑想における呼吸のテクニックによって体を極端に軽く、重力の影響を受けぬようにするという結果得られる能力として確認されていることはほぼ間違いない。この考え方を受け入れるとすると、キリスト教などではこういうテクニックの自覚はないわけだから、空中浮揚は忘我にいたる祈りの状態において偶然に呼吸システムが空中浮揚を可能にする心身状態に達したときにのみ偶発的に起こっていることになる。逆にいえば、チベット仏教においては、ある対象にむかって忘我の祈りに至るような礼拝システムがないので、無意識のアクシデント的な空中浮揚というものは存在しない。では誰でも呼吸を含む同じ心身状態になれば必ず空中浮揚にいたるのかといえば、ラマたちははっきりと、それはその人の「素質」に大いに左右されると答える。彼らの世界観からいえばその「素質」とはさらにその人の「前世」に関係してくることになる。この考え方は少なくとも、彼らにとっても、空中浮揚に決定的な方法論が欠けていることを示しているだろう。有効性の確認された修行とテクニックを駆使しても、それが実際に起こるには、なにか人事を超えた深い実在とのかかわりが想定されるといってもいい。事実「活き仏」の称号をもらえるようなチベット人はこの種の能力をよくコントロールできるらしく、先代のダグポ・リンポチェの伝記などにも、彼が、宗教的使命のために早い移動を要求されるような場面では、空中浮揚や、同じ原理で重力を消しながらの速歩を使って移動したとある。実用に使われることもあったわけだ。つまり一般にこういう状態にあるときの心身は、運命論から自由になっている分、異常に受容性が強くなっていて、ネガティヴな力の影響も受けやすい。だから生半可な人間ではかえってマイナスで危険になる。実用(つまり他者の救済)にそれを利用するのは、単なるテクニックの取得でなくて、宗教的により高次の段階に達している者にのみ許されるというわけである。だからこそ、寺院内ですらそれが禁じられていたりするのだ。その場合は、たんに人前でそれを見せて逆効果になるのを避けるという宣教的配慮ではない。
つまり超能力は、宗教的には、より高次な実践(他者を宇宙的なレベルで救済する)という地平に達する修行の段階で付随して起こってくる現象にすぎない。超能力それ自体に意義があるわけではないばかりか、それが起こる心身の段階というのは、常識や習慣や先入観という鎧に守られていない一種むきだしの状態なので脆弱である。だから能力としての顕在化は、できるだけ避けるべきである。この段階を超えて、より大きい次元に覚識したときのみはじめてこの能力は宗教的にたち現れてくる。衆生済度の「慈悲」のエネルギーに満たされてのみ意味をもちはじめるのだ。この「慈悲」を「愛」におきかえれば、自分に起きる超常現象に当惑していたアヴィラの聖テレサの言葉にも実はほとんど同じトーンがながれているのがわかって興味深い。
神秘主義に近いといわれる禅宗でも当然悟りの末に獲得される超能力が想定される。碧巖録には衆流を切断した後の自由自在な働きというのが、「東湧西没、逆順縦横与奪自在なり」とされている。禅定力には自ら神秘発現力が具備することになっているが、諸々の聖者の神通は正法に依って修した結果、「漏尽通」に達した上での「正怪」である。つまり単なる不思議のための不思議のレベルではない。
禅業を獲得した保誌は身を一度に三分したというし、瑞巖師彦は同日同時に数家におもむき食事したという。分身である。道力の勝負で、「そそり立つ百余尺の段を素足で登ること坦路を行くにも似」ていたという崇慧の場合は重力の影響を軽くした速歩に類するかもしれない。飛行の例では、鄭隠峯という禅僧が唐の元和中(九世紀初)官軍と賊軍が交戦していたとき、その殺戮を解くため、空中を飛んで行くという神変を現したという話が残っている。両軍の兵は、僧が陣中の空を飛騰するのを見て驚きのあまり戦闘心をそがれて武器をおさめてしまったという。超能力を獲得する行としては、白隠禅師の「夜船閑話」の中の、火食を避け、塩砂糖を取らず、呼吸数をおさえていく行気の法などがある。呼吸を段々間遠にして、十分、二十分に一回にまで減らす。白隠は、この方法で、弟子の一人が、転覆した船から投げ出されたとき海底を歩いて陸へ上がって来たと言っている。(このような呼吸法はいろいろな修行体系に共通している。)
しかし、高名な禅僧がみな超能力をほしいままにしたかというと、決してそういうわけではない。黄檗禅師(希運)の修行時代には、次のような有名なエピソードが伝えられている。禅師は身長七尺におよぶ偉丈夫だったが、ある時天台山にのぼる路で一人の僧と出あって行路を共にした。二人は旧知の如くしばらく談笑していったが、川を渡らなければならないところまで来ると水が増して流れが急になっていた。黄檗は、どうして渡ろうかと思案して杖をたてて止まったが、同行の僧は、水上を陸をふむようにして楽々と向こう岸に渡って、黄檗にも来るように手招きした。黄檗はそれを見て、このようなことをする僧であることを早くに知っていたならその脛を斬っていただろうと大声で叱咤した(「咄して云く、這の自了の漢、吾早く捏怪なるを知らば、當に汝が脛を斫るべかりしと」)。
はたして黄檗のその怒りを見た対岸の僧は、黄檗が真の大乗の法器であると感嘆した。このエピソードは天台山の羅漢が黄檗を試してみたのだという解釈になっている。つまり祖師禅では、神異を現すものは小乗禅的行為だという評価があったわけだ。もとより神異というものは小神通にすぎなく、大神通は、日常を正しく運為することにある、というのが禅の超能力観になっているのだ。チベット密教主流派にみられたと同じく、超能力を抑制し警戒する禁欲的な原則が存在する。
道教と超能力[#「道教と超能力」はゴシック体]
空を飛ぶという術がいかにも全面に押しだされていそうなのは何といっても仙人を輩出する道教だ。もともと中国という国には秦漢の頃からいろいろな術を試みた方士がいてこの種の「飛行する人」のイメージに事欠かない。その中には、「海外南経に羽民国があって卵生で空を飛ぶ人種がいる」(『山海経』)などというかなり空想に近いものもあるが、同時代的な仙道や仙人の実在が信じられていたのも確かなようである。そのイメージは、西晋時代の仙道学の第一人者である葛洪の著した『抱朴子』の、「古の仙を得る者、或いは身に羽翼を生じ、変化飛行し、人の本を失して更に異形」という妖怪に近いものから、白い単衣を着て虚空を歩いてもやの中に消えるとか、雪とまがう衣冠を着用し、空を飛んでいったというような幻想的なものまで多彩である。(白は軽さにつながってもいる。)神仙の二大特性は不死と昇天であり、特に紀元前二世紀以前の書物では、神仙とは「けむりとなって天にのぼる人」の意であった。『荘子』には黄帝が僊となって天へのぼったという昇天の考え方が見られる。飛龍や日月にまたがって四海の外に遊ぶという空を飛ぶ真人の存在が、紀元前三〜四世紀には想定されていて、それが、いわゆる方士の神仙説に取り入れられたのかもしれない。しかしその後では、だんだん空を飛ぶことよりも不死のほうが第一義的になっていき、神仙も、「あるもの」から「なれるもの」へと認識されるようになった。当然方法論はちゃんとあって、「諸法諸術諸戒を実行し、遵守怠りなければ」、虚空に上り宇宙に逍遥する天仙、名山に遊ぶ地仙、魂魄だけがぬけでる尸解仙などといろんな境地に達することが可能だとされている。これは空中浮揚から、速歩、幽体離脱など全部をカバーしているといえるだろう。
仙人のひとりは、「よく雲に乗り、虚空を歩き、海を越え、波を踏み、無間に出入りし、一呼吸に千里を行くこともでき」たし、「雲に乗り、龍に駕して虚空に浮かぶこともでき」た(『神仙伝』、以下同じ)。班孟(一説には女だったという)は終日飛行することができて、虚空に座して人と談話することもできた。沈建は、穀断ちをして、軽々と空に飛び上がれるようになり、時にはどこかへ行ったりまた戻ったりして、三百余年もそんな状態が続いた。
しかし究極の空中浮揚は存在の次元を変えてしまう意味での昇天だ。昇天の中でも、「白日昇天」することが仙人の中で一番上等とされたらしい。劉鋼とその妻樊夫人などは夫婦そろって昇天したが、夫人の方が術が上だったので、平座したまま雲の立ちのぼるように徐々に上っていったが、劉鋼の方は大木に数丈もよじ登ってやっと飛び上がることができた、などと葛洪は『神仙伝』の中でかなりのリアリティをもって描写している。
飛行も水上歩行も水中潜行も、神足通に分類され、「軽妙の羽衣性の身体を心識力によって運行する」術で外界に左右されないという。薊子訓は半日で二千里も行ったし、臈越は二百八十歳にしてその力は千鈞の重さをも持ち上げ、歩けば駆ける馬にも追いついた。魯女生は一日に三百里も歩き、走れば鹿にも追いついた。劉政は、一日の間に数千里を行けたうえに、水に入っても濡れず水上を歩くとされた。薊子訓は、分身の術も使い、面会を望んだ貴人たちの家へ出向き、全部で二十三家のそれぞれに子訓が同時に現れたという。珍しい例では籠に乗って飛行する方法もあげられている。山伏にある縮地法のようなものもある。つまり自分は動かず相手を引き寄せる、心の足力で接近させて用を足すという方法で、瞬間移動にちかい。
これらの能力を得るにはやはりベースになる呼吸法があって、気を全身にめぐらす行気法や、胎児の呼吸法である胎気法などがあった。水上歩行は気をめぐらす術によってできるという記述もある(『抱朴子』)。
しかしこれらの超常能力がすべて厳しいテクニックの修得の結果だったかというと、ここが道教的らしい実際的な知恵で、秘薬というのがちゃんと存在する。薬は、草根木皮金属や岩石類を材料にしており、足に塗ると火や水の上を歩けるようになる神丹や、斎戒して飲めば昇天して空を飛ぶ仙人になる金液などがあり、王公という人は劉京のところで手に入れた薬によって狩猟に二百里も歩いたという。虎胆丸、車前《おおばこ》などの丹薬を飲めば十日で脚が疲れず常人の三倍の速さで歩けるようになる。葱の汁と肉桂をまぜて木の実大にしたのを七粒、一日に三回飲んで三年すれば水の上を歩くことができるなどという具体的な処方もある。雲に乗るには、雲母や雄黄などが仙薬としてあげられている。もっとも熱心に求められたのは上薬である金丹で、生命が延び、天仙になって万霊を使役し天地を上下できるようになるとある。(といっても、普通は、速歩や飛行は、それ自体で追い求められていたわけではなくて、それが付随している不老不死があくまで目的だった。)薬だけでなく、仙人によるまじないによっても、普通の人が超能力を一時的に獲得できることもあった。李意期は、遠出をするときに早く着きたいという人があると、護符を書いてやったり、両脇の下に朱書してやると、千里でも、みなその日のうちに往復することができたという。
しかし正攻法としては、超能力を獲得するには薬や護符だけではやはりだめで、辟穀(五穀をたち草木を材料にした団子を食べる)、調息、導引、房中という養生術を自分で全部マスターしなくてはならない。つまり仙道は一見現世的で現実的なテクニックの集大成にも見えるが、じっさいには術者の全人格、全日常の変革を前提とする深刻なオペレーションであった。不老不死という現世的で具体的な願望も、必ず、白日昇天というようなある意味でシンボリックな存在方法の転移と表裏をなしてイメージされていたのだ。仙人の飛行はその意味で、超能力というテクニックを超えた、別の実在の模索だといっていい。
『抱朴子』には、この点について含蓄のあるコメントがある(巻二「論仙」仙人の実在を論ず)。すなわち、「(仙人の存在について)世間の人は自分の臆断を信じ自分の短見にたよる。(……)今まで積んできた知識に慣れて、見なれぬ物を怪しむ。耳をひっぱり、掌の上で指し示してやっても、遂に悟らない。昔からそうなので今に始まったことではない。(これが書かれたのは四世紀初のことである!)大体、声を聴くときはだれでも自分の耳を信ずる。形を見るときはだれでも自分の目を信ずる。しかし時には、見聞きしたものが、確かだと言いながら実はまちがっていたということもある。してみれば自分の耳や目も結局信ずるに足りない。」感覚器官があてにならないうえに、我々の経験による知識などもたいしたものではない。「たとえば、われわれは死ぬまで大地をふみしめているが、その下がどうなっているかを知らない(……)。百歩先のものを見てもはっきりしない程度の目でもって、『見えるものだけが存在する、見えない物は存在しない』というならば、天下には存在しない物もまた多いことになる。たとえば、指で海の広さを測り、指が届かなくなれば、『水はここで終り』というようなものである。」
考えてみれば超常現象を前にしたときの二十世紀末の人々の態度もほとんどこれと変わっていない。科学を信じ、天体望遠鏡も電子顕微鏡も信じながら、我々は、空中浮揚だの分身だのになるとたちまち、「この目で見ないと信じない」というアルカイックでプリミティヴな反応を示し、あたかもそれが唯一の実証的な拠り所になるかのようにふるまう。このような退行反応を起こすのは、一種の自己防衛のメカニズムが働いているからかもしれない。つまり、超常現象の実在を認めることが、はからずも、我々の日常のあり方を縛っているさまざまにイメージされ構築された幻想の維持運営を破綻させる危機をはらんでいるからではないだろうか。そしてこの幻想のおかげで我々は生物としての日常営為のバランスを保っていけるからだ。だからこそこの自己保存的反応は、人間の実存的条件が変わっていない以上、『抱朴子』の昔もロケットが飛ぶ今も本質的に何も変わっていないのだ。
はたして『抱朴子』は、こう続ける。「(仙人がいる、いないの紛争も、)もはや堂々めぐりの論争から全体を揚棄すべき時ではなかろうか。」
仙術のいろいろなテクニックに具体的に興味を持って論じている葛洪ではあるが、その洞察はナイーヴなものとはほど遠い。ここには、我々は、自分の不完全な知覚とそれが創りあげた世界の囚人ではあるが、仙人の自在な飛翔を通したときひょっとして、第一次実在であるなにかのメッセージを読み取れるかもしれないという積極的な姿勢がある。仙人の超能力の研究は、現世利益的に端を発したとはいえ、宇宙的なパーススペクティヴを抜きにして模索するのは不毛であり、発想の転換のないところに肉体の転換もない。この見方には、救済宗教の究極と同じ地平、つまり、人間としての実在を破壊することなしに、そのままより大きい実在とかかわり、より大きな自由を獲得するという宇宙的次元の救済=セラピーの可能性につながってくるものがある。
フォークロリックな超能力[#「フォークロリックな超能力」はゴシック体]
次に、疑似宗教的コンテキストにおける超能力に目を向けてみよう。霊媒と呼ばれる人々の中には、空中浮揚の記録を残している人も存在する。十九世紀のイギリスの霊媒ダニエル・ホーム(一八三三年生)は百件におよぶ空中浮揚の目撃談を当時の名士たちの手によって残している。もちろん詐術を疑う人も当時からいたし、彼がプロの霊媒であった以上、空中浮揚にはいつもショー的要素があったし、利害関係もからんでいた。それが起こる舞台も、霊媒自身による暗示的演出も当然あり、薄闇の中で行われ、出席者の期待感や被暗示力も高かった。ある意味では、ドグマの確立している宗教の中で起こる事故のような神秘家の空中浮揚よりも検証が困難だといえる。確かなことは、霊媒者の予言や占い、霊との交信などの超常知覚に関する超能力を認めるとしたら、そこに空中浮揚のような肉体的物理的な超常現象も共存するのは自然だと考えられていたことだろう。しかしこの場合、既成宗教内部での超常現象とちがって、超常現象を信じた人の信仰は、その背景にある宇宙観とかかわるというよりも、霊媒個人のカリスマへと集約していく場合がほとんどである。実際このタイプの霊媒者が、よきオーガナイザーを得て新興宗教の教祖となることはままある。
疑似宗教的でももっとフォークロリックな超能力では、密教などの背景として既にあったように、やはりインドのヨガ行者が目立つ。彼らは、一応神秘体験を獲得した上でさまざまな奇跡を行うことができるわけだが、民衆の目には、宗教者というより奇跡のための奇跡のスペシャリストとして尊敬された。彼らは成就者(シッダ)、もしくは得成就者と呼ばれ、多くの成就者伝を残している。インドやチベットのそれはほとんど有名な密教者の伝記と重なってくるのだが、そのベースには数多くの語られていない無名のヨギたちがいて、民衆のフォークロリックな信仰と超能力の受容力を用意していた。そして彼らが実際仏教的コンテキストから独立して存在し続けているのはよく知られている。しかし実際にその修行の体系にアプローチするには、さまざまな宗教のコンテキストに組み入れられてきた部分を読み取る以外は困難である。
アマゾンの原住民にも、イバドゥーとよばれる植物の煙を吸ってエクスタシーを得て体を無重力状態にする方法があるという。これは、ブレーズ・サンドラールという人が自分で目撃したと、コペルチーノの聖ジュゼッペの空中浮揚について書いた際に引き合いに出している。詳細はわからないが、飛ぶこととある種の植物とエクスタシーの三つが関連づけられている例ではある。
同じような発想は中世ヨーロッパの魔女の飛行にも見られる。魔女はある種の脂薬を体に塗ることで飛べるとされていた。実際に、十五世紀のローマでの異端審問の際に、「私の塗り油さえここにあれば空を飛んであなた方から逃げられるのに」と言った「魔女」もいた。当時の審問官たちも実際の魔女飛行を見たことがあったわけではなく、この女に薬を渡して超能力の有無を確かめてみたいと思う出席者はかなりいた。(バイエルン公の侍医ヨハン・ハルトリープが書き残している。この人は魔女裁判のマスヒステリーの中で実証的好奇心をもち続けていたらしく、火刑のきまったある魔女のリーダーを牢にたずねて、嵐や雹の起こし方を教えてくれたら刑の執行を取りやめてやるともちかけたりしている。)しかし信心深い男が異議を唱えたため結局実験はかなわず、女は火あぶりに処せられた。
魔女は脂薬を塗って飛んで悪魔の待っているサバトに出席することになっているが、魔女裁判官はこの薬の成分に対して一定の概念をもっていた。それは洗礼を受ける前に死んだ赤ん坊の死体と、ひよす、どくぜり、ベラドンナといった麻薬系の毒草からなっているとされた。ただし当時から、そんな毒草も、濃縮して服用するのでなく皮膚に擦り込んだだけでは人を錯乱させるにはいたらないと考える人もいた。フランスのベネディクト会修道院長で神学博士エデリンなどは、魔術飛行やサバトなどは空想の産物にすぎないと述べたことで十五世紀に終身禁固刑を申し渡された。十七世紀前半になると、スペインの宗教裁判官サラサが、大規模な魔女狩りの時に押収されたすべての脂薬を薬剤師に調査させ、なんの効果もないことを確認している。(今世紀に入って、ゲッティンゲン大学の民俗学教授がこの植物成分で試してみたときは、「体が浮くような感じがして、途方もなく高いところからだれかに呼びかけられたというようないくつかのはっきりせぬ夢を見た。」という結果だった。もっともそのあとすぐオランダの雑誌の編集者たちが追試したときは、「不快な夜をすごした」というにとどまっている。)
魔女の検査法の中には、容疑者を縛り上げて水に投げ込み浮いてくれば魔女とされるというのもあった。これには、水は清浄だから悪魔の類いを受け入れないからだという理屈づけがあったが、「魔女飛行」=「軽さ」=「浮く」という連想もあったにちがいない。実際、秤検査というのもあって、市場にある公の大秤の上に容疑者をのせて、魔女なら全然重さがないとされた。(これらの検査はあくまで世俗の枠であって、教会は一二一五年のラテラノ公会議で、火や水による検査で神の判定をあおぐ方法を禁じていた。)しかし結局のところ魔女飛行は拷問の末の自白以外に何の決定的な証拠にも基づいていなかった。だから異端審問官の論理は、「魔女の飛行は、肉体的な事もあるし、想像上のこともありうる。たとえ頭の中でサバトに出席したところで死刑に値する」というものになった。この場合の頭の中の飛行というのは、いわば幽体離脱に近いもので、こうしてサバトに参加した男女同士は互いに相手を認めあっているとされた。その後、このころの魔女信仰の背景には、ヨーロッパの原始的土着信仰の名残で豊饒祈願の性祭のようなものが実際に隠れて行われていた事実があったのだという考え方も出てきた。しかしおそらくは、共同体の外に生きていて薬草などを使った民間療法をよくするような女性などをもとにしてふくれあがったまったくの共同幻想であったというほうが真実に近いだろう。
おもしろいのは「悪魔の業」と「飛翔」とがむすびつけられたことだ。もともと悪魔は地に落ちた堕天使だったり、とかくネガティヴなものは重さ、暗さ、地底、地を這うイメージとかかわっている。飛行というのは、昇天にしろ、天使にしろ、軽さ、明るさ、天上的なイメージが多い。ヨーロッパの中世で、年とった醜い魔女に飛行の特性が与えられたのはどうしてだろうか。おそらく、ポジティヴな飛行のイメージが全部キリスト教の中に閉じ込められ管理されてしまったので、民衆の飛翔のエネルギーが捌け口を失ってしまっていたのかもしれない。少数の聖者は飛ぶには飛んでいたが、修道院の奥深く隠され監視されたし、異端の危険を侵さずには飛べなかった。道教の仙人ですら白い服を着て白日昇天するのに、カトリシズムはイエスのあと、マリアの昇天を教義化するのに二千年近くかかっている。(プロテスタンティズムは信仰者の日常をますます非神話的で実際的なものにしたが、産業の発展に寄与して飛行機の登場にまでこぎつけて飛行のファンタジーを昇華した。)上昇志向とむすびつく飛行の自由な表現の可能性をほとんど封じられていたキリスト教世界で、中世ヨーロッパの不安を生きていた人々は、黒い服を着た夜の飛行者である魔女を送り出したのだ。魔術は黒ミサとむすびつけられ既成宗教のアンチテーゼになったが、魔女だけは、空とぶ天使のパロディとして地に潜るかわりに、やっぱり空を飛ばされた。飛行する魔女の姿は天使と同様はだかであることも多いが(ゴヤの魔女飛行の絵は有名だ)、翼のかわりに箒を使い、かがやく日の光に照らされることなく夜の闇を飛ぶ。魔女の飛行は夜間飛行であり、夜が飛行のキーワードになっているのだ。
天狗の術[#「天狗の術」はゴシック体]
日本のようなイコンの管理が比較的弱かった社会では、飛行する存在は善悪の価値観から自由でもっと両義的で曖昧な存在になり得た。代表的なのは天狗だ。中国にも同名の妖怪はいたが、流星だったり、年とった猿の怪物だったりする。日本の天狗は『日本書紀』にもでてきて、山岳信仰にむすびついた飛ぶ存在だった。役の行者が出てきて以来天狗界は修験道一色にぬりかえられて、鎌倉初期あたりからは、天狗が山伏に化けたり山伏が天狗に化けたりというイメージが定着した。仏説には、夜叉、飛天を天狗というのもあるし、唐の仙人と日本の天狗は同じという説もある(寺門静軒『静軒痴談』)。平田篤胤は、楞厳経の十行僊(=仙)の中では天狗は中級仙にすぎなく、僧侶が術を身につけて変身した天狗は最下級だといっている。南方熊楠は、インドのシバ神の妃に随従するダキニ衆(仏典により護法神荼吉尼天に昇格した)との関係も指摘している。インドのバラモン僧にはダキニの邪法の修法者が多く、法成就して通力を得たバラモンがいたらしい。日本でも、古今著聞集などに陰陽師や狐使いの行なう外法として出てくる。荼吉尼天の法術である飯綱の法や愛宕の法が天狗の法とされ、文覚上人のように、荒行の末、天狗の法を成就して、わずか七日で伊豆と京都を往復して平家追討の院宣を往復した(『源平盛衰記』)とされている歴史上の人物もいる。十六世紀の九条稙通なども飯綱の法を学んだと言っている。
しかし天狗の術で一番知られているのはやはり飛行だろう。実際狂言などに見られる小天狗たち(カラス天狗、木っ端天狗など)はほとんど鳥に近く、溝越天狗のように、まだ羽も生えそろわず数メートルの溝を跳び越す練習をしているにすぎない小妖怪も考えられていた。飛行能力は単純に翼と結びついていて、今昔物語には、両方の翼を折られて通力を失った天狗が老僧に許しを乞う話が出てくる。飛行は「天狗隠し」とされた拉致手段に最も使われた。東大寺の青舜上人が容貌魁偉な修験者風の法師の背に負われて虚空に舞い上がり、またたくまに上醍醐まで連れて行かれたとか、大原の唯蓮坊が修験者姿の天狗に連れられ雲に乗り空を飛んで山の中に降ろされたが、帰りは一瞬にして帰されたとか(『古今著聞集』)、一七四〇年叡山の大官が二人の天狗に呼び出され屋根へ引き上げられたあと大天狗に盆にのせられ虚空に舞い上がって行方不明になった(『妖魅考』)とか、飛行と瞬間移動が組合わさったような話がたくさんある。法力が上がると翼は必ずしも必要でなくなったらしい。室町後期の三井寺満行の行者、相模坊道了は忽然と両脇に翼を生じ相模の空を指して飛び去った。しかしその後両脇の翼を取り去って羽うちわに転向したらしく、幕末頃の道了像は「羽根着きの道了、羽根落ちの道了」という二種類になっている。
このように天狗は妖怪というより、仙人、行者、トリックスター的な「飛行するもの」をすべて含めたようなあいまいな存在になっていった。逆に、飛行能力を含むような超能力者の多くは一括して天狗とむすびつけられて考えられた。超能力者は天狗の系列に入ることで市民権を得て、なんとなく恐れられ納得された。天狗はそれなりの由緒正しい秩序に組み込まれているからそれ自体では共同体をおびやかすことはない。しかしこの種の超常現象が天狗という枠を越えて起こったときは、憑き物として迫害されるリスクがあった。天狗は超常能力と共同体との間の緩衝帯になっていたとも言える。
実際優秀な霊媒能力がある人で姿を消したり飛行したとされる人は天狗とコンタクトがあったと考えられていた。神城騰雲という剣客は異装の者に呼び出されともに空中に飛んだが、ただ夢中で耳へ風がふきつけるのばかり覚えていると言った。戻って来た後自分でも修行したらしく、しだいに飛行のコツが身についた。彼によると、「天狗は常に飛行するので毛髪短く、肩から下には垂れない」し、飛行の術は翼で飛ぶのとちがって、飛び上がる反動で一度に三百里くらいとぶ。「人間が足をはなれて六〜七尺跳ぶのと同じ道理」であり、「とびいく途中では舟の航跡のように雲が分かれていく」というのはとてもリアルである。この人は天狗のおかげで術をおぼえたので別に自分が天狗だといっていたわけではない。
十九世紀末には、平田篤胤の『仙境異聞』の聞き書きで有名な寅吉がいた。寅吉は七歳の時から五年間、岩間山の杉山僧正(天狗らしい)に連れられて一回につき五〜百日にわたる山籠り修行をしたという。寅吉の母はその不在に気付かなかったそうで、それは分身の術で山にも家にも同時にいたからだとされている。十三歳頃から予言、祈祷、治療などの異能を現しはじめて十四歳で出家した。その評判をきいた平田篤胤などの知識人たちはあらそって寅吉を家に呼んで詳細をきこうとした。寅吉の話によると、空を飛ぶときは「前後左右、上下ともきらきらしてまぶしく、足が雲をふんでいるようで気になった」そうで、矢よりも早く風に吹き送られるごとくいくので、ただ耳のグーンと鳴るのを感じるだけだったらしい。寅吉に霊媒としてのある種の能力があったことは確からしいが、その体験談に関しては、聞き手に迎合して無意識に脚色していったという見方もあり、のちに聞き書きを読んで「山籠りの妄想は精神の朦朧状態に特有で、おそらく寅吉は癲癇患者だったのだ」と推測した医師もいるほどだ。しかし寅吉の証言の中には全部が妄想とは思えないような不思議なディテイールも確かにある。
明治の霊界のスターであり、さまざまな奇跡の具現者とされた国安普明(一八六〇〜一九一四)は幕府御船蔵役人の子だったが、早くから異能を現し、聖良仙人(天狗らしい)に幽界へ連れて行かれて幼少のころから山と家に半年ずつくらいくらしていた。成人して本格的に山にこもって二十六歳で透視、神足通、飛行などの通力を備えた行者となった。自ら神儒仏の三教を取り入れた仙教の教祖になろうとしたが、結局宗教法人として認められなかった。しかし弟子や信者を驚かせた多くの超常現象の目撃談を残している。
空中飛行については、「初めて聖良仙人に連れられて飛んだときには、手拭で目を覆い、空気の圧力で目尻が切れることを予防し、背負われる場合もあるが、師の肩に両手をかけると、飛行中体が吹き流しのようになり、多少横斜めになる。修行の結果、自力飛行を会得した。まず体を消して目的地へついてから姿を現すことが多い。」と言っていて、これもリアリティがある。自分も弟子を伴って飛行することもあったらしい。八王子―東京間を一瞬のうちに移動したとあるから、瞬間移動=縮地の術か幽体離脱のようなケースも同時にあったのかもしれない。この人はもちろん水上歩行もでき、明治三十年以降、品川沖で溺死者の供養祭に出席したとき誤って海へ転落し、浮かび上がって下駄履きのまま波を踏んで悠々と歩行し、衆人の見まもる中で船に上がっていったという話が当時の『時事新報』に載った。超能力をよほど頻繁に見せたらしく、神田警察署に連行留置されたこともある。(もっとも分身の能力もあったらしく、その同じ時刻に自宅にもいたのを信者たちに目撃されている。)結局警視庁から大衆の前での奇跡を禁じられたそうだから、日本でも、量や質において過剰すぎる超能力を見せることが風俗の紊乱として規制の対象になることがあったわけだ。天狗は山という異界にとどまっている限りは民衆の飛行ファンタジーの安全地帯として安泰だったが、里においては超能力の真偽にかかわらず危険な存在とみなされ管理されたのだ。
超能力そのものが開発され管理されたのはいわゆる忍術だろう。仏教の羅漢行に起源があるとされているが、テクニックのためのテクニックの体系ができあがっていた。速歩術は重要で、一時間平均四里、一日十時間四十里というのが定法とされていた。標準は笠を胸にあてて落ちない程度の速さで、爪先で飛ぶように歩いた。五日程度の不眠や断食の状態でも活動できるような体力が要求された。いわゆる「飛び方」には前とび、後ろとび、とび歩き、高とび、幅とび、飛びおりの六法があって、例えば幅とびでは、三間(五・五メートル)、高とびでは九尺(二・七メートル)、飛びおりには五十尺(十五メートル)が定法になっていた。これ自体は奇跡といえるほどではないし、訓練の仕方にも、成長の早い麻の実を一間四方にまき、どんどん丈が高くなっていくのを毎日飛び越える練習を三年続けるなどというよく知られたものをはじめとしてかなり実際的なトーンのものが多い。
忍術の修行は本質的に山籠りの修行だったし、政治的には、第二次大戦後の米ソの軍部が超能力を研究したのと同じく、きわめて戦略的なものだった。しかし民衆のレベルでは、印を結んで雲を呼ぶ忍者の姿は、天狗や山伏という疑似宗教的コンテキストから離れた自由な「飛行するヒーロー」像を提供した。
アクシデントとしての超常現象[#「アクシデントとしての超常現象」はゴシック体]
この種の超常現象が宗教的な背景や行の体系をまったくぬきにして純粋なアクシデントとしてあらわれることももちろんある。幽体離脱や離魂現象を経験したという個人の体験談はそうめずらしいものではない。特に臨死体験におけるその報告はよく知られている。瞑想とヨガの修行の末、空中浮揚や分身を体験する若い女性をテーマにしたフランス映画『セリーヌ』の新進監督ジャン=クロード・ブリソーは、パリ郊外のリセでフランス語教師をしていた人だが、この映画を作るきっかけになったのは、ある朝起きたら足が床を離れて体が宙に浮いているという体験をしたことだと言っている。映画のヒロインは、結局修道院に入って、超常現象を身辺から消してもらえるよう神に祈ってかなえられることになっている。空中浮揚のような特異な体験をリアルに映画化するにはアクシデントでは片付けられないので、ヨガなどの修行や修道院での祈りという宗教的コンテキストを導入せざるを得なかったわけだ。
しかし超常現象は時としてフィクションよりも奇妙で唐突な形で、なんの脈絡も脚色もなく起こることがある。そんな超常現象に立ち会ってしまった人は、意味づけも理屈づけもできないままノーコメントでやりすごす。
そんな形で分身を重ねた有名な女性がいる。十九世紀半ばにバルト海に面するリヴォニア(現リトアニア共和国)の全寮制女子校でフランス語を教えていたエミリー・サジェというフランス女性だ。学校は、貴族の子女を対象にしたノイヴェルケ寄宿学校で、当時のギュルデンシュトゥーベ公の次女ジュリーという十三歳の利発な少女が在学していた。一八四五年に校長はフランス語教師としてフランスのディジョン生まれの美しく性格温和な金髪女性を雇い入れた。この人がエミリー・サジェで、当時三十二歳だった。彼女は頭がよくて教養もあり、たちまち、校長や同僚教師に認められ、生徒にも好かれるようになった。
ところが、校内のちがった場所で同時に彼女の姿を見かけたという噂が少しずつ生徒の間にたちはじめた。気味悪くなった生徒達は、代表者をたてて数学教師のところに注進に行ったが、想像力がはたらきすぎるといって相手にしてもらえなかった。一度は引き下がった生徒達も、その後もエミリーの二ヶ所同時存在を疑えない材料がふえるにつけて、ますます確信をもつようになった。ついにある日、エミリーが十三人の生徒の前でフランス語の動詞変化を黒板に書いていたとき、生徒達はもうひとりの全く同じエミリーが横にあらわれて、本体と同じ動作をするのを目撃した。分身のほうはチョークを手にしていず、実際に字を書いているのは本体のほうだけだった。生徒達はパニックにおちいり、このことはほどなく全校生徒に知れわたった。それを耳にした校長はクラスにいた生徒を一人ずつ呼び出して事情をきいたが、全員同じ証言をした。校長は、これを気違いざただと言い、生徒が皆疲れていて白昼夢を見たのだ、もうこの話はしないようにと申し渡した。
そのしばらく後で、アントワネット・ド・ブランジェルという生徒がパーティのための着替えを寮の寝室でしていたとき、エミリーがやってきて背中のフックをとめるのを手伝ってやるということがあった。女生徒は、鏡の中に二人のエミリーがいて同時に手を動かしているのを見て恐怖のあまり気絶してしまった。校長もついに見過ごすことができなくなって、寮の用務員たちに内密に話をきいてみた。はたして彼女らは、エミリーが寮の食堂で食事中、そのうしろでもう一人のエミリーが立ってナイフもフォークもなしに本体の動作をなぞっているのを目撃していた。ほどなく教師たちも同様の報告をもたらすようになった。
ド・ブランジェル嬢は、ある日風邪をひいて寝込んでいるエミリーのベッドのそばで本を朗読していた。突然エミリーがまっさおになり硬直したかに見えたので、ド・ブランジェル嬢は驚いて「大丈夫ですか、マドモワゼル?」ときき、エミリーは、「ええ」と弱々しく答えた。すぐあとで女生徒が偶然ふりむくと、べつのエミリーが部屋の中をゆっくりと歩き回っていた。
またあるとき、全寮生四十二人が庭に面した裁縫のクラスにいたとき、大きな窓のむこうにエミリーが花を摘んでいるのが見えた。やがて、細長い机の端のソファに座って生徒達を監督していた教師が席を外した。ほどなく生徒達は、その席にエミリーの姿が現れたのをみた。その唐突さにおどろいて彼女らはいっせいに窓の外を見やった。庭ではエミリーがあいかわらず花を摘み続けていたが、その動作はまるで急に眠気におそわれた人のようにゆっくりしていた。生徒達は今度はいっせいにソファに目を向けた。エミリーは、無言でびくともしていない。すでにエミリーの不思議な現象は女生徒達に知れわたっている。二人が立ち上がって、机の端にいるエミリーに触れにいった。残りの生徒は蒼白になってみまもった。勇気ある女生徒は、まるでモスリンの布を触ったときみたいだと感想を述べた。二人のうち一人が今度は、ソファのすぐ前を強引に横切ってみた。エミリーの体の一部は通り抜けられたかに見えた。女生徒は、緊張でこわばって自分の席に戻った。やがてソファにいたエミリーの姿はゆっくりと消えていき、窓の外のエミリーの動作はもとのリズムを取り戻した。
エミリーは後でこのことについてたずねられて、庭から裁縫のクラスの監督が席を外すのを見たこと、このままでは生徒達がおしゃべりし始めて裁縫が遅れてしまうだろう、私がいてやればいいんだが、と思ったことを認めた。けれどもエミリー自身はいちども分身状態にあることの自覚がなく、もう一人の自分の姿を見たこともない、いつも、周囲の人のパニック状態を見てやっと推測するのだというらしかった。生徒達は親にエミリーのことを報告し、気味悪がった親は娘たちを連れ戻した。エミリーが赴任してから十八ヶ月後には、四十二人の生徒は、たった十二人に減ってしまい、校長はエミリーを解雇せざるをえなくなった。解雇理由には、「遍在のため」とあった。
この話は、当時の女生徒達が後にそれぞれ貴族の夫人になってから、回顧録にかきとめたことで広く知られるようになった。ギュルデンシュトゥーベ公の次女ジュリーの手記をみてくわしい話を聞きエミリーについての本をまとめた英国の作家もいた。実際のところエミリーの分身現象は、かなり早い時期から頻繁に起こったらしく、十六歳から三十二歳までの十六年間にすでに実に十八の学校を「遍在」のせいで解雇されていたということが明らかになった。十九番目であったノイヴェルケを最後に彼女は兄のところに身を寄せた。甥や姪たちは、同じおばさんが二人いるといって納得していたらしい。
心のホログラフィー[#「心のホログラフィー」はゴシック体]
エミリーのケースは、否定するにはあまりにも過剰すぎる超常現象のひとつだが、宗教的な理屈づけが不可能だった例だといえるだろう。しかし、それが起こったのはたいてい何かに夢中になっていたときであり、あることをしたいという願望によってはある程度その能力の発現を招くことが可能であったらしいということは注目できる。
宗教的な色のない空中飛行は、さまざまな童話の中にも姿をあらわす。魔女たちや妖精たちはもちろん自由に飛び回るが、彼らが「普通の人」を飛行または空中浮揚に誘うというテーマももちろんある。興味深いのはそれらがいつも、明るさや一種の歓喜に関係していることだ。ピーターパンは、実際家のジョンがひざ小僧をこすりながら、「ねえ、(空を飛ぶには)どうすればいいんだい?」ときいたとき、「ただ、すてきで楽しい気持ちになったらそれでいいんだ。その気持ちで宙に浮くんだよ。」と答えた。メリー・ポピンズは、ジョークをとばしてうんと笑うことでみんな一緒に浮き上がることを示してみせた。聖ジュゼッペが、音楽にあわせて踊りながら飛び上がったり、自然の美しさに感動して浮いたことを思い出そう。歓喜の末のエクスタシーも浮揚に先立つ。タルコフスキーの『サクリファイス』では、愛をかわす男女が空中浮揚にいたっている。実際、非常な歓喜または快楽は、多くの言語で「天にも昇る心地」と形容されている。これはたんに、空中浮揚には、我々を地上に繋いでいる何かからの解放が必要となる、というレトリックだけだとは思えない本質的な因果関係を暗示しているようにも思える。
空中浮揚や瞬間移動に関係する修行の体系では必ず、呼吸法が研究されているのも注目に値する。仏教における数息法や持息観、神通における息吹法、仙術の調気法や胎息法、その多くは、呼吸を整え、呼吸数を減らしていくことにつながっている。
浮揚するには、物理的にはその場の万有引力の影響を消しているのか、逆に引力に逆らって浮揚するエネルギーをどこからか調達しているのか(それはたとえば「気」だとか、サイコエネルギーだとか、神の力だとか考えられている)のどちらかが考えられる。空中浮揚の記録のある聖女の伝記に、高熱現象や発光現象が同時に記録されていることがあるのもそうした過剰エネルギーの現れともいえる。昇天のイコンは、後光やまばゆい光に包まれているし、仙人が飛ぶところには煙が発生し、妖精はきらきら輝く魔法の粉を撒き散らして飛んでいる。
このような因果関係の推論の一方では、ニュートン的物理学を修正して、時間や空間というものが、エネルギー的ないしは振動数的表現をもっているのだと考えることもなされはじめている。そこではそもそも超常現象を「超常」ならしめるような純粋エネルギーとか純粋物質とかが存在しない。エネルギーとは均一的な空間の中を伝達されたり移動したりするものではなくて、時空を異にするさまざまな位相間のシフトがあるだけで、そこでは「読み取り」はいつも一種の共鳴現象からのみおこなわれる。この理論で超常現象や神秘体験を説明しようとする試みも多い。それにヒントを与えたのは、量子力学と、写真術の一種であるホログラム(完全写像記録)だった。物理学者のボームは、非常に特殊な条件下でしか生起しないある種の量子現象には、ニュートン体系には適合しない新しい構造過程を示すようなものがあるといった。それは、内蔵された全体運動の領界の、非局所的な効果をもつ秩序が表出しているのだろうと解釈された。非局所的というのは、空間の因果関係の局所的領域に限定されないということで、いわば空間という次元を超えた即時的な因果性がありうるということだ。
ホログラムは、ある対象にあたった散乱光の波動の場を、振動数エネルギーの干渉パターンとして感光板に記録させるやり方である。情報はこれらの干渉パターンが作る一見ぼやけた網目模様として貯蔵され、そのままではなんの形も見分けられない。しかしその特徴は、もつれた干渉波面という別の秩序の中でのどの部分をとってもそこにパターン全体の情報が無数に含まれているということだ。この感光板をレーザー光線の前におくともとの波動パターンが再生され、三次元像になる。ホログラムのどの部分も全体を復元するのだ。一対一という秩序ではなくて、ホログラフィックな秩序で情報が貯蔵されているわけだ。
スタンリー・クリップナーはこういうホログラフィックな実在のモデルをつかって超常知覚や、瞬間移動や分身現象を理解できるのではないかと考えた。つまり、我々が信じている日常の時間的空間的制約の中では、ある点から、はなれた別の点まで、情報やエネルギーが素早く移動したり、ある点にある力が別の点に結果をおよぼすことは不可能に近い。けれども、もしこういう時間や空間の構造が、人間が生存の実用のために宇宙を再構成した結果にすぎなくて、実在には別のホログラフィックなあり方があるとしたら話はちがってくる。宇宙のどの点にも無数の情報が含まれている。はなれた点にも、最初の点と同じ情報があり、または対象を活性化するのに必要な情報がすでにある。ホログラフィ理論の変換数学に即してみれば、物理的領域で特定の時点に生じると思われるエネルギーパルスは、振動数領域では、無時間的な、通常とは別の時空の位相にあるからだ。
神経外科医プリブラムなどによれば脳そのものがホログラフィックに機能しているので、いわゆる超常現象を「見る」ことは、いわば我々の心のホログラフィックな構造を構成する無時間的な次元をひろい読みするようなものだ。はっきりと意識の物理学を仮説する物理学者も出てきた。ミクロの世界では量子が瞬間移動だの遍在だのというかってな動きをしているわけだが、すでにアインシュタインにおいて、質量密度などの変数値を逆に非常に大きくすればやはり非線形な結果にいたることが立証された。超常現象は、時空記述だけではなくて、意図の一貫性を変数にいれるべきだ。宇宙がホログラフィックな構造をもっていると仮定したら、意識というものを身体物理的な知覚世界に影響し得る変数として導入できる。そこでは情報は一格子細胞10-75CC規模の振動数領域に写像されているので、周期性によってこの情報はどの場所でも再生産できる。精神は空間的な限界をもたず、いわゆる「実体」は、波から生じ、空間は霊の領域にはめこまれるという形になる。
このモデルを使うと、悟りとか超個人的宇宙との一体化意識という神秘体験も理解しやすくなる。まず瞑想や呼吸法によって、脳が宇宙からたえずふりかかっている振動数パターンに共振できる状態をつくる。脳が宇宙の振動数と同調し共鳴するとき、いままでホログラフィックな形で記号化されていた宇宙に関するすべての潜在的情報が像を結び、実在として立ちあらわれてきて解読される。実際、瞑想時の脳波記録は、脳がその一部ではなくて大脳皮質の全体で同調しているらしいことを示しているという。このような知り方は、一体状態ですべてを一挙に知るという神秘体験のありかたに合致している。
神秘体験ばかりでなく心理療法の体験や審美体験もこれに近い。この理論によると我々はすべての経験(それには多分集合的な無意識や先祖の記憶といったものも含まれている)をホログラフィックな非分化でトータルな形で貯蔵している。たとえば父親像について自問したとすると、まず言葉にならない漠然とした手ざわりみたいなものが浮かび上がる。父親についての情報や自分との関係や相互作用といったものの全干渉パターンはホログラフィックなさざなみとして脳の全体を満たすひとつの包括的な背景になっているからだ。
次にそれにレーザー光線をあてるように、意識が探っていき具体的な情報の文節や抽出が行なわれる。このとき初めて個別の記憶が像を結び言葉をもつ。最初に感じた手ざわりはつぎからつぎへと翻訳されていく。しかしそれらの情報は、言語的なものであれ映像的なものであれ、無意識に抑圧されているものや記憶にのぼってこないものをふくめた全関係の大海からすくいあげられた一部にすぎない。ところが、一口のマドレーヌの味から子供時代の情景が生き生きとわきあがってくることがあるように、脳の中の振動数の海に偶然共鳴する何かが投入されるとき我々は包括的な全干渉パターンを一気につかむことがある。
これがサイコセラピーのめざす全体性の回復だ。セラピストは患者に自由にしゃべらせながら、意識化されていない記憶の大海の中に隠された何かと共鳴する決定的な一語をしんぼうづよく待っている。そんな言葉は変換効果をもっていて、振動数の海からその人に緊張を強いていた隠されたものをあらわにする。全体論的視覚の獲得と緊張緩和はその人とそのテーマとの関係を変え得る。こうしてセラピーが完了するわけだ。
我々はそんな決定的な一語に一篇の詩の中で出会うこともある。一枚の絵かもしれないし一連の旋律かもしれない。(たとえば民族音楽の中には、振動数世界で貯蔵されている民族の記憶のさざ波をうつしとったような旋律やリズムをもつものがある。)そんな出会いは、自分の個人史、文化、人間という種としてのすべての記憶の海の全情報をそのまま喚起する。存在の根にふれ、世界と自分との関係を変えてしまうほど強烈な体験となることもある。それは言語的でも映像的でもない。デジタルにしろアナログにしろ、出来事の抽象や記号化がなされる時にはすでに理性というものが介入している。そしてその理性というのは文化と歴史と生物的枠組みによって限定され学習され調節されてきた道具にすぎないのだ。この理性が見る実在とはひとつの相対的実在でしかない。それは文化や歴史や生物的条件を共有する人々の間ではゆるがない実在だし、その中ではいわゆる科学的整合性もある。しかし、ミクロの世界マクロの世界ではその整合性はすでに成り立たないというのはすでに「科学」も認めている。ヒステリー患者には彼らの見ている実在があるし、酔っ払いも、霊媒も、幼い子供達も、別の実在を生きている。一篇の詩の中の宝石のような一語がそんな相対的実在の根にある「意味」を一気に知らせてくれる。その「意味」は言語や映像に切り取られ矮小化される以前の未分化な全体感覚として体験されるのだ。
「聖」の回帰[#「「聖」の回帰」はゴシック体]
近代以降、分析的知性や機械論は科学技術的整合性の名のもとに世界をずたずたにきりきざんでしまった。人間の生物としての種の枠の中にさらに合理性という枠をはめこんで世界をデフォルメしてしまった。ホログラフィー理論は、そんな世界の全体性を回復しようというセラピー的な模索の中で生まれたし、その意味で有効性がある。
ニュートンやデカルトというきわめて西洋的な知性が合理世界を抽象構成したにすぎないのに、狭く絞った焦点の中での因果関係があまりにもうまく説明できてそれを自在に応用できるようになったため、近代西洋型社会は自然に対する全能感をもちすぎてしまった。ボームによると、科学は、ガリレオ以来、常に自然をレンズを通してながめることによって対象物化してきた。それによって人類史にとっては異常なほどに自然への畏敬から解放された自信に満ちた時代がはじまったのだ。
西洋社会がまだ中世的な無秩序と不安の中にあったときはキリスト教が人間と自然界に統合のモデルを提供していた。そこでは実証性が最重要視されないメタファーの中で整合性があった。世界と自然の雑多さや非合理な部分を統一的な理解にまとめる「パターン」を提供し、個人と世界の関わり方に一連の指示を与えていたのだ。キリスト教文化は他の文化と同様一つの適応システムだった。信仰というものは自己追認的傾向を示す。人は自分の信じるものを見たり聞いたり味わったりするようになる。ところが科学主義が技術という正当性の明白な証拠をもって登場した。ガリレオを異端として糾弾したカトリック教会も、科学理論の生んだ応用技術が次々に現れてからは、メタファーという自らの認識システムを支えきれなくなった。すべての文化は固有の知覚をひきだす。科学主義の中に生きるようになったキリスト教も知覚の変化をまぬがれない。近代ヨーロッパは、キリスト教ぐるみで科学の信じるものを見たり聞いたり味わったりするようになったのだ。(キリスト教は教義としてはもともと自然に対する思弁に欠けている。自然も人間も被造物として神との関係に位置付けられていて、人間と自然との間の関係についての思弁はむしろエゾテリズムや自然哲学という傍流の中にあらわれていた。だからいったん科学的知覚を獲得したあとではキリスト教は案外簡単に合理的世界観を採用した。)
そうなると適応システムとしてのキリスト教の意味は薄れて当然の神ばなれが起こってきた。もともと聖なるものというのは、不知を前にした畏敬の念の中で逆説的に出会う全体感覚である。自然に対する全能感をもってしまった人間が聖なるものへの感受性を鈍らせてしまったのも当然だ。
ところが二十世紀後半には地球レベルで技術主義のつけがまわってきて新しい危機感が生まれた。全能感は崩れさり、霊的な感受性が回復してきた。その上に、科学主義の進歩は、科学の実証性を支えていた知覚そのものの限界に疑問を投げかけるにまで達した。科学の初期には、脳や感覚器官の知覚作用のプロセスを解明することに夢中になっていた。その結果プロセスについてはある程度分かってきたのだが、それを意識的には検閲することは不可能だという壁につきあたった。木々の枝や葉をいくら分析しても山の形が見えるわけではない。知覚のメカニズムを解明したところで、人間がある対象物を見てそれを理解するということの本質は実証できない。自然を観察している目はその自然と有機的につながっている一部だからだ。感覚器官は常に適応システムの中のフィルターでしかない。その意味で、知覚とは一つの文化なのだ。
いいかえると、超常現象と呼ばれるものの「常」というのは一つの文化にすぎない。超自然の「自然」というのは、近代合理主義がせいぜい何百年かの間に抽出した宇宙像にあわせて知覚を誘導してきた末に聖俗の集合体が共同して見るようになった自然にほかならない。超自然というのはそんな自然の枠に入らない全体性からのメッセージだ。ホログラフィー理論は科学主義に全体性を導入したホロノミーの一環として模索されていて、科学の修正と言ってもいい。そこには、ある生命体の全体性というものは、それ自身の情報システムによっては完全にカバーされることはありえないという認識がある。自分をふくむ全体性を知るときの知り方というのは、実証的合理的ではなく逆説的弁証法的なものだ。
もっとも逆説的弁証法的な思弁をも抜きにして直接にそれを知ることもある。これは神秘家が神を知る知り方に似ている。そのうえ、科学によって細分化し矮小化してきた対象物としての自然から、もっと大きい生命圏に目をむけたとき、科学の手の届かないところにも不思議なコミュニケーションの規則性が浸透していることがわかる。生物学的な因果律のすべてを物質的インパクトだけで説明するのは到底不可能である。生命圏を生命圏として成り立たしめている有機的なユニティを想定せずにはいられない。それは、生まれる意志、生む意思みたいなものだ。生命体には内在的な精神特性がある。それはあまねく浸透して、宇宙が生きている限りある方向性を決定していくなにかだ。これは宇宙が神から創造されて、神はそれにずっと干渉し続けているという神学に近い。ここにいたって科学は精神を、心を、「聖」をとりこみはじめた。「聖」とは、本質的に「不知」のものであって、この「不知」を、不知をふくんだ全世界とともに受け入れるのが信仰だ。二十一世紀を前にした時代の思想の先端にこうして「聖」と「信仰」がもどってきた。
4 超常現象と飛ぶ聖女
「聖」と「信仰」を視野にいれた全体論的宇宙は、科学のディスクールでは論述しきれない。科学の方法論の大半は、物理化学的因果関係を記述するのに適応したシステムだからだ。ひとつの生命体を記述するには無数の記述的言明を要する。しかしそれをどんなに緻密にしても、コミュニケーションのネットワークはとらえきれない。この相互連動システムを解析するには物質の分析ではなくてパターンの分析が必要なのだが、これは結局その根本にある「不知」の部分の現れ方を探ることになる。これはかってキリスト教神学が得意としてきたものにほかならない。いや神学ばかりではなく、ヨーロッパの過去においてカトリシズムはそれ自体が生態学的な極相のようなものに達していた。つまり分化と複雑さとエレガンスとが最大化したひとつの半安定システムに進化していた。それ自体がホロノミー的視野をもった有機的怪物になったばかりでなく、科学の目という知覚を採用した後でも、「不知」の部分を巧妙に守る「信仰」へのシフトというテクニックを維持しつづけた。生物の柔軟性を守るのには情報の分配の不均等が必要だ。個々の部分がすべての情報にさらされるといわば過飽和の状態になって全体としての円滑な機能が妨げられる。「全知」は生命体に不可能だし、情報過多も毒になる。健康な生命体には一体性柔軟性の一要素としての「不知」が必要だ。「不知」と「情報のセレクション」とは生命体存続のための自己防衛機構とも言える。それゆえ個々の生命体はその内なる「不知」にすら気付いていないが、宗教体というものは「不知」を守りつつもたえずそこから発生するテンションを維持し管理する必要がある。そのテンションなしには宗教体は、信者と世界との関わり方の指標を与える機能を失うからだ。中世まではこういった「不知」のテンションは民衆の日常にも蔓延していた。その緊張やそれが生む不安とどう関わっていくかということについて指示をするのに教会は老練だった。
ところが科学によって「不知」が封じ込められて人々が物理化学的な整合性のみをもった世界を見るようになってしまってからは、「聖」や「不知」はたんなるインターフェイス現象にまとめられてしまった。「啓示」や「御出現」や「空とぶ聖者」は、詩人や魔女や大道芸人のようなマージナルなところへ追いやられた。「不知」のテンションを生きる意味に変えていくすばらしいテクニックとレトリックをもっていた神学は、それを「宣教」的価値のある奇跡的治癒というインターフェイス現象の解析にのみ使うようになっていった。
だからこそ世界中を自在に翔びまわったイヴォンヌ=エメは法王庁の文書庫に二十五年間も眠らされたのだ。ところが二十五年の間に、時代は「不知」への感受性を取り戻した。量子力学からにせよエコロジー的視野からにせよ、全体論に至った人々は、古今東西の神秘主義者の残した言葉に新しい「知り方」の可能性をかいま見てインスピレーションをかきたてられた。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は今までにないスピードで福者聖者を量産している。「不思議」や予言者や教祖が巷にあふれるようになった。
二十世紀末の西洋型先進諸国では「不思議」が、中世的な不安とは違った意味でいまや日常的な風景となりつつある。けれどもこの「不思議」がそれを「意味」に転換できる力と出会わない時には、マージナルな場所から解放された「不思議」たちは、再び矮小化されていく。「意味」と切り離された「情報」となり、使い捨てのモードになる危険にさらされている。こんな状態においては、「不思議」は社会の中でうまく機能できないとか他者とうまくコミュニケートできないとかいった不適応者のみをよりひきつける傾向がある。例えばフランスの統計によると十代後半から二十代前半の若い人が圧倒的に「不思議」や「超常現象」を信じている。これは彼らが社会に適応していないからというよりまだ正式には社会の中で機能していないからだ。ところが現に実社会にうまく適応しながら現役で働いている人達は「不思議」を前にしたとき、相変わらず一昔前の「科学万能時代」の感覚で疑い深い実証的な目を向けることが多い。ファッションとしては認めていても、その実在に関しては、「信じるためにはこの目で見なくては」という、科学的どころかアルカイックな反応がほとんどだといってもいい。そんな人達もちゃんと地球が丸くて回っているということや、細胞には染色体があるとか遺伝情報があるなんてことは見たこともないのに信じているのだ。では超常現象だって見たことがなくても「科学的に説明」できれば信じると言えばまだいいのだが、超常現象に関することに限って急に自分の五感にのみ閉じこもってしまうというのは、それを信じるかどうかが人間の実存に関わる不安に触れていると直感しているからだろうか。しかし、よくできた奇術だって見抜けないいかにも不完全な五感にたよるなどということはもちろんのこと、「科学的説明」にたよることすら、時代に逆行していることをそろそろ認識すべきだろう。旧「科学」がほころびたからこそそこから超常現象が街に出てきたのだ。ここに至って超常現象を旧科学の分析、経験的認識論のレベルにおとしめるのは、退行的だと言わざるを得ない。
ではどうするか。近代科学は観察を出発点にした。「目」は、虫メガネになったり、顕微鏡になったり、天体望遠鏡になったり、実験機械になったりとどんどん精密精巧になっていったかもしれないが、まず、「見よう」として、それから説明を考えた。ところが、今、全体論や神秘主義が我々に伝えつつあるのは、「見る」前に「知る」ような知り方が可能であるということにほかならない。
超常現象としての五神通についての思弁を残した仏教は、「見る」こと、「眼」について「五眼」という考え方も残している。肉眼はものの表面を見て、視界に限度がある。天眼は表裏遠近上下左右を自在に見る。慧眼はものの実相を知的に見て、現象の意味を見る。法眼は極楽や仏菩薩を自由に観見する。仏眼は「事として難たるものなく、思惟する知なく、一切法の中に照らす」。これでいうと透視などの超常現象はせいぜい天眼である。しかし天眼を見るのに肉眼をもってしても無理だ。すくなくとも現象の「意味」を見なくては理解できない。そしてその見方は、それが、宇宙的至福と明らかさを開示するときに完成する。科学は肉眼を技術の力で天眼に近づけようとし、慧眼で世界を説明しようとした。しかし慧眼とは決して肉眼を精緻化することで到達できるような境地ではなく、むしろ肉眼を閉じ、それを超えたところではじめて開いてくる眼といったほうがいい。どんなに精緻化したところで所詮かぎりある肉眼で抽象した世界をいくら理解しても、全体性の根からやってくるメッセージは視界に入ってこない。人は宇宙との調和に至るような知り方でまず知った後でようやく真に見るのだ。
音楽の録音と再生の技術の推移を思い起こそう。ノイズを押さえて、音の立体感をだすために、蓄音機の鉄針を竹針にかえたり、レコードの素材を変えたり、スピーカーを工夫し、ラジオの技術が向上し、デジタル録音が開発された。初期には生演奏を思い出すよすがにすぎなかった再生技術が、どんどん精緻になってきた。それは技術者もリスナーも生演奏とは何かをすでに「知って」いて、それに限りなく近いものを追い求めてきた結果である。求めているものを「知って」いるとき、表現技術はその時々の能力を超えて夢を見る。どんなにテクニックを向上させても決して「本物」を得られることがないのをよくわかっていながら、ひとつの無限に永遠に挑戦するのだ。「知っているもの」と「得られるもの」との落差がテンションとなってエネルギーを生むからだろう。どんなによくできた録音再生にも欠けているものが必ずある。それは演奏者と聴衆との関係性だ。その関係性が音楽を変え再創造する。もちろん生演奏でのこういった音楽体験の創造の秘密は「不知」のままである。けれどもその関係性を生きたことがある人はその「意味」を「知って」いるのだ。「不知」を前にしたときの憧れを知っている。そんな技術者は挑戦を続けるし、リスナーは一枚のレコードから流れる音楽に自分を投企することができるかもしれない。デッサンの技術や写真技術もこれに似ている。自分の表現しようとしているものが何かを本当に知っているときテクニックは向上する。そして本当に知っているというのは自分との関係性との中で知っているということだ。
しかし知る前にテクニックが先行するときには、似非創造者としての全能感がかえって憧れを消す。レコードでしかオーケストラ演奏を聴いたことのない人にはそれが完結した世界になってしまう。宇宙や自然と人間の関わり方にも同じことが言える。自分を含めた生命としての宇宙のオーケストラを一度も聴いたことなしに全宇宙を再構成しようとしても「秘密」のないよくできたメカに行きつくだけなのだ。
十八世紀のスエーデンの神秘家スエデンボルグは科学研究者でもあり技術者でもあったが、五十代半ばにして神や天使と交流しはじめた。彼は、「眼から発する思考は理解を閉じるが、理解から発する思考は眼を開く。」といった。超常現象を「見る」ときはこういうふうに開かれた眼で見なければならない。超常現象こそ自然と人間のデュオの最前線であり、新しい創造の現場かもしれないからだ。
「理解」がないところに「意味」はない。そして「全体性」は「意味」をもっているとするのが「信仰」なのだ。いわゆる科学的正当性の概念はそこでは消えさる。全体性として、宇宙の生命体としての目的に応じた正当性が唯一の意味のある正当性だ。意味のある「正しい」答えというのは個を全宇宙的生命体とむすびつけるようなものである。
アンドレ・マルローは、二十一世紀は神秘主義の時代だろうと言っていた。人が生きるところにはいつも最初に神秘主義(ミスティック)があり、次に形而上学(メタフィジック)が生まれ、次に物理学(フィジック)の時代がやってきて、文明をつくる。文明が最高潮に達したところで必ず野蛮人(その文明の内なる野蛮人であることもある)がやってきてそれを破壊する。すべてが破壊されたあとで同じサイクルが始まる。神秘主義が還ってくるのだ。今はその時代にあたっているというのだ。そして神秘主義の時代なしには新しいメタフィジックも新しいフィジックも生まれない。
フランスでは日曜日の教会のミサにでる人がどんどん減っているし司祭養成の神学校もがらがらだというのに、修道院入りを願う修道士志願者は逆に増えてきつつある。有機体としての極相に達してしまったあとの必然的な衰退をたどったカトリック教会は近代化という名の進化なしには生きられないことを認めはしたが、二千年かけて「宗教」の中にねじりこみ閉じこめてきた「神秘」をどう開放していいかわからず扱いかねている。
しかしカトリック教会は依然として「信仰」のレトリックと救済力に関しての大実力者だ。「宗教」が疲弊して「信仰」なしの「神秘」が跳梁しつつある時代にカトリシズムの知恵は積極的にみなおされてもよいはずだ。そしてカトリシズムの「神秘」と「信仰」の知恵というのは常に、神秘家と聖者への対応策として研ぎ澄まされてきた。なぜならすべての神秘家は、神との関係を「宗教」の媒介なしに「信仰」だけで生きてしまう存在だからだ。とくに超常現象を「神の恩寵」として生きた聖女たちは、司祭職として体制に取り込めない分だけカトリシズムがその扱いに最高のエレガンスを要求された部分である。いいかえると、カトリシズムという怪物の中で生き抜いた聖女たちこそ、人と聖なるものとの関係を社会と歴史という脈絡の中で実現させた信仰のエキスパートだということだ。
二十世紀末のひとびとの「意味」の模索の混迷と、科学主義のほころびのあちこちから顔をのぞかせた「不思議」たちは、茨につつまれた眠り姫の城をさぐりあてた。半世紀前に連合軍の英雄だった修道女イヴォンヌ=エメは、その超常能力ゆえに葬られたが、今目をさます。超常の聖女はそれだけで「説明不可能なこと」=「聖なるもの」の指標として機能するうえに、神という全体感覚を超常現象のたえずつきつける畏敬の中で生きていくことのモデルでもある。聖女が超常能力を駆使するにいたったのは、彼女がこの実在の奥にある「全体」を「知っていた」、少なくとも「不知」の「意味」を「知っていた」からだ。だから注意深く聖女を見るとき、聖女はいつも宇宙の脈絡の中に透けて見える。そんなときは聖女は霊の認識論をつきつける逆説としてのコードとなるのだ。イヴォンヌ=エメというやっかいな眠り姫が目をさましてもう一度天をかけまわるとき、今度こそカトリック教会はその全レトリックをかけてその飛翔をたすける必要にさらされる。個と神と、有機体としての集団と、それらすべてをかかえながらの「生」に「意味」をあたえるという信仰の老練者カトリック教会の手並みを見られるかもしれない。イヴォンヌ=エメの飛翔は、感覚世界と理論世界のはざまにあらわれるスリリングなメッセージだ。私たちの知覚は、生物として文化的な存在としてプログラムされている。逆にいえば、聖女につきつけられる超常現象を我々が「読む」ことを学べば、それで得た新しい心象や知覚は生命体としての私たちをプログラム化しなおすかもしれない。美しい詩の中の決定的な一語との出会いのように、ひとりの聖女をとおして私たちは生命との新しい関係に参入できるかもしれないのだ。そんなときに顔をあげれば、すべての聖女が空を飛んでいるのが見えるだろう。
そして、カトリック宇宙のすべての聖女や天使が空を飛ぶように、イヴォンヌ=エメも空を飛んでいる。ドゴール将軍に表彰されたフランス対独戦線の功労者、ローマ法王に聖別される日が永遠にこないかもしれないほどに特異すぎた存在、腎臓障害で全身浮腫に苦しみながらアウグスチヌス女子修道会に君臨した修道院長、なめるような目でエグゾシストに検査された若い女、聖女になりたいと血で書いた少女、イヴォンヌ=エメは人生に翻弄されて翼を奪われた修道女だった。けれども時代が彼女を茨の城から飛び立たせた。
飛ぶことが彼女にとってイエスという男を愛した証しだから、そして愛はいつもどこか「癒し」に似ているから、イヴォンヌ=エメが天翔るのを見るとき、私たちは少しほっとする。ほっとして、愛する男のもとへイヴォンヌ=エメを飛び立たせてやったこの時代にいくばくかの希望がわいてくるのだ。聖女は希望の空を飛んでゆく。
[#改ページ]
あとがき
長年フランスに住んでカトリック社会に親しんでいるうちに、私は日本にいたときには想像もしなかったような「ヨーロッパの奥座敷」を覗き、ヨーロッパがカトリシズムを通して体感のように温存してきた「神秘」の影響力にずっと驚かされながら研究を続けてきた。
数年前の夏にパリからかえって旧友の中沢新一くんと東京で出会ったとき、私のブレスレットにぶらさがっていた「奇跡のメダル」を彼は目ざとく見つけた。隠れマリアファンの彼に請われて、メダルをプレゼントして、マリアの奇跡の話をいろいろしていると、いつものように「自分だけ楽しんでないでちゃんと日本語で書いてくれよ」といわれて、そのまま二人で私の最初のワープロを買いに行くことになった。
友情と、日本のテクノロジーに感心したこととを記念してはじめて書き下ろした論文が「パリのマリア」だ。煩雑を避けるためにあえて注や出典をつけなかったが多くの研究書を参考にさせていただいたことはいうまでもない。
その後、もっと多くの人々に、あまりにも知られていないキリスト教世界の神秘感を体感してもらえるようなものを書こうということになって、「闇の中のロゴス」と「天翔る聖女」が生まれた。スリリングでスキャンダラスですらあるこれら「神秘の世界」は、どうかすると興味本位で断片的にのみ紹介されて、その中にある普遍的なメッセージはなかなか見えてこない。けれども、「神秘」だとか「超常」だとかがこれほど私たちを魅了するのは、そこにきっと私たちのかくれた「希望」を喚起する何かがひそんでいるからではないだろうか。その「希望」がこの本を生んだといってもいい。
ここまで見守ってくださったたくさんの方々に深くお礼を申し上げたい。筑摩書房の森本さんにひきあわせてくれたのはパントマイムのヨネヤマママコさんだ。幻視《ヴィジョン》の中で見た理想の住処を求めてはるばるフランスまでやってきた彼女と、霧深いセーヌ河畔に目的の家をさがしあてた思い出もなつかしい。編集部の児玉さんや、本ができるのをずっと楽しみにしてくださったパリのシューベルティアードのメンバーのみなさんにもとても感謝している。
でもなんといってもこの本ができあがったのは、公式のキリスト教史から黙殺されてきた数多くの聖女たちのおかげだ。泣き叫んでもおかしくないような状況にありながら、祈り続け、愛し続けた彼女たちから受けた無形の励ましは今も続いているし、今度はそれをこの本を通じて多くの人と分かち合えると強く期待している。
一九九四年三月
[#地付き]竹下節子
竹下節子(たけした・せつこ)
一九五一年生まれ。東京大学大学院比較文学比較文化修士課程修了。パリ大学比較文学博士課程を経て高等研究所でカトリック史、エゾテリズム史を修める。比較神秘思想という特殊な研究を学際的、人間学的に構築しなおして、今日的なメッセージとして伝えていくことを課題にする。現在パリでクラシックギターアンサンブルのメンバーとして演奏活動も続けている。主な著書に『知の教科書キリスト教』『ローマ法王』『ジャンヌ・ダルク』『聖者の宇宙』など多数。
本作品は一九九四年三月、筑摩書房より刊行された。