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パーネ・アモーレ イタリア語通訳奮闘記
田丸公美子
目 次
はじめに
イタリア語通訳奮闘記[#「イタリア語通訳奮闘記」はゴシック体]
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通訳はその言語の文化に同化する 通訳すごろく 西太后と東太后 全裸のマッサージ 嘘つきは通訳の始まり 嘘つきゲーム イタリア人はタイトル好き 聖夜のプレゼント イタリア男の「マンマ・ミーア」 来日デザイナーのお仕事 イタリアの安全事情 イタリアの精神科医事情 熱情的なナポリ人 大空の死 くどきから逃れるテクニック 通訳付き電話 すさまじい悪戯 イタリア女性はきれい好き 臨機応変の裏工作 二人のデザイナーの思い出 愛が最優先 ヴェネト通り協会名誉会員 ガイドのタブー イタリアン・ファミリー ガイド時代の日本考察 通訳=売春婦論・イタリア版 ナポリを見て死ね イタリア流人生の楽しみ方 自業自得 親の鏡 愛の勇者 私の値段 桜と気づく人もなし おしゃれな実業家
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私が出会った人たち[#「私が出会った人たち」はゴシック体]
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ネオレアリズモの息子マッシモ・トロイージ 強気な女王様ジーナ・ロロブリジダ 最後の俳優マルチェロ・マストロヤンニ 「夢」を作るフェリーニ監督 イタリアン・マッチョの代名詞フランコ・ネロ ファッション界の帝王 爆弾男アルベルト・トンバ 盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリ 恐妻家の社会学者フランチェスコ・アルベローニ 人嫌いのベストセラー作家スザンナ・タマーロ 挑戦するカメラマン、オリヴィエーロ・トスカーニ サクセス・ストーリーの主人公ルチャーノ・ベネトン セクシーな建築デザイナー、エットレ・ソットサス
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シモネッタ以前[#「シモネッタ以前」はゴシック体]
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青雲の志 学園生活 英語重視のカリキュラム ペンパルを持つ 英語合宿 英作文コンテスト 青天の霹靂 大学入学 大学生活 通訳ガイド修業 ガイドデビュー フリー通訳時代のできごと
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通訳ア・ラ・カルト[#「通訳ア・ラ・カルト」はゴシック体]
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発展途上通訳の反省帳 同時通訳デビュー 苦手は料理とスポーツ 差別用語は大変 予習は手を抜くな 言葉はお国柄を表す 英語通訳がうらやましい 言語間の落とし穴 英語名はサラ 現物支給で通訳 食事をめぐる悲喜こもごも
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あとがき
解説──わが友シモネッタの謎 米原万里
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はじめに[#「はじめに」はゴシック体]
『パーネ、アモーレ、ファンタジア』(邦題『パンと恋と夢』)──イタリアで戦後作られた映画のタイトルである。イタリア人は「パンと愛と空想力」があれば生きていける、という意味で、空想は「夢」と言いかえることも可能だろう。イタリア人は、たとえパンが手に入りにくい逆境の時代でも、たっぷりの愛と夢であらゆる困難を笑い飛ばして生きていくタフで楽しい人たちなのである。
ガイド時代、私たち日本人は「リーゾ、ラヴォーロ、フィロソフィア」で生きています、と説明していた。「米と仕事と哲学」──日本人は、たとえエコノミックアニマルと蔑まれようとも、個人の生活よりまず会社、ひいては国の経済繁栄を優先して働き、お上を揶揄《やゆ》愚弄しないで長いものには巻かれろ、という諦観にも似た哲学を持って生きている。私が作り上げたこの比較は、イタリア人にもなるほどと納得してもらえた。
そんな説明をしていた時から二十五年以上経つ。イタリア人も日本人も変わった。グローバル化で両者の差異は縮まった。第一条件である食物が十二分に満たされた両国で、日本人顔負けに働くイタリア人、フリーターで気の向いたときだけ働く日本人も多くなった。
でも日本人が「愛」と「夢想」においてイタリアンパワーに追いつくのは、まだ容易ではない。
本来生真面目な努力家で悲観主義者、いとも日本的だった私が、わずか六歳で「食べ物と美男」につられて通訳を志し、イタリア語でパーネ≠稼ぎ、優しいアモーレ≠たくさんもらって今日に至っている。
ある日本人女性が、ローマでナンパされ、美辞麗句にほだされ、めくるめく二週間を過ごした。帰国の日、かのイタリア男は「じゃあね」と空港に見送りにも来ず、その後連絡もない。「それでもだまされる前の私より、今の私のほうが幸せ、今の自分のほうが好き」
この文章を読んで、イタリア人の魅力はここに集約されている、と思った。だまされ、怒り、泣き、それでも魅力的──イタリア人はそう思わせるローマ三千年のDNAの厚みを持った人たちなのである。
そのイタリア人たちに触れ合い、口を糊《のり》するようになってはや三十年。
たくさんのパーネつきの幸せ≠くれ、私の人生を豊かに彩《いろど》ってくれた多くのイタリア人に、心からの感謝をこめてこの本をささげたい。
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イタリア語通訳奮闘記[#「イタリア語通訳奮闘記」はゴシック体]
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通訳はその言語の文化に同化する[#「通訳はその言語の文化に同化する」はゴシック体]
私がイタリア語通訳を始めたのは大学在学中のことなので、今日までほぼ三十年、舌先三寸で口を糊してきたことになる。聖書にもはじめに言葉ありき≠ニいう有名なフレーズがあるごとく、言葉は自分が自分である存在理由である。ところが通訳は、仕事の現場では他人になりきって、その人の言わんとすることを他者に伝えなくてはならない。恐山《おそれざん》のイタコの口寄せそのものである。
彼女たちは一度自己を捨て陶酔、すなわちトリップ状態に入る儀式を経て死者になりきり、最後は放心状態でぐったりしているという。そのくらいのエネルギーを使うのである。通訳も同じ、その間は脳内パワー全開状態で、猛烈に甘いものが食べたくなる。脳に供給されるエネルギーは、ブドウ糖のみというところから、「ああ、脳が動いているな」と実感させられる瞬間である。当然ストレスがたまる。
特に自分とは異なる思想の意見を訳すときなどイライラがつのる。しかし哀しいかな、通訳は孤独な職業であり、同僚と会社帰りに上司の悪口を肴に一杯やることもできない。
また言葉は文化そのものであり、民族の歴史の思考のDNAの蓄積なのである。そこでわれわれは、日々異文化との出会いとギャップの現場に立ち会うことになる。なかでも人と同じであることを極度に嫌う天才の国イタリア、奇人変人の類には事欠かず、(だからこそクリエイティブなのだが)イタリア語通訳は、おもしろ話満載の大型玉手箱をかかえることになる。開けるとパンドラの箱のように、今まで同僚とうさばらしができなかったうっぷん=A不満=A憤り≠ェまず飛び出し、その下に抱腹絶倒の笑い=A最後には通訳の仕事が辞められない理由になっている相互理解の愛と感動≠ェ出てくるのである。
もうひとつ、おもしろい現象がある。通訳はその専門言語の国と民族に同化する傾向がある。私がその興味深い事実を最初に発見したのは、約十五の語学科があった東京外語大学のキャンパスである。その国の文化も含めたすべてが好きで専攻言語を選ぶのだから当然の成りゆきかもしれない。一番おしゃれでキザだったのがフランス語科の学生、中国語科の学生は生真面目な紅衛兵のようだったし、ドイツ語科の学生はやたら理論好き、ウルドゥ・ヒンズー語科の学生はひどく地味で質素であった。そして最も偏差値が高い英米語科は、判で押したような優等生タイプが多かった。
その中で、イタリア語科の学生はなんと噂されていたかというと、「まったくイタリア語科のやつらときたら、男は女の尻ばかり追っかけてるし、女は色目つかって尻ふって歩いているもんな……」というものである。大手はふっていたが、尻はふって歩いたことのない私にははなはだ心外であったが、客観的に見るとそうだったかもしれない。よくも悪くも目立っていた。
数年前、ロシア語通訳協会の総会で、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、中国語、韓国語の通訳が呼ばれ、各国通訳事情を話したことがある。そのとき、大勢集まっている会員の通訳者に投票で、まず各国語の通訳者は誰かを雰囲気だけであててもらった。なんと正解率七割。各国に対する先入観的印象と、実際の通訳者のかもし出す雰囲気が一致していることがみごとに実証された。
とりわけ多くの人が私をイタリア語と見抜いた。理由は明るそう=A派手≠ニ続き、豊かなバストを強調した服がソフィア・ローレンみたい=B思わず、『昨日・今日・明日』に出てきたタフに子供を生み続けるナポリの肝っ玉母さんをイメージした。誰ひとり知性的≠ニ言ってくれなかったのは、通訳としては致命的な打撃であった。
ある零細通訳翻訳エージェントの社長がひそかに書きつけていたメモを入手した。値段をたたく顧客と自己中心的なわがままを言う通訳の板ばさみで、行き場のない憤りの毎日らしいが、その社長は、知りあった数少ない通訳によって、もはや難攻不落とも思える固定観念の壁を形成している。その流出機密書類を公開しよう。
〔言語別通訳比較〕[#「〔言語別通訳比較〕」はゴシック体]
英語[#「英語」はゴシック体] くそ勉強した感じ(津田塾出身が多い)−自分だけで美人だと思っている−センスなし−実用一点張り−アメリカ・コンプレックス−帝国主義(世界人民の敵である)
フランス語[#「フランス語」はゴシック体] 自分が最も優れていると驕っている−美人もいた(フランス語の単純過去、つまり歴史上の過去)−やたら理屈っぽい−最後には文学か文法の話になる
中国語[#「中国語」はゴシック体] 泥臭い−美人がいたらよい−床屋政談が好き−しかし最後は、金儲けの話
スペイン語[#「スペイン語」はゴシック体] ラテン語系のなかでは一番田舎臭い−みんなジーパンを穿いている−美人がいない−アバウト−最後は必ず料理の話
ロシア語[#「ロシア語」はゴシック体] 暗い、とても(性格が)−人生の不幸を自分一人で背負っているような顔をしている−将来が不安−不透明−頑固、頑迷−すぐ請求書がくる(生活が苦しく、まだ容貌の話までいかない)
イタリア語[#「イタリア語」はゴシック体] 服装が派手−性格が軽薄−媚を売るか、お高くとまっているか−趣味で仕事をしている感じのお嬢≠ェ多い
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通訳すごろく[#「通訳すごろく」はゴシック体]
通訳の養成はほとんどがOJT(実地研修)である。私も日本の急速な国際化の波の中で、ほぼ理想的な研修を現場で体験し、今日に至っている。
大学に入ったばかりのころ、大阪万博があり、イタリア人観光団体のガイドを始めた。当時のバイト平均日当が千二百円のとき、まだろくに動詞の活用も覚えていない学生の身分で、日当一万二千円プラス諸手当という破格の条件である。観光ガイドをやると、日本の文化や歴史を勉強し、その知識をまとめてマイクで話すというスピーチ訓練ができる。車やホテル、レストランの手配や確認という事務能力の経験を積む。それだけではない。団体客には、あらゆる年代層、地位、地域の人がおり、異なった方言や話し方を学べる。一週間程度一緒に旅行するので、ユーモア精神や人心掌握術にもたけてくるし、突発事態の危機管理も体得できる。大学で学ぶよりはるかに多くのことを学び、生きた訓練の場となった。
大学卒業後は展示会ブースの通訳や商談通訳を経て、社内研修会や記者発表会、講演会と徐々に不特定多数の聴衆を対象とする仕事に移る。最終的には、国際多言語会議の同時通訳になり、通訳すごろく≠ヘこれで、あがりになる。さらに通訳で働いた会社にスカウトされ、現地法人社長や本社の役付きになった人は通訳あがり≠ニ陰で言われるところから、通訳は通常の会社組織の数段下に位置する存在であることがわかる。
通訳の雇用条件も嘱託∞専属≠ニランクがあり、仲間うちでは食託=i食費だけは確保される)、洗足=i足を洗う)と言い換えて、よるべないフリーの身分を嘆いている。
さてファックスすら存在していなかった七〇年代当時多かった仕事のパターンを紹介しよう。ホテルのサービスデスクから突然電話があり、かけつける。イタリア語しか話せないイタリア人が二十四時間以上かけて遠い極東の国に単身乗りこみ、欲しい商品のメーカーをやみくもに探す、その手伝いをするのである。電話帳でかたっぱしから、それらしい会社に電話する。希望にあった商品を実際に作っており、しかもまだイタリアに輸出していないとなると、アポをお願いする。長いときにはこうして二週間も全国行脚することもあった。当時、私が手伝った人たちは皆、日本企業の正規代理店になり、今や大成功をおさめている。
現在、通訳の仕事は二極化している。自社社員をつけるのは惜しいアテンド通訳か、プロでないとこなせない、むずかしい講演などの通訳である。しかも時代のスピードアップにともなって、仕事も同時通訳の比重が多くなっている。アテンド通訳からいきなり現場で同時通訳となると無理がある。一度失敗すると二度とお声がかからず、どんな現場でもミスのないトップクラスの人は多忙をきわめ、暇な人はお茶を挽《ひ》きっぱなしになってしまう。
英語の場合、同時通訳訓練コースも完備しているが、その他の言語の訓練の場は壊滅的状況にある。和気あいあいと直されたり教えられたりで育ててもらったビジネス商談のような悠長な現場は消え、絶好の訓練現場であった観光ガイドも、円高で観光客が減り、激減している。
あるテレビドラマで、「子供の将来は自由にと思っていたけれど、いざ自分の子が親の仕事を継ぎたいと言ってくれると、こんなに嬉しいものなのね」というせりふがあった。テレビを見ていた当時小六の息子が、私に聞いてきた。
「ねえ、お母さんも僕に通訳になってほしい?」
「とんでもない。お前には通訳じゃなくて、通訳を使う人になってほしいわ。ううん違うな、通訳を使わないで自分でしゃべれる人になってちょうだい」
自分の子になってほしくない職業の未来はあるのだろうか。あと百年もすると、「昔は英語を話せない人もいたので、コミュニケーションの橋渡しをする通訳という職業がありました」と歴史に記述されるかもしれない。バベルの塔以来の混乱が約三千年かかって、やっと共通言語で話す時代の到来である。もはやわれわれ通訳は、絶滅に瀕する稀少動物なみの保護をお願いしたほうがよいかもしれない。
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西太后と東太后[#「西太后と東太后」はゴシック体]
先に、通訳はその言語の国の持つイメージに同化すると書いた。私は、国際会議で知りあった他言語の通訳四人と友人になり、時々食事や観劇を一緒にしている。フリーランスで業界を生きぬいている彼女たちはいずれもユニークで、お互いの仕事上の逸話のおしゃべりは豊富な語彙に彩られ、このうえもなく愉快である。
不思議なことに、この友人グループの中でも国別に序列のようなものができあがっている。当然、英語とロシア語が東西二大ブロックで、会を取りしきる構図になっており、私は両人を西太后さま、東太后さまとお呼びしているのだが、その一人、ロシア語通訳の米原万里さんは近年出版に、テレビにと時代の寵児となっている。
そこで私は、権勢をほしいままにしたエカテリーナにちなみ、彼女をエッ勝手リーナ≠ニネーミングしている(ちなみに米原妃、私にはイタリア名シモネッタ≠ニ名づけてくださっている)。フランス語通訳のUさんは、英・露どちら側に与《くみ》するでもなく、独自の路線で気のおもむくまま動き、どことなくこれもフランスの外交路線に似通っている。そしてスペイン語、イタリア語は悲しいかな、彼女たちの間を太鼓持ちのごとく動きまわり、笑いをとる役回りなのである。
万里さんと権勢を競うのは西太后こと英語通訳のTさん、一番年長で通訳技量も問題なく一流。スペイン語のYさんはガセネッタ、もちろんシモネッタの私とコンビ漫才をさせるための万里姫の命名である。
この五人、一応第一線の通訳なので、なかなかそろって会えるときがない。そして万里姫は原稿のネタ拾いのためか、しばらくみんなに会わないと禁断症状にもだえ苦しまれるようなのである。気ままなフランス語通訳Uさんが幹事役をかってでたものの、忙しくなり、連絡業務を途中で放り出してしまった。これを契機にUさんは、思考回路が切断されているということで、お怒りの姫よりプッツン≠ニ命名されてしまったのである。
そしてある日、万里姫から突然ファックスが送られてきた。表の縦軸には月日、横軸には四人の名前が書いてある。会えそうな日にマルをつけて返信せよ、全員のマルがそろう日に夕食会決行、とある。添付のレターにはこうある。
「さて、酒とて麻薬とて、絶ってから久しくなると禁断症状もなくなってくるとか……。失われた恋の痛手か、新しい恋の虜《とりこ》か、近頃すっかりロジスティックの≠ニいう形容詞を返上しているプッツンに任せておくと、皆様一同あの魅惑的な味を失念してしまい、結構なければないですむものなのね……などと納得されてはならじと、|物を食う速度とオーガナイズの迅速さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だけは人後に落ちぬと自負する拙者が乗り出すことにいたしました。民主的、水平的ではあるものの回覧板方式ですと、プッツンのところでプッツンしてしまうので、強権的中央集権方式でまいります。私がお送りします表に、その日の夜(十九時以降)都合がつく場合はマル、だめな日はバツをつけて速やかにご返送ください。ご返送くださらない方は、出席のご意志なきものとみなします」
欲求不満の姫をおなぐさめするのは私の役目、表とともに返送した私のレターをご披露しよう。
「東太后万里さま
たった一人の分別のないパリ娘のただ一度の過ちで、早くも強権発動となった事態を見るにつけ、歴史上の恐怖政治の始まりもきっと、かような、言ってみれば取るに足らないことが原因であったろうと思いを馳せているのでございます。
それにしても、わたくしが最も秘すべきこととしております毎夜の予定を、なんと二十二日にもわたって東太后さまに管理される日が来ようとは……ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は本当のことだったのでございますね。
先ほど、その心ない張本人から電話がございまして、『何よ、これじゃ万里の予定は私たちには分からないわけ? 万里がロシアに行くって言ったからこうなったんじゃない。私の希望はね……』とのたまいます。わたくしは即座に、『太后さまが望んでいらっしゃるのは希望でもコメントでもなく、ただマルバツ式の答えだけなのです』と強く諫《いさ》めておきました。しかし、身勝手で出たとこ勝負、無責任という通訳の属性をすっかり身につけたパリ娘は、それに懲《こ》りず、彼女の都合のよい日にあわせろと、わたくしに裏工作に荷担するように迫るのです。
確かにわたくしは、あらゆるおのこの方に情けをかけるたぐいまれな慈愛の持ち主です。しかし、厳寒のシベリアもかくやと思われるほど冷徹な太后さまに反旗を翻《ひるがえ》すなどという行為に、たとえコウモリ派と信じられているわたくしとて加わるわけにはいきません。そこでパリ娘の言動を逐一報告すると同時に、太后さまが重用していらっしゃる方々の真の姿もあわせてご報告し、是非わたくしめを今後は摂政としてご登用いただけるよう伏してお願い申し上げる次第でございます。
何を隠そう、Tさんは常日頃からあなたさまの若さと美貌をねたんでおり、今度ご一緒に行かれるシベリアで、あなたさまを亡き者にすべく計画を練っております。ガセネッタはあなたさまの豪邸と権勢をおもしろからず思っており、プッツンはあなたさまのご多忙さと年収をいたく羨望、憎悪しております。
今回の日程表、わたくしだけが持っておりますあなたさまへの忠誠心をお見せするため、すべてマル印がついておりますが、実のところは毎夜殿方のお求めで一杯なのでございます。
[#地付き]|人を食う速度とオーガズムの迅速さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》では人後に落ちないシモネッタより 」
翌日、この余興をいたくお気に召した万里姫より、あとの三人にファックスとともに私の手紙が送られた。
「強権発動後一夜明けて、シモネッタより次のようなお便りが舞い込みました。こんな傑作、私が独り占めするのもったいないから、背信じゃなくて配信します」
たかが夕食の約束のために、こんな大仰な言葉遊びをしてしまう。これも通訳の性《さが》であろうか。
一歳から保育園に預け、放任いや、近所に放牧状態で育てたわが愚息は、ひょうたんから駒で、質実剛健の校風が有名な進学校に入学した。父母は当然教育熱心なエリートが多い。中一のときの保護者会で、ひとりのお母さんが近寄ってみえ、私に小声でささやかれた。
「雄太君のお母さんですか。こんなこと申し上げてもよろしいかしら。実はうちの息子が申しますには、雄太君に巨乳のヌード写真集を見せていただいたとか……」
私は答えた。
「うちの子に限ってそんなはずは……。だって巨乳は嫌いだ、手に入る小ぶりサイズが好きだっていつも言っているんですのよ」
当のお母さまは、二の句が告げず黙って行ってしまわれた。帰宅した私は、息子に言った。
「お前、ヌード写真集を友達に見せるくらいなら、まずパパに見せてあげなさい」
この会話を披露した主婦の友人は、「まあ、そんなこと言うと変な親だと噂がたって息子さんがかわいそうよ」
これが常識人たるべき反応であろう。
通訳仲間の反応はというと、東太后万里さまは、「そんなときは、まあそれ、ただでお見せしたんですの? と言うべきよ」
西太后Tさんにいたっては、「あら、いつ私のヌード写真集を持ち出したのかしら、恥ずかしいわって言えばよかったのに」である。
さすが通訳、皆常軌を逸している。その言葉を伝えた思春期の息子は吐き捨てるように言った。
「だから通訳の母親なんてほしくないんだ。最低だ」……。
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全裸のマッサージ[#「全裸のマッサージ」はゴシック体]
今年も骨休めにイタリアのテルメに湯治に行ってきた。場所はイタリア映画『黒い瞳』の舞台にもなった歴史のある高級温泉地、トスカーナのモンテカチーニ。詩人ジュスティの古い大邸宅を改装した四つ星ホテル「グロッタ・ジュスティ」に投宿した。イタリアの観光地で感心するのは、色とりどりの看板もネオンもおみやげ屋もないこと。このホテルも広大な緑の敷地に建つ花いっぱいのお屋敷という雰囲気で、小さな道路標識がなければホテルともわからない。台湾の温泉地にも出かけたことがあるが、温泉饅頭、ゆで卵、おみやげ屋と客引き、日本の温泉地と同じ猥雑さがあった。美の国イタリアは品格を重視し、下卑た商業主義を一切感じさせない。ホテルで絵葉書すら売っていないのだ。リラックスに来てまで、つきあいの絵葉書を書いたり、おみやげの心配をするのはやめなさいということか。実際このホテルも二週間以上の長期滞在客がほとんどである。
ここモンテカチーニに二百年以上の歴史を持つチャルデ≠ニいう銘菓がある。ゴーフルの原型のようなもので、丸く薄いビスケットの間にナッツクリームがはさまれている。一緒に行ったローマの親友クララが言った。「子供のころ叔父がモンテカチーニから必ずおみやげに買ってきてくれて、楽しみにしていたものよ。モンテカチーニに行くって言ったら、友人のドローレスにも絶対チャルデ買ってきてって頼まれたわ」
レオナルド・ダ・ヴィンチの生地ヴィンチ村を訪ねた帰路、モンテカチーニの中心にある小さな広場に立ち寄った。村でただ一軒、昔ながらのなつかしい絵柄の缶容器にチャルデを入れて売っている店があるのだ。
午後三時、村の広場には所在なさそうな若者がベンチに座っているだけで、全体が深い午睡のまどろみにあった。店は四時にならないと開かないと、隣のバールの主人が言った。すぐ買えないとなるとますます期待感が高まる。バールではチャルデにアイスクリームをのせて供しているというので、まずそれを食する。パリパリとしておいしい。
これが日本なら、まず十六時間営業の隣のバールで売られ、その後近郊のおみやげ屋、ホテルの売店に入り、あっという間に全国のデパートでモンテカチーニ・チャルデ≠フコーナー販売が行なわれるであろう。ここイタリアでは何年経っても誰もそういうことを考えない。時の流れ方も人間のスケールも違う。私も輸入して日本で儲けようなどという卑しい考えを頭から追い出し、のんびり四時の開店を待った。
グロッタ・ジュスティは洞窟温泉で有名なところで、日本のテレビでもしばしば取り上げられており、かつて小錦関も泥パックを体験している。ホテル備えつけのバスローブにガウンをまとい、隣接の温泉棟を降りていくと鍾乳洞に入る。温度で地獄、煉獄、天国と分けられており、最も温度の高い地獄の下には別府の青地獄のような澄んだ青緑の湯が湧出している。思わず卵を入れたざるを沈めたくなった。なかなか脱日本人は難しい。
リラックスのため静粛に≠ニ書かれた薄暗い洞窟はまさに自然のサウナ。デッキチェアーでゆったり瞑想にふける。その後、洞窟から出るとハイドロマッサージ。タイル張りの個室に全裸で立つと上からはシャワー、二メートル離れた台から女性がホースで温泉水を高圧で体のツボに当ててくれる。体中の血行が促進され気分爽快である。
二年前、ローマ皇帝も愛用した最古の巨大露天温泉の一つサトゥルニアに投宿した折りには、ファンゴ(泥)のボディエステにトライした。やはり個室で全裸になり、女性エステティシャンに全身泥パックを施され、恍惚のケアーを堪能した。今回は目先を変えて、フィジカル・リラックス・マッサージというのをメニューから選んだ。個室ベッドに体を横たえて待っていると、時間通りにノックの音がした。思わずベッドで胸を隠して起き上がった。眼鏡をかけた知的な中年紳士が白衣を着て立っている。
「すみません、裸なので(当たり前だが)紙パンティくださいますか」
彼氏はいとも面倒くさそうに「私は職業でやってますんで、裸にはまったく無関心なんですけど……でも気になるようでしたら、このタオルを使ってください」と白いフェイスタオルを投げてくれた。ボクシングではないが、タオルを投げられたら、いさぎよく降参するしかない。しかし、またはたと考えこんだ。このタオルをどう使うべきか。
サイズ的には下から胸までカバーはできない。股にはさむのは下品だし……しかたなくそっとヘその下にかけておくにとどめた。
彼はむだ口ひとつたたかず、私の足の指先からもみはじめた。当然その間、私はぴっちりふとももを合わせている。かてて加えて見栄も働き、胸が両側に流れて平たくならないよう、両腕をしっかり脇につけ、バストのふくらみを確保する。まるで金縛り状態、リラックスどころではない。うつぶせになってやっと人心地がついた。背中、腰、肩。エステではなくテラピーのプロ、さすがうまい。こうしてあっというまに一時間が経った。まだ夢見心地で部屋を出ると、ウールガウンにフードまでかぶったやせた小柄なおばあさんに呼びとめられた。「すみません、目がよく見えなくて。個室番号を読んでくださる?」番号の場所まで連れていってあげながら思った。「このおばあさんも全裸になるのだろうか……彼が裸に無関心と言ったのはあながち嘘ではなかったのだ」
マッサージの後、知りあいのホテルの社長に訴えた。「この歳で人生初めての経験をしたわ。全裸でイタリア男の指に一時間|弄《もてあそ》ばれた私に、もうこわいものはないわ」
彼は驚いて言った。「えっ、君のところ男性が行ったの? うちはドイツの男性や神経痛の老人のお客も多いので、男性テラピストも置いてるけど、普通女性客は女性のテラピスト≠ニ指定するよ」
なんということだ。全裸を見せて大枚を払ってしまった。悪友は払って当然だというが、まだふに落ちないものがある。
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嘘つきは通訳の始まり[#「嘘つきは通訳の始まり」はゴシック体]
「嘘つきは通訳の始まり」
「そんなに嘘ばかりついていると、通訳くらいにしかなれませんよ」
これは息子が幼いころ諫《いさ》めの言葉としてよく使っていたものである。息子には、母親の仕事は好きなテレビもろくろく見られず、机で勉強ばかりしなければならぬ苦行と見えていたらしく、効き目があった。
通訳とて人間である。時にはわからない単語もあるし、言いまわしがあまりに複雑だったり、だみ声の方言だったりして、嘘をつかざるを得ない状況も出てくる。特に駆け出しで、世間の仕組みや道理が理解できていないときには、よく嘘をひねり出していた。
通訳とは外国語が流暢に話せればできると考えている人が多いが、とんでもない間違いで、まずは一般常識もふまえて日本語がきちんと話せることが基本である。そのうえでの外国語能力。その次に必要なのが何を隠そう、即座に嘘をつく能力も含めた想像力なのである。
英語とイタリア語の入った同時通訳のシンポジウムで、フィンランド人の講演があった。直接英語で聞いて、イタリア語に訳そうとしたのだが、なまりがひどくてまったく聞きとれない。あきらめて英語通訳の日本語訳を聞きながら訳した。終了後彼女たちに言った。
「さすがプロね。あの英語が聞きとれるなんて」
ところが返ってきた返事は、「あんな発音わかるはずないわよ。何とか聞きとれたいくつかの単語で作文したの」
ウーム、理路整然、まるでそのデザイン界の重鎮が話したとしか思えない内容だったのに、あれが彼女たちの創作とは。それができるのもデザインの最低のイロハを知っているからである。つまり、会議のテーマに関する知識と、ここでは恐らくこんなことを言っているのだろうという想像力、それを即座に立派な日本語に作文する創造力が必要とされるのだ。
そして、この私にも世紀の大嘘をつく機会がやってきた。ところは皇室、各国大使臨席の授賞式。英仏の同時通訳が入り、私はイタリア人の政界の超大物のあいさつを逐語で入れることになっていた。会も五回目ということで慣れたものの私は、直前にもらった原稿を美文に翻訳した紙を持ってマイクの前に立った。ところが過去四度はきちんと原稿を読んだその人、紙も見ず即興で話し始めた。
メモ用紙も持たずにいた私はあせってそばにいるアナウンサーの人に断り、司会台本の隅に用語をメモし始めた。マイクの場所は最後尾の隅で、遠くの台から話すその人の言葉も断片的にしか聞きとれない。最初の一言がすめば、原稿に返ると踏んでいたが、いっこうに原稿を読む気配もない。どうせ賞のお祝い、無視してこの原稿の訳を読むか、いやしかし、彼がやおらオリジナル原稿を読み始めたら、今度は言うことがなくなる。常套句の美辞麗句でお茶を濁していた私も、はたと気づいた。このイタリアの知性といわれたVIP、齢《よわい》八十歳で、どうやら突然トリップなさったようなのだ。
「遠く大西洋を越え、この地を踏んだ私」という最初の言葉で、太平洋と勝手に言い換えていた私の耳に聞こえてきたのは、「ここロスアンジェルスでは」というフレーズである。足も弱りすっかりお年を召していたこの方は、今ロスでとうとうと演説をしているつもりになっているらしい。それまで何とかごまかしていた私も、ここまではっきりと固有名詞を言われるとお手上げ。即座にロスを入れた嘘をひねり出すことは不可能であった。いつまでもやまない演説に、秘書がそっとストップをかけてくれたとき、私は脂汗びっしょりであった。
このVIP離日の後、申し訳ないという意味か、著名な画家でもあったその方のデッサンが私にプレゼントとして残されていた。価値のあるその絵は押し入れの奥深くしまわれている。絵を見ると、またあの悪夢がよみがえってくるからである。
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嘘つきゲーム[#「嘘つきゲーム」はゴシック体]
語学能力が欠如しているのに嘘がつけないとどんなことになるか、実例をあげたい。例によって五人の多言語通訳で集まっているとき、一人が言った。
先日テレビで「料理の鉄人」の世界大会が放送され、日本、香港、イタリアの各料理人と料理評論家が出演し、同じ食材を使って料理の腕を競っていた。ところがイタリアの評論家についた通訳がひどくて、彼が何を言っても、「はい、とてもおいしいです」としか訳さない。やがて司会の人も彼への質問をやめてしまった。あれでは、味方的発言をしてもらえるはずのイタリア人シェフが、不公平でかわいそうだ。駆け出しのころ、ともかく発言者の発言の長さにだけは最低合わせろ、と先輩から言われた。長さにも関係なく「おいしい」としか言えないのは、通訳として向いていないから早くやめるべきだ、と。
そこで、料理の批評を内容は定かではない場合、どうごまかすか、五人が順番に嘘をついてみた。「素材の味を生かしきっていますね」「重厚で、しかも後味がさわやかです」「イタリア宮廷料理の伝統を現代風によみがえらせています」「美と味の華麗な饗宴をみごとに演出しています」全員次々に素晴らしく本当に聞こえる嘘を十五くらい編み出した。
国家間の会議や重要な交渉での嘘は御法度だし、わからないと正直に言う勇気も必要である。しかし、テレビや友好的イベントでの発言は、わからなくても上手にかつ立派な日本語でごまかせないとしらけてしまう。ある友好都市市長サミットでも同様のことが起こり、某市長さんの発言だけが幼稚でとんちんかんな内容に終始し、司会の人もやがては質問をしなくなった。すぐ通訳のせいだと気づいたが、多くの観客は、その市長さんを物わかりの悪い人ととったかもしれない。
楽しい嘘の経験もある。大御所デザイナーのM女史は年齢はいっているが、性格は子供のようにわがままで愛らしい。来日時に各ショップを表敬訪問する機会があった。最初のショップでお定まりのあいさつとお礼をすませると、あきてしまった彼女は、すでに何度も一緒に仕事をして気心の知れた私にこう命令した。
「私もう疲れちゃった。次に行くところからは好きなことを言うから、日本の慣習をよく知っているあなたが適当に訳してちょうだい」
次のデパートで応接室に通され、三、四人の部課長さんに、まず言ったのは、「足も痛いし、早くホテルに帰ってゆっくりシャワーを浴びたいわ」
私はすかさず、「今日はお忙しいところ、私のためにお時間をさいてくださってありがとうございます」
もちろん日本側の発言は忠実に訳す。だから彼女はその答えから、私が何を言ったかを推察できる。遊び心のある彼女はこのゲームが気に入り、私を笑わせるようなことを言い始めた。
「私の好みの男性は右から二番目の人よ。左端の人は顔色が悪いわ。もう家に帰って寝るように言ってあげて」
私は笑いをこらえて、「私のショップをとてもいい場所に設定してくださってありがとうございます。ディスプレーも洗練されており、気に入りました」
懲りない彼女は、ケーキが食べたいとか、お茶がまずいとか好き勝手なことを言いまくったのだが、私の腰の低い友好的な発言のおかげで上首尾で訪問を終えた。
数年後、M女史のファッションショーが地方都市で大々的に開催された。レセプションパーティのあいさつの際、私は口をすっぱくして言った。
「いい、必ず都市の名前を一回だけ発音してね。そしたら私が主催者、後援団体の正式名称をきちんと日本語で言って、お礼を言うから」
壇上であいさつが始まった。あれほど言ったのに彼女は県名を言わないので、しかたなく、「当県の関係諸団体に厚くお礼申し上げます」と言い、大変まともな、喜びと感謝の発言を訳した。
最後のほうで、彼女が「あそこにいる通訳は、彼女の言いたいことを好き勝手に訳したと思いますが、私も自由に言いたいことを言いました。これで終わります」と言ったのには驚いたが、彼女の悪戯には慣れたもの、「また再びこの地で、皆様方に再会できることを心より祈念して、私のごあいさつに代えさせていただきます」と訳して拍手、一件落着である。
今イタリア語が大変なブームである。イタリア語が日本で普及すると、彼女とこんな遊びもできなくなるのが残念だ。
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イタリア人はタイトル好き[#「イタリア人はタイトル好き」はゴシック体]
歴史の国のイタリア人は非常にタイトル好きである。英語圏の場合、ほとんど Mr./Mrs. ですむが、イタリアでは大学の卒業学部、資格や叙勲などで敬称が変わる。通訳をする際も、非常に気をつかう。ファースト・ネームで呼びあうアメリカ人に比べると、日本人も専務、部長と名前よりタイトルで呼ばれたがるが、イタリア人に関してはその比ではない。
何も資格を持たない人だけが単純に Signore《シニョーレ》、Signora《シニョーラ》と呼ばれ、大学卒はドットーレ、ドットレッサ、工学部卒はインジェニェーレ、建築家はアルキテット、経理専門学校出はラジョニエーレ、教授はプロフェッソーレ。それに叙勲の名称が加わるからたまらない。国会議員にもなると栄誉ある≠ニいう意味のオノレーヴォレで呼ばなければならない。よくわからないときはすべて先生≠つけてすませられる日本がありがたく思える複雑さである。
法学部出身のアヴォカートと、名前なしで報道されるときはフィアットの前会長アニエッリ氏のことを指し、騎士勲章カヴァリエーレだけで呼称されるのは、元首相ベルルスコーニ氏である。駐車場の誘導係のおじさんは、誰にでもドットーレとかカーポ(ボス)と呼びかけ、客の気分を害さないようにしている。パリのピガールなどの歓楽街で日本人を見て「社長」と呼びかける客引きと似たところがある。おまけに、十九世紀半ばまでは、イタリアは複数の王国、公国に分かれ、それぞれの地方に貴族がいた。公爵、伯爵、男爵と日常も呼びかけられ、奥さんは公爵夫人などの女性名詞で呼ばれる。ただのシニョーラと呼ぶなど失礼千万なのである。
イタリア人は人種差別をしないと言われ、確かにイギリスやフランスなどと比べ日本人を下に見る傾向は薄いようだが、実はイタリア人社会の階層は厳しく分けられている。大企業、銀行などでは、食堂やトイレもマネージャー、ブルーカラー、一般職、工員と別のところを使う。ある製鉄会社の技術研修使節団、技術部長と現場の技術者の三人で仲よく過ごしていたのだが、「家族づきあいもなさっているの」と聞くと、部長が「いや、イタリアでは弁護士、医者といった同じ階層の人としかプライベートではつきあわない」と、当然のように言い放ったのには驚いた。
数年前のファッションイベントで、台頭中の若手デザイナー四名が招待されたときのことである。男性二人はプリンスと公爵、女性は伯爵夫人と男爵夫人、紹介するアナウンサーの女性も神経をすり減らしていたが、伯爵夫人、男爵夫人という呼び名は日本人にはなじまない。苦肉の策で、原語のコンテッサ、バロネッサと呼ぶことにした。ショーの本番前日、バロネッサと呼ばれる予定の女性デザイナーが私に小声で頼みにきた。
「彼女はコンテッサと呼ばれているようだけど、父親は確かに伯爵でも母親は貧しい平民よ。結婚相手は伯爵じゃないし、伯爵夫人と呼ばれる資格は持っていないはず。それがまかり通るのなら、私の夫は男爵だけど、父はシチリア王国の末裔《まつえい》なので、私は結婚前はプリンセスと呼ばれていたの。だから明日のアナウンス紹介は、プリンセスに変更してちょうだい」
年齢も近い二人の女性デザイナーのすさまじいライバル意識である。王女様のご機嫌を損ねては大変、急遽《きゆうきよ》タイトルを変更した。
ファッションショーのフィナーレでは、最後にデザイナーが花道に出てくるが、モデルが着ている服が主役なので、通常はシンプルな服を着る。ところがこの王女様は花道に出るときも予定を変更し、社交界デビューのごとく、ペチコートで裾を開いたフリルいっぱいのドレスを身にまとい、ご丁寧に花のついた大きな帽子までかぶって登場した。いきなり場違いなドレスを着た中年モデルが登場したかとみまがう光景で、ショーの演出監督は、「何なんだ、あのモデルは」と思わず叫んでいた。三十代にしてはあまりに危険な冒険であった。タイトルでは負けたが、シンプルな白のミニドレスを選んだもう一人の女性の株が上がったのは言うまでもない。
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聖夜のプレゼント[#「聖夜のプレゼント」はゴシック体]
毎年聖夜になると、手に汗握った最もスリリングな仕事を思い出す。
イブの夜、ローストチキンの夕餉《ゆうげ》を家族で囲んでいたとき、突然あるテレビ局から電話が飛びこんできた。今から法王恒例のクリスマス・メッセージを流すところで、先ほどその映像が送られてきた。英語と思い通訳が待機していたが、メッセージはイタリア語できている。至急、全部で十分の法王様のお話に訳を入れてもらえないか……とのこと。なんと予定開始時刻まで二十分余り。
「今からタクシーを飛ばしても四十分、無理です」と言ったものの、局の人のせっぱつまった声に、「電話で聞かせてください、訳をファックスで送ります」
と言ってしまった。もうあとにはひけない。
すぐ二階の私室に上がり、筆記具を用意して電話を待つ。幸い受話器には明確な音声のメッセージが流れてきた。全身を耳にする。流れてくる語彙をできるだけ多くメモしていく。十四分終了。即座にメモを見ながら大きな読みやすい字で日本語に訳していく。放送時間まであと五分。一家総動員態勢がしかれた。当時六歳の息子は私の翻訳ができると、一枚ずつ持って階下に走る。ファックスの前で待機する夫は、それをすぐ局に送る。五分後、
「ママの訳、読み始めたよ。急いで」
数分後、夫が階下から叫ぶ。
「おい、もう読む紙ないぞ!」
まだ一つの文章しか書いていない紙を息子がひったくって走る。ふと疑問が湧く。
「イタリア語がわからない人がどうやって和訳と合わせてるの?」
汗が噴き出す。最後の訳「父と子と精霊の御名に於いて、アーメン」を書き終わり、今度は自分も階下へ。まだオンエア中の訳をチェック。不思議とイタリア語の部分とぴったり合っている。
法王のもの静かな御言葉の背後で、日本の一家族とテレビ局の関係者を二十枚以上の紙を持って走らせた聖戦が終了したのは、電話が鳴って四十分後のことであった。
冷えきったチキンを前に全員脱力感に襲われ、食欲を失っていたのは言うまでもない。終了後、局からのお礼の電話にまず尋ねたのは、
「あのう、ギャラですが、まさか時給ではないでしょうね」
法王様はお話の中で確か「資本主義と物質文明に毒された民よ、悔い改めよ」とおっしゃっていたような気もするが、ともあれクリスマス・プレゼントの在宅通訳料を感謝した。
翌年、同じ局から早々と法王メッセージの通訳の仕事を予約された。今度は局でテープを聞いて訳を入れる時間が一時間あるということで、楽勝だわと気楽に出かけたのだが、いざ訳し始めるとなかなかスムーズにいかない。聖書の引用部分を調べたり、テープを戻して聞き直すところもあり、あっというまに時間が迫り、やっとのことでオンエアの訳を音声で重ねた。あのときは、一度電話で聞いただけですべてすぐに美文にできたのに、なぜ……? 思うに通訳も火事場の馬鹿力、緊張時に出るアドレナリンで実力以上の力を発揮できるのかもしれない。
そしてさらにその翌年、ある会社で仕事中に、若い美人が私に話しかけてきた。
「私はあなたの法王様の訳をテレビ局で読んだ者です」
彼女はイタリア語通訳として待機していたのだが、一度聞いただけではとても訳せず、その場でリタイアしたらしい。原文に合わせて上手にナレーターの仕事はこなした彼女も、通訳としてはプロではなかったことになる。
法王様はポーランド人であるが、美しく平易なイタリア語を話される。なぜそれが訳せなかったか。ここに基本的知識と日本語こそが重要という点が実証されている。「人間」という一般人称も聖書の時代のことなら「民」と訳し、現代の話で使われるときは「人類」にする。「あなた」という言葉も、話す人が法王様であれば「汝」と言ったほうが重みが出る。「しろしめす」「〜したまう」などふだん使わない最上級の尊敬語も随所に使わなくてはならない。サンピエトロ寺院にまつられている聖人ピエトロもペテロに、ジョバンニはヨハネに、ジュゼッペはヨセフと名前まで聖書バージョンに再翻訳しなければならないのだ。また法王様はその年の世界中の紛争や平和活動についても言及され、ラテン語の祈りの句も中にはさまれる。翻訳であれば、辞書や聖書を参照して、じっくり名文に仕上げることも可能だが、同時通訳はその場勝負。いくら検索しても頭に入っていないものは出てこない。ほとんどの場合、泥縄準備と付け焼き刃のわれら通訳も、年に一度ぐらいは聖書を読んで、もしもの日に備えたい。
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イタリア男の「マンマ・ミーア」[#「イタリア男の「マンマ・ミーア」」はゴシック体]
「マンマ・ミーア」、あれまあといった最もありふれた感嘆句は、直訳すると「おっかさん!」。イタリア人にとってマンマは聖母信仰に似た永遠の愛の対象である。当のマンマもまた娘より息子を溺愛する傾向にある。
イタリアには短期滞在の経験しかないこの私も、数限りなくマザコン男の洗礼を受けている。
日本の仕事で知り合ったイタリアの独身男性二人に「イタリアに来たら自分の町を案内するから、必ず電話してくれ」と言われ、観光好きの私は、通訳の仕事がオフの日曜日に行きたいと電話したことがある。その二件の結果は、三十四歳男性、「日曜日はママがパパのお墓参りに行くので、送り迎えをしなくっちゃならないんだ」。四十二歳男性、「毎日曜日は亡くなったママのお墓参りに行く日なんだ」
つまり、二人ともめったにイタリアに来ない日本の女性より、ママを選んだのである。その当時は妙齢だった私の魅力は亡くなったマンマ≠ノも劣るのかと落ちこんだものだ。
ある夏、海岸で友人たちと過ごしていたとき、二十歳過ぎの大学生の男の子の足の爪がひどく伸びているのを見て、「爪切りなさいよ。あぶないわよ」と言うと、彼は「今ママが旅行中だから切ってくれる人がいないんだ」と平然と答えたのである。
数年前ローマでのこと。親友クララが仮住まいをしていた友人の家に泊めてもらっていた。場所は郊外で、あまり名前も知られていない裏道にある。「いい、タクシーに乗ったら、外国人だと思って遠回りされないように、ちゃんと経路を言うのよ」。ショッピングに出かける私に、彼女は念を押した。私は帰路、タクシー乗り場に行き、安心できそうな初老の運転手を選んで車に乗り込んだ。クララの指示通り、慣れた口調で「A通りとB通りを抜けてC通りの三十六番地まで行ってちょうだい」と頼んだ。走り出しながらこの運転手、ぐちり始めた。「シニョーラ、あなたもうちの妻と同じで、男に何でも命令するんですね」。言い方が尊大だったかと気になり、「ごめんなさい、ご存じないかと思って」と答えたのが運のつき。彼は堰《せき》を切ったように妻への不満を口にし始めた。
「妻は僕を疎んじていて、月に一度しか愛させてくれないし、そのときもああしろ、こうしろと命令ばかりなんだ。僕はママを幼いころ亡くしたので、母性愛に飢えてるんだよ。妻にママのように優しく甘えさせてとじゃれつくんだけど、まったく僕の気持ちを理解してくれないんだ。大好きなおっぱいもさわらせてくれないし」
と初対面の客の私に切々と訴える。妻が冷たいのは万国共通、私は母を亡くした子供という状況のほうに同情した。
「かわいそうに、ママはあなたがいくつのとき亡くなったの?」
「僕が二十一歳のときだよ」
イタリアの男性の二十一歳はまだ幼い≠フだと、しみじみ感じいった瞬間であった。
最後はきわめつきマッチョのアルベルト・トンバ。スキー回転競技の三冠王、金メダリストの英雄は、テレビで「アルペン競技の滑降≠ノは挑まれないのですか」と聞かれ、「ママがあぶないから駄目だって」と答えたのであった。
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来日デザイナーのお仕事[#「来日デザイナーのお仕事」はゴシック体]
アカデミックに見える通訳の世界も、ふたをあけると意外と下世話である。客からのクレームで最も多いのが通訳の服装に関すること。派手すぎる、地味すぎる、カジュアルすぎる、パンツスーツはいけないと、まあ、いろいろある。一番無難なのはきちんとしたスーツ。必ずお客様より少しフォーマルに。困るのは礼服着用の格式ばったパーティ。通訳のほうがお客様より豪華なのも困りものだし、質素なのも雰囲気をこわす。そして、われわれイタリア語通訳が最も頭を痛めるのが来日デザイナーの仕事。特に女性デザイナーのときは気をつかう。
イタリアで、あるアシスタント・デザイナーが転職した。急なことだったので服を買う時間もなく、初日、前にアシスタントをしていたデザイナーの服を着て出勤したところ、大御所の女性デザイナーの逆鱗《げきりん》に触れ、「私のアトリエに他のデザイナーの服を着てくるなんて、どういう神経をしているの」と突き飛ばされた、という実話がある。
私が初めて通訳をした女性デザイナーは、ロベルタ・ディ・カメリーノ。記者発表会とその後のパーティという半日仕事だったが、代理店もぴりぴりしていたのか、安くするので彼女の服を着てほしいと頼まれた。半日かけてオフィスに出かけ、ワンピースとパーティドレスを安く買わせてもらったのだが、結局衣装代は通訳料の三倍という、赤字の仕事になってしまった。でも「まあ、私の服を着てくれてるの、嬉しいわ」とご機嫌がよくなり、通訳に対する親近感も持ってもらえるので、駆け出しのときのテクとしては不可欠である。
その後、通訳をしたデザイナーは、ミラ・ショーン、ミッソーニ、フェレ、アルマーニ、ヴェルサーチ、ソプラーニ、ラウラ・ビアジョッティ、クリツィア、故エンリコ・コベリ、アンナ・モリナーリなどなど枚挙にいとまがない。当然のことだが、アルマーニの衣装をヴェルサーチのときに着ていくわけにはいかない。お金が続かなくなると、日本のブランドの目立たないものでお茶をにごす。日本のもので、目立っても外国人デザイナーが一目置くのは三宅一生とコムデギャルソン。ライバルデザイナーというより、洋服の新しいコンセプトを作るアーティストと思っているのか、仔細に見たりほめたりすることさえある。
気をつけるべきは、着るなら必ず輸入物のオリジナルにすること。値段も張るので、一度日本でのライセンスもの、いわゆるディフュージョン・ラインの服を着ていったことがある。そのデザイナーのロゴが全体に散らしてあり、「これなら一目で自分の服とわかってもらえるわね」と安心して商談の場に出かけたのだが、一瞬その場が凍りついた。デザイナーは「この服、何なの。いつのもの? 私のアプルーヴァルとってないものじゃないの?」。ロゴを散らしたものが好きではないと言っているのに、売れ筋なのでまあ今年だけでも、と日本側が一着作ったモデルだったのだ。まさに身の置きどころのない苦境に立ってしまった。あのときの関係者の方々、もう時効ですがごめんなさい。
服だけではない。バッグに靴、フェラガモ、グッチ、プラダと有名ブランドばかり買っていたら、本当に身がもたない。あるバッグのデザイナーとは年に一回、半日のインタビューの仕事がある。あるとき、「いつまで初コレクションのバッグを持ってるの。毎年新作を出してるのだから、新しいのにしてよ。古いイメージは刷新してるんだから」と言ってきた。
「あなたのバッグを買うには、半日仕事のフィーで三年間かかるのよ。あと二年は待ってね」と思わず言ってしまった。
イタリアンジュエリーも数社のインタビューや記者発表の通訳をしている。あちらを立てればこちらが立たず。どこかのものをつけて、他社の仕事には行けない。宝石は真珠、時計はセイコーが無難か。
ブルガリの社長には「君はわが社の日本進出の日からずっと通訳をしてもらっているけれど、一点もうちの宝石をつけてくれていないね」と、十年くらい経って、ふと気づいたように言われ、「ブルガリの香水ならつけてます」と必死に弁明した。
ブルガリ大好きです。でも、あと二十年くらい仕事させてください。約束します。そのときにはきっとプロパー値段で購入します。
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イタリアの安全事情[#「イタリアの安全事情」はゴシック体]
ローマ県警の外国人部長が来日し、イタリアの安全事情についてセミナーを開いた。外国人が被害届を提出する窓口である彼の部署に、カラスの鳴かない日はあっても、日本人が青くなって駆けこまない日は一日もないとか。
「どうして日本人は、すぐ無防備に人を信じるのか。狡猾なだましの手を次々考えつくイタリア人にとって日本人をだますのは赤子の手をひねるようなもの、というか、日本人はその純朴無垢な態度でかえって犯罪を誘発しているのも同然」
と、のっけから辛口の苦言を呈していた。
近年多発しているのが、にせ警官の尋問。エレガントな私服で偽造の警察証を見せつつ、パスポートの提示を求め、麻薬を持っていないかバッグの中を見せるよう要求する。組織的に高く売れる日本人パスポートと財布を取りあげると、車で逃走するという手口らしい。こういう場合は、まず警察証を仔細に点検する。制服を着た写真がついているか、所属の省もチェック、それでもわからないときは、制服警官の立ち会いを要求、または無料警察電話一一三番で当人の所属を確認と、念には念を入れる。
携行すべき身分証明書のパスポートも、まもなくイタリア全土でコピーでよいことになるらしいが、それにしても要求されて簡単にバッグを開けて見せるのは日本人くらいらしい。
数日前も、日本人男性二人が駆けこみ、クラブでビール二本、サンドイッチとで百二十万リラ(八万四千円)請求されたという。発行と受け取りを義務付けられている領収書を見せてもらうと、なんと一万二千リラと書いてあった。証拠もないので、何の手も打つことができなかったという。
「飲食施設は営業許可証と価格表提示が義務付けられている。入ったらメニューをチェックしろ。法外な料金を要求されたら、すぐ払わずに抗議しろ。一一七番の財務警察に電話すると言え。払わないからといって暴力をふるう国民性ではないので、文句を言え。最悪、払うのなら、せめて領収書の金額くらいきちんとチェックしろ」
もっともである。
楽しかるべき海外旅行が台無しになるかならないかは、本人の注意次第なのである。
犯罪も、得意分野で住みわけが行なわれているのがおもしろい。にせ警官に化けるのは美男子が多くスーツ姿が決まるルーマニア人。売春、用心棒は男尊女卑思想が強く乱暴な気質のアルバニア人。スリは手先が器用な南米系。路上のひったくりはすばしこいロマ人の子供と相場が決まっている。背広にアイスクリームをわざとつけて注意し、すばやく内ポケットから財布を抜き取るのは昔の話。犯罪集団は技巧をきわめたアイディアを次々と考え出す。
高級ホテルの夜のパーティに参加した日本人四人が、路上に停めておいた車に乗って帰ろうとすると発車しない。カップルが近づいてきて、「パンクしてますよ」と教えてくれた。それは大変、とばかり全員が車をおりてタイヤをチェックしているすきに、男女は車の座席からかばん類を持ち去ってしまった。タイヤ交換をすませ車内に戻って、パスポートも飛行機のチケットも財布も消えているのに気がついた日本人たち、「そういえばあのカップル、俺たちがホテルに到着したときから近くにいたような気がするな……」
危機意識のない日本人は、犯罪者たちにとってはカモネギでしかない。
大聖年・キリスト生誕二千年祭には、世界各地から数千万人の巡礼がローマを訪問した。アルバニア、コソボ、各地から流入した移民、難民が生活のために犯す犯罪増に頭を痛めているイタリア。この大聖年に東欧の巡礼者約二百万人が、そのまま各地に散って不法残留していると考えられている。外国人観光収入の経済効果と、危険な移民増との諸刃の剣である。慣習の異なる彼らをいかにイタリア社会に平和裏に融合させるかイタリアもさまざまの策を練っている。
アメリカに移住したイタリア人が隔離されて住んだニューヨークでは、コザ・ノストラのような犯罪組織が作られた。紛争、宗教、イデオロギーの違いで、人種の集団移動が今後も増え続けるのは必至である。異民族の受け入れ、対話、雇用の創出、先進国はさまざまな課題の克服を強いられている。
「アメリカが人種のるつぼや大恐慌を経験、克服して真の大国になったように、日本もイラン、中国、フィリピンなどの異民族を受け入れ、共存し、不況を克服することで、体質が強化され、本当の意味での先進大国に成長できるはずだ。異民族をむやみに恐れず、自分を鍛える好機ととらえてほしい」
こう語ったのは、ベネトンのアートディレクターで、差異を認めたうえでの人種融合を写真で訴えているオリヴィエーロ・トスカーニである。
子供のようにイノセントといわれた日本人観光客は、まずイタリアに行ってだまされない訓練を重ねることから、国際化の準備をしてはいかがであろうか。
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イタリアの精神科医事情[#「イタリアの精神科医事情」はゴシック体]
あるイタリア人の男性が思いつめた様子で医師のもとを訪れた。
「先生、どうやら私は両性具有のようなんです」
診察した医師が「あなたは普通の男性ですが」と言うと、患者は「いいえ、女性器がいつもここについているんです」と言って自分の頭を指さした。
四六時中、女性のことを考えているイタリア男性を皮肉った小話である。私も現実に「病気?」といぶかしむ状況にしばしば遭遇した。
イタリアのテレビドラマで、女性が電話で「すぐ到着するわ」(Arrivo subito)と言い、相手のもとに駆けつけるシーンがあった。そばにいたクララが「なんで『すぐ行くわ』(vengo)って言わないかわかる? イタリア人はすぐあのときの『行く』を連想するから、わざわざ『到着する』(arrivo)って言わせてるのよ」と冷笑していた。
仕事の合間にイタリア人紳士と慌ただしい昼食中、BGMを聞いて「きれいなメロディーね」と同意を求めると、「その言葉をもう一回僕を見つめて言ってみて」という風変わりな要求をされた。"Melodia《メロディア》"と繰り返してあげると、「最高」と一人にやついている。あとで厚顔無恥に説明してくれたことによると、"Melodia" というイタリア語と同じ発音で「それ(男性代名詞)を私にくださいな」という意味に聞こえるという。アダルトビデオ風に言うと「アー、早くちょうだい」
真っ昼間の人込みのコーヒーハウス。何を考えているのやらとあきれたものだ。
イタリア人は何かというと言葉のはしばしにすぐ男性器のスラング(地方ごとに異なる)を挿入する。地方によっては「鳥」も「魚」も「豆」も男性器。
若いイタリア人男性の話。学校で何か宣誓したあと全員で "|Lo《ロ・》 |giuro《ジユーロ》"(それを誓います)と繰り返すのだが、みんな "|L'《ロ》|ho《・》 |duro《ドウーロ》"(俺のそれは固くなっている)と言い換えていたとか。
同時通訳中、男性名詞、女性名詞の冠詞を無意識に間違えることが結構ある。会議で日本人講演者が「アレクサンダー大王の東征」に言及したとき、訳していた私は "|ALESSANDRO《アレツサンドロ・》 |IL[#T「IL」にアンダーライン]《イル・》 |GRANDE《グランデ》" と言うべきところを、つい女性冠詞の la を使ってしまった。そばにいたパートナー、大先輩のアマデイ氏はすぐにマイクを自分のほうに切り替え、il に言い換えた。イタリア人には "|ALESSANDRO《アレツサンドロ・》 |lha[#「lha」にアンダーライン]《ラ・》 |grande《グランデ》"(アレクサンダー〈大王〉は大きな一物を持っている)としか聞こえないのだとあとで説明してくれた。アカデミックな会議をぶちこわしかねない発言を前にアマデイ先生のあわてぶりも当然であった。
どうしようもない好き者、とイタリア人にあきれていた私だが、風邪気味の症状が出て、近所の病院に駆けつけた。先生いわく「風邪というより咽頭炎ですね」。微熱に冒された私の脳をよぎった文字は淫蕩炎《いんとうえん》≠ナあった。私にも病は伝染していた。
そして当のイタリア人はというと、不治に見えたこの病はどうやら回復のきざしを見せているようなのだ。
最近、男性があまり積極的に女性にアプローチしなくなったという。EUの一員としての自覚からか、ビジネスマンも忙しく小走りに歩き、女性を見つめることもつきまとうこともしなくなった。
先日も初老の社長がイタリア男性の将来を嘆いていた。
「週末、娘は次々ボーイフレンドに電話をかけて誘い、車で迎えに出かけるけど、息子はといえば、パソコンの前に座り、女の子の誘いも断っているんだ。自分の若いころとはすっかり様変わりで、悲しくなるよ」
それを裏付ける事実が明らかになった。『本当はタカなのにヒヨコだと思っているあなたへ』の著者ファウスト・マナーラ氏が来日した。マナーラ氏は臨床二十五年の精神科医で大学教授、セックスカウンセリングの大家、イタリア唯一の摂食障害センターの所長もしている。彼の口から意外な現実がかいま見えた。
「最近の調査でイタリア人の八五パーセントが、自分が内気な性格で困っていると告白している。若い男性の性欲低下が問題になっており、若い女性の八パーセントは過食・拒食などの摂食障害に悩んでいる。すべては自分の内気さを否定し、仮面をかぶり続けることから生じている。内気というのは、人間すべてが生来もっている美しい資質なのに、現代社会はそれを価値のないものと決めつける。誰とでもすぐうちとけ、積極的で前向きな、効率よくものごとを解決する人が出世し、そうでない人は落ちこぼれる。セックスは裸ですべてをさらけ出しあう最も親密な時間だが、現代人はそこでも情報に左右され、相手を喜ばせるために双方が演技をする。そしてついには本当の自分を喪失してしまい、心身症になってしまう。
日本では本来、内気は控えめの代名詞として高く評価されていたのに、今は違うようだ。以前イタリアのテレビで、駅頭で大声で歌を歌わせ、羞恥心を克服させる日本の訓練を見た。大事なのは本当の自分を知ることであり、そのうえで必要とあらば仮面をかぶるのもかまわない。それも楽しんで『よし、今日はこんな自分に変身しよう』と思いながらやると、少なくとも心身症にはならない。
日本人は、カラオケなどで群れると言われているが、そこでもきっと人に気をつかって疲れているのだろう。数年前、日本の巨大なパチンコ店で皆黙々と機械の前に座って玉を打っている光景、三階建てのゴルフ練習場でこれもまた一人で一日中玉を打っているありさまを見て、暗澹とした。もっと自分をさらけだしてつきあえる、自由な人間関係が結べるとよいのだろうけどね」
明るく陽気なイタリア人も現代社会のストレスで、さまざまな問題を抱え始めている。
アメリカ人なみに精神分析医にかかる人も増えているらしい。料金は四十五分、五千円から五万円まで、平均で二万円程度だ。
「イタリアに来たら無料でカウンセリングしてあげるよ」と通訳をした私に親切にのたまわったマナーラ氏に「私、しゃべってお金をもらう仕事をしてるので、しゃべってただとか、お金を払うのは絶対いやなの」と答えてしまった。
「君みたいに内気でない日本人もいるんだね」
世界はまさにグローバル化しているのだ。
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熱情的なナポリ人[#「熱情的なナポリ人」はゴシック体]
互いに親近感を抱いている日伊間には、多くの姉妹都市が存在している。東京−ローマ、大阪−ミラノ、京都−フィレンツェはその代表的なものだが、天童−マロスティカ(将棋とチェス)、宇都宮−ピエトラ・サンタ(石の産地)、熱海−サンレモ(花の街)、十日町−コモ(シルク)、一般にはその位置さえ両国民に知られていないような、山形県長井市と人口三千人の小さな南の町サンテラモといったユニークな関係もある。私見だが、小さな町同士の結びつきのほうが、市民の交流も盛んで、温かい関係を継続しているような気がする。特に子供のホームステイは、草の根での国際理解を推進するうえで、絶大な効果を発揮する。
この姉妹都市交流で印象に残っているのが、以前、通訳としてお手伝いした鹿児島−ナポリの縁。前年ナポリを訪れた鹿児島使節団の返礼に、三十人あまりで構成された市議会議員や市民の使節団が鹿児島を訪れ、交換議会で市の抱える共通問題を話しあったり、市民歓迎会に出たりと、さまざまな行事をこなした。
両市とも火山を抱く風光明媚な南の都市という共通項をもってはいるが、実際に出合うといろいろな点で差異が明らかになり、異文化交流の醍醐味ともいえるおもしろさを味わった。
まず、出迎えた空港から市内に行くバスで、その萌芽が見られた。きちんと一般車輛に混じり、信号を守って走行するうちに、ナポリの議員が少し不満そうにつぶやいた。
「鹿児島の人たちがナポリにいらしたときは、サイレンを鳴らすパトカーの先導で路肩を走って、市庁舎に直行したものだが」
南の人たちは客人を歓待するためなら人の迷惑など顧みない。私もナポリで観光ハイヤーを雇った際、身の細る経験をしたことがあるのだ。市のバザールを見たいという私たちに「ひったくりもいて歩くのは危険。見たいのなら車で中に乗り入れてやる」と言うが早いか、運転手は大型のベンツでクラクションを目一杯鳴らしながら、立錐の余地もない人混みのまっただなかを走り始めたのだ。人々の怒号も何のそのであった。
鹿児島滞在中の行事のひとつに、市内の小学校訪問があった。幼い子供たちが、歌や踊りで懸命に歓迎した。ナポリの人たちは大感動、子供たちを抱きしめキスし、全員がぽろぽろ涙を見せた。さすが心優しいイタリア人、日本人と違い、素直に感動を表に出すのねと、私も感動した。さて、いつまでもバスの車窓から手を振り、子供たちとの別れを惜しんでから、市内観光をしてホテルに到着した。彼らがバスを降りた後、忘れ物を点検するために車内を見回った私は唖然としてしまった。子供たちは使節団の全員に、心のこもった手作りのおみやげを袋に入れてプレゼントしたのだが、それらはほとんどすべて、座席の網袋に無造作に置き捨てられていたのである。
中身は折り鶴や稚拙な絵で、確かに何の価値もないものだが、あの涙の感動は一体なんだったの、と日本人との人情の機微の違いに暗澹とした。直情型の人の感情は、意外と薄っぺらで長持ちしないものなのか、せめて部屋まで持ち帰って捨てる心遣いもないのかと、あきれてしまった。
ナポリの人たちは、イタリア人の中でも親切で、とりわけ喜怒哀楽が激しい。しかし、裏返して見ると、今「君のためなら命すら惜しくない、愛してるよ」と言ってくれた人が、翌日は違う女性に同じ気持ちを抱くかもしれないし、昨日はそう思っていたけど、今日、目が覚めたら気持ちが変わったと言うかもしれないのである。
私は子供たちのおみやげを、ひとつひとつ集めながら、熱情的なナポリの人とは、一生を共にする伴侶にはなれそうもないなと、しみじみ思った。
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大空の死[#「大空の死」はゴシック体]
昔まだヨーロッパに直行便がなかったころは、安い飛行機を選んでよく旅行していた。ミュンヘンに出かけたときは、なんと成田から三十七時間かかった。ソウルで大韓航空に乗り、マニラ−ジェッダ−ドバイ経由でチューリッヒにたどりつき、バスで駅に行き、新たに列車でミュンヘンに向かったからである。このフライトは産油国の建築ラッシュをめざす韓国とフィリピンの労働者のために開設されたもので、機内にはにんにくの香りが充満していた。
若いころのパワーは恐れを知らない。友人も「パキスタン航空って穴場よ。必ず機体の調子が悪くなって北京かラワルピンジで待機することになるから、普通は行けない都市にただで泊まって食べての観光ができるのよ」と豪語していたし、イタリア留学へも巨大なリュックを背負ってシベリア鉄道で出かける女友達もいた。
私が最も多く利用したのはアエロフロート。当時欧州へは、モスクワ経由が最も短いフライトであった。ロシア製のイリューシンもよく故障し、キエフやノボシビルスクの空港を見ることができた。そして一生忘れることのできない身の凍る体験をしたのも、このフライト中のことなのである。
パリ行きのアエロフロートの旅客となったのは、二十年近く前の五月の連休前のこと。機内は満員であった。隣に座っていた日本人の中年男性は離陸前から落ち着かない様子で、手帳に日記のようなものを書きつけていた。興奮しているらしく、少し息も上がっており、私は初めての海外旅行なのだなと微笑ましく眺めていた。無事離陸し、食事のサーブが始まった。何年も変わらない硬いローストチキン、乾いたパン、ミックスベジタブル。隣のおじさん、そのメニューも逐一書きつけている。
食事が始まってまもなく、くだんの紳士は突然茶色の液体を噴きあげ、ぐったりしてしまった。あせった私が呼んだスチュワーデスたちはロシア語とフランス語はうまいが、英語は片言しか話せない。ともかくアナウンスで、機内のお医者さまを探す。医学部の学生とインターンの若い医師が、いずれもジーンズ姿で名乗りをあげた。彼を座席に横たえ、洋服を楽にして、心臓マッサージにとりかかる。二人は交代で彼の上に馬乗りになり、汗びっしょりで胸を押す。強心剤が注射される。医師は機長に緊急着陸を要求したが、最寄りの空港はノボシビルスク、所要時間六時間。ソ連は巨大な国なのである。そうこうしている間に、興奮がもとで脳溢血を起こしたと推測される彼の顔色は土気色に変わり、呼吸も止まってしまった。六時間後、緊急着陸をした飛行場で、彼の体はシーツに包まれて運ばれていった。
私は残された荷物からパスポートを出し、案の定日本語でしか書かれていない連絡先の住所と電話番号をローマ字で書いて、スチュワーデスに渡した。新品のパスポートの真っ白なページの中央に、出国のスタンプが一つ大きく躍っていた。彼は日本を出て、そのまま帰らぬ旅に出てしまったのだ。初めての海外旅行で夢いっぱい、エッフェル塔や金髪のパリジェンヌに思いを馳せていただろう。実際のパリに失望することもなく、幸せな昇天だったかもしれない。最後の食事がアエロフロートの食事だったのはお気の毒だが。
今まで祖父母、舅、姑を見送ったが、私は一度として臨終のときに間にあったことはない。その私が唯一、人の死にまぢかに立ち会ったのが、空の上で隣りあわせた男性というのも不思議な気がする。ずいぶんアエロフロートにも乗っていない。今は機体もエアバスになり、食事もおいしくなっているらしい。旅は冒険、さまざまな体験を重ねたが、今も五月の薫風のころになると、必ずあの紳士のことを思い出して合掌している。
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くどきから逃れるテクニック[#「くどきから逃れるテクニック」はゴシック体]
通訳の等級と顧客のイタリア人との接触時間は反比例する。駆け出しのころはガイドだアテンドだと一緒に旅行することも多く、長いときは二週間も、寝るとき以外を共にすることがあった。嫌な客だと次第に顔を見るのもおっくうになり、敵意が殺意へと変貌する。団体のガイドのときは、食事の最初だけダイニングで立ち会ってヘルプし、後はルームサービスで食事をした。朝食も部屋で食べる。その後自分を鼓舞して、ロビーに降り「ボンジョールノ」と満面に笑みをたたえてお客様をお迎えするのである。
ガイド料金は客の人数によって決まり、多くなればなるほど高くなる。しかし、本当に大変なのは一番安い小人数、最悪は相手が一名のとき。まさに夕食までフルアテンドとなる。食後どこかエンターテインメントの場所を聞かれるのがまた地獄。一日中旅行で気をつかいながら歩いた後、ディスコで踊るなんて拷問でしかない。地方都市だと気のきいたナイトスポットもなく、早々と店じまいすることも多い。日本人は早寝だからといっても信じてもらえない。こちらは、ともかく早く一人になってゆっくり風呂につかり、浴衣に着替えてのんびりしたい一心、タフで宵っ張りのイタリア人がほとほと疎ましかった。
若くて美人の通訳だと、あの手この手のくどきからいかにして逃れるかをまず身をもって学ぶことになるのは必至であろう。考えてみれば、イタリア語がわかって、スポットで同行している通訳ほど、後腐れがなく恰好の遊び相手はいない。こちらはその手にひっかかって遊ばれるのはまっぴらと思っているし、一日通訳をした頭はすでに外国語拒否症状を呈していて、夜の甘い会話をする気力もない。充分睡眠時間をとって頭を休ませないと、翌日の仕事にもさしつかえる。とはいえ、むげに断って相手を怒らせると、後の行程が気まずくやりにくくなる。
マーフィの法則ではないが、くどく人に限って絶対寝たくないタイプ≠ェ多かった。いいなあと思う紳士は、決まって礼儀正しく、ちょっと内気で、決して厚顔無恥にくどいたりはしない人ばかりなのだ。
どちらにしても、女性をくどくのは礼儀と思っているようなイタリア人、断りのせりふにも工夫がいる。あるとき、仕事で知り合ったイタリア人に後日電話で夕食に誘われた。
「すみません、今急ぎの翻訳の仕事があって、まったく動けないのです」
「いつが締め切りなの?」
「十日後です」
きちんと、十日後電話がかかってくる。
「すみません、風邪をひいてしまって熱があるので、今日は」
今度は一週間後、「もう治った?」と電話。普通日本人だと二度断られると、以心伝心で身を引くのだが、イタリア人には通用しないらしい。結婚したとき、これで堂々と断る理由ができたと思った。さっそく昼メロ風に、
「いけませんわ。私には夫が……」
「いいよ、僕やきもちなんか焼かないから」
イタリア人はあくまで自己中心的なのだった。
そのとき学んだ。断りの理由は主体性を持って、嫌だという自分の意志をはっきり伝えなければならない、と。
「あなたは私の好きなタイプではありません」
こちらの趣味は変えようがない。そう言った後はしつこくされることはなくなった。
くどき文句でイタリアの格言をしばしば持ち出された。一度逃した機会は永遠に失われたものになる>氛氓セから今を生きましょう、というせりふなのだが、怖いものなしの青春のときは「あなたと寝なくても失うものなんかないわ」と傲慢に返事していた。
三十年たった今、大きな会場で同時通訳をする際など、どこにスピーカーのイタリア人がいるのかわからないまま通訳をする。打ち合わせで会うのも三十分、終われば顔も見ず帰宅というケースがほとんどになった。積み重ねた年齢のせいもあって、やっとスマートに断るノウハウを体得したのに、それを実用に供する機会が皆無という状況に陥っている。今になって永遠に失われる≠ニいうのは本当だったのね、とほぞをかんでいる。
友人で恋多き俳人高澤晶子さんに次のような俳句がある。
この夏もあやまちだらけ、またあした
[#地付き]晶子
私の作ったシモネッタ流パロディ。
この夏もあやまちもなし、きっとあす
[#地付き]公美子
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通訳付き電話[#「通訳付き電話」はゴシック体]
片手間ではあるがKDDテレサーブの通訳付き電話の仕事もやっている。昔はKDDのオフィスにまで出かけて通訳をしていたのが、今は在宅のまま複数の人を結んで会議もできるようになり、非常に便利になった。
時差の関係で夕刻からの仕事になり、夕食の仕度時という不都合を除けばほとんどが短い電話なので、効率のよい仕事である。ただし、突然子供がぐずりはじめるという環境ではできないので、静かに電話できる部屋があることが最低条件となる。
英語、ファックス、Eメールが普及したこの時代に、一体どんな人がイタリア語通訳付き一分千六百円(英語は千百八十円)の通話を頼むのか不思議な気がしていた。旅行中注文した品物がまだ届かないとかホテルに忘れ物をしたという旅行関係や、ビジネス商談も多く、久しく商談の現場から離れている私には、一方的に話す講演会の通訳より、丁丁発止のコミュニケーションの手助けをする実感が強く、新鮮な気持ちになる。グローバル化で、英語ができなくても輸出入が簡単にできるようになって、かえってニーズがあるのかもしれない。イタリア人も日本人と同じ、自国語となると英語では表現できない微妙なことも、せきを切ったように雄弁になり、まさに話が早い。
つわものというか、一時間以上も話しこむお客様も結構いて、こちらが料金を心配したこともあるが、誤解が氷解し意気投合、今後も長期的に協力していこうと固い約束を交わすのを訳していると、飛行機代を使って出張するのと比べれば、時間もコストもずいぶん節約になっていると気づく。
このところ増加傾向にあるのが、留学中の娘さんの安否を気づかう親からの電話。実は以前、人を介してイタリアに電話をかけてくれと依頼されたことが何度かある。最近いくら電話しても娘が電話口に出ない、下宿先のおばさんは何やらまくしたてているけど、イタリア語なのでちんぷんかんぷん、移転したのなら移転先も聞いてくれというものだった。もらった電話番号に出てきたおばさんは、
「A子はここにはいない、息子の携帯電話の番号を教えるのでそちらにかけてくれ」
と言う。よくよく聞くと、言いにくそうに、
「A子は今、私の息子と同棲していて、ここには住んでいません」
頼まれてもいないのに、息子さんは何の仕事をしているのか、どういう気持ちでつきあっているのかと思わず詰問してしまった。
「息子はまじめな子です。どうかA子を責めないであげて」というメッセージとともにそれを伝える。間にはいった人が、それをまた依頼人に伝えたはずである。間に人が入るほど内容の正確さが落ちていくし、娘さんのプライバシーも他人に伝わる。KDDのこのシステムをご存じであれば直接会話の状況もわかるし、守秘義務のある通訳は決して口外しないので安心だったのにと気の毒に思った。
先回のKDDも同様の電話だった。
下宿先のおばさん、「B子はいつも学校からまっすぐ帰宅し、私たちと夕食をとり、遅くまでずっと勉強しています。今まで一度も外泊などしたことがないのに、何の連絡もなくもう三日も帰宅せず、私たちもとても心配しているのです」
はて事件に巻きこまれたのかと、私も色めきたった。下宿の人に大学の電話番号を聞く。調べるのでまたあとでかけ直して、と言われ、その後も学部が違う、場所が違うと四度目にやっとめざす教務課に通じた。学校行事の三泊旅行中で、今日帰宅予定ということがわかった。ついでに成績もよく、いい生徒であることも聞け、電話口でお母様の安堵のため息が聞こえる。私もほっと一安心。
しかし仕事が終わったあと、猛烈に腹が立ってきた。信頼して遠い国に留学させてくれた親に心配かけるなんてとんでもない親不孝者である。イタリア語を学んでいるのに、なぜ食事を作ってくれる下宿の人にきちんと、どこそこに何日行ってきますと言えないのだろうか。言葉より先に、基本の世間常識を学ぶべきだろう。恋に落ちるのもかまわない、だがお金を使って留学させてくれる親心を思いやって、ひんぱんに連絡だけはとってほしい。
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すさまじい悪戯[#「すさまじい悪戯」はゴシック体]
イタリア人は大人になっても子供のような悪戯をする人種で、仕事仲間の団体旅行などでは、すさまじい悪戯が繰り返される。
ホテルに朝食を予約してドアノブにかけておく用紙などあると大変。朝はコーヒーだけが多いイタリア人の部屋に、突然午前六時に数人分のアメリカンの朝食が届く。友人の悪戯とわかるが、本気で怒ったりしない。「目をこすりながら食べたぞ、誰のしわざだ」とバスで文句を言う程度。磨いてもらうために夜外に出していた靴は隠される。シングルで参加している美人女性がいれば、彼女の名前で部屋番号を書いて「夜十時に待ってるわ」と友人にメモを入れる。定刻、部屋をノックするとボスが顔を出す、などなどよく飽きないと感心する。
大学生の悪戯は最たるもので、高歌放吟の無頼漢の学生気質をゴリアルディアと呼び、社会的にも仕方ないと認知されている。ヨーロッパ最古のボローニャ大学の学生だった友人から抱腹絶倒の悪戯の数々を聞かされた。突如集団で、近郊の世界最小の独立国サンマリノ庁舎に押しかけて占拠、イタリア国旗をかかげ占領を宣言したこともある。学校の前のキオスクの意地悪おじさんへのしかえしに、キオスクの屋根に鎖をかけ市電のフックに結びつけ、発車と同時に屋根を飛ばしたこともある。なかでも最高傑作、新聞種にもなった悪戯を紹介しよう。
ボローニャ近郊のある街に立派な橋が完成、大臣も来訪して渡り初めの式典が行なわれることになった。当時大学に、前首相で当時の公共事業相だったアンドレオッティにそっくりの学生がいた。ちょっと丸めた猫背の姿勢、ふけた親父顔もうり二つ。そこで彼らは総勢五十人で計画を練りあげた。なんと学生の父親や叔父さんたちもこぞって協力したというからすごい。ボローニャ市立歌劇場の衣装係の父親は衣装とメーキャップを担当。立派なダークスーツも仲間の父親たちからかき集めた。
式典前日の夕刻、ボローニャ市役所に電話を入れるところから悪戯はスタートした。「大臣の秘書だが、明日急な会合が入ったので、十時の予定の式典を九時にくり上げてほしい。式典後のパーティは欠席し、すぐローマにとんぼ返りをする」という内容。翌朝九時、ブラスバンドの演奏とともに一行が到着。車は公用車と同じ紺のランチャ・フルビアを知人からかき集めた。全員が正装、政治家らしくメーキャップした。さすが頭のよいボローニャ大学の学生、来訪の一行の名前や役職の情報も得、それらしい態度でふるまった。SP役の学生につきそわれたアンドレオッティのそっくりさんは、市長と地元の名士とともにテープカット、荘厳に渡り初めをして風のごとく去っていった。
一時間後、本物の大臣一行が現地に到着した。橋はすでに通常の車が行き来しているのみで、誰も待っていない。
長い一党独裁時代のキリスト教民主党のイタリア政府は、常に共産党勢力が強く赤い町と呼ばれていたボローニャをけむたく思っている。わざわざローマから記者たちも引き連れてきたというのに、この無礼。怒り狂った一行がパーティ会場に来てみて初めて、すべてがにせ者の学生たちの仕業であることが判明したのである。処分しようにも、扮装していた生徒を特定するのは難しい。詐欺か、公務執行妨害か。罪状は何になるのかも定かではない。下手に処分して学生紛争を起こされるのはまずい、と結局何のおとがめもなかった。加えて、共産党市長のもと市民一同、権威を馬鹿にする気質がある。みんなが笑い、快哉を叫んだ胸のすく悪戯であった。
東大生もせめて学生時代くらい、こんな悪戯に頭を使ってくれれば、彼らが官僚になったとき、日本ももっとユーモアのある国になるのになあ、と私はありえない夢想をしている。
イタリア人に影響を受けた私もまた、おとなげない悪戯を数限りなくしてきた。最大の被害者は息子。二階から呼び、階段をかけあがってくる息子の上にとりこんだばかりの洗濯物を降らせる。一度干したてのふかふかふとんを落としたら、ふとんと一緒に四段くらいを落ちていった。暑い夏の日は学校帰りを待ち伏せ、二階の部屋から大型水鉄砲の洗礼。
「人生油断は禁物。平和時こそ安全確認」と一応教訓を垂れるが、自分が面白がっているだけである。
あるとき、新幹線の窓際の席に三歳の息子、隣に私が座り、見送りに来ていた父親にガラス越しに手を振っていた。息子の顔がひきつった。そばにいたはずの私も父親と一緒に車外から自分に向かって手を振っているのである。彼は泣きながら、ホームに走りでてきた。出発までまだ五分以上あり、車内もほぼ空席なのを見てからかったのである。
アメリカ旅行のときは、「迷子になったら、この紙を近くの人に見せるのよ。ホテルの名前や住所が英語で書いてあるからね」とズボンのポケットに紙を入れる。旅行中息子が何気なくその紙を取り出して見ると、片面には本当に連絡先が英語で書いてあるのだが、裏には日本語で「もう、おとうさん、おかあさんをさがさないでください。アメリカでひとりでりっぱにいきていってね」とある。いつもの冗談と一応笑ったものの、息子は旅行中ずっと私の手をしっかりと握って離さなかった。これは迷子にならない効果満点であった。
その息子も本気で怒ったのが運動会のお弁当。いまは教室で生徒だけで食べるのだが、おにぎりのひとつに丸型アーモンドチョコを入れておいたのだ。突然固いものが歯にさわり、ごはんとチョコがまじり不思議な味になったとき、彼は大声で「わあ!」と叫び、級友と先生が何事かと見守るなか、中身を吐き出した。
「チョコレートだ!!」
帰宅後怒りまくる息子に、「疲れたときは甘いものが欲しくなると思って」と弁解したが、チョコ入りおにぎりはしばらくクラスの語り草になったらしい。
クレヨンしんちゃんの真似をして、おちんちんにゾウサンの絵を描かせてくれと頼んだときは、息子もあきれたのか、新聞を読んでいる父親に向かってため息まじりに「ねえ、パパ、何であんな女の人と結婚したの?」と質問した。すかさず二人のもとにかけよった私、胸を突き出しながら、「このバディがお目当てだったのよー」
Dカップの胸を共有した男二人はただ絶句するほかなかったようだ。
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イタリア女性はきれい好き[#「イタリア女性はきれい好き」はゴシック体]
貧しい国から豊かな国への労働力の移動は、グローバル化した今の世界では、もはや止めることのできない流れになっている。イタリアも、貧しい東欧やアフリカと富める欧州の境界にある国として、いやおうなしに対応を迫られている。通常の労働者のみならず、周辺諸国の危機のたびに大量の難民も漂着する。アルバニア、ボスニア、コソボ、普通の難民だけではなく、犯罪集団もまぎれており、今や刑務所は外国人のための住居のようになっている。
こんな状況下でも、イタリアは外国人労働者に対して非常に寛大である。法律的にも選挙権以外ではイタリア人と同等の権利を付与し、学校でも母国語教育、補助教員など手厚い保護をしている。背景には、カトリックの伝統である弱者への援助の精神、非合法の活動に目くじらを立てないという社会風潮がある。民族差別意識も欧州の中ではきわめて低い。
先日、日伊協会特別講演会で、イタリアの外国人労働者問題に関するセミナーが開かれ、移民労働者が今後も広く社会に浸透する事実が明らかにされた。二〇〇五年ごろには、イタリアの労働者の四人に一人は外国人になるという予測も出されていた。うち半数は女性。日本での外国人女性労働者はホステスやショービジネスなど夜の世界が主たる吸収先だが、イタリアでは家事労働者が圧倒的。今や、お手伝いの二五パーセントはフィリピン女性とか。
欧州先進国の中で、イタリア人女性が家事に振り向ける時間は週四十七時間で、スペインに次いで第二位(最も家事にかける時間が少ないデンマークはわずか二十四時間)。南欧特有のライフスタイルも一因で、昼、夜と料理に手をかけるだけでなく、毎日きちんとテーブルクロスもかけて食事をする。家はいつもぴかぴかに磨きあげてあるし、シャツからパンツに至るまでアイロンもかける。おまけに小学校まで親の送迎を義務付けているので、時間がいくらあっても足りない。そのうえ、男性が伝統的にあまり家事を手伝わないので、どうしてもお手伝いさんの手が必要になる。
実際、イタリア女性のきれい好きには感心する。日本のように台所に鍋やおたまの類が外に出ていることはなく、すべて内部収納。ガス台も毎日掃除し、使用後はふたを閉めて花瓶の花を飾る家もある。日本人にアパートを貸している友人が私に嘆いたことがある。
「日本人は掃除の仕方を知らない。それなのに家に他人が入るのは嫌とお手伝いさんを雇わないので、あっという間にうす汚くなっちゃう。もっと清潔好きな人たちかと思ったのに」
イタリアは家族主義で、老いた両親を施設や病院に入れるには大きな抵抗があるので、介護にも外国人女性がフル活動中である。当日レポートした政府の移民政策顧問をしている女性も、自分の母親は、ソマリア人、フィリピン人、ペルー人の三人のシフトで二十四時間介護をしてもらっているとか。旧スペイン領諸国の人々にとってイタリア語は簡単だし、フィリピン人もすぐに言語習得をするので、コミュニケーションもまったく問題なく、どの人も母親と仲よくやっているという。
高齢化社会が進み、日本政府も遅かれ早かれ外国人労働者にもっと門戸を開くようになることだろう。
その第一歩として、私もフィリピン人のお掃除の人を頼むことにした。日本の家政婦さんとは大違い。ガラスも床も、見えないところもぴっかぴか。フィリピン女性の家事能力がイタリアで高く評価されているのを実際に検証できた。だが、彼女は日本語はまだできないので、英語で指示をしなくてはならない。昔は英語通訳もしていた私は、気軽に考えていた。
ところが、いざ指示を出そうとすると、「ここにあるのは床雑巾。台ぶきん、食器ぶきんは区別してね」「干してある洗濯物をとりこんで、この引き出しに分けて入れて」「風呂の残り湯を洗濯機に入れて」と、いずれもスムースに出てこない。パントマイム状態で、バケツ片手にお風呂場に立っていると、大学卒の彼女はにっこり笑って言った。"Oh, I must transfer the water, here."(その水をここに移動させればよいのですね)
すぐに、簡単な英語で表現してくれた。
まがりなりにも語学にかかわる仕事をしている私がこのありさま。日本人と外国人の意思疎通の道はいまだ遠い。
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臨機応変の裏工作[#「臨機応変の裏工作」はゴシック体]
イタリア人が臨機応変の柔軟性で日々を生きているのは有名で、裏工作で便宜を図ってもらうコネが重要な意味を持ってくる。頭取の名前を出して「日本で通訳したのよ」と言っただけで、その銀行の支店窓口でリラの換金レートに色をつけてもらったときには、冗談で頼んだ私自身も信じられなかったくらいである。
ローマには二人の親友がいる。一人は生粋のローマ女性クララ、もう一人はローマに二十年住んでいるイギリス人女性ドーリン。よく三人でイタリアを旅行した。二人とも独身で、ウーマンリブがかったボーイッシュな女性。ショートヘアでジーンズ、化粧っけはまったくない。毎日入念に化粧をする私に「あんたは、毎日その不気味なものを顔にぬりつけ、夜落とすのにどれだけ時間と金を無駄にしてることか」と説教をする。「これだけの投資で金持ちの男に親切にしてもらえるんだから安いものよ」と私も負けずに言い返す。
中部イタリアのアシジに車で行ったときのこと。免許のない私は後ろでウトウトし、目覚めては「喉かわいた」「お腹すいた」「化粧直ししたい(トイレ)」と要求。非力なので、重い荷物は持てない。「役立たずのくせに手がかかる」といつも通り責められていた。
その日は地図を見てもめざす古い城になかなかたどりつけない。やっと城の見える小道に出たが、一方通行で入り口には交通警官が立っている。ここで引き返すと迷路のような古い街、もうそこへ着けるかどうか定かではない。二人は異口同音に言った。
「クミコ、出番よ」
私は、精一杯媚を売りながら、わざとたどたどしく言った。
「ずっとぐるぐる回ってるのにあのお城に着けないの、日本からわざわざ見にきたのよ。時間もないし、ねー困っちゃう」
若いそのおまわりさん、さっと前後左右を見まわして見ている人がいないのを確認し、その一方通行路を入るよう誘導してくれた。ものの一分もしないうちにめざす城に到着。
かわいらしいお城である。私は見晴し台で街を眼下に見下ろしながら叫んだ。
「ああ、白馬に乗った王子様が私を迎えにきてくれるのよ」
そばにいた男性がすかさず「お嬢様、私は百馬力の青い車に乗っています。あなたのためならそれをすぐ白に塗りかえましょう」。一人旅のその男性は、ガイドブックに載っているレストランで一人ぼっちのランチは哀しいのでぜひご一緒に、と誘ってくれ、お言葉に甘えて三人でごちそうになった。
「イタリアでの化粧の威力を見た?」
意気揚々の私であった。
この手で、修復中のミラノのスフォルツェスコ城を特別に開けてもらい、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」を説明付きで見せてもらったこともある。
ローマではいつもクララのスペイン広場近くのアパートに泊めてもらい、帰国前日のみ空港のすぐそばに住んでいる別の家族の家に泊めてもらっていた。ローマの歴史地区には居住証明書付きの車とタクシーしか乗り入れることはできないのだが、その日ご主人が監視の目をくぐり抜け、クララのアパートに迎えに来てくれた。私のトランクを持ち、駐車場に歩いて行く途中、彼が立ち止まった。
「まずい」
折りしも警官が駐車場でフロントグラスに証明書が貼られていない彼の車に違反切符を貼っているところであった。罰金は一万円余り。イタリアでは大金である。しばし考えていた彼は私に言った。
「お前は何も言わず、警官をせいいっぱい愛らしくじっと見つめるんだ、いいな」
警官の前に立った彼は、今にも泣き出しそうな演技で言った。
「すみません、お恥ずかしい話なのですが、彼女と今から旅行に出かけるところなんです。女房には仕事で地方に出張と言ってあるのに、ローマ市内の駐車違反の切符が家に郵送されるとどんなことになるか、あなたも男ならわかってもらえるでしょう。お慈悲ですからお目こぼしを」
私も笑いをこらえて必死の哀願のまなざし。警官はウィンクすると、違反切符を目の前で破り捨ててくれ、「よいご旅行を」とまで言ってくれたのである。
女のみならず、男性にまでこの人間味あふれる行為。イタリアはこれだから楽しい。
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二人のデザイナーの思い出[#「二人のデザイナーの思い出」はゴシック体]
一九九九年はニコラ・トラサルディ氏、ルチアーノ・ソプラーニ氏というデザイン界の重鎮が二人も亡くなって大きなショックを受けた。
スピード狂だったトラサルディ氏は、仕事帰りの深夜、高速道路上の事故で急死した。類まれなビジネスセンスを持ち、父親から受け継いだベルガモの小さな手袋工場を、世界ブランドに育てあげた。豪快でエレガントな彼は、美人の妻、三人の子、富と名声、欲しいものをすべて手に入れ、男としての人生をさっそうと駆けぬけた感がある。
一方のソプラーニ氏は巨体に似合わぬ繊細な神経の持ち主。豊かな才能に恵まれながら、損得勘定、商才とは無縁で、クリエーターとして生きた人である。初めて彼の仕事をした直後、丁寧な手書きの礼状が届いた。それ以降、来日のたびに洋服やバッグのプレゼントを持ってきてくれた。通訳にここまで心配りをしてくれる人は珍しく、嬉しかったものだ。スタッフや周囲の人に常に気をつかっていたので、癌で亡くなったのもストレスが原因ではなかったかと心が痛む。
コレクション発表三日前から、食事も喉を通らず夜も眠れなくなると言っていた。日本でオンワード樫山デザイン大賞の審査員講評を舞台で発表したときも、徹夜で書いた原稿を読む声も手もふるえていた。しかし、未来ある若者を真剣に激励する温かい講評で、選にもれた若者もみな感動していた。歓迎パーティでショップの店員さんたちに花束を贈られると涙ぐみ、デザインスタッフの日本人女性にも全員サイン入りのデザイン画を描いてプレゼントする、本当に心優しい人であった。
子供のころから洋服の絵ばかり描いていて、母親に「そんな女みたいな遊びをして」と怒られていたソプラーニ氏は、安定を願う母親の意向で農業高校を卒業後、地方の農業試験場に勤めていた。
二十代前半のある日、彼は地方新聞で、すぐ近くのホテルでマックスマーラの大きなパーティが開催されることを知った。彼はパーティの会場に乗りこみ、社長に描きためたデザイン画を見せて「御社のデザイナーとして働きたい」と直訴した。彼の経歴と現在の仕事を聞いた社長と役員は嘲笑し、パーティの余興の一つくらいの気持ちでホテルの便箋を束で渡し、ここでデザインを描いてみるよう命じた。三十分後、頭を抱えている彼を想像して隣の小部屋に入った一行は、信じられないものを眼にした。彼は六十数枚の紙すべてに、躍動感あふれる現代的洋服をデザインし、手持ち無沙汰に座っていたのだ。社長は「明日から、うちに働きに来てくれ」と依頼。勘当を宣言する母親を尻目に、栄光のデザイナーの道を歩み始めることになったのである。繊細なソプラーニ氏が生涯でただ一度、勇気をふりしぼった暴挙に出たおかげであった。
自身ではデザイン画ひとつ描けないデザイナーも多い中で、彼はレストランの紙ナプキンの上にもデザインを描いていた。華やかな舞台挨拶よりも自分の洋服のサンプルチェックを愛し、「何時間やっても疲れないよ」と楽しそうであった。彼がちょっと手直しするだけで、すべてが見違えるほどセンスアップしていた。
離婚した妻とも息子とも軋轢《あつれき》が絶えなかったソプラーニ氏が最後まで愛したのが、一人で自分を育ててくれた母親だった。仲直りした後は、母親も彼の仕事を誇りに思い、お互いにいたわりあいながら、親友のような親子関係を築いていた。私が中学に入って口をきかなくなった息子の態度をぐちったとき、
「クミコ、絶対効き目のあるマジックを教えるよ。世のお母さんたちは息子に質問しすぎるんだ。今日は何をしたの、何考えてるの、宿題は? とかね。今日から、自分からは何も聞かないようにしてごらん」
その日から息子に「どこに行くの、いつ帰るの」など一切聞かないで、にこにこ迎えるだけにした。一年間のつっぱったような無言生活から、息子が自分から友人のことなどを話すようになるのに、さして時間はかからなかった。進学校に通っている息子がミュージシャンになりたいと言い始め、「やめなさい」と口に出かかるのを、ソプラーニ氏の笑顔を思い出して我慢している。
ソプラーニ氏も今は、大好きなお母さんに天国でまた甘えているのだろう。
(挿絵省略)
ソプラーニ氏が私に捧げてくれたデザイン画
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愛が最優先[#「愛が最優先」はゴシック体]
イタリア人は男女の機微に通じており、不倫であれ何であれ人を愛することにかけては寛大な国民性を持っている。政治家の女性スキャンダルが記事になることもほとんどない。知りあいの美人女優は夕食の席で「ベッティーノってベッドで歌ったりして本当にかわいいの」と時の首相のことを平気で語り、聞いてる人も聞き流すという大人の関係が存在していた。その愛は最優先≠ニいう不文律をこわすと、どうなるか……。
かなり昔になるが、ミラノから日帰りで七百キロ南のナポリに出張し、ローマからジョインした一行を当地の会社に案内し、商談の手助けをしたことがある。私はローマに列車で帰る日本人一行を駅で見送り、五時四十分にはナポリ空港に行き、ローマ経由でミラノへ空路帰る手はずになっていた。ところが乗るはずの六時発ローマ行きのフライトは前の空港で故障。八時過ぎでないと到着しないという。それに運よく乗れたとしても、最終のローマ−ミラノは超満員で席がない。翌朝は日本からその夜到着する別の一行との仕事があり、どうしてもその日のうちにミラノに着かなくてはならない。列車でローマに行くにも、空港−駅の往復を計算すると無理。青くなって立ち尽くしていると、ちょうど同じローマ便に乗れなかった一人がローマ空港乗り捨ての条件でレンタカーを借りているのを見かけた。勇気をふるい、交渉した。
「申し訳ありません。レンタカー代を折半という条件で乗せてもらえないでしょうか」
彼はまだ二十代だった私を一瞥《いちべつ》し、にっこり微笑み快諾してくれた。
「お金なんていりませんよ。話し相手ができて嬉しいです」
さて、車に乗りこもうとしているちょうどそのとき、やはり意を決した態で、若い男性が近づいてきて、自分もその日のうちにローマからヴェニス行きの飛行機に乗らないといけないのでぜひ同行させてくれという。二人きりだとちょっと不安なドライブに地獄に仏、私は内心ほっとした。こうして私が助手席、若い男性が後ろに乗り、降り出した豪雨の中、高速道路を一路ローマ空港へ向かうことになった。
くだんの紳士は雨の中、大型トラックもどんどん追い越し、レンタカーのアルファロメオを時速二百キロ以上のスピードで走らせる。フィアット関連のコンテナ会社の重役で、なんと彼も今日ミラノからレンタカーで途中商談をすませながらナポリへ到着し、同じくローマから家族の待つ南の端のレッジョ・カラブリア行きのフライトに乗るという。「日本がコンテナのダンピングをするので仕事がやりにくくてたまらない」と私にぐちったあと、ほこ先を後ろの男性に向けた。彼は北部イタリアの出身で、南部開発公社に勤めている。南部出身の運転者は「あんたたち北部の連中は、自然豊かな南部を税金を使いながら食い物にしてるんだ」。まさに一触即発。
ただ安全にローマに着きたい私は、話題をあたりさわりのないものに変えようと苦心するのだが、運転者のご機嫌は悪くなるばかり。そのうち、ふんまんやるかたないように、核心を突く質問をぶちまけた。
「あのなあ、君、若い異国の女の子と二人で今から心はずむドライブをしようとしている男性に、よく一緒に乗せてくれなんて厚かましい依頼ができるなあ。俺にとっては人生にそうはないラッキーな瞬間だったんだぞ。まったく君の見識を疑うよ。百人のイタリア人に同じ状況で同じ頼みごとをしてみて、一体何人がイエスと言うと思うんだ?」
そうか、先ほどからの彼の不機嫌はここに由来していたのだ。しばし重い沈黙が支配し、後ろの男性はおずおずと答えた。
「イエスと言うのは二人です、あなたとそして私」
これには笑った。三人とも和解の印にしばし笑いころげたあと、車は一時間半の旅を終え、ローマ空港に無事横付けになった。それぞれがミラノ、ヴェニス、レッジョ・カラブリアのフライトのチェックインに走る。そして、結局レンタカー代を一人で負担し、雨の中ひたすら運転した紳士の乗るカラブリア行きのみが目的地天候不順のため欠航≠ニいう表示。カウンターの前でくずおれる彼にかける言葉も見つからず、むなしい感謝の言葉を繰り返しながら私たち二人は早々にその場を後にし、めざすフライトの機上の人となった。
「結局、僕たち南部の人を食い物にしちゃったね」
ヴェニスに向かう彼も後味が悪そうに、私に別れの挨拶をした。家族思いでタフなあの南部イタリア人はきっとまたレンタカーを借り出して、来た道をさらに五百キロ南下し、家族のもとにたどりついたに違いないと私は信じている。
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ヴェネト通り協会名誉会員[#「ヴェネト通り協会名誉会員」はゴシック体]
通訳という仕事は、何年やってもタイトルをもらえるわけではない。だいたい資格自体存在しておらず、旧運輸省の通訳案内業試験は旅行ガイド向けなので、トップクラスの人は全員無免許カリスマ通訳≠ニいうことになるのか。その私が唯一持っているタイトルが「ヴェネト通り協会名誉会員」という不思議かつ不名誉≠ネものなのである。
一九九八年六月、イタリアへの旅仕度をしているとき、ローマの親友クララから電話が入った。
「十四日の日曜日、あなたを名誉会員に選んだヴェネト通りで、テレビも入る表彰式があるの。その予定で来てね」
その後、協会長から式への招待状も届いた。私は狐につままれたような気分で、久しぶりのローマへと飛び立った。
日曜日十時に、通りに面したビルにある協会本部に出向き、クララの友人という事務局長と会長に会う。恒例の芸術祭を通りで開催中で、交通を遮断したヴェネト通りいっぱいに、画家たちが自分の作品を展示し即売もしている。コンペに出す大作には番号が振られ、一般人気投票で一位の作品は協会お買上げとなるという。この催しには私も賛同した。無名の画家にとって自分の作品を展示するよい機会になるし、市民も敷居の高い画廊に出向かず、好みの絵を直接交渉で安く手に入れられる。
「クララからあなたがイタリアの要人の通訳をなさって、日伊交流に努めていらっしゃるとうかがいました。ぜひ今後はわが協会の求める草の根文化交流のシンボルとなっていただきたい」
うまい話には落とし穴、私は必死で逃げる。向こうも今日十八時からの表彰式の主賓がいなくなっては困ると食い下がる。覚書を仔細に読むが、何の義務も派生しそうにない。認証も箱だけ大きく立派なものに入ったプラスティックのカードのみ。まあいいか、クララの友人の顔も立てなくてはと了承した。
「二〇〇一年は日本におけるイタリア年ですから、外務省にご相談なさったら何かイベントが組めるかもしれませんね。でも、私はあくまで一介の通訳ですし、イベント企画とか、特に資金集めなんかは絶対お断りですからね」
と釘を刺す。事務所には今まで彼らが買い上げた大きな絵が壁いっぱいにかけられている。眺めていると、「お好きな絵を記念に一枚差し上げますよ。選んでください」と言われた。はて、困った。わが家の壁にはこんな絵をかけるスペースなどあいていない。固辞したが強く勧められ、好きな作品を指定した。
私とクララは一度家に戻ってお昼を食べ、十八時に再び式の会場である有名なカフェ・ド・パリに行く。来賓の上院議員、州議員らと二階の客席に座り、テレビ・カメラやカメラマンの前で認証のカードをもらうポーズをとったあとは、えんえん会長が議員に彼らの活動の意義を訴える。どうやら補助金をお願いしているらしい。そのうち「名誉会員のマダム田丸は、二〇〇一年イタリア年のコーディネートをしているVIPで」と言い始めた。青くなって割って入った。
「とんでもない、私はただの通訳で、何の権限も資格もありません」
会長は私の抗議を無視し、また彼らにもみ手の営業トークである。式典とは名ばかりのおざなりの会が終わったあと、私は会長や広報役員に宣言した。
「地位詐称ほど卑しい行為はありません。私のことを針小棒大に言うのなら今すぐやめます」
「二度といたしません」という彼らの言質《げんち》をとり、後味の悪い式は終わった。式の後も食事どころかシャンペン一杯出るわけでもなく、水のみ。私は自費でローマに来て一日棒に振り、朝夕二度駐車料金を払い、彼らに利用されたということになる。クララに聞く。
「事務局長とはどういう知り合いなの」
「時々バールで会う人というだけなんだけれど」
イタリア映画全盛のその昔『甘い生活』の舞台になり、有名人を追いかけるパパラッチ発祥の地であったヴェネト通りで展開された、まさにローマ的いきあたりばったりの三文オペラであった。彼らがすぐ送ると言った写真とビデオは七カ月後、船便で届いた。国営テレビのローマ版ニュースに、このいいかげんな式典がちゃんと報道されているのには驚いた。しかし同封の名誉会員の名刺の私の名のスペルはまちがっており、もちろん約束の絵が届くこともなかった。それが唯一ありがたかったことである。
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ガイドのタブー[#「ガイドのタブー」はゴシック体]
二〇〇〇年四月、ヴィッツの売上げが好調なトヨタがイタリア人ディーラーを四百人ほど招待し、バス十一台で日本観光をした。円高以来、団体旅行も減っているので、イタリア語ガイドを十一人集めるのが一苦労だったらしい。三人以上集まれば収拾がつかなくなるイタリア人が総勢四百人! 想像するだに恐ろしい。
イタリア人は団体行動≠ノ最も適さない人種で、ガイドの旗の後ろに列を作ってついていく日本人とは大違い、決して団体の一員と悟られないよう、わざと前後左右に散らばり、集団で動くのを極力避けようとするのである。そのため迷子になるメンバーも多く、走りまわって探す脚力も必要になる。若いうちでないとできない肉体労働である。
ガイドの仕事をするとき、絶対やってはいけないと口をすっぱくして注意されたのが、乗り遅れである。最も重大なのは飛行機ミス、そしてトレイン(列車)ミス。身の毛もよだつ体験を、先輩が怪談よろしく聞かせてくれた。
外国人観光客が日本に団体で大挙して押し寄せてくるようになったのは、六〇年代末から万博にかけてだが、とりわけアメリカ人が、退職後年金ファンドを使って来日するケースが多かった。いきおい純朴なお年寄りが多くなる。
バス二台分のそんな団体を連れて伊勢神宮を見た後、悪夢は起こった。京都行きの列車に乗り遅れそうになり、駅前でバスを下りた団体客たちを全速力で走らせた際、一人の老人が心臓麻痺で急死してしまったのである。それからが大騒ぎ、米領事館と交渉し、老人を荼毘《だび》にふすことになった。ところが残された妻は、遺骨を持って一人帰国するよりも、もう二度と来ることもない日本旅行を続けたいと強く希望なさったのである。西洋風というべきか、死ねば物体、奥様は遺骨を完全に荷物扱い、お骨《こつ》になったご主人と楽しく旅行を続けられたそうである。九州、別府、北海道と飛行場のターンテーブルに骨箱が出てくるたびに、ガイドは合掌し、乗物の時間に余裕を持たせることを肝に銘じたらしい。
それにしても、のどかな時代の話である。今なら日本の旅行会社は訴えられ、賠償金をがっぽりとられたことであろう。その悪夢がやがて自分の身にふりかかる日がやってきた。
少し仕事にも慣れた年のお盆のシーズンに、バス二台のツアーガイドをした。到着前の旅行社での打ち合わせ。八月十五日、東京−鎌倉大仏見学−箱根芦ノ湖畔で昼食−小田原−こだまで京都入りのコースである。ところがお盆で交通事情は最悪なことがわかっているはずなのに、通常のコースと時間で設定してある。箱根をカットするか、昼はせめてバス内サンドイッチにしてほしいと友人のガイドと必死で懇願した。しかし担当の男性は、このままで大丈夫とゆずらない。勝手に手配変更し、出発を一時間繰りあげたものの、案の定、鎌倉から箱根までの道路はのろのろ運転。途中ホテルに電話して昼のコースすべてを冷えてもいいのでテーブルに並べてくれるよう頼む。ホテルでの昼食時間は十五分、まさにかきこむという形でまたバスに乗り、小田原駅をめざす。
夕刻のこだまの時間がせまる。何とか間にあうというとき、駅前の渋滞に巻きこまれた。バスは動かない。駅まで徒歩五分。相談し、方向感覚がよく足の速い友人が新幹線を止めて待とうということになった。昔リレーの選手だった彼女は脱兎のごとく駅に走り始めた。彼女の重い革鞄を私が持ち、全員をバスから降ろし、小走りで駅に急ぐ。約五十名のイタリア人が荷物を持って駅に走る姿はさぞ異様だっただろう。
さて、彼女は無事こだまを七分も止めるという暴挙に成功してくれた。次々に乗客がとびのるので出発ができないせいもある。お盆で列車も超満員、全員席はばらばらである。彼女が最後尾から私が先頭から人数を数えていく。こんなときありがたいのは、外国人と一目でわかることである。真ん中で出合って、お互いの数を確認した私たちは青くなった。一人足りないのである。列車の無線で、一人のおじいさんがホームで途方にくれていると確認した。ともかく次のこだまに乗せてもらうことにして、京都駅で私が迎え、平身低頭あやまった。
ツアー終了後の精算で、悪の張本人の担当社員にその件を報告すると、彼は長嘆息し、こうつぶやいた。
「ちきしょう、これで俺の昇進の道は閉ざされた」
銃を持っていたら、私たちは彼を撃ち殺していたかもしれない。
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イタリアン・ファミリー[#「イタリアン・ファミリー」はゴシック体]
イタリアでも自殺者は急増しつつあるとはいえ、まだ年間四千人の大台に乗ったばかり。日本の三万五千人には大きく及ばない。日曜日の定期面会日に父親だけと過ごしている子供が増えたというので、離婚件数は日本より多いのかと思っていたが、こちらも九七年度千組あたり別居四・一組、離婚二・三組と、十二組の日本よりはるかに少ない。これは何より二千年にわたってイタリア人の生活に密着してきたキリスト教の教えによるものであろう。自殺も神への冒涜《ぼうとく》と教えこまれており、教会での葬式ミサも拒否されていた。死後、神の国に入れないとなると死ぬのも躊躇《ちゆうちよ》するのだろう。
ラテラン条約でヴァチカンとイタリア政府の間での政教分離が定められたのは一九二九年。国民投票でやっと離婚が認められたのは一九七五年。教会は今も結婚は永遠の契りというスタンスを守っているものの、現在は定められた別居期間を経過すると、比較的簡単に離婚できるようになった。その昔は離婚できるのは、夫婦生活が成就しなかったという理由だけだった。
おきまりで若い子と恋仲になった知りあいの大社長は、子供を二人もなした糟糠の妻を、教会に多額の寄付でもしたのか、この理由で離婚してしまった。二人の子は聖母マリアが生んだのだろうか。
最近、日本人のバツイチの友人が初婚のイタリア人男性と結婚した。結婚は市役所であげるものと、教会であげる正規のものと二種類あるが、旧家の相手の都合や子供の洗礼のことも考え、教会での挙式を決めた。
さあ、それからが大変。彼女は前のご主人の前妻の再婚に異議をさしはさみません≠ニいう英文のレターをDHLでとりよせ、それを持って宗教破棄院という裁判所のようなところに単身出向くことになった。三人の司祭に囲まれ、たったひとり、イタリア語で十五の質問に答え、やっと新しい結婚が認められた。
質問の内容は、前の結婚が破れた理由、子供の有無、子供は作らなかったのか、できなかったのか、微に入り細をうがって、プライバシーにどんどん踏みこんでくるものだったとか。
「前の旦那も再婚していて、いい関係にあったから宣誓書も快諾してくれたけど、これが消息不明だったりしたらどうなっていたのかしら」
先進国とはいえ、まだまだ古い因習は根強く残っているのには驚かされる。
しかし宗教観に根付いた家族意識の強さは、イタリア・ファミリー企業の底力として威力を発揮しているし、毎日曜日、マンマの料理を食べに家族が一堂に会するという習慣も根強く残っている。結婚後の親との同居こそ少ないものの、親の病気の際は一致団結、病院や施設ではなく、住みなれた家で介護しようとする。自分のベッドで地区の司祭により終油の秘蹟を受けて死ぬことが、人生の大事な幕引きなのだ。
昨年ファンファーニ元首相が亡くなった日のイタリアのテレビニュースを見ていると、「まだ息があるうちに、病院から自宅に連れ帰ったので、氏は自宅で亡くなったことになります」と、キャスターが報告していた。大切なディテールなのだと印象に残った。
著名なデザイナー、ミケーレ・デ・ルッキ氏の父上が昨年暮れ、八十代で亡くなった。八人の男子をなした父上は晩年は癌もあり寝たきりだったのだが、パドヴァの自分のベッドで一年以上の闘病生活を送った。自分の子にみとられたい、との強い意志で、嫁ではなく八人の働き盛りの男性がイタリア各地から二カ月に一週間ずつ交代の泊まりこみで介護を行なった。
デ・ルッキ氏は自分の番ではないとき、講演のため来日し、あわただしく帰国した。疲労|困憊《こんぱい》の様子だったが、わがままとも思える父親の希望を当然のこととして、八人の男性が仕事をやりくりしながら淡々とこなす様子に、まさにキリスト教精神に基づいた愛とパワーを見た気がした。
キリスト教の総本山ヴァチカンは昨年大聖年を祝った。二十五年に一度開かれる聖なる扉をくぐるとすべての罪が許されるらしいし、教皇ヨハネ・パウロ二世の祝福のお札も販売され、二億人以上の外国人がイタリアを訪れたようだ。上京したまま帰郷の機会も減り、ろくな親孝行もしていない私も、門をくぐることができた。免罪符を手に入れられたことになるのだろうか。
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ガイド時代の日本考察[#「ガイド時代の日本考察」はゴシック体]
通訳には資格試験のようなものはなく、自己申告制。外国語と日本語さえわかれば理論的には今すぐにでも通訳業を始められることになる。唯一の国家試験は旧運輸省認定通訳案内業免許で、こちらは外国人に対する観光案内が対象となっている。
各国語で実施される試験は三次まであり、一次は当該外国語の筆記、二次は会話、三次は日本の歴史、地理、小論文となっている。合格率も一桁とかなり狭き門であるわりには、社会的認知度は高くない。ディスカウント合戦が盛んで、円高の逆風も吹く旅行業界での、ガイド報酬の低さもその一因であろうが、日本に対する全体的な印象を大きく左右する存在であるガイドに、どんどん魅力的な人材が入っていけるような条件整備をぜひ実行してほしいものである。
大阪万博を契機に日本観光がブームになった七〇年代は、業界も活気に満ちていた。日本紹介の設備も整っており、東京ではSKDのレビュー、おいらんショー付きすきやきディナー、日本住宅での茶の湯参加、京都には祇園コーナーでの舞妓ショー、空手道場での演舞さむらいショーと盛りだくさんであったが、今は残っているものも少ない。団体旅行の激減で立ちゆかなくなったのであろう。
さむらいショーはきちんとまげを結い、古武士の風貌を持つジョー岡田氏の主催実演で大人気を博したもので、特別に借りた夜の安土桃山城という絶好のロケーションと、彼のたくみな英語の説明で、とても楽しめた。居合抜きの後、観光客の一人を舞台に上げ、お腹の上のすいかを日本刀で切るというウイリアム・テルもどきのショーもあり、一度は女性のお腹から少し出血するという失態をやらかしたのもご愛嬌。日本もどんどんアメリカナイズされ、京都も高層化とともによそよそしい都会のひとつになりつつあるのが何とも残念である。
ガイドの体験中、自国について、まさに目からうろこの有意義な考察を深めたことが多々ある。春日大社に並ぶ二千もの石灯籠を見て、なぜ灯籠の開口部に和紙が貼ってあるのかと尋ねられた。日本人にとっては当たり前の光景で、理由など考えたこともなかった。だがガイドにとって知らない、わからないはタブー。考えると当たり前の理由が見つかった。
「中に立ててあるろうそくの火が風で消えないようにするためと、明かりの反射を和紙で美しく見せるためです」といって納得してもらった。
「どうして日本の庭には噴水がないの?」
「日本の庭は、自然を模すものであり、水は必ず高きから低きにしか流れないので噴水は作りません」
「イタリアの町はどこでも中心に広場があるのに、どうして日本にはないの?」
「日本では由《よ》らしむべし知らしむべからず≠ニいう言葉があるように、国民に政治の実態は知らせないのが原則です。広場に人々が集結すると情報交換、為政者批判、反乱謀議の原因になりかねません。広場のかわりに日本人は各家の庭を眺めて自己を瞑想する方向を深めたのです」
何とか答えらしいものを自分なりに編みだせた。
一番困ったのは、帯についての質問。
「なぜ猫背にも見える非機能的なものを背中にはりつけているの? 何の意味があるの?」
「帯の形が未婚か既婚か、年齢は、かたぎかプロかなど、いろいろな情報のソースになっているのです」
とまでは答えられたが、その理由が思い当たらない。しばらくして納得してもらえそうな答えを思いついた。
「封建時代、女性は男性の従属物でした。みなさんが贈り物をなさるとき、高価なものには豪華なリボンを、質素なものにはシンプルなリボンをつけるでしょう。それと同じで、舞妓やおいらんは最も価値のある男性へのプレゼントという意味で、華やかな形にします。結婚すると価値が減りお太鼓型に、年寄りは最もシンプルな貝の口になるのはそのためです」
うーむ、われながらなかなか含蓄の深いでっちあげではないか。
ガイドをして学んだことは多いが、自分たちにとって当たり前のことに理由付けを見出そうとして、にわか哲学者になれたことも人生で大いに役立った。
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通訳=売春婦論・イタリア版[#「通訳=売春婦論・イタリア版」はゴシック体]
ロシア語通訳者米原万里さんの著書『不実な美女か貞淑な醜女《ブス》か』に、通訳=売春婦論≠ニいう部分があり、そこに先輩男性通訳者の言葉が紹介されている。
「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時はどうしても要る。下手でも顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用が済んだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ。だから、売春婦に倣《なら》って、通訳料金は前払いにしておいたほうが無難だよ。少なくとも、値段は事前に決めておくべきだね」
私の場合ありがたいことに、ギャラは前もってお客様のほうからおそるおそるではあるものの、確認していただいている。
その後、米原嬢、サービスを提供する相手がしょっちゅう変わるというもう一つの共通項を導きだしているのだが、私もミラノの中心部を歩いていると、必ずといってよいほど通訳をした人に出会い、
「クミコ、なんでミラノにいるんだ。こんなところで会えるなんて嬉しいよ」
とイタリア風挨拶の両頬キッスを受ける羽目になる。
それが続けざまに二度も重なった折りは、一緒に歩いていた主人が「まるで高級娼婦だな」と一人ごちていた。高級という言葉を付けたしたのは、そこがモンテナポレオーネ通りであり、会った人がいずれもブランドの社長級だったからで、私自身が叶姉妹のごとくゴージャスであったからでは当然ない。
ほとんどの通訳はフリーランス。派遣エージェントは通訳にとって置屋と同じ位置付けになるが、われわれの場合その置屋も毎回のようにくるくる変わる。その点では、売春婦より身持ち≠ェ悪いのかもしれない。口コミ、知人の紹介などで会社から直接通訳を依頼されるケースもある。会議などの仕事をとる営業は置屋まかせ。
飛びこみで「通訳いりませんか」とまわれる職種ではないものの、銀座のホステスさんのようなお客様へのつけ届けも不要と、気分的には楽な商売かもしれない。
その昔の遊郭では裏を返すは男のたしなみ、なじみ作るは女の器量≠ニか言われ、一度寝た女はもう一度指名して、せめて二回は寝てあげるのが男の礼儀とされていた。三回目からはなじみ客≠フ扱いとなるのだが、新規開拓の好きな男性陣に三回目もぜひあの子と、と思ってもらえるかどうかは、ひとえに女の腕の見せどころとなる。
しかし残念なことに、通訳の場合、初回で満足してもらえないと、決して二度目のお声はかからない。はっきり「前回とは違うもっとできる人を」と無情にも指定されてしまうのである。それゆえ、遊女同様、なじみ客の多さは通訳の技量の証《あかし》にもなるのである。
私もこの道ウン十年、ずいぶん多くのおなじみのお客様にご愛顧いただいている。不況にもかかわらず年功序列か、安くはない私の通訳料金を負担いただいているおなじみさんに、なにかご恩返しを、とあるとき思いついた。日時を予約なさるいつもの部長に、私はこう切り出した。
「いつもお世話になっております。ただいま、期間限定特別サービスを実施しておりまして、通訳コスプレ付きでございます。キャリアウーマンスーツ、リクルートスーツ、着物、ミニスカート、制服ルーズソックス、ランパブ風衣装などお好きな衣装でうかがいますが」
部長しばし絶句、熟考の後、おごそかにかつ、きっぱりと注文を出された。
「イランのチャドルで来てよ。顔以外すっぽり隠すやつね。本当は口だけ出しててもらえば充分なんだけど、眼までは出してもらっていいから」
けなげに考え出した顧客サービスだったが、お客様が私に期待なさっているものはリップサービス≠フみであることを、無残にも認識させられたのである。
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ナポリを見て死ね[#「ナポリを見て死ね」はゴシック体]
ナポリを見て死ね≠ニいう言葉に表されている通り、アマルフィ、カプリ、ソレント、ポジターノ周辺の美しさは極楽浄土とはこういうものではと思うほど比類のないものである。
初老のアメリカ人実業家がナポリの絶景を前にして「ああ、何という美しさ、艱難《かんなん》辛苦働いて成功し、やっと夢をかなえられた。俺はなんて幸運なんだ」と幸せにひたっていると、彼の足元の海岸に寝そべっていたナポリのおやじが「俺はここで生まれて、ほとんど働かないで毎日この景色を見てるんだ、俺のほうがはるかに運がいいやね」と答えたという小話がある。実際ナポリの人の楽に楽しく生きる″ヒ覚には脱帽する。支配者が次々と代わったという歴史的経緯の中で培われた要領のよさには、日本人など逆立ちをしても勝てない。そしてその能力は子供のときからいかんなく発揮されるのである。
知人の体験談をご紹介しよう。
「ナポリの広場で子供がサッカーに興じていた。歩いていた僕の足元にボールが転がってきた。子供が走りよってきて拾い、僕を見上げてこう言うんだ。
『おじさん、すごくかっこいいズボンはいてるね』
『そうかい、ありがとう』
『ところで友達と映画に行くお金が二千リラほど足りないんだけど、もらえないかな』」
かわいい笑顔で頼まれ、大した金額でもないし渡してやったが、あとで聞くと金持ちそうな観光客が来るとそばにボールを転がして、何かほめて気分をよくしてからお金をねだるのを常套手段にしているらしい。
人の気分をよくすることに関しては素晴らしい能力を持っており、みんなほめ上手。歩いていてもすれ違いざま、「きれいだね」「よっ、いい女」など耳もとで言ってくれる。甘い恋のナポリ民謡、窓の下のセレナーデ、ロマンティックな演出のうまさにも舌を巻く。
その才能ゆえか、出世官僚を最も多く輩出しているのもナポリだという。
ある大手アパレルメーカー社長A氏の最近の経験もいかにもナポリらしい。下町にオープンしたそのブランドのブティックのオープニングパーティに招待された。フランチャイズなので地元のオーナーの経営なのだが、パーティの挨拶でこの店は本社の直営店だと言ってくれと懇願された。地元の人がオーナーだと必ずカモッラ(ナポリのマフィアグループ)から毎月の上納金みかじめ料≠要求される。自分は雇われて支配人をやっていると言えば、諦めるからだという。
同じA氏が、ナポリ有数のレストランで食事をした。食後のコーヒーをオーダーすると、「うちではコーヒーはお出ししておりません。前のバールでお飲みください」と言われた。コーヒーとピザがおいしいので有名なナポリなのに、なぜコーヒーを出さないのかとオーナーに問いただすと、「コーヒーを出すと、必ずタバコを吸い始め、長いおしゃべりが始まってしまいます。なじみ客にはただで出すのが習慣になっている食後酒リモンチェッロも要求されます。コーヒーがないとなると、ほとんどの客はすぐに前のバールに移動してくれます。客の回転がよくなり、リモンチェッロの経費も浮くのです」と種あかしをしてくれたとか。
密売人が最も多いのもナポリ。どんなものでも地下経済で手に入る。タバコの密売人たちが、取り締まりが厳しくなって生きていけないと、びっくりするほどの大人数で街頭デモを実施したのもこの街である。カモッラのボスを逮捕した警察署に「今のボスが要求する上納金の金額は妥当である。彼の後釜がどんな金額を要求するか不安だ。即時彼を釈放してくれ」と、これも多くの経営者が嘆願書を持って陳情に訪れたというのも信じられないような本当の話だ。
かくしてナポリの民は、どんなに過酷に見える現実にも、タフにかつフレキシブルに、日々楽しく生きている。もしも自殺を考えている人がいるとしたら、ナポリを見てからにしてほしい。きっと死ぬのがばからしくなるはずだ。
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イタリア流人生の楽しみ方[#「イタリア流人生の楽しみ方」はゴシック体]
イタリアの地下経済は表に出ている実質経済指標の半分くらいとまで言う人がいるが、事実そうでもなければ失業率一〇パーセント以上で、あのようなゆとりのある生活ができるはずはない。
二千年以上の歴史の中で、さまざまの異民族の侵攻を受け、為政者もしょっちゅう代わったイタリアに住む民は海千山千のしたたかさを身につけている。「打たれ強い民族」「逆境にこそ底力を発揮する民」とでもいうのか、政府の決めたことには、必ずいたちごっこのような抜け穴を考え出し、自主独立、お国≠ノは頼らない生き方を貫いている。
九〇年代のバブル崩壊の時期、日本人が一億総自信喪失になっているとき、来日したイタリア人ビジネスマンはみんなあきれて言ったものだ。
「失業率も金利もひとけたの国で一体なんでこんなに大騒ぎをしているんだ。俺たちは重税に金利二〇パーセントという信じられない逆境でも何とかやってきたんだ。日本人はまだまだ青いなあ」
EU加盟の条件を期日内に満たすために全国民から特別ユーロ税を徴収(加盟後返金制)したが、数年前の経済実務家アマート内閣の際は、財政赤字削減のためあらゆる貯金残高の〇・〇六パーセントが国に自動的に徴収されたこともある。もちろん、そんな国の動きを知った国民はさっさと預金を引き出して隠してしまうのは必至。国もばかではない。国会で実施が決まったときから六カ月前に遡《さかのぼ》った日の残高とした。こうなると逃げ隠れできない。とりわけ顧客からの預かり金の多かった弁護士や会計士は甚大な被害をこうむったとか。日本で実施すると暴動を引き起こしかねないこんな荒療治にも耐え、今やイタリアは経済成長率も二パーセント台、インフレ率も同様に安定し、荒波をかいくぐった大人の風格を見せている。
しかし、課題の南北格差は根強く残る。南に行くほど失業率は上がり、シチリアでは失業率五〇パーセントという信じられない地域すらある。家畜を飼い、定期的に屠《ほふ》り保存用のソーセージやサラミを作る。野菜や卵も自給する。
労働力すら物々交換で、ローマの友人クララは、
「熱帯魚用の大型水槽が邪魔になったので売ったの。彼は払うお金を持ってないので、かわりに家の壁を塗り替えてもらうことにしたわ」
と言っていた。クララは現在月七万くらいの年金でローマで暮らし、時にはカプリに遊びに行く。一体どうやって生計をたてているのか、常々疑問に思っていた。
まず、ローマの中心地にある自分のアパートは短期契約の外国人に賃貸する。口コミルートなので、収入は表に出ず税金も派生しない。自分は管理費のみを払うという条件で借りた友人のアパートに住み(居住権を主張して出ていかない店子が多いので、知らない人には貸したくない、しかし無人だと家がいたむという理由)、外国人の女子大生にその一部屋を間貸しして少しのお金を稼ぐ。病院に通う老人や、空港に行く人の白タクを安く請け負う。美容師のベビーシッターをするかわりに、カットや髪染めは無料でやってもらう(休日に友人をカットしてまわって小金を稼ぐ美容師は多い。美容院に行くより安く、ありがたがられる)。
二十年ローマに住んでいるパキスタン人の友人も、自分で描いた絵や焼いた絵付け陶器を人脈ルートで売るだけで生計をたてている。大きなおみやげ屋にも卸しているのだが、仕入れ台帳に載せたくない小売店の意向とマッチするため、これもすべてが闇経済に組み入れられ、口コミで顧客ルートが広がっていく。
しかし、これらの仕事は生きていくための必要量を稼ぐという目的のもとに行なわれており、年金や貯金で充分な生活が保障されている人は、人生を楽しむことに全力投球する。南イタリアでは日がなバールでおしゃべりに興じる老人も多い。ただし日本と違い、井戸端会議の主はほとんどが男性。イタリア女性は家事や子守りで結構忙しい。
数年前豊かな老後を過ごすために≠ニいう国際セミナーがあり、イタリア人の心理学教授の女性講師が来日参加した。彼女が紹介したイタリアの地域老人クラブは、病院や美術館案内などのボランティア活動のほか、ダンス、音楽、カルチャー講座、ハイキングなどさまざまなレクリエーションがそろっており、たくさんの老人がいきいきと参加していた。
かわって日本のいくつかの自治体からの報告が映像とともに行なわれた。高齢者用の製品を作って売る組織、村の食材を加工して売る組織、シルバー人材センターなどだが、いずれも組織が自立し、給料を払い利益を上げていることを強調していた。なかには会社名をつけ、スタッフに社長、専務などの役職名をつけることでさらに励みとなったという報告もあり、イタリアとの違いが際立った。
「なぜ老後のボランティアまで仕事の形態をとろうとするの? どうしてそこまで金銭的価値に固執するの? お金をもらわないことに価値があることも多いのよ(これはカトリックの思想)。働きづめの日々の後にくる六十歳以降こそ、文化に触れ、今までとはまったく異なった人生を歩むことを喜びとしなくてはいけないと思う」
日本の紹介ビデオを見た彼女の、耳の痛い意見であった。いくら稼ぐかが人間的価値になっている日本の現実を映しているのか、はたまた老後が不安いっぱいという事情ゆえか、私はきんさんぎんさんのテレビインタビューを思い出した。
百歳を迎えた双子ということで大人気だったお二人に、
「テレビやイベントで大忙しですね。そんなに稼いで一体何に使うんですか?」
なんと二人の答えは、
「老後のために貯金します」
日本の老後≠ヘいつから楽しめるものになるのだろうか。
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自業自得[#「自業自得」はゴシック体]
言語能力とは一体どこから来るものなのだろうか。何年海外生活をしていても、外国語がうまくならない人も多いので、環境ばかりとは言えないし、両親が外国語ができても、子供はまったくだめというケースもあるので、遺伝子のみとも言えないのだろう。
私の場合、まず母親は同時通訳どころか電話でもいらだつほど超スローな話し方で、代名詞ばかり多くて要領を得ないことが多い。反対に父は異常な早口で、話すとき使う脳の部分の回転は早いのだろうが、言語の明瞭さに欠ける。見合い結婚した二人の新婚生活は、早口が聞き取れず何度も聞き返す母、スローな話し方にいらだつ父のあいだで、喧嘩が絶えなかったという。弾丸のように言葉を放つイタリア語を同時に訳す私の早口は、父譲りということか。
しかし記憶力に関しては、母はまさに超人的で、自身の幼稚園時代の集合写真のみならず、私の小学校時代の写真を見ながらすらすらと友人たちのフルネームを言える。七十代の今もテレビを見ながら、脇役に至るまで俳優名を次々と言える信じられない能力を保持している。とすると、言語習得に欠かせない単語記憶力は母から受け継いだものなのだろうか。言語能力に不可欠の耳のよさについても、母には絶対音感が備わっているのか、曲をすぐにドレミで歌える(しかし不思議なことに、外国語の発音は何度繰り返してもうまくできない)。国語能力にもたけており、漢字検定初段、子供のころから、会話のはしばしに四字熟語やことわざ、故事来歴が挿入された。
私が小学校一年生のとき、担任の先生が探し物をしていて、すぐそばで見つかったことがあった。私はすかさず、「先生、灯台もと暗しだね」と言った。感心した先生に「むずかしい言葉知ってるのね、どういう意味なの」と聞かれ、私は得意げに、「灯台でもと暮らしていた人は、遠くばかり見るくせがついていて、近くを見るのを忘れるんだよ」と答えた。もと暗し、の意味をみごとに取り違えてはいるものの、折りにふれ母に言われていたことわざの場面設定から、使い方は正しかったようだ。
通訳中、すぐに熟語やことわざを使うのは母の影響だろう。子供のころから自然に耳に入って覚えた言葉は身につきやすい。ありがたさを実感した私は、知らず知らずのうちに子育てにもその方式を応用していた。
三歳になったばかりの息子を保育園に迎えにいったある日、保母さんの報告があった。
「今日雄太くんが転んで頭を打ちつけたんです。でも泣かないで、頭をおさえてじっとしてるんで、かけつけて大丈夫って聞いたら、雄太君が一言『自業自得』って答えたんです。先生たちみんな天才かしらって、ほんとびっくりしました」
思い当たることのある私は苦笑した。幼いころから、歩いていて転ぶと、手伝って起こしてやることはせず、いつも「自業自得、一人で起きなさい」と言って自立をうながしていたのだ。彼は意味などもとより知らず、ころんだときの掛け言葉として自動的にそれをインプットしていたものと思われる。
やはり三歳の別の日、保育園連絡ノートに、「雄太君が給食のとき、『円高差益還元』とつぶやいていました。先生たちはまたも騒然となりました」
時はちょうど日本のバブルの始まり、毎日のようにテレビで円高ドル安が報道されていた。高かった牛肉も、アメリカものが安くなり、恰好の手抜き料理として、ステーキがわが家にもしょっちゅう登場するようになった。みかけ豪華な大きめ肉を出しながら、「はーい、円高差益還元!」と私は毎回呪文のように叫んでいたのだ。
案の定、その日の園の献立をチェックすると、ポークチャップ≠ニある。珍しく大きめの肉が出たとき、パブロフの犬なみの幼い脳が自然に反応したものと思われる。
こんなことなら、この子が胎内にいるとき毎日、「天上天下唯我独尊」と話しかけていればよかった。
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親の鏡[#「親の鏡」はゴシック体]
ヒトゲノムを解読した人物が、人間の性格、資質は親の遺伝子と環境の影響と断言していた。息子も幼い折りから優れた言語能力を発揮したものの、まさに親の鏡=A親として赤面反省することが多かった。幼い子供は自然を擬人化し、思いがけない詩心にあふれた表現をするが、わが息子は星菫調《せいきんちよう》には縁がなく、ひたすら理屈っぽかった。四歳のとき、叱られて「パパの怒り方は不条理《ヽヽヽ》だ」と泣き泣き叫んだときには、私たち夫婦は絶句したものである。
親の理屈と命令口調が影響した例をあげると、一歳のときの保育園ノートに、
「いつも園では、みんなで使うものは大事にしましょうと教えていたのですが、今日お散歩の時間、道路工事のおじさんのもとに走り寄り、『おじちゃん、みんなが使う道をこわしちゃだめでしょ。すぐ直しなさい』と抗議していました。足元もまだおぼつかないちびちゃんに堂々と注意され、おじさんたちは笑いころげていました」とある。
五年間通った保育園の連絡ノートは約二十冊、幼い子が環境、すなわち親の会話や態度の影響をいかに強く受けるか如実に見えてくる。わが家では性に関するタブーはなく、シモネッタの息子にふさわしい言動を幼いときから展開した。
一歳になったばかりのころ、遊園地で見知らぬ同年代の女の子に近づき、「かわいいね。一緒に遊ばない?」とナンパをしたのを皮切りに、次々と仲良しの女の子を入れ替える三歳の息子に先生が、「雄太くんはゆかりちゃんと結婚するんじゃなかったの?」と聞いたところ、「ウウン、あの子とは遊ぶだけ。それに結婚すると、あとから他の子が結婚してって頼みにきても、できなくなるでしょ」と答えた。先生が続けて新入生の女の子の名前をあげ、「あの子はどう?」と聞くと、「うーん、顔がちょっとね」
長じた今、「おっぱいも性格もあくまで顔のオプションに過ぎない」と豪語。本体(顔)機能最重視でガールフレンド選びをしているのも、三つ子の魂百まで、なのだろう。
二歳の保育園ノートには、もっとびっくりすることが書いてある。
「お昼寝の添い寝のとき、『雄太くんのパパはどんな人?』と聞くと、『うーん、うちのパパはいびきはかくし、浮気もするしね』と言います。びっくりして『えっ、浮気してるの?』と聞くと、『うん、寒いからね』ですって」
同じころ、私は息子に「今日のママは優しいね。外でいい男に会ってきたんじゃないの」と言われている。夫への私の軽口の影響であることは間違いない。
私に頼みごとを断られた夫が、そばにいた三歳の息子に「ママって意地悪だね。雄太は優しい女の人と結婚しなさい」とアドバイスしたところ、「パパ、女はみんな同じだよ。あきらめなさい」と言われてしまった。
五歳の保育園ノートになると、さらに言葉巧みになっている。
「雄太くんがお楽しみ会でH先生の手品の助手を務めることになりました。『みんなには絶対内緒ね』と、手品の種を見せながら言うと、雄太くんは『ぼくはいいかげんなやつに見えるかもしれないけど、口だけは固いからね』と答えたそうです。先生たちは大爆笑でした」
ノートを読んだ私が帰宅した息子に、「先生が手品を失敗して、雄太が本当に消えたらどうしよう」と言うと、「大丈夫だよ、保育園の手品は子供だましだから。それにぼくが消えたら、また作ればいいじゃないか」
このころはまた、交渉能力も発達し、自分の誕生日に高価なおもちゃをねだり、「買ってくれたら、ママにも好きなおもちゃプレゼントするから、ねー」
私「ママの好きなおもちゃ?? 何よ」
雄太「ぼくの子供だよ。孫つくってあげるよ」
……唖然である。
やはり五歳のある日、私がテーブルで物思いにふけっていると、近づいてきて、「ママ、何悩んでいるの?」
私「雄太に言ったら解決してくれる?」
雄太「パパが解決してくれるんじゃない」
私「解決って、何?」
雄太「お金を出すことでしょ」
五歳にして金の力も熟知し、小学校にあがるとさらに大人顔負けのおしゃべりで楽しませてくれた息子だったが、中学入学を境に語彙は激減、ほとんどの会話は「うっせー」で終わるようになった。
「ママ」とも呼ばれなくなって、久しい。
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愛の勇者[#「愛の勇者」はゴシック体]
世の中には常軌を逸したつわものがいる。今も私の記憶に残るひとりの勇者≠ご紹介しよう。
赤貧から身を起こし二つの輸入販売会社を経営していた立志伝中のリッチマンF氏。十三歳から始めた鍛冶屋は、睡眠四、五時間で一日中ひたすら刃物を打つ激務で、父親のいない大家族をけなげに支えてきた。若い折りからの過酷な肉体労働が、むくつけき偉丈夫≠ニいう表現がぴったりの頑強な肉体を作りあげた。
英語も話せないF氏が単身日本に乗りこみ、次々大手の会社の工具や刃物の輸入代理権を取得。ライバル企業の製品も一手に取り扱うために別会社を設立し、持ち前の才覚で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの実業家として成功した。
「いやあ、まいったよ。妻は新聞を読まないので、俺の収入はばれてなかったんだ。会社は火の車だと言い続けてたのに、アホな女友達が女房に納税者リストを見せて、お宅のご主人すごいのね、県のダントツトップじゃない、なんてばらしやがった。女房の怒ったこと怒ったこと。今までの損を取り返すべく、洋服や宝石を狂ったように買い始めたんだ」
彼はぼやいたが、その糟糠の妻の派手さ、華やかさには私も舌を巻いていた。金は女を美しくするのか、貧しい農民の娘だったとは思えないほど自信にあふれて優雅だった。
F氏は、毎年二、三回来日してその都度十日は滞在していたので、イタリア男の常として当然女性が欲しくなる。まずは通訳に一応礼儀として$コをかけ、ダメとなると街に出て片言の英語でナンパする。ある朝ホテルに迎えにいくと、若い女性と仲よく朝食を食べている。一人住まいのOLだというK子はイタリア語はもちろん、英語もほとんど話せない。昨夜駅の階段で話しかけられ、そのまま泊まったという。清純そうな愛らしい子で、年齢も三十歳以上は離れている太め白髪の社長のどこに惹かれたのか、私はいささかふに落ちない気持ちで、ラブラブの二人をあきれて眺めていた。その後は来日のたびに、ホテルに泊まるランデブー、二人の英語ではうまく通じない部分を、仕事前の朝通訳してあげていた。
ある年F氏は、五人の子をなした妻との銀婚式を盛大に祝い、日本でも取引業者を招いてパーティを行なった。席上、彼は妻への感謝を述べ、招待客の前で花をプレゼントし熱いキスと抱擁を交わした。その翌朝八時半、いつも通りホテルに迎えにいった私は、K子をロビーで見かけて腰を抜かさんばかりに驚いた。
「私も今回来るのは嫌だと断ったのですが、奥さんは別の部屋に泊めるからどうしても会いたいって頼まれちゃって。彼、いびきがすごく大きいので、旅に疲れた君が眠れないとかわいそうだとか言って、奥さんには隣に別の部屋とってたんです。ばれないかと気が気じゃなくて、私はよく眠れませんでした」
目の下にくまを作った彼女はそのまま大手化粧品会社の経理部に出社していった。
肝心のF社長のほうは、さわやかにロビーに現れた。「なんて危険なことするの」とあきれる私に彼は言った。「大丈夫、パーティの後すぐ、妻へのおつとめもちゃんとすませたから、彼女は疲れきって今日は昼までぐっすり寝てるよ」
銀婚式のお祝いの後、妻とすぐ隣の部屋で愛人と連ちゃんで愛しあうこの体力も、鍛冶屋仕事での鍛錬の賜物か。軽蔑が次第に尊敬へと変わっていった。
男の中の男だったF氏は大のタバコ嫌いだったのに、肺癌で翌年あっさりとこの世を去った。享年五十八。彼と同年代だった美人の妻は、その後社長に就任し、息子を使いながらさらに会社を大きくしていった。
裏切られていたかわいそうな妻と私が同情していた彼女は、夫の死後すぐに再婚、計二度も若いハンサムな男性と結婚し、F氏がいつも滞在していた同じホテルの同じレストランで、やはり私の前でラブラブ状態で彼氏と見つめあっていた。われ鍋にとじぶたとでも言えばいいのだろうか、日本人にははかりしれない濃密な愛の人生を生きるイタリア人夫妻であった。
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私の値段[#「私の値段」はゴシック体]
フランス人女優というと、ジャンヌ・モロー、ジャクリーン・ビセット、ソフィー・マルソーなど、小悪魔的な個性を持った人が愛されるようだ。一方、イタリア人女優として思い浮かぶのは、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジダ、ステファニア・サンドレッリ、ラウラ・アントネッリ、それに今随一の人気、映画『イル・ポスティーノ』で巨乳を惜しげなく披露していたマリア・グラツィア・クチノッタに至るまで、イタリア男性好みのセクシー、グラマーということになる。イタリア男は素顔美人より、知性的美人より、派手な化粧美人が好きなのも特徴。かく言う私も、往時Fカップだった胸と化粧ばけのおかげで、昔はずいぶん言い寄られた。しかし、商売女とまちがえられるとなるとちょっと問題である。
ミラノ中央駅で電話していると、隣の電話ボックスからくたびれてはいるもののスーツ姿のおじさんが出てきて、「チンクェ・チェント(五百)」と繰り返して手を出してきた。電話に使う五百リラコインがなくなったのだと理解し、一枚差しあげた。しばらく電話してボックスから出ると、おじさんはホーム近くの電話に河岸をかえ、近くの人にコインをねだっていた。なんだ、新手のものごいか、と完全無視して通りすぎるイタリア人を見ながら、ひっかかったことを後悔した。
同じ日の夕刻、仕事も終わり、私はドゥオーモ前の高級店でおみやげの食品を買っていた。人品骨柄《じんぴんこつがら》いやしからぬ紳士がかごをかかえて歩いている私の後ろをついてきて、小声で「チンクェ・チェント」とささやいてきた。「まあ、こんな立派な恰好をして」と内心驚きながら、今度は無視。もう一度言われる。今度はチンクェ・チェントの後ミラと聞こえた。「ひええ、五十万リラ、何なの?」と思うが、無視して店内を歩く。そのおじさま、ついには私のななめ前に立ち、外国人の私にわかるようゆっくり、はっきりイタリア語でこう言った。
「私と寝てくれれば五十万リラあげます」
生まれて初めてのことで、自分でも顔がこわばるのがわかった。理解できなかったふりをしてきびすを返し店を出て、足早にそこを去った。自分の恰好を見る。仕事帰りなので、首元もつまった地味なグレーのスーツ。娼婦の恰好ではない。ショックである。しばらく夢中で歩いて、おもむろに振り返った。誰もついてきていない。ほっとして立ち止まり、よーく状況を考えた。五十万リラというと、当時のイタリアでは社長秘書の一月分の給料である。初めてついた女としての自分の値段、正直ちょっと嬉しい。翌日ローマに行った私は、息せききって親友のクララに自慢した。
「ねえねえ、私の価値ってすごくない? ほんの五分間目を閉じてるだけで五十万よ。見直した?」
彼女は私をしばし冷たく見つめて言った。
「クミコ、あんた三つの大きなまちがいを犯してるよ。一つ、目を閉じるだけじゃなくて、脚は開くのよ。二つ、イタリア男は五分じゃ終わらないわ。三つ、絶対一回じゃすまないし、条件聞いてごらん。へたすると二、三日、ううん一週間契約だったかもよ」
何と優しい友人ではないか。
その三カ月後、またローマに着いた私に別の友人ドーリンがイギリスみやげを手渡してくれた。
「クミコにぴったりのおみやげ見つけたの。ほら最新の避妊具」
きれいなパッケージには「使い方簡単。年齢制限なし。副作用なし。失敗なし、絶対確実な避妊具」とある。箱を開けると、ピンクの円盤のようなものがはいっている。
使用マニュアルを読むと、「右手の親指とひとさし指で円盤を持ち、それを左足膝の内側にぴったりと押し当てます。手を離し、円盤を右膝でしっかり押さえて決して落ちないようにキープします。これで準備OKです」。なんということはない。脚をしっかり閉じて、性行為ができないようにするものなのだ。イギリスらしいブラックジョークである。
「脚閉じてセックスすると思ってるあんたにぴったりと思って」
すっかり馬鹿にされている。
その後再びミラノに仕事で飛ぶ。その日も仕事後の夕刻、私はモンテナポレオーネ通りにいた。高級靴ショップのウインドウを覗いて品定めをしていた私に、ゆっくりと紳士が近づいてきた。耳元で彼はささやいた。「ドゥエ・チェント・ミラ(二十万)」。今度は本気でむかついた。わずか三カ月で、私の女としての価値は半分以下に値下がりしていたのだ。夏も近かったその日の装いは、少し胸元の開いた膝上丈の赤のワンピース。教訓、服装は地味できちんとしているほうが高値で売れる。
ちょっと斜に構えたイタリア人の友人が口にしたジョークを、ふと思い出した。
「誰にでも初めての瞬間が来る。初めて女になるとき、初めて女を売るとき、初めて男に払うとき」
あとの二つは体験しないまま今日に至っているが、何とか男に払う経験だけは避けたいものだ。
イタリアにしょっちゅう行っていると、もてる条件として派手になってしまうようで、日本でもついその癖が出てしまう。道を歩いていて、装飾を施した長距離トラックの運転手に口笛を吹かれ、八代亜紀風の濃い化粧を反省した。
よく声をかけられるのは新宿と池袋。新宿では「女王さまのお仕事あるよ」とスカウトされたことさえある。インテリ風の眼鏡が似合う英語通訳の友人は「霞が関でよくお茶に誘われる」と自慢していたが、誘われる場所も一つのステータスである。私など霞が関はおろか、銀座で声をかけられたことすらない。
また日本に限っていえば、声をかけられるのはほとんど十人並みの女性。おちる確率の低そうなとびっきりの美人には、声はかけにくいものなのだ。待ちあわせ中の盛り場でウォッチした実地調査でも確認した。しかし、イタリア人は自分を省みず、ドン・キホーテのごとく、自分がイイと思った女性に猪突猛進する。
私がミラノの定宿にしていたホテルのベルボーイ、サルバトーレ君は南のシチリアからの出稼ぎ青年。黒髪黒眼で身長は百六十センチそこそこ、ぽっちゃり太めで、お世辞にも美青年とはいえない。朝私がロビーに座っているとすぐに駆けつけてきて、歯が浮くようなほめ言葉を連発し、「シニョリーナ、独身ですか」と聞いてくる。面倒で「いいえ、結婚してます」と答えると、本当に残念そうにこう言ったものだ。
「うわー、残念だなァ。あなたが既婚でなければ、僕がすぐにお嫁さんにしたのに」
ちょっとちょっと、まず私があなたと結婚したいかどうか、それを聞くのが先でしょ。内心そう思いつつ、この自己中心的な考え方ゆえに、イタリア男は自分のことはすべて棚にあげて女性の尻を追いかけ、女性は自分に自信を持ちさらに美しくなるという、循環構造になっているのだと、妙に納得したのである。
とはいうものの、最近はイタリア男性も自分を客観的に見る≠謔、になったのか、はたまた私の年齢が許容範囲外≠ノなったのか、ほとんど言い寄られることはなくなった。
ただ始発駅のある歌舞伎町は今でも帰宅時利用することが多いので、まだ日本男性には時々声をかけられる。自己を知る日本人らしく、若くはない私をお茶に誘う男性の年齢は高齢化の一途をたどっている。最近では「おじいさん元気ね、お茶なら私がおごるわよ」と感心するほどのお年寄りも声をかけてきて、日本人のイタリア化が進んでいるのかも、と頼もしい。
純粋に女としての価値≠提示されたのは、結局私が二十代後半だったあの二回きり。そしてその翌年、女盛りの最後のひと花ともいうべき、究極の体験が待っていた。
寒い冬のその日は、閉鎖されることになった松竹歌劇場、SKDのお別れ公演の日だった。仕事の後、最後の公演を見るべく、私は田原町の駅で地下鉄を降り、タクシーで劇場に急ぐことにした。
シルバーフォックスの毛皮をまとって、高いヒールの靴で小走りに止めたタクシーに乗った私がまだ行き先を言わないうちに、運転手はなれなれしく言った。
「吉原ですね」
ついにはソープ嬢とまちがえられたのである。ショックで行き先を訂正することもできない。でも前の経験のおかげで立ち直りは早い。まあいいか、劇場のすぐ裏あたりの路地、ひときわ高級そうなソープの前で車を降りた私は言った。
「あけみって言うの。指名してね。サービスするわ」
「ほんと、うわあ嬉しいな。今日にでもあがったら行くよ」
客を勝手に誤解した罰、たっぷり散財して罪をつぐなってもらおう。
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桜と気づく人もなし[#「桜と気づく人もなし」はゴシック体]
イタリア男性が女性に親切なのはつとに有名だ。しかし最近の国際化で彼らも変わり、女性に対してより対等かつクールに対応するようになった。
北部は特にその傾向が強い。三時間あった昼休みも一時間になり、昼食を家族そろってというシーンもなくなった。マクドナルドも人気だし、このままアメリカ化が進むと、イタリアの人間らしさもなくなりそうで悲しい。
昔シチリア島を旅行していたとき、タクシーから大きな荷物を持って降りかけた。その私に気づいた黒髪アラブ系の風貌をしたティーンエイジャーの男の子が、舗道の端から猛然と走り寄ってきた。荷物を盗まれる、と恐怖を感じた私は半べそでタクシーの扉を閉め、運転手に叫んでいた。「ひったくりよ、走って」。運転手が車をゆっくりと発進させるのを、男の子は悲しそうな顔で見送っていた。
運転手は落ち着いた私に言った。「お嬢さん、あの子は僕も顔見知りの働き者のいい子ですよ。あの子は、あなたの荷物を手伝って降ろして、運んであげようとしたんですよ。ここでは男性が女性を助けるのは当たり前のマナーですからね。彼、傷ついてましたよ」。一人旅の私には人を見たら泥棒と思え、が身についていたのだ。申し訳ない思いでいっぱいだった。紳士の国ロンドンでも、駅の階段を重いトランクを持って上る私を誰も助けてくれなかったのに、あの青年は道の向こうから走り寄ってくる優しさを持っていた。私はそれを踏みにじってしまったのだ。
それから二十年後、私は列車でボローニャに降り立った。列車から荷物をホームに降ろさないと邪魔になって出られないせいもあり、男性が降ろしてくれた。ところが北部の多忙な人々は皆小走りで立ち去り、私は一人大きなトランクとともにホームに立ち尽くすこととなった。ホームに荷物だけ残して出口に赤帽を呼びにいくのは不安なので、しかたなく重い荷を持ちパンプスで大理石の階段を上り下りして、出口にたどりついた頃には、すっかりひざを痛めてしまった。帰国後、憤慨して夫に訴えた。
「昔はすぐに数人が駆け寄って手伝ってくれたものよ。まったくイタリア男性も変わったわ」
夫は冷たく一言。
「変わったのは君のほうなんじゃないの。すべて相対性理論だからね。君の賞味期限が切れたんだよ」
鮮度に敏感なのは日本人のみではないことを思い知らされたのである。
納品ミスで日本人にひどくなじられたイタリア人社長が話しあいの後、ふんまんやるかたない様子で私に訴えた。
「人を泥棒みたいに言って! 私は生まれてこのかた、人様のものを盗んだことなど一度たりともないのに」
すかさず私は言った。
「そんなはずはありません。あなたは私のハートを盗んだではありませんか」
すっかり機嫌を直した彼は、私に丁重に答えて言った。
「気持ちはありがたいんだけど、今君の心臓をもらっても私には使い道がないんだ。移植が必要になったら連絡するから、それまで君が大切にキープしておいてくれたまえ」
イタリア男ともあろうものが、私の女心をただの移植用臓器として扱ったのである。
再び高澤晶子さんにご登場いただこう。
枯れるまでソメイヨシノとよばれたい
[#地付き]晶子
うば桜、桜と気づく人もなし
[#地付き]公美子
辞書によるとうば桜は「娘盛りを過ぎてもなお美しさが残っている年頃」とある。かすかに残っている美も、めでてくれる人がいなければ無用の長物であろう。
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おしゃれな実業家[#「おしゃれな実業家」はゴシック体]
洋の東西を問わず実業家は女性に人気があるが、イタリアでは昔はフィアットのジャンニ・アニエッリ氏、今はフェラーリのモンテゼモロ社長、ブルガリのトラーパニ社長など知性、財力、ルックス、家柄、服装のセンス、どれをとってもタレント顔負けのスター級実業家が多い。
彼らは、見た目はあくまで品のよいクラシックに徹し、こまかいところに凝るおしゃれをしている。ネクタイの見えない裏地に表地と同じものを使い、七つ折りにするセブンフォールドはもとより、スーツのボタン穴のかがり方、襟の形、ポケットのカーブラインに至るまでみんな一家言持っている。スーツもワイシャツも、そして靴も家族代々で使っている職人の誂えものが多いのも特徴。日本の街角からはすっかり姿を消した感のあるお仕立て屋≠ヘイタリアでは健在、もの作りの精神は脈々と生きている。誂えシャツの胸もとやカフスには必ず刺繍でイニシャルが入れられている。ワイシャツの袖は夏でも必ず長袖。靴下はふくらはぎを覆うくらいの長いもの。
デザイナーのミラ・ショーン女史が日本男性におしゃれのアドバイスをとインタビューで聞かれたとき、「ズボンの裾からスネ毛の濃い足が見えるのはほんとに興ざめ。短い靴下は絶対にやめてほしいわ」と即座に言っていた。私は男性の靴下の長さなど気にしたこともなかったが、洋服の伝統が長い国にはさまざまな約束ごとがあるようだ。
靴を脱ぐのはベッドに入るときのみ、という観念もあるので、新幹線グリーン車ですぐに靴を脱いでくつろぐ日本紳士にも度肝を抜かれるようだ。それを女性がすると、まさにお里が知れる≠アとになる。男性のワイシャツは下着の一部と見なされているので、上着もなかなか脱がない。クラシコ・イタリアーノの誂えシャツには股下でボタンを止めるロングタイプのものも根強く残っていて、こうするとシャツは常にぴんと張っていて上にずりあがってくることもない。
ある夏の日、アパレルブランド会社のマネージャー三人と商談のため移動したときには、おしゃれに対する半端でない気構えに脱帽した。
当日はタクシーで近辺の顧客をまわったのだが、タクシーを止めて乗りこむ際は三人そろって、アタッシェケースを足の間に置き、さっと上着を脱ぐ。車中は上着はひざに置く。車を降りるとまた即座に上着をまとう。外ではどんなに暑くても決して上着は脱がない。車中上着を着ていると背中に無粋なしわが出る、というのが理由なのだが、ワンメーターの区間も三人がまるで闘牛士のごとく、ひらりと上着を| 翻《ひるがえ》して脱ぎ着するシーンをまぶしく眺めたものだ。
先年おしゃれで名高い実業家の一人、次々に有名会社を渡り歩き、発展させては次の目標に移る四十二歳の独身社長B氏が来日した。
当日はゴム会社の社長の通訳とだけ聞いていたので、私はお腹の出たおじさんをイメージして出かけた。朝、ホテルのロビーで日本の会社の人と会い、その大手ゴム会社がファッション分野に参入したことを知った。ほどなく現れたB氏がすごい美男子なのを見て、私は「ちょっと電話」とあせってトイレに駆けこんだ。もちろん化粧直しのためである。アイシャドウをプラス、口紅を塗り直し、スカートのウエスト部分を折り曲げて少しミニにし、気合を入れて仕事に臨んだ。
B氏は小麦色の肌、紺ストライプのダブルのスーツに自社の革のスポーツシューズを合わせている。かばんのかわりに肩にかけているのは、大きな真っ赤なスエード・リュック。クラシックなスーツとのアンバランスな組み合わせがぴったりと決まっており、ストーカーまでいるというのがうなずける素敵な人である。趣味はヨットと乗馬。いろいろな一流企業の経営、営業、広報畑を渡り歩いている上、自分のセンスに自信があるので製品のディスプレーまで自らしてしまうオールマイティぶり。同行していた女性マネージャーは、「部下にも要求が高くてストレスがたまる」と私にそっと打ち明けた。雑誌インタビューでは、毎回女性記者の目をまっすぐ見つめ、一人残らず夢見心地にさせた。女性を落とすテクニックも一流のようである。
この若き実力者は、仕事でかかわる人材の能力評価を下すのが滅法早くかつ無慈悲なのである。「こいつは無能だ。ついてる頭はただの飾りだな」と一刀両断。
電話でも社員をどなりまくっているので一言アドバイスすることにした。
「自分より劣った人がたくさんいるから自分が若くして社長になれた。ありがたい、と思うと腹も立ちませんよ」
彼は即座に言った。
「私は仕事のできないやつ、頭の悪いやつを愛している。ただし彼らが他社にいればの話だ。そいつらが自分の会社にいるのは我慢できない」とあくまで明快なのである。
こんな男性を育てたのはどんな母親かと思ったら、イタリアで女性では初の飛行機操縦ライセンスを取得し、四十五歳で文学部、六十歳で医学部の卒業資格も手に入れた輝くばかりに美しい女丈夫であった。母一人子一人なのにクリスマスくらいしか会わないという。ほとんど電話もしない、母の手料理も知らないというクールな関係らしい。もしやこの冷たい性格は、自分本位に生きた母親の影響なのだろうか。
独身の彼へのインタビューで、理想の女性についての質問が多く寄せられた。
「あなたにとって、理想的な愛のシーンを語ってください」という質問に、B氏は「ことがすんだあと、相手の女性を抱きかかえ、そのまま窓から捨てられたら最高だね」と答え、私は思わず背中が凍りついた。
彼が来日したのは、十日前にミラノを発ちアジアの他国をまわったあとであった。「何かイタリアのニュースはある?」と聞かれた私は報告した。
「マウリツィオ・グッチ氏の前妻が逮捕されました。六億リラを殺し屋に払ったのがばれたらしいです」
殺されたグッチ氏の友人でもあった彼は、顔を朱に染めて怒り始めた。
「何てひどい女なんだ! 殺しの相場は二千五百万リラ(当時約二百万円)だぞ。払い過ぎだ。相場がはねあがる」
ああ、このハードボイルドさが、さらに女を夢中にさせるのよ……。
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私が出会った人たち[#「私が出会った人たち」はゴシック体]
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ネオレアリズモの息子マッシモ・トロイージ[#「ネオレアリズモの息子マッシモ・トロイージ」はゴシック体]
イタリア映画を代表するフェリーニ監督や名優マストロヤンニが相次いで亡くなり、戦後イタリア・ネオレアリズモの栄光は、ついに幕を閉じた感がある。
そんな矢先、今度は次世代を担う若手の監督兼俳優として注目されていたマッシモ・トロイージが、映画『イル・ポスティーノ』のクランクアップ直後、四十一歳の若さでこの世を去ってしまった。
マッシモ・トロイージが最初で最後の来日を果たしたのは一九八八年、第三回イタリア映画祭のときで、出品作品『限りある神への道』の監督としての訪日だった。
この三回目の映画祭のときほど、いろいろと問題の重なった年はない。まず来日メンバーの大半が乗る予定だったアリタリア航空が、管制官のストでローマを出発できず、他の会社の便に乗っていた三人だけが、四時間遅れで日本に到着した。
このときの目玉、マストロヤンニの姪で十六歳の美人女優フェデリカ・マストロヤンニを見るために、たくさんの記者が集まっていたが、用意された長いひな壇には無粋なイタリア政府関係者二人と、日本ではまだ無名だったトロイージの、わずか三人だけという寂しい記者会見になった。トロイージは、重苦しいその場の緊張を解くつもりで、一発ジョークをとばした。
「他のメンバーのフライトが遅れて、この会見に間に合わなかったのはラッキーだった。僕だけが目立って、日本で有名になれるかもしれないから……」
ところがまじめな日本の記者連中からは笑い声ひとつ立たず、トロイージは通訳していた私に小声で、
「まずった。受けなかったよ」
と、はにかんだ少年のようにつぶやいた。
映画祭の期間中も、昭和天皇のご容体の急変やら、台風の大雨被害などとマイナス要因ばかりが重なって、彼の映画の観客動員数は少なくて話題になることすらなかった。取材申しこみもなく暇だったせいもあるが、来日中、彼ほど手のかからなかったイタリア人はなかった。
「僕は生来なまけ者なのさ」
と言って、観光も買物もせず、ほとんどホテルの部屋から出ないのである。しかし、そんな内気で地味な彼も他人がいると、すぐにとびっきり明るいナポリっ子を演じて、通訳の私まで笑わせようとサービスする人であった。
当時三十四歳、スマートで都会的な雰囲気を漂わせていたが、七年後の『イル・ポスティーノ』では、眉を太くして素朴な南の島の青年になりきっていた。
「僕たちにとってネオレアリズモは偉大な父親みたいで、煙ったい存在なんだ。何を作っても、いつでも比較される。イタリアの若手にとっては、目の上のたんこぶみたいなんだ」
これがマッシモ・トロイージが私に語ってくれたネオレアリズモの感想である。もっともっと生きて父親を超えてほしかったと思うと残念でならない。
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強気な女王様ジーナ・ロロブリジダ[#「強気な女王様ジーナ・ロロブリジダ」はゴシック体]
ジーナ・ロロブリジダと会ったのは、イタリア中がまもなく開催されるサッカーのワールドカップの熱気に浮き足立っている一九九〇年六月だった。NHKの特別番組でのジーナへのインタビューは、衛星中継で、ローマ市内全景が見渡せる丘にあるスペイン・アカデミーのベランダから行なわれた。
往年の大スターは迎えの車から降り立つと、居並ぶ館長やNHK役員にあいさつもせず、「すぐに撮影現場を見せて」と要求し、カメラアングルとライトのチェックに入った。さすがプロと感心したのも束の間、
「こんな強いライトを真ん前から当てるなんて百年前の技術よ。すぐ弱いライトに変えて」
と叫び始めた。スタッフが、
「申し訳ないのですが、背景のローマ市内を同時に映すためには、戸外の自然光に負けないライトを当てないと、お顔が黒くなってしまうのです」
と説明すると、女王≠ヘさらにヒステリックに叫んだ。
「日本の視聴者は私を見たいの、それともローマを見たいの? 私を見る番組なんだから、私の言うとおりにしてくれないと出ないわよ」
六十数歳の彼女が二千年以上の歴史を持つ永遠の都ローマとはりあう気力に押され、やむなくライトをトーンダウンして、放送一分前に決着を見た。豊かな髪は明らかにかつら。ひどいさめ肌で、強烈なライトが当たると溶けだしそうな厚化粧をしていた。それでも番組開始後はうって変わって、自分のライフワークである写真について、写真集を見せながらにこやかに三十分語ってくれた。
番組中、イタリアとアメリカの映画作りはどこが違うのかという質問があった。
「アメリカ映画はスペクタクル中心で、イタリアのものは人間の心情に重きを置いて……」
といった答えを同時通訳ブースで想像していた私はびっくり仰天。女王≠ヘ重々しく、
「アメリカ映画は英語を、イタリア映画はイタリア語を使って作ります。言葉が違います」
とお答えになったのである。
放送終了後、スタジオで待機していた次の出演者のデザイナー、ジョルジエット・ジュウジアーロがさっと立ち上がってジーナに挨拶した。彼は自己紹介したあと、「あなたが撮った写真はとてもいいですね。実は私はカメラのデザインもしていて、ニコンF3は私がデザインしました」と語った。女王は即座に、「私、F3は嫌いだから使わないの。F2が好きよ」と言い放ち、強い香水の香りだけを残して風のように去っていったのである。
天衣無縫、傍若無人、美しき人のみに許されるわがままにひたすら恐れいったのを覚えている。
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最後の俳優マルチェロ・マストロヤンニ[#「最後の俳優マルチェロ・マストロヤンニ」はゴシック体]
一九九六年十二月十九日早朝、マルチェロ・マストロヤンニはパリの自宅でカトリーヌ・ドヌーブと、二人の間の娘キアーラに看取られて息をひきとった。享年七十二。
百三十本以上の作品であらゆる階層のあらゆる職業の役を演じ、女たらしから繊細なホモまでをみごとにこなした。
「俳優ほど楽しい仕事はない。一度セットに入るとみんな子供に戻る。映画は大人のごっこ遊びなのだ。遊びなのに、まるで演技が苦行ででもあるかのような雰囲気を漂わせたり、演技中の役柄を家まで持ち帰る人もいるが、私はセットから出るとすぐ自分自身に戻る。仕事中だけやるから演技なのだ」
彼は遊び心の余裕で演じられる天才なのだろう。
初めてマストロヤンニの通訳をしたのは、一九九〇年六月のローマ、映画ロケの現場から駆けつけての生中継出演であった。素敵に似合った背広のことを聞かれて、
「映画の衣装だよ。朝起きて、昨日脱いだ衣装をそのまま着るのは、何を着ようか迷わなくてすんで、ありがたい。着るものには頓着しないほうだからね」
と洒落者のイメージとは反対の発言をした。
二回目の仕事は一九九三年二月、初めて出演したアメリカ映画で、二十三年間人妻に純愛を捧げ続けた初老の男を演じた『迷子の大人たち』のキャンペーンで来日したとき。「ニュースステーション」に出演し、
「イタリア男性ならこんな馬鹿なことはしない。誰の女房でもおかまいなしだ。すぐ手を出すよ」
と自分が出たアメリカ映画を揶揄。二十分足らずの間、目一杯調子がよく、底抜けに明るい、女好きなイタリア男優≠演じ、司会者の久米宏さんたちを大笑いさせ、スタジオを去るときには小宮悦子さんをナンパするサービス精神まで発揮した。
このとき私は、階上の通訳ブースでモニター画面を見ながら通訳をしたのだが、事前にも会うことがなく、このままあいさつもできないのかと、残念に思いながら帰り支度をした。ところがエレベーターで、運よくマストロヤンニと乗りあわせたのである。仕事の後、付き人と二人でいた彼の目は空を見つめ、さっきまでの彼とは別人のように深い孤独を感じさせた。
一瞬ためらったが、一期一会と意を決し、「こんばんは。三年前、ローマからの生中継の際、お会いしました。覚えていらっしゃいますか」と話しかけた。マストロヤンニは、「ごめんなさい、覚えてません。いやぁ、会った女性を忘れてしまうなんて、もう耄碌《もうろく》してるんですよ」と答えた。
通常、芸能人なら、「もちろんですよ」ですませる場面である。自分を卑下しつつ、正直に答える誠実さに、改めて惚れなおしてしまった。
ローマでのマストロヤンニの葬儀には、何千人もの参列者があったが、誰もがまるで家族を失ったかのように涙していた。
「大食堂で僕たちエキストラと一緒に食べてくれた唯一のスターでした」という言葉が、彼の一貫性のある人柄をよく伝えている。
彼は映画について次のようにも語っていた。
「映画作りで、監督に自分の意見を出したり助言をすることはない。要求するのは椅子とコーヒーだけだ。後はどんなに若い監督でも、信頼して彼の考えどおりに演じる」
「若い頃はデートもしたい、遊びたいと、仕事が面倒に感じられるときもあった。でも今は、百三十歳か百四十歳くらいまで生きて俳優をやりたい、車椅子に乗るようになっても俳優でいたいと思う。人間は年をとればとるほど、仕事に固執するようになる。何故なら他にもうやりたいことがなくなるからだ。仲間外れにされたくない、何か人の役に立ちたいと思う。私にとって死より怖いものは、耄碌して演技ができなくなることなのだ」
最後の作品は娘との共演で、『三つの人生とたった一つの死』。死の七カ月前のカンヌ映画祭の舞台あいさつでも笑いと感動をふりまいていたので、思いどおりの最期だったのではなかろうか。
われわれは、最後の、最もイタリア的な、本物の俳優を失ってしまった。
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「夢」を作るフェリーニ監督[#「「夢」を作るフェリーニ監督」はゴシック体]
一九九〇年十月、初来日にふさわしい大舞台の主役として、ついにあのフェデリコ・フェリーニが来日した。文化界のノーベル賞といわれている高松宮殿下記念世界文化賞の演劇映像部門で第二回目の受賞者に選ばれたのである。
フェリーニは、七十歳になっても若々しく、気さくなおじさんという風貌だったが、小柄な体はオーラのようなカリスマ性にあふれ、私はサインをお願いするのが精一杯で、とても記念写真はねだれなかった。
一九八九年に創設されたこの賞の審査員は、シラク、ヒース、ファンファーニ、シュミットなどの各国首相経験者と、アメリカからはロックフェラーというそうそうたるメンバーで構成されており、授賞式も常陸宮殿下などの皇族の方々を始めとする各界重鎮の列席のもと荘厳にとり行われた。
受賞者記者会見は、重厚な雰囲気の金屏風の大広間で始まった。
フェリーニは、「世界文化賞の存在は、時の権力者とクリエーターの関係を、伝統の中で形を変えて再生する動き」と自国の伝統的なカトリック文化と芸術家の関係にたとえ、日本が世界の文化のパトロンになりつつある現状を評価した。
フェリーニの受賞スピーチが終わると、私はすぐ日本語に訳し始めた。しばらくすると、彼が私の顔をじっと見つめ始め、訳を途中でさえぎった。
「僕、本当にそんなに長く話したっけ?」
場内大爆笑。フォーマルな堅苦しい席が、とたんになごんで、フェリーニに似合った場面に一瞬で転換した。
自分が話しているときは夢中で気づかず、その後わからない言葉で訳されるのを聞くと余計に長く感じられるのか、信じられないという顔をする人は多い。
しかし、フェリーニの場合は、「私が映画だ」という言葉を残した人らしく、これも彼一流の演出だったのかもしれないと、今になって思う。
衰退中の日本映画の再生について質問を受けた彼は、
「初めて出会った日本映画は黒澤監督の『羅生門』。映画が秘密めいた神秘性を伝えうるということを、この映画から初めて教わった。今の日本映画は知らないが、日本が衰退なら、イタリア映画は瀕死状態だ。かろうじて私がいるけどね」
と、また場内を湧かせた。
翌日、来日時公開の新作『ボイス・オブ・ムーン』用の記者会見が、夫人のジュリエッタ・マシーナと並んで、数百人を集めて行なわれた。
「映画を見ることは、夢を見ることなのです。映画を見にいった人は、暗い映画館という巨大なベッドの中にみんな寝ころがって夢を見ているのです。私は人々の夢を作っています」
俳優のマストロヤンニは、映画を大人のごっこ遊び≠ニ言い、監督のフェリーニは夢≠ニ表現した。イタリア人にとって映画は、アメリカ人のようにひと儲けするビッグ・ビジネスには決してなり得ないのである。
『道』、『ジンジャーとフレッド』など、夫の映画にも多く出演したマシーナ夫人に、
「厳しい監督が夫だというのは、どんな気分なのですか?」
という質問が出た。答えは、
"Faccio pagare a casa."(落とし前は家でつけます)
滞在中、主役の夫を立て、常に控え目にふるまっていた夫人のこの答えには妙に真実味があり、フェリーニも苦笑していた。
最後まで仲のよかった夫婦らしく、フェリーニの死後まもなく、後を追うように夫人も世を去った。そんな二人のただ一度だけの来日となった。
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イタリアン・マッチョの代名詞フランコ・ネロ[#「イタリアン・マッチョの代名詞フランコ・ネロ」はゴシック体]
フランコ・ネロはマカロニ・ウェスタン映画全盛期に一世を風靡《ふうび》した男優である。来日は一九八四年九月、マルコ・ヴェロッキオ監督の『凱旋行進』の主役として、第一回イタリア映画祭の折りである。
ネロこそまさにイタリアン・マッチョの代名詞、身長百八十五センチ、金髪碧眼。最近の日本では、映画『ダイ・ハード2』の亡命を企てる悪役の将軍くらいでしか目にすることがなく、寂しい思いもしているが、イタリアでは渋い役どころで舞台やテレビで活躍している。
彼との間に男児をなしたのは、イギリスの性格女優ヴァネッサ・レッドグレーヴ。「僕が世界一尊敬している俳優」と、そのときすでに別れていた彼女の自慢話をひとしきりしてくれた。悪口を聞くよりはるかに気持ちよく、好感を抱いた。
舞台あいさつなどのハード・スケジュールの合間に、おみやげのカメラを買いに新宿へ行った。イタリアでは大スターの有名人でも、日本での知名度はまだまだで、彼と気づかない店員は思うような値下げをしてくれない。私は小声でささやいた。
「この人は『殺しのテクニック』なんかに出ていた、有名なイタリアの映画俳優なのよ。色紙書かせるから安くしてよ」
店員はあらためて彼をじろじろ見つめ、やっとわかったと嬉しそうに大声で叫んだ。
「オー、ユー、ジュリアーノ・ジェンマ!」
万事休すとあせる私に、ネロ氏ウィンクして、
「イエース、アイアム、ジェンマ」
安くカメラを手に入れ、幸せそうな店員と握手して別れたのである。
このとき彼の投宿ホテルには前日から追っかけの女性ファンが泊まっていた。ネロ氏は到着後部屋で二、三時間休んだあと、インタビューを受ける予定になっていた。
ロビーに設置された事務局デスクで通訳兼コーディネーターの仕事をしていた私は、予定時間を過ぎても降りてこない彼の部屋に電話した。
二十分後、やっと現れた彼の顔は、到着したときよりもはるかに疲れて見える。
聞くと、チェックイン後すぐに、女性ファンに部屋に押しかけられた。彼女に礼を尽くして、ひどく疲れたのでマッサージの人を呼んだら、その若い女性も彼を見てその気になり、結局さらに疲れたのだ、と説明する。
話半分に聞いておいたが、本当だとすると、女性に対する礼儀を重んじる生粋のカサノヴァと呼ぶべきであろう。
滞日中、豪華な歓迎パーティがあった。ネロ氏はそこで知りあった日本の大物女優二人に声をかけたようで、翌日その一人がホテルに訪ねてきた。一時間後、こともあろうにもう一人の女優も彼を訪ねてきた。あせった私は彼女をロビー奥のバーに案内し、今写真の撮影中なので、少しお待ちくださいとおしゃべりで場を持たせ、彼に電話して、二人が鉢合わせしないようなルートを指示し、最初の彼女を送り出してバーに来るようにと連絡した。
完全犯罪はみごとに成立し、ネロ氏は世紀の美女二人との逢瀬を楽しんだのだった。
帰国の途につく前、彼は私に言った。
「素晴らしいマネージメントありがとう。君は僕が生まれて初めて信頼できる親友になれそうだと感じた女性だ。ローマで秘書をしてほしい」
本音は私だって、友人より愛人になりたいと思っているのに、あんまりではないか。
「信頼なんかいらないわ、愛をちょうだい」
と心中でつぶやいて、丁重にお断りした。
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ファッション界の帝王[#「ファッション界の帝王」はゴシック体]
一九九七年、ファッション界の帝王、いや神と崇められる存在のA氏が十六年ぶりに来日した。神の名はむやみに唱えるのを禁じられているので、ここではあえて名前を秘す。そのくらいの大物で、身体はさして大きくはないのに、周囲には渦巻きのようなオーラが漂っており、自然に畏怖の念が湧いてくるのだ。
初来日は一九八一年。当時は森英恵ら五人のファッション・デザイナーによる合同ショーであったが、今回は本邦初公開の、記念すべき単独ショーである。
これまでも来日計画は幾度となくあったが、実現されることがなかったために、巷では「飛行機が嫌い」、「日本が嫌い」というまことしやかな噂も流れていた。
帝王は十一月十五日、成田に到着した。高級高層ホテルの五室もあるロイヤルスイートにチェックイン、疲れも見せず原宿散歩。プリクラを試したり、明治神宮で御祓いをしてもらったりと精力的に動いた。
医学部出身の彼は、学生時代リナシェンテ(イタリアのデパート)のバイヤーを始めたのをきっかけにファッション界に身を投じたのだが、自らのブランドを発表したのは四十歳を過ぎてからという遅いスタートだった。デザイナーという職業は、何年も着られ、自分自身でいられる服を人々に提供するための奉仕≠フ仕事と言い切る。医者を志したのも、スター的外科医ではなく、病人の心も癒す町医者になりたかったからだと言う。
そのせいか目立つ記者発表会もなし、パーティでも仕事場でも、誰とでも厭《いと》わずに握手、記念撮影と気さくにこなす、帝王らしからぬ温かい人柄であった。
今までいろいろなデザイナーを見てきたが、彼ほど完璧主義のプロ、全身が美のアンテナといえるような人に会ったことはない。
まず第一に自身の美に厳しい。贅肉ひとつない鍛えあげられた体と、日焼けしたしわのない肌。自身の写真撮影にも、ライティングからバックの色まで納得のいくまで要求を出す。ポーズもモデルなみに決まっている。
仕事のスタッフにも完璧を要求する。睡眠時間四時間程度のA氏についている秘書役の若い男性のほうが疲れきっていた。ファッションショーも音楽、モデル選び、構成演出、メーキャップ、ヘアとすべて自分で決める。メークも自分でやり、見本を見せるという厳しさで、遠くからはよく見えないシャドウの濃淡も、一人一人チェックして直前まで直す。気品を大切にし、「目の下にラインを入れるとホステスみたいになるからやめて」と、綿棒で取ってしまう。通訳していた私も、慌ててトイレに駆けこみ、自分のラインを取った。
神宮絵画館の特設舞台でのショーが始まった。夕方六時一回のみ。プレミアム付きプラチナ・チケットの噂も流れたくらい、選ばれたハイソな客層である。芸能人の数の多さにも目を見張った。
このショー、グランドリハーサルは一度も行なわれなかった。彼自身が見せどころとなるシーンの動きと歩き方、表情を見せた後は、各モデルはミラノのショーのビデオを見て自分で構成を覚え込む。何度もリハーサルをしてだれるより、プロの緊張感を一気に出すほうを好んだのかもしれない。
帝王自身、最後まで舞台裏に立ち、モデルの衣装チェック、出のキュー出しをした。通常デザイナーの多くは、真ん前でショーを観客として見物し終了間際に舞台に登場、という段取りだが、彼は当日も最後まで働き続ける奉仕≠フスタッフに徹していた。
「大好きです。うまい話と甘い汁」を労働標語に掲げる私もこの世紀のショーを表で見ることができず、非常に残念な思いをしたのだが、仕事中の制服≠ニいう粋なはからいで数十万円のパンツスーツを支給され、ますます彼の虜になってしまった。
彼の夢は、日本におしのびで来てゆっくり京都を見ることとか。ぜひぜひ次回の早い来日を、と今から楽しみにしている。
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爆弾男アルベルト・トンバ[#「爆弾男アルベルト・トンバ」はゴシック体]
爆弾男アルベルト・トンバ(イタリア語では Tomba la bomba と韻が踏んである)が四回目のオリンピックに出場するため来日した。
残念ながら成績は振るわなかった。風水の方角が悪いのか、雪質が合わないのか、日本ではいつも不本意な成績に終わっている。
初めて彼の通訳をしたのは一九九二年のNHKサンデースポーツ。やっと生出演をOKしてもらった。NHK記者はワールドカップ開催地の雫石《しずくいし》から随行し、ドタキャンされないかと戦々恐々の面持ち。当時トンバには八、九人のスタッフがついており、マネージャー、コーチ、板調整士、栄養士に心理療法士までいる万全の態勢で試合に臨んでいた。
その後も彼のスポンサー企業のイベントやテレビの通訳をした。アテンドの通訳になるには、彼の趣味で二十歳前後の美人≠ニいう厳しい条件があるため、私には絶対声がかからない。
長野オリンピックでも、通訳もテレビに映ることを配慮して、テレビ局は女、年齢、ルックス≠最優先。ブスはブース=i同時通訳用ブースのこと)でしか勤務できない状況になりつつあることを認識した。
彼ほどの有名人になると、イタリアのマスコミも好き勝手なことを書く。自己防衛のための行動が誤解を招いているのだろうが、本質的には非常に繊細な人である。「ニュースステーション」の控室で、彼は私の資料の中からイタリア雑誌の自分関連の切り抜きページを何げなく取りあげると、そばにあったサインペンで二文字を塗りつぶしてしまった。そこにはきっと、真実とかけ離れた気に入らない形容詞でもついていたのだろう。
スポンサーであるオーデュマピゲ社のトンバモデル・スポーツウォッチ披露パーティで、彼は四千本もコレクションをしているワインの話をトークショー形式で語ってくれた。かつての敏腕マネージャーに代わって、今は二十一歳の妹が彼のマネージャーをしている。そのせいか、いつになくリラックスしているように見えた(妹と聞いてトンバの女性版を想像していたら、スマートで愛らしい美人だった)。
トンバの食事は持続力を生むパスタ中心で、イタリア最大のパスタメーカー、バリラのキャラクターもしている。数年前、日本でジャーナリストを招き、彼の手作りパスタを披露し、インタビューに答えるイベントがあった。そこで食べたお手製のパスタ・ソースのおいしかったこと!
さまざまな筋力トレーニングと食事メニューの話をしているとき、「ちょっと腕に触ってみてくれ」と言われた。ジャーナリストの人と一緒に、おそるおそる触ると、鋼鉄のように硬い。「ここも触ってみろ」と太股をさす。鍛えあげられた筋肉は、人間のものとは思えない硬さであった。一同、「さすがー、すごーい」と感心していると、彼はニヤリと笑って言った。
「もっと硬いとこあるぞ」
年甲斐もなくうろたえている私に彼はささやいた。
「骨だよ」
そんなユーモラスなトンバは、近年チャリティ活動も積極的に行なっている。ユーゴスラビアの子供たちのスキー大会を計画したり、障害者スキーヤーと一緒に滑ったりもしている。シルベスター・スタローンとのアクション映画出演の噂もある。そのキャラクターで今後も長く世界のアイドルとして活躍してくれるだろう。
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盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリ[#「盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリ」はゴシック体]
世界中で千二百万枚以上を売り上げたアルバム『ロマンツァ』、第二弾オペラ・アリア集『アモーレ』のプロモーションにアンドレア・ボチェッリが来日した。ミラノのピアノバーで弾き語りをしているとき、イタリアのロック歌手ズッケロに見出され、遅いデビューを果たした。今年四十歳、ポスト・パヴァロッティの呼び声の高い本格派テノール歌手である。
来日中、「筑紫哲也のニュース23」、「プライム・タイム」、「おはよう日本」、「徹子の部屋」に出演。早朝の「おはよう日本」以外ではスタジオで生で歌ってくれたので、私はすぐそばで彼の甘くのびやかな歌声を堪能する幸運に浴した。
生来緑内障だったが、十二歳のとき、サッカーの試合中、頭にボールを受けた影響で完全に失明。しかしピサ大学法学部を卒業し、一年間弁護士の経験もある努力の人である。生家はキャンティワインの農園を持ち、農機具を商う裕福な家庭で、幼いときからフランコ・コレッリの指導の下で声楽も学んでいた。
盲目のハンディをものともせず、乗馬やサイクリングをこなし、スキーも楽しむ。アシスタントの女性が、一度一緒に歩いて道の両側にある店や建物を教えると、次は歩数と感覚で「次は薬屋のある曲がり角だね」と、すべてを正しく覚えているという。
その能力を生かし、今年二月には、サルデニアでオペラ『ラ・ボエーム』にロドルフォ役で出演。舞台を動きまわり、テーブルセッティングをしたり、テーブルの下に隠れたりと、まったく普通の役者と同じ身のこなしであったとか。
そんな努力家の彼は、取材で盲目であることに触れられることを嫌う。彼はあくまでテノール歌手として認められたのであり、盲目であることを売り物にはしたくないのである。
日本でのテレビ出演は、いずれも同時通訳で行なわれた。「プライム・タイム」のマイクテスト中、私が同時通訳室で資料の紙をめくった。彼は耳ざとくその音をキャッチして、遠くのスタジオから、「君、今何を読んでるの」と質問してきた。
三日後の「徹子の部屋」の同時通訳室は、スタジオから離れた大きな機材室であった。マイクのオン/オフ・スイッチがないので、
「使っていないときのマイクも集音するのですか」
私は椅子の音も立てられないと心配して、音声スタッフに聞いた。
「大丈夫です。今日のはイヤホン接続型で、口元に直接ついている高感度方向性マイクですから、口元以外の音は拾いません」
しかし念のため、マイクテスト中に「今日は耳障りな紙をめくる音を立てないようにするわね」と伝えると、ボチェッリは笑っていた。
いよいよぶっつけ本番の収録開始。黒柳徹子さんは着物でスタジオに入り、襟元や帯を、彼の手を誘導して触らせてあげた。
「これが蝶々夫人も着る、着物というものです」
とてもなごやかな雰囲気であった。しかし番組半ばで、徹子さんは彼が盲目であることに触れて質問した。
「普通の人でも大変な法学部を出ていらっしゃるけど、勉強は点字の本でなさったの?」
私は普通のイタリア人が点字のことを "alfabeto cieco"(目の見えない人のアルファベット)と簡単に言っているのしか聞いたことがない。焦った。"cieco" という言葉は差別的な感じがあるので、今は正式には "non vedente" と言う。さらに点字は、正式には "braille" と言う。ただし、これをイタリア人がどう発音するのか一度も聞いたことがない。盲目であることを取りあげるな、と非常にナーバスになっている同行イタリア人スタッフたちに聞くわけにもいかず、「出てこないといいな」と事前に気になっていた言葉である。同時通訳なので、迷っている時間はない。英語の発音で質問を訳した。
ボチェッリは、「いいえ、友達と一緒に勉強しました」と答えた。「皆に協力して助けてもらって」という意味で答えたのだが、自分の訳が理解されたか自信がなかっただけに私は心中あわてた。もしや私の訳が、「一人で勉強したのか」というふうに聞こえたのだろうか。
その直後、コマーシャルタイムの一分オフのとき、表通訳=i日本語に訳す方)をしている少し離れて座っているパートナーの前にある紙に手を伸ばして、ボールペンで書いた。
「"braille" って通じたのかな」
即座に私のイヤホンにボチェッリ氏の声が入った。
「君、今なんて書いたの?」
遠くの微細な音をキャッチする人間ばなれした聴力に仰天して、青くなった。
「恥ずかしいわ。マリア・カラスのスペルは "Callas" か "Carras" か聞いたのよ。日本語にはR≠ニL≠フ区別がないから」
番組終了間際、徹子さんの最後の質問は、
「お名前はボチェッリでいいんですか。難しい名前ですね」
「"Bocelli" です。"Bocerri" と言わないでくださいね」
一体どう日本語に訳せばいいのか。私の咄嗟の嘘でパートナーにいらぬ苦労をかける羽目になってしまった。
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恐妻家の社会学者フランチェスコ・アルベローニ[#「恐妻家の社会学者フランチェスコ・アルベローニ」はゴシック体]
『他人をほめる人、けなす人』が翻訳書としては異例の百三十万部、二作目の『借りのある人、貸しのある人』もすでに三十万部売れ、これまた大ベストセラーになりそうな勢いのフランチェスコ・アルベローニ氏が一九九八年四月に来日した。一週間の滞在中、イタリア文化会館で講演し、精力的にテレビや雑誌のインタビューを受けた。
二作とも、イタリアで十五年にわたって毎週月曜日のコリエレ・デラ・セーラ紙の第一面に連載された氏のコラムを集めたものである。一作目の原題は、楽観主義者=A二作目は公人、私人=Aいずれも大幅にタイトルを変更し、人間分析的な仕立てにしたことが成功の要因であったようで、その点は本人も認めていた。
このコラム、一面にありながら十五年間、湾岸戦争の期間中すら事件にも政治にも言及せず、ひたすら一般の人たちの日常を描いていたことが特徴だ。イタリア人の慣習で、月曜日はサッカーの結果を知るためにスポーツ紙が売れ、一般紙の売上げが少し下がる。対抗策として親しみやすいコラムを載せたのが奏功し、同紙の売上げは月曜日に増えるようになったとか。特に上司の性格の批判をしたときに溜飲を下げる人が多いらしく、街角で知らない人に、「私の上司と知り合いなんですか? まったく彼そのものです」と話しかけられるという。
アルベローニ氏は九歳で、人間のことを研究する人になろうと決意した。なにせ社会学も心理学も学問領域として確立していなかった時代のこと、医学や精神医学と長い回り道をして、やがて『恋愛論』を世に発表すると、堅い内容でありながら百五十万部も売れ、一躍イタリアで最も著名な社会学者の一人として認められるようになった。
「目的がはっきりしているのなら、不可能な壁の前では迷わずやさしい道に迂回しなさい。迷路と同じで、最終目的地さえ見えていればきっと到達できる」
「人間誰しも持っているよい点を見つけて、もっとほめてあげなさい」
と、ストレスだらけの現代人を慰めてくれる楽観的な人物である。
何事にも通りいっぺんの見方をせず、深い洞察をする彼のインタビューは感心させられることが多くとても楽しいものであった。
一九二九年生まれだから七十歳近かったのだが、同行した夫人は彼より二十くらい若い金髪美人。実は夫人も著名な社会学者で作家。連日帝国ホテルのスイート・ルームでインタビューを受けている間、奥様は隣のベッドルームにカーテンを閉めて閉じこもり、まったく外出しない。聞けば観光にも買物にも興味がないとか。三日めあたりからアルベローニ氏が落ち着かなくなった。
「妻は何でもないと言うが、絶対おかしい。何か機嫌を損ねているのを隠しているんだ」
「イタリアでは妻も有名人で一目置かれているのが、ここでは僕ばかり中心になってるから疎外感を持っているんだ。何とか彼女もインタビューに参加できるようにしてくれないか」
と、夫人を気遣う。インタビューの合間には彼女のところに駆けつけ、
「君はなんて美しいんだ。君のいない僕の人生は考えられない。愛してるよ」
と優しく抱き寄せる。見ていた日本人男性が、「若い奥さんをもつと大変なんですね」と変なところで自分たちの古女房に感謝していた。夫人はすまし顔でのたもうた。
「私が彼と結婚したことで、たくさんの女性にすごく妬まれたの。あるとき、知らない女が近づいてきて、どんな手を使ってアルベローニ氏をものにしたのかと聞くの。にっこり笑って、私のような女性をどうやって手に入れたかを主人に聞くほうが筋だと思いますよと答えてやったわ。今までほとんどの有名人にくどかれたことがあるのよ」
スリムな美人の彼女は、生まれながら皮膚に毛穴も皮脂腺も異常に少ないため、常に外気温を二十二度から二十四度に保ち、定期的に保湿しなければならない。長距離ドライブの際は、アルベローニ氏が一時間おきに噴霧器で彼女に水をスプレーするという。まるで砂漠に一輪咲いた真紅のバラの花のように取り扱われているのだ。
一九九九年三月発表された精神病理学者クリスチャン・シュライナーの調査によると、イタリア男性のストレスの最大の原因が妻≠ナあるという結果が出た。なんと三人に一人が原因のトップに挙げている。
二度も結婚に失敗している当のアルベローニ氏は自分のことを女で苦労する人≠ゥもね、と分析していた。お疲れさま。
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人嫌いのベストセラー作家スザンナ・タマーロ[#「人嫌いのベストセラー作家スザンナ・タマーロ」はゴシック体]
アルベローニ氏に続いて、もう一人イタリアのベストセラー作家をご紹介したい。スザンナ・タマーロ。家を出た孫娘に宛てた置き手紙の形で書かれた『心のおもむくままに』は、イタリアで発売後一年半で二百万部を売り上げた。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もほぼ同数売れたのだが、こちらは十年以上かけた記録なので、文句なしにイタリア文学史上最大のベストセラーとなった。現在世界三十カ国で翻訳され、日本でも五十万部売れている。
スザンナは一九五七年、改宗ユダヤ人の家庭に生まれた。子供のころ、両親が離婚。それからは長年祖母のエルザと小説に出てくるような高台の家で暮らしていた。十代の終わりに単身ローマに出てきて、イタリア国営放送の記録映画作りにたずさわっていた。無名の彼女の持ち込み原稿は大手の出版社で門前払いを受けたのだが、わずか三作目でこの快挙をなしとげた。
来日は一九九六年九月。イタリアの吉本ばなな≠ニ呼ばれている彼女は三十代には思えない不思議な透明感を漂わせている。自己紹介すると、「あら、私の空手の先生は田村さんっていうの。タマル、類は友を呼ぶね」とご機嫌。
身長百六十センチ足らず、きゃしゃな体、ぼさぼさのボーイッシュカット(自分の顔を鏡の前で見ているのが苦痛で美容院に行かないらしい)、無頓着なカジュアルパンツ・ルック。共同生活者の女友達も一緒に来日した。金髪で白い肌、花柄ワンピースを着た彼女はどっしりと太っていて、神経質なスザンナとは対照的な包容力を感じさせる。
内気な少女の雰囲気を残したスザンナは素晴らしく頭の回転が速く、どんな質問にもよどみなく早口で含蓄の深い答えを返し、気心が知れてくると、ざっくばらんに楽しいおしゃべりもしてくれた。
「ローマに住んでたときつきあっていた彼氏ね、トリエステから泊まりがけで私の家に来るとき、タッパーウェア五、六個に母親の手作り料理を持ってくるのよ。ある日彼のお母さんから電話があって、息子の大好物のラザニアの作り方を教えるからいらっしゃいって言うの。うんざりして別れたけど、イタリア男はみんな重症のマザコンよ」
「ローマで映画の仕事をしていたときは、業界の男も女も寝て利用しあうことしか考えてなかったわ」
そんな現実に失望した彼女は今、トスカーナの深い田舎で女友達と犬猫八匹と隠遁生活≠している。
「私が散歩に出ると八匹が私の後ろを一列に並んでついてくるのよ。外で本を読んでいると、私のまわりにまるく座るの。一番心休まる時間よ」
隠遁したもう一つの理由は、イタリア文学界の彼女の作品に対する酷評である。イタリア文学の恥≠ニ断言した知識人もいた。誰にでもわかる平易な言葉で書いたものは、あくまで女子供の読物≠ナあり、文学作品とはいえない、文学は高尚、形而上的なものであるべきだという根強い固定観念があるのだ。それだけではない。スザンナが日本武士道の本『葉隠』で見つけて使った『心のおもむくままに』というタイトルも物議をかもした。欧米では神の教えにそった理性≠ノ従って生きるべきで、心のおもむくまま生きるのは自堕落、奔放のそしりを受けるのだ。
「欧米人は自分の内面の心に正直に対峙することを忘れて、頭でっかちになっているのよ」
とスザンナは憤っていた。欧州の閉鎖的、硬直的社会の中で、知的階級と大衆の間の境界線を壊した彼女の作品がベストセラーの金字塔を打ち立てたことへのやっかみは嵐のように彼女を襲った。繊細な神経の彼女には耐えられず、二〇〇〇年にはまたさらに奥深い田舎に移住したらしい。
彼女は、自分は前世で日本人だったと思っている。まだ幼いころ母親に、
「私が以前日本で、前のお母さんと住んでいたときね……」
とよく思い出話をして、まわりからはちょっと頭のおかしい子≠ニ思われていたとか。
彼女の小説の映画公開の折り、再度日本への招待の話もあったが、突然精神状態が変わると人嫌いになるスザンナは、その後来日していない。しかし日本との不思議な絆は残っていて、彼女の弟はイリー・エスプレッソ・コーヒーの対日輸出部長としてしょっちゅう来日している。
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挑戦するカメラマン、オリヴィエーロ・トスカーニ[#「挑戦するカメラマン、オリヴィエーロ・トスカーニ」はゴシック体]
オリヴィエーロ・トスカーニはベネトン社アートディレクター。社長のルチャーノ・ベネトン氏を全裸にしたり、血まみれの兵士の服を撮ったりと、世界で最も物議をかもしているカメラマンである。彼は世間が良識・良俗とみなしているものに果敢に挑戦状を突きつける。
野性の自然児、言行一致の自由人。人を決して地位、名誉、資産などで判断しない。あらゆる固定観念から無縁。長い間『ELLE』などのファッション誌でカメラマンをしていたのにいつもラフなスタイルで、おしゃれやエレガンスとも無縁。
そんな彼のインタビューほど楽しい仕事はない。思ったことを何も恐れず率直に口にする。人にどう思われるかなど一切考えない。
「ルチャーノ社長とは、従属関係はない。彼は僕のできない経営という仕事をしている。僕は彼ができないクリエイティブを担当しているのだから、まったく対等だ」
「ベネトンの社長から広告写真の依頼を受けたとき、二つ条件をつけたんだ。仕事は社長とだけ話して決める。一切他の取締役の干渉は受けない。そして広告代理店は排除して直接社内ですべてを作る」
不買運動まで巻き起こす広告写真に社内の風当たりは強いのだろうが、今まで彼のアイディアにNO≠ニ言ったことのない社長の庇護の下、次々に活動の幅を広げて、今や社内に世界中から二十五歳までの若者を招待してグループでワークショップ的な仕事をするクリエイティブ養成学校ファブリカ≠作ったり、五カ国語で雑誌を発刊したりと、活動はとどまるところを知らない。
報道写真家の父を持った彼が、なぜ広告の写真を撮るのか。
「新聞もテレビも、言語に頼る限りあくまでローカルな媒体でしかない。今日最もグローバルなコミュニケーションのツールはイメージに訴える広告メッセージなんだ」
そんなメディアの落とし子のような彼だが、実生活ではトスカーナの田舎に住み、アラブ種の馬を飼育し、食べ物はほとんど自給自足。家にテレビを置いたこともなければ、コンピュータ類も一切ない。テレビがない分、家族との会話が豊富で、家族仲もよい、と語る。
「テレビはウンコみたいなものだ。毎日の習慣になっているけど、じっくり自分の排泄物を見る人は誰もいない。それと同じで、みんな暇潰しに眺めて時間を無駄にしているだけだ。たまに旅行中ホテルのテレビをつけるけど、三十分も見れば充分。世界中同じような番組をやってるしね。僕は自分の目で見て、手で作ったものだけを信じるんだ」
『広告は私たちに微笑みかける死体』というセンセーショナルな広告批判の本も書いて、ありえない幸せな家庭と日常ばかり提示する既存の宣伝手法を笑いとばしている。
一九四二年、ミラノ生まれ。第二次世界大戦中、父親は兵隊に取られ、すでに十三歳と十一歳の二児を持つ母親は、妊娠したがとても育てていく自信がないと、闇の中絶医のアポを取った。医師のもとに急ぐとき、ミラノの空襲が始まった。爆撃は中絶医の建物を破壊した。
「普通は人を殺すはずの爆撃が僕に生命をくれたんだ」
彼らしい誕生秘話である。
以前、札幌での講演会の質疑応答で一人の青年が質問をした。だらだら長く話すのだが、まったく要領を得ない。大体こんなことだろうと訳したものにオリヴィエーロがなかなか含蓄のある答えを返した。青年はその答えに感謝するでもなく、
「通訳を介さないで自分で直接話せないのが残念です」
と、ひとこと言い放った。
日本語もうまく話せない人間が外国語ができるはずがないと、通訳をした私は内心ムカついていたのだが、オリヴィエーロが胸のすくような答えを返してくれた。
「外国語を話せるかどうかは、二義的な問題でしかありません。大事なのは自分が話すに足る内容を持っているかどうかです」
毎年、ベネトン社の製品カタログは街の普通の人たちをモデルにして作成している。彼はマフィアの街で有名なコルレオーネの若者を使ったり、パレスチナ人とユダヤ人をカップルにしてイスラエルで撮影したりと、人々の先入観を壊すような話題を提供しているのだが、今回は日本の原宿の若者をモデルに選んだ。
「日本の若者は世界でもユニークだ。若いのに高価なブランド物を着るために、援助交際までする。ブランドが目立つものを身に着けるということは、そのブランド王国の制服を着ているのだ。自分に自信がないからブランドで安心感を買っているのだという事実に気づいていない。それに比べると、自分が独自に考えたファッションを着こなして原宿を徘徊する子供たちの溢れるばかりの自由なクリエイティビティには驚かされる。普通奇抜な服を着てたむろしている西欧の若者は、ドラッグをやったり、社会に絶望していたりして、攻撃的で不潔だが、日本の彼らは清潔で純真、功名心も問題意識もない。無意識に、経済と効率優先の日本の社会に背を向けているのかもしれないけれど、まさに現代の天使だね」
世界に六百万部配布されるベネトン社カタログに彼らを登場させ、物真似専門で創造性が欠如していると思われている日本人のイメージを変えたいと、万年青年のオリヴィエーロは意気込んでいる。
後記
二〇〇〇年五月、彼は十八年間続けたベネトンのアートディレクターの座を去った。「どんな関係も永遠に続くものではない」と言い残し、ルチャーノ会長と袂《たもと》をわかった。アメリカの死刑囚を撮影したキャンペーンがベネトンでの最後の作品。最後まで世界を相手に問題提起しつづけた彼は、企業広告の常識を根底から覆した反逆の闘士として人々の記憶に残るだろう。その後も、アメリカの雑誌やイタリアのテレビ番組制作などの仕事をして相変わらず世界を飛びまわっている。
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サクセス・ストーリーの主人公ルチャーノ・ベネトン[#「サクセス・ストーリーの主人公ルチャーノ・ベネトン」はゴシック体]
ベネトン社アートディレクターであるオリヴィエーロ・トスカーニ氏が、メディチ家と並ぶ歴史に残る芸術パトロン≠ニ絶賛するベネトン・グループ会長兼CEO、ルチャーノ・ベネトン氏。おそらく元首相ベルルスコーニ氏とともに、イタリア最大のサクセス・ストーリーの主人公であろう。
今や、ベネトン・グループ傘下に買収したノルディカ、ケスレー、ローラーブレードなどのスポーツ用具メーカー数社、スーパーチェーン、レストランチェーン、オリーブオイル農園などのほか、F1のワークスにもかかわったりと、超多忙で、世界中を自家用ジェット機で飛びまわっている。日本にも毎年三、四回はやってくる。
彼は、いつも温和な自然体で、会う人を魅了する独特のカリスマ性を備えている。経営に関しては本能的な才覚を持ち、買収や取引先の切り捨ても情に流されることなく、必要なときにベストと思われる決定をする。だからこそ短期間にベネトン帝国を築くことができたのだろう。
父親を早くに亡くしたため大学にも行っていないし、経営や投資でROE(株主資本利益率)などの統計を緻密に分析することもない。常に世界を歩き、自分の目で見、直感的に判断する。その現場主義には頭が下がる。超VIPになった今も、滞日中は必ず地方のショップを自ら訪れ、売れ筋やお客の意見を聞いてまわるのだ。
トスカーニ氏は、
「僕は全部自分の手を使ってできることだけをやってきたけど、ルチャーノは手を使うことは、セーター作りはもちろん、電球一つ交換できない。でも経営に関しては天才だ」
と賞賛する。トスカーニ氏に何の条件もつけず、好きに活動させているのみならず、彼の要望に即座に応えて全裸になるなど、大物の風格充分である。ユーモアもある。
「トスカーニ氏が、最も偉大な人は僕に好きなことをさせてくれるパトロンの会長だ≠ニ常にあなたをほめていますが?」という質問に、
「僕たちは秘密の契約を結んでいて、相手をほめあって価値を高めて、互いに所得のコミッションを渡しあっているんだ」
と、まわりを煙に巻いたりもする。
ルチャーノ氏は、共和党から上院に当選し議員になったことが一度ある。しかし、政治の場の非効率に驚き、二度とかかわりたくないと言う。
「イタリアは、戦後十八万にも及ぶ立法をしてきて、それらがすでにほどけないくらい複雑に絡み合い、民間人の足枷《あしかせ》になっている(ちなみに独仏の戦後の立法数平均は六千。あまりの数の多さに桁が違っているのかと聞き直したのだが……)。国民投票の数も異常に多い。正しいと信じたことをスピーディに実行することが不可能な世界だ。すべてを党利党略、駆け引きと根回しに基づいた合意で決めなくてはならない。これでは優秀な若者は政治には入ってこない。ビジネスでは個人の責任が明確だし、結果がすぐに出るのでやりがいがある。今一番必要なのは、若者に明るい未来の展望を示すことのできる偉大な指導者的政治家だ」
実際に国政の現場にいたことがあるだけに、政治批判には熱が入る。
ルチャーノ会長の来日の楽しみの一つに鍼《はり》治療がある。東京にいる間は毎朝通い、昼食を抜き、苦い漢方薬を飲む。あるインタビューで後継者のことを聞かれ、「私は不老長寿の秘薬を飲んでいるので、二十一世紀もずっとベネトン帝国にいすわるのだ」と、笑いながら応えていた。「人生で一番楽しい瞬間は、朝、車で会社に向かうとき」と語るルチャーノ氏は、それほど仕事が好きなのだろう。
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セクシーな建築デザイナー、エットレ・ソットサス[#「セクシーな建築デザイナー、エットレ・ソットサス」はゴシック体]
通訳の仕事で、私の場合一番多いのが建築デザイン関係である。おかげでイタリア・デザイン界を代表すると目されているほとんどの建築家と知り合いになることができた。その中で最も魅力的な人は誰かと尋ねられたとしたら、迷うことなく「伝説のメンフィス」を創設したエットレ・ソットサスの名前を挙げるだろう。
初めて彼に会ったのは、メンフィス時代に初来日を果たした一九八〇年。西武ハビタットに作品が陳列されたときで、創設メンバーのアンドレア・ブランジ、ミケーレ・デ・ルッキ、ジョージ・ソードンらと一緒であった。その折り西武が何を思ったのか、自社ブランドのリクルートスーツの広告宣伝キャラクターにも採用した。芸術家然とした個性的な彼らが、日本のサラリーマンの背広を着てポーズをとったポスターやテレビコマーシャルを目にし、ショックでのけぞったものだ。そのときはデ・ルッキの通訳をしたので、ソットサスとはあいさつをしたのみで、気難しそうなルックスと、怖そうな奥さんだけが印象に残った。
数年後、突然の仕事の依頼が友人を通じてあった。メンフィスの日本人メンバーであった倉俣史郎氏の追悼講演会の通訳だったのだが、予定されていた通訳が事前打ちあわせに行ったとき、初対面の自己紹介代わりにと、イタリア大統領と一緒に撮った写真を引き伸ばしたものをソットサスに見せた。すると彼は、
「そんなものを自慢するような品性の卑しい通訳には、自分の言葉を訳してもらいたくない」
とへそをまげてしまった。そんないきさつの中で、おそるおそる通訳をつとめることになったが、温厚で、子供っぽい愛らしさとカリスマ性の双方を感じさせる魅力的な人物だった。その後縁もあり、何度も講演会の通訳をすることになって、やっと親しみも湧くようになったころ、唐突に私に聞いてきた。
「数えきれないほど来日してるけど、まだ理由がわからないことが一つあるんだ。聞いてもいいかな」
「はい、私でわかることでしたら」
「僕は毎回各国のホテルでアダルトビデオを見るんだけど、日本のは、ほとんどが嫌がる女性を犯すものなんだ。日本女性が積極的に参加して一緒に楽しんでいるものをまだ見たことがない。日本の女性は無理強いされるのが好きなの?」
さすがの私も答えに窮した。
「日本の男性は、そうすることで支配欲を満足させ、女性もいやいやしかたなくそうなったというふりをすることで、内気さ、被害者の立場とかを演出するのかも」
と、歯切れの悪い答えをしてしまった。しかし、その質問で彼が七十代の高齢でありながらセクシーな理由が理解できたのだった。
論客で多弁、難しい言葉を駆使するイタリアのデザイナーの中で、彼は非常に明快で短い言葉で話す。それだけに言葉全体が詩のように練られている。言葉の持つ力に突き動かされ、私もシャーマンの魔法にかかったようにパワーをもらって訳語が出てくる気がする。
彼はオリベッティの赤いタイプライター、バレンタイン≠フようなベストセラーの工業製品をデザインしているにもかかわらず、自分は工業デザイナーではなく、アーティストだと断言する。
「デザイナーとアーティストの最大の違いは注文主=客がいるかどうかだ。デザイナーは客の注文がないと何一つ作れない。アーティストは客のあるなしにかかわらず、作品を作り続ける。この前作ったソファー、客がここの黄色はきらいだから茶色に変えろというんだ。一体画家が描いた絵の中の色を変えろなどと言う客がいるだろうか。僕は芸術家だから、作品に注文をつけられることに我慢がならない」
おそらく金のために仕事をしたことなど、一度もないのではないだろうか。好きなことだけを楽しんでやってきた幸せなアーティストであろう。
八十歳になったエットレ・ソットサスは、長年のパートナーでジャーナリストのバルバラといつも一緒に旅行をしている。講演会もバルバラが客席最前列に座り、彼のスライド説明の年号や人の名前の間違いを大声で直す。後ろで結んだ彼のロン毛を編んで、服に合った色の毛糸のリボンで結んだりと、かいがいしく世話を焼く。それでもエットレの女性に対する興味は失われず、今も二十代の美人の恋人とお忍びで会っているのだとか。
ソットサスの弟子で今は有名建築家のひとりが数年前、自分の車にエットレを乗せてスイスに仕事に行った帰路、車が高速道路で故障し、立ち往生してしまった。その夕方若い恋人とデートの約束があったエットレ、遅刻すると激怒し始め、タクシーをミラノからスイス近くの高速道路まで呼びつけ、ひとり故障した車に残る彼にタクシー代を支払わせてデートに駆けつけたのだとか。
「車が故障しないようにメンテナンスするのは君の役目じゃないか」
と一喝された彼は、恋するエットレには誰も勝てないとぼやいていた。
有名人ではあるが、あまり賞には縁のなかったソットサスが岐阜県主催の織部賞の第一回グランプリを受賞したのが一九九七年二月。この賞は古田織部の独創的、自由闊達な精神を顕彰するもので、今織部が生きていたら誰の作品を選んだかという視点で選ばれる。第一回にふさわしい人選である。そのときの彼の受賞スピーチは、
「生まれてこのかた、私はいつも自問自答してきた。この地球上で、俺は一体何をしているのか。何のために生きているのか。八十まで生きて少し疲れ、足が痛いのでリーボックのスポーツシューズを履いた、無冠のシンプルなエットレがいる。そして今日ここで華やかな賞をもらったイブニング姿のエットレがいる。私はちょっと得意になり、とても嬉しい。でもこの二人のエットレは、これからどう折り合いをつけていけばよいのだろうか。うまくやっていくだろうか。こみいった問題を抱えてしまったけれど、私の残った人生に複雑さを与えてくれた織部賞に心から感謝します」
という趣旨のものであった。
たくさんの仕事と恋人に囲まれて、もっと複雑に、もっとわがままに生きてほしい。
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シモネッタ以前[#「シモネッタ以前」はゴシック体]
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青雲の志[#「青雲の志」はゴシック体]
父九人兄弟の末子、母八人兄弟の長子の間、広島に生まれた私は、老若年齢の幅のある親戚縁者には事欠かないものの、その中に外国語を操る人は一人もいない。私自身海外留学の経験もなければ、外国人に個人レッスンを受けたことすらない。その私が大学時代から英語とイタリア語の通訳を始め、その経験も三十年以上になろうとしている。環境的にも遺伝子的にも稀有なケースだと思われるが、この私が通訳を志したのは、なんとわずか齢《よわい》六歳のときなのである。
ある夏の夕べ、母が広島カープのナイターを見に、兄と私を市民球場へ連れていってくれた。試合前アイスキャンディを食べさせてもらったのに、試合中再び売りにきたアイスを二人でねだった。衛生面にうるさい母は「二本も食べるとおなかこわすからダメ」とにべもない。そのとき後ろの席でアイスを買う声がした。うらやましいな、と聞いていると、突然私たちの前にアイス二本が差し出された。驚いて後ろを見ると、岩国の米軍基地から来たのだろう、派手な日本女性の隣で、カーキ色のおしゃれな軍服を着たアメリカ人青年がにっこり微笑んでいる。生まれて初めて見る外国人男性は、金髪碧眼、白い肌が輝くような美青年。少女の私には、おとぎ話の王子さまに見えた。呆然としている私たちに、母もあせり気味に「いいから、サンキューって言いなさい」と許してくれた。私はもう野球も目に入らないくらい舞いあがっていた。帰路、母はくやしそうにつぶやいた。
「言葉ができたら、もうすでに食べさせているので、困りますって断れたのに。原爆を落としたアメリカに食べ物をもらうなんて屈辱的だわ。あんたたちは、将来きちんと英語を勉強して、言うべきことは言えるようになってね。そしていつか外国に行ったら、私の言うことも通訳してね」
強烈な原体験の中で、私は「英語を勉強して、いつかあんな王子さまと直接お話しできるようになろう」と固く誓った。食べ物と美男子という、いとも薄っぺらなモチベーションで始まった私の外国語勉強が、その二つが最も豊富にあふれているイタリアにたどりつくのは、自然のなりゆきだった。
六歳のときの、青雲の≠ニいうにはあまりにささやかな少女の夢は、何とか実現をみたことになる。人生のきっかけは本当に不思議である。これからローカルな環境で育った普通の女の子が、花の東京で通訳になり、食べ物と男≠獲得するまでの道のりを紹介したい。
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学園生活[#「学園生活」はゴシック体]
広島のノートルダム清心学園には十二歳で入学した。緑深い山の中、赤い屋根の校舎には市内を一望できるカフェテラスも完備しており、楽しい六年間の学園生活を送るはずであったが、毎日三十分の山登り通学と校則の厳しさには音をあげた。
上級生を追い抜かす際は「失礼します」とお辞儀をする。階段で先生が下から上がっていらっしゃると、先生が自分より高い段に行かれるまでその場で立ち止まる。授業中にものを落としたら、机の横で「失礼します」(外国人の先生の場合は "Please pardon me.")と言って拾う。重箱の隅をつつくような細目が定められている。
月一回の風紀検査では、物差し片手に耳下三センチの髪の長さと膝下五センチのスカート丈をチェックされる。この学校、近所に民家もなく誰に見られるわけでもないのに、妙齢の女子のブルマー姿を忌み嫌い、長いウール地のひだつきキュロットスカートを体操服に指定していた。小学校時代五十メートル走、十秒六の不倒記録を保持していた私の運動能力は、この重いスカートでさらに低下する。しかし運動会は、徒競走でころんだ女生徒のスカートがめくれて腿《もも》まで見えるのが、かえってセクシーと観客の男子生徒には人気だった。
運動会で、当時はやり始めていたツイストを男装した女子とカップルで踊る余興を披露した生徒二人が一日停学を食うような環境で、当然男女交際は厳禁。寄り道も禁止。
もっとも辛かったのは、学校では教室以外の場では私語厳禁だったこと。朝の下駄箱でもあいさつの言葉のみ可。「ねえ、宿題やってきた?」なんて小声でも話そうものなら、隠れている風紀委員からさっと違反切符が差し出される。切符三枚で先生のお説教部屋行き。休み時間の廊下もトイレで並んでいるときも、女の子たちは不気味な静かさでおしゃべりの欲求に耐えていた。きわめつきは黙想の日。まる一日チャペルで沈黙のうちに神に思いを馳せる。
成人の日に三分も静かにしていられない今の若者にやらせたい苦行である。今思えば、私の場合、多感な六年間に抑圧され続けた異性への関心とおしゃべりが反動で噴き出して、シモネタ好き、おしゃべり好きの通訳になったような気がする。
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英語重視のカリキュラム[#「英語重視のカリキュラム」はゴシック体]
カリキュラムは英語重視で、中学一年は週六時間。うち五時間は日本語の話せない若いアメリカ人シスターの会話。残り一時間のみが日本人シスターによる文法にあてられていた。まずオリジナルのテキストで、基本の英語発音を徹底的に教えられる。Aの発音は四つ、and, paper, father, watch あんまりしつこく繰り返させられたので、三十年以上経った今も覚えているくらいだ。she, see, sea それぞれの発音の違いができるようになるまで三十分残されたこともある。基本の発音を覚えると、"Thinking in English" というテキストで会話の訓練に入る。三巻あるこのテキスト、質問のタイプ別にできており、be 動詞の質問には be 動詞、have 動詞には have を使い、what で質問されたら名詞で答えるという訓練ができるようになっている。アメリカ人シスターが順番に質問し、一巡したら全員を立たせて、今まで習ったタイプの質問をランダムに聞いていく。答えた人から着席という恐怖の時間は今も私たち生徒の悪夢として残っている。
考えてみると、会話はほとんどが質問と答えで成り立っている。
「どこから来たの」「駅はどこですか」「何してるの」「何歳?」これらの質問に、テキストのタイトル通り、英語で考えて#ス射的に答えられるように訓練していくのだ。
アメリカ人シスターが弾丸のごときスピードで質問を繰り出し、即座に答えないとすぐ次の生徒に移るという方法を繰り返していくうちに、いちいち日本語に訳す工程をスキップし、自動的に英語で考えて答えられるようになっていく。中学三年のときアメリカ人ペンパルの女の子を友人と案内したが、みんな何とかしゃべっていた。学校の授業だけで会話できるようにしてくれたこのシステムには今も感謝している。
このテキストは、私が大学時代に英語の家庭教師をしていたときにも使い、有用性を検証したものでもある。輸出を始めた製造業の社長さんに週二回教えにいき、わずか半年後、奥様から「前回と違って主人が軽々と話すようになっていて、本当に驚きました」と感謝された。
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ペンパルを持つ[#「ペンパルを持つ」はゴシック体]
今はインターネットやEメールで世界中に友人の輪を簡単に広げることができる。
ペンフレンド、ペンパルも死語になりつつあるのだろうが、私たちの時代には国内外を問わず、文通はロマンティックな流行の一つだった。ましてやカトリックの女の園、ハンサムな外国人男性へのあこがれはつのるばかり。
東京オリンピック、ビートルズ初来日、中学時代のこの国際イベントは地方にも英語熱を呼び起こしていた。
オリンピックで来日した記者団の顔写真、新聞社住所の一覧が載っていた週刊誌を見つけた友人と私は、好きな国の顔のいい人という基準で選んだギリシャの記者に手紙を書いた。
「私たち二人と文通してくれる人を探してください」
面倒と思ったのか、この記者が新聞に私たちの住所、年齢を記載、ペンパルを公募してくれたからたまらない。一週間後くらいから、二人のもとにはまさに有名人へのファンレターともおぼしき手紙の束、時には気の早いプレゼントまでが、郵便配達の人もあきれるくらい届き始めた。半分はギリシャ語の手紙である。泥縄で、ギリシャ語の勉強も始めた。
とても全員に返事は書けない。しかし、せっかくの国際交流の根を枯れさせてはならないと、今はなき中学生向けの雑誌に「ギリシャ人ペンパル紹介します」と載せた。今度は希望者の手紙が日本全国から殺到。ランダムにギリシャ人の手紙を入れて返送。ギリシャ語の手紙もそのまま入れるという無責任ぶり。ともかくこの騒ぎは三カ月くらい続き、友人と私は毎週日曜日、その事務処理に忙殺されることとなった。
自分用には当然写真同封の中から厳選し、英語で書いてきた男性二人、同い年の女の子一人と文通を始めた。自己紹介、家族紹介、そして日本の説明などこれもまた英語の勉強にとても役にたった。うち一人の男性は、しばらくして交通事故で亡くなった。もう一人は航海士になり横浜で六年後に会うこともできた。異国のことを実際の人を介して知るという面白さにのめりこみ、その後も、スウェーデン、ビルマなどの人と文通をした。お小遣いのほとんどは切手代に消えた。スウェーデンの女の子には金髪の小さな束を送ってもらったり、ビルマの子には細長い外米の粒を封筒に入れて送ってもらったりと、地方都市で初めてふれる異国の香りを楽しんだ。
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英語合宿[#「英語合宿」はゴシック体]
ノートルダム清心の岡山校に広島と新潟の生徒が集まり、五日間英語漬けの日々を送る英語合宿も行なわれていた。期間中日本語の使用は禁止という厳しい条件があるため、女の子ばかりなのに不思議に食事中も静かであった。その後シスターの目の届かない部屋に帰ると出身県の異なる新しい友人と堰を切ったように夜遅くまでおしゃべりをしたものだ。
この合宿中、私は日本に赴任したばかりのアメリカ人シスターに恋をした。三十歳になるかならないかの上品な顔立ちの美人である。定期入れにシスターの写真をしのばせて思いをはせる禁断のプラトニックラブ。英語の質問という口実のもと、学校隣接の修道院にラブレターを届けた。シスターは私と友人を入り口の応接室にいざない、長い黒スカートのポケットから写真入れを出し、「秘密よ」と言って見せてくれた。聖母マリアの御絵の下には、彼女がティーンエイジャーのときつきあっていたボーイフレンドの写真が隠されていた。隅もぼろぼろになった写真の中で純朴そうなアメリカ人青年が微笑んでいる。「こんな素敵な恋人と遠く離れ、その美貌でなぜ日本で神に仕える決心をしたのか」
聞きたい、知りたい、でも言葉が出ない、もどかしい。語学に愛≠ヘ不可欠。好きな人と話したい一心で、私はさらに英語の勉強に励むようになった。
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英作文コンテスト[#「英作文コンテスト」はゴシック体]
英作文や英語スピーチコンテストにも熱心に参加していた母校で、高校一年生のとき全国高校生英作文コンクールの予選を通過し、最終選考会出場のため初めて上京することになった。当時新幹線は大阪までしか開通しておらず、東京まで十二時間かかる寝台特急あさかぜ≠ノ英語の先生と母の三人で乗りこんだ。
陽がのぼるころがちょうど静岡で、富士山の威容に日本の首都≠ノ行くという緊張と期待が高まった。今も原宿を嬉しそうに闊歩する修学旅行生を見ると、そのときを思い出しつい微笑んでしまう。今も昔も、東京は若者を魅了する。
初めて見る東京は、オリンピックの熱気がそのまま残っているかのような活気が充満していた。
コンクールの入賞者は大半が東京の聖心と雙葉の女子生徒で、男性は宮城の高三と愛媛の高一、そして地方からの唯一の女子生徒が私であった。私は会場で東京のお嬢様たちの雰囲気に気圧《けお》された。テレビでしか聞けない美しい標準語、おしゃれな制服であかぬけた立ち居ふるまい、お別れのときは、「それでは、ごきげんよう」である。
その場でタイトルを与えられる英作文での最終審査では、みごと宮城の公立高校の男子生徒O君が一位をとった。地方、公立という二つのハンディを克服しての快挙に尊敬の念が湧いた。O君と文通を始め、名物の笹かまぼこなどを送ってもらい、あこがれの彼を追うように東京外語をめざすようになった。ここでも私の進路に男と食べ物がからんでいる。
広島に帰ってから父に当時珍しかったドイツ製タイプライターを買ってもらい、さらに英語の勉強に力を入れた。教科書を予習でタイプアップし、行間に慣用句や単語の意味をカラフルに書きいれる。音読には特に力をいれた。
こうして六年間は塾も家庭教師もなしに、すべて学校の勉強と旺文社のテスト添削のみで受験勉強をした。文系の頭なので数学のひらめきは皆無。理数系は演習問題を数多くこなし、定石を徹底的に記憶して克服した。
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青天の霹靂《へきれき》[#「青天の霹靂《へきれき》」はゴシック体]
高校三年の春、わが家に大事件が起こる。父が人にだまされて経営していた会社を清算することになった。「だますよりだまされろ」が信条の父は、頼られたら保証書にもサインするという人なのだが、会社を手放すのもこれで二度め、家族はたまったものではない。受験目前の年、父は会社兼住宅のビルを手放し、新しい仕事を探すことになった。
まずは住まいを確保しなければならない。毎日帰宅後、母がめぼしをつけていた物件を見て歩く。幸い学校にもあまり遠くない新築の住宅を借りることができた。前の市内中心部と違い、まわりにはまだ畑が残り、家から夕日が見えるなど、自然環境に恵まれていた。
七月に転居。受験勉強どころではない怒濤《どとう》の一学期であった。引越しの日、父は仕事を理由に朝から出かけ、私は母と二人で荷物と格闘していた。そこに父がふっと帰ってきた。やれ嬉し、手伝ってくれるのかと思いきや、父は庭に子犬を置いて再び風のごとく車で走り去ってしまった。よりによって、引越しの日に捨て犬≠拾い、わが家に連れ帰ったのである。永遠の子供のようなところのある父は、捨て犬を見るといつでも連れ帰った。これで五代目の犬である。とりこみ中の見知らぬ場所で、子犬は所在なげにうろうろしている。ときにはしっぽを踏まれ悲鳴をあげる。こうして失意の新居に笑いをもたらす犬が家族に加わった。まったく未来の見えぬ新しい境遇で、この犬とまわりの自然にはずいぶん心なぐさめられたものである。
はたしてこれからどうやって食べていくのか。大学など夢のまた夢ではないか。
父四十七歳、母四十三歳。二つ違いの兄は、東京の私大の土木工学部の二年生。私と二人を東京に下宿させて仕送りする余裕はとてもない。
東京の兄が両親に手紙を書いてきた。
「遊んでばかりいた自分と違い、妹は東京の大学に行くことだけを楽しみに勉強してきたので、自分が大学をやめて広島に帰って働く」
長男を大事にするという昔ながらの倫理観を持つ父が、そんなことを許すわけはない。
とりあえず父は、自分の兄がやっている大阪の会社の広島支社のような仕事をすることになった。教育は最大の財産、自分がやりたい勉強ができなかった母も、何が何でも二人の子供は大学を出すと悲壮な決心を固めていた。
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大学入学[#「大学入学」はゴシック体]
寒さも頂点に達する二月、手始めに津田塾と東京女子大を受験し、両大学とも合格することができた。迷った末、寮があり生活費が安くあがりそうな津田塾に決め、寮にふとん袋いっぱいの荷物を送った。
三月下旬になって、当時国立二期校の東京外国語大学に合格が決まった。
ギリシャ語を勉強し、地中海文明に惹かれていた私は、イタリア語科を選んでいた。希少価値も将来性もあるように思えた言語である。急ぎ下宿を探すことになった。六畳をルームメートの女性と分けあった三畳の下宿を大学のすぐそばの西ヶ原に見つけることができた。二食付きで月九千円。幸い奨学金をもらえることになり、あまりお金を送ってもらわなくても何とかやっていける見こみもついた。
英作文コンテストで知りあった例の友人O君はそのころ英米科の三年で、国分寺の奥の津田塾寮から西ヶ原まで巨大なふとん袋を背負って引越しを手伝ってくれるという。宅配便もなかった時代とはいえ、二時間の道のりを電車と都電を乗り継いで、人目も気にせず荷物を運んでくれたO君、昔の青年は本当に人間的温かさにあふれていたな、と今さらながら頭が下がる。
下宿のおばさんは、旦那に逃げられ、残った家を下宿屋に改造して義母と中学生の女の子と生活していた。おばさんは私の荷物を運んできたO君をじろりと見て、「うちの門限は十一時です。それ以降は玄関はあけません。男子は絶対禁制です」と厳しく宣言した。それを聞いて安心した母は、部屋にはいってびっくり仰天する。全部で三部屋、なんと両隣に住んでいるのは男なのである。部屋の鍵はないも同然のこわれそうな錠前。男子禁制の意味はあるのか!
北区西ヶ原。都電の駅のそばは戦後の発展から取り残されたかのような下町である。木造モルタルの二階、初めての銭湯通い。原爆を受けた広島のほうがよっぽど復興してるわ、と知らなかった東京の新しいイメージに少なからず落胆した。
いよいよ一人暮しが始まる。広島に帰る母とはなかなか別れられない。巣鴨のとげぬき地蔵で最後に一緒に夕食をし、母は大塚へ出て、東京から広島へ、私は西ヶ原へと別方向の都電に乗る。都電の中で互いに思わず涙してしまった。明日から母も父と二人だけの生活になる。子供二人に送金するために市役所で事務の仕事をする手はずを整えていた。
こんなに苦労して大学にやってもらえるのだから、早く一人前にならなくては
借金の残るなか、夢の第一歩を踏み出す私の背中を押してくれた両親に心から感謝した。
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大学生活[#「大学生活」はゴシック体]
当時の外語大は男子が約八割、講堂前では空手部が声をあげ練習をしているし、下駄ばきでズボンにてぬぐいをはさんで闊歩するつめえりの男子もいるしで、六年間カトリックの学校で純粋培養されてきた私には夢のような空間だった。おのこのかたがいっぱーい≠ナある。目移りするうちに、引越しを手伝ってくれたまっすぐな好青年O君のことは忘れていき、東京出身のちょっと斜に構えた偽悪的な青年に惹かれるようになる。
こうして田舎出身のおぼこは花のお江戸で転落の道をたどるのだろうが、幸い外語の学生は、語学専攻という地道な進路を選んだ根がまじめな子ばかり、道を踏みはずすほどの大物も少なかったようで、私も無事卒業まで切ったはったもなく平和に過ごすことができた。
入学後の五月、全国の学園紛争の火種が外語にも飛び火し始めた。きっかけは中野にある寮の光熱費を受益者負担にすることに反対という理由である。床の抜けそうなぼろ家の寮で決起集会を開き、「ただみたいな寮費で住んでるんだから、光熱費くらい負担するのは当然」と覚めた目で判断しつつも、同時に社会変革に参画するという大義名分に酔い始めた。ヘルメットをかぶってのデモ、カンパ資金集め、ピケ学生への差し入れ、しょせん学生の変革ごっこだったのかもしれないが、途中でやめられない雰囲気にのみこまれていた。一緒に入学した仲間もイデオロギーの違いで分裂し、学園中にささくれだった空気が残るなか、紛争は終結した。だが、グラムシを出した国イタリア語科全共闘はあとあとまで授業粉砕を叫び続け、ろくに授業も受けない学園生活となってしまった。しかし私は得意の英語の授業だけは熱心に出て、教員免許もとった。
英会話にはケンブリッジから来たイギリス人の授業があった。彼は毎回小話を読み聞かせ、ヒアリングをさせた後、その内容について学生に質問をしていく。中学のとき嫌になるほど鍛えられていた質問−答えという方式で、私にとってはお手のものだったが、当時ほとんど公立出身の男子学生は言いよどみ、まったく会話にならない。当時、外語大の入試は一次試験は英語のみでふるいにかけ、その後五教科の二次に進んだ。みんな英語の読み書きは得意のはずなのに、話すほうはおそまつという日本的英語教育の弊害がみごとにあらわれていた。
英国人教師はすぐに私の名前を覚え、まず最初の質問を "Miss Taki, Please." とあて、あとはミス・タキの隣、前、後ろとあてていくようになった。やがて私の近くには誰も座らなくなり、いつもぽつんと島流し状態で授業を受けることとなった。
ある日の授業が終わった後、フランス語科のI君が話しかけてきた。
私の声が大きい、英会話ができるというところを買い、当時ぼちぼち増え始めていた外国人団体のためのガイドをやってみないか、という誘いである。
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通訳ガイド修業[#「通訳ガイド修業」はゴシック体]
ガイドをやってみないか、との誘いはアルバイトで生計をたてている私には渡りに船だった。何しろ条件がいい。外語大では語学の基本を学ぶ一年生の間は一切のバイトを禁止していたが、なにせ学園紛争でろくに授業もない日々である。初年度からいろいろな仕事を経験していた。
時給百十円の業者テストの分別作業、日当千二百円の証券会社や広告代理店の事務、訪問アンケート調査、予備校の試験官、最も割りのいい家庭教師でも月八回教えにいって九千円。
そんななか、一日一万二千円というのは水商売以上の破格の条件である。一日働けば二食付きの下宿代九千円も払えるのである。三十年前、外国語、しかもイタリア語を話す人材は希少だった。人材の需要と供給のバランス、為替レートの円安による外国人旅行取り扱い利潤の多さも原因だったろう。今はガイド料金も肉体労働系のバイト程度に下がっているのではないだろうか。
I君が連れていってくれたのは、黒石昌文氏が率いる通訳ガイドグループ、ポリグロット。今は著名な作家で画家の玉村豊男氏もいた。外語大のフランス語科の学生などは、石油化学プラントの建設に通訳として中近東に六カ月滞在といった仕事もしていた。時は大阪万博が開催される一九七〇年。日本中が経済成長の渦に巻き込まれているような熱気の中で、ポリグロットに集まっている人たちもまた、梁山泊のような一種独特の雰囲気を漂わせていた。
モーツァルトのレクイエムを聞きながら、ポール・ニザン、ジャン・グルニエを語り、外国人にもらったというマリファナを得意げに見せびらかす青年もいたりと、私にとっては、今までとはまったく異なった危険な香りのする魅惑的な環境であった。ごろ寝で夜を徹して議論するのは、中央線の武蔵野近辺の仲間の住居。夜遅くなっても必ず北区の自分のアパートに帰る私を車で送ってくれる荻窪の友人は、うちの近くに来ると「よくこんなところに住めますね」とつぶやいた。東京が場所で格付けされているのを初めて知った。「差別はいけない。そういう考え方の人が理論で左派の発言をするのはおかしい」と言おうと思ったが、一つ違いですでに社会人として働いている彼に何を言っても学生のたわごとと言われそうで言えなかった。
七月、黒石氏についてガイドの実地を学ぶことになった。アメリカ人の団体三十人の空港出迎え、東京観光、日光までの旅程に同道する。朝、グループの泊まっているホテルに行き、バスに乗り一日一緒に行動するのだが、私は黒石氏の客の気をそらさない名ガイドぶりを聞くでもなく、仕事のヘルプをするでもなく、グループの同年代の姉妹と仲よくなり、おしゃべりで邪魔をするという非常識ぶりを発揮していた。ガイドは客の半額で食べられるホテルダイニングでの昼食も、おいしく食べて、誰が払うかも気にしなかった。今だからごめんなさいの自覚の低さである。その後は訓練もなく、梁山泊での議論にあけくれていたのだが、突如、八月に来日するイタリアの団体にイタリア語でガイド業務をするようにという指令が下った。
「えーっ、英語ならできますけど、イタリア語はまだとてもそんなレベルでは」
臆する私に、黒石氏は冷酷に言い放った。
「あなたしかいませんから、やるほかないでしょう」
イタリア語だけではない。団体客の旅行業務についても知らないし、行ったことのない観光地も含まれている。お上りさんの私、東京もろくに知らないのに外国人を案内するなんて。デビューはまだまだ先、まずは英語でと勝手に思いこんでいたのである。
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ガイドデビュー[#「ガイドデビュー」はゴシック体]
一九七〇年八月十二日、忘れもしないガイドデビューの日である。前日、仲間が観光地の地図やパンフレットを持ちこみブリーフィングはしてくれたものの胸の動悸はおさまらない。
かばんに詰めたのは、伊和辞典、和伊はまだなかったので和英、英伊辞典、観光ガイドブックの英語版と日本語版、それだけでずっしりと重い。旅は十二日続くのだが、洋服の替えまで手がまわらない。ともかく何とかクビにならず十二日間やり過ごすのが最大の任務である。不安に思った黒石氏と先輩の女性一人がついてくれ、三人で羽田空港へと向かう。
空港で迎えのバスとトランク輸送用のトラック(昔はまだ荷物を一緒に持ち運びできるリムジンがなかった)を確認し、事務局で許可を取り、腕章をつけて空港内の荷物が出てくる場所まで入る。飛行機は南まわりのパキスタン航空、到着は夜の十時半。イタリア人にとっては三十時間近い長旅で、まさに極東の地ジパングに降り立った気持ちにちがいない。それらしい風貌の人たちが次々に出てくる。敵前逃亡したい気持ちを抑え、ツアー名を確認し、向こう側のツアーコンダクターにあいさつする。三人以上集まると収拾がつかなくなるというイタリア人は全部で三十六名、教会が集めたツアーのようで、添乗員は太ったやさしそうな神父さま、ほっと安堵の息をつく。全員そろったところでグループの荷物総個数を確認、ポーターに頼んで代金を支払う。ところが荷物が一つ出てこない。紛失の際のノウハウは習っておらず、まさにでくの坊。すでにマイナス点をつけられてしまう。
それでも何とか全員を誘導し、バスに案内。同時に事務局に腕章を返却に走り、トラックの荷物伝票にサイン、チップを渡しバスに戻る。人数を再度確認しつつ、日本の旅程とグループ認証バッジを配る。羽田から丸の内のホテルまでは夜なので二十分程度、その間に伝えなければならないことは山ほどある。
まずは現地時刻とホテルまでの所要時間を伝え、自己紹介をする。
イタリアは観光立国、ガイド免許制度は非常に厳しいので、ガイドになっている人は老練というか老獪《ろうかい》というか、年季の入ったおじさんが多い。日本で珍しいイタリア語を話すうら若い(子供のような学生の)女の子がマイクを持って微笑んでいるので、みんな興味津々で見つめている。
「みなさん、こんばんは。私の名前はクミコ・タキです。今日から十二日間一緒です。まだ学生なのでイタリア語うまくないです。でもがんばります」と自己紹介すると、やんやの拍手。
換金レート、蛇口の水は飲用であること、外出するときは必ず日本語で書かれたホテルのカードかマッチを所持すること、ゆかたの使い方、朝食の場所と食券、国際電話のかけかた、翌日の予定、集合時間と場所を、そばにいる黒石氏の指示通り片言のイタリア語で伝える。
ホテル到着は夜中の一時半。私はロビーに残り、トランク四十数個の荷札の名前を読んでポーターに部屋まで運んでもらう。その間にイタリアに電話したい人の手伝いをする(まだ直通ではなく、電電公社の交換台を経由)。部屋に帰り、翌日のバスを確認する。昼食のレストランの確認はすでに終わっている。それから翌日の東京観光の勉強、泥縄もはなはだしい。
八月十三日、七時半からダイニングで朝食のアシスト。日本人のみならずイタリア人もまったく英語を話さないのである。ジュースのチョイスから訳してあげなければならない。
九時、観光に出発。旅行代理店の人が一人ついてくれる。
ガイドの鉄則は、わかりませんと言わないこと。「あれは何?」と聞かれたら必ず何か答える。その日も、聞かれた建物を「あれは山本ビルです。五年前に建ちました。中にはオフィスがあります」などと嘘八百の世界を汗びっしょりでこなしていた。霞が関、右は大蔵省、左は外務省──もちろん全部嘘。ガイドもこの辺を見るのは生まれて初めてとは客も知らないだろう。昼食は椿山荘の鉄板焼き、夕食はホテル、三食付きのツアーなので毎食一緒である。疲れと緊張で食欲はない。
十四日、七時半出発、日光日帰り。団体切符での列車の乗り方を添乗の日本人に習う。ホテルに帰着すると、もう夜の八時。それから翌日の準備である。
十五日早朝、部屋の外に出された大きなトランクを集め、トラック便で名古屋へ配送。個人精算のチェックアウトの手伝いをし、ツアーは鎌倉経由で箱根へ。箱根は大雨になる。宿泊は熱海の旅館。風呂の入り方、ふとんについて説明し(でないと、部屋に入ってベッドがない、どこで寝るんだと大騒ぎになる)、夜はすきやきパーティ(イタリア人にとって肉に砂糖を入れるなど、ごはんにジャムにも思える組み合わせ。同じ鍋を同じ箸でつつくのには抵抗がある。生卵など食べる習慣はなく不気味、でみんなあまり食は進まない)。その夜は私が着物を着るモデルになり、ホテルが着物ショーをやってくれる。
十六日、熱海より新幹線で名古屋へ。熱海駅でこだまを待っているとひかり号が通過した。通過速度は時速百六十キロ程度なのだが、カーブしたトンネルから突如ひかりの車輛が出てきて、ビュイーンという音とともにあっという間に視界から消えるので恐ろしく速く感じられる。特急でも時速八十キロ程度の古い鉄道しか知らないイタリア人は呆然とし、その後感嘆の声しきりである。当時はイタリアの生活水準のほうが日本よりはるかに高かった。そんななか日本に世界最速の列車があったわけで、「どんなもんだい」と誇りが湧いてきた。外国人と触れ合うことにより、人はユニバーサルになる前にまず愛国者になるのかもしれない。
十七日、団体客の荷物を京都に送り、電車とバスで伊勢志摩鳥羽観光へ。このころになると、そろそろみんなの不満が表に出始める。このガイド、愛想よくこまねずみのように働くものの、説明は五分と続かない。イタリア語もひどい、自分たちの言うことも充分には聞きとれてないみたいだ。実際、彼ら同士で話していることは方言がまじっているにしても、何を言っているのか皆目不明。私にはゆっくり簡単な言葉で話してくれるものの、語彙数二百程度の初級イタリア語ではわからないことのほうが多い。
グループの若い女性が添乗員の神父さまに文句をつけ始めた。私がやり玉にあげられていることは推察がつく。全部理解できないのがかえってありがたい。わかっていたらきっと泣きだしていただろう。もう、毎日が針のむしろ状態だったのだから。
無理もない、極東日本旅行は当時高価な出費。なのに知りたい日本のことが何もわからず、ただ観光地に連れていくことしかできない無能なガイドにあたってしまうなんて。怒るのも当然である。日本の旅行代理店にガイドを替えろと言おうにも、それを通訳できるのは私のみ。時期も休暇のまっさい中のお盆時。今ならすぐクビになるおそまつガイドではあったが、当時は英語が話せる日本人も珍しい時代で、クビにしても代替要員がいない、そんな理由に助けられ、首の皮一枚で私は仕事を続けていた。
ああ、せめて英語が使えたら、あれもこれも説明してあげられるのに、とただただもどかしい。グループの人に英語を伊訳してもらおうにも、当時フランス語必修のイタリアで英語がわかる人はひとりもいなかった。神父さまは私を守るために、その日からイタリア語のガイドブックをマイクで読むことを始めた。私も英語ガイドブックから前日の夜伊訳した部分をメモにして読み始めた。もちろんミスだらけの稚拙なイタリア語である。
それでも神父さまは「クミコが昨夜一生懸命準備したものを今から読みます。こんな遠くの国で私たちの国の言語をけなげにも勉強してくれているのですよ、ほめてやりましょう」とみんなに言ってくれた。そのときから、彼らもカトリックの慈悲の心であきらめたのか、私の片言イタリア語を楽しんでくれるようになった。
夜に京都入り。部屋割りでもめる。旅も六日目ともなるとルームメートとのトラブルも出てきて、神父さまとおさめるのに苦労する。
十八日、午後から京都観光。あいにく大雨。
十九日、神戸へ向かうバスが追突され、かわりのバスを待つあいだ神戸観光をして時間を潰す。関西汽船で高松へ。
二十日午前中、栗林《りつりん》公園、屋島観光。もちろん私も初めて訪れる地である。一緒に乗ってくれている日本人バスガイドの女の子に助けを求めると、一緒についてきていろいろ説明してくれる。恰好をつけないで、「初めてなんです。教えてください」と、謙虚に教えを乞うとみんな親切に教えてくれるのだ。屋島でグループの女性一人が迷子になり、走って探しまわる。
無事宇高連絡船に乗り、冷房もない急行で広島へ。広島駅では当時外国人団体歓迎のために実行されていた習慣で、市役所から大きな花束を贈られる。一同感激。
夜、父母がホテルに会いに来てくれる。着替え用に新しい洋服も買って持ってきてくれた。ありがたい。温かいイタリア人、みんなが父母に握手に来てくれ、「いいお嬢さんで、さぞご自慢でしょう」と口々に言ってくれる。自分のことなのでそのまま訳すわけにもいかず、ただ気恥ずかしいのだが、いたらない半人前の私に対する優しさについほろりとなってしまった。
二十一日、ついに中国地方に台風が上陸。横殴りの雨の中、広島城、原爆資料館をまわったものの鉄道もバスもすべて運休となった。午後予約していた特急大阪行きも運休。
ホテルもチェックアウトしているし、まさに立ち往生である。幸い宿泊したホテルが駅前だったため、全員ロビーで待機してもらい、私は駅に立ちっぱなしで状況を見まもる。
十四時半、大阪行き臨時列車の運行が決定した。もちろん席の予約などできない。急いでホテルに彼らを迎えに走り、満員の列車の車輛に分乗してもらう。
雨と風の中、ともかく出発した宮島52号だが、少し走ってはすぐ止まる。夕食時も近づく。私は、列車が駅に止まるたびにホームに飛び出して両手に持てるだけの駅弁を買い込み、それを各車輛にいるメンバーに配って歩く。三十六個、一体いくつの駅に降り、いくつの車輛を人込みをかきわけてお弁当とお茶を配ったか。私自身は緊張のため疲れも食欲もない。
そのうち、同じ列車に乗りあわせた万博ソ連館の一行三十三人と意気投合したイタリア人たちは、自然に中ほどの車輛に集まり、歌い始めた。せまいなか踊る人も現れ、いらいらしていた日本人たちも集まってきて、そこだけサーカスのような笑いの空間ができた。ライフ・イズ・ビューティフル=Bどんな過酷な時も魔法のように楽しい時間に変えてしまうイタリア人を尊敬した。
広島−大阪十二時間の旅となった。到着は朝二時半。迎えのバスなどあるわけもない。携帯電話も列車電話もないので、連絡の術《すべ》もなかったのだ。それでも日本の旅行代理店の男性はずっと駅で待ってくれていた。タクシーに分乗してもらい、大阪から奈良ホテルへと向かう。さすがのイタリア人もぐったりしている。
二十二日。奈良観光は取りやめにして午前中は休み、午後バスで大阪万博へ向かう。万博のころから日本にも外国人団体旅行が増え始めたのだ。会場は人種のるつぼ、日本経済も上向きで、成長のエネルギーが充満していた。
夜は再び京都のホテル、万博で大阪のホテルはすべて満員であった。十二日間ほとんど毎日ホテルを変わった。付随する荷物の別送業務にもすっかり慣れていた。
普通は、一人か二人の旅行者のアテンドから始めるのに、OJT(実地研修)としてはいきなり難易度ウルトラCのガイド経験であったが、明日はいよいよ最終日を迎える。早かったような、長かったような無我夢中の十二日間が終わろうとしていた。
二十三日、大阪伊丹空港から無事団体を送りだしたとき、初めて仕事が終わる。飛行機をミスしては大変と昨夜からポリグロットの先輩も一人泊まり、ヘルプしてくれた。空港のカウンター業務も初めての心もとないガイドは、飛行機に乗ったことすらないのだ。
京都から大阪に向かうバスの中で、本当にいろいろなことがあった十二日間を思い出し、感無量である。イタリア人も心なしか今日はみんな物静かである。いたらない自分をお詫びしたいのだが、その言葉もすらすらとは出てこない。
バスが空港に着いたとき、神父さまから「これはみんなの気持ちです」と封筒に入ったドル札を渡された。ツアーでは日本でもバスやトラックの運転手さんへのチップの金額が定められており、きちんと渡してきたのだが、まさか自分ももらうとは知らなかった。でもチップをもらうのは生まれて初めての経験、少し屈辱的に感じたのも事実で、「とんでもない、結構です」と辞退するものの、みんなが「クミコ、クミコ」とエールコールをしてくれて、ありがたく受け取ることにした。
空港の入り口で一人一人と両頬にキスしてお別れ、みんな涙を浮かべた別れになった。
くたびれはてて、新幹線で東京へ戻る。車内でチップを数えてびっくり。数日分の日当にあたる大金が入っていた。一ドル三百六十円という為替レートのせいもあったが、苦学生にはありがたい。
その後、数を重ねるごとにガイド技術は確実に向上した。お客様の前でマイクを持ち、適当に笑いをとりながら流暢に日本の歴史も説明できるようになった。ホテルの美容院に行きたい人には、初めのころは一緒についていって説明していた私も、「シャンプーブローお願いします。今と同じ感じにしあげてください」などと書いた紙を持たせ、お客に一人で行かせる術も心得た。しかし、技術ゼロ、一生懸命の気持ちだけで終えた第一回目の仕事ほどの高額のチップをもらったことはない。小手先で仕事を流すノウハウを身につけたことで、真心は反比例して薄くなっていったのだろう。
私のガイドデビューになったツアーのお客様は、後々までみんな絵葉書や手紙を送ってくださった。とりわけ、神父さまからはその後イタリア製手作りの18金ブレスレットを贈っていただいた。私の稚拙なガイドに耐えてくれたグループの人たちへは、今も足を向けては眠れない。外科医や看護婦などの職業も同じなのだろうが、誰かが練習台の役割を買って出て、下手を我慢して人を育てなくてはいけないのだろう。
三十年ぶりにこのツアーのメモを取り出してみて、もう一つ気づいたことがある。実に多くの先輩に助けてもらったことである。自分一人でツアーを無事やりとげたつもりでいたが、終了後の精算のやり方まで明け方まで教えてもらった≠ニ書いている。若気の至りというべきか、黒石さんを始めとするポリグロットのみんなに、物質的なお礼もしなかったような気がする。今となってはお返しに私が若い人をヘルプするしかない。
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フリー通訳時代のできごと[#「フリー通訳時代のできごと」はゴシック体]
一九七五年、私はすでに大学を出て不安いっぱいのフリー通訳の仕事を始めていた。
その年の八月末、イタリアの旅行雑誌の友人記者がレンタカーで七日間の北海道一周取材旅行をすることになり、私もガイドとして同行した。彼の女友達も一緒の三人の旅行を終え、東京で通訳料として十四万円を受け取った私は、旅の疲れもありタクシーで帰宅することにした。
実直そうな運転手は五十代も後半くらいの人。雑談をしているうちに、娘と息子の自慢話になった。娘は松竹歌劇のスターダンサーで浅草で踊っている。実際彼女の名前はおぼろげながら知っていた。慶応大学に行っている息子はアルバイトで学費をひねりだしていたが、それも限界。数日中に溜まった学費を払わないと退学になってしまうという。自慢話がだんだんぐちに変わっていく。白髪まじりの後ろ姿が広島の父親の姿に重なった。私が高校三年のとき、人にだまされ倒産。自宅も売った父は、なんとか娘を東京の国立大学に送り出すため慣れないサラリーマンの仕事につき、母も勤めに出るようになった。奨学金をもらいながら大学を卒業し、今、私が通訳として自立していられるのも、苦労して大学に行かせてもらったおかげである。とても他人事とは思えなかった。
そのうち涙声になった運転手は、今から亡くなった妻の墓にお参りして自殺しようと思っている、昨日から食事もしていない、と言い始めた。あせった私は彼を必死で引きとめ、自宅アパートの入り口にいざない、すぐに食べられるヌードルなどの食料を押しつけ、有り金からタクシー代を払った残りの十三万五千円を貸してあげることにした。
感激した彼は、丁寧に借用書を書き、必ず来月から一万円ずつ返却すると約束し、息子もどんなに喜ぶでしょう、命の恩人ですと、何度もおじぎをして走り去った。
北海道旅行の仕事代とはいうものの半分楽しんだ一種のあぶく銭、何よりいいことをした後は気持ちがいい。しばらく気分よく過ごしたものの、三カ月経っても約束の入金がない。少し不安になりタクシー会社に電話を入れてみた。すると何たること、私がお金を貸した翌日から、彼は出社していないという。
「タクシー免許もうちに置きっぱなしだから、タクシーの仕事はできないはずだけど、何か用?」
私が事情を説明すると、電話口の男性ははじかれたように笑い出した。
「お客さん、信じられないほどいい人だね。住所教えてよ。僕もお金借りに行くから」
あせった私は、今度は松竹歌劇場に電話を入れた。電話口に出た娘のダンサーは、吐き捨てるように言った。
「あんな人、父でも何でもありません。うちのお金も全部ギャンブルに持ち出して、母は苦労の末、ろくな闘病生活もできず亡くなったんです。父に殺されたと私たちは思っています。弟もとっくに大学はやめて一人で働いています。二人とも父に会う気は一切ありません」
電話口で私は呆然とした。よりによって、そんな人に大事なお金を……。こんなことなら自分の両親に送ればよかった。年頃なのに着物一枚持っていない自分の着物を買ったほうがまだましだったかも。使い道がいろいろ浮かび、地団太を踏む思い。自分の馬鹿さかげんを深く反省し、あきらめた。
それから三年の時が流れた。記帳した銀行通帳に二万五千円の覚えのない振込みがある。見ると、振込み人の名前は、あの運転手ではないか。自分の不明を恥じ、借用書も破り捨てたが間違いない。二、三日後一通の手紙が届いた。
「ごぶさたしております。お元気でお過ごしでしょうか。その節はお世話になりました。事情があり、今日まで何の連絡もできませんでしたことをお詫びします。
仕事を転々と変え、今は東北一帯をまわってビニールハウス用のビニールシートを売る仕事をしています。寒さの厳しい土地で田舎をまわるセールスの仕事は辛いのですが、なんとかあなたにお金を返したい一心で老体にむちうち、頑張っています。少しですが送金しました。今日まであなたに受けた優しさは一日たりとも忘れたことがありません。余りに簡単にだまされたあなたの人を疑わない優しさが、旅から旅への殺伐とした生活での温室のような役目を果たしてくれました。その温室を売り歩いたお金で借金を返せるのも何かの縁なのでしょう。どうぞお元気で。そして人にだまされないようお気をつけください」
消印は岩手になっている。それから一年、忘れた頃一万、二万と振込みがあり、総計十五万になったのを最後に入金は途絶えた。手紙もあの一通だけである。彼ももう七十代か。酒飲みだといっていたので、肝臓でもこわしているのではないか。いまもふと思い出す。あの一件で、信じることの大切さを反対に教えられたのだ。でも、彼があのままお金を返してくれなかったほうが自分のためになったのではないかと、相変わらずすぐに人にお金を貸しながら苦笑している。
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通訳ア・ラ・カルト[#「通訳ア・ラ・カルト」はゴシック体]
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発展途上通訳の反省帳[#「発展途上通訳の反省帳」はゴシック体]
通訳の仕事は、「間違いを恥じる気持ちと、くよくよしない図々しさの両方が必要」と米原万里さんは言っている。ミスを恥ずかしいと思わなければ必死で準備もしないだろうし、あとであまり落ちこむ性格の人だとストレスに負けてしまう。
ところが私はというと、「ああ言えばよかった。こちらの訳語のほうが的確だった」とうじうじ反省する。
通訳は常に発展途上通訳、実地訓練での研修しか養成方法もないイタリア語の場合、自己反省しないと次への発展にはつながらないと思うからだ。不思議なことに、通訳の最中に出てきた知らない単語は絶対忘れないのに、翻訳しているときは気持ちもゆるんでいるのか幾度も同じ単語を引いたりする。二度と同じミスをしないように、私は今も仕事のあと、反省帳に気づいた点を書きこむようにしている。
たとえば数年前の日伊協会主催、国民同盟書記長フィーニ代議士の講演にて。
・老人をかかえている家庭への援助→高齢者扶養家庭への優遇措置
・Consiglio Generale 全国評議会→党大会
・税収による財政再建ではなく、歳出と歳入のバランスをとることで→増税に頼らず、公共支出を抑制する方向での財政再建
といった具合に、こう言うべきだったと思われる訳語が書き込んである。また別の日には、
・maniaco「偏執狂」と訳したが、「マニアック」のほうがわかりやすかった
・piccola felicita 小さな幸せ→ささやかな幸せ
・不倫の罪(は女性にのみ科せられていた)→姦通罪
重箱の隅をつつくようで、こんなことにとらわれていると木を見て森を見ず、大意をはずしてしまうと思われるかもしれないが、通訳はある意味では「言葉の職人」だと思うので、ついこだわってしまうのだ。
プロとして最も大切なのは、その場のコンテキストにぴったり合った訳語に仕上げることだ。例えば同じ "Vogliamo promuovere questo progetto." という言葉でも、政治家の演説なら「当案件を鋭意推進していく所存であります」、広告代理店のプレゼンなら「大々的に広告宣伝を打って出、広く訴求を図ります」となる。だから頭のなかには自分なりの辞書フロッピーを内蔵しておき、常に複数の訳語から最もふさわしい単語を選択するというプロセスが瞬時に行なわれるわけだ。conflitto だったらあっと言う間に紛争、戦い、葛藤、矛盾、係争、相剋、軋轢《あつれき》、せめぎあい、とこれぐらいは思い浮かべねばならない。preoccupare なら、通りいっぺんに「心配する」ではなく、懸念を表明する、危惧する、心を痛める、憂慮する──とTPOに沿って使い分ける。ぴったりくる訳が出たときは、まさに通訳冥利につきる快感を味わえる。
また、ちょっとしたことわざを使うと、表現がいきいきしてくることもある。
あるVIP使節団の昼食会で、イタリア側が「午後は妻へのおみやげを買うつもりだ」と言い、日本側が「イタリア男性は奥様に優しいので有名ですからね」と受けた。イタリア側が "Perche abbiamo la coscienza sporca."(汚れた良心を持っている、やましい)と答えたのを、私は「なにせすねに傷持つ身ですからね」と訳した。一同爆笑したあと、日本側が「イタリアでも『すねに傷持つ』なんて言うんですね」と妙に感心しているので、今度は私が噴き出した。
また、ある本の著作権をめぐる商談で、初回は写真やイラストのネガを送ったり、カメラマンとの交渉で手間ばかりかかり、赤字だったとぐちる日本人社長に、やり手のイタリア人社長が言った。「今後ドイツとスペインでも発行する手はずで、その際は事務手続きはすべてイタリア側がやる。日本側は何の苦労もなく楽に儲かるでしょう」
私は最後の部分を「今後は濡れ手に粟《あわ》のおいしいビジネスになりますよ」と訳した。やはり爆笑のあと、日本の社長は「じゃあ、まずその前に手を濡らす水を探さないとね。不況で手も乾ききっているんでね」と発言した。幸い内輪の逐次通訳だったので、イタリア人に「濡れ手に粟」のことわざを説明し、事なきを得たのだが、これが同時通訳の場だったら、とても即座に状況にあったイタリア語に訳せなかっただろう。才に溺れて墓穴を掘るなかれ、と深く自戒したのである。
大学時代、日本映画を買いつけにきたアメリカ人に、試写室でせりふと筋を耳元で通訳するというアルバイトがあった。この仕事を終えた友人が報告してきた。
「まいったよ。時代劇の決闘場面で向かい合った一人が、『うむ、おぬしできるな』と言うんだ。焦って "Oh, you can." って訳したよ」
ご乱心、ご無体な──一体イタリア語では何というのだろうか。テレビの時代劇を見てつい考え込んでしまうのは、もはや職業病であろう。
かの国会議員にしてポルノ女優のチッチョリーナが、対談の席上、"Io con un preliminare, mi bagno moltissimo." と鼻にかかった声で発言した。preliminare──私の脳内フロッピーは「前提条件、仮条約」(名詞)、「予備の、準備の」(形容詞)という訳語をはじき出した。しかしその後の文章はというと……。えーいままよ、私はチッチョリーナのイタコとなりきって、「私、前戯ですっごく濡れるの」と甘い声で訳したのである。代議士になったり、AV女優になったり、通訳は今日も千変万化である。
勉強熱心な私は知らない単語が出てくると、ついでに類語も検索する。辞書に「後戯」という単語がないのを知り、気心の知れたイタリア人(男)に聞いてみた。
「イタリア語にそんな言葉はない。なぜならそれは、常に次の回の前戯になるからね」
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同時通訳デビュー[#「同時通訳デビュー」はゴシック体]
通訳には同時≠ニ逐次≠ェある。逐次は発言を途上で止めて訳をいれる方法。同時は発言をさえぎることなく、ブースから通訳が同時に重ねて訳していき、訳はイヤホンで聞く。通常、同時のほうが難度が高いと思われているが、双方あなどれない難しさがある。同時は何といってもスピーディな反射神経が身上、一方、逐次はメモ取り能力と聞いた話を再現する記憶力が大事になる。
確かに同時には、先が読めない話を単語だけでつなげながら、切れ目なく言葉を出していく辛さはあるものの、お客様に姿をさらさなくてすむ点が気楽である。金魚鉢のようなブースに隠れている心地よさに慣れてしまうと、スピーカーの隣で舞台に立つほうが苦痛に感じられる。また、同時ではパートナーが単語のメモをとってくれるし(同時通訳は必ず二人以上でパートナーを組み、二十分を目処《めど》に交替で行なう)、ブース内にはアンチョコ単語集を貼ることもできるし、中で辞書を引いていてもばれない。そして、自分のパートでないときはアメをなめたり、肩こり体操もできる。
しかし、これもある程度の場数を踏んでからのことで、初めての同時通訳デビューの緊張は、狭心症の発作すれすれであった。なにせ、かの有名な米原万里さんですら、初めてのとき、イヤホンをはずし、「こんな通訳できません」と、ブースを飛び出したというのだから。
私の初めての同時通訳デビューは、八六年のレーバー・サミット(先進国労働組合指導者会議)で、すべてイタリア語に訳すだけという仕事で、気楽なものであった。
意外に思われるかもしれないが、イタリア語に訳すほうがはるかに緊張度は少ない。なぜなら、聞いた日本語の意味がわからないということがないからである。わかった内容をどう伝えるか、もちろん最低の語彙数は必要なものの、なんとか伝えることができるし、聞いているイタリア人の数も少ないので、まあ外国人のイタリア語≠ニ大目に見てもらえるだろう、という勝手な甘えもある。
ところが日本語への訳は、クライアントも含む大勢の人に美しい日本語で伝えなくてはならない。そして最も怖いのは、知らない単語、持ってまわった言い方、状況についての無知ゆえに言われていることがはっきり(いやさっぱりというべきか)、わからないときなのである。
たとえば、血圧計という単語を知らなければ血の圧力を測る器械≠ニ言えば、相手には通じるのである。ところが "sfigmomanometro" という単語を聞いて知らなければ絶句するほかない。
ともかく、お気楽イタリア語への通訳を二度ほど同時でしたあと、いよいよ恐怖の日本語訳のときがきた。
初のそれはフィアット創設者ファミリーのアニエッリ財団の文化講演会。もちろんイタリア語の原稿を事前に入手して、それを完全に訳して万全のデビューとなるはずであった。ちなみに完全訳を準備するのはベタ訳≠ニいい、プロの間では声を重ねるだけのボイス・オーバー≠ニ呼ばれ、新米のやる行為とみなされている。
さて、いよいよウンベルト・アニエッリ氏の基調講演が始まった。ドキドキで読み始めた私だが、訳文を詰まらず読むほうに神経が行き、スピーカーのオリジナル音声を聞くのがおろそかになってしまった。ついには一体彼がどこを読んでいるのかまったくわからなくなり、あせった私は、マイクをオンにしたまま隣の同僚に泣きを入れた。
「どこ読んでるのかわかんなくなっちゃった。今どこなの?」
そのせっぱつまった声は、隣のブースの英語通訳の人はもちろん、会場を埋めた多くの人に聞かれてしまったのである。穴があったら入りたくなる瞬間であった。
同時通訳で最も嫌なのが、向こうが原稿をとうとうと読み上げているのに、こちらにはその原稿が届いていないというケースで、特に多国語の大きな会議のときに多い。書いた原稿は推敲を重ねてレトリックを駆使した美文が多いし、文章も長く、ほとんど最後から訳さないと構文的にも意味がとれない場合が多い。
最悪は、そのケースのときに他言語の通訳が訳したものをリレーでイタリア語に訳す場合で、敵も同時通訳、職業病か、わからなくても単語だけはスムーズに口に出す。会場で聞いている人は訥弁《とつべん》、絶句といった不快さがない限り単純に聞き流すのだが、訳すには意味をとらなくてはならない。ところが聞いても聞いても何を言っているのかとれないのである。こういう場合、聞いているイタリア人には、イタリア語通訳の不備としか思えないのである。
一九九九年十月末、恒例の日伊ビジネスグループの本会合が行なわれた。イタリア側議長は、アニエッリ氏。忘れもしない、私の日本語への通訳デビューとなった人である。これまで何度も通訳をしているが、常に雄弁で、明快なイタリア語で話すので、原稿を書くことはないだろうと思いこんでいた。会議開始五分前に到着されたので、念のために、「今日は a braccio(即興)でなさいますよね」と、聞いた。するとなんと、「いや、今日は読むよ」
私は、VIPとのあいさつに忙しい彼のかたわらにいる男性秘書に思わず詰問口調で言った。
「原稿のある人は事前に事務局提出と言われていたはずです。(五日前から来日していたのに)どうして今まで……」
秘書は私に託宣を下した。
「あのなー、わしらは、日本でいろいろ重要な仕事や会合を山ほど抱えているんだよ。通訳に原稿を渡すなどという些細なことを考える暇はないのだ」
そうのたまった彼からびっしり四枚の原稿をひったくり、ブースに入る。原稿を即座に読みながら訳していくことを、サイトラ(サイト・トランスレーション)≠ニいうが、原稿を目で追えるだけましである。
開会挨拶として演台に立ったアニエッリ氏がおもむろに始めた。
「本日の私のスピーチはエスペラント語でさせていただきます」
訳しながらわが耳を疑った。引き続き、
「来たるべき二十一世紀のエスペラント語、すなわち英語を使います」
以降、アニエッリ氏は英語版の原稿を読み始めたのである。ブースの私は耳で英語を聞きつつ、目でイタリア語の原稿を追い、口からは日本語の訳を出すという難行苦行を強いられることとなった。
こういうとき一番大事なのは、聞いている人に「どうしよう」という通訳のあせりを感じさせないことである。聞く人に通訳の不安が伝わると本当のことも疑わしく聞こえるので、落ち着いた声で訳を入れた。あとで係のジェトロ(日本貿易振興会)の人が、
「途中でさえぎってイタリア語に変えてもらうわけにもいかず、あせりましたが、英語までもきれいに訳してもらえて助かりました」
とわざわざお礼に来てくださった。
これはイタリア語の原稿が手元にあったからできた離れわざで、油断と思いこみは大敵、原稿とりは念には念をと自戒した。同時にアニエッリ財団講演会での赤恥公開後、やっと曲がりなりにも一人前になれ、十二年前の不手際の借りを同じスピーカーで返すことができたようで、少し幸せな気分に浸れた日であった。
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苦手は料理とスポーツ[#「苦手は料理とスポーツ」はゴシック体]
この歳までさまざまな現場で修羅場をかいくぐってくると、どきどきするということは、ほぼなくなる。ブース内で行なう同時通訳は、理解が不充分なまま訳しはじめるという不具合は生じるものの、顔はお客に見えていないので恥ずかしさも減る。逐次通訳は、経験とためた単語集の準備で堂々と臨める……はずなのであるが、実は楽勝となめてかかった仕事のときほど、とんでもない落とし穴にあう。
私の弱点は、何をかくそう料理とスポーツである。冗談で主要五教科の女≠ニ言っているのだが、昔から体育と家庭科の成績は悪かった。その私が、国連下部団体のオリーブオイル評議会の同時通訳で大阪に行くことになった。前日にオリーブオイルを使った料理の講習があるので、ついでにその逐次の仕事もやってくれと頼まれた。
私はイタリアで生活したことがなく、食材の名前も得意とはいえないが、前もってレシピももらえるし、何と言っても目の前で料理をする解説くらい、イタリア語がわからなくてもできるわ、と気楽に引き受けた。
当日、まず第一の関門。アシスタントの日本人シェフは、鍋とフライパンくらいしか知らない私に、準備すべきキャセロール、コランダーのサイズを聞いてくる。「サラマンダーするんですか」との質問も出る。ああ、日本の料理用語はフランス語と英語だったのね。辞書は和伊しかない。パルフェ、コンフィ、網脂、ケーキ型、エシャロット、かさご、香辛料の名前……本番前でよかったものの、意味を聞いたり、辞書を引いたり、駆け出しの通訳に逆戻りである。
第二の関門。その日の講習はシチリア料理で、生粋のシチリア人シェフのなまりは思ったより聞きにくい。
第三の関門。当日はお客の数が多く、ビデオ撮影もある。アシスタントがヘルプすることもあって、せまい厨房には邪魔な通訳のいる場所がなく、マイクのある後方から料理を見ないで言葉だけを追って通訳することとなった。
いよいよシチリアの柑橘《かんきつ》類を使ったブイヤベース作りが始まった。シェフは本来話し上手ではなく、もぞもぞと早口で、短い説明をしながら料理を作り始めた。なんとか想像も入れ、料理番組のアナウンサー気取りで訳を入れていったのだが、ムール貝の処理でよく聞きとれない部分があった。「難しい」「フィーロ」「下から上に力を入れて」と聞きとれた部分から想像し、「ムール貝の殻をとるのがちょっと難しいのですが、力を入れて殻を下から上に向かってはずしていきます」と訳した。
次々と他の食材の下準備が進み、いよいよ煮込むことになった。
「次はムール貝を鍋に入れます」
私の耳にムール貝の殻が鍋に入るガラガラという音が聞こえた。あせった。殻は、はずれていなかったのだ。「失礼しました。殻はついたまま使います」
またも恥の上塗りである。
ムール貝は食べたことはあっても、料理したことは一度もない。終わったあと知り合いに、「ムール貝にはひもみたいなものがついていて、それをはずすのよ。殻は、やすやすとははずれないわね」と教えられた。フィーロ(糸、線)という言葉のなぞがここで解けた。
また夕食会の通訳、と気軽に行ってみると、「マタイ伝第二章に、こんな言葉がありまして」と聖書の引用が始まったり、「カノッサの屈辱で有名な場所に行きまして」などと高尚な歴史談話で盛り上がることもある。ホメロス、ギリシャ神話、音楽の題名も話題にのぼり、青息吐息になったりもする。
地名も意外な落とし穴である。「Reno の近くの戦いの跡地」との発言をレーノと普通に訳すと、夕食の賓客で数カ国語に通じた大学教授にすかさず、「ライン川ですね」と直された。
そうそう、私の友人は、イタリアからモナコに行くつもりが、間違って同じモナコ(Monaco)と書くミュンヘン行きに乗ってしまったのね、と思い出す。センナ(Senna)はセーヌ川、タミジ(Tamigi)はテームズ川、メーノ(Meno)はマイン川だったわね、と頭で復習しながら即座に気づかなかった不明を恥じる。川の名前は〜川(fiume)という言葉を付けないで使われるので、知らなければなかなか想像がつかないのだ。
想像もつかない地名の好例がライア(L'Aia)=Bオランダのデンハーグ市のこと。原語で麦打ち場≠ニいう意味の地名は、イタリア語でもオリジナル発音ではなく、意味の方に合わせて訳してあるのだ。知らなければ当然、Convenzione dell'AIA がハーグ条約だと気付くはずもない。おそろしい。加えて中国、韓国の地名、そして人名も同じだ。ある講演会で、「かの有名なフランチェスコ・バコーネはこう言っています」という発言があった。そのまま訳し、あとでご本人に「無知ですみません。何をして有名になった人なのですか?」と聞くは一時の恥と伺うと、「えっ、知らないのかい。フランシス・ベーコンだよ」との答え。オリジナル名で言ってよ、とうらめしくなる。
ともかく通訳という仕事、日ごろの雑学、新聞の知識がいかに大切か身に沁みる。
二〇〇〇年四月、イタリアのヴィオランテ下院議長が来日した。歓迎パーティでの形式ばった挨拶も大過なく終え、あとは気楽な歓談と、緊張の糸をゆるめる。ホスト役の伊藤衆議院議長はヴィオランテ議長を公邸の美しい庭にいざなった。伊藤議長は盆栽の枝を指し、「見てください。かまきりのさなぎです」。絶句するわけにはいかない。イタリア語でよかったが、「昆虫になる前の状態です」とめちゃめちゃな訳をいれてしまった。まったく、片時も気が抜けない。
ブルガリのブリリアント・ドリーム・アワードの記者会見と授賞式がイタリア大使館で行なわれた。第一回受賞者は、サッカーの中田英寿選手と俳優の金城武。自己の夢を実現し、社会に希望を与えた若者を表彰するものである。
司会の華やかな美人の中村江里子さんと並んで通訳するのには引け目を感じるものの、いい男をすぐそばで見られる役得には代えられない。そして今回、栄えある第二回受賞者は、あの松坂大輔君に決まった。
受賞のコメントで、「イチローを三球三振にうちとったような気分です」なんて言われたらどうしよう。バッター、ピッチャー、キャッチャーまでは調べられたが、アウト、ストライク、ボール、ホームラン、マウンドと、何ひとつわからない。まさか戦中の日本のように、「いい球一つ」と言うわけもないだろう。それに球《ヽ》という単語を聞くとすぐあちらの|タマ《ヽヽ》を思い浮かべるお国柄、この言葉は使えない。イタリアのスポーツ新聞にも野球の話題は載っていないので、仕方なく博識のイタリア人に国際電話をかけた。ほとんどの言葉はイタリアでも英語で言っているとか。
しかし、三振の説明がうまく伝わらない。eliminare un battitore(バッターを排除する)でいいよ、と彼は言うのだが、見逃し三振、振り切っての三振をイタリア語でうまく説明できず、あきらめた。「めんどうだね、三つで共通してるからハットトリックって言えば」とついには無責任な発言まで飛び出す。
当日、アルマーニのスーツ、ブルガリの時計、グッチの靴でばっちり決めた好青年松坂君は、そんな気のきいたせりふを言うこともなく、まじめな喜びの言葉だけを直立不動で語ってくれ、事なきを得た。
かくして、通訳はいくつになっても毎日が危険な綱渡りで、「なめたらあかんぜよ」の世界に生きるのである。
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差別用語は大変[#「差別用語は大変」はゴシック体]
待望のイタリア・ライのテレビニュースが紆余曲折の交渉の末、九九年十一月十四日よりNHKで毎日曜日に放送されることになった。
私はNHKから最低六人のチームの人選を頼まれた。イタリア語の聞きとり能力がある、日本語がしっかりしている、早朝出勤ができるなどの基本的条件はもちろんのこと、強調されたのが人柄である。ある言語のチームは二つの陣営に分離しており、泣いたり喧嘩になったり、誰それとは組みたくないとごねたり、人間関係でトラブっているので、ともかく協調性のある人をということであった。
本来通訳はみんな一匹狼的性格を持っている。同時に、毎回初対面の人と仕事をするので、気の強さや度胸、社交性、積極性も必要だが、同僚と助けあう、お互い単語を教えあう、相手のミスをさりげなく内輪でカバーするという姿勢も不可欠なのである。
同時通訳をしているとき、隣のブースからマイクをオンにしたまま、「違うでしょ、○○よ」というどなりつけるような注意が聞こえたり、途中で突然マイクを奪うようにして、もう一人の声に替わったりという様子が手に取るようにわかり、聞き苦しかったことがあった。その能力の高い通訳は仕事の終了後、顧客にはこぼれんばかりの笑みで挨拶したが、車で来ていたのにわれわれ同僚には「近くの駅まで送りましょう」と言うこともなく、地方都市の会場からさっさと一人帰路についてしまった。
ライのニュースは八時十分から二十分までの十分間を二人で担当する。一人五分のニュースを訳し、放送時間にブースでオリジナル音声に合わせて訳文を読む時差同時通訳≠フ形態である。たかが五分のニュースに、出勤時間はなんと朝四時三十分。三時過ぎには起床し、タクシーで出勤する。
五分のものに四時間もかけるなんて信じられないと思われるかもしれない。しかし、まずライのニュースは現地時間の夜八時、すなわち日本時間の朝四時に衛星放送で送られてくる。終了は四時三十分。それをダビングしたものを聞いて、ニュースの内容と所要の分秒計測、キャスター部分、中継部分の内訳も表に書き出していく。その後、デスクとも相談してオンエアーする部分を十分になるように選び、切る場所などを編集の人に指示。やっとそれから実際の翻訳作業に移ることになる。そのときには五時半頃になっている。
五分とはいうものの、イタリア語はともかく早口。ぎっしりと内容が詰まっており、すべてを日本語に訳すことは不可能だし、「中学生が耳で聞いてわかる言葉で、ゆっくりと」というNHKの指示もある。海外の地名、党名、人のタイトル……そばに膨大な人名事典、時事用語集などを置いてあるものの、ゆっくり検索する時間はとてもない。
|CISL《チズル》(イタリア労働組合連盟)、|CGIL《チジエツレ》(イタリア労働総同盟)は発音もまぎらわしい。そのうえ、大統領府、議会、下院、上院と言うかわりに、モンテチトーリオだのキジだマダマだと、建物や場所の名前で言うほうが一般的なので、当然、自分の政治単語帳も抱えていく。最もよく使われる Presidente も大統領、国家主席、議長、会長、社長、総裁、首長と無限に訳語が変わる。放送時間は迫り、どうしても聞きとれないところは何度聞いてもわからない。欲を言えば、耳のいい帰国子女と日本語の正確な人とが組むと理想的なのであろう。
やっとできあがった訳をいざ映像を見ながら読んでみると、日本語が長すぎたり短すぎたり、なかなかオリジナル音声に合わない。何度も手直しをし、それをデスクに聞いてもらい、いよいよ本番となる。私は朝に弱いので、最初の二回だけで約束どおりリタイアさせてもらったが、時間ぎりぎり、ひやひやであった。
放送開始後、一年以上たったが、推薦した人たちは回を重ねるにつれ、訳語も読み方もうまくなり、最高の訓練となっているのがわかる。今や国際共通語である英語で直接交渉するようになった商談通訳などは今後は先細りだが、放送通訳はより需要が増える分野である。
放送通訳用にNHKが作成したマニュアルは本当に役に立った。用語としてまぎらわしい同音異義語の児童−自動、生還−静観、献花−喧嘩は使わない。セロテープやマジックインキ、ギネスなどの商品名は駄目、カタカナ語はできるだけ日本語に(ゴールデンウィークは大型連休)、曜日の表現は日付に直して言う。微に入り細をうがっている。そして最もうるさいのが差別用語だ。
夫のつく職業は全面禁止である。人夫、工夫、農夫、漁夫はそれぞれ労働者、作業員、農民、漁民に。父兄会は父母会に、なんと未亡人も駄目で、故○○氏夫人と言わなくてはいけない。犯罪者も、逮捕のときは容疑者、起訴されたら被告、有罪判決を受けて服役したら受刑者と表現を変えなくてはいけない。内容を訳すだけで必死なのに、ここまで気を遣うと、ほんと、ストレスも最高潮。
イタリア人が常軌を逸した天才肌≠ニいう、半分ほめ言葉的な意味あいも込めて軽い気持ちで口にする形容詞 matto も、日本語訳には苦労する。狂気の沙汰≠ニ逃げるか、現代風にいっちゃってる≠ニするか、とりわけテレビのときは気をつかう。しかし事前にディレクターに相談したところ、「英語のクレージーは許されてるんです」と素晴らしい逃げ道を教わった。
「たけしの誰でもピカソ」という番組にベネトンの広告写真で世界中に物議をかもしたオリヴィエーロ・トスカーニ氏が審査員で出演した。この人の歯に衣着せぬ毒舌ぶりは有名で、講演会でも cacca だ merda だと連発。くそ∞うんこ≠「や排泄物≠ゥ、どれも日本語に馴染まず、同時通訳のブースで汗をかいたのだが、その日も自分の評価と異なるコメントを述べた他の審査員に「君は cieco か」と立ち上がって言う。仕方ない、「あなたは視力がよくないのでは」と訳すと、言われた相手の今田耕司君「うるさい、視力は二・〇じゃ」との答え。しかしオンエアーではその部分がすべてカットされてしまっていた。イタリアでもその傾向はあり、ゴミ収集人 netturbino は、今 operatore ecologico(エコロジー作業員)となっているとか。
差別用語でノイローゼになりそうな私に、イタリアの友人がはやりの小話を披露してくれた。
チロル地方の小さな町の住民(複数で |tirolesi《テイロージ》)の老人二人が散歩している。町のバールに座っている男を見て言う。「幼なじみのルイジだ。彼ももう cieco(盲目)だよ」
もう一人が答えて、「おいおい、その言葉は使えないぞ。今は videoleso(視力損傷。leso は傷んだという意味)と言わなくちゃならないんだ」
しばらく歩く。「マリオだ。彼もすっかり sordo(耳が聞こえない)になって」
「おいおい、それも駄目だ。audioleso(聴力損傷)と言わなきゃ」
二人は立ち止まり、顔を見合わせる。「わかったぞ。それで俺たちも tirolesi(勃起障害。tiro は俗語で立つこと)なんだ」
チロルの人々を激怒させたこのジョークも、『フィネガンズ・ウェイク』をみごとに訳した柳瀬尚紀氏なら、きっと素晴らしい日本語訳にしてくださるだろうが、私には不可能であった。チロルから来た客人を前に笑いをかみ殺すくらいしかできない。
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予習は手を抜くな[#「予習は手を抜くな」はゴシック体]
昔、外国人の友人たちと旅行した。日中はイタリア語で会話をしていても、みんな寝言は必ず母国語で言う。私も翌日、「昨日大きな声で叫んでいたけれど、何を言っていたの」と聞かれ、当然覚えているはずもなく、母国語は意識下に永遠に残るものと確信していた。ところが最近の私は、夢の中でも始終イタリア語でしゃべっている。そのほとんどが通訳中の夢で、目覚めて「しまった、またただ働きをしてしまった」と地団太踏むことが多い。
最も多いのが、相手は原稿をとうとうと読み始めるが、こちらには何もなく困っているという悪夢である。ことほどさように、通訳にとって原稿は死活問題なのである。通訳に好ましい状況を順に列挙すると、
一、講演者は、当日言いたいことを簡潔にまとめたレジュメを前日までに提出してくれたうえで、自由に発言する
二、土台となる論文、原稿をくれて、自由に発言する
三、完全原稿を読む
素人考えでは、三が一番やりやすいように思えるかもしれない。しかし、この原稿が複雑かつ長い文章ばかりの文語体で、二十枚以上も前夜に到着したりすると、地獄となる。講演者の話すスピード次第では完訳原稿がないとついていけないかもしれない。安全を期して翻訳し始めるが、充分な睡眠をとっておかないと、講演後の自由討論の際言葉が出ず、メロメロになるおそれもある。寝るほうが先決と床につくが、原稿が気になって寝つけない。しかたなく睡眠薬を飲み、結局朝はもうろうとなる。つらい商売ではある。
あるとき、前日の夜にホテルから講演者の手書き原稿が十枚以上も届いた。日伊の書き方教育の違いなのか、イタリア人の手書きは非常に読みにくいことが多い。aとo、eとp、qとfが混沌となっているうえ、虫眼鏡で見ないとわからないほど小さな字を筆記体でつなげている原稿から目を三十センチ離すと一本の線にしか見えないものが、A4の紙にびっしりと書きこまれている。
シュリーマンの心境で、暗号にしか見えない文字の解読にあたる。アルファベットの癖を分析しつつ、ワープロで書き直すのである。タイトルは「コーポレート・ガバナンスの現況」。〈監査役についての商法上の規則〉〈社外取締役〉〈議決権〉〈取締役会の役割〉〈株主代表訴訟〉などの複雑な内容なので、「聞いて訳せば何とかなるわ」というレベルのものではない。
こういう場合は、わが家の家事は急速凍結状態に入り、夕食の仕度もストップ。「店屋物でも冷凍食品でも勝手に適当に食べてちょうだい。私は天の岩戸に隠れますから、いっさい邪魔しないでね」。こうなると、家族こそ最大の被害者である。私自身は時間との戦いに突入し、天を呪い、客を呪い、イタリアの筆記体教育を呪いつつ、とばっちりの波を無限に広げて、ひとりぐちることになる。
最悪なのが、通訳に何も渡さず本人だけが手持ち原稿を読むというケースである。
準備した原稿を読むのがかっこ悪いとでも思っているのか、「原稿はないよ」と言っておきながら、舞台では小さく折りたたんだ紙を読む講演者に出会ったことも一度や二度ではない。自分が一生懸命用意した内容も、通訳次第で台無しになるということが何でわからないのだろうか。ともかく自衛のため、原稿とりには最後まで手を抜かないのが鉄則。私は念のため講演者の宿泊先を聞いておき、前日になっても全く資料が届かないときには部屋にメッセージを入れる。
「日本にウェルカム。突然このようなファックスをお送りする失礼をお許しください。私は明日のあなたの講演の通訳です。もし、読み原稿、レジュメのようなものを準備していらっしゃるのなら、お手数ですが下記のファックス番号にホテルより送付していただけると幸甚です。何も書いたものがなく、すべて即興でなさるのなら、それでもかまいません(通訳の能力に不安を抱かせないためにはこの文も不可欠)。どうぞ旅のお疲れを充分いやしてくださいませ。明日お目にかかれるのを楽しみにしております」
という丁寧な内容の文にする。通訳は通常顧客と直接コンタクトをしてはいけないのだが、このファックスのおかげで難解な原稿が前日入手でき、救われたことも多い。ただし反応も人さまざまで、思わぬ落とし穴もある。
ホテルにチェックインした講師が、すぐ自宅に電話してきて、「OHPシートが六十枚もあって、ファックスでは送れない。今から取りに来て。会っていろいろ説明したいこともあるし。そうそう、今夜は何の予定もないので夕食もご一緒にいかが?」
エージェントのスタッフに電話して取りにいってもらえばいいのだが、日曜日や夜間だとそうもいかない。こちらは他の講演者の準備もあるので都心まで移動してつきあう時間はないが、機嫌を損ねられると仕事がやりにくい。この手のイタリア人には語尾をまちがえたふりをして、男言葉でメッセージを作成するほうが安全かもしれない。かくして、通訳業務以外のあの手この手の攻防戦まで強いられることになるのである。
ある高名な建築家のV氏に、大規模な講演会の前日、同様のファックスを送ったが、電話も原稿もこない。即興だと思い、当日一時間前に打ち合わせに出かけた。自己紹介をすると、V氏は開口一番おごそかに私に宣言した。
「私は君に大変不快な思いをさせられた。ホテルに到着してすぐ渡されたのが君のファックスなのだが、君は私に指図をしていたね。私は人生で他人に命令や指図されることが最も嫌なのだ。今日まで自分のやりたいことを自分一人で考え、決めて生きてきたのだ」
分厚い原稿を手にしながらこう言われると、私も「マジ、切れそう」になった。「いったい何様のつもりなの、じゃあ、今日も自分で決めて自分一人で日本語にして講演すれば!」と口まで出かかった。半日数万円の通訳代をふいにするだけで、溜飲が下がることはわかっていたが、ここで職場放棄をすると結局、最も迷惑をかけるのは五百人に及ぶ聴衆の方々、背に腹は替えられぬ。直立不動で「身のほど知らずに大変失礼なことをしてしまいました。平にご容赦を」と謝り、御下賜の原稿のコピーをありがたくちょうだいした。テキストには世界の建築物の名前、外国人建築家の名前、エジプトやドイツの地名、建築部材の固有名詞などがスライドの説明として列挙してある。この人は外国の通訳が建築評論家のごとき知識を持っているとでも思っていたのだろうか、あらたな怒りを心中におさめつつ思う。げに、すまじきものは通訳か……。今日も繰り返す独り言「もうやめよう」。
屈辱的な思い出を残したこの建築家には後日談がある。最近来日した建築史学者が、彼と同じ大学の建築学部出身と知って「V氏をご存じですか」と聞いてみた。
「同級生だったよ。成績が悪いのに傲慢なやつで、みんなに嫌われてたな。数カ月前にフィレンツェで建築家のオリジナル・ドローイング展をやったんだ。レンゾ・ピアノ、アルド・ロッシ、レオナルド・ダ・ヴィンチの自筆ドローイングまで展示されたのに、あいつだけコピーを寄越したんだ。『あまりに貴重な文化資産であり、安全を期すためにはコピーしか送れません』という手紙がついていたよ。あいつらしいってみんなで笑ったもんだ」
レオナルド・ダ・ヴィンチより偉大だと思い込んでいる人物に指図した私も、大物だったのかもしれない。
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言葉はお国柄を表す[#「言葉はお国柄を表す」はゴシック体]
通訳していてうまい訳語が出てこないとき、当然未熟な自分を責めるのだが、スピーカーサイドにも通訳、特に外国で外国人通訳を使う際の配慮を求めたい。
突然古語や古典の引用を用いたり、早口で口ごもったりする人には困らされる。わかりやすい言葉で、要点を明確にゆっくり話してほしい。
数年前、北野武氏が『HANA−BI』でヴェニス映画祭グランプリを受賞したときのイタリアニュース映像を見た。名前が読み上げられ舞台に上がった北野氏の後ろに、通訳のイタリア人女性が立った。テレビ映りのいい若い美人である。受賞コメントを求められたたけしは、いつもの不明瞭な早口で、
「今度またイタリアと組んでどこか攻めよう」
と金獅子の彫像を高く上げて喜びの檄《げき》を飛ばした。後ろの女性の顔が一瞬こわばり、日本語でたけしに「せめようって何ですか」と小声で聞いているのが音声に入った。
たけしはこれはダメだと瞬時に悟ったのか、今度は英語で叫んだ。
"Let's try again with Italia and go to some country to war!"
しかしこの英語で、メッセージが正しく伝わるわけはない。日本の新聞はどれも、「たけし流のジョークは現地では受けなかった」と報告していた。それに彼がまちがって動詞として使った war(戦争)という言葉は、あのような場では冗談にしても不適当である。
しっかりした通訳ならば、この短いメッセージが「少額予算でも質のよい映画を作って、昔世界を席巻したイタリア映画、日本映画の隆盛を取り戻そう」と言いたいのであり、当然たけしの言う「どこか」とはスペクタクル娯楽映画の王国アメリカを指しているということが瞬時にわかる。「また組んで」の言葉は第二次世界大戦の同盟国を意識しており、アメリカ人を不快にさせないように国は名指ししなかったことを理解したうえで、外国人受けする「文化」の言葉を入れ、
"Facciamo di nuovo un'alleanza con l'Italia e andiamo all'attacco culturale di qualche grande paese!"(再びイタリアと同盟を組んで、どこかの大国に文化で戦いを挑もう)
とでも訳出するだろう。そうすればイタリア人だけでなく、ハリウッドに押されて焦燥感を募らせている欧州映画人を歓喜させ、会場は大沸きに沸いたはずなのにと、非常に残念だった。
このように、天国と地獄を分けるのもひとえに通訳の能力なのだが、スピーカーのたけしにも非がある。自分の英語でも充分伝え切れない内容を、あの短い日本語で、先の戦争も知らない若い外国人通訳に理解してもらおうと思うほうに無理がある。たとえ日本語としてはおそまつになっても、確実に彼女が理解できるわかりやすい表現を使うべきだったのだ。
その表現の方法も国ごとに大きく異なる。欧州代理店会議のあと、イギリス人社長、イタリア人社長に随行して夕食のレストランに行った。エントランスの奥に豪華な花が飾ってあった。近づいて見ると、それは精巧な造花であった。皆一様に落胆の色を浮かべ、日本人社長は残念そうに、「どうも造花ってやつは好きになれませんな」とつぶやいた。残る両人も異口同音に発言した。
"Oh, I hate[#「hate」にアンダーライン] artificial flowers!"(私は造花を憎む)
"Ammazzo[#「Ammazzo」にアンダーライン] mia moglie se mette i fiori finti a casa."(家に造花なんか飾ったら、俺は女房をぶっ殺すね)
たかが造花に憎む≠セの殺す≠セのおだやかではない。しかしこれは愛憎の表現も各国で異なっている、ということを学ぶ恰好の機会になった。
そういえば、英語で多用される love と hate、愛すると憎むという動詞は日本語では、人以外のものに対して使用するのはまれである。しかし日本人が、「私はイタリアが大好きです」と発言すれば、Mi piace を使うより Amo l'Italia としたほうが生き生きとしてくる。
不思議なことにイタリア語には英語で dislike にあたる嫌い≠ニいう表現がない。non mi piace(好きではない)の後は一気に detesto か odio(憎む)という過激な表現に飛ぶ。
愛憎の言葉で日伊の不思議な共通点を見つけた。「愛してるよ」=Ti amo をあまり安易に使わない点である。日本の「好きだよ」にあたる Ti voglio bene がなんといっても一般的で、Ti amo は家族間でも使わず、ラブラブ状態の男女間のみ、それもどうも古めかしく気恥ずかしい言い方のようなのである。イタリア人が愛情表現で恥ずかしいなどという感情を持ち合わせているのか、いささか疑問だが、これが実態らしい。日伊の男性ともに、気が変わったときの言質《げんち》を取られたくないと思っているのか、真剣な愛の告白とみなされている言葉を日常的に使うことは意識的に避けているようだ。親子間でも I love you を多用する英語とは明らかに違う不思議な貞操感覚のようなものが存在している。
言葉や表現法はその国民の文化やメンタリティを体現している。だから日本語独特の、親孝行、親不孝、もったいない、なつかしいの訳語にも苦労する。イヌイット語では氷の状態を表すのに五十近い形容詞があるらしいが、イタリア語もワインやオリーブオイルのテースティングの表現には微妙な違いでたくさんの言葉が使われる。半甘口、薄甘口、中甘口、一応訳語はできているものの、両食材の歴史が浅い日本人にはなかなか理解できない。
一般的にいって、イタリア語は話し言葉が豊かで、日本語は書き言葉に多様性がある。愛する人に対する呼びかけの言葉 tesoro mio(私の宝物)、mia cara(私の大切な人)、 amore mio(私の愛する人)、dolcissima(最もスイートな人)を始めとして、地方ごとに数え切れないほどのヴァリエーションがそろっている悪態や罵詈雑言《ばりぞうごん》の類も、抑制の効いた話しかたをする日本にはあまりない。いつも困るのがほめ言葉で、favoloso, splendido, magnifico, meraviglioso, bellissimo などと連発されると、哀しいかな「素晴らしいです、最高です」くらいしか言えない。
しかしどんな場合も、通訳に絶句は許されない。想像力を駆使し、常に話し手の意図に最も適した言いまわしを瞬時に生み出す能力を備えていなければならない。
当然日本人が多用する「よろしくお願いします」というあいまいな表現も、時と場合に応じて二、三種類の言い方を用意している。
人が悪い私は、気心の知れたお客さんには、冗談半分の造反を試みて、プロなら何でも訳せるはずとの思いこみを打ち砕くこともある。
日本側主催者が「終了後は、反省会を行ないますので、イタリア人講師も控室に残っていてください」と発言したとき、私は言った。
「あっ、イタリア語に反省という言葉はありませんから、反省会はできません」
当の日本人が驚いて、「ほう、イタリア人は反省もしないんですか、猿以下ですなあ」という漫才のような会話になったことがある。
そして、私はというと、今も自室の嘆きの壁≠ノ向かい、日本人通訳の証として猿の反省ポーズをとっているのである。
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英語通訳がうらやましい[#「英語通訳がうらやましい」はゴシック体]
パソコン公用語としても認知された英語は、もはや世界語としての地位が確立されたようだ。旧約聖書の時代から数千年、ついにバベルの塔は崩れ、まもなく全員が英語で交信するようになるのだろうか。英語の自動翻訳機はいうまでもなく、今では発言の二秒後には音声で通訳する機械もできている。長い鎖国のあと開国を迎えた日本に通辞≠ネる職業ができて百四十年、まもなく通訳もえんとつ掃除、金魚売り、いかけ屋同様、姿を消す日も近いのだろうか。とすると、絶滅寸前の職業として手厚い保護をお願いしなくてはならない。
ところが、現実は国際化で通訳の出番はどんどん増えているのである。しかも、最も多くの人が話すはずの英語の通訳が大繁盛である。なんと、昨年は通常オフシーズンである十二月に入っても忙しく、東京で、すべての同時通訳機材が出払ってしまう日が二日もあったという信じられない活況を呈している。
一流英語通訳者はみんなダブル、トリプル(一日に二件、三件と別件の仕事がある)は当たり前、四件の日さえある。忙しい英語通訳は、タクシー料金のごとく十五分単位で料金設定がなされている、などなど、十把ひとからげに他国語≠ニ総称される英語以外の通訳にとっては、垂涎《すいぜん》の噂が飛びかっている。噂だけではない。友人のベテラン英語通訳者のすさまじさといったら、昔は一緒に観劇や食事を楽しんでいたのに、今は世界中を飛びまわり、成田からそのまま羽田へ、そこから福岡へ移動などと、「二カ月も家に帰ってない」とぼやいているほどだ。
フランス語トップ通訳の人は、ひと月に十五日以上の仕事を入れると、準備時間不足と疲労で必ず仕事の質が落ちると明言していたが、一日の会議ともなると資料は優に五センチの厚さにも達する。三人で分担しても、読みこむとあっというまに三、四時間はたつ。前述の友人は家庭もあり、どう時間をやりくりしているのか不思議でならない。
私の場合、同時通訳を始めた十五年前は、誰にも交代を頼めない重圧で一週間前から斎戒沐浴《さいかいもくよく》の気構えでその日に備えていたし、開始一時間前にはブースに入って集中力を高めていた。
かと思えば、慣れと経験からくる自信というべきか、つわもの英語通訳の姿もずいぶん見てきた。当日の資料の入った分厚い封筒をブースで初めて開けていた人。自分の番でないときにブースの外で漫画を読んでいた人。開始十分前にブースに入り、そつなく難しい仕事をこなし、終了時間が来ると、延びている会議を無視して次の職場に風のように去っていった人。こうなると機械と変わらない。負け惜しみではなく、忙しすぎるのもよくないと思う。心が荒れて、お客様の立場に立てないし、新鮮な気持ちで人間的通訳をすることもできなくなるのではないだろうか。
ただうらやましい点もある。英語通訳は海外出張が多い。世界を股にかけ、会議施設のある都会や高級リゾートホテルにビジネスクラスで転戦している。私たちイタリア語通訳よりはるかに多く、イタリア出張もしているのである。不思議に思われるかもしれないが、多言語の国際会議の際、日本語のようにマイナーな言語は同時通訳が公式に入っていないことも多いし、イタリア国内に日伊の同時通訳がいないという事情もあり、自国から英語通訳を二人か三人連れていき、必ず入っている英語通訳の英語から日本語に訳させるためである。
政府間会議などの重要な会議も同様で、各国とも自国から議題もよく飲みこんでいるトップの英語−自国語通訳を同道し、英語をキーとして会議が行なわれる。英語優位をやめろ、と抗議する他国語通訳もいるものの、日本語をキーとすると言語構造が違いすぎ、ひとたび完全に分解したものを、またリレーで外国語に訳すうちにどんどんニュアンスがずれていってしまうのである。そういう例を数多く体験しているだけに、一概に英語優遇をやめろと要求できない弱みもある。
同時通訳経験の少ない若手英語通訳の場合はどうだろうか。商談は英語で直接するようになっているので暇をかこっているかと思いきや、さにあらず。今元気のない日本企業を買いにくる外国企業があとをたたず、その商談で多忙を極めるという、不況特需状態らしい。その結果通訳があまりに忙しく、本来※[#マル秘、unicode3299]であるべき買収商談の通訳が毎日変わる、とエージェントの人が困っていた。
英語を話す社員も多いはずなのに、なぜ外部の通訳を使うのか。疑問に感じられるかもしれないが、大事な話の場合、聞き取り方一つで各人に誤解が生じることのないよう、共通の認識を得るため、また自分のほうだけに利益となるような通訳をさせないために、中立で優秀なプロの第三者通訳が必要となってくるのである。
英語の構文は、世界語になるだけあって明快、簡潔。知識階級ほどもってまわったレトリックを駆使して、重厚な文語体の長文を作るイタリア語とは違って訳しやすい(発表原稿を伊英双方でもらったとき、英語版を読むほうがわかりやすいことが多々ある)。しかし、うまい話には必ず裏がある。英語通訳のデメリットを考えると、
一、みんながわかっている言語ということは、事情を熟知している客の前でまちがった訳を入れるとたちどころにばれてしまう。
二、世界語になっているので、母国語ではない外国人の話す、とんでもないなまりのある英語も訳さなくてはならない。
コンピュータ業界同様、金融界も英語が公用語である。著名なインド人の金融経済人が来日し、講演した。日英通訳は入っていたものの、聴衆は国際金融人を自負する日本のエリート、誰もイヤホンを耳に入れていない。通訳二人はブースで、「今日は聞く人が少ないので気が楽ね」とすっかりリラックスしていた。ところが講師が口を開くと同時に、がさごそと何かを探す音が響き、ほぼ全員が一斉にイヤホンを取り出し、耳に入れ始めたのである。通訳も同様にあせった。なにせすごいインドなまりで、ほとんど何を言っているか聞きとれない。青くなりつつも、「プロだろ、何のために呼んだと思ってるんだ」とのクレームを受けたくない一心で、さもすべて聞きとれているという風情で必死に訳を入れたのだとか。ここで口ごもったりすると、内容を疑われること必至である。
「なんとか聞きとれた単語で想像力を駆使して訳したのだけれど、あまりはずれたことは言ってないと思うわ」
おみごと。金融経済学者のイタコもできる知識と創造性。キャリアで十五年遅れているイタリア語通訳には逆立ちしてもできないウルトラCの技である。うらやむ前にまず研鑽《けんさん》。道は遠い。
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言語間の落とし穴[#「言語間の落とし穴」はゴシック体]
以前、日本経済新聞のコラムに「優等生タイプが多く面白くない」と英語通訳に批判めいた文章を書いたY女史は、その後英語通訳たちに敵対視されていたが、これだけ英語人口が多い中で、プロとして残り、かつその階梯を上がっていくには優等生型でないと無理であろう。しかし、数多く多言語会議を経験するようになると、英語通訳にも「待てよ」と思える人がいることに気づく。
未熟なイタリア語通訳は、客がわからないのをよいことに捏造≠ェできるメリットがある。その面では不利な英語通訳の最大のメリットは、単語の意味がわからないときは、とりあえずそのまま英語で発音して逃げられること。時にはそれがかっこいい専門語に聞こえ、理解できなかった聴衆も自分の無知のせいと思いこむ。
初めてそのケースを体験したのは現代美術のセミナーだった。英語通訳が「アプロプリエーションの問題に関しましては」と日本語に訳した。私はそれをイタリア語にすればいいので、この場合は簡単、un'appropriazione と言えばすむ。しかし専門家会議ではなく、一般人対象のセミナーでこの単語のままで通じるとは思えない。原語のあと一応、「占有、盗用」という日本語訳も入れるべきだろう。日本語訳からリレーで訳すほうにとっては、イタリア語に想像のつく英語だとかえってありがたいこともあるが、それにも限度がある。つい最近の会議で、最悪のケースに遭遇した。こんな日本語訳を仏、独、伊語に訳す各国語ブースは文字通り、目を白黒、泡を食う状態になった。
「では、マンダトリーなベストプラクティスのコンプライアンスをインプレメンテーションするということでよろしいでしょうか」
「ディフォードペイメントのセキュリティ、これをポンドかワラントか、ギャランティか、また巧妙なフロードのチェックはどうするか、デフィニションを明らかにしたいのです」
天才的にうまい英語通訳なのだが、延々と続いた会議の疲労のためか右のような通訳の連続となった。英語電子辞書を繰りつつ、「rなのlなの?」と日本語では区別がつかない単語を探すせっぱつまった声も飛びかった長い長い一日であった。
もう一つ、英語通訳の大きなメリットがある。多言語会議では提出原稿のほとんどが日本語と英語に訳されている場合が多く、当日それを読むだけでいいこともある(もちろん、その場で原稿を適宜変えられても対応できる能力は不可欠だが)。そして専門用語辞典があらゆる分野で非常に充実していることもある。しかもそれがフロッピーになっていることが多いため、移動の際も重くない。
イタリア語は和伊辞典ができたのが、ほんの十数年前なのでフロッピーなど夢の世界。われわれは相変わらず、伊和、和伊、専門用語英語辞典、英和などをずっしり肩に感じつつ持ち歩き、日々指圧のお世話になっている。
こうして英語が確実に世界を席巻しつつある。国際会議などは予算の関係もあり、英語のできる人という前提で講師を探すことも多い。無理もない。講師として話す予定はなかったものの、礼儀として招待したイタリア人がまったく英語を解さないとわかったため、その一人のために三人の同時通訳者をつけて一日の会議のすべてを伊訳する羽目になった主催者は、ブース、チャンネルの増加分も合わせ、とんでもない出費を強いられることになった、ということもあるのだから。
そんな状況下で、いまやイタリア人もこぞって英語を学んでいる。しかし優秀な通訳がつけば≠ニいう前提のもとでいえば、絶対に母国語で話したほうがニュアンスが正確に伝わるし、味も出る。日本人が本場の美しいイタリア語を耳で聞く機会も増やしたい。ファッションブランドの発表会など、イタリアブランドの雰囲気をかもし出す効果音としても最適と思うのだが、最近は国際的M&A(企業の合併・買収)の影響もあるのか、社内会議でも英語を使うイタリアブランド企業も増えている。グッチ、フェラガモもその例外ではない。最後の牙城とも思えた日本の基幹産業である自動車メーカーの、日産やマツダの社内でも英語が飛びかう時代、この傾向に抗うことは難しいようだ。
日本語の英語汚染も急速に進んでいる。イタリア人通訳が最も面食らうのが、和製英語ではないだろうか。セクハラ、コンサバ、コンビニ、せめて短く略さないでくれると想像もつくのに、知らないとお手上げの状況になる。一方日本人通訳にとっての鬼門がイタリア人が文の中で使う英単語。こちらも英語を入れているとは思わないので、面食らう。ブラスカーテ≠フ商談と言われ、辞書になく困り果てていたら、なんと英語の brushcutter のこと。そんな発音するんならちゃんと刈り払い機というイタリア語 decespugliatore を使ってよ、と言いたくなる。
名詞を外国語にするうちはまだ汚染も初期。動詞が外国語になり始めたら危機的状況らしい。日本語でパニクる、ゲットする、を使い始めたころ、イタリア語でも、機械のテストをするときテスターレ(testare)と言い始めた。今やスポーツ関連、コンピュータ関連の動詞は英語オンリーである。クリックするはクリッカーレ(cliccare)、インプットするはインプッターレ(imputtare)と、コンピュータ用語の影響で日伊双方動詞も英語化するばかりである。
デザイン界の大御所エットレ・ソットサス氏は、英語も上手なのだがイタリア語で話すと、平板な英語表現がいきいきとした彼独特の世界に一変し、すべての文が詩になる。先にもふれたが、岐阜県主催の織部賞の栄えある第一回グランプリに選ばれた彼の、非常に短い受賞スピーチを通訳した。そのイベント報告書の中の出席者感想にこんなものがあった。「ソットサスの言葉の力に深く魅了された瞬間であった」。私の通訳によって短い文に凝縮された彼の哲学的瞑想詩、その言葉の力を伝えることができたとしたら、まさにイタコ冥利につきるというものだ。
オリジナルの言葉を使うと、翻訳につきものの意味のずれも最小限に抑えられる。文学や映画でもイタリア語の英訳版から和訳したものに、結構誤訳が多いことに気づかれる人も多いだろう。
「この施設は地域で unico centro として生まれ変わる」という意味の原文 unico をそのまま辞書で見たのか unique と英訳してあり、「唯一のセンター」が勝手に「ユニークなセンター」に変わってしまった例。イタリア語の attualmente(今、現在)という言葉を英語で actually(実際)とそのまま訳してしまうイタリア人も結構いる。このように似て非なる横文字間の誤解は危険なものとなる。英語では「達成、成果」の意味を持つ fruition をイタリア語の「利用、享受」の fruizione の訳で使った人もいて、このときは英語通訳の人が意味が通じないのだけど、と私に質問してくれたので、正しく伝えることができた。
言語的には非常に近いと思われているイタリア語−フランス語間でも落とし穴は多い。
「イタリア人がフランス語で ambiance の問題って発言したの。雰囲気の問題って何だろうと一瞬訳につまったけど、そこが自動車メーカーでの会議だったので、たぶん環境問題≠セろうな、と想像がついたの。環境はフランス語では environnement なのに困っちゃうわ」
とフランス語通訳がぐちったことがある。イタリア語では英語の environment にあたる言葉は雰囲気も共用する ambiente のみである。
第三者である通訳を使って会話するなど隔靴掻痒《かつかそうよう》、一つの言語で直接話をしたい、と大半の人が思っている。日常会話の類ならそのほうがいいが、複雑な内容をともなうデリケートな話し合いに生半可な外国語で臨むのは非常に危険である。しかし、へたな通訳にかかって変に誤解され、話し合い決裂となると、不運とあきらめきれない遺恨が残るのも事実である。もっとも通訳を入れれば、自分の失言を通訳の誤訳≠ニ逃げるとかげのしっぽ切りができるメリットもある。
日本も訴訟時代に入る。これからは、まずい訳のせいで商売に失敗した、と訴訟を起こされることがあるかもしれない。そうなれば私は危険がいっぱいの現場を離れ、通訳損保を開業し、通訳能力の格付けで保険料を決めるシステムを採用しよう。ああ、私はいい時代にデビューしたものだ。
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英語名はサラ[#「英語名はサラ」はゴシック体]
食べるの大好きの私は、イタリア名シモネッタ≠フほかにサラ≠ニいう英語名ももらっている。パーティの間中、まるで木口小平のように(古い!)決して手から皿を離さないからである。友人の結婚パーティで一人皿を持ったまま写真におさまっているのも私。
日本人はあいさつ好き、パーティでのスピーチ通訳も多い。しかし原則として、仕事中の飲み食いはできない。ただあいさつの部だけの仕事で、「どうぞごゆっくり」と言われれば役得で食べる。そして雑誌の今月のパーティ≠ネんて写真の隅に皿を片手に口を開けている自分を発見し、深く反省する。もっとも客のイタリア人も負けず劣らずの食いしん坊が多く、女性をさしおいての食事はできないお国柄なので、私にもしつこくすすめてくれ、喜んで一緒に食べることになる。
とはいえ上には上がいるもので、イタリア温泉ワークショップで来日したナポリの人たちは圧巻であった。北部、中部、南部の三つの地域から温泉の代表者が来日し、セミナー後、ビュッフェの昼食会場に設置された机で各温泉代表者が旅行代理店と個別商談という手はずになっていた。
セミナーが終わると、北のヴェニス近郊と中部フィレンツェ近くの代表は即座に机の前に立ち、パンフを配りながら、熱心に宣伝を開始した。通訳が終わった私も、さて食事でもとおもむろに会場に入ると、ナポリ、イスキア島のテーブルにはイタリア人が誰もついていない。公費出張中のイスキア代表の地方公務員三人は、他二つの温泉オーナーと違ってやる気がないようで、日本人のお客をさしおいて、お皿山盛りに料理を載せて口に運んでいる。たらふく腹を膨らませた三人は、あろうことか他の温泉コーナーをまわり、彼らが日本人のために持参したご当地みやげを二、三個ずつ失敬し始めた。先入観はいけない、と言っている私も、その日は南=A官僚≠ニいうイタリアの病弊がみごとに凝縮されたシーンを目のあたりにしてしまったのである。
さらにその上をいったのが日本人おばさまの一団。あるデパートがVIPのお客様を招待し、ブランドの感謝パーティを開いた。冒頭のあいさつが終わるやいなや、参加女性陣は猛然とダッシュをかけ、テーブルのまわりはくまなく埋め尽くされた。第一陣が去ってから、と飲み物を持って待機していた男性の考えは甘かった。皿を持った彼女たちは、テーブルを二重に包囲し、二皿目、三皿目にとりかかり、ようやく立ち去ったあと、テーブルには何一つ残されていなかったのである。「地球滅亡のときに生き残るのはおばさんとゴキブリかもね」
空腹の私たちはぼやいた。
全国から集まった女性エステティシャン講習会のときのパーティも忘れがたい。一流ホテルの会場で、おばさんたちはお開き直前に用意していたラップを全員に配り始め、残ったものをすべて包んでお持ち帰りになったのだ。アメリカ人と違ってあくまで恰好をつけるイタリア人は、レストランで大量に残しても、決してドギーバッグ=i犬用おみやげ)を要求しない。講師のイタリア人博士は、上品と信じていた日本女性の実態にいたく落胆していた。
上品≠ニ言えば思い出すのが、イタリアの旧家、貴族の娘である女性デザイナーである。彼女自身のスピーチが終わり、乾杯がすんでも、コンパニオンが運んできてくれる飲食物を一切口にしない。そうなると私だけ飲み食いするわけにはいかない。談笑に来る人もいなくなった頃、ついに口をついて出た言葉。
「なぜ何も召しあがらないのですか。時差で食欲がないのかしら」
金髪美人の彼女、昂然と頭を上げて言った。
「私たち家族は決して立ったままで食事はしないの。あなた、慣れてるのならどうぞ召しあがれ」
ひえー、恐れ入りました。でも彼女のお母様はイタリア始まって以来の玉の輿といわれた極貧の家の娘だったはず。私だって世が世なら尼子の姫よ、と心中でつぶやきつつ、テーブルに並べられたごちそうの皿に手が伸びる。食べながらつい言い訳する。
「私は、出されたものは残さず食べなさい、ってうるさく言われて育ちました」
武士は食わねど高楊枝とはいかなかった。無理もない、こっちは落ち武者の子孫だもの。
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現物支給で通訳[#「現物支給で通訳」はゴシック体]
その日私は朝から食事量を減らし、パワーアップに励んでいた。夕刻から今を時めくおしゃれなイタリアン・レストランでお祝いのパーティがあるのだ。しかも会費制なので、誰はばかることなく皿を重ねられるのである。
お祝いの主はさるスーパーブランドの女性部長で、このたびみごとガラスの天井≠破り、イタリア本社の取締役に任命された。四十歳を少し過ぎた彼女は、外資系の切れ者にありがちの派手な出たがり屋でもなく、家庭もある超多忙な日々のはずなのに、いつもほのぼのとした雰囲気を漂わせているチャーミングな人である。当日はその人柄のためか、急なパーティだったにもかかわらず、業界の重要な人たちも多く駆けつけていた。
少し遅れて主役の彼女が到着してから、本人や重鎮の出席者などのあいさつが始まった。私は人混みの最後尾で、もちろん皿を持ち、耳を傾けていたのであるが、司会の言葉にフォークをとめた。
「今日はイタリア大使館からB氏もご参加いただいております。ぜひ一言。ああ、たしか田丸さんも来てらっしゃいましたよね」
私は後ずさりし、皆に背を向ける。吉良上野介の心境である。しかし顔見知りの多いパーティ、すぐ見つけられ、「ただ働きはイヤー」と皿を持ったまま叫ぶ私は、あっというまに前に引きずり出され、皿をとりあげられてしまった。そばで微笑んでいるB氏に無駄な抵抗を試みる。「通訳代一語百円ですけどいいですか」
「それは大変、短くしなくちゃね」
B氏はみんなに向かい、「お気の毒な田丸さん、こんなところでも働く羽目になっちゃいました」と言った。
私はお気の毒という意味で使ったプアを本来の意味に訳し、「貧しい田丸さんは、今日も働かないと食べていけません。みなさまぜひ善意のおひねりを」
イタリア語がわかる人も多い会場からブーイング。「超訳だー、そんなこと言ってないぞ」の声があがる。
(そう、払う気がないの、それなら私にも考えがあるわ。松竹梅の梅コースでやるわよ)
B氏、まず無難に "I am happy to be here." という内容のお決まりの言葉を言った。通常、松コースなら「本日、T女史の昇進を皆様方とお祝いできますことを大変嬉しく思っております」と訳す。梅コースの場合は、「ヘイ、ここに来れてうれしいぜ」
あいさつも仕事のうちのB氏はさすがにうまく、のっけから聞かせた。
「あいさつにもお国柄があります。日本人はおわびから始めます(そう言えば、僭越ながらご指名にあずかり、高いところから失礼してなど、謝ってから始める)。アメリカ人は必ずジョークから入ります。そしてわれわれイタリア人は無言で会場を見まわします。みんなの顔がこちらを向いているので、女性出席者の品定めをし、あとでくどきにいく相手をまずは決め、それからおもむろに話し始めるのです。でも今夜はその必要がありません。なぜなら、私はすでに二輪の美しい花に囲まれているからです」
彼はこう言って、おもむろに右のT女史と左の私を見つめた。まことイタリア男性の鑑《かがみ》ではないか。その最後の部分の私の訳は、
「スピーカーの行間を読むのも通訳の仕事です。こうおっしゃってますがB氏の内心は、まあ花と言っても右はドライフラワー、左は年代物の盆栽の花というところだがな、というものです」
大爆笑のうちにあいさつは終わり、もとの場所にもどろうとする私に差し出されたのは届いたばかりのローストビーフの大片を載せた皿。
「ごくろうさま。現物支給です」
いつも自分を押し殺す黒子の通訳、こんなに好き勝手言わせてくれるのなら、たまのただ働きもまた楽しい。
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食事をめぐる悲喜こもごも[#「食事をめぐる悲喜こもごも」はゴシック体]
国賓をお迎えする晩餐会のテレビ映像をごらんになった方は、後ろの椅子から鶴のごとく首を出して通訳をする存在に気づいていらっしゃるだろう。これは結構つらい作業である。会場のさざめきのなか、後ろの席からは前の人の声がとても聞き取りにくいのだ。
外務省通訳官が任にあたる皇居晩餐会の場合は、晩餐会の前の飲み物に至るまでまったく同じメニューが通訳にも供されている。
「高いワインも出してもらうのですが、仕事前ですから飲む余裕はないですよね。同じメニューということはお毒見係の役も果たすのかな」
前通訳官の人がやや自嘲的に言っていた。
知り合いの大物英語通訳によれば、マルコス大統領が来日したとき、
「この通訳の女性が食事をしないのなら私も食べない」
と食事の席で言い始め、急遽すべての皿を移動させ、彼女の席を大統領の隣に作るという大騒ぎになった。ロシア語通訳米原万里さんも、さる要人が女性に失礼だ≠ニ日本側に抗議してくれたと嬉しそうに語ってくれた。しかしなぜか、女性を大事にするはずのイタリア人は、食事のない私に居心地悪そうにしてはいるものの、堂々と抗議してくれた人はいない。まさか私の体型を見て、ダイエット中だと納得したのでもないだろうに。
二十年前、イタリア政府機関の要人と、天下に名だたる料亭で食事会が催された。おかみのあいさつとうんちくのあと、次々と手の込んだ品が運ばれてくる。活《いき》造り、すっぽんのお吸物、今でこそ日本料理ブームでイタリア人にも寿司ファンが多くなっているものの、当時は食≠ノ関しては最も保守的なイタリア人は誰も料理に手をつけない。ともかく目玉の飛びでるような高価なコースなので、私には少しあとで松花堂弁当が運ばれてくる手はずになっていた。
私は目の前を手つかずのまま下げられていく料理を垂涎《すいぜん》の思いで眺めていた。
やがて宴半ば、私の前にエビフライ、マカロニサラダ、焼肉などが美しく盛りつけられた箱が運ばれてきた。食後、イタリア人三人をホテルに送る車中、彼らは私を責めた。
「お前はひどい。げてものが多いメニューと知っていながらわれわれには日本人と同じものを食べさせ、自分は一人でおいしいものを頼んだ。メニューが選べるのなら、きちんと前もって訳してくれ」
食事中お互いに相手の料理をうらやんで見ていたわけだ。
通訳の中には、前もって食べて行き、用意された食事には口をつけないプロ根性の塊の人もいるし、コース料理を一口で食べられるサンドイッチにかえてもらう人もいる。でも私は食べたい、そして食べられる。
大手業界の世界連盟の会長が来日した折り、表敬訪問の後日本の会社の迎賓館で夕食会が開かれた。大きな部屋のテーブルの真ん中にイタリア人会長、その隣に私が座り、あとは日本側の社長、専務、常務、部長が同席した。日本の習慣では一番えらい社長が発言しないうちは、他の役員は決して話し始めたりしない。正餐の固い雰囲気のなか、無口な社長にイタリア人も慣れないのか黙っている。こんなこともあろうかと、私は車中で会長とおしゃべりして情報を取っていた。
「会長は、日本には五年前に奥様と観光でいらっしゃったそうです」
通訳が話し始めるなんて言語道断だが、ともかく話の糸口を見つけないと重苦しいまま食事が終わってしまう。しかも話が簡単に広がる話題を選ばなければならない。「オペラを聞くのがご趣味らしいです」などと言って、日本側が対応できないと、事態はさらに悪化する。こうしてその夜、唯一の女性だった私は話がとぎれないよう、みんなに発言の機会がまわるよう、時には日伊の小話も披露して笑わせつつ、銀座ホステスのようにふるまった。すっかりみんなリラックスし、会話もおおいにはずんで夕食が終わった。最後に日本の社長が、言ってくれた。
「今までいろんな通訳の人とこの席で食事したけど、あなたが初めてですよ。通訳するだけじゃなく間ももたせてくれて、われわれの倍しゃべりながら、そのうえみんなと同じ速度で何一つ残さず平らげたのは。通訳はみんな緊張もしてるし、ほとんど残してたものね。いやあ、あなたは大物だね」
先日も同じような場面があった。場所は最高級フランス料理で名高い資生堂のロオジエ。シャンペンはクリスタル、ブルゴーニュの赤は一本十万円、おいしく飲んで食べて、楽しくしゃべり笑い、終わった。こんな幸せな仕事ってないわ、と終了後ほくそえんでいる私に一番下座で食事していた男性社員が言った。
「田丸さんのお皿が終わらないまま次のサーブにならないよう気を配っていたんですが、あんなにおしゃべりが盛りあがってたのに、田丸さんのお皿、僕たちより早く空になってたこともありましたね。同じ口でしゃべりながら、一体どこから食べてるんですか」
「見そこなわないで、私は通訳界のいっこく堂と言われてる女よ」
われながら素晴らしい特殊能力ではないか。
ある文化イベントでセミナーが長引き、ついに前もって用意されたお弁当を食べることもできないままお座敷に臨むことになった。通訳の席はと見ると、大勢のVIPが居並ぶ大きなテーブルの後ろ、床の間の前に座布団が敷いてある場所。落語家じゃあるまいし、食事中、ずっと後ろで正座をくずさず訳さなくてはならないのだ。だんだん怒りがこみあげてくる。まもなくおいしそうなカニが山のように運ばれてきた。
「このカニはまだ禁漁中のものですが、まちがって網にかかったものなのですよ。あっ通訳さん、ここのところきちんと訳しておいてくださいね」
私は晩餐会のホストであるその人に答えた。
「お代官様、通訳の沙汰もカニ次第でございます」大笑いする度量を持っていたホストのおかげで、私は、急遽テーブルに席を作ってもらい、ご禁制品のカニを一緒に賞味することができたのである。欲を言えば、「田丸屋、そちもなかなかの悪よのう」とでも答えてもらうと、さらに状況が江戸風になっただろうに。ともかくも「カニ食えば腕がなるなり通訳も」。当然舌のまわりもよくなり、座をおおいに沸かせた。芸者を呼ぶと思えば通訳の食事代など安いものではないか。
いまではこの文化イベント恒例のものとして毎年行なわれている宴会だが、主催者は私との夕食会を楽しみにしているということで、それ以降きちんと席を作ってもらっている。
マルチ通訳は昼間はまじめな文化論のセミナーをこなし、夜に変身する。
「こんばんは、くみやっこどすえ──」と丁寧にごあいさつして芸者言葉で通訳する。最近はおもしろいゲームも始めた。嘘つきは通訳の始まり<Qームである。
外国語の会話を通訳になったつもりで、さもわかったように、いかにも本当らしく、しかも内容を雰囲気や聞きとれた言葉で想像しつつ訳すというものである。日本人がイタリア語を和訳し、イタリア人も通訳気取りで日本人の言ったことを訳してみる。そのあと私が本当の意味を知らせ、結構合ってる、的はずれなどと盛りあがる。
そうこうしているうちに以心伝心、双方なれてきて内容が不思議に伝わるようになってくるのがおかしい。しかし、これって自分で自分の首をしめているのかも。次はもうお座敷がかからないようになるかもしれない。
二十年以上前のこと、公的機関の検査官がイタリアが注文した製品の溶接工程のチェックに来日し、造船場のある瀬戸内海の町に一週間滞在した。この技師もやはり生魚こわい≠フ先入観の持ち主。瀬戸内の町で来る日も来る日も昼はサンドイッチ、夜はホテルのレストランでステーキかハンバーグ。かくいう私は、イタリアでもすぐ日本食のレストランにかけこむほど和食好きである。
四日目、我慢の限界に達した私は一計を案じた。仕事の後、日本側の担当者が、
「今日の夕食も、いつものところでいいですか」
私のイタリア語訳。「今日は特別に郷土料理をいかがかと考えているんですが」
彼の答え。「えっ、肉はあるのかな、魚はちょっと苦手なんだけど」
私の和訳。「今日は日本的な食事にトライしてみてもいいかな、と思っているんですけど」
こうしてつい誤訳の罪を犯しはしたものの、私は念願の瀬戸内の海の幸を堪能できた。
そしてイタリア人の方も、初めてのてんぷらと焼き鳥のおいしさに開眼、翌日から夕食は和食と決めてくれたのだった。
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あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
二〇〇一年、イタリア年である。三百五十余りのイベントが目白押しの活況を呈するイタリア紹介事業の開会式は、三月十九日、上野の国立西洋美術館で行なわれた。「イタリア・ルネサンス──宮廷と都市の文化展」の開幕式も兼ねた式典には、皇太子ご夫妻もご臨席され、ディーニ外務大臣夫妻、フィレンツェ美術監督局長官パオルッチ氏の随行で展覧会のご内覧をされた。
その折り、説明に選ばれた絵はボッティチェッリの「受胎告知」。デリケートなタイトルを気にしつつ通訳をしたのだが、その後まもなく雅子妃ご懐妊のニュースが流れ、「イタリア・ルネサンスの霊験あらたか」と、その偶然の一致に大喜びをした。イタリア年最大の置き土産と言っても過言ではないだろう。
そしてそのイタリア年便乗、最小の置き土産(?)というべきか、私の本が出版されることになった。
処女出版である。この歳で捧げる処女があったのは大発見。もらってくれる人の有無は別として面はゆい。
しかし無名の素人が身のほど知らず、恥知らずの行為をしているとの良識も十二分に持ち合わせており、身のすくむ思いも同時に味わっている。カラオケ、自分史出版、ホームページでの日記公開ととどまるところを知らない自己主張のうねりを見るにつけ、控えめだった日本人はどこへ、と常に黒子の立場にいる通訳の私は嘆いていたはずなのに。
この私に出版のお話を持ち込んでくれたのが、文藝春秋の花田朋子さん、一九九八年五月、日伊協会の私の講演会直後のことである。悲しき通訳の性《さが》で、その場をしのげばいずれ忘却されるはずと踏んで「はい、書いてみます」と気軽に返事をして、早三年の時がたった。その間忘れたころに必ずかかってくる彼女の「どうですか」の督促の電話に、「なぜ愛想をつかさないの」とあせっているうちに、数誌に連載していたものが溜まり、なんとか出版にこぎつけることになった。単行本作りのイロハも知らない私を細やかに指導してくれ、忍耐強く待ってくれた花田さんなしには今日の日は迎えられなかった。心から感謝している。
同業者で今は文筆活動の方が中心になっている米原万里さん。彼女ほどの深い教養も文章力もない、と出版を尻込みする私を「おもしろけりゃいいのよ」と励まし続けてくれた彼女にもお礼を言いたい。
ついでと言っては失礼ながら、今日まで未熟な私をお金を払って現場で育ててくださった多くの雇用主の方々にも、この場を借りて「数々の不手際をお詫びし、厚くお礼を申し上げる」次第である。
二〇〇一年六月
[#地付き]田丸公美子
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解説──わが友シモネッタの謎
[#地付き]米原万里
わたしが師匠の徳永晴美氏から授かったシモネッタ・ドッジなる有り難い屋号を、初めてお会いしたその日に田丸公美子さんにお譲りしたのは、その分野に関する彼女の途轍もなく豊かな知識に圧倒されたからに他ならない。
核兵器廃絶に関する会議前の通訳打ち合わせの最中だった。主催者から直前になって大量の文書を渡され、緊張と焦りで皆|剣呑《けんのん》な顔をしている。そこへ場違いな水商売風の化粧と服装の女が現れて、
「イタリア語通訳の田丸です」
と名乗り、続いて素っ頓狂なことを口走った。
「ねえねえ、今度、念願の犬を飼うことになったの。訓練してバター犬にしようと思って……」
「エッ、バター犬て何?」
そこにいた英独仏西露中各国語の同時通訳者たち一同、とたんに落ち着きを失った。職業柄、意味不明な概念があると気持悪くて仕方なくなるのだ。すると田丸さんは、谷岡ヤスジの漫画に登場するという名キャラクターについて立て板に水の素早さで簡にして要を得た解説をしてくれたのだった。爆笑。一瞬にしてピリピリと張りつめた空気が和《やわ》らいだのはいうまでもない。こうしてわたしたちの度肝を抜き、ついでに敬愛の的となった彼女は、以後口を開けば、性に関する該博なる知識で、わたしたちを、そして世の善男善女を煙に巻き続けている。
自分は両性具有だと医者に訴える男に対して、診察した医師が「あなたは普通の男性ですが」と言うと、患者は「いいえ、女性器がいつもここについているんです」と言って自分の頭を指さした。
右は、田丸さんの処女作である本書に紹介されている小話なのだが、ここに登場する男は、おそらく田丸さんの自画像だ。彼女は、まさに四六時中、セックスのことばかり考えている。しかもTPOをわきまえずに、それを口にする。酒の席はもちろんのこと、食卓を囲むときも、恐ろしく難解な会議の通訳ブースの中でも、観劇の合間の休憩時間でも、一分でも言葉を交わす時間があれば、必ずエロチックな下ネタをかましてくれる。
偉大な芸術家は、何を描いても、己の個性を強烈に漂わせるものだが、田丸さんも、それに似て、まるで空気を吸うように自然に、言葉の端々にシモネッタ風の味付けをしてしまう。
これは、驚異的なことである。
たしかわたしより一つ年上で、結婚もしていて、正視できないほど美男で優秀な息子さんがいるぐらいだから、頭の中がセックスのことで一杯になってしまうような一般的な発情期の年齢をとうに過ぎているはずなのだ。にもかかわらず、強烈にして、枯れることのない性に対する好奇心と探求心を持ち続けているのは、偉大でもあり、異常でもあり、わたしが尊敬してやまないのも、その点である。もちろん、病気ではないかと、心配になることもある。
たとえば、会議通訳の現場に、彼女が現れるときの服装。彼女と一緒に街を歩いていて、傍を通過する大型トラックの運転手さんたちに、ヒューヒュー口笛を吹かれ、ブーブー警笛を鳴らされた事があるが、それほど派手で挑発的なのだ。やはり本書の中で、SKDの公演を見に行くために、浅草でタクシーに乗ったら、運転手さんに、「吉原ですね」とソープ嬢に間違われた逸話が出てくるが(なお、この話のオチは、田丸さんの人を食った性格がみごとに出ている傑作なので、直接読んでください)、さもありなんと思う。
国際会議参加者の平均年齢が六十前後で良かったと、何度胸をなで下ろしたことだろう。それこそ発情期の男がみたら、鼻血が止まらなくなりそうな出で立ちなのだ。自慢の巨大な胸の谷間を惜しげもなく見せつける胸元が大きく開いている服。大胆不敵なデザインのアクセサリー。脚線美を強調する網タイツ。挑発的な真っ赤な口紅と同色のハイヒール。これで、煽情的に胸を突き出しながら、
「カップはD級ですが、通訳はA級です」
と挨拶するのだ。気の弱い会議責任者なら、卒倒して打ち所が悪くて昇天してしまわないかと心配になる。ところが、ほとんどの顧客が、彼女流の表現を借りるならば、「裏を返して」くれて、「なじみ客になって」いる。
ギリギリのところで顰蹙《ひんしゆく》を買わずに済んでいるのは、彼女の下ネタが陽気に乾いていて、諧謔味に溢れ、下品になるスレスレの際どいところで持ちこたえているからだ。綱渡りのスリル。この辺りのバランス感覚は、さすがノートルダム清心の中学高校を首席で卒業した元優等生の面目躍如といったところ。
それに、拙著『ガセネッタ&シモネッタ』にも書いたことだが、田丸さんは、わが国イタリア語通訳界の押しも押されもせぬ大横綱、後に続く大関、関脇、小結なしという存在で、スペアが無いってこともある。ただし、ここで白状すると、日本でイタリア語の同時通訳ブースに入る(注=入るからといって決して出来るとは限らない)通訳者は、わたしの知る限り、あと五人しかいない。要するに、英語一辺倒なわが国外国語事情の恩恵を一身に受けているわけで、田丸さんの頭脳をもってすれば、第一人者になるのは、ずいぶんと容易だったのではと思う。要するに彼女以上に巧いイタリア語通訳は日本に存在しないのだから、彼女にオファーが集中するのは、いたしかたないことなのだ。
いや、それどころではない。田丸さんに通訳してもらいたいばかりに、毎年のようにイタリアから講演者やパネリストを招いているという団体が十指に余るほどあるのをわたしは知っている。
本来、講演者が主で通訳は従にすぎない。だからこれは、おまけが欲しくて高価な商品を何度も買うようなもので、本末転倒もいいところである。
たしかに、わたしだって田丸さんといると最高に楽しくて時間が飛ぶように過ぎていく。離れがたい。それでも、田丸さんの何が、そこまで顧客を惹き付けるのか(田丸さん自身は、「もちろん、わたしの性的魅力」と言い切るが)、長年謎ではあった。
その謎の一端が、本書でずいぶん明らかになった。彼女が創り出す笑いの絶えない仕事の現場は、日本の多くの会社員や役人にとって、前代未聞の時空間ではないだろうか。この幸せな時間をもう一度と思う彼らを、誰が責められるだろう。
もう一つ、本書のおかげで、長年わたしが彼女に抱いていた疑問が氷解した。彼女が、なぜしつこくセックスにこだわり続けるのか? 思春期の少年少女なみにセックスに対する関心が異常に高いのか? その言動や服装のみを取り上げて判断する限り、相当な男好き、過激なセックスマニアという印象を受けるが、本当のところは、どうなのか? 尻軽女とかアバズレとか思われるのを、強烈に望み、そのために努力もし、そう言われると飛び上がって喜ぶのは、なぜなのか?
薄々気づいてはいたのだが、彼女の実態は、夫を心から尊敬し愛する貞淑な妻であり、息子を慈《いつく》しむ賢母であることを、この本で再確認することが出来た。
ある日、「ひょっとして、田丸さんは男一人しか知らないんじゃない」と尋ねたら、歯軋りして悔しがっていたから、きっと図星なのだと思う。
ということは、貞女という実態を目くらましするために、彼女は、セックスマニアを演じているのか?
答えは、「シモネッタ以前」と題された、生い立ちを記した文章から立ち上がってきた。彼女は、幼少のみぎりから厳格で禁欲的なお嬢様道を叩き込まれてきたのだ。修道女の倫理観に貫かれた教育の実態は、時代錯誤かと思われるほど滑稽でもあり、どこか懐かしく感動的でもある。
彼女の今は、厳格で禁欲的な少女時代の反動と解釈できるのかもしれない。イタリア文化とイタリア人に出会うことによって、反動は飛躍となったのかもしれない。
「大学に入学し、東京で一人暮らしを始めた頃、喫茶店で生まれて初めて男の人に手を握られたときに、興奮のあまり目眩《めまい》をおこして気を失ったことがある」
と彼女に聞かされたのを思い出した。
そういう純粋で生真面目なところと、ひょうきんで洒脱でいい加減なところが、アンビバレントに混ざり合っている。それが田丸公美子さんの魅力でもあり、彼女の文章の魅力にもなっている。(作家・元ロシア語同時通訳)
初 出 「本の話」二〇〇一年八月号
初出一覧[#「初出一覧」はゴシック体]
イタリア語通訳奮闘記[#「イタリア語通訳奮闘記」はゴシック体]
「ナイルスナイル」
(1998年5月号〜2001年4月号)
≪親の鏡≫≪桜と気づく人もなし≫≪おしゃれな実業家≫は書下ろし
私が出会った人たち[#「私が出会った人たち」はゴシック体]
ジェトロニクス・オリベッティHP
(1997年8月〜1998年9月)
シモネッタ以前[#「シモネッタ以前」はゴシック体]
書下ろし
通訳ア・ラ・カルト[#「通訳ア・ラ・カルト」はゴシック体]
「日伊協会会報」
84号〜90号(2000年1月〜2001年7月)
≪言語間の落とし穴≫は書下ろし
≪英語名はサラ≫≪現物支給で通訳≫は「ナイルスナイル」(2001年5、6月号)
単行本 2001年7月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年九月十日刊