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悪女伝説の秘密
田中貴子
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プロローグ
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――本日は悪女のお話をお聞かせ頂くということですが……。
悪女じゃなくて〈悪女〉です。ちゃんと〈 〉つけてくださいね! 全然意味が違うんだから。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――たかが〈 〉にどんな違いがあるって言うんですか? そういえばこの本の題名にもついてますけど。(編集部註−単行本版は『〈悪女〉論』)
〈 〉は単なる便宜上の記号に過ぎないのですが、あえて〈 〉を付したのは、従来の悪女ということばの持つ意味に疑義を差しはさんでいる私の態度を明らかにするためです。具体的に言うと、ある特定の女性を称する際にこのことばが使われている世間一般の現状を前提としたうえで、その場合の「悪女」なることばは私自身が納得して用いている用語ではないことを明らかにするため、ということになるでしょうか。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――〈 〉は「いわゆる」の意味ですね。では、あなたがお考えになっている悪女と〈悪女〉の違いとはどういうものなんですか?
いきなり本論の核心に近い質問がでましたね。まず、悪女ということばの変遷からお話しなければなりません。従来の見解によると、悪女はずばり「悪い女」を意味します。でも、どこが「悪」いのかは二通りの考え方がある。悪女には「醜女《しこめ》」の意味があり、狂言「鏡男」に「まずこの鏡に向かい、我が顔の善し悪しを知り、顔には白粉《おしろい》を塗り、紅かねを付け、頭には油を付けて髪を結へば、いかな悪女も十くらゐも二十くらゐも美しう見へまする」という例が見られるように、むしろ中世ではこちらの用法の方が主流でした。つまり容貌《ようぼう》が「悪」い「女」です。早く、中国漢代の『史記』に「美女が新しく嫁いで来れば悪女はこれを仇《かたき》とする」とあり、本来の意味は醜女の方だったのでしょう。この一文は『世俗諺文《せぞくげんもん》』という日本のことわざを集めた文献に登場していますから、日本でもよく知られていたようです。しかし、十七世紀初めに刊行された、ポルトガル語で書かれた日本語辞書の『日葡《につぽ》辞書』では「みにくくて、見かけの悪い女、また、身持ちの悪い女」とあり、中世後期からは、性質や品行が「悪」い「女」という意味が並行して存在したことがわかります。現代では醜女の意味はほとんど姿を消していますが、もう少し異なった要素が付け加わったみたいです。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――なんですか、その要素って。
男を惹《ひ》き付けてやまない「魅力的な女」ね。『日本国語大辞典』には、先にあげた二つのほかに第三の新しい意味として掲出されています。身近なところに例をとれば、関西のプロ野球ファンの間では「阪神は悪女だ」というそうです。阪神タイガースが勝利に縁遠いことは野球に馴染《なじ》みの薄い私でも知っていますが、あまり負けがこんで「もう阪神の応援は止めよう」と思ったらふと勝ってみたりするので、やはり離れられないというファンの心理をたとえたものらしいのです。この事例から想像されるのは、性格も悪く、男性に尽くすどころか逆に翻弄《ほんろう》してしまうような「|運命の女《フアム・フアタール》」的女性像ですが、別れようとすると急に打って変わった可愛いい態度を見せるので別れられない、ということでしょう。この場合の悪女が醜女では話にならないわけで、性質が悪くとも大いに魅力的な部分がある、というのが現代の悪女ということになります。これは先ほども話に出た西欧の「運命の女」の系譜を引くものと思われます。いわずもがなのことですが、魅力といった場合、容貌の美しさだけでなくセクシャルな魅力の方が優勢なんでしょうね。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――でも、悪女といっても必ずしも魅力的な女性ばかりではないんじゃないですか。顔は見たことありませんがソクラテスの妻は悪女とか悪妻とかいわれることが多いし、かつて自殺した中国の江青《こうせい》女史なんかもそうでしょう。もっとも、江青は昔女優だったらしいけど。
今まであげた女性について何か気がつきませんか? 悪女と呼ばれる女性には共通する条件があるんですけど。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――条件? なんだろう。
これからくわしく本論で述べますが、ある女性が悪女と呼ばれるためには大まかにいって次の条件が必要です。一つは、どんなかたちであれ権力を掌握するか、あるいは権力者の周辺にいて自身が権力に関与することができること。権力とは政治権力以外にも学問的権威なども含みます。もう一つはこれに関連しますが、必ず男性との関係において彼女の価値が計られていること。つまり、悪女とは男性側の価値基準による女の尺度なのです。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――歴史の陰に女あり、といいますが……。
いえいえ、悪女の陰に男あり、です。古代から現代に至るまで、権力や権威を手中にできるのは男性のみだという社会構造は変わっていませんから、女性が権力の中心に近づこうと思えば男性のそばにくっついているしかありませんし、男性に接近する際の手段がいわゆる「女性的魅力」であることは明らかです。反対にいえば、権力なんてどうでもいいと思っている女性でも、いったん権力者の妻や恋人となれば悪女の烙印《らくいん》を押される可能性があるのです。こうなれば、悪女の周辺には多かれ少なかれ色恋の話題がつきものなのも必然といえるでしょう。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――そうすると、あなたがおっしゃった悪女の概念は、これからお話いただく古代、中世の女性たちが生きた時代のものではなく、近・現代的なものなのですね。現代われわれが使っていることばや概念で、歴史や文学に登場する女性の行動を判断し、悪女と決めている……。
一応はそういってもよいかも知れません。たとえば第一章の称徳《しようとく》天皇なんかは中世からすでに厳しい批判を浴びはじめていますが、巷間《こうかん》における彼女への評価を決定的にしたのは近・現代でしょう。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――さっきの阪神の話ではないですけど、悪女だって本当は可愛い女なんですね。
おっと! そんな具合に決めつけるのもどうかと思いますけど。一見矛盾するようですが、悪女には「本当は純情な女性であった」という全く反対の評価が行われる場合が往々にしてあります。古代中世の事例は本論で扱うので、あえて近世の例をあげましょう。吉田御殿に数多くの男性を連れ込んだという「ご乱行」で名高い千姫はご存知でしょ。一九九一年六月二十二日付け朝日新聞(大阪版)の「青鉛筆」というコラムに、姫路城の北西にある「千姫天満宮」が「恋の神様」として人気が出ているという記事がありましたので、ちょっと引用してみます。
「悪女のイメージが強い千姫だが、本多|忠刻《ただとき》に嫁いで二児をもうけ、人生最良の一時期を過ごしたのが姫路城。『本当は純愛を貫いた情熱の人』と、芹田登《せりたのぼる》宮司(六〇)」。
千姫の行状が伝説化されたのは、彼女が何度も結婚させられたことが近代社会の倫理観に抵触したためと考えられますが、それはさておき、宮司さんには申しわけないんですが、少々意地悪くこの記事を読むならば、複数の男性に嫁いだのは淫乱《いんらん》なためでなく、彼女の内なる「女らしい」情熱と純愛志向がそうさせたのだ、という解釈になります。これなどは、男を手玉にとるような悪女というものは、本当は純愛を望む可愛い女に過ぎないのだ、として女性を劣位に置き自身を納得させたい気持ちがうかがえて興味深いのです。称徳天皇の場合も事情は同じで、戦前は道鏡《どうきよう》との関係を「淫乱な女の不祥事」と罵《ののし》られていたものが、現代ではその反動のように「社会的立場や年齢を超えた純愛」と解する人が多くなっています。これはどちらも男性原理の両極端が表れたものだと私は思うのですが。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――よく「昼は処女のように、夜は娼婦のように」が理想の女性像だといいますね、もちろん男にとってですけど。これも両極端ということになるのかな?
こんなこという人に限って女の子たちが「三高」を口にすると文句垂れるんですよね。突き詰めれば貞女と悪女は鏡像関係、双面のヤヌスに過ぎません。女性像が、家政を守る「家刀自《いえとじ》」と遊びの性を受けもつ女へ分裂したわけですね。おもしろいことにこれは容貌の面にもいえるので、さっき悪女は美貌《びぼう》で魅力的な場合が多いといいましたが、貞女は基本的には醜女に近づくんです。つまり、美貌ならばほかの男性から懸想される危険がありますが、醜女はそうではない。新しい伝説ですが、京都の千本釈迦堂《せんぼんしやかどう》(大報恩寺)には、貞女「おかめ」が寺大工の夫の窮地を救う話が残っており、境内には大きなおかめの像が立てられています。名前からお察しの通り、彼女の顔はお多福そのもので、お多福も可愛いんですけど、この場合はやはり醜女を象徴するものというべきです。美女の貞女も例がないことはありませんが、密通の噂がかけられたりする場合が多く、その疑いを女が身を賭けて晴らすことにより貞節が認められるという構造をもっています。井上章一氏がどうお考えになるかわかりませんけどね。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――貞女と悪女との分かれ目がいつ頃なのかはいろいろと議論が必要でしょうけど、なんとなくいいたいことはわかります。
とにかく、近・現代まで続くこうしたフィルターの歪《ゆが》みを一度取り去って、悪女と呼ばれた女性たちについて考えてみたいと思ったのがこの本を書いたきっかけなのです。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――そうすると、悪女は近・現代的な解釈に束縛されて作為的に作り出されたということになりますか。
いえ、必ずしも近・現代だけの問題に留まりません。いわゆる貞女の範疇《はんちゆう》から逸脱した女性に対する風当たりの強さが表面に現れ始めるのは中世で、さきほどの話と関わりますが、これは貞女とか節婦像《せつぷぞう》の形成と関係があると思われます。ですから、本論では奈良時代や平安時代に生きた女性を扱っていますが、中心となる資料はほとんど中世に成立したものです。誤解がないようにしていただきたいのは、私が考察の対象としているのは史実ではなく、後の資料に現れた彼女たちのイメージがどんなものであったか、そしてそれはどのような過程で形成され、そこに関与する要因は何か、といった問題なのです。「本当」はどんな女性だったかなんて、実際に本人に聞いてみないとわかるはずないですもん。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――では、既成の概念での悪女ではないという意味で〈悪女〉というわけですね。
ところで話は変わりますが、悪女に対して悪男、つまり悪い男っていうのはあまり聞いたことがありませんが。
ほんとですね。悪女に比べると万人に共通するイメージもないんじゃありませんか。あなたは悪男と聞いていったい誰を思い浮かべますか?
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――……権力の権化といったらヒトラーかな? でも彼を悪男と呼ぶのはなんとなく躊躇《ちゆうちよ》しますよね。色恋関係ならモーパッサンの「ベラミ」なんか思い出すけど……。んー。
私がとりあえず思いつくのは、ちょっと古いけど山崎豊子の『白い巨塔』の財前助教授とか、個人的な好みですが四世南北の「桜姫東文章《さくらひめあずまぶんしよう》」に出てくる「釣鐘権助《つりがねごんすけ》」とかですね。でも、そもそも「悪男」なることばはないんです。「悪人」や「悪党」は古くからあるけど、これはまた意味が違ってくるし。だから、ある意味で悪女は性差別的なことばといえるかも知れません。男性のまなざしによって計られる悪女と違って、悪男には基準となる尺度がないんですよ。たとえば歌舞伎の「色悪」とか「実悪《じつあく》」なんていう用語は美学として確立した「悪」なわけですが、悪女の「悪」は常に「誰にとっての悪か」が起点となっている相対的なものといえます。悪男が存在しなかった理由は、女性が社会の中心に位置しておらず、思考や言語までも男性のそれを用いざるを得なかったがために、男を計る尺度が成立しなかったことにあるんじゃないでしょうか。まあ、こんなことは、今さら国文畑の私がいわなくても周知のことでしょうけど。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――なんとなく最近のフェミニズムの匂いがしないでもありませんね。近代文学ではフェミニズム批評が行われ始めているようですが、この本は古典文学をフェミニズムの角度から読むことが目的なんですか?
「女関係」の問題を扱うとすぐに「緋文字」みたいになにがしかのレッテルを貼ろうとする人がいるのですが、本論は私が常々行っている国文学の方法に基づき、できるだけ資料を読み解いて立論することを基本としたつもりです。したがって、フェミニズムの理論に立脚した論ではありませんし、あえてフェミニズムの文献を参照することをしませんでした。しかし、〈悪女〉を作り出したメカニズムを現在見ることができる資料から探ってみると、もはや女性学の成果を無視することはできないことを感じます。同じことは歴史学や民俗学に対してもいえるでしょうし、特に女性と宗教に関わる問題を扱う場合、各分野の意見交換は必至だと思います。それに、不思議なことに現在フェミニズムの視点から古典文学を取り上げているのは、古典の専門家以外の人ばかりなんですよ。古典文学研究者はこれらを「どうせ素人のやること」とかなんとかいって無視しているフシがあるんですが、一方で一般人や学生には「素人」の本の方がよく読まれているという現状があるわけで、このあたりで、古典文学研究者がちゃんとしたリアクションをしなけりゃいけないのではないかという気がします。フェミニズムの視点が古典文学を読むうえでどのくらい有効かということは未だに未知数ですが、相互の研究が交渉をもたなさ過ぎるためにタコツボ化するのも非生産的ですし。異種交配によって何が生まれるか、あるいは生まれないか、やってみなけりゃわからない。
[#この行2字下げ、折り返して4字下げ]――とんでもないフリークスができる危険もありますね。
どうでもいいけど、とにかく一通り読んでから批判してよね!
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目 次
プロローグ
T 帝という名の〈悪女〉
称徳天皇と道鏡
U 鬼にとり憑かれた〈悪女〉
染殿后と位争い
V 竜蛇となった〈悪女〉
『道成寺縁起絵巻』から『華厳縁起絵巻』へ
参考文献
文庫版あとがき
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T 帝という名の〈悪女〉
称徳天皇と道鏡
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天平勝宝元年(七四九)  孝謙天皇即位す。
四年(七五二)頃 道鏡、密かに如意輪観音法を修する。
天平宝字八年(七六四)  恵美押勝、反乱に失敗、称徳天皇が再び位につく。
天平神護元年(七六五)  道鏡、太政大臣禅師となる。翌年、法王に。
神護景雲三年(七六九)  道鏡を帝位につけてよいか、神に問うために、和気清麻呂が宇佐八幡宮へ向かうが、神意は下らず。
宝亀  元年(七七〇)  道鏡、夢破れて下野国に流される。その三年後、遠国で死す。
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最後の女帝
称徳《しようとく》天皇――「〈悪女〉論」を始めるにあたって、彼女ほどふさわしい女性はいないだろう。日本史の教科書で名前くらいは見た、という向きも多いだろうが、ある程度の年齢の人ならば、古代最後の女帝としてその名を記憶していると思う。なかには「あの[#「あの」に傍点]称徳天皇」といいながら、意味ありげな含み笑いを漏らす人がいるかもしれない。「あの」の中身は、いうまでもなく「道鏡《どうきよう》と噂されたあの称徳天皇」である。称徳天皇は、古代の天皇のうちでもまれに見る醜聞の持ち主であった。未婚の天皇である彼女が、恵美押勝《えみのおしかつ》(藤原仲麻呂)や道鏡との愛欲に溺《おぼ》れ政治を私物化した、という認識は今でもまかり通っている。しかも、道鏡は「巨根」で知られる逸物の持ち主である。対する称徳天皇は「広陰」だったので彼をことのほか寵愛《ちようあい》したという説が、これまた、まことしやかに伝えられる。こういった現象は、同じ女性の天皇として有名な推古《すいこ》や持統《じとう》には見られない。奈良時代には六人八代の女帝が出ているが、これほどの悪評を立てられ、それが現在でも根強く残っているのは称徳天皇ただ一人といってよいだろう。女子大で日本史を教えている知り合いに聞くと、学生が女帝を卒業論文のテーマに選ぶとき、もっとも人気があるのが持統であり、称徳は敬遠されることが多いという。
だいたい、「女帝」ということばが非常に悪いイメージを持って受け入れられているのが現状である。海外では、「女帝エカテリーナ」などのように「女帝」を冠して呼び習わす例があるが、威圧的な語感の中にいくらかの侮蔑《ぶべつ》が混じっていることがよくある。十数年前の週刊誌の記事に「三越の女帝」と呼ばれる女性が頻繁に登場していた。もちろんスキャンダラスな内容であり、男を顎《あご》でこき使い、色と欲との板ばさみになって自滅する女、という画一的な枠にはめられた記事だったと記憶する。庶民とほんものの天皇という違いはあるが、彼女と称徳は意外なところで共通点を持っている。特定の男性が共犯として背後に控えていると考えられたことがそれだ。女帝は表面に立つだけの存在で、本当は隠れた策士が知恵をつけているというわけである。だから女帝への侮蔑には、華やかに見えても頭はからっぽのお人形、という意味も含まれていよう。こうした女帝への複雑な忌避観を探るのが、この章の目的である。
ところで、現在まで日本に女性の天皇が何人いたかご存知だろうか。推古、皇極《こうぎよく》(斉明《さいめい》)、持統、元明《げんめい》、元正《げんしよう》、孝謙《こうけん》(称徳)、明正《めいしよう》、後桜町《ごさくらまち》の八人で、後の二人は江戸時代だから、うち六人が奈良時代に集中していることになる。皇極と孝謙は重祚《ちようそ》(再び位につくこと)してもいる。平安末期、鳥羽院の娘の八条院|ワ子《しようし》が東宮に立つ案があったらしいが、実現を見ずじまいだった。皇室典範には、嫡系男子のみが天皇になれると規定されている。今後女帝が出現する可能性がないことを考えると、この八人が貴重な女帝の事例となろう。しかし、江戸時代の二人は完全に飾り物の名のみの天皇であり、古代においても資料は極度に乏しく、女性の天皇の政権の実態を把握することはなかなか難しい。坂口安吾がいうように、「日本史に女性時代ともいうべき一時期があった」(「道鏡」)のかどうかは、安易に決められないのだ。それを明らかにする仕事は古代史家に任せ、この章では、中世の説話に見える女帝像という別の角度から、奈良朝の最後を飾る女帝・称徳を論じたい。
「純愛」と「愛欲」のはざまで
プロローグで述べたように、〈悪女〉は男性との関係のなかで作られた存在であり、称徳も醜聞の相手である道鏡との関係を抜きにしては語れない。したがって、論を進めるうえでも、称徳と道鏡は常に関連づけて扱うことになる。称徳に劣らず、道鏡に対するイメージも悪意に満ちている。たとえば、帝政ロシアに暗躍した「怪僧」ラスプーチンを引き合いに出すことがしばしば行われたりする(上田正二郎『法師道鏡』など)。ラスプーチンの実像はよくわかっていないようで、彼も道鏡と同じく作られた虚像が世間に広まった人物なのだろう。また、道鏡が河内《かわち》出身だという伝承があることから、豪放|磊落《らいらく》で知られる河内の僧侶《そうりよ》作家、今東光とイメージがだぶることもあるようだ。
この章は、称徳天皇や道鏡が実際にどのような人物であったかを探ることが目的ではないし、彼らの生き方や政治力を評価することもしない。私たちが当時の様子を知るためには残された文献や遺跡を手がかりにするしかないが、古代はあまりに遠く、資料はあまりに少ないのだ。私にとっては、称徳が実際に恵美押勝や道鏡と「愛欲の限りを尽くし」たとしても、またそうでなくてもいっこうに構わない。ここで論じたいのは、現在私たちが目にする称徳天皇の姿が、中世から近代という長い時の流れのなかで、ある特定の意図によってゆがめられてきた過程そのものである。私は称徳の実像をこうだということはできないが、少なくとも、男に狂った権力指向の〈悪女〉として知られる称徳のイメージが作られたものであることは断言できる。なお、前に述べたように称徳は孝謙が再度即位したときの名(諡号《しごう》)だが、ややこしくなるので称徳に統一して話を進めることにする。
手始めに、近代における称徳と道鏡のイメージをいくつか見ていこう。戦前は、称徳と道鏡とは国を傾ける逆賊として扱われることが多く、酷評ばかりである。これは戦前、戦中の皇国史観によるものなので、敗戦を境に二人への評価はずいぶん変わってしまった。そのなかで、戦後間もない昭和二十二年に刊行された坂口安吾の「道鏡」は、当時としてはかなり斬新《ざんしん》な解釈だったのではないだろうか。この小説は、称徳の即位の経緯を元明天皇の時代から説き起こし、宇佐八幡《うさはちまん》の託宣事件をクライマックスに称徳の死へとなだれ込む。そして、道鏡の配流(流罪)で幕を閉じるという按配《あんばい》である。「安吾史譚《あんごしたん》」や「日本文化史観」の著作を持ち歴史に造詣《ぞうけい》が深かった安吾が、道鏡をテーマに選んだ理由は興味深いが、それはさておき、少しばかり意地悪い目であら捜しをすれば、戦後さかんに説かれるようになる称徳と道鏡の関係の新解釈が安吾から始まっていることがわかる。もちろん、小説と研究論文とは違うものであり、これによって安吾の文学的評価が揺らぐわけではないことを、ファンの方には弁解しておこう。
[#この行2字下げ]女帝は道鏡が気の毒だった。いたわしかった。そして、いとしくて、切なかった。どこの家でも、女は男につき従っているではないか。なぜ、自分だけ。なぜ、道鏡が天皇であってはいけないのか。/女帝は決意した。宇佐八幡の神教が事実なら、そして、勅使がその神教と復奏したなら、甘んじて彼に天皇を譲ろう、と。なぜなら、彼は皇孫だから。諸臣もそれを認めている。のみならず、天智《てんじ》天皇の孫ではないか。/女帝はその決意によって、幸福であった。愛する男を正しい男の位置におき、そして自分も、始めて正しい女の姿になることができるのだ、と考えた。
引用は、称徳が道鏡を法王という新たな位に付け、さらに次の天皇にしようと九州の宇佐八幡神のお告げを求めたときのことばである。結果的には、反道鏡派の藤原氏の陰謀により即位は挫折《ざせつ》した。安吾は、未婚のままであった称徳が道鏡と「正しい」男女の結びつきを望んでいたという。
「どこの家」でも当然のようになされている夫婦の関係、男につき従う女になることが許されない自分。称徳はこの世にただ一人の帝であった。男性の天皇は数多くの后妃夫人《こうひぶにん》を持つことがいわば義務であったのに対し、女性の天皇は夫を持つことを禁じられていた。これは厳密にいうと正しくないだろう。過去の女帝は元正を除いて夫があったが、夫はすべて天皇か皇子である。女帝の夫云々というよりは、天皇の妻が夫のあとに即位した場合が多いのだ。ところが、称徳は娘の頃から東宮に立てられ、女帝となることを運命づけられていたので、そもそも婚姻自体が思慮の外に置かれていたようである。この点を考えると、安吾が道鏡を天智の孫としたのは鋭い設定というべきだろう。道鏡が天智の子・施基皇子《しきのみこ》の落とし胤《だね》だという説は中世から文献に見られるものの、おそらくこじつけである。しかし、もしご落胤《らくいん》ならば文句なく皇子であり、称徳との結婚も不可能ではなくなるのだ。
安吾の言葉|尻《じり》をとらえて、男に従う女が「正しい」姿というのは旧弊だ、などと議論しても仕方がないけれど、安吾の描き出した称徳像からは、男を愛する自由を激しく求めた一人の女、という印象を強く受ける。色と欲を両手に握りしめた女傑という趣きのあった戦前からの称徳像を、女帝とてただの人、というふうに読み替えたのが安吾であった。こういった姿勢は、昭和三、四十年代を通じて継承発展されていく。それが、主に男性の研究者による「称徳・道鏡純愛説」なのである。
現代でも純愛がトレンドとなった時期があるが、称徳らの純愛説は、まるで戦前の悪評の反動のように蔓延《まんえん》していった。共通するのは、称徳が道鏡にひかれた理由を、政治的に孤立し、結婚という「女の幸せ」も許されなかった彼女の立場に求めるものである。また、道鏡が巨根であったという伝説は根拠のないものとされ、称徳は彼の肉体ではなく学識や思いやりの深さに愛情を感じたのであり、二人の結びつきは真実の愛であった、という。実に、清く・正しく・美しく、の見本のような説である。
こういったことを、歴史的事実として語ろうとする研究者があるのだが、彼らの論述を見てみると特に根拠があるわけではなく、個人の感傷的な推測の域にとどまっているように思える。ほかの部分では論理的な叙述を展開する人々が、称徳と道鏡の関係に触れるとたちまちロマンティックな気分が漂ってしまうのは不思議である。この点に関する限り、安吾に勝る文学的な文がそこここに散らばっている。文句のついでにあえて例をあげよう。
まずは、昭和三十四年発刊の、横田健一『道鏡』から。
[#この行2字下げ]そうした孤独の寂寥《せきりよう》感が、いくら意志が強く、はげしい気性だといっても、女性である天皇をさいなんだのではなかろうか。その時、そのさびしさを理解してくれる人をもとめる天皇の前にあらわれた道鏡は、ゆったりした、どこか闊達《かつたつ》な気分を身のまわりにたたえていて、天皇の孤独感・寂寥感をやわらげるものがあったのではないだろうか。
横田氏の論は、従来の「妖僧《ようそう》」道鏡像を否定する点で新しいが、まるで道鏡を実際に見た人の証言のようでもある。次は昭和四十四年の北山茂夫『女帝と道鏡』に移ろう。
[#この行2字下げ]女帝は公然と夫とよぶ男をもちえなかった特殊な人間である。彼女の心身をさいなむ寂寥には、わたくしたちの想像をこえる切実なものがあったにちがいない。/苦患のなかで、女帝は、道鏡を発見した。病い癒《い》えたあとも、この四十女は、外聞をはばからず、この僧を近侍させて離さなかった。仏教への傾倒が二人のあいだの親密な間柄をいっそう深めたと考えてよかろうと思う。……そういう意味では、女帝と道鏡とのあいだは、かりそめの情事ではなかった。
称徳が寂しさと仏教崇敬のあまり道鏡を寵愛《ちようあい》したという点は、横田氏と同じ路線である。「四十女」で悪かったねえといいたい気もするが、氏は四十過ぎの女が「かりそめの情事」ではない愛情をもったことを評価したいのだろう。最後に、昭和四十八年の上田正昭『日本の女帝』。
[#この行2字下げ]道鏡の学識と教養と、そしてそのまごころこめた奉仕に、孝謙太上天皇は惹《ひ》かれたのである。それは尊敬にみちた師道鏡への愛であって、かりそめの愛欲ではない。……道鏡を大臣禅師に任命し、さらに太政大臣に進めて、しかも天皇にさえしようとした称徳女帝のこころには、ひたむきななりふりかまわぬ真実の愛慕が宿されていたといえよう。
引用はもう充分だろう。さらに付け加えると、昭和四十七年の永井路子『日本史に見る女の愛と生き方』では、年たけてから恋を知った称徳を「切ないまでに哀れ」といい、おおかたは以上の三氏と変わりないのだが、書かれた時代のせいか、称徳を「ハイ・ミス」の怨念《おんねん》をもった女性ととらえている。
よき理解者が得られない女の寂しさを説く三氏に比べ、「ヒステリカルな激怒の裏には」「自分に禁じられているセックス」に対する「ハイ・ミスの怨念がある」という永井氏のことばは、一般向けに話をおもしろくしようという点を割引いてもかなりどぎつい。「ハイ・ミス」という侮蔑《ぶべつ》を含んだ言い方は、今では「シングル・ウーマン」などと言い換えられるのかも知れないが、「男に飢えている独身女性」などという図式が、現代社会のセクシュアル・ハラスメントのなかにも依然として生きていることを思い出してしまう。
以上紹介してきたように、称徳と道鏡の姿は、近・現代のさまざまなフィルターを通して私たちの目の前に現れていることが明らかである。では、そのフィルターは近・現代だけなのかというと、決してそうではないのだ。フィルターは、いつ、いかなる時代にも存在する。しかも、時代の思想と連動したかたちで。称徳と道鏡の場合は、特に中世の仏教と関連してイメージの変貌《へんぼう》が起こって来る。この点を頭に置いて、その変貌の要因と過程を探るため、中世の説話伝承の世界へ分け入っていこう。
醜 聞?
称徳天皇に関する醜聞のもっとも大きい部分を占めるのが、「巨根」の僧、道鏡を寵愛したというものである。少しばかり気の利いた艶笑《えんしよう》小話には、「道鏡は座ると膝《ひざ》が三つでき」などといった江戸時代の川柳が引かれたりするように、著名な話である。駅売りの夕刊紙のレベルからすればよほど上品な川柳だが、解説の必要はあるまい。「昔の偉い人」をしゃれのめす江戸の精神にとって、称徳と道鏡の話題は川柳の格好の題材であったらしい。
ところで、無作為に引用したこの句を見ても、道鏡の巨根説を笑いの対象にするためには、常に称徳の存在が必要であることがわかるだろう。道鏡がいくら巨根でも、それは、単なる一肉体的特徴にすぎず、女性との交渉が基本的にはありえない僧侶《そうりよ》にとっては何の益もない。しかし、彼がいったん女性と性的関係を持つに至ると、巨根はにわかに意味を持ち始めるのだ。しかも相手は帝と呼ばれた犯すべからざる高貴な女人である。
庶民のわれわれなら、男女の相性が幸福な結婚の秘訣《ひけつ》だとうそぶいていればよいが、未婚の天皇と出自のわからない僧の組合せでは、世間の噂の的となる可能性が大である。称徳との仲があらわになった時点で、道鏡のファロスの一突きは女帝をただの女にする危険な存在となり変わった。と同時に、皇室の権威や政治力にも怪しい影がさすことになったのである。
二人の噂は、早く平安初期に成立した『日本霊異記《にほんりよういき》』下巻三十八話にうかがえる。歴史的事実は次の節で詳しく述べるが、称徳は退位の後、皇太子にしていた道祖王《ふなどおう》を陥れて廃し、代わりに即位した淳仁《じゆんにん》天皇をも隠居させ、再び自分が位につく。そのとき、「天の下の国」がこぞって歌った童謡《わざうた》がある。童謡といっても子供の歌ではなく、政道批判を主な内容とする作者不明の歌が巷間《こうかん》に流れるもの、いわば当時の「街の声」である。称徳と道鏡の仲を予言したという三首の歌を並べて示してみる。
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法師らを裙着《もは》きたりと軽侮《あなづ》れど、そが中に腰帯・薦槌《こもつち》懸れるぞ。弥発《いやた》つ時々、畏《かしこき》き卿《やう》や。
(坊さんたちを、女みたいに裳《も》をはく奴らとさげすんでいるが、裳の下には石帯や陽物が下がっているのだぞ。それがいきり立つと、それは恐ろしい方なんだぞ)
我が黒み、そひ股に宿たまへ、人となるまで。
(私の黒皮の陽物を股にはさんでおやすみなさい、お上も女性の体をお持ちでしょうから、一人前になられるまで)
正に木の本を相《み》れば、大徳《だいとこ》食し肥れてぞ立ち来たる。
(まさしく木の本を見れば、道鏡大徳が食い太ってやって来る)
[#ここで字下げ終わり]
初めの二首は、称徳が道鏡と「同じ枕に交通《まじわりつう》じ」、政治の実権を握ったことの前ぶれ、三首目は、道鏡が法王となりいよいよ権力が強大となったことの予兆と解釈されている。『霊異記』第三十八話の前半は、聖武《しようむ》天皇の治世から称徳を経て桓武《かんむ》が平安朝を開くまでを記した特異な部分で、称徳の政治に対して著者の景戒《きようかい》は厳しい批判を向けている。桓武朝の前史として、女帝称徳の暗い事跡が暴かれるのである。三首の歌には、道鏡が肉体を武器に称徳に取り入った過程がまざまざと描かれ、称徳が道鏡に骨抜きにされて政治をおざなりにしたという風評が、この頃から存在していたことが明らかである。ちなみに、中田祝夫氏が古典文学全集本の注で指摘する通り、景戒は本文で称徳を「帝姫阿倍天皇」と呼んで不名誉な説話を記しており、父親の聖武が「勝宝応真」という尊号で崇《あが》められることと対照的な扱いを受けている。尊号どころか帝の姫としか呼ばれない称徳の姿には、すでに道鏡との関係が原因のおとしめが始まっていることが見てとれよう。
ところで、『霊異記』には二人の性的関係への批判は確かに見えるが、道鏡の巨根には触れられていない。第一首の「薦槌」はファロスの隠喩《いんゆ》であるけれども、「坊主だって男の象徴があるのだ」くらいに読むことも可能だ。いったい、道鏡の巨根説はいつ、どこから発生したのだろうか。
先に述べたように、巨根が意味を持つのは女性との関係においてである。したがって、道鏡が称徳との仲を噂され、それが単なるスキャンダルを超えて、政道を侵すものというレベルに発展したときではないかと思う。もちろん、このことは女性の天皇、ひいては女性そのものへの批判の有無にもかかわっていよう。
この点については後ほど述べることになるので、『霊異記』からさらに時代が下る資料をもう少し見てみよう。従来あまり言及されなかったが、十一世紀の『新猿楽記《しんさるがくき》』におもしろい記事がある。この文献は、藤原明衡《ふじわらあきひら》の手になるもので、稲荷《いなり》祭りとおぼしい祭礼の見物に来た右衛門尉《うえもんのじよう》一家の様子を描く。さまざまな職業や身分の息子、娘、その配偶者らが登場する「物尽くし」の趣向である。数多い兄弟姉妹のなかで、十四番目の娘とその婿は変わっている。やくざな生活を送る白太郎主という婿は、「巨根」だけが人に勝っていた。娘の方も容貌《ようぼう》、性格ともに悪いが、並みの女では間に合わないこの男の相手ができることが、二人を結ぶ夫婦のきずななのであった。
[#この行2字下げ]ただし、この十四の御もと一人これをもてあそび、これを愛し、いささかもはばかるところなし。……陰に相互に和合して、神の媒《なかだち》するところの夫妻なり。ただし、昔の道鏡院は、法王の賞あるといへども、今の白太郎主は、ただに貧窮の名をのみ振《ふる》ふ。
江戸川柳から再び引くと、「道鏡にさて困ったと大社」なる句がある。大社とは、いわずと知れた出雲《いずも》の大社、縁結びの神である。巨根の道鏡にめあわす女性がいないと、神がしきりと首をひねるさまを表したものらしい。性的に相性が良かった巨根の白太郎主と十四番目の娘は、まるで神が引き合わせたようなカップルなのである。この夫婦に対して道鏡のたとえが出されているということは、十一世紀には道鏡の巨根説が広まっていたと見てよいだろう。道鏡は巨根により法王の位に上ったが、白太郎主は貧乏なまま、という皮肉だ。
引用した部分の前には、白太郎主の持ち物がいかに人間離れしたものかが漢語を駆使して語られる。こういった男性性器の描写は、院政期の漢詩文集の『本朝文粋《ほんちようもんずい》』に載る「鉄鎚伝《てつついでん》」とも共通している。これは男性性器を「鉄鎚」なる人物に擬人化した滑稽な漢文である。男たちが陽物のサイズを競うという滑稽な競技を描いた「陽物競べ絵巻」など、中世には男性性器への明るい笑いや興味がうかがえる資料が多く、こういった傾向も道鏡の巨根説を育《はぐく》む温床となったのかも知れない。しかし、こと道鏡の場合は称徳という特定の女性がからむため、淫靡《いんび》な様相を帯びてくる。
十四番目の娘が白太郎主を受け入れることができたということは、彼女が人並み外れた「広陰」だという意味である。「広陰」は医学的には何ら根拠がなく、男性側の因習的心理による錯覚だと聞くが、この因習がまさに称徳と道鏡との説話の周辺で育まれたわけである。川柳にまたいう、「道鏡にあるぞあるぞと大社」。道鏡の伴侶《はんりよ》として、あの「広陰」の称徳天皇がいるではないか、というのだ。称徳は道鏡につがえられた段階で、十四番目の娘と同じ広陰の女性、という烙印《らくいん》を押されることになったのである。道鏡の巨根説と称徳の広陰説は表裏一体の関係として生み出されたといえよう。
同じ十一世紀に編まれた『日本紀略《にほんぎりやく》』宝亀《ほうき》元年八月条に「藤原|百川《ももかわ》伝」が引かれる。ここには、著名な『古事談《こじだん》』の冒頭話のもとになったきわどい話が含まれている。
[#この行2字下げ]宝亀元年三月十五日のこと、称徳天皇が病気になり政治をとるのも難しくなった。天皇は道鏡を愛して、天下はますます危機に向かう。道鏡は天皇の歓心を買おうと、由義《ゆげ》宮に静養中「雑物」をお勧めしたが、これが抜けなくなった。命の瀬戸際に、ある尼が来て、「梓《あずさ》木に油を塗ったもので挟めば抜けます」といったが、百川は怪しんで尼を追い返してしまう。そして、天皇はついに八月に崩御となった。
同様の挿話は、歴史物語の『水鏡《みずかがみ》』にも見えるが、一応国の正史と見なされる『続日本紀』にはこのようなくだりは記されていない。当然史実とは考えられないが、称徳の死の原因を道鏡が「雑物」を勧めたことによるとしている点は注意すべきだ。「雑物」の正体は、『古事談』冒頭話によれば「薯蕷《しよよ》」、つまりヤマノイモである。
[#この行2字下げ]称徳天皇は道鏡の陰をなお不足に思い、ヤマノイモをもって「陰形」を作り、用いたところ、折れて出て来なくなり、腫《は》れ塞《ふさ》がってしまった。命にかかわる事態となったとき、百済《くだら》国の医師・小手尼が手に油を塗り取ろうとしたが、百川が「霊狐なり」といっていきなり尼の肩に切りつけた。それで、天皇は病が癒《い》えず、崩御に至った。
江戸の小間物屋が「弓削形《ゆげがた》」と呼ぶものを、ヤマノイモで代用したというのである。ここに至って、道鏡の巨根説はかなりあらわなかたちで登場しているが、称徳へのまなざしも微妙に変化していることに気づかされよう。「百川伝」と異なるのは、「雑物」を勧めたのが道鏡であったのが、『古事談』では称徳自身の希望ということになっている点である。「百川伝」における道鏡は、女帝の歓心を買おうとしたものの、結果的には崩御の事態を招く悪人として描かれるが、『古事談』では顔を見せないままで、崩御は淫乱《いんらん》な女帝の自業自得という書きぶりに変わっている。女帝をたぶらかす巨根の悪僧から、女帝の乱脈ぶりへと政道批判の視点は移っていく。『古事談』にほのめかされた称徳の「広陰」説は、こうした批判と並行して展開していったのである。
さて、以下の節では、残された資料から称徳天皇をめぐる当時の政治状況をうかがい、女帝への批判がどのようなかたちで進んだのか、また、道鏡の巨根説と連動した「広陰」説が生まれた土壌は何か、順次検討を加えていきたい。
光の母と影の娘
これまで見て来た説話の世界を少し横に置き、歴史資料から知ることができる称徳天皇の姿と彼女をめぐる政治と社会の様子を押さえておこう。称徳は奈良時代末期の最後の女帝であるといったが、彼女以前の五人の女帝とはいささか性格を異にしている。推古から元明に至る四人は、佐藤宗諄氏によれば「なか継ぎ=リリーフ的存在」であった。これは、女性の天皇は、嫡系の男性を即位させたいけれどまだ春宮《とうぐう》(皇太子)が幼い場合とか、天皇であった夫が亡くなった後、次の適当な候補者がない場合に妻が一時的に即位したもの、といった意味である。女性が正当な手続きを経て立太子するのではなく、春宮はあくまで嫡系男子であるべき、という考え方が基本にある。あいにくと男子がいなかったときなど、しかたがないから血のつながりのある女性が中継ぎに立つのである。推古、皇極(斉明)、持統はそれぞれ天皇の夫を持ち、夫の退位後に即位しており、草壁《くさかべ》皇子の妻の元明も同様とみなしてよいだろう。
フィリピンのアキノ大統領のように、夫が暗殺されて代わりに妻が政界へ打って出る例はよくあるが、古代も類似の事態が見られるようだ。現代と違うのは、皇后が天皇になる場合、自分の子供、あるいは血のつながった男子にいずれ位を譲ることが前提とされている点だろう。その意味で、天皇の血を正当に受け継ぐ子供を持っていることが、女帝の強みでもあり限界でもあるといえる。元正は称徳と同じく未婚のままだったが、皇太子となった聖武《しようむ》が成長するまでという条件つきでの即位だから、推古らと同様である。
称徳がほかの女帝と違うのは、誰のリリーフでもなく正式な手続きを経て春宮に立ったということ、そして、未婚であり自分の後継ぎを確定することが難しかったことの二点に絞られる。
また、元正までの女帝はすべて蘇我《そが》氏出身の女性だった。しかし、称徳は聖武と藤原氏出身の光明《こうみよう》皇后を両親に持つ娘である。この時点で、政界から蘇我氏の影が薄れ、藤原氏がのして来ることになるのだが、光明皇后の入内《じゆだい》とその娘の即位は、藤原氏の勢力拡大の布石の役目を果たした。このように、女帝のあり方と血筋の二点において、称徳はほかの女帝と同様に扱えない要素が多いのである。
しかし、聖武や光明子もはじめから我が娘を女帝にしようと考えていたわけではないようだ。聖武にはちゃんと男子が生まれていた。一人は基王《もといおう》と伝えられる皇子で、神亀《じんき》四年に立太子したものの、翌年に死亡してしまう。もうひとりは安積親王《あさかしんのう》である。この親王の母親は光明子ではなく県犬養《あがたいぬかい》氏の娘だったので、光明子がダメを出したらしい。藤原|不比等《ふひと》という臣下の娘が、人臣の身ではじめて皇后になったのだから、自分の生んだ子に位を継がせたいと思うのは当然であろう。そこで、ついに阿倍《あべ》内親王に白羽の矢が立つことになる。藤原氏の思惑は成功し、天平《てんぴよう》十年(七三八)、二十一歳で内親王は立太子し、天平勝宝元年(七四九)即位の運びとなった。
ところが、先ほども述べたように称徳の場合は後継者が問題となる。聖武の遺言により道祖王《ふなどおう》が皇太子になってはいたが、『続日本紀』によると、称徳は彼が喪中に女官と密通したとして皇太子を廃してしまう。皇太子は称徳が重用した阿倍|仲麻呂《なかまろ》の血縁に当たる大炊王《おおいおう》に交替するが、称徳は淳仁天皇となった彼をも退位させて淡路《あわじ》へ流すのだ。結局称徳は再び位につき、自分自身を後継ぎに選ぶこととなった。この後継者問題のゆれに道鏡もいやおうなく関わることになるが、それは後に述べよう。
こうして、称徳は二代の帝となるのだが、その背景には母・光明子の存在を忘れてはならない。すでに歴史家から指摘されているように、光明子の背後にはさらにその母親である県犬養三千代がおり、三代にわたる母娘の歴史が根を張っているのである。氏族の期待を背負って蘇我氏全盛時代の皇室に食い込み、その血の流れを変えようとした母娘の意志が見え隠れするのだ。
見方を変えれば、称徳は母の願いを全うしたけなげな娘といえるかも知れないが、しかし、中世の資料に描き出されたこの母娘の肖像はまるで違うのである。それは中世における二人の評価の違いが投影されたものと考えられるが、母が光り輝く聖女の面影を宿すのに比べ、娘の方はあくまで暗い。この違いはどこから来るのだろうか。
中世の説話で光明子がもっとも重要な役割で登場するのは、法華寺の創建縁起である。法華寺は、奈良市北部に尼寺として残るこぢんまりとした古刹《こさつ》である。この寺は光明子の願により創建されたと伝えられるが一時衰微し、鎌倉時代、源平の争乱で焼けた東大寺の再建にともない復興された。寺院には「湯屋」と呼ぶ風呂《ふろ》が備えられており、法華寺の湯屋に光明子とほとけの奇瑞《きずい》が語り伝えられているのは有名である。光明子が湯屋で千人の人の垢《あか》を擦る施しを行ったところ、阿弥陀如来《あみだによらい》(|阿※[#「門<人/(人+人)」、unicode95a6]《あしゆく》如来とする資料もあり)が化した「癩人」がやって来て垢擦りを乞《こ》う、という話で、奈良を愛した歌人である会津八一が歌に詠んでもいる。この説話に関して阿部泰郎氏の精緻《せいち》な論がある。
施行《せぎよう》とは、仏教の教えに基づいて、食事や風呂といった日常生活に不自由している人々に施しをすることで、これが施しを行った人の功徳となるのである。だが、いくら熱心な信仰者であろうと、皇后の身で貧しい民の中に立ち交じり、手ずから垢を擦る行為にはかなり強烈な印象を受ける。当時の風呂は蒸し風呂形式で、垢を浮かせて擦り取るのだから、現代のように「ちょっと背中を流しましょう」というのとは違うのである。光明子が「癩人」の体にじかに口をつけて膿《うみ》を吸い出した、と伝える資料さえある。光明子の無私の行為は、キリスト教の聖女伝にも似て、自己犠牲的だけとはいえない怪しい力を秘めた感じがする。これは法華寺の縁起の中核をなす部分であり、光明子の伝説がいかに寺院の再興に力があったかがうかがえる。法華寺は、強烈なインパクトをもつ光明子の霊験譚《れいげんたん》を縁起に引き入れることによって、寺院の新たな歴史を作ろうとしたのだろう。
そのほかにも、光明子の徳と不思議な霊力を語る説話は多い。鎌倉時代にできた『建久御巡礼記《けんきゆうおんじゆんれいき》』の「興福寺《こうふくじ》」の条には、光明子が生身《しようじん》の観音であると伝えられている。これは、光明子が亡き母の追善供養のために造立した興福寺西金堂の縁起である。
[#この行2字下げ]天竺《てんじく》のある国王が生身の観音を拝したいと願ったところ、日本国の光明皇后を拝すべしとの夢のお告げがあった。しかし日本は遠いので、仏師を派遣して后《きさき》の姿形を写させようと企む。后に会った仏師は、逆に彼女から「母の菩提《ぼだい》のために阿弥陀仏を作ろうと思うが、良い仏師がいないので、引き受けてくれないか」と頼まれる。仏師は「孝養のためならば阿弥陀如来が良いでしょう」と助言し、西金堂の釈迦《しやか》像を作った。
天竺と日本にまたがる説話のスケールの大きさが、光明子の霊力をとわずがたりに物語っている。ここでは西金堂の仏像が話の中に置かれているが、『興福寺|濫觴記《らんしようき》』には、法華寺の十一面観音が光明子の風貌《ふうぼう》を写したものであると明記される。光明子は法華寺の起源を語る重要な存在、法華寺の本尊そのものとして、その威力を讃《たた》えられているわけである。年に数回しかご開帳の機会はないけれど、法華寺の観音像を目の当りにすると、ぽってりとした唇が艶《なま》めかしく、光明子がモデルだという発想が生まれるのも当然の気がする。阿部氏のいうように、光明子が〈聖なるもの〉と〈穢《けが》れたもの〉を媒介する女性であることが縁起の骨格にあるのは確かだろう。『元亨釈書《げんこうしやくしよ》』には、光明子の名の由来を、容姿が光り輝くばかりに美しいからと説明されているが、まさに、彼女の存在は光の女として人々の脳裏に刻み込まれているのだ。
これに対して、娘の称徳はどうだろうか。光明子が西金堂を建て、また夫の聖武とともに東大寺を建てたように、称徳も西大寺を建立している。しかし、光明子のように寺院の縁起に取り入れられることはなかった。現在の西大寺はわずかな遺構が残るだけだが、元来は東大寺と相対する規模を誇っていたという。西大寺はやがて衰退し、鎌倉時代に叡尊《えいそん》らの律僧の手で再興され、真言律宗の中心をなすのだが、この再興縁起にも称徳を寺の起源と崇《あが》めるような記述は見えない。おそらく、鎌倉時代までに称徳の負のイメージが定着していたからであろう。
それでも『建久御巡礼記』などには、称徳が夢で天人を見、自分がいずれ都卒天《とそつてん》に生まれ変わる確約を得た、という記事が記されているが、ありきたりの霊験譚にとどまっており、光明子の説話から受ける衝撃度とは比べようがない。称徳は在位中に出家得度するという、神の子孫であるはずの天皇としては「暴挙」をなしたほどの崇仏信者だった。西大寺を建てたのも熱心な信仰の表れである。だが、鎌倉時代の説話集である『続古事談《ぞくこじだん》』によると、この西大寺建立には大きなケチがついたようである。建立の実務をとっていた藤原|永手《ながて》とのあいだに、寺の礎石をめぐるトラブルが発生したのだ。何から何まで東大寺とは対照的な西大寺である。
こうした光明子と称徳への対し方の違いは、血のつながった親子であれ、后と女帝という立場の違いが影響しているのである。皇后と女帝のもっとも大きな差とは、簡単にいうと天皇の血筋を受け継いだ子供がいるかいないかである。後継ぎを産んだ后は「国母《こくも》」となり、天皇家と実家一族の繁栄を担う存在として重んじられるが、未婚の女帝は、元正などのような中継ぎに使われる場合を除けば、争い事の種を秘めた厄介な存在に過ぎない。
事実、称徳は後継者問題で世情を騒がせた。こういう女性は、血の存続や家の繁栄という側面から見れば百害あって一利なしである。『続日本紀』の段階では明確に現れなかった称徳批判は、平安時代末期からさかんに行われ始める。そのいずれもが、子を産み家を守る母としての女性との対比において女帝を批判するのである。十二世紀の摂関家出身の僧侶《そうりよ》、慈円が書いた『愚管抄《ぐかんしよう》』には、藤原摂関家を支えた国母の賛美と女帝批判が随所に現れる。
[#この行2字下げ]国母はまた、みな大織冠《たいしよくくわん》のながれの大臣どもの女にて、ひしと国をさまり、民あつくしてめでたかりけり。
「大織冠」は藤原|鎌足《かまたり》を指すので、慈円が強調したいのは、彼自身も属している藤原氏の血筋を引いた女はみな、天皇の母として立派に役目を果たしているということである。だから、光明子は讃えられても称徳はけなされる。別の箇所ではこうである。
[#この行2字下げ]孝謙をば、この度《たび》称徳天皇と申しける。この女帝、道鏡といふ法師を愛させ給ひて、法王の位を授け、法師どもに俗の官をなしなどして、さまあしきこと多かり。
藤原氏を差し置いてどこの馬の骨ともわからない法師ばらに甘い女帝を「さまあし」と嘆く彼は、しかしながら、日本は「女人入眼の国」だといってもいる。このことばは、慈円の歴史観や信仰と深く関わるキーワードであるが、決して女性への手放しの賛美を意味してはいない。
[#この行2字下げ]まことの女帝は末代あしからんずれば、その后の父を内覧《ないらん》にして用ひしめたらんこそ、女人入眼は孝養報恩に兼行してよからめ、とつくりて、末代ざまの、とかく守らせ給へと、ひしと心得べきにて侍るなり。
女帝に任せてはだめだから、天皇の后の父親を内覧(重要書類を見ることができる人、という意味で、実質的には関白である)にすればこの世はうまく治まる、というのだ。「女人入眼」とは、脇田晴子氏の指摘の通り、母や娘の立場から天皇家と摂関家をつなぐ母性的存在として女性を評価しているだけなのである。したがって、光明子は「女人入眼の国」での模範生であるが、母にはなれず、かといって操り人形になろうともしない称徳は、危険な逸脱者と意識されて当然なのだ。また、南北朝時代の北畠親房《きたばたけちかふさ》による『神皇正統記《じんのうしようとうき》』には、称徳が天武天皇の血統を絶えさせたという批判が見られる。
[#この行2字下げ]その後、相続きて天智・天武御兄弟立ち給ひしに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久しく伝へられしに、称徳女帝にて御|嗣《つぎ》もなし。また、政《まつりごと》もみだりがはしく聞こえしかば、たしかなる御譲りなくて絶へにき。
女帝は自分の子供をもうけることができないから、天皇家の血を絶やす悪分子として排除しようとする姿勢が明らかである。しかも、天皇であっても女性の政治介入は避けるべきだとも説かれる。こうした批判的なことばが吐かれる場合、称徳「天皇」ではなく「女帝」が用いられていることも注意されよう。天皇は男性がなって当たり前、という認識がその根底にはあり、「女医者」とか「女教師」とかいった現代の性差別語と同様、無意識的ではないことばの選び方がうかがわれる。
慈円を例にあげたように、女性であるがゆえの称徳批判は、平安の末期から鎌倉時代にかけて表面に現れるようだ。おそらく、女性に対する差別観や不浄観が明らかになる現象と時期をともにすると思われる。いちがいにはいえないが、女性の何をどう差別するかは時代によって変化するにしろ、どんな時代にもなんらかのかたちで差別がなされていたと私は考えている。称徳の場合は、女性が天皇という最高権力(=王権)に近づくことへの拒否感と、母性偏重の考え方がからみあっているといえるのではないか。母の光明子との対比が、それを浮かび上がらせていよう。
さて、中世における「称徳バッシング」は、次第に露骨なセクシュアル・ハラスメントの様相を帯び始める。それが「広陰」説と道鏡|寵愛《ちようあい》の噂である。そこで、続いて称徳とほかの女帝たちが性的な面で批判される傾向について述べよう。
地獄に堕ちた天皇
前節に述べたこととは矛盾するようだが、実は光明子にもまた、性的にマイナスのイメージをもつ説話が存在している。称徳ほどあからさまなかたちで批判が加えられているわけではないが、光明子の存在は必ずしも完全無比な国母として崇められるばかりではなかった。というのは、光明子は皇后という立場から称徳の即位を無理に推し進めたのであり、むしろ称徳が再び即位するまでは権力をめぐる争いの渦中の人だったからである。権力を手中にした女性は(もちろん男性もだが)、毀誉褒貶《きよほうへん》が避けられないのは当然だ。光明子は鎌倉時代の法華寺再興の縁起に聖女としての姿を描き出された反面、東大寺関係の説話においてはかなり不名誉な記事が残されている。説話は、それを伝える人の位相や伝わった場所によって、その意味を変化させるものである。同じ一つの根から発生した説話が、まったく異なった受け取り方をされて伝わる場合は往々にして見られる。
光明子についても、「湯施行」の徳を讃える説話と、女性としての部分に焦点を当てる説話が、おそらく異なった位相で伝えられていたようである。称徳と同じく、光明子もただの女に成り下げられることがあったのだ。それが端的にうかがえるのは、十四世紀はじめの説話的伝記集である『元亨釈書』の「実忠」の項である。
[#この行2字下げ]光明子は初めて東大寺の講堂へ参ったとき、そこの地蔵像を見て「このような美しい僧と契りたい」とひそかに願った。東大寺の実忠はこの地蔵に似た容貌《ようぼう》端麗な僧だったので、后は彼に風呂《ふろ》を賜らせ、その姿を目にしてたのしむ。そうするうち、后はうたたねしてしまい、実忠と交わる夢を見た。彼が頭に十一面観音を頂いているのを見た后は、実忠がただの男ではないことを知る。夢覚めてのち、后は自らのただの女の悪しき欲望を懺悔《ざんげ》して実忠を拝した。
鎌倉時代に描かれた地蔵の絵を見ると、なるほど美男が多い。しかし、いくら美男でも入浴中の僧を盗み見するとは、光明子のイメージがすっかりくつがえってしまう行為である。この説話は、欲望に応《こた》えることを方便として后を導いた実忠の徳の高さを語るものであるが、風呂が出てくるところなど、光明子の「湯施行説話」との関係を感じさせる。だが、説話における光明子の扱いはまったく異なり、端正な沙門《しやもん》を意のままにしようとする欲深な女に変身している。黒田佳世氏によると、光明子に対する二種の説話の流れには東大寺と興福寺の対立関係が反映されているというが、たしかに藤原氏の氏寺である興福寺と比べ、東大寺側には后への認識の差が認められるようだ。夫の聖武、娘の称徳とともに建てた東大寺であるにもかかわらず、光明子への風当たりは強い。それは、この寺が大仏殿の内陣に女性を入れることを禁じているからである。女人禁制のおきては、たとえそれが皇后であっても厳しく強制されるのだった。それについて、『建久御巡礼記』の法華寺の項には、次のような興味深い記述がある。
[#この行2字下げ]これは光明皇后の御|願《ねがひ》なり。東大寺の大仏殿の内は、女人の身としてえ入らせ給はぬ事を口惜しがらせ給ひて、御心のほしいままとて造らせ給へり。
光明子が大仏殿に入ろうとすると堂の地面が割れた、と伝える『七大寺巡礼私記《しちだいじじゆんれいしき》』(十二世紀初頭)の記事があるように、熱心な仏教信者である光明子は東大寺の女人禁制に挑んで敗れたのである。法華寺は、女人禁制に対抗して后が造った女性のための寺というように解釈されている。具体的に東大寺の女人禁制がどの程度のものであったかはよくわかっていないが、寺院から女性が忌避される動きと、女性の悪業の強調はほぼ並行して起こっているといってよいだろう。神秘的な霊力に満ちた女性としての光明子と、色欲に迷う光明子という正反対の説話は、実は一つのコインの裏表で、さほど隔たったところから生まれたものではないのである。
また、室町時代の物語草子には光明子が地獄へ落とされる話が伝えられる。『大仏之縁起』と呼ばれるいくつかの伝本がそれだ。これは、浄土宗の始祖・法然が東大寺で説法をしたという設定をとる物語で、彼は文治《ぶんじ》六年(一一九〇)に実際の説法を東大寺で行っているが、物語の方はそれと関係はない。この物語の中に、光明子が罪を受けて地獄へ堕《お》ち、その見聞を語る部分がある。恐ろしい地獄の様相を聞かせることで仏法への結縁を呼びかける説法の常套《じようとう》手段だが、それにしても、寺院の建立はもっとも大きい功徳のはずなのに、当の東大寺を建立したその人がなぜ地獄に堕ちなければならないのか。いろいろな要因が考えられるだろうが、彼女が女性だから、というのがもっとも明快な答えであろう。后《きさき》は女人禁制を敢然と破ろうとした女性であり、そのために女性への忌避観は彼女に集中的に現れたのである。
地獄に堕ちた女性は、光明子のほかにもいた。斉明《さいめい》(皇極《こうぎよく》)天皇である。この女帝の堕地獄《だじごく》説話が見えるのは『善光寺縁起』。資料の成立年代は室町なので『大仏之縁起』と同時代であるが、金沢文庫所蔵になる鎌倉中期の『善光寺如来事并弥陀観音現益事《ぜんこうじによらいのことならびにみだかんのんげんやくのこと》』にすでに女帝の堕地獄記事が存するというから、斉明の説話の方が早く流布していたようだ。この文献のように「……事」と題されたものは、多くは僧が説法する際のノートであり、斉明の堕地獄説話も地獄をテーマとする説法によく登場する説話であったのかも知れない。『善光寺縁起』は、天竺《てんじく》から海を渡って日本にやって来た信濃《しなの》善光寺の本尊の物語として知られ、如来を背負って運んだ本田善光(彼の名が寺の名となった)の息子・善佐の堕地獄が後半部のハイライトをなす。頓死《とんし》した善佐は地獄で斉明が獄卒に引かれて行くのを見、身代わりを申し出るという場面だ。『善光寺縁起』は『善光寺如来絵伝』という題で絵画化された絵解きに用いられており、ここには斉明が紅の袴《はかま》だけの裸身をさらして地獄をさまようショッキングな図柄が見える。この縁起は、貴賤《きせん》の区別なく救済する善光寺如来の霊験を解くために作られたのであり、女帝もその一例として描かれるのだ。
古来地獄に堕ちた話が伝えられる天皇は、醍醐《だいご》天皇のほかは斉明くらいだが、彼女の場合は、驕慢《きようまん》で嫉妬《しつと》心が強く、五障三従《ごしようさんじゆう》の身でありながら後世の営みをしなかった罪によるというのだから、女性ゆえの罪を引きかぶったことになる。五障三従とは女性に課せられた業をいい、梵天王《ぼんてんのう》・帝釈《たいしやく》・魔王・転輪聖王《てんりんじようおう》・仏身の五種にはなれず、親・夫・子供に仕えなければならない、というもの。驕慢で嫉妬深いというのは性別を問わない人間の悪業といえなくもないが、これも中世では女性特有の業とされるようになる。しかし斉明の場合は五障三従の方が問題である。女帝とは、五障三従とはまったく相反する存在なのである。
中世の天皇は、しばしば仏教が考える理想の王である転輪聖王にたとえられるが、お気づきの通り五障の規定には転輪聖王が含まれている。理想の帝王になれない女性が、どうして天皇でいられるだろう。中世の考え方では、女帝という存在そのものが矛盾をはらんだものにならざるを得ないのである。古代以降、実質的な女帝が誕生しなかった理由もこのあたりにあるのだろう。
女帝のうちでも特に斉明の堕地獄が語られるわけはよくわからない。斉明が称徳と同様、二世にわたって位を独占したことがかかわっているとも思える。また、斉明は早く『日本書紀』で不穏な影を見せていた天皇だった。天皇が崩御した斉明紀七年、彼女の葬送を朝倉山の頂きからじっと見送る鬼があった。大笠《おおがさ》を着けた鬼の姿を目のあたりにした人々は大いに怪しんだという。この鬼がいったいどんなものか、解釈は分かれているが、ともかく斉明には何かしら不透明な部分があり、それがこの堕地獄説話に結びつく要因の一つとなったようである。
このように、称徳以外にも批判の標的にされた女性は多い。地獄に堕ちたり、淫欲《いんよく》のとりこと呼ばれた彼女らが権力に一番近い女性であることは、女性の権力者へのバッシングが性的差別と結びついていく理由を如実に物語っている。高貴な女性を登場させることで説話のインパクトを高める、という表面上の問題ではありえない。堕地獄に関して付け加えると、目蓮《もくれん》という高僧の母が堕ちた説話や、血盆経という偽経《ぎきよう》(インドでつくられたのではない経典)が広まり、出産や月経の血を流す女性すべてが堕地獄の対象となるなどの現象が現れる。唯一尊ばれていた母性までもが女の業に含み込まれ、「女の罪」は貴賤の隔てなく女性の肩に背負わされるのだ。称徳にも人一倍重い罪がのしかかっていたはずだが、それがそんな仏罰であったかという点に話を進めたい。
ある仏罰
さて、称徳に与えられた罰は、光明子や斉明を上回る陰険なものだった。つまり、前に紹介した「広陰」説がそれに当たるのである。道鏡の巨根説と一対になっているのであまり注意した人はいないのだが、どうやら称徳は生まれながらの「広陰」だったのではないのだ。この肉体の異変は、彼女が仏教を冒涜《ぼうとく》したことに与えられた罰とみなされていたようである。称徳は在位中に出家したり、寺院を建てたりした熱心な仏教信者ではないか、という意見が聞こえて来そうだが、彼女の熱意もむなしく、中世の説話では経文をののしった罰として「広陰」を身に受ける姿となる。
江戸時代にも称徳の「広陰」の由来を語る文献があるので、中世に溯《さかのぼ》る前にそちらを見ておくことにしよう。引用するのは、『藐姑射秘言《はこやのひめごと》』。称徳と阿倍仲麻呂、道鏡との色模様を典雅な文体で綴《つづ》った艶色《えんしよく》小説である。悪意をやんわりと包んだような書きぶりで、称徳の「病気」が語られる。
[#この行2字下げ]称徳天皇は気の毒なことに陰部に病気があった。それがむずがゆいのだろうか、まだ色気もつかない幼少の頃から指で掻《か》いていたから、次第に陰が広がって来て、しまいには指では足らず腕まで差し入れて掻きさぐった。それでもまだ物足らないほど広い女陰の有様であったことよ。
称徳の病気がどのようなものかはわからないが、掻きむしったせいで広くなったとすれば不可抗力であり(もちろんこんなことは実際にありえないが)、同情されてもいいくらいだ。しかしこの続きには、称徳が女房たちの色事の様子を聞きたがっては「おほん自らかいさぐ」った、という記述が唐突に現れる。病気が原因であるはずの「広陰」が、いつのまにか好色な女を象徴する要素になり代わっているのだ。
多くの女性には、自分の性器にみだりに触れてはならない、と親に諭された記憶があると思う。不潔になったらいけないから、というのは口実で、親たちは無意識的に、女性の性器に触れる権利をもつのは本人ではなく彼女を所有する男性である、という考えを強要しているのである。称徳は触れてはならない他人の所有物を自由にした罪で好色な女になった、とこの小説は暗示する。もっとも女帝である彼女には、そんな「他人」なんて最初からいなかったのだが。
江戸時代には儒教的な色合いが前面に出されているが、中世における「広陰」の由来は、先ほども述べたように称徳の仏教冒涜の結果として伝えられる。だが、その冒涜とは、当時流布していた仏教の教えが女性差別的であることに彼女が激怒したというものである。わざわざ「当時流布していた」といったのは、仏教といっても時代ごとに変化し、経典に書かれていないことでも教えとして通用するからである。しかしその時代の人々は、経典にあるなしにかかわらず、彼らが受容した教えが「仏教」だ、と認識していた点を強調しておきたい。次にあげるのは、十四世紀に書かれた『渓嵐拾葉集《けいらんしゆうようしゆう》』という書物の一節である。これは、光宗という天台僧が編んだ百科事典的な書で、中世の説話伝承が豊かに含まれている。
[#この行2字下げ]称徳天皇が涅槃経《ねはんぎよう》をご覧になっていると、経文に「所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人之業障」という偈《げ》(詩句)があることに気づいた。天皇は「私は女人だが煩悩なんかはない。仏は嘘をついている」といって、経典を七度も焼いた。この罪により、煩悩が絶え間なく起こり、称徳の女陰は広大なものとなった。
仏教の文献では、「涅槃」を「炎」と書く特殊な表記(「抄物書《しようもつが》き」という)を使うことが多く、この説話はその用字の説明のために語られたものである。『渓嵐拾葉集』には、中世仏教の奥義を口頭で伝えた「口伝」が記録されており、師匠が弟子に口伝えで秘密の教義を伝授したさまがよくわかるのだが、伝授に際してはさまざまな説話が語られたようだ。この話もその一つであろう。ただし、この説は真実のことではない、と光宗は言い添えているが、逆に、そう釘《くぎ》をさしておかねばならないほど僧侶《そうりよ》の間では有名だった、とも考えられる。因果応報というが、称徳の場合はまさしくそのことばにふさわしい。称徳の「広陰」は、経典や仏を嘘つき呼ばわりした罰と理解されていたのである。
これと同様の説話は、僧侶の間だけではなく、古典の注釈の世界でも語り伝えられていた。古典注釈とは、中世すでに古典となっていた『古今集』などの文学を、学問的に研究した産物である。用語や状況説明のために説話がよく引用されるが、そこで用いられる説話は、文芸とか宗教とかいった分野を越えて、中世人全般の知識教養として共有されていたと考えられる。十四世紀の『毘沙門堂本古今集註《びしやもんどうぼんこきんしゆうちゆう》』、陽明文庫蔵の『他流切紙《たりゆうきりがみ》十三』、片桐洋一氏蔵の『古今集注抜書《こきんしゆうちゆうぬきがき》』などに見えるが、いずれも『渓嵐拾葉集』とさほど違いはないので、比較的記事が詳しい『毘沙門堂本古今集註』から引いておく。
[#この行2字下げ]女帝は経文の中に「所有三千人……」の偈《げ》を見つけたので、怒って経文を引き破ってしまった。この経文|誹謗《ひぼう》の罪により、たちまちに陰が大となって淫欲の心が盛んに起こった。
仏教では、経典は仏のことばそのものとして重んじられていた。したがって、その経典に嘘が書いてあると言うなどとんでもないことである。このような罪に対してはちゃんと仏罰が設けられてあり、『日本霊異記』には僧侶をそしって口が歪《ゆが》んだり、地獄へ堕ちたりした例が見られる。また、光明子のところであげた『大仏之縁起』には、大乗経典をののしった人は阿鼻地獄《あびじごく》へ堕ちると説かれている。称徳はすんでのところで地獄行きをまぬがれたらしいが、この世で不名誉な思いを味わうことになったのだ。
『大仏之縁起』には、清い僧を色恋の力で堕落させた女が、地獄で「股裂《またさ》き」の責め苦を受ける場面がある。正確にいうと、逆さまに縛り、のこぎりで股から頭まで切り裂く、というものだ。よくあるよこしまな淫事《いんじ》の戒めのようだが、この責め苦は女性専門に行われるらしい。一般に、女色にかかわってはいけない僧をたぶらかした罰は、俗人どうしの邪淫《じやいん》の罰より数段重いとされている。特に、「股から」切り裂くという部分には性的な戒めの匂いが感じられる。僧を誹謗した人がそしりのことばを発した口に罰を受けたように、清僧を性の深みに陥れた女性の性器そのものが重い罰の対象となった、と読むことができよう。こういった仏罰の背景には、邪淫の根本原因を女に帰するあり方が透けて見える。
そのほかに、中世も後期になると、称徳の経典冒涜の方法が過激度を増した文献が現れる。やはり注釈書であるが、渡辺守邦氏の紹介になる『|※[#「竹/甫/皿」、unicode7c20]※[#「竹/艮/皿」、unicode7c0b]抄《ほきしよう》』(陰陽道書『|※[#「竹/甫/皿」、unicode7c20]※[#「竹/艮/皿」、unicode7c0b]内伝《ほきないでん》』の注)と、天理図書館蔵の『庭訓私記《ていきんしき》』(往来物の『庭訓往来《ていきんおうらい》』の注)である。称徳が経文を見て怒ったところまでは同じだが、それを焼き捨てるのではなく、女陰を拭《ふ》いて捨てたとするのだ。性器による冒涜に変化しているのは、「広陰」と仏罰の因果関係をいっそう明確にしようという意図があったからだろう。と同時に、この記事からは女性性器への不浄観もうかがえる。
今でも年配の人は、書籍や貴重なものの上を女性がまたぐことを嫌うが、その根底には女性の汚れへの忌避観があると思う。『※[#「竹/甫/皿」、unicode7c20]※[#「竹/艮/皿」、unicode7c0b]抄』などには、「広陰」になった称徳が道鏡を捜し求めるまでのエピソードが引用のあとに続いており、説話としてもかなりの変貌《へんぼう》を見せる。この変貌ぶりは、女性は淫乱で汚れた存在である、というとらえ方に基づくものといってよかろう。
女人業障《によにんごつしよう》の偈《げ》
ところで、『渓嵐拾葉集』の称徳「広陰」の由来には、「所有三千界《しようさんぜんかい》(「人」とするものもある)、男子諸煩悩《なんししよぼんのう》、合集為一人《がつしゆういいちにん》、女人之業障《によにんのごつしよう》」という文句が見られる。意味は、「女人の業障は三千世界に存在する男性の煩悩を集めたものと同じ」ということで、三千世界とはこの世すべてを指すから、女性の業障は計り知れないほど多いと比喩《ひゆ》的に言い表していることになる。
称徳はこの女性の煩悩の大きさを説く文言を『涅槃経《ねはんぎよう》』の中に見つけて怒ったというが、経文には「偈」と呼ばれる詩の部分があり、この文句もちょうど五文字ずつで偈に準じた格好をとるので、さしずめ「女人業障偈」とでも称することができるだろう。女性は煩悩のかたまりといわれて経典を読んだ称徳が怒らないはずがない。彼女は、なかなかうまく行かない西大寺の四天王像の鋳造のため、「私はこの功徳により永く女身を異にし成仏道する」という趣旨の誓願文を発している(『扶桑略記《ふそうりやくき》』)。大概の経典には、女性がそのままの女の肉体で成仏することはできないとされているが、女の身を離れて成仏を目ざす称徳は、女身の不成仏という仏説を内面化した忠実な仏弟子だったからだ。
だが、称徳に「広陰」の仏罰が与えられたのは、経文をそしったという単純な原因によるのではない。今一歩踏み込んで考えれば、称徳が女性の淫欲《いんよく》と不浄を規定した性差別的な経文に叛旗《はんき》をひるがえしたことが最大の原因であった。女性を囲い込もうとする仏教の枠組みに反抗した称徳は、いわばスケープ・ゴートとして懲罰をくらったものと思われる。
『毘沙門堂本註』などに『渓嵐拾葉集』と同じ説話があることはすでに示したが、この「称徳広陰説」はかなりの範囲で伝承されていた形跡がある。実は、このほかにもいろいろな文献にさりげなく登場しているが、大方の場合、女性の煩悩の強さとそれが引き起こす淫欲の罪を戒める文脈に見え隠れしている。そして、「女人業障偈」は説話に不可欠な要素として常に付随しているのだ。たとえば、説法のための説話を集めた十三世紀成立の『宝物集』の「九冊本」という伝本には「不邪淫戒《ふじやいんかい》」という項目があり、称徳と道鏡の関係をはじめとして、淫欲におぼれた古今の男女の例が書き綴られる。この項目の冒頭に「女人業障偈」が見えるのが、もっとも早い例だろう。
所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人之業障
女人地獄使、能断仏種子、外面如菩薩、内心如夜叉
[#この行2字下げ]これは『涅槃経』の文なり。仏、そらごとをしたまはんや。まことにさなめり、とおぼゆる事多く侍るめる。(これは『涅槃経』の文である。仏がどうして嘘をおっしゃることがあろうか。ほんとうにその通りだ、と納得することが多いようだ)
ちなみに、二番目の偈は「女は地獄の使いであって、男が本来持っている仏になる素質を断ってしまうものである。見かけは菩薩《ぼさつ》のようだが、内面は夜叉《やしや》のようだ」という意味である。
『宝物集』のあり方から考えると、「偈」は称徳の説話のみと独自の結びつきを有するというわけではなく、さらに広い説話の世界を呼び起こすものであったらしい。それらに共通するキーワードは邪淫の罪であった。邪淫のとりこになって身を滅ぼした男性の例としては、在原|業平《なりひら》や一角仙人、花山《かざん》天皇など、古今東西、多彩な顔ぶれをあげることができるが、注意したいのは、こうした男性によこしまな淫欲を抱かせた原因が女性にあるとする論理である。したがって、一方的に女性の煩悩だけを強調する「女人業障偈」が、男女の邪淫の戒めを説く経典レベルの根拠として意味を持つわけなのだ。しかし、問題はその先にある。
出典であるはずの『涅槃経』の中には、この「偈」がまったく見当たらないのである。同じ『宝物集』でも「三巻本」という別系の伝本(九冊本に比べて記事が少ない)では、「偈」を『華厳経』の文とするのである。ではこちらが正しい出典かというと、『華厳経』のどこにもこのような「偈」は存在しない。『女人往生思想の系譜』で知られる笠原一男氏はその著書の冒頭に、この「偈」を『涅槃経』の文言と明記して載せ、これを疑わずに踏襲する人も多い。ある経典をサンスクリットから漢文に訳す場合、訳者の違いによって複数の漢文訳ができるのは当然で、日本における経典の受容を考えるとき、そのいずれが日本に伝来したか、また、どの訳がもっとも広く受け入れられたかを考慮する必要がある。だから、現在残っている『涅槃経』や『華厳経』にたまたま「偈」がないだけだという考え方も成り立つが、後に述べるように、この「偈」は日本で造られた偈を、いかにも経典にあるかのように説いたものなのである。
この「偈」が『涅槃経』に見えないことについては、中世の『源氏物語』の注釈書『河海抄《かかいしよう》』に引用された「偈」を手がかりに論じた淵江文也氏の論考がある。「いひもてゆへば、女のみは同じ罪深きもとゐぞかし」(『源氏物語』「若菜下」)の注として、『河海抄』は「所有三千人……」と「女人地獄使……」の二つの「偈」をあげ、女性(源氏本文では六条御息所の生霊)がいかに罪深い存在であるかを説いている。淵江氏も指摘するように、『涅槃経』には女性の罪障思想が見られる部分があるが、「偈」そのままの文言は出て来ない。
『宝物集』を題材にした『平家物語』延慶本《えんぎようぼん》と『源平盛衰記《げんぺいじようすいき》』の「建礼門院六道《けんれいもんいんりくどう》めぐり」の箇所には、やはり「女人業障偈」が邪淫のたとえ話とセットで現れる。平家最後の生き残りである建礼門院が、大原へ訪ねてきた後白河院に、自分はこの世で六道を経験してしまった、ととわずがたりに語る場面で、『宝物集』に並べられた説話の数々が巧みな修辞のうちにほぼそのまま用いられている。六道とは生物が輪廻《りんね》する世界で、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つをいい、建礼門院の場合は、兄の宗盛と近親|相姦《そうかん》の噂を立てられたことを畜生道にあてている。女の身がいかにあさましく、仏の道に背くものであるかが「偈」とともに語られるその部分を『延慶本平家』で見てみよう。
[#この行2字下げ]天竺《てんぢく》、晨旦《しんだん》、我朝、高きも賤《いや》しきも、女のありさまほど心憂き事|候《さうら》はず、灯に入る夏虫のはかなき契りに命を失ひ、妻恋ふる秋の鹿、山野の獣、江河の鱗《いろこ》、草むらにすだく虫までも、はかなき契りに命を失ふと承る。されば『涅槃経』に「所有三千人、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障」と説き給へり。
これは『涅槃経』説だが、『源平盛衰記』の対応箇所は「……と仏の説き給へるも理《ことわり》と覚えたり」として出典を明らかにしない。「偈」は中世の終わり頃になると物語草子や浄土真宗の談義本《だんぎぼん》にかなり見受けられるようになるが、「ある経の文」として出典をあいまいにするのは少数で、『涅槃経』説が圧倒的だ。これは、「偈」が『涅槃経』の文として定着してしまっていることをうかがわせる。では、なぜこのような「偈」を作り出し、経文と称して広める必要があったのだろうか。
ここで「偈」が『宝物集』以前の文献には見られないこと、初出資料である『宝物集』が説法と深い関係にある書であることに注目したい。このことは、「偈」が中世の仏教の産物であり、説法の際によく引き合いに出される文言であったことを意味する。中世の仏教の特徴として、女性の不浄観と女身の不成仏があげられるのは今さら確認する必要もないだろうが、「女人業障偈」はそうした教説を広めるために使われたと考えられる。女性の成仏については第三章で詳しくとりあげるが、中世の仏者たちは、こんな汚れた悪い女でも仏の教えを守れば成仏できる、という戦略的な言説で、女性信者に説法を行ったらしい。真宗の存覚《ぞんかく》が語った女性のための往生心得である『女人往生聞書《によにんおうじようききがき》』に「偈」が引かれることもその裏づけになる。また、中世芸能である幸若舞《こうわかまい》『常盤問答《ときわもんどう》』に見える「偈」を分析した黒木祥子氏も、出典が経にはないことを指摘した一人だが、『常盤問答』が「偈」の後で「この文の心は」として偈を読み下し解説を加えている点に着目し、説法の影響を想定している。
「女人業障偈」と同時によく引かれる「女人地獄使……」の偈も、説法の場で女性の業障を説く際に頻繁に用いられる文句だったのだろう。そういえば、これらの偈はいかにも日本漢文的な匂いがする。このような常套句《じようとうく》は説法を通じて受け手の脳裏に刻み込まれ、物語草子にも取り入れられたのだろうが、それだけでなく、注釈書や口伝といった口承を中核とする世界と説法とが意外に接近していたらしいことは、中世文芸の生成を考えるうえでも興味深い。
一口に説法といってもさまざまな位相がある。僧侶《そうりよ》が僧侶に行う非常に学問的なものから、皇族、貴族、武家、庶民への説法まであり、対象の性別によっても話しぶりは変わるだろう。だが、「女人業障偈」がいったいどんな説法の場で語られていたのかを知る手立ては、残念ながらないようだ。ただ、称徳関係の記事が大幅に増補されている異本『水鏡』前田家本には、女帝の罪と罰を記す部分に特に説法の口調が残されている点を付言しておこう。次節で述べるように、前田本『水鏡』は称徳と道鏡の醜聞を独特の解釈原理により詳しく書き留める特徴がある。本文には「さてもさても」とか「いかにもいかにも」「さてさて」などといった語り口調と思われる言い方が見えるほか、
[#この行2字下げ]またこの物語は、聴聞の得意には法の罰の恐ろしき事、かの涅槃経の御事にて知りぬ。同じく一切女人の婬心《いんしん》の深き事は、恐ろしさの程もよくよく知りぬるもの也。
[#この行2字下げ]しかれば、これを伝へ聞き、これを耳に留めて、明日破れんずるをばいふべからず。
というような、聞き手を意識して説戒する文章がいくつも散りばめられていることからも明らかだろう。前田本『水鏡』の増補になぜ説法の影響があるのか、増補のために使われた資料は何か、などの細かな問題はあるにせよ、称徳「広陰」の由来と「女人業障偈」が中世仏教の女性|教化《きようげ》の戦略に則《のつと》って広められたものであることが確かめられる。
裏返しの王法仏法
以上述べて来たように、称徳と道鏡をめぐる性的な説話は決して単純な好色話ではなく、その背後には複雑な事情がからまりあっていることが明らかである。そのなかでもっとも大きな要素が女帝への忌避観による性差別であることは、何回も繰り返してきた通りだ。道鏡と一対にされることで、称徳への評価は好色で淫乱《いんらん》な女性、権力をほしいままにし男をこき使う女性、といった〈悪女〉の一般的概念にはめ込まれてしまった。
『古事談』に見えるように、この〈悪女〉は死の原因までも不名誉な色彩で塗り固められている(二十八頁参照)。称徳像を一方的に被害者として見てしまうのも問題があろうが、この〈悪女〉像が絶対的評価でありえない点をまず押さえておくために、今まであえて一面的な見方をしてみたわけである。
さて最後に、道鏡と称徳の関係が政道に及ぼした影響に対して厳しい批判の目を向けている文献に触れておきたい。何回か名前が出てきたことと思うが、『水鏡』の前田家本という資料を取り上げよう。この異本『水鏡』には、これまで述べて来た女帝への批判と女性そのものへの不浄観、そして「妖僧《ようそう》」としての道鏡のイメージなどがまとまって見られ、中世の称徳、道鏡像を集大成した観があるが、それらが「王法仏法《おうぼうぶつぽう》」という中世における理想の政治・社会の理念に反するものとして位置付けられている点で興味深い。つまり、女帝とその愛人を、正統な政道を転覆する悪しき存在と規定する意図が前面に打ち出されているのである。
『水鏡』に流布本《るふぼん》と異本の二つの系統があることはすでに述べたところだが、異本には流布本にはない大幅な記事の増補が行われており、むしろ増補本と呼ぶ方がよい。流布本は十一世紀末頃の成立といわれ、異本は鎌倉末期までに流布本を増補したものと考えられている。増補の時期が特定できるのは主に記事内容による。
益田宗氏の論によると、増補がなされた部分には特徴があって、神功皇后の海外侵略記事をふやして日本の優位性を説いたり、聖徳太子の伝記から補充したらしい記事があったりするようだが、何といっても称徳の条の増補がもっとも多い。益田氏はこれについて、女人不浄観が新たに補われている点を指摘している。試みに孝謙・称徳の条、時代的にその間にはさまった淳仁天皇の条を流布本と異本とで比較してみると、単純に分量の違いだけ比べてもその差は一目瞭然《いちもくりようぜん》である。また、称徳だけでなく、光仁《こうにん》天皇の皇后の井上《いがみ》内親王に関する記述が増えているのも珍しいが、井上内親王は後継者問題のもつれるなかで皇太子|呪殺《じゆさつ》の疑いをかけられた〈悪女〉と呼ばれうる人物であり、記事増補の理由は単純なものではなさそうだ。しかも、称徳、井上内親王のいずれもが邪淫《じやいん》の戒めの例としてあげられていることが、『水鏡』増補者の意図を物語っている。女性が政治・社会を混乱させた悪者と決めつけられた場合、その政治・社会的な悪は「女であるがゆえの罪」に転換され、意図的に淫乱の烙印《らくいん》を押されてしまうのである。
同じ「鏡物」の仲間でも『大鏡』などと比べて『水鏡』はあまりなじみのない文献と思うので、前説はこのくらいにして、さっそく本文を見ることにしよう。『水鏡』は年代記の形式をとるので、天皇の代ごとに治世の間に起こった(と考えられている)出来事が綴《つづ》られている。ここで対象となるのは、第四十六代の孝謙から四十八代の称徳までの記事だが、実際に増補のされ方が問題となるのは四十七・八代の部分である。まず、孝謙がすでに決まっていた皇太子を廃し、新たに人選を始めた場面における増補部分を抜き出してみる。これは増補者自身の評語と思われる箇所である。
[#この行2字下げ]この時分までは、孝謙天皇はいまだ涅槃経《ねはんぎやう》の経文の御罰もなかりし御事にて、御心も奉《〈ママ〉》性にめでたき賢王にてましましし御事にて、転輪聖王にもなぞらへられまします程の御事なれば。
「涅槃経の経文の御罰」とは、例の「広陰」の由来を指している。この時点では、称徳は転輪聖王になぞらえられる理想的な天皇だった、と『水鏡』増補者はいうが、それが経文を侮辱したことを境としてたちまち淫乱な〈悪女〉に転落する。いったんほめておいてストンと落とすのは、たちの悪いけなし方でもある。
これ以後、『水鏡』増補部分にはことあるごとに「涅槃経の罰」が主調音のように繰り返され、真綿で首をしめるような称徳批判が増補の眼目であることが明らかである。いうまでもなく、流布本の方にはこれに対応するような称徳批判は現れないし、「涅槃経の罰」事件そのものが流布本にはないのだ。おそらく『水鏡』を増補する折りに用いられた資料が、『渓嵐拾葉集』や『毘沙門堂本註』などが依った資料と共通する世界にあったと思われる。したがって、増補者の位相を考えると、益田氏が想像するように、称徳の説話を説法などでよく知っていた僧侶、あるいはその周辺の人が浮かんで来るのは当然だろう。『水鏡』を読み進むと称徳批判のあまりのしつこさに辟易《へきえき》するが、この過剰なまでの繰り返しは説法の口調がかなり色濃く残っている証《あか》しと思われる。
次に引くのは、流布本とはなはだしく相違する増補部分の一部である。このあたりの叙述は、すべての世の乱れが、釈迦《しやか》のいましめた婬欲《いんよく》の禁制を破った女帝の罪から発したという、仏教的な考えに貫かれている。
[#この行2字下げ]この事のなりゆき、世の乱れつるありさまなんど、ことごとくその源を思ふに。ひとへにただ、如来の御いましめの第三の婬欲の禁戒の罪とがゆゑに、大なる天下王法となりぬる事のあさましさよと、傾き申さぬ人はなかりけり。その故は、まづ始め、帝の御位を大炊《おほひ》天皇(淳仁)へ譲り奉り給ひしその御意趣も、ただ常の受禅|践祚《せんそ》の儀にはあらず。ひとへにこれ、女体の帝の婬欲放逸の御ふるまひをほしいままならしめんためなりき。
この部分の後には、称徳がいかに世の乱れを引き起こしたかがずらりと並べられ、そのいずれもが、引用のように「これはひとえに女帝の婬欲のせい」という文言で結ばれるのである。この繰り返しは、世の乱れと女帝の罪と罰の因果関係をいやおうなく読者に刷り込む効果があるようだ。
さて、『古事談』冒頭に描かれた称徳の崩御の秘密が、『水鏡』称徳条の最後にも置かれているのだが、「百川《ももかわ》伝」と『古事談』が事件の解釈を異にするように、『水鏡』の流布本と増補本の間にも明確な違いがうかがえる。流布本は「百川伝」とほぼ同じ文脈で、称徳の死因となった「雑物」を勧めたのは道鏡ということになっているが、増補本では百川の方なのである。「賢臣」百川は、称徳のワンマンぶりを見るに見かねて、「帝の御ために御病の毒とならせ給ふべき物」を奉ったというのだ。その理由は、「王法」を守るために尽きている。
[#この行2字下げ]これ、百川あまりに越えたる賢臣第一の臣にて、王法のすたれなんとするを、我が身に替へて王法を継ぎ奉らんとしける。その私無き意趣のつひに通りて、帝を失ひ給はば、道鏡も遥《はる》かの下野《しもつけ》国に遠流に処せられて亡び、しからば悪輩は八幡の神慮の如くに祓《はら》ひ除かれて、御めでたき王法の胤《たね》を継ぎましまして、その次の帝、光仁天皇、その次の帝、桓武天皇のめでたき王法今に相継ぎまします。これ、しかしながら神慮の御計らひは、かの百川の忠功なりとなん。
王法とは現世の政治権力と考えてよい。中世では、理想的な政治と仏教のかかわりを称して「王法仏法相依《おうぼうぶつぽうそうい》」という。仏教は、王を支える力として権力構造のなかに組み込まれているといえるが、『水鏡』増補本が強調するのは、道鏡の出現によって王法と仏法のバランスが激しく崩れたことである。だから、それを正すべく「賢臣」百川が重要な役割を果たすことになったのだ。
王法仏法と併記されても、王法の象徴である天皇(上皇のこともあるが)は、常に仏法の上位に立たなくてはならないはずだが、称徳は道鏡と性関係を結んだことによって、臣下の下位、仏法の下位に置かれることになったのである。増補がなされた鎌倉末期において、少なくとも性関係のうえでは女性と男性に上下関係が形成されていたのであり、したがって女帝が女の性である限り、性関係を境として男性の下位に格下げされることは宿命的である。道鏡が仏法を象徴する僧侶《そうりよ》と、女性を服従させ優位に立つ男性の両面を備えた存在と考えられ、称徳と道鏡の関係を王法仏法の秩序が転覆したモデルケースに仕立てあげたのだろう。
仏教が天皇にプラスの影響を与えることが王法仏法の正統なあり方とすれば、称徳の場合は女性であるという一点を軸として、王法仏法が反転してしまったのだ。道鏡の力は、マイナスのベクトルを天皇の肉体そのものに働きかけ、裏返しの王法仏法の構図を描き出したといえよう。称徳の「広陰」説の背景には、中世仏教に企まれた意図がこのような形で隠されていたのだが、次に、いったん称徳の話題から離れ、相方である道鏡の巨根説に触れておきたい。道鏡の巨根も生まれつきではなかった。巨根伝説もまた、王を犯し秩序の転覆を企む「妖僧」への変貌《へんぼう》と並行して発展したものだったのである。
葛城山《かつらぎさん》から来た男
称徳に登用されるまでの道鏡については、はっきりしたことがわかっていない。彼の来歴を記した文献はほとんどが平安末期から鎌倉時代のものであり、それらにはかなり伝承が混在しているのですべてが実像とはいえないからである。だから、道鏡が「妖僧」扱いされる場合は、こうした後代に成立した資料をまるで同時代のもののようにみなし、これを彼の実像と考えるからそうなるのであって、実像と中世における人物像の変貌とは分けて考察しなければならない。
道鏡の同時代の資料とは、前にも述べたように『続日本紀』くらいであり、そこに記された道鏡の行状には、巨根説はおろか称徳との性的関係を匂わせる要素すら見当たらないといってよいだろう。この節では中世の文献に現れる道鏡伝を取り上げるが、そこに描き出された伝記は、中世の人々が抱いた道鏡のイメージが投影されているという点で貴重なものである。
道鏡の出身地は、その出自とともに複数の説がある。比較的古いのが河内(現・八尾市)説で、河内の弓削《ゆげ》氏の出なので「弓削の道鏡」と呼ばれたとしている。はじめに、道鏡が河内出身の今東光とだぶるといったのは、実は以前私が持っていたイメージである。新感覚派の頃の今東光の作品を読み、道鏡について調べてみてやっとその先入観が消えた。河内というと河内音頭などで有名なせいか、いささか荒っぽい土地のように感じるが、古代の河内は文化的先進国だった。河内には弓削氏の氏神である弓削神社もある。時代の下る文献には美濃《みの》説、丹波《たんば》説、近江《おうみ》説などが見えるが、いずれの国にも「弓削」という地名が存するのでこれに引かれて生まれた説だろう。
また、道鏡の祖先としては、物部守屋《もののべのもりや》と天智天皇の子・施基《しき》(志貴)皇子説があげられる。施基皇子説は中世の資料に頻繁に見え、坂口安吾が小説にうまく用いていることははじめに紹介した。
宮中に上がる前の道鏡は、法相宗の義淵《ぎえん》僧正の弟子として東大寺にいたといわれている。十二世紀の『七大寺年表《しちだいじねんぴよう》』には、あるいは西大寺にもいたとされるが、称徳とのつながりを意識した異説らしい。当時は僧侶は国家の許しを得てからでないとなれないことになっており、戒を受ける場(戒壇《かいだん》)は東大寺ほか全国で三箇所しかなかった。天皇に近づく機会の有無を考えると、道鏡が東大寺僧だったというのは自然な感じがする。しかし、彼がそのまま東大寺で「国家公務員」として勤めを果たしていたと中世の人は考えなかったようだ。『七大寺年表』や『僧綱補任《そうごうぶにん》』は、道鏡が大和の奥の葛城山に入って修行者となった、と伝えている。彼は山林で苦しい修行に励み、如意輪観音法の行者となった。ちょうどその頃、近江の保良宮《ほらのみや》で療養していた称徳が彼の苦行ぶりを聞きつけて看病禅師《かんびようぜんじ》として召した、というのが道鏡と称徳の出会いだという。『続日本紀』はこれを天平宝字《てんぴようほうじ》七年(七六三)のことと記し、後代の資料もそれに従っている。この後、道鏡は少僧都に任じられ、次第に政権に食い入っていくのだ。
堀池春峰氏や村山修一氏によると、道鏡は密教や陰陽道《おんみようどう》(宿曜道《すくようどう》)に通じていたという。これらは当時としては最新の知識であり、仏教は同時に医学知識の宝庫でもあったから、彼が看病禅師、つまり修法の力や陰陽道の知識で治療する医師に召されたとしても不思議はない。だが、彼が得意とした如意輪観音を本尊として行う密教修法については、『続日本紀』は一言も言及していないのだ。また、陰陽道に通じていたというのは、高山寺《こうざんじ》に蔵されている『宿曜占文経《すくようせんもんぎよう》』の裏書(経文の裏に書かれた文書)に、道鏡が天平宝字六年(七六二)に称徳にこれを伝授した旨が記されていることが根拠なのだが、文書の成立は平安末期と見られるので、これも道鏡の中世的伝記の一つとみなされよう。
ところで、奈良時代の末に如意輪法を行った例は皆無に等しく、この法はむしろ院政期にさかんに行われた現世利益の色合いが強い修法である点は興味深い。道鏡の如意輪法記事は、平安末期から鎌倉時代の道鏡伝には必ずといってよいほど登場するが、私は、この法に対する中世の人々の考え方が、道鏡のイメージを左右している部分が少なくないと思う。
また、道鏡が葛城山で修行したということも『続日本紀』には出てこない。しかし、記事がないということは逆に、如意輪法と葛城山での苦行という二つの要素が、中世における道鏡のイメージを決定したと推測されるのである。まず、道鏡が葛城山の修行者に当てられることの意味を探ってみよう。
少しややこしいが、現在の葛城山はもとは戒那《かいな》山といい、現在|金剛山《こんごうさん》と呼ばれている方が昔の葛城山である。奈良と大阪の境に位置し、一一二五メートルとそれほどの高度ではないが金剛山系随一の修験の山だ。大阪側には楠木正成《くすのきまさしげ》の千早赤坂城があるので、『太平記』ブームを境に観光客が増えたようだが、近畿《きんき》の人にとってもまだまだ遠い山奥の印象がある。
ここは『日本書紀』に始まる「葛城の神」の説話で知られている。雄略《ゆうりやく》天皇がここで狩りを行ったとき、葛城の神である「一言主神《ひとことぬしのかみ》」が現れ、天皇とともに狩りを楽しんだというもので、天皇と土着の神が対等の存在であった頃の名残りを示す説話という。この神は時代を追うに従って天皇に従属するようになり、土着神が中央の勢力に対抗して衰微していくさまがよく現れている。この一言主神の系譜を引く葛城山の神は、修験の祖である役行者《えんのぎようじや》が橋をかける際にこき使われるまでになり、これを題材にした謡曲の「葛城」では、葛城神は醜い女神なので闇にまぎれる夜しか作業しない、ということになっている。葛城山の伝承は、失われた時代のカミやモノたちの息吹きに満ちており、この山が深く複雑な説話の基盤を持っていることがよくわかる。
そうした背景に、役行者に代表されるような修験の世界が関わっていることはいうまでもないだろう。修験道というと山伏がほら貝を手に山を駆け巡る、といったイメージが浮かぶが、それは修験自体が組織化された頃のあり方で、中世までの修験の多くは、それぞれの修行者が俗界を嫌って険しい山奥に潜み、肉体的精神的な苦行を行うというものだった。こういった行者はしばしば超人的な験力を持つようになり、「聖《ひじり》」と呼ばれるのだ。国宝の『信貴山縁起絵巻《しぎさんえんぎえまき》』に描かれる命蓮《みようれん》という聖は、信濃《しなの》からはるばるやって来て信貴山に籠《こも》る。彼は験力の聞こえにより延喜《えんぎ》帝の病気の加持に召されるが、自分は山にいたまま、護法童子を遣わすだけで治してみせるのである。彼も山の聖の一人であり、平安時代の伝記類には、中国の神仙思想が加えられた山の聖の不思議な話が散在している。
役行者以来の修験の伝統を受け継ぐ葛城山にも、聖は住まいした。不名誉な説話で高名を馳《は》せている久米仙人も、葛城の聖である。洗濯女のはぎを見て神通力を失って落下した、というのが久米仙人の俗伝だが、大江親通の記した『七大寺巡礼私記』には、東大寺の一本の柱の由来として、元の話が載せられている(『今昔物語集』などにも)。
[#この行2字下げ]昔、神通力を得た葛城の仙人が飛行で金峰山《きんぷせん》へ帰ることになり、ある村の上空を通りかかった。眼下には久米川が流れ、ふくらかな女が洗濯をしている。その姿を見た聖はにわかに邪欲を覚え、その途端力を失って女の傍らに落下してしまった。聖は遂に俗体に戻って女と結婚し、久米の宿禰《すくね》と称する。ある日、東大寺建立のため各地に人手を差し出すよう要請がなされ、もと聖もそれに加わる。東大寺で、彼はただ者ではないと見破られ、まだ残っていた験力で、柱にする木材を空に飛ばせて運んだ。
厳しい修行を積んだ聖が女性への欲望のために神通力を失う、というまでは俗伝と同じだが、結婚後も柱を空輸するくらいの力を発揮したというのだから、大した行者というべきだろう。阿部泰郎氏はこの説話を、女人に触れ俗塵《ぞくじん》に交わるという逆説的な行為によって聖の本質が表れるもの、と読み説く。おそらく、葛城山の聖の一人とされた道鏡のなかにも、こうした聖の本質が隠されていたのだ。称徳との関係をスキャンダルとして語りながらも、その深層に得体の知れない道鏡の超人的な力を感知していたからこそ、葛城山の修行者という要素が入り込んだのである。しかしながら、葛城山は都にとってあくまで異境の地であり、道鏡の験力は称徳を性的な面で虜《とりこ》にしただけでなく、王の権力を侵犯する不気味な力として意識された。中世の都人は、伝承に彩られた葛城山への畏怖《いふ》の念とともに、道鏡のことを語ったに違いない。これが、道鏡の「妖僧」イメージを育《はぐく》む環境となったのである。
道鏡の験力は、久米仙人の真の神通力が性的交渉を回路として現れたように、やはり性の力として意識されていた。これに巨根説が結びつき、さらに如意輪法までもが加わって、天皇を侵す性の力により上げられていく様子を、次に見ることにしたい。
不思議な如意輪法
中世に広まっていた道鏡の伝記類を見ると、一つ気がつくことがある。それは、必ずといってよいほど、如意輪観音法の記事が見えることである。先に述べた通り、『続日本紀』には道鏡の如意輪法について何も書かれていない。しかし、道鏡が称徳に登用される前、葛城山で如意輪法を修行したということは、中世道鏡伝に必須の項目として多くの文献に受け継がれているのだ。『七大寺年表』と『僧綱補任』は先に触れたが、そのほかにも『帝王編年記《ていおうへんねんき》』『元亨釈書』『仁寿鏡《にんじゆかがみ》』といった、十四世紀以降の資料にはこぞって見られる。これらには如意輪法を行った年が記され、天平勝宝四年(七五二)、八年(七五六)、天平宝字四年(七六〇)、七年(七六三)の四説が確かめられる。また、年を明らかにはしないが、『保元物語《ほげんものがたり》』上巻、『源平盛衰記』巻十八などの軍記物語や、和歌の注釈書にも見える。このような如意輪行者としての道鏡像が、ジャンルを超えた広い範囲で認められることは、如意輪法が道鏡を語る際にキーワードと化していた様子を物語るといえよう。では、その如意輪法とはどのようなものだったのだろうか。
如意輪法とは、如意輪観音を本尊として行う密教修法だが、速水侑氏によると、道鏡が生きた奈良時代では非常に新奇な修法であったという。もちろん、これは速水氏が中世の資料を道鏡の実際の伝記とみなしたうえでの考察であって、私の調べた限りでは、奈良時代には如意輪法を行ったという例が見当たらない。天平勝宝五年に、聖武天皇の病気平癒祈願のために安寛という僧が『如意輪陀羅尼経《によいりんだらにきよう》』を写経しているくらいで、修法そのものの記事は皆無といってよい。また、大和《やまと》の岡寺(竜蓋寺《りゆうがいじ》)の如意輪観音(本来如意輪であったかは不明)は道鏡が作ったという伝えもあるが、この伝承も奈良までは溯《さかのぼ》らないようである。
観音には十一面とか馬頭とかいった種類があり、主要な観音は六種であるが、なかでも如意輪観音はその起源が謎に包まれたほとけである。天竺《てんじく》生まれのほとけにはインドの古代語である梵語《ぼんご》(サンスクリット)の名前がついているものだが、如意輪観音の梵語名はいまだに知られていないという。つまり、如意輪観音の形態や役割がいつ、どこで成立したかは不明で、もしかするとインドから日本へ仏教が伝来する過程で生み出されたものかも知れないのだ。したがって、如意輪法という修法自体が新しく日本で作られた可能性を考えてみなければならないだろう。実際、文献のうえでは如意輪法がさかんに行われるのは平安時代の終わり頃からである。
この時代は、貴族社会において個人的な現世利益を願う風潮が高まり、その要求に従って修法の内容も変化せざるを得なかった。国家の安全を祈る仏教から、富や栄華を目的とする仏教へと変化したあり方を、仏教の堕落と決めつけることは当たらない。これは人間の動きとともに変化する日本仏教の当然の推移なのだ。如意輪法の場合も、基づく経典がないから、あるいは仏教以外の要素が入っているから正統な仏教ではないという人があるが、私は、中世の日本人が仏教として受容したものは、すべて中世日本仏教とみなすべきだと思う。
さて、道鏡が如意輪法によってどんな効験を得たかを見てみよう。道鏡が看病禅師に抜擢《ばつてき》されたことと如意輪法は、中世の人々の頭のなかで因果関係で結ばれていたからである。
『続日本紀』に初めて道鏡の名が見えるのは、天平宝字七年(七六三)の少僧都任命で、これが実質的に道鏡が称徳の政権に関与し始める記事といってよいだろう。ただし、『続日本紀』には如意輪法を修したという記述はまったく見えない。しかしながら、先にあげた資料で修法の年次を示すもののうち、まさにこの年に如意輪法を行ったとするものが二例あり、ほかもすべてこの年以前に設定している。これは、道鏡の登用が如意輪法の効験によるものという理解の反映であり、特に、天平宝字七年とするのは、その因果関係をさらに強調しようとする意図があるのだ。葛城山の行者がその超人的な験力を認められた、ということもできようが、あえてそこに如意輪法という具体的な修法名を持ち出してくることに注目する必要がある。道鏡が称徳の気に入られたのは如意輪法のおかげだ、という噂がささやかれていたらしいことは、たとえば『保元物語』にうかがえる。
[#この行2字下げ]昔、称徳天皇の御宇、弓削道鏡と聞こえし僧、如意輪の法成就せしゆえに、帝の寵愛《ちようあい》甚だしくて、太政大臣を授けられ、禁中に伺候せしは別段のことなり。
如意輪法は広い分野にわたって効験を発揮する修法で天台・真言のどちらでも修されており、天台の『阿娑縛抄《あさばしよう》』、真言の『覚禅鈔《かくぜんしよう》』という事相書《じそうしよ》には、修法の方法といっしょにさまざまな効験とその成功例が記される。「如意輪」とはすべてのことを思い通りにする力をもった輪を意味し、その名にあやかって富や現世での栄達をほしいままにするという効験が多いが、国王の寵愛を得るというのが中でも最高の栄華であろう。
この法を行って天皇に重んじられるようになった例に、国宝の絵巻『伴大納言絵詞《ばんだいなごんえことば》』で応天門の放火犯の疑いをかけられた人物として知られる伴善男がいる。『古事談』巻二の説話は、清和《せいわ》天皇が前世からの宿縁により善男を憎むので、善男は修験の僧から如意輪法を習い寵臣《ちようしん》となった、と語っている。この場合は結局宿縁の方が勝り、善男は疑獄事件で政権から排除されてしまうけれど、道鏡もおそらく善男のように如意輪法により天皇に取り入ったと考えられたのである。しかし、問題は天皇が男性ではなく女性であったことだ。称徳天皇の「寵愛」には、まったく別の意味が加わってしまったのである。
あまり知られていないが、如意輪法には性愛に関する効験もうたわれている。『阿娑縛抄』巻九十二には、この法を成就して一条天皇を産んだ藤原兼家の娘・東三条院|詮子《せんし》の例が見える。国母《こくも》(天皇の母)となることは貴族女性の最高の出世であるが、早く後継ぎを産むためには天皇に愛されなければならない。この「愛」とはすなわち性愛で、愛が結婚につながるという近代的ロマンティック・ラブ・イデオロギーが出現する以前は、性愛とはイエの繁栄を左右する重要なものだった。特に天皇家では後継ぎを作ることが最優先事項であり、后《きさき》たちはこぞって天皇の寵愛を受けようと祈ったのである。こういった環境で愛法《あいほう》と呼ばれる修法が生み出されていった。愛法は、異性から愛されることを目的とし、淫欲《いんよく》を起こさせたり、なくしたりというような性愛をコントロールする術を身に付ける法である。千手観音や愛染明王を本尊とする愛法が多いが、如意輪法も愛法の性格を充分に持っている。道鏡の如意輪法には、男性としての彼が、女性でかつ天皇である称徳に性愛の面でも寵愛された、という意味が隠されているのである。それは、巨根説と分かちがたくむすびついて、説話のなかに登場する。
道鏡の如意輪法がいかに不思議なものとされたかを知る資料が、前田家本『水鏡』、『毘沙門堂本古今集註』、そして陽明文庫蔵『他流切紙』である。ただし、流布本『水鏡』にはこの道鏡の記事を欠く。ほかの資料は前にも引用した和歌注釈の類である。細部の違いを除けば三本ともほとんど同じ説話を記しているので、『毘沙門堂本註』から引いてみよう。これは、称徳が経典をそしって「広陰」になった記事の直後に置かれており(四十八頁参照)、両話には強い因果関係が想定されていたことがわかる。
[#この行2字下げ]道鏡は『如意輪経』に書かれた「生まれ変わることなしに直ちに王位に着ける」という文句を信じ如意輪法を行うが、ちっとも効験がない。怒った彼が本尊に「精」を漏らしたところ、どこからともなく蜂が飛んで来て陰部を刺したので、頭と同じくらいの大きさに腫《は》れた。この噂が「広陰」の女帝の耳に入って道鏡は宮中に召され、法王の位にのぼった。
『水鏡』では、本尊に精液ではなく尿をしかけるなど多少の違いはあるが、道鏡の「巨根」が如意輪法と連動していたという認識は同じとみてよい。本尊を侮辱することが如意輪の効験につながるのか、と疑問に思うかも知れないが、『他流切紙』では如意輪の行者である道鏡が求聞持法《ぐもんじほう》を達成したとき蜂に襲われたとする。男の子がみみずにおしっこをかけたら陰部が腫れる、などというが、道鏡の行為は必ずしも本尊の祟《たた》りとはとらえられない。
吉祥天に恋した僧が天女と交わる夢を見、覚めてみると寺の天女像に精液がついていた、という『日本霊異記』中巻十三の有名な話を思い出せば、尿ではなく精液をかけるのが本来のあり方のように思う。つまり、道鏡は本尊と交わることで別の形の効験を得た、と解釈することができるのである。それは、正攻法で国王になるのではなく、女帝との性愛を手段として栄華をめざす道であった。
だから『他流切紙』での蜂は、おそらく如意輪観音が遣わした使者だったろう。腫れが引いたら元に戻るのでは、などと要らぬ心配をしてしまうが、古代インドの性愛の書である『カーマ・スートラ』には、虫の針毛で摩擦してリンガ(男性性器)を大きくする方法がある(一度膨脹すれば生涯持続するという)。蜂の話も、日本に類似の民間伝承があり、それの影響で生まれたものかも知れない。いずれにしても、道鏡の如意輪法には魔術的な匂いが濃厚に漂っている。如意輪法のほかに、時代は下るものの、荼枳尼天法《だきにてんのほう》や愛染法を行って天皇に近づいたとする文献も見られる(『※[#「竹/甫/皿」、unicode7c20]※[#「竹/艮/皿」、unicode7c0b]抄』『庭訓往来註』『月刈藻集《つきのかるもしゆう》』)。これらの法も愛法の性格を持つものである。
艶笑小話《えんしようこばなし》として取り上げられることの多い道鏡の巨根説だが、女帝という存在に対する男性のまなざし抜きには語れない背景があることを、改めて強調しておきたい。道鏡の愛法の力は性関係を通じてはじめて発揮されることになっているが、それによって称徳自身の性は大きくゆがめられ、疎外されていく。女性にとって常に性が快楽ばかりを伴っていると思うのは、男性の先入観に過ぎないのである。最後の節では、そういった疎外される女性の性について述べよう。
疎外される性
道鏡が女帝の寵愛を受けるために行った愛法の秘法は、天皇の子を産むために修法を競い合う后たちがいたように、実際は女性が主に修するものとされたようである。愛法を行ったことで有名な女性といえば、平安時代の歌人である和泉式部の名前がすぐに浮かんでくる。
和泉式部は弾正《だんじよう》の宮・帥《そち》の宮兄弟との恋愛で知られるうえ、藤原道長から冗談交じりに「うかれめ」と呼ばれたことがあって、そのせいか「情熱の歌人」などという冠詞を付けられることが多い。『沙石集《しやせきしゆう》』や『三国伝記《さんごくでんき》』には、夫となった藤原|保昌《やすまさ》の愛情が薄れたため、和泉式部が貴船明神で愛法を修したという説話が見られる。大概の場合は式部の和歌の素晴らしさを説くための「歌徳説話《かとくせつわ》」と組み合わされ、失われた愛を取り戻そうとする式部のいじらしさが強調されている。しかし、本尊が何であれ愛法の作法は体裁のよいものではなかったようで、愛法を行う女性の後ろ姿には「愛」を祈る真摯《しんし》な心といった近代的ロマンティシズムを感じ取るべきではないのだ。『沙石集』によると、貴船の巫女《みこ》は女陰をあらわにしてぽくぽく叩《たた》いて見せ、「このようになさいませ」と勧めたので、式部はとても恥ずかしくてできなかったという。夫の愛のために、といえば聞こえはよいが、中世の男女の性愛が必ずしも両性の自然な愛情に基づくものではなかったことを考えると、愛法の行為にもそれなりの凄《すさ》まじさが読み取られる。
この節では、巨根を好むふしだらな女性という称徳のイメージが、愛法を行う女性の姿とからめて発想されたらしいことから話を始めよう。
真言宗の古刹《こさつ》、高山寺には、『荼枳尼天祭文《だきにてんさいもん》』という短い祭文が伝わっている。平安時代のものと見られるこの資料は、荼枳尼天を本尊とする愛法の様子を伝える珍しいものである。荼枳尼天は早く稲荷《いなり》明神と習合し、特に愛法は稲荷の阿小町《あこまち》と呼ばれる女神に祈るとされた。『荼枳尼天祭文』には、男性が女性を得るためのものと、反対に女性が男性に巡り会うことを祈るためのものの二種がある。ほとんど似たような文言が並べられるが、稲荷の阿小町、道祖神《どうそじん》、木島《このしま》明神など、性愛を司《つかさど》ると言われる神々が見えておもしろい。
こうした愛法の流行は、『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』の今様《いまよう》などに歌われるように平安末期のことと思われるが、関連して興味深いのが十一世紀の藤原|明衡《あきひら》の『新猿楽記』の記述である。この文献については前に触れたが、右衛門尉《うえもんのじよう》一家の稲荷祭の見物という設定自体が愛法的雰囲気を醸し出している。右衛門尉は年齢の異なる三人の妻をもっており、最初の妻は年上の老女、次が同年の家事に長けた女性、最後がまだ十代の若く美しい女性である。この三人の妻は、子供を産み育てる母、放っておいてもしっかり家を守る妻、そして、遊ぶ性を満喫させてくれる若い愛人、という「男性の理想」を表しているようである。しかし、理想は常に理想に終わりやすい。糟糠《そうこう》の妻である第一の妻は、六十過ぎになっても夫の心変わりを恨んで数々の愛法を修するがいっこうに効果がない、ということになっている。明衡は比喩《ひゆ》を多用して彼女の老いた無残な姿を書き綴《つづ》り、年がいもなく愛法に夢中になる様をあざ笑う。彼女は子供たちの母であるという一点においてのみ存在価値を認められ、出産機能以外の何ものも期待されていないにもかかわらず、まだ夫に愛されることを望む滑稽な女性とされているのだ。ここには、女性の性愛への執着に対する厳しい目が向けられている。
第一の妻は、象頭人身の男女の神が抱擁する聖天や、さきほどの阿小町、道祖神など、験のありそうな神仏に片っ端から願いをかけるというやり方で愛法を行った。そのなかで、称徳の像とよく似たイメージが出てくる。
[#この行2字下げ]稲荷山の阿小町が愛法には、鰹の破善《はぜ》をうせって(振り動かして)喜ぶ
「鰹の破善」とは、鰹節でこしらえた男根であろうといわれている。貴船の巫女の愛法が女陰を用いるものと対照的に、阿小町の方は男根の作り物を呪物《じゆぶつ》とするらしい。古い時代の道祖神が男女の性器を象どった石像であったり、「金精様《こんせいさま》」というような性器崇拝が各地に残るように、愛法は密教の修法に吸収されてはいるものの、民俗信仰と交わる部分が多いと思われる。男根を振り回してひたすら愛情の回復を祈る第一の妻には、グレート・マザーと呼ばれる母性的な女神のイメージも重なり合うが、それ以上に、ファロスと老女の取り合わせには女性の性に対する忌避と疎外が漂っているようだ。
ここにもう一人、巨根を好んだとされる女性がいる。彼女の名は卿《きよう》二位・藤原兼子、後鳥羽院の乳母《めのと》として権勢を振るった人物だ。かの藤原定家は官位を貰《もら》うためにしきりに彼女のご機嫌をうかがっているが、『明月記』には堂々と「あの女は狂女だ」と悪口を並べている。権力を握った女性としては称徳とも肩を並べうる卿二位は、やはりきわめて男性からの評判が悪い。比良山《ひらさん》の天狗《てんぐ》がある女房に憑《つ》いて魔道の様子を語るという『比良山|古人霊託《こじんれいたく》』には、卿二位が重罪を得て魔道にさまよっているという記事が見える。ここでは死後軒並み魔道や天狗道に堕ちた高僧たちの近況が語られるが、
[#この行2字下げ]あはれ、卿二品、もしこの道にありせば、最前に指し出《いで》なまし、その罪深くて、この道には来ざるなり
と記されるように、女性である彼女は、同じ驕慢《きようまん》の罪を犯しても男性より一段と重い罪を背負っているのである。つまり、女性の存在自体が男性より罪深いものとされているわけで、女性は生まれたときからマイナスの場所に立たされているのだ。卿二位は権力を頼んでかなりの専横ぶりを発揮したらしいが、次の『渓嵐拾葉集』の説話に明らかなように、彼女には多淫の罪もかぶせられている。
[#この行2字下げ]三井の刑部《ぎようぶ》僧正・長厳《ちようごん》は文盲の貧者だったが、一字呪王《いちじじゆおう》の秘法のおかげで卿二位に取り立てられ、富貴の身となった。彼が大峰の修行を終えて稲荷に参ったとき、地主権現の前で卿二位に出会った。長厳は貧乏なので袴《はかま》の破れ目から「大陰」が覗いており、卿二位がそれに目をとめたのが栄華のきっかけとなったのである。
長厳の一字呪王法は荼枳尼天法のことらしく、彼も道鏡と同じように、まるでアクシデントのようなきっかけで栄華の道を得るのだ。稲荷の地主権現という場所も、男女の逢瀬《おうせ》の機会となることが多い稲荷の初午の祭のカーニバルのにぎわいを思わせる設定となっている。実際には稲荷に地主権現という社はなく、おそらく縁結びで名高い清水の地主権現からの連想だろう。清水観音は、古来「妻観音」ともいわれ、よい妻と巡り会えると伝えられる。室町時代の物語である『物ぐさ太郎』では、信濃から上って来た物ぐさ太郎が「東より昨日来たれば妻を持たず」という『梁塵秘抄』の歌の文句そのままに、妻を得ようと観音参りの女を「辻《つじ》とり」、つまり誘拐した場所でもある。卿二位の説話では女が男を見初めるのだから、男が女を見初めるパロディーになっており、いわゆる「正統」な男女の出会いを反転させた「異端」者の面が浮き上がる構造となっている。稲荷や観音の信仰を舞台とした愛法的環境の薄皮をめくってみると、このような差別的構図が現れるのである。
したがって、豊かで野放図《のほうず》な性愛などここには見られないし、そもそも、本能の崩れ去った人間にとって性愛が「自然なもの」などという考えは錯覚に等しいのである。
蛇足ながら、よく、夜這《よば》いや歌垣が「性の解放」であるという人がいるが、男性にとっては「解放」なのかもしれないけれど(いや、たぶん男性にとってもそうではなかろう)、女性の場合が果たして「解放」の名に値するのかは甚だしく疑問である。相手の選択権はおそらく男性にあっただろうし、女性が拒否することが可能だったかもわからないのだから、網野善彦氏の、中世の旅人たちの間では女性の性が解放されており、それが女性の一人旅を「安全」にしたのでは、という発言(「中世の旅人たち」)に、保立道久氏をはじめとして多くの反対意見が出されたことを思い出す。網野氏は後にこの論考を『日本論の視座』に収める際、問題の部分を「男性と女性の性がともに解放されていた」と変えているが、この事例は大部分の(一部の?)男性の認識がうかがわれてとても興味深く、今後の議論の展開が期待される。
さて、ファロス好きに象徴されるような好色な女性の姿が、称徳が道鏡の巨根を愛したという説話に投影されていることは明らかである。女性をおとしめるときにもっとも効果的なことばがセックスに関係するものであることは、古今東西共通であろう。どんなに大きな権力を握っていても、また高貴な出身でも、近寄りがたい美貌《びぼう》や才能の持ち主でも、彼女が女の性を持つ限り、性の面ではたちどころに男性の下位に置かれてしまうのである。そこに男好きな女というレッテルが貼られてしまえば、もう浮かび上がるすべはない。称徳も、第一の妻も、卿二位も、そうして自己の本来の性を疎外された女性たちなのである。
数限りない醜聞にまみれた称徳天皇と道鏡。彼らをいたずらに興味本位に語ることは、自ら女性の性をおとしめる尻馬《しりうま》に乗ってしまうことである。もちろん、男性だけが女性をおとしめたのではない。原因はむしろ、男女を問わずその差別の構造を無自覚に受け入れ、それを垂れ流しにして来た人々にある。称徳をとりあげた第一章では、女が〈悪女〉と呼ばれる理由として権力と性という二大要素が不可欠であることを述べたが、母でもなく妻でもなく、ある意味では男性のために何ら役に立たない女性は、称徳を中心に見てきたような過程を経て排除される危険を孕《はら》んでいるのだ。もしかするとあなたも、そしてあなたと同じ寝床で眠っているひとも、依然としてこうした図式を抱え込んだまま生きているのかも知れない……。
[#改ページ]
U 鬼にとり憑かれた〈悪女〉
染殿后と位争い
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嘉祥 三年(八五〇) 文徳天皇即位。四男坊の惟仁が皇太子に立ち、兄の惟喬やきもきする。
天安 二年(八五八) 文徳崩御。惟仁が清和天皇として即位。
貞観 二年(八六〇) 真済、天皇の病気平癒に失敗したまま寂しく死す。
七年(八六五) 染殿后にモノノケが憑く!
十八年(八七六) 清和、なぜか二十七歳の若さで譲位。
元慶 二年(八七八) 染殿后五十歳の祝賀の席に鬼が出現し、后と戯れる。
延喜十七年(九一七) 真済、鵲の姿となって玄昭律師を悩ませる。
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染殿院から
時代も場所も奈良から移動して、ここは現代の京都の繁華な一角である。修学旅行生で賑《にぎ》わう四条京極の入口、甘栗屋のはじから体をはすかいにするように内へ入れば、ささやかな緑に包まれた小堂が喧噪《けんそう》を一時忘れさせてくれる。お堂の名前は「染殿院《そめどのいん》」、染殿地蔵という方がこの辺では通じやすい。京都にはこんな町なかのお堂が点在し、市民の多様な要望に応《こた》えてくれるが、ここは安産守護の信仰があついところである。私の親戚《しんせき》も、お産のときはここで岩田帯を加持してもらった。地蔵はもとより子供やお産の守護をするほとけだが、この染殿地蔵はどんな由来で名づけられたのだろう。
「染殿」とは藤原|良房《よしふさ》の邸《やしき》の名である。今の京都|御苑《ぎよえん》の東北に当たり、染殿町という町名に名残りを残すのみ。ちょっと日本史のおさらいをすると、藤原良房は九世紀に摂政を勤めた人物で、藤原家による摂関政治体制の基礎固めをしたことで知られる。この邸の名を冠して呼ばれた彼の娘が、この章で論じる染殿|后《きさき》・藤原明子である。「明子」は慣用で「あ
きらけいこ」と読まれているが、中世の資料では「あきらこ」とも読んでおり、実際はどうだったかわからない。染殿后は父の期待を受けて文徳《もんとく》天皇の後宮に入り、清和《せいわ》天皇を産んで「国母《こくも》」となった。名家の令嬢として生まれ、次の天皇の母となる、というのは当時の女性の理想でもある。その后が皇子を得るため祈願した所というのが寺に伝えられる染殿地蔵の縁起である。清和をもうけた后にあやかって、よい子が授かり無事のお産ができるように、というわけだ。また、「染殿」という名前から、後世には染色関係者の信仰を集め、河原巻物《かわらまきもの》では染殿后を染色の祖にあててもいる。
しかし、染殿后の出産の背後には数多くの陰謀と奸計《かんけい》が張り巡らされていたらしい。后が皇子誕生の祈願をしたという伝承は、実はこれ以外にも文献に残っている。次の天皇となる子供を産むのは政治権力とかかわる大事なことで、家の将来を賭けたたたかいが染殿后の周辺で静かに行われていたのである。そうしたなかで、染殿后が天狗《てんぐ》や鬼といった憑《つ》きモノに悩まされていたと伝える説話がいくつも見られる。モノに憑かれた后は巷《ちまた》の噂となり、天皇の目の前で鬼と戯れたなどとも取りざたされる始末。都人はさぞこの憑きモノの正体を知りたがったろうし、権力争いとからめて憑きモノ事件を解釈しようとした人もひとりやふたりではなかろう。乱れ飛ぶ憶測は、いつしか染殿后自身のイメージを変えていった。一方的に鬼に犯されたはずの后は、次第に、男性を誘惑し破滅させる〈悪女〉へと変貌《へんぼう》を遂げる。この変貌は、レイプ事件の被害者を「あなたが挑発したからだ」と責めるあり方に似ている。
称徳《しようとく》天皇に較べて染殿后の〈悪女〉ぶりは影が薄いし、彼女を〈悪女〉と考えない人もあるかも知れない。しかし、プロローグで述べたように、権力の周辺にいるがゆえに〈悪女〉にされていく場合が往々にしてあり、染殿后はまさにその例なのである。称徳天皇の場合で見たように、一人の女性が〈悪女〉と呼ばれるとき、必ずといってよいほど性に関係したおとしめ方をされるが、染殿后も例外ではない。彼女は美貌だったというが、男性の気を引き、立場を危うくさせる存在として美女こそが危険な〈悪女〉となり得るのだ。この章は、后と性的関係を持ったとされる男性の方から、「モノ憑きの美女」である染殿后が〈悪女〉に変貌する過程を多角的に探ろうとするものである。
モノ憑きの后
九世紀半ばの春たけなわのある日、摂政太政大臣・藤原良房は次のような歌をものした。
[#この行2字下げ]年ふれば齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば物思ひもなし
[#地付き](『古今和歌集』五十二)
目の前には、今を盛りと咲く桜花が瓶に活けられている。しかし、彼のまなざしがそれを超えて染殿后に注がれていることはいうまでもない。染殿后・明子は彼の鍾愛《しようあい》する娘であり、今上天皇の並びなき后、そして皇太子の母宮でもあった。聞くところによると、染殿后は花に譬《たと》えられるほどの美形という。まるで我が世の春ともいえる今、このような歌が良房の口をついて出たのは当然であろう。もちろん、のちに染殿后その人が彼の物思いの種になるとは、当の良房の知るところではなかった……。
その「物思い」は染殿后の物の気に始まる。
周知の通り、平安時代は物の気の話題には事欠かない。『源氏物語』の六条|御息所《みやすどころ》の生霊《いきりよう》が有名だが、当時の都は死霊生霊が夜ごと跳梁跋扈《ちようりようばつこ》していたといっても過言ではなかろう。これはある奇怪な現象や病気を「物の気のしわざ」だと人々が理解するという文化の枠組みによるのだが、それにしても、染殿后の場合は特に憑霊《ひようれい》現象が書き留められることが多かったようである。まず、后をめぐる物の気事件の経緯を見て行こう。
后がなにものかにとりつかれたことを語る記事は『無動寺建立大師伝《むどうじこんりゆうだいしでん》』(別に『相応和尚伝《そうおうかしようでん》』とも称される)、『拾遺往生伝《しゆういおうじようでん》』下巻「相応」条、『善家秘記《ぜんけひき》』、『今昔物語集』巻第二十ノ七話などに見える。このうちそれぞれ前後二つずつが類同の話を伝える。つまりこの四つの資料は、実は二つの出来事を記したものであり、『相応和尚伝』と『拾遺往生伝』は貞観《じようがん》五、あるいは七年の「天狗憑き事件」、『善家秘記』と『今昔物語集』は年次不明の
「鬼憑き事件」を描いている。『善家秘記』とそれを引く『扶桑略記《ふそうりやつき》』においては、元慶《がんぎよう》二年(八七八)の后の五十歳を祝う宴に再び[#「再び」に傍点]鬼が現れたと記すので、「鬼憑き事件」そのものもそれからさほど溯《さかのぼ》らない時期に起きたようである。時代順ではないが、まず後者の「鬼憑き事件」から先に取り上げたい。「憑く」ということが姿形の見えないモノがのりうつることを指すとすれば、「鬼に憑かれる」というのは表現として正しくないかも知れないが、これについては追々触れるとして、今まで言及されることの多かった『今昔物語集』により概要を示しておく(「 」の中は原文の引用である)。
[#この行2字下げ]染殿后にしつこい「物の気」がつき、有験の僧を呼んで祈祷《きとう》させても一向にらちがあかないが、金剛山に住む聖人が鉢を飛ばすほどの験力で評判なのを聞きつけて良房と天皇は早速呼び出す。再々のお召しの後にやって来た聖人が加持を行うや、ある侍女が「神託《かみつき》て走り叫」び、その懐から「一の老狐」が飛び出して后の物の気はおちた。
同話を記す『善家秘記』は、三善清行《みよしきよつら》の選というものの早くに散逸し、十四世紀の『真言伝』などに残った逸文からしか内容がわからないものだ。こちらでは物の気でなく、后が「病にをかされて祈療かなはざりける」としているが、これに依拠したと思われる『今昔』は、その病を物の気と解するわけである。ここまでが前半に相当する。聖人もこのまま金剛山へ帰ればよかったのだが、思いがけない出来事が持ち上がった。
[#この行2字下げ]良房に引き止められて逗留《とうりゆう》するうち、聖人はふとしたことで后の姿を垣間《かいま》見て、恋心を抱いてしまった。いわく、「見も習はぬ心地に」「心迷ひ、肝砕けて」というありさま。思いかねて后の腰に抱きつき、侍医の「当麻《たいま》の鴨継《かもつぐ》」に取り押さえられ投獄されるが、死んで鬼となり后と添いたいなどと口走るので山に返される。しかし結局聖人は餓死して鬼となり、思いを遂げる。后はまるで鬼が恋しい人であるかのように振る舞ったという。
この話は現代人の想像力をいたく刺激するものと見え、馬場あき子『鬼の研究』をはじめ、飯沢匡「鬼の真相」、田辺聖子『鬼の女房』などに取り上げられ、西村寿行『鬼』では推理小説の題材にまでなっている。多くは恋に狂った鬼の恐ろしさと悲しみを強調する文脈で読まれているようだ。というのも、鬼に変身する金剛山の聖人には深山で修行する聖《ひじり》のイメージが投影されているからである。金剛山自体が修験の山であるし、「鉢を飛ばして食物を継《つ》ぎ、瓶を遣りて水を汲《く》む」ところなど、『信貴山縁起絵巻《しぎさんえんぎえまき》』の命蓮《みようれん》や久米仙人を想起させる。多くの山は女人禁制であり、山に籠《こも》る聖が女など目にしないのは当然のこと、それゆえに聖人が后に抱いた恋は激しく凄《すさ》まじかっただろう、というのが一般的な受け取り方であろう。なるほど、世事に長けた貴族男性ならば適当に処理するだろうが、年は食っていてもうぶな聖がこともあろうに帝の后に恋をした、などというのは「愛欲の業」を語る際にもってこいの事例となる。『今昔』が「だから身分の高い女性がむやみに法師に近づくものではありませんよ」という、ややピント外れな教訓で締めくくられているのも、そういった読み方がなされ得ることを示すものだろう。
しかし、今述べたことは聖人の愛欲に焦点を置いて説話を読んだ場合の解釈である。同じ伝承を享《う》けていても、その題材をどのようなテーマにおいて語るかによって説話の目ざすところは異なって来るものだ。『今昔』はその題名を「染殿后、天宮《てんぐ》に|※[#「女+堯」、unicode5b08]乱《ねうらん》せらるる語」といい、表題が「天宮」なのに本文には鬼が出て来ることが問題にされる話である。「天宮」が何を指すのかは不明のまま残るにしろ、「后がなにものかに惑わされた話」と認識されているのは確実であって、ここからすぐに愛欲の問題を抉《えぐ》り出そうとするのは近代人的な思考ではないだろうか。
従来の取り上げ方について私の印象を述べると、かつて話題になった「危険な情事」という映画が好例であるように、恋の妄執の余り人間をやめてしまった聖人の行動がもたらす衝撃の強さに人々が惑わされているような気がしないでもない。どういうわけか、本話を論ずる場合は大概聖人の方に視点が合わされ、染殿后に言及する人は少ないのである。わずかに田辺氏が、后は聖人と本来波長が合い、鬼と戯れる行動は后の内なる人間的な衝動が表面に現れたもの、と述べており、それはそれでたのしい解釈だが、『今昔』では鬼が后を「ほらし狂はし」、つまり理性を失わせ、『善家秘記』でも「本心を失」った状態にしたというから、氏のような読みは苦しい。いったん染殿后の側に目を向ければ、なぜ染殿后は物の気や鬼に憑かれなければならないのか、という素朴な疑問が湧いてくるのは止められない。
染殿后に何物かが憑いたという説話は、『今昔』『善家秘記』のほかにも文献に見出せる。たとえば十三世紀に成立をみた『宝物集』の「一巻本」という伝本に次のようにあり、ほぼ同文が『平家物語』の異本の一つである『延慶本平家物語』巻二・本にも取られている。
[#この行2字下げ]染殿后は、清和の御時の国母にて、一天下をなびかし給ひけるに、紺青鬼《こんじやうき》といふ御物の気にとり籠められて、世中の人にさがなくいはれ給ふ事侍りけり。智証《ちしよう》大師、御持僧にておはしけれども、力なくしてやみ給ひけり。
ここに登場する「紺青鬼」の名は『今昔』には見えないが、鬼が青黒い奇怪な姿をしていることからこう呼ばれるようになったようである。鬼を物の気と呼ぶところが異例だが、物の気の正体については後節で述べるように、両者の混同が始まっているせいだろう。さて、この記事は、摂関家出身の国母として権力の要《かなめ》に位置する后《きさき》が、紺青鬼なる物の気のせいで世間から悪い噂を立てられたと伝える。現代の感覚からすれば、とりつかれた后の方こそ被害者で悪く言われるのは筋違いに思えるが、物の気がとり憑くのはその対象となる人に何らかの原因がある、と見るのが当時の常識らしい。当人でなければその血縁者に、物の気が遺恨を向けているのだ。染殿后の場合は、憑いたモノを物の気ととらえるか、紺青鬼ととらえるかにより過去の因果の内容が変わってくるが、ここでは后に恋慕した鬼の方に重点が置かれていると考えてよかろう。したがって『宝物集』の引用箇所を『今昔』と併せて読むと、美形の后が聖人に垣間見され、恋心を起こさせてしまったのが憑霊事件の根本原因ということになる。
『善家秘記』では聖人が「后の容顔美麗なるを見て」と簡略に記すにとどまるが、『今昔』には垣間見の状況が詳しい。
[#この行2字下げ]夏の事にて、后、御|單《ひとへ》ばかりを着給ひておはしけるに、風、御几帳《みきちやう》の帷《とばり》を吹き返したるはざまより、聖人、ほのかに見奉りけり。
風が御簾《みす》などを吹き上げて垣間見がなされるという趣向は、『源氏物語』にもよくある、いわば常套《じようとう》手段である。しかし、注意してみると引用部にはそれとなくあやしい雰囲気が漂っている。聖人の目に焼きついたのは必ずしも后の美貌《びぼう》だけではなく、それ以上に薄物に覆われた女の体であったと読めるではないか。これを称して飯沢氏は「単衣のシースルー」の「后の艶姿《えんし》」、国文学者の稲垣泰一氏は「チラリズム」と、いかにも論が書かれた七〇年代初期を彷彿《ほうふつ》とさせる用語で語っている。この場面に言及する人が、必ずといってよいほどこのアクシデントを聖人の視点から見ていることが明らかである。先ほどの論理でいえば、聖人が恋の鬼と化した原因は、美しい后が偶然であったにしろ不用意に単衣姿を人前に曝《さら》してしまった落ち度に帰されてしまう。
しかし、普通に考えれば、后には何ら責任はないはずなのに、勝手に妄念を抱かれ、あげくに鬼に犯され「さがなく」噂されるとはいい迷惑だ。第一章の称徳天皇とは違って、自分が積極的に何もしていないにもかかわらず聖人を恋の闇に堕としたとされる点で、染殿后は「巻き込まれ型」の〈悪女〉といえる。
染殿后に対する露骨な中傷がほかに見えるわけではないが、いやしくも摂関家の令嬢で国母の地位に上った女性にとっては、鬼との性的関係が書き記されること自体すでにかなりのスキャンダルであろう。こうした醜聞の発生は、后の地位の高さと無関係ではあるまい。物の気に憑《つ》かれる回数と、自身または血縁者が他人から恨みをかう機会の数とは正比例するのである。スキャンダラスな物の気憑きの后として噂された彼女の背後には、金剛山聖人のほかにいったいどのような者の怨念が渦巻いていたのだろうか。
惟喬《これたか》と惟仁《これひと》の位争い
前節では染殿后の「鬼憑き事件」を取り上げたが、次にもう一つの「天狗憑き事件」を考察することにしたい。こちらは、時間的には「鬼憑き事件」の前に起こったとされる。『相応和尚伝』は、比叡山《ひえいざん》の無動寺を建立した相応和尚の事跡を記した文献で、これによると相応は藤原摂関家の女性たちの物の気や病気の加持祈祷に優れた験力を示しており、染殿后の加持も伝記の一駒として記録されている。ほぼ同文が『拾遺往生伝』下巻第一話にも見え、ほかに『古事談』巻三、『宝物集』九冊本、『八幡愚童訓《はちまんぐどうくん》』(甲本)、『元亨釈書《げんこうしやくしよ》』の「相応」の項に類話がある。いずれにしても『相応伝』が基本的な資料となるので、これによって概要を掲げよう。
[#この行2字下げ]貞観《じようがん》七年(八六五)のこと、ここ数カ月の間、染殿后が「天狐《てんこ》」に悩まされ続けていた。どんな僧に加持させても効き目がないので、遂に相応のもとにお召しがあったが、三日間験力を尽くしてもやはりおちない。相応はいったん本山へ帰り不動明王に祈請するが、なぜか明王像はくるくると相応に背を向けて彼の願いを聞こうとはしない。涙ながらに祈る相応に根負けした明王は、「実は后に憑いた「天狐」は「天狐道」に堕ちた紀僧正真済《きそうじようしんぜい》という験者《げんざ》で、自分は昔彼の本誓を受けて以来それを守っているので、簡単には呪縛《じゆばく》できないのだ。しかし、おまえが「天狐」の正体を暴き、大威徳《だいいとく》の呪を以て加持したなら必ずおちよう」という。相応は不動の教えの通りにして「天狐」を降伏させた。
この話は相応の験力を語るためのもので、染殿后の憑きモノには重点が置かれていない。しかし、染殿后の憑霊《ひようれい》事件が説話の前提として存在することは「鬼憑き事件」を記す文献と同様で、憑霊事件の伝承が、相応の伝記が編纂《へんさん》される際にすくい上げられたと思われる。さて、ここでは后に憑いた「天狐」とその正体を問題にしたいのだが、「天狗《てんぐ》憑き事件」のはずなのになぜ「天狐」なのかという疑問があろう。『相応伝』以外の類話では、『拾遺往生伝』、『古事談』はこれを「天狗」とし、『八幡愚童訓』、『元亨釈書』では「物の気」、「霊」と呼ぶ違いがある。
天狗というと「愛宕山《あたごやま》の太郎坊」などでおなじみの鼻の高い山伏姿を思い出しがちだが、それは修験道との習合によって生まれたイメージで、ここでの「天狗」は「アマギツネ」とも訓ずる憑きモノの一種である。その意味では「天狗」、「天狐」も「物の気」や「霊」と同様、使霊のような存在とみなされる。近世に作られた『怪奇鳥獣図巻』(成城大学図書館蔵)を見ると、「天狗」の姿は小型の犬か狐に似ており、染殿后の物の気を老狐とする『今昔』の記述はこれと関連があるかも知れない。
不動明王の言によると、この「天狐」は「紀僧正が後身、柿の本の天狐」という。不動さえ呪縛をためらう強気の「天狐」が「三世の諸仏の出現にあらざるよりは、誰か敢えて我を降せん。また、我が名を知らんや」と豪語し染殿后から一向に離れないのには、実はそれ相応の理由があったのだ。
溯《さかのぼ》ること五年、貞観二年(八六〇)二月、かねてより隠居の身であった真済という真言僧が亡くなった。時に六十一歳。紀僧正とは彼のことである。『相応伝』には何も記されないが、背後には真済と染殿后との因縁が隠されていた。
『平家物語』巻八「名虎《なとら》」には、安徳《あんとく》天皇が平家一門とともに西へ落ちたあと、後高倉院《ごたかくらいん》の皇子(後鳥羽天皇)が即位するくだりがある。しかし彼は四番目の皇子であり、即位には欠かせない三種の神器も平家に持って行かれたままで、即位はかなり無理な状況で行われたのである。ここで、弟が兄を越して位につく例が昔にもあったとして、いわゆる「惟喬惟仁の位争い」が語り出される。天安二年(八五八)に文徳《もんとく》天皇が在位わずか八年で崩御し、惟喬と惟仁の間に後継者問題が生じた事件である。真済はこの「位争い」に重要な役割を果たした僧なのだった。
染殿后の話からそれるが、後の論の展開上「位争い」について立ち入って述べておく必要があるので、少し長い脱線をお許しいただきたい。『平家物語』には大まかにいって「語り物系」と「読み本系」と呼ばれる二系統の伝本があり、一般読者がよく目にするのは、室町時代に覚一《かくいち》という琵琶《びわ》法師の一門によって整備された「語り物系」の方だが、「惟喬惟仁の位争い」の挿話はどちらの系統の伝本にも見えている。また『曾我物語』や『宝物集』などにも類似の話が引かれ、それぞれの文献の性格によって説話の扱い方は異なるにしろ中世にはかなり流布した説話であったらしく、数多くの文献に記されている。いちいち文献名を列挙するのは繁雑になるので省略するとして、ここでは覚一本をベースに『平家物語』の諸伝本を取り混ぜて、位争いの経緯を綴《つづ》ってみた。
[#この行2字下げ]文徳天皇の後継者の有力候補は、一の御子惟喬(十五歳)と二の御子惟仁(九歳、正確には第四子)であった。紀名虎の娘静子を母にもつ惟喬に対し、惟仁は藤原良房の娘染殿后明子の腹である。両陣営では高僧を皇子の護持僧につけ内々に即位の祈祷《きとう》を始めた模様。惟喬側の護持僧は柿本《かきのもと》紀僧正真済、東寺の一の長者で弘法大師の弟子、対する惟仁側は恵亮和尚《えりようかしよう》、比叡山の僧で慈覚大師の法脈を承けている。位の決定は難しく、公卿の僉議《せんぎ》(会議)で競馬と相撲によって決着をつけることが提案された。
競馬と相撲といっても現代のようなスポーツの感覚はなく、古代からの呪術的な性格を帯びたもので、神仏などの超自然的存在の意思を勝敗を通じて人間に知らせる方法と考えられていた。どちらかというと占いに近く、後継ぎを世俗の利害関係に惑わされず「公平に」決定しようとしたのである。
[#この行2字下げ]北野の右近の馬場で十番の競馬が競われ、初めの四番は惟喬側が、後の六番は惟仁側が勝つ。同じとき、真済は東寺で、恵亮は宮中真言院で祈祷に励んでいた。途中、惟仁側は恵亮が死んだというデマを流したので、真済に気の緩みが生ずる。続いて相撲がとり行われた。惟喬側は名虎の右兵衛督《うひようえのかみ》(惟喬の祖父とは別人)、惟仁側は能雄《よしお》の少将が相撲人として登場。能雄は体格の点で名虎に劣っていたので、勝利は大方の目に明らかであるかに見えたが、大威徳法を修していた恵亮が独鈷《とつこ》で自分の脳を取り出し護摩にくべて祈ったので、形勢は逆転し惟仁の勝利となった。こうして惟仁は清和天皇として即位する。
『曾我物語』には、清和源氏の起源を語る挿話として巻頭近くに置かれている話である。こちらでは真済が悔しさのあまり「思ひ死に」するとか、小野に隠棲《いんせい》した敗者惟喬のもとを在原業平が訪ねて歌を読み交わす、という後日談が付随している。『平家物語』の異本にもさまざまな後日談を記すものがあり、こうした後日談の一つが実は真済と染殿后との因縁につながってくるのである。
しかしその話題に移る前に、この位争い説話と史実の関係について少し確認しておきたい。この説話の成立時期と染殿后憑霊説話とが深い連関を持っているからである。
修法合戦
「位争い説話」は、『平家物語』の研究者を中心として数多くの研究がなされているので、先行研究をたどりながら諸説を見渡すことにしよう。
まず、日本古典文学大系(大系本と略称)の『平家物語』と『曾我物語』に付けられた補注によると、九世紀に成立した国の公的記録とされる『文徳実録』、『三代実録』の記事からは惟喬と惟仁の間に皇位継承争いが起こるとは思えない、なぜなら惟仁は生後間もなく皇太子とされており、蔵人に過ぎない名虎の娘の腹に生まれた惟喬などライバルにはなりえない、という。つまり位争いは歴史的事実ではないという見解である。
それに対して日本史の目崎徳衛氏は、必ずしも事実無根ではないと説く。文徳崩御の天安《てんあん》二年(八五八)ではないが、嘉祥《かしよう》三年(八五〇)の惟仁立太子のときに皇位継承に関する確執があったというのである。氏が根拠とする『大鏡裏書』は、その名の通り『大鏡』の裏に書かれた本文の注記で、文徳天皇の条に『吏部王記《りほうおうき》』(十世紀成立。重明《しげあきら》親王の日記)の一部が引用されている。内容は、文徳が惟喬の方を愛し彼を位につけたいという意思があったので、大臣良房があわてて意見したというものである。天安二年からさほど隔たらない時期の資料だけに信頼度が高いように思うが、天皇と良房との心理的な確執があっても、それが『平家』に見えるような大がかりな位争いに発展したかといえば疑わしい。私は、史実かどうかを判断するすべはないけれど、競馬相撲の競技や護持僧の祈祷《きとう》といった要素を含んだ説話としての位争いが誕生したのは、大系本『平家』補注が説くように院政期(平安末期)であると考えている。
だが、皇位継承がそれほど円滑に運ばなかったという噂がかなり早い時期にささやかれていたことは認められ、それが説話生成の火種となった可能性は充分にある。特に良房は紀氏や大伴氏などの排斥を積極的に行った人物であり、貞観八年には応天門の疑獄事件でそれが一気に断行された。紀氏を母にもつ惟喬が、「予定された敗者」として惟仁につがえさせられたことも考えられる。しかも、惟喬についた護持僧真済は柿本「紀」僧正であり、『長門本平家』では彼を紀静子の兄弟と記してもいる。位争い説話には、惟仁−良房−染殿后−恵亮という藤原摂関家ラインと、惟喬−紀名虎−静子−真済という敗者紀氏ラインとの、仕組まれた対立関係が根を張っているのだ。
そしてここには、紀有常《きのありつね》の娘婿になったといわれる業平を加えることもできる。業平をめぐる政治状況から『伊勢物語』を読もうとする試みは、角田文衛氏や最近では後藤祥子氏によって行われている通りである。業平や惟喬といった登場人物が『伊勢』と重なり合う位争い説話は、その意味で『伊勢』の世界と無関係ではありえない。
では位争い説話はいつ、どのようにしてできたのだろうか。大系本『平家』補注は、「藤原氏の勢力がやや衰え始め、その政権に対して批判が行われるようになった院政期以後であると考えられる」とし、本説話が中世に入り突如として多くの文献に記され始めることから、今成元昭氏も同様の結論に達している。院政期とは、一般には白河天皇が退位して上皇となり院政を開いた応徳《おうとく》三年(一〇八六)に始まるとされる。この時代は古代から中世への過渡期に当たり、平安とも鎌倉とも異なる独自の文化や社会を有するものとして個別に扱う傾向が近年高まっている。位争い説話がこうした時代に生まれた背景には、院政期の特質が存在したと思われる。
その院政期の特質を物語るのが、真済と恵亮の修法競べなのである。『平家』では競技と並行して行われ、まるで競技の応援のためであるかのように見えるのだが、本文に「御子の宮達あまた位に望みをかけてましますは、内々に御祈りどもありけり」とあるので、皇位継承権のある文徳の御子たちの間で密かに修法が行われていたことがうかがえる。表面に浮かび上がったのがたまたま惟喬と惟仁の場合であっただけで、実際はどの御子も修法の力で位を狙っていたのだ。こうした水面下の動きが知られる資料が、仏教側に残されている。修法の方法を記した文献である十二世紀の『覚禅鈔《かくぜんしよう》』(真言系)と十三世紀の『阿娑縛抄《あさばしよう》』(天台系)である。これらには明王や天部を本尊とする中世に発達した別尊法《べつそんほう》という秘密修法が詳しく記されるが、位争い説話に関連する挿話が修法の先例として引かれているのである。
『覚禅鈔』は『大鏡裏書』と同じく、文徳が惟喬に譲位する志を漏らしたとき、良房が貞観僧正真雅《じようがんそうじようしんが》に六字法《ろくじほう》を修させて惟仁を即位させた、という記事だ。真雅は真済の弟子の真言僧である。真雅という第三の僧が新たに登場するが、十二世紀初めに成立した大江|匡房《まさふさ》の言談である『江談抄《ごうだんしよう》』に、恵亮ではなく真雅が惟仁のために祈念した記事があるので奇異なことではない。ちなみに、『江談抄』の位争い記事では真言で同門の真雅と真済が惟仁と惟喬側に分かれて修法を行うことになっており、恵亮対真済のペアが必ずしも固定化していないことがわかる。一方『阿娑縛抄』は『平家』と同じで、恵亮が大威徳法、真済が金剛夜叉法《こんごうやしやほう》で修法競べをし、惟仁が即位したという話である。それぞれ六字法、大威徳法の成功した例として語られ、どうやら位争い説話の修法競べの趣向が、仏教側で伝承されていた気配が濃厚になってくる。『平家』では恵亮の大威徳法しか見えないが、金剛夜叉法、六字法ともに院政期に発達した密教の修法で、恐ろしげな形相の本尊に現世利益を願うものである。位争いの場合はもちろん皇子の即位の願いだが、ライバルの呪詛《じゆそ》を祈願することが真の目的ではなかっただろうか。
大威徳法について、天台の学僧・長宴は寛徳《かんとく》二年(一〇四五)、弟子にこのように語っている。
[#この行2字下げ]調伏《ちようぶく》の法は五大尊《ごだいそん》の法によって修することが多く、ほかの仏や菩薩《ぼさつ》を本尊とするのは聞かない。五大尊の中でも不動明王と大威徳明王は調伏法の通例となっている。
[#地付き](『四十帖決』巻第十)
『相応伝』で天狐・真済が不動の行者として現れる点を思い起こせば、恵亮と真済とはともに調伏法のエキスパートだったということになる。まさに宿命の対決というわけだ。恵什《えじゆう》の『図像抄』は、大威徳法で祈念を凝らせば怨敵《おんてき》は血を吐いて死ぬと伝えているが、『源平盛衰記』の相撲の場面で名虎が投げ飛ばされ「血を吐きて起き上らず」三日後に死んだ、というのは呪詛の効験と読めなくはない。惟喬は死にはしないが、『是害坊絵《ぜがいぼうえ》』という天狗《てんぐ》の行状を描いた絵巻の詞書《ことばがき》に引かれた位争い説話では「恵亮、脳を砕きて、護摩の炉壇に焼きける時、木原(惟喬を指す。「紀腹」の意)忽ちに崩じ給ひて」とあり、『曾我』では真済も悶死《もんし》している。
『南都本平家』ではさらにすさまじく、惟喬祖父の紀宰相|維経《これつね》(南都本では名虎ではなくこの名で出る)は「我は紀氏なり、藤栄へば木は枯れなん」といい、家に火をかけて一門皆焼死するに至る。藤が木(=紀)に寄生して栄養を奪うのにひっかけた恨み言である。このように、惟喬関係者はほとんどが非業の最期を遂げるのでその恨みの激しさは推して知るべしだが、恨みを抱いて死んだ者の行き着く先は怨霊《おんりよう》であろう。そこで、紀氏一門の恨みに加えて修法競べの敗北という大黒星を背負い込んだ真済が、怨霊の代表として俄然《がぜん》クローズアップされて来る。次に、位争いのいくつかの後日談のうち、真済が悪霊と化して関係者にとり憑《つ》くという説話の一群に注目してみよう。
柿本天狗あらわる
真済は必ずしも敗者のままみじめに死んでいったというわけではない。人が怨霊となる場合、激しい恨みを残していることが不可欠な条件であるが、復讐《ふくしゆう》を期して怨霊となる手段を自覚的に講じる人もいる。保元・平治の合戦で惨敗した崇徳《すとく》上皇がその例で、食物を絶ち、髪や爪を切らないまま死んで遂に天狗となったといい、それをふまえて江戸時代の絵師・歌川|国芳《くによし》は蓬髪《ほうはつ》に青白い凄壮《せいそう》な表情の崇徳の怨霊を描いている。しかしながらわが真済もひけをとるものではない。『南都本平家』には、
[#この行2字下げ]一宮御祈りの真済僧正は、命生《いのちい》きても何かすべきと飲食を断ちて不動明王の法を行ひつつ七日と申すに遂に命終す。また天下の悪霊とぞなりにける。
として、一念積もって悪霊となりおおせた真済を描くのである。日ごろ護持する不動明王であったからこそ、真済はそれに祈りを込めたのだろう。
真済が怨霊となって悩ませた関係者は大きく三つに分類される。第一は清和天皇となった惟仁の血を引く皇子たち、第二は恵亮の弟子たち、そして第三は染殿后である。以下、資料を追いながら、粘液質的にさえ見える復讐の経過をたどることにしたい。
先ほどからよく引用している『宝物集』には、位争いに関連する四種の伝承が錯綜《さくそう》して載せられているが、その第四番目の説話が位争いの修法競べに相当する部分である。ここに、次のような箇所が見える。
[#この行2字下げ]真済この事をなげき給ひて、皇子にとりつき奉りて、ともに入滅し給ひにけり。代々の御物の気になりて、あるいはさぎとなりて炉壇に焼かれ、あるいは天狐となりて明王の縛にかかる。
「皇子」が惟仁自身を指す可能性もあるが、本文ですでに惟仁を清和天皇と呼んでいることを考慮すれば、清和の皇子とみなす方が自然である。真済は死なないうちに清和の皇子に憑いて取り殺したというのだから、これは生霊である。物の気に「御」が冠されるのは憑かれた人、つまり皇子に尊敬の意を表すためだ。引用部後半の「天狐となりて云々」というのは、先に述べた「天狗憑き事件」を指している。清和その人ではなく皇子に恨みが向けられるのは、天皇としての清和の血筋をことごとく絶ち切ろうとするためであろう。清和の子女は実際に早死にする者が多かったようであり、また清和の後嗣《こうし》である陽成《ようぜい》天皇は、狂気のふるまいありとして帝位を廃された異例の帝であった。真済の恨みのせいか、いずれにしても清和天皇の一生からは悲運の色を拭《ぬぐ》うことができない。
次は恵亮の弟子の場合である。『長門本平家』に、「惟喬の御祈師柿本紀僧正真済は、この事を鬱《おぼぼ》し思ひて、恵亮和尚の御弟子をぞ取失ひける」と記される。この本は、その後の真済の動向が知られる長い後日談が付随する点がほかの『平家』諸本と比べて珍しい。
[#この行2字下げ]恵亮の末の門弟で天台座主《てんだいざす》の慈念《じねん》僧正は、尊勝陀羅尼《そんしようだらに》を誦して行道している最中、庭に眼の恐ろしげな老法師がうずくまっているのを見る。ただ者ではないと感じた僧正が名を問うと、「私は真済です。恵亮和尚の弟子を末まで取り殺そうと思ってあなたを狙っていたが、尊勝陀羅尼を聞いているうちに悪念が消え発心したことを申し上げようと参上しました。これからはあなたの弟子となり仏縁を結ぼうと思います。もし今後、弟子の中に常人と異なる者があれば、それを私とお思い下さい」といって消えた。不思議なこともあるものだと思って月日を送っていた僧正のもとに、兵部卿《ひようぶきよう》の親王の若君が入門する。なぜか彼は大豆以外の食物を一切口にしなかったので、真済の言を思い出した僧正は、若君がかの真済の生まれ変わりであると知ったのである。この若君は出家の後、「鳩の禅師《ぜんじ》」と呼ばれた。
実に奇妙な真済の転生|譚《たん》で、大豆しか食べない貴族の若君のあだ名が「鳩の禅師」というのもできすぎの感がある。若君はその後浄土寺の明救《みようぐ》と名乗り、天台座主の地位まで上った。明救は『今昔』に天竺の天狗の転生とされる興味深い人物だが、このあたりの説話については小峯和明氏の『説話の森』に詳しいのでこれ以上踏み込まない。真済の転生は、ほかに十四世紀の『渓嵐拾葉集《けいらんしゆうようしゆう》』の記事が今のところ唯一の例である。山門と東寺が対立しても蘇悉地経《そしつじきよう》を尊ぶ山門が毎回勝つという例証として、恵亮と真済の修法競べを引いている。
[#この行2字下げ]その後、紀僧正は天台に帰依し、生まれ変わって天台座主になった。これは延昌僧正(慈念のこと)の弟子である。
『渓嵐拾葉集』は天台系なので、東寺に対して山門の優位を示す意図があることは確実である。『渓嵐拾葉集』のこの条は、「大日経の事」という題のもとに浄土寺の秀暹《しゆうせん》という僧が語った口決《くけつ》(弟子に教説を伝授する際の講義)に基づいているらしい。秀暹の素姓は不詳だが、明救が第一世となった浄土寺の法脈に連なる者であるとすれば、験力豊かな真言の高僧さえ帰依する天台仏法の威力を知らしめる格好の宣伝として、浄土寺の僧の間で語り伝えられたと想像することもできる。
しかし、『渓嵐拾葉集』とは異なり、『長門本平家』には天台の宣伝と断言することをためらわせる何かがある。大豆しか食べない「異様」の者とは、いわば真済の後身というスティグマ(聖痕《せいこん》)を背負っていることを意味するが、『徒然草』第四十段に、因幡《いなば》の国のある入道の美しい娘が、栗しか食べないという類似の話がある。娘の親は、こんな「ことやうのもの」(異様な者)を結婚させるわけにはいかない、というのだが、明救と同じく、普通の人と常食が違うことにより娘は「異様」の者というしるしをつけられているのだ。意地悪く考えれば、真済が明救に転生したのは悪念からの解脱ではなく、敵方の懐深く潜入して相手を内側から崩壊させようとする巧妙な作戦だったのかも知れないのである。真済の恨みがそんなに簡単に消滅するとはとても思えない。
位争いの後日談という形ではないが、恵亮の法脈を引く僧に取りつく説話はまだある。『拾遺往生伝《しゆういおうじようでん》』の「浄蔵《じようぞう》」の条に、浄蔵の師である玄昭律師《げんしようりつし》が宇多《うだ》上皇の御修法を勤めていたところ、真済の「霊」が鵲《かささぎ》の形となって出現した話がある。『宝物集』に「さぎとなって云々」とあるのがこの話を指すらしい。玄昭が鵲を炉壇にくべると、「大怨心」をもって小さな僧の姿に化し、隙あるごとに律師を悩ましたという。玄昭が真済に憑かれるのは、円仁の下で恵亮と同門だったのが理由だろう。そしてこの玄昭の弟子に慈念(延昌)がいるのである。つまり、真済は清和の血筋を根絶やしにしようとしたのと同じく、恵亮の法脈筋を絶とうとしたのではないか。このように、真済の怨念《おんねん》のベクトルが位争いの勝者の末裔《まつえい》に向けられている点を確認した上で、第三番目の被害者である染殿后の憑霊《ひようれい》説話に移ろう。
染殿后の「天狗憑き事件」には、確かに真済の霊が天狐や天狗となって后《きさき》を悩ました記述があるが、真済の「邪執」が原因とあるだけで位争いの遺恨だと明言されているわけではなかった。この「邪執」の中身はいろいろ想像できるが、位争いを前提としなければ真済が染殿后に憑く必然性を見出すのは難しい。そのためには『相応伝』成立以前に位争い説話がある程度流布している必要がある。『群書解題《ぐんしよかいだい》』の多賀宗隼《たがむねはや》氏による『相応伝』の解説には、記事内容から見ると延長《えんちよう》年間(九二三−三一)成立かとも考えられる、とあり、位争い説話の先行研究もほとんどこの説を踏襲するのだが、年記もなく近世の伝本しか残っていない『相応伝』を十世紀前半のものと決める根拠はやや薄い感がある。無動寺を建てた高僧である相応和尚の伝記自体は早くからいくつも作成されたと推測されるが、こういう伝の類は伝承を取り集めて作るのが普通なので、真済の憑依譚《ひよういたん》が編纂《へんさん》過程で挿入された可能性も考えられる。したがって、位争い説話とその後日談が必ずしも十世紀前半に生まれていたとする必要はないようである。
私の見たところ、位争いが染殿后に憑く原因となったことを明示するのは、十三世紀半ば頃に東寺の行遍《ぎようへん》の談話を記録した『参語集《さんごしゆう》』が最初らしい。これは恵亮と真済ではなく真雅と真済の組合せになっており、真言系ではこちらのペアで位争い説話が伝承されていたことがうかがえる。
[#この行2字下げ]即ち僧正は彼(惟喬)の護持僧となりて、貞観寺(真雅)と皇子の位に即不即の争ひをなして、その仲悪しくなりぬ。共に大師の御弟子なり。紀の僧正つひに天狗となりて、染殿后につきたりと云々。
ここでの「天狗」がどのようなものと考えられていたかは判断しにくい。だが、真済が染殿后に憑いたのが、位争い敗北の恨みの延長線上に位置する出来事と意識されていることはいうまでもなかろう。おそらく真済天狗は、『相応伝』などのように怨霊《おんりよう》として染殿后にまつわりついたに違いない。ところが、『宝物集』ができた十三世紀を境として、惟仁側への復讐であるはずの染殿后への憑依はまったく別の意味に読み替えられて行くことになるのである。
真済の〈恋〉
表題には例のごとくまた〈 〉がついている。后への憑依が別の文脈に読み替えられた結果がこの真済の〈恋〉なのであった。もちろん〈恋〉の相手は染殿后である。しかし、表面上は恋に見えても単純かつ純粋な恋ではなく、背後に位争いの遺恨を秘めた複雑なものだ。この真済の擬制の〈恋〉を伝える『宝物集』からこの節を始めることにしたい。
形態の異なる伝本が多い『宝物集』のなかでも、「九冊本」は記事内容の多さで群を抜いている。先述したように、この九冊本には、位争い説話の後日談と染殿后の憑依説話とが交渉をもつ過程がうかがい知れる説話が書き留められている。今までばらばらに紹介していたが、ここで一応の概要を簡略に示しておこう。怨霊真済の姿が染殿后を軸として新たな変化を見せる様子が『宝物集』には顕著だからである。
[#ここから2字下げ]
a 染殿后が「紺青鬼」という「御物の気」にとり憑かれたこと。(一巻本と同じ)
b 文徳の帰依を受けていた真済が、后に恋慕したことが世間にばれ、嘆き死にして「紺青の色したる鬼」になり后に憑くが、智証大師の加持により呪縛《じゆばく》される。一説によると真済は下野《しもつけ》国へ配流されたともいう。
c 南山の上人が染殿后の「物の気」をおとしたが、后に恋慕し「紺青の色したる鬼」となり后に憑く。(『今昔』とほぼ同じ)
d 位争いに敗北した真済が「御物の気」となって人々を悩ませる。(先掲)
[#ここで字下げ終わり]
a、c、dについては本論中で触れたので、残ったbに少しこだわってみよう。このbは、一見して染殿后に対する真済の復讐譚の変形であることがわかる。染殿后の側からいえば、「天狗憑き事件」と「鬼憑き事件」が混同した形になっており、染殿后に憑くモノとして、真済と紺青鬼が同一に扱われているのである。本来「鬼憑き事件」の説話は真済と無関係な場所で発生したはずで、鬼となるのも真済ではなく、金剛山の聖人や南山の上人というような山の修行者だった。真済自身も高雄山に籠《こも》って修行した経験があるので、山の聖《ひじり》と混同される可能性がなくはないが、両者は本来別の伝承と見なした方が妥当だ。これと同じ混同は、『毘沙門堂本古今集註《びしやもんどうぼんこきんしゆうちゆう》』の説話でも起こっている。これは、中世の人が当時すでに古典であった『古今和歌集』を読むために付けた注釈だが、歌の詠まれた背景や歌人のエピソードなどが説話の格好で引用されているのが特徴である。『古今集』恋部の六五〇番歌に付けられた注に、真済と染殿后の〈恋〉の模様が簡潔に記されている。
[#この行2字下げ]名取河《なとりがは》 瀬々の埋もれ木顕れば いかにせんとか 逢《あ》ひ見初めけん
[#この行3字下げ]註して云く。名取河と云ふは陸奥《みちのく》にあり。この歌は染殿后を恋奉ること顕《あらは》れければ、紀僧正真済が詠めるなり。この僧正は紀御薗《きのみその》が子なり。遂にこの事によりて東国に流されて金青鬼《こんじやうき》となれり。生を改めて后に逢ひ奉ること止まず、と云へり。
もちろん、この歌は真済が詠んだものではなく、『古今集』では読み人知らずとなっている。けれども、「浮き名が立つという名取河の瀬に埋もれた木が顕れるように、人目を忍ぶこの恋が露見したら、いったいどうするつもりであなたと逢い初めたのだろう」という歌の意を汲《く》めば、誰かの「忍ぶ恋」の話が注に引かれるのは当然であり、おそらく東国の歌枕である名取河と真済の配流地とのつながりから、真済の悲劇的な〈恋〉が選ばれたのであろう。『宝物集』bと同じく、真済の〈恋〉を伝える説話は、染殿后への叶《かな》わぬ恋慕が暴露された恨みから紺青鬼《こんじようき》となる、あるいは東国へ流されるという共通の骨格を備えている。
ここでいったん立ち止まって考えると、『宝物集』bと『毘沙門堂本古今集註』のような真済の〈恋〉はどのような背景から生まれたのか、位争い説話と関係があるのかどうか、という疑問が湧いてくる。常識的に考えれば、染殿后と真済という位争い説話の中心人物が揃っているのに、まったく位争い説話が想起されないということは不自然である。だが、さっきから述べているように、位争い説話の文脈においては真済が染殿后に抱く感情は憎悪や怨念であっても、恋情ではありえない。はたして、位争いを前提とした上で真済の〈恋〉が生まれることはあるのだろうか。
染殿后の美人の誉れはさまざまな文献に書き残されるが、このことから、たとえ敵方の真済でも迷わずにいられなかったのは后の美貌《びぼう》ゆえだ、などと簡単に結論を出すような問題ではない。『宝物集』bには、真済が后と出会うきっかけをこのように記している。
[#この行2字下げ]大王(文徳天皇)、仏のごとく帰依し給ふ。このゆゑに、后もかくれ給ふことなかりけり。
真済が文徳の御所に親しく出入りしていたので、后の姿を間近に拝する機会があり、それが后への恋慕に発展したというのだ。『今昔』の聖人の場合と状況は同じで、〈恋〉の合理的な説明のようだが、よく考えれば疑わしい箇所が見えてくる。いくら真済が染殿后に接近する機会が多かったとはいえ、后は真済がバックアップする惟喬親王のライバルの母親なのである。魅力的な文徳の后妃は彼女以外にも多々いただろうし、真済にとって彼女たちを知る機会は染殿后の場合と等しいはずである。にもかかわらず、よりによってもっとも複雑な立場の女性に、鬼になるほどの〈恋〉をするという設定自体、惟喬・惟仁の確執が広く流布《るふ》されていたであろう当時においては、あまりに不自然だ。
それに加えて、真済の〈恋〉の発生には、彼が化するモノが天狗《てんぐ》から紺青鬼へと変ずる現象が伴っている点にも注意を払うべきである。「天狗憑き事件」では、真済は純粋に復讐《ふくしゆう》のために后にとり憑いたのであって、恋の要素はかけらも見出せないが、「鬼憑き事件」は后が恋の対象に転じている。『相応伝』などに見る天狗や天狐《てんこ》のようなモノは本来人間とは異なる次元にある存在であり、人間の女性との間に恋が発生することはない。たとえていうとこれは垂直の関係なのである。しかし、鬼は人間が生前になんらかの思いを残してなるので、人間と同じ次元上を移動しただけの、いわば水平の関係としてとらえられる。だから、同一次元にある鬼は人間の女性に恋をするだけではなく、『今昔』のように性的関係まで結ぶことが可能なのだ。そういえば鬼には恋にまつわるエピソードが目につくようである。少し珍しい資料を紹介しておこう。
[#この行2字下げ]ある日、兼明《かねあきら》親王のもとに雲の中から恐ろしげな「青き鬼」がやってきて、自分の身の上を語る。鬼は張文成《ちようぶんせい》という中国は宋の作文の博士で、色に耽《ふけ》っては詩を作り、女に恋しては歌を詠んだので、このような青い鬼と変じてしまったと嘆く。
『源平盛衰記《げんぺいじようすいき》』巻十六に引かれた説話である。張文成とは著名な伝奇小説『遊仙窟《ゆうせんくつ》』の作者で、実際は宋ではなく唐代の人物である。また、彼は武則天《ぶそくてん》と密通の噂をたてられたともいわれている。鬼は鬼でも青い鬼であるところが紺青鬼との共通点を感じさせる。この世に執心を残して死んだ者は青い鬼となることがあったらしく、叡山《えいざん》の玉泉坊《ぎよくせんぼう》という僧が青鬼となって自坊にとどまり人を襲う説話が、『古今和歌集』などの注釈書に引用されているのはよく知られるところだ。富貴を好み、玉泉坊の名の由来となるすばらしい泉を自坊にしつらえたこの僧の妄執は恋の恨みではないが、真済や張文成らの生々しい執心と同質であるといえよう。
次は『冷泉家流伊勢抄《れいぜいけりゆういせしよう》』という中世の『伊勢物語』の注釈書である。成立は鎌倉時代だが、平安時代の『伊勢』の読まれ方を知る資料といわれ、説話が多いという特色がある。『伊勢』第二段は「西の京の女」と「まめ男」との交渉を描くが、その「まめ男」を、「間男」、つまり密夫と解釈し、中国・唐代の『貞観政要《じようがんせいよう》』の記事を引いて次のように注釈する。
[#この行2字下げ]『貞観政要』によると、霊王がかかえていた天下の賢臣・風方君が、王の后と密通したのが発覚して誅《ちゆう》され、里を荒らす鬼となった。
『貞観政要』自体は早くから日本に伝来したらしく、『明月記』にも名が見え、『伊勢』のような物語の注釈に間男の例として記事があげられるほどポピュラーな書であったようである。「まめ男」を間男と解する態度には独特のものがあるが、わざわざ中国の書物から引用するのは漢文文献に重きを置く中世の人々の考え方を表すのだろう。ともかく、密通を処罰された恨みが凝り固まって鬼となるという部分は、恋の恨みと鬼の関係をよく表しており、特に処罰に帝王がかかわっている点は真済の〈恋〉とよく似ている。これらは真済が天狗から鬼へと変貌《へんぼう》したことの説明になるというわけではないが、真済の〈恋〉の発生とその不幸な顛末《てんまつ》は、彼が天狗ではなく鬼でなければならない必然性と表裏一体をなしていることが明らかである。
このことについて、真済|怨霊譚《おんりようたん》が金剛山の聖人が鬼になる紺青鬼説話と混同を来たして、天狗から鬼への変貌が起こった、という可能性を検討してみよう。『今昔』の場合、初め物の気、次に鬼という二段階の憑依《ひようい》がなされる点に注目する必要がある。天狗のほかに「物の気」や「霊」と呼ばれている真済の怨霊が『今昔』の憑《つ》きモノと混同されるならば、第一段階の物の気の方と混同するのが自然である。真済が鬼と同一視される理由は何もないのだ。それがあえてなされているということは、紺青鬼化に何らかの強い必然性があったと考えなければならない。
では改めて問おう、真済はなぜ染殿后に恋をし、鬼となる必要があったのか。この問いに、今までの研究は明らかな答えを与えてくれない。というより、真済の〈恋〉がまるで自明のことのように扱われ、復讐から恋への変化自体が問題とされていないのである。試みにいくつかの説に目を通してみよう。
金剛山聖人の紺青鬼説話の考察を進めた神野志隆光《こうのしたかみつ》氏の論では、『相応伝』では真済天狐が「邪執」を抱いて后《きさき》についたとするが、この内容の知れない「邪執」に「恋の邪執」の意味が読み取られた結果、必然的に天狐(天狗)が鬼へ変貌するに至ったという。また、簗瀬《やなせ》一雄氏は、真済が悪霊として祟《たた》るという怪異談が先に語られやがて恋物語に置き換えられた、あるいは恋物語が悪霊譚と並行して語られたか、という。神野志氏は鬼と恋の因果関係に、簗瀬氏は真済の〈恋〉と怨霊説話との食い違いに着目されたところはさすがであり、いずれも示唆に富む論である。しかし、真済の怨霊譚に本来ないはずの恋の要素がどうして生まれたかという点については、これ以上の言及がない。すべての男性が美女を目にすれば恋が芽生えるわけではないにしろ、多くの場合そうなる、という先入観があったからではないだろうか。
真済と位争い説話に関するもっとも新しい論である小峯和明氏の『説話の森』でも、鬼は愛欲だけでなく権力への怨念の噴出したもので、后はその生けにえにほかならない、と説かれる。このような鬼のとらえ方は、馬場あき子氏の『鬼の研究』以来伝統と化した感がある「反体制者としての鬼」のイメージを超えるものではないし、染殿后を単なる生けにえとして処理するあり方には、依然として考察の視点を真済の側に置く態度が顕著である。
私が考えるには、位争いの恨みという文脈において見れば、誰でもない染殿后に憑くことこそが重要な意味をもっていたはずであるし、彼女以外の女性への憑依などということは、真済にとって無意味なのだ。文徳の後宮でよりどりみどりの美女に接する機会があったはずの真済が后を選んだのは、彼女が宮中一の美形であったからではなく、后に憑くことこそが目的だからである。したがって、真済の〈恋〉を金剛山の聖人のように、禁欲の高僧と身分の高い女性との禁じられた恋といった枠にはめるのは、いささかロマンティックな解釈にすぎるのである。
真済の復讐の延長線上にこの「鬼憑き事件」説話を置いたとき、染殿后の果たす役割はきわめて重要である、と私は思う。染殿后はなぜ鬼に犯されなければならないのか。真済の復讐の対象となった人物のうち、皇子たちや恵亮の弟子に比べると后だけが異例なのである。なぜならば、后は女性であるがために真済から性的な侵犯を受けるはめになったからだ。性的関係が常に人間的な愛情に基づいて行われるとは限らないことは、現代人のわれわれのよく知るところである。反語的な意味でいうと、性的侵犯は男性が受けることのない、女性に「特権的」な暴力なのである。染殿后と真済の関係も、その意味で読み返せば明らかに性的暴力に相当する。一目見て恋におち、叶わぬ恋の苦しみのあまり犯してしまった、などというのは後からつけた都合のよい弁解であろう。つまり、真済の〈恋〉の本来の姿は、性的侵犯によって后を蹂躙《じゆうりん》しようという復讐の一駒なのである。
では、真済はなぜ后を悩ます手段として性的侵犯を選んだのだろうか。さきほど后が女性だから、といったが、理由はもちろんそれだけではない。染殿后が性的侵犯をされることが、后が組み込まれている天皇家の血統に大きなダメージを与え得るからなのである。次節では、こうした密通と王の権力の関係に話を移そう。
密通の構図
天皇のもっとも重要な役割の一つは、自らの血統を残すことにある。これは古代・中世に限ることではなく、現代の天皇家であれ例外ではない。天皇家がいわゆる万世一系だという神話は崩壊してはいるが、少なくとも前代の天皇と血のつながりをもつ後継者が絶えてしまえば、天皇家そのものの存続が危機にさらされるのである。ここで最重要視されるのは血という要素であり、血が理念上の正統性を保証するものとなる。この天皇の血を媒介するのが后という存在で、藤原氏が権力を掌握し摂関体制を確立できたのも、娘たちを後宮に入れることで天皇の血の系譜に食い込んだからといってよい。娘たち自身には権力はないけれど、血の媒介者という役目を帯びることで彼女らは王権の要《かなめ》に据えられることになる。染殿后の場合も、藤原良房の期待を一身に担って文徳天皇のもとに入内《じゆだい》したのである。その期待とは、后が天皇に寵愛《ちようあい》されて早く男の子を産むことに尽きる。
しかし、染殿后は天狗憑きであり、鬼にも憑かれて性的侵犯を受けた女性である。これは后が好んでしたことではなく、まったくはた迷惑なアクシデントだったのだが、世間の口さがない人々がそうは受け取ってくれない。后は金剛山の聖人や真済の化した鬼と密通した、という噂が都のあちこちでささやかれたことだろう。彼ら鬼たちは人間のころは修行者だったので、女に触れたことのない清僧を色恋で破滅させた女性、というマイナス点がさらに加算される。后のこうした行状が、次代の天皇候補である惟仁親王の母としてふさわしくないと考えられたことは明らかである。后は次代の王権を産み出す母胎であり、正統な王権を存続するためには天皇の血の純潔さを守らねばならない。
染殿后の場合は特に状況が厳しい。以前『曾我物語』には位争い説話が清和源氏の起源説話として語られると述べたが、『大鏡』の「帝紀」が清和の父親である文徳天皇から始まっているように、清和天皇は貴族社会の系譜の上に重要な位置を与えられており、必然的に母親である染殿后にも期待がかけられざるを得ないのだ。染殿后と清和には、清和源氏の始まりを語る存在として聖なる母子像のイメージが不可欠なのである。
先にあげた『宝物集』や『毘沙門堂本古今集註』では真済が天皇によって流罪にされるが、これは天皇が妻を犯した間男に倫理的な怒りを覚えたからではなく、自分の血統が真済の性的侵犯によってけがされたからである。天皇と后とは近代的な夫と妻というとらえ方をすることはできないし、また后を天皇の特権的な付属物としてのみとらえるのも必ずしも正確ではない。密通とはそのような個人的レベルを超え、王権を直接的かつ確実に侵犯する意味を持っているのである。
鬼が后を犯したのは、『善家秘記』によると后五十歳の祝宴の少し前という。そのころは惟仁がすでに生まれており、鬼と密通したところで惟仁の誕生に不審な要素が生ずるわけではないが、一度でも密通事件が噂になったならば、それ以前にも似たようなことがあったと憶測する人々が出てくるものだ。皇子が天皇以外の男性の子かも知れないという噂が広まることで、惟仁の血統には暗いかげりがさすのである。したがって、天皇家と藤原家との血統の交差地点にくさびのように打ち込まれた染殿后への蹂躙は、文徳や惟仁だけでなく良房に対しても手ひどい復讐《ふくしゆう》の意味を持ってくる。
ところで、真済と同じく后と密通して流された人物の例はいくつか拾うことができる。まずは中国の例である。『平家物語』巻二に、実事に及んだのではなく密通の噂が立ったというものだが、三美人として名高い楊貴妃《ようきひ》のスキャンダルが伝えられている。
[#この行2字下げ]昔、大唐の一行阿闍梨《いちぎようあじやり》は玄宗皇帝の護持僧であったが、后の楊貴妃との間に噂が流れ、そのため果羅国《からこく》へ流されてしまった。
一行阿闍梨は日本へ真言の奥義を伝えた高僧といわれ、皇帝の護持僧を勤めた信頼厚い人物である点など、真済とよく似たケースである。真済の場合は実際の行為に及んだことになっているが、一行は噂が立っただけで流されたのだから不運なものだ。この密通の話はほかの日本の文献にも散見され、よく知られていたらしい。一行が疑いをかけられたのは、楊貴妃のほくろの位置を知っていると誤解されたからだが、楊貴妃が染殿后と同じく天下の美女といわれたことも影響している。美人だからこそ高僧の心も揺らぐだろう、という世間の憶測が噂を生んだのだ。楊貴妃が美人でなければ噂が立つことはなかったかも知れない。
次の例は著名なもので、実際の事件と考えられている。染殿后の子・清和天皇の后となった二条后《にじようのきさき》藤原|高子《たかいこ》と東光寺の善祐《ぜんゆう》法師との黒い噂である。『扶桑略記』寛平《かんぴよう》八年(八九六)の条に次のような記事が見える。
[#この行2字下げ]陽成《ようぜい》天皇の母である藤原高子は、東光寺の善祐法師と密かに通じたというので后位を廃され、法師も伊豆に流された。
二条后は善祐のほかに彼の師匠に当たる幽仙《ゆうせん》とも噂され、入内前には業平《なりひら》と関係があったともいい、真実はどうかわからないがかなりスキャンダルにまみれた后である。二条后の子の陽成帝も帝位を廃されており、母子ともども不運きわまりない。二条后については業平との関係で後にもう一度詳しく述べることになるが、后位を廃されたというのは衝撃的である。もっとも、最近では、密通の噂があってから七年後に突然廃后が断行されたことから、密通は表面上の理由であり二条后への反感がこういう形で顕《あらわ》れたのが実情だ、という見解が出されている。密通をはじめ、二条后につきまとう異様なマイナスのイメージがこの見解を裏づけるものであることは後藤祥子氏が指摘する通りである。
第一章でとりあげた称徳天皇の事例からも明らかなように、ある女性のイメージをおとしめようとするとき用いられる方法はたいてい性的な要素がからんでいる。染殿后の場合、密通は天皇の王権を侵すことの象徴であったわけだが、后の側に視点を移すと、今度は「不貞」という倫理的なレベルで后個人の評価を下げる結果を生むのである。当時の倫理の規範を詳しく知ることはなかなか難しく、儒教の影響だとして片づけることもできないのだが、貞節が美徳であるという意識が后を内外から縛っていたことはある程度確実と見てよいだろう。后の密通とは、王権と血統の存続という「公」の部分と、夫ある女性たる后という「私」の部分の両方に破壊行為を働く意味をもっていたのである。ここでは「公」と対比する便宜上「私」という言葉を使ったが、しかし、后への貞節の期待は決して夫婦の「私」的な関係に解消されるものではない。貞節もまた、天皇家が血統保全のため后に要求したもので、后の性は天皇家の手で管理されているといってよいのである。
ところで、一行阿闍梨と楊貴妃の話を引用したとき、一行が玄宗皇帝の護持僧だということになっていたのを思い出していただきたい。護持僧といえば、真済も位争いのとき惟喬の護持僧として修法を競っている。護持僧は天皇以外にも中宮や春宮《とうぐう》につくものがあり、春宮の場合は即位後も護持僧は継続して勤めるのが普通である。『護持僧補任《ごじそうぶにん》』などの文献にはどの天皇に誰が護持僧についたかが記録されるが、必ずしもここに名が載せられる僧だけが護持僧を勤めたとは限らない。第一章で触れた長厳《ちようげん》などは、正式な補任《ぶにん》(任命)を受けていない影の護持僧的存在だった。この、后の密通相手が護持僧とされることには何か深い意味があるように思える。
先に結論からいえば、護持僧が王権の存続に大きな影響力をもつとされるからである。具体的にいうと、仏法の験力によって后の腹に次代の天皇を宿らせることが護持僧の重要な役割なのだ。真済と恵亮は位争いのとき突然に修法を依頼されたというのではなく、おそらく惟喬や惟仁が生まれる以前からそれぞれの陣営で后の懐妊を祈らせられていたに違いない。前に触れた『覚禅鈔』の六字法は、良房が真雅に染殿后の懐妊のための修法をさせたというもので、惟仁が六字法の成功によって誕生した皇子であることを示している。だから、『平家』に描かれる位争いは、いわば最後の決戦とでもいうべきものなのだ。真雅のほかにも恵亮の位争い前哨戦《ぜんしようせん》を記す資料が見出されるが、真済に関しては次の『渓嵐拾葉集《けいらんしゆうようしゆう》』の記事が王権と護持僧の関わりを示していて興味深い。
[#この行2字下げ]内裏には、三種の神器の一つである内侍所《ないしどころ》(鏡)を安置する「二間《ふたま》」という場所があり、これを「貴所」という。だから、二間で天皇の健康と国家の安泰を祈る僧のことを貴所と呼び、山門では浄蔵貴所、東寺では柿本貴僧正《かきのもとのきそうじよう》というのがこれに当たる。
真済が皇子誕生の祈祷《きとう》を行ったという資料は残念ながら見当たらないのだが、この『渓嵐拾葉集』は真済が護持僧であると考えられていたことがわかる貴重な資料である。「紀」僧正をわざわざ「貴」僧正とするのは、天皇の玉体加持をする僧として貴所に控えるからというわけだ。二間は天皇の寝室である夜の御殿《おまし》のすぐ隣にあり、護持僧は天皇のごく身近に接近することが許されたのである。王権を仏法の側からサポートし、性を含めて天皇の身辺に仏法の力をふるうのが護持僧という存在だった。自分が仕える天皇がまだ生まれていない頃から誕生の祈りを行い、皇子が生まれた暁には無事に成長し、いずれは次の天皇として即位することを祈祷し続けるのが護持僧の中心的な役目であるといえよう。
護持僧が后の懐妊をコントロールできるということは、后の身体に影響力を持つことでもある。その意味では、護持僧と后との関係には性の要素が介在する余地が多分にあり、一行阿闍梨が密通を疑われたのも当然の成り行きであろう。真済が染殿后を性的に侵犯したのは、こうした護持僧の特性を効果的に復讐の手段に用いた行為だと考えることができる。后と護持僧の組合せには、密通の可能性が秘められているのである。宮中にたやすく入る特権を持ち后と接触する機会が多いから、というような表面上の理由ではない。護持僧は、秘法を使って后の身体を意のままに操ることが可能だからである。
「修法合戦」の項で、私が位争い説話の成立した院政期という時期にしつこくこだわったのには理由がある。護持僧が活躍する時期というのがやはり同じ院政期なのだ。位争い説話における護持僧の修法競べは、血統の存続と護持僧、そして院政期に流行した魔術的な秘密修法、といった複数の要素がからみあって生まれたと考えるからである。そこで、ほかの事例も紹介しながら、護持僧が関与した天皇家の血と性の問題にもう少し踏み込んでみたい。
后と護持僧
今まで護持僧という語をほとんど説明せずに使ってきた。護持僧に関しては湯之上隆氏の詳しい研究があり、それによると、天皇や春宮、中宮だけでなく、貴族や武家にも護持を行う特定の僧がちゃんとついていたらしい。護持とは、いろいろな修法によって無病息災や富裕などを祈ることで、仏法に頼るのが病気や不幸をはらう一般的な方法だった当時にあっては、護持僧はホームドクターのような役目を果たしたのであった。人に呪いをかけることなども秘密裏に行われたようである。このように、修法が個人の現実的な利益をもっぱらとするのは、平安時代末期の傾向でもある。このころ、密教は多様な現世利益の要望に応《こた》えるため、今までには見られなかった新しい修法を次々に生み出していった。これが別尊法《べつそんほう》と呼ばれるもので、それまで如来や菩薩《ぼさつ》を本尊とする修法が大半だったのに対し、不動、孔雀《くじやく》といった明王や、毘沙門《びしやもん》、聖天などの諸天部を本尊に据えて行われる。同時に、観音菩薩などにも新たな要望に対応するため効験が増えていく。こうした時代の要望の中で、后と護持僧に関係するのはなんといっても「敬愛《きようあい》の法」だろう。
「敬愛」とは現代でいう尊敬の意味ではなく、男女間の愛情関係を指すことばである。敬愛の法は恋愛を実らせたり縁を切ったりといった、愛情関係全般にわたる願い事に効果を発揮する修法なのだ。もちろん、現代人が恋占いに悲喜するような生やさしい次元ではない。特に后たちが敬愛の法を行わせる場合は、ひとえに天皇の皇子を早く産むためなのである。ライバルの后妃がひしめく後宮のなかでいち早く懐妊するためには、天皇に寵愛されることが不可欠であるが、敬愛の法は后妃が天皇との親密な男女関係(これは性愛と同じ意味だが)への願いが中心である。千手観音や如意輪観音《によいりんかんのん》、愛染明王、聖天が本尊として用いられることが多く、敬愛と同時に縁切りの願いも聞き届けてくれるという。婚姻や妊娠が家の存亡と直結する時代、性愛のコントロールは私的な願いの範囲を超えて重要な意味を持っていた。護持僧は后と肉体的接触を持つことはないが、彼らは法力によって后の腹に子供を宿らせる。護持僧が后妃の身体を自在に操ることができるというのはこういうことなのである。
さて、めでたく妊娠したなら、その後は出産という大事が控えている。今日でこそお産による死亡率は下がったものの、充分な医療技術のなかったころのお産は命がけであった。せっかくできた子供がお産で死んだら元も子もない。したがって、出産の際には資力に応じて何人もの高僧が呼ばれ、夜も寝ずに祈祷に励んだようである。『御産御祈目録《ごさんおいのりもくろく》』や『御産部類記《ごさんぶるいき》』などといった記録には、平安末期の后妃たちのお産に当たってどんな修法が誰によって行われたかが記されているので、その様子を『平家物語』で有名な建礼門院徳子《けんれいもんいんとくこ》を例にとって見てみよう。
建礼門院は平清盛の娘、高倉天皇の中宮となり安徳天皇を産んだ女性である。平家滅亡の際安徳とともに海に沈んだが、自分だけ生き残ってしまう数奇な運命をたどった。出産の修法は治承《じしよう》二年(一一七八)六月末に腹帯を着けて以来、十月十二日の皇子誕生まで加速度的に増加している。たとえば、九月二十日には不動、降三世《ごうさんぜ》、軍荼利《ぐんだり》、大威徳《だいいとく》、金剛夜叉《こんごうやしや》の五体の明王の修法をいちどきに行う五壇法がなされている。壇をいくつも並べるのは院政期の修法の特徴で、五壇それぞれに高僧がつくのだから壮観である。そのほか、一字金輪法《いちじきんりんほう》、仏眼法《ぶつげんほう》、烏枢沙摩法《うすさまほう》、金剛童子法《こんごうどうじほう》が同時に修された。これらの法は個々に目的が異なり、烏枢沙摩法は変成男子の法、つまりお腹の子が女子であった場合男子に変えるための法である。なんとしてでも孫を春宮に立てたいという清盛の悲壮な願いが感じられる。このおかげか男子が生まれ、特に験力があらたかだった二人の僧が褒賞として位を授けられている。院政期には、皇子の誕生をめぐって仏法側の修法競べが起こる下地があったといえるのである。
しかし、建礼門院のお産のように事がスムースに運んだ場合はよいのだが、いつもそうだとは限らない。いくら祈祷を凝らしても思わしい結果が得られないというのなら僧侶《そうりよ》の力不足と片付けても仕方ないが、護持僧が異常に強力な験力の持ち主であって、その努力が報われないときはどうなるか。真済のように恨みのあまり怨霊《おんりよう》となって祟《たた》ることがあるのだ。真済は修法競べで恵亮に負けたわけだが、『平家』によると恵亮側が「恵亮は死んだ」という偽の情報を流して気の緩みを誘ったというから、真済にしてみれば恨みはつのるばかりだろう。死んで怨霊になるくらいの力の持ち主は、どこか常人と違うところがあるものだが、その好例が『平家』巻三に描かれる頼豪《らいごう》という僧である。
[#この行2字下げ]白河天皇は最愛の中宮|賢子《けんし》に皇子を産ませたいと願い、褒賞は望むままという条件で、験力のきこえが高い三井寺《みいでら》の頼豪に修法をさせることにした。頼豪が百日間|祈請《きせい》した結果、中宮は懐妊し皇子が誕生する。頼豪は褒賞として三井寺に僧を受戒させるための戒壇を作ることを要求するが、天皇は叡山《えいざん》と三井寺の確執を恐れて拒否した。約束を破られた頼豪は、恨みが極まって餓死し、自分が祈祷によって祈り出した皇子を取り殺してしまう。
頼豪も、崇徳上皇と同じく自覚的に怨霊となった一人である。『平家』では、頼豪の恨みに恐れをなした天皇が、大江匡房を遣わしてなだめようとする場面があるが、匡房が宿坊を訪ねて行くと頼豪は持仏堂に立てこもり、「これ程の所望|叶《かな》はざらんにおいては、わが祈り出し奉つたる皇子なれば、取り奉つて魔道へこそ行かんずらめ」と呪いの言葉を吐くばかりである。かくて頼豪は初心を貫いて見事怨霊になった。彼はまず予言通りに皇子に祟るが、護持僧が自らの修法の力でこの世に誕生させた皇子の生死の鍵《かぎ》を握る存在であることがこれによってわかる。
悲嘆にくれた白河天皇は、しかし諦めず、今度は寺門派の三井寺と対立関係にある山門派の良真《りようしん》という天台座主に皇子誕生の修法を依頼した。験あって中宮は再び懐妊し、後の堀河天皇となる皇子が生まれる。良真が白河・堀河親子の護持僧を勤めたことは『護持僧次第』という資料からわかる。良真のように、天皇の誕生に密かにかかわった護持僧は即位の後も継続してその天皇を補佐するが、こういう護持僧を特に「代始めの護持僧」と呼んでいる。
ところが、頼豪は怨霊となって依然として天皇家を狙っていたのである。殊に愛した中宮賢子の死後、その身代わりとして天皇は娘の郁芳門院《いくほうもんいん》|※[#「女+是」、unicode5a9e]子《ていし》を溺愛《できあい》するが、十三世紀の初めに慈円が記した『愚管抄《ぐかんしよう》』によると、頼豪は郁芳門院にも憑《つ》いて死に至らしめる。彼女の死は大江匡房の『洛陽田楽記《らくようでんがくき》』にも描かれているが、二十一歳の若さでもあり、どうも不自然な死に方をしたらしい。白河天皇の血を引く者はすべて頼豪の標的になるのである。その後、頼豪は再び堀河天皇に憑く。『讃岐典侍日記《さぬきのすけにつき》』は、堀河天皇の女房で性的関係のあった藤原|長子《ちようし》が天皇の死を中心に綴《つづ》ったものだが、堀河の危篤の際に数々の怨霊が出現する場面があり、頼豪も物の気の中に名を連ねている。
[#この行2字下げ]徳高い僧たちが必死にお祈りしていると、物の気が現れて「隆僧都だ」とか「頼豪だ」とか大声で名乗る。そして、「先の御幸ののちもう一度天皇のお姿を拝したいと思っていたのに叶わないので、こうしてご注意申し上げるのです」と恨み言をいう。
「隆僧正」というのは『宇治拾遺物語』に出てくる隆明のことで、頼豪と同じ三井寺の僧である。頼豪にとっては堀河が死ねば積もる恨みを晴らすことになるが、隆明がどんな理由で出現するのかは不明である。隆明も堀河の護持僧に任命されているので、何か遺恨が生じる出来事があったのかも知れない。この事例だけから断定はできないけれど、怨霊となる僧には護持僧が多く見られるようである。護持僧は天皇家の利害に直接関与する機会が多かったと思われるから、謀りごとに巻き込まれたりして天皇家に恨みをもつこともあろうし、そういう者こそが怨霊となって現れる、と考えられたのであろう。何らかのかたちで権力から排除された者が怨霊と化すのだから。
仏法の側から王権を支えている護持僧が怨霊となると、通常はプラスの方向へ働いている力がマイナスの方向へ反転する。護持僧の験力が強ければそれだけ強大な反撃を食らうことになるので、強力な護持僧を抱えることは両刃の剣のような危険性を有することでもある。政治権力が仏法と背中合わせに存続しているこうした院政期のような状況を、中世史の分野では「王法仏法相依《おうほうぶつぽうそうえ》」と称している。しかし両者は平等な関係ではなく、あくまでも王法の方が主で、仏法はどちらかというとそれに奉仕する立場になっている。この二者が双方の分を守っているときはよいが、仏法が肥大して王法を侵犯するのはタブーなのである。その意味で、真済や頼豪などの護持僧が自らの法力を王法を侵す手段に使うことは王法自身の危機にもつながる大事だといえる。なんといっても護持僧の場合、皇子や后に影響力を持つのだから、天皇の血統の危機にもなりかねない。護持僧は腹中に爆弾を抱えたような危険な存在なのである。
頼豪と真済を比べれば、怨霊としてはどちらもいい勝負をしているようである。だが、真済には性的侵犯という奥の手があった。真済が染殿后を犯すことは、護持僧の違乱が究極的なかたちをとったものなのである。護持僧は、本来天皇や院といった「王」との一心同体を理念の上で体現すべき存在であり、その関係にきわめて性的なにおいが漂っていることも見逃せない。『愚管抄』の作者で歌人としても著名な天台座主の慈円は、後鳥羽上皇の護持僧を勤めた人物だが、『毘廬遮那仏別行経私記《びるしやなぶつべつぎようきようしき》』という経典の注釈に次のような夢を書き残している。
[#この行2字下げ]私、慈円は承元《しようげん》四年(一二一〇)二月のある夜、後鳥羽上皇と自分が互いに「夫妻の儀」をなしている夢を見た。上皇の寵愛《ちようあい》はすこぶる「過分の趣き」であった。云々。
これは、慈円が女性の立場になって上皇の愛を受けるという、非常にセクシュアルな夢である。慈円はほかにも『慈鎮和尚夢想記《じちんかしようむそうき》』と呼ばれる王権と性のかかわりを示す性的イメージ豊かな夢の記録を残しており、それとの関連で阿部泰郎氏が指摘するように、この夢は「王法仏法相依」を表す護持僧と上皇の関係が非常に性的なビジョンを持つことを物語っている。護持僧が天皇家の血と性を司《つかさど》っていることと、これは裏返しの関係にある。護持僧自身が女性という受け身の性に身を置くことで、仏法は天皇や院への絶対的服従を誓うことになるのである。しかし、真済の場合はこの関係が反転している。后への性的侵犯は護持僧が王法を犯すことにつながるのだ。これこそ護持僧の違乱の究極の姿といえよう。
われわれには染殿后への叶わぬ恋に身を焦がす紺青鬼と見えていた真済の〈恋〉の顛末《てんまつ》には、位争いに端を発する怨念《おんねん》の歴史が隠されていたのである。こうして真済の復讐《ふくしゆう》の構造を解き明かして来たが、〈悪女〉論なのにいっこうに染殿后の話題が出てこないという声が聞こえそうだ。しかし、称徳天皇の章でも述べた通り、〈悪女〉には対になる男性が必ず存在し、男性との関係の中で〈悪女〉に作り上げられていくといってよいのである。真済はいわば染殿后の陰画として后の〈悪女〉性をあぶり出す役割を果たしている。〈悪女〉を語ることは背後の男性を語ることに等しいのである。さて、染殿后にはまだ真済のほかにもそのような男性が控えている。次は位争いの世界から少し趣きを変え、后と通じたといわれる男性たちを探ることにしたい。その一人がかの在原業平《ありわらのなりひら》である。
業平の恋人たち
在原業平は光源氏と並ぶ平安時代のプレイボーイとして世に知られた人物である。このイメージは、実名が記されない「男」が主な登場人物の『伊勢物語』が、業平の恋の数々を描いた物語として読み継がれた現象によるもので、業平の実像というわけではない。宮廷のサロンで業平自身が語った物語が『伊勢物語』になったという説も出されてはいるが、現在残っている『伊勢物語』は平安から鎌倉にかけて三段階の増補を経てでき上がったといわれ、業平の生きていた頃に今見るような形が整っていたとは思えない。しかも作者はすべての章段の主人公が業平だとは一言もいっていないのだ。しかし、そうだとはいえ主人公が名無しでは読者が納得しない。読者たちは自然と業平を主人公に当て、「業平の恋の年代記」として読むようになっていく(したがって、以後物語の主人公を便宜上業平と呼ぶことにする)。この傾向は章段ごとに変わる女主人公、つまり業平の恋人たちにも同じように適用されたのである。二条后のように名前がわかる女性も二、三いるが、むしろ例外的で、ほとんどの場合は単に「女」とか、「どこそこに住みける女」、「だれだれに宮仕えする女」などであり、実在の人物を特定するのは難しい。というより、『伊勢』はあくまで物語なので、必ずしもモデル捜しをする必要はないのであるが、こういうとき読者はやはりさまざまな憶測をしながら物語を読むのが常であろう。
『伊勢』は平安時代から現代までの長い間、古典王朝文学の精髄として親しまれている。その間およそ一千年、『伊勢』の読まれ方が時代ごとにかなりの変化をきたしても不思議ではない。実際、成立からほど遠くない平安末期には『伊勢』を古典として読む読み方があり、『古今和歌集』の場合と同じく、ある事柄をどう解釈するかによって流派に分かれるようにまでなる。こうしたなかで『伊勢物語』の注釈書が作られていった。
ここでは、名前の明らかでない業平の恋人にいちいち実在の人物を当てはめて解釈する作業が行われている。『伊勢源氏十二番女合《いせげんじじゆうにばんおんなあわせ》』という、『源氏物語』と『伊勢物語』に出てくる女性をそれぞれ十二人ずつ選んで歌合せをさせる趣向の文献などは、源氏、業平の相手に関心をもつ当時の読み方のあり様を知る手がかりとなる。源氏の場合は彼の母親である桐壺《きりつぼ》の更衣《こうい》を筆頭に、薄雲《うすぐも》女院(藤壺宮)、紫の上などが揃い、源氏の恋人ばかりというわけではない。反対に、『伊勢』の方は五条后、二条后、紀有常の娘姉妹、小野小町、斎宮女御《さいぐうのにようご》などで、いずれも業平と関係を持ったと考えられている人ばかりである。小野小町のように、「色好み」の女性といわれることが多いゆえに名前があげられる女性も見え、業平らしき主人公がいかに多様な女性とかかわりをもったかを示すようになっている。こうした名無しの女性に当てられる実在の人物は次第に固定していき、常連のメンバーとして固定される。和歌の家として有名な冷泉家《れいぜいけ》の『伊勢』の注釈である『冷泉家流伊勢物語抄』の冒頭には、十二人の女性がずらりと勢揃いしている。
[#この行2字下げ]おおよそ業平が生涯に契った女性は三七三三人であるが、『伊勢物語』にはそのうちから十二人を選んで恋の物語を載せている。十二人とは紀有常の娘、染殿后、小野小町、五条后、二条后、長谷雄卿《はせおきよう》の妹、伊勢斎宮、筑紫染川《つくしそかわ》女(平貞文の妹)、行平《ゆきひら》の娘、源昇の娘、在原中平の娘、藤原継蔭の娘(歌人の伊勢という)であるが、後に伊勢は自分のことを除いて后宮の上の女童「ましこの前」を入れた。
多少の出入りはあるものの、この十二人の大部分が業平の恋人として後世に受け継がれていく。宇多天皇に愛された伊勢が、自分の過去の恋を隠そうとして別人の記事と置き換えたというのはおもしろいが、『伊勢物語』がその名から伊勢の作品だとする伝承があったからだろう。さて、この十二人のなかに問題の染殿后が入っていることに気がつかれただろうか。『冷泉家流伊勢物語抄』の本文には、「染殿后|明子《あきらけいこ》、文徳天皇后。忠仁公娘なり」とはっきり書かれているので、間違いなく惟仁の母の染殿后である。繰り返すようだがこれはすべて史実そのままではない。染殿后が業平の恋人と考えられた理由としては、以前述べたように、位争い説話の世界と『古今集』や『伊勢物語』の注釈がかなり近いところにあってお互いに説話形成に影響を与えていたことが考えられる。
ほかの注釈書にはさらに詳しい染殿后との恋が描かれる。『伊勢』第二段は前にも紹介した段だが、原文はこんな話である。
[#この行2字下げ]「かのまめ男」が「西の京の女」と親しく語らい、帰ってから、なんと思ったのかこのような歌を詠んだ。弥生の一日のことである。
[#この行3字下げ]起きもせず寝もせで夜を明かしては 春のものとて眺め暮らしつ
この「西の京の女」とだけ記される相手の女性は、「かたちより心なむまさりたりける」とされ、美貌《びぼう》で聞こえた染殿后のイメージにはそぐわないのだが、これを染殿后と解している注釈書の一群がある。そのなかから『和歌知顕集《わかちけんしゆう》』という注釈書を引いてみる。
[#この行2字下げ]この西の京の女というのは、左大臣良房公の娘、染殿后である。業平とのことがあったのは、承和《じようわ》九年の二月のことという。
さて、そのほかに重要な点は、業平の相手と見なされた女性に后妃が何人か混じっていることである。后妃とは天皇という正式な「夫」がいる女性であり、業平との関係は必然的に密通の様相を帯びて来る。恋は障害があればそれだけ激しくなるというが、業平の場合は后妃のほかにも未婚の皇女が勤める伊勢神宮の巫女《みこ》の斎宮が相手だったりして、ことさら険しい恋の道を選んでいるかのようだ。
だが、彼の恋がタブーを有する女性に向かうのは個人的な好みではない。業平の「色好み」に、藤原摂関家のために政治生命を失っていった氏族の抵抗を読み取る説があるくらいなのだ。位争い説話に関する箇所で、敗者である惟喬を慰める業平の姿が『曾我物語』に描かれると述べたが、紀氏側に近かった業平もまた、弱小氏族として周辺に追いやられる存在だった。『伊勢物語』第七段から九段は、ある男が都から東に下るいわゆる「東下り」の章段である。すでに指摘されているように、この直前の第六段には入内前の二条后を盗み出して発覚した話が語られるので、「東下り」は帝に奉る予定の大事な娘をかどわかした罰で配流されたものと解されても不思議ではない。事実、中世ではこの密通の罰が当然のことのように語られ始める。十三世紀の説話集『古事談《こじだん》』の巻二には、「二条后は兄弟に奪い返され、業平は罰として髻《もとどり》を切られて東国へ流された記事が『伊勢物語』に見える」、と記されている。つまり、中世における業平の恋の姿は、密通する男という逸脱者の様相で現れているのである。その相手として染殿后が当てられるとすれば、真済と后の〈恋〉の因縁と重なって来ることはいうまでもなかろう。
業平と真済の密通は、天皇の「妻」を犯すという大胆な行為として共通の認識を得ていると考えてよかろう。菊地仁氏はこれを〈帝の御妻をあやまつ物語〉と称し、業平だけでなく、「歌の仙《ひじり》」といわれる歌人のなかにも同様の罪科により配流される例が見えるという。
彼等は単に夫ある女と通じた罰を受けたのではない、と私は考える。配流の最大の原因は、何よりも相手が后《きさき》だったことにある。こうした行為は、真済の場合と同様に天皇の権力に対する侵犯を意味しよう。菊地氏は業平のほかに柿本人丸、山辺赤人という代表的な万葉歌人の例と、人丸と同一人物という噂がある猿丸、そして第一章でとりあげた道鏡《どうきよう》をあげている。ちなみに、人丸は『万葉集』では「人麻呂」と書くのが通例だが、中世の資料では「人丸」と表記されることが多いので、原文の引用以外はこちらに従う。
中世の想像力は人丸と赤人を同じ人物と見なし、これをさらに猿丸と道鏡とに結びつけてしまうたくましさである。細かなことを述べる余裕はないが、『毘沙門堂本古今集註』の記事を例にとろう。
[#この行2字下げ]あはぬ夜の 降る白雪と積もりなば 我さへともに 消ぬべきものを
[#地付き](巻十三、六二一)
この歌はある人のいはく、柿本人麿が歌なり
[#この行2字下げ][この歌は文徳(武か)天皇の后|ハ《〈ママ〉》ヰの大臣の娘を恋奉りて人丸が詠める歌なり。遂にこの后に逢《あ》ひ奉りけり。この罪によりて人丸|上総《かづさ》国に流されけり。]
[ ]の中が注で、ほかは『古今集』の本文である。わざわざ断ったのは、『毘沙門堂本註』の注と『古今集』本文の左注(歌の後に付けられた注)を区別するためである。この歌は読み人知らずだが、すでに左注として人丸の歌という伝承が書き込まれているところを見ると、作者を人丸に当てる読み方が早い頃からなされていたことが知られる。人丸と同様伝説的な歌人でその実在が疑わしい猿丸もまた、読み人知らずの歌の作者に当てられることが多かった。ここでは人丸の相手を文徳天皇の后とするが、当然時代が合わないので、『毘沙門堂本註』を書き写した人は疑問に思ったらしく「文武天皇ではないか」との注記を施している〔《》で示したところ〕。常識的にいえば文徳は文武の誤りだろうが、もし文徳の后ならばまさに染殿后であり、人丸と業平の伝承が交錯していた可能性を想像するのもおもしろかろう。こんなことをいうといいかげんな感じがするかも知れないが、中世には現代のわれわれが想像もしないことがきっかけで伝承が混じり合い、思いもよらない方向へ展開することがしばしば起こる。現代人の論理でこれを語ろうとするとまるで暗闇に迷いこんだような気になるが、当時の人々にとっては何ら不思議なことではないのだ。
それはさておき、業平と人丸とが重ね合わされるならば、そこに真済を加えてみるのも無謀なことではないだろう。この三人はいずれも后《きさき》と密通し、そろって東国の辺地へ流されるはめに陥る。『宝物集』bでは、真済の配流地は「下野《しもつけ》国うへ草」である。人丸の上総国とは少しずれるが、『古今集大江広貞注《こきんしゆうおおえひろさだちゆう》』という鎌倉時代の注釈の二十九番歌の注には、人丸と同一人物という説もある猿丸太夫が、同じく下野国の薬師寺へ流されたと記される。京から見れば逢坂《おうさか》の関の向こうはみな「関東」という意識なので、下野も上総もさほど違いはない。注意すべきは、后との密通が辺地への配流を引き起こしたという点である。
業平や道鏡を見てわかるように、配流される男性たちは権力の座から滑り落ちた人でもある。ある男を徹底的に中枢部から排除するためにはプライベートな面を攻撃するのがもっとも効果的であることは、どこかの国の首相の例でもわかる。密通が事実かどうかはともかく、密通により配流された男性というのは、女性問題のスキャンダルにはめられた人なのである。また、噂の相手となった女性も決して無傷ではいられまい。后とはいえ、二条后や染殿后が密通された女性として噂の的となるだろうことは、レイプ事件の被害者が世間の好奇の目にさらされるのと同じ理屈である。王権を性の力で侵犯した真済ら逸脱者の復讐《ふくしゆう》は成功したかに見えるが、后をスケープゴートとすることで王権の傷は早々と治癒されてしまうのだ。そしてふさがった傷の表面には、后との禁断の恋というロマンティックな物語だけが残される。密通の行方はかくも苦いものなのである。
典型的な被害者型の〈悪女〉染殿后は、その背後に男たちの人生の浮沈を潜ませながら、説話伝承を通じて中世の人々の脳裏に刻み込まれていった。その結果、数多くの恋の一例としてほかの説話と並べられ、仏道の教えに反したよこしまな恋を戒める言説に吸収される道をたどるのである。それでは最後に真済と后の因縁譚の変貌《へんぼう》に目を通すことにしたい。
変貌する紺青鬼説話
舞台は一気に鎌倉後期へと飛ぶ。朝廷が二つに分かれる未曾有《みぞう》の事態を迎えた南北朝時代の少し前、後に北朝となる持明院統《じみよういんとう》の後深草院《ごふかくさいん》の御所に、二条と呼ばれる大納言の娘が仕えていた。後深草上皇の寵愛《ちようあい》を受け、美貌と才気をうたわれたこの年若い女房は、「とはずがたり」の作者として知られることになるのだが、この時点ではまだ迷いと悩みを抱える一人の女性にすぎない。なぜなら、彼女は上皇以外の男性の子を妊娠した身であった。相手は仁和寺《にんなじ》の法親王《ほつしんのう》で、彼女は密かに「有明《ありあけ》の月」と呼んでいる。法親王とは天皇の子息が出家して門跡寺という特定の寺院に入ったものである。「有明の月」は実名をぼかしてあり誰がモデルなのか諸説あるが、後深草院の弟の性助ではないかといわれる。ともあれ、お腹の子の親が世俗から遠のいて仏道に入った僧侶《そうりよ》、しかも上皇の弟となると、二条の立場は難しい。そもそもこの関係は、有明の月の思いがこうじて始まったものだったのだが。
「とはずがたり」巻二、三は有明の月と上皇をめぐって物語が展開するが、有明の月の人物造形には、真済のイメージが色濃く投影されている。真済と后の因縁が、有明の月と二条に読み替えられて再現されるのである。ここにおいて怨霊《おんりよう》・真済は、恋に苦しむ紺青鬼と完全に重なり合うことになる。
ある日、祈祷《きとう》のため参内した有明の月は、辛い思いを二条に語っているのを上皇に立ち聞きされる。その夜、二条は上皇に問われるままに有明の月との一部始終を告白してしまうが、上皇は困惑する二条に足などさすらせながら、ことさらしめやかに物語りをするのである。恋愛の感情というものは人によらぬことで、有明の月が二条と添い遂げられない恨みを持ち続けることもよろしくないから、自分がうまく取り計らってやろう、私はお前に対して悪い感情はもっていないから心配せずに任せておきなさい、と。このあたりのやりとりは実に微妙なニュアンスを含んでいる。上皇は「昔の例《ためし》にも、かかる思ひは人を分かぬ事なり」として、恋の不思議をいくつかの事例に託して語る。真済と染殿后はこのなかに登場するのだ。
[#この行2字下げ]昔の例にも、有明の月のような恋に苦しんだ者はいるものだ。たとえば、柿本僧正《かきのもとそうじよう》は物の気となって染殿后に憑《つ》き、仏菩薩《ぶつぼさつ》の力も及ばず遂に恋に身を滅ぼしてしまったと聞いている。また、志賀寺《しがでらひ》の聖《じりき》も京極御息所《ようごくみやすんどころ》に恋をしたが、彼女が情けをかけたので妄執が晴れたという。しかし、有明の月の執着は一通りのことではないよ。あなたもせいぜい心得てお相手なさるように。
「昔の例」とは実際の事柄ではなく、上皇が聞き知っていた説話のなかの出来事である。柿本紀僧正真済と染殿后の話は、著名な恋の妄執の事例として定着していたようだ。ここにはもう位争いの余燼《よじん》は見えず、恋の鬼となった真済の説話が独立していく過程がうかがえる。志賀寺の聖と京極御息所の話と並べて語られるということは、僧侶と貴人の妻の恋というパターンに吸収されたことを物語っていよう。ところで、このもう一つの恋の説話について少し述べておかなければならない。ここでは同じ文脈に並べられるものの、本来は真済の説話とはずいぶん趣きの異なる話であったからだ。
この説話は、源俊頼《みなもとのとしより》が著した院政期の歌論書『俊頼髄脳《としよりずいのう》』などに見える。京極御息所は藤原時平の娘で褒子《ほうし》といい、宇多天皇の后妃となったとされる女性である。もっとも、醍醐《だいご》天皇に入内したのを父の宇多が横取りしたという説話もある。志賀寺の聖の方はよくわからないが、別所に隠遁《いんとん》する聖であったのだろう。
[#この行2字下げ]京極御息所は三井寺の別所である志賀寺に詣《もう》でた折り、草庵にいた老法師に見初められる。後日、その老法師が曲がった腰を杖《つえ》でいといながら御所に来て、御息所に取り次ぎを乞《こ》うた。御息所に見《まみ》えた彼は、「私は七十年間志賀寺で仏道精進して来たが、あなたをお見かけしてからというものなにも手につかなくなりました。このままではせっかくの修行が無駄になりますので、安らかな心になるためにもう一度お姿を拝見したくて参りました」とかき口説く。御息所は「たやすいことです」といって御簾《みす》を上げ、恐ろしげな老法師の申し出に従いその手を彼にとらせた。手を額に当てしばらく感涙にむせんだ後、聖は御息所を阿弥陀浄土《あみだじようど》に導く誓いを立てる。御息所は聖に歌を返し、聖は喜びながら帰って行った。
『俊頼髄脳』や『古来風体抄《こらいふうていしよう》』では、京極御息所の歌の詠まれた状況を説話で語る「和歌説話」となっており、和歌の語句から「玉帚《たまはばき》説話」と称されている。聖の恋の妄執が京極御息所の情けある行為によって昇華される点が中心となっている。山の別所の聖というところなど、金剛山聖人が染殿后にとりつく『今昔物語集』の話と似ているようだが、恋の思いは早々となだめられてしまう。仏道に入った者にとって恋の思いに迷うのは罪のように思えるけれど、妄執があるままでは成仏は叶《かな》わない、というのが中世の人々の考え方であったらしい。「とはずがたり」の有明の月が二条に迫ったのも、このまま死んだら恋の鬼となってこの世に迷い出る、と彼自身が確信していたからである。迷いを残すことこそ罪なのだ。京極御息所の手をいただくだけで自己規制した志賀寺の聖に対し、真済は徹底的に恨みを貫く。真済の恨みが恋にではなく位争いの怨念に発しており、しかもそれに対して何ら救済が与えられていないから、当然かも知れない。
京極御息所と志賀寺の聖の説話は、『太平記』や十五世紀初めの『三国伝記《さんごくでんき》』にも現れる。『太平記』巻三十七では、天竺《てんじく》の一角仙人《いつかくせんにん》の説話と並べられる。一角仙人とは、歌舞伎「鳴神《なるかみ》」のもととなった話で、雨を封じ込めてしまった聖を王の命令で后が誘惑するというもの。后と高徳の聖というパターンが見られ、志賀寺の聖の説話は妄執の救済というより、女に「堕ちた」聖の姿を描く方向に向かっているようである。こうして志賀寺の聖と真済とは次第に接近していくのだ。
「とはずがたり」には、ほかにも真済怨霊譚に関する記事が二箇所に見えている。一つは男装の女芸能者である白拍子《しらびようし》が舞いながら歌う今様《いまよう》の文句に出てくるもので、有明の月との関係が周囲に知られていることを二条が察して冷や冷やするという印象的な場面である。もう一つは後深草上皇の語りの中に登場するもので、先の引用とよく似た文脈で真済と染殿后の説話が用いられている。ところが、この部分には問題があるのだ。次にその箇所をあげておこう。
[#この行2字下げ]学僧に真言の法文を講義してもらう「真言の御談義」が終わって、酒宴となった。二条が配膳《はいぜん》の係として控えていると、上皇がこんなことを語り出した。「広く仏法を学んでみると、まったく男女の間というのは罪ではないと感じますね。恋というものは前世からの因縁によるので、私たちにはどうしようもないことなのです。昔から恋の因縁に支配された男女の例は多く見られます。浄蔵という行者は、妻となる女性が前世から決められているというので、女が幼いうちに殺害しようとしたが、結局結ばれましたし、染殿后は志賀寺の聖に手をとらせて思いを浄化しようとしたけれど[#「染殿后は志賀寺の聖に手をとらせて思いを浄化しようとしたけれど」に傍点]、聖は思いに耐え切れず青い鬼となりました[#「聖は思いに耐え切れず青い鬼となりました」に傍点]。また、望夫石《ぼうふせき》はある姫が夫恋しさに石に化した姿といいます。あるいは人間ではなく獣の類《たぐ》いと契るのも前の世の業のせいでしょう。こういうことは人間の力の及ぶところではありません」。聞いていた二条は、まるで自分一人に言われているように感じ、冷汗や涙が流れる心地がした。
本文自体が問題なので、やや長くなったが逐語訳に近い格好で引いてみた。おなじみの志賀寺の聖のほか、『大和物語』などで知られる浄蔵の説話などが、前世の業の結果として恋に落ちた例に取り込まれているのが興味深い。さて、傍点部に注目していただきたい。染殿后の相手は真済であるはずなのに、志賀寺の聖に変わっている。この間に脱文があって、もとは染殿后と真済のペアの後に京極御息所と志賀寺の聖という従来の組合せが記されていたと考えがちだが、続きをよく読むと、志賀寺の聖が恋の思いに青い鬼となったとあるから、両説話は初めから混同した形で取り入れられたとしか思えない。すなわち、御息所の情けにより恋を昇華させたはずの志賀寺の聖が、恋の鬼に変じたという伝承があったことが知られるのである。これは真済との同化を意味するわけで、志賀寺の聖と真済とは意外なところで接点をもつのだ。『太平記』で一角仙人に並んで登場した事実が示すように、志賀寺の聖の恋は次第に怨念の暗い様相を帯びて語られるようになる。
志賀寺の聖が真済と同じく青い鬼となったことを記すのは『三国伝記』巻六と、『沙石集《しやせきしゆう》』の作者・無住《むじゆう》による『妻鏡《つまかがみ》』である。『三国伝記』には、和歌を伴った簡単な「玉帚説話」に「多くの行業を譲り、たちまちに紺青鬼となりけるこそ恐ろしけれ」という一文が付け加えられる。『俊頼髄脳』のような魂の救済は描かれず、恋の道に落ちることの恐ろしさを強調して邪恋を戒めるための教訓説話の役割を果たしている。
高僧や山の聖が恋の妄執により鬼となる、という紺青鬼説話は、真済だけではなく志賀寺の聖まで巻き込んでさらに変貌《へんぼう》を遂げていくのである。その変貌の過程と、仏法の教えをやさしく説き広めるとき、そのころ流布していた説話を例話に用いるあり方とはおそらく連動していたと思われる。一つの説話をどう解釈するか、どんな文脈に乗せるかで、説話の機能は百八十度転回する。称徳天皇の章でもそのような傾向が指摘されたが、時代が下るに従い、紺青鬼説話は、よこしまな恋や性に溺《おぼ》れた者の行く末を説教するときの例証として定番化するのである。説教の上手な者は使えそうな説話を頭の引き出しに溜《た》めておき、ここぞという場面でさりげなく教説に紛れ込ませたのである。こういう例話を「因縁物語」とか「ためし」と呼ぶ。紺青鬼説話はいつしか古今東西の恋の典型となり、「恋のためし」に変じていったのである。
「恋のためし」
「恋のためし」を列挙するやり方は、「とはずがたり」の上皇の語りにすでに表れていた。上皇は学僧から教義の講義を受けていたというから、「恋のためし」はそのような説教の場から得た知識だった可能性が高い。鎌倉時代から室町時代にかけては、数多くの男女の説話が「恋のためし」として拾い上げられ、文芸の中に広い浸透ぶりを見せている。特にその様相が顕著にうかがえるのは、「室町時代物語」とか「お伽草子《とぎぞうし》」という、かなを用いて書かれた物語である。物語草子には、娯楽でもあり一般教養のハウツーをも得られる、という側面があった。したがって、説話が仏教になじみの薄いレベルの人々に説教などを通じて知識として受け入れられた過程が想像される。
物語草子には不思議な真済と染殿后の説話が展開されている。特筆すべきは『室町時代物語大成』の第七巻に翻刻がある早稲田大学図書館本の「雀《すずめ》の草子《そうし》」と、赤木文庫本の「浄瑠璃物語《じようるりものがたり》」である。ついでにいうと、室町時代物語は伝本がきわめて多いものがあり、同じ題名でも内容や本文が異なる場合が少なくないので、いちいち「どこそこ蔵本」とか「なになにという本の翻刻による」というふうに出典を示すのが通例となっている。
「雀の草子」は雀の姫に鳥たちが求婚するという趣向で、美しく才気ある姫を手に入れようと意気込むさまざまな鳥が口説を尽くして求婚する場面が中心をなしている。求婚者の一人である鳩の阿闍梨という老僧は、恋に迷うのは自分一人のことではないといい、志賀寺の聖と真済の例を引き合いに出す。鳩の阿闍梨は「恋のためし」を姫に聞かせることで、これ以上つれなくされたら自分もこんなふうになるぞ、と脅しをかけているわけである。阿闍梨のことばに出てくる志賀寺の聖の話は『俊頼髄脳』とさほど変わらないのに対し、真済の方は結末がかなり異なっている。
[#この行2字下げ]紀僧正は染殿后を見て恋慕の思いにとらわれてしまったが、これは后が情けをかけなかったせいでしょうか。今は、僧正と后《きさき》はともに伊豆《いず》国に熱海《あたみ》という地獄をつくって住んでいるといいます。
地獄とは熱海の温泉を指すらしい。つまり、真済と一緒に后も伊豆へ流されてしまったわけだ。これに似た話は、近年阿部泰郎氏によって紹介された『因縁抄《いんねんしよう》』という唱導の資料にも記され、真済が后を慕う胸の熱い思いを冷やすために海に入ったところ、その熱で温泉ができたという由来|譚《たん》につながる。当然、地獄には温泉の意味のほかに罪を犯した者が落とされる地獄という直接的な意味もあり、流刑の地である伊豆は現世の地獄といったところだろうか。
恋の鬼となった真済が地獄に落とされるのは当然としても、染殿后まで一緒にいるのは不思議に思える。前にも述べたが、后は「天狗《てんぐ》憑き事件」「鬼憑き事件」ともに完全に被害者の立場であったはずだ。ところが、「雀の草子」では真済に一片の情けもかけなかったことが原因で地獄行きの身となったのである。引用の直前には志賀寺の聖と京極御息所の話が置かれているが、情けをかけたことで聖から守護の誓いを受けた御息所とは対照的に、后は情けをかけなかったためにかえって恋慕に油を注ぎ、真済と一緒に地獄に落ちる破目になった、という論理なのである。恋の罪が后にもあると説く点は、今までの真済と后の説話には見られない特色である。
「雀の草子」と同じような展開をするのが、「浄瑠璃物語」である。主人公の御曹子《おんぞうし》・源|義経《よしつね》が浄瑠璃姫を口説く際の「恋のためし」の部分に、志賀寺の聖《ひじり》と真済の説話が見えている。中世後期の物語草子や説経節《せつきようぶし》などにおいて男性が女性を口説く方法は、類型化した「恋のためし」を引き合いに出して脅す場合がほとんどである。
[#この行2字下げ]志賀寺の聖は八十三歳のとき十七歳の京極御息所に恋し、京極五条あたりの仮りの宿で三年ほど暮らした。御息所は懐妊し、人目を避けるため本国へ向かう。途中、の近江《おうみ》愛発《あらち》の関で生まれた子は多頭多足の異形だったが、後に天に上って越前《えちぜん》の神と現れた。
この志賀寺の聖の話は「雀の草子」とずいぶん違う。特に、二人が実際に契る点が大きな相違で、説話のもつ意味すらも変わって来ざるを得ない。また、愛発での出産については、白山の女神が愛発で出産したという記事が『義経記《ぎけいき》』巻七にあり、引用部が義経の口説きなので何か関係がありそうだ。さて、この続きに真済のことが語られる。
[#この行2字下げ]紀僧正は染殿后への本望が遂げられずに死に、后も思いが募って青い鬼となり、死後は剣の山に迷っていると聞いている。
今までの文献では青い鬼となるのは真済ばかりだったが、后の方が鬼と化して地獄の剣の山に踏み迷っているというのだ。困惑する姫を前になお「恋のためし」を並べる義経は、「仏や神にも男女一対のものがある。ましてや人間がどうして男女の道を嫌うことがあろうか。これほどいっても私を拒否するのなら、あなたはこの世では青い鬼となり、死んでからは地獄に落ちるぞ」と凄《すさ》まじい論を展開していく。この勢いで迫られたらだれだって首を縦に振るしかなかろう、姫は遂に義経と契るのである。
「浄瑠璃物語」に語られる染殿后の堕地獄は、「雀の草子」と同じく、真済を拒否したがために起こった。真済が恋の妄執から地獄に堕ちたのとは異なり、后の場合は恋を受け入れなかったことが原因となっているのである。志賀寺の聖と京極御息所は、あるいは手をとらせることで恋を昇華させ、あるいは年齢や身分を超えて結ばれたことで堕地獄を避けることができた。しかも、「浄瑠璃物語」では二人の間の子供が「結ぶの神」、すなわち恋愛を司《つかさど》る神にまでなる。これはよこしまな恋どころかむしろ恋の手本のようなものだ。すでに類型として定着していた「恋のためし」に登場する男女でありながら、この違いはいったいどこから来るのだろうか。遠回りになるようだが、「恋のためし」がどのようにできていったかを考えることが解答の糸口になると思われる。
〈悪女〉への道
改めて確認しておくと、ここで「恋のためし」と呼んでいるのは、仏の道からはずれたよこしまな恋情に苦しむ男女の因縁説話である。仏教では、基本的に親子や夫婦の恩愛は菩提心《ぼだいしん》を妨げると考えられている。説法と関係が深い文献である『宝物集』には、仏道に入るため守らなければならない戒律があげられ、それぞれに説話が付随している。そのなかに、男女の道に迷うことを戒める「不邪淫戒《ふじやいんかい》」という項目があり、志賀寺の聖の話も含まれている。これがおそらく類型化した「恋のためし」の早い資料であろう。したがって、志賀寺の聖の話は『俊頼髄脳』などの和歌説話のレベルから直接物語草子に取り入れられたわけではなく、『宝物集』のような資料をいったん経由しているとみられる。
ところが、『宝物集』の「不邪淫戒」の項には称徳天皇と道鏡、浄蔵などおなじみの説話がそろうものの、真済と染殿后の説話だけが見当たらないのである。これは、本章の「真済の〈恋〉」で引用したように、人間がこの世で体験する苦しみについて述べた箇所の「病苦」の項目で語られ、「不邪淫戒」とはまったく別個に扱われている。つまり、真済と后の説話は、『宝物集』の時点では「恋のためし」には入っていなかったが、志賀寺の聖の話と接近したためにこちらに取り込まれたと考えられる。この経緯は、位争いの恨みに端を発した真済怨霊説話が、后への恋という別のテーマに読み替えられていく過程とほぼ並行して起こったといってよい。そこには、中世という時代のなかで仏教が広い階層に浸透していく動きを見逃すことはできない。中世の説話を扱う際に説教を重視するのは、儀礼や法会《ほうえ》の席上で実際に語られることを最大の特徴とする説教や唱導の言説が、仏教の広がりのメディアの役割を果たしたからなのである。このメディアは物語草子や説経節などの文芸と仏教教理をつなぐものでもある。こうして真済と染殿后の説話は積極的に「恋のためし」の文脈に連ねられるが、焦点は真済から后に移動するようになる。后の行為は、怨霊や鬼となった真済の根本原因を作ったものという解釈が増えていくのだ。物語草子において、志賀寺の聖の話と真済と后の話が似ているようで異なるのは、「恋のためし」への取り入れられ方の違いによるのではないかと私は推測する。
「談義本《だんぎぼん》」といわれる室町時代の真宗系の説教の資料では、女性の成仏というテーマを説くときに「恋のためし」が用いられている。次章で詳しく述べることになるが、女性は男性のように往生はできない存在と説かれるのが普通だった。しかし人類の半分を占めるのは女性である。教団は女性の信仰を得るために、「女人成仏《によにんじようぶつ》」をアピールする必要が出てくる。「女人成仏」を説く経典には『観無量寿経《かんむりようじゆきよう》』があり、次に紹介する『観経厭欣鈔《かんぎようおんごんしよう》』はその経典の教えをやさしく記したものである。
[#この行2字下げ]三途八難《さんずはちなん》の苦、つまり人が悪業ゆえに三つの悪道に堕ちたり、仏の姿も見ず仏法も聞くことができない八つの場所にいたりする苦しみは、すべて女の存在が引き起こすものだ。そのため志賀寺の聖は京極御息所に自分が積んできた修行の成果を譲り、南山の沙門《しやもん》は染殿后について悩ました。女人を「傾城《けいせい》」と呼ぶのはこのゆえである。
南山の沙門とは『今昔物語集』の紺青鬼説話に出る金剛山《こんごうさん》の聖のことだが、ここまで時代が下れば真済とほぼ同じ意味で使われているとみてよい。「傾城」は読んで字のごとく城を傾ける女で、さらにスケールが大きくなると「傾国」になる。国や城の主が女に溺《おぼ》れて政務をおろそかにしてしまうことをいうのだ。説教の聞き手がすべて女性に限られるわけではないが、「志賀寺の聖も南山の沙門も、恋した女性のためにすべてを捨てざるを得なかった。だから女は怖いものだ。これを聞いているあなたがた女性もよく心しておきなさい」というのがこの一文のねらいである。「浄瑠璃物語」などがそうであったように、染殿后は僧を色香でたぶらかし破滅させる女性として位置づけられているのである。
そういえば、同じ室町時代に成立した蓬左文庫《ほうさぶんこ》本の『庭訓往来抄《ていきんおうらいしよう》』に引かれる位争い説話は、室町までに徐々に形成されて来た染殿后の〈悪女〉像が、逆に位争い説話にフィードバックされた興味深い資料である。これは『庭訓往来』の注釈書で、黒田彰氏が紹介されている。相撲や競馬、修法競べは『平家物語』と大体同じだが、修法の最中に恵亮側が嘘の情報を流して真済を油断させる場面に染殿后が大きな役割を果たすのだ。
[#この行2字下げ]修法が始まったが、分が悪いと感じた惟仁は、真済のもとに染殿后を行かせ、恵亮が修法を止めてしまったと涙ながらに言わせる。真済が油断したすきに恵亮は修法に励んで惟仁側が勝ち、真済は思い死にした。真済は美人の染殿后を見て恋心を起こしたのだろうか。
原文に「謀って」という表現があるから、惟仁と染殿后親子の連携プレーだったらしい。位争い説話に本来なかった恋の要素が時代を経て逆輸入されているのがミソであるが、それだけではない。憑《つ》きモノに苦しむ被害者から男をたらす〈悪女〉へと変貌《へんぼう》した染殿后像が、真済を泣き落とす設定を生み出したことはいうまでもなかろう。因果はめぐる、というが、話題が出発点の位争い説話に戻って来たところで、被害者は染殿后から真済へ移り変わってしまった。この後、近世を経て現代に至るまで、染殿后の姿は〈悪女〉的側面を持ち続けるのである。
〈悪女〉は男性との関係において作られる。そして、その関係が社会制度とかかわったとき、また新たな関係の網目が作られていくのだ。ここでは、染殿后と真済の関係の外側に、位争い説話という一回り大きな網目を張り巡らすことで、后の〈悪女〉への道を照らし出そうとしたのである。
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V 竜蛇となった 〈悪女〉
『道成寺縁起絵巻』 から 『華厳縁起絵巻』 へ
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某年某月某日     竜となった唐の善妙、義湘の船を背に乗せて海を渡る。
[延長六年八月頃?] 熊野詣の僧、大蛇になった女に追われ道成寺の鐘の中で焼死す。
某年某月某日     三井寺の僧・賢学、大蛇となった女とともに日高川に沈む。
承安三年(一一七三) 明恵、生まれる。
承久二年(一二二〇) 明恵、唐人形の夢を見る。さっそく記録しておいた。
承久三年(一二二一) 承久の乱勃発。明恵、被災者救済に当たるかたわら、夢の記録をつけ続ける。
某年某月某日     新たに造られた道成寺の鐘の供養の当日、白拍子が推参する。
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般若と生成
八月半ばの午後を、上京《かみぎよう》の能楽堂で過ごした。恒例の虫干しの見学に学生とお邪魔したのである。その日も油のようにあつい京都の夏だった。
この能楽堂はシテ方のK家の住まいの中にあるという、京都によくある職住近接のつくりだ。いつもは蔵の奥深くしまわれている家伝来の装束や画、作り物が所狭しと広げられ、掛けまわされて迷路のようである。今日ばかりは能楽師の方々も軽装で立ち働いているが、さすがに足もとだけは白|足袋《たび》で、ストッキングで来てしまった私はたいそう気が引けた。保存のために畳紙《たとうがみ》に塗られた柿渋の独特なにおいにむせていると、面の説明が始まったらしく見学者が片隅に移動を始めた。
K家の若先生は、次々と面をかざしながら要領よく解説を進めた。華やかな女面の登場では聴衆から時折「ほう」「べっぴんさんやな」といった無遠慮な声が上がる。面は次第に女から鬼の面へと進行していく。赤、黒、白の三種の般若《はんにや》のほか、生成《なまなり》や近江女《おうみおんな》をこんなに近くで見る機会はめったにないので目を凝らしていると、若先生が、「般若は半蛇ともいって、女性の役にだけ使う面です。生成は〈なま〉、つまり蛇になる途中ということですね。男蛇という面もありますがめったに使いません」。
生成は「鉄輪《かなわ》」という曲に用いる面で、つり上がった目と短い角をもち、大きく開いた口からは牙《きば》さえのぞいている。ちょうど人間の女が般若に移行するある段階をとらえたものといえるだろう。同じ「鉄輪」でも流派によっては橋姫という面を使うことがあるが、こちらは角や牙がなく、かっと見開かれた目と眉間《みけん》の深い皺《しわ》が印象的だ。とすれば、橋姫はさしずめ生成の前の段階ということになろう。般若とて「半」蛇なのであり、さらにこの上には真蛇《じんじや》、あるいは本成《ほんなり》という面もあるという。蛇は般若にあった耳が失われ、変化した人間というよりすでに邪悪な異類そのものである。つまり、女は橋姫、生成、般若の段階を経て立派な蛇になりおおせるわけである。
結婚式で着る角隠しは般若の要素を持った女の人のためにあるといわれているんですよ、という説明に我知らずうなずく学生たちを横目で見ながら、私は、竜蛇に変じた女性たちのことを思い起こしていた……。
二人の〈悪女〉
この章で扱うのは、蛇や竜に変じたとされる女性の物語である。女性は竜蛇だけではなく鬼になる、ともいう。たいていの場合、変身のきっかけは女の嫉妬《しつと》と憎悪ということになっている。古代から説話伝承に霊的な存在として登場する竜蛇や鬼は、いつしか女性の悪業の象徴として考えられるようになったのだ。これまで見てきた〈悪女〉の姿が具体的なイメージに結晶したものが、竜蛇とか鬼などの異類であったことは、男性の認識する女の悪業を知る上で実に示唆的である。厳密にいえば竜と蛇は別の存在で、仏法守護の神となることが多い竜の方が圧倒的にプラスイメージを持っているが、近藤喜博氏が『日本の鬼』で明らかにしているように、鬼も竜蛇も水に関係した霊力のある生物として一括することが許されよう。これらの異類は不思議な力を持つとして尊ばれるものの、きわめて邪悪な一面をも有する両義的性格を与えられていた。女性に対する認識がこうした竜蛇のとらえ方と相似形をなすことは、もうお気づきだろう。
竜蛇のアナロジーは、女人成仏というもう一つの問題をはらんでいる。中世日本仏教の教義の枠内では、基本的に女性が成仏することはできないということになっていたが、その抜け道として提唱されたのが『法華経』に説かれた竜女成仏の物語を女性の成仏の手本として読み替える方法である。ほかに、阿弥陀如来《あみだによらい》の四十八願によって約束された女人成仏もあるが、今は触れない。
『法華経』の竜女成仏とは、海竜王の八歳の娘が文殊菩薩《もんじゆぼさつ》の眼前で悟りに達したことをいうのだが、女性の肉体では成仏できないので、竜女は男性のからだとなって成仏を果たしたのである。本来はすべての生物の成仏を意味するはずであった竜女の成仏が、なぜことさらに女性のための成仏に結びついていかねばならないのか。そこには、竜蛇とアナロジカルにとらえられた女性の姿の投影を考える必要があるだろう。嫉妬や憎悪に振り回される愚かな女への救済は、年少であること、女性の身であること、畜生に生まれたことという三重苦を背負った竜女の成仏というかたちで成就されるのだ。
さて、こうした竜蛇と女性との深層にわたるかかわりを見るために、二人の〈悪女〉に登場してもらうことにしよう。一人は後世「清姫」と名づけられ、「道成寺《どうじようじ》物」と呼ばれる様々な芸能で活躍する女性である。彼女が初めて資料に現れるのは平安末期の『大日本国法華験記《だいにほんこくほつけげんき》』だが、ここではまだ名前はなく、ただ「紀伊国《きいのくに》の悪しき女」と呼ばれるので、今後は私も便宜上「紀伊の女」と呼ぶことにする。彼女には別に妹分ともいうべき分身がいる。『道成寺縁起絵巻』の一バリエーションである『日高川草紙絵《ひだかがわそうしえ》』の主人公がそれだが、やはり彼女にも確たる名前はないので「日高川の女」としておこう。そしてもう一人は『華厳縁起絵巻《けごんえんぎえまき》』に描かれた善妙《ぜんみよう》という中国の女性である。時代や国は異なるが、彼女たちに共通するのは、男性との関係がなんらかの原因となって竜蛇に化した点なのである。
てんとお寺の道成寺 釣鐘下ろして身を隠し
安珍清姫蛇に化けて 七重に巻かれて ひとまわり
という紀州の手まり唄《うた》に残るように、古くから「安珍・清姫」と呼び習わされて民間に親しまれた道成寺の物語については、私にもいささかの思い出がある。ずいぶん昔の子供の頃の記憶だが、母親が道成寺の絵説きを聞いて来たものを私に語ったことがあるのだ。母は「黒こげになった安珍さん」の画像に強烈なインパクトを受けたらしく、女が大蛇になることの恐怖を、まるで自分が絵説きの僧でもあるかのような口吻《こうふん》で語ったものである。この物語はことさら絵説きを聞くまでもなく、母が幼少時より聞かされて育ったものらしい。
私がそのとき子供心に不審に思ったのは、なぜ女性だけが邪悪な蛇にならなければならないのか、ということだった。私が感じたのと同様の不条理を母もうすうす感じていたらしく、「女は蛇の性というから……」といった同じ口で、「でも、ほんまは嘘をついた安珍さんが悪い」と付け加えたように思う。この母の反応は、蛇に変じた女性の物語が女の悪業の戒めを説く因縁説話として用いられることの裏と表を表しているように思え、興味深い。道成寺の物語が女性の悪業の教誡《きようかい》という側面を持っていることに異論はないが、それはきわめて人為的に仕組まれたもので、物語の本質ではないのだ。本質、などという語をここで用いるのは誤解が大きいかも知れない。極言すれば、物語の本質などどこにもないのである。私たちに見えるのは、多様な位相をもつ物語のある面がなんらかの要因によって肥大化された姿でしかない。道成寺の物語も、「本質的に」女性の悪業を描いたものではなく、そのような機構の下で読み替えられていったのだと私は考えている。
今までの研究で指摘されているように、道成寺の物語をはじめとする「女が竜蛇となる話」は、古代の想像力に支えられた水の霊力と、懐かしくも恐ろしい祖霊神《トーテム》である竜蛇神の幻が下地となっている。しかし、物語をいたずらにそうした古代に帰し、竜蛇神に重ね合わされる「豊かな女性の霊力」などを論じてみても、物語を読んだことにはならないと思う。ここで取り上げたいのは、「女が竜蛇となる話」が、個々のテクストにおいてどのような読み替えをされているか、という問題である。私は、竜蛇への変身のイメージが普遍的な何かを持っているとは考えないし、仏教説話集に入った説話、縁起絵巻、謡曲などの個々の作品にはそれぞれの「意味」があると思っている。それが読み替えの機構ということである。
ではさっそく、「女が竜蛇となる話」のそれぞれの変身を見ていくことにしよう。
女が竜蛇となるとき
『道成寺縁起絵巻』に描かれた「紀伊の女」の変身は、このようにして始まった。
[#この行2字下げ]奥州から熊野詣《くまのもうで》にやって来た老若二人の僧が、中辺路《なかへじ》ぞいの真砂《まなご》の荘司《しようじ》の家に宿った。家の主人は荘司の「娵《よめ》」で、二人を歓待する。その夜、女は若い僧に恋心を打ち明けるが僧はなびかず、結局、熊野からの帰りに仰せに従いましょうと約束する。だが、僧はその日女のもとを素通りして下向の途についた。女はたちまち後を追い、道成寺の前を流れる日高川を泳ぎ渡るうち大蛇に変身する。道成寺に助けを求めた僧は釣鐘の中にかくまわれるが、大蛇は鐘を取り巻いて僧を焼き尽くしてしまった。
この話のもとは平安末期の『法華験記《ほつけげんき》』下巻百二十九話、『今昔物語集』巻十四ノ三話とされており、十四世紀の『元亨釈書《げんこうしやくしよ》』にも同様の説話が見える。ただし出典とはいっても説話集では女の変身の様子が異なることが知られている。『法華験記』では「隔てる舎」に籠《こも》ってから、『今昔』では死んだ後に蛇となったとされるのだ。だが、『縁起絵巻』には説話集で描かれなかった変身の場面が詳細に描写され、『縁起絵巻』の眼目が変身を見せる点にあったことをうかがわせるのである。いずれのテクストも、この後僧と女がともに「蛇道」に堕ち、道成寺の老僧が法華経供養によってその苦を救うという結末を付け加えているが、これが法華経の威力を知らしめるための役割を果たしていることはいうまでもない。ただ、変身過程をリアルに描く『縁起絵巻』の場合は特に、結末との対比で供養の有難さが浮かび上がる構図となっている。
なぜ『道成寺縁起絵巻』が絵、詞書《ことばがき》ともに変身を重点的に描くのかという問題は他の機会に論じたことがあるが、現在の道成寺が参詣者《さんけいしや》に絵説き説法を行っているように、『絵巻』は室町時代に寺の宣伝目的で製作されたものと考えられる。そうした絵画をメディアとする説法の場では、充分な視覚的インパクトが必要不可欠であったろう。よくよく眺めてみるとわかるのだが、『縁起絵巻』の変身の場面は絵と詞書に齟齬《そご》があるのである。詞書では、日高川のほとりに来た女が、渡し船に乗って遠ざかる僧を追いかけようとして渡し守に拒まれ、「その時、衣を脱ぎ捨て、大毒蛇となりてこの河をば渡りけり」と語られる。つまり、川のほとり、あるいは水に入ってから変身が遂げられる。しかし、絵では僧を追跡する道々ですでに女のからだが蛇に変わり始めているのだ。髪を振り乱し履物も脱ぎ捨てた女の顔が、次の場面では火を吐きながら全体的に突出し、首が伸びて鱗《うろこ》が生える様が次々と活写されていく。これは、見る者の脳裏に変身の逐一を刻み込んで恐怖感を呼び起こすため、意図的に仕組まれた齟齬であろう。「紀伊の女」の変身は僧への執着と怒りによるものと解釈されており、しかもそれは法華経供養による救済が予定調和として待ち受けているものなのである。
では、先に触れた『日高川草紙絵』の場合はどうだろうか。『道成寺縁起絵巻』と姉妹関係にある酒井家蔵本『日高川草紙絵』は、冊子と絵巻の両方の形態を取るいくつかの伝本をもち、室町時代物語とかお伽草子《とぎぞうし》と呼ばれる物語の範疇《はんちゆう》に含まれるものである。今、変身の場面のみを取り上げてみよう。まず、物語のあらすじを『縁起絵巻』と比較していただきたいが、残念なことに巻首を欠いているので、その部分は根津美術館蔵の『賢学草子《けんがくぞうし》』という題名の別本で補い、[ ]に入れて示すことにする。
[#この行2字下げ][出雲路の「結ぶの明神」で通夜をした三井寺《みいでら》の賢学は、自分が遠江《とおとうみ》国橋本の宿《しゆく》の長者の娘と契りを結ぶ宿命にあるという神々の話を聞いてしまい、僧侶《そうりよ》としての行を全うするために娘が幼いうちに殺してしまおうと思い立つ。]首尾よく娘に傷を負わせた賢学は十数年の後、命をとりとめた娘とふとしたことから契ってしまう。賢学は真相を知り女を捨てて紀州へ立つが、女は後を追い、日高川に入って大蛇に変ずる。賢学は道成寺の鐘に隠れるが、蛇は鐘をみじんに砕き、彼を巻き取って川に沈んでいく。
『日高川草紙絵』には出典らしきものが見られず、『縁起絵巻』成立後ほどなくか、ほぼ並行して作られた物語と考えられている。これが『縁起絵巻』の妹分であるというのは、『縁起絵巻』と同じ根から発生した物語ながら紀州という土地とは直接的な関係がなく、男女の恋の顛末《てんまつ》に重点が置かれているからである。おそらく、『縁起絵巻』が特定の寺院の縁起となった過程で、縁起の主題から取りこぼされた要素が『日高川草紙絵』に結集されたのだろう。それはさておき、両者に共通する変身を比較してみたい。「日高川の女」の変身過程がよく表されているのは『賢学草子』の方なので、こちらを引いておこう。
[#この行2字下げ]さるほどに、この女房水に慣れたることはなけれども、思ひの念力にや、川の面て一町ばかり泳ぎしが、たちまち姿変はり、大蛇となりて船を追ひかけけり。
『縁起絵巻』と異なって絵と本文との間には齟齬がなく、絵には水を泳ぎ渡りながら女の顔形が変ずる様が描かれている。『絵巻』が変身を女の邪悪な愛欲の象徴としてとらえているのに対し、『日高川草紙絵』では、女自身の口からその原因が語られる。
[#この行2字下げ]いとけなきいにしへ、何のひが事もなきに害し給ひし恨みはいかに、捨て給ひ候はば、そのまま捨て給ひ候へかし、害し給ふ心こそ、逃れぬ契りとはおぼさずや、
「日高川の女」は一方的な僧への愛欲がこうじて蛇になったのではない。命を奪われかけ、そのうえに契りを結んだ後、罪の恐ろしさとやらに目覚めた僧に捨てられたのだから、自分には何の罪科もないといっている女の言葉は正しいのである。いわば恨みと怒りのぎりぎりの地点で女の変身が行われたわけである。
次に、竜蛇に変身したもう一人の女性を見ておくことにしよう。国宝に指定された十三世紀の名品『華厳縁起絵巻《けごんえんぎえまき》』(『華厳|祖師絵伝《そしえでん》』ともいう)の善妙《ぜんみよう》である。錯簡《さつかん》が多く原形がよく分かっていないこの絵巻は「元暁絵《がんぎようえ》」「義湘絵《ぎしようえ》」の二部分からなり、絵巻製作には高山寺《こうざんじ》の明恵《みようえ》が深く関与しているといわれるが、明恵と絵巻の内容の関係については後に詳しく述べることにする。この絵巻が有名なのは、『道成寺縁起』や『日高川草紙絵』に先行して「女が竜蛇になる話」を描いた絵画資料であるからという点が大きい。
[#この行2字下げ]新羅《しらぎ》僧の元暁と義湘は仏教を学ぶために唐を目ざすが、様々なアクシデントを経て元暁は残り、義湘のみ旅を続けることになる。唐に入港した義湘は善妙という名の女性に出会い、恋心を打ち明けられるが、逆に彼女に法を説き、善妙は邪心を翻して義湘を師と仰ぐことを誓う。義湘が学を終えて故国に帰る日、心尽くしの品々を用意して待つ善妙だったが、義湘は何も告げずに出港してしまう。港まで来た善妙は投身して竜となり、義湘の船を背負って本国に送り届けたのである。
『華厳縁起絵巻』が依拠した資料は、はじめ高野辰之氏により朝鮮の『三国遺事《さんごくいじ》』と考えられていたが、『宋高僧伝《そうこうそうでん》』の方が近いことが八百谷孝保氏によって確かめられた。だが、あらすじだけを見ると『道成寺縁起絵巻』によく似ているように思えるだろう。明恵が紀州の出身だから『縁起絵巻』のもとになった伝承を聞き知っていた、という推測がなされているものの、両者の関係は依然として不明である。先後関係が問題となるのは、両者に「女が竜蛇となる話」が絵のかたちで描かれるせいなのだ。ただし、大蛇でありながら竜のように手足の描き込まれた『日高川草紙絵』の変身場面は善妙のそれを思わせるものであり、千野香織氏のいうように、少なくとも『日高川草紙絵』が絵画化される段階で『華厳縁起絵巻』の図像が参考とされたことは疑いないところである。
しかし、善妙の変身には『道成寺縁起絵巻』や『日高川草紙絵』とは一線を画した意味付けが行われることが多いのである。善妙が化したのは大蛇ではなく竜であり、同じ異類でも両者には明らかに善悪の区別がなされている。蛇が人間の悪心や仏法|障碍《しようげ》の象徴であるならば、竜は護法善神《ごほうぜんしん》として仏法を守護する役割が与えられているのだ。また、『華厳縁起絵巻』には経論問答を模した長い詞書が付随しており、そこには、道成寺の物語と対比させて善妙の行為を正当化する文言が見られるのである。
[#この行2字下げ]かの男女、執着の道に熾盛《しじやう》の貪瞋《どんじん》に引かれて、大蛇となりて男を追ふためし聞こゆ。これは似ぬ体の事なり。彼は煩悩の力に引かれて実に蛇となる。執着の咎《とが》もつとも深し。これは大願により、仏・菩薩《ぼさつ》の加被を受けて仮に大竜となる。深く師の徳を敬重し、仏法を信ずるによりてなり。
「かの男女」、すなわち「紀伊の女」と僧は煩悩の力によって大蛇となったので執着の罪があるが、善妙は義湘を守るという大願を契機として竜に変ずる、という変身であるからどうして罪があろうか、という論理である。ここだけ読むと、
[#この行2字下げ]しかし、もう一度この義湘絵を通観してみると、もっと義湘と善妙の、というよりは義湘に対する善妙のうぶな恋心が強烈に目だち、愛情をもっと普遍的な仏法への愛に昇華させ、しかもそれが巨大な宗教的な力になり代わることによって、それをなさしめた義湘の宗教の大きさを述べようとしたものであることがわかる。
という、金沢弘氏の言に代表されるような読みが引き出されて当然である。だが、善妙=善/「紀伊の女」=悪といった図式はあくまで『華厳縁起絵巻』内部における論理にすぎず、普遍性を持つものとはいえない。むしろ「女が竜蛇になる」ことの内実は、「紀伊の女」も「日高川の女」も善妙もまったく変わりないのである。次に引く千野氏の見解は、実に的確にその点を言い当てている。
[#この行2字下げ]また、この善妙投身の図に籠《こ》められた意図を考えてみると、善妙はここで「我、来世を待たず」と決意して、義湘のために現世の命を捨てたということがわかる。即ち、宗教的に昇華された形をとっているとは言え、愛する男が船に乗って自分から遠ざかってゆく、それを見て止むに止まれず水中に身を投げる、という女の心情の切実さにおいて、善妙は「日高川草紙絵」の女と少しも変わらない。その後で、男を守護することになるか、それとも男をとり殺すことになるか、女にとっては、それは単なる結果に過ぎなかったであろう。
また、善妙の「大願」による変身は女人成仏を説こうとしたものだ、という文脈で読まれることがある。絵巻のプロデューサーと目される明恵は、承久《じようきゆう》の乱で身寄りを失った貴族の女性たちを収容するために平岡善妙寺という尼寺を作ったが、その名が示すように、この寺の守護神として善妙の神像が安置されている。善妙神は『華厳縁起絵巻』のエピソードから発想された可能性が高いだろうし、梅津次郎氏も、明恵の善妙神|奉祀《ほうし》の動機を尼たちの華厳擁護の機運を盛り上げたい意図ゆえだと推測している。つまり、善妙の発心はそのまま女人の俗塵《ぞくじん》からの解脱を意味し、彼女は尼たちの模範となるべき女性として理想化されたというわけである。
しかし、素直に考えてみると、仏法守護の願を起こした善妙は仏道に目覚めた女性のモデルになるかもしれないが、その発願の前提に義湘への恋慕の情があったことをどう合理的に解消するのかが問題となるだろう。詞書《ことばがき》では腐心の跡が見受けられるが、善妙の変身の裏には、単純な護法善神への変身ととらえるには複雑なものが暗い影を落としているのである。前に述べたように、女人成仏は主に竜女の成仏と同義として読み替えられるが、竜王の娘という畜類の女が男性の体になって成仏する、という筋書きから抽出される成仏の図式は、竜蛇の女が人間の身となって成仏する[#「竜蛇の女が人間の身となって成仏する」に傍点]というものであり、善妙のように人間の女性が竜蛇と化する[#「人間の女性が竜蛇と化する」に傍点]方向とは正反対である。いくら大きな願を立てた女性であったといわれても、善妙の変身に教理問答の詞書ではフォローできない逸脱した部分が含まれていることは認めざるを得ないのだ。
こうして見ると、竜蛇になった女性たちの変身が一つの大きな基盤に立っていることを、もはや語らずにはいられない。すなわち、女に特有の悪の象徴として定位されている竜蛇の存在と、女と竜蛇の相互間にある可変的な関係である。私は、女が竜蛇に変ずることと、竜女が仏になることとは、実は表裏の関係としてとらえられるのではないかと思うのである。これらについて順を追って述べていこう。
蛇と性
善妙の変身の背後に潜む暗い影とは何か。それは、蛇にまつわる彼女の正体と大いに関係がある。善妙は蛇と通じ、自身もまた蛇身を備えた女性なのだ、という解釈が明恵によってなされているのである。『華厳縁起絵巻』と明恵とのつながりを示唆する貴重な資料として、梅津次郎氏は明恵の『夢の記』の一記事を挙げている。この『夢の記』は、精神分析の手法を用いて読解するという河合隼雄氏の試みでよく知られるようになった資料だ。『夢の記』は明恵自筆のものが高山寺に残っており、建久《けんきゆう》七年(一一九六)の二十四歳のころから、晩年近い寛喜《かんぎ》二年(一二三〇)までの夢を知ることができる。梅津氏が紹介したのは、承久《じようきゆう》二年(一二二〇)五月二十日の唐女人形の夢である。
[#この行2字下げ]十蔵房が唐渡りの香炉を持っている。中は仕切りがされて、亀が交合している物など、二十種余りの唐物が入っている。その中に、五寸くらいの焼物の唐女人形があった。ある人が「この人形は日本に渡ったことを大変嘆いている」という。明恵が人形にそのことを確かめると、人形はうなずいた。明恵は「いとほしくすべし。嘆くべからず」というが、人形は頭を振って「それは無用だ」と涙を流す。自分はこの国では聖人として崇《あが》められているのだからいとおしくしてやるのだ、という再度の言葉に女は喜んだ様子を見せ、たちまち生身の女となった。翌日、明恵は仏事の席に彼女を伴うが、十蔵房が「その女は蛇と通じたのだ」という。明恵が、蛇と交わったのではなく女自身が蛇身なのだ、と内心思っていると、十蔵房は続けて「この人は蛇身を兼ねているのだ」といった。夢が覚めてから考えるに、この女は善妙である。善妙は「竜人」だから蛇身だし、焼物というのは彼女が石に化したことを指すのだ。
香炉の中の生身の人形のイメージには、陶器の人形を覗き込むと中で男女の恋の顛末《てんまつ》が繰り広げられている、という鈴木清順監督の「陽炎座《かげろうざ》」の一シーンを私に思い起こさせる。この長い夢は明恵が善妙の変身|譚《たん》を知っていたことを示すものであるが、善妙を蛇と縁の深い女性とする明恵の理解が『華厳縁起絵巻』にまったく投影していないと考えるのはあまりに不自然である。義湘への「愛」を昇華して守護神になったという善妙の姿は、あくまでも華厳祖師としての義湘伝の論理からはみ出すことがないが、明恵の夢は、彼女が蛇身でありかつ蛇と性的関係を持つ、という仏法|障碍《しようげ》者の面影をひそかに温存していることを物語っているのだ。これは、蛇身に化した反仏法的な「紀伊の女」や「日高川の女」となんら変わるわけではない。善妙と蛇との関係は具体的には語られないが、覚醒《かくせい》後の明恵が唐女人形の女を善妙だと解釈するに至ったのは、彼自身善妙の変身の背後に「竜蛇となる女」のイメージをかぎとっていたからである。言い換えれば、本来蛇身である唐女=善妙が竜に変じたのは、本性を現したにすぎないということになる。そういえば、夢に出てくる「両の亀交合せる形」というエロティックな陶物は、蛇と通じた女の正体を暗示する伏線となっているし、明恵の「いとほしくすべし」という言に従って人形が生身となるさまも、善妙と義湘との関係を彷彿《ほうふつ》とさせる。
仏法の価値体系において、竜と蛇が善悪の対立でとらえられることは先に述べた。だから、明恵が蛇身の唐女を「竜人」と解そうとしても、そこには論理的な無理が生まれてしまう。蛇身の女からよこしまな愛欲の虜《とりこ》となった姿を完全に拭《ぬぐ》い去ることは難しいからだ。ここで、女性が蛇と通じる、あるいは自ら蛇身を兼ねるということの意味を探り、善妙に秘められた女性像を浮き上がらせてみることにしたい。
まず、蛇と人間との交わりについて見てみる。古代以来、神話や説話のなかで蛇類は往々にして性の暗喩《あんゆ》となることがあるが、その理由ははっきりと分らない。蛇の交尾は濃厚だというが、そればかりが原因ではないだろう。蛇と交わる女性の例は古く、『古事記』『日本書紀』の神話には、神が蛇身となって選ばれた巫女《みこ》的な女性に通じるというものがあり、「三輪型神婚説話《みわがたしんこんせつわ》」と総称されている。これは「蛇婿入り」と呼ばれる昔話として伝承されてもいる。代表的な説話を『古事記』からあげてみよう。
[#この行2字下げ]イクタマヨリヒメという美女が妊娠し、父母が相手を問いただすと、夜ごと立派な男が通って来るが、どこの誰とも知れないと答えた。父母は「針に糸を通したものを、男の着物の裾《すそ》に刺しなさい」と教え、ヒメはそれに従う。翌朝見れば、糸は戸の鍵穴《かぎあな》を抜けて三輪山の社に続いていた。それで、この男は三輪の神が娘を見初めて通っていたのだと知れたのである。
これは神と選ばれた女性との婚姻である。この蛇は神の神秘さを表した姿とされ、決して邪悪なものとは考えられていない。しかし、蛇に魅入られることは必ずしもこのような神秘的な体験であるとは限らなかった。いちがいにはいえないが、神話の時代を過ぎるに従って、蛇は神から妖魔《ようま》へと転落する傾向を見せはじめる。たとえば、『今昔物語集』には蛇と人間との性的交渉を題材とする説話が収められているが、そのいずれもが人間の悪行として意味づけられている。そのうち、巻二十四ノ九話は『日本霊異記』中巻四十一を出典とする説話である。
[#この行2字下げ]河内の国のある少女が、桑の木に登って葉を摘んでいると、大きな蛇が木にまとわりついているのに気づく。女は恐れて木から降りたが、蛇は女を巻いて「婚《とつ》ぐ」。医者が、藁《わら》を焼いた灰と猪の毛を調合した薬を女陰に入れると、たちまち蛇の子が大量に出てきて、少女は助かる。しかしそれから三年後、再び同じ災難にみまわれた少女はついに死んでしまった。人々は「前世の因縁だ」と噂しあったという。
「婚《とつ》ぐ」というのは、蛇が性器に入り込むことを指すらしい。つまり、蛇は男性の象徴となっているのだが、このほかにも『沙石集《しやせきしゆう》』巻七、『看聞御記《かんもんぎよき》』(応永二十三年七月二十六日)などに類例が見えているように、こういう事件はしばしば起こると考えられたようだ。ちなみに蛇が女性性器を好むという話は南方熊楠《みなかたくまぐす》の注目するところであり、「蛇を引き出す法」(『南方熊楠選集4』)によると、『摩訶僧祇律《まかそうぎりつ》』という仏典に「比丘尼《びくに》は蛇が入り込むのを防ぐため足を陰門に当てて座らなければならない」とある。この『今昔』説話の蛇には「三輪型神婚説話」のような神の面影を見出すことができず、少女の前世からの因果がこのような事態を招いたと説明されるに至っては、蛇に魅入られた女性たちの方が異常なものとして忌避されていたということになる。したがって、明恵の夢に出てきた唐女の原形は、蛇に魅入られた女の説話に溯《さかのぼ》ることができるのである。
ほかに、「悪行」という副題が付けられた『今昔』巻二十九には、二つの類話が含まれる。第三十九話は、用足し中の女性の陰部を見た蛇が「愛欲をおこして」女を金縛りにするという話であり、巻二十四と状況が似ている。第四十話はそれと反対で、男性が蛇の被害に遭う話である。この場合の蛇はどのように把握すればよいのだろうか。
[#この行2字下げ]妻子を持つ若い僧が、主の僧の伴《とも》で三井寺に行き、人目につかぬ場所で昼寝をしてしまった。若い美女と交わる夢から覚めた僧がふと傍らを見ると、五尺ほどの蛇が開いた口から精液を吐いて死んでいた。蛇が陰部を呑《の》み込んだのを美女との性交と思っていたのである。
第三十九話が神と巫女との聖婚が落魄《らくはく》を前提とする説話であるのに比べ、こちらは僧の悪行そのものとしての色合いが強い。妻子を持つというから、高僧の下仕えに従事する半俗の僧だったらしい。僧は夢覚めてのち、蛇と通じた僧だなどと陰口されることを恐れたというが、夢の中の美女と蛇とは、僧の内にある性的欲望を具象化したものとしてよい。だから、ここでは蛇との性的交渉そのものが忌避の対象であったというよりも、僧の秘められた淫欲《いんよく》がこうもあからさまにされたことへの批判が恐れられたといえよう。この夢の美女は、第一章でも少し触れた『日本霊異記』中巻十三の、吉祥天が僧の情欲をなだめるために夢に現れた姿と似てはいるが、こちらでは神仏の慈悲とは対極にある堕落への誘惑を意味している。事件の場所となった三井寺は、俵藤太《たわらとうた》が竜女から貰《もら》った釣鐘が伝えられるように、竜神信仰と関わりがある寺院であり、蛇が化した女性に竜女の面影を感じ取ってみるのもおもしろいかも知れない。
この説話と共通性の感じられる話が『古今著聞集《ここんちよもんじゆう》』巻二十ノ七二〇話に見える。
[#この行2字下げ]ある僧が愛人と伏していると、ふと「本|妻《〈ママ〉》をする心地」がした。見れば僧の陰部の頭に五、六尺くらいの蛇が食いついて離れない。刀で口を裂いてもまだ蛇は離れず、遂に死んだ。
この蛇は、嫉妬《しつと》のあまり僧の本妻が化したものだったのだ。口を裂かれながらもなお離れようとはしないところなど、妻のどろどろした内面が一気に白日の下に噴出した感がある。男が僧である点や、性行為と蛇の即物的な関係が『今昔』の説話と通じ合っている。この蛇は本妻の生き霊であろうが、先の『今昔』説話と併せ読めば、男の邪淫《じやいん》と女の悪しき本性が表裏一体の関係として蛇のかたちで表されていることが明らかであろう。人間と蛇との交渉を考える際、蛇の性別をことさらに問う必要はない。蛇は男女の両方にとって、それぞれの悪しき本性を意味しているのだ。女性の場合は男性のように自らの性的欲望が蛇の形象をとることはないようだが、それは、女性の性欲の存在が認められていなかったからだと思われる。
ただ、この例外として『今昔』巻三ノ十一の、玄奘《げんじよう》三蔵の書いた『大唐西域記《だいとうせいいきき》』巻三に原拠を持つ興味深い説話をあげておこう。インドのシャカ族の青年が竜王の娘と結婚するが、ふだんは美しい人間の女の姿をした妻の頭から、交歓のときだけ九つの蛇の頭が出てきて舌なめずりをするというものである。その異様さに耐え切れなくなった男は遂に蛇の頭を切り落としてしまい、以後その一族は頭痛に悩むようになったという。九尾の蛇を竜女の性的快楽のしるしととらえるのは容易だが、それより問題なのは、女性の快楽がやはり蛇という具体的なかたちで表されていることと、それがあさましく異様だという男性の認識である。この話は、異類婚姻譚として知られる「海幸山幸《うみさちやまさち》」や「鶴女房」などの話と相似形をなしているが、ここに根強い女性嫌悪《ウーマン・ヘイテイング》を読み取るのは私だけだろうか。たとえば「鶴女房」などは本性を見顕わされて去っていく女の姿が美しく描かれるが、それは女性嫌悪《ウーマン・ヘイテイング》をセンティメンタルな衣で包んだにすぎないように思える。
このように、蛇と通じたといわれる唐女=善妙の原像は、蛇形の神に選ばれて神婚した聖なる女性像というよりも、性愛の葛藤《かつとう》から生まれる悪業を身に帯びた女性の姿により近いということになろう。明恵はそれを知りつつも、きわめて形式的な論理操作を行って、唐女=善妙を理想の守護神にまつり上げてしまったというわけである。
腹の中の蛇
次に、女性が蛇身を兼ねるというイメージがどのようにして定着したのかを考えてみたい。はっきりとしたことはいえないが、平安中期の『蜻蛉《かげろう》日記』に出てくる、腹の中に蛇がいて肝を食らうという不可思議な作者の夢がひとつの手がかりとなるのではないだろうか。
[#この行2字下げ]七、八日ばかりありて、我が腹のうちなる蛇《くちなは》ありきて肝を食《は》む、これを治《ぢ》せむやうは、面に水なむ沃《い》るべきと見る。これも、あしよしも知らねど、かく記しておくやうは、かかる身の果てを見聞かむ人、夢をも仏をも、用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり。 (天禄二年四月)
藤原|兼家《かねいえ》の妻の一人である『蜻蛉日記』の作者には、夫への恨みつらみを書き綴《つづ》ったヒステリックな女性などというイメージがいまだにまつわりついているが、『蜻蛉日記』の本文をよく読めば、ある程度の構成を備えた一女性の思索の行程であることがよくわかる。この夢は通俗的な夢判断のえじきとなりやすいが、この場合の蛇がフロイトのいう男性の象徴などではないことは明らかだ。作者の肝をはむ蛇とは、彼女自身の内部に培われている邪悪の根源であり、水を顔にかけるとは、頭に水を注ぐという仏教の入門儀礼の灌頂《かんじよう》を暗示していると読みたい。明恵とは反対に、作者は夢をまったく解釈しないまま放り出しているように見えるが、それは自分の邪悪な本性である蛇の存在を肯定も否定もしようとしない彼女の姿勢を物語っていると考えられる。
今までたびたび引用して来た十四世紀の『渓嵐拾葉集《けいらんしゆうようしゆう》』では、蛇は一切の愚かな衆生のさまを表すものととらえている。面白いことに、『蜻蛉日記』の夢とよく似たイメージがここに現れている。
[#この行2字下げ]人間の肺臓は金色の水で満たされており、その中に三寸の蛇がいる。……一切衆生のつくろわない姿は蛇体で表されるのである。
ここでは蛇を身中に養う者に男女の性別は問われていない。本来は蛇が女性特有の業と結びつく必然性はなかったが、平安の終わりから鎌倉にかけて進展したと見られる女性への不浄観や罪業観が要因となり、蛇が女性の悪しき本性とみなされるようになっていったといえよう。室町時代になると、物語草子にまでそういった観念が定着している様子が見てとれる。たとえば、男性どうしの恋愛を描いた十四世紀の物語『上野君消息《こうずけのきみしようそく》』には、
[#この行2字下げ]女人の身を見ては、皆内には、諸々の不浄をつつめり、また大毒蛇をはらめり、また近づけば、生念を失ひ、愛すれば、無漏の聖財を奪ふると思へ、
など、女性がいかに汚れ多く、悪しき存在であるかを説いた箇所が見える。「大毒蛇をはらむ」と表現するのが特殊なたとえでないことは、今までの記述から納得されるだろう。また、成立年代は少し後になるが、『姫百合』という室町時代の物語には、女の体内にいる蛇に分類が施されるという細かい芸が見られる。文中、「虫」といっているのは、蛇を長虫というからである。
[#この行2字下げ]また、女の頭には、「さんちゅうしょく」とて、三のくちなは(蛇)あり。物思ふときは青く、腹を立つれば虫の色赤く、笑ふときには白くなる。女はよろず愚痴《ぐち》にして、精進さらになし。腹を立てまじき事にも腹を立て、自ずから瞋恚《しんに》の炎に身を焦がしぬれば、にはかに色の変ずるところなり、
セクシュアル・ハラスメントの議論でよく見受けられる男性側の反応に、「女性はささいなことにすぐ感情的になる」というのがあるけれど、この引用を読むと、こうした発言が室町時代に溯《さかのぼ》る由緒あるもの[#「由緒あるもの」に傍点]であることがわかるだろう。数多い悪業のなかで女性の特権とされたのは「瞋恚《しんに》」、すなわち怒りである。もちろん、この怒りは嫉妬の情と一対になっている。『姫百合』の引用部分が物語の中で女性に対する戒めを説く文脈に含まれることからわかるように、こうした考え方が仏教の影響下に生まれ、一般に定着したことは自明である。
蛇にたとえられる女性の悪業が、たいていの場合性に関連するものであることは、今までに上げた例から充分うかがい知れるが、その理由をあえて乱暴に述べてしまえば、女性が男性を堕落させるもの、特に男性が僧であった場合には仏法の障碍《しようげ》者として拡大解釈されるからであることは間違いない。たとえば泉鏡花の『高野聖』などのように、女性に魅力があればあるほど男性の受ける誘惑は大きく、したがって堕落の危険も増すとされたのである。だから、善妙も、僧の夢に出てきた蛇の化身もすべて美女として描かれているのだ。だが、こうした美女にはおどろおどろしい蛇身という裏の顔がいつもつきまとっている。だから愛欲が原因で堕ちるところが「蛇道」あるいは「邪道」といわれるのであろう。
ところで、室町末期に至ると、蛇になった女性が地獄に描かれる絵画資料が出現する。熊野比丘尼《くまのびくに》により絵解きされたという『熊野観心十界曼荼羅《くまのかんじんじゆつかいまんだら》』には、人間の経験する六道《りくどう》の苦が展開されている。もっとも詳細に描き分けられているのは地獄道で、なかでも興味深いのが、女性だけが堕ちるといわれる「血の池地獄」と、三角関係に苦しむ者が堕ちる「両婦地獄」(「二女狂《ふためぐるい》地獄」)であり、ここには頭部に角を生やした人間の女性、体が蛇という図像が見られる。両婦地獄は一人の男性に二人の蛇身の女性が巻きつくという図柄で、一見すると男性の堕ちる地獄のようだが、三角関係の罪を女に転嫁していると見られるので、勝浦令子氏は女性の地獄と考えている。いずれも中世末期になってから一般化した地獄で、地獄極楽の諸相を述べた平安中期の『往生要集《おうじようようしゆう》』には見当たらないものだ。この図は、平安・鎌倉・室町と時代を経るにつれ、女性の悪業と蛇が強固につなぎ合わされていった事象の行き着く果てを物語っているようである。
話があちこちへ飛んだが、以上のことをまとめてみるとこうなるだろう。蛇を身に養う女性は、普段の生活をしている限りにおいて何ら問題はない。だが、いったん嫉妬《しつと》を起こすが最後、腹の底に眠っていた邪悪な蛇がゆっくりと鎌首をもたげ始めるのだ。つまり、先に引いた『古今著聞集』の僧の妻などは、嫉妬によって蛇に化したというより、もとから体内にいた蛇が表面に浮かび出て人間の部分を凌駕《りようが》してしまった、と解する方が妥当なのである。したがって、「紀伊の女」や「日高川の女」、そして善妙も、竜蛇に変身したのではなく、本来の悪しき面を露呈したということになる。崇高な愛をうたわれる善妙の変身も、彼女が腹中に蛇をもつ女性であったことが原因で起こったものなのである。
さて、以前『華厳縁起絵巻』に関する諸説を紹介したなかに、善妙の変身を竜女成仏と関連づけて解釈しようとする説があったことを記憶されているだろうか。竜女成仏は竜王の娘という竜蛇が仏になった話を指すのだが、女性が身中に蛇を養う者であるという点を考慮すれば、竜女成仏が悪業を身に帯びた女の成仏として読み替えられることも納得されるだろう。竜蛇と女は互換的な生き物なのである。仏法障碍の魔性である女性は、竜女のように男性に変じることで魔性を拭《ぬぐ》い去ることができたわけだが、これも竜蛇と女性という互換的な二者間における変身の一変奏と考えられよう。次の節では、簡単に竜女成仏について触れながら、「紀伊の女」や善妙を、竜女成仏という枠から逸脱してしまった女性たちとして位置づける試みを行ってみたい。
竜女成仏の行方
『法華経』第五巻「提婆達多品《だいばだつたぼん》第十二」には、悪人として名高い提婆達多の成仏が描かれるが、後半部分は竜女の成仏の物語で占められている。この巻は『法華経』成立当初から経典に含まれていたわけではなく、天台大師|智《ちぎ》のころ新たに加わったといわれている。竜女成仏は、従来しばしば女性差別という観点から問題にされることがあった。というのも、竜女の成仏した方法が多分に女性差別的であり、女性に対する仏教の姿勢が問われても無理はないからである。ここでこの問題について論議をする余地はないが、『法華経』の思想そのものが女性差別を含むというより、これに様々な読み替えを施して特殊な意味づけを行った『法華経』以後の仏教受容のあり方が問題にされるべきだと私は考える。ともかく、まずは『法華経』の竜女成仏がどのように行われたかを示すことにしよう。
[#この行2字下げ]文殊菩薩《もんじゆぼさつ》が霊鷲山《りようじゆせん》に詣《もう》で、海底に招かれて教化《きようげ》を行い竜王の八歳の娘が速やかに成仏した様子を報告したところ、舎利弗《しやりほつ》が「女人は五障のある存在なのに速やかに成仏できるはずがない」と異論を唱える。すると、竜女その人が眼前に現れ、釈尊に宝珠を献上していった。「この宝珠を釈尊が受け取るよりも速く、私は成仏して見せます」。その時すべての人々は、竜女が男性の肉体になって南方|無垢《むく》世界に赴き、衆生のために妙法を説くのを見た。
いったん成仏したはずの竜女が現れて成仏の場面を再現するのはおかしいように見えるが、経典はしばしばこういった叙述をするのである。この竜女の成仏は、男性の肉体になってはじめて成仏ができる、つまり、女性の肉体のままだと成仏は不可能だという論理に基づいており、この点が差別の論議の焦点となっているのだ。ただし、『法華経』の竜女成仏が女人成仏の手本と見なされるようになるのは後世のことで、本来の経典の意図としては一切の衆生の成仏を竜女に託したといわれている。この竜女の性の転換は「変成男子《へんじようなんし》」と呼ばれ、漢訳仏典では該当部分が曖昧《あいまい》な表現になっているが、坂本幸男・岩本裕氏がサンスクリット語から直接日本語に訳したもの(岩波文庫版)には、「女性の性器が消えて男子の性器が生じ」というふうに具体的な描写がなされる。
では、女性は常に性転換しなければ成仏できないかというと、そうでもない。女性の体のまま成仏した竜女が『海竜王経《かいりゆうおうきよう》』という経典に出てくるのである。この経典は奈良時代に日本へ渡来したにもかかわらず、現代ではさほど顧みられていない。奈良の海竜王寺には天平時代の古い写経が伝えられているし(ただし、もとから海竜王寺にあった経ではなく、他寺から移されたものらしい)、石山寺に平安初期の写本が残されているので、かなり流布した経典であることが推測される。だが実際には竜女成仏の部分よりも、『続日本後紀《しよくにほんこうき》』承和《じようわ》五年(八三八)四月の勅に見えるように、当時盛んであった遣唐使船の海路の安全を守るという効験が期待されていたようである。海竜王とはまさに『法華経』の竜女の父親である「サーガラ竜王」の漢訳名であり、海底に住む竜王は海上交通の守り神でもあったのだ。
この『海竜王経』巻三の「女宝錦受決品《によほうきんじゆけつぼん》第十四」には、「女の身では菩提《ぼだい》を得て成仏することはできない」という迦葉尊者《かしようそんじや》の言葉に対して、竜王の娘である宝錦女がそのままの体で成仏して見せる、という物語が展開されている。だが、ここでは女性の成仏というより、人間よりも劣った存在とされる畜生身の成仏に重点が置かれている。そのためか宝錦女の成仏は『法華経』の竜女より知名度が低いけれど、鎌倉時代の安居院流《あぐいりゆう》の唱導書である『言泉集《ごんせんしゆう》』に経典名が見られるように、けっして忘れ去られた存在というわけではなかったようだ。また、『宗要《しゆうよう》柏原|案立《かしわばらあんりゆう》』という中世の仏教教理の問答(論義という)を記した書物では、「『法華経』以前に悪畜と女人の成仏はないか」という問いに対して「『海竜王経』には竜女が仏になった例がある」という答えが返されているので、『海竜王経』の竜女成仏が女性と畜生の成仏の先例として意識されていたことがうかがえる。ちなみに今『華厳縁起絵巻』の善妙を思い起こせば、義湘の海路を守護した点では『法華経』の竜女よりむしろ『海竜王経』の竜女の方に類似点が見られるといえよう。しかし、だからといって、善妙が女人成仏の手本であるという説を肯定するつもりは私にはない。
さて、竜女成仏の物語は日本の王朝文化にも溶け込み、多様な文芸の題材とされるに至る。これについては今まで多くの論があるので余り踏み込まないが、多少私の異論を述べておくと、平安貴族の和歌や願文の中に竜女成仏を扱ったものが見えるからといって、当時の女性が女人成仏の思想を信奉していたとは限らないのである。たとえば、竜女成仏思想の浸透というと必ずといってよいほど引き合いに出される『梁塵秘抄《りようじんひしよう》』の竜女成仏を詠んだ今様《いまよう》について、遊女がそれを詠ったことが、すなわち女性の信仰の表れであると考えるのは単純にすぎるというものだ。貴族女性の和歌でも事情は同じで、選子《せんし》内親王や赤染衛門が竜女成仏の歌を詠んでいるのと同じくらい、男性歌人も同じ題材で和歌をものしているはずである。つまり、文芸世界における竜女成仏はパターン化された題材の一つにすぎず、これを女性の真摯《しんし》な信仰のあかしなどという過剰な読みをすると判断を誤るのではないか。
ここで確認しておきたいのは、竜女成仏の思想を女性が内面化していたかという問題ではなく、竜女成仏を取り込んだと見られる文芸が「竜女」をどのように描いているかという点である。この像はすなわち、「紀伊の女」や善妙のイメージの基底をなしたと考えられるからである。結論を先に述べれば、特に、教えを乞《こ》いに来た竜女を僧が教化する、という構成の話には、「竜女=竜蛇となる女性」への抜きがたい嫌悪が込められているのではないかと思うのである。一例をあげよう。
[#この行2字下げ]鎌倉の建長寺で説法をする大覚禅師《だいかくぜんじ》(蘭渓道隆《らんけいどうりゆう》)のもとに江ノ島の弁才天から魚が献上された。それを知った鎌倉幕府の将軍・源頼家は、弁才天を座敷へ招く。やって来たのは目にもあざやかな美女で、禅師の説法を喜んで聴聞した。弁才天が帰るときになって、あまりの美しさに名残りを惜しんだ頼家が「今一度|本地《ほんじ》の姿を拝みたい」というと、たちまち生臭い風が簾《すだれ》をなびかせ、屋敷が振動したかと思うと、頭に角を頂き、赤い舌をひらめかせた大蛇が座敷にのたりと這《は》い出した。あわてふためく頼家をよそに、弁才天は五衰三熱《ごすいさんねつ》の苦しみから逃れられるよう禅師に頼み、帰って行く。
これは『頼朝の最期』という室町時代の物語の一節である。鎌倉が文覚《もんがく》の勧請《かんじよう》した江ノ島の弁才天に守護されていることは有名だが、弁才天は蛇身と信じられていた。実はこの話には下敷きとなる挿話がある。北条時政が江ノ島に参籠《さんろう》した際、江ノ島明神から三枚の鱗《うろこ》を授かり、子孫の繁栄を約束するお告げを受けたという『太平記』巻五の記事がそれで、これを意識して読まないと鎌倉幕府と弁才天との強固な結びつきは理解しにくい。江ノ島明神、あるいは江ノ島弁才天が蛇身であるというのは、『海道記《かいどうき》』や『渓嵐拾葉集』巻三十七の記事にもあるように一般に浸透した知識だった。『太平記』には、鎌倉幕府の守護神となった蛇神が描かれるが、この神はややもすれば激しい怒りを発することがあり、『渓嵐拾葉集』などではその障碍神としての一面がかいま見られる。この二面性は、蛇を身中にもつ女性の姿に共通するものである。
『頼朝の最期』では、弁才天は求めに応じて「本地」、つまり本当の姿を見せただけで、美女と大蛇の違いに慌てた頼家の方が悪いのである。しかし、特にあらわな竜女への嫌悪の文言は見られないものの、大蛇の描写はあさましく、将軍の心を動かすほどの女の正体があかされる場面では蛇と美女とのギャップが意識的に描かれているようなのだ。どんな美女さえ一皮むけば、本性は角の生えた大蛇かも知れない。こういった認識は、女性への差別が明確なかたちとなって現れる以前の段階においてすでに芽生えていたのである。
また、注意したいのは、弁才天が禅師に五衰三熱の苦からの救済を求めている点である。中世において神は仏の垂迹身《すいじやくしん》であって、数多くの苦を免れることができない存在とされていた。特に竜蛇は三熱の苦という熱さの苦しみを宿命的に有しているという。弁才天は、苦からの救済を鎌倉幕府を守護する交換条件としてあげていたが、僧に抜苦を願うその姿は、成仏を求める「竜女」であると読むことができるのではないか。竜女成仏の物語が多様なかたちで受容された背後には、こうした日本土着の竜蛇神たちが竜女の傘下に入って習合した経緯があるのだ。だが、江ノ島弁才天のように大覚禅師といった良き導師を得た神は仕合せであったが、愛欲がらみのアクシデントが原因で成仏に失敗した「竜女」もいた。これが「紀伊の女」をはじめとする竜蛇に化した〈悪女〉と重なり合うイメージだったのである。
逸脱する「竜女」たち
前節で少し触れたように、『渓嵐拾葉集』には江ノ島の蛇神が説法聴聞に来るという説話が語られている。『頼朝の最期』とよく似た筋立てだが、障碍《しようげ》する神の側面がよくうかがえるのでここで紹介しておこう。
[#この行2字下げ]道智法師が江ノ島へ籠《こも》って法華経を読誦《どくじゆ》していると、日本の女の姿をした竜女が毎日|食膳《しよくぜん》を運び、聴聞しに来る。道智は竜女の行方を知りたく思い、藤の蔓《つる》を着物の裾《すそ》につけて後をたどったところ、「新田四郎の人穴」に着いた。竜女はこれを大いに怒り、これからは江ノ島に決して藤を生やさぬぞ、という。
道智法師という人物についてはよくわかっていないので、いつごろの話として語られているのか不明だが、この話は、法の道に入りたいと願って法華経の持経者を守護する竜女が登場する点、本性を見られて激しく怒る点がポイントになっている。また、藤の蔓を裾につけて居場所をつきとめる方法などは、男女の役割が反対だが「三輪山神婚説話」と類似する趣向である。『頼朝の最期』でもそうだが、竜女は三熱の苦を受ける宿命にある竜蛇神であるとともに、往生の叶《かな》わぬ女性でもあるがゆえに、法の教えにつこうと願うのである。しかし、『渓嵐拾葉集』では本性を見られるというタブーの犯しがきっかけとなって、竜女の悪しき一面が露呈してしまうのだ。つまり、竜女のもつ正負の二面は、禁忌の侵犯が引き金となってくるりと反転するということになる。
こうした正負転換の構図は、以前に女性嫌悪《ウーマン・ヘイテイング》に関連して言及した「異類婚姻譚《いるいこんいんたん》」にも通じるところが認められる。異類との婚姻は常にタブーの侵犯によって終わるのであった。たとえば、「海幸山幸」として知られる『記紀』のトヨタマヒメの説話などがその典型である。
[#この行2字下げ]ヒコホホデミという神が兄に借りた釣針を海で失い、海底まで捜しに行くと、そこで竜王の娘であるトヨタマヒメに出会い結ばれる。地上で結婚生活を営むうち、妻が懐妊するが、彼女は「お産しているところを決して覗いてはいけません」というのである。当然のことながら、夫は産屋を覗く。そこには八尋《やひろ》の「鰐《わに》」がのたうちまわりながら子を産んでいた。ことを悟った妻は、子を残して海へ帰っていく。
木下順二の「夕鶴」でおなじみになった「鶴女房」もこれとまったく同じパターンといってよい。実に不思議であるが、「異類婚姻譚」における異類は大概の場合妻の方で、「三輪型神婚説話」を除くと、異類の夫がやって来る例は数えるほどしかない。その一つである『化物草子《ばけものそうし》』などは、似合いの男性がいないことを嘆く女性に、何とかかし[#「かかし」に傍点]が通って来るという話だ。憶測をたくましくすれば、女性が常に家制度の外部から異なる「血」を運んで来るものとされた名残りかも知れない。
それにしても、この話は男性のロマンティシズムをくすぐる何かがあるらしく、古くは折口信夫がこれに想を得て「妣《はは》の国」の概念を生み出し、近くは谷川健一氏が連作短歌集の『海の夫人』を編んだ。むろん優れた仕事であるが、いずれも「去られた男、捨てられた子供」の視点から去っていった女を美化する傾向がある点をあえて指摘しておく。谷川氏の歌では、本性を見られたトヨタマヒメが父の竜王にむりやり連れ去られるという解釈のもとに別離の悲しみが歌い上げられるが、『記紀』神話では禁忌を破った夫への怒りから自主的に「実家に帰った」と読むべきであろう。その点からいえば、『記紀』神話は本性を見られた竜女の原形として位置づけることができるのである。こうした古い神話が日本の竜女像に与えた影響は、頭の隅に留めておいてよい。
さて、もういちど説法聴聞する竜女たちに戻って、「紀伊の女」や善妙との類似点を見てみよう。『頼朝の最期』における竜女は、本性を見せても動じることのなかった大覚禅師の力により、晴れて成仏の本懐を遂げたと推測されるし、また竜女も禅師を守護する善神になったと考えてよかろう。禁忌の侵犯が行われない限り、竜女と法の導師とは安定した関係を維持できるのであり、『華厳縁起絵巻』のプロデューサーである明恵が、義湘と善妙との間にこのような理想的関係を実現しようとしたことは想像に難くない。また、「紀伊の女」や「日高川の女」は熊野詣《くまのもうで》の僧に結縁しようとしたわけではないが、前者は「下向の際には必ず思いに応《こた》える」という約束の破棄、後者は縁結びの神が取り決めた夫婦の因縁に逆らうという僧の違反が女を蛇に変えたきっかけを作っているという点で、禁忌の侵犯が主要なモチーフである竜女の変身と類似している。意地悪いことをいえば、蛇道に堕ちることを覚悟のうえで初めから女の意向に従うという解決策もなくはないのだが、僧がことさら女の瞋恚《しんに》を呼び起こす行動をとってしまう設定は、彼の裏切りが竜女の禁忌の犯しに対応して描かれていることを物語っている。
説法聴聞の竜女と僧の関係には様々なバリエーションが見られるが、ここに愛欲のモチーフをはめ込むとどうなるかという見本が『地蔵堂草紙《じぞうどうそうし》』という室町時代の物語にある。これは女の方ではなく、僧が懸想するのである。異類女房の面影を漂わせながらも、この話の竜女は男性にとってすこぶる恐ろしい面を見せているが、この竜女には、文献の成立年代は前後するものの、「紀伊の女」や善妙らと通底するものを感じ取らずにはおれないのである。
[#この行2字下げ]越後《えちご》の地蔵堂に如法経《によほうきよう》を千日間写経する修行を始めた聖《ひじり》がいた。ある日、一人の美女が聴聞に来、聖はたちまち女に愛念を覚えてかき口説く。女は「如法経の書写が終わったら思いを叶えましょう」といい、行が果てた後、女は聖を竜宮に伴う。楽しい日々が過ぎていったが、ある日隣りに寝ている妻の衣の裾が蛇の尻尾《しつぽ》のように見え、「自分は竜宮に来たのだ」と悟った聖は、途端にすべてが疎ましくなり、地上に帰る方法を思案するようになる。
一見して「海幸山幸」の変型であることがわかるが、浦島太郎の例にあるように、竜宮の婿になると地上の人間界とは違った時間系に迷い込んでしまうのである。しかも、美女と思っていた妻の正体は竜蛇身らしい……。思い悩む聖に対して、妻の放つ言葉は冷たかった。
[#この行2字下げ]妻は「あなたが如法経写経の尊い聖だと思ったから教えを受けようとしましたのに、私に欲望をお持ちになってからは修行も無駄になりましたね」といって聖が写経した巻き物を取り出して見せたところ、経文がすべて「とくし果てて、この女房と寝ばや」という文に変わっているではないか。すごすごと地上へ帰った聖の体は、大蛇に変じていた。懺悔《ざんげ》してようやく人間に戻るが、無情にもすっかり時がたってしまっていた。
この物語はまるで「裏版浦島太郎」である。と同時に、竜女成仏の裏版でもあるのだ。もし聖が愛欲をもたなかったら聴聞に来た竜女は成仏が可能だったかも知れないわけだから、これは成仏しそこねた竜女の物語として読むことができるのである。もっとも、地蔵堂の聖は大覚禅師のような高徳の僧ではなく得体の知れない修行者のように描かれているから、竜女も選んだ相手が悪かったわけである。土佐光信《とさみつのぶ》描くというこの絵巻は「小絵《こえ》」と呼ばれる小型なもので、室町時代の貴族に愛玩《あいがん》されたといわれる。物語の典拠は不明であり、それまでに伝承されて来た多様な竜女や竜宮の物語を寄せ集めて作られた趣きが強い。したがって、竜女への裏切り行為が結果的に蛇道への堕落につながるという筋立ては、この物語が 「紀伊の女」や善妙の物語と直接関係があるというわけではないが、読みのうえでヒントになると思われる。つまり、「紀伊の女」や善妙の物語を、「悪女が男を取り殺す話」という今までのパターンから脱却し、竜女と導師の関係という視点から読み直すことができるのではないか、ということだ。
この場合、竜女の導師には女を救済するか、あるいはともに蛇道に堕ちるかの二つの道しか選べないことになる。「紀伊の女」と「日高川の女」は蛇道に堕ちた場合であり、善妙は表面上は「救済」されると見えるものの、必ずしも救済は成功していない。堕蛇道が愛欲によって引き起こされるものである以上、男女のどちらかが相手に愛欲をかけた場合には救済がもたらされず、竜女はいつまでも本性である竜蛇の世界に留まらざるを得ないのである。これが物語における竜女|教化《きようげ》の一つの限界ではなかっただろうか。
ではさっそく、義湘の忠実な女弟子と見なされることが多く、それゆえに論議の余地が残されている『華厳縁起絵巻』に的をしぼって、「竜女と導師の物語」という目から読み返してみることにしよう。
善妙と義湘
『華厳縁起絵巻』に関する諸説では、竜に変じる点は共通するものの善妙は「紀伊の女」のように執着の咎《とが》から変身したのではない、という意見が大勢を占めていた。この解釈は『華厳縁起絵巻』の詞書《ことばがき》から引き出されたもので、実際詞書には善悪の二項対立によって善妙を護法善神にしたてようとする工夫が凝らされており、それが絵巻製作に関与した明恵の思想を反映するものであることもよく知られている。もちろん明恵は「元暁絵《がんぎようえ》」の製作にも関わっていただろうから、「元暁絵」と「義湘絵《ぎしようえ》」とは有機的な連関性のもとにとらえるべきで、「義湘絵」だけを取り上げて云々するのは本来のあり方ではないのだが、当面は明恵と「義湘絵」に焦点を絞り、絵巻の絵と詞書を確認していくことから始めたい。
高山寺《こうざんじ》に伝来する『華厳縁起絵巻』は国宝にも指定された名品であり、しばしば展観に供されているので見た人も多いだろう。だが、この絵巻はかなりの錯簡《さつかん》、つまり欠損などによる紙継ぎの誤りがあって、今日、目にする絵巻が本来のかたちであるというわけではない。かつて八百谷孝保氏が、最近では佐野みどり氏が錯簡を正した絵巻復元案を出し、原形がかなり推測されるようになったが、それでもまだ不明な部分は多く残されている。絵巻が「元暁絵」三巻、「義湘絵」三巻の二つの部分から成り立っていることはすでに述べた通りだが、不思議なことに両巻には重複して描かれた場面(元暁と義湘がほら穴に宿って鬼の夢を見る場面など)があったりして、両巻のつながりは今ひとつ明確にしがたい。厳密には完全に錯簡を正してからでないと絵巻を論じることはできないのだが、とりあえず今は適宜先行研究を参照することにして内容に進もう。
善妙と義湘の出会いは「義湘絵」の巻三に描かれるが、それに対応する詞書は巻一と二に分かれている。続き具合から判断すると、巻二の第二段は、善妙が義湘に恋心を打ち明け、かえって教化される場面で、その次に、善妙の変身とその行為の意味を解き明かす問答形式の詞書が記される巻一第一段が置かれるようである。この部分は『宋高僧伝』巻四の「新羅国義湘伝」に依拠するというのが定説化しているが、もし実物の『宋高僧伝』を明恵が所持していたとしても、それを和語に直して引き写した、というような単純な作業ではなかったと想像される。参考までに、両者が合致する部分を箇条書きにまとめてみた。Cは現存する絵巻に該当する絵がないが、明恵の夢に出てきた唐女人形が「石身である」というのは、このことを指しているのである。
[#ここから2字下げ]
@唐にたどり着いた義湘、善妙と出会う。(『絵巻』巻二)
A義湘、善妙の恋心を道心に導く。(同)
B出港した義湘を追った善妙が竜と化し、本国へ送る。(同、巻三)
Cその後も「善妙竜」は常に義湘に従い、時には巨石となって義湘を邪魔する者を蹴散《けち》らした。(同、巻一)
[#ここで字下げ終わり]
さて、絵巻を特徴づけているのは巻一冒頭の長い問答体の詞書で、善妙の変身をめぐって交わされる教理問答というべきものである。これが「竜女」の面影を善妙から払拭《ふつしよく》するための工夫であって、「紀伊の女」と善妙を対立させることによって善妙の変身を正当化しているのである。その部分の問答を具体的に見てみよう。仏教語が頻出する理解しにくい箇所なので、以下に引く問答はすべて私が簡約し、あるいは言葉を補って掲げたものである。
[#ここから2字下げ]
問/いくら師匠の徳を愛したからといっても、大竜となって男を追う例はよくあるでしょう。これは執着のなせるわざとして罪になるのではないですか。
答/あの「紀伊の女」の場合ならそうでしょう。恋の妄執から大蛇になって男を追った例ですからね。でも、善妙は違います。「紀伊の女」は煩悩の力に引かれてまことの蛇になったのですから、執着の咎は大変深いのです。けれど善妙は義湘を守るという大願を成就するため、仏《ぶつ》・菩薩《ぼさつ》の加護を得てかりに大竜となったのであり、師を尊敬し仏法を信じるがゆえのことなので、まったく罪はありません。観音だって三十三身に変化されるというでしょう。大願を起こした人は何にだってなれるのです。
[#ここで字下げ終わり]
原文では善妙を「権《ごん》」、「紀伊の女」を「実《じつ》」と称する。「権/実」とは「かり/まこと」の意味で、善妙は目的のために方便として竜になっただけなのだ、という論法なのである。具体的に言い換えれば、「紀伊の女」は身中の悪しき蛇が表面に顕《あらわ》れたため蛇となったが、善妙は蛇身の女ではないけれど義湘のため竜の姿になるべくしてなった、ということである。竜神信仰の広がりを考慮すれば、ほかでもない竜への変身は善妙の篤い信心の証拠とすることも可能なのだ。こういった教理的部分は明恵が直接手を下したものと思《おぼ》しい。
しかし、善妙の徳を讃《たた》えるためとはいえ、「紀伊の女」のしわざを引き合いに出さなければならなかった明恵の頭の片隅には、夢に見た竜女=唐女人形の面影が強固に巣くっていたと想像されるのである。『華厳縁起絵巻』は高山寺に宝物として秘蔵され、寺僧であってもなかなか見ることを許されなかったというが、もし詞書を読んだ人があれば、善妙の物語より人口に膾炙《かいしや》していたと思われる「紀伊の女」を通してしか善妙の行為を理解することができない、という逆説に陥っただろう。
善妙寺を作って女人救済を行った明恵を「フェミニスト」などと安易に評する人もいるが、明恵は善妙を手放しで賛美しているわけではない。徳を讃えられる対象はあくまで義湘の方なのである。もう少し問答を見よう。
[#ここから2字下げ]
問/凡夫の行いならば、善妙が生きながら竜に化したような不思議をどうして現ずることができましょうか。
答/まだ善妙が「権」「実」のいずれか証拠は見えていないが、いつの世にも不思議なことはあるもの、ましてや仏法の起こす不思議は因縁和合によってどんなことも起こらないことがありません。善妙は義湘が相手だから不思議が起こせたので、どのような愛をかけても他の人なら難しいのです。だから、この不思議は善妙が起こしたものですが、実際は彼女にそれをさせた義湘の徳というべきです。
[#ここで字下げ終わり]
この答えの主旨は、もし善妙が義湘に恋心を抱かなかったら義湘による教化もなく、したがって善妙が大願を発して竜となることもない、ということだ。因縁を溯《さかのぼ》ると、すべては義湘にたどり着く。この後に「師は徳あれども弟子信なければあたはず。弟子信あれどもその師徳なければ成せず」という言葉が続き、善妙と義湘が相互に徳あってのことだと読むこともできるが、別の箇所ではこうも語られる。
[#この行2字下げ]善根ある人は仏法において大事を成就するものです。だから、欲塵《よくじん》に染まって女人の身を離れることができなかったにもかかわらず、善妙は前世に優れた導師に出会って正しい教えを聞いたことが因縁となり、義湘に会ったとき信心を起こすことができたのです。
善妙は、前世で生法を聞いた功徳があったにもかかわらず、次の世で女人に生まれてしまったというのだ。何に転生するかは前世での行いが決め手になると考えられているが、善妙は「欲塵」が災いして女身を逃れることができないのである。だから、女人の欲に染まっているために、初めて義湘に出会ったとき、導師として敬愛の礼を尽くす代わりに男女の恋愛感情を持ってしまうというミスを犯したのだった。詞書の論理は、善妙が義湘を愛欲の対象として見詰めたことを、あくまで導師と弟子という構図にはめ込んで論理的に解消しようとする方法をとっている。しかし、善妙が義湘を恋したことは動かしがたい。『絵巻』でも、黙って去った義湘を追いかけて海辺にたどり着いた善妙が天を仰ぎ足摺《あしず》りして嘆き悲しむさまが描かれており、明恵腐心の詞書に齟齬《そご》を来たす結果となっているのである。『平家物語』で鬼界島《きかいがしま》に流された俊寛僧都《しゆんかんそうず》が「足摺り」する場面があるように、足摺りして泣く姿は恨みと悲しみとがねじりあわされた感情を表している。千野香織氏のいうように、善妙の姿からは、恋した男の裏切りに泣く女を読み取るべきであろう。
竜女と導師の物語は、『華厳縁起絵巻』でも成功に終わったとはいえないようだ。これを明恵の限界と決めつけるのは余りに酷だが、言葉を弄《ろう》して論理の辻褄《つじつま》合わせをしてもなお、逸脱する竜女の毒気が善妙には漂っている。さて次に、竜女を成仏させそこねた導師の方に視点を変えてみたい。明恵の唐女人形の夢にも見られたように、義湘に投影された明恵の姿は無視できないものと思われるので、義湘の姿ににじみ出している明恵と女性との関係を中心に探ることにする。
美男の苦悩
明恵は承安《じようあん》三年(一一七三)の生まれである。世は後白河院政期、『平家物語』に描かれた時代だ。幼少より才覚優れた彼は神護寺に入り、十代半ばで出家を遂げる。明恵を栂尾《とがのお》上人と呼ぶのは、後に栂尾高山寺に移って華厳宗を盛り立てたからである。『明恵上人行状《みようえしようにんぎようじよう》』や『明恵上人伝記』などの関係資料がよく残っているので、明恵の伝記はかなり明らかにされている。ここでは彼の生涯を述べることが目的ではないから割愛するが、興味のある方は田中久夫氏の『明恵』を参照することをお勧めする。
さて、『華厳縁起絵巻』に登場する僧に明恵その人をモデルにした部分があるということは、絵巻製作に関して優れた論考をものしている梅津次郎氏の見解である。氏は唐女人形の夢において、明恵が人形と自分の間に善妙と義湘の関係を投影していることを指摘しているが、もう一人の登場人物である元暁と明恵の類似点にも言及する。たとえば「元暁絵」巻一で、浜辺に座り込んで月を眺める元暁を描く場面がある。松原に網を干し、入り江に小舟がもやうさまは外国の風景とは思えないほど大和絵《やまとえ》ふうであり、『宋高僧伝』の対応箇所にはこれほど細かな描写は見られないので、絵巻独自の創作である。明恵は私家集を残した歌人でもあるが、梅津氏は明恵には月を詠じた歌が多く見られることに注目し、この場面は明恵の人となりをよく知っていた絵師が元暁を明恵になぞらえて付け加えた「遊び」ではないか、と推測するのである。明恵には成忍《じようにん》の筆になるという肖像画が残されているが、「元暁絵」冒頭に置かれたほら穴に宿る元暁と義湘の図のうち、元暁の風貌《ふうぼう》が肖像画によく似ていることを氏は傍証としてあげている。これは興味深い考察であると思う。
梅津氏の言を容れて、もし元暁と義湘という二人の登場人物に明恵の姿が反映しているとすれば、両者の有機的な関係が問われていた「元暁絵」と「義湘絵」が明恵というラインで結ばれることになる。河合隼雄氏も、二人の女性との関係を対比したうえで、元暁と義湘が明恵の分身であるという見方をとっている。これらを前提に置くと、善妙の導師の性格を探るためには、義湘だけでなく元暁も、さらにその背後に漂う明恵の影をも含めて考えることが必要ということになろう。
ここでは義湘と明恵のつながりを重点的に考えてみたい。二人には美形であるという大きな共通点が見出されるからである。絵巻では義湘を「また、美容の人なり」と評し、『宋高僧伝』でも「湘、容色|挺抜《ていばつ》(ぬきんでていること)にして」とあるから、美貌《びぼう》は本来義湘に備わった属性であったらしい。一方明恵はというと、明恵の没後ほどなく弟子によって書かれた『明恵上人行状』には、明恵四歳のおり、父親が烏帽子《えぼし》を着せて「形美容なり。男になして大臣殿(平重盛)へ参らせん」と言ったというエピソードが見える。幼いながらも整った顔立ちだったので、成長後は大臣家に仕えさせようとしたのである。しかし、たった二歳の頃清水寺で読経を聴聞して喜んだほどの信心を起こしていた彼は父の言葉にいたく不満で、美しいから法師になれないのなら美しくなくなればよいと思い、故意に縁から落ちてみたり、焼け火箸《ひばし》を顔に当てようとしたりして抵抗した。この試みは失敗に終わったが、後年明恵はついに片耳をそいでしまうのである。もとより法師になるのは一般人としての形を毀《こぼ》つことを意味するが、美男にとってことは一層深刻に思えたのだろう。美男は人、特に女性の目を魅きやすい欠点[#「欠点」に傍点]があるからである。
唐に入った義湘を善妙が目ざとく見つけたのは美貌のせいである、と『絵巻』には記されている。『道成寺縁起絵巻』で「紀伊の女」が言い寄った僧が「見目よき僧」であったことをここで思い出してもよいだろう。「紀伊の女」の容色を表す文言はないが、善妙の方は「貌《かたち》美しき聞こえ高」い女人で、相手が僧でなければ伝統的「才子佳人」小説ができるところである。もし義湘が美貌でなければこの話は起こりえないし、『絵巻』の詞書《ことばがき》の論理によれば、美男であったために善妙の大願を興させるきっかけを作りえたということになる。ただ、男女を問わず美貌は常に誘惑の危険と隣り合わせであり、明恵の場合、少なくとも彼の夢から知る限りでは、美貌が原因と見られる女性からのアプローチに悩まされたらしい。伝記には描かれないが、『夢の記』に明恵と女性とのかなり親密な関わりが散見されることは河合隼雄氏が指摘している通りである。たとえば、年代不明の二月二十六日の夢は、次のようなものだ。
[#この行2字下げ]その夜の夢に、十八、九なる女房あり。術なくむつまじげにて来たる。予、いはく、「弁が右にそふて寄り懸り給へ」と。あはれかなしく思ひて、はたらかずと思ひ、痛はしく思□(欠字)云々。
「弁」というのは「高弁」、つまり明恵のことである。また、承久二年七月の夢も類似のものである。
[#この行2字下げ]夜、夢に、五、六人の女房来たり、親近して予を尊重す。かくのごとき夢想多々也[#「かくのごとき夢想多々也」に傍点]。後日記せるが故に分名ならずと云々。
明恵自身、女性の夢は多々あったと記している点が注目される。いずれも女性から思慕や敬愛を捧げられている夢だが、承久の乱の被災者である女性たちを善妙寺に引き取った実績があったり、女性あての消息が残っていたりすることから、現実の生活においても明恵が貴族の女性や尼などと親交をもっていたことは間違いない。当時の僧侶《そうりよ》には女犯《によぼん》の戒律を守らない者が多かったが、明恵は戒律の復興を唱えただけあって自らを厳しく律しており、「一生不犯」を標榜《ひようぼう》した通り、彼女らと深い関係に至ることはなかったようだ。その点では、明恵は導師としての役割を全うしていたといえる。しかし、承久三年十一月六日の夢には少し趣きが異なる明恵像が出現している。
[#この行2字下げ]一屋の中に端厳なる美女あり。衣服等奇妙なり。しかるに、世間の欲相にあらず。予、この貴女と一処にあり。無情にこの貴女を捨つ。この女、予を親しみて遠離せざらむことを欲す。予これを捨てて去る。さらに世間の欲相にあらざるなり。
引用の続きには、女は毘廬舎那仏《びるしやなぶつ》の妃《きさき》であるという明恵の解釈が付される。河合氏はこれを、仏教における女性の力を評価する反面、現実の戒律は遵守《じゆんしゆ》しなければならないという明恵の激しい葛藤《かつとう》を象徴する夢と考えている。現実に明恵がこのような状況に立ち至ったかどうかは問題ではないが、親近する女性を捨てざるを得ない僧の面影は、明らかに義湘に通底するものだ。捨てた女に対して、毘廬舎那仏の妃であるという解釈を施すやり方などは、善妙への文言とあまりによく似ている。明恵の思想が当時の僧としてはかなり革新的であるという評価もできようが、女性のもつ力に注目しながらもそれを自らの論理構造にはめこんでしまう方法しかなかった点は、彼の一つの限界ではなかったか。これは個人的な感想にすぎないが、女に堕ちてさえ神通力を発揮した久米仙人に比べれば、美貌を憎んだり女を捨てる夢を見たりする明恵には脆弱《ぜいじやく》な感じを受けてしまう。
ところで、美貌の僧はもっと古くにいたのである。釈迦《しやか》の弟子の一人で、「多聞第一」といわれた阿難《あなん》にも美貌の伝えがあるのだ。阿難はしぶる釈迦に女性の出家を勧めた人物として知られ、その功績のため、日本では尼の間で阿難信仰がさかんであった。『三国伝記』や、『法華経』の講義を記録した室町時代の『法華経直談鈔《ほけきようじきだんしよう》』巻九、『法華経鷲林拾葉鈔《ほけきようじゆりんしゆうようしよう》』巻十三に、美男・阿難の物語が経典をやさしく説くための因縁説話として挿入されているので、日本中世においては阿難の美形が知らされていた様子がわかる。この話は僧の「横被《おうひ》」という衣料の由来を述べたもので、『直談鈔』と『鷲林拾葉鈔』では少し内容が異なる説話が載せられるが、いずれも阿難の美貌が女性の愛欲の心を興させたという趣旨である。
『鷲林拾葉鈔』の方は、「面貌《めんぼう》端正にして諸の大声聞に勝」る阿難が、とある集落を通りかかると、子供を背負って井戸から水を汲《く》んでいた女がその美貌に見惚《みほ》れているうちに誤って子が井戸に落ちたというもの。釈迦の弟子は上半身は袈裟《けさ》を懸けただけの姿なので、右の肩から脇にかけて「白雪の膚」がのぞき、これが女心を惑わす、だから阿難の事件があってからは「横被」をかぶって美醜を見えなくしたという説明がつく。インドの美男に「白雪の膚」などという形容をする日本の唱導僧のレトリックが珍妙だが、自身の美貌が原因で事故が起こったというのに、阿難は何ら断罪されることがない。また、『直談鈔』では、『華厳縁起絵巻』とよく似た状況の説話が引用されている。
[#この行2字下げ]阿難がある家に頭陀《ずだ》に行くと、その家に老いた母と住む摩藤女《まとうによ》が阿難を見初めて夫にしようとする。阿難は「俗人と僧侶では釣り合いがとれないから、夫婦になりたいならあなたも尼になりなさい」といって女を出家させる。二人して釈迦の前に行くと、男への愛念から出家した女を釈迦は戒め、女は心を入れ替えた。
ここでは、阿難の美貌は女性の真実の出家を遂げさせる方便として用いられている。この話は「ある経」にあると書かれているものの、本当に経典に由来するものかはわからないが、『直談鈔』以前から唱導僧が因縁説話として語っていたものであることは確かである。このように、美貌の僧が自分の属性を生かして女性を教化する話はかなり流布していたと思われるし、『華厳縁起絵巻』の善妙と義湘の物語を見た人々に、こうした話がイメージされたことも考えられる。実際、明恵の建てた善妙寺には宋から阿難の画像が渡来し、今でも阿難の塔と呼ばれる石の塔が残っているので、阿難は尼の導師として仰がれていたらしい。だから、阿難信仰が善妙寺にあったとするならば、善妙と義湘の関係は阿難と女人の関係に当てはめられる可能性があるのである。
美貌は果たして僧の罪となるのだろうか――。美男の僧について『枕草子』に次のような記述があることは有名である(三巻本第三十段)。
[#この行2字下げ]説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことの尊さもおぼゆれ。ひが目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らんとおぼゆ。
説経の講師が美しい僧ならじっと顔を見詰めて話を聞くことになるので、有難い法話も漏らさず聞けて功徳があるが、醜男《ぶおとこ》ならついよそ見したりしてしまい一向に功徳にならない、というきつい意見だが、大半の女性は覚えがあるだろう(当然男性にも同様の覚えがあるだろうが)。ほかにも『梁塵秘抄』巻二の三〇四番に類似の発想による今様《いまよう》がある。
[#この行2字下げ]峰の花折る小大徳《こだいとく》、面立よければ裳袈裟《もげさ》よし、まして高座に上りては、法《のり》の声こそ尊けれ
清少納言は、女性の目を法の道へ向けさせる方便として僧の美貌を考えているし、『梁塵秘抄』の歌も、高座で教えを説くときの内容は誰でもさほど違いはないけれど、容貌《ようぼう》の優れた僧なら着ている装束も美しく、声そのものが尊く聞こえるという意味だ。単純にいってしまえば、僧の美貌は方便となるので仏法には相反しないということである。ことに容貌の美しさは前世に善根を施した因縁によると説く説話もあるので、この世で「美」であることはその人の前世の「善」のしるしにもなるのである。明恵の苦悩は理解できなくはないが、理屈をいえば、三千世界の女性が押し寄せるような美男であっても、彼が女性との距離を保ちさえすれば罪が問われるような問題は起こらず、むしろ、前世における善根が美貌というかたちで現れた立派な導師として尊敬されることになる。
しかし、異性を迷わすという点では同じでも、美女の場合はそういうわけにはいかないのだ。美女はどんなときにも美貌の罪という十字架を背負わされているのである。美男・義湘のパートナーである善妙ももちろん例外ではないことを、最後に述べたい。
善妙の素姓
本書のプロローグで述べたように、おそらく近代になってから、「悪女」という語には「男性を虜《とりこ》にする魅力的な女」という意味が加わるようになった。それまでに用いられてきた「容貌の醜い女」とは正反対である。第二章に取り上げた染殿后《そめどののきさき》などの場合は、美貌ゆえ男性の欲望を駆り立てるという〈悪女〉であったが、確かに〈悪女〉が「悪」であると認識される要素には女性の性的魅力が必要不可欠となっている。ここであえて「性的魅力」といったのは、必ずしも「美」である必要がないからなのだ。矛盾するように聞こえるかも知れないが、「悪」と同様に「美」は絶対的評価ではありえず、美男、美女ともに「これこそ美女(男)である」というようなモデルが存在しないことは周知の事実だろう。たとえば、数々の美人伝説に彩られた小野小町は歌仙絵に描かれるとき必ず後ろ向きのポーズをとり、顔を見せない。また、原節子とか吉永小百合といった芸能界の「美女」は時代が作り出した幻影で、その時代の好みが「何を美とみなすか」という基準を決めるだけである。
極論すると、基準を勝手に作れば何だって「美」になるというものだが、〈悪女〉における「美女」の基準は、性的な面で男性をどのくらい魅きつけるかであるとしてよいだろう。かりに、性的な要素が皆無でありながら周囲の老若男女から美女だといわれる人がいたとしたら、彼女は〈悪女〉にはなりえない。しかし、九十九パーセントの人が「十人並み」と判断する女性であっても、残りの一パーセントが彼女に強烈な魅力を感じたならば〈悪女〉と呼ばれる立派な資格があることになる。
「美」が相対的価値観であるとすれば、明恵や義湘は、「女性に魅力を感じさせる」という価値基準による「美男」である。だが、彼らの魅力が性的な要素を含んでいたとしても、僧が自主的に女性の思慕に応《こた》えないかぎり破戒の恐れはないので(大蛇になった女に追いかけられるおまけがつくかも知れないが)、美男僧は仏法に相反する存在とはならないのである。では美女の場合はどういう位置づけになるのだろうか。善妙も『華厳縁起絵巻』のなかで「貌美しき聞こえ高し」と評されている「美女」であった。
善妙をことさら美女と記すのは『華厳縁起絵巻』だけで、『宋高僧伝』の対応箇所には「少女の麗服・|※[#「+見」、unicode975a]粧《せいそう》(化粧)せる有り」と服装や化粧の記述があるほかは、容貌への言及は見られない。美麗な風采《ふうさい》から美貌のほどを想像することもできるが、特に美貌でない可能性も五十パーセントある。これに比べて、『絵巻』には依拠文献にない美貌の項目を善妙に付加しているのである。物語の主人公が美女でなければ始まらないという意識があったのかも知れないが、そのような意識自体ある特定の枠組みに捕らわれていることの表れである。善妙が義湘に恋を打ち明けるという展開を考えると、『絵巻』は意図的に善妙を「義湘を誘惑する美貌の〈悪女〉」に描こうとしたのではないか。かりに義湘が善妙に堕ちるという展開になるのなら美女として登場する必然性があろうが、単に教化《きようげ》するだけなら相手の女性の美醜は問題にならないはずである。したがって、善妙をわざわざ美女に設定するのは、竜蛇身を兼ねた善妙の「悪」の部分を表現するためのサインになっているからだと思うのである。当然そこには、男性を誘惑するべく待ち受ける「紀伊の女」の反仏法的イメージが投影されていよう。表面には浮かび出ないものの、男性を堕落させる宿命の美女の姿は善妙にも潜んでいるのである。
善妙の〈悪女〉イメージはその素姓からもうかがえる。彼女は『絵巻』の文脈において遊女、あるいは遊女の家に生まれた娘と想定されていたのではないか、というのが私の(かなり大胆な)推測である。これにはもちろん、遊女が〈悪女〉であるという認識が前提となる。遊女については後に論じることとして、このように推測する根拠を述べることにしよう。
今までの『華厳縁起絵巻』研究史上で、善妙が何者であるかという問いに答えるものはない。ほとんどの場合善妙に関しては変身の場面ばかりが問題にされ、その素姓に対して疑問を投げかけた例は見当たらないのである。絵詞には善妙の素姓を具体的に語る部分がないからだろう。ただ、『宋高僧伝』の方には、
[#この行2字下げ](義湘は)分衛して一信士の家に至る。湘、容色|挺抜《ていばつ》にして、門下に留連すること既に久しくするのを見る。
とあるので、善妙が義湘の立ち寄った「一信士の家」に住まいする人間であることが推察される。善妙の若々しい格好や裕福そうな衣装から、この家の娘と考えるのが妥当な線だろう。善妙が義湘に数多くの施物を用意する場面が巻三後半に見えるので、貧しい身分とは考えられない。現在では、『華厳縁起絵巻』を研究する者が『宋高僧伝』を参看しないはずはないので、無意識のうちに『絵巻』の善妙も『宋高僧伝』と同じ設定であると納得してしまい、問題にする必要を感じなかったのかも知れない。
ここで、善妙の素姓に少しでも言及している研究者の見解を示しておこう。まず高野辰之氏は、「其の家の女主人で、其の名は善妙、容貌の美しいので知られてゐたもの、固《もと》より侍女も幾人かあつた」と、善妙を裕福な家の女主人と考える。しかし、千野香織氏が指摘するように、善妙を女主人という証拠は何もない。絵には、屋敷の中で机に向かう年かさの女性が見えるので、女主人とするならばむしろこちらの方がふさわしい。この錯覚は、『道成寺縁起絵巻』との関連から『華厳縁起絵巻』を論じた高野氏が、『道成寺縁起絵巻』に真砂庄司の「娵《よめ》」、その出典とされる『法華験記』説話に「寡婦」と記された宿の女主人を連想したせいと思う。また、八百谷孝保氏は「信者善妙尼」とする。善妙が義湘の女弟子となった点は否定しないが、出家の記述はなく、「善妙」は俗名であって尼の法名として用いられているわけではない。ほかに、小松茂美氏は「時ならぬ、美男僧の入来に、目ざとくみつけた侍女の一人なる善妙は、」とするが、先に述べたように、いくら裕福な家の使用人であっても義湘に豪華な布施をするほどの個人的資産があるはずはなかろう。結局のところ、このような不一致がまったく問題にされていないのは、善妙の素姓がどうであれ物語の読みには何ら影響がないとされて来たせいなのである。
さて、『華厳縁起絵巻』に善妙が初めて登場する箇所は次のようである。『宋高僧伝』と読み比べて頂きたい。
[#この行2字下げ]義湘の船、既に唐の津に着きて、里に至りて乞食《こつじき》するに、善妙という女人あり。……威儀安祥として、門戸に立ちて食を乞《こ》う。善妙これを見て、……
『宋高僧伝』と異なるのは、義湘がどんな家で托鉢《たくはつ》を行ったかという点である。『絵巻』では家の素姓は何も説明されないが、画面には漆喰《しつくい》の上に朱楼を設けた立派な門と豪奢《ごうしや》な邸宅が描かれている。建物のなかでは年かさの女性が何か書き物をしており、回りを幾人かの若い女性が取り囲む。丹精されたらしい庭には鶴が舞い降り、犬と遊ぶ子供の姿も見える。この図はおそらく『絵巻』の絵師の独創になるものだろう。日本の絵師が外国を舞台とする絵を手がけた多くの場合のように、頭にあった見知らぬ異国の邸宅のイメージをそのまま表現したのである。ただ、邸宅の性格が善妙の素姓を規定しているとするならば、絵師がこれをどんな家のつもりで描いたのか非常に気になるのだ。なぜならば、邸宅にいる人々は女性と子供ばかりで、男性の姿がまったく見受けられないからである。これは一般人の邸宅にしては不自然な光景ではないだろうか。
この画面に展開するのは中国の風景だが、その様子を現実の唐の建造物や居住者と比較しても意味はないのである。諸外国の情報が簡単にビジュアルなかたちで得られる現代と違い、鎌倉時代の絵師が中国の風景を写実的に描けるはずはない。しかも物語は過去の時代を舞台としているのだ。飯田須賀斯氏は『華厳縁起絵巻』のなかの建築物は唐の様式を模したものではなく、場合によってはかなり和様で、絵師には唐様建築の知識が欠けていたらしいという指摘をしている。したがって、問題の画面は、それまでの絵画資料や文献を参考にしながら絵師が描いた「想像上の唐風景」ということになろう。このことを念頭に置いて、かなり裕福で、女主人らしき人が差配をし、女性と子供ばかりが住む、という条件に合致するものを探せば、善妙の家の素姓は大体推測できるはずである。
鎌倉時代には宋の文物が相当流入しているので、宋の風俗画などの影響を考慮に入れる必要はあるが、女性ばかりが描かれている唐宋の絵画は後宮の風景であることが多く、義湘が托鉢に立ち寄る市井の邸宅のモデルとなる必然性は乏しい。また、中国ほかの外国を舞台とする『玄奘三蔵絵《げんじようさんぞうえ》』や『東征伝絵巻《とうせいでんえまき》』といった絵巻にも女主人の家は見られないので、この風景はかなり特殊なもののようである。女主人らしき人物が裕福な寡婦であって、本来は男主人がいた家であると考えることもできるが、それにしても、なぜ必ずしも一般的な画題とはいえない女主人の家を絵師が選んだか、という疑問は残る。
ただ、想像をめぐらせば、日本から出た経験のない絵師が独創で女主人の家を描いたとするならば、具体的なモデルは日本の風景に求められるはずであり、加えて、それが物語の展開に有機的に作用する伏線となっていることが考えられる。善妙が美女であるという記述と読み合わせれば、この女所帯の家は、明恵や絵師が生きた日本中世前期の遊女の長者の家をモデルとし、中国風の風俗に焼き直したものととらえることはできないだろうか。
〈悪女〉としての遊女
ところで、義湘がわざわざ遊女の家で托鉢するのはおかしいという疑問があるだろう。ただ、『宋高僧伝』の「元暁絵」には、義湘と別れた元暁が「酒肆《しゆし》・倡家《しようか》(酒場や遊女屋)に入」る風狂の振る舞いをする、という記述がある。義湘と元暁が相互補完的な人物として造型されているとするなら、善妙の家に立ち寄る義湘が遊里に足を踏み入れる元暁の陽画として描かれたと考えることができるのである。
善妙の家が中世の遊女の家を模したと私が考える理由は、次の通りだ。まず、この家の構成が女系家族を思わせる点である。画面に描かれない男性の家族がいると想像することもできるが、絵師は何もかもありのままを写すわけではない。絵師が描くのは、彼の想像力によって再構成された風景なのだ。遊女といってもその居住形態はさまざまであるが、絵師の脳裏にあったのは、宿の長者を兼ねた遊女の長者の家だったと思われる。街道の分岐点や川のほとりなどは旅行者が宿泊しやすい場所であるが、宿はそのような交通の要所に設けられた集落である。当然そこには旅人の宿泊施設が発達するが、貴族や武人の酒席で遊女がもてなす生業も起こっていった。陸上交通を主とする東国には宿ごとに傀儡《くぐつ》と呼ばれる遊女が居住し、水上交通のさかんな西国では川辺や港に拠点をもつ遊女がいた。宿は「長者」という長が統括しており、遊女もまた女性の長者に率いられるが、両者はしばしば兼業されていたといわれている。
さて、『華厳縁起絵巻』に戻って義湘が唐に到着する場面を眺めると、海路の旅なので当然だが、そこにはのどかな港町の風物が展開されている。善妙の家はそれからほどなく現れるので、これが港町の一部にあるとされていることは明らかである。家と港との距離の近さが画面処理上のフィクションでないことは、義湘が不意に出港したことを聞いた善妙一行が徒歩で港に向かう描写からうかがえる。つまり、女性が歩いて行けるくらいの距離というわけである。善妙の家がこのように港に近接して描かれるのは、播磨《はりま》の室津《むろつ》などのような港に居を構える遊女の家が下敷きとなっているからではないだろうか。
楢原潤子氏によると、遊女の家は女系相続であり、仕事は母から娘に受け継がれるという。女長者は自分の持ち家に娘や孫とともに住み、婿取りもするが、原則的には老若各世代の女性が一つ家に暮らすことになる。こうした家の構成は、『更級日記』の足柄山のくだりに見ることができる。東国から都へ上る菅原|孝標《たかすえ》の娘が、今の神奈川にある足柄山の麓《ふもと》で遊女に出会う場面である。
[#この行2字下げ]……遊女三人、いづくともなく出で来たり。五十《いそぢ》ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四、五なるとなり。庵《いほ》の前にからかさをささせてすゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。
三世代にわたる遊女が血縁関係であることは間違いない。そのうえ、昔「こはた」と名乗っていた遊女の孫であると男たちが確認したところを見ると、彼女らは幾世代にもわたって遊女の営みを続けて来たのである。この例は、遊女の家が母親であり長者を勤める老・中年女性、芸能の主流をなす若い女性、修行途中の少女、という三世代で構成されることを示すものである。男の子が生まれたときの養育方法など具体的にわからない部分も多いが、遊女の長者の家は原則的に女性と子供が主要な構成員であったと考えてよいだろう。遊女の長者の生活を知ることのできる資料はごく少ないが、絵画では『遊女物語絵巻』(現在では『藤衣絵巻』と称されている)が注意される。これは室町時代中頃に作られた小型の白描絵巻で、鎌倉時代の水辺の遊女の様子を伝える貴重な資料といわれている。この中に、遊女の家で播磨国の大名が宴を張る場面があるが、宴たけなわの部屋の隣室では、苧《ちよ》をつむぐ老女のそばに幼い子供が座り、髪の生えそろわない少女が隣をうかがうさまが描かれている。老女は身の回りの世話係のように見えるが、少なくとも女性の複数世代同居の様相は明らかである。
また、長者はさまざまな利権を掌握し、豊かな財産を持つ場合が多かったようである。たとえば、現在の静岡県に位置する橋本の宿の妙相《みようそう》という長者は、はるか河内《かわち》国の聖徳太子の廟《びよう》に参籠《さんろう》し、毘沙門天《びしやもんてん》のお使いであるむかでの夢を見た。その後も霊夢を見続けたので、妙相は毘沙門天の像を造立して、胎内に願文を収めたのである。妙相が遊女の長者なのかはっきりしないが、両方を兼ねていた可能性が高い。この例からは、長者が経済的に恵まれ、広い活動範囲を有していたことが見て取れる。『華厳縁起絵巻』の場合は、机の前の年配の女性が長者に宛てられるのが自然と思われるので、善妙はさしずめその娘というところだろう。善妙は胸に飾りらしきものをつけており、画面に登場する他の女性の服装とやや違いをみせているので、侍女の身分とは思えないからである。また、先に述べたように、複数の女性を指揮して義湘の布施を用意することは、長者の経済力の裏づけがあってこそ可能だろう。長者の娘が母の仕事を継ぐ女系相続である以上、善妙が遊女か遊女の娘かには根本的な違いはないとみてよい。
以上に述べたように、善妙の家を遊女の長者の家と見なすことにさほどの矛盾はないようである。この仮定に従うとして、善妙を遊女の系譜に連なる女性とすることがなぜ彼女の〈悪女〉的要素を語ることになるのだろうか。ここで思い起こすのは、『日高川草紙絵』の賢学と結ばれた女が橋本の宿の長者の娘とされていることである。しかも、宿の長者は遊女の長者を兼ねているのだ。この長者が昔、都から下った上達人に見初められてもうけた娘がかの宿命の女だった、と本文では説明されている。母の長者は、娘の器量を頼んで都へ上らせしかるべき縁を求めさせようとしたところ、娘は賢学に出会ったのである。この「日高川の女」の素姓の設定が善妙の影響を受けたかは不明だし、中世には宿を舞台とする物語が多く作られるので、偶然なのかも知れない。しかし、本来紀州に根をもつ物語がわざわざ遠江《とおとうみ》の橋本宿の女性を登場させた理由を推測すると、遊女という存在が発する〈悪女〉的イメージが物語に必要とされた事情を感じるのである。成立年代は前後するが、「日高川の女」と善妙は密かに通い合う面をもっているといえはしないだろうか。
とかく偏見をもって見られがちな遊女研究であるが、近年日本史の分野を中心に着実に研究の進展をみ、遊女の組織や家、身分などが明らかにされつつある。その動きは同時に、遊女の身分のとらえ方に関していくつかの論議を呼び起こした。中でも本章に関係が深いのは、遊女に対する差別の問題であろう。中世の遊女は女色を売るだけではなく今様《いまよう》や舞いを専門とする優秀な芸能者であった。『梁塵秘抄口伝集《りようじんひしようくでんしゆう》』に記されるように、後白河院に今様を教えるため御所で手厚く遇された遊女もおり、貴族の子女を産んだ者も数多い。こうした現象は遊女に対する差別がなかったかのように見え、網野善彦氏も、十三世紀後半から十四世紀にかけての社会的変動期を境として性を「穢《けが》れ」と見なす感覚が女性の性そのものへの蔑視《べつし》に及び、遊女が次第に賤視《せんし》の対象となっていったと論じている。氏の説に従えば、明恵の生きた十三世紀前半には遊女に対する差別観はなかったということになるが、氏が遊女への差別をもって女性一般への差別にすり替えて論じようとしている点は承認しがたい。私は遊女への差別が中世前期にまったくなかったとは考えていないので、ここで氏の論に従うことはしないでおく。詳しく論じる余裕も資料もないが、私は、遊女の社会的身分の高低と女性一般に対する蔑視は次元の異なる問題として扱うべきではないかと感じているからである。
女性の性は出産と快楽との二極に分裂していくが、遊女の性は、男性の快楽をもたらす機能のみが期待される女性の性の代表である。しかし、もし女性の性が男性の統制を離れて自己主張し始めたとき、それは男性を「誘惑」し「破滅」に導く恐ろしいもの、という認識に転ずる傾向があることは疑いない。たとえば細川涼一氏が論じているように、三美人の一人に挙げられる小野小町は、謡曲の「通《かよい》小町」では己れの美貌《びぼう》を頼んで深草少将をなぐさみものにしたという驕慢《きようまん》の女であり、「卒塔婆《そとうば》小町」ではその罪で醜い老婆になって流浪したとされるに至る。室町時代の物語「小町草子」の「そもそも清和のころ、内裏に、小町といふ、色好みの遊女あり」という記述は、小町に付与された「貞操のなさ」「美女ゆえに驕慢」「男性を堕落させる」という反家父長制的な要素の体現者として遊女が想定されていることを物語るものである。もし善妙に遊女の面影が投影されていたならば、こうした遊女の悪業を当然彼女も背負っていることになるのだ。
今まで義湘の教えに従う聖女として美化されて来た善妙であるが、身中に竜蛇を養い、遊女のように義湘を誘惑する〈悪女〉としての側面は、詞書《ことばがき》を越えて画面ににじみ出ている。これが、意図的に仕組まれた明恵や絵師の悪意であったとは思われないけれど、彼らの心の奥に潜んでいた女性観や「竜女」への嫌悪が無意識のうちに浮かび出たということは否定できないだろう。意識化されないだけに、おそらくこの差別や嫌悪は根強く生き続けているのだと思う。
この章を閉じるにあたって、以前よく読んだ中上健次氏の「浮島」という小説の一節を引用しておきたい。これは、紀州新宮の浮島の森に伝わる伝説と上田秋成の「蛇性の婬《いん》」をからめた作品であるが、物語の末尾に少し風変わりな作者の語りが唐突に現れる。次はその一部である。
[#この行2字下げ]よしんば女が、蛇の化身で、淫乱で、さかしらで、邪悪であっても、女とともに果ての果てまで行ってこそ、わざわざこの世にふぐりを股《また》の間にぶら下げて出て来た、男というものである。道成寺の安珍も、蛇性の婬の豊雄もふがいない。逃げ出すことは要らない。
竜蛇となった〈悪女〉たちの物語を取り上げるに際して、私が真っ先に思い出したのがこの言葉である。むやみに女性の悪性を肯定することは何も発展がないのかも知れないが、徹底して強く、かつ孤独に悪性に突っ走る女性に対して、私は、従来の〈悪女〉像を超える力を感じる。熊野詣の僧が、賢学が、義湘が女から逃げなかったら[#「逃げなかったら」に傍点]、物語にはもっと違った展開が生まれていたかも知れないのである。
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参考文献
(本書で引用した論考を中心に、主なもののみを挙げた)
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T 帝という名の〈悪女〉
坂口安吾『桜の森の満開の下』(「道鏡」を収める)、講談社(講談社文芸文庫)、一九八九
上田正二郎『法師道鏡』冨山房、一九五〇
堀池春峰「道鏡私考」、『芸林』第8巻5号、一九五七・十
横田健一『道鏡』吉川弘文館(人物叢書)、一九五九
北山茂夫『女帝と道鏡』中央公論社(中公新書)、一九六九
上田正昭『日本の女帝』講談社(講談社現代新書)、一九七三
佐藤宗諄「女帝と皇位継承法」、『日本女性史 第一巻 原始・古代』東京大学出版会、一九八二
永井路子『日本史にみる女の愛と生き方』、鎌倉書房、一九七二
高木 豊『仏教史のなかの女人』平凡社、一九八八
阿部泰郎「湯屋の皇后」、『文学』56巻11号、57巻1号、一九八六
「山に行う聖と女人−『信貴山縁起絵巻』と東大寺、善光寺」、『大系日本歴史と芸能 第三巻 西方の春』平凡社、一九九一
黒木祥子「舞曲「常盤問答」について」、『語文』(大阪大学)35号、一九七九
淵江文也「『河海抄』注「女人為業障」の句を中心に」、『仏教文学』11号、一九八七
渡辺守邦「『※[#「竹/甫/皿」、unicode7c20]※[#「竹/艮/皿」、unicode7c0b]抄』以前」、『国文学研究資料館紀要』第14号、一九八八
黒田佳世「中世説話における光明皇后像の二面性」、『やごと文華』第4号、一九八八・三
西山 克「「女帝」の堕地獄」、『信濃』39巻11号、一九八七・十一
吉原浩人「皇極天皇の堕地獄譚−『善光寺縁起』−」、『国文学 解釈と鑑賞』一九九〇・八月号
益田 宗「水鏡−異本系諸本の成立」、『国語と国文学』一九五九・九月号
笠原一男『女人往生思想の系譜』吉川弘文館、一九七五
脇田晴子「母性尊重思想と罪業観」、『母性を問う』上、人文書院、一九八五
村山修一『変貌する神と仏たち』人文書院、一九九〇
速水 侑『観音信仰』塙書房、一九七〇
網野善彦「中世の旅人たち」、『日本民俗文化大系 第六巻 漂泊と定住』小学館、 一九八四
保立道久「秘面の女と露面の女−中世女性の「外歩き」」、『化粧文化』16、一九八七・五
田中貴子「〈悪女〉について−称徳天皇と「女人業障偈」−」、『叙説』17号、一九九〇
「外法と愛法の中世」、『日本文学』一九九一・六月号
U 鬼にとり憑かれた〈悪女〉
福田 晃「平家物語と曾我物語 (一) −その伝承関係−」、『伝承文学研究』7号、 一九六五
蔵中 進「惟喬・惟仁皇位争い説話に関する一考察」、『甲南大学文学会論集』32号、一九六六
目崎徳衛「惟喬・惟仁親王の東宮争い」、『日本歴史』二一二号、一九六六
「在原業平の歌人的形成」、『平安文化史論』桜楓社、一九六八
馬場あき子『鬼の研究』三一書房、一九七一
飯沢 匡「鬼の真相」、『国文学』一九七二・九月号
神野志隆光「紺青鬼考−特に真済をめぐって−」、『国語と国文学』一九七三・一月号
簗瀬一雄「狂言枕物狂の一考察」、『説話文学研究』三弥井書店、一九七四
稲垣泰一「高僧破戒譚の二つの形−真済・志賀寺上人・久米仙人・湛慶・浄蔵譚を通して−」、『金城学院大学論集』57号、一九七三
水原 一「惟喬・惟仁位争い説話について(上)(下)」、『駒沢大学文学部研究紀要』33号・『駒沢国文』12号、一九七五
小山田和夫「真済について−実恵・真紹との関係−」、『立正史学』42号、一九七八
今成元昭「「恵亮破脳・尊意振剣」の成句をめぐって(一)(二)」、『立正大学文学部論集』77号、一九八三・『立正大学人文科学研究所年報』21号、一九八四
黒田 彰「惟喬外伝−平家、曾我、古今注−」、『千里山文学論集』38号、一九八九
菊地 仁「権者としての歌人たち−流離と童形と−」、『日本文学』一九八九・五月号
角田文衛「藤原高子の生涯」、『王朝の映像』東京堂出版、一九七〇
後藤祥子「二条后物語の成立」、『日本文学』一九九一・五月号
小峯和明『説話の森』大修館書店、一九九一
和田大円「宮中二間の観音二間夜居護持僧之事」、『密宗学報』一五一号、一九二六
湯之上隆「護持僧成立考」、『金沢文庫研究』二六七号、一九八一
山折哲雄『日本人の霊魂観−鎮魂と禁欲の精神史』河出書房新社、一九八八
「皇子誕生の秘儀−魔術王の系譜−」、『思想』七九七号、一九九〇・十一
西口順子「王朝仏教における女人救済の論理−出産の修法と後生の教説−」、『大系・仏教と日本人8 性と身分』春秋社、一九八九
阿部泰郎「慈円と王権」、『天皇制−歴史・王権・大嘗祭−』河出書房新社、一九九〇
速水 侑『平安貴族社会と仏教』吉川弘文館、一九八三
『呪術宗教の世界』塙書房、一九八七
大野祐三子「建礼門院御産御祈祷」、『愛知淑徳大学国語国文』11号、一九八八
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V 竜蛇となった〈悪女〉
『日本絵巻物全集』18、角川書店、一九六八
『続日本絵巻大成』13、中央公論社、一九八二
内田賢徳「「道成寺縁起」絵詞の成立」
吉田友之「「道成寺縁起絵」の表現」
高野辰之「道成寺芸術の展開」、『日本演劇の研究 第二集』改造社、一九二七
下店静市「道成寺縁起に就いて」、『大和絵史研究』冨山房、一九四四
五来 重『絵巻物と民俗』角川書店、一九八一
阿部泰郎「寺社縁起の構造」、『国文学 解釈と鑑賞』一九九一・十月号
武者小路稔『絵巻の歴史』吉川弘文館、一九九〇
『日本絵巻物全集』7、角川書店、一九五九
飯田須賀斯「華厳縁起に現れた建築手法」
川口久雄「華厳縁起の説話」
亀田孜「華厳縁起について」
『日本絵巻大成』17、中央公論社、一九七八
金沢弘「「華厳宗祖師絵伝」成立の背景と画風」
八百谷孝保「華厳縁起絵詞とその錯簡に就いて」、『画説』16号、一九三九
梅津次郎「義湘・元暁絵の成立」、『絵巻物叢考』中央公論美術出版、一九七八
千野香織「日高川草紙絵巻にみる伝統と創造」、『金鯱叢書』第八輯、一九八一
松田 修「蛇と美女」、『日本芸能史論考』法政大学出版局、一九七四
堤 邦彦「「熊野観心十界曼荼羅」管見」、『木野評論』16号、一九八五・三
勝浦令子「「女性と地獄」ノート」、『日本の女性と仏教』会報3、一九八六・八
森 正人「『道成寺』遡源」、『観世』52巻8号、一九八五・八
「説話の変奏と創造−竜蛇・観音・母性−」、『説話の講座』第1巻、勉誠社、一九九一
徳田和夫「絵解きと物語享受」、『文学』54巻12号、一九八六
小峯和明「中世説話文学と絵解き」、『一冊の講座 絵解き』有精堂出版、一九八五
「華厳縁起」、『体系 物語文学史 第四巻 物語文学の系譜U』有精堂、一九八九
田中久夫『明恵』(人物叢書)吉川弘文館、一九六一
奥田 勲『明恵 遍歴と夢』東京大学出版会、一九七八
河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社、一九八七
『高山寺資料叢書明恵上人資料集』第一・第二、東京大学出版会、一九七八・一九八二
高木 豊『平安時代法華経仏教史研究』平楽寺書店、一九七三
「願文・表白にみる法華信仰」、『法華仏教の仏陀論と衆生論』平楽寺書店、一九八五
山本ひろ子「成仏のラディカリズム−『法華経』竜女成仏の中世的展開」、『岩波講座東洋思想26 日本思想2』一九八九
平 雅行「女人往生論の歴史的評価をめぐって」、『仏教史研究』32巻2号、一九八九。
『週刊朝日百科 日本の歴史 中世T-B 遊女・傀儡・白拍子』朝日新聞社、一九八六
楢原潤子「中世前期における遊女・傀儡子の『家』と長者」、『総合女性史研究会会報』五、一九八八
豊永聡美「中世における遊女の長者について」、『中世日本の諸相』吉川弘文館、一九八九
細川涼一『女の中世』日本エディタースクール出版部、一九八九
佐野みどり「絵と詞」、『日本文学史を読むV 中世』有精堂出版、一九九二
田中貴子「古典文学にみる竜女成仏」『国文学 解釈と鑑賞』一九九一・五月号
「再生する物語−『道成寺縁起絵巻』論−」、『史層を掘る 第2巻 物語という回路』新曜社、一九九二
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なお、本書で用いた資料のうち主なものは「日本古典文学大系」「新日本古典文学大系」(岩波書店)、「日本古典文学全集」(小学館)、「新潮日本古典集成」(新潮社)によったが、本文に問題のない限り出典を示さなかった。繁雑になるのでほかの資料も各々のテキストを明示しなかった点、ご諒承願いたい。ほとんどの資料は公刊されているので、テキストを問題にするような方々にとっては簡単に調べがつくことと思う。
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文庫版あとがき
いつかは「文庫版あとがき」なるものを書いてみたい、と、密《ひそ》かに思っていた。文庫化されると安いのでより多くの方に読んでいただける、と思ったから……というのはタテマエであり、ほんとうは、かつて「国文学」の棚に並べられていた本が、「今月の新刊」などというような場所に平積みされたかった、という見栄っ張りにすぎないのである。
本書を書いたあと、私は十冊の本を書き、あいまに論文を書き、講演会やカルチャーセンターにひっぱり出され、多忙を極めた。その間、私はいつもいつも夏休みには家に籠《こ》もって、せっせと仕事をした。三十代の体力が、それを支えたのだろう。本書以降の本には、あとがきに必ずうちの猫の消息を語っていたが、最愛の「福」を亡くしたときは、ペットロス症候群になった。しかし、福のいない、酷暑の京都で、やっぱり私は悲しみを忘れようと思ってパソコンに向かった。書いていると他のことが忘れられるように思ったからである(実は、ふと気を抜くと福のことを思い、泣きながら原稿を書いた)。
私の十一年はあっというまに過ぎ去り、今は不惑を超えてまだ迷いのなかにいる。しかし、後悔する必要のない、幸せな十一年だった。
さて、本書が刊行されてから、かなり多くの反応をいただいたが、もっとも多かったのはフェミニズム関係者からのおほめの言葉であった。私は「プロローグ」で、ちゃんと「国文学の本であって、フェミニズムの論理とは関係ない」という趣旨の発言をしているにも拘《かか》わらず、あちこちの団体や活動家から研究会に出てくれとか、講演を頼むとか言われるようになった。そのころは好奇心もあってしばしばおじゃましたが、私にはまったく肌のあわない集団であることがよくわかった。だいたいが、私は一匹狼で仕事するタイプなので、「ナントカ主義」は嫌いなのである。
そんななかで、ある研究会に参加したとき、もっとも驚いたのは、フェミニズム主義者はテクストをちゃんと読んでいない、ということだった。たとえば、アメリカ在住の長いある女性研究者は、『今昔物語集』の本朝部だけ読んで、「この本には女性の年齢が書かれているのに対して男性にはない。これは女性へのセクハラではないか」と発表していた。これはまったくの事実誤認であり(巻二十九−3話にはちゃんと男性の年齢が明記してある)、そんな一面的な狭い視点で古典を読まないでほしいと思った。
源氏物語研究の第一人者である河添房江さんも、アメリカのフェミニズムの集会へ参加したときの体験として、同じような感慨をどこかで書いていらした。今の「学際的」研究とは逆行するのだろうが、古典を読むさい、別に外国の理論を使う必要はない、と私は思っている。私にとって、古典を研究するということは、テクストのなかへ我が身を埋没させ、古典が語ってくれる方法論を用いて研究するということであり、はじめからナントカ主義を頭に置いて古典を読めば、それは古典が限りなく「主義」の名の下で消費されてしまうことを意味する。
最近の「カルスタ」、つまり、カルチュラルスタディーズもおんなじ誤りを繰り返しているように思う。私たち「国文学者」の間では、古典におけるサブカルチャーと言ってもいい説経節とか、『山家鳥虫歌』や狂言などは、日本で培われてきた方法論によってすでに研究が進んでいるのである。舶来の論理でテクストを切ってゆくのは、古典に対する冒涜《ぼうとく》のようにも感じる。もっとテクストを大事にしてもらいたいのである。
私は、主義や理論に頼らずに、今まで男性が見ようとしなかった、あるいは気づかなかった視点から分析してみたいと思っただけで、それがたまたま「女性」という視点であった、ということに過ぎないのである。私はある日、きっぱりと「ナントカ主義」の人々と袂《たもと》を分かった。
こんな例もある。ある新聞の記者である女性からインタビューを受けたときのことである。この人も「主義者」らしく、自分たちの主催する研究会に出るよう勧めた。断って数日後には、小冊子がおくられてきて、その題名が、なんと「強姦魔《ごうかんま》光源氏」というのである。分析の対象としているのは「空蝉《うつせみ》」の巻であるが、この冊子の著者は、「なんでもかんでも源氏が悪い」と言い募るだけであった。少なくともこういうものを書くならば、『源氏物語』全帖を読み通してから発言してほしい。だいたい、平安時代の「恋愛」なんてほとんどが女房の手引きによる強姦である。これは動かしがたい「歴史」であり、現代人のバイアスのかかった頭で批判しても仕方ないのだ。そのくせ、冊子には美形のお姫様や源氏のイラストがちょこちょこ入っている。これほど内容にそぐわないものはない。強姦と言うのなら、「平安朝のみやび」を体現するようなイラストを描くなんて、矛盾である。
私は最近ますます「国文学」に沈静してゆきたい気分になっている。そうでもしないと、古典を守ってあげることができないように思うのだ。テクストは、読み手によってがらりとその意味を変えるものだから、子どもの視点、若い女の視点、年配女性の視点、おっさんの視点などなど、いろんな角度からのアプローチが必要なのだ。
さて、これも「時効」だから書いてしまおう。
私が本書でもっとも実感できるのは、Vの竜蛇の女の説話や物語である。私は二十代の終わりに、ある高名な国文学者とつきあい、一方的に「逃げられた」経験がある。とてもしんどい恋愛だった。しかし、彼が「逃げた」ので私は追いかけた。そして、「これは『華厳《けごん》縁起絵巻』の善妙になってしまったな」、と頭の片隅で思った。善妙は自分に黙って出発した義湘《ぎしよう》を追いかけ、竜になってからは義湘の守り神となった、というのが男性研究者の通説だったし、例の国文学者も例外ではなかった。その人の本が、すべて男の視点からしか語られていない、ということに気づいたのは、さんざん悲しんだ後であった。
べつに、善妙は義湘に男女の関係を迫ったわけではないし、竜に変身したのも彼女のおおいなる怒りによるものだということが、失恋後の私にはなんとなくわかったのである。
なぜ義湘は、善妙にこう言えなかったのだろうか。「私たちは男女の関係にならなくとも心のなかではしっかり結ばれているのですよ。しっかり生きて、後は極楽で同じ蓮台《れんだい》に座りましょう。だから今はお互い心の友でいたほうがいいのです。私が責任を持って、あなたを極楽へ導いてさしあげます」と。
こう言われたら、善妙は諦《あきら》めたと思うのだ。しかし、義湘はそんな優しい諭しもせず、贈り物を届けようと善妙が準備している最中に、黙って出発してしまうのである。善妙はただ、贈り物を渡して「ぜひ今度は極楽で会ってくださいね」と一言言いたかったのだろうと思う。黙って「逃げた」義湘は、ケツの穴が小さい。煩悩に迷う女を救済することも仏教の教えではないか、と私は思った。
だから、さようならの一言も言わせずに出発していった義湘を怨《うら》んだ結果、竜になってしまったのである。これからは私の空想なのだが、竜になった善妙が、自分に誠意を以《もつ》て対してくれなかった義湘の船を助けるようなまねはすまい。彼女が船の下に潜り込んだのは、転覆させてやろうと思ったのではないか。しかし、船は重すぎてだめ、彼女に気づいた義湘一行のなかには、「善妙さまが護法善神になられたのだ、ありがたい」などとノーテンキなことを言って拝んだりする輩《やから》もいる。善妙は悔し涙を流しながら新羅《しらぎ》へ向かうしかなかったのである……。これはあくまで空想だが、私が善妙だったら不誠実な男を絶対に許さないだろう。
これを知り合いの男性に話すと、たいていが「女はこわいねえ」などとのたまう。しかし、こわくした責任はどっちにあるのだろうか。
ところで、例の国文学者はこの間、久しぶりに学会で姿を見たが、孫もできたというし、髪はほとんど白くなっているし、私がつきあっていたころのすごいオーラは消え去り、ただのジジイになっていた。そして未《いま》だに女のことがよくわかっていないエッセイを書いている。私は、早く別れてよかったと思った。しかし、女の目でテクストを見る、という方法論は、彼のあまりにロマンチックな女性のとらえ方をしばしば目にしたから生まれたものなので、反面教師として、私は彼に礼を言わねばならないのかもしれない。
いろいろ私事などをしたためたが、早や不惑を過ぎて、私も少しずつ変わっていったようである。これから再び悪女について書くことはないだろうが、本書が安価になったおかげで多くの人々に読んでいただけるのは心から嬉《うれ》しい。文庫化にあたり、とてもお世話になった、角川書店の陸田英子さんに感謝したい。本くにこさんには、とてもすてきな表紙を描いていただき、とても嬉しい。そして、今は亡き福の代わりに、「くりこ」が私をいつも励ましてくれることにもお礼を言いたい。
「あとがき愛読者」さんたち、この本はこういう経緯でできたものなので、おもしろそうと思ったらすぐレジへどうぞ。ご損はさせません……たぶんね。
二〇〇二年八月
[#地付き]田 中 貴 子
角川ソフィア文庫『悪女伝説の秘密』平成14年9月25日初版発行