ダゴン星域会戦記 銀河英雄伝説外伝
(出典:「銀河英雄伝説」読本)
田中芳樹・著
……宇宙暦《SE》六四〇年(帝国暦三三一年)は人類の歴史上、真紅の文字をもって特筆されるべき年である。この年二月、ゴールデンバウム朝銀河帝国と、自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》との勢力がはじめて接触し、長きにわたる抗争劇の幕が音もなく開いた。七月には帝国の遠征軍と迎撃する同盟軍との間に、大規模な戦闘がおこなわれるに至った。「ダゴン星域の会戦」である……。
自分の店は売春宿ではない、とは、安ホテル「金ぴか亭《ガウディ》」の主人がことあるごとに主張するところだが、真摯《しんし》なその訴えを信じる者は、同盟首都《ハイネセン》の住人のなかにはひとりもいなかった。
いま彼の前にたたずんでいる男も、主人の訴えよりも世間のよくない噂を信じているようで、鋭いというよりは不機嫌そうな視線で薄暗いフロントをなでまわしていた。三〇代前半かと思われるその男は、どちらかといえばやせていたが、顔の造作については、不機嫌そうな視線の印象があまりに強烈なので、後日の回想でも、主人の記憶に明瞭な像を結ばなかった。あるべきものはあるべき場所にあったことはたしかだが……。
「女づれで泊まった客を捜している。心あたりはないか」
その無愛想な質問に、主人はうさんくさげな上目づかいで応《こた》えた。
「うちの客は、皆さん、ご夫人にもてる方ばかりでね。心あたりがありすぎて困るほどさ。何か特徴はないのかね」
「年齢は三六歳、でかい体をして、髪は黒、目は濃藍、鼻と口がひとつづつ」
「ハンサム? 醜男?」
「……まあ悪くないほうだ」
いやいやながら事実を認めるといった態《てい》で男は答え、思いだしたようにつけ加えた。
「そのかわり性格は悪い」
「……へえ、するとあんたの兄弟かね」
皮肉を言ってみたが、通じなかったのか、意に介する価値を認めなかったのか、男は無視し、またあらたな発見をした表情になって軽く指を鳴らした。
「そうだ、ひょっとしたら女をふたりつれているかもしれん」
「そりゃお盛んなことだ」
「無節操なだけだ。で、心あたりはあるのか」
ない、と答えかけて主人はやめ、正直に答えることにした。危険を察知する本能がそうさせたのだ。直接の暴力などというもの以上に剣呑《けんのん》なものを、主人は相手に感じていた……。
三〇六号室のドアを、男はカード状の電子鍵を使ってあけると、無言のまま室内に足を踏み入れた。
複数の女の嬌声がベッドの上でくぐもっていた。その声が一瞬やみ、金属的な誰何《すいか》と非難の叫びにとってかわった。不機嫌な闖入《ちんにゅう》者は、不機嫌そうに、目的の人物の反応を待っていた。
ベッドの中の男はたくましい半身をおこし、短く笑った。
「これはこれは、トパロウル中将、君みたいな堅物《かたぶつ》もこの宿の顧客《おとくい》だとは知らなかったな」
「あんたといっしょにしないえくれ、リン・パオ」
熱雷をはらんだ声で、トパロウルと呼ばれた男は応じ、女たちの金切声を馬耳東風《ばじとうふう》と聴き流しながら、リン・パオという男に外に出るよううながした。
リン・パオが服を身につけ、女たちに幾枚かの紙幣を放り投げて外へ出ると、トパロウルはあらためて彼をにらみつけた。
「今日、おれの軍人生活で最低最悪の命令を受けた。どんな命令か聞きたいか」
「ぜひ、そう願いたいね」
「あんたと組めとさ。あんたが司令官、おれが参謀長。どうだ、ひどい話だろうが」
「ほう……」
リン・パオはまじめくさってうなずいた。
「そりゃ、おれでもごめんこうむりたい命令だな。おれと組めっていうのは……」
自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》最高評議会議長、つまり元首にして最高行政官であるマヌエル・ジョアン・パトリシオは、強力な指導者としてよりは温厚中正な調停者として評価されていた。昨年、六〇歳で評議会議長に選ばれたが、それ以前に二度の閣僚歴があり、大過なくそれをつとめあげている。能力的にも人格的にも悪い評判はなかったが、銀河帝国軍の侵攻という事態が一年前に市民にわかっていれば、元首の座につけたかどうか疑わしい。紳士ではあっても、巨大な危機に際して頼りになる人物だとは、必ずしも考えられていなかったのである。
強力な指導者としてのイメージは、むしろパトリシオの対立候補であったコーネル・ヤングブラッドのほうにこそ強かった。パトリシオより二〇歳も若く、鋭気と行動力に富み、星間巡視隊の主席監察官として綱紀粛正に敏腕をふるった後、バンプール星系政府首相として大胆な経済・社会改革をおこない、進歩派の旗手として中央政界に出た。選挙の勝敗が定まった後、パトリシオは若い政敵に入閣を求め、ヤングブラッドも悪びれず国防委員長の椅子を受けたのである。
当時の人々に不満の種はさまざま存在したとはいえ、後世から見れば、民主政治の精神はまだ衰弱してはいなかった。「銀河帝国の暴政から逃れて一万光年の苦難に満ちた長征を敢行した」アーレ・ハイネセンの名は、心からの尊敬の念をもって親から子へと語り伝えられていた。独裁的傾向は根をはるよりはやく、芽のうちに摘《つ》みとられ、腐敗しやすい土壌には複数の光があてられていた。
まずは「|古き良き時代《グッド・オール・ディズ》」ではあったのだ。
一日、ヤングブラッド国防委員長はパトリシオのオフィスを訪れて話しこんでいた。銀河帝国軍の来寇《らいこう》が不可避なものとされて以来、彼は精力的に職責をはたしていたが、帝国軍迎撃の総司令官にリン・パオ中将、総参謀長にユースフ・トパロウル中将という人事に対し、一言なかるべからずと思ったのである。
本来、自由惑星同盟の軍隊は、今日あるを予期して――銀河帝国の勢力がいつの日か同盟のそれと接触し、征服と支配のため大軍を送りこんでくる日が必ず到来するであろうことを想定して、つくられたものなのである。文字どおり同盟は、一朝《いっちょう》のために百年間、兵を養ったのだが、建国者たちの先見と悲壮な心情を思えば、軍人たるもの、血をたぎらせて必勝を誓約すべきであった。だが、リン・パオとユースフ・トパロウルの言動には、感動と使命感が稀薄なこと、はなはだしいものがあり、少壮気鋭の国防委員長としては、にがにがしい不満をいだかざるをえないのである。
「議長が統合作戦本部長の進言でお決めになったことですから、ご再考をとは申しません。ですが、よくもトラブル・メーカーをふたりもおそろえになりましたな。まず、リン・パオがどういう男かご存知で?」
「無責任な噂もあるな。彼が色情狂だという……私は信じないが」
「色情狂とまでは申しませんが、女性に目がないことは事実です。両手両足の指ではたりないほど問題をおこしていますし、裁判ざたになったこともあります。惑星ミルプルカスの通信基地での一件をご存知で?」
議長がかぶりを振ったので、真実の使徒と化した国防委員長は声を高めた。
「その通信基地には、士官、下士官、兵士、合計して一四名の女性がおりました。そしてリン・パオの奴はそのうちなんと一二名とベッドをともにしたのです」
「すべて合意の上であろう?」
「ですが、そのうち三名は人妻だったんですぞ! さよう、合意の上であり、むろん犯罪ではありません。ありませんが、軍高官の綱紀に対して市民の不信を買うには充分な実績というべきでしょう」
議長は軽くせきばらいした。
「どうも君は誤解しているようだ。私は何もリン・パオを女学生の寄宿舎の舎監にしようというわけではない」
個人的にはそれも一興だとは思うが――とつけくわえかけて、パトリシオはやめた。国防委員長がジョークを楽しむ気分にないことは明白だったからである。
「リン・パオにせよ、ユースフ・トパロウルにせよ、彼らが何かと問題になる人物だということは承知の上だ。だが、そもそもわが同盟軍は、とりえのない人物を三〇代で提督の地位につけるほど、いいかげんな組織ではないと思うのだが、どうかね」
「それはそうです。彼らは無能にはほどとおい連中です。今日までの武勲は数しれません。それは確かですが……」
「それに、人事の王道とは言えんかもしれんが、トラブル・メーカーを最上位に据えておくほうが、中間に置いておくより、えてしてしまつがよいものさ。その点は私の経験を信頼してくれていい」
「……なるほど、そういうものかもしれませんな」
国防委員長は、苦笑まじりに老練な先輩の言葉を認めた。
「現在の吾々にとって正義とは戦いに勝つことだ。誠に低次元ではあるが、事実は事実で、目を閉じれば消えるようなものでもない。そして目前の正義を実現するために、彼らの存在は不可欠なのだ」
「敗れれば吾々の存在は抹消され、銀河帝国は広大な新領土を手中にすることになるでしょうな」
「そうだ。敗れればすべてが終わる」
「勝てば?」
「勝てば、それからすべてがはじまる。対立か抗争か共存か、それはまだ私には予測できない。だが、とにかく何かがはじまる。はじまればそれをよい方向へ導いてゆく努力のしようもあるというものだ。そうだろう、ヤングブラッドくん」
ユースフ・トパロウルは後世「ぼやきのユースフ」という異名で人々に知られることになるが、とにかく不平と毒舌の多い男であった。
「何だっておれひとりがこんな苦労をせねばならんのだ」
「どいつもこいつも、何かというとおれに頼る。すこしは自分で解決しろ」
「わが軍には軍歌なんぞない。あるのは『給料泥棒のワルツ』と『ごくつぶし[#「ごくつぶし」に傍点]のタンゴ』だ」
「上層部《おえらがた》は無能者ばかり甘やかす。仲間意識ってやつも、ほどほどにしてもらいたいもんだ」
一部の例をとりあげただけでも、このようなもので、同時代の知人たちに言わせれば、ぼやき[#「ぼやき」に傍点]などという可愛気のあるものではない、ということになるであろう。
今回の人事でも、リン・パオと組まされた彼が不満たらたらというので、国防委員長の意を受けた委員の一人が彼の元を訪れ、彼の任務は民主共和政体を専制国家の魔手から守る崇高なものだ、もっと喜べ、と説《と》いた。ユースフは無礼にも鼻先であしらった。
「それほど崇高な仕事なら、他人にも喜びと感激を分けてやりたいものですな。私ひとりが押しつけられるのは不公平じゃないですか」
「トパロウル中将、君は人生を損得勘定でしか考えないのかね。いささか寂寥《せきりょう》をもたらす人生観に思えるのだが……」
「損をしたことのない人にかぎって、その種の説教がお好きでいらっしゃる。いい気なものだとしか私には思えませんね」
「そうともかぎるまい。君の表現をもってすればだ、現に実社会で損をしている人が、他人に犠牲的精神の美しさを説くことだってあるだろうが」
「それは自分ひとりが損をするのがいやだから、他人を引きずりこもうとしているだけのことです」
ゆるぎない確信をこめてユースフ・トパロウルは断言し、彼を善導してやろうとした国防委員の試《こころ》みをこなごなに粉砕してしまった。
「あんなひねくれ者は見たことがない。いったい、祖国の存亡を賭けた一戦を彼なんぞにまかせていいのだろうか」
国防委員は退却して、ヤングブラッドにそう訴えた。
「まかせるしかなかろうね」
委員長はあっさりと言ってのけた。国防委員がおどろき、どうやらパトリシオ議長に洗脳されたらしい、と憶測し、今度は自発的にもうひとりの問題児リン・パオのもとに出かけたものである。
当時、リン・パオはフロリンダ・ウェアハウザーという赤毛の愛人と同棲していた。にもかかわらず、リン・パオが町で女を買っていたことは、ユースフ・トパロウルの目撃したところであった。リン・パオが生涯に関係した女性は、後世の伝記作家によると、姓名が判明しているだけで九四人、実際にはその一〇倍に達するとされるが、彼女はそのなかでも最も知名度の高い五人の女性のひとりだった。ついには結婚はしなかったが、リン・パオの死をみとり、葬儀と埋葬をおこなったのは彼女である。
国防委員は、高級士官用のクラブでフロリンダと食事中のリン・パオを発見し、無私の情熱に燃えて同席を求めると、祖国の危機について熱弁をふるった。
「もしここで敗北すれば、建国の父、アーレ・ハイネセン以来、一世紀余にわたる吾々の努力は水泡に帰する。人類社会は再び専制政治の支配するところとなるのだ」
「一大事ですなあ、そいつは」
いっこうに危機感のない表情でリン・パオは言い、ウェイターを手招きすると、デザートとしてすぐり[#「すぐり」に傍点]のパイとクリームティーを注文した。
「食欲があってけっこうだね」
国防委員はへたな皮肉を言った。食事を単なる日課と考えないリン・パオは、片頬をなぐられたことに両頬をなぐりかえすことで報いた。
「食いたいものも食わせてくれないような国家や社会のために死ぬ必要はない。それが民主主義の原則です。ちがいますか?」
「君の論法は極端すぎる」
「極端化は象徴化につながり、事態の本質を明らかにしますよ」
「そうかね、私には、君が民主主義よりデザートを重んじているようにしか聞こえないがね」
「民主主義は食えませんが、デザートは食えますね、それもおいしく」
国防委員はテーブルに掌《てのひら》をたたきつけると靴音も荒く立ち去った。リン・パオは軽く唇をゆがめた。フロリンダが視線を国防委員の背中から愛人の顔に移した。
「いいの? あんな愛想のないこと言って」
「愚問に愚答で応じただけだ。政治家におべっかを使う分までの給料はもらってない」
フロリンダは形のいいあごに両手をあて、あらためて愛人を見つめた。
「あなたはユースフ・トパロウルが戦闘的で協調性にかけると主張するけど、あなただって似たようなものね。舌を出すにしても、相手の後姿にむかってするていどの器用さはあってもいいのじゃなくって?」
「あんな野郎といっしょにしないでくれ。すくなくとも、おれは相手を選んでひねくれることにしている。奴のは無差別だ」
「悪いほうに選んでいるとしか思えないわね」
「見解の相違だな」
「とにかく、あんな野郎、とやらとはコンビを組むんだし、仲よくすればいいでしょうに」
デザートが運ばれてきたので、リン・パオの反応はやや遅れた。
「いくら味方同士仲よくしたって、負けるときは負ける。無意味だね」
「勝つために我《が》を捨てて団結しようとは思わないの?」
「勝つために、か……」
リン・パオはすぐり[#「すぐり」に傍点]のパイを勤勉な胃袋へ落としこむと、満足の態《てい》で腹をさすった。愛人の質問に対して答えを返したのは、クリームティーを飲みほしてからである。
「これから先、帝国との戦争は何世代にもわたってつづくだろう。一朝一夕に決着《かた》のつくことじゃない。その間、勝つために国民全部が我慢を強《し》いられるってのは、あまりぞっとしない図だろう?」
「たしかにそうね」
フロリンダはうなずき、手をつけないままのクリームティーをながめていたが、不意にくすくす笑いだした。
「考えてみると、あなたとユースフ・トパロウルは、けっこういいコンビだと思うわ」
「おい、よしてくれ、フロリンダ」
「トパロウルもそう思ってるでしょうね。じつはそこが肝腎《かんじん》なのよ。おたがい、まったくいやな奴だけで、あいつをコントロールできるのはおれしかいない、おれ以外の誰にもつとまらない――そう思っていればプライドも傷つかないわね」
「ふん……」
珍しく憮然とするリン・パオだった。
統合作戦本部ビルの一室で、リン・パオとユースフ・トパロウルはデスクワークに専念していたが、総司令官が口のなかで何やらころがしているようすに、気にした参謀長が声をかけた。
「何をしゃぶってるんだ、さっきから」
「性病治療用の舌下錠《ぜっかじょう》さ」
リン・パオを見やったユースフ・トパロウルの目つきは、殺人未遂現行犯のそれに近いものだった。
「このさい言っておくが、おれはあんたのそういうところが気に入らないんだ! 不謹慎だとは思わないのか!」
「冗談だよ、トパロウル中将。ちょっとしたユーモアのつもりだったんだ。ただのビタミン剤さ。つまり……」
「あんたにユーモアの何たるかを説教してもらおうとは思わん。冗談を言っているということは、百も承知している。おれが腹だたしいのは、あんたの冗談に品がなさすぎるってことなんだ!」
「……」
「何とか言ったらどうだ」
「一言もないんで黙ってたんだが、気にさわったかな」
ユースフは開きかけた口を閉じると、もはや皮肉も言わず、毒舌もはかず、黙々と仕事に没頭した。
「戦場の外で勝敗を決するものは、情報と補給である」
統合作戦本部長ビロライネン大将はそう言明し、後方勤務本部を設置して自ら初代本部長を兼任し、若い指揮官たちが戦場で充分に手腕をふるえるよう環境整備に尽力していた。
ウォード、オレウィンスキー、アンドラーシュ、エルステッド、ムンガイらの提督たちは、いずれも総司令官と同年配で、勇気といい用兵術といい、まず俊秀と称してよい人々だった。問題があるとすれば総司令官と総参謀長に対する服従度であったろう。リン・パオとユースフ・トパロウルのコンビが彼らを指揮すると告げられたとき、ウォードはうなり声をあげ、オレウィンスキーは低く舌打ちし、アンドラーシュは肩をすくめ、エルステッドは天をあおぎ、ムンガイはため息をついた。彼らの忍耐心にとって、これは小さからざる試練であった。彼らは私的感情より公的義務を優先させるだけの良識をそなえてはいたが、評議会議長、国防委員長、統合作戦本部長といった人々が連日、「君たちを頼りにしている」と言わなければ、戦いへの意欲を失ったかもしれない。
銀河帝国は開祖ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの即位から三世紀以上を経過し、第二〇代皇帝フリードリヒ三世の統治下にあった。彼は先帝レオンハルトの甥《おい》であり、実子のない叔父の養子となって至尊《しそん》の冠を頭上にいただいたのである。レオンハルトは皇后クリスティーネの強い勧めによって甥を養子にしたのだが、直後に急死したことから、皇后と後継者との間に不倫な関係の存在をささやく者も当時すくなくなかった。
皇帝フリードリヒ三世には四人の子息がいる。長男グフタスが皇太子に立てられてはいるが、きわめて虚弱な体質で、皇太子としての国事行為どころか、日常生活を尋常に送る能力すら欠けていた。近衛旅団の閲兵式をおこなう最中、貧血をおこして倒れたこともあり、巨大な帝国の専制者としての資質に多くの臣下は不安を覚えている。
次男マクシミリアン・ヨーゼフは、知性の点でも健康の点でも水準以上だったが、母親が下級貴族の娘で、門閥貴族のうしろだてがまったくないため、半ば自動的に後継者レースからは除外されていた。当人も政治的な野心を見せず、地方の小領主として飼い殺しの生涯を送る自らの運命に安住しているようである。
三男ヘルベルトは、知性はともかく、健康と野心の点では申し分ない存在だった。行動力と積極性に富み、必要に応じて陽気にも謹直にもなることができた。友人や部下に対しては、いささかの押しつけがましさはあるにしても、親切で気前がよかったから、人望にもまずまず恵まれていた。その人望は、特に酒を飲んだときなどは一段と高まった。なぜなら、心地よく酔いがまわると、この貴公子は、自分がより高い地位と強い権力を持っているならもっと友人たちに豊かな友情の証《あかし》を示してやれるのに――と残念がってみせたからである。
四男のリヒャルトは、すぐ上の兄と烈しく憎みあっていた。彼とヘルベルトは、血統というあいまい[#「あいまい」に傍点]なものが確かに存在する場合もある、という事実の生きた例証であって、性格も容姿も、おたがいにうんざりするほどよく似ていた。鼻がやや大きすぎるのを除けば、まず美男子といってよく、体格も姿勢もりっぱだった。思考法の似ている点からいえば、ふたりとも、至高の地位と最大の権力とは自分にこそふさわしく、自分の兄弟には荷が重すぎる、と、かたく信じて疑わなかった。自分がその地位と権力を継承すべき正当な理由があるか否か、などという疑問は感じたこともなかった。彼らにとって、権力とはゴールデンバウム家の附属物、あるいは先祖代々つたわる調度品のようなもので、本来一つの血統によって独占されるべきものではない、などとは想像の外にあった。もしそういう考えを公然と表明する者がいれば、社会秩序維持局の無慈悲な手によって人間としての権利をすべて奪われることであろう。彼らの偉大な先祖ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが子孫のために遺した帝国は、その領域ほどに広大な精神によってささえられてはいなかったのだ。
「これは大規模な狩猟以上のものではない」
御前会議において「叛乱軍の不法占拠地」への遠征が決定されたとき、軍務尚書ファルケンホルン元帥はそう述べた。ことさら傲然として言い放ったわけではなく、元帥としては単に事実を指摘しただけのつもりであった。百年以上も昔に流刑地から脱走した共和主義者どもの子孫が、宇宙の片隅に逃れて別天地を気どったところで、何ほどのことがあるというのか。
それは帝国の重臣たちに共通する考えではあったが、状況の変化によってその表現は多少の修正を必要とすることになった。皇帝フリードリヒ三世の三男、ヘルベルト大公殿下が遠征軍の総司令官に任命されたからである。
これは、皇帝が病弱な皇太子にみきり[#「みきり」に傍点]をつけ、あらたな後継者候補に武勲の箔《はく》をつけてやろうとすることを暗示するものであったから、重臣たちとしてはその意を迎える必要があった。「大規模な狩猟」は、それ以後、「史上空前の壮挙」という美称で呼ばれることになる。皇帝の意思は、この巨大な専制国家においてはすべての法律と条例に優先するものであり、服従だけが存在を許される選択であった。
ところが、皇室から反対者が出た。皇帝の異母弟で帝国軍上級大将の階級をもつバルトバッフェル侯ステファンが、御前会議の席上、この遠征計画に手きびしい批判をくわえたのである。
「今回の遠征には三点の不利がある。第一点は時間の不利である。準備の時間が不足している。必勝を期すなら、まず調査と情報分析に時間をかけねばならないが、それは敵に防戦準備に必要な時間を余分に与える。この避けがたいパラドックスを、どう整合させるのか。第二は地理上の不利である。わが軍は一万光年の距離を遠征しなくてはならないが、大軍の補給を考えただけでも、その困難は目に見える。加えて、敵はおそらく精密な星図を持ち、地理に通暁しているであろうのに、わが軍は不案内な敵地で戦わねばならないのだ。第三に、人的資源の不利である。このように重大かつ困難な遠征の指揮を、熟練した将帥にではなく、戦争とカード遊びの区別もつかない苦労知らずの驕慢児にゆだねるとは何ごとか。公私の差をわきまえず、国運と家運を同一視し、もって国家と人民を害することのないよう、本職は切に希望するものである」
この発言は会議全体を震撼《しんかん》させ、若い大公の怒気を強烈に刺激した。
「叔父上は、私を指《さ》して驕慢児と言われるか。不当な言いようをなさるには、たとえ一族の長老とて容赦できぬ」
長老と呼ばれるには若すぎる叔父は、一〇歳も年齢のちがわない甥を鋭く見すえた。
「ヘルベルト、卿がふたりの兄をさしおいて帝位に就《つ》きたいと望むなら、今回の遠征を指揮しようなどと考えぬことだ。卿の生命《いのち》とりになること必定だぞ。帝位をほっするほどであれば、せめて自分に何ができて何ができぬか、そのていどの判断力は具《そな》えることだな。市井の庶民なら家族と友人に迷惑をかけるていどのことだが、皇帝ともなれば、その影響は数百の恒星世界におよぶ。いたずらに武勲を誇るより、武力を濫用せぬことをこそ心がけるべきではないのか」
こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の血管を怒張させたまま、ヘルベルトは反論できない。
美食と荒淫でたるんだ頬の肉を、不興げに慄《ふる》わせながら、皇帝は場違いなまでに剛直な異母態を見やった。
「では、どうしたがよいと卿は言うのか」
「どうしても彼ら叛徒たちとの戦いが避けられぬとしても、すでに一世紀以上も放置していたのです。今日に至って、あえて短兵急《たんぺいきゅう》に事態の解決をはかる必然性は見出せません。わが帝国の領域内に軍事拠点の構築し、彼らの侵入をふせぐとともに、将来の遠征に際しては補給および通信の中継地となせばよろしいでしょう。さしあたりこちらからの攻撃は不要、境界を侵させねばすむことです」
「領域内と言われたか、叔父上」
侯爵を見やるヘルベルトの眼光に毒がある。
「聞き捨てならぬおっしゃりようだ。宇宙は広大無限だが、そのことごとくは銀河帝国の領域であり、皇帝の統治するところ。ゆえに境界などありえようがない。叔父上は、銀河帝国が全宇宙唯一の政体であり、皇帝が全人類の統治者であるという真理を否定なさるのか」
明らかに論点をずらした甥の恫喝《どうかつ》は、叔父の苦笑に迎えられた。
「他人の意見のあげ足をとることが、皇帝の資格とでも教えられたか。ゴールデンバウム家の将来が楽しみなことだな」
「もうよい、ステファン、それ以上の発言を禁じる」
絶句した息子にかわって、皇帝が批判者の口を封じた。その表情と口調によって、重臣たちはバルトバッフェル侯の末路を確信した。
この場合、剛直さは罪であった。正しいことを、堂々と言ったところで、誰も救えはしないのだった。皇帝が怒気を発し、勇敢な発言者が酬《むく》われることなく破滅し、人々の口が以後いっそう重くなるだけのことだ。
くわえて、正論の存在が、かえって強硬論の加速をうながすことがあるとすれば、このときがそうであった。妥協も曖昧さもないバルトバッフェル侯ステファンの意見はヘルベルトと彼の父親に忌避されたのみならず、他の重臣たちの賛同を得ることもできず、孤立し、排斥された。ステファンは軍職を返上して宮廷をしりぞいたが、追いうちをかけるように帝国首都への立ち入りを禁じられ、爵位を男爵に下げられたうえ、領地の八割を没収された。彼は削減された領地の山荘に引きこもり、二度と世に出ることなく、三年後に病没する。
銀河帝国が自由惑星同盟の勢力範囲との境界点にイゼルローン要塞を建設し、ステファンの先見を無言のうちに認めるのは、半世紀の歳月が経過した後のことである。
遠征の準備は急速に進められた。あるいは皇帝と大公の、ステファンに対する面《つら》あてであったかもしれない。「不逞《ふてい》な叛徒ども」を征討するために動員された兵力は、将兵四四〇万八〇〇〇、跳躍《ワープ》能力を有する大小艦艇五万二六〇〇隻におよび、この点、「史上空前の壮挙」と呼ばれるのも過当な表現ではなかった。
皇帝は、宮廷を追われた弟の意見に、多少はうなずくべき点を見出したらしく、息子を補佐する幕僚団を老練の提督たちでかためようとした。だが、それは制肘《せいちゅう》をこのまないヘルベルトの反発を買った。全能かつ不可侵であるはずの皇帝は息子に譲歩し、半数の人選を彼にゆだねた。結果は、心ある重臣や提督たちの眉をひそめさせるものだった。ヘルベルトは、彼のサロン仲間たちに気前よく官位をばらまき、軍服を着るのは生まれてはじめてという二〇代の将官を四人、左官を八人、誕生させたのである。彼自身は帝国元帥となった。黒を主として銀色を配した華麗な軍服は、若い大公の洗練された美的感覚を、充分に満足させたのだった。
帝都オーディンを出発して二五日後、帝国軍は後に「イゼルローン回廊」と呼ばれるようになる宙域にはいった。それは複数の意味で危険な地帯だった。まず自然条件がきわめて悪く、変光星、異常な重力場、赤色巨星などがひしめくなか、細い安全通路を手さぐり状態で前進せねばならなかった。かつて、自由惑星同盟の建国者たちは長征のさなか、過半の同志をここで失ったのである。いまひとつは、いまや敵地に近く、いつどこから敵の伏兵がゲリラ戦をしかけてくるか、という危険であった。
総司令官ヘルベルト大公殿下は、帝都を出発した当時は、よい意味での昂揚感と緊張感を有していたが、二カ月近くにわたってそれを持続させるのは容易なことではなく、すでに彼の精神と肉体は弛緩《しかん》の坂をころげおちつつあった。敵地に近いことと、航路が安全とは言えないことを聞くと、そのときは一時的に心身が活性化するのだが、一日たつと、それも忘れさってしまい、軍服を着用することすらわずらわしがって、環境が容認するかぎりの自堕落さに首までつかってしまうのだった。
幕僚の半数はヘルベルトの個人的な友人であったから、むしろ進んでそれに荷担し、司令部を、若い貴族たちの遊興の場に変えてしまった。総司令部は活気にあふれた。本来、軍隊や戦場でありうべき活気ではなかった。陽性で、機智と教養に満ち、そしてどこか空虚だった。
残る半数の幕僚たちは、帝国内で発生した大小の叛乱、動乱、海賊行為、民衆蜂起などで実践の経験をつんだ軍事活動の専門家たちであり、総司令部のサロン化をけっしてこころよくは思わないまでも黙認していた。じつのところ、大公殿下がお飾りでいてくれたほうが、戦いやすくもあり、彼らの軍功のためでもあった。中途半端な知識と強大な権力をもつしろうと[#「しろうと」に傍点]ほど迷惑な存在はないのである。
帝国軍には婦人兵はいなかったから、幕僚たちは同盟軍のリン・パオの上司や部下たちのように風紀の乱れを心配する必要はなかった。もっとも、一部の苦労性の者は、わがままで気まぐれで精力的な大公殿下が、女性の代替品を美貌の少年兵に求めるのではないか、と危惧したが――なにしろ「兵営の恋」などという表現が何千年も昔からあることで――どうやら杞憂であったようで、大公殿下は、もっぱら酒と賭博と射撃練習、それに兵士たちの格闘技訓練の見物、とりまき[#「とりまき」に傍点]が持ちこんだあやしげな立体VTR《ソリビデオ》の鑑賞などで時間をつぶしていた。ときおり生じる事故も、彼の興をそそった。
艦艇どうしの衝突、磁気風、重力風、隕石雨など、幕僚たちの頭痛の種が、彼にとっては興味の焦点となった。彼はそれらに接するのに、最初は旗艦のスクリーンを使ったが、やがて専用のシャトルを必要以上に飾りたてて、事故の現場を訪問するようになった。大綱殿下の「視察」が完了するまで、遠征軍は前進をやめねばならず、たまりかねた幕僚たちは、レトリックのかぎりをつくして、大公殿下の関心を戦場へと向けねばならなかった。皇帝陛下は、殿下が凱旋なさる日を心待ちでいらっしゃいます――などという類《たぐい》の台詞《せりふ》を考えるのに、彼らは艦隊運用に匹敵する苦労を味わった。そう言われると、ヘルベルトはさすがに父親の期待に思いを致し、前進を命じるのだった。
「要するに、殿下にとってはすべてが退屈しのぎのイベントなのだ」
幕僚のひとりインゴルシュタット中将が友人のハーゼンクレーバー中将にささやいた言葉は、ヘルベルトの現実感覚の欠落を、的確に表現するものだった。彼のように認識力にすぐれた人物がいないわけではなかったが、ヘルベルトに苦言を呈する幕僚はあらわれなかった。バルトバッフェル侯ステファンが宮廷を追われた理由を一同は知悉《ちしつ》しており、自己の地位、あるいは生命を賭してまで、彼に直言しようとする者は、もはや存在しなかったのである。
これは、ひとつには、遠征軍の勝利を疑う者がいなかったことにもよる。悲観的な者は苦戦を予想したかもしれないが、敗北するとまで考えた者はひとりもいなかった。三世紀以上にわたって銀河帝国は人類社会に君臨し、その間に多くの叛乱や民衆蜂起を粉砕し、帝国は永遠にして不滅のものと謳《うた》ってきたのであり大半は貴族である幕僚たちにとって、それは真実であった。バルトバッフェル侯ステファンが異端者とならざるをない理由がそこにあった。
「敵艦隊発見!」
回廊付近を哨戒していた駆逐艦ヤノーシュから同盟軍総司令部へその報がはいったのは、七月八日である。以後、報告はとぎれなくはいり、帝国軍が同盟軍の二倍の数であることは、一〇日に至って確認された。
宇宙歴六四〇年、帝国歴三三一年の七月一四日、帝国軍と同盟軍はダゴン星域において戦闘状態にはいった。
とはいえ、大艦隊どうしが正面からぶつかりあったわけではない。先遣の分艦隊どうしが三〇〇〇万キロの空間をへだててたがいの所在を探りあてたものの、その兵力までは確認できず、半ば逃げ腰で発砲し、応戦されて逃げながらさらに発砲し、おたがいに一艦の損害も出さず本隊へ帰還したのである。
「わが軍、損害なし」
の報を受けて、リン・パオは苦笑した。状況が推察できたからであった。最初からはでに撃ちあうより、手さぐり状態になるのが当然のことである。なるべくなら、遭遇戦を本格的な戦いに発展させたくないのが、用兵家の心情である。計画性を欠いた戦いで、たとえ勝っても、完全な満足はえがたいのだ。
これは人類が西暦《AD》を廃して宇宙歴《SE》を用いるようになってから最初の恒星間戦争であった。西暦二八〇一年――宇宙歴一年に銀河連邦《USG》が誕生してから六世紀余の長きにわたり、人類社会は戦争を経験していない。圧政があり、虐殺があり、武力による反抗があり、海賊行為とそれに対する鎮圧行動があり、流血の量は少なくなかったが、正規軍どうしの衝突は絶えて久しかった。もっとも、帝国から見れば、これはあくまでも叛乱に対する討伐《とうばつ》行動であって、主権国家どうしの武力衝突とは言えなかった。しかし、自由惑星同盟にとって、これは建国以来最初の対外戦争、そして最大の危機であった。
リン・パオは旗艦サンタイザベル内の総司令部に幕僚を集めた。ユースフ・トパロウルをはじめとする参謀チームは最初から総司令部にいるが、ウォード、オレウィンスキー、アンドラーシュ、エルステッド、ムンガイらの各艦隊司令官はシャトルでやってこなくてはならない。めんどうではあるが、傍受される危険を考慮してのことであった。
白く五稜星を染めぬいた黒ベレー、同じく黒い軍用ジャンパーとハーフブーツ、アイボリーホワイトのスカーフとスラックス――その後長きにわたって使用される同盟軍の軍装は、この戦いから用いられたとも言われるが、記録が不備なため、その真偽は確定せず、いくつかの異論もある。だが、そうではないとしても、さほど異なったデザインの服が着用されていたわけでもないようである。服の機能性というものは、惑星間旅行時代のごく初期には極限に達し、以後ほとんど変化を見せていないし、ある小説化が言ったように、どだい人間の体型が変化しない以上、服も変化しようがない。袖を三本にしたり、尻尾のために穴をあけたりしても無意味なのだ。
リン・パオは黒ベレーをぬいで、意味もなく両手でもてあそんでいたが、やがて幕僚たちに向かって言った。
「いまさら言うのもおかしいが、古来、補給線が長いがわの軍隊が敗れるというのは軍事史上の常識だ」
「補給線の短いがわが、戦術レベルで致命的な失策を犯さないかぎりはな」
間髪いれずユースフ・トパロウルが応じた。ひやりとしたのは他の幕僚たちであって、言った者と言われた者とは平然としていた。
「わが軍には地の利がある。この星域に関して、帝国軍とは比較を絶する知識を有している。この点は何ぴとも異議がないだろう」
「……異議なし」
ユースフが沈黙しているので、アンドラーシュが総司令官に応えた。
「けっこう。そしてわが軍は数において劣る。これもまた事実。しかし、地の利を生かして、実働率を高めることで、それをおぎなうことができる。だからこそ、このダゴン星域を戦場に選んだ。敵にとって、ここはお化け屋敷も同様だが、吾々にとっては遊びなれた庭先だ」
「とんでもない宙域にさそいこまれたぞ。これは巨大な迷宮だ。地の利、吾《われ》にあらずということか」
インゴルシュタットは吐息した。作戦指導の事実上の責任者となった彼が、宮廷サロンの分会場と化した総司令部を離れて、戦艦ゲッチンゲンの第二艦橋に執務室も設け、情報の収集と分析に努力をかたむけていた。その結果、彼の内心の秤《はかり》は悲観のがわに傾かざるをえなかった。判明しただけで三重の小惑星帯が太陽をとりかこんでいる。太陽は壮年期だが活動が不安定で、しかも電磁波の発生量がきわめて多い。さらに帝国軍にとっては有史以来はじめて到達した星域であり、このような場所で大軍を有機的に運用するのは困難をきわめるだろう。それに比較して、敵はすくなくとも帝国軍よりは豊富なデータを有している。補給線も短い。それらを思案すると、負けはしないだろうが、容易ならぬ戦いになるであろうことは想像がつく。
こちらからしかけることはできない、と、インゴルシュタットは考えた。全軍を高密度に集中配置し、敵の来寇に対して反撃する戦法に徹し、くりかえして敵を消耗させ、最終的に全兵力による決戦を強《し》いることだ。とにかく兵力を分散してはならない。
七月一六日。最初の戦術的勝利は帝国軍の手に帰した。帝国軍の前面に進攻したオレウィンスキー艦隊は、帝国軍が重層的に構築した重深陣《じゅうしんじん》にさそいこまれ、艦列が伸びたところを挟撃されたのである。ウォードとエルステッドが急行し、敵陣の一角を突き破ったため、全滅はまぬがれたが、オレウィンスキー艦隊は兵力の三割を失った。
帰還したオレウィンスキーを、リン・パオは一言もとがめようとしなかった。
「戦術レベルでの敵の力量はよくわかった。正面から戦っては出血量が増えるだけだ。戦いはこのさい、なるべく避けたがいいな」
若い勇将ネイスミス・ウォードが眉をしかめて総司令官を見た。
「戦わなければ、なるほど、負けはしないでしょう。しかし、勝つこともできませんぞ。敵が決戦を断念して撤退してしまったら、どうなさるのです?」
「それでいいのさ。吾々の目的は勝つことではない。負けないことだからな。敵の進入を阻止さえすればいい。なぐりつけて追い返さなくても、敵が腹をへらして家へ帰ってくれれば重畳《ちょうじょう》きわまりないさ」
ウォードの水色の瞳は、司令官の覇気の欠如をはげしく非難していたが、リン・パオは器《うつわ》が大きいのか、あるいは鈍感なだけなのか、鋭利な視線を平然とうけとめている。
「司令官にひとつうかがいたいものですな。勝つことと負けないこととは、どこがどう異なるのです?」
リン・パオは悠然と答えた。
「辞書をひくんだな。他人に訊《き》いてばかりいたんじゃ勉強にならんよ」
ウォードは無言でひきさがったが、リン・パオの視界から消え去るまでに、床を三回、ドアを一回、音高く蹴りつけたのだった。
緒戦《しょせん》の勝利は帝国軍の意気を高めた。総司令官ヘルベルト大公殿下が、アルコール臭を一声ごとにまきちらしながら将兵の勇戦をたたえ、勲章と昇進を約束し、全員の食事にワインをつけさせた。大公は、兵士に対してもけっして吝嗇《りんしょく》ではなかった。
「兵士たちが一挙に活気づいた。勝ったことがよほどうれしいと見える。やはり勝利が一番の薬だな」
「そいつはすこしちがうな」
インゴルシュタットの何気ない感想に、ハーゼンクレーバーは異をとなえた。
「どうちがう?」
「勝ったのがうれしいのじゃない。戦う相手がいたことがうれしいのさ。戦いを待つ気分にくらべたら、戦い自体は恐ろしいものじゃない」
ハーゼンクレーバーの言いようはいささかうがちすぎのようにインゴルシュタットには思えたが、未知未踏の敵地に進攻した軍隊の心理の一側面を、確かについているのだった。
いずれにせよ、一度小さな戦闘に勝っただけで油断はできない。帝国軍の戦力を測るために攻撃であった可能性もある。このさき数日はなお慎重であるべきだろう……。
ところが、翌一七日、帝国軍総司令官ヘルベルト大公が次のような命令を下したのである。
「敵は畏怖するにたらず。何をもって逡巡《しゅんじゅん》の理由となすや、全軍ただちに攻勢に出《で》るべし。もって皇帝陛下の敵を族滅《ぞくめつ》し、帝国の辺境を安寧におかん」
インゴルシュタットは呆然とした。
帝国の遠征軍総司令官ヘルベルト大公に、剛直な叔父が指摘した以外の欠点があるとすれば、感情家で精神が不安定なことだった。順境にあるときは度をこして楽観的になり、逆境におちいれば不安と焦慮にさいなまれたあげく怒気を爆発させてしまう。しかも、ヘルベルトのこれまでの生涯で逆境といえば、たかだか狩猟でみごとな毛並みの銀狐を撃ちそこねたとか、カード遊びで三日つづけて最下位に終わったとか、次兄マクシミリアン・ヨーゼフの侍女ジークリンデに声をかけて肘鉄《ひじてつ》をくらわされたとかいうレベルのものであり、およそ人間の生死にかかわるような深刻なものではなかった。
皇帝の家に生まれれば、平民にはない苦労もある。ことにこの一世紀ほどは、帝位をめぐる陰謀や策略が皇帝の代替わりごとに発覚し、先帝レオンハルト二世をふくむ三人の皇帝、五人の皇后、三人の皇太子の死について不穏な噂がささやかれていた。至高の地位につきそこねれば、宮廷や帝都《オーディン》はおろか、人生の舞台そのものから追放される恐れさえあったのだ。しかし、いまや彼と玉座との間には現に帝位についている父親がいるだけだった。兄も弟も、配慮を必要とする競争相手ではなくなりつつあった。自分の優位を考えるとヘルベルトは頬の肉がゆるむのを感じ、あわてて引きしめた。彼は、父親のように、ある種の犬を思わせるたるんだ頬肉の持ち主にはなりたくなかった。
ふたりの兄について、ヘルベルトは比較的、寛大な気分になれた。長兄グスタフはどうせ長生きできぬ身体だから、せいぜい安らかに死なせてやろう。次兄マクシミリアン・ヨーゼフも分《ぶん》を知っているようだから、こちらから進んで害するにおよぶまい。ただひとつ、次兄の侍女ジークリンデには、皇帝となる男をないがしろにした罪の報いを思い知らせてやる必要があるだろう。
問題は弟のリヒャルトである。
この弟に対しては、ヘルベルトは兄弟らしい感情をまったく抱くことができない。顔や性格の相似は、憎悪と嫌悪をつのらせる原因にしかならなかった。おそらく弟のほうでもそうであろう。いずれか一方が帝位につけば、他方は抹殺される。ともぐい[#「ともぐい」に傍点]めいたその道しか与えられていないように思われるのだ。だがその道もヘルベルトに対して門戸を開いた。すくなくとも、遠征開始の時点では、父は三男を選んで四男を捨てたのだ。いまごろリヒャルトは、むなしく帝都にあって兄の壮挙を思い、嫉妬と敗北感に慄《ふる》えているであろう。はやく凱旋して、奴が卑屈に勝者に迎合するところを見てやりたい……。
緒戦の勝利に節度を失って昂揚したヘルベルトは、こうして軍事常識を無視した攻勢を命令したのである。幕僚たちは暗然としながらも、服従せざるをえなかった。
「帝国軍が動いた!?」
一八日午前、その情報がもたらされたとき、リン・パオはトーストを口もとに運びかけた手を空中で急停止させた。
「ばかな、動くはずがない」
ユースフ・トパロウルの声も動転している。この時点で、彼らはインゴルシュタットに代表される帝国軍の正統的な戦法を読んでいた。敵中にあって地理に暗く、補給や通信に不安のある帝国軍としては、退路を確保しつつ全艦隊を密集させて同盟軍の攻撃に即応する態勢をとり、全兵力どうしの正面展開へ持ちこもうとするはずである。同盟軍がそれに乗らなければ、補給物資が欠乏した時点で撤退するしかない。いずれにせよ、艦隊を放射状に分散出撃させるなど、ありうべきことではなかった。積極の度をこして、無謀というべきである。もし無謀でないとするなら、帝国軍はこちらの予想よりはるかに正確に、星系の地理を把握しているのか……?
「参謀長、そう気を落とさないでくださいよ」
幕僚のオルトリッチ少佐が、旗艦の自室で考えこむユースフに、無邪気なほど明るい声をかけた。
「昔からよく言うでしょう。中途半端な失敗よりは、完全な破滅のほうがましだって」
「聞いたことがないな。偉大な敵より無能な味方のほうが憎い、という台詞《せりふ》なら知っているが」
「初耳です。誰が言ったんですか」
「考えてみろ」
本気になって考えこんだ若い少佐を部屋から追い出すと、ユースフ・トパロウルは氷のとけかけたアイスコーヒーをにらみつけながら思案にふけった。悪寒が背すじを高速度で上下していた。
結局、ユースフが肥大する不安をねじふせるには、いま考えてもどうにもなるものではない、状況の変化を待とう、という居直りが必要だった。
「総司令官は?」
部屋を出たユースフは、艦橋へと歩きながら、途中で出会ったオルトリッチにそう訊ねた。
「まだ朝食をおとりになっているところです。メルバトーストを六枚、ラム酒いりのママレードをたっぷり塗って……」
「朝っぱらからトーストを六枚だと!? あいつの胃袋は牛みたいに四つあるのか!」
「メルバトーストですから……」
「それがどうした」
「普通のパンより薄いんです」
それで罪が軽くなるか、と応じかけて、ユースフは口を閉ざした。朝食を摂《と》ることはべつに罪ではない。低血圧ぎみでいつも朝食を半分以上食べのこす彼にしてみれば、朝から大量に肉とパンをたいらげるリン・パオの食欲は動物的なものに思えるが、道徳的非難の対象となるものではないのだ。「ぼやきのユースフ」は珍しく自制し、総司令官に対する悪口雑言を胸中の抽斗《ひきだし》にしまいこんだ。
「まあ、奴に食欲があるうちは、わが軍も大丈夫か……」
そうも思い、そう思っている自分に気づいて、ユースフ・トパロウルはいささかおもしろくない気分になっていた。
帝国軍の提督たちにとっては、事態は「おもしろくない」ではかたづかなかった。
総司令官ヘルベルト大公の命令は、要約すれば、「各艦隊は各方向へ進発して敵軍を捕捉し、これを撃滅せよ」というものであって、戦略構想などと呼びうる水準のものではなかった。戦術レベルの判断が各艦隊指揮官にゆだねられているとはいっても、星図すら整備されていない状況で敵地での行動を強制された彼らの立場は悲惨なものであった。しかも、艦隊相互の連絡、通信、情報交換はきわめて困難であった。敵の所在が不明である以上、傍受を警戒せねばならず、そうなると味方との位置関係によって相対的に自己の所在を確認することもできない。さらには、本隊からの補給も思うにまかせず、帝国軍は自ら求めて戦力を無力化したようなものであった。
「ダゴン会戦において、吾々は、失敗し、誤断し、逡巡した。それでも勝てたのは、敵が吾々以上に失敗し、誤断し、逡巡したからである」
ユースフ・トパロウルの後日の回想は、謙虚の意志によるものではない。事実、七月一八日、同盟軍総司令部は情報の少なさに悩まされ、判断材料の不足に苦しんだ。とくに、帝国軍の常識外の動きには虚をつかれ、敵の行動がいかなる構想にもとづいているのか、見当をつけかねた。幕僚のなかには、帝国軍の大規模な増援部隊がダゴン星域に接近し、同盟軍の注意をそらすための陽動作戦がおこなわれているのではないか、と想像する者すらいたのである。
それでも、同盟軍の苦悩は、帝国軍に比較すればまだしもであった。すくなくとも、地理上の知識において、帝国軍とは比較にならなかった。
シュミードリン提督の艦隊では、指揮官が半ば呆然として主任のオペレーターに質《ただ》した。
「いったい敵はどこにいるのだ?」
この深刻な質問に対して、返ってきた答えは、さらに深刻だった。
「それよりも吾々がいったいどこにいるのか、そちらの答えを出すほうが、この際は急務であると心得ます」
いずれの艦隊においても、事情は似たようなものであった。帝国軍は、「遭遇戦における戦術的勝利を集積して、戦局全体の勝利を求める」という信じがたいほど粗雑な総司令官の発想にもとづいて行動しなくてはならなかったのである。
もしかして負けるのではないか――期せずして各艦隊指揮官の胸中にその考えが浮かび、彼らは戦慄を禁じえなかった。
一方、同盟軍のリン・パオはエルステッド提督を呼んで特命を与えた。エルステッドは先日、オレウィンスキーを帝国軍の手から救い出したのをはじめ、連日最前線にあって奮闘していた。
ユースフ・トパロウルであれば、「またおれに頼る」と憤慨するところであろうが、ヒュー・エルステッドは、困難な任務を与えられるのは信頼されている証拠だ、と考えるタイプの男だった。彼はつつしんで総司令官の指令を受領し、艦隊をひきいて進発した。
同盟軍本隊と帝国軍本隊が正面から激突したのは、その日正午である。双方とも奇策は弄《ろう》さず、帝国軍は凸陣形、同盟軍は凹陣形をとって砲戦を開始し、暗黒の空間を無数のビームの軌跡で切りきざんだ。
帝国軍総司令官ヘルベルト大公は、けっして臆病ではなかった。たとえそれが未経験なるがゆえの強みであったとしても、彼は味方の損害にひるまず前進命令をくりかえし、至近距離にビームのひらめきを見ても旗艦を後方にさげなかった。ために帝国軍の士気はたしかにあがり、一時、同盟軍を圧倒するかにさえ見えた。
このとき、アンドラーシュ中将の指揮する艦隊が、急進する帝国軍の右側面に砲火をあび、その足をとめた。激烈かつ効率的な砲火で艦列の中央部を切断されかけた帝国軍は、応戦しつつ艦列をととのえ、よく崩壊を防いだ。
「あのとき帝国軍は側面の損傷など意に介せず、前進をつづけるべきだったのだ」
と、後日、アンドラーシュは論評した。もし帝国軍がそうしていれば、陣容に厚みを欠く同盟軍は中央突破を許していたであろう。さらに帝国軍が背面展開にうつっていれば、包囲をはかった同盟軍が逆包囲され、勝敗はところを変えていたかもしれない。
しかし帝国軍は前進をやめた。アンドラーシュの側面攻撃が、壮大な包囲|殲滅《せんめつ》戦法の一環であり、ここで突出すれば縦深陣のただなかに引きずりこまれるのではないか、と危惧したのである。幕僚たちの意見に、このときはヘルベルトもしたがった。遠征の開始時において同盟軍を過小評価した帝国軍は、このとき逆に敵を過大評価し、勝利の女神がさしのべた手を自分のほうから振りはらってしまった。
帝国軍につれなくされた勝利の女神は、だからといってすぐに同盟軍の腕のなかへ飛びこんではいかなかった。
七月一八日のリン・パオは、戦術レベルの対応においては的確な指令を出しつづけ、戦線を有利に維持したが、戦略レベルでは決断を欠き、全面攻勢に出るタイミングをつかめないでいた。ユースフ・トパロウルも極度の食欲不振で精彩がなく、口のなかで何やらつぶやきながら事務的な処理をおこなうだけで、総司令部の雰囲気ははなはだ暗かった。総司令部に定時連絡をおこなったアンドラーシュ提督がその陰気さにあきれ、かつ立腹して、
「貴官らは辞表を用意されよ。本職は遺書を懐中にするのみ」
と激語したのは、その日一七時三〇分のことである。日常なら、この種の発言に対して、
「えらそうなことを言うのは給料分の仕事をしてからにしろ」
と毒づくユースフが、一言もやりかえさず沈黙をもって聞き終わり、それを見たオルトリッチ少佐が、これはいよいよだめだ、と覚悟を決めたほどだった。
このとき、リン・パオとユースフも、敵を過大評価していたのである。つまり、帝国軍総司令部は自分たちと同等、あるいはそれ以上の能力を有し、軍事理論の上から至当の行動をとるもの、と彼らは考えていた。ゆえに、アクションに対するリアクションの巨大さを恐れて、大胆な行動に踏みきれないでいたのである。
だが、一夜あけた七月一九日、ふたりはある結論に達せざるをえなかった。それは仮説にすぎなかったが、これまで彼らがいだいていた固定観念にくらべて、説得力と論理的整合性においてまさっていた。リン・パオは参謀長をかえりみた。
「やっとわかった。帝国軍《やつら》はあほう[#「あほう」に傍点]だ」
ユースフ・トパロウルの返答は簡潔をきわめた。ただひとこと、彼は言った。
「賛成」
同盟軍はダゴン星域全体をA01からZ20に至る五二〇の宙域に細分し、それぞれの宙域の情勢をほぼ正確につかんでいた。一昨日来の帝国軍の動向を観察していると、G16宙域に終結していた兵力が、各処に分散をはじめ、リン・パオとユースフ・トパロウルもその意図を読むのにただならず苦心したのである。
しかし、いまでは理解できる。帝国軍の総司令官が戦いに未経験であり、理性より感情にもとづいて、この無意味な兵力分散をおこなった、ということが。
リン・パオは幕僚を集め、G16宙域に同盟軍全兵力の集中を命じた。
「では、他宙域の敵軍には、どのていどの兵力を振り向けるのか?」
この質問に対する総司令官リン・パオの返答は、幕僚たちに声をのませた。一兵も向けない、というのがその返答であったのだ。
「情報を総合するに、わが軍の総兵力は、かろうじてG16宙域の敵軍とて対抗するにたる。これが敵の本隊であることが確実である以上、わが軍に与えられた唯一の選択肢は、総力をあげてこれを撃つにある」
幕僚たちは納得した。たしかに、それ以外の戦法をとりようがないであろう。しかし、危惧を覚えずにいられないのも事実である。
「ですが、他宙域の敵軍が分進合撃法でわが軍の後背《こうはい》を突いたら、わが軍は挟撃され、退路を失って殲滅されてしまいますぞ」
ムンガイが指摘すると、総司令官はかるく唇の端をゆがめて見せた。
「そのときはしかたない、殲滅されるさ」
リン・パオの大胆さは、度がすぎたもののように見えたが、彼はこのときすでに翌日、さらに翌々日の戦闘について思いをめぐらしていたのである。
帝国軍のインゴルシュタット中将は、総司令官ヘルベルト大公の無能を見離したが、だからといって勝利への努力を放棄したわけではなかった。彼はいちじるしく制限された状況のなかで、最善と思われる戦法を選択した。各方面に分散した艦隊に一定範囲の宙域の戦闘を担当させ、本隊によってそれを集中制御し、必要があれば同時にUターンして、本隊を攻撃する敵軍の後背を突かせる、というものであった。じつはこれこそ、同盟軍がもっとも恐れたことで、その可能性があるうちはリン・パオもG16への兵力集中を決断できなかったのである。このため彼は数百の連絡用シャトルを集めて運行させたが、これは本隊に対して大規模にかけられた同盟軍の前面攻撃に応戦しつつ立案実行されたもので、インゴルシュタットの即応能力が卓絶したものであることを証明するものだった。成功すれば芸術と言われたであろう。
インゴルシュタットの状況判断と作戦指導は、用兵学の上でも完璧なものであった。ただし、実践的には何ら有益な結果を生まなかった。地理に関する情報が不充分で、それぞれが孤立した状態にある大兵力を運用するには、精密にすぎ、かえって不適切だったのだ。指令は敏速に発せられたが、伝達に時間がかかり、帝国軍の各部隊が位置確認に苦労しながら予定戦闘宙域に達したときには、そこにはすでに敵の姿はなく、困惑しているところへ新しい指令がとどき、動き始めるとべつの指令がもたらされる。こうして、帝国軍は敵の現在位置も判明できないまま、ダゴン星域周辺部を右往左往することになった。
後日の推定では、七月一九日一六時の時点で、戦闘状態にあった両軍の部隊は、同盟軍八〇パーセントに対し、帝国軍一九パーセントとされている。
「遊兵(実践に参加しない兵力)をつくるな」とは兵力運用上の重要な法則のひとつだが、帝国軍はそのタブーを犯し、同盟軍に時間差各個撃破戦法の甘い果実をむさぼらせる結果となった。
……とはいえ、同盟軍司令部も、満々たる自信をみなぎらせて作戦指揮にあたっていたわけではない。圧倒的な帝国軍の大兵力が一挙に戦闘宙域に殺到し、鉄と火の洪水によって同盟全軍を呑《の》みこむのではないか、という恐怖が幕僚たちの背筋にしがみついて離れようとしなかった。インゴルシュタットの戦法が成功していれば、彼らの恐怖は現実のものとなっていたところであった。
「このとき、総司令官リン・パオ中将と総参謀長ユースフ・トパロウル中将は毅然として動じる色を見せなかった。ために、幕僚たちも落ちついて各々《おのおの》の任にあたり、ゆるぎない信念をもって勝利へ直進しえたのである……」
とは、同盟軍史の伝えるところだが、この種の記録の通弊《つうへい》として、事実を美化し、過度の英雄賛美がなされている。
じつは、リン・パオは参謀長にこうささやいているのだ。
「おい、いったいおれたちは勝っているのか、負けているのか」
「勝っているでしょうな、いまのところは。しかし五分後は保証できませんね」
「では、なるべく長い間勝っていたいものだ」
「べつに長い間勝っている必要はないでしょうよ。最後の瞬間に勝ってさえいればね」
ふたりは一瞬、視線を交錯させ、それをはずして、たがいにあらぬかたを見やった。どちらが相手をよりいやな奴だと思ったかは、判定が微妙なところであった。いずれにせよ、両者とも大声でわめいたりはしなかったので、神話の成立する余地がそこに生まれたという次第だった。
彼らが、ようやく味方の優勢を確信するに至ったのは一六時をすぎたころである。同盟軍は前進し、帝国軍は後退していた。もっとも、帝国軍の後退は、分散した味方の来援を待つための戦略的なものかもしれないが、それならいっそう早目に手を打つ必要があるのだった。
「オルトリッチ、全軍に命令を伝達してくれ」
「攻勢ですか、総司令官閣下」
「ちょっとちがうな。そう、爆発的攻勢[#「爆発的攻勢」に傍点]というやつだ。こいつは、なかなかいい台詞だと思わないか?」
「はあ、なかなかいいですね」
文学的感受性に目隠しをかけて少佐は答え、具体的な批評を求められる危機を避けて、その場を離れた。
同盟軍は「爆発的攻勢」に出た。もともと数的に劣勢な同盟軍には、決戦時投入用の予備兵力などというぜいたくなものはなかったが、このときは文字どおり潜在能力のすべてをあげて戦ったのだ。
「一兵一艦たりとも、戦わざるなし」
と、同盟軍史が記しているのも、誇張とは言えない。帝国軍は押しまくられ、一時は前線の維持も危ういかと思われた。インゴルシュタットが、後方の予備兵力であるカウフマン艦隊の投入を考えたとき、ビューロー提督の艦隊が同盟軍の左側面にまわりこみ、それに牽制された同盟軍はスピードダウンせざるをえなかった。
このとき、帝国軍は当面の危機こそ脱したかに見えたが、じつはまたも勝機を逸したのだ。カウフマン艦隊に後方で遊撃態勢をとらせることなく、ビューロー艦隊右方に並列させ、両艦隊の戦力を同盟軍の左側背に集中指向させれば、同盟軍は崩壊していたのである。
けっして無能ではないインゴルシュタットらの帝国軍幕僚に、その決断をさせなかったのは、ひとつには総司令官ヘルベルト大公の気まぐれな命令にそなえて予備兵力を確保しておく必要からであったが、いまひとつの理由は、帝国軍の側面と後背を「ねずみ花火のように飛びまわって」(ユースフ・トパロウル談)、その通信と心理を攪乱《かくらん》したエルステッド少将の艦隊の功績でもあった。そしてさらに、敵情と地理に関する帝国軍の情報不足が、その根底にあった。
「このとき、敵は自ら必敗の位置におく。何ぞ勝利を得ざらんや」
いささか気どったレトリックを駆使して、オルトリッチがそう回想したのは、三〇年後、彼が統合作戦本部長をもって退官した後のことである。彼は実戦家としてはとくに傑出した存在ではなかったが、温和で公正な性格と、他人の長所を見ぬくすぐれた能力によって、多くの人材を育て、同盟軍の歴史に欠くべからざる一ページを残すことになる。彼の名は同盟軍士官学校の寄宿舎のひとつにも残され、ブルース・アッシュビー、ラルフ・カールセン、シドニー・シトレ、ヤン・ウェンリーら歴代の提督たちがそこで一六歳から二〇歳までの日をすごすのである……。
七月二〇日。この日の朝、帝国軍はパッセンハイム中将を失った。
二重の誤謬《ごびゅう》の結果である。パッセンハイムは味方を敵と、敵を味方と誤認し、味方であるアルレンシュタイン艦隊の退路を遮断するために、エルステッド艦隊に無防備な右側面をさらしてしまったのだ。驚喜したエルステッドは、そのミスに最大限につけこみ、敵を半分やりすごしておいて、斜め後方から襲いかかった。
最初の一斉射撃で三〇〇隻以上の艦艇が破壊され、エネルギーと金属片の雲が渦まく。愕然としたパッセンハイムは、最初、全艦隊を反転させかけたが、そのときまだアルレンシュタインを敵艦隊と思っていたため、その命令を急いで撤回した。反転すれば敵――じつはアルレンシュタイン艦隊――に背を見せることになる。それより当初の予定どおり前進して、敵の後方から戦闘宙域外へ脱出したほうがよい。そう思ったのだが、これは艦隊運動の途中で進路を二転させるという最悪の結果を呼んだ。秩序を乱し、統制を失ったパッセンハイム艦隊を、エルステッドは一方的にたたきのめし、事態をさとったアルレンシュタインが描けつけてきたときには、凱歌をあげて引きあげてしまっていた。
帝国の歴史上、パッセンハイムは最初に戦死した提督となった。その報を受けたヘルベルト大公は憤怒と衝撃に頬をひきつらせ、作戦責任者インゴルシュタットを呼びつけた。
そして衆人環視のなかで、若い大公はインゴルシュタットを無能者とののしり、手を伸ばして参謀の胸から階級章を引きちぎったのである。蒼白になったインゴルシュタットの眼前で、大公はそれを床になげうち、軍靴で踏みにじった。
これは苛烈というより度のすぎた嗜虐性と、幕僚たちの目には映った。踏みにじられたのは単にインゴルシュタットの階級章ではなく、提督ら全員の武人としての矜持《きょうじ》である、という彼らの心情を、ヘルベルトは理解しなかった。彼はこれまでの人生を、他人の心理や感情、とくに臣下のそれにほとんど配慮することなく送ってきた。環境がそれを許してきたのである。
勝利のためにはいまは兵力の集中が必要だ、というヘルベルトの見解は正しかった。しかし、インゴルシュタットが段階を踏み、敵情をしらべて慎重におこなおうとしたことを、若い大公は迅速におこなおうとして、迅速と拙速を混同し、致命的な失策を犯すことになる。全帝国軍にすみやかな再集結をうながしたヘルベルトの指令は、同盟軍の傍受するところとなり、帝国軍は、兵力の分散、本隊の孤立、戦力の混乱、総司令部のあせり、さらに、補給の困難による各艦隊の衰弱と兵力激減という内情を、あらためて敵に暴露してしまうのである。
二二時四〇分、同盟軍総司令官リン・パオ中将は全軍に指令を下した。敵軍が残余の兵力を集中させた段階で、それを包囲攻撃せよ、というものである。このとき、包囲網はすでに完成の直前にあり、あとは総攻撃あるのみであった。
七月二一日。〇時四〇分。ネイスミス・ウォード中将の艦隊が、帝国軍左翼に最初の一撃をたたきつけた。
ウォードの保有する火砲は総計四二万二七〇〇門におよぶが、この砲撃は稼働率七五パーセントという常識外の数字を示し、三〇万本をこすエネルギー・ビームが白い光の奔流となって虚空を突進したのである。
帝国軍のオペレーターたちが見たものは、光点でも光線でもなく、光の壁であった。警報が全通信回路を充《み》たすよりはやく、左翼艦隊は奔騰《ほんとう》するエネルギーの渦中におかれ、数百の核融合炉が同時に爆発してあらたな閃光の壁をつくった。
ある艦は瞬間的に消滅した。ある艦は火球となった。ある艦は中央がら切断され、ある艦は乗組員すべてを失って浮遊をはじめる。
ウォードに痛撃を受けた帝国軍は、苦悶にもがき、のたうちつつ、反対方向で待ちかまえるアンドラーシュ艦隊のほうへよろめきかかった。
アンドラーシュは突進すべきであった。そして彼は突進した。勝利を確信した彼は、黒ベレーを空中高く放りあげ、指令シートから立ちあがって声をはげました。
「第一命令、突進せよ《ゴー・アタック》! 第二命令、突進せよ《ゴー・アタック》。第三命令、ただ突進せよ《ゴー・アタック・オンリィ》!」
それまでむしろ慎重派として知られていた彼が、猛将としての声価を確立するのは、この単純で強烈な命令によってである。しかも、この命令は完全に正しかった。混乱しつつもより戦いやすい場所を求めて転進しかけていた帝国軍は、整然たる戦列を構築する直前、アンドラーシュの猛攻によって横面をはりたおされたのである。ハーゼンクレーバーが乗艦もろとも四散したのは、このときだった。
先制され、行動の自由を失った帝国軍は、当然ながら敵の攻撃を防ぐための空間を求めねばならなかった。そしてそれは陣の内側にしかなかった外へ向かって突出すれば集中砲火をあびて原子に還元してしまう。
こうして、帝国軍の戦列は、単なる密集隊形と化した。それは基本的な球形陣ではあったが、それが編成されたの能動ではなく受動の結果であり、積極ではなく消極の産物であった。
同盟軍は帝国軍を完全に包囲したものの、その環は薄く、もし帝国軍が、弱体化していたとはいえ、全兵力を紡錘陣ないし円錐《えんすい》陣に編成して一点突破戦法に出ていれば、過半数の部隊が脱出と逃走に成功していたであろう。しかし、帝国軍はそうしなかった。というより、帝国軍にその戦法をとらせないところに、この包囲戦を企画し演出したリン・パオとユースフ・トパロウルの苦心があった。彼らは間断ない攻撃をかけ、包囲網をせばめつづけることによって、顔も名も知らない帝国軍総司令官を心理的に圧迫し、恐慌状態におとしいれ、帝国軍の指揮系統を寸断したのである。
帝国軍は組織的な抵抗を不可能にされ、その球形陣は一時間ごとに半径を小さくしていき、それに比例して包囲陣は厚みを増した。包囲陣の攻撃は刻一刻とエネルギー効率を高め、同盟軍は持てる火力を全開して破壊と殺傷をほしいままにした。帝国軍の一艦が白熱した火球となって炸裂すると、慢性的なニアミス状態にひしめいた周囲の数艦が連鎖的に爆発する。それによって生じたエネルギーの乱流が他の艦の自由を奪い、回避できなくなったところへ、あらたな砲撃が襲いかかるのだ。
どの時点からそうなったかは判断しにくいが、戦闘はほとんど虐殺にひとしい状態となり、一秒ごとに死者が大量生産されていった。
七月二二日四時三〇分、銀河帝国軍遠征部隊は消滅した。包囲と追撃から逃れ、帝都オーディンへ生還したものは三六万八二〇〇名。生還率はわずかに八・三パーセントであった。
同盟軍は将兵二五〇万のうち生還者二三四万を数えた。提督の戦死者はなかった。すべての艦艇と通信回路は、完全勝利に驚喜する将兵の歓声にみちた。
「戦闘終了。わが軍は戦場における事後処理をすませしだい首都に帰還の予定。シャンペンを二〇万ダースほど用意されたし」
首都へ向けて、通信士にそう連絡させると、リン・パオは艦橋から姿を消してしまった。居室にもおらず、幕僚たちはあわてたが、旗艦に搭乗していたブルネットの看護婦の部屋にこもっていたことが、後になって判明した。総司令官にかわって膨大な事後処理を引き受けさせられるはめになった不幸な男は憤激して叫んだ。
「まったく、何だって、おれひとりがこんな苦労をせねばならんのだ!? どいつもこいつも、おれに頼りやがって。すこしは自分たちで骨をおって他人に楽をさせてやろうって気にならんのか!」
敗者には、勝者にない未来が待っていた。
ヘルベルト大公は、最後の段階において敵中突破を敢行した部下たちのおかげで脱出に成功したが、敗北の衝撃によって完全な虚脱状態におちいっていた。以前の彼――友人に対しては鷹揚《おうよう》、部下には気前よく、怒れば残忍なまでに傲慢であった貴公子は、いまや、父の期待にそむき、皇帝の権威と帝国軍の名誉を土足で踏みにじった、ふがいない敗残者であった。指のかかるところまで近づいていた玉座は、地平の彼方へ遠のいてしまった。
インゴルシュタットは自殺しようとして、衛兵に銃を奪われた。彼は声もなく笑った。
「……なるほど、私の生命は、敵ではなく味方の銃弾のためにとっておかれたというわけらしいな」
ゴッドリーブ・フォン・インゴルシュタット中将は、帰国後帝国首都オーディンにおいて秘密軍事法廷で裁かれる身となった。ダゴン星域における惨敗は、ありのままには公表されず、戦況有利ならざるゆえの自主的な撤退として社会的にはとりつくろわれたが、肥大した国家機構は不名誉を一身にせおう犠牲の羊を必要とした。むろん、神聖不可侵の皇族をそれにあてはめることはできない。その大役をになうのが、インゴルシュタットの、生涯で最後の任務となった。
軍事法廷の判決は死刑であった。単に撤退の責任をとらされただけでなく、インゴルシュタットは無能で腐敗した上官や同僚の罪をすべて両腕にかかえこんだ。補給物資の不足は、彼がそれを横流しして私服を肥やしたからであり、情報の混乱は、彼が敵に内通して意図的に攪乱させた結果だとされた。
軍事法廷において、インゴルシュタットは最初から最後まで沈黙を守った。他者を責める一言も、自己を弁護する一言も、ついに彼の口から発せられることはなかった。それは、彼が裁判の公正を信じていなかったためか、多くの将兵を死にいたらしめた罪を自己の裡《うち》に見出していたためか、あるいはその双方であったのか、判断するのは困難である。
不幸な被告にかわって、法廷を熱烈な論理闘争の場とすべく、判事と検察官の前に立ちはだかったのは、判事から被告弁護人に指名されたオスヴァルト・フォン・ミュンツァー中将であった。彼が弁護人に指名された理由はただひとつ、被告と一〇年来の不仲であることだった。ところが、この弁護人は、指名者の期待を無視し、「顔を見るのもいやだ」と日ごろ広言していた男の権利と名誉を守るために全知全能をあげて戦ったのである。
「検察官は言われる。被告には帝国軍撤退の全責任がある、と。しかし被告は総司令官にあらず、一介《いっかい》の参謀である。検察官は言われる。被告は勝利のための作戦をたてなかった、と。しかし被告は参謀長にあらず、一介の参謀である。検察官は言われる。被告は補給物資を横流しして味方を害した、と。しかし被告は主計監にあらず、一介の参謀である。検察官は言われる。被告は味方の通信を妨害し、ために戦況は味方の不利になった、と。しかし被告は通信監にあらず、一介の参謀である。一介の参謀! たかだか一介の参謀が、遠征軍の総指揮、作戦、補給、通信の各分野にわたって最高度の権限を有するなどということがありえようか。ありえるとすれば、それは一個人に権限を集中させた組織それ自体の罪である。組織の罪でないとすれば、一個人の無法な跋扈《ばっこ》を放任した各分野の責任者の罪である。被告の罪を責めるなら、同時に、彼らの罪も問われなければならぬ。被告の弁護人たる本職、帝国軍中将オスヴァルト・フォン・ミュンツァーは、軍と法廷の真の威信を守るためにも、被告の無罪を要求する。明らかに、被告は、彼自身のものにあらざる罪のために不当な裁きを受けていると確信するゆえにである……」
秘密非公開の裁判であったにもかかわらず、この弁護人の最終弁論は外部の者のひそかに知るところとなり、「弾劾者《だんがいしゃ》ミュンツァー」の名を後世に伝えることになった。
しかし、その格調の高さ、主張の正しさにもかかわらず――否、それであればこそ――ミュンツァーの弁論は裁判の進行と結果に対して、まったく無力であったのだ。
死刑の判決が下されたとき、意外に思った者はひとりもいなかった。被告も弁護人も例外ではなかった。ただ、弁護人は、判決がいちじるしく正義と真実に反すると抗議し、せめて減刑を、と要求したが、すべて容《い》れられることがなかった。
荷電粒子ビーム・ライフルによる銃殺がおこなわれる朝、刑場に立ったインゴルシュタットは、立会人となったミュンツァーを見やって深く頭をたれた。それが彼の、裁判開始以後、唯一の意思表示だった。
敗戦の真の責任者たるヘルベルト大公は、すでに離宮のひとつに軟禁されており、精神科医による治療を受けることになった。
ミュンツァーはこの弁護活動によって宮廷と軍首脳の忌避をかい、帝都防衛指令部参事官の職を解かれ、辺境の警備管区司令官に左遷された後、「現地においての予備役編入」を命じられた。事実上の流刑であった。彼が去った後の帝国首都オーディンは、六年間にわたって帝位をめぐる陰謀、暗殺、疑獄事件の渦中に置かれ、多くの死者と同盟への亡命者を産む。帝国歴三三七年(宇宙歴六四六年)に即位したマクシミリアン・ヨーゼフ二世はミュンツァーを流刑地から呼びもどし、司法尚書の職を与え、帝国をむしばんだ幾多の犯罪と陰謀を一掃するよう命じることになるが――それはまた別の物語となる。
……こうして、同盟軍最高評議会議長パトリシオが予言したように、「ダゴン星域の会戦」における同盟軍の勝利は、「すべてのはじまり」となったのである。
「はじまり」の立役者となったふたりのトラブル・メーカーは、同盟建国以後、最大の英雄となり、ともに元帥にまで昇進したが、それぞれ異なった形で、必ずしも幸福とはいえない晩年であった。同盟軍も、彼らふたりを、敬して遠ざけた観がある。ふたりのもとで幕僚をつとめたオルトリッチは、彼らのために何かとつくしたが、それも個人レベルのことに終わった。
「……リン・パオ、ユースフ・トパロウルの両元帥は天才であった。それは疑いえないことである。ただし、天才が存在すること、天才が組織のなかでどう生きるかということ、組織が天才をいかに遇するかということは、それぞれ異なった問題であり、三者を整合させるのは必ずしも容易ではない……」
(「オルトリッチ提督回顧録」)