銀河英雄伝説 7 怒濤編
田中 芳樹
目次
第一章 黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》の下に
第二章 すべての旗に背《そむ》いて
第三章 「|神々の黄昏《ラグナロック》」ふたたび
第四章 解放・革命・謀略その他
第五章 蕩児たちの帰宅
第六章 マル・アデッタ星域の会戦
第七章 冬バラ園の勅令
第八章 前途遼遠
第九章 祭りの前
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第一章 黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》の下に
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銀河帝国軍|統帥《とうすい》本部総長の地位にあるオスカー・フォン・ロイエンタール元帥が、御前会議に出席するため、指定された会議室に長身を運びいれたとき、すでに二名の先客が席についていた。軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインと、宇宙艦隊司令長官ウォルフガング・ミッターマイヤーの両元帥である。いわゆる「帝国軍三長官」が、久々に一室に会したわけであった。
この三者は、外見だけからいっても、非凡で異色な三重奏をなしていた。半白の髪と義眼の、やせて血色のよくない軍務尚書。ダークブラウンの髪、黒い右目と青い左目の金銀妖瞳《ヘテロクロミア》を持つ美男子の統帥本部総長。蜂蜜《はちみつ》色の髪、グレーの瞳の、やや小柄な宇宙艦隊司令長官。後の二者は単なる僚友ではなく、長く生死をともにしてきた仲である。三者とも少壮の年齢であった。
宇宙暦七九九年、新帝国暦〇〇一年一〇月九日。
惑星フェザーンは銀河帝国皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの大本営所在地としての歴史を開始したばかりだった。この年九月、二三歳の若い皇帝は、五世紀にわたって帝国の首都であった惑星オーディンを棄《す》て、昨年まで治外法権の春を謳《おう》歌《か》していたフェザーンに玉座を移動したのである。帝冠を頭上にいただいて、一〇〇日にもみたぬ時期であった。
フェザーン到着後、皇帝《カイザー》ラインハルトが大本営を設置したのは、彼が未だ帝冠をいただかぬ時期に、「|神々の黄昏《ラグナロック》」作戦の際に臨時の元帥府として使用したホテルだった。当時も現在も、このホテルは設備や格式において最高級との評判を有してはいなかったが、宇宙港や都心との連絡が便利で、それがおよそ唯一の商品価値とされていた。その点がラインハルトの選定の理由でもあったわけだが、この若い美《び》貌《ぼう》の征服者は、彼自身の容姿や才能の華麗さと並行して、散文的なまでに実用性をとうとぶ精神を持ちあわせており、ホテル内の私室さえ、シングルルームですませようとしたほどである。
ロイエンタールが歩みいった部屋にしても、豪壮とはいいがたい平凡な一室で、調度は高価ではあろうが吟味されてはいなかった。ただ、一方の壁面をしめて、先日制定されたばかりのローエングラム王朝の軍旗が飾られており、無個性なホテルの一室に、圧倒的なかがやきを投げかけている。
それまで、ゴールデンバウム王朝の軍旗は、黒地に黄金で双頭の鷲《わし》を配したものであった。それが廃されて、ローエングラム王朝の軍旗となったのは、黄金の縁と真紅の地を有する旗で、中央に黄金の獅子像を配したものであった。
「黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》」と呼ばれる華麗をきわめた軍旗である。意匠としてはとくに独創的なものではない。それが当時と後代の人々に強烈な印象を与えるのは、あくまでも、軍旗をかかげ持つ黄金の髪の若者と、彼にしたがう群像とを象徴する存在だからである。
三名の元帥は、その群像を代表する人物だった。彼らの地位、功績、知名度は皇帝自身につぐものであり、オーベルシュタインは総司令部や後方にあって、他の二名は前線にあって、無数の戦いに参画し、それと同数の勝利に貢献してきたのである。ことにミッターマイヤーとロイエンタールは、「帝国軍の双璧《そうへき》」と称され、若くして逝去《せいきょ》した赤毛のジークフリード・キルヒアイスとともに常勝を謳《うた》われる身であった。であればこそ、「|疾風ウォルフ《ウォルフ・デア・シュトルム》」は三一歳、「金銀妖瞳《ヘテロクロミア》」は三二歳の若さで、軍人としての最高位をきわめえたのである。彼らにつづく者はいるが、彼らに先がける者は存在しなかった。
先着のふたりに目礼して、ロイエンタールは座についた。公式の場であるから、不仲な軍務尚書を無視してミッターマイヤーとのみ歓談するわけにはいかなかった。そのような機会と場所は他に求めるべきであろう。
「陛下はいつごろお見えになる?」
ロイエンタールは尋《たず》ねたが、それは形式的なものだった。まもなくだろう、という返答を親友からえると、彼は今度は軍務尚書に問いかけた。陛下が吾々を呼ばれた理由は何か。
「あるいはレンネンカンプの件か?」
それこそが重要なことである。
「そうだ。シュタインメッツ提督から報告があったのだ」
「それで?」
さらに問うロイエンタールと、かるく身を乗り出したミッターマイヤーとを等分に義眼でながめながら、オーベルシュタインは答えた。
「レンネンカンプは、すでに冥界《めいかい》の門をくぐったということだ。近日中に、遺体がとどく」
自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》領のただなか、ガンダルヴァ星系の惑星ウルヴァシーに駐屯している上級大将の名を、軍務尚書はあげた。この年七月、同盟駐在の高等弁務官たるヘルムート・レンネンカンプ上級大将が同盟軍の不穏分子によって拉致《らち》され、シュタインメッツは犯人グループや同盟政府との交渉に奔走させられたのである。
「そうか、やはりな……」
予想外のことではなかった。拉致の報がもたらされたときから、レンネンカンプの生還は半ば絶望視されていた。平和ならざる時代に、平和ならざる人生を選んだ者たちの、それは嗅覚《きゅうかく》であり常識というものであった。
「それで、レンネンカンプの死因は?」
「自縊《じい》」
軍務尚書の返答は簡潔をきわめ、声も低く乾燥していたが、聞く者の精神に対する浸透力は大きかった。ふたりの名将は、三色の瞳を見あわせた。活力に富んだグレーの瞳の所有者が小首をかしげた。
「ではレンネンカンプの死に関して、ヤン・ウェンリーの罪を鳴らすわけにはいかないか」
ミッターマイヤーは質問するというより問題を提起してみせたのだった。今後の軍事上の決定と行動について、皇帝《カイザー》ラインハルトと軍務尚書の意思を知っておかねばならない。
「レンネンカンプが順境にあれば、自殺すべき理由もない。その事態に彼を追いこんだ責任の一端がヤン・ウェンリーにあることは明白だ。まして弁明もなく、現在も逃亡中であるからには問罪《もんざい》されてもやむをえまい」
ヤン・ウェンリーという名は、同盟軍にとっても帝国軍にとっても、軽からぬ意味を持つ。同盟軍の提督として不敗の名声をほしいままにした彼は、同盟がラインハルトの前にひざを屈した後、退役して年金生活にはいっていた。レンネンカンプはかつて戦場で二度にわたってヤンのために敗者の地位にすえられ、その屈辱を忘れることも許容することもできなかった。彼はヤンを監視し、物証なき疑惑にもとづいて逮捕をこころみた末、したたかな逆撃《ぎゃくげき》をこうむったのであろう。
表面化しない事情のかずかずは、推測するしかない。だが、敗北感の荷重がレンネンカンプの判断力のレンズをくもらせたであろうことは、疑問の余地がなかった。彼は器量以上の職責をおわされたのであり、皇帝《カイザー》ラインハルトの人事が失敗した、おそらく稀少《さしょう》な例になったようであった。
ミッターマイヤーが両腕を組んだ。
「レンネンカンプは部下には公正な男だったのだがな」
「残念ながら、ヤン・ウェンリーは彼の部下ではなかった」
敵に対する寛容さ、思考の柔軟さにおいて欠ける点があったのだ。認めざるをえない、それは事実だった。ロイエンタールにせよ、ミッターマイヤーにせよ、僚友を悼《いた》む心情はあるのだが、じつのところ彼らは敵手たるヤン・ウェンリーの力量を不幸な僚友のそれより高く評価していたので、現実と正反対の事態が生じていたら、はるかに強く落胆したかもしれなかった。その点で彼らふたりは認識を共有していたが、いまひとり、軍務尚書オーベルシュタインの心情はやや不透明であった。
かつてラインハルトがヤンの力量に感歎《かんたん》して、彼を麾下《きか》に加えたいと望んだことがあった。現在も、完全には断念していないかもしれない。主君の希望を知ったとき、ミッターマイヤーとロイエンタールは心にうなずいたが、オーベルシュタインは礼儀正しく、だが強硬に異をとなえたとされている。そのときオーベルシュタインは、どうしてもヤンを麾下にとお望みならつぎの条件をかなえさせる必要がある、と、主張したと。
「そのとき、卿がどのような主張をしたか、興味があったものだ」
「聞きたいのかね、ロイエンタール元帥」
「いや、聞かずともわかる」
「ほう……?」
「ヤンを旧同盟領の総督に任じ、彼の生まれた祖国を支配させ、かつての味方を討伐させるというのが卿の意図するところだろう」
オーベルシュタインは両手の指を組みかえただけで、顔面筋肉も声帯も動かそうとはしない。その横顔に金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の鋭い視線を射こみながら、ロイエンタールは唇の片端だけをわずかにつりあげた。
「卿の考えそうなことだ。陛下のもとに人材を集めるより、それに試練を課すほうが重要か」
「人材を集めるのは重要だが、その人物が信頼に値するかどうか、見きわめる責任を吾々はおうているのではないかな」
「陛下のもとにつどう者は、ことごとく卿の審問を受けねばならぬというわけか。けっこうなことだが、審問者自身が公正にして陛下に忠実であることを、誰が確認するのか」
苛《か》烈《れつ》なまでの皮肉に、義眼の軍務尚書は、すくなくとも表面は平然と応じた。
「卿らがそれをおこなえばよかろう」
どういう意味か、と、ロイエンタールは声ではなく色の異なる両眼でただした。
「帝国の兵権は、制度としてはともかく、実質は卿ら両名の手中にある。私が公正を欠くと見られるときには、卿らには私を排除する手段があろう」
「軍務尚書は何やら誤解しておられる」
ロイエンタールの声には、露骨な反感が飽和状態をしめしており、ミッターマイヤーは自分自身の怒声をのみこんで、気づかわしげな視線を親友にむけた。ロイエンタールは逆上しやすい男ではないが、しばしば言語表現が過激になることを、一〇年来の友は知っていたのである。
「誤解とは?」
「兵権の所在についてだ。われらがローエングラム王朝においては、兵権はすべて皇帝《カイザー》ラインハルト陛下の掌握《しょうあく》したもうところ。私にしてもミッターマイヤー司令長官にしても、陛下の単なる代理人にすぎぬ。軍務尚書のおっしゃりようは、吾々に兵権の私物化を使《し》嗾《そう》しておられるように聞こえたが……」
これはむしろオーベルシュタインが用いるにふさわしい辛辣《しんらつ》な論法であった。軍務尚書が義眼にひややかな光をたたえて論敵の弱点をつくと、相手は顔面皮膚下を流れる血の量を変化させて絶句するのがつねであった。だが、守勢にまわっても、オーベルシュタインは冷静だった。
「これは意外なことだ。卿の論法を用いるなら、私が陛下に対して公正であるか否かを、卿が気に病《や》む必要など最初からあるまい。私の公正さは、ただ陛下のみが判断なさることではないか」
「たいした詭《き》弁《べん》だな」
「やめぬか、卿ら!」
机を左手の甲でひと打ちしてミッターマイヤーが叫んだので、軍務尚書と統帥本部総長は、ごく小規模だが深刻で苛烈な戦いを中断した。低い呼吸音は、いずれが発したか判断しがたいところだったが、一瞬の後、ロイエンタールはソファーに深くすわりなおし、オーベルシュタインは座を立って洗面室へ姿を消した。
ミッターマイヤーは、おさまりの悪い蜂蜜色の頭髪を片手でかきあげると、故意にからかうような声を発した。
「軍務尚書と舌戦をまじえるのは、おれの役だと思っていたが、このところ卿に出番をとられつづけだな」
親友に言われて、ロイエンタールはみじかく苦笑した。
「皮肉を言わんでくれ、ミッターマイヤー、おとなげなかったと自分でもわかっている」
事実、彼は自分でも肩をすくめたくなるほど戦闘的な気分に支配されており、それがオーベルシュタインの持つ冷気に刺激されて理性の制御を一時的に受けつけなくなったように思われた。
ミッターマイヤーは何か言いかけて、彼らしくもなくためらった。
そこへオーベルシュタインが表情に灰色のカーテンをかけたままもどってきたので、空気に微電流がたゆたったが、気まずい沈黙は長くはつづかなかった。豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪をエア・コンの微風になぶらせつつ、彼らの皇帝が黒と銀の軍服につつまれた姿をあらわしたのである。
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「皇帝《カイザー》は自らの生命と生涯によって自らを表現した。彼は詩人であった。言語を必要としない詩人であったのだ」
とは、「芸術家提督」の異称を有するエルネスト・メックリンガー上級大将が彼の若い主君を評したことばである。それは、この若い覇者につかえた勇将たちが、ひとしく有した思いであった。時間の大河がいずこをさして流れさるか、ということにさほど思いをはせない者でも、この若者にしたがうことで自分たちの名が歴史に刻印されるであろうことを、うたがわなかったのである。
「ゴールデンバウム王朝は宇宙を盗み、ローエングラム王朝は宇宙を征服した」
という一部の歴史家の評は、かならずしも公正であるとは言えないのだが、即位前の政略と即位後の弾圧を使いわけて歴史を逆行させたルドルフ・フォン・ゴールデンバウムに比較すれば、ラインハルトの覇業は、はるかに人々のロマンチシズムを刺激する光彩にみちていた。
ラインハルトは一五歳の初陣以来、月日の七割を軍神の祭壇にささげてきた。戦場とその周辺における、比類ない成功は、彼自身の智略《ちりゃく》と勇気によってもたらされたのである。かつて彼を「生意気な金髪の孺子《こぞう》」とののしった者たちは、勝利の女神がいちじるしく彼を偏愛することに呪《じゅ》詛《そ》の声をあげたものだ。だがラインハルトは女神に命じて彼の力量にふさわしい結果を差し出させただけのことであり、一度として女神の裾《すそ》にすがったことはなかった。
ラインハルトは、歴史上に屹立《きつりつ》する名将であることを、すでに証明していたが、君主としては未だ時の試練を受けていなかった。
彼が旧銀河帝国の宰相としておこなってきた政治的・社会的改革のかずかずは、賞賛に値するものであった。それまで五世紀にわたって歴史の深みに沈澱《ちんでん》してきた腐敗と頽廃《たいはい》はほぼ一掃され、特権階級は時の墓場へ放りこまれた。わずか二年の短期間に彼ほど偉大な業績をあげた統治者は他にいないであろう。
だが、名君にとって最大の課題は、名君でありつづけることなのである。名君として出発し、暗君または愚君として終わらなかった例は、ごく珍しい。君主たる者は、歴史の審判を受ける以前に、自らの精神の衰弱に耐えねばならないのだった。立憲君主であれば、憲法や議会に責任の一部あるいは大半をゆだねることができるが、専制君主がたのみうるものは自分自身の才能と器量と良心のみであった。最初から統治者としての責任感を欠く者ならかえって始末がよい。名君なろうとして挫《ざ》折《せつ》した者こそ、往々にして最悪の暴君となるのである。
ラインハルトはゴールデンバウム王朝第三九代の皇帝ではなく、ローエングラム王朝初代の皇帝であった。そして後継者が誕生しないときは、唯一の皇帝になってしまうはずであった。現在のところ「新帝国《ノイエ・ライヒ》」は伝統や制度ではなく、至高者の個人的な力量と人格によって、歴史の激流のなかにそびえ立っていた。その基盤が脆弱《ぜいじゃく》なものであるとみなし、制度と血統によって永続化と強化をはかる立場は、軍務尚書オーベルシュタインのしめるところであろう、と、一般に思われていた。
皇帝《カイザー》ラインハルトは、レンネンカンプの死についてすでに知っていたが、軍務尚書の口からあらためて整理された報告を受けると、しばらく無言だった。どちらかといえば沈んだ気分にあるとき、この眉《び》目《もく》秀麗な若者は、病人や死者のようではなく水晶で造形された彫像のように無機質に見えることがある。やがて、像は声を発し、生気をよみがえらせた。
「レンネンカンプは、もとより完璧な人格者ではなかった。だが、このような死にかたを強制されるほど、罪深い男でもなかった。気の毒なことをした」
「何びとに罪を帰するべきだ、と、陛下はお考えになりますか」
静かに、だが鋭く、ロイエンタールが問いかけた。これはラインハルトを非難する目的からではなかった。誰に罪があると皇帝が考えているか、それによって統帥本部総長たるロイエンタールは、帝国軍の動員を準備しなくてはならないのである。逃亡中のヤン・ウェンリーを探索して撃つのか、無為無策どころか事態を悪化させたと見られる同盟政府を、「バーラトの和約」履行の義務をおこたったとして撃つのか、それとも逆に同盟政府をしてヤンを撃たせるのか。いずれにしても判断は純軍事的な範囲をこえる。
同時に、ロイエンタールの心には、若い主君に平凡な回答をしてほしくないという個人的な感情がある。これは明敏な彼にとっても整理しがたい心理上の要素だった。未だゴールデンバウム王朝の権力構造が不動にして不可侵のものと見えていたころ、ロイエンタールは親友とともに自らラインハルトの麾下《きか》に身を投じた。門閥の背景を有しない二〇歳前後の若者に、自らの未来をゆだねたのである。その選択は正しくむくわれ、ロイエンタールは三二歳にして帝国元帥、帝国軍統帥本部総長の座をわがものとした。むろん彼は、その地位にふさわしい才腕と功績の所有者である。戦場において無数の武勲を誇り、ローエングラム独裁体制および王朝の覇権の樹立に、多大な貢献をなしてきたのだ。
その間、彼は戦場以外の場所でも勲功をたてている。二年前、いわゆる「リップシュタット戦役」の末期に、ラインハルトの半身的存在であった赤毛のジークフリード・キルヒアイスが暗殺者の銃口から盟友をかばって自らの生命を失ったとき、ラインハルトは衝撃と悲哀のため人格崩壊におちいったかと思われた。圧倒的な勝利の直後に、ローエングラム一党は最大の危機に直面したのである。そのとき、オーベルシュタインの辛辣《しんらつ》な策謀をいれて、背後の敵たるリヒテンラーデ公爵を撃ちたおした実行者群を主導したのは、ロイエンタールとミッターマイヤーであった。オーベルシュタインの主張のみでは、他の提督たちはおそらく動きえなかったであろう。その決断力と指導力とによって、彼らふたりは「帝国軍の双璧《そうへき》」――かがやかしい一対の宝石としての地位を確立したのである。
それらの行動も、勲功も、すべてはラインハルト・フォン・ローエングラムという巨星の光芒《こうぼう》をいやますためであった。その点について、ロイエンタールは不平をいだいたことはない。彼の心の不穏な部分がするどくうごめくのは、巨星の光芒に翳《かげ》りを見出すときであった。ロイエンタールは、彼の忠誠の対象に、完璧を望んでいたのかもしれない。
彼の自負においても、おそらく客観的な論評においても、ロイエンタールの器量と才腕は、ゴールデンバウム王朝歴代の皇帝たちの多くを上まわるものであった。その彼を統御する者は、彼より高い才能と広い器量と深い人格とをそなえているべきではないのだろうか。
彼の親友であるウォルフガング・ミッターマイヤーは、単純なまでに明晰《めいせき》で一貫した生きかたを自らに課していた。その姿勢の正しさをロイエンタールは敬愛していたが、自分がそれにならうことは不可能だと思っていた。
……統帥本部総長のみじかい質問に、圧縮された膨大な心情が封じこまれていたことを、ラインハルトは洞察しえたであろうか。若い皇帝が白皙《はくせき》の額にかかる髪をわずらわしげにかきあげると、黄金の光が室内にゆらめいた。
むろんそれは無意識の動作であった。彼は生涯、その美貌を武器として用いたことは一度もない。それがどれほど卓越したものであれ、それを勝ちえるために彼自身は何らの貢献もなしてはおらず、その功績は彼の憎悪する父と、姉にくらべていちじるしく印象の薄い母との血統に帰するのである。ゆえに美貌は彼の誇りとするところではなかった。だが、彼自身の思いとはべつに、彫刻もはじらうほどの美貌と流麗きわまる動作とは、事実として他者の賞賛をさそわずにいられないのである。
「去年のワインのまずさをなげくより、今年植える葡《ぶ》萄《どう》の種について研究しよう。そのほうが効率的だ」
かわされたような気もするが、ロイエンタールは不快ではなかった。ラインハルトの才華や機略はいつも彼を不快にはしなかった。
「予はむしろこの際、ヤン・ウェンリーと同盟政府との間隙《かんげき》を利用し、あの異才を予の麾下にまねきたいと思っている。軍務尚書の考えはどうか」
「それもよろしいでしょう」
意外そうな表情を、若い皇帝は長い睫《まつ》毛《げ》の間にゆらめかせ、それを両の義眼でながめやりながら、オーベルシュタインは語をついだ。
「ただ、その上は、ヤン・ウェンリーをして自由惑星同盟の命脈《めいみゃく》をたたせること、これが条件となるやに思えますが」
ラインハルトは古典派画家の筆で細密に描きあげられたような眉をわずかに動かした。ミッターマイヤーとロイエンタールは、舌打ちしたげな表情を見あわせた。つい先刻、統帥本部総長によって批判された思案を、いっそ堂々と、軍務尚書は口にしてのけたのだ。
「ヤン・ウェンリーが陛下に臣従するということは、彼が今日まで属してきた国家を捨て、彼が今日まで戦ってきた理由を否定することです。であれば、彼の今後に未練となって残るがごとき要素は、ことごとく抹消してしまうのが彼自身のためでもありましょう」
「…………」
「ただ、彼にそのようなことが可能とは、小官には思えませんが……」
ラインハルトはソファーの上で長い脚を組んだ。肘《ひじ》かけに肘をつき、突きぬくような視線の槍先《やりさき》を軍務尚書にむける。
「ヤン・ウェンリーが予に臣従するはずはない。つまるところ、卿の主張したいところはそれか」
「御意……」
主君に器量が不足している、と釈《と》られかねない返答を、軍務尚書はむしろ冷然としてのけた。この大胆さ、あるいは無神経さは、彼を嫌っている他の二元帥さえ一目おかずにいられないところであった。
「さらに申しあげますが、かりにヤン・ウェンリーが陛下の御前にひざを屈したとして、どのような地位職責をもって彼におむくいになりますか。むくいること過小であれば彼が不満でしょうし、過大であれば他者の不安をよびましょう」
彼は口には出さなかったが、ひとたびヤンが皇帝の臣下となれば、ミッターマイヤーやロイエンタールの競争相手ではすまなくなるという気がするのだった。彼らをしのぎ、旧同盟の勢力を統合してナンバー2の座をしめるのではないか。
ナンバー2は排除しなくてはならない。それはローエングラム王朝の開祖たるラインハルトが、一代というより半代[#「半代」に傍点]と称すべきほどに急激に勃興《ぼっこう》した成りあがり者であって、主君と臣下との関係が制度化されておらず、伝統として成立もしていないからである。ナンバー1にとってかわりうるナンバー2など存在を許してはならない。ロイエンタールにせよ、ミッターマイヤーにせよ、ラインハルト・フォン・ローエングラム個人の臣下であって、ローエングラム王朝の廷臣であるという意識は未だすくないであろう。まして、臣下ではなく盟友などという考えがあるとすれば、君臣の秩序がたもたれえない。組織化され伝統となった忠誠心こそ、ローエングラム王朝の永続を約束するもので、「皇帝と友人」ではなく「皇帝と臣下」こそがあるべき唯一の姿なのである。
「……わかった。ヤン・ウェンリーの件は、ひとまずおこう」
完全に断念するとはラインハルトは言わなかった。それ以上の追及をひかえたか、オーベルシュタインも沈黙する。
「それにしても、ヤン・ウェンリーひとりを容《い》れることもできない民主政治とは、なんと偏狭なものではないか」
ラインハルトはそう思い、そう口に出した。それに対して反応したのは、ウォルフガング・ミッターマイヤーである。
「おことばですが、陛下、問題は制度よりむしろそれを運用する人間にありましょう。陛下の英才がゴールデンバウム王朝の容れるところとならなかった、つい先日の例をお考えください」
「なるほど、たしかにそうだな」
ラインハルトは苦笑したが、端麗な顔からは熱っぽさが失われていた。それをななめに見やってからロイエンタールが問う。
「それで、陛下、いかがなさいます。レンネンカンプの死に乗じて、この際、一気に同盟全土を併呑《へいどん》いたしますか? ひとたびは猶《ゆう》予《よ》いたしましたが」
「帝国全軍が出撃して、一刀に乱《らん》麻《ま》をたってやってもよいが、せっかく共和主義者どもが踊り狂っているのだ。いましばらく、奴らが踊り疲れるまで高みの見物を決めこんでもよかろう」
むしろ自分の覇気を制するようにラインハルトは言った。三人の元帥は、やや意外に感じた。フェザーンヘ大本営をうつしたのみで、皇帝の英気は満足したのだろうか。その白い手が胸のペンダントをもてあそんでいる。
若い美貌の皇帝の、黄金色にかがやく髪の上方で、その髪と同じ色の獅子《しし》が声をたてずに咆哮《ほうこう》している。三人の元帥は、あらたな軍旗と皇帝に、同時に敬礼した。それぞれの瞳にそれぞれの感懐や思惑をこめて。答礼するラインハルトの表情に、このとき、自分自身に対するいらだちの薄いもやがかかっていた。
ロイエンタール元帥の副官エミール・フォン・レッケンドルフ少佐は、二、三の統帥本部の事務について上官の裁決をあおぐため、室外で待機していた。御前会議が終わって退出してきた金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の青年元帥は、蜂蜜色の髪の親友と軽いあいさつをかわすと、廊下を歩きながら部下の手から書類を受けとり、目をとおしながら指示を与えた。明晰だがやや機械的な口調に、副官はやや違和感をおぼえて元帥を見やったが、ロイエンタールの心の唇が動くさまなど透視できようはずもなかった。
……どうか、皇帝《カイザー》よ、私に反抗の隙をあたえないでいただきたい。私はあなたを歴史の舵手《かじとり》に選び、あなたを擁立《ようりつ》し、あなたの軍旗を清らかにあおいできた。そのことを後悔させないでほしい。あなたはつねに私の前をあゆみ、しかも光輝にみちているべきだ。消極や安定などがあなたの光源になりえるのか。
比類なき覇気と行動力こそあなたの真価であるものを……。
V
皇帝の首席秘書官であるヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフは、当然ながらラインハルトにしたがってフェザーンに身をうつしていた。国務尚書である父、フランツ・フォン・マリーンドルフ伯爵は、年来の帝都である惑星オーディンに残留して国事の処理にあたっている。皇帝と首席閣僚とが数千光年の距離をへだてていては、いかに超光速通信《FTL》を活用したところで国事の円滑《えんかつ》は期しがたい。だが、このような変則的な体制は一時のことで、遠からず国務尚書が皇帝の後を追ってフェザーンヘうつることになろう。その逆はありえない。もはやオーディンが帝国の中枢となる日は二度とくるまい。
ヒルダはラインハルトの政務処理を補佐するいっぽう、急速に、しかも急角度に変転する状況の分析をすすめていた。レンネンカンプの暴走と同盟政府の昏迷《こんめい》によってヤン・ウェンリーが自立し、現状を構成する政治的・軍事的な要素は、当然ながら複雑さをました。いずれ群小の勢力ばかりなどと安《あん》堵《ど》してはいられない。ローエングラム王朝も自由惑星同盟も、一滴の水から大河となったのだから。
A、新銀河帝国=ローエングラム王朝
B、自由惑星同盟の現政権
C、ヤン・ウェンリーの独立勢力
D、フェザーンの旧勢力
E、旧帝国=ゴールデンバウム王朝の残党
F、独立を宣言したエル・ファシル
すこし考えてから、ヒルダは第七項を書きくわえた。
G、地球教団の残党
これはいささか猜《さい》疑《ぎ》心がつよすぎるというべきだろうか。ヒルダは卓上の小さな鏡に視線を投げ、しかつめらしく思案をめぐらせる自分自身の顔に片目を閉じてみせた。そのような表情をつくると、髪のみじかい、美貌の少年めいた伯爵令嬢の顔は、いっそう少年っぽく見える。
ヒルダはひとつ肩をすくめると、両腕を高々とのばして深呼吸した。活力にみちた彼女の脳細胞も、ときとして休息を要求する。
思えば往古の政治状態は単純明快だった。半世紀ほど以前に、帝国と同盟、双方の刑事警察が協力してサイオキシン麻薬の密売組織を摘発したことがある。双方の首脳部さえ合意すれば、そのような曲芸も可能だったのだ。その当時さえ、二度はこころみられなかったことではあるが。現在では、分裂した人類世界の細胞のひとつひとつが、それぞれ自分につごうのよい辞書を振りかざして、正義の何たるかを他者にお説教しようとこころみているかのようだ。
ヒルダの属している陣営は、他の何者よりもぶあつい辞書を持っているはずだった。だが、ラインハルト自身、大貴族たちの手にする金縁の辞書に屈することをいさぎよしとしなかったのだ。ラインハルトに敵対する陣営のなかに、かつてのラインハルト自身が存在しないと誰が言えるだろう。
ヒルダはあらためてAからGまでの各勢力を見やった。こうして見ると、いずれの勢力も大なり小なり弱点を内包していることがわかる。DとGは本拠地を失い、公然たる武力を有しない。BとEは人材を欠く。Fは乳児同様の無力さである。そしてAとCは、統率者の個人的力量がすべてを決する。統率者がいなくなれば組織自体が瓦《が》解《かい》するであろう。この五月、バーミリオン星域会戦でラインハルトが後継者なきままにヤンの手で倒されていたら、と想像すると戦慄《せんりつ》を禁じえない。
もっとも警戒すべきは、BとCとDとFの結合、つまりヤン・ウェンリーの人望を核《コア》として、同盟軍とフェザーンの不平分子が結集することである。軍事力と経済力が合体し、化学反応を生じたとき、わずかな毒煙が巨竜を地に撃ちたおすような事態を呼びよせるかもしれない。ヤンにしても、単に少数の軍事力のみでラインハルトを打倒しうると考えているはずがない。もしそう考えているならヤンなど恐れる必要はなかった。単なる英雄的自己陶酔《ヒロイック・ナルシシズム》の精神病者にすぎない。
皇帝を打倒しえたとして、
「ヤン・ウェンリーにはその後の展望があるのかしら」
その疑問が、ヒルダの胸中にわだかまっている。彼女はむろん宇宙の事象のすべてを見とおしうるはずもないが、きわめて正確な分析能力は、ヤンの行為が計画にもとづいたものではなく、緊急避難というべきものであることを察知していた。バーミリオン星域会戦のときを見てもわかる。市民によって選ばれた政府の命令は、本来、彼にとって神託にもひとしいはずだ。
ヤン・ウェンリーという人物にも興味ぶかいものがある。ヒルダの見るところ、才能と性向との不一致が、かなりはなはだしいのだ。きわめて現実処理性の高い才能を有しながら、自分自身でそれをうとましく思っているようで、若くして一国の最重要人物となりおおせたわが身を憮《ぶ》然《ぜん》としてながめている光景が、ヒルダには想像できるのだった。
バーミリオン星域会戦の直後、ヤンは会見のためラインハルトの愛艦ブリュンヒルトに招かれた。親衛隊長ギュンター・キスリング准将ら数名からヒルダが聞いたところでは、無数の武勲に履歴書を埋められた男にはとうてい見えなかったという。元帥だの司令官だのというより、線の細い若手の学者ていどとしか印象づけられなかった。ただ、敵艦に単身で来訪しながら、ひるんだ色はないようだった、と。おそらくはその微妙なあたりにヤンという人間の真価があるのだろう。
ヤン・ウェンリーという、いささか特異な人格《キャラクター》が存在しなくなれば、同盟軍の武力もフェザーンの金力も、化合すべき触媒を失う。だがそうなれば、群小の諸勢力がそれぞれほしいままに蠢動《しゅんどう》をこころみるのを、ひとつひとつつぶしていかねばならないかもしれない。それはそれでめんどうなことではある。
明敏きわまる皇帝《カイザー》ラインハルトすら、状況の処理にここ数週間、明快な決断をくだしえないでいるようなのだ。
「それにしても、陛下はどう考えておいでなのかしら」
ヒルダは若い皇帝の才能について、半グラムの不安もいだいてはいない。だが、ラインハルトの精神の糸が、強靭《きょうじん》な超高度鋼と、繊細な銀との二種類でよりあわせられている点が気にかかるのである。戦場ではつねに前者が機能して、ラインハルトの不敗の神話をささえてきたし、行政府にあってもそうであった。しかし、歴史上に類を見ない覇業を完成させようとしている若者の精神の基調は、銀糸のほうでこそ織りなされているのではなかろうか。ラインハルトの内蔵する炎は激しくまばゆいが、激しい炎は、より早く燃えつきるものではないか。その危惧《きぐ》が、明敏な伯爵令嬢の脳裏に影を落としているのだった。
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皇帝《カイザー》ラインハルトのフェザーン移転は、新帝国の技術官僚《テクノクラート》たちにとっては魅力的な剌激剤となっていた。工部尚書と帝国首都建設長官をかねる少壮のシルヴァーベルヒは、大本営に近い古ぼけたビルに起居して昼夜をとわず激務を遂行していた。一週間の病気休暇をとっただけが例外であった。
工部省の次官はグルックという中年の官僚政治家で、それなりに有能なはずの男だったが、シルヴァーベルヒの病気休暇の間、精励《せいれい》したにもかかわらず事務をとどこおらせてしまった。復帰した工部尚書が、たちどころに案件を処理してしまうのを見て、自信を喪失した次官は、皇帝に辞表を提出した。
若い美貌の皇帝は、「無能者」との怒声を待ちかまえる次官に、意外にも笑顔をむけた。
「次官の職責は尚書につぐものだ。卿の才幹がシルヴァーベルヒをしのぐものであれば、彼ではなく卿を尚書に任じたであろう。卿は恭謙《きょうけん》にして自分自身を知る。それでよし」
皇帝の意向によって、グルックは工部省次官職にとどまった。ラインハルトは、口に出して説明こそしなかったが、工部省の巨大な機構と権限を永続させる意思はなかったのだ。いずれ国家機構と社会体制が安定化すれば、現業部門を民間にゆだね、組織を縮小するつもりであった。創業と拡大の時期には、シルヴァーベルヒのような異才のパワーが必要であるが、縮小と安定の時期にはむしろグルックの堅実さがのぞましい。グルックを一種の計器として、彼の手にあまるような部分を削減していけば、適正な規模と権限の組織がのこるであろう、と皇帝は見たのである。
ラインハルトの人事は、同盟駐在高等弁務官レンネンカンプ上級大将の任用に見られるとおり失敗の例もあるが、このような寛大さと識見によって成功した例のほうがはるかに多かった。皇帝からも異才と認められるシルヴァーベルヒは、膨大なエネルギーの一部をさいて、惑星フェザーンを全宇宙の中心に変えるべく構想をねっていた。
彼はゴールデンバウム王朝で、というより人類宇宙史上はじめての工部尚書として、すでに後世に名が残る身であったが、それをどうせなら黄金と真紅とできらびやかに飾りたてたかった。惑星フェザーンが宇宙に存在するかぎり、彼の名が忘れさられることのないようにしたかった。
いっぽうフェザーン人の心境は平静ならざるものがあった。これまでは彼らの父祖の惑星は、帝国に占拠されていたのだが、いまや呑みこまれ、消化されつつあった。「つぎは排泄《はいせつ》される番さ」とは、下品な冗談にまぎらわせようとこころみて失敗した、彼らの深刻な敗北感を証明する発言であった。帝国と同盟、二大勢力の中間に位置する地理的条件を最大限に利用し、富と権謀術数を駆使して実質的に宇宙を支配しようと努力してきたのに、すべてが水泡と帰し去ったのである。
「文明人の知恵が、野蛮人の腕力に負けた」
と評する者もいたが、結局、それは敗北を認めざるをえなかった後の自己|憐憫《れんびん》にとどまるものでしかない。なにしろ、相手が腕力にうったえるであろうことを彼らは洞察しえなかったのだ。
「右を見ても左を見ても、帝国人の不愉快な面《つら》ばかりが目につく」
「それにしても、一年たらずのうちに、何という状況の変わりようだ」
フェザーン人たちが慨歎《がいたん》の視線をかわすなかで、帝国軍の黒と銀の制服は一日ごとに数をまし、大気の半ばは彼らの呼吸に奉仕するように思われるありさまだった。
大半のフェザーン人は皇帝《カイザー》ラインハルトに好意的であるべき理由を持たなかったが、彼の構想力の壮大さ、決断と行動の迅速さに対しては、不本意ながら賞賛の思いを禁じえなかった。その思いには、多少の不純物が混入していたことはたしかである。ラインハルトを無能とののしれば、その無能者にしてやられた自分たち自身を汚名の泥沼に突きおとすことになるのだ。圧倒的ですらあったはずの経済力は武力の前に無為であり、独占していたはずの情報は何らの益ももたらさぬまま帝国軍の手にうばいさられた。保守的な世界観の温室に安住していたのは、才略豊かなフェザーン人のほうであって、金髪の若者にたたき破られるまでガラスのもろさを知らなかったのだ。
いずれにせよ、皇帝《カイザー》ラインハルトが歴史を創《つく》りつつあることは疑いようがなかった。同時にフェザーン人としては、創られつつある歴史の豪華な舞台のなかで彼らがどのような役割を与えられるか、その点に無関心ではいられなかった。
積極的な展望と行動を、自らに課した者もいる。もともとフェザーン人の長所は、与えられた政治的状況のなかで最大の利益をあげることにあったはずである。旧来のフェザーンといえども万人平等の天国であったわけではなく、既得権をほしいままにする豪商の横暴に泣いた中小商人もおり、商戦に敗れて零落した一家もある。このような人々にとって、ラインハルトの征服によってもたらされた時代の激変は、いわば敗者復活戦のまたとない好機であった。彼らは征服者たちの歓心をもとめ、軍需品の調達、兵士宿舎の建設、経済や交通や地理や市民感情に関する情報の提供などに奔走した。ことに若い世代は、長老たちへの反発と若い征服者への情緒的《エモーショナル》な支持とを加速させつつあり、帝国政府も意図的に若いフェザーン人を好遇して、共存への道をローラースケートで走りはじめたのである。
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さらに巨大な変動が人々の足もとを揺るがすにいたるのは、一一月一日のことである。
この日、故ヘルムート・レンネンカンプ上級大将の密葬がおこなわれた。軍務尚書オーベルシュタイン元帥が葬儀委員長となり、皇帝《カイザー》ラインハルトと政府および軍部の高官が列席したが、故人の地位にくらべればささやかなものであったといえる。帝国政府としては、高官の死を公然化するか否かについて、未だ皇帝の裁決がえられておらず、さらに先年のケンプ提督の場合とことなり、故人の死因が自縊《じい》という不名誉なものであったことが原因で、列席した提督たちも、その死をもって戦意|昂揚《こうよう》の糧《かて》とするのはむずかしかった。
砂色の髪と砂色の瞳のナイトハルト・ミュラーが隣席のミッターマイヤーにささやきかけた。
「すると、レンネンカンプ提督は元帥への昇進ははたせませんか」
「戦死ではないからな」
「殉職ではありますが、それでも?」
無言でミッターマイヤーはうなずく。ミュラーの言うようにたしかにレンネンカンプは殉職したのではあるが、それは功績より罪《ざい》科《か》をともなってのものであった。おそらく彼が本来の任務を逸脱したがために、「バーラトの和約」にもとづく新秩序は、建設と整備に必要な時間を奪われようとしている。一時的なものにせよ平和が時代の水面に浮上しかかったのに、その足をつかんで深淵《しんえん》へ引きずりこんだ責任の一端を、レンネンカンプはまぬがれるわけにいかないであろう。
葬儀の直前に、ミッターマイヤーは、レンネンカンプ艦隊に所属していた一少将から懇願《こんがん》されていた。
「小官は五年間にわたってレンネンカンプ閣下におつかえしました。多少、融通のきかない点はたしかにおありでしたが、よき上官でおありでした。どうか皇帝陛下に、復讐戦《ふくしゅうせん》の決行を具《ぐ》申《しん》くださいませんか」
少将の訴えは、ミッターマイヤーにも納得できる。ただ、彼の見解を明言するなら、レンネンカンプは少将か中将でとどまっていれば自他ともに幸運な男だったのだ。人間には器局《うつわ》というものがあり、それは大きさも形も千差万別で、たとえば有能な艦隊指揮官が優秀な弁務官でありうるとはかぎらない。そこを見あやまったのはたしかに皇帝《カイザー》の失敗ではあるが、レンネンカンプが自分自身の価値を下落させた点も否定しえないのだった。むろん、皇帝の期待にそむき、新王朝の権威をそこなった罪も小さからざるものがある。
したがって、レンネンカンプは元帥への昇進に値しない。皇帝《カイザー》ラインハルトが、彼に元帥号を与えようとしないのは、情においては冷厳に思えるが、理においては正しいのである。もし皇帝が情に負けてレンネンカンプに元帥号を与えるとしたら、皇帝の錯誤は二重のものとなる。最初の誤りを、二度めの誤りによって矯正することはできないのである。
臣下に高い位階を与えさえすればよいというものではない。賢帝マクシミリアン・ヨーゼフ二世の後継者となったコルネリアス一世が、名君と称されるにやや欠ける点があるとすれば、それは才能や業績の面においてではない。彼は臣下に元帥号を濫発し、小艦隊の指揮官までが元帥|杖《じょう》を手にするにいたった。自由惑星同盟の征服に失敗した後、さすがに思うところがあったか、逝去にいたるまで、あらたに元帥号を与えることはしなかったが……。
ミッターマイヤーは話題を転じたくなって、若い僚友にグレーの瞳をむけた。
「ところで、どうだ、卿のあたらしい旗艦の乗りごこちは?」
「極上です」
周囲をはばかりつつも、表情をわずかにかがやかせてミュラーは即答した。
ローエングラム王朝が開かれた後、兵器|廠《しょう》で最初に完成した戦艦は「パーツィバル」であったが、これを皇帝より下賜される栄誉にあずかったのは、彼ナイトハルト・ミュラー上級大将であった。彼は「バーミリオン星域会戦」において主君ラインハルトの危機を救い、激戦の渦中で三度にわたって乗艦を破壊されるという勇戦ぶりをしめして、「|鉄壁ミュラー《ミュラー・デア・エイゼルン・ヴォンド》」の名を敵味方に知らしめたのである。彼によって完勝をはばまれた敵手ヤン・ウェンリーまでが、彼を良将とたたえ、ミュラーの武名は「帝国軍の双璧」につぐものとなった。だからといって、彼は驕《おご》るでもなく、同僚間の最年少者として誠実な態度をくずさないのだった。
さらにミッターマイヤーに答えかけたミュラーの砂色の瞳に、あらたな人影が映った。皇帝《カイザー》ラインハルトの次席副官が、ふたりのほうへ身をかがめかけていた。
テオドール・フォン・リュッケは少佐に昇進している。過日、キュンメル男爵邸において皇帝暗殺未遂事件が発生したとき、犯人グループの一員を射殺した功を賞されてのことであった。皇帝と同年齢の彼は、主君とややことなった表現のしかたながら、少年っぽいところがあり、未だに士官学校のものなれぬ下級生を思わせる。
「元帥ならびに上級大将のかたがたは、一六階のみかげ石の間へお集まりください。皇帝陛下が諸卿のご意見を聞きたいとおおせです」
話の内容とやらをリュッケが知っているはずもなかったので、ミッターマイヤーはそれについて問わなかった。彼の脳裏には、つい数日前の御前会議で、決断と選択に迷っているらしい皇帝の姿がたゆたっていた。
みかげ石の間は会議室というよりサロンめいた広い部屋で、提督たちのためにコーヒーの用意がされていた。
「皇帝親征があるかな?」
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上級大将が誰にともなくつぶやいたが、それは疑問ではなく期待の表現であることが、僚友たちの目には明白だった。ビッテンフェルトは新王朝の武断的な性格を、もっとも強く体現する男であり、自らそれを認めていた。薄い茶色の瞳で興味なさそうに室内の装飾を見まわしている。
「陛下は敵を欲しておられる。戦うために生まれていらした方《かた》であるのに、戦いが終わるのがあまりに早すぎた……」
ナイトハルト・ミュラーはそう思う。彼自身も武人であるし、戦いに疲労する年齢でもない。栄光にみちた若い皇帝に、尊敬とともにいたましさをおぼえると言えば、不敬になるだろうか。だが彼はキルヒアイス提督が亡くなったときのラインハルトの姿を見ているのだった。
「陛下がフェザーンにうつられることはよいが、私はすこし軍制改革が不安だ。軍事力は中央集権でよい。軍管区のそれぞれに兵権を与えれば、ひとたび中央の統制力がおとろえたとき、割拠《かっきょ》の原因となるのではないか」
オーディンに残留して後方総司令官の要職に座することになったエルネスト・メックリンガー上級大将が、ミュラーにそう語ったことがある。皇帝《カイザー》ラインハルトは若く、生命力と可能性にみちているが、天才であれ英雄であれ不死ではいられない。存在が巨大であればあるほど、死後の空隙《くうげき》は巨大なものとなろう。それをメックリンガーは心配しているのだが、そこまではミュラーは同調しえないでいる。年齢からいえば、メックリンガーもミュラーも皇帝に先だつにちがいなく、その後の課題は後の世代にゆだねるべきだろう。
彼がコーヒーカップを手にしたとき、「帝国軍の双璧」の小声の会話が耳に流れこんできた。
「ところで、同盟の政府や軍部は、今度の事態にどう対処しているのだ」
「右往左往、それにつきる」
ことに軍部の混乱と昏迷がはなはだしい。レンネンカンプ弁務官の横《おう》死《し》とヤン退役元帥の失踪《しっそう》について、同盟政府は未だ正式なコメントを発表していない。前者については、帝国政府の秘密主義に責をおわせ、後者に関しては、一民間人の動静を政府が知るはずもないと強弁し、結果として不安色の卵をうみおとし、不信色の雛《ひな》を孵化《ふか》させている。
「もはやあれは統治能力《ガバナビリティ》を失っていると見るしかない。ひとたび箍《たが》がはずれれば、煮えたぎったスープが噴き出して、あとは混乱あるのみだろうな」
勢いよくコーヒーカップをテーブルにもどして、ビッテンフェルトが会話にくわわった。
「ではその箍はずしを、吾々の手でおこなうべきではないか。同盟政府の混乱は、大神オーディンが同盟領を吾々に与えたもうゆえんだ」
「出兵するとしても、補給の用意がととのっていない」
ミッターマイヤーが冷静に指摘した。
「三年前のアムリッツァ会戦、あれを鏡に映すようなものだ。今度は吾々が飢えることになるぞ」
「同盟の補給基地をおさえればよい」
「どのような法的根拠で?」
「法的根拠!?」
ビッテンフェルトは鼻先で笑った。オレンジ色の長めの髪が揺れる。このようなことをしても、この猛将には奇妙に邪気のないところがあって、ミッターマイヤーは真剣に憎むことができない。ビッテンフェルトはコーヒーカップをかるく押しやった。
「法的根拠などがそれほど重要なのか」
「同盟政府が、政府に反抗する武装勢力を鎮圧する意思と能力を有するかぎり、吾々はヤン・ウェンリーに対して手の出しようがない。内政不干渉はバーラトの和約に明記されたところだからな」
「なるほど、意思はあるかもしれんが、能力の欠如は明らかではないか。ヤン・ウェンリーはいまどこにいる? レンネンカンプはどこへ行った? この疑問がすなわち、奴らの限界をしめしていると思うが」
ビッテンフェルトの台詞《せりふ》は痛烈をきわめ、ミッターマイヤーは苦笑めいた表情で沈黙した。じつのところ、彼も似たようなことを考えているのだ。通常であれば、ビッテンフェルトの急進論を制するのはメックリンガーあたりの役割なのだが……。
「つまるところ、わが帝国と、同盟政府とのいずれがヤン・ウェンリーを不法に待遇するに主体的であったか、それが問題ということになるかもしれんな」
腕を組んで沈黙しているオーベルシュタインに、皮肉っぽい視線の一閃《いっせん》を投げかけて、ミッターマイヤーは言った。レンネンカンプの暴走が、全面的ではないにしてもオーベルシュタインの使《し》嗾《そう》によるものではないか、との疑念を彼はいだいている。
それはおくとしても、帝国軍の選択はそう簡単ではない。ヤン・ウェンリーが新銀河帝国の公敵であると確認されれば、帝国軍は彼を抹殺するために直接行動をおこすことができる。だが、それは同時に、雑多で無秩序な反帝国運動がヤンをシンボルとして統一される契機をつくることともなろう。
「たとえ烏《う》合《ごう》の衆であっても、ヤン・ウェンリーの智略があれば実力以上の力を出すことは明らかだ。いっぽう、吾々に敵対する勢力が分裂したままならひとつひとつつぶしていくしかない。めんどうな話だな」
「であれば、いっそヤン・ウェンリーに、反|皇帝《カイザー》勢力を糾合《きゅうごう》統一させてしまえばよい。しかる後にヤンを処断すれば、一撃で火山脈は絶ちきれる。熔岩《ようがん》がいくら流れ出ようと、冷《ひ》えきって無力になるだけではないか」
ビッテンフェルトの意見は、粗雑なもののように聞こえるが、戦略論としてはまちがっていない。有機的に統一された組織の中枢を撃ちくだくほうが、分立する群小組織を各個撃破するより効率的ではある。ただし、そうなると、ヤンを中核として統一された勢力が、帝国がわの制御能力をこえて巨大化する危険も発生するであろう。新生ローエングラム王朝は、軍事面において圧倒的な力を有し、それを親率する若い皇帝は戦争の天才である。だが、軍事力のみが、歴史と空間をささえるすべての要素ではないし、フェザーンの併呑《へいどん》と同盟の屈伏によって膨張した部分は、当然ながら構造密度が薄い。そこが破れたとき、修復が可能かどうか。
「ヤン・ウェンリーもさることながら……」
ナイトハルト・ミュラーが小首をかしげた。
「そもそも一連の騒ぎの原因となった噂《うわさ》、あれの真偽はどうなのです? メルカッツ提督が生きておられるという……」
提督たちはたがいの顔に視線を投じあった。ミュラーの言うがごとく、レンネンカンプがヤンの逮捕を同盟政府に強要し、恐慌《パニック》をおこした同盟政府をして暴走させた契《けい》機《き》は、バーミリオン星城会戦で戦死したと公表されているメルカッツ提督の生死に関する噂だったのだ。
「こうなると、生きていると見るべきだろうな……」
アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト上級大将が、あわい水色の瞳をするどく光らせている。メルカッツ提督と彼は旧知の仲である。かつてアスターテ星域会戦において、彼とメルカッツはラインハルトの指揮下に同盟軍とアスターテ星域で戦った。またリップシュタット戦役においては、貴族連合軍の総指揮官たるを余儀なくされたメルカッツにとって、もっとも信頼すべき僚将となったのが、彼ファーレンハイトであった。リップシュタット戦役の終結時に、メルカッツは副官のすすめで同盟へ亡命し、捕虜となったファーレンハイトは罪を問われることなくラインハルトの麾下《きか》に迎えられたのである。
「いまや、おれとあのお人とでは、あおぐ旗が異なる。たかだか二、三年の間によくも変転したものだ」
それほど感傷の深くない性格だが、未来を見やる前に過去をかえりみれば、平然としていられないものがある。
この変転がどのような帰結をむかえるか、それを見とどけるまではなかなか死ねないな、と、ファーレンハイトは胸中につぶやいた。
このとき、みかげ石の間にいるラインハルトの幕僚は、元帥三名、上級大将四名だけであった。リップシュタット戦役勝利直後にくらべると、キルヒアイス、ケンプ、レンネンカンプの三名が天上《ヴァルハラ》へ去り、メックリンガー、ケスラー、シュタインメッツ、ルッツの四名が任地に残り、ワーレンは負傷療養中である。生者とはいずれ再会しえるとしても、ラインハルトの側近にある幕僚の数が半減していることに気づくと、歴戦の勇将たちも一瞬、寂寥《せきりょう》の思いにうたれた。
「さびしくなったものだ」
ビッテンフェルトがかるく頭を振った。
彼の傍にすわっている提督は、エルンスト・フォン・アイゼナッハ上級大将だった。年齢は三三歳、やや痩《そう》身《しん》で、さびかけた銅の色をした髪をきれいになでつけているのに、後頭部の小さなひとふさだけが天を向いて直立している。
アイゼナッハは無言でうなずいた。極端なほど無口な男で、皇帝《カイザー》ラインハルトの前でさえ、「御意《ヤー》」と「否《ナイン》」以外の台詞《せりふ》を口にしない、という評判である。むろん評判とは、つねに誇大につたわるものではあるが、彼の副官や従卒が、司令官の声ではなく表情や動作に反応するよう慣らされている、という噂はほぼ事実であった。たとえば、指を三度嗚らすと、従卒がほとんど音速で飛んできて、角砂糖を半個いれたカップ半分のコーヒーを差し出す。ミュラーは二度その場面に遭遇している。
彼が士官学校に在学していた当時、食事のとき以外に口を開いたのを見た者がいない、とか、くすぐられたときでさえ声をたてずに笑う、とか、彼が高級士官クラブ「海鷲《セー・アドラー》」でコーヒーカップを床に落として「しまった」とつぶやいたとき、同席していたミッターマイヤーとルッツの両提督がまじまじと彼を見つめ、「あいつは口がきけたのか」と後に語りあったともいわれる。
だが、どのようなエピソードがあれ、アイゼナッハの指揮官としての能力をうたがう者はいなかった。守護天使が非力なためか、巨大な会戦で華麗な場面に登場する機会にはあまりめぐまれなかったが、敵の後方を攪乱《かくらん》したり、敵の増援部隊を阻止したり、味方の補結線を防衛したり、さらに陽動作戦や上陸支援など、地味だが重要な任務を、文字どおり黙々とはたしてきたのである。ラインハルトは、これまで一度も期待をうらぎることなく若い主君につかえてきたアイゼナッハを、武勲かずしれぬ勇将たちと同列に通し、上級大将の地位を与えていた。ラインハルトの武官人事に、しばしば異をとなえる軍務尚書オーベルシュタイン元帥でさえ、それをむしろ積極的にすすめた。どのような命令を受けても嫌悪や不平の表情を見せることなく、味方の勝利に貢献してきた彼を、考課に厳格なオーベルシュタインも高く評価していたのであろう。
またアイゼナッハには妻と生まれたばかりの乳児があるが、この無口すぎる男がどのようにして現在の夫人をくどいたか、ミッターマイヤーなどは本気で不思議がっていた。
ラインハルト麾下の最高幹部たちのなかで、既婚者はむしろ少数派であった。元帥ではミッターマイヤー、上級大将ではワーレンとアイゼナッハ、以上の三名のみで、ワーレンは妻と死別していたから、世間なみに家庭を所有しているのは二名きりである。ミュラーやビッテンフェルトでさえ戦場往来の間に結婚の機会を逸してきたのに、「沈黙提督」ことアイゼナッハだけが妻子をそろえているのだ。ミッターマイヤーには愛妻はいるが残念なことに子供がいない。彼の親友にいたっては、元帥の高位にまでのぼりつめながら、道徳業者たちが眉をひそめてやまない漁色家ぶりを、帝都オーディンでもここフェザーンでも平然と発揮している。
オーディンを発《た》つときも、ミッターマイヤーは親友に結婚をすすめてみた。
「結婚?」
ロイエンタールは低く笑ったものである。親友の真情を感謝しつつも、笑う以外に感情の均衡をとる手段が彼には見出せなかった。やがて笑いがおさまると、女性を魅了してやまない金銀妖瞳《ヘテロクロミア》に名状しがたい光がちらついた。
「おれにはまともな家庭など持つ意思もないし、その資格もない。誰よりも卿はそのことを知っているはずではないか」
「さあ、そんなことは知らぬ」
ミッターマイヤーが突き放したように応じると、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の名将は彼らしからぬ不安げな表情を一瞬だがあらわにした。
「おい、気を悪くしたのではないだろうな」
「そう心配する理由が卿にあるのか」
ふたりは顔を見あわせ、苦笑して和解することにした。
「ところで、例の女は卿についてフェザーンにまで行くそうだが、それほど卿の気に入ったのか」
「それさ。あの女がおれの傍にいるのは、おれが破滅するありさまを自分の目で見とどけたいからだそうだ。なかなか、こった趣味と言うべきではないか」
彼の宿舎にいついているエルフリーデ・フォン・コールラウシュは、ロイエンタールによって処刑されたリヒテンラーデ公爵の姪《めい》の娘だった。ミッターマイヤーは幾重にも心配の鎖を巻きつけていた。オーベルシュタインがどう思うか。あるいはどう思っているのか……。
「どういうつもりでそんなことを言ったのかはわからぬが、とにかく、ロイエンタール、その女はよくないぞ」
「ではどうしろというのだ?」
「金銭《かね》を与えて追い出せ。それしかあるまい」
「卿らしくないことをすすめるのだな」
やや意外そうにロイエンタールが親友を見なおした。
「どんな形であれ、とにかく出口をつくることだ。卿は迷路の奥へ奥へとはいりこんでいる。おれにはそうとしか見えぬ」
「たしかに卿にはそう見えるだろうな」
「ちがうのか」
「いや、じつはおれ自身もそう思わぬではないのだが……」
青く鋭い左目と、黒く深い右目とが、そのとき同じ色に翳《かげ》った。それから、ロイエンタールは笑顔をつくって友の肩をたたいた。
「心配するな、ミッターマイヤー。いちおうおれも武門の男だ。滅びるなら剣に滅びる。女に滅んだりはせぬよ」……
ミッターマイヤーが回想の小《こ》径《みち》からぬけ出したとき、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の元帥が背筋をのばして起立した。
「疾風ウォルフ」もいそいでそれにならった。皇帝《カイザー》ラインハルトが入室してきたのである。
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ラインハルトは不機嫌だった。レンネンカンプがヤン・ウェンリー一党の手で拉致《らち》されて以来、彼は迷っていた。そして黄金の髪の若者は、迷うことに慣れていなかったのだ。
レンネンカンプの横死が明白になった今日、その責任を問うて自由惑星同盟《フリープラネッツ》を討つべきか。それともひとたびさだめたように、敵の混乱と自滅を待って、しばらくは時の流れにことをゆだねるか。
帝国軍三長官が、先日の皇帝の思案に納得しがたい心情であったのは無理からぬことであった。皇帝自身が、自分の消極性に納得しえずにいたのだ。彼にそうさせた理由は、無制限に近い権力をもっとも高圧的な形で行使することに対する自戒の念であった。バラートの和約を締結してわずか四、五ケ月の間に、敗敵に対してふたたび武力をふるうことに、彼の若い美意識はためらいをおぼえたのだった。
それを吹きとばしたのは、ビッテンフェルトの熱弁である。皇帝に意見を求められた彼は、先刻ミッターマイヤーにむけた弁論を、若い主君にむけたのだが、最初はさほどの感銘を与えたようにも見えなかった。ビッテンフェルトが主戦論をとなえるのは当然すぎることだと皇帝は思っていたのだ。だが、つぎの一言が事態を決した。
「陛下がこれまで常勝を誇られたゆえんは、歴史を動かしていらしたことにあります。今回にかぎり、御手をつかねて歴史に動かされるのをお待ちになるのですか」
その台詞《せりふ》が金髪の若者に与えた効果は、おどろくべきものだった。彫刻に生気が吹きこまれたようにすら見えた。
「ビッテンフェルトの言《げん》やよし」
ソファーから立ちあがった皇帝の蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳が、苛烈な光彩にみちてかがやいた。その瞳のなかに、恒星のコロナが乱舞していた。彼はビッテンフェルトに動かされたのではない。自分自身の求めていたものを再発見したのである。
「予は考えすぎた。大義名分の最大にして至高なるものは、宇宙の統一である。その名分の前には、区々《くく》たる正当性など考慮に値せぬものであったのにな」
空気が結晶化したかのような静寂のなかで、皇帝の声が律動の彼をたてた。
「ビッテンフェルト提督!」
「はっ」
「卿に命じる。黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》艦隊をもって可及的すみやかに同盟領へおもむくべし。惑星ウルヴァシーにあるシュタインメッツ提督と合流し、予の本隊がいたるまで当地の治安を維持せよ」
「御意!」
オレンジ色の髪の下で一若い猛将の顔が紅潮した。彼の期待は最上の形でむくわれたのである。ついで、ラインハルトは蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳を、随従の首席秘書宮にむけた。
「フロイライン・マリーンドルフ、近く、レンネンカンプの死を公表し、同盟政府の責任を問うための出兵を宣言する。今週のうちに演説の草稿を完成させよ」
「はい、陛下」
ヒルダもラインハルトの覇気に圧されて、忠告や反論をなしえなかった。彼女の目にも、皇帝はまぶしいほどきらめいて見えた。
「それにしても、陛下、ご居城が完成するまで、常座《じょうざ》がございませんな」
ビッテンフェルトが言うと、ラインハルトは歩をとめて振り返った。豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪が風をおこした。そして若い覇王は、後世の歴史家が彼の伝記をしるすにあたって、かならず書きとめる台詞《せりふ》を、端麗な唇から撃ち出したのである。
「予に居城など必要ない。予のあるところがすなわち銀河帝国の王城だ。当分は戦艦ブリュンヒルトが玉座の置きどころとなろう」
ほとんど戦慄に近い昂揚惑が、提督たちの中枢神経を駆けぬけた。この覇気こそが、彼らの賛《たと》うべき皇帝《カイザー》の本質であった。皇帝は宮殿の住人にあらず、戦場の人であるのだ。
だが、ラインハルトの覇気とはべつに、巨大な星間帝国に政治・軍事・情報の中枢地は必要不可欠であり、フェザーンをもってそれにあてるというラインハルトの構想に変化はなかった。工部尚書シルヴァーベルヒを長とする帝国首都建設本部の活動もさらに活発化し、皇帝の新居城――仮名「|獅子の泉《ルーヴェンブルン》」――の設計も進められていた。ただし、この宮殿の建設は、周知のように、ラインハルト一代の間には開始されることがなかったのである。
扉の向こうヘラインハルトは優美な姿を消し、敬礼でそれを見送った提督たちは、血の温度が上昇するのを自覚しつつ散会した。
一一月一〇日。
「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」艦隊の旗艦「|王 虎《ケーニヒス・ティーゲル》」の艦橋で、フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルト上級大将は、腕を組んでスクリーンに見入っている。彼の視線の先で、惑星フェザーンは、すでに単に群星のなかの最大のものというだけの存在と化しつつあった。あわただしいほどの出発ながら、彼に求められているのはむしろ拙速ですらあるのだ。
艦隊副司令官ハルバーシュタット大将、参謀長グレーブナー大将、高級副官ディルクセン准将らの幕僚が、精悍《せいかん》な表情を司令官の周囲にならべている。彼らの面上に視線をうつして、「黒色槍騎兵」をひきいるオレンジ色の髪の猛将は、不敵に言いはなった。
「さあ、祝杯をあげるために同盟首都《ハイネセン》まで出かけるとしようか」
艦橋の壁面に、「黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》」が豪奢《ごうしゃ》な色彩をはなっている。あらたな王朝の軍隊は、あらたな軍旗のもとに、最初の貪欲な遠征を開始したのだった。ラインハルト・フォン・ローエングラムが黄金の髪に黄金の冠をいただいてより、一四一日後のことである。
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第二章 すべての旗に背《そむ》いて
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ローエングラム王朝の支配者と彼の軍隊とが、かがやかしい「黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》」のもとに、歴史と宇宙をねじふせるべく行動を開始したころ、かかげる旗もないままに永遠の夜のなかを放浪している宇宙船の一団がある。
後世、彼らは「ヤン・ウェンリー独立艦隊」と呼ばれることが多いが、その呼称のもととなった当人はごく簡単に「不正規隊《ザ・イレギラーズ》」と呼び、彼の部下たちは「ヤン不正規隊《イレギラーズ》」と称していた。とにもかくにも、記号としての自称が必要であったから、不本意にも温室から寒風きびしい世間へ追い出された年金生活志望者は、隊員たちから自分たち自身の名称をつのったのである。隊員たちの連帯意識と自覚をうながす一策として、という理由がつけられたが、じつのところ最大の動機は、命名のめんどうくささであったろう。
たしかに効果はあった。他にすることがないからさ、という意見もあったが、「おれたちの軍隊」という自覚の所産にはちがいない。一個旅団が編成されるほどの応募のなかから、ヤンはもっとも奇をてらわない作品を選んだのだった。
一時期、本隊を離れていた有名な幹部のひとりは、名称決定当時に自分がいたら「色男オリビエ・ポプランと引きたて役の男たち」と決定しただろうに、と残念がったが、積極的な同調者はひとりもいなかったものである。いずれにしても、ヤン・ウェンリーは、自分たち自身の集団に装飾過剰な名称をつけようとはしなかった。
「流亡の私兵集団」
という辛辣《しんらつ》な表現が、彼に敵対するがわからは成立することを、ヤンは知っていた。ここにいたる経過を無視して現在だけを見れば、その評価も一面的な正しさを持つ。たとえ、ヤン・ウェンリーが司令官をつとめ、ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツがそれを補佐し、ワルター・フォン・シェーンコップ、アレックス・キャゼルヌ、ダスティ・アッテンボローが幕僚としてひかえているとしても、国家的正統性とは無縁な存在であった。これら五名の将官が組織し指揮しえる軍隊は、兵員五〇〇万人もの規模におよんだであろうが、事実としては、艦艇六〇〇隻余、兵員一万六〇〇〇名をかぞえるのみである。
政治的保護もなく、補給基地もない。メルカッツらと、放棄されたダヤン・ハーン基地において再会をはたしたときの祝祭気分が一段落すると、不正規隊《ザ・イレギラーズ》の幹部たちは、これからの針路について考えこまざるをえなかった。
ダスティ・アッテンボローだけは、もつれた毛糸のような鉄灰色の髪をかきまわしつつ、考えるよりまず行動にうつっている。そのありさまは、一軍の提督というより行動派の学生革命家を思わせた。ヤンはこの士官学校後輩の戦術指揮能力を、もともと高く評価していたが、軍隊という枷《かせ》がはずれると、アッテンボローは意外なほどの行動力と組織力をしめして、艦隊再編成の作業や戦術立案、兵員訓練などに従事し、その精勤ぶりと活発さは他の人々をおどろかせた。ヤンが無為《むい》でいる分、彼の?剌《はつらつ》さが目についた。
「どうです、元帥、イゼルローン要塞を奪回し、エル・ファシル星域にいたる回廊周辺を解放区にして、帝国の攻勢に対応しましょう」
ダスティ・アッテンボローの提案は、まさに「学生革命家」的なものだった。「解放区」などという用語からしてそうである。ヤンとしては、気楽だね、と皮肉の煙を吹きかけてやりたくもなるのだが、後輩の提案に戦略的な価値を見出してもいた。
「イゼルローン要塞を占拠したとしても、それだけなら回廊中に孤立するだけだ。だが、エル・ファシルを橋頭堡《きょうとうほ》として確保し、ティアマト、アスターテその他の周辺星域をつないで解放回廊を成立させることができれば、今後の状況がどう変化しようと、対応しやすいかもしれない。しかし、まだその時機ではないようだ」
ヤンはそう思う。さらに、戦略というより政略的な思考をすすめておけば、将来の政治的な取引の材料を多くしておくべきであろう。ラインハルト・フォン・ローエングラムおよび新銀河帝国の覇権を認め、イゼルローン要塞を返還するかわりに、エル・ファシルを「帝国自由都市」とでもいう名目のもとに半ば独立させ、民主共和政治のささやかな灯を守りぬくこともできるかもしれないのだ。皇帝《カイザー》ラインハルトにそれを約束させるには、相応の代償が必要であろ
このとき、ヤンは、ラインハルトが約束を破棄する可能性をまったく考えていない。芸術神《ミューズ》の息を吹きこんだ黄金の絵具で描かれたような、あの美《び》貌《ぼう》の若者は、征服もすれば侵略もする、粛清もすれば復讐《ふくしゅう》もするであろうが、ひとたびかわした約束を破るということはなしえないように思えるのだった。ただ一度の会見のとき、ヤンは相手の存在自体からそれを感じたのである。
「ということは、皇帝《カイザー》ラインハルトが生きていてくれたほうが、諸事つごうがいいのかな」
わずか半年前には、バーミリオン星域でラインハルトを敗北寸前の窮地に追いこんだ当人であるくせに、そんなふうに考えもする彼だった。もともとラインハルト個人に敵意をいだいてはいないのだ。
ヤン・ウェンリーという人物は、無数の矛盾によって構成された有機体である。軍隊を軽蔑《けいべつ》しながら階級は元帥にのぼり、戦争を忌避しながら勝利をかさね、国家の存在意義に疑問をいだきつつ国家に貢献すること多く、勤勉の美徳を無視しながら比類ない実績をつみかさねたこのため、彼には哲学が欠落していると指摘する人も存在するのだが、ヤンの心理に一貫して流れているのは、自分が歴史という舞台劇のなかの代役俳優であるにすぎず、より偉大な個性が登場すれば、主役の座を明けわたして観客のがわに席を変えたいという願望だったかもしれない。
「宇宙はひとつの劇場であり、歴史は作者なき戯曲である」
と、彼は、未完に終わった彼の歴史論に記しているが、これはごく古い箴言《しんげん》を再生させたもので、とくに独創的な思想の産物ではない。だが、彼の視点のよりどころが、一部ながらこれでわかる。
自由惑星同盟の国父アーレ・ハイネセンと同時代に生まれていれば、ヤンの生涯はより単純明快なものとなっていたであろう。彼はハイネセンの思想と人格に全面的な忠誠をささげ、軍事面に限定された補佐役としてはたらき、つねに指導者の一歩うしろにひかえて、彼をもりたてたと思われる。
第一人者でなく第二人者たることを望む心理的傾向がヤンに存在することを指摘する歴史家もいる。たとえば、老先輩のアレクサンドル・ビュコック提督に礼をつくすヤンの態度は、単なる敬愛の念から生じるものではなく、第二人者の位置にとどまりたいと願う深層心理からくるものだ、というのである。
同盟軍にとって最高の布陣は、ビュコック司令長官、ヤン総参謀長であったのについに実現しなかった、としてなげく声も、似た見解に立脚するものであろう。
これらの評価にヤン自身が明確な回答を与えたことはむろんない。ただ、彼が長くもない生涯において、ついに政治的忠誠の対象たる個人[#「個人」に傍点]を見出せなかったことだけは、たしかな事実であった。そしてその事実が幸福であったか不幸であったかは、おそらく当のヤンにも判然としないことであったろう。
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政府による謀殺の手から部下たちとともに脱し、メルカッツらと再会した直後、ヤンはエル・ファシル星系政府が同盟政府からの独立を宣言したことを知った。アッテンボローの「解放戦略」は、むろんその情報にもとづいて立案されたものである。
「すぐエル・ファシルヘお行きなさい。あそこの連中に情熱はあっても政戦両略はない。あなたを最高指導者として歓迎するでしょう」
ワルター・フォン・シェーンコップもそうすすめた。というより、ヤンの感触では、赤い布を振ってけしかけてみせた。
このような事態にいたっても、未だにヤンは自らが反帝国運動の最高指導者の地位につくことを拒否しつづけてきた。
「最高指導者は文民《シビリアン》でなくてはならない。軍人が支配する民主共和政など存在しない。私が指導者なんかになってはいけないんだ」
「頑固すぎますな」
遠慮の二文字と疎遠なシェーンコップが、容赦ない表現を使った。
「あなたはもはや軍人ではありません。政府から給料どころか年金すら支給されない無位無官の民間人です。何を遠慮することがありますか」
「遠慮なんかしていない」
とヤンが言うのは、ほとんど単なる抗弁にしか聞こえないが、彼がエル・ファシルに急行しない理由は単一のものではなかった。ことはそう簡単ではないと彼は言いたかった。
「あなたと皇帝《カイザー》ラインハルトとの差というものを考えたことがありますか、元帥」
「才能の差だよ」
「いや、才能の差ではありません。覇気の差です」
シェーンコップが断言すると、ヤンは頭上の黒ベレーに片手をやったまま、憮《ぶ》然《ぜん》としてだまりこんだ。つまりはシェーンコップの主張を否定できないのである。
「皇帝《カイザー》ラインハルトは、運命が彼にことわりなく傍を通過しようとすれば、その襟首を力ずくでつかんで、彼にしたがわせようとします。よかれあしかれ、それが彼の身上《しんじょう》です。ところがあなたときたら……」
ヤンの予想に反して、シェーンコップはそれ以上彼を論難しようとせず、紳士らしげな端整な顔に名状しがたい表情を浮かべた。
「どうも何かありそうですな。元帥、あなたは何を望んでいるのです、現在の段階で」
ややためらった後、ヤンは小さな声を出した。
「私が望んでいるのはたったひとつだ。レベロ議長が私の不在をうまくとりつくろってくれることさ」
同盟首都ハイネセンから脱出して以来、ヤンは思考と策略の迷路を手さぐりで、しかも休み休み歩いてきたのだった。
五年の歳月が与えられれば、ヤンは建設的な構想力と破壊的な策謀力とを、ナイフとフォークのように使いわけて、宇宙全体を料理し、彼の理想に近い民主共和政の味つけをほどこすことができたかもしれない。だが、実際に彼の掌《てのひら》にこぼれ落ちた砂時計の砂粒は、六〇日ていどの分量でしかなかった。レンネンカンプの独走と、レベロの過剰反応とが、砂時計の流出口を、頑迷色のコンクリートでふさいでしまい、ヤンはささやかな冬眠の巣から追い出されてしまったのである。
あこがれの年金生活は、わずか二ケ月で、甘美な演奏をやめた。過去一二年間、ヤンは給料のうちから年金のための積立金をしはらってきたのだが、二ケ月しか年金の支給を受けないのでは、「採算《もと》がとれやしない!」ことはなはだしかった。結局、ヤンは公人としても私人としても、理想の上からも現実感覚の上からも、不満足のいたりだったのである。
それでも彼は、歴史の構築に参加する自分自身の責務を放りだそうとしたわけではない。
エル・ファシルが、いささか無謀ながら自立の旗をひるがえしたとき、そこへ急行することを一時ヤンは考慮した。アッテンボローやシェーンコップにそそのかされるまでもない。そうすれば彼は大義名分と根拠地を手に入れ、エル・ファシルは有力な軍事専門家をえることがかなうはずであった。
だが、ラインハルト・フォン・ローエングラムという壮麗な暴風の登場を、ヤンは予測しており、それによって状況の流れる方向がさだまるまで、同盟政府との間に決定的な間隙《かんげき》をつくりたくなかった。
いまエル・ファシルに身を投じれば、恐慌に駆られた同盟政府が帝国と完全に手を結ぶということもありえる。エル・ファシルに呼応して決起する星系政府もあるだろうが、現在のヤンの戦力をもってしては、彼らを救うことはできない。帝国軍の巨体に押しつぶされるのを遠くから見まもるしかできないだろう。
皇帝《カイザー》ラインハルトはかならず動く。その点に関して、ヤンはまったく疑いをいだいてはいなかった。今年のうちに、かならず自ら軍をひきいて、自由惑星同盟領の星々を黄金の酒杯にほうりこみ、古代神話の巨神さながらにのみこむだろう。ある意味で、ヤンは当のラインハルト以上に、その為人《ひととなり》を把握していた。あの水晶光を固形化して造形されたかのような美貌の若者は、自らの手のとどかないところで宇宙の命運がさだまるのを、けっして許すことはないであろう。天蓋《てんがい》つきの寝台で惰《だ》眠《みん》のうちに果報を待つ姿は、あの若者にふさわしくない。その点でシェーンコップのラインハルト評に、ヤンもまったく同意するのだ。
そう思い、ひるがえって自分自身をかえりみると、苦笑をさそわれずにいられないヤンであった。シェーンコップと視点はことなるが、自分が本来のものでない道を歩んでいるとは彼も思っているのだった。
この当時のヤンの行動を、きびしく批判する後世の人々がいる。
「ヤン・ウェンリーが自由惑星同盟から離反したとき、何ら戦略上の成算は立っていなかった。彼は生命の危機に直面して、衝動的に、きわめて単純な自己防衛の行動に出たにすぎず、これは智将《ちしょう》として喧伝《けんでん》される彼の行動としては失望を買うものである……」
「ヤン・ウェンリーは、宇宙に覇をとなえる野心家として生きるつもりなら、バーミリオン星域会戦に際して、政府の停戦命令を無視し、ラインハルト・フォン・ローエングラムを砲火のなかに倒すべきであった。一方、もし彼が、自由惑星同盟の忠実な軍人として生をまっとうするつもりなら、政府の意思にしたがって、あえて不当な死をも受容すべきではなかったか。いずれにしても、ヤン・ウェンリーは完璧ではなかったのだ……」
自分が完璧などでないことは、ヤンはよく承知していたから、これらの一方的な非難を彼はこばみはしなかっただろう。むろん、いい子ぶって受け入れるはずもなかったが。
完璧でないといえば、「奇蹟《ミラクル》のヤン」の新妻であるフレデリカ・|G《グリーンヒル》・ヤンも、自分が主婦として完璧ではないことを、さんざん思い知らされていた。何度めかの料理に失敗して、アイリッシュ・シチューを炭化物の黒いかたまりに変えてしまったとき、旗艦に同乗していたキャゼルヌ家の娘シャルロット・フィリスがなぐさめてくれた。
「大丈夫よ、フレデリカお姉ちゃま、くりかえしているうちに、きっとじょうずになるわ」
「……ありがと、シャルロット」
もっとも、シャルロット・フィリスの父親は、ヤン独立艦隊の補給と経理を担当する立場から、無制限に寛大ではいられなかった。フレデリカが一度、料理に失敗すれば、兵士の一食分の食糧が浪費されることになるのである。アレックス・キャゼルヌがいかにデスクワークの達人であるといっても、無から有を生じさせることはできない。彼は直截《ちょくせつ》的でない表現のかずかずを用いて、彼女が料理の修業に精を出すより重要なことがあるはずだと説いた。
フレデリカは主婦としての立場に固執するより、若い高名な提督の副官として長所を生かす道を選び、デスクワークにしばらくは専念することにした。彼女の夫とその先輩とが、安《あん》堵《ど》して紙コップのホットウイスキーで乾杯したかどうかについては、何ら記録が残されていない。いずれにしても、ヤンは、七歳年少の妻に、家事の名人であることをさして期待していなかったのである。
一方、副官としてのフレデリカの能力は、水準を遠く抜きんでていた。上官の意思に対する理解力、記憶力、判断力、事務処理能力は万人の賞賛をあびるに値した。彼女の個人史からいっても、ヤンの妻であるより副官である時代のほうが長かったことでもある。ヤンのほうでも、フレデリカを相手に戦略を語るほうをどうやら好んでいるようだった。
「皇帝《カイザー》ラインハルトが大挙、親征してきたら、同盟政府はあわてふためいて私に使者を送ってくる可能性も半分はある。そうだな、統合作戦本部長と宇宙艦隊司令長官を兼任して軍事の全権をゆだねる、とでもいうところかな」
「それをお受けになります?」
「さあてね、両手に贈物をかかえたところにナイフを突き出されたら、よけようがないからね」
ヤンとしては、人が悪くならざるをえないのだ。栄典のかずかずをしめされ、喜んでのこのこ出かけていったところを暗殺されでもしたら、先祖のなげきと未来人の嘲笑《ちょうしょう》をかうであろう。ヤンひとりを犠牲の羊にしたてて、同盟政府が安泰をはかることもありうる。現に彼は謀殺されかかったのである。
同盟最高評議会議長ジョアン・レベロ氏の謹厳な顔つきを、ヤンはかなりの憂鬱《ゆううつ》さをこめて想いうかべる。レベロはヤンの謀殺を企図したが、それは悪意からでも野心からでもないのだ――まことにこまったことながら。彼はひたすら、国父アーレ・ハイネセン以来二世紀半の歴史を有する自由惑星同盟を存続させようと願っているにすぎない。国家が生きながらえるためなら、「奇蹟《ミラクル》のヤン」謀殺の主犯として歴史に悪名を残すことも甘受《かんじゅ》するつもりなのだ。たとえそれがナルシシズムに類する精神作用にすぎないとしても、すくなくとも主観的に徹底的な信念と覚悟があれば、対処は簡単ではない。
いまひとつこまるのは、レベロに代表される政府と軍部の意思が、かならずしも統一されておらず、彼らの行動を決定する最大の要素が、おそらくは「衝動」であることだった。いかにヤンが洞察にすぐれていたとしても、衝動の内容まで読みとることはほとんど不可能であった。それでも彼は最悪の予想をひとつたてていたが、それを妻にさえ未だ語っていなかった。その予想が的中した場合、彼はとるべき行動をさだめていたが、それを正当のものとするために、ヤンは現在の段階でエル・ファシルヘ行くべきではなかったのである。
ダスティ・アッテンボローが興味深い情報をたずさえて司令官室をおとずれたのは、ハイネセン脱出後三週間めにはいったころのことである。情報とはいっても軍事や政治に関することではなく、市《し》井《せい》のゴシップに類するものであった。席をはずそうとするフレデリカを制すると、彼はわざとらしく声をひそめた。
「シェーンコップ中将の隠し子がこの艦隊にいることをご存じですか」
アッテンボローはヤン夫妻の顔を直視して満足の表情を浮かべた。「奇蹟《ミラクル》のヤン」を呆然《ぼうぜん》とさせるのは、そう容易なことではない。壮大でもなく建設的でもない、また高次元でもない話でも、とにかく彼はヤンをおどろかせたのである。
アッテンボローは本質的に平和の退屈さより争乱の活気を好む青年ではあったが、秘密をもらすべき範囲に関しては彼なりにわきまえていた。当のシェーンコップにすら彼はその事実をつげていない。
彼は「不正規隊」全員のリストを確認していたとき、カーテローゼ・フォン・クロイツェルという姓名のところで記憶の足をつまずかせたのである。それがシェーンコップ自身から聞かされた、住所不明の彼の娘であることに気づくまで多少の時間を必要とした。
「それでこっそりシェーンコップ中将の令嬢のご尊顔《そんがん》を拝しに、さきほどパイロット連中の休憩室へ行ってみたのですがね」
「で、どうだった」
ヤンの声から好奇心がこぼれそうである。
「年齢は一五、六でしょう。けっこう美人でしたよ。しかもさらに向上の可能性があると見ました。ただ、いささか気が強そうですな」
「独身主義を返上なさるおつもりですか、アッテンボロー提督?」
フレデリカに問われたアッテンボローは一瞬、考えこんだ。半ば以上は本気であるようにヤン夫妻には見えたが、結局、もつれた毛糸のような鉄灰色の頭は横にふられた。
「まあやめておきましょう。シェーンコップ中将をお義父《とう》さんと呼ぶのは、どうもあまり楽しい未来の夢に結びつきませんから」
大いに納得してヤンがうなずくと、アッテンボローはにやり[#「にやり」に傍点]と笑ってみせた。
「それより、年齢からいえばユリアンといい均衡《つりあい》だと思いますがね」
「だめだよ、あれにはシャルロット・フィリスがいる」
ヤンもアッテンボローも、ヤンの被保護者ユリアン・ミンツとカーテローゼとがこの六月にすでに面識があることを知らず、勝手なことを言う。
「……しかし、もしキャゼルヌの娘とシェーンコップの娘がユリアンをとりあって争うということになると観《み》物《もの》だな。不肖の父親どうし、どうはりあうやら」
無責任に夫が興じる姿を、ややあきれたように見やったフレデリカが、さりげなく水面に一石を投じた。
「そうね、どちらが勝っても、ヤン家にはすてきな親戚ができることになりますわね」
それを聞いたヤンが深刻に考えこんでしまったので、フレデリカとアッテンボローは笑いをこらえるのに苦労した。
「それにしても、ユリアンの奴、地球へ出かけて何ケ月になりますか、……無事息災でいるのでしような」
「あたりまえだ、無事でいるさ」
やや強い口調になるヤンだった。
この年、ヤンは三二歳だが、すでに五年間をヤンの被保護者としてすごしたユリアン・ミンツは、一七歳で中尉の階級をえていた。保護者より四年はやく、実績があるとはいえ、やはり異数の出世であった。
「二〇歳で佐官、二五歳で提督閣下ということになるかもしれないな。お前さんより足が速い」
キャゼルヌが予想を立てると、
「そううまくいくものですか、おだててはいけませんよ、増長しますからね」
ヤンはしかつめらしい口調で答えるのだが、表情が声を裏ぎるのだった。
ユリアンを軍人にする意向はヤンにはなかったのだが、ユリアン自身の志望をいれて、公私にわたる軍人教育を少年にほどこした。戦略と戦術はヤン自身が教え、白兵戦技はシェーンコップが担当し、空戦技術はオリビエ・ポプランが指導した。デスクワークの重要性についてはフレデリカとキャゼルヌがコーチ役をつとめた。ヤンにしてみれば、少年の資質がいずれの方面に向いているか、最初に確認するつもりであったのだ。一流の教師陣から精神的重圧をこうむってユリアンが軍人志望を断念するよう計算したのだ、という観察もあるが、これはうがちすぎというものであろう。
ところが、ユリアンは豊かな天与の才にめぐまれて、どの方面も充分に能力を発揮した。教師たちは満足したが、同時に、いささかの危惧《きぐ》をおぼえもしたのだった。
オリビエ・ポプランが亜麻色の髪の少年にお説教したことがある。
「ユリアン、お前さんは何でもよくできるがな、注意しろよ、戦略戦術はヤン・ウェンリーにおよばず、白兵戦技はワルター・フォン・シェーンコップにおよばず、空戦技術はオリビエ・ポプランにおよばず、なんてことになったら、器用貧乏ということばの生きた見本になってしまうからな」
彼の言いようは、おおむねヤンの心情を代弁するものではあったが、もっともらしく説教した後で、よけいな一言をつけくわえるのが、ポプランのポプランたるゆえんであろう。
「だからな、ユリアン、せめて色事ぐらいはおれを上まわるよう努力しろや」
もっとも、アレックス・キャゼルヌなどに言わせると、ポプランの説教やヤンの心配などには説得力がすくない。戦略戦術はポプランをしのぎ、白兵戦技はヤンをしのぎ、空戦技術はシェーンコップをしのぐ、となれば、三人が三人ともユリアンにえらそうなことを言う資格がないではないか、ということになる。
だが、口に出してどう評価をくだそうと、彼らはみなユリアンに好意をいだいており、彼の無事と大成を望んでいた。
ヤンが行動しない理由のひとつは、ユリアンが地球から貴重な情報をたずさえてヤンのもとへ帰ってくる日を待っていたからでもある。彼には主たる責任のないことだが、ユリアンの帰るべき家を守りえず、ハイネセンを脱出するはめになったことを、ヤンは負債のように思っていたのだ。
V
ヤン・ウェンリーとその部下たちが脱出した後、自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》の首都ハイネセンは、乾ききった沼地に迷いこんだ草食性恐竜のように無残なのたうちようを見せていた。
ヤンの脱出行に際して、彼の部下たちと、同盟政府軍と、故ヘルムート・レンネンカンプ弁務官|麾下《きか》の帝国軍と、三者の間に銃火の応酬があり、それは市民の当然知るところとなった。その日以来、ハイネセンの大気と大地は無音と無形のうちにひび割れをつづけていた。
この時期になっても、自由惑星同盟最高評議会議長ジョアン・レベロは、急激に解体しつつある国家の輪郭と求心力を守るために活動をつづけている。とはいえ、ほとんど実効はあがっていなかった。
レンネンカンプ弁務官の不本意な死と、ヤン元帥のやはり不本意な脱出行を、レベロは市民に秘匿していた。同盟政府の名誉と安全を守るためにそれが必要と信じたからである。首都内部で展開された市街戦は、「論評に値せぬ事故」として処理されたが、それは市民の不安と不信を増幅させる結果を生じただけであった。
後世の歴史家は言う。
「ジョアン・レベロの、国家に対する忠誠心と責任感は、疑問の余地なきものであった。ただ、世の中には、むだな努力、無益な献身というものも存在するのである。同盟最高評議会議長ジョアン・レベロのやっていたことが、まさしくそれであった……」
「もともと、ジョアン・レベロの不幸は、ヨブ・トリューニヒトの不名誉な逃亡の後、元首の座についたことにはじまる。彼が在野の人であれば、ヤン・ウェンリー謀殺未遂という恥ずべき事件にかかわることもなく、ヤンの企図した文民《シビリアン》革命政権の主座に位置しえたかもしれない。だが、すべての可能性は彼に背をむけたのである……」
もともとレベロは肥満した人ではなかったが、連日の苦悩と過労は彼の肉体を貪欲《どんよく》に食いあさり、彼はとげとげしいまでに痩《や》せほそった。皮膚からはつや[#「つや」に傍点]が失われ、両眼だけが毛細血管の赤さを浮きあがらせている。
見かねた文官房長や秘書官が休養をすすめたが、レベロは返答もせず執務室に根をはやし、私的な交友関係もたちきり、自分の影だけを友として公務にしがみついていた。
「こいつは長いことはないな」
不謹慎だが深刻な予測を彼らはささやきあった。主語があえて省略されていたが、それは個人名であったか、それとも国家名であったろうか。
先代の最高評議会議長であったヨブ・トリューニヒトは、反対派からは「巧言令色の徒」として徹底的に嫌われたが、支持者や浮動層の情緒を操作する点においては名人であった。彼の容姿や弁舌が衆にすぐれていたのもその一因であったが、国防委員長から議長への昇格をはたしたとき、彼は就任の式典に一〇代の少年少女を四人、招待したのである。
ひとりは帝国から家族ともども亡命してきた少年で、脱出のとき両親を殺され、その後、苦学して首席で士官学校に入学したクリストフ・ディッケル。ひとりは大学に合格しながら従軍看護婦に志願し、戦場で三人の兵士の生命を救った少女。ひとりは傷病兵を救済する募金活動のリーダーになった少女。ひとりは麻薬中毒から立ちなおって父親の農場で働き、乳牛のコンクールと弁論大会でともに一位をしめた少年であった。
トリューニヒトはこの四人を「若き共和国民」として紹介し、壇上にあげてひとりひとりと握手して、彼の考案になる「青少年栄誉賞」のメダルを与えた。その後の演説は、羞恥心《しゅうちしん》や客観性とはまったく無縁のものであった。それは美辞麗句の洪水であり、無限につづく自画自賛の滝であった。その飛《ひ》沫《まつ》をあびた者は、一瞬ごとに拡大する陶酔の波紋にまきこまれた。参列者全員が、民主主義と自由を守って帝国と戦う聖なる戦士だった。幻想のエネルギーが彼らの血管をみたした。
トリューニヒトが四人の少年少女と肩を組んで、「おお、我ら自由の民」と同盟国家を合唱するにおよび、場内の興奮と感動は活火山となって爆発した。参列者は人体の波となって立ちあがり、同盟とトリューニヒト議長に歓呼の豪雨をあびせかけたのである。式典の参列者のなかには、むろんトリューニヒトヘの批判派、反対派もおり、彼らは演出のあざとさをにがにがしく思ったものの、拍手しないわけにはいかなかった。結局、トリューニヒトの敵手たることが国家の敵と同一視される、その危険を彼らは避けたのである。
超光速通信《FTL》の画像でこの光景を見て、
「なるほど、あの四人はそれぞれにりっぱさ。だけど、あの四人のやったことと、トリューニヒト氏の政策や識見との間に、どういう関係があるんだ?」
そう疑問を投げかけたのは、当時イゼルローン要塞司令官であったヤン・ウェンリー提督だが、首都から四〇〇〇光年も離れた場所にいたので、その声は有力者たちの耳にとどかなかった。ヤンは、同盟にとって最大の敵はラインハルト・フォン・ローエングラムではなく、自分たちの元首であると思っていたのだ。
「私はあいつのシェークスピア劇風の演説を聞くと、心にジンマシンができるんだよ」
「残念ですね。身体にジンマシンができるなら有給休暇がとれるのに」
ヤン・ウェンリーの、つねによき話相手だったユリアンはシロン葉の紅茶に注意深く蜂蜜《はちみつ》をそそぎながら、そう応じたものであった。
……そのヨブ・トリューニヒトは、身の安全と私有財産とを保障され、銀河帝国の首都オーディンで自適の生活にはいっていると伝えられている。人々は彼の変節を非難したが、一方で、善悪はともかくトリューニヒトが政府をささえる柱であったことをひそかに認めずにいられなかった。たとえ虚《きょ》偽《ぎ》のものではあっても、トリューニヒトは人心をまとめ、鼓舞することができたのに、レベロの努力は無精卵をあたためる行為に似て、人々を失望させるだけだった。
ヤン・ウェンリー脱出の事実を知る少数の者も、それを知らない多数の者も、自由惑星同盟という木造家屋の土台が腐蝕《ふしょく》し、臭気を放つことを認識せざるをえなかった。ただひとりレベロだけが、鼻をつまんで、かたむいた家の中で働きつづけていた。
彼の責任感と使命感は、正《プラス》の方向にばかりは作用しなかった。彼は半ダースの肩でもささえきれないほど多くの責務を自分ひとりでかかえこみ、自分ひとりで解決しようとするように見えた。友人のホワン・ルイも、多忙を理由に面会をことわられると、肩をすくめて、再訪しようとはしなかった。友人が、もともととぼしい精神的余裕を消費しつくして見えざるシェルターの扉をとざしてしまったと判断せざるをえなかったのである。
この間、帝国はなお沈黙を守っていたが、これはいわば噴火の時機を待つ休火山にすぎず、ひとたび活動を開始すれば煮えたぎった熔岩《ようがん》で全宇宙をのみこむであろう。どのような形でいつ噴火が開始されるのか、想像もつかぬまま、人々は心のなかですでに厚い噴煙をあおいでいた。
ヤン・ウェンリー一党は、星々の波《は》濤《とう》の奥へ姿を消し、深海魚のように潜航をつづけている。むろん捜索の触手は八方にのばされてはいるのだが、レンネンカンプ弁務官の横死も、ヤン元帥の出奔《しゅっぽん》も、そしてむろんヤンの身体を無重力世界へ放りあげる原因となった帝国弁務官府の命令と同盟政府の謀議も極秘とされていたから、捜索指令が徹底することもなかった。
一度など、ヤンの「不正規隊《ザ・イレギラーズ》」を巡視中の同盟軍艦艇が発見したのだが、同盟軍に知らぬ人とてないヤン元帥が通信スクリーンに姿を見せて「政府よりの特命をおびて極秘に活動中なんだ」などと言うと、むしろ感動して敬礼とともに見送ってしまったものである。軍部の権威主義と政府の秘密主義とが完全に逆用されてしまったわけであるが、「事実が判明していれば、ヤンをとらえるどころか、彼らに合流してしまっただろうさ」というのが、複数の高官たちには共通の認識となっていた。前線の将兵にせよ、後方の市民にせよ、人望ないし人気がヤン・ウェンリーのほうに多いことは、自嘲するまでもなく明白な事実であった。
友人に忠告することもできなくなったホワン・ルイは毎日、書斎の窓から歴史の奔流の一部をながめていた。
自由惑星同盟の破滅は、もはや回避しうるところではない。どうせ破滅するものであれば、ヤン・ウェンリーを逮捕せよとのレンネンカンプ弁務官の要求を拒否し、民主主義国家の存立する意義をあきらかにするべきであった。法によらずして、何びとも逮捕されることはないこと。個人の正当な権利と尊厳は、一時的な国益に優先するものであること。それでこそ同盟の存在意義が歴史に銘記されるであろう。
……だが、すでにおそい。
友人たるレベロが、「柄《がら》でもない」権道《けんどう》に身をゆだねて失敗したことは、ホワン・ルイにとっても痛恨事であった。本来レベロは、かたくるしいほど真《しん》摯《し》で理想を追求する男だった。本来の自己をつらぬき、それに殉じることがすでに不可能となった友人の姿は、ほとんどホワン・ルイの視界から消えかけていた。波の下までもホワン・ルイは透視することはできないのだった。
W
自由惑星同盟宇宙艦隊は、司令長官アレクサンドル・ビュコック元帥の退役後、最高指揮官が不在であった。総参謀長チュン・ウー・チェン大将が現職のまま司令長官代理をつとめているが、「パン屋の二代目がスクラップ屋に転職した」というのが、もっぱらの評判である。事実、就任してこのかた、彼がやったことは、バーラトの和約にもとづいて戦艦や宇宙母艦の廃棄を実行しただけであった。しかも正確には、書類の上でそれをおこなっただけで、統計の数字が信用に値するものであるか否か、当人すら論評をさけている。
「代理の字をとるのは、ヤン・ウェンリーがわが軍に復帰したときにしましょう。彼以外に司令長官をつとめうる者はいません」
正式に彼を司令長官に任じようとするレベロに、チュン・ウー・チェンはそう言って謝絶した。
「レンネンカンプ弁務官を拉致《らち》し、帝国と同盟との亀《き》裂《れつ》を決定的なものにした彼だ。いまさら帰参するはずがあるまい」
「おことばですが、もしヤン・ウェンリーが個人的な復讐心にかられ、皇帝《カイザー》ラインハルトの陣営に身を投じたらどう対処しますか。関係修復の道を、こちらから閉ざす必要はない。いつでも彼が帰参できるように環境をととのえておくべきです」
それ以上のことを彼は語らなかったが、ヤンが帰参したときすこしでも多くの有効な戦力を指揮統率しえるように、さまざまな策をほどこしていたのである。
「ヤン・ウェンリーと戦えとおっしゃるなら、私は戦います。勝算などありませんけどね。第一、兵士たちがあの常勝提督と戦うことを欲するとお思いですか。兵器を持ったまま彼の陣営へ走りこむのがおち[#「おち」に傍点]ですよ」
その内容は、ほとんど脅迫に近いものなのだが、チュン・ウー・チェンの表情も口調ものんびりしたものだったので、レベロは気づかなかった。彼の精神回路は過負荷状態にあり、他人の言動を意識野に投影する機能に破《は》綻《たん》が生じはじめていた。
この人はほどなく灼《や》き切れるな――チュン・ウー・チェンはそう観察し、あるいはそのほうがこの不幸な元首にとっては幸福かもしれないと思った。じつのところ、現在、レベロに遠慮なく直言や皮肉を投げかける人間は、この男ひとりなのであったが、さすがにその観察を言語化することはなかった。
「政府は事実を国民に報告せよ」
というジャーナリズムの声は高さと激しさをましつつ政府を包囲している。帝国を非難すれば報復を覚悟しなくてはならないが、同盟政府を批判するかぎりにおいては、未だペンは強くあるらしかった。
帝国高等弁務官府にしても、事件を公表して同盟政府の統治能力の欠如を暴露してやりたいところなのだが、レンネンカンプ高等弁務官の拉致《らち》という事実が知られれば、帝国政府の権威にすくなからず傷がつくであろう。さらには、同盟市民の反帝国感情に方向性を与え、ヤン・ウェンリーを帝国に対する抵抗運動の英雄として象徴化してしまう結果に終わりかねない。各種の条件が、彼らに沈黙を守らせたが、それも帝国政府の指示がもたらされるまでであった。レンネンカンプの補佐官であったフンメルは、ある種の夜行動物のように弁務官府の闇《やみ》にうずくまり、爪《つめ》と犬歯をとぐのにいそがしかった。
「私が質問したいのは、たったふたつだけである。ひとつ、レンネンカンプ高等弁務官はどこにいるのか。ふたつ、退役したヤン・ウェンリー元帥はどこにいるのか。ただそれを知りたいだけなのだ。政府はなぜ答えてくれないのか」
あるジャーナリストは政府につめよったが、ただそれだけのことに政府は答弁しえなかった。「当事者の沈黙は流言の母」ということわざが、かくて実証されるにいたる。
「……ヤン元帥は、レンネンカンプ弁務官によって拉致され、帝国直轄領となった惑星ウルヴァシーの収容所に幽閉されている」
「……いや、ヤン提督は、同盟政府の手で某高原の山荘にかくまわれている。近所の牧場主がヤン夫妻を目撃した。元帥は夫人の肩に手をまわし、うつむきかげんに庭を散歩していたそうだ」
「……正確な情報によれば、ヤン元帥とレンネンカンプ弁務官はたがいを撃って重傷をおい、軍病院に入院している」
「……どれもでたらめだ。ヤン元帥はすでにこの世にいない。皇帝《カイザー》の部下に暗殺された」
これらの流言のうち、ほとんどは事実の表皮の一部にすら触れていなかったが、もっとも人気をえたのは、ヤンの名声と才能を最大限に買いかぶったものであった。いわく、ヤン元帥は民主共和政永続のために千年の計をねり、ゆかりのエル・ファシルをその根拠地に選んだのだ。一連の事態は、すべてヤン元帥の掌《てのひら》の上にある。遠からず元帥はエル・ファシルに不敗の勇姿をあらわし、革命政権首班の座につき、全宇宙に挙兵を宣言するであろう……!
「吾々は孤立してはいない。かならず吾々に呼応して、真正の民主共和政治を全宇宙に布《し》くだろう。最大の民主政擁護者たるヤン元帥の来訪を、吾々は心から歓迎する」
後につづく者がなく、孤立感を深めていたエル・ファシル独立政府のスポークスマンはそう語ったが、むろん反論を呼んだ。
「エル・ファシル自治政府の行為と発言は、同盟全体の利益をそこない、共和政体の存立をおびやかす重大な背信《はいしん》である。独善をすて、国父アーレ・ハイネセンの理想のもとへ立ち帰るよう望むものである」
レベロ自身がそう語ったのだが、ヤン・ウェンリーの生死あるいは所在については無言のままだったので、迫力にかけるのは如何ともしがたいところだった……。
チュン・ウー・チェンが提示した可能性、ヤンと皇帝《カイザー》ラインハルトの結合という図式は、極度に狭窄《きょうさく》化したレベロの視野にも、赤い信号灯を点じたようであった。
「吾々がヤンを追いつめすぎると、逃げ場のないヤン・ウェンリーが、皇帝《カイザー》ラインハルトと手をむすび、その麾下《きか》にはいるとでもいうのか」
まさにチュン・ウー・チェンはそう指摘しているのである。それ以外に解釈のしようはないのだ。
「彼が望まぬとしても、他に生存の方策がなければ、唯一の選択を強いられることもありましょう。彼を追いつめてはいけません」
「だが、いくら追いつめられたといっても、民主共和政治の水を飲んで育ったヤンが専制君主に隷属《れいぞく》してしまうとは思えない」
「お忘れなく、閣下。ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムは民主共和国家の指導者として出発し、中世的専制国家の支配者として終わりましたよ」
「ではそれ以前にヤン・ウェンリーを処断しなくてはならないだろうか」
「蛇は卵のうちに殺せ、というわけですか。ですが、ヤン元帥と戦うにしても、将兵が必要です。それがまことに難問でして」
ヤンは帝国にとって最大の敵手である。アスターテ、アムリッツァ、イゼルローン回廊、バーミリオンの各会戦がそれを証明している。同盟軍の兵士たちにとって、ヤンを討つなど帝国を利することとしか思えないだろう。
「ヤンと戦うことが、帝国の走《そう》狗《く》に堕することを意味するとは、私は思わないが」
「議長、私が問題にしているのは兵士たちの心情です、あなたの見解ではありません」
無礼な台詞《せりふ》を礼儀ただしい口調で言ってのけると、チュン・ウー・チェン大将は懊悩《おうのう》する元首の前から退出した。彼には他にやるべきことがあり、深刻だが不毛な対話に時をついやしていられなかったのである。
際限のない懊悩のメリー・ゴー・ラウンドからレベロを突き落としたのは、豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪の若者であった。この年一一月一〇日、銀河帝国皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムは、全宇宙の超光速通信《FTL》画面に、新軍旗を背にしてあらわれたのである。
「同盟市民に告ぐ。卿《けい》らの政府が卿らの支持に値するものであるかどうか、再考すべきときがきた」
そう前置きしてはじめられた皇帝《カイザー》ラインハルトの演説は、同盟の政府と市民とを驚愕《きょうがく》させるものであった。
帝国高等弁務官ヘルムート・レンネンカンプ上級大将の自殺。同盟軍退役元帥ヤン・ウェンリーの首都脱出。それらの結果を生じせしめる苗床となった弁務官府の強要と同盟政府の策謀。人々が欲してもえられなかった情報のすべてが、このとき与えられたのである。
「……予は自らの不明と帝国政府の不見識を認める。これらは非難に値するものであり、有為の人材を失い、世の平穏を破ったことに断腸《だんちょう》の念を禁じえない。だが、同時に……」
衝撃に立ちすくむ人々の視線の先で、金髪の若い覇王は、復讐神の黄金像さながらに見えた。蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳は熾《し》烈《れつ》な光をはなち、人々の網膜をやいた。
「だが同時に、予は、同盟政府の無能と不実を看《かん》過《か》することはできぬ。故レンネンカンプ高等弁務官がヤン元帥の逮捕を要求したことは不当であった。同盟政府はその不当なることを予にうったえ、同盟にとって最大の功労者たるヤン元帥の正当な権利を擁護すべきであったのに、強者にこびて自らの法をすらおかしたのだ。しかもその策動が失敗すると、報復をまぬがれるために、高等弁務官の身柄をさし出すとは!」
数千光年の彼方から弾劾されたレベロは、秘書官たちにかこまれ、最高評議会ビルの地下室に青白い身体をうずくまらせていた。
「一時の利益のためには国家の功労者も売る。直後にはひるがえって、予の代理者を売る。共和政体の矜持《きょうじ》とその存在意義はどこへいったか。もはや現時点においての不正義は、このような政体の存続を認めることにある。バーラトの和約の精神はすでに?《けが》された。これをただすには実力をもってするしかない」
和約の破棄と再宣戦である。有人惑星のすべての大気は、慄然《りつぜん》たる沈黙にみたされた。その沈黙をつらぬいて、やや語調を変えた皇帝の声が人々の鼓膜に浸透していった。
「ヤン元帥に、事態の責任がまったくないわけではないが、彼は被害者であり、自己の権利を守っただけである。ヤン元帥が予のもとに出頭するなら、予は彼と彼の一党を厚く遇するであろう」
ラインハルトの投じた言論の核弾頭によって、同盟政府の威信は致命傷をこうむった。幼児の目にすら、それは明白であったろう。
「こうすればこの結果を生むとはわかりきっていた。しかも、こうする以外になかった。最悪の結果であっても、結果が出ないよりましだ」
同盟政府の高官のなかには、むしろ重責から解放された表情で、そう独語した者もいる。巨大で圧倒的な他者がつくってくれた設計図のなかで、堅実に生きることを、その発言者は望んだのであろう。純白のキャンバスを与えられ、喜んで画筆をとる者のほうが、むしろすくないのだ。
誰かに命令され、誰かに従属して生きるほうが楽なのだ。それこそが、専制政治を、全体主義を人々が受け入れる精神的な土壌なのだった。五〇〇年前に、銀河連邦《USG》の市民たちは多数の自由意思によってルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの支配を選んだのである。
いずれにしても、重責をなおまぬがれえぬ人々が存在している。いまや誰も望まぬ最高評議会議長の座に孤立するジョアン・レベロと、精神の上からも装備の上からも空洞化した軍隊をひきいて帝国の再侵攻をむかえうつ軍首脳部とがそれであった。
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老病を理由に退役し、再三にわたる復帰の要請をこぼみつづけてきたアレクサンドル・ビュコック元帥が宇宙艦隊司令部をおとずれたのは、皇帝《カイザー》ラインハルトの再宣戦が宇宙全体を突きとばして転倒させた、その翌々日であった。
老元帥の退役当時、副官をつとめていたスーン・スール少佐が黒ベレーを頭から飛ばして司令部の玄関に駆けつけ、敬愛する老将の歩行をたすけた。まったく当然のごとく、彼はビュコックを司令長宮室に案内し、長官代理のチュン・ウー・チェンが不在であったのでデスクにすわらせようとした。長官代理がいたら、追いはらって老将の座を確保したかもしれない。ビュコックは笑って手を振り、客用のソファーに老いた身体を沈めた。
「軍服を着用してここへいらしたということは、現役に復帰して帝国軍と戦っていただけるのですか、閣下。また吾々を指揮していただけるのですか」
少佐の質問はほとんど願望に近かったが、淡々としてビュコックはうなずいた。
「わしはヤン提督とちがって、五〇年以上も同盟政府から給料をもらってきた。いまさら知らぬ顔を決めこむわけにもいかんでな」
血の熱い青年士官は、眼球周辺の温度と湿度が急上昇するのを自覚した。あらためて敬礼すると、彼はふるえる声を発した。
「閣下、私もおともします」
「貴官は何歳だ?」
「は? 二七歳ですが……」
「ふむ、残念だな、三〇歳以下の未成年は、今回、同行することはできんよ。これはおとなだけの宴会なのでな」
「そんな、閣下!」
老提督の真意をさとって、スール少佐は絶句した。ビュコックは、若い前途のある彼を道づれにする気がないのだった。老提督は、不意に年齢を超越した悪童のような笑顔をつくった。
「いいかね、スール少佐、貴官には重要な任務を与える。おろそかに考えてはいかんよ」
緊張の見えざる鎖で全身をしばりあげられたスール少佐に、ビュコック老提督は一語一語を明確に発音してみせた。
「ヤン・ウェンリー提督のもとへおもむけ、そして伝えてくれ。司令長官の仇《かたき》を討とうなどと考えてはいかん、貴官には貴官にしかなしえぬ課題があるはずだ、とな」
「閣下……」
「いや、こんな伝言を託してもむだになるかもしれんがな。わしとしては五〇も年下のひよっこ[#「ひよっこ」に傍点]に二度も負けるとは思えんしな。あくまでも、万が一、不覚をとった場合のことだ」
身体はやや不自由になり、年齢に比してひきしまっていた肉も落ちて、ビュコックの外見には老《お》いの影が灰色のもや[#「もや」に傍点]をただよわせていたが、眼光にも声にも壮者を圧する活力があった。あえて大言壮語してみせるのも、青年に対する気負いからではなく、いたわりの念からであった。自分が命令にしたがうべきであることを、理性以外のものによって少佐はさとった。
司令長宮室のドアがひらき、「パン屋の二代目」が姿をあらわした。すでに報告を受けていたのであろうが、おどろきの色もなく老元帥を見やり、おだやかな笑顔とともに敬礼する。
「お帰りなさい、閣下」
あれほどみごとなあいさつを見たことがない、と後々までスール少佐は語ったものだった。
「三〇歳以下の者はつれていかないとおっしゃったそうですね。私は三八歳です、同行させていただく資格があると思いますが……」
開きかけた口を閉ざして、ビュコック元帥は白髪の頭を振った。スール少佐の場合と反対に、彼のほうが説得の無益をさとったからである。
「貴官もこまった人だ。ヤン提督にはいくらでも人材が必要だろうに」
「あまり先輩|面《づら》が多いと、若い者はもてあましますよ。ヤン提督にはキャゼルヌひとりで充分でしょう」
老元帥はうなずき、壁ごしの彼方へ遠い視線を送った。
「……皇帝《カイザー》ラインハルトは、貴官やわしを戦争犯罪人として処断しなかった。個人的には恩義すらあるが、あえてそれに背《そむ》こう。こんなだらしない国に、若い者はこだわる必要もないが、わしはもう充分生きた」
肉の落ちた?《ほお》をひとなでして、老元帥は立ちつくすスール少佐に笑いかけた。
「ああ、そうだ、スール少佐、わしの家の地下室に黄色い木箱があってな、ブランデーの逸品が二本はいっている。一本をヤン提督へのみやげに持っていってくれんか」
ラインハルトの発した華麗な雷鳴は、真空の宇宙の隅にまでとどいた。ヤン・ウェンリーは「不正規隊《ザ・イレギラーズ》」の臨時旗艦、不沈を誇る戦艦ユリシーズの一室でそれを聞いた。
若い美貌の皇帝と、その背後にひろがる真紅の軍旗の意匠がヤンの脳裏でかさなって拡大する。|黄金の獅子《ゴールデン・ルーヴェ》か! あの若者以外の誰にもふさわしくない華麗な旗というべきだった。
「ヤン元帥を厚く遇する」という皇帝の発言は、誰よりもヤンの心理に深刻な影をもたらした。表面に出しては、「契約金をくれないのかな」などというできの悪い冗談で幕僚たちに白い眼をむけられたにとどまる。しかし、「不正規隊《ザ・イレギラーズ》」の幕僚たちだからこそ、冗談を冗談として受容してくれるのであって、同盟政府から見れば、自分たち自身の行為に対するうしろめたさもあり、ヤンの発言を、帝国に寝がえった証拠とみなしたにちがいない。
これまでもヤンにジレンマがなかったわけではない。彼の不当逮捕、謀殺未遂からハイネセン脱出にいたる経緯をあきらかにすれば、同盟政府が法の尊厳を犯したことが暴露され、民主共和政治の公正さに対する信頼をそこねることになる。「私は何のために戦ってきたのか」と言ってしまえば、彼自身の過去を否定するだけでなく、共和政のために闘ってきた無数の人々の尊厳を傷つけることになってしまうのだ。
まことに甘いと自覚はしているのだが、ヤンは未だ同盟政府に期待していたのだ。政府が自らの非を認め、謝罪し、彼の帰還を求めてくることを。
本来なら期待してよいはずだった。国家と権力機構の無謬《むびゅう》性を否定するところから、民主政治は出発したのではなかったか。自らの非を非とする自省と自浄の意欲こそが、民主政治の長所ではないのだろうか。
しかし、同盟政府は不毛の沈黙をつづけ、あげくにもっともドラスティックな形で帝国の先制を許してしまった。なにしろ帝国が公表したのは「事実」なのであるから、同盟としてはそれにまさる真実性をもつ虚構によって対抗するしかない。そしてそんなものが存在しないからこそ沈黙をつづけてきたのである。
ヤンはもはや同盟政府に復帰する道をたたれた。これまでエル・ファシルの自立宣言に呼応せず、物資を食いつぶす形で潜航をつづけてきたが、それも徒労となった。ヤンを厚遇するという皇帝《カイザー》ラインハルトの宣告はいつわりではあるまい。バーミリオン星域会戦の後にもラインハルトは彼に帝国軍への参加をすすめたのだ。本心を訴えることで最大限の政治的効果をあげ、同盟政府とヤンの関係を完全にたつ。金髪の若者が非凡なるゆえんである。舌を巻かざるをえない。
専制政治、とくに「慈悲ぶかく効率的な」善政を否定しながら、ラインハルト・フォン・ローエングラム個人を憎悪しえないのは、ヤンの理性が偏狭であるためか、感性が無原則であるためか、ヤン自身にも判断しがたいところであった。いずれにしても、ヤンは帝国と同盟との対立抗争に乗じて第三勢力をきずく以外の選択肢をうばわれてしまったのである。
第三勢力? ヤンは肩をすくめるしかない。そのような呼称は、第二勢力たる自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》が健在であればこそのものである。同盟の瓦《が》解《かい》は目前にせまっている。
「イゼルローンに帰るか……」
ヤンのつぶやきが、フレデリカの耳にほとんど郷愁に近い潮騒《しおさい》をもたらした。わずか一年たらず離れていただけなのに、あの無機的な銀色の人工球体は、何というなつかしさをもって心にせまるのだろう。あれこそヤン「不正規隊」の、ヤン艦隊の故郷だった。
「そしてエル・ファシルをおさえて回廊への出入口を確保する。アッテンボローの案に乗ってみようか」
エル・ファシルはたかだか辺境の一星域にすぎないが、ヤン・ウェンリー一党の補給基地としての機能ていどは無理なくはたしうるであろう。それに、ユリアンの件がある。少年が地球から帰ってきたとき、彼を迎える家が必要になるはずで、そこはイゼルローンとエル・ファシルをむすぶ「解放回廊」以外に考えられなかった。
ヤンの黒い瞳に、生色がみなぎりはじめた。彼の身体の奥にひそむ、歴史家以外の要素が蠢動《しゅんどう》をはじめたのだ。彼の脳裏で封印の氷がわれ、勢いよく思考の水流がほとばしりだしている。
「皇帝《カイザー》ラインハルトはおそらくルッツ提督にイゼルローン要塞から出撃するよう命令するだろう。|神々の黄昏《ラグナロック》作戦の再現というわけだ。そこに乗じる機会が生まれる……」
ヤンの熱っぽいつぶやきを、フレデリカは全身で聞いていた。
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第三章「|神々の黄昏《ラグナロック》」ふたたび
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ラインハルト・フォン・ローエングラムが至《し》尊《そん》の冠を自らの頭上にいただいてから、惑星フェザーンに大本営をうつし、さらに自由惑星同盟領への再遠征を開始するまでの期間は五ケ月にみたない。他者はその行動の迅速さに目をみはるが、金髪の若い覇者は、その間の自分が進歩より安定をのぞみ、自ら歴史を動かすより歴史の走路《ベルトウェイ》にすわりこんで運ばれるにまかせる安易さにおちいっていたように思えて、ひとり赤面する思いだった。
ビッテンフェルト上級大将の過激なまでの熱弁が皇帝を動かした、と、他者は見るであろうが、ラインハルト自身にすれば、引き裂かれた午睡のカーテンのむこうに、たまたまかの猛将が立っていただけのことであった。むろん、ビッテンフェルトの主張はラインハルトの本来の気質と戦略思想の双方に合致するものであったから、彼は、「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」の指揮官に対する評価を高めてはいる。
即位直後から数ケ月にわたる新皇帝のバイオリズムの低下を指摘する歴史家もおり、事実、ラインハルトは再三にわたって体調の不安定、食欲不振、発熱を経験した。即位前の彼と比較してやや消極的な傾向が散見されたことは否定しえない。だが、たとえバイオリズムの低下が事実であったとしても、ラインハルトの覇気と才幹は豊かな鉱脈を誇っていた。ワーレン提督を派遣して地球教の本拠を討伐せしめ、五世紀にわたって銀河帝国の中枢であった惑星オーディンからフェザーンヘと大本営をうつした。その間に、制度や組織の整備、人材の登用、法律の改廃などが連日のようにおこなわれ、統治者としてラインハルトはけっして無為ではなかったのである。
にもかかわらず、他の誰よりもラインハルト自身が、一四一日におよぶ小休止の期間を無為のものと感じていた。かつて、彼の無二の盟友であった故ジークフリード・キルヒアイスが評したことがある。「ラインハルトさまの足は大地を歩むためでなく空を翔《か》けるためのものです」と。そして、おそらく建設と整備とは大地を歩む行為なのだ。それを軽視するつもりはけっしてない。だが、大艦隊を指揮して、宇宙空間で敵軍と相撃つとき、彼の生命の根源は、深い充足感と灼熱《しゃくねつ》した昂揚感《こうようかん》にみたされる。否定しようのない、それは事実であった。
彼の敵手であるヤン・ウェンリーと微妙にことなった意味で、ラインハルトの白皙《はくせき》の皮膚の下には多くの矛盾が内蔵されていた。彼は戦いつづけ、勝ちつづけてきた。勝つということは敵を減らすことであり、敵が減れば戦いは減るのである。それは究極的に彼の生命力自体を減殺《げんさつ》する結果となるかもしれなかった。
彼本来の気質にそわぬささやかな問題は、つねに宮廷の内外で生じていた。先日も、工部省の一官僚が舌《ぜっ》禍《か》事件をおこしている。彼は帝国首都建設本部にも名をつらね、職務に精励《せいれい》していたが、あるとき酒を飲んで同僚たちと語りあううち、フェザーンの重要性を強調するあまり舌を動かしすぎたのだった。
「人類社会を有機的に結合させるには、フェザーンを結節点とするべきだ。たとえローエングラム王朝が消えさっても、フェザーンは宇宙の要地として残る」
この発言の最後の部分が、皇帝の神聖をそこない、不敬罪として極刑に値する――と密告した者がいるのだ。若い皇帝は、めんどうくさげな表情で、処断をヒルダの手にゆだねた。ヒルダは前後の事情を確認すると、発言者を軽率であるとして譴責《けんせき》処分をくわえた。密告者に対しては、いたずらに同僚の過失を故意の罪として騒ぎたて、皇帝の臣僚《しんりょう》を傷つけ、皇帝の寛容と公正をそこなうものであるとして、さらに重く降等の処置をとった。
幾日か経過して、その件をふと思い出したラインハルトが処断の結果をたずねると、ヒルダは事実をそのまま報告した。若い皇帝は満足そうに黄金の髪を揺らした。
「フロイライン・マリーンドルフは、ものごとの道理をよくわきまえている。密告などを予が喜ぶものと思っている輩《やから》には、良い教訓になったろう。これからも何かとフロイラインに託すことになりそうだな」
おそれいります、と答えた後、ヒルダは皇帝にうったえた。最近、急速に宮廷と政府にひろがりつつある、好ましからざる風潮についてである。皇帝に対する尊敬の念をあらわすのは当然としても、それを道具としていやしいことに使用する傾向があるのだ。
「具体的にどのようなことなのだ、フロイライン・マリーンドルフ?」
「たとえば、同僚たちであいさつをかわしたり乾杯したりするとき、|皇帝ばんざい《ジーク・カイザー》ととなえない者が非難され、上司がそれを考課表につける、というようなことです」
「くだらぬことだな」
「おっしゃるとおりです。ゆえに、陛下からその旨《むね》を臣下一同に申しわたしていただきとうございます。他人を非難しおとしいれることで自己の栄達をはかろうとする風潮に、先制の一撃を加えていただきたいのですけど」
ラインハルトは額にたれかかった金髪の先を、白い指でかるくもてあそんだ。
「そのようなことまで気にかけるのでは、フロイラインも苦労がたえぬな。だが、悪い芽は早く摘《つ》むべきだろう。わかった。今日のうちに布告を出そう」
「お聞き入れてくださって感謝いたします」
戦場で強敵を相手どって武勲をたて、国政の場で懸案を処理するというのでなく、絶対権力者に媚びることで栄達がかなうようになれば、ローエングラム王朝は頽廃《たいはい》への道を直進するであろう。ヒルダの危惧《きぐ》をラインハルトは理解したし、もともと彼は権力者に媚びるような輩がきらいであった。
かつて、ラインハルトに忠告し直言する役は、故人となったジークフリード・キルヒアイスのものであった。現在、剛直なミッターマイヤーや誠実なミュラーらの存在があるが、彼らは皇帝に対してまったく遠慮をせずにいられるという立場ではない。自分がその立場にあると考えるのも、ヒルダにしてみればだいそれたことであるのだが、誰かが言わねば、ラインハルトでさえ気づかぬこともあるのだ。
自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》に再度の宣戦をおこなった日、超光速通信《FTL》室から執務室へもどったラインハルトは、ヒルダを相手に戦略論のいくつかを展開していた。ミッターマイヤーが、ヒルダの智《ち》謀《ぼう》は一個艦隊の武力にまさると評したことを彼は知っているのだった。
「フロイライン・マリーンドルフには今回の出兵に関して何か妙手があるのではないか」
「もし陛下がご希望になるのでしたら、二週間以上を要することなく、これ以上の戦火をまじえることもなく、同盟元首の身柄をここへさし出させますけど」
ラインハルトは蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳に興味の光を踊らせた。
「何を用いて枝から果実をもぎとるのだ、フロイライン?」
「一片の通信文をもって」
ラインハルトは無作為の優美さで小首をかしげたが、すぐに破《は》顔《がん》した。
「わかった、ともぐい[#「ともぐい」に傍点]をさせるのだろう、フロイライン・マリーンドルフ、ちがうか」
「御《ぎょ》意《い》……」
「どちらかといえば、それはオーベルシュタイン元帥の領分に属する発案だな。智者はときに同じ橋をわたるものらしい」
ヒルダは表情を隠すためにまばたきしてラインハルトを観察したが、彼がヒルダの反応を予期してそのような言いかたをしたのか、判別しえないうちに、かさねて質問を受けた。
「それで、その策の長所は?」
「同盟首都ハイネセンに戦火をおよぼさず、非戦闘員を巻きこまずにすむこと。同盟崩壊の責任を彼ら自身に帰せしめ、市民の怨《うら》みの方向をそらせえること」
「欠点は?」
「すくなくとも短期的に、ヤン・ウェンリー元帥の一党に力を与えることになりましょう。彼しか頼る者がいないのですから、陛下の敵はことごとく彼の周囲に集まるはずです。それに……」
「それに?」
「この策がおそらく成功した後で陛下の後味がお悪くなりましょう。正面から同盟軍を撃砕《げきさい》することを、お望みなのでしょうから」
はっきりとラインハルトは笑声をあげ、クリスタル・ガラスが共鳴するような音で室内の空気を波だてた。
「フロイライン・マリーンドルフは、人の心を映す銀の鏡を持っているようだな」
その感想は、彼が幼いころ、姉アンネローゼから聞かされた童話の記憶にもとづいていたのだが、むろんそこまでは若い皇帝は語らなかった。
「ですけど、わたしたちが策を弄《ろう》さずとも、崩壊に直面して人心の動揺するところ、かならず、こちらの求めもしない商品を売りつけにくる者がいるでしょう」
「ありうることだな」
にがにがしくヒルダの予測を肯定したラインハルトは、卓上の鈴を振った。近侍のエミール・ゼッレ少年があらわれると、彼はコーヒーを持ってくるよう言いつけた。
崇拝する若い皇帝《カイザー》の前に出ると、エミールは未だに全身を自動人形のようにかたくする。結果としてそれは、忠誠心にあふれた少年に対するラインハルトの好意を篤《あつ》くすることになった。もしエミールが皇帝の好意に押《な》れて横柄《おうへい》にふるまうようなことがあれば、ラインハルトの不興を買ったにちがいない。
言いつけをうけたまわってエミールが一時退出すると、その動作を見ていたヒルダは微笑をさそわれた。
「とてもいい子ですわね」
「あれがいるもので、予は身辺に不自由せずにすむ。いい医者になるだろう、たとえ技術が完璧《かんぺき》でなくとも患者が喜んで生命を託すような……」
ラインハルトの一面の属性である苛《か》烈《れつ》さ、辛辣《しんらつ》さは、このようなとき白皙《はくせき》の皮膚の下に完全に沈みこんでしまい、他面の特質がとってかわっている。「予には弟がいないから」と、ラインハルトは心の一端を表現したことがあった。彼は、つねにある女性に対して弟の立場にいたが、それを変えてみることに濁りのない喜びをおぼえているようであった。
コーヒーを待ちながら、ヒルダはふと自分自身の立場に思いを致《いた》したが、彼女に似あわずすぐ思考停止してしまった。彼女は若い偉大な征服者の、忠実で有能な秘書官であった。それ以外に要求すべき立場を彼女は持ってはいないのだった。
軍務尚書オーベルシュタイン元帥は、惑星フェザーン防衛司令部の長官たるを命ぜられ、残留することとなっていた。皇帝が留守の間、軍事は軍務尚書、民政は工部尚書が分担するのである。当然の人事ではあるのだが、ミッターマイヤーやロイエンタールが内心「奴がいなくてせいせいした」のも事実であった。
オーベルシュタインは無表情に命令を受領し、軍務省が設置されたビルの一室で事務処理をはじめたが、彼の部下フェルナー准将は、この冷徹無情といわれる上官を、なるべく尖端《せんたん》を丸めたことばの針でつつくことに、スリルを感じている。
「軍務尚書は、再度の出兵に反対なさると思っておりましたが」
「いや、あれでよいのだ」
性急な再出兵が万全の策とはオーベルシュタインは思わないが、同盟政府にしても万全の防衛戦略を準備する時間が与えられないのだから、条件は同等である。重要なことは、つねに状況をつくる立場に身をおき、敵に主導権を与えないことだ。レンネンカンプは、弁務官として何らの功績も残さなかったが、自らの不幸な死によって自由惑星同盟を危地に追いこむ役割をはたしたのであった。
「それに、皇帝《カイザー》の本領は果断即行にある。座して変化を待つのは、考えてみれば皇帝《カイザー》にふさわしくない」
「おっしゃるとおりですな」
オーベルシュタインの論を肯定はしたものの、彼を見るフェルナーの視線には、意外さの微粒子がちりばめられていた。
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フェザーン回廊を通過して同盟領宙域へ侵入したビッテンフェルト上級大将は、シュタインメッツ上級大将の軍と合流すべく急進していたが、あるとき一〇隻ほどのささやかな同盟軍小艦隊が挑戦的に近づいてくるのを発見した。
「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」の破壊力をもってすれば、このような弱敵など一瞬に宇宙の塵《ちり》と化せしめることが可能である。しかし、司令官ビッテンフェルト上級大将をはじめとする将兵たちには、大敵と闘ってこそ勇猛の名に値する、という矜持《きょうじ》があった。余裕ゆえの寛容さで、「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」は彼らを黙殺しようとしたが、敵は執拗《しつよう》にまとわりついて離れず、一時間ほど経過すると、もともと気の長くないビッテンフェルトは不快感に耐えかねた。
「奴ら、しつこすぎる、かわいげがない」
一撃に粉砕して出征の血まつりとせよ――司令官の命令を受け、一〇〇隻ほどの艦艇が、舌なめずりする猛獣のように肉迫していった。
だが意外にも、その小艦隊は帝国軍に対して戦闘ではなく交渉を望んでいることが判明した。故障していた通信システムが、最悪の事態が出産される寸前に機能を回復したのである。同盟政府の特使が撤兵交渉を求めていると知ると、ビッテンフェルトはかるく口をゆがめて思案したが、やがてひそかに指を鳴らした。
「本職には交渉の権限がない。後続のミッターマイヤー元帥に面談することだ。航行の安全は保障する」
駆逐艦一隻に案内と護衛を命じると、ビッテンフェルトは、「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」をしたがえ、同盟領の暗黒空間を、さらに急進していった。
無視された形の同盟政府特使は、おそらくビッテンフェルトよりミッターマイヤーのほうが話がわかるはずと思ったのであろう。帝国駆逐艦の先導でさらに三日間航行をつづけ、ミッターマイヤーの直接指揮する艦隊に接近して面会を求めた。
「ビッテンフェルトめ、やっかいな客をおれに押しつけておいて、その間に前進し、差をひろげるつもりだな」
看破したミッターマイヤーだが、宇宙艦隊司令長官という地位にある以上、政府特使と称する者に門戸を閉ざすわけにはいかなかった。舌打ちし、蜂蜜《はちみつ》色の髪をひとつかきまわすと、彼は特使とやらを旗艦「人狼《ベイオウルフ》」の司令長官室へ招じ入れた。
同盟政府特使ウィリアム・オーデッツは、|立体TV《ソリビジョン》の解説者から政界に転じ、国防委員会委員をつとめる小壮の男で、能弁をもって後世に名を残す野心をいだいていた。彼を派遣したレベロですらたいした期待を持っていなかったが、彼自身は「舌ひとつで帝国の大軍を制止する」意欲で食用カエルのようにふくれあがっていた。幕僚を左右にしたがえたミッターマイヤーに礼儀的なあいさつをすませると、彼は胸をそらせて朗々《ろうろう》と声をはりあげた。
「バーラトの和約において、自由惑星同盟の主権と領域は保全を約束されたはずである。にもかかわらず、いま銀河帝国は和約の条文と精神にそむき、ひたすら無法な暴力をもって、わが領土を蹂躙《じゅうりん》しようとしている。現在における反感と、未来における批判とを望まれぬなら、即座に軍をひき、外交|折衝《せっしょう》によって自説を主張なさるべきであろう」
使者が言い終えたとき、ミッターマイヤーはわずらわしげに蜂蜜色の頭髪に手をやっただけで、一言も発しようとはしない。特使はふたたび口を開きかけたが、強い反応は彼の正面ではなく左方に生じた。
「だまれ、何を言うか!」
席から長身をおこして怒声をたたきつけたのは、バイエルライン大将であった。
「和約にそむき、皇帝《カイザー》の全権代理たるレンネンカンプ弁務官を害したのは誰か。卿《けい》ら同盟政府ではないか。卿らに和約を順守するの意思なく、能力なしとみなして、わが皇帝《カイザー》は親征の軍をおこしたもうたのだ。卿らに良識があるなら、陛下の御前にひざまずき、無用の流血を回避すべきではないか」
その勢いに対して、表面的には特使はひるまず、反論した。
「レンネンカンプ弁務官は自縊《じい》されたのであり、その窮状に彼を追いつめたのは、ヤン・ウェンリー一党です」
「では、そのヤン・ウェンリー一党をなぜ放置しておく?」
「貴官ら帝国軍が、わが同盟政府に時間を与えてくださらぬからです」
その返答が、バイエルラインのダークブルーの瞳に冷笑のきらめきをもたらした。夜空を流星の光がつらぬいたようであった。
「時間か! 時間があればヤン・ウェンリー一党はより強盛になり、卿ら同盟政府はやせほそるだけのことであろう。たとえヤンに一〇倍する兵力を有していたとて、卿らがヤンに勝てるとは思えぬな」
「あるいは貴官のおっしゃるとおりかもしれません」
鄭重《ていちょう》なことばとはうらはらに、特使の声からは毒素がにじみ出ていた。
「……なにしろ、ヤンに一〇〇倍する兵力をお持ちの皇帝《カイザー》ラインハルト陛下さえ、彼に対して御手をこまねいておられる。私どもごとき非才の身にては、とうていヤンに敵することはかないませんでしょうな」
室内に充満した沈黙は、鉛が気体化したもののように思われた。豪胆なバイエルラインでさえ、一瞬、呼吸器の機能を奪われたように見えた。バーミリオン星域会戦に際し、ラインハルトが純粋な戦闘においてはヤンに敗れたことを、特使は痛烈に嘲弄《ちょうろう》してのけたのである。沈黙が急速に臨界に達し、破裂すると、殺意の気流が奔騰《ほんとう》した。
「きさま、陛下を侮辱するか!」
ビューローとドロイゼンがほとんど同時に怒声を発し、バイエルラインにいたっては猛然とデスクを躍りこえて特使に迫ろうとした。すでに片手にはブラスターを光らせている。
それまで腕を組んで沈黙していたミッターマイヤーが、するどい叱《しっ》咤《た》を発したのはこのときである。
「やめろ! 卿らは武人であろう。単身、しかも素手で敵中に乗りこんできた人間を殺し、誰にむかって功績を誇るつもりか!」
バイエルラインの激発は急停止した。若い勇将はみるみる赤面すると、司令長官に一礼し、自分の席に帰った。安《あん》堵《ど》の表情をおしころす特使に、ミッターマイヤーが声を投げた。
「ひとつ卿に問うが、もしここにいる提督たちのひとりが同盟首都に使者としておもむき、卿らの元首を侮辱したとする。死をもってその罪をあがなわせようと望む者が、いま同盟軍の幹部にいるだろうか」
「…………」
雄弁な使者は、はじめて絶句した。口先だけの返答では通用しないと思わせるものが、ミッターマイヤーの表情にあった。
「おりますまい……残念ながら」
「では、ヤン・ウェンリーの部下はどうだ。生命をかけて上官を救出したが」
「…………」
「わが皇帝は、大なりといえども同盟政府を恐れず、小なりといえどもヤン・ウェンリー一党を恐れたもう。そのゆえんを、卿自身が明らかにしたわけだな」
ミッターマイヤーは立ちあがった。意外に小柄なことが、特使をおどろかせた。「帝国軍の双璧《そうへき》」のひとりは、勇名にふさわしい巨人であろうと彼は信じこんでいたのだ。
「特使にはご苦労だったが、もはや語りあうべきこともないようだ。もしこの上、主張したいことがあるなら、直接、陛下に申しあげるがよい」
「それはよいが、ミッターマイヤー元帥閣下、私が皇帝に撤兵をお願いするまで、軍事行動をおひかえいただきたい」
「そうはいかぬ。卿が陛下にお会いされるのは卿の自由だが、それによってわが軍の行動は何ら掣肘《せいちゅう》されるものではない。陛下より勅命がくだって兵をひけとのことであれば、むろん吾らはそれにしたがうが、そうなるもならぬも卿の弁舌しだいで、吾らの関知せざるところだ。吾らはあらたな勅命がくだるまでは、古い勅命にしたがう。すなわち、同盟領への進攻と、それに対する抵抗の排除とを続行する。もし卿が吾らの進攻をとどめたいとお考えなら、一刻もはやくわが皇帝《カイザー》のもとへおもむかれよ。この場にあって雄弁を駆使しても無意味であろう」
それまでの沈黙をおぎなうように、ミッターマイヤーにしてはめずらしく長い台詞《せりふ》をはきだし、その一語一語は見えざる銃弾となって特使の心臓に撃ちこまれた。技巧だけの弁舌で、帝国軍最高の驍将《ぎょうしょう》を動かすことは不可能であった。
特使はうなだれた。勇気と意欲のすべてを費《つか》いはたしたようであった。彼の使命は失敗したのだ。ミッターマイヤーを説得しえずに、その主君たる皇帝《カイザー》ラインハルトをときふせるのは不可能であった。
同盟首都ハイネセンを出立するとき、彼の体内は情熱と勇気と自信の混合ガスでみたされていたが、いまやそこは真空にひとしい状態だった。それでも彼は虚勢をふるって、胸をはったまま戦艦「人狼《ベイオウルフ》」から退去していったが、自分の乗艦にもどると、陰気にうなだれてしまった。数時間にわたって彼は自室にとじこもり、やがてドアの外に姿をあらわすと、どこか自棄的な口調で皇帝《カイザー》ラインハルトのもとへ直訴におもむくことを告げた。
「あの竜頭蛇尾の長舌族《おしゃべり》はどうした?」
と数日経過してからミッターマイヤーはビューローに問いかけたが、皇帝《カイザー》に直訴するためフェザーン方面へ去ったと聞くと、ひとつうなずいて「忘却可」の印を押してしまった。
結果論をとなえるとすれば、このときミッターマイヤーは、舌の芸術家をきどるこの小うるさい男を抑留しておくべきであったかもしれない。だが、彼を説得しえない説客《ぜいかく》が皇帝《カイザー》ラインハルトを翻意させえるとはとても思えなかったし、皇帝への直訴を望む者がいるからには妨害すべきでもなかった。かつてリップシュタット戦役の直後に、ラインハルトの暗殺をはかった刺客がおり、結果としてジークフリード・キルヒアイスの生命を奪うことになったが、今回はそのような危険があることも考えにくい。それでも通信によって、いちおう注意すべき旨《むね》をミッターマイヤーは皇帝《カイザー》の本営に伝達したのだった。
ビッテンフェルト上級大将が、軍事力の空白地帯となった同盟領宙域を、首都ハイネセンヘむかって驀進《ばくしん》しているとき、帝国直轄領ガンダルヴァ星域においては、シュタインメッツ上級大将が完全な臨戦体制のもとに、友軍の到着を特ちうけている。
皇帝からたまわった彼の兵力をもってすれば、一挙にハイネセンを直撃することも可能ではあったが、いくつかの条件が彼に行動の慎重さを要求していた。まず、ヤン・ウェンリー一派の所在が不明であり、奇襲の可能性がわずかでもある以上、帝国軍活動の根拠地となるべきガンダルヴァ星系を空《から》にしておくわけにはいかない。「バーラトの和約」後に整備がすすめられたとはいっても、イゼルローンのような永久|要塞《ようさい》の完成にはほど遠く、拠点としての地位と、備蓄された軍需物資を守るためには、艦隊主力の駐留が必要不可欠であった。
さらに、同盟首都ハイネセンには、故レンネンカンプ高等弁務官の下に属していた文武官一万人ほどが駐在しており、彼らの安全を期する必要があった。むろん、すでに同盟政府に警告は発してあるし、同盟としても貴重な人質となりえる彼らを無益に殺傷することはないであろうが。
じつは一度、シュタインメッツは同盟政府の責任を問うべく、直接、惑星ハイネセンヘ乗りこもうとしたことがあった。そのときは副司令官クルーゼンシュテルン大将が顔色を変えて反対をとなえた。
「少数の随員だけでハイネセンヘ乗りこむのは自殺行為にひとしいものです。レンネンカンプ弁務官の不幸な前例をお忘れですか」
こともなげにシュタインメッツは答えた。
「そのときは、おれもろとも惑星ハイネセンを吹きとばせ。積年の混乱は、大半がそれで一掃される」
こうして、副司令官クルーゼンシュテルン大将を留守に残したシュタインメッツは、参謀長ボーレン中将、次席参謀マルクグラーフ少将、司令部総書記リッチェル少将、副官セルベル中佐、護衛隊長ルンプ中佐などの幕僚をしたがえて同盟首都ハイネセンにおもむこうとしたのだが、結局のところ会談は実現せず、シュタインメッツはガンダルヴァ星系の外緑部から惑星ウルヴァシーに引き返した。かつてラインハルトの旗艦ブリュンヒルトの初代艦長をつとめ、その後、主として辺境で武勲をかさねた提督は、引きしぼられた弓のような状態で日を送っている。
帝国軍、大挙して再侵攻。
その報は当然ながら同盟首都ハイネセンを戦慄《せんりつ》させていた。「一年のうちに二度も帝国軍の艦隊を見ることになるとは」と自嘲する者もいれば、惑星全体が焦土と化しても抗戦すべきだと叫ぶ者、もはや抵抗は無益であるから無条件降伏の意思をあきらかにせよと主張する者、都市部から山間部へと避難するもの――「バーラトの和約」に先だつ帝国軍の急襲の際にはパニックが生じる時間的余裕もなかったが、今回は緩慢に破滅の波が人々の精神の階段をひたしつつあった。擬似死刑囚の感覚が人々をつかみ、無力感が収斂《しゅうれん》して飽和状態になった地点では暴動が発生した。閉鎖された宇宙港のゲート前で治安警察と市民が衝突し、千人単位の死者が出た。
チュン・ウー・チェンは老病のビュコックにかわって、帝国軍迎撃の準備を急速にととのえていたが、昨今では最高評議会議長ジョアン・レベロのぐち[#「ぐち」に傍点]やいらだちの相手もつとめなくてはならず、辟易《へきえき》していた。秘書官でさえ議長を避けているのである。あるときレベロが陰気な質問を発した。
「ビュコック元帥は、ヤン・ウェンリーと闘うことは拒否したが、相手が皇帝《カイザー》ラインハルトであれば戦うというのか」
「べつに不思議なことではないでしょう」
チュン・ウー・チェンはごく温和に反論した。
「どうかお考えいただきたいものです。長年にわたって、ビュコック元帥はあなたと親交がありました。なのに、なぜあなたと会おうとしないのか。元首の座につかれる以前のあなたをあまりにご存じだからだ、と、お思いになりませんか」
「……私が人が変わったと言いたいのか」
「ビュコック元帥が変わったのではありません。それはお認めくださるでしょう」
レベロは生気を欠く両眼をチュン・ウー・チェンにむげたが、視線はあきらかに彼を透過して彼にだけしか見えないものを凝視していた。口が小さく開閉し、低い、湿度を欠いた声がつむぎ出されていた。チュン・ウー・チェンは聴覚神経の機能を最大限にした。レベロは逃亡したヤン・ウェンリーの罪状を告発していたのである。
「非礼を承知で申しあげますが、閣下、ヤン・ウェンリーはあなたを殺害することも、宇宙の涯《はて》へ拉致《らち》することもできたのですよ。彼がそうしなかったのは……」
最後までチュン・ウー・チェンは言い終えなかった。相手が彼のことばを聞いていないことが明白だったからである。宇宙艦隊総参謀長は、ため息をついて立ちあがった。経営不振のパン屋の将来を思いわずらう表情であった。レベロの執務室を辞する際、警護室長に何か言いかけてチュン・ウー・チェンはやめた。すでに議長は精神的に自殺していると思わざるをえない彼だった。
宇宙艦隊司令部にもどったチュン・ウー・チェンは、玄関で来客の存在をつげられると、ひとたび自分の執務室に立ち寄ってから、指定された応接室のドアをあけた。
三人の来客は、「パン屋の二代目」と称される総参謀長の姿を視界に認めて、ソファーから立ちあがり、かたくるしい動作と表情で敬礼をほどこした。
イゼルローン要塞駐留艦隊の副司令官であったフィッシャー中将、参謀長であったムライ中将、副参謀長であったパトリチェフ少将。それが彼らの名であった。
「バーラトの和約」が成立してヤンが退役し、通称「ヤン艦隊」が解体されるにおよんで、彼らはそれぞれ別方面の辺境軍区へ配転されていた。つい半年前まで、自由惑星同盟における最強の武力集団の指導部に、彼らは所属していたのだが、転戦をかさね、勝利と労苦をつみあげた末に、あきらかに邪魔者あつかいを受けて首都から追い出されてしまったのである。政治的にはあやまった処置ではなかった。中央政府が、最強部隊の自立化、軍閥化をおそれ、その解体を促進するのは当然である――ましてすでに利用する価値がなくなったとあっては。
彼ら三人は不安ではなかったにせよ、平静ではいられなかった。辺境にあって同僚たちと引きはなされ、首都の情勢に関しては、政府の公式発表と不確実な噂《うわさ》が、新鮮さをかく溜池《ためいけ》の水のように情報の水路へただよいこんでくるだけなのだ。彼らの旧司令官、「第一三艦隊」創設以来、三年にわたって生死をともにしてきたヤン・ウェンリーが、逃亡か、粛清か、いずれにしても理想とする生活から放り出されたことだけは確実なようであったが。
「遠路ご苦労だった、まあかけてください」
すすめると同時に、彼自身もソファーに腰をおろす。気楽にくつろいだ姿勢で、総参謀長は来客の為人《ひととなり》を脳裏で確認していた。
ムライは独創的な能力はとぼしいが、緻《ち》密《みつ》で整理された頭脳と、官僚的な処理能力にとみ、「ヤン艦隊にはまれな常識人」との評がある。フィッシャーは艦隊運用の名人で、ヤンの立案した作戦が実施にあたって一度の失敗も見ずにすんだのは、彼の完璧な艦隊運用によるものだった。パトリチェフは参謀型の軍人にはとても見えず、巨体ばかりが印象的なのだが、事実としてヤン艦隊司令部の運営をとどこおらせた例はなく、任務と上官に対する誠実さには疑念の余地がない。これらの人材を登用し、統御《とうぎょ》して歩調を乱させなかったヤン・ウェンリーという青年は、たしかに凡庸《ぼんよう》ではない、と、チュン・ウー・チェンは思うのである。
「わざわざ任地から小官らを呼びよせられたのは、どのようなご意図からでしょうか、総参謀長」
謹厳な表情から謹厳な声が発せられた。ムライ中将に会話権をゆだねたように、他の二者は沈黙している。
チュン・ウー・チェンは、手みじかに、だが正確さを欠くことなく、ヤンと部下たちがハイネセンを脱出するにいたった事情を説明した。たがいに顔を見あわせる三人をながめわたすと、持参した書類をとり出す。
「そこで、肝腎《かんじん》の用件だ。ヤン提督を探し出し、この書類を彼に手わたしてほしい」
「それは……?」
「譲渡契約書だよ」
三人三様に不審な表情をつくって、旧ヤン艦隊の幹部は書面をのぞきこんだ。顔をあげたとき、驚愕《きょうがく》と不審の色はかえって濃度をましていた。チュン・ウー・チェンは大儀そうにひざを組んですわりなおした。
「見てのとおりだ。わが宇宙艦隊のうちから五五六〇隻をヤン・ウェンリー氏に譲渡する。貴官らには、書類とともに商品そのものを運搬してもらいたい。法令上の手つづきば完了しているから心配いらない」
ムライがせきの音をたてた。
「ですが、わざわざこのような書類をつくる必要があるのですか。形式も度がすぎるように小官には思われますが」
「わからないかね?」
チュン・ウー・チェンは無邪気そうな目で三人を見かえした。パトリチェフはたくましい首をかしげ、フィッシャーはまばたきし、ムライはまばたきすらしない。
「むろんジョークだよ」
黒ベレーの角度を注意深くなおしながら、チュン・ウー・チェンは言ってのけた。ムライは一段と姿勢を正した。彼の半年前までの上官以外にもこういうこまった人間がいるのか。そう考えたかもしれないが、表情には出さなかった。とはいえ、上位者に対しても手きびしい口調になってしまう彼である。
「ジョークとおっしゃるなら、それでけっこうですが、帝国軍に対して戦力を糾合《きょうごう》せねばならないときに、これだけの艦艇と物資をさいたのでは、帝国軍の侵攻に対処しえないのではありませんか」
「どうせ糾合しても対処しえないよ」
あまりに明瞭《めいりょう》な返答が、ムライ中将を絶句させた。銀髪のフィッシャーはなお沈黙を破ろうとはせず、前参謀長にかわって口を開いたのはパトリチェフだった。
「とおっしゃっても、戦わずして首都をあけわたすおつもりはないでしょう、閣下」
「そう、そんなつもりはない。ビュコック長官と私は多少の悪あがきをしてみるつもりでいる」
「しかし、それでは自殺行為ではありませんか。いっそ総参謀長閣下も、ビュコック司令長官閣下も、小官らと同行なさってはいかがです」
ムライ中将が視線を動かして、巨漢の少将を軽くにらんだ。
「めったなことを言うものではない。第一、吾々自身、行くと決めたわけではないのだぞ」
「私はそのつもりだがね」
ついに沈黙を破ってフィッシャーが言い、銀色の目で総参謀長を見やった。チュン・ウー・チェンがまたひざを組みなおした。
「行ってもらえるかね、フィッシャー提督」
「喜んで、閣下。ムライ中将、本心をいつわっている余裕はない。時間を浪費することなく、最善の道を行くとしよう」
「…………」
ムライ中将は憮《ぶ》然《ぜん》として天井を見あげたが、年長者たるフィッシャーの正しさを認めたのであろう。やがて一礼して命令を受諾した。
旧ヤン艦隊の幹部三名が「譲渡契約書」をたずさえて司令部を辞すると、チュン・ウー・チェンはビュコックに事の次第を報告した。老提督は労をねぎらい、ふと遠い目をした。
「ランテマリオ星域会戦で敗れたとき、わしは死ぬべき身だった。貴官に説得されて半年ほど永らえることになったが、結局のところ命日が移動するだけのことだな」
「いまとなってみれば、出すぎたまねをしたかもしれません。お赦《ゆる》しください」
「いや、おかげで多少は女房孝行ができたが、……貴官こそ妻子はどうする?」
「ご心配なく、ムライ中将らに託してヤンのもとへ送ることにしました。私はこれでもエゴイストでして、家族のことが気がかりなのです」
それはよかった、と、老人は目を閉じながら言った。彼自身は老妻を家に残してきていた。新婚以来の月日を送ってきた家から離れることを、妻がこばんだのだ。いずれ彼女はあの家で、自分自身とビュコック家の終焉《しゅうえん》をみとることになるであろう……。
「ヤン・ウェンリーは何かと欠点の多い男ですが、何者も非難しえない美点をひとつ持っています。それは、民主国家の軍隊が存在する意義は民間人の生命を守ることにある、という建前《たてまえ》を本気で信じこんでいて、しかもそれを一度ならず実行しているということです」
「そう、貴官の言うとおりだ」
ビュコックの老いた顔に、微笑が残照めいたひろがりを見せた。
「エル・ファシルでもそうだった。イゼルローン要塞を放棄するときもそうだった。ひとりとして民間人に犠牲を出しておらん」
歴史は、ヤンを、ラインハルト・フォン・ローエングラムに匹敵する、あるいはそれ以上の戦争の芸術家として記憶するであろう。だが、それ以上に後世にむかって語らねばならぬことがあるのだった。その役目はビュコックやチュン・ウー・チェンが負うものではない。人はそれぞれ負うものがことなるのである。
「貴官の言いたいことはわかるつもりだ。ヤンが敗北するとしたら、それはラインハルト・フォン・ローエングラムの偉大な天才によってではない」
それはヤン自身の、理想へのこだわりによってだろう。バーミリオン星域会戦のとき、彼は政府の停戦命令を無視すべきだった。言ってはならないことだが、彼自身のためにそうすべきだったのだ……。
V
同盟政府特使オーデッツの訪問を一蹴《いっしゅう》した後、ミッターマイヤーはこの作戦における最初の銃火を同盟軍にあびせかけることになった。帝国軍の直進コースからはずれるため、ビッテンフェルトには無視されたが、惑星ルジアーナの同盟軍|造兵廠《ぞうへいしょう》は、戦略上、看過しえぬ存在であった。放置しておけば、その地理上の位置と生産力は後日のわずらいとなろう。
ミッターマイヤーの迅速な行動は、「|疾風ウォルフ《ウォルフ・デア・シュトルム》」の異名に恥じないものであった。一二月二日、惑星ルジアーナの造兵廠は帝国軍の攻撃によって完全に破壊され、長官バウンスゴール技術中将は工場施設と運命を共有した。だが、建造されたばかりの駆逐艦および巡洋艦は、半数が脱出に成功した。脱出者たちはデッシュ准将の指揮下に、帝国軍の追撃と捜索をのがれ、兵員と物資を集めながら、五〇日をかけてようやくエル・ファシルに到着し、ヤン・ウェンリーの不正規隊《イレギラーズ》に身を投じることになる。
ミッターマイヤーの後にも、帝国軍の艦列は巨大な光の帯となって、同盟領宙域を席巻している。同盟軍の現在の戦力に比して、過大なほどの数は、帝国軍の補給能力の限界をきわめるものであった。ミッターマイヤーの直後には、旧レンネンカンプ艦隊が二路に分かれて展開していた。
生前のレンネンカンプ上級大将が高等弁務官に転じたとき、彼の統率していた艦隊は二分され、アルフレット・グリルパルツァー、ブルーノ・フォン・クナップシュタインの両大将の指揮下に再編成されていた。両者とも二〇代の若さで、鋭気と活力にめぐまれ、さらに彼らの上司であったレンネンカンプの復仇《ふっきゅう》をかたく決意している。
ただ、個性にはむろん差がある。クナップシュタインはレンネンカンプの忠実にして有能な教え子であり、ごく正統的な用兵術と、いささか清教徒的なきまじめな性格の所有者である。一方、グリルパルツァーは、軍人として年齢に似あわぬ名声を有するかたわら探検家として知られ、帝国地理博物学協会の会員に名をつらねている。協会への入会を認められるには、会員の推薦と論文審査が必要なのだが、「アルメントフーベル星系第二惑星における造山活動および大陸移動の相互関係を証明する極地性植物分布に関しての一考察」という長い題名の論文によって、彼はその資格をえた。
入会認可の報を受けたとき、彼は故カール・グスタフ・ケンプ提督の葬儀に出席する直前で、礼装に身をかためていたが、そのままの姿でトイレに駆けこみ、ひとりだけの空間で歓喜を爆発させた後、謹直な表情をつくって式に臨んだものである。このような経歴や志向から、彼はどうやらレンネンカンプより「芸術家提督」メックリンガー上級大将のほうにより多くの敬意をささげていたかに思えるのだが、むろんそれは復仇の情熱をさまたげるものではなかった。
たがいの競争意識が、情熱の温度を高めてもいたであろう。
彼らの後方には、グローテヴォール大将、ヴァーゲンザイル大将、クーリヒ中将、マイフォーハー中将らの艦隊が列をなし、さらにアイゼナッハ上級大将が重鎮としての姿を見せている。
アイゼナッハは比較的、酒を好むほうで、戦陣でもウイスキーを身辺から離さなかったが、フェザーンを出立《しゅったつ》して以来、彼は酒と無縁だった。これには多少の事情がある。将官であるアイゼナッハには当然、幼年学校の生徒が従卒としてついているのだが、「極度に無口で厳格で気むずかしい」という評判が彼の身体と影をおおっていたので、副官から指示を受ける生徒は最初から硬直してしまっていた。
「提督が指を一度鳴らしたらコーヒーを持参すること、けっして四分以上かけないように。指を二度鳴らしたらウイスキーだ。くれぐれもまちがえんようにな」
幼年学校の生徒は必死に指示をおぼえこもうと努力したし、本来の彼の記憶力をもってすれば、それは容易であるはずだった。だが、心理的圧迫が少年の記憶回路を微妙に変形させたのであろう、フェザーン出立後、あるときアイゼナッハが二度指を鳴らすと、三分五〇秒で、二杯のコーヒーが彼のもとへ運ばれてきたものである。
「極度に無口で厳格で気むずかしい」提督は、全身をこわばらせて立ちつくしたままの少年にかるい一瞥《いちべつ》を投げると、無言のうちに二杯のコーヒーを飲みほした。幼年学校の生徒は全身で安堵のため息をついた。こうして、今回の遠征において、エルンスト・フォン・アイゼナッハは、一杯のコーヒーと二杯のコーヒーに不自由しなくなったのである。
アイゼナッハの後には、水色の瞳の男、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト上級大将の艦隊が光点をつらねている。彼は、前方に展開する各艦隊と、後方のラインハルト直属の艦隊とを結合する重要な職務を与えられていた。作戦全体の有機的な運営の可否は、彼の肩にかかっているといってよい。
そして皇帝《カイザー》ラインハルト直属の艦隊がつづく。ラインハルトを補佐する首席幕僚は、統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタール元帥であり、その下で艦隊運用を担当するのはベルゲングリューン大将である。皇帝の高級副官アルツール・フォン・シュトライト中将、次席副官テオドール・フォン・リュッケ少佐、首席秘書官ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフも旗艦に同乗している。
最後尾は、「鉄壁」の異名を有するナイトハルト・ミュラー上級大将の艦隊だった。彼は単に後衛をつとめるというだけではなく、ひとたびフェザーン方面に異変が生じたとき、逆進し、全帝国軍の先鋒《せんぽう》となって敵を制圧せねばならない。さらに後方の補給路の確保もその任務であった。
……重厚な布陣をほこる帝国軍の再侵攻は、エネルギーと物資の怒《ど》濤《とう》となって同盟全土をのみつくすかに見えた。だが、宇宙の一隅では、それとは異なる、ささやかだが重要な作戦が実行されようとしていた。
ヤン・ウェンリーが、イゼルローン要塞の再奪回作戦を開始していたのである。
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第四章 解放・革命・謀略その他
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宇宙暦七九九年におこなわれたイゼルローン要塞《ようさい》の放棄と、その翌年に敢行された同要塞の再奪回とは、ヤン・ウェンリーの戦略思想たる「宙域管制《スペース・コントロール》」を芸術的なまでの戦術的手腕によって現実化させたものと評価されている。これは艦隊決戦による戦術上の勝利に固執せず、軍事目的を達成するために必要な時間、必要な場所を確保するというものであった。
「ヤン・ウェンリーの真の偉大さは、自身、艦隊決戦の名手でありながら、その眼界をよくわきまえ、自らの長所におぼれることのなかった点にある」
と絶賛する歴史家もいるが、その点ではヤンの敵手たるラインハルト・フォン・ローエングラムも同様であり、両者は艦隊決戦を戦略の実施レベルにおける一局面の技術のあらわれとしかみなしていなかった。敵と比較して、より強大な戦力をととのえ、補給を完全にし、情報を多く収集しかつ正確に分析し、信頼しうる前線指揮官を任用し、地理的に有利な位置を確保し、開戦の時機を選ぶ。それらをやっておけば、一度や二度の戦術的敗北など論評にも値しない。最高司令官の任務はただひとつ、全軍に対して言うだけである――「油断するな」と。
第二次「|神々の黄昏《ラグナロック》」作戦において、ラインハルト・フォン・ローエングラムは、それをなしうる立場にあった。それでもなおかつ、自身で最前線に出るのが、ラインハルトが「金髪の獅子」たる所以《ゆえん》であったろう。それは能力ではなく性格の支配下に属する行動であった。
いっぽうヤン・ウェンリーは、戦略的条件が不遇をきわめるなかで局面の打開をはからねばならなかった。彼の決断を最終的にうながしたのは、アレックス・キャゼルヌの発言である。旗艦ユリシーズの一室で、ヤンの士官学校の先輩は重々しく口を開いた。
「おい、資金《かね》がないぞ。これからどうするか決めてくれ」
ヤン艦隊のなかで、国家的規模での財政や経済を理解しうる者は、キャゼルヌくらいのものである。ヤン自身も、幻影に終わった長期再建策のなかに経済の項目をいれて、軍事力至上主義者ではないことを証明してはいるが、思考の主体が軍事面にあることは不本意ながらも認めざるをえない事実だった。事態を革命と呼ぶにせよ戦争と称するにせよ、それを運営するには資金が必要だし、さしあたりヤンの手もとにアラジンのランプはない。
キャゼルヌがヤンの友人であるボリス・コーネフの人脈を通じてフェザーン商人たちから資金を借りよう、と提案したとき、ヤンは危惧《きぐ》した。借りた資金は返さなくてはならないし、返す方策も現在では立ちようがない。第一、流亡のヤン不正規隊に対して資金を提供するなど、投機というさえおろかな賭《と》博《ばく》であって、フェザーン人が承知するとも思えなかった。
「なに、いったん借りれば、こちらのものだ」
キャゼルヌが言うと、ヤンは、黒い髪をかきまわしながら考えこんだ。キャゼルヌは語をついだ。
「フェザーン人は利にさとい。おれたちに皇帝ラインハルトを打倒する可能性ありとみなせば、かならず将来にそなえて投資してくる」
「…………」
「そしてひとたび投資すれば、それをむだにしないためにも、つづけて投資せざるをえない。先に投資した資金、それ自体が双方のつながりを増大させる最初の一滴になる」
「それはわかりますが、可能性だけを言いたてて、商才豊かなフェザーン人たちをたらしこむことができますか」
「美人局《つつもたせ》の成功は、女性の魅力しだいだな」
「女性の魅力……?」
ヤンは小首をかしげたが、黒ベレーを頭の上へ放りなげて笑いだした。キャゼルヌの言わんとすることを了解したのである。
そもそもフェザーン人の気風は独立|不羈《ふき》にある。ラインハルト・フォン・ローエングラムの大胆かつ壮麗な戦略とそれをささえる武力に屈して雌《し》伏《ふく》を強制されてはいるが、ことに古くから経済活動の自由をうたいあげてきた商人たちにとって、それが本意でありえないことは当然である。かなうことなら皇帝《カイザー》ラインハルトの支配をくつがえしたい。だが彼らには武力が欠けている。
ゆえにフェザーン人としては、帝国に面従腹背《めんじゅうふくはい》しつつ、彼らに欠けるものをおぎなってくれる勢力を求めているであろう。彼らはヤン一党と共存し協力しうる。ただ、彼らは勝算なき弱者に投資するような慈善家ではないから、彼らの保身感覚を麻疹《まひ》させるために劇薬が必要なのだ。
そこでヤンが戦術上の大きな勝利を獲得し、皇帝《カイザー》ラインハルト以外にも未来をつかむ可能性のある者の存在を誇示すれば、フェザーン人の利害の秤《はかり》は、かなりのていどヤンのほうへかたむくはずである。
「フェザーン人を迷わせる色香ある美女」
つまりイゼルローン要塞である。イゼルローンを再奪取し、反帝国勢力の実力をしめして、投資家どもの財布の紐《ひも》をゆるくしてやるのだ。
「そのためにもイゼルローンを陥《おと》す……か」
こうして、イゼルローン要塞再奪取は、ヤン・グループにとって至上の命題となったわけである。単なる軍事上の目的たるにとどまるものではない、政治的な効果のためにも、経済的に生き残るためにも、そしてそれらすべてを複合させた歴史上の奇術の不可欠な要素として、ヤンはイゼルローンヘの帰還をはたさなくてはならなかったのである。そして、イゼルローン回廊の出口たるエル・ファシルを確保し、フェザーンの組織力や情報力を利用して再度の戦いにそなえねばならなかった。
ただし、フェザーン人にスポンサーとしての干渉を許し、彼らの投機のつごうによって革命運動自体が操作されるような結果をもたらしては意味がない。そのあたりが苦労のしどころである。
いっぽう、ラインハルトから見ると、極端なところイゼルローン要塞は辺境の小石でしかない。これはラインハルトの豪邁《ごうまい》な気性があえて軽視させただけではなく、フェザーン回廊を制圧し、フェザーンに大本営を遷《うつ》した彼にとって、イゼルローン回廊の戦略的価値が減少したのは当然であった。フェザーンには軍務尚書オーベルシュタイン元帥を残し、強力な軍隊を配備しながら、イゼルローン方面ではルッツの兵力を移動させて回廊を空白とし、結果としてヤンの洞察の正しさを証明してしまうことになるのだ。
イゼルローン回廊を軽視したことを、ラインハルトの驕《おご》りとして批判する歴史家は、当然ながら後世に存在するが、同時代人であるヤン・ウェンリーの見解はややことなる。
「鷹《たか》と雀《すずめ》では視点がちがう。金貨の一枚は、億万長者にとってとるにたりないが、貧乏人には生死にかかわるさ」
ラインハルトは銀河帝国の専制君主としてすでに宇宙の過半を完全支配し、さらに残余の宇宙を征服しようとしている。ヤンは根拠地も持たない流亡の「家出息子」の集団を指揮して、民主共和政体を存続させ、あわよくばローエングラム王朝に媚《こび》を売ろうとする歴史の女神を自分たちの陣営に引きずりこもうとしている。どう考えても、ヤンのほうこそ大それた行為をなそうとしているのであり、しかもそれを実現させるには、鷹揚《おうよう》な金持のポケットをさぐらなくてはならなかった。
こうして宇宙暦七九九年一二月九日、ヤン不正規隊はエル・ファシル星系に姿をあらわした。
じつのところ、エル・ファシルの独立革命政府と合流するのは、ヤンの積極的な意図ではなかった。情熱のままに激発したエル・ファシルの行為は、むしろ暴走に類するものとヤンには思えた。だが、反帝国の共和主義者を統合する第一歩として、政治的先駆者と軍事的実力者との握手が必要となっていたのだ。
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エル・ファシル自治政府の主席はフランチェシク・ロムスキーという四〇歳の男性で、本業は医師だった。古来、医師と教師と法律家と学生は、革命家の重要な供給源であって、彼もまた伝統を守った一員というわけである。
ロムスキーは一一年前、いわゆるエル・ファシル脱出行に際して、軍の責任者ヤン・ウェンリー中尉に対する民間協力者の一員となったのだが、ヤンは彼の名も容姿も、忘却の淵《ふち》に沈めてしまい、水面からのぞいてもみなかった。なにしろ彼は、現在の夫人たるフレデリカのことすら、当人に教えられるまで忘れさっていたくらいであるから、それ以外の端役などおぼえているわけもない。
夫よりはるかに秩序のととのった記憶力を有するフレデリカは、ロムスキーのことを忘れていなかった。病弱な母親を一度ならず診療してもらったし、サンドイッチとコーヒーをふるまったこともある。ロムスキーも、ヘイゼルの瞳が印象的な金髪の少女をよくおぼえていた。満面に笑みをたたえて、医師出身の革命政治家はヤン夫人の手をにぎった。ヤン・ウェンリーが内心でたじろいだことに、ロムスキーの周囲には報道陣のカメラが砲列をならべていたのである。翌一〇日のエル・ファシルの電子新聞は、ヤンが予想したとおりの見出しに埋まっていた。
「ヤン・ウェンリー帰還す! エル・ファシルの奇《き》蹟《せき》ふたたび!」
「……これだ、これだからいやだったんだ」
ヤンは頭をかかえたが、結局のところ彼は自らの行動と功績によって確立された虚像を演じる以外になかった。民主国家の英雄から民主革命の英雄ヘ――そして不敗の智将《ちしょう》としての名声はさらに喧伝《けんでん》されるであろう。
エル・ファシル革命政権にしてみれば、ヤン一党の戦列参加は、軍事力の飛躍的な強化を意味するにとどまらず、自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》の最高幹部がいわばエル・ファシルこそ民主共和政治の王道をめざす正統の政権であると認めたことになる。喜ぶとともに最大限の活用をはかりたいところだった。
ロムスキーがジャーナリズムとの密着を意図したのは、民主共和政治の理念からいっても、革命の情報戦略からいっても、当然のことであった。ヤンは内心の嫌悪を公然化させるわけにいかない。公開こそが民主共和政治の柱であるのだ。秘密や非公開を好むなら専制政治に与《くみ》するべきであり、ヤンは個人の感情をねじ伏せてカメラに笑顔をむけざるをえなかった。
だが、盛大な歓迎式典において、ヤンはわずか二秒であいさつをすませた。「ヤン・ウェンリーです、どうかよろしく」感動的な熱弁を期待していたらしい一万人の参列者は落胆したが、そんなものはいずれ実績がおぎなえばよいのである。着席したヤンにロムスキーが低声で話しかけた。
「ヤン提督、吾々のあらたな政府には、あらたな名称が必要であると思いますが」
「はあ、当然ですね」
「そこで、明日にも正式に発表したいのですが、自由惑星同盟正統政府という名称はいかがでしょう」
「…………」
精神的に三歩ほどヤンはよろめいた。ジョークだと考えたいところだが、むろんそうでないことは明白だった。即答しないヤンを、ロムスキーはやや不安げに見なおした。
「お気にめしませんか」
「そうではありませんが、国家的正統性にこだわる必要はないのではありませんか。ゼロから出発することをこそ強調すべきだと思いますが……」
せいぜい遠慮ぶかくヤンは主張した。武力を背景に自説を押しつけると思われるのもいやである。
「そうです、第一、正統政府という名は縁起が悪い。銀河帝国正統政府という近来の悪例があるではありませんか」
ダスティ・アッテンボローがヤンの心境を察して援軍を出し、それはロムスキー医師の心理的波長と共鳴したらしい。たしかに不吉ですな、他の名称を考えましょう、と革命家はうなずいたが、やや残念そうであった。
「このていどでうんざりしないでくださいよ、ヤン提督。将来もっと高い山が出てくるにきまってるんですからね」
「わかってるよ」
アッテンボローにささやき返したのは、まるきりの虚礼ではない。多少の、いやさらに多くの欠点があろうとも、このささやかで非力な民主制の芽をつんでしまうわけにはいかなかった。このまま手をこまねいていれば、宇宙はもっとも傑出した、もっとも華麗な個性――ラインハルト・フォン・ローエングラムの白い掌《てのひら》につつまれてしまう。ラインハルト自身の能力や良心はこのさい問題ではない。ラインハルト個人に対するヤンの好感も問題ではない。単一の、しかも個人の資質によりかかった安易な政体が全宇宙を支配するのが、許されるべきではないのである。
唯一絶対の神に唯一絶対の大義名分を押しつけられるより、群小の人間がそれぞれのせまい愚劣な大義名分を振りかぎして傷つけあっているほうが、はるかにましだ。すべての色を集めれば黒一色に化するだけであり、無秩序な多彩は純一の無彩にまさる。人類社会が単一の政体によって統合される必然性などないのだ。
ある意味で、このようなヤンの思考は、民主共和政体に対する造反の元素をふくんでいると言えなくもなかった。民主共和主義者の過半は、自分たちの思想によってこそ宇宙が統一されることを願い、専制政治の消失を望んでいるはずであるから。
それにしても、皮肉もきわまる。ゴールデンバウム朝銀河帝国が老衰しきった巨体を無音の鳴動とともに崩壊させたとき、二世紀半にわたってそれに抵抗しつづけてきた自由惑星同盟も、白|蟻《あり》にくいつくされて空洞化していたのだ。
「つまりは自由惑星同盟の歴史的な存在意義は、反専制にあらず、反ゴールデンバウムであったというにとどまるのだろうか」
以前にも考えたことであり、どうやらそうらしいと思いつつも、やはりそう決めつけてしまうのは、ヤンにとってはなさけない。一万光年の長征を敢行した国父アーレ・ハイネセン以来の歴史、無数の人々が蓄積してきた希望、情熱、理想、野心、喜怒哀楽の二世紀半におよぶ地層が、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムという一個人の死屍《しし》の上にしかかさねられないものであったとは。
もっとも、その意味では、あの美《び》貌《ぼう》の覇者ラインハルト・フォン・ローエングラムでさえそうなのかもしれない。彼はゴールデンバウム王朝の超克《ちょうこく》をめざし、それを実現させたが、それもルドルフの亡霊を墓の下へ追い返すだけのことだったのだろうか。あたらしい国名、国旗、国歌などについてロムスキーが熱い口調で語りつづけている。ヤンは適当にうなずきながら、過去の闇《やみ》と未来の迷路に思いをはせていた……。
こうして「不正規隊《ザ・イレギラーズ》」は「革命予備軍」となった。オリビエ・ポプラン中佐は後に評して言った――冬には冬の服、夏には夏の服、どれを着ても中身は変わらないさ。
司令官ヤン・ウェンリー元帥、参謀長ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将。後方勤務部長アレックス・キャゼルヌ中将。政府主席ロムスキーが軍事委員長を兼任する。ヤンはささやかな安《あん》堵《ど》をおぼえた。上司がひとりだけというのはありがたいことだ。
だが、エル・ファシルヘの到着は、さらに大きな喜びをもって報われることとなった。ユリアン・ミンツ、オリビエ・ポプランらとの再合流である。
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一二月一一日、宇宙港に出向いて軍民両用の管制システム再編のための討議をすませたアッテンボローが、ヤンの被保護者を見つけた。じつをいうと、広大なロビーを流れる作業服中心の人波のなかに、いささか場ちがいな豹《ひょう》皮のコートをはおったさっそうたるブルネットの美女がいて、ついその女を視線で走査するうち、記憶にある亜麻色の頭を見出したのである。
「ユリアン、おい、ユリアンじゃないか!」
振りむいた亜麻色の髪の下で、若々しい瞳が声の出処を確認すると、生気にみちてかがやいた。律動的な早足で歩みよって、いきおいよく敬礼する。
「おひさしぶりです。アッテンボロー中将」
彼の搭乗してきた貨物船「親不孝号《アンデューティネス》」は宇宙港に到着したばかりで、ボリス・コーネフ船長はまだ事務所で手つづきのさなかだった。
「で、お前さんの他の随従者《おとも》たちはどこにいるんだ?」
「悪いですよ、中将、そんな言いかた」
マシュンゴは両手両肩に荷物をかかえ、体積を倍にしてユリアンの背後にひかえているが、オリビエ・ポプランはと見ると、数歩をへだてた場所で二〇歳前後の娘三人と談笑している。会話の破片が羽毛の軽さでただよってくる。
「ポプラン中佐!」
「やれやれ、いいところを邪魔せんでほしいな。もうすこしで今夜ダブルベッドで甘い夢を見られるはずだったのに」
ユリアンに呼ばれると、不平を嗚らしながら歩みよってきたポプランは、おざなりな敬礼をアッテンボローにほどこした。そのていどの非礼で感情を害するアッテンボローではないが、つい皮肉が出た。
「到着する早々、勤勉なことだな。分単位であたらしい女をくどいているんだろう」
ポプランはおそれいったようすもなかった。
「全人類の数が四〇〇億人、そのうち半数が女。うち半数が年齢制限にひっかかり、さらにまた半数が容姿で落第するとしても、五〇億人は恋愛の対象になりますからな。一秒でも惜しんでいられません」
「女性の知性や性格は問題にしないかね」
「性格が良い女はアッテンボロー提督にまかせますよ、おれは性格が悪いほうの半分を引きうけてあげますからね」
「中佐、自覚しているか? お前さんの言種《いいぐさ》は、よく言ってもぺてん[#「ぺてん」に傍点]としか聞こえないんだが」
「まあ、それくらいはいいでしょう。おれたちが地球とかいう陰気な惑星で苦労していた間、あなたがたはハイネセンでやりたいほうだいだったんですから」
「おれたちだって苦労してたんだ」
おとなげなく声を高めてから、アッテンボローは失笑をこらえているユリアンに気づき、わざとらしくせきをして話題を変えた。
「それにしても、よくここまでやってきたな。おれたちも二日前に着いたばかりなんだが」
ユリアンにしてみれば、最初はむろん同盟首都ハイネセンヘの帰還をめざしていたのだが、フェザーン回廊から同盟領宙域へはいった時点で皇帝《カイザー》ラインハルトの再宣戦を聞き、ヤンの脱出を知って、方針を転換せざるをえなかった。さんざん思案をめぐらせた末、途中経過がどうであれヤンはいずれイゼルローン要塞の再奪取をはかるであろうし、エル・ファシルの独立革命政府と何らかの形で接触するにちがいない、とユリアンは予想したのである。
「途中いろいろとありましたけど、どうにか無事に到着しました。とにかく、みんな無事に再会できてよかったです、ほんとうに」
簡潔にユリアンは言ったが、まったく途中ではいろいろあったのである。地球教討伐の任務を完了した帝国軍のアウグスト・ザムエル・ワーレン提督にしたがって帝国首都オーディンヘおもむき、いまや歴史博物館として改装中の新無憂宮《ノイエ・サンスーシー》の内部を見学し、ポプランはやはり見学にきていた黒い髪の娘と記念写真をとった。建前《たてまえ》としては、好奇心に富んだフェザーンの独立商人の一行として演技したわけだが、形式的ながら憲兵隊の事情聴取を受けなくてはならなかったし、地球教団本部から極《ごく》秘裡《ひり》に持ち出した光ディスクが盗難にあって三日間捜しまわり、ポプランは帝国軍士官の若妻と一夜の情熱を共有しようとしてその夫に発見される。ワーレン提督の好意でようやくオーディンを出発したものの、フェザーンを経由して同盟領宙域へはいるまでダース単位の小事件をクリアせねばならなかった。あげくに「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」の偵察艇に発見されかかり、ボリス・コーネフの操船よろしきをえて、ようやくエル・ファシルに到達できたのだった。
ヤンの司令部が置かれたビルヘ、アッテンボロー、ポプラン、ユリアン、マシュンゴの四人は地上車《ランド・カー》で向かった。マシュンゴの巨体と多量の荷物のせいで、一同の姿勢は端正にはなりえなかった。運転席のアッテンボローのほうヘポプランがむりやり身体を伸ばして、
「しかし同盟政府と絶縁するとは思いきったものですな。惰《だ》眠《みん》からさめるとはこのことだ」
一言なかるべからず、と、アッテンボローは思ったのであろう、前方をむいたまま応じた。
「いいか、ポプラン中佐、心得ちがいをするなよ。おれたちは伊達《だて》や酔狂《すいきょう》でこういう革命戦争をやっているんだからな」
「そんなことは一同の顔ぶれを見れば、いやでもわかりますよ。結局、ヤン艦隊が名札《ネームプレート》を変えただけでしょうが」
司令部に到着して、四人は窒息寸前の状態から解放された。黒い巨人ルイ・マシュンゴは荷物の小山をかかえてひとまず地下のロッカールームヘ歩を運び、他の三人はロビーからエレベーター・ホールヘ向かったが、そこでオリビエ・ポプランが足をとめた。「薄くいれた紅茶の色」の豊かな髪に黒ベレーをのせた少女の下士官が、ユリアンのそれに匹敵するような律動的な歩調で近づいて彼に呼びかけ、敬礼したのである。四人の間であわただしく表情の変化と敬礼が交錯し、エレベーターはユリアンとアッテンボローの両者だけを乗せてひとまず扉を閉ざした。やや複雑な色調の空気が一二立方メートルの箱の中にたゆたった。
「ユリアン、君、知っているのか、あの子を」
「ええ、ダヤン・ハーン基地でポプラン中佐が紹介してくださった子ですから。でも、アッテンボロー提督はどうしてご存じなんですか」
「いや、つまり、知人の娘でな」
青年提督は黒ベレーで顔をあおいだ。彼らの司令官の病弊が感染したかのようであった。
「カーテロ−ゼ・フォン・クロイツェル伍長《ごちょう》をよくご存じなんですね」
ユリアンがさりげなく追及すると、アッテンボローは自分からラインを割ってしまった。
「ええい、君には言ってしまおう。彼女はな、シェーンコップ中将の娘なんだ」
爆弾は、かならずしも効果的には破裂しなかった。ユリアンは三度まばたきし、小首をかしげてアッテンボローを見つめた。ようやく思考回路のなかで言語と意味が一致すると、少年はくすくす笑いだした。
「失礼しました、でもシェーンコップ中将に娘さんがいるなんて、ちょっと信じられないなあ」
ましてそれがあのカリンことカーテローゼ・フォン・クロイツェルとは。ユリアンは頭を振るしかない。
「そうだろう、おれなんか未だに信じられん。しかし考えてもみろ。シェーンコップ中将は君ぐらいの年齢からその方面で武勲をかさねていたんだ。ひとりどころか、ダース単位でご落胤《らくいん》がいても不思議ではないさ」
「…………」
ユリアンは沈黙し、脳細胞の一画をしめる肖像画の回廊を走査した。カリンの、薄くいれた紅茶色の髪や初夏の光にみちた青紫色《パープル・ブルー》の瞳はともかく、全体としてごくあわい既視感《デジャヴュー》にとらわれたのは、シェーンコップの娘であったからか。カリンの出生には事情があるらしいとポプランは言ったが……。
「シェーンコップ中将はご存じのことなんですか」
否、という返事に、ユリアンはまた考えこんだ。アッテンボローが、
「どうだ、ユリアン、君の人徳で父娘対面の仲立ちでもしてみるか」
「だめでしょう。ぼくは多分、あの子にきらわれてますから」
「きらわれるようなことを何かしたのか?」
「いえ、べつに。ただ、何となくそういう感じがしてました」
かるい下目づかいをアッテンボローは少年の顔に放ったが、何らかの確信をいだかせるような表情はそこには見出しえなかった。
「まあ、いずれにしても、シェーンコップ家の家庭争議を高みから見物するよりも、イゼルローン要塞の攻略に、さしあたっては全力をそそぐべきだろうな」
エレベーターの扉がひらき、視界が広がると、両手の指を頭のうしろで組みあわせて、アッテンボローはあごをしゃくった。
「来いよ、ユリアン、われらがなまけ者の元帥どのは、こちらでいやいや執務しておいでだ」
なまけ者の元帥閣下でも、瞬間風速的に勤勉になることはある。その日もヤンはデスクの前で思考の火山脈を活動させていた。周囲に計算やメモに使った紙が散乱している。
「せいぜい精励なさることですね。閣下の世代で結着がつかなかったら、ユリアンの世代が苦労することになるんですから」
革命予備軍司令官つき副官フレデリカ・|G《グリーンヒル》・ヤン少佐がヘイゼルの瞳にいたずらっぽい光を踊らせながら言うと、彼女の夫は憮《ぶ》然《ぜん》として息をはき出し、妻の運んできた紅茶をひとくちすすった。
「努力による進歩のあとが顕著《けんちょ》だね」
えらそうに論評する。
「光栄ですわ、閣下」
笑ったフレデリカの視界に、ティーカップを手にしたまま立ちあがる夫の姿が映った。自分も振りむきながら、ヤンの表情がおどろきからうれしさに変化するのを、フレデリカは数分の一瞬の間に確認していた。
ユリアン・ミンツが立っていた。別れたときよりさらに背が伸びて、もう少年というより若者と称すべきであるようだった。やわらかさをともなった端整な眉《び》目《もく》がなつかしさにほころんで、ヤンとフレデリカの歓迎の視線を受けとめた。
「お帰り」
最初にヤンが言い、フレデリカがつづいた。
「元気そうね、ユリアン」
「はい……ただいま帰りました」
ユリアンの声も律動的にはずんだ。
「おひさしぶりです、閣下、さっそくですがこれに地球教に関する資料が記録されています。すこしでも提督のお役にたてれば幸いです」
そう口上を述べて光ディスクをさし出し、おとなとしての態度をとるつもりでユリアンはいたのに、何と他《た》愛《あい》ない自分であったことか。不安が、ミクロン単位ながら、ないではなかった。自分のいるべき場所は、もうヤン家には存在しないのではないか。あらたなヤン家の歴史に開幕のベルが鳴っており、自分は遅れてきた異分子にすぎないのではないか。
だが、杞《き》憂《ゆう》にすぎなかった。彼は自分がヤン・ファミリーという巨大なジグソー・パズルの一片であり、当然いるべき場所にはめこまれたことを確認したのだった。ヤン家のあたたかさと、ヤン艦隊の闊達《かったつ》さ。それはユリアンにとって人生の記憶のなかで、最高の価値と、もっともなつかしむべき時間的・空間的環境とを形づくるものであった。それを忘れえないことは、ユリアンの大いなる幸福であったが、心の傷《いた》みをともなう懐古とも後日にはなったのである。
やがてアッテンボローとポプランをまじえてひとしきり歓談した後、ヤンは旧来のように彼らを相手に作戦を説明した。作戦の整理と再検討のために、ヤンはよくユリアンの意見をきいたものだし、ユリアンにとってもこの上ない戦略戦術の学習となったのである。
「いよいよ、イゼルローンに帰れるんですね」
「うまくいけばね、ユリアン」
「うまくいきますよ、きっと。それにしても、皇帝《カイザー》ラインハルトは大規模な挟撃包囲作戦が好きなんですね」
「私だって好きだよ」
ヤンの声はやや苦笑まじりに聞こえる。戦略家としての彼にラインハルト以上の大兵力があれば、やはりこれを二分して敵を挟撃しようとするだろう。イゼルローン方面にラインハルトを引きつけ、別軍をもってその後背を遮断することができれば……。
そこまでいかずとも、一軍をもってイゼルローン要塞を確保防御し、他の一軍をもって回廊から帝国本土へ侵入し、長駆して帝都オーディンを攻撃することがかなえば……。かつて「|神々の黄昏《ラグナロック》」作戦のとき、イゼルローン回廊にはロイエンタール、レンネンカンプ、ルッツらの強大な軍列が展開していたが、いまルッツが出撃した後に、イゼルローンを奪回すれば、回廊はヤン艦隊にとって自由の海となる。皇帝《カイザー》ラインハルトが帝国本土へ帰還しようとすれば、遠くフェザーン回廊へ迂《う》回《かい》するしかなく、そのとき同時にフェザーンにおいて独立回復派が蜂《ほう》起《き》すれば、若い征服者は帰路をうしなう。そこではじめて、ヤンは金髪の皇帝《カイザー》に白い手袋を投げつけることができるだろう。
ヤンは黒ベレーに片手をのせ、苦笑まじりに頭を振った。残念なことに、この空想が実体化するには時間がまず不足している。フェザーンの独立回復派との間に、何らの連絡もとれているわけではない。現実において、それはこれからの課題なのだ。イゼルローン要塞をふたたび彼の掌《てのひら》におさめ、エル・ファシルとの間にアッテンボロー命名するところの「解放回廊」を確立し、「資金を出せ、出しても損はしないぞ」と言わなくてはならない。不安だらけの手形を見せて、最大限の協力を引き出す。半歩まちがえれば詐欺《さぎ》そのものだ。
もっとも、今度の作戦それ自体が詐欺にひとしいものであるのだが。
ヤンはルッツ艦隊がイゼルローン要塞から出撃する時機と条件については、完璧《かんぺき》に近い計算を立てていた。同盟軍がラインハルトの再侵攻に対して組織的な抵抗をなしうるとは彼は思わず、それゆえにこそ、これらの計算は分秒単位で完全を期する必要があったのだ。ビュコック元帥とチュン・ウー・チェン大将が残存兵力を統合してラインハルトに挑むということがわかっていれば、彼はことなる方程式を立てなくてはならなかったはずである。
「……おそらく、そのときには、ヤン・ウェンリーは生涯ではじめて、勝算なき戦いに身を投じることとなったであろう」
と多くの歴史家は仮定の事態を推測するが、ヤンに対してきわめてきびしい見解をしめす人もいる。
「もしビュコック元帥らの出撃の情報がヤンのもとにもたらされていれば、彼は苦痛にみちた選択を強《し》いられたことであろう。敬愛する先輩を見殺しにするか、勝算なき戦いに身を投じるか、理性をねじふせるか、感情を犠牲とするか。知らなかったがゆえに、ヤンはイゼルローン要塞再奪取という芸術上の課題に専念することが可能となったのである。ヤン・ウェンリーはまことに幸福な芸術家であった」
右の評は検察官的な悪意にみちているが、しかしなお一半の真実を伝えてもいる。ヤンはビュコックが退役して老病の身を養い、もはや世に出ることはないものと思っていた。だからこそハイネセン脱出の際も、敬愛する老将を巻きこむことをさけたのである。バーミリオン星域会戦の後、対面したヤンにむかって、ビュコックを処断しないことをラインハルトは明言した。その約束は実行されたし、今後も破られることはないはずであった。その点をヤンは信じきっていた。
むろん、ヤンの予測は結果として完全にはずれるのである。
いまひとつ、ヤンがイゼルローン再奪取に熱中していた証拠として、ユリアンが地球から持参してきた光ディスクの検証を後日に延ばしたことがあげられるであろう。すべてはイゼルローン要塞を再奪取し、戦略上の地歩をかためてからのこととヤンは考えていたし、両手にあまるほどの課題をすでにかかえながら、さらに重大な要件を加えたのでは、ヤンの脳細胞といえども過負荷の火花を発しかねなかった。けっして地球教の情報を軽視していたわけではない。ただ、ユリアンやオリビエ・ポプランからひととおりの報告はえていたし、当の報告者たち自身が、自分たちの過去の成果より目前の事業に熱中しているという事実もあった。ユリアンもポプランも、自分たちがハイネセン脱出行に参画しえなかったことを、それぞれの為人《ひととなり》に応じた表現で残念がり、「なつかしきわが家」に帰る作戦から除外されることを承知しなかったのである。
いずれにせよ、ヤンは、後世の多くの軍事学者からも賞賛される――ヤンをきらっている人からは戦術ではなく奇術であって余人の参考とはならないといわれる――作戦をこのとき立案している。
むろんヤンはイゼルローン要塞の「接収」を自ら艦隊を指揮しておこなうつもりだったのだが、彼の不在はエル・ファシル独立政府に歓迎されなかった。彼の留守中に、帝国ないし同盟からの軍事攻勢がおこなわれたり、反革命の武装蜂起がおきたりしたらどうするか。メルカッツ提督に残留していただく、と答えたところ、相手が隠しえない不安と猜《さい》疑《ぎ》の色をたたえたため、ヤンは腹を立て、フレデリカに袖《そで》を引っぱられなければ、無言で会議室を出ていくところだった。
ヤンにとってやりきれないのは、メルカッツが帝国からの亡命者であるという以上に、おそらくその忠誠と信義がヤン個人にむけられているという点において忌避《きひ》されたからであった。ヤン・ウェンリーひとりに対する過剰な信頼と、ヤンを擁する集団に対する強度の警戒心とは、この時期、エル・ファシル独立政府の文民《シビリアン》たちに見られる特徴だが、つまるところ彼らは、ヤン一党に「簒奪《さんだつ》」され軍事政権と化することを恐怖していたものと思われる。
結局、ヤン総司令官は、キャゼルヌ、アッテンボロー、ブルームハルト中佐、およびフレデリカとともにエル・ファシルに残留し、後方から作戦全体を統轄指揮することとなった。前進部隊の総指揮はメルカッツ提督がとり、要塞攻略の戦闘指揮はシェーンコップにゆだねられる。以下、リンツ大佐、シュナイダー、ポプラン、バグダッシュ、そしてユリアンらが実戦参加することになった。ユリアンには前線より自分の傍にいてもらいたいのだが、当人の希望を容《い》れないわけにいかなかった。これに先だつボリス・コーネフとの会見が、多少の影響をおよぼしていたかもしれない。
後世、ヤンは後方にあって前線の諸将を指揮制御する「軍師」としてのイメージが強いが、その形態をとったのはこの要塞再奪取作戦がはじめてのことであった。これまで、ヤンは、自らが策定したすべての作戦において最前線で直接指揮をとり、戦略の構想家と戦術の実行家と、双方を一身にかねてきた。彼が敵手たるラインハルト・フォン・ローエングラムを尊敬する理由のひとつは、若い金髪の独裁者が、つねに陣頭に立って敵軍と戦う姿勢をしめすことにあった。上に立つ者こそが最大の危険をおかすべきだとヤンは考え、それを身をもって実行してきたのだ。
だが、これからはやや事情が異なってくる。ヤンにはいまひとつの軽からざる責務が課せられていた。彼自身が未だ青年期にあり、将来なお数十年にわたって軍務を指導しうるとしても、彼につづく世代を育成する必要が急激に拡大していたのである。その意味では、老練のメルカッツにも、指揮よりむしろ後見にまわってもらわねばならなかったし、アッテンボローには後方で戦局全体を監視させる経験をつませなくてはならなかったのだ。
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イゼルローン攻略準備の合間、人事の決定に先だってヤンはボリス・コーネフを招き、反帝国派のフェザーン商人がエル・ファシルの財政をひそかに援助してくれるよう、交渉と組織化を依頼していた。
「しかし、いまのところ、エル・ファシル政府がどんな約束手形を出しても不渡りの可能性が高い。おれが言うのもおかしなものだが、フェザーン人を思うように踊らせるには、それなりに魅力的な条件を出さなくてはだめだろうよ」
もっともらしくボリス・コーネフは言ったが、基本的には彼はヤンの依頼を受け入れていた。ただ、この男の癖で、いちおう変化球を投げかえしてみないと気がすまないのである。
「あるいは脅迫の種でもいい。帝国が全宇宙を支配したらフェザーンが困る、そういう事態になるとしたら、いやでもヤン、あんたを支持せざるをえんだろうよ」
「こういうのはどうだ? 帝国政府はフェザーン人の利潤追求の弊害にかんがみ、富の公正な配分と生産手段の独占打破とを目的として、あらゆる産業を国営化しようとしている」
「それが事実なら、たいへんなことだ。だがはたして事実かね」
「事実になるかもしれない。皇帝《カイザー》は富の独占を忌む。帝国の大貴族どもがいまどう報われている?」
「あんただって独占が好きとも思えないがね……」
ほんの一瞬、コーネフは苦笑したようだ。
「まあ、どうせ喧《けん》嘩《か》をするなら強大な相手ほど、やりがいはあるがね。ただ、おれには多少の疑問がないでもない」
紅茶のカップを手にしただけで、ボリス・コーネフは口はつけない。
「この際はっきりと聞いておきたいんだが、あんたは本気で皇帝《カイザー》ラインハルトを打倒する意思があるのか」
ボリス・コーネフは、いまや冷笑さえ浮かべていなかった。厳格なほど真剣な表情が顔にはりついている。
「皇帝《カイザー》ラインハルトにはいまのところ失政はないし、器局と武力とは、全宇宙を統合するにたりるだろう。彼を打倒した後、時代がよりよいものになるという保証があるのか、ヤン?」
「ない」
じつのところヤンはラインハルトを打倒せずに民主政を守る方策を考えつづけているのだが、そこまでは打ちあけられなかった。
「正直だな。まあそれはおくとして、いまひとつ。あんたがいかに努力したところで、ひとたび衰弱した民主共和政が健康に再生するとはかぎらない。フェザーンを巻きこんだとしても、かえって母《おも》屋《や》をとられてしまうこともありうる。あげくにすべてがむだになるかもしれないが、それでもいいのかね」
「そうかもしれない」
ヤンはさめきった紅茶を口にふくんだ。
「……だが、いずれ必ず枯れるからといって、種をまかずにいれば草もはえようがない。どうせ空腹になるからといって、食事をしないわけにもいかない。そうだろう、ボリス?」
ボリス・コーネフはかるく舌打ちした。
「つまらん比喩《ひゆ》だが正しくはあるな」
「旧|銀河連邦《USG》がルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの簒奪によって滅亡して以来、アーレ・ハイネセンの出現まで二世紀を経過している。ひとたび民主共和政治の根が掘りつくされると復活までがたいへんだ。どうせ何世代もかかるものであるにせよ、つぎの世代の負担を多少は軽くしておきたい」
「つぎの世代とは、たとえばユリアンか?」
「ユリアンもそのひとりさ、たしかに」
「ユリアンはいい素質を持っている。この何ケ月か行動をともにして、それは充分によくわかった」
うれしそうな表情になるヤンを、コーネフは皮肉っぽくながめやった。
「だがな、ヤン、ユリアンがいくらいい声で歌えるといっても、いまのところそれはあんたの掌《てのひら》という舞台の上にかぎってのことだ。あんたもとうにご存じのことだろうがね」
ヤンが返答したくないように見えるので、ボリス・コーネフは口をつけぬまま紅茶カップを受皿にもどし、腕をくんだ。
「帥に忠実すぎる弟子が師をしのぐことはありえない。このままの状態でいけば、ユリアンはあんたの縮小再生産品にしかなれないだろうよ。ま、それでも充分に大したものではあるが……」
評論家さながらの言種《いいぐさ》が、ヤンはいささか気にさわった。友人の性格を充分に承知しているつもりなのだが、それでもときとして気分を害することがある。なぜならヤンの痛いところを的確につくからだ。
「ユリアンは私よりずっと素質は上なんだ、心配にはおよばないよ」
「それなら問うが、あんたはどのような師についたというんだ? いや、あんただけじゃない、皇帝《カイザー》ラインハルトにしてからが、自分で自分を育てたはずだ。素質はあんたより上でも、育ちようによってはあんたにおよばないことが充分にありうるさ。じつは、ちょっと気になっていることがあってな」
紅茶の面に不たしかな上半身の輪郭をうつしながら、ボリス・コーネフは指先であごをつまんだ。
地球で入手した光ディスクを、ユリアンは自ら解析しようとはしなかった。そのまま封印してヤンのもとへとどけ、判断と分析をヤンにゆだねようとしたのだ。それは忠誠心のあらわれとしては申し分ないものだが、自分ならまず自身でディスクに目をとおしておく。そうすればディスクを失っても、彼自身が生きた資料となりえるし、情報の一定量において上位者をしのぎ、自身の存在価値をたかめえるのに。
「ユリアンはもうすこしむほん[#「むほん」に傍点]気を持つべきだ。むほん[#「むほん」に傍点]気は独立独歩の源だからな」
「いい台詞《せりふ》だが、彼にはそう言ってやったのかい」
「言えるか、こんなはずがしいこと」
ボリス・コーネフが努力を約束して出ていくと、ヤンはテーブルに行儀悪く両脚を投げだし、黒ベレーを顔の上にのせた。べつにボリス・コーネフのせいではないが、すくなからぬ疲労を感じていた。だいたい、フェザーン商人との秘密の握手など、彼ではなくエル・ファシルの政府が推進すべきなのだ。
この当時のヤンの政治姿勢は、すくなからず後世の議論の対象となった。たとえばつぎのような文章がある。
「……ヤン・ウェンリーは特定の個人に対してついにいだきえなかった政治的忠誠心の対象を制度に求めざるをえなかった。民主共和政治の制度に。そして制度とはつまるところ形式である。非常の時にあたって非常の手段と非常の才とが必要であることを熟知しながら、ついに自らが革命政権の首座につこうとしなかったのは、彼が、文民支配という民主共和政治の制度にこだわったからである。事実上、エル・ファシルの革命政権は、ヤン・ウェンリー一党の軍事力と人的資源によってようやく成立するものであり、ヤンが頂上に立ったところで何びとも非難しうるものではなかったのだ」
「……もっとも不幸な事実は、このときヤンより上位に立ちうる個性としては、彼の政治的忠誠心の対象となりえないラインハルト・フォン・ローエングラムが存在するのみであった、ということである。ヤンは、独裁者あるいは専制者としてのラインハルト・フォン・ローエングラムをきわめて高く評価していた。才幹においても器量においても、である。さらに個人としても敬愛していた。ところがラインハルトは、まさにその卓絶した資質のゆえに、民主共和|制度[#「制度」に傍点]の最大の敵手となっているのだ。ラインハルトの資質は、民主共和|制度[#「制度」に傍点]の厳重な枠《わく》のなかではけっして十全に発揮されることのないものであった。彼の巨大な天才は、専制政治にこそふさわしいものだったのだ」
「……そのことをヤンはよく理解していた。だからこそヤンは、彼自身が民主共和制度の枠を踏みこえるわけにはいかなかったのである。彼が『非常時』を口実に制度の枠をこえ、政治・軍事両面の独裁者として立ったとき、宇宙は専制者ラインハルト・フォン・ローエングラムと独裁者ヤン・ウェンリーの対立の場としてのみ存在することになる。その対立が流血を呼ぶのであれば、すべてをあげてラインハルトに献じたほうがはるかにましだ、とヤンは考えていた。流血を賭し、策略を用いても守るべきは民主共和政治の制度[#「制度」に傍点]であった」
「……このヤンの思考を、硬直した形式論と批判する見解は、むろん成立しうるであろう。重要なのは制度ではなく精神であり、ヤンは外形にこだわるあまり内実を守る責任を放棄したのだ、と。だが、ヤンは、歴史学徒として、その論法が多くの悪辣《あくらつ》な独裁者を利してきた例を知っていた。独裁者の大半は望まれて[#「望まれて」に傍点]出現したこと、それをささえたのは制度[#「制度」に傍点]ではなく個人[#「個人」に傍点]に対する政治的忠誠心であることを彼は知っていたのだ。そして彼の部下たちの忠誠心が、民主共和|制度[#「制度」に傍点]よりヤン個人[#「個人」に傍点]にむけられがちであることを知るがゆえに――彼は頂上に立ちえなかったのである。最強の武力と最高の人望との無秩序な結合は、民主共和制度にとって危険な病根となることを彼はよく知っていた。彼は誰よりも、権力を集中させた場合の自分自身をおそれていた。それを臆病《おくびょう》と呼ぶ権利が誰にあるのだろうか……」
けんめいに公正さをたもとうとつとめたこの文章は、ユリアン・ミンツの手になるものである。情理をつくした文章ではあるが、「むほん[#「むほん」に傍点]気がない」とボリス・コーネフが読んだら評したかもしれず、ヤン個人が読んだら、頭をかいてよそをむいたにちがいない。いずれにしても、とくにこの時期、一見のほほんとして見えるヤン・ウェンリーがすくなからぬ悩みをいだいていたことはたしかであった。
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第五章 蕩児たちの帰宅
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メルカッツ提督に指揮されるイゼルローン要塞《ようさい》攻略部隊は、宇宙暦八〇〇年の新年を、イゼルローン回廊の一隅でむかえた。目前にどれほど困難な任務が牙《きば》をむいていようと、舌を出してみせてシャンパンの栓《せん》をぬくのが、彼らの流儀である。オリビエ・ポプランいわく、
「イゼルローン要塞は逃げやしないが、新年の乾杯はいましかできないからな」
珍しいことに、ワルター・フォン・シェーンコップがそれに同意し、ふたりで交互にユリアンのグラスにシャンパンをそそぐので、途中からルイ・マシュンゴがグラスを受けとり、「象に飲ませるようなものだ」とポプランをなげかせた。ユリアンは頭を振って過剰なアルコール分を体外に追いだそうとこころみたが、シェーンコップを見ると、エル・ファシルに残留したダスティ・アッテンボローの話を意識下の水中から浮かびあがらせた。べつにシェーンコップ家の家庭争議を期待したわけではない、と、聞かれもしないのにアッテンボローは弁解したが、イゼルローン攻略部隊の出動前に、彼はシェーンコップにわざわざ教えたのである。
「シェーンコップ中将、ご存じか、隊内にカーテローゼ・フォン・クロイツェルという一〇代の婦人下士官がいるのだが」
彼のひそやかな期待に反して、亡命貴族は鳥の羽毛ほどの軽い動揺すらしめさなかった。
「美人か?」
「……なぜそんなことを聞く?」
「美人だったら、おれの娘だ。そうでなかったら同姓同名の別人だ」
「……美人だ」
あきらめたようなアッテンボローの声にうなずくと、シェーンコップはイゼルローン攻略戦の志願者のリストからカーテローゼ・フォン・クロイツェルを除外したのである……。
ユリアンの視線の先で、カリンことカーテローゼの父親は酒豪ぶりを発揮して、酔漢の群のなかで、きざなほど端然とたたずんでいる。マシュンゴの鯨飲《げいいん》ぶりをののしりながら、空のシャンパン瓶を片手に歩みよってきたオリビエ・ポプランが、陽光の踊るような緑色の瞳をユリアンの横顔にむけ、声をかけるより早く空瓶を放った。おどろいて受けとめるユリアンの傍に立って、同じ方角を見やる。攻撃は迅速で、しかも効果的だった。
「その表情だと、知っているな、ユリアン」
「何をですか、中佐」
「カリンの父親がシェーンコップの不良中年だということをさ」
声に出しても表情においても、ユリアンは若い撃墜王の指摘を否定することができなかった。ポプランの瞳が緑色の笑いをたたえた。
「平和になったら――退屈きわまるが、おれは善良な青少年相手に人生相談室でも開くとしようかと思ってる。人徳あらたかなせいか、おれは年少者に信用があるんでね」
カリンが彼に相談をもちかけたということだろう。ユリアンは、未整理の想いが胸郭のなかを浮遊するのを感じて、なぜかわずかながらあわてた。
「それでご感想はいかがです?」
「それはもう、優劣ついに決したり、と思ったね。おれはシェーンコップ氏みたいに種をまいても実をみのらせるようなへまはやらないからな。そう思うだろう?」
返答にこまってユリアンは亜麻色の髪をかるくかきまわした。
「いろいろと問題があるみたいですね」
「おれに言わせれば、問題はカリンが不幸なことじゃない。自分は不幸だとカリンが思いこんでいることさ」
「……そうなんですか?」
「だからこそ、未だに口もきかないし、会うことをさけてもいる。いい傾向じゃないな。会って一五年分の小づかい銭をせびってやれ、と、おれは言っているんだがね」
本気が五一パーセントという表情で、若い撃墜王はアルコールのもやを宙にはきだした。
U
イゼルローン要塞を再奪取する方策は、すでにヤンから攻略部隊の幹部たちに説明されていた。すでに内容を知っていたユリアンをのぞいて、他の人々は感動に心をふるわせたりはしなかった。ひどいペテンだな、とシェーンコップが感想をのべると、熱心にポプランが同調したものだ。
ただし、生命がけのペテンではある。もともととぼしい兵力で、非凡な敵将と多数の兵力と巨大な要塞を相手どるのだ。
実戦に先だつ一連の情報戦を実施レベルで指揮したのはバグダッシュ大佐で、彼としては本来の職業的関心と才能のふるいどころをようやく手にいれたことになる。つまるところペテン師のかたわれさ、とポプランは言うのだが。
あらたな年があける早々、さまざまな妨害によって混乱するイゼルローン要塞の通信回路には、奇妙な指令が流れこんでくるようになった。
正確にいえば、個々の指令はごく正常かつ妥当なものであったのだが、それらをならべると、整合性を欠くことはなはだしかった。
最初の指令がもたらされたのは一月二日である。
「……帝国軍大本営よりイゼルローン要塞および駐留艦隊司令官コルネリアス・ルッツ上級大将に命令を伝達する。即日イゼルローン要塞を発し、同盟首都ハイネセンの後方を扼《やく》すべし」
指令を受領したルッツが、出撃の準備をととのえつつも、ヤン・ウェンリーの策略ではないか、との疑惑を禁じえないでいると、翌三日、まったく反対の指令がとどいた。
「卿《けい》の任務はイゼルローン要塞を固守するにある。出撃は、これを不可とする。ヤン・ウェンリーは奇策を用いることが多い。また、要塞内に同盟およびフェザーンヘの同調者がひそみ、卿の出撃後、要塞を占拠し、回廊を封鎖する可能性がある。くりかえして卿に命じる。動くなかれ」
ルッツは無能にはほど遠い男である。だが、ふたつの命令のうちいずれを信用すべきか、一瞬ならず迷った。相反するふたつの命令が、ともにヤンの脳細胞から発せられたものとは、さすがに看取《かんしゅ》しえない。
ルッツの心理の天秤《てんびん》がさたまるより早く、第三の命令がとどいた。
「さきの命令に関連したことだが、卿の部下に、不正をはたらき、それによってフェザーンに乗じられ、イゼルローン要塞を内部からそこなおうとする者がいる。至急、調査をおこなえ」
ルッツとしては、念のためにも調査せざるをえなかった。そして、一〇〇万以上も将兵がいれば、不正をはたらく者が皆無であるはずもない。一個分隊ほどの不《ふ》埓《らち》者が憲兵隊に拘束され、二個分隊ほどの不祥事があきらかにされた。そのなかには、たしかにフェザーン商人と結託して軍需物資を横流ししようとしていた輩《やから》もいたのである。
「なるほど、固守こそが陛下のまことのご意思か。さすがに皇帝《カイザー》はご明察でいらっしゃる。あやうくヤン・ウェンリーの奇策にはまるところだった。動いてはならないな」
ルッツは胸をなでおろし、艦隊の出撃態勢を解除にかかった。そこへ四度めの命令がきた。これもむろんヤンからのものである。
「ルッツ提督はなぜ出撃せぬのか。要塞には一部守備兵力のみ残し、全戦力をあげてハイネセンヘ向かえ」
「ふん、小細工をしおって。その策《て》に乗ってたまるものか」
ルッツは忠実に「皇帝のほんものの命令」を守って、イゼルローン要塞を動こうとしない。さらに出撃を命じてきた第五の命令がつたえられたのは一月七日のことである。
その第五の命令もルッツに無視された。ところが、これこそ皇帝《カイザー》ラインハルトからの最初の命令であったのだ。
冬眠にはいった熊のごとく、イゼルローンにいすわるルッツに対して、当然ながらラインハルトは激怒した。ルッツに同盟首都ハイネセンの後方を扼《やく》させるのが彼の戦略構想であったから、ルッツが動かなければ構想は完成せず、単なる力まかせの前進でしかなくなる。
同盟首都ハイネセンヘと進撃をつづける軍中にあって、ラインハルトは「ルッツ軍動かず」の報を受けた。総旗艦ブリュンヒルトの高級士官サロンにいた若い皇帝は、両眼に蒼氷色《アイス・ブルー》の雷光をひらめかせた。
「ルッツはなぜ動かぬ、予の命令を軽視するか」
クリスタル・グラスが床にくだけ、破片のひとつひとつが若い征服者の怒気を反射して虹色の光彩をゆらめかせた。皇帝の首席副官アルツール・フォン・シュトライト中将が、靴先《くつさき》に散った紅玉色の水滴をかるく一瞥《いちべつ》してから意見をのべた。
「陛下、もしかしてこれはかのヤン・ウェンリーが奇策をめぐらした結果かもしれません。何かルッツ提督を足どめする、そうせねばならぬ理由があるのではありませんか」
「奇策だと? ルッツがイゼルローンを動かぬことで、ヤン・ウェンリーがどんな利益をこうむるというのか」
ラインハルトの声が怒りに熱い。彼も絶対的な超越者ではなく、人間であるからには、他者の心のつむぎだす計画と策略のすべてを洞察することは不可能であった。それだけに、不安の薄い雲が心の地平をよぎるのを禁じえず、その自覚がまた怒りの風を加速させるのである。
「……おそれいります、陛下、そこまでは小官のとぼしい智恵《ちえ》のおよぶところではございません」
シュトライトが沈黙すると、ヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢がかわって口をひらいた。
「陛下、ルッツ提督がイゼルローン要塞を動かぬことは、たしかにヤン・ウェンリー元帥の利益にそわないでしょう。でしたら、そのままにしておかれればよろしいかと存じます。結果としてわが軍を利するのであれば、ルッツ提督の一時の罪もとがめることはございません」
即答せず、ラインハルトは優美な眉《まゆ》を優美にしかめた。ヒルダの主張に一理があることは認めるが、自己の発した命令を無視される不快さは表現のしようもなかった。
このときシュトライトのみならず、ラインハルト自身も、ヤンがしかけた巧妙な心理的|陥穿《かんせい》におちいっている。イゼルローンに駐留するルッツの戦力は、ラインハルトにとってほんとうは不可欠な戦力ではない。最初からルッツを動かさなければそれですんだことなのだが、ラインハルトとしてはヤン・ウェンリーの蠢動《しゅんどう》を掣肘《せいちゅう》するためにルッツの戦力を遊撃の位置におくことが重要に思えた。結果論としてはヒルダが正しかったのだが、彼女とてもヤンの詭《き》計《けい》のすべてを洞察しえたわけではない。ラインハルトは彼らしくもなく迷い、やや中途半端にかさねて出撃をうながした。ルッツのほうではかさねてそれを無視する。
そこへまたしても偽の通信がとどいた。内容は高圧きわまるもので、通信オペレーターが色を失ったほどである。
「予の命令を無視して出撃せぬとあれば、それもよし。卿のほしいままにふるまえ。ただし、同盟軍ことごとくを覆滅せしめた後に、卿の罪状はかならずただすであろう」
表情にこそ出さなかったが、ルッツはやや動揺した。専制君主の怒りが恐怖するに値するものであることを彼は知っていた。出撃すべきであろうか。だが、前後矛盾する命令のうち、いずれが真でいずれが偽であるかを判断するのは困難であった。
ルッツがヤンの術中におちいったのは、指令の整合性をもって真偽を区別しようとしたからである。真の指令と偽の指令とが、それぞれ正反対の方角へむけて整然と列をなしていると思ったのだ。真の指令が出撃を命じているなら、偽の指令は出撃を禁じている。真の指令がくりかえし出撃を禁じていれば、偽の指令はくりかえし出撃を命じている。そう考えたのだが、これをもってルッツの頭脳が単純であるとはいえない。ヤンの立案にしたがってバグダッシュが乱発している指令の無秩序さを見ぬく者がいたとしたら、偉才というより変人というべきであったろう。
混乱こそヤンのねらうところだった。単にルッツを出撃させるだけならヤンが策略を弄《ろう》する必要はない。ヤンが策略を弄しているとルッツにさとらせてこそ成功率が高まるのである。
コルネリアス・ルッツは堅実で知識にも経験にも欠けることのない正統派の用兵家であった。本来、戦場以外での謀略や情報戦は得意ではない。彼の気質も思考法も艦隊戦をこそ望んでいる。
だが、ついに彼は看《かん》破《ぱ》した。
「ヤン・ウェンリーは自分を要塞から誘い出し、その間に空城を強奪するつもりだ。思えば、最初にイゼルローンを陥落せしめたときにも、奴はその策を用いたのではないか」
そうさとると、ルッツの脳裏を単色の光が支配してしまった。
いかに妙計とはいえ、同じ策を二度用いるとは、ヤン・ウェンリーの智略の泉もついにひあがったと見える。ルッツの碧眼《へきがん》がわずかに藤色《ふじいろ》のいろどりをおびた。興奮したときの特徴であった。
ルッツの部下ヴェーラー中将は、上官から出撃の意思をつげられたとき、楽天的な反応をしめさなかった。
「ですが、このような情報混乱の状態にあっては、指令の真偽もさだかではありません。一時は皇帝《カイザー》ラインハルト陛下のご不興をこうむることになろうとも、要塞を堅守して、動くべきではないと愚考します。イゼルローンさえ確保しておけば、陛下の軍と呼応して、いつでも同盟領を蹂躙《じゅうりん》することができるではありませんか」
「卿の主張は当然だ」
怒りをしめさず、ルッツはうなずいた。
「出撃命令はヤン・ウェンリーの発した偽の指令であろうとおれは思う。艦隊をおびき出しておいて、その隙《すき》に本拠地を強奪する。ヤン・ウェンリーのやりそうな詭計ではないか」
中将は目をみはった。
「では、それをご承知で、あえてイゼルローンを空城として出撃なさると閣下はおっしゃいますか」
「そうだ、ヴェーラー中将、おれは全艦隊をひきいて出撃する。策に乗った、と、ヤン・ウェンリーに思わせるのだ。だが、策に乗せるのはこちらのほうだ」
ルッツは熱っぽい口調で彼の策を部下に説明した。ルッツが全艦隊をひきいて出撃すれば、おそらく回廊の何処かで息をひそめているヤン艦隊はその間隙をぬって要塞に接近するであろう。タイミングをはかってルッツは艦隊を反転させ、要塞主砲「雷神《トゥール》のハンマー」の炎の壁との間にヤン艦隊を挟撃する。生殺《せいさつ》与《よ》奪《だつ》は思いのままとなろう。
「智者は智におぼれる。ヤン・ウェンリーのカレンダーも残りすくないぞ」
レンネンカンプら僚友たちの復仇《ふっきゅう》をとげる思いが、ルッツの声をはずませ、中将は一礼して上官に敬意を表したのだった。
V
一月一二日、ルッツは麾下《きか》の全艦隊をひきいてイゼルローン要塞を進発した。艦艇数一万五〇〇〇隻以上、堂々たる光点の群の出立は、即座にヤン艦隊に捕《ほ》捉《そく》されたが、見せびらかすための行動であるからそれは当然である。
「ルッツ艦隊がイゼルローン要塞を出たぞ」
一月一三日。バグダッシュの報告は、歓声と口笛で迎えられた。「ヤン・ウェンリーの奇蹟」はまたも実現しようとしているし、それを実現させるのは彼らの戦闘ぶりにかかっている。前祝い、との声があがり、ウィスキーがまわし飲みされた。
重厚にして沈《ちん》毅《き》、「ヤン艦隊唯一の紳士」とまで呼ばれるメルカッツさえ、この陽気で不敵な集団のなかにあっては、帝国軍時代のように完全な孤高をたもってはいられなかった。彼自身も、形だけ口をつけたにすぎないとはいえ、ウイヌキーの小瓶を不器用にかかげてみせ、拍手と歓声が一段落したところで重要事を口にした。
「吾々はルッツを策に乗せたが、ルッツのほうでも吾々を策に乗せたと考えているだろう。彼は屈指の用兵家であり、指揮下の艦艇は吾々の一〇倍に達する。彼が反転殺到してくるまでに要寒を制圧せねば、吾々の勝機は永久に失われるだろう。ただちに攻略戦を実行する。シェーンコップ中将、前線指揮をお願いしたい」
「安んじておまかせあれ」
緊張の色もなくシェーンコップが敬礼をほどこしてみせる。宇宙暦八〇〇年のこの年に三六歳を迎える典雅な壮年の紳士だ。彼を見ながら、今度はユリアンは要塞攻略に関するヤンの説明を思いだしていた。
「……ルッツは名将だ。イゼルローンの重要性を承知しているから、皇帝が出撃命令を出しても、再考を求めて動かないこともありうる。皇帝《カイザー》の命令のままにイゼルローンを出撃しても、いつ吾々の作戦に気づいて反転してくるかわからない。だから最初から吾々の作戦に気づかせる。そのまま要塞を動かなければどうしようもないが、情報の流しかたしだいで、吾々を罠《わな》にはめようと思わせることができるだろう。吾々を罠にはめるには、一定の距離はかならず要塞から離れていなくてはならないから、その分、こちらの作戦は成功しやすくなる。小細工がすぎるとお前は思うだろうけど、ルッツに看破させるためには小細工が必要なんだ……」
ルッツはみごとにヤンの罠にはまったのだった。本来なら小手先の謀略など弄さず、難攻不落の要塞に大軍を擁して正面からヤン一党をたたきつぶしたであろう正統派の用兵家は、このとき八〇万キロの距離をおいて、要塞に肉迫するヤン艦隊の姿を旗艦のスクリーンにながめやっている。
「かかりおったぞ、流亡の盗賊どもが」
コルネリアス・ルッツは軽薄という表現からはほど遠い男だが、このときばかりは沸騰《ふっとう》する歓喜を抑制しえなかった。奇策詭計の生きた宝庫であるヤン・ウェンリーを逆に罠にはめ、帝国軍の膝《しっ》下《か》にねじ伏せることがついにかなうのだ。
だが、彼の歓喜は長寿をたもちえなかった。至近距離からこざかしい敵軍を一撃に掃滅《そうめつ》するはずの要塞主砲「雷神《トゥール》のハンマー」がいつまでも白いエネルギーの柱をはきだそうとしないのだ。スクリーンに視線を固定させた司令官の背後で、幕僚たちが不安と不審の視線をかわしあった。
「なぜ雷神《トゥール》のハンマーを撃たぬ!?」
ルッツは叫んだ。豪胆な帝国軍提督の額に、焦慮の汗がにじんだ。時機をはかり、精密に構成した作戦が、砂壁のようにくずれはじめていた。
八〇万キロの虚空をへだてたイゼルローン要塞では、焦慮は不安をへて恐慌へと急成長していた。オペレーターたちは悲鳴と罵《ば》声《せい》の混合物で通信回路をみたし、稚《ち》拙《せつ》なピアニストのようにむなしく指を走らせた。
「作動せず」「反応なし」「制御不能」等の叫びが反響しあう。肉迫したヤン艦隊から複数の通信波が放たれ、「健康と美容のために、食後に一杯の紅茶」という、正常とも思えない数語をコンピューターが受領した瞬間すべての防御システムが無力化してしまったのである。
ルッツから要塞防御の大任をゆだねられたヴェーラー中将は、歯痛に似た感覚が精神回路を埋めつくすのをおぼえた。つい先刻までの勝利感は体内から一掃されて、兇夢《きょうむ》の重苦しさがとってかわった。
「コンピューター制御をやめて手動に切りかえろ。何としても『雷神《トゥール》のハンマー』を発射するのだ」
命じる声が、声帯にはりついて容易に口から外へ出ていこうとしない。
「だめです、司令官、不可能です」
オペレーターの口からは、音声化された絶望の念が飛び出した。ヴェーラー中将は理解と恐怖に左右の肺を侵され、呼吸に困難をおぼえつつ、指令シートのなかで凝固していた。
要塞の防御システムを無力化するキー・ワード。それがヤン・ウェンリーの奇術の種であったのだ。奴は一年前、要塞を脱出するとき、その種をまいていったのだ。それにしても何とふざけたキー・ワードであったことか。ヤンにしてみれば、数年にわたって帝国の公用通信で用いられるおそれのない語句を選ぶために、相当苦労したつもりなのだが、ハイセンスなキー・ワードであるとは当人も強弁しえないであろう。
封印をとくには何かキー・ワードがあるはずだ、ということは自明であったが、実際問題としてそれを発見するのは不可能であった。
帝国軍がイゼルローンを奪回したとき、多数の極低周波爆弾が発見され、逃走した同盟軍は要塞を爆破しようとして失敗したのだ、と思われていた。しかしいまにして思えば、それは帝国軍の目を真の罠からそらすための、狡猾《こうかつ》きわまるフェイントであったのだ!
オペレーターが悲鳴をはなった。
「敵、突入してきます!」
「ゲートを閉ざせ、なかへ入れるな」
命じはしたものの、返答は予測している。閉鎖不能の叫びを聞いたとき、ヴェーラーは指揮シートから立ちあがり、白兵戦の準備を命じていた。警報が要塞内の空気を波うたせた。
この時点まで、事態はヤン艦隊に圧倒的な有利さで展開しているかのように見える。だが、じつのところ、急速反転を指令したルッツが部下たちをはげましたように、これでようやく対等というところであった。
ルッツ艦隊が反転してイゼルローン要塞へ殺到してくるまで、所要時間は五時間強と算出されている。白兵戦をもって、五時間以内に要塞の防御システムを奪取し、「雷神《トゥール》のハンマー」を活動させねば、ヤン艦隊の勝利はない。しかも、兵数はなお要塞守備隊のほうがはるかに多いのである。要塞の防御システムが封印されても、なお白兵戦という手段にうったえることができるのだ。
帝国軍は、味方の来援までもちこたえればよいが、ヤン艦隊にしてみれば、それまでに完勝をおさめなくてはならない。勝利の女神はなお祝福のキスを一方に与えかねている。
「いつものことさ、やるしかない」
だが、オリビエ・ポプランが無造作に言ってのけたごとく、このていどの困難はヤン艦隊にとって稀少《きしょう》なことではなかった。「救国軍事会議」のクーデターに際しても、あいつぐイゼルローン回廊攻防戦のときも、バーミリオン星域会戦の場合も、ヤン艦隊はつねに孤立無援にひとしい状態で強大な敵とわたりあってきたのだ。それらの前例にくらべて、今回、彼らはいちじるしく緊迫した状況におかれたわけでもなかった。
W
要塞内の港湾施設に突入したヤン艦隊を、苛《か》烈《れつ》な攻撃が迎えうった。本来なら港のゲートに照準をあわせた荷電粒子砲が破壊と殺戮《さつりく》をほしいままにするところだが、戦術用コンピューターに連動した防御システムはことごとく冬眠のさなかにある。装備はともかく、戦法としては石器時代に逆行せざるをえない。気体爆薬ともいうべきゼッフル粒子の放出がおこなわれ、すでに火器は使用できなくなっていた。
乗艦のハッチを開いて勢いよく躍り出たオリビエ・ポプランは、前傾した姿勢をそのまま床に一回転させた。帝国軍のクロスボウから放たれた超硬度鋼製の矢が、一瞬前まで彼の頭部のあった空間をつらぬいて艦体に命中し、非音楽的なひびきをたててはね返っている。不謹慎な口笛をひとつ吹いて、ポプランが放った視線の先に、トマホークや戦闘用ナイフを照明に反射させつつ殺到してくる帝国軍の姿が映った。
こうして「蛮人どうしの血戦」がはじまった。要塞の外では、機械文明の先端に位置する戦艦群が母港へむかって一直線に走りつづけているのに、厚い壁の内部では、火薬が実用化される以前の日々まで時を遡《そ》行《こう》して、肉体と刃物と鈍器をぶつけあう闘争が展開されたのである。
金属と非金属が激突し、飛散する血の臭気は、港湾施設の空気浄化能力をこえた。銀灰色の装甲服が一瞬ごとに無彩から有彩へ、表面をぬりかえていく。ユリアンは左右をオリビエ・ポプランとルイ・マシュンゴにはさまれ、正面だけをむいて闘うことができた。クロスボウから放たれた矢を二本たたきおとし、一本はヘルメットで受けた。斬撃《ざんげき》の応酬は苛烈だったが、結局のところトマホークで相手の装甲服に亀《き》裂《れつ》をつくるのがせいぜいだったように、後になると思えるのだった。
「不愉快だな、どうも」
並んでトマホークをふるっていたポプランの声が、ユリアンの耳をたたく。
「何が不愉快なんです、中佐?」
「何がって、地球といいここといい、床に足をつけて闘うことに慣らされてしまった。こんな不愉快なことがまたとあるか」
強烈な斬撃を、受けとめるのではなく、はね返し、致命的な一閃《いっせん》を敵に撃ちこんで跳びすさる。その間に、飛来する矢をさけてすばやく移動しつつ、つぎの敵とわたりあう。シェーンコップほどの量産はなしえないにせよ、俊敏で理にかなった動作は、ポプランを帝国軍の憎悪の的とした。ひとりの兵士が彼我の分界を突破してポプランの背後にまわろうとしたが、躍りかかったカスパー・リンツが、トマホークの一閃でその兵士を血煙の下に撃ちたおした。
「|薔薇の騎士《ローゼンリッター》!」
戦慄《せんりつ》が帝国軍兵士の間を無音のうちに駆けぬける。彼らの勇名は、敵と味方とをとわず、軍服を着る者すべての知るところだった。動揺し、数歩を後退した帝国軍の兵士たちを、臆病《おくびょう》とそしることはできないであろう。だが、それはヤン艦隊の面々を勢いづけるに充分であった。戦闘において、名声ないし虚名は最大限に利用すべきなのである。シェーンコップが無言のうちに指示すると、一方の後退によって開かれた空間は、たちまち他方の前進によって埋められた。帝国軍の戦列は、崩壊こそしなかったが、時計の短針さながらに、緩慢に、だが確実に後退していった。
二三時二〇分、一隊を指揮したポプラン、ユリアン、マシュンゴらは、AS二八ブロックに突入し、第四予備管制室を占拠した。
帝国軍はさして動揺を見せなかった。中央指令室が占拠されたわけでもなく、彼らの防御が崩壊に直面したわけでもなかったからである。だが、ヤン艦隊の真の目的はその部屋を奪取することにあったのだ。中央指令室への突入が困難をきわめることを予想して、ヤンは、港湾施設から中央指令室にいたるルートからはずれたこの部屋に、戦術コンピューターを連動させておいたのだ。ポプランが赤く塗装された戦闘用ナイフを放り出して操作卓《コンソール》にとびつき、メイン・キーをいれた。
「雷神《トゥール》のハンマー、封印解除!」
ポプランに視線を向けられて、ユリアンは操作卓にしなやかな指をのばし、一連のキー・ワードを回路にうちこんだ。
「ロシアン・ティーを一杯。ジャムではなくママレードでもなく蜂蜜《はちみつ》で」
ポプランが、血と汗によごれた顔のまま失笑した。最初のものと同様およそ軍事的緊張や興奮とは無縁なキー・ワードだった。
二三時二五分、暗黒の空間を突進する旗艦の艦橋で、ルッツ上級大将は敗北のうめき声をもらした。
「だめだ、後退せよ!」
彼はまにあわないことをさとった。要塞の機能が敵中に落ちたことを知った。銀色にかがやく巨大な球体の一点に、白い正視しがたい光の点がわきあがったのだ。
「全艦隊、反転! 雷神《トゥール》のハンマー射程内より急速離脱せよ」
スクリーンのなかで、「雷神《トゥール》のハンマー」の砲口にみちた白い光が、さらに明度と半径をましていく。冷たい汗と熱い汗を同時に背筋に触感しながら、ルッツはさらに艦列を拡散するよう命じた。すでに要塞を奪われ、敗北の淵《ふち》に立たされてはいたが、被害を最小限にくいとめる責任が彼にはあったのだ。
白光が視界を埋めつくした。何が生じるかを予期し、各艦のスクリーンの入光量を制御していても、なお強大な光の怒《ど》濤《とう》は帝国軍将兵の網膜を灼《や》きつくし、反対に心を凍《い》てつかせた。
九億二四〇〇万メガワットのエネルギーが全開放されて五秒にもみたぬ間に、ルッツ艦隊は全兵力の一割を永久に失い、さらに一割を傷つけている。直撃をこうむった艦は乗員もろとも気化し、その外側に位置した艦は爆発し、さらに外側の艦では内部で火災を発生させ、乗員は恐慌にわしづかみされつつ消火に狂奔した。
「戦艦ルイトポルド、通信途絶!」
「戦艦トリッテンハイム、応答せず……」
あえぎと叫びとささやきが無秩序な交響曲をかなでるなか、コルネリアス・ルッツは指先まで青ざめて立ちつくしている。
「雷神《トゥール》のハンマー」はルッツ艦隊のみならず、イゼルローン要塞内部の帝国軍の士気《モラル》をもうちくだいた。四時間にわたる消耗と流血に耐えぬいた精神の甲冑《かっちゅう》に亀裂が生じ、そこに勢いをえたあらたな一撃がたたきこまれると、もはや抵抗の意思は蒸発してしまっている。
シェーンコップらは、ほとんど無血のうちに各フロアを占拠していった。彼らが一メートルすすむと、帝国軍は二メートルしりぞくありさまだった。誰ひとり意識せぬうちにカレンダーがめくれて、一月一四日〇時四五分、帝国軍司令官ヴェーラー中将がついに要塞の放棄を申し入れてきた。
「部下の安全な退去を要求する。それが容れられぬときは最後の一兵にいたるまで白兵戦をもって抵抗し、要塞ごと自爆するも辞せず」
一議におよばずユリアンはその要求を了承したが、交渉技術の上から即答はできない。バグダッシュ大佐にそう言われて、ユリアンは一五分後の回答を約した。
このときすでに戦闘は終結していたといえる。一五分後に幕がおりるとわかっているのに、あえて殺しあい、傷つけあう必要もなかった。双方とも武器をおさめ、流血の河をはさんでにらみあうだけである。
ユリアンは七分後には条件受諾の返答を送った。血の泥濘《でいねい》のなかで呻吟《しんぎん》している重傷者の姿を正視できなかったからである。さらに八分を経過すれば、彼らは生きていないかもしれない。甘いな、と言いたげなバグダッシュの表情を、ユリアンはあえて無視した。自分の忍耐はもっとべつの機会にためされると思う。
〇時五九分、自らのブラスターで頭部を撃ちぬいたヴェーラー中将の遺体が、彼の執務室で発見された。椅子《いす》に腰をおろし、デスクに突っ伏していたが、ベッドのシーツをデスク上に折りかさね、血で汚さぬよう配慮した光景が、故人の性格をしのばせた。このようにものがたい為人《ひととなり》では、任務に失敗したとき死を選ぶ以外になかったであろう。ユリアンは黒ベレーをぬぎ、沈黙のうちに故人への敬意をあらわした。敵に対する尊敬は、ヤンからくりかえし教えられたところだった。
旗艦のスクリーンに映しだされるイゼルローン要塞の姿からルッツは目をはなさない。
「閣下、どうかご休息ください」
むだと知りつつ副官グーテンゾーン少佐が声をかけた。
彼の予想どおり、ルッツは返答せず、腕を組んでスクリーンの前に佇立《ちょりつ》したまま、のしかかる敗北感に耐えていた。
占領軍の数十倍にのぼる敗者の列が、要塞内の各処から港へとのびていた。血のにじんだ包帯が目だつのは当然だが、身体より精神に傷を負った者のほうがはるかに多いようで、敗北自体を信じえぬ表情の群が脱力感の波となって移動している。
「まさに神算鬼謀というべきだな」
敗者の列を遠く見おろしながら、低くつぶやくメルカッツの声を、ベルンハルト・シュナイダーは鼓膜の表面にとらえた。シェーンコップらの勇戦もさることながら、時間と空間をこえてそれを完璧《かんぺき》に制御しえたヤン・ウェンリーの智略をどう表現すべきか。既成の形容語にたよらざるをえないメルカッツの心理が、シュナイダーには理解できる。戦場での用兵巧者、というだけにとどまらない男だとは思っていたが、今回のイゼルローン再奪取の手ぎわときたら、あきれるほどのものである。少数をもって多数と戦うのは用兵学上の邪道と主張しながら、その邪道を完璧にきわめてみせる男なのだ。時間と兵力さえ与えられれば、どれほどのことをやってのけるのだろうか。
……宇宙暦八〇〇年一月、ヤン・ウェンリーと彼の部下たちは、イゼルローン要塞への帰還をはたした。不本意な放棄から一年ぶりのことであった。
X
「イゼルローン要塞はわが軍の手中にあり」
その報がメルカッツからもたらされ、幹部に戦死者がいないことがあわせてつげられると、エル・ファシル全星には歓喜の花火がうちあげられ、中央競技場で開かれた式典は一〇万の人間と一〇万の笑いにみたされた。
「わが革命政権にとって最初の勝利である。またしてもヤン元帥は奇《き》蹟《せき》をおこした。だが、これはごく小さな一歩にすぎず、無限の未来へつらなるフィルムのひとこまでしかないのだ……」
独立政府要人たちの、ヨブ・トリューニヒトにくらべて洗練の度が低い演説を聞きながら、ヤンは憮《ぶ》然《ぜん》として貴賓席にすわっていた。今回、必要にせまられてとはいえ、あまりにも小手先の策略を弄しすぎたような気がして、あまり自慢する気にヤンはなれないのである。
いやでたまらないのだが、宣伝しなくては政治的な効果が生じない。フェザーン人に投資させるためにも、旧同盟の人的資源を招集するためにも、勝利と勝利者を宣伝しなくてはならないのだ。ヤンはお義理で勝利記念集会に出席し、その後は人をさけて宿舎に閉じこもってしまったが、その態度がまた後世の批判の種になるのである。
「もともと政治的効果を期待しての作戦であったのだから、それが成功したとき最大限に宣伝するのは当然である。それをきらって宿舎に閉じこもるとは、ヤン・ウェンリーの器量の狭さと覚悟の不徹底を証明するものであろう」
実際、ヤン・ウェンリーが他に比肩するものがないほどの武勲を樹立し歴史を動かしながら、とかく意地の悪い評価をくだされるのは、責任の多くが当人自身に帰するであろう。とにかく、「覚悟が不徹底」なのは事実であったから。
なつかしむべきイゼルローン要塞の中央指令室に一歩をふみいれると、ヤンの五官をこころよい風が通過していった。一月二二日に、エル・ファシルからイゼルローンに到着して、ヤンは郷愁のみたされる場所を獲得することができた。ワルター・フォン・シェーンコップに言わせると、「政治家がいないから気がゆるむだけのことさ」ということになるのだが。
結局、自分は地上にはむかない人間らしい、と、ヤンは思わざるをえない。この年、彼は三三歳をむかえるが、これまでの人生の過半を、各惑星の地表ではなく宇宙船や人工天体の内部ですごしてきたはずである。そして、事実上、彼の生命と生活はそこではぐくまれ、織りだされてきたのだ。
故ヘルムート・レンネンカンプは残念だったことだろう。彼には宇宙の半分を征服した王朝の重臣としてすくなからぬ矜持《きょうじ》があり、無重力の空間に死すべき場所をさだめていたであろうに、地上でみじめな死にかたをしなくてはならなかった。あつかましい願いだが、ヤン自身もかなうことなら宇宙空間で臨終をむかえたいものだ……。
こうして、エル・ファシル星系からイゼルローン要塞にいたる「解放回廊」は完成した。だが、それは地理上の有利さと、人格的な結合力とによって即成されたものであり、歴史の土壌に根をおろし、葉をしげらせるまでには、すくなからぬ風雨を経験しなくてはならないであろうことを、当事者たちは傍観者たちよりはるかに正しくわきまえていた。ただ、この当事者たちには共通の病弊《びょうへい》があって、事態が深刻の度を深めるほど、かえって表面的には陽気になるのである。ひとつには、口に出してどう言おうとも、彼らの不敗の司令官を信頼しきっていたからでもあった。後にユリアン・ミンツが述懐したように、
「ぼくたちはヤン・ウェンリーに頼りきっていた。彼が不敗であることはむろんのこと、不死であるとすら信じていた」
のである。けっしてそうではないことを、やがて彼らは思い知らされるのだが、さしあたり彼らは酒と鼻歌を友としていられた。
だが、イゼルローン要塞再奪取成功の吉報ときびすを接して、ヤン・ウェンリーは歓喜を一瞬に凍結させるほどの悲報に接しなくてはならなかった。
アレクサンドル・ビュコック元帥戦死の報である。
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第六章 マル・アデッタ星域の会戦
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ラインハルト自身の同盟領侵攻は、ヤン・ウェンリーのイゼルローン再奪取作戦と、時をほぼ並行しておこなわれている。ゆえに、コルネリアス・ルッツの判断と行動にヤンがつけこむ間隙《かんげき》が生じたわけだが、ラインハルトおよび帝国軍大本営から見れば、ルッツの未参陣は不満の種子とはなっても致命傷となるものではない。各処で同盟軍――というよりその残《ざん》滓《し》を撃ちはらい、軍事施設を破壊し、傲然《ごうぜん》とさえ見えるほど堂々たる進撃ぶりであった。
先頭に立ったビッテンフェルト上級大将の「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」艦隊は、途次、いくつかの微弱な抵抗を爆砕《ばくさい》しつつ急行したが、同盟軍ビューフォート准将のゲリラ活動によって捕結線を一時的ながら絶《た》たれ、その回復を待ちながら一方ではビューフォートを追ってその根拠地をたたきつぶすなどして、多少の時間的損害をこうむった。ビューフォートはほとんど身ひとつで逃走し、ビッテンフェルトをくやしがらせたが、そのかわりに彼は捕虜からある情報をえた。
「ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ提督は、どうやらヤン・ウェンリーのもとで健在であるらしい」
ほう、というつぶやきが、その報をうけた提督たちの間から泡のようにはじけたが、それは驚愕《きょうがく》より納得をあらわすものであった。結局のところ、故ヘルムート・レンネンカンプは偏見にもとづいて正解をえていたわけである。ヤン・ウェンリーがエル・ファシルの独立革命政府に身を投じたことも確認されたが、
「将がいても兵がいないのでは、惑星なき恒星にひとしい。光も熱もむなしく闇《やみ》を照らすだけのことだ」
という楽観論が、意外に帝国軍幹部の有力な支持をえた。同盟の軍事力とヤン・ウェンリーの才幹とが分離し、辺境の無力な一惑星が後者をえたからといって恐怖するには値しないのではないか。すくなくとも、現在、帝国に圧倒的に有利な軍事的・政治的情勢がくつがえされるとは思われない。
「ヤン・ウェンリーは、用兵家として他に類を見ない才能と実績を有している。しかし、それによって彼の政治家としての成功が証明されるわけではない。名声によって反帝国勢力を糾合《きょうごう》することは可能だろうが、問題はそれを維持しうるかどうかだ」
そしてそれは容易ではない、というのがラインハルトの幕僚たちの見解であった。根拠は複数存在した。エル・ファシルの現実および潜在的な農工生産力は大軍をやしなうにたりるであろうか。他の諸惑星はエル・ファシルの下風に立つのをいさぎよしとするであろうか。そしてヤン自身の資質は、はたしてどうか。
バーミリオン星域会戦のとき、ヤン・ウェンリーは勝利を目前にしながら、同盟政府の命令にしたがい、無条件で砲火をおさめた。ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトを、まさに射程にとらえようとしていたにもかかわらず。彼がその命令を無視すれば、政府の掣肘《せいちゅう》から解放され、彼自身が宇宙の覇者たりえたかもしれないのだ。
その決断は、道義的には賞賛に値するものであったが、同時に、政治行動家としてのヤンの限界を暴《ばく》露《ろ》してしまったのである。彼が現在も一貫して民主共和政治の形式を尊重しているなら、今後もその枠をふみこえて行動することはできない。また、その後、価値観をかえたとしても、すでに最大の好機をとりにがした者に幸運の女神があらためて媚《こび》を売ることはないであろう。政略家としてのヤン・ウェンリーに能力上の資質はあっても性格上の資質は欠けているのだ。ヤン・ウェンリーが同盟政府に抗して首都ハイネセンを脱出したのは、完全な緊急避難の処置であって、慎重にねりあげられた政治的構想の結果ではありえない。彼は第一人者として立つには自身で制約をもうけすぎるし、第二人者に甘んじるには能力と名声がありすぎて、上位者の嫉《しっ》視《し》と疑惑を呼ぶであろう……。
それらの辛辣《しんらつ》な評価を耳にしても、ヤンは反論しえなかったであろう。帝国大本営幕僚群――主としてヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢――の分析は、完全な事実ではないとしても、かぎりなく事実に近かった。知性の活動が事実をクローン化したといってもよい。彼は第二人者以下でありたかったのに、第一人者にめぐまれなかった。当人の忍耐力と包容力も、軍人として活動するまでが限界で、政治家として生きる可能性は彼の精神にとって水平線の彼方にしか存在しなかった。ヒルダは、ヤンのそういった為人《ひととなり》を完全に理解していたわけではないにしろ、バーミリオン星域会戦に代表される現象のいくつかによって、その限界はほぼ正確に把《は》握《あく》しえていたのである。
だが、ヒルダの明哲をもってしても、戦術家としてのヤンを把握することは不可能であった。無限とすら思われる智略《ちりゃく》は、尊敬と恐怖に値した。ゆえにヒルダは、ヤンとの直接対決をさけるよう皇帝を説かざるをえない。
「同盟軍にせよ、政府から離反した諸部隊にせよ、ヤン・ウェンリーあるところ勝利ありととなえています。それを裏がえせば、ヤンなきところに勝利なし、ということになるでしょう。ヤンがいない場所で戦略上の処置をかさね、彼を奔命《ほんめい》につかれさせ、抗戦を断念させてはいかがでしょうか」
この進言は、若さと覇気にとんだ美《び》貌《ぼう》の皇帝には喜ばれなかったようである。
「フロイライン・マリーンドルフは、予をどうしてもヤン・ウェンリーと戦わせたくないようだ」
ラインハルトはヒルダを見すえた。蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳のなかで、鋭気が風速をましつつあるのが伯爵令嬢にはわかる。
「比類なく聡明《そうめい》なフロイラインでも錯覚することがあるとみえる。もしヤン・ウェンリーに敗北することがなければ、予は不老不死でいられるのだろうか」
ヒルダは?《ほお》と精神を同時に紅潮させ、抗議の意思をこめて、かるくあごをつきだした。
「意地の悪いおっしゃりようをなさいます、陛下」
「赦《ゆる》せ」
ラインハルトは笑ったが、それは礼儀を順守した結果であって、自分の意思を修正するつもりが彼にはないことを、つづく一連の発言が証明した。
「フロイライン、昨年、予はバーミリオン星域でヤン・ウェンリーと戦った。そしてみごとに敗れた」
「陛下……」
「予は負けたのだ」
反論を許さぬ明快さと厳格さで、ラインハルトは断言した。
「戦略レベルにおいて、予は彼の挑発に乗ってしまった。戦術レベルにおいては、いま半歩で彼の砲火に直撃されるところであった。予が敗死をまぬがれたのは、フロイラインがロイエンタールとミッターマイヤーを動かして敵国の首都を衝《つ》かしめたからで、功はフロイラインにある。予には何の功もありはしない」
白皙《はくせき》の顔に赤い激情のヴェールをかぶせながら、皇帝は語と呼吸を強めている。
「おそれ多いおことばですが、陛下、臣下の功績はその臣下をとりたてた主君に帰するものです。陛下は負けてはいらっしゃいません」
ラインハルトはうなずいたが、あいかわらず彼の視線は内心の強風を映しだしている。ヒルダは一瞬ためらった後、強風にむかって直立することを決心した。
「ヤン・ウェンリー一個人に対する復仇《ふっきゅう》など、どうかお考えなさいますな。陛下は遠からず全宇宙をお手になさいます。ヤン・ウェンリーはそれをはばむことはできないでしょう。陛下が最終的に勝利なさるゆえんです。誰が勝利を盗んだなどと申しましょうか」
「ヤン・ウェンリーは言うまい。だが、彼の部下たちがそう主張するにきまっている」
少年めいた、というより子供っぽい、それは言いかたであった。ラインハルトは白いしなやかな指を端麗な唇にあてたが、爪《つめ》をかむ行為をかろうじて抑制している印象であった。軍神と美神とが名誉と情熱をかけて所有を争うような、この比類ない若者は、負けることよりも負けたと言われることのほうを恐れているようであった。ヒルダはいささかあきれ、同時に不吉な微風が神経網を吹きぬけるのを感じた。
ラインハルトが破滅を熱望しているとまではヒルダは思わない。だが、敵を失った後の長い安逸のなかで老い朽ちていくより、すぐれた敵によって生命の最盛期に倒されるほうをラインハルトは無条件で選ぶのではないか……。ことさらに疑問形にとどめたのは、最終的な断定を下すことが、ヒルダにとってさえ最大級の精神的な負担を必要としたからである。疑問の段階でさえ息苦しさを感じるのに。
ヒルダはかるく頭を振って、くすんだ金髪に照明光を反射させた。ことさらに暗い方角を選んで思考の迷路をたどるのは、本来の彼女にふさわしくなかった。すでに三年前のことになってしまったが、リップシュタット戦役に際してラインハルト陣営に父と彼女自身を投じたのは、破滅の美ではなく、眼差《まなざし》の高さと翼の強さを見出したからなのである。
五〇〇年前、鋼鉄の巨人ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムが軍人として敵手たる宇宙海賊と戦ったのは、秩序を破壊する者に対する憎悪と、政治的野心のゆえであった。彼の権力と子孫の特権を弱者の犠牲の上に維持することが、彼の正義の帰結するところだった。そのルドルフの正義を、ラインハルトは否定して起《た》ったのだ。
そのゆえんは何であったか。美しく優しい姉アンネローゼを、権力者によって不当に強奪されたことに対する復讐《ふくしゅう》を誓約したこと。五世紀にわたる大貴族の支配体制に腐臭をかぎ、その変革をこころざしたこと。私的だが正当な怒りと、公的で正当な願望。それらはこの若者の生命力の源泉であったはずだが、むしろ彼の生命力が、もっとも華麗で熾《し》烈《れつ》な発現のしかたを要求したのかもしれない。昨今、ヒルダはときとしてそう思う。そしてそのたびに気に病んでしまうのだ。かがやかしい炎は早く燃えつきるのではないか、と。
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ラインハルトと帝国軍にとって、宇宙暦七九九年、新帝国暦〇〇一年はいまひとつ精神の核を燃焼させえぬまま退場し、あらたな年がおとずれた。新年の行事といえば、総旗艦ブリュンヒルトの式典用ホールで皇帝をかこんでささやかな祝宴がひらがれ、全将兵にワインが配られただけである。大規模な祝宴は同盟首都ハイネセンを完全に占領した後、もよおされるであろう、と皇帝は通信スクリーンをとおして将兵に語りかけ、将兵は「ジーク・カイザー・ラインハルト」の歓呼で全艦艇の内壁をゆるがした。兵士たちの皇帝に対する信仰と諸将への敬意には刃こぼれひとつなく、士気《モラル》の点で不安は皆無であった。先行するビッテンフェルトと本隊との通信が、かなりの頻《ひん》度《ど》で妨害を受けて相互の連絡が疎《そ》になりがちであること、ルッツがなぜかイゼルローン要塞《ようさい》を出ようとしないことが現在の情勢に完璧《かんぺき》さを欠く要素となっているが、シュタインメッツをふくめた三者をそれぞれ各個撃破でもされないかぎり、動揺する必要もないであろう。
「おそらく一度は、組織的な反撃があるはずだ。死兵となって最後の抵抗をこころみてくるだろう。それを覆滅《ふくめつ》せしめた後、同盟首都ハイネセンを占拠し、同盟の完全滅亡を宣言する」
ラインハルトと彼の幕僚たちはそう認識し企図していたが、一月八日にいたって、一〇〇〇隻以上の艦艇群がミッターマイヤー軍の前方に姿をあらわした。たくみな距離をたもって泳ぎまわり、攻撃をさそうようすである。
それは、帝国軍の長大な軍列を、ビッテンフェルトの後方で分断しようとこころみるかに見えた。一瞬に蹴《け》ちらすか、と、皇帝《カイザー》ラインハルトも幕僚たちも考えたが、これは同盟軍が最後に総力をあげて反抗する、その尖兵《せんぺい》的状況であろうとみなして、あえて交戦をさけた。後衛のミュラーに、フェザーン方面の補給路の安全を確保するよう通達したのは、統帥本部総長ロイエンタールの識見をしめす処置であった。同時にミッターマイヤーは全軍を停止させ、五〇〇隻の駆逐艦、それに一〇倍する偵察艦を放って情報収集をこころみた。この時期、先行するビッテンフェルトとの連絡はほとんど断絶し、妨害の激化が、同盟軍反攻の接近を無言のうちに証明した。ラインハルトはアイゼナッハ、ミュラー以下の諸軍を集結させた。いかに大軍でも、前後に極端に長い陣列は指揮統一の上からとるべきではなかった。将兵の間に緊張が高まった。
「奴ら、勝算があって出撃してくるのか。それとも勝敗を度外視して、民主共和国家の終焉《しゅうえん》に殉じるつもりなのか」
その疑問は、帝国軍諸将の胸中にわだかまっている。中級以下の士官であれば「とにかく全力をつくすのみ」と精神論で処理することもできるが、最高幹部は「はず」と「つもり」で用兵策を立案するわけにいかないのだ。
「数だけは集めたものだ。もっとも、終わったときにどれほど残っているやら」
クナップシュタインが冷笑まじりに評したのは、一月一〇日、ブリュンヒルト艦上の最高幕僚会議においてである。報告の総合によって、同盟軍は二万隻前後の戦力を用意していると推定された。たしかにこれは帝国軍の予想を上まわる数であったが、戦艦や宇宙母艦の数は多かろうはずがなく、火力は劣勢であろう。
「されば、一戦してこれを葬るあるのみ。逡巡《しゅんじゅん》して戦機を失うの愚は、宇宙の統一をこころざすわが軍の覇気にそぐいません」
年少気鋭のバイエルラインが頼を紅潮させて主張した。グリルパルツァーも身を乗りだして熱弁をふるった。
「もしいたずらに時をついやせば、流亡の窮状にあるヤン・ウェンリー一党に再起の余裕を与える結果を生じるかもしれません。先年、ランテマリオ星域会戦の際、彼が蠢動《しゅんどう》したために、わが軍は同盟軍を完全に絶息せしめる機会を逸したのです。陛下、なにとぞ吾らにお命じください、戦うべし、と」
ロイエンタールやミッターマイヤーが沈黙していたのは、いまさら皇帝《カイザー》に戦いを使《し》嗾《そう》する必要をおぼえなかったゆえである。問題は、どこでどのように戦うか、であった。たとえ同盟軍が二万隻の大軍でも、帝国軍にくらべれば寡《か》兵《へい》であり、火力も劣勢であるからには、相応の戦術を駆使してくるであろう。司令官はどうやらアレクサンドル・ビュコック元帥であるらしい。先年、ランテマリオで善戦した老練の用兵家である。油断すべきではなかった。
ビュコックが帝国軍の前方に布陣したとの報がもたらされたのは一三日になってからであった。このときすでにイゼルローンはヤン・ウェンリーの手中におちていたが、その報は未だラインハルトのもとにとどけられていない。
恒星の名はマル・アデッタ。先年ビュコックが帝国軍を迎撃して大兵力の前に敗北を余儀なくされたランテマリオ星域より六・五光年の近距離にある。ランテマリオにくらべれば戦略的な価値は低いが、戦術的には帝国軍にとってはるかに難所というべきであった。惑星数は算出不可能。最大でも直径一二〇キロという小惑星群が巨大な帯をなし、恒星はきわめて不安定で表面爆発をくりかえす。当然、通信は乱れ、恒星風が熱やエネルギーにまじって微小な岩石を乱流に乗せて無秩序に運ぶ。大兵力であればあるほど、指揮と運用が困難になるというのが帝国軍のえた情報であった。このような地理上の知識は、そのほとんどを、フェザーン航路局の資料からえており、それを獲得しただけでも、ラインハルトは比類ない軍事上の功績をあげたといえるのである。
「あの老人、よくもこれほど戦いづらい宙域を選んだものだ」
ロイエンタールやミッターマイヤーでさえ舌打ちの音をたてずにいられなかった。むろん、その舌打ちには感歎《かんたん》の要素がきわめて多くふくまれている。半世紀にわたって帝国の専制主義と戦いつづけてきた老将の、おそらくは最後の戦場となるであろう。智略と気骨の発露を、彼らは看《み》てとって、襟《えり》を正す思いにとらえられたのだ。
「老いてなお気骨のある者は賞すべきかな」
ミュラーがつぶやく。賞賛の念には、軍事ロマンチシズムや感傷の分子もふくまれているであろうが、彼らの心情には誇張もいつわりもなかった。同時に、
「あの老人は、自らの生命を犠牲にすることで、民主共和主義者たちの精神を鼓舞しようとしている」
ことを彼らは直感し、戦慄《せんりつ》を禁じえない。むろんそれは、昂揚感《こうようかん》および充実感と不可分のものであり、その点に軍人精神というものの一種の救いがたさが存在するであろう。
小惑星帯の帯をねじれるようにつらぬく一本の回廊があり、長さ九二万キロ、直径四万キロのトンネル状の空間に同盟軍はひそんで帝国軍の来襲を待ちうけているのだ。その事実は公然と明らかにしている。挑戦の意思を行動によってしめしているのだった。
一月一四日。帝国軍はマル・アデッタ星域へ大挙侵入を開始した。銀河帝国ローエングラム王朝最初の皇帝《カイザー》、ラインハルトの両眼で蒼氷色《アイス・ブルー》のたいまつ[#「たいまつ」に傍点]が燃えている。毛細血管のさらに末端までみなぎった闘気のゆえであった。後世、「その為人《ひととなり》、戦いを嗜《たしな》む」と称されるゆえんが、黒と銀の華麗な軍服をまとった優美な長身に充満している。その姿が総旗艦ブリュンヒルトの艦橋にたたずむとき、帝国軍の将兵は、戦いと勝利を同一視せずにはいられなくなるのだった。
「帝国軍の双璧」のうち、ミッターマイヤーは自らの旗艦「人狼《ベイオウルフ》」にあって左翼の指揮をとっている。ラインハルトの傍にあるのは統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタールである。
艦隊を行動させ、陣形を編成し、敵を攻撃し、最大の効果をあげて戦場を離脱する。そのスピードにおいてウォルフガング・ミッターマイヤーにまさる者はいない。「|疾風ウォルフ《ウォルフ・デア・シュトルム》」の異名が彼に冠されたゆえんである。
「神速にして、しかも理にかなう」
とは、オスカー・フォン・ロイエンタールが僚友の用兵のみごとさを賞賛したことばだが、彼自身も僚友から評されている。
「攻守ともに完璧に近い。ことに沈着にして広く戦局全体を見わたしながら戦いを運営する点で、おれはロイエンタールの足もとにもおよばない」
帝国軍の右翼は、「沈黙提督」アイゼナッハ上級大将、後衛はミュラー上級大将の指揮するところであった。いずれも「双璧」につぐ武勲と才幹を誇る名将で、ことにミュラーは敵手たるヤン・ウェンリーをして「良将」と言わしめた男である。
「同盟軍の宿将に、ふさわしい死場所を与えてさしあげよう。もはや白髪の老人の活躍すべき時代ではない」
若い提督たちの大言壮語に、ロイエンタールが釘《くぎ》をさした。
「言うは易《やす》し、だ。卿《けい》らのいう白髪の老将に、卿らこそ手玉にとられるなよ」
そして前衛の光栄をになったのは、故ヘルムート・レンネンカンプの麾下《きか》で勇名をはせたクナップシュタイン、グリルパルツァーの両大将であった。ラインハルトはこの両者を、ロイエンタールとミッターマイヤーのよき先例にならわせたいと考えたのである。むろん他に類を見ないからこそ「双璧」の名に値するのだが、彼らが軍の重鎮として前線から中枢に移動しつつあるとき、たとえ亜流であるにしてもそれにかわる存在が必要であった。
さらに予備兵力としてファーレンハイト上級大将が星系外緑部で遊軍の配置をなされている。同盟軍の戦術によっては、後背や側面からの敵襲に対応して、かなりの距離と範囲を移動しなくてはならないが、もっともありうべきは、回廊の後方へ迂《う》回《かい》して同盟軍の退路をたつ、あるいはさらに回廊内へ侵入し、前方の味方と呼応して同盟軍を挟撃するという能動的な作戦である。ファーレンハイトの気質には、これがもっとも好ましい。最初から回廊への侵入を指令してほしいほどだが、ラインハルトとしてはせまい回廊のなかでは大兵力の利点を生かしえぬし、同盟軍が罠《わな》をしかけている可能性も大であるので、最初の用兵策としては正攻法を採《と》ったのである。その点、地の利は同盟軍にかたむくこととなった。
さまざまな意味で常識外の戦いではあったが、このようなときには誰かがあえて常識的な意見をのべなくてはならない。皇帝首席副官シュトライト中将が同僚たちの暗黙の合意のもとに今回その任を引きうけることになった。
「あえて陛下ご自身が正面から敵と勝敗を決される必要はありますまい。一軍をもって敵の妄動をおさえこみ、本隊は一路ハイネセンをつけば、ことはそれで決します。ビュコック元帥に老練の用兵と人望があろうとも、所詮《しょせん》は一戦場に命運を賭《か》けるのみ。無視なさってよろしいかと存じます」
ラインハルトはこの諫言《かんげん》を予期していたので、怒りやおどろきの表情をしめしはしなかった。両眼に蒼氷色《アイス・ブルー》の極光を乱舞させつつ、若い皇帝は幕僚一同を見わたした。シュトライト以外の幕僚にも聞かせようとの意思があきらかであった。
「卿の進言は誤ってはいない。だが、歴戦の老提督がおそらくは死を賭しての挑戦、受けねば非礼にあたろう。他にも理由がないわけではないが、予と予の軍隊にとってはそれで充分のはずだ」
それ以上の説明を、ラインハルトはおこなわず、シュトライト以下の幕僚も口を緘《かん》した。もともと皇帝が負けると思ってはいないのである。皇帝の気質が決したことであれば、これ以上の諫言は無用であった。
たがいに元帥となった身でも、戦いを前にしてともに酒を飲む習慣は、ロイエンタールとミッターマイヤーの間になおつづいている。一月一五日、ミッターマイヤーは総旗艦ブリュンヒルトにおける作戦会議の後に、ロイエンタールの私室をおとずれた。ワインは部屋の主が提供した。
「卿はどう思う、この戦いを?」
ミッターマイヤーの問いに、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の元帥は即答しなかった。濃いワインの鏡では、左右の瞳の色も判然とはしない。やがて血と同色のワインが血管をみたしたころ、唇が動いて返答をつむぎ出した。
「この一戦に意味があるとすれば、理性の面ではなく感情の面においてだな。老いた獅子《しし》と若い獅子とが、ともに戦いを望んでいる。名誉がそれに色どりをそえることになろうが、結局のところ、抜かれた剣は血ぬられずして鞘《さや》におさまるものではないさ」
「卿が詩人の魂を持っているとは、今日まで知らなかったな」
冗談にまぎらわせようとする友人の意図をロイエンタールは無視した。
「おれにはわかる。卿にもわかっているはずだ。歴史というやつは、人間同様、眠りからさめるとき咽喉《のど》をかわかしている。ゴールデンバウム王朝はすでに滅びた。自由惑星同盟も今日までは生きながらえたが、明日には滅びる。歴史は大量の血を飲みほしたがっている」
ミッターマイヤーは眉をひそめ、帝国軍最高の勇将とうたわれる彼らしくもなく、不安の薄い雲を面上によぎらせた。ようやく反論した声はやや勁《つよ》さを欠いていた。
「だとしても、すでに充分に飲みあきたはずだとおれは思うが……」
「そうかな、そう思うか、ミッターマイヤー」
ロイエンタールの声は、自分自身の感情と理性を統御しかねて、そのかるい混乱を友人にぶつけているようにも聞こえるのだった。ミッターマイヤーは空のワイングラスを、指先で強くはじいた。
「皇帝《カイザー》ラインハルト陛下の御手によって、分裂していた宇宙が統一され、平和がもたらされる。卿の言うように、明日、同盟が滅びるなら、明後日の朝は平和の光で明けるだろうよ。そうでなければ、おれたちがやってきたことも、これまでに流された血もむだになる」
「……そのとおりだ」
うなずいたロイエンタールの顔は、ワインのかるい酔いの下に見えざる迷彩をほどこしていた。それはつまり、彼自身の心の迷宮が皮膚を透過してあらわれたものなのである。
「だが、おれは思うのだ。歴史が血を飲みあきたとしても、それは量だけのこと。質的にはどうかな。犠牲は高貴なほど、残忍な神に喜ばれるものだし……」
「ロイエンタール!」
友人の声はきびしく、理性と現実感覚の鋭い風音がロイエンタールの神経回路を吹きぬけて換気扇の役をはたした。彼は体内から追い出された酒精と思考の見えざる靄《もや》を、片手をあげて追いはらうと、彼本来の明晰《めいせき》な知性が脳細胞を再占拠するまで、やや沈黙をたもった。
「……どうも柄にもない役を演じていたようだな。おれは詩人でも哲学者でもなく、粗雑な軍人にすぎぬというのに。このような役はメックリンガーなどにまかせたがよさそうだ」
「目をさましてくれてありがたい。さしあたりおれたちとしては、会ったこともない歴史の神とやらより、目の前にいる敵の思惑をこそ知りたいものさ」
ロイエンタールは耳朶《じだ》をつまんだ。
「いずれにしても、この戦いは儀式というべきだ。自由惑星同盟の葬列にたむけるためのな。この形式を踏まねば、生者も死者も、滅亡の事実を受けいれることはできぬだろう」
彼らは最後のワインをたがいのグラスにそそぎあうと、沈黙のうちにスクリーンを見やった。遠く近く、無数の艦艇かかさなりあい光の波頭をつらねている。明日には、そのかなりの部分が永久に消え去って、宇宙を構成する暗黒の板に埋めこまれてしまうだろう。
やがてミッターマイヤーはブリュンヒルトを辞して自らの旗艦「人狼《ベイオウルフ》」に帰っていった。
自由惑星同盟宇宙艦隊司令長官アレクサンドル・ビュコック元帥は、旗艦の執務室で作戦の最終チェックをおこなっていた。彼自身の思いはべつとして、勝算をすこしでも高めておくのが指揮官の責務である。
この「自由惑星同盟最後の戦い」において同盟軍が動員しえた兵力がどのていどの数量であったか、厳密には確定しえない。すでに統合作戦本部は軍部統帥の機能を失っており、多くの資料や記録は破棄されて、推定と記憶が空白を埋めるのみである。それでも、艦艇二万ないし二万二〇〇〇隻、将兵二三〇万ないし二五〇万人という、意外に多くの数字を求めることができる。
「宇宙暦八〇〇年初頭のマル・アデッタの戦いは、自由惑星同盟最後の戦いというより、皇帝《カイザー》ラインハルトとビュコック元帥との間にかわされた私戦というべきである」
と極論されることもあるのだが、すくなくともビュコックは同盟の旗をかかげて戦ったのだし、統治能力を失った同盟政府を見すてて老将のもとへ駆けつけた将兵たちは、首都ハイネセンに逼塞《ひっそく》する政・軍のVIPたちではなくビュコックをこそ同盟の象徴とみなしたのである。善悪で論じるべき次元ではなく、それが事実だったのだ。「バーラトの和約」成立後わずか半年の破局は、長期的戦略の立案においていちじるしく同盟軍の不利となったが、戦艦等の廃棄が未だ半ばであった点では皮肉な有利さをもたらしたといえる。
「パン屋の二代目」ことチュン・ウー・チェン大将は、兵力整備にあたって二律背反する立場に自らを置いている。ラインハルトの侵攻に積極的に対処しうるだけの兵力をととのえると同時に、後日にそなえてヤン・ウェンリーらのために兵力を残しておかねばならない。彼は、「帝国軍の双璧」に洞察されたように、自らを同盟軍の葬礼をつかさどる祭司と目《もく》し、一方では民主共和革命軍の出産をたすける助産夫[#「夫」に傍点]でもあろうとしていた。そのために、本来なら有能な信頼すべき味方となったであろう旧ヤン艦隊の幹部たちをエル・ファシルヘ送り出したのだ。
この時期、ムライ、フィッシャー、パトリチェフらに統率された艦隊は未だヤンとの再会をはたしていない。彼らは最初から同盟軍との摩擦や帝国軍との接触をさけるため、辺境星区を大きく迂回してイゼルローン方面へむかわなくてはならなかった。通常なら一ケ月の必要期間を算すれば充分なところだが、今回は未知の部分の多い辺境航路を半ば手さぐりで進まなくてはならず、ファラーファラ星域では恒星爆発のため通信がとだえて艦隊が分散してしまった。ようやく再編成がすむと、艦隊運用の名人であるフィッシャーが過労のため高熱を発し、動揺した将兵のなかに離脱をはかる者も出て、一時、艦隊は解体の危機に直面した。このときムライがいそいで主力を掌握するいっぽう、パトリチェフとスーン・スールが精鋭をひきいて造反者たちを制圧したのだが、間二髪ほどの差で、造反は成功するところだったのだ。
本来、パトリチェフは「去る者は追わず」というヤン・ウェンリー亜流主義を信奉していたのだが、今回、造反者たちの離脱をゆるせば自分たちの目的や位置を知られてしまう危険がある。艦隊戦において十全の自信は彼らにはなかったので、ムライならずとも、秘密保持に神経質にならざるをえなかった。造反者たちを監禁した後も、再三にわたって事故や反抗計画に悩まされ、スーン・スールの述懐によれば、「長征一万光年の鱗《うろこ》の一枚ほどには匹敵する」苦労の未、イゼルローン回廊へはいってヤン・ウェンリーらと再会しえたのは宇宙暦八〇〇年一月末のことである。そのときヤンは監禁されていた造反者四〇〇余人を解放し、ハイネセン出立以来の給料を渡してやった。造反者の半数は与えられたシャトルで去ったが、半数は翻意してそのままイゼルローン要寒に残留し、ヤン・ウェンリーとともに戦うことになる……。
アレクサンドル・ビュコックは、宇宙暦八〇〇年のうちに七四歳の誕生日をむかえるはずであったが、バースデイ・ケーキに林立するキャンドルにむけて老年の肺活量をためす機会を、彼はとうに期待していなかった。
参謀長チュン・ウー・チェンが、緊張感を欠く表情で入室してきた。
「もうお寝《やす》みになってはいかがですか、閣下」
「うむ、そうするつもりだったが、やはり戦う以上は納得のいく戦いをしたいのでな」
「大丈夫ですよ、皇帝《カイザー》ラインハルトがあきれるようなことはないでしょう」
「そうねがいたいものだ。それにしても、わし自身はともかく、多くの者を死なせることになるな。いまさらではないが罪深いことだ」
「来世は医者にでもおなりください。それでバランスがとれるはずです」
ビュコックは意外そうな目で参謀長を見やった。来世などということばをチュン・ウー・チェンが使うとは思わなかったからだ。だがそのことは口にせず、疲れた瞼《まぶた》を指でもみながら独語じみた述懐をもらした。
「考えてみると、わしは多分、幸福者だろう。人生の最後に、ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーという、ふたりの比類なく偉大な用兵家に出会うことができた。そして、ふたりのうちいずれかが傷つき倒れる光景を見ないですむのだからな」
それに自由惑星同盟が完全に滅亡するありさまも――とは、チュン・ウー・チェンの聴覚ではなく洞察力がとらえた老元帥の無言の声であった。
V
この年一月一六日、無数の前哨事《ぜんしょうじ》の後に、帝国軍と同盟軍とは正面から激突する。
帝国軍は標準的な凸形陣だが、前衛もそれほど突出せず、重厚な陣形の深みで敵を圧するように前進していく。回廊正面に位置する同盟軍と対《たい》峙《じ》し、砲門を開いたのは一〇時三〇分であった。
「|撃て《ファイヤー》!」
「|撃て《ファイエル》!」
指令の叫びには、おそらく秒の差もなかったであろう。数万の光条が無窮の暗黒をえぐりぬき、エネルギーの白い牙が艦艇をかみさいて、光芒《こうぼう》を炸裂《さくれつ》させ、両軍の戦闘スクリーンを繚乱《りょうらん》たる花園に変えた。ひとつの光の花が数百の生命と等価なのだ。
第一撃の応酬が終わると、同盟軍の艦列は整然と砲撃をつづけながら、はやくも後退を開始した。帝国軍の前衛、グリルパルツァーとクナップシュタインは猛然と突進し、せまい回廊内にしりぞこうとする同盟軍後衛と激戦をまじえてかなりの損害を与え、一〇時五〇分にはグリルパルツァーが回廊突入に成功した。
だが、一一時二〇分、恒星風の一波が無秩序な乱れかたで帝国軍の左側面をおそい、艦列は秩序を失いかけた。ミッターマイヤーが、浮足だつ味方に叱声《しっせい》の鞭《むち》をたたきつけ、陣形を再構築にかかったが、回廊に突入したグリルパルツァー軍は、密集態形に同盟軍の砲火を受けて回避もなしえず、せまい宙域にひしめいたまま爆発光を連鎖させた。
「何をしている。このままでは戦力を消耗するばかりではないか。後退して逆に敵を引きずり出せ」
ラインハルトの叱《しっ》咤《た》がとどいたわけでもなかったが、グリルパルツァーは狭小な回廊に大兵力を密集させる危険性に気づき、後退を開始した。同盟軍の集中砲火は苛《か》烈《れつ》をきわめ、グリルパルツァー艦隊の前衛には白く青く爆発光が咲きみだれた。あるていどの被害は覚悟のうえであったが、解放されたエネルギーや破砕された艦体が恒星風に乗って帝国軍の艦列に正面からおそいかかり、帝国軍の傷口に塩をなすりつけた。帝国地理博物学協会の若い会員は、熱い汗と冷たい汗に軍服の内側をぬらしながら、かろうじて艦列の崩壊をくいとめ、砲火の乱打をあびながらも回廊からの脱出をはたした。
ビュコックは追撃を禁じた。狭小な回廊のなかで戦ったからこそ優勢に戦いえたのであり、広大な安全宙域に出れば圧倒的な大軍に包囲されるのは明白である。グリルパルツァーは回廊から脱出すると同時に陣形を拡散させ、追撃に対処したが、結局、同盟軍が追ってこなかったので、三割近い兵力を失った無念に歯がみしながらも、残存兵力を再編し、回廊の出口にあらためて布陣した。これが一二時一〇分である。このとき、旗艦ブリュンヒルト艦橋のスクリーンで回廊の戦闘を展望していたラインハルトは、すでにアーダルベルト・フォン・ファーレンハイト上級大将に指令をくだしていた。
「卿の兵力をもって、老いた虎《とら》を追い出せ」
百戦錬磨のファーレンハイトには、それ以上の具体的な戦術指令は必要なかった。彼は水色の瞳を光らせて麾下の艦隊に命じ、最大戦速をもって危険宙域を突破し、回廊の背後へまわって同盟軍に一撃をあびせようとした。後背を衝《つ》かれれば、同盟軍は前方へいわば押し出され、全面展開する帝国軍の輻輳《ふくそう》する火線にさらされることとなろう。
一三時〇分、グリルパルツァーにかわってクナップシュタインが回廊へ侵入を開始した。迂《う》回《かい》作戦を敵にさとられぬための、これは常套《じょうとう》手段である。むろんただ敵の注意を集中させるだけにとどまらず、その戦力を消耗させ、さらに迂回した味方と呼応する重要な任務が彼にはある。クナップシュタインにとっては用兵家として貴重な経験をつむことになるであろう――むろん彼が激戦に耐えて生き残れば、だが。
「さて、どんなものかな」
ロイエンタールが胸中につぶやいたのも道理であろう。クナップシュタインはせまい回廊のなかで的確な狙《そ》撃《げき》を集中されて、たちまち窮地に立たされていた。地の利をえず、しかも経験の差は大きい。一挙に崩壊に直進せず、どうにか艦隊の秩序をたもちえているのが、むしろ非凡というべきであろう。
戦闘スクリーンに視線を凝固させたまま、司令長官ミッターマイヤー元帥の声はサブスクリーンに映る部下にむけられた。
「あの老人を殺したくないものだな、バイエルライン。敵ながら敬愛に値するじいさん[#「じいさん」に傍点]だ」
「同感ですが、降伏をすすめても承知はしないでしょう。私としても、敵に敗れて、あおぐ旗を変えようとは思いません」
ミッターマイヤーはうなずいたが、わずかに眉を動かしてバイエルラインに注意した。
「卿の考えはそれでよいが、口に出すのは慎しめよ」
かつての敵手に臣従して、重要な存在となっているファーレンハイトやシュトライトのような生きかたもあるし、それは非難されるべきことではない。彼らの場合、最初にあおいた旗がまちがっており、敵手に能力や人格を認められて以降が、彼らの真の人生というべきであった。いずれにしても、同盟軍の善戦は賞賛に値した。本来、兵力といい、第一線指揮官の能力といい、戦略的要因はあげて帝国軍に有利であったはずだが、ビュコックは巧妙に帝国軍の戦力をそぎ、地の利を充分に生かして、兵力差をおぎなっている。
「同盟軍め、楽しませてくれるではないか」
ラインハルトが歌曲《リート》の一節をうたいあげるように賞賛した。完勝の自信あってのことではあるが、敵であっても用兵技術の巧《こう》緻《ち》さは彼をこころよくする。
ロイエンタールは苦笑したが、それは瞬間的なものにとどまった。豪勇を誇る帝国軍が弱敵を相手に悪戦している情景を見るのは、皮肉っぽい喜びをおぼえもするが、皇帝の首席幕僚たる彼は、増援部隊を投入して全戦場を制圧するタイミングを測るべき責務がある。投入するのはアイゼナッハ艦隊とさだめてはいたが、このように無秩序な混戦では、投入の時機をはかるのも容易ではなかった。
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一五時四〇分。同盟軍の後背にまわりこむことに成功したファーレンハイト艦隊が、最初の砲火をあびせかけた。回廊の奥への集中砲火であったが、同盟軍の応射は意外に激烈であった。ひとたび強行突入をこころみたファーレンハイトであったが、一六時一五分、せまい回廊入口に殺到しようとする部下を制して後退を開始した。これは凡庸ならざる戦術眼のなせるわざであって、同盟軍が大挙、回廊を逆進してくることを予想し、その出現と同時に零距離射撃によって掃滅しようとしたのだ。
そこまではファーレンハイトの計算どおりであり、回廊から躍り出た同盟軍は彼の砲火になぎ倒されるかとみえた。だが一六時二〇分、小惑星帯の各処に分散して潜伏していた同盟軍が、このとき一本の巨大な光の矢となってファーレンハイト艦隊の左側背をついた。これを指揮していたのは、先年のランテマリオ会戦でも勇戦したラルフ・カールセン提督であった。このためファーレンハイトは不本意な後退をしいられた。
帝国軍総旗艦ブリュンヒルトの艦橋で、オスカー・フォン・ロイエンタールは、あまりにも著名な金銀妖瞳《ヘテロクロミア》をわずかに細めていた。用兵家としての思惟《しい》が光速で内宇宙を駆けまわる。なかなかどうして、同盟軍の戦術も軽視しえぬものがあるではないか。帝国軍が回廊の後方へ迂回するのを予期して伏兵をしいているとは。つぎは当然、帝国軍の後背へ出ようとするであろうが……。
「ロイエンタール」
「はっ」
「卿はどう思う? クナップシュタインは敵の逆進につけこむ形で回廊の奥へはいりこんでいったが……」
「はいったはよろしいが、出てこられるかどうかでしょう」
「理由は?」
「私であれば、回廊内に機雷を敷《ふ》設《せつ》し、侵入してきた敵の前進を阻止します」
「同感だ。いまにして思えば、こちらがその策《て》を使ってもよかったな」
ラインハルトの声と表情が、危機を感じるというよりむしろ生気にみちてかがやくのを、ロイエンタールはまぶしい思いで見やった。
「今後、ひとつの可能性としては、この星域の敵全軍が戦局を混乱させ、時間をかせぐ隙に、別動隊が後方に迂回するという策が考えられます。ただ、現在の同盟軍にそれほど膨大《ぼうだい》な別動兵力が存在するとも思えません。まして迂回したところで……」
帝国軍の後衛部隊は、「鉄壁」ことナイトハルト・ミュラー上級大将の指揮するところである。同数、いや五割増しの兵力を相手どっても、長期にわたって戦線を維持しうること疑問の余地がない。
ラインハルトが優美な眉をわずかに動かした。
「だが、ヤン・ウェンリーの件はどう思う?」
なるほど、この天才にしてあの魔術師を無視することはかなわぬとみえる。ロイエンタールは自分の心の動きにおどろいた。彼はどうやらヤンにごくわずかながら嫉《しっ》妬《と》したようなのだ。皇帝の意識をかくもとらえてはなさぬ敵将に。
「万が一にも別動隊の指揮官がヤン・ウェンリーであるとすれば、わが軍を直接攻撃するより、後背へ出て帰路をたつのではありますまいか」
「卿の言うとおりだな」
ラインハルトがうなずくと、豊かな頭髪が黄金色に波たった。ヤン・ウェンリーという人界の惑星は、帝国軍が戦略をねり戦術を実行するにあたって、かならず計算にいれるべき要素であった。ただ、何分、ハイネセン脱出以来、その兵力はきわめて劣弱であるとみなされたし、シュタインメッツから急報ももたらされず、今回は軽視してよいものと思われていたのだ。
「もしヤン・ウェンリーがフェザーンヘの帰路を絶つとすれば、わが軍は前進して正面の敵を一蹴し、惑星ハイネセンを撃ち、イゼルローン回廊から帝国本土へ帰るだけのことだ。恐れるべき何ものもない」
きらびやかな覇気の表現であったが、同時に、それは、ラインハルトがイゼルローン失陥の事実をそのとき知らなかった事実を意味するものであった。
そして二〇時三〇分、戦局はさらに苛烈な展開をしめすにいたる。このとき同盟軍カールセン艦隊は時計まわりに帝国軍の後背に殺到し、ナイトハルト・ミュラーは全艦隊を凹形陣に展開して果敢にそれを迎撃しようとしていた。さらにカールセンの後背にはファーレンハイトが、猛禽《もうきん》が翼をひろげるように肉迫し、彼の後尾にはビュコックの同盟軍本隊がせまって、二重三重の追尾戦の輪を形成しつつあったのである。
これでクナップシュタインがビュコックの後背にくらいつけば、状況は帝国軍に完全に味方したのだが、クナップシュタインはビュコックが回廊中に散布した機雷群の時差爆発戦法によって損害をこうむり、未だ回廊からの脱出をはたしえないでいる。
このため、後方に安全圏をいだいたビュコックは、ファーレンハイトを追尾する愚を避け、針路を天底方向に転じてミュラーの堅陣をかいくぐり、一挙にラインハルトの本営をつこうとした。
「皇帝《カイザー》を守りまいらせよ!」
危険をさとったミュラーが、全軍死兵と化したカールセンの猛撃をふみこたえながら、麾下の兵力の三割をさいてビュコック艦隊にたたきつけた。ビュコックの前進速度は低落したが、兵力滅少したミュラー軍の一角を突破して、カールセン艦隊の一部がラインハルト本営の後方空間へ躍り出た。そこへ、ロイエンタールの冷静な防御指令がとび、至近距離から集中するエネルギー・ビームの怒《ど》濤《とう》が同盟軍を蒸発させる。
カールセンは、ミュラー、ファーレンハイトという前後の雄敵に挟撃され、灼熱《しゃくねつ》したエネルギーと爆発物の剣でなぎ倒された。皮肉なことに、このときカールセンが全滅をまぬがれたのは、至近での同士討ちを懸念した帝国軍が猛攻を自制したゆえであった。
二一時一八分、アイゼナッハ上級大将の大兵力が戦場を大きく迂回してビュコックの後背に出現し、ビームとミサイルの豪雨をあびせかけた。同盟軍の艦艇は脈動する光のなかで、つぎつぎと分子に還元していく。
アイゼナッハの攻勢はきわめて効果的で、同盟軍は後方から大蛇にのまれて消化される羊となりおわるかと見えた。
二二時〇分。またも恒星風が急変し、自然のものと人工のものと、無秩序に混合したエネルギーの乱流がアイゼナッハの左前方で渦をなした。このためアイゼナッハの整然たる艦列がくずれ、司令官が再編をこころみる間に、ビュコックは強力な円錐陣《えんすいじん》をもって、ミュラー、ファーレンハイト、カールセン三者の殺戮《さつりく》の場をかすめすぎ、ラインハルトの本営へ殺到したのである。
「老人め、やる!」
感歎しながらもミッターマイヤーが鋭鋒《えいほう》をビュコック軍の側面につきつけ、主砲三連斉射によって艦列に穴をあけると、自らの艦列を躍りこませ、四方につきくずしはじめた。
戦艦ブリュンヒルトの艦長ジークベルト・ザイドリッツは、いわば「移動する大本営」を運用する最高責任者であるから、格式の上からも准将の階級を有している。一艦長にして将官というのは、帝国全軍に彼ひとりである。初代艦長カール・ロベルト・シュタインメッツが提督の称号をおび辺境星区へ転属した後、ロイシュナーとニーメラーがあいついで後任となったが、その期間は短かった。ザイドリッツがもっとも長く、ラインハルトの旗艦を指揮しつづけている。年齢は三一歳、幾本かの若白髪のまじった煉《れん》瓦《が》色の髪から軍靴の爪先にいたるまで、純血種ともいうべき宇宙船乗りである。「ザイドリッツ家の当主は、六代つづけて地上では死ななかった」ことが彼の誇りでもあり、乗員の信頼には圧倒的なものがあった。唯一、部下たちが閉口するのは、本来は謹厳なこの青年士官が酔うとかならずある歌をうたい出すことである。人類社会には何百万もの歌があるのに、何もよりによって「宇宙はおれの墓、船はおれの棺桶《かんおけ》」などという陰気な歌を愛唱することはないではないか。
とはいうものの、「ザイドリッツ家の七代目」は、帝国軍の至宝たるブリュンヒルトの艦長として完璧に近い能力の所有者であり、参加したすべての遠征、すべての戦闘でラインハルトを満足させてきた。その功績にくらべれば、歌手としての欠点などささいなものというべきであった。
ブリュンヒルトの周囲は火球と光球の群舞に占拠されている。巨神が黒ビロードの上に宝石箱をくつがえしたかのようであった。ザイドリッツのたくみな操艦によって、ブリュンヒルトは散乱する宝石のなかに端然と座しているように見える。これほどの兵力差にもかかわらず、これほどの混戦と苦戦をしいられたのは、ラインハルトとしては不快な経験であったが、それも終曲に近づいている。同盟軍の攻勢は終末点に達した、と、ラインハルトは見ていた。もはや、死力をつくしてあがいても、エネルギーの飛沫をはねあげるだけで前進することはなしえない。二二時五〇分、伸びきった同盟軍の戦線がまさに縮小に転じようとする一瞬、大軍を指揮するために造形されたラインハルトの唇が命令を発し、ザイドリッツ艦長の合図とともに、戦艦ブリュンヒルトが白銀にきらめくエネルギーの槍《やり》を同盟軍の艦列に突きさした。ほとんど同時に、通信オペレーターが奇声を発し、ザイドリッツ艦長ににらみつけられて赤面しながら報告した――ただいま黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》艦隊が戦場に到着しました、と。
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「そうか、黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》め、よほどあわてて駆けつけたものとみえる」
ラインハルトは笑った。本隊との通信をたたれ、孤軍となって驀進《ばくしん》していたビッテンフェルトが、ようやく戦いにまにあったのである。シュタインメッツからの通信受領に成功し、同盟軍ハイネセン進発の後を追尾するように逆進してのことだった。突如として光点の大群が後背に出現したのを確認したファーレンハイトが、敵の別動隊かと一瞬、おどろいたほどである。僚友のおどろきなど意に介せず、ビッテンフェルトはその傍を猛進し、疲労の色が濃い同盟軍の艦列を文字どおり蹴ちらしにかかった。
「猪突《ちょとつ》するなよ、卿ら。敵将は老巧の人だ。想像もつかぬ詭《き》計《けい》を用意しているかもしれぬぞ」
皇帝の首席幕僚たるロイエンタール元帥が、かるい皮肉をこめて通信波で注意した。この時機に戦場に着いて個人の功を誇るか、と言いたい気分がわずかながらある。だが、ラインハルトは、豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪をかきあげながら、猛将を弁護した。やや苦笑まじりに。
「あれはあれでよい。ビッテンフェルトが自重に度をすごすようなことがあれば、黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》の長所をかえって殺《そ》ぐことになろう」
ロイエンタールは首肯《しゅこう》した。皇帝は正しい、と、やはり苦笑まじりに認めざるをえない。猛進、猪突こそが奴らの本領だ、と。
ビッテンフェルトにも主張すべき理はあるのだった。彼が艦隊指揮官として完敗を喫したのは、旧帝国暦四八七年、アムリッツァ星域会戦においてヤン・ウェンリーの零距離射撃に屈したときのみである。それはヤンにとっても、ヤン艦隊にとっても、特技となった一点集中砲火戦法の最初の収穫となったのだが、その屈辱を経験して以来、三年余にわたって、「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》」はいかなる戦場においても、こうむった損害をうわまわる打撃を敵に与えつづけてきたのだ。門閥貴族連合軍にとっても、自由惑星同盟軍にとっても、黒く塗装された、たけだけしい艦艇群は畏怖の対象であった。
そしていま、ビッテンフェルトは、鋭気を直線的に同盟軍にたたきつけ、砲火の嵐《あらし》でなぎはらいつつある。光点が光点をくいつぶし、戦場には暗黒神の領土がひろがっていく。もともと個対個の戦いにおいて同盟軍は黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》に敵しえず、エネルギーをつかいはたしたいま、抵抗もなしえず破壊されていった。
二三時一〇分、カールセン提督戦死の報がビュコックにもたらされる。このときすでに同盟軍は兵力の八割が失われている。破壊と殺戮は一方的なものとなり、勇敢さでは人後に落ちぬ諸艦も、完全に勝敗は決したものとみなして、脱出の途《みち》を探りはじめた。だが、同盟軍司令部は未だ崩壊していない。旗艦を中心に一〇〇隻ばかりが執拗《しつよう》な抗戦をつづけ、味方のために細い退路をつくっているのだった。
「堅固だな、まるであの老人の精神のようだ」
ラインハルトのつぶやきに、その心境を察したヒルダが、いま一度降伏を勧告してはどうかとすすめた。だが、若い覇王は、豪奢な黄金の髪を波うたせて答えた。
「無益だ。未練をあの老人に笑われるだけだろう。第一、なぜ勝者たる予が、敗者にこびねばならぬ?」
皇帝の声は不機嫌ではなかったが、どこかに傷つけられた少年の誇りがにじんでいるようであった。ヒルダはかさねて皇帝の寛恕《かんじょ》をこうた。敗敵に手をさしのべるのは勝者の器量をしめすもの、それを受けいれぬ敗者こそが狭量なのですから、と。ラインハルトはうなずいたが、自分自身では降伏勧告をおこなわず、代理の者におこなわせることにした。
二三時三〇分。
「敵将に告ぐ!」
帝国宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥の声が通信波にのって流れる。
「敵将に告ぐ。卿はわが軍の完全な包囲下にあり、帰路はすでに失われた。これ以上の抗戦は無意味である。動力を停止して降伏されたし。皇帝《カイザー》ラインハルト陛下は、卿らの勇戦に対し、寛大なる処遇をもって報われるであろう。かさねて申しこむ。降状されたし」
期待してはいなかったので、同盟軍からの反応を通信オペレーターが報じたとき、ミッターマイヤーは意外さすらおぼえたが、とにかく通信回路を総旗艦ブリュンヒルトとの間につないだ。通信スクリーンに映った老提督の顔色は疲労ゆえの鉛色をしていたが、両眼には静かだがなお豊かな生色があった。若い美貌の征服者に敬礼をほどこす手も、ふるえてはいない。
「皇帝《カイザー》ラインハルト陛下、わしはあなたの才能と器量を高く評価しているつもりだ。孫を持つなら、あなたのような人物を持ちたいものだ。だが、あなたの臣下にはなれん」
ビュコックは視線を横に動かした。頭部に血のにじんだ包帯を端整とはいえぬ形に巻きつけて、彼の総参謀長が一本のウイスキー瓶と二個の紙コップをかかげてみせた。老元帥は微笑してスクリーンに視線をもどした。
「ヤン・ウェンリーも、あなたの友人にはなれるが、やはり臣下にはなれん。他人ごとだが保証してもよいくらいさ」
ビュコックの伸ばした手に紙コップがにぎられるのを、ラインハルトは一言も発せず見守っている。
「なぜなら、えらそうに言わせてもらえば、民主主義とは対等の友人をつくる思想であって、主従をつくる思想ではないからだ」
乾杯の動作を老元帥はしてみせた。
「わしはよい友人がほしいし、誰かにとってよい友人でありたいと思う。だが、よい主君もよい臣下も持ちたいとは思わない。だからこそ、あなたとわしは同じ旗をあおぐことはできなかったのだ。ご好意には感謝するが、いまさらあなたにこの老体は必要あるまい」
紙コップが老人の口の位置でかたむいた。
「……民主主義に乾杯!」
総参謀長がそれに和した。破滅と死を目前にして彼らは淡々とすらしていたが、老人の顔にはややてれくさげな表情がうかんでいた。柄にもない説教をしたといいたげであった。
好意を拒絶されたにもかかわらず、ラインハルトの心に怒りはなかった。わずかに存在したとしても、それを圧倒する別種の感情が、静かに、だが豊かに彼の精神の大地を浸《ひた》しつつあった。つまるところ、みごとな死というものはみごとな生の帰結であって、いずれか一方だけが孤立することはないように思える。彼の友にして生命の恩人であったジークフリード・キルヒアイスもそうではなかったか。ラインハルトは胸にかかる銀のペンダントを掌《てのひら》のなかにつつみこんだ。
統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタール元帥が、黒と青の眼光で美貌の皇帝の横顔を照射した。それに感応してラインハルトは顔をあげ、スクリーンを正視した。うなずきとともに、皇帝の両眼から氷片が走って、同盟軍の旗艦に突きささった。ロイエンタールが片手をあげ、振りおろした。
スクリーンの中央で火球が炸裂《さくれつ》した。一ダースをこえるビームがただ一隻の艦体に集中したのである。二世紀余の歴史を有する自由惑星同盟宇宙艦隊がその瞬間、最後の司令長官および総参謀長とともに消滅したのだった。
「他人に何がわかる……」
脈うつ光に半神的な美貌をてらしださせつつ、ラインハルトが独語した。低いつぶやきのなかにさえ、声調の微妙な揺動があった。彼は人生の途上において、最初から臣下だけを求めていたのではなかった。宇宙全体より広大な夢を共有し、その実現にいたる路程を同行する友を、半身を、彼はまず求めていたのだ。その欲求はひとたびかなえられ、それが潰《つい》えた後は、ラインハルトはひとりで夢をせおい、ひとりで歩まざるをえなかった。老人の毅《き》然《ぜん》たる態度ほどには、そのことばはラインハルトに感銘を与えはしなかった。彼は手をさしのべ、老人は正当な権利によってそれを拒否した。それだけのことであった。
同日二三時四五分。銀河帝国宇宙艦隊司令長官ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥は、皇帝《カイザー》ラインハルトからの命令を全軍に通達する。戦場を通過、離脱するに際し、将兵の全員が敵将に対し起立、敬礼すべし、と。
命令が実行されることは、確認するまでもなかった。ラインハルトは、不屈のままに、しかも毅《き》然《ぜん》と死んでいった敵の老元帥の姿を当分は忘れえそうになかった。傍にいた参謀長と乾杯の声をかわしつつ、光と熱のなかで消滅していったのであろう。
「ロイエンタール元帥……」
「はい、陛下」
「予は近いうちにいま一度、このような形で敵将に対面することとなりそうだな」
固有名詞については、問答の必要もないことだった。
「御意……」とロイエンタールは応じ、やや単純さを欠く視線で、私室へ去るラインハルトの後姿を見送った。
ヤン・ウェンリーを麾下《きか》に加えるか、あくまで敵手とみなしてこれと戦い、撃滅するか。皇帝《カイザー》ラインハルトの心の糸も、結論へむかって一直線に張りわたされているとはいいがたい。昨年、バーミリオン星域会戦終結後の会談で臣従を明快に謝絶されながら、ラインハルトの人材収集欲はなお同盟軍最高の智将を彼の人材コレクションの一隅に陳列したく思わせるのだった。これもあるいは勝者が敗者にこびることになるのであろうか。
そうではない、と、ラインハルトは思う。彼はヤン・ウェンリーをひざまずかせ、忠誠を誓約させたいのだ。そのような結果になれば、おそらく興ざめするのではないか、とも思うのだが、全銀河系を征服するに際して、人ひとり征服しえないのも残念である。
私室にはいったラインハルトのところへ、侍従のエミール・ゼッレ少年がクリームコーヒーを運んできた。戦いの興奮が両眼に余韻をのこしている。
「陛下におつかえさせていただいたおかげで、こんなにも遠くに来て、いろんな経験をすることができました。家に帰ったら自慢できます」
「ことさらにそんな言いようをするところを見ると、家が恋しいか。望むなら帰省のために休暇をやってもいいぞ」
崇拝する若い偉大な主君にからかわれて、未来の皇帝主治医は顔だけでなく全身を上気させた。
「とんでもありません。陛下の征《ゆ》かれるところへなら、どこへでもお供します。たとえ他の銀河系でも」
一瞬の沈黙の後、美貌の皇帝はダイヤモンドの鎚《つち》で水晶の鐘をくだくような笑声をたて、少年の頭をなでて髪をくしゃくしゃにしてしまう。
「お前は予などよりずっと気宇《きう》が大きいな。予には銀河系だけで充分だ。他の星雲はお前が征服するといい」
こうしてマル・アデッタ星域会戦は終結する。自由惑星同盟軍にとって、それは最後の艦隊戦であり、最後の敗北でもあった。
その三時間後、皇帝《カイザー》ラインハルトは、イゼルローン要塞失陥の報に接する。ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞到着直後、ビュコック元帥の訃報に接したように、歴史は登場人物たちを激流どころか滝にのみこもうとしているようであった。
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第七章 冬バラ園の勅令
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無数の歓喜は無数の失望に変化し、勝利の祝杯は苦杯と化して床にたたきつけられた。皇帝の軍靴が、所有者の全体重を慎激にかえて、くだけたワイングラスの細片をさらに解体し、微弱にきらめく光の粒を床面にちりばめた。
何百光年もの虚空をへだてて、ようやく妨害を排しえた超光速通信《FTL》の画面の前でシュタインメッツ上級大将は首をすくめかけたが、彼の背後にうなだれるルッツの恐懼《きょうく》を思うと、同情を禁じえない。先年、ヤン・ウェンリーの奇略の犠牲となって敗者の座にすえられたのはシュタインメッツ自身であった。ルッツの無念は他人ごとではないのである。
行動に出したためラインハルトの激情はあるていど発散され、彼は声まで蒼白《そうはく》にして敗北の様相を語り謝罪するルッツの報告を、怒声をあげることなく聞き終えることができた。
「してやられたか、またしてもあの男に」
通信スクリーンにむかうラインハルトの背後で、ミッターマイヤーが慨歎《がいたん》し、にがい表情でロイエンタールが同意したのは、単にイゼルローンを奪取された戦術レベルの敗北をさしたものではなかった。故ビュコック元帥とヤンが緊密な連係のもとに役割を分損し、前者が犠牲となって皇帝の本軍を阻止する間に、後者がイゼルローンを奪取する。ルッツ個人がヤン個人に敗れたなどというものではなく、全帝国軍がヤンひとりに苦《く》杯《はい》をなめさせられたのではないか――そう疑ったのである。
むろんこれは結果から逆算しての過大評価であったのだが、彼らふたりと同様の疑惑をラインハルトもいだき、一瞬、暗灰色の敗北感に視野の半ばを強奪されたほどであったのだから。それが思いすごしであることを主張したのは首席秘書官のヒルダであった。
「これは相互に独立した個人プレイが競作した結果であるにすぎません」
もし連係された作戦であるとすれば、ビュコック元帥がイゼルローン攻略を担当し、陛下にはヤン・ウェンリー自身がたちむかってきたであろう。イゼルローン攻略は、あらかじめ策をさずけておけば、ヤン自身でなくとも実行は可能である。だが、陛下とわたりあうにはヤン自身でなくてはかなわない。現にビュコック元帥は戦死をとげている。これはヤンにとって耐えがたい損失であるはずだ。ビュコックを犠牲にして自己の勝利を確保するのはヤンの性格に反するし、そう宣伝されれば人望を失う結果にもなりかねない。そのような愚策をヤンがとるとは思えない……。
「なるほど、おそらくそうだろう」
ヒルダの見解を受けいれはしたが、イゼルローン失陥の報が不快なものであることには変化の生じようがない。ラインハルトは、ルッツにさしあたり謹慎を命じた。憤怒がおさまるまで処断を延期したのである。
ラインハルトの背後にたたずむ統帥本部総長オスカー・フォン・ロイエンタール元帥が沈黙の天使に抱擁されているのをかえりみて、若い美《び》貌《ぼう》の皇帝は、豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪を白い指でかきあげつつ声をかけた。
「ロイエンタール元帥、卿《けい》の偉功も残念ながら一年にみたぬ寿命だったな」
「残念です」
みじかく答えたが、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の名将の心理は、返答ほどには整理されていなかった。現象としてはルッツがヤン・ウェンリーに手玉にとられたことは事実だが、皇帝《カイザー》ラインハルトにしてもロイエンタール自身にしても、責任が皆無であったとはいえない。結果としてラインハルトはイゼルローン要塞《ようさい》の戦略上の価値を軽視したことになるし、一年前に要塞奪回の大助をたてたロイエンタールも、ヤンの「奸計《かんけい》」を見ぬきえなかったのであるから。
「何かたくらんでいるとは思ったが、かくも周到に数年後を予期していたとはな……」
コルネリアス・ルッツは、ロイエンタールが要塞奪回をはたしたときの副将である。非凡な作戦指揮能力を有し、人格的にも安定している人物であるのに、やはりヤン・ウェンリーの遠謀と奇略に抗しえなかったのか。
イゼルローン要塞を追い出された形のコルネリアス・ルッツは、なお大小一万隻に近い戦力を擁しており、その意思さえあればエル・ファシルを強襲して劫《ごう》火《か》のもとに焼きつくすことも可能であった。だが彼は、無防備にひとしい惑星を劫略《ごうりゃく》してイゼルローン失陥の意趣がえしをすることをいさぎよしとせず、敗北のなかに名誉をたもつべく努力しながら、ガンダルヴァ星系の僚友シュタインメッツのもとへ退却していったのである。ヤン・ウェンリーがエル・ファシルにあることを知っていれば、あるいは気が変わったかもしれないが、ルッツは黒髪の魔術師がこれまでのすべての例のように攻略戦の先頭に立っているものと思いこんでいた。ルッツひとりではない、ラインハルトもロイエンタールもそう思っていたのだ。
ラインハルトとしては、いまさらルッツに言うべきことはなかった。先年以来、ヤン・ウェンリーの奇略に敗退しつづけた帝国軍第一級指揮官のリストにあらたな名がひとつくわわっただけであった。ラインハルトは心情を整理するために私室に閉じこもってしまった。諸将は顔をみあわせ、自然に散会した。
「銀河帝国の名将ことごとくヤン・ウェンリーのためにひきたて役となるか」
廊下を歩きながらロイエンタールが皮肉と慨歎の化合物を声帯からはじきだすと、ミッターマイヤーが憮《ぶ》然《ぜん》として蜂蜜《はちみつ》色の髪を片手でかきまわした。
「吾ら一〇万光年の征旅《せいりょ》をおそれざるも、ヤン・ウェンリーの頭《ず》蓋骨《がいこつ》の内容物《なかみ》をおそれざるあたわず――というわけだ。あの男に吾らと同数、あるいはそれ以上の兵力があったら、運命の女神はあちらに媚《こび》を売ったかもしれんな」
そのような台詞《せりふ》を、ミッターマイヤー以外の者が口にすれば、臆病者《おくびょうもの》とそしられたであろう。敵手を尊敬する道を知る点で、彼は主君にまさるとも劣らなかった。仮定は意味がない、と応じかけて、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の名将はふとべつの仮定に心をひかれた。
「……ジークフリード・キルヒアイスが生きていたら、こんな形でイゼルローンをふたたび失うことはなかったかもしれんな」
ジークフリード・キルヒアイスが生きていれば、皇帝《カイザー》ラインハルトの半身として大軍の指揮に才腕をふるい、ヤン・ウェンリーを宇宙の一角に逼塞《ひっそく》せしめたであろう。すくなくとも、ヤン・ウェンリーという名の軍事的爆風は、速度と圧力を弱めたにちがいない。あるいは、彼が生きていれば、ヘルムート・レンネンカンプには重すぎた高等弁務官の職務を、比類ない公正さと明晰《めいせき》さによってはたし、同盟政府に恐慌と自棄ではなく信頼と誠実さをもたらしえたかもしれない。また、彼が生きていれば軍務尚書の座をしめ、皇帝《カイザー》ラインハルトの親征に後顧の憂いをなからしめ、現在の軍務省に対する諸提督の不信や不満は生まれ落ちるまえに消えさったかもしれなかった。
「そのとおりだ。キルヒアイスが生きていたら、あの[#「あの」に傍点]オーベルシュタインがしたり顔で軍務を専断することもなかったろうよ」
それこそがもっとも強調すべき点であるように、ミッターマイヤーには思われるのだった。
いずれにしても、ヤン・ウェンリーの軍事的魔術を政治状況に連動させないためには、一日もはやく同盟首都ハイネセンを攻略する必要がある。両元帥のみならず、ラインハルト自身もそう思い、ただちに全軍の再進撃を命じようとしたが、ヒルダがかぶりを振って制止した。
「陛下、お急ぎになることはありません。堂々として同盟首都《ハイネセン》にお近づきあれば、その圧力のみで同盟政府は潰《つい》えましょう」
ラインハルトは、イゼルローン失陥の不快さを一瞬忘れたように、美貌の少年めいた伯爵令嬢を見やって、微笑にたどりつくことのできそうな表情をつくった。
「同盟政府は卵の殼とでも思うのか、フロイライン」
「はい、卵の内部で嵐《あらし》がおきるでしょう。おそらく彼らは内紛によって自滅します。陛下の御手をわずらわせるにおよびません」
「……ふむ」
ラインハルトの微笑は未発におわり、彼はやや要領をえない表情で考えこんだが、納得したようにうなずくと、行軍を再開するよう命じた。ヒルダの主張どおり、いそがず、しかも堂々と。
カール・ロベルト・シュタインメッツが同盟首都ハイネセンを独力で灰燼《かいじん》に帰せしめる戦力を有しながらついに動かず、牽制《けんせい》と監視、さらに基地整備の任に徹した理由は判然としている。若い金髪の皇帝は客人としてではなく征服者としてハイネセンの土を踏むことを願っている。そのことを彼は信じており、結果としてその判断は正しかった。シュタインメッツは、皇帝の案内をする必要もあり、しばしばハイネセンからの情報をえてそれをラインハルトにつたえていたが、二月にはいって、おどろくべき情報をもたらしたのである。
それは自由惑星同盟《フリー・プラネッツ》の降伏と、同盟最高評議会議長ジョアン・レベロの死とを伝えるものであった。
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その年二月二日、自由惑星同盟最後の元首ジョアン・レベロが執務室でどのような仕事をしていたか、記録は沈黙している。彼が生涯の最後の章にいたるまで、効果や結果はともかく自己の責務をなげうとうとしなかったことはたしかであった。
レンネンカンプの死とその原因とを暴露した皇帝《カイザー》ラインハルトの宣告は、このとき同盟にとって致命傷となっていたのである。
これまで事実を必死に隠匿《いんとく》してきた同盟政府の主観では、共犯者によって背後からナイフを突きたてられたにひとしいことだった。だが、隠匿した後に何らかの展望をいだいていたわけでは、もともとないのだ。レベロが悪辣《あくらつ》な策謀家であれば、徹底して虚構をつらぬき、ヤンを卑劣な逃亡者にしたてあげ、混乱の全責任をヤンに押しつけることができたかもしれない。
しかしそこまでは彼はなしえなかった。彼は本来、いささか狭量ではあっても、正道を歩んできた人間であり、レンネンカンプの死後、とぼしい権謀《けんぼう》の才をつかいはたして、ひたすら狭小な範囲の責務に没頭しているようだった。そして陰惨な雰囲気の波がひたよせるのを感じ、ふと目をあげて周囲を見わたしたとき、その場にいるはずのない群像が武器をたずさえて彼をかこんでいるのを見出したのである。なかでただひとりの旧知の人物に彼はむしろ無感動な声をかけた。その相手は、同盟軍統合作戦本部長ロックウェル大将であった。
「本部長、何の用でここへやってきたのかね。君たちを呼んだおぼえはないが」
「あなたの記憶など、どうでもよいことだ、議長。問題は吾々の欲求だから」
ロックウェル大将には、かつては惘悩《おうのう》も迷いもあったにせよ、現在では自分自身の羞恥心《しゅうちしん》をひきつぶして直進する意図であるようだった。鈍磨していたレベロの感性にやすり[#「やすり」に傍点]がかけられて、彼はまったく突然に自分のおかれた状況を理解した。
「……私を殺すつもりかね」
「…………」
無言はすなわち肯定であった。レベロはやや投げやりなため息をつき、腕をくんで、自分に地上ならざる場所への切符を押しつけようとする士官の集団をながめまわした。
「理由を聞かせてもらえるかな」
「あなたを信頼できない」
「というと?」
「帝国軍がヤン・ウェンリーの首を要求すれば、すぐに与える。もし私の首を要求してきても同様だろう。これはあくまでも自衛的手段であって、あなたの権力を欲してのことではない」
「自衛というが、無用のことだ。帝国軍が君たちの首を要求するはずがない。君たちはヤン・ウェンリーではない」
冷静な指摘は、不快な噴霧となって士官たちの顔をしめらせた。
「このやりかたを教えてくれたのは、閣下、あなただ。ヤン元帥を犠牲の羊として、自分を守ろうとしたではないか。いまあなたがこのような最期をとげるのも、いわば自業自得というものだ。ご自分の浅慮《せんりょ》をこそ、おうらみになるがいい」
レベロの両眼に生気がみなぎった。知性と意思のエネルギーが、衰弱した全身にそそぎこまれたように見えた。彼は背すじをのばし、恐怖に縁どおい姿で士官たちに正対した。
「なるほど、自業自得か。そうかもしれないが、私の死を正当化することと、君たちの行為を正当化することとは、まったくべつのものであるはずだ。私の良心と君たちの良心とでは、課せられた義務もことなる。だが、よろしい。私を撃って君たちの安全を買いたまえ」
レベロという人間の、報われることがなかった責任感と良心を、何者かが哀惜《あいせき》して、死の直前に可能なかぎりの恩寵《おんちょう》を与えたのでもあったろうか。このとき、武器ひとつ持たない最高評議会議長の痩身《そうしん》は、暗殺者たちをたしかに圧倒した。ロックウェル大将は、周囲の人影から動揺の陽炎《かげろう》が立つのを感じとった。それは彼自身からも立ちのぼり、気力が昇華しつつ全身のエネルギーを奪い、あとには後悔と敗北感だけが残るように思えた。彼は小さからざる努力の末に、口を開いて閉じた。拡散した意識が収束したとき、レベロが複数のビームにつらぬかれた身体を椅子《いす》から床へずり落とすのを見たのである。
……報告を受けたラインハルトは無言だったが、いずれにしても、これは無血開城というべきである。ラインハルトはハイネセンヘの直行を指令し、すでに衛星軌道上に艦隊を展開させたシュタインメッツに迎えられた。一〇万隻の帝国軍が、総旗艦ブリュンヒルトを守ってその降下を見送った。
宇宙暦八〇〇年、新帝国暦〇〇二年の二月九日、ラインハルト・フォン・ローエングラムは歴史上はじめて惑星ハイネセンの地表を踏んだ銀河帝国皇帝となる。
宇宙港に到着したラインハルトは、シュタインメッツ麾下《きか》の武装兵四個師団に守られながら同盟政府ジョアン・レベロの遺体が安置された国立墓地へおもむき、遺体への対面をすませた。対面自体は時間もみじかく、感想らしきものを皇帝が口にすることもなかったが、シュタインメッツはレベロの葬儀に際して委員長たることを命ぜられた。
「ジョアン・レベロの不幸は、最悪の時機に元首となったことにはなく、元首となったことそれ自体にある。レベロは他人のつくった虚構――たとえば民主国家体制の不可侵性――を信じることはできたが、自分自身で虚構をつくりあげる資質、俗にいうカリスマ性にめぐまれなかった」
との評もあるが、歴史的な評価はべつとして、ラインハルトは旧敵に対する勝者としての礼節を完全に守った。逆にいえば、礼節を守っていれば何ら問題のない、これは場合であって、余分な感情をさしはさむ必要がなかったのである。
墓地を出たラインハルトは、ヒルダを同乗させた地上車のなかから、ロイエンタール、ミッターマイヤー、ミュラーに手みじかな指令のいくつかを発した。
ローエングラムの黄金獅子旗《ゴールデンルーヴェ》が旧同盟国旗の掲揚台にひるがえっている。この日、惑星ハイネセンの官公庁地区は晴天ではあったが、強風がひややかな愛撫を皮膚に加え、人々は寒気と不安に首をすくめて若い征服者の行進を見まもった。武装した兵士の列が勝者と敗者をへだてていたが、ときおり市民の視線は車中の半神的なまでに美しい征服者をとらえ、そうすると、とくに女性は寒気と不安を一瞬忘れさってしまうのである。むろんそれは多く表層的なもので、ラインハルトにしたがって遠征と転戦をかさねてきた兵士たちの崇拝ぶりにおよばないこと遠い。英雄というものを、彼の欲望、ないし主観的な理想のために多くの者が喜んで死地におもむく人間、と定義すれば、ラインハルトはまさしく英雄であった。すでに天上《ヴァルハラ》は彼に殉じた戦死者たちで満ちており、その居住区はさらに拡張を必要とするであろう。
地上車が停止した。群衆の間で何かトラブルが発生したようであった。帝国軍装甲車の一台が接近し、黒と銀の軍服にたくましい長身をつつんだ高級士官がおりたつと、ラインハルトの地上車の傍にひざまずいた。シュタインメッツとともに市街の警備をラインハルトからゆだねられたビッテンフェルト上級大将であった。「黒色槍騎兵」の司令官である。
「黒色槍騎兵《シュワルツ・ランツェンレイター》に退却の二字なし」
この豪語は信仰を強化するものであり、彼らの信仰は実績を生んだ。旧王朝のもとで、ビッテンフェルトが貴族出身でないにもかかわらず将官に上り、ラインハルトに見出されるにいたるのは、この信仰と実績のためであった。若い覇王に評価されるにたるものを彼は所有していた。
猛将の下に弱兵は存在しないという。黒色槍騎兵の場合、それはまったくの事実であった。全軍の先頭に立って司令官が突進すると、部下たちは鋼鉄の濁流となってそれにつづき比類ない破壊力を発揮しつづけたのである。
フリッツ・ヨーゼフ・ビッテンフェルトはヤン・ウェンリーやオスカー・フォン・ロイエンタールと同年齢で、宇宙暦八〇〇年、新帝国暦二年には三三歳を迎える。他人は「猛将」の一語で彼の全体像を表現しうるように思い、当人もそれを否定するどころか、むしろ自ら誇称しているのだった。彼の勇猛と、直線的なまでに剛性の用兵と、それらによって今日まで樹立してきた武勲とは、たしかに猛将の評判をうらづける。だが、ランテマリオ星域会戦の後、彼の部隊において最高の功績をあげたと司令官に評価され、その旨をラインハルトに報告されたのは、敵軍を草でも刈るように撃ちたおした勇者たちではなく、激戦の渦中にあって負傷兵の治療、救出、後送にあたった病院船の乗員《クルー》たちであった。
ラインハルトはおどろき、率直に感銘も受けて、ビッテンフェルト麾下のものにとどまらず、全軍の病院船乗員にあつく恩賞をあたえた。
「ビッテンフェルトの奴、陛下への受け[#「受け」に傍点]をねらったのではないかな」
「だとしても、病院船の功績をみなおすのは悪いことではないさ」
「そのとおりだ。たとえ受け[#「受け」に傍点]をねらったとしても、それを考えつくのは、なかなかに抜けめがないことではあるな……」
当時、ロイエンタールとミッターマイヤーはやや苦笑まじりに僚友の意外な一面を認めたものであった。
……そのビッテンフェルトが、恐縮の態《てい》で停止した地上車の傍にひざまずいている。ヒルダがラインハルトの目を見て地上車のドアをひらくと、オレンジ色の髪の猛将は緊張の衣を軍服の上にかさねて一礼した。
「宸襟《しんきん》をさわがせたてまつり、恐縮でございます、陛下。どうかご寛恕《かんじょ》あって、臣の不首尾を許したまわんことを」
若い美貌の皇帝は敬語の用法には無関心だった。何ごとが生じたか、それだけを明瞭《めいりょう》に知りたがった。
「はい、群衆のうちにおりました共和主義者が、陛下の御生命をねらおうと大それたまねを……」
群衆はすべてが共和主義者ではないかと思ったが、それもラインハルトは口に出さない。
「その者はどうした? 逮捕したか」
「包囲いたしましたところ、その場で銃をもって自殺をとげました。弑逆《しいぎゃく》未遂の大罪、死しても免罪というわけにはまいりません。至急、身元をたしかめ、しかるべく処置したいと存じます」
ラインハルトの描いたように形のよい眉《まゆ》が不快そうなカーブをつくった。
「無用無益のことをするな。遺体は家族に引きわたしてやるがよい。念を押しておくが、家族に害をくわえてはならぬ」
「は……」
「不満か。卿の忠誠心は貴重だが、度をすぎればそれが予をルドルフにするぞ」
その一言でオレンジ色の髪の猛将は主君の意を諒解《りょうかい》し、最大限のうやうやしさをもって頭をさげた。ルドルフという名は、ラインハルトのみならず彼の臣下にとっても忌避《きひ》すべきものであった。
ドアがとざされ、ふたたび走りだした地上車の座席で、ラインハルトは自分ひとりの思惟《しい》の森に身をひそめ、目を閉じた。長い睫《まつ》毛《げ》が白皙《はくせき》の皮膚に影を落とすさまを、ヒルダはしばらく見つめていた。
V
旧敵に対して、むろんラインハルトは無原則に寛大であったわけではない。彼にとってその日最後の公務は、ジョアン・レベロの暗殺者たちを面接することであった。他の提督たちが市内の治安や施設接収の任にあたっていたため、皇帝の傍にある軍最高首脳はアーダルベルト・フォン・ファーレンハイト上級大将だけであった。
暗殺者たちに面接したラインハルトは、最初から侮《ぶ》蔑《べつ》の意思をかくそうともしなかった。傲然《ごうぜん》と、長い脚を組んで、ロックウェル大将以下一一人の叛乱《はんらん》士官を見下した。ぎこちなくひざまずいた男たちに、氷点をはるかに下まわる声を投じる。
「卿らのためにさく時間は、予には貴重すぎる。ひとつだけ聞いておこう。卿らがことをおこなったとき、卿らの羞恥心はどの方角をむいていたのか」
ロックウェル大将は動揺と不安にサンドイッチされた顔をかろうじて若い覇王にむけたが蒼氷色《アイス・ブルー》の視線に対抗するのは容易ではなかった。
「吾々が恥知らずな者どもだとおっしゃるのですか、陛下」
「それ以外のことを言ったように聞こえたら、予の言いかたが悪いのだろうな」
「陛下のお側におられるファーレンハイト提督にしても、昔日《せきじつ》は貴族連合軍の一将であったはず。いま志をかえて陛下におつかえしておられる。であれば吾々にも寛大なご処置をたまわってもよいと思いますが」
ラインハルトは冷笑で氷の竪琴《たてごと》をかきならした。
「聞いたか、ファーレンハイト、この者たちは、自ら卿の同類だと称しているぞ」
「……まことに光栄のきわみ」
ふたつの王朝で勇将の名をほしいままにした提督の水色の瞳が怒りの蒸気をたゆたわせつつ降伏者たちを直視した。彼は大貴族連合軍の一員であったとき指揮官として最善をつくし、盟主ブラウンシュヴァイク公の無能と狭量をみかぎった後も、公を敵に売りわたすことなど考えなかった。レベロ暗殺犯たちから同類とみなされる不快感はたとえようもない。その表情を見やって、ラインハルトはうなずいてみせた。
「よろしい、ファーレンハイト、予の心も卿のそれにひとしい。本来、戦場の外で流血をなすのは卿の本意ではあるまいが、とくに卿に命じる。この薄ぎたない二本足の腐肉獣《ハイエナ》どもを処理して、せめて宇宙の一隅だけでも清潔にせよ」
「御意!」
皇帝のことば半ばにして、すでに投降者たちは色を失って立ちあがっている。ファーレンハイトが片手をあげると、人の輪が一一人の男たちの周囲に軍服の壁をつくった。
「……法の保護を!」
放った悲鳴はファーレンハイトの一喝にはじき返された。
「前王朝ならいざ知らず、ローエングラム王朝には裏切者を保護すべき法はない。無益な哀願をするな」
「……フロイラインの予言したとおりだった。腐肉を食う輩《やから》は、自分の嗜《し》好《こう》で他人を量《はか》るものらしいな」
ファーレンハイトらに引きたてられた暗殺者たちが、悲鳴と抗弁と哀願の不快な三重奏で空気をかきまわしつつ遠ざかっていくと、ラインハルトはそう言いすてて白い指をやはり白い前歯にあてた。嘔吐寸前の不快感に、やはり耐えつづけてきたヒルダは、小さなせきをして、感想とも自省ともつかずつぶやいた。
「たぶん人間は自分で考えているよりもはるかに卑劣なことができるのだと思います。平和で順境にあれば、そんな自分自身を再発見せずにすむのでしょうけど……」
ラインハルトの瞳の奥で蒼氷色《アイス・ブルー》のカーテンが揺れて、剛《ごう》毅《き》な外皮につつまれた繊弱な魂のごく一部が外気にふれた。「卑劣」という語を「愚劣」におきかえれば、彼もまた、煉獄《れんごく》に幽閉されるべき罪人であった。誰よりも自分自身がその事実を知っていた。
「……奴らが下水の汚《お》泥《でい》とすれば、マル・アデッタで死んだあの老人はまさに新雪だったな」
黄金の髪をゆらせて言ったのは、彼自身も気づきえない逃避であったかもしれない。にしても、いつわりを彼は口にしたわけではなかった。
「不死鳥は灰のなかからこそよみがえる。生焼けでは再生をえることはできぬ。あの老人は、そのことを知っていたのだ。奴らを処断して、天上《ヴァルハラ》であの老人にわびさせよう」
ラインハルトは優雅な動作で側近たちの一群をかえりみた。
「白ワインを一杯持ってきてくれぬか、エミール」
侍従の少年は一礼すると、走りだす半寸前の早足でひとたび皇帝の御前から退出した。やがて透明に近い色の液体をクリスタル・グラスにみたして帰ってくると、うやうやしく主君にさしだす。
だが、ラインハルトは自らが飲みほすためにワインを欲したのではなかった。エミールの手からクリスタル・グラスを受けとると、若い金髪の皇帝は優美な長身を窓に正対させ、しなやかに手首をひるがえした。白ワインのカーテンが窓ガラスの表面を流れおち、黄昏《たそがれ》の掌《てのひら》に半ばつつみこまれた庭園の光景をぬらした――ラインハルトの、死者へたむける花束がこれであった。
翌日、皇帝の布告が発せられた。
「たとえ帝国軍の敵として戦った者でも、同盟軍の戦死者の遺族、および傷病兵に対しては、これを厚く遇するであろう。もはや憎悪によって歴史を動かすときではない。待遇に不満ある者、現に困窮する者は遠慮なく申し出よ」
その布告を受けたとき、同盟政府官僚たちの受けた衝撃は小さなものではなかった。自分たちが軍事力によって敗れたのではなく、民主共和政体が一個人の器量に敗北したのではないか、という深刻な恐怖が彼らを動揺させたのである。無慈悲な報復がなされれば、専政者に対する反発心も生じようというのに、まったく逆の寛大さが、氷をとかす陽光に似て反抗の意思をくじけさせた。
政府や軍部の高官には転向する者があいついだ。レベロ暗殺犯たちへの苛《か》烈《れつ》な処断が、転向者たちを用心深くはさせたか、職務への精励《せいれい》という形で協力するのは、皇帝の潔癖を剌激しないであろう。
民主共和政治への忠誠心を放棄しなかった者は、むしろ中堅以下の無名の軍人や官僚に多かった。彼らの多くはひそかなサボタージュによって征服者への抵抗をこころざしたが、公然と自己の意思を口にする者もいた。ハイネセン首都政庁の参事官ビジアス・アドーラは、皇帝に忠誠の誓約書を提出せよ、という帝国軍からの指示をまっこうから拒否した。
「皇帝とは誰のことか。自由惑星同盟には、市民に選ばれた元首はいても、皇帝など存在しない。存在しない者から命令を受ける理由はない」
財政委員会事務局国庫課長のクロード・モンテイユは、国有財産の全リストを提出するよう命じられたが、頑として応じなかった。
「国有財産リストを閲覧する権利は、選挙権および被選挙権を有し、納税義務をはたしている同盟市民のみに帰するものである。また、政府公務員は同盟の法律および自己の良心にもとづいてのみ職務をおこなうことになっている。私はじつのところこわい。生命が惜しい。だが、ひとたび公僕《こうぼく》となった以上、ささやかな義務をはたさないわけにはいかない」
さらに最高評議会書記局の二等書記官グレアム・エバード・ノエルベーカーは、二月一一日の公式記録につぎのように記した。「本日一〇時三〇分、銀河帝国皇帝を自称するラインハルト・フォン・ローエングラムなる者、法律上の資格なくして議場の見学を申請《しんせい》す」そして削除をもとめられても応じなかった。
彼らは獄中の人となったが、やがてそれを知った皇帝《カイザー》の命令で釈放された。
「りっぱな男たちだ。そのような男たちが中堅以下の地位にとどまっているようだからこそ、同盟が滅びたのだ。その者たちに危害を加えてはならぬ。さしあたり従順な者たちだけを登用して政務を担当させよ」
少数の勇敢な抵抗者たちによっても、さして占領行政に支障が生じたわけではなかったので、ラインハルトは個人的な感動あるいは感傷を実体化させることができたのかもしれない。
やがて、いくつかの証言や証拠から故人となったレンネンカンプ高等弁務官の首席補佐官ウド・デイター・フンメルが、ロックウェル大将らの不満分子たちにレベロ暗殺を教唆《きょうさ》したものだと判明すると、ラインハルトの眉間に雷雲がたれこめた。彼はミュラーに命じてフンメルを出頭させ、なぜそのように不名誉な教唆をおこなったかと詰問した。陛下の御手をわずらわせることを恐れたため、とフンメルが答えると、ラインハルトは鋭く決めつけた。
「殊勝な心がけだが、それならレンネンカンプの軽挙を制するべきだったのだ。いまさらさかしげにふるまって予に恩を売るつもりか」
そして即日、フンメルを更迭《こうてつ》し、帝都オーディンヘ帰す決定を下したのである。
W
こうして二月二〇日、「冬バラ園の勅令」が公布される。ハイネセンの官公庁地区の一角にある広大な国立美術館敷地内の冬バラ園で布告されたがゆえにそう呼ばれるのだが、正式な名称はむろん散文的なもので、「新帝国暦二年二月二〇日の勅令」という。誤解しようのない名称だが、人々の感性には訴えることがなく、通称が長く記憶されることになる。
皇帝の後方にひかえて、現在進行形の歴史を見まもりつつ警備にも心をくばっていたナイトハルト・ミュラーは、緑灰色に沈んだ背景のなかに浮きあがる黄金と真紅の色彩を、永く記憶していた。ウォルフガング・ミッターマイヤー、オスカー・フォン・ロイエンタールの両元帥を左右にしたがえ、ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフから勅令書を受けとって、帝国軍と同盟政府の高官たちの前にたたずんだラインハルトの姿は、あらゆる星座のかがやきを人の形に凝縮したようにも見え、冬バラのなかの王花が擬人化されたようにも思われた。暮色が急速に濃度をまし、人々の実体が影と一体化するなかで、ラインハルトの黄金の髪だけがまばゆく浮きあがっており、彼は陽光の最後の一閃《いっせん》を自らの頭部に巻きつけたかのようであった。
「銀河帝国皇帝たる予、ラインハルト・フォン・ローエングラムはここに宣告する。自由惑星同盟はその名称をかかげるべき実質を失い、完全なる滅亡をとげた。本日より人類社会を正当に統治する政体は唯一、銀河帝国のみである。同時に、過去の歴史において、不名誉なる叛乱軍の名称のもとに抹殺されてきた自由惑星同盟の存在は、これを公認する……」
ロイエンタールはミクロン単位で唇の片端を皮肉に動かした。皇帝の宣告の、何と辛辣《しんらつ》なことであろうか。同盟は、名実ともに消滅しさった後、はじめて帝国の最高権力者から認められたのだ。あくまで過去の存在として……。それは屍衣《しい》をかざる虚妄の花束であった。
勅令を発しおえたラインハルトの視線が庭園の上を遊泳している。かつて歴代の同盟元首が散策し、支持者をあつめて園遊会をもよおしたであろうその庭園は、新無憂宮《ノイエ・サンスーシー》のばかばかしいほどの壮大さには遠くおよばないまでも、充分に観賞にたえるものであった。
真紅、白、淡紅色、淡黄色の冬バラが冬のさなかにもかかわらず地上に虹をつくっている。この庭園にはささやかな二階建のゲストハウスが付属していて、ハイネセン滞在中の宿舎をそこにさだめよう、と、ラインハルトは思った。彼は乗艦の優美さ、ひきいる軍隊の壮麗さをもって知られたが、私生活はむしろ質素で、豪華な邸宅に対しては嫌悪惑すらしめした。庭園には多少の興味をしめしたが、幾何学的な人工美より自然に近い風致を好んだ。自由惑星同盟の文物のうちで、この冬バラ園は彼が好んだ少数のもののうちのひとつだった。行宮《あんぐう》という名は大げさにすぎるが、ともかく彼はここを今後の宿舎とさだめたのである。
ロイエンタール元帥の副官、エミール・フォン・レッケンドルフ少佐が上司に何かささやくと、統帥本部総長はうなずいて皇帝に現宿舎たるホテルヘの帰還を請うた。その夜は一〇〇〇名以上の高級士官を集めて祝宴がおこなわれることになっており、冬場のことゆえ園遊会としゃれこむわけにもいかなかった。皇帝が歩きだすと、冬バラ園の周囲をかためていた五万人余の兵士たちが、誰の命令にもよらず歓声を発した。
「|皇帝ばんざい《ジーク・カイザー》」
「|わが皇帝ばんざい《ジーク・マイン・カイザー》」
「|ラインハルト皇帝ばんざい《ジーク・カイザー・ラインハルト》」
将兵の熱狂は、やや無秩序ではあるが力強い合唱の天蓋《てんがい》となって、帝国全軍をおおった。皇帝の周囲に佇立《ちょりつ》する歴戦の驍将《ぎょうしょう》たちも、このとき自分たちが、永く語りつがれ、歴史に黄金の鏨《たがね》をもって彫《ほ》りこまれる瞬間にいあわせたのだということをひとしく感じて、彼らの「冬バラの王」を誇らかに見つめた。
とうとうここまできた。胸中にラインハルトはつぶやいた。旧同盟の首都は、いまや彼の広大な支配地の末端に位置する属領でしかない。以前、この地をふんだとき、名目上、彼は未だゴールデンバウム王朝の廷臣《ていしん》でしかなかった。だがいまは彼は皇帝である。神聖不可侵などというたわごとにたよらずとも、宇宙でもっとも強大な存在となったのだ。
だが、ほんとうは、いまよりもなお強大な存在になりえたはずだった。彼の見えざる翼の半分が、彼自身の罪によって折られることがなかったら。その傷《いた》みを振りはらうように彼が片手をあげると、兵士たちは地上におりたった太陽をあおぐかのように感情を奔騰させ、皇帝を賛美しつづけた。
翌二一日、ラインハルトは仮の大本営となったホテルの一室に最高幕僚たちを参集し、自ら軍をひきいてイゼルローン要塞再々奪取作戦の敢行をつげた。ルッツの失ったものは予がとりかえす、というのであった。
若い主君の覇気が壮麗なものであることをロイエンタールは率直に認めたが、ヤン・ウェンリーの奇謀に対する警戒の念もおさえることができなかった。あるいはヤンは、激発したラインハルトが自ら出撃してくるのを待ちうけて策を立てているかもしれない。危険をおかすべきではないと思ったのだ。
吾ながら奇妙だ、と、ロイエンタールは思わざるをえない。皇帝の敗北や失策は、彼の台頭につながるはずであり、彼としては野心のおもむくままにラインハルトの破滅を傍観してよいはずである。にもかかわらず、彼はこのとき心から諫言《かんげん》したのであった。
後世の歴史家が、ロイエンタールという人物に対する評価を単純なものとなしえないのも当然である。彼自身が彼の心のうちに迷宮を見出していたのだから。
「|わが皇帝《マイン・カイザー》よ、もし御身に万一のことがあれば、新王朝は解体し、時代は旗手を失います。ひとたびフェザーンにお帰りあって、長久《ちょうきゅう》の計をおはかりください。ヤン・ウェンリーはミッターマイヤーと私と、両名をもって討伐の任にあたらせられますよう」
「ロイエンタールの申しあげるとおりです。陛下のご親征も、ひとまず目的を達しましたからには、前線での苦労は私どもにおまかせくださって、ご休息ください」
ミッターマイヤーが熱心に友人を支持した。昨今、しばしばラインハルトが過労のため発熱するのを、彼は心配していた。
「側らの武勲を横どりする気はないが、予はヤン・ウェンリーと自ら結着をつけたいのだ。あの男のほうでもそう思っているだろう」
このとき発言を求めたのは、皇帝の首席秘書官ヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢であった。
「陛下、両元帥のおっしゃるとおりです。どうぞひとまずフェザーンヘお帰りください。陛下がいらっしゃればこそ、フェザーンは安定し、全宇宙の中心として礎《いしずえ》をかためることができましょうから」
このときラインハルトの覇気は、負の方向に刺激されたようで、蒼氷色《アイス・ブルー》の眼光が針をふくんだ。
「フロイライン・マリーンドルフ、慎重も度がすぎれば優柔不断とのそしりをまぬがれぬ。イゼルローンを失ってそのまま予が帰路につけば、反帝国勢力はヤン・ウェンリーが予に不戦勝したと思い、彼を偶像視してその周囲に結集するだろう」
「陛下、お考えください。ヤン・ウェンリーが戦術レベルで万全を期すのであれば、イゼルローン要塞にこもって堅守するしかありません。それは回廊の両端をわが帝国軍の支配にゆだねることとなり、戦略レベルにおいて何らの効果をももたらさぬことになります」
ラインハルトは低く笑いすてた。
「迂《う》遠《えん》なことを言う。フロイラインらしくもない。ヤン・ウェンリーはすでにエル・ファシルを占拠し、回廊の出口をおさえているではないか」
ヒルダはひるまない。
「さようでございます。ですけど、この場合、戦略レベルの条件をみたすことは、戦術レベルにおいて過度のささえを要求することになります。ヤン・ウェンリーの戦力はもともとイゼルローン要塞のみを防御するにも不足しがちなのです。その過小の戦力をもって、エル・ファシルまでも軍事的に確保し安定させるのは、困難の極といわねばなりません。彼の卓絶した智《ち》謀《ぼう》をもってしても、つまりヤン・ウェンリーは戦略的構想と戦術的条件と、双方の命題を同時に満足させがたい状況のなかにあります。この矛盾が整合されないかぎり、ヤン・ウェンリーを討つ機会はいくらでもあります」
「ヤンは整合させてしまうかもしれないぞ」
そう反論はしたが、ヒルダの正しさを認めざるをえなかったのか、皇帝の語勢は強くなかった。
結局、ラインハルトはイゼルローン方面への親征を中止した。あくまでも一時とりやめただけのことである。彼にそうさせたのは、ヒルダの諫止もさることながら、遠くフェザーンからもたらされた報告書であった。
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第八章 前途遼遠
T
「吉報はひとりでしか来ないが、兇報《きょうほう》は友人をつれて来る」
とは、さして独創的でもないアレックス・キャゼルヌの述懐であるが、この年の初頭にイゼルローン要塞《ようさい》へ「家出息子の帰宅」をはたして以来、ヤン艦隊には単独行の訪問者がたえがちであった。
吉報といえば、ムライ、フィッシャー、パトリチェフ、スールらに統率された艦隊の到着ぐらいのもので、これによって戦力と人的資源はいちじるしく強化されたが、一方で、ムライの名を耳にしたオリビエ・ポプランなどが、「またあの小うるさいおっさんが……」と口笛で葬送行進曲の一節をかなでたのも事実であるし、アッテンボローが「ピクニックが研修旅行になってしまった」と評したのも、たしかなことであった。
帝国軍のビッテンフェルト上級大将が、反転してマル・アデッタ星域へ向かうとき、一挙に同盟首都ハイネセンをつくよう主張した部下に言ったものである。
「おれたちは武人を天職と思っているのだ。ヤン・ウェンリー一党のように、他にやることがなくて戦争ごっこや革命ごっこをやっているのと事情《わけ》がちがうぞ。無原則なことをするな」
このビッテンフェルトの言いようは、誹《ひ》謗《ぼう》そのものであるが、根も葉もない言いがかりだ、と一蹴《いっしゅう》しうる者はヤン艦隊の幹部たちのなかに存在しなかったであろう。ダスティ・アッテンボローなどは自らそれを認め、「伊達《だて》と酔狂《すいきょう》」が自分達の動力源であることを公言したほどであるから。そして、彼自身は、救われがたいことに、それを自慢にすらしていたのである。
このような部下たちを、意識してヤンが麾下《きか》に集めたという証拠はないのだが、結果としてまさしく類は友をよび、複数の朱がおたがいをさらに赤く染めあって、宇宙暦七九六年の発足以来、宇宙に冠たるヤン艦隊の気風が育成されたのである。
「帝国軍の|皇帝ばんざい《ジーク・カイザー》に対抗する歓呼というと、|民主主義ばんざい《ビバ・デモクラシー》しかないように思うのだが、どうだろう」
「いまひとつ民心に訴えないなあ。やはりこちらも司令官の人名で勝負すべきだと思うけど、どうも華麗さでいまいつつ[#「いつつ」に傍点]およびませんしね」
アッテンボローとポプランは、多忙であるべき軍務のあいまに、不謹慎な相談をかわしていた。
さすが不敵と陽気を誇る彼らすら一瞬、沈黙の深淵《しんえん》のなかへ追いこまれざるをえなかったのは、アレクサンドル・ビュコック元帥の訃《ふ》報《ほう》を受けたときである。
それをヤンに知らせるとき、フレデリカは暗黒と無音の数百秒の後に、ようやく立ちあがって鏡を見た。赤血球がいちじるしい過疎状態にあるのを確認して、呼吸をととのえ、かるく化粧して、夫である司令官の執務室にはいると、熱い紅茶の紙コップを片手に書類に目をとおしているヤンの前に立った。不審そうな視線が移動するのを待って、可能なかぎり声調を安定させる。
「……ビュコック司令官が戦死なさいました」
ブランデーの香のつよい紅茶を、ヤンはひと口すすった。まばたきを二度くりかえした後、副官である妻から視線をそらして、ヤンは壁面にかかった無名画家の抽象画を見つめた。
「閣下……」
「聞こえてるよ」
フレデリカの卓絶した記憶力の柱にも刻印されていない、それは弱々しい声だった。
「その報告に訂正の余地はないのかい」
「傍受した通信波のすべてが、同じ事実を報じていますし」
「……そうか」
つぶやいたヤンの姿には生気というものが欠けていた。若い学者が、若い学者の石像に化したような印象があった。ブランデーの香気がフレデリカの嗅覚《きゅうかく》のなかで揺れて、彼女は息をのんだ。ヤンの掌《てのひら》が紙コップをにぎりつぶして、熱い紅茶が彼の片手をぬらし、湯気をたてていた。フレデリカは夫の手から紙コップをとりあげ、火傷をおった手をハンカチでぬぐった。救急箱をデスクの抽斗《ひきだし》からとりだす。
「全艦隊に通知してくれ、フレデリカ。ヤン不正規隊《イレギラーズ》はこれより七二時間にわたって喪に服す」
フレデリカの治療を他人《ひと》ごとのように受けながらヤンは指示した。感性が致命傷をうけ、理性だけが声帯をつかさどっているようだったが、不意に精神のベクトルが逆転して、声が激した。
「何が智将《ちしょう》だ。私は救いがたい低能だ。司令長官のお人がらからいって、こうなる可能性は小さくなかったのに、それを予測もできなかった」
「あなた……」
「ハイネセンから逃げ出すとき、誘拐同然でもいい、司令長官をおつれすべきだった。そうだろう、フレデリカ、私がそうしていたら……」
フレデリカは必死に夫をなだめた。ビュコック元帥の人がらを問題にするなら、ハイネセンからの逃亡などをビュコックが承知するはずがない。ビュコックの死にまで、ヤンが責任をとわれる必要はない。そのような責任の感じかたは、かえってビュコックの意思と選択を軽視するものではないか。
「わかったよ、フレデリカ、君の言うとおりだ。興奮して悪かった」
ヤンはようやく言ったが、打撃の巨大さから容易に回復できそうになかった。
ゴールデンバウム王朝のように専制支配の罪をかさねた体制でさえ、滅亡のときにはそれに殉じる者がいた。まして建国の父アーレ・ハイネセン以来、理想と人道に生きてきたはずの自由惑星同盟が、高官にひとりも殉じる者なく滅亡したとあっては、民主国家の存立にそれだけの価値がないということになろう。人命を国家の滅亡時に供するという思想を、ヤンは否定したいのだが、ビュコック元帥の選択を非難する気にはなれなかった。
あの老人が生きている間、ヤンは彼に頭があがらなかった。現在もそうだったし、未来においてもさらにそうであろう。
ビュコックの年齢のことは何らなぐさめにならなかった。老境にあったとはいえ、医学上の平均寿命になお一五年以上もとどいてはいなかった。ただ、その生涯が充実したものでなかったと言いうる者がいないであろうことが、ささやかな慰撫《いぶ》となった。ヤンの心理を部下たちも共有することになった。
シェーンコップは、老人の生涯と冥福《めいふく》のために乾杯した。スーン・スールは一五年ぶりに涙腺《るいせん》の機能を全開させた。メルカッツは粛然として軍服の襟をただした。ムライははるか惑星ハイネセンの方角をむいて敬礼した。それは半ば、ビュコックに殉じた形のチュン・ウー・チェンにささげられたものであった。アッテンボローはムライにつきあった後、シェーンコップの相手役をつとめた。
ユリアンは、自分自身もさることながら、ヤンの傷心に思いを致して、相乗作用で無彩色の世界に沈んでしまった。
オリビエ・ポプランでさえ、つねの闊達《かったつ》さの給水源をたたれて、口数をへらしていた。自ら「無節操と無分別の混血児」と称し、ダスティ・アッテンボローなどからは「トラブルがあればかならず首をつっこみ、トラブルがなければ自分で種をまく」と評される青年だが、本来、不機嫌な表情をうかべるためにはつくられていない眉《び》目《もく》に冬の風を吹かせて、一時に活気を喪失した要塞のなかを黙然と歩きまわっている。
一同の、柄《がら》にもない意気消沈ぶりを心配したのはアレックス・キャゼルヌである。彼自身の落胆が一段落すると、夫人にむかって首をふってみせた。
「陽気と横着《おうちゃく》がとりえの連中なのに、ああも沈んでいてはいかんなあ」
夫人は、イゼルローンが帝国軍に占拠されていた一年間、使用されていなかった官舎の古いオーブンに、老後の生きがいを与えているところだった。
「あなたみたいに、神経がワイヤーロープでできている人ばかりじゃありませんもの。ビュコック元帥はいいかたでしたし、皆さんの反応はしごくまともですよ」
「おれは善意で言っているんだぞ。あいつらは陰気や深刻が似あう連中ではないんだからな」
自分自身を除外して論評するキャゼルヌである。つまるところは彼もヤン艦隊のうたがいもない一員であった。自分ひとりはまともだと信じこんでいるのだった。
「あなたは補給と経理のことだけ心配なさっていればいいんですよ。このていどで再起不能になってしまうような人たちなら、最初から同盟政府やら帝国やらにさからって革命戦争をおこしたりするものですか。権力者の言いなりになっているのが一番楽なのに、わざわざ自分たちから苦労を買って、しかもそれでお祭り気分なんですからね」
「まったくそうさ、ばかな連中だ」
「ひとりの例外もなくね。わたしが後方勤務本部長の令夫人になりそこなったのは、どなたのせいだったかしら」
「ふん!」の一言で、後方勤務本部長の椅子《いす》をけとばした男は狼狽した。
「お前はおれのやることに反対しなかったじゃないか! おれが辞表をたたきつけて家へ帰ったら、もうスーツケースに荷物をつめていたくせに……」
夫人は動じる色もみせない。
「当然です。あなたが自分ひとり地位を守って友人を見すてるような人なら、わたしはとうに離婚していましたよ。自分の夫が友情にうすい人間だったなんて子供に言わなきゃならないのは、女として恥ですからね」
キャゼルヌが口のなかで何やらことばの泡をはじけさせる間に、夫人はみごとに焼きあがったクリーム・チキン・パイをオーブンからテーブルにうつしていた。
「さあ、あなた、ヤンご夫妻をお呼びしてくださいな。生きている人間は、死んだ人の分まできちんと食べなきゃなりませんからね」
ヤン艦隊という広場にはお祭り気分が欠くべからざるものであることを、キャゼルヌにおとらず早く再発見したのは、おそらくオリビエ・ポプランであったろう。悲報を受けた当日は人なみにかしこまっていた彼も、翌々日には心の喪服をぬぎすてて、艦隊の心理的再建にとりくむことに決したようである。それを理由として、彼は景気づけのためコーヒーカップに大量のウイスキーを移民させた。喪中であるゆえ公然とアルコールは飲めないのである。
「それにしても、われらが元帥どのでも、ああも落ちこむことがあるのかねえ」
ベルンハルト・シュナイダーがそれをききとがめた。彼は無情な男ではなかったが、ビュコックとはほとんど面識がなかったので、たちなおるのにポプランの協力を必要としなかった。
「貴官は、自分たちの司令官を珍獣のようにでも思っているようだが……」
直接にはポプランは答えない。
「ビュコック元帥は同盟軍なんぞにはもったいないみごとな爺さんだった。過去形を使わなきゃならないのが残念だがね。悼《いた》むのは自然かつ当然としても、そろそろ、真の慰霊法を考えるべきさ」
「というと?」
「帝国軍と戦って勝つ」
「ノウハウを無視して結果を論じないほうがいいと思うが……」
「ノウハウはわれらが元帥どのが考えるさ、それしか特長《とりえ》がないんだから」
にくまれ口のなかに、誇りやら敬愛やら揶揄《やゆ》やら、多彩な精神作用の和音がみちているようにシュナイダーには思われる。
「しかし、シュナイダー中佐、お前さんも考えてみればそれほどりこうでもないな。帝国軍に残っていれば皇帝《カイザー》ラインハルトのもとで出世できただろうに」
シュナイダーはそっけなく笑っただけで、挑発性ゆたかなポプランの疑問に答えようとはしなかった。彼に兄弟がいれば、英明な若い君主につかえて才腕を生かすよう説得したであろうが、彼自身はどこまでも敗将たるメルカッツにしたがうつもりでいるのだった。皇帝《カイザー》ラインハルトには多くの忠実な臣下がいる。メルカッツにもせめて自分ひとりぐらいいてもいいではないか……。
U
宇宙暦七九九年の五月に「バーラトの和約」が成立した後も、歴史の激流は静止化したわけではない。同年の八月にはヤン・ウェンリーが同盟政府の策略に抵抗して首都を脱出し、やはり同月、帝国軍のワーレン提督によって地球教団の本拠が壊滅《かいめつ》させられている。波《は》濤《とう》は無限の前進をつづけていた。
ただ、宇宙暦八〇〇年が明けると、状流が一挙に地表へ奔騰して万物をのみつくしたかの観がある。それに先だつ四ケ月が、無数に意思と行為の小爆発を連鎖させながら、奇妙な静止感をもたらすのは、その前後に位置する噴火の熱と光が巨大すぎるがゆえであったかもしれない。事象の表面しか見ようとしない人には、ラインハルト・フォン・ローエングラムが惑星フェザーンを発して同盟首都ハイネセンに到るまで無用に日数をついやしたように思われるし、ヤン・ウェンリーがハイネセンを脱してからイゼルローン要塞を再奪取するまで、またそれ以降も何をしていたのか、と思えるのであろう。
このような人々は、皇帝が号令を発すれば一〇〇〇万の大軍が艦隊編成も補給も必要なく即日にして行動しえると考えるし、戦場において戦術が実施されるまでにそれにふさわしい環境をととのえるための戦略立案に必要な時間の存在を理解することもないであろう。ラインハルトの帝国軍と、ヤン・ウェンリーの革命軍と、規模の大小こそあれ、補給体制の確立が容易ではなかった。帝国軍の場合、フェザーンからの長い補給路と、大量の物資を確保する苦労は尋常ではなかった。名誉の上からも政略の上からも略奪は厳禁されていた。ヤン・ウェンリーたちの場合、エル・ファシルの生産力とイゼルローンの備蓄物資とで現在は十分に補給をまかなうことが可能だったが、帝国軍に対して戦力は強化せねばならず、兵士が増員されれば補給能力が限界をこえる。深刻な二律背反にいずれは直面するであろうことが予想され、アレックス・キャゼルヌも頭痛の種をさがすのに苦労しなかった。
ヤン・ウェンリーは戦略上の構想と戦術上の条件を両立させがたい困難な立場にある――そう看破したのは皇帝《カイザー》ラインハルトの首席秘書官、ヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢であるが、じつのところ、この当時のヤンにはさらに政治上の課題が上づみされていたのである。かてて加えて、彼は再革命運動の最高指導者ではなく、自ら革命政府の実戦部門においてのみ専門家であろうとした。
これがワルター・フォン・シェーンコップなどから見れば、舌うちの一ダースもかさねたくなる迂《う》遠《えん》さに思えるようであった。
「非常の時である。非常の策を用いてしかるべし」
というのが彼の意見で、この三年ほどつねにヤンに権力の掌握《しょうあく》をといてやまない。
「信念など有害無益のものだと他人にはお説教しておきながら、ご本人の頑固なこと。言行不一致とはこのことだな」
そうユリアン・ミンツに語ったことがある。ユリアンのほうでは、三年もあきらめないシェーンコップの執拗《しつよう》さにも感心するのだが。
だからあのときラインハルト・フォン・ローエングラムを倒しておくべきだったのだ――ビュコックの訃報をうけたとき、ワルター・フォン・シェーンコップはそう思ったが、その考えを舌にのせて体外へ放出しようとはしなかった。他人の評価との間に誤差はあるであろうが、この男は、毒舌を弄《ろう》するべき時と場合をわきまえていないわけではなかった。
彼が口に出したのは、ユリアンに対して、実体化の機会を失った構想をもらしたのが唯一の例である。
「ビュコックの爺さんが健在だったら、爺さんを新政権の首班に推《お》して、その下でお前さんの保護者が軍務をつかさどる、という形式も考えられたんだがな。いまさら言ってもしかたないことだが……」
それはユリアンにとっても、新鮮で魅力的な発想だった。ただ、故人となった老元帥が、頂点に立つことをがえんじるとは思いにくかったが。
そのシェーンコップも、やがて自分自身の問題に直面することになった。
カリンことカーテローゼ・フォン・クロイツェル伍長が、決然としてというべきであろうか、父親に面会を申しこんできたのである。ここに至るまで、半年ほども接触を拒絶してきた不自然さに、形式はどうであれ終止符がうたれようとしていた。
シェーンコップの執務室にあらわれたカリンは、見えざる甲冑《かっちゅう》を二重三重に着こんで臨戦態勢にあった。かたくるしい敬礼、こわばった表情、しかつめらしい態度。いずれもこの年一六歳になる少女としてはふさわしくないとシェーンコップは内心で品さだめしている。
「小官はイゼルローン要塞奪取作戦に際して、参加を志願しておりましたのに、実戦指揮官であるシェーンコップ中将閣下は小官をリストからおはずしになりました。納得しがたいので理由をお聞かせいただきたく存じます」
カリンがあらかじめ準備しておいた文章を宙に読みあげていることは明白だった。シェーンコップがやや皮肉っぽいほころびを口もとにつくったのは、僚友のアッテンボローが、入場料をとられてもこの場にいあわせたかったことだろう、と思ったからである。少女の詰問などは意に介するにもたりなかった。
「私は作戦に完全を期したかった。だから貴官にかぎらず白兵戦の経験がない者を参加させたくなかった。それだけのことだが、何かおかしいかね」
カリンは返答に窮《きゅう》した。さまざまな意味で彼女の視野は未だ狭小であり、自分以外の白兵戦未経験者がどのように遇されたかまでは思いおよばなかったのである。
「……とまあ、これは建前。じつのところは、きれいな女の子がトマホークをふりかざす図など見たくなかったのでね」
そうつけくわえたシェーンコップの態度ときたら、カリンが、このような態度だけはとってほしくないと思いつづけてきたものだった。
軽薄で不実な色事師。
「……あなたは、わたしの母をくどくときにも、そんな調子だったんですか!?」
急上昇した声調におどろいたのは娘自身のほうで、父親のほうは文字どおり眉《まゆ》すら動かさなかった。デスクの前に直立したままの娘をあらためて見あげると、
「つまりはそれを訊《き》くのが会見の真の目的か」
舌打ちをこらえるような声が、カリンをいっそう動揺寸前の状態にした。
「興ざめだな。私の父親としての責任を問いたいのであれば、最初からそう言うべきだろう。何も私の作戦指揮をとやかくあげつらう必要はない」
カリンは赤面した。心の発熱が肉体におよんで、?《ほお》の表面の細胞がもえた。
「おっしゃるとおりです。失礼しました。あらためてうかがいますが、わたしの母を――ローザライン・エリザベート・フォン・クロイツェルを愛しておいででしたか」
「愛してもいない女を抱くには、人生は短すぎるだろうな」
「それだけですか」
「愛してもいない男に抱かれるにも、人生は短すぎるだろうよ」
カリンはいきおいよく背すじを伸ばした。関節が音をたてないのが不思議だった。
「閣下、わたしに生命をくださったことには感謝しています。でも、育てていただいたご恩はありませんし、閣下を敬愛すべき理由もわたしの裡《うち》には見出せません。ご忠告にしたがって、はっきり申しあげておきます」
シェーンコップとカリンの視線が正対したが、やがて父親のほうからそれをはずした。彼の表情には、公人としてのカーテンがかけられていたが、そのわずかな隙《すき》間《ま》から苦笑と当惑の月光がもれていた。彼のほうから視線をはずしたのは、ひるんだためではなく、会話によって迷路を織りだす必要を認めないからだ、と、カリンは理性によらずさとった。形式にのっとったという意味においてのみ、完璧《かんぺき》な敬礼をひとつすると、カリンは身をひるがえし、駆けだすことと振りかえることと、ふたつの衝動に耐えながら父の部屋を出た。
V
ワルター・フォン・シェーンコップとオリビエ・ポプランとは、ヤン艦隊における「家庭道徳と良識の敵」の両巨頭である。どちらがより悪質かと問われれば、彼らはためらいもなくおたがいを推薦しあったことであろう。宇宙暦七九九年の末に、両雄は半年ぶりに再会したのだが、
「いや、わが敬愛おくあたわざる上官、戦友のかたがたがしぶとく健在しておられることを確認し、小官の喜び、これにすぎるものはありません」
などとポプランはあいさつしたものである。それにこたえてシェーンコップがいわく、
「よく帰ってきた。ポプラン中佐がいてくれないと、おれの趣味がひきたたない」
シェーンコップのひきたて役になどなる気もない撃墜王《エース》は、いま多少の余裕をもって競争相手をデスクごしにながめている。おれは種はまいても実をみのらせるようなへまはしない、と、その眼光が露骨に語っていた。
「……というわけで、失礼ながらいささかお嬢さんの境遇はこころえているわけです」
お嬢さんということばをことさら強く発音したのは、むろん完全ないやみだが、シェーンコップの顔はイゼルローン要塞の外壁さながらに、彼の内面を保護していた。ポプランは側面にまわって、
「カリンはいい娘《こ》ですよ、父親に似ずね。まだいい女にはなれないでいますが」
「いや、いい娘だとおれも思っているさ。なにしろ養育費が一ディナールもかからなかった」
「今後の精神的|慰《い》謝《しゃ》料に加算されるかもしれませんがね、覚悟しておかれることですな」
辛辣《しんらつ》な皮肉の斬撃《ざんげき》をあびせておいて、ポプランは表情と口調をあらためた。
「シェーンコップ中将、すこしまじめに言いますと、あの娘は自分自身で感情をもてあましているし、それを的確に表現する術《すべ》も知らんのです。年長者のがわが、出口ヘさそってやるべきだと、おれは思いますね。出すぎたことを言って申しわけありませんが」
シェーンコップは表現しがたい視線で、七歳年少の僚友を見やった。ややあって、笑いの波動を声にふくませる。
「いや、今年は記憶と記念に残すべき年だ。おれの知るかぎり、はじめて良識的なことを言ったな、お前さんは」
「それはまあ、娘が父親の罪をせおうこともなかろうしね」
他の人間ならとどめ[#「とどめ」に傍点]をさされたところかもしれなかったが、シェーンコップは平然として同意のうなずきをしたのみか、厚顔にもこうつけくわえたのである。
「まったくだ。ついでに言っておくなら、おれの娘だということで甘えることのないようにしてもらいたいな」
「きびしい父性愛、おそれいりますよ」
自分がやや防御的な姿勢になったことを、若い撃墜王は認めざるをえなかった。このオリビエ・ポプランさまにしてしかり、ましてカリンごとき未熟者が敗退するのは無理もない。
立ちさろうとするポプランに、シェーンコップが最後の一声を投げた。
「お前さんにはこの件に関していろいろと手数をかけてもらっているらしいが、ひとつだけ訂正を求めておく」
「何です?」
「おれのことを不良中年だと言ってまわっているそうだが、おれはまだ中年じゃない」
……半時間後に、ポプランはカリンのもとに瀟洒《しょうしゃ》な姿をあらわした。軍港を見おろす展望ゾーンで所在なげに艦艇の群をながめやっていたカリンは、青年士官の姿を認めて敬礼した。いあわせた数人の兵士が立ちさったのは、遠慮したのであろうか、おそらくある種の先入観にもとづく遠慮であったにちがいない。カリンは気づかず、ポプランは気にもとめなかった。
「どうだ、父上にお会いした感想は。そのようすでは失望したかな」
「いいえ、べつに。ああいう人だとわかっていましたから、いまさら失望なんてしません」
「なるほど。ただ言っておくがな、カリン」
若い撃墜王《エース》の緑色の瞳に、考え深げな光がゆれた。
「おれの知るかぎり、この部隊にいる奴で家庭的に安定して幸福だったというのは、キャゼルヌ家のシャルロット・フィリス嬢くらいのものだぜ。あとは多かれすくなかれ、ろくでもない環境に育ったんだ」
意味もなく黒いベレーに手をやる。
「ユリアン・ミンツにしたところで、両親が健在ならヤン・ウェンリーみたいな社会不適応者の家でやしなわれずにすんだのさ。お前さんよりはるかに幸福だとはいえないぜ」
「中佐」
「うん?」
「どうしてここにユリアン・ミンツ中尉が出てくるんです?」
「ワルター・フォン・シェーンコップ氏のほうが、例としてはよかったな」
「…………」
「ごく幼いころ帝国から亡命してきた人だし、安楽な境遇とはいえなかっただろう、彼も……」
言いさして、ポプランは自分自身の声を遮断した。自分がシェーンコップを弁護するなどというのは不条理きわまる事態である、と気づいたようであった。
「……まあ、何にせよ、カリン、不幸を商品にするのは、うちの艦隊の気風にあわないし、お前さんにも似あわんぜ。たとえ気にいらない奴でもいつまでも生きているわけはなし……」
言いさして、ポプランは、彼と同じ世界を去った戦友のことを不意に想いおこしたようであった。
「イワン・コーネフの野郎なんか、おれを裏ぎりやがった。殺されても死なない奴だと思いこませておいてな」
思わずカリンはポプランの顔を見なおしたが、若い撃墜王《エース》は表情にブラインドをおろしていたので、カリンの洞察力ではまだそれをつらぬくことはできなかった。ポプランは、黒ベレーの角度を注意ぶかくなおしながら立ちあがった。
「順当にいけば、シェーンコップの不良中年は、お前さんより二〇年早くくたばる。墓石と仲なおりしたって意味があるまい」
「中年」という語を発したときのポプランの口調は、おせじにも純朴なものとはいえなかった。
士官クラブで、喪の明けた後の訓練計画をポプランがたてていると、ユリアンがやってきて同じテーブルについた。コーヒーカップからたちのぼるアルコールの霧については何も言わなかったが、ポプランのシェーンコップ父娘歴訪の件は知っていて、
「家庭訪問、ご苦労さまです」
笑って言うユリアンの亜麻色の頭を、ポプランはかるくこづいた。ユリアンもどうやら精神の失調を回復することができたようであったが、おそらく努力をしている最中なのだろうと撃墜王《エース》はみてとった。
「イワン・コーネフなみに憎らしくなってきたな。そのうちシェーンコップ中将クラスに進化するだろう。こまった奴だ」
「すみません」
「まあいい、すなおなうちは救われるさ」
「それで、シェーンコップ家の平和のために何か処方がおありなんですか」
「パターンとしてはだな、娘の生命が危機にさらされる、それを父親が身をもって救い、娘は心を開く……」
「ほんとうにパターンですね」
「|立体TV《ソリビジョン》ドラマの脚本家どもは、同じパターンを何百年も恥ずかしげもなく使っているぜ。つまるところ、人間の心理なんて、石器時代からかわりはせんよ」
「石器時代に生まれても、中佐は名うての色事帥だったでしょうね」
それに対してポプランが何か答えたが、ユリアンは聡覚神経の分まで神経機能を他方角へまわしてしまっていた。
「薄くいれた紅茶の色」の髪、青紫色《パープル・ブルー》の瞳、挑戦的なまでに活力と生気にあふれる表情をユリアンは思いおこした。それは若者にとって不快なものではなかった。これまで彼にそのような情緒的反応をもよおさせた同年齢以下の少女はいなかった。
だが、ユリアンは自分自身の心のスケッチにまだ彩色をほどこそうとする気にはなれなかった。つい半年前、フレデリカ・グリーンヒルのヤンとの結婚を、いくばくかの傷《いた》みをもって見送ったばかりであるのに、たちまちあたらしい舟に乗りかえるのは軽薄であるように思えた。第一、カリンに好意を持たれているという自信もなかったのである。
W
三日間の喪があけると、ヤン・ウェンリーは内心はともかくとして、背すじをのばし、顔をあげて歩くようになった。キャゼルヌに言わせると、ようやく上に立つ者の自覚が出てきた、ということになろうか。
実際、残照の美を悼《いた》んでばかりいるわけにいかなかった。あらたな、より強烈な太陽が反対側の地平にのぼりつつあり、手をこまねいて酷暑の到来を待つわけにはいかなかったのである。ビュコック元帥という堅固な堤防が崩壊したいま、皇帝《カイザー》ラインハルトの覇気は灼熱《しゃくねつ》した怒濤となって全同盟領をのみこみ、古い体制をとかしさるであろう。
喪があけると同時に、ヤンの左手の包帯もとれた。電子治療は、傷ついた皮膚細胞を活性化させ、それに象徴されるかのように、ヤンの脳細胞も暗い寝室からとびだした。知的活力を回復させたヤンを見てフレデリカはよろこび、ビュコック元帥がヤンの襟首をつかんで昏迷《こんめい》の地下室から引きずりだしてくれたのだと思った。
戦略立案や部隊編成、エル・ファシルとの連絡に多忙をきわめながら、ヤンは紅茶を飲む時間は犠牲にしなかった。ヤンのヤンたるゆえんである。
「フレデリカ、私がいま気になっていることがあるんだ」
一日、シロン葉の香気をあごにあてながらヤンが話しかけた。
「つまりレベロ議長が、帝国の意を迎えようとする軍部のはねあがりどもに暗殺されるのではないか、ということだ」
フレデリカは声をのんだ。彼女のヘイゼルの瞳に、ぬいだ黒ベレーを両手でもてあそぶ夫の姿が映っている。
「まさか、そこまでやるでしょうか」
フレデリカが口にしたのは反論ではなく、夫のくわしい説明を求めるためだった。ヤンはベレーをいじくる手をとめた。
「レベロ議長が自ら範をしめしたからね。むろんレベロ議長には自分なりの正当性があったし、自分のみの安泰をはかったわけでもないが、その外形だけをまねしようとする連中はかならずいるだろう」
皇帝《カイザー》ラインハルトは敗者や降状者に対して寛大であるが、それが無原調なものであると誤解すれば、羞恥心《しゅうちしん》や自尊心をポケットから放りすて、手みやげを用意して媚《こび》を売る連中にはことかかないはずであった。
数日を経過して、バグダッシュ大佐から首都の状況についての報告がもたらされた。彼は通信波傍受のため、エル・ファシルからさらに首都方面へ情報収集艦で出動していたのだ。
「自由惑星同盟の元首ジョアン・レベロが一部の軍人によって暗殺されました。決起部隊は帝国軍に降伏を申しいれ、無抵抗のうちに帝国軍はハイネセンヘの進駐をはたしました」
その報を受けて、さらにヤンは妻とユリアンに予言してみせた。
「それでは彼らは自分自身の処刑命令書にサインしたことになる。皇帝《カイザー》ラインハルトは彼らの醜行をけっして赦《ゆる》さないだろうよ」
二、三日してレベロ暗殺グループの全員が銃殺に処された旨《むね》、情報がはいったが、ヤンはもはや何ら関心をしめさなかった。国父アーレ・ハイネセンの理想が衰弱死をとげることは、ヤン自身の首都脱出の際に明白なものとなっていたし、ビュコック元帥の訃報の衝撃のなかで、同盟という国家の滅亡に対する心情も整理されていたからであろう。それより重要な課題が他にいくらでもあった。
「全宇宙に皇帝《カイザー》ラインハルトとローエングラム王朝の宗主権を認める。そのもとで一恒星系の内政自主権を確保し、民主共和政体を存続させ、将来の復活を準備する」
その基本的な構想を説明したとき、エル・ファシル独立政府の首班ロムスキー医師は瞳をかがやかせたりはしなかった。
「皇帝の専制権力と妥協《だきょう》するのですか。民主主義の闘将たるヤン元帥のおことばとも思えませんな」
「多様な政治的価値観の共存こそが、民主主義の精髄ですよ。そうではありませんか?」
軍人が政治家に民主主義について講釈するばかばかしさに、ヤンは内心、ため息をつきたくなる。イゼルローンからエル・ファシルにいたる超光速通信《FTL》網が完全にヤン艦隊の制御下におかれたため、こうして会話もできるのだが、それは会話がみのりあるものであることを保証するものではなかった。
ロムスキー医師は、独立政府の首班として精力的にはたらいている。彼が良心的で責任感にとんだ革命政治家であることはたしかであったが、「どんなに大きくてもファウルでは得点にならない」というワルター・フォン・シェーンコップの毒舌を、じつのところヤンは首肯《しゅこう》せざるをえない。ハイネセンが完全に制圧され、同盟最後の元首が横《おう》死《し》すると、彼は雨靴に不安の羽をはやし、ヤンを呼びつけて、帝国軍エル・ファシル侵攻の可能性について言いたてたものだ。
「そのような事態は充分、予測しておいでだったと思いますが」
ヤンの口調には毒気のスパイスが多少混入してしまう。いまさら皇帝《カイザー》ラインハルトの全面攻勢がせまっているからとて動揺するようで、よくも独立政府だの再革命だのと呼《こ》号《ごう》しうるものだ。そのくせ他方では、ヤンがラインハルトの主権を許容することに難色をしめす。危険なくして理想を満足させたがるのだ。
つまるところ彼らも、ヤンがラインハルトを戦場に倒し、民主国家が宇宙を統一するという夢を素材にして、ヤンに料理させようとしているのだった。そして自分たちはナイフとフォークを手に、刺?《ししゅう》いりクロスのかかったテーブルで待っている。民主主義とは政治という名の高級ホテルの賓客になることではない。まず自力で丸太小屋を建て、自分で火をおこすことからはじめなくてはならないのに。
「考えてみればヤン元帥がバーミリオン星域会戦で皇帝《カイザー》ラインハルトを打倒なさっていれば、万事スムーズにいったのですな。どうせ同盟政府は滅びてしまったのですから。そうすれば、すくなくとも現在吾々が直面している最大の危機はまぬがれていたことになります。惜しいことをしましたな」
むっ[#「むっ」に傍点]として、ヤンは返答しなかった。ロムスキー医師の発言は冗談の厚化粧をほどこされてはいても、素顔がどのようなものであるか明白だった。ヤンの表情をみて、ロムスキーが「冗談ですよ」と要《い》らぬことを言ったので、ますますヤンは不愉快になったのだが、またそれを見てロムスキーは知人に「ヤン元帥には思ったよりユーモア感覚がない」ともらしたものである。「たまらんなあ」というのがヤンの心境であったが、いまさらロムスキーを再教育しうるものでもなかった。
「ヤン・ウェンリーが同盟政府のレベロをすててあらたに選んだのは、エル・ファシル独立政府のロムスキーであった。結局、ヤンには人を見る目がなかったといわざるをえない」
という後世の一部学者の評価は、おそらく公正さを欠くであろう。ヤンはレベロに排除されかかったのであって彼のほうから能動的にレベロをすてたのではなかったし、政治思想と戦略構想の双方をみたす最低限の要件としてエル・ファシル独立政府を選ばざるをえなかったのであって、ロムスキー個人に忠誠を誓約したわけでもなかった。ヤンが口でいうほど安らかに楽をして生涯を送る気であったら、彼はそれこそ「人を見る目」にもとづいてラインハルト・フォン・ローエングラムの臣下になっていたであろう。あるいはその選択のほうが、ヤン個人の安寧《あんねい》のみならず、宇宙全体の――あくまで専制政治の支配下における――平和に貢献《こうけん》しえたかもしれない。その深刻な矛盾と自己|懐《かい》疑《ぎ》から、ヤンはついに生涯、解放されなかった。
X
ユリアン・ミンツやオリビエ・ポプランが地球から持ち帰った光ディスクの件を、ヤンは記憶巣の最奥部に押しこんで、しばらく蓋《ふた》をしてしまっていた。イゼルローン要寒の再奪取にようやく成功したと思ったら、ビュコック元帥やレベロ議長の訃《ふ》報《ほう》があいつぎ、検証する機会を失ってしまったのである。なにしろ地球教本部が帝国軍のワーレン提督によって潰滅《かいめつ》させられたこともあって、地球教に関する情報を集める緊急度が低下したのも一因であった。
極端なことをいえば、ユリアンやポプランが無事に帰ってきたことで、ヤンが満足していたという面も否定しえない。それでも、脳裏の辺地から中心部へ抗議の声がとどき、ヤンは多忙な時間の一部をさいて光ディスクの記録を検証した。フレデリカ、シェーンコップ、ユリアン、ポプラン、ボリス・コーネフ、マシュンゴ、ムライの七名が同席した。そして、ほんの一部を知りえた段階で、愕然《がくぜん》とした顔を見あわせることになる。そこに記録されていたのは、フェザーン自治領《ラント》と地球教との、一世紀にわたる関係であったからだ。
「つまり表がフェザーンで裏の顔は地球教だった、ということになるのか」
「するとフェザーンの商人たちと手を組むことは、地球教の奴らと仲よくチーク・ダンスを踊るということになりますかね」
毒とはいわぬまでも針をふくんだ視線で、ポプランはボリス・コーネフの顔をひとなでし、無言で釈明を要求した。
「冗談ではない、そんなことはおれは知らんぞ。おれが地球教とよい関係があるとすれば、巡礼者を地球に運んだことがあるくらいさ」
ボリス・コーネフが主張するのも当然で、彼は地球教本部においてはユリアンに協力して狂信者たちと銃火をまじえた身である。フェザーンが裏面で地球教となかよく肩を組んでいたといわれたのでは、立つ瀬がなさすぎるというものであった。
ヤンもボリス・コーネフが地球教と同じ歌をひそかにうたっていたなどとは思わない。だが、代々の最高幹部たちはどうか。現在、行方不明とされている「フェザーンの黒狐《くろぎつね》」ことアドリアン・ルビンスキーなどはどうか。これまで何をたくらみ、このさき何をたくらむつもりなのか。
シェーンコップがややとがりぎみのあごをなでた。
「九世紀にわたる執念か、おそれいるね。だがこうなると寒心《かんしん》なきをえないな。ほんとうに地球教の奴らは滅びたのか。総大主教とやらはたしかに死んだのか?」
その疑問を聞いて、不敵なオリビエ・ポプランまでが眉をしかめて沈黙してしまった。彼にしても総大主教とやらの死体を目撃したわけではなく、それを確認するには地球を再訪して数百倍トンの土石を掘りおこさなくてはならなかった。
「わかった、おれをフェザーンヘやってくれ。どうせ独立商人たちと連絡をとらなくてはならないし、この際、ルビンスキーの黒狐についても調べておきたいからな」
「フェザーンヘ行って、そのままもどってこない、などということはあるまいな、コーネフ船長」
ポプランの口調は抑制されたものだったが、内容自体が過激だったので、ボリス・コーネフの不快感をやわらげる効果はなかった。ひとしきり、言語の低気圧が衝突しあった後、ヤンはボリス・コーネフのフェザーン行を承諾して、一同を解散させた。ヤンとしては心楽しくはなれない。フェザーンと地球教の間に尋常ならざる関係があるとすれば、かるがるしく彼らと手をくむことは、投機と狂信の醜悪な連合体が民主主義の内実をくいつくす結果を招来するかもしれない。単に経済上の要求というだけでフェザーンと同じ船に乗りこむわけにはいかないだろう。ヤンの基本的な戦略は、必要条件のひとつに重大な修正をしいられそうであった。
ヤンの部屋に、ヤン夫妻とユリアンが残った。三人ともしばらく、光ディスクの記録と激論の残《ざん》滓《し》のガスを吸っていたが、やがてヤンがソファーにすわりなおした。
「ユリアン」
「はい」
「陰謀やテロリズムでは、結局のところ歴史の流れを逆行させることはできない。だが、停滞させることはできる。地球教にせよ、アドリアン・ルビンスキーにせよ、そんなことをさせるわけにいかない」
ユリアンはうなずいた。
「まして地球教の場合、目的とするのは惑星エゴイズムの充足でしかない。地球の権利を回復するのではなくて、過去を正当化して特権の蜜《みつ》におぼれようというのだからな」
地球教はほんとうに滅びたのか。残党がいるとすれば何をもくろんでいるのか。ヤンは知りたかった。
それにしても時間がない、とヤンは思わざるをえない。第一、目前にせまった皇帝《カイザー》ラインハルトのほうがよほど脅威だ。しかも、地球教のような悪《あ》しき反動であるがゆえに脅威なのではなく、民主主義体制とことなる体制によって時代の変革に成功しつつあるのが脅威なのだ。まったく、専制とは、変革をすすめるにあたって効率的きわまりない体制なのである。民主主義の迂《う》遠《えん》さにあきれた民衆は、いつも言うではないか。
「偉大な政治家に強大な権限を与えて改革を推進させろ!」と。逆説的だが民衆はいつだって専制者を求めていたのではないか。
そしていま、最良の部類に属する専制者をえようとしているのではないか。見あげるにたる、崇拝するにたる半神的存在を――ラインハルト・フォン・ローエングラムを。民主主義など、よりまばゆい黄金の偶像にくらべれば、色あせた青銅の偶像でしかないのではないか……。
いや、ちがう。ヤンはあわてて首を振った。おさまりの悪い黒い髪がゆれた。
「ユリアン、吾々は軍人だ。そして民主共和政体とは、しばしば銃口から生まれる。軍事力は民主政治を産み落としながら、その功績を誇ることは許されない。それは不公正なことではない。なぜなら民主主義とは力を持った者の自制にこそ真髄があるからだ。強者の自制を法律と機構によって制度化したのが民主主義なのだ。そして軍隊が自制しなければ、誰にも自制の必要などない」
ヤンの黒い瞳がしだいに熱を発した。ユリアンにだけは理解してほしかったのだ。
「自分たち自身を基本的には否定する政治体制のために戦う。その矛盾した構造を、民主主義の軍隊は受容しなくてはならない。軍隊が政府に要求してよいのは、せいぜい年金と有給休暇をよこせ、というくらいさ。つまり労働者としての権利。それ以上はけっして許されない」
年金ということばでユリアンは反射的に笑ってしまったが、ヤンはそれほどユーモア感覚にうったえるようなことを言ったわけではなかった。ユリアンは二瞬ほどで笑いをおさめ、反動でまじめすぎるほどの表情になって、長い間考えつづけてきたことを口にしてしまった。
「でも、ぼくは提督には私情で、私欲で動いていただきたかったです」
「ユリアン!」
「おしかりをうけるのは当然ですけど、これはぼくの本心です」
皮肉な状況だ、とユリアンは思うのだ。巨大な才能にとっては、民主主義より専制政治のほうが自由な活動が可能であるとは。ラインハルトとヤンの境遇がもし逆転していたら、あるいはラインハルトは民主政治にとって有害な野心家、あのルドルフ大帝の悪《あ》しき再現となったかもしれないではないか。ヤンのほうこそが黄金の冠をいただくことになったかもしれないではないか。
「そいつは、ユリアン、おもいきって無意味な仮定だね」
「わかっています、でも……」
「私は私情を完全に排したわけじゃない。バーミリオン星域会戦のとき、ラインハルト・フォン・ローエングラムを私は殺したくなかったんだよ、ユリアン、こいつは本気で言っているんだ」
念をおされるまでもなく、ユリアンにはそのことが理解できた。
「彼は人格的に完璧ではないにしろ、この四、五世紀の歴史のなかで、もっともかがやかしい個性だ。それを私の手で撃ち倒すのは、そらおそろしい気分がしてしかたなかった。私はあのとき政府の命令を口実に、逃避したのかもしれない。それは政府や私自身にはあるいは忠実だったかもしれないが、たとえば戦死した兵士たちにとっては許しがたい背信行為だったかもしれないんだ。彼らが権力者の保身や私の感傷のために死ぬべき理由なんてないんだから」
ヤンは笑った。笑うしかない、といった感じの笑いで、それを見るといつもユリアンはことばの無力を痛感させられ、沈黙するしかないのだった。
「私はいつもこうだ。進歩のないことおびただしいな。さて、それほど時間もない。すこしは前向きの話をしようか」
その前に潤滑《じゅんかつ》物が必要なようだった。久々に、ユリアンが名人芸を披露し、アルーシャ紅茶の香気で室内のあらゆる波動をそめあげた。
フレデリカが操作卓《コンソール》に手をのばし、白い指を踊らせると、画面に星図があらわれた。二度三度とそれが拡大され、イゼルローンとエル・ファシルをむすぶ「解放回廊」を描きだす。
「吾々はイゼルローンとエル・ファシルと、ふたつの拠点を有する。帝国軍にしてみれば、複数の敵拠点があればこれを分断するのが当然の用兵策となるだろう。おそらく、皇帝自身の本隊と同時に、帝国領から別動隊がイゼルローン回廊をねらってくると思う……」
「それはいつごろのことになるでしょう」
「そうだね、遠い未来のことではないだろう。時をついやすことのプラス面よりマイナス面を、皇帝《カイザー》は考えるだろうから」
何よりもあの金髪の若者は、自分以外の者が歴史をつくることに耐えられまい、とヤンは思う。時をおけば、他者に策動の機会を与える。自由惑星同盟を名実ともに滅亡せしめた現在、砲火と艦艇の巨大な濁流をもってヤン一党を掃滅にかかるであろう。昔日のルドルフ・フォン・ゴールデンバウムにまさる覇気の怒濤が宇宙をおおいつくす。
それに対して、ヤンは微力ながらも堤防の任をはたさなくてはならない。いつか怒濤が去り、潮がひく日のために。いつのことかはわからない。おそらくヤンの存在が記録上のものにすぎなくなるころだろうけど。
……と、「民主主義の騎士」的な決意をかためながらも、ついヤンは自分と敵手との立場を相対化してしまうのである。一方には平和と統一への最短の道があり、他方には民主政治の王道をめざすはるかな路《みち》がある。双方が流血の戦いをまじえるとき、もし唯一絶対の神とやらが存在するなら、どちらを是《ぜ》とするだろうか。
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第九章 祭りの前
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宇宙暦八〇〇年、新帝国暦二年の二月。惑星フェザーンから惑星ハイネセンの帝国軍大本営にもたらされた報告書は、「一〇〇〇万人の足をとめた一通」として後に知られるようになる。だが、これ以前にこの報告書の内容が周知になっていれば、質の低い冗談として葬りさられたにちがいない。報告を受けたヒルダことヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢が、絶句して数瞬、皇帝への報告をためらったのも無理からぬことだった。
「ロイエンタール元帥に不穏の気配あり」
それが軍務尚書オーベルシュタイン元帥と内務省内国安全保障局長ラングの連名というだけであったら、ヒルダはそんなものに衝撃を受けはしなかったであろう。だが、それは司法尚書ブルックドルフからのものであった。同盟政府からの使者と称するオーデッツなる男が、皇帝《カイザー》にも会えずフェザーンに到着した後、大声で噂をばらまいてまわったのだ。いわく、ロイエンタール元帥に叛意あり。そしてそれに、内務省内国安全保障局長ラングがとびついたのだ。
オーデッツは自分の舌先に国家の命運を賭け、死を覚悟した悲壮な心境で帝国を混乱させようとしたのだろうか。ミッターマイヤーに一蹴されて失われた弁舌家としての自信を.いささか極端な形で復活させようとしたのだろうか。自暴自棄で社会を騒がせたかったのか。よほど弁舌と虚構の効果を期待していたのか。誇大妄想に類する精神的傾向があったのか──その当時は誰にも判断しえなかった。いずれにしても、その創作力と熱意は非凡であったといえるだろう。皇帝《カイザー》ラインハルトの英明をもってしても、ロイエンタールやミッターマイヤーの勇略をもってしても、まさかこのような形で、あの軽薄な長舌族に害をこうむるとは考ええなかった。人は全能ではありえない。とくにその思考は気質の制限をうける。オーデッツのような小人など、直接会ったミッターマイヤーですら、名を失念していた。まして、門前ばらいをくわせたラインハルトや、その傍にいたロイエンタールなどが、記憶の一隅に席をあたえるはずもなかった。
銀河帝国の司法尚書ブルックドルフは四〇歳をすぎたばかりの少壮の法律家で、緻密な頭脳と厳正な政治姿勢の所有者であった。だからこそラインハルトによって一検事から抜《ばっ》擢《てき》されたのだが、皇帝と職務にきわめて忠実である彼は、同時に、新王朝の初代司法尚書となった以上、相応の野心もあれば抱負もそなえていた。倫理と秩序意識を離乳食にまぶして成長し、法律知識の酒と司法事務の食事でおとなになった彼が、私人としてオスカー・フォン・ロイエンタールの漁《ぎょ》色《しょく》をこころよく思っていなかったことはたしかである。だが彼がロイエンタールの弾劾に加担したのは、私人としての感情からではなかった。彼としては政府高官の綱紀を粛正する必要を感じていた──けっしてゆるんではいなかったが、厳しいほどよいにきまっているし──、さらには、軍部に対する司法省の立場を有利に確立してもおきたかったのである。もともとローエングラム王朝は軍人皇帝の下、軍部独裁の傾向が強い。創立時はそれでもよいが、いずれ法律、官僚、軍部の均衡をとらねば健全な国家の発展はありえず、軍部の最重鎮たるロイエンタール元帥を弾劾して軍人どもの鼻柱を折っておくのは無益ではないはずであった。
ロイエンタールの漁色を公然と非難するのは、じつのところ容易ではない。ほとんど例外なく、女性のほうから彼に接近し、一方的な思慕の末に一方的に捨てられるのである。じつはロイエンタール元帥は、現象としての漁色とはまったく逆に、内面はかなり深刻な女ぎらいなのではないか、という噂もあるのだった。それが証拠もなく真実をとらえていると知る者は、生死をともにしてきた親友、ウォルフガング・ミッターマイヤーだけであり、彼がそのことを口外するはずもなかったから、さして信用もされない噂にとどまっていた。
いずれにしてもブルックドルフは噂など信じなかった。彼が信じるのは、状況とおきかえられる現象、それに証拠だけであった。ひとつには、見すてられつつある帝都オーディンに帰るより、明日の宇宙の中枢であるフェザーンに居場所を確保しておきたかったのかもしれない。
軍務尚書オーベルシュタインの諒解と、内国安全保障局長ラングの協力のもとに、ブルックドルフはフェザーンに臨時執務室をかまえ、ロイエンタールの身辺調査に乗りだした。そして、いささか拍子ぬけするほど容易に、エルフリーデ・フォン・コールラウシュという女性の存在をつきとめてしまったのである。
「ロイエンタール元帥は、自邸に、故リヒテンラーデ公爵の一族をかくまっておられる。あきらかに陛下の御意にそむくもの、大逆に類するといっても過言ではありません」
興奮を隠そうとしてラングは失敗し、毛細血管を破裂させた目で司法尚書を煽動した。ブルックドルフはやや不愉快にもなり、法律家としての良識もあって、当のエルフリーデという女性から直接、事情を聴取することにした。あまり容易に女性の存在が知れたので、すべてがロイエンタールに反感を有する者の工作ではないか、とも思われたのである。だが、エルフリーデは拒絶もせず聴取に応じ、結果はラングを狂喜させることになった。
「その女はロイエンタール元帥の子をみごもっている。それを伝えると元帥はそれを祝福し、この子のためにより高きをめざそう、と言った──と、女は証言している」
すくなくとも心の奥では、ラングは歓喜のワルツを踊ったことであろう。彼はまずロイエンタール弾劾の権限を司法尚書からもぎとった。ロイエンタール元帥は陛下の御意にそむいてはいるが、成文化された法律に反してはいないから、ことは司法省の管《かん》掌《しょう》するところならず──というのが理由である。報告書に名前を利用されただけと知ってブルックドルフは激怒したが、結局、法律至上の罠に足をとられた自分自身の愚劣な失敗を思いしらされ、せいぜいいさぎよくしりぞくしかなかった。
エルネスト・メックリンガーはつぎのように記録している。
「パウル・フォン・オーベルシュタインという人は、しばしば辛辣かつ無慈悲な策謀を弄《ろう》して他者を粛清し、しかも弁解も説明もしないので、明快さと率直さを愛する武人型の諸将にきらわれたのは無理もない。ただ、彼は私益をはかって策謀を弄したことはなく、すくなくとも主観的には国家と主君に無私の忠誠をささげていた。軍務尚書としての管理能力、職務に対する忠実度もきわめてすぐれていた。おそらく、最大の問題点は、主君に対する忠誠心と表裏一体化した、彼の猜《さい》疑《ぎ》心であったろう。ミッターマイヤー元帥は、『オーベルシュタインの奴は自分以外の重臣がすべて反逆者の予備軍だと思いこんでいる』と評したが、この評はまことに正《せい》鵠《こく》を射ている。この猜疑心によって、オーベルシュタインは当然ながら信頼すべき僚友を信頼しえず、ラングのような男を用いざるをえなかった。彼がラングの人格を高く評価していなかったことはたしかである。おそらく単なる道具としか思っていなかったであろう。対等の人間なら猜疑したであろうが、道具としかみなしていなかったからこそ、猜疑もしなかった。ところが、この道具には猛獣のごとき牙も猛《もう》禽《きん》のごときくちばしもなかったが、毒の棘《とげ》がついていたのだ」
……こうして、二月二七日、オスカー・フォン・ロイエンタールは、陽気とはいいがたい表情のナイトハルト・ミュラー上級大将を宿舎に迎えることになる。金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の元帥は、朝食を終えかけたところであったが、年少の僚友に食後のコーヒーをともにするようすすめた。ミュラーは知性は充分ながら演技のできない青年で、砂色の瞳にたゆたう曇りを見ただけで、ロイエンタールは彼のたずさえたものが吉報にあらざることを洞察していた。コーヒーを飲みおえたロイエンタールが黒と青の視線でうながすと、ミュラーは緊張に作法のコートをきせて、大本営への出頭を求めたのである。
同日九時。宇宙艦隊司令部にあてられた宇宙港そばのホテルに出勤したウォルフガング・ミッターマイヤーは、ロイエンタール拘禁の報を受けて、睡魔の残兵を一瞬に体内から追い出した。無言できびす[#「きびす」に傍点]を返すと、執務室の扉からとび出しかける。
その瞬間、若いバイエルライン提督がすばやく扉の前に立ちはだかった。
「どこへお出かけです、閣下?」
「知れたことだ。ロイエンタールに会う」
「いえ、なりません、閣下。このような事実が明らかとなった時期にロイエンタール元帥とお会いになっては、無用な疑惑をまねくことになりましょう」
必死の表情でとめる。ミッターマイヤーの両眼に、怒気の電光が一閃した。
「賢《さか》しげに忠告するな。おれには一ミクロンの後ろ暗いところもない。陛下の廷臣どうし、年来の友人どうしが会って何が悪い。誰をはばかる。そこをどけ、バイエルライン」
だが他にも制止する者がいた。
「元帥閣下、バイエルライン提督の言うとおりです。閣下が公明正大であられても、見る者のレンズがゆがんでいれば、映る像もおのずとゆがみます。ロイエンタール元帥の不名誉な嫌疑が晴れさえすれば、いつ閣下がお会いになられても、そしる者はおりますまい。ご自重ください」
そう言ったのはビューロー大将である。
ビューローはミッターマイヤーより年長であり、その説得には軽視しえざるものがあった。「疾風ウォルフ」は、グレーの瞳に充満していた電光を弱め、しばらく沈黙のうちにたたずんでいたが、やがてデスクに腰をおろした。つねの俊敏さとは縁どおい重い動作であり、発せられた声も生気と弾性を欠いていた。
「おれは帝国元帥の称号を陛下よりたまわり、帝国宇宙艦隊司令長官という過分な地位もいただいた。だが、どれほど高位につこうとも、友人と会うことすらままならぬのでは、一庶民にもおとるではないか」
幕僚たちは声もなく、敬愛する上司を見つめていた。
「あのとき、陛下は未だローエングラム侯爵の身分であられたが、リヒテンラーデ一族の男どもを死刑に処すること、女どもを流刑に付すことはたしかにお命じになられた。だが、配所に流された女どもを永劫に他地へ移してはならぬとはおっしゃらなかった。ロイエンタールはけっして御意にそむいたのではない」
それはきわめて不器用な詭《き》弁《べん》であり、自分自身のためにならミッターマイヤーはけっして使うことはなかったであろう。
「いずれにしてもロイエンタール元帥は軍部の重鎮であり、国家の元勲であられます。無責任な噂を信じて処罰をくだされるようなことは、皇帝《カイザー》ラインハルト陛下はけっしてなさいますまい」
ビューローの声に機械的なうなずきで応じながら、ミッターマイヤーは、不安の雨滴が心の平地に落ちはじめる光景を、孤独のうちにながめていた。
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ロイエンタールの幕僚ハンス・エドアルド・ベルゲングリューンの鋭角的に引きしまった顔が憂色をたたえている。大敵を相手として沈毅さを失ったことのない彼も、上官の意外な危機を前に、当面は無力だった。
先年、イゼルローン要塞を同盟軍の手中から奪還したとき、ロイエンタールはベルゲングリューンにむかって、皇帝に対する単純ならざる心理の一端をもらしたことがある。いま、仮設大本営となった国立美術館の一室で、端然と椅子に腰をおろした上官の背中とダーク・ブラウンの頭髪をながめながら、ベルゲングリューンは息ぐるしさに耐えていた。
ロイエンタールの「尋問」にあたったのはナイトハルト・ミュラーであったが、この尋問者は被尋問者に対して礼が篤《あつ》く、ベルゲングリューンの陪席を認めたのも、秘密裁判めいた印象と、ロイエンタール麾《き》下《か》の人々の動揺をさけるためであったろう。
ミュラーの質問に対するロイエンタールの答弁が壁に反響した。
「自分ことオスカー・フォン・ロイエンタールが武力と権力にまかせて略奪暴行をこととし、人民を害しているなどと噂されるのであれば、これは自分にとって最大の恥辱である。反逆して帝座をねらうと言われるのは、むしろ乱世の武人にとって誇りとするところ」
ほとんど傲然とも称すべきことばに.ベルゲングリューンは呼吸器の機能を急停止させ、ミュラーはデスクの表面で音もなく指を踊らせた。
「……しかしながら皇帝《カイザー》ラインハルト陛下が先王朝において元帥府を開設されて以来、自分は一日の例外もなく陛下が覇業をなされるに微力をつくしてきた。その点についていささかも心にやましいところはない」
ベルゲングリューンの先入観が彼自身の意識野を侵蝕しているのであろうか、ロイエンタールの答弁には微妙すぎる陰翳がふくまれているように思える。
「笑うべきは、自分を誹謗する者の正体である。内務省内国安全保障局長ラングとは何者か。先年、上級大将以上の武官のみが出席を許される会議において、資格もなく出席しあまつさえ発言までもなした不心得者だ。そのとき自分に退室を命じられて不満をいだき、私情をもって不当な告発をなしたのであろう。その間の事情にご留意いただきたい」
ひととおり問答を終えるとミュラーがたずねた。
「閣下のご主張はうけたまわりました。いかがです、陛下に直接お会いして弁明なさいますか、元帥」
「弁明ということばは意にそわぬな……」
ロイエンタールは唇の片端を微妙な角度につりあげた。
「だが、陛下に直接お会いしてわが意のあるところを知っていただければ、讒《ざん》訴《そ》者どもにつけいられる隙もなくなろう。お手数だが、ミュラー上級大将、しかるべくとりはからっていただけようか?」
「元帥がそうお考えなら、問題はありません。すぐにも陛下にその旨《むね》をお伝えしましょう」
ラインハルトがミュラーからの通達を受けて、金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の元帥を自ら審問するにいたったのは、昼食後である。場所は冬バラ園を糸杉の林の彼方にのぞむ国立美術館の大広間で、帝国軍進駐までもよおされていた油彩画展の出品物が未だにならべられていた。陪席を許可されたミッターマイヤー以下の軍最高幹部はおりたたみ椅子を自らの手でならべてそこにすわったが、これは新王朝の形式美にこだわらない一面をしめしたものである。彼らが椅子を並べて見まもるなかで、呼吸する美術品のような金髪の皇帝は、むしろもの憂《う》げに端麗な唇をひらいた。
「ロイエンタール元帥」
「は……」
「卿が故リヒテンラーデ公の一族につらなる女を私邸においているという告発は事実か」
ただひとり大広間の中央に直立したロイエンタールの金銀妖瞳《ヘテロクロミア》──深く沈んだ黒い右目と、鋭くきらめく青い左目とが、若い皇帝をおそれげもなく直視した。後悔や弁明とは無縁の目であった。
「事実です。陛下」
つぎの瞬間に、広間の空気が波だったのは、ロイエンタールではなく彼の親友の声によってであった。彼は椅子から立ちあがっている。
「陛下! ロイエンタールはその女に逆恨みされ、生命をおびやかされたのです、非礼を承知であえて申しあげますが、どうか前後の事情をお考えの上、ロイエンタールの軽挙をお赦《ゆる》しくださいますよう」
軍服の裾が引っぱられるのにミッターマイヤーは気づき、わずかに視線を動かした。傍の席に坐していた「沈黙提督」ことアイゼナッハ上級大将が、口を線形にたもったまま、鉱物質の表情でミッターマイヤーを見あげた。彼の言わんとするところを諒解はしたが、ミッターマイヤーはなお皇帝へのうったえをやめない。
「陛下、|わが皇帝《マイン・カイザー》、私は軍務尚書オーベルシュタイン元帥、および内務省内国安全保障局長ラングのほうをこそ弾劾します。ヤン・ウェンリー一党がイゼルローンに拠《よ》って帝国に公然と敵対しようとしているいま、陛下の首席幕僚たるロイエンタール元帥を誹《ひ》謗《ぼう》するとは、軍の統一と団結をそこね、結果として利敵行為に類するものではありませんか」
彼の熱気は、皇帝の心を、すくなくとも表面はとかしたようである。ラインハルトは端麗な唇の線をわずかにほころばせた。
「ミッターマイヤー、そのくらいにしておけ。卿の口は大軍を叱《しっ》咤《た》するためにあるもの。他人を非難するのは似あわぬ」
帝国軍最高の勇将は、若々しい顔をあからめ、呼吸をととのえて、ぎごちなく着席した。皇帝と被審問者との問答に割りこむのは本来なら不敬罪にも該当する非礼であった。彼は皇帝に甘えたわけではなく、一喝と厳罰を覚悟の上であったのだが、ラインハルトにしてみれば、「疾風ウォルフ」の剛直は不快をもたらすものではなかった。
「|わが皇帝よ《マイン・カイザー》」
ロイエンタールが主君に呼びかけた。「マイン・カイザー」ということばをもっとも美しく発音した者はロイエンタール元帥であった、と、後に幾人かが語った、その口調である。皇帝《カイザー》ラインハルトは才知と同様、美貌においても比類ない存在であったが、ロイエンタールも堂々たる美丈夫であり、皇帝の前で背すじをのばして直立する姿は、美術館内に多くかざられた彫刻群の美と威厳をこえていた。
「|わが皇帝よ《マイン・カイザー》、リヒテンラーデ公の一族の端につらなる者と知りながら、エルフリーデ・フォン・コールラウシュなる女を私邸におきましたのは、わが不明。軽率さは深く悔いるところです。しかしながらそれをもって陛下に対する叛意のあらわれとみなされるのは、不本意のいたり、誓ってそのようなことはございません」
「では、その女がみこもったことをつげたとき、それを祝福して、その子のためにより高みをめざそうと語ったというのは?」
「そちらは完全な嘘偽です。あの女が妊娠したことを私は存じませんでした。存じていれば……」
金銀妖瞳の海に自嘲の氷山がわずかにその頭頂部をのぞかせた。
「即座に堕胎させておりました。この点、うたがう余地はございません」
「なぜそう断言できる」
「私には人の親となる資格がないからです、陛下」
ロイエンタールの声には暗さはあっても濁りがなく、大広間にいならぶ人々の沈黙をさらに深めた。ミッターマイヤーは友のために軍服の下で汗を流した。
その点に関して、ラインハルトは質問しようとしなかった。ロイエンタールが私行上さまざまに悪評を招いていることを、むろんラインハルトは知っているが、たとえ専制君主であっても臣下の精神上の寝室に土足でふみこむ気はなかった。もともと他人の色事などに興味をいだく彼でもない。若い皇帝の氷河の一部をうえこんだような白い歯の間からは、ロイエンタールの返答と一見無関係なことばがつむぎだされた。
「未だローエングラムの家名をつがぬころ、予は卿から忠誠を誓約されたことがあったな……」
それは五年前、ラインハルトがミューゼル大将でしかなかった一九歳の日である。クロプシュトック侯爵による皇帝暗殺未遂事件が発生し、派遣された討伐軍が帝都オーディンへ帰還してきた夜。雷鳴が夜と雨の厚いカーテンを切り裂くなか、単身でラインハルトとジークフリード・キルヒアイスのもとを訪ねたロイエンタールは、友人ミッターマイヤーの生命が門閥貴族どもの手中にある事情を説明し、助力をこうとともに、今後の忠誠を誓約したのである。
いま、共通の光景が、皇帝と統帥本部総長の視野にかさなりあっていた。
「あの夜のことをおぼえているか、ロイエンタール元帥」
「忘れたことはございません、陛下。一日といえども」
「ではよい……」
ラインハルトの表情から憂愁の翳《かげ》りが消えさったわけではないが、靄《もや》をとおして一条の陽光がきらめきわたったようであった。
「近日中に処分を決する。宿舎において指示を待て──それまで卿の職務はミュラー上級大将に代行させる」
安《あん》堵《ど》の呼気がかさなりあって大広間に微風の流れを生んだ。深々と一礼してロイエンタールおよび陪席の諸将が退出した後、ラインハルトはもと館長室であった執務室にもどり、側近の人々に意見をたずねた。ロイエンタールの処分をどうするか、についてである。
高級副官シュトライトは思慮ぶかい眼光を若い美貌の主君に正対させた。
「ロイエンタール元帥が陛下の功臣であり国家の元勲であることは万人の知るところです。もし流言をかるがるしく信じて功臣をおろそかにするようなことがあれば、人心は動揺して、自分たち自身の地位にも不安をいだきましょう。陛下、どうかご明察あって公正なるご処置をたまわらんことを」
「ほう、予がロイエンタールを処断したがっているように見えるか」
シュトライトに答えながら、ラインハルトの視線はヒルダにむけられた。智略と識見をもってなる伯爵令嬢は、だがそのとき、つねになく即答をさけた。ロイエンタールの存在は味方にすれば比類なくたのもしいが、彼にはどこかヒルダを不安にさせるものがあった。
昨年、バーミリオン会戦の前後に、ヒルダはミッターマイヤーに、同盟首都ハイネセンを直撃するよう依頼した。そのとき感じたものを、いまでもヒルダは完全に蒸発させることができずにいたのである。
V
主人が不在となった統帥本部総長執務室では、ロイエンタールの幕僚たちが今後の打開策を語りあっていた。
レッケンドルフ少佐が身を乗り出した。
「閣下、僭《せん》越《えつ》ながら申しあげます。コールラウシュとかいう女を軍務尚書からお引きわたしいただき、ロイエンタール元帥と対決させるべきでしょう。そうすればその女がロイエンタール元帥をおとしいれようとした事実が判明しましょう」
そう提案されたベルゲングリューンは憮然とした視線を僚友に投げかけた。
「そう簡単に事態は運ばんぞ、レッケンドルフ少佐。軍務尚書の為人《ひととなり》は卿も知ろう。ひとたびその女を手に入れた以上、どのような供述をさせるも軍務尚書のほしいままではないか」
大将の意見は正当なものに思えたので、少佐は沈黙した。ベルゲングリューンが腕をくんだ。
「まだロイエンタール元帥の身が確実に安全になったとは、残念ながら断言できぬ。いまのところ陛下は、旧《ふる》い友《ゆう》誼《ぎ》をご信頼あって、寛大な気分でいらっしゃるようだが、今後はどちらに天《てん》秤《びん》がかたむくか……」
彼が自分自身の楽観をいましめるようにつぶやいたとき、士官のひとりが訪客の存在をつげた。
訪客は、ミッターマイヤー宇宙艦隊司令長官の幕僚、フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー大将であった。
ビューローとベルゲングリューンは、かつて、故人となった赤毛のジークフリード・キルヒアイスの麾下にあって勇名を競いあった仲である。アムリッツァ会戦においてもリップシュタット戦役においても、艦列をならべて戦ってきた。キルヒアイスが不慮の死をとげた後、その旗艦バルバロッサは光栄ある乗手を失って帝都の宇宙港につながれ、幕僚たちは分散して各処に配属された。いま所属する部署はことなっても、ともに死線をこえた記憶は風化するものではない。
ビューローは別室でベルゲングリューンに対面し、皇帝はおそらく寛大な処置をたまわるであろうこと、ミッターマイヤー元帥も全面協力を約したことをつげて旧友をはげました。
「ありがたいことだ。だがな、ビューロー」
声を低めたベルゲングリューンの表情には、雷光を内にひそめる積乱雲がみなぎっていた。
「おれは軍務尚書のよけいな差出口で、上官たるキルヒアイス提督を失った。彼は若いが、まことの名将だった。わずか二、三年の間に、同じオーベルシュタイン元帥のおかげで二度まで上官を失うようなことがあっては、おれの人生は悲惨で滑《こっ》稽《けい》きわまるものとなるだろう」
「おい、ベルゲングリユーン……」
旧友の眼前で、ベルゲングリューンは熱くて重い吐息をはきだした。
「わかっている、ビューロー、おれの責務はロイエンタール元帥をなだめて激発させぬことだ。全力をあげてそうつとめよう。だが、元帥が犯した罪より過大な罰をこうむるようなことがあれば、おれは看《かん》過《か》しえぬ」
室内に他人がいないことを知りつつも、ビューローは周囲に視線を配らずにいられない。
ロイエンタール元帥が私邸にリヒテンラーデ公爵の一族の女などを置いた、その軽挙がそもそもの原因ではある。だが、ヤン・ウェンリーとその一党がイゼルローン要塞を再奪取し、帝国全軍に団結と協力が要求されるこの時期に、統帥本部長の私行上の失点をとがめだて、大逆罪に直結するかのように言いはやす輩《やから》。それを僧悪する旧友の心情を、ビューローは充分に理解しえた。
ジークフリード・キルヒアイスが不慮の死をとげて以来、ベルゲングリューンはオーベルシュタインに対する反感と不満の小さな火を絶やすことができずにいた。あのとき──旧帝国暦四八八年の九月、ラインハルトをねらった暗殺者の銃火は、本来、キルヒアイスの肉体ではなく銃口によってはばまれるはずであった。その日まで彼ひとりが、ラインハルトの傍で武器の所持を許されており、その射撃の技倆は衆にぬきんでたものであったのだから。
武器所持を不公正な特権とみなして廃止すべく進言したのはオーベルシュタインである。それを容《い》れたラインハルトにも罪はあるが、自らを悔いる彼にくらべ、冷然たるオーベルシュタインのほうに、キルヒアイスの旧部下たちは、いきどおりを禁じえずに今日にいたっているのだった……。
惑星フェザーンにいる軍務尚書オーベルシュタイン元帥は、星々の大海をへだててベルゲングリューン大将らの敵意を感知することはできなかった。だが、感知したところで、態度や方針を変更することはなかったであろう。
ロイエンタールの「叛意」を単なる噂から皇帝《カイザー》自身の審問を生むまでに育てあげたのはハイドリッヒ・ラングである。彼がゆがんだ喜びをもって、無責任な噂に多量の水と肥料をあたえるありさまを、オーベルシュタインは無言のうちに見まもっていた。奨《しょう》励《れい》もしなかったが制止もせず、不肖の弟子の演技をながめているようであった。ロイエンタールが失墜すればそれもよし、そうならなければそれまでのこと、とでもいうのであろうか。ラングの行為を黙認しているというだけでも、ミッターマイヤー元帥をはじめとする諸将は、オーベルシュタインに好意的ではいられないであろうに。
彼の部下フェルナーは思うのだ。軍務尚書は、あるいは諸将の反感・敵意・憎悪を彼の一身に集中させることで皇帝の楯となっているのかもしれない。それらしいことを彼自身がもらすことはけっしてないので、単にフェルナーがそう解釈したというにすぎないかもしれず、そもそも当のオーベルシュタインにそのような意識があるか否か、判断しがたいところである。それにしても、本来、軍務省の属官でもないラングがオーベルシュタインの腹心|面《づら》でフェザーンにいすわっている風景は、フェルナーには愉快ではなかった。だが態度にはいっさいださない。彼もそう単純明快な価値観の所有者ではなかったのである。
ロイエンタール元帥がついに皇帝自身の審問を受けることになった旨《むね》を報告にきたラングに、オーベルシュタインは義眼のひややかな光をむけた。ラングは内心の喜びにもかかわらずうつむいて、軍務尚書の厳格な顔よりむしろデスクにむけて語りかけているようだった。報告がおわると、はじめてオーベルシュタインが声を発した。
「ラング」
「は……?」
「私を失望させるなよ。卿の任務は国内の敵を監視して王朝を安泰せしめるにある。私怨をもって建国の元勲を誣《ぶ》告《こく》し、かえって王朝の基礎を弱めたりしては、不忠のはなはだしいものになろう。こころえておくことだ」
「こころえております、尚書閣下、どうぞご懸念なきよう」
オーベルシュタインに透視能力はない。低く低くさげられて床に対面したラングの顔に、微量の汗と、奇妙に違和感にみちた蒸気がたゆたった。誰ひとり見まもる者のいない空間で、彼の顔はジグソーパズルの無機的な細片で構成されたように思われるのだった。
「……ハイドリッヒ・ラングが最初から危険な意図をもって事態を進行させようとしていたのか、自信をもって断定するにたる根拠はない。だが、帝国暦〇〇二年の初頭においては、未だ漠然としたものではあっても、彼の野心は輪郭をあらわしていたように、現在となっては思われる。軍務尚書オーベルシュタイン元帥と統帥本部総長ロイエンタール元帥とを相争闘させ、自らが漁夫の利をえて帝国最大の重臣にのぼりおおせる、という……。これは今日、論評にも値しないだいそれた喜劇的発想であるように思われる。周知のように、ラングは、ロイエンタールのようにかずしれぬ武勲をかさねた不敗の名将ではなかった。オーベルシュタインのように、謀略と軍政の能力によって国家と主君の公敵を掃《そう》滅《めつ》してきた有力な幕僚でもなかった。彼は単なる陰謀家であり、不名誉な秘密警察の長であるにすぎなかった。だが、歴史は無数の実例をもって吾々に教示する。能力も識見もない単なる陰謀家が、しばしば、自分よりはるかに有能な、あるいは偉大な人物を底なし沼につきおとし、その相手だけでなく時代そのものの可能性を沈めさってしまうことを……」
後にそう記録を残すことになるエルネスト・メックリンガー上級大将は、このときラインハルトからの命を受け、後方総司令官として麾下の全兵力をイゼルローン方面へ動かしつつあった。イゼルローン要塞を奪取したヤン・ウェンリーの行動を、攻防いずれにせよ掣《せい》肘《ちゅう》しなくてはならない。ヤンが帝国領へ侵入してくればそれを防御し、逆にヤンが旧同盟領方向へ動くときにはその後方を扼《やく》す。重大な任務というべきであった。
激発し、感情にまかせて大軍を動かしたように見えながら、ラインハルトは広大な宇宙の全域における軍事的情勢を、蒼氷色《アイス・ブルー》の視野におさめている。そしてそれは、イゼルローン要塞にあるヤン・ウェンリーのすでに洞察するところでもあった。
W
帝都オーディンを出立する前日、メックリンガーはケスラー、ワーレンの僚友ふたりと夕食をともにした。
このとき、後方総司令部参謀長──すなわちメックリンガーの補佐役であるレフォルト中将はすでに衛星軌道上の艦に移乗して司令官を待っている。
同盟軍ないしヤン・ウェンリー一党に対し、帝国が武力において圧倒的優位をほこることは事実であるが、メックリンガーから見れば軍事力の配置状況にやや問題がある。皇帝《カイザー》ラインハルトと彼の最高級の幕僚たちはほとんどフェザーンから同盟領にかけての広大な宙域に軍を展開させ、いまのところ同盟制圧は完全な成功をみていた。一方、同盟領より広大な帝国本土においては、若い覇者に見捨てられたかに見える帝都オーディンをケスラー上級大将が防衛し、メックリンガーはイゼルローン回廊周辺に布陣する。ワーレンも近日、地球討伐行以来の出撃を命じられるであろう。本来の帝国領における軍事力の密度は薄くならざるをえない。
「おれはいささか不安でな、メックリンガー提督。皇帝《カイザー》が大本営をフェザーンに遷《うつ》されるのはよいとして、このオーディンをどうなさるおつもりか。陛下にとってだいじなかたもおられるのに」
食後のコーヒーを前に、ケスラーが問題を提起した。
「卿が言いたいのは陛下の姉君のことではないか、ケスラー提督」
ケスラーは憲兵総監兼帝都防衛司令官であって、艦隊指揮官ではなく、本来「提督」の称号を受ける身ではないのだが、僚友たちは形式にこだわらず,当人もそう呼ばれることを喜んでいる。
「そうだ。グリューネワルト大公妃殿下。あのかただ」
「皇帝《カイザー》と大公妃は、ご姉弟どうし、あれ以来ずっとお会いになっておられぬのだったな」
アウグスト・ザムエル・ワーレン上級大将がためらいがちに問いかけた。あれ[#「あれ」に傍点]とは旧帝国暦四八八年九月のジークフリード・キルヒアイスの死である。あの悲劇を契《けい》機《き》として、当時のグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼはフロイデンの山荘に移ったのだった。
三人の名将は共通の懸念をテーブルの上にたゆたわせた。
皇帝《カイザー》には世《よ》嗣《つぎ》がいない。彼と血を共有する人物は宇宙にただひとり、グリューネワルト大公妃アンネローゼが存在するだけである。皇帝たる弟の愛情と全宮廷の敬意を独占する貴夫人だが、フロイデンの山荘でひっそりと生活しており、血縁をたてとして国政に干渉することもない。皇帝はこの姉に対して、しばしば旧皇宮たる新無憂宮《ノイエ・サンスーシー》でともに生活することをこうたが、アンネローゼは謝絶しつづけ、ラインハルトはしかたなく最小限の衛兵を送って姉の身辺を遠くから警護させていた。
まことに不吉かつ不敬をきわめる想像ではあるが、皇妃なく皇子なきまま皇帝《カイザー》が世を去ったとき、新生ローエングラム王朝を解体と崩壊の危険から救うのはこの姉君であるかもしれないのだった。このままフェザーンに全字宙の中枢が移転すれば、オーディンは辺境の一惑星に転落する。そうなれば当然、警備の兵力も減少する。グリューネワルト大公妃の身辺の安全をより確実にたもつには、フェザーンへ移転してもらえればそれにこしたことはなかった。ついでにケスラー自身も、より帝座の近くへうつることがかなえば、願ってもない。
「しかしそれは順序が逆だな。まず皇帝《カイザー》に皇妃を立てていただくべきだろう。そうすれば王朝の存続に何ら問題はない」
メックリンガーが笑うと、他の二名も苦笑で応じた。じつはまさにそれが最大の問題なのであって、彼らの若い主君は、比類ない美貌にもかかわらず女色といまのところ無縁なのである。その意志さえあれば、後宮を繚《りょう》乱《らん》たる花々で埋めつくすこともかなう身であるのに。しかし彼らがどう気にやもうと、これはラインハルト自身の心のおもむきにゆだねるしかない問題であった。
「そうだ、思いだした。問題といえば、カール・ブラッケのことがあった……」
ケスラーがあげた名は、民政尚書の座にある閣僚のものであった。旧帝国時代から開明派の要人として知られ、貴族でありながら「フォン」の称号をはずし、現在の財務尚書オイゲン・リヒターとともにラインハルトの改革政治に協力してきた人物である。
「ブラッケ民政尚書が皇帝《カイザー》に対して何かふくむところでもあるというのか」
「不満をもらしている。連年みだりに兵を動かし、戦役に国費をついやし、死者をふやすこと度がすぎる、と、先日部下にもらしたそうだ。いささか酒もはいっていたようだが」
「国庫は未だ充分に安定しているはずだが」
「戦役をやめて内治につとめれば、より安定するはずというのだ。正論ではあるが、おれとしてはブラッケの不用意な発言が反|皇帝《カイザー》派を利するほうが問題に思えるな」
ワーレンが左の義手でややぎこちなくあごをおさえて考えこむと、メックリンガーがコーヒーカップをピアノの鍵盤にみたてるよう指でたたいた。
「想像に翼をあたえてみれば、背後に不穏な意思を有する者がいて、ブラッケを代理人にしたてているのかもしれんな。いますぐ彼の処置を云《うん》々《ぬん》するのも暴挙というものだが……」
「いずれにしてもブラッケ民政尚書は陛下が任命したもうた閣僚で、おれなどがどうこうできるものではないのだ。背後に誰か──そう、たとえばあの地球教徒どもがのたくっていたとしてもな」
彼らが蛇の一族でもあるかのように、ケスラーは広い肩をすくめて嫌悪の意思をしめした。
「考えてみれば、地球教の狂信徒どもに生存者がおり、奴らが報復をはかっているとすれば、おれとワーレン提督とは奴らの宗派の敵として、暗殺リストに名をつらねていること疑いないな」
「では死なばもろともにということになるか」
一笑しようとして完全には成功せず、ワーレンは表情に鋭いにがみをくわえた。地球教団の本拠を武力攻撃するに際し、彼は地球教の刺客によって襲われ、左腕を永久に失ったのである。奇禍に耐えて任務を遂行したことで、ワーレンの剛毅さと冷静さに対する評価は高まったが、その評価によってワーレンの失われた腕が再生するものでもなかった。
古風な時計が一〇時をつげた。この邸宅の主人メックリンガーは、散文詩人、ピアニスト、水彩画家であるとともに骨董品の収集家でもあった。口ひげをととのえた端整な紳士であり、リップシュタット戦役においては、敵地を占領するや即座に美術館や博物館にかけこみ、兵火から美術品を守ったものである。ケスラーがからかった。
「卿の収集家ぶりも堂に入ってきたな。そのうち卿は皇帝《カイザー》やヤン・ウェンリーの戦歴を収集しはじめるのではないか」
メックリンガーはきまじめに考えこんだ。
「ヤン・ウェンリーが魔術を弄《ろう》するまで、イゼルローン要塞は難攻不落だったはずだ。ところが彼は、要塞をまるでフライング・ボールのボールのように簡単に所有者を変えるものにしてしまったのだ。あれを芸術というなら、まさにあれ以上のものはない」
「だが.あれを模《も》倣《ほう》しうる者が他にいるとも思えんな」
「されてはたまらぬ。にしても、思えば敵ながら賞賛に値する男だ。あの寡兵をもって、わが帝国の全軍をささえ、奔《ほん》命《めい》につかれさせるとはな」
ワーレンの声には真実の重みがあった。先年、ヤンの奇略によって大敗をしいられた彼であったからだ。むろん、言外に、「二度はやられぬ」との決意がある。
やがてケスラーが最初に帰路をとった。彼の監視対象のひとりであるヨブ・トリューニヒトの動静について、部下の報告をきかねばならなかったからである。
前同盟元首ヨブ・トリューニヒトに対するケスラーの態度は、よくいって「鄭重な無視」というところであった。トリューニヒトがヤン・ウェンリーに忌避されていたとの情報を複数の経路からえて、彼は未だ見ぬ敵将に共感をいだくところがあったほどである。ヤン・ウェンリーの立場では、多数派支配という民主政治の根本原理を尊重せざるをえなかったが、ケスラーはヤンのおちいっていたような二律背反《アンビバレンツ》と無縁でいられたし、彼の気質はヤンよりさらに剛性であったから、もともとトリューニヒトの巧言と変節に好意的でありえようはずがなかった。彼の目から見ればトリューニヒトは不名誉な政治的盗賊でしかない。民主共和政体の不備を利用して権力を盗み、国家の衰亡それ自体を利用して自己一身の安泰を盗んだ。彼が家族と資産をともなって帝国領内に去った後には、喰いあらされた政治機構と、呆然自失の状態におちいった支持者が残された。
皇帝《カイザー》ラインハルトも彼をきらい、仕官をゆるさなかったが、トリューニヒトのほうは未だ枯《こ》淡《たん》の心境にはなりえないようで、豊かな資金と無原則なまでの行動力によって官界への工作をおこたらない。
自分の司令部へ向かう地上車の後部座席で、ケスラーの不機嫌は水量をましていく。彼が首都防衛司令官兼憲兵総監として、僚友たちと別れ、ひとりオーディンに残留しているのは、皇帝《カイザー》の命令とそれにこたえうるケスラー自身の実務能力のゆえであって、彼の志望のゆえではなかった。彼に危機対処能力も組織管理能力もなければ、彼は地上をはいまわりつつ星空を見あげて憮然とせずにすんだであろう。ケスラーは、僚友たちの武勲をそねみはしなかったが、彼らのいる場所には羨望を禁じえなかった。数万隻の艦隊を統率し、星々のむらがる暗黒の大海をおしわたる勇者たち。本来、彼ウルリッヒ・ケスラーも、そうあるべしと志向して武官の途《みち》を自らの人生に選んだのである。
にもかかわらず、現実の彼は、征服されるべき星の群から数万光年をへだてて、主人のいない宮殿を守りつつ、トリューニヒトのような男を接待しなくてはならない身である。彼が戦場に出ぬまま平和と統一が達成されれば、ケスラーは、主君の偉業を喜ぶいっぽうで、不満のささやかな砂粒の存在を感じずにいられないだろう。
ケスラーが司令部に到着するころ、ワーレンも帰路についていた。一ケ月後にはこの三人はそれぞれ数千光年をへだてた場所にいるはずであった。
X
三月一日。昼の間、臆病《おくびょう》にとびはねていた春の尖兵《せんぺい》が夕暮の寒風に一掃されると、冷気が厚い透明なマントで惑星ハイネセンの一角をつつんだ。午後一〇時、皇帝の近侍エミール・ゼッレ少年は、もう用はないから寝《やす》むようにと皇帝から声をかけられ、廊下ひとつをへだてた自室にもどった。パジャマに着かえ、乳白色にくもった窓をわずかにあけると、身ぶるいするような冷気とともに冬バラの香気が鼻孔に侵入してきて、少年は小さなくしゃみをした。静寂な夜のなかではその音がひびいたとみえて、広い庭園を哨戒《しょうかい》していた兵士たちが不審の視線を送ってきた。エミールは窓をとざし、就寝前の儀式として大きなのび[#「のび」に傍点]をひとつすると、ベッドにとびこもうとした。まさにその瞬間だった。窓の形に切りとられた白い光の塊が部屋の中央部をえぐったのは。光がオレンジ色に変色したかと思うと、今度は巨大な音の塊がエミールを押しつぶした。何かが爆発したのをさとりつつ、少年はベッドをとび出した。
爆発音は連鎖してエミール・ゼッレの耳道を侵略した。思わず耳をおさえ、かえって反響になやみながら皇帝の部屋へとびこもうとすると、扉の前にすでにガウン姿のラインハルトがたたずんでいた。周囲に親衛隊員が柱と壁をつくるなか、黄金の髪がオレンジ色の光の波をうけてかがやきわたった。
「何ごとか、キスリング」
「いま調べさせております。いずれにしても、陛下、安全な場所へご案内いたしますゆえお急ぎを」
猫とも豹《ひょう》とも呼ばれる親衛隊長が、トパーズ色の瞳をむけて言うと、皇帝はうなずいた。
「エミール、着がえをてつだってくれ。皇帝がガウン姿で逃げだしたとあっては、同盟人の笑話に供されるだろう」
そのような場合ではない、と、キスリングは言いたげであったが、エミールにとって命令とは皇帝《カイザー》の口から発せられることばのことである。ためらいもなくラインハルトの後につづいて部屋へはいり、若い征服者が黒と銀の軍服に着がえるのをてつだった。窓外に展開する光と影と爆発音の狂騒曲を無視して自分の着がえをすませると、皇帝はエミールのほうがパジャマ姿のままであるのを見て表情をくずし、自分のガウンを忠実な少年の身体にかけてやった。
足ぶみまでも靴音をたてずにしていたらしいキスリングに案内されて、皇帝たちは冬バラ園に出た。すでに諸将が兵士をつれて集合しつつあった。黒とオレンジ色の縞《しま》が乱舞するなかで、狙《そ》撃《げき》を心配して身を隠すよう諸将がすすめたが、ラインハルトはそれを黙殺して昂然《こうぜん》と美しい黄金色の頭をあげていた。その姿を、大きすぎるガウンに身をつつんだエミールは崇拝の目で見あげていた。
火災は暁の最初の光が地平に一閃の白刃を横たえたころ、おさまった。火災原因の調査は、翌朝から即時開始された。被災者の救恤《きゅうじゅつ》と並行しておこなわれたのはむろんだが、原因自体はすぐに判明した。旧同盟軍から鉱山開発用として民間にはらいさげられていたゼッフル粒子発生装置が、エネルギー源を切られぬまま誤作動し、どこかの小工場で徹夜の作業をしていた、その火花が引火したのである。
この大火は結局のところ失火であり、同盟政府の崩壊と帝国の統治権力確立との間隙に発生した責任体制の私生児であったのだが、当時の人々はほとんどこれを放火とみなした。そうみなすほうが、当時の状況にあっては自然であったのだ。帝国軍としては、混乱に乗じてのテロを目的として旧同盟軍の残党が放火したのだろうと思いたいところであったが、実際には組織的な蜂《ほう》起《き》はなかった。混乱につけこんでの暴動は各処で発生したが、ことごとく初期の段階でおさえこまれていた。これは、ミッターマイヤーやミュラーの沈着な指揮ぶりもさることながら、ロイエンタールが周密に配慮していた緊急事態処理の教本《マニュアル》によって、帝国軍が効率的に出動し、要所をおさえて動揺しなかったからであった。
「とにかく犯人が必要だ。犯人を検挙せねば人心が安定しない」
消失面積一八〇〇万平方メートル以上、死者および行方不明者五五〇〇名以上、うち地理不案内の帝国軍兵士が半数をしめた。さらに、多くの歴史的建造物が灰と化したが、これは帝国軍にとってはまったく痛痒《つうよう》を感じぬことで、それだけに、勝ち誇った帝国軍が火によって旧弊を一掃しようとしたのだ、とまことしやかに噂する者もあった。憲兵副総監ブレンターノ大将が、いくつかの「犯人候補」のなかからひろいあげたのは、かつて同盟国内の好戦主義団体として猖獗《しょうけつ》をほしいままにした「憂国騎士団」の残存グループであった。
弾圧によって憂国騎士団が反帝国の英雄として象徴化される可能性を、帝国軍としても考慮しないではなかったが、捜査の結果、宇宙暦七九六年から七九九年にかけて、憂国騎士団と地球教団との間に資金や人員の面で関係があったことが判明すると、もはや遠慮する必要を認めなかった。証拠はないにしても、彼らがやったことにちがいない、と信じる者も多かった。ひとつには、昨年夏の皇帝暗殺未遂事件からこのかた、地球に関係あるものは証拠なしに弾圧するも可なり、という不文律が帝国の政府と軍部には成立していたということもある。
一時的にでも憂国騎士団および地球教団と関係を有していた者二万四六〇〇名が検挙の対象となったが、実際に検挙された者は二万人に達しなかった。五二〇〇名が抵抗して射殺され、一〇〇〇名が逃亡したからである。彼らのアジトの多くから武器が押収され、弾圧の正当性を証明する皮肉な結果を生んだ。
こうしてブレンターノは治安責任者としての面目をたもつことができたが、ひとたび灰と化した都市の復興は後日の重大な課題として残された。
三月一九日。冬バラ園の仮設大本営に、帝国軍の最高幹部が参集した。この日、ロイエンタール元帥の処分が皇帝から発表されることになっていた。先日の大火にともなう混乱を最小限にとどめた功績が彼にはあり、おそらくきわめて軽い処分となるであろうことが予想された。だが、皇帝の宣告は、一瞬、出席者の心に霜をふらせた。
「ロイエンタール元帥、卿の統帥本部総長の任を解く」
無音のざわめきは、急激に可聴域にまで高まろうとしたが、最初の宣告につづくラインハルトの声は、冬バラ園の全域で人々の不安を散らせてしまった。
「かわって卿に命じる。わが帝国の新領土《ノイエ・ラント》の総督として惑星ハイネセンに駐在し、旧同盟領全域の政治および軍事をことごとく掌管《しょうかん》せよ。新領土総督は地位と待遇において各省の尚書に匹敵するものであり、皇帝に対じてのみ責任をおうものとする」
うやうやしく頭をたれたロイエンタールの秀麗な顔に血が上っている。かるい処分などというものではない。想像の地平のむこうにのみ存在した栄光が、彼の前に拝《はい》跪《き》している。金銀妖瞳《ヘテロクロミア》の角度をややかえると、黒と青の瞳に友人の姿が映った。自分自身のことのように、ミッターマイヤーは喜色をうかべている。
ロイエンタールは、統帥本部総長就任以前に彼が指揮していた艦隊を与えられ、さらにクナップシュタイン、グリルパルツァー両大将の艦隊を麾下におさめることとなった。その結果、彼は艦艇三万五八〇〇隻、将兵五二二万六四〇〇名という大軍を統率する身となったのである。皇帝《カイザー》ラインハルト自身につぐ、これは銀河帝国において第二の強大な武力集団であった。また、総督の地位が閣僚に匹敵するものとさだめられ、それが皇帝自身から宣告されたことは、ロイエンタールが制度上、軍務尚書オーベルシュタイン元帥と同格の地位にたったことを意味する。むろん実戦力においては、はるかに軍務尚書を凌駕《りょうが》するものであった。
ラインハルトの決定は、ロイエンタールの一身にとどまるものではなく、それにともなう組織や人事の変更もこのとき発表された。
「統帥本部は予が自らこれを統轄する。幕僚総監をおいて予を補佐させるが、この職にはシュタインメッツ上級大将をあてる。新領土総督府が成立するからにはガンダルヴァ星系に駐屯する卿の任務も完了したものとみなしてよいであろう」
じつはこの席を、最初ラインハルトはヒルダのために用意したのだが、一兵をも指揮したことのない身では諸将にはばかりがあるとて、伯爵令嬢は辞退したのであった。
「ただ以上の人事は、イゼルローン要塞に拠るヤン・ウェンリー一党を屈服させた後に発効するものである」
ラインハルトの、金砂をまぶしたような声が、参列する文武の廷臣たちの間に戦慄《せんりつ》に似た緊張の見えざる糸をはりめぐらした。
「諸勢力、諸分子が妄動《もうどう》せぬうちに、予はヤン・ウェンリーとその一党を討つ。彼に時を貸せば、その戦力が強化されるだけでなく、予と予の誇る軍隊とが、一個人の奇略をおそれて宇宙統一の責務をおこたったと喧伝《けんでん》されるであろう。ここに宣言する。予はヤン・ウェンリーを予の前にひざまずかせぬかぎり、オーディンはおろかフェザーンヘも帰らぬことを……」
ラインハルトの声は、楽器なき交響楽となって諸将の覇気に和した。最初に誰が叫んだのかは不明である。冬バラ園の香気と清冽《せいれつ》な冬の大気が、熱くたぎる声に割れくだけた。
「|ラインハルト皇帝ばんざい《ジーク・カイザー・ラインハルト》!」
さらに、ルッツ上級大将を最前線から更迭《こうてつ》してフェザーン警備司令官に任じ、ワーレン上級大将をオーディンより呼びよせて戦列に参加させることなどをつげて、ラインハルトはひとまず宿舎のサロンにもどった。
冬バラ園をみわたす、広くはないが居心地のよいサロンに腰をおちつけると、エミールがコーヒーをはこんでくる。ヒルダが、思いもかけない課題をもちだしたのは、ラインハルトがコーヒーカップを受皿にもどしたときであった。
「陛下、彼女をどうなさいますか」
その代名詞が誰をさしたものか、一瞬、ラインハルトは記憶巣を刺激させそこなったようなので、ヒルダは補足せねばならなかった。
「ロイエンタール元帥の私邸にいたというリヒテンラーデ公一族の女性です」
「ああ……」
うなずいたラインハルトの表情に、無関心と困惑のわずかな光彩がゆらめいた。じつのところ、エルフリーデ・フォン・コールラウシュなる女性の存在など、すでにラインハルトの心にはなかったが、いちおう言ってみる。
「妊娠していると聞いたが、中絶させれば問題なかろう」
「妊娠してすでに七ケ月ということです。この時期になっての中絶は母体をそこなう危険が大きすぎます」
「ではどうしたらよいとフロイラインは思う?」
「お許しをえて申しあげます。最善であるかどうか、かならずしも自信はございませんが、ロイエンタール元帥の私邸からどこかの施設へ彼女を移し、出産の後、うまれた子供は養子に出してはいかがでしょう」
「いますぐフェザーンから旧《もと》の流刑地へもどすというわけにはいかぬかな」
それにはヒルダは反対だった。宇宙船の跳躍《ワープ》が、この時期の胎児におよぼす悪影響を考慮すべきであった。流産または死産という結果が生じれば、またあらたな悲哀と憎悪の種子がまかれるのではないか、と、ヒルダは思ったのだが、ロイエンタール自身にはことなる見解があったことであろう。
「……わかった、フロイラインにまかせる」
簡単にラインハルトは処理をゆだねた。彼の心は星の海をつらぬく長大な征路を歩みはじめており、一女性のささやかな運命に目をむけるような無益なことをしたくなかったのである。ヒルダにはそのことはよくわかっていた。ラインハルトは非情なのではない。豊かで巨大な感性は、宇宙といまひとつの存在にささげられていたのだ。彼が冷酷であれば、エルフリーデに死を命じて、将来さらにもつれるかもしれない糸を切断してしまったであろう。むろんこれを「甘い」とみるものも当然存在するであろうが……。
「ヤン・ウェンリーを討ち、完全に宇宙を統一なさったらオーディンヘもどって姉君にお会いになれますわね」
言い終える寸前に、すでにヒルダは後悔していた。皇帝の声に冬の気配がこもった。
「出すぎたことを言わないでもらおう、フロイライン、あなたには関係のないことだ」
「……はい、申しわけございません」
すなおにヒルダは謝罪した。考えればラインハルトは勝手なもので、フロイデンの山荘にある姉のもとへ、個人的な使者としてヒルダを送りだしたこともあるのだ。無関係などと一蹴しうるものではないはずだった。
だが、そのような少年めいた心の動きは、ヒルダには充分に許容の範囲内であった。
Y
惑星フェザーンの地下深くに、厳重に外界と隔離された一室があった。そこに一年の月日をすごした人々は、いまひそかに、市街を五〇〇キロほどはなれたオカナガン山地に移動し、針葉樹林の奥に誰も知らぬ偉容をほこる館にひそんでいる。帝国軍の非友好人名録に名を記された五〇人ほどの人々を、ひとりの男が支配下においていた。
暖炉のあるサロンに、日中から二重のカーテンをおろしているアドリアン・ルビンスキーという名のその男は、フェザーンが自治領《ラント》と称して内政自主権を所有していた当時の自治領主《ランデスヘル》であった。ラインハルトの敢行したフェザーン占拠に際して権力の座を追われ、帝国軍の手中におちる寸前に地下に潜行したのである。現在、帝国軍の傀儡《かいらい》として総督の地位にあるボルテックがこれを知れば、舌なめずりして旧主人を処断の皿にのせるだろう。いましばらく、ルビンスキーは森の隠者たるに耐えねばならなかった。
彼に正対するソファーに、ワイングラスを片手に坐《ざ》した女が口をひらいた。
「皇帝《カイザー》ラインハルトとロイエンタールの亀裂は修復したみたいね。粛清するどころか、旧同盟領全体の総督に任じるなんて! あなたの工作は、逆効果もいいところだったのじゃない?」
「たしかに修復したかに見えるな。だが、皇帝《カイザー》がロイエンタールに与えた地位と戦力は、一臣下には巨大すぎるものだ。すくなくとも軍務尚書オーベルシュタインなどはそう思うだろう。亀裂は隠れただけで、けっして消えてはいない」
「あなたが広げにかかるしね」
冷嘲の声を網のように投げかけた女は、ルビンスキーの情婦で、歌手出身のドミニク・サン・ピエールであった。冷嘲の波動をたくましい身体に吸いこみながらルビンスキーはつづけた。
「いまひとつ、皇帝の弱点はあのお美しい姉君だ。グリューネワルト大公妃が害されるようなことがあれば、皇帝は逆上する。英雄も名君も消えさって、激情家の孺子《こぞう》だけが残る」
「そうなれば御しやすいと思っているわけ?」
「すくなくとも、逆上する以前よりはな」
沈着というより無感動な表情でルビンスキーは応じ、ウイスキーグラスを口もとにはこんだ。
「でもはたして成功するかしらね」
「成功しなくてもよいのだ。たとえ未遂でもそのような暴挙が企図されたというだけで、充分に効果がある。金髪の孺子《こぞう》も、前進と上昇だけが奴の人生でないとさとるだろう。奴の権勢は拡大の一方で空洞化しつつある。奴は膨張する風船の上に立っているのだ」
アドリアン・ルビンスキーは、このとき、ウイスキーグラスから液体化した陰謀をのみこんで胃壁で吸収し、自己のエネルギーに転化する非人間的な生物めいて見えた。
「姉が刺客にねらわれたとあれば、皇帝《カイザー》ラインハルトは新領土《ノイエ・ラント》を放っておいて姉に会いにもどるだろう。そのとき、皇帝《カイザー》と隙《げき》を生じたロイエンタール元帥が、堕天使となる誘惑に耐えずにいられるかな」
「どうせあなたが煽動するんでしょう」
先刻の反応をドミニクがくりかえした。ルビンスキーに対する冷嘲の調子は、彼女の属性と化しているようであった。
「必要性がどうこう言う前に、火の気のすこしでもあるところに油をまくのが好きなのだから。もしかして惑星ハイネセンの大火も、あなたのしくんだことじゃなくて?」
「高く評価してもらってうれしいが、あれは偶然だ。あまり各処に火を放ちすぎると、消火する前に自分自身が焼死することになる。だが、ひとたび発生した火災だ。できれば有効に利用したいものだな」
「あなたは廃物利用の天才だものね」
銀河帝国の幼帝エルウィン・ヨーゼフ二世、ランズベルク伯アルフレット、もと帝国軍大佐シューマッハ……そのほか無数の固有名詞がルビンスキーの道具箱にしまいこまれている。フェザーンの裏面の支配者であった地球教の幹部たちの名すらも。
「それにしても、地球教はほんとうに滅びたのかしらね」
「……さてな」
返答が即時のものでなかったことに、ドミニクは意味をもたせたく思ったが、ルビンスキーの反応はまったくちがう方向に水音をたてて出現した。「フェザーンの黒狐《くろぎつね》」は情緒をかく声で情婦の鼓膜をひとなでしたのだ。
「どうだ、ドミニク、ひとつ私の子供を産んでみないか」
一瞬の沈黙は、古いチーズのような臭気をともなった。
「あなたに殺させるために? ごめんこうむるわ」
その一言が不可視のナイフと化して胸郭を斬《き》り裂いたとしても、ルビンスキーは表情には出さなかった。かつて彼は、彼の地位を奪おうとこころみたルパート・ケッセルリンクという青年を死にいたらしめた。その青年はルビンスキーの息子であり、ドミニクは共犯として父親の息子殺しに加担したのである。
辛辣《しんらつ》という名の香水のにおいを後に残して自室にひきとる情婦の後姿を、フェザーンの前|自治領主《ランデスヘル》は乾季の沼のような目つきで見送った。
「……そうではない、ドミニク。私を殺させるためにさ」
その声はドミニクの背中を射程におさめるには低すぎた。
Z
ラインハルト・フォン・ローエングラムは冬バラ園の芝生の一角に腰をおろして、傲慢な春の侵略の前に敗退してゆく冬バラたちの末期を見まもっていた。すでにファーレンハイト、ビッテンフェルトは麾下の艦隊をひきいてイゼルローン方面へむかい、ミッターマイヤー、ロイエンタール、ミュラー、アイゼナッハらの諸将も大遠征軍の進発準備を完璧《かんぺき》にととのえつつある。フェザーン回廊をとおって旧同盟領を縦断し、イゼルローン回廊を突破して帝国本土へ帰還する。構想といい実行といい、ラインハルト以外の何者もなしえぬであろう壮麗をきわめた作戦であった。
「……予は呪《のろ》われた生まれつきかもしれない」
皇帝の低い声が冬バラのしおれた花びらを打ち、ただひとり傍にひかえていたエミール・ゼッレがおどろきの波動を宙に流した。
「平和よりも戦いを好むのだ。流血によってしか人生をいろどりえなくなっている。あるいは他にやりようがあるのかもしれないのにな」
「でもそれは陛下が宇宙の統一を願っていらっしゃるからではありませんか」
当人にかわってエミールが熱心に主張した。
「統一がなれば、自然に平和になります。それにおあきになったら、ほんとうにべつの銀河系へいらっしゃればよろしいではありませんか」
そう、統一は平和をもたらす。だが、それから将来《さき》はどうなるのだろう。彼の発する生命力のかがやきは、それを受ける敵がいてこそ華麗なものとなるのに。いっそこの少年が想像をはばたかせるように、べつの銀河系へでもいくべきだろうか。
ラインハルトは、画家の想像のうちにしか存在しえないほど形のよい手をのばして、少年の髪をなでた。
「お前は優しい子だな。よく予のことを思ってくれる。予は、予を思ってくれる者を幸福にしてやりたいのだが……」
それが独語であることは明白だったので、エミールは返答せず、憂いの霧にけむる皇帝の美しすぎる横顔をひかえめに見つめている。ラインハルトは昔日《せきじつ》のように、自分の愛情と熱意がそれを反映する人々の幸福を約束すると信じこむことはできなくなっていた。もっとも彼の愛した人々にとって、自分は結果として兇神《きょうしん》となってきたのではないかと思うことすらある。だが彼は、かつてたてた誓約を忘れたことはなかったし、それを遂行する義務をおこたろうと思ったこともなかった。
三月にはいって、ハイネセン方面から帝国軍の哨戒の手をのがれて「解放回廊」へ流入する旧同盟軍艦艇と民同船の数は増大の一途をたどっていた。四月の足音が近づくと、彼らのもたらす情報は、危険水位のいちじるしい上昇をしめすものとなった。
皇帝《カイザー》ラインハルトは、ヤン一党の掃滅を宣言し、ビッテンフェルト、ファーレンハイトの両上級大将に先発を命じた。惑星ハイネセンはすでに帝国軍最大の軍事基地へと豹変しつつある。急激に戦機は熟しようとしている。
ラインハルトの壮麗な意図を察して、ヤン・ウェンリーも怠《たい》惰《だ》の冬衣をぬぎすて、脳細胞のすべてのポケットをひっくりかえして迎撃作戦を立案にかかっていた。彼の構想を有利な形で実現させるためには軍事的抵抗という手段を放棄するわけにはいかないのだ。彼の部下たちも、「伊達《だて》と酔狂《すいきょう》」のことごとくをかけて、司令官の作戦にしたがうべく用意をととのえている。巨大なイゼルローン要塞も、内部に充満する人的エネルギーによって飽和状態に達するようで、この生死をかけた「お祭りさわぎ」を、ユリアン・ミンツは後に細部まで思いだすことができた。
作戦図に見入って身じろぎもしないヤンの額に浮かぶ汗を、フレデリカがふいている。キャゼルヌが数字と格闘している。シェーンコップが槍《やり》試合にのぞむ騎士のように装甲服を手入れしている。ポプランが、あらたに編成されたスパルタニアンの各中隊につける酒の名を選んでいる。ムライがしかつめらしく書類を整理し、フィッシャーは黙々と艦隊を点検し、シュナイダーをしたがえたメルカッツは、そこにいるだけで将兵の気分をおちつかせる。アッテンボローは艦隊運動のパターンを編成しながら、「革命戦争の回想」とタイトルをつけたノートを手ばなさない。そして、初陣をひかえたカリンことカーテローゼ・クロイツェルの上気した顔……。
どのような別れが、またどれほどの流血が彼らを待つのか、それらを承知してはいても、イゼルローン回廊はヤン艦隊にとって祭りの広場だった。せいぜい陽気に、にぎやかに、彼らしかなしえない祭りを楽しもうではないか……。
宇宙暦《SE》八〇〇年、新帝国暦二年の三月。ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーは、イゼルローン要塞からエル・ファシル星域にかけての「解放回廊」をめぐって、バーミリオン星域会戦以来はじめて直接に戦火をまじえようとしている。それが彼ら両名にとって最大の衝撃をもたらすことを、彼ら自身も未だ予測しえなかった。