[#表紙(表紙.jpg)]
田辺聖子
ブス愚痴録
目 次
泣き上戸の天女
ブス愚痴録
開き直り
忠女ハチ公
波の上の自転車
日本常民パーティ事情
恋捨人
よごれ猫
あんたが大将──日本女性解放小史
[#改ページ]
泣き上戸の天女
何にも思い当ること、あらへんのやが、と野中《のなか》は酒を飲みながらまた考えてしまう。
この頃は家で飲む。いきつけの店は、いつも二人で行っていたから、行きにくい。二人でカラオケのデュエットなど聞かせていたから、店のママに、
(あれ、奥さんは?)
と聞かれると返事もできない。
(蒸発しよった、ともいわれへん)
野中は思いあぐねて、自分で水割りをつくりつつ、じっとり沈んで飲む。
もっともトモエと暮らすようになった一年半ほど前は、ずっと独り暮らしだったから、一人で飲むのに慣れていた。このところ、久しぶりに独り者の感覚が戻ってきている。長いこと自炊をしていたので、台所に立つのも慣れていて、トモエが居なくなったからといって、日常生活に事欠くことはないのだ。チャンと豆腐を買って来て、今夜は湯豆腐をしたのである。
油揚とさつま揚と杓子菜《しやくしな》を炊《た》いたりするのもうまい。
(おらなんだら、おらなんだで、何とでもやるんやが……)
と野中は思う。
(しかし、急に、フイと、おらんようになるのは、かなン[#小さい「ン」]な……)
フイと「家出」したトモエに腹を立てるというより、ただただ、不可解なのである。解《げ》せないのであって、腹を立てるより以前の問題である。なんで「家出」したのか、理由を聞きたいのである。理由が分れば納得する。
(女房《よめはん》の「家出」て、男から見たら、みな、ワケわからへんのとちゃうか)
と友人の高原はいう。
(男が納得でける理由なんて、あらへんのやないか。しかし、君とこは仲よう、やってたのにな)
(そこや)
と野中はいった。
(喧嘩したこと、ないし、なあ……)
それどころか、トモエがいなくなる前の晩は楽しかった。晩めしは、湯豆腐と(野中は偏食家で、毎日、豆腐がなくてはいけない)鯛の刺身とかぶら蒸しであった。野中の好きなもの、というより、これなら食べられるというものが、トモエの手によっておいしくととのえられ、楽しくすませた。野中は、ふだん焼酎《しようちゆう》のお湯割りしか飲めない男であるが、トモエは日本酒を飲む。二人で飲んで、とりとめもない世間話を交し、
(どや、ボチボチ、籍入れとこか?)
などと野中はいっていた。
一年半ぐらい二人で暮らして、これやったら、やっていけるなあ、と野中は思っていたのだ。トモエとなら正式に結婚してもよいと思った。
野中はいま四十一だが、まだ結婚していない。
会社では変人扱いされている。野中は自分では別に変人だと思わないが、偏食家なのと同様に、人間の好き嫌いが烈しい。人間の、というより、女の、といったほうがよい。気に入る女がなかなかいない。それでも若いうちは相応に、会社の女の子にももてたのだ。長身で、ちょっとにがみ走った顔付きで、学歴もまあまあ、という野中は、入社した女の子には毎年、目をつけられたようである。
しかし女の子を喜ばせるようなこともできず、言葉の飴《あめ》を舐《ねぶ》らせるのも不得手、という野中は、女の子とのつきあいが長つづきしない。そのうち、どんどん女の子に気むずかしくなってしまう。
あっという間に三十になり、前額が禿《は》げてきた。
それでもお袋が生きているうちは、心配していくつか縁談をもってきてくれた。兄二人は疾《と》うに結婚して子供もいる。そのうち、親父もお袋も死んでしまうと、野中の縁談などを気にかけてくれるものもいない。
偏食のおかげで野中は若い時から痩せている。それで顔にはシワができ、実際以上に老けてみえ、いよいよ若い女の子は寄りつかなくなった。
(まだ独身やて。ヒェッ)
などといわれる。会社にもう一人、これは親が金持なので道楽がこうじて、四十二でまだ独身の男がいるが、これは金持の雰囲気のせいか、若々しく見えるようである。その男の独身はみとめられているが、野中の独身は、
(変人やからや)
と思われている。
野中はただ、現代の若い女のエゴむきだし、あるいは露骨な結婚願望がイヤなのである。そこが変人のゆえんかもしれないが、自分ではことさら理不尽な高望みをしたつもりはないのに、またたく間に三十代も過ぎてしまった。
そのころにトモエに会ったのである。トモエは同い年だといっていた。何となく一緒になり、仲よくやって来て、
「結婚しよか」
という話が出、
「いまさら、式なんて、エエやないの」
とトモエがいうので、
「そやな、籍だけ入れといたらエエやろ」
と野中はいった。
「籍なんて」
とトモエはいった。
「要らんやん」
「入れんでもエエ、いうのんか」
「そ。いつでも解消できるし」
「それは、あかん」
野中は決然たる声になる。
「そういう、ええかげんな、じゃらじゃらしたことはいかん」
「だって今まででも、何となく暮らしてきたんやもの、それでお互いに楽しかったんやから、これでええのやない?」
「いや、いかん」
偏食家の野中は、信念に於《おい》ても偏向気味である。豆腐がなくては夜も日も明けぬごとく、いったん思いこんだことは変えない。はじめは「何となく」ではじまったが、「チャンとする」となると、入籍して恰好《かつこう》をつけようと思う。結婚届を出したいと思う。
「区役所へいってチャンとしたい」
「………」
「会社にもいうとく。ぼくとこは兄貴らに電話しといたらええねン[#小さい「ン」]けど、あんたとこ、身内に挨拶にいかんでもええのか。一緒にいって親類の顔つなぎせなあかんやろ」
「ええねん、両親ももう死んでるし、ごちゃごちゃいう身内はいてへんのやけど……」
トモエはどこか煮えきらない。
「まあ、そんなこと、どうでもええのと、ちがいますか、そない、せいてすることでもないし」
世の中変ったな、と野中は思った。昔は女が入籍を迫り、「チャンとしてほしい」とせがんだものなのに、今は男のほうが「チャンとしたい」と訴え、女が「そんなことどうでもええ」というのだ。「チャンとしたい」という話は、前々から野中が持ち出していたが、トモエがそのたびに話題を転じたり、うわのそらで返事して、はぐらかしたりしている。
そのときも話をまぎらせたいふうだったので、野中は形をあらためて、
「いつまでも、こんなんしとったらあかん、結婚届出せるようにしときや。ぼく、本籍は南区やよってな、手続きしといてや」
と釘《くぎ》をさした。トモエは野中と一緒に暮らすようになってから、野中の希望で勤めをやめている。昼間は時間があるはずだから、トモエに托したのである。
トモエはさからう口調ではないが、
「けどねえ、もしかして、アンタが途中でいやになって別れたい、思うたとき、アタシがイヤや、いうたらどないすんのん? すったもんだするよかさ、はじめから、ゴチャゴチャせなんだらええやないの。たかが紙きれ一枚や。気ィにすること、あらへん。内縁なら離婚のさわぎもないし、アタシとアンタ、こないして仲ようしてる、それでええのん、ちゃう。ハンコや書類なんか、どっちゃでもエエ、思うわ」
と放胆なことをいった。
野中はトモエの、そういう野放図なところも、実は好きだ。
トモエとはミナミのスナックで知りあったのである。玉屋町の路地の奥の、小さいスナックで、カウンターに七、八人も入ると満員になる。野中は、店を間違って入ったのであるが、一ぱいだけ飲もうと、薄いウィスキーの水割りを注文した。ごたごたした汚い店であるが、かなり婆さんのママが一人いるだけ、客は女一人であった。常連なのか、婆さんと心安く口を利いている。婆さんのママは、体がえらいのでこの仕事もやめたい、といっていた。
「トモエさん、あんたここ、継げへんか」
「アタシ?」
トモエは目をみはっていた。みはっても小さい目なのであるが、形はよくて、パッチリしている。白い大福餅《だいふくもち》に、黒い碁石をはめこんだようである。目鼻がぱらぱらと離れてくっついているが、見苦しくもない。
「アタシはあかんわ。第一ねえ、自分で飲んでしもて、一人で酔うてるにきまってるわ。それにマイク握ったら離せへんし、お客さんに歌わせへんから、あかんわ」
「そうかもしれへんなあ」
と女二人はころころ笑っている。そのうちトモエは止り木をすべり下りてトイレにいった。
野中はトモエが思ったより背が低く、下半身ずんぐりの、いうなら「下《しも》ぶくれの体つき」というような感じであるのを見て取る。ふくら脛《はぎ》が丸く、足首が太く、足首が太いというより、
(坐り|だこ《ヽヽ》みたいやなあ)
と思う。坐りだこがある女というのは二十代三十代ではあるまいと思う。
脚自体が重そうだが、それは、野中はかまわない。
野中は今どきの娘のように、針金みたいに細い、つよそうな脚で、ハイヒールを蹴立てて歩く姿に魅力を感じない。鑑賞用にはいいが、ほんというと、あんなふうに開脚度の大きそうな、バネの利いた脚よりは、重そうな大根足の、しかも、あんまり上へあがらないような脚が、エロチックでいい、と思っている。これでみても野中はべつに変人ではないわけである。
ちゃんと女に興味をもち、見るべきところを見ている。
トモエは席に帰って来、
「さあ、店がつぶれへんうちに、歌、うたおか」
といって、思ったよりかわいらしい声で、野中の知らない歌を歌った。野中が拍手すると、恥ずかしそうに野中を見て、にっこりし、
「大きに」
といった。そうして野中にマイクを廻したが、野中は一人で歌ったことがないので手を振った。するとトモエは、
「デュエットしません?」
と人なつこくいう。偏食家たる野中は、歌にも好き嫌いが多いのだが、何となく二人で「居酒屋」など歌ってしまい、婆さんのママの喝采《かつさい》を博していい気分であった。
それから、ちょくちょく、店をのぞくようになった。行くたびに婆さんのママは、「体がえらいから店を閉めようと思う」と話している。どうも口ぐせであるらしい。それでも閉めもせず、店をやっている。常連客ばかりで新規の客はめったに来ない。ある晩、野中がまたのぞくと、トモエが泣き泣き飲んでおり、婆さんのママも釣られて眼をしょぼしょぼさせていた。
トモエはかなり酔っているようであった。
「アタシはね、ズーと正直に生きて、やね……まともに生きて、やね、このトシになってひとりやいうたかて、アタシのせいちゃう」
トモエは泣きながらひとくちすすり、
「ママ、わかってくれるわなあ、ママ」
ママは野中に向い、
「このひと、泣き上戸ですねん」
といったが、泣きべそをかいたまま、ハンカチをくしゃくしゃに握りしめて野中を見たトモエが、何だか可憐《かれん》であった。女の泣き顔なんて、見られたものではないが、その前にトモエの、人なつこい笑顔を見ているので、野中には、泣き顔も可愛いらしかったのである。
「泣けるうちが華や、と思いますな」
と野中は置き壜《びん》のウィスキーを、トモエのグラスについでやった。そうして飲んで泣くほど辛いことがあるなら、やっぱり二十代ではあるまい、三十半ばぐらいやろか、と年齢を推しはかったり、した。
トモエはひとしきり泣いてしまったあとなのか、機嫌よくなり、涙を拭き、洟《はな》をかむと、
「サー、歌でも歌《うと》てこまそか」
といって歌の本のページを繰っている。「こまそ」というのは女の子にあり得べからざる卑語であるが、それも野中には快く聞かれる。
「そやそや、パーと歌《うと》てこませ」
と婆さんママはけしかけ、二人は息の合う古馴染みのようであった。野中はトモエがそうやって独り遊びのできる女らしいのと、男を見るとき媚《こ》びがないので気に入っている。媚びがないから、独り遊びができるのであろう。
ほんというと野中は、このときのトモエの「歌でも歌てこまそか」という奔放な悪たれ口に新鮮なショックを受け、好きになったのである。
おそらくその悪たれ口が、今までのトモエの人生の復原力だったのかもしれない。野中は何だかトモエを力づけてやりたくなる。
何か知らんけど激励会でもやろや、ということになり、京都か奈良へ遊びにいこか、という話が出たが、雪花の舞い散るような寒い季節なので、底冷えのする盆地へわざわざ、行くこともない、ということになったりする。それでもトモエは、そんな話が出ただけで、はしゃいでいて、すっかり上機嫌である。
「そや、底冷え、いうたら」
野中も、いつか浮々している。
「いっそ、春日サンの万灯籠《まんとうろう》にいけへんか、節分は何日やろ。いや、いつか十年ほど前に行ったことがあって、なかなか風情がよかったんや、ロマンチックやった」
身も凍る寒夜であったが、三千の灯籠に灯が入ると、春日大社の朱塗の神殿が闇の中に浮き上り、夢幻のようにみえた。高い杉の木立の梢は闇に包まれて雪がちらついてくるのも神々しい。露店が出るわけでもなく、闇の中で松の根っこにつまずきながら、境内の茶店で甘酒をふうふうとすすって帰ってくる、それだけのことであるが、万灯籠の灯が廻廊をめぐりながらまたたいている眺めは、心なき野中の身にも沁《し》みたのである。
「寒いけどな、暖《ぬく》うしていったらエエねん」
「アタシ、テレビのニュースで、いつか、それ見たことがある!」
とトモエは叫び、
「行きましょか、野中サン。お詣りしましょうよ、節分て、いつでしたっけ? 二月三日? 四日?」
「調べてみるワ。ママもいけへんか」
野中は、いまはこの店の常連だから、ママにそんな口を利くようになっている。
「あたしはダメ、そんな寒い晩、うろうろしてたらリューマチが出るわ。膀胱炎《ぼうこうえん》もこわいし。トシヨリ臭いこと、いうようやけど」
「なーにいうてるんです。アタシより若いくせに」
「トモエさんみたいに元気な人と一緒にならへん」
と女たちはあはあは笑っているが、野中はあれ、と思った。婆さんママよりトモエのほうが年上とはどういうことであろうか、野中の見るところ婆さんママは五十すぎの感じである。しかしいつも地味な風をしているので、老けてみえるのかもしれない。案外若いのかも知れないと思える。
節分の夜、ほんとに野中は、トモエと奈良へ行くことになってしまった。もっとも近鉄電車で行けばほんの一時間である。トモエは黒い毛皮の半コートを嬉しそうに着ていて、
「どんなに寒うても大丈夫です」
「甘酒飲んだらあったまるよって」
「タコ焼きなんか、出てますか」
「奈良公園には出てるかもしれんけど、春日|大社《サン》の境内にはなかった思う」
野中も最近、奈良へ遊びに行ったことなどなかったので、くわしくなかった。トモエも京都へはよく行くが、長いこと奈良へ来ていないという。春日サンをお詣りしたあとは、どこかでゴハン食べましょか、ということに、とんとんとなってしまった。
野中はトモエと話していて、会社の女の子としゃべるような気疲れが全くない。男同士でしゃべっているような開放感がある。トモエに女の子くさい「媚《こ》び」がないせいでもあるが、トモエには手加減しなくていいからである。ゴハン食べよか、とほかの女の子にいうと、ほかに下心はないことを強調しなければならない。言わでものことを言い、使わないでもいい心づかいを要求されるので、野中はそれですっかり「女の子嫌い」になってしまった、ともいえる。
「女の子嫌い」ではあるが「女嫌い」ではないのである。トモエは、オトナの手ごたえのある女なので、しゃべっていて気楽でよかった。そのわりに可愛いらしくて、要するに野中はトモエが好きになっている。
春日大社へ向う奈良公園は、人で埋まっていた。車はひっきりなしに走り、バスが発着し、一の鳥居付近はごった返していた。あかあかと灯がついているが、お詣りする人、帰る人で参道はごった返し、
「仰山《ぎようさん》の人やな」
と野中はトモエとはぐれないようにするのがせい一ぱいで、
「ロマンチックどころやあらへん」
ちょうど出さかりのピークなのか、あとからあとから参詣客は鳥居をくぐって広い参道へくり出してくる。それ以上に予想外だったのは、二月三日の晩というのに、異様に暖かいことで、汗がにじんできた。暖かいというより暑い。石灯籠が並びはじめたころは、トモエも珍らしがって、
「いやァ、きれい!」
と喜んでいたが、二の鳥居あたりから人波がいよいよ多くなると、闇の中に熱気がむんむんして、毛皮のコートを脱いでしまった。灯籠の灯だけでほかに明りはなく、ただ人影が延々と続いている。南門から境内へ入るのに行列しているのだということで、野中たちも並び、「昔はこない、大勢やなかったが」と弁解がましくいい、自分の責任のように、
「それに雪花が散って寒いから、風情があったんやけど、こう暑うては」
と汗を拭きながらいった。やっと南門へたどりつき、献燈料を払ってローソクをもらう。境内も、えらい人であった。舞台で舞楽が奉納されているらしいが、人のあたまでよく見えない。
石段や溝があって野中はトモエの手を取ってやった。足もとは暗くて、灯籠の灯でぼんやりとしか、見えない。トモエの手は汗ばんで指のふしぶしの力は強そうである。若い女の子の手は消え入りそうに柔らかいが、トモエの手は意志的にがっちりしていた。それも野中には、何だか、納得させられる気分である。
落ちこんでも、「サー、歌でも歌《うと》てこまそか」という、トモエの不逞《ふてい》なる復原力に、その硬い指のふしぶしはよく釣り合っているのだ。しかしそれは野中にとって、不快ではない。
男みたいに向き合えるところがよい。
しかも男の手は取りたくないが、トモエの手なら握ってもいいのである。
石段を上ったり下りたりして廻廊をめぐり、ぐるりとひとまわりして、西の門から出てきた。灯籠のない道は真っ暗で、人々は声をかけ合って用心しながら進む。(押さないで下さい)という悲鳴があがり、何やこれは、と野中は雑踏にも暑さにも心外であったが、
「ええトコ連れてきてもろて」
とトモエは嬉しそうだった。
一の鳥居までいやになるほど長い参道を、野中はトモエとしゃべって、あっという間に来てしまった。野中は四十の声を聞いて独身であることもしゃべってしまっている。
「アタシも一緒やわ」
とトモエがいったので、野中は、やっぱりなあ、と思ったのである。トモエの復原力は二十代三十代のものではなさそうである。トモエはミナミの寝具会社にもう長いこと勤めているといった。
両親も死んだからひとりぼっちだという。
「一緒です」
と野中はいう。トモエはざっくばらんに、
「べつに高望みしたということもないんですけど、縁遠うて、ずっとひとりでした」
「一緒です」
一緒同士でゴハン食べよか、と弾んでしまった。奈良ホテルへいく道に、割烹《かつぽう》旅館があったから、そこで懐石の梅コースというのを食べた。野中は牛肉や豚肉やという料理が食べられない。梅コースには湯豆腐鍋がついているといわれたから、それにしたのだ。
「ぼく、豆腐がないと生きてられへんのですワ」
野中は焼酎のお湯割りをもらっていう。
「一年三百六十五日、豆腐食べてます。春夏は冷奴で、秋冬は湯豆腐です。冷奴は絹ごしにすることもあるけど、もめんがよろしな。葱《ねぎ》とかつお、山椒《さんしよう》の煮《た》いたんなんかのせて」
「秋口になると、茗荷《みようが》の薄う刻んだんで、アタシ頂きます」
とトモエはいった。トモエは野中と違って肉も魚も何でも食べるが、豆腐も好きだという。味噌汁に入れる豆腐、けんちん汁、それに白和《しらあ》え。
「ぼくはそんな高尚なん知らん、ただもう豆腐の味そのものが嬉しいねん。秋・冬の湯豆腐、このだしも、ぼく、自分でやりまんねん」
「いやあ、まめやこと。お薬味は何にしはりますか」
「やっぱりさらし葱。これと七味だけで」
「そうですわね、海苔《のり》を細う切って入れる人もあるけど、何かべたべたとお箸《はし》にからまって、アタシ、そう好きやない」
「そうそう」
「もみじおろし入れるのも、おだしの味が変って、お豆腐《とふう》が冷《ひや》こうなるよって、アタシ、あんまり好きません」
「そうそう」
なんでこない、話合うねン[#小さい「ン」]。
野中は嬉しさで目がしらが熱くなってくる。トモエは「おとふゥ」と語尾を上げる大阪風の発音である。それも大阪育ちの野中には、大阪女だったお袋の口ぐせを思い出させてうれしい。トモエは湯豆腐鍋に散蓮華《ちりれんげ》を入れ、
「このお豆腐《とふう》、ちょっと柔《やら》こいみたい。もめんのほうが湯豆腐にはよろしいわね」
「そうそう」
「あのもめん豆腐の、耳のかたいトコが、またおいしィて」
「そうそう」
野中は感きわまってしまう。若い娘が嫌いというのではないが、若い娘に豆腐のうんちくを傾けてしゃべれるか、というのだ。野中はいい酔い心地である。大福餅のような顔にぱらぱらとばらまかれた小さい目鼻立ちのトモエの顔が、何とも美しく可愛いくみえてくる。山国の奈良というのに、カニが出てくる。
「いや、このカニはどうも」
「お嫌いですか」
「嫌いやないけど、身をほじくるのが面倒で」
「そうね、でもおしゃべりしながらカニの身をほぐすのも、楽しみの一つやわ、アタシしたげます」
松葉ガニの身をぱっくりとうまく取って皿に盛ってくれる。その手つきの熟練したさま、危なげない動きは、フト野中に、
「生き|すれ《ヽヽ》てきた、したたかさ」
を思わせる。しかしそれもトモエの申し分ないやさしさで、信頼すべきものに映るのである。
握ったとき、ふしぶしのがっしりした指だと思ったが、いま見ると手の甲はムチムチしているものの、何だか老人斑のようなシミがあった。左の薬指に、ぽっちりと赤い宝石を光る石で囲んだ指環をはめている。それも赤いセーターとよく似合うように野中は思う。女の服装にも好き嫌いの多い野中であるが、トモエが身につけるものは、何でも信頼すべきものにみえる。
身につけるといえば、トモエの表情がいい。にっこり笑うと、身も心も吸い取られる心地になる。味が深い表情である。こういう顔は、やっぱり一朝一夕にはでけへん、二十代三十代にはでけへん、と野中は思ってしまう。野中はそれまで四十代五十代のオバハンほど、あつかましい図々しい存在はないと毛嫌いしていたのであるが、トモエが四十だと聞いて、かねての所説は、くらっと変ってしまったのである。
トモエはていねいに、おいしそうに料理を味わう。刺身のケンまで食べ、野中は、自分は好き嫌いが多いくせに、ていねいにおいしく、みな食べる女は好きである。野中の湯豆腐の鍋の蓋を取ってくれたり、薬味皿をまわしてくれたり、カニの身をほぐしてくれたり、する手つきが、しおらしくてねんごろであるのと同様に、自分の口へたべものを運ぶときもていねいでねんごろである。
それはほんとうに、たべものを口にするのが好きな人間のあかしだ。野中だって好きなものを食べる時は心弾んで嬉しいのである。トモエのすることなすこと、野中の気に入る。
そのうちトモエは、ふと窓の外を見て、
「いやァ、興福寺の五重の塔やありません?」
と弾んだ。二階なので、五重の塔が夜目にも著《しる》く見え、万灯籠の雑踏よりも、窓に黒々とそびえる五重の塔のほうが奈良へ来た甲斐《かい》を思わせる。寒くはないので窓を開け、五重の塔を眺めていると、トモエは盃をおいて、
「嬉しいわァ……」
と泣き出した。
「こんな、楽しいこと、あるやろか」
トモエが泣き上戸というのは本当であるらしい。
「これ、悲しィて泣いてるのと違います。嬉しィて泣いてるのんです」
と泣きながらハキハキ説明し、自分でもおかしくなったのか、泣き笑いをして、
「野中サン、怒らんといてな。──アタシ、嬉しィなったら泣くねん。嬉しいことって、そうたびたび、ないのやもん。泣くほど嬉しいときは、泣いてもよろしいでしょう?」
「かめへん、かめへん、盛大に泣いてや」
野中はちょっと黙り、
「東浦サン、怒らんといてや」
とトモエの姓を呼んで、
「もしよかったら、泊ろか、ここ、泊れるらしいデ」
「嬉しいわ、アタシ。そんなんいうてもらえるだけで」
トモエはまたハンカチを目に当てている。野中はいそいで、
「いうてもらえるだけ、て、ぼく何も、口先だけちゃうデ」
「そやかて。……ウチも久しぶりやし。あのう、四十女の体型なんて、お目にかけられるもんと違《ちや》う、と思います……」
トモエは目の涙を拭きながら、くすくす笑っている。野中は熱心にいう。
「美人コンテストやあらへんのやさかい、そんなん気にせんでもよろし」
「恥ずかしわァ、ウチ」
トモエの「アタシ」は、いつのまにか「ウチ」に変っている。アタシ、という口調にも童女のひびきがあったが、ウチ、のほうはいっそう可愛いいのである。
野中はすぐフロントへいって部屋を交渉する。離れの一間が空いているというのでそこを頼んで戻ってみると、もうトモエはハレバレした顔で、口紅も塗って、食後のみかんなど食べており、
「あしたは日曜でしたわね」
と満足した表情である。鹿ののぞきそうな暗い木立にかこまれた部屋へ案内され、風呂から上ってくると、どこかの鐘が鳴っていてそれも奈良らしい風情である。
「東浦サン」
「何ですか」
「あんたの顔、東大寺の大仏殿の前に立ってる八角の灯籠な、あの火袋の」
「ハイ」
「あそこの、笛吹いてはる天女か菩薩ハンか知らんけど、あの顔に似てはる」
「そうですか。知りませんけど」
「明日見にいこか、柔和なお顔してはるデ」
「それはそうと」
とトモエはいった。
「隙間風あるのんか、肩先がすうすうとしません?」
「いや、別に」
するとトモエはくすくす笑いながら、
「ウチは肩先冷えますねん。そっちのお蒲団へ入ってよろしですか」
「どうぞ。天女に風邪ひかしたら、春日《かみ》サンも東大寺《ほとけ》サンも怒らはる」
四十女の体型で恥ずかしい、とトモエはいったが、下腹のふっくらしたところは奈良の古い仏サンたちのようで、プワプワと白いマシマロのような、柔らかい触感である。野中は、
「あんた、久しぶりや、いうてたやろ」
「そんなこと、いいました?」
「いうたがな、正直にいうトコがよろし」
などと物静かにいちゃつくことができるのも、四十代の面白さであった。「まだ年齢《とし》も四十でゐれば面白き」古川柳で、こんな句を目にしたことがあるような気がする。
あくる日も、冬を忘れたような暖かい日ざしの、快晴の空である。朝食を食べていると、ほんとに縁先に、苔《こけ》を踏みしだいて鹿がやって来た。
宿を出て、東大寺へ歩こうとしたが、トモエが、ゆうべ春日サンの一の鳥居までの参道が長くてくたびれたというので、タクシーを呼んでもらって行った。
「トシとったら、脚は大事にせな」
とトモエはいい、婆さんママを嗤《わら》われへん、という。
「あのママ、あんたより年下やて?」
「さあ。あんまり知りません」
明るい冬陽の下で見るトモエは、髪の毛が薄く、色も茶色がかって、根元は白いようである。染めてるのかもしれないと野中は思うが、野中だって前額部が禿げあがっているのだから、おあいこであろう。それよりゆうべのトモエは、自分からすすんでじっくり楽しみ、ハキハキしていて、野中は、トモエが三十女のように思われた。朝見ると、意外にトシがいってるようでもあり、よくわからない。
しかし、いい笑顔は、これは夜見ても朝見ても、変らない。
東大寺でトモエはお守りを買い、絵葉書を買った。八角灯籠も見上げて、野中は(新婚旅行みたいやな)と自分たちのたたずまいを考える。
そうしてほんとに、そうなってしまったのである。トモエは野中の部屋へ荷物を運びこんで暮らしはじめた。野中の偏食にびっくりしていたが、
「スーパーの豆腐はあかんデ。駅の向うの、昔ながらの市場の中にある豆腐屋なあ、あそこのがええ」
と野中に指示されると、トモエは毎日、それを買いにいく。トモエの料理はうまい。
「何十年も自炊してるんやもの」
というが、野中は偏食ながらに少しずつレパートリーがひろがっていく。会社、やめてしまえよ、というと、トモエはほんとにやめて毎日、小さいマンションにいるようになった。大学時代の友人の高原と飲みにいった時、まだ独りか、というので、野中は簡単にしゃべって聞かせる。
「へー。そらよかった、どんな感じや」
「天女やな、文句ないなあ」
野中はほんとうにそう思っている。トモエはよくゆきとどき愛想がよくて、何をやらせてもそつなく、野中はもう、外で飲んだりしない、仕事がすむと、まっすぐに家へ帰っていく。かの婆さんママのスナックへも、二人とも足を向けなくなってしまった。そのうちに二人揃ってゆき、こうこうと話したらいい、それまでは行かないでいようとトモエはいう。
「仲よう、やってるのか」
と高原は聞き、野中は、
「仲よすぎるくらいや。非の打ちどころあれへん」
「待っとった甲斐があったというもんやな、しかし天女やったらまた飛んでいくかもしれへん。いっぺん遊びにいってもええか」
高原は、野中も二、三回逢った妻を携えてきた。まだ子供がないせいか、三十五、六の高原夫人は輝やくような若さにみえた。トモエと並べてみると、トモエはいかにも年も食ってる感じであるが、客好きな性質だから、おしゃべりを楽しみ、座が弾んだ。野中だけだとこうはいかない。高原は野中に、(安心した)というような顔を見せ、機嫌よく帰った。
そろそろ、籍を入れて何とか恰好をつけよう、と野中は思い、トモエにそういったが、トモエは積極的ではないようであった。あかん、ちゃんと手続きしときや、と野中が強く言うと、ふん、といっていたが、そのあくる日からトモエはふっといなくなってしまったのだ。
「おらんようになる、いうても」
高原に電話をすると、彼は理解に苦しむふうで、
「実家かどっか、帰ってはんのとちがうか」
「聞いてない。一人も身寄りはない、いうてた」
「買物に出て事故におうた、とか」
「書き置きがあった」
「何て」
「『お世話になってありがとうございました。勝手をいたしますが、私を捜さないで下さい。今晩のお豆腐は冷蔵庫に入っています』」
野中は読み上げる。トモエの字はくにゃくにゃした、読みにくい続け字である。
「フーン。いいにくいけど、オマエの貯金、持っていった、ちゅうようなことはないのんか」
「それはない。判コもみな渡してたけど」
「フーン」
わからんなあ、と高原もいい、友達はないのんか、一年以上暮らしとったら、親類か友達からの手紙でもあるやろ、という。野中はトモエと暮らすのが快適だったし、へんな親類に来られるのもイヤだったから(そのへんが変人のゆえんかもしれないが)自分から尋ねたり、しなかった。だから入籍しいや、といい、自分からトモエの身内に会いにいってもよい、というのはよくせきのことだったのだ。
トモエは鏡台や蒲団を運び去っている。思いついて運送屋に電話をかけてみたが、手がかりらしいものもなかった。この頃はトラックのレンタカーもあるから、人を頼めば荷物くらい運べるであろう。
(何が気に入らなんだんやろ)
と野中は思い思い、一週間たち、二週間たってしまった。どう考えてもトモエを怒らせた心当りはない。その前の晩まで、トモエも機嫌よかったのに。
毎日、豆腐を煮て食べながら、野中は「フイとおらんようになった」トモエのことを考える。男がいたのであろうか、とも思い、しかしそうは見えなんだがと思い思い、今晩は帰っとるやろか、という期待を毎日抱きながら、会社から帰ってくる。
しかしトモエは帰っていない。野中は、これはトモエの帰りを待つより、捜しにいってみようと思う。
会社の帰り、ミナミへ廻り、かの婆さんママの店へ行ってみた。店は元通りにあるが灯が消え、ネオンの店名もなくなっている。路地へはいってきた、隣の店の女の子らしいのをつかまえて、店を指し、
「ここ、休みですか?」
「閉めはったみたいよ、ママ病気で」
「入院先はわかりますか」
「さあ。出入りのお酒屋さんなら、知ってるかもわからへんわね」
野中は盛り場の裏の酒屋を教えてもらう。前垂の主人が出て来て、
「『道草』? ああ、キタの病院やいうけど、知りまへんなあ、あのママも、いつも、どっか悪い、悪い、いうてはるから。まだそんなトシやないのやけど」
「四十……五十ぐらい?」
「いやあ、あんた、丑《うし》やいうてはったから六十にはなってはりまっしゃろ」
野中は恥ずかしいが、子《ね》・丑・寅《とら》の順番をよくおぼえていないから、丑といわれてもわからないが、六十にはびっくりする。
「あの、『道草』のママのことやろねえ……」
「さいだす」
婆さんママが六十といえば、そんな気もするが、トモエがそれより年上、というのはどうにも解せぬことである。
どうなっているのか、さっぱりわからない。
野中は、トモエが勤めていたという寝具の製造販売会社の名も聞いていなかった。
電話帳を見て調べ、手帖に控えていく。
仕事の区切りのとき、その会社へ電話をしてみる。大きいところから順番にかけてみて、東浦トモエという女が在職していたかどうかを聞いてまわる。
みな、手がかりはない。
この頃、高原は、夜、よく電話をかけてくる。
野中は、はじめのうち、電話にも期待していた。トモエがかけてきてくれないかと希望を持つのだが、このところいつも高原である。
「このあいだ、婆さんママのトシ聞いて、オマエびっくりした、いうとったやろ」
「うむ」
「あれなあ、ウチの女房《やつ》にいうたらなあ」高原は珍らしく言い淀み、「いうたらナンやけど、トモエさんも、かなり年輩やないか、思《おも》た、いうねん」
「フーン」
「女はカン鋭いよってな。いや、トモエさん自身はええ人で、好きやった、いうんやけど、トシがな。四十より、もちっといってるようにみえた、て」
「しかし」
と野中はいって黙りこんだ。奈良の古仏のようにふっくらとした下腹のやさしい線や、プワプワした柔らかい肌、マシマロのような白い体、しっくり包みこんでくる暖かさは、
(あれはまだまだ、残んの色香のうるおいやデ)
というのは、やっぱり高原にもいいにくい。
しまいに野中は、トシなんか、どうでもエエ、とどなりたくなる。野中はトモエに帰ってほしいだけである。その気持がだんだん強くなっている。はじめから居らなんだらそれはそれで平和であったのに。
婆さんママの店へ行かなくなってから、二人で地もとの安直な店を捜し出し、そこでは初手《はな》から仲のいい夫婦と思われ、二人で「居酒屋」などデュエットしていた。野中にはその思い出も次第に腹の立つものになっている。気が荒れてくるのが自分でもわかる。持っていき場のないモヤモヤで、むしゃくしゃしている。
しかしそれとは別に、この世の中、そのつもりなら、いくらでも人海の中へ埋れてしまうことができるということにびっくりした。トモエは住民票も移していないから、書類から移動先をたどることもできない。
「人の女房《よめはん》やったんちゃうか」
というのは高原である。高原はトモエ蒸発を推理するのに、いよいよ熱心になっている。
「元の鞘《さや》へおさまって、家庭へ入っとる、とか。名前も本名かどうか分らんデ」
名前の、東浦トモエが本名かどうか分らないとすると、寝具会社を尋ね捜しても無理であろう。
野中が電話帳で調べた会社の名があと二つ残っていた。それに当ったらもうやめようと思っていたのだ。最後の店はきんきん声の女が出て来た。東浦トモエ、といっただけで、
「東浦さんはもう辞めましたよ」
ときんきん声はいった。
「いつですか」
「去年が定年です」
「定年」
「東浦さんは去年六十なので」
念のために住所と電話番号を聞いた。それは野中も知っているものだった。野中のところへ来るまで、トモエが一人で住んでいたアパートで、野中は電話で問合せてみたのだが、すでに他人が入室しているのであった。
「東浦サンは何年勤めていたんですか」
「三十年勤続、となっています」
電話が長くなるのが、きんきん声は迷惑そうだったので、野中は切った。トモエは、野中が入籍を強いたので、トシがあからさまになるのを恐れ、姿を消したのだろうか。
(六十、なあ……)
ハンコや書類なんか、どっちゃでもエエ、とトモエはいっていたが、野中は、いやいかん、とかたくなにいったのだ。あんなに固執することはなかった。それがトモエを追いつめた。
すべて、いま野中には、やっと腑におちた。
「天女やなあ」
とゆきとどいたトモエのことを考えていたが、なるほど、女も六十くらいになれば、やさしくもあり、気もよくつき、愛想もよく、何をやらせてもそつなく、非のうちどころなく、それでいて放胆にもなり、泣き上戸にもなり「歌でも歌《うと》てこまそか」と尻をまくって世の中に居直ることもできるであろう。男の蒲団の中へ自分からやってきて「はいってもええ?」といえるはずである。
トモエの薄い髪、その根もとの白髪、手の甲の老人斑、足首の坐りだこも、野中にはいちいち腑におち、それでいて、トモエは六十であって六十ではなかった。トシを超越した存在でなつかしい。
やたら暑かった節分の夜の春日|大社《サン》の思い出もなつかしい。野中はトモエから手紙が来ないかと、メイルボックスを朝夕にのぞく。
はじめてトモエあての手紙が、前の住所から回送されてきた。してみると、野中と暮らしはじめてから、トモエは郵便局に、こちらへ回送してもらえるよう、手続きしたらしい。
「『独り生きた女の碑』慰霊祭ならびに例会ご通知」
というのである。野中には何のことかわからない。紅葉で有名な京都のお寺の一隅に、そういう石碑が建てられてあり、今年はそこへ何人かが合祀《ごうし》されるので、慰霊祭が催されるのだという。会費は昼食代とも七千円となっている。
野中は行ってみる気になった。「独り生きた女の碑」が、どういうものか見当もつかないが、トモエ宛てに来ているのだから、あるいはトモエも顔を出すかもしれない。
寒い日曜日で日がかげって、嵯峨野は底冷えがする。お寺の境内には二百人ばかりの女たちが群れており、赤い毛氈《もうせん》を敷いた床机《しようぎ》に腰かけたり、折りたたみ椅子に坐ったりして、談笑していた。何かの同窓会のようでもあるが、みな中年・初老、いうなら、婆さんママや、トモエの年頃の女たちばかりである。
お寺から、熱い湯気の立つ甘酒が運ばれ、女たちは手から手へ渡して、和やかな雰囲気である。
そのあいだもひっきりなしに来会者がやってくるとみえ、大げさな挨拶が交される。
受付らしいところで会費をあつめているので、野中はコートのポケットから、トモエ宛ての封書を出して示した。
「あら東浦さん、今日は欠席ですか。あなたは? ご兄弟のかた?」
恐ろしく馬面の婦人が野中を見上げていう。細縁の眼鏡をかけて、きれいに化粧しており、もののいいぶりも表情も闊達で、キャリアウーマンというところである。野中はトモエに会いたいので、この会へ来たことをいった。この会のことを知らないというと、婦人は口早に説明した。戦争で配偶者たるべき青年を失った女たちが、いま独身のまま老いていく。身寄りもない女たちはおのおのの墓さえもない。そこで、そんな女たちが結集して「独り生きた女の碑」を作ったのだという。
会員は亡くなったら、ここへ納骨してもらえるし、一年に一ぺんの慰霊祭にはお供養もしてもらえる。ついでに、例会は会員の親睦会懇親会でもあり、みな、この日を楽しみに待っているというのだった。
「あの碑の裏に、趣旨が彫られていますので、あとでごらん下さいませ」
と婦人はてきぱきいう。
野中は、その馬面女史や、会に集まっている女たちを見て、
(なるほどなあ)
と思った。
独りで生き、独りで働いてきた女たちはみな、どことなく、トモエと共通した雰囲気を漂わせている。無邪気で娘々している。
そうして、一様に、トシがわからない。
そのくせ、てきぱき、しゃっきりしている。
一種、ふしぎな魅力である。それぞれ明るい色の服を身にまとい、化粧も巧いようである。それにまた、おしゃべりが好きらしい。
若い娘より、よくしゃべって倦《う》まない。
野中は物蔭から仔細に見てトモエを捜していたが、トモエの姿はないようであった。
「独り生きた女の碑」は二メートルばかりの高さである。背面へ廻ると、読みやすい字で、わかりやすい言葉が彫られてある。戦争は有為の若者をたくさん死なせましたが、またわれわれ女性も犠牲者にほかなりませんでした。愛する人を奪われ、青春の花を咲かせることもできずに、女たちは独り生き、老いました。今後はこの悲しみを繰り返さないため、われわれは戦争に反対し、平和を希求します……。
野中は、
(男にはない発想やなあ)
と思いつつも、トモエがこの会に入っていたというのがあわれであった。トモエは終戦直後、ハタチであったはずである。ハタチでつかまえそこねた青春を、六十でつかまえたかて、エエやないか、と野中は思う。
トモエがこの会に入っている以上は、六十の女なのであろうけれど、野中にとっては、トモエはただトモエなのであり、六十の老女ではないのである。
奈良の夜、くすくす笑いながら、
(四十女の体型なんて、お目にかけられるもんと違《ちや》う、と思います)
といったトモエがなつかしい。お茶目な奴め。(何が四十女や。よういわんわ)
と野中は思う。歳月に古びぬ女の可愛いらしさを持っていたトモエがなつかしい。何年一緒にいられるかわからないが、トモエがトモエであるかぎり、野中は一緒に暮らしていたかったのに。
トモエ。あのなあ、トモエはトモエやねんで。ぼくは変人のせいかもしらん、しかし、トシなんかどっかへ飛んでしまうねン[#小さい「ン」]。ほんまに好きやったら。
トシ飛ばさんと、自分が飛んでいってしもて、阿呆《あほう》やなあ、トモエ……。ぼく、そんなん気にしてえへんのに。
天女やからやっぱり飛んでいったという高原の言葉がよみがえり、野中は、そや、若い娘より、今日の会員のようなオバンの中にこそ、天女はおるかもしれぬと眺め渡してみたが、トモエの代りになりそうな女はいないのであった。
「独り生きた女の碑」の前に坊さんが数人坐り、読経の声が凍《い》てた冬空に響く。法要がはじまったようである。女たちはその後にみなみな坐り、読経に聞き入っている。
野中はとぼとぼと寺を出る。男には「独り生きた男の碑」などというものは作れないのだ。野中は嵯峨野の豆腐を買って帰ろう、などと思って必死で気をまぎらせる。
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ブス愚痴録
「四十ほどはしたな年はなかりけり」
という古い川柳があるそうである。うまいこというてる、と吉見は思う。四十代はどっちつかずの年齢《とし》で、中途はんぱといってよい。
そう思うのは、この間、部下の赤木の結婚式に出て、その花嫁が意表外に不美人だったことにもよる。
赤木は長身のスポーツマンで、かなりハンサムのほうで、社内でももてていたようである。
どんな美人と結婚するかと思われていた青年だった。
結婚式場ではじめて見る花嫁は、はじめ白無垢《しろむく》の裲襠《うちかけ》を着て、白い角隠しをして現われた。
羽織袴の新郎につづいて、仲人の大学教授夫人に手を引かれ、しずしずと入場してくる。
結婚式で盛り上がる場面である。
吉見の席から見ると、ちょうど花嫁の横顔が見える。
何となく、吉見は、
(……こんなハズはない)
という気になって、椅子に坐り直し、無意識に目を凝らしてしまう。
真っ白に塗りたくった花嫁の横顔は、漠然《ばくぜん》と吉見の想像していたのとは、かなり勝手が違う。どういう風に期待していたかといわれたら吉見もまごつくのであるが、白無垢の裲襠姿、つややかな文金高島田に白絹の角隠し、その下に仄《ほの》見ゆる横顔は、絵に描いたような美形であらねばならぬと思いこんでしまっていたのだ。いや、遠望するのであるから、顔の造作はハッキリ見えなくても、可憐に美しい鼻梁《びりよう》が、鬢《びん》のあいだから見えるであろうと、ひとりぎめしていた気味がある。
ところが、鼻梁が見当らない。その代りに出歯気味の唇があざやかに印象的だった。唇も真っ白に塗り込められて、ほんのぽっちり内側に紅をさされてある。後で正面から見たとき、小さな唇に見えたが、横から見たら、かなり突出した唇のようであった。
正面の席につき、花嫁は顔を上げた。細い目が吊り上り気味で、眉はやや垂れ、両頬はよく出張っており、それでも古典的なメイクがよく衣裳に似合っていて、ふた目と見られぬ、ということはない。
少くとも、横顔から見た思惑はずれのショックは、正面からだとかなり薄められる。
厚化粧のせいで表情はほとんどわからない。
ただ、
(中低《なかひく》な顔やなあ)
と吉見は思った。中高な顔、というのはあるが、中低な顔、というのもあるようである。
(あの、赤木が、なあ)
と吉見は思った。これは社内の若い者の噂だが、赤木はかなりプレイボーイで、
(一年に二人ぐらいの割で、とっかえ、引っかえしてまっせ、女の子)
という情報が流れていたからである。吉見は、新婦の実家が金持なのであろうか、それとも、女のほうに引っかけられて、ニッチもサッチもいかなくなったのであろうか、と考えたりしていた。しかし新婦の身内を見ればごくふつうのミドルクラスらしく、それは新郎の身内の風采雰囲気ともよく釣り合っていて、両家はその点でいえば似合いの縁組らしく思われた。
これは四十八になる吉見の人生キャリアから推察したことである。
新郎新婦は、中座して長いこと席を空け、出て来たときは、新郎は白いタキシード、新婦はピンクのヒラヒラレースのフランス人形みたいな服をまとっていた。白塗りを落されて現代風なメイクに変っていたが、丸くふくれた両頬と、突出した唇と、小さい獅子鼻《ししばな》はまぎれもなく、髪型のせいか、顔が大々《だいだい》とひろがってみえて、目を見はるような醜貌だった。しかし着物のときより表情は活溌に動き、拍手にこたえてにこにこした。唇が思い切って大きくなり、眉は垂れ、吊り上った眼はひときわ細く、
(……ユニークやなあ)
と吉見は思わないではいられない。花嫁は背もかなりあるが、肉付きもシッカリ、ありそうだった。つまり大女のデブなのだ。
この頃の女の子の、すらりと細く、それにたいていは、どういうものか、みなそれぞれに美人が多い、そういうのを見慣れている吉見には、たしかに赤木の花嫁はユニークであった。
赤木に、ユニーク好みの趣味があろうとは思わなんだ。
赤木は来賓《らいひん》や友人のスピーチに笑ったり、照れたり、頭をかいたりしている。
花嫁はそんな赤木を見て、嬉しそうであった。見ても見飽かぬ、という風情で、ほれぼれと眺め、時には口辺を手で掩《おお》って笑った。
なぜということなく、吉見のほうがうろたえてしまう。ユニークな容貌の女が、はにかみ笑いをした恰好は、こちらが目をそむけたくなる風情であった。
彼女の横に坐っている新郎が、さわやかな好青年であるだけに、よけい対照的であるのだ。それを誰よりも嬉しく好もしく思っているのは花嫁であることは、あきらかであった。
赤木をうっとりした眼で食い入るように眺め、ついで抑えかねる笑いを頬にとどめたまま、ずーっと会場を見廻す。その表情には、
(笑わんとこ、思《おも》ても、笑えてくる)
というような、溢《あふ》れるばかりの満悦《まんえつ》ぶりがある。また、
(見て、見て。この男前が、アタシの夫なんよ)
と凱歌《がいか》のごとき鼻息を、フイゴのように吹き出すのではないかと思われた。花嫁が笑うとき、両頬の肉は盛りあがり、獅子鼻は押し平《ひろ》められ、馬のように大きな反っ歯がぞっくりと見え、吉見の坐らされたテーブルの半分は、新郎側の関係者、それも会社関係だったのであるが、いつか、シーンとしてしまった。
──人間の運命の意外性についてみなみな厳粛な感動に打ちひしがれた、というべきか、あるいはあまりのブスさに、神の手による造化の妙に打たれたというべきか──。
そうなのだ。はっきりいおう。
吉見は、赤木の花嫁を、
(ブスだ)
といいたいのだが、たとえ心中にでも、それは不謹慎であると思い、
(ユニークやなあ)
と表現したのだ。しかし本当のことをいわせてもらえば、
(激ブス)
とでも、いうべきものなのだ。
吉見はわりに早くにスピーチさせられている。ちょうどお色直しの時で、花嫁の不在をいいことに吉見は、
(赤木くんもいよいよ、美しき生涯の伴侶《はんりよ》を得られまして)
と口から出まかせを放言していた。
テーブルの半分は新婦の友人らしい女性たちだったが、いずれを見ても、花嫁を見たあとは、ノーマルな美女に見えた。彼女たちは笑いさざめいて私語したり、食べたりしている。
こちら半分の、会社の関係者は、黙々とかがみこんで食べるばかりである。
そのうち、隣の係長が吉見に耳打ちする。
「課長、前から知ってはりましたんか、赤木のナニを……」
ナニ、というのは、花嫁のことであろう。
「知らん。今日はじめてや」
「ハハァ」
「きみ、知っとったんか」
「いやン[#小さい「ン」]やン[#小さい「ン」]やン[#小さい「ン」]……」
と係長は激しく頭を振る。それは吉見にはまるで、
(前|以《もつ》て知っとったら反対しましたがな)
というように聞える。係長はまた、隣席の若い社員に耳打ちし、
「オマエ、前から知っとったか」
と同じことを小声で聞いていた。
「知りまへん」
と赤木の同僚は答え、断固というので「知りまえ!」と聞える。それも吉見には、
(前以てわかっとったら、考え直せ、いいまんがな──物凄いシロモノでんなあ)
というが如く聞えた。
何だかおかしいスピーチがあったらしくて会場はどっと笑う、花嫁もピンクのドレスのフリルを揺《ゆす》って笑った。いまはもう、花嫁は喜びに有頂天で、その喜びを共有したいというように、うっとりと花婿をふり仰ぐのであるが、そのさまは、自分の幸福がまだ信じられぬ、というが如くである。
新郎のほうは別に新婦と顔見合せて微笑むわけではなく、ワインを飲んだり、隣の仲人夫人と闊達にしゃべったりしている。吉見もかなりいろいろな結婚式に参会させられたが、この頃の結婚式では、たいてい花婿のほうが、花嫁の顔色をうかがい、喜びを共有したいと心を砕くようである。そのあとはどうか分らないが。
ところが、赤木の場合は反対のようである。
花嫁のほうが赤木に見とれているのだ。
(フーン)
と吉見は思うところがあった。
赤木を見上げる花嫁のまなざしに浮ぶ讃嘆の色、陶酔の色、を見て、
(こういうオナゴは、あんがい、夫に献身するかもしれへんなあ──)
と思い当った。
この頃の女のように、結婚したら縦のものを横にもせず、卵もゆでられない、雑巾《ぞうきん》もしぼれないというのと違い、この女なら、さぞ赤木を大切にして、かいがいしく家事にいそしむのではないかと思い至った。自分を妻にえらんでくれた男の志に、身を粉にしてむくいようとするのではないか、と考え、
(そうか、赤木のやつ、名を捨てて実《じつ》を取る、いう方針やったんかもしれん)
と思いつくと、納得できた。
ところが宴果てて一緒に帰った係長は、
「ああいう女性は、あっちの具合がええのかもしれまへんな」
と考え深そうにいう。
「あっちてどっちや」
「セックスだんが」
しかし赤木如き若い男が、性的技能を云々《うんぬん》するほど、その道に造詣が深いかどうか疑問である。赤木ぐらいの若い男が、妻を迎えるというのであれば、中身の性能よりも、見た目のいいほうを選ぶであろう。
「何にしても、最近、珍らしいタイプの女房《よめはん》だんなあ」
と係長は感に堪えぬようにいい、この男も「ブス」とはっきりいえないので、「珍らしいタイプ」といっているのである。
「ユニークやわな」
と吉見も応じた。
妻の千津子《ちづこ》は、吉見が帰宅すると、結婚式の様子を聞きたがる。
「どこへ新婚旅行に行くの?」
女はこういうことが好きである。
「花嫁さん、きれいだった?」
「ま、|そこそこ《ヽヽヽヽ》やな」
「衣裳はどんなの?」
「キモノに洋装──」
「キモノ、って、どんな?──昌子《まさこ》のことがあるから参考に聞いてるのよ」
一人娘の昌子はまだ女子大生である。
「へー。白無垢なの、いまはウエディングドレスのほうが多いっていうのにね。じゃァ、きっと、クラシックな美人なのね、そのかた」
あれをクラシックというのかどうか、お多福に似てるからクラシックといえないこともないが、しかし……。
といって吉見は、妻を相手に、女の容貌について差別的なことを言いたくない。吉見の妻は、結婚したころ美人といっても通る部類だった。
妻はいまも美人のつもりでいるらしい。
一方、吉見の母も姉も、いかつい醜女《しこめ》である。赤木の花嫁に優るとも劣らない。妹がいて、これは疾《と》うに結婚しているが、これだけはましな顔立ちである。姉は独身で高校教師をし、お袋と住んでいる。二人とも年をとって若いときよりはかなり見よくなっているが、それでも鬼瓦という感じは残っている。妻はそのことに拘泥しているとみえ、ずっと前、娘が生れたとき、産褥《さんじよく》から叫んだ。
(お姑《かあ》さんに似てません? 似てない? ああ、よかった! 似たらどうしようと思ってた!)
吉見は妻の感懐を尤《もつと》もと思いながら、むっとしたのであった。むっとしながら、娘が妻に似て見苦しくないのにホッとし、神に感謝したりするのだ。矛盾している。
(女は顔やない、心や)
とお袋はかねて豪語し、
(甲斐性《かいしよう》や、ド根性や、働きや。男はんそこのけに働いてこそ、オナゴちゅうもんや!)
とわめきながら、吉見の妻には、
(あれは|ヘチャ《ヽヽヽ》や。これはぶさいくや)
と選りまくって、
(ま、これぐらいやったら、ちっと別嬪《べつぴん》やろか)
と選んできたのが、妻の千津子であったのだ。
してみると、お袋も、女の美醜に拘泥がない、といえば嘘になるであろう。
ところで吉見自身は、親父に似ているようである。
親父は昔風な美男で「役者はん」のような顔に生れついていた。家業はぱっとしないながら戦前から続いている建材店である。いや、続いているというのもおかしい。吉見のお袋がいたから、店は保《も》ったのだ。梨園《りえん》の御曹司という風貌に生れついた親父は、若い頃から女にもて、店は神戸の三宮近くにあったから、安カフェーの女給や、キャバレーのダンサーに騒がれたものである。なぜか戦争に取られることもなく、戦後、店を再開できたが、商売はお袋まかせであった。お袋は店の男二人を使い、建材の砂にまみれ、ブロックを車に積みこみ、タイル見本やレンガ見本の山にはさまって算盤《そろばん》を入れ、電話を受け、奮闘してきたのだ。
姉と吉見を大学へ進ませ、妹のミサ子は短大にやったが、卒業すると、店で長く働いてきた実直な青年にめあわせて、店をまかせることにした。
妹のミサ子は、いくぶん親父似であるのか、可愛いいといっていい顔立ちをしている。そのせいでもあるまいが、夫婦仲はうまくいっていて、店もどうやらこうやら順調に続いているようである。親父は妹夫婦に店を継がせたのを見て安心したのか、死んでしまった。お袋は、「もてすぎて早死にした」と信じている。
姉は、かねてお袋が「結婚なんか、せんでよろし」とすすめたせいかどうか、まだ独身で、ベテラン教師となっている。「恩給もつくし、この子は心配ない」とお袋は姉のことは安心しているが、吉見がひそかに思うところでは、
(姉と結婚しよ、思う男は、かなり勇気が要ったやろなあ……)
いまは年齢のせいか見なれたせいか、かなりマシであるが、若い頃の姉は、お袋そっくりの鬼瓦だったのだ。鬼の絵を見ると、なぜかみな獅子鼻で、鼻頭は丸いが、それでも愛嬌があるからいい、姉は黙っていると、人が威圧をおぼえるような、気の毒さに視線をそらせないでいられないような醜貌であった。若い時の姉は、乙女ごころの自然ななりゆきで、化粧さえしていた。化粧すると、よけい、見られなくなった。夏蜜柑のような粗い肌なので、白粉《おしろい》が穴へきれいに埋まって、汗で剥《は》げると見ていられない。生れつきの縮れ毛で、近眼であった。見なれた肉親、贔屓目《ひいきめ》で見たい身内でさえ、悶絶して、
(うーむ……)
というような看板なのであるから、若い頃の吉見は、いらいらしたものだ。そのいらいらは、決して厭わしいというものではない。三つ年上の姉は、昔から吉見を、「マサルちゃん、マサルちゃん」とよく可愛いがってくれたものである。頭がよくて気立てがいいことは、誰よりも吉見はよく知っている。しかしまた、そういう姉の美点が、たいていの男に洞察されることはむつかしいであろうこともわかる。男たちは(これは吉見も含めて、であるが)女を、一人一人、じっくりと洞察するヒマなんかないのである。チラと見てパス、チラ、パス、という具合に選別してゆき、これはという女に当って、「あ、きたきた」という感じで、じっくり洞察しようと身構える。姉などは内面に、いかに美点を秘めていようと、「チラ、パス」で片付けられるがオチであろう。
身内の情として、そこが不憫《ふびん》というか、いたましいというか、それでいて、男たちの心情に納得せざるを得ないという、進退きわまったイライラを吉見は感ずるのである。
しかし姉は、うわべのところでは、結婚に執着しない風を見せている。いつとなく化粧の欲も失《う》せ、いまは年中、素顔でいる。校庭の埃《ほこり》と日ざしに灼けて、渋紙色《しぶがみいろ》の肌になっているが、いっそ、すがすがしく見よい。
それは、教師になったりして、おのずと人生キャリアも積み、人間の貫禄ができてきたからであろう。
出歯は変らないが、それなりに、出歯の風格、というものが出てきた。しかも、歯性《はしよう》もよく、
(虫歯もさし歯も一本もあらへん。マサルちゃんとは違う。目ェかて、まだ老眼鏡なしでいけるねン[#小さい「ン」])
と姉は自慢し、耳も鼻も鋭いということである。恰好はともかく、機能は完全なようである。手に負えぬ年頃の少年少女を操り慣れて、体力もしこたま蓄えている、というように見え、ともかく、若い頃より数等、見やすくなった。鬼も十八、番茶も出花、というけれど、あれはウソや、と吉見などは思っている。
それはちょっと渋皮の剥けた女の子にいうことであって、鬼瓦や獅子っ鼻の醜女にとっては、若いときほど見ぐるしい。むしろ、ある程度、年をかさね、ごまかしようのない人間の年輪が、その面上に刻まれるようになったとき、はじめてその醜貌は隠される、と思っている。いまや姉は、そういう年頃にやっと達したのである。
しかしそうなる頃には五十の声を聞いている。五十の花嫁、というわけにもいかない。
人生というのは、姉にとって皮肉にも意地わるにも出来ている、と吉見はつくづく思う。
吉見は殊更、姉妹思いというのではないが、どちらかというと、少女時代から器量自慢だった妹よりも、傷つきやすいプライドを醜貌にかくした気の毒な姉のほうに、思い入れが深い。
美人のエゴと自信にみちた妻の千津子よりは、醜貌によって気持が練れ、人格の陶冶《とうや》に成功している姉のほうを尊敬する。もっともそれについては、姉が「マサルちゃん、マサルちゃん」と今も可愛いがってくれて、そろそろ、あたまのてっぺんの毛が心細くなろうかという吉見に、
「マサルちゃん、あんた、小遣い不自由してんのんとちゃうか、この間、株でちと儲《もう》けたよってに、ちょびっとあげるわ」
といってくれたりする、そういうやさしさへの好意もある。
「姉ちゃん、株なんかやってんのか」
「ううん、ほんのお遊び程度や。内緒やけど、時々儲けるねン[#小さい「ン」]。海外旅行の費用に、それは積み立てとくねン[#小さい「ン」]。老後のこともあるし」
と、独り身は独り身らしく、姉は人生をエンジョイし、かつ、生活設計も怠りないようであった。
それはともかく、吉見が赤木の花嫁を見て、たとえ内心の独白にせよ、
(激ブスやな)
と嗤《わら》う気もせず、「ユニークだ」と表現し、妻に、花嫁はきれいだったかと聞かれて、
「ま、|そこそこ《ヽヽヽヽ》やな」
と答えたのは、母や姉への配慮があるからなのだ。心やさしき吉見は、「ブス」という言葉を平気で口に上せて、笑い話にする気にはなれないのである。ブスのうちに秘めたるデリケートなやさしさを見よ、というのだ。独身の姉は、自分は独り身のくせに、頭の禿げかかった弟に、小遣いをくれるというではないか、そんな思いやりや愛情が別嬪にあるか、というのだ。
妻の千津子は、たしかにすらりと均斉のとれた、現代風な美人には違いないが、そして吉見は、若いころ美人の妻を持って、他人にも自慢がましく得意だったのには違いないが、今では自身の結婚生活の満足度を、
(ま、そこそこ、やな)
と観じている。大阪弁の「そこそこ」は、どんなにもニュアンスをもたせられるから便利でいい。妻は美人という自意識がいつもあるせいか、他と張り合いたがり、見栄っぱりである。そのくせ、家の中では、どこかしら手抜きになる。結婚して二十年たつのに、料理はいま一つ、念押しが足らないというようにキメ手に欠ける。掃除はゆきとどかないし、家計もどんぶり勘定である。妻の好きなのは着飾って外へ出ることと、ショッピングであるらしい。習いごとを身につけたようにも見えないが、酒を飲むことをおぼえ、吉見が残業や接待でおそく帰ると、テレビを見ながらウィスキーをちびちびやっていたらしい跡がある。とくに人生が深まったという気配もなく、皺《しわ》だけ深まってゆく、というのが、美人の妻の、年のとりかたである。そうして、結婚以来二十なん年、いまだに妻の関心事は、「その花嫁さん、美人だった? どんなもの着てた?」ということである。
美人も、見なれると、そこに顔がある、というだけになってしまう。吉見課長の奥さん美人やぜ、と会社の若い者が噂しているのは知っているが、そして、テレビ女優の何とかに似てるといわれているのも耳に挟んでいるが、
「見なれたら、どうッちゅうこと、おまへんなあ、美人も」
と吉見は、叔父にうちあける。
この叔父は父方の叔父である。吉見の住む町から近いところにいる。息子夫婦と同居しているが、連れ合いが死んでからはもっぱら共かせぎの息子夫婦のるす番、それに犬の散歩係である。吉見が日曜などにふらりと訪れると、喜んで上げてビールなど出す。老齢年金で買《こ》うたワシのビールや、遠慮せんと飲め、と栓《せん》を抜く。子供のいない息子夫婦は、日曜になるとドライブに出かけて、夫婦で遊ぶことに夢中らしい。
この叔父も、吉見の父親に似て男前だったが、なまけもんでちゃらんぽらんやった、と、これは吉見のお袋の噂である。尤《もつと》もお袋にしてみると、たいていの男は「なまけもん」に見えるらしい。
しかし吉見はこの叔父が嫌いではない。七十七、八だが、わりに洒脱《しやだつ》で、頭も古くない。いまはくしゃくしゃと皺みた小男で、銀色の針の毛が頭頂のところどころに残り、あごにもまばらに銀の針が生え、じじむさい爺さんであって、そのかみの男前の片鱗《へんりん》もないが、どこやら親父にも似ている。
叔父は笑いもしないでいう。
「美人や別嬪やというのは、オマエ、四十代までやぞ」
「へ?」
「男がなあ、オナゴの別嬪や|ヘチャ《ヽヽヽ》を問題にする、いうのは、四十代までや、いうとるねや」
この叔父は昔人間であるから「ブス」などという戦後の新語は使わないわけである。古式ゆかしく「ヘチャ」と呼ぶ。
「ははあ、男が五十になったら、オナゴの別嬪やヘチャが気にならんようになりまんのんか」
吉見は叔父のグラスにビールをつぐ。
「まあ、そら、別嬪みたら別嬪や、と思う。しかし、『失敗《しも》た、世の中にはあんな別嬪もおるのに、ワシャ一生の不作やった』という、なまなましい気ィは起らんようになる」
「へー」
「六十になると、別嬪みても、くどいてこまそか、という気ィはおこらん、別嬪やなあ、と感心はするが」
「ハハァ」
「七十になると、別嬪もヘチャも一様に可愛いいなる。ファッファッ」と叔父は笑う。
吉見はしかし、七十代のことは神々しすぎて興味がない。やっぱりただいまの年代の四十代に関心がある。
「女の顔にこだわるのは四十代まで、というのは、何でですか」
「四十代までは男も忙して、鏡、見ィひんからや」
まばらな銀の針の無精ひげを撫でつつ、叔父はこともなげにいう。
「鏡見ィひんから、自分のことも知らんと、オナゴにケチつけたり、女房《よめはん》の不足いうたり、しとる。五十は天命を知る、いうが、鏡見ておのれを知る年頃やな。おのれが、オナゴのヘチャや別嬪や、というておられるか、と思い知る。知命、なんてもんでない、男の五十は『知《ち》ヘチャ』という」
「知ヘチャ」
「男がおのれのヘチャを知るのやないか。顔だけやあらへん、稼ぎも人間の程度も、おのれのヘチャを知らされるわい。ほたら、オナゴのヘチャばっかり嗤うてられるか、と反省する。反省! ファッファッ、ファッ」
この叔父は剽軽《ひようきん》なところがあり、以前テレビで見た周防《すおう》の猿まわしの猿が、「反省!」といわれて片手を前に差し出して、頭をがくりと垂れるポーズを大いに気に入り、今も折々、自分で「反省!」とやって喜んでいる。このへんが吉見のお袋なぞにいわせると、「ちゃらんぽらんや」とにがにがしいのであろうけれど、吉見はそんな叔父が好きである。
「ははあ、『知《ち》ヘチャ』、ねえ──」
「七十になったら、ヘチャも別嬪もあらへん、オナゴや、いうだけで可愛いい。欲をいうたら、情《じよう》のやさしいのがエエ。ヘチャでも、おもろい女がエエ。おもろいオナゴはんはこの世のタカラじゃ、おもろい性質はトシとっても変らんのやさかいな、別嬪はトシとるとワヤクチャやが──」
おもろい性格はともかく、吉見は、「オナゴの顔を問題にするのは男も四十代までじゃ」という叔父の意見に感じ入る。
(フーン。してみると四十が境い目か)
しかし当面のところ、吉見は四十代であるから、女の美醜に拘泥したい。トシがいくと「知《ち》ヘチャ」なりに、鑑賞の間口が広くなるのではなかろうかと考えたり、する。
それにしても、「知《ち》ヘチャ」に近づきつつ、まだ三十代の煩悩《ぼんのう》もあるという、四十代はどうも、どっちつかずのトシである。「四十ほどはしたな年はなかりけり」という古い川柳に吉見は共感する所以《ゆえん》である。
更に吉見は叔父が、
「おもろいオナゴはんはこの世のタカラじゃ」
といったのに心惹かれた。全く、おもろい男はいるが、おもろいオナゴはいないようである。これは男に責任があるのかもしれぬ、と吉見は考える。美醜ばかり論じて、女の「おもろさ」を賞《め》でてやらない。
あるいは養成してやらない。
早い話が、吉見もそうだ。会社であった「おもろい話」を妻に話す。妻は、「それ、どこがおかしいの」とまじめに訊く。
「むむ……まあ、ええ」
と吉見は言い捨て、妻にくわしく説明してやるという手間を省くのである。
「赤木の女房《よめはん》」の噂は早くも社内にひろがり、結婚式に出席しなかった男たちは、
(物凄いねン[#小さい「ン」]てな。赤木も命知らずや)
(課長も目ェこすった、いうやないか)
と吉見まで引き合いに出されて、あげつらわれる。目ェこすった、というのは、半信半疑というくらい驚いたことの表現である。吉見はさりげなくしていたはずだが、思わず注視したさまを見られていたらしい。
二、三カ月くらいして、赤木と二人で取引先の接待をすることがあり、小腹《こばら》が空いた吉見は、赤木を誘って、二人だけでスタンド割烹《かつぽう》へいった。吉見はいう。
「新婚さん誘《さそ》たら悪いけどな」
「そんなことおまへん」
赤木は元気よくいって嬉々とついてくる。血色もよく、二、三カ月で少し肉付きがよくなったようである。
「少々、遅うなったかて、文句いわんように躾《しつ》けてます。はじめが肝腎《かんじん》です」
赤木は意気|軒昂《けんこう》の|てい《ヽヽ》であった。
「む。まあ、それはそうやが」
日本酒のいけない赤木は、焼酎の水割りなんぞ貰って、むしゃむしゃと酒の肴《さかな》の煮物など食べている。一心ふらんに刺身を食う。バリバリと揚物を平げる。めざましい健啖《けんたん》ぶりである。今日びは若い男でも、好き嫌いが多く、ちょっと箸でせせってはやめてしまうのもいるが、赤木はムクムクとした大男であるだけに、食欲もしたたかなようである。こういう青年に食べさせるのであれば、花嫁も料理のし甲斐があることであろう。
「君、ちょっと太ったん、ちゃうか。奥さん料理うまいねんな」
とお世辞を吉見はいった。結婚したての男は新妻のお世辞をいわれると、めためたと嬉しがるものであるが、赤木は別に、顔の紐《ひも》がほどけることもなく、
「いやァ、あきません。まだへたくそです」
「ま、これからや。しかし君、あのひとはええ奥さんになりそうやねえ。なかなか、尽くし型に見えるやないか」
「僕も、そない思うたさかい、結婚しました」
赤木は頓《とみ》に雄弁になった。焼酎をがぶっと飲み、
「僕、ほんまいうたら、美人にはもうアキアキしとったんですワ」
「君やったら、もてたやろうから、そうかもしれんな」
「美人の裏おもてを知りました。美人は身持ち悪いのとちゃいますか、その点、ブスは貞操堅固やと思います。結婚するなら処女やと僕、思います。古いかもしれまへんけど。そんな点からいうたらやっぱりブスです。身持ち堅いです、ブスはよろしおま」
吉見は、(主義主張で堅いのではない、やむを得ず堅いのであろう)と思うが、もとより口には出さない。赤木は熱心に続ける。
「美人は結婚してやる、という態度です。しかしブスは、結婚していただく、という感じです」
「そうかなあ、いや、そうかもしれん」
「ほんまです。ウチのん、結婚しょうて僕いうたら『大きに』いうて嬉し泣きしました」
「しおらしいやないか、それでこそ、オナゴや」
と吉見は適当にお世辞をはさむ。
「そういうことです。そういう女なら、亭主大事にするやろ、思いました。そやよって結婚しました」
何をいうてるのや、と吉見は思う。ブスがしおらしいから結婚したのではない、たまたまブスと結婚することになったから、身持ちが堅いの、しおらしいの、というてるのではないかと吉見は思う。ひょっとすると赤木自身はそう気がついていないかもしれぬが。
「それに何ですなあ……」
赤木は酔いはじめている。
水割り焼酎に酔う、というよりは、自分の弁説、自分の主義信念に酔っているらしい。
「同じブスでも、ですな……」
「うむ」
どうもいけない。
吉見の脳裡には、結婚式で会ったユニークな花嫁の風貌と、鬼瓦のような母と姉の面影がダブってしまう。
「可愛いがられて育ったブスは、由緒ただしきブスといいますかね、自分でそう、ブスやと思《おも》てまへんな」
「………」
「そうではなくて、まわりにチメチメされて育ったブスは、怨念《おんねん》とひがみと嫉妬にこり固まって、いやなブスになります。大らかなブスと、いやなブス、この違いは大きおまッせ」
そうかいなあ、何いうたかて、ブスに違いない、ブスはブスじゃ──と吉見は思うが、もとより口には出さぬ。
また、積極的に反対する気もおこらぬのは、美人妻でも退屈な女は退屈、ブスも美人も、吉見にはただいま、(それがどないした、ちゅうねン[#小さい「ン」])と懐疑的なのである。そろそろ、五十になりかけの、「はしたない年」のせいか。
「ま、おかげで、ウチのやつは、大らかなブスのほうらしです」
と赤木は満足そうにデモンストレーションして、小鉢にほんのぽっちり、由緒ありげに盛られた胡麻豆腐なんぞを、わんぐりと一口で食った。吉見は係長の言葉を思い合せ、やっぱり、あの花嫁と波長が合《お》うて、うまいこといっとるんやろか、そういえば子供のころにはやったお座敷演歌があった、※[#歌記号、unicode303d]山から蹴っころがしたる松の木丸太でも、世に出りゃぶさいくぶざまなお多福おかめでも、妻と名がつきゃまんざら憎くない……ヨイヨイ……というのである。
(そういうもんかもしれんなあ)
などと吉見は思い、今更のごとくその作詞者の卓見に敬意をおぼえたのであった。
結婚した社員は社内の女の子の関心を急速に失う。吉見などから見ていて、興ざめなくらい、それは露骨である。赤木はまだ若い盛りであるのに、女の子が寄りつかなくなってしまった。
課で飲むことなどがあると、女の子は現金に、未婚の青年社員のテーブルへどっと殺到し、こちらは吉見や係長、赤ん坊がやっと匍《は》い匍いしたという話ばかりしている男、アパートの戸口の横に自動販売機があるので、夜中に暴走族が車を止めよってやかましィて、年寄りが寝られへん、などという世帯持ちの男などが集まる。そうしてその中へ赤木も入り、仕方なく麻雀やゴルフの話などに加わっている。そうこうしているうちに、
──男は、こないして、老《ふ》けまんねん──
というサンプルみたいに、赤木は老けてきた。
どこが、ということもなく、世帯持ちの水垢のようなものが、たたずまいにまつわりついてくる。尤も、それ相応に仕事もきちっとするようにはなっている。赤木の仕事は、前々からちょっとツメが甘いところがあり、吉見はそれを係長に注意したこともあるが、後輩が次々とふえてくるに従い、赤木も成長して、それなりにしっかりしてきた。中々いい中堅になろうとしている。
ある晩、吉見は赤木と酒を飲んだ。
「君の結婚式、昨日みたいに思うけど、もうどのくらいになるねん」
と吉見は何気なく訊く。
「もう一年半になります」
「へえ、もうそない、なるか、早いもんやなあ。まだ熱々のハネムーンやろ」
吉見が世間の慣例通りひやかすと、赤木は、血を吐くようにひとこと、
「あきまへん!」
といった。それがあんまり強くいうので、「アキマエ!」と聞えたぐらいである。
「何があかんねん」
「僕は、ブスはしおらしい、思《おも》てました」
「うん」
「尽くし型や、思てました」
「そう見えた」
「結婚していただく、いう態度や、思てました。第一、結婚しよ、って僕がいうたときに、『大きに』いうて泣きやがった」
赤木の言葉は乱暴になっている。今夜、吉見の奢ったのは、赤提灯の下った焼鳥屋である。赤木は生ビールをがぶっと飲み、焼鳥の串をくわえ、憮然《ぶぜん》としていう。
「ところが、いざ結婚してみたら、物凄いもんでっせ。クラッとかわります。何がしおらしいもんでっか、何かというと口答えです。しかも僕にモノを教えさとすようにいう。年下のくせに。ブスのくせに」
「君、はじめが肝腎や、いうて、躾ける、いうてたやないか」
「躾けられまっか、女が。猿まわしやないねんから調教なんかできまへんワ。──横着でねェ。朝出たときに着てたネグリジェ、帰ってもまだ着てたりする。日曜の昼めしいうたら缶詰のカレーで、夜は小僧ずしですワ。毎日の昼間、何しとるか、知ってはりまっか」
知らんがな。ヒトの女房の日課なんか。
吉見はそう思って、皮のタレ焼の串を頬ばる。赤木はキモと皮はダメだといっている。若いもんは、どうも鶏の皮の旨さがわからんようだ……。そんなことを考えている吉見に、
「昼寝してまんねん、昼寝」
赤木はあきらめ果てたごとくいう。
「結婚するまで勤めてたんですが、午後になると、いつも眠うてたまらん、ああどうぞ、早う結婚してぐっすり昼寝したい、と、それだけが唯一ののぞみやったとぬかす」
「ふうん」
「しかも、金の亡者だス」
「金」
「今度のボーナスはなんぼ出るか、次にサラリー上るのんはいつやと、うるさいことうるさいこと。そのわりに遊びたがりでむだ遣いの大家ですワ。僕のワイシャツなんか、みなクリーニングへ出しよる。シーツもブラウスもみなクリーニング。めしはぬくぬく弁当|買《こ》うてきよりまんねン[#小さい「ン」]。そんで昼寝でんが」
「やらはるなあ」
「夜はいつまでも起きてテレビ見てま」
「しかし……」
吉見は応酬の言葉に困り、
「大らかやないか。ノビノビしてはるやないか。それは君、やっぱり結婚生活をエンジョイしてはるねン[#小さい「ン」]で。前にいうてたやないか、大らかなナニと(ブスとは、さすがの吉見もいえない)チメチメされて育ったいやなナニはちがう、ていうたやないか」
「いや、ブスはブス、みな同じですワ。大らかにエンジョイしとるのは昼寝と|こごと《ヽヽヽ》です。朝から晩まで僕に文句たらたら、不平たらたら、そのくせ夜になったら擦り寄ってきま。おまけに痔《じ》もちで、エエとこおまへん。すべて裏目に出ました、もっと別嬪おったのに──と思います」
「いや、それは、男という男、結婚したあと、そう思わんもんは、ないらしいデ」
吉見は慰める口吻《こうふん》になる。四十代までは、鏡を見るひまもないからや、という叔父の卓説を持ち出したとて、若い赤木の耳にも入らぬであろう。
ましてや「知《ち》ヘチャ」などという真理は、赤木にはいっそう共感されにくいであろう。
「いやァ。全く僕は、横着な女ゴリラと暮らしてる気ィします」
赤木はやけくそになったように生ビールのジョッキをあおる。
「それは君、ちょっとえげつないデ、そんなんいうたげたらあかん。いまはまだ、双方、お互いに理解を深め合う時期や。取り柄はどっちにも、どこぞ、あるはずやデ」
吉見は先輩らしく調停せずにおられない。
「取り柄は、唯一つ結婚までの身持ちの堅さ、だけでっしゃろか。ああしかし、ブスと結婚するもんやおまへんな」
「ムム……」
「結婚できて嬉して泣いてるのんか、思《おも》たら、大っぴらに昼寝できるのが嬉しかった、いう……おのれのブスをどない考えとんねん、ほんまァ!……死ね、ブス! ブスは強い!」
赤木の酒くせは悪くなっている。
こういう話の滋味は男同士でないと伝達できにくい。かつ、会社の人間にいうことではない。
吉見は叔父のところへふらりと遊びにいき、赤木青年の話をする。
「ファッファッ、ファッ、ヘチャはしおらしいから結婚したのでは無《の》うて、たまたま一緒になったんがヘチャやったから、そういう理屈つけとるのやろ」
と叔父はいう。
「叔父さんもそない、思わはりますか」
「それに、ブスやから身持ち堅いと限らん。身持ちとブスは別もんや」
「ハァ、さよか」
叔父としゃべっていると、「さよか」と感心することが多い。
「女は大体、自分のことを自分でブスやとは、しんそこ思《おも》てないよってな」
「フーン」
「オマエのお母ァはんも、わりにもてた」
ビールを飲んでいた吉見は噎《む》せそうになった。あの鬼瓦が。
「男が惚れるのは顔やない、気合いやよってな。ワシ、前から思とるんやけど、オマエの下のミサ子なあ」
と叔父は、唐突に、吉見の妹のことをいった。
「はあ」
「あれ、誰にも似とらん美人やろ」
「若いときは、ね」
「親父似や、いうけど、もしかしたら、タネちがい、ということもある。誰にも言いなや」
「ヒャ」
「つまり、それくらい、オマエのお母ァはん、もてた、いうねん」
「あの顔でっせ」
「知《ち》ヘチャよ」
「は?」
「オトナの男は、自分もヘチャと知ってるから、オナゴのヘチャも気にせんのよ。オマエとこの会社の若いもんが、美人やヘチャ、いうて騒ぐのは、若いからや」
「そんなもんかいなあ」
「お母ァはんに、さっきの話、言いなや」
「言いまっかいな」
──吉見は、人生にはいくらでもあとからあとから発見があるものだと思ったが、発見はつるべうちにつづいた。
突然、姉が結婚すると電話してきた。
「奥さん亡くしはった人で、大阪の高校のセンセやねんわ。前から知り合いやったけど、バタバタと話がきまってしもて──。あ、お母ちゃんはこのまま、マンションに住むんやて。あたしが向うのセンセのうちへいく。そのうち、二階増築してお母ちゃん引き取るわ」
「──それは、ま、おめでとう、というのか」
「新婚旅行はヨーロッパやねん。式は内輪に、思《おも》てるねン[#小さい「ン」]けど……」
内輪に、という式が、双方の招待者が多くて、二百人にもふくれあがった。花々しい結婚式になった。そうして花嫁の姉は、シンプルな白いウエディングドレスで、吉見の身内贔屓かもしらぬが、今まで見たこともないほど、堂々たる美しさに輝やいていたのである。
しかも夫になる男は五十四だというが、恰幅もよく、教養ありげな、なかなかの好紳士であった。あの鬼瓦の姉にしては、よくも端正な好紳士をつかまえたものである。お袋が「役者はん」みたいや、といわれた男前の親父をつかまえた如く、赤木の女ゴリラ妻が、ハンサムの赤木をつかまえた如く。……
披露宴の前に控え室へ入って、吉見は、美しいウエディングドレス姿の姉に、姉弟の心安さから、そんなことをいう。
「あほやねえ、マサルちゃん……」
姉は吉見にながし目をくれる。
さすがに今日はプロのメーキャップだけあって、きれいな顔色に仕上っている。
「あたしはなあ、大体、狙うた男、はずしたこと、ないねん」
「へ?」
「男に不自由したこと、あらへんのや。昔から」
「………」
「ま、でも、ぼちぼち落ち着こか、いう気ィになって。この先、まだ二十年あるよってねえ、将来の楽しみのために」
進行係の婦人が、花嫁を呼びにきて、姉は花束を持って立ち上る。吉見はなぜか、がっくりした気になってしまう。赤木のいったことは少くとも一つは当っている。ブスは強いのだ。姉はウエディングドレスをなびかせ、風格のある出歯の口をつむいで、しずしずと披露宴会場へ向う。この分では、赤木の妻の、たった一つの取り柄も、どういうことになってるやら、ともかく、ブスは強いのだ。
[#改ページ]
開 き 直 り
「男オバン」
というのが、会社の女の子がつけたミドルエイジの男へのアダナである。特定の人間ではなくて、田代ぐらいの年頃、(田代は四十三である)および課長部長クラスの地位の中年男を指しているらしい。田代もその中へ入れられていると見なければいけない。
田代ははじめその言葉を聞いたとき、自分のことは棚上げして、
(うまいこと、いうやないか、若い女の子の造語感覚は冴えてるな)
と思っていた。男オバンというのは、男のくせにねちねちと口やかましく、支配欲猛烈な、世話焼きで不平不満の固まりで人のワルクチや中傷大好き、という、中年女の通弊《つうへい》をそなえている男、という意味だと思ったのだ。
しかし営業課の女の子の巻向《まきむく》サナエにいわせると、それに加えて外見的な要素も入るらしい。
「課長さんは違いますけど」
と巻向サナエは念を押して、
「あのう、禿《はげ》を気にしてるとか、おなか出てるのに、ベルトをぎりぎり締めてるとか、くたびれた服とか、ネズミ色のハンケチとか、肩はフケだらけとか、お茶飲んでズウズウ音立て、楊枝《ようじ》くわえてシーハーとエレベーターに乗るとか、一日中、湯沸場でガラガラぺーペーいうとか、『健康漢方薬』の本を熱心に読むとか、そういうのが男オバンです」
一口にいう。サナエはやや軽率の気味はあるが、陽気でおしゃべりで大きい目をくるくるさせて愛嬌のいい話しかた、課の中では「歩く情報」などと陰口を叩かれているが、腹になんにもない女の子である。二十五で女の子の中では古手に入るが、気がいい子だと田代は嫌いではない。
「沢山《ようけ》ならべたねえ。そんなきついこというてたら、たいていの男、男オバンになってしまう。まあ、お手やわらかに頼みますわ」
「あら、課長さんは違いますって」
「違わへん。どうせ男オバンや」
「そんなこと、ありません。特にこのところ、課長さんフレッシュです」
「フレッシュ。ぼくが」
「ハー、なんか光ってはるゥ、いうて、みな、噂してます」
巻向サナエは、吐く息吸う息のたびごと、あと先見ずに、あたまに浮んだままをいう女なので、プカプカと煙のように遠慮なく言葉を吐き散らす。そうして、
「ちょっと前は、男オバン候補でしたけど、いまは違います。安心して下さい」
「べつに急に男前あがったとは思えんけどな」
「男前やありません、ムードですね。男前は昔から変ってませんけど」
「こら。はっきりいうやないか」
「あ。その笑い顔が光ってはる、いうんです」
「大人|嬲《なぶ》りしたら寝小便するデ」
巻向サナエは大口あいて笑いながら向うへいく。
光ってるかねえ。
フレッシュかねえ。
リイ子のせいかもしれない。
若い女の子の冴えてるのは、造語感覚ばかりではない、感受性も冴えてる。隠しても花やぎの照り映えるようなものが、抑えきれずたちのぼって、
(課長サンは男オバンとちがう)
と女の子たちに判定させるのであろうか。
そういわれても仕方ない。この頃田代は仕事に没頭しながら鼻唄が出そうになってびっくりする。仕事に打ちこんでいるのは、真面目律儀な田代としては昔から変らないが、以前は(読まんならんな)と思うだけで抵抗感のあった浩瀚《こうかん》な報告書や調査書類なんかが、今は苦もなく捌《さば》けるのだ。
部長に(いっぺん、言わんならんな)と思い思い、のばしていた案件も、さっさと腰かるく起《た》っていって、しゃべれるようになった。
どんな仕事も、このところ苦にならない。
更に驚倒すべきことには、この頃、家庭でも鼻唄が出そうになって、田代はあわてて自制する。
家の中で鼻唄が出るなんて破天荒な現象といわねばならない。
田代の鼻唄はやーさんの演歌が多い。ずっと以前の部長が「兄弟仁義」だとか「唐獅子牡丹」だとかが好きで、田代はよく命じられて唄わされた。カラオケがはやりはじめた頃で、あんまり何べんも唄わされて、本意でなくすっかりおぼえてしまい、今では部長も疾《と》うに定年退職したのに、それらの歌は田代の血肉と化した気味がある。昔、家の中でフト鼻唄で唄って、こっぴどく妻の幸子《さちこ》に叱られてしまった。
「何がきらいったって、その、やくざの演歌ぐらい、きらいなものはないわ。低次元やないの、下品やないの。野卑やわ。家の中ではやめてよ」
──田代が、「男オバン」と聞いてすぐ、オバンの通弊、〈口やかましく、支配欲猛烈な、世話焼きで不平不満の固まり、人のワルクチや中傷大好き〉という性癖を連想したのは、これはみな、妻の幸子のことを考えたからである。
田代は十八と十五の高校中学の娘たちを持っている。結婚して二十年近いわけだ。
もともと幸子は取引先の会社に勤めていた女である。きりっとした美女で、すらりと背もたかく脚が長くて、田代は好みのタイプだと思い、熱心にアタックして結婚した。幸子のほうが二歳年上だとわかったが、田代はそんなことは気にもかけなかった。
共棲みしてみると、何だか、落ち着かぬ雰囲気なのにすぐ気付いた。幸子がきりっとした口調で、しっかりしているのを田代は頼もしく思っていたが、それは自分の自我が強くて依怙地《えこじ》なことにすぎないのだ。
新婚間もない頃に、早く帰った田代は台所で幸子に話しかけた。田代は我ながら甘い声音だったことをおぼえている。
「何か手伝おうか」
「そんな気があるのなら、あたしに聞く前にさっさとやったらいいじゃない」
幸子はつんけんしていう。田代は肝っ玉がでんぐり返った。田代の生れ育った家庭では、母も妹も、女たちは柔媚《じゆうび》な言葉遣いで、かりにも男たちにけんつくをくらわせることはなく、父も兄たちも田代も、身内の女たちに荒い言葉や大声を浴びせた記憶はない。
田代は、家族とは、女とは、そういうものだと思いこんで大きくなったのだ。
何か、気に入らぬことがあったのであろうかと、恐る恐る幸子の顔色をうかがったが、よくわからぬながら、そうでもないらしい。田代にも思い当るふしはないのだ。
ひと月もたたぬうちに悟った。
幸子の性癖なのだ。幸子は人を責めるのが大好きな性癖なのだ。そのくせ、自分から話題を提供しない。それでいて、田代が何か話し出すと、
「つまらない話ね」
と鼻面を撲《は》つるようにいう。
(つまる話を、自分でいうてみい)
と田代は思い、結婚ふた月もしないうちに後悔した。後悔といえば、幸子は奇妙に、必ずあとから、すんでしまったことを、
「ああすればよかったのに」
「こうしたらよかったのに。あなたがいけないのよ」
という。田代自身が後悔しているのに、よけいその傷口に指をつっこんで引っかきまわすようなことをいう。
家事は手抜かりなく運営しているが、それだけに田代はよけい居心地わるくなる。家へ戻るのが負担になってきた。兄の家で仔犬が生れたので、一匹もらって飼いたいと思った。可愛いがるものでもあれば夫婦の会話も弾むかと思ったのだ。
不意に連れて帰った方が、可愛いさに幸子も心が和《なご》むかと抱いて帰った。やっと生後三カ月の雑種のオスだが、元気に太い短い脚で駈けまわり、犬好きの田代は見るだけでも相好を崩してしまう。可愛いくってたまらない。
そのころは文化住宅という長屋に住んでいて、前は空地だったから、どの家でも犬や猫を飼っていた。しかし幸子は嫌いだという。
「生きものは嫌い。手間かかるもん。犬や猫もいや。毛が散るものはいやっ!」
田代はその激越な断定口調に、むしろ感心した。反駁《はんばく》の余地のないそんなものの言い方で、よくも人間商売が張っていけるものだと思った。この女は男と暮らすのが下手な女、という以上に、人間と暮らす能力がないのであろう。自我とヒステリーのお化けみたいや、と田代はもうその時点で、かなり妻から心が離れてしまっている。
しかしその仔犬を田代は手離しかねて、なお三、四日手もとに置き、日中、会社へ行っているあいだ、餌と水だけはやってくれ、と幸子にいった。幸子は横を向いていう。
「ふん。いつの間にか、だんだんに馴れさせようと思ってもダメよ」
この「馴れさせる」は、仔犬のことより、妻を主体にいっているのである。田代はおとなしい男であるが、この時だけは腹が立ち、仔犬と妻と、(どっち取るか、いうたら、仔犬やな)と思った。
しかし現実には、田代は、「大家に叱られた」といって仔犬を兄の家に返しにいっている。
人を責めるのが大好きで、ほかに話題もない妻だから、それでは田代と暮らすのが嫌なのかというと、掃除も料理もきちんとして、田代の身のまわりも洗濯がゆきとどき、少くとも巻向サナエのいうような、「ネズミ色のハンケチ」や「フケだらけの肩」という悲惨な境遇からはまぬかれている。幸子は、せせら笑いのごとき、あるかなきかの嘲笑を口辺に泛《うか》べ、
「あたしが嗤《わら》われるやないの、汚い恰好さしたら」
というのである。
要するに田代は、みずからの結婚について、
(何ン[#小さい「ン」]か、納得せえへんなあ……)
と懐疑し、幸子のほうは、
「夫婦なんて、こんなものよ、どこでも」
といやに断定的にいう。田代は今も幸子のいうことに肝っ玉がでんぐり返るが、これは腹立ちのあまり、目の前が暗くなるせいである。なんでそない断定できるねん。白といえば黒といい、口をひらけば角が立つ、別にケンカをするでもないのに、家の中は冷え冷えしている。これは兄の家や妹の家へ行った時によくわかる。田代の家庭の雰囲気とは全く違う、ほんとに「ねぐら」という暖かいものがあるからだった。子供がいるので散らかってはいるが、兄も、妹婿も、のんびりと放恣《ほうし》に、武装を解除した顔つきでいるではないか。
「めし食うていけや、幸子はん、電話で呼んだらどないや」
と兄は言ってくれるが、幸子は決して田代の身内に会おうとしない。
両親はもう亡くなっているが、妹がそれとなく田代の家庭のぎくしゃくぶりを察しているらしくて、折々に田代をいたわってくれる。それだけの女らしいやさしさすら、田代にはうれしくて有難いわけである。
そのうち、子供が生れ、そうすると、どうやら会話も多くなった。妻の譴責《けんせき》口調の意地わるさは変らないが、田代も馴れてきた。馴れというのは離婚のキッカケを失わせる、と田代は思う。妻のいうように、世間の夫婦はみな、こんなものなのであろうか。妻はそう思って澄ましているかもしれないが、田代は、
(納得しがたい)
のだ。
納得しがたいまま二十年近く暮らして、妻の断定一喝にいつのまにか狎《な》れ、鼻唄なんか絶えて唄うこともなかったのに、フト、鼻唄の出てくる、
(今日この頃でございます)
と田代は漫才師のように胸のうちでいう。
のみならず、妻の耳には聞えないと思うと、小さい声で唄ってみる。
※[#歌記号、unicode303d]義理と人情を 秤《はかり》にかけりゃ
義理が重たい 男の世界……
(作詞水城一狼・矢野亮)
朝の洗面所でも歌は出てくるし、夜、風呂あがりにも出てくる。
そうして夜は、
「煙草|買《こ》うてくる」
といって外へ出る。
田代の住んでいるのは郊外のマンションだが、百メートルもいくとスーパーがあり、自動販売機がある。コインで煙草を叩き出し、ついでに電話する。
「あ。ぼくや。何してんねん」
この電話が目的である。
「足、掻いてる? 蚊に食われたんか」
田代は笑う。
妻が、いまの田代を見たら、目を瞠《みは》って卒倒するかもしれない。田代は妻の前で笑ったことがないのだ。
のみならず、にこにこしたまま、
「用? 用なんかあれへん。声、聞きとうなってな。ほな、おやすみ。いや、公衆電話やさかい」
といって電話を切り、
※[#歌記号、unicode303d]……幼な馴染の、観音さまにゃ
俺の心は、お見通し
背中《せな》で吠えてる 唐獅子牡丹……
などと口ずさみながら帰ってくるのだから妻の理解をはるかに超えてしまっているだろう。
田代本人でさえ、理解の外なのだから、仕方ない。
(光ってるかねえ。フレッシュかねえ)
それはあるかも、と田代は思うものだ。それはもう、しょうがない。フレッシュにならざるを得ない。鼻唄が出るのを押しとどめられないのだ。困ってしまう。しかしリイ子に会ったのはべつに田代が会おうと仕組んだわけではない。家族に強要されてしぶしぶついていった旅先で会ったのだ。
大体、田代は妻と旅行したくなかった。何かにつけ、ブーたれる妻と旅して、何が面白かろう。
妻と二人の娘を旅に出し、田代はゆっくり独居をたのしむ。それが田代の夏休みである。マンションの窓を開け放つと九階なのでかなり涼風が通る。短躯小太りの田代は暑がりであるが、妻子がいないとパンツ一丁でごろりと寝転がってテレビの野球なんか見ていられてよい。
ただしそういうとき、高校生の長女のひさ子のクッションなどを枕にせぬよう、気をつけないといけない。ひさ子は頓《とみ》にこの頃、
「お父さんの臭いついたらイヤ!」
などと厭う。次女のふさ子のヌイグルミなども、誤って尻の下へ敷かないようにせねばならぬ。幸い、妻が不在だと文句をいわれなくてすむので、座布団を二つ折りにして枕にしたり、脇息《きようそく》にしたりする。冷えたビールなど飲み、スーパーで買ってきた枝豆なんかつまんでいると、田代は極楽である。亭主は丈夫で留守がよいというが、妻子も遠くでいればよい、居らなくてもどうということないかもしれん、などとニヒルな考えもチラと胸をかすめる、そういう夏休みを、田代は楽しみにしていた。
しかし今年は南の離島へ、飛行機の旅をしたいという。海で泳ぐというので、水泳の出来る田代をガードマン代りに妻は連れていきたいらしいのだ。
「ひさ子もふさ子も、まだ泳ぎが下手やから」
と妻はいう。
この妻は娘たちに夢中である。そうなのだ、田代に向うのとは別人の如く、娘たちには甘いのだから、田代には今もって妻がよくわかっていない。
妻と娘たちとの旅は田代の危惧《きぐ》した通りであった。出発の朝、空港までのタクシーがなかなか来ない。
「どうして前の晩に予約しとかなかったの? 飛行機におくれたらどうするの?」
と妻は田代を責めた。やっとタクシーに乗ると、
「どうしてこんなに渋滞するのォ。ほかの道をいけばよかったのに……」
「オカーサン」
長女が制した。田代には、これは意外であった。いつのまにか、娘が母親をたしなめるようになっている。そして妻は娘にたしなめられると、たやすく黙った。
娘たちは二人とも蚊とんぼのように細い手足をしていて、背が高い。母親似であるらしい。どちらもショートパンツを穿《は》いて、麦わら帽をかむったまま、生れてはじめて乗る飛行機に夢中だった。
鹿児島で小さい飛行機に乗り換え、四十分ばかりで珊瑚礁《さんごしよう》の中の小さい島に着く。濃紺の海の中の小島を見て、田代はやっと旅に出た気分になった。小さい島にしては規模の大きいリゾートホテルがあり、窓を開くと一望の青い海と海の匂い、さわやかな暑熱と陽光があった。田代は深く息を吸いこむ。
「どうしてこう、床はザラザラなのかしら。砂やねんわ。掃除がゆき届いてないのねえ。いやァねえ」
なんとまあ、広々した景色だ。沖にレースのような白い線が泡立っているのは珊瑚礁に砕ける波であろう……。
「この部屋、高価《たか》いわねえ、いくらハイシーズンといっても高価すぎない?」
空の色もいい。椰子《やし》に蘇鉄《そてつ》、ブーゲンビリヤにハイビスカスという南国の植物が庭を埋めているのもいい……。
「食事にへんなのがでたら困るわねえ、羊や安ものの魚はやめてくれ、と言って下さいよ。それに水の出がわるいわ」
際限のない妻の苦情や不満を聞き流して、田代は水着に着更え、娘たちを連れて海岸へ下りる。須磨や淡路島ほどの人出はなく、水が透明なので、娘たちは渚にぺたんと坐って歓声を上げている。
田代は沖へ泳いでいく。九階の3DKに一人いるのもいいが、体が染まりそうな、ブルーインキの海に漂っている夏もいい。これはいい夏だったと思う。
ゆっくり泳いで波打際に戻ってくると、面白いものが浅瀬に浮んでいた。
細長いゴムのロケットで、これに五人が馬乗りになってモーターボートで引っぱられ、湾内を一周するのだという。
「お客さん。五人乗りだから、もう一人乗って下さいよ、ロケットボート」
若い男が田代を誘いにきた。
赤いゴムのロケットにまたがっているのは二組の男女のようであった。オレンジ色のライフベストを着て、把手《とつて》につかまっている。
「なんぼやねん?」
「一人二千円です。アメリカの西海岸で流行《はや》ってるんスよね、マリンロディオっていうんだって」
若い男はアルバイトなのか、島の訛《なま》りのない言葉だった。
田代は娘に声をかけてみたが、怖いという。
ライフベストをもらってジッパーを引きあげ、田代は最後尾にまたがった。ツルンとして尻の落ち着きがわるい代物だった。たちまちゴムのロケット砲はモーターボートに曳かれて水を切って飛ぶ。宙を翔《と》ぶようなスピードに思われた。一直線に奔《はし》ると白い雲が目の下にみえ、ロケットは水面を軽くジャンプし、飛沫《しぶき》に全身が濡れる。こういう最近のマリンレジャーには田代は疎《うと》いので、面白くなって、
(いや、これはこれは)
と満悦だった。と思った瞬間ゴムのロケットが横転し、田代はじめ、またがっていた五人が海へ投げ出された。一瞬、ショックだった。田代は女の子の色あざやかな海水着が海の中で目を掠《かす》め、白い手足が翻《ひるが》えるのを見たが、それぞれライフベストを着けているので、次々に浮き上った。
モーターボートは停止し、運転の若い男はのんびりとこちらを眺めており、一組の男女はげらげら笑いながら、ゴムロケットによじのぼろうとする。引っくり返すのもサービスなのかもしれない。
もう一組はどちらも不意をくらって動転したまま、よじのぼることもできないようだった。また、ゴムの肌はツルツルして足がかりがないのだ。女の子は泣き出した。
田代は手を伸ばして引きあげようとしたがそのとたん、再びゴムロケットは横転して、またがっていた三人は勢よく海中へ投げ出されてしまう。物馴れた一組は、大喜びではしゃいでいるが、どうしてもよじのぼれないほうの組は深甚な恐怖におそわれたようだった。
「やめてえ。怖い」
と女の子のほうは息も絶え絶えに叫び、
「たすけてえッ」
ついに泣き声になった。
田代は海中で立ち泳ぎしながら、しっかりとゴムロケットを抱え、
「こっちへこっちへ。ぼくの肩と頭を踏台にする。……そうそう、……大丈夫」
とたすけあげた。ぼてっとした重量の脚が田代の肩を蹴り、やっとゴムロケットに吸い着くようにまたがった。男の子のほうはどうやら自力で匍《は》いあがったが、恐怖に顔は引き攣《つ》っているのであった。そうしてモーターボートが再び疾走をはじめると、男の子は泣き声を立て、それに釣られて女の子も、
「やめてーっ、もう、イヤーッ」
と絶叫して、楽しむゆとりはないようだった。
やっと浜へ着くと、モーターボートの若者は金を蒐《あつ》め、田代は次女の持っていた金から払った。
女の子はどことなく、ヌーとした感じの、動作の重たげな、四肢の太った娘だった。田代にまだショックの抜けきらぬ硬い笑顔で、
「オッチャン、大きに」
といい、田代たちの泊っているホテルの、隣のホテルへトボトボと歩いていった。年齢のほどは分らないが、「オッチャン」はないやろ、と思う。男の子のあとからついていったから、カップルで来ているのかもしれないが、男と泊ってるくせに一人前の挨拶もでけへんのんか。しかしそれも田代には面白い。
夕食には刺身やフライが出た。
「二千円のボートって、ずいぶん高い遊びねえ。田舎ほど、|ぼる《ヽヽ》んやから気をつけなさいよ」
と妻はいう。田代はそのとき、食堂の前の芝生を浜のほうへ歩くカップルを見ていたのである。さっき、海へ抛《ほう》り出されておびえていた二人連れであった。女の子はぶらんぶらんと手足を振りまわすような、かったるい動作で歩いており、どこか稚《おさな》げにみえた。それにしても、むっちりした肩や四肢が肉感的で、アンバランスだった。
その歩きかたに、田代は再び出あったのである。半年ほど行っていなかったミナミの千年町のスナックへ行ったら、ヌーとした感じの女の子がお絞りを持ってきた。その子はまたカウンターのほうへ戻ったが、手足をぶらんぶらんと振るようなあるきかたをする。
どこかで見た歩きかたやなあ、と思っていると、田代の視線を追って、店の古い女の子が、
「リイ子ちゃん。アルバイトの子ォですねん。何となく態度デカいでしょう。でもそんなことないの。あれ、あの子のクセやねんわ」
という。田代は「態度がデカい」とは思わなかった。田代にオッチャンといったように、まだ世馴れてなくて、心が体の成長の早さに追いつかないというようにみえた。
リイ子はカウンターからテーブルへ、かったるそうな足取りでやってくる。見違えるほど濃い化粧をしていたが、やっぱりあの時の子だった。田代がマリンロケットの話をすると、リイ子は手を打ち合せて、
「ドボン! のオッチャンか、そうか!」
といい、にわかに顔が稚くなった。田代はあのマリンロケットの話をする相手がなかったから、リイ子にしゃべることができたのは嬉しい。
あのゴムボート、ツルツルやったなあ、なんていえる。
「そやんか、底のほう水苔《みずごけ》生えてヌルヌルになってんねん。あんなん、よじのぼられへん。もうちょっとで死ぬとこやったわァ」
リイ子はあまり上品でない大阪弁でいう。庶民中の庶民クラスの大阪弁である。発音や息のつぎかたに独特の、べちゃべちゃと下品な調子がある。しかし田代は、ヌーとして手足の硬く重そうなリイ子に限り、下品でも気にならないのである。田代も熱心にいう。
「あれはしかし、心臓|麻痺《まひ》でも起したら、どないするねんやろ、無茶しよン[#小さい「ン」]なあ」
「海のどまんなかやもん、ほんま、死ぬか思たわ。あのくそ、モーターボートのガキ、笑《わろ》とんねん」
「笑とったか、けしからん奴ちゃな」
「けしからんわ」
「命拾いしたなあ」
「オッチャンのおかげや」
リイ子はどこか舌たらずにいい、田代が飲めというと、いくらでも飲む。かなり、酒は強いようである。
よく見ると、鼻筋通って、一皮目の、御所人形のような顔立ちだった。ショートボブのあたまを振って氷を取りに起つ身ごなしは、まだ成熟しきっていないようでもあり、よくわからない。
やっとママがきて、入れ代りにリイ子は起っていった。ママはいう。
「女子大生のアルバイトなんですよ。海で焼いたといって肩の皮をお客さんの前でむいたりして、ほんともう、色気なし。ハタチ、っていってましたけど」
「面白いやないか」
「面白いですか? 新人類っていうのかしらん、お客さんに敬語も使えなくて」
「ママやぼくかて、昔の新人類やってん」
「あの子よりましやったと思いますわ」
ママは笑いながら、リイ子とまた代った。
再びマリンロケットの話になった。生死を共にした仲やさかい、戦友やなあ、と言いつつ田代は、命拾いした、とリイ子がいうたびに乾盃する。
リイ子の眼は、白眼のところが青いほど澄み、黒眼はまた、真っ黒だったが、酔いが目もとにのぼってくるにつれ、底知れぬ乱れがみえる。友達とアパートを借りて一緒に住んでいるという。それは男の子ではなく、女の友達で、やっぱりスナックでホステスのアルバイトをしているそうである。
頬杖を突いたり、椅子に反《そ》りかえったりして行儀は悪いのだが、田代にはそれもふしぎにホッとさせられるたたずまいなのである。
──下品の魅力、というものかもしれない。
リイ子も飛行機であの島へいったという。
はじめての空の旅だったそうだ。
「ウチ、大きな声でいうてしもたわ、うわ、空や、空だらけや、みな空や──いうて」
田代はその週のうちにまた、その店へいった。
リイ子のヌーとした様子、重そうな、力のありそうな手足が好きである。
いつか誤って店の中で、リイ子の腕が田代の脇腹へ、はずみで飛んできたことがあった。
棍棒《こんぼう》で撲られたように痛かった。
その肉の堅さがママのいう色けのなさ、かもしれないが、そこがよい。あんな新人類、どうするんですか、とママにいわれそうだが、田代は、
(そや、オレも新人類になったらエエねン[#小さい「ン」]……)
と思う。男オバンも、男オバンだと指摘する世間も知ったこっちゃなく、親も知ったこっちゃなく……。
「そうそう、リイ子ちゃんの親、何してるねん。どこにいてはんねん」
「市岡《いちおか》で雑貨屋してんねん。家狭いから、ウチ、出て来てん」
「ふうん。アパートから学校行ってんのんか」
「せや」
「こっちが学校で向うがアルバイトやろ」
「アハ」
とリイ子は人さし指で鼻の下をこすった。
そうして脚を何ということなく擦《さす》る。その脚は、この節には珍らしく、ふくらはぎにぽってりと肉のついた、いわゆる大根足である。
妻の幸子の脚のように、すらりと細い脚ではない。
若いときに田代は幸子の脚が長くて美しいところに惚れてアタックしたのであるが、今は、(ステッキみたいな脚の、どこがエエねん)と思っている。
そうしていまわかった、リイ子が好きなのは、彼女の手足の恰好からその風情が、田代の好尚に叶《かな》っているのだ。妻のそれと正反対だから、心ひかれてるのである。
二の腕からぽてっとしているところもいいが、何たってこの、ふくらはぎである。リイ子が歩くとき、たらんたらんと手足を振るようにするのは、二の腕やふくらはぎが重いからかもしれない。徳利の腹のように膨らんでいる脚の中ほどのいかがわしい好もしさ、それにまたうまく釣合う、リイ子のべちゃべちゃした下品な声、それらがたぐいもなく田代の心を休ませる。
納得しがたいところは一つもない。田代はいまや、「オッチャン」から「ターチャン」とリイ子に呼ばれているが、リイ子が好きになるばかりである。
会社の健康診断で、田代は胃がひっかかった。もう一度精密検査を受けなければいけない。気掛りでないといえば嘘になるが、田代は自覚症状がないので、わりに楽観している。
しかし家に帰って何となく、妻にもひとこと、伝える。
「いやだ、ガンか何か、なの?」
妻はハッキリいう。
「過激なこと、いうなよ、そんなことないと思う」
「当然かもしれない。お酒飲みすぎるからよ。煙草も、いくら止しなさいといっても止めないんやから身から出た錆《さび》よ。本人はいいけど、あたしたちはどうなるのよ、だから言ってるのに!」
妻のけんつくは田代には、もうほとんどショックを与えなくなっている。肝っ玉もでんぐり返らなくなり、こういうだろうと思ったところへ駒を進めるからおかしい。
そこへくるとリイ子は、どういう反応を示すか予測もつかない。
田代は畳屋町のうどん屋で、リイ子を待っていた。リイ子は店がすむとおなかが空く、といい、田代にうどんや鮨を奢《おご》ってもらうのを楽しみにしている。十二時前後という時間、どの道路にもタクシーがあふれ、それをつかまえようとする帰り支度の人々でミナミは喧騒《けんそう》をきわめている。
このうどん屋は朝の五時まで営業する。リイ子は雨が降ってるといってハンケチ一枚をあたまにのせて悠々とやってきた。
「走っても濡れるし、な……」
と下品な発音でいうが、それはリイ子の本質とは別の下品さ、というようなものである。
リイ子が美味《おい》しそうにきつねうどんを食べている間、雨は本降りになってきた。
早く食べてしまった田代は、手持ぶさたのあまり、胃の精密検査のことをうちあけてしまう。
「ほんま」
リイ子はうどんのおつゆをすすってしまってからぼんやり考え、
「ターチャン。もしかしてわるい病気やったら、もうおしまい、いうことあるなあ」
「それは、ある」
田代は嬉しそうにいう。妻に「ガンか何か、なの」といわれるよりも、「もうおしまいか」とリイ子にいわれるほうが、よほどキモチがよい。
「そんなら、いこか、ホテルへ。ウチ、前からそのつもりやってんけど、どうせ、せいてもせかんでも、いつか行くやろ、思《おも》てたよってな。しゃけど、そんな体やったら、早《は》よ行っといたほうがええデ、いこ、いこ」
「……ええのんか」
「ウチが行きたいねん。しゃけど、体、エエか? マジで」
「雨降ってるデ」
「雨ぐらい、命張って行くのに、どっちゅうことないやん」
べちゃべちゃと、押えつけたような発音でいわれると、田代は見馴れたミナミの夜の雨も目あたらしかった。新人類に自分もなったんや、みてみい、と田代はかっこつけの大家である妻に胸の内でいう。秋雨の下を身を寄せて歩きながら、田代は、リイ子のふくらはぎに何度か、布を通して触れ、思ったとおり、暖かいと思う。
その間、リイ子は、
「ウチなあ、先月パチンコに凝って、三万円ぐらいすってしもた」
などという話をしたりして、とりとめもなかった。坂町のホテルまでずいぶん濡れてしまった。
浮気、というものでもなく、恋愛、というものでもない、これは、
(ねぐら、やな)
と田代は思う。
田代は年収五百五十万、月収三十五万、メゾネットタイプのマンションのローンが五万円あるが、幸子が火曜水曜とブティックの売子に行っていて、ローンの分くらいは稼いでいる。
しかしワンルームマンションに六十万円の敷金を払って契約人になってやったのは田代である。貯金をおろしたのを妻は知らない。
家賃はリイ子が稼ぐといっている。田代が煙草を買いにいくと称して、夜、外出して電話するのは、このリイ子のマンションである。
会社の帰りに田代はこのマンションに寄り、せっせと片づける。リイ子は女の野蛮人のようで、掃除も洗濯も料理もできない。田代が嬉々として片付ける。リイ子がぬくぬく弁当や、うなぎや、はもの照焼を買って来たりして酒宴がはじまる。そういうときに、田代は胃の検査の結果など、妻より先にリイ子に知らせる。リイ子は喜んでくれる。
「ほんまか、ふーん、胃潰瘍の軽いのんか、ほんなら死なへんなあ、ああ嬉し」
「死なへん。クスリで癒《なお》る、いわれた」
ねぐらというのは、大根足のふくらはぎの暖かみであった。田代は足を搦《から》めて存分にその重量感ある暖かみを楽しむ。マリンロケットでリイ子に肩を貸したとき、ぼてっとしたたかに重たい足が肩へ載ったが、いまその重みは暖かさとなって、田代をホッとさせてくれる。
「ターチャン、ええひとや。好きやデ。ウチ」
そんな言葉を半分ぐらいの年の女の子にいわれて、涙が出そうになるとは思いもしなかった。
マンションの敷金だけではない、田代はこのところ、かなりの金を費消して、いわばリイ子に入れ揚げている。しかし当面、このねぐらが、田代の生き甲斐である。このねぐら(リイ子もろとも)があるから、妻の、「こうすればよかったのに」「だから言ったでしょ!」にも堪えていられるのだ。それに、リイ子はどんどん変ってきた。はじめはきょとん、としたところがあったのだが、田代と深くなるにつれて、ブルーインキの海に二人で溺れるように、深い色を躯《からだ》に沁みつかせてくる。マリンロケットにしがみついて恐怖におののいていたように、しがみつくべき欲情をさぐりあてた、という風情である。田代は、引っくり返るまで、いまのところマリンロケットに二人でしがみついているつもり──としか、言いようがない。
遠い海鳴りのような不安がいつもあるが、ともかく、ねぐらの暖かさと、放恣な安楽の魅力には克てない。鼻唄が出てしまう所以《ゆえん》である。
冬のはじめ、田代はマンションにいて掃除していた。家ではする気もしないが、ここへくると腰が軽くなる。
電話があってリイ子かと思ったら、よく似た声だが、老けた女が、
「母親です。おたく、田代さんですか?」
といった。親からの電話ははじめてだった。
「リイ子さんはまだ帰ってませんよ」
「はあ、今日は学校へ私と行きましたから。保護者会でしたのでねえ。実はお願いですが」
母親の口調にもリイ子と同じくせがある。
「おたくのことはリイ子からも聞いていますけど、別れてもらわれへんですか。高校だけはせめて卒業させたいと思いますねん」
「は? 高校とは」
「高校二年です、あの子」
ちょ、ちょっと待ってくれ……。
「十七なんですワ。昔から年上の人に憧れるクセあって、高一のときにも家出して三十八の男の人と同棲《どうせい》して、別れさせるのに難儀しましてん。また病気出たなあ、思《おも》て……。父親と仲悪うて家へ帰りたがれへんのですわ。けど、ほんま、十七なんですわ、どうぞ家へ帰してやって下さい。お願いします」
「ぼくは……、十七とは知らなくて」
「はあ、あの子の病気が出たんですわ」
病気も何も、田代は下手をすると警察|沙汰《ざた》になってしまう。田代の沈黙をどうとったのか母親の口調がかわった。
「ともかくねッ、娘は未成年なんですよッ、おたくだって奥さんも子供さんもいるんでしょ、表沙汰になったらどういうことになるか、ご存じでしょうねえ。娘と別れて下さい」
ねぐらは崩壊である。※[#歌記号、unicode303d]義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界……
もはや田代の鼻唄は出てこない。これは、あたまの片すみで鳴っているだけである。義理の世界、世の常識の世界のほうが、「ねぐら」より重たいのである。田代はそこへ帰らないといけない。──それにしても……やっぱり、リイ子は新人類である、何を考えているのか、田代にはついていけない。田代は新人類にはなれないようである。
会社へ、リイ子から電話がたびたびかかってくる。
「あのうどん屋で」
とリイ子は訴える。
「マンションもそのままにしてるねン[#小さい「ン」]。来てえなあ」
会社の電話で粘られては困るので、田代はうどん屋へ行くが、リイ子はずいぶんおそいときがある。またアルバイトホステスをしているにちがいない。
「ターチャン、ウチ、別れとうないねん」
といわれても田代は、長女より年下だと思うと、もうリイ子は抱けない。それより、「ねぐら」が雲散霧消してしまったのだから、リイ子にかかっていた幻術は消えてしまったのだ。
田代は旧人類だから、幻術なしのリイ子、現実そのもののリイ子は、もはや抱けないわけである。
巻向サナエは何もいわないが、田代はもう光ってもいず、フレッシュでもないはず、たぶん、名実ともに男オバンになっているのではあるまいか。
田代は黙々と会社と家を往復する。マリンロケットのような熱いふくらはぎの記憶はまだ薄れてはいないが、やがて薄れゆくことであろう。
年がかわり、一月の三日、田代は年始の挨拶に出かけた。妻も別のところへ出ていったらしい。
帰ったのは田代のほうが早い。
「お父さん、女の子来たよ」
と次女がいう。
「お父さんいますかって」
田代は背骨にショックを受ける。
「どんな子や」
「お正月の晴着着てた。でも高校生くらいかな。待たしてもらうっていって上ったよ」
田代がネクタイをほどいていると次女はそばへ来て、
「名前、いわなかったよ。誰?」
田代は返事もできない。
まさか、リイ子が家までくるとは思わなかった。全く、若い者の変化球はどこへ飛んでくるか分らない。
新人類というのは子供なのだ。子供の発想には、大人はついていけないのだ。
「お母さんは会わなんだか」
「まだ帰ってないもん」
幸子が会ったら、どんなハプニングが持ち上ったことやら。
テレビの前に坐ると、長女が二階から下りてきた。次女は入れ替りに二階へ上る。
「怪《け》っ体な子ォ、来たよ。お父さん」
「ふーん」
「お父さんに会わせて、というんやもん。何の用事ですか、いまるすです、というても、ちょっと会えばいいから、いうねん」
「ふーん」
「寒いし、きれいな晴着、着てたからね、あやしい人やないと思《おも》て、入れて、ここへ坐らしてたの」
田代には、リイ子がどんな顔をして坐ったのか、想像もできない。
「綺麗ですね、って着物ほめたら、うん、これお父さんに見てほしかったから、っていうの。なんでやろ?」
知るかい。
「そのうち、ふさ子も来て、三人ともおなかすいたから、お節《せち》ののこりを食べた。中森明菜と原田知世好き、っていうから、そのテープかけて遊んだり、してた」
若いもんの考えることは、田代の予想もつかぬことばかりである。
「それでさ」
と長女はニヤニヤしている。
「その子、お父さんまだかな、会いたいな、っていうから、あたしが、『あんた、お父さんとどういう関係なの』っていうたら『ご想像に任せます』って。あたし、『いうてくれるやないの』っていうたら、ふさ子が、『ヒャー、ほな肉体関係もあるのん? イヤー、愛人関係やったら、あるわなあ』なんて、目ェ丸うしてやんねん。そんであたし、『どっちでもええやんか』」
田代はテレビを見ているふりをしているが、考えこんでいて、何も見ていない。
「三人で、いろいろ話してさ、これはお母さんにナイショにする、ってことになったの。その子も、もうお父さんに会わへんっていうてた。お父さんも会わないほうがいい、と思うな。お母さんにいわないけどさ、お年玉が思ったほど集まらなかったから、少し、足してもらえると嬉しいな」
幸子が帰った気配なので、長女は、
「ナイショよ」
と念を押して二階へ上ってゆく。
田代はビールを飲みたくなった。
台所でグラスについでいると、フト、口ずさみたくなった。
※[#歌記号、unicode303d]義理と人情を 秤にかけりゃ
義理が重たい 男の世界……
帰っていた幸子が、キッと咎《とが》めるような視線を向けているが、田代は気にしないで、続きを歌う。これは開き直りというものであろう。わけのわからぬ連中にこてんぱんに翻弄《ほんろう》された気分で、開き直りでもしなければやってられない。開き直って今日は酔い沈んでしまいたい気がする。
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忠女ハチ公
この頃、城戸《きど》は何となく憂鬱である。
何でやろ、と思えば、課のパートのオバハンのせいなのだ。
オバハンといってはいけないかもしれない。
川添きく江は四十二、三の、しとやかな、品のいい女である。主婦で、二人の子供もあるらしい。夫は公務員だそうである。機材課の雑用を手伝ってもらっている。
ていねいな物腰、品のいい口のききかた、まじめな働きぶりは、いかにも世間ずれしていない、箱入り主婦、という感じである。
しかし、そこが城戸はわずらわしい。
コートを着ようとすると後からいそいで着せようとする。城戸は自分のことは自分でする男である。コートぐらい一人でさっさと着たい。それに川添きく江はせいぜい一メートル四十六、七センチというような、ちんちくりんの女であるから、一メートル七十センチの城戸のコートを着せられるわけがない。
それなのにきく江は、
「あ、課長さん、失礼しました」
と飛んできて、着せようとする。
抛《ほ》っといてもらいたい。
城戸は共かせぎの妻のおかげで、二十年、自分のことは自分でする癖をつけているのだ。
煙草も、ビル一階の自動販売機で、自身叩き出してくる。
いちどその場面を川添きく江にみつかり、彼女は、
「あらまァ……おっしゃって頂きましたら、買いにまいりますのに」
と身を揉《も》むように切ながった。それからは、
「課長さん、煙草のご用、ございませんか」
とききにくる。
それも城戸は煩わしい。
川添きく江のていねいな言葉遣いも、どちらかというとまどろっこしい。主婦次元、家庭次元のものであって、職場のものではないように思う。
前にいた女の子は、結婚退社したのだが、課の誰かが、
「お茶くれへんか」
などというと、ワープロを打ちつつ、むっとふくれて、
「自分で淹《い》れて下さい!」
とどなった。城戸は四十六だが、むしろそういう新人類のサバサバした、ミもフタもないもののいいかたのほうが好きだ。
川添きく江のように、小さな丸いやさしい顔に(決して不美人ではないが)いつもほほえみを絶やさず、
(何によらずおいいつけ下さいまし)
というような色を切なげに目に浮べているのを見ると、主婦臭、奥さま臭がダダ漏りで城戸はいやになってしまう。濡れ濡れした髪を奥さま風にアップに結い上げているのなども、家庭の中で見るなら別、職場では、
(場ちがいやなあ)
と憮然としてしまう。
字を書かせると、汚い字ではないが、「水茎のあと麗わしく……」というようなつづけ字で、読みにくい。城戸の会社は荒っぽい機械メーカーで、くにゃくにゃしたつづけ字の読めるような奴はいない。
ワープロを打ってほしいというと涙ぐんでうつむいてしまった。しかし主婦の粘りというのか、営業課の古参の女子社員に手ほどきされて、一週間ほどのうちに、スピードはのろいが打てるようになった。それでみても、決して無能ではなく、向上心もあるのだ。
しかし有能で向上心があればいい、というものではない。
城戸は川添きく江の、骨身に沁みこんだ主婦臭、奥さま臭がキライである。
深々とお辞儀する、うやうやしく道をあける、悪遠慮する、謙遜《けんそん》する、そういうオバン風なところがいやなのである。気のつきすぎる所も取らない。雑用係だから、よく気のつくのはありがたいのだが、それが城戸の見るところ、なんだか女臭|芬々《ふんぷん》のいやな気のつきかたである。
城戸はもっとボーイッシュなのがいい。
さっぱりして有能、というのがいい。城戸は実はそういうのがくると思っていたのだ。まさか、こう、モロ、オバンタイプのパートがくるとは思わなかった。
というのは、近頃、城戸の会社でも外部からの派遣社員がくるようになった。いわばパートである。パートの重役まで来た。これがみな優秀な人材なのだ。
城戸の会社のトップはみな技術屋上りだから経理に暗く、受註はあるのに減益している。これではあかんというので、社長は人材派遣会社へ頼んで、シッカリした元銀行マンに経理をみてもらうことになった。
六カ月の約束だったそうだが、これが敏腕の人材で、早速、借金を減らしたり人員合理化をすすめたり、経費を切りつめたりして、会社をすっかり立て直してしまった。社長は重役のポストを与えて、そのまま居付いてほしいと頼んだそうだが、その派遣人材は、
「いや、それはまあまあ……ハッハッ」
などといって、諾《き》かなんだそうである。
世の中変った、と四十六の城戸のほうが、六十二、三のその元銀行マンに感心してしまう。
完全に城戸のほうが古い。城戸なら定職という餌にとびついてしまうであろう。とてものことに人材派遣会社に身を置いて、あちらの職場、こちらの職場に、六カ月・一年などという契約で働けない。定職につきたい、と思うのは男の業のようなものだと思うのだ。それをその人材は、社長が専務にしますというのを、
「いや、それはまあまあ……ハッハッ」
で振り切って出ていくのである。
実に新しい感覚といわねばならぬ。城戸のあたまには※[#歌記号、unicode303d]包丁一本 さらしに巻いて ……(十二村哲作詩)という歌が浮ぶ。その人材は銀行の審査部で修行したという「包丁」一本をたよりに、また、次なる会社の危急の助っ人にいくのだ。
城戸はまた、西部劇映画を思い泛《うか》べたりもする。早射ちガンマンが町の人々を救け、悪を懲らしめ、町の人々が、どうぞここへ住みついて下さいというのに、
「いや、それはまあまあ……ハッハッ」
と固辞して、またどこへともしれず、飄然《ひようぜん》と去ってゆくのである。世はいまや、早射ちガンマンの時代になりつつあるらしい。
そういっても、そのおたすけ派遣人材は、一分のスキもない身なりで、リューとしていて、西部の放浪・浮浪者とは大違いである。ランドリーの封を切ったばかりのようなワイシャツに趣味のいいスーツなど着込み、聡明そうな前額部の禿げあがりも神々しいばかりであった。元銀行マンらしく人あたりもよく、そのくせ決断は犀利《さいり》である。分析も的確である。そして定職を提供されても、
「いや、それはまあまあ……ハッハッ」
と手を振って去るのである。
早射ちガンマンは男だけではない。女にもいることがわかった。経理課では決算期に二カ月、早射ちガンマンをたのむそうである、これも人材派遣会社から「電算機を使う経理処理専門」人材としてくるのだ。経理課長にいわせると、「二、三人分の仕事、楽々、こなしよるデ」ということである。まだ若い女性人材で、これも会社は好条件を示して、居付いてくれないか、というと、
「いえ、それはまあまあ……ホッホッ」
とことわって、これも経理処理という「包丁」一本をさらしに巻いて、企業をわたりあるいている。あるいは飄然と来て飄然と去る早射ちガンマンなのである。「包丁」を持たないフツーの社員は、
「何しとんねん」
ということになってしまう。
なんにしても年功序列も終身雇用も屁とも思わぬ、さすらいのガンマンがふえているのはたしかなようであった。
城戸の課の女の子が結婚で辞めたあとを埋めるのに、「パート入れまっさ」というから、城戸はてっきり、そういう早射ちガンマンがくる、と思っていたのだ。別に経理に明るくなくてもよい、電算機の扱いに堪能でなくともよい、機材課の書類整理やこまごました雑用をてきぱきやって、課員が働きやすいようなアシスタントであってくれればいい、と思うのだが、来たのは、いちいち三つ指ついてお辞儀するような、水茎のあとうるわしい、という字を書くオバンである。
うっとりした目つきで男たちの誰かれを見、(といってそこには色情はないことを特に念を押していう必要があろう。色っぽくねっとりとしているのなら、それはまたそれで男の考えもあろうというものだ)ただもう川添きく江は、パートに出て、家庭以外の世界、亭主以外の男を見たのが嬉しくてならぬようであった。いそいそとして川添きく江は出勤してくる。撫で肩で円いお尻という、紡錘型の体型を、パートに出るというのでローンで買ったとおぼしいスーツに包んで現われる。床やドア、窓は清掃会社のオバサンがするが、机の上を拭いたりするのは川添きく江である。いかにも物慣れた主婦的手つきで拭いたり磨いたりしてまわり、嬉々としてお茶を淹れ、
「これ五部ずつコピーしてくれやあ」
などと若い課員の児玉に乱暴にいわれても、(この男は学校出たての新人類で、口の利きかたはなってないという評判である)ほとんど陶酔の色を浮べて、
「ハイ! かしこまりました」
と弾んで答える。
茶をこぼすと飛んできて熱いお絞りでズボンを拭いてくれる。城戸は触られたくない。抛っといてほしい。
(もっとアッサリ、できんもんかね)
と思う。「郵便局へいって売出しの記念切手|買《こ》うといてや」「『更科』の|たぬき《ヽヽヽ》たのむ」「『豚珍軒』のレバニラいためと御飯、出前してもろて」などという男たちの頼みも引き受け、それらも以前の女の子なら頭から断り、
(自分でいうて下さい!)
とどなるところであるが、川添きく江は喜んでみな引き受け、出前がくると男たちに運んでやるのである。
城戸はたいてい外へ出て食べるから、川添きく江の世話にならないが、いちど腹をこわして絶食したことがある、すると川添きく江は中に何も入っていない白いおにぎりを買って来て、よその課の湯沸し場からミルクパンを借り、おかゆをたいて、
「何もあがらないのは、お体によろしくございませんから、どうぞひとくちでも……」
というのだ。
城戸はこういう、べたべたしたお節介は好まぬところである。川添きく江は大ぶりの湯呑みに白粥《しらかゆ》を盛って、例のうっとりした眼付きで城戸を見る。城戸はがまんして食べ、
(かなわんなあ)
とシミジミ思う。抛っといてくれるほうがいいのだ。新人類の女の子みたいに、
(課長さん、ご飯たべないのですか? 具合わるい? あ、そう)
で、さっさと自分の弁当など拡げて食べる、そんなアッサリしたほうが、なんぼう気持いいか。
城戸は頑健なほうだが、(これも忙しい妻に抛っておかれ、自分の体は自分で注意する習慣が身についたせいだ)それでも一年に一、二度は風邪をひく。
川添きく江は何だか湯沸し場でごそごそしているようであったが、
「課長さん。これ、おいやでございましょうか」
と盆を捧げて、うやうやしく置く。
「何やねん」
機械屋の城戸はもともと雑駁《ざつぱく》ではあるが、川添きく江の鄭重《ていちよう》な言葉遣いを聞くと、ついむしゃくしゃして、児玉のように乱暴なもののいい方になってしまう。
「甘酒でございます。土生姜《つちしようが》を擂《す》って入れてますの。お風邪にはよろしゅうございますので、ぜひ」
城戸はそんなに大切に扱われたことのない男なので、川添きく江の心くばりを有難いと思うべきであろうが、何しろ、城戸はべたべた嫌い、アッサリ好みである、そう他人《ひと》の世話を焼くな、というのだ!
しかしきく江が哀願するような、すがりつくような眼で城戸をみつめるので、城戸は位《くらい》負けしたという感じで、嫌いだが、
(しゃァないな)
と甘酒を飲んだ。
甘いような、生姜の辛みが利いたような、(どっちかにせえ!)といいたい、ヘンな味のしろものであった。城戸が思い切ってぐっと飲んでしまうと、川添きく江は両手をよじって、体いっぱいに喜びをあらわし、
「嬉しゅうございますわ、飲んで頂けて……それからお風邪のときはお煙草お止しになって」
と涙ぐんでいい、城戸はしかたない、
「ありがとう」
といわされる。
すべてわずらわしい。城戸が咳《せき》をすると、
「お寒くありません? 窓を閉めましょうか」
洟《はな》をかむと、さりげなく新しいティッシュの箱を持ってくる。アッサリ好みの城戸としてはもうたまらない。
しかし、意外とこういう、ベタベタが好きな男もいるらしい。城戸はある晩、課の岡本と、児玉を誘って、曾根崎新地の小料理屋へ飲みにいった。「みやけ」というこの店のママは、うまい料理を食べさせてくれて、その上、体格もよく豪快でさばさばした女である。「オトウチャン」と呼ぶ亭主は、ふだん奥の板場にいて店には出てこないが、小柄で剽軽《ひようきん》な男で、蚤《のみ》の夫婦というところであろう。城戸はこの夫婦のたたずまいが好きで、よく来る。夫婦のたたずまいがべたつかず、アッサリしているのがよい。
「おい、みつくろうて旨いもん食わしてくれやあ」
と城戸がお絞りで手を拭きながらいうと、
「まかしなさい」
といって適当に皿を並べてくれる。空腹なときは何となくボリュームのあるものが出てくるし、一杯飲んでの、帰りのときは、見てわかるらしくて、軽いものが並べられる。
「オレ、『みやけ』式がええな、あんまりべたべたすると、かなんな」
城戸は甘酒を飲まされたことをいう。三十五、六の岡本は、やっぱりべたべた嫌い、アッサリ好みだそうである。岡本の場合は胃がわるいというと、きく江に、食間の胃ぐすりを飲まされたそうである。しかも漢方薬で苦《にが》いのを飲めといわれ、これも涙ぐまんばかりにすすめられるので、仕方なく飲んだが、
「強姦《ごうかん》でんな、あれは」
といい、
「あの人の電話聞いてるとイライラーッとしまっせ、あれが胃ィに負担かけまんねん」
という。それは城戸もかねてそう思っていた。川添きく江が電話を取ると、「あのー」「あのー」がずいぶん多く発せられ、電話がずいぶん長引く、なに聞いとんねん、と思うことがあるのだ。
「なんであんなベチャベチャしたオバン入れるんやろな、早射ちガンマンみたいなん、おらへんのやろか」
城戸は早射ちガンマンの説明をする。
「専務か誰かのコネではいったらしおまっせ、上品かもしらんけど、ともかくあのやたらお辞儀するのんと世話焼きはかないまへんな」と岡本はいった。
「せやな、何や歩くときでも一歩さがって歩くみたいで、時代ドラマみたいや」
「疲れまんなあ、ああいう人は」
「旦那にもあない、大事に仕えてはるんやろか」
「旦那やったらよけい、やってはン[#小さい「ン」]の、ちゃいまっか、この頃、咳一つでけまへん。川添さん、机の中に浅田飴入れたはりますねん。ほんでゴホン、いうた人間にはスグ飛んでいって食べさしはりまんが」
「かなんなあ」
岡本は川添きく江の口調になって、
「何もできませんので、皆さまの陰の力になりたい思《おも》てます──力になるのやったら、抛っといてくれたほうが、よっぽど力になりま」
「そう思うワ、オレも」
「しかし課長あたりやったら、世代的にああいう女のひとは、奥ゆかしィて、趣味合うのん、ちゃいますか」
「合わへん、合わへん」
と城戸は一刀両断に言い捨てる。
「後から服脱がされたり、新聞持ってこられたり、茶ァ淹れられたり、いうの、肩凝ってしゃァないねん」
「課長でもそうでっか」
「あんなん好きなん、もっと年上の世代やデ」
二人で川添きく江の噂をしていると、若い児玉が口を出す。
「そうかなあ、そんなワルクチいうたったら、あの人、かわいそうですよ」
「ワルクチやあらへん。歯が合わん、いうてるだけや」
岡本が相手になる。
「僕は女らしい、思うなあ、川添さん」
児玉はいかつい体格で、黒いじゃが芋のように、ぼこぼこした顔をしている。細い眼が吊り上って獅子鼻、ぶさいくには違いないが、醜くは思えない。城戸は同性のよしみかもしれないが、児玉が好きだ。いつも得体の知れぬ微笑《ほほえ》みを泛べ、おのれを無にしたように、
(何か、おいいつけ下さい)
(ご用は誠心誠意いたします)
(会社とみなさんのためならば──)
というような思いつめたパートオバンよりは、ずっと児玉のほうがよい。
しかしそのぼこぼこしたじゃが芋のような児玉が、うっとりと目をつむって、
「川添さんは女らしい」
というのだ。
「このあいだ、僕、会社へ来て靴はきかえましてん。そのままロッカーの外へ抛って忘れてたら、川添さん、ちゃんと揃えてくれた上に、磨いてくれてあった」
じゃが芋顔の児玉は嬉しそうにいうが、城戸なら、抛っといてくれたほうが、キモチイイ、と思う。
「うまいお茶、淹れてくれますし」
「ま、そら、年季入ってるわな」
岡本がとりなす。
「親切やし、やさしいし。何がべちゃべちゃですか、僕、川添さんが来てから、会社へくるのん楽しみになりましたワ」
ふーん。
城戸と岡本は思わず、声を合せて唸ってしまった。児玉はむきになり、
「そうかて、僕らの友達の女の子、えげつないもんなあ、たとえば部屋の入口でぶっかったとき、必ず女の子が先に入りまっせ。細い道でぶっかったら男おしのけていきよる。川添さんは必ず自分をあとにします。男に道ゆずる、ちゅうような女、いまどき、いますか、しおらしいやおまへんか」
男をおしのけてもかめへんやないか、と城戸は思う。城戸は男にゆずるような女のほうが気味わるい。
「川添さん、いつもにこにこしてますねえ」
それがいやだと城戸は思うのに、
「そこもよろし。女らしいスなあ」
じゃがいもの児玉にも、「女らしさ」へのあこがれがあるのであろうか。うっとりしていう。
「言葉もていねいやし、あんな女らしい人、いまおらへん。エレベーターに乗ったら外からチャンともとの一階へボタン押しとくし」
それこそ、よけいなお世話だと城戸は思うが、なおも児玉はいう。
「あんな奥サンのご主人は幸せやと思います。かゆいトコへ手ェ届くように世話されて」
城戸なら一日で参ってしまう。
「いや、女房《よめはん》いうのはがらっぱちのほうがええ」
城戸は児玉の言葉をさえぎる。
「あんなんにそばに居られてみい、男、やつれてしまう。かゆいトコへ手ェとどくようなことされてみい、なあ、ママ。主夫はつかずはなれず、いうのが一ばんやなあ」
「ウチら、つかずつかずですわ」
とママは豪快に笑う。いつも出てこぬ小柄な親爺《おやじ》が、奥ののれんから顔を出して、
「ゆうべ久しぶりにさして貰いましてん」
「阿呆《あほ》なこといわんでもええ、黙っとったらわからへんのに、阿呆! このおっさん……」
とこのへんの呼吸は全く吉本興業風になり、城戸たちは抱腹してしまう、いや、こういう夫婦がええ、と城戸は思う。この世は独り者なら早射ちガンマンの渡り鳥、夫婦ものなら吉本興業夫婦でいいのだ、君子の交りは水の如し、でいいのだ。よりすがるようなべたべたした眼つきの世話焼きはかなわん、と、しみじみ城戸は思う。
そういえば、城戸は、妻との仲も君子の交りになりつつある。意識的に操作したわけではなくて、結婚のはじめから共かせぎだから、おのずと城戸は自立せざるを得なかったのだ。
淡々主義、水の交り主義にならざるを得なかったというところだろう。城戸だとて妻が専業主婦だったら、あんがい川添きく江風なべたべたにどっぷり浸っていたかもしれないが。
その晩城戸が帰ってみると、珍らしく妻のほうが早くて、
「お帰んなさい。御飯の用意したんだけど食べてきた?」
という。月に一、二へん、妻にはそういう日がある。そのほかは残業、出張、会議、接待、城戸に負けず忙しいのだ。妻は大阪の中堅服飾会社に長く勤めて、いまは商品企画部長である。そのうち重役になるかもしれないと、いわれているらしい。べつに女性を重用する会社ではなく、女の部長は妻一人だというから、要するに妻に能力があるということだろう。仕事が好きだというので、息子が一人できてもやめずにずっと働きつづけた。
若い頃は仏像のような、美人だが無個性な顔であった。それが仕事に磨かれて表情も柔軟に明るくなり、何より城戸が見ても、妻の顔には、四十三歳・女の働き盛りの、
「土性骨」
というようなものが据わっている。それから、中堅アパレル「アリーヌ」の商品企画部長としての貫禄、ぬけめなさ、もそなわってきている。知っている人には、
「城戸ハンの奥さん、偉い人やねんて、なあ。女ながらにやりてやそうやないか。家事と仕事、いうたら大変やろうなあ」
と女房に同情する如くいわれるが、大変なのはオレのほうやと城戸は思っている。女房は家事にまで手がまわらないから、城戸は自分のことは自分でする癖がついてしまったのだ。
毎日、自分のパジャマや下着を洗濯機へ抛りこむ。高校生の息子も、そのあとで一山、洗ったりしている。出勤前に干していく。夜帰宅して、まだ吊るされている洗濯物を乾燥機へ抛りこむ。靴下は風呂へ入ったついでに自分で洗うことをおぼえた。ワイシャツは会社の近くのランドリーへ、出勤前に抛りこんでいき、「ノースターチで頼むワ」などという。休日、天気がよくてゴルフにも出かけないときは息子と二人で蒲団を干したり、大掃除したりする生活である。その間、妻は家へまで持って帰った書類を調べたりしている。城戸は淡々好み、アッサリ好みにならざるを得ない。
しかし、久しぶりに手料理を作って待っている妻の顔からは、中堅アパレル「アリーヌ」の商品企画部長の貫禄も土性骨も消え、タダの妻になっているのだ。
城戸はにわかに空腹をおぼえた気がして、嬉しくなって妻とさし向いで箸を取る。息子は先に食べて部屋に籠《こも》っていた。小芋の煮たのや、春菊のおひたし、鯛のあら煮などという和風料理を妻は作っている。
妻は料理も手ばしこい女である。
「パパ、日本酒がいいわね」
と燗《かん》をしてついでくれる。城戸が刺身の醤油をひっくり返すと、
「あ。待って。そのまま……」
と妻は叫び、城戸はじっとしたまま、熱いお絞りで膝を拭いてもらう。川添きく江のときは触られるのもいやだったが、妻だといい気分で、自分は指一本動かさない。妻に新しい醤油を注《つ》いでもらい、限りなくベタベタになってしまう。
城戸のアッサリ好みも、いいかげんなものかもしれない。
「せめて週に一度はこないして、アンタの手料理食いたいなあ」
城戸はめためたと、「ベタベタ」の極致になってしまう。
もう川添きく江を嗤えない。
妻も、会社で嬉しいことでもあったのか、機嫌がいい。大体、平生あまり城戸をかまいつけないので、気が咎めるのか、家にいるときの妻はにこにこと機嫌よくしている。
「そうね、ぼちぼち残業もしなくてすむようになるし……」
妻も嬉しそうであった。
「パパに味気ない思いさせてゴメンね。いつも申しわけない思《おも》てるねん。なるったけ、週に一度は、こんなんしたいわね」
「当り前や」
もう早射ちガンマンも吉本興業夫婦もない、ひたすら、川添きく江風ベタベタの世界である。
「おい、そこ早よ仕舞《しも》てしまい。洗いもんはあしたでええやないか」
城戸は底なしのベタリズムになってしまう。
「そうね」
といって素直に寝室に入ってくる妻が、ぱっとナイトガウンをぬぐと、白いシルクの繻子《サテン》のネグリジェである。そうして、城戸に寄り添ってくるやわらかい表情の妻の顔からは、土性骨も商品企画部長のぬけめなさも消えているのだ。タダの妻なのだ。「パパに味気ない思いさしてゴメン」「いつも申しわけない思《おも》てるねん」という妻である。「ぼちぼち残業もしなくてすむようになるし……」と嬉しそうにいう妻である。城戸は要するに、妻が、元来、好きなのだ。嬉しい夜になった。やっぱり人間はベタリズムでなくては、生きるたのしみがない。ヨソの女のベタベタは困るが、妻とはベタリズムであらまほしい。
ぐっすり眠って気分よく目ざめ、〈みやけ〉の大将の冗談を反芻《はんすう》して、にこにこしながら洗顔し、髯《ひげ》を剃る。キッチンからコーヒーのいい匂いが流れ、息子が「行ってきます」とドアをバタンと閉めるなり、階段を駈け下りる音がする。マンションは三階なので、元気のいい息子はエレベーターなどまどろっかしくて待てないという。それも今朝の城戸には気分がいい。
キッチンへいこうとして居間に、妻のスーツケースがあるのを見る。妻のスーツケースは外国製の茶色い牛革で、横長のしゃれたもの、城戸みたいに高校生の息子のスポーツバッグを借りたり、ニコンの写真機を買ったときおまけでくれたバッグを使ったり、しない。
妻はピンクのシルクのブラウスに、淡いグレーのスーツで、鏡を見ながらパールネックレスをつけようとしていた。
朝は共かせぎ夫婦には戦場なので、妻はモノをいうひまもなさそうだった。
「出張すン[#小さい「ン」]のか」
城戸は意外に思って聞く。
「そうよ。言わなかった?」
「オレ、聞いてない」
「言わなんだかナー。博多と広島。明日帰るわ」
「さよか」
妻は忙しげにいい、かなり口早になっている。
そうして美しく化粧した顔には、早《はや》も、商品企画部長のぬけめなさと貫禄と、土性骨が据わっているのだ。
妻は早口にしゃべる。何しろ、一分一秒を争うようなビジネスウーマンなのだ。それでもしゃべるというのは、城戸に対する心づかいであろう。
「いつもの出張だと、その町の一流ホテルのホール借りて、展示会を開いて得意先|招《よ》んで商談を取りしきるんだけど、今度はその仕事はないの、新しい企画の感触を得意先に探りにいくの……」
「もう、ええさかい、早よ出えや、ヒコーキやろ」
「ええ。冷蔵庫にいろんなもの入ってるから、ノボルは今夜は自分でヤキメシ作るっていうてたわ」
一人息子も、母親のいない晩めしに慣れているので、妻は毫《ごう》も心配していないらしい。
「冷凍庫に肉もあるから」
「わかった、気ィつけて」
「じゃいってきます」
と妻は片手にスーツケース、片手に黒いビニール袋のゴミを提げ、肩からは旅行用のバッグを掛けて出かける。城戸はやさしくいう。
「ゴミ袋、オレ抛りにいくさかい、おいとき」
「ついでだもん」
とかばいあう。まだベタリズムだ。城戸はたしかに出張なんて聞いてえへんかったナー、と思いながら自分でパンを焼き、コーヒーを淹れるのである。妻はあまりの忙しさに、城戸に出張のことを告げたように思い違いしているのかもしれないが、ひょっとしたら、ゆうべも、あたまのどこかでは出張のことを考えつづけていたのかもしれない。まあ、しゃアないなーと思いつつ、たった一人あとへ残された城戸は新聞を拡げて、トーストにバターなんぞ塗りながら、
(しかし出張なんて、聞いてなかった、なあ、おい)
誰にともなくいう。
いう相手は出てしまったのだから、ひとりごとにならざるを得ない。ランドリーに渡すワイシャツを紙袋に入れて、汚れた食器を洗う。
服を着るとき、誰も後から着せかけてくれず、ネクタイも渡してくれないが、そんなことは無論、かまわない、城戸はしてもらいたいと思わない、しかし、
(オレ、聞かへんかったぞ、出張なんて──なあ、おい)
というのをじっくりやり合いたいのに、相手がサッと出てしまうというのは悲哀である。
ケンカもできない。
淡々好み、水の交り好み、君子好みにならなくてはしょうがない。その上に男の意地として、
「気ィつけて」
のいたわりさえいわなければならない。アッサリ好みも辛いところがあるのだ。ベタベタとまつわりつかれるのもいやだが、いや──アッサリもしんどいねえ、……淋しいねえ……と思いつつ、城戸はトボトボと出勤する。
会社へいくと川添きく江が、いそいそと、
「お早うございます」
とまつわりついてくる。
いや、やっぱり、こういうのはかなわんか、と思い思い、仕事はじめの一服をやる。城戸の会社では煙草はべつに禁止されていない。
川添きく江が茶を運んできた。
何となく、いつもよりひとしお思い入れの強い眼で城戸を見、よりすがるような表情で席へ戻っていく。
(かなんナー、あのベタベタオバンは)
と思いつつ、城戸は茶托《ちやたく》を引き寄せようとして、その下に小さくたたんだ紙があるのをみつけた、書類の下へ引きこんで見てみると、
「ごめん下さいませ、前々から申上げたかったのでございますが、……」
とくにゃくにゃした続け字で書いてある。
「どうぞお煙草はおやめ下さいませ。あなたさまのお体を大切に思えばこそ。ご尊敬申しあげ、お親しみ申しあげるかたでございますゆえ、大事のお体に障っては、と日も夜もなく悩みつつ、こうしてとうとう、お手紙をさし上げるのでございます……」
「しっかし、しつこいベタベタやな」
と城戸は〈みやけ〉で岡本としゃべっている。
「忠犬ハチ公みたいな女やねえ。ハチ公みたいに情の深い犬、オレ、かなわんねん」
「犬はみな、そうでっせ。ベタベタして。猫がよろしデ。あっさりしてま」
猫好きの岡本はいう。
「あのオバハンは忠女ハチ公やな、あの深情けにはたまらんぜ」
城戸はアッサリ好みも辛くてしんどい、さびしいものだと思うが、やっぱりベタベタのほうがずっといとわしい。
城戸はやるせなげな川添きく江の視線を感じつつ、わざとでもないが、煙草の煙を天井高く吹き上げるのである。女房《よめはん》に朝、突然に出張にいく、といわれるような男、煙草ぐらい飲まな、どないすんねん、と城戸は内心、うそぶいている。
川添きく江は半年もたたず辞めてしまった。児玉と噂が立ったので、居り辛くなったのである。きく江は城戸に渡したのと同じような手紙を児玉にも渡していた。児玉は「あなたさまのお体を大切に思えばこそ。ご尊敬申しあげ、お親しみ申しあげるかたでございますゆえ、大事のお体に障っては、と日も夜もなく悩みつつ……」という手紙に、ほろりときたらしい。きく江は機材課のスモーカー四人にみな同文の手紙を出していたものらしいが、児玉だけ、その深情けにころりといかれたらしく、きく江と仲ヨクなってしまったという。
いま児玉は淀川工場へやられている。川添きく江とほんとの処どうだったのかわからないが、一時はのぼせて、きく江と結婚するといってちょっとした騒ぎになったのであるが、きく江が離婚したという噂は聞かない。
城戸の課にまた新人類の女の子が来、「お茶は自分で淹れて下さい!」とどなっている。城戸は、アッサリ趣味はしんどくて淋しいと思うが、やっぱり、こっちのほうがいいと安心する。
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波の上の自転車
妻《あいつ》が怪《け》ッ体《たい》なこと、いうよっていかんねん、と村山は思う。
その夜は、珍らしく夫婦、機嫌よくしゃべっていた。村山は元来すぐカッとなる男で、妻の万佐子は勝気、理屈っぽくて言い分を通さずに措かぬ女だから、言い合いになると双方、あとへ引けない。
それで若い時はずいぶん花々しいケンカをした。
といって妻が嫌いなのではない。一応は惚れて結婚したのだ。しかもその頃の部長が村山に縁談を持ってきたのを蹴って、つき合っていた万佐子をえらんだ。
(顔はまあまあ、やが、気立てのええ子で東京の女子大を出たんやが。僕の親類の娘でねえ……)
といって見せられた写真の女は、物悲しいほど醜《みにく》く、おどおどした笑いを泛べて着物をまとっていた。村山は美人の万佐子のほうを取った。(毎日見る顔やのに、ブスはかなわん!)と思ったのだ。その部長は今は専務で、あの娘を貰っとけば、もっと日当りがよかったかな、と村山は思うが、それにしても美人も見慣れるとどうということなく、妻は勝気で可愛いげないのだけが印象的に残るだけ。
もはや四十三になった村山はケンカも回避するようになった。万佐子はいろいろ減点もあるが、さりとて今すぐ離婚したいほどでもない。
中一の娘を抱え、親子三人の家庭の形が出来上っている。こいつを壊してまたぞろ、別のを作る気はない、というより、面倒くさい。といって琴瑟《きんしつ》相和するというほどでもない。
第一、仕事の忙しい村山は、帰宅が遅くてろくに妻としゃべる機会もない。
しかしその夜は、娘のことを話題にしていた。娘は私鉄の阪急沿線の私立女子学園にいるが、テニス部へ入った。平凡だが健康でおっとりした娘で、学校の水が適《あ》ったのか、嬉しそうに登校している。勉強部屋の壁に「ファイト! 根性!」なんて書いた紙を貼り、ひまさえあればラケットを振っている。村山はことさら子煩悩《こぼんのう》というのではないが、裏も表もないような、無垢な気性が顔にあらわれたといった、のんびりした娘が好きである。
将来《さき》は分らない、親を抛って男を作るかもしれないが、ただいまは、邪気のない娘が可愛いいのである。
「ほうか、あののんびり屋が、『ファイト、根性』なんて書いとんのか」
などと言いながら、ビールなぞ飲んでいるのは楽しい。妻との団欒《だんらん》などは半年に一ぺんあればいいほうではあるまいか。
妻の機嫌もわるくない。もとより妻は、女親の常として、娘べったりである。満足気に、
「よかったわ、○○へ入《はい》れて」
と女子学園の名をいった。妻は阪急《ヽヽ》沿線が好きで、それは自分がその沿線に育ち、沿線の女子学園を卒業しているからである。
阪神《ヽヽ》沿線で育った村山は、その話が出ると口をつぐむ。阪急沿線は上品で、阪神沿線はガラがわるい、と固執してゆずらない妻と、いくらケンカしたか分らない。
それでもマンションは、妻の主張が通って阪急沿線の物件を買わされてしまった。
どうしようもない。
女は強いのだ。
カッとすると花々しくケンカをする村山も、何しろ仕事が忙しすぎるのだ。家のことにあまりエネルギーを割《さ》けない。妻の差配に屈服する、という結果になってしまう。しかし何でこう、仕事に追われるのか。
入社以来、働きづめに働いた気がする。村山だけが会社ニンゲンでがんばっているのではない、彼の年頃の男はみなそうだ。二十四時間、身心を会社に捧げて石油ショックを乗り切ったと思ったら円高不況だ。ゴールデンウィークも、工場は七連休だが、村山たち営業部は五日と休めない。会社はゴム部品メーカーで淀川のそばにあるが、河川敷の草むらや原っぱで、親子づれが弁当を開いたり、キャッチボールをしたりしているのを見|下《おろ》しつつ、村山たちは働いていた。そればかりではない、暮れると、「扶桑化工」の窓に早々と灯がつき、男たちがテレックスを叩いたり、ワープロにかがみこんだりしているのが、ガラス窓越しに、原っぱから見えたであろう。ともかく村山は一年中忙しい思いをしているのである。
家にいる時間は少い。
家で飲むよりも、帰りに十三《じゆうそう》で、同僚や部下と一杯やっているほうがずっと楽しい。この十三という町は、梅田から近く、阪急沿線唯一の庶民的盛り場で、阪神沿線派の村山もヒイキしている。
しかしその夜は十三で降りず、まっすぐ家へ帰って、なぜかいい機嫌になっていた。「よかったわ、○○へ娘が入《はい》れて」という妻の言葉にも自然にうなずく。
こういうときもあるのだ。
人生も捨てたものではない。
それは妻もそう思っていたのであろうか、阪急沿線のマンションを手に入れ、娘を私立に入れ、希望がみな叶えられた気分で、フト、口から出たのかもしれない。イキイキして、
「ねえ、パパ、もしも、よ……」
と万佐子は勝ち誇ったようにいう。髪はゆたかに長く肩まで波打って、三十八、とみえないほど若々しい。まだ美人といって通りそうだ。ちょっと下腹に肉がつきすぎているが。
「今度生れ代ったら、よ。……どんな女《ひと》と結婚したい?」
村山は頓《とみ》に不快になった。
(何ぬかしとんねん)
と思う。
男はそんな話がキライなのだ。
知らんやないか、そんなこと。
生れ代ってみなければわかるかい、阿呆。
そんな質問は、女のバカさかげんをいかにも象徴していると、村山はにがにがしい。そう思うと、万佐子の、エリート女ぶった、したり顔もバカのようにみえてくる。
(三十代後半、四十代のオバンはみな、アホじゃ! 五十代もじゃ!)
と村山は思う。さっきまで妻を、(まだ美人といっても通りそうだ)と甘い点をつけたのも忘れ、
(中年女はアホじゃ!)
と村山は罵《ののし》りたくなる。
その気持の中には、会社の、彼の課にいる南野《なんの》ゆかりと比べる気がある。ゆかりはキビキビ働いて明るい女である。二十八である。
(みい! ゆかりが、そんなアホな質問するか)
と村山は思うが、もとより、それは口に出していわない。南野ゆかりのことは妻にはむろん黙っている。
それにしてもそんなことを訊《き》いて、どんな返事を期待しているのだ。
──今度生れ代っても、やっぱりオマエともう一度結婚したいよ。オマエしかいないよ。
と男にいわせたいのか。
もういっぺん万佐子と結婚するなんて真ッ平だ。そんな展望のないことを考えただけで、目の前が真ッ暗になってしまう。
といって万佐子を忌避しているというのではない、仲よくしたいが、それはこの世だけでいい、またそれを特に念を押して口外することではなかろう、という気がある。男はたいてい、そうではあるまいか。
その気持を心の底に押し隠して生きている。
それをわざわざ引っ張り出そうという女は、
(アホ違《ちや》うか、せっかく、気分よう飲んでたのに)
と思う。
大体、家で気分よく飲むということなどない。帰宅のおそい村山は、食事もビールの中瓶一本で埒《らち》をあけ、そそくさとすませる。貰いもののウィスキーやブランデーは、まずサイドボードの飾りもので、インテリアの一部、平生の飲み料はテレビの横の棚にあるダルマである。
自宅なればこそ、ダルマで気分よく飲んでいるという、このいじらしい男心を妻は思いやることもしないのか。
「そんなこと、わからへん、オレは」
村山は不機嫌に答える。
誰が、
(やっぱりオマエと一緒になりたい、なんていうたるかい)
と思う。しかし妻は怯《ひる》まない。
「具体的でなくてもええわ、タイプでいいなさいよ」
「タイプは無じゃ!」
村山はどなってしまう。
「無?」
「死んだら、すべて無や、いうとんねん」
村山は妻と、宗教的・哲学的論争をする気はないのに、おのずとそうなってしまう。
「来世も今生《こんじよう》もあれへん、死んだらしまいや」
「あ、それ違うわよ。この頃の説は、やはりあるって。来世があるんですって」
妻は確信ありげにいう。誰も見たことないのに、何を力入れていうとんねん、と村山はいよいよにがり切ってしまう。妻の、こんなに自信あり気なところが村山は好かない。
それがいつも村山の反撥心をそそる原因である。なぜか妻は確信的である。
来世があったとしても、もう妻とは会いとうない。たとえ会ったとしても知らぬ顔で通り過ぎそうな気がする。来世まで妻と添うていては精神的酸欠状態となり兼ねない。
いや、村山の想像では、人の世の喜怒哀楽も、あの世ではストンと取りおとし、無関心になってしまうであろう。空々漠々のあの世で、フト妻と擦れちがっても無関心にゆきずりの人となるにちがいない。村山は、死んだら「無」だと思っている。もとより村山は深い学殖も見識もあるものではない。読書量も多いといえない。新聞は日経と朝日、スポニチ、ほかは経済雑誌に折々世評高いベストセラーの本、赤提灯は十三で、野球は阪神、と思いこんでいる凡々の大衆の一人、徳望や人気がことにあるともいえないが、村山は口が荒くて「アホか、オマエは。それ見さらせ」などと部下をどなる割合に、腹に何もなく含むところがないというので好かれているようだ。しかしまあ、それだけの男である。娘の由利子が裏も表もない純な子に育ちあがったというのも、それは親の村山に似ているのかもしれない。
そういう村山だが、何となく想像する。
死んだら、
「無」
なのだ。すべて雲散霧消する。そう思いたい。死んでまで世界があってたまるか。あの世でも「扶桑化工 第二営業部長」の名刺が要るとは思いたくない。あの世までこんなに仕事が忙しくては、いかにせん。この清荒神《きよしこうじん》の山奥のマンションに移って最初の正月、部下を集めて飲んでたら、係長の柳川が、万佐子に向って、「奥さん、部長は雷親父ですから、お宅でも大変でしょう」と冗談をいった。妻が、
「それほどでもありませんわよ。だってろくに家にいないんですもの」
と答えたので、男たちは大笑いになったことがある、あの世までそんな風では、この世に生きてるせいがない、といって、あの世の極楽世界というのも、宗教心なき村山は想像しにくい。だから「無」でいいのだ。いや、無などという物識りらしき言葉もいやらしい。
「無、というより、パー、やな。パーと消えるねん」
と訂正する。
「パーやから、もし知ってる人と、(村山は、妻とはいえない)擦れ違《ちご》うても記憶はパーになってるから気付かへん、空々漠々《ふわふわ》した気持でまた離れてしまう、それでええねん」
「そんなはずないわよ」
「ないわよ、て、オマエ、死んだこともないくせになんでわかるんねん」
「週刊誌に書いてあったもの、『死後の世界』っていうつづきものを読んだら」
妻は本やテレビの唱えることを鵜《う》呑みにする傾向があるようだ。
「ヒトの説より、自分の直観のほうが正しいんじゃ」
「だってあの世でも結婚するし、生れ代っても結婚するって。だからパパは……」
「知らんがな、そんなこと!」
村山は大きな声になってしまう。しようがない。口達者な妻と対していると、つい声が大きくなってしまう。
「大体、男はそんな話、キライやねん!」
「女は好きなのよ!」
「亭主《むこはん》がキライや、ちゅうとるもんを、わざといわすな!」
「いいじゃないの、冗談で聞いてるのに、冗談で答えればいいじゃない。ほんとに可愛いげない人ねえ、あなたって」
どっちのいうことや。冗談でも〈あの世までオマエと添いたい〉なんていえるか。
妻はそう言わせようと思っているのかもしれないが、
(男を試《た》めすな、ちゅうねん!)
と村山はむくれてしまう。冗談で、もしも、
(いや、実は、会社の南野ゆかり、いう子ォと仲良うてな、いや、誰にもいうてないけど、ホンマいうたら、オレ、それを生き甲斐に生きとんねん、ゆかりやったら、もし生れ代ったとき、添うてみてもエエなあ、思《おも》てんねん)
などといったら、勝気な妻が烈火のごとく怒るのは目に見えているではないか。すべてそういう質問はいやらしい。女のあさましさから出たものだ。
「へんな性格ねえ、あなたって」
妻の非難の鉾先《ほこさき》は村山の性質に向けられる。
「せっかく今まで機嫌よく飲んでたのに、急に怒り出したりして、何よ……」
どっちのいうこと。
村山としては、ここで胸を撫《さす》り怺《こら》え、虫を殺して、〈そやな、すまんすまん〉といえば家内安全なのではあるが、それが修行の至らなさでいえない。たいてい村山がケンカを回避したから、やっと今まで保《も》ってきたのだが、──そしてそれは、南野ゆかりのことがやましいので、いささかは怯んでいたのであるが──それでも虫の居所によっては、修養のできていない未熟な性格から爆発する。女もあさましいが、男の村山もあさはかである。しかしカッとなりやすい村山の生れつきの性格だから仕方ない。
今がそうだ。村山はついにグラスを置く。
「なんでオレばっかり非難するねん。男は、悪いのは自分や、というわきまえがあるが、女はすぐ、相手が悪い、いう。自分が一つも悪いと思うてない」
「だってそうじゃないの」
(ほらほら、そうやってすぐ反駁する)と村山は思う。妻は負けていない女であるから朱唇《しゆしん》をひるがえしてまくしたてる。
「毎日毎日、帰りが遅くて、やっと早く帰ったから、のんびりとお酒の一つもつき合って、たのしーくはじめたのに、なんで突っかかるのよ、調子を合せてくれてもいいじゃないの、久しぶりなのに……」
そこで妻がやめれば、村山も反省してうなだれてしまうところであるが、妻が追い討ちをかけて、
「毎晩帰ってくるの、何時だと思うの?」
ときめつけるから、売り言葉に買い言葉、
「毎晩帰るだけ、マシやないか」
あさはかな村山だ。家へ帰るととたんに舌が動かず、「むむ……ぐぐ」になる、という男もいるが、何の因果か村山は家でも舌が動く。これはわりに活溌な、多弁家《おしやべり》の妻に触発されるのであろうか。
「オレ、いっぺんでも外泊したか。こんな遠いトコへ毎晩、仕事すんで帰って来るねんぞ、その苦労、思うてみい。長いこと電車にゆられて駅へ着く、駅からバスに乗って山の中へ分け入って、バス下りて坂登って、星を仰ぎながら西部の開拓地みたいな町通りぬけてやな、マンションへたどりついて四階まで階段昇っとんのじゃ、シルクロードの全行程、踏破したんか、思うぜ。こんなド田舎に住むよってじゃ」
「だって阪急沿線は高価《たか》いのよ、こんな新開地の住宅街だから買えたのよ」
「そやから、親父らと住んだら便利で近うてよかったのに」
村山の両親は古くから尼崎の下町で小商売をしていた。村山たち息子らがあとを継がないので今は商売もやめ、親父は市のシルバー人材センターで軽い仕事をして、両親だけで気楽に暮らしている。土地つきの小さい家も古くから親父の持ちものである。家に手入れすれば住めるから来いと両親はいい、村山も、そのへんは大阪のキタの都心に近く、何よりにぎやかで便利で、物価も安く、庶民的に気楽な町だから、移転するならそこへいきたかった。出屋敷《でやしき》という猥雑《わいざつ》な下町だが、村山はそこで育って、気取りのないその下町が好きなのだ。
しかし妻は、村山の両親と同居するのを好まない以上に、〈阪神沿線なんてイヤ! ガラ悪いじゃないの!〉と一刀両断にいう。この一刀両断があさはかな村山のムカムカを誘い出す。しかしそのときは、村山は、こんな一刀両断妻と両親を同居させる煩わしさに思わずたじろぎ、まあまだ、両親は達者やねんし……、と自分たちだけ、宝塚のマンションに移ることにしたのだ。しかし、こう遠いと、つい、出屋敷の便利さと比べたくなる。
「阪神《ヽヽ》沿線なんか住めないわ、由利子には阪神なんかで通わせられませんよ」
妻は阪急《ヽヽ》電車に強い思いこみがある。村山は少年時代から阪神電車に親昵《しんじつ》し、通学通勤に利用してきた、ガラがわるいのどうのと考えたこともなかった。
大阪・神戸間には三本の動脈が走っている。もと国電といった電車、それに私鉄の阪急、阪神である。新幹線もあるが、これは日常の庶民の足にならない。
妻の万佐子は阪神間地方は日本で最高の住み心地のいい地方だと信じ、その中でも山手の高級住宅地を走る阪急沿線以外には住みたくないと信じ込んでいる。この沿線には日本有数の資産階級の豪邸が軒を並べ、私立の名門学園、坊ちゃん学校、嬢ちゃん学校(由利子の入ったのもその一つである)更には、宝塚歌劇団のある地域を縫う。だから乗客は、インテリ、資産家(インテリはともかく、資産家が電車に乗るかねえ、というのが村山の疑問だが)良家の令夫人令嬢、美しき歌劇団生徒たちだと、妻は主張する。(自分もその一人と錯覚してんのと違《ちや》うか、と村山はにがにがしい)
それに反し、阪神は下町、海辺工業地帯をくぐりぬけて走り、乗客はモロ、庶民のおっさんおばはんである、と妻は断定する。この、阪急と阪神の話が出ると、村山はあさはかにも、またもやむらむらと、
(何ぬかしやがんねん)
と思ってしまう。止せばいいのに、
「阪神のほうが車体広うて綺麗やわい」
と反駁してしまう。
「ふん、阪神愛用者の身びいきね。阪急は窓から花の匂いがするわよ、阪神は煤煙が入ってくるだけね」
と妻は嗤《わら》う。
「阪神は海が見えるわい」
「阪急は山が見えるわよ」
「『一番早い阪神電車』のキャッチフレーズ通りじゃ」
「『待たずに乗れる阪急電車』というじゃないの」
「『一番早い阪神電車』のほうが、ずっとすっきりして口調がええわい」
村山は阪神の株主でもないのに、妻に対抗して阪神電車を推賞しないではいられない。これを要するに、村山は庶民派好みであり、妻の趣味は上流志向である、ということなのだろう。村山は実際のところ、シルクロード全行程を踏破してまで、上流志向の沿線に住みたくない。一番早い阪神電車で、猥雑な下町に住みたい。駅を下りると市場があって、踏切をくぐると飲み屋が固まっており、競艇のある日はいっぱいの酔っ払いで溢れる、肉や野菜が安くて豊富というような市場が、家の百メートル先にある、という下町に住みたい。
しかし現実には住めない。
住めない町だからこそ、そこを走る阪神電車を、村山は擁護せずにいられない。村山は阪神電車が可愛いくなってくる。何が資産家の愛用する阪急じゃ。そんなん、あくかい。
もういけない。村山は新たにダルマからウィスキーをつぐ。氷と水を入れる。これ以上飲んだら何をいうかしれないのに。
阪神電車の色までいい、明るいクリーム色だ。好きな色だ。妻は負けない。
「あら阪急はチョコレート色よ」
「あれは汚れ隠しに、あんなババチイ色塗っとんのじゃ。──阪神はな、甲子園球場があるよって、大群衆の整理に慣れとんねん。あしこで何万人の高価格会の大会あったかて、阪神電車はビクともせえへん、うまいこと捌《さば》きよんねん」
「あら、阪急だって西宮球場があるわよ」
「西宮と甲子園では観客の入りが違うわい。野球も知らんくせに。阪急の野球見てみい、客がみな寝転がって見られるくらいや、客の数は阪神とはケタがちがう」
「そりゃ、あたしは野球、知りませんよ、でも今年も阪神がやたら弱いというのは知ってるわ、何さ、十二球団中、最下位のくせに」
「アホな子ォほど、可愛いいんじゃ! 抛っといてくれ、どない負けようと見捨てへんのがタイガースファンじゃ、女にこの気持わかってたまるか、うるさいわい!」
いい具合にはじまった妻との団欒が、村山のわめき声でチョン、になった。娘が勉強部屋から出て来て、それとなく村山と妻に視線を走らせながら、キッチンの冷蔵庫からコーラを取り出し、コップについでいる。村山の大声はわりによくあるので、娘は心配はしていないが、それでも様子を見に来たのだろう、
「お母さん、コーラ飲む?」
などといって、娘なりに座をとり持とうとしている。村山はそういう娘の心づかいが可愛いい。
口を噤《つぐ》まずにいられない。
「ううん、お母さんはいい、さあ、もう寝ようかな、由利ちゃんももう、やすみなさいよ」
妻は口も達者ではあるものの、事態を収拾する手ばしっこさもあるのだ。村山に向って、
「パパ、もうぼちぼち、おいたら?」
などと、娘の手前、てのひらを返したように平静にいう。村山はこういうとき、芝居ができない。不発の爆弾を抱え、
「むむ……ぐぐ」
というのである。
「いや、あれはほんまに、何というのか、女房《よめはん》の怪《け》ッ体《たい》な質問がいかんねんなあ」
と村山は南野ゆかりに訴える。
「生れ代ったら誰と結婚する? なんていう質問、およそ愚劣やないか」
「──だけど、阪急阪神論争もおかしい」
とゆかりはうつむいて枕を抱えながら笑う。
村山は天井を向いて煙草を吹かしている。
あんまり家の話はゆかりにはしないのだが、生れ代り結婚のあまりの愚劣さに、村山はつい、しゃべってしまう。
そしてそれは、ゆかりの雰囲気、彼女の部屋の感じが村山にしゃべらせるといってもいい。ゆかりの部屋は畳敷きの和室である。
ゆかりは帝塚山《てづかやま》の古い大きな家の離れを借りている。知り合いの主人一家は海外へ赴任しているので、今は老人夫婦しか住んでいない。そこで留守中、身もとのしっかりした人に離れを貸したいということで、ゆかりは頼まれた。身もとがしっかりして、帰宅時間がルーズでなく、ついでに老人たちに不測の事態でも起ったとき頼りになる人、というので、ゆかりが見込まれたのだ。男の下宿人は麻雀なんかされるとうるさい、夫婦者は子供ができるとやかましい、水商売は夜がおそい、学生はいざというとき世間知らずで頼りにならない、というと、やはり年の締ったハイ・ミスで、堅気の勤め人、ということになるのだそうである。
それが(男引きこんでるとは、家主も思いかけんやろうなあ)と村山は思う。
こんなつもりではなかった、キビキビして明朗で、そのくせ女の媚《こ》びなんか見せない、化粧気もない南野ゆかりに、かねて村山は「女の色気」を感じていたが、まさか特別の仲になるとは思わなかった。
村山はゆかりが使い勝手がよいので、「南野くん、南野さん」と追い使っていたのだ。よく働き、あたまもいい。おかしいことがあると天井を向いて笑う、さばさばと気取りのないゆかりに、かえって、(女の色気あるなあ)と思い、好もしくて、たまには雷も落すものの、「お気に入り」であったのだ。あるときゆかりが、
〈部長さん、面白い部屋、今度借りたんですよ、古いお邸です。お庭に蔵もあるんです〉
という。
〈それに、チンチン電車で通うんですよ〉
〈ほう、あの阪堺《はんかい》電軌の上町線か〉
大阪で唯一、路面電車が、天王寺から南の住吉公園までトコトコと走っている。村山はそれを知っているが、見たことはあるものの、乗ったことはない。いっぺん見にいらっしゃいませんか、と気軽に誘われて、チンチン電車に久しぶりで乗ってみよか、と何心もなく村山はついていった。天王寺から、ワンマンカーの濃緑の路面電車に乗る。
〈走るアンティークやなあ〉
などと二人で興じていて楽しかった。体操服のような白いスカートをはいたゆかりは、姫松で村山を促しておろした。ここまでくると、もはや、ついさっきの天王寺のネオンの賑わいはウソのようだ。一時間半もかけて宝塚の山奥へ帰らなくても、大阪のミナミならほんのひとまたぎで、静かな住宅街になる。大きな邸だった。ゆかりは八畳ぐらいの和室を借りている。台所と風呂は母屋のを使わせてもらうそうだが、大きい冠木門《かぶきもん》のくぐり戸をくぐると、庭の柴垣で離れは母屋と分けられていて、誰にも顔を合さずにすむ。
縁側のガラス戸をあけると、小さい築山と石燈籠がみえた。何より村山は、畳敷の和室に感激する。村山は畳が好きなのだが、自宅では木の床や絨毯《じゆうたん》ばかりで、畳の感触を味わうことができないのだ。ゆかりは笑った。
〈そう、思った。きっとお好きやろなーって〉
〈そや。男は和室好みやねん、こういうタタミの上で、庭の苔見ながら、大の字になって寝たらええやろうなあ、と思う〉
〈どうぞ。そうしはったら? あたしね、この部屋をはじめて見たときから、いつか、ここへ部長さんご案内しよう、ってきめてました。いつかは……って思ってたんです〉
ゆかりは肩をすくめ、天井を向いて明るく笑うと、笑いを浮べたまま、村山の胸に飛びこんできた。
〈怒りはる? そんなこと、ないですよねえ。あたしのこと、お嫌いじゃないはずよ〉
〈知ってたんか〉
〈あたりき。部長さんは正直ですからね、すぐわかるんです。あたしは部長さんを好きだと思いますか、嫌ってると思いますか〉
〈好き〉
〈ピンポーン!〉
濃緑のチンチン電車の風趣は捨て難いが、村山はそれからはゆかりと一緒に乗ることはしない。ゆかりが先にチンチン電車で帰る家へ、あとから村山はタクシーでいき、帝塚山三丁目のあたりで車を下りて、静かにくぐり戸をくぐる、ということを、やっている。もうここ、一年ばかりになる。
ベッドだと、手や足がはみ出ると宙に浮くが、蒲団なら、ひんやりした畳に触れ、村山はそれが何とも好もしい。それに化粧気もなく日灼けした、表情のゆたかな南野ゆかりが、いよいよ可愛いくなってくる。可愛いくなっても、どうしようもないのだが。……しかしゆかりはあわただしい村山との逢瀬《おうせ》を本当に喜んでるみたいだ。村山は泊りはしないが、帝塚山へ寄る時が、月に一回、二タ月に三回、ぐらいある、帰宅が遅いのはそういう日も含まれているのだから、妻に怒られても何ともいえない。しかし村山はただいまのところ、殺伐たる人生に、ゆかりだけが生き甲斐である。古く煤けた柱や天井板、ひんやりした畳、ゆかりの滑かでつめたい肌。庭先の月の光。
スンで了《しま》うとさっさと眠りこみたくなる妻とのベッドタイムと違って、村山はいつまでもゆかりと、とりとめないことをしゃべっていたい。これだけがただ今のところ、村山の人生のオアシスなのだ。ほんとうは一週間に、二、三べんも会いたい。そしてゆかりと寝るだけでなく、こうして四肢をたがいに長々とからませあって、小声でとりとめもないおしゃべりする、それがいいのだ……。妻との時みたいに、つい大声が出たり、腹の立つあとあじ悪い団欒ではなくて。
「しかし、オレの好きなんは、やっぱり阪神や無《の》うて、この上町線、チンチン電車やなあ。これがほんまに好きになったよ」
と村山はしみじみ、いう。ゆかりはクスッと笑い、村山のほうへ寝返り打って可愛いく、
「ねえ、じゃ、あたしも訊《き》くけど」
「うん?」
「もしかして、よ」
「うん」
「男のひとが乗ったヒコーキに故障が起きて、不時着するかもしれない……そういうとき男のひとのあたまにすぐ浮ぶのは、奥さんですか、子供ですか? 外国の男たちは奥さんだというけど、日本の男のひとは子供なんですってね。部長さんはどっち?」
──村山は、
(知らんがな、そんなこと!)
とどなりたくなった。それで一瞬、間《ま》が空き、(むろん、ゆかりやないか)と軽く躱《かわ》すタイミングが失われた。
なんで女というものは阿呆なことを聞きたがるねん。まだ落ちるヒコーキに乗ったことのない村山に、わかるはずはないではないか、ゆかりですら、阿呆な質問をして村山を困らせるのであるか。
(二十代女もアホじゃ!)
黙りこむ村山に、そうそ、とゆかりは口調を変えて明るくいった。
「ここのおうちの人、急に転勤で帰って来はるみたい、秋には部屋を空けないと。──あたしもボチボチ、結婚相手、捜すかなあ」
──オアシスと思ったのは蜃気楼《しんきろう》だったというのか。
村山はその晩、またもやシルクロード全行程を踏破して、とぼとぼと自宅に帰る。家族はいつものように眠っている。すぐベッドへ行く気になれず、居間でビールを抜き、何ということなく茫然《ぼうぜん》と沈思する。
そのうちシルクロード踏破の疲れか、ソファに横たわりたくなった。──夢を見た。
月光が照っている。これは、今さき帰るときに、月光が印象的だったからであろう。
しかしその月光は海上を照らしている。
美しい海の上を、自転車がこちらへやってくる。乗っているのは女たちである。妻のようでもあり、娘のようでもあり、ゆかりのようでもある。次から次と、沖から波の上にあらわれ、ツーと自転車を漕いでそのまま波を切って渚に上り、次々に水滴をしたたらせつつ、やがて砂浜を小さく遠くなってゆく。
水面を進む自転車。きらめくしぶき。
村山は夢の中で叫んでいる。
〈ちょっと訊《き》きますが、そんなことができるんですか〉
どこからか、〈できるんです……〉という返事が聞える。村山は夢の中でそれを信じはじめている……。
村山は自分の深いため息で目を覚ました。覚めても、ハッキリ、夢を覚えていた。波の上を自転車が走れるはずはないのだ。ゆかりとの情事も、妻との団欒も、いうなら束の間の、「波の上を走る自転車」、現実にはないのだという示唆なのか。
村山はよろめき、よろめき、寝室のベッドへ向う。今夜も阪神は負けている。
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日本常民パーティ事情
その日、星野が帰宅すると、すでに、ワンルームの部屋は派手に飾り立てられていた。テーブルには大皿に料理が盛られていたが、色とりどりのオードブルは、星野の印象では千代紙を切って散らしたようだった。
妻の日奈子《ひなこ》はまだ料理に掛っている。
細長くて先が三角に尖ってるという、奇妙な形の土地に建った家だから、ワンルームといっても、電車の廃物を利用したように細長い。トイレはそのずっと奥にある、三角の一隅である。
三角の更に突き当りに、オトコ便所の朝顔がある。
星野はこの新築の家で、三角コーナーの朝顔だけが、唯一、気に入った部分である。それまでは大小兼用の便器だった。家を建て替えるに際して日奈子が、
「パパ、希望をいってよ、間取りの」
といったとき、星野は答えた。
「オトコ便所、作ってくれやあ」
星野は家づくりに趣味がないから、イメージも湧かない。オトコ便所しか頭に浮ばない。
しかし日奈子はかねてから、もし家を建て替えるなら、ああでもない、こうでもない、とどっさり考えてきたらしい。家づくりは女の本能的な趣味なのであろう。男と女は違う。
三角コーナーで用を足してから、星野は二階で服を着更え、廃物電車のようなワンルームへ下りてくる。
日奈子はなおも、キッチンから皿を運んでくる。車えびの山盛りである。星野はいった。
「隣家《となり》、医者の車、来とン[#小さい「ン」]で。二、三人が入ったり出たりしてるけど、隣の爺サン、かなり悪いのん違《ちや》うか」
「一週間前から危篤なんですってさ」
と日奈子は驚く気色もない。
「死ぬまで病院にいればいいのに、死ぬんなら家で死にたい、なんていって、無理に帰ってきたんですってね。人騒がせなお爺ちゃんね、わがままなのよ」
「……今晩、やかましい物音立てると、まずいんじゃないか」
「だってしょうないじゃない、パーティの日取りはきまってるんやし!」
「………」
「このパーティを生き甲斐にしてきたんよ、あたしは。──えーと、あとは揚げものと、サラダか。パパ、ステレオの具合、見といて。テープ入れてるから」
星野は|B G M《バツクグラウンドミユージツク》の係りをいいつけられているので、しゃがみこんで鳴らす。突然、大きな音でポップスが鳴り出し、狼狽《ろうばい》して低める。土地いっぱいに建てているので、隣家の窓は手を伸ばせば届きそうに近い。危篤の爺さんがいるという隣家を控え、こちらで新築落成パーティをやらかしてもいいもんであろうか。
「パパ! 呆ッとしてないで、お酒のビン並べてよ、もう時間ないのよ、あたし、これからお化粧するわ、音楽はもっと大きく! エンドレスにして」
日奈子はパーティの歓びに夢中の|てい《ヽヽ》である。
しかし星野はパーティなど、好かないのだ。妻が、それを生き甲斐にしてきた、というから、止むなく同調しただけだ。星野は地味好みの男で、自宅にたくさんの人間を招いてパーティをやらかす、なんぞという派手なことは好まない。
日奈子が派手好き、というよりも、むしろこれは、男と女の違いではないか?
男と女の違いにつき、星野はつくづく考えさせられるようになった。星野は四十三である。妻は四十一になる。子供はない。
子供がないから男と女の違い、などという悠長なことを考えていられるのかもしれない。
星野は係累が多いので自分の子供はもう要らない、と若い時から思っていた。身内の多いのには懲《こ》り懲《ご》りだ。
日奈子は独り娘だったので、子供を欲しがっていたが、二度流産してそれからはできない。星野は内心、やれやれと思っている。もうこの年齢で子供を持つことはないであろう。子供なんてもんはあとさき見ずに持つものだ、と星野は思っている。前後左右を見渡せる醒めた年頃になって、子供を持つことはできない。あれは、何が何やらわからぬ、あたまに血がのぼったままの血気さかんな怱忙《そうぼう》の年頃、目も鼻も耳も利かぬ、濃い惑乱の霧につつまれた年代であればこそ、夢中で子供を持ち、夢中で育てられるのだ。
中年になってみい、じっくり考えてみたら、子供なんてつくってられるかい、と星野は思う。登校拒否、家庭内暴力、非行、おそろしいばかりだ。神サンは、よう考えてはる、と星野は思うものだ。人間はワケも分らぬ若いころに、夢中で子供をつくり、夢中で育てあげるようにしてはるわい、と思う。
若い時代に、人間の行く先々までおもんぱかるような醒めた目や、冷静なあたまが与えられていたら、誰も子供を作ろうなどという蛮勇は振わぬであろう。さればこの世に人種《ひとだね》が絶えてしまう。神サンはそこをちゃんと見越して、無我夢中年代に子供をつくるよう、人間の本能にインプットしはったんや、と星野は思う。
そのへんのところを女は省察しないから、日奈子はまだ、子づくりに未練があるらしい。
「四十でも生んではる人あるわよ、パパ」
と高名な女流の名をあげた。それはその人それぞれの勝手であるが、四十になったらもっとほかにすることあるやろう、と星野は思うものだ。四十になって無我夢中年代と同じことをやらないでも、四十でなければできぬことをやったらよい。
しかし星野はそういうことを妻にしゃべらない。子供に関する限り、星野は寡黙である。
(いや、すべての点に於て、星野はどちらかというと、家へ帰ったら無口になってしまう)
日奈子が、子供もいないのに星野を「パパ」と呼ぶのにも今は慣れた。日奈子は父親をそう呼んでいたが、その呼称がいつか夫に移行したようである。
星野のほうは、日奈子をママとは呼べない。考えてみると名も呼んだことはない。
いや、男と女のちがい、というのはそういうことではない。
日奈子の関心は最近、やっと子供から逸《そ》れて「家」に向った。日奈子の両親が死んで、小さな土地と家が遺されたのだ。大阪の北郊の小さい町で、都市計画が行き届かないうちに、バタバタと開けてしまったというような住宅街である。タクシーも家の前まで行きかねるような、細い道を折れ曲り、曲りくねった奥にある。
日奈子はこの家を取り壊して、好きなように建てようという夢を持ちはじめたのだ。
星野たちは古くにできた浜甲子園の団地の一階に住んでいた。古いが適度の大きさで、家賃は安いし、バス停は近いし、最寄りの阪神電車の駅から大阪市内の会社まで四十分でいける。
子供もいないことではあり、星野はこれでいい、と考えていた。
ところが日奈子の母親が先に死に、父親が星野たちに同居を求めてきた。考えな、あかんなあ、と煮えきらぬ気持でいるうち、思いのほか早く、父親も死んでしまった。妻に死なれた男はがっくりと早く逝く、という説を、あらたに立証したごとくである。
日奈子が土地と家を相続することになったのだが、星野は古ぼけた奥暗がりの、陰気な日本家屋へ住む気もしない。
それは日奈子もそうだという。勢い込んで、
「もっと明るい洋館にするの。パーティできるようなサロンのある家を建てたいの」
「パーティして、何すんねん」
星野の人生には日頃、「パーティ」なんて言葉を口にする機会は絶えてない。彼の会社は計測器メーカーであるが、べつにパーティへ出席するような部署でもないのだ。まして家庭でパーティなんぞというのは、人生の字引きにはないから不審である。
「何すんねんて、パーティをするんじゃないの。とにかく、広い部屋をどかーんとひとつ、というのをつくりたいの、もうこんな、小間《こま》がちょこちょこ、というのには飽いたのよ」
と日奈子はいう。住んで六、七年というところで、飽きるほどではないと思うが、ともかく日奈子の関心は「子供」から「パーティのできるような家」に移った。
なんでパーティにこだわるのか、と星野は思ったが、
「いま、ハヤってんのよ、家庭《ホーム》パーティが」
と日奈子の話である。団地でも、気心の知れた仲のいい主婦たちが、会場廻り持ちで、ワインや酒の肴を持ち寄り、あるいはサンドイッチ、あるいはお握りを持ち寄って、
「パーティを開いてる」
という。
夫の帰宅の遅い日、出張する日の家庭が会場になるという。星野は解釈に苦しみ、またしてもいわずにおれない。
「パーティして何すんねん」
「何するねんて、だからパーティやないの」
「女の人は階段の下や、団地の広場で、いつもしゃべっとるやないか」
「あれは井戸端会議よ、パーティとは違うわ」
「どない違うねん」
「話題が違うわよ。パーティでは子供の話なんか出ませんよ、もっとハイセンスよ」
子なしの日奈子は、主婦たちの井戸端会議に子供の話が出ると、疎外されるらしい。日奈子は満足そうに、
「そうね、読んだ本の感想を言い合うとか、文化教室でやってる『源氏物語・原典を読む会』の話とか、……それをワイン飲んでオードブルつまんで、やってるわけ」
星野は口を噤《つぐ》む。男は「源氏物語」というコトバが出ると弱い。まして「原典で読む」なんて聞くと怯えてしまう。星野も男の常とて「源氏物語」というコトバを聞くと、ひるんだ目付きになって黙った。
しかしそれを以《もつ》て、男と女のちがいというのではない。
ともかく家が出来上った。それについては日奈子の奔走は、火事場の大力という如く、物凄かったのだ。星野はかねて、日奈子は箱入主婦で、社会に出ていないから、実行力はあるまいと侮っていたのだが、女は、いざとなると火事場の大力である。家を新しく建て替えるという究極の希望があると、女は奮い立つものらしい。税金を払い、工務店とかけあい、古い家財を売り払い、銀行から借金し、日奈子は駈けずりまわっていた。
星野といえば、希望の間取りを聞かれて、
「オトコ便所、作ってくれやあ」
ぐらいしか、いえない。団地の小さい便器に中腰になるのはもうかなわんと思い、
「大ッきい朝顔据えてくれたら、それでエエ」
男でも、わが家の設計に血道をぶちあげる手合いもいるであろうが、星野は、妻の両親の遺産、ということもあって、どこかひとごとめいて、オトコ便所しか発想にないのである。
ほかにテレビをごろりと寝て見られる場所なんかがあればよい。星野は妻に任せていた。
家が出来上った。星野は、まだ大工が入っているが一応できたというので、行ってみた。
行ってみて驚倒する。
路地の奥に、白塗りの羽目板、三角の赤い屋根瓦という、クリスマスケーキのような家が、忽然《こつぜん》と現出していたのだ。星野は目をこする。
「モルタル・木造、いうてたやないか……」
「でもこのほうが、感じがいいじゃない」
日奈子は抑えかねる会心の笑みを洩らす。玄関のドアは銹朱《さびしゆ》色に塗られ、脇の出窓には白レースのフリフリのカーテンが下がっていた。出窓には鉢植の花がこれ見よがしに飾ってあった。両隣はごくふつうの、小さい門のある日本家屋、その間に挟まったディズニーランド風のクリスマスケーキの家、これを四十面下げた男に出入りせい、というのか。
そのとき星野は、男と女の違いを身に沁みて感じたのである。
女は、
「羞《は》じらい」
というもん持ってへんのと違《ちや》うか、と星野は思うものだ。羞じらい、などという高尚な言葉を使うまでもない、単に、
「ハズカシイ」
という気分、といってもよい。この家は星野にはハズカシイ。しかし建ってしまったのだ。
「なんや、これは」
というのが精一ぱいだった。玄関を入るなり、女房自慢のワンルーム、「どかーん」と広い部屋といいたいが、何しろ廃物電車の利用という細長い部屋だ、板敷なので、廊下だと思う客もあるかもしれない。奥へ進むとキッチン、風呂場とあって、三角コーナーのトイレで行き止まり。二階に寝室と、洋間、日本間がある。間取りに苦心したと日奈子は手柄顔でいうが、まあそれはよい。しかし白い羽目板の、赤い三角屋根のクリスマスケーキを日夜出入りせねばならぬかと思うと、星野は動悸《どうき》が早くなるのであった。たしかに、「オマエの好きなようにしたらエエやないか」と妻にいい、「任す」とはいったが、まさかクリスマスケーキとは思わなかった。女に、ほんのちょっぴりでも、「羞じらい」という気高い精神活動があるならば、こんなウチへ出入りできるはずはなかろう。
しかも妻は、この家へ、友人を呼んでパーティする、というのだ。団地の友人、文化教室の友人、それに学生時代の友人で、いま女医になってるのやら、(これは日奈子の自慢である)そんな連中を招《よ》ぶという。
星野は、このクリスマスケーキの家へ、会社の友人にしろ、学生時代の友人にしろ、招ぶ気はしない。団地にいたときは、正月になると飲みに来てくれる友人もいたが、この家では「ハズカシイ」。男と女は違うのだ。男には「羞じらい」という高尚な感情があるのだ。※[#歌記号、unicode303d]とン[#小さい「ン」]がり帽子の時計台……というようなウチへ友人を案内し、
(よ、入れや。ここや、オレとこ……)
などと請じ入れられるものであろうか、考えるだに「羞じらい」で目が眩《くら》み、身が縮んで寒疣《さむいぼ》が出そうだ。
しかし星野は、それをむきつけに妻にいえない。子供のない夫婦は緩衝地帯がないので、思ったことをその通りいえない仕組みになっている。且《か》つ、星野が折れる仕組みになっている。やっと、おずおずと、
「パーティの日ィは、オレ、どっかで飲んでくるから……」
といったのだが、
「だめだめ。お酒の接待するのはホストの役目やないの、アメリカではそうやて」
オレ、アメリカ人ちゃう。とはいえない。
「みんなもパパに久しぶりで会うのん楽しみにしてるんやから」
オレは会いたくない。とはいえない。妻の友人、といっても団地の主婦といい、文化教室の知人・学友といい、みなオバンだ。しかも魅力のないオバンばかりだ。
「第一、パパがいなければこの家、間《ま》が抜けるわ」
オレはインテリアの一部ではない。とはいえない。そこで星野は音楽を鳴らしてみたり、酒と水の用意をさせられたりしている。今夜を晴れと妻は奢《おご》ったらしく、テーブルにはこぼれそうにたべものが並んだ。
七時半、客は固まってなだれこむ。星野の知っている顔もある気がするが、星野は商売関係なら別、女の顔をおぼえるのがにが手だから、名前なんか出てこない。
女たちは妻をかこんでいっせいにしゃべりはじめ、家をほめたり、早速、三角コーナーまで探検したりし、中の一人はついでに用を足したらしく、
「ちょっとォ、トイレの紙、少くなってたわよ、これほどの家にトイレットペーパー余分においてないなんて」
とわめきながら出てくる。いやな女である。
「あ、棚にあるのよ」
という妻は、シルクのプリントのロングドレスに着替えていた。集まってきた女たちもそれぞれ、太いウェストを物ともせず着飾っていた。なるほど、こういうのがやりたかったのか。
星野はビールをついで廻る。誰かにむんずと手首をつかまれ、
「旦那、元気? 久しぶり」
と笑うのを見れば眼鏡の、白粉気のない女である。
「は? いやいや、まあまあ」
「顔色、ちょっと悪いのん、違《ちや》う?」
女はなれなれしく闊達にいって、やにわに星野の手首の脈を慣れた風に指で抑える。
「不整脈の気味あるなあ」
などというから、そうそう、女医だったと思い出したりする。顔なんか全然、おぼえていられない。玄関のドアがひっきりなしにあき、
「今晩は。どうもお招き頂いて」
とまた、女があがってきた。迎えるのは星野である。これは見おぼえがある、前の団地にいた主婦だ。
「ようお越し。まあ、あがって下さい」
「すみません、子供連れてきたんですけど」
「子供」
「主人が見てくれるハズやったんですけどね、つまらないことでケンカしてしもて、見てくれへんのですよ、それで連れてきたの。大きいからおとなしいんですけどね」
玄関のドアをばたばたさせて遊んでいる、七つぐらいの男の子と、三つ四つの女の子を彼女は入れた。子供二人はハキモノを脱ぐのももどかしく、女たちのむらがっているテーブルに突進する。団地主婦は星野にいったのと同じことを女たちや日奈子にくり返していい、ベンチの一隅に割りこんで、
「アメリカ村みたいなおうちやわねえ」
「ムラはないでしょ。西海岸風、といってよ」
日奈子は機嫌がいい。女たちは食べにかかるもの、ウィスキーの水割りを自分で作るもの、家じゅう見てまわるもの、階段から、
「ちょっとねえ、……ねえって。星野サン。この階段、急ね、これがちょっと玉にキズねえ、惜しいわ」
などといって、二階まで上ってゆくもの。
「あの人のクセよ」
と、とりなす太った女。休む間なく口を動かしつつ、
「ほら、トイレへ入るとさ、これほどの家にトイレットペーパーない、なんていったりして」
二階をあるきまわる音がする。
「窓が鬼門にある、なんていうんじゃない?」
と、これはやや若い女が、チーズコロッケを食べながらいう。と、二階から下りてきた女、
「星野サン、窓が鬼門についてるわよ」
といったので、女たちはどっと笑う。
「えっ、どうかした?」
と鬼門女はまわりを見廻す。これは痩せて口の大きい、頬骨の出た女である。
子供の小さいほうのが「オシッコ」といい、子連れ女はあわてて三角コーナーへ連れてゆく。座にいないと早速、槍玉にあげられるがこの集まりのクセらしく、
「ベビーシッターの風習が定着してほしいわね」
「いや、それはないと思うわよ、なんで子供と親と引き離すんですか、という親が多いから、さ。親の行く所へ子供を連れていって当然じゃありませんか、とくる」
これは女医である。
「アグネス・チャンみたい」
「子連れで来ちゃいけない、なんて差別やないの、といったりするから」
「ジャズダンス教室まで赤ん坊つれてきてる人いるからいやんなっちゃう」
そこへ子連れ女が戻ってきて、
「えー、なに、赤ん坊つれてどうしたの」
というからまた女たちはどっと笑い、話題は再び逸れて、
「しっかし、楽しいわねえ、こうやって男抜きで、飲んだり食べたり、しゃべったりって……」
「あ。ご主人いたはるよ、ここの」
星野はいっせいにみつめられる。割りこむスキがないので、星野はひとり離れてキッチンに近い窓ぎわの、造りつけのベンチに坐って飲んでいた。
「あ、いたはるけど、気にならないトコがいい、男ってそういうのであってほしいわね」
おしゃべりらしい、酒好きの女がいう。
「いても空気っぽい人、というか、いなくてはならぬけれど、いても気にならへん、と。おたくのご主人ってそんなトコやないかしら」
「男のカガミね、ウチなんか、第一、あたしが客を呼ぶと、入れ代りに出ていくわ、ウチは狭いからそのほうが助かるけど」
星野も出来るならば出ていきたい。しかし、
「氷!」「お水下さい」「グラス、新しいのありません?」などという声に、ギャルソンのごとく応じていると、出てゆくきっかけもない。皿がまわり、鉢が手から手へ渡り、女たちは暴風のようにたべものに襲いかかりつつ、
「だけどねえ……」
と、みな三十代後半、四十代の「しゃべり盛り」という精気にみちみちた声、
「なんたって、男がシッカリして女がアホなんと、女が『カシコ』で男がアホ、という組合せ、どっちがうまくいくか、というと、女が『カシコ』のほうね、家庭とか、自営業のお店とかは、女がシッカリしてないと保《も》たへん」
「そ。いえてる」
「国もそうや」
「民族の興亡盛衰のカギは、女が握ってるねん」
「男は?」
「男はツナギや。歴史の」
「なんせ、母胎が大事やねん、民族かて。タネは借りもの」
「いや、それで思い出したけどさ、馬とロバのあいのこの、ラバというのがあるわねえ」
「あるある」
「ラバは馬の雌とロバの雄から生れたんやから、体が丈夫でよく働くんやて。反対に、ロバの雌と馬の雄は、ケッテイというて、弱くて使いもんにならへんらしい」
「ふーん」
「すべて母胎が大事やねん、畠がシッカリしてたら、タネは少々粗末でもエエ、ってこと」
「源氏物語」もいやだが、ロバの話も星野にとって嬉しい話題といえない。そこへまた玄関のドアが開き、客の来た気配。
星野は女たちの背中を通って出てみた。上品な老婦人が、若いおんなを従えて立っている。
「今晩はお招き頂いてありがとうございます。つきましてはうちの嫁が、こんど家を建てますについて、参考にさせて頂きたいと申しますので、失礼かと存じましたが、ついでに連れてまいりましたの」
星野はこういう老婦人のお相手に最も窮する。失語症になってしまう。
「どうぞどうぞ」
というのが精一ぱい、「嫁」は玄関で他の客のハキモノを揃え、老婦人のあとについてつつましく上りこむ。新参の客は、三角コーナーから二階へと案内され、そのうち、
「あらあら」
と二階で女たちの悲鳴があがった。
星野はいやな予感がした。老婦人が叫ぶ。
「お子さんがサインペンで壁に落書きなさってますわ……」
「へー、おとなしい、思うたら」
子連れ女が二階へすっとんでゆき、そのとき再び玄関のドアが叩かれる。
もう星野は、どうなとなれ、という心境である。
出てみると、隣家の男である。
「すんません、お玄関の前に、車、ちょっと置かしてもらえますか。いや、出入りにご不便はかけません」
「よろしいですよ、どうぞ」
「ちょっと取り込んでまして、車の置き場がないもんですから」
ドアの向うにみえる隣家の玄関は、開けっぱなしで、灯があかあかと外へ流れていた。
キッチンの窓の向うは隣家の居間らしく、聞きたくない声も流れてくる。
「もしもし……」
と電話でしゃべっているらしい。
「あ、僕。お爺ちゃん、いま死んだ」
死んだのか、と星野は思う。しかし隣家から流れてくる声は、あんがい、明るい。
「え? いや、今晩は遅いさかい、明日来たらええ。……わかってる、わかってる、て。四・三・三で分ける、いう話、前についたァるねン[#小さい「ン」]。え? 田舎の土地か。あれはお前、お爺ちゃんのもん、違《ちや》う。……いや、田舎は田舎で、ややこしねん。……そや、オレのモーニング、貸し衣裳たのんどいてや。……明日、友引やよって、明後日やな、葬式は」
星野は静かに窓を離れる。空腹に気付き、女たちがむらがっているテーブルを眺めるが、はや、残骸《ざんがい》の山である。客の持参した土産ものの中に、何か、食えるものはないかと、キッチンのステンレスの調理台の上に積み上げられたそれらを物色するが、それらは、
1 ようかん。(星野は、ようかんを今も食う人種があろうとは思えない)
2 おかき。(一昨年のお歳暮に貰ったとおぼしい、一つ一つのセロファンの腹が裂けている、というようなもの)
3 ウニの瓶詰。(数個あるが食欲はそそられない)
4 パック入り漬物。(新幹線の駅で、京都みやげに売ってるとおぼしいもの)
5 銘柄の京都の銘菓。(ただし、甘いもののキライな星野から見れば、猫に小判であろう。見るからに歯のあいだにくっつきそうな、ネタッとした生ま菓子のたぐい)
などであって、星野は、要するに、
(女の手みやげやなあ……)
と思うわけである。
実際、女の手みやげに、男が見て欣喜雀躍《きんきじやくやく》するようなものは一つもない。
キッチンへ、妻の日奈子がやってきて囁《ささや》く。
「ねえ、二階、見た?」
「見てない」
「洋間の壁に、あのガキ、落書きしてんのよ。殺してやりたいワ」
星野は黙っている。ガキン[#小さい「ン」]子を連れてくるような女を招ぶほうがわるいのだ。
「常識ないわねえ、こんなパーティに子供連れてくるなんて」
こんなパーティ、というけど、これは井戸端会議やないか、どこが違うねん。
「それに、さ、あの、お嫁さん連れてきたオバン、どういうつもりやろ」
「あれは、どこの友達やねん」
辛うじて星野は発言する。
「文化教室の知り合いよ、お嫁サンは全然見たこともない。あつかましいわねえ、オバンは。お嫁サン、あちこち巻尺で計ったりして、いやな感じ、坪いくらで建ちましたか、なんて」
日奈子はいうなり、フルーツを抱えて、パーティの塊りのまん中へ出ていき、
「食後の紅茶か、コーヒーはいかが」
などと呼ばわっている。女たちは皿のよごれものを取りまとめ、台所へ運びつつ、
「あたし洗いますから、奥サン拭いて下さる?」
「ええ、──ここが女のエエとこよ、ねえ……」
「そ。男なら、汚しっぱなし」
「散らかしっぱなし」
「女はチャンと、あと片付けもできるし」
「そうよン[#小さい「ン」]。それでたっぷり楽しめて」
「あ。さきにフルーツをどうぞ」
「お酒も残ってるわ」
「勿体《もつたい》ない。いただかなくては」
「これも女のエエとこね、──ほら、男が集まったあと、見なさいよ、食べ物飲み物、残しっぱなし、食べかけ飲みさし、ほんとにもう、だらしなくて勿体ないんやから」
「ねー、そういうこと」
「あ、このハムひときれ、誰かあがらない」
「じゃ、いただくわ。勿体ないもの」
「そうよン[#小さい「ン」]。勿体ないわよ」
星野は三角コーナーに入り、朝顔に向って用を足す。
その間も、トイレのドアを叩く奴がいる。
しかし星野は返事せず、ゆっくり、用をたしている。トイレにも小さい窓があり、それは開いているので、隣家の車の発着、人声など、ただならぬ動きをもたらす。
それに加え、わが家のパーティも、食べ物飲み物は払底しはじめたらしいのに、女どものおしゃべりはいよいよ、白熱化しそうである。星野はいまや、三角コーナーの朝顔の前のオトコ便所だけが、安住の地のように思える。
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恋《こい》 捨《すて》 人《びと》
八木が、どうしてそのスナック「小みち」が好きになったかというと、その店のママが──長いこと客商売をしてきたであろうに、新顔の客の八木を迎えるとき、「緊張」して一種、「怖がる」気分があったのだ。
客商売が、新顔の客を「怖がって」いてはどうしようもないわけだが、気心が知れるまでは、お互いに探り合いもあり、緊張もあり、怖がる気分もある。
八木は、それを好もしいと思う。人間としての謙虚であると思い、馴れるまでは気を使っているママを、
(ええとこ、ある)
と満足するわけである。
八木は何がキライといって、「怖いもん知らず」というような人間が、一ばんいやなのだ。そうして八木の妻の広美は、このところにわかに、「怖いもん知らず」の意気がたかいので困ってしまう。
一人息子の康夫を名門の私立中学へ首尾よく入れて(そこは大学まである)妻はホッとしたのか、
「パパ、これからちょっと地域社会の仕事してみるわ、あたし」
というようになった。
もともと妻はPTAの役員活動や婦人学級に熱心であったが、いまはずいぶん間口を拡げて、いろんなことをやっているようである。八木はとても、妻の全活躍を把握できない。
つい先日も、
「東南アジア留学生支援のためのガレージセール」
というのを、市役所の前庭を借りてやった。数人の主婦と組んで催し、それは全市的な盛り上りとなって、多大の成功をおさめた。(と、妻はいう)
そのほか、八木が聞くと、たしかに、
(それは誰かがやらねばならぬなあ)
というような会に、妻はタッチしている。
どれ一つとして、
(そんなもん、どないなったかて、エエやないか、抛《ほ》っとけ)
といえるものはない。
良心ある市民なら、うーんとうなずかざるを得ないものばかりだ。反対できない。
いわく、
「原発の危険を考える草の根の主婦の会」
「原発反対の意見広告募金活動の会」
「青少年の性教育を考える会」
「地名改悪反対市民の会」
「地球難民救援カンパの会」
「『神の仔羊療育園』バザーの会」
「コトブキ老人ホームに車椅子を贈る会」
「ヨコウチさんのオーストラリア留学を実現させる××市ボランティアグループ」
などというのに至るまで、日夜、奔走して倦《う》まないようである。
「ヨコウチさんて誰や」
と八木はいった。
「あら、パパ知らんの? 新聞に何べんも出てたのに。眼の不自由な青年よ、オーストラリアで勉強したいっていうので、向うのボランティアで、ホームステイさせてくれる人を捜してんの。ついでに奨学資金も下りるように運動してんのよ」
妻はこのごろ、口調もてきぱきし、的確なものいい、自信ありげな挙措になっている。
何より、昼間はほとんど家にいない。
そうして夜は、ひっきりなしに電話にしがみついている。
妻たちの社会活動は、電話連絡に負うところが多いらしい。それも主婦だから、夕食時の六時七時台は控えるらしく、八時半になると待ちかねたように、電話のベルがひびきわたる。
「そうよン[#小さい「ン」]……市長にいうべきよ、それは。地方自治体の責任ね、……あ、××さんにいうと、政治的に利用されるおそれがあるから、それはどうかな」
妻の電話の「××さん」はこの町を地盤にしている代議士である。妻は市役所によく出入りし、市長や市議会議長とも昵懇《じつこん》であるらしく、いともやすやすとその名を口にのぼせ、かつ会ったりするらしい。
毎夜のように電話がかかりづめでは電話代もたいへんであるが、それは妻のパート代で払うという。彼女は週に三日、近くのスーパーでパートをしている。
「運動費や交通費、交際費ぐらいは自分で稼ぐのが、今や地域活動する主婦の常識よ」
という。
(さよか)
としか、八木はいえない。いや、それも、口に出してはいえない。
しかも妻は、
「こういう仕事はキリがないんだから、ともかく体力作りをしなくちゃ」
というので、市内のテニスクラブへ通い、ひまさえあるとラケットをふるう。
「どう、パパ。贅肉《ぜいにく》、なくなったでしょう?」
と妻は自慢するが、四十三歳の女が、贅肉がなくなった恰好なんて、見られるかと八木は心中、思う。
「羚羊《かもしか》のような脚なんだわん」
などと妻はいい、これ見よがしに脚をあげたりするが、若い娘の羚羊の脚なら別、オバンの羚羊は一向、心をそそらぬのである。痩せりゃいいってもんでもないのだ。首には青筋が浮き、笑うと口辺の皺《しわ》が深くなるのを自分ではわからんのか。八木は温和な性格であるから、スリムを自慢している妻に、
(痩せりゃいいってもんじゃない)
とは口に出来ない。ただ、口の中で「むぐ……」というのみ。
しかし、心中、思う。
八木は(男は、というべきか)女房《よめはん》は、ちょっと肥り気味の、ゆたかな、たっぷりした、包容力あるたたずまいでいてほしい。太り肉《じし》のやさしい感じがよい。
しかしホカの女、愛人とか二号はんとか、そんなのでなくても、男の目の楽しみになるヨソの女は、すらりとスリムで、羚羊のような脚であってほしい。それなのに妻がスリムなんて、
(要《い》らんこっちゃ、あべこべやないか)
と八木は思う。
まあそれはよい、それよりも、妻が血道をぶちあげている社会活動、あれはどうかならぬものか。
妻は、円高で悩む東南アジア留学生支援のガレージセールが成功したことに有頂天で、
「ねえ、パパ、女だけで力|協《あわ》せて、こんなことできたなんて、感激やわ、やればできるねんわ」
といい、これにも八木は「むぐ……」である。「原発の危険を考える草の根の主婦の会」は市民ホールを借り、原発反対の評論家に東京から来てもらって勉強する講演会を開いたが、これも近県の婦人学級に働きかけ、大盛況であったという。
その代り、丸々一カ月、妻はほとんど家に居付かない奔走ぶり、たまに家にいるときは長電話の連絡である。
息子は玄関脇の勉強部屋に籠り、妻は長電話で、市長が、市議会議長が、代議士が、福祉課が、などとしゃべっている。
八木はマンション六階の4LDKの居間で黙然として新聞を読む。妻は長電話を終え、
「ああ忙しい、忙しい……」
とやってくる。忙しいなら止せばよいのに。
「パパ、原発の怖さ知らんさかい、そんなこというのよ、原発は絶対、地球にとってはマイナスやわ、その事実を世間に知らせるのは正義や思うわ」
と妻は力んでいい、それはまあ、誰かがしなければいけないことではあろうが、別に八木の妻でなければならぬ、ということはないではないか。
しかし八木は渋面を作って、「運動をやめろ」と一喝できる性格ではない。妻がそそくさと食事を作り、エプロンをはずしながら、
「ちょっと悪いけどパパ、出かけてきます。市民の会の集まりなの、地名改悪反対の」
といって公民館へ出かけたりするのを、行くな、とはいえない。やっとのことで、
「康夫はどうした。めしを食うたんか」
「食べてお友達のところへいったわ、一緒に勉強するって。十一時頃、向うのお父さんが車で送って下さるそうよ。パパ、起きててお礼いうて」
十一時まで妻は帰らぬつもりらしい。原発反対も地名改悪反対も、
(誰かが、せないかんねんやろけどなあ……何もオマエ、やらんでもええやないか)
そう思う八木の気持を、妻は一向、忖度《そんたく》していないようである。妻は化粧を直しつつ、
「でも嬉しいわ、パパが運動に理解があって」
理解なんか、ない。しかし、とめて諾《き》くオマエか。
「○○さんのご主人は、あたまから反対なんですって。そんなことヒトに任せておけって」
八木は○○夫人の夫に全面的に賛成である。
「そこへくるとパパは、あたしのすることに一切文句いわないで許してくれるから、感謝してるわ。ありがと」
なんぞ、勘違いしてへんか、と八木は思うものだ。
一切許す、というのは、一切、期待していない、ということだ。
八木は今や、妻に何も期待していない。いつもそそくさと片付けられる家事や手抜きの料理につき合され、「諸行無常」と悟ってしまった。
文句をいうのは、まだ見どころがあると期待しているからであろう。
「パパ」
と改まって妻が呼ぶから、八木はうろたえてテレビから視線を離して妻を省みる。
「考えたら結婚して十七年かしらねえ」
八木は考えたことがなかった。
「それじゃもう、お互いに気心が知れてるはずよねえ」
八木は、このところ妻の気心が、ますます知れなくなり、それにつれて自分の気心さえ分らなくなりかけている。いちゃもんのつけようのないリッパな運動にいそしんでいる妻の気心と、それを止めようのない自分の「気心」はどんどんはなれてゆく気がする。
「やっぱりパパ、気心知れた夫婦って、ちょっとエエもんやと思わへん?」
そうして妻は機嫌よく、地名改悪反対の市民の会へ出かけてゆく。八木は「むぐ……」といいつつ、
(気心知れる、いうことはなあ、あきらめる、いうことなんや。そんなことも分らんと、よう地名改悪に反対してるなあ)
と、心中思うわけである。
この頃、八木の家の居間には、地名改悪、原発、東南アジア関係、婦人問題の本が、頓《とみ》に氾濫《はんらん》するようになった。
「パパ、この本読みなさいよ」
と八木は妻に指図される。
八木はそれにも「むぐ……」である。
何となく世捨人の心境になって、そんな本など手に取りたくもない。
「読まないと時勢に遅れるわよ。現代人の常識よ」
などと妻は恫喝《どうかつ》する。
しかし八木は、それらの問題に興味がないというより、妻の推奨する本など読みたくないのだ。
なんでこの男心が分らんかと思う。
八木にも女心が分っているとはいえない。しかし、分らないということだけは、わきまえている。
しかし女は、男がわかると思っているらしい。嚢《のう》中の物を探るが如く、男のことはお見通しで、手のうちに捉えていると思うらしい。
それはなぜだろうか。
女は息子を生むからやないか、と八木は思う。
妻は息子にかかりきりで、やっと志望校へ入れたが、その一心不乱ぶりも八木が見ていてすさまじいばかりであった。ほとんど息子と一心同体のように勉強していた。
ああいうことをやっていては、息子といっても「これこそ我が骨の骨、肉の肉なれ」という気にもなるであろう。
そこからひいては、男と息子が一緒くたになり、
(男の内かぶとを見透かした)
という気になるのかもしれない。
しかし男は途中で女親の手から逸脱し、豹変《ひようへん》する。それを女は知らない。それゆえ男と長年共棲みしているというだけで、男が一切を許していると思いこみ、気心が知れていると信じ切って、地名改悪反対市民の会や、「神の仔羊療育園」のバザーの会に血道をあげるのだ。
男はいったい、何を考えているのか、──と、怖がってもらいたい。男の怖さを知れ。
八木はそう思っている。
いや、そういうとまた、語弊があろう。
八木だってそうそう、地名改悪反対や「神の仔羊療育園」バザー以上に高尚なことを考えているわけではないのだ。ことに「神の仔羊療育園」は、重度心身障害児を親許からあずかって療育するという、崇高な使命を持つ施設なのだ。その資金の一助にとバザーを計画するというのは市民としてまことに立派な仕事といわねばならない。そこへくると八木などの考えることは来週の休みのゴルフであるとか、せいぜい仕事の段取りである。
八木は化粧品メーカーに勤めている。入社以来二十三年、一流企業へ行ってはると人にはいわれるが、この業界もあたま打ちで、会社も今では紙おむつや生理ナプキンやペットの紙シーツの新製品開発にけんめいである。会社の寿命は三十年といわれるけれど、生き抜くためには新事業に血路を開かなければいけない。商品企画課長の八木は、ただいま、紙おむつのことで、あたまが一パイである。片や反原発、片や紙おむつ、それでもエエやないか、男が何を考えているか、女はそれに対する畏《おそ》れを持ってほしい、と思うものだ。
妻はそういう畏れを、知らなさすぎる。
それは八木の性格のやさしさ、おとなしさが、妻をそうさせてしまったのかもしれないが、しかしそれにしても、妻は、
「怖いもん知らず」
だといえるであろう。自分のやっていることを臆面《おくめん》もなく、
「正義や思うわ」
という感覚は、これは強い。怖いもん知らずの強さだ。なんでそうなってしまったのか分らない。八木があれよあれよという間に、妻は変貌を遂げ、「怖いもん知らず」になり、八木の望まぬ羚羊の脚になってるのである。
そこへくると「小みち」のママなんかいい。
八木はここを偶然見つけたのだ。帰宅途中急行の停車駅で、乗り換えの普通電車を待っているうち、ふと、ここで降りてみようと思いついたのだ。短い盛り場をぶらぶらして、あてずっぽうに入ったのが「小みち」であった。
客はたいてい常連で、ジャンパーに突っかけなど穿《は》いて、近くからやってくるらしい。
ママは太っちょの女で、そこもいい。地蔵サンのよだれかけのようなヒラヒラした衿《えり》のあるドレスを着、目鼻立ちの派手な女で、派手な化粧をしている。八木より四つ五つは年上、五十ぐらいだろうが、こういう商売を長く続けてきたようにみえるのに、八木を迎えて、ハニカミのような表情を浮べ、緊張している。品のないがらがら声ではあるが、気は悪くなさそうで、八木をていねいに扱ってくれる。
マリちゃんという若い女の子も、むくむくと元気そうな太めの娘である。尤も、動作が活溌なので、太い手足や、まるまるした丸顔が、却って快い。鶏ガラのように痩せた妻を見た目には、ママといいマリちゃんといい、八木にはまことに好もしい。
ジャンパーに突っかけの常連客の中で、八木は場ちがいのようでありながら歓迎されている。しかもママは八木をインテリやと尊敬して「怖がって」いるのである。べつに八木は賢そうなことをいうわけではない。いつかママが、「これ、何の缶詰でっしゃろ」と見せたので、八木はラベルを読んで、これはトマトの水煮で、スパゲッティのトマトソースの素だというと、八木さん英語が読めまんのやなあとママが感心するので、それは英語やあらへん、イタリー語やな。それ以来、この店では八木はインテリやということになり、ママとマリちゃんは八木を鄭重《ていちよう》にあしらって「怖がって」いる。といって敬遠するというのではなく、温和でやさしい八木は、この店で好かれているのである。
ここでは八木は、もう地名改悪反対や、東南アジア留学生支援のことなど考えなくてもよい。わが社の化粧品のシェアが10パーセントも下ったこと、この間の中間決算では、前年に比べて売上の伸び率は1パーセントを切ったことなど考えなくてもよい。通い馴れると、人肌ぬくい居心地よさがあって、郊外の場末の店、というなつかしさがいい。
時々、カウンターの奥に、初老の男が飄然と坐って、日本酒を冷やで飲んでニコニコしている。ママの亭主だそうであるが、マスターとは呼ばれず、「オトーサン」と呼ばれている。長身|痩躯《そうく》で、ママとは正反対に端正な面立ちであるが、この人はパチンコをやらない時は飲んでいるそうである。カウンターの内側で、一升壜を股座《またぐら》に挟んで、コップに冷や酒をついではちびちび飲んでいる。
八木が見たときは、たいてい酩酊《めいてい》している。
半分眼を閉じ、時に会話に加わるが、そのまま眠りこんでいるようでもあり、ママは抛ったらかしている。といって邪魔にするようでもない。
「どないですか」
と「オトーサン」は時々、八木に冷や酒をすすめるが、日本酒を飲めない八木はそのたびにことわる。そういうとき、「オトーサン」と、少しばかり会話がある。「オトーサン」は髪はまだ黒いが、六十がらみというところであろう。酒毒のせいか、舌が縺《もつ》れるが、話してみるとアル中とは思えない。
かるく酔った八木は、
「ウチの女房《よめはん》は怖いもん知らずでいけまへん」
という話をしていた。
「女はみな、怖いもん知らずでっせ」
と「オトーサン」はいう。ママもそうだというのだ。オトーサンには前妻がいた。ママがオトーサンを前妻から奪ったそうである。
「フーン」
このオトーサンなら、若い頃は男前であったろうから、そういう出入りもあったに違いないと八木がいうと、
「なに、四、五年前の話だんが。オナゴ二人取っ組み合いして一一〇番来るさわぎだした」
オトーサンはゆらゆらと体を揺らせつついう。ママとマリちゃんは、端のほうで、客の男と何だかあはあは笑っていた。
オトーサンが瞑目《めいもく》すると、高い鼻梁が際立って、品のいい表情になる。それこそ、
(何を考えてるのだろう?……)
と畏れを持つような気にさせられる。あんがい八木と同じで、何も考えていないのかもしれないが。
それにしても、現代でオトーサンぐらい気楽な人生はないのではないかと八木は思う。オトーサンは店の手伝いをするでもない。ただ坐って飲んで瞑目しているのである。店に客がたてこんでくると、ママに追い立てられてふらりとパチンコ屋か、よその酒場へいく。そのまま姿を見せないときもあるし、しばらくすると八木が飲んでいる間にまた帰ってきて、一升壜からコップについでいる。
客としゃべるわけでもなく、ママと話すわけでもない。
客もオトーサンがいるのに慣れて、インテリアの一部のように、気にならなくなるらしい。
八木もそんなたたずまいに慣れ、それも「小みち」を面白く味つけしている気になる。
それにしても、妻といると、ことごとに反駁する気になり、それを胸ひとつに収めるのであるから、かなり「しんどい」日常だが、この「小みち」にいる時は心が安まっていい。常連の商店街主人やトラック運転手たちは、陽気に歌ってさっと引きあげる。八木は歌わないが、演歌を聞くのはいやではない。相客がみな帰ると、八木はママやマリちゃんと話すこともある。
ママはいまも八木には心置いた接しかたをする。ほかの客のように、
「そやんか、そやんか」
と相槌を打ったり、タハハハ……と笑えないらしい。べつに八木は特別に構えているわけではないのだが、大体が静かでものやさしい八木の雰囲気なので、ママも八木に向うと声のトーンが変ってくる、というところがあるようであった。
その反応が、デリケートでいい、と八木は思う。ママに色気を感じるというのではないが、太った腰廻りをエゴエゴさせてカウンターの下で片づけものをするようす、眼鏡をかけてカラオケの番号を調べ、それでも分らなくて、
「マリちゃん、これ、見てえな、わからへん」
とがらがら声でマリちゃんを呼ぶ風情など、八木には一抹の滋味があってよい。カラオケを注文した客が、
「ママ、老眼か。そろそろオトーサンと隠居して、この店、マリちゃんにさせんかい。もうええ加減に化石世代やデ」
とワルクチをいったりすると、何いうてまんねん、ワテはこうみえて新人類だっせ、とあはあは笑っているのもいい。
八木は会社の連中と、キタやミナミへよく飲みにいくが、この「小みち」のように、心身リラックスして芯から休息できる店はないのである。そうして、別に話すでもなく愛想をするでもなく、酒を含んでは瞑目しているオトーサンを、
(これこそ泰平の逸民や)
と思う。それゆえ、
「気楽で羨ましなあ、オトーサンは」
とつい、いったのであった。
オトーサンは目を開け、静かに、
「世捨人でっさかいな、ワテは」
という。しかしこの店でのんびり飲んでいるぶんには、八木も世捨人である。妻のけたたましい生きざまから見れば、「小みち」の店内にいる間は、八木も世捨人みたいなものであろう。
ママのほうは、客とマリちゃんのデュエットに、手拍子を打っている。
八木はしみじみ、心が解放される。この、場末のスナックらしい安直さ、猥雑さがいい。それなのに、やがてはここを出て、「コトブキ老人ホームに車椅子を贈る」ことを考えている妻のもとへ、よろよろと帰らねばならぬのだ。会社へ出れば新製品の紙おむつで、課の人間みな、赤眼を吊って販売会議に明け暮れなければならないというのに。
「オトーサン、男は何のために生きてるんですかねえ」
八木は思わず知らず、教えを乞う、という口調になる。オトーサンの玄妙なたたずまいは、何となく悟りを開いた高僧のようにみえるのである。
オトーサンは断乎《だんこ》としていう。
「於女乎のためだン[#小さい「ン」]が」
八木は絶句する。オトーサンは重ねて、
「やっぱり、これしかおまへんなあ」
オトーサンは端正な顔を崩さずにいう。痩せて肉の薄い、リッパな顔立ちには、しかし暖かい表情がある。そして品がいい。
コップ酒を静かにすすりつつ、オトーサンはまわりを見廻し、にこにこと八木にいう。
「ワテ、ゆうべ……」
「はあ」
「久しぶりにさしてもらいまッてん。そいでそう思うのかもしれまへん。世捨人でも色の道はやっぱり捨てられまへんな」
八木は今まで誰を尊敬する、ということは絶えてなかった。
しかしはじめてオトーサンを唯一、尊敬する気になった。オトーサンの率直さに感じ入ってしまう。殆んど感動してしまう。
また、男は何のために生きてるのか、という問の答も、まちがいないところのような気がする。そうかもしれん、としみじみ思う。
それに比べ、女は何のために生きてるかというと、いちゃもんのつけようのないリッパな地域社会運動のためかもしれぬ。
ママは離れたところで、なおも手拍子を打っている。それを見るとおかしくはあるものの、オトーサンの品のよさがすべてを救ってあまりあるのだ。
三、四カ月、その店へ通って八木は、苛烈《かれつ》なわが人生のオアシスのようにしていた。
オトーサンは店にいるときもあるが、いないときもある。しかしママやマリちゃんが、八木に気を使ってくれるのは、はじめて行ったときと変らず、八木はいつまでもそのお気に入りの店があるように思っていた。
ある晩、寄ってみたら、店はしまっていた。
その次のときも、店は閉じられている。
よく見ると、ドアに小さい貼紙《はりがみ》があって、「休業」としてある。ママが病気でもしたのであろうか、オトーサンがアル中にでもなったのか、と八木は思う。
どうしようもない。
どこへ問合せることもできない。仕方ないから大阪の曾根崎で飲み、帰ってくる。妻は、いまは地球難民救援カンパに打ち込んでいる。
居間には、このごろ、
「飢餓難民」
に関する本が積まれ、八木は妻から読むようにすすめられる。
ある夜、神戸のスーパーで仕事を済ませた八木が元町を歩いていると、
「いやァッ! お久しぶり」
鯉川筋《こいかわすじ》でばったりとママに会ってしまった。
夕方のことでママは綺麗に化粧していたが、八木のはじめて見る着物姿だった。
「何や、どないしてん、あの店」
「うふ」
「もう開けてるのんか」
「いえ、やめました」
「なんでやめてん」
「いろいろとおましてんけど、マリ子に裏切られましてん。若いくせに強《したた》かですわ」
ママは八木の反応を恐れるように怯んだ眼になり、
「オトーサンと一緒になって。あのマリ子」
「オトーサンと」
「いま二人で、尼崎でスナックやってます」
「──それは知らなんだ」
「ウチ、マリ子と取っ組み合いの大ゲンカしましたデ」
ママのがらがら声も淋しそうに聞かれる。
「オトーサンが悪い、いうより、マリ子がそそのかしたんやわ。金目当てで。オトーサン、お金持ってまんね。親の土地売って」
「ふーん」
「一一〇番呼ぶさわぎになったよって、恥ずかしてもう、あそこにも居られんようになって。ウチ、いま友達のスナック、手伝うてまんねん。八木さん、いっぺんお店へ来て頂戴《ちようだい》」
「うむ」
といって八木は、
「オトーサンがなあ」
といった。尼崎の新しいスナックで、またコップ酒をすすり、瞑目してカラオケを聞き「世捨人でっさかいな」といっているのであろうか。
「あの人、もう長うない、思いますねん」
ママはオトーサンを恨むというより、マリ子が腹に据えかねるようであった。
「ウチやったら、病院へ入れて按配《あんばい》したげるのに、──あの人、アル中でんがな──マリ子はケチやし、何も分れへん子ォやしな。オトーサン、もう長うないのに、こんなことしてウチ放下《ほか》しよりましてん」
「何というてエエか──ま、気ィ落さんと、あんたもがんばりや。また、ええこともあるやろし」
「へ。大きに。あとでこの店、寄っとくれやす」
ママは帯のあいだから名刺を出した。太ったママの、帯を巻いた胴はずいぶん大きくみえ、体が重たいせいか、足取りがやや、よたよたと去っていった。
八木はオトーサンの活殺自在の生に深い尊敬をおぼえている。とてもああはいかない。八木ならやっぱり色恋は捨てて恋捨人となっても、浮世の義理にからまれ、世捨人にはなれない。オトーサンこそ、怖いもん知らずである。しかしこの怖いもん知らずは、妻のそれと違い、八木の眼にはまぶしく羨ましくうつるのである。
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よ ご れ 猫
近来、野口の評価は変った。
究極の自由人、ちゅうのは野口さんのことちゃいまっか、と野口はいわれる。
野口は四十二歳、独身である。
結婚歴はない。
両親は早くに亡くなっており、只一人の兄弟の兄は九州にいる。博多で仕事をみつけてそこで家庭を持っている。野口は自分一人の身すぎをすればよいという気楽な身の上である。
私鉄系資本の会社にいて、エリートコースといえないまでも、まあそこそこのところ、東大阪のマンションに一人で住んでいる。
ちょっと前まで結婚していない野口のことを、会社も世間も、ボロカスに変人のごとく言いなしたものであった。
そのたび野口は、
「初恋の人に死なれて」
とか、
「最初の縁談、ことわられてから女性恐怖になって」
などと冗談めかしていい、
「しかし不自由でっしゃろ」
といわれると、素直に、
「男やもめに蛆《うじ》が湧いてますねや」
などとウマを合していた。
野口はデコボコしたぶこつな顔付きで、体は胴長、がっちりしている。濃い眉の下の眼が澄んで、まじめそうにみえる。そういう彼がいうと、いかにも世渡り下手という感じで、なかば憐愍《れんびん》、なかば同情をそそがれていたのである。
それが近年、にわかに風当りがかわってきた。
男の独身が珍らしくないばかりか、シングルライフはいかにも時代の最尖端をいくように思われるらしい。しかも野口は会社の同年輩の男の中ではいちばん若くみえる。マンションと車を持ち、ゴルフやテニスにゆき、思い立つと金曜の夜からドライブ旅行に出、いかにも優雅な生活を満喫しているといわれるようになった。同年輩の男たちは、小学生の子のいじめや中学生の息子の登校拒否などを話題にしているというのに、野口は女の子をあつめて京都の花見の相談をしているというので、
「究極の自由人やな」
といわれるのである。
野口は男やもめに蛆、どころではない。きちんとした身なり、相応にお洒落もしている。小ざっぱりと垢つかず、洗濯もアイロンかけも野口はやってしまう。デコボコ顔の中年男の野口が、中年になるほど見よくなり、体裁よくなっていった。
それゆえ、会社の女の子にも人気がある。
部下にも公平で温和で、よく庇うというので人望さえあるのだ。シングルだからといって、もう誰も、変人奇人扱いはしてはいないのである。
なかんずく男たちの羨望《せんぼう》をそそるのは、
「あのシングルライフはやっぱり女にもてるらしいなあ。野口はんは手ェ早いらしい」
ということである。野口自身は、
「何いうてはりますねん、シケた中年者の一人ぐらしに、色気はおまへんよ」
と否定しているが、
「いや、野口はんのマンションに、とっかえひっかえ、女が来よるらしい。しかもその中に有名なタレントもおった、いいまっせ」
という噂まで流れ、
「阿呆なこと、いいなはんな」
と野口が否定するうちに、噂は噂を呼んで、ついには野口のマンションには、
「吉永小百合か松坂慶子が出没しているらしい」
ということになってしまった。もはや世渡り下手どころではない。会社の男たちは野口のシングル人生に少なからぬ関心と羨望をよせるようになっている。そして野口が、
「アホなこと」
と打ち消せば打ち消すほど、
「あれは余裕、いうもんやな、凄いな」
などといわれてしまう。
野口だって、何もシングル人生を撰《えら》びたくて撰んだわけではない。自然、こうなってしまったのだ。
身を固めるのを心配してくれる親はいなかったが、知人がいて、三十を過ぎたころに縁談をもちこんできてくれた。小太りの色白な娘で、健康そうなところが野口は気に入り、何べんかデートしているうちに、ちょうど七月は二十五日、天神祭の晩であった。天満《てんま》の天神サンからほど近い桜宮《さくらのみや》のホテルへ行こうということになってしまった。
ホテルは和室であった。
いまと違ってその頃のホテルには、けばけばしい設備などない、ほんとうの旅館風、ただし、風呂だけはついていた。
その小太り娘は、座敷へ入ると、用意されてあったお茶をきちんと淹れて野口に、
「どうぞ」
と、顔を見ないですすめる。
「あ。大きに」
「お風呂、見てきましょうか?」
「うん」
彼女はいそいそと風呂場にゆく。
そのへんから野口は何となく、
(なんや好かんなあ……)
という気がしていたのだが、それが何だかわからない。
やがて彼女が、太くまるく短い足をいそがしくくり出してきて、敷居にかしこまり、消え入るような声でいう。
「あの。入ってます。どうぞ」
「うん」
しかたないので野口は風呂へいそいで入り、出てみると、野口の下着から靴下に至るまできちんとていねいに畳まれてあって、野口は漠然とした圧迫感というか不安感を受けた。その娘とはそんな関係になったにもかかわらず、野口は縁談をことわってしまった。
娘には怨《うら》まれ、娘の兄で板前だという男にどなりこまれて、
「どないしてくれるねん」
と凄まれたりしたが、野口は「気がすすまないから水に流してくれ」の一点張りだった。
おとなしそうにみえて野口はこういうとき屈伏しない。
いやいや押し切られて、ということはしない。言い分を通してしまう。
野口はイヤだったのである。その娘の、いかにも「宿の妻」といったたたずまいをみると、
(これから一生、ズーッとああいう風な女房づらを見て暮らすのか)
という気になり、自分までぱっとせぬ「宿の亭主」になる気がして悲しい。あの娘は、野口が好きというよりも、女房ぶりや主婦ぶりをやりたがって結婚するつもりではなかったかなどと、あとで思ったりする。
野口は自分のことを、全く、女運がないと思っている。世間の噂とは正反対である。自分では結婚してもよいと思っているのに、タイミングのいい時に、いい女が出てこない。
いい女というのは野口にも分らぬのであるけれど、その時その時、どこか一点、こちらの心の琴線に触れてくる女である。
近所のスーパーのレジによね子という女がいた。そのレジにはもう一人、年のいったパートのおばはんが居り、このおばはんは、客に有難うというどころか、
「目玉の安いのんばっかり買《こ》うてくれはるねんな」
といやみをいったりする。若い女はそんなことはいわない。野口は買物をして行列に並んでいた。前に小さい女の子がいる。チューインガム一箱を買い、小さい指で小さい財布から、一つずつコインをつまみ出す、一円玉五円玉十円玉……レジの若い女は、一緒になってゆっくり数え、うなずいて、
「はい、ありがとうございます」
と小さい女の子に、にっこりしたのである。
野口はその女を好もしく思った。それがよね子である。小さい子にもていねいに接する若い女を、きちんとして崩れていない、と野口は思う。やさしい女やないか、と思う。野口はよね子がレジにいる時には買物にいき、顔見知りになり、言葉を交すようになり、たちまち二人はミナミやキタでデートするようになった。このあたりは世間の噂通り、野口が手が早いといわれても仕方ないかもしれない。
よね子はすらりとして上背のある、中々美しい娘であった。
それに何といっても笑顔がいい。
にっこりと笑う。誰にもその笑いをふりまく。
ことに野口にはこぼれるような笑顔をみせてくれる。惜しげもなくみせる。
「きみの、その笑い顔がええなあ」
「ほんま? 嬉しいわ」
「女は何というても、笑顔のきれいなんが一ばんやデ」
野口はほとんどよね子のことを知らないが、その笑顔だけで充分、という気がする。結婚してもええなあ、と思った。それによね子は野口が誘うと、にっこり笑ってホテルへもついてくるが、そこでも実に楽しみかたが素直で自然でよかった。
二十九だといい、初めてじゃないけれど、とごく大らかにいい、自分でもとてもたのしんで応じる。
野口は、これは大物を引き当てたかもしれんと思った。
人より遅くなったが、おかげで長いこと捜し、捜ししていた大物にめぐりあったかもしれない。楽しんで応じてくれる女なんて少いと感激した。自然にのびのびふるまい、したいように自分も主張し、男に応じてくれるなんて、このよね子は天からの授かりものなのかもしれない。
しかもいつも、にこにこしているのだ。
笑顔のいい女なのだ。
野口は感激してしまった。
結婚のことを話してもいいと思い、マンションへ彼女を招《よ》んだ。野口は身についたひとりぐらしで、料理もかなりうまい。ことによね子に食べさせようと心を入れて作ったので、自信のある料理のつもりだった。しかし、
「あっ」
とよね子はテーブルを見て顔を曇《くも》らせた。
「ダメよ、これ、野口さん……」
「何が」
「川魚はダメ、蟹《かに》もダメ、貝もダメ。今は汚染されてて危険やないの」
それからわかったのだが、よね子は、「玄米食道場自然健康会」という健康修養サークルの熱烈な信者であったのだ。
「玄米食食べてる? 野口さん」
「……いや」
「玄米食にしなさいよ、ああっ、お醤油、そんなにかけないで。塩もとりすぎよ。漬物、コーヒーはガンのもとになるからダメ、煙草はもちろんダメ、酒ビールも飲まないように、と教祖さまがおっしゃってるわ」
食べられるもの、飲めるもののほうが少いではないか。
「なんで酒がいかんねん」
「大きな声を出してしまうからよ」
「大きな声出して、なんでいかんねん」
「しゃべりすぎるからよ、自然に反するわ、すべて自然に反することはいけないの、『自然健康会』では」
野口はよね子に連れられて「玄米食道場自然健康会」へいった。プレハブの大きな建物の中は、ガラス窓からさんさんと日が入り、二、三百人の人間がぎっしり詰めて講壇の老人の話を聞いていた。老人はごく普通の身なりである。黒っぽいスーツに黒いネクタイをつけ、髪はなく、両鬢《りようびん》にひとにぎりほど、白髪がある。老人は玄米を食べて自然の精気を身心にとり入れようという話をし、次いで、
「毎日、笑うことが大事、さあ皆さん、いい笑顔になりましょう、……ほら、にっこり、にっこり……そうら、心の底から、にっこり、にっこり……。今日も楽しいねえ、誰もかれもみな、いい人ですねえ、お金はうんと入ってくるよ、愛情も向うからそそがれます、運を招き寄せます、みーんなそれは笑顔から。そら、にっこり、にっこり……」
三百人がそろって、前方に向き、
「にィ──」
あるいは、
「にま──」
と歯を剥《む》いているのは壮観であった。野口は、首を突き出し、にっこりしているよね子をそのままにして、そっと帰ってくる。
あの笑顔は「玄米食道場」のせいかと思うと頓《とみ》に感興がうすれ、いやまあ、オレは、
(女運が悪いなあ)
と思わずにいられない。
そういう落ち込んだ夜は、野口は梅田の北新地のスナックへいく。年取ったママが甥《おい》っ子だというバーテンとやっている店で、近くの店のホステスたちもふらりと寄っているような、気取らぬ所、野口はもう十年からの常連である。ここの婆さんママには何をしゃべってもいい。
その晩は、これも常連の「ツーちゃん」というおかまが一人飲んでいて、ママとしゃべっている。ツーちゃんは黒い上衣に赤いタイトスカート、というよそおいで、髪にはちりちりパーマがかかっている。
ツーちゃんがママの手から何かをとり返しハンドバッグにしまった。
「いえ、ね……野口さん」
人のいいおかまで、野口に向いて笑う。
「孫が出来たの、アタシ」
「ふーん」
「可愛いくって、これが」
ツーちゃんは目も鼻もなく、いい笑い顔になっている。
「結構なことですな」
「でも、おばあちゃんなんて呼ばせない、アタシ」
「おじいちゃんか」
「野口サンの意地悪」
ツーちゃんはまた、とろけそうな笑顔をみせ、野口は玄米食の作った「ニカー」「ニマー」より、おかまのにっこりのほうが、
(ずっと上等じゃ)
と玄米食のワルクチを胸にいう。
(それにしても)
とまた野口は感慨がある。
(あのよね子のにっこりは、「さあ皆さん、にっこり」から生れたもんなのか、人工なんか)
人工にしろ、何にしろ、よね子自身が笑っているのだから、よね子の笑いには違いないのだが、野口としては、何だか登ったハシゴを取りはずされた気がするのであった。
「ね、野口さん、っていうてんのに」
とツーちゃんがいう。
「う?」
「子供はそんなに可愛いくないけど、なんで孫って、あんなに可愛いいんでしょうねえ……帰って孫の顔見るとね、笑わんとこ、思うても笑えてくる」
「オレ、子もなく孫もなし、という身でね、金もなけれど死にたくもなし」
「あ、そうか、ごめんなさい」
「ツーちゃん、おかまが孫の話するような、マゴマゴした話をしちゃおしまいやわ」
とママがたしなめた。
野口はよね子とつき合わなくなった。別れるときも、別れます、と女に挨拶したりしないのが野口のやりかただ。黙って、いつか会わなくなる。電話もかけず、向うからの電話にも出なければ、いつとなく没交渉で終ってしまうであろう、それでいい、と野口は思う。
向うが察したらええのや。いうなら人魂《ひとだま》のシッポ風に、シューッと消滅するのがいちばんいい。向うはヘンやなと思うかもしれないが、そのうちあきらめるやろ、とかなり虫のいい考えである。果してよね子はそれなりに人魂のシッポ風になった。
しかし人魂のシッポでは、無論、承知しない女もいるわけである。
商事会社のOLだった美保はテニスコートで知り合ったのである。やたらものをくれる女で、それも自分で編んだベストや室内穿きをくれるのであった。
毛糸を編み、それをくれるなんて今までの人生にないので野口は物珍らしくもあり、何となく心ときめく思いであった。
しかしその一方、いやな予感もしないではない。
「野口さん、あんたお独りなんですって? 家庭の味に飢えてるのんとちがう?」
などといい、タッパーに高野豆腐の煮つけなど入れて持ってきてくれる。今日びはデパートやスーパーへいけば一人用のお惣菜というヤツは売っており、高野豆腐だろうが、コンニャクの白和えだろうが買えるのである。
美保はテニスはうまいし、健康そうで美人ではあるし、会話もてきぱきとそつなく、社交性もある。それににっこり笑っても余計なにっこりや、人造のにっこりではなく、別に玄米食道場の信者でもないらしい。
で、野口は、美保が嫌いではないのだが、どうも思い込みが強いように思うのだ。それが高野豆腐の煮付と毛糸のベストや室内穿きになって発現してくるのではないかと思う。
毛糸のベストは少々寸法が合わず、室内穿きは小さすぎ、野口はそのままにおいているのだが、美保に、
「野口さん、あれ使ってくれてる?」
といわれると、つい、「ハァ」といってしまう。すると美保はまた満足して、自分で作ったロープ人形だかヌイグルミの熊だとか持ってきて、
「これ、自動車《くるま》の窓に下げません?」
などという。
野口はそんな女の子好みのクズモノを車にぶらさげる趣味はない。
その次に、美保はハンドメイドのクッションを持ってきた。中にウレタンを詰めた袋があり、外側はレース編みのカバー、色が赤と黄というシロモノ、野口はことさらインテリアに高尚な趣味をもつものではないが、それにしてもこの赤と黄の配色のクッションは置き場に困ってしまう。
なんで美保は野口にしげしげモノをくれるのであろう、これは、
(オレに気があるのやろうか)
と野口は考えた。美保は親許を出て一人ぐらししているといっていたが、スポーツ好きなところといい、てきぱきした点といい、やや日焼けした、きりっとした顔立ちといい、野口は決して嫌いではない。美保がその気なら、一緒に暮らしても、
(案外、いけるの、ちゃうか)
と思ってみる。
ただ一つ、不安は、
「あれ、使ってくれてる?」
「これ、欲しいのんと違う?」
と一人|がてん《ヽヽヽ》できめつけて世話を焼かれることである。赤と黄のクッションを押しつけられるように、野口を思うままに引きまわされてはたまらない。
実際、四十すぎまで一人で気楽に過ごしてみると、もう拘束の多い二人暮らしは堪えられないかもしれない。しかし野口はまだ夢を捨ててはいない。
それはうっすらと、ごくかすかな夢ではあるが、やっぱり結婚してみても悪くはないかもしれん、という「究極の自由人」としてはあるまじき夢であるのだ。美保も自立しているぐらいの気魄《きはく》ある女なら、
(オトナ同士として、うまくいくかもしれへんなあ)
などと思ったりする。そしてオトナなら節度あるツキアイも可能であろう。野口は、この頃、
(べつにべったり一緒に居らんでもエエやないか。ちょいちょい、会うという関係はどうやろ?)
と考えるようになっている。
そういう話を、ちら、と美保に洩らしてみるのも楽しいことである。
「あ、それはサルトルとボーボワールの関係みたいね」
と美保はいった。
「それなら、お互いに生活を乱されずにええかもしれへん」
そこは美保が誘ってくれた鮨屋であった。
美保もひどくご機嫌だったから、この計画は成就《じようじゆ》する見込みがついた、と思っていい。
野口はサルトルとボーボワールのことなど知らん、知らんが夫婦同様につきあっていながら二人は別々に住んでいた、ということを聞いたような気がする。
「ま、それほど大げさなもんではないけどな、時々会うて一緒の時間をすごす、これも生活の彩り、という奴かもしれんな。ボーボワールごっこ。どう? 考えてくれる?」
「ふふ。考えてもええわ」
美保はそういってトイレに立ったが、そのあと椅子にあったハンドバッグが落ちた。
いそいで野口は拾いあげ、こぼれた中身を戻しながら、まだ椅子の下に免許証が落ちているのを発見する。拾いあげて見るともなくふと、美保の生年月日を見てしまった。五十四歳?
野口よりヒトマワリ年上になる。
しかしどう見たって四十くらいにしか見えないが……この頃の女はほんとに分らない。
野口はしばし、呆っとしている。そこへ美保が戻ってきた。さっさっと力強い足さばき、闊達な笑い声、とても五十四とはみえない。といって免許証に嘘をかくわけはなかろう。
「何をボーとしてるのん、野口サン」
と美保はやっぱり機嫌のいい声だった。うーん、なんで五十四の女とボーボワールごっこせんならんねん。
野口は返事もできない。
そのあと、例の、人魂のシッポ風に野口は美保から離れてしまった。電話もかけず、向うからかかってきても出ない。シューッと消滅し、つきあいの事実を消すつもりになっていた。そこへ突然、美保がやってきたのだ。
日曜で、野口はゆっくり朝食を摂っていた。
美保は格別、機嫌の悪い顔ではなく、
「今日ははっきり、どっちかきめてしまお、思《おも》て」
「なにを?」
「なにをってこの間のボーボワールごっこやないのさ、あたし、あの返事、まだいうてなかったと思《おも》て」
「いやその、あれは……うーん」
と野口は絶句する。
「やっぱり色々と、僕のほうも都合が」
「へー。あ、そ。それならあの、この前から色々あげたプレゼント、ねえ……」
「はあ」
「あれ返してもらわれへんやろか、ハッキリ打ち切りにする、というなら、そのほうがすっきりしてええの、ちゃう?」
「それは……」
「えーと、ベストにソックスカバー、ヌイグルミ、クッション……」
美保は手帖を出してのべ立てる。野口はそれを積み上げていった。美保はそれを紙袋におさめつつ、
「これを、みんな野口さんのことを思いつつ、作ってんわ」
「はあ……」
「あたしのほうは、しっかり、女《おんな》してんから、野口さんも受けて立って、ちゃんと、男《おとこ》してほしかったわァ」
男するとはどういうことなのか、野口は狼狽したが、それはどうやらボーボワールごっこの提案の責任をとれ、ということなのであろう。しかしそれよりプレゼントをみな、持ちかえる美保の神経も、これは「女してる」ということなのか、
「あたし、別れるときはキチンとけじめつけたいのよね、シューッと、いつか、うやむやに、というの、いやなのよね。じゃ、さよなら」
野口は、
(オレは女運がわるい……)
と思わないではいられない。
しかし結果的には美保と別れてよかったように思う。というのは、ほんとにボーボワールごっこを、牧ジュン子とやることになったのだ。ジュン子はテレビやラジオの、ちょっとした司会をやったり、ドラマの端役に出たりするタレントである。まだ若くて三十になったばかりだが有能なベテランで、取り廻しが巧いので関西の放送界では便利がられている存在だ。同僚が、野口のマンションに有名なタレントが来るというのは、ジュン子の話が大げさに伝わったのかもしれない。
会社のパーティで彼女を呼び、その仕事で何べんも会って野口はジュン子と親しくなってしまった。ジュン子は酒に弱いので飲むとすぐ野口のマンションに泊りたがってしまう。そのうち、ジュン子は体が空くと野口のマンションに来て、料理など作りつつ、彼の帰りを待ったりするようになった。
野口はきわめて満足している。
やっぱりシングル人生は最高である──と思ったのは三カ月くらいのものであった。ジュン子がはやりすぎて仕事が忙しくなるばかりになった。
来るといって連絡した日も二時間半ぐらい待たされる。食事の用意をしてあったのに食べる気も失《う》せ、外へ出かけようと靴をはいていると、ちょうどジュン子がやってくる。活溌な表情、よくしゃべりそうな小さい、うすい唇、軽快な身ごなし、それはいつみても野口には快いものなのだが、
「ごめん。出がけに番組の打合せ会があってねえ、それがまた、がたがたと長うなってしもてねえ」
「二時間半待ったよ、駅前でラーメンでも食おか思ていく所やった」
「ちょっと待ちなさいよ、そんないいかたないじゃない、あたしだって時計を見い見い、あ、もうこんな時間、大変だあ、と思いながらやきもきしてたんじゃないの、アンタに悪いなあ、と思いながら、どうしようもなく焦ってたアタシの気持ぐらい察してくれてもいいと思うわ」
「ちょっと連絡してくれれば……」
「連絡ったって、打合せの席上で、そんな電話かけられると思うの。アンタも会社のこと考えたらよくわかるでしょ、今日や昨日のサラリーマンやないんでしょ」
野口がひとこというと、ジュン子は十こと返してくるが、それは商売がら、舌がよく廻るのだから仕方あるまい。
「あんた、アタシのスケジュールの凄さ知ってる? そんな中でこれ、やっとのことで来たんやない、二時間半ぐらい待ってどうってことないんやない?」
野口は静かにマンションのエレベーターに乗り、下へ降りる。婆さんママの店へでもいって、おかまのツーちゃんの孫の話でも聞いたほうがマシかもしれない。妻なく子なく孫なくの身としては。
マンションを出たところで、道路を薄汚れた白い猫と茶色の猫が二匹、もつれるように渡っていって、公園の繁みに消えた。あれは夫婦猫であろうか、「よごれ猫それさへ妻をもちにけり」というのが一茶の句にあるというけれど、
(究極の自由人も、よごれ猫めいて来よるなあ)
というのが野口の感懐である。ボーボワールごっこも人魂のシッポ風わかれももうおしまいである。
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あんたが大将──日本女性解放小史
I
まさか、ドレッサー一つがそんな騒ぎになろうとは、辰野は思いもしなかった。
日曜の午後、辰野は妻の栄子と、駅前商店街の家具店へ出かけた。その店はいま、在庫一掃の大売出しをしている。少々キズありの難物も破格値で安売りするというチラシが入っていた。
水屋が古くなったので、買い替えてほしいと妻はかねていっていたが、よい機会だというのだ。妻は提案というより嘆願という口吻である。辰野は賛成した。というより、許可を与えるような言葉を口にした。
「えっ、ほんまに購《こ》うてくれるのん。いやあ、嬉し!」
妻は手放しの喜びかただった。
息子は朝早くから野球に飛び出していない。
二人そろって、駅前まで歩く。妻は辰野と並んで歩かない。必ず一歩か半歩、あとへ歩く。
妻のほうが辰野よりはるかに背丈があるので、並んで歩きたくないという。蚤《のみ》の夫婦という形容を、いまどきの人間は知る人も少いだろうが、小男と大女が連れ立っているのを好奇の目で見る人があるかもしれない、妻はそれを気にしているのである。
辰野は別に気にならないのに、妻のほうはヒールのある靴を穿《は》かず、ぺたんこの靴を愛用しているのも、少しでも辰野との身長の差を縮めようと思うかららしい。
妻は辰野の低い身長を気にするよりも、自分のノッポを恥じるように猫背気味になっている。
そうして辰野の陰にかくれようとするかの如く、一歩か半歩、あとへ歩く。
辰野は並んで歩けばよいというのだが、妻はきかない。何によらず辰野のいう通りにする妻であるが。
小柄の辰野は、大柄の妻を従える、という様子で歩く。猫背気味、内股気味の妻はつつましくあとへ従う。水屋を買って貰えるというので、妻が心から昂奮して喜んでいるのを感ずることができた。辰野の家では、家具のように値の張る買物は、妻の一存ではできないことになっている。
家具だけではない。辰野の家では、たいていのことは家長の辰野が「諾《うん》」といわないと、物ごとはGOにならない家風《ヽヽ》になっている。
家風といったって大した家ではない。
辰野はごく普通の庶民である。ローンを払いつつある、小さいマンションに住む、四十三歳のサラリーマンだ。道修町《どしようまち》の製薬会社に勤めて、家族といったって三人、妻の栄子と小学六年の息子一人というありきたりの市民、べつに素封家でも権門の家でもないのだから、家風《ヽヽ》というのも烏滸《おこ》がましい。
しきたり、というところだろう。
妻はなにかにつけて、辰野の指図を仰ぎ、辰野のいうことを口うつしにしゃべり、辰野の意向に添うように心を砕く。いや、砕いているようにみえる。そういうしきたりだ、と、まわりの親戚中にも思われている。
妻の口ぐせはつねに、
「主人に聞いてからお返事を……」
「主人がどういいますやろか……」
「主人はこういうんですけど……」
である。
「主人」の言いつけがないと、何も動かれへん女房《よめはん》、という印象である。
妻の表情も、三十六にしては稚《おさな》くて頼りないようである。体格がノビノビして大きいだけに、よけい「半熟オトナ」という印象がある。いつもあやふやな、自信のない、オドオドした気分が、妻の身辺に揺曳《ようえい》している。
結婚して十四、五年になろうというのに、栄子は昔のままで、一向に大人びたようにも、人妻、人の親らしい落ち着きも感じられない。
しかしそれは辰野が心中、ひそかにそう思っていることであって、世間の目には半熟オトナの妻はいかにも従順で柔媚な、いまどき珍らしい妻の鑑《かがみ》、しおらしい大和撫子《やまとなでしこ》とうつるらしく、辰野の兄は辰野にいう。
「オマエみたいな亭主関白、今日び、通らへんぜ。あの栄子はん、おとなしいさかい、保《も》っとんねん。今日びの女房《よめはん》やってみい。オマエみたいに偉そうにいうとったんでは撲《は》り倒されてまう。やっぱし都会《まち》そだちのオナゴはきついぜ。そこへくると栄子はんみたいな田舎のオナゴは純やわな。しおらしいやないか、何でもオマエ立てて、一歩引いてるやないか。それでこそ、オナゴじゃ。──ウチなんかオマエ、女房《よめはん》、大将で、オレ家来じゃ。オマエは家で大将でけて、結構やないか。男は外では大将になられへんねんさかい、家でぐらい大将さしてもらわんとの。──これは男の夢と違《ちや》うか」
この兄貴は家電メーカーに勤め、息子二人娘一人、妻も教師で働いており、辰野の見るところ、教師という職業の女ほど、性差別意識に敏感な種族はいないように思われる。職場では労働面も賃金面も性差はない、その気で凝《こ》りかたまっているので、家庭でもそれを要求して当然、というところがある。教師同士で結婚すれば違和感はないのであろうが、ホカの仕事の男と結婚した場合、摩擦はある程度避けられないようである。
兄貴は見合結婚であったが、女房が、結婚しても仕事は続けたい、というのを呑んで、結婚した。それゆえ文句もいえないが、かなり家庭生活では譲歩している「家風」のようである。
この兄貴も、辰野同様、ごく普通の庶民だから、ことさら知識教養があるともいえず、表現力がゆたかともいえない。だから、「やっぱし都会《まち》そだちのオナゴはきついぜ」で括《くく》ってしまっているが、都会田舎を問わない、と辰野は思う。オナゴは本来、「きつい」のだ。
辰野のお袋は、親父より「きつ」くて、だからこそ酒屋小売商の店を切り廻していた。よく働き、よく親父を追い立て、よく店を守《も》り立て、しっかり「大将して」いた。お袋が脳溢血《のういつけつ》であっけなく逝くと、親父はめためたと生気を失い、あとを追うように亡くなり、辰野の兄も、弟も、辰野も、店を継がないでしまった。
お袋がきつくなければ店はたちゆかなかったであろうけれど、辰野としては個人的趣味をいうと、きつい女はいやである。
店を切り廻さなくてもよい、柔媚でのんびりしたのがよい、そう思っていた。
栄子と見合したとき、これが大女なのにまずびっくりした。辰野は今時としては小柄な方で一メートル六十二、三センチという男だが、栄子は見上げるような背丈にみえた。仲人をした婦人もそのときはじめて栄子を見たということで、ちょっと言葉を失った風だったが、
「無躾《ぶしつけ》でおまっけど、お背丈、どのくらいおありだすか」
と聞くと、栄子はもじもじして、
「一メートル六十六、七、ぐらいやろ、思います」
と恥ずかしそうにいった。しかし辰野は、かなり内輪にいってると思った。どう見ても七十はありそうだ。栄子はそれを美点と思わず欠点と心得ているらしい。十四、五年前の女には、どうかするとそういうタイプもいたのだ。
辰野は、実をいうと大女が好きだ。自分が小柄だから、小柄な女を妻にするという発想はない。蚤《のみ》の夫婦といわれようと何だろうと、ノビノビした大女がいい。
しかもその大女が、たよりなげな、あやふやな、オドオドした表情で、素直なのもいい。恥ずかしそうに猫背気味に肩をすぼめ、
(どうしてこんなに大きくなっちゃったのかしら)
とでもいうようにつつましくしているのもいい。田舎びた洗練されぬ風趣であるのもいい。
それによく見ると栄子は目鼻立ちのととのった、美人といっていい顔立ちだった。しかし本人はそれに気付かず、すべてに自信のない風で、学生みたいな白いソックスをはいていたりする。
兵庫県の山奥の高校を出て、大阪の大手スーパーに就職した。いま住んでいるのは従業員の寄宿舎というか寮というか、四人一部屋の生活なので何かと気苦労で、その上、
「あたし羞ずかしがりで、お客さんと気軽にモノいうのんもにが手やし、田舎弁で言葉荒いし、外で働くのは向いてなくて。それよりも……」
結婚してこんな暮らしの足を洗いたい、そんな口吻だった。仲人の婦人はあとで、
「あれでは、辰野はん、お気に入りまへんやろうなあ、お背丈の違いやら、お趣味やら──」
と暗に、栄子の垢ぬけない恰好をいい、
「私も、よう知らんとお世話して、えらいすんまへんことだした」
と詫びたが、辰野は気に入った。その頃はもう両親はなかったが、兄貴が、えらい女房《よめはん》をもらって「しっかり大将」されているのを見ていたので、
(女房はえらい女でないほうがエエ。人にもの教える、ちゅうような偉いオナゴより、人とモノいうのもにが手というような羞ずかしがりの女のほうがよっぽどええ。たより無《の》うても、きついオナゴよりずっとましや)
と思った。ノビノビ大きい女で、その実、内々はやさしくたよりなく羞ずかしがり、というのが、
(これがエエ──。好みにぴったりや)
とまで辰野は思った。
辰野がそういう気になったのを知ると、仲人の婦人は満足して、てのひらを返したように、
「ヨメは庭先から貰え、──いいますよってね。立派な肩|凝《こ》るようなおうちから貰うより、遠慮のない、そこらへんの娘さんのほうが、気兼ね無《の》うてよろし」
などといった。
栄子と結婚して、辰野はべつに亭主関白になるつもりはなかった。ただ妻は、きつくなければいい、しっかり大将する、という女でなければいい、そう思っていたのだが、栄子は結婚当初から何によらず、辰野の意見を求め、指図を仰ぐようになった。そんなん、ええかげんに適当にせえや、といっても、栄子はうじうじして煮え切らず、いつまでも決断できなくて半泣きになっている。辰野は見兼ねて指示を与える。すると栄子は生き返ったように元気になり、自信をもってその通りにする。
自信をもって自分で裁量する、というのではない。
自信をもって辰野の示唆に従うのである。
栄子が自信をもってやるのは棚の取付けぐらいのものだろう。高い身長に合せ、棚を高いところへ取り付けるのである。
ついでにコート掛けのフック類もみな高いところに取り付ける。これは辰野が叱ると、たちまち恐縮して、低くつけかえた。
兄貴のいうように、栄子は辰野のいうことに逆らわないで、「大将」しないから、辰野が「大将できる」ということはある。
兄貴のホメ言葉は、たまに家にくる辰野の同僚部下のホメ言葉でもある。栄子は来客をもてなしても、一緒に談笑したりせず、まして自分もビールをあおる、などということはやらない。すぐ隠れてしまう。
つつましい、控えめなおくさんだ、と好感を持たれている。
そういうホメ言葉は栄子の耳へも入るので、よけいそういうたたずまいに傾斜してゆくらしい。いよいよ妻は辰野のいう通りにする。
そうして、ハタ目には、辰野の家庭は波風ひとつ立たぬ、平和な団欒の家庭にみえ、辰野は大将《ヽヽ》であり、妻はその大将に仕える家来、それもいやいや屈伏しているのではなく、夫に心服して、つつましく、しおらしく夫を立てている、そんな風にみえているようであった。
しかし辰野にいわせると、それなりに苦労がある。
兄貴にも世間にもいわないが、「大将する」のも阿呆ではできないのだ。
「あんたが大将」(作詞・武田鉄矢)という歌があったが、辰野にいわせると、結婚生活の要諦《ようてい》は、「あんたが大将」と相手にいわせることである。
妻は、辰野に対して「あんたが大将」と思っているであろう。何しろ辰野が「諾《うん》」といわないと何一つ動かないのだ。しかしそう思わせるには、辰野が一人で何やかやの気くばりを引き受けているのだ。中には「否《あかん》」ということもある。妻はぷうとふくれるが、従わないというのではない。その不満は辰野一人に収斂《しゆうれん》される。
「お父さんは大将やよってね」
妻はあきらめた如くいい、自分が我慢するから保《も》っているのだ、と思うらしい。そう思わせるのこそ、辰野の思う壺なのだ。自分が我慢しているから、この家は保《も》ってるのだ──相手にそう思わせるのが結婚生活のコツである。我慢していると思う者は永久にそう思う。ある一瞬に、モウ我慢ならぬ、ということには絶対ならない。そういう人間なら、元々「あんたが大将」とはいわない。何でも自分の意志を通し、自分が大将となりたがるだろう。
妻は自分の意志を持つのが面倒くさいので、「あんたが大将」といってるほうが楽なのだ。
辰野はそう洞察している。
妻は働きに出ることもしない。パートぐらいならいいと辰野はいうが、外へ出て他人の間で揉まれるのは気がすすまないようだ。辰野に貰う金で家計をやりくりして満足している。
水屋は辰野の思っているのより安く買えた。
妻の好きな型が二タ通りあり、例によってきめかねているので、辰野は少し高価《たか》いが妻が欲しがっていそうなほうにきめた。辰野はケチではないのである。カードで三回払いにして貰った。辰野はサラリーを全額、妻の管理に任す、ということはやっていない。妻には家計に要るだけ渡す、というやりかたで、そのへんが大将の所以《ゆえん》かもしれないが、栄子は初めからそれに文句はいわなかったのだ。
配達してもらう日や住所をいい、用がすんだので帰ろうと辰野がいうと、妻は二階へいってみたいという。二階は嫁入り道具の家具を展示してあって、用があるとも思えない。しかし女は家具好きである。栄子はちょっとだけ見よう、という。水屋を購《か》ったのが、妻をうきうきさせているらしい。先に二階へ登ってゆく。
辰野は憮然としてついて上る。
家具の好きな男もいるだろうが、さしたる趣味もなき凡人の辰野は、家具を見ても感興は湧かない。早く家へ帰り、ビールでも飲みながらテレビのビデオを見たほうがよい、と思う。ビデオデッキを買ってから、野球のほかにもテレビの楽しみができた。「刑事コロンボ」の番組など自分で収録しておいて、日曜に見るのが辰野の楽しみである。
妻は多大なる関心で売場の通路をあるき廻り、そのうち、足をとめた。赤札のついた白いドレッサーに見入っている。ひきだしのついたドレッサーである。脚の一部の塗りが剥げているので、安値がつけられたらしい。突如、
「|うら《ヽヽ》ァ、欲しィなあ、これ」
と妻は叫んだ。辰野に向いて、
「購《こ》うてえなあ、アンタ、これ……」
その顔は欲しいオモチャをつかんで放さない子供の如く、無邪気な我欲に輝やいている。
「なあ、なあ、購《こ》うてちょうでえな、これ、……安いさけ。のう。安かろうが!」
妻はなりふり構わず、夢中で喚く。
妻は感情が昂ぶると、田舎弁が出る。妻が人とモノいうのがにが手、来客にもつつましい控えめなおくさん、と思われるのは、田舎弁まるだしになるのを恥じているからである。ふだんは出ないのだが、夢中になると出てくる。妻はドレッサーを抱えるようにして、
「なんと安かろうが!」
「脚の塗りが剥げてるぞ」
「ラッカー塗りゃ、すむことやで、購《こ》うてえなあ、なあ。こんなんが前から欲しい思うとったんやけど、高価《たか》いさけのう、あきらめとったんや。これは廉《やす》かろうが! なあ、購《こ》うてえ! アンタ! 購《こ》うてくれてもよかろうが」
辰野はケチではないつもりだが、合理主義者である。
「そんなもん、どこ置くねん、狭いのに。鏡台は一つあるやないか」
というのは、妻がみすぼらしい嫁入り道具の一つに携えてきた和風鏡台のことである。しかし妻はそれを殆んど使わず、洗面所の鏡ですませている。妻は反駁した。
「どこへでも置ける|がに《ヽヽ》。|うら《ヽヽ》は、前から白いドレッサー欲しい思うとったんや。なあ、なあ、購《こ》うてえ!」
妻は珍らしくしつこい。辰野はそのしつこさより、「購うてえ」という臆面もないねだり方に辟易《へきえき》する。客の女たちが、通路にちらほら見えているので、夫婦の応酬は彼女らの耳に入っているようであった。こちらを見る女もいる。辰野はドレッサーを見た。ひき出しは浅く、脚の華奢《きやしや》な、見てくれだけのものに思えたが、値段は廉いのかもしれない。「現金支払い、現品限り」という赤札が貼ってある。
辰野はケチではないと思っているが、妻に大声で「購《こ》うてえ! なあ! なあ!」といわれて買うのは何だか釈然としない。妻のいわない先に買って、妻を喜ばせるのなら、よいが──。
それに公衆の前で、「購《こ》うてえ!」とあと先見ずに叫ぶ妻のセンスにも閉口している。兄貴は、田舎のオナゴは純でエエ、といったが、辰野が今も辟易するのは、妻の、「田舎|人《びと》風臆面なさ」である。〈ね、どお、安いと思わない? 買って〉などと、耳もとで色っぽくささやかれれば、辰野も財布の口を緩める気になったかもしれないが、前後の見さかいもなく、
「なあ、購うてくれてもよかろうが!」
といわれると微妙に気分は変化してくる。辰野も都会《まち》っ子の見栄っぱりというところなのだ。そして、一見平和な亭主関白の家庭を営んでいるように見えつつ、辰野の内心をいえば、
〈可もなく不可もなし〉
よろこびもなく悲しまず、はた誰をかも怨むべき、──という、どこかで読んだ詩のフレーズみたいな人生であるのは、妻のそういう田舎くさいセンスが好きではなかったからだ。
辰野は妻の大柄な肉体と、オドオドした稚さが気に入って結婚し、うまくいった結婚生活と、兄貴にも世間にも思われ、自分では、
「結婚生活の要諦は、『あんたが大将』と相手にいわせることだ」
などと考えて自足していたが、ナニ、ほんというと、おもしろおかしくもない生活なのである。半熟オトナの妻に指図するのも中年になると、ようやく倦《う》み、何より妻に惚れてもいないし、愛してもいない。一抹の情《じよう》は湧いているものの、「購《こ》うてえ!」といわれてげんなりするところがある。
平素の、言葉にならぬモヤモヤとした思いが、妻の「購《こ》うてえ!」で明確に意識されてしまった。その時だ。
通路の向うから女客が男の店員を従えて歩いてきた。ハイミスのキャリアウーマンといった、ちょっとした美人である。並んでいるドレッサーの前に彼女たちは足をとめ、女は、そのうちの一つを、
「これがいいわ。これ頂くわ」
と指した。それはやはり白塗りであるが、黄金《きん》色の枠《わく》がぐるりとめぐらされており、テーブルの天板には大理石が貼ってあるという豪華なもの、
「キャッシュだと廉《やす》くなる?」
と女は聞いている。
「はい、ご相談に応じますが」
「あたし、カードの分割払いというの、いやなのよね、家具はボーナスで揃えることにしてるの。じゃこれ、頂くわ」
と女は歯切れよくいい、店員は、
「これでよろしゅうございますね」
と念を押して売約済の札を貼った。
「ええ、あたし、きめるの早いのよね、迷うの、いやなの。どうせ、あたしの物をあたしが買うんだから」
「では階下《した》でお届け先、承ります」
辰野はこのやりとりを聞くともなしに耳へ入れ、何気なく、二人について階下へ下りた。その時、妻のことは忘れていたといってよい。
家具店の前で待っていたが、妻は中々出てこない。まだ何か買物を物色しているのであろうか、辰野はまたもや「購《こ》うてえ!」といわれるのではないかとビビって、先に帰ってしまった。
妻はスーパーへ寄って夕食の買物をしてきたらしくて、かなりたってから戻ってきた。
辰野の家では夕食はテレビを見ながら摂《と》るクセがある。息子はかなり早く眠ってしまうので、辰野はいつまでもテレビを一人で見つつ、ウィスキーの水割りなどすすっている。
妻は辰野の観る番組を共に楽しむことはない。辰野も妻の好きな歌謡番組は敬遠する。スポーツとか洋画のほか、辰野はこの頃、NHKの教育番組がわりあい好ましくなった。一人でじっくり観るにはいい。
そんなわけで、その夜、辰野は可もなく不可もなしの平和な亭主関白の夜を送っていた。辰野自身、面白おかしくもないが、しかし、家庭というのは、
(くつろげたら最高やないか)
という気がある。家庭が面白おかしいものであれば、崩壊するのも早いであろう……そんなおもんぱかりもある。辰野は欲ばりではないから、平和と面白おかしいのと、両方、手に入れようとは思わない。
テレビは古典に関する紀行番組である。こういうのは面白い。思わず身を入れて聞いていると、妙な物音が背後で聞えた。
物の煮えるような、それにしてはバラエティのある物音である。ぐつぐつという合間に、ウウウウ……という音も入る。辰野の家ではペットは飼っていない。猫の啼き声みたいだ……と思い、そのときはじめて斜め後で妻がすすり泣いているのを発見したのである。
泣いている妻など、どうしたらよかろう?
結婚以来はじめてのことなので、辰野は途方にくれてしまう。妻に田舎弁で喚《わめ》かれるのも困ってしまうが、泣かれても仕方ない。
面倒やなという気になる。
自分は冷い男なのであろうかと辰野は反省する。たしかに妻が泣いているのを面倒くさがっている。しかし一面、かるいショックである。
何ごとも「主人に相談しまして」という妻が、主人に相談もせずに泣いているのだ。自信のないオドオドした半熟オトナの妻が、今は自信をもって堂々と泣いてるではないか。
ちらちらと目の隅で見ると、大女が手足を縮めるようにして泣いているのを、みせつけている。みせつけているとしか、辰野には思えない。
辰野は重い口を開く。
「どないしてん……」
「|うら《ヽヽ》ァ、今日ほど辛かったことはない|がに《ヽヽ》……」
妻は喘《あえ》ぎ喘ぎ、いった。妻は平生、「あたし」といっているが、激するとお国言葉丸出しになって「|うら《ヽヽ》」になる。大阪弁の|うち《ヽヽ》とはややアクセントが違うようだ。辰野は別に、大阪中華思想の持主でもなく、耳もいいとは思わぬが、妻の田舎弁に敏感である。
「あの白い姿見が欲しかった……」
「何や、まだそんなこというてんのか」
コドモみたいな奴や、と辰野は思い、それほどいうなら買ってもよいという気になっている。しかし妻は別のことをいい出した。
「あのとき、女のお客さんがおったろう?……」
「うむ」
「あの人は、物凄い上等の姿見を現金で購《こ》うて、|うら《ヽヽ》を見て嗤うとった|がに《ヽヽ》……」
「嗤う?」
辰野には意外だった。女客がこちらへ視線を当てたことはいっぺんもなかったように思う。
「そんなこと、ないやろ……」
「いんや、たしかに嗤うとった|がに《ヽヽ》。自分の物を自分が買うのじゃと、偉そうにいうとってであった。あれは|うら《ヽヽ》に当てつけたんじゃ、嗤うたんじゃ」
妻は一そう烈しく泣き出した。
「まさか、オマエ。どこの誰とも知れんヨソの女が、なんでオマエに当てつけんならんねん。阿呆もやすみやすみ言え」
辰野は「大将」の威厳でたしなめているのに、妻は逆らう。これもはじめてのことである。
「いんや、たしかに|うら《ヽヽ》を嗤うた|がに《ヽヽ》! 自分のもんも買えん女が、いう顔じゃったもん。──そういわれれば、|うら《ヽヽ》、何もいえんさけ。|うら《ヽヽ》ァ、何でもアンタにねだって、購《こ》うてもらわな、いけん立場じゃ。あの女の姿見の三分の一の安もんさえ、頼んでも購《こ》うて貰えなんだんやもん。欲しかったのに……」
妻はそういってヒーヒーと泣き出した。辰野は男だから、妻のそういう言い方に哀れを催して、というより、責められるくらいなら買う、という気になっている。面倒だ。
「ええがな、ほんなら買えや、そこまで欲しいのんやったら……」
「要りません! |うら《ヽヽ》ァ決心したさけ」
「何を」
「|うら《ヽヽ》も、あないなキャリアウーマンになって、自分のものは自分で買う|がに《ヽヽ》!」
妻がはじめに働いたのは、近くのパン屋の店番である。
人とモノをいうのもにが手《ヽ》、と思い込んでいたのは、妻の、単なる思い込みであったらしく、愛想よく客をあしらっている。気が利いてキビキビする、というのではないが、じっくりと親切な応対で、評判はいいほうであるらしい。そのうち、パン屋が親切にするといってその女房が嫉くので、妻はそこを辞めて、二つ三つ大阪寄りの大きい駅の駅前にあるブティックの売り子になった。
妻の長身と、わりに均斉のとれた体つき、ととのった目鼻立ちに、女主人は目をつけたらしい。その店にいる間に、みるみるという感じで、妻は美しくなった。店員割引があるので、ローンで服やアクセサリーを買いこみ、髪も、今までのオバンくさい、どっちつかずのセミロングはやめて、伸ばしはじめた。ふわふわと肩へかかる、きれいにパーマのかかった髪をゆすりたて、妻は流行のドレスでその店へ出勤する。
見違えるような女っぷりになった。
辰野は妻の変貌ぶりに転倒《こけ》てしまっている。
ある日、妻はハイヒールを穿いて帰ってきた。
「見て、見て、アンタ! |うら《ヽヽ》にも似合うやろ!」
玄関でけたたましく呼び立てる妻に、辰野は何事ならんと出てみると、妻はハイヒールのパンプス、輝やくばかり白い靴を穿いて、すらりと立っていた。堂々たる長身。
高い、なんてもんじゃなかった。
マンションの低い天井を突き破りそうだった。白いピケの半袖のスーツ、濃紺のブラウス、化粧もうまくなり、目を惹く美人にみえ、
「|うら《ヽヽ》もこうなるとは思わなんだ|がに《ヽヽ》……」
にんまりする妻から、もはやオドオドした自信のなさはすっかり払拭《ふつしよく》されている。
ブティックに勤めているとき、仕入れにいった婦人服メーカーに引き抜かれて、妻はその会社の販売店に勤めることになった。大阪のミナミ、周防町《すおまち》のビルの一階である。その会社の服を着て、客と応対すればよいのだ。
今になって妻は、
「勉強をもっと、しなくちゃ」
と言い出した。
「今まで家の中で何をしてたのかと思っちゃうわ、文学も美術も、うんと勉強することいっぱいあるってわかったの」
などという。もう、「|うら《ヽヽ》」も「|がに《ヽヽ》」も、妻の口から出ない。
そういえば猫背も内股も直ってしまった。モデル養成所などへ通って必死に「勉強」し、矯正したのである。
高いところへフックをつけ、辰野が文句をいうと、
「アンタが踏台持ってきたらいいんじゃない。あたし、屈むと姿勢が悪くなるのよ!」
という。半熟オトナの妻がなまじ外へ出てチヤホヤされ、小金を握ってとんでもない間違いを引き起すのではあるまいか。辰野はそれが心配である。
「ふん」
と妻は鼻で嗤う。
「家で我慢してた時に比べたら、どんなピンチだって切り抜けられるわよ。少いお金でどれだけあたしが苦労してやりくりしてたと思うの! チヤホヤされるったって、あたしがアンタの顔色見い見い、ご機嫌をとってた苦労に比べりゃ、男の人のあしらいなんてずっと簡単だわ。あたし、外へ出てみて、今まで家の中でどれだけあたしが苦労してたか、ようくわかった。とにかく、アンタは大将、だったんだもの!」
妻は出勤間際、あわただしくそういい、ハイヒールにからまった辰野の靴を蹴とばし、
「あ、悪い!」
といったが、あらぬ所へ飛んだ辰野の靴を揃えようともせず、言い捨てる。
「いそいでるから、ごめん! あたし今日、遅いの。アンタ、帰りに駅前の『ローソン』で何か見つくろって買って帰ってね」
──辰野は息子を登校させ、自分もキイを施して出る。
オナゴは本来、きついのだ。「あんたが大将」と辰野は妻に向っていいたい。しかし妻が辰野に意図的にそう思わせ、家庭の平和を図っているとは思えないのである。
II
物の本で辰野が読んだところでは、江戸時代の川柳だが、
「乳母に出て少し夫を歪《ひず》んで見」
というのが『柳多留』にあるそうである。
これは在所にいて世間を知らない女が、「夫を天と思え」という、女大学風に考えていたのが、お乳母どんとしてよその家へ奉公に出て広い世間を見てみると、ええ男も仰山《ぎようさん》世にはおるもんや、それにくらべたらウチの亭主は、とやっと客観性を獲得して夫を軽視する、というようなことであろうか。
この川柳がシミジミひそかに身に沁みる辰野の昨今である。
辰野の妻の栄子は大阪の婦人服メーカーでパートとして働いている。その会社はブランド名を「パスカル」といい、栄子によれば、
「大人の女の気品」
「働く女性のための衣設計」
「エグゼクティブ・レディにふさわしい知的エレガンス」
などというのがうたい文句のブランドであるらしい。会社の直営販売店がミナミの周防町《すおまち》角のビル一階にある。御堂筋《みどうすじ》をちょっと入った、通称ヨーロッパ村の一角、広いガラスウィンドーで、店内がよく見えるようになっている。栄子はそこで、会社の服を着て客と応対する、いわゆるハウスマヌカンというらしいが、まあ売り子である。
何ということなきパートの仕事であったのだ。
辰野ははじめ、妻がいそいそと働きに出はじめたのを、
(どうせつづかへんやろ)
と思って見ていた。妻は兵庫県の山奥の田舎出身で、西宮《にしのみや》の小さいマンションに住むのも、(えらい出世)と嬉しがっているところがあった。大阪や神戸を出歩くこともせず、近くの駅前商店街を愛用し、隣町の芦屋《あしや》にはきらびやかなショッピングビルが最新ファッションを誇示しているが、
(あんな高価《たか》いとこは、|うら《ヽヽ》にゃ関係ない|がに《ヽヽ》。|うら《ヽヽ》にゃ身分不相応じゃけえ)
とおぞ毛をふるって敬遠していた。(そのくせ、ひやかしで見て歩くのは女の常で好きなようであるが)今もちょくちょく出る田舎|訛《なま》りを卑下して、人前に出るのをいやがり、夫の辰野よりずっと高い長身を恥じて猫背の内股あるき、辰野を立てて、何でも夫の許諾がなければ物ごとを裁量できない、すっかり夫に頼り切った妻、──というのが栄子であったのだ。
それが、
(自分のモノは自分で買いたい)
という野心と欲望に目ざめてからは、日一日と変貌《へんぼう》してくる。何ということなきパートの仕事にふとしたことでありついたことを喜んで妻は一生けんめい通う。
この、大阪の町のどまん中へ通う、ということからしてそもそも、箱入りの専業主婦だった妻には大変な消耗ではないかと辰野は考えていた。大女には(大男もそうだが)意外と体力のないのがいる。辰野のように一メートル六十二、三というような短躯の人間のほうが、引き緊って頑健である。妻は毎日乗り物に乗って通うことに堪えられるのであろうかと、辰野は思っていたのだが、これがケロリとしたものなのだ。辰野の心配を鼻で嗤《わら》う。
「当然でしょ。あたしの体力は歩くことで鍛えられたんですからね。電車代バス代を節約するために、たいていのところは歩いたのよ。歩くことじゃアンタに負けないわよ」
妻は今では「美しい話し方教室」などに通って田舎訛りを追放し、(さすがに語尾の端々に追い払いきれぬアクセントは残るものの)大阪弁を通り越して共通語でしゃべるようになっている。
しかも付け加えて、いや味までいう。
「なんでそんなにテクテク歩いたと思う? バス代浮かせて、あたしのパーマ代をひねり出してたのよ。お父さんのくれる生活費、少いってもんじゃなかったわよ、あたしの小遣いが出ないんだもの、アンネ代にさえ事欠く始末だったのよ」
「ほな、いうたらええやないか。おれは別にケチでもしぶちんでもないんやから」
辰野は心外である。辰野の家庭では結婚以来の慣習として、辰野が一家の経済を切り廻して、家計その他の費用は、要るだけその都度、妻に与えていた。欧米型でんな、という会社の者もいるが、辰野は欧米の亭主がどうやってるか知らん、知らんが、結婚当初から妻は、給料を封も切らずに貰ってもどうしていいか分らない、と途方にくれたのだ。オドオドと自信なく世間知らずで、何でも辰野に訊《き》かなければ動けない妻は、これだけの金で塩梅《あんばい》しろ、と夫に指図されるほうが気楽でいい、といったのだ。十五、六年来それでやってきて、今になって「アンネ代にさえ事欠いた」などと怨みがましくいうとは何だ。辰野は自分でいうようにケチではない。
ここだけの話、べつに妻を愛しているわけでも惚《ほ》れているわけでもない。辰野の愛しているのは、頼りなくてもおとなしい妻と営む家庭の平安である。くつろげる塒《ねぐら》である。妻はその中に包括されるセットの一部である。
しかし塒の一セットが「アンネ代にさえ事欠いた」と今になって怨みがましくいうとは思いもよらぬことであった。
「それやったら、いわんかい、おれはケチやないねんから、出したってたわい」
「いえるくらいなら苦労しなかったわよ! ナゼカ、いえなかったのよ!」
妻は身悶《みもだ》えしてくやしそうにいう。
それも辰野には驚きである。反駁する妻、なんて。
「なんでいわれへんねん」
「なんでって。そんなこと諾《き》くお父さんじゃないと思いこんでたもの。いうの、怖かったのよ。今思うとバッカみたいだわね、妻が自分の小遣いを欲しい、と要求して当然なのに、あたしはクヨクヨ遠慮してたのよ、癪《しやく》に障るわ」
妻は綺麗に描いた眉を動かし、朱い唇をゆがめて、十五、六年来のクヨクヨを一気に噴出するように言い放つ。しかし辰野は|しぶちん《ヽヽヽヽ》でない証拠に、妻が欲しがる服や家具は買ってきたはず、妻はそのたび、
(えっ、ほんまに購《こ》うてくれるのん、いやあ、嬉し!)
と手放しで喜んでいたではないか。アンネナプキンのワンパックが何ぼするもんやら知らんが、オレがそんなもんに目鯨立てる、思《おも》てんのか。見そこなうな。
「違《ちが》うわよ、あたしが腹を立ててるのは、遠慮していえなかった自分自身に対して、なの。ナゼカいえないと思いこんでた、そのナゼカ、にあたしはこだわるの」
抽象論は辰野の、というか男の好むところではない。男は妻と抽象的な議論を交そうとは思わない。
「何でもエエ、ともかくパートにしろ何にしろ、働いてもエエが、家のことを抛ったらかしにせんように頼む」
「働く以上は正社員になりたいと思ってんの、それ認めてほしいわ」
妻はまたもや反駁する。
「うちの会社、わりに途中から正社員に入れてくれるらしいの、四十歳までなら。それにあたし、『パスカル』の服に雰囲気ぴったり、と店長にいわれてるし。猫背も内股も、あなたくらい、きれいになおった人いないって、店長にほめられたんだもの」
「お世辞いわれて喜んでる奴あるかい。オマエに気ィあるのんかもしれん、そいつは」
箱入り専業主婦は最も男のホメ言葉に弱い、というではないか。
「あら、店長は女よ。うちの会社じゃ、商品企画部長も販売促進課長もみな女なのよ」
妻はバカにしたように辰野にいい、ちょっと働いただけで早くも帰属意識が生れたのか「うちの会社」などと発音し、そこには自慢げなひびきさえ、ある。
「あたし意外といまの仕事、身に合ってんのを発見したのよね、勿体ないから止めないわ、何とか正社員にしてもらおうと思ってんの」
妻が出勤の時に身につけるスーツも、家でのくつろぎ着も、「パスカル」の社員割引で買ったもの、白い寛やかな麻・綿混紡のドレスなど身にまとう妻は、天井の低いマンションの部屋で見るとひときわ丈高く見える。猫背が矯正されたばかりではあるまい、身長も伸びたん違《ちや》うか、と辰野は目を擦《こす》る思いである。
「オマエ、ほんまのとこ、身長、何ぼあんねん」
「ふん」
という顔で、妻は辰野に流し目をくれ、
「今だからいうけど、一メートル七十二よ」
「オマエ、見合いのとき、一メートル六十六、七やいうてたやないか」
「あの頃は背の高いのが引け目だったのよ。田舎で『電信柱』! なんていわれるのが死ぬほどいやだった。恥ずかしいから内輪にいってたのよ、ナゼカ、卑下してたのよ、今になると、そのナゼカが腹立つのよ」
今になってこっちへ尻持ってきて怒ったかて、知るかい。
「あら、アンタに腹立ててるんじゃないっていったでしょ、自分自身に、だわ。あたしってこのごろ、昔の自分に腹が立つこと多いの、なぜあんなにオドオドしてたんだろうって。ナゼカ、オドオドしてたのよね」
男は昔の自分に腹を立てたりしない。そんなヒマはない上に、いちいち今になって昔を省察したり反省したりしない。
まあ、ナゼカはいい、妻は「うちの会社」を自慢し、ついで、いろんなことに自慢のタネをみつけて、どんどん自信を持っていく。身長に自信を持ち、肩を窄《すぼ》めるような猫背の姿勢は絶えてとらなくなった、それも自信の一つであるが、大阪の盛り場をわがもの顔に使いこなすようになった。以前は住居の近くの駅前商店街の雑踏で満足していたのに、今は大阪のミナミの盛り場のどまんなか、四通八達、自在に歩き、都市《まち》っ子になったようで、
「パパ、ミナミのアメリカ村に『ホテル・ウェストコースト』いう、プチホテルあるの、知ってる?」
知るかい。辰野のテリトリーは勤め先が道修町《どしようまち》ゆえ、もっぱらキタである。それも北新地は高価《たか》いから曾根崎へんで飲む。四十三、四という年齢《とし》らしく、おでん屋や焼鳥屋、つまり暖簾《のれん》のかかっている店である。ウェストコーストもプチホテルもあるかい。
「そこの地中海料理、おいしいのよ。宿泊割引券をお客さんに貰ったからいっぺん泊ってみない?」
「一時間でウチへ帰れるのに、何が悲して泊らんならんねん」
「ゆっくり飲めるじゃない? 朝の五時までやってる店が増えたのよ、あたしいっぺん、夜通し、店から店へ梯子《はしご》して飲んでみたい」
何ちゅうこと、いうねん。
昔の妻はビールさえ口をつけなかった。来客にビールを勧めつつ、自分はこわいもののようにキッチンに隠れて出てこなかったものを、いまは時々遅い帰宅のときは酒気を帯びて機嫌よく帰ってくる。
「うちの会社、みな強いのよ、ね。あたしも飲《い》ける口、とは知らなかったわ」
辰野も知らなんだ。妻は日曜は隔週に休みになる。たまたまそういう日、夕食の支度をしている妻を見ると、まず缶ビールをプシュッ! と開け、グラスについでキッチンに立つ。
そうしてぐーっとあけ、一方でフライパンの何かをいためはじめる。
塩胡椒《しおこしよう》を振り入れ、更にいためつつ、またビールをぐっと飲む。フライパンのいためものを皿に移し、煙を上げて肉をいためはじめ、その間に二本目の缶ビールを開ける。
肉をいためつつ、ビールをあおる。
豪快な飲みっぷりといおうか、料理っぷりといおうか、悪びれたところなくテーブルに皿を並べ、顔色は変ってもいない。
(蟒蛇《うわばみ》やないか)
辰野は内心ビックリしている。而《しこ》うしてまた、ノビノビと長大な、一メートル七十二センチの巨体、贅肉はないが三十六という年(もうすぐ三十七になるはず)らしく、バストもヒップも豊かである、そういう伸びやかな肢体に、缶ビールの一、二杯はまことにささやかな量で、本人にしてみたら、茶匙《ちやさじ》二、三杯分ぐらいにしか思われへんのやないか、と妙なところで納得したり共感したりし、こういう大女が、酒気を帯びて帰宅するには、よっぽど飲んだんやろか、
(オレの知らんトコで何しとるやわからへん)
千年町や玉屋町、八幡筋《はちまんすじ》に鰻谷《うなぎだに》、三津寺筋《みつてらすじ》を笠屋町で折れてドコソコのふぐが旨いの、西洋懐石がどうの、と妻は新しく仕入れた知識を夢中で披露する。たしかに家庭の中の会話が目新しいものになってきたが、さりとて辰野にとってそれが快いというのではない。が、不快、というほどでもない。
ただただ、妻の変貌ぶりに気を呑まれているのである。
そうして、
(男はここまで変貌《かわ》られへんなあ。|照れ《ヽヽ》、ちゅうもんがあるさかいな……)
とつくづく思ってしまう。
今や、辰野は「照れ」というのが人間最高の徳目であるかのようにさえ思われる。男なら大体、「ゆっくり飲めるじゃない?」とか、「知らなかったわ」とか、「そうなのよ」とか、急に標準語など使えない。「|うら《ヽヽ》にゃ関係ない|がに《ヽヽ》」などという田舎言葉から急に、油壺から出たようになめらかな共通語に変る気が知れない。自分でいうて自分の耳に恥ずかしィないんか、と思ってしまう。辰野はあるとき、「そのコトバ、どうかならんか」といってみたが、せっかく金をかけて「美しい話し方教室」へいき、店長には、
「ウチは上品なお客さまがいらっしゃるのだから、その調子でね」
とおだてられて、やっとこせっとこ身についた言葉遣いを、妻は変える気はない、と言い張るのだ。照れたりする気は、これっぱかりもないようであった。得々として共通語を口にのぼせ、それは日一日といよいよ、自在に駆使するのに長《た》けていくようであるが、辰野はいつまでも馴れない。
(女と男は、違うなあ)
という感を深くするばかりである。
妻はめきめきと美しくなる。
「着たい服がいっぱいあって困るわ」
などといい、安く分けて貰った服を取っかえ引っかえ、着てゆく。化粧も上手《うま》くなり、小物もバラエティに富み、あれでは多くもないパートの金など飛んでいってしまうであろうと思われるが、とりあえず妻は、自分を磨くのに夢中である。美しく変身するのになりふりかまわず、照れなんて無論、ないらしい。
そのほかに、妻の大変身は、家庭の中へ閉じこもっていた人間として無理からぬのだが、
「うちの会社は……」
という自慢のフレーズ。はじめて世間へ出て、素直に会社自慢をしている。どうせパートやないか、と辰野は思うのに、まじめで実直な女の常として、かりそめの職場にも、心寄せしないではいられぬらしい。
会社の方針やら、社風やら、社長の成功談やら、更に著名な男性デザイナーの噂からファッションの動向まで、妻は職場で仕入れてきたニュースを小まめに精力的に、有頂天でしゃべる。
「うちの会社は……」
というのが、その間にひっきりなしに入る。サラリーマンたる辰野は、その気持も分るのだが、これも、男にはある種の「照れ」があるであろうに、女は手放しである。
社会的訓練を受けていない妻だから無理もないが、辰野の結論として、
「女が変貌できるのは、照れがないからだ」
という結論に達した。
妻はこの頃、英会話へ行きたい、と張り切っている。何いうてんねん、この間まで、「|うら《ヽヽ》」や「|がに《ヽヽ》」使うとったくせに、何が英語じゃ、と辰野は思う。
「いったい、いつ行くねん、勤め持っとったら行く時間、ないやないか」
「一週間にいっぺん、二時間おそくなるだけじゃないの」
「あかん。ノボルはいま中一やないか、ややこしい時期やから、あんまり家、あけるな」
「ノボルのことはちゃんと見てますよ。それならお父さん、英会話教えてくれる?」
なんでオレに英語、しゃべれるねん。
「だって大学出てるんでしょ。読み書きできるんでしょ」
タテマエはそうやが、タテマエとホンネは違う。けったいなトコへ尻持ってくるな。
「じゃ、あたし英会話教室にいくわ。これからは外人のお客さんも来るから、これ、うちの会社の方針でもあるのよね。英語ができれば正社員にしてもらうのに有利かもしれないわ」
辰野は、妻のことだから、あるいは意外にスムーズに英会話を身につけるかもしれないと思ったりする。これも、女には照れがないからである。外国語習得、などということは、照れたりするような高邁《こうまい》な精神ではやってられない作業である。南蛮|鴃舌《げきぜつ》に耳傾け、その通りに真似るということは、君子《くんし》の照れるところ、取らざるところである。
妻は無論、君子ではないから、早速、会社の帰り道の英会話教室へ通いはじめ、夜も、「ウィルユー」や「ドゥユー」とおさらいし、はじめは息子のノボルのカセットを借りたりしていたが、しまいに自分専用のテープレコーダーを買ってきた。
それで今更のごとく辰野は気付いたのであるが、妻の変貌の大いなるものに、辰野に相談しないで、モノを買う、という現象があらわれたのだ。
常に、
「主人に相談しまして」
といい、
「お父さん、買《こ》うてえな」
といっていたのが、自分で買うようになったのだ。
勤めはじめて、妻は真っ先に、白いドレッサーを買った。それはいつか辰野にねだった特価品の現金現品のみ、という安物ではない。皮の太鼓椅子付きの、どっしりした白ラッカーである。妻は非難めいた辰野の視線にめげず、
「十回ローンで買ったからねッ。あたしが買うんだもんねッ」
と凱歌のようにいった。
その次は乾燥機だった。ノボルはいまも野球に熱中しているが洗濯物が大変だ、というのである。辰野が夜、帰宅してみるとベランダに乾燥機が置かれ、早《は》や澄ました顔でそれは廻っていた。
「これは絶対、要るのよ、ね。あたし、以前《まえ》に、家にいるときから欲しかったの。でもナゼカ言い出せなかったわよ」
辰野は「ナゼカ」に弱い。
「買《こ》うたもんは、しょうないやないか」
「共働き家庭にはなくちゃいけないものよ。ご覧なさい、どこでも持ってるんだから」
妻は勝ち誇ったように外を指す。見ると夜のベランダで、どこもかしこも音立てて乾燥機が洗濯物を廻していた。
乾燥機だけではない、妻は共働き家庭に要るものを次々と揃える。職場での情報もさりながら、今まで家庭にいてテレビによく親しんでいたその知識の蓄積の成果だとおぼしい。実際、妻はいろんな下らぬことを実にこまごまと知っている。テレビを見ている人間は何でもよく知っているものだが、妻の物知り度は、その広さといい浅さといい、テレビ情報にちがいない。
辰野は妻の買物については、はじめは黙認していたが、ある時点から、男の見栄も照れもなく、「何を、何ぼで、どんなローンで買うとんねん」と干渉した。どんどん買い込んでローンが払えなくなって破産、ということになれば目も当てられない。──と思ったが、その点ばかりは、つましい田舎育ちの妻はきちんとしていた。こまかく目配りして、出る金を抑えているようであった。辰野は安心する。
もう一つ、妻が田舎者で、辰野が安心することがある。
妻の変貌が昼だけでなく、
(夜も変ってきたら困るぞ)
と辰野は思っていた。しかし妻は昼は都市《まち》っ子だが、夜は田舎者になるらしく、以前と変っていない。辰野は妻を別に愛してるわけではないと思い、惚れてるのではないと思うが、若いときから大柄の大女が好きだったのは変っていず、「田舎者の妻」を抱く(あるいは抱かれる)のが好きなのである。これはやっぱり、愛してる一種かもしれない。たっぷりしてノビノビした大きい肢体、どこまでも続く白い暖かい丘は地平線がふっくら丸く、
(観音さんのおなかみたいや……)
それに妻が夜は田舎者風にオドオドし、口ばかりでなく肉体も口ごもり、肩を窄《すぼ》めているのがよい。夜まで変貌して照れを忘れ、
(今までなんでオドオドしてたのかしら、それ考えると、昔の自分に腹が立つのよ、ナゼカ、オドオドしてたのよね。今思うとバッカみたい)
などといい、頓《とみ》に奔放大胆に振舞われたりしたら、辰野は困ってしまう。夫たちの中には妻が放恣になるのを喜ぶ者もいるかもしれないが、辰野は大女がつつましく恥じらっているのが好きだ。あれでほしいままにやられたらたまらぬ、と辰野は思う。
夜は田舎者の妻だから、辰野もどうにか、妻の昼間の変貌に堪えているが、それでも追い追いに自信たっぷりになってゆく妻を見ているのは、あまり嬉しくないのであった。ただ息子のノボルの世話はちゃんとしているようである。野球の合宿練習の時は、親たちが交代で炊事をするのだが、当番の日、妻は店を休んで手伝いにいっている。
息子は辰野に似たのか、クラスでもチビのほうである。成績は中位だが、小学生の頃から野球に熱中している。
「今に、アッという間に背が伸びるわよ、あたしがそうだったもの」
と妻はいっている。性格は、妻のタイプにあるように田舎型・都会型(あるいは夜型・昼型というべきか)でいえば、田舎型である。息子はまじめで地味で、人の見ぬところでもきちんとやるという律儀タイプである。
その息子が、泣いて帰ってきた。野球部の先生が、練習にまじめに顔を出してる者を試合に出すといったので、息子は早朝練習を欠かさずに、しこしこと続けていたのだった。
ところがフタをあけてみると、ろくに練習に出てこない生徒が選手に選ばれて息子は落されている。
「僕、もう野球、やめや」
息子は悲憤の涙にくれている。
辰野は自分の子供のころにもそんなことがあったのを思い出しながら、
「あほ。男のくせに泣く奴、あるかい」
と息子の背中をどやしてやった。
「世の中は、そう、何もかも自分の思う通りにいかへんねん」
「先生が……先生が……」
と息子はむせび泣く。
「もうええ、しゃァないやないか、こんなこと、ようあるこっちゃ。クヨクヨすな、そんな、何もかも自分の思い通りにいく、思《おも》たら間違いやぞ」
「だって、それはひどいわよ」
と妻がいきりたった。
「約束が違うじゃないの、先生が嘘をついたら困るわ、間違いをただすべきだわ、不信感を招くわよ」
辰野は別に先生に贔屓《ひいき》するものではないが、「しゃァないやないか」という生き方に与《くみ》せざるを得ないところがある。先生も、ウソをつこうとしてついたのではあるまいが、試合という点から見ると、「しゃァないやないか」になってしまったのであろう。会社のビジネスもそんなところがある。べつに懲罰人事でなくても、チョンボもしないのに貧乏|籤《くじ》を引きあてて左遷される者もある。世の中は「しゃァないやないか」の連続である。
「間違いをただすべきだわ」で通るものならよいが、通らないから「しゃァない」のだ。
翌日の夜、辰野が帰ってみると、息子はハレバレとした顔でおり、妻も機嫌よく、缶ビールを飲みながら夕飯の支度をしていた。
「ちょっと早退けしてね……」
と妻は二缶目のビールをグラスにつぎつつ、煮込んだシチューをお玉杓子で掻きまわし、ついでグラスのビールをぐっとあおって、
「先生に面会にいったの」
「なんで」
「勿論、『約束を違えると思春期の子供が傷つくんじゃございません?』と言いにいったのよ。先生はようやくわかって下さって、少し考えが到りませんでしたって」
妻は辰野に小声でいう。
「あたし、念入りにお化粧してさ、キレイキレイにしていったの。にこやかーに色っぽくきめて、エグゼクティブ・レディ風の知的エレガンス、大人の女の気品風に迫ったのよ。先生と話が弾んでたのしかったわ」
知的エレガンスはいいが、息子はどうなったのか。
「あら、ホカの子と差し替えられて選手になったわよ」
それでは「ホカの子」が「しゃァないな」になったのであろうか。
それにしても、妻はどこまでほしいままに跳梁するのやら、辰野は妻の変貌ぶりにようやく内々、畏れを感じはじめている。
それから間なしのある夜のことだった。
辰野が帰ると、今度は妻が取り乱して泣いているではないか。まさか妻が野球の選手になりたいわけではあるまい。
辰野は妻が泣いているのを口軽く慰めたり、どうした、といえる男ではない。うっとうしくてイヤだ、とまず思うエゴな男だ。オレを責めて泣いているのではあるまいと、仏頂面で上衣をハンガーにかけていると、
「お父さん」
と妻は激した涙声で辰野に呼びかけ、
「|うら《ヽヽ》、会社をクビになった|がに《ヽヽ》! うちの会社を!」
久しぶりに聞く|うら《ヽヽ》であり、|がに《ヽヽ》であった。
「正社員にする、いうエサで釣ってうんと働かしときながら、パートやさかい、もう明日から来《こ》んでエエと、簡単にいう|がに《ヽヽ》! |うら《ヽヽ》、腹立ってくやしィてならん|がに《ヽヽ》!」
それみい、とは辰野はいわない。いわないが、本心をいうと、辰野は内実、オンナをバカにしていた。それが目ざましい変貌を遂げるので、ちょっと目を奪われていたが、いま、妻の話を聞くと、(それみい)と思わざるを得ない。やっぱり女はアホだ。
「そんなもんやデ、会社いうたら、世の中、甘うないんや。しゃァないやないか。何でも自分の思い通りにいく、思《おも》たら間違いや」
辰野はあまり熱の入らぬ口調で慰める。世の中、そう甘いこと、あるかい。ノビノビと生き、好きなだけ変貌できるなどという、野放図な世界がどこにあろうか。女は本来、世の中、甘く見すぎ。
そんなに、ちょんちょんと跳《は》ねて生きていけるものなら、疾《と》うの昔に男だって跳ね廻ってるわい。
「まあ、そう気ィ落さんと。今度勤めるとしたら、もっと地味なトコにせえや。スーパーのレジとか、パン屋の売り子とか、派手なトコへ行って、オマエちょっと浮かれすぎたん違うか」
妻は涙を拭いて辰野のいうことを聞いていた。
次の次の夜、辰野が帰宅するとフライパンから盛大に煙があがり、巨大なテキが焼かれ、妻は缶ビールを飲んでいた。
「あたし、別の店に採用されたわよ」
妻は得意になると、殆んど美人といっていいほど、冴え冴えした顔色で美しい。
「同じような婦人服メーカーなんだけど、明日から来てほしいって。時給が前よりいいの、おまけに心斎橋なのよ、捜してみるもんね」
妻は二本目の缶ビールを、水のようにごくごくと飲む。
「あたしの雰囲気、『マリアン』にぴったり、だって。あ、これ今度のブランドの名。やってみたら、あちこち道はあるもんねえ。お父さんみたいに、『しゃァないやないか』とか、『世の中、甘うない』なんてことばっかりいってたんでは、何もできないわよ、バッカみたい」
──さよか、と辰野は胸でつぶやく。「乳母に出て少し夫を歪《ひず》んで見」という川柳が思い出される。やっぱり、あんたが大将、というフレーズは妻に捧げたい。
単行本 一九八九年四月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成四年三月十日刊