田辺聖子
イブのおくれ毛 T
目 次
男の三大ショック
女の三大ショック
籍 の 話
嬶よママ炊け
伸 縮 自 在
女のいいわけ
二 夫 二 婦
ド……ドあほ
子 宮 作 家
器 量
快 感 貯 金
契 約 結 婚
説 教
淫・食・遊
ナニをナニする
緊 ま る
お 守 り
男ってバカかカシコか
単なる浮気
男の性的能力
理 想 の 夫
嫁 入 道 具
昔 の 殿 様
器用、不器用
また敗けたか、八聯隊
いやらしい関係
ぶおとこ愛好
かわいい男
日本のモナ・リザ
同伴ホテルの怪
ほころびたれど漏れはせず
それにつけても
カモカ源氏
フタバのマーク
タカガ主婦
強 い 男
スレチガイ
プレイボーイ
男のいじらしさ
政治的オーガズム
花は桜木、女は間抜け
男のヒステリー
逆 さ 吊 り
あ と 始 末
男の恥・女の恥
ス ワ ッ プ
男のいい恰好
遊び人と文化人
内弟子模様
柱 の キ ズ
男の三大ショック
「女の長風呂」も延々百回に及び、ようやく私もいささか湯中《ゆあた》りぎみ、のぼせてきて、茹《ゆ》で上らんばかりになった。
ここらで長湯からあがり、秋のはつ風におくれ毛を吹かれながら――というと、なまめかしいが、ナニ私のことだ、べつにどっちへ転んでも色香が増すわけではないが、心機一転、題をあらため、禿筆をとりかえ、机の塵を払って、あらたなる稿を起そうと思う。
さて、長風呂を出て、女は何をするかというとまず、濡れた髪を束ねるのである。そうして私であると、ビールの冷えたのをぐいとやったりいたすのであるが、その際、前《ぜん》申すごとく、おくれ毛がこぼれる。よって、こんどは、女のおくれ毛ならぬ「イブのおくれ毛」と名付けた次第である。
大体しかし、毛というものは情緒|纏綿《てんめん》たるもので、また、一面、人によっては妄想をそそられ、ワイセツ心が泉のごとく湧いたりする。あるいは殺人現場のざんばら髪、ユーレイの脱け毛、さらにはミイラに毛だけありし日のままに残ってるなど、エロからグロまで連想のはばが広いものである。更には色や形状によっても、情緒がちがう。
モーパッサンの「ベラミ」という小説には、主人公の男のボタンにからまっている女の毛をつまみあげた恋人が、
「あなたは中年女と浮気したわね!」
ととっちめるくだりがある。何となればその髪の毛に白髪がまじっていたからである。
わが愛するツチノコは魔性の神蛇で、決して姿を見せないが、人間の毛を焼くと、その匂いに釣られて穴から這い出してくるという。私はツチノコ狩りに行って早速、これを試みたが、ダメであった。一向、キキメありませんでした、と私がツチノコ学の泰斗になじる如くいうと、彼は重々しく、
「その髪の毛は、直毛でしょう?」
「はい。日本人の毛ですからね」
「そらあかん。縮れてるヤツでないとあかんですわ」
「縮れっ毛がよろしいんですか。すると、パプアの人というか、ニューギニアの人というか、そういう南洋の人の毛なんぞを貰《もろ》てこな、あきませんか」
「いや、日本人でもかまわんが、縮れてツヤがあって、まあ短い方、その毛がよろしい。生えてる場所は、この際、問いません」
などということであった。
カモカのおっちゃん(あいかわらず、こいつが登場する)にいわせると、「毛」は人間の人生で、たいへん重要な意味をもつんだそう。
「ことに、男の人生にとってはたいへんなもんです。男の人生には三大ショック、ということがある」
おっちゃんが勿体ぶっていうと、どうせロクなことではないが、あえて問うと、
「まずその一は、思春期に及び、ある日、ふっと気付くと、かくし所に思わざる伏兵を発見してギョッとする。その日は一本やと思《おも》たのに、あくる日見ると、加速度的にふえている。十日もたつと、今まで気付かなかった所まで発見する。もう、えらいショック、人と風呂へ入られへんと思いつめる。女はそんなこと、ありまへんでしたか」
「知りませんよ、そんなこと」
「知らんことはないやろ」
「忘れましたよ! それよか、第二のショックて何ですか」
「老眼です。女はどうですか」
「いちいち、うるさいわね、それは女もあるでしょう。でも、私は幸い、まだ、メガネなしでよめますが、もう半年、一年のうちかもしれない」
「腕を伸ばしあるいは近づけ、やってるうちに愕然とする。うーむ、これこそ世に聞く老眼ならんか、そう思《おも》たとき、がっくり、きますな」
「そんなもんでしょうか。目が見えなきゃメガネ買えばすむこっちゃないの」
「いや、男はやはり、老眼鏡がいるようになった思うと、感無量の所がありますからな。本人はまだ三十代の心意気で居《お》るのに、階前の梧葉《ごよう》すでに秋声、人生の秋のさびしさが、ソクソクと身にしみます」
おっちゃんがいうと、何でもくどくなる。
「第三のショックは何ですか」
「思春期の伏兵に、老齢再び、おどろかされることです。伏兵が、白旗かかげて降参しとる」
「と、いいますと……」
「あたまのこととちがいまっせ。あたまはいつもしげしげ見てるとこやから、少々白うなってもどうということはない。しかし、ふだん、じーっと見たことのない所を、あんまり日に当てない所を、ある日、ふと気付くと、黒かるべき所に、白いものがまじってる。その日は、一本二本発見して、ショックです」
「ハア。そんなもんでしょうか」
「おお! ついに、という気になります。あんまり使うたおぼえもないのに、と自然の摂理の理不尽さに怒りをおぼえる。もっと配給あるはずやのに、えらい少ないままで、もう予定終了といわれたよう。そのうち、しばらくして探ると、またふえてる。もう、やけくそになる。拗《す》ねてくる」
「ハハア」
「ええわい、何ぼでもふえたらええわい、シラガが何じゃ、老眼が何じゃ。――男の人生の三大ショック、そのうち、二つまで毛が占めてます。女はどうですか」
「べつにショックやないでしょう。自然の成りゆきやから」
「いや、女はそれがあかん。帰って早速、懐中電灯で調べてみなさい。それで、ショックを感じないような人生は、ほんまに生きとらへんからや。毛というものは人生悟達の契機です」
女の三大ショック
前回の「おくれ毛」につき、カモカのおっちゃんは補足するところがあった。
「おくれ毛、というのは、ふつう、鬢《びん》のほつれとか、衿足にそよいでいるとか、そういうものばかりいうが、あれはマチガイです」
「ほかにどこがありますか?」
と私はあたまをかしげて考えた。
「それはいろいろです。男なら裸で涼んでると、胸毛が風になぶられる、それもおくれ毛というやろうし、女なら、下穿《したば》きから、ツイはみ出してるなんぞも、おくれ毛にはいる」
下穿き、などと古風な言葉を用いるのは中年のキザである。私は卑陋《ひろう》な話題に入らんとするおっちゃんをあわてて制し、話をねじ向けた。
「男の人生の三大ショックは聞きましたが、女の人生の三大ショックは何かしら?」
「それはまあ、第一は初潮とちがいますやろか?」
「それは昔の子供でしょう。前にもいうたけど、いまの子はケロケロとうれしがって待ってますよ。なけりゃ肩身狭いってもんで、指折りかぞえて待ってたりする」
昔の少女は純真、内向的な子が多かったから、コドモからオトナヘ一歩ふみこんだとなると、愕然、暗然、凝然、となって立ちすくんだりする、そういう陰影が今の子はないように思うけど。
「では、第二のショックは何ですか?」
「それはいうまでもなく、処女喪失というか、初夜体験というか、ともかく、コドモからオトナになるのが初潮とすると、オトナからオトナの女になるのが初夜体験、これが第二のショックです」
「そうかなあ。よくよく考えれば今日びの女は……」
「いやまあ、待て。なんでそう男のいうことに、いちいち反対する。この、出しゃばり鼻べちゃめ。だまって聞きなはれ、女いうもんは男のいうこと、感心して聞いとったら世の中丸う納まるねん。――第三のショックはつまり、出産ですなあ。女いうもんは子供でけると、これはクラッと人生観も世界観もかわります。弁天小僧がイレズミ見せて居直ったみたいになります。さァ矢でも鉄砲でも持って来やァがれ、と尻捲《けつまく》って肘張った恰好になる。何しろ、何が恥ずかしいいうて、恥ずかしさの究極みたいな恰好を人さまにさらした上は、怖いもんなしです」
「そうかなあ」
「当り前です。子供を産んではじめて世の中の仕組みがわかった気になる。人間の未知の部分がないということはこれは、やっぱり一つのショックでしょう」
「おっちゃんのお言葉ですが」
と私はいった。
私にいわせれば、男はすべて、考えることが皮相である。
つまり、女の人生の三大ショック、初潮、喪失体験、出産、みな、男のあたまの中で、かくあらんか、と想像した女である。男には女が中々わからないらしいのもむりはなく、こんな程度で、毎度おつきあい願っているのだとしたら、話が通じないのも当然である。ナマ身の女を知らない。
「ほんなら、女の三大ショックは何ですか」
とカモカのおっちゃんはいまいましげに聞いた。
「そうですね、まず第一は、性知識を仕入れたときでしょう」
本を読んだり悪友に耳打ちされたり、中にはかいまみた子もいるかもしれない。そういう知識、これは、知らないですごすと、そのままオトナコドモみたいに不気味な女ができ上る。それにつけても、最初に少女の耳目をゆるがした性知識のショックは大きい。
第二は、というと、これは結婚生活である。処女喪失なんて、今日びの女は、ノミにかまれたほどにも思ってない女が多くて、それを嘆かわしいと思うか、喜ばしいと思うかは、それぞれ人の勝手であるが、どんな相手、どんな状況だったかは、よく考えてみないとわからぬいそがしい女も多く、それを人生第二のショックなどとはいいがたい。むろん、個人差もあろうけれど。
それよりは、結婚生活だ。
同棲はいけない。これは、いやになったり飽いたりするとすぐ別れる。
そうではなく、別れたくても別れられぬ。子供、金、仕事。もろもろの浮世のしがらみがガッキと夫婦にまといついて、飽きはてた二人がじっとがまんの子にならざるを得ないという、いやでもくっついていなければならぬ結婚生活。これはしぶとい、じっくりしたショックを、女に与える。
女は結婚生活を通じて男の正体、本質を知る。大天才、大政治家が、一歩家の中へ入ると、いかにタダのオッサンになるか、とっくり、じっくり見る。ウーム、世の中はこういう男に支えられとんのか、そうか、と社会の仕組みの後側の木枠、張りボテの裏側をながめるのである。
これが人生開眼でなくて何であろうか、それに比べれば初夜体験、処女喪失、あほらしくて話にならぬ。
第三のショック、これは出産ではなく、容色の衰え。
子供なんてできたって、ノドモトすぎればというもんじゃないかしら、……女は物忘れの天才だから、いちいち、どんな恥ずかしい恰好したか、おぼえていられないのだ。
それよか、ある日ふと、明るいところでゆっくり鏡を見る、いつも忙しいからゆっくり見られない鏡を、その日に限ってゆっくり見る。
すると小皺が見える。肌の衰えを知る。女のスリー・エスを見つける。シミ、シワ、シラガ、自分ではこれから再婚してまだ若いのにぶつかるくらいの心意気でいるのに、スリー・エスが出ては、以後、女の魅力は、教養美、精神美、中年の貫禄をうたい文句にせねばならぬというシルシ、女がショックを受けずにいられよか。
私がそう意見を開陳すると、カモカのおっちゃん、
「ウーム。おせいさんも昔はおとなしかったのに、ようしゃべるようになった。中年女の強引さ、これぞ男にはショック」
といった。
籍 の 話
「仁義なき戦い」といわれる神戸市長戦がいまたけなわで、街中、耳も聾《ろう》せんばかりのすさまじさ、おちおち仕事などしていられない。私の家は――というのはつまり亭主の家は、神戸の下町である。新開地、福原にちかい|庶民専門街《ヽヽヽヽヽ》だ(三ノ宮駅前のパチンコ店に、庶民専門店なる看板を掲げた店があり、私は前を通るとき客人に必ずそれを指示して自慢する。庶民専門店、なんてあほかいな、庶民のほかパチンコなんか誰がするかいな、天皇サンがパチンコしはるか、考えてみい、というのだ。神戸、大阪の商売人のアタマの構造って、ほんとにかわってる)。
ところで、私が庶民専門街にすんでいようといまいと、選挙で煩わされるのはかわらなかったろうと思われるのは、こんどの市長選のように、保守か革新か二者択一、ということになると、「支援する文化人」ということで、ひっぱり出される可能性が大きい。
電話がひっきりなしにかかる。
支援団体で講演せよ、というのから支持声明の署名からポスターの名前入れ、相手も私を知ってるから、保守がたのみにくることは一ペんもない。革新派だ。私は昔から、投票というと、革新系の名前しか書いたことがない。
この場合、革新系は、宮崎サンである。歌の巧い人でないと、神戸市長になれない。
私は前回の市長選の時には陳舜臣氏と組んで応援演説をして、その結果、宮崎サンが市長になった(と、私個人は信じてるわけだ)。今度もムロン、宮崎サンに私は一票を入れるつもりだ。だからきっと、宮崎サンは当選するであろう(と、私個人は信じてるわけだ)。しかし、宮崎サン支持と、ポスターに私の名前を入れるのは性質がちがう。
ナゼカ、私は自信がない。私が「私は宮崎を支援する。者どもつづけ!」とサインしたら、せっかく入るべき予定であった票が浮き足立ってヨソヘ流れそうな気がする。
私は私の名前に、影響力、強制力があるとは|つゆ《ヽヽ》考えられない。
それよりも、何となく、私は自分自身に対して恥ずかしい感じが抜けない。昔のサムライがわが名と家名、主名、藩名を大事にしたような、そういうものを、私の名に感じられない。自分で感じないものを、他人さまが感じられるはずはないと思う。
忸怩《じくじ》という言葉は、こういうときに使うのではないか。
かえりみてやましい、穴があったら入りたい。たえず、そういう気がしている。
だから、電話が、せきこんだ調子でかかる、
「宮崎サン支持のアッピールに名前出して下さい!」
といわれると、私は、
「かんにんして、かんにんして!」
と叫び、トイレに逃げこんで、「考える人」の姿勢で、思うことはただ一つ、
(紅旗|征戎《せいじゆう》わがことにあらず!)
ということである、しかしべつに私は、定家みたいに何も見栄を張ったり粋がったり、してるわけじゃないのだ。
私の名を自分で見るとき、私が何をしてきたかを考えちゃう。オマエは原稿のしめきりにいつもおくれ、編集者諸氏・諸嬢をキリキリ舞いさせ、さしえの先生を嘆かせ、印刷所の人に舌打ちさせてきたではないか、とか、自分が腹立ったときは家族に八つ当りしてモテアマシ者になったではないか、とか、お酒を飲みすぎてひっくり返って介抱する男たちの鼻つまみになったではないか、とか、もうとうてい、生きていられないような恥の連想が次から次へと湧く。
そういう私が、どうして、
「私は宮崎サンを支援します。田辺聖子」
などと人さまの前に名をさらすことができるのだ。やるせない、恥ずかしい、私には身も世もあらぬ感じ。私にとっては、投票日当日、こっそりと投票にゆき、開票結果をひとり心いためて聞き、当選するとわが家の片隅でひとり静かに祝盃をあげるという、そういうのが似合ってる。
とてものことに、当選した宮崎サンを中にバンザイの写真をとったり、ダルマの目を点じようとする筆に、墨をつけて渡したりする役は向いてない。原稿のしめきりも守れないような人間は、大きな顔して人さまの前へまかり出るもんじゃない。
ところで、私はこの頃、そのことから考えたのだが、結婚して籍を入れる、それをまだしてない。結婚式もお粗末ながらあげました。みんな(といっても身内だけだけど)をあつめて会食をして披露もいたしましたね。しかし、籍はそのままで、これは一つは私が忙しくて手が廻らないのと、一つは、私の本籍のある区役所が、どこかわからない。電話帖を調べて聞けばわかるだろうが(いや、どの区役所かはむろんわかってる。その所在地を知らないのだ)、中々その時間がない(そういううちに八年ばかりたってしまった)。
また一つには、私の母が太っぱら婆さんで、どうせ別れるんやから、戸籍をわざわざ汚す手間をかけるまでもないやろ、などという。また一つには、これが、さっきの話であるが、何となく気恥ずかしい。
何の何子が何某の妻になるという、そういうリッパな女ではない、という気が、たえず私にはある。
桐島洋子さんは、敬愛する男性を得られて、私もひそかに慶賀に堪えない所であるが、入籍はしていられない。
「儀式とか紙切れ一枚とかに意味をもたせるのは、おかしいわ。そんなものがなくってもわたしは人を愛せます。女にとって結婚が主婦業への就職であるなら、それは一種の契約だから、籍を入れることも大切でしょう。しかし、わたしはちがう」(「週刊朝日」昭和48年10月19日号)
この桐島さんの見識と識見は(同じことか?)りっぱである。
しかし私のは、ただ単に、懶惰《らんだ》と、一種の気恥ずかしさのためである。しかしこの、気恥ずかしさを、人に説明することはむつかしい。
折も折とて、私にとっては「真砂町の先生」ともいうべきカモカのおっちゃんが、
「あーそびーましょ」
と酒を提げてやってきた。
「ね、おっちゃん、結婚するとやはり籍は入れんとあかんもんかしら?」
おっちゃん、酒の燗に心をとられて上のそら、
「籍なんか入れんでも、床《とこ》へ入れとったらええのんとちゃいますか?」
嬶よママ炊け
男と女は、なぜ結婚するのだろうか。ことに、物書きの女は、なぜ結婚するのだろうか。
自分で食えりゃ、結婚して、えらい目をみることもなかろうじゃないか。
そう疑っていられる、大方《おおかた》の向きも多いことであろうと思う。
私の場合は、一にも二にも、自由を得るためである。私は未婚でいると、不自由でたまらんかったのである。
私が何か、ちょいと色っぽく書くとしますね、すると世の男は、
「未婚のくせにエロすぎる」
「男を知らんとは、いわせまへん」
などと口々にいいたて、わずらわしくてたまらない。いや、そう思ってるのではなかろうかと私は気を廻す、それがうっとうしくなったのだ。だから亭主をもった。日本の社会は(というよりは男は)幼稚で子供っぽい所があり、女まで子供っぽく扱う。
女のオトナ、というものがいることをみとめようとしない。
未婚のヒトリモノ、なんていうと、陰で何をいわれてるかしれない。いや、いっているのではなかろうかと、私は気を廻すのだ。
更にいえば、一等よろしいのは、結婚しました、男と女のことも書けますわよ、とお披露目しておいて、手のかかる亭主と死別・生別し、自由に仕事できる立場になった、未亡人・離婚者である。女の物書きは、未亡人・離婚者が一ばん安定した条件である。
だから、私もソロソロ、そういう条件になるべく心がけようと思っている。
ただ亭主もちのいいところは、男の知人友人とつきあうのに便利で自由なことだ。
なぜそれがわかったかというと、同居してからわかった。私は結婚後、一、二年は別居していた。今も、籍は入れてないが、住民登録にはちゃんと、××某の妻、として記載されている。ウソと思う方は、神戸市兵庫区役所へいって調べてみられよ。
ただし「妻」のうしろにカッコつきで「未届《みとどけ》」となっていて、これが面白い。
当今、役所関係の書類では、内縁とはいわず「未届」という。私は未届け妻である。行く末までは見届けられないから、「未届」にした(シヤレにもならない)。
ところで未届けにしろ、役場の住民登録で亭主と住所を共にしたのはごく最近だ。それまでは、同居しても、住民票は別のところにあった。
更にそれまでは、別居していたのだ。各々自分の家に住み、第三の家へ双方、あつまって会合をもち、会談をし、条約をむすび、外交折衝をしては、また別々の家へ帰っていた。つまり第三の家は中立国の大使館みたいなものであった。
そのうち、亭主の家で葬式や何かと取込みがあり、ずるずるに同居した。かつ、桐島洋子さんとちがう所は、女の子連れと独りもの男は別居結婚でも通い婚でもいけるが、男の子連れと女の独りものは、別居が成立しにくい。
男が疲れて、女の同居を求め、あるいは乞うのが、おきまりのコースである。
だから私も、「乞われて」といいたいが、ずるずるに、小さな町医者の裏部屋に住みついた。編集者が訪問してきて、私が医院に間借りをしていると信じ、
「ハハア、ここから医院ですね、これで、月なんぼとりますか?」
と、廊下の向うの診察室をのぞきながら聞いたりしていた。
また障子のガラス戸がわれたので頼みにいくと、やってきたガラス屋、私の部屋をのぞき、
「あ、看護婦さんの部屋だっか」
と障子にはめこんでいた。未届け妻、というものは、こういうものである。
まあ、未届け妻でも内縁妻でもよい、亭主もちで、しかも同居しているといい所は、男の友人があそびに来やすいらしいことだ。
未婚の独りものの女の所へ足しげく通って、洒を飲むわけには、まいらないところがある。
これはあながち、世間の目を気にする、思惑がある、というものではなく、安物にせよ、亭主がいると友人の男の肩の荷がかるくなることにもよろう。寄りくる男、無責任になれるのだ。
かりに未婚の、ヒトリモノの女などに、旅行しよう、などともちかけたら、冗談とわかっていても、女はせっぱつまった声が出て、
「考えとくわ」
と重々しい返事をする、顔は顔面神経痛になやむ人のようになる。
しかし、亭主もちだと、これは、
「うん、いこういこう!」
と叫べる。無責任には無責任で答え、男も気楽だろうが、女もごく気楽だ。
私が、亭主もち、同居になって、真の自由を手に入れた、というのはここである。
第一、カモカのおっちゃん酒提げて、やってきましたおせいさん、なぞというのも、私が亭主と同居してる女だからである。いいたい放題いって酒を飲み、おそくまで尻を据えているのも、未届けにしろ、私が人妻だからである。
更にいうと私は、小松左京サンと、いつか巡礼に出る約束がある。菅笠に「同行三人」と書くつもりであるが、むろん、三人めは、私の亭主でもなく小松左京チャンの奥さんでもなく、お大師さんである。
また野坂昭如サンは心中のときは私をよぶといっている。それは心中の相手によぶのか、はたまた、三島由紀夫氏が、自決にあたり、記録者としてジャーナリストたちをよんだごとく、心中事件の記録係りとしてよぶのか、そのへんは知らん。知らんが、いろいろ、およびがかかる。それは亭主もちだからである。
もし私が未婚のヒトリ者だとする。そうすると男の知人友人、みなハレモノにさわるように遠巻きにして、もはや酒を飲もうともいってくれなければ、巡礼にも心中にもさそってくれないだろう。亭主もちだと思うから、冗談もうちとけていえるにちがいない。
カモカのおっちゃんに私はいう。
「かくて女の物書きが結婚するのは、真の、自由を手に入れんがためである」
「そうかなあ。おせいさんはともかく、旦那にしたら貝殻|節《ぶし》の心境とちゃうかいなあ」
と、おっちゃんはにがにがしげにいった。
「唄にありまっしゃろ、賀露《かろ》の沖から貝殻が招く、嬶《かか》よママ炊け、出にゃならぬ=\―この、嬶よママ炊け、出にゃならぬ、というのが男が女房《よめはん》もつ一ばんの理由。つべこべいわんと、人の女房たるもの、ママ炊いて男を仕事に出しとったらええねん」
伸 縮 自 在
滋賀銀行横領事件の話を、女たちが集まって論評していた。
四十五、六のうばざくら、美人編集者は、
「もう、四十二歳。未婚女性というだけで、戦中派としてはめためた、とくるねん……可哀そうで。大体、四十代で未婚女性が多いのは、これは国家の責任よ。結婚相手の男を、たくさん殺してしもたりして。あの人も、結局、国のギセイ者とちがうかなあ。……もし戦争がなかったら、結婚してふつうの主婦になって幸せな毎日を送ってたと思うよ。――四十になって独りもの、年下の男に入れ揚げる、よくあることじゃないの、可哀そうだ!」
と気焔をあげていた。
元気のいい気みじかホステスも、かなり、奥村彰子サンに好意的である。
尤も、この子は若いのだが、
「ホラ、逃走中に、悪いヒモの山県から電話がかかるわね、そうすると、涙ぐんで喜んでるでしょう、〈声を聞くだけでもうれしい〉なーんて。甘ちゃんやなあ、と思うけど、同《おんな》じ女として、じーん、とするとこあるわね。わるい男ほどかわいい、いうこともあるやないの。あの人の気持がわかる」
と、共感している。
私は、といえば、逃走中の彰子サンと共に、つかのま暮らしていた「建設業」の某氏――ひらたくいえば、大工のオッサンがとてもいい。
新聞でみると、誠実で気のいい男性、と書かれてある。
山県の冷酷無残な仕打ちにくらべて、この男性はやさしく誠実で、彰子の傷ついた心身はいかばかり慰められたであろう、などと紙芝居みたいな文句の新聞もある。
私はこの人に会ってないから、よく知らないが、同棲した小さなアパートに世帯道具も買いこみ、彰子サンに生活費も渡しているのだから、彼にとっても心弾む同棲だったのだろう。
どこの馬の骨か、双方、よくわからない。しかし何か心が通い合って、あんがい、うまくいく。
オッサンはしごく満足である。
むろん、彼女が大それた横領犯人で、指名手配中の身、などということは夢にも知らない。
「朝めしも作ってくれたし……よくしてくれました」
とあとで、オッサンは述懐している。
私は、この男性はとてもいい人だと思う。そうしてこの男性と暮らしているときの彰子サンにも、彼女のうちの、とてもいいものが出ていたのだと思う。
いつまで一緒にいられるかわからない。
薄氷を踏むような生活である。
そういうとき、女は、ゆきずりの男につくしたくなる。これが、夫婦ではそうはいかない。偕老同穴、共シラガを契り合った夫婦だと、一生を共にするので、いちいち献身的につくしていると身が保《も》たない。
しかし期限つきの同居だと、けんめいにつくす気がおきる。私だとしても、そうする。
それに、相手のオッサンが、無心で、誠実で、いい人だったら尚更である。
「いや、そら、ええ人かもしれんけど――」
とカモカのおっちゃんは口をはさんだ。
「僕はどうも、同情に堪えんですなあ――そのオッサン、いかにもあほらしいやろう、思《おも》たら。いまごろオッサン、|やけ《ヽヽ》で浪花ぶし歌うて、波止場のドラム罐《かん》けとばしとんの、ちがうかなあ」
「なぜ波止場のドラム罐をけとばさな、あかんのですか」
「歌にありまっしゃないか、〈あけみという名で十八で――〉事実はハヤリ歌よりも奇なり。彰子サンは刑事にふみこまれたとき、市場で買《こ》うてきた花を活けていた。引き立てられる間際、あわただしく男に置手紙していく。そのへんがよろしく、おかしい。〈ごめんなさいと走り書き〉して、〈何のつもりか知らないが、花を飾っていっちゃった〉ますます、よろしなあ」
とおっちゃんはいう。
而《しこ》うして、オッサンは、波止場のドラム罐をけとばし、
「やけで歌った浪花ぶし」
さぞかし、憮然としたことであろう、とおっちゃんは同情するのである。
ところで、私たち女性がことにもおかしかったのは、彰子サンの逃走中の変身ぶりだ。
何日か、共に暮らした男さえ、気付かなかったほど、変身している。
つかまったときの彼女は、三十娘ぐらいの派手さで、新聞にのっていた一見事務員風、一見オバサン風手配写真とは似ても似つかず、とうてい同一人物と思えなかったという。
どの新聞も、それを報じる口吻に、オドロキがあった。
記事を書いたのは、たいてい男の記者であろう。だから男のオドロキがそのまま、紙面に出ていた。
しかし、女たちはべつに驚かない。女なら、四十女だろうが五十女だろうが、その気になれば三十娘に化けるのは、しごく容易なことだと知っているからである。
これは二重人格なんてものじゃなく、男が女を知らなさすぎるのだ。
四十年輩の女の同窓会、なんてものを見るとよくわかる。親子で来ているのか、というほど、年のちがって見える級友がいる。または恩師を招待したのか、と、とまどうような婆さんがまぎれこんでたりする。これみな、おない年のクラスメート、環境や運命や、着るものの好み、心のもちかたで、そんなにもかわってしまうのだ。
奥村彰子さんの場合は、人目をくらますという必死の目的があるから、よけい意識的にそうしたのだろうが、女の無限の可能性を示して、男たちをあっといわせたのは、印象的で、痛快でもあった。
それも四十代なればこそ、だ。まだ僅かばかりの残《のこ》んの色香もあり、更に悪ヂエにかけては、若者の及ぶところではなく、そういう女が秘術をつくしてたたかうと、世間しらず、物しらずの男なんか欺すのはイチコロなんだよ、わかったか、頭のかたい男メ。
「やっぱり、女って伸縮自在の才能があるのよ、ね」
女たちがうなずき交していると、カモカのおっちゃんが、おそるおそる、
「男にも伸縮自在の部分はありますが……」
と口を出し、抛《ほう》り出すよ! と女連中に叱られていた。
女のいいわけ
秋深まって、お酒のおいしい時がまた、来た。
私はお酒なンか、ちっとも飲みたくない。お酒を飲めば浮かれる。浮かれると歌を唄う。はては疲れて、食卓のあと片づけもせず、洗い桶につっこみ、ねむくなって、寝床へもぐる。
私にはしなければならぬ仕事があるのだ。そういうときに、お酒を飲むとどうなるか。私は、ちっとも飲みたくない。あんなものを飲んで仕事を抛棄するのはナマケモノのすることだ。
しかし、一面考えると、酒には功徳がないでもない。
酒は血のめぐりをよくし、心気爽快にし、鬱を散じ、苦を払い、長命をもたらす。さらには人と人を和合させ、男女歓会のキッカケを促す。
ともかく、そんな具合で、私は飲む。気がすすまないが、心気爽快になってモリモリ仕事せんがために飲む。伊達や酔狂で飲むんじゃないのだ。
「いや、そいつはかなわんなあ」
とカモカのおっちゃんは大声をあげ、
「そこが女のきたないところ。なんでだまって飲まれへんねん。なんで血のめぐりをよくする、とか、苦を払う、とか理屈をつけんならんのですか」
「いけませんか?」
「当り前やがな。なんで酒飲むのに、理由がいるか、いうねん。――うまいから飲む。欲しいから飲む。これで何がわるい。これでよろしいのだ。苦を払うの、血のめぐりがどうの、とこじつけるのは、すべて女の卑怯なところ、女いうものは理屈つけて動く、それがいやらしい、いうねん」
おっちゃんにいわせれば、女はミカンを食べるときさえ、
「ビタミンを摂取して栄養のバランスをはかろう」
とつぶやきつつ、食べるのだそうだ。
あるいはまた、
「時勢におくれないために社会見学しよう」
とひとりごちて、テレビ局へ出かけ、朝のワイドショーでうしろの席へ坐るのだそうだ。
「なんで、いちいち、理由つけんならんか、と僕はいいたい。ミカン食いたい、テレビ局いうもんへいってみたい、それでよろしやないか。――それをいちいち、勿体ぶって理由をさがす。女の癖の好かんとこですな」
「おっちゃん、このごろ、男の更年期で文句が多うなったんとちがいますか?」
と私はいった。
「そう理由づけた方が、心がナットクして気らくになれるでしょう? われとわが身に、自己弁解していた方が、女は、気らくなんですよ、うるさいねえ」
「そうかなあ。僕はそういう癖は好かんですな。ミカン食いたいから食う。酒を飲みたいから飲む。すべて人間、つくろうたり、構えたりしてはいけまへん。よろしいか、夫婦いがみ合いしてる、しかし別れへん、というのが必ずおりますな。当人にいわせると、子供がおるからとか、何とかいう。それはこじつけで、本人は別れとうないから別れへん、それだけです」
「そうかなあ」
「そう思うてみると、人生、スパッと物ごとの核心が見えます。ごじゃごじゃした理屈つけると、ややこしゅうなる」
おっちゃんのいうのを聞いてると、ツイ捲きこまれて「そうか」とも思う。
それに、どんどん酒をつがれ、せっかくつがれたら、礼儀として飲まねばならぬ。よって酔う。するとますます、あたまはこんぐらがる。
「ソコソコ、酒をつがれて飲むのは、自分が飲みたいから飲むんですぞ。せっかくつがれたから礼儀として飲むというのは、ツケタシ、こじつけにすぎん。その理由づけ、いいわけ癖をなおさにゃいかん」
おっちゃんはさらに私の盃をみたし、
「要は、素直にせい、いうこっちゃ。たとえば夜、亭主から促されるとする、すると女房《よめはん》はどうするか」
「知りません。ウチはもう、退役《たいえき》しましたからねえ」
「一般論として、や」
「それは、まァ、差支えないかぎり、座敷へ請《しよう》じ入れるのではないでしょうか、妻の義務でございますからね」
「それそれ、それがいけまへん。何でそこで、義務をもち出す」
「しかし、古往今来、そういいならわされておりますので」
「何が義務や、あほらしい」
とおっちゃんは目をむき、
「義務で、あない派手な声が出せますか、妻のつとめ、いうだけで、あないにぎやかな立ち廻りがでけますか。どうも義務でやってるとは思えまへん」
「しかし、それは、やはり、その……」
「なんで自分もやりたいからヤル、といえぬ。心すすまぬけれども夫のためなら目をつぶって、といわんばっかりの恰好するのが、女のいやらしいとこです。おい、どや、と促されて、キャッ、待ってました、うれしい! という女房《よめはん》、見たことない」
「けど、それは……」
「いつもグズグズ、イヤイヤ、心ならずもという面倒臭そうな態度、そのくせ、こっちが白けはてるような熱の入れ方をするのはきまって女房《よめはん》の方ですな。――そうやっといて、亭主のためといいわけする。この女のいいわけ癖が、最も顕著に出るのは強姦のときです」
「強姦がどうしました?」
「おせいさんは前に、一対一の強姦はあり得ぬ、といいましたが、これがあり得るのや」
「ほんと? どうやって!?」
と私は思わず、はしたなく釣られる。
「それは、女のいいわけ癖のせいです。もしここで抵抗して殺されたらえらいこっちゃ、とか、男の力にはとてもかなわん、とか、おのが心にいいわけする。よって女は城をあけ渡して、一対一のソレが成立するわけ。いや、女いうもんは卑怯ですなあ」
二 夫 二 婦
私は、とってもいそがしいのだ。仕事だけではない、家事も遊ぶのもいそがしい。シメキリすぎた原稿を自分で伊丹の空港まではこび、帰ってすぐ、娘の学校へ進学相談の個人面接父兄会にいったりしちゃって。そしてまた帰ってすぐ、晩と翌日の昼の献立を書き、それに要する材料の品々を書き出して、おカネを渡して家政婦サンに買いにいってもらったりする。晩、すこし仕事しようと思っていると、小松左京サンあたりが電話してきて、
「あーそびーましょ」
なんていったりして、飲みにいくと、あとは「すべておぼろ、酔い心のみ美しく」あっという間に朝になり、一方、お話かわってこちらは東京の編集者、
「まだですかァ!」
なんてあたまにきた声で督促する。その上、しかも、亭主は、私の仕事なんか自分に関係ないと思ってるから、どんどん私を追い使う。私は、かねてこのため、亭主に二号はんを斡旋《あつせん》しようかとカモカのおっちゃんに相談したが、それはあかん、という人が多かったので、更に、別の試案を用意した。
おっちゃんがきたので、私は、勢い込んでいった。
「ねえ、おっちゃん、二夫二婦制度ってどうかしら」
「何ですか、ニフニフとは」
「つまり一夫一婦の不便不合理を補うもので、二人の夫に二人の妻で、四人一組、一単位の夫婦にするのです。お互いに助け合うの」
「夫婦のスペアですか」
「どういうかな、四人でワンセットですから、一夫一婦が二組寄ったんじゃないの、あくまで夫が二人、妻が二人。だから寝るときの組合せも、その範囲内でとっかえられるのだド」
私は、いってるうちに自分でもうれしくなってきちゃったんだ。どうも、二夫二婦が最高の結婚形態に思えるなあ。
「麻雀するときも便利やし、ゴルフも、すぐメンバーそろう。食事のときも、テーブルにきちんと四人坐れて上座下座なし」
「そのときテレビみてたら、中の一人は背中向けになる」
テレビ好きのおっちゃんは心配した。
「何も、食事するときまでテレビみることないわよ。四人ワンセットだと、話題はつきません。メシ、フロ、ネル、しかいうことない一夫一婦とちがい、四人もそろうと世間の見聞が広まって、議論百出だァ。たのしいな」
「その代り、四人がみな夫婦ゲンカすると、これはえらい大さわぎで、収拾つかんことになりまへんか」
おっちゃんは秋も深まったため、冷たい水割りはやめて、熱燗の酒を傾けつついう。それも心配そうにいう。おっちゃんは中年男であるから、もはや新しい体験、新体制、新説、新品、新生活、新機軸、新知識、などには、はじめからアレルギーをおこすようになってる。
「四人とも、組んずほぐれつしてたらプロレスですよ、そんなことないと思うわ。一人二人は冷静に、マアマアと止め男、止め女になるね、これは。これもし、一夫一婦だと、うぬ! コンチキメ! というのでケンカのうらみは骨髄に徹する。しまいに切ったはったとなり、忘《わすれ》鬼一郎サンの名刀、出羽|月山《がつさん》でも借りて、スパーッ、ガッ、と切りおろしたくなると思うよ」
「いや、おせいさんも、よくマメによんでるねえ。それではシメキリにおくれるのも当り前や」
「エ? なあに?」
「いや、こっちの話」
「ゴハンの支度も、奥サンが二人いると交代できて便利。片方の奥サンが病気になっても、たちまちお手上げという惨状はまぬかれる。大掃除、ひっこし、共に人手が多くて便利でございます。旅行も、四人がけの席がとれて快適ですねえ」
「しかし、一たん奇禍にあうと、四人ともおだぶつで、被害は倍になりますな」
おっちゃんは懐疑的である。
「もしそれ、そういうときはしかたありませんが、誰か生き残る、そうするとあと始末、又は、遺児の養育にも便利です。はたまた、奥さんの一人がお産する、その間も、家事はつつがなく進行します。かつ、男にありがちな、お産のときの浮気というのも、関係ありません。どうダ! うまい考えやろ」
「しかし」
とおっちゃんはなおも気づかわしげに、
「二人の奥さんが、二人とも、同時にお産したら、混乱は倍加し、浮気は倍増するわけですが」
うるさい! いちいち、イチャモンつけるな。
「そこは、互いちがいにお産するように、時差出勤させる。奥さんが働きたければ、どちらか一人、働くとか、一人は家にいるとか。こうやると、カギッ子はできなくて、子供の教育にもたいそうよろしい」
「その子供は、どちらかの親の子ですな? それは、問わないのですか?」
「いや、母親はわかってます」
「当り前や。しかし、父親はわからんわけですな?」
「原則として、それは、同じ夫婦の間ですから問わないことにします。できた子は、平等に、四人の子です。偏頗《へんぱ》な教育でなくて、公平に教育できて、子供にはよろしいでしょう。かつ、妻のお産のときと同じく、旦那の出張などがあるとき、もしかりに、片方が長期出張となりましても、片方がおります限りは、妻の浮気、蒸発などの悲劇は防げるのでございます」
「ウーム、そこや、問題は」
とおっちゃんは深刻に考えこみ、
「その、一人の妻のお産のあいだ、も一人の妻が亭主二人を引きうける、これは有無《うむ》相通じて妥当ですが、一人の亭主が出張の間、あとへ残った亭主が二人の女房を引きうけるというのは……これは考えるだに恐ろしいことです」
と身を震わせていった。酒を含んでしばし沈思黙考、おっちゃんは口をひらき、
「しかも、うまいこといった時はよろしいが、一たん物の役に立たんとなってみなさい、女房にどやされるのも、二倍どやされるわけ、あなおそろしや。まあやっぱり不便でも不合理でも、僕は一夫一婦がよろしおますわ」
ド……ドあほ
この数日来、旅行をはさんでいたので、私は殺人的スケジュールとなり、家を出たりひっこんだり、神|没《ヽ》鬼|没《ヽ》のいそがしさとなった。電話が掛っても、「今いましたけど、また出ていきました」と家人が返事することになる。さればと夜おそくかけられても、私は夜型ではないから、さっさと十時には寝ちゃう。イレブンPM見たことないという、全くの朝型。
私は朝は誰よりも早く起きてストーブつけて部屋を暖かにしたり、弁当を作ってやったり、牛乳をあたためて娘たちに飲ませ、学校へ押し出すのが大好きなのだ。だから夜はさっさと寝ちゃうのだ。この頃、深夜に電話してくる仕事関係の人が多く、夜ふかし専門の息子が出て、「もう寝てます」なんて電話する。
この間も、二、三日来、電話をかけてこられた民放関係の人があった。いつもゆきちがいで私はるすで、そのうち旅行に出た。帰ってまたゆきちがい、深夜かかってきて、例によって息子が「もう寝ました」というと舌打ちしたそう。怒り狂ってたと息子は朝いってた。
その人は朝、また電話してきた。やっと私が居あわせたので、出た。私はその人を知らないし電話もはじめてである。彼は咳《がい》一咳、
「今まで何べんも電話したのに、いられるような、いられないような……」
と怨みがましくいい、居るすではないかとあてこすってるのであろう。私は急いで、
「ゆうべまで旅してました」
「ハァ。帰られたら電話してくれと、電話番号知らせといたんですがね、そっちからかけてもらうように……と」
と怒り心頭に発した声でいうが、私はそれを聞いたことは聞いたものの、夜の十時になってヒトの自宅へまで仕事の電話なんぞ入れたくないね。仕事なんか十時以後、するべきではない。夜は洒と男のためにとっとくのが私の人生だ(残念ながら私の場合、おおむね、前者だけであるが)。それに、こっちから電話して、「何か用でしたか?」と聞くのは、顔を合わせたことのある旧知の間柄だけのように思われる。
第一、用のあるのは先方さんなのだ。こういう場合、普通だと、私がつかまるまで、先方から電話してくる人が多い。私から電話しなかったと責める人は珍しい。
いっぺんも会ったことのない人が、私を責めるなんて、ヒドイじゃないか。
私は男前に弱いから、一ぺんでも会ってりゃ、ころげまわって、「ご用が何ンか、おありでしたか?」とご用聞きの電話をとって廻るのだ。
しかし一ペんも会ってない、電話もはじめてというような人が、連絡しない、るすばっかりしてる、と私を責めるなんて、ヘンじゃないか。結局、用は座談会ということで、私はどうせ時間がないからダメ。その人は不興げに切ってしまったが、何だかあと味わるかったわよ。仏のおせいさんも不快だったワァ。
こういうとき、私が昔つとめていた大阪船場の問屋さんの大阪商人なんかだと、受話器をおいてから、
「ド阿呆《あほ》……」
というのだ。
これは相手へのバリザンボウでなくおのれもふくめて人間のむなしいいとなみ、いさかいにたいする自嘲みたいなものである。この場合の「ド」は親愛感をもっている。
しかし、ふつうはまあ、「ド……」がつくと、罵《ののし》る意を強めたときである。牧村史陽氏は「喧嘩用の語意を強めるための間投詞」といわれている。
ドアホなら、アホの最上級という意味である。
ケンカの場合だと、親愛感などは含まない。いわゆる「ドぎつい」意味一辺倒になる。
ドケチ。ド畜生。ひどい言葉だなあ。
ド多福。ドスベタ。これは、女に向ってののしる言葉。「何をッ、ドタフクめェ!」なんていわれると、いかな強心臓の女も、心臓が凍るのだ。
ド根性、ドえらいやつ、などとほめる意味にも使うが、これは、大阪人として、|しん《ヽヽ》からほめてるのではないのだ。大体、「ド根性」で金もうけし、「ドえらい仕事」するような奴に、生粋《きつすい》の大阪人はおらんようですなあ。それらはたいてい、「あいつの通ったあとは草も生えぬ」と謳われる、世界に冠たる江州商人、ぬけめない四国人、働き手の九州人などに多く、大阪で成功している生粋の大阪人は、いがいに少ないのである。
大阪人といえば、NHKドラマの「けったいな人々」を見ていますか? あそこに出てくる風変りで型のくずれた、たよりない、あかんたれの、情けない、全く|ド根性《ヽヽヽ》などクスリにしたくもないような人間が、生粋の大阪人なのであって、作者の茂木草介氏、じつによく、大阪人を知っていられるのである。ほんとうの大阪人は決して金もうけはうまくないのである。金をつかう方がうまいのである。
世間で誤解している大阪人は、あれは、移住・転入大阪人なのである。
而うして、言葉ばっかり勇ましく、ドあほうの、ドケチの、ドタマの、という。ドタマはあたまのこと、「ドタマかち割ったろか」などというのは大阪弁の「べらんめえ」である。
私もウチの亭主とケンカするとき使ってやるんだ。
「このドングリ眼のひげダルマ、亀の子タワシめェ、酒飲みのナマケモノ、ゴルフも碁もヘタクソのくせにワガママの亭主関白、威張りかえって傲慢無礼だゾ、ひげ生やしたらこっちがおそれ入ると思ってんのか、ひげが怖くてロシヤの小説が読めるか、ロシヤの文豪はみなひげダルマだゾ。ドタマかち割ったろかァ」
この私のバリザンボウの間、亭主は黙々と聞いていて、終るとひと言、
「何をドぬかす」
重々しく仰せられる。
これはいけない。私は青菜に塩、絶句する。「ド……」という大阪弁の接頭語もうまく使うと致命的である。
カモカのおっちゃんは、|ドホステス《ヽヽヽヽヽ》に、
「ドスケベ!」
と叱られたそうだ。
「いや、ドスケベといわれるのは男の勲章ですなあ。不快な電話のあとで、ドアホと呟くのと同じ、親愛感がおます」
とおっちゃんは悦に入ってた。
子 宮 作 家
「子宮作家という言葉をはじめて聞きましたが」
とカモカのおっちゃんがいった。
「これはどういう意味ですか」
私にはよくわからないが、つまり、女の性に焦点を当て、肉体と精神のからみ合いから人生の種々相を観照し、肉体のもつ原罪的な本質を追求して女の業《ごう》を表現する女流のことではないでしょうか。
「何いうとんのや、さっぱりわからん」
とおっちゃんはあたまをかしげ、
「きき手がわからんのは、いい手が自分でわかっとらんからですぞ。そうじて小説でも評論でも、よんでてようわからんのは、書いてる人間じたい、ようわかってないからです。おぼえとけ」
「いや、わかりませんか? おかしいなあ、つまり子宮は女にしかないト、だから女流作家といってもよい所であるが、その女という点を強調して子宮というコトバを使う」
「そういや、わかりました。つまり、女らしい、女くさい、女でないと書けんという作家なんですな」
おっちゃんは一人|がてん《ヽヽヽ》できめこみ、
「すると、子宮画家、というのもあるでしょうか?」
聞いたことはないが、あるかもしれない。
「子宮歌手はどうでっしゃろ」
これも聞かないようだ。美人歌手、ママさん歌手、というのはあるけれど。
「子宮女優もあるわけですな」
あるかしら? 女優はみな女(美輪明宏さんのような女優《ヽヽ》もあるが)を原則としているから、子宮女優はおかしい。とくに女であることを強調しようとすると、芸熱心ということになり、「体当り女優」なんていわれる。
「子宮学者、というのもきかんようですなあ」
おっちゃんは重々しくつぶやいた。当り前だろう。学者であるかぎりは、みな頭脳を使う。子宮は使わない。キュリー夫人も、学問の業績をあげたのは、頭脳であった。いくら女学者でも、キュリー夫人を子宮学者とはいえない。おっちゃんはいった。
「しかしキュリー夫人も、ラジウムの発見はともかく、子供を生むときは子宮を使う」
「そんなこと、誰もいうてえへん!」
「ふつうの女の人は、子宮を、子供を生むときにも、モノを考えるときにも使う」
「そうかなあ」
「してみると、いかにも子宮は象徴的です。しかし、男にはそれに相当するものが、ない」
そうかしらん。男にはシンボルがあるじゃありませんか。
「いや、あれは……」
とおっちゃんは考えこみつつ、
「たしかに、シンボルではありますが、そこを使いもし、そこでモノを考え、という、存在の一大根源、という感じがしない」
「といいますと……」
「女の人は、子宮をとりのけたら何もないというほど、人格まで押しつつんでいるような大きな意味がありますなあ。しかし男だと、シンボルがなくなっても、やっぱり、男ですなあ。――そやから、子宮作家に対抗する言葉がありません」
「シンボル作家はどうですか」
「いやに軽々しい。釣合がとれまへん」
「ゼツリン作家、精力作家、……」
「方向ちがいの感じ。むしろ、睾丸作家の方が、まだきまってます」
「へんな人!」
こんなこという人には、私は口もきいてやらないゾ。しかし、そういえばたしかにそんな感じもする。女流の、女らしい絢爛華麗な作風の人を子宮作家といってもピタッときまる感じであるが、男が、いかに体当りで取材し、男の性、男の業をケンラン豪華に描いてみせてくれたとて、その作家を、「シンボル作家」とはいいにくい。
「そうでっしゃろ?」
おっちゃんはわが意を得たごとく、
「シンボルが、子宮に対抗し得ぬのは、その位置にもよりますな。さよう、子宮はいかにも女の中心というところに鎮座してます。鎮座、というが、全く、中心も中心、扇のカナメのような、ここがはずれたらバラバラになると、そういう要塞にいて、あたりをにらみすえている。女の体も、女のあたまも、女のハートも支配するのです。地球は動くが、子宮は動かへん」
「そうかなあ」
「そうです。そこへくると、男のソレは少し、扇のカナメをはずれてます」
私は、そうは思えない、と思ったが、そんなモノのことを口に出してあげつらうのは淑女として恥ずかしかったので黙っていた。
「かつ、男のソレは、おもりのようになってます。おもりという奴は、これは分銅で、たえずうごく。うごいているようなもんが、全存在を象徴するような、重い意味をもちますか?」
私は、おもり、という言葉から本当に重たそうな気がして、あれこれ想像していたので返事できなかった。
「かつまた、女の子宮は骨盤の内ふかく内蔵されてるからこそ、威厳があるのです。男のソレは、ご承知のように外へ出てますから軽々しくたよりない、扇のカナメになれない」
「では、女の方がやはり生物として上等なんですね」
「男は扇のカナメは結局、あたまなんです。頭脳こそ、男のカナメですぞ」
「では、男の方が上等だというの!」
「いやいや。何をそう赤眼吊ってさわぐ」
おっちゃんは悠然と酒をあおっていった。
「あたまで考えるから上等、子宮で考えるから下等、ということはありえぬ。どちらが良し悪しもない。ただ、そうなってるだけのこと。ただ、そう作られてるというだけのこと」
器 量
ハイジャックがひんぴんとあるので、日本人の海外渡航熱はすこし下火になるんじゃないか、と書いてある本もあった。私が、海外へしばしば出かける紳士にそう聞くと、
「ヒャー、そんなことおまッかいな。一向こたえしまへんわ。ハイジャックが何ぼあったかて、自分はぶつかるはずはない、と信じてますからな。あいかわらずドンドン、いきよりますわ」
と、このインテリ紳士はいった。
彼はそういう日本人の性癖――子供っぽい物見だかさ、流行に足をすくわれやすいうわついた無思慮、無意味な優越感や、好奇心をおもしろがり、気に入ってるのである。
「けど、それはアホ、いうこっちゃなあ」
とカモカのおっちゃんはいった。
おっちゃんは、人間、何をするにも「器量」というものがある、という。
器量に見合ったことをせにゃならぬ。
五合ビンに一升の酒は入らぬのだ。
しかるに今日びの日本人はみな、一升の酒を五合ビンに入れようと狂奔しとるのだ。
これが、すべての破調の原因だという。
「故に、器量のあるもんでなきゃ、海外へいったらあきまへん」
「英語がしゃべれるとか、金があるとか」
「いや、そんなもんはいらん、それは器量の中には入りまへん」
では何かというと、ハイジャックに会っても、泰然自若、という器量だという。
「すると、日本人はみな器量がある方とちがいますか。わりにみな、何事もなかった、ケロリとした顔で、帰って来てはる」
と、さっきのインテリ紳士がいった。
「うんにゃ、ちがいます。器量というのはその本人だけとちがう。まわりの器量も、問題になる。まわりに器量のない人間をもってる、ということは、その本人自体に、器量がないことである」
とカモカのおっちゃんは断言した。つまり、奇禍に遭った家族の右往左往、泣き声、涙、さらには出迎えのときの狂喜乱舞、うれし泣き、家族の情愛として当然かもしれぬが、あまりに女々しく、また、それを、これでもかこれでもかと追っかけてうつすテレビ屋の嬉しがり、新聞屋のらんちきさわぎ――もうみな、日本人全体、器量のないことを、暴露してるという。
「そやろ、ハイジャックに会《お》うたからいうて、いちいち泣き声たててさわぐなら、はじめから行かんといたらええねん。――るす番家族が、各地から上京して羽田に陣どってワイワイいうて詰めてる。あれもムダなこと、家におってテレビ見てる方が何ぼうか、ニュースが早い。仕事もあるやろに抛《ほ》っぽり出して詰めてることはあるまい。ハイジャックに会うのは、運がわるいので仕方ない、しかし会ったら何とかする、と覚悟のホゾをきめてゆくのが、人間の器量いうもの。また、るす家族も、あいつなら万一のことがあっても、何とかしよる、と思いきめて出すのが、人間の器量。双方、その器量ないのに、フラフラ出あるくさかい、一たんコトがおきると、目ェ血走らせて狂奔し、関係者を責めたり吊るし上げたり、見当ちがいも甚だしい。器量ないもんは、うごくな、ちゅうねん」
「おっちゃん、そんなこと、この日本でいうたら、石投げられるよ」
と私は忠告した。更に、おっちゃんの盃に酒をついでやりつつ、
「おっちゃんは日本人ばなれしたこと、時々いうからいけない」
「そうかいなあ」
「そら、そうよ。家族が危ない目に会《お》うたら、るす宅のもん、心配で右往左往するのは当然。一刻も早く安否を知りたいと、地許《じもと》の本拠へかけつけたくなるのも、これまた、人情の自然。やはり日本には、日本の人情がございますですよ」
「そこでンがな。昔の日本人は、日本人らしく、身のほどわきまえて行動した。自分の器量、知っとったんや」
「でも、おっちゃんかて、もし、奥さまがあんな目に会ったら、取るものも取りあえず羽田へかけつけて、何時間も椅子に坐ってニュースを待ってイライラしてるでしょ」
「いや、僕はかなわんですな。仕事もおまっさかいな。仕事しとってラジオのニュース聞いてたら、正確やし早い。それに羽田へ僕が行ったからとて、女房《よめはん》一人、先に帰ってくるもんでもなし」
「おっちゃんニヒルやねえ」
と私がインテリ紳士をかえりみると、紳士もうなずき、
「いや実をいうと、僕もそうですな。しかし人間は義理人情いうもんがおましてな。もし、家内がその飛行機に乗っとるとする。するてえと、家内の老いたる両親や兄妹なんてえ手合いが、羽田へかけつけるね、これは。親きょうだいがいくのに、亭主がいかんとはけしからん、てんで、僕は無言の非難のまなざしを浴びる。一人超然としてるのがどうも具合わるくなり、こうなりゃ、人間の器量がどうのこうの、といってられない。羽田へ詰めることになるでしょうなあ、いやが応でも」
「そういや……今までのあんな事件《ケース》の」
とカモカのおっちゃんは、紳士に酒をつぎつつ、いった。
「るす家族の中でも、かなりそういう義理で来とる亭主も居ったんちがうかしらん。男は辛いもんで、自分は毛頭その気が無《の》うても、義理でうごかねばならんときが多い。ゆうべもそうや」
「こっちは超然としてるのに、女房の方はその気になったりして」
「無言の非難のまなざしを浴びて……」
「居心地わるく、われとわが心に鞭打って」
「目を血走らせて右往左往してしまう」
「人が見たら、あほらしいやろうなあ、とわかってるんですが……」
「しかし人間には、義理人情いうもんがおまして、女房《よめはん》がその気になってるのに、知らん顔してるのも、日本人ばなれしてますし」
何の話や。ハイジャックの話じゃないのか。
「結局、器量のないのに、女房なんか持つからです。やっぱり人間、器量の問題よ」
と私がいってやったら、男二人、いやあな顔して私を見よった。
快 感 貯 金
例によって一瓢《いつぴよう》を携えてコンバンワー、とやってきたカモカのおっちゃん、私と二人、酒をちょうだいしつつ話し進むうちに、アノ時の快感は、男と女、どちらがより強いか、という議論になった。尤も、おっちゃんはともかく、私の方は退役してこれ久しく、すべて想像であるが。
「そら、男の方や思いますわ」
私はそう主張する。
「いやしかし、男はすべて一回こっきりですぞ。乾坤一擲《けんこんいつてき》、いや、一滴というのか、最後の、ウン、で終りですワ。しかるにどうですか、女の方は、……」
「女だってそうよ。いや、そうらしいわよ」
「いやー、そうとは見えん。はじめからしまいまで、のべつつづいているように見える。途中何べんか、見せ場もある。どうも女の方が、強いようです」
おっちゃんは重々しく断定する。
「そんなこと、あるはずないわよ。それはヒガミってもんよ。神サマが同じ人間作りはるねんさかい、男女公平に、そこは、あんばいしたはる思うわ」
「そう女は思いますやろ、ところがこれが不公平。すべて女は男の三倍は快感があります。――僕はこれにつき、ちょっとためしたろ、思うことがあるねん。おせいちゃんとこも、一ぺんやってみ」
「何ですか」
「貯金です」
「貯金なんかさせられるほどわるいことしてへん」
「いや、これは紳士淑女のおたのしみ貯金です。つまり、たのしい一ときのあと、快感を感じた方が、貯金箱ヘチャリンと入れる。その貯金箱も一つではあきまへん。男と女と二つ用意して、それぞれの枕元へおいとく」
「フーン」
「そうして、一回でも快感があるたびに、相手の箱へ入れる」
「相手の方へ」
「当り前でっしゃないか。快感は相手のおかげですからな。感謝の意味をこめて入れる。ありがとう貯金ですな」
「すると互いに相手の箱へ、つまり女は男の箱ヘチャリン、男は女の箱ヘチャリン――」
「それが、女の貯金箱にはチャリン、と入るだけですが、男の貯金箱には、チャリン、チャリン、チャリン、男が一個入れる間に、女は三個入れるであろう、というのが僕の予測です」
「そうかなあ、それはちょっと……」
「いや、見てみなはれ、きっと、そないなります、て」
「しかし、その代り、男のはごく深いかもしれない。女の方は浅いのを数多く、というのかもしれへん」
「この際、質は問わぬことにします。もっぱら量でいく」
「自分で、感じたら、相手の方へ入れるわけですね」
「そやから、われとわが心に問うてみて、正直に入れな、あきまへん」
とおっちゃんは私の顔をじーっと見て、
「うそついたら、あかん。自分は三回、たしかに感じたのに、うそをついて一回にしたり、してはいかんわけです。ゴルフと同じです。誰も見ていなくてもフェアにせねばならん。そこが紳士淑女です」
私はお酒をすすりながら、枕元の貯金箱を思い浮かべてみた。
どう考えても、私がチャリンチャリンチャリンと景気よく相手のへ入れ、相手が私の方へ、チャリンと一回、これでは不景気で不公平な気がする。
「いや、不公平でも不景気でも、それが真実やからしょうがおまへん」
とカモカのおっちゃんはいう。
「女性によっては、五回、六回と抛りこむ人もあるかもしれまへん。しかし男性はいかなる場合にも、一回こっきりですぞ」
「それはホント?」
私は力を入れて聞いた。
「紳士の約束です」
とおっちゃんはいう。
「すると、ご婦人によっては五回、六回どころか七回、八回になるというのもあり得ますか?」
「僕はそういう、結構なのにまだ当ったことはありませんが、たぶん、あり得るでしょうな、広い世の中にゃ。――すると、ご婦人はしまいにもう、うれし涙にくれ、ありがとう貯金に励む」
「くやし涙ではありませんか」
「くやし涙でもよろしい。くやしくても、いまいましくても、腹が立っても、それは快感を感じた自分がわるい、くやし涙にくれつつ、男の貯金箱へ入れる。じつにええゲームやおまへんか、たのしみながら貯金がふえる。なんでこのアイデア、郵便局採用せえへんのんか、全世界に拡めたろ、思《おも》てますねん、僕――」
「しかし、不感症の女を相手にすると、男の人はソンですわね、女は一回も入れへんのに、男ばかり入れるハメになる……」
「その代り、そういう相手とは一回こっきりでやめますがな」
「年代にもよりましょうね」
と私は気取っていった。
「中年やったら、それは、男は一回貯金する前に、女は三回入れるかもしれません。けど、若い人たちやったら、男の人の方がぽんぽん、抛りこむのやないかしら? 私のよんだ本の中には『抜かずの何とか』などというのがありました」
「もっとええ本、よみなはれ、毎日一たい何しとんねん」
「ともかく、若い内だと、女の方はよくわかりません。あやふやで、首かしげて、オズオズと、チャリン……と心細げに一回抛りこんでいますが、その間男は威勢よく、チャリンチャリンチャリン……四、五回になる人もあるかもしれません」
おっちゃんは馬鹿にしたような顔で私を見、
「大体、そんな阿呆なゲーム、若いもんがやりますか。中年しか、そんなバカなことせえへん」
契 約 結 婚
わが友、カモカのおっちゃんは、下らぬことにかけては、泉のごとくアイデアの湧き出る男である。前回の快感貯金もそうであるが、今夜は、酒を飲みながら、こんな提案をのべた。
「結婚制度のひずみ、というか、一夫一婦制度のマヤカシというか、そういうことに疑問をもっている人が多いようですが、これにつき、一つの試案があります。これは片方で人間の幸福をはかり、片方で国家財政がうるおう、という、一石二鳥の名案でありますが」
おっちゃんの話はつねに、金にまつわるようである。
「かんたんにいうと、一種の契約結婚ですな」
「でも結婚いうたら、みな性格は契約から成り立ってるのとちがいますか。夫婦、貞潔を守るとか、遺棄しない、とか」
と私は意見をのべた。
「いや、僕の案のミソは、本質の契約でなく、国家が法律で規制する期間契約結婚。つまり、結婚する、役場へ届け出る、ここまでは一緒、しかしそれを、二年間に限定する」
「二年間しか結婚でけへんの?」
「そうです。いま、おせいさんは二年間|しか《ヽヽ》、というた。はしなくも、お前さんの結婚生活が露呈されましたな。かなり幸福な結婚生活であるらしい」
「ちゃう、ちゃう!」
「何がちがうか、今更あわててもおそい。気に入らん相手と、やむなくくっついている奴は、『二年間も結婚してるの?』と心外そうにいうもんです。――ところで、この二年間はどうしても結婚を継続しておらねばならん。気が合わんからというて別れることはでけへん」
「もし別れたらどうなりますか」
「二年以内に離婚すると罪になる。多額の罰金もとられる。その代り、二年たったら、別れられる。というより、法律で別れな、いかんようにきめられてる。仲のわるい夫婦は、二年たつと大喜びで別れる。何しろ国家の規制やさかい、別れ話にまつわる面倒もないわけ」
「でも、仲のええ夫婦は、別れたくない、というでしょう?」
「そういう夫婦は、契約を更新して、さらに延長する。しかしこの場合、同じ相手と再契約するというのは、税金が高うなる。なるべくちがう相手が好ましい。であるが、それでもなお、同じ相手と契約したいという熱烈なる希求を持ってるもんは、高い税金を払《はろ》てでも、結婚しますやろなあ」
「高うつきますね、すると」
「まあ、幸福税とでもいうもんやろうなあ。その代り、値打ちある結婚になりまっせ」
「すると、税金払う資力のない人は、泣き泣き別れると」
「まあ、そこまではなりまへんやろ。その代り、二年たったら別れなあかんのや、と思うと、夫も妻も、一日一日が貴重になります。少々仲のわるい夫婦でも、二年しか結婚でけへんと思うと、お互い、相手をいたわりかばい、慕いつつ、仲ようなります。ケンカなんか、する奴おらへんやろ」
それはそうであろうけれど、かなり気忙《きぜわ》しい結婚である。
私のようなノンビリ屋では、二年間ごとに相手をとりかえるというのは、忙しくて目が舞う。
「その、二年間というのはどこを基準にしていうのですか」
「これはやはり、ボロの出ない期間ですからな。――一年間では、まだ人間一人を理解しつくせない。顔と名がむすびつくのが、せい一ぱい、かつ、夫婦の道も十分、意をつくして探究しがたい。三年となると、これは長すぎてボロが出る。不仲の夫婦にとっては拷問にひとしい長さ、中には思いあまって、自殺する気の弱い夫や妻が出るかもしれぬ。となると、やっぱり、二年ぐらいが妥当でっしゃろな」
「もし、うまいこと気の合うのにぶつかった人は、これは大変ですね。ほかのととりかえるのがいやだとなると、一生、高い税金を払いつづけて……」
「チャリン、チャリン、チャリン、と一回ごとに国家へ収める勘定ですな」
「またか」
「本人が好きでえらんだ道やから、誰に文句いうこともできまへん」
「ウーム、では子供はどうなるんでしょ、お父ちゃんが二年ごとにかわると、めまぐるしくて困っちゃわないかなあ」
「子供! そんなもんいちいち作るから、ややこしい。子供なんか作らんでもよろし。大の男や大の女が、子供たのしみに生きてることおまへんやろ。世の中にゃ子供よりおもしろいもん一ぱいある。もし強いて作るとすれば、高い税金を払わなければ生めない。子供一人生むたびに、金を払う」
また、金の話か。
「子供はええとして、おっちゃんなら、どうしますか? 高い税金を一生払いつづけて同じ奥さんと終生、暮らしたいですか、それとも、二年ごとに新品ととりかえたいですか」
「それはむろん、二年ごとに契約破棄して、あらてと契約したいですな。しかしそうなると、敵味方入り乱れての白兵戦、男も女もウカウカしておられんようになります」
「そうかしら」
「そらそうです、ええのんはすぐ人にとられてしまう、ボンヤリしてると目星つけたんもさらわれてしまう、さながら戦国乱世といった趣の男と女の仲、こないおちついて酒なんか飲んでおられまへん。結婚したとたん、二年先の相手をよりより心積りして物色したりして、餅がのどへつまったようなあんばい、中年になるとしんどいですな。――やっぱり、高い金払うて古女房で持ちこたえますか」
いい出した本人がこのざまでは、あまりいいアイデアでもなさそう。
説 教
カモカのおっちゃんと酒を飲んでて、私はいった。
「おっちゃん、そんなに飲んで、体大丈夫なの? 糖尿病、高血圧、肝臓心臓、心配ないのかしら?」
おっちゃんはいやな顔をし、
「飲んでるときに、いうことおまへんやろ。それはシラフのときにきく」
しかし、シラフのおっちゃんなんて見たことがないのだ。
私が見るおっちゃんは、いつも飲んでるんだよ。
それにシラフのときにいうと、
「そういう話はあとでうかがう」
と、こうきちゃう。
「けど、『中年の医学』いう本見たら、酒は一日に……」
「まあ、よろしやないか、そんなことして長生きして何ぼのもんや。長生きしよう、思うのは、いまを充実して生きとらへん証拠。こう見えて僕は、毎日ツツ一杯生きてまッさかい、今が今コロッと|いて《ヽヽ》もうても、心のこりおまへん」
などという。
手がつけられない感じ。
「それにしても、なんで女いうもんは、こうも説教が好きなのかねえ……」
「男かて、けっこう、説教好きはいてはるよ。あの評論家ていうのは、つまり説教家、と名をかえた方が早いのが多いね」
「評論家だけやない。一億総説教家になっとる。ああいやらしい世の中。僕としては酒飲んで引きこもってるのが一ばん」
「それでヨイヨイになってりゃ、いうことない」
「まあ、説教家というのも、世の中には要るかもしらん。しかし僕は要らん。人にああせい、こうせい、こうでなけりゃならん、ああすべきや、と指図説教するのも、まあそれがメシのタネになっとる奴は、かまわん。いいはるのは勝手やが、僕には関係おまへん」
おっちゃん、今夜はコップ酒である。而うして、徳利も、ガラスの一合瓶、酒屋で売ってるガラスの瓶である。私の家には、備前も九谷も清水も、結構なる徳利・お銚子があるのに、おっちゃんは、ガラス瓶を使う。何となれば、酒があとどのへんまであるか、よくわかって安心なんだそう。酒飲みの心理だろう。
「とくにいやらしいのは、おのれの商売から推して、人生論を割り出し、説教するやつですな」
「そんな人がいますかね。学校の先生ですか?」
「あほ、学校の先生は、半分説教が商売やないか。それをメシのタネにしとる人のことをわるういうたらいかん。営業妨害、生活権侵害になります。ちがうねん、僕のいうてるのは、説教に関係ない商売やのに、すぐ人生論にむすびつけて仰々しいことぬかす奴」
「ああわかった。一技一芸に秀でた人ですね」
「そう、そういう人はやっぱりええこという。ところがそこで止めときゃええものを、中にはそれから人生論をぶって説教するのがおる。料理の名人、将棋指し、野球屋、運動屋、それぞれ、けったいな奴がおりますなあ。料理人は料理作っとりゃええのだ、美学の講義や人生論ぶつことないやろ、将棋指しは将棋をさし、碁打ちは碁打っとりゃええのだ。『人生というものもこれと同じで……』とすぐ説教たれるから、胸くそわるい」
「そういう一技一芸は上品な商売の人やから、とちがいますか? 漫才屋や、声色・物まねが、人生論ぶつのん聞いたことない」
「そやからよけい、いやらしい」
しかし世の中には、本人がいわなくても、まわりの説教家、評論家が、かってにこじつけていう、そういうのもあるようだ。
私の知人の釣師、これはもう名人以上の、むしろ仙人みたいな腕前の人。なぜ仙人かというと、あんまり釣りに熱中しすぎて、女房《よめはん》に逃げられたくらい。
本人はステキな人柄で、神サマみたいに気のさっぱりした男であるが、それとこれとは別らしい。その名人は、仲間たちを乗せて車を運転し、トットコトットコ、山奥まではいり、やっとめざす渓流へつく。
仲間たちはてんでに釣場へ嬉々として出かけたが、名人は動かない。
「ああ、ええ水の色やなあ、ええ空の具合やなあ、これは魚が濃そうな感じ、よう釣れるでエ」
と満悦して、釣竿も出さず、ごろんと車にころがり、グースカ眠ってしまった。
その話をきいて人生論の好きな説教家、
「ウーム、どの道でもほんまの達人になると、そういうもんやねんなあ。空具合と水の色を見れば、もはや釣ったような気になるらしい。すべてものごとは、究極のところまで到達すると、もはや空《くう》と化し無となってしまう。これはつまり禅の境地やなあ。『放せば手に満つ』という禅の有名な言葉がおまっしゃろ、つまりそういうことでんねんな」
と、首を振って感心していた。
しかるにそれを聞いた名人、キョトン、として、
「ちゃうちゃう、一日運転して、しんどかったからや」
といったので、みなみな、大笑いになってしまった。
カモカのおっちゃんは、その名人が大好きだという。
すべて何によらず、こじつけ、ねじまげたりしない奴、説教にひっかけたりしない奴が素直でいい、という。
「でも私なんか、別に説教に関係なくても、原稿用紙をひろげただけでもう書いた気になって、安心してあそびにいったりしちゃう。これは何やろ」
と私がいうと、おっちゃんは、
「いやそれそれ、僕も、いちいち女と寝なくとも、近頃は、女見ただけで寝た気になります。そんなもんやろか」
というた。
淫・食・遊
物がない、物が高すぎる、という話を、私はしていた。
あいてはむろん、カモカのおっちゃん。
おっちゃんは、物不足にも動じない御仁であるから、
「実に清潔なご時勢になりました。今まで物がありすぎるのがまちごうとったんや。今みたいに物不足の方が本当なんですなあ。そないたくさん、モノがある方がおかしい」
とゆったり、のたまう。
「そうね、あるもんで間に合わせるとか、大事に惜しんで、すりきれるまで使う、という方が本当でしょうね」
と私もうなずいた。
「いまの人はゼイタクやから、まだいたんでないのにすぐ、ホカのと買い替えたり、新品同様なのを打っちゃらかしたり、しますね。あれはいかんと思うわ」
「それはそうですが、しかしモノによっては、すりきれるまで使う根気がない、ト。いたんでないけど、ホカのと替えとうなる、ト。新品同様やけど、目移りしてすぐ打っちゃりとうなる、ト。――物によってはそういうのもあるかもしれまへん」
おっちゃんは同情的口吻でいう。
「物ってどんなものよ」
「たとえば女房《よめはん》であるとか……」
「だまれ!」
なんですぐ、そこへ話をもってくる。
「私のいいたいのは、ですね」
と私はおっちゃんに酒をついでやり、
「アノー、いまおっちゃんは、清潔なご時勢や、というたわね。それはかめへんのです。しかし物不足から精神主義に突走って、すぐ精神の統制までとろうとする考え方が、日本人にありますねえ。あれは、かなわんなあ」
ある地方都市の市役所、ガソリン不足からマイカー通勤を禁止した。それはよろしい。しかしゴルフ・麻雀のたぐいもついでに、自粛するようお達しが出た、という新聞記事を見た。
役所が、ゴルフ場新設願いを不許可にした、などというのは、それはかまわない。しかし麻雀ゴルフを個人がするのまで、ヤイヤイ目くじらをたてていたら、世の中うっとうしく灯が消えたようにいじけてしまう。えてして、物不足というと、こういう所へまで突走っていやらしい。
戦争のはじめの頃、トビアガリの国防婦人会あたりが、街頭にしゃしゃり出て、「パーマはやめましょう」「袂《たもと》が長すぎます」ととがめだてしたのと同じ、うっとうしさを感じてしまう。
こういう考えこそ、イナカモンと思うのですが。
私が舌ったらずでまくしたてているのを、カモカのおっちゃん鷹揚《おうよう》に聞いてうなずき、
「まア、しかし、どんな時代でも、そないいうて旗ふる奴はおるんですわ。それも人間の生まれつきのタチで、しょうがおまへん。そんなん、いちいち怒ってもしょうない」
いったい、おっちゃんは、どんな時に目くじらをたてて怒るのかね。
「そら怒るときありまンがな。メシの炊きかたがまずい、とか、酒の燗がぬるい、とか……こんな腹立つことがおますか。人間、真剣に怒るべきは、そういう時ですぞ。そういえば、この酒はぬるい、もっと熱うせい!」
私、あわてて酒を暖めつつ、
「すると、物不足になって、食べもの飲みものがいよいよ欠乏すると、おっちゃんは餓鬼か阿修羅のごとくなりますかね」
「なーに。酒がなけりゃ焼酎を飲む。焼酎もなけりゃ、薬用アルコールをシロップで薄めて飲む。米がなくなりゃ芋のツル、どないしてでも腹ふくらかしますわ」
しぶとい奴だね。
「すると、おっちゃんの困るものって何もないのかしら、衣食住のうち……」
「衣食住、というのもおかしいですなあ」
とおっちゃんは熱燗をちょっと飲んでみて、満足すべき熱さだったらしく、にこにこしていった。
「僕ら、何着てても平気。どんな家に住んでてもこたえまへん。衣はもって、寒を防ぐに足り、住はもって、雨露をしのぐに足れば、気になりまへん。物ぐさ太郎みたいに、四方に竹キレたてて、上にムシロかぶしとる家でも平気ですな。しかし食べもの(中に飲みものもふくまれる)ならびにもう一つのものは、これは、注文が多い」
「もう一つのものって何ですか」
「それはもう。色にきまってます。そやから、衣・食・住なんて、僕らからみると、何でこんな並べかたしたんか、思う」
「じゃ、どう並べるのよ、色・食……」
「遊、ですな」
「あそびごとですか」
「さよう、ゴルフも麻雀も、かけごと、スポーツ、勝負ごと、一切入ります。そういうもんなかったら、何のために人間生きとんのやわからへん。これが遊、です」
「すると、おっちゃんの人生というのは、食べる飲む、色にいそしむ、遊ぶ、つまり、世に謂うところの、飲む打つ買う、になりますね」
「飲む打つ買う、これもしっくりしまへん」
と、おっちゃんは中々、気むずかしく字句の定義をあげつらう。
「飲むだけではあかん。食べものがようないと、僕は気に入らん。打つ、というのはまあ、まし。買うというのがおかしい。僕は売り買いだけではたのしくない。買うに買えん手合いをイロイロ試みてたのしむ、そこに、ええとこがあります。ひとしなみに、オナゴいうもんをたのしむ、オナゴいうもんが、そこにいるだけでええ、その空気の暖《ぬく》もり具合をたのしむ、こういう気持を、単に『買う』だけで表現できますか。あきまへんやろ」
「ウーン、それは色、でしょうねえ、やはり」
「むしろ、淫かもしれまへん。すると僕のは、衣・食・住の代りに、淫・食・遊ですなあ」
ナニをナニする
私はタタミを替えたいと思いつづけてもう何年にもなる。しかし面倒なので、そのままにしてある。
よってわが家のタタミは破れ放題で、まるで空手道場の感じ。文字通り陋屋《ろうおく》であります。
お客さんを迎えると、台所で飲むが(流し台やふきん掛け、冷蔵庫、食器棚の林立している谷間である)、台所のタタミも相当傷んでいる。
こんな汚ない所でモノを食ったり酒を飲んだりできぬという御仁は、だいたい私のウチなどへは来ない。
なかんずく、カモカのおっちゃんなどは、汚ない所ほど酒がうまいという、ゴキブリのような男である。
それに、すり切れていようと、ケバ立っていようと、へりが破れていようと、中の床がはみ出していようと、タタミがよい、という。テーブルに椅子、などという所で飲めぬ、という。
私は以前、テーブルに椅子で食事をしていたが、カモカのおっちゃんは、来ると、必ず椅子の上に坐ってあぐらをかいていた。何のための椅子かわからない。
ウィスキーにしろブランデーにしろ(日本酒はいわずもがな)タタミに坐って飲むのがよい、という。そうかなあ。
CMなんかみると、男が椅子にふんぞり返りパイプをくゆらせ、ブランデーをすすっていて、まことに所得《ところえ》たさまではありませんか。
「しかし、僕らからいうと、酒飲んで、しんどうなったらごろんと横になれる、こんな便利なもんがありますか。椅子やったら、いちいち歩いてベッドヘいって、横にならねばならん。実に不便」
とおっちゃんはいった。
「ウーイ、おれは酔うたぞォと叫んで、ごろんと横たわり、座蒲団を二つ折りにして寝る。自由自在で気ままにふるまえて、タタミはよろしい」
おっちゃんは、タタミが便利なのは、酒を飲むときと、寝るとき蒲団が敷けるからだという。椅子テーブルが不便で、愛想ないのと同じく、ベッドも、あんな不便なもん、あらへんという。
「そういえばそうね」
と私もいった。
「ホテルで泊るとき、毛布の扱いが困ります。足を突込むと出せなくなって、寝袋か、状袋へ入れられたようなあんばい、寝返りもうてなくて、窮屈です」
「毛布の話やあらへん。毛布なんか、誰もいうてえへん。つまりベッドは、ベッドの上だけしか寝られへん、というとんねん」
「当り前でしょ。外へはみ出したら落ちてしまう」
「それが不便や、いうねん。ことに解《げ》せんのはシングルベッド二つ。あれはもし男と女でナニするときはどうするつもりかな」
「ナニってナニよ」
「ナニはナニですがな。――片方がダブル、片方がシングル、いうのなら話はわかりますが、双方、棺桶のような細長い所でどたばたしてられへん」
とおっちゃんは、石油危機問題を論ずる評論家のように重々しくいった。
「それに、よく寝室の写真なんか見ると、シングルベッド二つの間に、物置台やらフロアスタンドやら、甚だしいのはタンスまで置いてあって、わざと二つのベッドを引きはなしてる」
「そうそう、しゃれたベッドルームの写真など、そうですね」
「しゃれてるかどうか知らんが、あれやったら何で同じ部屋に寝るんですかな。別々にはなれて寝るくらいやったら、いっそ二部屋に区切った方がマシやないか」
「老夫婦用かもしれません」
「老夫婦やからというて、ナニせえへんとは限りまへん。もし、ナニするときはどないするねんやろ。やっぱりベッドを下りて大まわりして歩いていって、こんばんは、というのんやろか」
「帰るときは、失礼しました、とおじぎして自邸へ歩いてもどる」
「突然、訪問するのは失礼に当るから前もって電話をかけますか」
「訪問時間を打ち合わせることも大切ですからね、先方の都合もあるやろし」
「考えただけで、しんどうなります」
それではダブルベッドというのはどうだ。訪問打合せの手間も、電話をかけることもいらない。
「いや、いつも横にくっついていられては大きに迷惑。こっちがその気になった時だけ、ナニできるというようでないと、わずらわしい。毎夜、同じ掛け蒲団を引っ張り合うなどというのは愚劣のきわみです」
うるさいなあ、おっちゃんも。
では、ベッドを二台びっしりと並べ、くっつけといたら、よろしいでしょう。ナニをナニするときも便利ですし、蒲団を引っ張り合う愚も犯さずにすむ。
「いや、時には離したいときもある」
こういえばああいい、ああいえばこういう。では、ベッドの下にローラーというか、キャスターというか、動くようにしとけば、離したりくっつけたり、できます。
「そんな苦労せんでも、床をタタミにして蒲団を敷けばすむ。いやなときは離して敷く。ナニをナニするときは、くっつけて敷けばよい」
「ま、それはそうですが……」
「万一、蒲団からはみ出しても、ですな、ベッドやないから落ちる心配もおまへん」
「当り前でしょ」
「顔も見たくないときは、蒲団をかかえて別の部屋へいく。残された方もノビノビと、部屋のまん中に寝て、独身、いやちがった、独|寝《しん》の自由を満喫できる。空《から》ベッドを見やって改めて腹立てたり、後悔したりするわずらわしさがおまへん」
「それはわかりました、ところでさっきからよく出る、ナニをナニして、のナニは何ですか?」
と私が問うとおっちゃんは話をそらし、
「やっぱりタタミは便利ですぞ、たとえ破れダタミであろうとも」
とタタミのケバをむしってみせた。
緊 ま る
私はなんべんもいうけれど、カモカのおっちゃんは私の亭主ソノ人ではありません。永六輔サンはそう思ってるらしく、「こんな作家(私をホメてるのだ)を女房にしているカモカのおっちゃんを尊敬する」などといい、カモカのおっちゃんをおだてて喜ばせているが、あんなオッサン、わしゃかなわんよ。亭主はこれはべつ、人格清廉、識見|高邁《こうまい》、「女房と酒飲んで、何がおもろい」とうそぶくような御仁であります。
今日は、カモカのおっちゃんヌキの話にいたしましょう。
カモカのおっちゃんがいると、女同士の打ち明け話ができぬ。すぐ、つまらぬ口を出して、風紀をみだす。おっちゃんがいないので、私の客間に、女同士うち群れて(こんな言葉あるかしら? うちつどうて、というのはあるけれど)酒を汲みかわしつつしゃべる。
今日の議題は、実に高潔な、深遠なテーマなのだ。
女は、恍惚《うつとり》となったとき、どうなるか、ということ。集まるめんめんは、女子大生、四十なかばのうばざくらの美人記者、二十代の短気で陽気なホステス、五十くらいのバーのママ(尤も、彼女のバーはごくごく小さくて、蚊の眼玉ぐらいのもの)、それに私。しかし私は、こういうテーマでは、キャリア不足で、口出しする資格なし。ただし、問題提起だけする。
「よく小説に、『彼女は濡れた』とあるけど、あれは、そのことの表現でしょうね。目が濡れるわけやないやろ、しかるべき所が濡れるんやろ?」
「ヌレタ、というのは、男が一ばんよく使う。従って男の作家はみな、そう書くわね。男という男、いい気分のときは女が濡れると思ってんのね」
と美人記者がいった。もっとも、いい気分といっても、接しているときではないのだ。それはヌレルなり、オボレルなり、どっちでもよい。
女が独居のとき。いい本をよんだり、結構な絵を見たり、ぐっとくる音楽を聞いたり、夢想したり、たとえばまた、男と対していて、おしゃべりしているあいだ、とてもいい感じになったり、そのときに適応してうっとりくる。その女の状態を、男は一律に、「濡れた」と表現するが、これはごく雑駁な表現であって、男は、みな、女が、極楽のような気分になったら、ヌラスものだと思うらしい。しかし、それはちがう、と女たちは口々にいう。
「濡れた、なんて男がいちいち、触ってたしかめてんのかなあ」
とホステスがいった。
「あたしは濡れても、外へ出たりせえへんわ。うるおう感じになるだけよ。濡れるなんて、よっぽど、ユルイ女に触ったんやないかしら。女のは、そうそう外まで流れ出したりしませんよ。きちっとしまってるもんよ」
「そうね、それともオシッコをちびたか、ね」
と五十のママがいい、みなみな、大笑いとなる。
「男ってバカやから、オシッコも何も混同するのやない」
それは可哀そうだなあ。オシッコとまちがえて喜んでるなんて、男が気の毒やないの。
「なーに、女って極まるとオシッコちびるわよ。どっちがどうでも、まあ、最後には変りないわよ」
とママがいい、彼女がいうと、さすが街道筋の大親分の貫禄で、ちょっとすごい。
「ともかく、濡れる、なんて大げさなこといわんと、うるおう、にしてほしい」
とホステスはいい、女子大生は、
「うるおってるか、濡れてるか、あたしにはまだ、ようわからへんわ。ともかく、すごい映画なんかみると、冷えのぼせしたみたいに、背中は寒いのに、あたま、熱うなって、胸がどきどきするわ」
という。うばざくらの美人記者は、
「濡れる、うるおう、なんて末端的なことですよ。そういう幼稚なこというてるから、男はそう思いこむのよ」
「ふーん」
「あたまどきどきも、ええかげんな子供ねえ。そういうコドモを相手にするから男たちがそんなもんかと思ってしまう。それで、世の中に、思いちがいが横行する」
「ほんなら、どないなるのん」
女子大生はかなり熱心である。
「もっと範囲が広いわね。女がどきッとくると、下半身全部、もっと限定すると、子宮のあたりがじーんときて、しびれますねえ」
「うーん」
と女子大生、胸を押えて、深刻に考える。
「ばか、子宮が胸にあると思ってるの、物知らず。押えるところがまちごうてる」
「しかし、そんな所がじーんとくる、なんて感覚、まだ想像つかへん」
「精進と修行あるのみよ」
「そうかなあ、子宮ねえ」
五十ママは、にたりと打ち笑い、
「子宮がしびれる、というのも、範囲が広いわよ。ほんとうは、しまるのよ」
「閉《し》まる?」
「ちがう、緊まる、あそこが、じわーっと緊まるのがわかる。昂奮すると、緊まりますねえ」
「ひとりでしまるわけ?」
ホステスが叫んだ。
「何かはまって緊まるのは、これは老いも若きも同じよ。ちがうちがう、あたしぐらいの年になると、ひとりであれこれ考えてても、結構な心もちになると、じわーっときて緊まるのがわかるのよ」
「ふーん」
と一同、感に堪えて彼女を見、
「そうかなあ、そんなことがわかるの?」
「うるおう、濡れる、胸がどきどき、子宮がしびれる、みんなまだ初級、中級クラスですよ。上級になると、じわーっと緊まる」
「で、どうすんの?」
「そうなりゃ、もう、男は要らないわよ」
とママはにんまり、笑った。
お 守 り
交通事故はいうまでもなく、デパート火災、通り魔、放火魔、居直り強盗、はては、道を歩いていると、頭上から、解体中のビルのコンクリートブロックがおちて来てケガをするといった、じつにおそろしい物騒な世の中である。
かかる突発事故はふせぎようがなく、日頃の養生も、体の鍛練も及ばない。及ばぬときの神だのみ、
「お守りでも肌身はなさず持ってたらどうやろ」
と、いうことになった。
そうして、カモカのおっちゃんは私にお守りをくれた。ヘンな形の土の鈴。
「何ですか、これは」
とためつすがめつ、私が触っていると、
「これ、そういう手付きで、いじくってはあきまへん。もっと、いとしそうに、そーっと、いじる」
私は、もしや食べものかと思い、ためしに歯にあててみたら、やっぱり土。
「食べたらどもならんがな。いや、ホンモノは食べることもあるが」
とおっちゃんはいい、どうも怪しい。
「はて、面妖《めんよう》な……」
「何をいうか、これは田県《たがた》神社のお守りですぞ。ありがたいお守り、子孫繁栄、夫婦和合、家内安全、商売繁昌……」
やっとわかった、田県神社が出てわかった。なーんだ、これは男性自身をズバリかたどったもので、鈴の舌も、同じく小型のそれになっている。
愛知県・小牧市にある田県神社は五穀豊穣の神サンで、したがって拝殿に巨大でリアルなアレが祀《まつ》られてある。社務所で売っているお守りもことごとく、このたぐいのもの。今ごろ気がつく阿呆の私はしげしげ見入り、ハ、ハ、ハ、ハ、と馬鹿笑いして、おっちゃんにたしなめられる。
「しかし、これはお守りとして持ち歩くにはカサが大きすぎますね」
「ハンドバッグヘでも入れておいたらどうですか」
しかしバッグをあけたとたん、そのものズバリのリアルな鈴が出て来たりしては、淑女の名誉にもかかわり、目撃した人も目のやりばに困るであろう。やはりお守りというからには、金襴の袋に入った、例の白い紙に巻いたものがよい。品がある。
私は前に、インドみやげに、インドのお守りをもらった。象牙を刻んだ米つぶほどの象で、その小さな象のおなかの中からさらに何十個という砂粒のような小さい象がでてくる。幸せをよぶ象だそうだ。
私はこれがいたく気に入った。美しくてかわいらしく、小さいのがいい。天眼鏡をあてて一粒ずつ調査したが(こんなことをしているから、ますます、原稿の締切りにおくれるんだ)、みんなちゃあんと、象のかたちをなしていた。
そのほか、お金をよぶという銭亀《ぜにがめ》、これは貝を刻んだもので、小さな小さな亀サン。これを財布に入れとく。幸せをよび、金をよべば、あとはもういらん。男はかってに吸いよせられるであろう。
「しかし、一身の安全を考えねばなりまへん。突発事故で、頭上にコンクリでもおちてきたら、たちまち、在りし日のおせいさん、になる」
とおっちゃんはおどかし、では身の安全はどこの神サンがええかしら。
「いや、神サンのお札よりは、死とセックスは究極、同じもんだすよってに、エロ写真なんかお守りにしてる人が多いですなあ」
ポルノ写真なんか、いくら何でも女が肌身はなさず持ってられない。それに、男から見ればエロでもポルノでもあろうが、女から見れば、あのたぐいのものはまるで警察の鑑識課の人がうつした、犯罪現場の写真みたいな感じ。
「いや、そういいますが、危険な仕事にたずさわる男、第一線で身を張ってる男は、そういうものを身を守る心のより所にする。舟乗り、兵隊、現場の作業員、あるいは極道モンがケンカ出入りのときに持つ」
「名刺入れ? 財布に? 定期入れにですか」
「知らんがな、そんなこと」
「大きな写真やったら入れへん」
「よっぽど、カサのことが心配やねんな。もっとトコをとらぬものというと、毛ですな」
「タヌキとか、ブタとか……」
「あほ、それはブラシ用やがな。ちゃうちゃう、女の毛。女の影の毛」
「そんなものがお守りになりますの?」
「これは霊験あらたか、いうてみんな喜ぶ。兵隊はタマよけになり、舟乗りは嵐をまぬがれる、という」
では交通事故にもいいだろうか。朝日放送ラジオの早朝番組「お早うパーソナリティ」で、毎朝二時間半も一人でしゃべりまくっているという、ごくろうな男、中村鋭一サンにいわせると、彼の友人は、交通安全お守りとして避妊具をたえず携帯しているという。すると慎重運転のお守りになるという。
「アノ、のびたりちぢんだりするアレですか? どうしてアレがお守りになるの?」
「つまり、車を運転していてですな、もし事故をおこしたとする。すると所持品くまなく検査されるであろう。そのとき、かのプライベートなもちものが、白日のもとにあばかれる」
と、エーちゃんが重々しくいった。
「あばかれたっていいではありませんか。いまどき紳士のたしなみ、武門の心得やないの」
と私はいった。
「いや、ちがう。その友人はこのごろ、とんと奥方にごぶさたしてますねん。それが、もし、あり得べからざるものが出てきてみなさい、奥方にとっては大ごとです。それゆえに、絶対あばかれないためには、事故をおこさんようにすること。そのためには、慎重な運転を心がけると。避妊具が彼にとってお守りとなっておるのは、こんな関係ですわ」
なんでそんな、まわりくどい、ややこしいこと、せんならん。
その友人とはエーちゃんのこととちがいますか。
男ってバカかカシコか
このあいだ、イヤダナー、恥ズカシイナーと思いながらテレビに出されてしまった。
而うして、冒頭私に何か書け、というのだ。私は、どうしても、文句が浮かばない。色紙を書くのはにが手な人種である。こまって、係りの人にいった。
「アノー、『カモカのおっちゃん酒提げて、やってきましたおせいさん』というのはいけませんか」
「ウーム、結構ですが、いかにも長い。テレビの枠に入りきらへん。もっと短いのんで頼みますわ」
そこで私はいよいよこまり、本番ではしかたなく、
「思うことは ツチノコ ばかり」
にしました。
見た人、
「あほかいな」
と思ったそう。
かりにも物書きのはしくれやったら、もうちっと、恰好つけたこと書け、と面《おもて》を冒《おか》して忠告してくれる友人もあった。こまった、こまった。こういう時、それから色紙に書くとき、適当ないい文句を、誰か内緒で教えて、チョーダイッ!
でも「根性」なんてスポーツ選手みたいな標語はいやよ。男の人なら、それ書くといかにも男らしくて似つかわしいが、女ではすこし色けがないみたいである。もっとかわいらしいのがよい――私はこの間、四谷シモンの人形を手に入れて大よろこびで、締切りも忘れて日夜、人形をながめている。この人形みたいな感じのよいのを考えてね。
一日一語などというたぐいの本をよむと、じつにいい文句を考えつく人がある。しかしたいがい、このたぐいのは説教調、訓戒風が多い。私は、自分でかえりみて心やましい人間だから、そういうのは不得手である。身上相談というのは、だからいかにもむつかしい。
ところで、私が今日紹介したいのは、たいへんいい身上相談の回答なのである。昭和四十九年一月十八日付のサンケイ新聞「わたしの場合」、回答者は神戸大学教授・橋本峰雄サン。
相談者は四十一歳の母親で、手に負えない二十歳の不良の娘に泣かされているという。
彼女は、十五年前に夫を死なせてから女手一つで二人の子供を育ててきたが、上の娘が高校三年ぐらいから彼女のいうことに「耳を貸さなくなってしまった」。高校卒業後、勤めているが、「帰宅が十一時ごろになることがしばしば、酒気をおびていることも多いのです。化粧も服装も、ますます派手になっていきます。ことあるごとに叱るのですが娘は反対にくってかかります。無断で二日家をあけたこともある。泣きおとし戦術をとってもケロッとしたものです」(原文のまま)
しかも、最近は、妊娠まで、しているらしい。
「娘がこうなったのは親の責任だと思います。が、私にはもうどうしたらよいのかわかりません」
橋本サンはこの痛切な相談に対し、まず、
「あなたをお気の毒と思います。二十代なかばからずっと、よく一人でがんばってお子さんを育ててこられましたね」
とやさしく同情していられる。
これは、なかなか、いえないことである。
ナゼカ、身上相談の回答には、死者に鞭うつ式のものが多い。
そして(この橋本サンのことは、私は面識もないし、どんな私生活を送ってられるのか知らないが)、ナゼカ、現代日本のエリート、有識者、文化人、世の師表となる人の子供は、みなデキブツである。ちゃッちゃッと大学を出て、いい職業につき、いい結婚をする、「親の顔に泥をぬる」式のフデキな奴がおらぬ。だから、フデキな子をもって泣く親の心がわからぬ人が多い。もしそれ、こういう相談がきたら、一刀両断に、
「親のしつけがわるい」
というのにきまっている。
しかし、橋本サンは、こうつづけられる。
「まず申したいのは、娘さんがたとえ現在のようにあなたには不本意な成長の仕方をしたとしても、それは親であるあなたの責任ではないということです。こどもの性格や生き方のすべての責任を、親がおえるものではありません。その点については、もっと気を楽になさい」(原文のまま)
よんでいる方まで、気が楽になってくるではないか。橋本サンは、叱るということを絶対、やめてみたらどうか、と提案していられる。娘の帰宅がおそくても酒気を帯びていても、外泊しても、おろおろ、がみがみ、をやめてみたら、と一つの方法を考えておられる。
「いつの世も母親はつらいもの、いっそ気楽になってあなた自身の将来のことも考えなさい」
という言葉で結んである。じつにやさしい、いい回答である。
つまり私は、もし人さまの前で、何か書かされるとしたら、この回答のような感じを、一行に圧縮したコトバを書きたいのである。
こんな、ふんわりしたやさしい心持の回答というのは、めったにできない。
私はいたく感心し、カモカのおっちゃんに話してきかせた。おっちゃんは二、三本、徳利をふってみてカラだったから、あわてて新しい酒を注いで燗をしつつ、
「ウム、それはええ回答です。しかしそれをよんだ相談者に、その回答のよさがわかってるか、というと、これはどうも、そうは思えまへん」
という。いやな野郎め。こんな所がおっちゃんの、いや男の、ヘンな所であって、何がなひとこと、屈折していう。男というものは私にウマを合わして、
「あありっぱな回答、橋本サンてステキな人、やさしくかしこくあたたかく、こういう調子でいきましょう」
と私と手に手をとって感激の涙にむせぶ、ということには決してならないのである。
「要するに、どんな回答よんでも翻然大悟、いうことはないやろうなあ。そやから〈一刀両断〉でも〈死者に鞭うつ〉でも、役に立つのや。世の中はいろんなんがあってこそ面白いねん。おせいさんが感心するのは勝手やが、いわしてもらえば、あれもこれもみな同じ」
ウーム、私はきめた、これから何か書かされるとき、
「男ってバカかカシコか、ほんとにもう……」
にする。
単なる浮気
男性の浮気が発覚すると、奥さんはたいてい半狂乱のごとくカッカする(ようである)。しばし修羅のちまたのいさかいあって、トド大げんか、大立廻り、出るの引くの、別れろ切れろになり、ひどいときは切ったはったになったりする――そうして男の方は嘆息して、
「単なる浮気やないかいな、何も離婚してそんな女と一緒になるいうとらへん、何でもないのに目くじら立てるさかい、腹立ってまた浮気してしまう」
というが、そんな理屈は女には通らないだろう。そもそも「単なる浮気」という言葉さえおかしい。浮気に「単なる」をつけることはできない。たとえ二、三秒ぐらいの浮気でも、浮気というのは極悪非道の行ないである――とまあ、私も世の奥さんに同調してそう思っていた。しかし、このごろちょっと考えがかわってきたので、奥さんたちに報告する。
私は、このあいだある町に、講演にいってきた。私は講演はふつうしないが、そのときは都合で出ることになった。
兵庫県の山間部であるが、泊りがけでいった。神戸から日帰りできるが、雪でも降ると何時間も停滞して、講演の時間に間に合わぬおそれがある。
町はハタオリで有名なところで、その町の中のある部落がこんど公民館をたてた。そのお祝いの式典のあとで、私が講演をするということになったのだ。町じたいが金持であるが、ことにその部落は内福で、村だけの金で、都会にもめったにないような、瀟洒《しようしや》たるモダンな、公民館をたてていた。村の人たちは、それが大いに自慢のていであった。また、自慢してもよい、リッパなたてものである。
かつ、この村の人々がすてきなんだ。
館長も、式典委員も、大学の先生も、みな地許《じもと》の名士で、村のロータリークラブの会員である。彼らは公民館を立てて町民意識を振興し、郷土に文化のタネを播《ま》こうというのだ。そうしてその手はじめに「長風呂」以来の愛読者であるところから、一致して私をよぼうということになったのだ。
いってみると山また山の中に、その町はある。
「ぼたん鍋が食べられますね」
と私がいうと彼らはうち笑い、
「よっぽど、ここを田舎や思うとってやなあ。そんなん、もっと山奥へ入らんと食べられへん」
まわり、山また山の中で、そう聞くのは格別の風情である。出てきた料理は、ぴんぴんした魚ちり、かつ、活きた車海老の刺身まで供された。兵庫県というのは、ユカイなところである。
講演はよく晴れてあたたかい日ざしの入る会場で行なわれた。新築というものは快い。しかし私は満員の聴衆を見てハタと困惑したのである。なるべくたくさん収容しようというので、椅子をのけて新建材の床にうすべりを敷きつめ、各自持参の座蒲団に坐っているのはじいさんばあさんばかりである。
「整理券出したんですが、一戸に一枚、ということになると、やっぱり年寄りがそれを使いますので」
と紳士たちは弁解するごとくいい、しかしそれは当地の敬老精神のあらわれでありますから、結構なことと申さねばならぬ。しかし、どんな話をしていいのか、私がこまるのだ。ふと見ると、三つ四つの子が横で怪獣ごっこに興じており、会場のまん中では赤ん坊のおむつをかえている若い婦人もある。
座蒲団にちょこんと坐った善老男善老女はにこにこと私を見つめ、「長風呂」に類した話もいたしにくい。
かといって、硬い話もこの場にふさわしくあるまい。私の前はこけらおとしのこととて「寿三番叟」の日本舞踊があり、私のあとは手品である。
混乱している私を、館長は新品らしく性能のよいマイクで紹介し、
「田辺サンは『センチメンタル・チャリティ』という小説を書いた人である」
とのべ、だがこれも、どうということはないが、講演するとき、向うが座蒲団に坐っていられるのは、何か恰好つかぬものである。いっそこっちも、落語家のように、壇上で座蒲団をもってきて坐って、扇子を前においてる方が、しっくりするように思う。
それでも話し終ってお役目がすむとまことにホッとする。早く、お酒を飲もう。
しんしんと底びえして寒いので、「高徳《たかのり》」という地酒がおいしい。接待委員もよく飲む。
じいさんの紳士が、大学の先生に、
「教授と助教授はどっちが偉いねん」
ときいたりする。
先生は助教授である。
先生はまじめに、
「そら教授や。月給も多いしの」
と答え、みな、クセのない洒脱な人々である。私はこんな人たちが大好きである。
公民館の玄関には、設立趣意みたいなものが石に刻んである。それは、当村最高の文筆家である先生のものしたところである。当館は、われらの先祖からうけついだ土と親和力によって成った、という意味の名文である。私はとてもいい文章だと思う。そういうと先生も、
「そうや。ほんまによう、でけとってや。名文やと思う。何べんよんでも飽きんでの」
とうなずいた。四十代で、こんな素直なクセのない人はめずらしい。紳士の一人はそれは自分が考えた文句を、先生が結びつけて順序を按配しただけであるといった。先生は、その按配がむつかしいのだ、と答えていた。
紳士連が集まっているところではあり、かつみんな素直でクセがない人なので、私は、紳士のたのしみは何であろうかとたずねた。素直でクセのない人々は、素直にイロイロ答えてくれたが、やはり、婦人に関することがその筆頭を占めるようである。ある紳士はストリップをとなえ、ある紳士は海外でのアバンチュールをあげた。なかんずく、ある国の、ある町をあげて推奨した。推奨されても女の私はどうしようもないが。紳士はその推奨の理由を淡々とのべた。
「あのへんは客が少ないから、あんまり使うてないよって、いたんでない」
私はその言葉使いに驚倒した。つまり、男の浮気は、こういう感覚から起きるのだ。これは女には出ない言葉である。男が「|単なる《ヽヽヽ》」浮気と強調するはずである。
男の性的能力
私はかねて、男たちがくだらぬ自慢をきそい、誇りあうのをみて、疑問であった。
何のために、あんなことが自慢になるのだろうか、さっぱり、わかりません。
つまり、男の性的能力を、おのがサイズや回数で計ることである。
たとえばリッパなモチモノが、とりはずしできるとする。そうしてそれを、コンクールでもあると、ヒョータンのごとく酒でつやぶきし、色をくすべ、みがき立てて、名札をつけて出品し、みごと県下一等の栄誉にかがやき、全日本コンクールに出品するとする。審査員それぞれ、自慢の逸物を手にとり、
「ウム、この反《そ》り具合が何ともいえまへん、やっぱり青森県がよろしいようですなあ」
「いやこの、熊本代表の色とツヤが何というても他を圧します」
「そらもう、山口代表の太さに限ります、こんなみごとなんは、ここ数年、獲《と》れたこと、おまへん」
などとあげつらい、論じたてて全日本代表をきめるとでもいうことになれば、それは、サイズを自慢し、色を自慢してもいいであろう。しかし、モチモノは、取りはずし不可能であって、要するに鑑賞、鑑定の対象にならぬ、プライベートな、不自由な道具。そこへもってきて、回数で計るのもおかしい。
昔の中学生がワラ人形に向って、
「エイ、ヤッ!」
と銃剣のけいこをしていたように、はたまた、
「倒立!」
といわれて寒空にサカダチ、又は、
「かけあーし!」
号令一下、だだっ広い校庭を何周かする。次々落伍して、最後まで残った生徒が、
「よーし!」
とほめられたりする。そういうのなら回数自慢、ということもあろう。しかし、男のそれは、ワラ人形に吶喊《とつかん》するのとちがう。相手もナマ身ですぞ。
相手がどういうか、わからないではないか。一回ふえるたびに割増し、などという商売女ででもあれば、向うも励んでくれるであろうが、女によっては、薄利多売よりは一点豪華主義でいきたい、というであろうし、ともかく私のいいたいのは、男は、性的能力を自慢するのに、相手のことを勘定に入れずに、あんまり、ひとりよがりとちがいますかということである。
それはむしろ、ひとりで楽しむ回数の自慢のことであろう。
長年、このことにつき、疑問をもっていたが、このあいだ、ある本を見ていたら、あった、あった、ありました。やっぱり、それについて、マリッジカウンセラーの性科学者や、産婦人科ドクター、心身症治療に当っている神経科ドクターが、口をそろえて、こういうてはった。
「男の性的能力とは、女性がもっている性の潜在能力をどれだけ、ひき出すかにある」
セックスというのは相手が要るのであって、相手なしで自慢したって何にもならず、かつ、これはいちいち、どうやって、どのくらい、潜在能力をひき出したか、目で見るわけにはいかん。
サイズや回数で計るわけには、まいらぬのである。
だから、男は単純だと、かねがね、私は思うのだ。
一晩の回数を誇り、サイズを誇ったって、その女房はいつもふくれっつらで機嫌わるく、サラリーの安いのばかり嘆き、子供に当りちらして叱りとばし、家の中は針のムシロに坐るよう、こういうのでは、男は、女房の性的潜在能力を充分開発した、とは申せない。もし女房が、そちらの方面で開眼していれば、夫婦の情愛も新しい局面を迎え、金が少々足らなかろうが、子供の出来がわるかろうが、おだやかなマイホームになるであろう。
それができぬ男は、いかにサイズばかりリッパでも、つまりは、性的に無能力者である。
性的開発力があるということは、双方、男と女のあいだに共通の基盤、――つまり、愛情のあることで、それがないのに、やたら開発に励んでもダメである。
だから男の性的能力とは、女を愛せる気力、という精神力も含まれる。
年ごろになったから、よめはんでも貰おうというような、かつ、女房がないと会社でも肩身狭いとか、社会的信用がないと、そういうイージィな気で女房貰ったって、とても、開発まで手がまわらない。
だから、結婚当初のものめずらしさが去ると、マンネリになって、やがて倦怠期になるのである。
こういうのは、しばしば、男に、性的能力――女のそれをひき出す能力がないことからおこる。
私などからみると、男というものは、それぐらい女をりードしてほしいと思うのだが、これは夢であろうか。
たとえば、「純潔を守り、お金が大好き」と公言する某女流評論家女史などを、開発する男性があらわれたら、それこそ、われわれ女性一同脱帽して、その男を、「これこそ男の中の男」と胴上げせずにはいられぬ。
「評論家をうばわんほどの強さをば 持てる男のあらば奪《と》られん」
何しろ、このセンセイ、純潔の守りはかたいのだ。生涯に男は一人、ときめていらっしゃるのですぞ。
そういう、千古|斧鉞《ふえつ》を知らぬ大ジャングル、未開の大蕃地に挑み、開墾し、拓殖して営々と開発し、ついにセンセイをして、とろんとした目にさせ、
「やっぱりオカネより男ですわ」
「籍を入れる入れないってとるにたらぬことですわ」
「定期預金なんか、クソクラエですわ」
といわせた男、その男には、ノーベル賞をあげ、男の鑑《かがみ》と仰ぐべきである。
男の値打ち、というのは重ねていうが、そういうことである。
回数やサイズのことばかり考えないで頂戴。
しかしカモカのおっちゃんはあざわらい、
「今どきそんな、大ジャングル、未開の沃野、なんちゅうもんおますか。その評論家は別として、たいがい、男の方が『負うた子に教えられ』ちゅう恰好ですわ」
理 想 の 夫
このごろの若妻、
「主人ったら、毎晩毎晩、帰りがおそいんですのよ。あたしもう、淋しいやら悲しいやら、なさけないやら、くやしいやら……」
と涙ながらに訴えてくる人があるそうだ。
「おそいって、何時ごろですか」
と聞くと、なおもしゃくりあげつつ、
「毎晩、八時九時なんです……」
これを嗤《わら》うのは、女心を知らない人であろう。
だいたい、女というものが、どう男を(夫を)考えているか、わかったら男のひとはびっくりするだろう。
ともかく、女の思う通りにしてりゃいいのだ、と女はまず腹の底で考えている。
女の思う時間に男が帰ってこないと腹が立つのだ。すべて、思い通りにはこばないと怒る。夫がはじめて七時に帰宅するとする(ハハン、定刻に帰れば七時には帰れるんだな)、と女は思い、食事の支度も掃除も化粧も、以後みなそれに合わせる。
食事ったって、温度、さらにはモノによってはのびかげん、というものもある。おつゆがさめる、また暖める、煮つまってくる、魚のフライはこちこちになる、刻んだキャベツは乾いてくる、酢のものは水っぽくなる、早く帰ればいいのにとイライラする。まじめ・りちぎな女ほど、あたまへくる。
そこへ空腹が手つだってよけい怒りの火に油がそそがれる。
ウヌ、畜生! どこをうろついてやがるのだ、とうへんぼくメ、さっさと帰りやがれ、人の気も知らないで、このまぬけ!……
などと、女はありとあらゆるバリザンボウを、何も知らぬ亭主に心の中で浴びせかけているのである。時計をながめて一時間二時間、緊張と憤怒で充填され、男がドアをあけるや否や、ドカーンと爆発する仕掛けになっているのであって、世の男という男、わが家に女房を置いてる御仁は、みな、手製爆弾を仕掛けてあると心得られたい。
ついでに女房族の考えてる理想の良人《おつと》像をいうと、みめうるわしく|見ば《ヽヽ》のいい美男で、頑丈な体をもち、よく稼ぎ、さっさと出世して近所や身内にも、ていさいよく肩身ひろい男。
やりてで会社のホープで、仕事熱心で、社長以下ほめない者はなく、その男の妻というと、下にもおかぬとり扱いをされる。
稼ぎもいいから、家なんか、すぐたてちゃう。
しかも家族には誠実そのもの、妻を熱愛し、ほかの女には目もくれない。
しかし、ほかの女が、だれも夫に洟《はな》もひっかけない、というのではない。物干しへ三日吊しといてもカラスもつつかぬ、というのではない。世間の女という女、みな、夫に首ったけで将棋倒しになるほどモテるのであるが、夫は、それらには目もくれず、妻ひとりを愛しつづけているのである。
当然、妻は、ほかの女たちからそねまれ、うらやましがられ、殺したいほど憎まれる。しかし夫が、それほど妻を熱愛しているのだからしかたない。
あまつさえ、とても子煩悩である。子供の勉強をよく見てやり、帰宅すると一緒に遊んでやり、子供の教育に細心の注意を払い、日曜の父親参観には欠かさず出席する。子供の長所は、
「おまえに似ているね」
と妻をたたえ、短所は自分似だとみとめて反省する。
子供の進学問題、家や町内のごたごた、トイレの雨もりから、町内会の防犯灯設備割当会の相談まで、うっとうしい、わずらわしいことは一切、自分が面倒を見て引きうけ、妻に苦労をかけず、
「そんなことは心配しないでいいよ、僕に任してお置き」
という。
その上、自分の身内はちっともかえりみず、妻の身内を優先し、妻の両親に孝養をつくし、妻の兄弟、甥、姪には小づかいをやり世話をする。自分の親は三年に一ペんも会いにいかないが、妻の親には一週間に一ペん、妻子を連れて会いに行く。
酒・煙草ほどほどに、かけごときらい、趣味は、妻と連れ立って、買物や旅行にでかけること。
一人で行動するなんて、勤務時間以外は考えられない。
むろん、毎晩ハンで押したように帰宅し、毎晩にこやかな顔で食卓に向い、妻の手料理に舌つづみを打ち、かならずほめる。
子供が小さくて、食事が騒然としているときは、まず自分が子供に食べさせ、お守りをしていて、妻にゆっくり心ゆくまで食事させる。
夜は、決して自分勝手に、
「オイ」
なんてよばない。
妻がそうしたいと思うときだけ、御意《ぎよい》にかなうふるまいをする。それも自分だけさっさとすまして、蒲団ひっかぶってグースカ眠るという不埓《ふらち》なことはさらさらなく、あとあと妻の得心のいくように、ていねいな仕上げをする。
日曜ともなると、さっさと早起き、家のまわりを掃いたりして、湯を沸かす。
結婚記念日、妻の誕生日、いずれも高値なおくりものをしてくれて、
「いつみてもキレイだねえ……」
とほめてくれる。
あんまり、いつもいつも、いとしそうに見られるので、妻はもうすこし、うるさくなっている。
そんなに惚れなきゃいいのに、なんて思ってる。しかし夫が勝手に惚れるんだから、しょうないでしょ。
妻を莫大な生命保険の受取人にしといてくれて、
「僕が死んだら、君は再婚するだろうなあ。君みたいなすばらしい美女を、男はほっとかないだろうからね。それを思うと死ぬに死ねないよ」
とやいたりする。
ああ、こういう夫なら、妻はどんなに貞節につくすであろうか。
私がそういうと、カモカのおっちゃんは吐き出すようにいった。
「あほ、そんな亭主もった女は、絶対、浮気しよるわ」
嫁 入 道 具
このまえ、町を歩いてたら、大安の日なのか、友引、先勝の日なのか、ともかく日柄のよい日らしく、婚礼の荷物送りの車を何台も見た。
あれは関西以外の地でもするのだろうか。
トラックの車体に、定紋入りの幕をめでたく張りめぐらし、紅白の紐を華やかに荷物にかけわたして、車体にくくりつける(細引きやムシロ、ロープを使ったりすると引っこしになってしまう)。紅白の紐と青いまん幕、これが嫁入道具の荷はこび風景で、その車が風を切って颯爽と走るのは、(女にとっては殊に)目を奪われる光景である。
私は、こういう慣例に従った結婚というものをしたことがないので、たいへんうらやましいような、かつ、尻こそばゆいような気になる。
それを説明することはむずかしい。人さまの身の上なら、べつに何ともないが、自分がもしそうするとなると、妙に気はずかしい、てれた気分になる。
若い美しい花嫁の高島田、裲襠《うちかけ》というものはいいものだが、私がそんな恰好するというと(たとえ若く美しい私、と仮定しても)何だかおちつきわるく、エレベーターで、スーッと下るときの、なんともいえぬへんな気分に襲われる。
どうも私は、結婚式の慣例、風習というものに馴染めない体質らしい。
そのくせ、人さまの、そんなことをなさるのを見るのは大好き、かつ、人さまの場合だと、いかにもしっくりと似つかわしいのであるが。
そんな具合で、婚礼の荷物送りの車も、わがことにあてはめると、何だか、まぶしい感じで身にそぐわない。かつ、車自体、気にくわない。そこのけそこのけ、という感じで諸車をかきわけ疾駆する。これは嫁入道具やぞ、退《の》かんかい、あほ、という感じで傍若無人に跳ね躍って走る。
車上にあるのは冷蔵庫、洗濯機、ステレオ(らしきもの)、テレビ、電子レンジと、電気製品一式、たんす、衣裳箱に、綿のふっくらはいった重ね蒲団一式。蒲団も、蒲団袋などに入れてはいけないことになっている。
外からよく見えるように積み上げ、まっかな綿繻子《めんじゆす》の、鶴など浮き出した華やかな夜具、そこへ紅白の紐をくいこませてしっかり結《ゆわ》えつけ、更に、荷物も、たんすの裏側などを見せて積むものではない。ちゃんと外側へ向けてきれいに並べ、上げ底でもよいから、いっぱいに積んであるという風に、見せかけるのである。
たまたま、私の乗ったるタクシーなんぞが信号で止まる、あるいは高速で長い渋滞、ちょうど横へ、嫁入道具の車が来たりして見ると、運転手は、何の面白くもなさそうな顔で、やおら煙草をとり出してふかし、ぶすッとしていて、これは当り前である。べつに運転手が結婚するわけやないねんから。
荷台の上には、采配の男がうずくまって一人二人乗っており、たいがいこれは花嫁の身内、兄弟か、それに近いもの、「荷物目録」なんぞ、かくしにつっこんでいて、先方についたら渡す役目、別のポケットには、運転手や助手にやる祝儀袋や煙草が入れてあったりする。この男もつくねんと、早春のうすい日ざしを浴びて膝小僧を抱え、面白おかしくもない顔で荷物の谷間にうずくまっている。
結婚というヤツが面白いのは、全くのところ当事者二人だけで、あとは誰一人、面白いものは居らぬ。
花嫁花婿は、それを、ようく、心得られたい。
くだんの荷物はこびの宰領の男も、時には大|欠伸《あくび》、耳の穴に指をつっこんだり、鼻の穴につっこんだりして、目をしょぼしょぼさせたりしているのだ。こんな天気のええ日、釣りかゴルフにでもいった方がましや、と思っているのかもしれぬ。
尤も、この頃は、「荷物目録」もへったくれもなく、また運び先も婚家というより、2Kの団地やアパートというのもあるであろう。そういう簡略なのは、花婿自身、車に乗り、花嫁も助手台に乗って運ぶ、というのもあるかもしれない。
しかもそこまで簡略化すると、青いまん幕も紅白の紐も不用、引っこしと同じように心得て、ぎりぎりロープでしばる、という不粋なことになるかもしれない。
かつ、嫁入道具は新品、ときまったものだが、このごろは強引でちゃっかりした娘が多く、親や親戚の家の不要品をせしめて、それで購入代金を浮かすという子もあり、それらを混ぜ合わせてはこぶと、ますます、引っこし荷物、ガラクタ道具になってしまう。本人自体、新品でないのもいようから、べつに、どうってこともあるまい。そして、そういう嫁入道具の荷はこびなら、私も、べつに尻こそばゆくなったり、おちつきわるくなったりしない。同乗してる花婿花嫁が、うれしそうに荷物の谷間でべちゃくちゃしゃべっていたりするのは、家具の配置場所を論議するのであろうか。それはそれで、いいながめでかわいらしい。こんなのは私は好き。
しかし青いまん幕、紅白の紐は何としよう。ピカピカの新品、これ見よがしの紅いなまめかしい夜具、朝な夕なに、新妻のあですがたをうつす新妻鏡、たんすに台所道具、それらは無言のうちに、
「結婚するねんぞ、これは結婚、ヨメイリ、婚礼の道具やぞ、どや、うらやましやろ、うらやましかったら、お前も早《は》よ結婚せんかい、あかんたれ、何やて――相手まだよう見付けんのか、鈍《どん》くさい奴ちゃ、何ボヤボヤしとんねん、そういう奴はな、一生みつかれへんわい、ワーイ、見い見い、この嫁入道具のはれがましさ。お前ら嫁入り、結婚て、何するのんか知っとるか、ぼんくらメ」
と、叫んでいるように思われる。その叫びは車の疾走と共に町中にどよめいてふりまかれ、ヒトリモノ、ヤモメ、ゆきおくれのハイミス、爺さん婆さんを切ながらせるように思われる。私の、尻こそばゆい原因はこれかもしれない――しかしカモカのおっちゃんは私に娘がいるかと聞き、いるというと、
「それ、それやがな。あれだけの嫁入道具、娘に持たせるのんかと思うと、しぶちん(ケチ)のおせいさん、背筋寒うなったんやがな」
昔 の 殿 様
カモカのおっちゃんがまた遊びに来たので、二人で飲んでいた。
春宵一刻|価《あたい》千金。いいきもち。
灘《なだ》の地酒に、肴はフキのトウの酢味噌|和《あ》え。
「昔のお殿さまになったみたいな気分ね」
と私がいったら、
「うんにゃ。昔の殿様は、もっと若い美女を横においとったやろ」
とおっちゃんがいった。
「昔は、おしとねすべりというのがありましたからな。ご存じでしょうが」
「知ってますよ、将軍や大名の夫人は三十の声をきくと、夜のお相手を辞退して、みずからしりぞくことでしょ」
「あれ考えるたびに、僕は昔の殿様がうらやましいんですわ。昔の婦人は、つつましやかでしたなあ。昔の殿様になりたい」
私はあざわらい、おっちゃんにいってやった。
「おしとねすべりをするのは女の見栄からですよ。好き者だと思われるのは、昔の女にとっては死ぬより恥ずかしいことですからね。それに、元来、おしとねすべりの意味というのは、高年出産を避けるためだそうですよ。物の本によりますと、そう書いてあります。昔の殿様の正夫人など、京都のお公卿《くげ》さんのお姫さんがはるばるやってこられる、こういう人は風にもあてず育てられて弱い人が多い、よって、高年でお産すると死ぬかもしれない。高貴な出身や権門のお姫さんであると、婚家先で死なせたりすると政冶問題になるかもしれないので、いたわったのです。それがついに慣習となり、規律となったのでございます――ベつに、つつましくて、おしとねご辞退したわけではないのダ」
「なるほど、しかし何にしろ、三十といえばソロソロ味がわかってこれからようなるという頃おい。それをご辞退するのですから、やっぱり、大決断がいります」
「なあに。ああいうことは、女はクセのもんで、なけりゃないですむのよ」
「そうかなあ」
とおっちゃんは、なおも昔の女をほめたそうに、
「聞くところによると、昔の婦人はまた、嫉妬をつつしみ、自分がおしとねすべりをするときは、次の女性を推挙していったそうですなあ。じつにおくゆかしい。ああ、殿様になりたい。『わたくしの代りにこの女をどうぞ』などとすすめて去るとは、じつにしおらしいやおまへんか」
「そんなことができるのは正夫人だけでしてね。妾は身分卑しいから、次の女をすすめるなんて僣越《せんえつ》なことはできない。三十になると、だまって消え去るのみ。――正夫人の奥方は、奥向きに権力をもってますから、自分の召使いの中から見立ててえらぶのです、亭主に進呈する女を」
「ナヌ! そうなるとすこし考えもんやなあ」
とおっちゃんは考えこんだ。現実的なこの男のことであるから、殿様と奥方を、ただちに、自分と女房にあてはめて考えているのであろう。
「うーむ、女房《よめはん》がえらぶのか。それは困る。やはり、自分でえらびたい」
「そんなわけにいきませんよ。将軍やご大身の大名になるほど窮屈で不自由なんです。殿様だからといって、どんな女にでも『近う寄れ』というわけにいかない。格式やきまりがあって、手続きが面倒なんでございます。おっちゃんがバーのホステスをくどくようなわけにまいらない」
「しかし、しかし……」
とおっちゃんは身悶えた。
「僕はやっぱり、自分で見立ててえらびたいですなあ。女房《よめはん》の見立てはこまる」
「どうしてですか。長年つれ添った女房なら、亭主の気心も好みもわかっているんだから、そのえらんだ女はまちがいないでしょ」
「いや、ほんまいうと、女房はあまり信用でけん。女房というのは、そういうとき、口ではきれいなことをいうが、内心、何を考えてるやわからん。必ず、意地悪する気がする。つまり、わざと不感症の女をすすめるとか、美人やけど腹黒い奴とか、裸にしたら体に白ナマズがあったとか、髪を解いたら台湾禿げがある女をよこすとか……」
「そんなこと、最愛の殿様に向ってする奥方はいませんわよ」
私はうれしくってならない。おっちゃんを(男を)いじめるのは、だいすき。
「そりゃあもう、心しおらしくみめうるわしき、若いさかりの十八、九、ハタチ、なんていい子を推しますよ」
「いや、そうは思えん。何か、裏を掻きそうな気がする」
「この際、いっときますが、昔の殿様というのは、物の本によりますと、あんがい不自由なものだとありますよ。さっきもいったように下々の方が却って気らく。殿様なら手を鳴らしたら女がくる、思《おも》てるのかしらんけど、前もって指名しないと手続きが間に合わない。それにお寝間には、回数、時刻の記録係りがいて、不寝番がいて、ゆっくりむつごとを交すわけにはいきません」
「ウム、それは聞いたことがあります。しかし、それはかまわない。この年になりますと、そばに人が居ってもべつに、どうちゅうこと、ない。それに、記録係りも不寝番も、女でっしゃろ?」
「むろん、大奥へは、男は殿様一人しか入れません」
「ほんなら、記録係りや不寝番も引き入れて楽しく遊べるというもんです」
おっちゃんは不敵に笑う。どうしてこう、四十男というのはやりにくいのだ。
「えへん、毎晩、そんなことできると思うのがマチガイ。殿様は一代や二代ではなく代々つづいてるので、先代、先々代、先々々代の命日は精進潔斎で女人を近づけるわけにはまいらん。すると月の内、大奥へ入れる日は何日かしかないのです。この際、白ナマズでも台湾禿げでも文句いえない」
「しかしそれがようやく馴染んで気に入ったところでまた、おしとねすべりとなる……」
「そーんな、幾かわりもできるほど、おっちゃんが保《も》つと思ってんの?」
おっちゃんをやっつけたのは、私、はじめてだった。
器用、不器用
私とカモカのおっちゃんとで、酒を汲み交しつつ、男と女、どちらが器用か不器用かを論じていた。
私は、男・不器用説である(むろん)。
なぜああも、男の浮気は発覚しやすいのですか。
男のへそくりは見つかりやすく、男の弁解は見破られやすいのですか。
それは、男が正直だということもあるかもしれないけれど、いかにも「鈍《どん》くさい」印象を受ける。
世間的にはリッパな押出しで通っていて、人格識見ならびすぐれたオトナの、さむらいたる男が、家庭で、妻に見せる不器用さはもう想像もつかない。
浮気すると、うろうろそわそわする。子供を抱く手つき、妻を見る眼にもスグ変化があらわれてくる。妻の第六感にはピンとくる。
何か、おかしいなとすぐわかる。
秘密の証拠物件、また、へそくりなどの隠匿《いんとく》のしかたも、いかにも不器用である。あたま隠して尻かくさず、自分ではうまくしてやったつもりでいても、ナゼカすぐ見つかってしまう。
よく、本の中身を抜き出して、函《はこ》の中に秘密のモノを入れ、何喰わぬ顔で本立てに立てておくということをやるが、その際、函から抜き出した本をそのへんに転がしておくからすぐわかってしまう。
オヤ、なぜこの本は、函の中へ収めてないんだろう。この本、よんでるのかしら。いやいや、近頃、本など手にとって見たこともないはず。新聞と週刊誌しか、よんでないはずなのに。女は眼光|炯々《けいけい》と室内を見廻す。と、本立てに立てた、くだんの本の函がすこし列を乱している。あやしい。見るとやっぱり、中に見知らぬモノが入れてある。
机のひきだしもそう。きちんと閉まってたはずのひきだしがすこし開いている。それだけで、女はすぐ、ピンとくる。押入れの戸も同じ。額のゆがみ具合、物置きのたたずまい、異変は女にはタチマチわかる。無駄な抵抗は止めよ。女に掛ったらどんな策士も負けてしまう、とラクロはいうているが、女にいわせれば、男のそんな不器用さは気の毒なだけである。
私が男のチエで感心したのは、昔よんだ大仏次郎先生物するところの鞍馬天狗だけである。
この男はかしこい。われらの親愛なる鞍馬天狗氏は花を活けた花瓶の底にピストルをかくしていたのである。誰だって花瓶には水があると思うが、水が入ってなかったのだ。
そのくらいの気働きをする亭主は今どき居らぬとみえ、ともかく秘匿《ひとく》したものは必ず女房によって、ネズミの巣をつまみ出すごとくきたならしそうに引きずり出される。
第一、物を隠しに立つ時間も、長すぎてピンとくることがある。帰宅して、上衣をハンガーヘ掛けて、居間へ来るまでの時間が長すぎる。
何をしてるんだろう? と女はフト思う。いつもは、
「アー、腹へったへった」
とか何とかいいつつ、手をこすり合わせ、貧乏震いしてタッタカタッタカとやって来て、食卓の前に坐る男が、いつまでもゴソゴソとしている。
「どうしたのォ。おつゆさめるわよォ」
などと叫ぶと、
「ウ、ウン」
と男は驚いてとび上る気配。トイレの時間の長短も、男の靴音もみんな、異変はカンでわかっちゃう。男って気の毒。お見通しなのだ。
「そうかなあ」
何でも異をとなえるカモカのおっちゃんはいった。
「男から見ると、女は、こまかい所でカンがええかもしらんけど、大本《おおもと》の所では抜けとるなあ。――だいぶ前ですが、亭主の浮気を偵察しようと、亭主の運転する車のトランクにはいりこみ、排気ガスで死んだ女房《よめはん》があった」
「ええ、ニュースにありましたね」
「男にいわせると、そういうやり方はいかにも不器用、かつ、興信所を使うてその報告書をバンバン叩いてとっちめる女も不器用。夫婦げんかして、そんならとすぐ実家へ帰る女も無器用、そんなん、男が迎えにくるのを待っとるのかも知らんけど、男にもイロイロあって、女房《よめはん》が一たん帰ったら、断固、迎えにいかん、とつむじ曲げてしまう男もあるんですぞ。その見分けのつかん所が不器用。けんかの最中、亭主の職業をさげすんで『何さ、タカガ××のくせに!』と叫ぶのも不器用です、タカガ、といわれたら、どんなにおのが商売の気に入らん男でもカッとなる、そういうことがわからんのが、いかにも不器用でまことにお気の毒、というほかない」
「でも、手先の器用、不器用ではたしかに男の方が不器用です」
と私はやっきになっていった。
「女の子にいわせると、男はいつまでもノロノロして、さっと進行しないんだそうですよ」
「何を進行」
「つまり、デートの最中、手がモタモタして、女が心中、舌打ちしてんのに、見当はずれなとこばっかり探ってるということがあるかもしれません」
「見当はずれ」
おっちゃんは殊更らしくあたまをかしげ、
「それは何です、男がわるいのではない、当節、女の子なら猫も杓子も穿《は》くなるパンストというものがわるいのだ。スカートの下へ手を入れても、ツルンとしてすべって、いたくやりにくい」
何の話や。誰もパンストの事なんていわへん。
「仕方ないから、あちこち探る。どこもかしこもツルツルすべってアリの入りこむすきまもおまへん。どないなっとんねん、男はイライラする。それを不器用というのは酷《こく》です」
「おっちゃんは経験あるとみえますね」
「いやいや。そんなことより、僕にいわせれば、そのとき、そっと男に知られぬように、女が手伝うべきです。それをせずに、木偶《でく》のようにじっとして、心中舌打ちするだけの女の方がずーっと、不器用です」
また敗けたか、八聯隊
すべて、いささか反応が鈍い私は、このごろ、やっとゆっくり小野田サンのことを考えている。
小野田サンをたたえたり、あるいは貶《けな》したり、ということではなく、ともかく、あの人は大阪人にはないタイプとちゃうか、と切実に思うものだ。
命令を守って三十年も孤島のジャングルにひそみ、命令がなければ出てこない、という強靭《きようじん》な神経は、どうも、大阪っ子には恵まれていない気がする。
もし、大阪っ子の中から、たまたまそういう人があらわれたとしたら、それは、突然変異というか、生まれ損ないというか――
「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」
という川柳があるが、
「浪花《なにわ》っ子の生まれ損ない穴ごもり」
とでもいうべく、大阪っ子のイメージにはそぐわない感じである。
胡地の風雪に十九年も堪える、あるいは臥薪嘗胆《がしんしようたん》、何十年も復讐心《ふくしゆうしん》に燃える、または面壁九年の修行、などという、およそ一つことを思いつめて歯をくいしばってやりとげる、「忍の一字」を胸に秘め、何くそ、とやりぬく、そんなところが大阪っ子にはない。
思いつめてカーッとなる、また、じーっと、怒り狂う胸を抑えて忍耐する、そんなところもない。
どうも、深沈たる大度に欠けとる。
剛毅朴訥《ごうきぼくとつ》、というところも少ないようだ。思いつめてカーッとなる、しかしそれをぐっと抑える、という深みは、東北人、関東者の特質なのではないか。
よく電気紙芝居の大阪商人立志伝には、身を粉《こ》にして働いて初志を貫徹する成功者のストーリーがあるが、その在所をたずぬれば、きまって江州《ごうしゆう》や四国、九州の出身者である。太閤さんのお膝元で生まれ育った立志伝の主人公は、ないではないが少ない。
されば、大阪の旧軍隊は、日本軍の中でも弱卒劣兵が多いので有名。われわれ子供時分のハヤシ言葉は、
「また敗けたか、八|聯隊《れんたい》――」
というのであった。
自分の郷里の師団の敗退を、手を打って笑い、はやし立てているのだ。
こんなけったいな土地柄があるやろか。東北や鹿児島など、精強をもって鳴る土地の兵隊は、武勲|赫々《かくかく》という働きで郷土人の深い尊敬と誇りをかち得ているのに、わが大阪の兵隊サンは、「また敗けたか八聯隊」と手まり唄にうたわれるのだ。兵隊サンも聞いて笑ってる。
あるいは縄とび、ゴム紐とびに唄われる。オシッコの飛ばし合いに口ずさまれる。そうしてそれを小耳に挟むオトナたちも、たしなめるでもなく、嘆息するでもなく、まして恥ずるでもなく、至極当然な顔で聞き流す。
かかる土地柄の兵隊サンから穴ごもり三十年という堅忍不抜の勇士が生まれるはずはなかろう。
かりに大阪出身の兵士だと、もし、ひとり胡地に残置されたるとき、どうするだろうか。日ならずして、飽いてしまいそうな気がする。同郷人として、赤面のいたりであるが、どうも根気がない。仲間がいなかったりするとよけい、淋しがりになる。
(いっぺん、顔出してみた方が、ええのんちゃうやろか?)
などとヒトリゴトをいって自問自答する。
(あかんかってもモトモトやし)
などとひとりうなずき、それでもあれこれ考えたりして、しばらくはまた、保《も》っているが、やがてまたぞろ、
(あーあ、あほらしなってきた)
と思う。
大阪っ子の兵隊にとって、この(あほらしなってきた)という感慨ほど、蚕食力《さんしよくりよく》のつよいものはない。すべてこの言葉をぶっかけると、銹《さび》が鉄を食いつぶすごとく、じりじりとあらゆるものが腐蝕してゆく。もはや、神聖なもの、守るべきもの、拠り所とすべきものは銹に食われてしまう。あとに残るのは、醒めて白けた現実だけである。
(ワイ、いったい何しとんねん?)
と我とわが身をかえり見、
(ヒャー、あほくさ、もうアカン)
などと大阪っ子の兵隊は思う、いや、思いそうな気がする。どうも、そういう、ちゃらんぽらんなところがありそうで、お恥ずかしい。かくて彼はヒョロヒョロとすぐ出ていったり、また、村の原住民の娘と仲良くなって酋長の娘婿に納まりかえったり、しそうな気がする。
ちゃらんぽらんは大阪っ子のお家芸とはいえ、まああんまり自慢できない。
関西者といっても、都市部の大阪っ子と、地方都市とはちがう。一律に西日本といえぬ。
播州の兵隊サンは、同じ西日本でも精兵で知られ、これは第二次大戦中、おもに、中国大陸で奮戦したのだが、「真ッ先かけて突進し敵を散々|懲《こ》らしたる」勇士の集団。そのくせ、敗戦ときくとある聯隊など、すぐさまありったけの金を阿片に代え、それでもって引揚げの日まで悠々と食いつなぎ、引揚船に乗ったとき、他の兵隊は栄養失調で骨皮なのに、その聯隊だけ丸々太っていたというような、文武両道の達人がいたりする。
わが浪花っ子はそこまでも到らず、じつにもう、ちゃらんぽらんというのは、どっちつかずでたよりない。薄っぺらでございます。
カモカのおっちゃんにいわせると、
「そうそう、大阪っ子というのは、女と寝るときもそうですなあ。すぐおひゃらかして、醒めた眼をして眼鏡をかけて女をとみこうみ観察したりして、オチョクッたり、ヒヤカしたりする。軽佻浮薄《けいちようふはく》に寝よる」
そうかなあ。
その点、私は不同意である。だって、女と寝るのに、あまりちゃらんぽらんでは、第一、コトが運ばないではありませんか。あの場合は、たとえ一瞬でも、一応は、ともかく、カーッと熱くなって一心に思いつめて、歯をくいしばって、やりとげてもらわないと……
「いや、そこだんがな」
とカモカのおっちゃんはいう、
「寝る前は、カーッとして関東者になり、すんだあとは、大阪っ子にかえるんですなあ」
いやらしい関係
飴玉をしゃぶりながら楳図《うめず》かずおの恐怖マンガをよんでたら、ほんとに怖くなって涙が出てくる。ことに「赤んぼ少女」なんてぞっとする傑作。あんまり怖いのでページを伏せてしまうが、でもやっぱりおそるおそる見てしまう。コワーイ! とうとう、よんじゃった。
そこヘカモカのおっちゃんがあそびにきた。
「ええ年した、大の女が、何ちゅうざまです」
とたしなめる。私は抗弁して、
「そういうけど、楳図かずおは凄いんやから。四十女だってマンガぐらいよむわよ」
「マンガのことなんか誰もいうてえへん。ええ年して、飴玉しゃぶってる阿呆があるか、いうねん。オトナなら酒を飲む」
そこでまた、酒盛りになる。
「おっちゃんとは、|酔い仲間《ヽヽヽヽ》とでもいうのかなあ」
「飲み仲間の上をいく奴ですな」
「|やり《ヽヽ》仲間ではないわけダ」
「女のいうこととちがう」
「じゃ、どういうの」
「|させ《ヽヽ》仲間」
「よけいいやらしい」
しかし、男と女の間には、いろんな仲間関係があるわけだ。夫と妻の「喜びも悲しみも幾年月仲間」、許婚者同士の「結婚まで待てない仲間」、または、結婚なんかじゃまくさい「同棲ごっこ仲間」、既婚者同士の「不倫仲間」、いろいろある。その中で、何が一ばん、きれいな関係だろうか(ここではむろん性的関係である)。
「男と女の仲にきれいも汚ないもおまへんよ」
おっちゃんみたいにいうと話はすすまない。
私は、ほほえましいという点で、やっぱり若い未熟な、イイナズケ同士の関係が、純粋であるように思われる。一ばん面白い思いをするのは、やっぱり既婚者同士の仲ではないでしょうか。
「何が面白い」
「双方、人目を忍ぶスリルがありますでしょ、退屈しのぎにうってつけだと思うよ。しかも、どちらも一国一城を失ってはこまるから、あとくされないし、愉快な一幕というわけです」
「そうかなあ。すると、一ばん、いやらしい仲は、どんなんです」
「それは、金で売り買いする性的関係でしょ」
「女はみな、そういう」
「しかし、あえて私も、そういいたいですね。好きでもないのに金を貰うから寝る、というのは、女にはどうしても純粋とみとめられない」
「しかし、そういう仲は、かけひき仲間、商い仲間とでもいうべきもので、べつにいやらしいとは思えん。そういう仲でも、純粋な仲もあるかもしれん」
「金をやりとりして!?」
「純粋な金かもしれん」
おっちゃんは酒を一ぱい飲んで言葉をつぎ、
「やはり、いやらしいというと、夫婦の仲とちがいますか、エッチ度からいくと」
「それはまあ」
私も否やはない。夫婦仲がいい、なんていわれるのは、私には愧死《きし》すべき恥ずかしさに思われる。琴瑟《きんしつ》相和す、夫婦でワイン、みな恥ずかしい、穴があったら入りたい、いやですねえ、おそろいのセーター、夫婦《めおと》茶碗、夫婦で晩酌、さしつさされつ、人さまに見せるもんではありませぬ。かげでこっそりやるもの。やっぱり夫婦って、エッチの極致だと思いますよ、私も。ほんとは。
「それはそうですが、また、そこに人生のええとこもありますからな」
おっちゃんは、絶対に、白黒をハッキリしない男で、最後にはかならず「しかし、いいとこもある」というのだ。
「夫婦のむつごとは一ばんエロチックでいやらしいもんではあるが、それだけに、一ばん、ヒトを感動させます。今日び、ポルノ小説、ブルーフィルム、絵・写真、猟奇性犯罪ニュース、何を見聞きしても、|しん《ヽヽ》から、ぐっとくるエロ味は、もう無《の》うなった。みな、聞きなれ、見なれたことばかり。しかるに、ヨソの夫婦のうれしい交歓・めでたいまぐわいなんか、フトのぞいたり、言葉の匂いや物腰の折々にピンと感じたりすると、物凄くこたえますなァ。ぐっときます」
「ハア。そんなもんでしょうか」
「而うして、あくる日は細君《よめはん》がハナ歌で心もかるくウキウキと、立ち働いてはったりして、そばから見てて、うーむと、感動する。じつに、エロチックです」
「なるほど」
「そういうのを、真の意味の、いやらしさという。いやらしさ、というのは、それがホンモノやったら、まわりを感動させます」
「しかし、夫婦って、どうしていやらしいんでしょう?」
私は素朴な疑問を提出した。
「それは、わかりきったこっちゃないかいな」
おっちゃんはこともなげに、
「子供のケンカに親が出るからです」
「子供って?」
「ムスコとムスメが、なんぼ揉《も》めてても仲良うても知らん顔してるのが『他人の関係』、これやと、さっぱりしていやらしくない。節度があります。しかし夫婦は、ムスコとムスメがケンカすると、親まで子供のケンカに口を出してもめる。ムスコとムスメが仲ようすると、親同士も仲ようなる。その関係が、いかにも子煩悩むき出しで、いやらしい」
「子煩悩」
「それぞれのわが子のいい分に耳かたむけて、ムスコやムスメに甘い。まあ、そのせいで、いやらしくなるんでしょうなあ」
「では、一ばん清潔な男女の仲、というのはどんなんでしょ」
「それは、おせいさんと僕みたいな『酔い仲間』でっしゃろ。尤も自慢にならんけど」
とおっちゃんは私の盃に酒をついだ。
ぶおとこ愛好
女には「醜男《ぶおとこ》ごのみ」というのがあるが、男に「醜女《しこめ》ごのみ」というのはなさそうである。これはなぜだろうか。
男たちの話を横で、あるいは背後で仄聞《そくぶん》すると、もう、はじめからしまいまで女の話。それも誰それは美人か不美人かという、タッタ二つの貧しい規準しかなくて、しかも大学教授や作家といわれる男が、「あの子は美人だね」と裁定する女と、大工さんや散髪屋の兄ちゃん、ラーメン屋台の親爺から区役所の窓口係りたち庶民クラスが、「美人やナー」と感じ入る女と、全く一緒。要するに、見てくれの顔立ち、姿かたちがよけりゃいいというものだ。万人のみとめる美人というのが、あるのだ。
男の審美眼には染め|むら《ヽヽ》がなく、知性も学識も関係ないらしい。じつに単純で粗放なもので、一律である。たまには、一人一人、推輓《すいばん》する美人のタイプがちがっていてもよかりそうなものを、何だか、幼稚ですね。
「いや、それは、ですな。何べんいわすねん」
カモカのおっちゃんは声はげましていう。
「美人、いうのは、それは誰が見ても美人やから、美人なんであって、大学の先生も、ラーメン屋台氏も、かわりないのは当然です。しかし、美人や、というのと、抱きたい、いうのとは別ですぞ。美人やけど抱きとうない女というのはあり、それはいちいち口に出さんでも男は心の中で考えてます」
「しかし、ブスであると、それだけで基準からはずれてしまって、つまり、書類|銓衡《せんこう》の段階でふるいおとされるということがあるでしょ」
「そらまあ、美人の条件からは、ふるいおとされますが、しかし、ブスでも抱きたい女というのがあります。中にはおせいさんのように、ブスで抱きとうない女、という特殊な範例もありますが」
失礼な。しかし、醜女には性的魅力はないでしょう。
「それは、嫌悪をもよおすというようなブスでは、抱く気おこりまへんな。やっぱりブスはブスでも、一点、よく思える気に入った個所があるとか、共感できるとか、いうところがないと困ります」
ところが、女には、それがあるのよ。
私は、美男に関心のある方であるが(女ならみんなそうだろうが)、醜男にもそれを上廻って関心がある。これも一般の女たちが無意識に考えているはずである(むろん、美男でも醜男でもない、普通の男にも関心がある)。
並はずれて醜い男というのには、セックスアピールがあるものである。そこが、男の嗜好と、女の嗜好のちがう所だ。
女の友人と話していて、醜男愛好者は意外に多いことを知った。
一人は、容貌|魁偉《かいい》というヤツが好きなのだそう。昔の相撲とりの男女《みな》ノ川みたいなので、あれでかしこくやさしければ、いうことない、といっていた。
私は、じっくりした醜男が好きである。醜男というのは、ニヤニヤしてたり、卑しかったり、してはいけない。堂々としてマジメな醜男がよい。男はふしぎなもので、醜男ほど年とると、いい顔になり、哲人的風貌に風化する。そうして、女なんか高下駄の雪で、蹴飛ばしてもついて来よるという顔をしてほしいものだ。醜男は尊大傲岸にかまえてほしい。
ゆめ、醜男はキョロキョロ、見廻したりしてはいけない。女の夢がさめてしまう。
べつの友人は、なるったけ、いやらしく下卑た醜男がよいといった。この女は、醜男愛好会員の長老クラスである。
もちろん、そういう含蓄のある言葉を吐くのは、四十代のうばざくらだからである。
「下卑た、というのはどんなの?」
「金歯はめてステテコに毛糸腹巻してる農協の殿方とか、飯場の紳士とか、ね。ことにノートルダムのせむし男なんか、考えただけでゾーッとしちゃう」
「あれは半分オバケでしょ?」
「だからうれしくてゾクゾクするのよ。ねえ、どッかに、ムッシュ・ノートルダムはいませんかねえ」
この話を聞いたカモカのおっちゃんは痛しかゆしという顔である。応募はしたいものの、ノートルダムに張り合うほどの醜男とも我ながら思えぬらしい。
くやしまぎれに、
「ノートルダムのせむし男が好きとは、マゾとちゃいまッか?」
と、酒をすすりつついう。
「どうしてマゾですか」
「そやないか。こんないやらしい、おそろしい醜男に、自分はいまナニされてると考えてゾクゾクとうれしがってるなどというのは、りっぱなマゾであるです。そういえば醜男好きは、みなそうとちがうのかいなあ」
「それはちがいますよ」
と私はいった。
「醜男は、もっこりして、何か物悲しそうで、いつも腹立ててるような、女なんか洟《はな》もひっかけぬという恰好のところがいいんです。そんなのに反撥してひかれるところが、女にはあります」
「するとサドやなあ。いや、マゾの気《け》も混じってるように思われる。これは、両方混じって|サゾ《ヽヽ》かいなあ。|マド《ヽヽ》いうのかもしれん」
おっちゃんはすこしまた考え、
「醜男愛好というのは、しかし男にはそれほどうれしゅうない気がします。若い未婚の娘がそういうてくれるのならええけど、愛好会員の顔ぶれみたら、みな、うば桜やないかいな。そのコワーイおばはんが、醜男だいすき、いうて追いかけてくる。これはもう、おぞ毛ふるって、ノートルダムのせむし男もハダシで逃げます」
かわいい男
郷ひろみがかわいいという中年女性が多いそうである。私も中年女であるが、あのひろみ君は、かわいい顔立ちをしているものの、「かわいい男」というわけにはまいらないから、私にとって縁なき衆生である。赤ん坊のかわいいのを見るような感じで、小学唱歌のような歌をうたっているのを、お利巧さんお利巧さんというところである。郷ひろみの脚がどうの、野口五郎の頸がどうの、ジュリーの肩がどうのといって、しびれている中年婦人の傾倒は、私には何べん説明されてもわからないところ。
これは思うに、わが家に同じ年ごろの息子がいて、行住坐臥、私の叱言《こごと》のタネであり、私にとってこの年ごろの男の子は、幼稚園に毛のはえた程度で、とうてい男と見なしにくいからではないか。息子にまがう年頃の男の子の腰つきや肩がいかに恰好よくても、私にとっては、
「風呂にはいったの、何日、髪洗ってないんです! 洗わないと押えつけて丸坊主にするよ!」
「いいかげんに起きなさい、もう昼よ!」
という対象にしか捉えられぬ。年若い青年を異性とみとめられないのは、私にとってたいへん不幸である。若い子にキャーキャーと血道をあげる友人のうばざくら連を見ると、私は何だかソンをした気がする。
しかし、何にせよ、私がかわいいと思う対象、赤ん坊や少年少女《こども》はもう、たくさんだ。ウチにはコドモは馬にくわせるほど、どっさり、いるのだから。
やはり、「かわいい男」というのに、ぶちあたりたいですね。これはいくらたくさんいてもいい。
「かわいい男、というのは、どんなんをいうのでっしゃろ?」
カモカのおっちゃんは、いそいで聞いた。早いとこ自分も、その極意を体得して、女たちにかわいがられたいという魂胆であるらしく見えた。
「まあ、正直な男でしょうね。率直なこという男ね。やさしいだけの男はダメです」
「ムム、正直」
「それから、頑固」
なんで頑固がいいかというと、この間、私はものすごくかわいい男と思ったのは、石川達三センセイである。
センセイは、某誌に、ご自分の日録を発表していられる。これが中々人気があり、延々三年以上つづけていられるようだ。なぜ人気があるかというと、社会、政治、風俗、芸術、文壇に対して、ズケズケとワルクチをいって憚《はばか》らぬところにあるらしい。しかも現代の世相、七十歳の剛直|不羈《ふき》のセンセイの信条に逆らうことのみ多く、ことごとにセンセイは怒りを発し、腹を立て、毒舌を吐かずにいられないのである。
この間の三十九回をよんでいると、センセイは四十年来のホームドクターともいい合いする。医者は空腹時にいきなり酸っぱい果物などを食べるのは良くないといい、センセイは何をバカなことをいうかと「激論」になった。猿や兎や猪など、腹がへったら果物を食べる。それで猿や猪が胃病になった話は聞いたことがない、胃袋なんぞ野蛮な臓器だという。医者は憤然とするがセンセイは胃袋問答は自分が勝ちだと思う。
また、高校生の若い娘が突然、電話でアンケートを求めてくる。センセイはその非礼を諄々《じゆんじゆん》とさとす。私などからみるとそんな数言を費やすあいだにアンケートに答えてやればいいと思うが、センセイにとってはそれはスジが通らぬ。センセイの訓戒に娘は、「ハイわかりました」といちいちいう。
センセイは、(何でもわかってるくせに、自分の無礼がわかっとらん、現代の若い人にその感覚が欠落しとる)と思う。それはなぜか。センセイは考える。しかし「どうもはっきり解らない」――このへん、よんでてふき出してしまう。どうもかわいい男である。
郵便局から、年賀郵便を、暮れの内に配達してもよいかどうか問い合わせてくる――センセイは沈思し承諾する。
「大晦日も元日も、同じ一日である。呼び名がちがうだけだ」
またセンセイは元旦の新聞で目を引く記事を発見する。「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」という百人一首の式子《しきし》内親王の歌につき、田辺聖子氏が解説しているのだが、「日本人の恋唄として最高クラス」とほめているのはさておき、「弱りもぞする」は「|よあり《ヽヽヽ》もぞする」ではないかと、いろいろ考察する。さっそくセンセイは市販の歌留多の読み札を調べる。
「よわり」になっている。しかし信じられぬ。
更に「念のために」山岸徳平監修の註釈本を見る。これも「弱り」だが、ここでは田辺氏の解釈とまるで違う。「なお不安」になり、センセイは翌日、「専門的な研究家」である竹西寛子氏に電話で聞いてみる。竹西氏も「弱り」だという。そんなハズはない。
センセイは「更にしつこく」歌人・五島茂氏に電話をかけ、「美代子夫人に解説を求めたが」やはり「弱りもぞする」が正しいとされる。どうも釈然としない。
翌日、またもや「わざわざ自由ヶ丘の二軒の本屋を廻ってみる」。これも「弱り」ばかり、この上は国学院大学教授・角川源義博士にしらべてもらうか、天理図書館にたのんで古い文献をしらべてもらおうと思う。
さらに三日後、古典文学の研究家・塚本邦雄氏に「人を介して教えを乞うたところ」、やはり「弱り」と教えられる。しかしこの歌は良い歌ではないといわれ、センセイは納得、つまらん歌だと改めて思う。さらに五日後、久保田正文氏から古い写本の資料を送ってもらった。みな「よわり」である。ここに於て先生は不本意ながら、これにて「一件落着」とする。
その頑固ぶりと執念ぶりがじつにユーモラスでよんでておかしくてかわいらしくて、センセイがムキになって空振りすればするほどかわいらしくてたまらないのである。近ごろこんな、かわいい男ははじめてである。石川センセイ、だいすき。
しかしカモカのおっちゃんは憮然として、
「やはり何ですな、男も、かわいくなる頃にゃ、すでに七十なんですなあ」
日本のモナ・リザ
いずこを見ても、今はモナ・リザの大はやりである。モナ・リザを見にゆかずんば人にあらず、人は数秒の鑑賞のために、大枚の金と貴重なる時間を費やして、モナ・リザ詣でに押しかける。パンダの次はモナ・リザと、見るものに事欠かぬは、泰平天国ニッポンのありがたさである。
モナ・リザが何ぼのもんじゃ、とタカをくくるのは勝手であるが、さればとて、押しあいへしあい見にいく人を愍笑《びんしよう》するにも当らないのであって、世紀の名画をナマで見られるということになれば、無理をしてでも行列するのが自然の人情であろう。
私は先年、フランスでモナ・リザを人々のあたま越しにチラと見たが、ここでも黒山の人だかりだった。ほかの絵には目もくれず、人はその前に集まっていた。黒山といったが、これはあやまり、日本人観光客のみならず、金色、栗色、茶褐色、銀色のあたまが蝟集《いしゆう》していて、何も日本人だけが物見高いのとちゃう。
かつ、日本人だけが俗流名画に弱いのとちゃう。
アメリカ観光団もヨーロッパのお上《のぼ》りさんも、モナ・リザの部屋へ入ると、我がちに走っていくんだよ。偉大なるかな、レオナルドおじさん。
カモカのおっちゃんも、モナ・リザを見にいくだろうか。
「いや、僕はいそがしいので、見にいきたいけど、時間がおまへん」
何でおっちゃんがいそがしい。酒飲んでる時間をすこし割《さ》いて名画鑑賞にあてれば、人格向上に資すること、うたがいなしなのに。
「モナ・リザの絵もきらいやないけど、何ちゅうたかて、毛唐の女。僕はやはり、日本のモナ・リザが好ましいなあ」
「日本のモナ・リザって何ですか」
「昔ようありましたやろ、『中将姫』の絵」
「ああ、見たことあります。今もちょくちょく見ますね。私、冷え症のとき『中将|湯《とう》』服《の》むから知ってる」
「あのお姫さんの絵はまさに、日本のモナ・リザですぞ。あれは古い。僕らの子供時分、お袋は、あのマークのついた薬袋から、婦人病の薬出して服んどった」
「そういえば、子供時代、どこの家でも、よく煎《せん》じてましたね。今は紅茶みたいにパックになってますけれど」
「昔はどこの家も暗うてなあ、今の文化住宅みたいに日当りがええことない。家をのぞくと奥は深く、手もとはうす暗い。じめっとした、ひんやりした空気。そこへどこからともなく強烈な薬湯の匂いがただよってくる。これみな、お姫さんの絵のついた煎じ薬」
そういえば、子供の私が、友達の家へ遊びにいくと、出てくるおばさん、煎じ薬の匂いをただよわせていた。
たいがい、小さな四角い頭痛膏を、コメカミに貼ったりし、衿元には、癇性病《かんしよや》み(潔癖症)らしく、まっ白いハンカチを掛けて汚れを防いだりし、前だれは、着物の前身頃の傷みをかばって、裾まで届くような長いもの、しかめっつらで深刻な顔。
「あれは、どこがわるかったんでっしゃろ」
とおっちゃんもいう。
「さあ――頭痛もち、冷えのぼせ、血の道、ショーカチ(膀胱炎)、ヒステリー、婦人病一切でしょう」
「それに亭主の浮気もあったんかも知れん。昔は、浮気は男の甲斐性いわれとった。女はじーっと辛いけど堪えとったんですわ。それが婦人病へくるんですな」
「医者が見てもなおらなかったでしょうね」
「結局、中将湯なんかを服用せざるを得ぬ」
昔の婦人病は暗い感じだった。そういえば私は、「明るい顔のおばさん」をあんまり見たことない。
「それに時代も暗かった。暗い戦時中やからねえ。張り切っとんのん、阿呆な軍人と軍需工場の親方だけや。特高、憲兵、隣り組、在郷軍人に町会長、号令、行列、猛訓練、ええことちっともなし。暗い暗い世の中で、中将姫のマークひとり、町のあちこち、家の中のそこここで、明るくほほえんでるわけや」
「あの絵は、やさしくて、かわいらしい顔をしてますねえ。髪がきれいに顔に垂れかかっていたりして」
「僕ら、子供ながらに、きれいな女のひとやなあ、と思いましたな」
「おっちゃんの、春のめざめですね」
「春にめざめし中将姫、あのマーク見て、しばしうっとり、あこがれましたなあ。こんな女のひとが世の中にいるかもしれんと思うと、戦争中の少年時代も希望が湧いてきた。中将姫のマークは、お袋の象徴というより、いうなら、日本の国母という感じで、光り輝いとった。つまりこれぞ、日本のモナ・リザです。あれからこっち、日本にはモナ・リザは出てへん。女みな、こすっからい顔ばかり。とてものことに、国母という、気高くやさしい顔はおまへん」
「ウヌ、それは男かてとちがいますか」
私、負けずぎらいなの。
「昔、よくありました仁丹の広告。ナポレオン帽に大礼服のおじさん。あれは男らしい顔でしたわねえ。少女の私にとっては、ミスター仁丹は、近寄りがたい男の威厳と気高さの象徴やったわ。――あたしって、男はみんな、あんな気高い人格者だとばかり思ってたんです。でも、そうじゃないってこと、ようく、わかったんです。特に夜なんか」
「こら、宇能鴻一郎センセイの口真似するんやない」
とカモカのおっちゃんは眉をしかめてたしなめた。
「仁丹は中将姫とは一緒になりまへん。仁丹氏の顔は立身出世した明治新政府、高官風ですぞ。あるいは参議院に打って出ようかという顔。男の顔をたずぬれば、昔のナンバースクールの生徒の顔なんか、よかったなあ。〈剣《つるぎ》と筆とをとりもちて、ひとたび起《た》たば何事か人生の偉業成らざらん〉ということ、ほんまに信じとるような、純粋澄明な、理想に燃えた顔しとった」
「へん。その成れの果てがカモカのおっちゃんではありませんか」
この勝負、引き分けになった。
同伴ホテルの怪
連休のあいだ、都心はにぎわったそうだが、同伴ホテルも満室であったと、さる知人が報告してきた(私自身の見聞ではない)。
玄関脇の小部屋に、アベックが幾組も、空室になるのを待ってたそうである。
この調子では一九九九年は七の月、「恐怖の大王」が空から|けったい《ヽヽヽヽ》な物を降らして人類を滅亡させる瞬間まで、この種のホテルは一ぱいなのにちがいない。
カモカのおっちゃんは、よくも飽きずに精出しはるこっちゃと呆れてる。
「おっちゃんはもう、飽きましたか」
「飽いた、いうより、今日びの女の子、あまりにも風情《ふぜい》がないので、もう、イヤになってしもた。若い子はもう、あきまへん」
「おっちゃんが相手にされなくなったのではありませんか」
「ああいう女なら、むしろその方が望むところです。あんまり、えげつなさすぎて、辛うなります」
どんな女の子かというと、ホテルヘ入る、ここまではよい。二人だけになるとおくゆかしく、羞じらいつつ着ているものをぬぐ、というようでありたいのに、パッパッと勢いよくかなぐり捨て、小学校の身体検査じゃあるまいし、胸張って闊歩《かつぽ》し、ときに鏡の前でわがバストにつくづく見入ったりしてポーズをとり、あたかも、
「遠くば寄って耳にも聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは……」
という武者名乗りを上げそうな鼻息で、わが肉体美を誇示し、そのうち、くしゃみなどつい、なさる。出物ハレモノ所きらわず、くしゃみも放屁《ほうひ》もべつに差支えないというものの、それも女らしく両手で掩って、どうかして小さな音ですまそうという心遣いならかわいげもあるが、手放し、傍若無人のハックション、それもわざわざ語尾をハッキリ発音して、
「ハックショーイ!」
などとかまし、おっちゃんはその威に打たれて飛び上ってしまうという(すべてハクションなど、一家の主人のほかは大きな声をたててはいけないと『枕草子』にもあるくらいだから、おっちゃんの感じたイマイマしさは私にもわかる気がします)。
中には、ぬいだ下着をとりあげて、明るい所へ持っていって、つくづく検分なさる麗人もあり。
「マサカ……終戦直後の銭湯《ふろや》ではあるまいし、シラミを調べてるんじゃないでしょ」
と私がいったら、おっちゃんは首をかしげ、
「どういうことですかなあ……。『あ、かゆいかゆい思《おも》たら、髪の毛はいっててんわ、それでやわ』なんて仰せられてつまみ出され、ついでにパッパッとふるわれる」
ついでお風呂入りの段取り、ネオン風呂、香水風呂とりどりの結構な浴槽で、派手に、ぱしゃぱしゃと洗い、ひどいのは、ついでに髪を洗って湯代を倹約なさる佳人もあり、中々、上ってこないので、どうしたかと思うと、
「バシャバシャと、ストッキング、パンティ、ハンカチを洗濯しとる」
「マサカ」
「いや、もっとえげつないのは、帳場に電話して、何というのかと思うと、『ねえ、カカトこすりたいんだけど、軽石もってきてえ』などと仰せられます」
ウソツケ。
ともかく、やっさもっさの内に、ベッドインとなるが、このとき、種々《くさぐさ》なる癖あり。
ハンドバッグを枕元にヒシと引きよせる美形あり、バッグの中から財布を出して金をかぞえ、安心した如く、また蔵《しま》いこみ、ついで手帳を出して入った金、使った金額を書きこむ、真剣な顔の傾国あり。
さらに、ベッドヘのびのびと横たわるが早いか、腕時計の竜頭《りゆうず》を廻しつつ、
「ねえ、いま何時?」
と時計を合わせたり遊ばす。いよいよ競技開始かと思っていると、ふと立って、
「『勝海舟』がはじまるわよ」
とテレビをつけたりなさる。
中に世帯もちのいい方は、出された最中《もなか》をぬからずハンドバッグにしまいこみ、そのくせ、トイレットペーパーをふんだんに使って手拭きになさったりする。
更に、たのしいことがはじまると、これはもうじつに、目移りするほどさまざまの嗜好があり、そのどれも、おっちゃんは好きにはなれぬ。
まず、コトがはじまって、途中で、しばしタイム。
「ちょっとまって。トイレヘいってくるわ」
とのたまう生菩薩《いきぼさつ》があって、これもどうかと思う。今まで辛抱しとったんかしらん。
蒲団、枕の位置、シーツの皺《しわ》を直すのに、やっきになっていられる別嬪《べつぴん》あり。
「あたし、きっちりしてないと、気がすまない性分なの。そういう育ちなのね」
などと仰せられ、きっちり育っとるもんが中年男とこんな部屋にいるのも、どうかと思いまっせ。
やたらとおなかの空《す》く紅一点、何かするたびに、
「ねえ、ここスパゲッティ出来ないかしら。天ぷらうどんでもいいわ。電話で聞いてみてえ。とんかつぐらいはあるでしょうね」
食堂とホテル、はいるとこ、まちごうとんのん、ちゃうか。しまいに、たいへんな所までかじられそう。
そのほか、電話好き。これはホテルの部屋から友人にかけ、トメドなくしゃべり、
「いま誰といると思う? あててごらんなさい――ちがうわよ……ウウン、ちがう、もっとヘンなおっさんなんだ……」
などといったりする。聞いてる「ヘンなおっさん」どんな顔したらええねん。
「いやもう、願い下げでございます。こちとら、恐怖の大王がお出ましになるまで、もう酒一本で通します。せいぜい、おせいさん相手にクダまいてるのが相応。やはり何ですな、中年男には中年女、僕はもう、若い女の子、あきまへんわ」
おっちゃんはシミジミいうた。
ほころびたれど漏れはせず
風呂代値上げになって、お風呂屋へも心安くいけなくなってきた。
私は家にガス風呂があるので、旅行で温泉へ入るほかは、ヨソの風呂へいったことはない。
しかし、銭湯そだちであるから、公衆浴場は大好き。かつ、私の住む界隈のいい所は、いくらもゆかぬ平野という町の、つい北に温泉があり、そこでは町なかに珍しく、ホンモノの温泉があるのだ。天王谷温泉という。思うに、有馬温泉の親類ではないかしらん。地つづきである上に、泉質も、有馬によく似ている。
ふつうの銭湯よりは高いが、手軽に温泉へ入れるのでじつにいい。こんな結構なるお湯が近代的大都会のどまん中にあるところ、神戸はいい町である。天王谷温泉の湯はすこし色を含んで、タオルが茶色になる(これも有馬温泉のある源泉に似ている)。じんわりとあたたまってくる湯で、そのあと、ふつうのお湯をひっかぶって洗い流して出てくると、まことにさっぱりする。
町なかで湯治ができるから愉快。
しかし湯治しなくても、銭湯というものは狭くるしいわが家の、棺桶のような風呂とちがって、
のびのびとしているので、冬など体のあたたまり方が全然ちがう。
子供のころ、冬になると母は家の風呂は寒いといやがって、私たち子供を連れて銭湯へ出かけた。風邪をひいたりすると、よけい引ったてていかれる。
風呂屋の隣りはうどん屋で、まことによくできている。ここで熱い、舌を焼くようなうどんを食べさせられ、家へ帰ってすぐ蒲団にくるまって寝る。たちまち万病退散、と信じられていた。
昔の風呂屋は、療養所でもあったわけだ。
そういう町の簡易療養所が、現代は、経営難から一つずつ、しだいに減っていくのは残念である。
風呂屋につき、カモカのおっちゃんと、うばざくらの美人記者がいい合いしているのはまことに面白い。
「女の人は髪の毛を洗うんやから、男も女も一律に風呂賃値上げというのは、どうかと思いますなあ」
とおっちゃんはいう。うばざくらは反駁し、
「髪洗い賃は別に出していますわよ。男の長髪の方がけしからんと思うわ」
「その代り、男は丸っ禿げの奴がおりますから、差引きトントンです。女にツルッ禿げがいますかね。いや、丸っ禿げでなくとも、まん中が抜けてる抜け禿げも、女には見まへん。よっぽど、男の方が湯を使う分量が少ない」
うばざくら、憤然として、
「でも、男の人は、女にくらべて成り余れるところがあるじゃないの、そこを洗うぶんだけ、余分にお湯を使うでしょ」
何の話か、私は知らん。
「だから、男の方を女より高くすべきだと思うわ」
「無茶いいなはんな」
とカモカのおっちゃん。
「それは女の方にこそ、高くとるべきですぞ。なぜかなら、女はガバッと湯を吸いこんで持って帰る」
何の話か、これもわからん。わかるようなわからぬような。
うばざくら、やっきになって、
「ガバッとなんてオーバーなこと、いいなさんな。第一、そんなたくさん吸いこめるはず、ないでしょ、吸上げポンプじゃあるまいし……」
「しかし、田中のコミマサおじさんによれば、ポンプ女もいるらしい。女は大なり小なり、吸い上げるもんとちゃいますか」
「うそいいなさい、そんな筋肉ありませんよ」
「いや、ダムの水門みたいにハッキリしてないけど、自動的にうごく安全弁みたいなものが、本人の意志にかかわらず開いたり閉じたりしませんか」
「魚のエラじゃありませんよ、バカバカしい。お湯なんか入りません!」
「入りますくらいな」
両雄ゆずらず、かくなる上は実地に験《ため》して雌雄を決せんのみ。
「オイ、おせいさんやってみ」
お鉢が私にまわってきた。何で私が、安全弁の自動装置の実験なんか、させられんならんねん。
私は考え考え、いった。
「それは何です、男の人が思うほど、あの水門はシマリのないものではないと思うよ。『縫い目はあれどほころびず』というのは男の七不思議の一つですが、女の七不思議の一つは、『ほころびたれど漏れはせず』なんだ。漏れないものが、開いて吸い上げるはずないでしょ」
「しかし手押しポンプを使ったあとなどは如何なもんでありましょうか」
としつこいおっちゃん、何の話や。
「かつまた、麻薬の運び人、宝石の密輸屋、みな、倉庫に使うのでありますし、見せ物芸はいわずもがな。こうなると、ふつうの人でも風呂屋の湯ぐらい汲み上げていきまっせ、そら……」
うばざくらは考え、
「うーん、そうやねえ……まあ、手押しポンプはともかく、あたしはスポイトとよびたいんですが、それで以て目薬をさす、そうすると、やはり、あふれた目薬が、しばらくたつと、水門からツ、ツーとしたたってくる、ということはありますが……。でも、みずから安全弁をひらいて、吸い上げることはないと思うわ」
目薬、スポイト、何の話か、ややこしい。私はおっちゃんにべつのことをきいてみた。
「いったいその、風呂屋の湯を汲み上げる汲み上げると、おっちゃんさわいでいますが、汲み上げて女がどうするッて思うの?」
おっちゃんはいう、
「しれたこと。風呂屋の湯を汲んでは運び、汲んでは運びして、家で風呂をたてよる。女の|しぶちん《ヽヽヽヽ》」
それにつけても
私は自分の作品をテレビ化されるのは本来好まない。小説とドラマではイメージがちがいすぎるのである。
うまくいくときは、小説よりドラマの方ができばえよく、そうなるとわが作品の不手際が露呈されて、ほろにがい気分。
うまくいかぬ時も、居ても立ってもいられない。見ていてけったくそわるい。何も知らずけんめいにやっている役者さんにはわるいが、あまりにも原作のイメージから遠く、似ても似つかぬヒドイものだったりすると、これまた腹が立つ。
(うぬ、畜生、くそッ、くたばれ)
と悪態をつきたくなる(こんな悪態は、悪友の筒井康隆が私に教えこんだものなのだ。何事によらず、朱に交われば赤くなるということは、あるものだ)。
つまり、どっちへまわっても、作品をテレビ化されて心ゆくものができることは珍しい。
ことに、民放では珍しい。尤も、民放でも一人二人例外はある。ある局のあるディレクターを私は信用していて、この人の作ってくれるドラマなら絶対、私の原作をはるか上廻ったいいものになるのである。
たいてい、いつもうまくいくのはNHK大阪で作ってくれるドラマ。何のかのといっても、NHK大阪のドラマはいいのだ。ここは、いいディレクターと役者さんをあつめていて、安心でき、私にとってはいつも満足すべきものを作ってくれるのだ。永六輔さん、「大日本大絶讃」にNHK大阪のテレビドラマを入れてチョーダイ!
民放のある局なんか、原作とあまりにもちがうテレビドラマに、なんで原作のタイトルや登場人物を使うのか、とんと解《げ》せぬ。そのくらいなら一千万円くらい改悪料をチョーダイ!
カモカのおっちゃんが来たので、私は息もつかせず、それをしゃべっていた。おっちゃんは辛抱づよき御仁であるから、じーっと私のイカリに堪え、しばらくあって、
「まあ、そうかもしれんが、今日の新聞見ましたか?」
と問う。
「知りませんが、テレビドラマの批評でものっていますか?」
「いや、ある会社が四百何十億の負債で倒産しとるんですわ。関係者はここしばらくは夜も寝んとかけずり廻ってあがいとったでしょうなあ、いよッ、お疲れさん≠ヲらいこッてすなあ。――それにくらべ、おせいさんは、僕が来たら酒出して酔い浮かれ、太平楽やおまへんか」
「それが、どうしたっていうんです。倒産会社と何の関係があるの?」
「いや、そういわれると、どうちゅうことないが、テレビ屋に任した以上はもう、知らん顔してほっときなはれ。何も赤眼吊っていうこととちがう。破産の倒産のと、血便出して走り廻ってる、しんどい身分に比べたらなんぼ気楽な身の上か。ありがたいこっちゃと思わな、いかん」
「へん」
「それ、そういう反抗的な不逞な態度がよろしくない。じーっとわが身を反省し、よくよく考えてみれば、イライラキャッキャッとすることが、いかにおろかであるかがわかる」
私はじーっとわが身を反省し、よくよく考えてみたが、やっぱり腹立つものは腹立つ。
(あほ、ばか、とんま……)
こんな悪態は悪友の小松左京が私に教えたものだ。朱に交われば……。
「何をいうとんねん。体が達者で酒がうまく飲めれば、もうそれで、人生最高ですぞ」
とカモカのおっちゃんはいい、
「テレビや小説が何ぼのもんやねん――金もうけが何ですか。一方ではハダカで味噌をなめて酒の肴《さかな》にし、安酒飲んでええこンころもちになって浮かれてるときに、片一方では高価《たか》い服きて外車に乗って青息吐息で金策に走り廻る。いったいおせいさん、この両方の、どっちをとりますねん」
「それは、前者の方!」
「そんなら、下らんことを気に病んだり、腹立てるだけ、損というもの。まあ、一杯、いきまほか」
いつもこれでうやむやになり、最後は泥酔あそばす。
まあ、仕方あるまい。どっちでもええわ。
「そういうこと、そういうこと」
などと、酒をつがれてなだめられる。
「何しろ中年ですからな、一杯の酒で羽化登仙して、人生を終ればそれで上出来」
「でも、ときにはカッカとしなくてはいけないひともあるでしょう? 世の中には。たとえば、かの蓮見さんの仇討ちで、こんどは男の役人から機密を漏洩《ろうえい》させてやろうとたくらむ婦人記者だとか、女人禁制の大峯山へ、女性解放を叫んでデモる婦人だとか……」
「あることはありますやろうが、それも向き向きのもんですなあ。ところで、『根岸の里のわび住居』というのを知ってますか」
「何でもそれをくっつけると、俳句になっちゃうんだ」
「そうそう、夕立や根岸の里のわび住居。藤の花根岸の里のわび住居。それと同じで、どんな名句の下へくっつけてもたちまち狂歌になってしまう下の句がある」
「ウン知ってる。『それにつけても金の欲しさよ』」
「さよう、僕はいつも思いますのやが、『それにつけても酒のうまさよ』とかえたいですなあ。『古池や蛙《かわず》とびこむ水の音 それにつけても酒のうまさよ』、『春の海ひねもすのたりのたりかな それにつけても酒のうまさよ』」
「『われと来てあそべや親のない雀 それにつけても酒のうまさよ』ハハハ、これは面白い」
私は大喜びで、いくつも考え出した。
「お手討の夫婦なりしを更衣《ころもがえ》 それにつけても酒のうまさよ」
「五月雨《さみだれ》をあつめて早し最上川 それにつけても酒のうまさよ」
「あの、仰山ならべはりましたが……」
おっちゃんは私の言葉をさえぎっておずおずといった。
「あの、その中で十に一つくらいは、『それにつけても金のほしさよ』があってもよろしなあ」
カモカ源氏
「あんた、このごろ、あちこちで古典のききかじりよみかじりを、書きちらしているようであるが」
と、カモカのおっちゃんはいった。
「どうも、教養の底が浅うていけまへん。一つ、『源氏物語』を講義してあげよう。まず須磨・明石からはじめまひょか」
「ウン、いいね」
「須磨にはいとど、心づくしの思い出がありましてな。僕の童貞を捨てた場所」
「ヒッ」
「須磨の松林、月もなき浜辺、向うも処女でした。コトが終ってから、僕は――まだ純真|無垢《むく》な年頃や――まことにスマン、というた。すると向うは、『これで私の処女のアカシがたちましたか』と」
「それから」
「それで終り」
「チェッ」
「何をいう。これが、カモカ源氏『須磨・明石』の巻や」
そんなこというてるから、おっちゃんは若いものにバカにされるんだなあ、と私はつくづく思った。
「何をいう。こういうことをいうてるから、人間はちゃんとなるんです。いつでも、こういうことがいえる男でないとあきまへん」
「国会でも」
「国会でも施政方針演説の原稿と差しかえて、こんな講義して、ちっとも場ちがいでない男でないと、あかん」
私はウームと考えた。
私はこのごろ時々、テレビの出演者や身のまわりの男を見て、威張ってる男や、尊大傲慢な男や、ウソつく男、自慢する男、鼻っ柱のつよい男、事大主義の男を見ると、こういう物々しい男のモチモノ、やっぱり物々しいのかしらん、と考えて、おかしくてたまらなくなってしまうことがあるのだ。なぜ、こんな癖がついたのかしらん。
或いは佐藤愛子チャンのせいかもしれない。佐藤愛子チャンはおかしな人で、以前、
「男のシンボルが走るとき揺れるのは、けしからん!」
と怒っていた。
「揺れたってええやないの」
と私がなぐさめると、彼女はよけいいきり立ち、
「大体、ぶらぶら揺れさせる、ということが軽佻《けいちよう》浮薄のきわみなのです!」
と一喝した。どうもそれを聞いてから、私は、その一言があたまにこびりついていけない。愛子チャンに洗脳されちゃった。
私の場合、物凄く威張り返ってる男を見るとする。自分に力があると思いこみ、人を|あご《ヽヽ》で使い、鼻であしらう、そういう男を見ると、私はぼんやり考えるんだ、彼のモチモノも、やっぱり威張った顔してるのかなあ。――すると、もうおかしくて、男の顔を見ていられない。
また、うぬぼれ屋の男がいる。美貌自慢、職業自慢、出身校自慢、閨閥《けいばつ》自慢、そういう男のモチモノも、やはり得意に鼻うごめかせて、人々の賞讃の声を聞こうと鎌首もたげてるのかと思うと、失笑を怺《こら》えるのに努力を要する。
また、何でも物々しく仰々しくいい立てる男がおり、接待されると(そういう奴は必ず、接待される側で、する側にはならない)、その場所が二流であると文句をいい、送りの車が安タクシーであったと拗《す》ね、重役が出迎えなんだとゴネたりする。自分を、何サマやと思《おも》とんねん、そんなに、人間が人間に対して威張る資格は誰にもないのだ。そういう男のモチモノ、やはり物々しく仰々しく肩肘はってるのかと思うと、じつにおかしい。そういうときは、愛子チャンではないが、揺れてるだけでおかしい、ということもある。
だから男は、あんまり威張ったり、意地わるしたり、腹黒いことをしたりしない方がいいのだ。
ごくふつうにしてれば、モチモノが、ぶらぶらしてると思っても、ちっともおかしくないのだ。それは感じのいいことであって、いかにも似つかわしく(まして愛子チャンのように「けしからん」と私は思わないので)、ヘンに威張るから、おかしくなるのだ。家庭の中でも男は女より上等の種族だと、根拠もなく信じこんでる横暴亭主が居り、妻はみんな心の底で、男の原罪的な「こっけいさ」「おかしさ」をかみしめつつ、ハイハイ、と無理難題をきいてるのだ。
オール男性諸君に告ぐ、女はみな心の底で私みたいに思ってるのだから、あんまり人目に立つような威張りかた、ゴテかたはしない方がいいよ。いつも、男はこっけいな存在なのだ、と心にかみしめて生きていかれたい。
私がそういうとカモカのおっちゃん、また例のごとく私に逆らう。
「女にはわからんやろけど、男の世界には、威張らないかん、勿体ぶらないかん時と場合がありましてなあ、これはしょうがない。そういちいち、男をいじめなさんな」
「どっちのいうこと。女の方が何といってもいじめられる度合は大きいのです」
「いやいや、女でも意地悪な人、威張りたがる女、中々、多いですぞ。僕思うに、あれらは、男とナニしたことない女とちがいますか?」
「そうかなあ」
「当り前ですわ。いっぺん男とナニしてみなはれ。自分がどんな恰好したか、あとで思い返してみると、あない人前でえらそうに演説なんか、ぶてまへん」
「しかし……」
「女の中にも、腹黒いの、ズケズケいうて男をぼろくそにいうの、男をあごでこき使うの、いろいろえげつないのがいます。これは、男とナニしたことのない、可哀そうな女かもしれん。一ぺん男とナニしたら、人に向って威張れるはずがない。おのれがどんな恥ずかしい恰好したか、じーっと思い返してみて、人にえらそうにいえるか」
「でも……」
「要するに、男に、不肖の息子の存在を忘れるなというなら、女も、おのが恰好を、つねに肝に銘じて忘れぬことです」
イーッ。キライ!
フタバのマーク
私は、以前、車のうしろに往々つけてあるフタバのマークがとても気に入り、
「ウチの車にもあのワッペンつけたいな」
とカモカのおっちゃんにいったら、
「あほ、あれは免許とり立ての車だけや」
と笑われた。私は、ひと頃はやった足のうらのマークみたいに、みんなが好きでつけてるもんだとばかり、思っていたのだ。
「でもマークをつけてない車が、技術老練かというと、そうでもないね。へたくそで乱暴なのも多いよ。おっちゃん車もってる?」
「うむ、二台ある」
「エッ。二台も!」
「一台は昼の車。一台は夜の車」
何の話や。
私はこの間、久しぶりに物すごい運転のタクシーに乗ったのだ。たいてい個人タクシーをよんだり、年輩者の運転手を物色して乗るので、ヒドイ運転というのは知らないのだが、町を歩いていて緊急の場合は、そう選り好みはしていられない。飛びのったタクシーの運転手はまだ三十を出たばかりという年ごろ、悪戯《わるさ》したいさかりという感じの壮丁であった。彼はこの、たまりにたまったエネルギーをどうしてくれん、という感じで、壮烈に突進し、片足で廻るみたいに急カーブを切り、腹立たしげに急停車し、私はもう最後には、ただただ、神の加護を祈っていたのだ。
無事だった証拠に、こうやって、カモカのおっちゃんとしゃべっているのであるが、ああいう運転手の車には「乱暴マーク」というのは、つけられないものでしょうかね。
「それは、女のドライバーにもいえますなあ」
とおっちゃん、
「中には運転のうまい女もいますが、概して、オナゴの運転しよる車に、あとからついていったらえらい目にあいます。急停車はする、いつまでも方向指示は出さん、かと思うと四つ角で行先を思案して地図を拡げる、道路中央をトロトロ低速で邪魔して平気。男から見ておよそ常識ばなれしたことをやります」
「じゃ、そんなのは、へたくそマークの上に、性別マークもつけて、運転者が女性であるとひと目でわかるようにすれば、用心するからいいわけね」
「それはもう、女のマークだけでよろしい。その一事がすべてを暗示します」
私は、運転にも女の性《さが》や業《ごう》がでるのかと思ったが、こんないい方はきらいだからだまっていた。
しかし、中には、そういう欠点を自分で知っていて、用心なさる女性もある。フタバのマークをつけてる間、夜と雨の日の運転はツツシムというけなげな女性がいるのだ。
「なんのための車やねん」
と大笑いになった。
「そういう所が、女のかわいらしさですなあ。何か一拍おいて、おかしい。そういうのは、雨の日注意マークというのをつけたら、ええわけですなあ」
「すると、みなそれぞれ、マークをつけて走ればいいわけね。おっちゃんは、何のマークですか」
「僕はやはり、フタバがよろしいなあ。フタバにはじまってフタバにかえる。いつまでも初心者マークをつけて、悠々と車を走らせるのですわ。高速道路へ入って、端っこに身をよせてトロトロ走ってたら気らくでよろし。フタバでいかんかったら、べつに、技術拙劣マークというのを作ってもろて、それを貼りつけて走ってやるのが気らく。これが粋というもんや」
「怒りんぼマークというのもいいですね、車に乗ると人格がかわって、とたんに怒りっぽくなるのがいるよ。そういう人は、怒りんぼマークをつける。すると、みんな用心する」
私はおもしろくなっていった。
「負けずぎらいもいいね。追い抜かれると、くそッと思ってまた追い抜くのがいるでしょう。そういう車は、前もってわかると、敬遠する」
「酒好きマークも、いりますなあ」
と酒の好きなカモカのおっちゃんはいった。
「しかし飲酒運転は国禁に触れるでしょ、どうせ」
「いや、むろん飲んで運転しまへんが、あるいはひょっとすると一杯機嫌でひっかけてるかもしれん、などと一抹の危惧《きぐ》を抱かせる。すると、まわりの車が用心して車間距離をとる」
「物騒ね。おっちゃん飲んで運転することあるんですか」
「いや、夜は車にさわりまへん、酒が飲まれへんさかい。飲んだあとは、昼間とは別の車をもってますので」
ここで返事なんかしたら大変だ。知らん顔をしている。
おっちゃんは私の気を引くように、
「国産の車ですが、だいぶ長う使うて、まだ傷みまへん」
「手入れがよろしいのね」
といわされる。
「早よ傷んでくれたら、買いかえるのに……こういう車は皮肉なもんで、丈夫にできとります。部分品は一とこ二とこ、替えていますがね、あとはとびきり丈夫です」
「長年愛用ともなれば、さぞ特別な愛着でしょうね」
とお愛想をいってあげる。
「まあね。型も古風ですし、ガソリンもよう食うてかないまへんが、いうなら気心のわかった車でっさかいな」
「マークは何をつけていますか」
「昔はフタバのマークでしたけどな、今は枯葉のマークという所ですかなあ。だんだんフタバが枯れました」
「そのほかに何か、マークをつけていますか?」
「技術拙劣マークをつけな、いけませんな。つまり、僕の昼間の車と同じで、フタバにはじまってフタバにかえる」
「粋じゃありませんか」
「いや、これは、進歩がおまへんのや」
タカガ主婦
うたたねをしていると新聞社から電話がかかってきた。金、金、金の選挙について、何か寸鉄、人を刺す警句をいってほしいという趣旨であるらしい。尤も向うは、
「金権選挙の取材をいろいろしましたので、そのシメククリに……」
というふうないい廻しであったと思う。
それで、「シメククリ」という言葉が、私と、飲みにきたカモカのおっちゃんとのハヤリコトバになった。
私の思うに、警句もシメククリのうちには、ちがいない。
しかし、シメククリ専門の、シメククリ屋が、この世にいるのと同じく、警句屋というのもいるのだ。
これは殊更なる才能の一つであって、とうてい、誰にもかれにもいえるというものではない。
私に最も欠けたる才能の一つである。では何かほかにあるかというと、収拾つかないが、この方面の才能が最も欠如していることは本人が一ばんよく知っている。
このシメククリということは大切なことではあるが、ある種のモノゴトやある種の人間にとっては、べつになくても生きてゆけるものである。私のような人間には、シメククリがなくても生きてゆけるのだ。そうしてある種の小説には、シメククリは要らない。そういう内幕がわかってみれば、私にシメククリの言葉など、聞きにくるはずはないのであるが。私の書くものは、どうも、帯ひろはだかというか、着流しであるような気がされる。そんな人間に選挙のシメククリがいえようはずがない。
「タカガ物書きにきくこと、ないでしょ」
と私がいい、また、「タカガ」が、私とおっちゃんの間のハヤリコトバになった。
「タカガ、というコトバは好きやなあ」
とおっちゃん。
「そういう言葉はもっと濫用すべきですぞ」
「でも、タカガというのは、たいへんな意味をもつそうですよ」
と私。
「婦人雑誌を見ていたら、夫婦ゲンカのコツ、というくだりで、絶対口にしてはならないコトバは、タカガだそうです。奥さんがタカガ、サラリーマンのくせに、タカガ、ヒラ社員のくせに、とひとこと口をすべらしたために破婚のうきめをみた例が、たくさん紹介されています」
「まあ、そういう場合も、ないではないであろうが」
とおっちゃんは首かしげつつ、
「タカガいうたら、僕などは、世の中、かえって丸う納まってええのんちがうか、と思いますがなあ」
「たとえば」
「名刺に刷るのですわ。肩書の上に、オール日本、一億人の人がみんなタカガをつける」
このカモカのおっちゃんのヘンなところは、いつも何かかんか、けったいなアイデアをもっている所である。
そうしてそれは、たいていの場合、非実用性であるところに特色がある。
「肩書にタカガをつけると、どうなりますか」
「タカガ総理大臣、田中角栄」
「フーム」
「タカガ大学教授、何のなにがし」
「いひいひいひ」(と、私は、筒井康隆風に笑った)
「タカガ代議士、何某」
「タカガ社長、っていうのもいいね」
「あたりき。タカガ弁護士、ダレソレ。タカガ医学博士、何ノ何ベエ」
「タカガ、カモカのおっちゃん、というのはできますか」
「いや、これは肩書につけるもので、固有名詞ではおまへん。タカガ作家、などという風に使う。
しかし往々、中には、固有名詞がそのまま肩書と同じ意味と重さをもつときもある」
「タカガ、夏目漱石、とか」
「そうそう」
「タカガ男、というのはあるでしょうか」
「しかし、名刺の肩書に男と入れるわけにはいかん」
「タカガとつけるのを、法律で規制しろとおっちゃんはいうの?」
「そんなことをすると、また、タカガ法律といわれる。 つけたい人はつけたらよろし。そうして、いつもいつも、じーっと、タカガという字を見てる。くり返し心の中で、タカガ社長、とか、タカガ医者、とか、タカガ物書き、タカガ代議士などと、かみしめてわが身にいい聞かす」
「タカガ東大生、なんてのもいいね」
「それはよろしいが、タカガ、ルンペンというのはどうかな」
「この頃のルンペンは威張ってるから、いいかもしれない」
互いに「初めまして」と挨拶を交す。名刺を交換する。片や「タカガ物書き」、片や「タカガ編集者」。互いの相手の名刺に見入り、すると、身構えもていさいも溶けてなくなる。
タカガ人間、というのだけ、あとへ残るのである。
肩書は必要なものではあるが、それは「タカガ」と、肩書の肩書をつけた上で、という条件があるそうだ。
だから、肩書のない人は、「タカガ」も要らぬことが多い、という。つまり一般サラリーマンとか、一般OLとか、煙草屋、ソバ屋、さんぱつ屋、パチンコ屋……。
「タカガ主婦、というのも、つかないわね」
と私がいったら、おっちゃんはとび上っていった。
「これはつく、これはタカガとつけて頂きたい。この頃、主婦という肩書はたいへんな地位と名誉と権勢の象徴。これこそ、肩書の肩書がいります」
これがシメククリになった。
強 い 男
カモカのおっちゃんと飲んでいたら、私の家は陋屋《ろうおく》でありますゆえ、ゴキブリが足のそばを走っていった。客人に対し、申しわけありません。
「ナニ、これも、馳走のうちです」
とおっちゃんは泰然自若《たいぜんじじやく》、
「大厦《たいか》高楼にはそれなりのよさがあり、陋屋廃家にはそれなりのよさもあります」
ホント、何をみてもビックリしない御仁、ゴキブリが|ぐい呑み《ヽヽヽヽ》の中にあやまって落ちこんでも、漢方薬です、といって飲むかもしれない。
「いや、その漢方薬は少しこまりますが、しかしまあ、何にしろどうってことはない。ただ、やっぱり長物はにがてですなあ」
「蛇」
「蛇に、げじげじ、ムカデ、ヤスデ」
「男でもやっぱり、にがてですか。私は男であれば、そんなもの素手でつかんでポーイと抛《ほう》ってくれるもの、という先入観念があるのですが」
「無茶いわんといて下さい。男かて、怖いもんは怖いです。男なんて弱いもんですわ。僕ら、蛇やムカデみたら、アレエーなんて、叫んでしまう」
私は、おっちゃんとは、決して山へいかないぞ、と心にきめた。
「俵藤太《たわらのとうた》は、ムカデ退治をして男をあげましたわよ」
と、私はできるったけ侮蔑的表情をつくっておっちゃんを見た。
「源頼政はヌエを退治したし」
「エー、ムカデといえば、毘沙門天《びしやもんてん》サンはムカデが使者になってますな。キツネがお稲荷サンの使いみたいなもんで」
とおっちゃんは、いそいで話題をかえた。
そういえば、以前、私が播磨《はりま》の豊富町へいったとき、有乳山岩屋寺なるお寺で、平安の重文という毘沙門天を拝んだら、そこの絵馬にムカデが描いてあったっけ。
とっても大きい絵馬だった。宝珠をまん中に支えている二匹のムカデが、リアルになまなましく描いてあった。
俵藤太が矢で射て殺したムカデも、こんなに巨大だったのかもしれない。昔のサムライは勇ましく、男らしかったんだナー。
「エー、俵藤太はムカデを射るときにどうやって射たか、知ってますか」
おっちゃんは、話題が自分に不利なところへいきそうになると、必死でかえようとする。
「伝説によれば、いくら矢を射てもムカデが死なへん。おかしいなあ、と思《おも》て、矢にツバをつけて射てみた」
「あら、私の聞いたのは、矢に歯糞《はくそ》をつけた、というのでしたよ。ヘンな伝説やけど」
と私は訂正した。おっちゃん聞こえぬふりで、
「ツバをつけた矢はすぐ通った。二度めからはツバをつけないでも入った」
ここで返事したら、おっちゃんの思うつぼにはまるから、とりあわないでおきましょう。
「ところで、この間、ある雑誌に、主婦の手記が載っていましたが」
とこんどは私が話をかえる番である。
「男のひとで強い人、というのは、世間の常識を裏切って、青白くてやせた、非力《ひりき》な人だそうですね」
「その強い、というのは性的に?」
「そうです。ふつう一般には、見た眼に体が頑丈で、好色そうで元気あふれるような男が、強くて、技巧的にも万全、と思うでしょ。ところが、その手記によれば、それはしばしば、あやまりである、といっています」
「なるほど」
「書いてる人は主婦やけど、私、きっと、それは真実の体験やと思うわ。行間に真実がにじみ出てるもん。――青白いインテリみたいな人で、机に向う仕事をしてて、箸より重いもんもったことない、そういう男の方が、ほんとはずっと強いって、彼女はいってます。一見、豪快そうな、いい体つきの男は、しつこそうに見えて、内実は単純で、アカン、って」
「すると、ようテレビや小説にあるのはウソですな。青白きインテリの大学教授を夫にもつ妻が、欲求不満から、たくましい肉体労働者の沖仲仕とか、現場監督とか、タクシー運転手とかに身を任せる、などというのは。テレビや小説みると、そういう筋書きが、よくあります」
「それがウソだって。第一、今日び大学の先生なんて、春木先生や大場先生の例もあることですし、決して、引ッこみ思案で性的未熟、淡泊なんてことはない、と思うわ。――しかるに片や、肉体労働者の方は、これがあんがい、弱い。タクシー運転手さんは胃弱で苦しんでたり……」
「沖仲仕は打ち身、肩こり、ギックリ腰を、焼酎飲んでやっとまぎらわしてたり……」
「そうそう、色恋どころやおまへん、というのが多い」
「そこへもってきて、やはり、ああいうことは、精神的なもんですから、想像力とか心理洞察力とかいうもんも、大いに影響するやろうし。そうなると、頭脳労働者の方が、性的に強い、ということもうなずけますな」
とおっちゃんはうなずいた。
「そういえば、宿屋の女中さんのランクによると、いやらしい客の筆頭に上る栄誉に浴するのは、医者・学者・坊主らしいでっせ」
「ふーん。では、こんご、あちらの方面で強い人を求めようとすれば、青白きインテリの中から探すことですね」
「現代のムカデ退治の英雄は、むしろ、そっちの方にいるんでしょうなあ」
「おっちゃんは、どっちの方でしょうね。インテリでもなし、かといってそうたくましそうにも見えず、ムカデや蛇は怖がるし、さればといって、単純でもないし、好色かと思うと、口ほどのこともなく……強いのか弱いのかわかりません」
「僕はハッキリしてますな。つまり相手によって強うなったり、弱うなったりするのです。おせいさんの相手では強うなりようがない。おせいさんとは所詮、縁なき衆生です。男の強さは、相手によってかわるもんですぞ。青白きインテリも肉体労働者もあるもんか。おぼえとけ」
おっちゃんをどつきたくなるのはこんなときである。
スレチガイ
ニコニコと、カモカのおっちゃんがやってきたので、私は先くぐりしていった。
「残念ですが、今日はどんなことがあっても飲めない。『イブのおくれ毛』が、ほんとにおくれてんの」
いつもならおっちゃんは、
「このくそばか、酒と仕事とどっちが大切や!」
と叫び、私も、
「そうだ!」
となる所だが、今夜は、タダならぬ私の顔色を見て臨機応変に、
「さよか、ほんなら一人でお先にはじめてます。どうぞごゆっくり」
ときたもんだ、こん畜生。ここでもう一押し、
「仕事なんかやめて酒や、酒や!」
といってくれれば、元来、性、軽佻なる私のこと、フラフラとつられていくのに、と少し残念。今日はおっちゃんの方が、風向きかわり、
「こら、こっちばかり見んと、早よ仕事せんかい」
などといい、臨機応変というのも中年男の特徴であるが(若いものだと、こうはいかない)、その、いかにも世の中を戦い抜いてきたという面魂《つらだましい》がにくい。何ていったって、中年男というのは、かたい甲羅の上にコケまで生えて、女の歯が立つシロモノじゃないのだ。
仕方なく、私、けんめいに仕事して出してきた。例によって航空便であります。私の係りの人は気の毒に毎週、綱渡りのスリルを味わい、心臓をいためはるねん。
帰ってみると、おっちゃんはすでにデキ上っていた。今日はヒトの家の氷を勝手に出し、ウイスキーを水割りで飲んでいる。いいご機嫌で、なつメロを歌っていた。いつもなら、かわいらしい風情《ふぜい》であろうが、何せこっちは入ってない。(いい気なもんだ)と思うだけ。
いそいで負けじと飲む。早く、おっちゃんに追いつかなくては、面白くない。片や酩酊《めいてい》、片やシラフということほど、白《しら》けることはないからだ。つまんない。
しかしおっちゃんは悠々として、
「短か夜の酒はええもんですなあ。一句、出ませんか」
「出ませんよッ」
「どうせ、おせいさんなら朝顔や」
「朝顔って、何ですか」
「いや、昔の小話にあります。朝早うに、垣根のすき間から隣りをのぞくと、寝乱れ姿の娘が、朝顔の花をながめてる。目もさめるようなかわいらしい姿、息もせずにのぞきこんでると、娘は庭におりた。何をするかと見れば、紫の朝顔の花を一輪ちぎっててのひらへのせて見ておる」
「ハハア。何してるんでしょ」
「歌でも詠もうという風情ですなあ。いよいよゆかしく見ておりますと、今度は葉をちぎった」
「何のために」
「何のためかと見ていると、チンと洟《はな》をかんで捨てた。ハッハハ」
「ヘン」
私、酔ってないから、ちっともおかしくない。私がいそいで飲むと、おっちゃんも飲む。だからその差は、いつまでもちぢまらない。
「仕事すましたあとの酒は何ともいえませんでしょうなあ」
「ふだんならそうでしょうが、今夜は何となく、スレちがっちゃった。そっちがあんまり、ピッチ上げてるんで、均衡上こっちは下がってしまう」
そこでおっちゃんと私は、スレチガイということについてしゃべった。
双方、同じようにのぼせたり、同じようにさめたりしているときは文句ないが、このタイミングがちょっとでもはずれてスレチガうと、もう最後まで、シャツのボタンと同じでかけまちがう。
酒もそうだし、演説もそう。演者ひとり熱演、聴衆は白けっぱなし、耳をかいたり私語したり、うしろの席と久濶《きゆうかつ》を叙したり、途中でトイレに立ったり、用を思い出して電話をかけにいったり。
ハヤリのすたれた歌手が身ぶり手ぶりで熱唱しても、○○ちゃーんといってくれる娘も花束捧げる子もなく、みなスレチガイの悲劇。しかしスレチガイにもいい所あるとおっちゃんはいう。
「つまり、こっちの方は熱がさめてるのに、女の方は、こっちがまだ惚れてると思いこんで甘えたり、ねだったり、指図したり、始末にこまるときがありますな」
「すっぱり、心変りしたといって、手を切ればいいでしょう。スレチガイをつき合うことない」
「そんなことしたら相手は女、猫化《ねこばけ》よりまだこわい。七生《ひちしよう》、祟《たた》られます」
「じゃどうするの、おっちゃんは」
「しかたないから、こっちも熱のあるふうにみせ、もう何が何でもベタベタまといつく」
私は、おっちゃんがそんなことをしてる恰好って、想像もつかなかった。
「そのうち、向うの方が熱がさめ、スレチガイに気づく。そうなると女の方は男とちがって、これは冷酷無残であります。男のように相手の気持を思いやるということなどせえへん。面と向って、ハイこれまで、というて背中を見せていってしまう。こういう風に、女と別れるときは、スレチガイを利用すればよろしい」
私は、おっちゃんにそんな経験があるとは到底思えなかった。
「まあ、別れのときは別として、女と仲よくひとつ部屋にいて、たのしいことをしてるときにスレチガイというのが最も困ります」
とおっちゃん。
「たとえば?」
「コトの始めは女が中々エンジン掛らへん。こっちは暴走しそう。そんなときです」
「あります、あります。ああいうスレチガイのとき、女は男が何となくアホに見えるもんよ、赤眼吊って迫ったりして。フフン、なんてものよ」
「その代り、コトがすんだら男はもうねむいばかり。それを、女はまだブレーキ利かずに突走って、ヤッサモッサして、あとのほてりをもてあましてる。そういうスレチガイを男は横目で見て、フフン、このアホが、てなもんであります」
「何ですって!」
あわやけんかになるとこだった。スレチガイっぱなし。
プレイボーイ
毎日、カモカのおっちゃんとお酒飲んでいると太平楽であるが、こうしている間も、老いは近づいてくるのだ。その用意はいいのだろうか。
「――準備はできてるの?」
「ここででっか?」
とおっちゃん。何のこと? 何を考えてるんでしょうね。
「いえね、老境に近づく心の準備です。用意はいいの? ということ」
「なーんや。とつぜん、準備の、用意のというから、おせいさんむらむらと来て挑まれたのかと思《おも》た」
「ヒッ」
「こんな台所で、どないしょ、思てうろたえた。老いの準備はともかく、色ごとの準備はふだんできとらんので、いざカマクラというと、オタオタします」
「だーれが、おっちゃんなんか相手に。ヘン」
「そないいうたもんでもおまへん。これでも昔は、いくらかプレイボーイで鳴らしました」
「鳴かず飛ばずってのは、その後のおっちゃんのことですね」
「過去の栄光だけで、折れて曲るくらいですわ」
「しかし、プレイボーイのほまれも、そのかみのことになった、今はタダのとしよりが、いたずらに過去の栄光を吹聴、自慢しているのは、聞き苦しく、見苦しいものです」
「ナニ、そんなことおまッかいな。僕は、老いの準備というと、まず、そのことですな。かつてのプレイボーイとして、老いれば昔の赫々《かくかく》の武勲を、しゃべるたのしみがある」
「それがいやですねえ」
過ぎし日露の戦いに、というのはいちばん頂けない。
老いたるプレイボーイが、洟水すすり目ヤニ拭き拭き、手を震わせ、身ぶり手ぶりで、そのかみの戦果を誇大にしゃべりちらすなんて図は、物あわれである。
「プレイボーイいうのは、たえず現時点の栄光ですからね。過去の実績は問題になりません。そうして、プレイボーイというのは、老いたらむろん、若盛りでも、戦歴については黙して語らずが、よろしいのです」
「そら、ちがうなあ」
とおっちゃんは、捨ておけぬ、とばかり、身をのりだした。
「黙して語らず、というのは、若盛りはそうでもあろうが、年とったらそれではあかん。年とって、黙して語らぬ、いうのは、女にも浮世にも関心はなれた証拠で、棺桶に片足つっこんでますな。色気の無《の》うなった証拠」
「そうかなあ」
「入歯ガクガク、白髪ふり乱し、足もヨタヨタして、栄光の過去を熱意こめて語る、それがよろしいねん。プレイボーイの老いたのは、なかなか、旨味《うまみ》のあるもの」
「なまぐさいやありませんか」
「何いうとんねん――若いときプレイボーイやなんやといわれても、年とって、ツキモノおちたように脂気ぬけた爺さまになる人あり、こんどは若いもんに堅いこというて説教する人あり、そんなんはダメです。――腐っても鯛、老いても男、灰になるまで女に関心もたなくてはいかん。こう見えて、僕はいまも、自分では現役のつもり」
「実績ないじゃん」
「実績というのは、異性に対する関心のあるなしでいう――これはもう、不肖、若き日より、生生世々、つきせぬ泉のごとく湧いとりますねん」
口ではおっちゃんにかなわない。
「そうかなあ。すると、プレイボーイというのは、実績よりも、異性に対する好奇心と関心であると」
「さよう」
「そんなら男はみんな、プレイボーイではありませんか」
「これが案外、そうやおまへん。関心もっとっても抑えつけて、関係ない、いう顔しとる奴もあり、ちょっとひと年《とし》拾うと、すぐ女に関心なくして、子煩悩ひとすじという奴、小学生のわが子の成績自慢、または会社のロッカーにわが子の写真を貼りつけとる、いう手合い、こういうのが多いんですな」
「まだ壮年中年の男で、そんなハカナイもんですか」
「現代は、若年ですでに、そんな奴がふえておる。女にみとれるより、赤ん坊にみとれる、ちゅうような、婆さんの腐ったような男が多い」
「では、老年になって、女に関心と好奇心をもつ、ということは、たいへん、ありにくいことで……」
「そやから、それを真のプレイボーイ、という。若い男、恰好よい風をして車なんかころがして、安もんの女、次から次ひっかけとる、なんていうのは、これは犬ころのふざけ合いにすぎん。こんな奴がすぐ子煩悩になりよる」
いや、そういえば思い当りました。上方落語の御大《おんたい》、笑福亭|松鶴《しよかく》師匠、この方はもういい年だが、すごいプレイボーイ。実績だけではなく、好奇心と関心も物すごい。私はいつか、大一座の中で師匠によそながらお目にかかったことがあった。そのとき師匠は大一座をずーっと見渡し、私の所へ視線がいくと、(ハテ見なれぬオナゴがいよる)という風情で、じっと私を見つめられる。その視線というのが、じつに色けがあって、男の好奇心むき出し、値踏みするようにためつすがめつ、イキイキと面白がっていて、躍動する若々しい好奇心を感じさせられた。私は一ペんに師匠を尊敬し好きになってしまった。男というものは、あらての女に会ったときは、そういう風でありたい。私は師匠を男の中の男であると思ったが、おっちゃんにいわせると、
「それこそ、真のプレイボーイ」
なのだそうだ。
「僕も何かは以て松鶴師匠に劣るべき。老いの未来はプレイボーイ道《どう》に徹するつもり。バラ色にかがやいています」
「カモカのおっちゃんが死んだときの追悼句ができたな。『プレイボーイなどとよばれる人なりし』なあんてね」
追悼句というのは重々しく詠み上げると、何かおかしい所に特徴がある。
男のいじらしさ
私は男がセッセと働いているのを見ると、いじらしい気のする所があり、前に佐藤愛子チャンに話していたら、
「ふつうの女やったら、男が働いてるのを見ると、凛々《りり》しく頼もしく思うもんなのに、あんたけったいな人やネー」
と感心された。
まあたいがい、婦人向けよみものなどではそういうことになっている。
家の中ではゴロゴロしている男、女房子供のヒンシュクを買い、軽侮されている存在なのが、職場では打ってかわって別人かと思うが如く、はたまた、水を得た魚の如くハリキッて働いてる。たまたまそれを目のあたり見ると、妻たちは、
「やっぱり男の人というものは――」
と見直し、
「さすがはお父ちゃん」
と、何もわからず男を軽んじた女のあさはかさを自責する、というような手記や座談会が多い。
これは思うに、オノロケのうら返しであろう。
オノロケをいうことではおさおさ劣らぬ私であるが、ナゼカ、働いている男を見るといじらしくて涙が出そうになってこまるのだ。
ちょうど幼稚園の運動会を見るよう。園児たちが、レコードについて首をふりふり踊り出す、
「メダカの学校はァー――」で、みんな教えられた通り無心に手をつなぎ、輪になったり、立ったり坐ったりする。そのあどけないしぐさ、素直なようすを見ていると、大人というものは何となくやるせなくせつなく、かわいいというよりはいじらしい感じで、まぶたのうらがあつくなってくる、そんな種類の感慨である。これをありのまま人に伝えることはむつかしい。
受けとり方によっては不遜《ふそん》な言辞ととられる。何だか自分は高みにいて、神様か何ぞのように男を見おろして哀れがってるとはけしからん、と思う殿方もあるかもしれない。
しかしむろん、決してそういうものでもないのだ。私は殿方をそんな目で見たことはない。そういう感覚ともすこしまた、ちがう。
たとえばこの間、私は町でぼんやり立ってると、見知らぬ男であるが、セカセカとビルから出て来た。そうして駐車場へ入り、古ぼけたブルーバードにカバンを抛りこみ、運転席にそそくさと身をねじりこんで、ドアをバタンとしめた。入口の守衛さんにあいそ笑いして、日盛りの暑い町へ、車をころがして走っていった。
そんな恰好見ると、何だかもう、いじらしくてこまるのだ。
思惑通りに取引きできないのか、アテがはずれたのか、えらいクレームつけられたのか、契約を小便《しよんべん》されたのか、一人になるとムーとした顔になっちゃったりして、目を血走らせ信号のかわるのを待っている。
その殿方は、私が見ているともつゆ知らず、無心にやってるわけ。しかし男の無心というものは、女心をそそるもんである。色の恋のというのではないが、何か世の哀れを感じさせ、まぶたの裏があつくなる。お利口お利口という感じで、胸をきゅっとしめつけられそう。
儲かったのか儲からないのか、せわしく心もそらに惑い歩き、私はもう、男が汗をぬぐいながらセッセと歩いているのを見ただけで、涙ぐんでしまうんだ。
「あんたって、ほんと、へンよ。歩くのは誰だって歩くやないの」
と女友達の一人に叱られてしまった。しかし、男はいつも仕事でほっつき歩くわけでしょう、足を互いちがいにくり出したりしちゃって、そのいじらしいこと……。
「バカっ。両足一ぺんに出したら蛙とびになるやないのさ! いったい何だってそう、男に哀れやいじらしさを感ずるの?」
それは私にもわからない。
しかし男の姿というのは根源的に哀れがつきまとう。得意先に注文とりにいってボロクソに追い返されたり、いやな上司にけちょんけちょんに叱られたり、気のくわない同僚がすいすい昇進してえらそうな大口を叩いたり、それにじっと堪えてる、そんな恰好を想像させるからである。
「そんなことは男やったら、当り前のことでしょ!」
とまた女友達はいった。
「でもねえ、何か、ふびんというか、いとおしい、というか、男は一生けんめいやってるという感じで……」
「じゃ、あたしはどうなの?」
と彼女は吠えた。この女友達は共稼ぎの女教師である。朝は六時に起床し、上の子の朝食を作り、学校へ出し、下の子をおばァちゃんにあずけにいき、主人を食べさせて自分は戸締りして出かける。電車にゆられつつ、朝食をとるひまがなかったことを思い出したりする。帰ると子供を迎えにいき、夕食の支度あと片づけ、洗濯掃除、生徒の答案調べ。
「この大車輪の活躍、いじらしいと思わへん?」
それは、いじらしいというより悲壮凄絶のかんじ。勇猛果敢、一路|邁進《まいしん》、断じて行なえば鬼神も之《これ》を避くという烈婦の鑑《かがみ》、どこに哀れやいじらしさがあろう。ただただ、脱帽あるのみ。
「お年よりでセッセと働いてる、そんな人の方が哀れなんじゃない?」
それは別の次元であって、厚生大臣の考えることに入り、男の哀れ、いじらしさは、どこへ尻をもっていっても「管轄外だ」とつき放されそうな哀れだから困るのだ。こういうのは私自身もこまっちゃう。
男がいじらしく見えると片っぱしから尽したくなり、体がいくつあっても足らぬ。「滝の白糸」の千手観音ができてしまう。そこへ、
「あーそびーましょ」
とカモカのおっちゃんがやってきた。あ、これはダメ。酒飲んでいるときの男と、女とナニしてるときの男は、いっこう、いじらしくも哀れでもないのだから、尽す気は起らないのだ。してみると、私が男にいじらしさを感じたとて、男には何のプラスにも得にもならぬのだ。
お気の毒さまでした。
政治的オーガズム
世間がほこりっぽく、なってきた。右に左に、あわただしい風が吹く。
だんだん、だんだん、暗い時代に入りつつある気がする。選挙などあると、とくに目につく。そうして左の声が高くなると、負けじと右の声もたかくなる。ああいやだいやだ、双方とも私はきらいだ。
こんどの選挙では、共産党の得票がふえたが、これは、自民党を牽制《けんせい》する目的の票も多いと思う。こういう票、もし共産党が、政権を取った場合、自民党に入れる票である。いうならバランス票である。こういうのが、現代には多い。尤も、共産党が第一党になってなお、他党の存在を許していれば、の話であるが。
それにしても、選挙というのはやっぱり大きなゲームで、それも男の子の夢なのだと思う。私は投票もしたし、選挙のニュースも読むが、どこか隔靴掻痒《かつかそうよう》の感がある。市川房枝女史を当選させようという熱意はおさおさ人にも劣らなかったが、しかしそれとても、男たちのそれとは、すこし、種類がちがう気がする。
カモカのおっちゃんなど見てると、とくべつ誰か候補者の肩入れをしているということもなさそうだが、選挙がくるたび、血沸き肉躍るという感じ、開票の日は深夜までテレビを見、ラジオを聞き、全くヒトゴトながら一喜一憂というか、一顰一生《いつぴんいつしよう》というか、盃を片手に選挙速報を肴《さかな》に飲んでいるそうであるから、世話はない。
政治というものほど、男たちにとって、おいしい肴はないらしい。
男には本質的にピッタリくる戦争ごっこなのだ。
何の縁もゆかりもない候補者であれ、票が伸びたり縮んだりするたびに、殆んど肉体的な生命感の充実を感ずるらしい。
私は女であるせいか、それとも、私がかわってるせいか、選挙ニュースを、単にニュースとして見るだけで、ドラマは感じない。どうしても男たちみたいに、身内の血のざわめきでもって興味をかき立てられたり、痛憤したり、喜んだり、残念がったりすることができない。ちょうど野球のルールを知っていてもそれだけでは面白くないのと一緒だ。その試合にまつわる情報やかけひきを知って、感動を共有しないと、選挙の一挙手一投足に心躍る陶酔は得られない。
「つまり、そこんとこは、不感症というもんですな」
とカモカのおっちゃんはいう。不感症がどんなもんか知りませんが、男たちの陶酔を、こうもあろうかああもあろうかと考えてみたりして、何か、もどかしい。――これが不感症というものかね、やっぱり。
コンナハズデハナイ、という気がたえずあるが、どうしても絶頂感は得られない、つまり政治不感症ということになりそう。
といって、決して男たちのやっさもっさを冷眼視しているわけではない。
しかし、誰もかれも埃の中を走り廻って政治的絶頂感にいかれているとなると、シーソーのように私は沈んじゃう。
こまったことだ。
どうしたらいいのだ。
皆、ヒイヒイといって眼を剥《む》き、シヌだのイクだのと選挙ごっこにうき身をやつして恍惚《こうこつ》としているときに、私はひとり咳払いしたり、洟をかんだり、柱時計を見上げたりして不感症をもてあましてる。しかしこれも、生まれつきだから、仕方あるまい。
選挙のあと各党の代表者がテレビに出てしゃべっていた。たまたまカモカのおっちゃんが来ていたので、酒を飲みながら二人で見ていた。
私は何心もなく、
「この人たちはみな一穴主義かなあ」
と呟いた。私は男がまじめな顔をしていると、ふざけたことを考え、ふざけた顔でいると、まじめなこと――たとえばこの男の支持政党は何だろうかと考えるクセがある。
おっちゃんは各党の選挙の反省に耳かたむけて聞いており、私の疑問に対して、
「そんなこと、関係ない!」
と一喝した。おっちゃんまでそんなことをいってるのではたすからない。
私としては、みんなが政治的オーガズムに浮かれているあいだは、男たちにやさしさがなくなるような気がして、所在ない。手もちぶさたである。
こんなとき、ちっともかまわず、「女こども」のことを書きつづる小説を、ひっそりとよむのがいい。
宗薫センセイや、コミマサおじさまのものを愛読し、お酒など飲んでるのがいい。
小説も、いまにだんだん、天下国家に号令する小説がでてきそう。そうして、政治的オーガズムをますますたかめるような小説がもてはやされそう。ポルノ小説、情痴小説は、士君子からおとしめられる時代が、きっと来るような気がする。
そういうときにこそ、私は、やさしさのある小説をよみたいと思うものである。
「やさしさ、というのはたとえばどんなことですか」
とおっちゃんはいう。やさしさはユーモアでしょう。おっちゃんと文学論をする気はないが、たとえば『金色夜叉』という古い小説で、貫一はお宮を蹴るが、倒れたお宮が足に血を流しているのを見て、「や、怪我をしたか」と貫一は駈けよるのである。貫一がお宮を蹴倒すのは、みな知っているが、怪我をしたか、と思わず駈けよるシーンは、あんがい知られていない。将来の小説、蹴倒すときの恰好よさだけあって、あとで介抱に駈けよるぶざまなやさしさは、なくなってしまう気がする。
「ウーン、そんな個所がありましたか。しかし、それはやさしさで駈けよったんではありますまい」
とおっちゃんはいった。
「お宮は着物を着てましたんやろ?」
「そりゃァ、明治の女ですもの」
「すると、ころんだ拍子に赤い蹴出しが見えて、貫一の男心をそそったんですな。蹴倒すのも駈けよるのも根は一緒です。天下国家の、政治的オーガズムのと、大層にいうな、ちゅうねん」
花は桜木、女は間抜け
私は、電話でアンケートに答えるのは、よそうと思う。
ナンデヤ、というと、聞いた方は大阪弁をしらないから、いいかげんなことを書く。本になったのを見ると、
「そんなことおまへんやろ」
「そうでんなあ」
などと私がいったことになっている。
こういうコトバ、私は使わない。私は笠置シヅ子サンでも融紅鸞女史でもないんだよ。
私だけではなく、五十代の女《ひと》でも、現代の大阪女は、もう使わない。団地に住んだりする奥さん、四十代でも、それ以下はむろん、使わない。
内々の砕けた物いいで、
「そんなことないやろ」
「そやなあ」
などというのは使うが、改まって、見も知らぬ人としゃべるときは、「そんなことはないでしょう」「そうですねえ」と標準語に移行してしまう。私も、そうである。敬語の大阪弁は死語になりつつある。
そういうセンスがない人が書くと「そうでんなあ」と私がいったことになる。これは失礼なもののいい方、ということに(現代の大阪の女性言語文化では)なっている。「そうでんなあ」や「おまへんやろ」は、昔は敬語であったが、いまのニュアンスでは、女性が使うと、ぞんざいな語法である。よく知らない人に、そんなぞんざいな言葉遣いを女はしないはずである。「そうでんなあ」も「おまへんやろ」も、最近、ある本に私の談話として載ったものである。――いや、大阪弁の話をするつもりではなかった。大阪弁をまちがって書かれるのもこまるが、それより私は、「○○さん談」とのるのに、ふさわしくない人間であるような気もされる。「○○氏談」とやってぴたッときまる人と、あまりそぐわない人とあり、不肖、私はうたがいもなく後者の方である。人間には「格」というものがある。
したがって、あまり講演などもせぬ方がよい。私は講演はみなおことわりしているが、ときに引き受けさせられることがあり、講演の中身を録音してスリモノになってくばられたりしたのをよむとまるで梅巌《ばいがん》の「心学道話」である。自分ではそう思わないコトバが次々に出て、説教くさくなってしまう。壇上へ上ってしゃべる以上、どうしてもそんな形にした方がいいと思うらしい。つまらぬことだ。
それからして私は考えた。
四十になれば、自分の顔に責任をもて、というけれど、それは、自分の顔にふさわしいことをする、ということでもある。私の顔ににつかわしいという状態は、演説ではなさそう。お酒飲んで笑ってるときの方が、かなりいい線いく、と思うんだ、われながら。
心学道話や「何々さん談」には不向きと思う。
「ねえ、そう思わへん?」
とカモカのおっちゃんに聞いてみた。
「まあ、そうでしょうなあ。心学道話をする顔ではない。電話アンケート、新聞の評論、みな、あんまりおせいさんには似合いまへん」
と、おっちゃんはいう(男はこんな風に大阪弁の敬称を女よりも自由に使う)。
「そうね、人間の格がないですからね、私は」
「まあ、格のありすぎるのもこまるけど。而《しこ》うして、中年女、みな格あり、男としては大こまりです――ああ、中年女はイヤヤ」
「何でですか。おっちゃんはいつも、中年女をほめるではありませんか。もう若いもんはしんどい、とか。花は桜木、女は中年≠ニか」
「いや、ホンマのとこいうと、内心、やっぱり、若い女が好きですな」
「卑怯者、去らば去れ、われらは中年守る。――前言をひるがえすとは無節操です」
「なんでいうたら、若い女の子は間抜けてるからでしてね。――そもそも、男のきらいなものに、女の分別くささがあります。若い女の子はどことなし間抜けてて、男としては気らくでよろし」
「キッキッ」
「自分ではかしこいつもりでも、あたまかくして尻かくさず、いう所がある。どことなく未熟、拙劣、セイ一ぱい背のびして見せてもどこかネジがはずれてて、ご愛嬌」
「キッキッ」
これは、私の歯ぎしりの紙上録音なのである。私はいった。
「あたまの中が、からっぽということではありませんか、それは」
「からっぽ! それがよろしい。女はからっぽに限る。かしこい女、分別くさい女、したりげな女は、男には、かなわんのですぞ」
――今日の風向きはおかしい。
「およそ男が中年女を好かぬのは、まず、分別ありて、身の処し方うまく、他人をあげつらい、ことには男に指図するから」
「けっこうではありませんか。見てられへんからです」
「目から鼻へ抜けるような女が多い。そうして、男のすることなすこと、うしろから論評して、せせらわらう。劫《ごう》を経た金毛九尾のキツネのごとく、はたまた、古池のヌシの大ナマズのごとく、悪ヂエと奸智にたけて、ノターッととぐろをまき、また、シャクにさわるけど、世の中のこと往往にして中年女のいうとおりになるから始末にわるい」
「先々まで、ふかくよんでいるからです。すべて中年女のいうことにしたがっとれば万全なのです」
「そこが、男としてはハラ立つ。今日びの中年女、みな目から鼻へ抜けて、分別ありげなヤカラばかり。中年女から分別引いたら何が残るか?」
「いろけ」
「あほ、そんなもん薬にしたくもあるかいな。中年婆から分別引いたらズロースとツケマツゲだけ、ああ、中年女はいやや。女はあほ・間抜けがよろしゅうござります」
おっちゃんは私を見て、
「おせいさんの間抜けぶり、あほさかげんは、かなりのクラス、まあまあですぞ」
私としては、喜ぶべきか怒るべきか。
男のヒステリー
このごろ男の人もけっこうヒステリックな人が多い。ヒステリーは、女の専売だと思っていたのに。
私が何か書くと(小説ではなく、新聞などのコラムである。私はこういう場では、わりにナマにかく)、男からヒステリックな投書がくる。
たとえば私は、刑法改正案は、現代の社会状勢を戦前の警察権力時代の思想でしばることで矛盾がある、と書いた。また、中絶について、いまの日本では、四、五人もの子供をらくに育てられる余裕を政府は与えてくれないし、独身の女が生みたいときに生める自由もないから、中絶やピル解禁は必要だとも書いた。――尤も、それより先行するのは安全な避妊法の発見であるし、もっと性教育を徹底しないといけないと書いた。
すると男の読者からごうごうたる非難、弾劾の手紙が舞いこんだ。
刑法改正は、日本を正すために必要だという。又、中絶は悪であり、罪であるという。この人たちは避妊と中絶の関係について何一つわかっていない。中でも多いのは感傷的道徳論である。ヒスとセンチを併有するのは、当今では、女よりも男たちの方になった。
尤もこちらも、そんな投書をよむと、何とおくれた男かと、イライラしてヒスをおこすから、これはいい勝負であろう。
カモカのおっちゃんは、中絶は女の考えるべき問題で、男は口出しでけまへん、といっている。するべきでもない、という。
刑法改正案については、これは若年中年の考えるべき問題で、年よりは口出ししたらあきまへん、といっている。戦前そのままの感覚で、今日び、通すことはむりなのだから。
「あまりヒステリーにならんように、刑法も大阪弁で書いたらよろしねん」
そんなことを考える所が、中年男の発想であろう。
「どうして一億、総ヒステリーになるんでしょ」
「僕、思うに、ゆっくりモノを食べへんからとちがいますか。早めし、早|糞《ぐそ》、早×××」
「フン」
「短い人生、そんなにいそいで何をする。その縮めた何秒かを何に使うねん。すべて、右の三つ、これを心のどやかにゆっくり、時間をたっぷりかけて致すと、社会全般ものびやかになる」
「そうかなあ」
「僕は近来、右の三つを心ゆくまで味わうために、ほかの仕事は、犠牲にすることにしました。そうでないと、何のために生きてんのや、わかれへん。――ゆっくり賞味して食べ、さてまた、たっぷり時間とってトイレにしゃがみ、心ゆくまで用を足す。水洗の紐を引っぱるまでに、じっくりとっくり、得心いくまでおのが戦果に見入るのです。色、ツヤ、太めか細めか、かためかやわらかめか……」
「もうけっこう」
「さてそのあと、またたっぷり時間をとってたのしむべきことが待っている。まちがっても早×××など、あってはならぬ」
私はいそいでおっちゃんの言葉をさえぎり、上品な、食べる話だけに限定して話題にのせることにした。
「このごろ、食べもの、脂こいものがだめになって、精進料理なんかが好きになっちゃった。おっちゃん、そんなことないですか?」
これは私だけではないとみえて、この間、神戸へ偶然、杉本苑子サンや津村節子サンが集まったので、私が、精進料理へ案内すると、二人はたいそう喜んでいた。二人とも、神戸ではごはんを食べるというと、肉が出ると思っていたそうだ。杉本サンなどは、清水の舞台からとびおりたつもりでビフテキを食べようと、悲壮な決意をしていたよし。これでも三人とも若いころはビフテキを喜んで食べたものなのに、そろって嗜好がかわったのはおかしい。
「いや、僕はべつに、肉でも淡泊《あつさり》したもんでもえらびまへん」
とおっちゃんはいった。
「食べものなら何でも。ただし一ばんええのは、荒っぽい料理を手づかみで食うこと。手で引き裂き、むしって食う肉や魚が、一ばんうまい」
「バイキングスタイルですね」
「そういえば、僕は女の料理が、だんだんきらいになる」
「へー。わるかったネー」
「おせいさんは別。しかし、男が荒っぽくぶったぎって入れる大まかな料理にあこがれる。たとえば、昔のテレビドラマの『ローハイド』にあった、ウイッシュボン爺さんがつくるポークビーンズやシチュー、はては、昔の鞍馬の僧兵なんかが、大釜でたく飯や汁、そんなものが美味《うま》そうに思えます。オシロイくさい、こざかしい料理は、あまり好かん」
「しかしね、お寺の食事ったって、昔の僧兵ならいざしらず、今はデリケートなもんなのよ。かつ、礼儀ただしく敬虔《けいけん》な食事作法があって、むしるの、引き裂くの、とそんな海賊ばりにはいきませんのよ」
過日、私は比叡山へのぼった。そうしてお山で一泊してお寺のごちそうを頂いた。食前観、食後観をおしえて頂く。これも仏縁あさからざるしるしであろう。
「吾今幸いに仏祖の加護と衆生《しゆじよう》の恩恵によってこの清き食を受く。つつしんで食の来由《らいゆう》をたずねて味の濃淡を問わず。その功徳《くどく》を念じて品の多少をえらばじ。いただきます」
「吾今、この清き食を終りて心ゆたかに力身に充つ。願わくばこの心身を捧げて己《おの》が業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。ごちそうさま」
というのである。
まことに、食も一つの修行である。
「なるほど。それは食べることだけとちがいますなあ」
とおっちゃんは感じ入って叫んだ。
「女人とナニのときに、食前食後、そう唱えれば、身心|解脱《げだつ》して、大悟するのではないでしょうか。その功徳を念じて品の多少、味の濃淡をえらばじ、とつつしんで食べ、終ると心ゆたかに力身に充ち、四恩に報い奉らんと感謝する。よろしなあ」
おっちゃんがヒステリーになるはずなかろう。
逆 さ 吊 り
私はかねて文士の集まりというものに対して疑問をもっている。
物を書く人が徒党を組んで群れるということは、親睦団体か利益団体だけでいいのではなかろうか。税金をまけろとか、原稿料を値上げすべし、という目的で結束するのはわかるが、ある政治的目的のもとに一つに結集するということは、ありえないように思われる。
物書きほど一人一説、一人一党であるものはないだろうからだ。
しからば文学の理念の根本というか、これをはずしたら文学ではおまへん、というギリギリの点で、文学者が結束するかというと、これがまた、そうでもないのだ。
文学の理念とは何だ、ということで議論百出、談論沸騰する。
私自身は、個人の自由と人権、それに表現と表現手段の自由、というのが文学の最低の基礎のように思うし、それを奪われれば、物書きにとっての死であると思うが、そう思わぬ人も、むろん、いるわけである。
この文学の根本は、もはや政治と文学がぬきさしならぬ悪縁でつながれた夫婦であることを思わせるのだが、これが全然、別個のものだと主張する人々もいるのだ。
私は、政治に無関係でいられる文学なんてあり得ないと思う。思想や表現の自由が抑制される国では、文学は歪曲《わいきよく》されるか、深く静かに潜行して地下出版とならざるを得ない。
一つの思想、一つの表現しかゆるさない国家に、果して、文学が生まれるのかどうか、いつもそれを考える。――なぜなら私たちの世代は、戦争中の翼賛文学を知っているからである。
ちょっとでもお上《かみ》、軍部に批判的なことを書くとたちまち発禁になる。それでも書くという人はひっぱられてぶちこまれ、ゴーモンされて転向してしまう。
どうもわれわれ戦中派、昭和ヒトケタ、フタケタ前半の人間は、その恐怖感が強い。むしろ実際に、戦争中の翼賛文学時代をくぐりぬけてきた長老文学者たちより、その危機感はつよいのではないか。
かりに私だとする。
「いつまでこんな愚にもつかぬ、大阪漫才の台本のような小説を書くのだ、もっと万世一系の大君をいただく誇りにあふれた大日本帝国の、行手の光明になるような勇ましい小説が書けんのかね」
とやられる。あるいは体制によっては、
「人民に奉仕するための小説を書かずに、自分ひとり落語をやっとるような小説を書くとは何だ、自己批判が足らん、反省しろ」
と、ぶちこまれる。
それでも、
「イヤ、そういうのは柄にあいません」
というと、拷問されかねない。この拷問の恐怖というのも面白いよ。長老大家たちは「何を今さら……」と嗤《わら》われるかもしれないが、私たちの世代の物書き、みんな、それを恐れている。
野坂昭如センセイは、「爪の間にツマヨウジを差しこまれたらどないしょう」と書いてらした。筒井康隆チャンは酔うとよくいうが、「爪のトコにキリなんかさしこんでこられたら、オレいっぺんに転向してまう」とオロオロしている。両雄いずれも、期せずして発想を同じくしているのが面白い。
私はというと、逆さに吊るされたらどないしょう、と考える。恥ずかしいからすぐ転向する。
そのことあるを予期して、これから着物やスカートを穿《は》くのは止そうと思う。
私が逆さ吊りをいつも思い浮べるのは、秋田実先生のお話からである。
このすぐれた上方漫才作家で、漫才育ての親である秋田先生を、私はじつにじつに尊敬しているのであるが、先生は戦前のアカ弾圧で拷問をうけられた方で、にこにこして時にそれを話されるのが、じつに凄惨《せいさん》である。
「きれいな女の子が逆さ吊りになっててねえ」
などというところが、じつにコワイ。
要するに、左翼作家や軟文学作家の弾圧を肌で知っている世代の私としては、抑圧の恐怖と嫌忌をまざまざと想像できる。
その場合、文学と政治は別だというような間抜けたことは考えていられないのである。
政治と別な文学をゆるすほどのんきな政府が、あるだろうか。
しかし、政治に対する文学者の発想や信念は一人ずつちがうはずであるから、文学者のパーティを政治的にいろどりすることはできるべくもない。
ペンクラブも、本来の親睦団体にしてしまえばよいのだ。そこへ政治をもちこむから今回のような混乱が生ずるのだ。私はペンに入っていない。
以前に入会をすすめられたが、ちょうど何かの大会のときで、皇太子御夫妻の臨席を仰ぐということがあった。これは、物書きとして理解に苦しむことである。物書きは形にあらわれた権威や象徴で身を飾るべきではないと思う。オトナ気ないけれども、私としてはこんなことをやる物書きの仲間に入る気はしないから、ペンクラブに入るのは見合せた。
漫才台本書き、落語台本書きを標榜《ひようぼう》している私が、そういう所へ入るのは堕落の一種である。
――いや、こんな気負いもオトナ気ないか。
それはまあ、私の勝手であるが、詩人が詩を書いて投獄されるという政治の実情を見れば、韓国に言論弾圧がないとはいえまい。金大中氏事件をみても人権|蹂躙《じゆうりん》の事実がないということはできない。藤島泰輔氏らの意見が、何を見ての結論かはわからないが、両氏を派遣したのが日本ペンなら、日本ペンはその発言の責任を負うべきではないのか。
どうしてモタモタしてるのか、これも理解に苦しむ。有吉佐和子さんや司馬遼太郎さんが、藤島氏らの「韓国に言論弾圧なし」という発言に憤慨してすぐ脱会されたのは、物書きとしてまことにスッキリしたことで、見識のあることだ。それにしても藤島氏を派遣したらこういうことになるのは前もってわかっているのに、かしこい作家や文士が一ぱいいらして、ナゼ想像できなかったんでしょう……。
私がひとりでガナリたてているのを遮《さえぎ》ってカモカのおっちゃん、
「何いうとんねん、それは文士をえらいもんや思うさかい、怒らんならんねん。特別扱いすな、ちゅうねん。どうせタカガ物書き。いつもこの、タカガを忘れるなといいきかしとるやないか。長年教えとるのにまだわからんのか……」
あ と 始 末
私が信頼するすぐれた評論家の樋口恵子さんは、「男の子にあと始末のしつけを」と提唱されている(『毎日新聞』昭和49年8月12日付)。
男はあと始末のしつけを受けていないので、前へ前へと進むだけで、他者の痛みを予測しない。「世界に冠たる日本の公害体質は、あと始末を知らない日本男性によって支えられ、拡大再生産されてきた」といっていられる。全く同感である。私は「家庭科の男女共修をすすめる会」に賛成である。
そういうことは、日本文化の根本が、女性的論理や思考に冒《おか》されることだと難ずる男が多いが、それは関係ない。
日本文化というのはフシギに、男性上位の社会でも、女臭をただよわせるところに特徴があるのである。
日本文化の女性的傾斜を論じていると長くなるから止すが、どうしてまあ、男というものは本当に、あと始末、わるいんでしょう。
私は前にもどこかへ書いたが、子持ちでワンセットの男と結婚して一ばんびっくりしたのは、息子たちが徹底して男性上位の躾《しつけ》を受けていることだった。これから見ても、男子三歳までにあと始末の訓練をさせるべきで、もう小学生ともなると手おくれである。
私は、小学五年の次男が、外から帰ってきて、
「ただいま。表に犬のフンが落ちてるよ」
と私に注意したときの驚倒と憤怒を忘れがたい。
「バカッ。フンが落ちてりゃ、オノレが掃《は》けッ!」
と私は、怒髪、天をつくが如く、怒号した。
女をなんだと思ってるのだ、こん畜生。
ほんとうにびっくりしたんでございますよ。
何という躾をやらかすのだ。こういうことを男の子にいわせる母親というものがどだいバカなのだ。自分が住んでいる家や自分が食べたもののあと始末をするのは人間として当然のことで、男も女も、区別があるはずがない。
男の子は、そんなことをいちいち考えていては、りっぱな仕事ができませんよ、と、母親自体から苦情が出るかもしれないが、しかし、では、りっぱな仕事、というのは何だろうか。大学へ入って一流会社へ勤めるか、役人になるか、何にしたって男のやってることを見れば、りっぱな仕事、というのは金もうけと戦争に集約されるのではないか。もはや大航海時代は終ったのだ、りっぱな仕事をするのは、女の中にもいるかも知れず、男だから女だから、というので家庭科を区別する必要はない、と思う。
日常生活では赤児と同じに、手の掛る男がいる。私は、いくらかわいくても、こんなバカみたいな男はごめんである。洗濯一つできず、料理も知らず、妻がいないとヒゲぼうぼうになり、空き腹と憤怒を抱えて隠忍している、というような男は、私には無能のバカ者としか見えないのである(尤もそれと同じく男がいないと食っていけない、という女も、しかり、である。男がいなければ淋しくて生きていけない、というのなら話はわかる。しかし男に食わせてもらわなければ生きられない、という女はこまったものである。自分の手で食べるということも、人間に生まれたあと始末かもしれない)。
ところで、市川房枝さんのところから、この間、カンパのお金が還ってきた。選挙のとき「供託金を募る会」というのがあり、いささかカンパしたら、はじめの約束では、選挙後は返却するということで、私はむろんそんなことを考えずにカンパしたのだけれど、ほんとうに全額、返済してこられた。
私だけでなく、すべての募金に応じた人に返されたものだと思う。すぐれたあと始末ぶりである。
また、野坂昭如センセイは、選挙後も、事後運動の会を主催して、立候補のときの所信の責任をとりつづけていられるのは、りっぱなあと始末と思う。スジの通ったことであろう。
かの太陽への挑戦者のあと始末とは、えらいちがいである。
あと始末を考えないで、その場その場でハッタリをやってるのなら、それは、いくらでも「りっぱな仕事」ができるわけで、カッコいいことであろう。
すべて、カッコよさというのは、あと始末なしのところに生まれる。
カッコよさ、というのは、やってる当人にいうと、とても怒るところに特徴がある。
私は以前に、ゲバ学生と話してて、何心もなく、
「カッコいいと思ってる?」
といって、いたく叱られた。彼は怒りでとび上り、
「カッコいいと思ってやってるんじゃないんだ!」
と叫んだ。これは彼が、もしかしたら、自己陶酔でカッコいいと思ってたせいかもしれない。しかし彼は、あと始末なんか考えないから、ゲバってられるのである。
「あと始末、あと始末というても、なあ……」
カモカのおっちゃんは考え深げに、
「男はあんまり、あと始末を叫ばれると萎縮してしもて、ほんならはじめから、やめとこか、という奴もでてくる。僕も、あと始末がじゃまくそうなると、何もせんとこ、ということになる予感があります」
「そんな|ものぐさ《ヽヽヽヽ》、おっちゃんだけでしょう」
「いや、その昔、石原慎太郎サンが、障子を破ってみせたときも、男はみんな、いうとった。破ったあと貼るのン、誰やねン、て。自分で破って自分で貼ってられまッか、じゃまくさい」
「まァ、その障子は別として、ですね……」
「あと始末といえば、女とナニする、あとコマゴマした用事する、みんな男がやりまンのか」
「それはその……」
「シーツ直したり、電気つけたり、タオルとってきたり、水汲んできたり……」
「あの、それは、ですね……」
「そんな、しんどいあと始末せんならんのやったら、はじめからやめます。見てみい、男にあと始末強要すると、こない、なるねん」
男の恥・女の恥
人間、なんでもニコヤカに八方|円《まる》くおさまって善男善女、性善説というのでは、小説でもドラマでもニュースでも噂話でも面白くないもので、ワルイ奴や、毒舌が出てこなければ面白くない。毒舌・痛罵に出あうと、旱天《かんてん》の夕立のごとく、気分がスーッとする。
その意味で、私は佐藤愛子チャンのエッセイを愛読するものである。
愛子チャンの最近の一文の中で、こんなのがあった。某新聞の夕刊にのっている作家論が、あまりに見当はずれで悪意にみちていやらしく、新聞社の威を借るキツネであって、これはインポの文章ではないかと、朱唇、火を吐く痛快さで論断していられるのである。
私も、実はその作家論をよんでいて、(これはちゃう、ちゃう)と叫びたいときが多いので、全面的に愛子チャンの意見に賛成であるが、ただ一つ、かすかに疑問をもつのは、インポときめつけられた場合、男性は、侮辱ととるのかどうか、そのへんは私にはわからないのである。
中には、そういわれても、べつにバリザンボウと思わずに、「ハァ、わて、インポだんねん」とすましてうなずいている男もあるのではないかしら。そうして私自身、それが本来、どんなふうになるものか、女の身にはよくわからないので、愛子チャンが花道で六方を踏んで、「うぬはインポだ!」ときめつけても、相手に及ぼす効果のほどを、うたがわずにはいられないのである。小説などをよむと、いかにも、男の風上におけないように書いてあるけれど……。
カモカのおっちゃんに聞いてみよう。
「ねえ、男にとって、デキナイ、というのは、やっぱり恥ずかしいことですか?」
「デキナイ、って何が?」
おっちゃんのいじわる。私は、字では書くけど、口でいえないコトバというのはたくさんある。インポもその一つである。
「あのう、つまり、役ニタタナイ、ということです」
「何の役に」
「何の役って、イザ鎌倉というときに、御期待にそえないという状態」
「そやから何が、そうなるのかというてんねん」
とおっちゃんはいったが、私がイライラしているのを見ていそいで答えた。
「わかりました、インポの状態ですな」
私は字ではよむけど、肉声で耳で聞くに堪えないコトバというのはたくさんある。インポもその一つなんだ。しかるに、私がいやだと見てとると、おっちゃんはわざと大声でいう。
「つまり、インポというのは男にとって恥かどうか、というのですな。それはやっぱり、インポと思われるのは、恥ずかしいですなあ」
「ソレときめつけられたら、コタエルかしらね」
「それはコタエますなあ」
「でも、そういうことは職場のお勤めには関係ないことだし……」
「ヒモの勤めはできない」
「それはそうだけど、外から見てわかることではなし、どうということ、ないのとちがいますかねえ」
女にはそこがよくわからない。
「いや、それはちがう、気分的にまいってしまう」
とおっちゃんはいい、すぐ、
「まいってしまうような気がする」
と訂正する。
「たとえば、女性とたのしい時間をすごそうと期待してすでに代償を払う、ところがやってきたご婦人が、いかにしてもこっちとフィーリングがあわない。そういうときが男にはある」
とおっちゃんはいい、あわてて、
「ような気がする」
とつけたす。
「へん。おっちゃんでもそんなことあんの。女なら、誰でもいいのかと思ってたわ」
「いや、若盛りならそうでもあろうけど、中年男となるとそうはいきません。すでに金は払い、ドキドキワクワクして待ってる所へ御光来になったる婦人、タテから見てもヨコから見ても、どうもうまいこといかん。長大息して気をとり直してみても、その気にならん。我とわが心をふるいおこし、叱咤《しつた》してみても、反乱をおこしていうこときいてくれん、意に反して役に立たない、御期待にそえない、という状態がある」
おっちゃんはまたあわてて、
「ような気がする」
と念を押す。
「そうかなあ」
私は半信半疑である。女性と見ると、双手《もろて》をあげて大歓迎、てなことばかり、ふだん広言しているおっちゃんなどに、こんなデリケートな心情が働こうとは、私だけでなく、誰も信じがたいにちがいない。
「いや、男というものは、とくに、中年男というものはそうなのですから、辛いのです。一時的インポになってしまう、誰でもかれでも女ならええというわけにいかん、かつ、金を払《はろ》たさかい、どうでもというわけにいかん」
「そんなときどうすんの」
「更に高くつく」
「どうして!?」
「何となれば、女にインポだと思われると恥ずかしい、かつ、共に遊興している仲間に知られるのはなお恥ずかしい。それゆえ、ご婦人に更に金をつかませて、デキナイことを口止めする」
おっちゃんはまたいそいで、
「ような気がする」
という。
「故に、インポときめつけられるのは男の恥です」
「ふーん。じゃ女の恥は何かしらね」
「それは、インポ対不感症とちがいますか。目には目を、歯には歯を、インポ批評に対抗するには、物書きは不感症になってればよろしいのです」
ス ワ ッ プ
あーそびーましょ、とカモカのおっちゃんが来たとき、私は夢中になって、スワッピングのことを書いたヨミモノによみふけっていたので、気がつかなかった。「何をよんでいますか」と聞かれて、私は、テレビドラマ『天下堂々』の市兵衛サンのように頬っぺたに手を当てて恥ずかしがった(よくテレビをみる人だねえ、仕事の方はどうなってんの)。
「スワッピングのお話なんだ。おっちゃん、スワッピング、興味ありますか?」
「それは、ありますなあ」
とおっちゃんは水割りをつくりつつ、いった。
「では、あたくしの連れ合いと、おっちゃんのおくさんとを携え来《きた》って、四人でやってもいいという気はありますか?」
「ということはつまり、僕とおせいさん、という組合せになりますか?」
「あたりき。そうでなかったら、スワップにならへんやないの」
「ウーム。オタクの亭主とウチの女房《よめはん》の組合せはともかく、こちとらの方の組合せは分がわるい気がするな。かなり、手前は損をした気がいたします」
「どっちのいうこと」
と、私は気をわるくしたが、本当は私もそうなんだ。だから、四人、気を揃え、ヨーイドン、となるのは至難のわざであるという結論に達した。一人でも、気がススマなかったらプレイできないのだから、なかなかむずかしい。二人のときでさえ、ピタッと気が合うことはむずかしいのに、四人気が合うのを待ってると、爺さん婆さんになりはしないか。
「友人の話では、やはり、酒を飲むそうであります。酒でも飲まんと、トッカカリがない、いうとった」
おっちゃんは乏しい見聞を報告する。
「そうして、気をそそりたてるようなレコードやテープをかけたりする、いろいろ照明にも気を遣《つか》う、おまけに舞台装置も要る」
「ホテルか何か借りるわけ?」
私も具体的事実を知りたく思う。
「いや、そういうのは、友人にいわせると邪道だという。町で女を拾うような、ありふれた感じになるので、自宅に限るという」
「気むずかしいんですね」
「台所の鍋にカレーの残りがあったり、黒板に酒屋への注文がメモしてあったり」
「座敷に子供のガラガラが転がってたり、ベランダに洗濯物があったり……」
「そうそう、そういう所でやるのではなくてはあかんそうですわ」
「それはいいんですが、かねて疑問に思うのは、その、トッカカリのことですけど……」
私はいつも、あたまが禿げるほど考えてるんだが、よくわからない。
「どっからはじめたらいいもんかしら」
「そやから、つまり、はじめに酒飲んで、陽気な心持ちになって」
「いや、そもそものはじまりのことよ。そのおっちゃんの友達はどうやってもう一組を勧誘したんでしょ。まさか一軒一軒まわって、どうですか、とご用聞きに歩くわけにはいかないでしょ。ヨソを見るとどこも、ウチは間に合ってますという顔してるし」
「それはどうですかなあ」
とおっちゃんも心許《こころもと》ない声を出した。だいたい、スワッピングについてのよみものは、そこの所をとばして、俄然、酒を飲んで照明を暗くして、という所からはじまっているから、よくわからない。
「それは、もう、ええのんとちがいますか。アタマ数そろうて酒飲んでれば、おのずとそういうムードになるのん、ちゃいますか」
とおっちゃんはめんどくさそうにいい、
「僕はほっそり、すらりとした美女のおくさんで、みめ美《うるわ》しくなさけある、というようなんがよろしなあ。僕は、おせいさんを除いて、なべてヒトのおくさんが美しく見えるというクセがある。いっぺん、経験してみたいですなあ」
と目を輝かせるが、私としては、そんな途中からはじめるわけにいかない。
「そもそものはじまり」から知りたくてならない。
「くどいようですが、四人どんぴしゃで気の合うようにするにはどうすんの? まず、今晩は、あーそびーましょ、と一組が一組のとこへ、いくわけでしょ」
「その前に、内意を打診して、承諾をとりつけてますやろなあ。突然行ったって、残暑きびしき折柄、おかわりございませんか、と暑中見舞いみたいなことになってしまう」
「じゃ、どうやって、内意を打診すんの?」
「友人の場合、男同士酒飲んでるうち、つい冗談がホンマになり、おのおの、女房を折伏《しやくぶく》説得したということでした」
「ふーん。じゃ、まあその説得をされたとして、四人一堂に会し、どうやってはじまんの? おっちゃんと私、かりにその中の一組だとして、ためしにやってみようよ」
「結構ですな」
「やはり世間話からはじまるかな。スカートたけが長くなりましたね、とか、アメリカ大統領てのは日本の総理大臣にくらべて大変ですね、とか……」
「そんなこというてたら進展せえへん。酒飲んで、膝つき合せてるうち、何とかなるものです!」
とおっちゃんはイライラして叫ぶが、私は冷静、かつ懐疑的にしてさめてるのだ。男はうぬぼれ強く楽天的だからうまくいくと思うだろうが、女は、酒さえ飲めばトチ狂うというわけにはいかない。
「そこを、男の方が、膝に手をおいたり、腰を抱いたりして、おくさんは色けがありますね、とか何とかいう」
おっちゃんは必死に事を進めようとし、私は作り声で、
「いえ、さっぱりですわ、女も中年になると家事と子供にかまけてしまって、ときにオタクの子供さん、塾へやっていらっしゃる?」
ちっとも、スワップよみもののように、「私は夫でない男と、隣室へもつれて入った」ところまで進まない。おっちゃん、泣き声を出し、
「ええい、じゃまくさい。やっぱり、ウチの女房《よめはん》の方が手間かからんでええ!」
男のいい恰好
私の悪友たちは私をダシにして、いろんなワルイことを考えているのである。いわく、「おせいさんにシロクロを見せる会」は、自分たちが見たいからであり、「おせいさんを離婚させよう会」は、離婚手記を代作して週刊誌に売りつけたいからである。「おせいさんをカモカのおっちゃんの毒牙から救う会」というのもあり、その会員たちときたら、ドラキュラよりすごい毒牙なのだから世話はない。
その他、私はいろんな会にも入っている。「大和地方皇居誘致期成同盟関西本部・神戸支部・荒川町分会」の会員でもある。尤も、会員は私一人なんだ。
しかし、皇居というものは、もはや東京にあるべきでない。皇統発祥の聖地、大和地方にもどるのが妥当である。
すでに王政復古スゴロクは「上りィ」というところまでいったのである。もういちど振出しにもどって一からはじめるべきとちがいますか。王朝千五百年の歴史を見ると、どうもそんな気がする,昭和敗戦で、第一回戦は終った感じ、かつ、東京におられるから、いちいち責任問題が出てきてややこしい。山|紫《むらさき》に、水きよき故地にいらっしゃれば、先祖のお墓も多いことだし、人情は敦厚《とんこう》、戦争で敗けた勝ったのたびに、うるさくいびられることもないんやないかしら。大和地方を振り出しに、再び何世紀かして奈良、京都、そして東京と、スゴロクの賽《さい》の目によって上っていらっしゃれば? そうして、役人や実業家は東京弁を用い、皇室はじめ、自由業、町人のたぐいは優雅なる関西弁を用いる、というふうにするのです。
そのほかの会としては、「小松左京サンと浪花ぶしを習う会」というのがある。これは結成しただけでまだ実行に至っていない。生徒の熱意はあるのだが、先生の引きうけ手があるかしらん?
そうそう、実は今回は浪花ぶしについての疑問を書くところであった。「皇居誘致期成同盟」運動に熱心のあまり、私はつい公器を利して宣伝することになって申しわけない。
何しろこの十年、会員はふえもせずへりもせず、私一人なんだ。私は会長であり、本部長であり支部長であり分会長であり、賛助会員なのである。よって、間がなすきがな、会員獲得を心がけている次第である。
ところで、浪花ぶしだが、小松チャンは大すき、私も中すき、せめて武門のたしなみとして、「乃木大将と納豆売り」とか「佐渡情話」の一ふしとか、唸《うな》れるようになりたいと思う。
私はわりあい、「あこがれの浪花ぶし」を聞くことが多いのだが、あれは結局「いい恰好」というのが、究極のテーマですね。
「次郎長伝」でも「赤穂義士」でも「国定忠治」でも「幡随院長兵衛」でもそうである。
みなひとの、かくあれかし、あらまほし、というような粋のきわみである。義理と人情の板挟みに苦悶する恰好がとてもいい。男の意気地、男伊|達《だて》、なんのこれしき、という痩せがまんや突っ張りが、やりたい放題やって意気地のない世相の中では、新鮮で、恰好いい。
「天野屋利兵衛は男でござる」なんてのもいい。
それから、悲劇的な、いい恰好もある。
「雁が飛んでいかァ」という忠治もいい恰好。ああ、男は恰好だなァ。
カモカのおっちゃんが、またお酒を飲ましてもらおうと思ってニコニコして来た。
「おっちゃん、浪花ぶしの外題にどうして女が出ないんでしょ」
と私は聞いてみた。
「出ますがな。『壺坂霊験記』でも『佐渡情話』でもありましたな」
そういうのは登場人物の脇役で、ちっとも主人公になれない。
「光明皇后」が浪花ぶしになった話も聞かない。
「淀君」も浪花ぶしになりにくかろう。
「ナイチンゲール伝」とか「北条政子」とか「八百屋お七」も聞かない。
「乃木大将夫人」などありそうなものだが、寡聞にしてまだ聞かない。
「なぜ女が主人公になれないのか」
「ええ恰好がでけへんからとちがいますか、女では」
とおっちゃんの見解であった。
「大手を拡げて、髪ふり乱して止めるとか、刀を高くさし上げて月にかざして見るとか、きっぱりきまって、大向う受けをねらうキマリがでけへん。何か、恰好がグズグズしてる」
「そうかなァ」
「浪花ぶしの主人公は、ですな。大衆のあこがれでなくてはならん。あんなタンカ切ってみたいとか、ああいう侠気《おとこぎ》で生きていきたいとか、理想を示す」
「うーん」
「女にそれがありますか。乃本大将夫人になりたいとか、八百屋お七になりたいとかいう女はおらん」
「女は、誰だってホカの女になりたい、なんて思わないよ。自分自身でたくさんなんだ」
「そういう現実的な動物に、粋や侠気や義理人情のあこがれがあるはずない。『岸壁の母』なんて、誰も、あんな恰好したいと思うはずおまへん」
「うーん。じゃ女のいい恰好て、何かな」
「何もない。女がいい恰好してると、女同士反撥する。嫉《や》く。そねむ。恨む。万人の女の共感をよびにくい」
じゃ男は、なぜ男のいい恰好にあこがれるのか。
「男はホカにすることないからなァ。女はいっぱいあるから、他人の恰好にあこがれていられぬ。――男は、人生からっぽなるにつき、ヒトのええ恰好ばっかり、目につきまんねんなあ」
「天野屋利兵衛にあこがれる?」
「あんな男でありたいと、不肖カモカも思いますよ。男は無心ですからな」
しかし、浪花ぶしの流行時期を分析すれば、ノーチモサン、右傾、戦争という心。無心な男というのは、からっぽだけによけい危険である。あこがれのない動物、現実的な動物の女が、ようく梶をとって見張りましょうね。
遊び人と文化人
「ねえ、おっちゃん、この、偏奇館主人ていくつだろう?」
と私は、遊びに来たカモカのおっちゃんに本を示してきいた。
「さァ。大正フタケタ、いうところとちがいますか? 何や、前に何かでトシを見た気がするけど」
「ヘーエ」
と私はビックリしたのだ。
「七十くらいかと思った。だって、いつも何か悟りすまして、イキだスイだ、野暮だ、通だ、なんていって、関西をイナカだ、田舎もんだ、なんていってるんだもの」
「まあ、ええやおまへんか。こっちはこっちで、おせいさんみたいに、東京のことを野暮だ、田舎だ、というとる人も居るんやから」
「しかし私は一知半解の人をあしざまにいったりしない。偏見をもたなくしようと思ってる。しかしかの御仁は偏見をウリモノにする。それは、却って開発途上都市《いなか》の人種、という感じがするよ」
たとえば、だ。――(私が話す間、せっせとカモカのおっちゃんは独りで酒を飲んでいる。そしてうんうんとうなずく。こんなとき反駁するとよけい猛りたつ私のクセをよくのみこんでいる。ふだんはヒトコトいうと三コトぐらい返す、口の達者なおっちゃんであるが、そのけじめが巧い。
オール世の母親に告ぐ。男児を育てるときには、すべからく女の酒の相手がうまくつとまるように教育すべきである。女と酒飲んでて、すぐ反駁する奴、はなからバカにする奴、美人としか同席したがらぬ奴、スッポンみたいに、ヒトコトもしゃべれない無口な男、みんな母親の教育がわるい)
偏奇館主人はいつか対談のときに、鴨居羊子さんのことを、
「女のさるまたで売り出して文化人になっちゃおう、というような人はきらい」
といっていた。近藤日出造氏も、いつだか、
「鴨居羊子という人は、何にもない、ふつうのおばさんだ、なぜ大阪ではああも騒ぐのか」
などという発言をテレビでされていた。
これが私には実に奇妙に聞こえる。羊子さんは、年来の私の友人であるが、彼女が女の下着で売り出したのは事実である。下着は白、人目からかくすべきもの、ときまっていたものを、カラフルにし、たのしいデザインを考えたのは彼女の独創で、下着の鴨居羊子と二つ名で通ってしまった。しかしそれは、マスコミが造り上げた、一つの虚像である。彼女は、それで以て名が売れたが、自分が文化人になりたいために、そんなことをしたのではないのである。
彼女は私の知る限り、出しゃばり出て有名になりたい、というような人ではない。もちろん、大阪にも売名に汲々《きゆうきゆう》としている自称文化人や有名病患者はいる。これは東京でも同じことだと思うが、厚かましく、あらゆる機会を捉えて顔を出し、写真にうつされ、新聞に名が出るように、必死になったりする。
羊子チャンはそんな感じの人ではないのである。内気でシャイで恥を知る人である。
「女のさるまた」と蔑称的にいうが、偏奇館主人になんか、下着の面白さやたのしさがわかるもんか。彼女は面白いから作っているのであり、客はステキだと思うから、買っているのである。それで以て彼女が、お金もうけ、名が売れたって、それは彼女がわるいのではない。「人の意表をつくような、それも、いやしい、恥ずべきシロモノを堂々とむき出して売って、名前までついでに売った」などと考えるのは、東京の俗物の考えそうなことである。
第一、マスコミの虚像にあやつられて、それをそのまま信じこんでる所が、イナカモンだというのだ。
私は通ぶってへんに趣味のじじむさい中年というのは大きらいなんだ。
羊子チャンが東京人に誤解されたのは、下着を売っている所にもあると思う。いかに東京人が俗物かの見本みたいなもんだ。
羊子チャンが大阪で面白がられるのは、下着会社の社長であるからではなく、彼女は遊び人だからである。大阪人は、遊び人を尊敬し、愛する。偏奇館などはせいぜい趣味人であって、大阪へ来れば相手にしてもらえない。
大阪人は、趣味人なぞにあこがれない。
文化人なんてのもバカにする。
遊び人たって、芸者ホステスのたぐいは関係ない。そんなのと遊んで面白がるのは(女のホストクラブ遊びも同断)みなイナカモンや。開発途上人種や。
職業にしばられず柔軟な考え方をする。金にしばられず、貧乏も恐れぬ。
「吉兆」や「つるや」「瓢亭」の味もいいとこがあり、ミナミや新開地のおでんや、屋台のうどんも、じつにうまいと思う。客到れば、双方へ案内できる人。(だから偏奇館が京都で物々しい料亭へ案内されて講釈されたのは、この程度の人種、と踏まれたのじゃないか)
年のとり方上手。酒の飲みかた上手。
羊子チャンは、絵をかいたり、人形を作ったり、白い十八ノットの漁船型ヨットにのりこんで、南海諸島往復一カ月という旅をしたりする。ぶあいそな顔で、亜麻色のカツラをかぶって、大きな鼻吉という犬をしたがえてヴァンローゼを飲む羊子。(この間、可哀そうに鼻吉は死んでしまった)
羊子の絵を見ましたか。
羊子の文章をよみましたか。
羊子とひと晩、元町の「ギリシャビレッジ」でお酒飲んだこと、ありますか。
羊子がフラメンコ踊って、靴が片方飛んで、客席をとびこえ、カウンターの中のフライパンヘ入るのを見ましたか。
羊子は絵を描くのも、船で遊びにいくのも、テレビでしゃべるのも、下着で儲けるのも、みーんな同じ次元の遊びなのである。大阪人は遊び人としての羊子チャンに拍手を送っているのである。しかつめらしい田舎者の粋人気取りになんか、遊びニンの面白さはわかるもんか。
東京スノッブには、こんな人間をはかる物指しがないんだ。――私がいい立て喚いてると、
「ハテ、何をさわぐ。せくなあわてな、天下のことは、しばしカモカのひざ枕。いう奴はいわせなさい。大体ヒトの悪口いう奴、それにいちいちムキになって反駁する奴、もろともにイナカモンですぞ」
と、おっちゃんは遊び人だった。
内弟子模様
このごろ、作家で秘書を使われる方が多いが、内弟子をとる、という人はいないようだ。
芸能関係ではあるけれど。
芸能関係の人と対談させられていつも奇異にうつるのは、「付人」という人たちが、影武者のようにそばにいることである。私にも、カモカのおっちゃんという「付人」はいるが、これは酒席だけのことであり、おっちゃんは、酒を飲んで下らぬ話をたのしむ以外に趣味のない人であるから、私についてどこへでもくる付人ではない。
付人がいれば、タバコを買いにいかせたり、電話をかけるときもよび出させたり、ぬいだ着物をたたんでくれたり、便利だろうなあ、と私はいつも付人をもつ人が羨ましいときがある。しかし私が付人を使うとすると、貫禄負けして、あべこべに付人に使われるということも考えられる。秘書も同じである。そうして付人や秘書に仕事を助けてもらうというよりは、彼らの仕事をつくる方に比重がかかってしまう。手もちぶさたに、原稿用紙でツルなんぞ折っていられては、こちらが気を遣うこと、おびただしい。それに、労働条件や報酬についてもあたまを悩まさねばならぬ、となるとますますおそろしい。第一、家がせまいのでいてもらう所がない。私の家は、応接間が定員三名、書斎は定員一名、台所には家政婦がおり、居間には亭主が陣取り、才媛《さいえん》の秘書嬢に捧げるスペースとしては、階段があるばかり。いくらなんでも、階段にいて下さい、とはいえない。
かつ、ぶっちゃけた話、私は、私の仕事の秘書よりも、洗濯や料理を肩替りしてくれるお手伝いさんの方がよい。この方の仕事は次から次へとあって、ツルを折ってるひまなんぞはない。しかし、秘書になろうという人はあっても、お手伝いさんになりたい、という人はいないのだ。
私はイロイロ考え、ハタと横手《よこで》を打ったのが、内弟子をとることだ。この頃の小説家こそ、弟子取りしないが、明治の文豪は、よく内弟子を置いてるではないか。尾崎紅葉なんか、内弟子、書生、玄関番が、家族の人数より多いときがあった。
当節、若い書き手がいないといってみんな探しているが、あんがい物書き志望の潜在人口は多いもので、私の処へも青少年たちが原稿をもちこんできたりする。
「×月×日までにみて下さい。それからこちらはもうちょっとおそくなってもよろしいが、×月までにはよんで下さい」
などという。たいがい一枚よむと誤字あて字でうんざりする。
「誤字が多いですよ。字引で調べてごらん」
「しかし、僕はその字が気に入っているんです。やむをえない芸術的希求の結果です」
「活字にはありませんよ」
「ハァ。作れないもんでしょうか」
こういう手合いを、「小説書くなら、住みこんで、行住坐臥から学ぶ事です」と脅して内弟子にすれば、秘書とお手伝いと、お供、付人、みな兼業でやってくれて、私は大いに助かるのだ。ウレシイナ。
「それは、女の内弟子でしょうな」
とカモカのおっちゃん。
「たいがい、女の先生には女の弟子がついていますから」
「いいえ、女は小うるさいので、男の内弟子をとります」
と私は断固いった。
「ヒャー、そんなことしたら、もう、おせいさんとこへ飲みにこられまへん」
「なんで?」
「むさくるしい男が、家の中でウロウロしているような所で飲んでもおもろうない」
「でも、男の方が修業も熱心でしょうし、心がけがちがう気がする。師匠に対してもマメマメしくしそうな気がする。女だと、叱りにくい、という点もございますが、男の弟子は遠慮がないでしょ」
飲んでいて、酒がなくなると、手を叩き、
「これッ、六木《むつき》!」
なぞと呼べる。六木ヒロユキは走ってくる。何しろ、こわい師匠なのだ。弟子の生殺与奪の権を握っており、プライバシーにも容喙《ようかい》して、人の愛人だろうが何だろうが、おかまいなしに「別れろ切れろ」というかもしれない。
ご機嫌を損じてはいけないというので、顔色をかえて走って来、「ハイ」などという。
掃除ができてない。また、手をたたく。
「これッ、保坂!」
と呼び、虫の居どころがわるいと、保坂内弟子の黒メガネをぶっとばす。
「この掃除の仕方は何なの、こんなぞんざいなことで、小説の修業ができると思ってんの」
などとどなる。
来客があると、また、手をたたき、
「これッ、中松《ちゆうまつ》! お客さまにお茶をもってきなさい」
という。中松右京内弟子はいそぎ、うやうやしくお茶を汲んでくる。
内弟子というものは、たいてい修業中の身であり(当り前だ)、一芸に達するためには、何事も修業の内であり(そういうことになってる)、何をやらされても文句はいえない。内弟子は師匠に慴伏《しようふく》し、唯々諾々であろう。而うして、こういう男の内弟子は使い勝手がよく、少々|いけ《ヽヽ》ぞんざいに扱ったとて苦情も出まいから、階段に住まわせておけばいいのである。
はやく、こんな内弟子がこないかな。
「しかし、それは何です。師匠と内弟子、ということになれば……」
とカモカのおっちゃん、いつも何か文句あり。
「よくありますなあ、……ソレ、『春琴抄』のお琴と佐助みたいに、内へ入ると色模様になったりして」
「フン、いやらしい。私、決して……」
「しかし、世間では女師匠と男の内弟子は色眼鏡で見たがる。さし当って、週刊誌あたりでは、おせいさんが内弟子の蒲団の匂いでもかいでると思うかもしれん。明治の文豪のひそみにならえば……」
「もうけっこうです!」
やっぱり、内弟子はやめ。六木ヒロユキや保坂や中松右京の蒲団をかいでどうしようての。
柱 の キ ズ
テレビをみていて気付くのは、中年向け番組が少ないことである。ジャリと若者向けの時間が多く、まさに乳臭|芬々《ふんぷん》、甘エタ声とキイキイ声の氾濫で、口辺に母乳のついているような少年少女が|ホタエ《ヽヽヽ》まわって、さながら孫が幼稚園の学芸会に出演しているのを見てる心地。
私はこの際、提唱したいのですが、どうしてテレビに、
「中年チャンネル」
あるいは、
「中年局」
というのを作らないんでしょうか。
政治経済、学芸美術、音楽芸能、万般にわたってオトナ、成人用の「見るに堪える」ものだけ流している、そういう局があってもよかりそうに思う。下は幼稚園児から上は知事さんにホウビをもらうような全国最年長の年寄りに至るまで、大方のご要望に副《そ》おうとするから、オトナは何も見るものがないのだ。新聞のテレビ欄、端から端までずーっと眺めても、これにチャンネルを合わそうと思うものがなくて、ウームと唸り、ためいきつき、しかたないから、キイキイ声の幼稚園児の独唱会やおさらい会といったものを、憮然《ぶぜん》としてみている、オトナの白けた気分。私は「中年局」を作ったら、絶対、うけると思うんだけど……。
「いやしかし、おせいさんも、結構、へんなもんみてまっせ」
とカモカのおっちゃんはいう。
「いいえ、それはほかにみるものがないからです」
「そうは思えませんなあ。時折、酒のむ手も止めて、ケッケッケッと笑っておる。おたくのテレビにキカイをくっつけて、いま何をみたかを調べたら、証拠は歴然です。おそらく、中年局を作っても、中年局があるというだけで、安心して、幼年局、青年局をみている人です、おせいさんという人は」
私はふくれたが、考えてみると、テレビで何をみているかで、その人のクラスがわかることがある。人、いずくんぞかくさんや。これはテレビに限りません。
この間、こんなことがあった。
私は知人二人と、某邸の柱のキズに見入っていた。
知人はどちらも中年男である。
柱のキズは、背くらべのそれではなくて、アリの穴のように点々とあいたものである。その邸はさる大名の別邸で、その部屋は奥方の間である。隣りに殿様の間があり、そこは庭に向って張り出しているので、奥方の間からよく見えるのだ。
奥方は、殿様の間をながめる。
すると、こはいかに、殿様は奥方ならぬ、ご愛妾をご寵愛になっていられるのが、手にとるごとく見える。
嫉妬の炎むらむらとなった奥方は、かんざしを柱に打ちこみ打ちこみ、おびただしい穴が、あわれ罪もない柱にあけられたのだ。
百年そこそこの昔なので、いまだに歴然とあとが残っており、某邸の名物になっているのである。
その穴は柱の上から下まで無数にあいていたが、上は、なみの女の手が届くくらいの高さ、下は、畳から三、四十センチばかり上の部分まで。而うして、その、四、五十センチぐらいの高さの部分に、一ばん穴が多い。まるで南京虫の巣のようにいっぱい、あいている。
つまり、ここの部分へ突き立てることが最も多かったらしい。
その高さが、私たちの間で問題になった。
一人の知人は慎重にしらべ、おもむろにいった。
「ハハア、これは寝ながら、かんざしを突き立てるにちょうどの高さですなあ。寝てても見えたんですな、そうしてカッとあたまへきて……」
「どうして寝ていて、かんざしを突き立てなければならないんです。これは坐って突き立てるのにちょうどの高さですよ」
と私はふしんになって反対した。
「奥方が坐ってるところから、殿様の間がよく見えたのよ」
そこで、坐ってかんざしを突き立てたか、寝たままやったか、というのが我々の議題になった。この高さは両方考えられる。
「しかし、殿さまがご愛妾とナニしてるのが見えた、というのですから、夜でしょう」
と、慎重氏が考え深そうにいった。
「なぜ夜ですか、昼かもしれないでしょう? だって夜だったら、こちらの部屋から見えないもの」
と私は反駁した。
「しかし、まっぴるまから、やるでしょうか。それは夜にきまってますよ」
と慎重氏は考えられぬ、というふうにあたまをかしげた。
「この穴のあき方の烈しさをみれば、夜です。夜はホカに考えることがないので、そのことばかりに精神が集中する。堰《せき》を切ったごとく、恨み辛み、嫉妬の妄執が爆発する。丑《うし》の刻《とき》参り、という風情で、穴をあけたのですなあ」
「そうかなあ。これは、殿様のナニするのがつぶさに見えたがための烈しさですよ。明るい日がさんさんと降っている中の惨劇ですわね。この穴には女の呪いがこもってます。ぜったい、昼間、坐ってて突き立てたんです」
「いや、夜だ。昼にナニするはずない」
「昼です。夜にナニするとは限りません」
中に立ったもう一人の気のいい知人はこまり、仲裁するごとく口を挟んだ。
「まあまあ、われわれ庶民は、ひるまはヒマがありませんが、そこはお殿様ですからなあ。昼間からナニするヒマはあったのとちがいますか」
おっちゃんはこの話を聞いて、なるほど、といった。
「各人の解釈で、はしなくも、それぞれの日頃の習慣が、暴露されたわけですな。その手でゆくと僕はこう思います。つまり、殿様は一人で寝ていた。もはや女っけ無用という中年の殿様。昼も夜もいっそ一人がスガスガしいというお年頃。奥方はそれで腹立ててかんざしを突き立てたのです」
〈了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年三月二十五日刊