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シモネッタのデカメロン イタリア的恋愛のススメ
田丸公美子
目 次
はじめに
くどき上手なイタリア男たち
[#この行2字下げ]小話 花を贈る 異国でくどく チャンスをつかめ 踊りなさい 飲んだら乗れぬ、乗るなら飲むな 下ネタの弊害
◆
カサノヴァの末裔たち
[#この行2字下げ]小話 ロドルフォ〈中国篇〉 ロドルフォ〈シャンパン篇〉 ロベルト──ひと夏の経験 パオロ──アドリア海の船遊び 生涯現役 地下鉄と政治家
◆
ああ夫婦
[#この行2字下げ]小話 愛妻家? 妻は白血病 国際結婚 頭が痛い 種馬 妻の浮気 クラス名簿のバツ印 犬も食わない バブリー結婚式 恋の妙薬 映画監督 セックスレス夫婦 結婚二十五年目の初夜
◆
世界最古の職業、東西のプロたち
[#この行2字下げ]小話 売春婦の呼び名 ドーベルマン チッチョリーナ 接待のつもりが 負けていない日本のプロたち 内気なイタリア男のマリア様
◆
ああ日本人
[#この行2字下げ]小話 かくも繊細な日本人 くどき下手な日本人 国威発揚の日本人 若いつばめ スリーピー・ベイビー ラグジュアリーな行列
◆
ホテルにて
[#この行2字下げ]小話 ミラノのホテルにて 京都のホテルにて 北海道秘境のホテルにて ボローニャのホテルにて バルセロナのホテルにて 北陸のシティホテルにて
◆
かくもユニークな人たち
[#この行2字下げ]小話 堅物愛妻家 最悪の客 おふくろの味 フェミニズム チェアマン・シッター 舌禍の人 いたたまれない
◆
イタリア人のビジネス
[#この行2字下げ]小話 闇経済 何でもエロス 無線機が買いたい イタリアの耳掃除 ホットカイロ ジュエリーデザイナー カレンダー 大通詞 現場あれこれ
◆
シモネッタのイタリア初夜
[#この行2字下げ]小話 シモネッタのイタリア初夜 シモネッタの初デート 最大の後悔 はずれ馬券 恥ずかしい発音 若気の至り 見たくないの? ある子役俳優の思い出 最大の役得
あとがき
解説にかえて 田丸公美子×米原万里
文庫版あとがき
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はじめに[#「はじめに」はゴシック体]
ボッカッチョの『デカメロン』。十四世紀のフィレンツェ、蔓延《まんえん》中のペストから逃れるために郊外の家に避難した男女十人が退屈しのぎに毎日一人一話、計十の話をして十日間を過ごす物語だ。総計百の物語が語られている。
テレビもなく本も手軽に入手できない時代、物語は最大の娯楽であったに違いない。そのため子供だけでなく、権力者の王も千夜にわたって物語を所望した。そして王様を退屈させることなく、千話を話し続けられる人は命拾いすることすらできたのだ。
物語は他人の人生の擬似体験でもある。一度しか生きられない人生だからこそ、人々は今もテレビや映画など様々な媒体で他の人生を生きることに楽しみを見出す。
私が、世界屈指の人生の達人とみなされているイタリア人に関わる仕事をし始めて早三十年以上が経った。一体何人のイタリア人と「袖振りあった」ことだろう。あけっぴろげで話し好き、しかも並外れて個性的な彼らと過ごすことで、私は数多くの楽しい人生を追体験できたような気がしている。
彼らは自分をこよなく愛しており、他人にも愛されたいと強く欲している。そのため異国の初対面の通訳にまで自分のことを語る。「どんなに自分が妻を愛しているか」「妻に愛されない自分がどんなに不幸か」「自分がどんなに女性を喜ばせているか」
話題の中心はやはり男女関係(そういえばイタリア語には≪プライバシー≫という言葉がない)。性愛のことをここまで赤裸々に語るのは、カサノヴァの末裔だからかと思っていたら、そのルーツはもっと遠いところにあるらしい。
ローマ時代に最も良く読まれた『アルス・アマトーリア』(愛の芸術、愛する術)は、「男が妻以外の女をいかにして手に入れるか、そういう女の肉体をどうすれば最高度に楽しむことができるか、また女性がいかに夫以外の男を浮気の相手としてつかまえることができるかを教える戦術書、指南書」であり、「性の快楽の追求が、たんに肉体の技術としてだけでなく、男女のすべての能力・知性・教養を動員しての全生活の努力として奨められている」本だ(『ローマはなぜ滅んだか』弓削達著)。イタリア人の好き者DNAは、遠くローマ帝国時代から受け継がれた筋金入りのものなのだ。
しかしそのイタリア人がいま変わりつつある。英語を話す国際人が幅をきかせるグローバルな時代になり、世界均一な味のファストフードみたいに、クールでスマートな人が増えているのだ。南欧独特のあくの強い人間的な世代は消え、社内の公用語を英語にする新たな世代に代替わりした。その上、私自身の仕事の内容も機械のような同時通訳が中心になり、もうお客様に身の上話を聞かされることもなくなった。濃密な人間関係があった良き時代は終わった。
こんな風に昔をなつかしむ年齢になったということは、それらを忘れる年齢になったということでもある。そうなる前に、私が現場で見聞きしたたくさんの経験を物語っておこうと思い立った。そこでおこがましくも、わが雑文に名著『デカメロン』のタイトルを拝借し、男女の愛に関する逸話を中心に六十話あまりを書きつづってみた。
拙《つたな》い語り部の物語を読んでくださる方々には深く感謝している。
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くどき上手な
イタリア男たち
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
イタリア人ビジネスマンと通訳シモネッタ(ただし三十年前)との会話──
「ある所に、それはそれは愛らしいバンビちゃんがいました。おてんばバンビちゃんは、蝶々を追いかけているうちに、お父さんたちの群れから離れて知らない森に迷い込んでしまいました。困ったバンビちゃん、通りかかった猿に聞きました。
『私、迷子になっちゃったみたいなの。いつも仲間が集まっている日の出湖の方に行くにはどうすればいいの?』
猿は、バンビちゃんのつぶらな瞳とつやつや光る毛並みを舐めまわすように見て言いました。
『やらせてくれたら教えてあげる[#「やらせてくれたら教えてあげる」はゴシック体]』
バンビちゃんは一目散に逃げました。次に会ったのはしまうまです。同じ質問をするとしまうまさんも言いました。
『やらせてくれたら教えてあげる[#「やらせてくれたら教えてあげる」はゴシック体]』
三番目に会ったのは違う群れの鹿です。やっと教えてもらえると、ほっとしたバンビちゃんは道を尋ねました。ところが何と、この鹿も言ったのです。
『やらせてくれたら教えてあげる[#「やらせてくれたら教えてあげる」はゴシック体]』
絶望しかけたバンビちゃんですが、その後出会った動物のおかげで何とか処女のままで無事家族のもとに帰ることができました。さて、この四番目の動物は何だったでしょう?」
「うーん、(しばし考えて)わかりません。降参です。答えを教えてください」
ビジネスマン、にっこり笑って私の耳元でささやいた。
「やらせてくれたら教えてあげる」[#「「やらせてくれたら教えてあげる」」はゴシック体]
思わず「座布団やっとくれ」という代りに「お布団敷いとくれ」と叫ぶところだった。
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花を贈る[#「花を贈る」はゴシック体]
女にもてる最大の秘訣はまめであること、これにつきる。外見やお金は二の次である。有名な色男カサノヴァも言っている。
「言葉でくどく男は馬鹿だ。目をつけた女に細やかに気を配ることこそが最高のくどきなのだ」
この伝統を引き継ぐイタリア男性の、女性に対する心遣いは世界のトップレベルである。
日本で数日通訳した、さる業界団体の会長に、「イタリアに来たら、ぜひうちの協会事務所に立ち寄ってください。会からあなたと日本の相手先に、あらためてお礼の品を渡したいと思っています」と言われ、ミラノに滞在中、時間を見つけて訪問した。その夜は豪華レストランで夕食をごちそうになり、ホテルまで送っていただいた。用は済んだし、もう会う予定もない。丁寧にお別れのご挨拶を申し上げた。
翌朝、頼んでおいたモーニングコールの電話で目覚めた直後、部屋のドアがノックされた。ボーイが両手に抱えきれないほどの大きな赤いバラの花束を持って立っている。びっくりしている私にカードが差し出された。
「おはよう、日本のプリンセス。今日一日があなたにとっていい日でありますように」
昨夜の紳士が、私が目覚めたら一番に届けるようホテルに指示しておいたらしい。花の香りで目覚め、お姫様と呼ばれ、世紀の美女になったようないい気分である。ともかく花のお礼は言わなくては、と電話を入れた。
「びっくりしました。こんなすてきな目覚めを体験するのは初めてです。イタリアには、まだ中世の騎士のような方がいらっしゃったのですね」
電話口の向こうでしばしの沈黙があり、会長は元気のない声でおっしゃった。
「それは、私が中世の騎士のように古臭い老いぼれだという意味なのでしょうか」
まずい、私は焦った。ほめ言葉のつもりが、心ならずも傷つけてしまった。年齢を伺ったことはないが、恐らく会長は七十歳近い。中世は余計だった。
「そ、そんなつもりはまったく……」
すると突然声が明るくなり、「またお会いできますか。今マントヴァでいい展覧会が催されています。ぜひあなたにお見せしたいのです」とのお誘いだ。さっきの失点のおわびもあり、とてもむげに断る雰囲気ではなくなっていた。よく考えると、すばらしく洗練され手馴れたくどき方である。初回はあっさり別れて安心させる。自分からは電話しないで、目覚めの花を贈り喜ばせる。女性の方から電話があると、興味を引きそうな文化的企画をえさに次のデートに誘う。その前に傷ついたふりを装い、相手に負い目も与える。場数を踏んで編み出した成功率の高い方法に違いない。
中部イタリア、テルニの神父さんにちなんだ愛の日ヴァレンタインデーも、本国イタリアでは男性が女性に贈り物をする。中でも、花はもっとも多用されるプレゼントで、レストランでは女性連れの男性目当てに、高価なバラ一輪をテーブルに売りつけにくる。相手が妻だと、財布が一緒なので「そんな高いものいらないわ」と、すぐに売り子を追い払う。ところがくどいている最中の女性だと、ケチと思われたくないので、男は仕方なくバラを買い求めて捧げる。だから、この花を買うかどうかで、結婚しているか不倫なのかが分かるらしい。
日本の男性も上手に花が贈れるようになれば、くどきのテクニックの初級合格である。贈る花の数は奇数で、13と17という数はタブーというルールも忘れないでほしい。
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異国でくどく[#「異国でくどく」はゴシック体]
立志伝中の成功者イタリア人社長F氏は、片言の英語しかしゃべれないのに日本出張のたびに、毎回若い女の子の一本釣りに成功していて、私はその手腕に舌を巻いていた。五十代で巨体、ビジネス商談では鬼の形相で良い条件を得ようと食い下がる凄腕ビジネスマンだ。そんな彼が朝ホテルに迎えに行くと、二十代の若い子と相好をくずして朝食を食べているのだ。相手の女の子も純情そうな普通の女性である。とりわけてハンサムでもない普通の大型£年のF氏が、一体どうやってこんなかわいい子をゲットできるのか?
その手口を聞いてみると、彼は得意満面で長年の日本|行脚《あんぎや》で培ったノウハウを披露してくれた。
ターゲットは夕方の繁華街で一人でショッピングしている女の子。つまり終業後の退屈そうなOLを狙う。派手でなく、地味でおとなしそうな子を選び、地図を見ながら自分が宿泊しているホテルの名前を連呼して、道に迷ったふりをする。大半の子は、近くのその有名ホテルまで連れて行ってくれるという。夕食時間でもあり、お礼にその高級ホテルのダイニングに招待する。ここまでの打率は五割。ロマンティックな音楽が流れる中で、辞書を引いて見せ合いながらの会話も楽しい。お酒が好きな子なら、夜景の見えるバーまで付いてくる。ここまでの打率三割。飲み逃げする子がいないわけではないが、その後はほとんどベッドインとなる。
プロの女性ではないので、もちろんお金は払わない。その代り出発の日には豪華な花束をホテルから贈っておく。日本の女性はそれでいたく感動する。そして次回、空港の免税店で買い求めたイタリア・ブランド品のおみやげを渡したいといえば、打率十割で再会の運びとなるらしい。
こんな気前のいいF氏に、お返しに英国製のカシミア製マフラーをプレゼントした子がいた。決して裕福ではない一人暮らしのOLのS子が意を決して買った超高級品だ。
F氏は困って私に言った。
「僕が身につけるものはすべて女房が買っていて、自分で買物したことなんか一度もないんだ。これは持って帰れないよ。でも次に来るときは、僕が実際に使っているところを彼女に見せなきゃならない。その時まで君が預かっておいてくれないかな」
帰国した彼は一度夏に来日し、次は二月に来日を予定していた。冬の寒さを感じ始めたある日、マフラーを取りだし用意していた私に奥様から涙声で電話が入った。
「本人は知らないけど手遅れの肺ガンなの。どうしても日本に行くって頑張ってたけど、もう無理みたい」
F氏は、奇《く》しくも私がプレゼントのマフラーを預かった同じ日付の二月十七日、あっけなくこの世を去った。S子は彼の死を知らないままである。連絡先も知らない私には、伝える術《すべ》もない。箱に入ったままのマフラーは、今も私の家でひっそりと主を偲んでいる。
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チャンスをつかめ[#「チャンスをつかめ」はゴシック体]
イタリア人にとってあらゆる出会いは恋のチャンスである。だから街で見かけたかわいい子にはともかく声をかけてみる。タクシーの運転手も客を平気でくどく。どこに連れていかれるかわからない二人きりの空間で、随分不安な思いをしたものである。いつぞやは、私の脚に触れようと後ろに片手を伸ばしてきた運転手もいて、「あなたの免許ナンバーを警察に訴えますよ」と言うとやっとおとなしくなった。
これにこりた私は、翌日は少し歩いて路線バスに乗ることにした。郊外住宅地の始発バス停で、昼下がり、まだ誰も乗っていないバスに乗り込んだ。わざわざ運転席から一番遠く離れた最後尾の席に座ったのに、若い運転手は私のところまで来て、「見ない顔だね。どこから来たの?」。いきなり Tu(君)の|ため口《ヽヽヽ》で話しかけてきた。「八十円の運賃でも、私は一応お客よ。Lei《あなた》で話しかけるべきでしょ」と言いたいのを抑え、そっけなく返事をする。
「どこまで行くの? 降りる場所になったら教えてあげるから運転席の近くに座れば?」
無視しているのに、「明日は非番なのでどこかドライブに行かないか」と具体的なオファーに入る。運転手の彼、ルックスは悪くないので自信があるのかもしれないが、勤務中のナンパを悪びれる様子もない。幸いこの時は他の乗客が次々と乗って来たので、彼もおとなしく引き下がったのだが、このくらいで驚くには足らない。彼らは声だけの相手にも下手な鉄砲を打ちまくるのだ。
イタリアの友人宅に滞在中、日本の留守宅へ電話する際は、当然コレクトコールにするのだが、交換手が男性だとやっかいなことになる。こちらの電話番号を言って申し込んでいるので、通話が終わった後すぐに電話がかかってくる。就業中のはずなのに、「日本から来たの? ローマを案内するよ」としつこく誘う。顔も見ていない相手を誘う気になるのが不思議で、「声は若いけど私はもう五十代なのよ」と嘘をついてみたが、「年齢なんて関係ないよ。君の声に惹かれた」。いやはや、まめである。
しかし声すら聞かずファックスで誘った相手とゴールインしたケースもあるのだから、彼らの下手な鉄砲もあながち馬鹿にはできない。
とびきり美人のマミは、ある日知らない日本の会社にあてた英文レターをファックス受信した。マミは親切心から、発信元の番号に「まちがった番号に送られています」と英語で一行だけ書いて返信した。すぐに感謝のファックスが届いた。「非常に大事なレターで、あなたが知らせてくれなければ大変なことになるところでした。ついては、来月日本に出張するのでぜひお礼にお食事を」。名前から女性であることは分かったのだろう。独身だった彼女も興味津々、見知らぬファックス送信者に会うためホテルオークラまででかけた。ホテルのダイニングで優雅に食事をごちそうになったマミ、なんと数ヶ月後にはそのイタリア人ビジネスマンと電撃結婚してしまったのである。
一期一会、あらゆる機会に≪愛≫を模索する彼らこそ、実は最も真剣に人生を生きているのかもしれない。
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踊りなさい[#「踊りなさい」はゴシック体]
西洋では、夜の外出には妻を伴うのが常識である。この習慣が女性にとって嬉しいものなのかどうか、一概には決められない。東京の知人宅で、外国人も交えた夫婦での夕食会が行われたときのこと。日本人の奥様が一人寡黙なのが気になり、何とか話の輪に入れるよう通訳まがいのこともしていたのだが、幾度となくトイレに立たれる。私も後を追い、「大丈夫ですか」とそっと尋ねた。彼女は、青い顔をして答えた。「主人と一緒で、しかも外人さんもいる夕食会なんて初めてですもの、数日前から緊張してお腹をこわしているんです。家でテレビを見ながら子供たちと食べる夕食の方がずっと幸せだわ」
日本では、こんな考え方をする女性も結構多いのではないだろうか。しかしイタリアでは、他人の妻や夫に秋波を送る刺激的な機会としても、夫婦同伴パーティは不可欠なイベントになっている。
知人の家庭に滞在していたある夏、ホームパーティに連れて行ってもらった。地元の弁護士、医師などの同レベルの階級の夫婦が数組、女性はロングドレス、男性もスーツでおしゃれをして集まっていた。宴もたけなわ、広い庭にラジカセを持ち出してダンスタイムとなった。次々に相手を替えて踊るのだが、夫たちは平気で人妻の腰に手をやり、濃厚なチークダンスをする。午前一時頃やっとお開きになり、家路に向かう車中、奥様は自慢げにご主人に訴えた。「パオロもマリオも、股間を固くして私に押しつけてくるの。嫌になっちゃうわ」。奥様の顔は上気し、明らかに嬉しそうである。私は「あなたのご主人も私に同じことをなさったわ」と喉もとまで出かかったのをなんとか抑えた。
マルチェロ・マストロヤンニが初来日したときの記者会見で、「日本男性は女性をくどくのが下手ですが、どうすればいいでしょう」という質問がでた。女優とも数々の浮名を流したイタリアの伊達男は、「まず踊りなさい。音楽を聞きながら体を寄せ合えば自然に気持ちが通じますよ」と答えた。
イタリアの友人の告白──「若いころ、ダンスコンパに行くときの必需品はバナナだった。ズボンのポケットに入れておいて、踊りながら女の子にぐいぐい押し付けて反応を探る。嫌がらなきゃ、ほぼ百パーセント寝てもいいっていうサインだ。できるだけ大きいバナナを探して市場を歩いたものさ」
マストロヤンニも、男女を取り持つ小道具としてバナナが有効であるとまではアドヴァイスしてくれなかったが、ぜひ参考にしていただきたい。
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飲んだら乗れぬ、乗るなら飲むな[#「飲んだら乗れぬ、乗るなら飲むな」はゴシック体]
「バッコ、タバッコ、ヴェーネレ」──イタリア版の「飲む、打つ、買う」。人生でなかなかやめられない三つの悪徳で、バッコはバッカス神、つまり酒。タバッコはタバコ、ヴェーネレはヴィーナス、つまり女性のことである。〈酒〉と〈女〉は日伊で共通だが、イタリア人が女性を「ヴィーナス」と女神で表現しているのに、日本では「買う」である。夢もロマンもあったものではない。
私は三十年来日本とイタリアを行き来しているが、いまだかつてイタリアで酔っぱらいというものを見たことがない。何事につけ自分に甘いイタリア人だが、こと酒に関してはかなり自制している。なぜ彼らは二日酔いをするほど飲まないのか?
理由はただ一つ。酔いつぶれては女性と楽しむことができないからだ。イタリアでは、男同士でくだを巻き、はしご酒をする姿は皆無、夕刻以降のレストランで見かけるのは大半が男女のカップルである。
同じヨーロッパでも、イギリスはパブで、ドイツはビヤホールで、ロシアではウオッカバーで、男たちはおごりおごられ際限なく飲みつづける。泥酔した後は、いびきをかいて寝るしかない。こうして慢性的欲求不満に陥っている北の国々の女性たちは、夏場、リゾラバ(リゾート地の愛人)探しに大挙してイタリアの海岸に押し寄せる。イタリア男性は、世界各地の飲んべえ男たちが放棄した義務を代行してくれるありがたい存在なのだ。
女性と飲む最もおしゃれな飲み物はもちろんシャンパン。特に、初めて関係を持つときには不可欠の小道具だ。飲んで愛を確かめあったあと、女性はグラスに残しておいたシャンパンをチェックする。気泡が細かいほど、そして長く持続するほど高級品。「こんな時、安い偽シャンパンでごまかす男は信じないほうがいい」とは、先輩イタリア女性のアドヴァイス。
普通、イタリアで食事中に飲むのはワイン。あまり酒に強くない男性は、女性より先に酔いつぶれる失態をさけるため、デート前に大さじ一杯程度のオリーブオイルを飲んでおく。こうするとオイルが胃壁をカバーし、アルコール吸収を妨げてくれるのだ。食事中は、パンを口にしてはワインを流し込み、パンにワインを吸わせる。彼らはこんな涙ぐましい努力をして、その後の≪愛の格闘技≫に備える。
飲む前には相手のグラスと軽く合わせて「チンチン」といいながら乾杯する。「チンチン」は、グラスが合うときの音をもじった擬音語である。テーブルでお決りの乾杯をした後、イタリア男に聞かれた。「なんで飲む前にグラスを鳴らすか知ってる?」
理由など考えたこともなかった私に、彼は語った。
「まずグラスをたなごころで感じてごらん。冷たく薄いガラスの感触だ。ゆっくりと振ると、青りんごとカシスが混じったような香りが馥郁《ふくいく》と立ちあがる。色も楽しもう。透き通った美しいルビー色だ。次にゆっくりと口に含む。なめらかな舌触り、こくのある半甘口だ。ここまでで触覚、嗅覚、視覚、味覚を使ったね。欠けているのが聴覚だ。そこでグラスを鳴らして耳でその音色を楽しむ。イタリア人は、いつもこんな風に五感をフルに楽しませながら人生を生きているんだよ。そして今夜、僕はすべての感覚を使って君を味わいたい」
こんな台詞が吐ける相手に勝てる見込みはない。日本の男性はさっさとあきらめて、男同士やけ酒をあおるしかない。だが、もしかすると日本男性が飲んでいるのは「イタリアに生まれなくて良かった」という幸せの美酒なのかもしれない。
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下ネタの弊害[#「下ネタの弊害」はゴシック体]
≪シモネッタ≫のあだ名を持つ下ネタ好きの私だが、これは女と見ればくどいてくるイタリア人に対する自衛策として身につけたものである。攻撃は最大の防御、あっけらかんと下ネタを言うと相手が退くのである。まじめにくどく雰囲気を壊すための緊急避難と言い換えてもいい。相手にからかわれていると感じたら、イタリア人だってむだな鉄砲は打たない。仕事の相手と変な関係にならず、長いつきあいができる。一石二鳥の策と、今日まで実行してきたのだが、最近弊害の方が目立ち始めた。
昨年、二十年来のお客であるイタリア人三人と名古屋一泊の仕事に出かけた。夜の街を散策中、料亭の入り口に盛ってある塩を見つけた彼らに、「これは何?」と聞かれた。
「塩は本来お清めのものですが、これには別の古い由来があります。平安時代、日本はスウェーデン顔負けの自由恋愛母系社会でした。男が女性宅に入り婿したのですが、結婚後もかなり自由に夜這いが繰り広げられていました。月明かりだけを頼りに牛車《ぎつしや》で動く貴族たちを呼び寄せたい女は、門前に塩を置きました。牛が塩を舐めるために立ち止まった家には、男を待つ女がいたのです。この故事に基づいて、≪お客様を待っています≫というメッセージを意味する塩なのですよ」
感心して聞いている彼らに、持ち前のサービス精神から私は言わずもがなのことを付け加えてしまった。
「今夜、ホテルの私の部屋の前に塩が置いてあるかどうか確かめに来ないでね。そして、もしも塩を見付けても、すぐに部屋に飛び込んだりしないで、まずドアを見て。料金表が貼ってあるかもしれないからね。当然、私の価値はあなたたちの手の届くものではないけどね、ほっほっほ」
高笑いで説明を締めくくった私に対する彼らの返答は、女性に優しいことで有名なイタリア男性のものとは思えぬほど冷酷だった。
「それは楽しみだ。君は十二時過ぎても誰も来ないので値段を半額に書き換える。二時過ぎには三分の一に値下げだ。それでも誰も来ない。仕方なくさらに書き換えて、ただにする。朝六時、遂には≪お払いします≫と書いた料金表を貼る羽目になる。その頃なら俺たちも行ってやっていいぞ」
いくら古いつきあいとはいえ、あんまりではないか。私も一応女なのにと、先に立たない後悔をしつつ、塩を撒いてホテルで独り寝をした。
まさに過ぎたるは何とやら……であった。
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カサノヴァの
末裔たち
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
イタリアで「セックスが終わった直後何をするか」というアンケートを取った。
一七パーセント:タバコを一服する。
一三パーセント:水やビールを飲む。
一一パーセント:シャワーを浴びる。
三パーセント:そのまま眠る。
五三パーセント:服を着て家に帰る。
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ロドルフォ〈中国篇〉[#「ロドルフォ〈中国篇〉」はゴシック体]
ロドルフォは自他ともに認める天下のプレーボーイだ。著名デザイン事務所の経営者である彼は、中肉中背の中年。ルックスに関しては、とりたてて魅力的なところは何一つない。色白の顔も体も全体的にゆるんでいるという印象を強調する。お金に鷹揚なところは育ちの良さが出ているが、金に糸目を付けず女に貢ぐほどの金満家でもない。
彼が移動のタクシーの中で初対面の私に向かって武勇伝を話し始めたときは、とんでもないほらふきではと疑ったものだ。しかし夕食会が終わる頃には、会食者全員が、彼ならもてるのも当然だと信じる気になっていた。初対面の人たちもすぐに引き込まれるほどの話上手だし、出された食事は何でもおいしそうに空にするのも好感が持てる。彼の体験談があまりに面白かったので、その夜の会食ではさすがの私も、通訳に忙しく食事を残してしまったくらいだ。
「≪千人斬り≫という言葉が日本語にはあるらしいけど、いくら僕でも千人には達していない。数百人程度かな。三十七歳で結婚した後も記録は伸ばしているよ。僕は死ぬ前に『現代カサノヴァ回想録』と『絶対女をものにできる原則集』を、モテなくて悩んでいる男性諸君のために書き残したいね」
しかし彼が語ってくれた原則は、周知の事実ばかり。目新しいことは特にない。
[#ここから1字下げ]
(1)寝たいという気持ちを決して表に出さない。まずは、一般的な会話で楽しませ、あとは彼女の話を真剣に聞き続ける。
(2)彼女の容姿に興味がない風を装い、決して容姿はほめない。そのうち、くどかれ慣れたプライドの高い女は、なぜ自分をほめないのかと苛立ち始め、どうしても寝たいと言わせたいと思い始める。
(3)母性本能刺激。嘘だからあまり推奨はしたくないけど、最後の手段だね。今日女房が他の男と家を出たとか、十年愛した人に去られたとか、苦悩の表情で語る。
[#ここで字下げ終わり]
ある秋、彼は中国に招待され、政府関係者や財界人たちとの晩餐《ばんさん》会に出席していた。ビジネスウーマンも何人か参加していて、ロドルフォの隣にも流暢《りゆうちよう》に英語を話す美女が座っていた。楊貴妃もかくやという美しさをたたえた、華やかで気が強そうな女性だ。アーモンド・アイズと呼ばれる東洋人特有の黒い瞳が、やや上がり気味の涼しげな弧を描いている。彼は、原則(1)と(2)に従い、この美女にいっさい賞賛の言葉を送らず、楽しい小話などで話を盛り上げることだけに努めた。
食事が中盤に差しかかったころ、美女が耳打ちしてきた。「あなたの部屋に先に行って待ってるわ。テーブルの下で皆にわからないようにルームキーを渡して」
相手が超ド級の美人なだけに、さすがのロドルフォもいささか懐疑的になった。こんなうまい話には裏があるに違いない。もしかして今日のホストからのプレゼントか、いや高級コールガールか。後者だとすると、一体いくら請求されるのか、ドルのキャッシュはいくらもっていたか──。もはや気もそぞろである。デザートに入る直前、彼女は席からすうっと立ち上がり、その日のホストと出席者に婉然《えんぜん》と挨拶して先にレストランを後にした。左隣にいたホストの社長が、まわりの出席者に同調を求めるように言った。
「実に身持ちが堅い女性ですな。朝が早い仕事なので、毎日必ず十時には床に就いて、八時間は睡眠をとるようにしているそうです。美貌を保つためもあるのでしょうが、デザートも食べずに九時前に一人で座を辞すなんて、なかなかできるものじゃありません。本当に立派な女性です」
この発言でホストからのプレゼントとか高級コールガールの可能性はないのがわかると、ロドルフォは今度はキーを渡したことが不安になった。からかわれたのかも──。夕食が終わり、展望台のバーに向かう一行の誘いも断り、自分の部屋へと急ぐ。ブザーを鳴らすと鍵が内側から開いた。彼女はすでにシャワーも浴びてバスローブでくつろいでいた。臨戦態勢だ。二人は時間を惜しむように愛しあい燃えた。すばらしい夜だった。彼女の求めに応じ久しぶりに回を重ねた彼は、疲れきって眠りに落ちた。目が覚めると朝七時だった。昨夜のことが蘇り、ベッドの隣を探る。誰もいない。ベッドサイドのテーブルに置かれた白い紙に、英語でこう書いてあった。
「ありがとう。楽しかったわ。仕事に行ってきます。さようなら」
何も盗られていないし、お金も請求されなかった。連絡先を聞かなかったのは惜しかったな──そう思いつつ、ベッドで上半身を起こした彼は、タバコに火を点け、何気なくテレビをつけた。直後彼はベッドから飛び出し、テレビの前に張りついた。昨夜の彼女が画面いっぱいに映り、ニュースを読んでいた。彼女はメインのテレビ局の有名なニュースキャスターだったのだ。髪を乱して一晩中|歓《よろこ》んだ片鱗はいっさいない。スタイリストが選んだのか、昨夜とは違った薄地のブルーのスーツがめりはりのあるボディラインを強調している。アップに結い上げた髪も朝のさわやかさを感じさせ、数時間しか寝ていないはずなのに、昨夜以上に輝いている。
ロドルフォはその日に帰国の途につくのが惜しくなって、フライト変更を申し出ようかとしばし迷った。それにしても女は怖い。≪身持ちが堅い早寝の女性≫というイメージを財界人の間に流布させている彼女は、きっと誰か金持ちの息子と結婚するのを狙っているのだろう。いつの世も女の方が男より役者が上だ──嘆息した彼は、ひげをそるために鏡を見て驚いた。まるでドラキュラに精気を吸い取られたかのように疲れきった自分がいた。
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ロドルフォ〈シャンパン篇〉[#「ロドルフォ〈シャンパン篇〉」はゴシック体]
ニューヨークで仕事を終えたロドルフォは、その日、投宿中の高級ホテル、プラザアテネのバーに立ち寄った。いつものようにカウンターに座り、シャンパンをグラスで注文した。
まだあまり人もいないバーの隅の席に、見るからに金持ちそうなマダムがやはりシャンパンを飲んでいる。年齢は四十代後半か。ショッキングピンクのドレスの大きく開いた胸元には全面ダイヤのネックレスが光っている。うす暗いバーの中であれだけ光るのは、よっぽど質のいいダイヤなのだろう。いかにもニューヨークらしいマダムだと、ロドルフォはちらちら彼女に目をやっていた。彼女が飲んでいるグラスに半分くらい残っているのもシャンパン。しかもローズ色である。彼女がそのシャンパンを空にするが早いか、バーテンダーに「同じものを、僕からと言ってさしあげて」と頼んだ。自分の前に新しいグラスが置かれたのを見ると、マダムは彼に微笑み、グラスを高くあげ乾杯のジェスチャーをした。よし、出陣のほら貝だ──自分に活を入れ、彼はマダムの隣に移動した。
「シャンパンはお好きですか」
「好きというレベルを通り越してるわね。私、モーニングシャンパンから始まって、シャンパンしか飲まないのよ」
「僕もシャンパンが一番好きな飲み物なんです。だからシャンパンの使い方にも長《た》けているんですよ」
「ほほほ。使い方の一つは今見せていただいたわ。他にはどんなものがあるのかしら」
「ボトルの使い方も含めて多種多様。語り尽くせないほどありますよ」
「悪いけど、あなたが知っているのは、既に私が確かめたものばかりだと思うわよ。あなたが想像もしたことのない使い方を私が教えてあげるわ。明日、ウォルドルフ・アストリアで夜七時に待ってるわ」
そう言うとマダムは、名前だけ書かれた名刺を彼に渡し、パーティに行くからとバーを後にした。
翌日を待ちわびたロドルフォは、二十分も早くロビーに到着した。彼女の姿はない。七時二十分まで待って、フロントにメッセージがないか聞いてみた。彼女の名前を告げると、フロントマンは顔つきまで変えて丁寧になった。
「失礼いたしました。マダムからお部屋にご案内するよう申しつかっております」
すぐにボーイがロドルフォをエレベーターで最上階に案内した。エレベーターが開き、一歩踏み出したとたん靴が深いえんじ色の絨毯に沈みこんだ。通常の二倍はあるかと思われる厚みだ。エレベーター前には警備員がいる。案内された部屋は廊下の一番奥にあった。重厚な木のドア。アストリアのスイートルーム、一泊四、五十万円と聞いている。ロドルフォは武者震いして部屋に入った。
マダムは真っ白なシルクの部屋着で彼を迎えてくれた。暮れなずむニューヨークの夜景が、少し照明を落とした部屋をロマンティックな空間に変えている。
彼女はこの部屋を年間通して借りているらしい。住宅以外に部屋をキープして何に使うのか。自分もマダムの遊び相手の一人に過ぎないのか。並外れた金持ちぶりに、やや気持ちが萎縮《いしゆく》した。
シャンパンやフルーツが並べられたテーブルでしばし談笑したあと、マダムはルームメイドのベルを押した。
「お風呂を入れてちょうだい」
二人のボーイがやってきて、そそくさとバスルームに消えた。そして、シャンパンの栓を抜く威勢のいい音が次々と鳴り始めた。
「マダム、終わりました」
チップを受け取った二人が退出すると、マダムは言った。
「さあ、あなたのシャンパン使用法にもう一つレパートリーを増やしてあげるわ」
するりと部屋着を脱いだ彼女は全裸でバスルームに向かう。彼も急いで背広を脱ぎ捨てながら後を追う。リビング並みの広さのバスルームにも絨毯が敷かれ、中央にある大理石の台の中心に大きめのバスタブがしつらえられている。まちがいなくイタリア産最高級の石だ。ガラス張りの窓からはニューヨークの夜景が見える。マダムは素早くバスタブに体を沈めた。タブの湯気の下には無数の小さな気泡が上がっていて、湯が薄いピンク色に染まっている。
百戦錬磨のロドルフォも卒倒するほど驚いた。バスルームの壁に並べられている空けられた瓶の数。そこに貼られたラベル。三ダースはある瓶は全てドン・ペリニヨン・ロゼのボトルなのだ。アストリアでこのボトルを部屋に持ってこさせるとどう低く見積もっても一本八万円。ということは、この湯は時価で三百万円。文字通り湯水のような金遣いだ。三百万の湯に身を浸すのか……夢を見ているようだ。シンデレラガールの物語『プリティ・ウーマン』に、ビバリーヒルズ、ウイルシャーホテルのスイートルームで主人公の男女二人が入浴するシーンがあった。しかしあの監督もまさかシャンパン風呂までは思い付かなかっただろう。ロドルフォはすっかりリチャード・ギア気取りで、ゆっくり彼女の後ろに体をすべりこませた。
「シャンパン・ジャグジーよ。泡が小さくて気持ちがいいのよ」
彼女はゆっくりと舌をからませてきた。彼女の体もシャンパンでできているのか、キスまでシャンパンの味がした。二人はそのままバスタブで愛し合った。最高に刺激的だったのは、究極のぜいたくをしているという、しびれるような快感があったからだ。
やはりロドルフォも遊ばれたようで、その後は電話もかかってこなかった。数年後、妻の女性誌のページを何気なくめくっていた彼は、シャンパン風呂と同じくらい驚いた。パーティ・シーンであのマダムが微笑んでいる。南アフリカのダイヤモンド王の何番目かの妻で、今は未亡人になっている社交界の花。モナコに住み、プライベートジェットで世界中をショッピングしてまわり、カジノで暇つぶしをしながら日々を過ごしているらしい。ロドルフォは祈った。あともう一度、弄《もてあそ》んでほしい。今度は、彼が最近編み出したシャンパンの新しい使い方を教えるのだ。
「それは何なの?」と、尋ねた私に彼は言った。「教えてほしければ、僕と寝ることだね」
女を落とす原則(1)を既にはずれている。私が相手では、やる気も失せるようだ。
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ロベルト──ひと夏の経験[#「ロベルト──ひと夏の経験」はゴシック体]
若社長ロベルト。旧家の家柄、ボローニャ大学工学部をトップで卒業した頭脳、スポーツ万能で逆三角形の筋肉質の体躯、身長百八十五センチ、青い目にポール・ニューマンそっくりの顔、もてる条件は完備している。
約束や時間にいい加減なのが玉に瑕《きず》で、「二十分で着くから」と電話を切って、ホテルに来たのは一時間半後。文句を言うと、「イタリアで二十分と言ったら、できるだけ早くという意味であり、正確に二十分という意味ではない」と言い訳をする。「イタリア語でそんなときは普通、五分と言うわ。二十分なんて聞いたこともない」と怒ったことも一度や二度ではない。来日の予定を早々と連絡してきて、日をあけて待っていると梨のつぶてということも多い。
逆に、メリハリのついたお金の使い方には好感を持つ。大きな体に狭い座席は辛いだろうに、「数時間のことに無駄遣いはしない」とエコノミークラスで旅行する。一方で、来日中は日本の会社のスタッフクラスの人たちをホテルに招待し、高級フレンチやワインをごちそうする。成金ではない育ちの良さが感じられる。
私がイタリアに行ったときも、感心させられた。
ミラノで彼との仕事を終えたあと、私が夕食に招待されている知人のお宅に送ってもらうときだった。彼は、送って行く住所の地理にあまり明るくないらしい。路上でタクシーを見付けると、行先まで先導してくれるよう頼んだ。目的地に着くと、彼は運転手にメーター料金とチップまで支払っている。「それなら、私が最初からタクシーに乗って行ったのに」と言うと、彼は答えた。「女性は最後まで責任を持ってエスコートしなくちゃならない」
また、別の機会にボローニャの駅に送ってもらったときだ。大きな旅行鞄を持ってローマ行きの列車に乗る私を乗せた車を、彼は駅の前に停めた。すぐに交通警官が飛んできて命令した。「駅前は駐車禁止だ。駐車場に入れなさい」。時間にルーズな彼は、この時も発車時間すれすれの到着だったので、離れた駐車場に車を入れていると到底間に合わない。こんな時普通は、「悪いね。あそこに赤帽がいるからホームまで荷物持ってもらって」と私だけ降ろすだろう。彼は警官に向かって言った。
「彼女の鞄を持ってホームまで行くから、そんな時間はない」
「規則です。駐車違反にレッカー車移動、○○リラ請求になりますよ」
確か三万円くらいだったのではないか、ともかく高くてびっくりするような金額だった。
「構いません。私はここに駐車します」
ロベルトは宣言し、車を降りてトランクから私の鞄を出し、さっさと駅舎に向かって進み出した。警官はあっけにとられて彼を見つめていた。今、空港や駅での駐車は実に煩雑《はんざつ》であり、私を降ろしてその場で別れの挨拶をする人も多いのだが、忙しい社長の身であるにもかかわらず、彼は、『旅情』のキャサリーン・ヘップバーンを見送るロッサノ・ブラッツィさながらに、ホームで最後まで私を見送ってくれた。さすがに女心をつかむすべを心得ている。
そんなロベルトの学生時代の話である。
イタリアの夏は、老若男女がアバンチュールに血道をあげる季節。ロベルトの家は、海と山の双方に別荘を持っている。七月になると、彼は高級スキー場で有名なコルティーナ・ダンペッツォの別荘に早々と出かけた。前年の八月、近所に美人の若妻を見つけ、マークしていたからだ。八月に入ると夫がジョインしてべったり一緒に過ごすので、手を出すことは不可能になる。チャンスは、夫が都会に残って働いている七月だけなのである。
昨年の七月は、海辺の別荘で別の子持ちの若妻と逢瀬を楽しんだのだが、ベビーベッドですやすや眠る子供のかたわらでのセックスには、さすがに良心の呵責を感じ、ほどなく関係を絶ったのだった。今年くどくつもりの人妻には幸い子供もいない様子で、気もはやる。
夕刻、ダンペッツォのおしゃれな目抜き通りのバールで張っていると、例の若妻が散歩がてら食前酒を飲みにやって来た。エメラルド色の瞳に波打つ金髪。「ご近所ですよね」と自然に話しかけ、しばし並んで街を歩けば、すぐに以心伝心、魚心あれば水心。その日のうちに熱い抱擁を交わした。
聞けば、二十一歳の彼女の夫は、二十四歳も年上のミラノの建設業者。当然二十歳のロベルトとの方が話題も合い、毎日一緒に過ごし愛を語り合う仲になった。
七月最後の夜、二人は別れを惜しみながら愛し合っていた。そのとき、突然車が停まる音が聞こえた。愛妻のもとに一刻も早くかけつけたいと、必死で仕事を終えた夫が、予定より一日早く到着したのである。二人はあわてふためいた。ロベルトは急いでパンツだけ穿き、シャツとズボンを手に、二階寝室のベランダから裏庭の灌木《かんぼく》の上に飛び降りた。上から彼女が靴下を丸めて入れた靴を投げ下ろした。
ただならぬ物音に驚いて庭にでてきた裏の家の奥さんが、目をまん丸にしてロベルトを見つめている。一瞬にして事情を察したこの中年マダムは、彼の美青年ぶりに惹かれたのか、何も言わず、ジェスチャーで自分の家に手招きをした。彼を自宅に招き入れた隣家のマダム、ズボンを穿く前に傷を消毒してくれると言う。灌木で無数の傷を負った自分の脚を見て、彼も親切に甘えることにした。ソファーに座る彼の脚をていねいに消毒していたマダムの手が腿《もも》のあたりに達したとき、近所でポーカーに興じていた彼女の夫が突然帰宅した。一難去ってまた一難。身構えるロベルト。下半身パンツ一枚の見知らぬ男と妻を見て度肝を抜かれた夫に、マダムは落着いて弁明した。「この方、さっきお隣のベランダから落下なさって、今手当てしてあげてるの」
人目を引く美人妻のいる隣家と聞いて、夫もすぐに状況を察したらしく、何も言わずに寝室に消えた。ロベルトはほうほうのていでその家を辞去し、翌八月からは海辺の別荘に移動した。すぐそばで、夫と夏休みを過ごす彼女を見るのが辛かったからだ。
九月のある土曜日、ボローニャに戻っていたロベルトの家のベルが荒々しく鳴らされた。応対に出た父親が彼の部屋に来て尋ねた。
「ロッシと名乗る男性がえらい剣幕でお前を出せと言っているが、一体誰なんだ」
スポーツ万能、腕っぷしには自信のある彼だが、人妻を寝取ったのはこっちで、どうみても分が悪い。正直に告白し、客間に出て行こうとする彼を、父親は押しとどめた。
「お前は部屋にいなさい。お父さんが話をつけてやる」
二十分も経った頃、玄関の扉が荒々しく閉められる音が聞こえた。
「彼女の日記を盗み読みしてお前のことが発覚したらしい。もう二度と会わないと約束しなさい」
一体どう話をつけたのかいぶかるロベルトに、父親は言った。
「相手があまり分からないことを言うものだから、うちの息子はまだ二十歳です。未成年者誘惑不法性交罪でお宅の奥様を訴えますよ、と言ったんだ」
当時のイタリアの法律では、結婚している夫婦を除き、成人年齢二十一歳未満の性交は、たとえ合意の上でも禁止されていた。当然死文化した法律なのだが、一方が無理強いされたと訴えれば、成人に達している二十一歳の妻の方の負けは明らかである。慰謝料をふんだくろうとした夫もすごすごと引き下がるしかない。
しかしさすがイタリアの父は偉大である。息子の窮地を機転で救った上、彼にはそれ以上何のおとがめもなかったとか。
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パオロ──アドリア海の船遊び[#「パオロ──アドリア海の船遊び」はゴシック体]
イタリアの東側アドリア海沿いのリゾート地は、夏、イタリア男をリゾラバにするドイツ女や北欧の女のメッカと化す。当然イタリア男も、それを目当てに集まるので、夏、この海岸線一帯には、熱きフェロモンが充満することになるのである。
夏というと、通常は若い子たちが過ちを犯す季節なのだが、イタリアでは国中が発情期に入る。というのは、学校が六月中旬から九月中旬まで三ヶ月の長い休みに入るので、多くの中流以上の家庭では七月、母親と子供だけが海や山の別荘やマンションで過ごすからである。そうなると夫のほうは、近場なら週末だけ家族に合流、遠隔地だと八月まで単身生活をすることになる。街に残っている独身の秘書やOLと心ゆくまで浮気できるのは、この時を逃してはない。これは国民的行事となっており、女房のいない七月、一夜のアバンチュールのお相手には誰を選ぶか≠ニいうアンケートが毎夏実施されるくらいなのだ。そして妻のほうも、子供を寝かせつけた後のリゾート地で、大学生や高校生に性の手ほどきをするという大事な役目に励むのである。
アドリア海に面した海岸は、高級リゾート地が多い西側の海岸と比べるとより庶民的である。長い砂浜沿いには安価なペンションや夏季賃貸アパートが立ち並んでいるので、しまり屋のドイツ女性のグループも長期滞在できる。この東側海岸でもっとも有名なのがリミニ。映画監督フェリーニの生まれ故郷で、この地を幼い頃の思い出をたぐるように描いたのが『アマルコルド』。そのころ海岸の掘っ立て小屋に住んで、次々男を引き入れていた巨乳のヴァンプが、幼い彼に残した影響は大きかったようで、『甘い生活』などの他作品にもしょっちゅう巨乳女性が登場する。
その庶民的雰囲気の海岸で、男性|垂涎《すいぜん》の遊び方をしていた友人がいる。パオロは中学を卒業すると、生活雑貨のセールスマンをはじめ、地方代理店、ついには全国販社を設立。その勢いで製造業にも参入し、洗剤、入浴剤、化粧品と次々にPB《プライベート・ブランド》を展開し、四十代初めには屈指の資産家になった。
彼は毎夏、乗組員とコックを雇った高級ヨットにクライアントを招待して船上会議と称し、アドリア海に船出していた。男ばかりでの船出なので奥さんたちも安心していたし、女性を海上調達するなど夢想だにしなかったはずだ。
対岸は、まだ共産国家であったユーゴスラビア。船はユーゴ沿いの海岸に最も近い場所にゆっくり錨を下ろす。すると砂浜で質素な夏を楽しんでいる市民の中から、若い女の子ばかりが船に向かって次々と泳いでくるのである。手こぎゴムボートで来る子もいる。船からはロープはしごが下ろされ、女性たちが船内に吸い込まれていく。後はお定まりの酒池肉林である。彼女たちにとっては、ユーゴでは口にもできないシャンパン、高級ワイン、豪華イタリア料理をお腹いっぱい食べ、山のような化粧品をおみやげにもらって帰ることのできる束の間の竜宮城なのである。翌日、彼女たちはゴムボートに食品も含めもらったものをすべて積み込み、再び泳いでユーゴに戻る。若社長の彼にとっては自社製品を配るだけのコストで、クライアントを大喜びさせられる恰好の接待の場であった。
ボスニア紛争後、ユーゴの海岸で毎夏イタリア船の到来を待っていた女の子たちはどうなっているのだろうか。せめて泳げない子も自由にイタリア製化粧品が買える世の中になっていればいいのだが。
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生涯現役[#「生涯現役」はゴシック体]
イタリア人はしょっちゅう≪あのこと≫を考えていると言われる。事実、何でもすぐ男女関係のことに結びつけ、女性の前でも堂々とその手の小話をする。私もそれに慣れてしまい、つい日本でも平気で下ネタを口にして顰蹙《ひんしゆく》を買うことになる。
一九九四年のナポリサミットの晩餐会では、ベルルスコーニ首相が、「ナポリのロマンティックな夜に刺激されて盛りあがり、お国に帰って子供が生まれたなんてことのないよう十分お気をつけください」と挨拶し、他国元首夫妻の顰蹙を買ったらしい。ベルルスコーニ首相は、欧州議会議長を務めていたときも懲りないところを見せた。女性元首もいる会議で「今日は堅い話は抜きで女の話でもしましょう」と軽口をたたいたのだ。一国を代表する首相がこのありさまなのだから、他は推して知るべしであろう。
フランスとイタリアの双方に住んでいたことがある日本男性も言っていた。フランス人男性にとって愛人のことはあくまで≪秘め事≫、どんなに仲良くなっても決して打ち明けられることはない。一方、イタリア人は人前でもあけすけに自慢する。ひどい時は、自分が寝たことのある相手を紹介して「どうだ、お前が気に入ったのなら、話をつけてやるぞ」と既婚者の彼にまで世話を焼く友情厚い≠ニころもあったと。「ベッドでもなかなかのものだったぞ」と試運転の結果まで報告されると、その親切にも食傷気味だったらしい。
私がまだ新米ガイドだったころ、団体で来日した初老のおじさまの話だ。ガイドでお世話した後数年手紙のやりとりをして、イタリアでも二度ほど会った。毎回孫三人を引き連れてわざわざ遠く離れた町まで会いに来てくれる好々爺《こうこうや》といった風貌の人である。「君は僕の孫みたいなものだ」とかわいがってくれていた。
ある年の秋、やっと彼の住んでいる国境近くの港町トリエステを訪問することができた。午前中は孫たちが学校に行っているので、彼が珍しく一人で私を案内してくれるという。街なかを散歩してしばらく経ったころ、彼が私に美容院に行けとしつこく勧め始めた。髪はきちんと洗っているし、強風が吹くので有名な港町だ。セットしてもすぐ崩れるので時間もお金も無駄になる。私は彼の真意を測りかね、「今日特に美容院に行く必要はありません」ときちんと断った。それにもかかわらず、彼はある美容院の前にくるとさっさと先に入っていき、勝手に私のシャンプー・セットを頼んでしまった。彼はその間、臆する風もなく女性にまじり雑誌を見ながら待っている。落着かないことはなはだしい。一時間足らずで終わり、支払いを済ませてくれた彼と美容院を出た。彼は声をひそめ、さも得意げに告白した。「実はさっきのあの美容師は僕の契約愛人なんだ。毎月お手当てをあげている。美容師の給料だけじゃ結構大変らしくってね」
二十四歳だった私にとって、彼は単なる優しいおじいちゃん、一切男を感じない対象だったので、その告白に仰天した。愛人、しかもお金を払っていることを、同じ女性の私に告白して軽蔑されるとは思わないのだろうか。今までとは違った目で彼を見なくてはいけないようだと、少し身構えたのだが、幸いそちらのほうは杞憂だった。
後になってこのときの彼の意図を考えた。彼は、三十代半ばとおぼしき愛人に、自分が日本の若い女性ともつきあっているように見せつけて嫉妬させたかったに違いない。競争相手が出てくれば、収入源を維持するためにもサービスに力が入るというものだ。彼がこんな計算をしたのは明らかだが、愛人に競争相手かもしれない女性のヘアケアをさせるのは悪趣味だし、あて馬に使われた私もいい迷惑だった。それにしても七十近い年金生活者が、いまだ現役の手練手管を駆使するパワーにはあきれると同時に深く感心した。
日本女性には、愛人にするならイタリア男性ではなく、口の固いフランス男性の方をお勧めしたいのだが、金離れのいいのは断然イタリア人、何事も≪帯に短し襷《たすき》に長し≫である。
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地下鉄と政治家[#「地下鉄と政治家」はゴシック体]
七〇年代の日本、イタリア語を話す人には希少価値があり、そのおかげでイタリア語科の学生だった私にも結構仕事がまわってきていた。ある時バス二台のイタリア人団体のガイドを、お金持ちの美人お嬢様と一緒にやることになった。ローマに絵画留学中だった彼女にとっては、単なる里帰り中のアルバイト。働くのもガイドをするのも、もちろん初めてということだった。イタリアの男性は女性を甘やかし、つけあがらせるとは思っていたが、彼女も二年の滞伊ですっかりイタリアずれしていた。
まず、お金をもらっている勤労者の自覚が全くない。お客と対等、いやそれ以上と思っている上に自国の知識が欠如しているため、ガイドがすべき説明ができない。そのため、イタリア語はイタリアに行ったこともない私よりはるかにうまいのに、早々にやり手ツアーコンダクターのイタリア人女性にクレームをつけられ、女性二人、一触即発の状況だった。
同室で過ごした旅行期間中、彼女は夜ベッドに横たわり、私にイタリアへの崇拝を熱っぽく語ってくれたのだが、その最たるものがイタリア男の素晴らしさ。女性をこの上もなく美しいと感じさせてくれるし、楽しませてくれる。ロマンティックで日本男性とは大違い。まだ処女の私に「ベッドでも最高よ」と夢見ごこちで言った上、自分の下腹部に手を置き「今はここを日本で休ませてるの。イタリアじゃ、ほんと休む暇もないもの。そういえば、あなた日本の地下鉄で、寝たくなる男って見つかる? 一人もいないでしょ。ローマじゃね、必ず一つの車輛に三〜四人は、あー、寝たいなと思う色気のある男がいるのよ。あなたも、日本なんかに見切りをつけて早くイタリアにいらっしゃい」
股に手を当てての露骨な言い方に度肝を抜かれたあの夜のことは、三十年近くたった今でもはっきり覚えているのだが、最近、地下鉄に乗って花びら占いのごとく寝たい、寝たくない≠ニ男の品定めをしている自分に気付き、ふっと思い出し笑いをする。確かに少ない。みんな一様に疲れている。イタリアのように、ねっとりまとわりつく視線で女性を見る男性もいない。日本女性は昔と比べると、バストも大きくなり随分セクシーになっているというのに、男性、特にサラリーマンはおしゃれも下手で、まだ色気を発散するレベルに達していない。
そして地下鉄と同じくらい、その国の男女の性的魅力のバロメーターになるのが政治家。イタリアの政治家は、顔はまずくても、老齢でも、不思議な色気を発している。これは今イタリアでも増えている女性政治家も同様で、タレント出身でもないのに魅力的な女性大臣が多い。夏休みアンケート家族がヴァカンスに行っている間に、一夜の浮気相手にしたい女性は≠フ答えに何と女性大臣が二人も入っていた。女優、モデルが居並ぶ中の三位と六位、ナオミ・キャンベルより上位、立派なものである。自分よりえらく、強い女性にもおじけづかないイタリア男の面目も躍如といったところか。
翻《ひるがえ》って日本の政治家は老獪《ろうかい》というか、清潔感のある人が少なく、絶対寝たくない人が多い。権力をかさにきた傲慢さが顔にも現れている。そんな中で、菅直人氏、なかなかいい男じゃない、合格点と思っていたら案の定、女性スキャンダルが噴き出した。それでも、芸者と手切れ金もろくに払わず別れようとする宇野元首相やセクハラおじさんの横山ノックよりましだ。
そしてある夜、びっくりすることが起こった。何と私が小泉純一郎氏とベッドインしたのだ。もちろん夢で。私は当時現役の首相だった彼に「誰かに見られると大変なことになります」と諭《さと》していたのだ。純一郎様を寝たい対象と思って見たことは一度もなかったのに、こんな夢を見るということは、意識下でOKサインが出ていたに違いない。政治家と寝る夢を見たのも長い人生生まれて初めてのこと。これは、日本の男性がどんどんイタリア化し、フェロモンを出し始める予兆ではないだろうか。
時代が私の番茶も出花≠フ時期と合致しなかったのが、かえすがえすも残念である。
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ああ夫婦
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
恋人のしつこい求めに辟易したマリオ、友人の医者に相談した。
「女の下半身を麻痺させるにはどうすればいいんだい」
友人は即答した。
「結婚してやることだね」
妻と愛人の違いはどこにある?
「愛人とは髪の毛を愛撫されるとムスコがおっ立つ存在。妻とはムスコを愛撫されると髪の毛がおっ立つ存在」
……それでも女は結婚したい。
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愛妻家?[#「愛妻家?」はゴシック体]
イタリアではたとえビジネス接待の席であっても、夕食には夫人を同伴することが多い。初めてイタリアに出張する日本の男性には、奥様も会話に入れるような話題を選ぶことを強く勧める。日本の食卓では、女性が影の存在でいるのに慣れているが、イタリアの場合そうはいかない。女性をケアしないこと自体ひどく失礼だし、女性も注目されていないと人前でも不機嫌になる。奥様を無視してビジネスの話ばかりしていては、食事の雰囲気がぶち壊しになりかねない。それを避けるためには、奥様とも会話をすることが必須条件だ。しかし、女性に不慣れな日本男性は、話題選びから苦戦する。
「もし話題に窮したら、ともかく奥様を誉めなさい。美人だ、スタイルがいい、その服が似合う、料理上手だ──何でもいいから誉めること。うまく言えなかったら、彼女の目を見つめて最初に≪ベッラ(美しい)≫とさえ言っておけば、少なくとも食事中は機嫌よく過ごしてくれるはずよ」
私の忠告を聞き、Y課長は、重要なプロジェクトの打ち合わせのためミラノに出張した。プロジェクトの中心人物であるB氏が夕食会を催してくれた。女性はB夫人だけで、あとはスタッフの男性たち。Y課長はもちろん、私のアドヴァイス通り、まずは彼女の目を見つめ≪ベッラ≫の決め台詞。これが奏効し、食事会は楽しく盛りあがったらしい。仕事もスムースに終わり、Y課長は満足して帰国の途についたのだが、数日後彼の自宅にとんでもないメールが届いた。本気なのか、それともイタリア人特有のジョークなのか、イタリア人気質に慣れた私に判断してほしいとY課長は途方に暮れて救いを求めてきた。
B氏が妻と連名で書いてきたメールの内容はこうだった。
「ミラノでの夕食の際、君が妻を誉め称えてくれたのが、僕たち、とりわけ彼女にとって非常に嬉しかったようです。食後君をホテルまで送る車中も、君はずっと妻の顔やスカートから出ている脚を見つめていたそうですね。妻は、次回は誉め言葉だけでなく、それ以上のものを君から受け取りたいそうです。次回ミラノにいらっしゃる時は、どうか妻と二人きりで会ってやってください。彼女も楽しみにしています。なおこの件は、絶対我々三人だけの秘密にしておいてください。次回来訪の予定をできるだけ早く知らせてください。
追伸:妻は君が望むなら彼女の秘密の写真を送ると言っています」
あの謹厳実直そうなB氏がこんな手紙を、と信じられない思いだった。Y氏に事情を問いただすと、四十代の奥様は十人並みの中年女性。通り一遍のお世辞を言っただけで、車中も彼は後部座席にいたので、助手席の彼女の顔や脚を見つめることは不可能だったという。そう言うY氏も四十五歳、背が高く、確かに日本人サラリーマンの中ではおしゃれな部類には入るが、イタリア人と肩を並べるほどの美形ではない。つまり、日本でもとりたててもてるタイプではないのだ。B氏の奥様は、生まれて初めて日本男性に誉められ、一度有名なウタマロの試食をしてみたいと思ったのだろうか。
それにしても、夫が先頭に立って自分の妻と他の男との逢瀬をアレンジするなど前代未聞である。B氏は業界の重鎮であるだけではなく、自分の会社にとっても大切なパートナーだ。その奥様の据え膳の申し出を断ると、夫妻とも気分を害するに違いない。しかし実際に寝るのは、あまりに怖い。相談された私も、そのメールにどう返事をすればよいのか思いつかない。私にも責任の一端はあるものの、B氏が特殊な性癖の持ち主なのか、真の愛妻家なのかもわからない状況では良い対応策も思い浮かばないのである。イタリアに行かなくて済むよう配置換えを会社に願い出ようか、生真面目なY氏は返事も書けず今も悶々と悩んでいる。
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妻は白血病[#「妻は白血病」はゴシック体]
イタリアの長靴、土踏まずの部分にある港町の家庭に泊めてもらったことがある。南イタリアを女一人旅するのが怖く、知人の家にお世話になったのである。ご主人はエリート・エンジニアで三十八歳。ユル・ブリンナーに似て、頭はすっかりはげているがセクシーな人である。日本で一緒に仕事をした彼がイタリアに帰国してから、三日にあげずラブレターをもらっていた。
「妻とは彼女が十五歳のときからつきあっていて、若気の至りで結婚したけれど、セックスだけで結ばれた関係なんだ。僕は今まで本当に人を愛したことがなかったし、愛したいとも思わなかった。男にとってセックスは必需品だけど、愛なんて必要ないと思っていた。でも君と会って初めて、愛する苦しさを体験した。いつも君のことを考えている。この年齢で初恋だよ。イタリアでは≪四十歳過ぎて好きになるキャンディは一生やめられないものになる≫という諺《ことわざ》があるけれど、僕も死ぬまで君を愛し続けると思う。自分でも信じられない。君に感じるこのときめきこそ本物の愛だ。君となら一生プラトニックのままでもかまわない」
こんな熱い内容の手紙が、エンジニアらしいきちんと揃った細かな字で便箋いっぱいに書き付けられている。
私は既婚男性のくどきにはすべて、「私は結婚前提のおつきあいしか致しません」と答えていた。そのころのイタリアでは離婚はできなかったので、体《てい》の良いお断りである。彼は、イタリアに来たらぜひ家に泊まりに来てくれとも言ってくれている。危険ではあるが、マグナグレーキアのこの地は見たい。背に腹は代えられない。彼の家に泊まりに行き奥様とお友達になれば、彼もあきらめるはずとの計算も働いた。ローマから列車で南下、港町ターラントに着く。彼は駅に奥様と車で迎えに来てくれていた。奥様はダークな色の金髪、小柄でとてもチャーミングな女性だ。三十代半ばだろうか、優しそうな目をしている。
彼らのアパートでは、おばあちゃんと二人の子供たちも初めて見る日本人を熱狂的に歓迎してくれた。奥様は姑と仲良くトマトソースを作って瓶詰めしている。七歳と三歳の二人の娘はノルマン系南イタリア人なのだろう、輝くばかりの金髪に青い眼の可愛い子たちだ。幸せを絵に描いたような一家の様子に安心し、私も居心地良く数日を過ごすことができた。
滞在中は、一家で周辺の観光名所をいろいろ案内してくれた。
さて、翌日出発という夜、子供を寝かせる役目のご主人は子供部屋へ行き、私と奥様が二人きりで台所で後片づけをしていたとき、彼女が声をひそめて言った。
「ねえクミコ、フランコが私のこと白血病だって言ってない?」
自分の顔がこわばるのが分かった。実際、手紙に「妻は白血病で余命数年と医者から言われている。妻が死んだら改めて君に結婚の話をしようと思っている。それまでは、このままプラトニックな文通だけでも続けさせてほしい」と書いてあったのだ。
「日本から帰って以来、毎日私に『顔色が悪い、君は白血病かもしれない』って言い始めたのよ。一人部屋にこもって音楽を聞くことが多くなったし。恋しているのがバレバレなの。でもクミコ、私すごく元気だから、彼にだまされないでね」
プラシーボ効果のようなもので、毎日顔色が悪い、どこか悪いのじゃないか、と言われつづけると、人は実際に体調が悪くなるらしい。彼はそれを狙ったのかもしれないが、付き合ってすでに二十年の妻は、すべてをお見通しであった。
マルチェロ・マストロヤンニ主演の『イタリア式離婚狂想曲』という映画がある。若い美女と結婚したくなった夫が綿密な計画を立てる。まず、妻が昔憎からず思っていた幼なじみの男を探し出して、二人が会う機会を作る。その後それが浮気に進むように様々な画策をする。二人がいよいよ寝ることになったとき、浮気現場に踏み込み激昂して妻を殺す。南イタリアでは、寝取られた男が相手の男や妻を殺すのは≪名誉の犯罪≫として社会的に認知されていたので、情状酌量もあり量刑も軽い。イタリア的な顛末を実におもしろく、ペーソスも感じさせながら描いた名画だった。
現在は法的に離婚が可能であるが、カトリック教会の指図でもあるのか、異常に煩雑な手続きがまだ必要である。例えば五年と定められた別居期間中(現在は三年に短縮)、毎年一回裁判所に出頭して離婚の意志が変わらないことを証言しなくてはいけない。その部署は火曜と木曜の午前中数時間しか開いていない。フルタイムで働いている人や、離婚を申したてた後外国などの遠隔地に引っ越した人の場合、どうしろというのだろうか。あまりの面倒さや諸手続きに必要な弁護士費用の高さなどにめげて、離婚しないで別居ですます人も多い。
そんな国なので、インターネットには「スムースな離婚お手伝いします」や「必ず離婚させてさしあげます」などのサイトも多く、イタリアならではのビジネスとして成り立っているようだ。新聞では、先ごろ勝手に妻の死亡届を出した男性が逮捕されたと報じていた。あの手この手の夫婦攻防戦、イタリアでは夫婦になってもおちおち安心してはいられない。
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国際結婚[#「国際結婚」はゴシック体]
欧州議会でドイツ人議員に非難されたイタリアのベルルスコーニ首相が「君はナチの看守役にぴったりだ」と言って、独伊間の国際問題に発展した事件があった。イタリア首相がドイツ首相に詫びを入れ落着したのだが、今度はイタリアの政務次官が「ビール好きの金髪野郎たち」とドイツ人観光客を揶揄《やゆ》する発言をしてしまった。抗議のためシュレーダー首相は予定していたイタリアでの夏休みをキャンセル、イタリアの次官は辞任に追い込まれた。
こんな風に、一つになった欧州内でもふとしたことで国同士の対立が生まれる。そしてその度に、友人のイタリア人夫ミケーレとドイツ人妻シビルの家では夫婦喧嘩になるという。普段は意識していない愛国心が湧いてきて、お互いの国の悪口合戦になるのだ。
独伊は先の大戦では日本と並んで同盟国。ドイツ人は太陽と海とおいしい食事、粋で女性好きの男性がいるイタリアのリゾート地を必要としているし、イタリアもまた彼らの落とす金で潤い、男性も金髪のドイツ女性との夏のアバンチュールを楽しみにしている。こんな互恵関係にありながらも、独伊間にはいまだ禍根がくすぶっている。というのは、大戦末期イタリア国内では反ナチのパルチザン活動が盛りあがっており、駐留ドイツ兵が民兵の奇襲を受けしばしば殺されていたからだ。そしてドイツも自国の兵一人が殺されるたびに、イタリア市民十人を無差別に殺すといった報復をしていた。
ドイツ人が大挙して押しかける海辺の街リミニで夏を過ごしたこの友人夫妻、今年面白い体験をした。ある昼下がり、海辺でこんな放送が流れた。
「ドイツから来ている金髪のレオ君、四歳の男の子が迷子になっています。見付けた方は至急救護所まで連れてきてください。なお、レオ君が見つからないときは三十分ごとに十人のイタリア人の子供を海に沈めます」
最後に付け足したこのブラックジョークはイタリア人海水浴客には大うけで、浜辺は笑いに包まれた。しかし独伊ハーフの彼らの子供二人はおびえて言ったらしい。
「僕たちイタリア人じゃないよね。殺されないよね」
シビルはため息をついた。
「この子たちのためにも、もう二度と戦争なんかしちゃいけないわ。私たちも国のことで喧嘩するのはやめようって話し合ったの」
日本で日韓、日中の国際結婚をしている夫婦も似たような経験をしているのだろうか。今後ますます増えるであろう国際結婚が、平和の土台になることを祈らざるを得ない。
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頭が痛い[#「頭が痛い」はゴシック体]
先ごろイタリアで行われたアンケート調査で、既婚女性がセックスしたいと思っている相手のトップに来たのは、驚くべきことに≪息子の友人≫であった。そして何と三分の一の妻が夫とはあまりやりたくない、と答えていた。
知り合いが相次いで私にぐちってきた。妻が結婚前はいつでも応じてくれたのに、結婚後は色々口実をつけてほとんどさせてくれなくなったという。
一人は田舎町でのスキャンダルを嫌ったのか、休みのたびに男友達とロシアやブラジルなどに買春旅行に出かけ、女房公認でうさをはらしていた。もう一人は、若い秘書と同棲し、マザコンらしく、どこでもいちゃつき甘えていた。二人ともイタリア人の夫にありがちなタイプで、何でも許してくれ、子供のように甘やかしてくれる母親役を妻に求めていた。
イタリアでは一九七四年までは離婚ができなかったので、ひとたび妻の座を手に入れれば後は安泰と考える女性がいても不思議ではない。セックス嫌いな女性は、夜のお勤めなしで生活費だけもらえればよいと、浮気に目をつぶる。今は離婚もできるようになったが、定められた別居期間を経て初めて成立するシステムである。
問題は子供が幼い場合で、長い夏期休暇中は別居後も数日間一緒に過ごすことがある。これがひどく危険だと、ある男性がこぼしていた。
「子供が情緒不安定になっているので、夏を一緒に過ごしてくれと妻に懇願され、十日間の同居を承諾したんだ。もちろん寝室は別。ところが子供が寝付いた後、毎夜妻がスケスケのセクシーなベビードールを身につけ、香水の香りを漂わせながら色目を使う。結婚していた時は色気のないパジャマでさっさと一人寝ていたんだから、目的は見え透いてる。一度でも夫婦関係を結べば、今まで三年の別居期間が水の泡、また振り出しからカウントされることになる。こわくて寝室に鍵をかけたよ」
妻の座はそこまで固執するほど居心地がいいものなのだろうか。
夜伽《よとぎ》を拒む妻に憤懣《ふんまん》やる方ない夫の小話。
──動物園に行った夫婦が、オスのオランウータンの檻の前に立った。美しい妻に発情したオランウータンは股間を固くし、妻の前で胸をたたき始めた。夫はすかさずかんぬきをはずし、妻を檻の中に押し込んだ。恐怖で叫びまくる妻に夫は冷たく言い放った。「さあ、いつものように、『今日は頭が痛い』って言ってみろ」──
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種馬[#「種馬」はゴシック体]
昨年ロンドンの研究機関が、世界二十九カ国の四十歳から八十歳、すなわち中高年の男女を対象に性生活調査を実施した。栄えあるセックス回数一位は、もちろんイタリア人。この年齢層の七〇パーセントが「週に一回から六回の性生活がある」と答えている。見栄っ張りのイタリア人のこと、少々割り引いたとしても二十九カ国平均の五四パーセントを大きく引き離している。そしてこれも予想通りというべきか、日本は最下位、同グループに属する人はわずか二一パーセントであった。平均寿命はイタリアも世界一の日本に肉薄しているので、最も人生を長く楽しむのはイタリア人ということになる。
しかも七十歳以上の六五パーセントが積極的に性生活を営んでおり、不能に悩んでいるのはわずか一一パーセント。セックスも習慣にしてしまえば、長く現役でいられるのかもしれない。イタリアの小話に、「驚愕と恐怖の違いは、驚愕とは二回目ができなくなったとき、恐怖とは一回目なのにムスコがいうことをきかなかったとき」というのがある。二ラウンドは常識なのか、いやはやタフな民族ではある。
一方インターネットでポルノのサイトを見る時間の調査ではイタリア人はヨーロッパ最下位の月平均三十六分、一位のドイツの一時間、後に続くイギリス、フランスと比べても少ない。つまりお手軽な仮想現実で満足せず、こまめに本物に接するのを好むのだ。こちらの方、日本は中間に位置しているが、一般誌やタブロイド夕刊に溢れるヌードの多さ、青少年向けの漫画にも平気で登場するHな絵は、その節操のなさでダントツ世界一である。映像に頼るほど実地の方がおろそかになるのは当然の成りゆき、日本の少子化はどんどん進むのかと思うと恐ろしい。
こんな≪種馬男≫の蔓延するイタリアはカトリック国で、ちょっと前まで教皇庁がコンドームも禁止していたくらいである。当然堕胎は御法度、避妊に頭を悩ませる人が多かった。二十年前、スイスで世界初の男性用避妊ピルができたと聞いた知人のプレーボーイ、早速隣国に駆けつけ大量に購入した。いざ美女とベッドインとなり、服用指示書にある通りコトを始める三十分前に服用したところ、ものの十分もしないうちに猛烈な頭痛と吐き気に襲われた。「これ以上の避妊はないよ。やる気が失せる薬だったんだ」と、彼は嘆くことしきりであった。
バイアグラが出たときは、正常な人がパワーアップの為に服用し十六時間勃起が継続、激痛のため救急車で運ばれたとニュースが報じていた。イタリア人の≪女好き≫を抑える薬はないようだ。
こんなイタリア人の体力に日本人がついていくのは容易ではない。彼らの飲み食いする量も半端ではないが、驚くのは睡眠時間が少なくても平気なところだ。
始業は朝八時ごろと早いのに、夜遅くまで観劇や食事を友人たちと楽しむ。レストランも夜八時ごろから開き、南部では十一時ごろが最も活気づく時間帯だ。とどまることのないおしゃべりは食後酒を飲みながら深夜の一、二時になることもざら。こんな食事に一日昼と夜、二度もつきあわされるのは日本人にとっては拷問に等しい。それがボローニャやフィレンツェなどの内陸都市ともなるとまさに悲劇となる。地方料理の伝統に魚介類がないので、ミートソースのパスタの後、わらじのようなTボーンステーキなどが出されるのである。接待なので残すわけにはいかず、泣きたくなったものだ。
「ああ、漬物でお茶漬けかっ込みたい」
内心でつぶやいていると、隣のイタリア人が言った。
「連日の美食で胃が少し疲れたな。明日はオリーブオイルとパルメザンチーズだけの|あっさりした《ヽヽヽヽヽヽ》スパゲッティにしよう」
このとき私は、国際結婚はやめようと堅く決意したのである。
昔、四十代後半の美しいイタリア女性に若さの秘訣を尋ねたところ、こうアドヴァイスされた。
「いつか結婚するあなたに、若くいられるとっておきの秘訣を教えるわ。毎回まじめに夫のお相手をしないで、半分はいくふりをして早く終わらせることね」
そのときはよくわからなかったが、後年、なるほどと思える事態に遭遇した。
ミラノのある夫妻、きゃしゃな金髪美人で、ご主人より十歳も若い奥様がひどくやつれているのが気になっていた。お宅に招かれた日、奥様が私に小声で懇願した。
「ね、クミコ。昼食後、どこか観光に行きたいって頼んで主人を連れ出してくれない? 実は主人が絶倫で結婚以来二十年、連日二、三度求めてくるの。昼食後のシエスタの時間は必ずよ。私もう疲れてうんざりなの」
五十代、しかも妻相手にこの精力、「今日だけお役目交代してさしあげますわ」と申し出るほど旦那様がハンサムでなかったのは残念であったが、このときもイタリア人と結婚しなくてよかったと胸をなでおろしたものだ。
今はイタリアも国際化の波に押され、北部の都市では三時間半あった昼休みが一時間になっている。帰宅して家族と昼食をともにする人はまれになった。料理の手間もかからずほっとしている奥様も多いに違いない。昔から≪亭主丈夫で留守がいい≫と悟っていた日本女性は賢明であった。
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妻の浮気[#「妻の浮気」はゴシック体]
「最愛の人と百回するのと、好みのタイプ百人と一回ずつするのとでは、どちらを選ぶか」
この質問に男性の大半は後者、女性は前者を選ぶとか。ところがイタリアでは女性も後者を選ぶ人が多いようで、「魅力的な女性は年齢と同じ数の男性を知っているのが当たり前よ」と豪語した女傑もいた。しかしこの論理には無理がある。十四歳くらいから始めていきなり十四人食い散らかすのも無理なら、四十過ぎて毎年確実に新顔を一人加えられるとも思えない。やはり二十歳から三十五歳くらいまでに一気に老後のノルマをカバーするしかないだろう。
こんなお国柄なので当然妻の浮気も多い。
──妻の浮気を疑った夫が、昼下がりに突然帰宅して家中|間男《まおとこ》を探し始めた。ベッドの下、本箱など次々チェックし、その都度「ここにはいない!」と大声で確認していた夫が洋服ダンスの扉を開けたところ、中にむくつけき大男が潜んでいた。夫は即座に扉を閉め、叫んだ。「ここにはいるけど人違いだ」──(イタリアの小話)
私の知人が海外出張から一日早く帰宅したら妻が全裸で浮気中だった。何とその相手が女性だったという、判定が微妙なケースもあった。女の強さが際立つのが浮気発覚後の態度で、男性の場合は「もう二度としません」と平謝りするのだが、女性は大半が「いいわ、別れましょう」と居直るので、結局は夫が泣きを入れる羽目になる。
ダンディな美男ベルルスコーニ現首相は、舞台女優だったすこぶるつきの若い美人を二人目の妻に迎えているのだが、フィンランド首相との会談後の記者会見で、事もあろうに自分の妻の浮気を暴露した。フィンランド首相とハンサムぶりを互いに誉めあった後、「でも私の妻は、そんなに美男でもないC氏の方が好きなんですよ」と相手の実名まで出したのだ。政治家であり美学哲学の教授でもある超有名知識人C氏と首相夫人との仲は、知る人ぞ知るダブル不倫なのだが、あまりに大物過ぎるカップルなのでどのメディアもスキャンダルとして取り上げる勇気がなく、暗黙の了解事項だった。首相自身の口からここまであけっぴろげな発言があるとは誰も考えていなかった。記者たちも唖然としたが、毒気に当てられたのだろう、大きな騒ぎにもならず収束したらしい。策士で知られた首相のこと、全て計算ずくだったのかもしれないが、何とも大らかな国ではある。
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クラス名簿のバツ印[#「クラス名簿のバツ印」はゴシック体]
イタリアの妻は、通常疑い深くかつ嫉妬深い。知人が妻の旅行中、家に女性を連れ込んで楽しんだ。妻は帰宅後即座にシーツの点検を始め、一本の長い金髪を見付けた。激昂する妻(彼女は茶髪である)に夫は、「昨日上の階のベランダでシーツのほこりをふるい落としていた。僕もガラス戸を全開にしていたから、きっとそのとき飛んで入ったんだろう。上の家にほこりが落ちて不潔だからやめてくれと言いに行くよ」と、さも不快そうに落着いて答えた。内心はドキドキだったらしい。「上の階の奥さんがちょうど長い金髪だったから命拾いしたよ」。イタリアの夫はとっさの嘘も天才級だ。
しかし中には夫の浮気癖にさじを投げ、黙認する妻もいる。シチリアの友人夫妻は、北部出身のご主人は金髪碧眼の超美男子、できちゃった婚の奥さんは黒髪で浅黒く、あかぬけない地元の女性だった。
ある夕食の席で、二十代だった奥様が私に訴えた。「彼って、私の友人にも相手かまわず手を出すの。もう病気ね」。そして夫に向かい、語気を荒らげて言った。「誰と寝ようと勝手だけど、私のクラス名簿で寝た子の名前の上にバツ印をつけるのはやめて! やることが子供っぽすぎるわよ」
おりしも、イタリア百都市制覇を目標に、地図上訪れた場所にバツ印をつけていた私は、思わず居住まいを正し、内心ひやひやで夫婦喧嘩の展開を見ていたのだが、ご主人も大物で、「わかった。もう印はつけないよ」と平然と答えた。「もう浮気はしないよ」ではないのがあまりに正直で、私は笑いながら諭《さと》した。「普通、バツ印は会ったことがある人に付けてるだけで寝たわけじゃない、とか言うものよ。浮気の鉄則は≪絶対否認≫よ」
「信じてもらえない嘘は無意味だよ」
彼は平然と言い、これで修羅場にならないのも意外だったが、何より彼女のイギリス的なユーモアのセンスに感心した。二人の子供は溺愛するものの浮気癖はいっこうにやまない夫と、その後もずっと連れ添っている彼女は、さばさばと言った。
「みんな、夫を甘やかす私をばかだっていうわ。でも、事を荒立てると彼はきっと家を出て行くわ。彼の浮気相手は長くて一年、短いのは一回で別れている。彼は遊び疲れた子供のように、いつだって私のもとに帰ってくるんですもの」
自信に満ちていた。どんな嫉妬の辛さより彼を失う辛さの方がはるかに大きい、そう悟った彼女の苦渋のチョイスなのだろう。年老いた彼を看取るとき、彼女はきっと凱旋将軍のごとき微笑を浮かべるに違いない。彼は永遠に彼女のものになるのだから。ふっと背筋が寒くなった。
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犬も食わない[#「犬も食わない」はゴシック体]
夫婦喧嘩は犬も食わないというのに、イタリアでは人前で喧嘩を始める夫婦に随分出くわした。イタリア人は言いたいことを我慢して胸に秘め、二人きりになってから喧嘩を始めるという芸当ができない直情型なのだ。
映画プロデューサーのガブリエレと肌の衰えが目立ち始めた女優ジョルダーナは、既に十年以上愛人関係にある。一緒にレストランで食事をしていたとき、私がアカデミー賞を受賞した『ニュー・シネマ・パラダイス』を何気なく誉めたのがきっかけだった。ガブリエレは、「あんな甘っちょろい映画が受けるなんて、大衆のレベルの低さがわかるよ」と刺《とげ》のある発言をした。すかさずジョルダーナが応戦する。「あら、私は好きだったわ。少なくともあなたが作る映画よりはるかに感動できたわ」
こんな言葉を客との食事中に口にする妻は日本にはいない。そこから雲行きがあやしくなり始めた。私の発言が発端になっているので気が気ではないのだが、そのうち話がどんどん飛躍し、「あなたは結局、私よりお母さんをとったのよ。今まで家にも連れて行ってくれたことがないし、結婚もしてくれないのはお母さんが理由でしょ」。食欲も失せてしまう。
友人アルマの夫マッシモは、有名ブランドVのミラノ地区のエージェントをしていた。彼は、私をコモのシルク工場に連れて行ってくれる日に、市外の小さなブティックで車を停め、愛人らしき若い美人オーナーとカーテンの後ろでいちゃつき始めた。結局その日はマッシモの友人カップルも加えて一緒に昼食をし、夕刻までだらだら過ごして終わった。私は密会のだしにされたのだ。その上マッシモは家への帰路、「今日は君を連れてコモのシルク工場に行ったことにするから口裏を合わせてくれ」ととんでもないことを命令する。海外から仕事で来ている私を待たせ、愛人と昼からいちゃつく神経に腹は立ったものの、本当のことを言って友人を哀しませることはできない。しかし問題は、私がコモに行ったこともないという点である。案の定、夕食の席でアルマは、私に根掘り葉掘り質問をしてきた。「どのメーカーに行ったの。昼はどこで食べたの」。当然しどろもどろになる。そこからすさまじい夫婦喧嘩が始まり、被害者であるはずの私まで、窮地に追い込まれるのである。
その夫婦と翌日の夜、ミラノ近郊の町ベルガモの有名なレストランに行った。偶然彼らの友人の男性もそこで食事をしていた。マッシモが愛人と密会した日、私も一緒に昼食をしたカルロである。入り口で手を振る私たちを認めると、彼はすぐに椅子から立ち上がり挨拶にやって来た。カルロは私に向かって早口で言った。「君とはここで初対面だ。いいね」。そういえば彼があの時連れていた女性とは違う人と一緒にいる。どうやらこちらが本妻らしい。彼女は「お宅のご主人もV社のために仕事をしていらっしゃるのですか」という私の問いに「いいえ、彼は|ワタクシのために《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》働いているのよ」と悠然と答え、八本の指に燦然《さんぜん》と輝く指輪を見せびらかした。全財産を身につけて移動しているかのような大粒のダイヤであった。
その日カルロは真っ赤な二人乗りのランボルギーニに乗って来ていた。ガルウイングで開くドア、地面すれすれという感覚のローシート。助手席に座らせてもらい感嘆の声をあげる私に優越感をくすぐられたのか、カルロの奥様は寛大にも、食後みなで行くことになったバーまで乗っていくように勧めてくれた。移動の数分間、彼は堰を切ったように妻への不満を私に訴えた。「二回目の結婚で、前の女よりもっとたちが悪いのにあたったよ。今度の妻は嫉妬深いだけでなく、すさまじい金の亡者なんだ。今度離婚すると文字通り一文なしにされちまう」
しかし、アルマの方は、ひたすら夫に貢ぐ尽くし型である。つまり、≪どんな妻がいても、いかに管理しても男は懲りずに浮気をする。嫉妬に狂うだけ損≫。これがその夜会得した私の人生訓である。
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バブリー結婚式[#「バブリー結婚式」はゴシック体]
結婚式で来賓イタリア人のご挨拶を逐次《ちくじ》通訳したことは数回ある。しかし披露宴の間中ブースから二人体制で同時通訳を入れるという、この上もなくバブリーな仕事は一度だけである。一体いくらかかったのか、豪華な宴であった。おりしもバブル最盛期で、新妻はゴルフ場やホテルを経営する新興事業家のお嬢様、新郎はイタリア貴族の末裔という時流を象徴するようなカップルである。
二人の出会いは、日本に短期ビジネス留学中だった新郎を歓迎するホームパーティ。その夜、彼をホテルまで送る役を買って出た、まだうら若い新婦が乗っていたのが真っ赤なフェラーリである。それを見た彼の恋心も真っ赤に燃えあがったようで、F1級のスピードでゴールインとあいなった。
東京の一流ホテルでの披露宴は、日本のセレブが三百人も集う華やかなもの。遠いイタリアからも新郎のご両親を始め親戚縁者が大勢参加していた。司会や来賓挨拶を遮ってイタリア語の逐次通訳を入れるのも無粋ということで、訳を必要とする人がイヤホンで聞く実況同時通訳の形式になったのである。
宴が始まり司会者の説明に度肝を抜かれた。何とこの日の新婦のヘアメークのために、ニューヨークから世界的に高名な美容師S氏が来日したという。シルクのウエディングドレスはディオールのオートクチュール。「新婦は仮縫いのため三度もパリに飛び、この日のために長い箱入りのドレスをご自身で運んで持ち帰られたのです」。司会のせりふを訳していると、今日の通訳代が安すぎる気さえしてきた。
来賓のご挨拶後食事が始まった。偉い方のご挨拶中食事をするのも、食事を挨拶で邪魔するのも失礼という立派なポリシーのもと、食事のときはBGMだけが流れる。今日の特別フランス料理は、新婦のお母様が考えられた特別メニューということで、料理の前に短い説明がはいる。通訳は、たいそうな食材やソースの名前を訳しつつ、かつガラス越しにその美しい盛り付けを眺めつつ、ブース内で赤飯入りスタッフ弁当を食べる。
デザートになったとき、ひな壇に新郎新婦と並んで座っているイタリア人枢機卿が法王様のお祝いメッセージを代読なさるという。イタリア語に直すときは、聞いている人は二十人足らずだし、そんな難しい約束事はない。しかし日本語に直すとなると話は別。雇用主である新婦父上を始め数多くのVIPもお聞きになるので、ともかく美しい日本語にしなくてはならない。日本語にはやっかいな禁句もある。ブースの壁には大きく≪去る≫≪切れる≫≪別れる≫≪終わる≫など決して使ってはいけない言葉を貼り付けておいた。枢機卿によって立派な羊皮紙の巻物のワックスシールが開けられ、法王のお言葉が読み上げられる。私の緊張は頂点に達したが、何とか無事訳すことができた。
この日のハイライトは、新婦側友人の谷村新司氏、山下達郎氏の弾き語りライブ。近くで聞く生演奏の迫力は感動的であった。ああ幸せ。有名人をたくさん見て、いい音楽聞いて、お金ももらえた。その後友人に言っている。
「イタリア人と国際結婚するときは、ご祝儀がわりに無償で通訳するから、代りに本物の歌手を呼んでね」
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恋の妙薬[#「恋の妙薬」はゴシック体]
友人の真希子は三十六歳、十年にわたる複雑な恋愛関係に終止符を打ったばかりだった。女性というハンディを持ちつつも高級レストランのシェフになり、恵まれた環境で充実した仕事をしていた。しかし、過度の水仕事に起因する両手の湿疹に苦しむようになり、せっかく得た職も辞めざるを得なかった。恋人も仕事も失った八方ふさがりの状況で一念発起、彼女は突然イタリア留学を決めた。
お別れパーティの席で、彼女は決然と宣言した。
「しばらく男はこりごりよ。日本でイタリア料理研究家として生きていくために、しっかり勉強してくるわ」
強がりを言っていたが、頼る友すらいない異国での一人暮らし、きっと心細い思いをするに違いない。それに今から勉強を始めるといっても、もう若くはない。貯金を取り崩しての留学は、どのくらいの期間になるのかも決めていないようだ。仲間は彼女の不安な心中を察し、一様に心配していた。
ところが空港で真希子を見送った翌朝、私は彼女の電話で起こされた。
「聞いて。とうとう理想の男性に出会ったの」
声がはずんでいる。住まいが見つかるまでの期間予約していたペンションに空港から直行したのだが、そこでベルボーイをしていた青年ジョヴァンニと一目で恋に落ちたという。イタリアに着いて、入国審査官、タクシー運転手の次、恐らく三番目くらいに出会った男性であろう。しかも荷物を部屋まで運んでもらうわずかな時間に恋に落ちたなんて。
二人はまもなくミラノで同棲生活を送るようになる。日本の親になんと説明しようか、十四歳も年下のシチリア青年との国際結婚を躊躇《ちゆうちよ》しているうちに、二年の月日が経った。真希子のもとに、突然シチリアからマンマが乗り込んできた。末っ子のジョヴァンニを溺愛していたマンマは、彼女に懇願した。
「マキコ、あなたはどういう気持ちで息子と付き合っているの? このままの宙ぶらりんな状態では、あなたを愛しているジョヴァンニがあまりにかわいそうだわ。遊びで一緒に住んでいるのなら別れてやってよ。もしもあなたがまじめに彼を愛しているなら、お願いだからきちんと結婚してやってほしいの」
息子が十四歳も年上の外国女性と同棲したら、日本の普通の母親なら「別れてくれ」と頼みにくるだろう。ところがこのマンマは≪息子が愛している女性≫というただ一つの真実のために、千キロの道のりを応援にかけつけてくれたのだ。息子の好物の食べ物を鞄いっぱい詰めて初めての一人旅、マンマの愛と必死な気持ちが伝わってくる。
真希子も一途な母心にほだされて、ついに彼の故郷シチリアで、引き続き東京で、挙式とあいなった。中年太りの体型で、とりたてて美人でもなかった真希子に、しばらくぶりに式場で再会した友人たちは一様に自分の目を疑った。白いシンプルなドレスに身をつつんだ彼女は、出発前の数倍若返り美しく輝いていた。愛されている自信ゆえだろう。そして幸せいっぱいに彼女のそばに立つ新郎のジョヴァンニ君は分厚い近眼用メガネをかけた黒髪黒目の、背も低いあか抜けない青年だった。年齢より十歳は老けて見えるので、彼女が若返った分、年齢的にはマッチした夫婦にみえる。それにしても、彼女が別れた前の日本の恋人のほうが、はるかに|いけて《ヽヽヽ》いた。一体どうしてこの青年に一目惚れしたのか、永遠の謎だ。
その後、望みどおり料理ジャーナリストになった彼女とカメラマンに転身した彼は、仲むつまじくミラノで暮らしている。十年の失恋を一時間足らずで癒してくれるイタリアには、恋の妙薬を調合するキューピッドがいるとしか思えない。あれから十八年。驚いたことに恋の妙薬はまだ効き目が持続していて、初老の年齢に入った彼女は老いてなおチャーミング、今も彼をイタリア一かっこいい男と思い続けている。
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映画監督[#「映画監督」はゴシック体]
映画監督には遊び人が多い。「映画に出してあげる」とくどけば、かなりの美女も落ちる確率が高い、恵まれた職業だ。日本でも監督は、美人女優を妻にして自分の映画製作費用まで出させたりしているのだから、イタリア人監督は推して知るべしだろう。
その中で浮いた噂があまりなかったのは、フェデリコ・フェリーニだ。ジュリエッタ・マシーナとのオシドリ夫婦ぶりは有名で、仲の良い夫婦の常として、フェリーニの死後マシーナも後を追うように亡くなっている。
監督の中で最もダンディでおしゃれだったのはルキノ・ヴィスコンティ。『山猫』や『ルートヴィヒ』で貴族世界を完璧な美しさで再現した彼は、残念なことに女性にはあまり興味を示さなかったが、好んだのは強い意志と気品がある女性だ。ロミー・シュナイダー、クラウディア・カルディナーレ、アリダ・ヴァッリ。だが男の方はというと、気品も中身も気にせず美貌だけで選んでいたふしがある。『若者のすべて』のアラン・ドロン、『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセン。いずれも美青年特有の研ぎ澄まされた美貌の持ち主だが、知性にも教養にも無縁だ。
ショップ店員アドリアーナの弟もヴィスコンティのボーイフレンドだった。ろくに学校にも行かずぶらぶらしているだけのこの青年に、初老の域に達していたヴィスコンティは惜しみなくプレゼントをしていたのだが、ヴィスコンティ亡きあと、青年は思い出の品を知人に売って生活費にあて始めた。私のところにも買わないかとまわってきたのが、いわくつきの金のネックレスと銀のタバコケースである。タバコケースの裏側にはヴィスコンティ自身の手によるという愛の言葉と名前が彫られている。サインの筆跡も本物だ。
「私タバコは吸わないし、日本では湿気が多くて銀はすぐ真っ黒になるのよ」
私は結局何の変哲もない金の鎖の方を買ったのだが、今思えば無思慮であった。このタバコケースの持つ資産価値に、まったく考えが及ばなかったのだから。
一方ヴィスコンティの分までカバーするカサノヴァぶりを発揮したのが、ロベルト・ロッセリーニとヴィットリオ・デ・シーカである。
ロッセリーニはイングリッド・バーグマンとのダブル不倫で日本でも良く知られている。女性たちから反道徳的と責められたが、こんなことでくじけていてはイタリア男は勤まらない。バーグマンと別れた後も、最初の妻との婚姻関係を維持しつつ次々と美人女優と浮名を流した。内縁の妻の数は計四、五人。不思議なことに女性たちも仲良くやっていたようで、自伝にも書いているように、火宅の人そのものの人生は、常に自分に正直な、この上なく幸福なものだったようだ。
マストロヤンニとソフィア・ローレンを起用して紅涙を絞る悲劇や庶民の笑える喜劇を数多く作ったのは、ヴィットリオ・デ・シーカ。彼は、三十年間二つの家庭を同時運営したつわ者である。二人と一人の子をそれぞれの家庭にもうけ、「出張だ」「仕事だ」と言い訳をしながらついに両方に、別の家庭の存在を隠し通した。その頑張りは涙ぐましいもので、一度パジャマを着てベッドに入った後、妻が寝ていたらそっと服に着替えてもう一つの家に急ぐ。妻が起きていたら急な仕事を思い出したことにして外出する。特にクリスマスなど家族が集まる日は、息詰まる緊張の時間割で動いていたという。
ある日、本妻の子供が父親と知らない子が歩いているのを街で目撃した。問いつめられたが、デ・シーカは最後までしらを切り通した。やがて家族はまわりの噂から事実を知ることになるのだが、デ・シーカは、「ただの噂だ」と断固認めなかった。一生懸命潔白を訴える姿を見て、本妻と子供はデ・シーカをかわいそうに思い始めた。結局母子で話しあって、別の家族の存在を知らないふりをしてあげることにしたという。≪否認≫を貫くこと──浮気の一大鉄則をまさにデ・シーカは守り通した。
しかし二つの家庭を維持するのは財政的にも大変だったようで、彼に電話すると「もしもし」の代りに「はい、やります」と言いながら出て来る、と揶揄《やゆ》されるくらいどんな仕事も受けた。そのためか愚作も多い。
映画顔負けのドラマティックな実生活を送っていた監督たちと不思議なくらい寛大な女たち。男のスケールがここまで大きいと女性も浮世離れせざるを得ないのかもしれない。いい時代だった。
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セックスレス夫婦[#「セックスレス夫婦」はゴシック体]
ある年のイタリア映画祭で公開された映画に、小さな教会で永遠の愛を誓った結婚式を思い出し、離婚寸前の夫婦がもう一度やり直すストーリーを描いたものがあった。私は、最近別居に踏み切ったばかりの若い友人A子にこの映画を見るように勧めた。映画では、障害をものともせず一気呵成《いつきかせい》に結婚までこぎつけた二人が、現実の生活の中で小さな亀裂を広げていく様子がユーモアを交えて描かれる。二人の関係は、手がかかる赤ん坊の誕生でさらに悪化する。本来幻想である恋愛が日常生活と共存しにくいのは、日本もイタリアも同じだ。髪振り乱して子供の世話をしながら、仕事に恋に輝いていた頃のことを思い出し、世界中から忘れ去られたような焦燥感にさいなまれる。これも日伊共通の現象だ。
上映後、A子は来日中の監督にサインを求める長い列に並び、片言で感動を伝えたのだが、その時身につまされてつい泣き出してしまった。監督は驚いて、彼女を優しく抱きしめなぐさめた。かくして私の目論見《もくろみ》ははずれ、A子は映画を見て元のさやに収まる代りに、この優しい監督に心惹かれ、さらに強固に離婚の意志を固めてしまった。
翌日、また映画会場にやってきた彼女と監督を交えて三人でおしゃべりをした。
A子は恥ずかしそうに離婚の理由を語った。何と六年の結婚生活で夫婦生活は片手で数えられるくらいしかなかったという。
「夫はとても優しくていい人です。でも毎日仕事で疲労|困憊《こんぱい》して帰宅するので、とてもセックスする気になんかなれないと言うんです」
「君は言葉だけじゃなく行動でも彼に対してセックスしようと働きかけたの?」
「ええ、でもだめでした」
「それは、外に女がいるよ。それでなきゃ同性愛者だよ」
「いいえ、絶対違います」
日本では結構多いセックスレス夫婦も、イタリア人には不可解極まりないようで、彼は突然まくしたて始めた。
「セックスのない人生なんて何の楽しみがあるんだ。この世で一番素晴らしいことじゃないか。僕は結婚して九年、子供も二人いる四十八歳だけど、今も毎日欠かさず妻と愛し合っている。セックスしなかったのは、それぞれの子が生まれた日とその翌日だけだ」
生理学的に見ても、女性が出産数日後にセックスしたくなるはずがない。彼の場合妻が我慢して協力しているのだろう。毎日の夫婦生活……。彼の奥様がうらやましいというより、お気の毒としか思えないのは、私が淡白な日本人だからか。
そのうち、監督はA子の顔をのぞきこみながら具体的なお誘いに入った。
「僕は明日日本を発つけど、今晩までは僕は妻のテリトリーの外にいる。君の空白の六年間を僕が埋めてあげたい!」
妻と毎日愛しあうと言った舌の根も乾かないうちに、他の女性を誘う、このイタリア的論理には笑ったが、この誘いに対するA子の答えもまた、いとも日本的で笑えた。
「できません。別居はしていますが、離婚届を出していないので私はまだ人妻なんです」
「状況のせいにしないで、自分の意志で決めなさいよ」
私はこう言い残して、その場を去った。
その後の二人を見届けたわけではないが、イタリア人監督のこと、おとなしい日本女性の人生を突然映画のワンシーンにしてくれたのかもしれない。数ヶ月後A子は三十歳にしてイタリアに留学する決心をした。
「自分の人生のドラマですから、脚本は自分で書きたいんです」
成田を発つ彼女の顔は輝いていた。
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結婚二十五年目の初夜[#「結婚二十五年目の初夜」はゴシック体]
統計によると日本の夫婦の二八パーセントがセックスレスらしい。この中には二十代、三十代の若い夫婦も含まれている。「私たちセックスレスだから」とあっけらかんと話す若い人を見ていると、かえってそっちのほうがおしゃれで今風にすら見えてくるから不思議だ。仲が悪いわけではないのに、セックスの必要性を感じない彼らは、何を基準に愛を確認しているのだろうか。
イタリアではセックスは、「愛しているよ」という言葉を体で確認する行動に他ならない。とりわけ夫婦間では夫婦関係の契約更新みたいなものだから、セックスがなくなったら離婚を話し合うときだ。ところが、日本人はこの種の真剣な話し合いが最も苦手な民族だ。だからあいまいに波風立てず月日を経過させ、夫の定年退職の日に突然離婚を切りだしたりする。一種の詐欺に近い。夫婦はセックスも含めて、もっと真摯に向き合うべきではないだろうか。
前章にも登場したが、四十三歳のパオロは甘いマスクのやり手実業家だ。中卒でセールスマンとして働き始めた後は、持ち前の商才と話術を駆使してのし上がり、ついには生産工場や研究所まである会社のオーナー社長にのぼりつめた。広大な敷地には両親の家も建て、四人の子供にも恵まれた。そしてこれもイタリア人の常だが、平和な家庭をきちんと維持しながら、遊びまくっていた。年上の奥さんは彼が貧しいときから助け合ってきた糟糠《そうこう》の妻で、会社で経理を担当していた。見るからに気が強そうで目が鋭くあまり笑顔もでない。これでは息抜きしたくなるのも当然だ。パオロのこと、子供が大きくなったら若い妻に乗り換えるかもしれないな、私はそう思っていた。
順風満帆に見えたパオロの家庭が一変する悲劇が起こった。ある日突然、妻の頭の動脈瘤が破裂したのだ。彼女は電話の受話器を握ったまま固まったように動けなくなってしまった。すぐに病院に運ばれたのだが、治療の甲斐もなく彼女は、四十四歳にして右半身不随になってしまった。
忙しく国内外を飛びまわっていたパオロの生活も激変した。出勤前の朝から始まり、昼夜かかさず病室を見舞い、甲斐甲斐しく彼女の食事の世話を続けた。このころの日本出張も当然キャンセルしている。
二年ぶりに来日した彼を見て驚いた。昔の輝くような派手さは影を潜め、白髪まじりの髪、目尻のしわも増え、老けた穏やかな風貌に変わっていた。
「妻はすごい女性だよ。一体どうやっているのか分からないけど、着替えもすべて一人でやるし、ブラジャーだって片手でつける。僕にヘルプを頼むことは殆どないんだ。今は普通に会社にも来ているよ」
そこで彼は声をひそめて私に告白した。
「妻が杖をついて退院してきた日が勝負だった。彼女の顔も体も不自然に固まっていて、前の彼女の面影はなくなっていた。僕は自分に言い聞かせていた。退院した夜に彼女を抱かないと、きっとずっとできなくなる。今まで僕たちは決まって週二回愛し合っていたんだけど、彼女も自分の姿を気に病んでいるに違いない。どんな姿になっても愛しているという証はセックスしかない。自分でもすごく不安だったけれど、前と同じように彼女を抱くことができた。ほっとしたよ。彼女、初めてのときみたいに泣いていたよ。その後はすべてを今までのライフスタイルに戻した。土曜日は友人たちや家族とレストランにでかける。彼女の体がちょっと不自由になっただけで、今は前と同じ生活に戻った。いや、前よりもっと家族の絆が強くなったかな」
そして最後にちょっと恥ずかしそうに付け加えた。
「もう浮気はやめたよ」
各国美女とのアバンチュールを自慢げに語っていた頃より、パオロは数倍も男らしく見えた。夫婦ってほんとうにすばらしい。
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世界最古の職業、
東西のプロたち
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
百ユーロ札を持って銀行に貯金に行ったマリアに、窓口の女性が言った。
「お客様、これは偽札ですが」
マリアは叫んだ。
「大変! どうしよう! 私、強姦されたんだわ」
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売春婦の呼び名[#「売春婦の呼び名」はゴシック体]
世界最古の職業ともいわれている売春婦、この仕事が世の中から無くなることはないだろう。そして世界一の≪好き者≫イタリア人のこと、この職業の呼び名の種類も豊富に揃えている。一番良く使われるのが≪プッターナ≫。イタリア語を知らない人にも侮蔑の響きが感じられるような語感である。一方日本語では≪売春婦≫の他には≪娼婦≫≪商売女≫くらいしかない。≪夜鷹≫≪遊女≫などは今や完全に死語となっているし、≪あばずれ≫≪尻軽≫≪売女≫は金銭が介在しないこともあるので、正確な表記ではない。
しかし日本には、この職業に対する罪や恥の意識を完璧に隠蔽《いんぺい》する便利な造語がある。それが≪援助交際≫。堅い言葉でベールをかぶせる欺瞞《ぎまん》に腹を立てていたら、少女たちは更に言葉を軽くしていった。≪エンコー≫そして≪ウリ≫、こうなると、もはやゲームである。
数年前横浜で開催された世界エイズ会議の売春婦分科会でのこと。差別用語の売春婦を使用しないために、通訳に指示された統一訳語が≪コマーシャル・セックス・ワーカー(性販売労働者)≫という舌をかみそうな長い名前だったのだが、性を売るより春を売るという方がはるかに美しいと思うのは私だけだろうか。どちらにしても、英語を使ったり、堅い漢字を使用したりして、やっている行為をあいまいにするのが日本人らしい。
一九五八年、偶然の一致で日伊とも女性議員が先頭に立って売春防止法を成立させた。以降イタリアでは女性を集めて営業する売春宿が廃止され、道での立ちんぼうはOKという変則的な適用となった。今は郊外や市内の道路沿いに派手な女性が立って客引きをしているのだが、車が通るたびにミニスカートをまくりあげパンティまで見せる過激な営業をする。目を引く美人に限って男性だったということが多いので、注意しなければいけない。
ある街の新興住宅地近くの道路がいつのまにか売春婦通りと化した。子供への悪影響を心配した住民たちが苦肉の策を編み出した。当番制で毎夜道に出て、女性と交渉する車のナンバーを記録し、翌日のローカル新聞にその番号を載せ始めたのである。紙上に夫の車のナンバーを発見し大問題になるケースも次々に出てきて、客足がばったり途絶えた。結局彼女たちは河岸《かし》を変えざるを得なくなったという。
もちろん彼女たちの後ろには大がかりなピンハネ組織がある。現在最大勢力は冷酷非道で知られた不法入国のアルバニア人で、まだ幼い少女を母国から拉致し、部屋に閉じ込めて客を取らせることも当たり前。フェリーニの映画に出て来るような売春宿や日本の遊廓《ゆうかく》に溢れていた情緒は消え、凶悪な組織犯罪の資金源となってしまっている。どうせ売春がなくならないのなら、この際法律を改正し、国営組織にするのも手かもしれない。
ところで、売春宿はイタリア語ではカジーノ、賭博場はアクセントが最後に付いてカジノとなる。イタリアのホテルで行き方を尋ねるとき、この発音だけはくれぐれもまちがえないようにしてほしい。
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ドーベルマン[#「ドーベルマン」はゴシック体]
引き締まった体が美しいドーベルマンは、実はひどく太りやすい体質で、体型を維持するためには毎日十キロは走らせないといけないらしい。知人はそれを知らず購入し、毎日犬に先導されつつ長距離を自転車で走ることになったとこぼしていた。敵に襲いかかる獰猛《どうもう》な性格で、イタリアでは番犬として夜間倉庫に放し飼いされていることも多い。盗難保険よりはるかに安くて確実らしい。パリの女性タクシードライバーの隣やアムステルダムのガラス窓の女性の傍らにも良く見かけた。
イタリア有数の実業家F氏のお宅に招かれたとき、私は広大な庭を縦横に走りまわっている数匹のドーベルマンに目を奪われた。これでは怖くてとても一人で訪問できない。嬉しそうにまとわりつく犬をなでながら、F氏は声をひそめて私に語った。「家にドーベルマンを飼うようになったきっかけを教えようか?」
遊び人のF氏、ある時出張先で超美人の高級娼婦と商談成立、意気揚々と彼女のマンションに入った。天蓋付きの豪華なベッドに案内され、気もはやった彼は早速彼女をベッドに押し倒した。服を脱がせブラジャーも取ろうとすると、「ブラジャーを取るなら十万リラ増しよ」ととんでもないことを要求してきた。それでなくとも高い金額を前払いしていた彼は、思わず声を荒らげて抗議した。「約束が違うぞ」
その瞬間、突然ベッドの下から黒い影が走りでてきた。ドーベルマンである。ベッドの上にいる彼の剥き出しの下半身近くに顔を寄せ、歯をむき出してうなり始めた。恐怖に震えあがったものの、ここまで来たのだ。はやった気を抑えるのは難しいし、第一、犬に負けるのも悔しい。しかたなく追加の十万リラを支払い、豊かな胸をさわらせてもらう。その後さらにパンティに手をかけると、またも料金上乗せの要求。少しでも抗議の声をあげようものなら、即座にドーベルマンが股間の近くで歯をむく。もはや恐怖だけではなく、怒りでその気がうせてしまった。彼は大枚をだましとられただけで、目的を達することもなくその家を後にしたのだ。
「主人が客と帰宅しても迎えに出て来ないでベッドの下にじっと隠れている。男が声を荒らげた瞬間、初めて飛び出してきて股間の近くで牙をむく。実に良くしつけられていた。頭がいいし信頼できる犬だ。腹は立ったが感心したよ」
彼が十歳以上若い美人の奥さんと結婚したとき、一番にしたことが庭にドーベルマンを放し飼いすることだったのだ。転んでもただでは起きないことで富を築いたF氏らしい。何も知らない奥様も、ドーベルマン同様F氏の帰宅を満面の笑みで迎えていた。
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チッチョリーナ[#「チッチョリーナ」はゴシック体]
ハンガリー人でありながらイタリアの国会議員に当選したポルノ女優、チッチョリーナが二〇〇二年、テレビ番組出演のため来日した。五十歳を過ぎているのに容色にも体型にも衰えはない。スラブ系特有のほんのりピンクがかったすきとおるような肌、ストレートに長く垂らした金髪も昔のまま。任期満了で議員をやめた後、結婚、出産、離婚、親権裁判、自宅の焼失と辛い経験もしたためか、前回来日したときより人間的にも丸くなっていた。
初来日は一九八八年。このときの彼女は人気も絶頂の女盛り。私は週刊誌の対談の通訳をしたのだが、カメラマンに使用するレンズや写す角度を指定するだけでは足りず、撮影時間も最初の五分だけと厳命し、著名な対談相手が個人的なツーショットを求めても「肖像権があるから」とかたくなに拒否していた。
二回目に会ったのは、幕張で行われた現代美術のイベント。結婚したばかりのアメリカ人アーティスト、ジェフ・クーンズに妻として同行していた。話題の美男美女のカップルはパーティでも注目の的で、彼女が最も幸せに輝いていたときであった。
今回彼女に会うのは三度目になる。意外にもTシャツにジーンズ姿で、テレビ局の控室の床にひざまずき、自分の衣装に黙々とアイロンをかけていた。ピンクのセクシーな衣装は左側の肩ひもだけが長く仕立てられていて、すぐに胸が露出する≪プロ仕様≫のものだった。鏡台もない応接室で文句も言わず、ヘアメークもすべて自分一人で整える。私は彼女の雑草のような順応力に感動を覚えていた。
この日のテレビ出演中もサービス精神を発揮し、議員時代によく物議をかもしていたお得意のパフォーマンス≪おっぱいぽろり≫を何度も実行した。「私左派なので、おっぱいも左しか出さないの」と言いつつ見せる胸は、十分な張りもあり完璧な形だ。また番組中に「乳首は黒ずまないのですか」と聞かれるほど、桜色の小さな乳首は愛らしかった。
ハンガリーにいた十八歳のころは、外国政府高官の接待係に任命されスパイ活動をしていた、と最近出版した自叙伝に書いているが、確かに若い頃の彼女はどんな高官もメロメロになるくらい美しい。一九八八年日本の国会を訪問したときのニュース映像も番組中流されたのだが、小泉純一郎氏はじめ居並ぶ議員全員がデレーと鼻の下を長くしているのが印象的であった。このとき、エイズ基金を集め厚生大臣に手渡すなど忙しい公務の合間を縫い、日本の男優相手に二本のアダルトビデオに出演も果たしたらしい。「日本男性はあっちがすごく上手、恋人になってほしいわ」と力説した。すかさず出演者の男性タレントから「あなたの恋人になると、多額のお金を海外送金しないといけなくなるのでは」との質問が飛んだ。アニータ事件の後遺症は深いが、日本の男性が外国人女性に少しは脇をしめるようになったとすれば、災い転じて福というべきであろう。
議員時代には十以上の法案を提出したのだが、中でも一番力を入れていたのが売春の自由化である。内容は変わったが関連法案がやっと昨年可決され、一人または二人までであれば自宅での独立営業が認められることになったという。政府の目論見は彼女たちから正規の税金を徴収することにあるのだが、管理売春ではなく自主営業であることの意義は大きい。脱税、アングラ経済大国のイタリアで、彼女たちが正直に収入を申告するとは思えないが、大金が動くこの最古のビジネスが国家歳入の大幅増に寄与することを期待したい。
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接待のつもりが[#「接待のつもりが」はゴシック体]
大型商談の顧客に女性を世話するのは、ビジネス裏街道における常套手段である。ただしこれも両刃《もろは》の剣、商機を逃す原因になることもあるので注意が必要だ。
輸入商社の日本人オーナー社長がイタリアの最新大型製造装置を売るため、日本の顧客五人をイタリアに招待した。五人は競合メーカーの工場長や購買責任者。実際に装置を使用しているイタリアの工場を視察した後、納得すれば購入決定という商談の最終局面まで持ち込んだ各社である。社長は背水の陣で張り切っている。私も通訳として日本から同道した。
イタリアの工場を三日にわたって視察したが、彼らの反応はかなりいい。ごきげんムードで続いた旅の最終日、社長はダメ押しの一発を決めることにした。現場生活が長く海外は初めてという彼らに、イタリア女性を手配することにしたのだ。夕食後、社長はなじみになっているホテルのフロントマンのところに行き、片言のイタリア語で依頼した。
「この五部屋に若い美人を手配してくれたまえ。支払いはすべて僕がするから」
渡した五人のルームリストの最後には、自分の部屋番号を一番大きく記し、念には念を入れドルのマークまでつけておいた。五人とも夜遊びする場所もない郊外のホテルで退屈していたので、喜んで女性を待った。
社長は現金を準備して部屋で待機していたのだが、誰もやってこない。急な話で女が見つからなかったのかと危惧し始めた朝の三時過ぎになって、やっと社長の部屋がノックされた。長い金髪を乱したままで、化粧の濃い若い女性が汗びっしょりで立っている。「ブオナセーラ(今晩は)」というが早いか、彼女は慣れた様子で奥のベッドに座った。ハンドバッグから取り出したしわだらけの紙は、さっき社長がフロントに預けたルームリストだ。彼女は五番目の部屋番号にも大きなバツ印をつけてにっこり笑った。
「五人ともみんな終わったよ」
そして「忙しくてシャワーも浴びられなかったわ。シャワー使わせてね」と言いながら、返事も待たずバスルームに消えた。社長は真っ青になった。まさか一人で全部面倒を見るとは思ってもみなかったのだ。人材不足だったのか、タフなイタリア女性にとっては五人なんてあたり前なのか、ばれないことを祈るのみだ。シャワールームから出て来た彼女はさっぱりしたのか、元気いっぱいに尋ねてきた。
「あなたもやる? 最後だから安くするよ」
自分も兄弟分になるなんて冗談じゃない。即座に断ったものの、はちきれんばかりの若さがまぶしい。もう一働きしようとする体力もこの若さゆえだろう。思いがけない事態に呆然としていた社長も腹をくくった。くくりついでに彼女にチップをはずんで情報収集をすることにした。
「一番大きいダレ?」「一番うまいダレ?」「一番へたダレ?」
翌朝の朝食の席では、みんな一様に満ち足りた顔をしていた。誰も昨夜の話を始めない。控え目な日本人のこと、きっと一生胸に秘めていてくれるだろう。社長がほっと胸をなでおろしていたところ、旅の最終日で気が緩んだのか、中の一人がさも得意そうに言い始めた。昨夜一番絶倫と彼女が部屋番号に二重丸をつけて絶賛した工場長だ。
「イタリア女が、ウタマロ、ウタマロって喜んだのにはびっくりしたなあ。あんな日本語、どこで覚えたんだろう。僕のところに来た子は、胸も大きいし若くてなかなかいい女だったんだけど、金髪は贋物だったな。マリリン・モンローみたいな金色の髪に喜んだのに、下の方は濃い茶色だったんでちょっとがっかりした」
それを聞いて他の四人の顔が一斉にこわばった。「もしやライバル企業同士で義兄弟になったのでは」。おだやかだった朝食の席が奇妙な沈黙に覆われた。工場長も他の誰も寝た女の描写をしないので、何かを悟ったのだろう。それ以後口をつぐんでしまった。
こうして社運を賭した大盤振舞いの旅行が終了したのだが、帰国後彼らの会社から発注書が届くことはなかった。社長は私に泣き出さんばかりに訴えた。
「君にそんな通訳を頼むのはあまりに申し訳なくて、自分でやったのがいけなかったんだよ。単数と複数を間違えて一人の女性を五つの部屋にと言ったのかな。ちゃんと複数で≪五人の女≫を手配してくれって言わなかった僕が悪いんだ」
誠にお気の毒だが、通訳の重要性をこれで認識してくれれば、こんな嬉しいことはない。
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負けていない日本のプロたち[#「負けていない日本のプロたち」はゴシック体]
観光立国のイタリアは厳しいガイド資格試験を課しており、歴史地理などに深い知識が求められる。そのためかイタリアのガイドには、先生を退職した老人が多い。私が学生アルバイトで付いたイタリア人団体は≪若い女の子≫のガイドに目を丸くし、とりわけ男性たちが鼻の下を長くしていた。しかし、何事にも良い面と悪い面がある。
遠い極東の地に来る男性陣の目的の一つは世界共通≪現地女性の味見≫である。そしてその彼らが限られた期間内で確実に目的を達成するにはソープランドに行くしかないのだが、女性ガイドにその相談は無理、複雑な心境であったことは想像に難くない。仕方なく希望者は仲間数人でホテルのベルデスクに行き、「タクシーに行先を伝えてくれ」と頼むのだが、悲しいかな英語がうまく話せないのでなかなか意思の疎通がはかれない。ベルデスクの人も困って、ガイドの私の部屋に電話して助けを頼む。さて、何事かと駆けつけると、彼らは照れくさそうに笑っている。しばしば起きたそんな状況で、通訳する内容は次のようなものである。
「吉原が一番近いんですが、外人さんお断りのところが多いんですよ。川崎までタクシーで行くとなると、高速も使いますから金額もばかになりませんし、第一英語はまったく通じません」
それを聞いた彼らは気色ばむ。
「何で外国人はだめなんだ? 人種差別じゃないか」
「外人さんが入る所は日本人が嫌がるんです。不潔とか病気持ちとかのイメージがあるみたいなんですけど、そう言うと気分を害しますから、外人さんはあれが大きいので日本の女の子は嫌がる、とか言った方が角が立ちませんよ」
子供のような私を見て、ベルデスクの人はそこまでアドヴァイスしてくれるのだが、慣れないフレーズを訳す私は汗だくである。
そして≪大きい≫というところで、彼らはみな得意そうに相好をくずすのだ。
「外人さんOKのところはここ一軒だけで、高いんですよ。後で文句を言われても困るので、前もってお伝えしますが五万円です」
普通料金の二倍以上の金額らしい。
「日本人のあそこは金でできているのか」
イタリア人は唖然として文句を言うものの、遠い日本にまた来るとは考えられない。背に腹は代えられぬ。こうして私は彼らをタクシーに乗せ、にっこり送り出す。翌日の彼らは一様に満ち足りて幸せそうな顔をしていた。旅程や食事に文句を言うこともなく、私をくどくこともなくなり、非常にありがたかったものである。今も昔も国際交流の縁の下の力持ちは、他ならぬ世界最古の職業を継承する彼女たちなのかもしれない。
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内気なイタリア男のマリア様[#「内気なイタリア男のマリア様」はゴシック体]
最初のうち数回経験したこんな夜のサービス情報の通訳も次第に減っていった。私は素直に、来日イタリア人団体の文化レベルが上がったのだと喜んでいたのだが、どうやら甘かったようだ。蛇《じや》の道はヘビ、念ずれば通ずる。どうやら日伊で英語が普及するスピードとともに、男性たちの自主自立体制が整備されていったというのが実情らしい。彼らはガイドの私も知らないうちにとんでもない田舎まで出かけ、本懐を遂げていたのだ。
私がガイドをした団体に、いつも冗談を言ってみんなを笑わせてくれた楽しい人たちがいた。三十代初めの男友達三人で、幼なじみの親友らしい。「イタリアに来たら遊びにおいでよ」と招待され、私はイタリア北部の小さな町メルドラを訪れた。
私を歓迎するため、三家族が総出で待っていてくれた。
その日の昼は、三人の中で一番若くハンサム、生真面目《きまじめ》な中学校の先生アンジェロの家で全員が集うことになった。広大な庭にはドイツ製の子供用遊具が並び、防犯用か、毛並みの良いシェパードが数匹放し飼いされている派手な豪邸である。学校の先生がいったいどうしたらこんな家に住めるのか、驚いていたのだが、奥様を紹介されて合点がいった。百キロ近い巨体でイタリアには珍しいほど不美人の彼女は、町一番の金満家の娘で、彼はその娘に惚れ込まれた末の入り婿だったのだ。同じ敷地内に妻の実家もあり、建設業と金貸しをやっている義父も昼食に参加し、その場をわがもの顔に仕切っていた。妻はこのあこぎそうな父親にそっくりな顔をしていたし、五歳になる彼らの娘もまた、体型といい顔つきといい、気の毒なくらいママ似だった。義父に気圧《けお》されたのか、日本ではあんなに明るかったアンジェロはその日終始寡黙だった。
食後、近くにあるスフォルツァ家の別荘だった城に皆で出かけた。午後の日射しの中で子供たちが走り回り大人たちがおしゃべりに興じている間、アンジェロは階段を上って行く見晴らし台へと私を誘った。眼下に広がるエミリア地方の緑の平原を見ながら、彼は独りごとのようにつぶやいた。
「この景色を見ていると世界は広いって感じて気持ちが晴れるよ。ここに住んでいると、毎日息が詰まりそうだからね。みんなが知り合いの狭い町だから、いつも人目を気にしなくちゃいけない。だから誰も知った人がいない日本は楽しかったよ。君も見ただろう、悲しいけど僕は妻が愛せないんだ。娘のアドリアーナは、妻に言い寄られて良くわからないうちに一回だけ関係を持ったときにできたんだ。こんな田舎だし、彼女の父親は町の有力者だから、その娘を妊娠させて結婚しないなんて自殺行為に等しい。学校にだっていられなくなる。僕はほんの十分で自分の人生を捨てるはめになったよ。
日本旅行は親友のあいつらが妻を説得してくれて、やっと行けたんだよ。妻は病的に嫉妬深いから、もう一人で旅行に行くこともないだろうな。でもおかげであの旅は、僕にとって一生忘れられない宝物になったよ。実は京都の最後の夜、みんなでお風呂に行ったんだ。優しくってかわいい女性が最高の技術で信じられないサービスをしてくれた。まさにこの世の天国だったよ。女の人に体を洗ってもらうのも、赤ん坊のとき以来だったから王様になった気分だった。そうそう、彼女は僕のムスコにキスしてくれて、それから僕の上に乗ってきて抱き合ったんだけど、コトが終わって初めてコンドームが付けられているのに気付いたんだ。口でつけたとしか考えられないんだけど、いつどうやってつけたのか、まったくわかんなかった。すごい技術にびっくりしたな。同時に、何で妻とやったときコンドームをつけなかったのかと、悪夢が蘇ったよ。
彼女、≪まり≫って名前だった。もしかして僕のマリア様じゃないかな。彼女の顔もはっきり覚えてるし、今も毎日のように思い出す。言葉は通じなかったけど、すごく優しい目で見つめてくれた。日本の女の子は、みんなあんなに上手に男性を喜ばせてくれるの? 僕も日本に生まれたかったな。今は、あれは夢だったと思ってこれからを生きていくしかないけどね」
遠くを見つめながらのいささかせつない彼の告白に、私は虚を突かれ答えに窮していた。彼らのツアーでは、京都の最後の夜夕食にみんなでてんぷらを食べ、それから祇園を散歩してホテルに帰った。夜の十時過ぎで、荷造りもあるし、翌日朝早い出発なので早く寝てくださいねとすぐに部屋に引き揚げさせたはずだ。あれから男たちで示し合わせて出かけたとすると……おそらく本番も可能という有名な雄琴か? 滋賀県の田んぼの真ん中にラスベガスのごとく忽然と出現しているネオン街だ。
あんな遠くにあの時間から、通訳も案内もなしに出かけたのか……。
私は非行に走った修学旅行生を見る引率教諭の目であらためて彼を見つめながら、「うむ、あなどりがたい先端技術だ。どこで習うのだろう。風船ガムもふくらませられない不器用な私には無理だな」などと不埒なことを考えていた。
「男性を洗い喜ばせるのは、日本では学校の≪家庭科≫の必修なのよ」
冗談ぽくそう答えかけた私の耳に、息を切らせて階段を上がってきた奥さんの怒声が聞こえた。「急にいなくならないでよ。一言私に声をかけるべきでしょ!! 探すじゃない。もう帰るわよ」。愛らしさなど微塵もない。彼は「ごめん、ごめん」と優しい顔で妻のほうに振り返った。夫の心中を、毎夜隣で眠る妻は一生知ることはないのだろう。雄琴のソープランドでのわずか一時間の愛の交歓が、二万キロを超えイタリアの小さな街に生きている。私は不思議な感動を覚えていた。
砂をかむような人生を送る男の心に永遠のオアシスを作った≪まり≫ちゃん、あなたは実に≪いい仕事≫をした立派なプロです! なぜか、彼女もまた日本でこの内気なイタリアの美男のことを時々思い出しているような気がしてならなかった。
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ああ日本人
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
沈没しかかったタイタニック号、我先にと救命ボートに殺到する乗客たち。
もちろん女子供が優先。男性はボートから降りてもらうよう説得するため、船員はアメリカ人にはこう言う。「あなたこそ真の≪ヒーロー≫です!」
イギリス人にはこう言う。「あなたこそ本物の≪紳士≫です!」
ドイツ人にはこう言う。「これが≪規則≫ですから」
そして日本人にはこう言う。「皆さん、そうしてますから……」
この小話を聞いた米原万里曰く、「ロシア人には、『船倉にウオッカがまだ十ダースも残ってるぞ』。これで充分ね」
シモネッタ曰く、「唯一ボートから絶対降りないのがイタリア人よ。だって『女性がいない場所には一時だっていられないよ』って言うに決まってるもの」
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かくも繊細な日本人[#「かくも繊細な日本人」はゴシック体]
イタリアに長期単身赴任していた日本人A氏が、イタリア人社長に同行して帰国した。イタリア人社長が、あきれたという口調で言った。
「A氏の奥さんが空港まで迎えに来ていたんだけど、二人ともキスも抱擁もしない。やあ、と離れたままお互いを認めると、彼は奥さんに荷物だけ渡して、そのまま私とオフィスに来て仕事をしている。あれが一年ぶりに会った夫婦だとは信じられないよ。奥さんも良く怒らないものだ」
確かに、日本男性は愛情表現が下手である。和歌を贈り夜這いを繰り返していた平安時代の貴族たちと同じDNAとは思えないが、恐らく七百年持続した武家文化が男女の間に抑圧という垣根を作ったのだろう。しかし抑圧されればされるほどかえって情念が深まり、あらぬ妄想が膨らむもの。世界広しといえど、女性のうなじに色気を感じるなんて日本人くらいだろうし、久米の仙人に至っては、着物の裾からちらと覗いたふくらはぎで動転して落下してしまう。
そんな日本人の繊細さがよく表れているのが連れ込みホテル。アラブ風、平安時代風、スポーツカー改造ベッド、鏡の間、回転ベッド、各種の風呂、ただセックスができればいいという実利だけでなく、様々に工夫をこらして空想を膨らませる非日常空間を演出する。イタリアにも一応部屋を時間貸しするラブホテルのようなものはあるのだが、無味乾燥の普通の部屋。だから日本の連れ込みが、摩訶不思議な魅力的空間に見えるらしく、あるイタリア人建築家などは、滞日中一人で連れ込みホテルをまわり、そのインテリア写真集を刊行したくらいである。コスプレ・パブも同じ原理で、看護婦や尼さんなどとの疑似体験を喜ぶのも、日本男性の洗練された知的な嗜好なのかもしれない。
日本人は、通常外国人が喜ぶという体臭も苦手である。愛人に「次に会うときは、一ヶ月お風呂に入らないで来ておくれ」と書き残したのはフランスの王様だっただろうか。ナポレオンが愛したジョセフィーヌのあの有名なチーズ臭も、日本男性は受け付けないに違いない。私はパリの空港のチーズショップのそばを通るだけで、ブルーチーズの香りに気分が悪くなるが、フランス人は猫にまたたびという表情で店に吸い込まれている。
友人の日本男性が、ある夏旅先でイタリアの女の子をナンパするのに成功した。ホテルの部屋でコトを始めたが、あまりに彼女の体臭が強い。彼は、匂いのせいでその気が失せてしまった。このままでは恥をかく。仕方なく女の子に「匂うから洗ってきてくれないか」と頼んだ。すると彼女は、そそくさとバスルームに消え、石鹸をつけて足だけを丁寧に洗い、またすぐベッドに戻ってきた。西洋人にとって悪臭とは足の匂いだけで、体臭は麝香《じやこう》の香りのごとく興奮作用があるものなのだろう。
ゴーマンシリーズで知られる小林よしのり氏のマンガに、外国人女性がベッドで大股を開き手招きしながら「カモーン」と言っているものがある。タイトルは「萎える」。イタリア男なら血気にはやって即座にベッドに飛び込む状況も、日本人にとっては興ざめということか。なんて繊細なのだろう。日本男児のやる気を奮い立たせるのは、「嫌よ嫌よもいいのうち」という拒否や恥じらいのポーズなのだ。それなのに最近の日本女性は、積極的に露出し、西欧化して強くなっている。今四十代の独身男性が急増しているのは、こんなところにも原因があるのかもしれない。
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くどき下手な日本人[#「くどき下手な日本人」はゴシック体]
日本の男女関係は≪以心伝心≫というあいまいな合意の上になりたっている。はっきり「ノー」と言わなくとも、お互いに相手の真意を推測する感受性を持っているのだ。だからお誘いを二度くらい断ると、もう深追いはしない(病的ストーカー以外は)。
一方、隣国の韓国男性は、積極性も押しの強さもイタリア男並みである。日本に留学中の韓国女性が言っていた。「韓国では男性の誘いは三度は断らないと、軽く見られてしまいます。男性も決してめげずに何度でも誘います。日本に来て驚きました。一度断ったら、もう二度と誘ってくれないのですもの。日本男性は遠慮深いのでしょうか」
かつて機内で私をくどいたのも、やはりというべきか大韓航空とアリタリアのスチュワードである。こんなことは日本の航空会社では起こり得ない。私自身は、口ではなく目で気持ちを伝え合う日本人の方が繊細で好きである。しかし悲しいかな、私のように見かけが派手でイタリア人相手に通訳なんぞやっている女は敬遠され、日本男性にはなかなか誘ってもらえない。
その昔、イタリア・ブランドのアジア地区マネージャーとしてアジアの代理店をまわっていたときのこと。チェックインしたグァムのホテルロビーに≪日本青年商工会議所御一行様≫と大書したツアーデスクが出ていた。日本を背負う青年実業家たちと同じホテルにいるなんて千載一遇の好機、私は早速イタリア製のセクシーなビキニに身を包み海岸に出た。ほとんど人気《ひとけ》のない砂浜には、運良く実業家らしい日本人男性が十人くらい座って肌を焼いている。海岸を歩くと彼らの視線を一斉に浴びる。Fカップの胸に引かれて現地の若者が声をかけてくるが無視し、私はゆっくり海に入って泳ぎ始めた。運動が目的と装うためである。
しばらく泳いで遠浅の海中に立ち沖を眺めていると、一人の日本人が私の方にゆっくり歩いて来た。背が高くさわやかな男性、胸が高鳴る。もし食事に誘われたら何と答えよう、思案している私の耳元で彼はささやいた。
「お嬢さん、背中にピップエレキバンが付いたままですよ」
ショックでそのまま海にもぐってしまいたくなった。出発直前まで翻訳をして肩こりに苦しんでいた私は、背中全体に八個のエレキバンを貼り付けたままだったのだ。私は消え入りそうな声でお礼をいい、すぐにホテルに戻った。イタリア人なら、「面白いもの付けてるね。え、磁気テープ? それで僕も引き寄せられたのかな」くらいは言って、くどきの道具に使い、同時に私の恥ずかしさも消し去ってくれるのに……。
かくして私好みの不器用で誠実な日本男性とはあまり縁がないまま過ごしてきた。
人生は思うようにはいかない。
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国威発揚の日本人[#「国威発揚の日本人」はゴシック体]
控え目で繊細な日本人ばかりではない。恋の本場イタリアで健闘している頼もしい日本男性もいる。
八年前、ミラノの北にある街ヴァレーゼのジュエリー工場を二人の日本人と訪問したときのことである。私たちは十五世紀の修道院を改築した美しい工場兼オフィスで商談をしていた。
そばにいた女性事務員が電話を受けたのだが、すぐに受話器を置くと、社長に「すみません。ちょっと急用ができたので少し外出していいですか」と許可を求め、足早にオフィスを後にした。そして間もなく、外で女性の怒声が響き始めた。
赤いフィアットの小型車が、さきほどの事務員の車を妨害するように門前に停められている。その前で女性二人が取っ組みあいの喧嘩をしているのである。乗り込んできた女性の顔は引きつり、まさに髪振り乱して、ハンドバッグで事務員の顔や頭を狂ったように殴打している。社長もすぐに止めに飛び出した。興味津々外に出て、このすさまじい女どうしの乱闘を遠巻きに見ていた私たちの耳に絶叫にも近いせりふが聞こえた。
「あんたも彼によがらせてもらったの、この売女《ばいた》め。殺してやる」
陽光の降り注ぐのどかな旧修道院の庭先で、朝っぱらから≪よがる≫という言葉がミスマッチで、映画のロケではないかといぶかるほど現実感が乏しい光景であった。なんとか二人を引き離したものの、事務員は鼻から血を流している。
「こいつ、友人面して私の男を盗んだんだ」
大きくあけた胸がセクシーな美女の怒りは収まりそうもないが、ともかく事務員を病院に連れて行く。小さな街のこと、この傷害事件はすぐに広まった。鼻を折り、脹《は》れた顔で感心にも翌日きちんと出勤してきた事務員のもとに、警官が事情聴取に訪れた。調書を作成していた警官が、読みとスペルを確認するためにゆっくり発音したので、そばにいた私たちにもはっきりと聞こえた。
そう、二股かけてこの修羅場の原因を作った張本人は何と四十四歳の日本人男性だったのだ。その名前は、同胞の英雄として、その場に居あわせた私たち三人の脳裏に、今もしっかりフルネームで刻みこまれている。乗り込んできた女性も、寝取った女性も≪いずれあやめかかきつばた≫のうら若い美女である。彼は美女二人に≪よがった事≫を最大の争点にして白昼の決闘をさせたのだ。国威発揚と見るか、資産の国外流出を嘆くべきか考えている私に、イタリア人社長が敬意を込めて言った。
「日本人が≪ウタマロ≫というのは本当だったのだね」
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若いつばめ[#「若いつばめ」はゴシック体]
邦銀のエリート行員だった二十七歳の知人T君が、突然退社して北イタリアの料理学校に留学した。日本でイタリアン・レストランを開く決心をしたのである。貯金を食いつぶしながら貧しい学生生活を送っている彼を励まそうと、私はミラノに出張したとき夕食に招待した。
女性を大切にする国イタリアでは、夫婦でもレストランの支払いは男がするものと決まっている。女が払うとヒモに見られると嫌う男が多い国で、彼に居心地の悪い思いをさせないためにはどうすればいいのだろうか。母親風に装うべきか、社長と社員に見せた方がいいのか。だが親子に見られるほど似ていないし、そこまで親密な雰囲気は出せない。後者の設定にして、私は金満社長風に決め込んだ。ヴェルサーチェの派手なサングラス、ミンクの毛皮、これでOKとT君をホテルロビーで待つ。
ところが彼は、日本でのスーツ姿とはうって変わって学生風になっていた。ダウンのコートに紺のパンツ。これでは社員という設定は無理だ。
予約していたレストランで、彼はメニューを見ながら「こんなまともな外食は久しぶりです」と感激している。注文を取りに来た熟年ウエイターにT君は、まずスモークサーモンを注文した。
「あら、栄養失調気味なんでしょ。遠慮しないでもっとボリュームのあるもの頼めば」
私の言葉に、T君は立ち去りかけたウエイターを呼びとめた。
「すみません。さっきのはやめてこのタルタルステーキにしてください」
それを聞くとこのウエイター氏、にやりと笑ってT君にウインクした。生肉に生卵がかかったタルタルステーキは、イタリアでは通常のメニューにはなく、現に今日の特別料理のところに書いてあったのだが、問題は、ここ一番の最高の精力剤的料理とみなされていることである。
よりによってこんなものを選ぶなんて、私たちの関係が有閑マダムとつばめのセックスフレンドだと告白しているようなものだ。あのウインクは「お前も大変だな」という同情の表現に違いない。
「嫌だわ、恥ずかしい」と怒りまくった私に、T君が翌朝電話をしてきた。
「ご馳走していただいたタルタルの効き目が今朝やっと表れてきまして、昨日はご投資分のご恩返しもできなくてすみませんでした」
銀行員らしいこのジョークに大笑いして彼を許したのだが、その後あのレストランには二度と行けないでいる。
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スリーピー・ベイビー[#「スリーピー・ベイビー」はゴシック体]
日本人が平和ボケと言われて久しいが、それを最も良く表しているのが電車の中で眠りこける老若男女の姿である。夜であれば仕事で疲れているのかと許す気にもなるが、朝のラッシュ時から日本の電車内は寝室さながらの様相を呈する。
欧州では人前で眠ること自体非常にはしたないのだが、それだけではない。車中で眠れば即座にスリのえじきになってしまう。何せ、起きてしっかり抱えていたバッグが気付かないうちに切られ財布が抜き取られることなど日常茶飯事の国なのである。ところが日本では、若い女性が隣の見知らぬ男性に寄りかかって無防備に眠っているし、男性もまた大事な鞄を足元や網棚に置き、幸せそうに熟睡している。欧米人に比べると、日本人は肝臓のアルコール分解酵素が少ないため酒に弱いのだが、どうやら睡眠時間も彼らより多く必要としているようだ。酒に弱く、子供のようにどこでもすぐに寝てしまう。マッカーサーが日本人は十二歳と言ったのも無理もないかもしれない。
イタリアの男性は体力があるのか、あまり眠らない。朝は早くから出勤するので、一人起きて自分で朝食の準備をする男性も多く、ローマで泊めていただいた家でも、毎朝旦那様が一番に起き、自分が入れたカフェラッテを奥様と子供たちのベッドまで運び、「行ってきます」のキスをして出勤していた。感心する私に、彼は「男性は女性に寝顔を見せないものだ」と自分の美学を語ったが、昔の日本と全く正反対である。すねに傷もつイタリア人男性、妻に寝首をかかれるのを怖れているのかもしれないが、男らしくたくましい。
知人の日本人男性は、ミラノに留学中のガールフレンドに会うために画策し、何とか欧州出張の仕事を予定に入れることに成功した。仕事先はパリ。彼は週末に日本を発ち、ミラノで彼女に会った後、月曜の夕方にパリに移動する旅程を立てた。彼は到着した夜、日本でも名が知られているミラノのおしゃれな高級レストランに彼女を招待した。
このレストランを再会の場に指定された彼女は、当然ながら深読みした。
「わざわざ私に会いに来て、こんなところで夕食を共にするのには特別な意図があるに違いないわ。もしも、彼にその夜プロポーズされたら勉強を中断して帰国しよう」
彼女は、ここ一番の大勝負と入念におしゃれをして出かけた。黒のミディ丈のドレスに真っ白なシルクショール。唇にもセクシーなパール入りの口紅を塗った。時間通りにレストランに着いた彼女、まず彼が既にテーブルに着いて食前酒を飲んでいたのに愕然とした。エントランスホールにちょっとしたバーがあるのだから、せめてそこで彼女が来るのを立って待っていて欲しかった。しかし長旅の後、座って待ちたかったのかもしれない。そこまでは譲るとしてショックを受けたのは、彼女を見ても彼が立ち上がらなかったことだ。ここはイタリアだ。せめてすぐ立ち上がって椅子を引くふりくらいしてほしい。ちょっと興ざめして彼女はボーイが引いてくれた席に着いた。
七ヶ月ぶりの再会である。「しばらく見ないうちにきれいになったね。驚いたよ」。このくらいは言ってもらえると自信を持って決めて来たのに、彼は「久しぶりだね。元気?」としか言ってくれない。顔を誉めるのが難しければ、せめて洋服くらいは誉めてほしい。しかし彼は、彼女が数時間かけて選んだ勝負服を一瞥《いちべつ》だにしなかった。彼女はため息をつき、自分に言い聞かせた。
「イタリア男の女性の扱いに慣れてしまった私が悪いのよ。彼は日本男児。日本の居酒屋で待ち合わせていたときは、彼のこんな態度がまったく気にならなかった。これが日本流なのよ……。私がイタリアずれしただけなんだわ」
彼は再会を祝して、クリコのシャンパンを注文してくれた。
「優しければ言葉はいらないわ」
彼女は再び自分を納得させた。二人は乾杯し、優雅な食事が始まった。オードブルの後、飲み物をバローロの赤ワインに替え、パスタを食べ終わったころ、彼の長旅と時差の疲れは頂点に達した。心地よい酔いも回り、何と彼は軽いいびきをかいて寝始めたのである。メインディッシュを運んで来たボーイがそっと起こすが、スピーディに食べ終わると、またこっくりし始める。まわりの客は全員彼女たちのテーブルを注視し、くすくす笑っている。女性の前で眠るのはその女性に魅力がない、ということに他ならない。イタリア人女性なら当然、即座に席を蹴り帰ってしまうところである。
「やっぱり日本人なのね。どうしてもそうする勇気がなかったわ。でも、あの日以来もうお誘いも断って絶対会わなかった。公共の場で女として受けたあの屈辱は一生忘れないわ」
その彼女も今は、イタリア人と結婚し幸せに暮らしている。彼女の人生に汚点を残したこの罪作りな日本男性は、居眠りで大切な女性を失い、五十歳の今もまだ独身のままである。
最近新聞でおもしろい記事を見つけた。それによると、日中突然居眠りをくり返すナルコレプシーの発生率が、ヨーロッパでは四千五百人に一人の割合なのに、日本では六百人に一人とかなり高率だという。
「あなたに魅力がなかったからじゃないの。彼、きっとこの病気だったのよ」
そうなぐさめようかと迷ったが、彼女の傷口を開くような無粋なまねはやめた。
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ラグジュアリーな行列[#「ラグジュアリーな行列」はゴシック体]
都市の中心には、必ず老舗が建ち並ぶ目抜き通りがある。東京はいわずと知れた銀座。イタリアはミラノ、モンテナポレオーネ通りである。この由緒ある高級ショッピングエリアを華やかに彩っているのがリッチなミラネーゼ・マダム。特に冬場は、毛皮の見本市かと錯覚するくらい様々な高級毛皮を身にまとったマダムを見かける。パリ、サントノレ通り、ロンドン、ボンド・ストリート、いろいろ歩いたが、最も多くの毛皮を目にしたのは、ヨーロッパの南に位置するミラノである。動物愛護団体がいくら目くじらを立てようと、≪本物のラグジュアリーとエレガンス≫にこだわるミラノ・マダムたちは意に介する気配もない。きちんと言葉に出して女性を賛美してくれる男性のため、彼女たちは惜しげもなく金と時間を投資して自分の美に磨きをかける。現にイタリアの美容院はこんな女性たちでいつでも満員だし、エステサロンも定期的に通う五、六十代の女性が多くなかなか予約がとれない。ブランドショップもエステも結婚前の若い子に占拠されている日本とは大違いだ。イタリアには「年老いたメンドリからはよいスープがとれる」という諺もあるくらいだ。マダムになってからが本当の勝負、彼女たちは自信に満ち溢れ、年齢相応の魅力を振りまいて通りを闊歩《かつぽ》する。
そんなモンテナポレオーネ通りの名物だったのがマダム・ミラ・ショーン。ダルマチアの貴族と結婚し贅沢三昧の生活を送っていた彼女が、夫の事業の失敗後離婚。息子を抱え自立することになった。すべての服をパリのバレンシアーガなどのオートクチュールで仕立てさせていた彼女、客として学んだ本場パリの服作りをイタリアのマダムに提供することにした。手仕事の粋を極めた裏地の無い一枚仕立てのスーツは一世を風靡し、初めての大掛かりなショーも大成功。ミラ・ショーンは世界のブランドとなり、モンテナポレオーネ通りにショップとオフィスを構えた。彼女、朝オフィスに出かけるとき、昼食時に帰宅し再び出勤するとき、夜出かけるとき、必ず一日に二、三回は服を着替えていた。手袋、靴、バッグ、どんな小さなディテールも決しておろそかにせず、毎回すべてを完璧にコーディネートしていた。近くの自宅からオフィスまで、一分の隙もなく決めて道を歩く彼女は通りの名物になり、モンテナポレオーネの一日二回のファッションショーといわれていたくらいだ。
その通りの優雅な雰囲気をぶちこわしにしていたのが、ブランドショップの入り口に群がる日本の若者たちだ。高級ショップでの買物マナーを知らない若者は、勝手にモノにさわり、試着し、その場におきっぱなしにする。日本人客の傍若無人ぶりに懲りたショップ側は、中に入る客の人数制限をし始め、そのため人気店の外には長い行列ができるようになった。
ある年イタリアに出張した私は、友人に著名ブランドのスカーフを買ってきてくれと頼まれた。仕事の合間にナポレオーネ通りに駆けつけると長蛇の列だ。卒業旅行の時期でもあり、大半はブランドの紙バッグを両手いっぱいに持った若い日本人だ。ここに並ぶのかと一瞬ひるんだ。しかし約束は約束。仕方なく列の最後尾についた。そのときだ、後ろから肩をたたかれた。ミラが驚いた顔で言った。
「クミコ、こんなところで何してんの? ロシアじゃないんだから、行列して買物するなんて恥ずかしいことしないでよ」
旧知の彼女の店に挨拶にも行かず、他ブランドのショップの前に並んでいる状況を自覚し、思わず顔が赤くなる。しどろもどろで答えた。
「ゆ、友人のスカーフ……」
「スカーフなら、うちにもあるわ。一緒にいらっしゃい」
ミラは有無を言わさず私の腕を取ると、自分のショップに誘った。テーブルに新作の美しいスカーフを数枚広げて見せ「何色が好き?」と聞かれる。もう後には引けない。価格を気にしながら、洗練された春の色合いを選んだ。きれいにラッピングされたスカーフを私に渡しながら、マダムはにっこり笑って言った。
「これ私からのプレゼント。あの店には私が話して、午後開くとき一番に入れるようにしてあげるわ。いい、クミコ、女性は待たされるものじゃないの。常に待たせる側でなくっちゃダメ。覚えてて。さあ、いっしょにご飯食べに行きましょう」
大先輩の彼女は、粋な計らいの中に、女性が身につけるべきエレガンスと誇りを教えてくれたのだ。
若者文化に席巻《せつけん》された感のある日本で、銀座は今も昔も品のいいマダムが似合う場所だ。今は、国際ブランドの旗艦店《きかんてん》がたちならぶ戦略拠点にもなっている。当然、多くのブランドが鵜の目鷹の目で物件を探していて、海外ブランド企業の経営者たちも必ず足を運ぶ。紀尾井町に旗艦店を持つ一八八四年創業のイタリアの老舗ブランド、ブルガリも、一九九六年念願かなって銀座の一等地に路面店を開けた。このショップ、何とコンドッティ通りの本店の売り上げを抜くこともあるというからさすが銀座である。ブルガリは好調に気を良くし、二〇〇〇年、おおがかりな増床と改装を行った。リニューアル開店日は、朝六時ごろから続々と人が集まり始めた。イタリア屈指の敏腕経営者であるトラーパニ社長はつぶやいた。
「信じられない。うちは超高級ジュエリーショップだよ。そこに買物の行列ができるなんて……」
そうだろう、選ばれたエリート階級のための商品を、早朝から外に並んで買おうと待つ人がいる。トラーパニ社長は、続いて驚きの声をあげた。「それも若い人ばかりだ!! 世界中でここだけだ。自分の目を疑うよ」
テレビ局が並んでいる人たちにインタビューし始めた。「今日は何をお買い上げのご予定ですか」
ブルゾンにジーンズとカジュアルな装いの青年は、ベルトにつけたポシェットを開けて現金の束を見せた。「百二十万持ってきました。時計を買うんです」
若者たちは、次々とお目当ての限定商品の名前と金額をあげていく。そんな熱気に溢れた列の中に一人、冴えない初老の男性がいた。珍しいといった顔で近づいたインタビュアーに、彼は不機嫌な声で言った。
「私は三千円もらって順番取ってるだけなんです」
トラーパニ社長の開いた口はしばし塞がらなかった。
日本、東京、銀座、そう、こんな場所はここだけだ。
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ホテルにて
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
夜、やっと辿りついた秘境のホテル。生憎《あいにく》部屋はひとつしか空いていないという。そこで客のアメリカ人夫婦とイタリア人男性が、大きなダブルベッドがある部屋に同宿することになった。三人はアメリカ人の妻を真ん中にして眠りについた。
翌朝、イタリア人男性は既に出発していた。
夫は聞いた。「お前、何もされなかったか?」
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妻「実はあなたが熟睡しているとき、彼、突然私の上に乗ってきて……」
夫「何てことだ! お前は何も言わずにされるままになってたのか?」
妻「仕方ないじゃない。私、イタリア語しゃべれないんだもの」
[#ここで字下げ終わり]
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ミラノのホテルにて[#「ミラノのホテルにて」はゴシック体]
ホテルという空間では常に様々な人間ドラマが繰り広げられている。中でもミラノのホテルで起こった大騒ぎが今も記憶に新しい。愛人同伴で出張中だった夫の部屋を妻が急襲したのだ。
夜十一時近く、隣の部屋のドアが激しくノックされ、「開けなさい、私よ」という大声が聞こえた瞬間から、私は全身を耳にしてなりゆきをフォローした。夫もまさか妻がミラノまで追いかけて来るとは想像もしていなかったのだろう。夫がドアを開けないのは愛人と一緒にいる証なのだが、運悪くホテルの部屋は十四階で愛人を隣室に逃がすベランダもついていない。
「私よ!! 何もかも分かっているのよ。あのあばずれと一緒にいるんでしょう」
やがて、騒ぎを聞きつけたホテルマン二人が駆けつけた。
「私は妻なのよ。夫の部屋に入る権利があるわ。すぐ鍵を開けてちょうだい」
ヒステリックに要求する妻をホテル側は必死でなだめるが火に油、妻の声は大きくなるばかり。夫の方は恐怖で震え上がっていると見え、声一つあげない。同じ階の泊まり客はみんな興味津々でドアから顔を出して様子を窺っている。
妻がホテルマンと押し問答を続けているとき、突然夫一人が部屋から飛び出してドアを閉め、エレベーターの方向に逃げ始めた。鬼の形相の妻がすぐさま後を追う。そのすきに愛人が部屋をすべり出た。妻よりはるかに若い美人である。彼女はホテルマンの先導で反対側の非常口に走り、無事脱出に成功した。一方、エレベーター前では、我を忘れた妻が泣き泣き夫に殴りかかるという修羅場が展開していた。こうして泊まり客は、他人事であるがゆえに楽しめる生きたドラマを堪能し、各人なりの教訓を胸に眠りについたのだった。
ここ数年、一流ホテルは宿泊客の部屋番号を決して教えなくなった。運良く在室中の本人と直接話せるまで、毎回交換手に氏名のフルスペルを言って、部屋を探してもらわなくてはいけない。その手間が面倒で抗議するのだが、今は本人が伝えない限り部屋番号が外部の人に知られることはない。妻の急襲、その筋の女性の押しかけなど、TVドラマ顔負けの数限りない愛憎ドラマが繰り返された結果、ホテル側もお客様保護策をとるようになったのだろうか。今はみんな直接携帯に連絡がつくので、出張時家人に宿泊先の電話番号を伝えておく必要もなくなったが、それでも妻があなたの宿泊先の部屋番号を聞いてきたら、十分に自衛措置を講じておいた方が身のためである。
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京都のホテルにて[#「京都のホテルにて」はゴシック体]
山崎拓氏を始め女性関係が原因で恥をかく人は多いが、異国の高級ホテルで愛嬌のある大恥をかいたイタリア人がいる。
M氏は、東京の企業訪問と京都観光という旅程で来日した、イタリア人ビジネスマン団体の一人である。仕立ての良いスーツを身につけたダンディな紳士で、みんながふざけているバス内でも物静かに窓の景色を眺めている。旅の恥はかきすてとばかり到着早々手っ取り早くソープに行く仲間と徒党を組むわけでもない。
知的で英語も堪能な彼は、素人の若い日本女性をくどき落とすのに成功した。東京の最終日の夜は別れを惜しんで徹夜で連戦したらしく、京都に移動する朝、疲れ果てた顔で集合場所にやってきた。悲しそうに彼を見送る可憐な美女。メンバーの男性たちは全員うらやましそうに眺めていた。M氏はよほど疲れたのだろう、その後はバスでも新幹線でもひたすら眠りこけていた。
その日行く京都のホテルではおりしも昼どきに大々的な防火訓練が実施されることになっており、私は繰り返し、「昼頃非常ベルが鳴りますが、訓練ですから心配しないでください」とバス内のマイクで注意していた。団体はホテル到着後部屋に荷物を置き、すぐ観光に出発する予定になっていた。チェックインを済ませたメンバーが再度ロビーに集まり始めていた時、エレベーターから血相を変えたM氏が飛び出してきた。パンツ一枚のあられもない姿である。
彼は、観光はパスすると言って、部屋のベッドにもぐりこんでいたのだが、突然非常ベルがけたたましく鳴り始めたので飛び起きてドアを開けた。彼の部屋は不運にも訓練実施階にあった。ドアを開けた彼の目前を、防火服に身を固め、ホースを持った消防士たちが駆け抜けていった。「すわ火事」と、彼は脱ぎ捨てていた財布入りの上着だけを手に、半裸でエレベーターに走ったのだった。事情がわかり、一刻も早くその場を立ち去りたかったに違いないが、鍵も持たず部屋を飛び出したので、間抜けな姿でフロントに行き、マスターキーを頼まなければならなかった。
ロビーを白昼パンツで歩くM氏に、日本人もみんな大笑い。クールで知的な彼のイメージは崩れ、実はあわてんぼうの小心者とわかり、グループの男性陣は溜飲を下げた。M氏にとっては狂おしく恥ずかしい体験だっただろうが、その光景を見た私たちは今も思い出し笑いをしている。彼にとって疲れ過ぎたあの夜の代償は大きかった。
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北海道秘境のホテルにて[#「北海道秘境のホテルにて」はゴシック体]
通訳をしていると、しばしば思いがけない体験をすることになる。豪華な国際結婚の披露宴の同時通訳をしたこともあるが、まさか新婚旅行の同行通訳まですることになるとは、夢にも思っていなかった。もう二十五年以上も前になるだろうか。
新郎フランコは、私がガイドをしたイタリア・ホテル協会の団体に公式カメラマンとして参加していた。その後、私がイタリアに行ったときには、ローマからポンペイ観光に連れて行ってくれ、友人になっていた。ある年、カメラマン兼ジャーナリストのフランコにイタリアの旅行雑誌から依頼があり、≪知られざる秘境・北海道≫の特集を任された。結婚したばかりの彼は、この仕事をハネムーン兼用の旅行にすることにしたのである。新妻はフリー・デザイナー、二十五歳のニコレッタ。旅先ではフランコの写真モデルも務められるほどの美貌なので、まさに一石二鳥である。仕事とはいえ新婚旅行。彼女の方は何とか片言の英語が話せるので、本来なら水入らず、二人きりで旅したかったに違いない。
しかし北海道レンタカー旅行に使う地図も道路標識も日本語表示のみだし、秘境の旅館では英語が通じるとは思えない。記事にする情報も取らなくてはならず、背に腹は代えられない。仕方なく、私に同行通訳を頼んできた。私にとっても、本州の梅雨を逃れての六月の北海道は願ったり叶ったり、友達料金でこの仕事を引きうけた。
まず飛行機で函館に入り一泊。レンタカーを借り、札幌へ向かう。西洋ホテルの別室では気にならなかったのだが、いざ都会を離れ日本旅館に宿泊するようになると、状況は一変した。なんせ襖一枚隔てただけである。毎夜ライブショーのごとく、新婚の二人のなまめかしい声を隣室で聞くはめになった。
用意されていた浴衣に袖を通したある夜、袖の中に蛾が入っていて急に暴れ始めた。私は闇を切り裂くような金切り声をあげた。その時隣の部屋にいた二人は、あの最中であったにもかかわらず、真っ裸で夏掛け布団をひきずりつつ私の部屋に飛び込んできてくれたのである。まさかの時の友は真の友。それからはすべてを許す気になった。
北海道の奥地の男女混浴の温泉旅館に投宿した時、私はひそかにイタリア男フランコの裸を見るのを楽しみにしていた。しかし、女性用の脱衣場からニコレッタと浴場に入ったとき、フランコと私の存在は、透明人間のごとく完全に無視されてしまったのである。
その時湯船に入っていたのは現地のおじいさんグループ約十人のみ。彼らはニコレッタを目にすると一斉に風呂から上がり、床にひれふすような姿勢で彼女を拝み始めたのである。
「ありがたや、ありがたや。なんまんだぶ。冥土のみやげじゃ」
確かにニコレッタは青い目、身長百七十センチ近いスリムな美人である。おじいさんたちも、こんなさいはての田舎で≪上下金髪≫の外国人女性の裸を見ることができた千載一遇の好機を、仏様に感謝する気にもなろうというものだ。通常は家族でも一緒に入浴する習慣のないイタリアから来たニコレッタ、びっくりして逃げ出すかと思いきや、おじいさんたちが嫌らしい気持ちではなく、彼女を真剣にあがめているのがわかったのだろう。まったく恥ずかしがりもせず、タオルで胸や恥部を隠すわけでもない。観音菩薩ならぬ聖母マリアの慈愛に目覚めたがごとく、堂々と自分の若い体を披露し、功徳を積んだ。
「あがめられるのって気持ちいいものね。やみつきになりそう。ストリッパーの気持ちが初めてわかったわ」
道を踏み外さなければ良いが、としばし心配したものである。彼女より一歳若かった裸体を十人の男性に一瞥すらされなかった私は、今もってストリッパーの気持ちがわからずにいる。
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ボローニャのホテルにて[#「ボローニャのホテルにて」はゴシック体]
通訳の性《さが》か、あらゆる場面で外国語の習得をしようとしてしまう。友人の英語通訳は、アメリカのホテルにいたとき隣の部屋でコトを始めたのがわかるや、飛び起きてコップと筆記具を持って壁にはりついた。もちろん壁に当てたコップに耳をつけ、隣室の会話を逐一聞くためである。「あのときの生きた英語を学びたくって」。立派なプロ根性である。しかし妙齢の女性が、大真面目にその言葉を書きとっている姿を想像するといささか興ざめである。
若い頃一年の三分の一を海外で過ごしていた私も、その種の体験にはこと欠かない。
ボローニャのホテルに宿泊していたとき、夜半過ぎにベッドに接した壁からあえぎ声が聞こえてきた。不眠症の私は壁の薄さを呪いつつふとんを頭までかぶり眠ろうとしたのだが、次第に壁も揺れ始める激しさになった。もう我慢できない、隣室に無粋な抗議の電話を入れようとしたとき、絶頂に達したらしい女性がイタリア語で叫んだ。
「結婚してね」「結婚してくれるわよね」
二度も繰り返しつつ懇願、だめ押しの確認までしたのである。男もまた息荒く、丁寧に二度も、「スィ、スィ」と肯定していた。肉体関係を武器に結婚を迫るのは日本だけじゃないんだ。あの最中にこんな台詞をはっきり言えるなんて、絶頂も演技に違いない。私は、モリエールの人間喜劇を見たようなおかしさに、怒りもすっかり収まり眠りについた。
わが家の息子が小学校六年になったころ、早熟な女の子に追いかけられ始めた。貰った手紙に「初めての××××はY君に決めてます」とある。息子は伏せ文字が何かわからず聞いてきた。キスなら二文字、デートなら三文字。まさか、と思うが、「さあ何かしら」と答えるしかない。すかさず夫が言った。「うん、こりゃ≪セックス≫だな。いいか、≪結婚する≫という言葉はセックスしてるときにしか言うな。あの時の約束は無我夢中、正気じゃなかったということで、正式の婚約にはならない。裁判になっても逃げきれる」
息子もその道の先輩のアドヴァイスとして神妙に聞いている。いくら学校で正規の性教育が終了しているとはいえ、なんという暴言。ふと十年前の一件を思い出し、私は思わず笑い出してしまった。
そういえば、あの晩のイタリア男の二つ返事も確かに軽かった。体を許し結婚を迫る女とやり逃げしたい男との攻防戦、この駆け引きはどうも世界共通のようだ。
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バルセロナのホテルにて[#「バルセロナのホテルにて」はゴシック体]
時が経つこと五年、私は今度はスペインで例の音を聞くはめになった。時は七月、場所はバルセロナ市内のホテルである。
午前一時過ぎ、酔っているのか廊下で賑やかな声をあげつつ帰館した男女が、隣室でコトを始めた。静かな夜なので、二人のあえぎ声がことさら大きく聞こえる。明朝は八時に出発なのにこれでは眠れないと焦るが、私も歳の功。「まあ十分くらいのこと。所詮私は、この地にお邪魔している客人」という寛大な気持ちで我慢することにした。
しかし、これがなかなか終わらない。時計を見ると、もう四十分近い。「さすが情熱の南スペイン。タフね」と変な感心をしていると、やっと絶頂に近い声色に変わり、二人ほぼ同時に叫んだ。
I am coming(行く)
スペインにお邪魔していると思い遠慮していたのに、英語ではないか。そういえば朝廊下で会ったティーン・エイジャーのカップル、あいつらの部屋だ。エレベーターを待つ間もいちゃついていた。十七歳のわが息子に近い年齢で海外婚前旅行。突如姑モード≠ノ突入した私は、腹が立ってきた。目がどんどん冴え、ついに一睡もできず、翌朝、朦朧《もうろう》としたまま七時半に部屋を出る。隣の部屋のドアノブには、まるで愛の宣言のような札が掛けてあった。
Don't Disturb(起こさないでください)
私は札をそっと裏返し≪すぐに部屋を掃除してください≫の方にした。
朝ホテルに迎えに来てくれたバルセロナ在住の日本人女性に昨夜の件を訴えた。
「そんなの何でもありませんよ。私の友人夫婦は、共働きで一生懸命お金を貯めてやっと高級住宅地にマンションを買ったんです。ところが隣の家から昼となく夜となくあの時のすごい声が聞こえるんです。『きっと新婚さんなのね』って我慢していたんですが、数ヶ月経ってもいっこうにやむ気配がない。しかもドアのところで会う男性が毎回違う。そう、超売れっ子の高級コールガールの家だったんです。子供が成長したらどう説明すればいいのか、このあと何年営業するつもりなのか、もう二人ともパニックですよ」
それに比べれば、たった一夜のことで私も大人げなかった。しかし、あの若い二人のこと、ルームメードに起こされたら、きっとまた始めたに違いない。
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北陸のシティホテルにて[#「北陸のシティホテルにて」はゴシック体]
北陸の地方都市で県主催のデザイン・ワークショップとセミナーが行われた。私たちは、イタリア人講師と東京から移動し、その町のホテルに前泊した。二年前にできたばかりだというシティホテルは清潔で気持ちがいい。しかし中心から少し離れたところにあるせいか、お客も少なくどことなくさびれた感じが漂っている。エントランス横には、ホテルで結婚するカップルの送迎用だというロールスロイスが停めてあるのだが、これもまた場違いで、寒々とした雰囲気に拍車をかけている。
翌日セミナーも成功裏に終わり、県の産業課の方々が宴席を張ってくださった。その夜の宴もたけなわ、お酒が入ったイタリア人講師M氏がとんでもない告白を始めた。昨夜十一時頃ベッドに入っていると、濡れたように光る黒髪を長く垂らした妙齢の美女がどこからともなく現れ、彼の上に乗って来たというのだ。その上、下半身に濃厚なサービスをしてくれ、まさに夢見心地。
「お恥ずかしいのですが、三十年ぶりに夢精をしてしまいましたよ」
彼が言い終えると同時に、同行スタッフの女性が真っ青になり震え始めた。昨夜、彼女の部屋のテレビが突然ついて雑音を発し始めたので驚いて目を開けると、そばに白い着物を着た髪の長い女性が立っていたという。恐怖で目を閉じた彼女の体の上に、まもなくずっしりと重みがかかって来た。「これは夢だ」と自分に言い聞かせ、目を閉じたまま耐えていると、またひとりでにテレビが消え、体が軽くなった。恐る恐る目を開け時計を見たのがちょうど十一時だという。
美女はその直後、M氏のもとへと馳せ参じたことになる。県の人が言った。「あのホテルが建った場所には古い墓地があったんですよ。墓はきちんと供養して移したのですけどね」。スタッフの女性は、パニック状態に陥った。すぐに帰国したい、今夜はあのホテルで寝たくないと彼女が騒ぐので、宴席の雰囲気が重く沈んでしまった。
まずいと思った私は、笑いながら言った。
「県ご自慢の最高の観光資源になりますよ。≪黒髪美人が無料で夜のサービスをしてくれるホテル≫として、大々的に売り出しましょう」
M氏も「あの技術ならイタリア人も喜んでここまで来るよ。何人くらいお相手してくれるのかな。団体でも大丈夫かな」と応援してくれて、やっと座がなごみ始めたとき、東京から来ていた代理店の課長K氏が言った。「僕は嫌だな。そんな幽霊が来たら金縛り状態、恐怖で全身かちかちに凍っちゃうよ」。小心者の上に、場の雰囲気が読めないK氏に向かい、私は思わず言ってしまった。
「でも課長の場合、凍って硬い体の一箇所だけは常に≪パーシャル解凍≫状態なんでしょ」
大爆笑となり、意気消沈したK氏を酒の肴にして、宴席は再び楽しく盛りあがった。
その後、K氏は社内で≪怪盗≫ねずみ小僧ならぬ≪解凍≫パーシャル課長と呼ばれるようになったとか。今は子会社に出向しているKさん、あの時はごめんなさい。昨年ホテルのフロントに確認しました。改めてきちんとお祓《はら》いをしてもらったのに、まだ時々あの美女がサービスに現れるようです。一度おためしください。
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かくも
ユニークな人たち
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
若い女性をベッドに連れ込んだセルジョ、自慢して言った。
「僕は年をとるごとにパワーアップしているんだ。だって昔は固くてとても曲げられなかったものが、六十五歳になった今、簡単に曲げられるようになったんだからね。ほら!」
彼は臨戦態勢の自分のムスコを曲げてみせた。
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堅物愛妻家[#「堅物愛妻家」はゴシック体]
イタリア男性にも超堅物の愛妻家はいる。
オリーブオイルやバルサミコ酢を手広く扱っているあるイタリア大手食品メーカーの会社が、日本の大手食品会社と販売提携し、東京で記者発表会とレセプションが行われることになった。
通訳に呼ばれた私が会見の一時間前に打ち合わせに行くと、社長は「日本に来る飛行機で挨拶原稿を書いたので、あなたに渡しておきますよ」と二枚の紙を手渡してくれた。雄弁なイタリア人は、記者発表程度の挨拶なら苦もなくこなせるので、大半の人は原稿を書かない。またたとえ書いても、本番では読まずに≪かっこよく≫決めたいと思っているので、通訳には原稿などくれない。そんな中ですぐ原稿を渡してくれた社長に好印象を抱いた。
年齢は六十過ぎくらいか、背が高くがっちりとした体つきで、二代目らしい品の良さを漂わせている。テーラー仕立ての高級スーツに紺色の小柄のマリネッラのネクタイ。正統クラッシコ・イタリアの重厚感を持つ装いは、日本側スタッフが着ているスーツ姿と年季の入りかたが違う。ケーリー・グラントに似た微笑は包み込むように温かい。
感謝しながら原稿に目を落とすと、機内で書いたとしてもひどい悪筆。読みにくい筆記体に苦戦していると、社長は「秘書も、私の字は読みにくいと、いつもこぼしているんだ。君のために活字体で書き直すよ」と直してくれた。ここまで通訳の身になってくれる人は珍しい。私は「なんてお優しい社長。結婚したくなるタイプですわ」と軽口をたたいた。こんな挨拶程度の言い回しには慣れっこのイタリア人、たいていはMagari(そうありたいもんだね)≠フ一言で合わせてくれる。ユーモアを解するタイプなら「ああシニョリーナ、僕もそう思っていました」とちょっとドラマティックに応えてくれたりもする。ところがこの社長、「私には素晴らしい妻がいるからそれは無理だよ」と即座に、かつ大まじめに拒絶なさった。
彼はペンを置き、私に向かって熱弁をふるい始めた。
「私は妻に何一つ不満がないので、結婚して三十五年間、妻を裏切ったことは一度もない。夫が浮気をするのは、絶対に妻の責任だと思うね。夫を大事にして愛情を注いでいれば、夫も満足して幸せに過ごせるから、わざわざよそに女を探しに行く気にはならなくなるものだよ。シニョリーナ、あなたも覚えておくといいですよ」
さすが社長、最後は訓辞でまとめた。思い込みが激しい石部金吉《いしべきんきち》タイプだ。
私はそうは思わない。浮気をするかしないかは、あくまで本人の性格。愛情たっぷりの尽くし型で、金まで貢ぐ妻を裏切っている夫を日伊両国で星の数ほど見ている。ちょっと意地悪な気持ちになった私は尋ねてみた。「でもあなたみたいにお金持ちでハンサムな社長さんだったら、秘書や女子社員が誘惑してくるんじゃないですか」
彼の答えは明快だった。
「シニョリーナ、その危険を排除するのも夫の務めなんですよ。そのためにわが社は、徹底してブスしか採用しない方針を創業以来貫いているし、私はどんな場合も女性と二人きりにならないよう、細心の注意を払っています」
彼は同行しているマネージャーと営業課長の男性に同意を求めた。
「君たちも証言してくれるよな。どうだ、うちの会社に美人がいるかね?」
マネージャーは即座に答えた。
「いいえ、社長、わが社には良く働くブスしかいません。見る気にもならないタイプばかりなので、浮気どころか、わが社には社内結婚したカップルも皆無です」
若くハンサムな課長も苦々しい表情でうなずく。社長はいたく満足した風情で結論付けた。
「そう、まさに私の狙い通りだ。男性社員が女に目もくれないで仕事に集中すれば、生産性も上がる。それに女性社員が結婚しないで働き続けてくれると、私がはらませたわけでもない女性に出産育児手当てを払う必要もない。わが社が短期間で業界屈指の成長を遂げた秘密はここにあるのだよ」
専守防衛体制を自主的に整えるだけでなく、ビジネスの効率も同時に考える理想の夫、理想の経営者である。表彰状を渡したくなった。
この社長の例を持ち出すまでもなく、たとえイタリアといえども、賢明な経営者は社員には決して手を出さない。しかし情熱的なイタリア女性は、ここ一番の肉弾攻撃に出ることもあるので、危険がいっぱいなのである。だから、二人きりにならないという自衛策は非常に重要だ。
古いお付き合いの七十過ぎのオーナー社長はこう語る。
「私がたまに工場を見回ると、女子工員が目で合図を送ってくる。じっと見つめたり、微笑みかけてきたりする。中にはすごくかわいい子もいて、時々ふらっとするけど、その度に私は鏡を見る。くたびれて太った老人が映っているのを見ると、今の私に抱かれたい女は、金目当てなのだと認識できるんだよ」
自己を知り自戒するという点で彼もまた、前述の堅物社長同様に珍しいイタリア人である。
もっと珍しい例もある。若社長ロベルトは、頭脳明晰、顔も家柄も性格も三拍子そろった男性で、学生時代からもてまくっていた。彼が日本出張に発つ前日、仕事が片付かず二十五歳の美人秘書と二人きりで残業することになった。夜の九時近く頼んだ書類のタイプが完成するころ、社長室のドアがノックされた。書類を両手に持って入室してきた彼女は、なんとパンティ一枚の裸体だった。仰天しているロベルトに、彼女はうわずった声で「ずっと好きだったんです。抱いてください」と口にした。こんな状況で自分を見失わない男性は、日本人でもあまりいないだろう。据え膳の彼女に恥をかかせないよう抱くべきか。しかし、ここまで思いつめた女性と一回でも寝ると深入りしてしまう。迷った末の最終決定はノー。「君は疲れ過ぎて自分がやっていることが分かってないんだ。君を大切に思っているからこそ、既婚者の僕が安易に抱くことはできないよ」
ロベルトは彼女の洋服を取りに行き、優しく着せかけた。もちろん失意の彼女は彼の出張中に退社してしまった。結局美人で有能な秘書を失うことになった彼は、今も自分の決断の是非を悩んでいるらしい。
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最悪の客[#「最悪の客」はゴシック体]
史上最悪の客として記憶から消えないイタリア人──日本を公式訪問したさる業界団体の会長である。かっこよく振舞うことを至上命題として生きるイタリア人とはとても思えない、洗練されたところがない恥知らずな男性だった。こんな人が正式招待の賓客として来日したこと自体が驚きだ。
まず、初日からいきなり仕事後の夕食に誘ってきた。お断りすると「誰か君の友達を紹介してくれ」と言う。「考えておきます」と日本式に逃げたが、「今すぐ電話して探して」としつこく食い下がる。六十歳、身長百六十五センチ足らず、下品な好き者オヤジ丸出しの顔。まさか「あなたと食事したい人がいると思う?」とは言えない。仕方なく切り口上で言った。「イタリア語を話せる友人はいません。無言でごはんを食べても楽しくないでしょう」
嫌な予感で始まった旅は、あいた口が閉まらない経験ばかりであった。岡谷でさる大手時計メーカーの工場を視察したのだが、帰路の列車で記念にもらった高価な日本の焼物を見ながら彼はこうつぶやいた。「高い金時計ではなくて、わざわざロシア製のぼろ時計を着けてきたのは、S社の高級時計をもらうためだったのに。全く気がきかない会社だ」
気がきかないのはおみやげ一つ持っていかなかったイタリア側の方だ。同道している秘書の中年男性も完全なでくのぼう。表敬、視察などの訪問中、メモもとらない。心配になって聞くと、帰国後当然、訪日報告書をまとめなければいけないという。仕方なく移動の列車の中で、通訳時のメモを見ながら場所、時間、会った人、日産能力、輸出比率などを毎回私がイタリア語で書いてあげることになった。
しつこいくどきをかわしつつ、やっと五日目、京都での最終日となった。夕食後祇園を散策していると、「日本女性を体験しないままでは明日帰国できない」と言い出した。公費を使った旅の目的が女性だというだけでは足りず、今から好みの女性をナンパするから通訳をしろ、というのだ。時間もないから確実な方法でソープに行くよう勧めた。すると彼は傲然と胸を張り、「私は今までプロの女性とは一度も寝たことがないっ!」と自慢たらしく言った。
単に金を出したくないだけじゃないか。今まで抑えていた怒りが爆発した。私は紙に日本語で大きく書いた──≪今日中にタダでやらせてくれる女性を探しています≫
「この紙を胸に掲げてここに立っていれば!」
私は紙を彼に押し付け、私の剣幕に驚いている日本側随行の人に後を任せ、最初で最後の職場放棄をしてしまった。
こんな厚顔無恥な輩《やから》に比べれば、こそこそ買春する男性の方がはるかにましである。
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おふくろの味[#「おふくろの味」はゴシック体]
毎日曜日、ミサの後親戚が集まりマンマの手作りパスタの昼食をにぎやかに食べる。これがイタリアのファミリーのイメージである。イタリアには「男は胃袋でつなぎとめろ」という諺もあるくらい、料理の求心力は大きい。「マンマの手打ちパスタ」を食べに毎日曜日実家に戻ってくる既婚男性も少なくない。
しかし、こんなイタリア的習慣も、近代産業社会に組み込まれた北部では確実に薄れつつある。昔は三時間半もあった昼休みが、ミラノのような都市では一時間に減らされている。今まで通り昼食に帰宅すると、一日四回もラッシュアワーとなり経済活動に支障をきたすし、遠い郊外に住む人が増えた今、帰宅するだけで休み時間が潰れてしまう。また若い母親たちは、仕事や趣味など自分の世界を持ち始め、昔ほど料理をしなくなっている。
こんな風にイタリアも、いや応なくグローバルスタンダードの波に飲み込まれていくのだろうか。遅まきながらファストフード・チェーン店が着実に増えつつあるイタリアを見ていると、私の脳裏に北部の二つの家庭が蘇る。
一つ目の家庭は、一九七三年に滞在した北部ノバーラの銀行支配人の家。私は、その家の次男がツアーコンダクターとして引率した団体にガイドとして付いて知り合った。彼も私も大学生で、お互い夏休みのアルバイトということもあり、すぐに仲良くなった。翌年私が初めてイタリアを訪れた際に、ミラノ近くのお宅に足場として泊まらせてもらった。
イタリアの上流家庭の例にもれず、この家でも毎日通ってくるお手伝いさんが家事の大半をこなしていた。母親は、陶器の絵付けを趣味にしている五十代の上品な女性で、ゆるやかなウェーブのかかった茶色の髪はいつもきれいにセットされ、家にいるときも常にタイトスカートにローヒールのパンプスを履いていた。だらしないつっかけやサンダルの類は靴箱に一足もなかったし、部屋着、部屋履き姿も宿泊期間中一度も見たことがない。彼女にはマンマという雰囲気よりも、凛とした上流夫人の気品が溢れていた。主婦らしい仕事は夕食作りだけなのだが、それも夫は出張、息子たちは政治活動にデートにと忙しく、全員が同じ時間に揃うことは稀だった。当然、彼女が台所に立つ機会もそんなに多くはない。
ある日の夕刻、私は政治集会にでかけた息子たちを待ちながら母親と二人きりで過ごしていた。彼女は、絵筆で優雅なバラ模様を白磁の大皿に描きながら、私に訴えた。「こんな風に興が乗ったとき中断して夕食を作らなきゃいけないのが、一番辛いの。人間は何で一日三度も食事するのかしら。何で女が、人が食べるもののことを一生考えなきゃならないのかしら。次の人生では絶対結婚なんてしないわ」。彼女が整える夕食は、毎夜スープにハムとチーズのアソートだけという手抜き料理だったのだが、それすらも我慢できない苦行なのか。思わず「今日は私が準備します」と申し出ると、彼女は待っていましたとばかりに優雅に微笑んで言った。「助かるわ。冷蔵庫から適当に何か見繕って並べてちょうだい。スープはコンソメの素を溶かしてくれればいいわ」
イタリアにもこんな家があるのかと意外だった。大学生の息子二人のうち、長男は共産党、次男は共和党の党員、銀行支配人のご主人は当然与党のキリスト教民主党支持、母親は政治嫌い。家族は全くばらばらで、食卓でも会話がはずむことはなかった。広い家の中には北東部の町の外気にも似た冷たい空気が満ちていて、その家でごちそうになった食事の献立は、不思議なことに何一つ記憶に残っていない。
仮面夫婦ならぬ仮面家庭の二番目は、中部の海岸リゾート地ヴィアレッジョのエリート弁護士一家である。ヴェネツィアと並ぶ大掛かりなカーニヴァルで有名な町だ。
私は毛皮ビジネスに手を染めた奥様ミリーを東京で手伝った関係で、海が一望できる広大なペントハウスに招待された。シチリアの出稼ぎ夫婦が住み込んで家事一切をこなしていたので、ミリーは結婚以来一度も台所に立ったことがない。金髪美人で背も高い彼女は若い頃はさぞ多くの男たちに言い寄られたに違いないが、六十歳を目前にした今は、たっぷりした体重がその面影をほぼ消し去っていた。打ち込む趣味もなく運転免許も持っていなかった彼女は、小さなこの町では美容院通いくらいしかやることがなかったのだ。そんな彼女が毛皮商売を思い立って始めたきっかけは、町一番の金持ちの弁護士である夫が若い愛人を作ったことにある。その事実を口さがない女友達から知ったものの、彼女は事を荒立てて今の生活を失うのは得策ではないという結論に達したのだ。夫への面当てのように大金を使い始め、縫い子と運転手を雇い、毛皮の工房を開いた。しかし、そこは一度も働いたことのない素人の悲しさ、試行錯誤の連続で毎年大損をしていたのだが、後ろめたい夫は黙って赤字の補填《ほてん》を続けていた。
私は、そんな家庭状況も知らず客人になったのだが、着いた日からイタリアらしからぬ冷たい食卓の雰囲気に驚くことになった。白い制服を着た給仕がサーブしてくれる食卓ではミリー一人がはしゃいで、ハンサムで優秀な一人息子レナートの自慢をした。法学部を卒業して父の後を継ぐべく見習中だった彼は二十八歳、百九十センチ近い長身で、寡黙な美青年である。二日目の昼食後、「クミコにヴィアレッジョを案内してあげなさいよ」と母親にせっつかれたレナートは、私をドライブに誘った。
私たちは、海岸沿いの道路をシルバーメタリックのフェラーリのオープンカーで走った。オフシーズンの三月の海辺には人影一つなく、早春の陽光が妙に寒々と白砂を照らしていた。彼は時折、興が乗らない観光説明をしてくれていたのだが、ふっと車を道端に停め、まっすぐ正面を向いたまま話し始めた。
「ママは僕と君を結婚させたがってるんだよ。日本で君を見初めたんだね。でも、僕は女性にまったく興味が持てない。ママも薄々感づいているみたいだけど、僕は一人息子だし家には莫大な財産があるから、どうしても後継ぎが必要なんだよ。イタリアの女はセックスレス生活を我慢できるとは思えないし、旦那がホモだったと分かって離婚ということにでもなれば、小さな街だからあっという間に噂が広まる。ママは、日本の女性なら慎み深いから、文句も言わないだろうと考えてるのさ。もし離婚しても日本に帰ってしまえば後くされがない。ねえ、君さえ良ければ僕は結婚しても構わないよ。世間体と財産相続のために子供を一人作れば、僕たちの任務は終わりだ。後は君も街の外、ミラノあたりで自由に男を作ればいい。結婚なんてしょせん一種のビジネスみたいなものさ。うちにはたっぷり金があるから家事は一切しなくていいし、好きな仕事もできる。僕は君の生活に干渉しないから、日本でも海外でも遊びに行けばいい。君にとっても悪くない話じゃないかな」
海辺の風が、ギリシャ彫刻のように整った彼の横顔に金髪の巻き毛を揺らしていた。それがコリント様式の柱頭紋様に見えたのは、彼の表情が石のように冷たく動かなかったからだろう。レナートの告白を聞いた私は、母の手料理が猛烈に食べたくなった。煮物とみそ汁、新鮮この上ない瀬戸内の小鰯の刺身……初めて味わうおふくろの味ホームシックだ。
召使いにサーブされる食卓をあの家族と囲む気にはもうなれなかった。翌日私は、引きとめるミリーを振りきり、予定を三日も早めてペントハウスを辞した。
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フェミニズム[#「フェミニズム」はゴシック体]
三月八日は国際婦人デー。女性たちはシンボルである黄色いミモザを手に、楽しくお祭り騒ぎをする。イタリアで女性解放運動が盛り上がりを見せ始めた七〇年代半ば、私がミラノの街角で目にしたデモも三月八日婦人デーのものであった。女性だけの行進は華やかな雰囲気に溢れており、路上で物珍しそうに見物する人も多かった。私も興味津々眺めていたのだが、彼女たちが叫んでいるスローガンを聞いたときにはわが耳を疑った。
「子宮は私の所有物、私が使い管理する」
ここまではまだよかったのだが、それに続いたのが、
「わが指で、得よう確かなオルガズム」
唖然として思わず赤面したのだが、若い男性たちがすかさず呼応して叫び返した。
「カッツォ(男性器)は僕らの所有物、絶対貸してやるもんか」
「カッツォと指とは大違い。知らないくせに比べるな」
若者グループがデモの横を歩いてからかう度に沿道の人たちが笑いころげている。それにしてもきちんと韻まで踏んだ返歌をするなんて、さすがイタリアの光源氏たち!
七〇年代半ばといえば、日本では女性が性に関して発言するのもはばかられる時代だった。イタリア女性が、ここまであからさまに内心を吐露する過激さに驚き、同時に日本よりはるかに女性が大事にされている環境にいてまだ不満なのかとあきれたものである。
しかし良く考えてみると、日本の女性よりイタリア女性の方がしいたげられている点もあった。まず当時のイタリアでは中絶が禁止されていたこと。カトリック国で、男性の身勝手により望まぬ妊娠をした女性の苦悩は日本の比ではなかったろう。海外に行くか、国内の闇中絶医にかかるしか方法はなく、経済的負担も大きかった。そして、人前で叫ぶには躊躇するものがある二番目のスローガンも、女性のことを一番に考えると公言しているイタリア男性にも、自分だけ満足して事足れりというタイプが多いことを物語っている。実際イタリアの統計によると、女性のほぼ半数がオルガズムを知らない、またはなかなか得にくいと答えている。いずこも同じ、男性には、女性が本当に満足しているかどうか真実を確かめる術はないのである。
そしてその数年後日本にも女性解放運動が浸透してきた。これはピンクのヘルメットをかぶった女性たちが、浮気夫の職場に殴り込みをかけるという日本独特の運動になり、連日メディアがおもしろおかしく取り上げた。この運動を知ったイタリア男性、自国に普及するかもしれない恐怖で一様に真っ青になったとか。おとなしそうな日本女性が実は最も怖いという真実を知った彼らが、日本女性に対する幻想を捨てたのもこの頃である。
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チェアマン・シッター[#「チェアマン・シッター」はゴシック体]
二十三年前から通訳としてお手伝いしている超ワンマン会長がいる。極貧から身を興した彼の唯一の趣味は仕事。世界中の様々な会社を買収して大きくするのを楽しみにしており、今や二十以上の会社を傘下に入れている。彼は、毎回番頭役の社長と英語ができる若手の部長をお供に従えて来日する。
初めてこの会社の仕事をした時、みんなで夕食に行こうと誘われた。五日間の仕事中一日くらいは夕食もつきあうべきかと思い、約束の時間にロビーに行くと、何と会長が一人で待っている。
「あとの二人は若い子でもくどいたんだろう、今日は来ないって」
はめられた、とすぐ気付いた。ホテル最上階、高級フレンチ・レストランに誘われたが、思案して断る。
「会長がご存知ない日本的な場所にお連れしますよ。今日はフレンチの気分じゃないし」
こうして駅近くの落着かない居酒屋を夕食の場に決める。まわりがあまりにもうるさく、食事中もとうてい甘い会話をする雰囲気にはならない。そして食後は「ごちそうさま、じゃあ、またあした」と、すぐそばの駅の改札に走りこんだ。計画通り逃げきった翌朝、夕食に来なかった二人を責める。
「私を裏切るなんて卑怯じゃない」
「会長に、今夜お前たちは来るなと言われたら、従うほかないだろう。わかってくれよ」
そう、外務大臣が通訳をくどいても、きっと外務官僚は手をこまねいているだけだろう。宮仕えの彼らを責めても仕方がない。幸いその後は会長に誘われることもなくなり、彼ら三人とはもう気心の知れた同志のようになっている。
昨年秋、仕事で東京郊外に出かけたときのこと。往路の交通渋滞にうんざりした会長、帰路は珍しく電車に乗るという。事件はこの車中で起こった。会長が座席に座るときに隣の中年サラリーマンの足を踏んだらしい。この男性、謝らなかった外国人に抗議しようにも外国語ができない。その腹いせに、こともあろうにワンマン会長のふくらはぎを蹴りつけたのである。会長は顔を真っ赤にして隣の男を睨みつけ、部長に命令した。
「おい、お前が一番若いし、こいつよりでかい。俺の仇討ちに一発殴れ」
図体はでかいが優男《やさおとこ》の部長は、「そんな無茶な。日本人は小柄でもみんな空手をやってると聞いてます」と、すっかり怖じ気づいている。私は小心者の部長に言った。
「会長命令よ、思いきりやって。傷害で刑務所に入ってもタバコくらい差し入れてくださるし、帰国後は二階級特進まちがいなしよ」
私たちのイタリア語を隣の日本人が理解できないのがもっけの幸いである。こんな時こそ私の出番、怒り狂う会長に向かって言った。
「会長、ここはまず彼に謝り、『おわびにイタリアからわが社の製品をお送りさせてください』と言って名刺を交換しましょう。その後名刺の会社をあなたが買収し、彼をクビにすればいいのです。時間はかかりますが、最も手痛い仕返しができます」
会長がふむふむと落着き始めたとき、私はすかさず付け加えた。
「ただ、彼がソニーとかトヨタの社員でないことを祈りますがね」
この一言でワンマン会長も破顔一笑、なんとか怒りも収まった。
先日もこの会長は、「十五年前に買ったカシオの時計と同じものが欲しい」とだだをこねた。
「もう随分前に生産中止になっていますから、カシオを会社ごと買って作らせるしかありませんね」
イタリア人社員二人、陰で私のことを≪チェアマン・シッター≫と呼んでいる。会長のベビーシッターという意味である。こんなわがまま会長をおとなしくさせられるのは、クビにされるのが怖くない≪日雇い通訳≫のみなのである。
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舌禍の人[#「舌禍の人」はゴシック体]
携帯電話がないころ、一般的な連絡手段は留守電であった。仕事仲間に急ぎ連絡を取りたい事態が生じたのだが、彼はハワイに新婚旅行中で自宅にいない。その時また、いたずら好きな私の悪い虫が騒ぎ始めた。彼の留守電に思いきり甘い声音で吹き込んだ。
「うっふんア・タ・シ。最近会ってくんないのね、さみしいわ。お電話待ってるから」
帰宅後、早速夫婦喧嘩だと楽しみにしていたら、翌日電話がかかってきた。
「まったく暇な奴だな。女房も笑ってたぞ。こんなことをするのは田丸さん以外に考えられないわ、相変わらずねって」
私のきわどいジョークに慣れている仲間にはすぐばれるいたずらだった。
ところがこの種の冗談が通じないのが、嫉妬深いイタリア女性。あるイタリア人実業家、日本では私の夫とも食事する仲で、友達感覚で接していた。彼は女性が胸をときめかせるタイプでもなかったし、彼の方も元ミス・イタリアの奥様を自慢にしていた。
別件の仕事でミラノに行った際電話すると、妻を紹介したいのでぜひ家に寄ってくれと言う。高級住宅街のマンションの上層階にある家で会った奥様は、百七十五センチの長身にジュリア・ロバーツ並みの長い脚、波打つ長い金髪に青い目、フェリーニに映画出演を依頼されたというのも納得の美貌の持ち主であった。たとえるなら「プレイボーイ」誌のピンナップ・ガールというところか。リビングで食前酒のカンパリを飲んだ後、二人はイタリアの習慣に沿って家を案内してくれた。最初に見せられた夫婦の寝室には、いままで見たこともないほどの大型ダブルベッドが鎮座していた。四人くらいは優に眠れそうだ。
「うわあ、すごいビッグサイズ」。そう叫んだだけでやめておけばいいのに、ついいつもの癖が出てご主人に向かって言ってしまった。「仕方ないわね。だってあなた、寝相悪いし、いびきもうるさいから」
彼も大笑いしてその場は終わり、私はその日の夕食の場に送ってもらい別れた。半年後彼が来日した時、私の一言がその後とんでもない事態を引き起こしたことを知った。
「いやあ、君を送って帰宅した後、妻がヒステリーを起こしてまいったよ。夕食の時スープ皿を投げ付けたんだぜ。今もカーテンにスープの染みが残っていて、見るたびにあの恐怖が蘇るよ。『クミコは冗談ばかり言うんだよ。僕がいびきをかかないことが、彼女と寝てない何よりの証拠じゃないか』と言って、やっと彼女も落着いたんだ。もし僕がいびきをかく男だったらと思うと背筋が寒くなるよ。この責任をとってもらうには、ほんとに寝てもらうしかないね」
彼らしいジョークで締めくくってくれたものの、反省しきりであった。
ご主人はもてないタイプ、奥様は私が足元にも及ばないほどの美人、旦那が私などと浮気するはずがないと自信たっぷりだろう、そう踏んだ上での発言だったのだが、こんな思い込みは通用しなかった。以後イタリアでその手の冗談は自重するようにしている。
私の無思慮な発言は、イタリアのみならず日本でも重大な舌禍を引き起こしていた。
十七年前、取引先のイタリア人社長たちと総勢四人で、地方都市で代々製造業を営むファミリー企業の三代目社長I氏のお宅に伺い、奥様手作りの夕食をごちそうになったことがある。奥様のF子さんは私と同い年、お見合いで嫁がれた楚々とした日本女性だった。ご主人のご両親のみならず創業者の祖父まで同居する大家族での彼女の一日は、毎朝四時半に始まる。早起きのおじいさまに抹茶を点《た》てるためだ。その後舅姑に梅干しと煎茶を運び朝食の仕度。しまい湯に入り十二時過ぎに眠るまで息をつく暇もない。
お訪ねした夜も、彼女は姑に呼び捨てにされながらこまねずみのごとく動き回っていた。夕食時も一度も座ることなく、ひたすらサーブに徹した。まさに≪嫁の鑑《かがみ》≫。控え目ながら、笑みを絶やさないF子さんには心底頭が下がった。感心したイタリア人たちからも「クミコとはえらい違いだ。まだこんな日本女性が残っていたとは」とさんざん比較されたのだった。
最近久しぶりにI社長にお会いする機会があった。「奥様はお元気ですか。二人のお子さんももう大きくなられたでしょう」
するとI社長は「実は、長男がまだあなたの後遺症から抜け出せないでいるようで困っているんですよ」と仰天することをおっしゃった。あの夜ダイニングで食事を終え、みんなで和室に移り、くつろいでいた時のこと。当時四歳だった坊やが突然F子さんの膝から立ちあがり、私の前に歩いてきたと思ったら、いきなり私のFカップの胸をわしづかみにしたのである。皆があっけにとられる中、私は胸を触らせたまま落着き払って言った。
「Y君、パパに五百円貰ってらっしゃい。ママ以外の女の人のおっぱいはタダでは触れないものなのよ」
I社長はすかさず胸から千円札を取り出して、「あの、僕の分も入ってます」。これで大爆笑になったのだった。
張本人の私はすっかり忘れていたあの一言が、その後様々な影響を及ぼしたようなのだ。Y君はその後ママのペチャパイに一切興味を示さなくなり、大学生となった今、派手な巨乳女ばかりを金を使って追いかけているらしい。
「今まで辛抱強い地味な女性を嫁に迎え、平和に家を守ってきたのに、この伝統も僕の代で終わるのかと思うと不安でしかたがありません」
I社長は顔を曇らせた。私が与えたカルチャーショックで優良企業四代目の青年が道を踏み外してしまった、とすると責任重大。同居する嫁をあごで使う日は来そうにないF子さん、ごめんなさい。
しかし上には上がある。私の舌禍がかわいく見えるほど王者の風格に溢れる天然舌禍の主。それがロシア語通訳から大作家に転じた米原万里さんだ。彼女を女帝エカテリーナにちなんで≪エッ勝手リーナ様≫と命名したのは私である。彼女は連載エッセイにも「通訳には客と同じメニューを出すべきだ。通訳に食べさせない仕事はすぐ断る」と書いていた。こんな要求ができるのも共産主義を標榜していた国の言葉だからか、完全な平等意識を持つ彼女をまぶしく見つめたことも多い。
万里さんは通訳になる前に、団体旅行のコンダクターをしていたことがあるのだが、客のしもべとなり、楽しく旅行していただけるよう細やかな心配りが必要とされるこの仕事を彼女がどうこなしていたのか、私は常々いぶかっていた。
数年前彼女といっしょに観劇に出かけたときのこと。ロビーで中年女性二人が近寄ってきて、おずおずと話しかけた。「米原万里さんですよね。私たち、米原さんが付いてくださったボリショイバレエを見るツアーのメンバーだったんです。覚えてらっしゃいますか」
彼女はにべもなく「いいえ」と応える。こういうときは、たとえ覚えていなくとも「まあ、お久しぶり!」と感動してあげるのが日本の慣習である。あせった私は場をとりもった。「その節はいろいろお世話になりまして」。まるで彼女の母親である。
一方の女性が続けた。「そういえば万里さん、店でヘレンドの食器フルセットを買われて、私たちずいぶん待たされたあげく、一人で持てない量だったのでみんなで分けて運んでさしあげたんですよね」。万里さんの方は「ああ、そうでしたね」と、悪びれもせずにこにこ笑っている。
お客様のお世話をするべきツアーコンダクターが、客を待たせ自分の買物をし、その上荷物まで運ばせたなんて! 文字通りの主客転倒。お客の方も「万里さんによく怒られましたわ。感動するときに使う形容詞の種類が余りに貧弱だって」と、楽しそうに思い出にふけっているのだ。単なる身の程知らずか、いや大物ならではの人徳か、女帝にしかできない暴挙であることは確かだ。
万里さんのもう一つのあだ名が、月下美人ならぬ≪舌禍美人≫である。思ったことはそのまま口にする。先日テレビのインタビュー番組でも、「帰国子女だからといって苛められたことはありません。久しぶりにクラス会で級友に会ったら、そこにいた全員に『万里さんの言葉に随分傷ついてました』って言われたの」とからから笑いながら語っていた。
私も男と洋服の趣味の悪さをよく酷評される。私はもう慣れて言い返す余裕もあるが、初めての人はとまどうに違いない。彼女の舌鋒にはいつもはらはらさせられている。それにもかかわらず彼女のファンが多いのは、ロシア仕込みの毒舌が権力者に対しても臆せず発せられるからであろう。
二年前、資生堂プロデュースのトークイベントで彼女と対談したときも狼狽した。銀座通りに面した、資生堂自慢の新築のビルに入ったとたん、彼女、あろうことかその日の雇用主様に対して「このビル思いっきり周囲から浮いてますね」と初対面の挨拶前に切り込んだのである。私がすぐにとりなし、ビルをほめたたえたのはいうまでもない。エ勝手リーナ女帝の威光の見返りを狙う≪見返り美人≫を自称(自嘲)する私なのだが、今のところ彼女の舌禍の尻拭いにあたふたするばかりである。格が違うと言われればそれまでだが、つくづくうらやましい天真爛漫ぶりである。
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いたたまれない[#「いたたまれない」はゴシック体]
講演会で通訳が絶句すると講師も聴衆もいたたまれない気持ちになる。そう、それは学芸会でせりふを忘れた子供を見る親の気持ちに似ているかもしれない。二人でやった同時通訳後のパーティで「上手な方の人の声が聞こえ始めると、ほっとして内容を聞くのに没頭できるけど、下手な人の声に変わったとたん、いつ絶句するか気が気じゃなくってさっぱり集中できなかったわ」とお客様が話しているのを小耳にはさんでしまった。お客様にそんな心配をさせているのか、と身を引き締めたのだが、実は通訳の方がその場にいたたまれなくなることだってあるのだ。
そんなケースの第一は、通訳ではなく講師の方が上がってしまったときである。デザイン記念シンポジウムでのこと。講演者の若いイタリア人デザイナーは、打ち合わせでは理路整然と語り落着いた様子に見えた。千人収容の大ホールの舞台に上がり、彼が中央の演台、私が舞台隅に置かれた机につき一時間半の講演が始まった。「いやに早口だし、内容も打ち合わせとは違うな」と思いつつ訳していたのだが、何と三十分後、彼は急に「では、これで終わります」と言うやいなや、一人でさっさと舞台袖に引っ込んでしまった。どうやら、彼は豪華な会場と満員の聴衆の雰囲気にすっかり飲まれてしまったようなのだ。客席も唐突な終わり方にとまどい、まばらな拍手の後しーんと静まりかえったままである。
困ったのは、舞台に一人取り残された私である。舞台袖では時計を見ながら司会の男性が焦りまくっているのが分かる。どうも次の講師もまだ到着していないようだ。私は咄嗟にマイクに向かって言った。「申し訳ありません。予定より早く終わってしまったようなので、よろしければ質疑応答の時間を設けさせていただきたいのですが」。あるまじきことに通訳が司会をしたのである。ここに至って司会の男性もやっと我に返り、「皆様、折角の機会ですから」とにこやかに話し始めた。私は急いで袖にいる講師のもとに近づき舞台に導きながら言った。「あと一時間、どうしても舞台にいなくちゃいけないの!」。幸い会場からは元気な質問が次々飛び出し、講師もすっかりリラックス、答えの中で自分が言いたかったことも話せ、あっという間に時間が過ぎた。ひょうたんからこま、一方的な講演より有意義だったとの感想も寄せられ、一同ほっと安堵したのである。
いたたまれないケース第二位は、先ほどとは反対に、客がいなくてしらけることである。知名度もかなりあるイタリア人デザイナーD氏、東京で記念講演を終え、翌日内陸部の地方都市に移動した。彼に建築設計を依頼した会社がその町にあり、そこの社長が友人の県議も担ぎ出して会社と県議の宣伝を兼ねる目論見でD氏との対談を企画したのだ。
県公会堂で行われるのは「デザインと地方自治を考える」という大仰なふれこみの対談で、県議の顔写真付きの大きなポスターが至るところに貼られていた。登壇するのは、イタリア人デザイナーD氏、建築専門誌の編集長で名だたる知識人のO氏、会社社長、県議と通訳の私、計五人である。全員揃っているのに開演時間の六時をまわってもだれも控室に呼びに来ない。六時半ごろやっと呼ばれ、五人が舞台の壇上に座って緞帳《どんちよう》が上がった。その瞬間の私たちの顔は一様にこわばっていたに違いない。なぜなら五百人は入ろうかという会場に、十人足らずの人しか座っていなかったからである。しかもその人たちを良く見ると、スタッフジャンパーこそ脱いでいるものの、さっきまで受付とかお茶運びをしていた人たちなのである。県議は自分の人気と集客力のなさを思い知ったのか、先程までの元気はどこへやら、青菜に塩の落ち込み方である。聴衆あってこそのイベント、乗ろうにも乗れない。全員早くこの場から立ち去りたい一心である。恐らく一番焦ったのは、対談のコーディネーターを務めるO氏だったと思うのだが、立派なプロの彼は、とにもかくにも一時間半話をつないでくれ、何とか終了した。県議は「ここらへんの人は、まだ文化レベルが低くて夕方から出かけて知識を吸収しようとする人はおらんのです」としきりに弁解をしていた。近場の温泉に泊まるご一行と離れて一人最終列車で東京に向かいつつ、私は彼らに同情した。きっと夜の宴会もきまずいものになったに違いない。
今や押しも押されもせぬ重鎮になったデザイナーD氏とはその後も数回仕事をしたが、お互いあの日のことには触れなかった。昨年、東京で行われた彼の講演会は、立ち見の人で立錐の余地もないという盛況ぶりであった。終了後、もう十年以上経っているので時効かと、私が口火を切った。
「今日はすごい人だったわね。あのN市での講演が嘘みたいね」
彼は笑って言った。
「実はあの時よりもっとひどい目にあったんだ。二年前、マドリッドのイタリア文化会館で講演したんだけどね、何人お客がいたと思う? 一人、たった一人なんだよ。ちょうどレアル・マドリッドとバルセロナのスペインリーグ決勝戦をやっている時間だったんだ。僕はその一人を、講演やめて一緒に夕食に行こうって誘ったよ。彼とは、ワインを飲みながらサッカーの悪口で大いに盛りあがって楽しかったよ」
ひょうひょうとした彼らしい話に私も大笑いした。N市のあの夜も、今ではなつかしい。十年を経た今、会場に座って観客を装っていたスタッフの方々のご苦労に感謝する余裕もでてきた。時は人を癒し成長させてくれるものだ。
そして、最後のきわめつき≠「たたまれないケース。それは講演会終了後報酬を受け取るとき、講師報酬の方が通訳代より安いことに気づいたときだ。講師に金額が見えないように隠しながら、そそくさと領収書にサインをする。申し訳ないとは思うが、反対の立場になることだってある。難解な講演の通訳を汗水垂らして終えた後、その日司会原稿を読んだだけの若い美人アナウンサーが私の六倍ものギャラをもらっているのを見たときだ。仕方ない、女の価値は年齢と美貌だ。日本の銀行に倣《なら》って格付け急降下中の私、実は最近最もいたたまれないのは鏡を見るときなのだ。
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イタリア人の
ビジネス
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
フランクフルトの中央広場に長い行列ができている。シチリアから出稼ぎに来たサルバトーレが行列の先を覗くと、焼き栗の屋台があった。栗を売っているのは幼なじみで移民仲間だったカルメーロ。久しぶりの再会を喜びながらサルバトーレは言った。
「すごい景気じゃないか。僕も別のところで同じ商売したいから、ちょっとお金を貸してくれないかな」
カルメーロは答えた。
「すまないねえ、ここに店を出すとき隣の銀行と紳士協定を結んだんだ。お互い商売の邪魔はしないって。だから銀行も栗を売らないし、僕も金を貸しちゃいけないことになってるんだ」
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闇経済[#「闇経済」はゴシック体]
先ごろ新聞に、イタリアの地下経済はGDPの二八パーセントに及んでいるとの統計が出ていた。南部のナポリでは、これが優に半分に達するのではないだろうか。ローマ帝国、フランス、スペイン、次々為政者が替わった土地では、信じられるのは自分だけになるのか、あの手この手で法の目をかいくぐる術を考え出す人が多い。
人口比で、教会と信号機の数がもっとも多いのもナポリである。教会が多いのは、いつでもどこでも罪を懺悔できるようにしてあるのかもしれない。一方、所かまわず設置されている信号は無視され、スクーターには三、四人がヘルメットもつけず乗っている。
「ナポリでフルフェイス・ヘルメットなんかつけてたら、銀行強盜にまちがえられて撃ち殺されてしまうよ」というのが弁明の言葉である。不法駐車と無法運転の渋滞の中、クラクションが一日中鳴り響く喧騒も、もはやナポリの風物詩となっている。
北部のイタリア人は、ナポリの無政府状況を苦々しく思っているのだが、中部トスカーナの有名ワイナリーの若社長は、こんなナポリに熱っぽい賛辞を惜しまない。三十七歳の彼は車の運転が下手なくせにスピード狂で、今まで二十七台もの車をおしゃかにしている。
「初めて車を持ったのは十八歳の時だ。誕生日の朝、父のプレゼントの赤のルノーが、大きなリボンを付けて庭に置いてあった。でもそれも二週間ともたなかったな」
私は思わず尋ねた。「え? リボンが、それとも車が?」
「もちろん車さ。よそ見運転をしていて崖にぶつかり、大きな石がボンネットに落ちてきてあっというまにペッシャンコ。実は最近またやっちゃったんだ。クリスマスのダンスパーティでかなり酔いが回っていたんだな。買ったばかりのメタルグレーのボルボで街路樹に思いきりぶつかった。車は道路から飛び出して急坂を数メートルころげ落ちた。フロントガラスは粉々に割れて、潰れて車高が半分になった車から、命からがら抜け出したよ」
みんなが成り行きに耳を傾ける中、彼の話は続いた。
「車をフィレンツェの板金修理屋に持ち込んでみたけど、事故の前科も多いし、今度は一人で起こした自損事故なので保険が出なかったんだ。修理の見積もりを聞いてぶっとんだよ。最低でも二千五百万リラ(約百五十万円)はかかるっていうんだ。しかも、『壊れ方がひどいので、絶対に元通りにはならない。買い換えた方がいい』と言われて悩んだ。なんせ一ヶ月も乗っていない車だったからね。そしたら友人が、闇の板金屋に頼むと安いから、ナポリに行ってみたらって勧めてくれた。だめもとで、その友人の車にロープをつけて先導してもらい、真夜中ナポリを目指した。大破した車で公道を走っているのが警官に見つかるとやばいからね。真冬のことで、窓ガラスもない潰れた車だから寒くて、運転する僕も命懸けだったよ。防寒具に包んだ体をおりまげて、風よけにスキー・ゴーグルを付けて必死でハンドルを握ったよ。幸いエンジンは快調で、五時間走って明け方ナポリに着いて、もらった住所を頼りに板金屋に行った。表向きは普通の家と変わらないが、入ると中庭の奥に工具が完備した立派な作業所があった。見積もりを頼んで、友人の車に乗ってまたフィレンツェに戻ると、数日後電話があった。『例の車ですが、三百五十万リラ(約二十万円)はかかります』。何とこっちの金額の七分の一だぜ。僕があまりの安さにわが耳を疑い、絶句していると、オヤジは焦ったのか、『でも新品同様にしますぜ。お約束しますよ』って心配そうに言う。飛び上がりたいほどの喜びを押し隠し、『うーん、まあいいだろう。くれぐれもよろしく頼むよ』と答えた。ひと月経って修理済みの車を取りに行き、感動したね。うちの高級ワインを一ダースプレゼントしたよ。すばらしい仕上がりで文字通り新品さ。フィレンツェから四百キロしか離れていない所に工賃の安い開発途上国があるようなものだ。こんな偉大なナポリ人は税金なんか払わなくていい。これがイタリアを支え続けた底力だ、と思ったね」
ちなみにこの信じられない金額は、通貨統合でユーロが導入される直前の二〇〇〇年十二月の話である。大破した高級車は、諦めずに船便でナポリに送るのも一案かもしれない。
ただし、その車が勝手にどこかに転売されてしまうのも、またナポリなのである。
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何でもエロス[#「何でもエロス」はゴシック体]
イタリアでは、カンターレ(歌い)、マンジャーレ(食べ)、アマーレ(愛する)が人生の基本だが、食事の時も≪アマーレ≫のことを考えたいのか、こともあろうに男性器の形をしたパスタを売り出した。
おみやげに貰った友人が感動して、「すごく芸がこまかいのよ。本体だけじゃなくて、その下に二つの玉も付いてるの。食べるのが惜しくて飾ってるわ」と言うのを聞いて、私は矢も盾もたまらず手に入れたくなった。シチリア方言の男性器である≪ミンキア≫をもじった≪ミンキエッティ(愛らしいオチンチン)≫というネーミングだけが頼りである。私は勝手に≪マラロニ≫と日本語訳を決定した。
その後イタリアでイエローページを繰って必死で探した甲斐があり、まもなくメーカーが見つかった。早速おみやげ用に十袋注文した。電話口の女性は、事務的に尋ねる。
「肉色とイカ墨の入った黒いヴァージョンがありますが、どちらになさいますか。黒の方がサイズは大きめです」
不思議な会話であるが、こちらも事務的に肉色を選び、商品の到着を待つ。三日後巨大なカートンボックスが届いた。五百グラム入りなのだが、複雑な形のせいか個々の袋が異様に大きい。イタリアでは結婚式の引き出物に使われているらしく、新妻用の料理レシピ集がつけられている。
それを読んで私は思いきり笑った。料理にはすべて下ネタ尽くしの凝った名前がつけられていたからだ。≪マラロニのフェラチオ・ソースあえ≫≪マラロニ・ボッキネーゼ≫などなど。何といっても好き者イタリア人、豆も鳥も魚も隠語で男性器の意味を持たせているし、家庭の食卓に上る料理にも≪プッタネスカ(売春婦風)≫と平気でネーミングするお国柄。五十以上ある料理名は韻を踏んだり、わざとスペルをまちがえペンネ(マカロニの一種)をペーネ(ペニス)に変えたりと、多彩な工夫がこらされている。マラロニを思い付くだけで精一杯の私には到底訳しきれない。日本語にはあっち関連の語彙数が異常に少ないし、年季の入り方も熱意のほども違う。訳はあきらめて料理集のページをめくっていたら、太字で大きく書かれた注意書があった。
『このマラロニはゆでると、徐々にふくらんでまいります。ただし、長くゆでればサイズが無限に大きくなるわけではありませんし、ゆですぎますと、やわらかくなり奥様方をがっかりさせることになりますので、必ず表示のゆで時間をお守りください』
引き続き、薬品につけられているような禁忌の注意書もある。
『なお老齢で既に現役を退かれた方が召しあがると下記の副作用が出ることがあります。落涙、後悔、うつ症状、夫婦喧嘩』
トランク一杯に買い込んだパスタを入れて帰国し、家で早速作ってみた。ゆで時間は十九分とかなり長い。うーむ、普通のパスタよりも膨張率も大きいようだ。思わず笑みがこぼれる。レシピの≪あばずれ風≫ソースも作り、家族で食卓を囲んだ。な、何と、ゆで時間を正確に守ったにもかかわらずふにゃふにゃ。成分表を見て理由が分かった。普通のパスタより高価なのに硬質《デユラム》小麦を使っていないのだ。本場のアルデンテ・パスタを期待していた夫と息子からは激しいブーイングを受けた。注意書は正しかった。≪後悔≫≪夫婦喧嘩≫という副作用がすぐに表れたのだから。
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無線機が買いたい[#「無線機が買いたい」はゴシック体]
ある日、知り合いのアリタリア航空東京支所のイタリア人から電話があった。
「アリタリアで来日したイタリア人二人が今うちのオフィスに来てるんだ。二人ともまったく英語がしゃべれないんで、すぐにイタリア語の通訳を探してほしいと騒いでる。ビジネスの相手が見付かるまでは日本にいるつもりなので、何日間必要になるかもわからないとさ。手がかかりそうな二人だが、うちもお客様だからむげにもできない。君が通訳してやってくれると助かるんだけどな」
そういう経緯で、二週間通訳をしたのがジャンフランコである。ジェノヴァの警備保障会社の社長で、四十歳になったばかりで三人の子供の父親なのに超マザコン。わがままな子供がそのまま大きくなったような男で、教養もなかった。
来日の目的は、業務用無線通信機のメーカーを探し出して、彼らが指定する周波数に合わせた製品を作ってもらうことだ。
「現在、自分の警備保障会社では、社員である警備員にドイツ製の無線通信機を使わせている。イタリアの代理店から購入しているこの機器がひどく高い。このたび、更なる値上げを通告されたので、頭に来て急に来日を決めた。日本のメーカーから直接買い入れたいし、できればイタリアの総代理店になって他の警備会社にも売りたい」
目のつけどころはいいが、何の下調べもせずいきなり日本にやってくる無謀さがすごい。イタリア語しか話せない社長の彼が連れてきたのは、これまたイタリア語しか話せない警備部長のカジバ。シチリア出身で、背が高く、浅黒い顔に真っ黒な長いもみあげが印象的だ。眼光が鋭く、優男のジャンフランコと歩いているとSPにしか見えない。ボスに忠誠を誓うシチリア人らしく、カジバは社長のイエスマンだった。しかし来日するなら、英語を少しでも話せる社員を連れてくればいいのに、お気に入りの社員を同行させるところもいささか思慮に欠ける。
社長はまず日本の警察官が持っている通信機のメーカー名を知りたいという。「突撃!隣の晩ごはん」スタイルでホテル近くの交番に出向いて、「すみません、お使いの無線機のメーカー名を教えていただけますか」と聞くことから仕事は始まった。こんな原始的聞き込みや口コミ方式で、ジェトロや業界団体訪問までして、メーカーを探しアポを取る。ついに可能性がありそうな二社に絞り込み、サンプルを送付してもらうところまでこぎつけた。その後一社と独占契約を結び、私もコミッションベースで連絡窓口に雇ってもらったのだから、突撃急襲方式もばかにできない。一切緻密な計画も立てず、すぐに行動するのも大事なのだ。さすがコロンブスとマルコ・ポーロを輩出した国と感心した。
安くて性能のいいこの日本製無線機は、イタリアでも順調なすべり出しを見せ、ジャンフランコの会社も急成長した。この無線機のおかげで私はいい小遣い稼ぎができたし、その上、イタリアで窮地を救ってもらったこともあるのだ。無線機に足を向けては眠れない。
二度目にこの会社を訪問したときのことだ。当時はイタリアへの直行便はなく、私はアエロフロート、モスクワ経由でまずローマに行き、国内線でミラノに入った。他の仕事を片づけた後、ミラノから約二時間の列車の旅でジェノヴァに行くことにした。ジェノヴァ中央駅であるプリンチペ駅で警備部長のカジバ氏が迎えてくれる手はずも整えた。のんびり本を読むうちにジェノヴァ、ブリニョリ駅に着く。降りる駅はこの次、幸いほぼ時刻通りで、ほっとしてトランク類を降車口に運ぶ。そして、間もなく顔から血の気が引いた。
何と列車は進路を北に変え、フランス国境方面に向かい始めたのだ。≪ジェノヴァ経由サンレモ行き≫と表示してあったので安心して乗り込んだのだが、中央駅を通らない列車だったのだ。次に止まる駅は四十分後のサボナ。携帯電話もない時代、一体どう連絡をつけて良いのやら。日本の列車なら懇切丁寧に注意の車内アナウンスをしてくれるのに、と自分の不注意を棚にあげ、イタリアの列車の不親切を呪う。
心なしかスピードアップした気もしていた列車は、広大な操車場のある線路でなぜか停止した。アナウンスもないので予定通りなのかも分からないが、線路の向こうには小さな駅舎もある。しばし止まっているうちにふと思い付いた。ここで降りてしまえば、ジェノヴァからまだそう離れてはいない。日本と違い、昇降口の扉は手動で開閉する旧式のものだ。レバーをまわして扉を開け、トランクをまず下に投げ下ろし、自分はステップを降り、ホームのない場所に飛び降りた。
そこからトランクを持ちレールをいくつか越えて駅に向かう。今降りたばかりの列車の窓には、乗客たちが鈴なりで私を見つめている。車掌も駅員も、ただあきれたふうに私を見つめるだけで、注意にもこない。駅近くにいた数人の暇そうなおじさんたちも、遠巻きにしている。駅の小さなバールの公衆電話で、やっと訪問予定の会社と連絡がとれた。電話口で社長が怒鳴っている。
「一体今どこにいるんだ。みんな心配してたんだぞ」
駅名を読む。
「コゴレートっていう駅にいるわ」
無線機を使う商売だったのが幸いし、まだ中央駅で私を待ち続けていたカジバ氏に無線連絡し、すぐこちらに向かわせるという。やっと人心地がつき、バールで熱いカプチーノを注文し、外の椅子でゆっくりとすする。それにしても、さっきから様子がおかしい。誰一人私に近寄ろうとしないし、普通は人懐っこいイタリアのバールのおやじさんも一言も発しないのだ。駅員らしき人も切符を要求しないし、私のトランクを持ってくれようとする男性もいなかった。
まわりの人たちの視線を遠くに感じつつ待っていると、やっと見慣れた警備会社名が書かれたパトカー風の車が見えた。なつかしいカジバが警備服で降りてくる。イタリアでは警備員も銃を携行しており、警官とほとんど同じに見える。カジバは私を見つけるといきなり羽交い締めにし、笑いながら「やっとつかまえた、もう逃がさないぞ」と、私を車に押し込んだ。このシーンに町の人たちの驚きは頂点に達したようであった。
すぐに車を発進させながらカジバは付け加えた。
「お前はまったくとんでもない所で降りたもんだな。ここにはイタリア最大の精神病院があるんだ。みんなお前を脱走患者だと思っただろうな」
列車の人たち、町の人たちのあの目、あの態度に初めて合点がいった。いきなり、トランク片手に停車中の列車から飛び降りた外国人の女。その女性がむくつけき大男の警官に護送されていくのを見た人々の驚きは想像にあまりある。遅れること数時間、やっと到着したオフィスで、社長は私を一喝した。
「お前は遠い日本からイタリアには来られても、ミラノからジェノヴァにも来られないのか」
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イタリアの耳掃除[#「イタリアの耳掃除」はゴシック体]
商売には興味がないので、モノを介在させない通訳をしている。その私が唯一、ビジネスに乗り出そうかと真剣に考えた商品がある。≪オトサン≫という商品で、二、三年前爆発的なブームになった。イタリア語でオトは≪耳≫、サンはサーノ≪健康な≫の略語。≪健康な耳≫といったネーミングである。
イタリア訪問前、友人が電話してきた。
「イタリアに不思議な耳掃除用のグッズがあるの。すごいのよ。奥にたまった耳垢が全部とれて、耳もよく聞こえるようになるし、すっきり気持ちいいの。家族分三箱買ってきて」
イタリアで早速、薬局に行く。おりしもプールで耳に入った水が完全にとれず不快だという青年に、薬剤師がその商品を説明しているところに出くわした。「水もとれるし、飛行機に乗った後の耳の不快感も解消する」。興味を引かれた私はその薬局にある≪オトサン≫を全て買い占めた。両耳使い捨ての二個入りで一箱六百円、イタリアでは結構高い。
帰国後、恐る恐る試してみる。横向きに寝て、耳に長さ十センチの円錐形のものを差し入れ、上に火をつけて燃やすのである。約二分間、耳のすぐ上、アルミの円盤のところまで燃やし、残りの部分を耳から抜く。用意した水に先を入れ、火を消す。その後、らせん形に巻いてある燃え残り部分を開くと、信じられない量の耳垢が内部についている。心なしか、通訳の命、聴力もアップしたような気がする。友人に配り、ためしに使ってもらうと、二十年来の難聴が聞こえるようになったなど、まるで健康雑誌の見出しのごとく感謝感激の声がぞくぞく届く。
もしやひと儲けできる?
イタリアの友人に買いまわってもらい、八十個を輸入して八百円で売る。送料と関税を払うと儲けは百円たらずなのだが、サンプル用に小売価格で買ったものなので仕方がない。一緒にひと儲けをたくらんだ親友の素子は、顔の広さを生かしてデモンストレーションをしながら着実に数を売り始めた。すぐに「ただであげるから使ってみて」と言ってしまう気の弱さが欠点だが、ゴルフ場の売店に置いてもらう話もまとまりそうだ。私たちは確かな手応えを感じていた。
しかしさすが目ざとい日本人、まもなく同じ商品が日本のテレビや雑誌でとりあげられ、千二百円という定価で、全国で飛ぶように売れ出した。こうなると、素人の私では対抗する術もない。もはや遅し、と諦めかけたころ、友人のつてで仕入れたいというチェーン店が出てきた。もうひと頑張りし、日本で大量に売られている製品とは別のメーカーのものを見つけた。すぐに電話で商談する。社長という男性は電話口で強気にまくしたてた。
「君の会社の概要、年商、販売ミニマムを連絡してくれ。今、日本の数社から代理店になりたい、との希望がある。こちらは新たに生産ラインを増設したし、日本語のパッケージと説明書も今、印刷中だ。最低条件は年間二万個。一番多く買ってくれる会社と組む」
彼も舞いあがっているようだ。まさかこんな数量を要求されるとは思ってもいなかった。素子に相談しようと考えていると、ちょうど北海道にいる彼女から電話がかかってきた。声が裏返っている。彼女はその日知人十人とゴルフ旅行に出かけ、夜の宴会でオトサンのデモンストレーションをして見せた。筒の先にたまった大量の耳垢にみなが驚き、持っていった二十個があっというまにさばけた。ところがメンバーの中に、決して大勢に流されない懐疑的な人物がいた。彼はガリレオ・ガリレイのごとき科学的探究心を湧きあがらせ、自分で買い求めた一本をその場で空のコップに差し込み火をつけた。待つこと二分、いぶかる皆の前で、彼はゆっくりと燃え残った先を開いた。さっきと同じような耳垢が大量にこびりついている。
彼は勝ち誇ったように言った。「コップにも耳垢があるんですかね」。これは詐欺といわれているのと同じだ。私同様(?)ばか正直で小心者の彼女は泣き出さんばかりに、私に説明を求めてきたのだ。そうは言われても、私も何もわからない。
「寝耳に水ならぬ、寝耳にオトサン!」
そう答えた私に彼女は怒り狂って叫んだ。
「オヤジギャグ言ってる場合じゃないのよ。私の窮地を救う説明をしてよ!」
とても二万個の条件を言い出す雰囲気ではない。こうしてビジネス長者の夢ははかなく潰《つい》えた。欲をかいて大火傷をしなかったのが不幸中の幸いと思わなくてはいけない。
そして数ヶ月後、オトサンが大問題を起こす。耳にかゆみ、炎症を起こす人が続出したのである。耳垢に見えるものも、実は筒本体の蜜蝋《みつろう》の燃えカスだと分析された。確かに半年に一度くらいでいいものを、頻繁にやると炎症を起こす。
イタリアではおばあちゃんの昔から内耳の不調時、蜜蝋を塗った布を燃して治療していた民間療法の品である。遠い極東の地で突然爆発的に売れ、わずか数ヶ月で完全消滅した。日本人がここまで新しいものに飛びつき、こんなに急に見放す民族だとはイタリア人も知らなかったろう。最初に輸入を始めた日本の会社もイタリアのメーカーも大量在庫をかかえたのは確実である。実際に輸出する前に生産ラインを増設したあの後発メーカーこそが最大の被害者かも。大量の日本語パッケージを前に途方にくれているに違いない。
危機一髪、難を逃れた私はほっと胸をなでおろした。総数百個を仕入れた私のビジネス決算は、在庫二十個を残し、見事な赤字で終わった。説明書にヒーリング効果もあるとあったので、不良在庫は細々と自分用に使い、金儲けに縁のない自分をなぐさめている。
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ホットカイロ[#「ホットカイロ」はゴシック体]
起業家精神旺盛なイタリア人は、いつでもどこでも金儲けの種を探している。人脈、口コミという伝統的ツールを駆使し、砂糖に群がるアリのごとく≪とらぬ狸の皮算用≫に夢をふくらませる。イタリアで何度聞かれたかわからない。
「日本から何か輸入して儲かりそうなものはないか、日本人がイタリアから買いたがっているものはないか」
貿易のイロハも知らない、オフィスも持っていない、ただのお兄ちゃん風の若者まで、ここで会った日本人を何とかうまく利用できないか、と考える。コネ社会に生きる彼らなりの人生の知恵なのだろう。
「大体そんなうまい話があれば、私がとっくにやってるわ。それにビジネスやるなら、あなたみたいな出たとこ勝負の人とはしないわね」と内心思いつつ、「まず事前調査をしてニーズを検証し、その製品の市場規模、価格帯、販売計画をきちんと立ててからでないと、雲をつかむような話には誰もまじめに対応してくれないわよ」と表向きは答える。
隠し持っているピカソだとかルソーだとかの名画を日本人に売りたい人がいる、という話も数限りなく持ち込まれた。これも人から人へ話が伝わり、そのつど各自が自分の口銭を上乗せするので値段もはねあがっていく。
私もいろいろな儲け話を持ちかけられただけでなく、わが社の日本代理店にと誘われたことも数知れない。しかし小心者の私は今一歩が踏み出せず、いまだ≪賃仕事≫の通訳を続けている。幸い通訳にはノルマというものがない。仕入れも在庫も設備投資もいらないし、支払いも発生しないので倒産することはない。ただし、決して大儲けすることもない。
オトサンの輸入販売計画の頓挫でも明らかになったが、商売は本当に難しい。日本で売れるものが即イタリアで売れるわけではないし、イタリアでいくら受けていても日本でそっぽを向かれるものも多いからである。
例をあげると、まず≪ゴリア≫。ほとんどのイタリア人が車やオフィスに常備している黒いゴムのような飴で、原料は甘草《かんぞう》。甘草というのに苦くて、大半の日本人はすぐに吐き出すしろものである。
そして機を見るに敏なイタリア人経営者が、日本で見つけこれはいける、と踏んで巨額の投資をしたのにまったく売れなかった品物がある。それは日本の冬の不可欠アイテム、使い捨てカイロである。
意外なようだが、イタリアの冬の寒さは日本より厳しい。大体緯度的には東京が南のシチリア島と同じなので、北イタリアの緯度は北海道あたりになる。その上、夏はからっとしているが、冬は日本と反対に湿気が多く霧も出る。現に私も、北部沼地のマントヴァの宮殿で初めて骨が痛くなる寒さを体験した。大理石の床から足を伝わり、腰骨を麻痺させるような寒気なのだ。リューマチの人が多いのもうなずける。簡便なホットカイロがあればリューマチの老人は大喜びだろうし、狩猟や釣りのアウトドアにもぴったり。
先見の明あるG氏は緻密に検討した結果、日本から製品輸入すると高くなりすぎるのがわかり、イタリアで現地生産することにした。すぐに技術供与契約とロイヤリティ契約を結び、税金逃れの目的で極小独立国のサンマリノに工場を設け、製造設備も輸入した。
G氏がまず一番にしたのは、サッカー場で無料サンプルを配ること。冬のサッカー観戦はお尻も冷える。きっと一大ブームになる、と彼は意気込んでいた。サッカー雑誌にも付録で添付した。こうして数万個のサンプルが先行投資として消えていった。
工場設立後三回の冬を越した後、G氏は再び来日し無念の撤退を表明した。日本より安価であったにもかかわらず、イタリアでは、どんなに宣伝しても全く売れなかったのである。
今年も、真冬なのにミニスカートとナマ脚で闊歩する女子中高生を見て思った。この商品がわが国でこれだけ売れているのは、その最大の消費者層が、日本にのみ生息する≪生き物≫であることが一因なのかもしれない、と。
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ジュエリーデザイナー[#「ジュエリーデザイナー」はゴシック体]
「宝石は男性の秘めた思いのメッセンジャーです」。オリジナリティの高いデザインで世界中に顧客を持つジュエリーメーカーのオーナー社長S氏は力説する。「あなたという女性は世界に一人しかいません。あなたのための宝石もまた世界に一つしかないものであるべきです」
S氏は、オートクチュールのように顧客の女性を見て、その人に合ったデザインをすることで知られている。女性を崇拝し、その美を際立てることがジュエリーの使命と言い切る彼のデザインは、女性が身につけて初めて双方が生き生きと輝き始める類のものである。
若いころS氏は、ジュネーブで知り合ったうら若い女性に一目惚れした。一流ジュエリーショップが立ち並ぶジュネーブの目抜き通りで、彼は言った。
「君が気に入ったジュエリーを何でもプレゼントするよ。今から選んで」
喜びと驚きで頬を紅潮させた彼女と数軒のショップをまわった後、残念そうに言われた。
「気に入ったものが見つからないの。どれをプレゼントされても、実際に身につけるとは思えないものばかりなの。こんな目立つ宝石をつけるような生活してないしね」
当時ジュエリーというと豪華さを誇示する上流マダムのものが中心であった。デザインで勝負するより資産価値をみせびらかす役割のほうが大きかったのだ。
欧州では貴金属はファミリーの資産として代々譲られるものである。子供用の金のネックレスやブレスレットをつけている赤ん坊もよく見るくらい、生活に密着している。日本女性の資産は着物が中心だった。遅れること数世紀、バブルが始まったばかりのころ、やっと日本でもダイヤの結婚指輪をプレゼントする習慣が定着し始めた。当時の人気インタビュー番組でデビ夫人が傲然《ごうぜん》と言い放ったせりふを今もはっきり覚えている。「日本では、今ジュエリーブームだなんて騒がれておりますけれど、私に言わせれば、一キャラット以下のダイヤなんてジュエリーでもなんでもございません。ただの砂利《ジヤリ》ですわ」
ジュエリーは女のトロフィー。資産の誇示だということがよく分かるせりふだ。
ところがこんな歴史的背景がある欧州で、かわいい恋人は欲しいものが見つからないという。金の斧より鉄の斧を求める樵《きこり》のような正直さだ。彼女の言葉に発奮したS氏は、普通の生活を送る女性がいつも身につけたいと思えるようなジュエリーのデザインを自分で始めることにした。
実際彼のジュエリーは現代的でさりげなく、毎日着けていても決して飽きが来ない。石は資産ではなくデザインのツールのように使われている。今大成功している彼がジュエリーの仕事を始めたきっかけは、欲のない女性と女性思いのイタリア人ならではの逸話である。
しかし、男と女が分かりあうのは至難の技。男性が選んで贈ったジュエリーやファッション製品で女性の好みにぴったり合うものも少ないし、女性から贈られたネクタイを気に入る男性も少ないのではないだろうか。だから女性は、自衛策として前もって欲しいもののブランド名や型番を男性に伝える。数人の男性に同じものを贈らせ、一つを残して後は買ったショップに返品したりリサイクルショップに持ち込んで換金する、やり手女性もかなりいると聞く。小学生の援交から始まり、今や日本女性は、世界有数の欲ボケセミプロ軍団と化している気がしてならない。男性に好きな宝石を選べと言われたら、好みに関係なく最も換金パフォーマンスの良い物を選ぶ女性も多いのではないか。
それではS氏のようなデザイナーも生まれなかった。女性がだめになると男性もだめになるのは、こんなところにも因果関係があるのかもしれない。
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カレンダー[#「カレンダー」はゴシック体]
実直な地方公務員の若者が、今年の夏初めてミラノを訪れた。「いやあ、美人が多いのにも驚きましたが、露出度の高さに度肝を抜かれましたね。僕は、あの国で生まれて初めて自分がオスだと自覚しましたよ」
確かに、夏でなくともイタリア女性は胸の谷間があらわになる服を好む。シースルーにへそ出しルック、太ももまで開いたスカートの切れ込み、ともかく男を挑発する装いが多く、日本男性には鼻血ものの過激さだ。「ぴちぴちの白いパンツから透けて見えるTバックのお尻を見たときには思わず襲いかかりそうで、毎日危険がいっぱいでした」
こんな風に、自分が持っている肉体的魅力を目いっぱい誇示するのがイタリア流である。アテネ・オリンピックに出場したイタリア・ナショナルチーム屈指の美女バレーボール選手フランチェスカ・ピッチニーニは、「美しいものを多くの人に見てもらいたいと思うのは自然なことよ」と、全裸でいろいろなスポーツのポーズをとっている写真付きカレンダーを発表して大人気だった。
外見の美に尋常ならざる関心を寄せるイタリアらしく、アテネ・オリンピックに出場した世界各国の選手のミス・オリンピック、ミスター・オリンピックをインターネット投票にかけたのも、由緒ある国営放送局である。男女とも十二人の候補者で、女性はアメリカの三人を筆頭に、各国ひとりずつにばらけていたのだが、男性のほうは何と十二人中八人がイタリア人であった。イケメン王国の面目躍如というべきか。驚いたのは、男性選手陣が、自分の美の見せ方を熟知した芸能人顔負けの写真目線で映っていることだった(参考までに、日本からは誰も候補に選ばれていなかった)。
イタリア人は、一般的に男女とも自信家で露出好きにみえる。毎日違う女性キャスターが、服を脱ぎながらニュースを読むというローカル局のテレビ番組もあったし、近所の素人ミセスが下着姿で美を競う番組も人気を集めていた。
こんな国なので驚くには値しないのかもしれないが、ある会社が勇気ある広報プロジェクトを立上げ話題になった。自社の男性社員のヌード写真入り企業カレンダーを作製したのである。筋肉自慢の工員は旋盤の前で、美形セールスマンはデスクの前で、各自全裸でポーズをとっている。エネルギッシュな肉体が自慢の若者だけではなく、初老の経理部長までメガネをかけた実直そうな顔で裸を披露しているという。知っている人のヌードは取引先にも大好評で、希望が相次ぎ増刷することになった。
柳の下を狙ったこの会社は、翌年は女性社員でヌードになってくれる人を募集した。そのカレンダーをチャリティで売ろうというアイディアである。さすがイタリア、無料奉仕なのに我こそは、と申し込みが殺到。誰が選ばれるかで女同士の確執が燃えあがり、広報部の社員に対する裏工作も横行したらしい。数人の女性社員が社長に直訴に来た。「公平を期すために、カレンダーガールになりたい女性社員は全員公平にヌードで審査してほしいし、審査する男性の数も増やしてほしい」という希望である。選ぶ男性社員にとっては、これ以上の役得はない。
この顛末を多くのマスコミが書きたてたので、会社は無料で社名広告ができたという。その上、空前の売れ行きを記録したカレンダーで大金を寄付し、企業イメージまでも向上させてしまった。一番得をしたのは社長ということになる。
その優良企業の二代目社長と光栄なことに直接会う機会に恵まれた。まだ四十二歳の若さだが、父親から受け継いだ会社をあっというまに国際的な大企業に育てたアイディア社長として、イタリアではビジネス誌にも良く紹介されている人物だ。精悍な顔つきが野性的で男っぽいのだが、顔が長く美形とは言いがたいし、きまじめでとてもヌード企画をするようなタイプには見えない。意外に思った私は、通訳が終わった後の食事時間、恐る恐る聞いてしまった。
「日本でこんな提案をしたら女性社員にセクハラで総スカンを食ってしまいますけど、怖くなかったんですか」
「イタリアではセクハラをしないのがセクハラなんだ。だから女子社員をきれいだ、スタイルがいいなどと平等にほめないといけない。これも結構辛いものがある」。社長は付け加えた。「そういえば、君はわが社のホームページを見てくれた? あんまり要望があるんで、古い男性社員ヴァージョンのカレンダーもサイトに載せたんだ。今日家に帰ったら必ず見てくれたまえ。僕の写真は五月だからね」
度肝を抜かれた。「隗《かい》より始めよ」なのか、まさか社長まで脱いでいるとは!!
帰宅後すぐにサイトをチェック。社長はカメラレンズに向かって、若手の社員に負けじと思いきりセクシーなポーズを決めていた。脱帽。
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大通詞[#「大通詞」はゴシック体]
通訳に男性が少ないのは、何年やっても何のタイトルももらえず、いつまでも会議通訳のままであることが原因ではなかろうか。首席通訳、通訳監督などランク付けが細かく行われればタイトル好きの男性の参入も増えるに違いない。かねてよりこう思っていたのだが、最近大先輩の英語同時通訳者小松達也氏の本で、非常に興味深い事実を知った。何と江戸時代は通訳にも厳然たる階級分けがあり、その上かなりの特権階級であったようなのだ。
一六三九年の鎖国と同時に外国人の往来は禁止され、通商は長崎出島におけるオランダ船のみに制限された。その際活躍したのが役人待遇の通詞《つうじ》。最大時約五十人もいた通詞の格付けは、最高位である大通詞を筆頭に、大通詞助役、小通詞、小通詞並、小通詞末席見習、稽古通詞、稽古通詞見習まで七段階に分類されていたのだ。彼らは貿易の口銭までもらっていたので、収入も役人の中では並外れて多く、その利権を守るため、代々世襲制がとられていたというから驚きだ。二十〜二十三の家がその職を継承していたのだが、語学の才能がない息子も自動的にその恩恵にあずかれるほどのうまい仕事だったようだ。
うーむ、今まで手伝った商談の口銭をもらっていれば田園調布か松濤に御殿が建っていたに違いない。時代が悪かったと地団太踏んだが、今はさらに時代が悪くなっている。大体商談に通訳が不要になったのだ。英語どころかイタリア語も、結構な数の人がしゃべるようになっているし、商社の人の中には、通訳顔負けの流暢なスピーカーも多い。また日本語の堪能なイタリア人も増え続けている。経済学上、ものの価格は需給関係で決まる。外国語が話せるという希少価値ゆえに破格の待遇を享受していた通訳の蜜月時代は完全に終焉した。かてて加えてデフレと価格破壊が進む昨今の状況である。通訳の地位向上は望むべくもないだろう。
こんな悲観的なことを考えていたある日、夕刊の三面にとんでもない記事を見付けた。
「日本の輸入車販売会社がイタリアの自動車販売会社とフェラーリを購入する契約を結んだ。当事者である日本側社長は、契約通りの台数が納入されないことに腹を立て、契約に立ち会った通訳の男性を『お前のせいだ』と恐喝し、千百万相当を脅し取った」
こんな責任を課せられるのなら、納期通りに納品することのほうが珍しいイタリアの会社の商談通訳など命がいくつあっても足りない。それに失敗した賠償を要求するのなら、うまく行ったときの別報酬ももらえる条件にしないと不公平だ。時代が変わったことをしみじみ認識した記事であった。
思い起こせば、私が通訳を始めた時代には、ファックスどころかテレックスすらなかった。そんな頃、貿易商談の通訳をすると、確実にその後のフォローアップも頼まれたものだ。イタリアに電話をかけるのはもちろんのこと、コレポン(通信文)もすべて私を通さないとどうしようもない状況なので、毎月固定給をくれるところやコミッションをくれる会社もあった。日伊両国、英語ができる人も少なく、社内に貿易部、国際部などがある企業もわずかだった。通訳はいわば社外国際部のような仕事も担っていたのだ。
通訳を越えて輸出に関わったこともある。園芸機械の商談で来日したスイスの会社の通訳をしたのだが、後日社長から手紙が届き、日本で除雪機のメーカーを探してほしいと依頼された。早速調査し、三社あることを発見、私が窓口となり商談を始めた。その一つ、ある新潟の農機具メーカーが、冬場休眠状態になる工場を稼動させる目的で除雪機を作っていた。輸出用の価格を出してほしいと依頼する私に、頑固一徹の社長は言下に言い放った。「うちはね、日本の銀行使う仕事しかしません」
「えー、スイスの銀行から日本の御社取引銀行にL/Cを開設しますから」
「そのシーとかいう変なものはだめ、うちは日本の銀行の手形しか受け取らないから」
「はあ、L/Cというのは信用状といいまして、前払いで、一度開設するともう取り消しはできない……」
途中でがちゃんと電話を切られてしまった。都会人はみんな詐欺師と疑っているふしのある社長、いきなりスイスから除雪機を買いたいといわれ、けんもほろろである。何とか会ってもらう約束を取り付け、私が貿易業務も全面的にやるという条件で試験的に輸出を始めた。だが仕事にも慣れかなりの台数を輸出できるようになった頃、大手が参入し価格競争力を失った。それだけではない。うまみがあると分かると、大手商社も世界市場での貿易を任せてくれとメーカーに話しに行くので、個人でやっている所など太刀打ちすべくもないのだ。
そんな中でもイタリア商事の清水社長は事業を見事に成功させた方だ。彼は東京外国大イタリア語科の大先輩なので、私よりもっとよい時代を経験なさったことになる。彼の場合、日本でガイドをしたアゴスティーノの社長が彼を気に入り、イタリアに招待してくれた上、海のものとも山のものとも分からない一青年に日本への輸出を一括して任せてくれたのだ。三十年以上前日本を訪れるイタリア人は大金持ちだけだったし、遠い異国でイタリア語を真面目に学んでいる青年を応援したくなるきっぷのよい社長も多かったのだろう。
結局、私はその種のサクセスストーリーにも縁がなく、未だ通訳稼業で口を糊しているわけだが、その当時窓口業務をしてあげた人とは、ビジネスがなくなった今も家族付き合いが続いている。
のどかで人間的だった時代から数十年、昨今は同時通訳が多くなり通訳もスポットの翻訳機械のように使われるようになった。社内機密の多い商談部分はすべて英語か社のイタリア語の堪能なスタッフでまかなう。通訳には事情も知らされず、当日刷り上がったばかりのプレスリリースのみで記者会見や会社説明会などの公式の場を任される。いきおい仕事の総量は減り、かわりに事前勉強の負担が大きくなる。そして、それもいつか機械にとってかわられる日がくるのかもしれない。
こんな風に将来を悲観し、昔をなつかしむことが多くなった。これを「やきがまわった」というのか、職業病ですぐにこの表現のイタリア語訳を思案しつつ、しみじみ時の流れを感じている今日この頃である。
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現場あれこれ[#「現場あれこれ」はゴシック体]
通訳の仕事の醍醐味の一つは、様々な業界を知り貴重な現場体験ができることである。見て回った工場は数知れないが、今は自動制御の工作機械が支配する無人に近い工場が増え、物作りの工程も随分味気ないものになった。
工場を回るとき、日伊の工員さんの反応の違いが面白い。イタリアで工場に視察の人が入ってくると、「どこの誰なのか」興味深そうに見る。東洋人だとなおさらで、幹部が案内しているので話しこそしないものの、いかにもおしゃべりしたがっている様子がありありと窺える。だから彼らに質問すると、嬉しそうに、そして自慢気に自分の仕事を説明してくれる。
ところが日本の工場では、イタリア人のグループががやがや入って行っても誰一人顔を上げず仕事に没頭している。TQC《トータル・クオリティ・コントロール》や目標生産高達成のため必死なのだろうか、コンベア生産の部品のような姿に哀しくなったものだ。
日本では自動車、機械、電子部品、イタリアでは衣料、バッグ、靴などの工場を回ることが多かったのだが、現場で記憶に残っているのは技術提携の通訳中訪れたコークスの高炉。折りから重厚長大産業が日本経済を押し上げていた時代だ。ヘルメットと安全靴を身につけて真っ赤に熱せられたコークスが二十四時間体制で出て来るのを見ていると、製造業こそ男の職場と独特の感動を覚えたものだ。
一方イタリアで忘れられないのは革なめし工場。世界各地から集められた原皮が山のように重ねられている現場には強烈な死臭が漂い、五分もいると頭痛とめまいがしてくる。くさらないように塩漬けにし薬剤もかけた≪ウエットブルー≫の状態にある原皮を前に、年老いた工員の方が語ってくださった。
「昔はイタリアでも肉はなかなか口に入らなかったんですよ。私たちは、毎日原皮の裏に貼り付いて残っている肉片をナイフできれいに削り落とし、それを煮込んだスープで昼ごはんにしていました。塩気があるので味付けも不要でしたしね」
それを聞いて思い出した。昔、チーズは肉が食べられない貧乏人の食べ物だったので、特に女性はチーズなんか食べると≪お里が知れる≫と軽蔑されたという。今は、若い労働力を得るために、革なめし工場の労働環境も清潔に近代化されているらしい。
肉と言えば、スペインのブロイラー工場の視察に行った通訳は、その後一切チキンが食べられなくなってしまった。巨大な七階建て飼育場の一番上の階のコンベアにひなが乗せられる。コンベアはゆっくりと移動し、徐々に下に降りてくる。一日一階のペースで階下に降り、太り大きくなった鳥は、七日目、一階に到着と同時に潰されて肉ブロックにされ、梱包される。余って使えない骨、頭部や足は細かく粉砕され、えさに混ぜられてこれもまたコンベアで流れていくという、究極のとも食い自動生産システムで、彼女はそれを見て嘔吐してしまったという。
凄惨さで競うのが医学の手術立ち会い通訳。脳外科手術では、のこぎりで頭蓋骨を切り開け蓋のように取りはずすところを見つつ通訳をした人もいるが、圧巻は肛門外科。友人の通訳は何と八件もの痔の手術に立ち会ったとか。イタリアの医師が編み出した簡易手術はあっという間に世界中に広まりつつあり、友人通訳は日本の痔に悩む方々に大きな貢献をしたことになる。しかし、彼女が私と一緒に食事をとりながら、その手術法を細かく説明してくれたのにはまいった。
「切り取った血だらけの病変部をこうやって広げて形をチェックするの。その形が左右対称か……」
熱弁を振るう彼女が食べているのは、お得な価格の昼定食だったが、私は清水から飛び降りて大トロ、中トロの盛り合わせを注文していた。トロが切り取った肉片に見えて来てすっかり食欲を失った。肉片と聞いて、JRの幹部の方のお話を思い出したからである。
「入社したてのころは色々な現場に送られるのですが、一番辛かったのは自殺者の始末です。隠語でまぐろと言うのですが、まさにその通り。肉片をすべて拾ってレールの血のりを必死で拭き取った後は、しばらくまぐろの刺身が食べられなくなります」
同じまぐろでも楽しい仕事もある。シチリアの伝統漁法マッタンツィの取材で、一緒に船に乗ったり、まぐろ漁の利権を持っているマフィアの大物と過ごしたりという稀有な体験をした通訳もいる。
こうして様々な現場で通訳をしてきて思い出すのは、第一次、第二次産業の物作りに関わっている人たちの人間的魅力である。彼らは自分の仕事が好きで誇りを持っているし、お金持ちではないけれどとっても暖かい。だから通訳に人気があるのも現場の人。誠実でいばらない理科系のエンジニアも好かれる。
しかし残念なことに日本では製造業の空洞化が進み、第三次産業が幅をきかしている。中でも花形の金融、IT業界は、もはや完全に英語が公用語化しており、イタリア語通訳が呼ばれることも殆どないのだが、負け惜しみではなく不幸中の幸いである。両方とも実際のモノが目に見えないので、今一つ実感が湧かず空虚な気持ちになるのである。
そういえば、子供が物作りの現場を見なくなって久しい。商売や職人をやっている父親の姿がすぐそばにあり、母親が家事にいそしんでいた時代には、子供の心もここまで荒廃していなかった気がする。昔は子供の服も母親の手作りだった。生地探しから始まり、採寸してもらい、好きなスタイルを本から選ぶと型紙を引く。後は、母が踏むミシンの側でたわいないおしゃべりをしつつできあがりを楽しみに待っていた。電化製品がなく、母親たちも忙しかったはずなのに、すべてがゆっくり動いていた。
手を使い体を動かして行う物作りは、使う人に対する愛情表現の一種だ。特に私のように、一瞬にして消える言葉を紡ぐ通訳を生業としていると、反対の世界である製造業に対する思い入れが強くなる。現に、今も思い出す最も心温まる現場は、孫が靴の木型や革の切れ端で遊ぶそばで、一針ずつ丁寧に手縫いで靴を仕立てていた職人さんのいる小さなイタリアの靴工房なのである。今ビッグブランドになっている企業の社長さんたちの多くは、そんな環境で育っている。イタリアの家族経営の工場が、大型資本の波に飲み込まれず今後も長く残ることを願ってやまない。
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シモネッタの
イタリア初夜
◎ 小話 ◎[#「◎ 小話 ◎」はゴシック体]
僕のいとしいマリアへ
君の瞳に見つめられるためなら、アルプスを裸足で山越えすることも厭わない。
君のやさしい手で愛撫されるためなら、どんな深い海も泳いで君のもとに駆けつける。
君を抱きしめるためなら、エンパイアステートビルからも飛び降りるよ。
君のためなら何でもするよ。死ぬほど君を愛してるよ。
[#地付き]パオロより
追伸 こんどの土曜日、もし雨が降っていなければ[#「雨が降っていなければ」はゴシック体]君に会いに行きます。
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シモネッタのイタリア初夜[#「シモネッタのイタリア初夜」はゴシック体]
金さえ出せばどんなものでも手に入る今、最高の贅沢品は感動≠ナある。
感動するためには、そこに到達するまでの凝縮された想いが必要だ。天正の少年使節団が三年かけてたどり着き、目にしたローマと、親に金を払わせて参加したパック旅行で見るローマを比べれば、前者の方が千倍くらい感動が大きいことはいうまでもない。
当然、イタリアを恋い焦がれていた私が初めて生の恋人に触れたときの感動も、人生で二度と味わうことができないくらい大きなものだった。
私のイタリア初体験は一九七三年。そのころ海外旅行は贅沢品で、最も安価なアエロフロートですら片道十七万円とひどく高かった。二ヶ月の長旅用に準備した大きな旅行鞄を二つ持ち、十一人もの友人たちに見送られ、羽田からアエロフロート機でローマを目指した私の心境は、マルコ・ポーロか津田梅子か、不安と気負いがないまぜになったものであった。
二月三日、十四時三十分、星と鎌とハンマーを描いたイリューシンの機体が重々しく離陸した。当時ローマに行くルートは三つ。香港、ニューデリー、アテネを経由する二十四時間フライトのアリタリア南回り便。アンカレッジを経由する十八時間の北極回り便。そしてシベリア上空を横切る最短距離、十四時間のモスクワ経由便。しかしその頃ローマへの直行便はなく、モスクワで一泊し乗換えなくてはならなかった。
アエロフロートは、サービスという言葉がない共産主義国のフライトである。スチュワーデスは、なまりのある英語で最低限のアナウンスしかしないし、その日宿泊するホテル名すら教えてくれないのだ。固いチキンと豆の機内食をとりながらも、厳寒のモスクワに取り残されるのではと、どんどん不安が募っていった。豪雪のためノボシビルスク空港に緊急着陸し二時間をロスした後、現地時間夜十時半、慣れたパイロットは夜目にも白く光るほど凍った滑走路に、いささかの躊躇もなく機体を滑り込ませた。トランジット手続き後、一面銀世界のモスクワをバスで走り、市内のホテルで降ろされた。寒々とした部屋のベッドには、洗いざらしのシーツがたたんだままで置かれている。どうやらベッドメークはセルフサービスらしい。夜遅いせいかお湯もでないので化粧を落とすのは諦める。十センチ四方のつるつるの紙がトイレットペーパーのようだ。固いベッドで眠れないまま悶々と寝返りを打っていると、突然ドアが蹴破られるかと思う勢いでたたかれた。五時半、昨夜フロントで頼んだモーニングコールは人手、いや人の足に頼るものだった。そういえば部屋にはラジオはおろか電話すらない。再びホテルからバスでモスクワ空港へ向かう。今度はほぼ満員になった飛行機が、春の薄日差す昼下がりのローマ上空を旋回し始めたのは、羽田を発って三十時間後である。眼下に海とヴァチカンが見え始めると私の胸は鼓動が聞こえるほど高鳴り、息苦しさで口もきけなくなっていた。
東京外国語大学イタリア語科在学中からイタリア人団体ガイドをして磨いた会話力に、私は充分すぎるほどの自信を持っていた。
私は、入国審査ももどかしく意気揚々と空港の外に出た。いよいよイタリア語の実戦に入るのだ。まず始めに目についた表示は「ストのため空港バス運休」。仕方なく喧騒の中でタクシーを拾い、予約しておいたホテルを目指す。
初めてのイタリア、初めてのローマ、そして初めて接する現地男性となる(?)タクシーの運転手。ローマではしつこく女の尻を追いかけるパッパガッリがいっぱいいると注意されていた。当時イタリアではまだ珍しかった日本女性である私は、この太っちょの中年運転手に早速くどかれるかと身構えていた。しかし彼はバックミラーすら覗かず、私の許可も得ず早春の冷たい風が吹き込む運転席の窓を開けると、くわえタバコで面倒そうにハンドルを握った。日本に来るイタリア人には、ちやほやしてもらい大もてだったのに、本場で見るイタリア人は私にまったく関心を示さない。入国時の高揚した気持ちが萎え始める。やがて車はピラミッドのある城壁跡を過ぎ市街地に入った。昼休み後のラッシュ時で、マナーを無視した車がすさまじい勢いで好き勝手に走っている。そこで突然急ブレーキがかかった。タクシーの運転手は、人差し指と小指を立てたこぶしを車外につき出して叫んだ。「ヴァ・ファン・クーロ!」
ここに至って私の心は凍り付いた。本場で初めて聞いたネーティブのイタリア語が分からない!! 私の四年間って何だったの?
女性としての自信とイタリア語の自信、双方が早々と瓦解した瞬間である。
まだ見ぬ恋人への妄想ばかりをふくらませていた私の初めてのイタリア旅行は、こうして毎日驚きと失望が交錯する贅沢な感動体験となった。
ここが私のデカメロンの旅の出発点だ。
(註:「ヴァファンクーロ」は「けつでも掘ってろ」の罵倒。人差し指と小指を立てたこぶしは、寝取られ男≠指す侮蔑のジェスチャー)
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シモネッタの初デート[#「シモネッタの初デート」はゴシック体]
北区西ヶ原。ここが私の東京、原点である。巣鴨から染井墓地を抜けて徒歩二十分、または大塚から迫る軒先を走り抜けるような都電に揺られて到着する。
昭和四十四年、広島から上京して入学した東京外国語大学は、この、戦前にタイムスリップしたかのような場所にあった。夢いっぱいであこがれの東京に来たはずが、大学近辺で住まいを探すときからどんどん気分が落ち込んでいった。前年父が事業に失敗して家屋敷を失っていたので、送金してもらえる金額はたかが知れている。予算内で見てまわる物件はいずれも日当たりの悪い古アパートで、窓の外には隣のおしめが翻っていたりする。やっと大学の紹介で見つけた下宿は、壊れそうな木造住宅二階の三畳である。ここまでして東京の大学に行くことにこだわったのは、母が自らのかなわぬ夢を娘に投影したからに外ならない。
幼稚園の参観日、大きくなったら何になりたいかを発表させられたときのこと。大半の女の子同様、私も迷うことなく「お母さんになります」と発表した。その後、家に帰る道すがら母はこう言ったのである。「なんでお母さんなんて言ったの? そういうときはお医者さんとか大学の先生とか仕事を言うものよ。お母さんなんて誰でもなれるわ。つまんない」。お母さんだけじゃつまらない≠ニいう言葉は、私の母であることをしあわせと思っていないのでは、というショックとともに幼児の頭にしっかり刷り込まれた。
勉強好き、女学校で常に首席だった母は、東京の大学に進学し仕事を持つ女性になりたかったのだ。しかし下には大学にやるべき四人の弟もおり、不承不承お見合いで資産家の商家に嫁いだのだった。母はこの結婚生活に満足したことがないようだったし、度重なる夫婦喧嘩は、いつも父の「いったい誰に食わしてもらっとるんじゃ?」という決まり文句で終わっていた。
こうして手に職ならぬ、口に職、語学を身につけ自立するために、私はイタリア語科に入学したのである。当時の外語大は八割が男子学生。六年間厳格なカトリック系女学校で純粋培養されてきた私の男に対する免疫は皆無。すぐに熱をあげたのは、教室で隣にいた男の子。なにかを尋ねたとき、「知らねえよ」とかったるそうに答えられ、その東京弁が「まー、やくざっぽくってかっこいい」と思ったのがきっかけである。まったく男を見る目は中学くらいから養っておかないと危険きわまりない。そのうち、彼もおぼこの田舎娘の私を心憎からず思うようになり、デートを重ねるようになった。といっても当時の国立二期校外語大の生徒はいずれも貧しく、近場の喫茶店の一杯百円のコーヒーで数時間おしゃべりするのが精一杯であった。
一年生の晩秋、その彼と思い立って銀座に行くことになった。西ヶ原界隈しか知らない私の「原爆の後都市計画で美しく復興した広島のほうがうんと都会だ。金のほうが銀より上、きっと銀座より広島の目抜き通り金座のほうが進んでいると思う」という一言がきっかけだった。川崎育ちの彼も負けていず、ほんものの都会を見せてやるということになったのだ。しかし有楽町に降り立った後、案内役の彼は日比谷公園の方向に足を向けた。公園なら慣れてるし、薄暗くなればキスくらいできるかも、という下心もあったのかもしれない。
それに銀座ではコーヒーもいったいいくらするのか見当もつかず、喫茶店に入る勇気もない。暮れなずむ公園を散策し、少しお腹もすいた私たちは路上のおでんの屋台に吸い寄せられた。いちばん安そうでお腹も膨れそうなこんにゃくを一本ずつ食べた後、値段を聞いて二人とも青くなった。愛想よかったおやじさんは、突然能面のごとく無表情になり、心なしか声まで低めて「七百円」と言い放ったのである。バイトの日当が千円の時代である。やくざっぽさが身上の彼とて十九歳、「おやじさん、そりゃねえよ」と抗弁する気概もない。言われるままに二人のあり金を供出し、早々にその場を後にし、きまずいまま別方向の帰路につく。私もほぼ文無し、暗くなった染井墓地を歩くのも怖く、大塚で降り都電沿いに三十分も歩いて帰るとお腹もぺこぺこである。賄い付き下宿の部屋には夕食のお膳が置いてあった。冷めきっていてもありがたい。すぐにかぶせてあった布巾を取った私は、その日の緊張が解け初めて小さな声を出して笑った。メーンのおかずがよりによってこんにゃくのみそ田楽だったからである。
その後、万博を契機に二年生のときからイタリア人団体観光客のガイドを始めるようになった。破格の日当のおかげで親に頼らず生活できるようになり、私は二十にして自立した。帝国ホテル、インターナショナルアーケード、歌舞伎座、わが庭のごとくイタリア人を案内できるようになり、着るものも派手になった私には、同級生の男の子たちが物足りなくなり、彼とはほんとうの銀座を歩くことなく自然消滅した。そして卒業後はフリーの通訳として今日まで、幸か不幸か誰にも食わせてもらう≠アともなく生きてきた。
働き始めて十数年経ったとき、両親を東京に招待した。若いころ日産に勤めていて東京出張もしていた父にとってほぼ三十年ぶり、とげぬき地蔵の都電駅で別れた母にとっては十六年ぶりの東京である。着いたその日の夜銀座に連れて行った。資生堂パーラーで食事し、カフェ・ド・ランブルで気難しいママが丁寧に入れるコーヒーを飲む。飲んだコーヒーは十五年前のこんにゃく二本と同じ値段であるが、もうお金の心配をすることもない。これも苦労して東京の大学にやってもらったおかげである。親子三人はそれぞれの思いをかみしめながら言葉少なに夜の銀座を歩いた。その二年後、父が病に侵され旅も叶わなくなった。父母と見た最初で最後の銀座は、遠く自立の一歩を踏み出した西ヶ原の荒涼とした原風景につながっている。
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最大の後悔[#「最大の後悔」はゴシック体]
橋本龍太郎氏の例を持ち出すまでもなく、外国で使う通訳はもっともお手軽な遊び相手である。まず身元は分かっているし、食事も含めて一緒に行動する時間が長い。くどくのにも通訳が必要な海外で、その通訳が若くてかわいければ、一石二鳥。こんな好都合なことはない。もちろん通訳として働いているうちに愛し合うようになり結婚に至ったカップルも多いので、一概に客との関係を禁じるものではないが、お手ごろな遊び相手とみなされるのは心外である。若い頃はそんなくどきからスマートに逃れるのにかなりエネルギーを使った。
お客の常套手段は、まず夕食に誘うこと。しかし計算高いとのそしりを覚悟の上で言うと、通訳にとって客と寝ることは≪百害あって一利なし≫なのである。第一の仮定、客と寝てうまくことが運んだ場合、次回からは仕事の終了後そっちの方もあたり前の条件となり、就労(?)時間が増えてしまう。そして反対にベッドでお気に召していただけなかった場合、次は通訳のお呼びまでかからなくなってしまう。つまり就労機会の喪失である。
女は体を武器にできて良いと言われるが、まさに両刃の刃《やいば》。決して寝ないという信条を崩さなければ、通訳能力だけで判断してもらえるし、長期的には必ず信頼され尊敬されるものなのである。銀座高級クラブのママは、寝ないでも店に来てもらえるよう、話術と美貌で勝負する。通訳は純粋にコミュニケーション能力でリピートを増やす、それが本物の技術というものだろう。
とはいえ、人間なのでもちろんお客さまに男女の気持ちを持つこともある。目で互いに惹かれていることが分かっても、私の場合、体力に問題がある。一日他人になりきり、自分を殺して通訳をした後は、テレビの音もわずらわしいくらい疲れている。夕食時間も少女漫画のごとく目をきらきら輝かせ、しゃれた会話を外国語でするのは正直辛い。風呂上がりのスッピンで自宅でくつろいで食べる食事と、天秤にかけると、やはり楽な方に流れてしまう。また学生時代からの習慣になっている今日の復習、明日の予習≠烽サの日のうちに片づけないと気持ちが悪い。最低限の家事をすませ、翌日良い仕事をするため六、七時間の睡眠をとるのは不可欠。となると、客と食事をし、ロマンティックなバーで少し酔ってベッドインする時間の余裕はない。終電もなくなると自宅までタクシーで帰宅しなくてはならない。事を起こす前のシミュレーションの段階から、今回はパス<a[ドに設定されてしまう。こうして、三十年禁欲的に生きて来た。まったく後悔してないというと嘘になる。なぜなら、この年齢になるともはやその種のお誘いもなくなるからである。
その中で今も最も後悔しているのが、世界屈指のジュエリー会社社長のお誘いである。
四十代、エレガントで知的、物静かかつ控え目、本物の気品が漂っている。私もその日一日おそばにいられる幸せに酔っていたのだが、当日同席していた著名クリエーターである熟女二人も、「何ていい男なの。寝たい男ナンバーワンね」とあけすけに賛美していた。
夕刻五時、仕事も終わりお別れの挨拶をしようという時、急に夕立となった。雷雨のあまりの勢いに主催者は親切にこうおっしゃってくださった。
「田丸さん、B氏に手配しているハイヤーにご一緒に乗って行ってください。ホテルでB氏を降ろしたらそのままご自宅まで車使ってくださいね」
傘も持っていなかった私はありがたくお言葉に甘えることにした。
ホテルまで後部座席にB氏と並んで座った私は、まさに夢見心地の十五分を過ごした。
ホテルの車寄せに近づいたときB氏は、「ラウンジで食前酒でもいかがですか」と意を決したようにおっしゃった。
彼は通訳の私にも決してなれなれしくせず、敬語で話してくれる。内気そうな誘い方がたまらない。まさに願ってもないことだ。が、その時、自制心と良識の塊である私の脳は超高速回転を始めた。
「主催者がハイヤーの乗車記録を見ると、私があの雨の中、ホテルで降りたことがばれてしまう」
雨脚は一向に衰える気配もない。
「うーん、このホテルから最寄りの駅まで遠いし、ここから一時間もかかってラッシュアワーに帰宅するのは辛いな。え、それにもしも食前酒の後部屋に誘われたら……今日の下着は勝負ヴァージョンじゃないぞ」
大半の女性が決定の要因にする下着に至るまで、数秒間でこれだけ考えた私の口からは意に反した言葉が出て来た。
「申し訳ありません。締め切りが迫っている翻訳をかかえていますので今日はこのまま帰ります」
紳士の彼のこと、もちろんそれ以上の無理強いはしない。丁寧に私の通訳にお礼をおっしゃり、ホテルに入られた。帰路車の中で何度引き返そうと思ったことか。
その後、会長に就任したB氏と再会したのは七年後、何と十五歳も若いスペインの美女との新婚旅行も兼ねた来日であった。複雑な気持ちでラブラブの二人を眺めつつ、またも苦い後悔にさいなまれたのは言うまでもない。
「こんな人と寝てこんないいことあった」という自慢を一つくらい胸に秘めて死にたいものだが、今となってはもはやその可能性は限りなく無に近い。
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はずれ馬券[#「はずれ馬券」はゴシック体]
会議通訳者は一種の季節労働者である。書き入れ時は会議やイベントが最も多くなる秋で、反対にヴァカンス・シーズンの八月とクリスマスのある十二月は暇になる。秋に会議が重なると同時通訳の確保が難しくなるので、恒例になっている会議の場合、数年先まで予約されることもある。定期的に行われる会議は、内容も熟知しているうえ収入の保証にもなるので、通訳者にとっては非常にありがたい。それに役得ともいえる恩典がついていれば最高だ。
友人のフランス語通訳者は、もう十年近くフランス語を公用語にして行われている世界まぐろ会議≠フ通訳をしている。これはまぐろ漁を行っている国が年に一度集まって漁獲量などを決めるもので、開催場所はスペインのマジョルカ島などまぐろ漁の拠点。かじきまぐろ、めばちまぐろ、くろまぐろ、様々なまぐろの名前さえ覚えておけば内容は簡単である。毎年、気心も知れたお客様たちと風光明媚な地中海のリゾート地で過ごす一週間は、彼女にとって何よりの骨休めになっているとか。実にうらやましい。しかし現実は、こんなおいしい仕事はめったにない。たとえあったとしても、勉強ばかりして世事に疎い通訳は、みすみすその幸運を逃すことが多いのだ。
秋恒例の国際競馬会議は、十一月末のジャパンカップに合わせて十年以上にわたって開催されている。これは、各国の競馬主催団体や馬主がそれぞれの国の業界が抱える課題や問題について毎年意見交換をするものである。まだご存じない方が多いのだが、馬主は≪うまぬし≫。間違っても≪ばぬし≫と言わないようエージェントからも口を酸っぱくして注意される。これは、博徒、博労、罵倒、馬鹿、罵詈雑言など≪ば≫のつく言葉にあまり良いものがないことをふまえ、馬主のイメージアップのためにまず呼び方を変える必要があると判断した馬主協会の決定事項である。テレビキャンペーンも実施されたのだが、新しい読み方はなかなか浸透せず、一般の方々に≪うまぬし≫と言うと、まだ怪訝な顔をされる。しかし決してめげず≪うまぬし≫を使い続ける。本番の際、ぽろっと≪ばぬし≫と発音してしまうことがないよう日頃から慣れておくためである。
なぜなら英語通訳の友人からこんな事例を聞いたからだ。アメリカのペットフードのメーカーが日本の獣医さんを招待して、製品のプロモーション会議を開催した。このとき通訳していた彼女が何気なく、「ではえさの成分表をご覧下さい」と訳したところ、即座に主催者側スタッフが怒りの形相でブースに飛んで来てどなった。
「≪えさ≫じゃない。≪フード≫だ!」
お客様のお犬様、お猫様に対して≪えさ≫とは確かに不謹慎でありました……通訳が震え上がったほどのお怒りを聞いて、主催者であられる≪うまぬし≫様の逆鱗に触れないよう、普段からこの発音に慣れるよう努力しているのである。
二〇〇二年に久しぶりに馬主会議で通訳を務めることになり、前回の資料を見直した。資料の中に「イタリアは全国馬種増殖協会を通じて内国産の馬の品種向上に積極的に取り組んでおり、三、四年後をめどにジャパンカップに出走できるような馬を育てたいと思っている」との発言要旨を見付けた。あれからちょうど三年後のその年、イタリア馬ファルブラフが出ている。イタリアが珍しく計画通りにことを進めているのに感心した。二〇〇二年の馬主会議では、馬主が思うように増えないこと、税控除などの税制上の不備、他の賭事に押されていることなど、気弱な発言をする国が多かったのだが、イタリア代表は中で一人気をはいていた。今や国際レースに活躍する馬を多く輩出しているだけではなく、イタリア人騎手の活躍も目ざましい。自信に溢れた発言も当然だった。
会議の後の歓迎夕食会で、イタリア代表が私に耳打ちして言った。「今年出ているファルブラフはすごく良く仕上がっているよ。騎手のデットーリは常勝将軍の異名をとる手練《てだ》れなので、あさっては絶対来る。君も今日の通訳代を単勝につぎこむべきだよ」
昔リラ建て債券の売り込みに来た金融界の人の通訳をしたとき、セールストークの内容を信じて、売りだしと同時に買い求めて大損(庶民にとって)したことがある。爾来、仕事で知り得た情報には絶対乗らないことを家訓にして自分の欲の皮を抑制している。
でも今回ばかりはちょっと興味を惹かれた。オッズを見ると三十倍。「明日考えよう」。いつも通りスカーレット・オハラのせりふをつぶやいて床についた。そして、これもいつも通り、翌日はすっかり忘れていた。ジャパンカップ当日のレース直前に気付いた。でももう遅い。大体馬券ってどうやって買うの? 馬券売り場って行ったこともないし、確か電話でも買えるようなことを言っていたな、と気楽にテレビの前に座った私の顔が数分後にこわばった。ファルブラフ一位、単勝で二〇・五倍!! ああ、彼の言う通り十万円つぎこんでいれば二百五万円に化けていたのだ。地団太を踏むが、時すでに遅し。
それにしても一日で三十倍から二十倍にオッズが落ちたということは、ファルブラフを直前に買った人が多かったということ。デットーリ騎手は前日のダートコースも制したという。それを知っていればさすがの私でも、場外馬券売り場に駆けつけたに違いない。親切なイタリア人のアドヴァイスを無視してしまったのが悔やまれる。
そういえば、悔やむことは多々ある。けんもほろろにふった相手が実はミスター・超スーパー・リッチで、モナコの高級マンションを愛人にぽんとあげたと分かったときだ。マンションほどではないが、「君にあげるよ」と言われたものを「そんな高価なものはいただけません」と断ると相手はあっさり退いた。また、他の仕事が入っていて、イスキア島の世界温泉会議の仕事に行けなかったこと。あれも、これも、と思い出し始め切歯扼腕、苛立ちがつのっていく。実に人生は後悔の連続である。
帰宅した息子にファルブラフの一件をかこつと、彼はこともなげに言った。
「あんたが馬券買ってたら、ファルブラフは絶対負けてた。人間の運というのはそういうもんなんだよ」
うむ、若いに似合わず悟りの境地に近づいている。怒りが静まり始めた私に彼は付け加えた。
「青い鳥は近くにいるんだ。あんたにとってもっとも安全確実な単勝馬券は俺だよ。だから、もっと金くれ」
結局金をせびるだけの、とんでもないはずれ馬券のドラ息子であった。
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恥ずかしい発音[#「恥ずかしい発音」はゴシック体]
イタリア語は日本人にとって最も発音しやすい言語ではないだろうか。ほとんどローマ字読みでいいし、母音で終わり、あいまい発音も少ない。この共通点からイタリア人も日本語を上手に発音する。一方、子音が多い英米系の外国人はイタリア語、日本語双方の発音に苦労している。イタリア語はイントネーションも音楽的で美しいが、赤面する言葉がしょっちゅう使われるのには閉口する。それが乾杯の時にいう「チンチン」。ちなみに男性器はイタリア語ではカッツォといい、勝男という名も笑われるし、日本で「かつ」という発音を聞くたびに彼らは大笑いする。日本語の「閣下」という発音も問題だ。イタリア語では「うんち」のことで、大使などえらい人の名前の後に付けて呼ぶと、「くそ野郎」と呼ばれているように聞こえるのだ。
その昔、団体ガイドとしてホテルに設置された案内デスクにいたときのこと。私は翌日の日光ツアーの希望者に名を書き入れてもらうため「参加者名」と書いた紙を張り出していた。隣のデスクにいた英語ガイドが、怪訝な顔で「どう発音するの?」と聞いてきた。
「参加者という意味で≪パルテチパンティ≫って発音するのよ」
そう答えると、箸がころんでもおかしい年頃の彼女は大笑いを始めた。
「パンティなんていやらしいわね」
そのうち、昼食を終えたイタリア人がデスクにやってきて自分の名前を一番に書き入れた。それを見た私たち二人は、何事かと不審な顔を向けるイタリア人をさしおいて死ぬほど笑いころげた。彼の名前がマンクーソ≠セったからである。
あるグループが日本を出発する際のこと、私は空港のロビーで搭乗口に向かう彼らを見送っていたのだが、メンバーの一人の青年が私に向かって大きな声で叫んだ。
「ティ・マンコ?」
見送りコーナーの人は何事かと私を見つめている。いつもは全員が見えなくなるまで見送るのだが、その時はいたたまれずそそくさとその場を立ち去った。それは「僕がいなくなると寂しい?」という別れの言葉だったのだが、ロマンティックには聞こえないのは、欠けるとか足りないを意味するマンカーレ≠ニいう動詞の活用が原因で、マンコ、マンキ、マンカと声を出すのもはばかられる発音が続くのである。
その後商談通訳をしたときには、さらに恐ろしい事態に遭遇した。「見てください。規定より八十五グラム足りないのです」。サンプルを見せながらの日本側の発言を、イタリア人数名に向かって大きな声で訳さなくてはいけなかったのだ。数字の85の発音がこれまた微妙でマンカノ・オッタンタ・チンクェ≠ェ、下手すると日本人の耳にはマンコ・オッタッタ・チンコ≠ノ聞こえてしまうのだ。日本側はこらえきれずくすくす笑い始めた。これで固い場がなごんで良かったのだが、二十代の私には拷問に等しかった。
面の皮が厚くなった今、通訳養成授業で若い女の子にこの動詞活用を音読させている私はサドなのだろうか。
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若気の至り[#「若気の至り」はゴシック体]
最近日本人の学力が低下していることが問題になっている。通訳講座で教えている先生も、「昔のほうが一般的にレベルが高かった。今はイタリア語だけでなく、一般常識も日本語能力も落ちている」と嘆き、「しかも、できもしないのに平気でお金をもらって通訳している。まったく今の若い子は……」とお決りの言葉で苛立ちをあらわにしていた。
しかし見方を変えれば、「世間知らずゆえの無鉄砲」状態になれる特権もまた若さゆえではないか。第一、その種の誤解と思い込みが無ければ、通訳なんて仕事はできない。知らない単語も多く、社会常識すらない状態でいきなり現場に飛び込む度胸は、分別が付いた大人ならとても持てないはずなのだ。
私も大学二年のとき、単語数わずか二百余り、活用もろくに覚えていない状況で、イタリア人団体を十三日間日本中案内してまわる仕事を引き受けた。その仕事もひどいできだったが、当時アルバイトでやったイタリア語、英語への翻訳を思い出すと、申しわけなさに今でも身が縮む。当時は在日外国人も殆どいなかったので、ネーティブ・チェックも受けず平気で提出していたのだ。学生に翻訳を頼むくらいだから、依頼した会社も多くを期待していなかったとは思うのだが、輸出用の化粧品パッケージに印刷する英語翻訳をやったこともあるのだ。「毎日ご使用になると色白のお肌になります」という文中の「色白」を white だと死人、pale だと病人に見えるなあ、と迷って transparent とやったような気がする。fair が正しいらしいが、骨が透けて見える顔を想像して購入を思いとどまった人もいたかもしれない。しかし輸出先はインドネシア、もしかするとホワイトにした方が良く売れたかも、などと今も反省しきりである。
ローマ観光案内番組の冒頭にイタリア語のアナウンスを流すので、アリタリアのスチュワーデスになったつもりでイタリア語を言ってくれというテレビ局の仕事もあった。
イタリアに行ったことも、アリタリアに乗ったこともない学生に頼む見識を疑うが、当時の、外国語に対する認識の低さが窺える。せめて事前に言ってくれていたら、アリタリアの日本支社に頼んで機内アナウンスの原稿をもらえたかもしれないのだ。そのとき、いきなり言われ、「できません」と言えなかったばかりにテープに吹き込んだ私のアナウンスを日本語バージョンにすると、次のようなものだったろう。
「紳士淑女の皆さん、この飛行機、ローマ、フィウミチーノ空港にすぐ着く。多分、到着まで、あと二十分。みんなで、ローマを楽しみましょ」
今思い出しても赤面する。
有名なセックスレポートの先駆けであるキンゼー報告を英語から日本語に下訳したこともある。三十年以上前のことで、当時は、スキャンダラス極まりない赤裸々な内容が話題になっていた。その翻訳を男性とつきあったこともない私が引き受けたことも、良識欠如の実例だ。もしかするとcome(行く)≠、頭をかしげながら来る≠ニ訳したかもしれない。いや、きっとそうに違いない。ああ、私に若い人を責める資格はない。
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見たくないの?[#「見たくないの?」はゴシック体]
ある日の新聞記事で、大物バリトン歌手レナート・ブルゾンが、サントリーホールで公演中に体調を崩し、突然、数小節飛ばして歌いオーケストラをあわてさせた後、ついには歌えなくなり途中降板したことが報じられていた。何度も歌っている得意演目で、あれほどの大物が失態を演じたことに思わず背筋を伸ばした。事実、通訳も日によっておもしろいように言葉が出るときもあれば、イライラするほど出ないときもある。スポーツ選手同様、本番でベストコンディションに持ち込むのがプロの義務なのだろうが、これがなかなか難しい。
また本番での出来不出来は、準備時間の長さに比例しないのも不思議である。多くの関連文献を読み膨大な語彙集を作り、原稿をべた訳し完璧な態勢で臨んだ人よりも、ろくに準備もせず、原稿もメモ程度の訳の人の方がはるかに生き生きと上手に訳したりすることがある。これは才能だけではない。本番に興奮物質アドレナリンをうまく分泌できるかどうかにもかかっているのだ。だから「あがる」という状況もそう悪いものでもない。そのホルモンをうまく使うと、神がかり的妙技に変化させることも可能だからである。
この「本番に向かい緊張を高めていく」最適の場が、同時通訳ブースである。耳にヘッドホンをつけてマイクの前に座ると、自然に気分が高まってくる。マイクは人を高揚させる恰好の小道具なのだ。とりわけ日本人は、カラオケのマイクを奪い合い人殺しまでした者もいるほどのマイク好き。普段はおとなしい人もひとたびマイクを手にすると豹変する。日本人がスピーチ好きなのもここに由来しているのかもしれない。現にマイクで美辞麗句をとうとうと読み上げた人が、いざ膝突き合わせてのフリートークとなると突如、寡黙になってしまうことも多いのだ。
日本で電車の最後尾に乗ったイタリア人が驚いて報告してきたことがある。節をつけて♂w名をアナウンスしていた車掌をガラス越しに見ると、まるで歌手のようにマイクを持ち、うっとりと目をつぶっていたと。駅での過剰なアナウンスは、彼らが一種のカラオケ的自己表現をしたがるせいなのかもしれない。通訳も同類なのか、友人のUさんなど、普段話すときは貧しい語彙しか使わないのに、いざブースに入ると「正念場」だの、「合従連衡《がつしようれんこう》」だの、かっこいい言葉を機関銃のように口から発する。マイクの魔力としか思えない。
通訳がマイクを前にスピーカーに一体化していく場所がブースなのだが、普通はお客様の目にふれない場所に設置してある。お客様との接点はマイクを通す音のみなので、その分、耳に注意が集中される。サイマル・インターナショナルの社長でもあった小松氏と多言語同時通訳会議でご一緒したときは、各通訳がこの大先輩に細かいところまで厳しく注意され、ありがたかったものである。
「○○さん、あなたが水を飲む音がマイクに入ってましたよ。音をたてず飲んでください」、「○語のブース、書類をめくる音がひどく耳ざわりでした。注意してください」。私への注意は、「あなたは発言者の冗談を、笑ってから訳し始めましたね。お客様より先に笑うのは大変失礼なことです」。なるほどと思えることばかりである。
マイクの性能は良くなるばかりなので、ブース内でも耳をそばだてているお客様に気を使わなければならない。十年前のこと、同じ日にイタリア語同時通訳会議が二件重なったため、五時間の金融セミナーを二人で通訳することになった。パートナーは、おりしも臨月で通常でも息が上がり、はっはっ≠ニ短い息つぎをしていた。午後になると疲れもピークで、私も気付かないうちにはー≠ニいう長いため息の息つぎで通訳していたらしい。終了後のパーティで、「いやー、今日の通訳の内容はほとんど頭に残ってないね。だって女性二人のなまめかしいため息ばかりが気になって、変な気分になりましたよ」と知り合いの参加者に言われてしまった。
そしてブース内の機器。これが結構複雑で、イタリア語・日本語に訳すときのマイク切り替え、相棒と交代のマイク切り替え、オリジナル言語と他言語日本語訳をリレーで聞くときのチャンネル選び、危機管理ならぬ機器管理にも気を使う。器械には一瞬、マイクをオフにできるミュート(コフ)スイッチがある。これは、咳をするときや相棒が大きな間違いをし急いで教えるとき、自分が訳しているときに「○○って何?」とパートナーに聞くときなど、非常時に便利に使えるものである。またそのすぐ下に、通常は用をなさないスロースイッチがある。スピーカーが早口すぎるとき押すと、演台のランプが点灯し警告を発する仕組みだが、その設備がついている演台が少ないので、ほとんど無用の長物と化している。
ある会議で通訳が、ミュートスイッチのつもりでスロースイッチを押しつつ、「こんな馬鹿らしい会議やってらんないよ」と隣のパートナーに愚痴ったからたまらない。まじめに営業会議をしている全員に聞こえ、その後顧客からこっぴどく叱られたその通訳は、エージェントから二度とお呼びがかからなくなってしまった。密室のブースの中はこんな思いがけないエピソードの現場なのである。
仏語の男性通訳二人がブースに入ったとき、一人がおならをして、こらえきれず相棒が怒ってブースを飛び出した話は有名である。臭気がこもってもなかなか換気できないブース内は当然、温度調整も難しい。壁に小さなファンがあるが、余り効果はない。
一度、旧紡績工場をイベントスペースに改装した木造の二階で通訳したことがある。時は八月末、二階隅には熱気がこもり、冷房はほとんど効かない。汗だくでとても通訳に集中できない。機材・録音担当の美青年が机に急遽《きゆうきよ》ミニ扇風機をつけてくれたのだが、回転音がうるさく聞き取りの障害になる。ブースドアは開け放して通訳していたのだが、暑さはひどくなるばかり。ついにはロングスカートを膝まで引き上げ、すぐ外に座っているその青年に訴えた。「すみません、中はスカートまくりあげたくなるほど暑いんですけど」。軽い冗談のつもりだったのに、この青年それを聞くと、はじかれたように立ち上がり、「じゃあ、どうぞ」と言いながらブースの扉を思いっきり閉めたのである。これにはかなり傷ついた。私のスカートめくりは、そんなに見たくないものなのか!!
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ある子役俳優の思い出[#「ある子役俳優の思い出」はゴシック体]
一九七四年にイタリア映画に出演する男優の付き人通訳をしたことがある。男優が六歳の子供だったので、半分はベビーシッターの仕事といってよい。日本では公開されなかったこの映画は、イタリア人男優バッド・スペンサー主演の大人気アクション刑事映画『ピエドーネ』のシリーズである。この映画に、当時話題の日本の名子役を起用することになったのだが、日本はロケのアクションシーンの撮影許可が煩雑、撮影クルーの滞在費も割高と分かり、急遽『香港のピエドーネ』にタイトルを変更、香港とナポリでロケをすることになった。子役のお母さんは英語も話せず、海外に行ったこともない。両地とも英語・イタリア語双方が話せる同一の通訳が日本から同行、同室で過ごすという条件で出演契約がまとまった。
私には、子役=鼻持ちならないわがままというイメージがあり、この仕事を引き受けるのに躊躇したものの、会ってみると本人はいたく子供らしく明るくて素直。お母さんは早婚で私と年齢も近いことからすぐに仲良くなった。蒲田で焼肉屋を営んでいるお父さんは息子を溺愛していた。目のくりくりした愛らしい息子は美人のお母さん似、一方五歳離れた彼のお姉さんは、お父さん似なのか、とても美人とはいえない。お母さんは人気子役の弟につきっきりでいつも留守、家族内に一人スターがでると、いつも他の兄弟が割を食う。誰も注目してくれないお姉ちゃんの心のひずみを想像した私は、この子がまっすぐ育ってくれるといいな、と密かに心配したものである。
十一月に香港ロケ。十一日間のうち、衣装合わせや労働ヴィザ取得の事務手続きなどを除くと、純粋に撮影に付き添ったのはわずか三日で、あとの待機時間はひたすら観光、買物、美食の日々。天才子役君、どうも泣くシーンが苦手らしく前日からうまくできるか心配していたが、その彼を寝かせてお母さんと私はお気楽にナイトクラブにショーを見に行ったりしていた。
翌年の一月にナポリロケ。ナポリの夕食が通常夜十時からで、レストランが九時からしか開かないのには苦労した。彼がお腹を空かせたまま寝入ってしまったことも数度ある。
そんな状況でもプロ根性のある彼は、監督さんの指示通り見事に演技を決める。映画の最後のシーンは海辺のレストランで、彼はトマトスパゲッティを口のまわりを真っ赤にしてかき込むシーンをこなさなくてはならない。角度を変えて何度も撮り直しがある。もううんざりするくらい食べているのに、彼はカチンコの合図で毎回おいしそうにもくもくとスパゲッティを口に運ぶ。日本料理店もないナポリでは、もうパスタは嫌、おにぎりが食べたいとぐずっていたのに、こんなに幼いのに仕事≠わきまえている。どこか痛ましいものを感じた。良い子に徹していた彼も本当は辛かったに違いない。帰路、飛行機が離陸したときから、気がゆるんだのか機中でもどし始めた。
帰国後、女性週刊誌に彼の作文が載った。
「ぼくはママとイタリアごがしゃべれるおねえさんとひこうきでイタリアに行きました。
いっしょにえいがにでたスペンサーさんは、とてもゆうめいらしいです。ぼくもはやくゆうめいになりたいです。おねえさんが、だいじょうぶと言ってくれました。おしごとは、とてもたのしかったです。にほんにかえるまえ、いいゆめをみました。ぼくが大スターになっているゆめです」
あれから二十五年後、彼の名前を久しぶりに新聞紙上で見つけ、私は胸ふさがる思いであった。子連れ狼の子役、K・N君、三十一歳。借金のトラブルが原因の殺人容疑で逮捕とある。あの暖かく平凡だった家庭の歯車は、どこから狂い始めたのだろうか。
『子連れ狼』は今もイタリアのテレビで繰り返し放送されており、彼は思い出の国イタリアで幼い姿のまま有名スターになっている。彼の夢はこんな形で叶ったのだ。
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最大の役得[#「最大の役得」はゴシック体]
通訳、ガイドとも役得というおまけがつくことが多い。ただ飯≠烽サの一つ。私も仕事で吉兆、福田家などの高級料亭はもちろんのこと、エノテカ・ピンキオーリ、マキシム、トゥールダルジャンなどの高級料理店を総なめにしている。
最近、イタリア語通訳に人気が高いのは幕張で毎年開催されるフーデックスとか。国際食品見本市の最終日は、試食に供した後残ったサンプルを配る。運動靴にリュックを装備してワイン、オリーブオイル、チーズ、生ハムなどをつめこんで持ち帰る通訳、戦利品が余りに多く、数個の宅配便を自宅に送る通訳もいるらしい。
この私の最大級の役得が大学の最終年度にガイドをしたグループで、イタリアホテルオーナーズ協会会員の総勢七十人。そしてその数週間後には、フロント、ベルデスク、バーマン、ルームメイドさんたちで構成されているホテル従業員協会のグループのガイドもした。これでイタリア全土のホテルにつてができ、卒業後訪れたローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェニス、すべて一流ホテルのオーナーにただで泊めてもらい、ホテル内では、フロント長のコンシェルジュにオペラの切符をプレゼントされ、バーマンにはバーで飲み物をおごられたりと、本当にかゆい所に手のとどく歓待を受けた。
通訳と違い、ガイドはグループなので一気に知り合いが増える。しかも一緒に一週間も旅行すると気心もしれ、帰国の際はみんな住所をくれ、泊まりに来いと招待してくれる。三年もするとそれもかなりの数になり、一年はまちがいなくイタリア各地居候の旅ができるくらいになる。事実、南イタリアは一人旅の不安もあり、すべてお客様の家庭に泊めていただいた。シチリアの客人に対する歓待ぶりはとりわけ暖かく、ありがたさもひとしおであった。そうそう、うちの息子≠竍うちの甥≠フ嫁にと見初められたことも数回あった。
その中でも忘れられない強烈なお客様がいらした。ガイドする客は四名と少ない。しかも出発地は韓国のソウル。興味津々、羽田に向かう。飛行機から降り立った男性四名は、ストライプの高級そうなダブルスーツをまとい、眼光するどく、あまり笑わない。かったるい、といった雰囲気で観光にもさして興味がなさそう。彼らの会話を聞くともなく聞いていると、
「最後のゲームがまずかったな、昨夜だけで三千万の損だぜ」
「俺なんか、トータル六千万の大損だよ。やってられないぜ」
当時のリラとの換金レートは半分なので、日本円でその半分の金額。目の玉の飛びでるような大金を軽く口に出している。なんと、彼らは世界中にその名を知られたイタリアのギャンブラー。ソウルのウォーカーヒルがファーストクラスにスイートルーム、食事付き、帰路の日本旅行もサービスしてご招待した人たちなのだ。もちろん、超美人の女性も期間中、付けていたようで、その話でも盛りあがっていた。これだけのお金をカジノに落としてくれるのなら安いものなのだろう。イタリアにも公営カジノは数カ所設置されているが、プロのギャンブラーからここまでお金を巻き上げる韓国のシステムは圧巻というべきか。
ともかく数日御案内して、冗談を言い合える仲になったころお別れのときがやってきた。中の一人の苗字がずっと気にかかっていた。ガンビーノとある。恐る恐る聞いてみる。
「あのー、ジョン・ガンビーノさんてご存じ?」
「うん、叔父だよ」
ニューヨーク、コザノストラの大ボスの甥とは驚き。彼自身もナポリの巨大犯罪組織カモッラの重鎮らしいということも分かった。
いよいよお別れの時、彼は言った。
「君にはいろいろ世話になった。何か僕にできることがあればやるから遠慮なく言いたまえ」
「えー、実は殺してもらいたい男がいるんですけど」
もちろん冗談のつもりだったのだが、ガンビーノ氏は、笑いもせず、即座に答えた。
「お安い御用だよ。そいつをイタリアに連れて来てくれたら、いつでもOKだ」
これぞ最大の役得というべきか。なぜか夫は今もなかなかイタリア旅行の誘いにのってくれない。
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あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
雑誌「経済界」に二年間連載した「イタリア的恋愛術のすすめ」を中心に集め、四年ぶりに二作目を出版することになった。今回も敏腕編集者花田さんが、つかず、離れず、せかさず¢メち、前回同様一気呵成に本にしてくださった。
十四世紀の書『デカメロン』をタイトルにしたのは、私にとって既に遠い記憶のかなたにある「昔話」が多いからである。そう、私が毎回「今日会うお客様はどんな方々なのだろうか」と好奇心いっぱいで仕事先に出かけていたころの話だ。
今はというと、新しいテーマの仕事も新しいお客様に会うのも、ひどくおっくうになっている。これは年をとった証に他ならない。昔は家族の帰宅を飛ぶように迎えに出て全身で喜びを表現したわが家の犬だって、今は寝転がったまま動かない。人も犬も好奇心を失って行く。年をとった者ばかりではない。わが家の息子は弱冠十八歳のとき、「二股? 俺やらねえよ。新しいガールフレンドに、また一から自分のこと話すのってかったるいよ。ばれないようにカノジョに嘘つくのも面倒だしー」と言っていた。日本人って若くてもつい面倒がってしまうのだ。
それに引き換えイタリア人たちの元気なこと。いくつになっても他人に対する好奇心を失わないし、自分のことを語る情熱も持ちつづける。かわいい女の子がいれば、足を止め褒める。そして後先のことは考えず、まずはくどいてみる。その際も人の話を聞く前に、自分のことを先に語る。かれらは濃密な人生を生きるエネルギーの塊だ。
そういえばイタリアは、昔巨額の財政赤字を抱え、欧州のお荷物といわれていた国だ。それが何故か諸条件をクリアし、第一陣からちゃんとEUの通貨統合に参加している。人生を目一杯楽しみつつも、ここ一番でちゃっかりつじつまを合わせてしまうのがイタリアなのである。
ローマ・オリンピックのときも、九〇年のサッカー・ワールドカップのときもそうだった。本来なまけもので個人主義、計画性と組織力に欠けているため、準備は遅れに遅れ、間に合わないかとひやひやさせるのに、最後は火事場の馬鹿力であっという間に完成させ、おいしい食事と楽しい国民性で参加者全員を楽しませてくれるのである。
一九九一年以降のバブル崩壊の折、意気消沈する日本人を見て、イタリア人はみなあきれたものだ。
「失業率と金利が一桁で、経常収支が黒字の国が、なんでこんなに大騒ぎするんだ。俺たちは貸し出し金利二〇パーセント、失業率一二パーセントの国で商売し、人生を謳歌している。為政者が次々と替わる国に生きてきた俺たちは打たれ強いんだ。日本人はまだまだだな」
逆風の中で元気をなくしている今こそ、イタリア人を見習い、苦境を楽しく生き抜くノウハウを学ぶときではないだろうか。
さてこの私、今日まで百戦錬磨の俊足ラグビー選手のごとく、イタリア男のくどきをあの手この手で振り切ってきた。そして見事トライを決めて、ふと後ろを振り返れば、もはやフィールドには追ってくる男の姿もない。
イタリア屈指のお金持ち、楽しいマッチョ、逃した魚は大きい。しかし今となってはもはや悟りを開いた菩薩の心境。明鏡止水の気持ちで三十年間のエピソードの数々を読者の方々に語らせていただいた。
大いに笑って明日へのエネルギーにつなげていただければ幸いである。
二〇〇五年六月
[#地付き]田丸公美子
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解説にかえて
田丸公美子×米原万里
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米原万里[#「米原万里」はゴシック体]《よねはら・まり》
元ロシア語会議通訳、作家。東京都生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒、東京大学大学院露語露文学修士課程修了。著書『不実な美女か貞淑な醜女か』で読売文学賞、『魔女の1ダース』で講談社エッセイ賞、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で大宅壮一ノンフィクション賞、『オリガ・モリソヴナの反語法』でドゥマゴ文学賞を受賞。二〇〇六年逝去。
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米原[#「米原」はゴシック体] 『シモネッタのデカメロン』すっごく面白かったけど勿体ないよ。四冊分ぐらいのネタをギューッと詰め込んでるんだもん。もっと稀釈して嘘も入れたらいいのに……読者はお得だけど。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 万里の新刊『パンツの面目ふんどしの沽券』は民族学的、人類学的で、私みたいなお手軽なエッセイと違って文献もすごい。私は中身に、あなたは容器にしか興味がないから、パンツ。
米原[#「米原」はゴシック体] ハハハ。二人ともシモネッタだけど分業してるのね。私はスカトロ系で、田丸はエロス系だから競合しないんだ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] ただ万里はスカトロ学術系ね。私、学術のガの字も全然ないから。
米原[#「米原」はゴシック体] 学術系じゃなくて、経験不足を文献で補ってるの。田丸だって、自分のエロス体験不足を棚に上げて他人の話ばかりじゃないの。若き日の自分を語るところは清く貧しく美しくを地で行ってて微笑ましい。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 実は書けなかったけど、私の上を通りすぎていった男が大勢いて……(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] いや、絶対にない。私より少ない。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 万里とはシモネタ小話で盛り上がっても、お互い自分の体験談は一切しないものね。秘すれば花。『デカメロン』の境地には到達できない。
米原[#「米原」はゴシック体] でも何でこんなにたくさん色々なネタが集まったの? まさか毎回お客に性生活についてインタビューしてたの?
田丸[#「田丸」はゴシック体] 向こうから話すの。学生時代から聞かされてる。
米原[#「米原」はゴシック体] ふつう外国人の異性にここまで話すか? 塩野七生さんとか須賀敦子さんにイタリア男がそんな話している図は浮かばないよ。私の妹も三年ほどイタリアで料理修業をしてたんだけど、妹から聞くイタリア人観と、田丸の本から浮かび上がるそれとはかなりずれるんだよね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] やっぱり私のフェロモンのせいね。
米原[#「米原」はゴシック体] フェロモンがないからよ、おそらく(笑)。話を聞いてもらう尼さんなのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 寂しい。やる女じゃないの?
米原[#「米原」はゴシック体] やる女にはこんな話はしないよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 日常の会話だよ、イタリア人にとっては。万里は『デカメロン』は読んだ?
米原[#「米原」はゴシック体] 家の本棚に文庫があって、中学のころ読んだ。艶笑話《えんしようばなし》ばかりで、最初興味津々だったけど、ウンザリしちゃった。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 健康な性欲の塊の男女たちが、恥じらいもなく、明るく堂々と話すの。私、イタリア語に「厭世的《えんせいてき》」という言葉はないんじゃないかと思うわ。
米原[#「米原」はゴシック体] ところがね、私の妹は、とにかく女がいたらくどかなくてはいけないというイタリア文化の中に身を置くのは、そういうことを人前で表明するのをはしたないとする日本のような文化に身を置くのと同じくらいに辛いものだと言うの。例えば通りの向こう側をすごい美人が歩いていたとする。日本の男なら、通りを渡って声をかけたいのを自制する。イタリア男は、内心どうでもいいと思っていたとしても、通りを横切って声をかけなくてはならない。
田丸[#「田丸」はゴシック体] そうでないと男とみなされないと。
米原[#「米原」はゴシック体] そうそう。いつも女に興味があるふりをし続けてなくてはならないのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 私だってあえてシモネタ好きを演じてるのよ。今度の本を出すのも恥ずかしくて、つい、いい年をして、とか思っちゃうのね。
米原[#「米原」はゴシック体] うーん、演じているだけで、ここまでシモネタは集められないよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] ボッカッチョはペトラルカと同じ時代じゃない。最高のラテン語使いで、薫り高い文芸作家のペトラルカに、ボッカッチョは心酔しきっていたのね。ところがペトラルカは、君の才能は認めるが『デカメロン』は愚作だと言ったのよ。俗語のイタリア語を使わないで、ラテン語でもっと高尚なものを書きたまえと言われて、ボッカッチョは自分の書いた『デカメロン』の卑俗性を恥じ、ラテン語で学術書を書き始めたけれども、全てが中途半端で、どんどん落ち込んでいった。だから私はあなたの路線を踏襲しないで、卑俗だけど、堂々とふてぶてしくエロスを追求する。路線を変更しちゃいけないのよ。
米原[#「米原」はゴシック体] おっ、ボッカッチョに自分をたとえてしまいますか! それなら、ほら、よがり声が漏れないように寝室の壁をコルク貼りにした社長の話とか、以前田丸が話してくれたもっと赤裸々な話を入れるべきだよ。まあ、次回のお楽しみってとこかな(笑)。
田丸[#「田丸」はゴシック体] イタリア男は女を見たらくどくのが礼儀とか言われてたじゃない。ところがEUに組み込まれたせいか、彼らもかなりビジネスライクになったなと思ってたの。先日仕事した社長も、そばで訳す私に一切関心を示さなかったのよ。ところが午後、すごく美人のインタビュアーがきて、「まず来日の目的をお伺いします」と言ったら、「あなたに会うためです」(笑)。「それでは第二の目的は?」「あなたを夕食に誘うことです」(笑)。やっぱり変わってないのよ。女を選び始めただけなの。三〇年経ってやっと黒子の通訳になれたと、喜ぶべきなのかな。
米原[#「米原」はゴシック体] イタリアではセクハラをしないことがセクハラだって書いてるよね。日本だと、「Aさん、今日のスーツ素敵だね、口紅も新しくしたんじゃない?」と言っただけでセクハラになる。BさんにもCさんにも言わないで、美人のAさんにしか言わないから。イタリア男は、美人だろうとブスだろうと、職場の女全員に声をかける。
田丸[#「田丸」はゴシック体] だからブスも誤解してブスだという自覚がなくなり、幸せに過ごせる。
──全員をとりあえずくどくにしても、男にも好みがあるわけですし、ちゃんと本命にはサインを出しているんですか。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 好み? いつでも誰とでもできるのが男というものです。好き嫌いを言ってはいけません。女を幸せにするのが男の務めだから。微力ながら務めなくては。
──お仕事みたいじゃないですか(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] 妹がイタリアで勤めていたとき、毎朝、男たちに「結婚しようよ」「さもないと僕は身の破滅だ」とか言われ続けて、そのうち言語中枢に達するときには「おはよう」としか聞こえなくなるわけ。イタリア女性は毎日そう言われ慣れてるから、「こんにちは」「やあ」ぐらいにしか聞こえないのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] ところが日本から来た女の子が、その気になって、ほんとに寝ちゃうから、くどいた男も困ってたりするのよ。
米原[#「米原」はゴシック体] 挨拶のつもりだったのに。
田丸[#「田丸」はゴシック体] いつのまにかベッドにいるぜ。
米原[#「米原」はゴシック体] 男にとって誰でも見境なくくどくことはすごく大切なの。光源氏やドン・ファンやカサノヴァがなぜこれほど愛されているかというと、老若美醜にかかわらずあらゆる女性とやったからなのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] つまり功徳を施しているのよね。
米原[#「米原」はゴシック体] そう。狭い自分の好みに縛られていると、愛されないのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 日本人は言葉にしてほめるのが苦手だから。イタリア人の豊富なほめ言葉を訳すのにいつも困る。スプレンディッドも、ファビュラスも、マーベラスも、エクセレントも、すべて「素晴らしい」としか訳せない。書かせると類《たぐ》い希《まれ》なとか、語彙《ごい》も増えるのに……。
米原[#「米原」はゴシック体] 「類い希な美しさ」って、ちょっと声に出しては言えないもんね。冗談や皮肉としか受け取られないだろうし。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 日本人は、平安の昔からくどくのも和歌だったくらい書くのが好き。そのDNAが生きてるから、若い人も話すための携帯をメールの道具にしちゃってる。日本人は口にした言葉のほうに言質《げんち》をとられるという責任の重さを感じるのかもね。イタリアと商売してる知人は、最近日本人秘書ともイタリア語で話すことにしたみたい。二人きりのオフィスで「今日の君は綺麗だね」なんて日本語で言うとセクハラになるけど、イタリア語だとすらすら自然に言える。聞いた方も軽く流せるから、重苦しかった人間関係がスムースになったって。日本語は上下関係に厳しくて、名前で呼び合わないからなかなか親しくなれないのよね。
米原[#「米原」はゴシック体] 尊敬語と謙譲語もあるしね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 挨拶で、「若輩者の私が先輩各位をさしおいて僭越《せんえつ》にも……」なんて言われても、先輩、後輩という概念すらないイタリア語には訳せない。
米原[#「米原」はゴシック体] 時間があればなるべく忠実に訳してたなあ。日本の文化って面白いなって思ってもらいたいから。ただ、実際はヨーロッパの方が階級社会よね、日本よりも。
田丸[#「田丸」はゴシック体] すごい階級社会。トイレもみんな分けてるし、絶対付き合わない。
──くどく時は階級は関係ないんですか。
米原[#「米原」はゴシック体] 単に寝る場合は関係ないんでしょうけど、結婚するとなると拘《こだわ》るみたいね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 結婚は全然別よね。でも、昔は知性があって肩書のある人が好きだったけれど、年とった今は若さにひかれるわね。パーでもいいから(笑)。男も同じだろうなと。
米原[#「米原」はゴシック体] それは田丸自身の話ね。毎日ストレスがあって、根詰めて仕事する人は、相手がパーなほうがいいんじゃない。
田丸[#「田丸」はゴシック体] だよね。万里は知性を求めないんだ。
米原[#「米原」はゴシック体] 全然求めない。理想は樵《きこり》タイプ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 手頃なのがいないから、イヌ、ネコに走る。
──人のオスはね、みんな米原さんより知性は低いから。
米原[#「米原」はゴシック体] そんなことないけど。いないのよ、手近に樵タイプが。遠くにいるのは面倒だし。
田丸[#「田丸」はゴシック体] それがいけないのね、あとさき考えずに走らなきゃだめね。
米原[#「米原」はゴシック体] 本の中で、電車に乗ってて寝たくなる男がいるかどうか品定めする女の話があるじゃない。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 私、考えたこともなかった。
米原[#「米原」はゴシック体] えっ、嘘! 私、いつも考えちゃうわよ。ABCにランク付けして、絶対寝てみたい、寝てもいい、絶対に寝たくないって、三種類に分ける。絶対寝たくないCが九九%強かな。でも田丸は男に甘いからAが二〇%ぐらいでしょ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 私は男という生き物を愛してるのよ。だから寝る、寝ないとは別に、誰にでもいいところを見つけてあげて存在をそのまま受け入れる。あなたは存在も許さないでしょ(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] そんなことない。寝ないだけであって、別にCでもいいじゃない、面白ければ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 下半身限定のABC。じゃあ話術とか優しさとか、ほかの付加価値で売っている人は生きていてもいいのね(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] 当たり前よ。私の場合、ABCランク付け機能は自動的に働くの。もう考えもしないうちに勝手にカテゴライズしてるのよ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] 私たちが知ってる人でAは誰?
米原[#「米原」はゴシック体] ゾルゲとゲバラ。
田丸[#「田丸」はゴシック体] イタリア版の三つの悪徳──バッコ(酒)、タバッコ(煙草)、ヴェーネレ(女)。やめられないもの、依存症になるものね。日本語だと「飲む、打つ、買う」。
米原[#「米原」はゴシック体] 「買う」ってのが悲しいね。人間同士の関係になれないのね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] そうなの、日本語はかっこよくくどく話し言葉に乏しいのも原因ね。まず女をほめないと駄目じゃない。日本人ってほめ下手だよね。特に万里なんかほめ下手だよ。
米原[#「米原」はゴシック体] 違うのよ、私はほめたときに効果があるように日頃けなしてるの。
田丸[#「田丸」はゴシック体] じゃあこの本をほめて、今(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] すごいのは、全て実話というところ。ジャーナリストや作家だったら、相手は警戒して絶対話さないプライバシーをさらけ出している。通訳って存在としては透明じゃない。いないことになっている存在だから、これだけ話せるんだろうなあ。みんな誰かに話したくてたまらないんだけど、誰にでも話せる話題じゃない。あなた、ちょうどいいのよ。セックスの相手だったらここまで話せないもの。
田丸[#「田丸」はゴシック体] ムカツク(笑)。
米原[#「米原」はゴシック体] 第二に同国人でないから後腐れがない。異国の人だけど、言葉は一〇〇%通じる。身近にいて、一緒に食事をしたり買い物をしたり、とにかく日常生活の面倒を見てくれて、通訳するためなんだけど、自分のことを懸命に理解しようとしている。これほど、身の下話を打ち明けるのに理想的な相手はいないものね。
でもね、私はいろんなロシア人の通訳をしてきて小咄《こばなし》という形で男女の話はタップリ聞かされたけど、自分の体験をこんなに話してくれた人は一人もいない。ところが、田丸は吸取紙みたいに次々にイタリア男たちのエロス体験を聞き出してるんだよね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] イタリア男は日本の主婦みたいに話好きだもの。
米原[#「米原」はゴシック体] 田丸がロシア語の通訳だったら、きっとロシア男たちからも聞き出したんだと思うわ。ホントに不思議で仕方ないの、どうしてここまでいろんな人たちから恥ずかしい話を聞き出せたのか。
最後に注文。イタリア男について日本人が思い描く像を、もっと裏切っても良かったんじゃない。ほら、女漁りばかりしてた男が、半身不随になった奥さんを立ち直らせた話とか、ああいう話がもっと読みたい。それから、田丸自身の貧しい学生時代の話がとても良かった。逆照射するように全体を引き立てていて心打たれた。こういう自伝的な部分はもっともっと書いてほしい。
田丸[#「田丸」はゴシック体] あのころみんな貧乏だったもんね。
米原[#「米原」はゴシック体] 当時の光景が浮かんでくるんだよね。基本的に生真面目なんだね、田丸は。
田丸[#「田丸」はゴシック体] ストイックだからね。万里よりはるかに。
──田丸さんて、根は真面目で、だけど話はくだけて、やんちゃな男も全部受け入れてくれる感じですよね。
田丸[#「田丸」はゴシック体] いざ寝るとなるとノウハウはもってないから。パニクる。
米原[#「米原」はゴシック体] でも読者とは、寝なくていいわけだから。
田丸[#「田丸」はゴシック体] そういう男性読者にどんどん読んでほしいわ。
米原[#「米原」はゴシック体] いや、これ、女の人も読むと思う。男性のサンプル集だもの。
(「本の話」二〇〇五年九月号)
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[#この行1字下げ]文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体] 万里と私の最後の一年[#「万里と私の最後の一年」はゴシック体]
二〇〇五年七月二十五日、対談が行なわれた日は、ひどく蒸し暑い夏の午後だった。万里は、まだゲラの段階の原稿を片手に現れ、私を叱咤《しつた》した。「あなた、ばかねえ。これだけのネタがあれば小説が十冊は書けるわよ。もったいない!」。「だめだめ、私はあなたと違って正直者だから、嘘は書けないもの」。いつもの万里と私だった。
あの日の対談を『シモネッタのデカメロン』の巻末に載せることになり、久しぶりに読み返してみた。その途端、万里が死の恐怖と闘った最後の一年が走馬灯のごとく蘇ってきた。
この年、私は、文庫化された万里の『ヒトのオスは飼わないの?』の解説を書いている。四月四日、解説原稿を見せるランチの席に、万里は情報水のボトルを持ちこみ、熱心に私にも薦めた。彼女は、自分の体のデーターを細かく記した闘病ノートを見せながら、水の効果を力説した。科学的かつ論理的アプローチを好んでいた万里が、医学的な裏付けの薄い民間療法にこり始めていることに、私は一抹の危惧《きぐ》を覚えていた。六月、『ヒトのオスは飼わないの?』の出版打ち上げ会、私たちは二人揃って情報水を飲んでいた。
七月末、万里は、この対談のために鎌倉から都心に出向いてくれた。ソフトな緑色のワンピースに身を包んだ万里はふっくらと元気そうで、相変わらずの饒舌《じようぜつ》さを発揮した。彼女との丁々発止の言葉のラリーを楽しんでいるとき、ふと足元に目をやると、彼女のスカートの下から、厚手のサポーターが少し覗いているのが見えた。暑い夏、こんなサポーターを巻くほど足が冷えるのだろう。既に大作家の地位も築いた彼女が、体調がすぐれない中、やっと二冊目の本を出す私のために無理をしてくれているのだ。胸が詰まって言葉が途切れそうになった。だが、元気一杯のイメージを維持しようと頑張ってくれている万里に、サポーターが出ていることを指摘することも、体調を気遣う問いかけをすることもできなかった。対談が終わったあと、二人で廊下を歩きながら言った。「万里、とっても元気そう。それに、まだそんなハイヒールが履けるからうらやましいわ。かっこいい!」。彼女は、いつも通り十センチ近いヒール靴を履いていた。「うーん……これだけは……」。彼女の答えはどこか歯切れが悪かった。おしゃれには無理がつきものだ。昔は、私も、イタリアの石畳を歩きまわるときも必ずハイヒールを履いていたものだ。だが、年齢とともに楽なフラットシューズしか履けなくなっていた。万里は、女の美意識の最後の砦を死守していた。その日、私たちはそのまま別れ、それぞれタクシーで帰宅した。異常な蒸し暑さが予告していた通り、間もなく空が掻き曇り、たたきつけるような雷雨となった。車中、すさまじい雨音を聞きながら、私は胸に広がる暗雲を押しのけようと懸命に闘っていた。
九月六日、この本の出版打ち上げ会が行なわれた。万里は、三十分も遅れて息せき切ってレストランに駆けつけ、横浜の二つのクリニックを掛け持ちしたため遅くなったことを詫びた。その夜、彼女は大いに笑い、イタリア料理をすべて平らげ私を安心させた。
それから間もなく、私は、偶然、朝のテレビ番組に出演している万里を目にした。その目は彼女の足元に釘付けになった。豊かな髪をアップに結い上げた彼女が、エレガントな青いスーツには不似合いな幅広のフラットシューズを履いていたからだ。それは、彼女が、三十分足らずの収録の間もハイヒールを履いていられなくなったこと、ロングスカートの下の足がひどくむくんでいることを意味していた。テレビの万里は、いつもの心地良い声で、玄米食、入浴、散歩などの生活習慣で健康を取り戻したことをさわやかに語っていた。
翌二〇〇六年、一月七日、万里は遂に白旗を揚げ西洋医学の軍門に降《くだ》った。彼女が抗癌剤治療を受けるため入院した日、病室で二人っきりで食べた夕食が、私たちの最後の晩餐《ばんさん》になった。前年の九月、私よりはるかに多くの量をぺろりと平らげた彼女は、このとき私が持って行ったスープを飲むのがやっとだった。痩せた万里は、鬼気が漂うほど妖艶《ようえん》で美しかった。その後のことは辛くて書けない。万里は、五十六歳の誕生日の後、一月も経たないうちに鬼籍に入ってしまったのだ。
五月二十三日、介護の人が、私の来訪を耳元で告げると、彼女は、混濁した意識のなかで、絞り出すように「あ・り・が・と・う」と言った。二人っきりになった私は、彼女の冷たい手を握り、名前を呼びながら子供のように泣きじゃくった。その声に驚いて目を見開いた彼女は、今度ははっきりした声で「そんなに泣くなよ」と私を慰めてくれたのだ。これがエ勝手リーナ様≠フ最後の命令になった。彼女が生死のはざまを移ろいつつあった五月二十四日の夜、初夏には珍しく天地を揺るがすような雷雨となった。窓に叩きつける雨音を聞いたとき、あの日、対談の帰路、雷雨の車中で感じたぬぐえない不安が蘇ってきた。私は命令に背《そむ》き、思い切り声を出して泣いた。翌五月二十五日の昼過ぎ、彼女は息を引き取った。密葬で送った彼女の骨はうっすら桜色がかり、この上もなく美しかった。「私たちって可憐≠ニ初々しい=Aこの二つの形容詞には一生縁がないわね」。お互い、そう言いあっていたのに、骨になった万里は、まるで恥らう乙女のように、はかなく可憐で初々しかった。
「笑わせてくれる本が一番好き」「ただ、おもしろければいいのよ、肩ひじ張らないで」。類稀《たぐいまれ》な知性と文才を持つ万里の本を読むたびに、私は筆を折りたくなったものだ。万里は、そんな私を、ことあるごとに励ましてくれていた。
今、私の部屋の机の前には、二人が対談した際の彼女の写真が飾られ、壁には彼女が愛したロシアの絵が飾られている。彼女が愛用していた猫の絵柄のマグカップでコーヒーを飲み、書きくたびれると、万里が着ていた毛皮のロングコートを掛けて仮眠する。彼女の香水、ランコムの「マジーノワール」の移り香が、私を優しく包む。机の横にかかっているのは、彼女が肌身はなさず持ち歩いていた赤いチェックの布袋だ。中には、「米原万里様」と書かれた飲み残しの薬袋が八種類入っており、それぞれに「強い痛みの時」「吐気止め」など、効能と薬の名前が彼女の筆跡で書かれている。私は、時おり、布袋を開け薬袋を掌《たなごころ》に乗せる。軽い紙袋の「米原万里様」は私の手の上でかさこそと音を立てる。めっきり笑うことが少なくなった私に、「ずっと書き続けるのよ。いつか出口が見えてくるから」。彼女の言葉が聞こえてくる。出口が見えなくてもいい。万里が読んでくれて、ただ笑ってくれればそれでいい。この気持ちで書き続けるしかない。万里はいつも私のそばにいる。
二〇〇七年十二月
[#地付き]田丸公美子
単行本 二〇〇五年八月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成二十年二月十日刊