吉永さん家のガーゴイル
田口仙年堂
コンテンツ
第一話
吉永さん家の厄介者
第二話
吉永さん家の朝昼晩
第三話
佐々尾さん家のおばあちゃん
第四話
小野寺さん家の名番犬
第五話
東宮さん家の事情
第六話
吉永さん家のガーゴイル
あとがき
[#改ページ]
第一話
吉永さん家の厄介者
その日、帰宅した吉永《よしなが》和己《かずみ》が最初に目にしたものは、庭で小型チェーンソーのスイッチを探している九歳の妹の姿だった。
「――なにやってるの双葉《ふたば》ちゃん!」
長い髪《かみ》を振《ふ》り乱《みだ》し、バッグを放り投げ、とるものもとりあえず妹を押さえつけようとするが、すでにスイッチは入っており、刃が回る摩擦音《まさつおん》が庭中に響《ひび》き渡《わた》った。
和己の足が止まり、すぐに方法を切り替える。
「ふ、双葉ちゃん。危ないから、そーいうモノ使うのはやめようよ」
そこではじめて双葉はこちらに気づいたらしく、
「おう、兄貴。おかえり」
吊《つ》り上《あ》がった目で兄を一瞥《いちべつ》すると。ズレたオーバーオールの肩紐《かたひも》を直して、チェーンソーに意識を戻す。
恐ろしい形相《ぎようそう》だった。しかし、これは意識してそうしているわけではない。
引《ひ》き締《し》まった眉《まゆ》の下にくっついた生まれついての三白眼《さんぱくがん》は、遠目《とおめ》にはガンをたれているようにしか見えないが、近目には食い殺そうとしているようにしか見えない。髪の毛もこれまた自己主張が激しく、束《たば》ねた先から放射線《ほうしやせん》状《じよう》に広がっていて、ロケットノズルを髣髴《ほうふつ》させる。
決して不細工《ぶさいく》ではないのだが、違う方向に整っている[#「違う方向に整っている」に傍点]顔だ。
和己は放り投げたカバンを恐《おそ》る恐る拾い直すと、それを盾《たて》のように構《かま》えながらゆっくりと双葉に近づいた。
「あの、双葉ちゃん、ちょっと待ってね。僕がそっち行くまで」
引きつったその顔は、五割の確率で女の子に間違えられる。カットソーとジーンズといういでたちでも、体が華奢《きやしや》なために勘《かん》違《ちが》いの的《まと》になるのだ。和己自身は「男らしく」をモットーにしているそうだが、とりあえずそれを実践《じつせん》するためには長い栗色《くりいろ》の髪を切るべきだろう。
妹とは対照的におとなしい性格なのに、兄として止めなければならない事態に何度も遭《あ》っている、かわいそうな境遇の少年であった。
「で、何やってるの?」
「見りゃわかんだろ」
「――全然わかんないけど、やめようよ」
内心、和己は胸をなで下《お》ろしていた。早く帰宅して正解だった。完全に向こう側の世界へイッてしまって、和己の言葉を半分以上聞いていない。このままでは危険だ。誰《だれ》が危険なのかといえば、双葉と和己の両方に決まっている。
「フフフ……こいつならいける!」
稼働《かどう》中《ちゆう》の電動チェーンソーを右手に持ち、悠然《ゆうぜん》と立つその姿は、およそ小学生とは思えないほどの気迫《きはく》を備《そな》えており、八歳違いの兄でも二の足を踏んでしまう。そもそも稼働してるチェーンソーは誰が持っても怖《こわ》い。
とはいえ、このままにしておけないのも事実。
あーもう。
和己はチェーンソーを見た。いったいどこにしまってあったのだろうか。後部からコードが延《の》びており、それは庭に無造作《むぞうさ》に置いてあるドラムコードと連結されている。このドラムもどこにあったのか。
和己はドラムの方へ歩み寄ると、躊躇《ちゆうちよ》せずにコードを引き抜いた。
「…………」
「…………」
あっけないほど簡単に庭に静寂《せいじやく》が訪《おとず》れる。
「――何すんだよバカ兄貴!」
まだ完全に停止していないチェーンソーを和己に向かってブン投げた。
「うわあ危ないっ!」
それを追って双葉は駆《か》け出《だ》し、反射的に身を屈《かが》めた和己の膝《ひざ》の上に飛び乗り、顎《あご》に飛び膝|蹴《げ》りを突《つ》き刺《さ》した。その状況判断と身のこなし、天性の格闘センスに恵まれていた。
「い、ったぁ……」
「あーくそ! ヒザをずらすなって言ってるだろ!」
「なにするんだよ! あのままじゃ絶対に双葉ちゃん危なかったんだから!」
「やかましい! オカマの分際《ぶんざい》で邪魔《じやま》するな!」
「オカマじゃないって言ってるってうわぁ目はダメ目は反則いたいいたい!」
そのまま掴《つか》み合いになる。双葉は低い身長をものともせずに襲《おそ》いかかり、和己は和己で硬い物が入ったバッグをやたらめったら振り回す。普通の状態で並んだら全然似ていない二人だったが、こうして殴り合っているときの形相は血の繋《つな》がりを感じさせる。ともあれ、八歳違いの男女が互角《ごかく》に渡り合えるというのはいかがなものか。
春うららかな午後。向かいの家の奥さんが育てている花の匂《にお》いがとても和《なご》やかな気分にさせてくれる、そんな暖かい午後。
まさに兄妹《きようだい》ゲンカにふさわしい天気だった。
『ときに訊《き》きたいのだが』
そんな声が、ふと、吉永家の庭に響き渡る。
お互いの胸倉《むなぐら》を掴んでいた兄妹が、声のほうを見上げた。
吉永家の周囲には石塀《いしべい》の代わりにツツジが美しく咲き誇っている。冬は葉っぱだけになってしまうが、この季節になると春の日差しをいっぱい食べて、それは綺麗《きれい》な赤紫《あかむらさき》の帯が花冠《はなかんむり》のように建物を包みこむ。植えこみは門を避けて生《お》い茂《しげ》っており、門には双葉の身長と同じくらいの石の柱が立っていた。
石の柱の上を見てみよう。
『双葉の手にあった器具は、いったいどのような用途《ようと》で使用するのだ?』
黒い犬が鎮座《ちんざ》している。
前足を伸ばし、後ろ足は折って地にぺたりとくっつける、いわゆる「おすわり」の姿勢だ。目には暗い穴しかなく、しかしその顔は目の前に向けてまっすぐ、首まわりに青い紋様《もんよう》が浮かんでいるが、それが図形なのか文字なのかは不明だ。
そのたたずまいは王様よりも。その引《ひ》き締《し》まった体はドーベルマンよりも。その光沢《こうたく》はどんなに磨《みが》き上《あ》げた大理石よりも。その低い声はどんな熟練《じゆくれん》の俳優でも。その声を聞いた双葉の顔は仁王《におう》像《ぞう》よりも。
「てめえ……」
『そして和己よ、おかえり』
「あ、ただいま!」
真っ赤な目の和己が犬とのんきな挨拶《あいさつ》を交《か》わしている間、すかさず双葉は駆け出し、ドラムコードにコンセントを差し込むとチェーンソーの電源を入れて、躊躇も遠慮《えんりよ》もせずに犬に斬《き》りかかった。
「死ねぇぇぇぇぇっっっっ!」
勢《いきお》いよく斬りかかったのはいいが、まぁ、チェーンソーという道具は日本刀とは違って「のこぎり」であるからして、実際にはチェーンソーを犬の首に押し当てるだけだった。
とはいえ、そんなことを生物に向けて行《おこな》えば危険|極《きわ》まりないのは確実だ。良い子も悪い子も絶対に真似《まね》をしてはいけない。
『なるほど。刃を回転させることによって非力《ひりき》な者でも力を得る、という道具か』
チェーンソーは犬の首にがっちりと食いこみ、回転する刃がその皮膚《ひふ》を食い破り、えぐり取った熱い肉片《にくへん》があたり一面に――という想像のまったく逆に――つまり、かすり傷一つつけられなかった。
『これで理解できただろう。さぁ、その機械を停止させろ。人体には危険だ』
呆然《ぼうぜん》とする双葉の目を盗んで、和己は再びドラムからコンセントを引き抜いた。そして、とっておきの策が通じなかったショックで固まっている双葉の手から武器をもぎ取り、自分のトートバッグの奥に押しこんだ。
「だ、大丈夫?」
双葉も和己も、そっと犬の首に触《ふ》れてみる。
冷たい、石の感触《かんしよく》。
『どうやら、まだ我《われ》の力は文明の利器《りき》に勝《まさ》っているようだな』
犬は表情を変えずに、しかし得意気《とくいげ》に独語した。
その態度にムカついた双葉は、数歩後ろに下がり、
「むがーっ!」
弾丸《だんがん》のようなドロップキックを喰《く》らわせた。こちらのほうが視覚的に効果があったようで、石の犬はごわんと音をたてて柱の向こう側に落っこちた。どうせ傷はないだろうが、双葉の気分は幾分《いくぶん》晴れた。
「よし! このまま簀巻《すま》きにして東京湾《とうきようわん》に叩《たた》っこむぞ! ゴザ持って来い兄貴!」
「――双葉ちゃん、どこでそーいうの覚えてくるの?」
「うるせぇ! あとロープも忘れずにな! コンクリはあきらめる!」
『そういえば昨日、双葉が電視機《テレビ》でそんな単語を聴いていた』
気がつけば二人の真後ろに、何事もなかったような雰囲気で犬が座っていた。
「……の野郎……」
『その言い方は正確ではないぞ双葉。我には生殖《せいしよく》機能はない故《ゆえ》、性差はない』
「うるせぇ黙《だま》れ石コロ! てめぇのせいで新聞屋の兄ちゃんもビビって近寄らなくなっちまったじゃねーかよ! 今日テレビで何やるのかわかんなくなっちまっただろーが!」
げしげしと犬を蹴りつける双葉。犬はピクリとも動かずに双葉の足を受けている。
無事だと知っていても見るに堪《た》えなかったので、和己はため息を一つついてから、双葉の体を抱きかかえた。
「あー双葉ちゃん、もうすぐ夕ご飯だからウチの中入ろうね」
和己が両手で抱え上がると、双葉の体は簡単に宙に浮く。和己が力持ちなのではなく、双葉が軽いのだ。そのまま荷物でも運ぶような感じで、玄関のドアへと歩き出す。
「放せオカマ!」
「だからオカマじゃないって! それじゃ、またねー」
和己の最後の挨拶《あいさつ》は、いつのまにやら門の柱の上に座り直している石の犬に向けてのものだった。
『うむ。任《まか》せておけ』
とはいえ、和己自身、この石の犬とどう付き合っていけばいいのか見当《けんとう》がつかないのだった。双葉ほど露骨《ろこつ》な感情は出さないにしろ、今の状況は歓迎《かんげい》できるものではない。
こっそりと、和己はため息をついた。
別にあの犬が悪いわけではない。
ただ、双葉が気に入らないのもわかる。
なぜか、と問われれば――なんでだろう。
三日前から吉永家の門の柱に住みついた、石の犬。
門番としてその使命を果たすために、寝食《しんしよく》もせずにその使命を果たしている。まぁ石の犬なのだから寝食など必要ないのだろうし、報酬《ほうしゆう》を要求するわけでもなく、困ることはない。ただ、吉永家は今まで門番を必要としたことがないだけであって。
要《い》るか? と訊かれれば、横に首を振るだろう。
だけど、双葉の態度はちょっと度を越しているものもある。
夕食が済み、双葉もようやく機嫌を直してテレビゲームに熱中し始めた頃。
「ねえ双葉ちゃん。どうしてあの犬のこと、そんなに嫌うの?」
和己の声に、目の前でテレビにかじりついていた双葉が振り返った。ここは双葉と和己の共有スペースで、六|畳《じよう》のフローリングの部屋にソファーとテーブルとテレビが置いてある。その隣に二人の各個室があるのだ。吉永家の三階はこの三つの部屋によって構成されていた。
「あたしは逆に兄貴がそこまで肩入れする理由がわかんねぇ」
「別に肩入れしてるわけじゃないけどね」
「あー、こいつ! ほら、なんか似てない?」
突然、双葉がゲーム画面を指差す。
ファンタジー世界の剣士が主人公のアクションゲームで、剣士は今まさに城に入ろうとしている。守るためというよりも戦うために設計されたような正門は、まぁ、ゲームだから戦いやすいフィールドの方が都合がいいのだろう。
正門の前にはいくつもの柱が立っており、その柱の間に石像が置いてある。静かに座っている悪魔《あくま》の形をした石像だ。
剣士がその前を通ろうとすると、石像は体の色を変え、正真《しようしん》正銘《しようめい》の悪魔となって襲《おそ》いかかった。口から光線を吐《は》き、鉤爪《かぎづめ》で引っかき回す。
「っしゃあ! 死ね死ね〜!」
コントローラーを操《あやつ》り、魔物をばったばったとなます切りにしていく光景は、実際に行ったら残虐《ざんぎやく》行為だ。しかし最近のゲームは演出を華麗《かれい》に見せることによって、残酷さよりも強さをアピールするものが多い。
すべての魔物を倒し終えると、正門の前に光の円が現れた。
「お、セーブポイントだ」
途中経過を記録し終えると、双葉は兄に向き直る。
「今の『ガーゴイル』ってんだよ」
「ガーゴイル……ねぇ」
「ゲームじゃよくいるぜ。石像の形してんの」
歯を見せて笑う双葉。別にゲームの中の魔物も家の前にいる石像も嫌っているわけではないようだ。
「あいつもガーゴイルじゃねえの?」
「かもしれないけど。僕にもわかんないよ」
和己は苦笑した。高校での成績はトップクラスだし(体育以外)、超常現象やその他雑学も嗜《たしな》んでいるが、あの石像は初めて目にするものだ。だから興味が湧《わ》くのかもしれない。
「ねぇ、双葉ちゃんはどーしてあんなに乱暴するの?」
「いや、最初は軽く小突《こづ》いただけなんだけどさ。あいつ、ぜんぜん痛がらないし」
「双葉ちゃん。それって、いじめっ子の発想だよ」
和己が眉をしかめて声を低くすると、双葉は弁解するように立ち上がった。
「違うって! あいつが自分で言ったんだよ! 『我にそのようなものは効《き》かぬ。子供の貧弱な体と技では我に傷一つつけられぬ』ってさ! カチンと来るだろ普通!」
「だからってチェーンソーはないでしょ!」
「それに新聞屋とか宅配便とか、家に来る奴全員|片《かた》っ端《ぱし》から締め上げてるんだぞ! そのうち誰も来なくなって、近所からホラースポットに認定されるぞ! っていうか今もうすでにされつつあるんだよ」
「う……それは、ほら、ちゃんと謝《あやま》りに行けばさ。ねぇ」
「ったく。兄貴の思考が軟弱《なんじやく》すぎるんだよ。ただでさえ軟弱な身体とツラしてるくせに」
「もう!」
「わーってるよ。オカマって言うなって言いたいんだろ?」
「わかってるじゃない」
和己はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
しかし双葉の心中《しんちゆう》は穏《おだ》やかではない。殴り合いじゃないと、この兄の扱《あつか》いは非常に困る。あの犬が来てしばらく忘れていたが、双葉の悩みの種のランキング一位はこの兄であった。
「だったら女々《めめ》しい声で『もう!』とか言うなってんだ……」
ただでさえ綺麗な顔をしているこの兄は、とかく双葉と比較される。姉と弟に間違えられたことすらあった。コンプレックスの一つや二つ持っていないほうがおかしい。嫌味《いやみ》の一つも言いたくなるのだ。
「とにかくさ、ほら、双葉ちゃんももう少し穏便《おんびん》にさ。壊《こわ》そうとか考えないで」
その和己が困った顔をして提案すると、
「じゃあ、穏便に解決してやるよ」
双葉は晴れやかな笑顔で答えた。
その顔に和己はイヤな予感を感じずにはいられなかった。
「なんだ兄貴、まるであたしが腹に一物《いちもつ》もってるような気がするって顔だぞ」
「……わかってるなら、本当に穏便に済ませてね」
和己の心配もわかるが、双葉だって無条件に嫌っているわけではない。
動物が嫌いなわけでも、石像が嫌いなわけでもない。
あの犬に罪がないこともわかっているつもりだ。
ただ――あの不敵な態度。おそらく本当に強いのだろう。自分をバカにした言動。どうせガキだよ。我《わ》が物《もの》顔《がお》で門の柱に座るふてぶてしさ。これでメシでも要求しようものなら、速攻で川に流してやる。どうせすぐに戻ってくるのだろうけど。
そういう態度がムカつくんだ。
きっと、そうなんだ。
門番なんて雇《やと》うつもりもないし、ペットだって必要ない。
そして、翌日の日曜。
外はあまりいい天気とは言えなかったが、少しでもヤツから離れるために、双葉は早い時間から家を出ることに決めていた。
『双葉』
家を出ようとして、件《くだん》の石像に呼び止められた。
「んだよ」
無視してもよかったのに、いちいち反応してしまう律儀《りちぎ》な双葉。見上げると、門の上に変わらぬ姿で座る石像の姿があった。それきり黙りこむ石の犬に何か言い返そうと口を開いたとき、
ぽとり。
『危ないところであった』
振り向くと、地面に鳥の糞《ふん》が落ちていた。あのまま歩き出していたら爆撃《ばくげき》されていただろう。
「おまえ、見えたのか?」
『うむ。我の感覚器をもってすれば造作《ぞうさ》もない』
「……ふーん」
『遊びに行くのならば、国道沿いの道は避けろ。あそこは自動車の流れが速い上に、人身事故が多発している。危険だ』
「あーそーかよわかったよ」
話半分に聞きながら、双葉は歩き出す。
御色《ごしき》駅前商店街は駅を挟《はさ》んで北と南に分かれている。
北の方はショッピングデパートを中心にたくさんのビルが立ち並んでおり、とても商店街と呼べるシロモノではないのだが、南の方は古くからある小さな商店がアーケードの下に詰《つ》めこまれている、まさに商店街といった場所だった。現在は春休み中で、若《じやく》年齢《ねんれい》層《そう》の客を惹《ひ》くための企画がいろいろと催《もよお》されているが、北も南もパッとした成果はあげられていない。
華やかさでは北口商店街が勝っているが、住宅が多いのは駅の南側なので、住民にとっては帰り道である南口商店街のほうがなじみがある。いろいろ奇抜《きばつ》な企画を催すのも南のほうだ。
それは、数日前の木曜だった。
毎月|恒例《こうれい》である御色南口商店街の特別感謝セールの横断幕をくぐったときのことである。もはやどの辺が特別感謝でいくらまでがセールなのか、双葉にはわからない。それだけ頻繁《ひんぱん》に行っていなければ、不景気を忘れることができないのだろう。
どうせどこかの店が安いとかで、ママが肉や野菜を買いこむのだろうと双葉は思った。なんの料理を作るか、家に帰ってから悩む光景が容易に想像できる。
週刊マンガ雑誌を買って、足早《あしばや》に帰ろうとしたその時。
からん[#「からん」に傍点]とちりん[#「ちりん」に傍点]の中間にある鐘《かね》の音《ね》が双葉の足を止めた。
「おめでとうございます!五等の箱ティッシュ、あ、た〜り〜〜!」
アーケードの出口に仮設テントが立てられており、その中ではやたらテンションの高いおじさんがハッピを着て、鐘を振り回している。そこでは想像どおり例の八角形のガラガラ回す福引機が置かれている。五等の箱ティッシュで大騒ぎするほどのことでもないだろうが、それほど品揃《しなぞろ》えが薄いのだろうか。それとも今まで何十回もやって、ようやく箱ティッシュが当選したのだろうか。だとしたら双葉でも鐘を振る。
ふいに嫌なハウリング音が聞こえたと思ったら、ハッピのおじさんがスピーカーを手にしていた。
「さぁさぁ盛り上がってまいりました春の恒例、御色南口商店街|抽選《ちゆうせん》くじ! 今回は商店街のさまざまなお店に出資を手伝っていただき、まことに豪華な賞品が揃えられました! 特賞は金澤《かなざわ》電器さんからのハロゲンヒーター、一等はブティック天野《あまの》より冬物セーター詰め合わせ――」
「おい、それどうみても処分品だろ!」
思わず双葉がツッコむが、
「何を言うんですかお嬢さん! ただでもらえると思ったら安いもんでしょう?」
「黙れスピーカーでしゃべるな! ハロゲンヒーターなんか春にどう使えってんだよ!」
「そりゃお部屋のインテリアとか我慢大会とか、あそうだ、扇風機《せんぷうき》に見立てて気分だけでも涼しくなるってのは――」
「おーい、詐欺師《さぎし》がここにいるぞー! 和菓子屋の宮村《みやむら》さんが詐欺まがいのくじで少女を騙《だま》してるぞー!」
「わ、双葉ちゃん勘弁《かんべん》してよ! あ、奥さんいいところに!」
宮村さんの視線を追って振り向くと、買い物かごと大きな荷物を持った双葉のママがいた。やはり買いこんだらしく、笑顔の上にうっすらと汗が張りついている。
「ママ。買い物か?」
ママはにっこりとうなずくと、何かを思い出したように買い物かごを漁《あさ》り始《はじ》める。やがて出てきたのは数枚の福引券。双葉はそれを受け取ると、和菓子屋の宮村のおじさんに叩きつけた。
「おっ、双葉ちゃんやる気だね! えーと、ひいふうみい……五回だね!」
双葉の手が福引機の取っ手をしっかりと掴《つか》む。
「ハロゲンヒーターが出たら質屋《しちや》で売りさばいてやる」
「ちなみに質屋の小平《こだいら》さんからは高級腕時計と――」
「だからそんなものを福引の景品にするなっ!」
そこでふと、双葉は気がついた。
三等の景品。その出資先の名前が見慣れない文字だったからだ。
「なぁ、あの三等の――」
「ああ、アレ? こないだ出来たアンティークショップらしいんだけど――」
今になって思えば、訊《き》いておいて正解だったかもしれない。
結果として双葉は、その日、四個のポケットティッシュと一頭の厄介事《やつかいごと》を引き当てたのだから。
その店は、何かがちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]だった。
ウサギの人形が並べられている西洋風のショーウィンドウから視線を上げていくと、中国風の柱の装飾《そうしよく》に縁取《ふちど》りされた木の看板がある。「兎轉舎[#「兎轉舎」に傍点]」と書かれたそれは、最初どう読むのかわからなかった。
いつも通る道のはずだ。それなのに双葉はその存在を今になって知った。
しかしこんな人形やぬいぐるみなど、双葉にとって縁《えん》のない物だ。知らず知らずのうちに無視していたのかもしれない。
アーケードの時計を確かめる。十一時。もう開店している時間だ。
双葉は深呼吸をした。
「ちわー」
初めて入る店なのに、妙になじみのある態度でドアを開ける。
澄んだ木の匂《にお》いが鼻を刺激《しげき》する。小さな照明が数個|天井《てんじよう》からぶら下げられており、しかし店内の商品ははっきりと見える。ある程度の薄暗《うすぐら》さは演出効果なのだろう。
アンティークショップというよりも、古道具屋だった。実生活ではなんの役にも立たなそうな物品が大小とりまぜて置いてある。しかし、見えやすい壁にはよく掃除《そうじ》された絵が飾ってある。一つを見てみると、外国の人物画だった。その隣は壺《つぼ》の絵。
「なんだこれ?」
思わず漏《も》れ出《で》た感想は、絵の内容よりも店全体を表すものだろう。
生き物がまったくいない怪《あや》しげな店内で、ふと、双葉は我に返った。
レジのないカウンターの後ろに扉《とびら》があり、そこから住居部分へとつながっているようだ。とりあえず、そこに向かって声をかけてみた。
「おーい、誰かいないのかー? お客さんだぞー!」
すると、
「はい。いらっしゃいませ」
誰もいないはずの真横から声がかかった。
「うわぁ!」
弾《はじ》かれたように吹っ飛ぶ双葉。
「あらこんにちは。確かこないだの福引でウチの店の景品を当てた子ね。どうかしら? わたしとしてはかなりオススメの商品なんだけど」
びっくりして尻餅《しりもち》をついた双葉が見上げるのは、黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》をかけた長い黒髪のお姉さん。スプリングセーターもその上に羽織《はお》るベストも長いスカートも靴《くつ》も黒一色で、まるでカラスのようだった。唯一《ゆいいつ》その美しい顔だけが雪のように白い。童話の中に出てきそうな無機的な姿だったが、人懐《ひとなつ》こい笑顔が人間味を感じさせた。
「このご時世だから、なにかと危険だとは思うのよね。だから本当はお店の前にでも飾《かざ》っておこうかと思ったんだけど、福引の景品で手ごろなものがなかったのよね。あなたの家では役に立ってるかしら? ペットのようなものとして飼ってくれればいいから。名前とかもうつけてくれた? 正式名称は門番型自動石像っていうんだけどね、わたしネーミングセンスないからあらごめんなさい椅子《いす》を用意しなくちゃ疲《つか》れてたのね床《ゆか》に座りっぱなしで」
「やかましいわぁぁぁぁぁっっっ!」
俊敏《しゆんびん》な動作《どうさ》で双葉は跳《は》ね起《お》き、飛び蹴りを後頭部に喰らわせた。初対面の人間でもこういう態度が取れるあたり、大物の素質があるかもしれないが、それを喰らったお姉さんも、よろけつつ身を反転させて壁にかかっていた青龍刀《せいりゆうとう》に手をかけるあたり、只者《ただもの》ではない。
「……いい蹴りね。でも、この青龍刀がかわせるかしら?」
「武器ごときで怯《ひる》むほど、軟弱な教育は受けてねーぜ」
しばらく睨み合った後、
「……なんであたしらはこんなことやってんだよ?」
「そういえばそうねぇ」
あっさりと青龍刀から手を離すお姉さん。ぐさり、と床に刺さったそれにはもう見向きもせずに、カウンターの裏にあった年代物の椅子を双葉に放って[#「放って」に傍点]よこした。それを受け取った双葉はどっかりと腰をおろし、カウンター越しにお姉さんと向き合う。
「さて」
口を開きかけたお姉さんに対し、
「まて、あたしから話させろ」
「えぇ〜」
本当に悲しそうな顔をする。黒ずくめの古物商(年齢不詳)というイメージが台無しだ。
「いや、いいんだけどさ。この店、なんて名前なんだよ?」
「あら、看板あったでしょ? 兎轉舎《とてんしや》っていうのよ」
「へー、そう読むんだ」
ヘンな名前だと思ったが、双葉は口に出さなかった。
「そうよ。兎轉舎へようこそ、吉永双葉ちゃん」
もはや名前が知られていることなど、双葉は驚かない。商店街に知れ渡っているのだろう、最重要危険人物の名前が。
「さて、なんの御用かしら? ちなみにあの石像を引き取って欲しい、ってお願いは却下《きやつか》だからね」
ぐ。あっさりと先手を取られて言葉に詰まる。お姉さんは予想していたとばかりに意地の悪い笑みを浮かべていた。喧嘩《けんか》売っているとしか思えない。
「……そこをなんとか」
「だーめ。プレゼントをつき返されるのなんて、まっぴら御免《ごめん》だわ。それよりお茶を入れるわね。ちょうどいい葉っぱがあるのよ」
そう言ってお姉さんは席を立つ。
「まだ一度しか実験してないんだけどね」
「なんだよ実験って! それ本当にお茶かよ! ていうか一度目は誰に試《ため》したんだよ!」
カウンターの奥に消えるお姉さんを荒い息遣《いきづか》いで見送り、自分が軽くあしらわれた苛立《いらだ》ちと、しかしこの会話を楽しんでいた自分が相反《あいはん》していることに気づき、
「あーもう!」
カウンターをこぶしで殴る。
もはや石像のことなど、どうでもよくなっていた。
「やっほー。おはよー、ガーくん」
家の前で和己が呑気《のんき》に手を上げた。
昨晩は遅くまで勉強していたせいで、和己の起床は昼前だった。おはようにはふさわしくない時間だったが、和己の頭の中では、午前中は朝なのである。
天気は曇《くも》っており、予定のない日曜日としてはいささか行動を起こしにくい。こんな日は家でじっとしているのが一番なのだが、双葉は出かけてしまっているようだ。まぁ、あの妹ならば雪でも全力|疾走《しつそう》で駆け回るのだろうが。
『ときに尋《たず》ねるが、和己よ』
門の上で微動《びどう》だにせず座っている犬の石像が、なんの感動もない声を発した。
『その、ガーくん[#「ガーくん」に傍点]という呼称《こしよう》は、我に向けられたものか?』
「そだよ」
『何故《なにゆえ》?』
「ほら、今まで名前がなかったじゃない。だからね、昨日みんなで決めたんだ。ガーゴイルのガーくん」
笑いながら、和己はその黒い肌をぽんぽんと叩く。相変わらず、冷たい石の感触しかしない。
『ガーゴイルというのは主に西洋の門に設置されている石像のことだな。我は、それなのか?』
「正確にはわかんないけどね。いいじゃない。犬にネコって名前つける家もあるし」
『ふむ……そうか』
「気に入らなかった?」
何気《なにげ》ない質問だったが、ガーゴイルと名づけられた犬は、その質問に答えるまでに数秒の時間を要した。もともと無表情で体も動かないため、不気味《ぶきみ》である。
和己が不安になりかけた頃、
『……わからない』
そう答えた。
「わかんないって、何が?」
『今まで、我に名前を与えてくれた人間などいなかった。だから、こんな経験は初めてだ。我はその感情を表現する術《すべ》を持たない』
「……そう」
それがどういう感情なのか、少しは和己にもわかった。
だから、少しだけ安心した。
「でさ、ガーくんはさ、いったいどんなことができるの?」
『どんなことでもできる。我はこの吉永家を守るために存在する』
「守るって、どういうこと?」
『外敵が侵入《しんにゆう》した場合、何よりも迅速《じんそく》に排除《はいじよ》することができる』
「外敵ねぇ……」
つまり泥棒《どろぼう》か何かのことだろうか。排除というものがどういう手段なのか、和己には想像もつかないが。
「じゃあ、害虫|駆除《くじよ》とかできる?」
『無論だ。家屋に傷をつけずに、害となる生物を根絶《ねだ》やしにすることが可能だ。さらに再発生を防ぐために巣《す》を焼き払う。ところで和己よ』
「何?」
少し立っているのが疲れたので、和己は手ごろな座るものを探す。もともとモヤシっ子だから体力がないのだ。
『なぜ、今まで我にそのことを訊かなかったのだ?』
「どーゆーこと?」
和己は庭の片隅《かたすみ》にあった折畳式《おりたたみしき》の木の椅子を持ってきた。振り向くと、雲の隙間《すきま》から差し込むわずかな光が黒い背中を照らしていた。
『我は製品だ。製品情報を知らずに使うことはできないだろう』
「……そんな」
無理に笑いを作って、椅子に座る。
『双葉などは、我の存在を見ただけで壊そうとする』
「そうだね」
『我は、そんなに実用性がないのか?』
「違うよ。そうじゃないよ」
和己は首を振る。
突然、喋《しやべ》る犬の石像が家にやってきた。
それでいて平然としている人間は、それだけで特異《とくい》だろう。和己だって最初は戸惑《とまど》った。今日だって、ガーゴイルに話しかける前、家の玄関で逡巡《しゆんじゆん》したのだ。どう接していいかわからない相手に、どう接するべきか。それがわからないまま、結局和己は玄関を開けて笑顔で話しかけたのだ。
「別にさ、僕は、そんなこと関係ないと思ったけどね」
視線を家の門に戻すと、一瞬の間にガーゴイルの姿が消えていた。
『しかし、それでは我の使命が果たせない』
声は真横からした。一瞬で移動するのにはもう慣れたが、それでも予期せぬところから声をかけられると多少驚く。
こうしてみると、実に不可解な存在である。
だけど、反面、わかりやすいところもある。
つまりは、名前をつけられたことが嬉しくて、双葉に嫌われたことが悲しいのだ。
『ガーゴイルという名を与えてもらってまで、家の人間の信頼を得られぬようでは、我の矜持《きようじ》が保《たも》てぬ』
「いいんだよ。別に」
ガーゴイルの言葉をさえぎり、和己はぽんぽんと黒い背中を叩いた。
「双葉ちゃんも、別に嫌っているわけじゃないんだから」
『そうなのか?』
声に少し力がこもったような気がする。
「そうだよ。それよりほら」
差し出した手に、ぽつ、と水滴があたる。
見上げると、曇天《どんてん》模様がさらに濃《こ》くなり、黒一色になりつつあった。
和己は玄関に戻ると、傘《かさ》を取ってきた。
「はい」
にっこりと笑い、ガーゴイルに差し出す。
「門番のお仕事、第一号」
ガーゴイルは相変わらずの無表情で、
『……承知した』
なんとなく、この犬との付き合い方が、わかった気がした。
今度、庭に椅子だけじゃなく、テーブルも置こう。
カーテンを閉め、照明を落とす。真《ま》っ暗闇《くらやみ》になった兎轉舎の店内に、やがて小さな光が生まれる。それは徐々に勢力を拡大し、店内の闇を呑《の》みこんでゆく。
その光を見た双葉は、
「なんだこの光? 気持ち悪《わ》りー」
実に正直な感想である。
光は店の中央テーブルに置かれた機械から発せられていた。舞台用の照明装置に似ているが、後部にプラグはなく、代わりにレンズのような石があつらえてある。このレンズで光を吸収し、前方のレンズから照射《しようしや》する仕組みだ、という。
二つのレンズの間にある謎《なぞ》については、双葉は興味がなかった。ただ、そこから発せられる光が、どこかで見たことはあるがこの場にはそぐわない[#「どこかで見たことはあるがこの場にはそぐわない」に傍点]、という奇妙な不安感を生《しよう》じさせる。
「室内に入れる光じゃないからねー」
その機械を操作しているお姉さんが苦笑した。装置の脇《わき》についている仰々《ぎようぎよう》しいレバーを微妙《びみよう》に操作している。やがて光を落とし、照明をつけると室内に現実が舞い戻ってきた。やはり先ほどの機械から発せられた光とは違う。
「どう? ウチの掘り出し物、蓄陽燈《ちくようとう》。太陽の光を溜《た》めて、照らし出すことができるのよ。もちろん太陽発電。大正十年に発売されたんだけどね。もうその頃には電灯が普及《ふきゆう》しちゃってて、さっぱり売れなかったの。結構面白いと思わない?」
「面白いだけじゃねーか」
「非常用にも使えるのよ」
「懐中《かいちゆう》電灯《でんとう》があるだろ」
「うう……」
しょんぼりと肩を落とし、カウンターの奥へ消えていくお姉さん。もうこれで何品目だろう。この店には奇妙な品しか置いてないのだろうか。もはや古物商ではなく、インチキ商品売りの域である。
「はぁ……疲れた」
あのお姉さんは、得体《えたい》の知れない品物と気合で次々に双葉をぺースに巻きこんでゆく。双葉ですらこうなのだから、一般人はどんな顔をしているのだろう。そもそもこの商店街に軒先《のきさき》を並べられた経緯《けいい》も謎だ。果たして商売が成り立っているのか。
お姉さんはすぐに舞い戻ってきた。手には小瓶《こびん》が握《にぎ》られている。
「これこれ! これは蝶々《ちようちよう》軟膏《なんこう》っていって、昭和元年に発売されたのよ! どんな傷でも治るの!」
どん、とカウンターの上に瓶を置く。ラベルには和服の女性が。
「なんで蝶々なんだよ?」
「蝶々夫人って知ってる?」
「知らねぇ」
「あのね、いつ治るかわからないの! 下手すれば三年くらい待たなきゃならないの! なんてロマンチック!」
「それのどこに商品価値があるんだよっ! それにロマンチックでもなんでもねぇよ!」
「どんな傷でも治るのよ! チェーンソーでまっぷたつにされても運がよければ二秒でくっつくの!」
お姉さんの手が瓶の蓋《ふた》のコルクに伸びる。
「見ててよ! いま、くっつけるから!」
「何をだよ」
「とりあえず耳ちょんぎらせて」
「ざけんな!」
「それからこのエルフ耳を双葉ちゃんに」
「だからやめろっつってんだよ!」
手近にあった壺をお姉さんの頭に叩きつける。ものすごく鈍《にぶ》い音がしたが、少なくとも壺のほうはヒビ一つ入らなかった。
「帰る!」
壺をカウンターに置き、双葉はお姉さんに背を向けた。
「またね、双葉ちゃん」
背中に明るい声が当たる。双葉は振り返らなかった。
兎轉舎を出て、ようやく双葉はこの店に何をしに来たのか思い出した。
夕方のアーケード街に、頭に傘を乗せた石像がぽつんと座っていた。
ずっと待っていたのだろうか。傘を乗せて迎えに来たはいいが、ガーゴイル自身はずぶ濡《ぬ》れだった。きっと、ついさっき辿《たど》り着《つ》いたのだろう。
『……双葉』
「おう、帰るぞ」
双葉はガーゴイルの頭から傘をもぎ取って歩き出した。
商店街のほとんどの店は、双葉の顔を覚えている。次々に投げかけられる明るい挨拶《あいさつ》をいちいち返しながら、スピーカーから流れるメロディと天蓋《てんがい》にあたる雨音を聴いて、結局、あのお姉さんにはぐらかされたのだと気づく。
――くそ。
八《や》つ当《あ》たりでガーゴイルを蹴っ飛ばしたくなった双葉だったが、さすがにやめた。
商店街の出口に立ち、傘を広げる。赤い、双葉専用の傘だった。
「おら、帰るぞ石コロ」
双葉の隣にガーゴイルは座っていた。返事がないので、双葉は勝手に商店街を出た。買い物帰りの主婦や、傘を忘れて急ぐ学生をかきわけるようにして、双葉は歩いた。
別に、何が家に来ようが双葉には関係ないのだ。
ただ、その、石像、という存在とどう接していいのかわからないだけで。
それは犬だろうが猫だろうが赤ん坊だろうが同じなのだ。
帰り道も半分を消化して、やがて御色川の橋に差しかかろうとしたとき、
『――双葉』
今まで一度も口を開かなかったガーゴイルの声が聞こえた。隣を見ると、商店街の出口と同じように、堂々と座っている。その声は相変わらず無機質だったが、雨のせいか、震《ふる》えているようにも聞こえた。
『やはり、我は門番としては役に立たないのか?』
いきなり何を言い出すのかと思えば。
「ああ、最悪だ。いねーほうがマシだ」
『――そうか』
ふん、と鼻を鳴らして、歩き出そうとすると、
『やはり、今時《いまどき》の流行ではないからか?』
ガーゴイルは双葉の前、橋の欄干《らんかん》の上に移動していた。
「はぁ?」
『やはり合体変形とかできないと駄目《だめ》なのか?』
「……おまえ、来る途中で何《なに》観《み》た」
『目から光線くらいだったら出せるぞ?』
「しつっこいんだよっ!」
ドロップキックが命中。
どぼーん、と音を立ててガーゴイルが御色川に転落するのを見届ける。
もう一度鼻を鳴らして双葉は歩き出した。
橋の終わりにガーゴイルは座っていた。
ため息が出る。
「なぁ、そもそもおまえ、ナニでできてるんだよ?」
『わからぬ。汝《なんじ》が自分を構成する物質を把握《はあく》していないのと同じだ』
「あーそーかよ――いっくし」
傘がほとんど役に立たなくなっていた。双葉の服も髪も雨に濡《ぬ》れ、かなり体が冷えていた。
『帰るのならば急いだほうがいい。風邪《かぜ》をひく。我には病気というものはわからないが、人間には大変なものなのだろう?』
「誰のせいだと思ってんだよっ!」
傘を閉じ、ガーゴイルをばしばしと叩く。
『よせ双葉。傘を閉じるな。濡れる。そして我に攻撃するな』
「やかましい!」
傘は折れ、すでに使い物にならなくなっている。双葉は足でガーゴイルを蹴りつけた。嗜虐心《しぎやくしん》はちっとも満たされない。イライラだけが増してゆく。はっきり言って理不尽《りふじん》だ。
――なんであたしがこんな目に遭《あ》わなきゃいけないのだ?
不機嫌なツラで双葉は歩きだそうとするが、
『待て双葉。そっちは国道沿いの道だ。危険だ』
「あ?」
言われて双葉は回想してみた。確か、出がけにそんなことを言われていたような気がする。事故が起きるから危険だとか。
『道を迂回《うかい》すべきだ』
「つってもなぁ。こっちのほうが早いし」
『だが危険なことには変わりない。例えば確率一割で事故が起きる道と、二割で事故が起きる道なら、双葉はどちらを選ぶ?』
「そりゃ一割のほうだけどさ」
『ならば多少遠回りでも安全な道を行くべきだ』
「うっせーなぁ。帰り道くらい自分で選ばせろよ!」
しつこく食い下がるガーゴイルに反発して、双葉は国道沿いの道を選んだ。ガーゴイルについてこられないように走り出す。
国道は確かに車の流れが速く、危険といえば危険だ。だが歩道も広いし道も一直線だ。そうそう事故など起きるはずもないのだが、なぜか月に一度は車がどこかに衝突《しようとつ》する。緩《ゆる》やかな曲がり角に気づかなかったり、突然人が飛び出してきたり。起きるときには起きるものだ。
通学路にも使用しているこの道だったが、今日は雨のせいもあって、いつもより道が暗く見えた。見慣れた道が陰鬱《いんうつ》に感じられる。いや暗いのは自分のほうか、と双葉は傘を前方に傾《かたむ》けてため息をつく。
『まったく――どうして忠告を聞かぬのだ』
傘を上げると、前方のガードレールの上にガーゴイルがいた。
今度は怒りの混じったため息が出る。
「おまえこそ、なんでそんなにしつっこいんだよ」
『我は門番だ。家人《かじん》の安全が最優先だ』
しれっと語るガーゴイルを無視し、双葉は傘を前に傾けて歩き出す。
雨粒《あまつぶ》が傘を叩く音が聞こえなくなってきた。雨足が強くなって地面を打つ音と、車の駆動音《くどうおん》が大きくなってくる。なじみのラーメン屋の前を通り過ぎると双葉は傘を上げた。
押しボタンつき信号の横断歩道。
ボタンを押すと、「しばらくおまちください」のランプが灯《とも》る。
しばらく待つ間、双葉は隣に座っている石の犬を爪先《つまさき》で押すように蹴る。
「おい。おまえ、うちに来る前はナニやってたんだ?」
『知らぬ。気がつけばあの店にいた。五、六十年位か』
「っておい! それってかなり昔だろ! 戦争とかあっただろ!」
『戦争の記憶はない。どこかの倉庫に収納されていたのだろう』
「……じゃあ、うちの門番が」
『うむ。初仕事である。我の記憶している限りだが』
それきり会話がやむ。信号はまだ変わらない。
初仕事。それなら常識とかに無縁なのも理解できる。理解できるのだが、双葉は納得《なつとく》できない。腹が立つのは性格的な要因によるものではないのか。常識がないから多少の無礼《ぶれい》は許せ、などと言われる前にドロップキックが出るのが双葉なのだ。
「おまえさ」
三十秒ほどの間を置いて、また双葉が喋りだす。
「守ることばっか考えてないでさ。少しは攻《せ》めろよ」
『攻める?』
「そうだよ。自分から行動起こせよ」
『それは、つまりどういう――』
「ウチにおいて欲しいなら、素直にそう言えっつってんだよ」
ガーゴイルは答えなかった。
この感情をどのように双葉に伝えればいいかわからなかったからだ。
『我は……』
その時、信号が青に変わった。
「あーもういい。やめ。とっとと帰るぞ。こんな雨の日にまでイライラしたかねーよ」
『先ほど我に傘で攻撃したのは』
「うるせぇとっとと帰るぞ!」
『待て双葉、安全確認を――』
双葉が横断歩道を渡り出した次の瞬間だった。
ガーゴイルの感覚器に不明な情報が流れこむ。
国道を双葉に向かって走ってくる車。赤信号は確か停止を意味するはずだ。それなのに、車は速度を落としていない。運転手がどこを注視しているかもわかる。携帯電話で会話をしているようだ。
――双葉を見ていない?
『双葉!』
叫び声に双葉が振り返る。情報はさらにガーゴイルの感覚器を刺激《しげき》する。
横断歩道に向かって走る車の運転手には、双葉と赤信号が見えなかった。強い雨で視界が狭《せま》くなっているのと、普段あまり使われない押しボタン信号なので、青になっていると思いこんでしまっている。このような思いこみが事故の原因によくある。
ようやく運転手が双葉に気づいたようだ。だが遅すぎる。何か叫び声を上げてブレーキを踏む。その一連の行動が、ガーゴイルの感覚器に濁流《だくりゆう》のように流れこんでゆく。
――双葉を守らねば!
強いライトが双葉を照らし、初めて双葉が車の方を見た。
「……えっ?」
クラクションが鳴る。
双葉の眼前に迫る、強い光。
その光をさえぎるように座るガーゴイルの姿。
強烈《きようれつ》なスリップ音。
『うおおおおおっ!』
ぴたり。
赤い車はドリフトの姿勢のまま、その濡れた車体を双葉の前にさらしていた。タイヤから煙《けむり》が上がり、若い運転手は車から出て何が起こったのか確認している。
強いゴムの匂いが鼻を刺激する。
「……えっ? あー……はあ?」
双葉はまだ自分に何が起きたのか、わかっていない。
車と双葉の間に、ガーゴイルが座っていた。
『危ないところであった』
その口調《くちよう》は、まるで無事で当然、と言わんばかりだった。
車、煙、ガーゴイル。
それらを見比べて、自分が死にかけたことにようやく思い至《いた》る。
思い至ったところで、震えが全身を包んだ。
もしもこの石像がただの石像だったら。
門番じゃなかったら。
「おい君! お嬢ちゃんたち! 大丈夫か?」
スリップ音に気づいた大人たちが双葉とガーゴイルを囲《かこ》むようにして集まっていた。聞かれるまでもなく、大丈夫に決まっている。双葉もガーゴイルも、車まで。
ガーゴイルが門番としてどのような能力を使ったのか知らないが、まさか車まで無傷で済ませるとは思わなかった。自慢するだけの力を持っている。
車から出てきた善良そうな運転手は自分の車と双葉たちになんの異常もないことに驚愕《きようがく》し、しかしそれでもしきりに双葉に頭を下げている。
「ごめんなさい! 俺、全然気づかなくて……本当にすみません!」
『もしもこの者に傷一つつけてみろ。全身を灰にしても済《す》まさぬぞ』
運転手は骨身《ほねみ》に染《し》みたようで、しきりに頭を下げている。
『とはいえ、汝もその車を大事にしていると見える。よく磨《みが》かれているようだ。その車を守りたかったら、安全運転を心がけることだ』
「……ありがとうございます!」
野次馬《やじうま》の中心で、ガーゴイルと運転手の説教が繰《く》り広《ひろ》げられている。それを見てなぜか双葉はいたたまれなくなった。非がないとはいえ、自分がちゃんと安全確認をしていればこのような騒ぎにならなかったはずだ。
『双葉、帰るぞ』
いつのまにか戻ってきたガーゴイルが、何事もなかったような口調で言った。これ以上ゴタゴタに巻き込まれるのは、双葉も嫌《いや》だった。
「あ……その」
双葉は感謝の言葉を述べてから帰ろうとしたが、
「ありがとうございます! 俺と車も守ってくれたんですよね! 本当にありがとうございました!」
運転手が泣きながら頭を下げ続けていた。
『我はガーゴイル。この世のすべての災厄《さいやく》から吉永家の者を護《まも》ってみせよう』
締めくくるようにガーゴイルが言うと、野次馬から拍手《はくしゆ》が巻き起こった。
なんだかとても腹が立って、双葉は一人で歩き出した。
『帰るのか。待て双葉』
後ろからガーゴイルの声がかかるが、無視して歩いた。
頬《ほお》が熱かった。照れだけではないだろう。
あっというまに現れて、あっというまに事件を解決した石像を見送った人々は、少女の罵声《ばせい》が遠ざかると、自然に元の道を歩き始めた。口々に奇妙な英雄を褒《ほ》め称《たた》えながら。
車を運転していた青年も、クラクションの音で我に返ると、慌てて近くの道路脇に車を隣接させた。エンジンを切ると、ステアリングに突《つ》っ伏《ぷ》して大きなため息をつく。
こんこん。
窓を叩かれた。誰だろう。
警察《けいさつ》だとしたら、包み隠さずすべてを話そう。
覚悟《かくご》を決めて青年が窓を開くと、警察手帳の代わりに一万円札が突き出された。
「ちょっと、あの石像について知りたいことがあるんだけど――」
怖《こわ》かったのだ。
本当に死の恐怖を覚えたのだ。
それなのに、あいつは平然と助けてくれた。
『……何か我は間違ったことをしたのか?』
国道を避けて道を選び、双葉は慎重《しんちよう》に家路《いえじ》につく。後ろからガーゴイルがついてくるのが気配《けはい》でわかる。
『双葉、我は攻める門番という言葉の意味がわかりかけてきたぞ。つまり物理的に守るだけでは駄目なのだな。当人たちの立場や環境を考えて――』
「なぁ、おまえ、どんなものからでも守るんだったよな?」
言葉をさえぎって振り返ると、ガーゴイルは双葉の視線の先に座っていた。まるで先ほどからずっとそうしていたかのように。
『……そうだ。それが我の存在理由だ』
双葉は嘆息《たんそく》した。だが、その表情は笑っていた。
「ふーん。じゃ、守ってもらおっかな」
言うが早いか傘を放り投げ、双葉は家に向かって駆け出した。
――事故を起こそうとした奴まで守る門番がどこにいるんだよ。
顔がどんどん緩んでゆくのを自覚して、双葉は笑いを強引《ごういん》にひっこめようとした。
――もう少し教育してやらねーと、売りさばいた先で迷惑《めいわく》がかかるだろーな。
『待て双葉、雨から守るのはさすがに無理だぞ。おい双葉聞け』
「いいか! 明日、新聞屋に謝りに行くぞ! 二度とあんな真似するなよ!」
『それは、つまり、我は居《い》てもよいの――』
「黙れ! そしてさっさと守れ!」
『いやだから無理だと――』
薄暗い兎轉舎の店内で、カウンターにだらしなく突《つ》っ伏《ぷ》しているお姉さん。
「――やっぱ双葉ちゃんには悪魔耳のが似合うかなぁ――あの石像、お似合いだと思うんだけどなぁ――ああ見えて寂《さび》しがりやっぽいもんねぇ、二人とも――」
時計の音を耳にしながら、悲しそうに眉を寄せる。
「どんな優《すぐ》れた技術を使っても、心の成長だけは成《な》しえないのよねぇ……」
家に帰ると、玄関で和己が待っていた。
用意されていたバスタオルは二枚だった。双葉の乱暴な親愛表現を、彼なりに解釈《かいしやく》してみたのかもしれない。
あるいは――
とにかく、二匹の濡れねずみを前にして、
「おかえり」
と微笑んだ。
双葉もガーゴイルも、ただいま、と疲《つか》れた声で返した。
それは家族が交《か》わす挨拶だと、知ってのことだろうか。
[#改ページ]
第二話
吉永さん家の朝昼晩
朝と呼んでもまったくさしつかえないが、目覚し時計を鳴らせば誰《だれ》でも激怒《げきど》する時間。
何事《なにごと》もなく日は昇《のぼ》り、御色町《ごしきちよう》に一日が訪《おとず》れる。四月とはいえ、まだ肌寒《はだざむ》い。この時間に家を出るならば、上に何か羽織《はお》ることをおすすめする。
だが石の身体《からだ》には熱さ寒さも関係ない。
『ふむ……』
吉永《よしなが》、と書かれた表札の上に、ガーゴイルは座っていた。
『夜が明けたか。賊《ぞく》の気配《けはい》もなし。まことに重畳《ちようじよう》』
睡眠《すいみん》も必要ないこの石像は、一日中、ここで見張りをしている。吉永家の人々にとりあえず受け入れられてはいるものの、門番としてのプライドなのだろう。家を守ることにかけては絶対の誓《ちか》いを立てていた。本能なのか、サボれない。
『誰だ』
「ひっ!」
ガーゴイルの感覚が人の気配を察知《さつち》した。すぐ近くの電柱の影。顔に見覚えがあった。確か――
『新聞屋だな。話は聞いている。通るがよい』
「あ、はい……ッス」
恐《おそ》る恐る電柱の影から顔を覗《のぞ》かせる新聞屋の青年。大学生だろうか、若々しいその顔いっぱいに怯《おび》えの色を塗《ぬ》りたくっている。
一歩、また一歩、ゆっくりと吉永家の郵便受けに近づく彼に対し、
『この前は失礼した。我《われ》は生まれてまもない故《ゆえ》、情報が不足していた。早朝に郵便受けに物を入れる存在を見て、つい賊《ぞく》が犯行予告状か何かを届けに来たのかと判断してしまった。許してほしい』
「い、いえ……わかっていただけたらいいッスよ」
『しかしだな』
郵便受けに新聞を差し入れようとする手が止まる。
「な、なんスか?」
『我は新聞という存在は知っているが、内容を読んだことがないのだ』
「はぁ」
『この世界の情勢も知っておきたい。その場で少し見せてはくれまいか』
「えっ?」
青年の顔がまたひきつった。断ったら何をされるのだろうか。前のように――ああ考えただけでも恐ろしい。おかげで三日間バイトも学校も休んで布団《ふとん》で震《ふる》える羽目《はめ》になったのだ。
『頼む』
「あ……はぁ……少しだけなら……」
覚悟を決め、青年は新聞を広げた。配達時間は惜《お》しいが、誰だって命のほうが惜しい。
『ふむふむ……首相《しゆしよう》、首脳《しゆのう》会談《かいだん》に出席……今の首相は犬養《いぬかい》毅《つよし》だったか?』
「いえ……それずいぶん昔の話ッスよ」
『情報を刷《す》り込《こ》まれた時代がそのあたりだったからな。ところでこのパラリンピックというカタカナの言葉はなんだ?』
「あ、それは障害者の方々《かたがた》が参加するオリンピックのことッス」
『ふむふむ。ではこのデフレスパイラルというのは』
「あ、あのぅ、もうそろそろ」
『まぁ待て、それとこの――』
それからしばらくして、
「やぁガーゴイル君、おはよう!」
快活な声と手で背中を叩《たた》かれた。大きな胴間声《どうまごえ》に近所の犬が吼《ほ》え猛《たけ》る。ガーゴイルの正面に回った人影は、石の体をしげしげと眺《なが》めて、
「うん、今日もいい色だ! よろしく頼むぞ!」
『これは、おはようございます。ご主人様』
「よせよせ! ご主人様と呼ばれるほど偉《えら》くはない! 気安くパパ[#「パパ」に傍点]と呼べと言ってあるだろう!」
グラディエーターも顔負けの筋肉を背広に包み、パパは太陽のような笑顔を浮かべた。ベートーベンのような髪をかきあげ、意味もなく大笑いする。これで職業は商社の営業マンだというから世の中わからない。
「家族のことをよろしく頼むぞ! 特に双葉《ふたば》は今日から新学期だから、登下校に注意してくれ!」
『お任《まか》せください――パパ殿《どの》』
「うむ! では行ってくる!」
『お気をつけて』
朝焼けの中に消えていくパパは、これから戦場にでも赴《おもむ》くのかと思えるほど堂々としたものだったが、実際に満員電車に揺《ゆ》られて会社に往《い》く様《さま》は、戦いにひとしい。彼は一家の主人なのであり、主人には家人《かじん》を守る義務があるのだ。
パパ自身はそんなことは気にしておらず、ただ家族が好きだから養《やしな》う――という単純で純粋な目的で働いているのだが。
『さて、今日も一日、守るとするか』
ガーゴイルは新しく始まる一日に向けて、自《みずか》らを律《りつ》した。
ガーゴイルが一日の覚悟《かくご》を決めたちょうどその頃。
吉永家の二階から三階への階段を上る足音がした。三階は和己《かずみ》と双葉の共有スペースがあり、お菓子とジュースの散らばった背の低いテーブルを、ワイドテレビと大きなソファが挟《はさ》んでいる。
その奥が双葉と和己の寝室である。
双葉の部屋の扉《とびら》が開き、そぉっと、ママが顔を覗き入れた。細面《ほそおもて》の美人ママである。
いつも通りとっ散らかっており、ゴミとプロレス雑誌のコミュニティの上に、トッピングのように脱ぎ散らかした服が乗っかっていた。九歳の女の子の部屋というより一人暮らしの大学生の部屋といったほうがしっくりくる。
ゴミを踏まないように注意しながら、ママは双葉のベッドまで近づいた。目覚し時計が示す時間は七時。すでに鳴って止められた形跡《けいせき》がある。苦笑して双葉の肩《かた》をゆすった。
「ううん…………」
かわいい声を出しながら、しかしアントニオ猪木《いのき》のぬいぐるみを抱きかかえて目覚めない双葉。もう一度、強くゆすってみた。今度は軽く頬《ほお》を叩いたりしてみたが、やはり結果は前と同じだった。
ママはため息をつき、困ったように頬に手を当てた。このままでは、双葉が学校に遅刻《ちこく》してしまう。ママは布団を優しくひっぺがし、だらしなく放り出された両足をつかみ、手前に引き寄せて持ち上げた。さかさまになった双葉の足を肩にかけ、今度は腰をつかみ、そのまま双葉を頭上《ずじよう》高く持ち上げる。最後にママ自らも跳躍《ちようやく》し、落下の速度と振《ふ》り下《お》ろす力を合計して――
ずどんっ!
「おわぁぁぁっ!」
ベッドが二つに折れるような衝撃《しようげき》で、絶叫《ぜつきよう》と共に目を覚ました。そのままベッドから転がり落ちて、近くのタンスにぶつかる。双葉はその姿勢のまま悶《もだ》え苦《くる》しんでいた。
ママは満足したようにうなずくと、笑顔で双葉の部屋を出て行った。
「なな、な、な、なん――」
まだ目が泳《およ》いでいた。
頭にいくつもの疑問符《ぎもんふ》を浮かべながら、それでも時計を見て服を着替え始めると、隣の部屋から似たような衝撃と「わぁっ!」という叫び声が聞こえてきた。
まだじんじんする背中をさすりながら朝食をかっこみ、食後のお茶と共に朝のニュースを観《み》る。こういう朝の余裕を作ってくれるママには感謝しているが、手段はどうにかならないものかと吉永家の子供たちは思う。
双葉が着ているブラウスとチノパンは和己のおさがりなのだが、どういうわけか妹が着るとワイルドに見える。だらしない、と表現してもかまわないが。和己の方は男子用のブレザーを着ているにもかかわらず男装した女子[#「男装した女子」に傍点]に見える。
『最近では若者の犯罪が増えているとされているが、これはどうしたものだろうか。たしかに統計で見ると増加していることには変わりないが、だからといって若者たちを犯罪の温床《おんしよう》のように扱うのは不当である。大人とて同じではないか』
テレビの前に陣取《じんど》っていたガーゴイルが、ぽつりと言った。
「……おまえ、いつからいたんだ」
『双葉も犯罪だけは犯《おか》すな。悪の道から家人を救うのも門番としての務《つと》めだ』
「やかましい!」
今朝も早《は》よからガーゴイルを蹴《け》り飛《と》ばすと、双葉も和己も湯飲みを置いてカバンを手にとった。その間にママは空《あ》いた食器を片付ける。
「じゃね、よろしくねガーくん」
『うむ。任せるがよい』
「いってきまーす」
二人並んで家を出るあたり、結構仲がよい兄妹《きようだい》なのだが、いかんせん二人の通う学校はまったくの逆方向なのである。
「それじゃ双葉ちゃん、初日からケンカしちゃだめだよ」
「保証はできねぇな」
二人とも苦笑《くしよう》して、門の前で別れた。今日も激しい一日が待っている。
さて、二人の元気な核弾頭《かくだんとう》を送り出した後は、ガーゴイルの仕事は基本的に探索《たんさく》と思索である。吉永家の周辺に不審《ふしん》な人物はいないか調べ、それだけに飽《あ》き足《た》らず御色町全体にも感覚の根を広げて危険となりうるものをあらかじめ記憶に入れておく。外だけではなく、宅内の危険も考慮《こうりよ》に入れる。ママが中にいるのだ。
これらの行動はガーゴイルの特殊《とくしゆ》な感覚のおかげで、その場で可能だ。何か特殊な探知機、そう、衛星《えいせい》のようなものを打ち上げているのか、それとも地中に音波探知機のようなものを打ち込んでいるのか、それともガーゴイル単身で行《おこな》っているのか、実のところガーゴイル自身も不明である。危険察知も本能のうちだ。だから生まれたときから知らず知らずのうちに行っているのである。
とにかく、吉永家の門から動かずにいるガーゴイルは、基本的にヒマである。
時折ママが話し掛けてはくれるが、彼女も家事が忙しいし、ガーゴイルが手伝おうとすると余計に手間がかかるので、門番としての仕事に徹《てつ》している。呼吸ができるのならば、あくびの連続だろう。
『とはいえ……この町は忙しいものだ』
ガーゴイルの感覚には、さまざまなものが入ってくる。
町の喜《き》怒《ど》哀《あい》楽《らく》とでもいおうか。とても人間では把握《はあく》しきれないほどの事象《じしよう》が小さな石像の中に逐一《ちくいち》報告される。もしも把握できる人間がいたならば、発狂《はつきよう》しているだろう。楽しい事ならまだしも、この町でも犯罪は起こるし、大小さまざまな悲劇もある。それらすべてが手にとるように理解できたら――
心の事象を機械的に処理できるガーゴイルは、ある意味幸福なのかもしれない。
「やぁ、おはよう」
自転車に乗った背広《せびろ》姿のおじさんが手を上げてガーゴイルに挨拶《あいさつ》した。
「昨日の情報、ドンピシャだったよ。言った通り、北口の裏通りで暴行事件があった。君が教えてくれなければ殺人事件になっていたかもしれない」
彼は三軒隣に住んでいる警察官《けいさつかん》なのである。
『役に立てて何よりだ。清川《きよかわ》殿。今日も仕事に励《はげ》むがよい』
「ああ、行ってくるよ」
清川のおじさんはガーゴイルの体を軽く叩くと、口笛《くちぶえ》を吹きながら自転車を走らせた。
御色第一小学校四年一組の教室内で勃発《ぼつぱつ》した闘争《とうそう》は、首脳会談による停戦条約の余波《よは》で、一時的な収まりを見せていた。
「まさかまたしてもてめぇと同じクラスになるとは思わなかったぜ、双葉よぉ。相変わらずティラノサウルスみてーなツラしてんじゃねーか!」
ガキ大将|筆頭《ひつとう》の石田《いしだ》歳三《としぞう》は肩で息をしながら、机の上に乗った双葉を見上げた。普通にしていればかなり美形の顔にはすでに幾《いく》つもの傷や痣《あざ》ができており、戦いの苛烈《かれつ》さを物語っている。
一方、それは双葉にしても同様だった。
「ったく……一年のときからの腐《くさ》れ縁《えん》だなトシィ!」
双葉が机から跳び、石田の顔面に蹴りを浴《あ》びせる。ランドセルでそれを防ぐと、石田は容赦《ようしや》なく双葉の顔面を殴《なぐ》りつけた。しかし浅い。双葉は近くの机の中からルーズリーフの束《たば》を取り出すと、包装《ほうそう》袋《ぶくろ》ごと石田に投げつけた。反射的に弾《はじ》くと、袋が破れて白い紙が宙を舞《ま》う。
紙の向こうに双葉はいなかった。
石田が殺気を感じて振り返ると、双葉の顔が沈《しず》むのが見えた。
腹を両手で抱《かか》え込《こ》まれた。そのまま双葉は腰《こし》と腿《もも》をつかむ。
「らぁぁぁぁっっ!!」
へそで投げるのを極意《ごくい》とした、綺麗《きれい》なバックドロップを決めると思われた。しかし次の瞬間、石田を持ち上げた双葉の足を、何者かが払った。
「うわっ!」
石田の体ごと床に沈む双葉。目の前に、藤原《ふじわら》宗次郎《そうじろう》がケタケタと笑いながら立っていた。いつも笑顔でどこまでも突《つ》っ走《ぱし》る、爽《さわ》やかなバカ少年である。
「アハハハハ! トシもつぶれちゃったー!」
「何すんのよ藤原!」
双葉の体を封《ふう》じる石田を蹴り飛ばし、女子の数人が藤原に襲《おそ》いかかる。
「双葉に続けぇーっ!」
傍《かたわ》らで見ていた女子もとうとうブチ切れて、石田をはじめとする男子勢に襲いかかった。まさに男子対女子の全面抗争が始まろうとしたその時、
がらがらっ。
出現したその姿に全員が凍《こお》りついた。
別に絶叫《ぜつきよう》したわけでもない、大きな音も立てていない。
ただ、普通に教室に入っただけである。
動作は緩慢《かんまん》だった。服装もいたって普通の背広である。ただ、顔全体が隠れているざんばら髪からのぞく眼光が異彩《いさい》を放っていた。その髪の下にはどんな顔が隠れているのか、誰も知らない。ただ、想像するとどうしても人間の顔にならない。
「――あー……」
どんよりとした声。とうとう女子の誰かが「ひっ」と声をあげた。
異様な人影は、戦火に呑《の》まれた教室内を一瞥《いちべつ》すると、特にコメントもなく、黒板に自分の名前を書き始めた。異様なほど達筆《たつぴつ》である。
「――今日から――このクラスを――――担当――することになりました――夜《よ》倶《ぐ》外《そと》法《ほう》人《と》と言います――よろしく――」
クラス中がざわめく。誰も逃げ出さなかったのは流石《さすが》と言えた。それぞれ自分の席に戻って散らばった武装[#「武装」に傍点]を片付け始める。みな、夜倶先生の次の言葉を待っていた。
「えーと――国語を教えるのが得意です――」
本当かよ。クラス中にそういった疑わしい雰囲気が漂《ただよ》ったが、明言する者はなかった。
「――趣味は――サッカーとスキューバと邪教《じやきよう》崇拝《すうはい》です――」
「おい今なんか変なの混じってなかったか! しかも前の二つもウソだろ!」
とうとう双葉が立ち上がった。
メデューサでも石化しそうな目と合ってしまった。
「君は吉永双葉ちゃん――得意技《とくいわざ》はドロップキックとシャイニングウィザード――尊敬する人物は人間発電所《ブルーノ・サンマルチノ》――」
「お、おう。よく調べてんな」
やはり双葉でも少したじろいでいるようだ。
「みんなのことは――全部わかってるよ――ところで、君たちは――今までナニをしていたのかな――」
「親睦会《しんぼくかい》です。男子と女子の交流を深めてました」
そう言ったのは学年一の秀才である島崎《しまざき》勝太《かつた》。この島崎と石田と藤原がよくつるんでいて、ヒネリもなく三馬鹿と呼ばれている。石田が売ったケンカを藤原が引っかき回して島崎が後始末をする。いつのまにかそんな構図ができあがっていた。
「あそう――じゃ、とりあえず――朝の会を始めようか――」
夜倶先生は出席簿を広げると、意味ありげにニタリと笑った。
とりあえず、今年も退屈《たいくつ》しなさそうである。
日は空高く上り、テレビの時報が正午《しようご》を告げる。昼休みには若干《じやくかん》早く、双葉も和己も四時限目の授業に辟易《へきえき》している頃。
吉永家はあいも変わらず平和だった。
ガーゴイルの嗅覚器《きゆうかくき》が食物の信号を捕《と》らえた。確認するまでもなく、門から見えるキッチンで、ママが一人分と一匹分の昼食を作っていた。それまでは洗濯《せんたく》と掃除《そうじ》をしており、今も吉永家の屋上《おくじよう》には、大小さまざまな洗濯物が降伏《こうふく》の白旗《しろはた》のようにはためいていた。
『オッス、ダンナ』
塀《へい》を歩いてくるのは、一匹の黒猫。嫌味《いやみ》と自信が満面に詰まった笑顔でガーゴイルに挨拶する。明らかに世界を楽しんでいる、言ってしまえばふてぶてしい猫であった。
柵《さく》を乗り越えて、ガーゴイルの柱へと飛び移る。
『む。菊《きく》一文字《いちもんじ》か』
態度《たいど》もふてぶてしければ名前も仰々《ぎようぎよう》しいこの猫、見ると額《ひたい》のところに真《ま》一文字の傷がある。体長一メートルの獰猛《どうもう》な動物と闘った時の勲章《くんしよう》だそうだ。確かに高さは一メートルほどだが、二つの車輪とペダルがついたものを動物と呼んでいいものだろうか。ともあれ、この傷が名の由来となっていることは確かだ。「貯金箱」などと名づけられなくて本当によかった。
『今日のご飯は何かな〜っと』
すぐに玄関からママが出てきた。手には撃退用のほうきではなく、猫用の皿を持って。彼女はいつもこの時間になると、菊一文字に食事を与えていた。一人分の食事ではつまらないからだろう。律儀《りちぎ》なもので、この猫は余り物ならなんでも食べた。
今日のメニューは焼き魚定食のコンパクトサイズ。要するにご飯の上にイワシを載《の》せたものだ。ガーゴイルの隣に皿を置くと、菊一文字はすぐに飛びついた。
『いただきます、奥さん! いつもゴチになってます!』
それを聞いたガーゴイルが、
『ママ殿。菊一文字は感謝しているようだ』
それを聞いたママが、嬉《うれ》しそうに頬に手を当てる。
『いやいや、マジで奥さんには感謝してますよ! こんなに美味《うま》い飯《めし》が食えるなんて、オイラそれだけで周りの仲間に自慢《じまん》できらぁ! いやマジで!』
『それだけで周りの仲間に自慢できると言っている』
ママはまるで少女のような恥《は》じらいを見せて、ガーゴイルをぽんぽんと叩く。
彼女も感謝しているのだ。ガーゴイルは動物とも話せるので、今まで知らなかった動物たちの声が聞ける。今まで菊一文字に餌《えさ》をやって、迷惑がられていたのではないだろうかと不安になったこともあった。ガーゴイルがウソをつかないことはママも知っている。彼の口から直接聞けないことは残念だが、それでも感謝の言葉を聞けたのだ。
早朝から実の娘にパワーボムをぶちかます無口な主婦は、これでけっこうリリカルな面もある。今度、ほかの動物とも通訳を介《かい》して話してみようかとも考えていた。
『ところでダンナ。今夜、図書館前の広場で動物たちの集まりがあるんだけど、来るかい?』
『それは行けない。我にはこの家を守る使命がある』
『ふーん。まぁ、ヒマだったら来てくれよ。みんなに紹介するからさ』
『……わかった。安全が確認できたら往《い》こう』
いつのまにか昼食をペロリと平《たい》らげた菊一文字は、もう一度ガーゴイル越しにママに挨拶すると、塀から塀へと飛び移っていった。
それを見送ったママが大きく伸びをすると、ぐぅ、と腹の鳴る音が聞こえた。
リンゴのように頬を染《そ》めてガーゴイルを軽く突き飛ばす。双葉の体重より重い石像は音を立てて柵の向こう側へ落下していった。
最初の授業は半日で終了した。これは、二週間忘れていた地獄《じごく》を思い出したか半日だけ猶予《ゆうよ》をやるからとっととシフト切り替えて来い、という学校側からのメッセージなのだろうか。
――知るもんか。半日は半日だ。どう使おうが僕の自由だ。
御色駅で友達と別れたあと、和己は北口商店街を歩いた。軽めの食事をして、軽めのウィンドウショッピングをして、軽めの気持ちで帰路《きろ》につく。
もう一度御色駅を通り、南口商店街を歩く。華《はな》やかな北口もいいが、こっちはこっちで帰り道という気分があって、和己のお気に入りの帰り道だ。
鼻歌《はなうた》交《ま》じりに歩いていると、ふと、一軒の店が目についた。
兎轉舎《とてんしや》。
たしか、ガーゴイルを景品に出した店だ。綺麗《きれい》なビスクドールと無骨《ぶこつ》な日本刀が並んでショーウィンドウに飾《かざ》られている。腕時計と相談しようと思ったが、相談するまでもなく、まだ日は高い。
――ま、いいか。
「こんにちは!」
扉を開いた瞬間、猛烈《もうれつ》な吹雪《ふぶき》が和己の顔面に張りついた。まるで某《ぼう》青猫《あおねこ》ロボットの扉型転移|装置《そうち》で極寒《ごつかん》のロシアへ移動したような雪と風と氷が吹き荒れていた。向こうの言葉でいうマロースそのものであった。
「え……! わ、ちょ、ちょっと待っ、うわぁ!」
何かの間違いだと思い、扉を閉めた。吹雪はピタリとやみ、和己の体は商店街に残される。制服にはまだ雪が張りついている。しかも溶《と》けない。
もう一度開けてみると、また吹雪が襲いかかってきた。
「ちょっと! なんなんですかコレ!」
「ごめんもーちょい待って! あと十センチで届くの!」
中から小さな叫び声が聞こえてきた。
「届くって何がですか!」
「ス……イッチ――だぁ!」
すべてが停止した。
雪も風も寒さも。まるで映画のセットのような、純白で埋《う》められた店内の中で、お姉さんが凍《こご》えながら機械をいじくっていた。ダチョウの卵を一回り大きくしたような形をしており、頂点にレバーがついていた。
――えーと。こういう時って、なんて言うんだっけ。
立《た》ち尽《つ》くしている和己に気づいたお姉さんは、しかし声をかけずに機械を持って立ち上がる。机の上の雪を払《はら》って、よいしょとそれを置いた。卵形なのにきちんと直立していた。
「やっぱり不良品なのかなぁ。この『變露機《へんろき》』。ロシアの風土を再現する機械なんだけどね」
「いえ正常に動作していたと思いますけど」
「そっかぁ」
夏の一部の土地ならば需要《じゆよう》があるだろうが、この勢いだとサウナを冷凍庫《れいとうこ》に変えてしまいそうだ。誰にも売れないだろう。残念そうに肩を落とすお姉さん。反対に和己は安堵《あんど》していた。
一時間かけて店内を掃除した。幸《さいわ》いというべきか、絵画《かいが》は無事だった。あまりにも雪の温度が低いため、濡《ぬ》れなかったらしい。たまたま店内に飾ってある絵画の数が少なかったという理由もあるが。雪の中に埋もれた品物を発掘《はつくつ》するのには骨が折れた。なぜか大正から昭和にかけての看板《かんばん》類《るい》が多く見つかった。奴らは床《ゆか》にぴったりと張りつきやがるから手が滑《すべ》って取りにくいのだ。
「ありがとね、和己ちゃん」
二杯の紅茶をカウンターに置き、優《やさ》しく微笑《ほほ》むお姉さん。今日は先ほどまでの店内にふさわしく、服装は白で統一されている。
「こちらこそありがとうございます。奇怪《きかい》な機械で片付けようとしなくて」
「だって和己ちゃん、必死になって止めるんだもん。イイのあったのよ。あのね、あたり一面を金星と同じ」
「いやもう大体分かったからやめてください……」
どの部分を金星と同じような環境にしても、確実に同じ結果になるだろう。ちなみに金星の地表は鉛《なまり》が溶けるほどの温度になっており、硫酸《りゆうさん》でできた雲に覆《おお》われている。
「じゃあ、お礼にいい薬でもあげようかな」
「それもいいです」
「モロッコとか行って手術するよりも安上がりなんだけどな」
「なんの薬ですかっ!」
和己がカウンターを両手で叩く。それから間をおいて、痛そうに顔をしかめた。強く叩きすぎて、手のひらが痺《しび》れてしまったようだ。
「やっぱり筋肉増強剤にする?」
「……ほっといてください」
痛そうに手をこすりあわせていると、お姉さんがニヤニヤしていた。
「なんですか」
「まぁ、これはこれで」
「だから何がですか」
「それにしても、今日は双葉ちゃんじゃないのね」
和己の疑問には(おそらくわざと)答えず、お姉さんは話題を切り替えた。
「え? 双葉ちゃん、いつもここに来てるんですか?」
意外そうに首をかしげる和己。双葉といえば、いつもこの店の悪口を耳にタコができるほど言い散らかしていたものだが。実を言えばそこまで悪い評判の店に怖《こわ》いもの見たさで入ってみた、という心境もある。
「なんかね、あのガーゴイル君をブッ壊《こわ》す機械を探してるんだって」
和己は強く納得《なつとく》した。
「あのね、うちの商品は高いのよ。実用性もあるけど、骨董品《こつとうひん》としての価値《かち》も高いんだから。双葉ちゃんのおこづかいじゃ買えないって教えてあげてくれる?」
「いや、その前にそんな価値のあるものを壊すなって教えるほうが――あ、じゃあ、ガーくんも骨董品としてすごいんですか?」
「もちろんよ。人二人分くらいの人生が買えるわよ」
「なんでそんなものを福引の景品に出すんですか……」
「普通に店先に並べても売れないしねー。かといって、裏で買い手が見つかるわけでもないし」
「どうしてです?」
「学術的にも芸術的にもいろいろな分野の結晶《けつしよう》なのよ。きっと市場《しじよう》に出したら混乱しちゃう。高いお金を出して買うメリットもないし」
「だって、門番って」
「あれを買えるくらいの財力があれば、もっと強力なセキュリティシステムを完備できるし。実用性があっても、値段とつりあわなきゃ、ね」
苦笑するお姉さん。
それにしても、ガーゴイルの価値などとは考えてもみなかったことだ。もともと福引の景品だからロハで手に入ったものだし、ああも簡単に日常に入りこまれると、とても値段を考える気になれない。それはゲーム時間を時給に換算《かんざん》するのと同じくらい空《むな》しい行為だ。
「まぁ、アレを欲しがるのはよほどのマニアね」
「何のマニアなんですか」
「そりゃあ――」
「あぅ」
突然、和己が奇妙な声をあげた。
「どうしたの? ――うぁ」
お姉さんも和己に倣《なら》って上を見上げる。天井《てんじよう》に張りついた雪が今になって溶け始め、ぽたぽたと垂《た》れ落《お》ちてきているではないか。
どうしたものかと考えているうちに、水はどんどん増えてゆき、ついには小雨《こさめ》くらいの量にまでなっていた。
「ガーくんただいまー」
『おかえり和己よ。そして尋ねるが、なぜ服が濡《ぬ》れている?』
「訊《き》かないで……」
とぼとぼと家の中に入っていこうとする和己を追うようにして、
「おう兄貴と石コロ、今帰ったぞ」
「あ、双葉ちゃんおかえり」
『おかえり双葉よ。帰宅の挨拶は「ただいま」だぞ。そしてその傷は級友と争った痕《あと》に相違《そうい》ないな』
「相違ねーよ。くそ、トシの奴。明日こそ決着つけてやる」
『南口商店街の薬屋の息子だな。ならば我が代わりに再起不能にしてもよいが、それは門番としての職務を逸脱《いつだつ》しているようにも感じる』
「いーんだよ別に。あームカつく!」
足を踏《ふ》み鳴《な》らしながら家に入ろうとする双葉だったが、
「あ、どーも……ッス」
新しい人影が門の前で自転車を止めた。
『うむ。新聞屋だな。ご苦労』
「ごくろーさん」
新聞屋はビクつきながら双葉に手渡しで新聞を渡した。その顔を見て、ふと双葉は首をかしげる。
「あれ? 兄ちゃん、いつも朝に来る人じゃないか?」
「あ、はぁ……今日から夕刊も配達するようになったんスよ……その……」
言いにくそうに虚空《こくう》を見上げる新聞屋。双葉は察したようだ。
「つまり、この石コロのせいで、誰もやりたがらなくなった。と」
「え、いや、その……」
「ほら見ろこのクソ犬! てめぇ今度こんな真似《まね》しやがったら山手線《やまてせん》に縄《なわ》でくくりつけて一日中引きずらせるからな!」
「わー双葉ちゃん落ち着いて!」
配達されたばかりの新聞を丸めてガーゴイルをひっぱたこうとするのを、和己が後ろから羽交《はが》い締《じ》めにして抑《おさ》える。ガーゴイルは何も言わずにしょぼくれたように唸《うな》っていた。
おびえた新聞配達のお兄さんは、何度も頭を下げながら「次の家があるんで」と逃げるように自転車で走り去っていった。
「ったく……おまえはもう少し客と敵の区別をつけろ」
『善処《ぜんしよ》する』
「治安《ちあん》の悪いとこならともかく、ここらへんは九割九分九|厘《りん》が客だ。敵なんか珍しいっての」
ため息をつくと、双葉はようやく家の中に入っていった。
「双葉ちゃんの言うことは過激《かげき》だけど、僕も同じ。もっと肩《から》の力を抜いても平気だよ。お客さんを丁寧《ていねい》に迎えるのも門番の仕事でしょ」
ぽんぽんとガーゴイルの背中を叩いて、和己も家に入った。
日が落ち、パパが帰宅し、夕食が済み、吉永家にも落ち着いた夜が訪《おとず》れる。今日は煌々《こうこう》と満月が輝く綺麗な夜だった。散歩には絶好の天気だったが、あいにくと吉永家の人間に夜歩きの趣味はない。
風呂上がり、素《す》っ裸《ぱだか》にバスタオルをかけただけの双葉がふと窓の外をのぞいてみると、門の柱にいつもの姿がない。
「あれ? あの石コロ、どこ行ったんだ?」
「双葉ちゃん、なんて格好してるの」
「……人のことが言えるか」
薄い黄色にキティちゃんがたくさん描かれているパジャマを着た和己。双葉の隣に立って窓の外をのぞく。
「あ、そういえばママが言ってた。なんか動物の集会がどうとか」
「あいつ動物か?」
和己はソファに座ると、昨日買ってきた本をひざの上に載せた。やけに分厚いその本のタイトルは「新約・悪魔辞典」。千ページほどになる分厚い辞書、というより図鑑だった。
ぱらぱらとページをめくるたびに、変な語呂《ごろ》の名前が目に入る。聖書の挿絵《さしえ》に混じって、おどろおどろしい抽象画《ちゆうしようが》が目に入る。
――これ、読んだあと、本棚のどこにしまえばいいんだろうなぁ。
苦笑しながらページを繰《く》る。
「あ、これかも」
その声に、パジャマに着替えていた双葉が振り返った。
「どれ、見して」
ソファに飛び乗った双葉が、和己の隣に寝転んで本を覗《のぞ》く。シャンプーの香りがした。
悪魔の石像の写真だった。角《つの》が生《は》え、翼は壊《こわ》れた傘《かさ》のようにボロボロで、牙《きば》の生えた口からは今にも呪詛《じゆそ》の声が漏《も》れ出《で》てきそうだった。
「ぜんぜん違うじゃん」
「んー、でも、ほかにないんだよねー、それっぽいの」
和己の指がその写真の名前を指差す。
ガーゴイル。
元々は西洋の雨水《うすい》樋《とい》で、語源は古フランス語の「喉《のど》」。キリスト教が普及《ふきゆう》したときに邪教とされた異教の神がモデルらしい。退治された悪魔の首をそのまま魔除《まよ》けに使ったという伝承から、雨水の吐水《とすい》樋を悪魔型にデザインするようになったそうだ。
「早い話、大浴場のライオンの口からお湯がだーって出るアレか?」
双葉が独り言のようにつぶやくと、
「アレは魔除けじゃないよ」
苦笑して和己が答え、そして思い直す。
「でも、だとすると、鬼瓦《おにがわら》みたいなものなのかな」
ゲームの中などにいる姿を変える石像は|動く石像《リビングスタチユー》といい、厳密《げんみつ》にはガーゴイルとは違うものらしい。が、家の門に座っている犬は、まさしく動く石像である。
「|RPG《ロープレ》とかじゃ、フツーに悪魔なんだけどな」
「実際は逆なんだねぇ。魔を払うんだってさ」
「じゃあ、あいつ絶対にガーゴイルじゃねーな」
一人で納得している双葉だったが、ゲームのキャラクターとしてのガーゴイルは、あの石像のイメージそのものだ。
ふと、和己は考える。
ではあれが製作されたのはいつなのだろうか。例のいかがわしい店においてある商品は、少なくとも和己の知る限りでは昭和初期とか大正とか明治とか、とにかく百年くらい昔の品物ばかりだ。その頃はガーゴイルという言葉すらも知られていなかっただろう。
それにしても魔を払う存在が小学生にいいように扱われて、近所の動物の会合に出席しているとは。矛盾《むじゆん》しているような、倒錯《とうさく》しているような。
「動物の集会って、ガーくん何やってるのかな」
「案外、仲よくやってんじゃねーの?」
言っておきながら、絶対にそれはない、と思う双葉だった。
ところがどっこい、ガーゴイルはうまく溶けこんでいた。
『ジロタは木村家《きむらけ》の飼い犬だな。汝《なんじ》の家は二階がガラ空《あ》きである。賊が侵入しやすいが、経路は裏口近くの塀《へい》だけなので、そこを警戒《けいかい》すればよい。夜遅くでも、吼《ほ》え猛《たけ》れば隣の夜更かし好きで空手を嗜《たしな》んでいる大学生がやってくる』
『ふむふむ』
小さな犬が目を輝かせてガーゴイルの話を聞いている。
『ベロは野良《のら》であるな。汝のすみかはカラスとの縄張《なわば》り争《あらそ》いが多いだろう。それよりも汝のすみかから出て二つめの角を曲がったところに中華料理人に家がある。そこの残飯《ざんぱん》を狙《ねら》うがよい。効率的だ。ねぐらとしてはそこのユーイチとも近いので、鉢合《はちあ》わせになったら仲よく分けることだ』
『カラスども相手に退《ひ》くのは癪《しやく》に障《さわ》るが、アンタがそう言うなら行ってみるぜ』
傷の多い野良猫がにやりと笑った。
図書館前の広場ではロダンの「考える人」を背にしてガーゴイルが座っており、その周りに冗談《じようだん》のような数の動物が集まっていた。人気タレント並《なみ》の扱いを受けながら、一匹一匹|丁寧《ていねい》に悩みを聞いてあげるガーゴイルは、まるで指導者のようだった。
『はいはい、今日はもうこのくらいにしようぜ! ガーゴイルのダンナも疲れちまう!』
ガーゴイルの頭の上に乗った菊一文字が場をとりしきった。えー、という不満の声を一喝《いつかつ》のもとに退《しりぞ》けると、黒猫はガーゴイルにコメントを求めた。
『うむ、そうだな……我も吉永家の守護《しゆご》という仕事があるため、ここに長くいるのはまずいのだ。もしも用件があれば、我は吉永家の門柱の上に座っている故《ゆえ》、今日は勘弁《かんべん》せよ』
『ってことだ。みんな、いいな!』
賛同の声は感謝の声と共に発せられた。菊一文字も野良猫の中ではそれなりに名の通った猫だったが、ガーゴイルの徳には負ける。やはり人間と意思《いし》疎通《そつう》ができるのが大きいのだろうか。
『そんじゃ、解散! 人間に見つかるなよ!』
ばらばらと解散していく動物たちを眺《なが》め、まだガーゴイルの上から降りない菊一文字は小さくつぶやいた。
『お疲れ、ダンナ』
『……むぅ』
『どしたい?』
『……先ほどから、何者かに視《み》られている気がするのだが』
『んだと?』
ガーゴイルの上から飛び降りた菊一文字は、そのまま周囲を走り回って不審者《ふしんしや》の姿を探そうとする。
『無駄《むだ》だ。このあたりには我々以外の生物は存在していない』
『だけど視られてるって』
『そこが不思議なのだが……おそらく、防犯|映像機《カメラ》の類だろう。我はそのような機器に敏感なのだ』
もしもガーゴイルが石像でなかったならば、きっと今の菊一文字のように首をかしげて不安そうな顔をするだろう。
『ま、イザって時のために味方を作っとくのはいいぜ。門番だって、主人の信用あってのもんだろ?』
苦笑して、菊一文字はガーゴイルの上から降りた。そのまま振り向きもせずに夜の闇に消えてゆく。
彼も、彼なりのスタイルがあるのだ。一度もガーゴイルに相談事を持ちかけなかったのだから。
そしてガーゴイルだけが残る。
周囲に感覚を集中する。
国道を通りすぎる車。コンビニ帰りのOL。ロードワーク中の青年。眠る虫。地に潜《もぐ》る微生物《びせいぶつ》。図書館のカメラ。近くのマンションのテレビ。吉永家の人たち。
『……やはり、何もなし、か。我にも気のせい[#「気のせい」に傍点]というものがあるのだな』
五分前の喧噪《けんそう》が嘘《うそ》のように静まり返った図書館広場。静寂《せいじやく》の中で、ガーゴイルは不審な視線を意識の外に追いやった。
そして最後の相談者に話しかける。
『何を先ほどから悩んでいる?』
『わからない……わからない……』
『何がわからないのだ?』
『わからない事を指す「ちんぷんかんぷん」とは、いったいなんのことなのだ……?』
『あれは中国語の「|听《テイン》不《ブウ》董《ドン》 看《カン》不《ブウ》董《ドン》(聞いても見てもわからない)」が語源だ』
『そうか……感謝する……ああ、また次の疑問が……』
『――汝は考えるのが趣味のようだな』
ガーゴイルは背後の石像に同情した。
こうして夜が更《ふ》けてゆく。
[#改ページ]
第三話
佐々尾さん家のおばあちゃん
往々《おうおう》にして情報の伝達速度というものは環境によって変わるものだが、例えば小さな村だと男女間の話題ならば一晩で村中に知れ渡る。よく使われる表現であるが、あながち的外《まとはず》れでもないのだ。
学校ならばどうだろう。例えば校内でも有名な人物に関する、普段と違う話題。
とりあえず警察《けいさつ》沙汰《ざた》になったのならば、教師たちが出勤する以前に情報が届く。そうでなくとも不良たちの情報には目を光らせているので、警察からの情報は早い。そして部活の朝練《あされん》などで早く来ている先生が生徒にチラリと漏《も》らす。その生徒が教室に入る前に、廊下《ろうか》ですれ違った友達に話す。
まぁ、だいたいこんな風に重要な情報はネットワークを介《かい》して広まってゆく。
だから事件のあった次の日に和己《かずみ》が教室のドアを開けた瞬間、雪崩《なだれ》のような質問攻《ぜ》めにあったのも無理なからぬことかもしれない。
「ねえ和己! 昨日あなたの家のガーゴイルが泥棒《どろぼう》捕《つか》まえたんだって?」
「え……」
「すげぇなオイ! どうやって捕まえたんだよ!」
「犯人は外国の窃盗《せつとう》グループだったんだって?」
「ちょ、ちょっと、え? なんでみんな……」
「犯人も大|怪我《けが》して生死の境をさまよってるのよね?」
「ガーゴイルが石化させたんだろ?」
「バトルは? 超能力バトルとかあったんでしょ?」
「……助けたお姉さんとラブラブロマンス?」
質問の中をかいくぐって、自分の席にたどり着き、そこにカバンを置いてさらに足を止めずに進む。教室の隅《すみ》っこのロッカーまで走るようにして進むと、ようやくクラスメイトたちに向き直り、
「質問してるんだから答えさせてよ! それから最後のほうはどこでついた尾ひれだよ!」
まるで悪漢《あつかん》に追いつめられた女の子のように身を縮《ちぢ》こませながら叫ぶと、ようやくクラスメイトたちもおとなしくなった。本気で怖《こわ》かったのだ。考えてもみてほしい、教室に入った瞬間に三九人に襲《おそ》いかかられるのだ。
「はーい、おまえら席につけー。ブッ壊《こわ》すわよー」
ちょうど良いタイミングで担任の教師が鋭利《えいり》なコンパスと定規《じようぎ》を持って入ってきた。朝のHRの後、直接教室まで行くらしい。逆らって本当にブッ壊された生徒が数多くいるので皆、しぶしぶ席につく。
ようやく静かになった教室に、先生の声が響《ひび》く。
「起立、礼、ハイおはよう。それから吉永《よしなが》だけ起立」
「? はい」
「昨日あった武勇伝《ぶゆうでん》を一時限目に間に合うようにまとめつつ、詳細《しようさい》に報告しなさい」
クラス中から歓声《かんせい》が上がった。
――僕がやったわけじゃないのに、なんでこーなるの……。
和己は深いため息を吐《は》き出《だ》した。
時間を少し戻して、前日の深夜。
中ボスを倒せずに街の周りでレベル上げにいそしんでいた双葉《ふたば》が足音を立てないように一階の台所に下りてくる。明かりもつけずに冷蔵庫の中を物色《ぶつしよく》しながら、そろそろボスに挑《いど》むべきか考えてた。奴の全体攻撃は麻痺《まひ》属性《ぞくせい》を持つから非常に厄介《やつかい》だ。
『双葉』
「うわぁっ!」
聞き慣れたとはいえ、背後の暗闇《くらやみ》から午前二時に呼びかけられれば誰《だれ》だってビビる。
「なんだよ、脅《おど》かすなよ! もうちょっとで寝るよ!」
『いやそれはよいのだが。いやよくないのだが』
「どっちだよ」
『訊《き》きたいことがあるのだ』
双葉は手にペットボトルとお菓子の袋を持ちながら、暗闇に映《うつ》る二つの赤い瞳を凝視《ぎようし》する。この石像は夜な夜な寝ずに家とその周りを監視《かんし》しているのだ。双葉の足音くらいなど簡単に聞き分けられるのだろう。
『名前が思い出せなくてな。我《われ》は横文字に弱い故《ゆえ》』
「なんだ、そんなことか」
『最近、世間で騒《さわ》がれている犯罪手口なのだが。細い針金《はりがね》などで扉《とびら》の鍵《かぎ》を解錠《かいじよう》するという』
「ああ、ピッキングか」
『そうか。ぴっきんぐ[#「ぴっきんぐ」に傍点]か。礼を言う』
「その代わり、アタシがまだ起きてたこと、ママには内緒《ないしよ》な」
『むぅ、門番を買収《ばいしゆう》しようというのか……』
渋い声で悩むガーゴイル。門番としては絶対に聞き入れられないところであるが、最近はガーゴイルも吉永家の生活に慣れたようで、多少の融通《ゆうずう》が利《き》くようになった。学習するものである。
「ところで、なんでそんなこと急に訊くんだ?」
『うむ。今ちょうど隣の家でそれが行われており』
「とっとと助けにいけぇぇぇぇっっ!」
暗闇の中などお構《かま》いなしにガーゴイルの体を蹴《け》り飛《と》ばし、きちんと鍵がかかっているガラス戸を開けて庭に出る。
「どっち隣だ!」
『佐々尾《ささお》家《け》のほうである』
「っ、バカ……!」
名前を聞いて双葉は一瞬だけ焦燥感《しようそうかん》を覚える。次の瞬間、双葉は石でできた門番を抱え上げ、隣家との塀《へい》まで走ると、カーテンがたなびいている窓に向けて思いっきり放り投げた。閉じた窓ガラスにぶち当たり、大きな音が立つ。
暗闇に放り投げられたガーゴイルに向けて、いや、付近一帯の住民にまで聞こえるように双葉は叫んだ。
「いいか! 佐々尾さん家《ち》のばーちゃんは足が不自由なんだ! もしもばーちゃんに何かあったらてめぇバールのようなもので頭蓋骨《ずがいこつ》こじ開けて中身抜き出してやるからな!」
その声が届いたかどうかは不明だが、すぐに佐々尾家の中からドカチャカと騒がしい音が聞こえてきた。
双葉は隣家との塀によじ登った。見守るだけだ。もしも本当に泥棒が入ったのならば、双葉に勝ち目がないことくらいはわかっている。
五分が経過した。
物音はまだやまない。時折、声が聞こえるが、ガーゴイルか泥棒か佐々尾さんか、いずれのものか。
「双葉、どうした?」
声に振り向くと、ようやく起きてきたパパがいた。ママと和己もいる。パパは金属バットを持っており、双葉の声の質に気づいたようだった。ママは心配そうな顔でパパの後ろに隠れており、さらにその後ろに和己が隠れていた。
双葉が事情を説明すると、すぐに和己が近くに住んでいる警官の清川《きよかわ》さんの家へ飛んだ。パパも窓から飛び込もうとして塀を飛び越える。
「ん?」
泥棒とガーゴイルが侵入《しんにゆう》したであろう窓に顔を寄せ、
「ふーむ。確かにこじ開けられた跡《あと》があるな。ピッキングじゃない。だが、家の人がこんな時間に佐々尾さん家の窓から侵入する道理がない。泥棒だろうな」
パパが冷静に分析《ぶんせき》した。そして、バットを構えなおして窓から入ろうとする。
そのときだった。
「――っ! オゥ――! ――って、そ――ストッ――! ぎゃ――!」
途切れ途切れに声が聞こえてくる。
パパは家族を振り返り、やはり冷静に言った。
「ちょっとガーゴイル君を止めに行ってくる」
そして、さらに五分が経過して清川さんが到着したとき、ちょうど玄関からパパとガーゴイルと犯人が姿を現した。
いったい中で何が行《おこな》われていたのか不明だが、なぜか泥棒は全裸《ぜんら》で泣きながら助命を乞《こ》うていたのだった。
一連の事件が数時間前の事とは思えない。
ちょうど和己が教室で質問攻めにあっている頃、双葉はベッドに寝転びながら、退屈《たいくつ》と戦っていた。
「うー……やっぱ昨日のうちにボス倒しとくんだった……」
結局今日、双葉は学校を休まざるをえなかった。彼女の肩《かた》から手首までが湿布《しつぷ》で覆《おお》われている。ガーゴイルの重量は和己より重いのだ。それを火事場《かじば》の馬鹿力《ばかぢから》で隣家《りんか》へ放りこむ芸当をやったのだから、この程度ですんでよかったほうである。
部屋の窓からガーゴイルは見えない。今日も変わらず門の上にいるのだろう。警察に事情|聴取《ちようしゆ》を受けたのはパパとママだった。ガーゴイルから聴取したのは主に清川さんだったが、石像の証言《しようげん》なので証拠にはならないそうだ。まぁ、過剰《かじよう》防衛《ぼうえい》が適用されないだけよしとするか。双葉はそう納得《なつとく》した。
ところで清川のおじさんに、昨晩、ガーゴイルがどのような方法で犯人を懲《こ》らしめたのか尋《たず》ねたのだが、彼は思い出し笑いをして引きつった顔をしていた。非常に気になる。
『退屈か』
「おう」
気がつけばベッドの脇《わき》にガーゴイルが座っていた。
「まぁ、ばーちゃんが無事だったからいい」
『うむ。怪我《けが》一つなく守ったぞ』
「つーかテメェあたしが命令しなきゃどうなってたと思ってんだコラ」
『むぅ。我は吉永家を守るために存在している故、それ以外のことには興味《きようみ》がない』
「サイテーだなそれ」
『しかし、もしも他者を助けている間にここが危険になったらどうする?』
「誰も文句《もんく》は言わねーよ。まだまだ『攻《せ》めの門番』には遠いな」
『……善処《ぜんしよ》する』
低い声でガーゴイルは応じた。
とはいえ、そもそもガーゴイルが危険を察知《さつち》しなければ佐々尾家は危険だったわけで、ガーゴイルの行いは差し引いてもおつりがくるほどのものである。双葉だって、もしも隣家に侵入者がいれば、まず家族に知らせるだろう。
知っていても言わずにはいられないのであるが。
ルルルルルル――
「電話だ」
反射的にドアの外を見るが、この手でどうやって出ろというのだ。
『我が出る。双葉は寝ていろ』
視線を下げたときには、もうガーゴイルはいなかった。
アイツ電話になんか出られるのか、と危惧《きぐ》したのもつかのま、階下から話し声が聞こえてきた。
『……もしもし吉永だが。……なに、霊園《れいえん》のご案内だと? あいにくと当家の人間は我が守る故《ゆえ》、墓地や墓などは当面の間必要ない。……ああ、そういうことだ。他の家をあたってくれ』
――ちゃんと対応できるじゃん。今度は悪徳商法対策のマニュアルでも読ませてみるか。
考えているうちに眠気《ねむけ》が襲ってきた。
昨日と変わらぬ今日を作ったのは、昨日と今日の間に奮闘《ふんとう》したからだ。今日くらい休んでいても誰も文句は言わないだろうに、ガーゴイルはいつもと変わらず吉永家の門の柱の上に立っていた。
――むしろ、事件が起きた後が大事なのだ。
隣家への賊《ぞく》の侵入という「経験」を生かし、防犯に努めなければならない。破られた佐々尾家の窓も簡単な錠前《じようまえ》ではなく、防犯用の頑丈《がんじよう》なものだった。実際に行われたのはピッキングではなく、工具を使って鍵そのものを外《はず》すという手口だった。これでは鍵が鍵の役割を果たしていない。
本当ならば犯人の逃走《とうそう》経路《けいろ》などの情報も入手しておきたかったのだが、それは双葉の命令により果たせなかった。
あの夜、ガーゴイルにはいつ、どこから泥棒が侵入してくるか「予知」できた。それでいて手を出さなかったのは、ひとえに情報が欲しかったのである。吉永家以外の家がどうなろうが、ガーゴイルにとっては関係ない。大事なのは吉永家の安全だけだ。
それが双葉には気に食わなかったようだ。
気持ちは理解できる。友人や隣人をいとおしいと思うのは美徳《びとく》である。
しかしガーゴイルは人間ではない。人間の感情を持たない。
門番に感情は不要。事実、バッキンガム宮殿《きゆうでん》の門番は、目の前で人が殺されても直立不動の姿勢《しせい》を解《と》いてはいけないという。
すべての感情は家を守ることだけに集約すればよい。自分が嫌われても、家の者が無事ならばそれでよいのだ。
そう思っていたのだ。
「おや、ここにいたかい」
しわがれた声がガーゴイルの聴覚《ちようかく》を刺激《しげき》した。
視線の右《みぎ》斜《なな》め下に、老女が立っていた。ガーゴイルは記憶している。昨日助けた、佐々尾家のおばあちゃんだ。片足をひょこひょこ引きずりながら、ここまで歩いてきたのだ。
『もう歩いてよいのか』
「ぜんぜん平気だよ。もともとこんなだしね」
そう言って、おばあちゃんは緩慢《かんまん》な動作《どうさ》で微笑《ほほえ》む。笑顔一つ作る間は、時間が止まっているようにも感じられる。
「それより狛犬《こまいぬ》さん、昨日はありがとね。来てくれなかったら、おばあちゃんいまごろ大変だったよ」
犯人はナイフを所持《しよじ》していた。大変だったでは済まされない事態もありえたのだが、その可能性はガーゴイルが摘《つ》み取《と》った。
『我は狛犬ではない。ガーゴイルという。西洋の魔除《まよ》け――らしい』
「おや、そうだったかい。ガーゴイル像なら若い頃に見たことあるよ」
『なに、それは本当か。我は本物のガーゴイル像を見たことがないのだ』
「うーん……どっちかっていうと、やっぱり狛犬様だねぇ」
『むぅ……』
おばあちゃんはコロコロと笑っていたが、ふと思い出したように、
「そうだ。これ」
と包みを取り出してガーゴイルの前に置いた。
「こんなことしかお礼できないけど、よかったら」
『む。中身はなんだ?』
ガーゴイルの代わりにおばあちゃんが包みを開けてくれた。
中から出てきたのは、白飯のかたまりが三つ。
『こ、これは……』
「お口に合わないかもしれないけど」
『いや、その、我は』
「遠慮《えんりよ》なんてしないで。ほんの気持ちだから」
『そういうことではなく……』
そして。
なぜか、ガーゴイルはそれ以上言葉を紡《つむ》ぐことができなかった。
「じゃあね。昨日はホントにありがとね」
おばあちゃんは足を引きずりながら帰っていった。
取り残されたガーゴイルと、握《にぎ》りたてのおにぎりが三つ。
記憶に焼きつくおばあちゃんの顔。
――困った。
通りがかった警官の話によれば、最近このあたりで活動を始めている外国人の犯罪グループの一人が、単独行動をした結果らしい。佐々尾家を狙った理由も単独行動の理由も現在調査中。なんにしろ、住宅街の犯罪にしては小規模のものだそうだ。
これ以上被害は広がらないのではないか、と警官は言っていた。
それでも防犯対策はしっかりしておいたほうがよい、と念を押すのも忘れずに。
だが今のガーゴイルにとってはどうでもよいことだった。
目の前に置かれた三つの白い苦悩がガーゴイルの視界から離れない。
――なぜ、はっきりと断らなかったのか。
ガーゴイルの鼻の下には口がある。犬の形をしているのだから当たり前だ。
だが、口に穴は空いていない。石像なのだから当たり前だ。
食べられるわけなどないではないか。
――困った。
あの時、はっきりと断ればよかったのだ。自分は石像であるからして食物は受け付けない、と。向こうも理解してくれるに決まっている。
それが、彼女の顔を見ていたら断れなかった。
不可解である。
合理的でない行動である。
米の無駄《むだ》ではないか。自分は食べられないからわからないが、米の一粒一粒には七人の神様が宿《やど》るという。カピカピに乾いた神様が二千人くらい生産されたら七回死んでも涅槃《ねはん》にはたどり着けないだろう。
『なに呆《ほう》けてるんだよ、ダンナ』
菊一文字が頭の上に乗っていることにも気づかなかった。
『お、握り飯《めし》じゃん。奥さんのじゃないよな。どうしたんだよ』
『事情があってな――』
そこでふと、ガーゴイルは思い直す。
食べられないのならば、いっそ誰かにくれてやったほうがよいのではないか。そのほうが米の無駄|遣《づか》いにならないのではないだろうか。
しかし、この握り飯はおばあちゃんが丹精《たんせい》こめて作った代物《しろもの》。おいそれと――
『ん、うまい! この握り飯、なかなかいけるぜ』
『貴様ぁぁぁぁぁぁ!』
ガーゴイルの身体が小刻《こきざ》みに揺《ゆ》れ、たまらず菊一文字は飛《と》び跳《は》ねる。着地地点にガーゴイルの影が重なった。双葉が持ち上げると腕が動かなくなるほどの重量を持つガーゴイルの身体が菊一文字の尻尾《しつぽ》を思い切り踏《ふ》んづけた。
『ぎゃああああっっっ!』
悶絶《もんぜつ》する菊一文字にとどめを刺《さ》そうか一瞬思案し、やめた。詮《せん》ないことである。
『……よい。もうよい』
『ならさっさとどけよ! 痛いんだよ!』
『……』
菊一文字の尻尾から重みが消えた。ガーゴイルはいつのまにか門の柱の上に戻っていた。二つの握り飯と一緒に。菊一文字を見下ろす赤い瞳《ひとみ》は殺意を押し殺そうとしている必死の努力が滲《にじ》み出《で》ていた。
『……悪かったよ。そんなに大事な食いモンだったなんて』
『もうよいのだ。我には食《しよく》せぬ故。……ときに、それはどのような味がしたのだ?』
菊一文字はきょとん、とした瞳《ひとみ》で見つめ返す。
『味? いや、別にフツーの、しょっぱいシャケの味だったぜ』
『しょっぱい……ふむ。しょっぱい………か。…塩気《しおけ》……ふむ』
菊一文字の感想を口の中で反芻《はんすう》する。それでもいまいち石像には実感がわかない。食べてみないことにはどうしようもない。
食べもしないお供《そな》え物《もの》など、本当に役に立たないではないか。
『それで、俺のところに来たってのか?』
『うむ、よく供物《くもつ》をささげられる汝《なんじ》なら理解できると思ってな』
御色町《ごしきちよう》の東にある神社の入り口には、立派な狛犬がいる。守り神の使いとして立っているというのが通説《つうせつ》だが、忌《い》み神《がみ》が奉《まつ》られているこの神社の、実は真の守り神であったりする。
その姿は四本の足で地面にしっかりと踏ん張る獅子《しし》のようで、しかし犬科の力強さが石全体にみなぎっている。山のように動じないガーゴイルとは対照的に、炎のように猛々《たけだけ》しい。
『うーん……難しい話だなこりゃ』
大口をあけた狛犬の口からは、弱気な返答が出てきた。
『難しい?』
『つーかぶっちゃけ、俺らって動けねえんだよ。食いモンだけじゃなくて、装飾品《そうしよくひん》とかささげられても身に着けられねーのよ。それに、ありがとうの言葉も言えねーわけよ。そんな状態でどうしろっていうのよ。どうすることもできねーよ』
『うむ……口惜《くちお》しいな』
『あんたが言うなよ』
狛犬の口調《くちよう》が、突然|鋭《するど》くなった。
『あんたは動けるじゃねーか。人間と喋《しゃべ》れるじゃねーか。だったら、きちんと握り飯が食えねーって事を言うべきだったんだよ』
『むぅ……』
『その婆さんに感謝されたいのかどーか知んねーけどさ、やっぱちゃんと謝って返すべきだぜ。あんたにゃそれができるんだから』
ガーゴイルは言葉もなかった。
狛犬も悔《くや》しさを感じていたに違いない。笑顔で供物をささげる人間たちにどれだけ感謝の言葉を返したかったか。そして、言葉を返さない自分にいついか慣れてしまったことに。
『――なんか、説教になっちまったな。やっぱ五百年も生きてるといけねーな』
『いや……正直、我はそれを期待していたのかもしれない』
ガーゴイルが他人を見捨てようとしたことによる罰《ばつ》か、それとも門番の職務を放棄《ほうき》して他人を助けてしまったことによる罰か。
いずれにしろ、やはり間違った選択だったのだ。
どの選択で間違ったのだろうか。
『と、いうわけなのだが――』
薄暗い部屋の中で、ガーゴイルは目の前の人物に助言を請《こ》うてみた。その人は黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》に指を添《そ》えると、静かに考えこみ、やがて額《ひたい》に青筋を浮かべて眉間《みけん》にしわを寄せ腕を組んでむむむむむとうなり声をあげる。
「難しい問題ねぇ」
お姉さんは頭をかいて暢気《のんき》そうに笑った。
本日の兎轉舎《とてんしや》は民族的なメイクアップを施《ほどこ》しており、壁にかけられたけばけばしい仮面や木製の武器がワイルドな雰囲気《ふんいき》をかもしだしている。店内に香《こう》を焚《た》きしめており、スピーカーからはシタールの調べが流れていた。珍しいことに百円単位で買える小物が並べられてもいる。お姉さんも宗教性を無視した改造サリィに身を包んでいた。
『製品情報については購入したお店で聞くのが一番だ、と電視機《テレビ》でやっていたのだが』
「まぁ、間違っちゃいないけどね。君のスペックについてなら、この町の誰よりも詳しい自信があるけど……んー」
『それでも我はどうすることもできないのか』
「どうすることもできないんですわ」
苦笑するお姉さん。
「あなたに付与《ふよ》された機能で人間と同じものって、視覚《しかく》と聴覚《ちようかく》と触覚《しよつかく》だけなのね。味覚《みかく》と嗅覚《きゆうかく》については論理《ロジツク》情報として、つまりデータの上の情報としか認識されないのよ。このお店の香料の成分、わかる? 大体でいいから」
『木の灰《はい》が七割二分、香辛料《こうしんりよう》が二割弱。シナモンが含《ふく》まれている』
「じゃあ、いい匂《にお》い?」
『……わからぬ』
お姉さんは悲しげにため息をつくと、香炉《こうろ》に歩み寄り、薄く細い煙《けむり》が立つその香に花瓶《かびん》の水をぶちまけた。気味の悪い音と匂いが店に広がる。お姉さんは眉《まゆ》ひとつ動かさない。
『何をする?』
「だって嗅《か》げなきゃねぇ。テッケ&トンカっていう有名なやつなんだけどね。せっかくお店に来てくれたお客さんに『なんでこんなマニアックなお店にこんなメジャーなお香が?』って思わせたかったんだけど」
『その目論見《もくろみ》こそ異常偏執《マニアツク》だと思うが』
お姉さんはかぶりを振って椅子《いす》に腰かけた。
「あーもーなんかどーでもよくなってきちゃった。で? ああそっか、味覚情報の話ね。なんでついてないのかっていうと、必要ないからなのよ。さっきの嗅覚情報にしたってそう。意味ないし。もっと詳しい情報をダイレクトに知らなきゃ門番として役に立たないでしょ。煙の匂いを嗅いで火の位置を知るためには、曖昧《あいまい》な情報|分析《ぶんせき》じゃダメなの」
『……では、我に握り飯の味は分からぬ、と』
二者を挟《はさ》んだテーブルの上には、おにぎりの包みが置かれていた。今は二つになっているが、まだ米にツヤが残っている。これのせいでガーゴイルはこんなに悩む羽目になったのだ。
「ごめんなさいね。わたしが謝ってどうにかなるわけじゃないんだけど、でも、ごめんなさい。こればっかりはどうしようもないの。動物に光合成《こうごうせい》ができないのと同じくらい」
『――そうか』
ガーゴイルの声は、はっきりと寂《さび》しさを表に出していた。
それを聞いてお姉さんも寂しい気持ちになる。
「――おばあちゃんからもらったおにぎり、一個もらっていい?」
『うむ』
お姉さんはおにぎりを一口食べた。
「おいしい」
悲しそうに、そう言った。
『そうだな。きっと、美味《びみ》なのだろう。我にはわからぬが』
ぽつりと言葉を漏《も》らすガーゴイル。その表情はいつもと変わらない。
「……でもね、多分、問題はそこじゃないと思うのよ。問題は君がおにぎりを食べられるかどうかじゃなくて、おばあちゃんになんて言うか、でしょ。それは自分で考えるべき問題よ」
――あ。
突然、お姉さんの目が見開かれた。
「ひょっとして、自分が人間じゃないから人間の気持ちが理解できない、なんて思ったりしてない?」
その質問はガーゴイルの虚《きよ》をついた。
言葉が出ないガーゴイルを見て、お姉さんは得意げに鼻を鳴らす。
「そーんなこったろうと思ったわよぶぁーか。あのね、君の脳ミソはそんなに馬鹿には作られてないのよ」
『我は馬鹿なのか馬鹿ではないのか』
「あのね、心理学用語で心の理論[#「心の理論」に傍点]ってのがあるの」
ガーゴイルの疑問を無視してお姉さんは続けた。
「難しいことじゃないの。例えば、誰かを殴ればその人は当然怒るよね。おいしいものを食べればいい気分になる。そんな簡単な理論。君にだってわかるよね?」
『無論だ』
「それが人の基本的な心の理論。さてここで問題です! 君におにぎりをあげたおばあちゃんはどんな気持ちだったでしょう? フリップに答えを書いて皆さんに見えるように出してください!」
気がつけば日も暮れかけていた。学校帰りの子供たちの声が遠くに聞こえる。
ガーゴイルは家の門の上でおとなしく考えこんでいた。
唯一《ゆいいつ》わかったことは、外に出ると説教しか返ってこない、ということだけだった。
二つ減ったとはいえ、ガーゴイルの苦悩は変わらない。ママにも尋ねてみたのだが、彼女はガーゴイルの体をやんわりと叩くだけだった。あの叩き方からすると、心配するなとかそういう意味なのだろうが、この状況で心配するなと言うほうが無理だ。
双葉にも訊いてみようと思ったが、熟睡《じゆくすい》していた。起こすと何をされるかわからないのでそのままにしておく。近頃は双葉の攻撃のバリエーションが予測不能になってきた。
「あ、あのー……」
『む』
見下ろすと、少年が立っていた。
記憶にある。双葉の級友の石田《いしだ》という男の子だ。手に紙を持っている。
「これ、双葉に……今日のプリント」
『これはかたじけない。足労《そくろう》であった。それから、そう怯《おび》えずともよい。我は危害《きがい》など加《くわ》えぬ』
「いや、別に、ビビッてるとかそーいうんじゃなくて……」
石田は視線をそらし、口の中でモゴモゴとつぶやいている。やがて意を決して顔を上げ、ガーゴイルに尋ねた。
「あ、あの、双葉、腕の骨を折ったって聞いたんですけど」
『……誰がそんなことを言った?』
「うちの担任の――」
石田が言いかけたとき、吉永家の三階の窓が開き、双葉が顔を覗かせた。
「なんだトシ、どうした?」
平然と窓枠《まどわく》に手をかける双葉を見て、石田は驚愕《きようがく》した。
「え、双葉、おまえ腕折ったんじゃねーのか?」
「はぁ? ちょっとスジ痛めただけだぞ。誰がそんなこと言ったんだよ?」
「誰って……」
そのとき、吉永家の近くにある電柱から忍び笑いが聞こえ始めた。
「クックック――また――騙《だま》されたね――トシ君――」
背広《せびろ》を着た、毛の塊《かたまり》のようなものが口らしい部分に手を当てて笑っていた。
「てめぇ夜《よ》倶《ぐ》! 大嘘《おおうそ》ブッこきやがったな!」
「友人を――思いやるのは――イイ事――双葉ちゃん――明日は来てね――」
夜倶先生は電柱の影に吸い込まれるようにして消えた。石田がそれを追って走ると、電柱の近くには誰の姿もなかった。
『あの者……気配《けはい》を感じさせなかった。やるな……』
ガーゴイルだけがひそかに感心していた。
「くっそー……」
「で、トシは何しにきたんだよ」
「うるせぇ! これでも食らって死ね!」
と、石田は近くに落ちていた石をプリントで包みこむと、吉永家の三階の窓に渾身《こんしん》の力をこめて放り投げた。
「あだっ! 何しやがる!」
「明日は学校来いよ!」
言うだけ言って、石田は走り去ってしまった。ガーゴイルの頭上で憤慨《ふんがい》した双葉の言葉にならない叫び声が聞こえる。
『うーむ……人の心は難しいものだな……』
あの石田という少年も、夜倶先生も、双葉の身を案じていた。それでいてあのような態度に出るのが理解できない。心配ならば素直にそう言えばよいではないか。
ぴしゃり、と窓が閉まった。
ガーゴイルの状況は変わらぬままだ。
考えがまとまらない。
人間の心とは、こんなに複雑なのに。それでも兎轉舎のお姉さんは簡単なことだと言い張る。まず、事態が単純ではないというのに。
泥棒から佐々尾さん家のおばあちゃんを救ったのは事実だ。だが、当初、ガーゴイルは見捨てようとした。吉永家を救うための情報収集のために。結局は、双葉の命令でそれができなくなり、しぶしぶ助けたのだ。
なのに、おばあちゃんは満面の笑みでおにぎりをくれた。
断れなかったのは、罪悪感だろうか。それとも別の感情だろうか。
『――人間とは、かくも多きしがらみから自《みずか》らを守らねばならないのだな……』
深く、ガーゴイルはつぶやいた。
「ちーッス」
そんなガーゴイルの心の機微《きび》などまるで無視したかのように、自転車に乗った新聞屋が能天気な表情でやってきた。近頃は彼も慣れたもので、ガーゴイルに対してもこういう笑顔ができるようになった。
『うむ。ご苦労』
「それとこれ、ビール券ッス」
新聞屋は別のポケットから数枚のチケットを差し出した。
『なんだこれは?』
「今週、お得意さんにサービスしてるんスよ。これはビール券っていって、お酒と引き換えにできる、お酒専用のお金みたいなもんス」
『なるほど。だが吉永家では酒を飲む者がいない。パパ殿も身体が受けつけないそうだ』
「あら、そうスか。んじゃ、こっちの遊園地の割引券にしときます」
『そうだな。これなら皆喜ぶだろう。感謝する』
「今後ともご贔屓《ひいき》に!」
新聞屋は来た時と変わらぬ笑顔で去っていった。
ガーゴイルもずっと同じような仏頂面《ぶつちようづら》のままだった。
――今のように言うことができればよかったのだ。
それが、なぜ。
「ただいま……」
『おかえり和己よ。――何があった?』
和己の様相《ようそう》はよくいってズタボロといったところで、ぱさぱさに乾《かわ》いた髪の毛は汗で濡《ぬ》れた額に張りつき、制服の上に羽織《はお》ったコートも所々がほつれている。和己自身も肩で息をしていて、表情は青ざめている。まるでゾンビの群れから全力|疾走《しつそう》で逃げてきたかのようだった。
「……ガーくん、これからは門番の仕事はおとなしめにね」
『さっぱり事情が不明なのだが、善処《ぜんしよ》しよう』
家に入ろうとして、ふと、和己は気がついた。
「あれ、そのおにぎり、佐々尾さんのおばーちゃんがくれたんだ」
『うむ、そうなのだが……』
「もらうね。おなかペコペコで』
と、なんでもない動作で和己はおにぎりを手にとって口に運んだ。
あっけにとられているガーゴイルに気づかずに、和己はろくに咀嚼《そしやく》もしないでおにぎりを飲みこんだ。中身はおかかだった。
「あーおいしい。やっぱりおばあちゃんのおにぎりが一番だよ……どしたの?」
『いや……あまりにも平然と食べるので、我も口を挟《はさ》む隙《すき》がなかった』
ようやく和己は気づいたらしく、
「あれ、これ食べちゃいけなかった?」
『いや、いいのだ。どうせ我には食べられぬ』
「どうしたのガーくん。なんか元気ないね」
和己はしっかりと米の一粒《ひとつぶ》まで飲みこみ終えると、ガーゴイルの身体に触《ふ》れた。何がわかるというわけでもないが、それでも気持ちが伝わってきそうな気がしたから。
『なぁ和己よ。なぜ佐々尾殿は食べられもしない握り飯を我にくれたのだと思う?』
今日一日ガーゴイルを悩ませたその質問に、和己は、
「決まってるじゃない。それしかあげられなかったからだよ」
あっさりと答えた。
『……なに?』
「だってさ」
ガーゴイルから手を離し、少し離れてガーゴイルの視線にあわせる。
「昨日からいろいろと忙しかったじゃない。特におばあちゃんなんて警察の事情|聴取《ちようしゆ》とかあったし、ろくに眠れなかったんじゃないかな。だけどガーくんに何かお礼しなきゃって思って、でもありあわせの物で一番あげやすいものっていったら、おにぎりしかなかったんじゃないかな」
確かに、おばあちゃんは言った。
――こんなことしかお礼できないけど、よかったら――
本当に、それだけだったのだ。
ガーゴイルにとっては、それ以上のものなど望むべくもなかったが、おばあちゃんにとっては唯一の選択だったのだろう。
『……和己よ。感謝する』
「へ?」
『気にするな。我が言いたかっただけだ』
「……変なガーくん」
クスリと笑って、和己はガーゴイルの背中を叩いて家の中に入って行く。その仕草はママによく似ていて、親子の遺伝《いでん》を思わせた。
――我は、佐々尾殿になんと言えばよいのだろう。
原因がわかったが、ガーゴイルの頭はまだ悩みでいっぱいだ。きっとこの件が解決しても残る問題はあるだろう。人の心とはなんと難しいものだろうか。そしてそれが理解できるはずだと言った兎轉舎のお姉さんの心中は。
「おや狛犬さん、こんにちは」
足を引きずりながら歩いてくる佐々尾のおばあちゃんを見たときも、ガーゴイルはそのことを考え続けていた。
「昨日は本当にありがとね。おや、おにぎりなくなっちゃってるねぇ」
『うむ、欲しがる者に贈呈《ぞうてい》した。みな、美味だと言っていたぞ』
「そうかい。そりゃよかった」
『しかし我は食べられぬ故、次にこういう機会があったら、食物以外の物にしてくれるとありがたい』
「ああそうだねぇ、狛犬さん食べられないもんねぇ。うっかりしてたよ」
コロコロとゆっくり笑うおばあちゃん。
そうしてふと、その笑顔の前だと素直に要望を口に出せることに気がついた。あれだけ悩んでいたことが、おばあちゃんの前だと、あっというまに解決してゆくのである。
これはどうしたことか。
おにぎりをもらった時も同じ笑顔をしていたのに、今とどう違うのか。
「そうだ。ちょっと待ってなさい」
おばあちゃんは佐々尾家の中へ入ってゆく。その姿を見送りながら、あれが俗にいう「人徳」というものか、と感心していた。果たしてガーゴイルのような石の犬にそのような存在感をかもしだすことは可能なのだろうか。
無理だろう。
おそらく、あれは自分のような無骨なものには出せない「徳」なのだ。
人それぞれがそういうものを持っているのだ。
最初と今と、おばあちゃんの笑顔には変わりがない。
変化があるとすれば、おにぎりと、ガーゴイルの気持ち。
『やはり――難しいな』
やがておばあちゃんが音を立てながら戻ってきた。
手に握られた紐《ひも》の先についているのは、
ちりん――
『鈴か』
「これなら狛犬さんにもつけられるでしょ」
それは二つ連《つら》なった鈴だった。赤い注連縄《しめなわ》のようなものにくくりつけられており、紐も鈴もずいぶんと古い。
「これ、あげるわ」
おばあちゃんはガーゴイルの首に鈴を巻いてくれた。
ちりん――
古いが、重みのある音がした。
『感謝する。こんなものをもらったのは初めてだ』
「昔、神社でもらったものだよ。魔除《まよ》けなんだって」
『よいのか』
「いいのよ。だって、これからは狛犬さんが守ってくれるからね」
ガーゴイルは吉永家を守るように設定[#「設定」に傍点]されており、またガーゴイル自身もそう誓《ちか》っている。
その石の門番が、こう告げた。
『その通りだ。佐々尾殿、これからは貴方《あなた》も守る』
――ちりん。
風もないのに鈴が鳴った。
それは、ほんの少しだけガーゴイルが成長した日。
防犯の知識よりも役に立つ知識に興味《きようみ》を覚えた日だった。
『……ところで、我と狛犬とでは、やはり似ても似つかなかったぞ』
「あら、そう?」
首をかしげると、おばあちゃんはやはりゆっくりと笑った。
『と、いうわけで汝にもこれを進呈《しんてい》しよう』
神社の狛犬の首から、ひとつの鈴が下がっている。
狛犬はしきりに遠慮《えんりよ》していたが、ガーゴイルが無理矢理|勧《すす》めると、観念したように片方の鈴を受け取った。
そして、
『――おう。ありがとな』
生まれて初めての言葉を、口にできた。
[#改ページ]
第四話
小野寺さん家の名番犬
忍びこむまでは容易だった。
最近の日本の家屋《かおく》は脆《もろ》すぎる。これでは侵入者《しんにゆうしや》のために造られているといっても過言ではないだろう。鍵《かぎ》は原始的な道具で外《はず》せる。セキュリティ会社への通信手段もツールを使えばあっさりと切断できる。中にはスイッチを入れていない家まである。侵入者を家人《かじん》と誤解するシステムは、いっそ親しみすら覚える。
しかし日本の住宅セキュリティで、一番|脆弱《ぜいじやく》な部分は心だろう。「家にまさか泥棒《どろぼう》なんて」というなんの根拠《こんきよ》もない慢心《まんしん》が――我々《われわれ》のような者を招《まね》き入《い》れるのだ。
そう考えながら、男は深夜の家を歩く。
――我らのような輩《やから》は、日本にどれくらいいるのだろうか。
男は足音を立てないように歩く。いっそ平和ボケから目を覚まさせるために、派手な音でも立ててやろうかとさえ思っている。
ダイニングの中は平凡だった。暗視鏡《ノクトビジヨン》を通した網膜《もうまく》に映《うる》る、綺麗《きれい》に整頓《せいとん》された食器類の数々。食器|棚《だな》のすぐ脇《わき》に電話台が置いてある。電話の下には引き出しがついており、中には判子《はんこ》が入っていた。通帳は別のところにあるらしい。
かちり、と音がした。
時計の短針が動いた音だった。午前三時。まだ動けるだろう。
隣の部屋からは寝息が聞こえる。侵入者は扉《とびら》を少しだけ開けて、中を覗《のぞ》く。主人らしき男がすやすやと寝息を立てていた。そして、その扉の横では――
「――チッ」
しまった。
舌打ちをしてしまったことを激しく後悔《こうかい》する。マスク越しとはいえ、聞こえないという可能性はない。男はすぐに扉を閉め、ダイニングから廊下《ろうか》へ出た。
予想外の住民がいたのだ。
張り紙もシールもなかったし、匂《にお》いもしなかった。
早いところ仕事を切り上げた方が得策《とくさく》だと判断する。いっそのこと、ほかの家へ移るのもいいかもしれない。男は一緒に侵入した相棒に相談しようと二階への階段を上った。
階段を上り終えると、ちょうどその相棒《あいぼう》が部屋から出てきたところだった。
――どうした?
目でそう訴《うつた》えている。一階を担当している彼がわざわざ階段を上ってくるというリスクを犯《おか》していることから、何か異変があったことを察するにはたやすい。
――アレがいやがる。
男は手でジェスチャーをした。相棒の眉《まゆ》が曇《くも》る。
――出た方がいい。
――わかった。
互いに肯《うなず》き合《あ》い、行動に移そうとしたところだった。
きぃ。
小さな音を立てて、扉が開いた。
「……誰《だれ》?」
中から出てきたパジャマ姿の女の子が、まさに二人を見ていた。眠そうな瞳《ひとみ》で状況を整理しようとしている。
「なに、誰? お父さんじゃないよね?」
小学生くらいだろう。小さな身体《からだ》をゆっくりと後退させながら、それでも瞳は侵入者たちから離れない。当然だ。暗視鏡をつけた男が二人、夜中に現れたら小学生でなくても怖《こわ》いだろう。
「……やだ、ちょっと、誰よぉ」
見る見るうちに少女は涙目《なみだめ》になっていた。
男は相棒に目配《めくば》せした。
どうせこんな子供に見られたところで、すぐに遠くまで逃げてしまえば問題はない。危害を加える必要もない。暗視鏡が変装《へんそう》の役割もしている。
――さっさと行こう。
相棒もうなずき、彼らはすぐに階段を下りようとした。
だが。
男たちの目の前に、それはいた。
四足で、のっそりと歩いてくる、白い毛並みの――
ゥル――
小さく泣いたその声は、男たちではなく、後ろの女の子を見ていた。
少女は天の助け、と言わんばかりに叫んだ。
「少尉《しようい》、助けて! 泥棒よ!」
だが男たちにとっては悪魔の遣《つか》いだ。
――やばい。こいつに吼《ほ》えられたら!
だが、白い毛の悪魔はいつまでたっても吼えなかった。
ウゥ――
小さく鳴くだけで、その場を動こうともしない。
「どうしたのよ少尉! 吼えてよ!」
しかし反応はない。侵入者にも気づいているようだが、まったく声を上げようとしない。
男たちは互いにアイコンタクトを交わしながら、目の前の奇妙な事態に当惑《とうわく》している。
だが、すぐにそれを好機と取ったようだ。
「……ククッ」
相棒が含《ふく》み笑《わら》いを漏《も》らしたのを聞いて、男も笑いそうになる。こんな腰抜《こしぬ》けの動物に一瞬でも恐怖感を覚えてしまった自分も含めて、おかしくてたまらない。
女の子は泣き声をあげながら、それでも叫び続ける。
「美森《みもり》、どうしたんだい?」
階下から男の声が聞こえてきた。だがそれも調査済みだ。この家の主人は目が見えない。きっと彼らの存在もわからないのだろう。
「助けて! 少尉、助けてよ!」
それでも女の子は叫び続ける。
助けなんて来るわけがないのに。
男も大笑いしようと口を開きかけたそのとき、小さな音を聞いた。
――ちりん。
ガーゴイルがその家に飛びこんだとき、感覚器を刺激《しげき》するものは少女の泣き声だけだった。その波形《はけい》から推察《すいさつ》するまでもなく、救難《きゆうなん》を要請《ようせい》する言葉を叫び続けていた。
――だから我が来たのだ。
『小野寺《おのでら》美森だな。我は級友の吉永《よしなが》双葉《ふたば》の使いだ』
ガーゴイルの目の前に立っている男二人。怪《あや》しげな眼鏡《めがね》をつけている怪しげな二人組だ。ガーゴイルの記憶によれば、小野寺家には若い男の二人組などいなかったはず。
――火を見るより明らか、といったところか。
『我はガーゴイル。御色町《ごしきちよう》三丁目一の十一にある吉永家の門番|也《なり》。汝《なんじ》らの蛮行《ばんこう》を見過ごすわけにはいかぬ』
男たちはガーゴイルの言動ではなく、その存在に驚いているようだ。
「……チッ。どこから現れやがった」
片方の男が懐《ふところ》からナイフを抜《ぬ》いた。
『美森。下がっていろ』
静かにガーゴイルが命令すると、小野寺美森は引けた腰で徐々《じよじよ》に後ろに下がった。その間にもう一人の男もナイフを抜く。本来なら威嚇《いかく》用に使う大型ナイフだが、そのナイフに「ぱりっ」という音が付着した。
『カァァァァァッッ!』
ガーゴイルの両眼から放《はな》たれる電撃《でんげき》が二人を包んだ。自然の雷《かみなり》を極限までコンパクトにしたような電撃がナイフを伝って男たちの身体をぼろぼろに焦《こ》がす。衝撃で首の鈴がジリジリと非常ベルのような音を立てる。
膝《ひざ》をつき、前のめりに倒れる男たちを美森は廊下の片隅《かたすみ》でずっと見ていた。
あっというまもなかった。正義のヒーローだって、もう少し勿体《もつたい》つけるだろうに。
廊下の明かりがついた。父か誰かがつけてくれたのだ。
そこにそびえ立つ黒い犬の石像の雄姿《ゆうし》を、美森は生涯《しようがい》忘れることはないだろう。
しかし、それでも涙が止まらなかった。
『美森、怪我《けが》はないな。家の者が警察を呼んでくれている。もう危険はない』
「うぅ……」
気づくと、目の前にガーゴイルが座っている。
その姿を見て、もう自分は安全なのだと理解して、ようやく感情の堰《せき》が切れた。
「うわあぁぁぁん!」
ガーゴイルの首っ玉にかじりつき、美森は泣いた。
「怖かった! 怖かった! 怖かったよぉ! うわああああん!」
『もう安心だ。賊《ぞく》の意識は完全に途絶《とだ》えている。殺しはしていないが』
自分の泣き声で美森には聞こえなかったが、その足音はガーゴイルの背後にまで近づいていた。
美森は気づいていないが、ガーゴイルはその白い犬の表情まで読み取れた。どういう感情を抱《いだ》いているのかもわかったが、それでもガーゴイルは言わずにはいられなかった。
『……なぜ吼えなかった、エイバリー少尉』
白い犬の足が止まった。
小さく返答する。
それは美森の耳には「クゥ」という小さな泣き声にしか聞こえなかっただろう。
『なるほど。だが、結果はどうだ。美森の態度がそれを雄弁に語っている』
その言動は無感情なガーゴイルにしては、冷たすぎる一言だった。
さらにそれに追い打ちをかけるように、
「……どうして助けてくれなかったの、少尉」
それは先刻のガーゴイルと同じ質問だったが、意味がまったく違っていた。
二つの責める視線を受けながら、エイバリー少尉はもう一度、同じ言葉をつぶやいた。
『――自分は盲導犬《もうどうけん》であります。人前で吼えることはできません』
小野寺家での一連の騒動《そうどう》は、それほどニュースにはならなかった。
世間的に見れば、の話ではあるが。泥棒騒ぎをガーゴイルが収拾《しゆうしゆう》する。という構図がいつのまにか御色町の人々の間で通例《つうれい》になっていた。とはいえ、英雄の姿を一目見ようと吉永家を訪れる者は人間動物問わず少なくない。
『今回は障害者の家を狙《ねら》った犯行か――』
眉をひそめたくなるケースである。しかしガーゴイルも情報を大量に収集できて、次からの防犯対策を練《ね》りやすくなった。
しかし、空《あ》き巣《す》や強盗《ごうとう》などの犯罪はむしろ増加の一途《いつと》をたどっている。この春から御色町近辺での犯罪件数は異様《いよう》に増えていた。
窃盗団《せつとうだん》も新入社員の研修とかに忙しいんじゃねーの、とは双葉の冗談《じようだん》ではあるが、組織的な犯罪が絡《から》んでいるという清川《きよかわ》のおじさんの憶測も笑って否定できない。複数の窃盗団による縄張《なわば》り争いの可能性もあるそうだ。
『双葉よ。おかえり』
「おう。ただいま」
スカジャンにジーパンという男勝《おとこまさ》りな格好で帰宅した双葉。その肩は少しだけ落ちているように見えた。
『美森は今日も学校に来ていなかったようだな』
「……ん。まーな」
双葉はガーゴイルから視線をそらした。なんでわかるのかと聞き返さないところ、双葉のほうも気分が滅入《めい》っているようだ。
「しょーがねーよ。あんなことがあったわけだし」
小野寺家の泥棒騒ぎからすでに一週間が経過しようとしている。美森は部屋から一歩も出ようとはせず、常に電気をつけた状態で、それでも眠ることができないらしい。
「……お前のせいってわけでもないし」
最近のガーゴイルの行動は目に見えて動的になっていた。前の経験を生かし、泥棒を迅速《じんそく》に捕まえる。特に被害者に直接的な危害は絶対に加えさせない配慮《はいりよ》をするようになった。その分、加害者には容赦《ようしや》しないが。
それでも、犯罪の予知に関してはガーゴイルの感覚器も及ばない部分があるらしい。
なにしろ事故とは違い、人の心が絡んでいる。どこに誰かが侵入する、ということまではわかるのだが、進入経路や逃走までの時間は不明なのだそうだ。
『我も完璧《かんぺき》な予知ができれば、未然に防ぐことができるのだが……今回は我の失態《しつたい》だ』
「違う。お前は悪くない」
珍しく、双葉はガーゴイルを弁護する。
「あのエイバリー少尉が吼えるなり噛《か》みつくなりすりゃよかったんだよ。それをおとなしくボーッと突っ立ったままで――」
「とはいうけどね」
庭から声がかかった。
「盲導犬はそうするように絶対的な訓練《くんれん》をされてるんだよ。条件反射のようになってるんだ」
木の椅子《いす》に座って本を広げている和己《かずみ》も、だからいいわけではない、と目で語っていた。苦笑しながら妹に手を振る。
「双葉ちゃん、おかえり」
「おう」
「でね、盲導犬ってのは、訓練所で障害者の身体の一部となるように訓練されてるのね。だから、その人から離れて人に吼えたりするのは、まったく正反対のことなんだ」
今日の和己は長くて色素の薄い髪《かみ》を後ろに縛《しば》っていた。少しは男らしく見えるようになったが、精神的女性ホルモンの量ではまだ双葉を圧倒している。
『しかし、そのせいで美森はあのようなことになったのだぞ』
「だから――それとこれとは別問題なんだよ。誰が悪いって話をしたら、誰も悪くなんかないよ。泥棒が悪いに決まってる」
『それはそうだが――』
「あーもう!」
双葉が耐えかねたように飛び上がり、ガーゴイルの背中に乗っかった、スリーパーホールドを決めるような体勢で石の身体にしがみつく。
「不毛《ふもう》な会話してんじゃねーよ! あたしは美森が心配なんだよ!」
「僕は、美森ちゃんとエイバリー少尉の関係が心配だな」
『我は犯罪にしか興味がないが――』
三者三様の意見を出し合ったところで、
「とりあえず、すぐそこだからさ」
と、双葉が小野寺家の方向を親指で指した。
「こんにちは!」
小野寺さん家のインターホンを鳴らすと、ご主人の小野寺|満男《みつお》が顔を見せた。細いまぶたがにっこりと笑って双葉たちを出迎える。
「いらっしゃい。和己くんに双葉ちゃんに、それからガーゴイルさんも」
「おじさん、見えないのにどうしてわかんの?」
目を丸くして双葉が尋《たず》ねると、
「あいさつの声とその背丈《せたけ》と髪型は和己くんだよね。それと一緒に来た小さな女の子。その組み合わせから判断したんだよ」
「って、おじさん目ェ見えないんじゃないのか?」
「陰影《いんえい》の具合で大体分かるんだよ。完全に見えないわけじゃないんだ」
「へー」
双葉も和己も口を半開きにして感心していた。
「こないだは、本当にありがとう。君たちが来てくれたおかげで、助かったよ」
「あー、それなんだけど。美森、大丈夫か?」
「うん……そうだねぇ……」
歯切れの悪い返事がそのまま返答になっているようなものだ。
「おじゃまします!」
双葉は返事も聞かずに靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、そのまま二階へと走った。勝手知ったるもので、閉じられた扉を見つける前に双葉は目標の部屋に向けて叫んでいた。
「美森! あたしだよー! 元気にさせにきたぞー!」
夜《よ》倶《ぐ》先生の話では、ずっと美森は部屋に閉じこもっているそうだ。こういうものは|心的外傷後ストレス障害《PTSD》というのだと教えてくれた。つまりトラウマになっている、と。
「美森! あたしと遊びにいこう!」
部屋をノックする。そしていきなりノブを回した。
「おろ?」
驚いたことに鍵が開いており、中でパジャマを脱いでいる美森の姿が見えた。
「な、ちょっと双葉ちゃん、何よいきなり!」
「なんだ着替え中かよ」
「だっていきなりあがってくるなんて思わなかったんだもん!」
言い返しながらもパジャマを脱いで、ベッドの上に畳《たた》んである洋服を手早く身に着ける。その動作はてきぱきとしていて、その様子を見ている誰かさんにも見習わせたいものである。
「ふぅ。終了! よく来てくれたね、双葉ちゃん!」
「……かなり元気そうじゃねーか」
そこで双葉も気づく。
「夜倶のヤロー……また騙《だま》しやがったな!」
「なに、夜倶ちゃん先生、私のことなんて言ってたの?」
「部屋から出ずに引きこもってるから、元気づけてやれってさぁ!」
「あ、それ本当だよ」
なんでもない笑顔で答える美森。
言葉を失った双葉に軽く苦笑して、ベッドに腰かけた。
「夜倶ちゃん先生、嘘《うそ》言ってないよ。今でも、部屋から出られない――怖くて。また誰か悪い人が来るんじゃないかって。私が学校とかに行ってる間に泥棒が来たらどうしようって――お父さん、目が見えないから、心配で――」
軽く組んだ両手が震《ふる》えていた。
『案ずるな、美森』
ドアから声が聞こえた。開いたドアの外に、ガーゴイルがいた。
『我が守る。絶対に危害は加えさせない。だから安心しろ』
その黒い姿は、あの夜美森を助けてくれたものと同じだった。とてもとても頼《たの》もしかった石像さんを見て、美森は少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「ガーゴイル……さん」
彼の身体を抱きしめようとベッドから立ち上がりかけたとき、
――ウゥ。
ガーゴイルの影からのっそりと歩み寄る、白い犬。
美森の表情が変わった。
「……何よ。なんでよ」
汚いものを唾棄《だき》するような瞳に射《い》すくめられて、エイバリー少尉はそれ以上近づけなかった。
「肝心なときに役に立たないくせに! 少尉のせいで私は――」
あの夜、必死で求めた救いを無視した犬。
涙がこぼれてきた。
ガーゴイルの身体に触《ふ》れるために伸ばした手で、扉のノブをつかんだ。
「出てってよ! 少尉なんて大っ嫌い!」
勢いよく扉が閉まった。
『――嫌われたものだな』
その声は相変わらず表情がなかった。
『――仕方ありません。当然の結果であります』
悲しい声。当然の結果を受け入れているようには聞こえなかった。
『エイバリー少尉、しばらく控《ひか》えよ。|精神療法《カウンセリング》において、汝は美森の心をかき乱《みだ》す要因にしかならない』
『……了解しました』
閉じた扉を見つめながら、エイバリー少尉はたたずんでいた。その瞳は美森に伝えたいことであふれそうだった。
『汝にも言い分があるのだな』
『いえ。命令無視は事実です。弁明などしません』
『我に話すがよい。我は小野寺家の者ではない』
『……』
エイバリー少尉はしばらく黙《だま》っていたが、
『……自分にも、あの行動が本当に正しかったのかどうかわからないのです。貴方《あなた》の意見を聞かせてはいただけないでしょうか』
『無論だ』
ガーゴイルは即答した。
リビングのソファに座った和己は、目の前に出されたお茶をちょっとびっくりしながら飲んだ。別に普通の味だ。
「茶菓子が見つからなくてね。確か、ここにあったと思うんだけど……妻が出かけていなければよかったんだけどね」
満男が手探りでキッチンの中を物色している。その動作は本当に流れるように綺麗《きれい》だった。手が目のように素早く情報を掴《つか》んでいるのだ。
「あの、いいですおかまいなく。それより、わかるんですか?」
「自分の家だからね」
結局見つからなかったらしい。満男は頭をかきながら戻ってくる。そして和己の対面のソファに手で触れ、腰かけた。
「ところで、どうして少尉っていうんですか?」
「ああ、やっぱりおかしいよね。エイバリーがうちに来たときだから……二年ほど前かな? テレビで戦争ものの映画をやっていてね。それに出てくる少尉さんにエイバリーがいたく興奮《こうふん》しちゃって、美森が冗談《じようだん》で『エイバリー少尉』って呼んだら気に入っちゃって。今じゃすっかり定着しちゃってるんだよ」
「へぇ。盲導犬でもテレビに興奮したりするんですね」
「いやぁ、後にも先にもアレだけだったなぁ。今でも戦争ものは好きみたいだけど」
二人でクスクスと笑った。
その笑いを破ったのは満男が先で、
「少尉もすっかり嫌われちゃったなぁ。美森も大好きだったのに」
「まぁ、あんなことの後ですからね」
和己も渋い顔。
近所では利口《りこう》な犬として評判だったのに、今ではその評判もガタ落ちである。もともとエイバリー少尉は番犬としては訓練されていないのだから、不当な評価だと和己は思う。それでも美森がああなった責任の一端《いつたん》は確かに担《にな》っているだろう。
「和己くんも、少尉に何か問題があったと思うかね」
「え、ええ、まぁ。でも、それはエイバリー少尉のせいじゃ――」
満男は大きなマグカップを手探りで探すと、それを口に運んだ。こぼさないようにゆっくりとテーブルに戻すと、少しだけ考えてから口を開く。
「盲導犬にはね、『利口な不服従《ふふくじゆう》』という言葉があるんだ。例えば、僕が横断歩道で|行け《ゴー》と命令しても、車が迫《せま》っていたりすると、犬がそれを判断して命令に従わないんだ」
「へぇー、すごいですね」
「だから少尉が吼えなかったのも、きっと理由があると思うんだよ」
寂《さび》しい顔をする満男。
「それでも、美森の救いにはならないかもしれないけど――」
満男の寝室ではエイバリー少尉がうなだれていた。
ガーゴイルはその前に座り、今しがた聞いた少尉の言葉について考えている。
『見事だ。我が同じ立場でもそうしていた――いや、我でもそこまで考えが至らぬかも知れぬ。汝の行動は正しい』
『本当でありますか?』
『うむ。胸を張ってよいぞ、少尉。そうだ、今からそれを美森に伝えてこよう。汝の潔白《けつぱく》を証明するために』
ガーゴイルの提案を、しかしエイバリー少尉は辞退した。
『いえ――結果として美森殿を傷つけたのには変わりありません。そういう意味では、自分の作戦は失敗であります』
この潔《いさぎよ》さはガーゴイルを苛立《いらだ》たせた。盲導犬としての誇《ほこ》りがそうさせるのだろうが、それでは美森が癒《いや》されないではないか。
ガーゴイルは苛立ちをかくして、エイバリー少尉を奮《ふる》い立《た》たせてみる。
『いや、まだだ。まだ作戦は終わっていない。ついてこい。まずは満男殿に話をつける』
『――|了解《イエス、サー》』
しぶしぶとエイバリー少尉は同意した。
そのとき寝室のドアが開いて、満男と和己が現れた。
「あ、ガーくん、あのさ。ちょっと通訳してもらいたいんだけど」
和己が頼み込むと、
『それより先に、聞いて欲しいことがある』
ガーゴイルは先ほどエイバリー少尉が話した、あの夜の考えを漏《も》らさずに伝えた。満男も和己もそれほど驚いた様子はなく、むしろ感心している風《ふう》だった。
エイバリー少尉は黙って満男の顔色をうかがっている。
『――ということだったのだが』
和己はうれしそうな顔で、
「僕たちもそれを訊《き》きたかったんだよ」
とガーゴイルの頭をなで、
「少尉、お前は本当に頭のいい犬だな――」
満男はエイバリー少尉を抱きしめた。その動作は今まで和己が見たどんな行動よりも危なげがなく、彼とこの犬との絆《きずな》の深さがうかがい知れた。
「よし! 今から美森にもこのことを話そう!」
元気が出た満男が拳《こぶし》を振り上げて熱弁する。自分の犬が馬鹿ではないことがわかってよほど嬉《うれ》しいらしい。和己もやる気が出てきたのか、一緒になって拳を上げていた。
深夜の、それも突然の来訪者というものは、武器を所持している可能性が高い。それが二人いたとなれば、女の子一人と犬一匹にできることは限られてくる。拳銃《けんじゆう》と狂犬病ウィルスを所持していたとしても太刀打《たちう》ちできないだろう。
助けを呼んだところで、隣家《りんか》の人間がそれに気づき、不審がり、のこのこ様子を見に来るまでの時間、泥棒に抵抗する猶予《ゆうよ》はお釣《つ》りがくるほどある。
少尉一匹ならば、警察が来るまで引きとめておくことはできるだろう。
だが、美森がいた。
彼女を完全に無傷の状態で守るためには、泥棒の逃走経路にいる自分が道を空《あ》けて、とっととこの場からいなくなってくれることが望ましい。満男はよく言っていた。ほかの何を失っても、美森だけは守りたい、と。
それはエイバリー少尉にとっても同じだった。
よく考えてみればわかる話なのだが、それは人間レベルでの話。
利口な不服従とはよく言ったものである。
「――犬でそこまで考えてるなんて、すげーなぁ」
双葉が素直な感想を口にした。
『抵抗せず、犯人を刺激せず、金品を渡す。強盗対策の基本である』
美森のベッドの上でガーゴイルがつぶやく。重みでベッドが少しへこんでいたが、誰も文句は言わなかった。
その隣に座っている美森は組んだ指をもじもじさせている。誰とも目を合わせられない。
「――ごめんね、少尉。私、ぜんぜん知らなかった」
ゥゥ……。
『謝《あやま》ることはありません! 自分は美森殿を守れなかったのでありますから! と言っているが』
美森は隣のガーゴイルを見て、すぐに少尉に視線を戻す。
「それでも、ごめんなさい。大嫌いなんてウソ。少尉はちゃんと守ってくれたのに」
すぐに美森はうつむいてしまった。
恥《は》ずかしいのだろう。少尉の気持ちも知らずに激昂《げつこう》してしまった自分が。
「双葉ちゃん、明日から学校行くね」
無理に笑顔を作って、美森は気丈《きじよう》さをアピールした。
それでも双葉は嬉しかった。学校にさえ来させれば、あとは自分とクラスメイトが団結して美森を笑わせることができる。
「少尉――」
ベッドから立ち上がり、そっと手を伸ばす。
白い毛並みに、美森の手が触れた。
だけど、なぜか抱きしめることはできなかった。
「あ――」
伸ばした手を引っこめられない。
一瞬の迷いから美森を救ったのは、ガーゴイルの日常的な質問だった。
『ところで、なぜ汝は少尉という階級なのだ?』
『自分は|士官学校《くんれんじよ》を卒業しました』
胸を張ってエイバリー少尉は答えた。
ガーゴイルが通訳すると、みんな笑った。
美森も笑おうとした。
その夜、明かりのついた部屋で美森はベッドに腰かけながら天井《てんじよう》を見上げていた。
――明日は、学校に行きたいな。
昨日までに比べて、ずいぶん胸の中がすっきりした気がする。
――少尉は悪くなんかなかったんだ。それに、これからはガーゴイルさんが私たちを守ってくれる。
危険は、もうない。それなのにどうしてこんなにモヤモヤするのか。
「…………」
時計を見た。午前一時。
「いけない」
無理矢理ベッドにもぐりこんだ。寝たままでも触れる電気のスイッチを探して、手を動かす。スイッチに触る。躊躇《ちゆうちよ》したが、思い切ってスイッチを切る。
かち。
美森の部屋のライトに数日ぶりに休暇《きゆうか》が出された。
――怖くない。
今まで明るいところにいたためだろう、美森に見えるのはいつもより深い闇。吸いこまれそうな錯覚《さつかく》。シーツにしがみつく。怖くない、怖くない。自分に言い聞かせる。
「…………」
時計の音がやけに響く。
――早く寝ないといけないのに。お昼にいっぱい寝たのがいけなかったのかな。これじゃ明日は寝不足で目の下にクマができちゃう。そしたら石田君とか絶対笑うんだ。それで双葉ちゃんが止めに入って大ゲンカになるんだ。それで夜倶ちゃん先生がどこからかいきなり出てきてぼそぼそ何かささやくと二人とも凍《こお》りついたようにケンカをやめるんだ。いつも何言われてるんだろう。ああ、やだなぁ。
チッ……。
時計が舌打ちしたような音に布団から起き上がる。暗闇に慣れた目で壁の時計を見ると、二時を過ぎていた。
『ぬ……』
物音に気づき、エイバリー少尉は目を覚ました。先日の事件で夜に敏感《びんかん》になったのは美森だけではない。
俊敏《しゆんびん》な動作《どうさ》で起き上がり、満男の部屋から音を立てずに抜け出す。物音のしたほう、つまり階段へ行こうと足を向けたとき、美森とばったり出くわした。
『美森殿! なんですかその格好は!』
ジャケットに綿のズボン。寝ようと思えば寝られる格好だが。
「静かにしてね。ちょっと夜の散歩に行こうかなって」
唇《くちびる》に指を当てて、美森は悪戯《いたずら》っぽく笑う。少しでも疲《つか》れを増やせば眠れるかもしれないと思ったのだが、いうまでもなく小学生の一人歩きは危険だ。
『いけません! あんなことがあった後に夜遊びなど危険すぎます! 警官に見つかったらなんて言うつもりですか!』
「言ってる事はさっぱりわかんないけど、何が言いたいのかは大体分かるよ。だからね」
美森はいつのまにかリビングから調達してきたハーネスを少尉に取りつけた。父親のやり方を真似しただけなのだが、正しい取りつけ方であった。
「少尉も行こう」
『じ、自分がで、ありますか?』
――絶対にいけない。命令違反どころじゃない。軍法《ぐんぽう》会議ものだ。危険だ。すぐにでもやめさせるべきだ。服に噛《か》みつくべきか。これは別に飼い主にすることだから違反じゃないのかもしれないが。
「ね、行こう。お願い」
『……イエス、マム』
美森の笑顔に、つい返事をしてしまった。
目標地点はコンビニエンスストア。歩いて十分もかからない。口止め料としてビーフジャーキーを買うつもり。美森はアイスクリームを買うつもりだった。
美森の左にはエイバリー少尉が立っていた。盲導犬は人の左側に立つ。使用者の利《き》き手《て》を空《あ》けておくためだ。
「ゴー」
ハーネスを持つ手がわずかに震えた。エイバリー少尉が歩き出す。
美森は軽く目を閉じてみる。
いつも父親が見ている風景だ。わずかな月の光だけが、網膜が認識できる情報。エイバリー少尉の身体が伝える道標《みちしるべ》。これだけを頼りに、父は歩いているのだ。
――私は、少尉が大好き。だから信じたい。
コンビニまでの道のりを、美森は目を閉じて歩くつもりだった。少尉を信じられなくなった罪を少しでも洗い流すために。今度は自分が少尉を信じる番なのだ。
エイバリー少尉の足が止まった。一歩遅れて美森が歩を止める。
「曲がり角ね。コーナー?」
『イエス、マム』
「レフト」
『イエス、マム!』
左手が引っ張られた。美森もそれにならって自然に歩き出す。
「グッドよ、少尉」
『光栄であります』
夜中なら人通りも少ない。少尉との訓練を邪魔される心配もない。これでも美森は真剣だ。いつか絶対にやってみようと思っていたことなのだ。目の見えない父が普段どのような気持ちで道を歩いているのかずっとずっと知りたかったのだ。
それでわかったこと。
――怖いね、お父さん。
こんなに暗いのに、どうしてあんなに笑って歩けるの?
『曲がり角であります』
エイバリー少尉が止まる。
『目標地点までは、あと一つ曲がり角を曲がれば――美森殿、どうしたのですか? 自分は道を間違えてしまったのでありますか? それとも家に帰る――』
――少尉がいるから、お父さんは平気なんだね。
美森は目を開けた。
心配そうな顔のエイバリー少尉がこちらを見上げていた。自然とその身体を抱きしめる。暖かかった。春ももうすぐ終わりだというのに肌寒いこの夜、少尉の身体は美森のすべてを暖めてくれているかのようだった。
「こめんね、少尉。もう大丈夫だから」
『美森殿……』
エイバリー少尉も鼻先を美森にすりつけて甘えた。その頭をなでる美森。ようやく彼のことを信じられそうになりつつあった。
さぁ、明日も早い。早くコンビニに行って目的のものを買ってしまおう。うんといいジャーキーを買ってあげよう。そう決めて歩き出した美森とエイバリー少尉は、予想もしなかった出来事に足を止めざるを得なかった。
二軒先の家に、彼女は見てしまったのだ。
二人組みの男が、今まさに窓から侵入しようとしているところを。
「うそ……」
小声でつぶやく。
この近くでは自分の家が被害にあったばかりだというのに。
――どうしてまた泥棒が来るの? それとも捕まったことを知らないの? どっちにしたって、なんで私、こんなに泥棒と出会っちゃうの?
ハーネスが引っ張られた。
少尉が合図している。これは何の合図だろうか。
――そうか。
美森はハーネスをしっかりと掴《つか》むと、何事もなかったかのように歩き出した。その歩き方はまるでよどみがなく、どこからどう見ても目の見えない女の子[#「目の見えない女の子」に傍点]だった。泥棒たちもこちらに気づいていたが、ハーネスをつけた盲導犬の姿を見て、胸をなでおろしたようだった。
やがて角を曲がり、コンビニが間近に迫る。
「――ぷはぁっ」
なぜか止めていた息を吐き出して、美森は少尉の顔色を見た。
「どうしよう少尉、あの人たちきっと泥棒だよ! 窓から入ろうとしてたもん!」
あの夜の光景がよみがえってくる。
少尉の行動は素早かった。
――ウゥ!
首で西の方向を指す。
「そっか。双葉ちゃん家!」
ご名答、とでも言いたげな瞳でエイバリー少尉が小さく鳴く。もうなりふりかまっていられない。美森は走り出した。ひょっとしたら双葉の家族を起こすことになるかもしれないが、緊急事態だ、かまっていられない。
『はぁぁぁぁっ!』
ガーゴイルの目から放たれた電撃《でんげき》が、泥棒の身体を焦《こ》がす。
かのように思われた。
「へへへ……マジで電撃ぶっ放してきやがった」
ナイフを構えた泥棒が、電撃をくらいながらも平然と立っている。その後ろでは、新婚の夫婦が震えながら固まっている。
その泥棒はジャケットの下に全身タイツのようなものを着こんでいた。動きやすい絶縁体《ぜつえんたい》で全身を覆《おお》うものだ。その上に暗視鏡をつけているものだから、サイボーグのように見えなくもない。
「情報は本当だったな……さぁ、どうするよ、石像さん」
『うむ。我もまさか電撃を防がれると思っていなかった。ならば素直に燃焼《ねんしよう》させるとしようか』
そう言ったガーゴイルの目から、今度は赤い光線が放たれた。
首から下げた鈴が「ジ――ッ!」と非常ブザーのような音を立てる。
光の速さでサイボーグ泥棒に到達したそれは、タバコの炎を五倍ほどに凝縮《ぎようしゆく》した熱量で服と絶縁体を焼き尽くす。もちろん手加減はしていた。
「ギャ――――!」
全身黒焦げになって倒れるサイボーグ泥棒。早く救急車を呼べば、たぶん助かるだろう。
『ところで、先ほど言っていた「情報」とはなんだ? 答えろ』
気絶した泥棒に答えられるはずもなく、ガーゴイルの質問は焦げ臭《くさ》い部屋の中をあてもなく彷徨《さまよ》うのだった。
「あれ?」
吉永家の表札の上に、ガーゴイルがいない。
「どうして……?」
焦りで何も考えられなくなっていた。インターホンを強く押す。何度も何度も押す。やがて耐え切れなくなった誰かが窓から顔をのぞかせた。
「うるせーよ! なんだよこんな時間に!」
「双葉ちゃん? 大変なのよ! ガーゴイルさんに……!」
「なんだ、美森か? どうしたんだよ」
「泥棒なの! 早くガーゴイルさんに知らせないと」
「あー大丈夫大丈夫。あいつのことだから、きっと美森よりも早く気づいてるって」
「そうかな……?」
双葉があくびをした時、遠くの空が光った。まるで雷《かみなり》が落ちたような青白い光。次いで、爆発が起こったような赤い光。アニメかゲームの世界でよくある未来的な発光だった。
「ほら、今でも泥棒をブッ倒してるんだろ」
「違う……」
美森は発光源《はつこうげん》を指差す。
「あっちじゃない……泥棒が入ったのは、一丁目のほうよ!」
ようやく双葉の目が覚めた。
「……なんだって? 二軒同時にかよ!」
一丁目のほうを振り返ろうとして、美森は連れの姿がないことに気づいた。
「――少尉?」
アスファルトを噛《か》む爪《つめ》がこんなにも弱々しいものだとは。日ごろから鍛《きた》えておくべきだった。もはや自分に野生の体は残されていない。犬として自分が神から与えられた仕事は走ることではなかった。
それでもエイバリー少尉は走る。
――速く。もっと速く!
自分には鍛えられた頭がある。この御色町の地図はすべて頭に入っている。満男殿を連れて歩くための必要最低限の知識だ。美森が見つけた泥棒は、川村さんの家に入っていた。あの家にも子供がいるはずだ。美森よりもずっと小さな。
ガーゴイルはいない。
来た道を戻り、コンビニの前を通り過ぎる。
本当ならば、あの店でビーフジャーキーを買ってもらうつもりだったのに。店員が嫌がるといけないから、店の前で美森が笑顔で出てくるのを待つつもりだったのに。
角を曲がり、川村家にたどり着く。
あたりは暗く、人影はない。物音すらしない。
知らせなければ。
声帯を振るわせようとして、気づく。
――声が出ない!
なぜだ。訛《なま》っているとはいえ、自分の声帯は普通に機能するはずだ。
それが訓練による、無意識に焼きついた命令だとはエイバリー少尉も気づかなかっただろう。人に吼えてはいけない。人に危害を加えてはいけない。それは訓練所時代に身体の隅々《すみずみ》まで叩き込まれた基礎情報だった。
なんということだ!
どんなにがんばっても、口から漏れるのは小さなうめき声だ。
知らせなければ。
知らせなければ。
誰でもいい。この川村家に泥棒がいることを伝えなければ。
少尉は顔を上げた。川村家の玄関に明かりはついていない。隣の勝手口も暗いままだ。人影すら見えない。きっと奥のほうに泥棒が――
少尉は迷わなかった。
その大きな身体を跳躍《ちようやく》させ、一番低い門の上から自分の身体を滑りこませるようにして敷地内に入る。そこから全力|疾走《しつそう》して、勝手口の窓にその速度と質量を叩きつけた。
がしゃん!
近所にも響く大きな破砕音《はさいおん》が生まれた。
ひびの入ったガラスと、傷ついた身体。
――誰か!
血が流れるのを無視して、エイバリー少尉は祈りをこめて、もう一度窓ガラスに体当たりする。
届いた。
「――あら? 何かしら」
「ガラスが割れた音じゃありませんこと? こんな時間に物騒《ぶつそう》ですわね」
「ちょっと様子を見に行かれません? わたくしたちも気分転換をいたしましょう」
「素敵なアイデアですわ」
徹マンでハイになっている御色大学空手同好会の男子学生四人は、その筋骨《きんこつ》隆々《りゆうりゆう》な肉体を震わせながら夜の街へ繰り出していった。
美森と双葉が現場に駆けつけたとき、すでに事件はあらかた収束《しゆうそく》しつつあった。
集まる野次馬《やじうま》。
明かりのついた家屋《かおく》。
収まらない喧騒《けんそう》。
騒ぎの中心にいる、ごつい男たちと泥棒。
そして、その脇で大勢の人たちに囲まれている――
「少尉!」
美森は人垣《ひとがき》をかき分けて走り出した。それよりも早く双葉が目の前の人間を蹴散《けち》らして道を作る。少人数の人に囲まれているエイバリー少尉は、身体のあちこちに切り傷を負っていた。アスファルトに赤黒い血を撒《ま》き散《ち》らしており、それでも騒がずに横たわっている。
「少尉! なに、どうしたのよこれ?」
美森がエイバリー少尉に近づこうとすると、
「触らないほうがいい。今、担架《たんか》を持ってきてもらっている」
トレーナー姿の恰幅《かつぷく》のいいおじさんが美森を制した。彼は近所の獣医だと名乗り、さっき叩き起こされたばかりだと笑った。
「心配しなくても、大丈夫。大したことない怪我だ」
それが聞きたかったのだ。
美森はようやく安堵《あんど》したが、次の言葉を聴いて、また心臓が跳ね上がった。
「どうやら窓ガラスに飛びこんだらしいんだが――どうしてそんなことを?」
「少尉……そんなことしたんですか?」
心当たりはありすぎた。
泥棒の侵入を、吼えずに皆に知らせる方法がそれしかなかったのだ。そうまでして吼えてはいけなかったのか。
「ばかっ――」
美森は泣き出してしまった。
「ばかぁ! そんなことしたって嬉しくないんだから! なんで心配ばっかかけるのよ! ばかばかばか!」
傷だらけのエイバリー少尉に抱きつく美森。
「美森、よせって。痛がってるだろ」
双葉が引きはがそうとするが、美森はそれでも離れない。服に血がついても気にしない。
赤いテールランプが美森たちを照らす。遅れてやってきたパトカーだった。ごつい男たちが荷物でも扱うように泥棒を引き渡す。そのとき、野次馬から拍手が起こった。泥棒を退治した英雄に対する賛辞だ。
「そんなことしなくたって――そんなことしなくたって――」
美森は白い毛並みに顔をうずめて泣いた。
――そんなことしなくたって、少尉のこと、もう疑ってなんていないのに……。
ちりん、という鈴の音に振り返る。
『すまなかった。我の失態だ。まさか二軒同時にとは予想していなかった』
塀の上に座っているガーゴイル。
「てめぇ今頃現れて何やってんだよ!」
すぐに双葉の滞空時間の長いドロップキックで塀の向こう側に叩き落された。
担架が見当たらずに即席で担架を作った若者たちがやってきた。獣医さんは軽くうなずくと、エイバリー少尉の体を担架に乗せ、自宅の病院へ運ぶように指示した。
「今日の真の英雄だからな。丁重《ていちよう》に扱うんだぞ」
「はーい!」
有志の若者たちは、慎重にエイバリー少尉を運び出した。
すると、先程とは比べ物にならないほどの拍手と歓声が巻き起こった。去ってゆく負傷兵に向かって皆、惜しみない賛辞をこれでもかというほど浴《あ》びせかけた。泥棒を退治した筋肉質の人たちも泣きながら手を叩いていた。おかげで事件に気づかず眠っていた近所の人たちも目覚めてしまった。
「帰ってきたら、たくさん褒《ほ》めてあげなさい」
獣医の言葉に、美森は泣きながらうなずいた。
――そうだ。謝ってばかりじゃなくて、褒めてあげなくちゃ。
『むぅ……なかなか効《き》いたぞ』
塀の上にまたガーゴイルがいた。
「どう、ガーゴイルさん。うちの犬だって番犬として役に立つでしょ?」
『はじめから疑ってなどいない。彼ほど優秀な番犬はそういない。ところで双葉はどこにいった?』
「うん、そこに」
指差した先に、双葉がいない。
「あれっ、さっきまで――」
見回しても、双葉の姿はない。
『――双葉?』
ガーゴイルは感覚器を総動員して、双葉の存在を掴もうとした。彼の感覚器は御色町全体の事象を一日先のことまで把握《はあく》できる。
――ばかな。
すべてが消えていた。
「ガーゴイルさん、あれ!」
美森が指さした電柱の下。
無造作《むぞうさ》に置かれている双葉のジャンパー。
その脇に、意図的に置かれた便箋《びんせん》。
長い夜は、まだ終わりそうにない。
同時刻。
男は、立っていた。
「ここは――どこだ?」
暗かった。自分の手が届く範囲《はんい》より先が見えない。虫の声、鳥の声、風の声。どこかの森か林の中にいるのだろう。いったい何県の森なのか。いや、そもそも日本なのか。
驚くのも無理からぬ話だ。
なぜなら、男はつい一分前まで留置所《りゆうちじよ》の中にいたのだから。
わずか六十秒の間に留置所から抜け出して森の中に立つ方法を、男はどうしても考えることができなかった。どうがんばっても部屋から三十歩も走れないはず。
「こりゃあ、夢か……?」
夢ならばこんなに足が汚れるはずもない。霧《きり》で服が濡れることなどもない。そんなリアルすぎる明晰夢《めいせきむ》など見たことがない。
寒さと、それを上回る恐怖が男を震わせた。
こんな怖い思いは――そう、あの犬の石像に殺されかけた時以来だ。
楽な仕事とは言われなかったが、大金に目がくらんだのだ。まさかあんな用心棒《ようじんぼう》を飼っている家があったなんて。泥棒など二度とするものか。
過去と現実の恐怖をないまぜにして身震いしていると、
――ご苦労様でした。
どこからか、そんな声が聞こえた。
「だ、誰だ!」
男は腰を抜かしそうになって、思わず裏声で叫んでしまう。
――怪しいモノではありません。
「嘘つけ! どう考えたって怪しいだろうが!」
わずかな沈黙《ちんもく》。
――まぁ、確かに怪しいかもしれません。
声はきちんと訂正した。
――ですが、あなたに危害を加えるモノではありません。あなたの依頼主からの命令で動いております。ご安心を。
「な、なんなんだよ!」
――これからあなたが生きていくのに必要な物を全部ご用意します。お金はもちろん、ご要望ならば新しい戸籍《こせき》も用意させます。何がご入り用ですか?
声の正体は不明だった。
遠くから聞こえてくる気もするし、男のすぐ隣で話している気もする。声の質も老若男女、どれにもあてはまらなかった。しかし綺麗《きれい》なイントネーションで聞きやすい声だった。
混乱と疑問が恐怖を上回っていたが、声の提案の魅力《みりよく》も捨てがたかった。
ごくり、と唾《つば》を飲みこんで、男は口を開いた。
「――とりあえず、俺の現在位置教えてくれない?」
[#改ページ]
第五話
東宮さん家の事情
「……ごめん」
静かに、男はそう告げた。
川沿《かわぞ》いの小さなベンチ。散った桜が月に照らされて淡い光を放っている。小さな風が地面の桜と女の髪《かみ》を吹き上げた。泣き出しそうになるのを我慢《がまん》して、女は答える。
「ううん。いいの。君はそういう奴《やつ》じゃないもんね。一人前のサッカー選手になる夢をかなえるまでは、私も待ってるから。返事は、そのときでいいから」
「ごめん、俺は――」
「ひとつだけ、約束して」
強い言葉で、しかし女の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。言葉とともに感情もあふれ出してしまう。夜の川に映《うつ》る月だけが、二人を見守っている。
「留学しても、私のこと忘れないで。それだけでいいの」
「……わかった。絶対に忘れないから」
男は女の肩《かた》を自然に抱いた。
女が目を閉じる。
二人の唇《くちびる》が触《ふ》れ合《あ》いそうになったとき、
『物を尋《たず》ねたいのだが』
ベンチの上に突然出現した石の犬に二人の視線が釘《くぎ》づけになる。
『このあたりで小学生の女の子を見かけなかったか。赤い「FUCK YOU」と書かれたトレーナーを着ている、般若《はんにや》のような形相《ぎようそう》の娘なのだが』
「い、いや……見てないですけど。お前、見た?」
「ううん。このあたりは、誰《だれ》も通らなかったわよ?」
『そうか。感謝する。接吻《せつぷん》を続けるがよい』
男女二人は互いの疑問符《ぎもんふ》だらけの顔を見合わせる。ベンチに視線を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。
あの晩から朝にかけて、ガーゴイルは町中を探し回った。ガーゴイルのみならず、吉永家《よしながけ》とその知人みんなに声をかけて御色町《ごしきちよう》の隅《すみ》から隅まで探し回った。
結果はなしのつぶて。
すぐに警察《けいさつ》に知らせ、プロの技術の結晶《けつしょう》ともいえる捜索隊《そうさくたい》が結成されたが、同じだった。双葉《ふたば》の姿どころか目撃《もくげき》証言すら得られなかった。知り合いの動物も見かけていないという、夜行性の猫や鳥までもが不審《ふしん》な存在を認めなかった。
しかし、双葉は消えた。
ジャンパーと書き置きを残すという、あからさまな手段を使って。
「絶対に危害を加えませんので、安心してください」
その文章に続く、さらにあからまさな――
「ああ、うん。別にフツー。つーかいいモン食わせてもらってるよ。悪人って感じじゃねーな。なんっつったっけ? ああそうだ、東宮《ひがしみや》だっけ。かなり融通《ゆうずう》利《き》かしてくれてさー。それでさ、その屋敷《やしき》のメイドがすげー美人でさ。そんで格闘技とかメチャメチャ強くて、今度教えてくれるって――」
今日もいつもの会話をして、和己《かずみ》は受話器を置いた。
ため息。
話を聞く限りでは、本当に危害は加えられていないようだ。それどころかかなりいい暮らしをしているらしい。これが演技だったら双葉は役者になれる。
「これって、誘拐《ゆうかい》っていうのかなぁ? 本人、喜んでるし」
和己も首をかしげているが、ママは少し眉尻《まゆじり》が下がっている。やはり娘のことが心配なようだ。
ピピピピ……。
だがスパゲティのタイマーが鳴ったらすぐに飛んでいくあたり、今日のパスタの茹《ゆ》で加減《かげん》のほうが心配らしい。今日のお昼はナポリタンだ。
そもそも犯行声明に住所氏名電話番号を明記する誘拐犯[#「犯行声明に住所氏名電話番号を明記する誘拐犯」に傍点]がどこにいるというのか。
それによると犯人は東宮《ひがしみや》天祢《あまね》、二十六歳の独身男性、トーグーグループ総帥《そうすい》の次男坊で、現在はグループ傘下《さんか》の電子部品会社の社長をやっている。
――社長が誘拐などするか普通。
いやでもロリコン趣味ならば。しかしあの双葉を?
「でも、過程と結果だけを見ると、誘拐だよなぁ、これって」
警察も一時手を休めている。直接東宮氏に事情をうかがったのだが、「とある事情により双葉ちゃんをお借りしたい。きちんと謝礼《しやれい》はする」と誠意を持って対応された。そこまで丁寧《ていねい》な対応をするなら最初から誘拐する必要がないじゃないか、とパパもうなっていた。
和己は思う。もしもあの夜、双葉ちゃんについていればこんな事にはならなかったんじゃないか。自分は弱いけど、大声をあげるくらいならできたんじゃないか――
過ぎたことを思っても仕方がないと頭ではわかっているが、いるはずの妹がいない寂寥感《せきりようかん》が余計に和己を責《せ》めるのだ。
双葉がいなくなってから今日で三日。
徐々《じよじよ》に、その理由がわかりかけてきた。
リビングの窓から外を見る。
「ガーくん、いる?」
いなかった。いつも門の上に座っている黒い影も、ここ三日ほど姿を見せていなかった。徒労《とろう》と知りつつ町中を探し回っているのだ。時々戻っているみたいだが、家の中に双葉の姿がないことを知ると、またいなくなってしまう。
犯行の手口。
常識ではありえない失踪《しつそう》。
解決できるのはガーゴイルだけだろう。
つまり、犯人の目的は双葉ではなく――
『尋ねるが、小学生の女の子を見かけなかったか? 赤い「FUCK YOU」と書かれたトレーナーを着ている、金剛《こんごう》力士《りきし》像《ぞう》のような形相《ぎようそう》の娘なのだが』
『噂《うわさ》はよく聞くけど、見かけなかったわねぇ』
洋菓子店の前にある等身大の人形は、舌を出しながらガーゴイルにそう言った。
『……そうか。職務中に邪魔《じやま》をした』
明らかに失望した声のガーゴイル。瞳《ひとみ》の光も精彩《せいさい》を欠いている。
『ねぇ。あなた。もっといろいろなモノに訊《き》いてみたら効率《こうりつ》がいいんじゃない? たとえば、電柱とか石コロとか』
『駄目《だめ》なのだ。それらには魂《たましい》がない』
『よくわかんないけど、大変なのねぇ』
人形がしみじみとつぶやいたとき、洋菓子店の自動ドアが開いて、この店にそぐわない体格のおじさんがケーキの箱を持って出てきた。
「あれ、ガーゴイル君」
『清川《きよかわ》殿《どの》、ちょうどいいところに。双葉の捜索はどうなった』
清川のおじさんは不思議そうな顔をして首をかしげた。
「双葉ちゃんだったら、無事《ぶじ》だという連絡が入ったぞ。知らなかったのか?」
『それは真実か?』
「ああ。早く家に帰りなさい。君の家族も心配している」
ガーゴイルは一瞬だけ黙《だま》っていたが、
『……別に、家族ではない。我《われ》はただの門番だ』
それを聞いて、清川のおじさんは苦笑した。
『しかし、なぜ清川殿が洋菓子店に? 今の時間は勤務中では』
「勤務中だよ。もうずっと徹夜《てつや》続きさ。みんな疲《つか》れが溜《た》まっていてね。こういうときには甘い物が一番」
と、ケーキの箱を掲《かか》げてみせる。
『徹夜続きとは。何か大きな事件でもあったのか?』
清川のおじさんは眉をひそめて口ごもっていたが、
「――これはガーゴイル君も無関係じゃないから話しておくが――留置所に収容されていた窃盗犯《せつとうはん》たちが姿を消したんだ。その中には、君が捕《と》らえた泥棒《どろぼう》もいる」
『脱獄《だつごく》か?』
「いや……それが奇妙なことに、文字通り消えてなくなった[#「消えてなくなった」に傍点]らしい。監視《かんし》カメラが捉《とら》えた映像を見る限りではそうとしか表現できない。現在、総力を挙《あ》げてトリックを解明してるんだが……」
おじさんは難しい顔で頭をかいた。捜査は難航《なんこう》しているようだ。
「とにかく、これは警察の失態《しつたい》だからね。マスコミにも公表できないから極秘で捜査が行《おこな》われている。君も何か発見したら、情報をくれないか。ひょっとしたら、組織的な力が働いているのかもしれない」
『承知した』
「ありがとう。さ、早く帰りなさい。家族が待ってる」
『だから家族ではないと――』
言いかけたときには、もう清川のおじさんはガーゴイルに背を向けていた。後ろ向きのまま手を挙げて、小走りに去っていく。ケーキの箱が楽しそうに揺《ゆ》れていた。
『――感謝する、清川殿』
ガーゴイルは、近所の警察官の背に向けてつぶやいた。
和己が庭の椅子《いす》に座ってぼんやりしていると、不意にカラスの鳴き声が聞こえてきた。思わず空を見つめて考える。
今もガーゴイルは動物たちに目撃証言などを聞いて回っているのだろうか。
晴れ渡る空から視線を戻すと、ガーゴイルが門の柱の上に座っていた。
「ガーくん!」
椅子を蹴倒《けたお》して、家の外側に回る。ガーゴイルは今までと変わりない姿勢で座っていた。和己が庭で待っていたことにも気づかずに。
『和己か。どうした』
「どうしたじゃないよ! 今まで何やってたのさ!」
『双葉を探していた』
当然のように答えるガーゴイルの身体《からだ》は、あちこちが泥《どろ》や砂にまみれていた。何があったのかを逐一《ちくいち》訊《き》くつもりは和己にはないが、それでもガーゴイルの身を案じて待っていたのだ。
「ばか……」
『馬鹿か。その通りだろうな。我は双葉を』
「そうじゃないよ! なんで今まで連絡もしなかったんだよ! ガーくんに知らせたい事だっていっぱいあったんだ!」
ガーゴイルの頬《ほお》を両手で挟《はさ》みこむようにして、顔を近づける。
「相手の住所も連絡先もわかってる。双葉ちゃんも無事だ。だからガーくんも一人で暴走しないでよ。これ以上、家族に心配かけさせないでよ」
『家族……』
泣きそうな和己の口から漏《も》れるその単語を聞いて、首の鈴がわずかに震《ふる》える。
「心配なのはみんな同じなんだからさ。ガーくん一人で背負《しよ》いこまないでよ」
鈴が小刻《こきざ》みに鳴っていた。
少しの沈黙《ちんもく》の後、
『……すまない。心配をかけた。そして、ありがとう』
「うん」
和己は石の身体を抱きしめた。
『迷惑《めいわく》ついでに、我の今の心情を吐露《とろ》してもよいだろうか』
「うん」
しばらくの沈黙《ちんもく》の後、ガーゴイルは話し出す。
『――油断していた。傾向は前からあったのだ。何者かが我を監視《かんし》していた。賊《ぞく》でもないし、邪気《じやき》もなかった。なにより双葉の言うとおり、この町は平和だった。我は平和なこの御色町が好きだった。だから油断した。望んで油断した』
「……それでいいんだよ」
『我は門番である。門番のつもりだった。だが双葉に諭《さと》されて以来、我の中で何かが変わりつつあった。双葉をはじめとする吉永家《よしながけ》の人間には感謝してもしたりない。守る目的が生まれて、我はとても満足していた。……和己よ。少し我から離れてくれぬか』
「ん、ごめん」
和己が身体を離すと、ガーゴイルは前のめりに倒れた。門の上から落下した身体はそのまま横に回転し、上向きに転がる。
「どうしたの、ガーくん?」
『人に限らず、家族という群体は一定の領域において活動する。国、家、あるいはそれが今いる場所でもいい。我の存在意義は外敵からその領域を守ることだ。そう設定されていた』
ガーゴイルは倒れたまま空を見上げている。カラスの編隊が視界の端《はし》に映《うつ》る。彼らにも領域はある。その編隊そのものだ。崩《くず》すのは許されない。
『だが……』
言葉がやむ。
和己はガーゴイルの顔を覗《のぞ》きこんだ。目がうるんでいるように見える。
瞬間、生存本能から来る反射か、和己は後ろに飛びのいた。
『うおおおおおおおおおおっっっっっ!!』
目から発射された二本の光線はまっすぐに天に伸び、成層圏《せいそうけん》を突き破り宇宙まで達した。ガーゴイルのありったけの怒りをぶちまけるように。
『矜持《きようじ》も設定も関係ない。我は双葉という存在を盗まれたことに怒りを覚えている。双葉をさらった輩《やから》を絶対に許さぬ。双葉に危害を加える者の生存を認めぬ!』
「ガーくん……」
和己が空から視線を下げたときには、最初と同じく、ガーゴイルの身体は門の上に収まっていた。
かつてガーゴイルがこれほど感情をあらわにした事があっただろうか。それも人前で。少なくとも和己は知らない。ということは、少なくとも自分が感情をぶつけられる相手として認められているのだろう。
そう気づいて、和己は嬉《うれ》しくなった。
『以上だ。うむ、身体が軽くなったように感じられる』
「そーいうもんだよ。じゃあ、次は僕の番ね」
『聞いてくれて感謝する。さぁ、和己も話すがよい』
「僕も同じさ」
和己は小さな拳《こぶし》を固めると、
「――双葉ちゃんを誘拐した奴は、僕が絶対にブッ飛ばしてやる」
天に向かって腕を突き上げた。
さて、当の双葉は。
横になっていた。足と頭の辺《あた》りに笑顔のメイドさんが待機《たいき》しており、それぞれ足と首を押さえつけている。首を押さえているメイドが力をこめた。
「はーち、きゅーう、じゅー! はい、おしまい。がんばったわね」
「いててて……」
首と肩をさすりながら、双葉は上半身を起こした。着ていた服は洗濯《せんたく》中で、今はトレーニングウェアとスパッツを借りている。周りには各種トレーニングマシンが揃《そろ》っており、ここはそのスポーツジムのような部屋の中心、平坦《へいたん》なマットの上だった。
「双葉ちゃんはまだ首が細いわね。レスラーになるには首をもっと鍛《きた》えなきゃ危ないわよ」
笑顔で語るメイドさん。
「うー……わかったけどさ。もうちょい手加減してくれよ」
「アラごめんなさい。見こみのありそうな子にはつい力が入っちゃうのよ」
その後、適度な運動をした後にシャワーを浴《あ》び、別室で別のメイドから授業を受ける。なぜか彼女は双葉が学校でどこまで学習しているか熟知《じゆくち》しており、それにあわせた授業をわかりやすく行《おこな》ってくれた。
「せんせー、質問」
双葉が手を上げると、メイドは首をかしげて質問を許可する。教室と呼ぶにはリラックスに特化した椅子と机と装飾品《そうしよくひん》なのだが、周囲の巨大な本棚が勉学という名の威圧感《いあつかん》を上下左右から振《ふ》り撒《ま》いている。
「なんであたしはこんなところにいるんだ?」
今頃になってする質問でもないのだが、そろそろ家が恋しいのも事実だ。別に双葉自身は困ってはいないが、両親や兄も心配しているだろう。
――それに門番のあいつも。
「その質問には僕が答えよう」
ドアが開き、Tシャツとビンテージ物のジーンズを着た男が姿を見せた。なかなかの好青年で、ブラウン管の中でマイクを握《にぎ》っていても違和感がない。この男が社長で誘拐犯だと聞かされても信じられないだろう。
「君は休んでいいよ。ありがとう」
男はメイド先生にやさしく指示する。
「失礼します。双葉ちゃん、次は某北の国の防衛システムについてレクチャーするわね」
「いや君は何を教えてるんだ小学生に」
「はい、しかし、双葉ちゃんがいつも授業でやっていることだと……」
「……君の小学校は本当に公立校なのか?」
「教師に問題があるんだよ。先生、またな」
手を振ってメイド先生に別れを告げる。扉《とびら》が閉まり、二人きりになると、誘拐犯東宮天祢は壁にかけられたリモコンを手に取り、簡単にスイッチを操作《そうさ》する。照明がわずかに暗くなり、巨大な本棚が横にずれる。先程まで本棚があったその場所には、巨大なスクリーンが姿を見せていた。
「今日は双葉ちゃんに新しいゲームを持ってきたんだ。ホームファイター4だよ」
「はぁ? それって発売日は一ヶ月後じゃねーか」
「サンプル品だからね。テストプレイも兼《か》ねてるのさ」
東宮はスクリーンの下のキャビネットからゲーム機をごそごそと引っ張り出してくる。ソフトを入れてスイッチを入れると、大きな画面にごつい男や女みたいな男がファイティングポーズを取りつつ向かい合っている姿が映し出された。
「僕はこの新キャラの爪切《つめき》り使いで行こう。双葉ちゃんは?」
「あたしはいつもこのキャラって決めてるんだよ」
と、双葉は電子レンジを持った巨漢の男を選択した。
ラウンド1、ファイト!
二人とも豪華な椅子があるのに床に座ってゲームをプレイしていた。一番リラックスして集中できる姿勢らしい。爪切り使いのヤスリ攻撃をガードで防ぎ、電子レンジが宙を舞《ま》う。ブーメランのように戻ってくる電子レンジが持ち主の手に返ってくる前に、爪切りの乱舞《らんぶ》が襲《おそ》いかかる。
「なー、質問に答えてもらってねーんだけど」
気がつけば用意されているジュースを手に取りながら、双葉は尋ねた。
「ああ、そうだね。君を連れ去った理由だよね。……む。君、その連続技はなかなかいいタイミングだな。さぞかしやりこんだんだろう。ああそうだ、理由だったね。君の家のガーゴイル君に興味があってね」
「あいつに?」
電子レンジ使いの動きが一瞬止まった。
「うん、そう。その身体と性能に非常に関心を持っている」
「じゃあ、直接あいつを連れてくりゃいいじゃねーか」
「できると思うかい?」
「……無理だな。あいつにゃ軍隊でも太刀打《たちう》ちできねーだろ。っと!」
「そうそう。そうだねぇ。あれぇ? このキャラ対空技なんて持ってたっけ?」
「追加されたんだろ? 次はこの掃除機《そうじき》使いでいくぜ」
「あー、それ僕も使いたかったのになぁ。いいや、じゃあこのトイレットマンで」
二戦目が開始される。トイレットマンの消臭剤《しようしゆうざい》攻撃《こうげき》をガードした掃除機使いが技を絨毯《じゆうたん》モードに切り替えて毛糸屑《けいとくず》を吐き出す。どちらも飛び道具使いなので決着がつきにくい。
「ガーゴイル君はね、本当は、とても神秘的な技術で、作られているんだ」
双葉は何か言おうと口を開くが、トイレットマンの猛攻《もうこう》をよけるのに精一杯で、意識を奪《うば》われてしまう。
「その気になったら、国を守る事だって、できるんだ」
「あーそーかよ、それで?」
掃除機使いのゲージがたまり、双葉が一撃必殺を狙《ねら》おうとタイミングをうかがっていたまさにその時、東宮の言葉が双葉によそ見をさせた。
「だからここ最近、ガーゴイル君を試《ため》すために泥棒を送りこんだんだ」
双葉が東宮の顔を見ている間に、トイレットマンの技が掃除機使いをKOした。
御色町にいないのならば、ガーゴイルの感覚器も範囲《はんい》外だ。察知《さつち》できないのも無理はない。しかし一瞬で町の外にまで双葉を連れ去った芸当が理解できない。
和己から聞いた住所を頼りに、ガーゴイルはその場所に向かう。隣の隣の県の、山の中にある豪邸《ごうてい》だった。最初は和己も同行を申し出たが、危険を伴《ともな》う可能性があるので断った。和己の話では穏便《おんびん》に解決しそうな問題だが、万が一ということもある。
「ガーゴイル様ですね? お話はうかがっております。どうぞ」
山の麓《ふもと》にある門を通り、用意された車の後部座席に座り、さらに一時間ほど山道を進む。運転手はガーゴイルが放ついくつかの質問のうち、たった一つだけに答えてくれた。
「ガーゴイル様と会うのを、主人はとても楽しみにしておりました」
やがて城砦《じようさい》のような屋敷が見えてくる。入り口の門まであと数十メートルという所で車から降ろされた。丁寧《ていねい》に頭を下げると、車は山道を下りていった。ということはあの車は麓からこの屋敷まで送迎《そうげい》するためだけに存在する車なのだろう。
『さて、この中に双葉がいるのだな』
城のような外見なのだが、成金《なりきん》趣味《しゆみ》は感じさせない。大中小の豆腐《とうふ》を左に偏《かたよ》らせて積んだような、奇妙な建物。しかも中の豆腐の右側には大きな木が植えられてある。根が下の階に生《は》えているのだとしたら、そのために一部屋まるまる消費したことになる。インテリアデザイナーが見たら激怒《げきど》するか芸術性を感じるか、そのどちらかだろう。下の一番大きな豆腐には「|TOGU《トーグー》」という、テレビで見慣れた文字がレタリングされている。屋敷を花畑が囲み、花畑はさらに森に囲まれていた。二階の木と相《あい》まって、多少派手な植物研究所としてパンフレットに載《の》せても違和感がない。
そして、ガーゴイルは見る。
二階のテラスに植えられた、木。リンゴの木だ。
その下に座っている犬の姿。
『ようこそ、ガーゴイル殿。歓迎しますよ』
金色の、犬の石像だった。
ガーゴイルとまったく同じ姿勢で、四本の足を地につけてお座りをしている。しかし背中から生《は》えている四枚の翼《つばさ》が、ただの犬ではない事を証明している。
『何者だ』
『失敬《しつけい》、自己紹介が遅れました。小生《しようせい》、天使の上位第二級を拝命《はいめい》しております、ケルプと申します。以後お見知りおきを』
ケルプと名乗った石像は恭《うやうや》しく名乗る。
そして二階のテラスに座っていた金色の身体が、次の瞬間、ガーゴイルの目の前に出現した。
『そして貴方《あなた》様は低級悪魔[#「低級悪魔」に傍点]のガーゴイル殿。そのご高名《こうめい》は御色町のみならず、わが主《あるじ》の耳にまで及《およ》んでおります』
『挑発《ちようはつ》のつもりか、犬天使よ』
ガーゴイルとケルプ、黒と金の石像が花畑で睨《にら》み合《あ》う。
どちらかが攻撃を仕掛ければ、両方ともただではすまない。
『犬ではございません。この姿は獅子《しし》を模倣《もほう》して造られたもの。そしてなによりこの姿はかりそめのもの。こう見えて小生、楽園《エデン》の東を守護《しゆご》する任を承《うけたまわ》っております。旧約聖書をご覧になったことは?』
『ふん。その天使が誘拐まがいの戯言《ざれごと》か』
もうガーゴイルにもタネはわかった。この犬天使|風情《ふぜい》が双葉をさらったのだ。ガーゴイルにも知覚できない方法で。それはガーゴイルが目から電撃《でんげき》や熱光線を出せるのと同じ原理なのだろう。理解できないが、わかる。
ずっとガーゴイルを見ていたのも、この天使だ。ガーゴイルが察知できないほどはるか遠くから、常識外の視線で。ガーゴイルの油断の隙《すき》をついて。
『貴様《きさま》が犬だろうが獅子だろうが、我の知ったことではない』
ガーゴイルの両眼が光る。首の紋様《もんよう》が青白く発光する。
本気だった。
『双葉に手を出した罪、万死《ばんし》に値《あたい》する。覚悟《かくご》しろ』
鈴が、ちりんと鳴った。
ゲーム画面はキャラクター選択画面のまま止まっていた。双葉は思わず立ち上がり、まだコントローラーを握っている東宮の胸倉《むなぐら》を掴《つか》んで揺《ゆ》さぶり、怒声《どせい》を浴《あ》びせた。
「てめぇ自分のやってることわかってんのかよ! てめぇのせいでどれだけの人間が迷惑《めいわく》したと思ってるんだよ!」
「だから、すべてはガーゴイル君の性能を測《はか》るためだと言っただろう」
思い返せば、ガーゴイルも常々言っていた。住居|侵入《しんにゆう》から屋内での犯人の行動、さらに逃走《とうそう》の方法まで、様々な情報が得られて満足だと。それはガーゴイルのために様々な状況を用意されていたということか。
「それだけの価値があの犬の石像にはあるんだ」
「捕《つか》まった泥棒だって、刑務所に入れられるんだぞ!」
「僕の財力で、ある程度までならどうにかなる」
「てめぇ最低だ!」
「わかってるよそんなこと!」
掴まれたまま東宮が立ち上がり、双葉の手を振り払った。背中から地面に落下したらしく、双葉は軽くむせる。
「ガーゴイル君の価値を何もわかっていないくせに! 迷惑を被《こうむ》ったのは全部で二十一世帯、七十五人だ! 彼らにも、捕まった三十一人の泥棒にも後で謝礼を払う!」
「それで許されると思ってんのかよ!」
「許されるわけない! だけどお祖父《じい》様《さま》の悲願《ひがん》のために、僕は捕まるわけにはいかないんだ!」
睨み合う大人と子供。
薄暗い部屋の中、ゲームの画面が賑《にぎ》やかな光を放っていた。
「君は……ガーゴイル君が何でできているか、知っているか?」
「は?」
唐突《とうとつ》な質問だった。
「乱暴な君のことだ。ガーゴイル君とケンカをしたこともあるだろう? 傷一つつかなかっただろう? いくらなんでもおかしいと思わないか?」
「……そりゃ、まぁ、な」
「あの石像は、裏の科学力の結晶だ」
東宮がリモコンを手に取り、テレビのスイッチを切り替える。英語の選択肢がいくつか映《うつ》り、それを切り替えていくと、画面に一つの画像が浮かび上がる。
それはガーゴイルだった。
「黒魔術《くろまじゆつ》、白《しろ》魔術、秘法《ひほう》、錬金《れんきん》術。それらの粋《すい》を結集して作られた自律石像。あれ一体を作るのに何千人もの魔術師が何千年もの時を無駄《むだ》にしてきたんだ。明治後期に、パラケルススの再来とまで言われたあの稀代《きたい》の錬金術師、高原《たかはら》イヨが現れるまでは」
東宮は歯噛みした。
「彼女は古代の魔導書《まどうしよ》を小学生の教科書のように解き明かし、誰も想像もしなかった突飛《とつぴ》な理論で様々な発明品を残した。今では隠居《いんきよ》してどこかの古美術商をやっているそうだがな。まったく、あのバアさんには世界中の錬金術師が驚かされた。その高原イヨの作品の一つが門番型自動石像、つまりガーゴイル君だ」
「あのさ、浸《ひた》ってるところ悪いんだけどさ、錬金術って何だよ?」
「簡単に言うと、鉄を金に変える技《わざ》さ」
「それって、カツアゲか何かか?」
「そ、それはちょっと違うと思う。もっと高度なものになると、人工の生命を造る事だってできる。クローンやAIじゃなく、ゼロから命を造れるんだよ。ニュートンだって錬金術師の一人なんだ」
東宮はリモコンを操作して、画像を切り替える。
一つの静止画が映し出された。日本の町並み。ただし白黒の古い風景だ。地面がアスファルトではなく、家屋《かおく》がコンクリートではない。百年以上前の、文明開化の頃の風景。双葉もテレビで見たことがある。戦争が起きる前の日本だ。映画に出てくるような洋服を着た人々が楽しそうに歩いている。
そしてその家屋の一つ。
家の前にたたずんでいる犬。
「見覚えはないかい?」
ガーゴイルが、いた。
「じゃあ双葉ちゃんは無事だったのね? それでその居場所もわかってて、相手も温和な紳士《しんし》だと。それだけわかってるのに、どうして迎《むか》えに行かないの?」
本日の兎轉舎《とてんしや》はモノクローム。チェスボードや銀の甲冑《かつちゆう》、黒い棺桶《かんおけ》など主に西洋の白黒製品で揃《そろ》えられていた。当然ながら、お姉さんの服装も白黒のワンピースだ。対する和己だけが薄い青色のブラウスとチノパンで、妙に浮いている。
「ガーくんが帰ってきたら行こうと思ってます。向こうの目的もわかんないし」
「そうねぇ。それが賢明《けんめい》かもねぇ。いざとなったら、ウチの商品、無料でレンタルするわよ。この槍《やり》とかよくない?」
「性能はよさそうだけど、日本国内で本来の目的に使ったら逮捕《たいほ》されます」
過去何人もの騎士の胸板《むないた》を貫《つらぬ》いたであろう槍を疲《つか》れた目で見ながら、和己はミルクを入れたアールグレイの紅茶をすすった。今日は出されるお茶まで洋物だ。
「それで、ガーゴイルくんのセンサーでも双葉ちゃんの居場所がわかんなかったって、その原因はわかったの?」
「いえ、それも全然。お姉さん、何か心当たりはありますか?」
お姉さんはあごに指を当てて、んー、と考え込むと、カウンターの下から台帳のようなものを取り出して素早くめくる。
「これなんかどうかな。『妖精《ようせい》式移動装置』。妖精の知っている道を歩けるらしいの」
開いたページにはなぜか文金《ぶんきん》高島田《たかしまだ》の女性が七色の道を歩いている絵が。その隣に置いてある足マッサージ器のようなものが件《くだん》の装置だろう。
「これならガーゴイルくんも探知《たんち》できないかもね。実際に動けばの話だけど。まぁそんなうまくいかないよね」
当時のチラシなのだろうが、ものすごくいかがわしかった。和己は昔を振り返り、駄菓子屋《だがしや》でこんな手品《てじな》グッズが売っていたのを懐《なつ》かしく思った。
お姉さんが当時のコピー文を指でなぞる。
「『貴女《あなた》も虹《にじ》の道を通つてみませんか』――発売が昭和二年。製造元は東宮《とうぐう》電機だって。あー、じゃコレはまともに動かないわね」
「東宮電機?」
聞き覚え、というか見覚えのある単語に和己の眉が動く。
「東宮電機は昔からこういう製品をよく売ってたんだけど、どれも失敗作ばかり。まぁ私に言わせれば、まだまだプライドが捨てきれてないわね。それがどしたの和己ちゃん」
「双葉ちゃんを誘拐した人は東宮《ひがしみや》っていうんです」
「……なんですって?」
お姉さんの表情が変わった。
「それ、本当?」
「……はい」
「あー、そう……そういうこと。わかった。全部わかっちゃった」
お姉さんは嘆息《たんそく》して、椅子に座りなおす。乱暴にお茶を飲《の》みほすと、ポットからもう一杯いれて、また一気に飲みほしてしまった。
「気が変わったわ。今すぐ東宮さん家《ち》に行く」
立ち上がり、奥の部屋に飛びこんでゆく。和己はわけがわからないまま、奥の部屋に向かって叫んだ。
「あの、どういうことですか!」
しばらく物音しか返ってこなかったが、
「東宮はね! 錬金術を少しばかりかじってるのよ! 今みたいな大きな企業になったのも、そのおかげ! だけどね、その術の成果はどれも未完成なものばかりなのよ!」
「錬金術?」
「だから、完成品のガーゴイル君を調べて、より完全な錬金術師になろうとしてるの!」
やがて奥の部屋からお姉さんが出てくる。大きなトランクを持って、つばの広い帽子《ぼうし》をかぶっていた。そして店の電話でタクシー会社に連絡を取る。
受話器を置き、また大きく嘆息した。
「なに考えてんのよ、あのバカジジイ……いや、今は孫が継《つ》いでるんだっけ」
言ってからすぐに頭を振って、
「そんなことどっちでもいいか。和己ちゃん、ひょっとしたらガーゴイル君のピンチかもしれない。大丈夫だとは思うんだけど」
「えっ?」
「一緒に来る? ガーゴイル君をバラバラにされたら嫌《いや》でしょう? わたしだって自分が作った製品を二流の錬金術師なんかに壊《こわ》されたくないもの。これは、この高原イヨ[#「高原イヨ」に傍点]に対する挑戦《ちようせん》だわ」
「ガーゴイル君――門番型自動石像はたちまち裏の世界で有名になった。あのスペックを見ればわかるだろう? 誰もがその製造方法を知りたがったが、高原イヨは断固として教えなかった。やがて戦争が始まり、日本軍が噂を聞きつける前にあの女は石像ごと姿をくらました。おかげで世界中の錬金術師が何十年も苦労することになったのさ」
東宮は机に座り、画面をじっと見つめている。
「お祖父様は当時、日本で二人しかいない錬金術師だったんだ。まぁ今でも四人しかいないんだけどね。彼はコツコツと研究を続けながら、人の役に立つ商品を開発してきたんだが、高原イヨのせいで『日本のダメなほうの錬金術師』として名前が知られてしまったんだよ」
その気持ちは「吉永さん家《ち》の凶悪《きようあく》なほう」として知られてしまっている双葉にも少しわかった。
「結局、お祖父様は高原イヨを出し抜けないまま死んだ。あの人は決して彼女を恨《うら》んだりしなかったけど、お祖父様の寂《さび》しそうな顔だけは今でも焼きついている。きっと心残りだったんだろうね」
そう語る東宮の横顔も、どこか寂しそうに見えた。
「だけどようやく完成したんだ。お祖父様から受《う》け継《つ》いだこの知識で、東宮家オリジナルの自動石像を。その力がどれくらいのものか、試したいんだ」
「自動石像?」
「そう。僕は智天使《ケルプ》と呼んでいる」
東宮がリモコンを操作すると、画面が切り替わり、東宮家の正門前が映し出される。森と花畑に覆われた広い道に、二体の石像がいた。
黒い方を双葉が指差す。
「あ、あいつ……何しに来たんだよ!」
「君を助けに来たんだ。当然だろう?」
双葉の指が、もう一体の金色の石像に移る。
「この成金趣味のが、ケルプ?」
「成金趣味は余計だけど、そうだよ。お祖父様が残した錬金術と、我が社の科学力を融合《ゆうごう》させた秘蔵《ひぞ》っ子《こ》だ。防衛能力なら米軍よりも上だと自負《じふ》している。それに加えて、侵入者に察知されずに近づける心理ステルス機能もある。もっとわかりやすく言うと――」
東宮がリモコンのスイッチを押すと、画面が拡大《かくだい》された。見慣れたガーゴイルと、見知らぬ金色の獅子の石像。
「僕のケルプはガーゴイル君より強い」
ガーゴイルが目から光線を放った。赤い熱光線はケルプに命中したが、ケルプは吹き飛ぶどころかその場から微動《びどう》だにしなかった。
――ほう。これはこれは……たいしたモノをお持ちだ。
嘲笑《ちようしよう》するような粘着質《ねんちやくしつ》の声がスピーカーから聞こえた。
――では、こんどは小生の番ですな。
ケルプの両眼が青く光る。
目からは何も発射されていないように見えた。しかしケルプの周りの地面がまるでヘリコプターの着陸時のように煽《あお》られてゆく。
「衝撃波《しようげきは》だね」
東宮の冷静な解説も双葉の耳には入っていない。画面に魅入《みい》られていた。
見えない波は風となってガーゴイルを通り抜ける。
――アーメン。
ガーゴイルの片耳が落ちた。
風一つない空間に、強烈な旋風《せんぷう》が出現した。
そう説明しないとつじつまが合わないほどに、ガーゴイルの周りの土はめくれあがっていた。石の身体を中心に、波紋《はもん》のように大地が広がっているのだ。
片耳の取れたガーゴイルは、なんでもないことのようにケルプを見据《みす》えている。
『なるほど。ただの衝撃波ではないな。それだけでは我の身体は壊せぬ』
『ほう。では、隠し味は何だと思いますか?』
『憶測だが、音波であろう』
『ご慧眼《けいがん》で。共鳴させることによって、石自体を自壊させました。フルカネルリの金属変質理論を応用したものです」
ケルプの口調には嫌味はなかった。まるで、それができて当然だと言わんばかりに。
しかしガーゴイルの質問は、ケルプには反論を窮《きゆう》させた。
『その力で、汝は何ができる?』
石を自壊させる能力。確かに能力としては素晴らしい。だが、それを役立てようとするならば話は別だ。物を壊す能力ならば文明の利器を使えば事足りるし、特殊な研究機関でない限り必要とはされないだろう。
『汝は楽園を守ると言ったな。最近の楽園は、石を自壊させる能力が不可欠なほどに混沌《こんとん》としているのか? 我の生活を覗《のぞ》き見《み》するほど退屈《たいくつ》な楽園だというのに』
『おだまりなさい!』
ケルプの両眼が青く光った。
音波を伴《ともな》った衝撃波がガーゴイルを襲う。人間にとっては台風並みの風だけなので、死にはしないのだが。まさにガーゴイルを倒すためだけに造られた能力である。
『同じ手は食わぬ』
ガーゴイルの瞳が赤く光る。光はそのまま強くなり、赤い壁となって衝撃音波の前に立ちふさがった。光の壁に食らいついた衝撃音波はそのまま壁と一緒に霧散《むさん》した。自壊させる能力ならば、壊れない物質で防げばいいだけの話。
『これはこれは、光線を障壁に変えましたか。見えざる水銀[#「見えざる水銀」に傍点]の力をそのように使うとは』
『名など知らぬ。便利なのは確かだが』
消えた光の壁の先に、ガーゴイルはいなかった。
『ほほう』
ケルプが感覚器を伸ばす。
捕らえた。しかし対処が遅すぎた。
真後ろから放たれるガーゴイルの光線が、ケルプの身体にぶつかる。数千度の光がケルプの身体を穿《うが》とうと走り、しかしケルプの身体は動かない。
『無駄ですよ。貴方にだってわかっているでしょうに』
ケルプの真下に衝撃波が生まれた。
どん!
反動で空高く舞い上がったケルプは、上空からガーゴイルに攻撃する。目から光線を発射した。青白い光がガーゴイルに到達し、直後、大爆発が生じる。粉塵《ふんじん》ごとガーゴイルの姿が消え、次の瞬間にはケルプの真上に、逆《さか》さまになって出現する。落下速度を加えた頭突《ずつ》きをお見舞《みま》いすると、両者とも数十メートルの高さから地面に落下した。
『これは憶測だが、最近起きた窃盗犯《せつとうはん》の脱獄騒ぎ。これも汝の仕業《しわざ》だな』
土煙《つちけむり》の中で、ガーゴイルが尋ねる。
『双葉のことで頭が飽和《ほうわ》していたため今まで考えが回らなかったが、汝のその能力を使えば説明がつく。どうなのだ?』
『――小生だとしたら、いかた致《いた》しますか?』
『知れたこと。人々を悩ませる賊《ぞく》を捕まえるのが、我のもう一つの使命だ』
ガーゴイルは目から光線を発射した。ケルプがそれを避ける。
その後も位置を変え、手段を変えて攻撃の応酬《おうしゆう》は続く。赤と青の光線が東宮邸の正門前を照らし出し、爆発と衝撃が花畑の住民を怯《おび》えさせる。時折、両者の身体がぶつかったときにだけ、剣を打ち合うような音が聞こえた。
表情を見ようと東宮が振り返ったとき、双葉の姿はもうそこにはなかった。
「待て!」
と言われて待つ双葉ではない。外めがけて一直線に走る。ここが東宮邸の二階にある書斎《しよさい》であることは知っている。暇《ひま》だったので家中を探検《たんけん》したのだ。メイドたちも親切にこの部屋がどんな施設《しせつ》なのか教えてくれた。
長い廊下を半分も走らないうちに、双葉はある部屋に入る。出てきたときには本を運ぶためのキャリアーが一緒だった。
片足をキャリアーに乗せ、もう片足で地面を蹴《け》る。よくワックスがけされた床だ。面白いように走る。
「うおおおおおっ!」
右側は一面が窓になっている。そこから正門は見えない。双葉がいるのは屋敷の中心部分に近い。見えるのは巨大なリンゴの木だけだ。
すれ違うメイドたちに邪魔だどけと叫びながら、双葉はキャリアーを走らせる。
「待つんだ双葉ちゃん!」
振り返ると東宮が料理用のワゴンに乗って追いかけてきた。この廊下は傾いているのだろうか、と思ったが、後ろで屈強《くつきよう》なメイドが二人ばかりワゴンを押しているのが見えた。なんで東宮までそんなものに乗っているのか双葉にはわからなかったが、おそらくはノリであろうと推察する。
「げ……!」
前方に向き直ると、コーナーが近い。すでにある程度の加速がついたキャリアーでは止められない。しかし、ちょうど曲がり角付近にメイドがいた。
「そこの綺麗《きれい》なおねーさん! 曲げてくれ!」
「あら綺麗だって。双葉ちゃんたらもう」
メイドは照れながらも全速力で突っ込んでくる図書用キャリアーの取っ手を掴《つか》むと、ジャイアントスイングの要領で半回転させ、進行方向へ転換させてくれる。綺麗なお姉さんは普通こんなことしない。
「そーれっ!」
完全に勢いを殺されたキャリアーだったが、お姉さんに押してもらったので再加速できた。先程よりも若干速く進んでいる。
しかし、後ろからついてくるワゴンも綺麗にコーナリングしていた。それどころかさっきキャリアーを方向転換させてくれたメイドさんまで東宮を押す係についている。東宮は携帯電話を取り出すと、
「もしもし、僕だ。双葉ちゃんが帰る。うん、もうそろそろ頃合《ころあい》だろう。みんなで送ってあげてくれ」
それだけ告げて切った。
すぐに双葉の行く先に多数のメイドが現れた。それぞれ手に何かを持っている。双葉が身構えるよりも早くメイドたちが取り囲んだ。
「双葉ちゃん、これ着ていた洋服ね。気に入った洋服もいくつか入れておいたから」
「この手紙、あなたのお父さんとお母さんに渡してあげて!」
「これ気に入ったゲームソフトね。発売日前のはごめんなさい、除外《じよがい》させてもらった」
「欲しがってたプロレス選手の生写真とサインよ。サイン入りダンベルもあるわ」
「これメイドのみんなの電話番号。今度メールちょーだいね!」
あれよあれよという間にキャリアーが荷物で一杯になる。メイドの土産《みやげ》とはよくいったもので、全員双葉との別れを名残《なごり》惜《お》しんでいるようだった。気がつけば双葉の身体はメイドたちに抱きかかえられており、そのまま出口まで運ばれていた。
いや違う。ここは二階のはずだ。それなのに、双葉の身体は正面玄関に向かって運ばれている。双葉が知っている限り、階段はこの近くにない。この先は確か――
太陽の光が双葉の目を刺《さ》した。テレスに通じる扉が開いたのだ。二階のテラスに根を張っているリンゴの木まで運ばれると、ようやく正門前での戦いが肉眼で見えるようになった。
「うわー、あれが双葉ちゃん家のガーゴイル? かっこいー」
「すごーい! 目からビーム出してる!」
双葉を抱《かか》えたまま、メイドたちが無責任な歓声を上げている。そこまで来て、ようやく双葉はメイドたちから解放された。床に足が着くと同時にガーゴイルに向かって駆け出した。
「ガーゴイル!」
そのまま、二階のテラスを蹴って、宙に跳ぶ。
『双葉?』
その声が発せられるよりも早く、ガーゴイルとケルプが作った不思議な力場が双葉の身体を包み、身体の落下速度を緩《ゆる》めてくれる。双葉はきちんと両足で着地し、もちろん怪我《けが》一つなかった。
その双葉の上に大きなトランクが落下した。
「うぼ!」
今度は力場も半分しか影響しなかったらしい。
『むう……まさか第二弾が来るとは思わなかった。知っていたなら教えろ犬天使』
『ああこれは失念していました。トランクの中身は主人からのささやかなお礼ですので』
「のんきに世間話《せけんばなし》してるなぁっ!」
トランクを押しのけて双葉はガーゴイルを蹴り飛ばし、ケルプにはローリングソバットをお見舞いした。光線と衝撃波の応酬《おうしゆう》でも倒れなかった二者はどちらも地面に転がった。
『ひどいですよ双葉さん。小生はきちんとお助けしたのに』
天空を見上げるケルプが情けない声を出した。
「黙《だま》れっ! あのクソ錬金術師にはもうつきあってられねー! 帰るぞ!」
呼んだときには、すでにガーゴイルは起き上がっていた。双葉のすぐ隣に座って、それでも視線はケルプから離れない。
『そうですね。ガーゴイル殿の性能も判明しましたし、もう十分でしょう。この程度ならば、主人が模倣《もほう》するまでもない。とはいえ、小生は楽しめましたが。気をつけてお帰りください』
ケルプの言葉に双葉が振り返る。
ガーゴイルは言葉を発しない。
双葉は地面に落ちている三角形の石片を拾い上げる。先程の戦いで折れたガーゴイルの耳だった。それをポケットに入れる。
ガーゴイルは微動《びどう》だにしない。しかし鈴がじりじりと鳴っていた。それがガーゴイルの、どのような感情から来るものなのか、双葉にはよくわかっていた。
「ガーゴイル」
『なんだ、双葉』
「あの金色の犬コロ、許せないのか」
『……ああ』
「許可する。ぶっ飛ばしてから帰るぞ」
『感謝する』
そして双葉はガーゴイルから離れる。花畑の中まで下がり、石像同士の戦いが一番よく見える特等席を探して歩いた。
『よろしいのですか』
ケルプが面白そうに尋ねる。
『何がだ』
『耳が欠けては、格好が悪いのでは?』
『ああ、それならば問題ない。ところで東宮殿はいるか』
「いるよ。はじめましてガーゴイル君」
二階から手を上げる東宮。
『初めてではないな。何度か背広姿で吉永家の前を通ったことがある』
「お見事」
『許可を頂きたい。この屋敷をある程度|損壊《そんかい》させてしまうかもしれないのだが』
ガーゴイルの視線の先にはケルプが座っており、その先には東宮|邸《てい》があった。
「まぁ、少しくらいなら」
それをあっさりと許可する東宮の肝《きも》っ玉《たま》も据わっている。
『感謝する』
『ホホホホ。まさか今まで力を抑制《よくせい》していたとでもおっしゃりたいのですか? それはそれは失礼しました。そうですよねぇ、小生の後ろには双葉さんがいるかもしれない屋敷があるんですもん――』
ケルプはそれ以上の言葉を発することができなかった。
ガーゴイルの目から放たれた光線が、ケルプが一瞬前までいた場所を貫き、背後の東宮邸を突き抜け、さらにその奥で木が倒れる音がする。
次いで大爆発が起こった。屋敷が崩壊する。
「うわわっ!」
人工の地震《じしん》に双葉がバランスを崩す。テラスにいた東宮とメイドたちはそれどころではなかった。半壊した屋敷に、テラスの木が倒れてくる。もともと二階に立っていただけあって、根っこごと倒れると家屋も壊れてゆく。悲鳴を上げながら逃げることもできずに、東宮たちは瓦礫《がれき》の中に埋《う》もれていった。
『な……』
間一髪《かんいつぱつ》で光線を避《よ》け、空中に翔《と》び上《あ》がったケルプは、眼下の惨状《さんじよう》を目《ま》の当《あ》たりにして愕然《がくぜん》とした。しかし逡巡《しゆんじゆん》も一瞬きりで、すぐに青い光線をガーゴイルに向けて撃つ。
ガーゴイルは避けなかった。
光線が地面に当たった場合、爆発の影響範囲内に双葉がいるからだ。
『ふん』
鼻で笑うような声と共に、ガーゴイルと光線の間に光の壁が出現した。光線はその壁に吸い込まれるようにして消えてゆく。衝撃も何もかも失われてゆく。
ケルプはまだ空中にいた。翼を動かしているわけではないのに、緩やかに滞空《たいくう》しつつ光線を撃ち続けていた。その背後にガーゴイルが出現してもケルプは振り返ることなく、ガーゴイルが光線を放射して、初めてケルプの姿が消失するようにかき消えた。
『む……』
ガーゴイルは重力に逆らわず、軽く傾いた姿勢のまま落下してゆく。首をかしげて何か考え事をしているようにも見える。
ケルプの姿と気配《けはい》が消えていた。
『ふむ。これが例の覗《のぞ》き見《み》機能か。なるほど、存在が感じられぬ』
この機能でガーゴイルは超長距離から監視《かんし》されたり、双葉をさらわれたりしたのだ。
『しかし、汝も愚《おろ》かなことをする』
ガーゴイルが地面に着地した。
傾いた姿勢のまま、空の一点を見つめている。
『一度でも汝という存在を認識したのならば、それ以外の存在の動き[#「それ以外の存在の動き」に傍点]に注意すればいい。大気や大地の揺らぎが、汝の所在を教えてくれるのだ。その自己《じこ》顕示欲《けんじよく》が仇《あだ》となったな』
殺意をはらんだ光の帯がガーゴイルの瞳から飛び出した。それは空中で姿を消していたケルプの胴体を正確に貫いた。
『な……!』
撃墜されたヘリコプターのように、煙を上げながら落下してゆくケルプ。翼が三枚折れて空中に飛び散った。その胴には二つの穴が開いており、向こう側がクリアに見えた。
もう一度ガーゴイルが光線を撃つ。ケルプの前足が吹き飛び、緩やかに下降していたケルプの体は、突然重力に引かれたように地面に叩きつけられた。
『調子に乗るなよクソ天使。その程度の矜持と能力で天使などとはおこがましい。楽園どころか家一軒も守れぬとは。恥《はじ》を知れ!』
吐き捨てるように叫ぶと、ガーゴイルはさらにもう一度光線を放った。今度はケルプの手前の地面に命中し、爆風で金色の石像が背後の瓦礫《がれき》に吹き飛ばされる。
『気が済んだ。帰るぞ、双葉』
車の駆動音《くどうおん》に双葉が振り返ると、麓《ふもと》のほうから黒塗《くろぬ》りの外車がやってくるところだった。双葉にも見覚えがあった。確か自分もあのリムジンに乗せられてこの屋敷に来たのだ。後部座席にテレビがあったのでよく覚えている。
車が停車すると、まず運転手が飛び出してきた。
「これは……いったい何があったのですか?」
物静かな雰囲気の運転手も、さすがに主《あるじ》の館《やかた》が半壊していたら驚く。後部座席から気怠《けだる》そうに降りてきたのは、兎轉舎《とてんしや》のお姉さんと和己だった。
「兄貴!」
双葉が近づくと、和己は双葉の身体を抱きかかえた。
「双葉ちゃん、だいじょう――ぶだねこりゃ。救急車とか呼んどく?」
「いや、いらねーだろ」
ガーゴイルのことだ。死傷者はゼロだろう。
兎轉舎のお姉さんはあっけに取られている運転手に「ご苦労様、はいチップ」とポテトチップの袋を渡していた。このタイミングでする冗談《じようだん》ではないだろうに。
「あらー。ガーゴイル君の圧勝って感じね」
見ればわかることをお姉さんはつぶやき、瓦礫に向かって歩き出す。和己がその後を追う。ちょうどメイドたちが石の山から主人を引っ張り出しているところだった。慣れているのか、ほかのメイドたちは食料を運び出したり必要書類をまとめたり、事後処理を始めている。
「久しぶりね、東宮の坊ちゃん」
怪我はなくともボロボロの状態で発掘《はつくつ》された東宮を見下ろす形で、兎轉舎のお姉さんは挨拶する。
「お前っ……高原イヨ!」
「おじいちゃん元気にしてる? ああそっか、十年前に亡くなったんだっけ。お葬式《そうしき》行けなくてごめんね」
「……会いたがっていたぞ」
「うん、知ってる。だから、いろんな意味でごめんね」
「ふん。お祖父様とおまえの間に何があったかなんて、今更《いまさら》興味もない」
「そ」
瓦礫の上で澄《す》ましているお姉さんから、どういうわけか東宮は目をそらす。
「それで、何をしに来た?」
「忠告」
お姉さんの脇《わき》をすり抜けるようにして、和己が飛び出した。拳《こぶし》を固めて東宮のあごを殴りつける。瓦礫の上にもんどりうって倒れた東宮の胸倉を掴んで引き起こした。
「いいか。双葉ちゃんとガーくんにこれ以上手を出してみろ。絶対に許さないぞ」
呼吸を荒らげて、和己は東宮を睨《にら》みつけた。本気で怒《おこ》っている目だった。瓦礫の上でメイドに囲まれながら、というシチュエーションを考えるといささか頼りないが。
その和己を手で制して、お姉さんが続ける。
「……とのことよ。あんたのおじいちゃんは、どんなに追いつめられても犯罪にだけは手を染《そ》めなかったわ。ま、その辺がプライドが捨てきれない所以《ゆえん》なんだけどね。あ、和己ちゃん、そいつのズボンひっぱって」
和己は言われたとおりにした。東宮のベルトとホックを外《はず》す。
お姉さんがポケットから出したのは、ミミズのような綿虫だった。
「これはわたしが開発した拷問《ごうもん》専用虫、『|蠕 蟲 舞 手《アンネリダ・タンツエーリン》』」
牙《きば》と触手《しよくしゆ》の生えた毛虫のような、そんな虫を和己は受け取り、目が合ったお姉さんと強くうなずき合う。事態を周りで静観していたメイドたちも小さくたじろいだ。
和己はなんのためらいもなく、東宮のパンツの中にそれを入れた。
瓦礫のほうから絶叫が聞こえてきたが、双葉は疲れて動けなかった。地面に座りこんで和己たちの気が済むのを待っている。
「さーて、ようやく帰れる。ママとかも心配してたろ」
『ママ殿だけではないぞ』
「わかってるよ。心配かけたな」
素直に双葉は頭を下げた。
「それから――助けに来てくれたんだよな。サンキュ」
勇気を出して言ったのだが、
『当然だ。我は吉永家《よしながけ》の人間の安全を守るために存在している』
まぁこいつならこんな返事が返ってくるだろーな、と予想はしていたのだが。なけなしの勇気をスルーされたようで、ちょっと腹が立った。
『そもそも悪いのはあの男だ。双葉は被害者なのだ。あの犬天使も死にはしないだろうが、しばらくまともに機能しないだろうな』
それで双葉は思い出した。
「そういやお前、あれの事クソ天使[#「クソ天使」に傍点]とか言ってたな。珍しいじゃん、お前がそんなこと言うなんて」
『我もさすがに腹が立ったのでな。今時の言葉で言うならばキレる[#「キレる」に傍点]というやつか。双葉を誘拐した挙句《あげく》、我のことを低級悪魔などとほざきよった。奴《やつ》とて真の天使ではなかろうに』
瓦礫のほうで、メイドたちがケルプの破片を集めているのが見える。バラバラになっても意識はあるらしい。欠けた身体を必死に捜《さが》すケルプの姿は滑稽《こつけい》で笑えた。
『我の名は吉永家の人間がつけてくれた個体名だ。それを低級などとぬかす輩《やから》は吉永家そのものを傷つけたも同然だ』
「そっか」
一拍《いつぱく》の間をおいて、
『――はじめて、我の名を呼んでくれたな』
双葉の身体が少し震えた。
『その、嬉しかったぞ』
鼻の頭を照れくさそうにかいていた双葉は、ポケットからガーゴイルの欠けた耳を取り出すと、欠けたガーゴイルの頭と見比べる。
「今度、くっつけてやるからな」
気が晴れたらしい和己とお姉さんが、笑いながら戻ってきた。
日が傾き、夕暮れが迫っている。帰りはお姉さんが夕食をご馳走《ちそう》してくれるそうだ。ちょうど双葉も腹が減っていたので大喜びした。
送迎車の運転手はやけくそのようにポテトチップを頬張《ほおば》っていた。
[#改ページ]
第六話
吉永さん家のガーゴイル
「おはよーございまーす!」
元気な挨拶《あいさつ》をして、新聞屋が吉永家《よしながけ》を通る。脇《わき》に抱《かか》えたバッグから新聞を取りだして、ガーゴイルに見せた。最近ではこれが習慣《しゆうかん》になっている。
「今日の一面は一週間後の首脳《しゆのう》会談についてです」
ざっと一面記事を読ませてから、新聞をたたむ。
『ふむ……世界はまだまだ平和ではないようだな』
「そッスね。だから首脳会談とかやるんでしょうけど」
難しい顔のガーゴイルに新聞屋が追従《ついじゆう》する。これだけだと暗い朝になってしまいそうだったので、新聞屋は三面記事を開いた。
「あ、それからこれ、東宮《とうぐう》エレクトロニクスの社長が行方《ゆくえ》不明《ふめい》なんですって。なんでも家が爆弾《ばくだん》テロにあったらしいッス」
『それなら問題ない。我《われ》が許可を得てやったことだ』
「あっはっは。ガーゴイルさん、最近は冗談《じようだん》まで覚《おぼ》えたんスか」
朝日が昇《のぼ》るのが早くなった最近。春から夏に移り変わる季節。ガーゴイルも御色町《ごしきちよう》に慣れつつあった。人々の世間話《せけんばなし》が情報以外の役割を果たすことに気づき、防犯で守るものは財産だけではないことを知った。
それでも変わらない所は変わらないのだが。
東宮《ひがしみや》天祢《あまね》の騒動《そうどう》が収《おさ》まってしばらくして。
今日も今日とて吉永家の日常は変わらなかった。朝からママのパワーボムをくらった双葉《ふたば》と和己《かずみ》が背中をさすりながら朝食をかきこみ、だらだらと支度《したく》をして家を出る。
「んー。まだくっつかないな」
ガーゴイルに抱きついたまま、双葉はガーゴイルの頭を触《さわ》っている。背が低いので、飛び上がって抱きつかないと届かないのだ。
双葉は毎日、家の前でガーゴイルの耳を確かめている。はた目には前と変わらないように見えるが、左の耳がわずかにずれていた。最初は瞬間接着剤などを試《ため》してみたのだが、ガーゴイルの石の肌にはなじまないようだ。代わりに兎轉舎《とてんしや》の怪《あや》しげな軟膏《なんこう》を使っている。
「本当に石像にも効《き》くのかなぁ」
和己も耳に触って確かめているが、ゲル状の感触《かんしよく》が耳越しに伝わってきて気持ち悪い。あまり触ると変な形でくっつくかもしれないので、双葉の手もはがす。
「おはよう、双葉ちゃん、和己ちゃん」
隣の佐々尾家《ささおけ》から出てきたのは、スポーツウェアに着替えたおばあちゃんだった。和己がその格好を指差して驚いている。
「おばあちゃん、そんな格好でどこ行くの?」
「今帰ってきたところだよ。公園で太極拳《たいきよくけん》の講習をやっていたから。おばあちゃんも少し身体《からだ》を動かしたほうがいいと思ってね」
「すげー。身体|壊《こわ》すなよ、ばーちゃん」
「はいはい。ありがとね双葉ちゃん」
おばあちゃんは緩慢《かんまん》な動作《どうさ》で家の中へ入っていった。確かに前より笑顔の速度が早くなったように感じる。
「んじゃ、行ってくるぜ」
「車に気をつけてね」
『痴漢《ちかん》にも注意しろ、和己よ』
「あたしじゃねーのかよ!」
などとすったもんだの騒ぎを家の前で起こしつつ、双葉と和己はガーゴイルの前から別れて歩いてゆく。いつもの朝の出来事だった。
「美森《みもり》ー。学校いこーぜー」
外から呼ぶと、玄関の扉《とびら》が開く。
現れたのは美森のおしりだった。
「ちょっと、中尉[#「中尉」に傍点]! 何よ、ちょ、ダメだって。ごはんもうないのよ!」
美森は顔だけ振り返って、
「ごめんね双葉ちゃん、先行ってて!」
「……なんか大変そーだな」
「学校にまでついて来ようとするんだもん! お母さん! ちょっと中尉《ちゆうい》がぁ!」
あの事件の功績《こうせき》を称《たた》えられて中尉に昇進《しようしん》した白い盲導犬《もうどうけん》の顔が玄関から見えた。とても真剣な表情で美森に顔をすりつけている。護衛《ごえい》をするつもりだろうか。
仕方なく、双葉は先に行くことにした。あれでは自分も遅刻《ちこく》するかもしれない。
コンビニの前を通り、四車線ある広い国道に出る。
ほどなくガソリンスタンドが見えた。ガーゴイルが家に来て以来、初めて双葉を守った場所だ。今では事故の形跡《けいせき》すら見当たらない。
そこから先に進むと、一軒の家が見える。中古車ディーラーやラーメン屋などが立ち並ぶこの道にはそぐわない、大きな家だった。
その家の門柱の上に、金色の石像がいた。
「よっ」
『おはようございます、双葉さん。今、主人は研究中でして』
金色の自動石像、ケルプは両眼を光らせながら社交的に挨拶する。胸の穴は完全にふさがったが、翼《つばさ》がまだくっつかない。ガーゴイルの耳と同じ軟膏を使用しているようだ。あれは確かいつくっつくかわからない代物《しろもの》なのだが。
「また変なもの作ってるのか?」
『変なものとは失礼ですね。小生《しようせい》がガーゴイル殿に勝利するためには主人の研究が必要|不可欠《ふかけつ》なのです』
あの事件以来、東宮《ひがしみや》は唐突《とうとつ》に御色町に引っ越してきた。社長の仕事も放り出して錬金術《れんきんじゆつ》の研究にいそしんでいる。たまに兎轉舎で姿を見かけるあたり、お姉さんとの仲はそんなに悪くないようだ。
軽い挨拶だけで登校を続けようと思った矢先《やさき》、家の中から声が聞こえてきた。
「くぅっ、失敗だ! 蘇生《そせい》秘術書《ひじゆつしよ》の通りにやったのに、これでは上書きしてしまったビデオテープの復元くらいにしか使えないじゃないか!」
「いやそれすげぇ画期的《かつきてき》な発明だろ!」
一応ツッコんでおいてから双葉は学校への道を走り出した。ボケにいちいちツッコミを入れていたら本当に遅刻してしまう。
全速力で走る双葉の横を、黒猫が走り過ぎていった。
「――というわけで――一級|河川《かせん》というのは、国の保全上や経済上に重要な川――わかりやすくいうと――国にとって重要な――川――です」
生活科の授業中、夜《よ》倶《ぐ》先生の珍《めずら》しくまともな説明を聞き流しつつ、双葉は窓の外の体育の授業を見ていた。
「おい、双葉。今日のサッカーどうする?」
後ろから石田にシャーペンでつつかれる。
「今日は二組とだろ? あたしたまにはキーパーやってみたい」
「ダメだ。お前はフォワードかミッドフィルダーについてくれ」
「なんでだよ」
「みんなお前のツラにビビる」
すぱーん!
双葉の放った教科書が石田の顔面にクリーンヒットする音が教室中に響《ひび》いた。
「はい――そこ――静かに――というわけで一級河川でも――汚《きたな》い川は――あるのです――ちょうど――テストの成績はよくても――態度《たいど》の悪い――トシくんと双葉ちゃんのように――」
「余計なお世話だっ!」
異口《いく》同音《どうおん》に二人が叫ぶ。
フラスコとビーカーと薬品の匂《にお》いが支配する兎轉舎の中、ガーゴイルは中心に置かれた理科室用の机の上に座っていた。どこから調達《ちようたつ》したのだろうか。というより、これは商売ではなくお姉さんの実用的|趣味《しゆみ》ではないのか。
「まだ耳くっつかない?」
白衣を着たお姉さんが顕微鏡《けんびきよう》から目を離した。かたわらに置いてあった眼鏡《めがね》をかける。二者だけ見ると、動物病院の医者と患者《かんじや》に見えなくもない。
『うむ。ひょっとしたら死ぬまでくっつかないのではないかという気になってくる』
「大丈夫よ。きっと治るから」
無責任に笑うお姉さん。ピンセットで何かの破片をつまむと、液体の入ったビーカーに投げ入れる。泡立《あわだ》つビーカーから顔をそむけて、軽くむせる。
「今ね、君の身体の調査をしてたところなの。もう徹夜《てつや》よ」
『ほう。我の破片だけでわかるのか』
ケルプに耳を吹き飛ばされたとき、地面に落ちたわずかな破片をお姉さんは持ち帰ったという。たった数グラムの破片だったはずだが。
「もともと君の身体には賢者《けんじや》の石のレプリカが使われているの。つってもわたしが作ったんだけどね。半導体《はんどうたい》と同じで、情報を蓄積《ちくせき》する石だと思ってちょうだい」
『つまり我の身体は一つの石でできているのか』
これはガーゴイルにも興味のある話題だった。自分の身体について知りたくないわけがない。
「そう。代《か》えはないけどね。でも、特別な変化はないみたい」
『変化といったか。ほかに、我を構成する石はどのようなことができるのだ?』
「一番大きい力は情報の蓄積よ。これはすごいことなんだから。あとは水の浄化《じようか》や音波の共鳴《きようめい》、ほかにも伝導体と絶縁体《ぜつえんたい》に自在《じざい》に切り替えられたりとか。オリジナルの賢者の石はもっと色々できるんだけどね」
お姉さんは泡の立つ試験管を手に取り、軽く振った。あの中にもガーゴイルの破片は入っているのだろうか。
『それができたところで、我に得《とく》はあるのか』
「ないわね。ブレーカーの代わりでも、する?」
『吉永家の電気は正常に動いているが……』
お姉さんは苦笑して、椅子《いす》に座った。
「まぁ、いずれ役に立つときが来るわよ。焦《あせ》らない焦らない」
「ただいまー」
なげやりに挨拶を交《か》わして双葉が家の中に入ろうとすると、ガーゴイルが門柱の上で黒猫とたわむれていた。
「お、菊一文字《きくいちもんじ》じゃねーか。珍しいな、こんな時間に」
『うむ。昼食を抜かれたので気が立っているようだ。あまり不用意に』
「シャ―――――ッ!」
双葉が大声で威嚇《いかく》すると、菊一文字は逃げるように走り去っていった。
『……そういうことはやめろと言いたかったのだが』
「フン、昔は日課だったんだよ。でもあいつに昼メシやるのはママの仕事だったろ? どうしたんだよ」
『ママ殿《どの》はご立腹《りつぷく》でな』
「なんで?」
『それが我にも不明なのだ』
「……何があったんだよ?」
双葉は庭に回り、和己がよく使っている椅子を引っ張り出してくる。斜陽《しやよう》に彩《いろど》られた赤い椅子にちょこんと座ると、ガーゴイルが話し始めた。
『ちょうどママ殿が菊一文字に餌《えさ》をやろうと、家から出てきたときのことだ。黒い背広《せびろ》を着て頭布《ターバン》を巻いた白人男性がママに話しかけたのだ』
「何人《なにじん》だよ」
『我を買いたいと言ってきた。我は平和な日本には過ぎた能力だとか、しかるべきモノのために使うべきだとか、そんなことをまくし立てていたら――』
「そりゃママも怒るわ」
ため息をつく双葉。
『……見事な|猛虎原爆固め《タイガースープレツクス》であった』
「パパが食らって次の日会社休んでたくらいだからなぁ」
その威力《いりよく》を思い出して、双葉が背筋《せすじ》を凍《こお》らせている。
『だが、どうしてママ殿は怒《おこ》ったのだ? ママ殿自身を貶《けな》されたわけでもあるまいに』
「フン。家族を売れって言われて平然としてる奴《やつ》なんかいるかっての」
『家族?』
「ったく……あたしがママの機嫌《きげん》取らなきゃならねーのか……あーあ、晩メシに響くんだよなぁ……」
立ち上がり、家の中に入ってゆく双葉。もうこの話題は飽《あ》きたようで、というより最初からママが機嫌を損《そこ》ねているという一点のみに興味《きようみ》を抱《いだ》いていたようだ。
『家族……か』
誰《だれ》もいない吉永家の入り口で、ガーゴイルはつぶやいた。
その言葉を自分に向かって言われると、よくわからないが、とても胸のあたりが暖《あたた》かくなるのだ。ガーゴイルは夕日に向かって、そのことについてもう少し深く考えてみようと思った。
「お、くっついてるじゃん」
朝、いつものようにガーゴイルに飛びついた状態で、双葉の顔がほころんだ。左耳を軽く引っ張ってみるが、本当に治っているようだ。
「あ、なんかゴミついてる。ひょっとしてこれもくっついてるんじゃねーか?」
『その冗談は笑えぬのだが』
「フン、自業《じごう》自得《じとく》だ。お、取れた」
ゴミくずを払《はら》うと、双葉はガーゴイルから飛び降りた。バランスを崩《くず》しかけたところを和己が抱きかかえる。地面にしっかりと踏《ふ》ん張《ば》って、双葉はガーゴイルを指差した。
「いいか! 変な勧誘《かんゆう》は断《ことわ》れよ! フラフラ出歩いてっから変な国の護衛《ごえい》とかに誘《さそ》われるんだからな!」
『わかった。心配をかける』
「べ、別に心配なんかしちゃいねーよ。ただ、ほら、ほかの所ばっか守ってたら、そのうちウチが守れなくなるんじゃねーかと……」
『? それは最初に言っていた事と違うが』
「つまり心配してるんだよ」
和己が通訳すると、その顔に双葉の両足がめりこんだ。華麗《かれい》に地面に着地すると、双葉はカバンを背負《しよ》い直し、和己とガーゴイルに背を向ける。
「学校行く!」
そのまま歩き出した。
『双葉』
「なんだよ?」
立ち止まり、振り返った双葉にガーゴイルがいつもの言葉を放つ。
『気をつけて行くのだぞ』
「おう。行ってくるぜ」
笑顔で答え、双葉は走り出した。
今日も変わらぬ一日が始まる。
[#地から3字上げ]おわり
[#改ページ]
あとがき
ちーッス。初めまして。
田口《たぐち》仙年堂《せんねんどう》でございます。
とうとう二〇〇四年も始まってしまいましたが、去年は俺にとって特別な年になりました。特に六月。俺の運命がガラリと変わった、絶対に忘れられない月です。エンターブレインから受賞の電話があった時なんかは、幸福すぎて「俺、来週あたりで三輪車とかに轢《ひ》かれて死ぬんじゃないか?」とビクビクしていたのは公然の秘密です。
今年もビクビクするくらい、いいことあるといいなー!
さて、自己紹介がわりに小話《こばなし》でも。
こないだ後輩の実験の被験者《ひけんしや》になって、ロールシャッハテストを受けてきました。あの、アレですね。インクの染《し》みが何に見えるかってヤツです。で、つい最近、その結果が返ってきました。
えーと、どれどれ……。
『高い知的|水準《すいじゆん》に伴《ともな》った、世間一般的なものの見方を好《この》まない姿勢《しせい》や態度《たいど》が見られます。また、他者の感情に共感や理解を示す際に少々主観的になってしまうきらいがあるようです』
――俺はそんなに独善《どくぜん》的な男だったのか。
『これらの傾向は、他者からの、他者への、愛情欲求を素直に受け入れるのを妨《さまた》げていることから起因していると思われます』
――ああそうだよ愛情に飢《う》えてて、さらに素直じゃねーよ。
『異性との関係や性的なものへの葛藤《かつとう》が、男性性ならではの反応内容を示しつつも、女性性への関心を示す反応内容が出ていることから窺《うかが》えます』
――スケベで悪いかよ!
『しかし非常にバランスの取れた感覚の持ち主であるわけですから、自《みずか》らの葛藤《かつとう》を自覚・理解し、良い方向へと繋《つな》げていく事は充分に可能だと思われます』
――おい待て! つまり俺には「スケベ」か「むっつりスケベ」のふたつしか選択肢《せんたくし》がないのか? 死ぬ気でがんばれば、まぁむっつりスケベくらいにはなれるよ、って意味なのか?
雑誌の心理ゲームとは違う、モノホンの心理テストで「エロい」と評価された俺に、明日はあるのでしょうか……。
お初にお目にかかる皆さん、田口仙年堂とはこういう奴《やつ》だそうです。誰《だれ》か真人間《まにんげん》になる方法を教えてください。あ、身体《からだ》を鍛《きた》えて心身共に健《すこ》やかに、とかはナシで。寝転《ねころ》がったまま一日五分のエクササイズで楽にできる痛くも辛《つら》くもないヤツを。
あとがきでのお礼は「長いのはイヤ」と担当のM女史に言われたので、手短《てみじか》に。
まずはそのM女史に最大の感謝を。それからえんため大賞の選考委員の方々。
可愛《かわい》いイラストを描いてくれる、ナイスガイ日向《ひむかい》悠二《ゆうじ》さん。
一次選考で目をつけてくださった、野村《のむら》美月《みづき》先生。
おもに叱咤《しつた》をくれたバイト先のお姉様方。
おもに激励《げきれい》をくれた友人の皆様方。
おもに発想をくれた劇団ダブルスチールの面々。
おもに愛情をくれた素敵なあんにゃろー。
みんなホントにありがとう。超感謝。
……長くなっちゃいました。読者の皆様にとっては「だから?」って感じなんでしょうが、ほら、書いとかないと、あとでどんな制裁《せいさい》受けるかわかんないから。保身《ほしん》のための感謝というのもどうかと思いますが。
では、また次巻で。
出るんですよ、自分でも信じられませんが。
[#地から5字上げ]田口 仙年堂