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オクターヴ
田口ランディ
目 次
1st day 精霊のいるホテル
2nd day 聖地へ
3rd day サンヒャン・ドゥダリの村
4th day 魔術師の村
5th day 浄化の雨
6th day ゼロになる日
7th day 再生
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1st day[#「1st day」はゴシック体]
フロントガラスに濃い闇が張りついていた。真ん中に一本、白い包帯のような道路が伸びている。その白い筋をたどって私はどこかへ移動している。見知らぬ男の車に乗って。ボリュームを絞ったラジオの曲が暗い車内に淀んでいく。インドネシアの歌謡曲らしい。調子っぱずれの甘ったるい歌。ぜんぜん好きな音楽じゃなかった。
「ご職業は?」
いきなり聞かれて、一瞬、とまどった。
「失礼だったらお詫びします。人の職業に興味があるんです。ほんとうにいろんな仕事をしている人が、たくさんいるから」
たしかに、何をして生きているかを知ることは、その人間を知る近道かもしれない。もちろん私の職業は別に隠し立てするほどのものでもない。
「フリーライターです。雑誌やPR誌に文章を書いています」
男は「ほう」と、嬉しそうに横目で私を見た。この反応には慣れてはいるけれどいつも少し傷つく。多くの人がマスコミの仕事に華やかなイメージをもつけれど、私の仕事はとても地味。美味しくて安い焼き肉屋の紹介とか、化粧品の効能とか、そんなうんざりするほどつまらない記事を書いているだけ。
「この島には、世界中からたくさんの作家がやって来ます」
ほら、やっぱり誤解している。
「私は作家じゃありません。そんなたいそうなものじゃないんです」
気まずい沈黙が流れた。男は困ったように「失礼」と言った。
「それで、バリにはどれくらい滞在なさるんですか?」
「一週間ほど」
「そりゃあいい。観光ですか?」
この質問で、彼は何も知らされていないのだとわかった。
「まあ、そんなものかな」
どこをどう走っているのか、さっぱり見当もつかない。昼に成田を発って、空港に着いたのは夜の十時を過ぎていた。温度差と疲れのせいだろうか、ひどく身体がだるい。申し訳ないと思いつつ話す気にもなれず、できれば後部座席にごろんと横になりたかった。
「身体がこの島の湿度に慣れるまで、少し辛いでしょう?」
湿度。そうだ湿度が高いのだ。いったいこの車はクーラーは効いているのかしら。毛穴から汗がしみだしてくる。座りっぱなしだったから汗もねっとり濃い気がする。
空港に降りたら「Oda」という男が待っている。その男がホテルまで送ってくれる。何か頼みたいことがあったらなんでも「Oda」に相談するといい。手紙には英語でそう書いてあった。
「オダさんは、バリ島は長いんですか?」
目鼻立ちのくっきりしたオダは、陽に焼けていてバリ人のように見える。でも、これだけ流暢に日本語を話すのだから、たぶん日本人なのだろう。
「いえ、バリに来てまだ二年です。僕はこっちの大学に留学してるんです」
とても学生には見えない。たぶん口髭のせいだ。
「なんの勉強をしているんですか?」
「この島の生態系についてです。厳密に言えばバクテリア、菌類と生態系の関係を研究しています。といっても僕はもともと美術を専攻していて、最初はこの島のダンスや芸術史に興味があって来たんです。でも滞在するうちに興味の範囲が自然科学の方に移ってしまった」
さらに質問してもとうてい自分には理解できないような気がした。それに、頭を使うには私は疲れ過ぎていた。しばらく黙って車の振動に揺られていた。ある地点から突然、道が悪くなった。腰が上下にがくんがくん揺れる。舌を噛みそうだ。
「もうじき着きますよ」
そう聞いたとたん、怖くなる。新しい状況を受け入れるのがとても苦手だ。これからどうなるんだろう。なんでこんなところまで来てしまったんだろう。私はいったい何をしているんだろう。なけなしの貯金をすっかりはたいてしまった。仕事も強引に休んだ。一週間後に東京に戻っても、もう、私に仕事をくれるプロダクションはないかもしれない。代わりのライターなんていくらでもいる。一度仕事を断ったら二度と連絡をくれない編集者も多い。もともと病気がちで不安定な私に仕事をくれる会社は少なかった。きっと見捨てられる。思わずため息が漏れた。
「いま、悪い考えが取り憑きましたね?」
フロントミラー越しに、オダの目が笑っている。
「バリに来ると、最初は少し具合が悪くなる人がいます」
「どうしてですか?」
「なんでしょうね。実は僕もそうだったんです。負けてしまうんだと思います」
「負ける?」
「そう。この島の空気というか、雰囲気というか、そういうものに。あまりに力強いので、それに自分が負けてしまう。人間は世界とせめぎあいながら生きていて、だいたいいつも引き分けています。ところがバリに来ると負け込むんです。そうすると、少し、生きる力が後退するんです」
私はいま、負けているのか。そうかもしれない。東京にいたってギリギリで引き分けていたのだ。かなり苦戦していた。だとすればバリに来て負けてしまうのは当然かもしれない。
「ずっと負けっぱなし、ってことはないの?」
ずっと負け込んだら、どうなるんだろう。
「それはないと思いますよ」
「どうして?」
「たぶん、そのうちに勝つことを諦めるから」
車が止まった。
「着きました。ホテル・チャンプアンです。歴史のあるいいホテルです。ただし、シャワーのお湯は出ないことが多いけど」
闇のなかに白いホテルが浮き上がっていた。背後に獣の声がした。オダは手早くトランクから荷物を運んでいる。聞かなければいけないことがある。とても大切なこと。でも、それを聞くのが怖い。
「オダさんは、ミツコを知ってるんですか?」
オダは一瞬、動作を止めた。まるで前世のことでも思い出しているように、オダの視線が曖昧になって、それからようやく私を見た。
「あなたは、ミツコの、知りあい?」
頷くと、オダは少し困った風だった。
「だったら、その話は、明日にしましょう。今夜はもう遅い。明日の予定は?」
なにもなかった。私はただ、教えられた通りに飛行機に乗ってバリにやって来ただけだ。
「僕は、日本からスズキマホという女性が来るから迎えに行ってほしいと頼まれただけなんです。あとは彼女の望むようにアテンドしてあげてほしいと……」
オダもうまく事態が飲み込めない様子だった。私はとても苛立っていた。ここでオダと別れたら、二度と会えないように思えた。オダが明日来なかったら、それまでだ。私はこの島でたった一人になる。
「私は、ミツコを探しに来たんです。ミツコに会いたいの」
一人にしないで。私を見捨てないで。涙が出てきた。緊張していたのだ、ずっと。そのことを自分にも隠していた。私にとってこの旅行は初めての海外旅行、そして初めての一人旅だった。旅行なんてそんな恐ろしいこと、絶対にしないと決めていたのに……。ほんの少しほつれただけで、張りつめた糸はからまったままとりとめもない。私はどんどんこんがらがっていく。頭の中が糸でぐちゃぐちゃになる。
「ごめんなさい、ちょっと疲れていて。仕事で寝てなかったりしたから」
オダは落ち着いた様子だった。
「わかります。とにかく今夜はゆっくり休んで下さい。明日、九時三十分に迎えに来ます。それから今後のことを相談しましょう」
子供のように抱きかかえられて車を降りた。
オダが荷物を運びチェックインをしてくれている間、私はホテルの野外ロビーでぐったりと籐のイスに座っていた。蒸し暑い。サウナにいるみたいだ。ホテルの裏に広がる熱帯雨林からむんとした植物の匂いがわき上がってくる。たくさんのものがぎゅうっと詰まっているような闇だった。いったいこの闇のなかに蠢いているものはなんだろう。その数知れない生き物の熱気がこの島全体を覆っている。そう感じた。
本当にバリに来たんだ。私はバリ島にいるんだ。
そう自分に言い聞かせてみるのだけれど、まるで現実感がなかった。自分が生きていないような気分。夢うつつでなにも考えられない。精気が抜けていく。
なるほど、この島では人はこうして負けていくのだな、と思った。
*
オダの言う通り、お湯は出なかった。
私はしょぼしょぼとしみったれて流れ出る冷たい水を身体に浴びた。木造のコテージの部屋は広くて、石の床は冷たくて、私の手足はすっかり冷えてしまっていた。高い天井から巨大なファンがぶら下がって回っている。屋根はピラミッドのような三角形だった。たぶんこの三角屋根がこの島の建物の特徴なのだろう。
東京のアパートの低い天井に慣れているので、あまりにも高い頭上の空間は、なにか私を不安にさせた。上から誰かに見下ろされているような、そんな気がするのだ。
バリ島に行くと言ったら、知りあいのカメラマンが怖い話をしてくれた。
「友人がバリに行ってホテル・チャンプアンに泊まったんだ。その友人は普通の女の子だよ。霊感があるとか幽霊をよく見るとか、そういうタイプじゃない。本当に今風の普通の子なんだ。ところがね、夜中にベッドに寝ていたら、天蓋の上になにかがどすん、どすんと落ちて来る。屋根じゃないぜ、ベッドの天蓋なんだ。そこに小さな生き物が繰り返し落ちてくる。まるですべり台で遊んでるみたいにね。その音がうるさくて眠れないほどなんだ。起き上がって正体を確かめようかと思ったけど、怖くて天井を見れない。フロントに電話して事情を説明したら、バリ人のフロントマンは『ああ、あれね』ってな対応だった。部屋を替えてもらったら音は止んだ。あれは何なの? って従業員に聞いたら、精霊だって答えたそうだ。精霊だぜ。しかもホテルに住んでる」
友人のアドバイスに従って、私は精霊のいるらしいホテル・チャンプアンを予約した。確かにベッドにはお姫さまの部屋のような天蓋がついていた。この天蓋の上に落ちてくる精霊……。私は映画「グレムリン」のギズモを想像していた。
「バリには本当に精霊がいるらしいよ。なにしろあの島はマジックの島だからね。別の友達は、バリのホテルで仮面を着けた精霊の行列を見たそうだ。部屋の中を百鬼夜行みたいにバロンダンスのお面をつけた精霊たちが、通り抜けて行ったんだってさ」
彼は冗談で私を怖がらせようとしたのかもしれない。でも、私はお化けとか幽霊とか精霊とか、そんなものを怖いと思ったことは一度もなかった。もし精霊がいるのなら見てみたかった。私が怖いのはもっと別のなにかだ。生きている人間の視線だったり、水洗トイレの水音だったり、尖りすぎた鉛筆の芯だったり、そんなものだ。旅行も苦手だ。というよりも、医者から止められていた。かつて止められていて、それから一度もしていない。だから、この旅行でまた発病しないとは言いがたい。薬だけは大量にもって来たけれど、発作は突然やって来る。安定剤では防ぎようもない強引さで襲ってくる。ミネラルウォーターの栓を開けて、私はいつもより多めに薬を飲んだ。
バッグの中から iPod を取りだす。すると一緒にパラパラと三枚の絵ハガキが落ちた。一枚ずつ拾い、それを丁寧にライティングデスクの上に並べた。
大判の厚い紙の絵ハガキで、たぶん土産物屋の店頭に長いこと並んでいたのだろう。すっかり色が褪せている。差出人はミツコだ。
一枚の絵ハガキにはバリのジャングルの絵が印刷されている。
ダーク・グリーンの密林にはぎっちりと熱帯植物が描き込まれていた。その中には奇妙な動物や人間や鳥も混じっているが、生き物もジャングルと一体化しているように見えた。この絵を見ていると息苦しくなる。肺のなかに密林の植物が転写されてしまう。
もう一枚はダンスを踊る二人の少女の写真だ。
たいまつの炎に照らされているのだろうか。身体が赤く染まっている。たぶん十四、五歳だろうけれど、少女たちの表情は天使のようにも悪魔のようにも見える。この世の存在ではない、そんな目をしている。どこか別の世界につながっている空洞のような目だ。同じように細いからだをくねらせて、腕を高く上げ、まるで操り人形みたい。
最後に届いた一枚は美しい花の写真だった。
密林に咲く花だろうか。ピンクの花びらに青い蝶が止まっている。青い蝶の羽には黒い斑点。美しいけど、なんだか不吉な感じのする写真だ。私は子供の頃から蝶々が怖い。蝶の不規則な飛び方を見ていると不安になってしまう。蝶が飛んでいる道を横切ることができなくて、学校に遅刻したことがあった。真っ黒な蝶が上がったり下がったりしながら飛んでいたのだ。まるで私のことを誘っているようだった。私は蝶がいなくなるまで動けなかった。蝶はいつまでも木立のなかの小道を行き来していた。なぜあんな小さな蝶が怖かったんだろう。さすがにいまは平気だけれど、好きな生物ではない。
それぞれの絵ハガキには、たぶんバリ語なのだろう、私には読めないけれど、簡単な地名が記してあった。ミツコは気ままに旅をしながらバリ島を楽しんでいたのだろうか。
裏には青いボールペンで、短いメッセージが書かれている。筆圧の強い子供のような筆跡は、間違いなくミツコのものだった。最後の消印は二〇〇五年の九月。ちょうど半年前だ。私はかわるがわる三枚のハガキを手に取っては眺め、紙に刻まれたミツコの存在を感じようとした。でも、うまくいかなかった。
ミツコは三枚目の蝶の絵ハガキを最後に消息を絶った。
いや、正確にはもっと前からミツコは消えていたらしい。私は知らなかったが、ミツコは一年半前の冬に突然いなくなったのだと聞いた。たくさんの約束は一方的にキャンセルになった。部屋は引き払われ、携帯電話も繋がらない。誰も失踪の原因がわからない。もともと不思議な子だったから、いつもの気まぐれかもしれないと皆が思い込もうとした。でも、もし気まぐれだとしたら、それでミツコが失ったものはとても大きかった。ミツコは音楽家としてのメジャーデビューを目前に控えていたし、作曲家としても注目され初めていた。それなのに、すべてを捨ててどこかに消えたのだ。
しばらくしてから、ミツコはバリ島にいるらしいという噂が流れた。なんとなく、それもまたミツコらしいと言ってみんなは納得した。ミツコなら小鳥のようにバリ島まで飛んで行ってしまいそうだった。そして、その島に生まれた人のようになにげなく生活のなかに溶け込んで、あのおかっぱあたまで口笛を吹いて歩いていそうだ。名誉とか、名声とか、そんなものは自分には関係ありませんって、そんな顔をして笑っていそうだ。
ある日、ミツコから私あてに絵ハガキが届いた。なぜ、私に? と思った。
もちろんミツコは私にとって特別な存在だったけれど、私がミツコにとって特別な存在だったとは言い難い。私なんか、ミツコにとっては、そうね、道端の蟻みたいなもの。謙遜のしすぎだと言われそうだけれど、実際にそうなのだもの。いじけているわけではない。たぶんミツコにとっては自分以外の多くの人間が自分よりも下等に見えたのではないかしら。私はミツコをよく知っている分だけ、自分がどれほど彼女より劣っているかわかる。
なんにせよミツコが生きていたことは喜ばしいことだった。私はとてもほっとした。ほんとうは心のどこかでミツコは死んでしまったんじゃないかと感じていたのだ。たぶん、音大時代の友人たちも、口には出さなかったけれどそう思っていたはず。ただ、言葉にするのが怖いから、笑って他愛ない噂をしゃべっていただけだ。悪い予感を口にしたとたん、それが現実になってしまいそうなほどミツコの失踪は謎だったのだ。
ミツコの作曲したピアノ曲は、あるテレビ番組の主題歌に内定していた。番組の放映が始まれば、間違いなく話題になるだろう。ミツコの音楽には聴く者の心を魅了する不思議な力がある。それは、ミツコを知る者が誰でも感じ嫉妬する才能。もし、天才という人たちがこの世に存在するなら、たぶんミツコはその一人。ところが、ミツコは消えた。なぜ。こんなチャンスをどうして棒に振るのか。でも、まあいい。それはミツコの勝手だ。
私に送られてきた三枚目の絵ハガキを最後に、ミツコは正真正銘、行方知れずになった。それは、彼女の母親からの電話で知った。母親は泣いていた。連絡が取れない、すでに警察に捜索願いを出したと言った。
「でも、どうやって探せばいいんでしょうか。あの子は外国に行ってしまったようだし……」
ミツコが連絡を取っていた相手は母親と、どうやら私だけのようだった。母親からの電話を聞きながら私は驚き、そして嬉しかった。だってあのミツコが、この私にだけ秘密を分けてくれたのだ。とても得意な気分だった。信じられる? ミツコが住所を書き送って来ていたのは私にのみ。私の手元には、たぶんそこにミツコが滞在していたであろうバリ島のアドレスが残されていたのだもの。
私は絵ハガキをしまい、ベッドに潜り込みイヤホンを耳に詰め込んだ。
ゆっくりと、聞きなれたピアノ曲が流れ始める。
「NOWHERE」
この曲はミツコが私のために作ってくれたもの。気分がすぐれないときに、この曲を聞くと私はとても楽になれる。
ミツコの指先が鍵盤に触れると、その鍵盤はミツコの音を出す。ミツコはそういう天与の才能をもっていた。どんな鍵盤もミツコが触れるとミツコの音になってしまう。それがなぜなのか私にはわからない。ミツコが弾くピアノはミツコだけの音を奏でる。私が知っているのはその事実だけだ。そして、その音は私にとって救いだった。
薬が効いたのか、音楽のせいなのか、眠気が襲ってきた。
私はイヤホンをはずして枕を抱き、うつぶせになった。子供の頃から私はうつぶせにならないと眠れない。シーツをすっぽりと頭からかぶって、自分の回りに膜を張る。
眠れば、とにかく今日は終わる。そして押しだされるように明日になる。
またふと、東京の自分の部屋のこと、その部屋にカギをかけただろうか、ガスの元栓を閉めただろうかと不安になる。さらには、点滅している留守録のシグナル、そこに吹き込まれているであろう仕事の依頼のことなどが、頭をよぎる。
悪い考えは、バリに来たからではなく、私の人生の大半を占めてきた。それはやっかいな居候のようなもので、がまんすれば無視できるが、時として私をひどく陰鬱な気分にさせる。
ふと、オダの言葉が蘇ってきた。
(そのうちに、勝つことを諦める)
私は勝とうとしているんだろうか。戦っているんだろうか。でも、もし戦うことをやめたら、私はきっと滅ぼされ、生きていくことをやめてしまうだろう。だから戦ってきたのだ。私はずっと戦ってきた。そうだった。長い長い間、この戦いは私のなかで続いている。そのことを、ただ一人、理解してくれたのは、ミツコだった。
でもなぜだろう。ミツコについて思い出そうとすると、胸苦しくなる私がいる。心のなかに鉛色の城壁があって、ミツコはその奥にいる。ミツコ、ミツコ、名前を呼びながら城壁の回りをあてもなく歩いているうちに、私は眠りに落ちていく。
遠くから祭囃子が近づいてきた。
暗い緑の木立のなかを、娘たちが歩いてくる。
頭にカゴを乗せている。みんないろとりどりの鮮やかな服を着ている。きれい。まるで森のなかに落としたジェリービンズみたいだ。
一列に並んで、シダを踏んで歩いていく。どこへ行くんだろう。森は濡れてる。霧、それとも雨……。網膜に染み透るような緑の木々。
娘たちの一番最後に、ミツコがいた。
ミツコだけ、白い服を着ていた。振り向いて、ミツコがこちらを見る。私は驚いて羽ばたく。
私は鳥になった。視線という鳥。
ミツコはそのまなざしで、私を追い払う。私は慌てて飛翔する。空とジャングルがぐるぐると回転する。祭囃子が木々のなかにこだまする。ミツコが見ている。ミツコの目のなかで私は回っている。まなざしに捕らえられた鳥。ミツコの黒目と白目のはざまを不安定に回旋する。音と色が空に溶けていく。緑、赤、黄色、娘達の褐色の肌。音と色が反転する。その瞬間に私は虫になる。
螺旋状の殻をもつ、耳という虫。
すべての色が音になり、螺旋の薄い膜を通して体内に流れ込む。
音に同調して、私の思考は混線する。不規則な幾何学模様が空間を満たしていく。
いったいこの音楽は、何拍子だ。和音が幾重にも連なる。
共鳴するたくさんの音、音、音。
なんという不安定な音。ちぐはぐなリズム。
ドの#、ラ、レ……違う。ミの♭……違う。
ソ、ファ#、シ♭……。違う、違う、違う。
音を追いかけているうちに、私はしだいに眠りの水底から浮上した。
眠ったのだ。そして目覚めたのだ。
シーツの感触が違う。ここはどこ。
ほんの数秒、自分がどこにいるのかわからなかった。ああそうだった。私はバリ島に来ていたんだ。目を開けて寝返りをうつ。天蓋の白いレースが見えた。精霊なんかいない。カーテンのすき間から弱い明かりが差し込んでいる。じっとしていると、夢のなかの奇妙な祭囃子が聞こえている。
夢ではなかったんだ。
いったい何時だろう、バリではこんな早朝からお祭りが始まるのかしら。それともうっかり寝過ごしてしまったのか。ふいにオダとの約束を思い出して怖くなる。約束の時間に遅れたらオダとはもう会えない。慌てて飛び起きる。そして耳を澄ます。
聞こえる。窓の外だ。私は冷たい床に足を下ろした。それから音の方向へとゆっくりと歩いた。カーテンを開けると、デッキに面したガラス扉の向こうは夜明けだった。カギを開けて、外に向かってせり出したオープンデッキに下りる。外気はぬるく湿り気を帯びていた。
眼下に広がっていたのは、初めて見るバリの風景。夜明け前の群青の空。滴るような緑のジャングル。見渡す限りの熱帯雨林。世界を埋め尽すような植物の群れ。まだ太陽は山の影に隠れていて、鬱蒼とした深緑の谷に、無数の鳥の声がこだましている。
祭囃子と思ったのは、鳥の声だった。
まるで演奏前のチューニングをしているオーケストラみたいだ。でたらめでいて美しい密林の不協和音。高音で長く歌う鳥、低音で咽を鳴らす鳥、ホウホウと息遣いを繰り返す鳥。鳥たちの合間に絶妙のタイミングで蛙や、虫たちの鳴き声が混じる。地鳴りのような呻き。耳鳴りのような高音。そうかと思えばふいにヤギや、犬の鳴き声が即興のように挟まれる。
しだいにそれぞれのパートが固定して、奇妙な繰り返しの続くフーガとなる。その声はどんどん強く、大きく、増殖し、反響し、天上から降り注ぐ。重なりあう鳴き声は倍音となって、森全体にうわんうわんと渦巻いていた。
日の出が間近いらしい。空が充血してきた。
ぞくぞくと鳥肌が立ってきた。ものすごく空気が濃い。そういえば夜明け前の一瞬、植物は大量の酸素を大気中に吐きだすのだと聞いたことがある。今がそうなんだろうか。木々は朝の訪れを予感し、激しく呼吸をしているんだろうか。それに呼応するように、生き物たちも興奮し、濃い空気に感応しているのか。
さらに、歌声は大きくなり、この森に棲むすべての生き物が、朝を祝福しているようだった。それぞれのパートは完璧だ。鳥も、蛙も、虫も、牛も、犬も、みな自分の音を知っている。そう思えた。
しだいに空は、狂おしいほどのバラ色に染まっていく。まるで受胎だ。光が闇を孕ませて、今日という日を生む瞬間、それが朝。永遠のように繰り返される無数の鳴き声。その音の渦がまるで太陽を押し上げている。朝は、森羅万象の生命の大合唱によって生み出されていた。
ふと、歌が止んだ。
まるで、世界が止まったみたいに一瞬だけ、すべての生き物の声が消えた。
次の瞬間、山の端から一筋、太陽の光が踊るように漏れ射した。
儀式は成功したんだ。太陽は今日も昇ったのだ。
この日、生まれて初めて太陽に祈った。
バリには、本当の音楽がある。
ミツコのハガキに、そう書いてあった。
バリには、本当の音楽がある。
あなたにも、そのうちわかる。
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2nd day[#「2nd day」はゴシック体]
「食欲がないですね」
ダイニングで、朝食後のコーヒーを飲んでいるとオダがやって来た。
バリ語らしい言葉で、給仕に何かを注文すると、私の前の席に腰を下ろす。明るい場所で面と向かうと確かにオダは私よりもずっと若そうに見えた。トカゲの模様のバティックのシャツに、バリ人のような腰布を巻いている。それが妙によく似合っていた。
バイキングで選んだソーセージや卵を、私はあらかた残していた。食べられると思ったのに、口に運ぶとちっとも食欲がわかず、なにかムカムカした。この気温と湿度のせいなのか。あるいはオダの言うように、バリの空気に負けているのかもしれない。
「バリ時間はたいてい三十分遅れだと聞いていたけど、オダさんは違うんですね」
時計はまだ九時二十分だった。
「まあ、通常はそう思っていれば間違いないです」
オダの前にコーヒーが運ばれてくる。
「ゆうべは、よく眠れましたか?」
眠れたような。眠れないような。
「朝、鳥の声で目が覚めて、それで日の出を見ました。あんな日の出は初めて見たので、ちょっとびっくりしました」
「ああ、バリの夜明けは素晴らしいですからね。一斉に鳥や生き物が鳴きだす」
「夢のなかに、ミツコが現れて、それで起こしてくれたんです」
オダは何も答えなかった。
「スズキさんは、ミツコとはどういう知りあいですか?」
私は「マホと呼んでください」と彼の言葉を遮った。
「では、マホさん、あなたはミツコとは……」
「大学時代の友人です」
「ほう」とオダは胸の前で手を組んだ。彼の癖のようだ。
「私もミツコも、同じ音大に通っていました」
ピアノレッスンのガイダンスで、初めてミツコを見た日のことを思い出す。ミツコは痩せていて、小柄で、あどけなくて、それでいて狡猾な陰りのある目をしていた。まるで……絵本のなかの小人の妖精みたいだった。
「私たちはピアノを専攻してました。ミツコは、とても才能のあるピアニストでした。そのことは初めてミツコのピアノを聴いたときにすぐわかりました。ミツコがピアノを弾こうと、ピアノの前に座り、息を吸い込んだ瞬間に、もうその場の空気が変わってしまうんです。なにかとても神聖なものが部屋に満ちてくる。おしゃべりに気を取られていた者までなぜか黙ってしまう。ミツコが身構えた瞬間に、周りの人間まで別の場所へ連れて行かれてしまうんです。ぞくぞくしました。音楽の神様が降りるってこういうことなんだ……って。小さくて子供みたいなミツコが、一瞬で世界を止めてしまうんです。ああいうのを才能って言うんだと思います。私には、ピアノの才能はありませんでした。だから、ピアニストの道を選ぶことはしませんでした。ミツコは大学にいるころから、自分の音楽活動を始めていました。曲を作ったり、小さなライブ・コンサートを開いたり。ミツコを知る人は、きっとミツコは近い将来、音楽家として世に出るだろうと思っていました。だけど、ある時、ミツコは消えてしまいました」
「それは、なぜですか?」
それは、私が知りたいくらいだ。
「わかりません。私はそのころはもう就職していました。最初は大手の楽器会社の音楽教室にピアノ教師として就職しました。だけど、ピアノを教えることがとても苦痛で、すぐにやめてしまいました」
ピアノ教室にやって来る母親たちが耐えられなかったのだ。彼女たちは自分の子供に絶対音感を授けようと必死だった。それがあれば音楽家になれると錯覚していた。まるで私の母のように。
「私に文章を書くことをすすめてくれたのはミツコです。それまでも、私はミツコの曲に自分で詩をつけたりしていたんです。その詩をミツコはとても気に入って、私に文章を書くことをすすめてくれたんです。あなたには音楽を理解し、それを言語化する才能があると。ミツコは私を『サリエリ』って呼びました。あなたは『最高の理解者だ』って」
「サリエリ?」
「映画『アマデウス』のなかに登場する音楽家です。ご覧になったことありますか?」
原作はピーター・シェーファーの戯曲だ。オダは「いや、知りません」と首を振った。
「モーツァルトの映画です。サリエリは凡人で音楽の才能はあまりないんです。でも、なにがすばらしい音楽であるか、それを聞くことのできる耳をもっている。審美眼はあるけれど才能のない人。それがサリエリなんです。サリエリはモーツァルトと出会い、彼が天才であることを直感します。それゆえに彼の才能を激しく妬んで、嫉妬のあまりにモーツァルトを死にまで追いやってしまうんです。そして神様を呪うんです。神よ、どうしてあなたはあの破廉恥なモーツァルトに偉大な才能を与えて、これほどにあなたを敬い音楽を愛する私にはその才能を与えず、音楽を理解する力だけを与えたのですか……と」
「モーツァルトが死んでから、サリエリはどうなるんですか?」
「精神病院で発狂します」
こういうとき、オダはよけいな事を言わない。賢明な人だと思った。
「マホさんは、自分がミツコの言うようにサリエリだと思うのですか?」
私がサリエリ? それを聞いたらサリエリは墓場から蘇って怒るだろう。
「あれはミツコの褒め言葉だと思います。私にはサリエリほどの技量はありません。サリエリは宮廷音楽家として立派に成功してます。地位も名声も手に入れていた。でも、彼は本当に素晴らしい音楽が何なのかを知っていました。だから自分に満足できなかったんです。なによりも、自分で自分を許せなかったんだと思います」
「そういえば、アマデウスというのは、神に愛されし者……という意味でしたね」
そう。サリエリは音楽の神を愛してすべてを捧げたのに、神はサリエリを愛さなかった。愛したのに愛されなかった。だから、サリエリは神が愛したモーツァルトを殺したのだ。
「そういう意味で、ミツコはアマデウスだったのだと思います。彼女は天才でした。周りが理解しがたいほどの天才だったと思う。私はサリエリではありません。ただ、ミツコの音楽のことはわかりました。彼女の音楽は音楽というよりも、まるで……魔法なんです」
「魔法?」
「そう。ミツコの音楽は単なる音楽じゃない。力をもっているんです」
ミツコは、私のために曲を作ってくれた。私はその音楽にいまでも救われている。いとも簡単に、なんの努力もなく楽しそうに、ミツコは即興で曲を作るのだ。ほら、あなたにこの曲をあげる。これはあなたのために作ったのよ。自分がどこかに消えてしまいそうになったとき、これを聞くのよ。すてきでしょう、これは NO WHERE でもあり、NOW HERE でもあるの。どこでもない、でも、いまここ、なの。あなたにぴったりの曲でしょう。
ミツコの言う通りだった。この曲は私を引き止める。どこでもない私を、いまここに連れ戻してくれる。私の発作が止まったのは薬のせいでも、カウンセリングのせいでもない。ミツコがくれた曲のおかげだ。
「偶然というか、大学の先輩が勤めている音楽雑誌の編集部に空きがあって、私はそこに転職しました。二年ほど編集の仕事をしてから、独立しました。独立したというよりも、ちょっと身体を壊してしまって会社を辞めざるをえなかったというのが、正直なところです。でも、編集経験があったので、なんとかフリーになることができて、それで現在に至る……というわけです。ミツコが言うような言葉の才能も、私にはなかったと思います。とりあえず、なんとか生活していくくらいはライターとしてお金を稼ぐことができました。転職してから、本当に自分のことで精一杯でミツコとはまったく疎遠でした。彼女と最後に会ったのは……」
最後に会ったのは、いつだっけ。
「どうしました?」
思い出せない。まるで落とし穴に落っこちたみたいな気分。
「ごめんなさい、忘れてしまいました。それほど昔ということです」
ふうむ、とオダは腕を組んだ。
「わからないな。なぜ、ミツコは日本での音楽活動をやめたんでしょうか? そんなに才能があって、嘱望されていたのに」
「わかりません。ただ、人づてに聞いたのは、彼女はなんらかの理由で絶対音感をなくしたらしいということ……」
「絶対音感、ですか?」
「はい、子供の頃からピアノを習っていたりすると、絶対音感というのを獲得するんです。私ももってます。私にとっては無用のものだけど、とにかくすべての音が瞬時に音階のなかのどの音か理解できるんです」
「この世界のどんな音でもですか?」
「そうです」
「たとえばこの音とか?」
オダは目の前の水の入ったグラスをチンとスプーンで鳴らした。
「それはレの♭です」
「すごいな」
「だからどうってこと、ないですけど」
給仕がコーヒーのおかわりを訊ねるので、私は首を振った。
「それで、なぜマホさんがバリに?」
「彼女のお母さんから電話がありました。ミツコと連絡が取れなくなってとても心配だ、なにか心あたりはありませんかって。ちょうど海外で旅行者の女性が殺される事件があったらしく、しきりとミツコの身を案じていました。私もとても不安になりました。それで、思いあたる友達に電話してみました。だけど、誰もミツコの行方は知りませんでした。というよりも、まるでミツコになんか関心がないみたいに、誰もが冷たかったんです。いったいどうしたんだろうと思いました。ミツコは、大学時代からそれなりに目立っていて仲間内では有名人だったから、もっとみんなが彼女に関心をもって心配すると思っていたのに、行方不明になっていると言っても、そういえばそういう奴もいたなあ……という程度なんです。もしかしたら、私が知らない間に、仲間たちとの間でなにかトラブルがあったのかもしれません。それで、みんながミツコと関わりたくないのかもしれない。そう思いました。ミツコのバンド仲間や、かつてミツコを支援していた音楽関係の方達にも連絡をとってみましたが、ミツコのことはあまり記憶にないようでした。世の中って冷たいなあと思いました。あんなにみんな、ミツコの音楽を称賛していたのに。それで、私の方からもう一度お母さんに電話してみると、ミツコのお母さんまで、ひどく冷淡になってるんです。ああ、そういえばあの子どうしたかしらねえ。でも、いつもの事だから、またひょっこり帰って来るんじゃないかしら、そんな感じなんです。私は、なんだか怖くなりました。なんとなく、ミツコの影がどんどん薄くなっているみたいで、ミツコのことを覚えていてあげられるのが、私だけなんじゃないかという気がして。このままでは、ミツコがこの世から消えてしまうんじゃないかって、とても怖くなりました。それで、どうしてもバリに行かなくては、と思ったんです。ミツコがバリにいたことは確かです。だって、バリから私宛てに三通の絵ハガキが届いているから。どれもバリの消印です。最初のハガキの住所にミツコの消息を訊ねる手紙を送ったら、返事が来ました。ミツコが下宿していたという家の方でした。英語で書かれていて、とても短い手紙でした。ミツコに会いにバリに来るのならニュピの頃がいいだろうと書いてありました。そのときなら、もしかしたらミツコに会えるかもしれないと。そして、飛行機の便名が指示してあって、それは二日後でした。この飛行機に乗りバリに来たら、空港にオダという男性がいるから彼を頼るように……と。とても迷ったけれど、私は飛行機に乗りました。そうしたら、空港にあなたが私の名前を下げて待っていてくれたんです」
それから、保留になっていた質問をもう一度してみた。
「オダさんは、ミツコを知っているんですよね?」
オダは物思いに耽るように目を閉じた。
「たぶん、知っています」
私は息をのんで、次の言葉を待った。
「ミツコは、僕の、とても大切な友人でした」
まるで、亡くなった人のことを語るように、オダはそう呟いた。
それからふいに「行きましょうか」と立ち上がった。
*
デンパサールの市場は雨でぬかるんでいた。
オダは器用に人込みを縫いながら、狭い路地を歩いていく。私は足下にはね上げをつけないように気をつかいながら、オダの後を追った。
バリ独特の匂いがする。
「ここは、バリの匂いがします」
そう呟くと、オダが鼻をくんくんと鳴らした。
「どの匂いのことを言っているんだろう」
「なんだか、少し甘くて薬臭いような匂い。ずっとこの匂いがしている」
「それは、ココナツオイルの匂いかもしれません。鼻がいいんですね」
そんなことはないのだけれど、なぜかバリに来てからひどく匂いが気になってしょうがないのだ。
オダは壊れかけたコンクリートのビルの階段を登っていく。建物の中にはぎっしりと品物が詰まっている。靴、カバン、小間物……。ひしめきあうように物が積まれている。
「いったい何を買うんですか?」
オダは一軒の雑貨屋で小さなカゴを買った。そのカゴには見覚えがある気がしたけれど、いつ見たのか思い出せない。
「お参り用の小道具です。まずあなたをアグン山に連れて行くように言われています。だから、これからお参りに行く支度をします」
次にオダは、蛍光ピンクの着色をした蒸しパンや、砂糖菓子を買った。どうやらお供えらしい。そして、露店でヤシの葉で編んだ花カゴを買った。色とりどりの花が黄色いカゴのなかに愛らしく並んでいた。花カゴの隣には、見たことのないような不思議な形の果物が並んでいる。
その果物も、オダはバリ語で値切っているようだった。
「これ、面白い形でしょう? スネークフルーツっていうんです」
確かに、表面がヘビかアルマジロの皮のようだ。
「どんな味がするんですか?」
「中身はリンゴに似てます。食べてみますか?」
ヘビの皮を剥くと白い果肉が出てきた。噛るとひどく渋いがリンゴに似ていなくもない。
「渋い……」
「それは、ハズレですね。日本の果物のようにどれも甘いというわけではありません」
それから、オダに連れられて「マタハリ」というデパートに行った。そういえば、昔こういう名前の女スパイがいたっけ。
一階の服飾売り場の奥に、たくさんのレースのブラウスが吊るしてあった。ゆうべの夢に出て来た少女達が来ていた服だ。色とりどりのジェリービンズのようなブラウス。
「クバヤを買います。クバヤはバリの女性の正装なんです。それを着てください。そうしないとブサキのお寺にお参りできません」
私はオダに言われるままに、何着か試着して薄い紫のレースのクバヤと、腰に巻くサロンという布、それにベルトを買った。
「じゃあ、あとは一人で下着売り場に行って、クバヤ用のコルセットを買ってきてください。それで完了です」
クバヤはレースのブラウスなので、下着が透けて見えてしまう。バリの女性達はそのシースルールックを楽しんでいるのだという。サロンがずれないようにブラジャーと一体型の黒いコルセットを締める。それが若い女性の一般的なクバヤファッションなのだという。
購入したその場で、私は女店員に頼んで更衣室でクバヤを着せてもらった。
東京での私は、常にスラックスにシャツという地味な装いだった。そういえば、こんな奇妙な正装をするのは学生時代のピアノの発表会以来だ。
コルセットは想像以上にきつい。腰を締め上げてサロンを巻くと見た目だけはバリの女性風になった。薄いレースのブラウスからくっきりと黒い下着が透けている。
「マホさんは、目が大きいし痩せているからバリ人っぽいですよ。それで陽に焼けたら日本人には見えないですね」
女店員たちが「似合う似合う」と陽気にはやし立てる。髪を上げるようにとしきりに言うので、ピンで髪をもちあげた。アップにすることも日本ではめったになかった。
鏡の中には、別の自分がいた。その姿に喜んでいる自分の自意識を、もう一人の私が嫌悪する。なんて格好をしているの、恥ずかしい。そんなことで喜んで自分が美しいとでも思っているの。みっともない、いやらしい。責め立てるその声はいつも母とよく似ている。
サロンを少し長めに合わせろと、中年の女店員が指図する。
「でも、これじゃあ裾が汚れてしまう」
「バリでは、女性は足首を隠すんです。日本人が乳房を隠すように、バリ人は足首を隠すんですよ」
足首……。それを聞いてふいに、ミツコのことを思い出した。
ミツコは足首によく鈴をつけていた。鈴のついたアンクレット。ミツコが歩くと、しゃらしゃらと鈴の音が鳴った。
サロンは着物のようでとても歩きにくかった。コルセットで締めつけられたみぞおちが苦しい。おぼつかない足取りで「マタハリ」の外に出ると南国の太陽が照りつける。みんなが自分を見ているような気がした。
「恥ずかしいわ……」
いつのまにかオダは頭にも黄色の布を巻き付けている。これもお参り用の正装なのかもしれない。
「すぐに慣れますよ」
「なんだか、こんなの変です」
私はオダに食ってかかった。
「なにがですか?」
「だって、ゆうべバリに来たばかりなのに、今日はこんなバリ人の格好で歩いていて……。リアリティがありません。なんだか時間がねじれてる。自分が自分じゃないみたいです」
「時差のせいでしょう」
いいかげんなことを。時差なんかほとんどないのに。
オダは私の文句を笑いながら無視して車の中に押し込んだ。乗り込むとき、後部座席に積んであるカゴを見て、ああ、このカゴも夢に出てきたカゴだと思い出した。少女たちが頭の上に乗せていたカゴだ。
クバヤを着た少女たちの最後列をミツコは歩いていた。そういえば夢の中で、ミツコだけ白い服を着ていた。
「ねえ、オダさん」
アグン山に向かう道すがら、私はオダに訊いた。
「白いクバヤを着るときは、どんなとき?」
オダは不審そうに答えた。
「白は着ません。白は死んだ人の色ですから」
*
途中、車に酔ってしまって、私は朝に食べたわずかな食物を胃液とともに吐きだした。車に酔うことなどめったになかったのだが、強い薬を飲んでいる副作用だろうか。オダが心配そうに私の背中をさすってくれた。
ジャングルのなかの一本道で、私は植物の上にかがみ込んで身体が裏返るほど吐いた。草いきれを吸い込むと新たな吐き気が込み上げてくる。
「わたし、負けてますね」
そう言って口を拭きながら立ち上がると、オダがペットボトルの水をくれた。
「敏感だってことです。この島に来て平気でいられる人の方が不思議だ」
そうなんだろうか。
「たとえば、この土壌にも、木の幹にも、葉っぱにも、雨露の中にも、人間の身体の表面にも、とてつもなくたくさんの微生物が棲息しています。バクテリア、カビ、キノコ、酵母……。そういう微細な生物は我々と共生し、糞も、ゴミも、死骸も分解してくれる。もし微生物がいなかったら世界はゴミと死骸だらけだ。彼らはこの世界の成り立ちを支えています。でもそのことを僕らは忘れている。人間は見えないもののことはすぐ忘れる。バリは、そういう見えない生き物たちの気配に満ちています。あなたの吐いたゲロも、あっという間に菌類に分解されて、跡形もなくなってしまうでしょう」
それを聞いて、また吐いた。
「大丈夫ですか? お参りを早く済ませないと四日後のニュピに間に合わなくなるから、少しだけがんばってください」
オダの言うことが、よく理解できない。なぜお参りを早くすませなくてはならないんだろう。それにニュピってなんだろう。バリからの手紙には、ニュピにミツコに会えるかもしれないと書いてあったけど、バリ人の儀式のようなものだろうか。そもそも、オダを空港まで迎えによこしてくれた人はいったい誰なのか。なぜオダはミツコの話題を避けようとするのか。知っているならもっと教えてくれればいいのに。
わからないことばかりだった。わからないことが多すぎて、質問する気になれない。一つを質問したら疑問は十倍に増殖しそうだ。そして疑問に食い潰される。バリに負け込んでいる私は、黙ってこの奇妙な現実を受け入れるだけで精一杯だった。
「あと、三十分ほどで、アグン山に着きます。このジャングルを抜けたら、山が見えてきます。アグン山はバリで一番高い山。その麓にブサキ寺院があります。バリヒンズーの総本山です」
車は山道を登り始めた。
標高が上がると湿度は下がる。窓のすき間から入ってくる風が心地よい。少し気分が軽くなる。聖地に近づいているからだろうか。
「アグンというのは『偉大な』という意味で、いわば、バリ人の魂の故郷です。バリ人はいつもアグン山を意識しています。たったいま自分の立っている場所から見てアグン山はどちらにあるのか、それがとても重要なことなんです。アグンには神様がいるので、お祈りはいつもアグンの方角を向いて行うんです。だから、マホさんがブサキ寺院にお参りするということは、バリの魂とアクセスする意味があります。あなたは外からこの島にやって来た。いわばよそ者です。よそ者はまず、そこの一番の親分に挨拶しなくてはいけない。これは礼儀でしょう?」
なるほど、お参りとはそういう意味だったのか。
「でも、私、無宗教だし、お参りなんてしたことないんです」
「そんなに堅苦しく考えることないんです。バリの神様は渾沌の神です。人間の側の意志はあまり必要ありません。バリの神さまは、日本の神様ほど人間に興味がないですから」
人間に興味がない神様。そう聞いたら、なんだかほっとした。そうか、私のことなんかいちいち見てはいないんだな。それは気が楽だ。
「人間に興味がない神様に、なぜみんな熱心にお祈りするんですか?」
「バリ人の宗教観については、おいおい説明しますけれど、日本人とはかなり違います。バリでは人間、一人一人が神でもあり宇宙でもあるんです。あなたも、私も、ミクロコスモスです」
「えっ、私もですか?」
思わず笑ってしまったけれど、オダは真剣だった。
「そうです。神様と人間と宇宙はひと続きなんですよ」
「よくわかりません」
昔、ミツコが似たようなことを言っていたような気がする。人間のなかに神様がいると。でもその時もなんのことかぜんぜんわからなかった。ミツコはいつもわからない話をして私を煙に巻くのだ。
「まあ、今日、我々がバリの神様にお祈りをするということは、この共同体に入ります、という挨拶ですね。お祈りすることで共同体との回路を繋げてもらうんです。バリのホストコンピュータにアクセスするためのパスワードをもらいに行くようなもんです」
回路を繋げば、私の体調も少しはよくなるんだろうか。回路を繋げば、どこかにいるはずのミツコともアクセスが可能になるんだろうか。
アグン山の麓、ブサキ寺院の入り口に車を止める。
お参りの正装をしていない者は観光客と見なされて、入り口の近くまで車で入ることができない。参拝者は特別扱いなのだ。それを知っているからオダは私に正装させたんだとわかった。
オダといっしょに石段を登って行く。身体に巻き付いたサロンは細くて歩きにくい。見上げるとアグン山の頂上は笠雲に覆われていた。
「オダさん、ここにはよく来るのですか?」
前を歩くオダの足下を見ながら、私は息が荒い。
「いいえ、二度目です。最初に来たときは……、そうだ、ミツコといっしょでした」
そうか、この石段をミツコも登ったのだ。
「ミツコもクバヤを買って?」
「そうそう。ミツコもクバヤを買って喜んでいました。ミツコは青いレースのクバヤを着て、この石段を僕より先にぐんぐん登って行きました。その日は雨だったのですが、ミツコがブサキに着いたとたんに雨がやんで、雲の切れ間から日が射し始めました。そして、まったく見えなかったアグン山がみるみるうちに姿を現した。まるで、山に歓迎されているみたいでした」
そう。だって、彼女はアマデウスだから。神に愛されし者だからミツコの前では世界が開く。両手を上げて歓迎する。きっと大海だって真っ二つに割れるかもしれない。ミツコはそんな子だった。なんでも思い通りになる。彼女を邪魔するものはいない。
「そのときも、ミツコは足首に鈴をつけていた?」
オダの歩みがふいに止まった。私は驚いて顔を上げた。オダの背中だけしか見えない。トカゲの柄のバティック。この人は肩幅が広い人なんだ。そんなことを思った。
「鈴をつけてました。いつも彼女は左足首に鈴をつけていました」
その答えを聞いたときに、もしかしたらオダとミツコはとても親密な間柄だったのではないか、と思った。
ブサキ寺院の黒ずんだ門をくぐる。壁面はさまざまなレリーフで飾られていた。
踊る人間、獣、魚。象の頭をした愛嬌のある神様。それらはいい具合に風化して、威厳と優しさを兼ね備えていた。
参拝の場所は、石畳の広場になっていて、数人の老婆が並んで座って世間話をしていた。見上げると高い塔が立っている。石造りの寺院の内部は暗くて見えない。あのなかに神様がいるんだろうか。
「靴を脱いで」
言われるままに、私は靴を脱いでオダの隣に正座した。
あたり一面に、お供えの花が散らばっている。花のむしろのようだ。二匹のバリの犬が、物欲しそうに私たちの周りをうろついていた。犬は発情していて、しきりに雄犬が雌犬の性器の匂いを嗅いでいる。神様の聖域で犬が発情していても、この島の人たちは平気なのだ。私はとても嫌な気分になった。とうとう交尾し始めた犬を、やっと老婆は立ち上がり追い払う。聞けば、彼女たちは女官だとのこと。とてもそうは見えない。
敷石と敷石のすきまに土の地面がある。その細い溝に、オダは長いお線香を三本立てた。私も老婆から受け取り同じように三本立てた。
「このお供えのお花を両手にもって、掲げてください。バリは花で祈るんです。この花は神様への捧げ物です。この花を神様に捧げて、神様からギフトを受け取るような、そんなつもりで三回、繰り返してください」
言われるままに、花を手に取り、頭上に捧げた。神様、こんな私にもパスワードを下さるのですか。そう訊ねてみた。もちろん、神様は何も授けてはくださらなかった。三回繰り返したが、神様がなにかくれた気はしなかった。
「そうしたら、あのおばあさんが、聖水を三回、頭にかけてくれます。次に右手を上にして手で聖水を受け止めて、それを三回飲んで下さい。さらに、手のひらで聖水を受け止め、それを頭にかぶってください。やはり三回です。最後に、お祈りしてください」
さっきまで、世間話をしていた老婆がやって来て、花びらをつかって器の水を三回、私の頭にかけた。不思議だが、聖水の器を手にしたとき、彼女の背筋がピンと伸び、ある緊張感が生まれた。突然に老婆は女官になったのだ。
ミツコと同じだ。日常をいきなり切り替える。なぜそのようなことができるのだろう。自在にあっち側に行ってしまう。
聖水は冷たかった。はっと目が覚めたような気がした。ぼう然としていると、おばあさんは(手を出しなさい)と無言で促す。手の平を丸めて差しだすと、水が注がれた。私はそれをすすり飲んだ。一回、二回、三回。さらに手のひらになみなみと聖水が汲まれた。かなりの量だった。それを頭にかぶった。もう一度。さらにもう一度。髪は濡れてびしょびしょになった。額から顔にかけて水が滴り落ちてくる。でも、いい気持だった。清められた気がした。私は最後に頭の上に手を合わせ、そして祈った。
じんわりと、水が胸元まで落ちてくる。閉じた瞼の裏側がぼんやりと明るくなる。不思議な平安。その時、空からパイプオルガンのような倍音が響いてきた。
「終わりましたよ」
目を開けると、オダはもう立ち上がって靴をはいている。私も慌てて立ち上がり、はだけたサロンの前を直した。
「これで、お参りは終わりなのですか?」
「そうです」
あっけないような気がした。私はちゃんとアクセスできたのだろうか。アグン山を振り返ると相変わらず頂上は笠雲で覆われている。いったい何を期待していたんだろう。私はミツコとは違う。奇跡など起こるはずもない。
「最後に、なんと祈りました?」
オダが、市場で買ったランブータンを剥いて私に差しだした。
「え?」
「最後のお祈り。ずいぶん長く祈っていました」
そうだったのか。私にとってはほんの一瞬のように思えたのだが。
「祈りというか……、音を聴いていました。なぜか頭のなかに七色の音が満ちてきたんです」
ランブータンは甘酸っぱくてとてもおいしかった。オダは路肩に種を吐きだした。
「それは、受け取ったんですね」
「何をですか?」
ふいに強い風がブンっと吹いて、私は目を細めた。オダのシャツが風を孕んで膨らむ。その背後に青い山と寺院と灰色の空。この景色、なぜか永遠に忘れないと思った。
「パスワードですよ」
*
ミツコ、何をしているの。それは新しいパフォーマンスのつもり?
違うよ。あのね、天気の良い日にこうしてじっと太陽の光を浴びてみるの。目をつぶって、自分の両足をしっかり大地にくっつけて、お日様に向かって両手を広げてみる。そうしてね、自分が木だと思ってみるの。
木……? カエデとか、イチョウとか、そういう木のこと?
そう。マホもやってごらんよ、目をつぶって、自分はもう人間じゃない。木だって思うの。何度も言い聞かせるの。わたしは木だ、わたしは木だ。わたしはいま、太陽の光を浴びて光合成を繰り返す一本の木だ。そして心から木になったつもりで、ただここに生えてみるの。
へんだよ。それにいろんなこと考えちゃうよ。
いいのよ、考えても。だって木だって何か考えていると思うよ。たぶん、わたしたちの知らない方法で木もなにかしら考えているんだよ。だから考えてもいいんだ。ただ、自分が木だと思ってみれば、それだけでいいんだよ。
そんなことして、ミツコは楽しいの?
おもしろいよ。マホもやってみたら。
恥ずかしいよ。
どうして?
だって人が見る。
木だから、平気なんだよ。
イヤだ。人に見られるのは嫌いだ。
だいじょうぶだよ、木なんだから。
無理だよ、私は私だもの。木になんかなれないよ。ミツコだって、それは遊びでしょう。本当に自分が木だなんて思っているはずないもの。そういう遊び、ゲームなんでしょう。だって、人間は人間だからどんなにがんばったって木になれるはずがない。もし、なれるっていう人がいたらそれはウソつきだと思う。
でも、やってみなくちゃわからないよ。けっこう木の感じになったりするんだけどな。こうしてね、ただ立っていてみるの。木の気分に同化してくると、周りの音が小さくなってくるんだ。ああ、木ってとても静かな世界に生きているんだなあ、って思うよ。もちろん、人間は木になんかなれない。人間は動物だもの。でも、心って、すごく自由だから形を超えられるんじゃないかな。いま、わたしは地球っていう星で暮らしていて、この環境のなかで、その約束事に合わせて自分の心を育てている。だけど、もし別の星だったら、心の育ち方も違うよね。たぶん、違う星では違う約束があるんだ。そう思ったら、こんなふうに、心が人間であるってことも、実はただの約束事なんだ、って思わないかな。生まれた時からそう決っていたから、みんな疑わずに守っているだけ。でもね、わたしが人間であり続ける必要なんてそんなにあるのかな。木だっていいんだ。犬だって、ネコだって、アルマジロだっていいんだ。そう思えたら、人間っていう約束が消えて、もっと大きな心が育つよ。木になったり、鳥になったりも自由にできるんじゃないかな。ほら、夢のなかではよくいろんなものに変身したりするじゃない。あれは、夢が約束のない世界だから。それなのに現実では人間にしかなれないなんて、おかしいと思わない?
ジャック・マイヨールって人、知ってる? イルカと泳ぐ人。わたし、ずっと前にテレビで見たことがある。あの人の心はイルカになっていた。イルカの心になると体まで変化するんだよ。ジャックはね、クラウンというイルカと心を通わせたの。マイアミの水族館でクラウンから泳ぎ方を教わるんだ。それでついに素潜りで百メートル潜ったんだよ。人間には絶対に無理といわれていた壁を超えてしまうの。だって彼は自分をイルカだと思っていたからイルカと同じことができてしまうの。心と身体って連動しているんだよね。体から心を変化させることもできるし、心から体を変化させることもできる。だからわたしは、体で木になってみたの。木みたいにじっとして、太陽に顔を向けて、両手を思いきり広げて呼吸してみたら、なんとなく心も木の気分になってくる。
木は、どんな感じなの? ミツコ。
木はねえ、すごく狡い。
狡いの? 木が?
うん。動けないから姑息にいろんなこと考えている。どうやって子孫を残そうかって。
あははははは、面白いね。
おもしろいよ。マホもやってみなよ。
私は、鳥がいい。
鳥かあ。
うん。鳥になって、空から全部を見るの。高い空から人とか街とか建物とか風景とか、全部見るの。なにもかも見るのすごく自由に。
マホは、見たいんだね。
うん。見られるのはイヤ。誰にも気づかれずに、なにもかも見てみたい。
そうなんだ。
高い空から急降下していって、そして好きな場所に飛んで行って、いろんなものを上から見るんだ。
マホ。
うん?
あのカラス、あのポプラの木に止まっているカラス。あれを自分だと思ってみな。あのカラスの視線はマホの視線。あのカラスになって見てごらんよ。
できないよ、そんなこと。
そうかな。
木の梢からカラスが私を見ていた。
次の瞬間、私は上から私を見ていた。
見られている私は誰だ。
見ている私は誰なんだろう。
*
「マホさん……」
肩を揺すられて、私は慌てて飛び起きた。
「私、寝てました?」
オダが笑って頷いた。
「ぐっすりとお眠りでした。起きられますか?」
「夢を見ていました……。ミツコが出てきて、ジャック・マイヨールの話をするの。イルカになった男、ご存知ですか?」
「知ってます。フリーダイビングの記録保持者だ」
「その人は、いま、どうしてますか?」
オダはちょっと、口ごもった。
「ジャック・マイヨールは自殺しました。うつ病だったんです」
車の窓から巨大な赤鬼のハリボテ人形が見えた。街に帰って来たのだ。古い鳥の巣のような通りを、たくさんのバリ人が歩いている。すごい熱気だ。
「なんですか、この人形?」
不気味な人形は神輿台の上に乗せられて、その周りにはたくさんの若者たちがたむろしていた。
「オゴオゴです」
オダは車を道路脇に止めると(出ましょう)と目で合図した。車の外は暑かった。湿度はさらに上がっている。甘ったるいバリの匂いがする。若者たちが伏し目がちに私を見ていた。
側に寄ってみるとハリボテの怪物は思ったよりもずっと大きかった。高さ十メートルくらいある。全身が真っ赤だ。足や腕の血管が青く浮き出ている。逃げ惑う人間をわしづかみにしている。不気味だがどこかひょうきんだ。今にも動き出しそうに片足を上げている。
「これがオゴオゴですか?」
「そうです。この村のはリアルですね。人形作りは村ごとに趣向が違うんです。死神とか、怪獣とか、そういう現代的なオゴオゴもあります。村の若者たちが総出で一カ月かけて作りあげます。バリ人の美的感覚はすばらしくてね、この島では誰もが芸術家です」
目を剥いた怪物は青森のねぶたみたいだった。もちろん私はねぶたもテレビでしか見たことがないけど。
「なんのためにこんな大きな人形を作るの?」
「オゴオゴは言わば悪霊のシンボルですね。すべての悪しきもの、悪しき心、その象徴です」
「これ、どうするんですか?」
「三日後のお祭りの後に、盛大に燃やしてしまいます」
こんなに手の込んだものを作っておいて、バリ人はそれを燃やしてしまうという。なんて思いきりのよい人たちなんだろう。
「日本人はグレゴリオ暦を使って生活していますが、バリ人は三種類の暦を使って生活しています。バリ人にとって時間の流れは一つではないんです。オゴオゴはサカ暦の大晦日にあたるお祭りです。アジ・サカという人がインドネシアにヒンズー教の布教に来てこの地にサカ暦を広めました。紀元七十八年から始まったサカ・ヒンズーの新年を、バリの人々はニュピと呼びます」
まるでツアーガイドのように淀みなく説明してくれる。ずっと聞いていたいほど、オダの声は低く心地良かった。
「つまりニュピって、お正月なんですね?」
「いえ、ちょっと違います。なんというかな。ニュピは自然とのバランスを保つ日なんです。ニュピの三日前に、すべての寺院の神の肖像は川に運ばれて清められます。精神を浄化して神に近づくための儀式です。ニュピの前日がオゴオゴです。さっき見た大きなハリボテを押して若者たちが練り歩き、ガムランは響き渡り、たいまつを灯して、爆竹を鳴らす。トランスする者もたくさん出てきます。大騒ぎのうちに祭りが終わると、この人形は野原で燃されてしまいます。そして、オゴオゴの終わった真夜中からニュピが始まります」
「ハッピー、ニュー、イヤー?」
「それは日本の場合です。バリでは大晦日と新年の間にゼロの日があるような感じです」
「ゼロ?」
「そうです。ナッシングです。だからニュピはノームーン、日本語で言うところの新月の日に当ります。今年は三月三十日が新月で、この日はリセットの日なのです」
「リセット……ですか」
「そうです。日常業務はすべてストップします。そしてすべての火を消し去ります。黒い帽子をかぶった警備員が見回りに出て、明かりを点けていると注意されてしまいます。車も人も通りを歩いてはいけません。とにかく島全体が活動を停止します。明かりだけではなく、人間の心の火も消します。テレビ、ラジオも消します。セックスももちろんお休みです。怒り、憎しみ、妬み、喜び。そのようなすべての感情の火も消して家に閉じこもり、断食をして瞑想します。それがニュピなんです。ニュピは世界が浄化され、新しいスタートを迎えるための、バリ人にとって最も重要なお祭りです。かつては飛行機も飛びませんでした。お店もレストランも休業します。最近はそこまではしませんが、ホテルのサービスはかなり低下します。バリ人の従業員が休んでしまいますから人手不足になるんです。ニュピを知らない観光客がやって来て途方に暮れるのを毎年見ます。ニュピが明けると街はやっと通常に戻ります。日の出とともにもう一度『火を入れる』、すべての生命活動を再開するんです」
暦にゼロを組み入れる。バリ人は不思議な民族だ。でも、その考え方はとても美しいと思った。
「ゼロがあるって、すごくすてきなことですね」
「そう思いますか?」
「はい。日本の年末年始は忙しすぎます。なにか、いつも行事に急かされているようで、疲れてしまいます。沈黙する日があるって、ほっとする」
それから、慌ててミツコのことを思い出した。
「じゃあ、しあさっての深夜に、ミツコはここに帰って来るんですか? ミツコは今はバリにはいないんですか?」
オダはすぐには返事をしなかった。ミツコのことを訊ねると、普段は冗舌なオダの反応がとたんに鈍くなる。不思議だった。
「ミツコがどこにいるのか、僕にはわかりません。でも、ラーマさんが、ニュピならミツコと会えるかもしれないと言ったんですね?」
「ラーマさんというのは、オダさんを迎えによこしてくれた人ですか?」
「そうです。ミツコはバリに来て、しばらくラーマさんの家に下宿してました」
私に手紙の返事をくれたのもきっとその人だ。署名がしてあったけれど、外国のスターのサインみたいで私には読めなかったのだ。
「じゃあ、その人なら、ミツコの居場所を知ってるんでしょうか?」
オダは、とても複雑な顔をした。
「マホ。実は僕は、ミツコのことをうまく思い出せないんです」
思い出せない……?
「もちろんミツコを知ってはいるのだけれど、それはなんだか夢の中の記憶のように曖昧なんです。あなたが来てから、あなたの存在が僕を揺さぶって、少しずつミツコの記憶が蘇って来ています。僕とミツコは友達でした。それなのに、あなたが来るまでミツコのことはすっかり忘れていました。なぜミツコのことを忘れていたのか、自分でも不思議なくらいです。なにか、悪い魔法にかかっていたみたいです。僕も、もし会えるものならミツコに会いたい。そしてミツコが実在していたことを確かめたい。そう思ってます。ミツコに会えるように出来ることは協力します。でも、申し訳ないけれどミツコのことで、僕があなたの役に立てることはあまりないのです。なぜなら、あなたの方がずっとよくミツコを覚えているから。僕はミツコのことを思い出そうとすると頭のなかに白い霧がかかるんです。なにも見えなくなる。知っています、たぶん、たくさんのことを。でも、うまく思い出せない」
「だったら私、ラーマさんという方に会って、ミツコのことを直接に聞いてみます」
オダは首を振った。
「ラーマさんは、あなたにはニュピまで会わないと言っています」
「なぜですか?」
「わかりません……」
息苦しくなった。なんだか自分が目に見えないものに翻弄されているような、そんな気分。
「いったい、ラーマさんって何者なの?」
「ラーマさんは、バリでは有名な画家です。でも、めったに人には会いません。僕も電話でしか話したことがありません。ラーマさんに気に入られた外国人は、たぶんミツコが初めてでしょう。ラーマさんの絵を見たいですか?」
見たいと私は答えた。オダは頷くと私のために車のドアを開けてくれた。
「では、ウブドのネカ美術館にお連れします。申し訳ありませんが、僕は今日はこれからどうしてもはずせない用事があるのです。美術館は一人で回って下さい。ホテルへは美術館から歩いて帰れます。ホテルの名前は覚えていますか?」
もちろん覚えてる。
「ホテル・チャンプアン、歴史のあるいいホテル。ただしシャワーのお湯が出ない」
完璧です。そう言ってオダは車のアクセルを踏んだ。
*
ミツコと出会った時、私はまだ十九歳だった。
一浪して入学したからミツコよりは一つ年上。初めて見たとき、ずいぶん小さい子だなと思った。身長はたぶん一五〇センチなかったと思う。教室ではとても目立っていた。どう言うのかな。ミツコの風貌は人間というよりも、妖精。それも北欧の神話に出てきそうなちょっとダークな感じ。ミツコのことをビョークみたいだと言う人もいたっけ。
私は年上の引け目みたいなのがあって、なんとなくクラスメートに馴染めずにいた。そもそもピアノが好きじゃないのに音大に入ったのだから、未来になんの展望も希望もなかった。早く大学を辞めたいと思っていた。でも、大学を辞めたからってその後どうする、働くと言ったって他になんの能力もない。私は十九年間の人生をすべてピアノに奪われて、私からピアノを引いたらなにも残らない。なんの価値もない自分になっていた。だから誰とも話が合うはずもない。音楽の話をされると、なんだかムカついた。みんな新入生らしい希望や野望をもっていて、それがとてもバカらしくマヌケに見えた。才能なんて誰もがもっているものじゃない。どうせ、このなかからプロになれるのなんて、一人か二人だ。
学食のはじっこで、いつも一人で昼食を食べていた。声をかけてくれたのはミツコだけだった。
「ねえねえ、いま、体から三センチ浮いてたよ」
最初の時から、ミツコはそんなことを言った。
「え?」
「魂が抜けてたよ。あなたって、そういうの得意なの?」
心臓が止まるかと思った。だって私の病気のことは誰も知らないはず。確かに私はときどき解離の発作を起こす。自分が誰だかわからなくなってしまう。魂が抜けたような状態になって、その間の記憶が消えることもあった。でも、だからってこの小さな女の子になぜそれがわかるんだろう。
なにも答えず、黙ってミツコの顔を見た。ものすごく黒目が濃かった。その目を縁取るまつ毛も濃かった。吸い込まれそうだと思った。
「そんなこと、見えるわけないわ」
ミツコは首を振った。
「目に見えるものはみんな錯覚、目は単なるレンズだもの。レンズで光を集めてそれを電気信号に還元する。いま見ている風景は頭の後ろにある視覚野で信号を再構成されたもの。頭の中にテレビがあるだけなんだ。私たちは幻を見ている。だから信号ならなんでもキャッチできる。だけどみんなは、光を反射しないものは見えないと思い込んでいるから、いろんな信号がきても無視しているんだよ。見えているものがすべてではないとわかれば、誰でももっとたくさんのものが見える」
変な子。でもなぜか無視できなかった。
「どれが現実かわからなくなったら、みんな気が狂うわ」
「違うよ、現実がひとつだと思いこむから発狂するんだ」
ぞっとした。とても大切なことを言い当てられた気がしたのだ。私が黙っていると、ミツコはテーブル越しに身を乗り出してきた。
「私、あなたみたいな人、好きだな。友達にならない?」
赤い唇が大きく歪んで、三日月みたいな笑顔になった。友達? あなたと私が?
「どうして?」
「理由なんかないよ。そうしたいからそうするだけ」
それからミツコは私をレッスン室に引っ張っていった。予約しておかなければピアノを使えないのに、空いている部屋を見つけると平然と入って行き、そしてピアノの前でおいでおいでをして私を呼ぶのだ。
「予約してないからダメだよ……」
平気、平気。そう自信ありげに言うと、ミツコは鍵盤の蓋を開けた。そして、私を見てにっこり笑った。挑発とも、慈愛ともとれる不思議な笑顔だった。腰を下ろし、息を吸って、目を瞑るとゆっくりとショパンを弾き始めた。その瞬間に世界がぐにゃりと変容した。音がレッスン室の殺風景な空気の色を変えたのだ。世界に淡い水色の光が降り注いでくる。軽やかで、優しくて、情感たっぷりで、それでいてユーモラス。なによりも、その音色……。ピアノは弾き手によって音が違うというけれど、ミツコの音は玉虫色だった。私はあっけにとられて、ミツコの指先の動きにみとれた。そんな私を見て、ミツコはまた笑った。
「どうしたら、こんな風に弾けるの?」
思わずそう言うと、ミツコは手を止めた。
「テクニック、ゼロ。テクニックでは弾かないのがコツ」
テクニックはゼロ?
「そんなことありえないわ、じゃあ、あなたはテクニック以外のなにで弾くというの?」
「意識をね、指の先からピアノまで伸ばすの。自分がピアノになってしまうの。ピアノと一体化するのよ。さらに伸ばすの。どんどん自分を解放するの。部屋のなかから、外へ、空へ、宇宙まで。簡単よ、あなたにも出来る。あなたにはその才能がありそう」
「まさか……。私をからかってるの?」
「ほんとのことだよ。たとえば夢の中でピアノを弾いているような、そんな感覚で弾けばいいの。そうすれば、指が勝手に動くのよ。テクニックはいらないの」
この女は私をバカにしているのだと思った。自分の上手さを鼻にかけて、私を蔑んでいるのだ。テクニックがいらないのなら私は何のために子供の頃から母親の厳しいレッスンに耐えてきたというのか。
「じゃあ、あなたは練習しないというの? なにもしないでピアノが弾けるとでも?」
「ピアノは幼稚園のときに一年間、習っただけ」
ふざけないで。私はひどく怒ってその場を立ち去った。その後のことはよく覚えていない。妙なことだけれど、私は振り返りもせずにレッスン室を出たのに、なぜか私を見送るミツコの顔を思い出せるのだ。ミツコは笑うでもなく怒るでもなく、とても無表情に、ちょっと淋しそうに、私の後ろ姿を見ていた。
まるで、そう。遊び相手を失った、小さな幼女のように。
*
石の回廊に西日が射している。
西日は植物に遮られ、美しい葉漏れ日の文様を床に描いていた。エメラルドグリーンの木立のなかに、その美術館はつつましく建っていた。
ひんやりとした石造りの内部には、バリで生まれたアーティストたちの絵がたくさん飾られていた。もっと田舎くさい絵を想像していたのに、この島の画家たちの描く絵は前衛的でしかも洗練されていた。東京の青山あたりの画廊に展示しても、絵心のある人の目を引くことだろう。
暗い館内には、人が少ない。しばらくすると入館者は私一人になった。
絵の前をめぐり歩きながら、私はいつしか昨日から今日までの出来事を反芻していた。
そう。私はゆうべ遅くにバリに着いて、空港でオダと会い、ホテルまで送ってもらった。オダはミツコを知っていた。ミツコは間違いなくバリにいたのだ。そして今日、オダに連れられて山に行った。古いお寺にお参りした。お寺の名前は……ブサキ。オダはミツコともブサキに来たと言った。お参りするのはこの土地にアクセスするため。あの時、オダは不思議なことを言った。パスワードを貰うのだと。パスワードって何だろう。あれはオダ特有の比喩なんだろうか。
悪霊を焼くお祭りはオゴオゴ。オゴオゴが終わると島はニュピに入る。ニュピとは終わりと始まりの間にあるゼロ。リセットのための一日。三日後の深夜からニュピが始まる。その時に、もしかしたらミツコに会えるかもしれないと言う。ミツコはリセットのために戻ってくるのかしら。だとすれば、いまミツコはどこにいる? ミツコを探すにはどうしたらいいんだろう。いったいニュピの時どこにいればミツコと会えるんだろうか。それにオダは妙なことを言った。ミツコのことを忘れてしまっていたと。オダはミツコとはそれほど親しくなかったのか。でもミツコを忘れてしまうなんて考えられない。ミツコは天使だ。一度会ったら忘れられない。彼女の幼い風貌、成長を止めてしまった子供のような身体。そのくせパワフルで強烈な存在感。ミツコを忘れるはずがない。それなのに、なぜみんなミツコを忘れているんだろう。
ラーマという画家。ミツコがそこに下宿していたという。なぜ彼は私に会ってくれないのか。でも、ニュピまで会わないということは、ニュピになったら彼と会えるのだ。つまり、彼のところにミツコが戻って来るということか……。
空調のファンの回る乾いた音が急に大きくなる。
なにかに合図された気がして我に返り、私はゆっくりと次の展示室に向かう回廊へと向かった。
ふと、鈴の音が聞こえた。
立ち止まり、耳を澄ます。
確かに鈴の音だ。とても小さいけれど鈴の音。
ミツコ……。
中庭を突っ切る細長い回廊へと足早に歩く。すると、モザイク模様に西日が射す回廊の果てを誰かが曲がるところだった。その足首だけがちらりと見えた。小さな鈴が見えない壁の向こうで鳴っている。
ミツコ……。
私は回廊を駆け抜けて、ミツコを追う。
鈴の音が大きくなる。
ミツコがいる。
サロンが足にまとわりつく。空気が濃くてまるで空中を泳いでいるみたいだ。
鈴音を追いかけて大きな石柱を曲がると、突然そこにジャングルがあった。
壁一面を覆うジャングルの絵。
絵の奥に吸い込まれるように鈴の音は消えた。私は引き寄せられるように絵に近づく。
陰鬱なダークグリーンの画面のなかに、みっちりと描かれた熱帯植物。それらの葉の先端は黄緑色に発光していた。シダやツタ、名前も知らない密林の植物の間に隠れるように、見たこともない動物や鳥、異形の妖怪や精霊たちが蠢いている。眼球に映るありったけのものを描き込み封印したような絵だった。なにもかもが等距離に描かれ中心もなければ強調もない。あらゆる存在が平等の比重で平面上に配置され、激しくからみあう植物の背後にジャングルの闇がばっくりと口を開けている。不思議な絵だった。
その絵のある場所だけが、違う質量をもっていた。空間がよじれて、ブラックホールみたいに絵の内部にこちら側の世界を引っぱり込もうとしている。別世界へのゲートみたいだった。じっと絵を見ていると方向感覚を失ってしまう。ざわざわと私の内側でなにかえたいの知れないものが動き出し、いてもたってもいられないような、妙な落ち着かない気持になった。
いったい、この絵の力はなんだろう。私は呆然と絵の前に立っていた。いや、絵の前に立つことに耐えていた。なにか強い磁場が絵から出ていて、こらえていないと自分がどこかに連れて行かれそうで怖かった。
しだいにうわんうわんと耳鳴りが聞こえてきた。
私の知覚が何か目に見えないものの干渉を受けているのだ。耳鳴りはどんどんひどくなり、その耳鳴りのさらに奥から、オーバートーンのように別の音が鳴りだす。何種類もの音が重なり合いながら頭蓋骨に響いてくる。音に集中しているとそれらの音は規則性をもち始め、音楽に変化していく。
私はジャングルの音楽に耳を澄ます。その音を聞き取ろうと全神経を絵に集中する。
聞こえる、聞こえる。
無数のハミング。
羽虫の羽ばたきのような、蝉の声のような、低い唸り。
歌っている。地の底からわき上がるような不思議な音。
くりかえしくりかえし歌っている。地底のハミング。
これは死の歌だ。生き物たちが死を歌っている。
でも、すさまじい力強さ。死を歌っているのに、なんと命に満ちているのか。
私は死のハミングに魅了され、絵から漏れてくる歌声にただ全身全霊を委ねる。
歌声はどんどん大きくなる。私の身体を貫いて螺旋のようにうねりながら天上へと登っていく。
重なり合う幾重もの音。音が成長している。
共鳴しあって世界を飲み込むほどに大きく、大きく、大きく……。
「レディ、だいじょうぶ、ですか?」
音が消えた。
音の梯が外されて、私はいきなり下界に落下して目覚めた。
振り向くと、白人の男性が不安げに私を見ている。慌てて気を取り直し、姿勢を正した。
「なにかに取り憑かれたように絵の前に立っていたので、つい声をかけてしまいました」
ひどく汗をかいている。心臓の鼓動もとても早い。なかなか現実感覚に戻れず眩暈がした。大丈夫です、ありがとう。そう言いながら、膝から倒れ込んだ。頭ははっきりしているのに身体の方が現実についていかない。もどかしかった。
男は慌てて私を抱き止め、近くのベンチまで運ぶと脈を取った。私は男の様子をぼんやりと見ていた。
「医者ではありませんが、まあ、少しは医学も聞きかじってましてね」
男は人懐こい目でにっこりと笑った。趣味のよい麻のシャツに、半ズボンのラフないでたちだ。ソックスをきっちりと上げて、質の良さそうな革のデッキシューズを履いていた。髪は金髪で、てっぺんの方は少し薄くなっている。四十代の後半くらいだろうか。細長い顔だちにべっ甲の眼鏡フレームがとても似合っていた。
「あなたは、日本人ですか? クバヤを着ているのでバリの女性かと思いました」
言われて、急に自分がバリの女性の格好をしていることを思い出した。頬が熱くなった。きっと物好きな日本人と思われたに違いない。
「お寺に、お参りに行って来たものですから……」
男は、大丈夫心配入りません、と、私の手を戻した。礼を言うとおどけて肩をすくめる。
「あのジャングルの絵に、魅せられましたか?」
私たちは、遠くになった絵を見つめた。離れて見ると、絵は暗い深海のようだった。
「不思議な絵ですね。なんだか見ていたら眩暈がして」
「私も、あの絵がとても好きです。なんというか、あの絵は、バリそのものです」
そうなのか。バリとは、あの絵のような場所なのか。
「どんなふうに、バリそのものなんですか?」
男は口ひげを撫でた。舌がちろりと唇を舐める。
「難しい質問をしますね」
男の青い目はどこか空虚で哀しげだった。
「私は、ロッキー山脈の麓で生まれたんですが、私の故郷でははっきりとした四季があるんです。日本もそうですね。日本も四季の国だ。春が来て芽吹き、夏に草木が生い茂り、秋に実り、冬は休眠する。だから人間の人生もつい、四季になぞらえてしまう。時間の経緯とともに移ろい、死が訪れる。だが、四季のない熱帯雨林では、あらゆることが同時に起こるんです。春、夏、秋、冬がひとつの時間軸上にある。枯れるものと、芽吹くものは同じ。生まれる者の隣で死ぬ者がいる。それが熱帯雨林です。だから、一つの画面のなかにすべてがあり、すべてが描き込まれている。あのジャングルの絵はまさに、バリだなあと思うのです」
バリにはたくさんの暦がある。オダはそう言った。暦を使い分けるのもここが熱帯だからだろうか。時間軸が錯綜していくつもの時間が同時に流れる場所。
「あなたの言うこと、なんとなくわかる気がします。私はさっき音楽を聞いていました。あの絵の前に立ったら低いハミングが聞こえてきて、それがどんどん大きくなって、ハーモニーになって、それで、その音に聴入ってしまったんです」
「ほう……。良かったら、もう少し詳しく教えてください。おもしろい話だ」
「最初は、耳鳴りのようでした。それがオーバートーンになって、どんどん大きくなって、しだいに大音声になって、あの絵の向こうから鳴り響いてきました。ごめんなさい。私はときどきそういう幻聴を聞いてしまうんです。絵や風景や色を見ていると、音が聞こえてしまうんです。時にはそれが音楽になってしまう。幻聴だとはわかっているのだけど、でも聞こえてしまうんです、否応もなく……」
男は首を振った。
「すばらしい才能じゃないですか。たぶんあなたが聞いたのは、この地球上の小さな生き物たちの声かもしれません。私たちは微生物と共存している。しかし、文明社会に住んでいると目に見えない小さな者たちの存在を忘れてしまう。この島は、小さき者たちの存在を思い出させます。名もなき生き物たちの気配が強い。人間存在をおびやかすほどにね……」
驚いた、オダと同じことを彼も言う。
「そっくりのことを、今日、友人が言っていました。その人も微生物と生態系の関係を研究しているのですって」
「それはもしかして、ミスター・オダですか?」
「オダさんをご存知なのですか?」
男は子供のように得意げに頷いた。
「バリは狭い島ですから。彼のことは知っています。音楽とダンスの研究に来たのに、いつのまにか微生物を追いかけている。シンガポール大学の植物研究室におもしろい教授がおりましてね、その教授のフィールドワークを手伝っているうちに、バクテリアに取り憑かれてしまったんですよ。いい青年です」
共通の知りあいがいたことで、私たちは急に打ち解けてしまった。私はあまり愛想の良い人間ではない。知らない人と話をするのは苦手なはずなのに、バリではそれが楽にできる。
「ミスターも、何かの研究者なんですか?」
「いや、私は、まあ科学者ではありますが、隠居しているようなものですね。最初はインドネシアの熱帯雨林の伐採を調べに来ました。つまり、森林伐採を続けるとこれから先、地球はどうなるか……というような、環境運動的な活動をするためです」
「いまは、環境運動には興味をなくしてしまったんですか?」
「興味をなくしたということはありません。ただ、わからなくなったのです。何が正しいのか」
「環境にとって……ということ?」
「いえ、違います。たいへんデリケートなことなので、言葉にするのは難しい。もっと根本的なことです。自分が生きていくうえで使ってきた価値観、考え方、そういうものすべて、正しかったのかどうか、わからなくなってしまいました」
「それは、バリに来たから?」
男は照れたように笑った。
「あなたは質問が上手ですね。いいインタビュアーになりそうだ。どうですか、少し早いですがいっしょに夕食でも。うまいバリ料理を食べさせるカフェがあるんです」
そう言われて、私は初めて空腹を感じた。昼間に吐いてからなにも食べていなかったのだ。男は立ち上がり、右手を出して自分の名前を告げた。ロイ・ウィルソン。
バリ島に来て二日目。私は見知らぬ白人男性と食事をすることになる。
これまでの私の人生では考えられなかった展開。なにもかも突然に変わってしまった。私は同じ存在なのに、東京とバリでは違う人生を歩んでいる。東京では私は無能で病弱なライターだ。誰も私の話を聞きたがらないし、ただ与えられたことをこなして一日は終わる。それなのに、バリでは私はオリジナルな「スズキマホ」だ。これが旅の力なんだろうか。ここでは自分が特別な一人に感じる。
回廊を抜けるとき、再び鈴の音がした。
ちりりん。
ミツコの気配がする。だんだんこちらに近寄って来ている。怖いもの見たさの子供みたいに。振り向けばそこに立っている気がした。でも、私は振り向かず、ロイ・ウィルソンの後姿を追って歩き去った。
*
カフェ・ベベブンギルは入り口は小さいけれど、中に入るとたくさんのテーブルや座敷席が庭園風の野外に広がっていた。時間はまだ午後四時半で、空は明るい。
名物のアヒル料理、サフランチキン、ガドガドのサラダ、ナシゴレンと呼ばれる混ぜご飯、料理が次々とテーブルに並ぶ。皿には必ずきれいな花が添えられていた。
ロイにつきあって一口だけビールを飲んだ。でも私はアボガドのジュースの方が好きだ。お酒は体質に合わないし、医師からも止められている。
料理はどれもおいしかった。特に様々な野菜やお肉をご飯と混ぜ合わせて食べるナシゴレンは、日本人の味覚にはとても合う。カリカリにフライした野菜、煮た野菜、いろんな食感が口のなかで交じり合って飽きることがない。
「マホ、あなたは何か音楽をやっていますか?」
ロイの質問にどう答えるべきか悩む。
「音楽の大学でピアノを勉強しました。でも、いまは音楽とは関係のない仕事についています」
「それはなぜ?」
よく聞かれる。だけど私の同級生で音楽で食べている者が何人いるだろう。
「才能が、なかったから」
ロイは肩をすくめた。
「あなたはさっき絵から音楽が聞こえると言った。だからきっと音楽的な感受性が優れているに違いないと思ったのです」
仮にそうだったとしても、そんなものは何の役にも立たなかった。
私はただ子供の頃からずっとピアノのレッスンをしてきた。そして音階を覚え、あらゆる音を聞き分けることができるようになった。平均律に合わせた「正しい音」を私の脳は覚え込んだ。一度聞けば、そのメロディを楽譜に写しとることができる。ピアノ教室では優等生だった。音大の付属高校でも優等生だった。そして、音大に進んだ。でも、ある時期から音が私を嘖み始めた。あらゆる音がドレミに聞こえるのだ。音が純粋に音としてではなく「ド、レ、ミ」と音階に沿った記号として感じられてしまう。私の脳はすべての音を平均律の記号として解釈するようになっていた。母親の言葉まで。
母は自分がピアニストとして成功しなかったのは「絶対音感」をもてなかったからだと信じて疑わなかった。母にとって私は自分の代用品だったのだ。母は私を良い家庭の子供が通う幼稚園に入園させ、三歳からピアノの個人レッスンを受けさせた。私は母の胎内にいるときからモーツァルトを聞いて育ったらしい。そのまま私立の小学校に行き、中学校に行き、そして音大の付属高校へ進学した。ずっと母親の監視のもとでピアノの練習をしてきた。ピアノの発表会を中心に私の生活は動いていた。
私の母がピアノを始めたのは八歳からで、泣いてせがんでピアノを買ってもらったときの思い出話をしつこくする。中流家庭のサラリーマンの家に育った母にとって、ピアノは憧れだった。それは「お金持ちのお嬢様」の象徴だった。容姿の端麗な母は自分の家に自分は不釣り合いだと思っていた。もっと良い家の娘として生まれてしかるべき存在だ、と、母は自分をそう信じていた。それは母の信仰に近かった。
ピアノが好きで好きで、ピアニストになることだけが夢だったのに、音大に進んだときに絶対音感がないことに気がつき激しくショックを受けた。そして自分の可能性を奪ったのは凡庸な両親が音楽教育に取り組まなかったからだと思い込んだのだ。もっと早く私にピアノを習わせるべきだったのよ、と、母は祖母のことをいつまでも責めていた。
母は大学を卒業するとすぐに見合いで公務員の父と結婚した。そして、結婚二年後には私を産み、リベンジのように絶対音感教育を始めたのだ。
でも、ピアノは私と母を結ぶ唯一絶対の絆だったから、子供の頃、私はピアノが好きだった。上手に弾ければ母に褒めてもらえた。そのために必死で練習したのだ。母に褒められるためだけに。でもある時期から、母は私に不平しか言わなくなった。せっかく絶対音感を授けてあげたのに、あんなにお金を使って教育したのに、この子のピアノにはセンスがない。
センスとはなんだろうか。ピアノのセンスとはどのように練習すれば身につくものなんだろうか。当時、高校生だった私は悩んだ。母はそのころには弟の教育に必死だった。弟は私が六歳の時に生まれた。そして母は、当時、とても有名だった幼児音楽教育の塾に弟を通わせ、今度は想像力、表現力、そして絶対音感という多岐に渡る可能性を弟の身体を使って模索し始めていた。自ら勉強会に出席し、多額の寄付金を払い、先生の講演会があると地方まで出かけた。テープを聞き、マニュアルを暗唱し、弟に呼吸法を教え、ビデオを見せ、色のついたシールを貼って寝させた。特別の枕を使い、脳を活性化させる食事メニューを作った。そんな母は、どこか新興宗教に傾倒している人のようにさえ見えた。
私は失敗作なのだと思った。母の態度を見ていればわかる。母は私の失敗を糧に、今度は弟で新しい挑戦をしているのだ。
そのころから、私の病気は始まった。
母の声を聞いていると言葉が意味を失い、音だけになってしまう。母の音はシの♭で、とても私を不安にさせた。その音をどこかで耳にすると、私は自分が自分でないようになって、自分の手や足の感覚がどんどん麻痺して、しまいには自分の身体があるのかないのか、わからなくなってしまうのだった。それはとても恐ろしいことだった。身体が膨張したり、消えてしまうとき、私は激しく興奮し、過呼吸になって失神するようになった。発作が起こったときの記憶はとぎれとぎれに曖昧になり、何度か私は母の首を絞めたらしい。家具を壊したり、食器を割ったりもしたらしい。自分では覚えていない。
医師からは解離性障害という病名をつけられた。
病名によって、私は固定した。虫ピンで磔になった昆虫のように、私という存在は病気に属するようになった。「あなたは病気なのよ」。そのように母は私を磔にして、そして、私から興味を失っていったのだ。私はいまも見捨てられた標本箱のなかで磔になっている。そんな気分だ。
「ピアノは、いい楽器だが、あまりバリ的ではないね」
ロイの言葉に我に返り、慌てて頷いた。
「ピアノ業者がピアノを売るために、平均律を強引に規定したんだ。だから絶対音感というのは不自由なものです。そこから抜けることができなくなる。この世界は音の渾沌だ。平均律はそれを大ざっぱに単純化する。そうすることでピアノ業者は商売がしやすくなるからね」
サフランチキンを貪るロイに、私は問い返した。
「そうなんですか?」
「ピアノは非常に資本主義的な楽器ですよ。結局のところ我々西洋人は音楽までも経済によって規定したということです」
それでは、母が切望し続け、私が母親から強引に授けられたこの絶対音感も、しょせんはお金もうけのためにピアノ業者が普及させた「規定」にすぎないのか。
「ところで、ミスター・ロイ、あなたはどれくらいバリに滞在していますか?」
話題を音楽からそらしたかった。
「かれこれ一年になります。なぜ自分がこんなにこの島に居座っているのか、自分でも不思議ですよ」
「あなたは、科学者……でしたよね?」
「そうです。かつては情報学を教えていました。きっとマホは興味がない分野ですね」
お見通しだ。私は笑って頷いた。
「五年前に、私はちょっと変わったプロジェクトに参加しました。それは国家レベルの大規模な研究プロジェクトで、巨大なドームを作って、その中に地球とそっくりの生態系を作り、そこで生活する……というものでした。私はその第二次調査隊の一員として参加し、ガラスのドームの中の人工的な生態系のなかで半年ほど生活しました。ドームの中には地球の環境を模した砂漠や海がありました。熱帯雨林ももちろんありました。ガラスの熱帯雨林に人工的にスコールを降らせていました。どういうわけかスコールを降らせるのは私の仕事でした。私は毎日の日課として熱帯雨林にスコールを降らせていました。庭に水をまくみたいにね。ドームの中は完全な自給自足です。自分たちで作物を育てて、それを加工して食べる。おもしろかったです。あんな経験はもう二度とできないでしょう」
「ガラスのドームのなかには海もあるんですか?」
ロイは肩をすくめる。
「何百億もの予算を投入して、大量の海水、砂、土を運び入れて、全世界から生き物、植物、サンゴなどを集めました。いかにもアメリカ的な大実験です。サンゴ礁も、熱帯雨林も、人工とは思えないほど良く出来ていました。それらをコンピュータで制御しながら管理し、生態系に関する実験を行っていたのです。私は熱帯雨林を管理し、密林の植物たちが成長していく様子をつぶさに観察し、それをコンピュータにインプットしていきました。また、サンゴの生成や死滅に関わる数値データの分析を行っていました。そうしているうちに、植物やサンゴについていろんなことを考えるようになりました。たとえば、彼らも外界に反応して生きています。しかし、彼らには人間や動物のようには神経系がありません。神経系がないのにどうやって情報を処理して外界の変化に合わせているのだろうか。不思議でした」
専門的な用語が多くなると、ロイの英語が聞き取りにくくなる。そうすると、英語が音になってしまう。
「ごめんなさい、ちょっと難しいわ」
ロイは私の困惑に気がついて言い方を変えた。
「マホ、植物は私たちのように神経がないのに、どうやって自分の周りの出来事を感知して反応しているのだと思う? そう考えたら不思議ではないか?」
なるほど、言われてみるとその通りだ。
「でも私は、植物たちを観察しているうちに、植物も動物と同じように考えながら生きていると思うようになった。いや、考えるという言葉は正しくない。感じているとか、解釈しているとか、その方がぴったりくる。つまり生きているということは、なんらかの形で世界を解釈しているのだ……と。逆を言えば解釈しないで生きることはできないのです。光を受けたら光合成をする。これは外界からの記号をなんらかの形で植物が解釈するから起こる現象です。だとしたら植物によって解釈されている世界とはどんな世界だろう、それは私の知らない世界に違いない、そんなことを思ってしまった。植物だけじゃない。高等生物も下等生物もすべての生物は独自に世界を解釈して生きている。蚤には目も耳もないんですよ、犬は色盲です、蝿は複眼で世界を見る。それぞれの生物はそれぞれの方法で世界を解釈しています。人間は五感を使って世界を解釈しているが、それが人間の限界です。もし、人間より高次な存在がいたら、人間とは違う解釈をしているでしょう。でも、それは人間には理解できません。蚤が人間を理解できないようにね。蚤にとって人間は血を吸うために適切な温度をもった『なにか』に過ぎない」
「つまり、ETは人間を認識できるけれど、人間はETを認識できない……ということかしら?」
「そうです。あなたは頭がいい。だから宇宙人は見つからない」
二本目のビールを注文する。ロイの目元が赤くたるんできた。
「バリ人は世界をいくつもの解釈で認識する知恵をもっている。彼らは知っています。人間の解釈だけでこの世界が成立しているのではないのだ……と」
「では、植物にはこの世界はどう見えるんでしょうか?」
ロイはビールを注ぎ、口に運ぶ。それから髭についた泡をぬぐった。辺りに響く虫の音が、夕暮れになるにつれて濃くなっていく。あの虫たちは何を感じて生きているんだろう。考えたこともなかった。たぶん虫にとって人間は認識の外。存在しないに等しいのだ。大量に殺虫剤で殺されてもそれが人間のせいだと虫は知らない。
「熱帯の植物は毎日死んで、毎日生まれている。そんな気がします。夜に死んで、朝に新たに生まれる。それを繰り返している」
ああ、私も今朝同じことを思ったのだ。あの恐るべき朝の大合唱を聞いたとき、朝は生物によって毎日生みだされるのだと感じた。そのことを伝えたかったけれど、どう英語にしてよいかよくわからなかった。私の英語は母親の教育の賜物だ。海外留学のために母は私に英語の個人教授をつけたのだ。日常会話には事欠かないが、難しい語彙はもっていない。
「……そのドームのプロジェクトはどうなったのですか?」
質問が得意なのではなく、質問する方が簡単な英語ですむからだ。しゃべれない人間は聞き上手になるのだろう。
「ある問題が起こって、暫定的に中止になりました」
「どんな問題ですか?」
「酸素が減り始めたのです。急にドーム内の酸素が低下して、私たちは高山で暮らしているような状態になりました。酸素がないということが、どれほど人間の思考や活動を低下させるか、それを身をもって体験しました。ただ歩いて移動するだけでも、とても疲れるし息切れするのです。本当に呼吸するだけで精一杯という状況でした。私たちは酸素量が減少した原因を必死で探しました。そして二つの原因が明らかになりました。一つは地中のバクテリアが予想以上に酸素を吸収していたことです。そして、もう一つは、これが最大の要因だったのですが、ドーム内の建築物のコンクリートに炭酸ガスが吸収され、そこで水酸化カルシウムと結びついて固定化してしまったことです。それによって、植物の働きで再び酸素に変わるはずの炭酸ガスが循環から奪われてしまった。本来は循環されるべきなのに、大量のコンクリートがその流れを止めてしまったのです。私たちは、生命の危機を感じてドームを出ました。ドームを出た日のことを今でもはっきりと覚えています。酸素を思いきり吸ったとたんに、それまでの頭痛や耳鳴りが突然に収まりました。身体に生命力が満ちあふれていくのを感じました。歩くだけで苦しかったのに、羽が生えたように身体が軽く感じられました。自分がどれほど酸素を必要としている存在なのか心底実感しました。この星で私が生きていくために、こんな大切なものがあったのだ……と、ようやく理解しました。ありがたいことに空気はタダだ、いまのところね」
話しているだけでロイは涙ぐんでいるように見えた。
「熱帯雨林を伐採して、どんどんコンクリートの都市が増えたら、いつか、酸素がなくなってしまうんでしょうか?」
「わかりません。地球の酸素濃度はこの二十万年、まったく変化していないのです。これは奇跡です。こんなに地球環境が激変しているのに、酸素濃度は二一パーセントです。何がバランスをとっているのか謎です。たぶん、地球は一つの巨大な生命体なのです。先ほど私は森林保護の運動のための調査にインドネシアを訪れたと言いました。でも、バリに来て、わからなくなったのです。森林保護は大切ですが、多くの環境運動家はそれが絶対の正義だと思っています。でも私にはだんだんそう思えなくなったのです。絶対だと思った瞬間から何かを間違うような気がしています。環境を守る、という視点から環境を守ることはできない、そう感じます。アメリカ人は環境と自分を切り離して考えているけれど、それが間違いなんだ。環境と人間っていうのは、バリでは繋がっているんです。だからバリ人はそれぞれが宇宙だと思っている。宇宙に文句を言っても始まらないから他人のことにはあまり口出ししません。彼らには自分が絶対だと思うと同時に、相手も絶対だという感覚があるんです。貧乏人は金持ちをうらやましがらない。人それぞれです。なにしろお互い宇宙なんだから。これは資本主義にはない思想です」
ロイは酔ったようだ。声がずいぶん大きくなっていた。
「日本ではいま、お金が原因でたくさんの人が自殺します」
「そうです。資本主義においては、命も愛も、貨幣を相対化できるほどの価値はありません」
たぶんそうなのだろう。そのことをいま日本人もみんな実感しているんだ。そう思ってから、思わず笑ってしまった。「日本人も……」だって。こんなことは日本にいたら絶対に言わないセリフだから。
「マホはバロンダンスをご覧になりましたか?」
「いいえ……」
「一度、観に行くといい。バリには絶対に良いものも、絶対に悪いものもありません。すべてはせめぎあって永遠に戦いを繰り返す。それを表現しているのがバロンダンスです。この世界にはハッピーエンドはないんです。ありがたいことだ。バリでは私も許される。バリ的なものに憧れながら、実は資本主義が大好きなんですよ。貧乏は嫌だし、不潔はたまらん、お祭りも毎日では飽き飽きします。電気は使いたい。名誉も欲しい。まったく強欲だ。私らはこの世界を滅ぼす白い悪魔かもしれないが、バリでは悪魔も許される。乾杯!」
グラスを無理やりぶつけてきて、ビールがこぼれた。かなり酔いが回っている。
「マホ、私はあなたが羨ましい。私のように悩まなくても、どこかで多様性を受け入れるアジア的なハートがあるのだろうね。美術館で会った時に直感した。君はとてもミステリアスだ」
「私もきっと、バリの人のようには暮らせないわ。ここはとても美しい島だけれど、私にはとても無理です」
「君は正直で、純粋だ」
称賛してから、悲しそうにロイは付け加えた。「支配したいほどに……」と。そしてウインクした。そのしぐさにひどく興ざめした。
ふらつきながらも、ロイは私をホテルまで歩いて送ってくれた。
ウブドの町は欧米人と日本人の観光客が行き交い、どのカフェも賑やかに混みあっていた。なぜかこの町に来て、私は欧米人を美しいと思わなくなった。白くてぶよぶよしていて、熱帯には不釣り合いだ。異物に感じる。そして日本人の自分の肌の白さも嫌だった。でも、ミツコならどうだろう。ミツコはまるで熱帯の青い果実みたいだった。
どこからかガムランの音が聞こえてきた。
「村の楽団がオゴオゴの練習をしているのでしょう」
不思議な音色だった。うまく音が取りにくい。平均律では区分できない複雑にして精妙な響きだった。
「もし、明日の夜に何の予定もなければ、近所の村にダンスを見物に行きませんか?」
ホテルの前まで来たときに、ロイが言った。
「ダンス、ですか?」
「そうです。サンヒャン・ドゥダリです。娘がトランス状態になって踊るという独特のダンスです」
娘がトランス状態……? 私は即座に返事をした。
「ぜひ、連れて行って下さい」
ロイの目が赤い。
「では、七時にホテルに迎えに来ます」
握手して、ロイは手を振り千鳥足で夜道に消えていく。
私は慌てて部屋に戻り、セーフティケースからミツコの二枚目の絵ハガキを取りだした。ダンスを踊る少女。ひっくり返して裏を見る。
ミツコのメッセージが記してある。
バリには本当のダンスがある。
ダンスは神とのセックス。
その意味が、いつかあなたにもわかる。
恍惚と踊る少女は、そういえばどこかミツコと似ていた。見開かれた虚空のような目。このダンスを見たい。私はミツコの体験を追おうとしている。そうすることでしかミツコを感じることができないから。
電話が鳴った。
「もしもし、オダです」
まるで古い友達の声を聞いたみたいにほっとした。
「こんばんは」
「夕食はもう済まされましたか?」
時計を見るとまだ七時半だった。
「ええ。美術館でロイ・ウィルソンという人と知りあって、それで夕食をごいっしょしたんです。オダさんのことを知ってらっしゃいました」
オダは、ロイ・ウィルソン……と独り言のように反復する。あまり親しい間柄ではないようだ。
「ああ、わかりました。バリにはああいう人種がたくさんいます。アジアに魅せられた不良外人」
あまり好意的でない表現に驚いた。
「でも、とても紳士でしたけど。それで、明日はいっしょにサンヒャン・ドゥダリというダンスを観に行く約束をしました。まずかったでしょうか?」
「まずくはありませんが、夜歩きは十分に気をつけてください。僕は明日はシンガポールの大学に行っています。帰って来るのは夜なので、ごいっしょできないんです」
子供じゃないから大丈夫です、そう言ってから、私はロイとの約束を少し後悔した。オダに調子のいい軽い女だと思われたかもしれないと不安になったからだ。そして、なぜオダに嫌われるのを恐れているのか自分でも不思議に思った。オダとは昨日出会ったばかりだというのに。
「それから、オゴオゴが終わってニュピが始まる前にラーマさんのアトリエに行きます。ラーマさんが、マホさんといっしょにニュピの瞑想と断食をしたいとおっしゃっています。それでよろしいですか?」
いっしょに瞑想と断食?
「ええ、もちろんです。もしかしたらそこでミツコに会えるかもしれないし」
オダは少し沈黙する。ミツコの話をすると、オダは絶対に変だ。
「ラーマさんの絵はご覧になりましたか?」
いけない。そういえばどれがラーマ氏の絵なのかわからなかった。
「あの、もしかして、壁面いっぱいの大きなジャングルの絵は彼の絵でしょうか?」
「そうです」
脳裏にダークグリーンの密林が浮かぶ。あの不思議な絵はやはり彼のものだった。ミツコもあの絵に魅せられて画家の元を訪ねたのかもしれない。そしてきっと気に入られたのだ。ミツコはアマデウスだ。芸術を理解する人ならきっとミツコの非凡さがわかる。
「とても不思議な絵でした。魂を連れ去られるかと思いました」
ミツコの幻影を見たことは、オダには言えなかった。
「あなたがそう言っていたと、ラーマさんに伝えておきます。明日の昼はどうなさいますか?」
何も考えていなかったが、少しゆっくりと休みたかった。
「ホテルでのんびりしています。ちょっと疲れがたまっているから」
「その方がいいでしょう。よく休んでください。では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電話を切ってから、私はクバヤを脱いでコルセットをはずした。身体が解き放たれる。それから髪を下ろして、鏡の前に立った。
自分の顔が他人のように見えた。顔に触ってみた。確かに私だ。大丈夫、解離していない。解離していないのになぜ自分じゃないみたいなんだろう。旅とはこういうことだったのか。ミツコはよく言っていた。
マホも、もっと旅をしたらいいのに。
東京での自分の人生が、まるで前世のことのように思える。でも、夢なのはどちらかといえば今の自分だ。私は東京に戻れば、またあの鬱々とした自分に戻るのだ。そして、酸素不足のコンクリートの都市の中を這い回るのだ。
シャワーを浴びて、それから薬を飲んだ。
寝る前になぜかまたオダのことを考える。
オダとミツコはどういう間柄だったんだろうか。あの二人ならさぞかし気が合ったろうと思った。このバリで、毎日、お互いの興味の赴くままに暮らしていたのだろう。毎日新しく生まれて、何かを発見し、そして死んだように眠って、リセットする。そうやって生きていたのだろう。
なにかひどく悪い考えに取り憑かれてきて、私はシーツをすっぽり被り耳を塞いだ。
まだ、バリに負けている。
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3rd day[#「3rd day」はゴシック体]
顔を洗って鏡を覗くと、たいへんな異変が起こっていた。
どういうわけか顔のあちこちに、小さな植物の芽がふいているのだ。ひょろひょろしたカイワレダイコンのようで、芽の先がうっすら双葉になっている。それが、頬や、鼻の下や、口元から伸びているのだ。私はおそるおそる顔に触ってみる。確かに植物だ。
どうしたらいいんだろう。引っ張ると顔の皮膚がつれる。まさかこのまま外出するわけにもいかないので、えいやっと力まかせに引き抜いてみた。すると、その細い芽はあっけなく抜けた。芽を摘むと、顔に穴があいてしまう。でも、こんなものを生やして出歩くよりは穴のほうがマシだ。私は次々と顔から出た芽を抜く。引き抜くときのなんともいえないずるっとした感触が顔全体に広がる。くすぐったいような、少し痛痒いような気持の悪さだ。
引き抜いた芽をしみじみと見てみる。確かに植物だ。顔には抜いた穴がボツボツとあいている。見ていると、そこから小さな蟲がつぎつぎと湧きだし、ざわざわと顔全体に広がっていく。緑色に少し赤紫が混じったようないやらしい色をしている。大きさは一ミリにも満たない。そんな蟲が私の顔から湧き続ける。
私は慌てて顔の穴を指で塞ごうとする。すると蟲はいとも簡単に潰れてしまう。とても弱い蟲なのだった。私は蟲を潰す。濁った液体が蟲の体から染み出す。
しかし、いくら潰してもきりがないのだ。私は泣き叫びながら、洗面所を転げ回る。蟲はとうとう私の体全体を覆い尽くし、私が蟲そのものになってしまう。
私は叫ぶ。
助けて、助けて、助けて……。
自分の声で目が覚めた。
夢だったのだ。ひどい寝汗をかいていた。起き上がると外は明るい。ほっとした。夜が明けているならもう大丈夫。悪夢など起き出して忘れればいい。思わず顔にさわってみる。カイワレダイコンは生えていなかった。
時計を見ると、すでに九時前だった。八時にモーニングコールを頼んでおいたのにフロントは起こしてくれなかったらしい。カーテンを開ける。外は相変わらずの熱帯雨林だ。気温が上昇していて、ジャングルはむんとした熱気を放っている。
ミネラルウォーターを飲んで、それからシャワーを浴びた。やはりお湯は出ない。
まあいい、今日は何の予定もないのだ。ずっと一日、寝ていてもいいんだ。
デッキに出て、デッキチェアに腰を下ろす。昨日、美術館で観た絵そのものの熱帯雨林が広がっていた。ぼんやりと眺めながら鳥の声を聞いて、それだけで一日が終わってもいいのだ。
私は、なんだか急にうれしくなった。
そうだ、私はなにをやってもいいんだ。なぜそんなことに気がつかなかったんだろう。ここはバリで、誰も私のことを知らない。自由なんだと思った。とてつもなく自由なんだ。声に出して一人で笑った。可笑しかった。一人で笑ったっていいのだ、発狂していたっていいのだ。ここには私しかいない。誰も観ていないときに気が狂っていても、それを誰が狂気と呼ぶのだろうか。自分しかいないなら、正常だろうが狂っていようが同じなのだ。そうなんだ。同じなんだ。
だから一人のときは、心おきなく狂えばいいんだ。どうして東京にいるときはこの考えに至らなかったのだろう。なぜいつも人の目を気にしていたんだろう。部屋に一人でいるときですら。
私は着替えながら鏡に向かって叫んだ。
「おはよう、キチガイの私。あんたは頭がおかしいよ。どうかしてる、イカれちゃってるね」
朝食を取るためにレストランに行く途中、フロントに呼び止められた。伝言があるとバリ訛りの英語で紙を渡された。
「おはようございます。もし、今日、何も予定がないのであれば、ぜひ、ウブド近郊を散歩してみてください。モンキーフォレストを抜けて歩き続けると、木彫りで有名なニュークニンという小さな村に着きます。また、午後遅い時間にウブドのラヤ・プリアタン通りの北、プトゥル村の方へ歩くと、何千羽というシロサギが巣に帰る素晴らしい眺めを見ることができます。では。オダ」
メッセージには簡単な地図まで描いてあった。
とても暖かい優しい気持になって、そのメッセージを折り畳むとパンツのポケットにしまった。平安って、こういう状態を言うんだ。心に悩み事がなにもない。そして、果物をたくさん選んで朝食をとった。
レストランからも熱帯雨林の谷が見下ろせる。よく目をこらすと、リスやサルの姿も見えた。サロンを巻いたバリ人の従業員たちはもう私の名前を覚えていて「マホ」と手を上げる。昨日、私がクバヤを着ていたので彼女たちが話しかけてくれたのだ。その色はとてもあなたに似合っています……と、彼女たちは言った。東京のアパートでは、隣の住人すら私に興味などないのに。
いや、違う。勘違いしてはいけない。私はここでは旅行者なのだ。だからみんなサービスをしてくれるのだ。笑顔はサービス。好意じゃない。それでも、今日は十分に良い日だと思えた。のんびりして、そして出かけてみよう。オダが教えてくれたシロサギの飛ぶ様を見てみたい。そして夜になったら、ダンス見物に行くのだ。
通りの方から、ファーンと車のホーンの音が聞こえた。
きれいなGメジャー7だった。
アグン山でお祈りしたことを思い出す。パスワード。そうか、これが私の神様からのパスワードなのか。そう思った。
*
散歩に出かける前に、ミツコの母親に電話をしてみた。
ミツコを探しにバリ島に行くことを彼女には告げていた。とりあえず、ミツコがバリ島に来ていたことはわかったし、もしかしたら三十日には彼女の下宿主だったラーマという画家の家で会えるかもしれない。少なくとも、ミツコは死んでいるのではなさそうだ。もしミツコに会えなくても、ラーマという人物ならなにか知っているだろう。
部屋の電話は生きていて、ダイヤル直通で日本に繋がった。あっけないほどだ。窓の外には密林が見えるのに、この細い線が日本まで届いている。呼び出し音を数えながら、私はいつになく上機嫌だった。本当は電話嫌いで、あまり親しくない相手に電話するときはとても緊張するのだ。でも、いまはなんだかロイ・ウィルソンと英語で話す気分で、ミツコの母親とも会話できそうな気がした。
でも、電話に出たミツコの母親の態度は、腹が立つほどそっけなかった。私がいくら「ミツコさんの友人の……」と言っても、「いったいどちらにおかけですか? なにかのお間違いではありませんか」。そう言って取り合ってくれないのだ。
「音大で、ミツコさんと同級生だった者です。この間も電話でお話したと思うのですが、お忘れですか?」
「え? どういうことですか」
電話の向こうで、ひそひそ声が聞こえる。
(もしかしたら、アレじゃないかしら)(なんだよ、どうしたんだよ)(ほら、あのオレオレ詐欺とかいうの、相手は女の子なんだけどなんだか気味が悪いわ)(適当にあしらって切ってしまいなさい)
しゃべっているのは、どうやらミツコの父親らしかった。まさか本当に電話番号を間違えたのかしらと不安になったが、そんなはずはない。電話に出たときに母親はたしかにミツコと同じ姓を名乗ったのだ。
「困りますから、失礼します」
そう言われて、電話は一方的に切られてしまった。これはどういうことだろうか。まさかミツコを忘れてしまったなんて、そんなことがあるだろうか。それとも、私がなんらかの理由でミツコの母親から騙されているのか。なんのために。ありえないそんなこと。
私はもう一人、大学時代の友人に電話してみた。彼女もミツコを知っている。そしてミツコが失踪した当初は一番に色めきだって噂を流していたおしゃべりな女だ。ミツコが失踪したのは、なんらかの理由で絶対音感を失ったからよ。彼女は私にそう告げた。
だからピアノが弾けなくなっちゃったのよ。だって、私はミツコに会ったの。偶然だけど、混み合ったJR渋谷駅のホームでばったり遭遇しちゃったのよ。ミツコはどこかに旅行に行くみたいに大きめの鞄を抱えていたわ。私が声をかけたら、いつもの通り、ニコニコしていた。ぜんぜん変わった様子はなかった。みんなが心配していると言っても、まるで気にしてない風だった。そしてもうピアノは弾かないからいいんだ、とあっさり言うの。なぜ、って聞いたわ。そこにちょうど電車が入って来たの。だからミツコの声がうまく聞き取れなかった。絶対音感が、どうのこうのと言ったの。え、って聞き返したけど、彼女は手を振って電車に乗り込んだ。私ももちろん追いかけて電車に乗ったわよ。もっと話を聞きたかったから。そうしたら、ミツコは発車寸前に電車を飛び降りたの。閉まったドアの向こうで無邪気に手を振っていたわ。きっと私には話したくないことがあったんでしょう。笑ってたけど、無理していたのよ。それに、ミツコは両手に包帯を巻いていた。たぶん、よほどの事故にあったのよ。そして怪我をして、そのショックで絶対音感を失ったんだわ。そうに決ってる。じゃなかったら突然行方をくらます理由がないもの。
あまりしゃべりたい相手ではないけれど、確かめるためだからしょうがない。携帯に電話すると、呼び出し二回ですぐに出た。名乗ると「あら珍しい」と言ったまま言葉が止まった。たぶん意外だったのだろう。私はめったに自分の方から電話などしない。私が同級生と連絡を取り合ったのは、ミツコが消えた時だけ。あの時だけはいろんな人から一斉に電話がかかってきたっけ。
「いま、ミツコを探してバリに来ているの」
「え、バリ? いいわねえ。優雅でうらやましい」
「あなたが言ってたとおり、ミツコはやっぱりバリに旅行に来ていたみたい」
電話口で、あの口数の多い女が黙った。
「あのさ……」
動悸が早くなる。
「ミツコって、誰だっけ?」
思わず受話器を取り落とした。もし、もし……、声が遠くなる。怖くなって返事もせずに電話を切ってしまった。
ミツコって、誰だっけ?
不安になる。私の知っているミツコは本当に実在するの? おかしいのはみんななのか、それとも私なのか。
*
「今日はクバヤは着ていないんですね」
ロビーで私を見ると、ロイは残念そうに言った。
私たちはロイの運転する古びたバンに乗り込んで、郊外を目指す。昨日よりもいっそう、ガムランの音が町中に鳴り響く。巨大なオゴオゴの人形が闇のなかでライトアップされていた。バリの人たちはいつも車座にたむろしている。いったい何を話しているんだろうか。
ウブドの町を抜けると、真っ暗な田舎道に入った。
「今日は昼間、何をして過ごしましたか?」
重い沈黙をロイが破った。私はロイと二人で車に乗ったとたんに緊張して口数が少なくなっていた。
「昼間は、ウブドの周りを散策していました。夕暮れにシロサギが巣に帰る様子を見ました。本当にたくさんのシロサギが夕空を舞っていて、まるで夢のなかの光景のように美しかったです」
ロイは頷いて笑った。
途中、ジャングルの中の広場に明かりが灯り、たくさんのバリ人が集まっていた。
「あれは何かしら、お祭り?」
私が興味を示すと、ロイは車を止めて、外に目をこらす。
「いや、あれは、埋葬です」
言葉がよく聞き取れなくて、私は「え?」と問い直す。
「降りて見物してみましょう」
ロイの後に続いて車を降りる。およそ百人はいるだろうか。人だかりのなかをロイは歩いて行く。私は慌ててその後を追った。
「ほら、あそこを見て」
人垣の奥を指さしてロイが私を見る。指の方に目をやると、人々のすき間から地面に掘った穴が見えた。さらにロイが背中を押す。躊躇しながらもバリ人の間を縫うように近づいてみると、穴の中に人間が座っていた。
「死体を埋めているんです」
人々があまりにいいかげんにたむろしているので、まさかお葬式とは思わなかった。日本の葬式のような厳粛な緊張感はまるでない。
「みんなあまり悲しそうではありませんね」
泣いている人も二、三人いる。たぶん親族だろう。あとの者たちはみな、漫然と広場に散らばり好き勝手にしている。でも、無礼な者も、声高な者もいなかった。雑然とした秩序。日本人が集団になったときのような身内意識丸出しの見苦しさがバリ人にはないのだ。
「これは葬式ではないんです。バリでは葬式の前に一度、土中に埋めるのです。そしてしばらくしてまた掘りだして、その死体を焼くんです。バリの火葬はカラフルで盛大ですよ。美しい神輿に乗せて旗を立てて練り歩きます。そりゃあもう大変なお金と労力をかけて火葬を行うんです。ですから準備に時間がかかります。その間、死人は土に埋められているんです。ときには火葬のお金がなくて何年も埋められていることもあります」
つまり、あの死体は火葬の準備が整うまで、仮にここに埋められているということらしい。
「土の中で、腐ってしまったりしないんでしょうか?」
「いや、むしろ外に放っていたほうが、死体の溶解は早く進むのではないかな。どちらかといえば、湿潤な土中では死体は腐らずに屍蝋化が進むはずです。脂肪やたんぱく質が分解して脂肪酸になるんです。それが土中のカルシウムやマグネシウムと結合して石鹸のようになる。だから、埋めておいた方が燃やす時はよく燃えるでしょう」
無関係の自分が死人を見物しているのは居心地悪かった。私はそっと人込みを離れた。
「バリの人は、たった一日のことになぜそんなに力を注ぐんでしょうか。あれでは冠婚葬祭で一年が終わってしまう」
「それでいいんでしょう。彼らにとっては、それが生きるということなのだから」
お祭りが生きるということ。それはもしかしたら理想的な人生かもしれない。お祭りのために人形を作り、カゴを編み、花を活け、おしゃれする。絵を描き、楽器を奏で、踊り、歌う。毎日がお祭りの準備で明け暮れる。そのように生きられたら素晴らしいかもしれない。
「何を考えているんですか? 今日は少し静かですね」
「いえ、少しバリの人が羨ましいなと思って」
ロイは自嘲気味に笑った。
「バリに来た多くの人は最初はみなそう思うものです。でも、だんだん嫌になるんです。仕事と余暇の区別の曖昧な生活に逆に息苦しくなる」
そうなのだろうか。
「また、ピアノでも弾いてみたらどうです?」
ピアノ。もう何年も弾いていない。
「ダメです。ピアノを弾く意味もない。目的もない」
ピアノを弾くことが、生きることだった時が、確かに私にもあった気がする。母との濃密な時間。でもそれは失われて二度と戻らない。
*
村の入り口にはすでに人だかりができていた。
石造りの家の軒先の階段に、人々は腰を下ろしている。彼らはなぜいつもなにをするともなく座っているのだろうか。子供たちだけが陽気に駆け回っていた。
ロイの車はたむろするバリ人が見えないかのように強引に集落のなかに入って行った。家々の立ち並ぶシルエットの向こうに炎の明かりが見える。村の中に電気はなく、風景はただ、たいまつと、遠くのたき火の明かりで影絵のように揺れている。
散漫でありながら、なにかの刺激が入ると人々は集まってくる。いつのまにか私たちの車を遠巻きに囲むように村人たちがこちらを見ていた。その顔も炎と闇のコントラストが交互に立ち現れ、表情すらわからない。
「今日は、アメリカ人のツアーがダンスを見学に来るんです。我々の方が早く着いてしまったようだ」
ロイに促されて車から降りていると、三台の車が勢いよく村に乗り込んで来て、次々に背の高いアメリカ人たちが降りて来た。タンクトップに半ズボンをはいて、手にはビデオカメラを持っていた。老若男女入り交じったツアーで、みな嬉しそうに目を輝かせてバリ人たちをカメラにおさめては、陽気に挨拶をしていた。バリの人たちはといえば、不思議な笑みを浮かべて、彼らをじっと見つめていた。揶揄するでもなく、かといって愛想笑いでもない。彼らは欧米人と絶妙の距離の取り方をする。私の方がきっと、欧米人にはへりくだっているのかもしれない。
「さあ、こっちです」
私はロイに腕を掴まれて暗い路地へと入って行く。
「ダンス見物の特等席があるんだ」
一軒の家の前で、ロイは待っていたバリ人になにか現地の言葉で呟き、そして紙幣を渡しているようだった。バリ人は門を開けて庭の奥へと私たちを案内する。真っ暗ななかに蝋燭が灯っていて、色鮮やかな鳥籠が照らし出されていた。鬱蒼とした植物の生い茂る中庭を抜けると、離れのような建物があった。建物にはドアはなく、エントランスからすぐに階段があり、その奥にも蝋燭が揺れていた。バリ人は、こちらへどうぞ、と手で示す。ロイは私を目で促して階段を登っていく。私もロイの後について階段を登って行く。丸いオープンなデッキを挟んで二つの部屋があり、その一つにロイはドアを開けて入って行った。私はドアの前に立って呆然とロイを見ていた。
「マホ、こっちへ」
ロイが手招きして、それから広い窓の外を指さす。窓の外には火が燃えているらしく、ロイの顔も赤く点滅している。おそるおそる部屋に入ると、そこはなにか商売用の倉庫のようで、お土産物として並んでいる籐のカゴがたくさんビニールに包まれて積んであった。部屋はがらんとしていた。部屋の中に明かりはなかった。積み上げられた雑貨類の他には、壊れかけた椅子、古くさいマットレスが転がっていた。
窓際に近づいて見下ろすと、そこは広場になっていて、たき火が燃えていた。たくさんの村人が立ったり座ったりしていた。先ほどのアメリカ人の団体も、特別あつらえのベンチに腰を降ろしてビデオカメラを構えている。たき火の周りに上半身裸の男たちが円陣を組むように座っていた。
「桟敷席へようこそ」
とんがった鼻の穴越しに、ロイが私を見下ろす。
私は窓から乗りだして、村と、村の奥に広がるジャングルの闇と、たいまつの炎に照らされた人々を眺め、その風景があまりにも幻想的で美しく、言葉を失っていた。
「あの小さな塔が寺院です。サンヒャン・ドゥダリはとても神聖なダンスですから、寺院の前で行われます。この部屋からだととてもよく見えるでしょう?」
「すごい眺め」
「そうです、ダンスの一部始終が見える」
背の高いロイの懐が、私の背後から私に覆いかぶさる。ロイの息遣い、汗の匂い、それらが私に迫ってくる。私は窓から身を乗りだして、なるべくロイの体に触れないようにした。ロイは両手を窓の枠につき、私はロイに抱きくるまれている。息苦しくて、心臓の鼓動がどんどん早くなった。
どこからともなく、白い衣装の少女が二人、現れた。まだ十二、三歳だろうか。足どりがおぼつかない。まるで夢遊病者のようだ。
「見てごらん、彼女たちがサンヒャンだ。もうトランス状態に入って朦朧としている。彼女たちには神聖な神様が降りてくる。そして神が乗り移って聖なるダンスを踊る。それがサンヒャン・ドゥダリだ」
少女たちの顔はよく見えないはずなのに、私にはわかった。薄目を開けて、向こう側の世界からこちらを見ている。
「なんだか、怖いです」
「大丈夫だよ。これはただの踊りだ。それにサンヒャンは村から悪霊を追いだすためにやって来る。いい奴なんだ。これから病気や怪我をした村人が、自分の悪霊を追いだしてくれるように彼女たちのところへやって来る」
ロイの言う通り、老人や、子供を抱いた母親が彼女たちの前に跪き、祈る。すると彼女たちは小さな瓶から花を使って水をかける。ブーゲンビリアをつまんだ指先から、水滴がほとばしる。
「あれは、聖水だ。ああやって悪霊を払っている。さあ、もうすぐダンスが始まる」
男たちが、二人の少女を肩に背負い、広場の中央へと運ぶ。竹で四角に囲われていた舞台に少女は降ろされる。少女たちは小さな切り株のような椅子にぐったりと座っていた。
少女に呼びかけるように、老婆たちの歌が始まった。その歌は神様を誘い出しているように誘惑的だった。歌が始まると少女たちは立ち上がり、目を閉じたままダンスを始めた。それはそれは優美で、魅惑的なダンスだった。
目をつぶっているのに、二人の少女の動きはぴったりと合った。動いているというよりも、精妙なうねりに身をまかせて漂っている二匹のくらげのようだった。
「おお、美しい、見なさいあの身のこなし。あれはまさに神だ。神のダンスだ」
突然、円陣を組んでいた男たちが「チャ」という掛け声とともに空気を切り裂いた。
男たちは激しく「チャ」「チャ」「チャ」とリズムを刻む。
少女たちは男のリズムに操り人形のように反応する。体を左右に激しく振りながら痙攣したように踊り続ける。その小刻みな動きは瀕死の昆虫、急流を上る鮎の鰭のようだ。
チャ、チャ、チャ、チャ。
リズムが私の体にも刻み込まれていく。
すると、ロイが私の手をまさぐるように掴むと、誘導し、そっと何かを握らせた。熱い肉の塊。それはロイのペニスだった。体に通電したようなショックが走って、私は手を離した。
「さわって」
と私の背後でロイが呟く。私の背中に密着し、左手でブラウスの上から乳房をぎゅうと握りしめた。
声が出なかった。私は体を固くしてロイの右手から自分の手を力まかせに振りほどいた。そのとたんに、強い力で羽交い締めにされた。
「これからが本番だ。サンヒャンはエクスタシーに上りつめる。さあ、僕らもいっしょに参加しよう。二人でダンスを踊る。すてきだろう?」
ロイの手が私のパンツのファスナーを降ろす。身をよじり抵抗しても左腕で首を絞められていて身動きがとれない。ロイの指が下着の中に入ってくる。そして亀裂を探し当て陰部をこする。その指先の力はけして乱暴ではなかった。先端から奥の亀裂へと柔らかくなぞるように指を這わせる。
「聖なる泉が溢れている」
そう言ってロイは、濡れた指先の匂いを嗅いで口に含んだ。
チャ、チャ、チャ、チャ。
男たちの刻むリズムはさらに激しさを増し、二人の少女は扇を小刻みに揺らしながらのけぞり、宙を舞う。
ロイは私を窓の木枠に組み伏せ、チノパンツと下着を剥《は》いだ。露出した臀部を愛おしむように撫でると、後ろ側から指を入れて来た。ねちゃねちゃと私の陰部をかきまわし、奥のひだや肉の盛り上がりを確かめている。
ロイの熱くなったペニスが皮膚に触れる。体をずらすと、そのたびにロイは私を追いつめる。私は窓から落ちないために自分の両手で木枠にしがみつかなくてはならず、しかしロイの体重に耐えきれず、腕はしだいに痺れ、ついには顔が木枠に押し付けられた。ロイが私の顎をつかみ、顔を窓の外に向ける。
「だめだ、ちゃんと見なくては。せっかくダンスを見物に来たんだ」
男たちのリズムはさらに激しくなり、少女たちの指先は痙攣していた。
「さあ、クライマックスだ」
ロイは私の首を左腕で固定する。ちゃんとダンスが見える位置に。そしてゆっくりと後ろからペニスを挿入してきた。
「やめて」
咽が締まっていて声がでない。
「いっしょに踊ろう、マホ」
チャ、チャ、チャのリズムに呼応しながら、ロイが激しく腰を揺する。
チャ、チャ、チャ、チャ。
性交しながら右手で陰部をこする。
チャ、チャ、チャ、チャ。
思わず、声が漏れてしまった。
「もっと尻を上げて」
まるで学校の先生のようにロイが叱る。
「もっと締めて、マホ」
チャ、チャ、チャ、チャ。
ダンスの動きに合わせて腰をくねらせる。
こすりあう屈辱的な快感が足の付け根から広がっていく。
炎に照らされた少女たちの動きが、だんだん霞んできた。
掛け声が体の内側から聞こえ始める。
チャ、チャ、チャ、チャ。
ノックしてる。
何かものすごい力が私の内側をノックしはじめる。
ロイの両手が私の乳房をもみしだく。
「ああ、すごいよ、すごくいいよ、マホ」
興奮したロイは無我夢中でペニスを突き立ててくる。ロイのペニスは長くて、私の子宮の底に届き、子宮がドンドンと突き上げられて破れそうだった。私は痛くて叫び声をあげたけれど、あらゆる声はみんな、チャ、チャ、チャというリズムにかき消されていく。
痛い、やめて。そうもがきながらも痺れをともなった甘酸っぱい快感がからだのなかに広がっていって、その快感の果てから、何かが激しく扉を叩く。壊れそうだ。
チャ、チャ、チャ、チャ。
どんどん大きくなる。ノックの音が大きくなる。もうすぐ決壊する。扉は叩き壊されて、何かが向こう側からやってくる。
チャ、チャ、チャ、チャ、チャ。
ペニスがどんどん腑に入ってくる。
極まったロイが激しく私の肩を噛んだ。
その瞬間に、ぬるりとした妙な感触とともに、私は私のからだから抜けたのだ。
ずるっ、ぬるぬる……。最初は一気に、そしてゆっくりと、私は私から抜けた。そしていきなり軽くなった。
浮かんでいる。
ふと見下ろすと、ロイが人形のような私を揺すって玩んでいる。私がだらんだらんとロイの腰に合わせて揺れている。可笑しかった。玩具に夢中になっている子供みたいだった。
夜空が見えた。果てしなかった。
私は開け放たれた窓から外へと飛び出した。そして、サンヒャン・ドゥダリの広場の上空を回旋した。
二人の少女は目の眩むような光を纏って踊っていた。もう姿は見えず、ただ、きらきらとさざめき揺れる強烈な光の束が二つ並んでいるだけだった。
ダンスとはこの光の具象化だったのだ。あまりの煌めきに目がつぶれるから、きっと人間は光をダンスに変えて踊るのだ。そうなんだ、あらゆる芸術は光の変換なんだ。自我を切り離したとき光と一つになる。人と光のハーモニーだ。
細い月をよぎってゆっくりと雲が流れていく。
空はとても静かだった。
私は雲の流れのなかで、細かな蒸気のベッドにたゆたう。水の精気が私を浄化する。背泳ぎで雲を泳いでみると、流れに逆らいゆっくりと移動する。
私は飛べるんだ……。
私は自由になったことが嬉しくて、空中を、夜空を飛び回った。それから深海のようなジャングルへ急降下し、密林の中を風のように駆け抜けてみた。ざわざわとした生き物の気配、そのリズムが私を満たす。生命のリズムの波に揺らぐ海月のように漂い、踊り、そして舞い上がり、再び熱帯植物の命の海にダイビングした。
ああ、いいきもち。
地の底に潜り、水脈をたどり湖から再び浮上する。そしてもっと浮上する。どこまでも浮上する。もっともっともっと。どんどん速度が早くなる。私は風に溶けそうだ。
まるでスキーをするように、私は曲線を描きながら高い山の稜線を駆けていく。
ああ、いいきもち。
もっと、もっと、もっと高く……。
ふいに、私の目の前に何かが現れた。
疾風のような素早さで、その生き物の影が山並みから生まれた。私は動きを止め、空中に浮遊したまま、自分の前に立ちはだかる奇妙な生き物を眺めた。
毛むくじゃらだった。全身長い白い毛に覆われていて、顔は赤く犬のようでもあり、鬼のようでもあった。大きな口から牙が覗いている。四つ足で、長いしっぽを優雅に左右に振っていた。私を見据える大きな目は長いまつげにふちどられていて、どこか愛らしい生き物だった。
(帰れ……)
と、怪物は言った。言葉ではなく心に直接語りかけてきた。
(帰れ……)
その言葉のピッチはとても強くて、波動を受けて私は空中を少しだけ飛び退いた。そして、ふわふわと途方に暮れていると、再び生き物は言った。
(帰れ、まだ間に合う)
ひゅんっ。
なにかに存在そのものを鷲掴みにされて、私は強引に組み替えられ、送信された。
次に意識が解凍したときは、もう体の中にいた。
うっすら目を開けると男の荒い息が鼻にかかる。興奮したロイの顔があった。
私は黴臭い薄汚れたマットレスに寝かされていた。ロイはしつこく私をレイプしていた。とても不愉快だった。
「僕たちは、相性がいい。そう思わないか?」
そう言ってロイは私の両脚の間でニヤニヤと笑った。
私はロイに唾を吐きかけた。
ロイは驚いて退いた。なにかとてつもない不快感が私の中に湧き上がって来て、私は怒っていた。自分ではどうしようもないほどの激しい感情だった。ペニスが私から抜かれる。
顔の唾液をぬぐってからロイは怒りと不安を露にした。
「せっかくダンスを見せてやったのに」
私はロイを睨みつけ、よろけながら立ち上がった。股間に異物感が残る。この男の長いペニスを突き立てられた。痛かった。出血しているかもしれない。立ち上がると、どろりと精液が膣から流れてくるのがわかった。ぞっとした。この男は私の中に射精したのだ。抑え難い怒りが体の底から湧いてきて、肩や首が痛いほど固くなった。堪え切れない憎しみと怒りだった。ぐわんぐわんと胸のあたりで熱い血液がとぐろを巻く。男はいつもそうなのだ。自分勝手に調子のいいことを言って、都合が悪くなれば平気で私を踏みにじる。エサを投げた野良犬を追い払うみたいに、あっけなく一言で私を切り落とすのだ。そして私を侮蔑し、私を哀れみ、蔑み、去っていく。ごめんよマホ俺が悪かった。だけど君だってずいぶんじゃないか。ごめんよマホ君のことは忘れないよ。君の愛に応えられなくて悪かった。君だっていい思いをしたじゃないか。ふざけるな。そんなに簡単にオマエの都合で蹴散らされてたまるか。私はただ嫌われたくなかっただけだ。愛してほしかっただけだ。ほんとはイヤだったんだ、オマエなんかに抱かれるくらいなら死んだ方がマシだ。私が傷つかないと思うのか、私が苦しくないと思うのか、私はモノじゃない、生きてるんだ。許さない。絶対に許さない。私を侮辱する奴は何万回でも殺してやる。怒りが私を嘖む。怒りの炎に身も心も炙られる。もう自分の内部にこの火を留めておくことなどできない。私は怒りで死んでしまう。怒りで発狂してしまう。私はロイに近づく。自分が放電しているように感じた。火花を散らして怒りが放電している。
ロイはたじろいで、それから私を威嚇した。
「イエローキャブめ」
その瞬間、私はロイの勃起している股間を蹴り上げた。「オウ、ノー」と外人みたいな叫びをあげてロイは股間を押さえてもんどり打った。映画みたいで可笑しかった。そうだ、この男は外人だったっけ。激痛に身をよじりながら暗い室内をぴょんぴょんと飛び回った。あまりに滑稽で私は笑った。なんて外人はウソっぽいんだ。こいつは作り物だ。人間じゃない。こんな奴は殺していい。
私はロイの背中を力いっぱいに殴りつけた。壊れた椅子で。
一瞬、ロイは怪物を見るように怯えた目で私を見た。こいつ私を怖がってる。そう思ったら快感だった。椅子の背を使ってさらに男を押し出した。開け放たれた窓の外へ。
「バーイ! ロイ」
ロイはバランスを失って、窓の外の暗い虚空に吸い込まれるように、消えた。
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4th day[#「4th day」はゴシック体]
巨大なガラスのドームのなかに、海がある。
いつか行ったディズニー・シーみたいに、とてもよく出来ているけれどこの海は作り物だ。海にいる生き物は他にもいるけど、どの生き物も本当の海から連れてこられた。とても精妙な人工の海で、私たちはドームの中で管理されて生きていた。何人かのアメリカ人の科学者が、このドームのなかの作り物の自然でサバイバルする実験をしている。たくさんの動植物たちが、その実験のためにここに連れて来られた。私もそうだった。
私は一匹のイルカだ。狭い作り物の海のなかを泳ぎ回り、そして自分で魚をつかまえて食べている。魚たちは人工の海で交尾し産卵し、それなりの生涯を終えるけれど、私は一人だった。私の恋人は数日前に死んでしまった。ほんのちょっとした手違いで、海水を循環させる排水口に吸い込まれ窒息死したのだった。
私は寂しくて、とても孤独だった。毎日、孤独の歌を歌った。その歌は電気信号に置き換えられて分析された。人間たちは、なんとか私とコミュニケーションしたいと願っていた。その気持がとても伝わったので、私も人間と繋がりたいと思っていた。
私は人間たちに歌を歌う。
すると人間は私の声を記号に置き換える。私は一生懸命に歌を歌う。私には言葉がないから私の歌は波長。言葉のない私は人間のように自分という殻がない。私という存在は宇宙に向かって無限に開かれている。だから私の歌は世界そのものであり、ハーモニー。人間の言葉のように自分本位ではないの。でも、人間は私の歌を電気記号に置き換える。
私が歌う。すると私の音楽はすべて記号に置換された。その記号から人間は意味を読み取ろうとした。人間は私に知能があるという。人間と同じような知能が。でもそれは違う。言葉をもたない私にあるのは波長だけ。私たちイルカはハーモニーで世界と融合しているの。世界は私であり私は世界。世界にはただ波動が満ちているだけなの。でも、人間にはそのことがわからない。
なんとか私の歌を言葉に置き換えて意味を求める。意味とは我をもった人間のためのもので、世界のためのものではないのに。
そして私にもっと歌えとねだった。私は歌い続けた。来る日も来る日も。
そうしているうちに、なぜか、私の体は少しずつ弱っていった。
人間達はとても驚いて悲しみ、私のために原因を調査した。海水の温度が高すぎるのか、あるいは低すぎるのか。細菌に感染したのではないか。エサの魚が少ないのではないか。海水の成分が故郷の海と異なるのではないか。いろんな実験がなされて、いろんな手段がこうじられたけれど、私はどんどん弱っていった。私はなぜ自分がこうして衰弱していくのか自分でもわからなかった。だんだんと、泳ぐことすら辛くなった。
私は辛いよと歌った。とても辛いよ。
お願い、私をハーモニーの世界に帰して。本当の海に帰して。
すると人間はそれを記号に置き換えて分析した。私の命はすべて記号化され言葉として扱われた。私はなんとか人間たちに教えたかった。記号ではないの。ハーモニーなの。私の歌をあなたの細胞で聞いてください。それを感じてください。そうすれば私たちはわかりあえる。魂は記号化できない。
はるか昔、海を出て行った人間たちは言葉を使って世界を理解しようとした。でも、海に残った私たちは違うの。私たちは音楽で世界を理解しているの。
でも、人間たちは私の歌も、私の鼓動も、私の血圧もすべて数字に置き換えて、それを分析した。音楽であることがわからないのだ。命は音楽なのに。音楽を奪われたら生命は死ぬのに。
だから私は命であることができなくなった。私は生命である者から、どんどんモノ化していく。ついに私は死体というモノになり、解剖された。
一つ一つの臓器はホルマリンのガラス瓶に入れられて、ラベルが貼られた。
目、脳、心臓、舌……。
あるとき、標本になった私の前に、一人の男がやって来た。
そして、ガラス瓶に浮かんだ私の「目」を見て、ひっそりと涙を流す。男は祈った。その祈りは歌となって私に届いたのだ。
私の目は男によって、命を帯びて、ガラス瓶の中で瞬いた。
ホルマリン液の中から目をこらしてじっと男を見る。私はもうイルカではない、ただのひとつの眼球。ああ、私はかつてこの男を知っていた。
誰だったろう、この優しく謙虚な男を知っていた。
この男の名前は、……。
「おはようございます、オダです」
オダの声がひどく遠くに感じた。私はすぐには応えられなかった。
「今朝から五回、電話しています。これでマホさんが電話に出なかったら、強引に部屋を開けて入ろうと思っていました」
何時だろう。また夢を見ていた。
きっともう昼過ぎているんだろうな。ゆうべは薬を飲みすぎた。頭がひどく重い。
「食事はいかがですか? なにか軽いものを部屋に運びましょうか?」
なぜこの男はこんなに私に親切にしてくれるのだろう。ほっておいてくれればいいのに。
「それとも、飲み物のほうがいいですか? 冷たいミルク、あるいはジャスミン・ミルクティなんてのも気分を変えるにはいいですよ」
ジャスミン・ミルクティ、その言葉の響きに魅かれた。ジャスミンティの香りの記憶が蘇る。
「オダさん……」
どうにか声は出た。
「私、ゆうべ……」
オダは落ち着いた声で「そういえば……」と私の言葉を遮る。
「そういえば、ゆうべ、サンヒャン・ドゥダリの踊りの村で、ロイ・ウィルソンというアメリカ人の男が二階の窓から落ちて怪我をしたんですよ。ロイはそのまま村の呪術師のところに運ばれて、悪霊が憑いていると言われて追い返されました。村から追いだしたはずの悪霊が偶然そこにいたロイに取り憑いてしまったらしいです。邪な人間にも悪霊は憑きやすいですからね。それで彼は簡単な治療をしてもらい、村人に車で送られて帰りました」
ほっとしたような、もっと痛めつけてやりたかったような、妙な気分だった。
「無事だったのね」
「そうです。マホさんは、いったいどうやって帰って来たんですか?」
そういえば、私はどうやってホテルまで帰って来たのだろう。私はロイといっしょに車で出かけた。あの距離を歩いて帰って来れるわけがない。
「どうやって帰って来たんだろう……」
「覚えていないんですか?」
「覚えていない」
オダはため息をついた。
「私がお送りしました」
「え?」
オダが?
「あなたのことがどうしても気になって、それで、たぶんロイ・ウィルソンが行くのならサンヒャン・ドゥダリだろうと思ったのです。彼はえらくあのトランス・ダンスを気に入っていたので。それでウブドの近隣で、昨夜サンヒャンの行われる村を探しておいたのです。ちょっと遅くなってしまったけれど、シンガポールから戻って村に行ってみたら、外人が二階から落ちたと大騒ぎになっていました。そして、あなたがフラフラと暗い通りを歩いていたのです。意識が朦朧としているようなので車に乗せてホテルまでお送りしました」
そうだったのか。
「申し訳ありません」
「いいんです。ただ、とても様子が、その不安定で苦しそうだったので、心配していました」
オダはロイとの間に起こったことに気がついただろうか、急に不安が蘇ってきた。
「私、何か言っていましたか?」
オダは答えない。
「いま、ホテルのロビーにいるんです。もし起きられるようなら、そこのデッキでお茶でも飲みませんか?」
人前では話しにくいのだろう。あたりまえだ。
「わかりました。がんばって起きてみます。申し訳ないけれど二十分時間をください」
オダはほっとしたようだった。
「大丈夫、何時間でも待ちます。ゆっくり支度してください」
「ありがとう。でも二十分で大丈夫。そして、その後にジャスミン・ミルクティが飲みたい」
了解です。そう言ってオダは電話を切った。
「あなたの言う通りだった」
水滴のついたアイスティーのグラスを口に運ぶ。
午後の強い日差しがジャングルに反射して、すべての植物が透明でキラキラしていた。
「なにがですか?」
「不良外人」
ああ、と言ってオダもグラスをカラカラと鳴らす。
「彼は以前に妙なプロジェクトに参加して、以来、少し頭がおかしいんです。ああいう人間がなぜかバリに魅かれてたくさん来ます」
きっと、お互いの狂気が私たちを惹きつけたんだ。ロイと私はどこか似ている。
「もみあっているうちに、彼を窓の方に突き飛ばしてしまったの」
おそるおそる、ウソを言ってみた。
「勇敢ですばらしいです。窓の下には低木があり、クッションになったので彼もたいした怪我はしていません。もう何も言って来ないでしょう」
いったいオダは、ゆうべどんな私を見たのだろう。聞きたいけれど、怖くて聞けない。
「私、変だったでしょう?」
「変というか、動転してらっしゃいました」
オダの選ぶ言葉は私を傷つけない。
「どう動転していた?」
聞きたくないのに聞いてしまう。
「頭が痛いと言っていました。しきりに頭を押さえて頭がどんどん膨れていくと怯えていました。そんなことはないのに、自分の体が変化しているように感じてるみたいでした。それに、大きなムク犬のような怪物の話もしていました。それから、ときどき泣いていました。お母さんのことを子供のように呼んでいて、とても悲しそうでした」
母のことを……。
「私、病気なんです」
つとめて明るく言う。
「え?」
「精神病。だから毎日薬も飲んでいるの。ときどき、自分が自分ではなくなってしまうように感じるの。自分から自分が離れて行ってしまう、そういう病気」
ああ、話してしまった、言いたくないのに。
「解離という現象ですね。あなたにとっては何の慰めにもならないかもしれないけれど、そんなことはバリでは日常茶飯事ですから。ゆうべのサンヒャンたちも自分ではないものになって踊っていたのを見たでしょう」
確かにそう。バリ人はトランスすることを自分に許している。私は許していない。だから辛いのだろうか。
「バリ人の母親は子供にダブルバインドの教育をします。お乳をあげると見せかけてあげなかったり……という不条理なことをあえてするんです」
「なぜですか?」
「その方が、トランスしやすくなるからです。何かを絶対だと思い込むことはバリ人にとっては都合の悪いことらしいです。解離もまた、ここではひとつの能力なんです」
ひとつの能力……。宝。
「昨日の夜も、自分ではなくなってしまったのですか?」
ゆうべの出来事は、いつもとは違う。でもどう違うのか今となってはよくわからない。
「ゆうべは、最初はまた解離が始まったんだと思いました。でも、なんだか違ったんです。初めての体験をしました。いつもはね、自分の体が自分だと思えない、頭がどんどん膨らんで感じられたり、手や足がなくなってしまったように感じたり、記憶が消えてしまったり、そういうことが起こるの。でも、昨日は違ったんです。私は完全に自分の体を抜けて、そして窓の外から自由に飛び出して、ジャングルを飛び回ったんです。ああいうのを、もしかしたら幽体離脱というのかもしれない。村も見えた。サンヒャンを踊る少女たちはまばゆい光の束でした。それで、どんどん高くまで上って行って、もっともっと上まで行こうとしたら、山から大きな犬が出てきたの。毛むくじゃらの巨大なむく犬みたいな怪物。顔は赤くて、口が大きくて、そして大きくて優しい目をしているの。その犬の怪物が私に言うんです。帰れって。まだ間に合うから帰れって。そしたらいきなり自分の体に引き戻されてしまった。夢を見ていたのかもしれない。でも、なんだか楽しかった……」
オダは首を傾けながらじっと私の話を聞いている。彼はめったに私の話を中断するようなことはしない。
「バロンですね」
「バロン?」
「聖獣バロン。山に住んでいるバリの精霊です。マホさんはバロンに会ったんでしょう。バロンは善の神で人間の味方です。体を離れて飛び回っているあなたを心配して、帰るように忠告したんでしょう。魂も体を離れすぎると戻れなくなるらしいから」
「バロンはなぜ私を連れ戻したんだろう。とても気持よくて楽しかったから、あのまま死の世界に行ってしまっても良かったんだけどな」
本当にそう思った。あんなに自由なら、死ぬのも悪くない。
「怖いことを言わないでください。まだまだ生きている必要があるんですよ。だからバロンに戻されたんです。この世界でのあなたの役目があるんです」
オダは優しく私の手を握った。体の芯が甘く痺れた。
いま私はオダを欲している。それがわかる。私のなかの渇きが彼の優しさを求めている。オダは優しい。優しすぎて怖い。この男に私はどんどん甘えてしまう。そしてきっと依存しすぎて嫌われる。好きになりすぎたら嫌われる。必ず嫌われる。こんな優しい男でさえ、私を嫌い、重荷に思い、そして最後に私は彼を憎むだろう。
「触らないで」
オダは驚いて私を見た。
「私、ロイ・ウィルソンに犯されたの」
わざとえげつなく私は言った。
「あの人、最初からそのつもりだったみたい。倉庫のような部屋に通されて、サンヒャン・ドゥダリのリズムに合わせて、ロイは私を後ろから無理やり犯したんです。意識を失った私の体を玩んで、私のなかに射精したの。悔しかった。ものすごく腹が立った。だから唾を吐きかけてやった。そしたら私にイエローキャブって言ったのよ。だからペニスを蹴り上げて窓から突き落としてやったの。せいせいしたわ」
私はオダを試している。この男の誠実さを。
「痛かったわ、何度も痛いって叫んだのに声はケチャに消されてしまうの。でも、私、濡れてたのよ。犯されてるのに感じてたの。ロイが言ったもの、いい子だ、濡れてるよって」
止めて、私を止めて。私は何を言いだすかわからない。
「気を失ってる間も、あの男は私を犯したの。私が絶頂して気絶してると思ったの。あいつは言ったわ、僕らは相性がいいって」
「もう言わないで、黙って」
オダが椅子から立ち上がって私に触れようとする。
「そんなに自分を責めないでください」
私は恐れおののいて退き、オダに懇願する。いや。お願いこっちに来ないで、私に触らないで、お願い、来ないで、触れないで。
私は泣いている、涙を流して、子供のように泣いている。でも心のどこかにまるで他人事のように冷たい自分がいる。落ち込んでいても、興奮していても、いつも上の方と底の方に虚無の闇がある。どんな感情も届かない深い虚無がある。その虚無の間のオクターヴで、私の感情はトルコ行進曲のように上がったり下がったりしている。
オダは途方に暮れている。とても悲しい顔をしている。なぜ私はこんな良い人を試すのだろう。ごめんなさい、私が悪いの。全部私が悪いの。ミツコが消えたのもきっと私のせいなの。
泣きながら薄目を開けて上目使いにオダを見る。オダはただもう呆然と私の様子を見ていた。哀れんでいるようでもあり、どこか怒っているようにも見えた。ああもう、私は嫌われた。そう思った。ひどく辛かったがほっとした。これでいいのだと思った。失うものなどない方が私は気が楽なのだ。悲しいけれどこれでいいのだ。これでいいはずなのに、なぜか涙だけがとめどなく溢れてくる。
オダは私の上に屈み込んで、そして諭すように言った。
「バリでは、あなたのように悩んでいる人は、呪いをかけられているとするのです」
オダの目はとても真剣だった。
「呪い?」
「ブラックマジックです」
黒い魔法、そんなものが私に?
「そういう人は、魔術師のところへ行って、呪いを解いてもらうのです」
私は唇に手を当て、嗚咽を押さえながら子供のように頷いた。
オダは少しとまどってから、言葉を慎重に選んだ。なぜかオダの目も涙で潤んでいる。
「もし、あなたが望むなら、私といっしょに、魔術師のところへ行きましょう。そして、呪いを解きましょう」
そう言ってから、オダは私の体を壊れたガラスの破片のように、やさしくかきあつめ、そして抱きしめた。私は崩れ落ちる。オダの胸は温かかった。ああ、やっと手に入れた。ただ一瞬でいいから、この人に愛されたい。もっとかけがえのない私になって、この人を支配したい。
オダはとうとう、私の欲望の対象になってしまった。
*
ジャングルの中に無数の花が咲き、蝶が舞っている。
赤、黄、ピンク、オレンジ……、花々は暗い密林のなかで自ら発光している。都市の電飾さながらに光輝き、緑の闇を照らしている。その電飾の海を青い蝶が泳いでいる。
この蝶を知っている。ミツコの絵ハガキの青い蝶だ。不吉な黒い斑点がある。
南風が熱帯雨林を吹き抜ける。すると一斉に木の葉の裏に隠れていた何千何万という蝶が羽ばたき移動する。息苦しいほどの金色の鱗粉が舞う。そのなかにミツコが立っている。花と蝶に埋もれて精霊のようだ。まっ白いクバヤを着ている。
なぜかミツコに近づけない。青い蝶の群れが私とミツコを彼岸と此岸に遮っている。
「ミツコ」
私は鱗粉にむせながらミツコを呼ぶ。
「よく来たね、マホ」
ミツコが笑う。赤い唇が半月のように歪む。あの笑顔。
「いっしょに日本に帰ろう」
ミツコは黙って首を振る。私は哀しくなる。
いつの間にか花々はアーチのようにミツコの周りに成長し、輝くゲートになっている。
「花をよく見てごらんよマホ。樹をよく見てごらんよマホ。植物はこの宇宙の幾何学を教えるために、誰かが残してくれたサインだ。世界はサインでいっぱい。なぜいままで気がつかなかったんだろう」
ミツコはうっとりと両手を天に向かって広げた。
「すべてのものは、種から芽吹き、成長し花となり、実を結び、再び種となる。この永遠のサイクルが私たちが選んだ生命。植物はそれを教えてくれたグルだ」
私はミツコの能天気さにイライラして叫ぶ。
「いっしょに、日本に帰ろうよ」
言葉にすると、とてもそらぞらしい。声は届かず空中にかき消えていく。この世界では真実の音以外は届かないのだ。空間の密度がとても濃いから、嘘は空間を貫いていけない。
「ねえ、マホ。音楽には秘密がいっぱい」
ミツコは私に謎をかける。ミツコの言葉は空の彼方にまでこだまする。
「音楽?」
私はどう答えていいのかわからない。
「ハーモニーは未来の言葉だよ。言葉を知らなくても、音楽なら誰でもわかる。どんなに違う民族とでもハーモニーを作ることができる、人間だけじゃない、植物とも、動物とも、鉱物とも、ハーモニーで会話することができる。ハーモニーは宇宙の言葉なんだ」
大きな布を巻き込むように世界から色と音が剥がれてくるくると収縮していく。
世界は一転して、東京の私の部屋になる。
暗い部屋の中で私はパソコンに向かって蟻のような文字を打ちだしている。
最近流行のウエストベルトの活用法……。足を長く見せるこの夏一番のおしゃれアイテム。台所のシンクには汚れたままの食器。雨続きですっぱい匂いの洗濯物。散らかった資料とスナック菓子のカス。電子機器の低い回転音。ビニールをかぶったままのクリーニング品。未払いの水道料の督促。抜け毛がからまったカーペットはしばらく掃除していない。ゴミ袋のなかで腐敗している生ゴミ。
郵便ポストにカタリと何かが配達される。
私は顔を上げて、靴が散乱する狭い玄関の郵便受けを開ける。そこに入っていたのは、一枚の古びた絵ハガキ。ジャングルに咲く睡蓮の花に、青い蝶が止まっている。裏返すと、子供のような右肩上がりの文字。
青いボールペンで、こう記してあった。
ほんとうに大切なことは、すべてわかちあう。
それが世界のきまり。だからあなたにも伝える。
シは有限の極み。上のドは神の世界。
知覚できないものの世界をガムランが開く。
*
オダは時間通りホテルに迎えに来た。
バリに着いた最初の日のように、オダの車で暗い道路を一時間近く走った。坂道がいくつかあり、だいぶ山を登ったようだった。途中からひどい悪路で、座席のシートの上で私はびっくり箱の人形のように揺れた。
私たちは車のなかで一切、しゃべらなかった。音楽もなく、ただ黒いゼリーのような闇だけがあった。なにかオダに話しかけたいと思ったけれど、うまく言葉にならなかった。本当に魔術師が私の呪いを解いてくれるのか。そうしたら私はどうなる? この私でいられなくなるのか。それはとても恐ろしいことのような気がした。
「オダさん……」
「はい?」
「怖いです。私、どうなるんでしょうか」
「大丈夫です。彼はバリでも優秀な魔術師です。信頼できる男です」
「そうではなくて、私が私でなくなったら、私はどうなるんだろう。それが怖いの。だって、私はこの私しか知らないのに」
「この私って、どの私ですか?」
「だから、この情けないキチガイの私よ。この破廉恥で、いじけた私よ!」
オダは黙って車を止めた。
「マホ、バリでは『私』という自我があまり重要ではないんです。そんなものは、かえって邪魔なのです。あなたが固執している『私』は、たぶん呪いによって作られた殻です。だから、殻を破って、本来の自分が生まれるだけだと思ってください」
いつになく、オダの目が真剣で怖かった。私は黙って頷くしかなかった。
「着きました、ここです」
深夜0時、私はオダに促されて車を降りる。明かりは無く虫たちの鳴き声だけがあたりに満ちている。
「足下に気をつけて」
目が慣れてくると、朽ちた石の塀や、粗末な瓦屋根が見える。貧しい集落だった。あまりにも寂れていて、なんだか悲しかった。こんな薄汚い場所に魔術師がいて、しかも私はその人を頼ろうとしているのだ。なぜか、野蛮……という言葉が浮かんだ。魔術なんて、野蛮なことだ。私は日本人なのにバリの信仰に救われるわけがない。愚かにもここまでついて来てしまった自分を恥じた。
オダは、そんな私にはおかまいなしに、狭い路地を村へと入っていく。朽ちかけた木彫りの門を抜けると、そこに長屋のように並んで家があり、木立を隔ててバリ島によくある屋根つきのデッキがあった。そこに蝋燭が灯り、人影が見えた。石の狭い路地を、オダは明かりを目指して歩いていく。
バリ語で、オダが声をかけると、闇のなかをしわがれた声が返って来た。
「彼が、魔術師です」
名前を教えられたが、長くて複雑で覚えられなかった。
石造りのデッキの周りにいくつもの鳥籠が下がっている。蝋燭の光で籠の影が揺れていた。空気が淀んでいる。獣の匂い、ニワトリの匂い、鳥の匂い、草の匂い。いろんな匂いが混じり合って呼吸するたびに私のなかに入ってくる。息苦しかった。
魔術師は笑うでもなく、近寄っていく私たちをじっと見ていた。そして、台の上に上がるように手で合図した。
私はオダに促されて靴を脱いで台座に上がる。ひやっとした石の感触に身震いする。
オダはしきりにバリ語で、私のことを紹介しているようだ。いったいなんと言って紹介しているのだろう。私にはさっぱりわからない。魔術師は目をつぶって頷きながらオダの話を聞いている。蝋燭の明かりに照らされたその顔は黒く、深いしわが刻まれていた。しかし、老人という年にも見えなかった。肌にはまだ張りがあったし、髪もところどころ白いだけだ。身体は痩せていて、粗末なシャツを来てサロンを巻いている。とても質素だった。潰れた低い鼻、厚い唇、そして黄色い歯。しかも前歯はすきっ歯だった。すきっ歯の魔術師なんて……と、私は思った。とても信用できない。
男はときどき話を聞きながら顎をなでる。左手の小指のツメだけを、とぐろを巻くほど長く伸ばしていた。
オダの話が終わると、魔術師は目を開き、私の方を見た。そして何か言った。
「これから治療を始めると言っています」
黙って頷くと、魔術師はすきっ歯を見せて笑った。
魔術師は台から下りて、手近にあった庭の木から花を摘んだ。そしてお供え用の小さなヤシの籠を花や葉っぱで満たすと、庭の奥へと消えて行った。
「奥に祭壇があって、そこでお祈りをしているんです」
私は、黙っていた。質問したいことがあるような気もするのだけど、何を聞いていいかわからなかった。
しばらくして、魔術師の男は一枚の葉っぱを手にして帰って来た。ごくふつうのなんの変哲もない葉っぱだ。ヤツデのような形をしている。男はその葉を私の前で二枚に裂いた。そして半分になった葉の一枚を私の前に置き、もう一枚を自分の耳に当て、「アー、アー」とマイクテストのような声を出した。
「何をしているの?」
オダも首をかしげた。
「たぶん、精霊と交信してるのだと思います」
確かに男は葉を耳に当ててしきりに頷いていたが、そのうちに会話を始めた。
「じゃあ、あの葉っぱは、モバイル替わり?」
「そうかもしれません」
私は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。いくらなんでもバカにしている。葉っぱの携帯電話で精霊と交信する。子供騙しのパフォーマンスだ。オダは本当にこんな魔術師を信じているのだろうか。だとしたら、オダももしかしたらロイのように、バリに魅せられてしまったバリかぶれなのかもしれない。こんなのインチキだ。帰るなら今しかない。私は逃げ出したかった。でも、できなかった。オダに嫌われたくなかったのだ。それだけだ。
オダはふだん通りの神妙な面持ちで魔術師の様子を眺めている。また、私の現実感覚が薄れだす。こんな夜中になぜ私はバリの山奥の村で、魔術師を前に座っているのだろう。これは現実なのか。それとも私の夢なのか。もしかしたら夢なのかもしれない。その可能性は大いにある。でも、もし仮にそうだとしても、目覚めるまでは夢を生きるしかない。そう思ってしまったら、少しだけ落ち着いた。そうだ、夢なのだ。もうゆだねるしかないんだ。
しばらく葉っぱで会話をしていた魔術師が、顔を上げてこちらを見た。男はオダに向かってとても厳粛に何かを告げた。オダは驚いてバリ語で問い返す。オダの動揺が空気を通して伝わって来て、私は少し不安になった。
「ねえ、彼は、なんと言っているの?」
小声で訊ねると、オダは答えに窮している。
「なにか、悪いこと?」
ひどく困惑して、オダは唇を開くが言葉が出ない。
「いえ……。つまり、彼はその、あなたは子供を宿している、と言っているんです」
子供?
「そんな、まさか……」
ゆうべの出来事が蘇る。あのアメリカ人は私の中に射精していた。よもやロイの子供を妊娠したとでもいうのだろうか。
「マホ、僕はあなたが病気だということだけ彼に伝えました。あなたがいつバリに来たか。あなたの名前。あなたが日本人であること。それだけしか伝えてません。けっして……」
オダの狼狽にかえって私は傷つく。男と寝たことくらいどうってことないのよ、私にとっては。そう言いたかった。
「わかってます。私は平気だから、続けてください」
魔術師は抑揚のない調子で無表情に話し続ける。
「その子供を殺すか、それとも育てるかは、あなた自身が決めることだ。なぜなら、あなたはその子供の母親なのだから」
話が途中から混線してしまった。
「ごめんなさい、言っていることがわからない。子供を堕胎するということなの?」
オダが魔術師に質問する。
夜半になるとバリは思ったよりも冷える。腕に鳥肌が立ってきた。
「マホさん、よく聞いてください。魔術師はこう言っています。女はそもそも身体のなかに生命を生み出す臓器をもっている。命を作ることができるのは子宮をもっている女だけ。あなたは自分の心に邪なものがあることを許さなかった。だから悪なるものは心の奥底へと封印された。それは怒りだ。激しい怒りの感情はあなたの子宮でどんどん大きく強くなり、やがて命を帯びて、ゆっくりと成長していったのだ。あなたは女であることで自らの悪に魂を与え、それを心のなかに育ててしまった。あなたの内部の子宮で、その子供は育っている。そして、こんな醜い自分を生みだした母親であるあなたを呪っているのだ。だがまだその子供には形がない。だから子供はこの世に存在するための形を欲しがっている。形をもつモノとしてあなたの身体から生まれ出たがっている。あなたは今夜、受胎するだろう。子供はそれを知って待っている。受胎した瞬間に子供はそのなかに入ろうとしているのだ。そして自分の身体を手に入れてこの世界にあなたの本当の子供として生まれようとしている」
私は耳を押さえた。恐ろしかった。なぜそんな恐ろしいことを私に言うのか。
「だから、だからその前に、その子供を殺さなければ、その子は形を手に入れてこの世に生まれてくる。そして生まれたなら、あなたを苦しめるだろう、そしていつかあなたを殺すかもしれない。なぜならその子供は、あなたの激しい憎しみと憎悪を引き受けるためにあなたが生みだしたものだからだ。あなたには選択することができる。子どもをカルマとして受け入れるか。それとも、たったいま殺すか……」
通訳を終えると、オダは額の汗をぬぐった。
「今夜、受胎するというのは、私が今夜、その、妊娠するということですか?」
魔術師は頷いた。
「でも、どうやって私が妊娠するというんですか、だって妊娠は……」
セックスなしではできない。
魔術師は首を振った。そして何事か無愛想に呟いた。
「マホ、あなたはすでに、その……。セックスの後、精子は体内に残って三日くらい生き続けると言われます」
オダがひどく学問的に説明してくれた。なんてことだ、私のなかにはあのロイの精子がまだ生きて泳ぎ回っているというのか。おぞましい。
「じゃあ、私が今夜、その子どもを殺すにしても殺さないにしても、あのイカれたアメリカ人の子どもを妊娠してしまうってこと?」
再びオダが、魔術師に質問する。
「それはわからない。もし、子どもを殺せば、形になりたいという彼の欲望が消える。そうなるとあなたの運命は変わるかもしれない」
運命は変わる……、もしかしたら妊娠しなくて済む。
私は躊躇なく答えた。
「殺してください」
殺したところで、その子供はまだ実在しているわけではない。幽霊を殺したところで罪にはならない。
オダは何か言いたげに私の顔を見つめたが、諦めて言葉を魔術師に伝えた。
魔術師は頷きながら私を見つめる。褐色の肌の中に白目が光っていた。そしてなぜか黒目のなかに赤い光が見えた気がした。
「本当にいいのか?」
私は頷く。
「殺していいのか?」
視線が私を貫く。
「あなたが作りだしてしまったあなたの子供なのだよ」
私は言葉に詰まった。
でも、私はその子どもを実感したこともないし、自分がそのようなものを作りだしたという自覚もないのだ。
私は沈黙した。
沈黙はすぐに虫たちの鳴き声に埋められた。この島に静寂というものはないかもしれない。すべての空間にはみっちりと何かが詰まっているのだ。
「その子は、いつごろから私の身体の中に宿ったのですか?」
オダが魔術師に耳打ちする。
「精霊の世界には人間のような時間がないのでよくわからない、でも、たぶん七、八年くらい前から精霊としての命を帯びたのだろう、と言っています」
七、八年前……。私が発病したころだ。私の中にもう一人の抑え難い自分が現れて、私は苦しくてたまらなくなった。ついには解離が始まり、死ぬことばかり考えるようになった。それは、私の裡なる子供の呪いだというのか。まさか……。
答えられずにいる私を、魔術師の男はただじっと見つめていた。
ひどく長い時間が経過したように感じた。一生懸命に意識を集中して考えていたはずなのに、私はなぜかだんだんと音に支配されていく。虫の鳴き声、ときおり響く夜に啼く鳥たち。それらの音は風の葉擦れとあいまって、ゆったりとした美しい音楽へと変態していく。あらゆる音が平均律に区分されて、世界は不協和音に満たされていく。私は考えなくてはいけない。私は私の裡なる子供を殺すべきか否か。考えて答えを出さなくてはいけない。だけど、まったく別の世界へと誘われてしまう。思考のない音だけの世界へ……。
「マホ」
オダの声に我に返る。
「子供に会いたいかと、彼が言っている」
「え?」
意味がわからない。
「おまえの子供に会いたいのなら、会わせてやろうと言っている。どうしますか?」
「会えるの? どうやって?」
「わかりません」
「だって、その子はまだ肉体として存在していないんでしょう?」
「そうですが、たぶん、夢の中で会うのです」
夢の中で……? それは幻覚ということだろうか。それとも催眠術か。
「もしかして、トランスするということ?」
オダは頷いた。
「彼はマジック・マッシュルームを使うつもりでしょう。バリに伝わる幻覚作用のあるキノコです。そして、あなたをあなたの深層心理へと連れていくのだと思います」
冗談じゃない。
「私は病気よ。薬も飲んでる。そのままあちらの世界へ行ってしまったら……」
オダは魔術師に何かを伝えてくれた。男はつっけんどんな返事をした。
「大丈夫だと言っています」
安直すぎる。この男は病んだ文明人の精神の虚弱さを知らないんだ。
「無責任ね、でも戻って来れなくなるのは彼じゃなくて私なのよ」
一生、バリ島の精神病院に入るのなどごめんだ。
「マホ。聞いてください。彼は僕が知る限り、最も信頼できる魔術師です。メディスンマンです。彼は絶対にあなたを見放しません。あなたがキノコを食べてトランス状態に入っても、いっしょにあなたの内面に入っていって、いっしょに降りてくれるはずです。いつもあなたの側にいて見守ってくれているはずです。それがシャーマンの役目なのです。彼はそれができる力量をもった男だと思うから、あなたをここにご案内しました。彼は自分の力量で不可能なことを指図することはありません。そのような賢明さをもっています。だから信頼できるのです。自分の力の限界を知っているからです。でも、あなたが言うように、行くのはあなたです。あなた一人です。自分の内面を旅できるのは自分だけなのです。僕は行けません。だから、決断するのは、あなたです」
なぜだろう、ひどく寒い。身体が怯えている。全身に悪寒が走る。
「怖いわ……」
オダが私の手を握る。
「わかります」
「どうしたらいいの?」
「あなたの好きなようにしていいんです」
「その子は、死んだらどうなるの?」
オダは口早に魔術師に伝えた。
「帰るべき場所に帰すと言っています」
帰るべき場所。
蝋燭の炎が一瞬大きく燃えた。
また、私の奥で激しくノックの音がしはじめた。
誰かが扉を叩いている。
魔術師が、虚空に目を向ける。
「あなたの子供が怒っている、と言っています」
そうだ、この感じ。誰かが泣き叫んで無意識の奥底から意識の扉を叩いている。
この音が魔術師には聞こえるのだ。
私の心の暗闇から響いているノックの音が……。
私はオダの手を握りしめ、それから呟いた。
「その子に、会わせて……」
ひどく自分の声が枯れていてびっくりした。
いつになく激しいノックの音に私の聴覚も平衡感覚も麻痺してくる。揺さぶられている。うるさい。やめて。蹴らないで。叩かないで。
気がつくと、目の前には陶器に入った臭いスープがあった。
差しだしているのは魔術師の男だ。飲めと目で合図する。
近くで見ると男の目は思ったよりずっと優しくて、老いたロバのようだった。
私はオダに支えられて、その苦いスープを一気に飲み干した。
*
目の前に白い道があった。
いつか見たことのある闇に伸びた白い包帯のような一筋の線。
あたりには誰もいない。真っ暗。ただ、目の前に白い道があって、曲がりくねりながら続いている。でも、あまりに暗いので、先の方は見えない。
静かだった。怖いくらい静かで、何も聞こえなかった。
私は一歩、踏み出してみた。
そしたら、ラの音が鳴った。
思わず一歩、戻った。
そしたら、シの音が鳴った。
さらに戻ろうとすると、いきなり足が地面を抜けた。
そこは奈落だった。
シの上はないのだ。シの上は奈落であり、虚無だった。真っ暗やみ。
私は必死でシに戻った。
そして、また一歩降りた。ラ。
また一歩降りた。ソ。
この道は鍵盤なのだ。
ファ、ミ、レ、ド。
私はおもしろがってケンケンするように鍵盤の白い道を下る。
オクターヴ下がって、次のシ。
音は低くなる。
ラ、ソ、ファ……。
どんどん低くなる。下腹に音が響いて気持が悪いくらいだ。
ミ、レ、ド……。
さらに下のオクターヴへ。
ふと、気配を感じた。
ものすごくたくさんの生き物の気配。
立ち止まって、振り返ると、私の背後の闇の中にみっちりと有象無象のもののけたちが蠢いていた。その姿は複雑怪奇。だが怖いとは思わなかった。ああ、これか、と思った。私は知っていたのだ。このものたちのこと。ただ恐ろしかったから見ないふりをしていたんだ。うんと小さい頃は見ていたかもしれない。忘れてしまったけど、なんだかそんな気がする。
闇の中から笑い声が聞こえる。うめき声が聞こえる。笑ったり、うめいたり忙しい。この子たちは人間でもない、動物でもない、植物でもない。もっともっと未分化なもの。私の日常の外のものたち。ふつうの人には見えぬもの。妖怪と呼ばれるものたち。私はそれを知っていた。そして忘れていた。だんだん思い出す。オクターヴを下がるごとに過去の記憶が蘇る。過去、いったいいつの過去だ。子供の頃か、違う。もっと昔、私が生まれる前の記憶。
ああ、私は降りているんだ。オクターヴをどんどん下がっている。だからすべてが見えるのだ。世界はオクターヴだ。七つの音で一つの世界。八つ目の音で次に行く。世界は螺旋、幾重にも幾重にも音階の違う音の層で成り立っている。すべての層が重なり合っているから、ふだんは見えない。それを私は今、分離し下りているんだ。
オクターヴ、七つ目の音はシ、死だ。
七音で死んで、次に上がりなんだ。うまくできている。
下っていく、上から下へ。どんどん降りていく。
シ、ラ、ソ、ファ、ミ……。
音はさらに低くなり、水中の中でピアノを弾いているみたいだ。
くぐもった音。
レ……、ド……。
ぼあぼあとした音といえないようなひどい音。
気がつくと、あたりの景色も変わっていた。
深海だ。真っ暗な海だ。
私は泳ぎながらさらに降りる。
すでに音は、もあっとした気配でしか感じることができない。
たくさんの白い鞭毛をもった生物がゆらゆらと揺れている。
光の届かない世界では生き物はみな白いのだ。
肉厚のぼってりした扇のような生き物が規則正しく並んでいる。
なまめかしい白い表皮に呼吸のための無数のイボがついている。
海底を這い回る真っ白なウミウシが、乳房のような左右対称の奇妙なサンゴを食べていた。
そこは、まるで太古の海。
もう音は聞こえない。
私はただ、暗黒の海を漂っている。
私の視線の先だけが、サーチライトのように海底を照らし出す。
光のない海には植物は存在しない。
荒れ野のような海底に生きる白い生き物の群れ。
しかし、色のない世界は美しいと思った。
真っ白な細い鞭毛の生き物たちが無数にからまりあって揺れている。
その中に私は沈んでいく。鞭毛の先が私の身体にまとわりつく。
ふいに光が消え、息ができなくなった。
海水が鼻へ、口へと流れ込んでくる。
溺れる。溺れる。
私は悶えながら意識が遠くなる。
マホ、マホ、起きなさい。
しきりに私を呼ぶ甲高い声。母だ。
飛び起きると、そこは実家の私の部屋だった。
私はピアノの鍵盤の上に寝ていたらしい。
「ピアノの上に寝るなんて、何を考えているの?」
ごめんなさい、と私は母に謝る。
「ちょっと目を離すとあなたはぼおっとして、やる気あるの?」
私は母の顔をぼんやりと見ている。母の顔が縦に伸びたり横に伸びたりして変形する。どうしたんだろう、まだ寝ぼけているんだろうか。
「レッスンの続きを……!」
楽譜が開かれる。ショパンの「雨だれ」だ。私は頷き、必死でピアノを弾く。
だが、ピアノの音がなんだか変だ。気持悪い。音がずれている。ピアノの調律が狂っているようだ。母はそれに気がつかないのだろうか。目をつぶって私のピアノのリズムをとっている。
私は弾き続けるが、どうにも音が狂っていて、それが気になってしょうがない。ピアノの音はどんどんズレていく。弾くほどズレていく。しだいに、曲すらわからなくなる。自分が何の曲を弾いているのかもわからない。ただ楽譜通りに鍵盤を叩く。母親は笑っている。「いいわよ、その調子」。汗が吹き出てくる。ムカムカする吐きそうだ。三半規管が狂ってくる。眩暈がする。それでも私はピアノを弾く。すでにピアノの音はひとつの暴力だ。狂っている。音が狂っている。私は鍵盤を叩く、叩く、叩く、やみくもに叩く。指が折れんばかりに叩く。不協和音が世界を埋め尽くしていく。それでも母は笑っている。「いいわよ、その調子」。ふざけるな。私はピアノを叩き潰す。手が折れて血が吹き出す。これでもか、これでもか。指の骨がすべて折れた。バラバラだ。それでも母は笑っている。「いいわよ、その調子よ」。
ある日、ピアノが目の前に置かれ、そしてこの音を覚えなさいと言われた。
ピアノがやって来て、私の音をピアノが支配した。
「いいわよ、その調子。あなたには絶対音感があるんだから。絶対にピアニストになれる」
なれないよ、お母さん、見てごらん私の指を。もう骨が折れてバラバラだよ。手首からだらんと下がっているこのぶざまな幽霊のような指を見てよ。もう二度とピアノなんか弾けないんだよ。
すると母親が驚いて、汚いものを見るように私を見た。
「まあ、なんてこと。でも、大丈夫、久志がいるから」
母親の口だけが大きくなる。どんどん大きくなる。巨大な赤い唇が宙を舞う。
「久志がいるから、久志がいるから、久志の方がずっと才能があるのよ。あなたは失敗。あなたは失敗」
巨大な赤い唇がバサバサと室内を飛び回る。私は必死で追い払う。
「久志がいるから、私には久志がいるからいいの、ホホホホホホ」
不気味な鳥になった母親を私は窓から締め出す。
いつのまにか私の手は義手になり、重たい鋼が二の腕の先からにょっきりと生えていた。
私の手は、ギラギラと光る鉛色の刃物だった。右手も左手も恐ろしい義手。まるで戦闘用アンドロイドだ。
隣の部屋から、「子犬のワルツ」が聞こえてくる。
小さな弟が楽しそうにピアノを弾いていた。
弟の足下に愛くるしい子犬たちがまとわりついている。
私は急に自分の新しい手の切れ味を試してみたくなる。弟に近づいて行って、弟の手をサクッと切り落としてみた。弟は手を切られたことに気がつかない。弟の指だけが鍵盤の上を踊っている。切り口から白い骨が見える。血が吹き出して鍵盤の上が真っ赤になる。それでも両の手は子犬のワルツを弾き続ける。血まみれの子犬のワルツだ。
私は笑いが止まらない。おかしくておかしくてたまらない。
よろよろと外に出ていく。真昼の太陽が私の手をギラギラ照らす。陽光を受けて私の手は鈍く冷たいグレイの物体だ。その見事な流線型はモノとして完璧で美しい。
私は目に見えるものすべてを切っていく。サクっ、サクっ、サクっ、人も樹もイヌもネコも、よく切れる。みんな真っ二つになって、真っ二つにされたこともわからずに、右と左で別々に逃げていく。真っ二つのイヌはバランスが取れず、ゆらゆらと揺れながら逃げていく。真っ二つの人間たちが自分の半分を泣きながら探し求めている。
おかしくておかしくてたまらない。なにもかも滑稽だ。
マホ。
ミツコの声だ。私は急に悲しくなる。
「どうしよう、私の手、こんなになっちゃった」
私は鉛色の刃物の手を突きだして、神様に懇願するようにおろおろと泣く。
「こんなになっちゃった。こんなになっちゃった」
ミツコは私の前に立って「大丈夫だよ」と顔を覗き込む。
「さあ、行こう」
そう言って、ミツコは私の手を取る。ダメ、私の手を握ってはダメ。私の手は刃物だから、あなたが触ったらその手が切れてしまう。それなのにミツコは、私の手をぎゅうっと握る。そして「だいじょうぶだよ」と真ん丸な目を見開く。
ミツコの手を見ると、白い小さな手から血が滴っている。
私が手を振りきろうとしても、ミツコは手を離さない。
「離して、お願い」
私は泣いている。それでもミツコはぎゅうっと力を込めて私の手を握っている。ミツコの手からどんどん血が流れる。それでもミツコは手を離さない。私の手にだんだん手の感触が戻ってくる。私の手に神経系が伸びて、血管が伸びて、成長している。変容している。鉛が手になろうとしている。ミツコの手のなかで私の手が元に戻ろうとしている。
ああ、モノから人間になることのなんという苦痛だ。
人間になるということの壮絶な苦痛。それは感受性をもつことだ。私は鉛の手でたくさんの生き物を殺した。そのすべての罪を人として生まれ変わるために受けなければならない。私の手は人になろうとしている。人は罪深いのだ。モノには罪はない。人になったら私はきっと発狂する。
ミツコは私の手を人間に戻してしまう。ダメ。私は鉛の刃物だから人を殺して良かったの。人間に戻ったら死ぬしかない。私を人間に戻さないで。お願い。鉛の刃物のままでいさせて。それでもミツコは私の手を離さない。ミツコの中で私の手が脈打ち始める。いけない。人間に戻ってしまう。
私は恐ろしくなり、そして、もう片方の鉛の手で、ミツコの手首を切り落とす。
叫びを上げたのは、私なのかミツコなのか。
ミツコの両手から血が流れている。ごめん、ミツコ、もうピアノが弾けないね。許して。ミツコは笑いながら指のない手を見ている。
私は逃げる。ミツコから。すべてから。私は逃げる。
オダが私に追いすがる。
私はオダも切り倒す。
オダがさくっと二つに割れる。体内がザクロのように分裂していく。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
真っ白な鍵盤の道をどんどん螺旋状に降りていく。降りていく。
シ、ラ、ソ……。
そこはモノの世界。無機物の世界。
石や鉛の世界。
でも、世界にはまだ下があるのだ。
ファ、ミ、レ、ド……。
私は立ち止まった。世界の果てがそこにあった。
これより下のオクターヴは無だ。
道はある。でも私は踏み込むことができない。だってそこは無なのだ。
私は私という存在を完全に放棄しないかぎりこの下には行けない。そのことを直感した。
私は恐ろしくなり、そして引き返そうとした。
すると、背後にあの魔術師が立っていた。
恐ろしくて震える私に魔術師は首を振る。そして笑った。すきっ歯が見えた。なぜかその顔を見るとほっとした。
魔術師は私といっしょに、無の世界へと目を凝らす。
「人間は自分の認識より上には行くことができない。もし行けるとしたら、それは神となった者だけだ。だが、下になら行ける」
私はいやだと首を振った。
「おまえの子供はこの下にいる」
「もう、これより下には行けません、この下は無です」
私は泣きながら叫ぶ。
「それはおまえが平均律に支配されているからだ」
魔術師はそう言って虚空にガムランを鳴らす。
不思議な音が響いた。無数のオーバートーン、倍音を孕んだ奇妙な旋律。音と音が共鳴しあい、一つになる。激しいガムランのリズムに私は思わず耳を塞ぐ。だが音は容赦なく私の皮膚を伝い私の中に染み入ってくる。重なり合う音の波が空間をねじり、私のなかでなにかが組み替えられる。やめて。私は変容する。頭が砂嵐だ。鼓膜が破れた。音が決壊する。世界が組み替えられていく。やめて。私は解体する。こなごなになる。肉体を形成しているすべての認識が音によって壊れた。
次の瞬間、私は唐突に、すとんと落下した。いや落下したように思えた。組み替えられ再構成されて、どこかにそっくり運ばれたような気がした。
そして、そこには何もなかった。
光も、物体も、私という肉体の感覚もなかった。私はただの思念になって、そこを漂っている。そうなってみると、いったい私は何者なのかわからなかった。ここには自分を相対化するものは何もないのだ。ときおり、小さな乱れた磁場が現れては消えた。その磁場は少しずつ強くなり私を捉え始めた。私はなにかに捉えられて存在を強いられている。私を捉えたものはひどく乱れて荒々しく、そして醜悪だった。
ああ、これが生まれるということなのだ。私は磁力を帯び初めている。感情は磁力だ。激しい感情がこの世界に磁場を生みだしている。私は磁場に捉えられた。逃れられない。私を形成する磁場はどんどん強くなっていく。ああ、私はどんどん大きくなる。存在感が増している。私は確かになにかの作用を担った存在になりつつある。でも、なぜ私は祝福されないのか。私をこの世界にあらしめているのは、怒りと、憎悪と、悲しみだ。苦しい。生まれながらにしてなぜ私は地獄の業火に焼かれているのか。私は何者なのだ。なぜ苦しみだけのために魂を生むのだ。私は私を生みだしたものを呪ってやる。私を生みだしたこの世界を呪ってやる。同じ苦しみを与えてやる。ああ、私はこの世界の外に出たい。形をもちたい。私だって形をもって存在したい。生まれ出たい。そして私に与えられた運命の怒りと憎悪を、この世界に解き放ちたい。私は形がほしい。どうしても存在したい。私は形がほしい。私はモノになりたい。私は形がほしい。形がほしい。形がほしい。
再び、ガムランの音が鳴り響く。
私は音に導かれるように分裂する。
私の存在はガムランの響きによって、しだいにズレ、ダブり、抜けていく。やめて。私が私でなくなってしまう。再び統合が始まったのだ。私は私として分離し虚空に存在し始める。さきほどまで、一つの磁場だったものが、だんだん遠くなる。今は一つの宇宙を眺めるもう一つの宇宙のようだ。さっきまで私だった宇宙はどんどん遠くなり、螺旋状に渦を巻いて赤紫に燃え上がっていた。禍々しい血へどのような色だった。
あれが、私の子供なのだ、と私は知った。
私はたったいま子供の意識に共振していたのだ。私が私の内部に生みだした一つの宇宙。その宇宙は形あるものとして存在したいと望んでいた。私を苦しめていたのは、あの子だ。でも、それすらも、私が作りだしたものなのだ。
ガムランが鳴る。ガムランの倍音が私を揺さぶり集めていく。分散していた私の周波数が、幾重にも重なった倍音の響きのなかに統合される。音の数の私になる。そうか、私は一つの存在ではなかった。いくつもの音と共に私は存在している。なぜ平均律を絶対だと信じてしまったのだろうか。それが私の苦しみの始まりだったのに……。宇宙に広がる無限の音の集まり、私という存在は宇宙の倍音だったのだ。
激しく、陶酔するようなガムランのリズムに私は編まれていく。しだいに響きは弱くなる。分裂したたくさんの私が、音の収縮とともに寄り集まり、そして最後に、私は私という肉体のもつ周波数に共鳴して個体になっていく。
ああ、私だ。この波が私だ。この音が私だ。
ようやく身体の感覚が戻ってきた。
頭、足、手……。
身体のすみずみに意識が行き渡ると、現実感覚が始まる。
最初は、不愉快な頭痛だった。
私はひどく頭が痛いのだ。
その痛みを手がかりに、私は浮上する。
痛い、痛い、痛い……。
そして目が覚めた。
うっすらと瞼を開くと、私を覗き込んでいるオダの顔が見えた。
帰って来たのだ、この世界に。
「オダさん?」
温かい手が私の手を握った。
「本物? 夢じゃない?」
オダは「ああ」とため息をもらし、そして力を込めて言った。
「夢じゃないさ」
ほっとして足下に目をやると、魔術師がすきっ歯を見せて笑った。
「子供に会えましたか?」
私は黙って頷いた。
「会えたわ」
「どうするかと、魔術師が聞いています。あの子に肉体を与えて現世の子供として生み出すか。それとも、形なきまま葬るか……」
「あれは、私の憎悪と憎しみだった。母への、そして弟への憎悪と憎しみ、そして妬み。私より恵まれた者への怒り。でも、それを葬ったら、私は生まれ変われるの?」
涙がとめどなく流れる。ひどく悲しい。
「あなたは、あなたのままです。悪性のガン細胞を取り除いても人間の精神は変わりません、似たようなものだと思ってください」
それを聞いて、ようやく決意ができた。
「……殺してください」
魔術師は長い竹ひごのようなものを取りだした。それはとても細くてひゅんひゅんとしなっていた。
「口を開けて」
私は言われるままに口を開ける。するとオダが私の顔を両手で押さえた。
魔術師は私の口の中、咽の奥に竹ひごをするすると差し入れた。そして、くいっと手首にスナップをきかせて、まるで釣りをするように再び引きだした。
私は吐きそうになった。
私の口から引きだされた竹ひごの先には、青いぶよぶよとした青虫が一匹、食いついていたのだった。小さな黒い斑点があり、突起のようなイボイボが身体を覆っていた。体長は三センチほどで、かなり大きかった。
魔術師は、取りだした青虫を石の床の上に置いた。
私は起き上がり後ずさった。月明かりの下で、青虫は体液に濡れて光っていた。まだ生きて蠢いている。
「なんなの、これは?」
魔術師は得意げに竹ひごを振り回す。
「あなたの子供です」
これが?
「なぜ青虫なの?」
「次元を超えたものを連れ出すには、この世界のものに具象化しなければならないからです。異界のものに姿を与えることも、バリ・マジックの妙技です」
魔術師は細長い針を取りだすと、青虫の背中のある地点を正確に刺した。すると青虫は動かなくなった。
「死にました」
あっけなかった。
「終わったの?」
「終わりました」
キツネにつままれたような気分だった。
「この子はどうなるの?」
オダが魔術師に質問する。
「明日には、姿を消しています。つまり、この世の微生物たちによって分解されています。そのようにして、この世界にあまねく存在するようになります。この子の望み通り、世界の一部となるのです」
私には事態がうまく飲み込めなかった。
「それは、この子にとって好ましいことなの?」
私は動かなくなった青虫をじっと見つめた。特別な感慨はなかった。悲しみもなかった。目の前で青虫が死んだ。それだけだった。
「わかりません、でも、たぶん喜んでいると思います。少なくとも、何もない世界から有の世界にやってきて、そして、世界と一体化するのですから」
魔術師が空を指さした。
東の空がほの青く白みはじめていた。
急に、鳥の鳴き声が強くなった。虫たちもざわめきだした。
オダも空を見上げて、呟いた。
「もうすぐ、夜が明けます」
そのうちに、動物たちの奏でる生命のガムランが始まった。
[#改ページ]
5th day[#「5th day」はゴシック体]
大きな水槽が、狭い部屋のなかに所狭しと置かれていた。
水槽の浄化装置の水音が幾重にも重なりあい、まるで清流のなかにいるようだ。
水の入ったガラスの箱の中は別世界で、ゆらゆらと不思議な水草が繁茂し、魚たちが泳いでいる。熱帯魚のような美しい魚ではなく、どれも黒い地味な小魚だった。
室内は広くて、ひんやりとしていた。間仕切りはなく、ベッドと書斎は薄いきれいな織物で分けられている。ブラインドから水槽越しに光が差し込み、石の床で水模様が煌めいている。鉢植えの植物が繁茂し、昆虫の標本や、奇妙なバリのお面、それから彫り物、バティック、あらゆるものが無造作に並べられ、この部屋はまるで、古びた博物館のようだ。しかも、木製のサイドボードの上には、日本の神棚まで飾ってあった。
私はぼんやりと、雑然としたオダの部屋を眺めていた。
オダのベッドにはオダの汗の匂いが染みついている。その上に座って、シーツを腰に巻きつけ、部屋の中に充満するオダの気配を吸い込んだ。こういう不思議な趣味の青年を私は知らない。私の周りには音楽家気取りの線の細い男たちが多かったから。
ふいにドアが開いて、オダが帰って来た。
「起きたんですか?」
私は笑って頷いた。
「元気そうだ」
「おかげさまで」
それから私たちは見つめあって、言葉を失った。オダはがさごそと買い物をテーブルにあけた。
「コーヒー飲みますか? バリコーヒーです」
明け方、ホテルには帰らずにオダの部屋に来た。一人になるのが怖かったのだ。
オダは私を自分のベッドに寝かせて、自分は外のハンモックでうたた寝したらしい。もう日差しは午後に近かった。ずいぶんと眠ったのだ。夢すら見なかった。薬も飲んでいないのに、泥のように眠っていた。
「ゆうべのことは、本当にあったこと? なんだか夢だったような気がする」
「じゃあ、夢だったんでしょう」
にべもなくオダは言う。
「あのすきっ歯の魔術師さんにも、お礼をちゃんと言ってないわ」
「それでいいんです。そういうものです」
「それに謝礼は……?」
ああ、とオダは首を振った。
「気にしないでください」
「そうはいかない、お金なら払います」
「彼とはちょっとした物々交換をしたんです。以前から彼が欲しがっていたものをあげたんです。それでチャラ」
水槽の魚がぽちゃんと跳ねた。
「いったい何をあげたんですか?」
「オオサンショウウオのくん製。うちの田舎で獲れるんですけど、秘密ですよ。天然記念物だから」
私は思わず吹き出した。それから、このオダとの心穏やかな午後の会話を、本当に心底楽しく嬉しいと感じた。ずっとずっとこの瞬間が続けばいいのに……と。
「いよいよ今日は、オゴオゴです。通りはもうすごい人でした」
遠く窓の外から、祭りの喧騒が聞こえてくる。
「この部屋、変わってますね。これがオダさんの趣味?」
岩石標本に貝殻、化石に鳥の骨、デンパサールの市場みたいだ。
「散らかっていて汚くてすみません。でも、隣にシンガポール大学の教授が下宿してるんですが、彼の部屋はもっとすごいですよ。エリマキトカゲとかアロワナもいます」
手渡されたコーヒーは、思ったよりずっと甘くておいしかった。
「神棚もあるんですね、あれもインテリア?」
「ああ、あれはですね、実は僕は神社の跡取り息子なんです。実家は岐阜で、岐阜の山奥で父親が古い神社の宮司をしています」
年齢の割には落ち着いたオダの性格の秘密がわかった気がした。
「オダさんって、そういう、神様的な雰囲気ありますものね」
そうかなあ……と、オダは照れ臭そうに笑った。
「じゃあ、いつか神社を継ぐんですか?」
「まあね、親父が死んだら、そうなるでしょうね。なにしろ千年も続いてる古い神社ですから」
千年。驚いた。でも確かに、オダにはなにか大きな森羅万象の力が彼の内面を支えている雰囲気があった。その強さに私は惹かれているのかもしれない。
「今日の真夜中からニュピが始まります」
ニュピ。バリへ来た本来の目的。なぜだろう。ミツコへの私のこだわりが薄れている。そう感じる。ミツコを探そうという切羽詰まった気持が弱まっているのだ。
「では、今夜、あのジャングルの画家のお宅に伺うんですね?」
「その予定ですが、体調は大丈夫ですか?」
どうだろう。たぶん大丈夫だろうけれど、自信はなかった。いろんなことがありすぎた。
今夜からあさっての朝まで、ニュピの期間は眠らないと聞いた。眠らず食べず、ひたすら瞑想するのだと。少し不安だった。不安を自覚したら急に腹痛がしてきた。コーヒーで刺激したからかもしれない。おもわずお腹を押さえてオダに抱えられトイレに駆け込む。ひどい下痢だった。
「情け無いわ。もう、最低」
トイレから出てきた私はオダの顔をまともに見れない。どうしてこの男には、こんなに自分の恥ずかしいところばかり曝してしまうんだろうか。
「仕方ないです。マジックマッシュルームは牛の糞の上に生えるんです」
そしてオダはいつもの通り、生真面目に私を慰めてくれた。
体調は最悪だけど、なぜか、心は静かだった。それは、あの青虫が私から出たせいなのだろうか。
「ねえ?」
「なんですか?」
「ミツコのことを聞きたいの」
オダは黙った。
「ミツコのこと、忘れてしまったと言ったでしょう? あれは本当なの?」
オダとミツコの関係が知りたい。
「……今は、マホさんにお会いしたことで、少しずつ思い出してきています。あなたといるとミツコのことを思い出すんです」
なぜか胸が痛んだ。
「じゃあ、ミツコのこと話して。あなたが知っているミツコのこと」
仕事用の事務椅子に腰を下ろし、オダは宙を見てミツコの記憶を検索する。どこかで、ミツコが私たちを見ているような、そんな気がした。
「ミツコと、初めて会ったのは、奇跡の泉という場所でした。そこはとても美しい水の湧き出る場所で、沐浴場があります。そこで水浴びをしているときに偶然に会ったのです。最初はバリ人の子供だと思いました。水の中で踊っていたから。彼女はガムランを習いにバリに来たのだと言っていました。そして、画家のラーマさんの家に下宿していると話してくれました。それから僕らは親しくなって、よくいっしょに食事をしたり、お祭りを観に出かけたりしました」
「ミツコが、バリに来たのはガムランを習うためだったの?」
「僕はそう聞いていました。打楽器をやりたいんだと。自分はもうピアノが弾けないから……と」
「なぜ、なぜピアノが弾けないの? 絶対音感を失ったから?」
「ミツコは、その……、指がうまく動かなかったんです。筋を切ったのだと言っていました」
「手の筋を?」
「そうです。でも、それは運命だったと言っていました。ピアノを弾けなくなったことは良かったのだという言い方でした。それによって、もっと別な世界が開けたのだと」
知らなかった……。ミツコはなぜ手の筋を切ったりしたのだろう。やはり事故にあったのか。
「ミツコはバリで、ガムランを演奏していたんですか?」
「バリではガムランを演奏するのは男性だけです。でも、ラーマさんの計らいで、有名なガムラン奏者のマンダラ氏に弟子入りしていました。彼女はあまり女性っぽくないというか、不思議な中性的な人だったので、それでわりとすんなりと弟子入りさせてもらったみたいでした。彼女は自分をネオテニーだと言って笑っていました」
「ネオテニーってなに?」
オダは少し口ごもった。
「幼体のまま進化した者、とでも言う意味でしょうか。そういう学説があるんです。大人は進化しない。進化するのは子供だけ……という。そしてミツコは、ネオテニーは打楽器を好むのだ、と言っていました。あの、ギュンター・グラスという作家の『ブリキの太鼓』という小説を読んだことはありませんか?」
私は首を振った。
「主人公の少年は十二歳で成長を止めてしまいます。ミツコのように、とても子供っぽくて小さくて、でも、大変聡明です。そして、不思議な能力をもっています。彼がブリキの太鼓を叩いて叫ぶと、ガラスが割れたりするのです」
そういえば、そんな映画を観たことがあったような気がした。
「あるときミツコは、悪ふざけでその少年の真似をしました。ガムランを叩きながら、大声で叫んだのです。そうしたら、ガラスが割れました」
「うそ」
「ホントにびっくりしました。ミツコ自身も驚いていたみたいです。それからミツコはますます打楽器にのめりこんでいきました。彼女のガムランは不思議でした。聞いていると酔っぱらったみたいになって、くらくらしてきます。世界の境界が曖昧になるとでもいうのでしょうか、自分がいくつもの振動数にブレていくような感じなんです、そう、人間の身体のまとまりを壊してしまうような感じ。世界に向かって自分がほどかれてしまうんです。聞いていると怖くなる」
私は深く頷いた。私が魔術師のもとで体験した、昨夜のあの感覚のことをオダは言っているのだ。自分がブレて分裂していく妙な感じ。
「でも、一番そのブレを感じていたのは演奏していた本人のミツコだと思います。彼女は人間が次元を超える謎がガムランにあると信じていました」
やはりそうだったのか。
「シは有限の極み。上のドは神の世界。知覚できないものの世界をガムランが開く」
「それはどういう意味ですか?」
「わからない。でも、ミツコからの最後の絵ハガキにそう書いてあった。ほんとうに大切なことはわかちあうのが世界のきまりだ。だから、教える……って」
「それはバリの価値観でもあります。バリではアイデアはすべてオープンソース。神から贈られたインスピレーションはみんなでわかちあうんです」
「そうだとしても、なぜ、私なんかに?」
オダは少し冗談めかして言った。
「きっとあなたが、サリエリだから。あなたなら理解できると思ったんでしょう」
私は首を振った。動いていく雲の影がブラインド越しの光を遮る。
「それで、それでミツコは?」
どこからか遠雷の音が響いてくる。少し部屋の空気が重くなった気がした。
「ある日、ミツコはどこかへ行ってしまいました」
「どこへ?」
「僕にはわかりません。来たときと同じように、突然に消えてしまいました。そして、なぜか僕はそれを当然のことのように受け止めていて、あなたに会って、ミツコの名前を聞くまで、ミツコのことを忘れていたんです。自分でも信じられなかった。まるで、催眠術にかかって記憶を消されたみたいに、ミツコの記憶が抜け落ちてしまっていたから」
「ミツコがいなくなったのはいつですか?」
「たぶん、半年前です」
三枚目の絵ハガキが来た直後だ。沈黙が訪れると、部屋は水槽のエアの水音に満たされた。
「今夜、ミツコに会えるかもしれない。オダさん、嬉しい? ミツコに会いたい?」
オダは、まっすぐに私を見て答えた。
「会いたいです。とても」
強い嫉妬を感じた。苦しい。
「オダ!」
いきなりドアが開いて、痩せた色黒の男が興奮して入ってきた。
男は私を見て驚き「パードン!」と挨拶した。
「彼が、隣の教授です」
教授はオダにものすごい早口で何か叫んでいる。オダは慌てて外を見る。気がつくと外はすっかり暗雲がたちこめ、スコールの前触れのように雷が鳴っている。
「すみません、ちょっと仕事してきます」
オダと教授はドアから飛び出して行く。そのとたんにザアっとバケツをぶちまけたような雨が降り始めた。思わず扉に駆け寄ると、アパートの中庭の木立で、オダと教授が大きなビニールシートを広げて雨を集めている。二人ともずぶ濡れになりながら、木々を伝って落ちてくる雨粒を受け止めているのだ。
「なにをしてるの?」
私が怒鳴ると、オダが空を仰ぎなら「雨のなかの微生物を集めるんです」と答えた。
教授が大まじめに「こっちだ」と次の場所を指図する。シートを広げた二人の男はスコールの中を飛んでいく。おかしかった。まるで子供みたいだ。小さな子供が雨を喜んで遊んでるみたいだ。
稲妻が光る。雷鳴がとどろく。雨はさらに強くなる。
私は裸足のまま駆け出して、オダに駆け寄り、青いビニールシートの一端をもった。
「マホさん、濡れちゃいますよ」
私を見て教授は大声で何か言い、笑った。
「助っ人が来たって喜んでます」
バラバラとシートのなかに雨粒がたまっていく。この小さな雨粒の中にも生きている生物がいるのだ。
雨が気持よかった。こんなに雨に濡れたのは初めてだ。
流されていく。流されていく。なにもかも。
私はシートを広げ、天に顔を向けて身体いっぱいに雨を受けた。
もっともっと降って。もっともっと私を流して。
もっともっと、もっともっと……。
*
「もっと、食べておかないと」
皿にカニが取り分けられる。
「もう、おなかいっぱい。食べられないわ」
いくらおいしいカニ料理とはいえ、そんなには食べられない。私はティッシュで口をぬぐった。狭い店内は、お客で溢れていた。ニュピ前なので、みんなおいしいものを食いだめしておこうとするのだろうか。
サヌール・カジュを、オゴオゴの行列が練り歩いている。歩道も車道もすごい人だ。花火が鳴り、ガムランが響く。
「ここのカニ料理はね、この辛いソースがうまいんです」
オダは器用に手づかみでカニとライスを口に運んだ。私は手で食べようとすると、ボロボロと口からこぼしてしまってかえって汚い。でも、手で食べた方が食べ物の味はよくわかるのだ。
「スプーンだと、金属の味を舌が感じてしまうのね」
「そうなんです、手づかみで食べると味に深みがでる」
私たちは競いあうようにガツガツと手づかみでカニを食べ、テェーボトルという砂糖入りのジャスミンティを飲んだ。
食べ終わるとまだ八時だったので、オゴオゴを見物することにした。とはいえ、もうオゴオゴの行列もほとんど終わりに近い。怪物たちは燃やされるために野原へと運ばれていく。祭りが終わった後、ニュピまでの短い夜、男たちはそれぞれの町の集会所やお寺にたむろして、他愛ない四方山話に花を咲かせる。話のほとんどは猥談だとオダは言った。
町のなかはオゴオゴの熱気でむんむんとしていた。
たくさんの花籠や、花が、道路に散らばっている。人々は興奮して夜道をそぞろ歩いていた。悪霊は焼かれた。邪なものたちはこの場所を去ったのだ。あとはただ、ニュピの静けさに包まれるだけだ。
「私、あさっての夜には、もうこの島を発つんだ……」
バリに来てから五日も経つなんて、信じられなかった。いや、五日しか経っていないということも信じられなかった。あっというまのようでもあり、何年もが過ぎたような気もする。
「え? あさってには、もう帰るのですか」
「東京で、また元の生活が始まるなんて想像できないわ」
オダのいない場所で、私は再び暮らしていけるんだろうか。さみしすぎる。それともこれも、旅先の一時の感傷にすぎないんだろうか。
「僕は日本にいると、自分がもう生涯、新しいことなんて何も始められないような、そんな気分になるんです」
オダの言う通り。私もそうだった。
「いつも、なにかに従って行動している。そういう自分で長くいると、自分がなにをしたかったのかわからなくなってしまう」
私はなにがしたかったんだろう。
「バリでなら、何がしたいのかわかるんですか?」
私は、少しいじわるに聞いた。
「この島では、自分からなにかしなくてもいいんです。世界が望むことと自分が望むことが溶け合っている。無理をしなくてもしだいにそうなる。世界に身を委ねていればいい。それがバリの信仰です。だからバリ人はのんびりと生きています」
私はオダに愛されたい。世界に身を委ねることができない。欲望をもつこと自体、不自然なんだろうか。
「ミツコが、私のために作ってくれた曲があるんです。辛くなると、いつもその曲を聞いてました。そうすると不思議と落ち着いてくるんです。その曲のタイトルが、なぜか NOWHERE なんです」
「NOWHERE? どこでもないところ、ということですか?」
「そう思ってました。でも、この単語ってよく見ると、NOW HERE でもあるんですね。今、ここ。ミツコがこの曲を私に作ってくれた意味が、バリに来てわかったような気がしたの。どこでもない、でも、いまここ、なんです。今この瞬間はどこでもないんです。時間は絶え間なく過ぎていくから。でも、いま、ここ、なんです。時空はほんとうは繋がっているから」
オダは何も答えない。ただ、なにか物思いに耽っていた。
店を出ると外はもう暗くて、道路に人の気配もない。
私たちは車を止めている路地裏まで黙って歩いた。
ドアを開け、車に乗り込み、助手席に座って、それから暗い車内で私は深呼吸した。
「お願いがあるの」
オダは、シートベルトを締めながら私を見た。
「抱きしめて」
動きを止めるオダを見つめ、そしてゆっくりと目を閉じた。
心臓の鼓動が高鳴る。オダの体温を感じる。肩に手が置かれた。躊躇しているのがわかる。私は待った。一秒がものすごく長く感じられた。オダがゆっくりと私を引き寄せる。背中に腕が回る。そしてようやく、遠慮がちに唇が触れ合う。髭がくすぐったかった。さらに、私を引き寄せようとオダが身体をずらした瞬間、オダの動揺が私の身体全体に伝わって来た。
オダは息を飲み、私から唇を離した。不安になって目を開けると、オダが放心したように後部座席を見ている。私も恐る恐る後ろの座席に目をやった。
誰もいないはずのシートに、小さな子供のようにちょこんと、ミツコが座っていた。
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6th day[#「6th day」はゴシック体]
「ミツコ!」
飛び起きたとたん、ソファから落ちそうになった。
慌てて身をよじる。
庭に向けて開け放たれたガラスの扉から、夜風が吹き込んでレースのカーテンが翻る。明かりのないひどく暗い部屋だった。
私は急に不安になって、闇のなかに必死でオダの姿を探した。
ミツコが現れた。そしてミツコもオダを愛している。そのことだけが、なぜかはっきりとわかった。こんなにミツコを怖いと思ったのは初めてだった。
「マホさん?」
暗がりからオダの声がする。
「よかった、そろそろ起こそうと思っていたんです。ニュピが始まるから」
オダが部屋の奥から燭台をもって現れた。
広い部屋だった。四方がガラス張りの窓に囲まれ、まるで巨大な温室のようだ。新月の空に瞬く星も、部屋から見通すことができた。
「ここは?」
私は起き上がり、瞼を押さえた。少し頭痛がする。そういえば昨日から薬を飲んでいない。
「ラーマさんのアトリエです。海の近くに来たんです。ほら、波の音が聞こえるでしょう?」
耳をすますと、たしかにダダン、ダダンと激しい波の音が聞こえる。
波というよりも、まるで大砲を撃っているみたいな音だ。
「すごい波音。こんなのが一晩中続いたら、なんだか気が変になりそう」
「この海は、特に波が強いんです。隠れたサーフィンの穴場です」
私はまた眠ってしまったのだろうか?
「ミツコは?」
そう聞くと、オダは不思議な顔をした。
「また、夢を見たんですね」
どうしよう。夢と現実の境界がとても曖昧になっている。
「ミツコが座っていたの。車の後部座席に」
オダとのキスも、あれも夢だったんだろうか。
「もうすぐラーマさんが二階から降りてきます。そうしたら御紹介します」
そう言って、オダはまた闇のなかに消えてしまった。
取り残された私は所在なく風に揺れる蝋燭の火を眺めていた。それからふと思いたって、中庭に続くテラスに出てみた。庭の向こうはすぐ海のようで、波の音が間近で聞こえる。プールがあり、夜目にも水面がぬめぬめ光っていた。ガジュマルの葉陰からは、虫たちの鳴き声が聞こえる。
弱い光を頼りに、私は部屋の右手奥へと歩いてみた。麻のタペストリーで仕切られた先は、画家の仕事場のようだった。そこには二十畳ほどの空間に、たくさんのジャングルの絵が飾られていた。その絵にも独特の密度と質感があり、本当の密林のようで、迷い込むのが怖かった。
すると、ジャングルの闇のなかから声がした。
「私の絵を気に入ってくれたそうだね」
ひどく鼻にかかった、聞き取りにくいしわがれた声だった。
驚いて声の方に目をこらすと、部屋の隅の肘掛け椅子に、とても大きな人間が腰掛けているのが見えた。目が闇に慣れてくると、その人物が頬杖をつき、足を投げ出してこちらを見ているのがわかった。
「ラーマさん、……ですか?」
おそるおそる声をかける。
「そだよ、ラーマーヤナ物語の、あのラーマだ」
妙なイントネーションの日本語だが、日本語であることに間違いはなかった。
その人物は、私の想像を絶するほど太っていた。ぶよぶよの象のようだった。そうだ、あのバリによくある象の頭の神様のようだ。大きすぎる人の皮をかぶった痩せた小人……、そんな感じで肉が幾重にもたるんでいる。きっとこの人はなにかの病気なのだと思った。
「手紙の返事をありがとうございました」
めんどくさそうに、ラーマは首を振った。
「ほんとに来るとは思わなかった。ま、よく来たね」
そう言って、ラーマは思いきり鼻をかんだ。どうやら鼻が悪いようだった。失敬、と言い、ティッシュを丸めて床に捨てた。
「あの……、ミツコには、今日、会えるんでしょうか。ミツコはバリにいるんですか?」
私の質問に、ふふんとラーマは鼻で笑った。
「バリに居るといえば居るし、居ないといえば居ない」
わけがわからない。
「でも、手紙には……」
「NOWHERE だよ」
「え?」
「どこにもいない。だけど、いま、ここにいる」
私はからかわれているんだろうか。
「どういうことですか?」
「どういうこともなにも、そういうことだ。わしゃ、あんたのことはあんまり好かん。あんたは凡人だし、ミツコに比べたらかわいげのない女だ。嫉妬深いし、業が深い。頭も悪い。だが、ミツコはあんたが気になっていたようだ。ミツコがあんたを呼んだ。だからミツコのために手を貸した。だが、あとは自分でなんとかしてちょうだい」
ひどい言い草だったけれど、怒りは感じなかった。あまりにストレートに言われたのでけなされているとも思えなかった。
「では、ひとつだけ、教えてください、ミツコは生きているんですか?」
最も知りたかったこと。それだけわかればいい。
ラーマは、また鼻をかみ、そして言った。
「生きているといえば、生きているし、死んだといえば、死んだかな」
「私をからかっているんですか?」
「いやあ、正直に答えてるんだけどね」
そう言って、今度はひどい喘息の発作を起こして咳き込んだ。ラーマは息も絶え絶えに苦しげに椅子からずり落ちた。
「いやご心配なく。慣れてるから。これで死にはしないよ。この喘息もね、たまに不思議なことが起こるんだよ。あまりに咳き込みすぎてね、身体の周波数が変わってしまうんだよ。そうすると、あっち側にね、ひょんっと行ってしまうことがあるのさ。しかしねえ、それを意図的にできるわけじゃないからね。あんたも見たんだろう? あのオクターヴの鍵盤の白い道を」
あの白い螺旋の鍵盤……。
「ラーマさんも、あれを見たんですか?」
「ほっほっほ、まあそんなところだ」
シは有限の極み。その上のドは無。
「でも、魔術師は、人間はシより上には行けないと言っていました。シより上は無だと。下のオクターヴには行けるけど、上のオクターヴには行けないと……」
「そうだ。知覚できない高次な世界は存在しないも同然。イヌが人間になることはできないが、しかし人間がイヌになることはできる」
だから、ETは発見されない。
「今夜はニュピだ。ノームーンだ。空には月がない。失礼、また鼻をかむよ。音への感応力は惑星によって与えられてきた。星の運行は人間の精神と連結している。宇宙はハーモニーだからね。人間は否応なく星とも干渉しあっているわけ。最も感情的な影響力をもつ惑星は月でね。だからニュピは月のない新月の夜に行われる。すべての火を消す。心の火もね。グレゴリオ暦はこの美しき人と自然の相対性の世界を破壊するために生みだされた。なぜそんなに世界をひとつの平均律として絶対化したかったのかわかるかね」
「わかりません」
「あるとき、世界を一つの価値のなかに組み込もうとする強い意志が現れたのさ。そしてその意志によって文字が生まれ世界の構造が変えられた。人間は意識をもった絶対的な存在となり、人間の自我の自律性を支えるためにその意志は天体と人間を分離したのだ。自然の影響を受けないほうがずっと社会は安定する。便利だからね。そして記号によって世界を単純解読しようとした。科学の進歩ってやつだよ。お利口な日本人は大好きだろう? だが、その意志も宇宙の必然と言えば必然だ。バリにおいては善も悪も同じ力。二つの力は闘い続ける。永遠にね。ま、あんたにとっちゃ、どうでもいいことか……」
ラーマは荒い息を吐きながら立ち上がった。立ち上がるだけで一苦労、という風情だった。
「まあ、せっかく来たんだ、瞑想してみたらいい。寝ずに、食べずに、瞑想してみたらいい。今夜は月がない、あんたのやっかいな感情は鳴りを潜めている。ミツコはオクターヴの上に行った。知覚できない領域に行ける人間は多くはないがたまにいる。ミツコもそうだ。人間離れした奴だけが上に行ける。人間である認識を捨てられる奴と言うべきかな。昔は神と呼ばれた。彼らは上から下へも降りてこれる。気が向けばミツコもやって来るだろう。ただ、あんたがいまミツコに会っても、イヌが人間を見るようなもんだがね。そういや、あんたはイヌのようにミツコの手を噛んだってね」
私がミツコの手を噛んだ?
「どういうことですか?」
「ほほう、忘れたか」
再びラーマは激しく咳き込んだ。咳き込むと咽の奥の方で不気味な音がしゅーしゅーと鳴るのだ。まるで肺に穴が空いて空気が漏れているみたいだった。
「ミツコの両手の筋を潰したのはあんただ。だからミツコはピアノが弾けなくなった。あんたは、あんたの心の痛みを知っていた唯一の存在であるミツコを愛し、そして激しく憎んだ。人間はみんなそうだ。特殊な力をもった存在を愛し、最後は妬み、傷つける。あんたはミツコの優しさに際限なく依存して甘えた。だが心の中では神から愛されていたミツコを妬み、憎み、なんでも思い通りになるミツコに怒っていた。そして自分から離れて有名になっていくミツコを責めたんだ。あんたはこう言ったんだよ。お願い、私のためにもう一度ピアノを弾いて。私はまた気が狂いそうなの。私を助けて。ミツコが言われるままにピアノを弾く。するとあんたは錯乱し、ミツコの手の上にピアノの蓋を閉めたんだ。力いっぱいにな」
「ウソよ! そんなことするわけない」
身体が怒りで熱くなる。身に覚えがないことを……。
「忘れてるんだよ。みんなミツコのことを忘れちゃうんだから。上のオクターヴに上がった存在を、人間は認識できない。だから記憶も消滅するんだ。物理的な痕跡もそのうちに消える。誰もわからない。じきにあんたもミツコのことはすべて忘れる」
「そんなのは、妄想だわ。そんなことあるわけない」
「そうかね。そう断言できるかね?」
私は答えることができなかった。
ラーマは笑いながら、老いた象のようにのそのそと部屋を出て行く。
「じゃあ、ま、がんばってな」
その姿は、人間とは思えなかった。人間の姿をした何か……。そう思えた。
「待って……」
しかしラーマは咳き込みながら中庭の熱帯植物の闇へと消えて行った。
私はまだ信じられない。彼もまた神話の存在なのではないかと思えた。体外離脱したときに出会った聖獣バロンのように。私はまだ、夢の続きを見ているのではないか。そう思えた。
ドドン、ドドン、ドドン。
ふと現実に気持が戻ると、あの波の音が聞こえる。夢なら抜け出さなくては。この場所にいると私は発狂するかもしれない。
私は暗いアトリエの中でオダを探した。
「オダさん?」
大理石のテーブルにも、ゆったりとした布張りのソファにも、人間の気配はなく、ただそこにしんと存在していた。風が舞い込む。蝋燭の炎が揺れる。
突然、十二時を告げる時計の音。
ニュピが始まるのだ。
「オダさん? どこにいるの?」
楕円形のダイニングテーブルの上には、コーヒーのカップが置いてあった。
オダさん、オダさん、私は部屋の中をさ迷い歩きオダを探す。
オダさん、どこにいるの、オダさん。
一人にしないで、こんなところに私を一人にしないで。
波の音が、私の内側に入り込んでくる。
ドドン、ドドン、ドドン。
簡単に音に乗っ取られてしまう。私は波の音に負けている。
ドドン、ドドン、ドドン。
突然、解離の発作が始まった。
身体が痺れて立っていられなくなった。足の感覚が消えていく。指先も痺れて動かない。私は床に倒れる。四肢の感覚もなくなり、頭だけが膨らんでいく。助けて。私がなくなる。お願い。助けて。私は泣きながら身体を縮め、必死に膨張する頭を押さえようとするのだけれど、だんだんと意識が遠くなっていく。
ふと、誰かが私の手にそっと触れた。そして握った。手に触れられると、手の感覚だけがようやく戻って来た。私はオダだと思った。オダが帰って来てくれたのだ。必死でその手を握り返した。小さな手だった。まるで子供みたいな。思わず、私は目を見開いた。目の前にミツコがいた。小動物のような無垢な目。笑って、私の手を握っている。
ミツコのさらさらの髪が私の顔にかかる。
私はミツコの手を握る。そしてぎょっとした。ミツコの手に、痛々しい傷あとがあった。でも、ミツコは無邪気に笑っていた。ミツコの黒目に私は吸い込まれそうだ。
「ミツコ……、ごめんなさい」
私は涙を流しておろおろと泣く。ミツコは微笑んで首を振った。さらに強く私の手を握る。そして、そのまま私の方へ勢いよく倒れこんできた。
ぬるり……と、ミツコが私のなかに滑り込む。ぬるぬるぬる。奇妙な寒天状のものが私の内部に溶け込んで定着していく。私はされるがままだ。私は解離している。からっぽだ。だから、私のなかにミツコが入って来ても平気なのだ。
すっぽりとミツコは私のなかに入る。私の肉体はまるでウェットスーツみたい。ミツコは私の内部で着心地を確かめている。あちこちにくまなく自分の感覚を伸ばしている。
私はフラフラと立ち上がる。私の意志はかろうじて留まっているが、私の身体はもうミツコのものだ。そう、あのサンヒャン・ドゥダリの少女のように操られ踊るだけ。いま私はオクターヴ上の世界からやって来たミツコに憑依されて動いているのだ。私はミツコになり、ミツコの思いで動いているが、私は私でもあり、その曖昧な境界線を行ったり来たりしている。私は誰? ミツコのような気がするが、もうどちらでもいい。どちらでもいいのだ。
私は歩いていく。中庭を抜けて、ひたひたと夜の闇の中を海岸へと歩いていく。
雑草の生い茂る湿った泥の小道を抜けて、星だけの空の下を海へ、海へと歩いていく。波の音がどんどん大きくなる。
ドドン、ドドン、ドドン。
海岸だ。ミツコの視線が砂に足をとられて左右に揺れる。
砂浜の大きな流木に腰かけて、オダがいた。
ミツコはオダを見つけると、真っすぐにオダに向かって歩いていく。
オダは気配に気がついてこちらを向く。そして目を見張る。オダが立ち上がる。そして呟く。
「ミツコ……」
ミツコはオダに笑いかける。そして両手を広げて駆けていく。オダに飛びつき、砂浜の上に倒れ込む。オダはミツコを抱きしめる。ぎゅっと折れるほど抱きしめる。ミツコである私の身体を抱きしめる。そして涙を流した。その涙を私の顔になすりつける。
「会いたかった……」
ミツコはオダの頭を抱きしめ、私の胸に抱く。そして、私はオダと激しく唇を貪りあった。ミツコは私のブラウスのボタンをはずして、自ら乳房を出す。オダは私の乳房に顔をうずめ、そして私を優しく愛撫した。
あなたが抱いているのは私なの、それともミツコなの。わからない。でも、私はこうしたかった。抱かれたかった。これで私の欲望は達成されたのだ。少なくともミツコの力を借りて。オダがミツコを抱いていても、悲しいとは思わない。私はいまオダとミツコに抱かれている。別の世界の存在に身体をあけ渡すことは、快感だ。イヌが人間に従うことが快感なように。青虫が針で刺されて死ぬのが快感なように。私たちは常により高次な存在の下等な遊び相手。それはすさまじいまでの快楽。
ミツコは砂の上で身もだえする。足を開く。そして笑ってオダを誘う。私にはできない。こんなに天真爛漫に男を受け入れたことなどなかった。こうすればいいのよとミツコが教えている。思うままに生きればいいのよ。オダはうれしそうに私のなかに入って来た。私たちは密着している。私とミツコとオダはいま一つになっている。みんなかわるがわる身体を動かし快感を貪る、暗い浜辺を蠢く生き物。
いつのまにか潮が満ちてきて、冷たい海水が私の背中に流れ込んできた。
私たちは濡れて、水の中で結合する。オダの動きが激しくなり、ミツコは眩い光を発して絶叫する。私はオダに自分の腰をすりつける。ミツコが破裂する。膣から頭のてっぺんへ、痺れるようなエネルギーの塊が回転しながら上昇する。ついには、回転する光となって、私の頭の先から飛び出して行った。ミツコは昇りつめて楽々とオクターヴの次元を超えたのだ。私は肉体の快感に囚われて、ミツコと上がることができない。ミツコは高速で回転する楕円の光の玉になっていた。それでも私はミツコの引力にひっぱられて、痙攣する身体から引き離され空へ上っていく。ミツコはまるで空飛ぶ円盤だ。伸びたり縮んだりしながらとてつもない早さで暗い虚空を抜けていく。そして、有限の世界のオクターヴの七番目の音、シ、からその先の虚無へと跳躍した。私にはどうしても行くことはできない高次の世界へ。私はミツコに置き去りにされて、シの淵を漂いながら、そのあまりに深い亀裂に恐怖した。そして、現実世界に引き戻された。私の身体へ。オダに抱かれている私の身体へ。
ざぶん、と大きな波をかぶった瞬間に、オダは現実を認識した。
自分の下にいる、自分の抱いている女がミツコではないことを……。私はただ、顔を手で覆うしかなかった。オダはひどく狼狽して私から身体を離した。
「マホさん……?」
答えられない。私にはどうすることもできなかった。
「ごめんなさい、僕は……」
私は波間から立ち上がり、オダの前から逃げ出した。あの、ぶよぶよの異形の画家のいるアトリエに、ひっかき傷を作りながら逃げ帰った。そして、青く光るプールの水に飛び込んだ。プールの水は適度に温まっていて、海水で冷えた身体に優しかった。
プールの水底にじっと沈む。
そうだ。人間はオクターヴを上がることはできないけれど、降りることはできる。私はいま深海の海洋生物になって、暗い海底にいるのだ。なぜこんなことになったの。いったい何が起こっているの。これは現実なの?
何度も同じ質問を繰り返す。
でも、いくら繰り返しても、答えは同じことに気がついた。
どうしようもない。私はどこでもない、いま、ここにいる。
いまここにいて、そして、この次元に生きている。それだけが真実だ。
ミツコと私は同じ欲望を共有した。オダに抱かれたいという欲望。あるいはこれは私ではなくミツコの思いなのか。高次元へ行ってしまったミツコには、肉体すら存在しないのかもしれない。そう。神が人間に降りてきて少女とダンスを踊るのは、神が肉体をもっていないからだ。サンヒャンは神の娯楽。肉体を超えて宇宙と共鳴しているミツコの思いは世界と一つ。望みは即、現実となる。だから私がバリに呼ばれた。そうなるようにすべての偶然が重なったから、この夜、三人は一つになったのだ。すべての次元は浸透しあい重なっている。そして、ここに存在している。大いなる倍音となって響いている。ただ、私にはそれがわからないだけ。
私はゆっくりと水面に浮上した。
濡れた身体でテラスに戻ると、部屋の奥から画家の荒い息遣いが聞こえた。まるでダースベーダーだ。
「シャワーは右奥ね。タオルとガウンもあるよ」
私は言われるままに奥に進み、シャワーを浴びた。
あいつらにとって、私は青虫なんだろうか。だったら恐れてもムダだ。しょせんなにもかも高等な次元から来た者の思いのままなのだから。
巨体をひきずって、画家はリビングの絨毯の上に溶けかけたアイスの塊のように横たわっていた。息をするだけで苦しそうだ。
「お嬢さん、ニュピのときはセックスも禁止ですよ」
そう言って闇の中でひいひいと喘いで笑う。
「ラーマさん、私わかった。あなたも、オクターヴ上からやって来たんでしょう? 無理をしてこの下の世界に留まっているから、そんな異形になってるんだわ」
画家はぜろぜろと痰をからませながら、床の上を苦しそうに這い回った。ティッシュの箱を見つけて痰を吐いた。
「そりゃあんたの、妄想だね」
「妄想なんかじゃない。私はさっきミツコと会った。ミツコは回転する光になって上昇して、あの、シの先の虚無を超えて次のオクターヴへ行ってしまった。でも、オクターヴ上のドも、この世界のドも、実は同じ。同じであって違う。だから、世界は螺旋状に続く無限のオクターヴ。ただ、自分の認識世界の上には、めったに行けないのよ。違う?」
ラーマがどろりと溶けた。腹のなかに足がめり込んでいる。
「思ったより勘がいいね。そうだよ、音楽は実は宇宙のヒントなのさ。科学はまだ音楽の本当の意味を知らない。宇宙は言葉では解読できない。なぜなら宇宙は震えだから。この宇宙を作っているのは大いなる倍音なんだ。あんたも、星も、太陽も、そしてミツコも、どんどん分解していけば最後に残るのは震え、つまり微細な音なんだよ。聞くことはできないが音はあまねく存在する。この宇宙はあらゆる無限の音が渾然となって作り出すホログラムなんだ。共鳴しあえばいい。それですべて思いのままだ。だって宇宙と人間はどちらも同じ音で出来ているんだからね。だが、科学は人間が宇宙であるよりも人間存在であることを大事にする。愚かだね。まあいいさ。それがこの次元の限界だ。あんたたちはすべてを記号化する。無限にあるものを悪い頭で大ざっぱに分類する。音を数字に変換するようにね。七は神聖な数。スペクトルの七、音階の七、七の上と下にも無数の七が存在し、八に移行するときが新しい七の始まりとなる。これが人間の作った約束だ。そんなことはどうでもいいが。ようするに、オクターヴは、この宇宙の仕組みをちょこっとだけ真似て作られたわけよ。ドからドまでは十三音、マヤの暦も十三、亀の甲羅の模様も十三。いいところまで来たが、それじゃあ智恵が足りないんだな。ちっぽけな自己意識に留まっている限り、個体の周波数にとらわれる。だから宇宙とは共鳴できない。わかるかい?」
すべてはこじつけか、それとも真実か……。どっちでもいい。私のような凡人には関係ないことだ。
「目的は何?」
「目的?」
「そうよ、何のためにわざわざ上から降りて来るの?」
画家はゼロゼロ笑いながらまた痰を吐いた。
「あんたはなんのためにバリに来た? それと同じだ。レジャーだよ。この島は繋がりやすい。つまり着地しやすいエアポートなんだよ」
「じゃあ、あなたはバリ島の入国管理官ってわけね?」
「お嬢さんも、空想家だね。それではさぞかし社会生活は大変だろう。病気にもなっちゃうわけだ。日本に帰る気なら、そういう突拍子もない考えは捨てたほうがいいかもね」
ラーマの身体はどんどん溶けているように感じる。巨大な肉の塊に手がついて、床の上でゆらゆら揺れている。私が真実を知ったので、魔術が解けているのだ。だからラーマは形を失っている。本来の姿に戻ろうとしている。ではオダは、オダはこのことを知っているのだろうか。それとも知っていたけど忘れてしまったのだろうか。
「私の……、記憶を消すの?」
「人聞きの悪いことは言わないでね。認識できないものを人間は見ない。見ても忘れるようにできている。それだけのことだよ」
ふっと、風で蝋燭が消えて、完全な闇が訪れた。
「さあ、ニュピの瞑想に入ろう」
闇のなかで、ガムランが鳴りだした。
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7th day[#「7th day」はゴシック体]
空港で、チェックインを済ませてから、私とオダはスーベニールショップの前の小さなベンチに腰を下ろした。
「忘れ物はありませんか?」
私は頷いて、それからふと、ミツコのハガキがなくなってしまったことを思い出した。
「ミツコからもらった絵ハガキを三枚、もって来ていたのに、どうしてもバッグの中に見当たらないの」
するとオダは、ちょっと不思議そうな顔をして言った。
「すみません、ミツコって、誰ですか?」
私もふと考えて、そういえばミツコって誰だったろうと思った。そもそも、そんなハガキなど最初からなかったのではないか。また夢を見て、その夢と現実を混同しているのではないか。そう思えた。バリにいる間じゅう私は夢を見て、いつも夢と現実の区別がつかず、オダに呆れられていたのだ。
「そういえば、ミツコって誰だっけ?」
私は笑った。オダも笑った。
「どうか気をつけて帰ってください」
「ありがとう。オダさんのおかげで、本当に楽しかった」
「こちらこそ」
もう東京に戻ったらオダはいないのだ。できることなら帰りたくない。ずっとバリにいたい。
「オダさんは、日本にはいつ帰って来るんですか?」
「来年には帰国します。博士論文の準備もしないといけないし」
私は少しほっとした。来年になれば日本でオダと会えるのだ。それまで我慢すればいいだけのことだ。電話だってある。メールだって。
「また会えますか?」
「もちろんです」
それから私の身体を引き寄せて宝物のように抱きしめると、耳元で囁いた。
「必ず、また会ってください」
嬉しいはずなのに、なぜか急に怖くなった。もう会えないような気がしたのだ。二度とこの男とは会えない。これが最後。そんな気がした。この人は私の手の届かないところへ行ってしまう。誰か他の女に連れ去られてしまう。ああ。なんでこんな空想ばかりするんだろう。相変わらず悪い考えは私の人生を支配している。
「なぜ、泣くんですか?」
オダは困ったように私の顔を見つめている。
「ごめんなさい。私、変なんです。ニュピであんまり寝てないので……」
そう言ってから、また、お互いに顔を見合わせて笑った。
「マホさん、あなたは自分が思っているより、ずっと強い。僕はそう思います」
強くなんかない。もし強くなったとしたら、それはあなたに会ったからだ。
搭乗時間になったので、私はオダに見送られて出発ゲートへと入った。電話します、と手振り身振りで伝える。オダは頷き、いつまでも立ち去らない。私も何度も振り向いた。オダが見えなくなる瞬間まで。
およそ六時間、飛行機に乗って、成田国際空港に着いたのは朝の七時だった。
通勤客で混んだ電車に揺られ、部屋に着いたのは九時前。七日間留守にした私の部屋は、ドアを開けると饐《す》えたたまねぎの匂いがした。台所には出かける前からたまっていた汚れた食器。洗濯物の山。なにも変わっちゃいなかった。これが私の現実だ。でも、なぜか思ったほど絶望はしなかった。
窓を開けて空気を入れ替え、荷物をほどいて旅の汚れ物と一緒にすべての洗濯物を洗った。洗濯機が回っているあいだに、流しの食器を洗い、ふきんも漂白した。ついでにトイレとお風呂も掃除して、さらに部屋に掃除機をかけた。それからシャワーを浴びて髪を洗い、ヤカンでお湯をわかした。
気持のいい快晴の朝だった。窓の側にテーブルを移動して、買って来たバリコーヒーをバリ流に砂糖をたっぷりいれて飲んだ。
落ち着いてから、ようやく点滅している留守番電話のランプに気がつく。たいした伝言は入っていなかった。誰も私が一週間いなくても気にならないということだ。以前ならきっとそのことにショックを受けたろうが、なんだか今はどうでもいいような気がした。私が思うほど他人は私に関心などないのだ。だったら自分の好きに生きる方がいい。
窓から東京の音が聞こえてくる。工事現場のクレーンの音、救急車のサイレン、はるか上空の飛行機のエンジン、どこかの家の呼び鈴、隣の部屋のテレビ、配水管を流れる水の音、冷蔵庫のモーター、ふと、それらの音が何の音階も意味しないことに気がついた。長いこと私を支配していた、あの絶対音感が消えていたのだ。もう音は何の音なのかわからなかった。ただ、音だった。
私はコーヒーカップの縁をスプーンで叩いてみた。
チーン。
なににも属さない、かわいい音。
いきなり、小説を書こうと思った。
書きたくなったのだ。まるで世界のすべての出来事がその一点に集約されてきたかのように、私が書くのは必然だと思った。小説を書きたいとか、小説を書くべきとか、そんなんじゃない。自分から書こうとする感じじゃなくて、もっと自然に、まるでそうすることがあたりまえのように、私は立ち上がってデスクに向かい、パソコンの電源を入れた。低いモーター音がして機械が立ち上がり、カチャカチャと騒がしく働き出す。わくわくした。青白く発光するモニターが現れる。さあ、どうぞ、と画面が私に語りかけていた。あらゆる出来事が私の思いと一致している。そう感じた。こんなことは初めてだ。ストーリーすらなにも考えていないのに、書けると確信している。私は小説を書く。そしていつか作家としてバリに行く。あなたの職業は? と聞かれたら躊躇せずに「作家です」と答える。そう言ったらオダはなんと言うだろう。笑うかな。
回転椅子をくるくると回し、一人で大はしゃぎした。それから私は息を吸い、そっとキーボードに手をのせた。すべてが真っ白になった。神聖ななにかが降りてくる。歌うように、指がキーを打ち始めた。その時ふと、誰かの声が聞こえた気がした。
「テクニックはゼロ。」
思わず顔を上げたけれど、そら耳だったみたいだ。
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参考文献
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『生命記号論』ジェスパー・ホフマイヤー、松野孝一郎、高原美規 訳、青土社、一九九九年。
『緑の資本主義』中沢新一、集英社、二〇〇二年。
『野ウサギの走り』中沢新一、中公文庫、一九八九年。
『バイオスフィア実験生活』アビゲイル・アリング/マーク・ネルソン、平田明隆 訳、講談社ブルーバックス、一九九六年。
『ラビット』布施英利、講談社、二〇〇〇年。
『Lonely Planet Bali』マガジンハウス、一九九〇年。
『絶対音感』最相葉月、小学館、一九九八年。
『カビの不思議』椿 啓介、筑摩書房、一九九五年。
『蟲師』1・2 漆原友紀、講談社アフタヌーンコミックス、二〇〇〇・二〇〇二年。
『アマデウス・シンドローム』品川博二、文園社、一九九一年。
『フラワー・オブ・ライフ(第一巻)』ドランヴァロ・メルキゼデク、脇坂りん 訳、ナチュラルスピリット、二〇〇一年。
写真集『バリの雫』藤原新也、新潮社、二〇〇〇年。
ピアノ曲「Nowhere」笹川敏幸 作曲・演奏、二〇〇二年。
*また多くの方々に執筆にあたっての助言、参考書、さまざまなインスピレーションをいただきました。ありがとうございました。(敬称は略させていただきました)
[#地付き]………………………關 信彦、村松恒平、藤本由香里、
[#地付き]武藤静桜華、松村 潔、小先隆三
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田口ランディ(たぐち・らんでぃ)
一九五九年東京生まれ。作家・エッセイスト。広告代理店、編集プロダクションなどを経て、九八年からインターネットで作品を発表。二〇〇〇年に初の長編小説『コンセント』が大きな話題を呼び、ベストセラーに。その後、『アンテナ』『モザイク』『富士山』『被爆のマリア』などを発表。エッセイ集に『できればムカつかずに生きたい』『世界に抱かれるために。』『水の巡礼』『寄る辺なき時代の希望』など多数。
本作品は二〇〇二年九月、筑摩書房から『7 days in BALI』として出版されたものを改題し、大幅改稿したもので、二〇〇七年五月、ちくま文庫の一冊として刊行された。