田辺聖子
ヨーロッパ横丁たべあるき
目 次
行ってきましたヨーロッパ
おせいさんVSカモカのおっちゃん
ロ ー マ
ヴ ェ ニ ス
マドリッド
バルセロナ
パ リ
あ と が き
文庫版のためのあとがき
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行ってきましたヨーロッパ
おせいさんVSカモカのおっちゃん
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カモカ やっぱり緊張しましたなあ、十八日間。何せ、外国行くのは初めてやったから。
おせい おっちゃん、台湾とバリ島に行ったやないの。
カモカ でも、まあ、あれは日本の仲間みたいなもんやから……。
おせい 五十三にして初めてやから、ハイミスがようやく結婚したようなもんやね。
カモカ 知識だけはぎょうさんあってな、ただ体験だけがなかった! いわば今度の旅が初体験。やっとさぐり当てたうれしさいうか(笑)、いろいろ不思議な印象受けましたな。
おせい 童貞やったからよけい印象が強かったんやない?
カモカ 今まで外国崇拝一辺倒とか、外国から帰って来たら国粋主義者になってたいう人の極端な話ばっかし読んでたやろ。今度ヨーロッパへ行ってみて、それがいかにつまらんかいうことがよう分りましたな、ほんまに。
おせい それにしても、十八日間、おっちゃんがぜんぜん「和食、食べよう」と言い出さなかったのにはびっくりしたなあ。私はわりかし平気なほうやけど。
カモカ そうやね。
おせい 日本料理屋があるよ、ってけしかけても知らん顔してる。
カモカ 私自身も不思議やったな。どういうんかな、せっかくスペインとか、フランスとか、イタリアへ来ててな、日本食一食、食べたら、なんか損するような……。日本へ帰ったらなんぼでも食べられるやないかいう気があったしな。こんだけ毎晩飲んどる日本酒にしても、とくに欲しくならんかった。
おせい おっちゃん日本にいても外食だとようもたんのに、どうしてかしらね。
カモカ なんで三週間も飽きなんだいうたら、庶民の食べ物ばっかり食うてたからやと思うわ。これがホテルの最高級のものばかり食うとったら一週間ともたなかったやろな。日本でもおでん屋とか焼き鳥屋ばっかり行っとったらそら飽きまへんで。それとおんなじや。結局、どこでも庶民の食べてる物は飽きんということや思うわ。
おせい がまんしてたんと違う?
カモカ そんなことない! この年になって食べもののことでがまんするくらいなら死んだほうがマシや。そうやなくて、ほしくならんかった、ほんま。
おせい 私、今までワインなんてぜんぜんバカにして、あんな着色イチゴ水みたいなもの水みたいにガブガブ飲めるしアホみたいや思ってた。それが、せっかくご当地に来たんだからと飲んでみたら、これがおいしいの。
カモカ 店によって違うあの不思議さね。あれは立派やった。
おせい ああいう違いというのは、同じ醸造酒でも日本酒にはないわね。日本酒は全国だいたい同じような味になっちゃってる。
カモカ 青森と九州じゃ、ほんとうは味が違ってもよさそうなもんやけど……。地方によって多少違ういうことはあっても、向こうみたいに店によって違ういうのは珍しかったなあ。
おせい 「一店一酒」っていう感じで、店ごとに出てくるブドウ酒が違ってた。「一人一党」というフランス人の政治思想といっしょですね。
カモカ 私ら飲んだのはほとんど「当店特製のワイン」ちゅうのかな、その店だけのワインやったしな。
おせい そうね。
カモカ これ、うまい? なんて聞くと、この人なんてこという、てな顔付で「イエ〜ス」。
おせい それでいかにも自慢たらしく出して来る。うちとこのワインこそ最高、って感じで。
カモカ あれは楽しいもんや。
おせい それでワインのおいしさに開眼して……。
カモカ そうね、あれで家でもぼちぼちワインを飲み出したんやけど……。
おせい 日本のワインはまずいわあ。(笑)
カモカ あんた何ちゅうこという。この話、雑誌に載るんやでェー。
おせい そうやなくて、食べ物とのとり合せとか気候のせいやと思うわ、私。
カモカ 慌ててはる。(笑)
おせい ぜいたくなものじゃなく、庶民の食べ物を食べ歩こう、いってみれば屋台≠巡り歩こうって出かけたのが今度の旅行よね。残念ながら文字通りの屋台はなかったけど、わりかし庶民の食べ物ばかり食べてたんと違う? 観光客相手の店にはほとんど行かなかったし。
カモカ そうね。
おせい 地元の、ごく普通の人達が行きそうな店ばかり選って歩いてた。
カモカ 私ら日本でもそんな感じや。大阪でも神戸でも、外人、それも観光客の行くような高級なとこ、おもしろくも何ともないと思うてた。それが頭に残ってたんやな。それと、食べ物だけやなしに、食事どきの過ごし方とか、習慣とか、そういうもの見る楽しみもあったしな。
おせい 日本にいても、どっかへ行くと、その土地のもの食べて地酒を飲むいうことが多いもんね。私らほんと現地調達主義ね。
カモカ とくにあんたは、ほら、何ちゅうたかな。
おせい「猫またのおせいさん」です。
カモカ あんたの食べた皿には一物も残ってなく、猫も呆《あき》れてまたいでいく。
おせい あれは東北に講演旅行に行ったとき、無定見に何でも食べるのに呆れて三浦朱門さんが言い出したの。ちょっとひどい言い方やと思うけど……。
カモカ 当ってるやんか。
おせい 私もそんなふうに思えないこともない。(笑)第一、育った時代のせいか、食べ物を残すなんてとんでもない、思うし。
カモカ 私もおんなじや。
おせい それに、その土地でとれた物をその土地で食べてまずかろうはずがないもの。
カモカ そりゃそや。
おせい 今度行ったのはローマ、ヴェニス、マドリッド、バルセロナ、パリの五都市よね。それぞれにおいしい食べ物があったけど、私は、何といってもイタリアのスパゲッティがおいしかった。食事の度に食べてたけどぜんぜん飽きない。時間があったら食べ尽くしたいというくらいのもの。
カモカ あんた帰って来てからも、スパゲッティやいずこ、いうて。「船内くまなく」ってな感じでな。「たずねる三たび」や。
おせい そやかて、ほんとおいしかったから。
カモカ 私がいちばん印象に残ったのは、スペインの、サフランで香りをつけた貝とかエビとか入ってる……。
おせい パエリャ。
カモカ そう、パエリャ。それと、ローマの郊外の、何ちゅう名前やったかな、あの街。
おせい ロンチジョーネよ。
カモカ あそこの、ちっちゃな、言うたら悪いけど、汚ない店で食べたスパゲッティね。あのスパゲッティは私のイメージ通りのもんやった。それこそトマトソースだけの……。
おせい トマトだけのはね、ヴェニスだったの。ヴェニスの最初のお昼ね。
カモカ あっこもそうですよ。
おせい あそこはちょっと肉が入ってました。
カモカ 違う。おっちゃんがトマト言うたらトマトじゃ。文句あるか!
おせい なんかいろんなものが入ってたの!
カモカ 荷物をみな持って帰れ。ここは……あんたの家じゃ。(笑)
おせい ヴェニスのはほんとになにも入ってなくて、トマトのおつゆだけだったけど、ロンチジョーネのはちょっと入ってた。
カモカ そうやったかなあ。
おせい まだ言ってる。
カモカ それはそうと、ローマのパンはまずかった。なんであんなまずいパン出すんかなあ。
おせい それは最初の夜の、ローマ大学の近くの、学生食堂みたいなとこのパンでしょう。ジョバンニおじさんの店。
カモカ そう、最初行ったとこ。
おせい 石灰岩のごときパンやったわね。むしろうと思っても、エイヤッとかけ声しないとむしれないのよね、固くて。
カモカ 終戦直後に食べてたパンみたいで口のなかでコチャコチャ。パサパサや。
おせい なんでも食べる私でも、あれはちょっとひどいなあ思って、イタリアの人、こんなんおいしいいうのってガイドさんに聞いてみたら、いや、僕らでもあまりおいしいとは思わない。(笑)
カモカ イースト菌ぜんぜん入れずに焼いたいう感じね、あれ。
おせい でも、それは二軒だけよね。ロンチジョーネとジョバンニおじさんとね。それをのけたらだいたいにおいて、どこのパンもおいしかったわ。よく聖書やなんかに、パンとブドウ酒だけで食べるってあるでしょう。質素な食事なことは確かやけど、あれはまずいってことじゃないと思うわ、私。
カモカ そや。
おせい パン食べてブドウ酒飲んでたら、あとなにもいらないくらい、どっちもおいしかった。
カモカ 私もそう思うたわ。むしろあれ以外のものを入れたらだめや。
おせい パンとブドウ酒って合うのね。
カモカ そうそう。
おせい ウイスキーでもだめやしね。
カモカ 私はキリストちゅうのは食通や思うたわ、はっきり言うて。ヴェニスからマドリッドへ行く途中、ミラノにちょっと寄ったやろ。あの時見に行った『最後の晩餐《ばんさん》』見て。
おせい おっちゃん、キリストはん何食うとるのやろって、そればかり見てた。
カモカ 絵なんていうたらどうでもええ。(笑)そしたらやっぱりおいしいもん食べてます、キリストさん。パンとブドウ酒ちゅう、最高のものだけ。
おせい あと肉みたいのと果物があったよ。
カモカ そうやけど、肉とか果物はあくまで添え物や。パンとブドウ酒あったらなにもいらん!
おせい キリストのころのパンてジョバンニおじさんのところみたいなパンやないかしら。いまみたいな柔らかいパンあるはずないもの。
カモカ そうやろか。
おせい エイヤッとちぎったようなパンを十二使徒にわけてるわけよ。
カモカ それはわからへんぞ、キリストはどんなパン食べてたか。案外ええパン食べてたかもしれん。
おせい そうかしら。
カモカ 話は変わるけど、向こうの人とにかくよう食べまんな。びっくりしましたわ、ほんま。
おせい ほんとすごい量です。
カモカ 食べたいだけ食べて、肥えようがなにしようが、どうってことないやないかっていう感じや。だから私ぐらいの年齢やったらみんなでっぷりしてる。
おせい それもA級ばっかりやったわ。
カモカ そういうことぜんぜんこだわらない。男も女も。
おせい 高級なところはどうかわからへんけど、こんど私らが行ったような店は大振りな感じね、何もかも。とくにイタリアなんか金盥《かなだらい》のごときものに料理を入れて来たりしよる。
カモカ 日本はすぐ器がどうの、盛り付けがどうのいうやん。あれも必要やけど、あんまり強調されるとな。
おせい いいもんよ、でも。
カモカ 女の人はそういうのたまにやってみたいらしいなあ。私らちょっとそれに反感もつけどな。
おせい でも、気のきいたお皿に季節のものがちょっと出てきたりするのはいいものよ。味も繊細やし……。
カモカ 会席料理なんかご大層に勿体《もつたい》ぶってもって来よるやん。あれ、どうもな。男には、容《い》れ物よくてもかぼちゃはかぼちゃやないか、いう気があるし、この容れ物ぶん何ぼとられるかちゅうあとの心配もせなならん。(笑)非文化的やもんねェー、男って。
おせい それと、あちらで感心したのは食べ物を選ぶときの慎重さ。日本みたいにお隣しやはったから、じゃ僕もそれで、なんてことは絶対言わない。メニューを上から下までなめるがごとく丹念に見るわけね。太い毛むくじゃらの指でおさえながら。もちろん値段もしっかり見て。何を食べるか考えることがすでに食事の快楽のなかに入ってるわけ。
カモカ だから食事にかける時間がものすごく長い。夕食やと二時間、いや、三時間という感じやね、あれ。
おせい 食べるってことは、彼らの人生でものすごく大きなパーセンテージを占めてるわけ。時間が来たから仕方なくっていうんじゃなくて、食べることが快楽なんよ。
カモカ それにひきかえ、アメリカ人の食事って貧弱やねェー。
おせい 貧弱っていっちゃうと悪いけど、食べる物の範囲がごく狭いのよね、あの人たち。ヴェニスやったかな、あたしたちがともかく珍しいものをと、次々とお魚の料理を注文して食べてると、隣に坐ってたアメリカはカリフォルニアの田舎からきのう出て来ましたいうような夫婦がジーッと見てる。
カモカ あのジャパン何食うてはる、ちゅう目付でな。
おせい で、わたし、あの夫婦何食べてはるのかなと思って見たら、これがチキンフライとビフテキ。(笑)ヴェニスまで来てるんだから、もっとほかの物食べてもいいようなものなのにねェー。あの人たち、海の幸って知らないの。可哀そうに。
カモカ しかし、あいつら何であない大きいんかね。あれはやっぱり地球の害毒やね。日本人は横太りといっても腹だけで胸まわりなんかぺちゃんこや。ところが向こうはどんまるや。
おせい ほんますごかったわあ。腕の付け根なんかでもちっちゃな樽《たる》ほどあったのよ。
カモカ 戦争に敗けるわけやがな。
おせい イタリアの人があんまりようけ食べるんで、よう食べますねえ言うたら、ローマのガイドさん、アメリカ人なんかもっとすごいですよ、って。
カモカ 現にすごかったやんか。あんな連中おったら食糧なくなるはずやわ。
おせい 驚くほど食べて、もういくら何でもおわりやろう思ってたら、さらに甘ったるそうな大きなケーキをパクパク。びっくりしたわあ。
カモカ それを評論家か何かがえらそうに、「日本人は米ほかすからいかん」なんて言う。どうしてイタリア人、アメリカ人のあの食欲を言わへんでやな、日本人が米の一粒二粒ほかすことに目くじら立てよるんかなあ。
おせい ほんとそう思うわ。
カモカ レストランでもなんでも大人用とジャリ用がきちんと分かれていたのには感心したわ、ワシ。日本はみんなごっちゃやもんな。
おせい それは同感やわ。スペインでもイタリアでもちゃんと分かれてた。
カモカ 日本なんか若いヤツの方がでっかい顔してる。独身貴族やいうて。
おせい これはゴチックで書いてもらわんと。(笑)大人の行くところには若い人は行ってないというように、それはもう歴然と分かれてる。そして、学生なんかが行くジョバンニおじさんの店なんかは若い子ばっかり。
カモカ ヒゲはやしてるからちょっと見は中年みたいに見えるけど、みんな若かったな、あそこの店に来てたのは。
おせい そうあるべきやと思うわ。若いもんも中年もいっしょくたになってご飯食べてるというのは、あたしなんぼ民主主義や言うても解《げ》せない。(笑)だって食の好みも違うし、食べることと人生との関連なんていうことに対する省察なんてものも、若い人にはあらへん。とにかく腹へったから飯食おうかって、ふくれりゃいいという感じやから、あんなもの石ころ食べててもわからへん。
カモカ だいたい私から見ると、中年だけの雰囲気と、若いもんが入ったときの雰囲気では、むずかしい言葉やけども、空気の差言うんかな、そうとしか言いようがないような違いがあるわね。
おせい 京都に瓢亭ってあるでしょう、朝がゆ食べさすところ。あそこが今では若い子ばっかり行ってるていう話を聞いたの。私、がっかりだけど、もう断われないというの。
カモカ そりゃあきませんわ。大人用の別館瓢亭でも作らんことにはな。
おせい 店の人かて困ってる言うてたわ。
カモカ そやろな。
おせい そうやって大人の数少ない楽しみ場所なくしてしまうでしょう。だから日本には大人文化が発達しないのよね、いつまでたっても。私の持論なんやけど、日本で目立つのは子どもと老人ばかりで、成熟した大人の行き場所ってのはないのよね。幼稚から老境へ。食べ物だって何だってみんなそう。
カモカ ピンクレディから歌舞伎や。
おせい 料理について言っても、子どもはお腹《なか》すいてるからむやみやたら食べるだけ。年寄りってのはそんなに量食べられないでしょう。だから質量とも味わえるのは中年なのよ。
カモカ なのに第一線に立ってるのは年寄りと若いもんばっかりや。
おせい 後方でばったり、ばったりと倒れているのが中年なのよ、ほんとに。だから、大人同士が談笑しながら食べられるようなところもできへんし、大人の文化ってのがないの。おっちゃん、頑張りましょうよ!
カモカ あまりにも身につまされる話やな、ほんま。
おせい 食べ物にしても何にしても真髄というのは中年が受け持たないとだめ。マドリッドで行ったマイヨール門近くの店ね、あそこなんか、ふっと見渡したらみんな中年ばっかり。あれ、十時過ぎよね。
カモカ そやったかな。
おせい それで男も女もみんな楽しそうにしゃべくってる。
カモカ 楽しそうやったなあ。ワシ言葉がだめやし、何言うてるのか全然分らへんかったけど、子供がどうしたこうしたいう話やないことは確かやな、あれ。
おせい その中でひときわ高くゲタゲタゲタ、ゲタゲタゲタ笑ってた女の人がいたやない。ほかの店でもたいていそんな人、一人、二人見たけど、どうして向こうの女は無邪気かつ傍若無人《ぼうじやくぶじん》に笑えるんやろね。
カモカ 男は笑うことないからや、どこの国でも。(笑)笑おうと思ってもな、男はすぐ所得のことを考えるからな、女みたいに無邪気に笑えないですよ。あの人、大きな口開いて笑うてるけど、ワシよりなんぼ所得が上やろかなんて。(笑)どうしても冷い笑いになりますよ。
おせい それにしても日本ってなんで社会のなかで子どもに大きい顔させてるのかなあ。大人を最優先させてもらわなくちゃ困るわ。
カモカ やっぱり開発途上国だからです。私は、今、阪急電車で通動してまっしゃろ。今度ヨーロッパの乗り物に乗ってみて、日本の乗り物と何でこないまで違うかって思ったのは案内なのよ。ほんま日本のはこまかい。
おせい おっちゃん、タルゴ号でびっくりしたんでしょ。警笛も何もなしにふっと出たんで。
カモカ 行く前にいろいろと聞いてたからびっくりはせえへんやったけどな、あれで用が足りるいうことははっきり分った。それに比べて日本はあまりにも過保護やな。何も「次が終点ですから皆さま忘れ物ないように」、そんなこと言わんでもいいやない。ジャリ扱いですよ、まるで。おっちゃんはあっちのほうが好きや。
おせい パリから日航機に乗ってびっくりしたものね。それまで乗った外国の航空機のお嬢さんなんか肩いからして威張ってる。
カモカ そうなの、そうなの。
おせい 客を見おろしながら通路をカッカッ……。
カモカ お前らなんでワシの航空機に乗りくさったという感じ。(笑)
おせい なにもしないの。用があったら私の坐ってるところまで来なさい、そしたら事によってはやって上げないこともないいう感じよ。男のスチュワードだけがウロウロ。あのネーちゃんなんのために乗ってるのかというのが多かったのに、日航に乗ったらまあ、可愛らしい大和|撫子《なでしこ》がちょこまか、ちょこまか。ほんとにかゆいところに手の届くようなことをしてくれる。
カモカ あれきっと、ハイジャック防止のためや思うわ。(笑)
おせい 機内放送いうたら、右手のほうになになにが見えますなんてこまかく言うでしょう。
カモカ あれはちょっとやりすぎと思うわ。
おせい ほんまやわ。
カモカ 若いうちに外国行くのはええ言うけども、私らみたいに五十過ぎて、ある程度まで自分の見方いうのができてから行ってみたほうがまたもう一ついいんやないかいう気がしますな、私は。批評的に見ますし、わりかし公平に見られるからね。
おせい そうかも知れないわね。
カモカ そうですよ。実は私、自分が国粋主義者と外国崇拝者のどっちになって帰って来るかって楽しみにしておったん。ところがどっちにもならん。もちろんいろいろ感心したこともあったけど、そんな違わへんのや。そのこと、今度行ってみてようわかったわ。
おせい それを、ヨーロッパのことなら何でもいい言う人がいるから……。
カモカ それが不思議でかなわんのや。私から見たら、やってることぜんぜん変わらんのや。いいとこもあればおかしいとこもあるのは日本もヨーロッパもおんなじでな。日本はだめや、なんて卑下することない思うわ。
おせい ほんまや。
カモカ あんたいつも言うてるやん、人のことジロジロ見るかどうかが文化的、非文化的の分かれ目や、って。
おせい 私、足が悪いからとくに感じるのよ。
カモカ その点で言うたら、日本人のほうがまだつつましいで。向こうの人は、それは激しいわ。好奇心むき出しにジーッと見つめるからな。立ち止まって通り過ぎるのを目で追うてる。自分が引っくり返るぐらい見てますで、ほんまに。カフェはそのためにあるのやで、きっと。(笑)
おせい 私はフランスの女の人のこわいのに驚いたわ。何か視線がけわしいの。
カモカ パリのシャンゼリゼのカフェでお茶飲んでた時、私もそれ感じたわ。それまで、ワシ、フランスの文化は最高やいうし、フランス人てのはみな幸福やと思っていたわけ。見てましたら、とにかく着てるものは最高で、スタイルでもごっついのよね、ヒップアップで。あんたみたいにヒップダウンやないの。
おせい へへへ。(笑)
カモカ ところが、みんなの顔が暗いのにふっと気付いてな、びっくりしたわ。
おせい そうなのよ。
カモカ 眉間《みけん》に縦ジワ刻んでな。
おせい 毛皮なんか着てる人がとくにそうなのね。
カモカ ふつうの労働者が労働しているウイークデーの午前中に着飾って買いものとかで出て来てる人たちやから、どう言うんかな、こっちで言うたら芦屋の夫人みたいな人たちやね、あれ。その顔が欲求不満なのね。だから男はみんなインポやないか、私はそう思いましたで。
おせい それはどうか分らないけど(笑)、みんないらいらしている。あれはアンニュイなんてもんやないわ。
カモカ 松下幸之助の嫁はんみたいなのようけ歩いているのに、ちっとも楽しそうに見えないのね。不思議やったねえ。
おせい でもスペインなんかにはとてもいい顔の人が多かったわ。ものすごい下等な興味を表わしておっちゃんのいうように自分が倒れそうになるくらいジーッと見てく人もいたわよ。だけど顔はとてものんびりしててよかったわ。たとえば、バルセロナに行くんでタルゴ号に乗った時、おっちゃんに列車の傍《そば》で写真写してもらったでしょう。あの時でも横に車掌のおじさん来て、なんやいな、いうような顔して見てる。それでおっちゃんがカメラ構えているのを見たら急に緊張して。自分も写ると思ってね。(笑)
カモカ ヒゲを直したりしてな。(笑)
おせい 悪い言葉で言うと民度が低いんだけど、ものすごく無邪気なのね。私はああいう、すれてないのが好きやわ。それに比べるとフランスの人たちは視線がけわしいんでなにしろ恐ろしかったの、私。
カモカ とくに女性がなあ。
おせい そう、獲物を狙《ねら》うワシのごとくで、眉間に縦ジワ寄せて肩に毛皮を羽織って、あたりを払うごとく、カッカッと歩いてくるの。
カモカ それと、パリの最後の夜に行った店、フーケ言うたかな。
おせい そう。最後やからちょっと気取ろうかいうて、ドレスアップして行ったのよね。ところがなんか手違いがあったらしくて、そんな名前の予約は受けてないし、テーブルも空いてないとかで入ったところで私らがマネージャーとごちょごちょやってた。その時左手に坐ってた中年の夫婦の目付いうたら……。
カモカ すごい顔してましたなあ、あの二人。
おせい もう……ばかにしてるの。黄色い顔のドジャパンが何をごちょごちょ言いおる、身分違うやないかというような顔でね。あるかなきかの笑いを口辺に浮べて……。アホがって見てたのね、あれ。
カモカ 不愉快やったな、あれは。
おせい 断わられた腹いせやないけど、ホテルに帰ってさんざんフランス料理の悪口言ってた。あんなに原形もとどめないほどねたくたにして、ぜんぜん違うもんにしてしもうて、あれはもう料理やない、料理ちゅうのは自然を残さなあかん、なんて。
カモカ そやった、そやった。
おせい ローマでは復活祭の休暇にぶつかって往生したわ。休んでる店が多いとは聞いてたけど、いざ、と張り切って夜の街へ繰り出したものの、ことごとくといっていいくらい閉まってる。そのうち雨は降ってくるし……。日本だとかき入れ時ってなわけで、休みの日なんか仮に協定結んでも必ず抜けがけ組が出てくるのにね。
カモカ あの辺は徹底してるわ。
おせい スペインの食べもの屋さんでもそう。開くのがだいたいお昼すぎでしょう。三時頃から長い昼休みやって、思い出したころにまた開ける。そんな調子だから夜中の二時ごろまでやってるのかと思ったら案外早くにしまってしまって。
カモカ 横着者となまけ者との尻押しみたいなもんや。
おせい でも料理って、そのぐらいのゆとりがあってせんといかんのと違うかなあ。ともかく、たくさんお客さん入れようとか売上げ上げようなんてことを考えてたら、お料理なんておいしさと両立せえへんと思うわ。
カモカ そうや。
おせい それにしてもなまけものやわ、ヨーロッパの人って。ヴェニスのコレール博物館やったよね。四時閉館と聞いていたのに三時半ごろから館員のおじさんが帽子かぶって、オーバーなんか着こんだりして、出口あっちっていうのね。私たちがどうも最後らしくて、閉館時間になってないのに、私たちの後を追うようについて来て片っぱしから部屋の電気をパチッパチッ。ゆっくり見てもおられないのよ。にこにこしていて感じのいいおじさんだったけど、時間が来る、即、っていうのは……。
カモカ 閉館時間前やで、あれ。時間が来た後やったらええんや。
おせい 働いているのは仮の姿。一刻も早く家に帰って自分の生活を楽しもう、いう感じや。
カモカ ふつうの店でもそうや。客がいようがいまいが、閉館時間のほうが大事であってな。あれはおもしろい。
おせい ミラノで乗り換えに時間があってもったいないからとドゥオーモ見に行った時、ドゥオーモの前の広場を一所懸命掃除してたおじさんがいたやない。あれ、朝の八時半ごろよ。だから、同じイタリアでも地方によって違うのよね。
カモカ それまでローマ、ヴェニスと見てきてなまけもん振りに呆れ果ててたもんやからやっと安心してな。朝から働いてる人見て。
おせい ああ、人間はこうでなくちゃいかん……。
カモカ 言うた途端に吸ってたタバコを掃いたばかりのとこへポッとほかしよる。(笑)
おせい ガックリやわ。(笑)
カモカ 今の話な、私はあれ見た時、あっ、権利と義務ってこれやったんか、分った、いう気がしましたな。書物を何冊も読んだだけの勉強しましたよ、ほんま。
おせい どういうこと?
カモカ 向こうは道路とか広場とか、公共の場が清潔ということよく言われまんがな。あれな、ゴミほかす人がおらんいうことと違うんで、掃除をぴしっとやるからなんや。日本の駅のホームが汚ないいうのは掃除させてへんからと思うたな、私は。
おせい そやろか。
カモカ こん前、日本でタバコの吸いがらを、そのあたりにほかしちゃいかんというキャンペーンありましたやん。それが頭にあったさかい、掃除のおじさん吸いがらをどうするか興味ありましてな、実はジッと見てましたん、私。そしたら自分の掃除したあとにポッや。掃除するのは自分の義務で、それは果たした。そのあとタバコをほかすのはわしの自由やいう感じよね。つまり、私の言いたいのはな、道徳をもち出して個人を規制しないということですよ。ああしたらあかん、こうしたらあかんと言わずに後始末をきちんと考えるんやね。ところが日本は個人を規制するばっかりや。
おせい 言ってもきかないからじゃない。だいたい信号なんか守ってる人あらへんやないの、イタリアでも、スペインでも。
カモカ そう、私はそれ言いたい。外国では信号ってのは規則やなしに、警告やって感じしましたよ。
おせい 私は気休めだと思うの。目安につけてあるだけ。守れとはいわん、まあ相なるべくはって感じやわ。
カモカ 日本では信号が赤の時にな、急いどることやし車も来いへんしと思って渡ると、待ってる人たちが非難の目で見るよね。おかしいなあって前から思ってたけど、こんど向こうへ行って、なるほど思ったわ。信号なんてものは目安であってな、無視して渡って怪我したら、それは本人の責任であって、待ってる人が、その人を非難の目で見ることないんや、ほんま。あれが結局愛国婦人会になるのよね。
おせい ほんまやね。
カモカ 今度行った町の中で住みたいところいうたらパリやね。そりゃ恐《こわ》そうなおばはんはいっぱいいました。でもな、何せ他人に干渉しないってことが徹底してますやん。私ら、在郷軍人会とか、隣組とか家庭のことまでお互い干渉した時代、経験してるやん。私は昔からあれ大嫌いでな。
おせい パリの人って大阪人に似てるとこあるんやないか思うたわ、わたし。
カモカ あんまり他人のこと気にかけんいうことかいな?
おせい それもあるけど、文化にせよ料理にせよ、とにかく自分とこが最高って思ってる。
カモカ そや、どちらも中華思想なのね、おっちゃんはあんたと違《ちご》うて生粋の大阪人やないからそれがよう分る。
おせい 大阪を表現するのに、よく|ど根性《ヽヽヽ》て言うでしょう。だれが言い出したんか知らないけど、あんなん嘘《うそ》よ。お金使うのが好きで、遊んでばっかりやけど、いったいあいつ、何で食うとるのやろと友だちが言うようなのが本当の大阪人なのよ。生粋の大阪っ子にはど根性なんかでお金ためてるなんて人いてへんのと違うかしら。
カモカ ワシ、あれは平等思想や思うわ。先祖がためた財産を使わんならんいう感じや。(笑)
おせい 使命感、義務感からつらいなあ言いながら使《つこ》うてはる。(笑)でもほんと二代目は使うべきよ。そしたらよその人が潤うんだから。
カモカ 大阪女はフランス女に似てます。パリ女に似てます。一所懸命つくします。
おせい もう苦い顔してはる。よく芸人が女房もらうなら大阪女はやめて京都の女をもらえっていうわね。大阪女ってのは、男につくすのよ。「あんた、売れへんかてええやないの、ちょっと遊んでたらは、私が稼ぐから」、言うてしまうから、芸人はなまけて大成しない。
カモカ なんかそれとそっくりやな、ワシの生活。もう、耳痛いわ。(笑)
おせい 京都女は亭主が売れへんかったら、あほらしもないとさっと出て行く。そやから芸人は発憤して一所懸命になるんですよ。パリのガイドさん、フランス女もものすごくよくつくすって言うてはったね。そうだろうと思うわよ。
カモカ あの人はのろけ半分やった。(笑)でもな、まじめな話、私もそうやないか思うわ。
おせい 少し食べなさい、おっちゃん。悪酔いするよ、しゃべってばかりいて、ぜんぜん食べてへん。
カモカ しゃべりないうことかい。あんたがあんまりおとなしすぎるから、私がしゃべるのんじゃ。だって私な、ヨーロッパへ行ってちっともしゃべられへんかったやないか。いまその分しゃべっておるんじゃ。だからもう少ししゃべらしてえな。
おせい わたしはこのあと書くんだから、今日みんな話しちゃうわけにはいかないの。おもしろい話はいっぱいあるんやけど、それはあとのお楽しみにとっとくの、へへへ。(笑)もう三時やし、今日はもうやめときましょう。
カモカ そんな殺生な。
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[#地付き]於/伊丹・田辺氏宅
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ロ ー マ
1
「屋台というもの、外国にもあるんでしょうか?」
という話が出て、
「屋台で無《の》うても、赤|提燈《ちようちん》とか縄ノレンとか、それに類したものがあるのとちがいますか。大体、古い町にはあるもんです」
「庶民がいれば、きっとあるでしょうな」
「外国の屋台て、何を食べてるんでしょう?」
ということから、それを探訪してみよう、ということになった。
そもそも私は、町の屋台というものに、多大なる興味と関心をもっているのだ。子供の頃から、一銭洋食やチョボ焼、ワラビ餅《もち》の屋台にむらがっていたせいかもしれない。
長じて、同人雑誌にいたころに、例会が果てると赤提燈や縄ノレンに入って、同人たちと安い酒を飲んだ。大阪の、キタは曾根崎あたり、ミナミは上六《うえろく》(上本町六丁目)やアベノ、などであった。
古いゴチャゴチャした下町の盛り場、ややこしく道路が曲りくねって、郵政省なんかがカンをたてて昔からの町名を一掃したがるようなたたずまいの町、そういうところに、赤提燈の店や縄ノレンの店は固まっている。どうもこういう、都市のバイキンとでもいうべきものがないと、人間の住む町の暖かみが出てこないような気がする。
いつか、作家の福田紀一氏としゃべっていたら、氏も、同じ意見だといわれた。大阪の財界が、大阪文化振興のために、中之島に劇場を五つも建てる、という計画をもっているが、そんなんより、
「大阪の文化をおこそう、思《おも》たら、安い飲み屋を沢山《ようけ》作れ、いうんです」
と力説していられた。氏によると、同人雑誌の一次会では「ええことしかいわへん」そうである。
二次会でだんだんアホなこといいはじめ、三次会ぐらいでベロベロになってからやっと、
「お前の小説、さっきほめたけど、実はあれはアカンぜ」ということになるそうである。
「それが文化ですわ」
と福田サンは主張する。
「高い金出して劇場作ることも大事やけど、ほんまに文化をさかんにしよう思うたら、二千円でたらふく飲んでくらえるような飲み屋をつくらなあかん」
双手《もろて》をあげて賛成。
私なんか、神戸でいつも食べる、屋台の立ち食いの串カツ屋、コップ酒二杯、串カツたらふく食べて七百円ぐらい、縄ノレンのおでん屋もせいぜい千円まで、それでまずいかというと、一流料亭と甲乙つけがたい味なのだから、私ごとき無定見の人間は、何とも複雑な感じ、いやもう、屋台や縄ノレンの店のない町には暮らせない。
大阪には千里ニュータウンという巨大な人工都市があるが、私なんかこの町へ来ると、悪夢にうなされる気がする。絵で描いたようなチリ一つとどめぬ明快|清澄《せいちよう》な住宅街なのだ。
天を突く団地はえんえんと丘の果てまでつらなる。
道路は白々と広く放射状に四通八達し、緑の木々は豪邸を包む。
洗いさらしたように清潔な人工の町である。
こういうのを見ると、私は、せつない。
涙が出てくる。
こないに人間の脂ッ気《け》を抜いてしもてどないするねん、という感じ。
屋台や縄ノレンというものは町のバイキンであってみれば、人工都市にあらかじめ、そういうものを作るわけはなかろう。しかしまあ、私は、町っ子であるから、夜は陸の孤島といったところに住む気はぜんぜん、しない。
高級住宅街などに住めといわれたら、泣き出してしまう。
そういう意味で、私が住んでみたい町は台北であった。町のどんなところにも屋台が出ていた。ここの屋台の特徴は、たとえば銀座の屋台のように酔客|嫖客《ひようかく》があいてではなく、市民の台所がそのまま道路へ進出した、という感じなのだ。
人々は家族づれで腰掛けに坐って、夜食を食べている。朝から屋台の腰掛けは満員である。安いから、家で食べるのも外で食べるのもかわらないのかもしれない。妙齢の美人が、ドンブリをかかえて朝飯を食べている。この間行ったのは真冬だったが、蓬莱《ほうらい》島の台湾は冬も暖かく、ポインセチアが赤々と咲いている道端で、人々がのんびり坐っているのもいい眺めであった。
夜おそくまで屋台はにぎわい、人々は群がる。
暖かい白い湯気が路上にただよい、おいしそうな匂いは町にたちこめている。屋台ではいろんなものがあって、ラーメンやスープ、蒸し肉|饅頭《まんじゆう》、豚の団子入りビーフン、やきそば、ギョーザ、チマキ、ありとあらゆるものがあった。
そういうのがあたまにあるので、ふと、
「ヨーロッパでも屋台はあるのかしら」
という疑問になったのだ。
そういえば十年前にいったヨーロッパ、アムステルダムとフランクフルトでは屋台をみた気がする。アムスでは魚、フランクフルトではむろん、ソーセージを煮立てていた。
「屋台というからにはやはり、暖かい国の方がおいしいのとちがいますか」
と私は、カモカのおっちゃんに意見をのべた。
「屋台は行儀のええもんと違うから、開放的な南ヨーロッパの方に多いかもしれませんな」
とおっちゃんもいった。
そういうわけで、私は、ヨーロッパは生れてはじめて、というおっちゃんと、諸国訪台の旅にのぼったのである。この台は台湾の台でなく、屋台の台である。
また、屋台、縄ノレン、赤提燈など安直《あんちよく》なる店は都市のカビやバイキンであるとすると、諸国訪バイの旅、ということもできる。
ところで私もおっちゃんも、外国語はさっぱりなので、言葉に堪能で事務にあかるい旅行社の青年がついていってくれることになった。名作『不如帰《ほととぎす》』の主人公の名前を二つながら姓にもっている人なので、いうなら、ホトトギス氏である。同行三人、羽田からルフトハンザに乗りこむ。
ゆく先はローマである。
ローマなら古き都であるから屋台や赤提燈ふうな店も多いであろうかと思ったのだ。
今度の旅はパリゆきの団体に便乗しているので、ヘンなコースである。そうして偶然、諸国の空港を見学できることになった。
羽田を出て十時間ぐらいして、まず給油でモスコーの空港に着いたのだ。間に機内食がいっぺん。型通りのものながら、私は日本航空のがいちばん美味《おい》しいように思う。ジャルはまずくて、いちばん機内食のおいしいのはスイス航空ですよ、という人もあるが、私はスイスのより日航の方が美味しかった。日本人はすることがこまかいせいか、チマチマしたパックの食べものもキチンとしている。
ルフトハンザがそうだった、というわけではないが、スペインあたりを飛んでると、隣の席の人のは種類がちがったりして、ずいぶん大らかである。数が足らなくてファーストクラスのを持って来たりする。パンがなかったり、デザートが足らなかったり、するのは、しょっちゅうである。
おっちゃんは、生れてはじめてのヨーロッパというので勇気りんりん、機内食も一物あまさず平らげ、水割りも飲む。
ルフトハンザの機内ではごつい大女のスチュワデスがいた。薄い金髪をうしろでまげに丸めてノッシノッシという感じで通路をゆく。
おっちゃんにとっては初見参の「ヨーロッパ」であるせいか、おしりをじーっと見ていた。
モスコー空港は雪であった。三月おわりというのに、おそろしい寒さ、いちめんの雪で、白樺の林が空港の向こうにみえ、地平線まで何にもない。空港のそばに人家や高速道路があり、飛び上ると目の下にすぐウチのマンションがみえる伊丹空港とはえらいちがい。
大きなだだっぴろい空港で人けはなく、兵隊があちこちにいて、旅行者をじろじろ見ている。少年みたいな兵隊もいるが、雪に晒《さら》したように真っ白い肌に、頬《ほ》っぺたがピンク色で美しい。
空港の中は暖房も利いていて、文明国らしいのだが、トイレへいってみたらドアはボロボロで水洗の水は出ず、紙は、薬包紙《やくほうし》みたいなのが備えてあった。空港で働いている人らしい女性が来て、悠々とこわれたドアを半開きのまま、用を足していた。
窓ガラスの外ではテッポーを持った、トビ色の口髭《くちひげ》の兵隊が外套《がいとう》を着て、ボンヤリ、いったり来たり、している。
この空港にいるソ連人は、何となく「つれづれなるままに」という感じがある。
私たちも「つれづれなるままに」売店でソ連の男のかむっている帽子を買っていたら、アナウンスがひびきわたった。飛行機に乗りおくれたら大変、「つれづれなるままに」の国にとめおかれたらどうしようってのだ。
「いま、何ていった!? おっちゃん」
「あほ、ワシにきいてわかると思うのか!」
いそいでホトトギス氏をさがす。
「ホトトギス、ホトトギスとて明けにけり、というのは、こういうのをいうのとちがいますか」
やっと飛行機にまた乗りこんで、旅をつづける。私は曾野綾子さんと一緒に旅をしたことがあったが、曾野さんは堂々として流暢《りゆうちよう》な英語を操り、全く頼もしかった。とてものことに私は、曾野さんとかホトトギス氏の庇護《ひご》がないと、|とつくに《ヽヽヽヽ》へは出かけられない。
その点おっちゃんは気らくで、
「なに、その場になれば何とかなります」
「おっちゃんは昔の教育受けた医者だからドイツ語はいけるんでしょ、つぎに着くのはフランクフルトだよ」
「ワシのは古いことなので、腐ってしもた。冷蔵庫へ入れてなかったのです」
「しかしカルテはドイツ語でしょう」
と私も執拗《しつよう》なのだ。
「カルテはきまったコトバしかない。思いがけん言葉は出てきませんからな」
私は外国へいくと(台湾・香港は別として)どうもコンプレックスを感じていけない。タテモノが巨大すぎる、何もかも高いところについてる、言葉が判らない、女の人が堂々としてる、なんてのに圧倒されるのだが、おっちゃんは、かいもく、それはないという。尤《もつと》もまだ外国のトバ口である。
太陽はやっとフランクフルト近くで沈み、美しい夜になる。ここの空港の美事さは、あとで見たドゴール空港の上をゆく気がする。空港の従業員はたてものの中を自転車で、キビキビと走り廻っていた。空港ショップの人もコーヒー店の女も、「つれづれなるままに」というカンじはない。最新の、近代的な磨き立てた空港で、キビキビと動いているのである。
ここからパリまで一時間。パリへ着くともう夜もおそく、十時半になっている。
パリの空港の雰囲気がまたちがう。空港の空気はやわらかく、女の声のフランス語のアナウンスは唄《うた》うようである。
目のさめるような金髪美人が、赤いセーターと赤いスカートで、なまめかしく歩いていると、両替の窓口の男もポーターも、カモカのおっちゃんも、いっせいに、じーっと視線をあて、美人のいく方へそろって首を曲げるのであった。
「かないませんなあ、女の子が通りすぎるまで手を止めて見てるんですから」
ホトトギス青年は、円をフランに替えてきて、窓口の男のワルクチをいった。
今夜はパリに一泊して翌朝ローマという、ちょっと勿体ない旅、空港からホテルまで乗ったタクシーの運転手は中年のおばさんで、助手席に犬を連れていた。十時半という時間なのに、けなげに働いている中年おばさんには感動する。
「これこそ、女性解放ちゃいますか」
とおっちゃんも感心したが、ただ女性運転手のこまるところは、荷物をトランクに積むのを手伝わないことである。
(それは男の仕事でっしゃろ)
という顔で、腰に手をあてて見ている。
このおばさんはしかし愛嬌《あいきよう》のある方で、ホテルの名をホトトギス氏がいうと、地図を出して場所をたしかめ、にっこりして「うい」といった。犬はかなり大きいヤツ、車に長年乗り慣れているのか、うずくまっていたのがおもむろに立って、うしろの席をじろりと見、
(野郎ども、乗ったか)
という感じで、ひと声「ワン!」と吠《ほ》え、私たちは度肝をぬかれた。
しかしパリの運転手には隣の席に犬をのせているのが多いようである。女性運転手だから乗せてるのかと思ったが、あとでパリへきたら、そうでもないらしい。四人でタクシーへ乗ろうとすると、横の犬を指して両手をひろげて首をすくめる運転手もいたから、三人以上乗せたくないためも、あるかもしれない。
ホテルへ一泊して翌朝早くローマへたつ。やってきた運転手は小粋《こいき》で陽気な「シャベリン」である。空港へいく途中の高速道路で、ゆうべ、ここでギャングとポリスが、
「バ、バ、バーン」
とやった、と片言英語でいう(らしい)。
彼は昂奮《こうふん》してしゃべりまくり、
(わからんかなあ、これが)
という感じで、いそいでハンドルから手を離して、新聞を肩越しに私たちにみせ、見ると、「アンパン男爵|誘拐《ゆうかい》」の一味らしい。写真を指で叩《たた》いて、説明し、あいまに、両手首を交叉《こうさ》させ、指を二本出した。
「二人、つかまった?」
と思わず日本語でいうと、日本語がわかるはずないのに、バックミラーで片目をつぶって、「うい」という。
「そら、ええけど、ちゃんと運転してや、前、見てや」
とおっちゃんとホトトギス氏はハラハラしていた。ホトトギス氏が何か注意すると運転手は澄んだ口笛を吹いて、そのさまは(わかってまんがな。任しとくなはれ)というようである。
いよいよローマ、というので、おっちゃんはネクタイをしめている。
「出入国の折はチャンとせな、係官に悪感情を与え、国家規模の紛争を招くかもしれまへん。何しろこのヒゲづらですから」
といっていたが、パリでもローマでもヒゲ男は多く、たちまちおっちゃんぐらいのヒゲでは目立たなくなった。
ローマの空港で、ホトトギス氏は荷物をうけとり、リラに両替し、アチコチ走りまわっている。私とおっちゃんはヤレヤレと椅子《いす》に腰おろしたが、テーブルの灰皿にびっくりした。アクリルの台にステンレスの灰皿をはめこんであるのだが、底はなく、吸殻や灰は床へ落ちるようになっている。受け皿でもあってタマタマそれが失われているのかと、私はじーっと覗《のぞ》きこんでみたが、そういうものが嵌《ほ》めこまれていた痕跡《こんせき》はない。
「あとは掃くようになってるんですかね」
「ローマらしいやおまへんか」
とおっちゃん。これがローマらしい、ということになれば、ローマとはどういう町なのか、まあしかし、おっちゃんもよくわからなくていっているのだろう。
空港はレオナルド・ダ・ビンチ空港とよばれるが、ここから市内へはいる道は、たいそう美しい田園風景になる。傘をひろげたような松がつづいていた。
ローマの町へはいって古い城壁がつづく。
「この石は古いねえ……なみたいていの古さやないですよ」
アメリカ人観光客がゾロゾロ歩いていた。タクシーから見てると、日本人らしい団体も居り、まだ春風寒い早春はホトトギス氏によると、
「本格的な観光シーズンではありませんが」
ということだが、日本とアメリカは季節を問わずやってくるらしい。日米観光合戦である。
「ローマは石で食ってる、ということをいう人がありました」
私は古色|蒼然《そうぜん》というローマの古い城壁の石が珍しくてならない。石にカビが生え、それが風化されて、カビか石か、という感じになっている。
「ローマだけかいな、今の医者学者、みなそうや。それぞれの分野の石で食うとる」
とおっちゃんはいう──それは小説を書いてる私のことにも通じるかもしれない。
ホテルはスペイン広場から遠くないホテル・エデンであるが、この「ホテル」という発音からして日本人にはむつかしい。外人の発音をきくと「ホテイオ」ときこえ、さながら私には「布袋男」という漢字で以《もつ》てあたまに浮んでくる。
布袋男エデンは古めかしい家具があり、ベネト通りからずっとひっこんでいるせいか、静かでよいところであった。
ただ、室内はいたくモダンで、壁につくりつけたたんすの戸は、鏡が張りつめてある。何のために鏡ばりにしたのか、鏡のドアは重くてならない。窓をあけると隣は古い城壁、古めかしい石の門が目の下にみえて、ローマらしくてよい。
晩までゆっくり休むことにする。ヨーロッパへ来てはじめての食事は、今朝のパリのホテルの朝食で、中年のおばさんが運んできたが、渦巻パンを床の絨毯《じゆうたん》へ一つころがし、どうするのかと見ていると、ちっとも動じないで、拾い上げて皿へのせていた。
フランスのパンはおいしいので、私はそれを食べた。水だけに不自由する。
ローマの宿でも、
「水、もろといて下さい」
とおっちゃんは何より|かに《ヽヽ》より先にホトトギス氏にたのんでいた。
「いままで見たところで、屋台らしきものありましたか?」
「いや、どうもそんな感じはなかった」
「下町に赤提燈はあるんでしょうか。いや、第一、アベノや上六といったところはあるんでしょうか」
「さあ。何しろ荘重森厳な遺跡ばかり、そのそばに屋台ひっぱってくる、いうようなことを、でけへんのとちがいますか」
何やら心ぼそい話になってきた。ポポロ広場を通ってタクシーは布袋男エデンに入ったのであるが、ローマは車の洪水、しかもその車がみな小さくて小まわりがきき、狂気せるカナブンブンの如く、躍り狂って走ってゆくのである。
信号なんか、大体守ってる、というところ、気やすめについているだけ、モダンな建物と、コワレカケの石のかけらの遺跡が雑然と入りまじっていて、妙な調和がとれていた。
2
夕方、ホトトギス氏が、ローマの町にくわしいガイドのM君を連れてきてくれた。ローマで彫刻の勉強をしているという日本人の好青年である。
M君の話によると、ローマには屋台でモノを食べさせる、というようなのは、(アイスクリームや焼き栗はともかく)日本風に一ぱい飲んで、というのはないそうである。
ただ、高級レストランとちがって、トラトリアという、家庭で経営している店が気軽で安くていいだろうということであった。苦学生のM君に、たまにはリッパなレストランでご馳走してあげられればいいのだけれど、今回の旅は、何しろ「訪台・訪バイの旅」なので高級レストランへいくと所期の目的が果せない。
なるたけ庶民風、という注文を出して、M君には気の毒であった。
運のわるいことに、この日は日曜で、あくる日から復活祭の休みに入る。ローマ三泊のうち、二日まで休日で、トラトリアもリストランテもなく、片端から休んでいた。
M君は一所懸命捜してやっと、
「僕ら学生たちがいくところでもよろしいですか」
と学生街で一軒だけ開いていた店へ連れていってくれた。「ジョバンニ」という店で、中は若者でいっぱい、口髭や頬髯《ほおひげ》でもじゃもじゃと掩《おお》われているが、みな若いにちがいない。M君によれば、
「ローマ大学の学生ですよ」
ということである。ローマ大学の学生は十万人あまりもいるだろうか、
「籍だけおいて兵役についているのもいますから。それに入るのはやさしくて出るのはむつかしいので」
イタリアは徴兵制なのである。
さてこの店は、ゴミゴミした感じ、一枚板のテーブルが、三つばかり店内に並んでいて天井の梁《はり》はむき出し、そこに大小さまざまのワインの瓶がぶらさがって調理場の油煙で煤《すす》けている。
腹の出た中年のおやじさんが、よごれた胸あてエプロンをつけて、注文を聞きにきた。そのあいまにも、うしろも前も学生たちのおしゃべりでかしましい。女子学生もいた。白ワインを挙げて談論風発ふう。
スパゲッティは細長いのでなく、ペンネとリガトーニという、マカロニの親玉のようなものしかない、という。
親爺《おやじ》さんはうなずいて、腹から先によたよたあるき、窓ぎわに積んだ包装紙の如き白い紙を、人数分だけ私たちに投げてよこした。これがテーブルクロスの代り。女子学生たちはボールペンでそこへ落書したりしている。
おやじさんは歩くのも息をするのも大儀そうで、首まわりも腹まわりも太いが、こういうおやじが、めんどくさそうに、チョッチョッとやる料理は、案外、おいしいのではないか。
まずフラスカーティの白ワイン(ビアンコ)をM君が注文すると、ガラスの水さし(ちょっと溲瓶《しびん》のごときもの)に、波々とついで持ってくる。これは樽から入れてくるのであるらしく、すこし黄味がかった白ワインで、頃合いに冷えて、あっさりして、しかもコクがあり、美味しいのであった。
おやじさんはまたよたよたと来て太い指でパンを配った。これが、岩のように固くてまずいもの、ちょっとずつちぎってビアンコと共に流し込み、
「歯が欠けへんか」
とおっちゃんは心配する。
「僕もはじめはビックリしたけど、だいぶなれました」
とM君はいっていた。M君は下宿では自分で御飯をたいて自炊しているそうである。イタリア料理は脂濃いので、そればかり食べると、胃にもたれて、こわす、といっていた。
しかし私には、マカロニの親玉のように太いものを、いためて上からトマトソースをかけて食べるリガトーニが美味しかった。トマトソースにはベーコンやニンニクや玉ねぎが入っているようで、これはローマ風らしい。スパゲッティもマカロニも似たようなものだから、「ゴムホースをぶつ切りにしたような」リガトーニやそれより小さいペンネも、いい味であった。
あとは、七面鳥のカツレツと、鳥肉にレバー料理、みんなちがう一皿ずつ取り合って試食する。ここの鳥料理はどうというほどの味でもないが、日本のブロイラーよりは格段に、ほんとの鳥肉の味がする。
果物はオレンジ、びっくりしたのは中味が熟れて紫色になっているのだ。
「この紫色になっているのが美味しいんです。外はオレンジ色だけど」
とM君はいい、皮をむいたら指まで赤く染まった。ワイセツなほどのあざやかな赤紫色の果肉は、香り高く甘く、汁が落ちると、ねっとりしている。
これで酒を入れて一人、千円以下ではなかったろうか、これはやっぱり、赤提燈である。
黒髪のあたまや、褐色のや、金色のや、さまざまの頭が、一枚板のテーブルの両端にぎっしり並び、外は雨らしく、客は雨から逃げるように店のドアを排して飛びこんでくる。
たぶん、大阪弁でいうなら、
「おっさん、酒や!」
と叫んでいるのではあるまいか。学生たちはジョバンニおやじにあちこちから叫び声をあびせ、おやじは両手にワインのフラスコを持って、
(どんならんな、こう客がたてこんだら)
という顔で歩きまわっていた。
ローマの町は流しのタクシーがない上に、雨が降るととてものことに車には乗れない。M君は近くのホテルまで行ってやっとつかまえてきてくれた。もう一軒いく。
トラスチベーレという町に観光客のよくいく「チチェルワッキョ」という店がある。ここはさすがに観光客あいてだけに休んでいない。
地下へ降りてゆくようになっていて、牢獄《ろうごく》だったという話だが、それらしい様子につくってあって、旅行者がよろこびそうなところ、お上りさんはともかくローマっ子の客はいそうになかった。甘いアイスクリームにワインをとって見廻すと、観光客ばかり、歌うたいが一組来た。アコーディオンやギターを携え、『オーソレミオ』や『サンタルチア』を歌う。
「ローマへ来てナポリ民謡とはこれいかに。しかしやはりオーソレミオでないとしっくりきませんな」
「ローマの歌ってあるんですか」
「あの日ローマで眺めた月を……」
「せっかくパスタとビアンコで、イタリア情緒に浸っているのですから、もう少し恰好《かつこう》つけて頂いて」
あんまり若くない歌うたいなのに、男のテノールはりんりんと天井をゆるがしてひびき、これでは声楽家志望の日本人留学生は世がはかなくなるのではあるまいか。
かなり日本人もここへくるとみえて、歌うたいの一団は日本語の片言をしゃべる。
「やったぜ、シニョール」「スバラシイ」と自分でいっていた。
千リラのチップをやる。日本円で二、三百円くらいだろうか。
「こんな店のオーナーはたいてい、アメリカ人ですよ。このへんは古い町ですが、住民はほとんどアメリカ人、ユダヤ人が多くて、家賃も高いです。古い家が多いんです」
というM青年の話である。
イタリアのアイスクリームはおいしいという定評だが、ここのはやたら甘いだけ、白ワインも高いにしては、ジョバンニおじさんの店のよりおいしくない。ただローマへ来て、はじめての晩をたのしむには、手頃でいいムードかもしれない。
雨は止んだが、春雷しきり、赤マントのおじさんがタクシーを拾ってくれる。
ここでホトトギス氏が勘定を払うと、店の支配人がきて、両手の指でピンとつまんだ一万リラ札をニセ札だと鄭重《ていちよう》に返した。
空港で両替した札がニセだというのだ。
「ローマはニセ札多いです。僕の友人もこのあいだ、銀行で五万リラを四枚替えて、それを使おうとしたら、四枚のうち二枚までニセ札だといわれました」
M君はそういっていた。警察へ届けてもその場で破られるだけ、銀行へいってもしようがないし、支配人は肩をすくめて、ホカの札を出せ、というらしい。
「その、ニセ札どうするんですか」
「やっぱり混ぜて知らん顔して払うということになるんじゃないですか」
「しかし、知らないうちは使えますが、知ってからは使えませんな」
「どうしたらいいかな、僕もわからない」
ホトトギス氏はべつの札で払い、ニセ札はべつのところにしまった。ホンモノの札と並べて見比べると、印刷が不鮮明で紙質も悪いとわかるが、はじめて空港へ下りた旅行者には弁別は無理である。店によるとニセ札見分け機ともいうべき機械をおいてるところもあるという。
ローマのお札は同額でも、毎年のようにデザインがちがうので、よほど熟練していないと見分けにくいのではなかろうか。
ニセ札が見つかったといっても誰一人怒る者も驚く者もなく、財布の中をのぞきこんで「ホカの札でどうかお払い下さい」という顔でいるのだ。そこの、泰然たるところが、
「ローマですなあ」
とおっちゃんはまたいう。
「春雷やニセ札多きローマかな」
「銀行もたよりにならぬローマかな」
「空港も信用ならぬローマかな」
「ニセ札や真札やとて暮れにけり」
みんながふざけている間、ホトトギス氏は手榴弾をふところに入れてるみたいに、またニセ札をかくしから出して、深刻な顔をしてじーっと眺めていた。
ローマの夜は、遺跡や観光地でないところは静かで、そして思ったより暗い。ローマっ子は夜は出あるかないものらしい。ただ町中についている灯は、夜霧ににじんで美しくみえる電灯である。
螢光灯ではないのであった。
夜の木立の上に電灯が点じられると、光りの暈《かさ》がひろがって、それが大通りの果てまでつづき、きれいな夜景である。M君は、家主のおじさんに、
「どうしてローマは螢光灯にしないのかね」
と訊《き》くと言下に、
「情緒がない」
といったそうだ。といっても家主はべつに文化人・知識人ではなく、ごく一般的な労働者のおっさんである。そういうおっさんが、ローマの電気代も結構たかいのに「情緒がない」という理由で、螢光灯に反対し、電灯を支持しているのだ。
「ローマですなあ」
というところである。
M君は彫刻家の卵であるが、近くのおばさんおじさんに可愛がられて、洗濯してもらったり、オカズをもらったりするそうであった。ローマの市民は、芸術家の卵を大事にするのであるらしい。歯医者の支払いが高いので心配していたら、その歯医者はM君が芸術家の卵だと知って、スケッチを見せろといい、一枚を買い上げて、代金と相殺《そうさい》してくれたそうである。
日本の医者にそういうの、いるかなあ。
「ローマですなあ」
としか、いいようがない。
そんなことを話したのは、布袋男《ホテイオ》エデンの鏡の間であった。M君やホトトギス氏と、白ワインをかたむけておそくまでしゃべって楽しんだ。ここでは近代的に冷蔵庫が部屋にそなえつけてあり、ミネラルウォーターや、ワイン、ウイスキーがある。不思議や、ローマにいるとウイスキーを飲む気はもう全くおこらない。
M君は話題が彫刻のことになると話に熱を帯び、それは私たちにはたいそう好もしかった。イタリアの彫刻家は、住んでる町の、住んでる家の壁の厚さに負けるまいとがんばって、重量感のある手応《てごた》えのある、がっしりしたものを作る。
「あれには負けます。壁の厚さ、いくらあると思いますか、五十センチの厚みがあるんです。五十センチの石の壁です。日本の家なんてベニヤ板です」
M君はしかし、
「僕はやはり日本で仕事します。日本人だし、日本の仏像を、日本で見直したいんです」
といっていた。パリのオルリー空港で買ってきたカマンベールチーズを食べ、日本の塩昆布や梅干をサカナに、ワインを飲んで、そんな話に夜ふかししているのは、清遊というべきであろう。清遊に関心ないおっちゃんは、
「イタリアのオナゴはどうですか、ヨメハンにする気はありませんか」
といったらM君は、
「気が強いからこわいです」
と真顔でいっていた。
3
ローマからすこし北へいったところにロンチジョーネという小さい町があって、さながら中世そのままだというので二日目はそこへM君につれていってもらうことにした。朝は簡単にパンとコーヒーですませ、おひるは、ロンチジョーネで食べることにする。ゆうべおそく、日本の友人から電報が来て、「ハピーバースデイ」とあった。今日は私の誕生日なのである。
はるばる外国まで電報でお祝いをいわれたのはうれしかった。
おかげで早春のローマは快晴、今日は復活祭で商店はお休みだが、近くのボルゲーゼ公園は人がいっぱい、人々は春服をととのえてローマの七つの丘にのぼり、春風春水、一時にきたるとうたうのである。
ニレの花がしきりに散る中を、タクシーで出発する。ローマを北へ、ビア・カシアを走り、これはフィレンツェまでいくそう、ローマ郊外はすぐ緑一色につつまれて、よいドライブである。オリーブ畠《ばたけ》に牧場がつづき、モダンな貸別荘が並んでいた。みな、ペルシャーノ(鎧扉《よろいとびら》)をおろしていた。ローマの夏は暑いので、ペルシャーノをおろして日光を遮《さえぎ》り、風だけ入れるのだそう、野にはタンポポ、クローバ、菜の花、アザミ、荒地野菊などゆたかに咲いていた。
ロンチジョーネという町は、地図にものっていないが、城門もあり、崩れかけたお城もある。石造りの町は城をかこんで渦巻状に出来上っており、谷から山腹へかけての町なので、坂が多かった。街道筋はまだ新しいが、奥へ入ると、全く、中世そのもの、それでもどの家にも人が住んでいて、小さい子供が教会跡で遊んでいたり、道を曲って不意に若者や娘があらわれる。そのさまがいい。
家々の石段は数百年の昇り下りにすりへって、丸く刳《く》られていた。
谷を望む広場には噴水もあり、甲冑《かつちゆう》の騎士が城の円塔から顔を出しそうであった。
ここもどの商店もお休み、復活祭の行事でもあるのか、町の人の楽隊が通っていった。
そのうしろを子供たちが追いかけていく。
小さい一ぜんめしや、というような店が開いていたので、そこへはいった。中年のおばさんが店へ出、おじさんが奥で調理するらしい。
ここでもスパゲッティ、トマトソースがあっさりして、しかし玉葱と肉片がはいっている。白ワインに、またまた、シックイの団塊のごときパン、かなり慣れて、ゆっくり食べていると、滋味が出てくるように思われる。
小さい女の子と、その兄らしい男の子が、ガラスの水差しを持って元気よくかけこんでくる。
「ワインを買いに来たんですね」
とM君はいった。おかみさんが樽からフラスコへワインを注いだ。
兄妹はそれを持って飛び出していき、おかみさんはその後ろ姿に何か叫ぶ。
「戸をしめて、といってます」
日本でも、昔は、お父っつあんの飲む酒を子供が買いにやらされる、ということがあったが、今はしないようである。今なら、子供の飲みものが切れてると、お父っつあんがいそいで買いにいくのかもしれない。
イタリアは、子だくさんでローマでもこの町でも子供はあふれているが、しかし子供をよくこき使うようでもあった。
帰り道は渋滞。まだモロ前首相の事件がつづいている最中だったので、そのせいかどうか、兵隊が検問したりしていた。
ローマは子供も多いが犬も多い。人々は休日に車で遊びにゆくのに犬を連れてゆき、座席に乗せているので、うしろから見ると、犬か人か分らない。
ロンチジョーネの一ぜんめしやのスパゲッティは、ゆでかたといいソースといい、無造作ながら、何十年もやってきたらしいコクがあった。ちょうど峠の茶屋で、婆さんが谷川の水にさらしてたいた身欠きニシンのおいしいのに、ありついたようなものである。
スパゲッティの量が多いので、あとの料理がもうたべられず、団塊のパンとワインでちょうどよい料理であった。M君にイタリア語で、
「おいしかった! ごちそうさん」
といってもらったら、おかみさんも、ドアからのぞいている亭主もニッコリ、していた。
4
晩は、ひるめしの埋め合せのごとく、大々的に肉料理をたべようということになる。
トレビの泉に近いカプリチオーサという店で、ここも休日に珍しく開いているせいか一階も二階も客がいっぱい、しかし観光客はみえなくて、地許の人間ばかりらしい。家族づれやアベックもいて、イタリア人は食事のときも、ここを先途《せんど》としゃべりまくるから、その喧騒《けんそう》はたいへんなもの、電灯があかあかとして熱気をもっている上に、人が多いのでむっと熱っぽい店である。
ここでは前菜に、「プロシュット・エ・メローネ」ハムとメロンをいっしょに食べるもの、私はこれははじめてである。
日本へ帰ってから、婦人雑誌の料理欄で見つけたけれど、うすく透けてみえるように切った上質のハムに(外国で食べるハムはみな上質である)冷たいメロンの一片を包んで食べる、意外によくワインに合う肴《さかな》であった。
このレストランでは、さすがに石灰岩のようなパンは出ず、棒状の細いビスケットのようなパン、それにごく普通のやわらかいパンが出る。
肉料理は「オーソブッコ・コン・フンギ」骨の穴という意味だそうだ。仔牛のすね肉をトマトで煮たもので、骨髄がおいしくトロトロに溶けて濃厚な味わいである。たまに食べると美味しいだろうが、これはやはり、毎日ではどうかというような、こってりした食べもの、しかしいまの私には、毎日でも苦しくない、というほど、美味しかった。赤ワインはややクセがあって、私は値段にかかわらない、出ッ腹のジョバンニおじさんの店の白ワインがいちばん、おいしい気がする。ちなみにいうと「骨の穴」は七百円くらいの値段。
ここでも歌うたいが来て、M君が私を指して、
「この人は今日、誕生日だ」
とイタリア語でいってくれる。イタリア語は男がしゃべると甘い捲舌《まきじた》で、耳に快く、おなかの大きくなるコトバである。つまり、飽食し、たっぷり酩酊《めいてい》したあと聞くと、よけい酔いがまわりそうな、色めかしい囀《さえず》りである。
楽団の男たちは「ハピーバースデイツーユー」を歌ってくれたが、同じことなら、もっとロマンチックなカンツォーネはないものかしら。
トレビの泉を見て帰ったが、車がつかまらなくて往生した。それに町角の時計の時間はみなマチマチ、
「ローマ時間ですよ」
M君は悠然としている。
その晩も、また四人で、私の部屋でおしゃべり、清遊もっぱら。ローマは日本のように、ちょいと手軽に覗けるバーも屋台もないと、この頃には身に沁《し》みてわかった。
そういえば『甘い生活』という映画、あれも金持の大邸宅の邸内でくりひろげられる乱痴気さわぎであった。美人座や新世紀などの大キャバレーを借り切って騒ぐのとはわけがちがう。
旅人が赤提燈をめがけて顔をつっこむわけにいかないのだ。
翌日もいいお天気。ニレの花は町にしきりと散り、今日からいよいよ買物ができる。商店の戸は開きはじめているのだ。
夏のように暑くなった。
「朝食はひとつ、外で食べますか」
ホトトギス氏はもう朝早くからあちこち出かけ、下見してきたそうである。
「ベネト通りがいいです」
道ばたのカフェで、コーヒー(カプチーノ)を飲み、三日月パンを食べる。
カプチーノは苦くはなく、まったりしたミルクの甘味があっておいしいため、二杯も飲んだ。
はじめは夏のごとき日ざしを避けて日かげの席に坐ったのだが、そのうち、長いこと坐っていると寒くなってくる。石の街の底冷えというべきか、二千年のカビというのか、ぞくぞく、じわッと冷たくて、
「外人が日向に坐るはずですなあ」
「やっぱり来てみないと、わからないですね」
「それとこの粘り」
ホトトギス氏は活動家であるので、数時間でもボウッと腰をおろしているのには堪えられないらしい。観光客は入れ代り立ち代り立つが、奥の席で、何ということなく根が生えたように坐りこんでいる男、一ぱいのエスプレッソで半日を坐るのではなかろうか、
「ああいうのは日本の歩行者天国でもいないですなあ」
「江戸時代の町にはいたかもしれません」
『浮世風呂』『浮世床』なんか読むと、日がな一日、床屋の店先に坐りこんでムダ話にうち興じ、通る人をからかっている泰平の逸民のことがかいてある。しかし、ローマの逸民は、モノもいわず、黒っぽいサングラスの向こうから、ただじーっと通行人や町をながめてるだけ、これも、
「ローマですなあ」
ということになった。
尤も、私とおっちゃんは、道ばたのカフェに坐って、人々を眺めて飽きなかった。一人一人に個性があって、生きたドラマが目の前で演じられてるよう、とくに、十七、八までの少女の美しさときたら、
「天使ですなあ」
とおっちゃんは感嘆する。肌はあくまで白く、瞳《ひとみ》は澄んで青く(黒いのもいるのは無論である)、金髪をうしろに靡《なび》かせ、足が地についたかつかないか、というような、かろやかな足さばきで、翔《と》ぶようにあゆむ。
「天使もよろしいですが、馬車でスペイン広場まで行ってみませんか」
とホトトギス氏にそそのかされて、ボルゲーゼ公園を散歩したあと、ベネト通りを馬車に乗る。あんがい、ガタビシと震動して乗り心地はよくないが、高いところから町が見られて、風は快く肌にあたり、タクシーよりは気分がいい。
バルベリーニ通りからコンドッティ通りへ出て、有名店をのぞいたけれど、イタリアはインフレだからゼロがいくつもついていて、手が出にくい。その上、有名店はみな店員が威張っていた。私は大阪そだちなので、態度に威厳のありすぎる商売人なんていやなのだ。
愛想のよいおじさんのいる店でハンドバッグを一つ買ったら、おじさんはただ一語、
「トカゲ」
という日本語を知っていた。
暑くなってきた。おっちゃんはあちこち引きまわされてうんざりした顔、テルミニ駅へいってみると、午前十一時発のはずの列車が、午後一時までまだ出ていない。
乗客は怒るでもなく、おとなしく待ち、退屈なもので窓に鈴生《すずなり》になっている。
弁当を食べてる人もあった。それで興味をもって駅弁を買ってみたら、日本円で二百円ぐらいで、パンに小さな赤ワインの瓶、ハムと野菜サラダ、骨つきの鶏のフライ、ケーキのごときものが、紙袋にはいっていた。
列車には乗らなかったが、ここの駅前からバチカンゆきの二階バスが出ている。乗りこんで二階の一ばん前へ坐ると、つんのめりそうな高さ、バスがカーブするときなど、倒壊しそうな気持になるが、町の建物の高さはよくわかる。
小さい人間が町の谷底をうろうろしていたって、建物の巨大さはわからないはずである。
夜は、ローマではじめて魚料理の店。
タベルナというのは、魚介類を食べさせるところらしいけれど、ガリバルジー橋のちかく、トラステベーレ、「トリルッサ」とよむのかなあ。
ここも、子供連れの客でいっぱい、うしろは中年のアベック、隣は友人同士らしい夫婦者二組四人、その中へ、宝くじ売り、花売り、歌うたいが入ってくる。
ここの歌うたいは中年のおっさん、しかも声はかすれて出ない。
「中々、哀切でええ味やないですか」
とおっちゃんは、ヒトゴトのようでなく、見ていた。おっさん歌手は、『オーソレミオ』と『サンタルチア』を型のごとく歌い、自分でギターを弾く。
「定年退職して、やってるのかもしれまへんな。日本のサラリーマンも、こんな流しぐらいはできるやろ」
とおっちゃんは考えぶかくいい、ホトトギス氏は気の毒そうに、
「しかし、日本の中年はギターが弾けないでしょう」
おっちゃん、聞こえないふりをしてだまっている。ご指摘通り、おっちゃんは、戦中派大正フタケタ、鳴りものはすべてダメな人である。
さて、今夜食べたのはムール貝とイカ、それに魚のスープ、舌ビラメ、ムール貝のナマにレモンをしぼって食べたのが印象に残った程度で、イタリア料理はレモンをふんだんに使うんだなあ、と思ったくらい。
隣の席の婆さんが、『サンタルチア』の歌に合せてしきりに体をゆすっているのが面白かった。
魚はやっぱりヴェニスが美味しい。
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ヴ ェ ニ ス
1
ヴェニスというのは、晴れた日に訪れるべき都市である。
(雨が似つかわしい町、というのも少ないだろうが)
更には、この町は、夏の都市であるようにも思われる。海に浮ぶ町なのだから。
(しかし塩野|七生《ななみ》サンのお話によると、ヴェニスの観光時期は夏であるものの、それより見頃は、夏の賑《にぎ》わいを過ぎて秋の倦怠《アンニユイ》を感じそめる九月十月なのだそうだ。なぜなら俗流観光客の散り果てたそのころ、世界各地のどこからともなく、男どもがこの町へやってくるそうである。それも、夢みるような美少年、美青年、伊達で金持の中年、初老、大老《ヽヽ》の男たち──ヴェニスは栄光ある男色主義者の町になるそうである。『ヴェニスに死す』は本当にある話なのだ、ということであった)
聞くだに胸の震えるような、うっとりする話であるが、残念ながら、当方の都合で、その頃にヴェニスを訪問できない。
三月二十九日、という中途ハンパな時期になってしまった。
なぜ中途半端かというと、案内書によればヴェニスの料理店や、社交場はよく、「四月から十月まで開店」というところが多い。
ヴェニスの観光時期は、その七カ月なのであって、三月終りはまだ、海風も冷たいのだ。
しかし、秋の美少年の町を訪れてみたとて、所詮《しよせん》、私の相棒に、カモカのおっちゃんがついてくるのであろうし、訪れ甲斐《がい》もないわけである。
私はちょうど十年前、ヨーロッパへ行ったが、そのときもヴェニスへ来た。しかしここでは、水に濡れた汚い路地をあるき、ガラス細工を買ったという印象しかない。私は金ヅチであるので、水恐怖症だから、ホテルの窓からすぐ下が川なのに動転して、
「キャッ!」といったなり、窓を閉めて震えていたのであった。
水上バスで飛行場までいく時は、幸い満員で、人ごみの中に立って、手荷物を足許へおいて奪《と》られないように気を配っていたから、水が目に入らないですんだ。
ガイドが、
「運河が市中を縦横に流れ、四百の橋がかかり……」
といっても、大阪は八百八橋やないか、珍しくもない、と思ったりして、たぶんその頃に、団体旅行の疲れが出ていたのだろう。
ゴンドラに乗っている人もあったが、そのときの私の相棒はお袋であった。お袋とゴンドラに乗って月夜の海へ漕《こ》ぎ出してもいかにせん。私は美空ひばりではないのだ。嬉しくも悲しくもない、張り合いのないことである。
お袋と旅して張り合いのあるのはショッピングのときだけであった。買物好きの私(ゲテモノのガラクタ好き)に、同じく金使いのあらいお袋(銘柄品の高級物好き)は、互いの買物、互いの金づかいについて、ケンケンゴウゴウとやり合うのであった。
そうして風景絶佳とか、世界の奇観、とかいうところへまいりますと、片やお袋は疲れてぐっすり寝込み、私は水の上に漂ってるような心もとなさに、四方の川面を見て、
「キャッ」
といって窓を閉めているのであった。
しかしまあ、ヴェニスは世界の奇観というにやぶさかではない。こんな特徴ある町はどこにもない。かつ、海に浮ぶ町であれば必然的に、住民は海のモノを口にしているであろう、と、私は今回、もういちどヴェニスを見直そうとて、ローマから飛んできたのであった。
ローマから空路一時間、ヴェニスのマルコ・ポーロ空港へはお昼前についた。
空から見るヴェニスは、飛行機の窓に、絵葉書を貼《は》りつけたかと思うばかりである。群青《ぐんじよう》から濃紺、紺碧《こんぺき》、と光と色が屈折してみえるアドリア海のただ中に、町が浮んでいるのだ。淡褐色の屋根、淡黄色の屋根の町が海上に忽然《こつぜん》とあらわれる。
建物の裾《すそ》は、すぐ青い海である。
私は南海諸島の、奄美あたりへ飛行機で飛ぶと、いかにも、
(島へきた)
という感じがする。
縁の濃い島が洋上に浮び、そのまわりを白いレースのような波が縁取り、更にそのひとまわり外側を珊瑚礁《さんごしよう》がとりかこみ、
(納得!)
という感じで、そこに島はある。飛行機はそこへ、羽をすぼめた蝶《ちよう》が舞いおりるように、スーッと下降してゆく。
しかしヴェニスは、波打ち際も海岸線もなく、建物からすぐ海である。おびただしい財宝と過去の栄光と、現在の活気、それらを詰め合せた、美しいチョコレートボンボンが、海上にばらまかれた、という感じである。
飛行機は、違和感にとまどっている私を、不意に空港へ投げおろす。
たいがいどこの空港でも、
(空港です)
という予告の風景があり、車輪が着地すると、
(やっと大地へ、足がついた)
の感懐をかみしめるものである。しかしマルコ・ポーロ空港では、何しろ建物はスグ直線的に海から生えあがっているくらいだから、突如、その一角に舞い下りる。つんのめったら、鼻先は海へ入らないか、というようなところである。
空港の鼻先にタクシー乗り場があり、ピカピカの新車がとまっていた。ヴェニスのタクシーは、水上タクシーである。
私は泳げないのは十年前と同じだが、しかし、水を見て怖がるようなことはなくなっている。
おっちゃんの方は、これはむろん、海が大好き。奄美生れだから、海へ潜ってアワビやサザエをつかまえ、車エビを素手で手づかみし、海岸でたき火して料理をし、満腹するとガジュマルの根元で昼寝するといった、魏志倭人伝《ぎしわじんでん》のような育ち方をした男である。
しかし、やっぱり、
「ウーム、魏志倭人伝と、ヴェニスとは違いがありすぎですなあ」
ということであった。中世ヴェニスの華麗な繁栄のあとは、まだ華やかな夕映えのように現代のヴェニスを染めていて、同じく海洋民族でも、魏志倭人伝とでは民度が違う。
タクシーは私たちが買い切り、快適にホテルに向かう。
広い海上を渡ってくる風は、まだ冬の冷たさである。
「つまり、この航路は高速道路というところですなあ」
とおっちゃんはいい、見ると航路の両側に杭《くい》が出ている。海原はるか、杭はつづく。
〈杭の上にはカモメがいよる
カモメ捕りたや 網ほしや〉
これは大阪の子守唄だった、大阪では橋が多いから、〈橋の下にはカモメがいよる〉だったっけ。
カモメは一本の杭にそれぞれ一羽ずつ止まり、みんなこっちを向いている。
海はさながら抹茶《まつちや》ようかんのような深いトロリとした緑色、はるか向こうには蜃気楼《しんきろう》という|見てくれ《ヽヽヽヽ》で、古い教会や宮殿が海に浮んでいる。その上にひろがる三月の青い空。
自家用らしきランチ、海上保安庁らしき船、水上タクシーなど、水しぶきをあげて走り、かなり水上高速道路も交通はげしい。
そうかと思うと、葦《あし》の如きものが繁る彼方に杭があり、(これが浪花であると、「みおつくし」というべきなのだが)そのへんは浅いのか、人が立っていたりして、あれは貝でも採っているのであろうか、
「晩メシに出るのがそうかもしれません」
とホトトギス氏らと、満足そうに言い交す。
船はヴェネチアの市中に入り、これが運河というもの、両側に宮殿や教会がぎっしりつづく。
タイのメナム川をランチでゆくと、ちょっとこんな感じであった。あそこも寺院があり富裕な邸宅の庭園、川に面した桟橋には自家用ランチが繋《つな》がれて波にゆられていたりする。しかしタイは、その間に空地やジャングルなどあってのどかであったが、ヴェネチアは、残りなく塗り潰《つぶ》されたように、ぎっしりと古い建物がつづく。さらに狭い運河へわけ入ると、黒いゴンドラが音もなくゆき交っていた。
その横手にはまた、更に細い運河が連なり、両側の家々の窓から窓へロープが張りめぐらされて、西洋腰巻というか、ないしは西洋ハラマキというか、そのたぐいの布が、盛大にかけわたして干され、風にはためいていた。
その下を、黒いゴンドラがすべっていく。
家々の一階のドアは、三分の一まで水が来た痕《あと》があり、「ヴェニスは沈んでゆく」というニュースを見た私には、いかにも如実に沈みつつある気がして、
「沈まないうちに早く、美味しいものを食べましょう!」
ということになる。
石の船着場にはゴンドラがつながれているが、石段の半ば以上、水に浸かってしまっていたりする。地階の木のドアの裾は波に洗われ、朽ちていて、石は黒ずんで色も変っていた。角砂糖が、コーヒーに溶けてゆくような、と形容すべきだろうか。
2
船に乗っていると視点が低いので「溶けつつある角砂糖」を連想して、焦燥を感じるが、陸へあがると、その危惧は、スッカリ拭われるのである。
地面は石で掩われ、堂々たる古い建物が軒を接してそびえている。
ホテルはボウエル・グリュンワルド、塩野サンが、
「あれ、格式があっていいホテルよ、おちついてて」
と保証したホテルで、せまい運河に面しており、そこから大運河《カナル・グランデ》に通じる。船からホテルへはいるようになっていた。
サンマルコ広場のすぐ近くである。
映画でよく見るサンマルコ広場は、十年前と同じであった。あの頃より観光客がふえている。これでシーズン前だというのだから、シーズン中はどれくらいの人数がここに溢《あふ》れかえるものやら、教会に向かって左右の廻廊前にいっぱい、椅子が出ていて、そこに何するでもなく、観光客が坐り、カプチーノを飲んでいるという図も、昔のままである。左の方には楽団がいて『旅情』なんて演奏している。
「ツキすぎやないかなあ。お宮の松みたいやなあ」
私は『旅情』なんて演奏されると、どっち向いていていいか、わからなくなる。はずかしい。ハイ・ミスの旅行者もたくさん来てるはず、少し具合わるいのではありませんか。
「なに、ピッタリやと喜ぶ人の方が多いのでしょう」
ヴェニスの銀行は、普通の事務所みたいで、小さくて物静かである。ローマでは不足していた硬貨が、ここではわりに不自由しない。
ヴェニスは小さくていい。
歩きまわっても知れている。
サンマルコ教会の横手から商店街、ショッピングセンターがひろがって、リアルト橋まで、ずうっとにぎやかである。その道をそれて、細い路地をゆくと、小さい運河に小さい橋がかかっていて、小さい広場に出たりする。橋の下になるような、水面に近い部屋にも人が住んでいるとみえて、人影が動き、窓には鉢植えの花がある。
サンマルコ教会の鐘が、ほそ長い青空にひびく。
ここはまあ、舞台だけで、小説になりそうな、よくできたところ、しかしおっちゃんの考えることは、そういうのではないらしく、
「この町の人は、一生、土を知らんままに死ぬんですな」
「町中、石だたみですから……」
「そのせいか、足のわるい人が多いようです」
「湿気が多いからではありませんか」
「リューマチとちゃうのかなあ」
太った婆さんや爺さんが、石だたみの路地を、コツコツと杖《つえ》を曳《ひ》くのを眺めていたら、
「えらいこっちゃ、ヒルすぎてしもた、早《はよ》う食わんと晩めしにさしつかえる、リューマチも湿気もあるかいな!」
というので、あわただしく、サンマルコ広場の近くの店に入った。
観光客あいての店かもしれないけれど、店の前に水槽があって、魚が泳いでおり、シャコやエビなど山と積み上げてある。アドリア海の海の幸をここにあつめた、というところ。磯のにおいがぷんぷんする。
前菜に、その海の幸をいろいろ、それにほどよく冷えた白ワイン。
イワシとシャコの酢油漬け。
このシャコが身が引きしまり、コクがあって美味しいのだ。それに、エビとイカ、バイ貝のようなもの、これが冷たくて、タラの如き魚の身と共に、トマトと酢油で和《あ》えられて出てくる。ここの前菜は、ローマの最後の夜のタベルナのよりも、ずっと日本人の口に合う。
スープ代りに、スパゲッティ一皿、これはただ、トマトソースだけのあっさりしたもの、しかし、アサリや肉よりも深みのある、いい味で、そうじてこの「PANADA」という店、マヤカシでない、きっちりした料理屋であるようであった。
ORATAというのは日本でいうと、何という名前なのか、イシモチの如き魚のグリルを食べる。魚を焼いて蒸したのが出てくるが、たっぷり、どっしりした魚である。給仕長のおじさんが、傍のテーブルの上で、器用にナイフを動かし、魔法のように、骨をそっくりはずしてしまう。温かい皿に、きれいに魚の身をならべ、文字通り骨抜きしてくれるのである。
魚の身を食べるときは、日本人は、箸《はし》に限ると思うが、ナイフとフォークの技術にかけては、西洋人もおどろくべき巧者なものである。我々は、西洋人を不器用だと伝統的におとしめてきたが、絶対、そんなことはないのだ。こんどの旅行で開眼した。
おなかがでっぷり出て、腕も脚も巨人のように太く、はちきれんばかりの黒い服、まじめな顔付の、黒眼黒髪の中年おじさん、彼の手が大きいので、ナイフとフォークは手の中へかくれてしまいそうであるが、ちょいちょい、と動かしただけで、皿の上の魚の肉はすっと骨から離れて、きれいに身だけ、そっくり移動している。
「いや、それは西洋人は不器用といえませんでしょう」
とホトトギス氏も、みとめるわけである。
「西洋バクチ打ちも、手先が不器用では商売できないでしょうし」
「『黄金の腕』という映画もあった。カード配りも器用でないとあかんはず」
「しかし、イタリアのスリが日本でつかまっていた。中には不器用なのもいるらしい」
「あれは素人《しろうと》がまじってたのと違いますか」
食卓のショウとして、給仕長が、ああいうナイフさばきを見せてくれると、よけい魚がおいしく思えるものである。
「日本では宴席で、アユが出たりすると、芸者はんとか仲居さんが、アユの骨ぬきをしてくれますな」
おっちゃんは日本を思い出したのかもしれない。
「そうですか、そういうていねいな扱いをされたことはないから知りません」
ホトトギス氏はニベもなく答えている。
しかしあれは、何というか、女の脂粉の香がついたりして、少なくとも私は、あまり好きでない。しかも、あれは、まず魚の身を箸で押え、骨ばなれをよくしておかねばならない。
アユの姿は完全にくずれてしまう。
アユは味や香りと共に、姿のよさを賞味する魚で、だから一流料亭へいくと、皿の底に小石など敷いて、その上に生けるが如く、アユがシッポをぴんと立て、身を躍らせて横たわっている。
それを、
「ユサユサと、箸で押えて姿をくずしてしまっちゃ、カタなしですわ」
と私は反対である。
アユなどは、頭はともかく、わんぐりと骨ごとたべるものである。天然のアユなら、頭も柔らかくて美味しく食べられるものである。
「そういうことですなあ」
と、ふだんなら脂粉の香の好きなおっちゃんも、アユに関する限り、女手が加わることは好まないようである。
尤も日本男児の中には(私は現に見たのであるが)魚は骨をとり、カニは身を出してもらわないと、食べることができない、幼稚園児みたいな人がいる。
そして、その男性のかたわらにいた芸者さんは、せっせとカニの脚から身をとり出しては皿に並べ、手が汚れたといって、洗いに立っていった。私はそんなのを見ると腹が立つのだ。
「大体、モノをたべる、という楽しみの中には、魚のあらだきの眼玉をほじくって吸うとか、甲羅の内側の肉をつつくとか、骨から身をむしるとか、そんな作業も入ってるもんでしょ」
「そうそう」
「それをヒトに任せないと食べられないような男は、モノを食べる資格はない。じゃまくさいと思うなら、いっそ食べない方がよい。過保護の弊害です」
「まあまあ、いいから、いいから」
となだめられ、しかし、この旅先では、いくら腹をたてても、美味しいものを食べている最中だから、力がはいらない。
給仕長の熟練した名人芸は美事であったが、魚の味はかなり大味である。焼いたり蒸したりして味つけしてこの程度なら、台北の黄魚の料理の方が上である。黄魚も大味な白身の魚であるが、片身はフライ、片身は煮つけにして出してくれる。フライは日本のワカサギのフライに似て淡白でかるく、煮つけは、豚の脂で煮るのだが、絶妙の深い味わいがついていて、脂がギトギト浮いていながら、口にふくむとあっさりしている。スプーンで最後の一滴までその汁を味わいたくなる、そんな料理であった。
それにくらべると、ここのORATAのグリルは、やや愛想がない。
日本の刺身、たとえばタイのあらいの、冷たく縮れてひきしまった身の歯ごたえとか、芸術品のような|てっさ《ヽヽヽ》(ふぐさし)の美しさとか、ヒラメの仄《ほの》甘い刺身の繊細さ、また、カツオのたたきなどというたけだけしい美味などにくらべると、ヴェネチアの魚料理は大味である。
結局、ナマとか、さっと湯を通したものを冷たく冷やして酢油で食べる前菜風のものが美味しいといえる。
尤も、ヴェネチアで私たちが入った町のレストランはみな、一人二千円から三千円の見当、店の構えは立派であるが、この値段は日本でいうと、高架下の小料理屋、といったところではないだろうか。
値段は赤提燈なみである。それで前菜、スパゲッティ、メイン料理と食べられてワインがつくのだから、やっぱり安い。
3
夜はリアルト橋近くのレストランをさがして入った。
大運河にかかる大きなリアルト橋のたもとは、水上バスの停留所で、夕方には、観光客と共に、この町の勤め人といった男女も、どっと下りて、散ってゆく。黒いゴンドラが無数に浮き、その前のカフェテラスに灯がはいって、にぎやかになる。
バスストップ前の立ち飲み屋、といった店があって、そこでは、立ち食いもできる。暖かいスパゲッティのほかに、エビや、タコのぶつ切り、イカなどもあるのだ。日本のおでんやという感じで、人はむらがっていた。ここには椅子がないので、
「同じような規模で椅子のあるところへいきますか」
と、路地を奥へはいっていったら、また、ウインドーに、魚や貝、エビにイカが山のように積んであるレストランがあった。かなりひっこんだところで、これは観光客相手らしくない。
「まあ、こんなトコとちがいますか」
と店内へはいった。
ここの給仕長は黒々とした髯が鼻の下にあり、スタイルもよく、ワイシャツの袖口《そでぐち》にも気を配ったりして、かなり伊達者である。
どうしたのか、顎《あご》に、「バンドエイド」の如きもの(どうも外国へくると事情がよくわからないので「如きもの」がつくことが多い)を貼りつけていた。
「妙なとこに貼ってますな。あれは女にむりやりキスしようと、引っかかれたん、ちがうかしらん、あのバンドエイド先生」
とおっちゃんはいった。「バの字」はまさか日本語の私語が聞こえたとも思えないが、上眼使いに見て、なかなかこっちへきてくれない。
私には彼が、
(外人は面倒やな)
と考えてるように思われる。
なるべく、私たちと視線を合せないようにしようと考えているように思われる。
(どんな無理難題を吹っかけられるかわからない!)
と当惑しているように思われる。しかし私たちが赤いローソクを燭台《しよくだい》に立ててあるテーブルに坐りこみ、若い給仕が来てそれに火をつけたから、もう追い出すこともできない。
(しゃアないなア、言葉もわからへんのに……)
という感じで、情けなさそうに、やって来た。
メニューを見ても、イタリア語ばかりなのでさすがのホトトギス氏も、指すことができない。
「実物で見てもらいます」
とバの字を、入口の水槽へひっぱっていき、指でさした。
「ウナギ、どうやって食うんですかねえ。ウナギもいうてくれましたか」
「注文しました。蒲焼《かばや》きするのでしょうか?」
「しかし、日本みたいなタレはできんでしょう」
ヴェニスの名物のひとつに、ウナギはなっている。丸々と太った長いのが、どんなふうに調理されて出てくるか、たのしみである。
前菜も、名前も発音もわからないから指でさして一皿に盛りあげてもらう。
しかしここの前菜は、昼間の店とちがい、どれもみな私には馴染《なじ》めない味で、それは皆もそうだといっていた。
豚の脂身の唐辛子入り酢油漬け。
オリーブの酢漬け。辛かったり、脂っぽかったりして、やや特異な好みの味付けがしてある。
出てきたウナギは、何というか、皿の上に縄を揚げてあるようであった。つながって長いまま、ところどころに鋏《はさみ》を入れたように、ぷつんぷつんと切れこみが入って、やけくそのような感じで、フライにされていた。
カニの方は小さいまま、丸揚げである。
それが皿の上に、ドバッと打ち伏してあるだけ、もう少し、色をつけて、恰好よく並べるとか、つけ合せの野菜をあしらうとかすれば、見ばよくみえると思うのだが、とにかく調理の途中といった感じで、とりあえず皿にのって出てくるのである。
ところが食べてみると、カニはあんがい柔くおいしく、ウナギも、かるく揚っていて、思ったより、いけるのだ。カニは甲羅ごと食べてしまった。フライは七難かくす、というところかもしれない。
この店は、町の人々が家族づれでくるところらしくて、若い娘二人、誰か身内らしい中年の男に連れられて来ていた。
そのうちの一人の娘の注文がむつかしい。魚介類はダメらしくてむずかっていた。肉ダメ、卵きらい、という感じ、娘の機嫌がダンダン悪くなり、バの字の給仕長はじめ、みんな閉口、という身ぶりと表情である。
店の女主人とは、何だか縁つづき、といった感じで、働き者のおかみさん然とした女主人が、
(よろしい、よろしい、何でも好きなもの作ったげるから)
というように甘やかす。もう一人の方は嬉々《きき》として魚のフライの如きものを食べはじめている。気むずかしい娘は、眼にケンのある金髪碧眼、バの字の指したメニューを一目みて、
(イヤッ)
という感じで、ますます、手がつけられぬほど機嫌がわるくなってゆくのがわかる。
女主人のはからいか、何か一皿、料理がはこばれてきたが、娘はしぶしぶ、ひと口食べて
(イヤッ)
という感じで押しやり、バの字は蒼惶《そうこう》とその皿を下げて、若い給仕の手に押しつける。
若い給仕は忙しいせいか無表情に、
(これもあきまへんねんて)
という感じで、急ぎ足に調理場へ戻しにいった。
私は、ああいうのを見ると、畏敬《いけい》の念に打たれずにはいられない。元来、私は、たいていのモノで口に入らないものはない。ここのオードブル、口に合わないといっても、はなから受けつけない、ということはなく、一応はナイフとフォークを丁々と打ち鳴らして、勇んで口へ運ぶのだ。
また、どんなに飽食しているときでも、目の前に皿が出てくれば、どこからともなく聞える至上命令の如く、にっこりと食べてしまう。今まで食べたことのない、不思議な動物・植物・魚、奇妙な味でも、その奇妙さや不思議さに感嘆のあまり、オドロキのうちに食べてしまう。
台湾へいっても東南アジアへいっても、そうであった。
とてものことに、このワガママな金髪娘のように「イヤッ」と全的拒否できない。私の口と手は、食物を前にすると、あさましく自動的にうごいてしまう。
ワガママ娘はケンのある眼で怨《うら》みをこめてまわりをにらみ、特に目の前の連れの娘が、美味しそうに魚のフライを一皿、平らげて(このフライの皿は、小魚が四、五匹出てくる、といったものでなく、それこそ、うずたかく、こぼれんばかり盛りあげられて出てくるものである)中年男と機嫌よくいちゃつき出したので、よけいむしゃくしゃが増したようであった。
バの字は、いいこと思いついた、という風に、中年男に耳打ちした。男と娘が何か打ち合せ、娘はぷりぷりしながら、うなずく気配。
バの字の出番がきたらしい。
「何が出るのかな」
「道具をそろえ出しましたね」
というので、私たちはじーっと眺めていた。
若い給仕がいそいで持ってきたのは、ミンチの皿である。
「ハハア。タルタルステーキを作るんですな」
ボールに氷を入れて皿を冷やしながら、バの字はミンチを縦横にまぜ合せ、玉葱や調味料をふりかけていく。その手つきがいい。
「やっぱり、うまいもんです」
「熟練した名人芸ですね、これも」
「身ぶりにリズム感があります。カンツォーネでもききながら練習したんかもわかりません」
「客の前で見せる芸でありますから」
タルタルステーキは見るからにおいしそうであった。私は、ヒトの皿の方が美味しく思えるクセが子供の頃からあり、あのミンチの生ま肉を注文すればよかったな、と後悔した。
バの字は細心の注意で味をととのえ、混ぜつくねた肉を、きれいにならし、ナイフで刻み目をつけた。
そうして、手を打ち払い、黒い蝶ネクタイの具合をたしかめ、小さい咳《せき》払い一つ、軽やかに身をひねって、皿を捧げ、娘の前へおいた。
片手を耳のあたりでひらひらさせて、さかんにしゃべっている。イタリア語というのは熱がこもると、大道の物売りの口上のように格調ある七五調にきこえる。
これなら絶対、お口に合う、大丈夫、美味しいことうけ合い、とでもいっているのだろう。
娘は不承不承、ナイフとフォークを握って、ひとくち、ふたくち、たちまちフォークを投げて、
(イヤッ)
という感じで拒絶する。バの字は大恐慌である。娘の顔をのぞきこんで、
(やっぱり、あきまへんか?)
(イヤッ。大きらい!)
娘はナフキンで口を拭っていた。
(うーむ。どうしてくれよう)
という感じのバの字は、
「フー!」
と鼻息あらく、怨みがましい目付になって、やけくそになったように、その皿を取り下げ、若い給仕に渡す。若い方はバの字ほど表情ゆたかではなく、シレシレとした顔で、すぐ皿を奥へ返しにいくところが面白い。
私はますます、ワガママ娘に尊敬の念を持ってしまう。日本の女で、あそこまでチヤホヤご機嫌をとられて「イヤッ」といえる女はいない。それより、日本の男はそこまで、女のいうことを諾《き》いてくれない。日本男児は気みじかで、尊大なのが多いから、女のワガママを見れば、ひっぱたきたくなるであろう。
私たちはデザートを食べることにする。
いまは端境期で、デザートはオレンジしかない。
私たちの注文をきくと、バの字は気を取り直した風に、そばのテーブルで、オレンジの皮を剥《む》いてくれた。これがまた、名人芸。
左手のフォークでオレンジの底を刺してしっかり固定したのを、右の手のナイフでくるくると皮を剥いてゆく。細い皮が紐《ひも》のように下へ垂れ、指をオレンジにつけないですっかり剥き終ると、フォークとナイフできれいに切って皿に並べる。オレンジはローマでも食べた、紫色の甘味の強いものであった。
バの字の手際があまりに鮮やかなので、私は写真をとった。
バの字はニッコリしてウインクしたりして、こういうところも、
「愛嬌ありますなあ。日本の男は真似できまへん」
とおっちゃんはいう。
「ワシも酒入ると、かなり愛嬌ようなるんやが、奴《やつ》らはシラフで愛嬌ええねんから」
4
ヴェネチアの町はせまい。
石畳の路地、石の橋をまがり、渡り、していると、また見おぼえのところへ出たりする。
それに水上バスの発着所が至るところにあって、たえず大運河小運河をゆき来しているから、疲れれば乗ることができる。ともかく、サン・マルコ広場へ戻ればいいのだから。二百リラ、七、八十円くらいのバス代ではないだろうか。
リアルト橋の両側はお土産屋になっていてそれを突切ると、神戸の湊川市場のような、大きい市場があらわれた。
野菜市場、魚市場とつづき、川向こうに柱廊のある古い宮殿や貴族の邸宅がみえる。乗合いのゴンドラが岸をはなれ、人々は買物の荷物を足もとへおいて、立ったままで乗っていた。
市場は古い建物の柱廊の中にある。トマトや胡瓜《きゆうり》、玉葱、赤かぶ、にんじん、馬鈴薯、ピーマン、キャベツ、ブロッコリーなど、だいたい日本であるのと同じようなもののほかに、珍しいものは、朝鮮アザミ、こちらではカルチョフォ(Carciofo)というのがあった。釈迦《しやか》の頭のような感じで盛り上った大きなもの、茹《ゆ》でて、サラダにしたり、味をつけて煮たりしているようである。茎は繊維があって固いので、芯《しん》の柔いところだけ食べるのであった。一つ二百リラである。
台湾の果物にはカルチョフォよりもっと小さい、そして本当に釈迦のあたまそっくりの、その名も「釈迦」という果物があり、これは割ってその果肉を食べるのだが、甘いといったらなかった。
果物の豊富さからいっても、台湾は恵まれた国である。バナナ、パイン、マンゴー、パパイヤのほかに、土俗的な釈迦や楊桃、蓮霧といったふしぎな果物がいっぱい、あった。
ヴェネチアの魚市場もかなり、大きい。
そうしてここでは出動途中といったカバンを提げた男たちが、じーっと魚や貝に見入っていたりする。
私が行ったときはもう朝と昼のまん中あたりで、一商売すませたのか、店をホースの水で洗っている魚屋もいた。ここでも広いマナ板の上で、細身の刺身|庖丁《ぼうちよう》を握って魚を三枚におろしている器用な手つきのおっさんが居り、西洋人は、
「やっぱり不器用ではない」
と思い入る。
魚は野菜より名の知れないのが多い。シャコ、ボラ、舌ビラメ、タコ、エビ(こちらでスカンピとよぶ名産のもの)、イカ(カラマワリというもの)それにモンゴイカ、など、あとは、フグの如きもの、イワシのごときもの、あと、ちょっと名前も思い当らない、大きな魚、それに小さいカニ、バイ貝などが山と積まれてあるのだった。魚の値段は、日本よりはるかに安い気がされる。
ゴム長をはき、くわえ煙草で、トロ箱を手鉤《てかぎ》を使って片づけている、黒いちぢれ毛の兄ちゃんなんか、神戸の湊川市場そのままである。ケンタッキーフライドチキンの爺さん人形のような紳士が、眼光するどく、魚をじっとみつめ、また、エビやカニの方に視線をこらしているのは、どういう料理をすればより美味しいかを、いろいろ想像してたのしんでるのであろうか。男も材料を見て楽しむのが食い道楽のヴェネチア人なのだろうか。
市場には、気の遠くなるほど種類の多いチーズ屋もあり、客は、あれを少し、これを少し、と、ナイフで一片ずつ切り取ったのを、たのしげに買い求めていた。
鶏屋は、若鶏の赤むけから、ヒヨコの如きものまでぎっしりとウインドーに詰め、ハムのたぐいはこれまた一軒がハム専門、軒から天井までさまざまな種類を売っている。
ヴェネチアの錦市場のようなところである。海の幸に恵まれたヴェネチアの市民は、口が奢《おご》っているのかもしれない。
こういう市場の喧騒の中に身をおいていると、ヴェネチアが沈む、という実感はない。
現に、ヴェネチア人にそうきいたら、
「フーッ!」
と鼻息あらく叱られてしまった。
ヴェネチアの学校で歴史を教えているという、フロッシーニ先生である。
ヴェネチアの赤提燈についてガイドに聞こうとしていたら、ヴェネチア中でたった一人、日本語を話せるというガイドはただいま旅行中だそうであった。英語ができてガイドするという人が代りに来てくれて、それがフロッシーニ先生であった。先生は六十五、六にみえる老紳士であるが、まだ五十七だという。
先生は上品で人柄のよい紳士であった。教科書をよむような、わかりやすい英語を話し(といっても、私にはわからないのであって、わかる人が聞けばわかりやすいだろうな、と推察できる範囲のことである)日本にも度々いった、神戸は大好き、家にはSAKEの、といって、店のメモの裏に銚子と猪口の絵をかき、何か、そういうものを持っている、というのだろう。その下に屋根を三つ重ねて描いて、これはお城の天守閣のつもりらしい。その絵だか掛軸だかも持っている、ということであった。
フロッシーニ先生は、ヴェネチアには屋台や赤提燈というものはないが、働く人たちがあつまって気軽に飲んだり食べたりする店ならある、といって案内してくれた。
ゴンドリエーレ(ゴンドラの漕ぎ手)のいく店だそうである。
いうなら運転手のたまり場、という感じ、先生は、ゴンドリエーレたちに学校で、ヴェニスの歴史など教えたから、いうなら教え子のいく店、という感じでもあるようであった。
サン・マルコ広場からリアルト橋へいく方向の路地に「サヨナラ」という店がある。
これは日本語ではなく、ヴェネチアより北西の町の名でSAONARA、ここの主人はそのサオナラの出身者だということであった。
先生は要領よく話し、職業柄のせいか、何か聞くたび、オウオウと、すぐボールペンをメモに走らせ、字と絵で以て熱心に教えた。
ときどき、片手をひらいて下から上へ、虚空をつかむような仕草をして、無邪気な物腰である。そうして、これまた先生の商売柄のせいか、カンがよい。
おっちゃんが、
「マイ・イングリッシュ、ハート、フロム、ハート」
と自分と先生の胸を指すと、先生は典雅な発音で「いえーす、いえーす」と大喜びで握手する。
「アンタも何か言い」
とおっちゃんは私をこづき、余計なお世話だ。そんなあほらしい英語は私は喋《しやべ》らない。
三月の夜は、海上都市はまだ寒く、みんなオーバーを着ている。毛皮を着ている観光客の女もいる。
「サヨナラ」は満員、はいったところにカウンターがあって、そこは男たちが群がってぎっしり、奥はレストランだが、満席のようであった。
ゴンドリエーレは黒いゴンドラに乗るとき、黒い横縞《よこじま》のシャツを着ていることが多い。赤いリボンの麦わら帽をかぶり、粋《いき》な恰好で軽舟を思いのままに走らせているのである。しかし一日の仕事を終えたいまは潮やけした肌に、思い思いの上衣やジャンパーをひっかけて、さかんにしゃべりながら一杯やっていた。
主人は黒ヒゲをこんもり鼻下に蓄えた、まだ三十代らしき敏捷《びんしよう》な男、
(おいでやす、先生)
という恰好でそばへきた。忙しいものだから、元気よく熱心に先生としゃべり、メニューのうち合せをする。
ここの前菜は、バの字の店よりはるかにおいしい。シャコ、タコ、エビ、イワシと、みな同じような種類だが、あたらしくて、とくにイイダコの子というような、白いムッチリした、プリプリする歯ごたえのそれは、面白い味である。
先生に聞いてもらっても、タコの子だというだけで名前はわからない。日本のイイダコは小さいから、中の「イイ」も小さいものであるが、ヴェネチアのこれは、輪切りにしてあるのを見ると、蜜柑《みかん》ぐらいの大きさ、かなり大きいタコである。
白ワインで乾盃《かんぱい》、
「サリューテ!」
というのも先生に教えてもらった。六月から九月にくればカニは子をもっていて美味しい、と先生は教えた。
メインはタラ(の如きもの)をボイルして、それがたっぷりと皿に出てくる。これに好みに従い、酢、オイル、塩、胡椒《こしよう》で味をととのえて食べるのである。これは淡白なので、日本人向きかもしれない。ゴンドリエーレたちは見ていると、小魚のフライをつまみながら、一杯のビールで、カウンターで長いことおしゃべりを楽しんでいるようであった。
先生はヴェネチア出身ではないが、もう長くここに住み、ヴェネチアを愛しているらしき様子であった。
「ヴェネチアの人は、どんな晩ごはんですか」
というおっちゃんの質問に、先生は、こういう魚、肉、なんでも食べるが、ヴェネチア女は料理がうまいから、たいてい家で食事する、そしてあとはゆっくりしてくつろぐ、夜、ヴェネチアをほっつき歩いてるのは観光客ばかり、という。ホトトギス氏の通訳によればそういうことらしい。
先生は「ほっつき歩いてる」とはいわなかったが、語感としてはそんな感じの表情である。
「ヴェニスは沈むって聞きましたが本当ですか」
と聞いて、フロッシーニ先生に、
「フーッ!」
と叱《しか》られたのはそのときである。おだやかな先生の眼がランランと光り、白髪は逆立った。
「全く、それはデマです。政治的陰謀です」
先生はワインもうち忘れて、あわただしく皿やナイフを押しやり、また、店の伝票の裏面をメモ代りにして、図解入り説明、その合間に、恫喝《どうかつ》するごとく、威嚇《いかく》するごとく、「フーッ!」と声を発して、両手をあげたり、天井を仰いだりした。
先生は橋の絵を描き、その下に、
「RIALTO HASHI」
と書き込んで、日本語入りの説明である。
何でも、先生によれば、リアルト橋から水面まで七メートル二十、これは一五八八年に計ったときヴェネチアフィートで二十四フィートだったという。それをメートルに換算すると七メートル二十五で、ほとんど同じ、ヴェネチアは沈んでない、というわけである。
しかしサン・マルコ広場にも潮がさすときもあるというし、ゴンドラで通る運河沿いの家には、一階ドア(そこは物置らしくみえる)の裾はみな、水漬けのあとがついたりしているけれど……。
沈まない、と住人がいうのだから、沈まないことにしておこう。
この店ではじめてグラッパーを飲む。食後の酒として飲むと、消化《こなれ》をたすけてよいそうである。
私の飲んだのは「RUTA」というので、中に薬草のようなものが入っていて、これは強烈ではあるが、奥にトロリとした芳醇《ほうじゆん》な味があって、ジンやウォッカの強烈さとはちがうのである。
ガブ飲みするものではなく、ほんのヒト口飲み、舌先でころがし、一滴が口中へひろがって、かぐわしい香気が鼻腔《びこう》までひろがるのをたのしみ、かつ、胃へおさまって、油ものがちゃんとおちつくのを見とどけられるという、神仙の霊酒のような飲みものである。
これは、アトくちを引くような酒ではない。
しかし、あんまりふしぎな味なので、さっきの感動は錯覚ではなかったかと思い、もういっぺんたしかめるために再び飲んでみる、ということはある。
二杯めの感動も錯覚かもしれない、もういちどハッキリさせようと意気込んで、三杯目を飲んでみる、ということもある。
すべてこれらは、物ごとをハッキリさせるために取る処置であって、アトを引く酒だからではない。ないがしかし、ホカのお酒であれば、そこまでたしかめる気はしないから、やはり、そのへんが「ルッター」の特色であろう。
路地の酒屋に「ルッター」を売ってるのをみつけたけれど、長旅に、酒瓶を持ちあるくのは無理で、残念ながら、買わずにきた。親切なフロッシーニ先生は、買うならこのメモを見せなさいと書いて下さったのだけれど。
「UNA BOTTIGLIA DI RUTA PREGO!」
ヴェネチアで買物するぐらい楽しいものはない。
店は綺麗《きれい》で、店員は物なれていて、車がないのだから、通りのあちらからこちらへ、思いつくままに移動できる。私はイタリアの皮細工の中でも、金箔《きんぱく》を入れた細工物が大好きである。おっちゃんは、ゴンドリエーレのかぶるような、皮のハンチングを買った。
ヴェネチアの景色で一ばん好ましいところは、と聞かれたら、私は、サン・マルコ広場ではなく、サン・マルコ教会のとなりのドージェ宮から海のみえるあたり、つまり広場のまん中の鐘楼から海へ向かって歩いてゆく、そのへんの景色だと思う。青い海と空、ドージェ宮の白い柱、対岸のサン・ジョルジュ・マジョーレ教会やら、海際にそそり立つ柱の上の、金の獅子《しし》、ヴェネチア最盛時代の中世にいる気がする。豪奢《ごうしや》で狡猾《こうかつ》で、勇敢で享楽的で、奸智《かんち》にたけたヴェネチアの男や女たち。
ただ、そういう気分は、よく晴れた暑い日ざしの、夏がもっともふさわしいように思われる。
しかしドージェ宮のあたりは、いまや観光客でいっぱいである。
ヴェネチアの町の色彩美、ということになると、これはエレベーターで鐘楼へ上るのが一ばんよい。九十九メートルの展望台へ上ると、海に浮ぶヴェネチアの島々がひと目で見渡される。
ヴェネチアの町の屋根は、美しい濃淡のブラウンである。そのあいだに緑が点綴《てんてい》し、ブルーの海がとりまく。
サン・マルコ教会の正面頭上には、黄金色の青銅の馬が四頭、躍りあがっているが、これは、横手のコレール博物館の三階あたりから見ると綺麗である。
博物館は人も少なく、ひんやりしていた。ヴェネチア繁栄時代の絵にそっくりの遺品、中世の婦人の櫛《くし》や、靴(繻子《しゆす》で手縫いのもの)、カルタ、ヨーヨーなどの遊び道具、古いコインなどが陳列してある。
四時閉館ということであるが、博物館のおじさんは、三時半にはもう、オーバーを着て帽子をかむっていた。
そうしてニコニコしながら、私たちを追い出し、そのあと、一々小まめに電灯を消していって、あれでは「まだ四時になってない」といっても、早く帰宅したがっているおじさんに、
「そんなハズはない」
といわれるであろう。
サン・マルコ広場の楽隊《ヽヽ》は、今日も『旅情』をやっている。
広場の両側の商店は、長い昼休みのあと、おもむろに四時頃、店を再開し、八時ごろには、怖いもののように閉めてしまう。
そのころは、運河の風も冷たくなり、リアルト橋の上から、暗い川面にゆく水上バスを見ていると、灯が水にゆれて、道頓堀のようである。
(なんでここへ道頓堀が出てくるのか)
川岸に|もや《ヽヽ》ってあるゴンドラは波にゆられゆられして、牡蠣舟《かきぶね》のよう。
ゴンドラに乗ったのは夕方であったが、何といっても寒くって水洟が出る。ヴェネチアのシーズンは夏なのだ、としみじみ思わせられる。ゴンドリエーレはゆっくりと棹《さお》を操り、
「春のうららの隅田川 上り下りの舟人が、
櫂《かい》のしずくも花と散る……」
といいたいが、
「水洟かもしれませんな」
とおっちゃん。ゴンドリエーレは、横丁の路地というべき小さい運河と交るところへくると、警笛代りにのんびりと、
「ハーレ」
というような声を揚げ、モーターボートよりは何ほどか優長でみやびやかである。
水面に舞うカモメを東《あずま》くだりの都人《みやこびと》、という心境で、じーっと眺めていたら、ゆき交う向こうのゴンドラは景気よく楽隊を乗せて、『サンタルチア』を流していった。
「あしたはムラノ島か。またも魚、魚ですかねえ」
とホトトギス氏は憮然《ぶぜん》としていう。若い人は肉が恋しくなったのかもしれない。
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マドリッド
1
スペインのマドリッドは、からっとした町である。
湿気というものが全くない。空気も澄み、土もぱさつき、舗道は乾いて、かんかんと音をたてそう。
──この、カラッとした感じ、というのも、カラッの「ラ」を思いきって捲舌にしないといけない。スペインへきていちばんびっくりしたのは、凄《すご》い捲舌である。ル……ラッという感じ、平面的な舌の使い方をしている日本人は、この挑戦的な捲舌に、まず度肝を抜かれて怯《ひる》んでしまう。
私たちのホテルはこんどの旅行で最高級の「ホテル・リッツ」であった。スペインのホテルはヨーロッパにくらべて安いので、ようやく、マドリッドまで来てリッツに泊れたというところ。しかしタクシーの運転手に、
「ホテル・リッツ」
といったのでは通じないのである。運転手はさんざん首を捻った末、やっと、
「おお、ホテル、瓜《うり》ッツ!」
といった。瓜の|リ《ヽ》にアクセントがあるのはいうまでもない。
ホテル・瓜ッツはちょうどプラド美術館の真向いにある。格式のたかいところで、食堂にはネクタイがないとはいれない。ヴェニスの裏町で買ったゴンドラ漕ぎのおじさんのかぶる皮帽子など頂き、セーターに、コロンボ刑事のレインコートをひっかけているといった、カモカのおっちゃんなどの風態では、背のたかい黒髪の給仕に、
「ノー」
と木戸を突かれるのである。
そういうのが好きな人もあるのだろうなあ。
その代り、お金があってネクタイさえしていれば、マフィアでも山口組組長でも泊める仕組みになっているのかもしれない。唐獅子株式会社の須磨組親分なんぞが好きそうな高級ホテルである。
しかし私は、こんな上流ごっこも好きである。どうせ、みんな「ごっこ」なのだから、たのしく「ごっこ」をすればよい。マドリッドのあとで泊ったバルセロナも、「瓜ッツ」ホテルであった。
ここでは絵にかいたような太っちょのおじさんのホテルマンがいた。うしろで手をくんで悠々と廊下をゆき、エレベーターを動かした。
ピンクのハムのような顔色に、輝やかしい微笑をたたえ、私を見ると巨躯《きよく》を二つに折って、
「マダーム」
とうやうやしくお辞儀をし、真っ先にエレベーターへ乗せてくれた。
古めかしい美しいホテルで、古風などっしりしたエレベーター、絵の如き給仕のおじさんに、堂々と向きあって遜色《そんしよく》ない日本人というのは、むしろ明治の日本人ではないのかしら。
べつに、この間、テレビドラマの『獅子のごとく』を見たからというわけではないけれど。(半分だけ見た)
たとえば与謝野晶子は、パリに着くなり、一九一二年のヨーロッパのモードに従い、大きい婦人帽を買いこんでいる。
巴里《パリー》に着いた三日目に
大きい真ッ赤な芍薬《しやくやく》を
帽の飾りに附けました。
こんな事して身の末が
どうなるやらと言ひながら。
彼女はむろんそれまで着物しか着たことのない明治の日本女である。それがヨーロッパへ渡り、コルセットを締め、
テアトル・フランセエエの二階目の、
紅い天鵞絨《ビロウド》を張りつめた
看棚《ロオジユ》の中に唯だ二人
君と並べば、いそいそと
跳る心のおもしろや。
もう幕開《まくあき》の鈴が鳴る。
という楽しみも経験し、
アウギュスト・ロダンは
この帽の下《もと》に
我手に口づけ
ラパン・アジルに集る
新しき詩人と画家の群は
この帽を被《き》たる我を
中央に据ゑて歌ひき。
ときに晶子は、着物を着て帽子をかむり、練りあるいたらしい。
あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を著《き》た
わたしを迎へて爆《は》ぜ裂ける
というのは、パリ・モンマルトルの|「暗殺酒舗」《キヤバレエ・ダツサンサン》での詩である。
淡い眩暈《めまい》のするままに
君が腕《かひな》を軽く取り、
物珍らしくさし覗く
知らぬ人|等《ら》に会釈《ゑしやく》して、
扇で半ば頬《ほ》を隠し、
わたしは其処《そこ》に掛けてゐた。
いやもう、とてものことに、こういう堂々たる明治人間にはかなわない。私ごとき吹けば飛ぶような昭和女は、王宮の侍従長のような、ホテル・瓜ッツの爺さんに、
「マダーム」
と恭《うやうや》しくお辞儀されると、どんな顔をしていいかわからなくて、あやしく表情が歪むのである。やはりここは気品ある微笑を賜わる、というところであろうけれど、浪花女というのは、愛嬌は習うが、下々に与える一ベつとか、ほほえみとかは習わない。
すべて、取られるとか、さし上げるとかはあるが、目下に与える、という気味のことは浪花にはないように思う。
瓜ッツの内部も、白や金で飾ってあって、絨毯は階によって紺やオレンジ、空色とちがう。調度は品があって贅沢《ぜいたく》で、こういう高級ごっこは、女は大好き。
窓をあけると目の下はカノバス・デル・カスティーリョ広場、猛烈な騒音が舞い上ってきた。マドリッドも、人や車が多いのだ。向かいはプラド美術館である。四月のはじめ、空の色はうすくて、なんの花か、花粉がしきりに空中に散っている。車が多いといっても、通りが広く、木が多いから、大阪の町のようにせせこましくない。
2
スペインでこそ、屋台にありつけそうだと期待していたら、スペインに長く住んでいるKさんという日本婦人が、
「屋台ではないけど、大衆的な店はあります」
と案内して下さることになった。Kさんの旦那《だんな》さんはスペイン人で、姑《しゆうと》さんと同居しているそうである。日本女とスペイン男は相性がいいのか、マドリッドにも日本人妻はわりと多いそうであった。K夫人は山陽道の出身者で、私のような関西の人間にはなつかしいアクセントの言葉である。スペイン語の達者な愉快な人で、スペインの女権は低いが、あんまりたかくなってしまうと、女にも責任や義務がかかってたいへんだから、
「あたしゃイマのままでいいですわ、アハハハ」
と笑っていた。あたまのよい人だ。
「ご主人は何をなさってますか」
「会社につとめてるんですけど、何をしてるんだか」
K夫人のスペイン旦那は、お尻に敷かれているのかもしれない。そういう家族はホカにもいるとみえて、日曜日プエルタ・デル・ソルの広場をあるいていたら、教会へいくのか、小ざっぱりした服を着た一家が四、五人、ゾロゾロ通っていたけれど、旦那と子供たちを引きつれるように先頭を切っていたのはまさしく日本女、旦那は黒いヒゲのスペイン男で、両手に小さい子の手を引いていた。
マドリッドの早春の夜は寒く、オーバーを着なければ歩けない。
ムニエス・デ・アルセのあたり、居酒屋風の店が軒並みならんで、店先にはエビや、貝(アサリ、ムール貝など)、魚(タラのようなもの)がぎっしり重なってある。
オリーブ油で小魚をからりと揚げている店もあり、酢漬けのイワシを並べたところもあり、そういうのはイタリアと同じであるが、マドリッドの居酒屋はみな立ち飲み、立ち食いで女がいっぱいはいっている。
女も立って飲んでる。
黒髪黒眼、イヤリングなど下げたスペイン美人が、ハンドバッグを抱え、小魚のフライを食べては、サン・ミゲルという小瓶のビールやワインを飲んでるのがみえる。どの店もおまつりみたいにぎっしりの人。
女たちはごく普通の、勤め帰りという感じの女、そうして、K夫人の忠告にしたがい、
「あんまり早うからいっても、夜は賑わってないので」
ということで、八時ごろ、町へくり出したのであるが、海のものをおつまみに食べさせるそのあたり、町中がわんわんと喧騒に沸いていた。美人に目を惹《ひ》かれるのか、
「カルメンがビール飲んでる店へはいってみますか」
とおっちゃんはいうが、オリーブで揚げた小魚もおいしそうながら、K夫人によるとここでおいしいのは小エビを鉄板で焼いたもの、ガンバス・ラ・プランチャ。(K夫人の発音通りかきとめた)
店先で、さかんに小エビが鉄板ではねている。おいしそうだ、というので、カルメンが流し目でビールを飲んでるほうはあとまわしにして、エビ焼き屋へ入った。
ここは立ち食いもできるが、奥には殺風景な大食堂がある。牢屋のようながらんとした石の部屋に、天井からはだか電球が下っていて、そこに無数の丸テーブルと木の椅子があった。ガタガタのテーブルと椅子に坐ると、まわりは若い男女ばかり。
「学生ですね」
ということである。木のテーブルにはソ聯《れん》国旗や闘牛の絵がナイフで刻みつけてあったりして、日本のタタミに必ず煙草の焼けこげあとがあるのと同じ。
椅子やテーブルに油が染み、コンクリートの床に、紙ナフキンが散乱しているさま、喧々《けんけん》ごうごうのやかましさなどは、ちょっと尼崎あたりのギョーザ屋「|※[#「王+民」]※[#「王+民」]《みんみん》」という感じ、ここへ坐ると人数分の指をたてただけで、小エビの鉄板焼きの皿がくる。小エビのほかは売ってない、小エビ専門の店なのである。十センチから十五センチくらいの小エビが七、八匹塩焼きされて皿に載ってくる。それにフラスコに入った赤ブドウ酒が乱暴に置かれる。小エビ一皿四十五ペセタ、赤ブドウ酒一ぱい十ペセタ。
一ペセタは三、四円見当の感じだから、いかにも安い。学生がわんさと詰めかけているはずである。
ホカの料理は一切なし。
ただもう、ひたすら小エビの皿一辺倒、それが次々と運ばれ、客は次々と食べてワインを飲む。それが、牢屋のような石の部屋とはだか電球であるから、ローマより更に荒々しい。
ここからくらべると、ヴェニスなんか、頽廃《たいはい》的なまでに文化が高かったなあ。
やっと来た来た、給仕人はモノをいうひまもない忙しさに仏頂面《ぶつちようづら》をしている青年である。
湯気を立てている小エビの皿が、ガチャン、ガチャンと置かれる。スペイン男は、うまくいくと(どううまくいくのか、くわしく説明する根拠はないが)戦慄《せんりつ》的な美男になるので、少女マンガ雑誌にある目に星の入った美少年など、ざらにいる。そういう男の子が、忙しさのあまりムーとむくれて、小エビの皿をおいてゆくのである。前掛けをしてゴム長をはいたりしている。
小エビはすこし、塩が利きすぎであるが、大衆的な味のワインを飲むのに、ちょうど手ごろ、男の荒っぽい料理だから、めっぽう美味しいのであった。
新鮮なエビにぱらっと塩を振って鉄板でジュウジュウと焼くだけ、新鮮なものは、荒っぽく、なるべく手をかけないで(というなら男の料理になる)食べるのが美味しい。
何皿でも食べられそうであるが、なるったけ、次の赤提燈の料理も経験しようというので、一皿だけで出ることにした。ここでも小さい紙ナフキンは卓上にあって、「ラ・カサ・デ・ラス・サンバス」とあるのが店の名だろうか。
向こうの学生がひときわワイワイいっているのはK夫人によると、
「ドミノで、勘定払う人をきめてるんですね」
ということであった。
一皿、百二、三十円の見当で新鮮なエビが食べられる、というようなのが、ホントウの安い食べものではなかろうか。日本で安い食べものをさがすとなると、それは古い、いたみかけの食べものだったり、人工食品だったりする。
シュンのもの、新鮮なものを安く食べられる、というところがない。
小エビばかりの次は、野菜ばかりの店へいってみた。
こちらではアルカチョパという、朝鮮アザミ、それに玉葱、アスパラガスにピーマンなどが、店のショウウインドーにいっぱいつめこまれてツヤツヤ輝いている。ここへはいってみたら、さっきのエビ焼き屋より、やや高級で、来ている客も学生なんかいず、中年の家族づれである。
マッシュルーム、ピーマン、アスパラガスをオリーブ油でいためたものが出てくる。塩が利いて、そうくどくはなく、これまた、ワインのつまみに好適。
オリーブ油は、日本で食べるとしたら、どうかわからないが、全く臭くはなく、あとで別の店でイワシのから揚げを食べたけれど、カラッと揚がって、いくらでも食べられた。
おっちゃんは野菜いためをたべるとき、なめし皮のジャンパーに油がドロリとこぼれ、店の男たちは恐縮して、シミ抜きをしてくれるというのだ。
脱いで渡すと、ノミとり粉のような白い粉を盛大にふりかけて、そのまま、置いていた。
皮製品を扱いつけている国だから、男たちも慣れた手つきである。あとでパッパッとふり払うと、シミはまだ残っていたが、かなり薄くなっていた。
黒眼の肥満した給仕が、どなるようなスペイン語で、K夫人に恐縮していた。これぐらいしか、とれない、というのだそうである。
シミ取り粉を、いつも店においているところをみると、油をこぼす客も多くいるのかもしれないが、スペイン語は恐縮するときも、どなるように聞こえるのである。凄い捲舌と早口(に思われる)で、言葉も疾風|怒濤《どとう》のよう、とにかく、すべて、何かにつけて、
「荒々しいですな」
とおっちゃんと言い合う。
「夫婦ゲンカのときは大変でしょうねえ」
K夫人に聞いたら、
「あたしゃ、ケンカになったら、タンカを切りますから。──こんなトコ、来たくて来たんじゃないよ、といってやると亭主は黙りますね」
スペインは、男権が強くて(それはあとでいったフランスも同様)、家では男が絶対の権力を手にしており(むろん、社会でもそうである)、女はひとむかし前の日本のように、男にはあたまが上らないのが建前である。しかし、たいてい、建前と内幕は別になっていて、ちょっと見ただけでも、スペイン男は、女の顔色をよく見ていた。──昼間、プエルタ・デル・ソルの広場で、デモを見たけど、女性が先頭を歩き、あるいは旗をかかげて気勢をあげ、行列をととのえるために号令をかけたりしていて、かなり活発である。
「夫婦ゲンカの原因ってなんですか」
「つき合いに関することじゃないかしら、何しろ、夜のおそい国でしょう、夫婦単位でのおつき合いだから、あたしも出ないといけないけれども、夜、十一時十二時からはじまるパーティなんて、眠くて眠くて。向こうは平気だけど、こっちはつきあい切れなくて、それでケンカになっちゃいますね」
向こうというのは亭主である。
「日本の女を女房にしている家庭では、よくそれがケンカのたねになるみたい。反対に日本の男を亭主にしている家庭では、亭主が日本の流儀で、夜、客をつれて帰ると、スペイン女はドアをぴしゃっと閉めて『あたしゃそんな人を招待してない!』とことわるらしいです。それでよく、こぼしてますね、日本の男の人」
「ハハーン。すると、スペイン女をヨメハンにするのは考えもんやなあ」
とおっちゃんは深刻に考えこみ、それまでは、どの女をみても、
「カルメンみたいや」
と喜んでいたのであるが。
私も、早寝早起きのほうだから、スペイン男とは連れ添えない。残念である。
「お料理もなさるわけですか」
と若いホトトギス氏などは、日常の食べものがまず気になるようであった。
「しますよ。スペイン料理。あたしがこっちに来て、パエリャなんか作ったもんだから、姑の婆さんがびっくりして、オヤ、あんたどこでそんなこと習った、っていうの。あんたの息子に習うたがね、というと、『ウチの息子は、こっちにいるとき台所へも入ったことはなかったのに』とふくれてたりして」
姑かたぎ、というのは世界中どこでも同じである。
スペインへ戻ってきた王様のことを、K夫人は、
「いろいろ大変だろうと思いますねえ。かわいそうに」
いまマドリッドの週刊誌を賑わせているのはナントカ伯爵夫人だか公爵夫人だかの再婚話らしく、大金持の貴族なので世間の興味をあつめているらしい。広場の新聞スタンドで売っているグラフを見たら、表紙に、どうもそれらしい、美しい婦人と、貴族の遊蕩《ゆうとう》児といった中年男性が仲むつまじく寄り添っている写真があった。
3
食事も酒も中途半端になった、というのでプエルタ・デル・ソルちかくの料理屋をのぞいて、パエリャを食べることにする。サフラン入りの黄色い御飯、貝や魚をたきこんだ、たきこみ御飯である。三十分以上待って出て来たのは、大ぶりな鉄鍋《てつなべ》にムール貝、エビ、白身の魚、ピーマンやグリンピースで飾られた、香ばしい匂《にお》いのする熱い黄色い御飯、まあ何というか、じつに美味しいけれども、いうなら海浜チャンコ鍋、海賊料理という、野外の宴会料理であろう。
かつまた、これも、小エビの鉄板焼きとおなじく、
「男手料理」
というたぐいのものである。
あとでパリで食べたフランス料理に比べると、「ぶった切って」「鍋につっこみ」「そのへんのものをぶちこんで」「火を入れた」という感じの荒々しさ、スペイン料理にくらべるとフランス料理は、ピレネー山脈一つこえただけで、「刻んで」「すりおろして」「絞って」「煮て」「味つけして」「冷やして」「ソースをかけて」という離乳食のごとき、手のこんだものになり、これは全く、
「女性料理」
の感じ、むろん、スペイン料理にしろフランス料理にしろ、プロの店で出す皿は、細心の注意と技術で以て仕上げられているのにちがいはないけれど。
パエリャは、給仕の男が器用に皿に分けてくれ、ふんだんにレモンを切ったのを添えてくれる。
これを熱々の黄色い炊きこみ御飯にかけて食べる。ぱっくり口をあけたムール貝やエビに、惜しげなくレモンをしぼる。
かなりの分量だと思ったが、おいしいので難なく平げてしまった。
そのころは十一時、店の賑わいはたけなわである。どこかで一ぱい飲んだあとの腹ごしらえにくるのだろうか、シベーレス広場の照明に照らされた獅子の噴水を見てきたのか、スペイン広場のセルバンテスの記念碑のそばを通って来たのか、夜がふけるにしたがってますます、酔いに昂《たか》ぶり華やいだスペイン語が、嵐《あらし》のように飛び交う。
このパエリャを出すバレンシア料理の店は家族向きらしく、小さい子供がいるのだが、
「またよくつきあいますよね、小さい子が、こちらでは」
というK夫人の話で、子供のときから宵っぱりの習慣がつけられるらしい。
しかし、本当のレストランへいくと、小さい子供は、意外に、というか当然というか、来ていないのである。
そうして、見わたす限り、夜中近い時間を謳歌《おうか》しているのは、優雅な中年ばかりであった。
翌晩にいった、マヨール広場のちかくの店がそうである。
マヨール広場の、七時、八時、九時という時間、若者が広場のまん中、ぐるりの廻廊(それはサン・マルコ広場のように店舗になっている)にも、いっぱい群れていた。
何するでもなく群れている。
彼らが集って放歌している店もある。
「旧制高校のストームのような感じですなあ」
とおっちゃんは若者のエネルギーがむんむんするさまに、ちょっとへきえき気味のようである。
マヨール広場は、廻廊にかこまれた石だたみ、昔はここで闘牛が行なわれたというが、まん中にフェリペ三世の銅像が建っていた。
甲冑をつけた騎馬の勇ましい姿である。日本でもそうだけれども、
「なんで、銅像は勇ましい姿なんでしょうねえ」
と、みんなでふり仰ぐ。
「しかし、やはり、一ばん人に見て欲しい姿を、ということになると……」
「ねまきにナイトキャップという姿では収拾つかないです」
「でも、西郷サンみたいに、ふだん着の人もいますから」
女から見ると、ふだん着の銅像の方が親しみやすくていいように思われるが、男性文化では「親しみやすい」ことは尊重されないのである。
しかし私はもうそういう、勇ましい騎馬姿、などという男性文化に飽き飽きしてるのだ。
銅像はさておき、スペインで敬服するのは中年がしたたか、人生をたのしんでいること。
マヨール広場ちかくのレストランへはいったら、夜の九時、これでもまだ客はまばら、ここはきちんとしたレストランで、ボーイがうやうやしくメニューを持ってくる。閉店近いので客が少ないのかと思っていると、ワインがくるころから、どんどん客が混みはじめた。
これが見ていると、夫婦二組、三組、というようなのが多い。夫同士、妻同士仲よくベチャベチャしゃべり合っていたりして、あれは、兄弟あるいは姉妹がそれぞれのつれあいを携え来て、会食をたのしんでいるのかしらん、と想像されたりする。
私たちは窓ぎわの席であるが、横は中年の夫婦、これは結婚生活も長いのか、さしてしゃべるでもなく、黙々と料理を平げている。
夫は五十そこそこ。
妻は四十五、六ぐらいのところかしら、外人の年齢をあてるのはむつかしいから、もっと若いかもしれないが、双方、べつに険しい雰囲気もなく、仲よさそうに黙っている。
「やはり、外人も、べつにモノいわないという夫婦もいるんですなあ」
とおっちゃんは感心する。
「外人というのは、夫婦、顔さえ合すと、必ずしゃべりまくり、会話がとぎれることはないといわれ、えらいもんやなあ、文化の程度ちがうと劣等感もったり、また、やっとこさ疲れて家へ帰って女房《よめはん》の前でまで、しゃべること考えんならん、なんて神経の疲れることは、とてもかなわん、外人に生れんでよかった、などと思ったものであった。しかるに何ですか、外人の夫婦でも、一言も口を利かず、黙々と、目と目で以心伝心、仲むつまじくメシ食うとるやないか。外人にも高砂《たかさご》の尉《じよう》と姥《うば》がおるやないか! あんまりニセの情報、信じたらあかんなあ」
くだんの夫婦は、テーブルの上に大皿のロブスターを盛り、双方から手を出して食べているが、かなり食べつくして、夫は残りを妻に、
(食うか? オマエ)
と目で聞き、妻は、
(もう結構。アンタ食べて)
という目付で夫は安心して手を出して平げてしまった。口の利けない夫婦ではなく、最初にメニューを見てきめるときは、投げつけるような威勢のよい捲舌で給仕と渡り合い、妻も負けじと口を出し、ああでもない、こうでもないの末、きまった献立であるのだ。
しかし、そういう静かに食べる夫婦はむろん例外で、いまや店内は、どなり散らすスペイン語で喧騒のるつぼ、そうして女たちのけたたましい傍若無人の笑い声。
うしろの席なんか、十人あまりの客。中に一人の男を老婦人が肩を叩《たた》いて立たせ、
(そうそ、そういえば、こちらのご紹介、まだでしたっけ、これはホレ、ウチの娘の婿《むこ》の従兄《いとこ》の甥《おい》のつれあいの弟でござんすのよ、……)
などという調子で、立板に水のようにしゃべり、頬ひげの男は、紹介された親戚縁者とおぼしき男女それぞれに、握手したり、抱擁したり、頬にキスしたりいそがしく、一同、席につくと、とたんにすさまじくおしゃべりの幕が切って落されるのである。
その合間に、女たちの誰はばからぬ笑い声、どんどん明けられるワイン。
しかも見渡して壮観なのは、店内、中年、老年ものばかり、ハッキリと若者の連れはいないのだ。
この店は高級レストランなので、学生が小エビ屋へいくように、気軽に来られない、ということもあるだろう。
日本は、いかに高級であろうと、必ずクチバシの青い若造が女をつれてきていたりする。新幹線のグリーン車に青年がふんぞり返って坐ってたりして、私はあんなのを見るとカッとする。
電車で、生意気な中学生たちが互いに席をとり合ってズラリと坐り、オトナをにらみすえているのを見ると、血のけの多い私は、またまたカッとする。この世に生きてまだ日が浅く、親にも社会にも、受けた恩恵のお返しはしていないのに、なぜそう、でかい態度でのさばるのか、といいたいのだ。若いうちは満員電車の中で立ち、新幹線は自由席で立ち、高級料理などは要らざる奢りである。中年も若者もごっちゃにするのを、私は、ホントの平等、自由とは思わない。
営々と働いてきた中年者が、若者とは別の文化を持ってあたり前である。オトナのたのしみというのが、若者ときっかり一線を劃《かく》されて然《しか》るべきである。
日本みたいに、オトナも若者も子供も、ズルズルにいつまでもくっついている社会では、永久に、ホントのオトナができないのはあたりまえだ。
どことなく日本人というのは未熟なところがあり、オトナになりきれない人種であるが、それは際限なく、オトナたちの世界へ、若者やコドモが踏みこむのを許すからである。
私は、オトナの集りへコドモを連れてくる人がいちばんかなわない。劇場でも幼児をつれてきて、泣かせて平気な女がいるが、そういう人たちにいわせると、「私にも芝居を見る権利はある」というのだから、たすからない。子供をつれてくるなら、睡眠薬でも飲ませて静かにさせておく義務がある。子供の小さいうちは、芝居なんか見る権利はないのである──こういうと、怒る人がいるだろうなあ。当然のことだけど。
しかし、禁煙車をつくったり、嫌煙権を主張したりするなら、嫌|児《ヽ》権もみとめてもらいたい。コドモぎらい、という一般社会人も、かなり潜在的に多いのだ。
嫌|若者《ヽヽ》権もみとめてほしい。ことに一種、兇暴《きようぼう》な野獣のようになる、十六、七から十八、九、ハタチぐらいまでの野獣期の男女と同席するのに堪えられないのは、煙草ぎらいが、ヘビースモーカーに、隣の席へ坐られたのと同じである。
そういう意味では、マヨール広場ちかくのレストランはまことに居心地よく、若者もいなければむろん、走りまわって目障りになる子供もいない。
イブニングドレスとまではいかないが、カクテルドレスぐらいの服を女たちは着こみ、宝石を身につけ、男たちはきちんとネクタイをむすび、カフスボタンに金や光りものの石をつけたりしている。ワイングラスをあげ、ナイフとフォークをふりまわして、男も女もわれ劣らじとしゃべり、更にその喧騒に負けまいと声を高め、もう、我々のしゃべってる声さえ、聞こえない。
「よくこれだけ、中年初老が集まりましたねえ」
ホトトギス氏は呆然《ぼうぜん》としていた。
「日本やったら受験勉強の夜食を作ってる年頃のおばはんです」
おっちゃんも感無量である。
「なんであない、笑うことがあるのか、女は、どこへいっても気楽なんですなあ」
「いや、男だって笑ってますわよ」
税金も商売もうち忘れ、男たちも頬ひげをふるわせてどっと笑う。笑いつつ、なおいっそう食欲を増したように食べる。
中年の男女が打ち混じってしゃべってるのが羨《うらや》ましい。
ここがたいせつなところ。日本では、男は男同士、女は女同士しゃべって面白がるくせに、男女混合にするととたんに、退屈そうになる。すべて、男と女が混じってこそ、本当に面白いのに。
それからして、私は、雑誌や新聞の対談で、男同士、女同士の対談、というのはあまり面白くないのだ。このごろは座談会というのははやらなくなったが、男二人に女一人とか、女二人に男一人、というおしゃべりがあったら、とても面白くなるのじゃないか、と思ったりする。
それで思い出した、この前、某新聞にたのまれて、宝塚のスター二人と、私との座談会があった。鳳蘭さんと榛名由梨さんである。私は女三人でしゃべっても、話題もひろがらないし、紙面の彩りも単調だから、カモカのおっちゃんをつれていきましょう、と提案した。
新聞社側はOKして、四人でしゃべり(しゃべりにくい場所だったけど)、おっちゃんが遠慮のない質問をするので、榛名さんたちもつられて正直な答えをして、ことに鳳さんという人は、天衣無縫な人なので、ズバッとした発言があり、生彩のある座談会になったのだった。
ところが掲載された紙面では、きれいにおっちゃんは脱けおちて、二人のスターと私の対談になっている。おっちゃんの発言は私の発言とダブッていた。一ことのことわりもないので、いまもってその新聞社に、どんな見識があってそうしたのか、わからない。しかし、女ばっかりの座談会なんて(男ばっかりのそれも同じだが)、およそ面白くないものなのである。
同じ企画を、次に某誌がしたが、男がはいるほうがバラエティがあってよいという見解でおっちゃんがはいっていて、ずっと面白いページになった。おっちゃんと同じことを私がしゃべっていても、雰囲気の色けが全くちがう。そのへんの省察が、いまの日本の男性にはまだできてない。
どうも、日本の男は、美点もかずかずあるけれど、本質的に、どんな男も、女を蔑視《べつし》するところがあるのじゃないかしらん。
月給袋をいくら封を切らずに妻に渡したって、そんなものは女性尊重精神からではないのだ。波風を立てるまいという伝統的保守主義と、ちょっぴりずるい駆け引きの、精神的経済主義、私はこの日本の社会に、かなり女性蔑視は根強くはびこっていると思っている。
だから、オトナの男と女が同席し、若者・ジャリをまじえず談笑、飲食するというオトナ文化が育たない。男女同等の教育を受けている今では、女にその力ができているのに、それを支える男がまだ力よわい、ということだろうか。
日本の男はまだまだ、女の才能を育てられるほどの大物がいない。才女の離婚、なんていっとき騒がれたけれど、あれも所詮、日本の男が女の成長についていけないだけの話である。
「そこはわかりました、しかし、ちょっとワシら、かなわんのは、あの連中、どうも身内同士、親戚で来てる感じのがいる、これはいややなあ」
という、おっちゃんの発言であった。
イタリアもそうだが、スペインもかなり家族主義。
昼間に入ったレストランでは一家そろって、というのが多く、なかに、四人の女が食事をしているのがあったが、これがみな年代がちがう。
「女学校の同窓会でもなし」
「何かの会員の集りでもなし」
「顔が似てる気もします」
とぬすみ見て、私は、
「ハハア、あれは、女四代ですよ。マドリッドの『紀ノ川』ね、ヒイおばあさんに、おばあさん、母に娘というところね」
なるほどと、一同、ハタと横手を打ったのである。そういうのがじつに多い、そんな社会、引きずり引っぱってたいへんだろうなあ、というのはわかる。
「親類なんて、切ろう切ろう、と思うてんのに、これだけは願い下げですなあ」
とおっちゃんはいう。
「友人で仲よくしておるのがいちばん。いやになったら離れられるし」
さて、私たちのここで食べたのは、コンソメスープにオムレツ(スパニッシュで、玉葱、じゃが芋、などが盛大にはいっているもの)、ロブスターのグリル、一キロのロブスターが二千五百ペセタ、伊勢エビだけで七千円、スペイン料理としては最高にたかいが、三人で食べて、おなかが大きくなってしまう。
いや、スペイン中年のはしゃぎぶりにあてられておなかが大きくなった、というところかもしれない。
4
マドリッドへせっかく来たのだからフラメンコを見にいく。闘牛は時期はずれでやっていないが、やっていても私には見る勇気はなく、この頃、動物の死を見て「|まなこ《ヽヽヽ》うるむも老いのはじめや」、テレビで古いアメリカ映画をみていたら、ひと昔前の映画だから、猛獣がジャカスカ射たれたり、刺されたり。
猛獣に罪はないので、襲われるようなところを徘徊《はいかい》する人間に、罪があるのだ。人を襲うのは猛獣の自然なのだから、しかたがない。
いや、その映画ではヘンなところがまだあった、なんでそんな奥地へ出かけるかというと、奥地に出土する貴金属を求めて、冒険の旅にのぼるというのだ。
欲につられて、という設定はもう、現代の我々には説得力がなくなってしまった。貴金属を発見して、うまく持ち帰って巨万の富を得たとしても、そのあとはむなしいばかりである。これが、アフリカ奥地の未踏の地にねむる古代文明のあとをたずねて、というような冒険であれば、最後まで興味をつなぐことができるかもしれないが。
ひと昔前の映画、というゆえんである。
テレビでやる昔の映画は、玉石|混淆《こんこう》もはなはだしい。
また横道にそれた、フラメンコ、フラメンコ。
洞窟《どうくつ》のような舞台は、写真や絵でよく見るものである。唄い手は小柄な、猿のような顔の爺さんで、この人は有名らしくレコードも出している。ホトトギス氏は、いかなる連想か、
「豊臣秀吉みたいな感じですね」
という。舞手の女は九人ばかり、その中央に、大奥取締りというか、北の政所《まんどころ》というか、ご老女タイプの女が坐って、踊子を統率していた。
ダンサーは端から一人ずつ出て、爺さんの唄に合せ、踊ってゆく。スペイン女らしい、白い肌、黒髪の女、金髪の女、黒人風、色の浅黒いジプシー風、とりどりの女が、きれいな衣裳《いしよう》で舞台に並ぶ。みな美しいが、とりわけ、スペイン女は美女である。踊りも巧かったが、横着でホカの踊り子が踊っているときは手も叩かない。
最後に大年増が、真打ちというか、淡谷のり子さん風というか、おもむろに立って踊ったが、これがすごい迫力、それまでの美女の踊りの印象はけし飛んでしまった。豊臣秀吉爺さんの唄もひときわ、哀々と澄んでいた。
フラメンコは、このごろ日本でも踊る人が多く、神戸・生田神社の観月の宴のときの奉納舞踊にもなっている。
なんで神サンにフラメンコを奉納するんですか、ときいたら、宮司サンは、そもそも昔から神サンには海の幸、山の幸をお供えする。舞楽も海の向こうから来たものを奉納してお慰めしても、ちっともけったいやない、という説明であった。
私には若い美女の踊りより、大年増の踊りの方が身に沁みたのだが、シャンソンと同じで、フラメンコも、きれいに踊りゃいい、というものではないのかもしれない。
爺さんの唄はまた、仕事に倦《う》み疲れたとき、越し方行く末を思って思わず出るためいきのようにもききならわされる。そうして、あとを引く酒のように、ふしぎにいっぺん見ると病みつきになる踊りである。衣裳の色はそれぞれにきれいなのだが、水玉の模様が多い。
重そうな裾をさばくには、かなりのエネルギーがいるのではないかしら。午前一時半、第一回のプログラムがすんで、そのころからまた、観光客がつめかけてくる。
夜のおそい町だが、車を拾おうと外へ出ると、さすがに寝静まっていた。
マドリッドの商店は、窓の飾りつけなど野暮《やぼ》ったくて、さながら年末大売り出しといった感じ、ローマやヴェニスからくると、田舎町の駅前商店街というところであった。皮は安いが、デザインも質もあまりよくない。十年前に来たときは、買いたいものが安くいっぱいあって、マドリッドは買物天国という気がしたが、十年のあいだに、日本の製品が格段に進歩してしまったのだ。
日曜日の朝。マドリッドは数日雨つづきだったとかで、久しぶりに快晴の日曜を迎えて、町はどっとくり出した人でいっぱい。
朝はシベーレス広場の獅子も、噴水を噴いていない。シベーレス広場は、プエルタ・デル・ソルと別に、車の交通の要所で、このへん、官庁や銀行、中央郵便局が並び、きれいなビルに朝日が当っていた。
ノミの市を見にいく。
ごった返す人波、露店は道の面側とまん中に出ていて、お土産やらカバンやら、化繊のテーブルクロス、植木市、布類、金物錠前、ゴタゴタした日常雑貨、電気製品(まん中に小さい電卓が大事そうに飾られている)、ヒッピーがオモチャの手づくりやインドの香《こう》を売っているのは、どこもかわらぬ眺めである。
私はミニ・バッグ、百五十ペセタと、お土産用のカスタネット三百五十ペセタを買った。値切りもしないで買った。値札の通り払う。ノミの市というけれど、掘出し物というよりは、京都の東寺の市のようなもので、日用品を買いにくる市民もいるようであった。
骨董《こつとう》屋が一軒、これはちゃんとした店で、中へはいると十九世紀風のピストルがいっぱい、甲冑や槍、短剣なんか無数にあった。
ロシアの小説に出てくる決闘用のピストルはちょっと面白いものであったが、そういう土産を買うわけにいかない。スヌーの教育にわるい。
骨董といえば、トレドの土産物屋は、軒なみ、剣や昔のピストルや甲冑の模造品を売っていた。
トレドへはマドリッドから普通のバスでいった。駅の地下がバス乗り場で、一時間ちょっとでゆく。道はよく、近郊の景色を見られてよいのだが、トレドは期待を裏切られた。
オートバイが町中を走りまわり、その騒音は物すごい。観光バスがひっきりなしに発着し、町には兵隊があふれて、上空をヘリコプターが舞っていた。
バスターミナルの向かいにアメリカの旗がひるがえっていると思ったら、アメリカの軍事局があるみたい、とどろく爆音は、ヘリのものかオートバイのものか、軍人が闊歩するトレドは、予想外であった。
スペインにも修学旅行があるのか、学生がうちつれて車をよけながら通ってゆく。黒衣の婆さん、杖を曳く爺さん、そういう人たちが横丁から出てくるので、横丁を見たら、古い町並みがまがりくねって坂になっていた。トレドは坂の多い町らしい。
ゆっくり一晩泊れば、いいのかもしれないが、疲労|困憊《こんぱい》してマドリッドへ帰ってきて、もうこういう晩は、新規の開拓はする気力もない、前にいったバレンシア料理の店をさがして、パエリャを食べる。
前菜になまのムール貝があり、しこたまレモンをかけて食べた。オレンジ色の肉が、レモンでしまって美味しいものだが、しかしパエリャの中に入っているムール貝のほうが、心おどるものである。
マドリッドの文化遺産をほとんど見ていない。ノミの市でセリ売りのおばさんにみとれていて、王宮を見る時間もなくなったのだ。
トレドが、あんな物凄い町とわかれば、見にゆかなかったところである。
プラド美術館だけは向かいだから、いそいで見にいった。
私はこの館の中では、ムリリョ、ベラスケス、ルーベンス、などが好きであるが、「五十すぎて」泰西名画に接したおっちゃんは、
「何というても、グレコ、ゴヤですなあ」
と、わりに男っぽい好みであった。
ここでは、十年前に見た絵を、私はほとんどおぼえていた。好みがかわってない、ということかもしれない。
さて、こんどの旅行中、たった一ペん、列車に乗るスケジュールがある。マドリッドからバルセロナ行きのタルゴ号である。
列車の中で食事が出るというので、駅弁好きの私はご機嫌である。小雨のマドリッドを午後一時五十五分に出発して、バルセロナへは十時に着く。八時間の汽車旅、この列車は新幹線のグリーン車風で、青灰色のインテリア、藍《あい》ねずみの椅子、おちついた色合いである。
定刻、音もなく出発する。
ボッとも、ピーッとも鳴らない。
「当然とちがいますか、オトナやったら、時間きたんわかるやろし、日本みたいに、ヤレソレ、発車しますの、乗ってる人は下りて下さいの、小学生みたいなこといわんでもええと思いますが」
おっちゃんは満足げであった。
「大体、日本は世話やきすぎ。忘れものないように。白線内に下って下さい。前の車が停車中です。しばらくおまち下さい。そんなん、一々、いわんかてええねん。日本人みな小学生なみに世話焼く。けしからん」
「しかし煙草買いに下りるとか、駅弁買いに下りてる間に、音もなくドアがしまって発車、ということもありますから、油断なりませんな」
とホトトギス氏。
「そういうノンビリしたのはおいてゆく。自然|淘汰《とうた》ですなあ。文字通り、おちこぼれはおいていかな、しょうないでしょう」
おっちゃんは、乗りこんでいるものだから気が大きい。
乗ってすぐ、昼食になる。座席の手すりにさしこんでテーブルを前にくっつけてくれる。列車に乗りこんだ給仕が、テーブルをつけ終ると、次々に料理がはこばれてくる。機内食のようにコンパクトのものではなく、ちゃんと暖められた陶器の皿に、料理が出てくるのである。赤ワインにパン、前菜はハムとじゃが芋サラダ、御飯のよこに半熟卵のごときもの、チキン、そのあとチーズ、アイスクリーム、コーヒーと、フルコースである。
卵御飯のごときものは日本風味つけで、日本人にはかなりいける、たっぷりとレストランでたべた感じで、これで三、四千円ぐらいの見当だろうか。
それで思い出したけれど、ミラノの空港には、セルフサービスの食堂があり、ここの食事はおいしかった。マカロニのトマトソース、肉のボイル、前菜に野菜の酢漬け、デザートにオレンジケーキ、チーズにワイン、つまりイタリア式フルコースをひとそろい、うんと取って、やっと二千円ほどであった。もしそれ、ピッツアの如きものと、ミルク、コーヒーなどとると、二、三百円で上ってしまう。
怱忙《そうぼう》のうちにたべる料理としては、たいそう美味である。
タルゴ号は、ゆっくりとおちついて食事をとれるので、食堂車より気分がよろしく、女の声の車内放送を聞きながら、スペインの野に降る雨を見ているのもよいものであった。ボーイがあとで、食事のお金をあつめにくる。ついでに夕食の予約もくる。
スペイン人は悠揚《ゆうよう》迫らず、夕食の予約もしているが、われわれはもはや、考えることもできない。ただただスペイン人の食欲に脱帽するのみ。
車内放送はスペイン語、フランス語、ドイツ語、英語の順であった。ここも、意外にというか当然というか、日本語の放送はない。
雨が止んで薄陽がさし、荒野はしっとりした色になっている。いちめんの赤土、木らしいものは一本もなく、ブッシュの禿山《はげやま》がところどころ。遠くの山のふもとに赤壁の村が点在していた。なぜか、
「崩れのこれる廃屋に」
という歌のような、廃屋があちこちにある。ロバにまたがる農夫、羊のむれ、そうしてその向こう、山のてっぺんには、村々と教会の尖塔《せんとう》が、日に輝いているのだ。ヘミングウェイの小説を思い出したりする風景。
「なぜ、教会は、村の中にあるのですかねえ」
「悪いことをしても、教会の中へ一歩はいったら助けてもらえる、というようになってたのではありませんか」
とおっちゃんは考えをのべた。
「タッチの差で、神父さんがストップウォッチをもっていたりして」
「審判がいて、セーフと」
「どこからでも公平な距離であるように村の真中《まんなか》につくる」
「そういえば、そんな田舎の村に泊りたくなってきたなあ」
「下りますか」
その町は山上に古城もみえた。ホテル、駅前レストランもある。「リノテッカ」と読めるが、正式にスペイン語ではどう発音するのやら、わからない。急に旅情を感じて、
「どうしますか」
「突然いってもホテルは取れないかもしれません」と深刻な顔のホトトギス氏。
「教会で泊めてもらうという手もある」
「村はずれの野宿はどうです」
「家なき児の爺さん婆さんみたいです」
とホトトギス氏はにがにがしそうであった。
「おっちゃんが、クサリを切って、私が太鼓を叩いてまわる、というのはどうですか。ホトトギスさんに『ザンパノがきたよ!』とどなって頂いて」
「なんでスペインくんだりまで来てジェルソミナごっこをせにゃならんのですか」
ホトトギス氏が泣き声をたてている間にタルゴ号はまたもや音なく、ピュッと発車してしまう。
[#改ページ]
バルセロナ
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タルゴ号の旅客はサラゴサでおびただしく下車し、マドリッド・バルセロナ間を八時間かけていこうという客は少ないようであった。ことに観光客は、たいてい飛行機を利用するだろう。
飛行機だと一時間ぐらいでいってしまう。東京・鹿児島間をキシャではるばるゆくようなもので、旅をたのしむココロがなくては乗っていられない。
雨は止んだり降ったり、スロープの牧草地帯があらわれたかと思うと赤土の原野がつづいたりして、窓の外の景色は飽きない。大体、私は、新幹線に乗っても外を見てて飽きない人間で、阪急電車でも、本当をいうと昔のお婆さんみたいに、ハキモノをぬいで窓へむいてチョコンと坐りたい方なのである。景色を見て、いろんな想像をするのが楽しい。阪急電車沿線は高級・中級のいい住宅地帯なのでさまざまな家が並び、そのたたずまいから住む人を想像する楽しみもある。
それくらいなら、乗客にお尻を向けるより、ちゃんと坐って人間を観察した方が直截《ちよくせつ》的で便利かもしれないのだが、これが私は、あんまり好かないのだ。
今日びの人間、ことに中学生や高校生の顔つき目つきがきらいなのだ。
而《しこ》うして阪急沿線は学園都市をつらねているので、学生がたいそう多い。質のいいのも悪いのもあるが、まあ総じて、少年少女の顔は卑しくなっている。
ことに男子はいけない。中学生あたり、もう全く、田夫野人《でんぷやじん》の集合である。デリケートなオトナは、彼らと同席するのに堪えられない。電車に乗って、窓へ向いて坐りたい所以《ゆえん》である。
カモカのおっちゃんは、仕事場と住居が離れ、生れもつかぬ通勤者になったと嘆いていたが(一時間十五分ぐらい、片道にかかる)、肉体的疲労よりも、精神的疲労の方が甚だしい、という結論に達した。ナンデヤというと、
「人の悪意に疲れる」
のだそうである。
さて私は、オデコを窓ガラスにくっつけ、スペインの野原をながめて飽きないのであるが、サマータイムでいつまでも明るい。時計は七時を指しているが、四時ぐらいの明るさ、それでも小雨のせいで、ようやく薄暗くなる。
形ばかりのようなビュッフェがあって、コーヒーやビールを飲める。女が一人でコーヒーを飲みにきたり、男たちが安ワインを前にしゃべったり、していた。自由席の方はそれでも、かなり混んでいるようであった。
夜十時、バルセロナ駅に着く。雨が降ってたいそう寒い。四月のはじめでもオーバーなくてはいられない。
ここでも「ホテル瓜《うり》ッツ」である。夜のバルセロナは灯が少なく、がらんどうにすうすうとしている感じで、(愛想のない街だ──)という印象。南スペインの方がよかったかもしれない。
どうして南スペインへいかなかったかというと、このあと、パリへ飛ぼうという気があったので、そこに近いバルセロナで一泊しようということになったのだ。べつにどうしてもバルセロナにいきたいという期待はなかったので、雨の降る暗い街に出たときは、心細いばかり、ホテル・瓜ッツは、ここも上品で格式のある高級ホテルであるが、私は、便器に感心した。
マドリッドの「ホテル・瓜ッツ」もそうであるが、殆《ほと》んど漏斗《じようご》型の便器で、汚れをとどめないようになっている。
日本の便器はなんで横長なのかなあ。
ま、この際、どうでもよいが、もっと便器の形がいろいろ考案されてもよいように思う。
「なんでホテル・瓜ッツに泊って便器にだけ感心するのか」
といわれそうであるが、そもそも、食べものを試みる旅であれば、出す方も関心をもちたくなろうというもの。
しかし一夜明けたバルセロナは、明るくモダンな町で、マドリッドよりずっと垢《あか》ぬけていた。私はいっぺんに気に入った。
地中海に面する港町で、ここからヨーロッパの各首都へは、いくらも飛行機が出ている。パリまでもほんのひととび、垢ぬけた風はまっすぐバルセロナにふきつけてくるわけである。
バルセロナというと、スペイン戦争の連想で、いかにもスペイン風な、まじりけなしの血の熱さを連想するが、現実の町は、瀟洒《しようしや》でおちついて典雅な気分であった。
マドリッドの猥雑《わいざつ》さはなく、公園には鳩が群れ、街路樹に舞う。
道路はひろくゆったりしていて、車も多いが、道幅が広いので目立たない。近代的なビルが並んでいて、商店のディスプレイがすっきりと、いいセンスである。
これがマドリッドであると、ショウウインドー一ぱいにごてごてと並べたて、日本ならさしずめ、ガラスにななめの赤枠の紙を張って、
「棚おろし一掃大安売り!」
とでも書いてあるような感じ。
そういう店が、バルセロナには見当らなかった。そして街の色がベージュとかセピアとか、渋い間色なのである。
人々の恰好もマドリッドよりいくらか洗練された印象であるが、やっぱりスペイン人にはちがいないとみえ、四つ角の信号なんか無視して、ドンドン渡ってしまう。
無視するといっても、東京や大阪の都心みたいに人は多くないので、収拾つかない混乱になる、ということはない。
車が通らないとみきわめると、赤信号でも何でも横切ってしまうが、車も、
(しゃアないな)
という顔で、ちょっと停車したりしている。
要するに信号は、おっちゃんの言草ではないが、
「規則ではなく、警告」
というところ。気安めに赤青黄が点滅していて、どっちかというと、青のときに渡って下さい、という恰好である。
むろん、みんながみんな、赤でも青でもおかまいなしに渡る、ということはないのであって、大部分の人は、青になるまで待っている。おとなしく待っているが、しかし待ちきれなくて渡る気短かな人や信号無視の人を、罵《ののし》ったり、非難の目で見たり、しないわけである。
人は人、自分は自分。赤で渡ろうが、それで車にハネられようが、こちゃ知らん、という顔でいる。そこも日本とちがう。
日本では交叉点で、信号無視して渡る人間をみると、一斉に人は憎しみの目を向けたり、子供の手をひいた母親は、
「ああいうことをする人、アホ」
と教えさとす。
それで思い出したが、空港までのハイウェイ、タクシーの運転手は、シートベルトを着けるように、横に坐ったホトトギス氏に要請した。ベルトは片方の肩にかけるようになっている。
「どこへとめるのか?」
とさがしていると、運転手は身ぶりで、肩へかけとくだけでいい、といった。警官の手前、恰好ついてたらいいということらしい。
何となく横着でのんびりしたムードであった。
日がさしてきて、きれいな街をぶらぶらと歩く。ホテル・瓜ッツの前の大通りをのんびり歩いていくと、百貨店があったり、大きい商店が並んでいたり、ほどよく人がばらついていて、およそ、人波打ってまき返すということは、日本を離れて以来、お目にかかったことがない。ちょうど正月の都心のビル街くらいの閑散とした風景。日本は人が多すぎるなあ。
おっちゃんが靴を買うというので入ってみた。地下一階の紳士靴のところで、型をいうと、いくつもサイズがあって、痩《や》せた長身の男と、女が二、三人、囁《ささや》き交しながら、山のように靴の箱を持って来て、次々とはかせてくれる。三千七百ペセタというのは、日本では一万円ちょっと、ソコソコの値というべきであろうか、何となく鈍重なデザインで、しかし、かっちりしている。
イタリアの靴みたいに、しゃれた感じはないが実用的かもしれない。その点からいうと、台湾の靴屋の系統である。そうしておっちゃんは、質朴でがっちりして、安けりゃいい、という。台湾やスペイン向きの男なのである。
早速はいて、金を払って出口まで歩き、
「あかんあかん、これあきませんわ」
とまた戻った。うしろの丈が高くて、くるぶしに当って痛いのだそう、靴売り場の主任はディズニーおじさんのような中年男であったが、じーっと聞いていて、すぐうなずき、カーテンのかげの女の子に渡した。
トントンという音がきこえるので、今から靴を作っているのかと心配したら、修理しているのは女の子であった。踵《かかと》の敷皮を剥《は》いで、皮を入れてすこし高くしているのであって、理屈には合っているわけである。そうして女の子三、四人がその靴を中に熱心にしゃべり合い、おっちゃんが穿《は》くのをじーっとみつめた。女の子の、靴工というのは日本では珍しい。それに、敷皮を剥いで修理してくれるのも手工業的である。
「もう、これでええわ」
と物臭《ものぐさ》なるおっちゃんはいいかげんにいい、あるきかけると、女の子たちは口々にしゃべるが、スペイン語だからわからない。
(大丈夫?)
(工合はどうですか?)
といっているらしく思われる。ディズニーおじさんだけ英語がしゃべれる。
どうも様子では(なんぼでも修理しまっせ)といっている感じである。
町の人ざわりはよいようである。すごい捲舌のスペイン語にも慣れ、無邪気なあつかましさというような、強烈な視線にも慣れると、バルセロナの町は、少なくともマドリッドよりは、居心地よい。マドリッドの喧騒や活気はないが、しゃれていて、どこか物淋しい町で、へんな魅力があった。
港町のせいかもしれないが、どことなく神戸に似ている。モントヒッチという丘の公園をタクシーで廻ったら、チューリップの花畠やサボテン畠がつづいて、丘の上には十七世紀のお城があり、いまもそのまま要塞《ようさい》に使われていた。
兵隊が一人、大砲の横に立って見張っている。目の下はバルセロナ港で、地中海がひろがり、客船が一|艘《そう》入っている。
要塞というと、旧日本軍のそれを思い出していかめしいが、ここでは兵隊の足許の広場は展望台になっていて、望遠鏡が四、五基、据えつけてあった。人っ子一人いず、高台の上の兵隊は、私たちを穴のあくほど眺めていた。
ここはバルセロナの「港の見える丘」である。地中海を渡ってくる風はまだ冷たく、空は薄青くひろがり、高台から海際まで町はなだれ落ちて、美しい港町であった。バルセロナは古い、有史以前からの町だ、ということであるが、高台からみると、なるほど、人間が住みつきたくなるようなところである。この町は、日本の京都より奈良より古いのだ。まして開港百年の神戸など、足もとへも寄れない。
ここから町を見ると、ひとところ、針の山といった、先の尖《とが》った建物のブロックがあって、そこがいわゆるゴシック街区で、観光客の必ずいく所である。
バルセロナは、旧市街と新市街がくっきりしていて、ゴシック建築は、旧市街の中にかたまってある。
もう夕方に、ゴシック街区を訪れたら、まるで中世に迷いこんだよう。バルセロナ大寺院《カテドラル》を中心に、教会や王宮がぎっしり固まっていて、急速に現代の匂いは消えてしまう。
「王の広場」の石段に、若者たちが腰かけていて、これらはヒッピーや、観光客らしい。
ゴシック建築の威圧感というのは、たいへんなもので、ちょっと日本では想像しにくい。
どんなに大きな、たとえば奈良の東大寺の、「大仏サン」の入れ物でも、五重の塔でも、姫路城でも、威圧感を与えられることはない。──そういえば、以前、敦賀の気比神宮へいったら、ここの大鳥居が立派で、威圧感があった。三百何十年か前に建った重文の鳥居である。私が感じたのは、そのぐらいのもの──東西本願寺でも、岡山の金光教会、天理の本部でも、木造建築としては大きいが、みなどことなくはかなげで、木のテント、という感じである。
都心のビルの谷間をあるいていても、うっとうしさはあるが、威圧感はないのだ。我々は近代ビルがいかに脆《もろ》いものであるかを知っているので──。ちょっとした地震で傾き、ガラスやタイル壁はコナゴナに崩れてしまうからだ。
張りボテだ──と思っているのは、つまりビルを作った現代人に信用ないからであって、
(どうせ手抜きしとるやろ)
という不信感があり、かつ、設計に関して学者の先生のいうことも、同世代人としては、
(ほんまかいな)
と考えている。
私はマンションの六階に住んでいるが、こんな、宙に浮いた空間で暮らしているのは、「諸行無常」の諦観《ていかん》なくてはかなわぬことである。究極のところ、宙で暮らして安心立命できるはずがない。いまできの、何カ月かでできた建物など信じていられない。
背が高ければ威圧感をおぼえる、というものではないのだ。高層ビルを見ても、現代人はどこかしら心の底で、
(あんな高いもの建てて、アホちゃうか)
と軽侮の念をもつくらいのもの。
木のテントや張りボテの高層建築の国からくると、中世の石造りの建物、その石の厚みのすごさ、そうして天を刺す尖塔《せんとう》群の目も眩《くら》む高さ、頭上を圧して支えられる石のアーチをくぐるときの畏怖《いふ》感は、はかりしれぬものである。
教会と王の権力の前に、人間は卑小に、ちぢこまり、恐れつつしんでいたのだろうなあ、とそういうのに関係なくなったいまも、充分、想像できようというもの、あたり一たいは、ふつうの家も中世風で、カテドラルの横丁へはいっていくと、古びた石造りの家が細い路地の両側にならび、突然、小さい石だたみの広場にゆきあたった。
たそがれてきて、広場の街灯に灯がつき、勤め人らしい男たちが、広場を横切って帰ってゆく。
広場の四方は、石造りの三階建ての家である。てっぺんの部屋に灯がついたりして、中世の小説の中の世界みたい、広場のまん中には木が二本、小さい噴水があり、端の家の壁には、
「プラザ・デル・サンフォリペネル」
という標識がうちつけてあった。
ヴェニスの街にも似ている、路地の雰囲気である。私は辻邦生氏や塩野七生サンのファンだから、思いもかけぬバルセロナで、こんな町を、薄暮、何となく歩けたことを嬉しく思った。
バルセロナはいい町だ。ここは少なくとも、一週間はいなくちゃいけない。ここにはピカソ美術館や、このあたりのカタルニヤ地方の中世美術をあつめたカタルニヤ美術館があるのだが、もう閉館してだめだった。
しかし、ゴシック街区の、あたり一たいをあるくだけでも、値打ちのあるところである。
小さい石だたみの広場からは放射状に、路地がつづいていて、その路地の曲り角にマリア様が祀《まつ》ってあったりする。色ランプがつき、造花の花が飾ってあって、湿った石畳の路地は、ひえびえと寒い。
その路地を挟む家は、もう閉めた商店もあるけれど、たとえば、アイアンレースの門があって、その向こうに灯が小さくついている、それは裸か電灯で、よく見えないが、階段があり、玄関のドアの向こうは中庭になっているらしい。
しんとして音もせず、この町はモザイクタイルがあちこちに貼ってあるのが多い。そういう家の二階に灯がつき、窓から見おろしている人がいて、ひそやかに猫が横切っていったりする。
ヴェニスの中世風な裏路地は、洗濯物がひるがえり、子供がどこにでも遊んでいて、イキイキしていたが、バルセロナの旧市街、ゴシック街区の裏通りは、石のカビと共によどんで、それは見る人間が勝手に「歳月のなまめかしさ」を娯《たの》しむところである。
こういう町の、人知れぬ一劃の、何百年も昔のたてものに、ふと住みついてみたら、どんなものであろうか。そのうち、何となく日本にも縁が切れ、「バルセロナに死す」などというのも粋にちがいない。
古いたてもの、というと、私はナゼカ、住んでみたくてたまらなくなる。それはたてものの妖気《ようき》、そのへんのたたずまいの毒に中《あ》てられるのかもしれない。
以前に、京都御所を見学させてもらって、──これは普通の見学だと、庭から建物を見せて頂くだけであるが、私は、当時『新・源氏物語』を書いていたので、特別のルートでたのんで、清涼殿と飛香舎《ひぎようしや》へあげてもらった。安政年間にたてられたものだが、古制にのっとって作られていて、全く平安時代のままなのである。清涼殿の勾欄《こうらん》から、滝口の御溝《みかわ》など見ていると、住みたくてたまらなくなってきた。二、三日貸して下さいませんかといいたくて、咽喉《のど》がムズムズするのであった。しかしまあそれは、王朝文学の毒気に中てられたせいかもしれない。
パリの古いたてものの、屋根裏部屋に住む人が、トイレのたびに五階下まで上り下りする、その部屋は、『巴里祭』に出てくるようなところで、窓をあけると目の前に教会があって、なんて聞くと心をそそられ、私も住みたくてたまらないのであった。屋根裏ぐらしの人がうらやましくて、そういうところに住んで、もうべつに日本なんか帰らなくったっていい、人生や歳月の風趣、身に沁むばかりのくらしに浸りきってしまいたい、と空想する。
サマセット・モームの小説に、遠い異郷の果てへ旅した男が、ふとそこに魅力を感じて住みつき、失踪《しつそう》してしまう、というのがあったようにおぼえている。
私はそんな自由な生き方にとてもあこがれる。
北極探検や南極探検、山のぼり、洞穴もぐり、そういうのは、私はべつにあこがれなくて、やりたいとは思わないのであって、やっぱり、情趣のある異郷に、ふと住みつき、日々を消すというのが好ましい。
今までに、「フト住みつきたくなった」のは、台湾の諸都市であった。台北の町なか、台中の片すみの町、ことに台中は古雅でよかった。台北は美味しい食べものがあった。尤もくらしのたつきに逐《お》われるということをヌキにして、金利生活者としてつつましく余生を送れるという仮定に立っての空想である。
そういう意味で、バルセロナの旧市街に身をひそめる、というのも面白そうに思われた。
そういう私の空想には、おっちゃんなんかは一も二もなく、
「あほな」
と言い捨て、
「あんな古いたてもの、内部《なか》は不自由にきまってます。日本のマンションに住んで、湯ゥや水出て、暖冷房完備に慣れてたら、あんな古ぼけたとこ、住めるかいな」
というのである。これはおっちゃんの、というより男の冷静さかもしれないけど、しかし、ほんとに異郷にズラかるのは男の方であろう。私は前に「渡り鳥」について考察し、「渡り鳥・シェーン」は必ず男で、女の渡り鳥はない、と書いたことがあった。なんとなれば女は、子供を産むからその地に定着してしまう。渡り鳥になれない。飄然《ひようぜん》とやって来て住みつき、飄然と去ってゆく、というのに女もあこがれるが、そのうち、人生のお荷物が出来、オムツを洗ったり離乳食を作ったりしているうちに、お荷物は学齢に達し、学校へ入れるには住民登録も必要になるという次第で、中々、次の土地へ、飄然と去れない仕組みになっている。
これは、人によると、
「しかし女にも鳥追い女というのがあり、鳥追い笠《がさ》をかぶって、町から村へ放浪してます」
といったり、
「男でも、子連れ狼や板割の浅太郎、というような、子供を背負ってがんばっているのがいます」
などという。
しかし大体に於て、猫と女は家につき、そう簡単に漂泊の旅に出られないようになっている。
私が、あちこちで「住みたいな。そして、ここで一生送って、べつに日本へ帰らなくてもよい」と思うのは、私の下らぬセンチメンタリズムと、旅疲れによるエネルギーの衰弱であろう。ただ、日本へ帰って、
(あんなところがあった、ああいうところで住みたい、と思った)
と思い出すのは、たいそう楽しいことで、旅の収穫の一つである。そして二度とゆけないと思うから、「その場所」はますます、よく思えてくる。
そういえば、「住みたい」と思ったところの一つに、カンボジアの田舎があった。美しい国だったが、内戦で荒れ果ててしまった。
私が行ったのは、十三年も昔である。
そういうことを考えながら、所詮、女はどこへも行かず、どこにも住みつかず、わがねぐらへ帰ってくるのだ。
男は、どうかしたハズミに、ひょいと、飛び出して鉄砲玉のように行きっきりになるかもしれないのだ。
男は子供を産まないのだから、住民登録なしでも、どこへでももぐりこめるのだ。
気楽なものだ。
「何をいうてくれますか、男かて、浮き世のしがらみはいっぱいあって、そうそう、鉄砲玉やシェーンにはなれまへん」
という、おっちゃんの主張である。
「第一、そこによっぽど、うまいもんがないと、とどまれまへんなあ。食いもんが大切です」
ということであった。
2
このバルセロナでは、マドリッドのようなにぎわしい居酒屋は見当らなんだ。大体が海ぞいの町なので、魚の美味しいところであるはずだが、マドリッドの下町のように、店先で小エビをジュージューと焼いていたり、イワシを揚げて、
「さあ、いらはいいらはい」
と呼びこんでいるような活気はないのだ。
そういえば、マドリッドでは土地の若い者が何するでもなく、不穏な雰囲気でマイヨール門あたりにトグロをまいていたが、バルセロナには、そういうのにぶつからなかった。
また、マドリッドでは、写真をうつすと大変だった。
「おれをうつしてくれ」
「あたしもうつして」
というらしく、押しあいへしあい、カメラの前に顔をつき出し、シャッターが切られると歓声をあげ、
「出来たらここへ送ってくれ」
とアドレスを書いたメモを押しつけて、大さわぎになる。案内してくれたK夫人によると、マドリッドっ子は、まだそんなにカメラを持っていず、ことにカラー写真は珍しいので、カメラを向けたりすると、母親が、
「ウチの子をうつしてよ」「ウチのを……」とたいへんなさわぎだそうであった。
バルセロナの人々は、そういう熱っぽい人なつこさはなく、マドリッドよりはるかに都会的である。
新市街は旧市街と、がらりと趣きがちがい、モダンでしゃれて、閑静である。魚料理の大きい店があるのではいったら、これが、中に生簀《いけす》があって、魚やエビを豪勢に泳がせ、たくさんの黒服蝶ネクタイの給仕が、右往左往しているという、高そうな店。
「時価ばっかりかもしれません」
ホトトギス氏は、スペインへ来て買いこんだ英西辞典を早速、繰っていた。
熱心な青年である。若者はこうでなくてはいけない。そして中年になった嬉しさは、「若い人はえらいねえ」とおだてて若者を使いまくり、追い立てて、すましていられることである。
ここではフィッシュスープ、それに、カニとカレイ、イカの挽肉《ひきにく》づめという、海のものばかり、味は洗練されていたけれども、かなり値段が高かったように思う。あとで物の本を見ると、バルセロナは物価が高い、とあって、それは商店のショウウインドーのセンスのよさと、無関係ではないらしく思われる。
しかし、レストランは、昼の食事どきなので二階までよくつまり、子供づれの主婦もよく来ているようであった。
考えてみると、ヴェニスといい、ローマといい、マドリッド、バルセロナ、みな、魚や貝のあとを追いかけている。
安くておいしいもの、となると魚介類におちつくのかもしれない。それに、ヴァラエティを求めると、やっぱり、小魚、イカ、貝などを食べることになるようだ。
フィッシュスープは、日本のうしお汁よりコクがあった。熱いスープで、野菜とか魚肉が少々はいっていたけれども、なまぐさくはない。
そうたいに上品な味のレストランであるが、店の片方は、お惣菜風の魚料理があるようで、
「あっちの方が面白かったかもしれません」
ということになる。しかし日本で、魚ばかりの西洋料理の店は、さがすのがむつかしい。
日本料理店なら魚ばかりで通せるのだが、スープからずーっと、魚や貝、というレストランはちょっとないかもしれない。スペイン人も、かなり魚好きである。
ここの給仕も、がっしりした壮年の男であるが、カレイの大皿をかたわらのテーブルに置き、大きい手の中へかくれてしまうほど、小さくみえるナイフとフォークで以て、
「チョイ、チョイ、チョイ」
と動かすと、奇蹟《きせき》のように魚は、骨が離れ、ふんわりした身だけのこった。彼はそれを、うやうやしくテーブルに持ってくる。ローマでもヴェニスでも感心した西洋人の器用さである。
このあいだ、新聞を見ていると、日本の家庭にも箸の全くない家があらわれた、という記事があって、若い人はそこまで来たかと感心したが、学者がそれについて論評していた。
手先の器用なのは、頭脳の進歩をもともなうので、箸使いのできない子供がふえる、というのは、嘆かわしいことだそうである。
しかしナイフとフォークでも、完全に使いこなすのは、たいそうむつかしいもので、ことに箸を使うと、片方は遊ばせるが、ナイフとフォークは両手を使わないといけない。
左の手など、ことにも習練が要《い》り、給仕頭のように、
「チョイ、チョイ、チョイ」
で、魚の肉を骨ばなれさせるのは、たいへんな技術、しかも骨の山を見ると、身はひときれもついていず、箸を使っても、こううまくできるとは思えない。
しかも日本のレストランであると、ナイフは切れ味のわるいのが多くて、ああいうのは、いやでも手先が器用にならざるを得ない。
このあいだ私は、大阪はロイヤルホテルで会食をする機会があったが、肉が出たのに全く切れないナイフであった。私だけではなくて、あっちでもこっちでも、腕力、指力のありったけをつくしていた。箸使いはあたまの働きに影響もするだろうけれど、ナイフとフォークの文化も、あんまり軽んじたものではないのである。
「本当にいいのは、指なんですけどねえ」
「むろん、それがいちばんです」
とおっちゃんは重々しくいい、
「食器は木の葉っぱなんかで」
「ターザンですね、まるで」
「余分な虚礼は止めてしもたらええねん。ネクタイも燕尾服もあるかいな、貫頭衣でよろしいわ」
「インディオか邪馬台国《やまたいこく》か、みたいなヤツね」
「そうです。ドンゴロスに穴あけて首を出し、食べものは指でくらい、ハダシであるく。そうして、とれたての魚、貝、もぎたてのくだもの、野菜、天の恵みの美味をたのしみ、而うして、人はみな同胞、仲よくし合う、それがユートピアや、思いますなあ」
「そこは、女の考えとちょっとちがう」
私からみると、同じドンゴロスでも、女は裁《た》ち方や穴のあけ方、どうかしてヨソの女より、一風かわった風にして目立とうと思う。
ユートピアになればなったで、いろいろ文句もおきるであろう。
ただ、指で食物を食べるのは、美味しいだろうなあ、という思いを捨てきれないでいる。
その点、箸を使うのは、私は、指とあまり変りはない気がしている。
しているが、べつに固執するわけでもない。
「お昼は高級でしたから、夜はすこし毛色のかわった店をさがしますか、港町ですから、船員さんのいく店があるはずです」
とホトトギス氏がいった。
旧市街のプリンセサ通り、小さい手頃のレストランが並んでいて、表にメニューと値段表が出ている。街はわりあい暗くて、その感じも神戸に似ている。神戸は盛り場をのぞくと、わりに夜は暗い。海岸通りを控えたビジネス街などしんかんとしているが、バルセロナもそうである。
明るく灯のついている店があり、ガラス戸からのぞくと、食べもの屋というより居酒屋風、船員バーかもしれない。
もうちょっと食べものの匂いのするところの方がいいだろうというので、更にあるく。
こっち側とあっち側、とびとびに大衆食堂みたいな店があって、日本でいうなら、国道沿いのトラック運転手のいくようなレストランがあった。一軒に入ったら、中はわりに広くて、カウンターでは、定連らしき男たちが飲んだり食べたり、している。船員かもしれない。神戸でも「ギリシャ・ビレッジ」や「キングス・アームス」へいくと、各国の船員が群れているが、その雰囲気があった。船員食堂の表のメニューは、たいてい、スペイン語の下にフランス語、英語の順に書いてあったりする。
店の名はわからないけど、さながら、港町の「なんとか亭」という感じ、まだ若い、三十代くらいの、しっかりした顔の男と、そのおかみさんらしい、なかなか美人の女と、二人がせっせと働いている。
ずーっと奥へ通ると、いやな顔もしないで若い主人はうなずき、案内してくれた。テーブルは厚い一枚板で、頑丈《がんじよう》なもの、テーブルクロスはないが、紙を敷いてくれる。天井の梁にはワインの瓶がくくりつけてあり、中二階のようなところに、ワインの樽が並んでいた。
交叉した梁には銅のさまざまな形の鉢が吊《つ》りさげられ、奥の部屋は、いまは灯が消えていて、椅子はテーブルに伏せてある。
壁には、フラメンコか何かのポスターが貼ってあった。
カウンターで男の飲んでいるのはビールのようでもある。壁から天井は油煙と煤のため黒ずみ、キビキビと働く美人のヨメさんといい、無口でまじめな、物悲しい顔の主人といい、なかなかよい船員食堂であるのだった。
安いせいか、若い男女が時々入っている。裏通りも入口になっているのか、奥の色ガラスのドアをあけて、学生ふうの男女が入ってきた。
(やってる?)
ときいたのだろうか、大将はうなずいて二人を入れたが、裏のドアはカギをかけてしまった。
まだそんな時間ではないが、十時閉店というところかもしれない。
一ばん奥の机では、子供が勉強していた。
ここの子供なのか。同じような年ごろの、男の子と女の子、(同級生かもしれない)中学生ぐらいの子が、ノートに鉛筆を走らせ、本を繰ったりしている。そこも家族的な店である。ときどき小声で、ノートを読み合ったりしている。
「宿題を手分けしているんですなあ」
とおっちゃん。働き者のヨメハンと大将の子供らしく、(どっちがその家の子か分らないけど)まじめに、顔をひきしめて勉強している。いつもその机を勉強机にしているのかもしれない。物なれた様子で、こっちを見もしないのであった。
我々が食べているうちに、いつか、いなくなっていた。
ここで注文したのは、カタルニヤ地方のスープ、これはお国料理というべきものであるが、野菜、ハム、屑肉《くずにく》の煮込みといったもの、アンダルシアスープというのも注文してみたら、これは雑炊風で、セロリ、にんじん、じゃが芋、ベーコン、米、豆、肉、葉っぱをみじんに切って煮きこんだ、スープというよりシチューというようなものだった。
ここの料理は、串焼きの肉が特徴で、それを注文したら、とてつもなく長い串焼きがきた。
三十センチはあろうという長さの木の枝に、びっしり肉が貫いてある。何の枝か、わからない。
白い肌の木の枝をむいて削ったもの、
「そうか、日本と違《ちご》て、竹がないねんなあ、気の毒に」
と、みんなで気がついた。
「やっぱり、串焼きは、竹でないと工合わるいように思いますが」
「串を口にくわえて、コップ酒をすする、というのでないと、恰好つきません」
おっちゃんは、いつも新開地の串カツ屋でやりなれていることゆえ、残念そうであった。
「こんな長い串焼きは、両方から二人で食うんやろか」
「パン食い競走やあるまいし」
肉は牛肉で、鳥ではなかった。
カタルニヤスープは、レストランの味というより、家庭惣菜風、いや、「のこりもの」風、というべきか、冷蔵庫ののこりものをさらえて煮込んだ、という感じ、しかしこれと、あっさりした塩味パン、それに、ワイン樽からついでくれる白ワインで食べるのは、よく味が調和して、安心して食べられる。
気どらない料理、クセのない美味で、これはいうなら、都会の田舎料理であろう。
長いことつくり慣れて、舌によく消化《こな》れている味である。そうして、いかにも、出処がハッキリしているという味である。
つまり、あんまり手のこんだフランス料理などであると、この味は、なんでこういう玄妙な味になるのか、乏しい我々のヒキダシにはないわけである。
そこへくると、この海岸通りの船員食堂の「なんとか亭」は、何を煮こんで、香辛料はこの程度、というのが(もちろんくわしいことはわからない)見当のつく気がして、それゆえに、安心して食べられる味なのであった。
こういう店が近くにあったら、私はもう、食事の支度をしないで、毎晩、通うところであるが。
白ワインはガラスの水さしに波々とつがれて、一枚板のテーブルに置かれる。地酒らしい素朴な味もよい。
入口のガラスケースには、ムール貝やエビ、それにレモンが山盛り、ピーマンなども積んであるので、また、パエリャを注文する。
大将はかなりたってから、両手に支えて、熱々の鉄鍋をはこんで来、とり分けてくれた。
この味は、マドリッドのレストランより、やっぱりずっと大衆的で、マドリッドほどのコクはなかったが、それでも、熱いパエリャに舌を焦がして、冷たい白ワインで冷やすのはわるくない。
この店は安くて、これだけで一人千五百円くらいではなかったろうか。
大将は皿を引きながら、遠慮がちに、
「ヴェノ?」
ときく。だまってたら、
「美味しいか? といっているのだと思いますが」
とホトトギス氏がいい、あわてて、
「ヴェノ、ヴェノ」
と答えた。「ヴェノ」って何だろうと首をかしげていたりしたら、わるい所であった。
3
外は、レストランの灯も一つ消え、二つ消えして、何しろ人通りのすくない町だから、闇《やみ》に沈んでしまう。けばけばしいネオンがあるわけではなく、こういう町からみると、東京の新宿、神戸の三宮、大阪のミナミ、深夜すぎても、まだ家へ帰ろうとしない人が何万人もいて、灯の海であるというのは、いったい、どういうことかしらん、
「欲求不満とちゃいますかなあ」
「何か夢みてるのではないかなあ。犬も歩けば棒に当る、という……」
「それだけ、現実にはいいことがないので、憂さばらし」
「現実なんて、ええことあるはずないのに」
若いときはしかたがない。
私も、そう思っていた。若いときは、何かもっと、いいことがあるはず、という気がいつも捨てきれなかったのであるが、終電の時間が迫ると、しかたなく、町の盛り場から腰を上げていた。
しかし、神戸の盛り場も、大阪のそれも京都も、いまは深夜すぎて、中年がいやに多くなっている。
あれは、中年になっても夢を求めて、「何かいいことありそうな」と思うからであろうか。
それに、若者より、いくばくかは金まわりがよいので、タクシーを使ったり、ホテルに泊ったりできるからであろうか。
この前、大阪府の役人が収賄汚職であげられていたが、これは高級バーや料亭や、トルコ風呂を奢《おご》られて派手に遊んでいたのである。
遊ぶといっても、愉快に遊ぶ器量も芸もないので、接待側の工場の係りに、
「面白くない人で、一緒に飲んでも話題もなく、楽しくなく、気づまりでした」
といわれている。
この告白は、新聞にのっていた。
実際、こういうのを読むと、私は何となく物悲しくなる。人間というものが、物悲しくなってしまう。四十いくつまで男が生きて、酒をたのしく飲むすべさえ、おぼえられない。それは、本当にこの汚職役人が、楽しんでいなかったからではなかろうか。
バーや料亭で、女たちやゴマスリに囲まれ、心からたのしいと思っていれば、人間だからそのたのしさは周囲に伝染し、
「あない喜びはるねんから、ええとこ、あるで。かわい気のある人や。また連れていこ」
と共感や同情を得たかもしれない。
汚職役人は欲がふかいのである。まだもっと、いいことがあるはずだと欲ばって、夢みているので、満足しないのではなかろうか。
かくて肥大した欲求不満をもてあましたまま、中年になった面々が、いつまでも家に帰らず、ウロウロと、灯のあかるいところを求めてゴキブリのようにさまよっている、それが日本の現実である。
なんで、日本の家庭は、かくも魅力がないのであろうか。
家庭料理が貧しすぎるからだろうか。
主婦に魅力がないからだろうか。
子供に可愛げがないからだろうか。
家が狭すぎ、あるいは暑すぎ、あるいは寒すぎるからだろうか。
顔を見るのがいやな家族を抱えているからだろうか。
どうもよくわからないが、とにかく日本人は、町の灯のもとにむれつどうのが好きなようだ。いわゆる日本風の盛り場というか、バーやスナックの櫛比《しつぴ》する場所は、ローマにもヴェニスにも、バルセロナにも見当らなんだ。
高歌放吟してうちつれてよろめきあるく、という光景は、絶えて見られない。
酔っぱらいの立小便もない。この間なんか、神戸では公害対策委員の市議まで立小便して、生田署員にみつかり、三千円の罰金を払わされていた。三宮の盛り場はきびしくて、現行犯は罰金であるが、それでも、異様な臭いのする路地があったりする。
すべて、そういうことは、どの町にもなく、ヴェニスのフロッシーニ先生ではないが、夜、町をうろついているのは、観光客ばかりで、市民は家にひきこもってます、ヴェニス女は料理がうまいから、という指摘を思い出す。
夜の町をうろうろしている日本の中年を思い、森閑とした夜のバルセロナを見、私はうたた、物悲しい気分にならざるを得ないのである。
この、何かいいことないか、という気分は、観光客もまたそうで、彼らは灯を求めてつどう。そういう人種のために、バルセロナには「クレージイ・ホース」という小屋がある。
そこで、私も、観光客であるゆえ、そこへ行った。これは十一時ごろ始まる。
おそくにホテル・瓜ッツを出て、タクシーに乗り、場所を書いたメモを見せると、運転手のおっさんは首をかしげ、
(知りまへんなあ)
という感じ。しかし親切な人とみえて、ホカのタクシーの運転手に聞きにいく。
バルセロナのタクシーはフロントとてっぺんが黒、胴体とトランクのフタだけ黄色というツートンカラーで、よく目立つ。
わかりましたか、というと、おっさんはうなずいて車を走らせたが、また途中でわからなくなり、車を停めて、信号待ちのタクシーに聞きにいく。
中年の、がっしりした朴訥《ぼくとつ》なおっさんである。
聞かれたタクシーは、窓から身を乗り出して腕をふり、
(あそこに見えてるやないか、知らんのか)
という思い入れ、なるほど彼方に、けばけばしいネオンがあって、あたり一たい暗いからよく目立つ。
おっさんは、車をつけて、
(なんや、ここかいな)
という顔である。あほらしそうに、
(こんな裸おどり、知らんわ)
といいそうな様子、
「あれは子だくさんのリチギ者、という|てい《ヽヽ》でした」
とホトトギス氏も観察していた。
「ヌードダンスなんておよそ関心ないのとちがいますか」
ごく小さい劇場で、飲み物(水割りやワイン)をくれて、一時間ばかりのだしもの、まだ早いので、観光客は待ち合せている。みなアメリカ人の中年老年の男女である。
暗くなって、長いこと、お色け諷刺《ふうし》マンガのごときものがうつされる。英語でないのもあるらしくて、わかるのもあり、わからないのもあり、だが、とりたてて、きわどいものはない。それはヌードダンスもそう。
女たちはみな、若くてきれいな体で、品のいい踊りである。黒髪も金髪もおり、白い肌も褐色も、それから、ぽちゃっとしたのから、黒人のひきしまったのまで、いろいろそろえてあって、思ったよりも、美しくてたのしめる舞台であった。
あいだに手品やサーカスみたいなのが入って、さらりと仕上げてあり、照明も垢ぬけて清く正しく美しく、という、きれいなヌード、アメリカ人観光客は、行儀よくながめていた。
「クレージイ・ホース」という名は、世界中にあるんだなあ、なんてことを考えながら私は見ている。全く、女の体ほど、きれいなものはない、というのは、宝塚の舞台を見て、いつも思うことだけれど、これは、バルセロナの宝塚であった。
東寺や九条OSを見るつもりで、「クレージイ・ホース」を見にいくとアテがちがう、──と、これは日本の男性観光客にいいたいところ。
アメリカの観光客の団体の中には、アラバマやミネソタの田舎あたりといった人もあるけれども、中には、凛《りん》とした銀髪の、威風あたりを払う金持らしき貴婦人がいたりして、ワシの如き目で舞台をみつめているので、酔った日本男児が、心安だてな弥次をとばさないか、私は心配である。まあ、べつにかまわないけれども。
バルセロナ、四月はじめの、夜の風は冷たい。私は毛皮のストールを首にまいて帰ってきた。
明日は、バルセロナを出発しなければいけない。
「意外にいいところでしたねえ」
という、みんなの結論になった。
「オトナの町、いう気ィがしました。おちついて、しっとりしてる。それに人が少ないのも気に入った」
とおっちゃん。
たまたま、人の少ないところを歩いただけかもしれない。
「だって、バルセロナは、スペイン第二の都会、といいますから。百何十万、いや、何百万の人口かな」
「第二、というのがよろしいなあ。何でも第一、というのはあきまへん」
それは私もさんせいである。
私は、なるべく目立たない方がよい。一番目より二番目がよい。
「美人コンテストでも、ナンバーワンよりナンバーツーの方が、より美人であることが多いです」
とホトトギス氏は、意見をのべた。
マドリッドより、バルセロナの方が、すてきである、ということになった。
「小説もそうで、文学賞の当選作より、佳作、候補作の方が面白いときがあります」
と私。
「本妻より二号、というようなものですな」
とおっちゃん。
「亭主よりツバメですか」
とホトトギス氏も、遠慮がちに感懐をのべた。
明日はパリである。バルセロナへは列車で入ったが、出ていくときは飛行機、イベリヤ航空のパリ行きには機内食に何が出るのかしらん。
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パ リ
1
パリというのは古臭いものだとびっくりしたのは、空港でオシャブリをくわえている幼児を見たからだ。よちよちあるきの子供の口には、私が子供のころくわえていた(あるいはくわえさせられていた)ゴムのオシャブリが、おいしそうにしっかとくっついていた。(大阪では、昔のお婆ちゃんたちはチマメといっていた。離乳しても口さびしい乳幼児たちのために、人工の乳首を与えるのであるが、小さい子供は、本当に母乳が出そうに、おいしそうにチュウチュウと吸ったりしている。昔は大ざっぱな育児法だったから、かなり大きい子供にまでくわえさせているようだった。自在にかけ廻るようになった子供まで、時折り思い出したように、母親のところへ走っていってねだったり、していた。すると母親は割烹《かつぽう》着のポケットから取り出し、塵《ちり》を払って与える。子供はそれをすまして口にくわえ、また表へかけ出していったりして、肉体と精神の飢餓感を、母親の乳首まがいのチマメで充たしていた。いや、まぎらわせていた、というのかもしれない。たいていその頃は、子だくさんで、下には、次から次へと弟妹ができるから、上の子は早めに離乳してチマメを与えて追っ払う、ということになるのかもしれない。子供が飲みこまないように、ちゃんと鍔《つば》がくっついていた。あれは、この頃はとんと見かけないが、いまはどうなってるのだろう。
この頃は子供のカズが少ないから、手をつくして入念に世話をするので、擬似《ぎじ》のものを与えるような必要はないのだろう。
しかしゴムの乳首を与えて追っ払われる幼児は、「いや、この世はままならぬものである。代用品で満足せねばならぬことも、この世にはあるのだ」と、子供ながらに発見し、諸行無常の哲理を感得するのである……と、まあ、そう大層なものでないかもしれないが、ごくごく自然に離乳して一本立ちになる。だんだん物心ついてくると、ゴムの乳首なんかより、飴玉《あめだま》や駄菓子の方がおいしく思えるのは当然であるから、そんなものは捨ててかえりみられなくなってくる。母親が乳房に、コワイ顔を描いて子供を泣かせ、むりやり追っ払うよりは自然である。
しかし、あれをくわえてる子供を可愛いというのは、かなり人生キャリアを積んで年の劫経《こうへ》た人間たちのことで、若い母親たちの美的感覚からすれば、醜悪にうつるかもしれない)
そういう子供がオルリー空港にいたので、私は一驚を喫したのであるが、空港内で見かけたのだから、フランス人と限らない。パリは古臭い、というより、ヨーロッパは古臭い、というべきかもしれない。眼鏡をかけた太った母親であった。
バルセロナの空港からイベリヤ航空パリゆきに乗ると、機内はわりに空いていて、機内食は、ハム、パン、ワインという献立、あとでコーヒーが出ておわりという軽食である。
これでオルリー空港には一時間くらいで着き、ちょうどおひるの十二時になっている、という段取りである。
中で実費でウイスキーが飲めたりする。
赤ワインは美味しいというほどのものではないが、いけなくはない。これにもう一品何か添えると、ご馳走といってもいいものになる。
ここのパンも堅く、カチグリのようであるが噛《か》みしめているうちに旨味《うまみ》が出てくるという、備荒食《びこうしよく》のような代物である。
カモカのおっちゃんは歯がよいのが自慢であるから、
「はじめは堅《かと》うてまずかったパンが、美味しゅうなりました」
といたく満足の|てい《ヽヽ》であった。
「食事には、これがないと物足らんようになった。これ食べたら日本の、バタや何やとふんだんに入れてフワフワした綿菓子みたいな柔いパンは食えません。このカチグリパンと、美味しいワインがあればご馳走というべきにやあらん」
西洋にはよく、パンとワインが食事の象徴として出てくる。
われわれ日本人は、というより昔ニンゲンは、ワインというと赤玉ポートワインを思い浮べ、さながら、色付き砂糖水の如く連想する、またパンというと餡《あん》パンを思い浮べ、あるいはジャムパンを思う、そういう間食・オヤツをたべて腹ふくれさせている西洋人があわれに思われ、いかにも怱忙のうちに、そのへんの安物を手当り次第に口へ運んで飢えをしのいでいる、といった印象であったのだ。
『田舎司祭の日記』を映画で見たことがあったが、貧しい司祭が、パンとワインだけの夕食を摂っている場面があった。いかにも貧窮の象徴のように見えたが、実際にヨーロッパへ来てパンとワインを食べてみると、美味かつ腹ふくるるたべものであって、これにハムとコーヒーがついている機内食などは、軽食というより、ちゃんとした食事のていを成しているといってもよい。
何でも、その土地へ来て実際に味わってみないとわからないものだ。当然のことだけど。
フランスはサマータイムではないので、時計を一時間遅らせ、十二時にオルリー空港に下りてみると、とたんに、フランス語の洪水、耳に当るひびきが柔いのに感動する。
それと、人の視線の当りが柔かである。
しまいに空気まで柔かである気がされる。すべてスペインから来たての身には、一々に殊更《ことさら》にひびく。してみるとスペインは、言葉のひびきするどく、視線が射るごとく(その中に悪意はないのはわかるが)要するに、すべてにわたって、「むきつけ」な国であるといってもよい。
「むきつけ、ということは、田舎者ということになりますか」
と、おっちゃんはいう。率直というのがうまく機能することはむつかしい。むきつけであると、ぎくしゃくそこらへ当り廻って、厄介なものである。
以前、日光の東照宮を中心に、私は旅したことがあったが、あのあたりはまことに殺伐とした風土に感じられた。どこが、ということなく栃木茨城、常陸のあたり人気《じんき》あらく、王城の地からいくと「あづまえびす」の国という感じで、風の当りも物凄し、というところ。さながらフランスから逆にスペインへいったのと同じ感懐を抱かされた。そんなことも思い合される。
あづまえびすのあたりの人間の顔立ちは、全く、関西・近畿の顔とちがっていた。視線がするどく、言葉があらく(人が悪い、悪くない、ということとは別である)むきつけの風が吹いていた。
そういう精神風土の土地は、どこにもあるものらしい。
パリでのホテルはメリディアン、これは有名なパリ一高い建物の、ラファイエットホテルの向かいで、タクシーの運転手に「メリディアン」といっても知らない人もあるが、「ラファイエットの向かい」といえばすぐつれていってくれるのである。
アメリカ風ビジネスホテルといった感じで、東京や大阪のホテルにいるのと変りはない。フロントや両替の窓口に、日本人でなく外人が坐っているだけの話、日本人の旅行者も多く、私には、ロビーをうろうろしていると、
「原稿、できましたか?」
と取りに来た編集者に声をかけられそうな気がする。
こんどの旅で、第一夜めに泊ったパリのホテルはウインザーというのであった。凱旋《がいせん》門の近くにある小さなホテルで、部屋も小綺麗で家庭的である。夜おそく着き、朝早く発ったから、くわしくわからないけれど、どうもホテルは、むしろこんな風に小規模なほうがパリでは味がある気がされる。
メリディアンホテルなどは売店へいくと、ゆきとどいた日本人女性の売り子がいて、
「スカーフはこんなガラしか、ないんでございますけど」
と取り出してくれたりして、たいそう便利ではあるが、外国のホテルに泊ってる、といった情趣に乏しいわけである。ホテルニューオータニあたりをぶらぶらしているようで、おまけに、向かいのラファイエットホテルには地下街がある。
こんなところをあるいていると、神戸か大阪か、さっぱりわからない。
尤も神戸のさんちかタウン、大阪の虹のまちや阪急の地下街は、人波織るごとく、両側の商店はいつみても人の出入りがはげしいが、パリの地下商店街はまことに閑散である。そこだけがちがう。
それに、雑貨も服も、たいして購買欲をそそるものがなくて、私はセリーヌもエルメスも、なんにもこれといって欲しくない方であるから、どうということのない通りである。
絨毯敷きの床を小犬が貴婦人につれられて、ころがるように歩いており、貴婦人が立ち止ったかと思うと、小犬は柱の根元に小便をしていた。
フランス人は、電車内でも街でも犬を連れ歩いているが、必然的に、犬はどこへでも排泄《はいせつ》する。
地下街の絨毯のあるところでやったので、私は、
(フランス人というのは大らかなもんだなあ)
と思った。貴婦人は小犬がすむあいだ、じっと立ち止り、絨毯の色が申し訳なさそうに変ってゆくのをあたり前のように見ていて、無感動である。日本人だと、土や舗道ならともかく、敷物のある所で色変りなどさせられては周章|狼狽《ろうばい》、あたりを見廻し、消え入るばかりの思いをし、詮《せん》ないことと知りながら小声で「あほ」と犬のあたまを叩いてみたりする、そんなことが一向、フランス人にはないらしい。
パリへいく人、ラファイエットホテルの地下街、絨毯が敷いてあると思って、腰をおろしたり、バッグをじかに置いたりしない方がよい。何をしとるかわからへん、というところがある。
日本のホテルなら、タクシーは乗りやすいが、このパリではタクシーは実につかまえにくい。まだ春は浅いので、パリの風は冷たく、アメリカ人観光客は毛皮を着ている。吹きっさらしのホテルの前で何十分も待って行列しているが、なかなかタクシーは来ない。街を流しているタクシーもつかまえにくい。
たまに停まってくれたと思うと、横の座席に犬を乗せていて、うしろにせいぜい二人、それ以上乗ろうとすると、
「ノン」
といわれてしまう。
日本のタクシーみたいに、運転手の横へ二人、うしろへ三人、なんて乗せてはくれないのである。
ホテルはマイヨー門のちかくで、メトロの駅もつい、そこであるから、タクシー乗場でしびれを切らして、とうとう地下鉄に乗る、といったこともたびたびである。ロンドンの地下鉄もわかりやすいが、パリもそうむつかしくなく、ずっと早くてよい。
それで、案内役の青年がつれあるいてくれるときは、よくメトロを使った。彼は日本からパリへ勉強にきて「ミイラ取りがミイラになった」そうである。フランス女性と結婚したばかりで、「ウチのフランソワーズが、ウチのフランソワーズが」と口ぐせにいう、やさしい好青年である。
ムッシュー・フランソワーズは、私たちがパリの赤提燈を探索したいというと、少し困惑の気味であった。そういうのに該当するところは考えつかない、というのだ。
「屋台はおまへんか、こう、カキを割ってすぐ手づかみで食べられる、というのを写真でみましたが」
カモカのおっちゃんは熱心にいっていた。四月の声を聞くと、カキは少しおそく、
「屋台、屋台、ねえ……」
ムッシュー・フランソワーズは必死に考えこんでいる。彼の話によると、ギリシャ料理とかアルジェリア料理とか、そういう店にむしろ、そんな感じの店が多いということである。私は
「フランス料理をたべさせる安い店」
と注文したのだ。労働者がふだんに食べている料理と、ワインで以て安直に食べられる、そんなところを想像したのであった。
そういう私のあたまにあるのは、国道沿いの大衆食堂、運転手の行くような店、いうならフランス映画『ヘッドライト』に出てくる、運転手のいく安食堂である。
日本にも、長距離トラック運転手向きの食堂があるが、べつにそれでなくても下町には、安直な食堂がある。
私の家の近くの伊丹市場の中のうどん屋も、市場従業員や、近くの労働者にとってたいへん便利な店である。
うどんそばの類はもちろん、どんぶりものから、味噌汁、オカズ、漬物のたぐいまでそろっている。
そうしてオカズはガラスのケースに一皿ごとに入れられてある。しめさば、塩サンマの焼いたの、とんカツ、煮魚、いわしのフライ、なんかが並んでいて、好きなのを指して取ってもらうことができる。
トマトを輪切りにした一皿、大根おろしにちりめんじゃこをかけた一皿、潰物の一皿、などという「日本料理」が並んでいて、何を見てもおいしくみえる。御飯は大盛、中盛、小盛、とあり、二百円もあれば、バランスのとれた昼食ができようという店である。
夜はそこで安い酒やビールが飲める。
雨が降るとか休みの日は、朝からおっさんが、焼肉なんかでビールを飲んでいる。そうして赤い顔をして、
「休み、ちゅうのは、何してええか、わからんもんやな」
とおかみさんに話しかけたりし、忙しいのでおかみさんもろくに返事しない。おっさんは一人でしゃべり、一人で返事して合間に一人笑いし、誰かに相手になってもらいたそうに、ぐるりと見廻したりしている、そういう店である。
そういう店が日本の都会の下町には必ずある、そういうところを見たいのであるが、そんなややこしいのはパリにはないらしい。
むしろそういうのに当る店は、
「喫茶店になります」
ということであった。食前酒を喫茶店で飲んでオシャベリをたのしむ。ピガール広場ちかく、そんな店へいったら、コーラの広告のある、日本の観光地の売店のような店だったが、カウンターに五、六人の労働者の男が立って、グラスを前において、しきりにしゃべっていた。
キールという食前酒なんか、飲むそうである。私はリカーを飲んだ。ちょっとへんな味で、木の皮を煎《せん》じたような、アブサンめいた強烈な味であるが、食後にいいかもしれない。胃の働きがにぶっているのを、引きしめてくれるかもわからない。
しかしまた食前に飲むと、眠っていた胃がめざめて、シャンとするかもしれない。食欲を刺戟《しげき》し、舌を敏感にしてくれるかもしれない。要するに私にとっては、いつ飲んでもいい酒なのであって、二杯目、三杯目、と飲むほどに、
「いいんじゃないでしょうか、これは」
ということになってしまう。
「よくない酒、というのが今までありましたか?」
とおっちゃんにいわれてしまう。全く、味覚に無節操な私は、どんな酒をもってこられても、美酒に思われ、
「いいんじゃないでしょうか、これ」
になってしまう。それでも私にも、困る酒があって、それは、例のヤツ、甘くちの日本酒、ドンゴロスの砂糖を何袋も投げこんだような、ねとつく日本酒である。盃も指もねとねとして、胸がもたれてしまう、そこへくると、ヴェニスで試みたグラッパーといい、リカーといい、一滴よく心気を爽快《そうかい》にし、鬱《うつ》を散ずる霊酒であって、まことに男らしい酒である。
日本の酒は種類が少なくてつまらない。西洋でも中国でも、数限りなく種類があるのに、日本酒ときたら、似たりよったり、になってしまう。
そうして、心気爽快になるまでに、かなりの量を必要とする。(少量で用の足りる人もあろうが、少なくとも、一升|壜《びん》は、ヨソの酒類にくらべて量が多い)
2
ムッシュー・フランソワーズがつれていってくれたところは、結局、ベトナム料理であった。
わりに安くて、そして東洋風なのが、いまパリっ子の新しがりやに受けていて、はやってる店だそうである。
きれいな美青年が主人《マスター》で、ムッシュー・フランソワーズの友だちだそうである。マスターの妻はベトナム人だそうで、もう九時すぎの時刻だったから、ベトナム夫人と、その縁者らしい婦人は、自宅へ帰るらしく、店内を横切って出ていった。
親子づれ、アベックなど来ていて、家庭的な店である。中国風の聯や、宮燈が下っていて、ベトナムというより華僑《かきよう》風、シンガポールの中国料理のようである。うしろのアベックの男は、ひどく年のいった感じだが、うれしそうに箸を使っていた。
ここで食べたものをご紹介したいのだが、残念ながら忘れてしまった。麺《めん》類のスープ、ワンタンメンのごときもの、何だかいためもの、といったものが出て、それはかなり、美味しいのであるが、(というのは、舌に馴《な》れた味であって、とりたてて、おぼえようというほどのものではないわけ)何もひっかからずに、品名さえ忘れてしまった。暖かくて美味しかったので、けっこうでした、ということになって店を出た。
ベトナム妻が帰ったあとは、青年一人が店をやっていて、何だか馴れずに、マゴマゴしている素人くさい印象で、なかなかよかった。
ベトナム妻といえば、パリには、ベトナム人も多いそうだ。そうしてムッシュー・フランソワーズも、この国では「ガイジン」のわけであるが、パリには「ガイジン」が多く住みついている。
パリというと、私など、「ベルばら」を思い、フランス映画を思い、粋なフランス人男女がセーヌ河畔を手を携えて逍遥《しようよう》している姿を思い浮べずにはいられないのであるが、現実には、種々雑多な人種の坩堝《るつぼ》であって、いやもう、日本人もごろごろ、黒ん坊、黄色ん坊、茶色ん坊、白ん坊、赤ん坊(幼児ではなくて、赤銅色の肌の人)がいっぱい、縮れっ毛あり、直毛あり、金髪、黒髪、赤髪、とりどりであった。
パリは生きやすいのであるらしい。十年前に来たときパリは道路工事がさかんで、穴ぼこだらけであったが、働いている労働者はアルジェリア人が多かった。
いまも、そうである。パリも就職難であるが、それでもヒトのことをとやかくかまわないから、パリでは暮らしやすいらしい。
パリへ来て、人間の視線が柔かいのは、ヒトのことをかまわない風潮のせいかもしれない。
そういうところ、すこし神戸に似ている。神戸は新しい町だから開放的なせいもあるが、パリは古いのに、ヒトのことをかまわないのだ。
京都は古い町で、だからヒトのことにかまうのだ、と私は解釈していたが、パリなぞは、古いから、ヒトのことはかまわないのであるらしい。
「そういう町に住みたいですなあ」
とおっちゃんはいっていた。おっちゃんはスペインやイタリアの人なつこさ、好奇心満々の強い視線などというものは、「うとましい」のだそうである。
スペインみたいに、となり近所がまるで親戚《しんせき》づきあいというようにべちゃべちゃしたのはかなわない、というのだ。
「下町の人情、というのは、もうこのトシになると、しんどいですなあ」
「今までさんざん、しつくしてきたからかもしれないですね。奄美もそうかもしれないけど、大阪の下町そだちの私もそうよ」
「いや、それはもう。奄美と大阪では、肌馴れの熱さはケタがちがう。離島の人間関係のわずらわしさは、大阪どころの比ではない。大阪は、いうてもまだ、大都会ですから、幾分かは、──隣は何をする人ぞ──という気分がありますが、奄美なんぞは三代前から素性《すじよう》が分っている」
おっちゃんのお袋の在所の村など、一村九十戸中、実に七十戸まで縁戚関係という血縁密度のたかいところで、そうなるともう、一つの大家族みたいなもの、いやそれを押しすすめていくと、奄美の本島自体、知人縁者相関図が出来上ってしまう。
一門中一人が出世すると、昔の中国や韓国のようにワーッと一族郎党が押しかけていって頼る。頼る方も頼られる方もそれが当然と考えている。貧しい村、貧しい島ではそうやって相互扶助の精神がないと暮らしていけないのかもしれない。血の熱さをたしかめ、それに安心してよりかかるのが、唯一の生きる支えなのかもしれない。
それは人々の心をやさしくし、平和にするが、そのかわり、それをいったん重荷に感じはじめたら、まるで軛《くびき》のように思われるであろう。
人生中歳で、血縁同族の血の熱さに郷愁を感じはじめる人もいるであろうが、その頃に反対に、離れていきたくなる手合いもいるわけである。
中年になって「血の熱さ」へ戻りたくなる人が人情家で、嫌いになって離れる人が不人情とはいえない。
パリに住みたい、とおっちゃんはいうが、私は友人次第である。オシャベリができて、酒をのめて、遊べる友人がいるなら、パリに住んでもよい、それから今の私なら、まだいくばくかの元気もあるので、スペインやイタリアの「下町の人情」も、さしてわずらわしくない、そこはおっちゃんとちがう。
ただ、長く住もうとは思わない。
また、「終《つい》のすみか」にしようとも思わない。
「終のすみか」ならパリがよいかもしれない。
そういえば、神戸はパリに似ていて、何年も住んでいても隣は何をする人かわからぬのであった。以前、再度《ふたたび》山のてっぺんに私の家があって、朝晩、中突堤を目の下にながめていたが、つい下に数軒ある家、どれもみな、よく知らないまますぎてしまった。
陳舜臣さんが、かつて異人館通りに住んでいらしたころ、「隣のおっさん」が何国人かさえご存じなく、何年も「静かなる隣人」として過ごされたそうだ。あるとき中東戦争が勃発《ぼつぱつ》して、ふとテレビを見ると、「隣のおっさん」が画面に出て、しゃべってる、
「あれ、あのおっさんイラン人やったんか」
とはじめて知った、といわれていた。神戸では顔をよく知ってつき合っていても、身もともせんさくせず、よく知らない「パーティ仲間」というのはたくさんおり、
「あの人がいないとパーティが開けない」という、「賑やかし屋」もいたりする。
あるときバタッと姿を見せなくなり、しばらくしてまた顔を合せ、「どないしてはったん?」
「ハア、ちょっと国へ帰ってました」とその人はいい、ほんとに考えると、その間に金大中事件が起きてたっけ、というような(むろん、これは冗談)こともあるのだ。刺身のトロの大好きな外人や、生田神社の観月の宴の直会《なおらい》で、朱塗りの大杯に波々とつがれた冷酒を一気にあおって、やんやの喝采《かつさい》を浴びる外人もいる町である。
よく知らないし、知ろうともしないで、何となく、顔を合せると、仲よくしてるというような、町なのである。
誰もヒトのことを気にかけない、不人情なのではないが、わずらわしいことはしたくないという、考えるとやっぱり、神戸もパリに似てるかもしれない。
ただ、そうはいってもパリとは気候がちがう。気候からいうと、四季温暖で海に面して明るい神戸がよい。
美しさからいうと、それはもう、パリの方が美しさの厚みがちがう。ローマの中世そのままの町なみもよかったが、ムッシュー・フランソワーズが夕方の散歩につれ出してくれたモンマルトルの丘からの、パリの眺めはそのまま、江戸錦絵の色である。
四月の六日のパリの夕ぐれは、バラ色の空である。それが褪紅《たいこう》色になり、ワインのローゼ色になり、サクレクールから下りてゆくと木々の梢《こずえ》がワイン色を背景に、黒々ときれいに浮き上る。
そうして丘の坂道、両側の窓々に、ぽっと灯がともりはじめる。古風なオレンジ色の灯である。
まだ夕空は美しく明るいので、カーテンはしめられていない。
壁紙の、なまめかしい彩り、シャンデリアのきらめき、窓際の机の片はしなどがちらと見え、白い服に金髪の婦人の影が、レースのカーテンの向こうに一瞬、よぎったりして、さながら森茉莉サンの小説の世界、あの窓の向こうにいるのは、つましい年金生活者の、ケチで利己的なパリの小市民ではなく、美少年のパウロや、淫蕩《いんとう》な美丈夫ギド・ド・ギッシュでないといけないのだ。
パリというのは、そういう想像をかきたてるので厄介である。額縁として美しい町であって、中へ何をもってきても、サマになるというところがある。
やがて灯は見る間にふえてゆく。五階、七階。屋根うら部屋にも灯がつく。
冷たい風になって、町にも黄昏《たそがれ》が敷石道からたちのぼってくる。私はホワイトミンクの首まきをしていたので、買ったばかりのイヤリングを片方、落してしまった。
ピガール広場を出たところ、街の女がいっぱい立っていて、車に乗って人まち顔の女もいる。車内燈をつけて煙草をふかしたり、している。身なりは凝っていて化粧が濃い。
「車持ってるのはアマゾネスといってます。車持ち娼婦《しようふ》はすこし高級になるらしい」
と、ムッシュー・フランソワーズの話である。
このへんの盛り場は軒並み、物凄いセックスショップで、日本人男性が行列して肩を並べ、踵《きびす》を接して歩いている。ピカピカのネオンの下で、フランス男が声をからして「いらっしゃい、いらっしゃい」と日本語でやっていた。もう、どうしょうもないという感じ。
フランス人は、
(日本人、あほやなあ)
と嗤《わら》っているであろう。実際、あほなのだから仕方ない。台湾でも醜悪な日本男児が群れをなして横行していた。外国の男も、他国へ行けば女を買うであろうから、男というものはそうなのかもしれないが、群れをなし肩を並べてくりこむ、というのはしないにちがいない。
なんで日本の男は、淫靡《いんび》なるたのしみごとでも集団でやるのか、徒党を組むのは赤穂義士だけではないらしい。江戸の川柳なんか見ても、よく集団で吉原へくりこんでいる。
私はよく分らないけれど、日本男児のそういうたのしみごとは個人的なものではなく、社交的にオープンなものであるらしい。この前、男性二、三人と町を歩いていてそのうち一人が、古びた旅館を見つけ、
「お、ここまだやってんのか、改装もせんと……。ここは十年くらい前、よう○○の連中と女を送りこんだとこや」
といい、○○は、しかるべき官庁の名が入っている、つまり彼は会社のため、お役人に女の贈賄をしたわけである。
「そんなこと、おましたなあ。時間見計うて、車で迎えにきたり。もう十年になりまっか」
と、部下の男が感慨深げにいい、全くもう、これも、どうしょうもないという感じ、男って何をやってるんでしょうか。女を取り持って何とも思ってない。彼らが感慨にふけっているのはおのが所業をふり返って反省したのではなく、時日の経過に感慨をもよおしているだけなのである。こういう点はカモカのおっちゃんもホトトギス氏も、同じようなものであろう。ハダカ踊りの店の前を通るときは、理解ありげな、
「ハハハハ」
なんていう笑いにまぎらして通ってしまう。
それで思い出したけど、フォーリー・ベルジュールには上月晃の看板があって、ちゃんと「GONCHAN」と書いてあった。
大和撫子がけなげに活躍していると思ったら、いじらしくて嬉しかった。
3
ムッシュー・フランソワーズが、ベトナム料理の次につれていってくれたところは「ラルチーヌの母さんの家」という、通りがかりの家庭的なレストランで、アマゾネスたちがたむろしている通りから歩いていけたから、いうなら盛り場の裏の、ちょっと小暗い街である。
とても太ったおかみさんが、スカートをゆすってやって来て注文を聞く。このおかみさんが「ラルチーヌの母さん」かも知れない。
かたつむりと、アンチョビー、ゆでジャガイモに、パルミエというあっさりした椰子《やし》の芽などが前菜で、また、リカーを飲んだ。キールというお酒もあって、これは舌ざわりが結構。(お酒はなんでも結構になって、いささか省みられるが)
ちびちびと食前酒など飲み、あっさりした前菜をやりながら、
「ウチのフランソワーズが……」
というのをきくのは、よいものである。
ここのレストランは、常連の来る店らしく、若いカップル、親子づれ、私たちの横に、中年の一人者が食事をとりながら、ラルチーヌの母さんと親しそうに話を交している。
「フランス人は、自分の生れ育った町が一ばんいいと信じていて、そこから外へ出ない人が多い。パリっ子もそうだ」
という、ムッシュー・フランソワーズの話であった。
「ウチのフランソワーズのおばあちゃんが、結婚式に列席してくれたけど、生れながらのパリっ子なんだけど、ヨソの区へ出かけたのは四十年ぶり、ということです」
という物凄い話であった。
パリの町といっても明るいところばかりではなく、ぽつんぽつんと灯のついている暗い通りも多い。しかしムッシュー・フランソワーズによれば、女のひとりあるきも大丈夫で、雑多な人種がいるけれど、物|盗《と》り強盗はざらにはなくて、治安も風紀もいいということである。
ただ、日本でも折々|囁《ささや》かれる、若い女性の誘拐《ゆうかい》はあって、
「ウチのフランソワーズも、よくママに注意されたそうです。噂《うわさ》じゃ年間を通じて、二百人くらいの若い娘が行方不明になってるそうですね。中近東へ売られてる、ということだけど」
西洋から見れば、日本を含めた東南アジアの何とはないぶきみさは、東洋から見る、西ヨーロッパ、中近東のぶきみさに通うかもしれない。われわれ、日本人から見ると、西ヨーロッパにぽっかりあいた抜け穴の口は、地中ふかく中近東、アフリカにまでつづいていて、その奥は見通しもできない暗闇である。
パリはぶきみな顔も、もっているわけである。
それでいながらたとえば、パリの市街の美しさは放射状に敷かれた小さい石の舗道にもよるのであるが、地下工事で、それらの敷石がめくられる、工事が済むと、また、
「一つ一つ、小さい石を元通りにはめこんで、放射状に並べてます」
ということである。大きい一枚石とか、アスファルトの道にするなら簡単であるが、それをしないで、手間をかけてこつこつと、元通りに、小石をはめこんでいく。碁盤状に並んでいるのでなく、放射状になっているのでパズルみたいで大変だろうと思われるけれども、断固、昔のままにするところが面白い。
日本みたいに、何でも便利に、便利に、と能率一点張りの子供じみたことをしない。
便利なりゃいい、というものではないのだ。
郵便配達が便利だというので、古くからあるゆかしい町名を変えてしまったりして、何せ、することが心浅く幼稚である。日本全国に、新町や本町なんていう便宜的な町名をいっぱいつくっている。建物は大きくすりゃいい、というのでビルを建て、会社も大きくすりゃいいとばかり合併して大きくして潰れたり、する。
ムッシュー・フランソワーズはインテリ青年であるから、フランスの若い人に好んで読まれる作家をいろいろ、あげてくれた。サガンはポピュラーになりすぎて、学生たちはむしろ読んでない。(「ウチのフランソワーズ」は学生サンであるらしい。たのしそうな新婚生活らしい)
フランソワーズさんも、ムッシューも好きなのはマルグリット・デュラス、これは若者に人気があり、デュラスの本が出ると一応買うという青年が多いそうである。ムッシュー・フランソワーズはデュラスの小説に感動して、いつか、セーヌ河畔の自宅を訪れたことがあった。呼鈴を押すと、デュラスがインターホンで、
「何のご用ですか」
と聞いて、答えにくかったそうである。小説に感動して、何となくお目にかかりたくなった、と正直にいうと、お心持は嬉しいけれども、いまちょっと仕事中なので、と「たいへん感じよく」挨拶されたそうである。
女流作家でいうならボーボワールも人気があるということだった。(私の友人でフランスに住んでいる日本女性は、俳優ジェラール・フィリップの未亡人、アンヌ・フィリップが、夫のことを書いた『ためいきの時』、これはかなり前の作品なのだが、いまも若い女の子に読み継がれている、といっていた。私は十年くらい前、それを読んだが、品格のある、抑制のきいたいい文章で、感動したことをおぼえている)
食前酒がすんで仔牛のクリーム煮に、ジャガ芋のかりっと揚がったのを食べた。ジャガ芋は、ラルチーヌの母さんが大籠《おおかご》に入れて山のように盛って、
「お代りはどうか?」
ときいてくれる、ごく家庭的な雰囲気である。荒れた手をして働き者らしいが、ムッシュー・フランソワーズが、「元気そうだね」というと、神経痛が出てこまる、というらしい。
母さんはふしくれて変形した手を見せ、体具合がどうだこうだと訴えているらしい。
この人はドクターだよ、とムッシュー・フランソワーズがおっちゃんを指すと、ラルチーヌの母さんは顔を輝やかせて、何かしゃべりはじめた。神経痛の治療法をきいているらしいけど、
「あんまり水をつかわん方がええ」
といったって、
「商売だからね、水をつかわないわけにいかなくて」
ということである。
「冷えたところへカイロ当てるとええけどな──カイロ、なんてあるやろか、白金カイロ、パリにあるかいな」
おっちゃんはさらに言葉を添え、
「あんまりいろいろ、クスリ服《の》まんこと」
といつもの持論をいう。ラルチーヌの母さんは、私には六十五、六にみえたが、五十そこそこだそうであった。
冷えこみのきびしい石造りのたてもの、日照時間の短い日々は、本当をいうと、人間が住むにふさわしくないのかもしれない。パリの郊外には美しい森がいくつもあるが、パリっ子が休みになると渇えたように郊外へ出かけるはずである。コレットからサガンにいたるまで、フランスの「愛」の女流作家は自然描写が好きで巧みだが、「愛」を描くのも感覚的な天分がないと出来ないわざなので、おのずから、自然を愛着する気持とかかわりが深いのかもしれない。
私自身は、ボーボワールやデュラスより、サガンやコレットが好きである。私はホトトギス氏に頼んで、プランタンのデパートの書籍売場で『悲しみよこんにちは』や『水の中の小さな太陽』の新書版を買ってもらった。
ホトトギス氏はさすが若いだけあって、さっさと「サガン・コーナー」をみつけてくれた。
(むろんフランス語である)
サガンは町の盛り場やサロンの会話、パーティの華やぎも好んで書くが、同じように、緑の森のかぐわしさ、雨のしずく、風の匂い、郊外のレストランの庭での食事など、たのしそうに書いている。コレットの自然描写はもう、いうまでもない。
彼女らにとっては、肌に感じる日光の熱さは、耳もとできく男の甘い言葉と同じくらい、官能的な快楽であるらしい。
ラルチーヌの母さんの神経痛に悩んでいる姿なぞ見ていると、パリのたてものは体に悪いんじゃないかと思われる。パリの町には足の悪い人も多く、杖をついて歩いているが、これはパリ在住の日本人の考察によると、足が細すぎて体重を支えきれないのではないか、という。胴長、短足の方が体のためにはよいかもしれない。
さて、かんじんの食べものは、仔牛のクリーム煮がやさしい味であった。あんがいソースが濃厚でなくてよい。あとはアイスクリームにカシスという野いちごのジュースをかけたもの、それにコーヒーという段取りである。
私はここでパルミエという椰子の芽にマヨネーズをかけたのが好きだった。パルミエはこのごろ、日本でも缶詰で売っているけれども。
私達の横手の一人者はゆっくりと料理をたのしみ、一人でワインを飲んで飽きる風もない。充分に、一人の食事を楽しんでいる風情である。
日本だと、レストランへ入って一人でゆっくり、ということがない。たいてい食べながら所在なさにテレビを見たり、新聞を読んだりしている。
フランスの中年一人者は、黒髪黒眼、黒い服に赤いネクタイ、眼つきのするどい、髯の剃《そ》りあとも青々とした、堅気のつとめ人といった男である。いかにも独身者、という風情が身についているのは、食事のしかたからわかる。女房子供が里帰りしているあいだ、食べに来てる、という|てい《ヽヽ》ではないのである。
「独身というのはぜいたくなんですねえ。税金も高いですし」
とムッシュー・フランソワーズはささやいた。
高い税金を払ってでも独身でいる方がいい、という人は、たいてい気むずかしい人である。
よって私は、女の独身貴族は好きだが、男の独身貴族は当惑するところがある。
4
パリで待望のカキを食べたのは、「ラ・マレ」という高級料理屋、ここはご招待されたのであって、大体、この度の旅行でいちばん贅沢《ぜいたく》なレストランではなかったのかしらん。
赤提燈もよいが、私も女でありますから、いっぺんぐらいはキチンとした、すてきなレストランで着物を着更えて食べてみたい気もある。尤も、「ラ・マレ」へいったのはおひるのご招待にあずかったのであって、店内には中小企業の社長というか、会社の部長というか、そういう人々が商談かたがた、会食していた。客より給仕の数が多いような、本物のレストランで、さして大きいというのではないが、こってりと贅沢な感じ。うすっぺらなレストランではないのだ。
招待して下さった側はパリ生活の長い人で、大きなメニューに目を通し、いちいち説明して「これはどうです」とすすめて下さるのであるが、そういう人でもワインはソムリエのすすめに従う。
ポスターほどもあるメニューの裏はいちめんのワインリスト、とてもワインの種類をあげつらえない、という。ましてやソムリエがぽんとあけたのをひとくち飲んで、
「どうですか」
といわれたときに、
「あかん。もっと冷やせ」
とか、
「べつのをもってこい」
とはいえないそう、
「いけないというなら、いけない理由をとうとうと喋れなくちゃ、いけません。とてものことにそんな知識があるはずもない」
ワインは、店のおじさんにまかせ、ここでは食前酒にキールを飲み、フランボワーズ(木いちご)のジュースにシャンペンを入れたものを飲む。(これも戦中派ニンゲンの私には「公園の縁日の色付きハッカ水《すい》」という感じで、うけとられる)
カキはブーロンという種類であるそうだが、まるみのある生ガキで、氷の上に乗ってくるのを見るのは、心おどるもの。私はパーティがあんまり好きではないが、それは、生ガキなんか出ていると、卓上のソレをみんな食べたくなり、どこまで遠慮しないといけないのか、どのくらい自分が食べてもいいのか、見さかいつかないからである。
そうして遠慮して食べないでいると、ホカの人も、忘れているのか遠慮しているのか、いつまでも、一皿何|打《ダース》かの生ガキがそこに残されている。私はもう気になって、パーティ出席者にあいさつするのも忘れ、スピーチの言葉も耳に入らずに、生ガキばかり見つめているということになる、そうして不機嫌になって帰ってくる、という仕組みで、とくに冬場のパーティがいけない。
生ガキのことばかり考えて、パーティはうわのそらになってしまう。
そのくらい生ガキ好きである。冬になると神戸のオリエンタルホテルの上のレストランへ食べにいったりする。
次に出たのはスズキの料理で、これはこってりしたソースがかかっていて重厚な味わい、よく太ったスズキである。
私は魚料理というのは、西洋の小説に教えられるところが多かった。西洋の小説を読むと、マスの頬の肉がうまい、とか、スズキの肉の美味しさなどが出てくる。日本の小説は、魚を食べる民族にしては、魚のおいしそうな感じが出てこない。
アユでもハモでも、季節のいろどりのように、淡白さを賞《め》でられている。あるいはその姿のよろしさとか、香気とかは書かれるが、魚の頬の肉をほじくってむさぼり食べる、という描写はないようである。
フランス料理のおいしさは、ソースにあるのはむろんだけれど、私はいっぺんフランス人が、皿に残ったソースをパンでさらえて食べ、あと更にパンの固まりでナイフとフォークを拭いて食べているのを見た。(ラ・マレでの話ではない)そのまま、あと、ナイフとフォークをまた使えるぐらい、きれいにしていて、おどろいたことがあるが、こういうのは全く、
「舌づつみ打つ」
という言葉が実感としてくる。
そこへくると、日本の食事は、あとさらさらと茶漬で清め、すがすがしいものである。
チーズはプリーとポンレベーというのを食べた。
私に見識があって選んだわけではなく、持ってきたのを、指さして取ってもらったら、そういう名前であった。
羊のチーズは異臭がしたが、ワインに合うので、これも、
「結構でした」
と食べた。私は、どこへいっても、何を食べてもやっていけそうに思われるのは、こんなときである。
どこの国の男と結婚しても、うまくいったんではなかろうか、と思うと、少し、残念な気がする。同じ日本人の男が相棒というのは変りばえしなくてつまらない。
尤も、相棒にいわせると、
「何をねぼけたことをいうてんねん、こっちがひたすら、辛抱しとるから保《も》ってんのやないか!」
と怒り狂うかもしれないけれど。
「ラ・マレ」の料理が本格的でおいしかったので、本当のフランス料理を食べたと思って嬉しかった。
招待側は、それをフランス語でレストランの給仕長に伝えて下さったので、店の人は気をよくして記念に、ポスターほどもあるメニューをくれた。(私はそれを持って帰って居間のフスマに張っておいたら、パリっ子の友人があそびに来て、「おや、ラ・マレだ」となつかしがっていた)
パリ最後の夜、これも高級レストランの「フーケ」へいこうとして、ホテルの人に予約をたのんだが、いってみると「予約はうけていない」、とことわられた。コンシェルジュがたしかに、日本人三人、九時に、といってくれたのであるが、何かの手違いがあったのだろう。
「フーケ」は凱旋門を望む一流のところにある店で、店内は時分どきだから、着飾った紳士淑女で満員であった。
給仕が、いまは満席だから予約がなければどうにもならない、という。
「仕方ないでしょ、どこか、ほかで食べればいいではありませんか」
ということになった。私たちが席を見廻して給仕と押し問答しているあいだ、いちばん手近の席の中年男女、見るからに上流階級らしい身なりよろしき一組が、我々を眺めてうすら笑いを浮べていた。この田舎者が、という軽侮の表情が、ありありと出ている。
私だけそう思ったのか、と考えていたら、外へ出て、
「あの、一ばん端の席にいた中年のアベックはいやな奴でしたな」
とおっちゃんがいい、ホトトギス氏は、
「何だかバカにしているようでした」
と憤慨していて、人の思うことはみな一緒、お上りさんか地許の人間か知らねども、高級レストランへいったって当然のこと、人間が高級になるわけではないのだ。
「私はイタリア料理の方が魅力がありますなあ」
シャンゼリゼを歩きつつおっちゃんはいう。
「料理も人間と同じで、素朴なところがないといけまへんなあ」
「そうね、原型をとどめず、というのは離乳食みたいになっちゃう」
「荒々しいところが残ってるのはいいですね、フランス料理はすこし、洗練されすぎてるのとちがいますか」
と、ホトトギス氏。高級フランス料理屋で木戸を突かれた腹いせに、我々はフランス料理のワルクチをいいながら、夜のシャンゼリゼを歩いていった。そしてやっとみつけたレストランで、パリ最後の宴を張ったが、ここは一般水準のレストランであったけれども、やはりフランス料理はおいしかったのである。
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あ と が き
ヨーロッパの赤提燈をたずね歩くという思いつきが、「旅」の編集部のおかげで実現したわけであるが、これは思ったよりむつかしいことだとわかった。赤提燈の小店にしろ、屋台にしろ、下町の生活と人生に密着しているので、とてものことに旅行者では短時日にさぐりあてられない。そのためにガイドさんにお願いしたが、それとて限界のあることであった。しかしまあ、パック旅行で名所|旧蹟《きゆうせき》だけを引きまわされることを思うと、ちょっと風変りな旅ができて面白かった。
各国の安い店を食べあるいて、いちばん印象に残ったもの、というと、へんなことにマドリッドの、小エビの鉄板いためなのである。
小エビしか売っていない店の、それも同じ小皿に盛ったのを幾皿もおかわりするというやりかたは、そっけないだけに安くて、しかも美味しくて、いまも忘れがたい。ジュッ! と小エビが鉄板で跳ねまわっているさまを思い出すと、いまも私は小銭を握って走っていきたくなる。
このあいだ、
「ここのおでんは美味しいですよ」
と紹介されて、ごみごみした町のおでんやへいった。おでんやにしては、来ている客が金のありそうな人々ばかりだなあ、と何となく思った。おでんは実際おいしかったのだが、とくにどうということもない。ところが勘定を払うときになってびっくりした。二人で六千八百円とられた。お銚子は四本ぐらいであった。こういうのは神戸の新開地であると、まず二千円程度である。高くて三千円まで、私はこういう店は当惑する。おでんなんてものは庶民のたべもので、せいぜい一人前千円までであろう。そのへんの感覚が鈍磨してしまうのは悲しいことである。同様に、ある下町の盛り場で安い串カツを食べたらこれが、いたみかけた肉であった。いくら安いといってもこれも言語道断である。私にとってはこれらはどちらも非文化の最たるもので、
「人をバカにしてる」
というコトバは、こういうときに使うのではないかと思われる。
おいしいものを安く、どっさり食べられるというのが、人間の文化の基本でなくてなんであろうか。
それにしても日本の食べものの値段は世界一で、それなら食糧が少ないかというと、あり余っているのだ。地球上には飢えて死ぬ人がいまも無数にいるのに、狭い日本には食糧があふれ、若者たちはそれに馴れて、残りものを捨てて省みない。食べものは溢れながら、それらは高価で、生活苦からの一家心中は絶えない。矛盾のかたまりである。それでいて食べ物を粗末にする。いつだったか、ある中年男性がいわれていたが、店で使っている若者たちが、御飯の残りをゴミ箱に捨てて平気でいるので、「食べるだけを炊け。残飯を出すな」と口やかましく注意していたところ、今度は若者たちは、大量の御飯が残るとトイレの便器に捨てて、水で流してしまった、というのであった。
「そんなことを、しよりますからなあ」
と中年男性は涙をこぼさんばかりに悲憤していた。私は彼と同じく戦中派で、食糧のない時代に育ったからいうのではない、食べものを愛し、いつくしみ、好奇心をもち、大切にし、喜びにし、尊重しないところに、真の人間の生活、文化なんかは育たないと思うからである。
それからして、安く、おいしく、誰にも平等に食べものをわかつ、ということは、人間の理想社会であって、政治はもっぱら、これを基礎に行なわれるべきである。日本の食べ物の値をもっと安くするべきだと、各国をまわって今さらのように痛感したのが、こんどの旅のいちばん大きなおみやげであった。物なれぬ中年者の旅に同行して下さった「旅」編集部の竹浪譲氏と、企画して下さった編集部にお礼申上げます。
昭和五十四年春
[#地付き]田 辺 聖 子
文庫版のためのあとがき
本書は八年前の旅行記であるから、旅のガイドとしては不適当かもしれないが、五十歳すぎてはじめて外国体験をしたオトナの、カルチャーショックの報告書として楽しんでいただければ幸いである。
われわれオトナの世代は、若いころは戦争に、壮年時代は職業の怱忙《そうぼう》に追われて、外国体験をするいとまはなかった。そういうかたは多いと思う。されば仕事で海外に働く人は別として、「オトナの海外初体験」はいま増えているのではなかろうか、人生の閑暇をやっと手にした熟年男女が増えているであろうから。
本書にも書いたが、若くして海外の異文化に接するのと、人生中歳をすぎてはじめて異国に見《まみ》えるのとでは、いささか感慨も違おうというもの、そのへんの機微を若いかたにも少しは面白く思って頂けるのではないか、などと、私はいま、読み返して考えた。
それにしても、……いま思うと、この旅の感懐には、まだ若さが残っていますなあ。旅自体もハードスケジュールである。いまはとてもこうはいかない。現在のトシの私は、あちこち歩いて発見を増やすよりも、ひとところでじっくり、安宿でよいから腰おちつけて滞留し、かつ、発見などなくてもよい、ただその異国の町の、異国ぶりにじっくり浸り、楽しみたい、という気になっている。そのうち、これは実現するかもしれないし、しないかもしれない。しなくてもいい、という気になっている。しかしまた、したらさぞ面白かろうという気もある。それからこれは横丁のたべあるきであるが、一流のたべあるきにも、いまは抵抗感をおぼえなくなっている。かといって、いまも横丁の赤提燈を否むものではない。
私の人生の旅は、なんだか、無定見に、野放図につづいていきそうである。
一九八六年七月
[#地付き]田 辺 聖 子
単行本 昭和五十四年五月日本交通公社刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年十月十日刊