[#表紙(表紙.jpg)]
ハーモニーの幸せ
田口ランディ
目 次
バリ島のギフト
身体に音楽を取り戻した日
一日一悪
森のイスキアでおむすびを学ぶ
ガン検診の憂鬱
キツネ憑《つ》き男
タヒチの思い出
つまらないということ
はだしのゲンの子供力
バランスの極意
ボディ&ソウル 台湾への旅
愛の形
かそけき音の世界
雨とフラダンス
介護と恋愛と墓参り
喜びの共有
記憶、過去、そして歴史
犠牲
恐怖の傍聴席
私とアメリカ
終わりなき本当の私探し
祝祭的な力技
森のカケラから神様を見つける
短篇小説の書き方
廃墟《はいきよ》の観音
恋愛の力
あとがき ―― 「幸」の力
文庫版あとがき
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バリ島のギフト
ずっとバリ島を旅行していて、たくさん夢を見た。
旅に出ると普段よりもはっきりとした濃い夢を見るのはなぜだろう。日常生活から切り離されてしまうので、意識の力が弱くなるのかな。
私はいつもホテルのベッドで明け方近くに目が覚めた。リアルな夢が破けたときは、辛《つら》い旅から帰還したような気分になる。
緊張した首筋が痛い。現実よりも夢の世界をまだ引きずっている。
なぜかバリを旅行しているのに、屋久島に行く夢を見ていた。
夢のなかで、中学時代の同級生を連れて、私は屋久島に行くことになるのだ。ところが彼女はまったく屋久島に似つかわしくない格好で待ち合わせにやって来る。
「そんな格好で山に登れるわけがないじゃない」と私は腹を立てる。
すると彼女は「だったら行かないよ」とすねるのだ。
そして、いとも簡単に「じゃ、アタシはこれで帰るからね」と帰り支度を始める。
私はあわてている。本当に帰ってしまいそうなのだ。どうして? 彼女の本心は屋久島に行きたいはずなのに。
それで私は、彼女に向かって必死で怒鳴る。
「行きたいくせに! どうして、連れてってくださいって、言わないの? 素直に頼みなさいよ、どうしても連れてってくださいって、頼めばいいじゃない」
すると彼女は、ぽかんとした顔で私を見て呟《つぶや》く。
「そうだね。その通りだね」
そして、あっけないくらい素直に呟くのだ。
「お願いです。どうしても私を屋久島に連れて行ってください」
私はほっとして「いいよ」と答えている。
そこで目が覚めた。
なんだか後味の悪い夢だった。
とんちんかんな友達の態度にも腹が立つ。さらに夢のなかの強引な自分にも腹が立つ。どちらも自分だと思った。どうしてそう思ったのかわからないけど、夢に現れた私も彼女も、現実の自分だと思った。
他人を思い通りにしたい私がいる。自分のイメージの屋久島を相手に押し付けようとしている私だ。そして、怒られるとすぐにふてくされる私がいる。「だったら、もういい」と関係を切ることで物事を決着させてしまう友達。どちらも、私だ。
でも、なぜバリで、こんな夢を見たのだろう。
バリに来たのは「リセット」のためだった。
バリ島にはニュピというお祭りがある。
ニュピはサカ暦のお祭り。バリの人たちは三つの暦を使って複雑なスケジュールで毎日を生きている。カレンダーを見ながら今日はどの暦の何の日だろう、と考える。サカ暦はその一つ。
私がバリ島に入ったのは4月10日、この日はサカ暦で言うところの大晦日《おおみそか》の二日前だった。
大晦日にあたる4月12日にはオゴオゴと呼ばれるお祭りがある。オゴオゴは青森のねぶた祭りによく似ている。村ごとに巨大な張りぼての人形(これがオゴオゴだ)を作る。この人形はどれも恐ろしい怪物の姿で、人間にとって「邪悪」なものの象徴とされている。
バリ人はオゴオゴを担いで練り歩き、そして盛大に燃やす。
日本では、大晦日の翌日は新年になるけれど、サカ暦では違う。オゴオゴを燃やした後、13日の午前0時を過ぎると、ニュピが始まる。
ニュピは、「ゼロ」の日だ。
一切の火を消す。町の灯も、家の電気も、心の火も。そして、人々は一昼夜自宅に引きこもり、瞑想《めいそう》にふける。だから、ニュピは月すら隠れる新月の晩が選ばれる。
ニュピ明けの14日の朝が、日本でいうところの新年になる。
大晦日と新年の間に「ゼロ」の日がある。つまりこの日は自分の一年をリセットする日なのだ。
このニュピの話を聞いたとき、私もその「リセット」を体験してみたいなあと思った。
西暦2000年のデビュー以来、駆け抜けてきたこの二年間を、一旦《いつたん》リセットしたい。そう思い始めたのは去年の11月頃からだ。ただもうがむしゃらに仕事をしてきて、気がつくとひどくつまらない自分になっていた。これじゃいかんと思った。少しずつ仕事を整理したり、連載を断ったりして、自分が巻き込まれていた喧騒《けんそう》から抜け出ようと試みた。
半年かけてなんとか表向きは一段落ついたけれど、自分の心の火はまだ燃えているような気がした。この火はなんだろう。情熱とは違う。もっと汚れたものだ。それはこの二年で私のなかに生まれてしまったさまざまな欲望だったり、憎しみだったり、嫌悪感だったりした。
その火も消したいと思ったのだ。
心もゼロにしたい。
でも、なんだかそれは、日常をダラダラと引きずっている日本では無理なような気がした。
それで、わざわざバリまでやって来たのだ。
バリ島もいい迷惑だろうけどね。私のごとき他国人がにわか信者のようにお祭りにやって来ていいとこ取りしようってんだから。
それを恥じつつも、でも、私はバリに行きたかった。
行かなくてはならない切実な事情が、私にはあったんだと思う。旅はよくそんなふうにして始まる。
屋久島に行ったときもそうだった。私は屋久島に行きたかった。
あのときも、行かなくてはならない切実な事情があった。でも、その切実さが何だったのか自分が気がつくまでにはずいぶんと時間がかかったけれど……。
きっと今回も、どうしてこんなにバリ島に行かねば、と自分が思っていたのか、その理由はずっと後になってからわかるんだろう。
バリ島旅行をアテンドしてくれたSさんからバリの文化や風習について教えてもらった。
Sさんは学生時代にバリに留学していたのだそうだ。
「バリ人は他人が自分の思い通りにならないからといって怒ったりはしません」
「へえそうなの? 優しいんだね」
「優しいというより、バリの人たちは人間は宇宙を内包した存在で、マクロコスモスを小さくしたのが人間だ……と考えているんです」
「へえ? 人間が宇宙と相似形だと?」
「そうですね。だから、宇宙存在に文句を言ってもしょうがないでしょう? 人間を全包括的な存在だと認識しているから、あまり些細《ささい》なことでは相手を思い通りにしようとはしません。魔術はかけますけどね」
確かに宇宙がやってることだと思えば、他人《ひと》様にケチもつけられない。
一人の人間を存在としてパーフェクトだと認める文化って、すごいなあと思った。
私は、やっぱり自分をとても不完全な存在のように感じている。だから、成長しなくてはと思っているところがある。だけど、考えてみたら、もって生まれたもので死ぬまでまかなうのが人間だ。
オギャアと生まれた瞬間から必要なものは携えて来ていて、後から貰《もら》うのはせいぜい経験くらいだ。この身体は生まれてから死ぬまでずっと同じ。そう考えたら、自分を不完全と思うのは少しむなしいかもしれない。
「バリはオープンソースの島なんです」
コンピュータのOSを開発しているというSさんは、ときどきコンピュータ用語でバリの文化を説明してくれる。
「アイデアは宇宙からの授かり物。だからみんなで共有する。バティックや小物のデザインも、いいものはどんどんコピーされる。もちろん、そのアイデアにどうオリジナリティを発揮するかは個々の問題だけど、方法論は島全体で共有されます」
「ふうん。なんだか、インターネット的だね」
Sさんはバリに留学して、バリ的なオープンソースな社会システムについて考え、その可能性を提示した。だけど、十五年前は「頭が変なんじゃない?」って言われたそうだ。ところが、ここ数年でインターネットが急速に普及してきて、情報の共有化が行われるようになった。
「やっとこの頃、変人扱いされなくなりました」と笑っていた。
バリ人のお祭りに傾ける集中力はすごい。お祭りを中心に生活が動いているみたいだ。
「日本人なら、こんなムダなことに労力を注いで……って思うよね」
「そうですね。でも、どんなことに全身全霊を傾けても、自由なんですよ。人間はどんなことに集中してもいい。スプーンを曲げるためでも、病気を治すためでも、雲を消すためでも、山に登るためでも、どんなことに全身全霊で自分のすべてを投げ出しても自由なんです、そう思いませんか?」
ああ、そうだよな。そうなんだよな。イチローが大リーグで活躍するために精神を集中して肉体鍛練することを誰もムダとは言わない。だけど、お祭りのために全神経を研ぎ澄まして集中することはムダかも……と思う。それはなんか変だ。
どんなことに集中してもいいんだ。OKなんだ。なんかそのことを、バリですごく納得してしまった。くだらないことなんて何もない。それなのに、くだらないことと大切なことがあると思い込んでた。
お金や名誉に関わることが価値があり、そうじゃないものはムダなことだと思い込んでしまっている。いつしかそういうふうに思うことが癖になってる。やだな、私。不自由だな。
この不自由な思い込みから解放されて、なんでもアリなんだ、って思えたら、すごい集中力が与えられるような気がした。そういうことが突然、起こるような錯覚をもってしまった。
人はみんな好きなことに全身全霊で集中していいんだ。集中することがすごいんだ。完成したものに価値を与えるのは他人だ。自分ではない。だから自分が創ったものはぶっ壊すことができる。他人に規定された価値が、私を心から喜ばせはしない。
ニュピの瞑想を、私はSさんの知人のバリ人宅で体験することになった。
13日午前0時から、翌14日の午前4時頃まで、一睡もせず、何も食べず、水も飲まずに、ダラダラと瞑想を続ける。話も小声でする。12日から寝ないわけなので、ほぼ丸二日の徹夜ということになる。食べずに二日徹夜するというのは、生まれて初めての体験だった。
「ねえ、瞑想ってさ、どうすればいいの?」
「え? ランディさん瞑想したことないんですか?」
「うーむ。自分のしているものが、瞑想だという自信がない。一般的にどういう状態になれば瞑想しているということになるの?」
いざ、瞑想を始めようというときになって、こんな基本的な質問をする私に、Sさんはやや呆《あき》れたようだった。
でも、正直なところよくわからないのだ。
「そうですねえ、瞑想にもいろんな方法がありますが、とりあえず背筋を伸ばして楽な姿勢で座って、ゆっくりと呼吸しながら、じっとしてみたらどうですか?」
「その場合、頭に浮かんでくることに執着した方がいいの? それともこだわらない方がいいの?」
「そうですねえ、まあ、浮かんでくるままにさせて、あまり追いかけない方がいいかもしれません」
「その状態をずっと続けるとどうなるの?」
「それは人それぞれです」
私が悩んでいると、Sさんは「まあまあ、そう考え込まず」と慰めてくれた。
「ランディさんは、小説書いているときが瞑想《めいそう》みたいなもんですから」
なるほど。私が小説を書いているときは瞑想状態なのか。それならわかる。小説を書くときは確かに普段の精神状態とちょっと違う。ただ、どう違うのか説明できないのだけど、あの状態に近くなればいいのなら、なんとなくできそうだ。
12日が終わり、13日の午前0時になった。
ニュピの始まりだ。部屋の電気はすべて消され、ロウソクの灯一本になった。その闇のなかで、私たちはおのおのの場所で、瞑想を始めた。
正直言って、ものすごく眠かった。だってその日は朝からお寺参りに出かけて、ずっと動きっぱなし。遅めの夕ご飯を食べて、本来ならのんびり寝ましょう……という時間なのだ。それなのに、これから28時間、寝られないのである。
ときどきSさんに肩を叩《たた》かれて、はっと我に戻る。
ということは、たぶん私は瞑想という名目のうたた寝をしていたのかもしれない。じっと座っていると、とりたてて考えも浮かんで来ない。
なんだかただぼう然としているうちに時間が経っている。やっぱり寝ていたのかもしれない。
明け方、空が白んでくる頃になって、少し眠気が醒《さ》めてきた。
私はなぜか、神様について考えていた。いや、考えていたというよりも、神様に謝っていたという感じかもしれない。
夜が明ける頃、鳥や獣たちが一斉に鳴き始めた。
どう言ったらいいのかな、最初はオーケストラが演奏前の準備を始めたみたいだった。それから本当に一斉にシンフォニーが始まった。
鳥の声もそれぞれみんな違うのだ。鳴き方も違うのだ。そこに犬の遠ぼえや、カエルも混じる。あれはカエルなのかな低音のギーギーという声。それらが相まって、共鳴し、大自然のガムランのようだった。
その夜明けの大合唱を聞きながら、私はなぜか神様に謝っていた。
神様と言っても、無宗教の私には特別なイメージがあるわけじゃない。とりあえず神様と呼ばせていただいているのだけれど、もしかしたら、自分の奥深い部分に問いかけるときに、神様という名前で魂を対象化しているだけなのかもしれない。
何を謝ったかというと、自分がこの合唱のようにうまく世界とシンクロできなくてごめんなさい……ということなのだった。
どうしてそんなことを謝っているのか、自分でも不思議だったのだけど、眠くて朦朧《もうろう》としていたので、半分夢のなかの出来事のようにしか覚えていない。
私の心は泣きながらごめんなさいを繰り返す。
鳥たち、獣たち、虫たち、この小さな生き物たちの夜明けの大合唱がすばらしいのは、彼らが自分だけが目立とうとか、自分が特別だとか思っていないことだ。そんな考えは彼らのなかに存在しないのだ。
そして、たぶん、鳥も、獣も、虫も、このハーモニーに自分が参加して溶け込んでいることに、快感を感じているだけなのだ。その快楽のためにだけ、鳴いているのだ。ハーモニーの心地よさ、ハーモニーの幸せを満喫しているのだ。
それがバリのガムランへと通じている。
きっと、そうだ。
そう思った瞬間に、身体の外側から聞こえていたすべての音が、私の内側に入った。
あらゆる音は私の内部から聞こえていた。
その転換は本当に一瞬にして起こってしまったので、最初、自分の状態がよくわからなかった。
鼓膜を通して外から聞こえていた音が、なぜか心臓の鼓動と同じように私の内側から聞こえるのだ。
自分の何かが変わったのだと、わかった。心が変わったのだと。
私の身体の内部から、夜明けの大合唱はうわんうわんと唸《うな》りをあげて外側に向けて鳴っている。
すごい、すごい。私が鳴っている。
私は冷静に考えた。これは神秘体験ではない。
そもそも音というのは錯覚の産物なのだ。
音は鼓膜の振動だ。それを脳が「音」として認識する。
ということはすべての音は鼓膜に達して初めて「音」となる。
だけど、私はふだん錯覚している。誰かとしゃべっているときは、相手の口から「声」という音が出ていると感じている。ステレオを聞いているときはスピーカーから「音」が出ていると感じている。
そうではない、すべての音は私の鼓膜が感じている。おしゃべりしている相手の口に鼓膜があるのではない。それなのに、私は相手の口から「声」が出ていると感じ、その声帯が声を出すことをリアルに感じて生きている。
とてつもない錯覚なのだ。
だから、そもそもの現実が錯覚なのだから、私が自分の内側から音が聞こえたとしても、まったく驚くに値しない。
これもまた錯覚なのだ。
だが、たぶん意味のある錯覚だ。
錯覚の質が変わったのだ。
私は、世界を自分のなかに感じている。
内側から溢《あふ》れる鳥たちの合唱を聴きながら、ああ、これが人間の役目なのかと私は思った。
私は意識をもって、生き物たちのハーモニーの美しさを認識できるのだ。それはもしかしたら神様にとても近いものかもしれない。
地球がつくりあげた奇跡のように複雑な生態系、そのハーモニーを、その美を、認識できるのはこの地上で、人間だけなのだ。
私は世界を見ることも、聴くことも可能だし、もちろんこのハーモニーに参加することもできるんだ。
そう思ったら、自分が人間であることがとてもいとおしく感じた。
ああ、人間に生まれてよかったなあと思った。
きっと、神様は「謝らなくていいよ」とおっしゃったんだ。そう思った。
謝らなくていい、なにひとつ謝らなくていい。
わからないことは罪ではない。
そして、私に、新しい錯覚を体験させてくれたのだと思う。
錯覚も、一つではないよ、と。
どんなふうに世界を錯覚するか、それぞれに自由なんだ。
バリではお祈りのときにお花や草を使う。小さな供物のカゴに入った花や草を両手にもって、高く掲げる。
それは、捧《ささ》げると同時に神様から受け取ることでもある。
そのとき言葉はいらない。ただ、受け取ればいい。
私の意志は必要ない。ただ与えられるものを感受する。私が私であろうがなかろうが、神様にはあんまり関係ないらしい。
自意識なんてもの、年をとってずいぶんと萎《な》えたと思ったけど、まだ私のなかには歴然と「自分が自分が……」という意識が強くあって、その自意識が、バリにくるとうっとうしいくらいに感じられる。
ああ、私はまだこんなに自分にこだわっていたんだな。そして自分にこだわり続ける限り、他人にこだわり続けるんだな。他人にこだわり、他人の言動に感情を揺さぶられ、他人の評価に自分がオタオタして、他人に自分を合わせる。
そこから逃れられないから、私はときどき辛《つら》い。分かち合えない。
バリではたくさん、お寺にお参りした。
靴をぬいで大地に正座して、お線香を立てて供物を捧げ、聖水を飲み、浴びる。
聖水を三回、頭にかぶると、自分がとても無防備になった気がする。それから手をかざす。何かに向かって。受け取るために。
無心に頭上に手を差し出すと、確かに何かを受け取ったような不思議な気分になる。
目を開けると、月のない空に満天の星。
この世界は無尽蔵にギフトが溢れかえっている。なんで自分だけ貰えないと思っていたんだろう。くださいと手を出さないから、貰いそびれていたのかもしれない。
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身体に音楽を取り戻した日
音楽……への憧《あこが》れは、海への憧れと似ていた。
海から遠い関東平野に育った私にとって、海は「好きだけど近寄り難いもの」であり、「行っても何をしていいのかわからない場所」であり、自分とは遠いものだった。子供会の旅行で海に行ったことがあった。明日は海に行くんだな、と思うと嬉《うれ》しくて眠れなかった。だけど、大きな波の打ち寄せる海岸に自分が立ったとき、ただ茫漠《ぼうばく》と広がる海に圧倒された。あまりにも無知だった私は、この巨大な塩っからい水たまりが何であるかわからなかった。ただ、波打ち際で逃げ回り、砂の城を作り、陽焼けした。実は海のなかには別の世界があり、多種多様な生物たちが生き死にを繰り返し、地球を浄化し続けていることなど、知るよしもなかった。
同じように、音楽もまた私にとって苦手な分野だった。
まず楽譜が読めない。演奏できる楽器はフォークギターだけ。無器用なので単純なコードしか押さえられない。
ピアノ、もちろんダメ。その他、フルート、シンセサイザー、ケーナからトランペット、いろんな楽器に挑戦したがどれも長続きしない。私の部屋には累々と楽器の死体が積まれている。演奏されることのないかわいそうな楽器たち。
とはいえ、私が一番興味があったのは実は「歌」である。アカペラでハモって歌いたい、というのは長年の密《ひそ》かな夢だった。
ああ、誰か私をアカペラグループに誘ってくれないかしら。とはいえ楽譜が読めない自分が、他人と合唱できるのだろうか。ああ、なんで私の親は私にピアノを習わせてくれなかったのかしら、まったく、もう。
というわけで、私には音楽コンプレックスがある。
それゆえよけいに音楽に憧れる。あまりに憧れが強いため、どんな楽器を練習しても、初心者である自分の下手さに耐えられない。大人になってから音楽を始める私の脳には、ピアノを弾けば「坂本龍一」的イメージがあり、不遜《ふそん》ながら自分を「坂本龍一」と比べてしまうのだ。そしてあまりの下手さに勝手に絶望して、練習を投げてしまう。こうなりたいイメージと、自分とのギャップに耐えられない。
けっきょく、カラオケに行って自己陶酔的に歌うくらいしかできない。もちろん誰も聞いてはくれない。お愛想に拍手してくれる程度。むなしい……。
私は自分が陶酔する歌を歌いたいんじゃない。
そうなのだ、私はシンクロする歌を歌いたいのだ。誰かと、何かとシンクロする歌。ハモる歌を。
完璧《かんぺき》に人間の声がハモった瞬間の鳥肌の立つような快感。
本当に鳥肌が立つのだ。自分はどうしてあれほどまでにハーモニーに衝撃を受けるのだろうか。不思議だ。他人がハモっているときでさえ、背筋がぞくぞくして、じんわりと痺《しび》れるような甘い衝撃が身体の芯《しん》を貫いていく。
だったら、自分がハモれたら、どんなに気持ちいいだろうか……。
まるで、セックスしたことのない処女みたいに、私はハーモニーに憧れている。この憧れは年を追うごとに、強くなっていった。
ある日、仕事でS社に行ったら、S社の書庫に不思議なタイトルの本を見つけた。
『聖なる癒《いや》しの歌 ヴォイスヒーリングへの道』渡邊満喜子《わたなべまきこ》著 金花舎。
「ヴォイスヒーリング」って何だろう? 渡邊満喜子って歌手の? いやいや違う。あれは、渡辺真知子だ。
「あのお、この本、借りてもいいですか?」
って聞いたら、「いいですよ」と言われた。
それで私はまったく偶然なのだけど、『聖なる癒しの歌』なる本を読むことになった。
読んでみると、それはそれは不思議な内容の本だった。
著者の渡邊満喜子さんは某大手出版社の編集者を経て学者であるご主人と結婚する。結婚後は翻訳家や、ルポライターとしても活躍する。S社からも何冊か本を出版していた。だから彼女の本が書庫にあったのかもしれない。
1977年、彼女はご主人の海外研究に同伴してメキシコを訪れる。
そして、そのメキシコで彼女の身体に何らかの変化が生じて、とにかく彼女は歌いだすのである。すばらしい高音、自分の声とは思えないソプラノで、自分すら知らない旋律を歌いだす。
以来、彼女に降りて来た歌は、彼女の人生とともに成長し、その音域は広がり、時には古代語のような歌詞を伴い、メキシコから日本に戻って来てからも彼女はずっと歌い続ける。もちろん彼女は音楽教育を受けたことはなく、歌唱に関してはまったくの素人だった。だが、なぜか歌の精霊は彼女に降りて来てしまう。そして彼女は歌うことを余儀なくされるのだ。
本は、彼女と彼女の歌の成長の記録だった。
しかも、元来、優れたライターであった彼女の文章力は、このオカルト的ともいえる体験を、非常に冷静に感情を抑え表現しており、現実から遊離することなく、逡巡《しゆんじゆん》し、とまどいながら自己の体験を生きてきた彼女の知性が感じられた。
本の巻末には、著者である渡邊満喜子さんのご住所が記載されていた。
現在、彼女は独自のメソッドで歌のワークショップを行っているようなのだ。
私は本に描かれていた渡邊さんの「声」を聞いてみたいと思った。精霊から授けられたという声とは、どんな響きであるのだろう。その声は相手の魂の歌を歌うという。では、渡邊さんに会い、私のために歌ってもらえば、私は自分の魂の言葉を聞くことができるのだろうか。
私はさっそく手紙を書いた。
「あなたの歌に興味があります。お会いしていただけないでしょうか」
すると、すぐに返事が来た。
返事には(歌の教室があります。スケジュールをお知らせします)と書いてある。それが、返事を受け取った翌日だった。で、私はドキドキしながら、横浜まで、彼女の歌の教室に出かけて行った。本を読んでから十日もしないうちの出来事だった。
渡邊満喜子さんの本には「なぜ私がこんな奇妙な体験をしなければならないの?」というフレーズが繰り返し出てくる。
彼女は都会生まれの理知的な働く女性で、元のご主人は学者で、オカルトじみた怪しいことなど大嫌いだったそうだ。
その彼女が、なぜいきなり歌を歌いだしたのか? しかも、彼女に降りて来た歌は、だんだんと非言語的なヴィジョンを彼女に与え始める。彼女はそれを自分が言語に翻訳できることを知る。
そしてそのヴィジョンが示すには「私は音楽を司《つかさど》る精霊で、縄文よりも古い昔から存在していた」そうなのである。
なんなのだ? それは。幻覚なのか、幻聴なのか。だいたいそんなことを、現代人の自分がなぜ体験しなければならないのか。これでは自分は気が狂ったみたいではないか。
いったい自分に起こったことは現実なのか、妄想なのか。自分は正常なのか、変なのか。彼女は徹底的に自分に起こったことを検証しようとする。その姿勢を崩さない。そう簡単には自分の体験を受け入れない。
しかし、自分の体験が真実かどうかを知ることができるのは、自分だけなのである。彼女の身体に起こったことはすべて、彼女にとっての現実である。
長く苦しい理性との葛藤《かつとう》の果てに、彼女は自分の身体に起こった変化を受け入れていく。
渡邊さんの体験を読んで、私が最初に感じたことは、
「他人と違う体験ができていいなあ」
だった。そういう不思議な体験をした人を、私はすぐに羨《うらや》んでしまう。そこが凡人の浅ましさだ。
だけど、もし私が渡邊さんと同じ立場だったら……? と想像すると、かなり怖い。
ある日、原稿を書いていたら突然に「歌」がやって来て、自分でも抑制できない衝動で歌を歌い始めるのだ。しかもその歌は、私が知らない歌。聞いたこともない旋律、わからない言葉。
歌は止まらない。私はどうすることもできず歌い続ける。夫は驚き庭かけまわる。大パニックだ。そうなったら、私は自分が発狂したかと思うだろう。病院に行けば「少し仕事のしすぎでは?」と言われてお薬を処方されるだろう。
それでも自分の体験が病気だとは思えず、他者と共有してもらおうと努力したら「最近、ランディさんはちょっと変だ」と噂されるんだろう。
そして、みんなが「あなたは変だ」と言うようになったら、私は自分が信じられなくなって、そしてすごく孤独になるんだろう。
でも、渡邊さんにとって幸運だったことがある。
彼女の歌の非凡さは、彼女のみならず、それを聞いた人々が認めざるを得なかったことだ。声は聞くことができる。彼女の歌は他者の耳に届いた瞬間、現実である。
渡邊さんは自分の身体をひとつの楽器のように使って、一度に何通りもの音を出すという。高音は超音波のようであり、低音は地響きのようである。彼女が声を出すと、周りの物が共振して鳴りだしたりする。
自分に起こった不思議を、受け入れるようになれた頃から、彼女は目の前の相手の心と共鳴する声、共鳴する歌を歌いだすようになる。そして、三年ほど前から、彼女といっしょに歌うと、彼女の声に共振して、誰でも自分の裡《うち》なる声を出すようになることを知る。しかも、自分自身が発した声は、自らの心を解放する力をもつという。
渡邊さんは自分の声の力を自覚した、そのときから、自らの仕事として歌を再選択する。教室を開き、そこに集まった人たちといっしょに歌い、声を導き、それぞれが自分の声で自分のために歌うことができるように活動するようになったのだ。
私は最初、まったく興味半分、物見遊山の気持ちで出かけた。(もしかして私にも声が降りてくるかなあ)と、怖いもの見たさである。
渡邊さんは同時にいくつかの声を出し、それらの音が倍音になるという。
倍音といえば、有名なのはモンゴルのホーミーだ。チベットの密教にも声で倍音を出すという修行があるらしい。
倍音の状態が、人間の脳にアルファ波を出させる力があることを、ホーミーを取材したNHKの番組で知っていた。とはいえ、私は生《ナマ》ホーミーを聞いたことがなかったし、倍音というものがいかなるものかも知らなかった。
だから、ただもう珍しいものに触れたいという、それだけで、渡邊さんに会いに行った。考えてみたら不純な動機である。
その日、私が出向いたのは、横浜のとあるセンターのオーディオルームだった。
十人くらいの生徒さんが集まっていた。男性一人、あとは全員が女性である。年齢はみなバラバラ。若い方もいれば、私の母親くらいの年齢の方もいらっしゃった。
少し遅れて会場に到着した渡邊満喜子さんは、小柄な美しい女性だった。
都会的で、私がよく知っている知的な働く女性のイメージ。品があって、よいご家庭できちんと躾《しつ》けられた淑女……という印象だ。
彼女を丸く囲んでイスに座る。
するとさっそく渡邊さんが「じゃ、まずみなさんの心を歌ってみます」と言い、目をつむって片手を天に向かって差し上げた。
次の瞬間。発せられた声をなんと表現すべきか。
鼓膜がブンッと震えるようなショックを受けた。なんつう大きな声を出すのじゃ、この人は? とあっけにとられた。
その声は歌というほどの明確な旋律はない。
歌のようでもあり、祝詞《のりと》のようでもある。原初の歌、歌の原形のようなもの。
高音域になると人間の声ではなくインディアンフルートのようである。低音域はチェロのように下腹に響いてくる。
そして、何よりも驚いたのは、人間パイプオルガンのように、幾通りもの音がふぁ――――んと空間に広がり、それが光の綾《あや》のように変化することである。いくつもの違った音が彼女の身体から発せられるのだ。それらの音が咽《のど》の奥できらきらと瞬くように揺れるのだ。
鳥肌が立っていた。身体がじいんと熱くなって、冷たい床の上にいるにもかかわらず足までほてって来て、私は靴下を脱いで裸足《はだし》になってしまった。
音が出るときって、温度が上がる。そう思った。
彼女は人間の身体の七つのチャクラに対応させながら、ゆっくりと声を出していく。それを聞いていると、だんだんとある錯覚に陥る。
たとえば彼女が「胸郭、ハートのチャクラで歌います」と言って声を出すと、私の胸郭が彼女の声に共振してブルブルし、自分が歌っているのか彼女が歌っているのか、よくわからなくなるのだ。
「私の声に共振していくと、自分の声が出しやすくなるのよ」と渡邊さんは言った。
次に、今度は彼女の声に合わせて、私たちも声を出す。
すると、その場にいた十人の声が重なって、それが「うわんうわん」とうねり出す。自分が声を出していることがわからなくなる。
「左で歌います」と彼女が言う。彼女に合わせて声を出す。
すると身体の左半分、とくに左側のわき腹からろっ骨にかけてだけが、ブルブルと振動する。なぜだ?
「右脳で歌います」と言う。すると、右の脳から左の脳に何かがすっと抜けていく。左脳で歌うと反対のことが起こる。
私は考える。声は咽で出ているはずである。なぜ右脳で歌うと右脳が反応するのだ? これは錯覚か? それとも右の脳が感知しやすい振動というものがあるのだろうか。
「じゃあ、今度はみなさんに一人ずつ歌ってもらいます。最初は私といっしょに声を出して、途中からは一人で好きなように歌ってください」
げえ、一人で? と私は焦る。
この日、初心者は私一人だった。まさかいきなり自分が一人で声を出せと言われるとは思っていなかった。私はもう順番まで気が気ではない。初めてなんだからそんな簡単に声なんか出せるわけないよな。先回りして自分を納得させる。
私の順番は六番目だったので、ひとまず先生以外の他の人はどんな歌を歌うのか聞くことにする。最初に歌ったのは唯一の男性だった。
この人は、もともと楽器を演奏する音楽家らしい。
すばらしい低い声で、しかも明確な旋律の歌を歌いだした。でも、この歌はメロディラインが明確すぎてなんだかあざとい気がした。渡邊さんの歌は違う。常識的な旋律はない。もっと奇妙な音楽だ。
男性が歌い終わると、渡邊さんが言った。
「すばらしいですね。あなたはいま旅立って行こうとしている。私はいまようやく自分のなかで、自分ができることを働く決意をしました、とあなたは歌っていますよ」
渡邊さんは、彼の歌から受けたヴィジョンを語りだした。
つまり、渡邊さんは、歌に込められた魂のメッセージみたいなものを、現代語に翻訳することができるのだ。歌が何を語ったかを、一人ずつに教えてくれるらしい。
次の人は、とんでもない高音をいきなり出した。
その高音がぴららぴららと天空をさ迷って、そしてどこかに飛び立とうとしているみたいだ。再び、渡邊さんは歌から受けたヴィジョンを翻訳し始めた。おもしろい。いったい彼女は何を感じたのだろう。自分が歌うことも忘れて、私はわくわくし始めた。渡邊さんは丁寧に一人ひとりの歌に耳を傾け、そして、その魂の声を伝えていた。
一人の若い女性が歌を歌った。
それを聞いた渡邊さんは「あなたは、お母さんのことでとても心を痛めていますね」と呟《つぶや》いた。すると、その女性は急にボロボロを涙をこぼして泣き崩れた。
もちろん、彼女の歌には歌詞などなく、ただ自分の思うままに声を出して自由な旋律を歌っただけなのだが、渡邊さんはその歌から彼女とお母さんの葛藤《かつとう》を感じ取ったようなのだった。
「だいじょうぶ、あなたの魂は、お母さん、私はもう一人で旅立っていけます。ありがとう、お母さん、と、お母さんに愛と感謝を歌っています」
そんなふうに優しく、渡邊さんは彼女に呟いた。
もしかしたら、歌とは自分自身のなかのもっともピュアな部分が表現される手段なのか……、そんなふうに私は思った。
ついに私の番が来てしまった。
緊張して中央のイスに座る。渡邊さんは、大丈夫よ、と言ってゆっくりと声を出した。私も彼女の声に合わせて声を出した。すると胸郭がブルブルと震えた。
次の瞬間に彼女は歌うのを止めてしまった。
だけど、私の声は出続けた。なぜ、声が出るんだろう、と頭が呟く。まったく理解できない。声は勝手に出る。どんな声を出そうとか、どんな旋律にしようとか、そういう思考の及ばないところから声が出ていた。
つまり、その声は通常、私がしゃべっている方法で出ている声ではないので、この声をどのようにコントロールしていいのかを脳がわからない、そんな感じだった。
声がどんどん高い方に行きたがる。頭を突き抜けて声が飛びだす。
瞬間、トランス状態になった。真っ白。何もない心地よさ。次に声は下に行きたがる。何かを歌っているが、それがどこから起こっているのかわからない。なにかとても気持ちよい解放感、昂揚感《こうようかん》を感じる。
私という理性、自我の運転を離れて、声が勝手に暴走している。どこへ行くのか何を歌うのかさっぱりわからないけれど、確かに私は歌っていた。しかも、とても大きな声で、自信をもって。
歌い終わると、すっと自分に帰って来た気がした。
歌っているあいだは、どこかを気持ちよく漂っていたような感じだった。目を開けると渡邊さんが目の前にいて拍手していた。
「すばらしかったわ。あなたは最初にここに座ったときに、自分は歌えない、って思いましたね。でも、私はある物語をあなたに話します。それは、今あなたが歌った物語です。川です。とても大きな、豊かな川で、人々がそこで暮らしています。きれいな花や果物を乗せたボートが行き交っています」
瞬間、メコンだ! と直感した。
私はメコン川を歌っていたのか? そんなつもりはこれっぽっちもなかったのに。
「あなたはこの川をよく知っていますね。川は流れています。この川をあなたはとても愛していて、そしてあなたのなかの命のイメージは、この川と繋《つな》がっています。人間と川が相互に関連しあって、自然を育《はぐく》んでいる、その川をあなたはとても愛《いと》おしく思っています」
私は五年前に、メコン川を旅行していた。
一ヶ月もの間、メコンに魅了されてメコン川が見えるホテルに滞在し、自分でボートを漕《こ》いで、メコンをさ迷い続けた。その旅行記が、私の処女作になった。
確かに、メコン川は私の原点だったかもしれない。自分ですらすっかり忘れていたけれど。
渡邊さんが語ってくれた私の歌の物語は、私の意識にはまったくない物語だった。それが正しいとか間違っているとかは証明のしようもない。そこに意味を見いだすのは誰でもない私自身だろう。驚いたことに、そのなかにはこれから私が書こうとしている小説のテーマが入っていた。
教室から帰って来ても、私はあの声を出したときの快感が忘れられない。
気持ちよかった。自分が筒になってた。身体が木管楽器みたいだった。私の声、私の歌だ。世界にたった一つの私という身体が出す音だ。
湯河原にたどりつくと夜で、空にはきれいな半月が出ていた。ふと、まだ歌えるだろうかと思った。いまならまだ、渡邊さんの振動を身体が記憶しているんじゃないだろうか……と。
月を歌ってみようと思った。声を出すと、私の知らない方法で知らない音を身体が出した。この感じだ。その音は、細くて低くて、ウ―――というウ音で歌われた。月ってやっぱりウ音なんだなと思った。moon も TUKI もウ音だもの。
声を出しているとき、どんな考えも頭から消える。自分がただの音になる。月の音だ。
そのとき、生まれて初めて「祈る」ってこういうことだったのか、って思った。
■
……というエッセイを書いたのは、1999年の11月だった。
その後、私は渡邊満喜子さんといくつかの思い出深い旅をすることになる。いまでは満喜子さんは私の姉のような親しい存在になった。
私はずっと「音楽」というものが何なのか、考えている。いまも考えている。相変わらず、私は音痴だし、楽器も演奏できない。
だけど、私をとらえて離さないこの「音楽」というものを、私は片時も忘れたことはない。たぶん、自分は「音楽」についての小説をたくさん書くだろうと思った。「音楽」にド素人の私が……だ。
私は満喜子さんから、とても大切なことを教わった。
それは「自由に自分の声を出す」ということだった。自分の地声で歌うということだった。地声で大きな声を出すことは、実は日常の生活ではほとんどない。
どちらかといえば女性は、自分の本当の声よりも、やや高めの声を使って生活している。でも、この声は本当に自分の心に思っていることを話すには向かない声のようだ。
魂について語るとき、私は自分の声を使う。そのことに気がついた。
とはいえ、自分の声というものがどういうものなのか、いまだによくわかってはいないのだけれど、満喜子さんといっしょに声を出すと「ああ、これか」と思うことがあるのだ。
声に着目するようになってから、自分が使っている声を聞いて、自分の気持ちの状態がわかるようになってきた。私は今、声を使い分けている。自分にとって大切なことをするときは、本来の声を使う。そうでないと、状況に身体がついてこない。
どんな声で暮らすか、は、人生を多少なりとも左右しているような気がする。私はずっと高音域の、ひゃらひゃらした声で暮らしていたから、多くのものを見失っていた。その音域から自分を降ろさなければ、出会えない人もいる。
2001年に、音楽家の巻上公一《まきがみこういち》さんと出会った。
巻上さんの声は、すごかった。何通りもの強烈な声を使い分ける。その声にはプリミティヴな力があった。
巻上さんはホーメイをも自在に操る。トゥバ共和国に伝わるホーメイはモンゴルのホーミーと同じように咽歌《いんか》と呼ばれるもので、咽《のど》を使った独特の歌唱法だ。
巻上さんが歌うと、まるで二つの咽が存在するように低音と高音の音が同時に出てくる。倍音声明である。満喜子さんと似ている。
私は巻上さんにお願いして、ホーメイを教えていただいた。
家族に笑われながら、ずいぶんと風呂場《ふろば》で練習したかいあって、少しホーメイらしき音が出せるようになってきた。
咽の奥で鳴る高音が、顎《あご》の骨を伝って、そのまま脳天に響く。
ホーメイは舌で咽を塞《ふさ》いで出すので、閉じこめられた声は自分の口から頭蓋骨《ずがいこつ》に抜けて、強く振動する。
たぶん、こんなに自分が気持ちのよい歌は、ないかもしれない。
人に聞かせるというよりも、自分が快感なのだ。
あちこちに旅行して、森のなかや、滝のそば、清流の石の上、そんな場所で一人でこっそりと声を出してみる。
すると、人間の声は、風や、水の音ととてもよく共鳴する。
そのとき、私は、自分が鳥や、虫や、蛙になった気がする。
声とはなんだろう、歌とはなんだろう。
たぶん生涯をかけて、私は音を探し求める。そんな気がする。
音と、水と、光は、とても似ているんだ。
それらはきっと、魂の領域に接するものだ。
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一日一悪
2001年10月、精神科医の加藤|清《きよし》先生をゲストにお迎えして「聴くことの時代/トーク・デ・ナイト」というイベントを行った。
加藤先生と過去にお会いしたことは二度しかなかった。八十歳になるご高齢だし、神戸に住んでいらっしゃることもあって、あまり頻繁には行き来できない。
でも、わずか三度の出会いなのに、加藤先生はいつも私に大鉈《おおなた》を振るう。
どっひゃー、参りました、と私は会うたびに切られて倒れる。
それが快感なんだ。
自分のことを、こんなふうに快刀乱麻のごとくばっさりと殺してくれる人は、なかなかいない。
だから加藤先生にお会いするときはいつも「首を洗って待つ」という心境だ。
この日もそうだった。
トークが始まると、加藤先生は精神科医としての長い臨床経験をもとに、人間の心の話をしてくださった。
その話しぶりは、近所の御隠居さんの昔話のようで、正直に言うととても精神科医とは思えない。ざっくばらんだ。いや、大ざっぱ過ぎる。
「私の患者さんに、統合失調症の人がおりましてな、その人のお母さんが死ぬときに、遺言で、なんとか息子に結婚させてやってくれ、そして仲人になってやってくれ、とお願いされましたんですよ」
と、加藤先生はおっしゃる。
「ほうほう、仲人をねえ」
「はい。それでね、私ももう二十年も治療してだいぶ統合失調症のほうもよくなったんで、ある知人の娘さんをその統合失調症の人に紹介したんです。そしたら、二人が会って気がおうたらしくて、それで、結婚してもいいゆうことになったんです」
私は統合失調症の患者さんの主治医が、結婚式の仲人になるという話はこれまで聞いたこともなかったので、へー、そういうこともあるのか、と不思議な思いで聞いていた。
「そして、結婚したんですけどね、一ヶ月もしないうちに、その人のお父さんから電話がかかってきましてね、いま、息子が家におるんです、と言うんです」
「戻って来てしまったんですか? 新居から?」
「はい。家におって、ドアを閉めて引きこもったまま出てきませんって言わはるんですわ。私、これは危ないなと思って、何か匂いしませんか、って聞いたら、そういえばガスの匂いがしますとおっしゃる」
そりゃ、ただごとじゃない。
「ガス? ガス自殺ですか?」
「そうです。ガスです。ガスで自殺して死んでしもうた」
加藤先生の話はあくまで淡々と続く。
「えーっ、死んでしまったんですか?」
私はリアクションに困る。そんなに簡単に患者さんの死のお話をされても、どう同調していいのかわからない。
「はい、なくなりました」
「せっかく結婚したのに?」
先生は少し、顔を傾けて言った。
「結婚したから、だから死んでしまったんでしょう。エロスはタナトスにひっくり返るんです。エロスは危険なんです」
エロスは危険……。なんだそりゃ。
私はあっけにとられて先生の顔を見る。先生の表情は変わらない。笑いもしない、かといって悲しげでもない。禅問答を仕掛ける禅師みたいだ。
「それから、今度はお父さんも具合が悪くなって、私のところへ来るようになりました。この家には弟がいたんですが、弟さんは家に火をつけて燃やしてしまいました。お父さんも結局自殺しましてね、弟さんのほうもなんとか暮らしているようですが、具合はあまりよくないようです」
「す、すごい話ですね……」
「そういうことがあるんです。家族の一人がタナトス、つまり死の方にひっくり返ってしまうと、周りも巻き込まれるんです。そのきっかけになるのがエロスです。だからエロスも危険なんです、急にエロスに傾くと今度はタナトスにひっくり返る」
「な、なるほど、そう言えばそういうことありますね。一人が死の方向にひっくり返って向かいだすと、まるでドミノ倒しのように家族がパタパタと白から黒へとひっくり返っていくことが……」
私はそのとき、他人のことを語るような口調で、実は自分の家族のことを考えていた。
兄が引きこもり始めたときに、家族のなかに起こったなんともいえない陰うつな気分の連鎖について思い出していた。
一瞬の間、その記憶に浸っていたように思う。
そうだ、兄と母が死んでから、私はより人の死に多く遭遇するようになった。そして、いつも死について考えている……。私は長いタナトスを生きている……。
するといきなり先生の声が私の方へまっすぐ飛んできたのだ。
「だから、あんたは生き残ってますやろ」
はっと我に返って、何を言われているのかわからなかった。
だって私は、自分の家族のことは話していない。他人の家族のことのように語ってみた。自分の家族のことは、記憶のなかに押しとどめておいた。
ただ、確かに、私がいま心のなかで考えていたことは、私の家族のことだった。
どうして、先生は、私の考えがわかるんだろうか。私はどぎまぎしながら先生の顔を見た。
「あの? 私のことですか?」
先生は相変わらず無表情に、でも、どこかに人なつこさを残して私を見据える。
「そうです、あなた一人だけ生き残ってるでしょう」
一人だけ、生き残っている……? どういうことだ。
言われてみれば私は確かに家族の死の連鎖には引きずり込まれていない。
家族だけではなく、他人の感情的トラブル、狂気、それらの死に向かうような力にいつもあまり巻き込まれることなく自分の人生を築いてこれた。
でも、それはなぜなのか。
「それが、病む力なんです」
断言されてびっくりした。
「病む力ですか? 私、病んでるんですか?」
先生は初めて、ほっほっほと笑った。
「あたりまえでしょう、病んでなかったら小説なんか書けません」
ううううっ、わかるようなわからないような。
トークショーの最中だと言うのに、私はその場を忘れて自問自答を始めた。
「じゃあ、どうしたら、病むことを力まで高められるんだろう。病んで死んでしまう人もいる。でも、病む力によって死へ向かう力を生に向かう力に転換する人もいる。どうしたらそのひっくり返す力をもてるんでしょうか」
先生ははぐらかすように会場を見る。
舞台が明るいので、会場を埋めている観客の顔は見えない。
「それは……、わかりませんね。生きてみないと。業みたいなものですから」
業……、業ときたか。
「カルマ、ということですか?」
「そうですね。業が熟さないと、なかなかそううまくはいきません」
カルマか〜っ。カルマと言われてしまうと、もう手も足も出ないなあ、と私が頭を抱えていると、先生は急にまた妙なことを言いだした。
「あなたは、なにか悪いことをしたことはありますか?」
質問の意図がわからない。
瞬間に、自分の頭のなかに自分がこれまでしてきたたくさんの「悪事」が浮かぶ。私はそれを必死で打ち消して、そのなかの一番当たり障りのない悪事を選んでしゃべる。
「は? 悪いことですか? ええと、はい、たくさんあります。子供のころに隣の子のおもちゃを家にこっそり持ち帰ってしまったり……」
いやいや、もっと悪いことたくさんしてるけど、そんなことここで言えるわけないじゃないか。ああ、私ってすごく悪い奴だったんだなあ……。もしかしてこの気持ちも加藤先生にはお見通しだったりして、と怖くなる。
「あなたは、悪いことをしたときどう思いますか?」
先生は私の話を聞いているのかいないのかよくわからない。
「え? それはその、もちろん罪悪感を感じます、いまでも思い出すと苦しいこともたくさんあるし……」
私が暗い顔をすると、先生もつられて暗い顔をする。
「それはいかんね」
「は?」
「私が言っているのは罪悪感を感じるような悪いことじゃなくて、相手に感謝されるような悪いことです。そういう悪いことをたくさんすればいいんです。一日一悪です。毎日悪いことをしなさい」
悪いことをしろという。
しかも相手に感謝されるような悪いことをしろという。
それとカルマが熟することと何か関係があるんだろうか? ますますわからない。
「いったい、相手に感謝されるような悪いことって、どんなことでしょうか?」
私は素直に聞いた。すると先生は「ふうむ」と考えてから、こんな話をし始めた。
「私が子供のころ、誰もがとても貧しい時代に、一人だけ白米のお弁当をもって来る子供がいましてね、もう、周りの子供たちはいつも腹がへっているし、その弁当がうらやましくてうらやましくて、たまらんのですわ。それで、ある日、私がその弁当を黙って食べました」
「え? 人の弁当をですか?」
「はい」
「全部?」
「はい。とてもおいしかったです」
「そ、それはやっぱり悪いことなのでは?」
「その子も自分一人だけ白米の弁当を食べていて、申し訳ないなあと思っていたわけですよ。心のなかで、みんなが飢えているときに自分だけこんなものを食べていいのだろうか、って思っていたわけですよ。だから、私、おいしくいただきました」
加藤先生は真面目な顔で私を見て、それからにっこり笑った。
「悪いことをたくさんしなさい。道徳的なことや、理にかなったことではなくて、悪いことをしなさい」
私は、確かにこのとき何かがわかった気持ちになった。
「あ、そうか」って思った。でも、いったい自分が何をわかり納得したのかを言葉にするのはとても難しい。言葉にしてしまうとそれは微妙に意味が変わってしまうようで怖い。
それでも、誤解を恐れずにあえて書くとしたら、たぶん先生は「自分の業も相手の業も飲み込んでひっくり返してしまうようなことをしてみたらいい。それを、恐れずにやってみたらいい」そういうことを言ったのだなあ、と思う。
加藤先生のお話は、まるで神話みたいで、言葉が文字にされることを嫌う。
加藤先生の肉体から出た言葉は書き言葉として留めようとすると「自由にしてくれ」ともがく。でも、この話はどうしても書いておきたかった。
一日一悪だ。相手の業も自分の業もいっしょくたに引き受ける力。
そのとき、心がジャンプする。
エロスとタナトスがひっくり返ったり、病むことが力に変わるのはそういう時だ。
そういう悪いことを、私はこれまでしてきたかなあ。
あんまりしてねえなあ。よけいなおせっかいや、小賢《こざか》しいことや、小悪党的な悪いことしかやってこなかった。
だから、私は業が深いんだなあ、と、つくづくそう思った。
そんな折り、実家の父親から電話がかかってきた。
「おい、オマエ、小説を書いて賞の候補になったりしてるんだってなあ、ちっとも知らなかったぞ」
どきんとした。
実は私は自分が家族のことを小説に書いていることも、自分が作家であることも、父には隠してきたのである。いや、隠したわけではないのだが、どうせ話しても理解してもらえないだろう。
それに、兄の自殺のことも含めて、家族の恥を小説に書いて日本中にバラまいているわけで、そんなことを知ったら父は逆上して、私を罵倒《ばとう》するに違いないと思っていたのだ。
私が小説を書きだしたころ、まだ私と父との関係はひどくぎくしゃくしていた。
私も父も、母と兄という家族の半分を喪失した悲しみから、立ち直れてはいなかった。二人の死に方は壮絶で、喪失というよりも、乱暴に剥《は》ぎ取られていったような痛々しさが私のなかには残っていた。
父に対する私の挑戦があったように思う。「あなたは、私にとってこんなふうだったのだ」と、父に自らの醜い姿を見せてやりたいという、思いがあった。
ところが、小説を書き進めていくうちに、書くことによって私のなかで何かがゆっくりと変容していった。三作の家族の喪失の物語を書き終えるころには、私は自分の家族の喪失について、かなり冷静に分析できるようになっていた。そして、生きている父を、まったく別の角度から理解するようになった。
一日一悪。
ふと、加藤先生の言葉が頭に浮かんだ。
「そうか」と思った。一日一悪だ。
私は、意を決した。
父に自分の小説を読ませることにした。
なぜかわからないが、そうしなければいけない気がした。私は私と家族の業を、父に戻さなければいけない。そうしないことには、私のカルマは永遠に閉ざされてしまうと思った。なぜ、そんなことを思ったのかわからない。勘である。
私は段ボール箱のなかに自分の書いた全部の本を梱包《こんぽう》して、父に送った。短い手紙を添えたが、多くは語らなかった。
いまは酒を飲むことのなくなったシラフの父が、私の小説のなかに出てくる自分と出会ったら、どんなに驚き、憤るだろうか。
それでも、私は書いてしまったのだ。書いてしまったのだから、読ませるしかないではないか。
父からは、翌日に、もう電話がかかって来た。
「本を読んだよ」
と、父は言った。
「ショックだった。本当にショックだったよ」
そうだろうなあと思った。でも、父は怒らなかった。父はなぜか不思議な話をし始めた。
「オマエは大島の波浮《はぶ》の港に、夜、船で入ったことがあるか?」
波浮の港?
「ううん、ないよ、どうして?」
「あそこに夜入るとなあ、合わせ火ってのをするんだ。それがきれいなんだ。俺はあれが大好きでなあ。オマエもいつか必ずそれを見てくれよな」
いったい何を言っているんだ、と思った。なんだ、合わせ火って。でも、父はそれを私に見せたいと言うのだ。見てくれと言うのだ。その真意がまったくわかりかねた。
「オマエ、ずいぶんいろんなこと書いたなあ」
小説だけじゃない。エッセイにも父のことを書いている。
「ごめんなさい」
「でもまあ、しょうがないよ。だって、オマエは俺の娘だからな。娘に書かれたんだからしょうがないさ」
そして、付け足すように言った。
「ありがとう。お兄ちゃんも喜んでいると思うぞ」
心臓がつぶれるかと思った。
絶対に父は激怒すると予想していた。それなのに、父は、私と家族のすべての業を自分で引き受けて、私に「ありがとう」と言ったのだ。
この瞬間、私は四十年間背負ってきた家族の業から解放された。
生きていて、よかったと思った。
父を愛《いと》おしいと思った。
すごいね、加藤先生、一日一悪の力だ。
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森のイスキアでおむすびを学ぶ
「森のイスキア」のことを誰かに説明するのはすごく難しい。
「私ね、明日から弘前《ひろさき》の『森のイスキア』に行くんだ」
すると必ず質問される。
「へえ、それってどういうところ?」
「えっと、佐藤|初女《はつめ》さんていう素敵なお母さんがいてね、おいしい料理を作ってくれる」
「わかった、自然食の民宿だ」
「え――と、確かに民宿だけど、ちょっと違うかな」
この「ちょっと違う」というとこの説明が難しい。
「どこが違うの?」
「う〜ん。ごはんが違うかな。それからおむすびが違う」
「なにそれ?」
「初女さんの炊くごはんで、初女さんがおむすびを握るとすごくおいしい」
「そうか、その人っておむすびの達人なのね!」
「達人? いや、そういうんでもないけど……」
「じゃあ、何なのよもうっ!」
というわけで、終《しま》いには相手は怒りだし、ちゃんと説明できない私は途方に暮れてしまう。うまく定義できない場所、それが「森のイスキア」なんだ。だからこそ、私にとっては特別の場所なのだと思う。
「森のイスキア」を初めて訪れたのは2000年の12月だった。
縁あって、映画監督の龍村仁《たつむらじん》さんのお誘いを受けたのだ。十メートル先も見えないほどあたりは吹雪いていて、たどりついた「森のイスキア」は山深い修道院のように思えた。私たちの車を見つけてイスキアの扉が開く。なかから数人の女性たちが雪のなかへ飛び出してくる。車を降りるとイスキアのスタッフの方々が鐘を鳴らして出迎えてくださった。スタッフと言っても、皆ご近所に住むご婦人たちである。
龍村仁監督の映画『地球《ガイア》交響曲《シンフオニー》第2番』に、「森のイスキア」は登場する。映画に描かれたイスキアの四季は美しく、そこに暮らす佐藤初女さんの姿はマリア様のようだった。
龍村監督は、「食べるという下世話で日常的なものが、実は最も聖なるものと繋《つな》がっていることを表現したい」と考えていたそうだ。そして、探して探して、ついに出会った取材対象が佐藤初女さんだったという。
「弘前の方に不思議な女性がいる。その人の作ったおむすびを食べて、自殺しようとした若者が再び生きる決意をしたそうだ」
それが、龍村監督が最初に聞いた初女さんの噂だった。あくまで噂である。たかがおむすびで、人間が死を思いとどまるだろうか。でも、とにかく監督は予感めいたものを感じて初女さんに会いに行った。
「待ちあわせしたキャッスルホテルでね、ひと目みて、自分が探していたのはこの人だ、と思いましたよ」
と監督は断言する。
「品格が違うんです。人間の品位というものがね」
映画が公開されると、さらに全国からたくさんの人々が訪ねて来るようになった。初女さんは、さまざまな理由で食べる力を失っていた人たちに、おいしいごはんを作り続ける。「森のイスキア」には決まったメニューというものがない。その日、その日、初女さんが手に入れた食材を使い、思いついた季節のお料理が出される。初女さんの作った食事を二日、三日食べていると、なんとなく身体と心が元気を取り戻すのだと言う。いまも初女さんは「食べる」ということを通して多くの人たちと繋がっている。
初めてお会いした初女さんは、とても色っぽい方だった。
私はどちらかと言えば「日本のおっかさん」のようなイメージを抱いていたのだけれど、まったく違った。雰囲気的には踊りのお師匠さん、あるいは銀座の老舗《しにせ》小料理屋のおかみさんを彷彿《ほうふつ》させる。凜《りん》としている。ある種のストイックさを漂わせていて、少し怖いような感じ。初女さんがその場に現れるだけで場が鎮まるような「どん」とした魂の落ち着きのある方で、確かに、龍村監督がおっしゃった「品格」というものを、私のごとき若輩者でも感じてしまう。
優しい方……というよりも、とても強く、厳しい方というのが第一印象だった。
それにしてもなんというお美しさだろうか。女として、初女さんの存在全体から立ち上がってくる香《かぐわ》しい雰囲気に圧倒されてしまった。彼女にはエロスがある。そのことに驚いた。
女性がいつまでも女性的魅力を失わないということ。その意味を再び考えた。
命の力を伝承する人たちは、みな、ある「色気と品位」をもっている。この二つは矛盾するように思えるけれど、実は同時に立ち上がる力だ。品位とは色気であり、色気のない品位などありえない。エロスと抑制のバランスが、生命をくるくると輪舞させている。
そういう人を、心底「かっこいい」と思ってしまう。ダサい言葉だけど、シビレるって奴だ。びりびりしちゃう。会っただけで体に電気が走ってしまう。
私はなんだか自分がとてもふわふわした軽い人間に思えて、初女さんに対してうまくご挨拶《あいさつ》すらできない。
何をどんなふうに自分について説明していいのかとまどってしまう。しどろもどろしながらまともにお話もできずに、ふがいなくて落ち込んでいた。
お食事の時間になって、初女さんの漬けたお漬物や、イスキアのお母さんたちが作ったおかずがテーブルの上に並ぶ。自然の素材を使ったシンプルで素朴な食べ物。おいしい。でも、私はなんだか居心地が悪い。なぜ、自分がこうしてここに来たのか、何を求めて来ているのか、はっきりさせていないからだ。私はお客さんになるためにここに来たわけじゃない。そうじゃない。
「実は、私の兄は、餓死してるんです」
食事が終わってお酒の席になってから、私は初女さんの前に座って思い切って打ち明けてみた。「兄は、こんなに豊かな世の中で、何も食べずに餓死して衰弱死したんです。それって、どうしてだろうって、ずっと考えてました」
兄が食べられなかった理由。
兄は拒食症ではなかった。ダイエットしていたわけでもなかった。ただ食べなかった。食べる気力を失っていたとも言える。でも、なぜ? 人間はそんな根源的な本能すらも失うほどに病めるのだろうか。
兄が亡くなってから、私は、食べるという行為の意味について考えだしたのだ。食べるってどういうことだろう。人が食物を食べるというのは、本当は何のためだったのだろう。そして、食べられない、というのはどういうことなのだろう……と。
「初女さんのところへ来ると、食べられないほど落ち込んでいた人もだんだんと食事をするようになると聞いています。それはなぜなのか知りたいと思いました。もし兄がここに来ていたら、兄は死ななくてすんだのだろうか。だとしたら、なぜ、家族には兄に食事をさせることができなかったのか、私にはできなかったのか。もしかしたら、私はすでに食べるという行為の本質からズレているのかもしれない。でも、だとしたらそれを取り戻して、自分の子供に伝えたい。本当に食べて生きるということがどういうことなのか、それを、自分の子供に伝えたいと思うんです」
自分が何から切れているのか、それもわからず毎日生きている。
旅はいつもそのことを思い出させる。青森に来て、私はやはり遊び気分にはなれず、自分と向きあっている。
「私の母は自分が幼いときに母親を亡くしました。だから、自分は母親から何も教えてもらっていないからお前にも何を教えていいのかわからないと言ってました。私は思春期のころにはもう自立することばかり考えて母から逃げようとしてました。そしてずっと男の人と同じように働いて生きてきて、お金も儲《もう》けたし、小説も書きました。でも、なんというか、いまだに自分の子供に伝える文化をもっていないように思えるんです。母から娘に伝えるべきものを、私は自分がもっていないと感じていて、それを四十歳から探し始めました。生きること、食べること、そんな簡単なことをないがしろにしてきたように思えて。だから、ここに来たかったんです」
つっかえながらも一気に話をして、しゃべり終わったときは猛烈に恥ずかしかった。皆が唖然《あぜん》としている。何を熱く語ってしまったんだろう、アタシは……って。
初女さんは頷《うなず》きながらも黙って私の話を聞いていた。それから、
「不思議ねえ。とても有能な方なのに、自分は女として生きていない、という人がときどきいらっしゃるのよ」と言った。
「そしてね、私を羨《うらや》ましいって言うのよ」
と、いぶかしげに首をひねる。
「どこが羨ましいのかしら、こんなに平凡に生きているだけなのに」
平凡なものか、と思った。初女さんは何か私とは違う世界と繋がって生きている。それは今の世のなかで最も非凡な生き方だ。
「私の尊敬しているアイヌの女性が私に言ったことがあるんです。母から娘へと受け継がれた文化だけが伝わり残る……って。生活文化は女しか伝えられない……って。でも、私には娘に伝えられる文化がない。母ももう死んじゃったし。でも、文化って、実は思想だと思うんです。食べることの尊さを伝えることは、それは、思想だと思うんです」
それ以上の言葉が出て来なくて、私は黙った。なぜ自分がいまここに居るか、それだけはお伝えできたと思った。だから、どうしてほしいとか、そんなんじゃなくて、とにかく、いま自分がここに居ることの自分なりの理由を伝えることができて、ほっとした。
ほっとしたと同時に、なんだか途方に暮れてしまった。ひどく場違いなことをしゃべってしまったような気がした。皆の話題が変わっていくなかで、私は曖昧《あいまい》に返事をしながら茫然《ぼうぜん》としていた。初女さんは、そんな私の顔をときどき黙って見ていて、ふと目が合う。でも、あまり表情を現さない方なので、何を考えていらっしゃるのかよくわからない。目が合ったときの視線は、まっすぐに私の存在を貫くほどに力強い。
しばらくしてから、突然、初女さんが私に向かってこう言ったのだ。
「娘になりましょう」
よく聞き取れなくて私は「え?」と顔を上げた。
すると初女さんは私の手を両手でぎゅっと握りニコニコしておっしゃった。
「ここにいるみんなが証人になりますから、私の娘になりましょう」
あまりに急なことだったので、頭がうまく働かない。
でも、ようやく私は初女さんが私の気持ちに応《こた》えてくださろうとなさっていることを理解した。「娘になりましょう」それは、つまりあなたが知りたいことを私から学びなさい、教えてあげます、というお返事に他ならない。なんというシンプルでストレートな答え。
なにか熱い塊が自分のなかにどーんと落ちてきたようで、私は次の瞬間にはぼろぼろ泣いていた。なんてこった。「ありがとうございます」としか言葉が出ない。まいった。いきなり直球を投げて来る。
「娘になりましょう」そんなふうに他者の全人格、全存在をがばっと受け入れてしまう人が、やっぱり居るんだよ。すごいよ。初めて会った私を、娘にしてくれるって言うんだ、この人は。
翌朝は六時に起きて、初女さんといっしょに朝ごはんの支度をした。
娘の初仕事である。「まず、ジャガイモの皮をむきましょう」と促される。
「このジャガイモはね、小さすぎて農家の人が捨ててしまうジャガイモなんですって。自分が育てた野菜でも捨ててしまえるものなのね。でも、丸ごと煮ると本当においしいのよ」
ジャガイモの皮をむく。
「ジャガイモの丸みに沿って、薄く皮をむいてあげるの。優しくね、ジャガイモが痛くないようにゆっくりむきましょう」
私はジャガイモの皮は、いつも皮むき器でザクザクむいていた。皮を剥《は》ぐという感じだ。でも、初女さんはゆっくりゆっくり優しく皮をなで落としていく。真似しながらジャガイモの皮をむいていたら、裸になって水に浸したジャガイモたちが、なんだか「ほっ」と息をしているような気がした。
「息ができるように」ということを、よく初女さんは言う。「お米の息ができるように」「ジャガイモの息ができるように」その言葉の背後に潜む意味を、私はジャガイモをむいて少しわかった。
私の息とジャガイモの息は繋《つな》がっている。ジャガイモの息について感じるとき、私は自分の息を感じている。その二つがシンクロしたときに初めて「ジャガイモが息をしている」と心から感じることができる。
次に白あえにするニンジンの皮をむく。縦に薄く皮をむく。やさしくそっと皮をむく。するとニンジンの表面はすべすべで、やわらかなフォルムが現れる。普段、私がむくニンジンは、やはり皮むき器で強引に皮を剥がされて、筋ができて痛々しい。
そっと皮をむいたニンジンも、ジャガイモも、その姿がすでに優しくおいしそうなのだ。
並んでジャガイモの皮をむきながら、いろんなお話をした。本当の親子のように、子供の話や、死んでいった家族の話をした。暖かなゆったりとした時間だった。
「私の娘が大きくなったときに、こうしていっしょにジャガイモの皮をむきたいな。娘が、お母さんのむいたジャガイモは違うね、優しくむくときれいだね、って言ってくれたらうれしいな」
初女さんはにっこり笑って頷《うなず》いてくれた。
私は朝からまた涙ぐんでしまう。なんで、この人の側《そば》にいるだけで泣けてくるんだか、よくわからない。生きとし生けるもののすべてと、自分の身体の感覚で繋がっている人に出会うと、私は泣けてしょうがない。
思えば、阿仁《あに》のマタギ・松橋時幸さんもそんな方だった。アイヌのアシリ・レラさんもそうだった。みな、世界と身体感覚で繋がっている方々だ。そのように自分の内的世界と身体と外的世界を統合して生きている人たちは、ある種の尊厳と品格を漂わせている。
それからおむすびの作り方を教えていただいた。初女さんはごはんをしゃもじですくうときも、丁寧に丁寧に全神経を傾ける。
「お米を潰《つぶ》さないように。お米が息をできるように」
そうおっしゃる。
「ぎゅっとにぎると、お米が息をできないから、息ができるようににぎるんです」
お米のことを考えておむすびをにぎったのなんて、生まれて初めてだった。言われた通りに「お米が息をできるように」と思う。すると、なんとなく自分の手の「圧」を身体が加減している。
お米の息について知っているのは頭ではない。お米が息をできる「圧」を知っているのは、まぎれもなく私の身体、私の手だった。
お米の息を思うとき、私の息も生き返る。このようにして、人は他を思い、その思いによって自分もまた生かされるのだ。
短い滞在の時間のなかで、初女さんはできる限りのことを私に伝えようとしてくださった。その思いが私のなかに入ってくる。人は形を伝えることで別の何かを伝承する。それを文化と呼ぶのだな、と思った。
初女さんがにぎってくださったおむすびを、青森から湯河原の家まで持ち帰って来た。
朝作ったおむすびなのに、夜になっても形が潰れることもなく、お米の一粒一粒がくっきりと輪郭をもって息をしている。粒がきわだっている。ふつうのお米なのに、お米粒がみんな美人だ。
三歳の娘にあげたら、冷たくなったおむすびをおいしいおいしいとバクバク食べていた。私もいっしょに食べたけど、おいしかった。夫もおいしいと言う。
なにが違うのかわからない。でも、決定的に何かが違う。
慈しみ愛された食べ物には、命が宿るとしか思えない。その息をするおむすびを食べるとき、人間の息もまた吹きかえす。
なんという不思議だ。私以外のものを慈しむことは、自分を愛することと同じなのだ。
翌年、私は再び「森のイスキア」を訪れた。
五月半ばとはいえ東北の春は遅く、岩木山《いわきさん》にはまだ雪が残っていた。野辺のフキノトウはもう花を咲かせていた。フキが青々と葉を茂らせていた。
「森のイスキア」では、私は約束通り娘になる。
初女さんをはじめ、イスキアのお母さんたちから料理を習う。そのために来ているのだ。だから着くと真っ先に台所に立つ。料理のことは本を読めばわかる。だけど「森のイスキア」で学ぶのは料理以前の何か。人間が他の生き物を食べて生きていくことの意味、のようなものだと思う。
イスキアに来ると、どうしても兄のことを考えてしまう。私の兄はこの豊かな時代の日本で、食べることを止めて死んだ。兄が食べなかったのは「食べる気力をなくして」いたからだと思う。死にたかったと言うよりも、食べられなくなった、と表現した方が正しいように思う。
長いことひきこもりの状態にあった兄の食生活はとても乱れていた。彼が好んで食べたのはスナック菓子であり、インスタント食品であり、そして清涼飲料水だった。ジャンクフードを三度の食事代わりに食べ続け、そして気力を喪失していった。
そんな兄を見ているうちに、ふと思った。あ、そうか、人間は自分の口から食べ物を取り込んで、それを体内で栄養に変えて生きていく。食べ物が自分の血や肉、細胞になっていく。つまり、目の前にある食べ物で自分を作っているわけだ。この食べ物は私になるんだ……と。
兄の細胞はジャンクフードによって作られていた。大量のスナック菓子が消化され彼の細胞になっていった。これは事実だ。何年もの間、兄は主食としてジャンクフードを食べていた。そして、なぜか食べることを止めて死んでしまった。
いったい、食べるということはどういうことなのか。こんな簡単で根本的な問題の前に、私は立ち止まってしまった。
私にはいま、四歳の娘がいる。子供は大人の縮図みたいなもので、食べたものにすぐ反応する。子供を見ていると、食べ物が人間を作っていることが実感として感じられるのだ。
でも、だとしたら私はどんなものを選んで、何を食べさせたらいいのだろう。やはり有機農法の野菜がいいのかな。旬のものをおいしくいただく……としきりに言われるけれど、そういうものを食べていればいいのかな。なんだか、それだけじゃないような気がした。何か大切なことが抜けているような気がした。でも、何が抜けているのか、自分でもよくわからなかった。
その答えを探しに、私は佐藤初女さんを訪ねる。
「森のイスキア」の食事そのものが、私にとって「神さまの処方箋《しよほうせん》」なのだ。
佐藤初女さんが、岩木山の麓《ふもと》で「森のイスキア」を始めたのは1992年のことだ。
それまでは、弘前市内の平屋の自宅に二階を増築し、そこを「弘前イスキア」と名づけて、初女さんの噂を聞いて全国から訪ねてくる人たちを受け入れていたそうだ。家族の問題で悩む人、自分の心の問題で悩む人、病気で苦しむ人、いろんな人たちが初女さんのおむすびの噂を聞いてやって来る。
でも、ご自宅に長期間、人を受け入れることには限界があり、だんだんと初女さんは「森に囲まれた自然のなかにみんなが集い、安らげる場所があれば」と思うようになったのだそうだ。
物ごとというのは、突然に思いもかけぬような展開が起こり、信じられない偶然の重なりによってあっという間に達成されることがある。そういうとき、私たちは「神さまの計らい」について思いを馳《は》せる。森のイスキアの誕生もまた、神さまの手助けがあったとしか思えないような偶然によって語られる。
私は無宗教なので「神」という具体的な存在を確信しているわけではけしてない。けれど、この世界に起こるさまざまな美しい偶然を「神の力」と感じてもいいかな、と思うのだ。それを「単なる偶然」と思ってしまうと、美しさが半減してしまうような気がするから。
そういえば、佐藤初女さんの旧姓は、「神《じん》初女」さんという。
なんというか、すごいお名前だ。まさに「イブ」である。
「子供のころは、同級の子たちから、アマテラスとあだ名されていたんですよ」
と笑う。いずれにしても神々しい。
初女さんはクリスチャンである。しかし、初女さんの家がキリスト教を信仰していたわけではない。
初女さんは子供のころ、教会の鐘の音に心|魅《ひ》かれた。どこか遠くで鳴っている鐘の音が、とても神秘的で美しいものに感じたのだそうだ。いったいどこで鳴らしているのだろう、あの鐘の音を見たい、聞きたいという思いが募る。おばあさんに訊《たず》ねると「あれは耶蘇《やそ》の鐘だ」と教えられた。それで、小さかった初女さんは鐘の音を頼りに、カソリック教会までてくてくと歩いて行った。教会の前に佇《たたず》んで「誰かなかから呼んでくださらないかなあ」と待っていたそうだ。
遠くで鳴る教会の鐘。それは幼い初女さんにとって、なにか神秘的な美しい世界から響いてくる呼び声だった。けれど、鐘の音の向こうにある世界に初女さんがたどりついたのは、それからずいぶんと時間が経ってからのことだった。
初女さんが女学校のころ、お父さんが事業に失敗。
住む家もお金も失い、そのことがきっかけとなって胸を患う。それから約十七年間、初女さんは肺浸潤《はいしんじゆん》という病気と共に過ごすことになる。
「食べ物をいただいたときは、なにかこう身体に力がみなぎるように感じたのね。だから食べることで元気になろうと思ったんです。病気が、私が『食べる』ことに深く関わって生きるようになるきっかけでしたね」
注射や薬が身体に入って来ても、何も感じない。だけど、食べ物を心からおいしいと思っていただくときは、身体中の細胞が喜んでいるように感じる。身体のすみずみにまで生きる力が伝わっていくような気がする。そういう体験をご自身がなさっているからこそ、初女さんは「食べることの力」に確信があるのだ。
今回、私が伺ったときも、初女さんは風邪上がりだった。
「まったくお医者にもかかろうとしないし、薬も飲まないで治すんですよ」
と周りの方たちが呆《あき》れて笑っていた。なんでも初女さんは結石も自力で吐きだしたそうだ。
「す、すごいですね、私も医者嫌いだけど、結石の痛みにはたぶん耐えられないですよ」
すると初女さんはケロリとした顔で言ってのけた。
「そう? でも、自分の身体のことは自分でなんとかできると思うの。人間の身体には自己治癒の力というものが本来備わっている。身体は自分で元気になることができる。それを信じてあげられるのは自分だけでしょう」
十六歳のとき、修道会が母体となってできた高校に入学することで、祈りに一歩近づいた初女さん。だが、当時は戦争の最中で学校では敵国の宗教の話など一切できなかった。もちろん洗礼を受けることもできない。高校卒業後に結婚したご主人は熱心な仏教徒。ご主人にも洗礼を受けたいとは言い出しかねた。初女さんが洗礼を受けたのはお子さんが小学校に入学した後だった。
肺の病気が治ったと感じたのは、三十五歳を過ぎようとするころ。
病むこと、食べること、祈ること。この三つのベクトルはゆっくりと初女さんの人生のなかで紡がれていったのだと思う。
人間の人生は、たくさんの糸で織りなす一枚の布のようなものだな、と感じるときがある。その人生の布を織る糸の一本に「祈り」という糸が入っていると、その織物は不思議な美しさを醸し出す。信仰があるなしにかかわらず、生活のなかに祈りの心をもっている人の人生は、美しいなあといつも思うのだ。
「今日はまず、フキを切ってください」
そう言われて、アク抜きしてゆがいたフキをごっそりと、渡された。
「六センチくらいでね」
と初女さんが言う。私は六センチを目分量で計り「こんな感じでいいですか?」と確認をとる。「はい、それでけっこうです」とのお返事。さあ、ここからが緊張である。
フキというのは野草である。当然ながら長さも太さもバラバラだ。だけども、このフキを均一に同じ長さに切る。ムダなく切る。そしてスジが残っているものは除く。
以前に、ニンジンを切る仕事を任されたことがあった。そのときに、いつも家でやっているようにニンジンを短冊にしてザクザクと大ざっぱに切っていったら「大きさが違うでしょ」と止められた。
「ちゃんと同じ大きさにそろえて切らないと、あえものにしたときに均等に混ざらないし、見た目もきれいでないでしょう」
そう言って、初女さんは見本を見せてくれた。すっ、すっ、とニンジンに包丁が入る。初女さんはけして「タンタンタンタン」と小気味よく野菜を刻んだりしない。丁寧にそっと包丁を入れる。何事もゆっくりだ。そして、びっくりするほど均等にニンジンを短冊切りにする。
「ニンジンもね、生きていると思うの。だから力まかせにざくざくと切ったらニンジンも苦しいと思うのよね。だから私はそっと切るの。なんでもそう。野菜もお魚もみんな生きているから、私は優しく扱ってさしあげるの」
なるほど、そういうものか。教えられた通りに、ニンジンをそおっと切る。さっくさっくさっくという感じに包丁を入れる。均等に揃えるために注意深く、手間をかけて切る。
すると、不思議なのだけど、なんだかニンジンが「ほっ」とため息をついているような、そんな気がしたのだ。本当に。ニンジンが優しく切ってもらえて「ああ、よかった」ってみんなでニコニコ転がっているように感じたのだ。妙な気分だった。ニンジンが愛《いと》おしく感じた。
それから、私は家に戻って来てからも野菜はそおっとむく。そおっと切る。なんだかそうしないと野菜を苛《いじ》めているような、そんな気分になってしまうのだ。
真剣にフキを切る私を見て、イスキアのお母さんたちが笑って冷やかす。「まあまあ、フキもそんなに一生懸命に切ってもらえたら本望ねえ」
フキの切り口の細胞を崩さないように、包丁を前後させる。ザクザクと切ったときとは違う。何が違うのかって、自分の心が違う。私にはフキの気持ちはわからない。だけど、フキを切ったときの自分の心が優しくなる。
「私はね、めんどくさいっていうのが、嫌いなんです。めんどくさいから、このへんでいいんじゃないですか、って言われると、とても寂しく感じるのね」
かつて初女さんにそう言われて、私はどきんとした。自分の生活のなかで「めんどくさい」という言葉がいかに多くなってきているか実感していたから。仕事は違う。仕事においては私はトコトンやる方だ。だけれども、仕事をすればするほど生活のなかに「めんどくさい」が増えていく。料理にしても、洗濯にしても、掃除にしても「めんどくさいから、この程度でいいや」が増えていく。そんな自分の生活に自分で辟易《へきえき》しているところがあった。
私は、なぜ仕事では「めんどくさい」を言わないのだろう。文章を書くことをめんどくさいとは思わない。その理由を私は知っている。
ある線までは誰でも同じことができる。でも、それを越えるか越えないかで、他者の心に響くかどうか、クオリティが高いかどうかが決まる。そのことを知っている。
生活に関わることが「めんどくさい」と思うのは、生活をクリエイトしようという気がないからに他ならない。でも、「暮らす」ということをクリエイトしないで、この長い人生を生き抜いていけるものだろうか。そうではない、と思う。「暮らしのクオリティ」を「森のイスキア」に来ると思い出す。生きること、暮らすこと、そのものがアートであり、仕事である。
私はどうしても仕事と暮らしを分けてしまう。仕事でクリエイティブになって、遊びでエンジョイして、残りで暮らす。そして暮らしそのものを無味乾燥にしてしまう。
本当は「暮らし」のなかに「仕事」も「遊び」もすべてあればいいんだ。サクサクと野菜を切りながら、私はいつもイスキアでそんなことを考えている。
「前にね、ジャガイモの皮をむきながら、あるお客様に『私はめんどうくさいということが嫌いなんです』って、申し上げたのね。そしたら何を勘違いなさったか、その方は、ジャガイモの皮むき器を送ってくださったんですよ」
そう言って、初女さんはおほほほと笑った。
めんどくさいことが嫌い、と、めんどくさいということが嫌いでは、確かに意味が正反対だ。きっとそのお客さんは初女さんの言葉を聞き間違えたのだろう。
初めて「森のイスキア」を訪れたとき、炊きたてのごはんのおいしさに感動した。
「ごはんがおいしい、どうやって炊いているんですか? お米は何を使っているんですか?」
たたみこむように質問すると、佐藤初女さんはニコニコ笑う。
「お米はごくごくふつうのお米です。炊くときもふつうの炊飯器でふつうに炊いていますよ」
「ええっ? じゃあ、どうしてこんなにおいしく炊けるんでしょうか?」
げせない。どうしてもげせない。そこで私は初女さんにごはんの炊き方を教えてもらうことにした。
お米は五合炊く。たくさん炊くこともおいしく炊くポイントだという。
丁寧にお米を洗う。ざくざくと手荒くお米をしごくのではなく、優しく生き物を扱うようにお米を洗う。お米は炊飯器のスイッチを入れる三十分前に洗って水加減をする。
さて、いざ、炊飯器のスイッチを入れる前に、また初女さんは水加減をチェックする。
「私はね、水加減を手で計ったり、炊飯器の目盛りを使ったりはしないんです。その日、その日によってお米の状態も違うでしょう、だから、お米の粒を見ながら水加減を決めるんですよ」
そう言って、じっと炊飯器のお米を眺めている。いったい何を眺めているのだろうか。真剣だ。ときどきそっとお米に触っている。お米の様子を見ているようだ。ほんの少し、お水を足す。またお米をじっと眺める。さらに少し、お水を足す。
「これでいいでしょう」
やっと、炊飯器の蓋《ふた》を閉じて、炊飯スイッチを入れる。
「初女さん、いったい何を見ていたんですか?」
どうやら初女さんはお米の水加減をお米粒に聞いていたようだ。そうとしか思えない。そして、炊き上がったお米は一粒一粒が輝き、しっかりと立ち、こんもりと盛り上がっている。
「ほらね、こうして盛り上がっているのがおいしいご飯なの。水加減が多過ぎると真ん中がぺしゃんこになってしまうのね」
初女さんが炊き上げたお米は、表面は水分が飛び、からっとしている。ところが芯《しん》までよーく熱が通っていて米粒の中身がふわふわでやわらかい。形がしっかりしているのに、やわらかくて、そして軽い。だからお茶わんに盛っても、びちゃびちゃした感じがまるでなく、歯ごたえがある。だからたくさん食べられる。
「いつも私が食べているお米って、お米じゃないみたい……」
森のイスキアでごはんを食べて、私はそう思った。私の炊くごはんは水分が多過ぎる。たぶん、それは炊飯器の目盛り通りに炊いていたからだろう。そして、それがあたりまえと思っていたのだ。人間の味覚は相対評価である。よりおいしいものを食べたことがなければ、不具合のものでもそれが当然と思って食べているのだ。
ご飯のよそい方も、初女さんは考えている。
「なるべく、お米が息をできるように、ふわっと盛ってさしあげるんです。ぎゅうっと盛るとお米が息苦しいような気がして」
息。息ができるように、ということを初女さんはしきりに口にする。
おむすびをにぎるときもそうだ。
「おむすびもね、お米が息をできるようにと思ってにぎるんです。あまりぎゅうっとにぎってしまうと、お米が息をできなくなってしまうから」
初めて初女さんにお会いしたときに、私はこのお話を聞いても初女さんの言わんとしていることがよくわからなかった。お米が息をする? それはお米が空気に触れるようにということを、お米を擬人化して表現しているのだろうか。
「お米が息をするって、どういうことですか?」
そんなふうに私が質問を返すと、初女さんはとても困ったような表情をなさった。困惑している初女さんの様子を見て、隣に座っていた龍村仁監督が私に言った。
「それはね、お米が生きているということだよ」
お米も、キュウリも、ニンジンも、セリも、フキも、ゼンマイも、梅干しも、しゃべらない。しかし、すべて生きているのだと初女さんは言う。命とは、動いて活動するものにだけあるのではない。この世界に存在するすべて、とりわけ有機物にははっきりと命が宿っている。だから大切に扱ってさしあげるのだ、そう初女さんは言う。
言葉ではわかる。しかし、実感として、お米から命を感じたことが私にはなかった。だから、このような言葉はすべて「きれいごと」に聞こえる。メルヘンだ。もちろんそう思って生きることは素晴らしいけれど、お米はお米じゃないか……と。
だけど、実際に初女さんが魔法のようにおいしいごはんを炊き、おいしい漬物を漬け、きれいで風味のある梅干しをこしらえるのを間近で見ていると、生き物である食物が生かされたとき、どのように生き生きと変化するかを思い知らされる。
しかも、それは教えられた通りにすれば、私にもできるのだった。
初女さんから教えられて、私は自宅に戻ってお米の炊き方を変えた。
まず、水加減を毎回、お米粒を眺めながら自分の勘で決めるようにした。三十分ほど水に浸しておくと、お米粒は水を含んでふんわりとふくらんでくる。初女さんの水加減を思い出し、自分もなんとなくそれに近いようにお水を加えていく。すると、炊飯器の目盛りよりもずいぶんと少ない水加減で炊けることがわかった。我が家は三合のお米を炊くのだが、たぶんカップで計ったお米の量が、すでに三合よりも少なめなのだろう。だから、炊飯器の三合の目盛りでは水が多過ぎたのだ。
とはいえ、最初のうちは炊き上がっても、なんだかお米に芯が残るような気がした。ふわっとしない。なぜだろう。
いろいろ考えて、水のせいではないかと思い至った。岩木山の麓《ふもと》にある森のイスキアの水はおいしい。しかもイスキアではブナの森のわき水を汲《く》んできて飲料水として使っていた。その水は柔らかく、そしてほのかに甘かった。
水道水にはカルキなどの殺菌剤が含まれている。たぶん、それらの成分の粒子が大きくて、お米にうまく水分が浸透していかないのではないかと思ったのだ。そこで、お米を炊く水だけを市販の軟水に変えてみた。
すると、ついに森のイスキアに近い、おいしいごはんが炊けたのである。私にもできたのだ。自分で炊いてみると、ふっくらと炊き上がり、こんもり盛り上がった炊飯器のなかのごはん粒が、やけに愛《いと》おしかった。このごはんが私の身体に吸収されて、私の一部になるのだ。つまり、このごはんは私なのだ。そのときは、素直にそんなふうに思うことができた。
イスキアに行く途中、岩木山神社をお参りした。
苔《こけ》むした参道の側溝にはきれいな水がさらさらと流れていた。水場で手を浄《きよ》め、参拝する。この山のブナ林が水源地帯。美しいブナの巨木の森が水を蓄え浄化して、そして麓のリンゴ畑を潤している。
ブナの巨木の森に水を汲みに行った。ブナの木は優しく女性的だ。木漏れ日差すブナの森は、きれいな女性たちが輪舞しているように華やかだった。この地で、木は人間よりも存在感をもって、生きていた。雪解けにそのブナ林が浄めた水。その水を使って炊くごはん。空と森と川は水によって結ばれていた。そして、その水を含んだお米や、味噌汁《みそしる》を私が飲むとき、ブナの優しい命も私のなかに入ってくるのだ。命とはそういう森羅万象の連鎖を示す言葉なのかもしれない。一つが命なのではなく、すべてが繋《つな》がること、その事象が命という言葉で表されているのかもしれない。
「有機農法の野菜がいいとか、どこそこのお米がいいとか、いろいろ言う人がいますけれど、私はそんなこと、あんまり気にしたことないんです。このジャガイモも、粒が小さいので農家の方が捨てようというのでもらってきたものなんです。ニンジンもスーパーでビニールに入って売っているものです。でもね、どのお野菜も生きているんですよね。だから、私はビニールに入れっぱなしにして冷蔵庫のなかにニンジンが入っていたりすると、苦しくなるんです。かわいそうだなあと思って。それでね、なるべく新しいうちに、大切に料理して、おいしくいただくようにしているんですよ」
私は長野の友人から有機農法の野菜を取り寄せたりしている。泥のついたニンジンや、旬の山菜がダンボール箱に入って送られてくる。それを、なんとなくめんどくさくて下処理もせずに冷蔵庫に入れっぱなしにして、腐らせたりしている。そういう自分の生活を、本当に情けなく思う。でもしょうがない、それがいまの自分だ。
初女さんといっしょに、イスキアの庭で山菜を摘んだ。フキノトウの葉をお浸しにする。
茎は煮物にする。フキはスジをむいてやはり煮物にする。山菜を下処理をしていると、指先が山菜のアクで真っ黒になった。山菜は丁寧に下ごしらえしないとおいしく食べられない。それがめんどうなので、家で山菜を料理することなどめったにない。買った方が安上がりで早いからだ。そのようにして、だんだんと自分の手を汚すことをやめてしまう。食物に触れることがどんどん少なくなって、そして、食物にも命があり、それを食卓に生かすことを忘れてしまうのだ。
イスキアに別れを告げて、青森空港へ向かう途中、私たちは三内丸山《さんないまるやま》遺跡へ立ち寄った。
ここは日本最大の縄文遺跡だ。いまから五千年ほど前、すでに縄文人たちは高度な文化をもち、栗や胡桃《くるみ》を栽培して暮らしていた。耳飾りや首飾り、ポシェットなどの装飾品も出土されている。
タンポポが咲き乱れる初夏の縄文遺跡を眺めながら、私は初女さんがにぎってくれたおむすびを食べた。そして、お漬物をぽりぽりと噛《か》んだ。
どんなに社会が進歩しても、人間の行為はあまり変わらないのだなあ、と不思議だった。五千年前も、そしていまも、私たちは食べて、排泄《はいせつ》して、寝る。それが生きるということの基本だ。もしかしたら、命を食するということにおいては、私は五千年前よりも退化してしまっているのかもしれない。
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ガン検診の憂鬱
なんとなくおっぱいにしこりがあるような気がして、体調も悪かったので四年ぶりに乳ガン検診に行った。
三十歳を過ぎたら半年に一度は乳ガン・子宮ガン検診を受けなさい、と指導される。かくいう私は子供を産んでから一度も受けていない。
「乳ガン、子宮ガンは早期発見ですよ」と保健婦さんから言われたけれど、どうも検診が苦手だ。気分的に腰が引けているので四年もほっぽってしまったんだろう。
隣町にある国立病院へ行った。
平日のせいか、病院は案外とすいていてほとんど待たずに順番が回って来る。
最初に婦人科に行ったら「乳ガンの検診は外科なんですよ」と言われる。
あ、そうか。
「でも私、子宮ガン検診もいっしょに受けたいんですけど」と言うと、外科から先に行くように指示された。
病院って、自分が何科に行けばよいのかわからずとまどうことが多い。
以前に目の奥の方が痛んだときは眼科なのか脳神経外科なのか迷った。
子供の足にぽちりと小さなウオノメ状の突起が現れたときも、皮膚科なのか外科なのかわからない。
一時間も待ったあげくに「これはウチじゃなくて、外科ですね」なんて言われたらかなりショックだよなあ。デパートみたいに「この症状は何科を受診すればよいのか」というインフォメーションセンターがあればいいのになあ、なんてことを考えながら気を取り直して外科へ乳ガンの検診に向かう。
乳ガンの触診というのは、ようするにおっぱいをもにょもにょ揉《も》まれるわけである。当然、おっぱいをべろんと出す。それをお医者さんが揉むのである。
診療なのだからエッチな雰囲気はないが、やっぱりなんか抵抗がある。
「ええと、左の方がちょっと痛いんですけど」
もみもみもみ。
「ん〜、触った感じではしこりも腫《は》れもありませんね。でも触診でわからないこともあるから、レントゲン撮影をしておきましょう」
「わかりました」
(レントゲンなんてかえってガンにならないかな)
ということで、レントゲン室へ行けと言われる。
レントゲン室は暗い閑散とした灰色の部屋だった。
レントゲン室に行くとレントゲン技師の人が「はい、じゃあ上半身裸になって〜」と言う。上半身裸になる。情けない。
上半身裸の私に、レントゲン技師さんは、学会で研究発表に使う映写機みたいなのを指さして「この台の上に左のおっぱいを乗せてください」と言う。
「へ?」
「おっぱいを乗せるんですよ、ぼてっと」
なんだかまぬけだなあと思いながら、よっこらしょ、っと左の乳房を乗せる。おっぱいがでろんと伸びて鏡餅《かがみもち》みたいである。しかし、私はけっこうおっぱいがデカイからいいが、ペチャパイの人はどうするんだろう。おっぱいが乗らなかったらショックだろうな。
次に、なんと、レントゲン技師さんがおっぱいをむんずと掴《つか》んで、ノギスのようなもので挟みこむ。しっかりと乳房を固定したいらしい。ギリギリ。
「いてててて……」
「ちょっと痛いですけど我慢してくださいね」
「なんかこれって、SMみたいですね」
「ははははは」
左が終わったら右も同じように挟まれた。両方のおっぱいをノギスでギリギリ絞られて、おっぱいは赤く腫れている。レントゲン撮影は終了となった。はあ、疲れる。
次に婦人科に行く。
今度は子宮ガン検診である。
子供を産んだ私は婦人科の診察台に乗るのは初めてではないが、何度乗ってもイヤなものである。
今度は下半身まっぱだかで、足を広げろと言われる。当然のことながら指が挿入される。げっ、何か得体の知れないものを突っ込まれて膣《ちつ》の細胞を取られるわけである。うわっ、ぎゃあっ。はあ……。
「特に子宮も異常はないですね。卵巣も正常です」
ああそうですか、ありがとうございます。と私は力なく診察室を出ていく。
これを半年に一回のペースで受けろというのか〜! しかし、それも自分の身体のためなのだと言われると、ああそうですかとしか言いようもないが。
私はね、子供も産んでるし、酒を飲めばストリップを踊るようなバカ女なので、裸やおっぱいを見られることに他の女性よりも平気な方だと思う。でも、その私ですら、イヤなんだよ。この乳ガン検診(特にレントゲン撮影)と子宮ガン検診。
私はすでに出産という、恥も外聞もかなぐりすてて股《また》を開くという経験をしているから、かなり免疫は出来ているが、出産未経験の女性なんて、さぞかしこの検診は苦痛であろう。おっぱいをノギスで挟まれたら泣いてしまいそうだな。
全人口の約半分は女性である。
その女性の方たちがみんな三十歳を過ぎたら、年に二回、こんなことをしなくてはいけないものだろうか? もう少しマシな方法はないものだろうか? それとも、私が受けた検診は例外的に情けないものなのだろうか? これが普通なのだろうか?
私はね、この乳ガン・子宮ガン検診に関してはもう少し創意工夫が必要だと思うし、せめてもうちょっと思いやりある雰囲気作りが可能だと思うのだが、医療の現場に思いやりを望む方がおおたわけなのだろうか。
わからんが、なんとかしてほしいぞ、乳ガン検診。
……と書いたら、なんと、わずか二日の間に300通の反響メールが来た。
そのほとんどが女性からで「まったく同感です。私も検診のたびに情けない思いになります」というものだった。どれも文面が長い。しかも文章が熱い。そうだったのか。私だけではなく世の中の女の人の多くは乳ガン・子宮ガン検診が苦痛だったのね。
それにしても、これだけ多くの女性が「あんな検診はイヤだ!」と心の底から苦痛に思っているのに、どうして変わらないんだろうか。やっぱり、圧倒的に男性のお医者さんが多いからだろうか。女性の身体について、日本の医療機関は無頓着《むとんじやく》すぎるような気がする。
ずいぶん前だけど、左のおっぱいの上が、何かの虫に刺されて腫れてしまった。私は皮膚科に行って、男性の医師におっぱいを見せた。
お医者さんは私のおっぱいを眺めて訊《たず》ねる。
「なにか虫に触ったかした?」
「それが、心あたりはないんです」
「変な薬を使ったりしなかった?」
「変な薬ですか? いえ、使ってないです」
「ほんとか〜? おっぱいの大きくなる薬とか塗り込んだんじゃないの?」
これにはまいった。皮膚が腫れて痛いから受診しているのに、なんて言い草だ。だいたい、左のおっぱいだけ大きくしてどーすんだよっ!
こういうことが重なるから、なんとなくお医者に行っておっぱいとか性器を見せるのがイヤになっちゃうんだよ。
乳ガン、子宮ガンの早期発見のためにも、もっと医療の現場がおっぱいと子宮という女の身体のナイーブさに気がついてほしいなと思った。
メールは海外在住の女性からもたくさん来ていた。
ここがインターネットのすごいところだ。ドイツ、イギリス、スイス、フランス、アメリカ、さまざまな国の「乳ガン・子宮ガン検診事情」が一気に送られてきた。それを読んでみて驚いたのは、欧州では日本と雲泥の差の人間的な検診が行われている(らしい)ということだ。ヨーロッパの各地に住む女性読者のメールは異口同音に「日本の医療サービスは人間的でない」と怒る。
共通していたのは、欧州では「女性のとてもナイーブな部分の検査である」という自覚があるとのこと。もちろん個室で行われ、看護師さんからの事前の説明があり、和やかなムード作りをお医者さんも心がける。
「検診を受けて暖かな気持ちになる」とまで書いてあった。
日本の研修医の男性からもメールが来た。
「私は先輩医師から、この検診のときは相手が恥ずかしがったり誤解をしたりしないように、なるべく事務的に処理をすすめるように指導され、そのようにしています」
と書かれていた。
なるほど、だからあんなふうに物のように扱われるのか、と納得した。
でもね、違うんだよな。子宮もおっぱいも、本当に女性にとってとても意味のある大切な身体の一部なんだ。物として扱わないでほしい。
人間はみんな子宮から出てくるし、おっぱいを吸って成長する。みんなに共通する命の象徴、シンボルなのだ。
日本のお医者さん、お願いですから、どうか検診を見直してください。
子宮とおっぱいを慈しむ社会を作る。それはとてもダイレクトな「命とつながる方法」だと思う。
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キツネ憑《つ》き男
その年は、盆のならわしの手伝いのために実家に戻った。
母と兄が相次いで死去してから、それまで先祖供養などやったこともない父親が、いきなり信心深い男に変貌《へんぼう》してしまったからだ。
どうやら父は、やたらとお寺に電話をかけて法事の相談ばかりしているらしい。三日にあげず法事のことで電話をしてくるので、さすがの温和な住職からも疎んじられているようだ。
父は昔から依存のケがあって、なんにでも依存し執着していく。そのころの父は「お弔い」という行為に異常なまでに執着していた。
依存型の人間というのは、常に自分が執着するものを探している。対象は問わない。そして執着しているときはわりあいと安定しているが、その執着を他人にも強いる。自分がこだわることを私が軽んじると烈火のごとく怒る。それがまた依存型の人間の特徴である。
依存型の人は他人を巻き込むことで他者にも依存している。よって口うるさい。私の父は典型的な依存型の男で、母がいるころは母に依存していたが、母の死後はアルコールと法事に依存の対象が切り替わった。
「オレは法事に命を賭《か》けてるんだ」
と、父は私に怒鳴る。そんなものに命を賭けなくてもいいだろうと思うのだが、こうなったらもう好きにさせるしかない。きっと父は法事に夢中になることで、母を亡くした辛《つら》さに耐えようとしていたのだろう。気持ちはわかる。が、本当に口うるさいのだ。あまりにこうるさいので親類の誰も相手にしない。
ところがその年は、父方のオバ様がお盆の手伝いに来てくださることになった。私は自分一人で父の相手をするのは気疲れするのでオバ様の申し出は嬉《うれ》しかったが、なんとなく不安も感じていた。
なぜかというと、父は自分の兄弟姉妹に対して必要以上に虚勢を張るからである。オバ様が来たら、きっと父は虚勢を張った末にひっこみがつかなくなり、必ずや癇癪《かんしやく》を起こすのではないかなあ、という予感がしたのだ。そして私の予感はたいてい当たるのである。なにしろ、この父と四十年も親子をやってきたのだから。
オバ様は、とても親切で優しい人である。
今回も私の家族のために遠路はるばる足を運んでくださった。が、オバ様がわざわざやって来たのには彼女なりの理由がある。
「実はね私ね、ここに来る前にご先祖様の声を聞いたのよ」
東京駅のホームで待ちあわせして、新幹線に乗ったとたんにオバ様が口火を切った。
「ご先祖の声ですか?」
「そうなのよ。それがね、先月うちの主人が仕事中に大怪我をしたんだけどね、その連絡の電話が入った直後に右の耳の方で男の人の声がしたの。それでね、大丈夫、大丈夫って囁《ささや》くのよ」
「す、すごいですね〜」
「そうなのよ。だからね、ああご先祖様がお守りくださったんだわ、大丈夫だわって思ったら、本当に大事に至らずに済んだのよ。驚いたわよ。それでご先祖供養しなくちゃと思って、伺うことにしたの。ご先祖の位牌《いはい》は全部オタクにあるからね」
このオバ様は昔からカンが良かったらしいが、具体的にこのような霊的な現象を体験するようになったのはおよそ十年前からだそうだ。その当時、彼女はとある新興宗教に入信し、そこで霊能力者と名乗る人から教えを受ける。
それがきっかけになって、その後、霊を見たり、声を聞いたりするようになったらしい。
「やっぱりね、日々、修行なのよ。正しい生活をしていれば守っていただけるのよ」
自分で畑を作って作物を育て、ご先祖を供養し、そして弱い人を助け、ゴミを拾い、人々の幸せを祈る。それがオバ様の生活信条であり、口だけではなく実践している。すばらしいことだと思う。が、一度、親戚《しんせき》に不幸な出来事が起こると、オバ様は持ち前の霊感でいろんな予言をしては、ちょっとだけ皆を不安に陥れるのである。
「この間も○○さんのところの、×××さんに何かあるなあと思ったのよ。それでね、あなた身体には気をつけなさいよ、って言ったのよね。そしたら、聞いてよ、腸が悪くて入院したんだって。○○さんが、ほんとに言った通りになりましたよ、って驚いてたわよ」
ってな具合である。
そして、今回、私はこのオバ様と二泊三日を共に過ごすことになったのであった。本当にオカルトなお盆だった。
最初の晩から、オバ様は怖いことをしゃべり続けた。父はさっさと酒を飲んで寝てしまい、私もオカルト話に疲れてきたので布団を敷いたのだが、電気を消してもまだ、オバ様は布団のなかでしゃべり続ける。
「ご先祖供養は大切よ、毎日写真の前にお水一杯でいいからお供えしなさいね」
「はあ……」
「霊っていうのはね、説得すれば聞いてくれるのよ」
ほんとかいな〜?
「言葉は全部自分に返って来るからね」
確かに。
「願をかけたら、ちゃんとほどきに行かないと大変なことになるわよ」
大変なことってどんなことだ?
などなど……。とにかく聞いているとありとあらゆることを言う。が、話の出典はまったくあきらかでない。どうやらオバ様は、オカルト的なことをすべて自分のなかにインプットして、それが仏教であろうが、キリスト教であろうが、新興宗教であろうが、神道であろうが、どうでもいいらしかった。霊的な事柄はすべていっしょくたにしてしまうのだ。そして、時に応じてアウトプットする。
だからオバ様のなかには、どろどろのオカルトの原液みたいなものが闇鍋《やみなべ》状態で沸騰しているのだった。しゃべっていると、だんだんとこちらが不安な気持ちになってくる。何かこう、足下をすくいとられるような、奇妙な無力感を感じてくる。
二日にわたってしゃべり続けていたオバ様の言葉を、私がうまく再現できないのは、言葉にあまりにも脈絡がないからのように思える。弘法大師《こうぼうだいし》からブッダ、お稲荷《いなり》様まで、とにかく多彩に登場するが、それらはすべて切れ切れの情報なのだ。
さて、オバ様のおしゃべりも夜半を過ぎてようやく静かになった。うとうとしていると、明け方にオバ様が私を揺り起こす。
「起きて起きて、誰かが提灯《ちようちん》、提灯って言ってるわ」
「え? なあに? 提灯?」
「そうよ。あ、いけない、雨だ。提灯を入れなくちゃ」
オバ様はそう言ってガラガラとガラス戸を開けて盆用の提灯の電気を消した。本当は雨に濡《ぬ》れないように提灯をしまいたかったようだが、提灯を吊《つ》るす場所がなかったのだ。
「ああ、もう夜、うるさくて眠れなかったわ」
「うるさいって何がですか?」
「がやがやざわざわ立ち話をするような声が枕元で聞こえてさあ。きっとご先祖様が集まってらしたのね。もう話し声がうるさくて……」
「へえ……、すごいですねえ。あたしは何も聞こえなかった」
本当に何も聞こえない。だがオバ様には聞こえたのだろう。お盆の飾りがしてある部屋の隣で寝ていたので、なんだか気味が悪かった。
「それに、変な夢を見たわ」とオバ様。
私は夢にはちとばかり興味がある。
「へえ? どんな夢を見たんですか?」と聞くと、オバ様は声をひそめてまるで怪談話でもするかのように私を見るのだ。
「それがね、変な夢なのよ。あのね、水のなかに手が見えるの。年取った男の人のような手。それがすごくオレンジ色で気持ち悪いのよ。左手なんだけどね、その左手のひとさし指と、なか指と、くすり指を、右手が隠しているの。三本をこんなふうに見えないように。一体、何を教えてくれたのかしら。3を隠しているのよ」
聞いていて、背筋がゾクゾクした。目の前にぬめぬめした水のなかに浮かぶオレンジ色の手が見えて、言葉に詰まってしまった。
「何かを教えてる夢なんですか?」
「たぶん、そうだと思う。でも、何を教えているのかしらねえ」
とオバ様は考え込んでいるようだった。
いろいろ話をしているうちに、オバ様は自縛霊というものも時々見ると教えてくれた。事故があった場所などに、霊がいるというのである。私は霊というものを見たこともないし、感じたこともないので「ふうん」としか言いようがない。
正直なところ、そういう話は好きではない。
話を聞いているうちにだんだん腹が立ってくる。ただもう無責任に詰め込んだ知識をぶちまけているだけだからだ。オバ様はちっとも怖いと思わないらしい。自分が見たものだから。しかし、話される私は怖いし気色悪い。見えない世界のことは不気味だ。
世の中には確かに「霊感」と呼ばれるようなたぐいの能力があるらしいことは知っている。その存在も認める。が、それは特別な能力というよりも、人よりもほんのちょっと敏感なだけ……と言うくらいのもんじゃないだろうか、と思う。それがあったからと言ってそれほど役に立つもんでもないような気がする。
誰でもそれぞれに能力というものがある。速く走る、絵を描く、文章を書く、手先が器用、などなど……。そのような能力の一つが「霊を見る」であるように思う。その能力を自覚して、自分なりに高める努力をすると、能力も開花するようだ。
どういう世界でも同じである。ただ能力があるというだけでなく、それをどう生かすかが問われる。オバ様の場合、どうも安易な知識だけを詰め込み過ぎていて、もてる能力をムダに使っているように思えてならない。
世の中には、こういうタイプの「霊感のある人」って多いような気がする。話半分に聞いているうちはいいけれど、自分の身内に不幸があったときに「やっぱり私の言った通りでしょう」と言われると、信じていなくても気にかかるのが人情というもの。無視したいのに無視できない変な存在がこういうオカルト的なオバ様なのである。
翌日になってオバ様はこんなことを言い出した。
「例の手の夢だけど、あれわかったわ。あれって三回忌のことを言っているのよ。お母さんの三回忌」
「三回忌が、どうしたんでしょうか?」
「わからないけど、三回忌が終わったら何かあるって言っているのよ」
「ふうん」
十月十日に母親の三回忌を予定している。
それが終わったら何があると言うのだろう。ここまで具体的に言われるとますます気になってくる。まったく私も気が小さい。
オバ様はさらに、しゃあしゃあと恐ろしいことを言う。
「三回忌が終わったら、兄さん長くないんじゃないかしら」
おいおい、と私は頭を抱える。こういうとき、直感につき動かされてしゃべる人は、周囲の人の動揺など考えている暇はないらしい。
さて、オバ様滞在二日目になると、父はついに我慢しきれなくなって大酒を飲み始めた。早朝からビールをたて続けに飲んでいたが、朝飯が終わってからそれがウイスキーの水割りにかわり、あっという間にウイスキーの瓶が空になり、そして焼酎《しようちゆう》を飲み始めたころには、もうベロンベロンの大酔っ払いになっていた。酔っぱらっていつ果てるともないクダを巻き始め、そのうちにさらに意識混濁して、ついに手のつけられないケダモノとなった。
オバ様は、そんな父を初めて見たらしく驚いていたが、私には日常茶飯事なので珍しくもない。暴れて物を壊さないように気をつけるだけである。あとはもうほっておくしかないのである。なにしろ酒乱だから。私の父は酒を飲み続けるうちにどんどん性格が豹変《ひようへん》するのである。
「この人いったいどうなっちゃったの? 別人みたいじゃない?」
「だからオバ様、父は酒乱なんですよ。昔からああです。母はよく二重人格って言ってましたけどねえ」
「いやだ、あれはなんか憑《つ》いているわよ、よくないものが憑いているのよ」
そう言いたくなる気持ちもわかる。
父の豹変ぶりを見ていると確かに何か別のものが憑依《ひようい》して悪さをしているのではないかと思いたくなるときがよくあるのだ。
「そうですよね、私もそう思うときがあります」
私はもうオバ様に反論する気力もなく頷《うなず》いた。
「オバ様、もし父に何か霊が憑いているとしたら、どんな霊だと思います?」
私は面白半分で聞いてみた。すると、オバ様は鋭い目つきで断言したのである。
「あれはキツネよ。若いキツネよ」
私は吹き出した。
なんで吹き出したかと言うと、あまりに言い得て妙だったからである。
なるほど、と膝《ひざ》を打ってしまうほど、オバ様は父の様子を言い当てていたのである。確かに、酔った父は悪ギツネそっくりだ。まさかキツネとは私も思いつかなかったが言われてみればその通りである。
「だってね、酔うとあの人、ぴょんぴょん動き回って落ち着きがなくなるでしょう? 頭を動物みたいにキョロキョロ動かすじゃない。それに、猫背で、ほら手なんかこうキツネみたいに曲げてるでしょう? 仕草がキツネよ。それに、私、あの声。あれには驚いたわ。あの猫なで声、あれはキツネの声よ」
そうなのである。父は酒に酔うとやたらと気色悪い猫なで声を出して妙な抑揚でしゃべるのだ。
それが聞きようによっては「コンコン、コンコン」というリズムにとれるのである。そして、今、猫なで声を出していたかと思うと、途端に態度を急変させて目を吊《つ》り上げ、暴れ回ったり、他人を口汚くののしったりするのである。
そういうときの父は、相手の一番弱いコンプレックスをぐさりと突いてくる。その狡猾《こうかつ》さ、口の達者さは、まさにずる賢い悪ギツネそのものなのである。
父は七十歳の年齢とは思えないほど身が軽い。
ひょいひょいひらりと動く。私よりもはるかに身が軽い。あの身の軽さは動物の軽さだと思えるほど身が軽いのだ。歩くのも速い。
「兄さんは伊豆の生まれなのに、なぜか縁あって茨城に住んでいるでしょう? それはね、笠間《かさま》稲荷に呼ばれているからよ。お稲荷さんの影響を受けているのよ。あの人は、昔、なにかお稲荷様に悪さしたんじゃないかしら? 聞いていない?」
そうは言われても、まったく聞いていない。
しかし、なるほど私の実家の近所には笠間稲荷神社という有名なお稲荷さんがある。よくもまあ、この土地の者でもないオバ様がそんなことを思いつくものだと感心した。
「じゃあ、今度、父が暴れたら油揚げを食べさせてみましょうか?」
私は冗談のつもりで言ったのだが、オバ様は「それはいいかもしれないわ」と真剣に答えていた。
私が心底驚いたのは、父の酒乱の様子を見て「キツネだ」と言い切ったオバ様の直感力である。
父がキツネ憑きであるかどうかは、この際それほど大きな問題ではない。
私が着目したのは「確かに父の言動はキツネ的である」というその事実なのだ。キツネではなく、キツネ的であるということだ。
キツネという動物そのものではなく、キツネというイメージに象徴される何か。キツネという言葉にはあるイメージがつきまとう。それはたぶん、日本人の深層心理のなかにある共通のイメージだ。そして、現代においてもなお、私とオバ様は世代差を越えて、そのイメージを共有できるのである。
オバ様がキツネだと言った、その意味を私は理解し納得できた。
すごいことだ。キツネという動物霊のイメージは現代でも日本人の心に生きている。
人間がもっているある特性を、うんとデフォルメすると「ある種の動物」になる。キツネであったり、タヌキであったり、ヘビであったりする。それらはなぜか実態を離れて「イメージ」として語られてきた。
父のように、酒に酔って自分のなかの無意識が行動の表層に現れたとき、意識の検閲を受けていない人格はどこか動物的であったりする。昔の人はそのような状態を見て「キツネ憑《つ》き」という言葉を考え出したのかもしれない。
私はオバ様に言われるまで、キツネなどと思ったこともなかった。
が、言われてみるとあまりに的確で、父の酔った姿を「キツネ憑き男」としてビデオに残しておきたいと思ったほどだ。いや、ほんと。ほんとにキツネなのよ〜。顔つきもキツネ。狡猾で、悪賢くて、コンコンとしゃべるのよ〜。
オカルトなオバ様は、確かに無意識的なイメージとある種のバイパスで繋《つな》がっている人なのかもしれない。だから日本人の民族的無意識に潜む「キツネ」を、父の姿のなかにいとも簡単に探し出せたのだと思う。
そしてもしかしたら、昔の人は「キツネ憑きの男」と共に生きる知恵を持っていたのかもしれない。半端な現代人の私はただ、オロオロするだけであるが……。
キツネ憑きの父親は、酔っぱらってついにご近所を徘徊《はいかい》し始めた。そして、ご近所の人々にいちゃもんをつけて歩いている。まったく迷惑な男だが、泥酔するまでほっておくしかない。この段階でむやみに説教したり止めに入ると、キツネが暴れて大ごとなのだ。
父は近隣では変人で通っている(のだろうと思う)。もともと漁師の父は、この首都圏近郊のベッドタウンと相性が悪い。父のようなケダモノな男はこのあたりには住んでいない。だから父は孤独なケダモノである。周りはみな会社勤めを終えたおとなしいご老人方である。
でも、このような父でも「ああ、またキツネが憑いてるみたいだな」くらいに近所の人が考えてくれたら、この集団の中でもなんとか生きていく道はあるのかもしれないが……。実際には父は恐れられ、迷惑がられている。彼のなかのキツネが社会生活に適応できない。
キツネの暴挙は見ていると腹がたつので、私はオバ様と近所の喫茶店にお茶を飲みに行ってしまった。昔はハラハラしながら隠れてついて歩いていたものだが、最近はもうどうとでもなれ、と思っている。キツネの面倒までみられない。
しばらく時間をつぶして帰って来てみたら、父はすっかり泥酔して大いびきで寝ていた。オバ様は「キツネはいぶり出すのがいいんじゃないかしら」と、その様子を見て言う。
「オバ様、若いキツネが憑いているから父が元気なら、私はそれでいいよ。性格のいい寝たきりの父よりも、キツネ憑きだけど元気な父の方が私はありがたいから」
私がそう言うと、オバ様は「そうかもね〜」と言って、おキツネ様に手を合わせていた。
さて、この話には後日談がある。
オバ様の見た不思議なオレンジ色の夢のことだ。この夢を、オバ様は「三回忌」と関係があると言った。
実は父は母の三回忌の直前に、脳外科手術を受けたのだ。
何を思ったか父は突然に人間ドックに入り、精密検査を受けた。すると、脳のなかの、ちょうど左右の目の中間あたりに大きな喉《のど》ちんこのような血栓が発見されたのだ。このままにしておくと、この血栓が破裂するかもしれないと医者に言われ、父は手術の決意をした。
しかし、血栓の場所は非常に手術が難しく、失敗する確率もいくばくかはあった。
「爆弾抱えて、びくびくしながら生きるのはイヤだ」
父らしい言い分だった。
私は血栓のCT画像をお医者さんから見せられて、なぜか「ああ、これがキツネの正体か」と思った。もちろん根拠はない。なぜかそう直感的に思ったのだ。本当に目と目のちょうどど真ん中にそれがあった。さぞかしうっとうしかったろうと思う。とはいえ頭のなかだから現実には何も感じないのだろうけど。
手術はとても長い時間がかかった。
私は病院の待合室で前夜から待機していた。八時過ぎに始まった手術が終わったのは午後の四時過ぎであった。
面会が許されて集中治療室に行くと、父はフランケンシュタインのようだった。折しも台風が近づいていて、ひどい風が窓の外を吹いていた。
父は意識も朦朧《もうろう》としながら私に言った。
「大丈夫だ、安心して帰れ」
帰れるわけないじゃないか、と思いながら私は父の手を握りしめた。
この手術以後、父の酒癖は年々良くなってきている。
父の名誉のために付け加えるなら、彼はこの手術の後に実に温和になっていった。もちろん性格そのものが変わるわけではないが、かつてのようにキレて私に迷惑をかけることはなくなってきた。キツネ憑きのようなそぶりも見られなくなった。
オバ様の霊能力も、なかなかのものだなと、感心している。
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タヒチの思い出
夕方、ベランダから海を見ていたら、ふと、タヒチのヒコのことを思い出した。
タヒチでヒコに会いに行ってから、もう五年が経ってしまう。
また行きたいな、タヒチ。どうしてるかなあ、ヒコ。
そんなことを考えた。
彼はヒコっていう。本名は布川さん。フルネームは忘れちゃった。
確か、布川○彦っていうんだよ。だからあだ名がヒコなんだ。
ヒコとは、十年くらい前にニフティ・サーブの「マリン・フォーラム」ってとこで知りあった。ダイビングの会議室だったと思う。
ヒコはそのころ伊豆大島に住んでいた。
夏の初め、私は友人から大島の別荘に誘われた。「あさってから大島に行くんだよ」レスがついた。
「僕は大島に住んでいます、ぜひ大島でお会いしましょう」
ネットってのはおもしろいね、会ったことなくてもすぐ友達みたいになっちゃう。
大島に行くよ、大島に住んでます。じゃあ、会いましょう。
そんだけだ。相手が誰でどんな人なのかもわからないのに、会いましょうになっちゃう。
それで、大島に着く前に電話した。
「田口ランディです。明日大島にほんとに行くからね」
「はいはい、お迎えにあがります。髭《ひげ》の男が僕です」
ほんとに迎えに来てくれるかなあって思って、波浮の港に上陸した。
そしたら桟橋に、髭のおじさんが迎えに立っていた。ヒコだった。
「やあ!」
「こんちは」
二人の初めての出会いだった。
ヒコはフランス人の奥さんと二人で大島に住んでいた。
その日のうちに大島の友達をたくさん紹介してくれた。そのとき、知り合ったケンさんとはいまだにヒコ抜きでつきあってる。
最初の晩はなんの話をしたかなあ。
なんだかわさわさと人がいて、誰が誰だかわからなくて、大酒飲んで、酔っ払って。しゃべって、歌って……。そんな状況だった。
ヒコはそのとき「僕、タヒチに引っ越そうと思うんだ」って言ってた。冗談だと思った。
ヒコと次に会ったのは、ヒコがタヒチに行くというのでみんながお祝いに集まったときだ。
そのときも、何の話をしたのか覚えていない。
やっぱりゲロゲロに酔っ払ってた。
あっという間に月日は流れて、ヒコと別れてから六年が流れた。
つまり、私はヒコとはたった二度しか会ったことがないんだな。
それでも、タヒチに行くことになって、真っ先に思い出したのはヒコのことだった。
私はヒコの連絡先を聞こうと思ってケンさんに電話した。
「ねえ、ケンさん、あたし来月にタヒチに行くんだけど、ヒコの連絡先知ってる?」
「え? おまえ、知らないの?」
「知らない」
「そうじゃなくてさ、大変なことがあったんだよ」
「え? なに?」
「ニューギニアの大地震があったろ?」
「うん」
「あんときの津波でさ」
「え? なにがあったの?」
「ほんとに知らなかったのか(暗い声)」
「やだ、うそ、まさか! ヒコが死んじゃったとか? やだ」
「……なーんちゃって」
「げろげろ、脅かすなよ馬鹿もん」
「でも、家は津波で流されちゃったんだってよ、これはホントの話」
「ふ――ん、家、ないのかな?」
「どうかねえ」
ってなわけで、ケンさんからタヒチのヒコの電話番号を聞いた。
「おまえさ、頼みがあるんだけどな」
「なに?」
「タヒチに行ったら、タヒチにザリガニがいるかどうか調べてきてくれ」
「はあ?」
「いたらオスメス一匹ずつ、焼酎《しようちゆう》に漬けて持って帰れ」
無茶苦茶言うな〜。
ケンさんは「日本ザリガニ学会」(いろんな学会があるもんだ)の学会員でザリガニの研究をしてるんだそうだ。
「はいはい」と適当に返事をして電話を切った。
ガイドブックを見たら、タヒチとの時差は十九時間とある。
時計を見ると午後二時、ってことはタヒチは夕方だ。
ちょうどいいや、と思ってさっそく電話してみた。
なんかあっけないくらい簡単に、電話はタヒチに繋がっちまった。
「もしもし、ヒコいますか?」
「はいはい、私ですけど」
「お〜久しぶり、あたしのこと覚えてる? 田口ランディだよ」
「え―――――と、誰だっけ?」
「あのさあ、パソコン通信で知り合って大島でいっしょに飲んだじゃん」
「パソコン通信? ああああああ、思い出した! ランディさん」
「よかった、覚えててくれて」
こういうとき、ランディって名前は忘れにくくてよろしい。
「久しぶりですねえ」
「あたし来週タヒチ行くんで、そんで電話したんだ」
「おお! それはすばらしい」
「いっしょに潜りたいなあ」
「まかしてくださいよ、うちはモーレア島っていうタヒチ島の隣にある小さな島なんだけど、タヒチからは飛行機で七分だよ。海はこっちの方がすごくきれい」
「そっかあ、いいねえ」
「いっそのこと、うちに泊まってしまえば?」
「迷惑じゃない?」
「ぜんぜん。海岸でキャンプしながら寝るのもいいし」
「うわあ、楽しそう」
「いいよ〜、今もベランダで夕ごはん食べてたところ、最高だよん」
そのとき、ほんとに電話線を通して、タヒチの空気が流れてきた。
ほんとうに感じたんだよ、私、タヒチの夕暮れを彼の言葉から。
言葉ってすごいね。人類最大の発明だね。
音だって、空気だって、匂いだって、言葉は伝えることができるんだよ。
言葉は、そういう力をもっている。
ヒコはモーレア島のガイドをしてるらしい。
モーレア島の日本人ガイドはヒコだけなんだって。
「毎日暇ですよ」と言っていた。
「じゃあ、いっぱいいっしょに潜れるね」
「ごりっと遊びましょう!」
電話を切った。
そしてきっとタヒチは楽しい旅になるなって予感した。
そんとき私が知っていたのは、彼がアメリカの大学に留学してジャーナリズム論かなんか勉強したこと、東京では広告代理店に勤めてて、フランス人の奥さんがいて、大島に住んでいて、そんでタヒチに引っ越すときに私の友人に電動草刈り機を売ったことくらいだ。
なんかさあ、距離も時間も人を隔てることはできないなっていつも思う。
私がずうずうしいからかなあ。相手と繋《つな》がった瞬間に、距離も時間もすっ飛んでしまう。
たった二回しか会ったことのない人、しかも六年も会ってなかった人とでも、いきなり昨日別れたような気分になれる。誰とでもそうだ。
関係も、距離も、時間も、一瞬にして消えちゃう。
でも、昔からこうじゃなかった。
たぶんネットを始めてからだよ。ネットっていうメディアの奇妙な人間関係を知ってから、現実の生活でも自分のなかに「距離」とか「時間」とか「会った回数」とか、そういうものがとっぱらわれちゃったような気がする。
ヴァーチャルな人間関係を知ったことが、私にとってはとても良かったのかもしれない。
離れ離れで暮らしていても、必要なときにポンってつながれる。
そんな自分を手に入れたような気がする。
モーレア島は最高だった。
小さい島なのに高い山がある。
山の頂は雲に隠れていて勇壮なの。神さまが住んでいる島って感じ。
ヒコは約束通り、モーレア島のフェリー乗り場に迎えに来てくれてた。
初めて会ったときみたいに。
六年ぶりに会ったのに、昨日、別れたみたいな感じだった。
ほんとに、私はこの人と二度しか会ったことがないんだろうか? 信じられない。自分でそう思った。現実ってすごいな。リアルっていいなって思った。
ヒコの家に泊めてもらって、夕方から夜中までバーベキューをして過ごした。
島を案内してもらって、クック湾のダイビングにもつきあってもらった。
サメの餌付《えづ》けはスリリングだった。
それからヒコの奥さんのマリローさんが勤める島のホテルのコテージを借りて、シュノーケリングを楽しんだりした。
みんなでお料理を作って、おいしいものをいっぱい食べた。
どうして、六年ぶりに会った赤の他人の私にこんなに親切にしてくれるんだろうって、そんなことを考えながらデッキの長イスに寝ころんで明け方の空を見ていたら、ココナッツがぼとって落ちる瞬間を見てしまった。
ココナッツが落ちる瞬間を目撃するなんて、生涯ないかもしれないと思ったら、妙にうれしくなった。
「ココナッツが落ちるところを見たよ〜!」と怒鳴ったら、ヒコがニコニコしながら「そりゃあ縁起がいいね」と言ってくれた。
フェリーに乗って、別れるときに、私は大泣きした。
南太平洋の夕陽はこんちくしょーってくらいセンチメンタルに美しいから、泣かずにはおれんのだっ。
いっぱいいっぱい優しくしてくれたヒコのことが、自分のきょうだいみたいに思えた。
「もう、日本には帰りたくないよ」
とヒコは言った。
「ここの暮らしが、好きなんだ。ここで家族でネコと犬と奥さんと暮らせて毎日が楽しいんだ」
ヒコが、タヒチに移住したいきさつを私はなんとなく知っている。
ヒコはとてもよく働く広告会社の営業マンだったんだ。ワーカホリックなくらい働いてた、って奥さんのマリローは言っていた。
でも、湾岸戦争の映像を見て、スイッチが入ってしまったんだって。
二人で、湾岸戦争のテレビ映像を見ていて、もう、自分たちがこの世界での生活を変えなければどうしようもない、って、なぜかそんなふうに切実に思ってしまったんだって。
めったにそういう話を二人はしない。
フェリーのデッキで海風に吹かれながら、私はずっと別れを惜しんで泣いていた。なんで泣いているのか自分でもわかんなかった。
自分が忘れていたことを思い出したからかもしれない。
人と時間を分かち合うこと。ゆったりと友達と出会うこと。押しつけがましくなく相手を思いやること。そういうこと、私はすぐ忘れてしまうんだ。
日本に生きていると自分の都合がいつもあって、自分の時間割と相手の時間割をすり合わせて、きつきつの状態で人と会っている。
少しだけ、いつも他人に自分の時間を奪われたような、そんな卑しい気持ちでいる。
楽しい夕暮れの景色を、心から存分に誰かと分かち合うような、そんな日常をなくしてしまった。
ちょっと落ち込んだりすると、世界中で知り合ったいろんな人たちのことを思い出す。
モーレア島のヒコや、ギリシャの歌を教えてくれたアステリアス、スリランカのコブラ使いの少年や、ヴェトナムでいっしょに過ごした子供たち、ボート漕《こ》ぎの少女、ニューカレドニアのブーニャレストランのおばさん。
みんなみんなどうしてるかなあ、と思う。
それぞれの時間を生きている。
みんなそれぞれの時間を生きている。この地球上のいろんな場所で。
なんだかとても不思議だ。みんなそれぞれの場所がある。その場所で、自分に与えられた運命を生きていく。
そう思うと、私は私でいいんだなって思う。
人類はこんなにいろいろある。私は私でいいのだ。
いろいろあるうちの一つでいいのだ。
そう思えると、いつもは気になる他人のことが、少しだけ気にならなくなる。
旅は魔法みたいだ。
旅で出会ったたくさんの人を思うとき、自分が生きている世界の呪縛《じゆばく》が解ける。
この土地に定着してしまうことで生じる、場の力、関係の引力。
そんなものを、旅は切ってくれる。
モーレア島のヒコのことを思うとき、私はいつもほっとする。
なんでもありだ。人はどう生きてもいいんだ。
価値なんか、どこかの誰かが決めたもの。
ココナッツが落ちる瞬間に、乾杯。
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つまらないということ
2001年は、私にとって、とても苦しい一年だった。
私は春頃から、少しずつ鬱《うつ》状態になっていった。
もちろん、最初はまったく自覚がなかった。仕事も順調だったし、旅行の計画もたくさんあって、それをこなしていた。
5月くらいから、なぜか、楽しいと思うことが少なくなった。
ふと気がつくと、なんとなく「めんどくさいな」といつも思っている自分がいる。もちろん、周囲に合わせて楽しそうにはしているのだけれど、それはあくまで合わせているのであって、心はあまり楽しくないのだ。
そういう自分を体験したことがあまりなかったので、私は「つまらない」という自分に慣れることができなかった。ふと気がつくと、つまんない自分がいる。でも、それは明確に意識されることはなく、人に気づかれることもなかったと思う。
あまり楽しくないので、疲れやすくなった。楽しくないと疲労感がつのるのだ。
8月に引っ越しをした。
引っ越しの前はかなり具合が悪く、顔面神経痛だった。引っ越しの後は、新居に移った嬉《うれ》しさと目新しさで、少し元気になったかに見えた。
9月に入って、あのニューヨークのテロ事件が起こった。
世の中が急に騒がしくなり、あちこちから意見やコメントを求められるようになると、またしても、何もかもがつまらなく感じ始め、だんだんと人と会って話をするだけでぐったりと疲れ、寝込むようになった。
10月に入ると、あらゆる出来事が不機嫌の種になった。
ふつうに笑って他者《ひと》と話をすることが苦痛で、そのためにひどく労力を使わなければならず、夜もあまり眠れなくなってきた。とても眠りが浅いのだ。なにもかもつまんない。何を見ても、誰と会っても、なんだかつまんない。そういう自分に罪悪感を感じて、一生懸命に楽しくなろうと努力するのだけれど、どうにも、つまらないのだ。
この「つまらない」という感じを、言葉で説明するのはひどく難しい。
その瞬間には「つまらない」と思っていない。他人のジョークに笑ったりする。けっこう明るく見えるはずだ。けど、笑った次の瞬間に「つまらない」感じが、どっかんと胸を圧してくるのだ。
胸を圧するという表現が一番ぴったりくる。質量のある灰色の綿の塊みたいなものが胸のあたりでもやもやと棲息《せいそく》しているような感じ。
「つまらない」というのは、このもやもやがあるので、何かがつっかえていて、喜びの感情が塞《せ》き止められている……というような意味だ。私が自発的につまらないのではない。私がわざと自分をつまらなくしているのではない。
とにかく、この灰色のもやもやがあるせいで、私は「つまらない」というような心理状況に追い込まれている。
なのだけれど、常識的に考えると「つまらない」と感じているのは私であって、つまり私は私の意志で自分を「つまらなく」している、と思いがちだし、世の中の人はおおむね、そう思っているのだろう。
でも、私は違うと思った。
私が経験した「つまらない」は、私の意志ではなく、なにか否応もなく私に取り憑《つ》いてしまった灰色のもやもやによって引き起こされていて、私の意志なんかでは断じてなかった。
だから私は「人間は気のもちようだよ、楽しいことを考えれば楽しくなるさ」というような慰めを言う相手を、本当に疎ましく思った。
冗談じゃないよ、違うよって。
私の意志じゃない、私がつまらなくしてるわけじゃない、否応もなく、なにかの力によって私は「つまらなく」なってる……って。
他人がどう言おうが、いままさに「つまらなく」感じている私がそう言うのだから疑いようがないじゃないか、って。
だけど、「つまらない」ことは自分の責任だと指摘する人がほとんどで、私は「つまらない」自分を責めなければいけなくなった。だから、私はもう他人に相談することをやめてしまった。どうせ「あなたがつまらないと思うからつまらなくなるのだ」と言われるに決まっているから。
だけど、そうじゃないんだ。
11月に入ってからは、さらに悪化して、ついに私は原稿が一枚も書けなくなった。書く気にならない。そんなことはいままで一度もなかったことだ。書きたくない。「つまらない」のだ。書くことが楽しいと思えない。何を考えてもおもしろいと思えない。むなしい。人に会うだけで疲れる。インタビューを受けていると、左肩が重くなる。左の肩甲骨の裏がキリキリと痛むのだ。
ここまで世界が「つまらなく」なってしまったのは、生まれて初めてだった。
過去にも落ち込んだことはあったけれど、それには明確な理由があった。私の人生はいまそれほど大きな問題を抱えているわけではない。
それなのに、一年かけてゆっくりと私は生きることへの興味を失いつつあった。自分でも何が起こったのかわからず、不思議でしょうがなかった。
とはいえ、日常生活はそれなりにつつがなく過ぎて行く。
毎月のように取材旅行に出かけたし、インタビューや対談も笑ってこなしていた。打ちあわせと称しての飲み会も頻繁だった。
だけど、なんとなく「つまらなかった」のである。
誰のせいでもなく、ただ、私の胸に灰色のもやもやがいつもあって、なにかを喜ぶことを邪魔しているような感じだった。
もっと正確にこの「つまらない」について記述すると、たとえばこんな感じだ。ふつうの状態だと、私は次から次へと外部からの刺激に反応して、自分の記憶が喚起されて、脈絡がないように思えたもの同士が結びついて、そして、新しい可能性とか発見を見いだして、そのことを他者といっしょに共有したり喜んだりすることができるのだ。
ところが「つまらない」の状態になると、刺激が私の脳まで届いてこない。
外部の刺激がすごく弱いパルスでしか脳を伝っていかなくて、記憶の扉を叩《たた》かない。何も喚起されないし、可能性も発見もなくなってしまうので、何をしていても沸き上がるような喜びがないのだ。
その状態が慢性化していくと、自分をおもしろくさせてくれない他人を逆恨みしたり、おもしろがれない自分を責めたりして、よけいに辛《つら》くなる。
それでも、身につけた社会性とはありがたいもので、日常生活に不便はなかった。いったい、自分はどうなってしまったんだろう、と、それこそ神社のお祓《はら》いから、怪しい健康食品まで、手あたり次第に試してみたけれど、いっこうに効き目もなかった。
私がこの状態から劇的に抜け出したのは、忘れもしない11月30日の夜から12月1日の朝にかけてだった。
この夜に、私は夢を見たのだ。とてもとても長い夢だった。
私は夢のなかである取材旅行に行ってる。途中でトラブルが起こって編集者と喧嘩《けんか》をしてしまう。
めずらしく私は「あなたがそういうつもりなら、もうこの仕事はこれでうち切るわ」と怒っていた。そうこうするうちに、トイレに行きたくなる。
仕方なく、あるドライブインの大きなトイレに入っていく。すると、そこのトイレが故障中なのだ。
水が流れなくて使えませんっていう状態。そこにはトイレに入りたいたくさんの人たちがひしめきあっている。私は途方に暮れる。すると、そこの従業員がアナウンスを始める。
「みなさん、トイレが故障していて申し訳ありません。でもご安心ください、あちらに仮設トイレを用意いたしました。あちらで用を足していただけます」
みんなは我先に移動していく。私もトイレに行きたいから一生懸命に仮設トイレに走って行く。すると、そこに従業員の人たちがいて、とても礼儀正しく言うのだ。
「こちらに仮設トイレを用意いたしました。このトイレは仮設なので水が流れません。でもご安心ください。私たちが責任を持って、あなたのうんこを受けとめますから」
いくらなんだって、他人にうんこを受けとめてもらうような状況で用を足せるわけないじゃないかって私は思う。そんなの絶対いやだ。でも彼らは「ご安心ください、大丈夫です。私たちがしっかり受けとめますから、絶対見ないようにしますから」みたいなわけのわからないことをわめき続けている。
私はもうここはだめだから、どこか他に行ってお店かなにかのトイレを借りようって思うのだが、そこで抽選が始まる。
仮設トイレは一個しかないから使う順番を抽選で決めるっていうことで、くじ引きの箱がポーンと私の前に差し出されて「引いてください」ってニコニコしながら言われる。ええっ?と思うが、しょうがないから引いたら一番だ。
「おめでとうございます、あなたが一番です」
と言われて、「こちらにどうぞ」と連れて行かれる。
その仮設トイレには階段があってカーテンが引いてあり、パッとカーテンを開けると椅子が置いてある。真ん中が丸くあいてるドーナツ椅子みたいな、モーテルのお風呂《ふろ》にあるような椅子で、その椅子の下に洗面器が置いてある。
そして元気いっぱいに「さあここでどうぞ」とすすめられるのだ。
「私たちがちゃんとここで受け取って、昔の貴族のように流しますから」って。
いや、いくらなんでもこれは、って思うのだが、「一番を引いたあなたがこれをやればみんなも安心するので」と説得されて、私はいやいやながらパンツを下ろしてその椅子に座る。だが、どうしてもできない。やっぱり私はだめだ、と諦《あきら》めて立ち上がる。
夢のなかではなにもかもが汚いの。あらゆるものがなんとなく糞尿《ふんによう》にまみれている。待ってる人たちも、お腹にいっぱいうんこをためてるのが透けて見えるような感じ。私の自尊心もとても傷ついてる。
私は、すごく怒っていた。「あんな場所でトイレができるわけないじゃないのっ!」
ものすごい勢いで怒鳴ってるところで目が覚めた。
なんという夢だ! この晩に見た夢は、これまでの夢人生のなかでも特筆すべき汚ない夢だった。もう夢のなかじゅう、クソまみれであった。
夢から覚めて唖然《あぜん》とした。
「ああ、そうか、私はこの夢みたいな世界で生きていたんだな。この夢は私の内的な現実なんだな」って。
それからこうも思った。
「でも、夢を見たということは意識化できたのだ。だから私は乗り越えることができるに違いない」と。
私はたぶん、人前で「うんこしろ」と言われているような状況だったのだ。そう考えると自分のことがとても納得できた。
「うんこ」は私のものだ。他人のためにしたり、他人に受け取ってもらったりするものではない。私は私のために「うんこ」をする。
うんこは、私の純粋な創造物であり、私の分身だ。
12月に入ってから、霧が晴れるように灰色のもやもやが消えていった。
それを自覚するのも不思議な気分だった。
それと同時に、書きたいとか、おもしろいとか、そういう刺激に対しての反応ができるようになってきた。
何が変わったというわけじゃないけれど、世界にはめ込まれていた枠が夢によって壊れて、自分が楽になったということだと思う。
それを、やっぱり私の友人は、
「そうなのよね、鬱《うつ》状態になると自分をつまらないというふうに追い込んでしまうのよね」と共感してくれたけど、私にはどうしても、その言い方に納得がいかないのだ。私は自分を追い込んだわけじゃない。
確かに私も鬱状態の人をそんなふうに表現したことがあった。
「あの人は自分を辛い方へ追い込み過ぎるのよ」と。
だけど、それが本当は大きな間違いだったことに気がついた。
私は自分を追い込んだのじゃない。
なにか自分を取り巻く世界がゆっくりと形を変えて、ある枠のようなものができて、気がつくと自分がそこに居たのだ。
世界とはそういうものなのだ。
突然壊れるし、突然変化する。
世界というのが大げさなら環境と言い換えてもいい。
父親がリストラされただけで家庭という環境は変わる。小泉政権ができただけで環境は変わる。テロが起きると環境は劇的に変わる。世界はいつも変わっていて、世界の位相は自分の家庭から世界経済まで何層にも連なっているけど、それらは微妙に連動しあっている。
世界は一日として同じ環境というものがなく、綿々と変化している。気がつくと、変わっているんだ。
私がその変わった世界の枠のなかに捕らえられてしまったのは、自分が変わりそこねたからだ。何らかの事情があって、私は私にこだわりすぎて、世界の枠組みに捕らえられてしまった。いままでだったら、そんなものに影響されずに、するりと枠の外に逃げられたのに、慣れない環境に適応しなくちゃともがいているうちに逃げそびれたのだ。
そうなのか……と思った。
人生をおもしろいと思うということは、常に私を取り巻く私の環境が変化して作る枠組みのなかから、逃げ切ることなのだ。
環境が私を作るが、私はその環境から常に逃げて、枠の外にいる必要があるのだ。それがおもしろいということなのだ。
世界はイリュージョンで、ひとつの枠組みはすぐに消えて、気がつくと新しい枠組みのなかに閉じこめられている。それを感知するためのセンサーこそ「つまらない」という感覚なのだ。
そうなんだ、そうなんだ。
つまらないと思ったらすぐ逃げて来たのが私なのに、なんだかエエかっこして環境に合わせていたので、いつのまにか枠のなかにはまってしまってつまらなくなっていたんだ。
この一年、本当につまらなかったけど、つまらないということがどういうことなのかよくわかった。
つまらないと感じたら、私は逃げ出さなくてはいけない。
少なくとも、何かに「ノー」を言って、この枠組み一本でもはずして、そこから外へ出ていかなくちゃいけないんだ。
逃げても逃げても、世界はどんどん変化して、私を捕らえようとするだろう。
私は環境に適応することで生きている。
適応を拒否するのは危険だ。でも、適応の外へ出ることで人間は変化し、生き延びてきた。
たぶん適応と適応からの脱出、さらなる適応、そこからの脱出、そんな人生を私はおもしろいと感じてしまう人間なんだろう。
「つまらない」は大切だ。
こんなに変化の激しい社会のなかで、罠《わな》にかかったことを感じるセンサーは「つまらない」という感受性だけかもしれない。
「つまらない」と感じられたら、そこから逃げられる。
そのことを、何度でも何度でも、繰り返し自分に言い聞かせ、忘れないようにしようと思う。
死ぬまで。
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はだしのゲンの子供力
知人から『はだしのゲン』全巻を譲り受けた。
『はだしのゲン』という漫画、タイトルだけは知っている方も多いと思う。
中沢|啓治《けいじ》さんが描いた戦争漫画で、広島に落ちた原爆による被爆者の被爆直後の生活をリアルに描いている。
私は、自分でもよくもまあ偉そうにヒロシマについてエッセイなど書くなあと思うほど、この手の漫画、小説は苦手であった。
苦手というか、なんというか、どうにも読み始めることがしんどいのである。おいこら、こんなことではアカンぞ、と思うのだけれど、なかなか戦争の悲惨を描いた作品に面と向かうことができない。
二十代の頃は特にそうだった。
戦争を題材にしたドキュメンタリーなどは大嫌いだった。見たくなかったのだ。「だってさ、いまさらどうすりゃいいのよ私が。過去に起こった悲惨な出来事を私が知って、暗い気持ちになって、悲しんで、それで何かいいことあるわけ?」
と、いうのが二十代の私の言い分だった。
「そりゃあね、戦争で起こったことをちゃんと知ることは大切かもしれない。だけど、見せられても、教えられても、だから自分は平和を守るっていう、そういう短絡的な発想にならないわけよ、私は」
と、酒など飲みながらクダを巻いた。
恥ずかしいが、私は本心、そう思っていた。
わざわざ過去の悲惨を自分が引き受けてどうなる? 私が悲しんだり苦しんだりしたところで戦争は過去のことなのだ。自分たちがいま、どう生きるか、その方がずっと大事じゃないか。
ごたくを並べて、「悲惨」の匂いのするものを極力回避し、眼を合わせないようにしてきたのだ。
戦争は私にとって、古いし、ダサいし、うっとうしかった。
戦争なんて知らないよ。私は高度成長期に生まれたんだからカンケイないわ。
別にそのように生きてきてもなんら生活に支障もなかった。
その私が、四十を過ぎて戦争に関心をもつというのも、不思議である。
人生とは何が起こるかわからない。私は未だに悲惨なものを見せつけられるとケツをまくって逃げたくなる腰抜けだけれど、さすがに二十代の頃よりは鈍感になった。自分の身内や友人もたくさん死に、死というものとリアルに向きあったので、免疫ができてきたのかもしれない。
というわけで、私はようやくというか、このお正月に『はだしのゲン』なる漫画を読み始めた。存在は昔から知っていたが「なんとなく絵が汚い」「どうせ説教臭い漫画なんじゃないかなあ」などなど、勝手な憶測で読むことをためらってきたのだ。
なんでいまさら『はだしのゲン』を読み出したかというと、自分の小説のためである。いまとりかかろうとしている長篇小説の参考になればと思い、半ば渋々読み始めたのだった。
漫画は第二次世界大戦も終わりに近づいた昭和二十年の広島から始まる。
広島の町が丁寧に描写されている。
何度か広島を訪れている私には「あ、ここってあそこだ」と、読んでいると記憶がつながって妙に楽しい。
主人公は中岡元《なかおかげん》、小学校二年生の男の子だ。
まず、この設定にびっくりした。『はだしのゲン』は、小学校五年生くらいの男の子かと思いこんでいたからだ。
全七巻を一気に読み通して、私は二回ほど泣いた。
読み終わって、この漫画を自分がいかに誤解していたかに気がついた。
『はだしのゲン』は戦争を描いた漫画であると同時に、子供を描いた漫画だった。
というか、私には「子供を描いた漫画」としての印象がより強く残ったのだ。
ゲンは小学校二年生、ということはまだ七歳か八歳である。
以前に私は「SWITCH」という雑誌の鼎談《ていだん》で「理想の男ってどんな男か?」と聞かれて「本当にすてきな男は大人の男には存在しない。小学校三、四年生くらいまでの少年のなかに、純粋な男性性が存在しているような気がする」ということを語った。
そうなのだ。六、七、八歳くらいまでの男の子が、もっとも男としてピュアである。このような年頃の男の子のなかに、純粋な正義感、純粋な他者への愛、純粋な思いやりをかいま見て、しびれてしまうことが多々ある。ひたすらピュアな男の魂とでも言うべきものだ。
それが年頃になり自我が芽生え、思春期を経て大人になると、どうしようもなく濁るのである。しょうがない。この世は資本主義社会であり、男は否応もなく競争のなかに巻き込まれるのであるから、純粋なままではいられない。
『はだしのゲン』で表現されていたものは、まさに男の子の魂だった。老人力というものがあるけれど、この漫画は「子供力」の漫画なのだ。
『はだしのゲン』は原爆投下後の広島の悲惨な状況をかなり克明に描写している。なかなか知ることのできない被災者の被災直後の生活も、ゲンの眼を通して描かれる。
ある日突然、地獄と化した広島の町で、少年と家族は生き抜こうとする。
大人はひたすら深刻だが、ゲンはまだ子供なので深刻さが継続できない。それが子供のすごいところであり、深刻さが継続できない子供の視点でこの漫画が描かれているところが、この漫画のすごいところである。
面白かったのは、主人公のゲンが、自分にイジワルをした大人には、必ず報復することだ。その報復の方法が「おしっこをかける」「肥だめに落とす」というもので笑える。わんぱくで、家に寄りつかず、逃げ足が速く、転んでもタダでは起きない。
身近に子供たちを見ているので、『はだしのゲン』に登場する子供たちが、漫画のなかの特別の子供には思えない。子供というのはいつの時代にも、どうしようもなく明るく、はちゃめちゃで、優しくて、生きる力に満ちているのだなあと実感した。
だから作者の中沢さんが「ゲン」という元気な男の子を通して、原爆を描こうとしたことの、その優しさがわかるような気がした。
もしかしたら、このような悲惨な現実は子供を通してしか描きようがないのかもしれない。
大人はすぐに絶望するし、恨みがましいし、死のうとするし、泣いてばかり、悔やんでばかりいる。子供には継続的な恨みや絶望はない。よほどの虐待を長期にわたって繰り返さない限り、子供は素早く立ち直り、笑ってみせる。
みーんな子供だったんだよなあ、かつては。誰でも子供だったんだよなあ。
私はけっこう鮮明に六、七、八歳の頃の記憶があるが、自分がそんなに明るかったとは思っていない。どっちかってえと学校が苦手で暗い感じだったと記憶している。
ところが、その頃の写真を見てみると、やたら元気でうれしそうなんだ。よく笑ってるし、悩みがあるとは思えない。
もしかしたら私は、大人になるに従って「辛《つら》かった」という部分だけを過剰に記憶に留《とど》めているのかもしれない。
子供のときは、なにげない日常がひたすら楽しいのだ。だから辛いこと、悲しいことの方が特別で、特別だから記憶に残りやすいのかもしれない。そういえばめちゃくちゃ楽しかったときのことはすっかり忘れてる。だけど、子供って瞬間瞬間がめちゃくちゃ楽しいんだよ。そういうことの連続を生きている。子供を見ているといつもそう思う。
私は三十七歳で子供を産んだのだけど、自分が子供を産むまで子供ってよくわからなくてあまり好きじゃなかった。
積極的に嫌いではなかったけど、結婚して十二年間、子供がいなかったので、子供に対してナーバスになっていたように思う。
「田口さん、子供は?」と聞かれて、子供がいないことを説明するのがおっくうでたまらなかった。「産まないの?」と聞かれて、産むも産まないもそんな選択すら自分はしているつもりがなくて、どう答えていいかわからなかった。
友人の出産祝いにも何をあげていいかわからなかったし、子供ができた人をお祝いするのが苦手だった。子供ができるとどのようにウレシいものなのかよくわからなかったのだ。それに必ず「あなたもすぐできるわよ」と言われたりすると、さらに心境は複雑で、だんだんと子供の話題から遠ざかってしまうようになっていた。
当然のことながら、子供のことなどさっぱりわからず、でもまあいいや、子供と縁がなくても生きていけるし、という、いつもの悪い癖の開き直りで、妊娠するまで子供とコミュニケーションを取ることもなかったのだ。
そんなわけで、もしかしたら自分は子供嫌いなのかしら? と思ったりもした。そして、子供が生まれてもかわいいと思えるかしら……と不安になったりもした。
案ずるより産むが易《やす》いとはよく言ったもので、産んだら子供に魅了された。
おもしろいのだ。子供とは、大人とは違う生き物だ。とてつもない生命力に満ちあふれた、驚異の生物が子供であった。
私は、いま、確信している。
子供には「子供力」とでも言うべき、おそるべき力がある。
これは「老人力」などの比ではない。子供であるということは、それだけで一つの能力としてとらえてよいような気がする。
おしなべて子供は即物的、快楽的、楽観的である。悲しみも怒りも憎しみも、瞬間的に発散し、浄化してしまう。もちろん個人差はあるが、子供である限りみな、この要素をもっている。そして曇りなき眼で世界を見、感じ、愛情豊かで、生きることしか考えていない。現在しか興味がない。来るかどうかわからない未来より今が大事だ。
たぶん『はだしのゲン』の中沢啓治さんはそのことを知っていたのだろう。
そして、子供力を使って、この漫画を描いたのだと思う。
この作品は、子供力によってエネルギーが変換されている。原爆投下という二十世紀最大の悲惨な出来事、そのマイナスのエネルギーをプラスに転換している。
子供力にはそれができるのだ。
それを、大人は忘れている。
「子供力」は大人を揺さぶるだけのパワーをもった力だ。
それがこの社会から隠ぺいされているのはもったいない。宝の持ち腐れである。
「子供力」の助けを借りて、なにが表現できるだろう。
そんなことを、いま、考えている。
[#改ページ]
バランスの極意
2001年9月11日。
ニューヨークで起こった民間航空機ハイジャックによるビル爆破テロ事件は、私のなかに一つの映像として焼きついた。
繰り返し繰り返し、ビルが崩壊するシーンを見た。
テレビ画面は二次元の世界だ。その二次元の世界のなかに私は自分を没入させていた。大きな事件が起こるといつも、テレビの画面がとても大きくなり、自分とテレビの画面以外の風景が見えなくなる。
あの当時のことを今思い出すと、自分がテレビを見ていたという印象が薄い。記憶のなかでテレビは画面ではなく世界にすり替わっている。私はあたかも世界を体験しているかのごとくテレビの二次元映像を記憶している。
本来は自分の家のリビングの、片隅にある、小さな小さなテレビの画面でしかないはずなのに、そうは思えない。
テレビ映像の存在感はすごい。そして、私はリビングの窓の外に広がる家の庭と、その向こうの海を忘れている。本当の世界が私のなかでテレビの映像に負けている。自分でもびっくりするけど、でも、そうなのだ。
なるべくテレビから離れて、テレビを部屋全体のなかの単なる一部と思うように心がけている。でも、興味のある対象がうつしだされると、私は無意識のうちにテレビに近づき、のめり込んでいる。そのとき、私の意識はテレビに占領されていて、部屋全体は消えている。
あまりにも長いこと、テレビと共に過ごしてしまったせいか、私はいとも簡単にテレビを自分のなかに組み入れてしまうのだった。
事件後、たくさんの方からいろんな種類のメールをいただいた。
衝撃的な事件だったし、その後もテロは続き、世界に大きな波紋を投げ掛けたのだから、多くの方がそれぞれに意見をもって、発言するのは当然のことだと思う。
ただ、私はあまりにも国際情勢に疎く、無知だったから、自分の意見というものを明確にもつことができなかった。
かろうじて「私とアメリカ」というコラムを書いた。個人的な内容の文章だったけれど、それでもたくさんの感想メールをいただいた。
その後も、意見を求められることが多かった。さすがに私もアフガニスタンのこと、パレスチナのこと、イスラエルのこと、少しずつだが勉強していった。
それでも、自分の意見など言えるような状態ではなかった。
年末には、テロリズムに関するさまざまな分析書も出た。コラム集や、意見集も出た。
だけど、私は相変わらずしっくりこない。
自分の居場所にしっくりこない。どうにも自分にフィット感がない。何を語っても何を書いてもしっくりこない。困っていた。
自分がズレているのはわかる。何か別のことを求めているのはわかる。だけど、自分がどうズレていて、何を言いたいのか自分がわからないのだ。
ところが、今朝、ある友人からこの文章が送られてきた。
その文章は、初めて、なんとなく自分がフィットする文章、ジャストな文章って思えた。あ、もしかしたら私が思っていることもこういうことかもしれない……、って、うれしくなって、それで、今日はやっと少しだけテロ事件について書けそうな気がしてきた。
この友人は自らの文章に「バランスの極意」というタイトルをつけていた。
もともとこのタイトルはライアル・ワトソンの『アースワークス』という本に収められているエッセイのタイトルだそうだ。
ニューヨークのテロ事件について考えたとき、彼女はこの「バランスの極意」という一文を思い出したのだそうである。
以下、転用。
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バランスの極意[#「バランスの極意」はゴシック体]
ライアル・ワトソンは1970年代に、パプアニューギニアの「首狩り族」のもとでフィールドワークを行います。人口は2万。彼らは素晴らしく精緻《せいち》で高度に洗練された社会システムをもっています。
食物にも生活の道具にも建材にもなるサゴヤシに恵まれ、その財産をめぐる賢くも巧妙な制度。部落の内外に起こる争いや殺人や不倫を裁いていく優雅で複雑な儀式や習慣。
「首狩りは、本質的には争いと無関係である。或《ある》いは、争いとの関係は皆無に近いと言っていい。それはむしろ、ものごとのバランスは保たれなければならないという認識の、形式的かつ儀式的な表現なのだ」
男たちが体験する「通過儀礼」の重要な部分に、かつて戦いによって首を狩られた男の頭蓋骨《ずがいこつ》をもち、その殺された男の「名」を名乗って、その男になり替わる儀式がある。
彼はかつては敵であった死者になり替わって遺《のこ》された係累の面倒まで見る。遺族は彼を父や夫、或いは兄弟と呼び、失った男と同じように遇する。こうして危害を受けることなく、敵同士の村を行き来できる特権的な仲介者として認められる。
彼らの「非均衡」が生じたときの、卓越した解消法。「人が殺害された記憶は長く残る。特徴あるトーテムポールが、村人の記憶を常に呼び覚ますべく、村を見下ろすように立てられているからだ」
マングローブの樹幹に彫られた動物のモチーフと巨大な男根。これが立っている限りは、報復は未《いま》だ完遂していないことを意味する。
彼らにとって、報復とはただ殺すことではなく、そのバランスの極意が教えるとおり「非均衡」を解消すること。適切な相手を適切なタイミングで、殺さなければならないのだ。
ここには過剰な憎悪も、怒りも感じられません。私たちには理解しがたいシステムだとしても、未開の知恵が風のように吹き抜けています。争いが生じるたびに、お互いに雪だるまのようにふくれあがる憎悪と復讐心《ふくしゆうしん》。
この現実を風のように吹き過ぎるために、私たちに必要なバランスの極意とはどんなものでしょうか。それはこの時代のこの文化の中からしか立ち上げられない「未だ見ぬ叡知《えいち》」だと思います。
渡邊満喜子
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私はこの文章を何度も読み返して、いったい自分のどんな部分と満喜子さんの文章がジャストな感じなのか考えてみた。
この文章で紹介されているのは「アスマット族」。
メラネシア系に属する人種で、その最大の特徴は「首狩り」、つまり共食いをするということだ。
「首狩り」は、野蛮だ。
私はどうしても、近代的な価値観で考えてしまう。
人間が人間の首を狩り、人間を食するなど、私が培ってきた常識では判断できない。もっとも平和から遠い行為に思える。
首を狩られる方の身になってみろよ。
いかに生活環境が過酷だからって、そこまですることないじゃん、と思う。
これが私の個人的な限界だ。
だけど、首狩りという行為が「ものごとのバランスをとるための必要な行為」だと理解するライアル・ワトソンと、その意味を感じ取る満喜子さんに、私はハッとするのだ。しかも、テロの問題を語るときに「首狩り族」を思い出す満喜子さんの底力に、私は大ショックを受けてしまったのだ。
私なら、きっと思いついてもその考えを葬る。
怖いから。
こんな時期に、なるべく「殺す」ことを肯定する考えは避けて通ろうとしてしまう。
なにが怖いのかわからない。世論だろうか。
とにかく、君子危うきに近寄らず……と考えてしまう。いや、そもそも、そういう発想は出てこない。恐れている人間は保守的になる。だから発想も貧困になるのだ。
世界にはものすごくたくさんの人たちがいて、そこには、民族の数だけ常識がある。私の常識、私の価値観はすべてではない。同じように平和に対する価値観も一つではない。
そのことは頭ではわかっている。ものすごくよく理解している。
頭だけでは。
だけど、頭の理解だから、満喜子さんに「首狩り族」の話をされるとギョッとするのだ。私の頭は私の感受性や感覚とは分離して「良い子」なのである。
理屈で理解していても、心は「首狩り族」を野蛮に感じる「嘘つき」なのだ。
人と人、部族と部族がせめぎあって暮らす以上は、そこにいざこざや争いが起こるのは当然のことだ。
そのせめぎあいが争いにまでエスカレートしてしまうことを、私たちは十分に歴史から知っている。
アスマット族は、その争いを、ある強力な仕掛けによって、絶妙なバランスをとり解消しているのだと、ライアル・ワトソンは言うのだ。
「適切な相手を、適切なタイミングで殺さなければならない」それは、一見、私の価値観では「恐ろしいこと」に映る。でも、アスマット族は、常に隣り合うライバル同士の村を一つの単位として、組織構成を行い、対立する二つの村の間でのみ、首狩りは行われる。
アスマット族における対立は、単なる対立ではなく、仕組まれた対立だ。
対立そのものをあらかじめ仕組んでしまうというすごい発想だ。
対立を排除しない。対立そのものを含み込んで秩序化しちまおうという魂胆だ。
そこにあるのは優美で奥ゆかしく、そして複雑にして精妙な社会システムだ。
しかし、その閉じた独自のシステムのなかで行われていることは「首狩り」という共食いも含めて、私にはなかなか理解し難い。残忍であるように感じる。
それは私が育った文化、私が受けた教育のたまものだ。
私は日本という国で、ある統一的な倫理観のもとに教育されて成長した。私の感情の多くも、実は私が後天的にこの社会から教えられた価値観に起因している。
けれども、この「残忍」という感情的偏見をさっ引いて彼らの作り出したシステムを眺めると、そこには絶妙なバランスで仕組まれた、対立を避けるための社会システムが見えてくる。
それは、彼らが与えられた場所で何世代にもわたって生存し続けるために生みだした叡知であり、それによって激しい感情的な争いを、部族内から消滅させたのだ。
平和という言葉を吐いた瞬間に、私は「私の平和」にこだわっている自分自身に阻害されてしまう。私の平和とは、私にとっての平和である。では世界の平和とは誰にとっての平和なんだろうか。「みんなの平和」は存在可能か?
みんな、こんなに違うのに。みんなの平和は成立するのか。
私には、平和という概念がわからない。
でも、ここで使われているのは、平和ではなく「バランス」という言葉だ。
私はバランスという言葉がとても好きだ。平和はわからない。世界平和というものを私はイメージすることができない。平和な世界。それをイメージするとなんだかうさん臭い。
私の平和のイメージは牧歌的な生活だ。
『風の谷のナウシカ』に出てきた風の谷のような、あんな生活が平和という単語と連動して出てくる。世界規模の平和というものを私はイメージできないのだ。
でも、バランスならわかる。
バランスというのが、なにかわかる。
体感できる。イメージできる。
バランスのとれた世界。これならイメージ可能なのだ。
バランスはとても美しく、厳しい言葉だと思う。
対立することを排除せず、対立そのものを秩序のなかに含み込むようなバランス感覚を、私はもてるだろうか。
もちろん、それは私が「首狩り」という文化に迎合するということではない。
彼らには彼らの文化があり、私には私の文化がある。
私は私が育ったこの日本という文化のなかで、対立そのものを含み込んでしまうような美しい叡知を獲得することが可能だろうか。
たとえそれが現実ではなく、物語の世界のなかであったとしても、そのようなヴィジョンを提示することができるのだろうか。優しさと厳しさの絶妙なバランス。たぶん、優しいだけの社会は存在しえない。あるバランスの上に精妙に仕組まれた厳しさのなかで人はやっと優しくなれるのだ。
バランス。バランスの極意。
日本文化のなかで生みだされるバランスの極意とはいかなるものだろうか。かつて私たちの祖先はそのひな形を持っていたりしたのだろうか。
満喜子さんの文章を読んでから、『アースワークス』を再読し、そして、私がイメージしうる「バランス」についてずっと考えている。
この社会を調和へと導く「バランスの極意」。
それを、知りたいと思う。体験したいと思う。獲得したいと切望する。
この時代のこの文化のなかからしか立ち上げられない「未《いま》だ見ぬ叡知《えいち》」というものを。そんなものがあるのなら、それを探しに行きたいと思う。
でも、どこへ……?
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参考文献
『アースワークス』ライアル・ワトソン著 内田美恵訳 (ちくま文庫)
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ボディ&ソウル 台湾への旅
目覚めるのが辛《つら》かった。
疲労感、肩凝り、腰痛、瞼《まぶた》の痙攣《けいれん》、口内炎、咽《のど》の痛み、足の冷え、指先の痺《しび》れ、倦怠感《けんたいかん》。
2000年5月に私はこのような症状に悩まされていた。初の長篇小説『コンセント』を書き終えた後で、なんだか身も心もヨレヨレであった。
病院に行っても「特に悪いところはないですね、疲労でしょう」としか言われない。レントゲンを撮っても何も写らない。しかし、体調が悪い。
「どこも悪くないハズないでしょう? こんなに具合が悪いんだから」と医者に怒鳴っても「でも、あなたはとりあえず健康ですよ」と追い返される。
西洋医学は頼りにならん。私はそう思った。ちょうどその頃、台湾のとある新刊雑誌から原稿を依頼されて「創刊パーティにご招待します。ついでに台湾を旅行していってください」というありがたい申し出を受けた。渡りに舟である。
「中国四千年の東洋医学の力で、身体を治したい」とメールを送ると、台湾在住の安西真理子《あんざいまりこ》さんというコーディネーターをご紹介いただいた。そして、彼女の案内で、私は台湾の整骨院、占い師、道教の廟《びよう》を訪ね、ついには「病気治療」が得意だと評判のタンキーに会い、彼の診断で漢方薬を処方してもらったのである。タンキーというのは中国の道教の道士のこと。日本の神社の宮司さんのような存在と思っていただければよいかもしれない。
この、あまりにも怪しく神懸かり的な治療法に私が挑んだのは、日本のお医者は誰一人肩凝りを治してはくれない……という深い絶望感からであったと思う。肩凝りや口内炎、倦怠感は「贅沢《ぜいたく》でなまけ者」の生活習慣のためだと断定された。おしなべて、日本の医者は女の身体の構造に疎く、冷たいのである。
日本に帰って来てから一週間ほど、漢方薬を飲み続けていたら、前記の症状はすべて改善された。しかも生理痛まで軽くなってしまった。凄《すご》い、さすが東洋医学は偉大だなあ、と心から感嘆した。そして、すっかり元気になった私は、再び大酒を飲み始め、次作の執筆に専念した。体調が良いと筆も進むのである。長篇に取り組んでいる間は、どうしても運動不足である。
そして9月、二作目の長篇が完成した頃には、またしても私は身も心もヨレヨレであった。
今回は前回とは症状が若干異なった。悩まされていたのは頭痛と眼痛だった。腰痛、肩凝りはパソコンを使って原稿を書いている私の職業病のようなものである。
ああ、辛い。頭が痛い。また台湾に行って来ようかな。
と、考えていた矢先、D編集部から「人生を変える旅に出てください」とお願いされた。おお、神様ありがとう、またしても渡りに舟である。私ってもしかしたら台湾に好かれているのかしら……などと思いつつ、五ヶ月ぶりに台湾の地を踏んだのであった。
人生を変えようと思ったら、まず身体から。そう私は思う。精神は肉体に宿るのである。身体を変えてこそ心も晴れやかに前向きになるというものだ。
今回の台湾旅行も、メイン企画は「台湾のタンキーに漢方薬を処方していただく」というものだった。前回、通訳兼ガイドをしてくれた安西真理子さんに再びコーディネイトをお願いする。すると、真理子さんから以下のようなスケジュールが送られて来た。
茶芸館で中国茶をたしなむ、通霊阿水師《つうれいあすいし》による先祖占い、タンキーの病気治し、漢方薬の買いだし占い、お寺参拝、足裏マッサージ、中国占星術。
メニューを見ただけで心が躍る。人生を変える旅というよりも、運命を変える旅に近い。さすが占い天国台湾である。台湾と言えば「食べ歩き」が紹介されがちだけれど、普段から運動不足で栄養過多気味の私にこれ以上の栄養は不要であった。実際、台湾滞在中の食事は実に質素だった。
私が望んだのは、自分の心と身体の状態を知り、悪い部分があればそれを改善することなのだ。
さて、この旅行で二人の占い師と、二人のタンキーに出会ったけれど、この四人が私の顔を見るなり、全員同じことを指摘した。これにはたまげた。
「あなたは、もっと眠らなければいけない。睡眠不足です」
前回来たときは、彼らは申し合わせたようにこう言った。
「あなたは、身体の血が濁っている。血をきれいにしないといけない」
なぜ、全員が申し合わせたように同じことを言うのだ。なぜ、なぜ、なぜ?
「頭痛がするのは、慢性的に寝不足だからです。夜更かししてはいけません。あなたはもともと眠りの浅い人だけれど、いまは睡眠障害のような状態になっている」
くらくらした。まさにその通りである。この五ヶ月というもの、執筆と取材攻勢で生活のリズムが狂ってしまった。二ヶ月くらい前から熟睡できなくなり、いつもうつらうつらしている。そして頭痛が始まったのだ。
さらに、あるタンキーはその心眼でこんな指摘をした。
「あなたは、暗い部屋に寝ている。その部屋で寝ると生活が不規則になる。すごく暗い部屋だ」
どきん、とした。
私の家は湯河原の山の斜面にあり、真鶴《まなづる》半島から昇る朝日が拝める。決して暗くない。でも、実は私はこの二ヶ月、たくさんの取材を受けるために東京のホテルに連泊することが増えていたのだ。ホテルの部屋は遮光カーテンなので暗いのである。真っ暗ななかで目覚めるのは妙な気分だった。カーテンを開けるといきなり明るくて、光が目を突き刺すようだった。
ホテルに泊まるときは前日まで夜更かしをして酒を飲む。そのために、私の生活リズムはどんどん壊れていた。暗い部屋とは、たぶんあのシティホテルの部屋のことだ、と思った。
「たとえ夜更かしをしても、規則正しく夜更かしをして、太陽といっしょに起きればいいんだよ」
と、タンキーに優しく諭された。私は子供のように頭を垂れて頷《うなず》くしかなかった。
漢方薬を処方してもらうために、台北《タイペイ》郊外の八里《パーリー》に住む道士に会いに行く。彼は病気治しとお化け祓《はら》いを得意とするタンキーである。
道教の道士は、日本の宮司さんのように正装はしていない。皆、気さくでTシャツにジーンズ姿である。祭事を執り行うときも、日本人から見るとダラダラしているように見える。格式ばらない。儀式の間も周りではおしゃべりしながらお菓子を食べている。真剣なのは祈るときだけだ。
病気治しの道士は、まず症状を聞いてから脈を取り、目と舌を調べる。
彼は事もなげに言った。
「睡眠不足だね。寝ないと」
それから、よく寝られるようにと護摩符を書いてくれた。達筆である。さらに、神様に祈り、身体の悪い部分を呪いでつかまえて捨ててくれる。
その後で、神様からのお告げにより漢方薬を処方してくれるのだ。
「私は漢方の勉強など一度もしたことがないのですよ。だから自分が何を書いているのかわかりません。これは神様が教えてくれるんです」
そう言いながら、彼は毛筆の美しい文字で、さらさらとなにやら漢字を書き連ねる。もちろん、私にも何が書いてあるのかわからない。
この道士はお化け祓いもなかなかの腕で、今回も「ちょっと一匹変なのが憑《つ》いていたから祓っておいたよ」とにっこり微笑んだ。
「え? どんなのが憑いていたんですか?」
私が驚いて訊《たず》ねると、「まあ知らない方がいいだろう」とはぐらかされた。
「失恋して首を吊《つ》った女のお化けをつかまえたら、その女がどうしてもこの世に居たいと言うので、このバービー人形に入れてやったんだ」
そう言って、道士はお人形を見せてくれた。
「いまも、ここに居るんですか?」
「いまはいない。いまはあの台所の祭壇にお祀《まつ》りしてあるよ。いまはここの守り神になって、悪いお化けが来ると退治してくれるようになった」
「へ――!? そういうことってあるんだ?」
台湾に行って、道教のお寺やタンキーを巡りながら、だんだん道教のことがおぼろげにわかってきた。道教では、死んだ人間がよく神様になっている。失恋して死んだ女も、大事に祀られてると神様になって悪霊退治をするようになるのである。なんだか楽しい。
そして、その道教の思想の根っこが、日本の神道ととてもよく似ていることに驚いた。
道教は神道よりもずっと、現世の利益、現世の幸福を追求する現実的な宗教だ。だけど、どっか似ているんだよなあ。宗教って不思議だなあと思った。
道士たちはそれぞれに得意分野があって、透視能力や心眼をもっている人もいるし、私が漢方薬を処方してもらった道士のように、病気治しやお化け退治が得意な人もいる。
とはいえ、どの道士も気さくで、普段着で、そこらのおっちゃんとなんら変わらない。日本の宮司さんのように白装束なんぞ着ていないし、めんどくさい礼儀とかもない。相談にやって来る人も、かなり深刻な悩みを抱えて来ているにもかかわらず、応接間でみんなでお茶など飲んで、山のように積んであるお菓子をバリバリと食べていたりする。
「この犬の人形は、ある子供が旅行でお寺に行って、そこの土産物屋で買ったものなのですが、たまたま犬の霊が憑いていたらしく、それが子供に憑依《ひようい》してしまった。私が退治して、いまはここに置いてある。あまり、旅先でわけのわからないものは買うもんじゃないですよ」
見せてくれたのは確かにちょっと気味が悪い犬の置物だった。
いかにも「お土産物」って感じのよくある紙粘土の人形だ。
「触ってもいいですか?」と言ったら、そこに居合わせた全員に「やめなさい」と慌てて止められた。
日本においても霊能力者という人たちが除霊やお化け退治をする現場を何度か見たことがある。本当に凄《すご》い人だと、除霊してもらった患者さんは一瞬にして「正気」の顔になる。しかし、それが「霊が去った」からなのか、それとももっと別の要因で「正気の顔」になったのかは、私にはわからない。
私はいまだに「霊」というものの存在に懐疑的だし、さほど興味もない。
私が興味があるのは、「お化け退治」という方法論を使って、現実的に人間の役に立つ職業が成立しているという、その事実である。この方法論を私たちはかつてもっていたけれども、近代に入って捨ててしまった。
その捨てたものが、台湾ではまだ生き生きと存在している。
しかも市民権をもって、社会のなかに組み込まれ、「異端」としてではなく「システムの一つ」として正常に機能している。そのおおらかさ、豊かさに私は感動しちゃったのだ。それで台湾が大好きになったのだった。
近代国家になっても、台湾には「神様」も「中国四千年の知恵」も立派に機能しているのである。それらをこの国は捨てていない。内包したまま成長している。
さて、道士の処方箋《しよほうせん》を持って台北の漢方薬の店に行く。
店主に紙を渡すと、店主がそれを読んでふむふむと頷く。
「ここには、どんな薬が書いてあるのですか?」
とおそるおそる質問する。
「よく眠れる薬、胃を保護する薬、目の疲れを取る薬、血をきれいにする薬。それが入ってるね」
見ていると、目の前で十数種類の生薬が処方されていく。見たこともないような植物の根や実、花や葉が、うずたかく積まれていく。
なんだか私はこの漢方植物の山を見ただけで、もう元気になってくる。いかにも効きそうなのである。
同行したカメラマンの藤尾さんも、私といっしょに道士の処方箋を貰《もら》ってきた。藤尾さんは冷房の強い場所に行くと鼻づまりが起こる。それで、タクシーの冷房車に乗るときでもマスクをかけていた。
もちろん、私と藤尾さんの薬は違った。やはり道士はインチキ処方をしているのではないようだ。何の薬かと店主に質問したら、鼻を指さしていた。ううむ。お見事である。
道教のタンキーはお金を要求しない。お礼は志として無記名でポストのような箱に、好きな金額を入れて帰る。まあ、500元(1500円)くらいである。何もしなくても文句など言われない。ただ、もし、症状がよくなったら神様にお礼参りに来て下さいと言われる。すべては神様のお力……ということだ。
廟《びよう》はマンションの一室で、そこは信者の社交場のようになっていて、お菓子や中国茶を飲みながら何時間も居座る人も多い。道士もいっしょになって世間話をしている。とりわけ神聖でもないし、厳かでもない。そこがいいのである。いい加減だ。
台湾の道教の魅力は、この「いい加減さ」にあるように思う。日本人からすると「なんだよ、効くのかよ」と呆《あき》れるくらいアバウトなのだが、ちゃんと効く。
道教というのは「現世利益の追求」をとても大切にする。つまり、結果が出ない神様は信者から相手にされないのである。よって、人気のある廟の道士はみんな芸達者である。未来を予測したり、商売を繁盛させたり、病気を治したりすることの結果が出て初めて人が集うのだ。わかりやすくて良いのである。
私が台湾を好きなのは、台湾の人々が神様を大切に思い、老若男女こぞってパイパイ(拝むこと)に行くからである。台湾の人の生活のなかには自然な形で神様が溶け込んでいる。彼らは無用に神を頼ったりしないし、神も人間に無理矢理お金を請求したりしない。
拝んでも効果がなければ神様であろうと見捨てられる。現世利益に貢献できない神様は劣等生である。
もしかしたら、あの道士はちゃんと漢方薬の勉強をしているのかもしれない。あの処方箋は神様が書いているのではなく道士が書いているのかもしれない。その可能性は大いにある。でも、もしそうだとしても、気さくで心優しい朴訥《ぼくとつ》な道士が、あの場所にいつまでも居続けてほしいと私は願ってしまうのだ。
台湾に行くにあたって台湾情報を募集したところ「台湾の占いはすごく当たるそうです」というメールを何通かいただいた。
「へー」と思った。とはいえ実は私は占いというのにさほど興味がない。
「あたしには占ってほしいような悩み事なんてないからなあ」
と、台湾のガイドの真理子さんに言うと、
「でも、何を占ってほしいかはっきりと決めておいた方がいいですよ」と言われる。
「そうか、じゃあやっぱり仕事かなあ」
とまあ、そんなあやふやな態度で、私は台湾の行天宮の脇の「占い地下道」へとやって来た。狭い地下道にずらりと占い屋が並んでいる。真理子さんは私の手を引いて、その地下道をスタスタと早足で駆け抜け、それから人影のない階段でこっそりと囁《ささや》いた。
「どうです、ピンと来た人がいましたか?」
なるほど、占い師というのはそうやって選ぶのか。
ピンと来たと言えば一番端っこで店を出していた丸顔のオバサンである。
彼女に占ってほしいような気がした。
このおばさんは雨虹女という不思議な芸名(というのかな)を名乗っていた。
彼女は中国式の占星術で占いをするらしい。生年月日と名前と生まれた時間、場所を聞くと、いきなり四角い紙に奇妙なホロスコープのようなものを描き出した。
が、それは西洋占星術とはまるで違う。
この中国式のホロスコープを計算するのは非常に難しく、スラスラと描ける人は少ないらしい……と真理子さんは言っていた。
雨虹女さんは人間コンピュータみたいな勢いで、なにかを計算し、数字を紙に書き込み、そしてさまざまな線で結んだ。それから、おもむろに顔をあげた。
「来年、とてもお金が儲《もう》かります。いい運勢です。これからずっといい運勢が続きます」
いきなりそう言われて、ちょっと嬉《うれ》しくなる。
どうやら私の人生にはさほど問題点はないらしい。
いい気になった私は、つい口を滑らせてしまった。
「私にはちょっと変わった父親がいて、あまり関係が良くないんですけど、これから先、父とどうなりますか?」
そう言ってから自分でもびっくりした。
私は家族関係に関しては自分なりに精一杯の努力と研究をしてきたと思っている。酒癖の悪い父親と引きこもりの兄がいて、そのためにカウンセリングの勉強もしたし、数限りないワークショップを受け、精神世界を遍歴した。
何度も何度も大喧嘩《おおげんか》して、ぶつかりあい、話しあい、とにかく人生のなかで膨大な時間をかけて理解不能な家族と取り組んで来た。
そして、これまでその問題の解答を、一度たりとも「占い」に求めたことがなかったのだ。逆に言えば、それだけはするまい、と思っていた。
ところが、自分でも拍子抜けするほどあっけなく、私はその占い師に父のことを尋ねてしまったのである。
兄が死に、母も死に、父と二人になった。修羅場をくぐり抜けて案外と肩の力が抜けてきていたのかもしれない。
すると、その雨虹女さんは「あなたのお父さんの生年月日は?」と言って、また中国式ホロスコープに新たな数字と線を描き加えた。そして、にこやかに断言したのだ。
「これはダメですね。あなたとお父さんは一生和解することはありません。お父さんは自分のことしか考えていません。あなたはこのお父さんのために何かをしてあげても無駄です。この人はそのことを理解しません。だから、あなたは娘として最低限度のことをお父さんにしてあげればそれでいいです。それ以上のことをしてあげてもあなたが苦しくなるだけです。それよりも、あなたは自分のことだけ考えて生きていきなさい」
正直言って、私はぶったまげた。
なぜこうまで私の人生をこの人は自信たっぷりに断言できるのだろう。しかも、彼女の言った結論は、私が父親と三十年に及ぶ格闘の末に得た結論といっしょなのである。
父は酒を飲むと私に激しく干渉し、依存性をあらわにする。私が父を受け入れられない時は私を愚ろうして暴言を吐く。正気の時は芝居がかったほど優しくものわかりの良いふるまいをする。が、ひとたび感情に火がついたら冷徹な悪魔のような暴言を吐き続ける。ころころと変わる言動は本人には何の不整合もないらしい。
私が家族のなかで唯一、父親とつき合っても気が変にならなかったのは、私が父を突き放すだけの強さを持っていたからだ。私は父を愛しているが、飲んだ父の相手は一切しない。正気の父とだけ友好的につき合っている。
だが、ときおり父が酔って私の家の留守番電話に「オマエには優しさってもんがないね。オマエは薄情な女だよ」と延々と愚痴と暴言が吹き込んであるのを聞いたりすると、確かに自分はひどく薄情なのかもしれない、と思うことがあるのだ。
それを、台湾の占い師のオバさんは笑い飛ばしたのである。そして「一生和解することはありません」と断言したのである。
私はその言葉を聞いたときに、ひどく救われた気がした。
もしかしたら、私は自分以外の誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。自分のなかで、父と私がいま以上の関係になることはないだろうと確信していた。もちろん、長くいっしょに時間を過ごせば親密さは増すだろう。でも、いっしょに暮らすことはないだろうし、暮らせないだろう。
そして、そんなふうに確信してしまう自分の薄情さをどこかで責めてもいた。
私は父の娘である。そして父を愛しているし、父も私を愛している。それはようやく三十年かけて理解できた。だけれども、そのことと、父と私がうまく関係できることとは別のことなのである。
私は長いこと「関係」を先に考えていた。「関係性」が良くなることばかりを考えて、個々の人間を置き去りにしていた。いま、はっきりわかる。個々に愛があっても、だからと言って関係性が良くなるとは限らない。
関係性とは個々の人間性とは別のシステムなのである。いっしょくたに考えてはいけない。関係を超えて、唯一の個として相手を見れば、少なくとも恨まずにはいられる。
占い師のオバサンは、その事実をたった一枚のホロスコープを見て断言したのである。
そして、それは紛れもなく私にとっては救いだったのだ。
林《リン》さんは、普段はケーブルテレビで放送するアダルト番組の制作会社の経営者である。と、同時に、台北の道教で廟《びよう》を営む道士でもある。
初めてお会いしたときの印象は、パンチパーマで、目が鋭く、なんだかヤクザみたいだなと思った。
後から聞いた話では、林さんは若い頃は本当にヤクザだったらしい。悪いことばかりしていたと言っていた。その頃から「賭神」と呼ばれて、不思議な透視能力を発揮していたらしい。彼の心眼はなかなかのもので、なんでもかんでもピタリと当てる。
「私が、自分の力を人のために使おうと思うようになったのは、父親の病気がきっかけだった。余命三ヶ月と言われた父親が、神様にお願いして、神様に言われた方法をあれこれと手を尽くしたら、十二年生きた。それがあって、三十歳の時に道教の道士になる勉強を始めたんだ」
私は中国語を理解しないので、正確に彼の言葉を伝達できないのだけれど、かいつまんで言うとこういう事情らしい。
それから彼は修行しながら自分と縁のある道教の神様と出会い、小さな廟をつくった。
私は林さんに連れられて、台湾の中部まで、焼王船《しようのうせん》という道教のお祭りを観に行き、その途中、九つのお寺をお参りした。ずっと林さんが案内してくれた。
見た目はヤクザのようだけれど、林さんは肩の力の抜けた優しい男である。そういえばお会いしたタンキー(道士)は、みんなほよ〜んとした肩の力の抜けた、いっしょに居て落ち着く人たちだった。会うなり大好きになっちゃうようなチャーミングさを兼ね備えている。
林さんといっしょにお参りした際、とても印象的な出来事があった。
おみくじである。
道教のおみくじは、日本のおみくじのように簡単には引けない。そこで林さんが私におみくじの引き方を伝授してくれた。
まず、神様に挨拶《あいさつ》する。日本から来たばかりの私は神様と馴染《なじ》みが薄い。だから、名前と住所を名乗って、自己紹介する。
そして、半月型の小さな木のカケラを投げる。二つのカケラが表裏、互い違いになったら、神様に面通しが叶《かな》ったという印である。
そうしたら、次に、わかりやすく正確に伺いたいことを唱える。そして再び半月型の木のカケラを投げる。裏表になったら神様に伺いたいことが伝わったという印。
さらに「神様、私はおみくじで、あなたのお返事をいただいてもよろしいですか?」というお伺いを立てる。そして、また半月型の木のカケラを投げるのである。表裏になったら、ようやくおみくじを引ける。
もし、表裏にならず、表表、裏裏、だったりした場合は、三回までトライすることができる。三回やっても表裏にならないときは、お願いの仕方が悪いので、最初からお願いの言葉を変えてやり直すのである。
うまいこと表裏になった私は、おみくじを引くことを神様に許された。そこで、おみくじ用の木の棒を一本引く。日本と同じ要領で、棒の先に数字が書いてあり、数字と同じ番号の紙を、おみくじ用の引きだしから抜き取るのである。
棒を抜き取ると、その先に「四十六」と書いてあった。私はそれを林さんに見せた。林さんは数字を確認して棒を戻した。
それから私の手を引いて、おみくじの引きだしの前に連れていくと、おもむろに「十六」の棚からおみくじを抜き取ったのである。
「林さん、違うよ、私のは四十六だったよ!」
そう言っても林さんはガンとして聞かない。
「いや、十六だったよ、ほらこれだよ」
と、強引に私に十六のおみくじを抜き取って渡してよこした。
「ほら、すごくいい運勢だ。あなたには神の御加護がついていると書いてある。あなたは神様を大事にしている人だね、だから神様はあなたを守っているよ。これからも神様を大事にしなさい」
確かに、それは日本で言うなら「大吉」に匹敵するようなものすごく良いことが書いてあるおみくじだった(読めないけど漢字だからなんとなく雰囲気がわかるのだ)。
でも、私としては納得がいかない。
私には確かに「四十六」と見えたのだ。私は林さんが居ないときにこっそりと四十六の棚からおみくじを抜き取った。
そこには、中国語が読めない私でも一目みてわかるような悪い漢字が並んでいた。最悪の運勢のようである。
私は二枚のおみくじを見比べながら途方に暮れた。私が引いたのは四十六の運勢である。でも林さんが私に与えたのは十六の運勢である。これはどういうことなのだろう。林さんがわざと良いおみくじを選んで私にくれたとは思えない。だって、迷わず十六を選んでいたし、抜き取るまでは内容は読めないはずだ。悩んでいるとガイドの真理子さんがやって来た。
「ランディさん、こういうのは縁ですから、自分のもとにやってきた運勢を信じればいいんですよ」
真理子さんはにっこりしてそう言った。
「そうだね、その通りだね」
私は四十六のおみくじを元の場所に戻して、十六を日本に持ち帰って来た。
人の運とは、案外こんなふうにして周りの人々の力で変えられているのかもしれないと思った。そうだとしたら、生きているって面白いことだなあって、嬉《うれ》しくなった。
台湾最後の夜、林さんが、私の「送別会」をしてくれた。そのときに、風水で我が家の間取りを見てくれた。
林さんはいきなり私の日本の家の間取りを紙に描きだした。
「君んちは、東南に曲がって建っていて、ここにベッドがあって、ここが階段で、左に線路が走っているだろう?」
「げえええっ! な、なんでそんなことまでわかるんですか?」
「だって、いま君んちに行って見て来たから」
「うそっ!」
「ベッドは頭を東に向けた方がいい。机は西に向けた方がいい。それから階段に物を置いているけど、それはどかした方がいい。そうすると病気が早く治る」
頭がクラクラしてしまった。どうして、どうして見たことも聞いたこともない私の家の間取りを描けるの? なんにしても私は日本に帰って来るや、家具を大移動して、ベッドの位置を変えて、階段のガラクタを整理した。
「なんだか、この方が気持ちいいね。部屋が広く感じるし落ち着くね」
と、夫が言う。確かに落ち着く。前よりずっといい。
「すごいねえ、台湾の道士って」と、最近はあまりこういうことにも怪訝《けげん》な顔をしなくなった夫が感心して呟《つぶや》いた。
う――む。怪しすぎる。不思議すぎる。すごいぞ台湾。あまりに感動したので、帰って来てから友人の秋山|眞人《まさと》さんに電話した。秋山さんは、時々テレビにも登場する超能力研究家である。
「秋山さん、台湾ってすごいよ、超能力者天国みたいなとこだった」
私が興奮して話すと、秋山さんは嬉しそうに言った。
「そうでしょう、そうでしょう。あそこは昔からすごいんですよ」
なんでも秋山さんは、道教の道士に弟子入りして気功を教わったそうで、道教とは大変に縁があるのだと語っていた。
「でもね、ランディさんはいいときに行きましたよ。台湾の道教は、台湾という島のなかで、たいへん古い教えをたくさん温存したまま現在に至っています。大陸よりも深い知恵を残しているかもしれない。でも、これから先、民主化が進み、アメリカとの関係がより強くなると、台湾はもっと変わっていくでしょう。道教の教えも、もしかしたら急激に失われていくかもしれません」
「え――、そんなのつまんないなあ」
「残念です。でもこれからは台湾は日本と似たような道を歩むかもしれませんねえ。だから、ランディさんが見たのは、最後の良き道教的世界とも言えるかもしれません。本当にいい旅行をしましたね」
私が感激したあの道教の不思議なパワーが、人々の生活から失われてしまうんだろうか。
絶対にまた、台湾に行かなくちゃな、って思った。
あの奇妙でドハデで、そしておおらかでパワフルな東洋のミステリーを、もう一度、この目に焼き付けておかなくちゃな、ってそう思った。
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愛の形
「あんたは、もう二度と生まれ変わることはない。肉体をもって生まれるのはこれが最後だ」
阿水師と呼ばれるそのおじさんは、一段高い玉座から私を見下ろし、煙草をスパスパ吸いながら宣《のたま》った。その格好はまるでラスト・エンペラーのようだった。
「最後、なんですか? じゃあ、死んだらどうなるんですか?」
私は驚いて呟《つぶや》く。
「霊界へ行く。あんたはもう人間は解脱だ。十分に魂が成熟したのでもっと上の世界へ行く。おめでとう」
おめでとうって言われても私はさっぱり実感がない。
「じゃあ、私は私の魂にとって最後の肉体ってこと?」
「そういうことじゃな」
これが、この肉体がそんな大それたもんだったのか、と私は自分の手をしみじみと見た。
「あんたには悩み事など別にないだろう?」
阿水師は勝ち誇ったように言う。
「そういえば、ありませんね」
「こうなればいいなあ、と思うことは、たいがいそうなるだろう?」
「そうかな。そうかも……」
うんうんと頷《うなず》いて阿水師はまた煙草を吸った。
「魂が成長するとそうなるのだ。そして、欲もないだろう?」
欲ねえ……。
「確かに、欲はあんまりないですね」
ほうらな。と、彼はにんまり笑う。
「だとすれば、もう、人間界でやることはない。上がりじゃ」
上がり? すごろくみたい。
私は婦人雑誌の取材のために台湾に来ていた。特集は「運命の旅」である。
そして台湾でも有名な「通霊阿水師」なるおじさんに、自分の運勢を占ってもらいに来たのだった。そしたら、阿水師は私を見るなり「特に言うこともないなあ」と、やる気なさそうに呟くのである。
その理由が「もう上がりだから」だそうだ。
同行していた取材スタッフやカメラマンが「凄《すご》いですね」と感心する。
「いやあ、凄いですねランディさん。さすがだ」
何がさすがなんだか。
「もうランディさんには、煩悩ってないんですね」
あるぞ、煩悩だらけだぞ。
「人間として苦しい人生を送るのもこれが最後なのかあ、いいなあ」
そうかな?
「霊界はどんなところなんでしょうね?」
知るかっ。
「俺なんか、当分、人間の苦悩を味わうんだろうなあ。魂が未熟だから」
私はもう生まれ変わらないんだろうか。これで最後なの? そう思ったら、なんだかちょっと悲しくなった。
「やだなあ。私はぐちゃぐちゃ悲しんだり、憎んだり、恨んだり、そういうすったもんだを生きていくのが面白くって好きなんだよ。そういう、山あり谷ありが好きなんだよ」
「ですから、それを楽しめてしまうランディさんには、もう苦悩は苦悩であって苦悩でないんですよ。だから、必要ないってわけです」
そ、そんなあ、嘘っ。みんな勝手なことを言うでない!
自分が生まれ変わるなんてこと、考えたことなかった。だから、生まれ変わらないと思ったこともなかった。前世に特に興味があったわけでもない。私は現実的な女だ。この取材だって仕事だから来たのだ。
だけど「もう人間は終わりだ」と断言されると、なぜか愕然《がくぜん》とした。これっきりなのか、そうなのか……と、足の力が抜けていくような虚脱感を覚えた。
「今月の星占い」を連載している占星術師のマリアンに電話した。
この人とは仕事を始めた頃からの友人だ。
「ねえねえ、私って、人間はもうこれっきりなんだって。台湾の霊媒師が私はもうこれから先、肉体をもって生まれ変わることはないって言うのよ、どう思う?」
と訴えたら、あっさりと「ん〜。そうかもね」と言われた。
「やだ〜。もっと人間に生まれ変わって、もっと苦悩も喜びも体験して生きたい」
私が叫ぶと、彼女は笑って言った。
「あーら、ほんとうに? じゃあ、原爆で死んだり、片足を地雷で吹っ飛ばされたり、難病でもだえ苦しんだり、貧困と飢えのなかで絶望したり、射殺されたり、虐殺されたり、そういうことをまだしたいわけ?」
うっと、言葉に詰まった。そう言われると揺らぐ。平和に暮らして来た私のイメージできる苦悩など、苦悩のうちには入らないのだということを思い知らされる。
これっきり、これっきり、もう、これっきりですか。
以来、私の心のなかにはいつもこの言葉がこだましてる。
お風呂《ふろ》に入って温かいお湯のなかで手足を伸ばす。ああ、いい気持ち。これもこれっきりなのか。おいしい鰺《あじ》の干物とだいこんおろしでご飯を食べる。うひゃあ美味《うま》いよ。これも今生限りか。ぬくい海水に身体を浸して海の上にぷかぷか浮かぶ。あー解放感。これもこれっきりなのね。夕焼け空に吸い込まれるようにブランコを漕《こ》ぐ。びゅーん、爽快《そうかい》。私が死ねばこれも終わり。
なんなんだろう。私は無意識では「生まれ変わる」と思い込んでいたのだろうか。輪廻《りんね》転生は日本人である私にデフォルトで入っていたソフトだったんだろうか。
輪廻転生なんかない、と否定されてもショックはない。でもあんたの輪廻転生はこれで終わりだ、と言われたら、なぜか妙にショックだったのだ。
知らない天国より、生きてる地獄。そんな気分になってしまう。
これっきり、これっきり、もう、これっきりですか。
そうかあ、私はもうセックスもできないんだな。
セックスするのも今生限りなのか。さみしいのお。肉体がないということは……。
取材を終えて東京に帰って来てから、私は久しぶりに男に電話した。恋人っていうか、愛人っていうか、まあそういう相手だ。へとへとになって成田にたどり着いて、帰りのスカイライナーのなかでビールを飲んで少し酔っていた。すごく疲れたけど、ちょっと興奮してて、なんだか妙に人恋しかった。
部屋でもバーボンを飲んだ。この男とはつきあいは長いのだけど、なんだかいつもはぐらかされているような気がする。愛情の沸点が微妙に違って、燃え上がらないままに二年もつきあってしまった。でも、セックスの相性はいいんだよな、これが。けっこう酔っ払って、いい気持ちになって男に電話してみた。つきあいが長いのに酔わないと用もなく電話をかけにくい相手だ。たぶんあいつに奥さんがいるからだろう。
「ねえ、私って、もう人間に生まれてくるのは最後なんですって」
男は彫刻家である。貧乏なくせにいつも忙しそうで、アトリエにいるときは仕事中だ。だから酔っ払いの話なんて真剣に聞いてはくれない。
「へえ? そうなの」
電話の向こうでなんかガサガサやってる。
「この肉体をもって生まれるのは、これっきりなんだよ」
私は力説する。
「ふうん。じゃあ、次はどうなるの?」
「わかんないけど、霊界に行くらしい」
「丹波哲郎みたいだなあ」
男は笑って、いま取り込んでるから、その話はあとでゆっくり聞くから、と言って電話を切った。
ちぇっ。
これが最後の人間だというのに、たいした恋愛もしなかったな、と思った。私は恋愛に関しても比較的|醒《さ》めているほうかもしれない。それも欲望が希薄だからなのだろうか。もう煩悩がないから恋愛に関しても燃えないのかな。それも残念だなと思った。最後なんだからボウボウと燃えるような恋をして、これでもかってほどセックスして終わりたいものだが。
この男の前はどんな男とつきあったっけかな。なんだか忘れちゃったな。やっぱり男にも執着がないんだな、私は。
いったい、いまの男とはどうやってつきあいだしたんだっけかな。それも覚えていないな。男にやきもちを焼いたこととかあったっけ。男のために泣いたことがあったっけ。男が私のために泣いてくれたことはあったかなあ。どっちにしても男には妻子がいて、けっこうな愛妻家で通っているし、私はまあ言うなればセックスフレンドって奴だよな。そういう言葉にしちゃうとダサいけど現実的にはそんな感じだなあ。考えてみたらくだらない。ただ粘膜をこすり合わせて喜んでただけかあ、と思うと、なんだかほんとに情けなくなった。
これっきり、なのになあ。人間。
こんなつまんない恋愛しかできないで終わるのか。あ〜あ。
いまからでも遅くないかな。でも、自分が男に執着できるかというと、そんなことちっともイメージできなかった。
むなしく飲んでいると、再び男から電話がかかってきた。
「ごめん、手が空いたからかけ直した。なんだっけ生き返らないんだっけ?」
ふふふ、そっけなくしたことを気にしてるな、と思った。小心者め。
「そうだよ。私はもうカルマがないから肉体として生まれ変わる必要ないんだって」
なんだかいばって説明した。
「すごいな。おまえ」
男はさっきのお詫《わ》びにおだててる。
「でも、なんかこれっきりは寂しい。人間が好きだから」
けっこうこの人生も楽しかったし。
「俺なんかこれからも何度でも生まれ変わってまた煩悩に苦しむんだろうな。ぐろぐろどろどろな世界を生きてくんだろうな。やだなあ」
確かに。男はまだ物欲も性欲も出世欲もありあまってる。
「あんたが、羨《うらや》ましいよ」
私は心からそう言った。
「そうか? 変な女だなあ。もうこんな煩わしい肉体が消えちゃうんだから、そっちのほうがずっといいじゃん。それに、俺はおまえがどっか天国みたいなとこに行って、人間っていいなあって、子供みたいに羨ましがってるって思うと、なんか救われるかもしれないなあ。よくわかんないけどな。ひどく辛《つら》いことがあっても、おまえがこんな俺を羨ましがってると思うと、ちょっと元気が出るような気がする」
「へえ?」
男がこんなことを言うのは初めてだった。
「俺たち、生まれ変わってまたエッチするってわけにはいかねえんだな。おまえいないし」
男はちょっと悲しげに言った。
「はははははははは」
こいつって、それなりに私とのセックスが好きだったんだ、ってこれまた初めて思った。
「私ってけっこう良かった?」
「うん」
やけに素直だ。
「そうかあ。あんたみたいな男と最後のセックスをしたかと思うとちょっと後悔してたんだけど、まんざらでもなかったわけか」
「なんだそりゃ?」
「ねえ?」
「なんだよ」
「愛はあった?」
「どういうこと?」
「だから、私を愛してた?」
男は言葉に詰まった。それから言った。
「わかんねえ」
こんな男とつきあっていても、私は悩んだことが一度もなかった。だから、ほんとにもうこれっきりなんだろうな。考えてみたら愛されたいと思ったこともなかったもんな。
「だけど、会うとやりたくなるんだから、これって愛かもしれないだろう?」
私は笑った。いいね、煩悩。男は煩悩があるほうがかわいいんだよ。
「俺さ、おまえのおっぱい、彫刻したんだ」
「マジ?」
「あと、アソコも」
「変態」
男は、変態じゃない芸術だ、と力説した。
「なんか、すんごく会いたくなっちゃったな」
私がそう言うと、男は急に元気になった。
「いまからヤルか?」
いいなあ煩悩に忠実で。
「それって、ストレート過ぎるよ」
私は怒ったふりをする。
「行くよ。そっち」
そう言われると、うれしい。
「わかった」
私は男を待つ間に、風呂《ふろ》に入ろうと思った。湯船に熱いお湯を張って、それから裸になって湯に身体を沈めた。すごくいい気持ちだった。出張明けで疲れていた。身体がほぐれていく。さっき飲んだバーボンが血液中を巡っている。どくどくする。なんだか眠くなってきた。早く来ないかなあ。早くエッチしたいなあ。男はどうやって私を愛撫《あいぶ》してくるかな。そんなことを考えながらいつしか風呂のなかでうとうとしていた。
気がついたときには、私は浴室の天井に浮いていた。
男が風呂のなかから私の身体を引っ張り出して何か大声で叫んでいる。ああ、なんてこった。私はお風呂で溺死《できし》したみたいだ。ずいぶんマヌケな死に方をしたもんだ。裸の私を引きずり出して、男が人工呼吸を始めた。男が私の唇を吸い、空気を送る。でも、私は何も感じなかった。死んで肉体から出てしまったのだからしょうがない。男が私の裸の乳房に手を置いているけど、何も感じない。そういうものなのだろう。永遠に私は肉体から解放されたのだ。
最後のセックス、できなかったな。すごく残念に思った。
なんだか髪の毛を掴《つか》まれて上に引っ張られてる。もう行くのかよ、早いなあ。
お別れに男のほっぺたにキスしてあげたけど、男は気づかないみたいだった。
そのうちにまばゆいような光が私を迎えに来た。ひゃあ。本で読んだ「臨死体験」通りだ。
私はぐんぐんと真っ白な光のなかに入って行く。
これっきり、これっきり、もう、これっきりですか。
ああ、やっぱり死ぬのか。
ばいばい、最後の愛人。約束するよ、私は永遠に肉体をもつことに憧《あこが》れる。あんたを羨ましく思ってあげる。遥《はる》かなる光の世界から、その限られた肉体に閉じこめられた命を切望し続ける。だから、いつも私の憧れを感じて生きてね。
飛び立ちながら、下界を見下ろす。
男が私の裸体を抱きかかえている。肉体は臓器の詰まったズタ袋みたいに重たげだ。私の濡《ぬ》れた髪を撫《な》であげて泣いている。それでもけなげにペニスは勃起《ぼつき》している。
ふいに私は男が作ったという私のおっぱいを見たくなった。それで、びゅんと男のアトリエまで飛んで行った。肉体がないのは便利だな。一瞬で男の仕事場に着く。
質素な板の間に、ガラクタのような彫刻が並んでいた。才能があるとは言い難い。ほとんどが抽象芸術だ。売れないはずだ。ところが、窓辺に一点だけ、月光を浴びてぬめぬめと光っている特異な黒い塊。
そこには男の目と手によって写し取られた私の裸体があった。滑らかな肉の曲線。繰り返し私を愛撫した男の手と目と舌だけが知っている私の形。
男の愛の形だ。
それを見たときに私はやっと理解した。私は肉体を失う。もう二度と誰かの愛の対象になることはない。
ああそうか。身体をもつってことは、愛されるってことなのだ。
人間は愛されるために身体をもって生まれるのだ。わかった。よくわかった。
さあ、これでほんとに、上がりだ。
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かそけき音の世界
ヴェトナムの首都、ハノイに行って来た。
ヴェトナムは私にとっては思い出深い国だ。なにしろ私の処女作はヴェトナムの旅行記『忘れないよ!ヴェトナム』である。この本を書いたとき、私はただひたすら南ヴェトナムのメコン・デルタを川沿いに旅行していた。メコンに魅せられてしまったのだと思う。北にはまったく行かなかった。
今回、初めて北ヴェトナムに行った。
行って驚いた。ハノイはとても素敵な町だったのだ。私はすっかり都会化したホーチミン・シティよりも、ずっとハノイを好きになった。今度は北ヴェトナムを放浪してみたいなあ、と思ったほどだ。
ハノイに行ったのは、ある男性に会うため。
彼の名前はキム・シン。
すでに七十歳を越えているが、彼はヴェトナムを代表する音楽家である。
何種類もの民族楽器を自在に演奏し、ギターの腕は天才的。自分で楽器を改造してオリジナルの楽器もたくさん作っている。作詞作曲して演奏し、歌う。日本流に言うならばシンガー・ソングライターである。
キム・シンさんについて教えてくれたのは、ご近所に住んでいる音楽家の巻上公一さんだった。巻上さんは何年か前にキム・シンさんの日本でのコンサートを企画したとのこと。そして、キム・シンさんを絶賛するのだ。
「いやあ、キム・シンさんの月琴は凄《すご》いよ。ギターも、歌も、とにかく凄いよ。ぞくぞくするよ」
ふうむ、いったい何がそんなに凄いのだろうか? キム・シンさんの演奏とはどんなものなのか、一度聴いてみたいものだなあ。そう思っていた。
それからしばらくして、私はまったく偶然にインターネットで知りあった「ザ・ひょうたんフィルハーモニック」の主宰者、神戸の三木さんから、キム・シンさんの演奏ビデオを送っていただいた。
三木さんはひょうたんでオリジナル楽器を作り、そのオリジナル楽器を使ったオーケストラを結成している風変わりな音楽家だった。
ビデオに映っているキム・シンさんは盲目の老人だった。
飄々《ひようひよう》とした雰囲気を湛《たた》えた人物だが、私にはビデオからは彼の歌と演奏のどこがそんなに素晴らしいのかわからなかった。正直言って退屈な音楽だなあと思った。
それでは、巻上さんはなぜあんなに絶賛したのだろうか。私と巻上さんとの間にどんな聴き取りの違いがあるっていうんだろうか。
やっぱり、生で聴かないとわからないのかもしれない。
私がキム・シンさんの生演奏を聴いたら、私は何か新しい音楽性と出会うんだろうか。
ビデオのお礼のメールに「キムさんのナマ演奏が聴きたいです」と書いた。すると、偶然が偶然を呼び、三木さんの友人、ヴェトナム在住の音楽家しのみどりさんのご尽力で、ドミノ倒しのように話がすすみ、ついに私は三木さんといっしょにキム・シンさんに会うことができるようになってしまったのだ。
人生にはこういうことがある。望んでみることだ。まず望むことだ。そうすれば叶《かな》う。望まない限り何も起こらない。だったらダメもとで望んでみることだ。
協力してくれたのはハノイの国営ラジオ「ヴォイス・オブ・ヴェトナム(vov)」のスタッフで、彼らは演奏のための部屋まで貸してくださると言う。
そんなわけで、いろんな方たちとの偶然に次ぐ偶然の出会いのおかげで、私はついにハノイに行き、そこで生キム・シンさんに会い、ついに彼の演奏を一メートル圏内で聴くことにあいなった。
さて、キム・シンさんに会う前、私はヴェトナムの民族音楽の闇特訓をしていた。ヴェトナムの音楽に耳が慣れていなければ、キム・シンさんの演奏や歌を聴いても何も感じられないんじゃないかと思ったからだ。
ところが、ヴェトナムの音楽というのが、なんかこう、ちっとも良くないんだよなあ。っていうか、CDの問題なのかな。
民族楽器の演奏なのに、どのCDもアコースティックで素朴さが感じられない。
ダメ。好きになれない。私って、やっぱりアジアの音楽の良さってわからない人間なのかなあ、どうしよう……。
と、思いはじめていた矢先、巻上さんがロシアのトゥバ共和国という国から、ホーメイ楽団の方々を連れてやって来たのだ。
ホーメイというのは、モンゴルのホーミーとちょっと似ている。
でもホーミーよりも音楽性が高い気がする。そのホーメイの歌い手を五人、なんと、我が家にお泊めすることになったのである。
田口家は大わらわである。
なにしろトゥバ共和国の方々にお会いするのは初めてだ。
いったいふだんは何を食べているのだろうか? フトンでいいのかな? 何語なんだ?
巻上さんに確認すると「日本の野菜中心の食べ物でいいよ。それから彼らは日本のビールが好きだ」とのこと。
そこでビールと、野菜の煮物など用意してお待ちしていると、トゥバな方々がおいでになったが、彼らがあまりにも日本人に似ているのでびっくりした。
もしかして私の親戚《しんせき》? って感じだった。
トゥバな方々はふだんは羊の肉と乳製品を食べているとのこと。
もの静かで、たいへん無口な方々だった。そして、挨拶《あいさつ》を大切にする。食事が終わったら代表者の一人が立ち上がって、立派なスピーチを述べた。そして「我々を歓迎してくださったお礼に、ホーメイを歌います」とおっしゃる。
私は、もちろん本場のホーメイを聴くのは初めて。
しかも、我が家のリビングで私のために歌っていただくなんてそんな、どうしましょう……と、ドキドキしてしまった。
まず一人が歌いだす。
最初は普通の歌だ。トゥバの古典的な民族音楽らしい。
歌いながら、彼は咽《のど》を調整しているようだった。そして、歌の途中からふっと離陸するみたいにホーメイが始まる。
なんというかなあ、咽を調整してバランスを取りながら、紙飛行機を飛ばすみたいにふわあっとホーメイの状態に移行するんだ。
ホーメイは、この音を言葉ではうまく説明できない。
それはもう声ではなく、楽器の音のようだ。いくつもの微細な音が咽に反響しあって倍音となり一度に出てくる……という感じ。
大きな音ではない。
雑踏のなかではかき消されてしまいそうな、かそけき音だ。
でも精妙で、微細で、形容しがたい、なんともいえない魅力的な不思議な音なのだ。これまで聞いたこともないような音なのだ。
ホーメイはそんなに長くは続かない。なにかの拍子で、すとんと地声に戻ってしまう。その、ホーメイの状態から地声に移行する瞬間が、これまたいい。あーあーあー、戻っちゃった、って感じ。
一人一人が、次々と歌ってくれた。
咽のコンディションが声を左右するらしい。あまりお酒を飲んだり、緊張していたりすると、もうホーメイは歌えない。そうだろうなあと思う。あんな奇妙な状態に咽を震わせるのだ。ほんの少しバランスが崩れたらもうできないに決まっている。
彼らが歌ってくれた歌は、とても小さくて、不安定で、パーソナルな歌だった。耳を傾けないと聴き取れない歌。そのとき、その瞬間でしか歌うことのできない音。
でも、その声に耳を傾けると、それがいかに複雑で、そして官能的かがわかる。声帯とはなんと奥深いものか、と思った。人間そのものが楽器なのだ。美しい音を奏でる楽器。そして美しいことのなんと多様なことか。美しさのグラデーションは限りない。それを私は認識することができる。
弱さもまた美なのだ。この不安定さ、この精妙さ、このか細さ、この微妙さ、それも、美なのだと、はっきりと感じた。
好きになった。もっともっといろんな音を聴きたいと思った。聴くことが快感だった。
私は、もしかしたら、大きな音、安定した音、安定した音階、すかっとする演奏、カタルシスを与える声、刺激的なリズム、そんなものばかりを聴いていたのかもしれない。
だから長いこと、小さい音、弱い音、不安定な音、西洋音階じゃないもの、聴き取れない演奏、そんな音楽を嫌っていたかもしれない。自分がふだん聴いていない音を汚い音として脳が処理していたかもしれない。
でも、私がふだん聴いている音楽だけが、音楽なのだろうか。
もしかして、私はあまりにも音に毒されてしまっているのではないだろうか。
そんな疑問がふつふつと頭をもたげてきた。
それから私は探し始めたのだ。
フラジャイルな音、不安定な音階、精妙で、微細で、小さい音、すかっとしない歌、ビブラート、判別できない音……。
そして、次第に確信しはじめていた。
たぶん、キム・シンさんの歌も、かそけき歌なのだ。
彼の月琴の音色は不安定で微細な音色なのだ。それは、私が積極的に自分から聴こうとして、初めて聴き取れる、弱い音なのだ。でも、その弱さこそが魅力であり、官能なのだ……と。
ヴェトナムの国民的音楽家であるキム・シンさんの自宅は、ハノイでもっとも古い町並みのなかにあった。
そこは、日本から行った私の目から見ると「スラム街」のようにすら見えた。
彼の家は六畳ほどしかなく、中二階にはびっしりと彼の楽器が置いてあった。狭くて、古くて、正直に言うと粗末な部屋で、あまりの粗末さに言葉を失うほどだった。なぜ、国がCDを作ってくれるほどの歌手が、このような貧しい家に住んでいるのだろうか。
でも、キム・シンさんは、そんなことはまったく意に介していないようだった。
彼の態度は誇り高く、心豊かで、聞き手である私たちへの慈愛に満ちていた。演奏するときはこのうえなく楽しく、幸せそうだった。物静かでユーモアがあり、そして時として辛辣《しんらつ》だった。
四つの楽器を選んで、演奏していただいた。
どの楽器もキム・シンさんが自分で手を加えて改造している。彼の手が加わると、なぜか音がキュイ――ンとすすり泣くようになる。音から音へ移行する瞬間に音が泣くのだ。それがキム・シンの音楽、オリジナリティらしい。
彼の作った歌は、決まったコード進行というものがなく、演歌のようでもあり、シャンソンのようでもあり、なんともアバンギャルドだった。
その声は歌いこんだ艶《つや》があり、か弱く、それでいて色っぽい。日本の長唄《ながうた》の世界に通じるものがある。
私は日本の古典芸能が「お座敷」という世界でのみ守られて来た意味がわかったような気がした。
この「かそけき声」は、たぶん、本当に小さい空間で歌うことでしか、その色香を伝えることが困難なのだ。マイクを通した瞬間に消えてしまう美なのだ。
私は、こんなに小さな声の歌手も、こんなにかそけき演奏も、これほど耳を澄まさなければ聴き取れない楽器の音色も、日本では聴いたことがなかった。
けれども、そこにはアンプを通さない音の世界があった。
不思議なことに、その音を聴こうとするとき、私は左耳を傾ける。
なぜか私の右耳ではうまく聴き取れない。
左耳の方が聴力がいいんだろうか。こんなことも初めてでびっくりした。
小さな音の世界、区分されない音の世界で、私を痺《しび》れさせたのは、音から音へと移行するときのその曖昧《あいまい》さだった。
境界がなく音は次の音へとグラデーションで移行する。その移行していく音の中に、なにかとてつもない官能が潜んでいる。
音が音へと移っていくその瞬間瞬間に、どうしてか体がじいんと痺れるのだ。
ドからレへ移行するとき、ドとレの間には無数の中間があるが、それを越える瞬間がある。
越えるということは、たとえ音がドからレへ移行するというありきたりな出来事であっても、実はもっと大きな「超越」と相似形なのかもしれない。
ドからレに音が移行するということは、ものすごいことなのかもしれない。
ただ、私がそれを聴こうとしなかったから、わからなかっただけなのかもしれない。
音が移行していくとき、私は鳥肌が立つ。
それはなぜだろう。
越えること、上昇すること、下降すること、移動すること。
それは、私にとって、確かに快感なのだ。
でも、なぜ……?
答えは「音」にある。そんな気がする。
私がこれまで接したことのない、音のなかに答えがある。
世界中の「かそけき音」を探しに行きたい。そう思いはじめている。
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雨とフラダンス
「フラダンスを習い始めたんだよね」
と言うと、たいがいの男の人の目が点になっちゃうのはなぜだ。
たぶん、ハワイアンセンターで胸に貝殻のブラジャーをつけたお姉さん方の、腰をくねくねする踊りを思い浮かべるからなんだろうな。
他人のことをとやかくは言えない。
私もかなり長いことフラダンスにはそういうイメージしかなかった。そういうってのは、なんていうかちょっとエッチなイメージ。
ところが、数年前にフラダンスの先生をしている女性と知りあいになって、彼女の踊る姿をナマで見た。それが実にカッコ良かった。
彼女がフラを踊り始めた瞬間に場の空気が変わってしまった。踊りってそういう力がある。いや、そういう力をもったものを踊りと呼ぶべきなのかもしれない。彼女の動きが存在するだけで、私の生きている空間にある雰囲気が立ちこめる。なんともいえない清らかさが、世界を満たした。
指先の描く曲線、なめらかな足と腰の動きが優雅で美しくって、私はなぜか鳥肌が立った。
その鳥肌は、怖いときの鳥肌じゃなかった。
たとえば、ここにアカペラのグループがいるとする。彼らそれぞれのパートを完璧《かんぺき》なまでに美しくハモったとき、そのハーモニーの美しさに私はぞくぞくと鳥肌が立つ。
そのときの鳥肌と同じ質のものだ。
ぎゃあ、フラってこんなにすげえもんだったの!? って目からウロコが百万枚くらい落ちて、それからフラダンスに対する考え方が180度変わってしまった。でもね、まさか自分が習いに行くとは思っていなかったんだよね。
きっかけは、整体師のT先生。
T先生が私の身体を整体しながら「フラはいいですよ、ランディさん」とおっしゃるのだ。
「フラですか? でも私、踊りって習ったことないしなあ」
「以前、いっしょに対談したサンディーさんの身体は、完璧でしたね。フラは身体を解放するんです。ランディさんも始めてみたらどうです?」
フラねえ……。
最初は、どーしようかなあ、と迷っていた。けど、私はそのとき、人生に対してけっこうヤル気な時期だったので「始めてみるか」という気になれた。
気分の上がり下がりというのがある。たまたま上り調子のときだったので、ついその気になった。別のときだったら「そうねえ」と言ったまま行動しなかったかもしれない。そういう、タイミングというのは人生にはとても大事だ。
このタイミングが、いつも私を思わぬ方向へと連れて行ってしまう。タイミングというのは、運転手まかせのタクシーに乗るようなものだ。タクシーを止めて、乗り込んだとたん、強引な運転手が「こっちのほうがいいですよ」と車を走らせる。
一度、フラの体験レッスンなるものに行った。
もっと簡単なものかとタカをくくっていた私は、翌日には筋肉痛でふくらはぎが痛かった。でも、その思わぬハードさに惚《ほ》れた。ちょっとくらいハードルが高いほうがヤル気になるくらい、このときは上り調子だったというわけだ。
と、ここまで書いたら今回はフラダンスの話だと思うでしょうが、実は違う。
フラダンスの先生はサンディー先生という素敵な女性だ。
「サンディーとランディって似てるわね」
初めてお会いしたときにサンディー先生はそう言って笑った。
うわって思うほど屈託のない笑顔だった。こういう笑顔って私もいつかフラダンスを習い続けたらできるようになるのかな。
先生は笑顔のために「フラエンジェル」という妖精《ようせい》を呼ぶ。
「さあ、みなさん。フラエンジェルにほっぺのタコヤキを引っ張ってもらいましょうね」って。
サンディー先生は、歌手でもある。
というよりも、フラダンスはライフワークで、職業が歌手なのだった。そんなことも知らずに私はフラを習い始めたのだ。つまり、私はサンディー先生のことをほとんど何も知らずに、すすめられるままに彼女のフラダンス教室に無理やり潜り込んだのだけど、それがよかった。
だって、サンディー先生は、とってもイカしていたのだ。
自分の先生を好きになるって、習い事が上達するためのとても大事なポイントだと思う。
先生がスタジオに入ってくるととてもいい匂いがする。
たぶん香水なんだと思うけど、お花のようないい匂い。その匂いはサンディー先生そのもので、匂いだけで私はサンディー・ワールドに連れ込まれてしまう。
そういうことも、一つの力だと思う。
魅力的な人は、あらゆることを自分の味方につけてしまう。その人を取り巻くすべてのアイテムがその人の味方になることを「魅力」っていうんだろう。
「ねえねえ、サンディー先生って○歳なんだって」
と、フラ仲間から聞いてぎょっとした。
「うっそ〜!」
「そう思うでしょ。でもホントなんだよ」
「いいなあ。その年であのスタイルを維持できたら。あの笑顔で笑えたら、年をとるのも怖くなくなるねえ」
「だよね〜」
「そういえば、サンディー先生って、若作りってわけじゃないもんね」
「うん、無理してるんじゃないんだよね。ちゃんと自分の雰囲気があって、だから素敵なんだよね」
とまあ、フラのスタジオに来るとみんなサンディー先生のファンになってしまう。
サンディー先生は、フラのレッスンの前に「オリ」というハワイ語の祝詞《のりと》のようなものを唱える。その「オリ」を唱えるときに、みんなで手をつないで丸く輪になる。そのときに、先生はいつも呟《つぶや》く。
「みなさん、この一週間、いろいろあったでしょう。悲しいこともあったかもしれない。だけど、みなさんはこの一週間で成長しているの。もう一週間前のみなさんとは違うのよ。いっしょうけんめい一週間生きたから、先週とは違う存在なのよ」
深呼吸して、身体のなかの沈んだ気持ちを吐きだして、「マナ」と呼ばれる生きる力を吸い込んで、それを再びみんなに分け与えるために外に吐きだす。
「人間っていうのは、生きるかぎり成長し続けるすばらしい生き物なのね、私たちは、そういうすてきな存在なのね」
先生はまるで自分に言い聞かせるみたいに言う。
「自分の内側をクレンズして、そして、きれいになったからだのなかに、命の源であるマナを、思いきり吸い込んでみましょう」
そう言われて、空気を吸い込むとき、なんだろう、ほんとうにすうっと、自分のなかに光が入ってくるような気がする。
そういう気分になるくらい、先生の言葉があったかくて優しいんだ。
それからレッスンが始まるのだけど、私は「一週間前のあなたとは違うのよ」って先生が言った言葉に、毎回ひどく感激してしまって、なんか涙ぐんだりしちゃうのだった。
そういうことって、普通に生きていたら誰も言ってくれないし、誰も褒めてくれないことだけど、そうだよなあ。人間なんて一週間いっしょうけんめい生きれば、それだけで変われたりするんだよな。
そういうとても柔軟で美しい生き物なんだよなあ。
私は、確かにフラダンスを習い始めた、そのはずなのだけれど、最近はなんだかサンディー先生になぐさめてもらうためにスタジオに通っているような気がする。
みんなで手をつないで、祈りの歌を歌って、
「この一週間はどんな一週間でしたか、辛《つら》いこともあったかもしれないけれど、でも、それでもみんな成長し続けている。辛いことがあったぶんだけ、大きくなっているのね」
そう言ってもらうために、その言葉を聞くために、通っているような気がする。
もちろんフラダンスもとても楽しい。踊っていると何もかも忘れてしまう。たとえ手と足が合わず、猿の盆踊りみたいにしか踊れなくても、それでも私は楽しい。
それは、先生の踊るフラの動きに宿る優しさを、自分が真似ようとしているから。優しさをいっしょうけんめいに真似ることを、ふだんの生活で忘れている。
優しい行為を真似ることは、けっこう恥ずかしいし、なんだか偽善っぽく感じるのだ。でも、優しい動きを真似るときは、とても素直になれる。
動きのなかに愛や優しさが宿っている。私はその動きをなぞりながら、自分のなかで摩耗してしまった優しさを取り戻しているんだと思う。
そうか。動きって、それを真似するだけでもすごいことなんだ。
優しい仕草、優しい動きを真似ていると、自分のなかに優しい感情が生まれてくるんだ。
発見だった。
感情をいじるよりもずっと素直に、動きから自分が導かれる。
ときどき私宛にメールで質問してくる方がいらっしゃる。
質問の半分くらいが「どうやったら、つまらない状態から抜け出して、楽しくなれるんでしょうか」
「私はもう長いこと幸せという状態を感じたことがありません。その状態がどんなかも忘れてしまいました」
いろんな事情の人がいて、いろんな思いが綴《つづ》られている。
でも、どうやら私は多くの人から「楽しく生きている人」と思われているらしい。なるほど、確かに私は好きなように生きているかもしれないが、だからと言って「毎日がハッピーで幸せいっぱい」とか思っているわけではない。
私の書き方が誤解を招いてしまったのかもしれないけど、私には「満ち足りてどっぷりと幸せな状態」というのは、よくわからないし、どうしたらそうなれるのかもわからない。
私は、基本的に常に「傷ついている」ほうだと思う。
物心ついた頃からそうだった。
いつも、胸のあたりのかさぶたから血を流している。それが私であり、そういうキャラクターなのでしょうがない。
占星術の研究家の松村|潔《きよし》さんに言わせると「ランディさんの星は他者の侵入を受け入れようとして傷つき、もう他者とは深く関わりたくないと思っているような状態の星をもつ人」なのだそうである。
家族であれ、友人であれ、仕事関係であれ、恋人であれ、私という性格は常に他者をなんとか理解し、他者と共に可能性を模索しようとかなりがんばるほうなので、それが挫折《ざせつ》したときのダメージは大きい。
そして、その挫折を徹底的に反すうし、分析するまで回顧し続けるので、その副産物として文章が書けるのだと思う。
しかし、書く前も、書いているときも、書いた後も、ダメージはダメージであり、常に痛みを身体のどこかに感じている。
私にとって「つまらない」という状態は、この「ダメージ」すらもマヒしてしまうような状態なのである。
痛みすらわかんなくなって、あらゆるものが膠着《こうちやく》して動きを止めてしまったような状態だ。痛いことも生きている証《あか》し。
だから私は、健康なときほど体調が悪く、元気なときほど心が痛い。
「つまらない」という状態から、解放されれば、痛みも思い出し、以前よりもずっと、辛いことも多いのである。まったく、めんどくさい性格だよな。
だからね、いまはフラダンスなど踊って楽しいのだけど、でも「世界がつまらない」と思っていた頃よりもずっと、どことなくせつないし、楽しい反面で寂しいし、過去の傷が疼《うず》くように痛いんだよ。そういうものなんだと思う。
それが私の日常だから、そのことを悲しいとは思わない。
悲しいとは思わないけど、せつないような、妙な気分。その気分が私の基本気分なのだ。
いつもちょっとだけ失恋しているような痛み。
そういう心の状態が、私の「日常」であり「平均」なのだった。
私は、心からありとあらゆるものがハッピーっていう状態には、なったことがない。あっても一瞬のことだ。長続きしない。
基本的に真面目《まじめ》で暗い。ハメをはずすときも多々あるけれど、とんでもなくはずすことはない。エキセントリックだが大胆ではない。
いつも、ちょっとだけ痛い、それに耐えているので、酒とかが好きなんだろう。
感情をコントロールしたり、変えるのはとても骨が折れる。
感情は流れのようなもので、無理強いされるのをとても嫌うし、無理に流れを変えようとするとあふれ出す。
だけど、動きに身をまかせてみると、動きから生まれる感情がある。
どんな仕草、どんな動きを自分が選ぶかだけでも、もしかしたら人生って変わってしまうのかもしれない。
だから人は、ダンスに魅了されるんだろう。
私がフラダンスに魅《ひ》かれたのは、私のなかの何かが、フラの動きを求めていたからなのかもしれない。
ゆったりとした、優しい、慈愛に満ちた、波のような動き。
フラダンスのレッスンが終わって、外に出たら雨が降ってた。
身体を動かして汗をかいたし、なんとなくビールでも飲みたいなあ、って思っていろんな人に電話してみるんだけど、もう自宅に帰っちゃってたり、携帯がつながらなかったりで、誰も出てくれないんだよ。なんだよ夕方は「有楽町で飲んでるから電話して」とか言ってたくせに。くそっ。
まったくもうって思う。夜九時で、渋谷は雨が降ってる。
傘ももってなくて、駅まで濡《ぬ》れて歩いて、飲みたいのに相手はいないし。ほんの一時間、ビール一杯でいいんだけどなあ……。
などと思いながら東京駅までやってきて、売店でビールを買って、雨の八重洲口《やえすぐち》を眺めながら飲んでいたら、こういうことが過去にも数限りなくあったなあ、って思い出してきた。
十代のときも、二十代のときも、こういう日があって、一人で茫然《ぼうぜん》とビールなんか飲んでて、ちょっと人恋しくて寂しくて、それでいて心のどこかで妙な解放感があった。
そうだよな、しょせん他人なんて、誰もそんなに私を必要としてるわけじゃないのだ。そのことを思い知ると、かえって気が楽になる。誰にも応《こた》えなくたって、私は生きてていいんだな、って。この取るに足らない自分でいいんじゃん。半ばヤケくそにそう思ったときの、不思議な爽快感《そうかいかん》。
私って、たぶん、何を手に入れても、どんなに成功しても、いくつになっても、きっと同じような気持ちで死ぬまで、こうやって貧乏くさく地面に座って、のら猫みたいに一人でビールなんか飲んでるタイプなんだろうって思った。変わりようがない。いま変わっていないんだから、もう変わりようがないだろう。
ここが自分の原点で、ここから雨のなかをどこへ歩いて行こうと、私はなんでもできるし、なんにでもなれるし、ものすごく自由だ。こういうとき、いつもそう思う。
家族がいようが、子供がいようが、そんなことすら関係なく、この夜の雨の中を、どこでも好きな場所に行き、好きなことをやって生きていい。そんな妄想をもてることが、私の救いだ。
フラが与えてくれた「マナ」のおかげかな。
久しぶりにしみじみと実感してた。
他人でもなく、社会でもなく、私は個性に従って生きていいのだ、って。
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介護と恋愛と墓参り
遙洋子《はるかようこ》さんの『介護と恋愛』(筑摩書房)という本を読んだ。
面白かった。遙さんがお父さんの介護と恋人との恋愛の間で右往左往する。その悪戦苦闘の様子が痛快に書かれている。
編集のFさんが「遙さんのお父さんって、ちょっとランディさんのお父さんに似ているような気がします」と言って、すすめてくださった。
読んでみて、確かに私の父と似ているような気もした。ちょうどこの本をいただいた二日後に、父と墓参りに行く約束をしていた。なものだから、よけいに本の内容にのめり込んでしまった。
私の父は七十二歳で、まだまだ元気だ。介護の必要など微塵《みじん》も感じない。しかし、もし父親があるとき脳溢血《のういつけつ》で倒れて半身不随でしゃべれなくなったら、そうなったら、父の家族は私だけである。私は、父の介護ができるのだろうか?
そのことを、あるリアリティをもって初めて考えてしまった。これまでは、恐ろしくて想像しないようにしてきたのかもしれない。
私が遙さんの文章に打たれたのは、遙さんのお父さんへの愛情が文章の随所に感じられたからである。遙さんのお父さんも相当な暴君である。が、遙さんはお父さんを愛している。そのことが言葉から伝わってくる。
私は父を、あんなふうに愛しているのだろうか?
私と父はいっしょに暮らした時間というのがほとんどない。
父は船乗りとしてずっと船に乗っていて、私は母子家庭のような状態で育った。高校を卒業して家を出てからは、さらに、ほとんど父と暮らすことはなかった。
父を嫌いではない。かつては大嫌いだと思っていたが、長い長いすったもんだがあって、いくらか父を理解した。もう憎んでもいない、どちらかといえば好きである。だけど、愛しているだろうか。そのことが私には自信がなかったのだ。そして、その父親の介護を、私はできるのだろうか……と。
父は私のことを「好きだ」と言う。しかし、私は疑わしく思っている。父が好きなのはかわいい女の子だった頃の私ではないか。いま四十歳を越えて小煩《こうるさ》く、生意気で、気の強いオバサンになった娘をはたして父は好きだろうか。否……と思えるのだ。父のなかにいる私はいまだに「子供」であり、父はその「子供像」を私にかぶせようとする。そして、いま現在の私を見ようとはしない。あるいは見えないらしい。
ってなことを考えているところに、田舎から父がやって来て、いっしょに墓参りに行くことになった。私の娘、つまり父にとっては孫と三人での墓参りである。
私は母と兄をすでに亡くしている。年に二回の墓参りは、私と父が会う数少ない機会であった。父も孫娘と出かける墓参りをことのほか楽しみにしていた。
ところが、どうしたわけか、私と父はこの墓参りで大喧嘩《おおげんか》をした。
理由はあまりにも些細《ささい》なことだった。些細すぎて言うのも恥ずかしい。私が電車の往復の指定席を取ろうとした。それを父は気に入らなかった。なんでそんなことでケンカになるのか、当人の私ですらわからない。だが、ケンカしてしまった。人間とは奇妙な生き物だ。二人ともドカンと炸裂《さくれつ》してしまった。
私たちは駅で一回、下田の水族館で一回、怒鳴り合った。
普段はこらえるはずの私がなぜかこの日は歯止めがきかなくて、思いきり父に反発して父をなぶった。父は待ってましたとばかりに激怒して、私に殴りかからんばかりだった。
激しい罵倒《ばとう》しあいの末、父は怒って帰って行った。
「オマエとはもう終わりだな」というセリフを残して。私も「そうだね、せいせいするわ」と怒鳴り返した。
家に戻って来て、なんであんなくだらないことで言い争いになったのだろうと思った。
父は私のやることがことごとく気にいらなかったようだ。やはり父にとって私は、孫と同じくらい子供に映るらしい。未熟な私が自分勝手に物事を仕切ろうとするのでシャクにさわる。
しかし、私は子供ではない。立派な社会人だ。そして私にも予定がある。小さな子供を連れているので指定席を取りたい。
そんなことで私たち親子は簡単に食い違ってしまう。バカだなあと思う。
父が怒って帰ってしまってから、一週間が過ぎた。
とても父親の介護なんかできそうにないな、と思った。それどころかいっしょに暮らすことも無理ではないかと思った。毎日、大喧嘩だろう。仕事どころじゃない。
そう思いつつ、でも心では父のことが気になる。親というのは本当にもう、なんてめんどくさくてつきあいづらい存在なんだろうか。
昨日のことだ。
娘の誕生日でご近所のノリくんママが遊びに来てくれた。彼女が私に言うのだ。
「そういえば、このあいだ、田口さんちのおじいちゃんがモモを連れて歩いているのを見たわよ」
父が来た日、父は孫を連れて散歩に出た。
「あ、このあいだ、田舎から出て来てたから……」
この話題は避けたいな、と言葉をしぶる私に、彼女はしみじみと呟《つぶや》いた。
「海岸道路を、モモの手を引いて歩いているのを見かけたのよ。それがねえ、おじいちゃんたら、ほんとにモモを大切そうに、だいじにだいじに宝ものみたいに、愛《いと》おしそうに見つめながら手をつないで歩いているの。その様子がねえ、もう、心から孫をかわいく思っているって感じがにじみ出ててねえ、なんか、遠くから見ていてもじんときちゃったわ」
それを聞いた瞬間に、私にはその様子が見えた。
そうなのだ。父はいつも孫娘の手を、壊れ物を扱うように大事に大事に引いていくのである。その姿が、脳裏に浮かんだとたん、なぜか、自分でもわからないのだけれど、涙がこぼれてしまった。
父が怒鳴ると、私のなかに子供の頃の記憶が蘇《よみがえ》ってしまう。
怖くて横暴で自分勝手で、お酒を飲んで暴れていた父の姿が蘇ってしまうのだ。だから、私はときどき今を見失う。
今の父は、ただの年よりだ。怒っても、昔の父ではないのに……。
父に電話をしてみた。すると父は「このあいだは、悪かったな」と、まず自分から謝った。信じられないことだ。絶対に自分から謝ることなどない人だった。
「ううん、また遊びに来てね」
と私が言うと、父は「だがな、オレはな……」と何か言いかけて、突然に電話を切ってしまった。
受話器の向こうのツーツーという音を聞きながら、私は、父は何を言いたかったんだろうと思った。
なんにしても、父は老いたのだ。そして昔の父とは違うのだ。
私も父も、お互いのなかに「過去の相手」しか見えない。
今の相手を直視できずに、いつも食い違ってしまう。
いま、ここで、この瞬間に、父と出会うことの、なんという難しさかと思う。
でも、そういう瞬間はある。
人生のなかのふとした瞬間に私たち親子はまぐれのように出会う。
その出会いがある限り、私と父はどんなに食い違っても、和解できる。
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喜びの共有
私は二十代のころに、ほんの三年だけ、重度の身体障害者の方の在宅介護を経験したことがある。
と、エラそうに言っても、週一回、決まった時間に行って食事を作り、掃除をし、そして時にはお風呂《ふろ》の介助をして帰って来ただけだ。だいたい、七時にアパートに行き、十時頃には帰る。わずか三時間である。
それだけのことなのに、この三年間は本当に苦痛だった。正直に言うが、やめたくてやめたくてしょうがなかった。ようやく三年も過ぎたころに、介護している障害者と正面切って喧嘩《けんか》したり文句を言えるようになった。そうなったら、気分が楽になったのだが、気分が楽になったらやめてもいいような気がしてきて、仕事の都合もありやめてしまった。
私がなぜ、重度身体障害者の在宅介護を始めようとしたのか、そんなことを思いついてしまったのか。今ならなんとなくわかる。
その当時、私は二十六歳だった。二十六歳の私は心理学に興味をもって心理療法の勉強を独学でしていた。なぜ心理学に興味をもったかというと、自分の兄を理解するためだ。兄はどこに就職しても職が続かずに、精神的にも肉体的にもとても不安定だった。そんな兄のことを親はちっとも理解せずに「怠け者」と呼ぶ。でも、私はそれは違うのではないか……と思っていた。精神科に兄を連れて行くように親を説得してみたのだが、二十六歳の小娘の言うことなど、親は取りあってくれず「オマエは実の兄をキチガイ扱いするのか」と怒られた。
確かに私は専門知識をもちあわせていなかった。だから、兄はどういう状況にあるのか自分の力で知ろうと思ったのだ。とはいえ、半分は自分の好奇心だった。私は子供のころから人間の心の世界に興味をもっていたのである。
今から十数年も前のことで、まだ「アダルトチルドレン」も「ひきこもり」という言葉もなかった。「ボーダー」というマンガがはやっていて、ちょっとおかしい人はみんな「ボーダー」とか呼ばれた。もしかして兄も「ボーダーって奴なのかな」と私は思った。
でもね、病名をつけたからと言って、症状が治るわけではまったくなく、病名とはレッテルに過ぎない。兄はどんな病名がついても兄であり、考えたらあの「変さ」は兄の個性でもある。あのような形で何かを表現しないと自分を表現できない人だったのに、その当時の私には兄が理解できなかった。
私が信じていたのは「人間は心を病む。そして、それは何らかの方法によって治すことができるに違いない」ということだった。
心理学を勉強するうちに、心理療法やらカウンセリングやら、人間の心を治療するためにはいろんな方法があることがわかった。そして、いつしか自分もそういう職業に就きたいと漠然と思い始めた。
人間の心を魔法のように治すのは、かっこいいと思った。もちろん当時はもっとまともな理屈をつけていたが、今から思うと、そういう「心理療法者」をなにかこう魔法使いに憧《あこが》れる子供のように、過剰に憧れていたように思う。
自分が人を癒《いや》す。その力をもっている。そう思い込むとなんだか「自分の役割がわかった」ような気がした。そうだ、私にはきっとそういう能力がある。そんなふうに錯覚するといい気分だった。
しかも、私は心理療法のワークショップなどではなかなか優等生で、人の気持ちをつかむのも早かったし、ある種の勘とかセンスが自分には備わっているような錯覚をもってしまったのだ。
そんなわけで、私はある時期、本当に「他者の傷を癒す」ということを、自分の使命のように感じ、他人の傷におせっかいを焼いて、わかったふうなことを言って人を惑わすどうしようもないアホであった。
もっと人の痛みを知らなければ、と、私は思ったのだ。他者を癒そうと思ったら、もっともっと人の痛みを知らなければ、と。それで、新聞で偶然見かけた障害者の方の在宅介護に、自ら進んで飛び込んで行ったのである。
そういうトンチンカンな思い込みによって、私は他者と関わり、その傷を癒すことのできる人間になろうとしたのであるが、結果は惨憺《さんたん》たるものだった。
現実はそんなもんじゃなかった。私が思い知ったのは「他人の痛みは絶対にわからない」というそら恐ろしいような現実だった。
そうなのだった。他人の痛みは絶対にわからないのだ。同じように自分の痛みも絶対にわかってもらえないのだ。人間は個別に体をもって生きている。肉体の痛みを共有することはできない。精神の痛みも然《しか》り、である。
わかったふりをすると、まずはねつけられた。はねつけられたときはびっくりした。今まで同情してはねつけられたことがなかったからだ。
だけど、その理由が今ならよくわかる。
私が介護していた障害者の女性は、体は不自由かもしれないが心は私よりもよっぽど強靭《きようじん》で自由だった。だから、私のひよひよした理想にぴしゃりとノーを言ったのだ。それまで私は、落ち込んでいるような相手に対しておせっかいを焼いてきたので、そういう人は私に言い返す力がなかったのだろう。
おしなべて、理想に燃えているおせっかいな人間は、妙に明るく押しが強いものである。そういう人に、落ち込んでいて気の弱い人は負けてしまうのだ。
兄はいつも私の正論を黙って聞いていたけれど、内心はうんざりしていたのかもしれない。私の押しの強さに巻き込まれていたのだなあ。きっとそうだろう。兄が死んでしまった今となっては確認のしようもないが……。
もちろん、当時の私は自分が押しが強いなどという自覚はなかった。自分としてはカウンセリングのスキル通り、懸命に相手の話を聞いているつもりだった。でも、違ったんだよな。なにより基本的な心構えがダメなのだ。相手を救おうと思っているところが、もうおこがましいのである。そこには、強い自意識があった。若かった私は「相手を救える自分」にどこか酔っていた。そういう自分であることが、私にとって都合がいいから、弱い相手を見つけてきては世話を焼いて自分の自我のえじきにしていたのである。
しかし、その障害者の女性は、そういう勘違いの介護者に何百人と接して来た強者《つわもの》だったので、私の偽善的態度など一発で見抜いていた。私は自分がなぜ介護していて苦しいのか、三年間、さっぱりわからなかったが、それは彼女が私のエゴイズムにちっとも餌を与えてくれなかったからだと思う。
彼女は完全に自立していた。精神的に……だ。24時間介護を必要としながら、一人暮らしをするというのは、常に他者に自分を依存している状態だ。その状況で自分を見失わずに自分を生きることの、精神のなんという強さかと思う。
私は彼女から本当にいろんなことを学んだ。でも、自分の学んだことが何だったのかをやっと理解したのは、情けないけれど四十歳を過ぎてからだった。自分の経験を言葉にして語れるようになったのは、ごく最近だ。それまでは、いったいあの三年八ヶ月が何だったのかさっぱりわからなかった。曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。記憶というのは不思議なものだ。体験も、時の力によってワインのように熟成されるらしい。
私は彼女の介護をやめてから、他人の不幸は担わない、ということを肝に銘じた。他人がどんなに痛くて、不幸であっても、それを私が肩代わりすることはできない。私はキリストでもマリアさまでもない。ただの人間なのだ。まずは、自分のことだ。自分のことをちゃんとやって、自分の精神状態を維持できないのなら、人のことに手を出すのはやめるべきだ、と肝に銘じた。
自分の体調が良くて機嫌のいいときは、かなり誰にでも優しく、笑顔を振りまけるのである。イヤなことがあってもすぐ忘れるし、少々憎たらしい相手に対しても「私とは違う考えの人だけど、ちゃんと話し合えばいい人かも」くらいには思える。
しかし、自分の精神状態が不安定で、悩みがあり、体調もすぐれないときは、ふだん大好きな男にだって「最近は冷たくなった」とか思うのである。私は私としてしか世界を感じることができない。私が元気なら世界はいつも輝いているのである。だとすれば、私のことを最優先に気持ちよくさせることが、まずは他人を気持ちよくさせるための第一歩であろうと、私は思った。どんなに介護が巧《うま》くても、不機嫌な人間に介護されるのは辛《つら》いものだ。
私はやたらと健康で、三日以上入院した経験は一度しかない。
その一度の経験で、ある看護師さんと知りあった。入院初日、その看護師さんはすごくイヤな奴だった。なんだか威張っていて、こっちが体の具合が悪くてへろへろで入院して来ているのに事務的で冷たく感じた。点滴を打つときに「右と左、どっち?」と聞く。なんのことだかわからずに「え?」と聞き返すと、まるでバカにしたように「どっちの手の血管が出やすいか聞いてるのよ」と言った。私も若かったので「そんなこと、いきなり聞かれてもわからないわよ」と反抗的に返事をした。
入院したのは春で、窓の外には五月の青空が広がっていた。私は個室にいて、そして、気持ちが良いので窓を開けていた。そうしたら、すごく大きなハチが、病室に飛び込んで来たのだ。毛むくじゃらのクマンバチで、ブンブン唸《うな》りながら私のベッドの周りを飛び回る。私は思わず声を上げた。すると、たまたま通りかかったらしく、そのイヤな看護師さんが病室に入って来た。
「どうしたんですか?」
「ハチ、ハチが……」
ハチのあまりのデカさに、その看護師さんもたじろいだ。が、彼女は私に、
「じっとしてなさい、じっと」
と言って何をしたかと言うと、口笛を吹いたのだ。その看護師さんは、年の頃なら五十歳近い方だった。その方が、口をとんがらせて、ハチに向かってピーピーと口笛を吹いているのである。あまりに突然だったので、私はあっけにとられて、それからなんだか急に可笑《おか》しくなった。
しばらくして、ハチは窓から出て行った。
「ハチって口笛が嫌いなのよ」
と、彼女は言う。なんでも、栃木の田舎育ちで、田舎ではそうやってハチを追い払うのだと言う。いや――、大きなハチだったねえ、と、二人でほっとした。それから「口笛、じょうずですねえ」と言って笑いあった。
それだけのことなのだけど、私はそれからその看護師さんと親しくなった。たかだかハチを追い払ったという、その喜びを共有するだけで、人と人は出会える。
私はそのころ、人生の絶不調で、あまりに酒を飲みすぎて内臓を壊して入院したのであるが、短い間だったけど、彼女に甘えていたように思う。
喜びを共有した相手とだけ、私は悲しみを共有できると錯覚するのだな、と思った。いっしょに喜び合えない相手に、悲しみだけわかってもらうことは、私はできないのだな、と痛感した。喜び合えるということの先に、悲しみをゆだねる何かが生まれてくるのだ。
この毎日のなかで、人と出会って、いったいどれほどのことを喜び合えるだろうか。今日も空がきれいだね、と、その美しさに自分が気づくことができない限り、私は誰とも喜び合うことはできない。そして、喜び合うという小さな儀式を通過しない限り、誰の悲しみにも立ちあうことはできないだろう。
誰かの苦しみ、誰かの悲しみに、私は立ちあうことしかできない。ぼう然とその場に立ち尽くすことしかできないけれど、もし、私が相手と、ほんの一瞬でも、何かの感動を共有したことがあるなら、私はそこに立っていられる。立っていることを許されるような気がする。
感受性をもって、誰かと喜びを共有すること。それだけでいいんだ。それだけで十分なんだ。今はそんなふうに思う。
私はすでに、兄もそれから母も亡くしている。
二人と、どれくらい楽しい思い出を作ったかなあと、少し、さみしく彼らのことを思い出す。いつも「どうにかしてやろう」とか「救ってあげよう」とばかりしていた。そして、肝心なことを忘れていた。いっしょに楽しむこと、喜ぶこと。
本当は人間が絶望したとき、その、どん底にあるとき、生きる力になるのは、喜びの記憶なのに。
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記憶、過去、そして歴史
吉祥寺《きちじようじ》のライブハウスでトーク・ライブを行った。
企画してくださったのは都内で精神障害者のための作業所を運営しているグループの方たち。
精神障害者が社会復帰をしていくとき、ずっと自宅で生活していていきなり会社勤めをするのは難しい。そこで、彼らの作業所で集団生活や仕事、基本的な生活習慣になじんだ後、本格的に仕事に戻る……という段階を踏むのだそうだ。
だから作業所は、そこにずっと勤めるような場所ではなく、一時的にお世話になる場所……という位置づけとのこと。「そうであってほしい」とスタッフの一人の方が呟《つぶや》いていた。
なんとなくその呟きから、作業場から社会までの道のりが険しいことを感じた。
トーク・ライブを終えて打ち上げに参加させていただいた。
日常的に精神障害者の方々と接しているスタッフの方にいろいろお話を伺いたいと思った。
「最近、作業所にやってくる方たちの特徴ってどんなですか?」という私の質問に、二十代の女性スタッフが答えてくれた。
「若年化している……というのが、大きな特徴ですね」
「若年化……、若い人が増えているってことですか?」
「そうですね。作業所に来ているのはいまほとんど若い人たちです。と言っても、作業所には二十歳以下の人は来ないんです。高校も卒業する年になって二十歳を過ぎたころから、親御さんはいつまでも家に置いてはおけない、と思って作業所に連れていらっしゃるから」
なるほど。まだ学校に通っている年齢のときは、親は「不登校」ということで家にいてもしょうがないと思うわけだ。しかし、成人になってくると「大人になったのに仕事もしないで家にいてはまずい」と感じるのかもしれない。
「作業所にいらっしゃる方たちの精神的な特徴ってありますか?」
「ありますね。なんていうかな、みなさん、記憶がないんです」
「え? 記憶ですか?」
記憶がない、というのは記憶喪失というのではない。
彼女の説明によれば、思春期に入ったころから家に引きこもってしまう人が多いので、学校生活の思い出、友達と遊んだり、喧嘩《けんか》したり、恋したり、運動したり、旅行したり、文化祭を企画したり、そういう記憶がないのだそうである。
「だから作業所にきて、そういう記憶を一から作り直していく……みたいな感じなんです。でも、難しいです。多くの人がとても無表情で、無感動なんです。ほとんど感情を表さないというか……」
以前、『知覚の呪縛《じゆばく》』(ちくま学芸文庫)の著者である精神科医の渡辺哲夫《わたなべてつお》先生と対談させていただいた。そのとき、渡辺先生は「この世界を世界として成り立たせているものは歴史だ」とおっしゃった。
「田口さんを、田口さんという個性としてここに在ることを支えているのは、歴史なんです」と。
歴史、あるいは記憶。
私は生まれてから今日までずっとこの私である……という実感がある。だけど、私の記憶はひどく断片的で、細切れだ。たとえば小学校三年生のときのある一日を私がどうやって暮らしていたか、私はまったく記憶していない。私は私の人生の大部分を思い出せない。
つまり私は人生の大部分を忘れている。
それにもかかわらず、私はずっと私であり続けたと実感できるのはなぜだろう。それはたぶん、私が生きて経験してきたことが、たとえ忘れてしまっても、ある歴史性をともなって私に刻み込まれているからではないか……と思う。
たとえば、私は「元日の朝」というものに特別の思い入れがある。
この言葉を見ると、掃除の行き届いた清潔な居間と、磨き上げられた床の間と、清々《すがすが》しく張りつめた家のなかの空気と、母親が作る雑煮のダシの匂いを思い出すのだ。
私はもう「元日の朝」に関する細かなエピソードはいっさい覚えていない。
だけど「元日の朝」は私のなかにある歴史性をもって刻み込まれたイメージとして存在し、そのようなイメージの集大成として「私」という個性が浮き上がってくる。
修学旅行、文化祭、試験、試合、部活、寄り道、買い食い、下校、登校。
これらの学校に関わる言葉の一つ一つに、私にとっての歴史性がある。記憶は曖昧《あいまい》だけれど、この言葉から喚起されるイメージの鮮烈さこそが、私の過去だ。
たぶん「私が私だ」と言うときに、私は私の現在の肉体だけでは「私」になれない。感覚だけで「私」になろうとしたら、私は私の肉体を苦しいほどに支配しないと「私」になれない。もしかしたら、自分の肉体感覚だけで自分になろうとしたときに、私は手首を切って血を見ようとするかもしれない。
生きてきて、今、ここに存在する、という統一的な自分を支えているのは、過去の歴史性なんだ。
そんなことを議論しながら、午前一時過ぎ、スタッフの方たちとほろ酔い気分のうちに別れた。
三々五々にみんなが去って、まだ寒い吉祥寺の街に一人残されたら、突然に時間がワープしてしまった。
かつて近鉄百貨店だったビルの前に私は立っていた。
デパートはつぶれて、今は家具センターになっている。だけど、建物のシルエットは私が十九歳だったころのままだった。
そうなんだ、私は十九歳のころ、この吉祥寺の街に住んでいた。
井の頭公園も、伊勢丹《いせたん》前のプチロードの喫茶店も、東急百貨店の裏の定食屋も、その濃いハンバーグステーキのソースの味も、まるでつい昨日のことのようにはっきりと覚えている。
どうしたことだ、なぜか自分が十九歳のように思えてならない。
私のなかでフリーズドライされていた過去が、いきなり解凍されて、真夜中の空気に流れ出し、実体化しようとしていた。
(酔ったみたいだな……)
私は独り言を呟いて、目頭を両手で押さえた。
眩暈《めまい》がした。どんどん自分の感覚が十九歳に戻ってしまうのだ。
もちろん、現実にはいい年をしたオバサンなのだ。そのことはちゃんと自覚している。認識している。だけど、左脳の認識とはまったく別に、いままさにとてつもないリアリティを従えて、十九歳のころの吉祥寺の空気が立ち現れ、この空間全体を支配しようとしていた。
それはもう圧倒的なリアリティで、このリアリティの前に私の理性の認識なんてぶっとんでしまうのだった。
時は1980年だった。
1980年の空気、匂い、雰囲気が夜を支配していた。
あの年、私はまるで野良ネコみたいだった。
(どうしちゃったんだろう……あたし)
帰らなくちゃ、と思った。そうだよ、家に帰らなくちゃ。
私は井の頭通りを越えて、井の頭公園に向かって歩いていた。
そこに私のアパートがある。
公園のなかは枯れた植物の匂いがした。池があるので冬でも湿っていた。じっと寒さを耐えている小さな生物たちの気配がする。からんからんと風に吹かれる空き缶の音がどこか遠い彼方《かなた》から聞こえた。
木立を抜けると、小さな商店街がある。
この商店街のお風呂屋《ふろや》の角を曲がった奥に私のアパートがある。アパートの名前は松美荘。
そこの101号室が私の部屋だ。
四畳半の日当たりの悪い、家賃が二万二千円の私の部屋だ。
私は自分の部屋に向かって歩いていた。
暗い公園のなかを歩きながら、私は不安と人恋しさと、それを凌駕《りようが》してしまうほどの生きることへの興奮が、自分のなかにわき上がってくるのを感じた。
そうだった。十九歳の私はこんな感じだった。
未来なんてさっぱり見えない。場末のパブでホステスのバイトをしていた。この先、自分はどうなるのか見当もつかなかった。
だけど、一度たりとも自分の未来を疑ったことはなかった。
私の未来。
それは幸せとか、不幸とか、そういうことではなかった。あのころ、私が感じていた未来。それは「こうなりたいイメージ」とか「夢」ではなかった。
なんだったんだろう、私が確信していたあの未来は。
歩きながら私は自分の心を探る。
確かにある。ここにある。
私は胸に手を当てる。
お金もない、学歴もない、あたしはただのフリーターだ。
男のこととお金のことしか頭にない。働いてもみんな飲んでしまう。
だけど、私のなかに絶望はない。私のなかにあるこの「喜び」はなんだろう。こんなに不安で、こんなにさみしくて、誰かをいつも求めているのに、それでも私は生きることが楽しくてたまらない。こうして存在することを喜んでいる。
まるで小さな子供みたいに、私は確かに何かを予感し、望み、曖昧《あいまい》な希望に顔だけは向けていた。ヒマワリみたいに。
ああ、これが若いってことだったんだ。
思い出した。
生きているだけで、こんなに楽しくて、そして辛《つら》い。
それが若いってことだった。十九歳のころの私はそうだった。
でも、人間って不思議だな。あの時の私はちゃんと残ってる。消えたりしない。記憶は映像や言葉ではなく「世界の空気感」として保存される。こんなにありありと、私が生きていた時代、あの場所、その空気が、いま、蘇《よみがえ》っている。
まるで昨日も、この道を通ったかのように、私は二十年を経て、井の頭公園の自分のアパートに向かっていた。
バイトの帰り、いつもこうやって誰もいない部屋に帰るのがさみしくてたまらなかった。あのころの人恋しさがせつなく思い出される。
一人の部屋に帰るのがイヤだったから、いつも仕事が終わってから明け方まで飲んでいた。
くたくたに飲み疲れて部屋に帰って、倒れ込むように寝ると、さみしいという気持ちが起こる間もなく、夕暮れになりバイトに出かけた。
そういうことの繰り返しだった。
商店街に出ると急に明るくなった。
とはいえ店はすべて閉まっているし、人通りもない。
飲料水の自動販売機の明かりが、ぼんやりと道路を照らし出している。
とぼとぼと歩いていくと、道の先に誰かが立っていて、長いシルエットが私に向かって伸びていた。
「あれ」
と、人影が言った。
「あ……」
私は驚いて顔を上げた。山崎君だった。
「山崎君、どうしたの?」
「君こそ、どうしたの?」
山崎君は私のアパートの隣の部屋に住んでいた大学生だ。
お金のない私はいつも給料日前になると山崎君に借金をしていた。ごはんもたくさん食べさせてもらった。風邪を引いたときは看病してもらった。山崎君は就職してアパートを出て行った。以来、会っていない。ほんの一年の間、私と山崎君は小さなアパートで隣り合って、まるで家族のように過ごした。そして、さよならも言わずに別れた。
「飲み過ぎちゃったよ」
と、私が言うと、山崎君は笑った。
「僕も」
「だって、山崎君、お酒飲めないじゃない」
「飲めなくても、飲まなきゃならない日もある」
山崎君のそばに近づくと、山崎君の匂いがした。山崎君は古本の匂いがする。
山崎君はグレイの背広を着ていた。いつもセーターにジーンズだったのに。それから、髪を短髪にしていた。少し太ったみたいだった。
「アパート、なくなっちゃったね」
山崎君が路地の闇の方を指さした。そこは駐車場になっていた。
「お風呂屋も、なくなっちゃったんだね」
「そうだね」
私たちは、「月極《つきぎめ》駐車場」という文字をぼんやりと見ていた。
これからどうしていいのかわからなかった。帰るアパートはやっぱりなかったのだ。
「寒いね」
「うん」
「どうしようか?」
「そうだなあ」
それから、私はふと思いついた。
「ね、あそこ、行ってみる?」
山崎君はすぐにピンときたらしい。
「ああ、あそこね」
それで、私たちはまた井の頭公園に向かって歩き出した。
あそこというのは、井の頭公園のそばにあるラブホテルのことだ。「ホテル井の頭」というあまりロマンチックじゃない名前だった。
十九歳の私はラブホテルというものに、もちろん入ったことはなかった。だからずっと、あの中がどんなふうになっているのか気になっていた。
山崎君と伊勢屋に焼き鳥を食べに行くときに、いつもこのラブホテルのそばを通った。
「ねえ、いつかここ入ってみようよ」
と、私は言った。
「そうだねえ、おもしろそうだね」
と、山崎君は言った。
だけど、私たちはとうとう「ホテル井の頭」には入ることがなかった。考えてみたら、これは唯一の私と山崎君の果たせなかった約束だ。
「まだあったんだね、このホテル」
「すごいことだ」
暗くて古くて、でも妙にあったかい感じのする入り口だった。そんなふうに思うのは山崎君といっしょだからなんだろうか。
受付のオバさんの愛想もよくて、ニコニコしながらカギを渡してくれた。部屋は狭くて、和室にベッドが置いてある妙なインテリアだったけど、あんまりエッチな感じがしなくてよかった。部屋のなかはミズゴケの匂いがした。
私は冷蔵庫からビールを出して、そして山崎君がお酒が飲めないことに気がついた。
「あ、でも一杯くらいなら飲めるよ」
ビールをついで、乾杯してから、お互い黙った。
あのころ、二人はどんなだっけ……と、思い出そうとしたのだけれど、二人の関係をもう一度リアルにこの場に再現することはとても難しかった。
なぜなんだろう、吉祥寺の街も、井の頭公園も、アパートも、あんなにありありと蘇った。まごうことなき1980年だったのに。山崎君と私のあの時のお互いの存在の仕方は、二人でこうしていてリアルに立ち現れてはくれない。
私と山崎君の間にだけ、時間はもどってくれなかった。
私はあのときみたいに山崎君を愛してなかった。
愛したことを覚えているけど、それは、再び愛することとは別なんだ。記憶って不思議だなって思った。すべてが蘇っても、すべてではない。
「また、あの場所で会えるなんて、思ってもみなかった」
山崎君は、昔みたいに目を見開いて頷《うなず》いた。
「ほんと、こんな偶然ってあるんだね」
「山崎君が、越してしまったあとは、なんだかすごくさみしかったんだよ。すごくさみしくて、それで私も、すぐ引っ越してしまったんだ」
隣が空室になった日のさみしさを、私は思い出して苦しくなった。
「僕もさみしかったよ」
「うっそ」
「うそじゃないよ」
「だって、山崎君、彼女いたじゃない」
「そういうことと関係なく、さみしかったよ」
それを聞いて、私は少しだけうれしかった。あのころ、自分は誰からも愛されないって、すごくそう思っていたから。
「あたしさあ、たぶん、すごく好きだったんだと思うんだ。あなたのこと。いまだから言えるけど」
ああ、言葉にするとウソになるなあ。私が彼に感じていた感情はそんなもんじゃなかった。でも、もうあの感情を再現することができない。
「僕も、君のことが好きだったよ」
とても真剣に山崎君が言うので、私はビールを吹き出した。
「いいわよ、そんなふうに合わせてくれなくても」
「そうじゃない。ほんとうに、好きだったよ。好きじゃなかったらあんなに長いこといっしょにいられなかったと思う」
「でもさ、私たちって、恋人じゃあなかったよね」
そうだった。私たちは、単なる隣人だった。
山崎君はちょっと遠い目をした。
公園の中で、犬がわおんと遠ぼえをする。こういう犬の声を私は聞いていた。眠れない夜に。そしてさみしくなって、一人で泣いたりした。
「君は、いつも、右の目で今を見て、左の目で、どっか遠くの未来を見てた。その遠くの未来は、僕には見ることのできないほど遠いところで、なぜか知らないけれど僕はいつも、君に置いていかれるような気がしてた」
驚いた。置いていったのは山崎君なのに。
「私だよ、置き去りにされたのは。黙って引っ越してしまったくせに」
山崎君は少しさみしそうに、私を見た。
「そうかもしれない。でも、いつも置いていかれてたのは僕だった。それは僕の勝手な思い込みなのかもしれないけれど、僕は君といるといつも君が顔の半分を未来に向けているので、さびしかったし、ちょっとねたましくもあった」
ねたましい? なぜ? 私には何もなかった。人から嫉《ねた》まれるようなものは何もなかった。
「私は、あのころ、なにもなかったよ、すっからかん」
そうだね、と山崎君は言った。
「なにもないことが、すごかった」
そうだったのか。人間の気持ちなんて、聞いてみないとわからないものだ。
「私は何を見ていたんだろう。未来……ってなんだろう。考えてみたら、私はあのころの私が見ていた、未来の私だね。二十年後の私。それがいまの私だ。なんだか不思議な気分。私は未来であり、現在であり、そして過去でもある。私は同時に存在している。私のなかには、山崎君の隣に住んでいた頃の私がちゃんと居る。その私が、この場所まで連れて来た」
「たぶん、僕もそうだ。同じだ。二十年前の自分が僕をあのアパートに連れ戻した。もしかしたら、今日は時間が蘇《よみがえ》る日だったのかもしれない」
マヤのカレンダーにそういう日がありそうだな、と私は思った。
「私たち、出会ったところで、何もないね」
イヤミじゃなく、素直に、私はそう思った。
「そうだね、何がどうなるものでもない」
かつても、そしていまも、私と山崎君は同じ星めぐり。二人は等距離に離れていて、位相が変わることはない。
「だけど、隣同士で住んでいた一年間は楽しかった。私、生涯忘れないと思うよ」
「僕も、忘れたことはないよ」
ふいに、ものすごくたくさんの記憶が思い出されて、身体のなかが記憶の洪水になって、どこかに連れ去られてしまいそうだった。
「あの一年間が、いまの私を作ってる。記憶は私のなかで私そのものになってる。それって、すごいことだね」
山崎君はもう私の記憶のなかにだけ存在して、現実に現れることなんてないと思っていた。そういう人が、生きていると増えていく。
「鮮烈な記憶は内在化して、記憶自身が意識をもつのかもしれない。記憶もエネルギーを帯びて、そして空間を変えたり、人と人を引き寄せたりするのかもしれない。こんなふうに……」
山崎君の言葉に私は頷《うなず》いた。
そうかもしれない。私の記憶と山崎君の記憶。二つの記憶は生きていて、そして呼びあったのだ。いま、井の頭ホテルの一室で、記憶と記憶は同化して、果たされなかった約束は成就した。
「おもしろいね、過去の場所を巡ることって、実は記憶をバージョンアップさせる効果があるのかもしれない」
「そうそう、だから遺跡は珍重される」
私たちは、この思いつきに笑った。
「私たちって、二十年前も、こんな話ばっかりしていたね」
「そうだね」
「変わらないなあ」
「変わらないけど、変わる」
それは同じことだ。
「何もかも、一つのなかに全部詰まってる」
「昨日も、今日も、明日も?」
「たぶん、ぜんぶ、ここにある」
私は、なんだかとてもほっとした。
「そうか、じゃあ、安心だ……」
明け方に浅い眠りについて、うたた寝して目が覚めたら、もう山崎君はいなかった。
でも、夢じゃなかった証拠にホテル代は払ってくれていた。
朝になったら、吉祥寺はすっかり2002年だった。
私は最近、過去とか、歴史とか、記憶とか、そんなことばかり考えてる。
しょせん私が考えることなんて、かつて誰かがちゃんと考えたことばかりだ。
私には新しいことを見つけ出すような能力はない。
だけど、私にとっては発見なのだ。
あらゆることは世界にある。それを自分なりに発見することが、もしかして伝承ってことなのかなって思う。
それぞれの人が歴史のなかから、自分なりに小さな発見をし続けていくことで、歴史って伝承されていくのかもしれない。お前の考えたことなんて新しくない、とか、発見する前に強制的に教えこまれてしまうと、人は発見をやめてしまう。だけど、たった一人が発見したことをみんなが共有するのは難しい。
みんなが少しずつ発見していく。それが歴史を作る。
私の発見も、歴史を作っている。きっと。
発見って、いま、この瞬間の喜びだ。
自分が発見したことしか、私は伝承できない。
発見することをみんながやめたら、きっと歴史のなかの過去の知恵は消えちゃうんだろう。
あの夏、私と山崎君は二人でたくさんのことを発見した。
発見することの楽しさを覚えた夏、それが1980年だった。
ただ、あまりに世界を発見することが楽しかったので、私は山崎君を見つけることを忘れてしまっていたのだ。
そういうことも、人生にはままある。
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犠牲
ずいぶんと久しぶりに「犠牲」という言葉を聞いた。
そして「犠牲」について考えてしまった。
浅草で行われた「サバイバーズ・フォーラム」にゲストとして参加させていただいた。
「サバイバーズ・フォーラム」は、肉体的・精神的な虐待を受けた方たちが、自分たちの体験を語りあい、共有することによって過去を解放し、今この瞬間を生きる力を取り戻そうとするための集会である。
とはいえ、活動の内容に関して、私はよく知らない。ただ、主催者のお一人である精神科医の斎藤|学《さとる》先生の著書はほとんどすべて読んでいた。
かねてから斎藤先生の著書をとても興味深く読んでいたので、シンポジウムのお誘いを受けたときにはたいへん嬉《うれ》しくお受けした。同時に私なんかがしゃべって大丈夫なんだろうか、という不安もあった。
当日、会場に着いてみるとすごい人だかりだ。小さな催しとばかり思っていたのに、八百人近い方が会場にいらっしゃっていてびっくりしてしまった。イベントは前半がサバイバーの方の体験発表と斎藤先生との質疑応答。
そして、午後からが『東電OL殺人事件』を題材にしたシンポジウムで、私、佐野|眞一《しんいち》さん、斎藤学さんによる鼎談《ていだん》だった。
佐野さんの著書である『東電OL殺人事件』のなかで、佐野さんは心理学者である斎藤さんに「渡辺|康子《やすこ》の心の闇」について質問している。『東電OL殺人事件』に関して、私は2000年の6月頃に週刊朝日で対談をさせていただいた。そういう佐野さんをめぐるつながりで、今回の顔触れになったのだと思う。
「オヤジ二人がしゃべっても、なにかこう足りないような気がしまして、それで田口さんに声をおかけしたわけなんですよ」
と、会が始まる前に笑いながら斎藤さんがおっしゃった。
初めてお会いする斎藤学さんは、きっぱりした感じの方で、人によっては「冷淡」という印象を受けるかもしれない。でも、私は気取りも体裁もないストレートさが、とてもお付き合いしやすいなあと思った。
ポーカーフェイスなので不機嫌そうにも見える。でも、そうではないことはお話ししているとすぐわかる。時おり、ふとチャーミングなところがのぞいたりする。男はある年齢に達したら、こういう感じでいいのだよな、と私は思う。必要以上に優しくされたり妙にベタベタされるのは私はあまり好きではない。
その点、佐野さんも、斎藤さんもクールなおじさま、という雰囲気だった。だけど、確かにクールなおじさまが二人で女性についてしゃべってもつまらないかもしれない。だからきっと私が呼ばれたのだろう。
朝十時から始まって、終わったのは午後四時。長いフォーラムだった。
午前中の最初に「実父から性的虐待を受けた」という女性の体験を聴いて、まずショックを受けた。もちろん、このような話は本では何度も読んでいる。けれども、当事者が目の前で淡々とその体験を語ると、聴いているうちに指先が冷たくなっていく。息苦しさを感じた。
私も女性なので、彼女が語る性的虐待の屈辱感が身体でわかる。だからつらいのだ。頭ではなく身体でわかることはしんどい。
その後も、売春経験のある女性、摂食障害の女性の体験が語られ、体験者と斎藤さんの間で短いやりとりがあって午前中のプログラムは終了した。
午後から三十分ほど一人で話をして欲しいとお願いされた。
テーマは自由ということだったけれど、私としては兄や家族のことを話そうと思った。それが一番自然だし、それ以外のことをこの場で話したいとは思わなくなっていた。だから私は三十分という時間のなかで、私と家族について語った。
ひきこもりの状態が続いた末に、兄は家出をし、行方不明になり遺体で発見されたこと。真夏のアパートで雨戸を閉めきり、なにも食べずに衰弱死したらしいこと。その兄と、父と母と自分との関係。兄の死後に起こった父との葛藤《かつとう》。そして兄に続く母親の死。
その一連の出来事のなかで、私と父は激しく対立しあいながら、手探りをするようにお互いの新しい関係を作りつつあること。兄の死によって私が感じたこと、考えたこと。
うまく語れたかどうかはあまり自信がない。私は書くことは得意だけれど話すことは苦手だ。
さて、鼎談も終わって、残り四十分ほどで会場の方から質問を受ける……という時間があった。そのときに、ある女性が私に対してこういう質問をしてきたのだ。
「私は自分の弟や母を父の暴力から守るために、自分の身を犠牲にして父に与える決意をしました。そして父の性的虐待に家族のためにずっと耐えて来ました。田口さんも、田口さんのお兄さんが家族の犠牲になったから、あなたが不安を感じずに生きて来れたんじゃないでしょうか。そう思いませんか? お兄さんはあなたの犠牲になって亡くなったんじゃないですか?」
兄が私の犠牲になった、という考えを私はこれまで一度ももったことがなかったので、この質問を受けたときはひどく動揺した。
犠牲という言葉は、不思議なインパクトで私に突き刺さった。
犠牲……犠牲……犠牲……。
兄は家族の犠牲になり死んだのか……?
「わからない」と答えた。
死んでしまった人の気持ちはわからない。永遠に謎だ。だからわからない。わかりようもない。
私の答えに彼女は不服そうだった。
犠牲という言葉を自らに使う人と、私はこの人生のなかで初めて遭遇した。
そういえば一度も「私は犠牲者だ」と強く唱える人と出会ったことがなかった。彼女ははっきりと「私は犠牲になった」と言いきったのだ。
私はそのことにショックを受けた。
「私は犠牲になった」
そのことを、そんなに宣言するように、言いきっていいのか。
瞬間、私は空白になってしまった。ザーと砂あらしが目の前を覆った感じ。
なにかどこかでボタンがかけ違っている。これはなにかおかしいことだ。そういう感じが込み上げてくるのだけれど、なにがおかしいのかわからない。言語化できない。
彼女の行動は、それは自らが選んだことであって、自らが望んだ以上、自分を犠牲者だと名乗ることはできない。私はそんなことを思った。
いや、違う、そんなことではない、問題はもっと違うことだ。
なんだろう、なにが、食い違っているんだろう。
わからなくて、わからなさを家までもって帰ってしまった。
そしてメルマガにも書いた。
それでもわからなくて、いつしか忘れてしまった。封印したと言ってもいい。
ところが、しばらくしてから、夢を見てしまった。
兄の夢だ。
夢のなかに兄が出てきて、田舎の実家の居間に座っている。
これからどこかへ出かけるところらしい。
兄はずいぶんと立派な背広を着ていて、普段の兄とは違う。なんだかパリッとしている。髪の毛もすっきりと分けている。
「おにいちゃん、家を出ていくの?」
と私が聞くと、兄は黙って頷《うなず》いた。
そうか……、出ていくのか、と思って私はなぜかホッとしている。
そして、自分でも唐突に言うのだ。
「おにいちゃん、私のために犠牲になったの?」
すると兄がぽかんと呆《あき》れた顔をして私を見る。そして、私の質問には答えずに「一万円貸してくれ」と言うのだ。
私は「これが最後だ」と思いながら兄に一万円を渡す。
兄は申し訳なさそうに私からお金を受け取ると、居間を立ち上がる。なぜか兄は背広姿なのに靴下をはいていない。
兄の白い素足を見たら、私は急に悲しくなって、兄を家の外に追いかけた。
「おにいちゃん、ちょっと待って」
叫ぶのだけれど、家の外には兄はもういなかった。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
私は薄暗い家の外に立って、住宅街の道の闇に叫び続けていた。
そして、自分の叫び声で目が覚めた。
目を覚ますと私は泣いていた。
一瞬、もうすでに兄が死んでいることがわからず、兄を追いかけなければと思っていた。それから、ああそうだ、兄はもう死んだのだと思ったら、死んでずいぶんと経つのに不思議な喪失感が襲ってきた。兄の夢を見たときはいつもそうだ。夢のなかで兄はまだ生きている。そして、私は「取り返しがつく」と思っているのだ。
「私のために犠牲になったの?」
と、私が質問したときの、兄の顔が妙に脳裏に焼きついていた。
訳がわからない、というふうにもとれる。どこか少し憤慨しているようにもとれる。
なんとも複雑な表情を兄はしていた。
そして、私の質問を無視して「一万円貸してくれ」と言ったのだ。
ときどき兄はああして、他人の言葉を無視することがあった。自分にとって取るに足らないこと、関心がないことを表明するときの兄の態度だった。
兄は家族の業を背負い込んで死んだのだ、家族の犠牲者なのだと彼女は言った。
だけど、私はそれは違うと思った。
兄が餓死したのは、自分が「何者」にもなりえなかったからだ。犠牲者にすらなりえなかったからだ。そんな気がする。
兄は茫漠《ぼうばく》とした、果てしもない空虚さのなかに佇《たたず》んでいたんだと思う。
それでも、兄は、最後の最後に自分の死を自分で引き受けた。
兄にはプライドがあった。
プライドの良い悪いは問わない。プライドとは自分が自分であることにこだわるため人間がもってしまう何かだと思う。
兄は家族の存在を憎んでいたかもしれないが、その憎むべき家族によって自分であろうとはしていなかった。
とてつもない空虚さを抱えながらも、その空虚な自分のなかに自分であることを探そうとしていた。
人はときどき、忌み嫌うものに無意識に同化し、憎むべきものによって自分を自分たらしめようとしてしまう。
そんな悲しいことを、人はときどきしてしまう。
犠牲者だと名乗った彼女は、自分は犠牲者なんかになりたくなかったはずだ。
それなのに、自分にとって一番忌まわしいものに、自分が同化してしまっている。
犠牲者として生きること、そう名乗ることによって、彼女は私を攻撃するだけの強い自我を手に入れているのだった。
犠牲者であることを、自分に許してしまっている。
それはとても屈折した行為だ。
一番憎むべきことに、自分を同化させてしまう。
そのことは、ひどくせつない。
でも、そのようにして、人はみな、生きるために自分のバランスを作る。
私もそうだ。兄もそうだった。そして彼女も。
他人から見れば、まったくナンセンスで、どうしてそんなに辛《つら》い選択をするのかと思われるようなことを、自ら選択して、その辛さのなかでバランスを取るのだ。
あるいは、この奇妙なバランス感覚こそ、個性なのかもしれない。
フォーラムの席上で、斎藤先生は「犠牲者だ」と名乗った女性に、とても厳しい対応をなさった。その厳しさは「父性」であるように私には思えた。
私は、ただ、自分がどう答えてよいのかわからずドギマギしただけだった。
いまさらだけれど、私は答えたい。
兄は犠牲者ではない。兄は自分であることにこだわろうとした。何者でもない自分であることを求めた。恐ろしいほどの空虚な心象風景のなかで、それでも自分であり続けようとして死んでいった。彼は死にたかったのではなく、自分として生きられなかったんだと私は思っている。
あるいは自分として生きようとした結果、そのバランスの取り方が死に結びついてしまったのかもしれない。
兄はそのような人だった。私はそう思っている。
私は、私であるために死んだ兄についての小説を書いた。考えてみたらこれも奇妙なバランスの取り方だ。死んだ人間を話のネタに暴く行為だ。露悪的ですらある。でも、それが私のバランスの取り方だったのだ。
そのように、人は生きるためにそれぞれにバランスを取っている。どのようなポーズでバランスを取るかはその人の個性だ。
犠牲者であることを選択するのも、そういうギリギリのバランスでしか、この地上に存在していられないからなのかな。他人のことはわからない。推測でしかないけれど、私はそう感じた。
ピアノ線を首に巻きつけて、手と足で締め上げて歩くような、そんなバランスの取り方をする人もいる。
そして、苦しげに歩いている。
その苦しいバランスで生きていることの素晴らしさ。
どれほど理不尽で、効率が悪く、痛かろうが、そのバランスでしか生きられないことがあるのだ。
バランスは、善悪ではない。
生きているだけで芸術であるようなバランスが、世界にはたくさん存在する。
人間存在が、一番、アバンギャルドだ。
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恐怖の傍聴席
一月十日、東京地裁でオウム真理教の松本|智津夫《ちづお》被告の裁判を傍聴してきた。共同通信社配信のコラムの取材のためだ。
担当記者のKさんが、「ランディさん、オウム裁判に興味ありませんか?」とおっしゃる。「興味なくはないけど、私って社会派じゃないから、ジャーナリストっぽい記事は書けないと思うよ」
そう答えたのだけど、それでもいいですとおっしゃる。そんなわけで裁判予定を調べてもらったら、ちょうど仕事で東京に滞在している朝の十時から裁判があるというのだ。
オウム裁判の傍聴は初めて。この日は検察側の最後の証人である、オウム真理教の元幹部遠藤|誠一《せいいち》被告への反対尋問が行われる予定とのこと。
「遠藤被告って、何をした人でしたっけ?」私のオウム知識なんてこんな程度だ。「確か、サリンを製造した一人だと思います」
「そうかあ。じゃあ傍聴してみようかな」
というような軽い気持ちで、私は朝九時四十分に東京地裁前に立っていた。
整理券をもらう。入っていくとまず服装と持ち物のチェックをされる。あの飛行場の検査といっしょ。
さらに法廷に入る前に、かなり厳重なチェックを受ける。こんなに厳重だと思っていない私はそのものものしさに早くもびびってしまう。館内も警備員が多く、迷路みたいで、暗くて、なんだか重たい雰囲気。
入廷前には金属探知器でチェックを受ける。さらに、女性警備員からボディチェックを受ける。そして荷物は全部開けられて内容物を確認される。菓子パンがバッグに入っているのを見つけられ「法廷内では食べられませんよ」と釘《くぎ》を刺される。それでやっと法廷に入ることを許される。
私はすでに後悔し始める。
ああ、なんだかすごく場違いなところに来てしまったなあ、いやだなあ、帰りたいなあ。
そうこうするうちに「場内では写真撮影は禁止、テープ録音も禁止、むやみに立ち上がったり、話したりするのも禁止」と、禁止事項が解説される。禁止、禁止、禁止……。その言葉が耳の奥でリフレインしている。
その日は四十人くらいの傍聴の人たちがいたけれど、みな、無言である。さらに法廷に併設しているトイレのドアには「開廷中は使用を禁止します」とはり紙がしてあった。
それを見た私はぼう然とする。
というのも、私は緊張するとトイレに行きたくなる女なのだ。
昨日は午前二時まで大酒を飲んでいて、ややお腹の調子が悪い。どうしよう、開廷中に下痢ピーになったら、私は法廷でもらしてしまうんだろうか!
というような悪い考えが頭をよぎると、もう、なんだか心臓がバクバクしてきて、トイレのことしか考えられなくなってきた。どうしようどうしよう。一度座ったらトイレに立つこともできないのか?
私の心配をよそに、係員が傍聴席に誘導する。
「いまならトイレに行けるかしら」と思いつつも、気の弱い私はそのまま促されて傍聴席に着く。ああ、もうここから動けないのかしら……。
と思うまもなく向かって左のドアが開き、四、五人の刑務官に連れられて入って来たのは松本智津夫被告だった。
「あ、あれって麻原彰晃《あさはらしようこう》?」と、私は焦る。
そりゃあ松本智津夫被告の裁判なのだから、麻原彰晃が入ってきて当然なのだが、裁判初心者の私には段取りがわからず、あらゆることが突然に起こる。
髪が角刈りみたいに短くなっていて、イメージと全然違った。あの真ん中分けの長髪にだぼだぼの白い服が麻原彰晃の私のイメージだった。だけど、目の前にいる松本被告は薄汚れたセーターに着古したジャージを穿《は》いていて、ホームレスのような風体だった。
松本被告は入廷するなり、何か小さな声でぶつぶつとしゃべっている。内容は聞こえないけれどずっとしゃべっていた。時々声が大きくなると裁判官にたしなめられる。
私は刑務官の数に威圧された。
みんな怒ったような顔をしている。そりゃあここでニコニコしているのも変だが、猛烈な威圧感。法廷とはそういう場なのだろう。裁きの場とは厳粛でなければならない。厳粛さとはなんだろう。厳粛であることは威圧的であることなのか。わからない。とにかく法廷はとっても怖かった。
彼らは松本被告を取り囲むように法廷に座った。次に入廷してきたのが証人の遠藤被告だった。遠藤被告は紺色の背広を着て、眼鏡をかけている。小柄で色白で神経質そうな感じ。声も甲高い。どこかで見たことのある顔だなあと思ったら、死んだ兄貴に似ている。びっくりしたことに誕生日までいっしょだった。
遠藤被告はとても冷静で、弁護側の質問に理路整然と答える。
「それは前にも言ったと思いますが」と、ときおり弁護団の質問にうんざりしたように呟《つぶや》く。彼は土谷|正実《まさみ》被告、中川|智正《ともまさ》被告とともに、具体的にサリンの製造に関わった一人だそうだ。
弁護側の質問はサリン製造の細部に及び、遠藤被告は証言のためにオウム真理教内での信者同士の日常会話を繰り返し再現した。
それを聞いていて、不思議に思ったことがあった。
例えば、彼が最初に尊師からサリン製造について打診されたのは、尊師のリムジンのなかだと言う。そのときに尊師は「サリン作れるか」と言ったのだそうだ。リムジンには五人の幹部が乗っていた。
「サリン作れるか」と、尊師はいったい誰に向かって言ったのだろう。
遠藤被告は「わからない」と言う。
わからないままにその言葉をそれぞれの部下が思い思いに受け止めるのである。
遠藤被告の証言を聞いていると、オウム真理教内部で交わされている言葉には主語が足りないことに気がついた。特に、尊師の言葉には主語が無い。他の信者の会話にも主語が少なくて、会話がとりとめない。
そうか、この人は主語の無い世界で暮らしていたんだなあ、と、裁判を傍聴しながらそんなことを考えていた。
「あなたは、サリンを作れと言われたとき、なんの目的のためにサリンが必要なのだろうと考えなかったのですか?」
「考えませんでした」と遠藤被告は断言した。
「それは変でしょう、普通は目的について考えるものでしょう?」
「そういうことを考えないことが教団での生活ですから」
なるほど、と思う。だから主語も必要ないのだ。
裁判というのは物事をはっきりさせるために言葉を使う。でもそういう言葉を使っている限り、教団内における信者と尊師のやり取りはよけいに見えなくなる。
主語無き世界で交わされたコミュニケーションを、裁判という世界の言葉に翻訳することは難しい。
「主語が無いのは変だ」というのはこちらの世界の理屈だ。
主語が無い世界で何が起きるのか……は、オウム真理教の世界にこちらから近づいて初めて知ることができる。
裁判は混迷していた。
被告と裁判所側のやり取りはとてもチグハグだった。
被告の証言から察するに、教団内部の言葉は、独自の造語が多く、言葉が歴史的厚みをもっていない。社会と共有できない言葉を、遠藤被告は当然のように使用する。わかり合うことを閉じているんだ、と思った。
そもそも同じ世界に住むつもりがない人たちなんだ。
やり取りのチグハグさに、私はさらに不安になった。この場所で行われているコミュニケーションの方法に違和感がありすぎる。
私は弁護側の反対尋問が始まっても、法廷の雰囲気にどうしてもなじむことができない。
ますますトイレに行きたいような、行きたくないような、もぞもぞした気分だ。
ああ、もしお腹が痛くなったらどうしよう、黙って席を立てばいいのかな。そのときはあの警備のおじさんに聞けばいいのかな、みんなに見られるのかな、怒られるのかな、と、そんな小学生みたいなことばかり心配しているのである。
次第に心臓の鼓動が激しくなってきて、手にはうっすらと汗がにじんでくる。身体がガチガチに堅くなってきて、自分の身体が自分じゃないような妙な気分だ。
あれ、私って、いま軽い解離症状を起こしているなって思う。
いったいどうしたんだろう。自分の魂が身体から抜けて行ってしまいそうで、なんだか妙に身体が軽く感じる。極度に緊張するとそういう状態になるのだ。
しかし、私はなんだってこんなに緊張しているんだろう。
ずいぶんとテレビとかラジオとかトークショーに出たけど、こんなふうにあがったことはない。度胸はいいほうだ。それなのにどうしてこの裁判の傍聴席でこんなに緊張しているんだろう。
ああ、いやだ。一刻も早くこの席から逃れたい。息苦しい。そのうちにだんだんと眠くなってきた。困った、眠くなってしまった。法廷の声は聞こえるのだけれどうつらうつら半睡眠状態に入ってしまう。
そしてしばらくして「はっ」と我に返る。
うとうとしている間は緊張から解放されている。次の瞬間に自分がどんな場所でうたたねしていたかを思い出す。すると、一気に緊張が蘇《よみがえ》るのだけど、その瞬間に自分が何かとんでもないことを大声で叫び出すのではないか……という不安がよぎる。寝ている状態では自我が弱くなっているからだろう。起きた瞬間に自己抑制できないのでは……と不安になるのだ。
私は何かしでかしてしまうんじゃないか、立ち上がってあらぬことを叫んでしまうのではないか、そういう不安でますます心臓の鼓動が早くなる。
そんなことをしてしまったら大変だ、大変だ、大変だ。そう思うとまたトイレに行きたいような気分が蘇ってくる。ああもう、早くこの場に適応しなければ……と思う。なんとか適応しなければ。そうだ深呼吸、呼吸を整えないと。すう、はあ、すう、はあ。
身体全体が痺《しび》れるようで、自分の身体から自分が抜けて行きそうでたまらない。ああ、解離だ、自分で居られない。久しぶりの解離症状だ……。と、なにか懐かしいような感じでそれを体験していた。
むかしむかし、こういうことがあったなあ……と思った。
うんと小さい頃、小学校に通っていたころに自分はこんな感じで生きていたなあ、ということを思い出した。不思議なことに、この感覚を私はまったく記憶から消し去っていた。
ああそうだった。そういえば、私はこういう感じが嫌で、それに反抗して、ずっと自分の思い通りに生きてきたんだった。ずいぶんと長いこと、自分が支配される場所に来ることのない生活をしていた。
好きなときにトイレに行き、好きなときに動き、好きなことをしゃべる。
そんなふうな場所を探して生きてきた。他人から制限されて、椅子に長時間座っていることを命じられ、監視されるような場所に来たことがなかった。ここはまさしく、私が私であることを許さない場所だ。そうだ、私はこういう場所が大嫌いだったんだ。思い出した。
たかが裁判の傍聴で、何を大げさなことを、と思われるだろうなあ。
でも、オウム裁判の傍聴に行って、私が真っ先に感じたことは、登校拒否になるような子供たちって、毎日裁判の傍聴席に座ってる私みたいな気分で暮らしているんだろうなあ、ってことだった。忘れてたけど、私って子供のころ、こんな気分で学校に行ってたときがあったなあって。
小学校の低学年のころ、すごく、嫌だった。毎日。
だけど、ある時期から私は急に不まじめな子供になって、授業中でもトイレに行けるようになったし、つまらないときはノートに漫画を書いて空想にふけったり、友達とイタズラ書きの回しっこをするようになった。そのうちにだんだん大きくなってウソをついて学校をさぼったり、美術室のアグリッパの陰で昼寝したりすることができるようになったんだ。
みんなが授業を受けているとき、誰もいないひんやりした美術室で、白い布にくるまってぼんやりと石膏像《せつこうぞう》を眺めていた。優しい光がさしていて、絵の具の匂いがして、校庭からは号令の声が聞こえた。さみしかったけど、ああやって一人で隠れて過ごした時間があったから、私はいまもけっこう自由なのかもしれない。
自由は、すこしさみしいんだ、ってあのころから思ってた。
みんなと違う自分はいつもすこしさみしいんだって。それでもいいのだ、って思っていた。いっしょにできることもいっぱいある。でも、どうしてもいっしょにできないことだっていっぱいあるんだ。
そんなことを思い出していたら、ようやくこの場に慣れてきて、結局、午後五時までしっかりと傍聴してしまった。
途中の休憩時間にトイレに立った。用を足したらすこしほっとした。
以前にある番組でごいっしょした江川|紹子《しようこ》さんがいらしたので、ご挨拶《あいさつ》をした。江川さんは私を見ると「どうしたんですか? こんなところで」と驚いてらした。
「裁判は初めてなんです。もう緊張してしまって……」
江川さんは笑っていた。すごいなあ、江川さんはもう法廷なんて慣れっこなんだろうな。いろいろとオウム裁判の経過について親切に教えてくださった。
終了して外に出たときは、もう暗くなっていた。
裁判もすごかったけど、私にとって衝撃だったのは、あの「禁止ばかりの空間」に自分が押し込まれることの辛《つら》さを、身体で思い出したことだった。
四十を過ぎてこんなに大人になっても、私はちっとも変わっていない。
生理的な欲求を禁止され、緊張すると、簡単に自分と自分の身体が分離してしまう。呆《あき》れると同時に、自分の未熟さに驚嘆した。
子供のころのダメさをこれほど温存しているのだから、子供のころの良さも、私のなかにはあるに違いない。そう前向きに考えることにした。
それにしても、である。
松本智津夫という人は、尊師として「幽体離脱」つまり解離を修行していた人である。だとすれば、彼は解離のプロであるから、あの場所から簡単に解離できるのだろうな。
法廷での松本被告は奇妙だった。あの場所に彼の心はなかった。
肉体から精神が解離していた。
辛いとき、人は自分でなくなることが一番楽なのだ。そして、自分を失った人には責任を追及できない。日本では法律もそういうことになっている。
翌日は、やたらと胃が痛かった。
どうやら神経性の胃炎になったようだ。裁判を傍聴しただけで胃炎になるほどストレスを感じるのか、私は。情けない。
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私とアメリカ
「不思議だ、どうして今までアンタをこんなに好きだったんだろう。アンタはどうせ私のことなんか蔑《さげす》んで軽べつしていただけなのに、どうしてアンタにこんなに憧《あこが》れて、アンタを羨望《せんぼう》して、アンタの後ばかりくっついて歩いていたんだろう。今、もう私にはわかんない。私は恋から冷めたみたい。もう、ちっともアンタを好きだと思えない。私はバカだった。アンタがどんな男か自分で考えようとしなかった。ただお金をもってて、大きな家と立派な車があって、贅沢《ぜいたく》が好きで、明るくて、面白い男だから、って、それだけでアンタのことを愛してるって錯覚してたんだと思う」
今、私はアメリカという男と手を切ろうとしている。
子供のころから、ずっとアメリカに憧れてきた。
アメリカという国は日本よりも進んだ国、民主主義の自由な国だ、と、気がついたときはそう思い込んでいた。ハリウッド映画はスケールがでっかくて夢があってかっこいい。アメリカでは誰でも平等にチャンスを掴《つか》める、一攫千金《いつかくせんきん》も夢じゃない。アメリカ人は形式ばらずに、自分の考えで行動する。アメリカってわくわくする。とにかくアメリカってステキ。日本はそれに比べたらやぼったくてダサい。
小学校、中学校、高校と、私はそのように日本とアメリカを比較してきた。
気がついたときはアメリカびいきだった。コーラの宣伝すらイカすと思った。どうしてなのかわからない。世の中がそんなふうだったからとしか言いようがない。
ちなみに、私は1959年生まれである。
日本は戦争で悪いことをしたから、アメリカから罰せられたのだと思っていた。だから原爆がヒロシマに落ちたのだと、中学生の私は思っていた。誰から教えられたわけでもないけれど、そのように感じるような風潮だったのだ。アメリカは正義で、日本は反省しなければいけないのだ、と。戦争した日本はバカで神風なんか信じてた野蛮な国だったんだ……と。それをアメリカが救ってくれた。私はそう信じ込んで大きくなった。
アメリカという国について、深く考えることのないまま三十数年も生きてきた。本当に考えなかった。考えなくても生きていくのになんの支障もなかった。私の仕事に国際問題はほとんど関係なかったし、私のごとき酔っ払い女が、天下国家の過去と現在を問われることなどなかったから。
でも、どうしたわけか、私のなかで、今、アメリカへの幻想は完全に崩れ去り、私は不思議な気分だ。
かつての恋人がおちぶれ、老醜を漂わせているのを見ているような、そんな気持ちなのだ。私ったら、なぜあんな男を好きだったのかしら。まるで夢みたい。
どうも、私は気分的にはアメリカの愛人だったような気がする。
アメリカは私のことなんてこれっぽっちも好きじゃなかった。私はアメリカの言うことをなんでも聞く、アホで便利な女だった。だけど、そのアメリカの魅力が完全に失《う》せたと感じている。
この妙な心境を、言葉ではうまく言い表せない。
いったい自分が何に憧れていたのかすらよくわからない。私はやっと、長いアメリカとの愛人生活を抜けようとしている。あまりにも男が手前勝手で理不尽だからだ。
もちろん、それは私の心のなかで起こっていたことだ。一方的な私のなかだけに存在する思い込みだ。でも、私のなかに起こっていることが、私の現実であり、私の世界観である。
私は私以外の誰にもなれないし、私は私の心から逃れることは難しい。
私はずっと精神的にアメリカの愛人だった。これこそが私にとっての真実なんだ。もの心ついたとき、すでにそうだった。
そして今、ようやく腐れ縁の男と別れたなあ、という気分なのである。
2001年、私のところへは「テロ事件」に関するさまざまなチェーンメールが届いていた。
一日に何十通もの意見メールが回覧されてくる。
その多くは「アメリカの報復攻撃に反対する」という意見。「怒りと憎しみを越えて平和を」という意見。
そして「ランディさんも、何かご自身の考えを発表する準備をなさっていると思います」と、作家としての私の見解を問われた。
まいった、長年パンピーとして生きてきて、しかもアメリカの愛人だった私には言葉がない。
正直に言うと、私には意見というものがない。
意見などという、そういう強い考えのない人間なのだ。
もちろん、私は戦争はイヤだと思う。
戦いにたくさんの一般人を巻き込むのはやめてほしいと思う。
「罪もない女性や子供を巻き添えにする報復攻撃は許せません」
というメールが届く。ごもっともだと思う。
でも、私には「罪もない女性や子供」というフレーズそのものが、なんだか寒いのだった。
そういえば以前に、プロの傭兵《ようへい》の方の書いた戦争に関する文章を雑誌で読んだ。「戦争で一番死ぬのは実は男だ。若い兵士だ」
と書いてあって、そうだよなあと思ったりした。
兵士は自分が望んで戦争をやっているから、死んでもしょうがない……と言うのはやっぱり変である。
いや、私は誰が死ぬのが正しいということを述べたいのではない。
何かについて意見を言うと、何かを切り捨てざるをえない。言葉とはそういう側面をもっている。物事を分けていくのが言語だけれど、こと人間の生命とか、魂の問題になったときに、言葉は本当に使い勝手の悪いコミュニケーションツールなのだ。そのため議論は揚げ足取りに陥ったりする。
何かを語れば、何かが抜け落ちる。
もちろん、そうではない言葉の使い方もあるのだけれど、二元論で語る相手に意見を述べると、自分も二元論のなかに否応もなく組み込まれていく。その構造のなかに入ること自体が私はイヤなのだ。
また台風が近づいて来ている。
朝から洗濯物をどうしようかと考えている。
娘は雨だから保育園に行きたくないとゴネている。今日は仕事のお客様がいらっしゃる。締め切りも二本ある。値が下がったときを見計らって購入したクーラーの取り付け工事の人も来る。
そんなことに右往左往しながら、生きている。
テレビではずっとテロ事件の報道が流れ続ける。
テロの報道を横目で見ながら、私は生協の買い物シートに印をつけて、ジャンボパックの鶏肉はお得だなあ……と思っている。
このシュールさが今という時代だ。
情報がもたらした新しい生活だ。私は片方の目でアフガンを見ながら、もう一方の目で日常を見ざるをえない。いつも引き裂かれている。二つの世界に。しかも、アフガンはテレビという二次元のなかにある。
この相いれない二つの世界が、空間的には繋《つな》がっていることも私は知識として知っている。私の呼吸している空気はアフガンと繋がっている。そのことを私は知っている。そしてアフガンで起こっていることも知っている。
知っているだけだ。
私は生協の買い物シートに丸をつける。それが現実なのだ。
なんというストレスの多い時代だろうと思う。
そのなかで生きていくために、自分という小さな器のなかに、言葉を駆使して無理やり世界を詰め込もうとする。
そもそも理解が浅いので、テレビの二次元情報を寄せ集めて自分なりの世界観をハリボテの言葉で構築する。
かろうじて作った、小学生の工作のような世界が、私の脳のなかの世界だ。
そんなものを、書いてしまっていいんだろうか?
だから私はこうあるベき、という意見を発言できない。したくてもできないのだ。
世界は、私が認識するにはデカすぎる。
そもそも、一市民が国際世界の出来事を生活のなかで心配するようになったのはここ五十年くらいではないだろうか。
その前まで、一般人の私が世界を案じる必要なんてなかった。だって知りようもなかったんだから。テレビがなければ。
私は人類がいまだかつて経験したことのないことを、今、しろと言われている。苦痛だ。
私にはわからない。
世界は、私が認識するには複雑すぎる。
中東問題など少しも理解していない。中東なんて行ったこともないし、中東の友達もいない。テレビと地図の上でしか知らない場所だ。意見など言えるはずもない。国際問題なんて何ひとつわからない。
テロ事件以降、私は途方に暮れている。
わからないと言うこともためらわれる。でも、わからないものはしょうがない。
私にわかるのは自分のことだけだ。自分の心のことなら少しはわかる。
私のなかでアメリカへの憧《あこが》れは完全に死んだ。
私はアメリカという男に六年くらい前から、少しずつ幻滅していた。
きっかけは、ヴェトナムに長期で旅行したことだった。インドシナ半島の国々を回って、そこでアメリカがどれほどの人を殺したか知った。
アメリカはずっと戦争してる国だった。
平和とか自由という言葉は、その反対語の戦争とか侵略を成立させてしまう。平和の裏にはいつも戦争があるんだ。
だから私は平和という言葉が怖い。
ある知人がメールで「世界中の人が平和を祈るようになれば世界は変わる」と書いてきた。
そうなのか。でも私は怖いよ。もし世界中の人が平和を祈るようなときがきたら、それは世界中の人が戦争を意識しているときでもある。平和は必ず戦争と連れ添っている言葉だ。
だれもが平和についてすら考えなくなったとき、たぶん戦争という言葉も消えるだろう。
アメリカは自由の国だった。
そしてアメリカが自由であるために、束縛されるたくさんの国があった。
日本もその一つだ。
『ニューヨークパパ』も『奥様は魔女』も『大草原の小さな家』も、あれはみんなテレビのなかの物語だったんだ。
もうアメリカは私にとって過去の男になって、私はなぜか哀れみのような気持ちでアメリカを感じている。もちろん、私のなかの幻想のアメリカだけれど、幻想ほど変えることは難しいものなのに、はっきりと、私はアメリカに冷めている。
私は変わったんだなあ。
それが年のせいなのか、時代的なことなのか、よくわからない。ずっと「なんてかっこいいのかしら」と思っていた男が、実は「自分勝手で、マッチョで、見えっ張りの乱暴者」だった。
こんなの私だけなのかな。もしかしたら同じように感じている同世代が他にもいるのかな。それとも、こんな男に夢みていたのは私だけなんだろうか。
私はようやくシラフでアメリカをみている。
日本はアメリカに原爆を二つ落とされても、アメリカを受け入れてアメリカ幻想をアメリカと共有してきた。私はたぶんアメリカの最後の愛人だ。
その私が冷めているのだから、世界を巻き込んだアメリカの幻想は本当に終わったのかもしれない。
もう今やアメリカへの未練はない。
ようやく心情的な植民地支配から自分が抜けた。
だけど、だけど、だけど……。
悲しいかな私はまだ資本主義やアメリカンドリームに代わるような幻想を見いだしていない。
相変わらず電気を湯水のように使い、パソコンに依存し、宅配便を使いまくる生活のなかで、私は次にどんな男を愛したらいいのかわからない。
もし、次なる世界を望むなら、その望むべき世界に向かって、この瞬間から私が変わる決意が必要だ。
未来は、それに向かって行動したことの結果として来る。
精神的な世界と現実世界がどこかで繋がっているとしたら、私に圧倒的に欠けているのは現実世界で行動することだ。精神世界で祈ることはたやすいが、現実の生活を変えることは難しい。
この瞬間から来るべき未来に向かって自分の生き様を私が変えたとき、それが未来に繋がる。私が原因にならない限り、私の未来はない。
それはわかっている。わかっているが……。
では、私はどんな主義主張の男と生活を共にしたらいいんだろうか。
いない、代わりの男がいない。
まいった……。
私は、今日も昨日と同じ生活をしている。
残りあと四十年生きたとして、その間に私は自分に次の生活ヴィジョンを課せるのだろうか。
アメリカと私は、どこかで腐れ縁で繋がっていて、私はアメリカに対して無責任に「変われ!」と言えない。
アンタも私も同じ穴のムジナよね、ねんごろだったものね。と、思う。
変容のための混乱と過酷な通過儀礼を、これからいっしょに体験するのだと感じている。
私も自立しなければならない。西洋的価値観から逃れて。次なる道を選ばなければならない。戦争がイヤなら、武力闘争の絶えない地球で、丸腰で平和を唱えて愛を説くリスクを自分が負うのだ。
アメリカに冷めたなら、マッチョな男の懐に守られる安心から離れて、自らの身を守るのだ。その決意をしなくてはならない。
長年、愛人で生きてきた私に、そんな大それた決断ができるのだろうか。
私は男なしで生きていけるのだろうか。お金なしで幸せになれるだろうか。電気なしで暮らせるだろうか。
それを思うと、私は怖い。
恥ずかしながら、私はただ、|バダード・ウーマン(虐待された女)のごとく、この現状にぼう然と立ち止まっているだけだ。
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終わりなき本当の私探し
三十歳を過ぎたころから、左鼻の付け根のイボが目立ちだした。
最初のうちはいつか消えるだろうと思っていた。
ところが、どういうわけだか年をとるごとにデカくなっていく。気になってしょうがないものだから、インターネットの「美容整形外科」のホームページの「無料悩み相談」に匿名で相談メールを送ってみた。
すると「レーザー治療で簡単にとれます。一ミリ二万円だと思ってください」との返事。入院の必要はなく「一週間で傷は完治」とある。そして体験者の「こんなに簡単ならもっと早くとってしまえばよかったわ」というコメントまでついていた。
そうか、こっそりレーザーで焼き切ってしまおうか、と決心しかけた頃、台湾の道教の道士に忠告された。
「ランディ、君は絶対にそのイボをとってはダメだ」と、彼は断言するのである。
その道士、風水の達人で自分の廟《びよう》をもつ優れ者。彼の助言はいつも私を救う。
「な、なんでダメなの?」
「そのイボは必要なのだ。そのイボは運勢のバランスをとっている。それがなくなると君はきっと亭主と別れるよ」
「げっ? マジ?」
「そうさ。そこにイボがあるから君は適度に引いているんだ。そして、人生の波に乗っている人間ほど引きが大切なんだよ。もしそれをなくしてしまったら、君はイケイケになってどっかに飛んで行ってしまうだろう」
ううむ。そんなものだろうか。このイボはそれほどの役目を担っていたのか。憎々しく思いつつも、しょうがないのでいまだにほってある。
そういえば、今や、芸能界きっての借金王となった千昌夫さんの額から、去年、突然にもホクロが消えてしまった。「ホクロはどうなさったんですか?」という記者団の問いに、千昌夫さんはこう答えていた。
「初心に戻るつもりで取りました」
実は、デビュー当時の千昌夫さんの顔にはホクロがない。
いつのまにか千さんのトレードマークみたいに思われていたけど、最初からあったわけじゃないのだ。
千さんの額のホクロは、千さんが不動産投資でだんだんと財を築くようになってから額に現れる。最初はポチッ……という小さなホクロだった。それが、千さんのお金が貯まっていくのといっしょに、どんどん大きくなっていったのだ。バブル当時の千さんの額は、ホクロがかなり目立つまでに大きくなって、顔のなかでの存在感が強すぎて、バランスが悪い印象を受けた。
バブルの崩壊後、なんとか事業を建て直そうとがんばって来た千さんだったが、ついに破産した。千さんのホクロはいったい何のバランスをとろうとして巨大化したのだろう。当人もさぞかしホクロが気がかりだったろうな。だから破産したのと同時にホクロを取ってしまったのかもしれない。もうバランスをとる必要がなくなったから。
私のイボも、私の自意識と比例しているのかもしれない。だとすれば大きくなっているのは由々しき問題だ。
しかし、やっぱりねえ。取材などで撮影がある度に、なんだかイボが気になる。
やだなあ、これ、と思う。
イボがない美しい自分のことを、つい空想してしまうのだ。
別にイボがあろうとなかろうと、客観的に見て私の美貌《びぼう》が左右されるとは思えないのだが。それでも、やはり「ないほうがキレイかしら」と思ってしまう自分がアホらしくもいとおしい。
二十代のころ、私は自分というものがまったくわかっていなかった。
自分とは何なのか、と必死になって考え、哲学やら心理学やら勉強してはいたけれど、今にして思えば「問いのたて方」そのものが間違っていたのだと思う。「本当の自分とは何なのか」と自らに問いながら、私が知りたかったのは「今はまだ発見されていないけれど実は他人からすばらしい評価を受けるに値する自分」の存在であった。
つまり、「こんな評価の低いダメな自分は本当の自分ではない」と思い、そして「本当の自分=評価される自分」を見つけるために当時流行し始めた精神世界をさまよっていたのだ。
だから、私が探している「本当の自分」は、断じて今の自分より劣ってはいないのだった。今の自分よりさらにグレードアップした自分こそ、本当の自分であると盲目的に確信していた。
私は自分がとりわけ美人でないことは知っていた。
それは自分の顔を鏡で見たからではない。正直なところ私は鏡で自分の顔を見ても、この顔が世の中の基準のどのあたりに位置する美しさであるのか、さっぱりわかっていなかった。
しかし、中学、高校を通して、人から「美人」と言われることはなかったので、自分は「たぶん社会的に見て美人ではない」と思っていた。かといって、自分が醜い顔だとも思っていなかった。「美人とまではいかないがまんざらでもないだろう」というあたりで自分の顔を認識していた。
毎朝、学校に行く前に鏡を見て髪をとかす。
そのときに、「髪を真ん中分けにしたら、もっとかわいくなるかな」とか「パーマをかけたら見違えるくらい大人っぽくなるのではないか」などと妄想にふけりながら鏡を見た。鏡とは「今の自分の顔を見る道具」ではなく、「この顔にさらにどんな手を加えたらより本当の自分らしくなるかを研究するための道具」であった。そして、その愚かな行為は現在に至っても朝の習慣として受け継がれている。
私は朝、化粧するために鏡を見る。
そして今の自分の顔に着目するのではなくて、化粧をすることによって「きれいになった本当の自分の顔」というのをイメージする。
だから私が自分の顔としてイメージするのは「一番きれいに見える私」であって、それは寝起きでまぶたの腫《は》れたすっぴんの自分の顔とは違う誰かなのだった。つまり、私は自分の顔についていまだ認識が薄いのである。まったくアンビリーバボー! だ。
『顔を失くして「私」を見つけた』(著ルーシー・グレアリー/翻訳実川元子 徳間書店)という本を読んだことがある。
この本の著者のルーシーさんは、九歳のときに「ユーイング肉腫《にくしゆ》」という病気で顔の右|下顎《したあご》をほとんど切除する、という大手術を受けた。
その後の化学療法によって髪は抜け落ち、もちろん容貌は大打撃を受ける。そして彼女は三十歳までの間に三十回以上の顔の再建手術を受ける。
顎の移植手術が、こんなに大変なものだとは想像だにしなかった。彼女は太股《ふともも》から顔に筋肉を移植するのだが、成長期の彼女の顎は、移植した組織をどんどん吸収してしまうのだ。そしてせっかくできた顎は、時間の経過とともに消えていく。それでも移植を繰り返し「土台」を作って顎を定着させていかなければならない。十代の少女が醜い顔をもつことの苦痛を女である私はある程度まで想像できる。期待、挫折《ざせつ》、絶望、あきらめ、悟り……延々と続く希望と絶望のロンド。三十歳まで彼女はこれを繰り返し続ける。壮絶な顔との闘いだ。「顔を治して、新しく生き直すのだ」それが彼女の執念だった。「この顔が醜くなくなれば、愛される自分になれる。自分の人生をやり直すことができる」
そのためにヨーロッパにまで移住し、手術生活を続ける。
そして、ついには医者から「現代の科学をもってしても、これ以上の再建は無理だ」と言い渡されるのだ。長年の手術の繰り返しで、ルーシーは本当の自分の顔を失った。やっと自分の顔になじんだころには顔が変化しはじめ、そして次の手術が行われる。同じ顔にとどまることのなかった彼女は「いつか本当の自分の顔に戻る」と思ってきたが、実はその「本当の自分の顔」というのがどういうものだったかもイメージできなくなっていたのだ。だが、手術の終結は、一つの顔を彼女に提示した。今、この瞬間から、これが自分の顔であることを。
そのとき、彼女は、いったい自分が求めていた「顔」って何だったのだろう、と思うのだ。
本当の自分の「顔」って何だったのか? と。
顔というものは、考えてみたら不思議なものだ。
私の象徴でありながら、私が直接見ることができない。私は鏡か、もしくは写真か、映像でしか自分を見ることができない。そして日常、多くの場合、私は他者によって見られている。相手が私をどう見ているのか、それは私には永遠に知ることのできない謎だ。
きれいだよ、と言われればほっとする。うれしい。そして、きれいだと思われたいと願う。きれいであることはなによりもはっきりとした自分の存在理由になると思っていた。みんなきれいなものが好きなのだ。きれいでさえあれば愛される。ここに存在していいよ、きれいなあなた。いてくださいねとみんなが言ってくれる。そう思い込んできた。
逆に醜い子はみんなが嫌うと思っていた。
醜いというだけで場所からはじき出されると。もちろんそんなことはない、人間の心はそんな下世話ではない、と頭では思いたい。でもダメ。私の心には理屈ではなく体験として「美しいものの存在価値は高く、得をする」と刷り込まれている。
人から美しいと言われる。人から評価される自分になる。そんなふうに他者に自分の存在理由をゆだねてしまうと、自分の心はいつも揺れている。調子のよいときはうぬぼれ鏡を見ている。調子の悪いときはいじわるな鏡を見て落ち込む。なんにせよ、鏡を見るときに思うのは「本当の私はもっといい」ってことだ。私だけかもしれないが、私はそう思う。
そして「ああ、もっと高級な石鹸《せつけん》を使ってみようか」とか「泥パックをやってみようか」とか「エステって本当に効くのかしら」などと「本当の自分獲得のための投資策」を考える。まさに未来への自己投資。
外面だけに言えることじゃない。内面も同じだ。「本当の自分探し」これは、今の自分じゃないもっと愛される自分探しだった。私は長い間、本当の自分を探してさまよったけど、本当の自分なんてどこにもなかった。
私のごとき平凡な女の半生ですら、他人の目を気にするあまり内的には波乱万丈だ。ルーシーのように顎のない顔ではないけれど、私もやはりコンプレックスに悩み悶《もだ》え、時には舞い上がり、世間的な評価を求め続けた。美しいイイ女になって、男から、そして社会から愛されたい。この熱烈な欲求はいかんともしがたいものがある。
ルーシーの言葉を思い出す。
「私たちはもっとも基本的なその事実を生涯忘れてはならない。社会はなんの助けにもならない。社会は繰り返し私たちに、ほかの人たちと同じように行動し、同じような外見でいろと主張しつづける。本来の顔を捨てて、自分を幽霊に変えてしまえと言う」
これ以上、手術ができないと知ったとき、ルーシーは自分のなかのなにかが欠けてしまったと感じる。悲しくてしょうがない。そして、ルーシーは鏡を見るのをやめてしまう。鏡を見ればかつての自分が絶望の呟《つぶや》きを繰り返す。その声が聞こえなくなるまで静かに待つしかないことを彼女は直感的に悟ったのだ。
あるとき、彼女はカフェテラスで一人の男性と会話をしていた。そして、ふと「今、自分はこの人にとってどんなふうに見えているんだろう」と考える。心は静かだった。驚いたことに、ルーシーはあまりにも長く鏡を見なかったので、自分が客観的にどう見えるのか思い浮かばなくなっていたのだ。同時に、彼女は悟った。相手が自分を受け入れている、この現実がすべてだ……と。
このときのことを彼女はこう書いている。
「何年にもわたって私は自分の醜さを他の人の手にゆだね、他の人の目に映った姿でだけ自分を見ていた。今その事実をいやいやながら認めながら、男性の態度が唯一示しているのは、私を積極的に受け入れていることだということもしぶしぶながら認めた」
いやいやながら認め、しぶしぶながら認めた。
ルーシーはそう言っている。なぜだろう。なぜ、いやいやでしぶしぶなのか。だって、ルーシーはやっと≪心の鏡=他者の目≫から解放されて「自分は自分なのだ」という新しい価値観を手に入れた、まさにその瞬間のはずだ。もっと歓喜し、感動してもいいではないかと思う。でも彼女の語り口は決して軽くはない。いやいや、しぶしぶなのだ。
たぶん、彼女はとてもさびしかったのだと思う。
「美しい顔を手に入れて、新しい自分になる」という物語を捨てるのが悲しかったのだと思う。
それは彼女の人生の大半を占めてきた壮大なロマンであり物語だった。そして多くの人もまたこの物語を生きている。「本当の自分探し」の物語のなかには幸せがあり、冒険があり、挫折と成功があり、人生を彩るには十分に楽しいドラマなのだ。
でも、彼女はその物語から降りた。
そして、自分を生きるという新しい物語を手に入れた。それは、有意義なことかもしれないが、でも価値観の転換は大きな喪失感とさびしさをともなうことであることを彼女は語っているのだと思う。
他者の手にゆだねた自分を取り戻し、本来の自分を生き抜くこと。
この決断は、きっとそれほど楽しいものでも、かっこいいものでもないんだ。
さびしく悲しい選択のように思う。特に女性にとっては……。毎日鏡を見て、美しくなるための努力をし、ダイエットし、若さを維持し、そして周囲から愛される自分を夢見ながら積極的に生きていく方が、生き方としては華々しくて楽しい。様々な女性向けエッセイにもそう書いてある。その方が充実感だってあるだろう。だから多くの人が「本当の自分探し」を自分の物語として選択している。この物語を捨てることは、世の中の一般的な価値からはずれることで、ちょっと孤独で、なんていうかこう「異人」になることだ。ありのままの自分を生きるということはそれほどハッピーなことでもない地味なことだ。第一、現在の主流ではない。
できれば美の追求者でいたいと思う。
社会の価値観に自分を合わせて、そのなかで価値ある自分になれたらものすごく幸せだなあと思う。努力によって勝者になり、他者から評価され称賛を浴びたいと思う。整形手術がもてはやされるのは、美人は勝者だからだ。美しくなることの放棄は、社会評価の放棄である。それは単なる怠慢であり、未来のより良き自分を諦《あきら》めるのは人生の敗北のように感じられる。
だけどね、四十歳を過ぎた私のなかで、今、大きな変化が起こっているんだ。
私はいったいこの先いつまで「本当の自分」を探し続けるんだろうか……と。
「自分探しの物語」から降板しようと思うときのどうしようもない喪失感。まるで未来を奪われるような気分になる。だけど、それは一時の錯覚に過ぎないことに私はなんとなく気がつき始めた。
「自分探し」をやめるのは失恋するのとよく似た痛みだなあと思った。
理想の自分への失恋だ。もっと優れた自分、もっと美しい自分。そういう自分になって、もっと評価されたい。いや、評価される自分こそ本当の自分だという幻想。
だけど、評価されて、それでどうなる?
称賛されて、それでどうなる? いい男とつきあってセックスでもして、それでどうなる? その先は?
年をとるというのは、どんどん若さに負けていくことだ。年輪を重ねなお光り輝く……なんていう、そんな他人様の言葉は信じない。どう考えたって、皺《しわ》よりもぴちぴちの肌の方がいいに決まっている。そうじゃないよ、と誰に言われようと、私の心は叫ぶのだ。
やっぱり、若くてきれいがいいもーん。
ギャー、ちくしょー。なぜ悟りきれない! 私はアホだ。愚か者!
やっぱり、バカは死ななきゃなおらないらしい。
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祝祭的な力技
2001年の大晦日《おおみそか》に某心霊番組を観ていたら、山形県のあるお寺の不思議な儀式について解説していた。
「死後結婚」
字面だけ見るとちょっと怖いのだけれど、若くして亡くなった方のために死後の世界で結婚式を執り行うお寺があるのだという。
「え〜? じゃあ、相手はどうするの?」と、もちろん私は思った。
結婚には絶対に相手が必要だ。
番組によると、「死後結婚」のためには、特別な「絵馬」が必要なのだそうだ。その「絵馬」には、婚礼姿で死者と共に架空の新郎あるいは新婦が描かれる。
その「絵に描かれた相手」こそが、死後結婚の結婚相手となる。だから、絵馬を描く絵師は、「死後結婚」の仲人とも言える。
番組にはこの「死後結婚」のための「絵馬」を描き続けている絵師の女性が「伝説の絵師」という少しばかり大げさな飾り言葉で紹介されていたけれど、確かに、彼女の描く「絵馬」には、不思議な魅力があった。
これまでにも「死後結婚」のためにたくさんの「絵馬」を描き続けてきたのだという。どの「絵馬」も、若い新郎新婦が華やかな婚礼衣装を着て嬉《うれ》しそうに微笑んでいる。
どちらかと言えばマンガチック、昔のぬり絵の見本絵のようなのだけれど、ぞくぞくするような祝祭的な雰囲気が漂っている。
この絵の裏に、絵師が自ら写経した般若心経《はんにやしんぎよう》を貼って、絵馬として奉納した後、お寺で結婚式を執り行う。いまでも、若くして亡くなった我が子のために、「絵馬」を頼んでくる親御さんがたくさんいらっしゃるのだそうだ。
本の情報誌「ダ・ヴィンチ」に、漫画家のしりあがり寿さんが「オーイ※[#ハート黒、unicode2665]メメントモリ」という漫画を連載している。毎回「死について思う」不思議でナンセンスな漫画である。
たとえば、ある男が「日本科学未来館」にやって来て「あのー現代の科学であの世は発見されてませんか!!」と質問するのだ。
もちろん、あの世なんて科学の射程外である。
「あの世は見つかっていませんが……」と受付の女性が答える。すると男は「あの世がないんじゃ怖くて死ねません」と絶叫する。
「いまさら宗教なんて信じられないし、そこんとこ科学に期待してたのにー」
この、「いまさら宗教なんて信じられないし」というセリフが、妙に切実に響いてしまう。
そうだよなあ……と思うのだ。正直なところ、私も「いまさら宗教なんて信じられないし」という気分なのである。
宗教を信じない私が、「死後結婚」に魅《ひ》かれるのはなぜだろう。
たぶんあの「絵馬」のせいだ。
描かれている花嫁と花婿の姿。あれだ。婚礼衣装というのは、なにかこう私に特別な訴えかけをしてくるのだ。
婚礼衣装に「死」を感じるのは私だけだろうか。
少なくとも、私は婚礼衣装に「生」のイメージよりも強く「死」のイメージをもっていることに、「死後結婚」の「絵馬」を見て初めて気がついた。
私が女だからだろうか。嫁ぐ……という行為は、他界へ行くことと近いような気がする。現代は違うかもしれないけれど、昔はそうであったような気がする。女は、娘から女になると、白装束を着せられて「他界」へと嫁ぐのだ。
雅子様を見ていると、ああ、かつては日本の女はみんなああいう感じだったんだろうなあ……と思う。彼女なんか、まさに「あっちの世界」へ嫁いでしまった人だ。
かつて女は、一度、娘としての「死」を経験したんじゃないだろうか。だから、婚礼衣装は私に「死」と親和性のあるイメージとして思い起こされるんじゃないだろうか。
「死後結婚」の儀式は、若くして亡くなった男の子のために、あの世で嫁をとらせて、一人前の男として幸せになってほしい……という親の思いから始まったようだ。主体は男であり、あの世へ嫁いでいくのは女の方だ。
女の場合、あの世でもこの世でも、他界に嫁ぐという点においてはあまり大差がないのかもしれない。それくらいハイブリッドな「性《セクシャリティ》」とも言えるかもしれない。
架空の絵に描いたお嫁さんと、あの世で結婚をする。
常識的に考えてみたら、こんなナンセンスなことはないし、それは「親の自己満足」と言ってしまえばそれまでかもしれない。
でも、近代教育を受けた、宗教なんて信じられない私が、この番組を観ていてふと思ったことは「死んだ兄にもこれをしてあげたいな」ということだったのだ。
これには自分でもびっくりした。
まさか自分がそんなことを考える、そこまでオカルトかぶれの女だとはさすがに思っていなかったのだが、正直なところ、この思いがふと、頭をよぎってしまったのだ。
どういうわけか私は、この「伝説の絵師」なる女性が描いた「絵馬」の中で、婿になっている婚礼姿の兄を見てみたいと思ったのである。
彼が結婚を望んでいたかどうかはともかくとして……だ。
兄は若くして独身のままこの世を去った。
兄が生前にさんざん親に責められたのは「一人前の男になれ」ということだった。
家にひきこもっていた兄は「いい年をして家でぶらぶらしているから結婚もできないんだ、もっとちゃんとして一人前の男になれ」と、いったい何百回、言われ続けたことだろうか。
その兄に、たとえば親が「せめてあの世で嫁をとらせたい」と言って、死後結婚させることは果たして兄の供養になるのか?
強引にそんなことをされたら、兄はあの世でもひきこもってしまいそうだ。親はたぶん、自分のエゴの強要には気がつけない。それはしょうがないことだろう。親だから気がつけないこともたくさんある。親心はしょせん親の心、子供を思っていても、それは親なりの思い方だ。
だけど、この絵師の人は違う。
何が違うのかわからないが、何かが違うと感じた。
もちろん、ここからは私の憶測、まったくの主観に過ぎないのだけれど、この人の絵、この人の絵を描くときの心の在りようは、常人とは何かが違うように感じた。
彼女の一筆一筆に込められた思いのようなものは、日常的な意識の延長ではない。うざったい言い方をしてしまえば、絵馬を描く彼女に「霊性」のようなものを感じたのだ。絵というものを通して、力技で何かの呪縛《じゆばく》を解き放っているような、そんな雰囲気があった。
現世の混濁を一気に飲み込んで、違う次元に持ち上げてしまうような力だ。
だから私は、あの「絵馬」を描いてもらうことによって、死んだ兄も生きている親も、次元を越えて「今生」という呪縛から解放されるのではないかと思ったのだ。
そのような「業」を葬る力を、絵から感じてしまった。
「死後結婚」の「絵馬」は、華やかな色彩で祝祭的だった。
けして陰うつなものではなく、まばゆいばかりの原色を使った美しい絵だった。
表向きは「死者に死後の世界で幸せな結婚をさせる」という儀式であるけれど、裏面で行われていることは、そんなナンセンスなことではなく、もっと人間の生きる力に強く関わる何かだと、私には思えた。
そしてそこには、とてつもない力技によって、ポンッ! と、「死」を「生」へと転化させてしまう絵師の方の霊性が働いているように見えた。
たとえば、祭りのときに村全体に働く力のようなもの、それを、一人の人間が凝縮してもっているような感じだ。
昨年、神戸の精神科医の加藤清先生と「霊性の時代」というテーマで対談させていただいた。
加藤先生はとても興味深いお話をたくさんしてくれた。
先生の娘さんが、お子さんを死産なさったとき、とっさに先生が亡くなったお孫さんに洗礼を授けたお話は特に印象的だった。
「死んだ子供は小さな箱に入れてあって、看護婦さんがもっていこうとするわけ。娘は自分の産んだ子が箱に入れられて運ばれたらそれでお別れでしょう。僕も納得いかへんやん、そんなもん。孫がどっかに消えてしまうような真似されたら、僕も無念や。念が残る。ハッと思ってな。死んだ子に洗礼を授けてやろうと思った。孫も、僕に洗礼を授けられたら天国に行くでしょ。それが一番ええと思って。看護婦さんに水をもってきてもらって、水を注いで、額に十字を切って、で、もしかこの水によって、汝《なんじ》、あなたが洗礼の成就できるなら、どうか成就してください、ってお祈りした。しばらくお祈りして、娘のそばにじっとおってん。そしたら看護婦さん、じっと見とったわ。で、そしたらやな、はっと気がついてん。僕はな、これはもう天国へ行ってんやから、もう運んでくださいって。娘にも、洗礼を授けたから、子供は天国へ行ったんだと。これはもうあれやん、一種の儀式やん。そうしなかったら空虚でしょ。洗礼によって、なにか祭りをやったわけ。なんかね、自分のもってる父性とか、アニマ性とか、そういうのの複合体がとっさに僕の行動に現れたんだと思う。なんかそういうようなね、人間の生きている瞬間瞬間にきちっとやるってことはね、非常に大切やんと思うんね」(加藤先生談)
人間の生きている瞬間瞬間に、きちっと祭りをやる。そのことの意味を私はその後も何度も考えた。考えてわかることではないけど、考えてしまう。
対談の最後に加藤先生が、
「日常性の中に埋没しがちな意識を、その瞬間、一段高めるようなものであれば、それは霊性《オカルト》なんですよ」
と、霊性について締めくくっていた。
絵というものを通して、「祭り」をしてしまう人がいるのだ。
おむすびを握って「死」を「生」に転化させてしまう佐藤初女さんのような方もいらっしゃれば、絵馬を描くことでそれを成し遂げる方もいる。まだまだ日本中にたくさん、そういう人たちがいるに違いない。
それにしても、一体全体、この「霊性」という力技を、人はどのようにして獲得しうるものなのだろうか……。
できるなら、私も「霊性」を得たい。そんなことを思っている人間はたぶん一生得られないような気もするが。
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森のカケラから神様を見つける
神社巡りを始めたのは、屋久島を旅行してからだ。
神社と屋久島って、一見、何の関係もないみたいだけど、私にとっては繋《つな》がっている。どう言えばいいかな。屋久島は島そのものが巨大な神社みたいだなって、思う。
私の書くことの原点は屋久島の森にある。
屋久島に毎年のように通い、親しくなった島の人たちといっしょに遊び歩くうちに、だんだんと皮膚の外側にあったはずの外界が、自分のなかにじんわりとしみ込んできた。そして、自然を通して世界と向かい合うようになった。
それまでの私は、人間を通してしか世界を見られなかった。
だから私の見ていた世界はとても感情的だった。人間の感情の振幅が世界の振幅だったので、世界そのものがヒステリックだった。
世界はイコール人間社会で、人間社会のなかで他人の目ばかり気にしていた。絶えず他人とせめぎあっているのが私の世界で、楽しいけれど、時としてとても窮屈だった。
自分と等身大の視点だけで世界を見ているうちは、何も書けなかった。
屋久島に行って私は変わったんだと思う。
なにが変わったのかな、たぶん視点だ。木を見上げ、山の上から森を見下ろし、海に潜って海面に透ける空を見た。カヌーを漕《こ》いで岸を眺め、苔《こけ》むした沢にうずくまって水を飲んだ。
屋久島で、私は鳥の目になったり、虫の目になったり、獣の目になったりした。もちろん、私は人間だからそう簡単に人間であることから逃れられない。でも、ほんのちょっとだけ自分の場所を移動したのだ。
そうしたら、あらゆることがとてつもなく新鮮に思えた。
世界はめまいがするほど大きくて、自然と対峙《たいじ》すると情け無いほど小さな自分がいた。けれど、それはけっして屈辱じゃなかった。
ささやかに存在することは優しいね。自分に優しい。尊大な自分こそが私を傷つけるのだ。
ちっぽけで無力な自分として、ぽつんと存在することに、なぜか安心しちゃった。
そんな自分じゃ駄目だと思ってたんだ。もっと目立って、もっと自己主張して、もっと強くなくちゃいけない。もっとはっきりモノを言って、もっと堂々として、もっと明るく元気でなくちゃいけない。そう思ってた。
でもね、人間が誰もいない森のなかに放り出されたら、そんな意気込みはむなしいのだ。たった一人で森のなかで目立っても、自己主張しても、強くなっても、堂々としても、明るくても、元気でも、そんなこと他人《ひと》が誰もいなかったら、どうでもいいことだったんだ。
誰もいなくて、自分の周りが植物と、せいぜいサルとシカだったら、私は目立つ必要も、明るくある必要もないんだよね。そんなことは、たくさんの人間に囲まれているときに強いられることであって、誰もいない森では、ただ、ぽつんと存在しているだけで十分だったんだ。
森は植物が作っている。
森を歩くうちに、しだいに植物に目がいくようになる。
特に木。木って変だと思わない?
私の思い込みかもしれないけれど木は確かに何かを感じ、思考して生きてるように見える。ただ、感じていることがとてつもなく人間とは違う。不思議な存在だ。
屋久島には樹齢三千年クラスのヤクスギがたくさん存在する。三千年ですよ。それほど存在したら、絶対に何ものかになっているはずだと私は確信する。
しかし、それがいったい「ナニモノ」なのかは、私にはよくわからない。
屋久島から東京に戻ってからも、私の視界は広くなった。地面から木の梢《こずえ》、そして空まで。
それまではあまり首を動かさずに生きていたような気がする。
狭い範囲にしか視線が行かなかった。首が痛くなるほど空を見上げるなんてこと、そんなになかった。
大きな木の梢を仰ぎ見ると、さわさわと葉は風で揺れていた。
その向こうの世界を抱くような空が、いやでも私の心のなかに入り込んでくる。
葉と葉がすれあう乾いた響き。
木って静かだなあって、思った。
私の何倍も生き続ける木という存在について、私は哲学したことが一度もなかった。でも、今はいつも考えている。木って何だろうって。
木には何か謎がある。人間の知らないこの世界の秘密を木は知っている。
そんな気がしてならない。
私は時々木に話しかけてみる。
「ねえ、あんたって、いったい誰?」
もちろん、木は返事なんかしない。そもそも問いのたて方が間違っているんだ。それはわかる。木は、私とは違う周波数の世界の存在なんだ。たぶんね。そんなこと、いろいろ想像して楽しんでいる。きっと、私は執念深いから死ぬまで考え続けると思うな。
木って何だろう……って。
いつしか私は、首が痛くなるような巨木を、探し始めた。自分の身近な世界に。
そして、あたりまえのように神社に行き着いてしまった。
大きな木を探し歩いているうちに、巨木は、神社の境内にあることに気がついたのだ。
つまり、巨木を探そうと思ったら神社に行ってみるのがてっとり早いのである。
それにしても、考えてみたら神社って何なんだろう?
恥ずかしながら、私は神社とお寺の区別もつかなかった。違うものだってことはわかる。でも、どう違うのか説明できなかった。
最初に神道について教えてくださったのは、音楽家の宮下|富実夫《ふみお》さんだ。
仕事でスタジオに訪れたときに、宮下さんは神道を通して自分の音楽と出会ったことや、戸隠《とがくし》に住んでいるいきさつなどを話してくれたのだ。
宮下さんに影響されて、私は生まれて初めて「神社参り」をした。それが戸隠神社だった。
そして、戸隠神社のその幽玄な美しさに圧倒されてしまった。
「神社って、すごい!」
って、心底思った。なんだか心がすうっとする。身体のなかを清らかな風が吹き抜けて行ったようだった。気持ちがいい。理屈抜きで、神社って気持ちいい。
そしてやっと思い出した。子供のころから神社は私の暮らしのなかにあったのだ。
小さな里山の森に鳥居があり、境内があり、水場があり、社があり、神木がある。神社の境内は木陰になっていて、真夏でもひんやりとして涼しかった。
しかし、じゃあ、この神社って何だろう。
そこから、私の聖地巡礼の旅も始まるのだった。
神社を巡りながら、出会った方たちから神社のお話を伺った。
むかしむかし神社というのは神様の降り立つ場所であった。
神話に出てくる「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」などの神様たちより、もっと昔。この日本の地に人間が現れてからずっといっしょにいる、精霊のようなもののけたち。
その神様方が、着地するエアポートのような場所があり、そこは人々の祈りと祭事の聖地だった。
その後、『古事記』に登場する神様方が現れ、聖地は彼らとアクセスする中継点となる。
なにしろ神様が降り立つ場所であるから、そこは清らかな場所でなければならない。
水が湧き、植物が繁茂する豊かな生命の営みの聖地、そこが神様と人間の出会いの場所とされた。きっと、大昔の人たちは土地の気に敏感だったんだろう。自然の力、生命の力を喚起させるような場所を直感的に察知し、そこで、さまざまな儀式を行ったんだろう。
今の神社のように、鳥居が建てられ常設の社が作られるようになったのは仏教伝来以降だそうだ。その起源は「聖なる食べ物である稲」を貯蔵する倉だったらしい。
日本の神様たちは、縄文時代、弥生《やよい》時代、そして仏教伝来と、その時代に合わせて姿を変えてきた。神道は宗教というよりもアニミズムに近いもので、実におおらか。でも、深く深く日本人の本性に根ざしていた。だから、さまざまな器に盛られても、その思想性が損なわれることなく現在まで受け継がれてきたんだと思う。
神道の神様たちは決して神社から出て来ることはない。
アクセスするためには、私がその場所に行かなければならない。そのかわり、私の生活に侵入してくることもない。アマテラスが「私を信仰しなさい」と強要することは絶対にない。そこにただ存在している。こちからアクセスすることだけが可能な神様たち。
神社とは一種のスターゲートだ。
神話世界という別の次元へのアクセスポイントなんだと思う。
話はいきなり飛ぶのだが、うちの二歳の娘は、アニメ映画『となりのトトロ』の大ファンである。
彼女は一歳の頃から一日三回くらい繰り返し『トトロ』を観て、すべての場面のセリフも把握している。そして時々自分が主人公の「メイちゃん」になって遊んでいる。
この『となりのトトロ』こそ神社の物語だ。
主人公の家族は巨木のある神社の近所に引っ越してくる。
そして、そこで森の神(子供にはトトロに見える)と出会い、その力を借りてお母さんのいない寂しさを乗り越えていく。生命力を分けてもらう。
娘は、近所の神社に行くと、巨木の前で必ず「トトロ〜! トトロ〜!」と大声で叫ぶ。
彼女にとってトトロは隣のミホちゃんと同じようにリアルな存在なのだ。そして「トトロいないね」と言う。時々、風が吹いて枯れ葉が落ちたりすると「あ、トトロだ」と喜ぶ。もしかしたら本当に彼女にはトトロが見えているのかもしれない。
神道の世界は『となりのトトロ』に通じる自然と人間が交感するような世界だと私は理解している。そして「トトロ」が大好きな娘も、「トトロ」を通して日本の古代の信仰とつながっている。この1997年生まれの娘が……だ。
もちろん、トトロは子供の幻想世界だ、という意見のほうが多いだろう。
私もずっとずっとそう思ってきた。自分が信じてきた科学的な認識の世界が正しくて、それ以外はすべて幻想なんだと。非現実的なことは幻想だと。ネコはバスにはならないし、トトロなんか存在しないと。
でも、長く森を歩き回っているうちに妙なことが起こってしまった。
私は変わっていない。私は現実的な人間だし、幽霊も超常現象も経験したことがない。UFOもお化けもトトロも見たことがない。一度もない。
それでも、なんだか、そういうこともアリかな、と確信するようになってしまった。
私の右の脳と左の脳は、お互いを否定することをやめてしまったのだ。この現実世界にはトトロは出て来ない。だけど現実の世界だけが世界ではない。そんなことを感じる右の脳に、左の脳が「あんたがそう思うんなら、ま、いいか」とOKを出すようになってしまった。
かつては「バカ言ってんじゃねえ」と左の脳が怒って否定していたのだけど、今はお互いが平和路線を取るようになった。
たとえば、音楽は芸術として体験することも可能だし、数学的に体験することも可能だ。同じようにすべてのものはどのように体験することも自由なのだと思えた。そしてたくさんの方法で体験するほうが、世界の陰影はより濃くなる。何かを選択したら何かを否定するなんてつまらない。いろいろであることに可能性を見いだすほうがずっと楽しい。
ある有名な学者の方が、対談のなかで「アニミズムって大嫌いです」とおっしゃっていたのを読んだことがある。そうか、大嫌いなのか、と妙な感慨をもった。
大嫌いとまでおっしゃるのは、やっぱり気になるってことなんだろうなあ。その人は「アニミズムは素晴らしい」と言う人々の、考えることを放棄したオカルト主義が嫌いだったのかもしれない。
でも、一つの事象をどのように認識することも自分に許していいと思うんだ。そんなことしてはいけない、って私はずいぶんと学校で教えられて、それでとても歪《ゆが》んでしまった。だから次の世代には、どんな見方をしてもありだし、いろんな見方をしていいんだよと、伝えたいと思う。認識の数だけ世界はある。つまり世界は無数にあって、それを自分で選択して生きているのだと知らせてあげたい。それが自由ってことなんだよ、と。
いまはそのことを、まず自分に言い聞かせている。
何度も繰り返し言い聞かせている。
そうしないとすぐに、合理主義や二元論へと傾いてしまうんだ。「そんな考えはムダなこと」とか「なにかを選択したら、なにかを捨てなければならない」とか、そういう考えが私をすぐに支配する。一番自分にとって有害なのは「自分の思いついたことはとるに足らないことだ」「そんなことはすでに誰かが発見している」「誰かが支持してくれないことは大切なことではない」という考え。この考え方はずいぶんと薄れたものの、まだ私のなかに生きている。
この考えにのっとられたら、その瞬間から私はこの原稿すら書けなくなる。
他者の目が怖くて、自分を表現することができなくなる。
長いこと、そうだった。今だって、時々、怖い。
自然のなかには、あらゆる認識の方法論が同時に存在していて、すごく面白い。一つの森を歩くときに生命の進化について考えることもできるし、精霊を見つけることもできる。
それらの知識は、独立しているものではなくて、実はそれぞれに微妙に関連しあっていて、その不思議な重なり合いの向こうに、なにかぞくぞくするような世界の秘密の扉が立ち現れて来るんだ。まるで、蜃気楼《しんきろう》みたいに。
私の神様は、その扉の向こうにいる。
神道の神様は、みんな変わってる。
むちゃくちゃで自分勝手で、二元論が通用しない。自由で、なんでもありで、渾沌《こんとん》としている。
キリスト教の神様みたいに説教くさくないし、ああせいこうせいとは言わない。人間を救おうという意欲はあまり感じられない。ようするに自然そのものって感じだ。
自然の力は豊潤な恵みをもたらすけれど、その反面、とてつもない破壊力で人間をたたきつぶす。火山と地震と台風の島である日本で、自然は人知を越えた理不尽な存在だ。その自然がたぶん神様たちのモデルになっている。だけど、理不尽であるからこそ、理屈を越えた宇宙の法則性を予感させる。
私はその予感に対する謙虚さを失って育った。
だけど、屋久島と、そして神社と巡り合ってからもう一度、理解できないもの、わからないものへ自分が立ち向かう力を得たような気がする。生命の謎はきっと、人間の意識の及ぶところにはない、ってそう思えるようになった。生命の倫理について語ることはできても、生命とは何かを、善と悪の二元論しかもたないような自分が突き詰められるわけがない。
神道の気前よさを理解しつつ、仏教と神道のいいとこどりをして日本に定着させ、日本人の心を安定させるために尽力したのは、実は聖徳太子だった。
この人は本当に頭の良い人だったのだなあとつくづく思う。今の日本に転生してくれればいいのに。彼は見事に二つの認識を結婚させた。右脳と左脳を繋《つな》いでしまった。
私は聖徳太子のおかげで、今、現世において大陸からやって来た体系的宗教である仏教と、自然のなかに八百万《やおよろず》の神を見て、木の一本一本に魂を感じるような神道を心のなかに合わせもつ存在としてここに在る。そう思うと、歴史ってすごいなあと、改めて感じ入ってしまう。自分と聖徳太子を繋げて考えることなんて、かつては絶対になかったことだ。
明治元年(1868年)に「神仏判然令」なるものが出されるまでは、仏教も神社の神様といっしょに住んでいた。なんで、分離せねばいけなかったかというと、明治の初期の指導者の方々の「王政復古」方針によるらしい。
早いとこ西洋近代文明を取り入れて近代国家になりたかった明治の指導者のみなさんが、その土台として選択したのが天皇を中心にした古代律令体制だったのだ。
このとき「国家神道」というものが誕生した。でもいきなり神道に特別な権威を与えてもうまくいかず、結果として神道は「日本の伝統文化」的な場所に位置づけられてしまった。古代から伝えられてきた自然と生命の思想という土着のエネルギーを奪われていってしまった。
神道が生命と自然のアニミズム思想から「国家の祭儀道徳」にされたことで、私のような一般民衆の神社への理解は薄くなっていった。神社は「怖い」ような存在になった。ナショナリズムと結びついてしまったのだから当然かもしれない。
靖国神社や明治神宮は国家神道の神社として誕生した新しい神社だ。靖国神社は英霊の鎮魂の神社である。明治神宮は明治天皇を祀《まつ》った神社。どちらも有名な神社でたくさんの参拝者が集う。人が集まるところには人の思いが蓄積するだろう。だから、二つの神社は今はきっと場の力のようなものができ上がっているかもしれない。でも、それはむかしむかし大昔の人たちが「聖なる場所」として選んだ神社とは、かなり違うと思う。
神社は場所と結びついているものだ。人間の思いとは違う、別の力が働いている場所だ。
スターゲートはそんなに簡単に政治家の思惑では作れない。たぶん、大昔に神社の場所を選んだ人たちは、私とは違う世界をはっきりと認識していて、そしてその認識力のもとに場所を選んだのだと思う。
私には失われてしまった世界認識の方法があり、私はそのOSにアクセスしたいから、神社や森に行ってしまうんだろう。
そして木は、たぶん、いくつかの認識の世界に重複して存在しているエイリアスみたいな生き物なんだって思える。
日本各地に点在する神社を有する豊かな森は「鎮守の森」として守られ、その森にある木々や植物や動物は八百万の神々のお力で現代に伝えられている。
ありがたいことだなあと思う。
鎮守の森が守ってきたのは、日本の、もっとも日本らしい「里山」の自然。それは人間と自然がいっしょに暮らす場所。深山の大自然ではなく、人が日常的に祈りを捧《ささ》げる場所にある自然、それを神社は守っている。
というわけで、私は暇さえあればいろんな神社を歩いてみている。
去年は「聖地巡礼」と称して、日本全国の名だたる神社をお参りして歩いた。
出雲《いずも》大社、白山神社、天岩戸《あまのいわと》神社、鹿島神宮。どの神社の森もすばらしかった。
鹿島神宮の要石《かなめいし》は花崗岩《かこうがん》だった。花崗岩の固い岩盤が地底で地震を押さえている様子をイメージして、地質学的に調べたりした。出雲大社では節分に正式参拝させていただいた。太古の力が宿るという磐《いわ》の前で雨に濡《ぬ》れた。出雲の神様が入れ替わったことを知って、出雲民族の歴史を思った。森の生態系や、その土地の神話や、気象や、自然環境、いろんな入り口が無数にあって、そこに自由に入って学ぶ楽しさを知った。
現地に行くと、行ってみなければわからないその土地の風習に出会う。
出雲大社に行くと、地元の人は大社の裏にある岩肌にお参りしていてびっくりした。その岩はたぶん、出雲大社に祀られている大国主命《おおくにぬしのみこと》よりもさらに古い時代の神様とのアクセスポイントなのだろう。
神社は怪しい。その怪しさに私はワクワクする。森、巨木、呪術《じゆじゆつ》、シャーマン、鬼のミイラ、日本の起源、陰陽道《おんみようどう》から、黄泉《よみ》の国まで。神社をめぐって出会う不思議な世界に私は魅了される。そこには、合理化された社会には存在しない、迷路、隠されたもの、神秘、非合理が生きている。
ただし、単なる謎ではない、なにかしら歴史や自然と結びついている。
神話や言い伝えには、いくつもの意味が隠されている。
屋久島でエコツアーのガイドをしているMさんが、私の家に泊まりに来た。
しこたま飲んで自然や神社の話で盛り上がった。
翌日は朝からいっしょに真鶴半島の先っぽにある原生林を散策に行った。まるで奇跡のように残っているその原生林を訪れる人は少ない。あんまり有名じゃないのだろう。
半島に向かって車を走らせていくと、いきなり空気が変わる。黒い幹と透明な緑のコントラスト。幾重にも重なった葉の間を抜けて差し込む木漏れ日。
「おお、いい森ですね」
Mさんが感嘆の声をあげる。
私も屋久島に行くまで、自分の家の近所にこんな豊かな森があることが見えなかった。
森のそばを通っても、目もくれていなかった。ところが、屋久島から帰って来てこの森を見たら「うわっ、なにこれ!」って思った。ようやくこの原生林がちゃんと見えたのだ。木の一本一本が生命力に満ち溢《あふ》れている。めっちゃきれいな森だった。
いったい私はどうしてこの森が見えなかったんだろう。へなへなと座り込んでしまうくらいショックを受けた。森は変わらずここにあった。ずっとあった。ただ私が見ていなかったのだ。この木、この森、この自然を。かつて私は視線を梢《こずえ》に向けることすらなかったのだ。
でも、梢を見上げれば、そこには網の目のように木立が手を広げ、美しいモザイク模様に太陽を反射している。それすら見えなかった。この類《たぐ》いまれなる木漏れ日のアーチ。
「こりゃあ、いい森ですね。こんなところがあるんだ。もしかしたら日本中に、あまり知られていないこういう森が残っているのかもしれないですね」
Mさんは、そう言いながら子供のようにはしゃいで木々を写真に記録していた。
そういうものだ。見えないときは見えない。どんな凄《すご》いものがあっても、見えないときは、何ひとつ見えないのだ。
今なら、私にはこの森が見える。
でもそれはなぜだろう? いったい私のなかに何が起こって知覚の扉が開いたんだろう。
そういう疑問をメールに書いたら、郡上八幡《ぐじようはちまん》の友達からお返事が来た。
「大きな自然は、身近な自然のフラクタルの完成版を見せてくれているのだと思います。大きな自然は、離れた場所にある小さな生き物とも繋《つな》がっているのではないでしょうか。だから、一度本物に触れ、その実体を見た者は、身近な小さな森のカケラを見ても、その全体の本性を直感し、見ることができるのではないでしょか」
ああ、本当にその通りだ。
そうなのだと思う。私はたぶん、森のカケラから、その全体の本性を直感するようになってきたのだ。だから、些細《ささい》な小さな植物が美しいと思えるようになったのだ。それはたぶん、あの圧倒的な生命力をもつ屋久島の自然と触れたからに違いない。
この文章の冒頭に書いた通り、屋久島は私にとっては島ごとが神社。
あの島を通して、私は自分が出会えなかった世界と繋がった。
じっくりとよおく見つめれば、どんなささやかな森のカケラにも、神様が生きているんだ。
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参考文献
『神道用語の基礎知識』鎌田|東二《とうじ》(角川選書)
『神界のフィールドワーク』鎌田東二(青弓社)
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短篇小説の書き方
短編小説を書く、ということを見失ってしまった。
書きたくないのだ。ちっとも。
なぜなのかわからなかった。どうやって短篇小説を書いていたのかすら、わからなくなってしまった。不思議なことだった。別に焦ってもいなかったけれど、妙なカンジだった。
はて……と思った。かつて私はなぜ短篇小説なんか書いていたのだろう、と。そんなもんを書きたいという意欲がなぜ起こったのだろうか、と。
長篇小説は書けば書けるような気がした。しかし、短篇小説というもののひらめきが失われてしまった。
初めて気がついた。長篇と短篇は使う筋肉が違うのだ。
そして、短篇小説の方が、もしかすると難しいのかもしれない。
短篇小説というものは、書き方を見失うということがあるのだ。そんなもんを見失うのは私だけかもしれないが、とにかく、私は短篇の書き方を完全に見失って年を越した。
年明け早々に、編集者に電話をして「出版予定の文庫の短篇集のことだけど、あれ書いてると長篇が遅れるから延期しましょう」と言った。
「短篇と長篇と、どっちを優先したい?」
と聞くと、編集者は「長篇です」と言う。
きっとそう言うだろうなと思っていた。
「だったら、短篇を書いている余裕はないです」
と私は言いきった。
余裕がないのではなく、書き方がわからなくなってしまったのだ。書き方を見失ったものは書きようがない。とはいえそんなことを言っても理解してもらえないだろうと思った。
私は自分が短篇の書き方を見失ってしまったことに、あまり動揺がなかった。
この動揺のなさがそもそも私の短篇に対する心意気の低さを表している。
なんで自分が短篇小説を書いていたのかすら思い出せなかった。書いてて楽しかったっけ、私。
最後に書いたのは、たぶん七月か八月の頃だ。恋愛小説を書いた。以来、ぜんぜん書いてない。去年から今年にかけて、私は自分の生活の大改造をやっていて、とにかくいろんなことを変えた。
七月、一ヶ月かけて引っ越しを行った。
引っ越しは非常に手間のかかる仕事で、かなりの労力を費やした。
引っ越しの終わり頃には、私はあまりの疲労のために夫にやつ当たりばかりしていた。
「なんでちゃんと引っ越し業者にまかせないのよ、どうして私がこんなこと自分でやらなくちゃいけないのよ」
予想以上に古い家の片づけに時間がかかったのだ。
かわいそうな夫は三日ぐらい寝ないで引っ越しの準備をしていた。
去年は旅物の連載が多かったので、旅行ばかり行っていて、生活はものすごく不規則になっていた。旅と旅の間に酒を飲み、打ち合わせをして、原稿を書いている、そんな状態。
そこにもってきて、引っ越しがあり、生活環境が変わり、インタビューがあり、テレビとかラジオの出演があり、トークショーがあり、パーティがあり……。なにかこういつも編集者から編集者へと自分が受け渡されているバトンのような気分だった。こっちの取材が終わったらあっちのミーティング。
はい、お預かりしました、ちゃんとお送りします、って感じ。
普通の人間の生活ではなかったなと思う。
疲れていた。疲れているけど仕事はどんどん押し寄せて来るので、疲れれば疲れるほど飲んだ。浴びるように酒を飲んでテンションを上げておかないと、めんどくさくて他人と会話ができなくなってきた。
九月から十一月にかけては、自分の内面にしか視線が向けられなくて、生きていながらなにも見ていないような状態だった。
どよんとした自分の穴ばかり見ている。どうしても、いつも自分の内側に視線が向いてしまう。ほんと、外界のことをなにも見てなかったな、私。
ようやく、私は自問自答し始めた。
なんでこんなに忙しいんだよ。
誰のせいだ、私のせい? 私が自分で引き起こしたことなの? 違う、そんなはずない。なにかの回転のリズムに取り込まれた。抜けられない。列から抜けられなくなってる。こんな状態は私じゃない。絶対におかしい。
もう、イヤだ、とキレるのに、そんなに時間はかからなかった。
今年に入って、私はフラダンス教室に通い始めた。
たぶん、生活を変えたかったんだと思う。
週一の習い事は、新しい場所と、新しい友人を連れてきた。
そして、生活にリズムをつけた。
ふと、気がついたことがあった。
「ああ、そうか、私はもしかしたら規則正しい生活をしたいのかもしれない」
なぜかわからないがそんな気がした。
正月のバタバタが過ぎて、ようやく最近になって、空とか庭を見るようになった。海を見たり、しみじみと自分の部屋を掃除したり、模様替えをしたりした。庭の梅の木に来た小鳥を見つめるようになった。
そういえば、おととしは毎日のように空を見ていた。
そのことを思い出した。
おととし、デビュー前。私は近所の小学校の校庭で、娘と二人ブランコに乗り、バラ色の夕焼けを毎日毎日見ていた。
娘を迎えに行ってから二人で散歩して、きれいな夕空を見つめて歌を歌った。校庭に人影がなくなるまで、娘と二人で追いかけっこをして遊んでいた。
たくさんたくさんお散歩した。
夏の夕方には、海岸に行って、人の少なくなった海で波乗りをした。夕陽が本当に海の色を深く青くする。その様子を毎日見た。
一番星も、満月も、三日月に並んだ金星も、私は見た。
雲も、雲をよぎる飛行機も、稲妻も、日輪も、毎日見ていた。
それなのに私は去年、この町の空をほとんど見ていない。散歩もしていない。もしかしたら、私は生活というものをしていなかったのかもしれない。
そんなことを思った。
先週、なぜかカメを飼い始めた。
ホルスフィールドというリクガメで、小さくてかわいい。
生後一年。まだ幼体だ。この子の原産地はアフガニスタンだそうで、きれいな象牙色《ぞうげいろ》の甲羅をしている。
リクガメは草食だ。
毎日、野菜や果物を食べる。活動するのは一日八時間くらいで夕方五時になると寝てしまう。昼間は床暖房の上をごそごそ動き回っている。寝ているときも、起きているときも朴訥《ぼくとつ》なしぐさがとても愛くるしい。
娘がカメにテリーという名前をつけた。
テリーは寝起きが悪くて、朝はぼーっとしている。
のそのそ動き始めるとキャベツをあげる。キャベツを食べると、またぼーっとしている。すぐに部屋の隅の机の下に頭を突っ込んでじーっとしている。
なにもしない。でも生きている。
なんだか、テリーってかっこいいな、と思った。なにもしないことが徹底している。そこがすごい。
テリーの低燃費の生き方が美しくて、私はテリーを眺めてばかりいる。
テリーは、眺めていると飽きない。手の平に乗るような小さなテリーが、たった一匹でアフガニスタンからやって来て、我が家で生きていることがとても不思議だ。テリーがチンゲンサイやキャベツの葉っぱを一生懸命にパリパリと食べている姿は、なんとも穏やかで好ましい。
朝から床に寝転がって、テリーがエサを食べるところを観察する。
その私を見て、夫はしみじみと言った。
「ほんとうに、疲れてたんだね……」
よほど、私の様子は変だったのだろうか。自分ではよくわからない。
フラダンス教室に行って、フラダンスを習う。
若くてかわいい女の子たちや、娘に太ったと言われたショックでフラを習いに来たご婦人と知りあいになる。お友だちとカメの飼い方を話し合ったり、子供たちとテリーを散歩させたり、テリーのエサの作り方をあれこれ悩んだり、そういう日常を続けていたら、なぜか、突然、まったく唐突に、短篇小説の書き方を思い出した。
あ、そうだった。短篇小説ってのは、こういうことを書くんだった、と思い出した。
そうそう、こういう生活、こういうこと。
カメとか、子供とか、フラとか、空とか、雲とか、鳥とか、女の子とか、おじさんとか、おばさんとか、そういうことだ。
ああ、思い出した。こういう日常の美しさ、優しさに触れたときに、私はいつも、ああこのエピソードをなんとか表現したいなあと思ったのだった。
自分に優しくなるために、私は短篇というものを描きたいと思っていたのだった。この世界の慎ましい美しさについて書くために、私は短篇を書こうとしたのだったっけ。
そうか。私にとって短篇小説とは、ささやかで、愛《いと》しいものだったのだ。
しみじみと暮らしていないと、些細《ささい》な物事を見落としてしまう。
だから書き方を見失っていたのだろう。おもしろいなあ。
テリーがエサを食べるときの、無我夢中でがむしゃらでひたむきな様子。あれがそもそも私にとっての短篇小説なのだ。そのひたむきさに触発されることが、短篇を書くということだったのだ。そういうことに、じ〜んとくると、私はなんか書きたいなあと思うのだった。
自分の住んでいる場所に戻って来ること。
それはとても大切だな、と、このごろ思う。どこへ行こうと、どんな遠くまで飛んで行こうと、私が誰なのかを忘れてしまっては、きっと私は何も書けないだろう。
私を育《はぐく》んできた小さな世界。
その世界から力をもらわなかったら、新しいことに挑戦するなんてできない。私に力をチャージしてくれていたのは、実は「生活」そのものだったんだ。
非力な、アフガニスタンのカメからそのことを教わった。
生き物とか、植物とか、自然って、すごいなあって思う。それらは、たぶんゲートなのだ。私が命というものと繋《つな》がるための、この世界のゲートだ。
生きる力を取り戻すためのゲートだ。
暮らしとは、そのゲートを開くことなのだ。たくさんのゲートをつくることが暮らしなのだ。
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廃墟《はいきよ》の観音
朝から小雨が降っていた。
子供を保育園に送るために一歩外に出たら、強い新緑の匂いに包まれた。雨に濡《ぬ》れた照葉樹の芽吹きは、屋久島を思わせる。空気中の酸素がすごく濃くなってる。この空気を胸一杯に吸い込むとなんだかハイになる。
久しぶりに森に行ってみたいと思った。
雨具の支度をして、おにぎりを握ってリュックに詰めた。ゴム長靴を履いて、家の前を通るバスに乗った。真鶴駅前でバスを乗り換える。真鶴半島の先の原生林まで、バスを乗り継いでも家から三十分だ。
あまり知られていないけれど、真鶴半島の先っちょに小さな原生林がある。
この季節、芽吹いた新芽はエメラルド色に発光して見える。まるで植物のオーラみたいだ。この森はシイやクロマツの大木が多く、木々はみなかなり背が高い。緑の天蓋《てんがい》が圧巻だ。いい森なんだ。
原生林のなかには遊歩道があって、初心者でも散策できるようになっている。
私はいつも三《み》ツ石《いし》側から原生林に入る。駐車場の前にさびれた奇妙な石段がある。石段を上がった何もない空間が好きなのだ。いつもまず石段を登る。その先には何もないので誰もいない。道も荒れている。倒木が行く手を塞《ふさ》ぐ。それでも我慢して一番上まで登って、なんとなく森の神様に手を合わせてから森に入る。
一回り三、四十分の小さな森だ。でも、何度か通っていると、そのたびに発見があっておもしろい。
歩き慣れた森なのだけれど、今回、どういうわけか道を間違ってしまった。
こんなことは初めてだった。出ようと思っていた反対側に降りてしまったのだ。
「あれ〜?」と思った。
ときどきあるよね、こういうこと。確かにちゃんとしまったはずのいつもの引き出しに、ハサミがなかった……みたいなこと。
しかたないので、次の分岐点まで歩くことにした。
とぼとぼ歩いていると、不思議な石碑が立っていた。
「なんだろ、これ」と思って立ち止まってみると、そこには「内袋《ないたい》観音参道」と書いてある。
「内袋観音? なんじゃそれは?」
見ると確かにわき道があり、曲がりくねりながら海に向かって下っている。
なんにしても観音様がいるのなら挨拶《あいさつ》でもしていくか、と神様好きの私は思う。
ひと気のないわき道に入る。が、この道がかなり荒れていた。
どうもずいぶんと長いこと使われていないようである。
鬱蒼《うつそう》と茂った木々。人影などもちろんない。唯一、近所にあるサボテンランドの音楽が聞こえてきてほっとする。
カラスやトビが、葉叢《はむら》からバサバサと飛び立つ。
そのたびにぎょっとする。知らない森の道を一人で歩くのは怖い。実は小心者なのだ。道は曲がりくねりながらどんどんと入り江に向かって下っている。どこまでもどこまでも下っている。(本当にこの先に観音様なんかあるんかいな?)とだんだん不安になる。
それでも、ここまで来てしまったら引き返すのもシャクなので、ひたすら下る。どうやら下は小さな入り江になっていて、そこに建物の赤茶の屋根が見える。入り江に面した森は大樹で構成された照葉樹林で、一斉に芽吹いており、海岸に降りて見上げたらさぞかし美しいだろうと思った。
暗い道を下りきって、さらに入り江に向かって荒れた道を歩いて行った。
なにやら広場のような空き地が見える。その向こうに先ほど上から見下ろした建物が立っている。
あれだあれだ、と小走りに寄って行って、私はがく然とした。
そこにあったのは、倒壊して瓦礫《がれき》と化した廃墟だったのだ。
ゴミ屑《くず》がところどころにうずたかく積まれていた。建物の柱は倒れ、屋根が腐って崩れ落ちていた。
しかも、その建物は変な形だった。倒壊がひどくて原形はわからないが、どうも竜宮城のように見える。
壊れた竜宮城。
怖かった。まるで『千と千尋《ちひろ》の神隠し』みたいな世界だ。
深い森に囲まれた入り江。あたりには誰もいない。私しかいない。植物が吐き出す濃い空気が、急に生臭く感じられた。
崩れた建物の右手奥に、小さなアーチ型の看板がかかっている。その看板もすっかり腐ってかろうじて引っ掛かっているだけだった。
近寄って見上げると「内袋観音参道」と書いてある。
あのアーチの奥に、内袋観音なるものがあるのか、と思った。
しかし、これは相当に怖い。
崖《がけ》沿いの細くて暗い道である。もちろん、瓦礫となった建物の側《そば》を通り抜けなければならない。なんだか誰かが建物の闇のなかからぬっと出て来そうだ。
それでも、好奇心には勝てなかった。
私はおそるおそる、壊れたアーチをくぐって断崖《だんがい》沿いの細い通路を歩いて行った。不気味だ。雑草が生い茂っていて膝《ひざ》まで隠れてしまう。ゴム長を履いて来て正解だった。
ここはかつて観光地だったようだ。
参道を照らす電球のコードが、引きちぎられ垂れ下がりながらも残っていた。なにもかもさびれて、荒《すさ》んでいた。
入り江に面した崖に、大きな祠《ほこら》が見えた。
ああ、あそこに観音様がいるのだなと思った。祠のなかにあるから「内袋観音」なんだ。私はさらにその暗い祠に近寄っていった。崖をくりぬいたような大きな石の祠だ。
草ぼうぼうのなかを、洞窟《どうくつ》に近づく。
腐って倒れかけた蝋燭台《ろうそくだい》があった。朽ち果てた賽銭箱《さいせんばこ》があった。そして、奥の岩肌に大きな観音像が彫刻されていた。
あまりの荒みようだった。もう何年も、この観音様は見捨てられているらしい。誰も訪れず、掃除も、お世話もしてくれなかったようだ。
私は観音様を見上げた。正直なところその観音様はとても美人とは言い難かった。「うーむ」
私は腕を組んで唸《うな》った。
おたふくのような顔である。観音様の顔をブスと言ったら罰が当たるだろうか。だけど、なんとなくケバくて品のないお顔だった。
たぶん、この観音様はこの地の観光用に彫られたものであろう。由緒があるとは思いがたい。だけれども、この場所に観音像を作ろうと思い立つからには、この入り江にはなにか土地の者しか知りえない言い伝えがあるのかもしれない。
一時期は、観光客が訪れていたのだろう。なぜ、このように荒んでしまったのだろうか。誰も来なくなったのか。それとも、台風か何かで建物が崩壊し、その後、修復のメドが立たずに放置されてしまったのか……。
しかし、理由はどうあれ、ここに観音様を祀《まつ》ったのである。そして、かつて人はこの観音様に祈ったのである。そうだとすれば、この場所に意味と命を与えておいて、それを放置したことになる。
無宗教の私は、この気の毒な観音様を前にしてどうしていいのやらわからない。お経も読めないしなあ。
とりあえず手を合わせた。辺りを少し掃除して、それから持っていた水でお浄《きよ》めをしてみた。他にどうしていいもんかわからなかった。
こういう時、アイヌのシャーマンのアシリ・レラさんならどうするのかなあ。山田和尚ならどうするのかなあ、渡邊満喜子さんなら、鎌田東二さんならどうするんだろう。あれこれ、スピリチュアルな知りあいの方々を思い出して想像してみた。
考えてみると、みんなそれぞれに祈りのスタイルというものを持っていらっしゃる。
私にはそういうものもないので、茫然《ぼうぜん》とブタ鼻の観音様を見上げていた。神様好きで神社巡りが趣味だったりするのだが、それでも、私は永遠の素人なのである。自分の信仰もない。祈りのスタイルもない。そもそも、いまだに祈りというものが何なのかもわかっていない。
想像した通り、この祠の前から見上げる照葉樹林の芽吹きは素晴らしいものだった。「屋久島みたいだ」と思った。植物が新芽を出して喜んでいる。萌《も》えだした芽は薄緑色の光を放つ。そうすると森全体が歓喜の歌を歌っているように思える。
人っ子一人いないさびれた入り江で、私は観音様といっしょにしばし新緑を愛《め》でた。
そして持ってきたおにぎりを食べた。
ぞっとするほど静かだったけど、それなりに楽しかった。
「どうも芸がなくてすみません」
私は観音様に謝って、その場を後にした。
「帰ったら、あなたのこと宣伝しときます」と約束した。
ので、こうして書いている。私にできることはこれくらいだしなあ。
以前、知人から「観音様は人の役に立つことが仕事なんだ」という話を聞かされたことがある。
「へ――? そうなんですか?」
「そうだ。観音様は如来になるために修行中なのだ。如来になるために人間の役に立たねばならない。たくさん人を助けないと如来になれない。だから観音様にはお願い事をしたほうがいいのである。人の役に立たない観音様というのは、仕事をもらえない新入社員のようなものだ」
「ほんとですか〜?」
もし、そうだとしたら、あの「内袋観音」はさぞかし寂しかったことだろう。あんな廃墟のような場所で人々から忘れられ、誰もお願い事をしに来ない。まるでホラー映画のロケ現場のようである。
いくら人の役に立ちたくても、誰も来ないのではお話にならない。あれでは如来への道もさぞかし遠いだろう。
何か仕事をしたくて、私を呼んだのかもしれない。気持ちはわからぬでもない。
一度、祈りを込めてしまった存在を、あんな風に捨て去るのは悲しいことだと思った。それが物質であったとしても、祈りの対象を作ってしまったのだから、その責任は神様ではなく人間にあるだろう。
さて、このコラムを書いてインターネットで発信したら、地元の方からご連絡をいただいた。
この観音様があった場所は、かつて「水族館」があったそうだ。台風で倒壊してしまったとのこと。そうか、だから竜宮城のような作りだったんだな、と納得した。
町もこの観音様のことは気になっているのだけれど、この土地をめぐって訴訟事が続いており、それが決着しないと工事ができない……というような内容だった。
やっぱりなにか事情のある場所だったらしい。
しばらくして、また行ってみたら、壊れた電球や提灯《ちようちん》のコードはきれいにはずされていた。観音様の洞窟の前も清掃されており、壊れた燭台も片づいていた。
誰かが来てお世話してくださったのだ。
それからしばらくして、私は台湾に旅行に行った。
台湾の南部の道教のお寺に縁あって宿泊した。そのお寺にはビッグ・エッグのような半円形のドームがあって、入って行ったら巨大な観音様が鎮座ましましていた。なぜ道教と仏教がいっしょにあるのかよくわからなかったが、そんなものなのかな。日本でも神社とお寺がいっしょにある場所はたくさんあるし。
で、観音様のそのお顔を見て、私は笑ってしまった。
あの内袋観音のお顔にそっくりだったのだ。下膨れの豊満なお顔に極彩色の派手な衣装をお召しになっていた。
いやー、まさかこんなところでお会いするとは。
あの観音様、ルーツは大陸だったのか。どうりで日本の観音様とはちょっと様子が違うと思った。
もしかして里帰りしたくて、私を呼んだのかな。
私が手を合わせていると、道教のタンキーがやって来た。
「君は、本当に信心深いな」
と彼は言う。
「私がですか?」
吹き出してしまった。ただ手を合わせているだけなのに。
私は神様を信じているのだろうか。あまり自信はない。たぶん信じてなんかいないと思う。ただ、嫌いではない。
神様はいてくれたほうが人生が楽しい。
先祖たちが作った大切なものなら、私も受け継ごうと思う。
現代を生きる私と、過去の人たちとを繋《つな》ぐ絆《きずな》はどんどん細くなっている。私は過去と繋がりたいんだと思う。自分なりの方法で、過去と仲良しでいたいと思う。
そうしないと、現実が簡単に壊れてしまいそうで、怖いんだ。
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恋愛の力
「田口ランディさんは、恋愛長篇小説は書かないのですか?」
と、ときどき編集者の方から質問を受けるのだが、予定はない。
恋愛はするもんであって書くもんじゃない。書いたらできなくなりそうで怖い。恋愛小説をどうしても書けというのなら、私が好きになりそうな男を一人、ココに連れて来てください、とお願いする。いまのところ連れて来た編集者はいない。案外とみんな冗談だと思っているのかな。本気なんだけど。
短篇集はともかくとして、長篇として私が発表しているのは通常の恋愛とはずいぶんとかけ離れた変な小説ばかりだ。もちろん小説のなかに男と女は登場してセックスもいっぱいするけれど、ふつうの恋愛ではない。たぶん、私はあまりにも日常で恋愛してばかりいるので、この自分にうんざりしているんだと思う。
整体師の寺門琢己《てらかどたくみ》先生と対談していたら、
「女の人は毎月違う卵子を排卵してるわけだから、毎月違う自分になって、毎月恋ができる体なんですよ」
ということを言ってくれて、嬉《うれ》しくなってしまった。
そうか、卵子が違うと、違う私なのか。
そりゃそうだろうなあ。卵子が違えば生まれる子供の顔や性格だって違うわけだ。だからどの卵子のときに出会った男かで、子供が変わってしまうわけだよ。今月の卵子は先月の卵子と違う。だから卵子は別の男を求めているのかもしれない。今月の卵子にジャストの男がいて、それは先月の男とはきっと違うのだ。
とはいえ、いい年していつまでも色ボケしているのもなあ……、という冷静な自分もいる。ああ、まさに冷静と情熱の間を行ったり来たりしているのがいまの私である。だいたい、とっかえひっかえ恋愛したいなんていうのは煩悩の最たるものではないか。生涯にわたってお祭りしていたいなんて、強欲ではないか。しっかりしろ、目じりの皺《しわ》を見ろ、顔の肉のたるみを見ろ、目を覚ませ、と私の冷静は言うのだが、いまのところまだ情熱の方が優位に立っている。
さて、女の私はこんななんだけど、男の方はどうだろうか。
男というのは恋愛に関してはさっぱりダメである。いや、ダメと言っては失礼だな。恋愛というものへの認識が男と女とでは全然違うのだ。それは、男性マンガと少女マンガを読み比べればよくわかるではないか。恋愛のニーズは男にはあまりないのである。それは男が恋愛が嫌いだとか、苦手だとか、そういうレベルではない。
ばっさりと言いきってしまえば、コミュニケーションスキルに落差がありすぎるのだ。男は基本的にコミュニケーション能力が低すぎるあまり、コミュニケーションの娯楽である恋愛を遊ぶことができないのである。
ナンパ師などと呼ばれている男はハナからコミュニケーションをしようなどという気がない。絶倫と呼ばれる男はセックスのスキルが高いだけ。モテると言われる男はマメで食い道楽なのだ。その程度であり、男は恋愛をコミュニケーションの娯楽と思っていないのである。あたりまえである。男にとってコミュニケーションはちょっと苦痛なのだ。難しいのだ。絶対に口では女にかなわないと思っている男が大部分だ。女が「どういうつもりなの?」と言いだしたら「あ、こりゃ何言っても無駄だ」と断定し、あとはだんまりを決めこむ。しょうがない。もともとめちゃくちゃコミュニケーションが下手なのだ。悪気はないがそういう生物なのである。
であるからして、恋愛をしている男は常に本気であると思っていい。
彼らは常に本気で「あんたなんか大っきらい!」という女の愛のアッパーカットに、必要以上にガ――ンと傷ついて、ああもうこれは何を言っても無駄だと思い身を引いてしまう。そしてさらに「なんでそんなに簡単に身を引くのよ、私のこと愛してないわけ!?」とまたしてもカウンターパンチを喰《く》らい、「いったい何がどうなってるのかわかんねええ!」と酔っぱらって暴れて、「オレはおまえが好きだ〜!」とヤケクソに絶叫してやっと女に「それを早く言いなさい」と許してもらうような、不器用な存在なのである。
三十七歳の高齢で子供を産んだ。
さすがに、自分の煩悩生活もここまでかな、と思った。これからは良き母として生きていこうと漠然と考えていた。いや、ちょっと違うな。もうこんな私のような子持ちの田舎のオバさんとかを、男は女として見てくれないだろうな、という諦《あきら》めに近かったような気がする。
子供を産んで二年間は子育てに専念していた。毎日、公園に子供を連れて行って、子供の後ろに背後霊のように立って、子供が怪我をしないように監視しながら近所のお母さんと子供のことばかり話していた。他にあまり共通の話題もない。母親というのは子供の年が同じというだけで一つに括《くく》られる。高齢で出産した私の周りは私よりも十歳も年の下のお母さんたちが多くて、けっこうジェネレーションギャップを感じた。
子供を産んだ年の写真を今見るとすごい。もう、なんていうか背中に「ヤル気ありません」って書いてあるような感じ。骨盤がバーンと開いていて、だらんと腰が下がっていて、体全体にハリがない。でも、あの時期、エッチする気にもならなかったからしょうがないかなあと思う。
思えばいい人生だったじゃないか、バリバリ働いたし、お金もそこそこ儲《もう》けたし、いっぱい遊んだし。あとは余生じゃないの、と自分に言い聞かせていた。だってねえ、子供を託児所に入れて働くにしても、再就職も四十歳からじゃあこの不景気にロクな仕事もないだろう。会社に入ってもさすがに子持ちの四十じゃあ、男の子も相手にしてくれないだろうし、疎外感を感じるだけじゃんね。という、まったく後ろ向きな気持ちで人生を考えていた。「ああ、祭りも終わりね」って感じ。
でも、人生って何が起こるかわからないもんで、私は子供が一歳のときに、昔つきあいのあった雑誌社の編集者の頼みで、ギリシャに十日間の取材旅行に行くのである。
私はヨットレースに出場していた頃があり、ヨットに詳しい。そこで、というわけで、ギリシャで行われるエーゲ海ヨットレースのルポを書いてほしいと頼まれたのだ。
「でも、私、ブランクあるし、英語もダメだし、何より体力落ちてるし、子供産んでぶくぶくで、ギリシャなんか行けないよ」
という私に、それでもいいから行け、と言った編集者の勇気はすごいと思う。
それで、泣く泣くギリシャに行った。ギリシャ、しかもエーゲ海。超ナイスバディの女たちしかいないような海辺のリゾート。あーなんでこんなところに来てしまったんだろう、と、自分の体形と容貌《ようぼう》にめちゃくちゃ暗くコンプレックスを抱きながら取材旅行は始まった……のだが、なんと、私はパロスという美しい島で、一人のギリシャ人の男性と出会い、恋をしてしまうのである。
初めて彼を見たとき「ソクラテスだ」って思った。
真っ白なきれいな顎髭《あごひげ》をはやして、白髪で、古代ギリシャの彫像みたいな顔をしていた。
ギリシャ人の男って全般的にはそれほど美男子ではない。いろんな顔の日本人がいるようにいろんな顔のギリシャ人がいる。だけど彼は、まさに私のイメージのギリシャ人そのものだった。
いっしょにいたカメラマンのS君が「あのおっさん、かっこいいよなあ、ほんとにギリシャの哲学者って感じだよな」って呟《つぶや》いた。私もそう思った。
彼の名前はランブロフという。
みんなはランブロって呼んでいた。ランブロはテレシティというヨーロッパのネットワークの仕事で、ビデオカメラを背負って人ごみのなかにいた。
大きな風車の下にあるギリシャ正教会の広場は、もう午後八時なのにまだ四時くらいの陽の高さだ。
ギリシャでは陽は九時過ぎにようやく沈む。十時をとうに回ったころにやっと月がのぼりだす。
ギリシャ人は八時ごろから夕食を始めて、深夜零時過ぎまで夜を楽しむ。
真夜中はまだ宵の口。
私が泊まったホテルで結婚式があった。なんと八時から始まった披露宴は午前二時まで平気で庭で大騒ぎしたし、ホテルも何の文句も言わない。つまりこれがギリシャの常識なんだ。
ランブロはヨットレースの取材のために、レースとともに移動してその様子をビデオに撮っているらしかった。
アテンド役のアステリアスが私を彼に紹介してくれたときも、彼はまずビデオカメラのレンズを私に向けた。
「名前は?」
「え、えっと、タグチランディです」
「どこから来たの?」
「あ、あ、あの日本から」
「なんのために?」
「私は日本の雑誌のレポーターで、取材のために……」
「その雑誌、持ってる?」
「あ、はいはい」
彼はその間、一度もレンズから眼を離さない。私はあわてて持って来た雑誌を取り出す。
「オーケー、じゃあランディ、この雑誌を持ってこれから僕がする質問に一言で答えて」
「え? なに? 一言で答えろ? え?」
慣れない英語でどぎまぎしている私を無視して彼は質問を始めた。
「ギリシャは最高だと思う?」
「えっと、えっと、オフコース!」
「君はギリシャが大好きになった?」
「そりゃあオフコース!」
「来年もこのレースに来たいと思う?」
「もうどうにでもなれオフコース!」
最後はやけくそである。
「オッケイ、最高だ、君はおもしろい子だな、ははは」
それがまあ、ランブロとの最初の出会いだった。
彼はその後も忙しそうにパーティのなかを走り回っていた。
第一レースの表彰式が行われて、拍手がわきおこり、それと同時に海の方から花火があがった。風はほどよく涼しくて、人々はワインで酔っていた。教会の脇にある大きなプラタナスの木には子供たちが鈴なりに腰をかけて歌っていた。白い巨大な水車が風でふるふる鳴いている。それからようやくゆっくりと月が上り始めて、民族衣装を着た島の娘たちが円を描いて踊り始めた。
なにもかも、ゆったりと、優しく、美しかった。
再びランブロがワインを持って来たときは、私はすでにちょっと酔っ払っていた。
「ハーイ、ハニー」
と言うのが彼の口癖なんだ。いや、私もね、こんなこと日本の男から言われたら吹き出してしまいますよ。
だけどね、チェロみたいに深い声の、白髪のね、体格のいい、ギリシャ彫刻みたいな男が寄ってきて、ウインクをしながら「ハーイ、ハニー」と言うのはね、これはもう決まりすぎて文句言えなかったです。
「ハーイ、マイ・ダーリン」
私はもうこの勢いにのっちゃうしかないと思って、そう答えた。彼はまた、作り物かと思うほど白くて歯並びのいい歯を見せながら「はっはっは」って笑った。
「これはね、シトロンのリキュールで、この島の特産なんだ」
彼はそう言って新しい飲み物を私に渡してくれた。
ギリシャ人はみなそこそこ英語を話したけれど、彼の英語はパーフェクトだった。
「これ、甘すぎる。私は甘い酒は嫌い」
それは困った、というふうに彼は両手を広げて見せ、それから私の手からグラスをとってそれを石畳に投げつけて割った。
「ぎゃあ、なにするのよ!」
「いいんだよ、ギリシャでは皿やグラスは割っていいんだ」
「うそ〜っ?」
「君もやってごらんよ」
「私はいいわよ、もったいない」
「ほら、こうやるのさ」
そう言ってランブロは、空いた皿をまたさらに石畳に投げつけて盛大に割った。すると周りからわーって喝采《かつさい》が起こった。
確かに、ギリシャじゃ皿を割ってもいいらしい。もちろん後で請求書が来るらしいけど。
「ギリシャ人って気前いいのね」
「でも日本人よりずっと貧乏だよ」
この言葉、世界中どこへ行っても言われるのでうんざりする。日本人ってそんなに豊かなの? 私はちっともそうは思わないのだけど。少なくともギリシャ人のほうがずっと幸せそうに見えたっけ。
「君は酒が強いんだね」
「それほどでもないけど」
「ギリシャ人は酒は好きだけどたくさんは飲まない」
「どうして?」
「飲む必要がないから。少しの酒で楽しめる。少し飲んだら、輪になって踊るのさ。そうしたら一気に酔いが回る」
確かに、ギリシャ人は踊るのが好きで、島のボディコンの女の子たちも、音楽がかかるとみんな踊り出す。すげえ楽しいんだ。
「明日行くサモス島には、ブラックワインっていうワインがあるんだ」
「へえ、それってどんなワインなの?」
「うまいけど、強烈だよ、飲んでみたい?」
「うん!」
「じゃあ、僕が君にごちそうしよう」
「ほんと?」
「オフコース」
そう言って彼はウインクした。ウインクってのはやっぱり西洋人のものだよなって思った。
「じゃあさ、指きりしよう」
「ユビキリ?」
「日本のプロミスだよ」
私は彼の小指に自分の小指をからませた。
その手は私の倍あったし、腕は私の太股《ふともも》より太いくらいだった。彼はすでに中年太りの域に達していて、いやそれを通り越して太っていた。早い話、日本流に言えば「デブ」なんである。だけど、すごくいい体をしたデブなんだ。だから厳密にはデブじゃないんだろうなあ。プロレスラーみたいな体とでも言えばいいんだろうか。
ランブロが1960年のローマオリンピックの近代五種ギリシャ代表選手だったって聞いたのは、ずいぶん後になってからだった。彼は十七歳でオリンピックに出たスポーツマンだったんだ。
ユビキリの約束を、彼は覚えているだろうか?
でも、私はその約束に期待しないことにした。期待して裏切られるのが怖かったからだ。それくらい臆病《おくびよう》になっていた。だって、子供を産んでからずっと、田舎のお母さんとして生きてきた自分が、いきなりギリシャのエーゲ海で女に戻れるわけがない。
サモス島のドリサベイビレッジにある、一戸建ての部屋でぼおっとしていたら電話が鳴った。
「ハニーか? ランブロだ。海岸でパーティがある。僕が君を迎えに行く、いいかい?」
いきなり英語で早口にしゃべられて、また混乱する。
「え? いつ、何時に迎えに来るの?」
「今すぐだ」
そう言って電話は切れた。
私は一瞬|茫然《ぼうぜん》として、それから急いで着替えて、トランクからヒールのあるサンダルを取り出して、それから化粧して、そして部屋を飛び出した。
このホテルは一つの大きなビレッジになっていて、美しい木立と海岸に面していくつもの石造りの洒落《しやれ》たコテージが建っている。どの部屋も特徴的で、微妙に異なるところがいい。石畳は迷路のように入り組んでいて、それは完璧《かんぺき》にひとつの小さな美しいギリシャの村を模写していた。
私はブーゲンビリアの咲いている石畳を駆けて、小さな教会のある中庭を通り、アーチ型の石塀をくぐり抜けロビーに着いた。そしたら、ソファにランブロが座っていた。
「ハーイ、マイ・ハニー」
と彼は笑った。
「ハイ、マイ・ダーリン、どうしてあなたが? 私を迎えに来るの?」
「アステリアスに頼まれたんだ。彼はヨット協会の仕事で手があかないので、僕に迎えに行ってほしいと言ったんだ」
海辺でパーティがあるという。そこには今回のヨットレースの大スポンサーになっているプレジデントとその夫人がやって来るんだそうだ。だから君にも紹介したい。そんなことを彼は英語で言った。
「ランブロ、私本当に情けないんだけど、私の英語にはトラブルがたくさんあるの」
「確かに君はジャーナリストとして、もうちょっと英語の練習をする必要があるな」
ちぇっ。はっきり言われるとけっこう落ち込むぞ。
「だからさ、ゆっくりしゃべってほしいんだけどな」
「わかった。これからはそうするよ」
砂浜を北に向かって私たちはゆっくり歩いていった。砂浜を歩くのならハイヒールなんてはいてこなかったのにな。
「歩きにくい? 僕の手につかまって」
彼が腕を差し出したので私はその腕に手を巻きつけた。そのときの不思議な感覚をいまでもよく覚えてる。
彼の腕に触れたときにとても気持ちよかった。ああ、私はこの人のことがとても好きなんだなって思った。知らない男の腕になんか触れたってふつうなら気持ちよくなんかない。でも、彼に触った瞬間に妙な安心感とここちよさが体のなかに広がったんだよね。確かに彼にはとてつもない包容力を感じさせるなにかがあった。
その物腰、雰囲気。落ち着いていて、きっぱりとしていて、ユーモアがある。
「君は今日、海で泳いだ?」
「ううん、忙しくて泳げなかった。でもバイクを借りて島の反対側まで行って来たんだ。泳ぎたかったんだけど、疲れちゃった」
「僕は昼間、ひと泳ぎした。この海岸はギリシャでも一、二の美しい海岸なんだ。ぜひ明日は泳ぐといいよ」
「ランブロって海が好きなんだ」
「海で泳ぐのが好きだ。それに僕はライフセーバーでもある」
「へえ? あなたって、どうしてそんなにスポーツが得意なの?」
「僕の職業だから。僕は二重障害者にスポーツを通して社会復帰させるためのリハビリテーションを学生に教えていたんだ」
「ええ? カメラマンじゃないの?」
「ビデオジャーナリストは趣味だ。ギリシャとかエジプトに番組を作って売ったりしてる。本職は教師で、コロンビア大学で教えていた。いまもニューヨークに一年の半分は住んでいる」
私は彼のような仕事のスタイルはよくわからない。彼にはいまスポンサーがいて、オフィスをもっているけどそれほど仕事をしなくてもいいらしい。
四十歳のときにプロフェッサーをやめてライフスタイルを変えたんだそうだ。
ま、でも日本にもなんで食ってるのかわからない人はたくさんいる。だからまあ、どうでもいいか、と思った。
「なんだか、こうしてエーゲ海の海岸を夕暮れに腕を組んで散歩するなんてロマンチックだなあ」
私がそう言うと、彼は急に、
「君は結婚してるの?」
と聞いてきた。
「してる。一歳になる娘が一人いる。あなたは?」
「僕もしている」
「でも、たまにはロマンチックもいいなあ。ギリシャの思い出」
私がそう言うと、彼はいきなり自分の脇に私を抱え込むようにして歩き出した。
「夕暮れの風は冷たいんだ」
私はなぜ彼が好きなのかとてもシンプルに説明できる。彼の抱き方が好きなんだ。たぶんそれは鍛え上げた筋肉と神経のなせる技なんだと思う。彼の肩の抱き方、体の抱きしめ方は、パーフェクトなのだ。
抱き方にそんな違いがあるってことを私は初めて知った。
彼の抱きしめ方はふわあっとがっちりなの。
まるで力が入っていないようにふわあっと抱きかかえているかのごとく見えながら、がっちり押さえ込んでいる……っていうのかな。
これはね、本当に大切なこと。
彼は自分の体重とか力とかを絶対に私に預けないの。だから彼と腕を組んでいても、肩を抱かれて歩いていても、彼の重さが私にはまったく伝わってこないの。完璧に自分の筋肉で自分の体を支えている人なの。抱かれているとは思えないほど軽い。肩に彼の腕の重さすら感じない。ぬくもりだけが伝わってくる。
私ね、肩を抱かれるのって嫌いだった。男の体重がかかってきて、うっとうしくなる。
たいがいの男は肩を抱いているんじゃない。女の肩に腕を乗せてもたれながら歩いているんだ。
だから私は嫌いだったんだ。
だけど彼は違った。その太い腕はまるで羽みたいだった。
体重を女に乗せてない。そして完璧に自分の体で平衡をとって歩いている。
大きな腕は揺るがない。私がよろけると完璧に支えてくれる。でも締めつけない。
そのくせ、抜け出そうとしてもがっちり押さえ込まれていて、振り払えない。
一度抱きしめられたら、もがいても抜けられない。だけど、必ずゆとりがあるの。
私はたぶん、彼の抱きしめ方を一生忘れないと思う。
べたべたと力まかせに抱きしめられるくらいなら、もう一生誰にも触れられなくてもいいとすら思う。男の筋肉って、女を抱きしめるためにあるんだ、って初めて思った。
サモス島はね、ピタゴラスの定理を発見した、有名な数学者ピタゴラスが生まれた島なんだ。パーティの後、彼がワインをごちそうするからピタゴラス・バーに行こうって言う。
ピタゴラス・バーは、マリーナの桟橋にあって、海に囲まれたオープンエアのディスコ兼バー。
屋根があるだけ。壁はない。周りは海。
ランブロはいきなり桟橋から海に入って膝《ひざ》まで浸《つ》かって踊り出した。
「海が気持ちいいよ」
私もカクテルを桟橋に置いて、エーゲ海に素足で飛び込んでみた。水がここちいい。
「このあたりに、ウニがいたから気をつけて」
「大丈夫よ、私はこれでもマリンジャーナリストなんだから」
海のなかで踊っている二人を見て、他の客たちがはやしたてた。
「見てごらん、ほら」
彼が指差す方を見た。
午後十時三十分、東の空から、オレンジ色の大きな満月が帆影にのぼっていた。
「すごい、きれい」
私がそう言うと、彼は背中から腕を回して私を自分の胸のなかに閉じ込めた。
もちろん羽のように、そのくせ鉄格子みたいにがっちり。
それから、ほっぺたにキスした。
真っ白でちょっと固くて、ウエーブしていて不思議な感触の髭《ひげ》だった。
ふうん。ソクラテスの髭ってこんな風合いだったのか、って思った。
と、まあこんな具合の十日間があっという間に過ぎた。そりゃあもうとてつもないすったもんだがありました。歌ったり、踊ったり、泣いたり、喧嘩《けんか》したり……。祭りの始まりと終わりが一気にやってくる、そんな感じだった。期間限定の本当に本当の夏のお祭り。乱痴気騒ぎもいいとこだった。
自分の人生には絶対に有りえないと思えるような、映画みたいな恋だった。
帰国の日、ランブロは私をアテネ空港まで送ってくれるのだけど、そのときに彼が言ったのだ。
「君はギリシャの女はみんなきれいだって、言ってた。だけど、ギリシャの女にないものを君はもってる。人生は短いんだよ、自分のもっていないものを欲しがっていたら終わってしまう。自分がもっている良いところだけを見つめて、それを磨いて生きていけ」
ギリシャ人の男というのは、めちゃくちゃコミュニケーションスキルが高い。
とにかく、女の言葉に言葉で応戦できる。こっちが納得するまで説得をやめない。そんな男に出会ったのは生まれて初めてで、本当に楽しかったし、これが恋なんだな、っていう恋だった。とことん語り合った。
絶対に言葉で説明することを諦《あきら》めない。女に口ではかなわない、なんて態度をとらないのがギリシャ人だった。
茫然《ぼうぜん》としながら日本に帰って来て、でも、わりと簡単に胸のせつなさは消えてしまった。だってどうしようもないもの。ひと夏の恋だし。旅情よ、旅情。
ただ、なんだか私はもう少し、お祭り気分で生きていくのもいいかな、って思い始めていた。まだギリシャ人と恋愛できる私って、ヤルじゃん、みたいな感じかな。
そして、その翌年に、生まれて初めて『コンセント』という長篇小説を書き、作家としてデビューして現在に至る……というわけだ。
処女作の『コンセント』は、いろんな人の助けを借りて誕生した。私は自分が小説を書いて作家になるなんて、子供を産んだときは夢にも思っていなかった、というよりは、そんなことは夢の話だと思っていた。なにより骨盤が開いて、体全体が下がっていて、ヤル気がなかった。人生へのヤル気というよりも、男とヤル気がなかった。
しかし、女というのは男とヤル気をなくしたら、すべてにおいてヤル気がなくなるんじゃないだろうか。少なくとも私はそうみたいだ。
ギリシャに行く前と、ギリシャから帰った後の写真があるのだけど、見比べてみると全然違う。なんだかすっきりした体に見える。寺門先生にそのことを話したら、
「そりゃあだって、ヤル気のある女の体は骨盤が閉まってますから、ぐっとこう体全体が上がっててシャープになるんですよ。それがね、男にはわかるから、そういう女は口説いてみたくなるわけです」
でも、私はギリシャに行ったときは骨盤なんか全開だったんだよな。それなのにどうして? と思って、ハタと気づいた。実はランブロは三年前に奥さんと離婚していて、自分に男として自信がもてないと言っていたのだ。つまり、女として自信がもてない骨盤の開いた私と、男として自信を失っている骨盤の開いた男が出会ったわけである。
寺門先生|曰《いわ》く、
「骨盤の開いた男は、骨盤の開いた女のほうが相性が合うんです」
とほほ……。類は友を呼ぶ、ということか。ロマンチックじゃないなあ。でもまあ、それもよしとしよう。ロマンスなんてのは幻想だ。現実には男も女もやるせなくしがらみを抱えて生きている。それでも出会い、恋をするという祭りはすごい。少なくとも私に力を与えてくれる。
私はランブロに会って、変わったと思う。
その変わった私だったから小説が書けたのだ。いや「小説を書いてみませんか?」と依頼されたときに「書きます」と言えたのだ。
もし、骨盤全開状態のだらんとした私だったら「でも〜、やっぱり〜、だめかも〜」と、逃げていたかもしれない。
ギリシャで拾ったような、後半の人生だから、私はかえって開き直れた。
『コンセント』という小説は、映画化もされて、私の世界をさらに広げてくれたけれど、世界が広がっても、私は私という老いていく体をひっさげて一人で歩いていかなくちゃならない。
とぼとぼと歩いている私を強引に引き止め、変えてしまう力をもつのは、今のところはまだ「恋」だけである。
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あとがき ―― 「幸」の力
本を作るときに悩むのは「タイトル」である。
今回のこの本のタイトル「ハーモニーの幸せ」は、担当編集者の滝澤くんが考えてくれたものだ。最初にこのタイトルが送られて来たときに、私はちょっと渋った。
「あのね、私ね、幸せって言葉があまり好きじゃないんだよなあ」
そんなことを電話で伝えた。
幸せって、私にはよくわからないんだ。幸せって言葉を口にしたときに、なんとなあくちょっとだけ後ろめたさみたいなものが残る。それは私がヒネているからなのかもしれない。幸せを断言してしまうことへの罪悪感のようなものがいつもあって、大きな声で「し・あ・わ・せ」って言えない私がいる。
滝澤くんは「なるほど……」と頷《うなず》き、それから二人で新しいタイトルを考え始めた。
いろんなタイトルの候補があがった。だけど、なぜかピンと来るものがなかった。
「あまりにも手垢《てあか》がついちゃってる感じがするのよねえ、幸せって言葉は」
「そうですねえ。でも、ハーモニーも微妙な言葉ですよね」
「ハーモニーは微妙だね、甘ったるいんだけど、でも、なにかそそられる言葉だね」
「ハーモニーも使い方しだいではそうとうダサダサですよね」
「うーん。ハーモニーと幸せがくっつくと、もうなんか田口ランディじゃないような」
「そうですか?」
「私って、もうちょっとエグい芸風だと思わない?」
「たしかに……」
みたいなやりとりがあって、たくさんのタイトル案が提出されたのだけれど、どうにも別のタイトルが思いつかなかった。
そのうちに、私のなかである変化が起こった。
「ハーモニーの幸せ」でも、いいか……。
そう思い始めたのである。これも悪くないじゃん。
それは断じて、考えることに飽きたとか、考えることに疲れたとか、そういう後ろ向きな感情による結論じゃない。
ずっとずっと、このタイトルを眺めていたら、やっぱりこの本にはこのタイトルが一番しっくりするような気がしてきたのだ。
「滝澤くん、やっぱり、一番最初に戻ろうか?」
私が電話すると、滝澤くんは「え?」と言う。
「いいんですか? ランディさん? 幸せでも?」
「うん、なんか幸せでもいいような気がしてきた。どうしてかな。幸せについて妙にこだわっている自分そのものが、なんかイヤになってきた」
「はあ?」
「ハーモニーは快感なんだよ」
「そうです」
「ハモるときって、鳥肌立つんだよ」
「ぞくぞくします」
「なぜだろうね?」
「わかりません」
「私もわからない。でも私はいま一番、ハーモニーの幸せについて、伝えたかったんだと思う。ハーモニーの幸せは、お金がたくさんある幸せとか、美人であることの幸せとはちょっと違うものなんだ。誰かといっしょにならないと感じられない快感、誰かとわかちあわないと手に入れられない幸せなんだよね。そのことを伝えたかったんだ。幸せにもいろいろあるんだ。たくさんある幸せのなかで、私がいま一番伝えたいのが、ハーモニーの幸せなんだ。それでいいと思った」
というわけで、紆余《うよ》曲折あったけれど「ハーモニーの幸せ」は完成した。
「ランディさん、新刊出るんですって?」
「うん、『ハーモニーの幸せ』ってタイトルなんだけどね、きゃはは。ちょっと今回はロマンチック路線でさ」
やはりこのタイトルを口にするとき、私はちょっとだけ照れ臭い。幸せと臆面《おくめん》もなく言う自分の傲慢《ごうまん》さにうつむいてしまう。
それくらい、幸せというのは、奥深いものなのだ……と、改めてこの本を作ってそう思った。
そうだ、幸せは奥深いのだ。とてつもなく奥深いものなのだ。
なぜ「幸せ」という言葉に手垢なんかついちゃったんだろう。
「幸せ」の力を、もう一度|蘇《よみがえ》らせたいと思う。
ほんとうに心からそう思う。
わたしは、幸せの本当の力を、見失ってる。
だから、自分のためにこの本を書いたのかもしれない。
二〇〇二年七月五日
[#地付き]田口ランディ
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文庫版あとがき
わたしにとって、宝物のような美しい思い出を題材にして、このエッセイ集の文章を編みました。こうして文庫本になって、またたくさんのひと達に読んでいただけると思うと、とてもうれしくてどきどきしてしまいます。
バリ島での出来事、佐藤初女さんとの出会い、台湾の不思議なタンキーたち。いろんな方々と過した夢のような日々も、いつしか過去のことになっていく。あたりまえのことだけれど、本当に日々は止まることなく過ぎていきます。
日常の雑多なことごとに追われていると、かつて旅したことも、出会った人も、遠い記憶の彼方《かなた》に追いやられて、見失ってしまいそうになる。
それが悲しくて、きっと言葉にして残そうとするんだろうな。わたしの場合はそう。カメラをもって旅をしないので、写真の代わりに言葉で世界を切り取って、本というアルバムのなかに残そうとしているのだと思います。
まあ、誰かの旅のアルバムなんて、見せられても「なんだかな〜」って感じかもしれないけれど、読んでいただいて、そのときどきの空気や匂いをいっしょに感じていただけたら幸いです。
文庫化にあたっては、宮永リサさんにすてきなイラストを描いていただきました。また、編集を担当してくれた角川書店の滝澤さん、陸田さんにも、心からお礼を申し上げます。
二○○四年十月二十三日
[#地付き]田口ランディ
角川文庫『ハーモニーの幸せ』平成16年11月25日初版発行