黒蜘蛛島 薬師寺涼子の怪奇事件簿5
田中芳樹
目 次
第一章 拷問室《ごうもんしつ》に悲鳴がひびく
第二章 カナダで日本文化を語る
第三章 トラブルは馬車に乗って
第四章 赤い館の秘密?
第五章 蜘蛛之巣《くものす》塔
第六章 過去へとつづく糸
第七章 クモ女VSアイスクリーム女(※[#○C、unicode24b8]岸本明)
第八章 決闘は貴婦人《レディ》の嗜《たしな》み
第九章 海神《ポセイドン》に献杯《けんぱい》
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第一章 拷問室《ごうもんしつ》に悲鳴がひびく
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四月の陽光をたたえていた碧空《あおぞら》が、みるみる灰色の雲におおわれた。最初は白に近い灰色だったのだが、雲がいきおいよく厚みを増すにつれ、その下層は低くたれこめ、色を濃くして黒に近づいていく。その急変ぶりに呼応《こおう》して、数億のサファイアを溶《と》かしたかのような海も、碧から黒へ、音もなく変色していくのだった。
すごいものだ、と私は思った。カリフォルニアが五分間でスコットランドに変わってしまったようだ。ここカナダ西海岸、バンクーバーという都市は、自然環境の美しさ豊かさで知られている。だからこそ陽気さから陰鬱《いんうつ》さへの変化ぶりもあざやかだった。甘美ささえ感じさせていた風も、強さは変わらないのに温度を低下させつつある。コートを持ってきて正解だった。四月半ば、暖流のめぐみがあるとはいえ、この土地は北海道より北にあるのだ。
陸と海、摩天楼《まてんろう》と山がいりみだれた地形は香港《ホンコン》に似ている。だが緯度と人口のちがいだろうか、はるかに緑は濃く、空気は清涼だ。深呼吸しても、東京のように、肺の迷惑にはならない。
カナダにいるといっても、私はカナダ人ではない。泉田準一郎《いずみだじゅんいちろう》という名の日本人、それも観光客ではなく、出張中の公務員である。勤務先は警視庁、それもよりによって刑事部参事官室。職務内容はというと、一言でいって、上司のお傅《も》り。
私のお傅りの対象は、私と並んで立ち、カナダの大地を足もとに踏みつけている。警視庁刑事部参事官・薬師寺涼子《やくしじりょうこ》である。
薬師寺涼子はスプリングコートの裾をジョージア海峡からの風にひるがえし、タイトなミニスカートから伸びた長い脚をむき出しにしている。不機嫌そうな表情だが、どんな表情だろうと、この女《ひと》は美しいのである。短い茶色の髪、あわく血の色を透《す》かした白い肌、完璧な鼻の線、淡紅色の唇は大理石像のように硬質の線を描く。同年代の日本人女性より一五センチ近くも背が高く、高い分が全部、脚なのだ。外見《がいけん》は美神《ヴィーナス》だが、内実《ないじつ》は軍神《マルス》。初対面の者は例外なくだまされる。
私はノンキャリアの警部補で三三歳、涼子はキャリアの警視で二七歳。彼女が上司で、私が部下。階級の差はふたつだが、年間所得の差は一〇〇倍くらいあるだろう。彼女は巨大企業|JACES《ジャセス》のオーナー会長のご令嬢で、警視庁から受けとる給料などハシタガネというご身分なのだ。
父親が警察の大物OBということもあるが、薬師寺涼子の存在は警視庁の内外で畏怖《いふ》されていた。彼女に個人的な弱みをにぎられている有力者や名士の数は、銀河の星々か、恒河《ガンジス》の砂粒か。一方ではその傾国《けいこく》の美貌と金権とに、すすんでひれ伏す者も多く、要するに重要問題人物なのであった。
これで無能であれば、飾り物にしておけばすむのだが、涼子の有能ぶりは誰もが認めざるをえなかった。彼女がいなかったら、いくつの怪事件が迷宮入りとなったことか。彼女がハイヒールを鳴らして闊歩《かっぽ》するところ、犯罪者は平伏し、真実は低頭《ていとう》し、上司は苦虫をかみつぶしつつ彼女の表情をうかがう。涼子を失脚させようとして返り討ちにあった連中の頭数だけで、ベーブ・ルースが打ったホームランの数をかるく上まわるにちがいない。
「つまらないなあ、来るんじゃなかった」
わざとらしく伸《の》びをしながら、涼子が私を見やる。何かいってみろ、というようすなので、いってやることにした。
「だいたいあなたが、ご実家の法事に出席するのがイヤなあまり、刑事部長の話に飛びついた。それがあわただしく海外出張するハメになった原因じゃないですか。バチあたりなことをいうのもほどほどにしてください」
「だってカナダの西海岸だなんて思ってなかったんだもの」
「というと、東海岸ならいいんですか」
「そうよ。モントリオール、ケベックシティ、大西洋沿海地域《アトランティック・カナダ》、メイプル街道、ローレンシャン高原、セントローレンス河、ナイアガラの滝……そういうのだったら、風景も美しいし、歴史や文化の香りも高くて、観光する甲斐《かい》があるってものよ」
「風景でしたらこちらも美しいですし、第一、公務で来てるんですよ。歴史をめぐる旅は、つぎの機会にしてください」
「おーお、マジメな公務員だこと」
「おほめにあずかって恐縮《きようしゅく》です」
可能なかぎり冷然と私は応じた。
ひかえめな足音がして、中肉中背の中国系カナダ人が歩みよってきた。カウボーイハットとブルゾンを着用し、血色のよい丸顔、四〇歳前後とおぼしき彼は、|王 立 騎 馬 警 官 隊《ロイヤル・カナディアン・マウンテッド・ポリス》の呉《ウー》警部であった。正確には、警部級の捜査官というべきなのだろう。
王立騎馬警官隊《RCMP》。いかめしい名だが、要するにカナダの連邦警察である。これに|B C《ブリティッシュ・コロンビア》州警察、バンクーバー市警察が並存《へいぞん》しているのだから、ナワバリをあらそう事態もしばしばだろう。今回、死者が日本人だから、国際的な事件ということで、王立騎馬警官隊《RCMP》が担当するということらしい。
バンクーバー大都市圏の人口は、いまのところ二〇〇万人以上。そのうち三割がアジア系で、さらにその大半が香港《ホンコン》出身の中国系市民。「ホンクーバー」と呼ばれるのも、もっともな現状である。呉《ウー》警部のような中国系の捜査官が存在するのも、また当然だが、彼は英語と広東《カントン》語しかしゃべれない。どうせなら日系人にしてくれればよかったのに、と、つい利己的なことを考えつつ、何とか英語で意思を通じあわせる。
呉《ウー》警部は私たちに指《さ》ししめした。
「死体はあの繁みに横たわっていました。ふたり行儀《ぎょうぎ》よく、あおむけに並んでましたよ」
海に面して傾斜した南向きの緑地。有名なUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)のキャンパスに隣接している。この大学のキャンパスはほぼ二キロ四方という広さで、バンクーバー市街の西端に位置し、空間と緑の豊かさは、東京の大学と比較するのもばかばかしくなる。
ここでふたりの日本人が死んだ。若い男女のカップルだ。日本人ならまず「心中《しんじゅう》」と思うところだが、そんな風習のまれな外国では、最初から殺人として捜査されるようである。
呉《ウー》警部が説明を加える。
「発見したのは、近所に住む老婦人ふたりです。一週間前の早朝でした」
「ジョギングでもしていたのですか」
「いや、ベリー摘《つ》みです。今年最初のね」
大都会で、それは優雅な話だ。ふいに、足もとに小さな影が疾《はし》ったのでおどろいた。黒いリスがベリーをくわえて疾り去っていく。なるほど、自然の恵みが豊かな土地らしい。
呉《ウー》警部が手わたしてくれた写真を、私はながめた。涼子と同年輩とおぼしい女性の顔が、私を見返した顔の造作《ぞうさく》そのものは、美人といってもよかったが、両眼の光は弱く、肌には生気が欠け、全体として荒廃した印象を禁じえない。死後の写真ではなく、呉《ウー》警部が入手した生前のものだ。あう機会があったとしても、私が彼女に惹《ひ》かれる可能性は、ごく低かったろう。
「西海岸《ウエストコート》の日本人社会では、札《ふだ》つきでしたよ。あの女には気をつけろ、という評判でした」
どうも気の毒ないわれようである。だが、「被害者」たちにとっては、それぐらいではまだいいたりないにちがいない。
彼女、井尾育子《いおいくこ》は日本の短期大学に在学中、語学研修とやらでロサンゼルスに渡航して、そのまま住みついてしまった。日本人相手のクラブに、コンパニオンとして雇われ、イコという愛称で客たちに人気があったらしい。ほどなく有名人や有力者と親密な関係を結んでは、その写真や会話のテープをマスコミに売りこむようになった。金銭と、のしあがるための契機《きっかけ》と、両方がほしかったようだ。だがやりかたが拙劣《せつれつ》で、自分の居場所をせまくしただけだった。やがて彼女はロサンゼルスにいられなくなり、サンフランシスコへうつる。
サンフランシスコからシアトルへ、ついに国境をこえてバンクーバーへ。北上をつづけたあげく、カナダの西海岸で彼女の人生は終りを告げた。死因はヘロインの急性中毒によるショック。重要人物を脅迫して殺されたのか、秘密パーティーの際の事故か、いずれにしても死体の周辺に注射セットは見あたらなかった。死後、遺棄《いき》されたことはたしかだ。
「で、男のほうですが、こちらも別の意味で札つきでしてね」
男の姓名は西崎陽平《にしざきようへい》、年齢は三〇歳。日本の高校を卒業してカナダに渡り、水上飛行機とスカイダイビングの免許を取得するため、専門学校に通ったが、半年とつづかなかったらしい。ガイドと称して、日本からの観光客や留学生、ビジネスマン等にたかりはじめた。詐欺《さぎ》まがいの行為をかさねるうち、井尾育子と知りあい、やがて同棲する。ふたりで共謀して、同朋《どうほう》から金銭をむしりとる生活を、ここ三年ほどつづけていたらしい。
「それが、何やら、このひと月ほど妙に景気がよかったようで一万カナダドルほどの借金を清算し、いい金ヅルができた、と知人に自慢していたそうです」
「やっぱり恐喝、ですかね」
時差ボケのせいだけではないだろう、われながら声に熱がはいらない。死者たちの人物像も、転落の閲歴《えつれき》も、金ゾル云々《うんぬん》の発言も、うんざりするほど安っぽいパターンの構成部品でしかないように思われた。担当の呉《ウー》警部には悪いが、溜息をつきたくなる。こんな事件を処理するために、太平洋を渡ってきたかと思うと、八時間にわたる空の旅の疲れが、急に出てきた。
「で、結局のところ、バンクーバー駐在の日本総領事館がまったく非協力的で、捜査の打ち切りすら暗に要求してくる。しかたなく、直接、警視庁に連絡してきた、と」
「今後も総領事館の協力なんて見こめないわね」
涼子の返答には、どこか含《ふく》むところがあった。何かたくらんでいるな、と私は思った。すくなくとも何かを知っている。だが現時点で何を尋ねても無益だ、ということを私は学んでいた。
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呉《ウー》警部が部下に呼ばれ、電話を受けるために私たちのところから離れた。私は暗い空を見あげ、視線を涼子にもどした。
「ちょっとくだらないことをうかがっていいですか」
「何よ」
「いや、たいしたことじゃないんですが、さきほどカナダ東部の名所を列挙《れっきょ》なさったとき、プリンス・エドワード島の名前が出てこなかったので……」
「ああ、そんな名前の島があったわね。あんまり興味なかったけど」
まったくたいしたことではないのだが、ついでなので私は尋ねてみた。
「もしかして、『赤毛のアン』をご存じないってことはないでしょうね」
「知ってるわよ、『赤毛のアン』くらい。親のいない少女が、根性と度胸でのしあがっていくお話でしょ」
「え? はあ、そういえないことも……」
「ヒロインは愛人と組んで、モノワカリの悪い親戚《しんせき》どもを皆殺しにして、一族の全財産を乗っとろうとするのよね。たしか江戸川乱歩が絶讃してたっけ」
すこし記憶をたどってから、溜息まじりに私は答えた。
「それは『赤毛のレドメイン家』です」
「似たようなもんじゃないの」
「題名だけはね。でもジャンルも舞台もちがいますよ。『赤毛のレドメイン家』の舞台はヨーロッパで、カナダではありません」
「うるさいな。赤毛だろうが金髪だろうが、登場人物がおとなしく自然死するようなナマヌルイ小説、わざわざあたしが読むとでも思ってるの。人生は短くて、読める本の数はかぎられてるのよ!」
最後の部分については、私も同感である。本は選んで読みたいものだ。だが、さらなる反論をひかえたのは、べつの理由からだった。
じっは私は一〇分ほど前から、ひとつの光景が気になっていた。海を背景にして道路に停《と》まっている一台の自動車。全長七メートルほどもある豪華なリムジンだ。まさか警察関係者の車ではあるまい。
何の用があって停車しているのか。考えすぎだとは思うが、私たちの捜査を監視している、という可能性もある。私の視線がしばしばそちらに向くので、涼子も視線を動かして、リムジンの所在に気づいた。一陣《いちじん》の風が森と大都会を吹きぬけて、コートの裾をはためかせ、みごとな脚線美を強調する。
リムジンというやつが、私はどうも好きになれない。長すぎる車体はデザイン上の均整をあきらかに失っているし、銅臭紛々《どうしゅうふんぷん》とでもいおうか、成金《ナリキン》趣味の俗悪さがぬぐえない。
リムジンと無縁な貧乏人のヒガミだろうといわれれば、たしかにそうなのだが、さらに気にくわないのは、後部座席が車外からまったく見えないことだった。車窓《しゃそう》に黒いフィルムが貼られているのだ。何者がそこにふんぞりかえっているのか知らないが、他人から見えない空間にひそんで他人のようすをうかがっているように思えて、何とも不愉快である。
「あのリムジンがどうかした?」
「どうもしなければいいと思ってるんですが、妙に気になりましてね」
「犯人が現場にもどってきた、とか?」
「いや、そこまでは考えてませんが」
「そうね、考えててもムダね」
涼子は身をかがめて、足もとの小石をひろった。かるく宙に放りあげてからにぎりなおすと、いきなり美しい左脚をはねあげる。メジャーリーグの投手コーチも賞賛するような優美なフォーム。彼女の右手から投《とう》じられた小石は、三〇メートルほどの距離を飛び、風を切ってリムジンの車窓にぶつかった。
鋭く澄んだ音が伝わってきた。
「何をするんですか!」
「ぜんぶ見てたでしょ、説明が必要?」
「必要です、理由についてはね」
「あ、逃げやがる」
涼子の声で振り返ると、非常識な挑発を受けたリムジンは、にわかに発車したところだった。人気《ひとけ》のすくない広い舗道《ほどう》を、なめらかに進み、西へ、都心の方角へと、たちまち姿を消してしまう。
「イクジナシね。窓に石をぶつけられたりしたら、加害者をひき殺すつもりで反撃しなきゃ。ドライバーに覚悟がたりないから、イヤガラセが絶《た》えないのよ」
「イヤガラセだったんですね」
「なに恩知らずなこといってるの。君が気にしてるから、あの成金《ナリキン》趣味の車にどんなやつが乗ってるか、たしかめてあげようと思ったのよ。あたしの決断力に感謝しなさい」
反論しかけて、私はやめた。電話をすませて、呉《ウー》警部が歩み寄ってきたからだ。
「日本《おくに》の総領事が、たったいま市警に逮捕されたそうです」
「え!?」
私はかるく目をあけてしまった。涼子が舌打ちの音をたてる。
「何よ、それじゃ拷問にかけるヒマもありやしない。手ぎわがよすぎるのも考えものね」
「何か強力な物証《ぶっしょう》でも発見されたんですか」
私の問いかけに、呉《ウー》警部は憮然《ぶぜん》として答えた。
「いや、じつは別件なんですよ」
呉《ウー》警部は肩をすくめてみせた。
「暴行傷害の現行犯です。家庭内暴力《ドメスティックバイオレンス》というやつですな。よっばらって、夫婦ゲンカで奥さんをなぐったそうで」
総領事の奥さんは血を流し、髪を振り乱した姿で家の外へ逃げ出した。それを目撃した通行人が、持っていた携帯電話で警察に急報したので、緑ゆたかなショーネシーの高級住宅地に、パトカーが駆けつけた、という次第《しだい》である。
つかまった総領事は、反省どころか、アルコールの煙を吐きながらわめいたそうだ。
「夫が妻をなぐるのは日本の文化だ。無知な外国人が、よけいな口出しをするな!」
もちろんそんな暴論は通用せず、総領事の高山正行《たかやままさゆき》氏はその場で拘引《こういん》され、市警本部へと連行されたのだという。
「どう思います?」
「死刑ね」
「そういうことじゃなくて、総領事の身柄をどうしてもらうかです。ここは日本でなくてカナダなんですから、いつものワガママはききませんよ」
「うるさい。あたしがちょっとばかりワガママだからって、誰かに迷惑かけたことがあるか?」
あるじゃないか、何度も。
「とにかく、呉《ウー》警部、あたしたちも市警本部へいくから、総領事に会えるよう、はからっていただける?」
「わかりました」
「総領事は長いこと留置場にはいらなきゃならないかしら」
「そうですな。ま、連邦政府もこんな個人的な騒ぎで日本との関係を気まずくしたくはないでしょう。あなたが身元を引き受けてくださるなら、釈放にてまどることはないと思いますよ」
呉《ウー》警部は初対面のときから涼子に対して親切だった。誰に対してもそうなのか、涼子の美貌に感銘を受けたのか、意外にくえない人物で何か思惑《おもわく》があるのか、いまのところはまだ判断がつかない。
涼子と私は呉《ウー》警部の車に同乗し、市警本部へと移動した。
結論からいうと、涼子と私とは、市警本部で高山総領事には会わなかった。一方的に彼の顔は見たが、取調《とりしらベ》室のマジックミラーごしのことである。総領事は四〇代前半という齢《とし》まわりで、顔の上半分は四角く、下半分は逆三角形をしていた。ふたりの警官を相手に、いささか聞きづらい英語で自分の正当性を主張している。
つづいて日本語の罵声《ばせい》が、こちらははっきりと聞こえた。どうせ相手に日本語はわからない、と思ってのことだろう。
「まぬけどもめ、おれさまを誰だと思ってるんだ。大日本国の総領事閣下だぞ。将来は外務次官さまだ。機密費を何億円も使える身分なんだ。そこらの愚民《ぐみん》どもといっしょにしやがって、外交官特権を知らんのか。だいたいカナダは多民族国家だから知的レベルが低いんだ。移民や難民をいっさい入国させない日本を、すこしは見習え。世界一優秀な日本民族のなかでも、もっとも優秀な者だけが、選ばれて外務省にはいれるんだからな!」
「……ゲスね」
「まったく同感です」
涼子の顔に危険な微笑が翼をひろげはじめた。
「あれだったら、すこしばかり痛い目にあわせてやっても、国連安保理事会からモンクは出ないよね」
「痛い目にあわせるのは、かまいませんが」
と口に出すわけにはいかないので、私は、考えていたことの後半だけを音声化した。
「それでいったい何を聞き出すつもりなんです?」
「あいつが知ってることを全部よ」
「総領事が犯人だとお考えなんですか」
「だといいけどね、いくら何でもそれじゃ話が早すぎるでしょ」
涼子は指先でかるくあごをつまんだ。
「とりあえず、あいつは釈放させましょ。バンクーバー市警だって、とりあつかいにこまるだろうし、あたしが身元を引き受けるわ。よし、決まった」
涼子の日本語を普通の日本語に翻訳すると、総領事を自分の獲物にする、という意味になる。当人が今後どれだけ出世するつもりでいるかわからないが.大使だの次官などのポストは永久にあきらめたほうがよさそうだ。
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涼子と私が宿泊するホテルは、バンクーバー市内のコール・ハーバーに位置している。私の部屋は描写の必要もないほどありふれたシングルルームだが、ベッドがゆったりしたセミダブルであるのはありがたい。廊下をへだてた涼子の部屋は、特筆《とくひつ》に値する。最上階の三〇階にあって、北向きのデラックススイートだ。北向きである意味は、天井から床まで開いたリビングルームの窓の外を見ればわかる。「一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》」とはよくいったものだ。
まず正面には波静かなバラード入江《インレット》がひろがリ、大小の船が浮かび、水面に白く軌跡《きせき》を描く水上飛行機の姿が見える。その彼方はノースショアと呼ばれる山地で、麓《ふもと》には緑ゆたかな高級住宅地、その上は森林地帯、さらにその上はまだ雪の冠をいただいている。足もとを見おろすと客船専用の埠頭《ふとう》で、優に五万トンをこすとおぼしき豪華客船が停泊し、甲板《かんぱん》を歩く人々の姿が丸見えだ。甲板には大理石づくりのプールもあるが、さすがにこの季節、泳いでいる人はいない。夏だったら、水着姿の女性も観賞ご自由ということになる。
やや左方に視線を転じると、日比谷公園の二五倍におよぶという半島状のスタンレー公園が巨大な緑の城塞《じょうさい》を成し、その先に獅子門橋《ライオンズ・ゲート・ブリッジ》が優美なスタイルで海をまたいでいる。
空こそ暗いが、絶景とはこのことだ。溜息が出るほどだが、あまりに端整で構図が決まりすぎているので、実際の風景というより、視覚的効果が計算されつくした風景画のようにすら思われる。
その絶景をせおって、私の上司は簡潔にひとこと命じた。
「椅子《いす》!」
命じられて私は左右を見まわした。高価そうな安楽椅子が目にとまったので、それを運ぼうとしたら、女王さまはご不興《ふきょう》である。
「何やってるの、椅子よ、ほら、そこのソファーにすわって!」
命令の趣旨《しゅし》を、私は了解した。了解はしたが納得したわけではない。とはいえ、しがない地方公務員が上司にさからえるわけがあろうか。
私がソファーにすわると、ハイヒールの踵《かかと》を鳴らして歩み寄った涼子が、当然のような表情で私のひざの上に横ずわりした。みずみずしい弾力は、それ自体はまことにすばらしい。
「さて、それじゃすこしマジメな話をしようかね、泉田警部補」
言行不一致《げんこうふいっち》を絵に描くとこうなる。私は抗議した。
「マジメな話をするような姿勢《しせい》ですか、これが」
「あら、それじゃ不マジメな話をしたいの?」
「そ、そんなことはいってませんよ」
「じゃ、どんなことをいいたいのかなあ」
かぐわしい息が耳にかかる。だが、どんなにかぐわしかろうと、悪魔の吐息《といき》だ。
「そろそろ指定の時間が来ます。高山、でしたかね、総領事が市警本部から釈放されて、ここへやって来ますよ」
「当然ね。あたしのところに顔を出さなきゃ、再拘引されるんだから。ロビーまでは警官が同行するんだし、ここで逃げ出すほどのアホでもないでしょ」
ノックもなくドアが開《あ》いた。半回転したドアが壁にぶつかって音をたてるほど、粗暴な開けかただった。床を踏み鳴らして入室してきたのは、バンクーバー総領事の高山正行氏だ。脂《あぶら》の浮いた目を動かして、室内をにらみまわそうとしたが、視線が一点に釘づけになってしまう。涼子の姿形、タイトなミニから突き出た完璧な脚、とくに大腿のあたりに、音をたでるほどのいきおいで視線がからみつく。怒号が沈黙を引き裂いたのは一〇秒後であった。
「おい、君、何とふざけたマネをしてるんだ。常識というものを知らんのか。健全という日本語も、どうせ知らんのだろうな!」
「非常識で不健全なのは、あんたの顔でしょ」
涼子がつぶやく。高山総領事は私に指を突きつけて、ののしりつづけた。
「いい身分だな。美人の部下をひざの上にのせて、仲よく捜査か。薬師寺警視、だったな。それでも法と正義を守る警察官か!」
茫然《ぼうぜん》として身動きもできない私の耳に、涼子がささやいた。
「あのアホ、君を上司、あたしを部下と思いこんでるのよ」
不敏《ふびん》なる私は、ようやく理解した。高山総領事は、涼子と私とをとりちがえているのだ。日本から来た捜査官について、彼は、「薬師寺警視と泉田警部補」としか聞いておらず、フルネームを知らなかったのだろう。高山のように保守的で女性に偏見を持った人物は、「女が上司で男が部下」という関係など想像もできない。したがって、眼前の光景を、つぎのように曲解したのである。
「スケベ男の薬師寺警視が、美人の部下である泉田警部補をひざの上にのせ、セクハラをしかけている!」
うわあ、と、思わず私は声をあげるところだった。涼子はこの上なく、意地悪な視線を私に向けたが、それも一瞬、高山に声をかける。
「あの、総領事……」
「総領事閣下と呼びたま、え」
「はい、総領事閣下」
すなおに(つまり涼子らしくなく)呼びかえて、指先でそっと涙をぬぐう演技。
「警察って上下関係が絶対の閉鎖社会なんですもの。どんなにひどい命令でも、部下は拒絶なんてできませんのよ。もしことわったりしたら、どんなイヤガラセをされるでしょう。お察しくださいな」
史上最悪のジョークだ。私は天をあおいだ。
高山総領事は鼻息を荒ららげ、両眼を一段とぎらつかせた。下品な興奮で、四角形プラス逆三角形の顔を赤黒く染めている。
「このままじゃすまさんぞ。いまどき役所で部下にセクハラしたらどうなるか、教えてやるからな」
教えてもらう必要はないのだが、総領事は私の心の声などに耳を貸さず、涼子にいった。
「さあ、君、立ちなさい」
「でも……」
「立ってよろしい。私が許す。さあさあ、こちらへおいで、ひどい目にあったもんだな、私がなぐさめてやろう」
「手を引いてくださる?」
「や、そうか、私としたことが気づかなかった。さ、私が立たせてやろう」
私は沈黙をつづけた。高山総領事がすすんで魔女の罠《わな》にはまり、滅亡の井戸に飛びこむのを、黙然と見守ったのだ。こんなやつに危険を教えてやる義務はないはずだった。
総領事の身体が宙を舞う。いちおう私は、「ナムアミダブツ」と心のなかでとなえてやったが、誠意がこもっていたと主張するつもりはない。高山総領事の身体は、あおむけに床に落下した。背中を強打し、五秒間ほどは声も出ない。
「……な、な、何をする!?」
「やかましい、気安く淑女《しゅくじょ》の手を脂《あぶら》ぎった手でさわりやがって!」
淑女とも思えぬコトバづかいで、薬師寺涼子は総領事の腹部を踏みつけた。ヒールを突き立てられて、高山は苦悶する
「お、おれは総領事閣下だぞ!」
「それがどうした。あんたが閣下なら、あたしは陛下よ!」
たしかに彼女は女王陛下である。どこの国の王冠もいただいてはいないけど、好戦的で常勝不勝《じょうしょうふはい》を誇る魔女王《ウィッチ・クイーン》、無慈悲なる征服者、良識の破壊者なのだ。
思いついて、立ちあがった私はドアへ歩みより、きちんと閉めてロックを確認した。チェーンもかける。ついでにソファーを押してドアの前に移動させる。これで、たとえドアが破られるにしても、かなりの時間がかせげるだろう。
「気がきくのう、ほめてつかわす」
あでやかに、女王陛下が笑顔をつくった。
「ま、この階《フロア》は全部あたしが借りきってるから、呼ばれもしないのに顔を出すやつはいないけどね」
あらためて総領事を踏んづける。
「わかる? 誰もあんたを助けに来たりしないわよ。これからじっくり拷問《ごうもん》にかけてやるけど、好きなだけ泣きわめくがいいわ」
「その前に、本人に選ばせたらいかがです?」
私がいったのは、拷問にかからずにすむ途《みち》を、という意味である。だが、涼子はべつの解釈をした。
「そうね、それじゃ、ふたつのうちから選ばせてあげる。何て寛大なのかしら、あたしって」
「ふ、ふたつとは何だ」
「拷問の種類に決まってるでしょ。ひとつは痛いのよ。もうひとつは、もっと痛いの。さあ、どっちでも好きなほうをお選び!」
びえー、と、高山は蛙《かえる》みたいな悲鳴をあげた。
「ど、どちらもイヤだあ。ご、拷問は法で禁じられてるんだぞ!」
「何いってるの、拷問は日本の文化よ。警察こそ文化の守護者、伝統の担《にな》い手」
「き、きさまら、日本へ帰ったらどうなるか、おぼえてろ」
「あーら、生きて帰れるとでも思ってるの。どこまでも状況判断の甘いやつ。さすが日本の外交官だこと」
涼子は形のいい鼻の先でせせら笑った。
「泉田クン、そっちのドアを開けて。そこが拷問室だから」
「かしこまりました、陛下」
こうなったら状況を楽しまねば損だ。興味しんしんで、私は指定されたドアを開けた。
いくつか脳裏《のうり》に描いた想像図は、すべてはずれた。そこは五メートル四方ほどの広さの部屋で、床はフローリングになっている。大きな窓には、ブラインドがおろされ、視界がさえぎられていた。一方の壁面は鏡ばりになっている。ランニングマシンやエアロバイクが配置され、ダンベルなどさまざまな器具もそろっている。エクササイズ・ルームのようだが、女王陛下はいったいここで何をする気だろう。
涼子はランニングマシンに歩みよると、スイッチをいれた。それが世にもおそろしい拷問のはじまりであった。
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「い、いったい何をする気だ!?」
高山総領事の声が、ブザマに裏返った。彼の疑問は、私の疑問でもある。薬師寺涼子は直接には答えなかった。侮蔑の視線を高山に突き刺したまま、紅唇《こうしん》を開く。
「泉田クン、こいつの服をぬがせなさい」
「……は!?」
「服をぬがせるのよ! お慈悲と美意識をもって、パンツだけはカンベンしてあげる。ほら、さっさとするの!」
たぐいまれな美貌の上司から、これまで私は何度、理不尽《りふじん》な命令を受けたことだろう。だが、不愉快さという点では、今回の命令がきわめつきであった。いちおうは警視庁の犯罪捜査官たる身が、何だって憎々しい中年男の服をぬがせなくてはならんのだ。妙齢《みょうれい》の美女ならともかく……いやなに。
私は大きく息を吸いこんだ。
「イヤです」
そういおうとした瞬間、高山総領事が奇声を発した。両腕を振りまわし、必死の形相《ぎょうそう》で、もと来たドアへと突進する。もちろん逃げ出そうとしたのだが、思慮を欠く彼の行動は、フシアワセな結果を生んだ。本能的に逃走をはばもうとして、私は、つい足を出してしまったのだ。
もんどりうって、高山は床に突っこんだ。鼻を打ったらしく、顔の中央を赤黒く染めて、苦痛のうめきをもらす。
涼子が一笑した。
「ウシログライところがあるから逃げ出したのよ。さあ、こいつが拷問に値すると判明したからには、泉田クン、上司の命令にイヤはないよね」
どうやら私は高山だけではなく、自分自身の退路まで絶《た》ってしまったようである。
「悪く思わんでくださいよ、上司の命令なんでね」
われながら偽善的なことを口にしながら、私は高山の身体をひっくりかえし、高価そうなスーツの襟《えり》に手をかけた。
途中経過をくわしく書く気にもなれないが、三分もかからずに高山はパンツ一枚の姿になった。そして私は、偽善的な発言に対してバチがあたったことを知った。
「み、み、見たなああ……」
うっとうしい呪いの声。
高山のパンツは、ピンクにかがやく女物の絹パンティだったのだ。しかも紫色の水玉模様いり。こんな俗悪なものを、どこで買ったのだろう。いや、わざわざ教えてもらう必要はないが、つい知りたくなる。
高山は鼻の周囲に血をこびりつかせたままあえいだ。
「お前ら、プライバシーの侵害だぞ。外交官がピンクのパンティをはいて、何が悪い?」
「善悪じゃなくて、美醜《びしゅう》の問題でしょ。さあ、きっさとランニングマシンにお上り。たっぷり汗と告白をしぼり出してやるからね!」
涼子のハイヒールの爪先が、高山のたるみきった尻に突き刺さる。何度めかの奇声を発して、高山はよろばいつつランニングマシンにしがみついた。
「や、やめろ。私のような知的エリートは肉体的苦痛に弱いのだ」
妄言《もうげん》を聞き流して、涼子は、ランニングマシンのスピードを時速二〇キロに設定した。あわをくって高山は走り出す。走らなければ慣性で後方へ投げ出され、大ケガをするだろう。
女物のパンティをはいただけの中年男が、皮下脂肪につつまれた腹を揺らしながら、必死の形相でランニングマシンのベルト上を走りつづける。ああ、これほどおそろしい拷問があるだろうか――見る者にとって。
「た、助けてくれ、カンベンしてくれ、し、心臓が、ばく、爆発するう……!」
「何いってるのよ、たかがこのていどで。ほら、スピードをあげるわよ」
設定時速二五キロ。マシンのうなりが高まり、高山の短い脚が激しく上下する。
「ひい、もうダメだあ……!」
高山の顔や背中から汗の玉が飛び、私は上司に提言《ていげん》した。
「あの、もうこれぐらいにしておきませんか」
「これぐらいガマンしなさい! あたしだってガマンしてるんだから」
たしかにそうかもしれないが、このグロテスクな情況をつくりあげた責任を、すこしは自覚してもらいたいものである。高山は全身を汗にぬらし、湯気をたて、口を開《あ》けたまま舌を突き出し、両眼を寄せている。くだらない心配がわきおこってきた。汗で高山のパンティが透《す》けてきたらどうしよう。
「よし、時速三〇キロ!」
一〇〇メートルを一二秒ジャスト、という速度だ。高山の足の下で、ベルトが急流となって後方へ疾走《しっそう》しはじめる。高山の足がもつれかけた。
「ひーっ、助けてくれえ!」
「助かりたかったら白状おし!」
容赦なく、涼子が叱咤《しった》する。
「西崎とかいうチンピラは、あんたたち外務省の税金ドロボウどもが巨額の裏金《ウラガネ》をバンクーバーに集めていることをかぎつけた。どうせ好色《スケベ》な男が、井尾育子に口をすべらせたんでしょ。西崎はあんたたちを脅迫して、口封じのために殺された。全部わかってるのよ!」
涼子の情報収集能力については充分、承知しているつもりだった。だが、あらためて感歎せずにいられない。どうやってそこまで、日本にいるうちに調査し、目算《もくさん》を立てたのだろう。
高山総領事は絶叫で応《こた》えた。ブヨブヨしたその身体が宙を飛び、床にたたきつけられる。ついにマシンの速度についていけなくなったのだ。下の階では、その昔におどろいたかもしれない。汗にまみれたトドのような身体は床にころがり、三分ほどは身動きもできず、嵐のような呼吸音をたてるばかりだ。ようやく発した言葉は奇妙なものだった。
「SFのことを、なぜ知ってる?」
「SF?」
私はめんくらった。何でこんなところに空想科学小説《サイエンスフィクション》の略称が出てくるのだ。
説明してくれたのは涼子だった。
「特別基金《スペシャルファンド》の略よ」
「SFフアンがいやがりそうな略称ですね」
「自分たちはよほど特別な人間だと思ってるんでしょ。たしかに特別なマヌケよね。上司と部下をとりちがえるんだからさ」
涼子の嘲笑を受けて、ようやく半身をおこした高山総領事は、眉と口を大きくゆがめていた。
「さて、いいたいことがあるなら聞こうじゃないの、マヌケさん」
「わ、われわれは犯罪者ではない。租税回避地《タックスヘイブン》に預金口座を開いたわけでもない。お前らごときに責められるイワレはない」
「えらそうなこというじゃないの。記録が残されることを恐れて、現金をかき集めただけのくせに」
高山総領事は陰険《いんけん》な上目づかいで涼子をにらんだが、反論はしなかった。
「ですが、そんな巨額の現金を、どうやってカナダまで運んだんです?」
「外交|行嚢《こうのう》よ」
「そうか、なるほど」
外交行嚢とはつまり外交官特権のおよぶ荷物のことだ。関税もかからず、危険物のチェックもされず、フリーパスでどこの国へでも持ちこめる。エリートを自称する日本国の外交官の皆さまがたは、スーツケースやトランクにせっせと現金をつめこんでバンクーバー総領事館に運んでいた、というわけだ。そこに集めたものを、分配して費《つか》う。バンクーバー総領事館は、腐臭《ふしゅう》ただよう盗賊の洞窟だった。
盗賊の親分格が、また何かいい出した。
「われわれが、いかに道徳的にすぐれた人間であるか、お前たち、わかってないだろう」
「どういう論法でそうなるんだ」
「特別基金《SF》を自分のポケットにいれたようなやつは、ひとりもいないということだ。全員きちんとバンクーバーまでとどけてきた。だからこそ何億円もの基金があつまったんだ」
外交官という名の公金横領犯は、得意げである。
「どうだ、われわれは能力だけでなく、道徳的にも愚民どもよりすぐれてるんだ」
「それを西崎陽平たちがかぎつけて、あんたたちを脅迫したんでしょ?」
あらためて涼子が確認する。
「直接あんたが殺したの? それとも地元の殺し屋でもやとったの? 白状おし」
女物のパンティをはいた中年男は、不満げに腹の皮下脂肪《ぜいにく》をゆらした。
「とんだいいがかりだ。あんなやつ、殺す価値もない」
まんまと誘導された高山は、殺された西崎を知っていると、語るに落ちてしまった。気づいたのは涼子と私だけだった。当人はさらに傲然《ごうぜん》と語りつづける。
「ハイエナどもには餌をやっておけばいい。一億や二億のハシタガネで、いちいちハイエナを殺したりするものか。こちらの手が汚れるだけだ」
つまり一億か二億かの大金を恐喝された、ということである。たまりかねて、私は口をはさんだ。
「あんたが個人的に賠償しなきゃならないとしたら、二億円がハシタガネだとは思わないだろうな」
「賠償だと?」
高山総領事は下品な笑声をあげた。
「われわれが特別基金《SF》をストックしたのは、すべて国家のため、国益のためだ。本来、われわれに対しては、無条件で無制限の予算が組まれるべきなんだ。それを嫉妬深い愚民どもが騒ぎたてるものだから、われわれは苦労してカネを集めなきゃならなかった。みんな愚民どもが悪いんだ!」
「その強気がずっとつづくといいわね」
心にもないことを、誠意のない口調でいって、涼子は左右の手を高山総領事の前に出した。右手にはデジタルカメラ、左手にはMD《ミニディスク》。
「左のはこれまで使ったの。右のはこれから使うの」
絶句《ぜっく》する高山に、カメラが向けられる。
「明日のカナダの新聞には、あんたのこの写真が一面にでっかく載《の》るのよ。家庭内暴力の現行犯で逮捕された日本の外交官が、日本文化について語る、というキャプションでね。もちろんその前に、インターネットにじゃんじゃん流してあげる。ここまで醜態をさらしたあんたを、エリート集団とやらがかばってくれるとでも思ってるの!?」
高山は二度、三度と口を開閉させたが、声は出てこない。急速に顔が変色していくのは、自分が破局《はきょく》に直面させられていることを、ようやく理解したからだろう。犯罪組織《マフィア》の一員にとっておそろしいことは、法律によって処罰されることではなく、社会から非難されることでもない。組織から見すてられることなのだ。この点、暴力団員とエリート官僚とは、まったくおなじメンタリティの持ち主なのである。ぼん、と、何かの栓《せん》がはじける音がしたような気がする。高山総領事は白眼をむき、口から泡を噴いて床にひっくりかえった。ピンクのパンティ一枚の姿で。正視《せいし》に耐えない姿であったが、パンティに罪はない。
「フン、だらしのない。悪事をはたらく資格もない小物だわね」
あでやかに、薬師寺涼子はせせら笑った。
ずいぶん乱暴なやりくちだが、出張の一日めで事件は解決した、ということになるのか。何とも粗雑で低俗な事件だったな。まあいいか、これでエリート外交官のうすぎたないセミヌードを見せつけられることもないわけだし……。
時差ボケの去らない頭で、ぼんやりと、私はそんなことを考えた。
もちろん私はまちがっていたのである。
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第二章 カナダで日本文化を語る
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よく働いたあとには、ゴホウビがほしい。それが労働者の欲求だろう。いや、「百万石よこせ」とか「大臣にしろ」とか、だいそれたものではない。私の場合、時差ボケを解消できるていどの、ゆったりした深い睡眠がほしいだけである。
ごくつつましい望みだと思うのだが、めざめたとき、夢を四つも見た記憶が、私にはあった。しかも夢の内容はおぼえていないのだから、まがぬけている。カーテンごしの朝の光で、腕時計を見ると、七時より八時に近かった。
昨日の記憶を、VTR《ビデオ》風に再生してみる。
思い出すのもつらい拷問がひととおり終わった後、三名のカナダ人と二名の日本人が、ホテルに押しかけて来た。カナダ人は王立騎馬警官隊《RCMP》の捜査官、日本人はバンクーバー総領事館員である。私の上司、ドラキュラもよけて通る薬師寺涼子は、つややかな桜色の爪をといで、犠牲者を待ち受けていた。
日本人たちは、外交官特権をナイフのように振りかざし、総領事をカナダ警察の手から奪回するつもりだったのだ。だが、口にするのもはばかられる総領事の姿を見て狼狽《ろうばい》し、涼子のペースに巻きこまれてしまった。涼子は総領事館員たちに美しい指を突きつけ、一方的に責めたてたのである。総領事館貝たちはヒステリックに「答えられない」「ノーコメントだ」とくりかえし、総領事に服を着させてやるよう要求する余裕すらなかった。
いっぽうカナダ人たちを代表する呉《ウー》警部は、すまして日本人たちに告げた。
「われわれは日本の捜査官の要請に応じて、総領事を釈放した。その後、何がおころうと、それは日本人どうしの問題。われわれはいっさい関知《かんち》しない。あえて関知しろというなら、総領事にはもう一度、警察に足をお運びいただく。こちらのレディのお話によれば……」
こちらのレディこと薬師寺涼子は、オウヨウにうなずいてみせた。
「……お話によれば、総領事は、殺人事件の被害者二名と面識《めんしき》があり、しかも多額の金銭をゆすられていた旨《むね》、告白なさったとのこと。王立騎馬警官隊《RCMP》バンクーバー支部でゆっくりお話をうかがい、日本政府にも通報せねばなりませんが、よろしいか?」
ふたりの総領事館貝は色をうしなった。高々と、涼子が嘲笑の鐘を鳴りひびかせる。
「こんな変態の上司は放っておいて、さっさと総領事館にもどったら? 証拠インメツの時間が必要でしょ?」
追いつめられた総領事館員たちは、かろうじて、
「総領事夫人には、夫を家庭内暴力《DV》で告訴する意思はない」
と告げた。最初からそういっていればよいものを。
結局、さんざん恩を着せて、カナダ側は高山総領事の帰宅を認めた。個性的なファッションセンスを誇るエリート外交官氏は、ようやく服を着ることができた。部下たちにつきそわれ、「おぼえてろ」という形に口を動かしながら、いまわしい拷問の場を逃げ出したのである。
呉《ウー》警部が笑いをこらえながら去ると、私は上司に尋ねた。
「西崎陽平と井尾育子を殺したのは、総領事館の連中だと思いますか?」
「ノー」
「理由をお聞かせ願えますか」
「あいつらにとって、公金横領は犯罪でも悪事でもないもの。国民の血税《けつぜい》で秘密パーティーを開くのも、ブランド品を買いしめるのも、宮殿まがいの大使館を建てるのも、エリートである自分たちの当然の権利だと思ってる。でも、殺人となれば話はちがうわ。逆上して殴《なぐ》りつけたら死んでしまった、というならともかく、計画的な殺人なんて、あいつらの分《ぶん》をこえてる」
「同意見です」
「何だか、えらそうね」
「どうもすみません」
……そんな会話があって、殺人事件に関しては犯人はべつにいる、という結論になったのだ。いずれにせよ一度は総領事館に乗りこむことになるかと思ったのだが、日没と同時に涼子は勤労意欲を西半球の空へ放り出し、私を引きつれてチャイナタウンへ乗りこんだのである。
「陳家菜館《チェンチャツァイカン》のお粥《かゆ》はうまかったなあ」
そうつぶやいて、私はベッドからぬけ出た。バスルームで身づくろいをすませ、八時ちょうどに涼子のスイートのドアベルを鳴らす。そして足を踏みいれたとたん。
「オハヨーゴザイマス、ムッシュ!」
私はそれほど器用な地球人ではないと思う。だがこのときは、何の障害物もない床の上でつまずいて半回転する、というハナレワザを演じるところだった。
かろうじて踏みとどまり、姿勢をととのえながら、声の主を確認する。
私の視線の先には、典型的なフレンチメイド・スタイルの美しい少女がふたり。そう、ふたりとも五月の若葉みたいに美しく、溌剌《はつらつ》としている。栗色の髪のリュシエンヌと、黒い髪のマリアンヌ。パリに薬師寺家の豪華なアパルトマンがあって、ふたりのメイドが常駐している。つまり、リュシエンヌとマリアンヌだが、彼女たちがどうしてパリから西へ九〇〇〇キロも離れたこんな場所にいるのか。
「もちろんあたしが呼んだのよ」
声のする方角を見ると、私の上司がダイニングルームにはいってきたところだった。
一瞬後、私は音をたてるほどの勢いで視線をそらした。薬師寺涼子は、男性用の大きなシルクシャツを部屋着がわリにゆったり着ていて、それはいいのだが、シャツの裾から完全無欠な脚線美がむき出しになっていたのだ。まさかシャツの下に何も着ていないはずはないが、そう見えないこともない。目の毒とはよくいったもので、私は正視する能力を奪われてしまった。
涼子がメイドたちにすすめられ、ダイニングテーブルについてくれたので、ようやく私は窮地《きゅうち》から救われた。私にはテーブルの下を透視する能力はないから。
黒い髪のマリアンヌと、栗色の髪のリュシエンヌ。涼子の左右にならぶと、大輪のバラに清楚《せいそ》なカスミソウが寄りそった風情《ふぜい》。九九・九パーセントの男は、美的感動にうち慄《ふる》えるだろう。例外は、真性の同性愛者と、彼女たちの正体を知る者だけだ。光栄かどうかわからないが、私は後者である。
私もテーブルに着いたが、ふと気づくと、テーブルの上に、現地の朝刊が半ダースほど置かれていた。一番上に置かれた新聞が、いやでも目につく。
「くつろいだ姿で日本文化について語るタカヤマ総領事」
そうキャプションをそえて、大きなカラー写真が紙面の中央をかざっている。記述するのもおぞましいが、女性用の下着一枚をまとっただけの姿で、フローリングの床にあぐらをかいたエリート外交官氏が写っているのだった。「くつろいだ姿」とは悪意に満ちたジョークだが、正装でないことはたしかだから、揶揄《やゆ》されるのもしかたがないところか。
「これで総領事閣下もおしまいということですかね」
「そうともかぎらないわよ。こそこそ日本へ帰って、半年か一年はおとなしくしてるかもしれないけど、ようすを見て復活するでしょ。特殊法人の役員とか、大学の国際学部の教授とかね」
総領事閣下の第二の人生に口出しする気はないが、女子大学の教授にはならないでほしいものだ。
リュシエンヌがいれてくれたコーヒーの香気を味わいつつ、私は上司に問いかけた。
「で、何をたくらんでいるんです?」
涼子は不満そうに私をにらんだ。
「何よ、そのいいかた。アタカモあたしが陰謀をめぐらしてるみたいじゃないの」
「そう申しあげているんですよ」
「あたしのは陽謀《ヨウボウ》よ、陰謀じゃなくて」
「は?」
「陰《ヒソカ》じゃなくて陽《ロコツ》なタクラミ」
「……リュシエンヌとマリアンヌを、わざわざパリからお呼びになったんでしょう? 彼女たちに何をさせるつもりなんですか」
「お料理つくってもらったり、いろいろと身のまわりの世話をね。それに、君がいうとおり、このあたりは、ほら、風景が美しいから、この娘《こ》たちに見せてやりたくてさ」
「ウソをつくな、ウソを」
とは口にできない身の悲しさ、私はフォークに突き刺したオムレツを口に運んだ。とろり、と口のなかで溶《と》ける卵料理の甘美なこと。私は思わず歓声《かんせい》を洩《も》らしたが、美貌の魔女はすかさずそれを利用した。
「そうよ、そのオムレツをつくってもらうために呼んだの。マリアンヌ、リュシエンヌ、泉田クンがあんたたちのオムレツは天下一品だってほめてるわよ」
涼子の台詞《せりふ》の後半は、私の推測的翻訳である。誤訳ではないはずだ。フランス語で涼子に語りかけられたふたりの美少女が、私に微笑を向けて声をそろえたから。
「メルシー、ムッシュ」
その後にフランス語がつづいたので、涼子が口を開く前に、私は頭《かぶり》を振った。
「あ、いえ、おかわりはけっこうです」
「あら、わかるの?」
「たまにテレパシーが使えるらしいんです、私は」
われながらくだらない冗談だったので、反撃を回避して、私は新聞に視線を落とした。英文の単語をひろいつつ、思案をめぐらす。
リュシエンヌもマリアンヌも、虫どころか細菌さえ殺さないような顔をしているが、ただのメイドではない。マリアンヌは武器の、リュシエンヌは電子機器の、それぞれ天才である。彼女たちの戦闘力は、一度ならず私も見せつけられたが、弱い者いじめしか能のない日本の暴力団員など、一〇〇人単位でなぎ倒されるのではないだろうか。
だからこそ私としては、彼女たちをパリから呼びつけた涼子の意図《いと》を、うたがってかかるわけだ。それは日本人男女の死と関係があるのではないか。正確にいうと、それ以外の理由が私には想像できない。偶然、おなじ時期におなじ地域で、涼子がコトをおこす、という確率は低い。
「故人には失礼ですが、西崎陽平も井尾育子も、他人の弱みや秘密を利用するような生きかたをしていたわけです。誰かに憎まれていたとしても不思議《ふしぎ》ではない。その誰かは、彼らふたりを殺害して、日本の総領事館に罪を着せようとしていたかもしれませんね」
上司の表情をうかがったが、涼子は黙ってコーヒーを口に運んでいる。
「完全に罪を着せることができなくても、外交機関がからんだ事件となれば、捜査の矛先《ほこさき》が鈍ります。そこまで計算にいれていたとすると、まずその誰かは総領事館の内部事情にくわしい人物ということになります」
涼子はマイセンのコーヒーカップを皿にもどし、長い濃い睫毛《まつげ》ごしに私を見やった。
「例のふざけたリムジンだけどね」
唐突《とうとつ》なように思える発言だったが、私の記憶はすぐによみがえった。昨日、殺人現場の近くに停まっていた豪華な車。窓には黒いフィルムが貼られていた。
「所有者《もちぬし》がわかったわよ」
「……誰です?」
思わず身を乗り出した私の耳に、涼子の明晰《めいせき》な声が流れこんでくる。
「グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》よ」
U
グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》。
私の知っている名だった。私をふくめて、地球上で一億人ぐらいは知っている名だ。肩書《かたがき》は映画プロデューサーということになるが、かつては監督もやったし、大企業の経営者といっても、億万長者といっても、ゲームソフト開発者といっても、まちがいではない。
年齢はまだ五〇歳そこそこではないだろうか。TVや写真で見ただけだが、中背で肥満傾向あり、広すぎる額、ピンクの肌、暗褐色《あんかっしょく》のあごひげ、縁《ふち》のない小さめの眼鏡《めがね》、といったものが容姿の特徴だった。
彼が手がけた作品は、『神曲・地獄篇』、『クリームヒルト』、『カルタゴ炎上』など、どれもこれも最新の特殊撮影《SFX》技術を駆使し、一億ドル以上の制作費を投入した超大作である。映画評論家たちからはけなされてばかりだが、つねに黒字の実績をあげ、映画界だけでなく、芸能界、各種メディアでの勢威は圧倒的なものがあった。政界保守派の大スポンサーでもあり、「スペクタクル・グリー」とか「|一億ドル大砲《HMDキャノン》」とか、さまざまな異名がある。表現力の貧しい日本のマスコミがすぐ使いたがるのは、「ハリウッドの帝王」だ。資産はとっくに一〇〇億ドルをこえているといわれる。ビバリーヒルズの豪邸、というのは、もはやお約束というべきだろう。
「そのミスター大砲《キャノン》が、どうして、あなたの動向を監視するようなマネを?」
まさか私の動向を監視していたとは思えない。リムジンの所有者がわかっただけで、実際にキャノンが乗っていたともかぎらないのだが、涼子は短く即答した。
「スカウト」
私はまばたきし、あらためて上司を見つめた。
キャノンはこれまで多くの女優を自分の作品に登用し、世界的な名声と巨万の富とを分かちあたえてきた。美貌と才能と野心とを兼ねそなえた女性たちが、キャノンのもとに群らがり寄ってきたのだ。全世界から、というのは、あながち誇張ではない。例外は、戒律《かいりつ》のきびしい一部のイスラム教国ぐらいのものだろう。もちろん大部分の女性は、激烈な競争を勝ちぬくことができず、「一億ドル大砲《キャノン》」の一時の欲望に奉仕しただけに終わっている。
「スカウト」と涼子がいったのは、私をからかうためにちがいない。そう思いながら、彼女の顔をながめていると、「それは充分ありえる話だ」と思えてくる。これまでグレゴリー・キャノン二世《ジュニア》が登用した女優のなかで、はっきりと涼子より美しいといいされる女性はひとりもいなかった。美しさだけが女優の資格でないことはもちろんだが、涼子の場合、存在感が圧倒的な上に、アクション能力が桁《けた》ちがいなのである。射撃は神技、剣は天才、ビリヤードのキュー一本あれば、大の男を一ダース、二分間で地に這《は》わせてしまう。身の軽さときたら、対抗できるのは、月面の宇宙飛行士《アストロノーツ》ぐらいのものであろう。
かるく首を振って、私は質問を再開した。
「その彼が、どうしてバンクーバーにいるんです?」
「だってバンクーバーは『北のハリウッド』だもの。映画スタジオも映画関係者も、石を投げた先にかならず存在するんだから」
「ああ、そうでしたね」
「それに、たしか近くのビクトリア市に、キャノンの別荘もあったはずだし」
「さぞ豪華な別荘でしょうね」
私は脳裏《のうり》で地図帳を開いた。ビクトリアはバンクーバーから海をへだてて西南へ約一〇〇キロ、バンクーバー島の南端にある小都市だ。バンクーバー市《シティ》とバンクーバー島とは異《こと》なった場所にある。ややこしい話だが、私のせいではない。
もともとバンクーバーというのは、この近辺を探検調査した船長の名である。彼にちなんで、まず島の名が決まった。その後、カナダの大陸横断鉄道が完成したとき、終着駅を中心に市街地ができて、これがまたバンクーバーと名づけられた。このとき別の名をつけていれば、後世ややこしいことにならなかったのだが、命名者である鉄道会社の社長は、地理を学ぶ少年少女の迷惑など考慮しなかったようだ。
ビクトリアにはアメリカの大富豪が何人も別荘をかまえているという。気候が温和で風光も美しく、花と緑にあふれ、ガーデニングなどやっている人には聖地なんだそうである。北国の四月とて、まだ花の盛りという時季《じき》ではないだろうが、涼子がそこへ赴《ゆ》くとあれば、どうせ花以外のものが目的であるにちがいない。
「ビクトリアへお出かけですか」
「どうしてそう思うの?」
「あなたの性格からいって、これ以上、総領事館みたいな不浄の場にかかわりあうのは、おイヤでしょうからね」
「すこしはわかってきたみたいね。わかってるなら、いっしょにおいで」
今後も日本側はカナダ側の捜査にいっさい協力しないだろう。カナダ側も、自国民が殺されたわけでもなし、日本側の非協力を押しきってまで捜査するとも思えない。形式だけととのえて、ごく自然にいつのまにか迷宮入り、という結末になってしまいそうだ。
西崎陽平と井尾育子、それぞれの家族には連絡がいっているはずだが、私の知るかぎりでは反応らしいものもない。遺骨の引きとり人もあらわれない、ということで、ふたりとも家族すらおらず、天涯《てんがい》孤独ということかもしれない。外国で挫折した身を寄せあって生きていた結果がこの最期だとすれば、気の毒な話ではある。ただ、あまり清潔とはいえない生きかたであったから、正直なところ、同情の念も深まりそうになかった。
それにしてもこの件に関しては小さな棘《とげ》がいくつもあって、私の神経を音もなくひっかく。整理する必要があるな、と思ったとき、かすかな音がして涼子が身動きした。フォークを床に落としたのだ。動こうとするマリアンヌとリュシエンヌを、かるく手をあげて制すると、涼子は私を見やった。
「泉田クン、ひろって」
「あ、はい」
あまりに当然のごとく命令されたので、心理的にさからう余裕もなかった。自分でひろえばいいのに、と思ったのは、テーブルの下にもぐりこんでからのことだ。銀色のフォークは涼子の足下にころがっていた。
視界に飛びこんできたのは、涼子の脚だ。勢いよく、と表現したいくらいハデに脚を組んで、足にはスリッパさえはかず、素足のままである。造形美の極致。脚線には非の打ちどころがなく、足爪は真珠色、肌はかがやくように白くなめらか。まさに一億ドルの脚だ。だが、男どもを粉々に蹴りくだき、彼女以外の悪を跡形《あとかた》もなく踏みつぶす恐怖の兵器でもある。
私はフォークをひろいあげると、すばやく、だが慎重に後退して、テーブルに頭をぶつける愚《ぐ》だけは回避した。立ちあがって、一礼とともにフォークを差し出す。
「チェッ、つまらないやつ」
つぶやいてから、涼子も立ちあがった。
「じゃ泉田クン、出かけようか」
「私はいつでもOKですが」
「コーヒーでも飲んで待ってて。すこしお化粧してくるから」
「はあ、わかりました」
はじめて私は、涼子が化粧していなかったことに気づいた。まのぬけた話だが、化粧などしていなくても、涼子は圧倒的に美しいのだ。これでもうすこし、もうすこしだけ破壊欲と好戦性をおさえてくれたら、つかえる身としてはありがたいのだが、なぜか一方では、つまらないような気もする。
ふと考える。マリアンヌやリュシエンヌにとって理想的な女主人とはどのようなものなのだろうか。現在の姿がそうだ、ということになるのかな。
パウダールームに引っこんだ涼子は、一〇分ほどでふたたび姿を見せた。クリーム色のビジネススーツ、スカートはタイトなミニ、襟に絹のスカーフを巻いている。メイドたちに何ごとかフランス語で指示した。
「マリアンヌ、リュシエンヌ、昼食《おひる》はルームサービスで何でも食べてていいからね」
そういったのだ、と、涼子は私に説明したのだが、それだけの内容にしては長すぎる。何かよからぬ指示を下したにちがいないのだが、私のフランス語能力ではまったくわからない。まあいずれ思いあたることがあるだろう。たぶん生命のセトギワに。
「君たちもいつかきっとひどい目にあうぞ。君たちのご主人さまは、薄い氷の上で悪魔とダンスを踊るのが趣味なんだから」
親切に忠告してやったが、アジア大陸の辺境でしか通じない言語だったので、メイドたちには理解できなかったらしい。笑顔で涼子と私を送り出してくれた。
V
ブリティッシュ・コロンビア州。略してBC。あえて日本語に訳するなら、「イギリス領北アメリカ」というところか。カナダ西部、太平洋に面する唯一の州。カナダがイギリスの植民地であったころは、「大英帝国の西の涯《はて》」と呼ばれていた。
面積は、イギリスとドイツと日本の三カ国を合計したほど。人口はこの三カ国の七〇分の一ていどで、過半数がバンクーバーに集中している。そのくせ、州政府の所在地は、ビクトリアなのだ。
「一一時に水上飛行機をチャーターしておいたわ」
「あと二時間近くありますよ」
「天気もいいし、すこしこのあたりを歩きましょ」
「呉《ウー》警部からの連絡を待つ必要は?」
「連絡なんて、用のあるほうが必死になってとるものなの。マリアンヌとリュシエンヌにまかせておけばいいわよ」
というわけで私たちは街路を歩きはじめた。
第二次世界大戦まで、バンクーバーにはかなり大きな日本人街があった。カナダに移民した日本人の大半は、バンクーバーとその周辺に住んでいたのだ。
一八七〇年代、つまり明治時代がはじまったばかりのころ、最初の日本人がカナダの大地を踏む。林業、漁業、商業、土木作業などに従事し、一九〇九年には八〇〇〇人近くに増える。そうすると、正業につく者ばかりではなく、ヤクザや娼婦も流れこんできて、日本社会の縮図が成立した。
日本語新聞もできた。それもひとつではなく複数。日本人街で有力者どうしの対立がおこると、それぞれに新聞社が味方して抗争の火に油をそそぐ、というようなこともあったらしい。
第二次世界大戦や、それにともなう日本人の強制収容といったおめでたくない事情もかさなり、現在バンクーバーに日本人街はない。住んでいる日本人の数も、バンクーバーよりトロントのほうが多いそうだ。
「まずスタンレー公園にいってみよう」
涼子は歩くことをいやがらない。そして歩く姿は宝石でつくられた百合《ゆり》の花だ。トゲもあれば毒もあるが、パリだろうとバンクーバーだろうと、通行人が振り向くほど颯爽《さっそう》としてしかも優雅である。
「何だかハバナ葉巻《シガー》を売る店がやたらと多いですね」
「国境をこえて、アメリカ人が買いにくるしね」
「なるほど」
ハバナ葉巻はキューバの名産品だが、キューバは革命以来アメリカに経済封鎖されている。カナダは理性的にキューバとの関係をたもっているから、ハバナ葉巻の輸入もおこなわれているというわけだ。
スタンレー公園に足を踏みいれると、まず七本のトーテムポールが私たちを迎えた。感歎の声がもれるほどのみごとさである。
いまさら説明する必要もないが、トーテムポールというのは北アメリカ大陸西岸の先住民文化を象徴するものだ。豊かな土地だから住民の生活にゆとりがあり、芸術にいそしむ時間がつくれる。あるいは、芸術家をやしなう経済的な余裕ができる、というわけである。
「いくらカネがあっても、文化や芸術にまったく関心を持たない連中が、泡沫経済《バブルエコノミー》のころにはずいぶんはびこってましたね」
「そりゃ猿でもカネもうけはできるからね」
「このトーテムポールのてっぺんにいるのは何ですか?」
「サンダーバードよ。天界からおりてきた怪鳥で、先住民の守護者で、文化の伝達者」
トーテムポールの周囲に何羽かのカラスがいた。日本のカラスよりひとまわり小さい。カラスとカエルは神の使者とか幸福のシンボルとして、先住民にたいせつにされているそうで、絶滅作戦《ジェノサイド》をしかけられている東京のカラスとは大ちがいだ。
クジラをくわえているサンダーバードの姿に感心していると、一番高いトーテムポールの横に人影があらわれた。
東洋人だった。人口比率からいえば中国系の可能性が高いが、断定はできない。魁偉《かいい》というより怪異な容貌で……。
「あれ見た、泉田クン? できそこないのトーテムポールが歩いてるわよ」
涼子は口が悪いが、たしかにその男は身長が二メートル近くあり、円柱のような体形で、色が黒く、目も口もやたらと大きい。涼子の表現は秀逸《しゅういつ》だが、笑ってはいられなかった。
「あいつ、日本人ですよ」
「見おぼえがあるの?」
「ええ、ただ名前がはっきりとは思い出せないんですが……あ!」
思わず大きな声が出かける。瞬間、涼子の掌《てのひら》が私の口をふさいでいた。
「大声を出さない! 思い出したの?」
うなずくと、魅惑的な感触が離れて、北国の空気が私の口をなでた。
「で、誰?」
不審そうな涼子にささやきかえす。
「吉野内《よしのうち》です。吉野内|守《まもる》」
「誰だっけ?」
「ほら、三人組のひとりですよ。吉野内、それに、ええと、そう、加戸《かど》と井関《いぜき》でしたか」
「……ああ、あいつら!」
涼子も思い出したようである。三年ほど前、警察にとって不名誉な事件があった。
お恥ずかしいことながら、不名誉な事件は毎年のことだが、吉野内守、加戸|直彦《なおひこ》、井関|光行《みつゆき》の三人は、警視庁内でも格闘技の達人として知られた巡査部長だった。警察官による格闘技の全国大会が開かれたとき、大胆というかあつかましいというか、三人は暴力団と組んで賭博をくわだて、八百長《やおちょう》をしくみ、それぞれ一〇〇〇万円以上の利益を得たのだ。発覚して懲戒免職となったが、前後して出国し、行方不明になっていた。キャリアの関与もささやかれたが、何人かの幹部が訓告《くんこく》処分を受け、暴力団貝が逮捕されただけで、あとはウヤムヤにされている。
「泉田クン、あいつをつかまえておいで」
「え、ですがまだ何もしてませんよ」
「いいのよ。ムリヤリつれてきたら反抗するから、公務を妨害したという理由で痛めつけるの。これこそ日本の文化よ。ほら、はやく!」
悪逆無道《あくぎゃくむどう》な命令を受けて、私が吉野内を見やると、歩くトーテムポールは危険を察したように振り向いた。つぎの瞬間、走るトーテムポールを追って私も走り出していた。
二度ほど林間の道をまがると、忽然《こつぜん》と吉野内の姿は消えてしまった。
私は周囲を見わたした。深く暗い北アメリカ杉の森。その横に青灰色《ブルーグレイ》の海。その向こうに近代都市のスカイライン。映画の一場面めいた光景のなか、私はむなしく踵《きびす》を返し、上司に腑甲斐《ふがい》ない報告をした
「すみません、見失いました」
涼子は怒らなかった。
「まあいいわ。何か目的があるのなら、また接近してくるでしょ。そのときつかまえて、痛い目にあわせてやれば、白状するわよ」
「穏便《おんびん》に説得する、という選択はないんですか」
「そんな軟弱な辞書、使ってないわ」
明快に、女ナポレオンは言い放った。
「スタンレー公園はもういい。今度はロブソン通りをぶらついてみない?」
形は提案だが、私に拒否権などない。
ロブソン通りはバンクーバー随一の繁華街だそうで、あらゆる肌と髪と目の色をした人々が往きかっている。ギリシア神殿風の円柱と広い階段とがひときわ目立つのは、有名なバンクーバー美術館。階段で日本人らしい若い男女が、カメラつき携帯電話での撮影に興《きょう》じている。
涼子がハーブ専門店にはいっていく。盲導犬といっしょの老婦人が目の前を横切ろうとしたので、私は立ちどまった。何秒かおいて歩き出そうとしたとき、横から巨大な紙袋にぶつかられた。巨大な紙袋の横に、地球人の顔がのぞく。口が開いて、日本語で呼びかけてきた。
「やあ、泉田サンじゃありませんか」
岸本明《きしもとあきら》であった。私より一〇歳下だが、階級は私とおなじ警部補である。警視庁警備部の所属で、いうまでもなくキャリアなのだ。
おどろきのあまり、私の反応はかなりおくれた。
「おいおい、何でお前さんがこんなところにいるんだ」
「泉田サン、知らないんですか」
「何を?」
「このお店です。『二次元王国《キングダム・オブ・ザ・セカンド・ディメンジョン》』。略してKSD。西半球における日本のコミック、アニメ文化の殿堂《でんどう》といわれてるんですよ」
「つまりオタクの巣窟《そうくつ》だな」
「巣窟だなんて、偏見まるだしの表現をしてはイケマセン。聖地と呼んでください。でないとオタクたちの繊細な心は傷つきます」
岸本はオゴソカにいうのだが、KSDと大書された紙袋の口からアニメ美少女のフィギュアがのぞいている。
まあ聖地ということにしておいてもいいが、私が岸本に尋《き》きたかったのは別のことだ。彼がカナダにいる理由である。彼がいるとすれば、もうひとり知りあいがいるかもしれない。
「日本人であるお前さんが、何でわざわざ本場からやってくる必要がある?」
岸本はあわれむように私を見た。
「それが初心者のアサハカさ」
「誰が初心者だ」
「まあまあ、つまりですね、この店では、カナダやアメリカでは売っていても、日本では売ってないグッズを、たくさんあつかっているんです。たとえばほら、これ」
岸本が自慢げに見せたのは、人気アニメ『レオタード戦士ルン』の表紙絵がついた雑誌だった。
「英語版か、めずらしくもないだろ」
「いやいや、内容がすごいんです。カナダ、アメリカ両国の有名なイラストレーター一〇人がですね……」
ここの男も、「カナダで日本文化を語る」つもりだろうか。トクトクとして説明をはじめようとする岸本の口を、女性の声が封じこんだ。
「岸本警部補、どこへいってたの、携帯電話にも出ないで」
声の主は、岸本の上司だった。姓名は室町由紀子《むろまちゆきこ》、年齢は二七歳、階級は警視、地位は警視庁警備部参事官。長い黒髪を後頭部でたばね、眼鏡《めがね》の奥に知的な瞳の光、涼子とタイプはちがうが、警察官僚なんぞやらせておくのはもったいない美女である。
私の存在に気づいて、かるく黒い瞳をみはる。
「あら、泉田警部補」
「どうも、思いがけないところでお目にかかります」
「あなたがいるということは、お涼もいるということね」
そうとはかぎりません、と答えたかったが、社交的辞令はたちどころに事実によって粉砕された。ハイヒールの音につづいて、悪意をこめたひややかな声。
「あら、お由紀、日本にいられなくなって、こんなところへ流れてきたとはね」
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由紀子がいい返すより早く、涼子が二木めの毒矢を放った。
「あんたさ、もしかして、あたしをストーカーしてるんじゃないの?」
「誰がッ?」
「だって、パリでしょ、香港いきの客船《フネ》でしょ、ここでしょ、どうしてあたしのいく先々に、あんたがわいて出るのよ」
「わたしにはわたしの公務があります。それに、わいて出るとは失礼な。あなたにヤマシイところがあるから、ストーカーされてるという妄想に駆られるんです!」
由紀子の憤慨《ふんがい》など、涼子は気にしない。
「公務って何よ」
「あなたにいう必要はありません」
「そりゃいえないわよね、え。口に出すのもはばかられるゲスな仕事だろうし。お察ししますわ、オホホ」
「ゲスなのは、あなたの笑声でしょ!」
分不相応《ぶんふそうおう》ながら、私は調停の義務を感じた。というのも、思い出したことがあったからだ。涼子と私との出張が決定する直前、由紀子と話をする機会があって、彼女も出張するということを私は知らされていたのである。
「よろしければ、さしつかえない範囲で教えていただけませんか。結果として、お仕事のおじゃまをするようなことになっては、かえって申しわけありませんし」
たくみな論法でもなかったが、由紀子のほうも、あまりオトナゲないことはしたくなかったようだ。すこし考えてから、妥協してくれた。
「そうね……いいわ」
今年の夏、ビクトリア市で環太平洋一〇ヵ国の通商問題担当閣僚会議が開かれることになっている。例によって、グローバル経済反対派のデモやら反アメリカ過激派のテロやらがこわいので、警備関係者が集まって対策を協議する。日本からも警察庁や警視庁のおエラガタが参加するが、それに先立ち、室町由紀子警視が先行視察《せんこうしさつ》の任をおおせつかった、というのであった。
「それはたいへんですね」
「泉団クン、気づかう必要ないわよ。先行視察だなんていうともっともらしいけど、おエラガタが泊まるホテルの下見か、どうせそんなところだからさ」
由紀子は白磁《はくじ》のような肌を紅潮させ、端整な唇を引きむすんで無言。つまり涼子の暴言は、正解に近い、ということだろう。
「ま、おたがい宮づかえの身。あたしにだって同僚をいたわるぐらいのココロづかいはあるわよ。これからあたしたち、チャーターした水上飛行機でビクトリアにいくんだけど、よかったらいっしょにどう? どうせ座席はあいてるしさ」
「水上飛行機……」
「こわいの?」
この一言が、由紀子のためらいを木星軌道まで吹き飛ばした。
「こわいもんですか!」
公平にいって、室町由紀子は理性と常識に富んだ模範的な若手官僚である。それが涼子を相手にすると、女子中学生なみになってしまう。涼子の問題児ウイルスは、空気伝染することが明らかだ。
二次元王国の巨大な紙袋をかかえた岸本を最後尾に、私たちは四人となってコール・ハーバーに向かった。潮の香りのなか、長い長い木製の突堤《とってい》の先に、水上飛行機の発着所があった。
四段ほどのハシゴを上って、水上飛行機の機内に乗りこむ。なかには六つの座席があって、前後三列になっていた。血色のいい中年のパイロットとならんで涼子が最前列にすわり、二列めに由紀子と私、後部座席に岸本、という配置である。涼子をのぞく三名の乗客は、初心者としての好奇心まるだしで機内をながめまわした。内装にことさら特徴はなく、ワゴンの車内と変わらないように思える。ただ、天井に、リスとかオオカミとか、いかにもカナダらしい野生動物のカラー写真が何枚か掛《かけ》られていた。
乗りこむ際に、ひとりずつ、使いすての耳栓を手渡された。ベルトをしめ、耳栓をはめ、何となく呼吸をととのえる。
水上飛行機は滑走をはじめた。使い古された表現だが、コール・ハーバーの水面は鏡のようだ。それでもときおり、水上飛行機のフロートが波とぶつかり、その揺れがダイレクトに身体に伝わってくる。岸本が後ろでなさけない声をあげたようだ。
五分ほどで、機体は重力の腕を逃《のが》れ、ふわりと浮揚《ふよう》した。ジェット旅客機の離陸よりはるかに軽快な感じで、目に見えない巨人の息吹《いぶき》に乗って上昇していく。それも五分ていどで、流れるように水平飛行にうつった。
たしかに耳栓は必要だった。耳栓をしていてさえ爆音はかなり強く、機内での会話は不可能だ。
由紀子が私に顔を寄せてきた。何か話しかけてきたのだが、とうてい聞こえるものではない。私が首を横に振ってみせると、由紀子は携帯電話を取り出そうとして、機内であることに気づいたのだろう、小さなメモ帳にペンを走らせて私にしめした。
「ビクトリアへは何をしに?」
私はメモ帳を受けとり、おなじページに記した。
「私も知りたいです」
涼子が助手席から肩ごしにとげとげしい視線を走らせてきたので、教師の目をぬすむ中学生みたいなメモ通信はそれきりで終わった。
眼下にひろがるのは、自然が産《う》んだ宝石だ。サファイアブルーの海に、エメラルドグリーンの島々。島々の半数は森におおわれているだけだが、半数には人が居住しているらしく、手入れのいきとどいた果樹園や芝生《しばふ》、赤い屋根の瀟洒《しょうしゃ》なコテージ風の家などが見える。海面をいきかう船の航跡が、あざやかに白い。
視線をあげると、北方には、雪冠《せっかん》をいただいた山岳が白と薄紫色にかさなりあっている。私がガイドブックの著者なら、「神秘性をおぴた山々」とでも記述するところだ。
時速一〇〇キロ、高度一〇〇〇メートル。これぐらいが地上を観察するにはちょうどいい数値なのかもしれない。
ふと気づくと、海面を光の輪が移動している。実際の大きさはわからないが、機内から見ると、両手の親指と人差指でつくった輪ぐらいの大きさだ。青、赤、緑などの色彩をかさねて、なぜかどこまでもついてくる。陽光が水上飛行機の機体に反射し、海面に円形の虹をつくったのだ、ということが不敏《ふびん》なる私にようやくわかったころ、水上飛行機は高度をさげはじめていた。
ビクトリア沖の海面に着水し、水上を移動して内港《インナーハーバー》に進入するのだ。生まれてはじめての水上飛行機の旅は、空飛ぶドラゴンの襲撃を受けることもなく、無難に終わろうとしていた。
難が生《しょう》じたのは、上陸してからのことである。
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第三章 トラブルは馬車に乗って
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ビクトリアは小さな都市だが、根性をすえてロンドンを模倣しているように見える。内港《インナーハーバー》に面して建つ州議事堂は、青銅の屋根をいただく石づくりの堂々たる建物で、前面にひろがる芝生には大英帝国のビクトリア女王の銅像がそびえていた。夜になると三〇〇〇個ものイルミネーションが建物全体を青白くかがやかせ、それはそれは美しいそうだが、いまは正午になったばかりだ。
「これ以上、行動をトモにする理由もないもんね。あんたたちは自分の仕事をしたら?」
女王の銅像前で、涼子は由紀子と岸本に宣告し、私の腕をつかんでさっさと歩き出した。置き去りにされたふたりの視線を背中に感じながら、私は上司に問いかけた。
「あのふたり、帰路《かえり》はどうするんです?」
「あのね、あたしは修学旅行の引率の教師じゃないの。あいつらが好きな方法で帰りゃいいのよ。タダでつれてきてやったんだから、泳いで帰ったって、とめやしない。それよりも、ほら、あれ」
涼子の指が街路の一角にあるものをさししめす。
それは屋根のない一頭立ての馬車だった。馭者《ぎょしゃ》の服装はツートンの無彩色だ。黒いハット、襟《えり》だけ黒い白の上着、黒いズボン。その服装で私たちにほほえみかけてきたのは、妙齢の美女である。涼子のおかげで、たいていの美女にはおどろかなくなった。
「ああ、観光用の馬車ですね。あれがどうかしましたか」
「あの馬車に乗ろうよ」
その声が聞こえたように、女性馭者がふたたびほほえんだ。
「馬車で街路を走りながら話をしてれば、盗聴される恐れもないでしょ」
そうかもしれない。今日はいろいろな体験をする。水上飛行機に乗ったのもはじめてなら、馬車もそうだ。まさか人力車に乗る機会はないだろうな。
馭者台の後ろに、二人用の座席が左右に並んでいる。涼子が乗りこみ、私がつづいた。革ばりの座席にすわると、涼子が英語で命じた。
「ひとまわりして、ここへもどってきて」
左に|内 港《インナーハーバー》をながめながら、馬車はかろやかに走り出す。たしかに花と緑が多く、空間にゆとりがあって、美しい街だ。いまのところ空も青く、吹きつける微風も心地よい。
馬車のすぐ左にトラックが並んだ。見ると、花を積《つ》んでいるようだ。女性馭者が英語で説明してくれる。
「この街ではめずらしくありません。きっと郊外のブッチャート庭園《ガーデン》へ花を運ぶ途中でしょう」
花を満載したトラック。風流なことだ。色とりどりの花が荷台からあふれて――と見えたとたん、ドン、不快な揺れと音を感じた。トラックの車体が、馬車すれすれにせまっている。トラックのほうが馬車より速いはずだが、意図的に速度をあわせて接触してきたのだ。
涼子が怒りの声をあげる。彼女は、自分以外のドライバーに対しては、運転モラルの要求がきびしいのだ。
「カナダのトラック運転手って、みんなあんなに乱暴なの!?」
女性馭者は困惑の態《てい》で答えた。
「いえ、あんなひどい運転、ビクトリアでは見たこともありません」
「フン、花なんか積んでるくせに、風流のカケラもないわね」
こぼれんばかりに花を満載したトラックを、あらためて私はながめやった。バラだけで、紅、白、ピンク、黄、黒の五種類。水仙は白。それ以外の花は.名もわからない。運転席を見たが、助手席は空《から》で、その向こうの人影は、はっきりと見えなかった。
突如《とつじょ》、花々のまんなかに、醜悪なものが出現した。人間の生首かと見えた。愕然として見なおすと、首の下にはちゃんと胴体があるようだ。花の中に隠れていた地球人が、いきなり身をおこしたので、異様に見えたのである。
「吉野内……!?」
スタンレー公園で見かけた日本人が、獰猛《どうもう》な視線を投げつけてきた。どんな平和主義者でも、先制攻撃の誘惑に駆られるような目つきである。まして私の上司は過激な反コトナカレ主義者だから、ただですむわけがない。
「薬師寺涼子と知ってのイヤガラセか。おもしろい、そこを動くなよ」
座席から立ちあがると、私のひざの上を乗りこえようとしたから、あわてて私は抱きとめた。
「やめてください、あぶないから」
「とめたら、もっとあぶなくなるわよ」
私たちを見やって、吉野内は下品な笑声をあげると、おなじく下品な動作をしてみせた。具体的な描写はさしひかえる。私が上品なわけではなくて、昨日の拷問のショックが尾を引いているからである。
「あれを見なさいよ! 親の躾《しつけ》が悪いのよ。思い知らせてやるから、はなせ、泉田!」
「あんなやつの挑発に乗ってどうするんです。だいたい、何をたくらんでいるんだかわからないんだから、慎重に行動すべきでしょう」
われながら理性的な発言だと思うのだが、上司はとっくに戦闘バージョンにはいっている。またも衝撃を感じた。馬車の車体から一部の木片がちぎれとぶ。上司を引きとめる限界を、私はさとった。
「わかりました、わかりました、私がやります!」
何をやるのかって? 事態を悪化させないよう、上司に代わって私が行動するのだ。そう考えたこと自体、私はすでに涼子の影響を受けていたわけだが、おりから街路の信号が赤になって、トラックも馬車も停止したのが、決定的によくなかった。
「気をつけて乗りうつるのよ、泉田クン!」
「わかってます」
何がわかってるんだか。必然性などないまま、私は馬車の座席に立ちあがり、トラックの車体につかまり、荷台に乗りうつっていたのだ。信号が青になって、ふたたびトラックが走り出したとき我に返ったが、もうおそい。
「泉田タン、そいつ殴《なぐ》り殺していいわよ。あたしが許す!」
涼子が許してくれても、法律が正当防衛と認めてくれるかどうか、それが第二の問題だ。第一の問題はというと、そもそも私が全力をあげても吉野内に勝てるか、ということである。
うなりを生《しょう》じて、右の拳《こぶし》がおそいかかってきた。バックステップして空《くう》を打たせる。つもりだったが、靴底が花の茎を踏んだ。すべった。よろける。踏みとどまろうとして、またも花の茎を踏む。身体が泳ぐ。
右の頬から顎《あご》にかけて一発くらった。
花々の上に、私はひっくりかえった。双方ともに安定した体勢ではない。吉野内もパンチに充分、体重を乗せそこなったのだろう。まともにくらっていれば、奥歯が折れていたかもしれない。
「こらあ、泉田しっかりせんか!」
涼子の叱咤《しった》が耳をかすめる。花々の上で、私は横へころがった。私の顔をねらって振りおろされた吉野内の巨大な靴が、無情にも花々を踏みつぶす。その間にもトラックは走りつづける。
職業がら私はこれまで何度も取っくみあいを経験した。泥まみれ、埃《ほこり》まみれ、雨中で水まみれになったこともある。だが、花まみれというのは、はじめてだった。未経験の人にいっておくと、べつに楽しいものでもない。
めまぐるしく花々の色彩が乱舞し、何種類もの香りが嗅覚《きゅうかく》神経を走りぬける。花びらがちぎれ、茎が折れ、葉がつぶれる。バチあたりな点では、吉野内も私も同罪だった。
吉野内のリーチは私より長い。私だって大半の日本人よりは長いのだが、吉野内はまさに猿臂《えんび》というやつだ。つかまったら、KO《ノックアウト》は時間の問題である。
二度、三度、吉野内の獰猛《どうもう》なキックをかわして、私は半身をおこした。姿勢を低くして、吉野内がつかみかかってくる。それを避けず、私は、水仙の一本をつかみ、吉野内の右眼めがけてまともに突き出した。
茎の先端はとくにとがってはいなかったが、眼球を突かれた吉野内は反射的にのけぞった。
それで充分だった。私は両手で吉野内の襟をひっつかみ、自分自身の上半身を勢いよく持ちあげた。頭突《ずつ》きがまともに吉野内の顎《あご》にはいる。異音《いおん》がして、ふたたび吉野内がのけぞる。
手加減《てかげん》などしていたら、こちらがやられる。私は吉野内の両耳をつかみ、思いきりひねりあげながら鼻面《はなづら》めがけて二度めの頭突きをくらわせた。
あたらしい花が咲いた。赤い鼻血の花が、吉野内の顔面に。美しくも芳《かぐわ》しくもない花の主は、顔面をおさえて上半身を泳がせた。瞬間、私は身をひねって彼の巨体の下から逃れ出た。かろうじて立ちあがる。
「よおし、いいぞ、泉田!」
涼子の声が耳にとどく。いやに近い距離からの声だったので、その方角を見やって、私は仰天《ぎょうてん》した。
私の眼前に、涼子が立っているのだ。
「何でこんなところにいるんです!」
「決まってるじゃないの。飛びうつったのよ。不甲斐《ふがい》ない部下を助けるためにね」
「どうやって?」
「トラックはスピードを落としてるし、馬車は並行して走ってるのよ。飛びうつるくらい、誰にでもできるわよ」
できるもんか。私だって、あくまで停車中に乗りうつったのであって、走行中に飛びうつったのではない。私の上司の背中には、見えない羽がはえているのだろう。見えたとしたら、天使型ではなく悪魔型だろうが、いずれにせよ凡人にはないものだ。
吉野内が咆哮《ほうこう》した。私と同様、涼子の行動にドギモをぬかれていて、ようやく我に返ったらしい。猛獣なみの迫力で涼子につかみかかる。
つぎの瞬間、彼は、身のほど知らずの報いを受けた。ミニスカートから伸びた涼子の長い美しい脚がはねあがり、短く鋭い、しかも優雅な弧《こ》を描いて、吉野内の左側頭部にたたきこまれたのだ。
吉野内の巨体が吹きとんだ。
トラックの荷台から外へ。私は吉野内が路面にたたきつけられ、血のかたまりになるのを幻視《げんし》した。
水音がした。ようやく停止したトラックの荷台からとびおりて、涼子と私は路傍の海面をのぞきこんだ。濃い碧《あお》の海面に泡と波が立ち、浮上した吉野内が大口をあけて必死に酸素を吸いこむ。
「あっ、浮かんできやがった。しぶといやつ!」
舌打ちした涼子が、左右を見まわす。石でもぶつける気だったのだろうが、整備された路上にそんなものはなかった。
「しぶとかったからいいんですよ、溺死《できし》でもされたら、後味が悪いし、そもそもあなたは……」
「お説教する前に、髪をととのえなさいよ。寝起きのロビンフッドみたいじゃないの」
返答するよりはやく、第三者の声がした。
「おふたりとも、おみごとでした」
女性馭者がそういったのだ。日本語で。
私の髪をなでつけていた涼子の手がとまった。
鋭く女性馭者をにらみつける。寸秒の間に方程式が立てられたらしく、発した声は確信に満ちていた。
「あんた、あのトーテムポール男とグルだったのね。わざとトラックに並走させたでしょ。当然、トラックの運転手も仲間ってことね」
「たいへん失礼いたしました」
いささか無機質ながら、正確な日本語で応じて、女性馭者はハットをとった。光沢《こうたく》のある、みごとな赤毛だ。瞳は金褐色《きんかっしょく》に見える。
「失礼で無礼で非礼よ。え、あんた、客をこんな目にあわせて、まさか代金をよこせとはいわないわよね」
「もちろんです。幾重《いくえ》にもおわびいたしますが、当方の話をお聞きいただければ幸いです」
「あんたを幸福にしてあげる義務、あたしたちにはないわよ、ね、泉田クン!」
「はあ」
涼子のいうとおりではあるが、話は聞いたほうがよさそうに思えた。頭のなかで単語と構文を確認してから、英語で問いかける。
「なぜ、あなたは、私たちに対して危険な行動をとらせたのですか。理由を教えてください」
「わたしの雇い主が、おふたりに会いたいと申しております」
「雇い主というと?」
「グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》と申します」
U
さすがはハリウッドの帝王。三次元世界においても、舞台《ぶたい》がかった演出がお好きなようだ。
観光馬車の馭者を演じていた美女は、あいかわらず愛想がよかったが、愛想の種類は音もなく変化していた。無邪気で開放的な観光業者から、有能なビジネスウーマンへ。路上に立った姿を見ると、涼子にひけをとらない長身である。
私は岸壁を見やった。吉野内の巨体が、人々の手助けを得ながら這《は》いあがってきたところだった。ビクトリア市民か観光客か知らないが、世の中には、涼子より親切な人がたくさんいるのだ。
女性馭者がいう。
「あの男を責めないでやってください。いささか無器用でしたが、雇い主の命令にしたがって、あなたがたのアクション能力を試《ため》しただけですので」
「だったら、もうひとつ命令してよ。うらみがましい目であたしたちをにらまないようにってね」
涼子が手きびしい視線と声を発する。
「それと、あんたの名は?」
「申しあげるのがおくれて失礼いたしました。ドミニク・H《ヘンリエッタ》・ユキノと申します。ユキノは雪の野と書きます」
日系には見えなかった。まあその点では涼子も同様だが。
「父は日本系とドイツ系の混血、母はアイルランド系とスウェーデン系の混血ですから」
「キャノン氏の秘書なんですか」
「ええ」
秘書になる前には舞台女優でもしていたのではないか、と、ひそかに私は推測した。
「わたしの雇い主から、あなたがたを別荘におつれするよう申しつかっております」
「キャノン氏の別荘は、ビクトリア市内にあるのですか」
私の質問に、ドミニクは頭《かぶり》を振った。
「いえ、ビクトリアの沖、二〇キロの海上に島があって、その島全体がキャノン氏の別荘なのです」
水上飛行機から見おろしたエメラルド色の島々を私は思いおこした。あのなかに、キャノン氏の所有する島があったのかもしれない。
「島には名前がありますか?」
「あります。ブラックスパイダー・アイランドです」
黒蜘蛛《くろくも》島!
あまり可憐《かれん》とはいえないその名を耳にしたとき、涼子の瞳にある表情がひらめいた。紅唇を開いて答える。
「いいわ、いってあげる。まだ夕方まで間があるしね」
「ありがとうございます」
私の意見は、ふたりとも尋《き》いてくれなかった。
というわけで、今度はクルーザーに乗ることになった。グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》の所有する船のなかで、いちばん小さく、日帰り航海用のものだそうだ。それでも全長七五フィート、幅一五フィートある。ちなみに一フィートは約三〇・五センチ。純白の、いかにも高級感のある船体だった。ビクトリアの内港でも、目立つほうだ。
前部の船室《キャビン》がサロン風にしつらえてあり、涼子と私はそこに招き入れられた。ドミニクがひと声発すると、すぐにエンジン音が軽快にひびきわたり、クルーザーは動きはじめた。正直あまりおもしろくなかった。万事が計算どおりに運んでおり、私たちは方程式を立てるための単なる記号のような気がしてくる。
「島へは三〇分ほどで着きます。どうぞおくつろぎください」
コーヒーの用意がされていた。銀のポットに砂糖壺、ミルク壺。カップはもちろんマイセンだが、見たところ、涼子と私の二人分しか用意されていない
「あなたは飲まないんですか」
「わたしはコーヒーを飲みませんの。失礼してミネラルウォーターをいただきます」
「毒でもはいってるんじゃないの」
イヤミと聞こえるように、涼子がイヤミをいう。ドミニクは微笑した。
「では、わたしとおをじミネラルウォーターを、おふたりにも用意いたしましょう」
「それより、あなたの雇い主のキャノン氏についてすこし教えてください」
グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》は独身だということだった。どうせ離婚するのがわかりきっているから、最初から結婚しないのだという。賢人というべきか財産|分与《ぶんよ》をけちる守銭奴《しゅせんど》なのか、さびしき天オなのか。
「キャノン氏の本邸はビバリーヒルズ、他にニューヨーク、パリ、ロンドン、シャモニー、カンヌ、カンクンなど一六カ所に家があります。でも、一番のお気に入りは黒蜘蛛島ですの」
島の面積は、一〇〇〇エーカー余だという。一エーカーは約四〇〇〇平方メートルだから、東京近郊の分譲住宅地なら、たっぷり二万戸分というところ。島内に水は湧いているが、量は多くないので、淡水製造システムが設置されているそうだ。電気は海底の送電線で本土から引いているが、自家発電装置もそなわっている。
「島への交通手段は?」
「海路と空路です。島には一〇〇〇トン級の大型クルーザーが停泊できる港があって、ヘリポートもそなわってます。入江には飛行艇も発着できます」
飛行艇とは、要するに大型の水上飛行機のことだ。
「島の名の由来は何です? 珍種のクモでもいるんですか」
「いえ、島の色と形です。土も岩も黒くて、形のほうは……、与えと、地図か写真をお見せしましょう」
彼女はノートパソコンを開き、両手の指を踊らせた。開かれた窓から海風が流れこんで、涼子の髪を茶色に、ドミニクの髪を赤く、それぞれ波うたせる。ほどなくドミニクがパソコン画面を指《さ》した。
「上空から撮影した写真です。ほら、黒いクモに見えるでしょう?」
日本語で正確に表現するなら、
「見えないこともないでしょう」
というところだ。楕円形《だえんけい》の胴に八本の足を持った黒いクモ。足はつまり岬というわけである。
「キャノン氏の海上王国というわけですね」
「そうですね、広さならこの一〇〇〇倍の牧場が、オーストラリアにありますけど。そう、さきほどお話がありましたけど、この土地に大きな黒いクモがいるという伝説はありました。とても危険なクモだったそうですが、確認はされていません」
「先住民の伝説ですか」
「いえ、入植した白人の伝説です」
「そのクモが人を食べたっていうの?」
涼子が軽蔑したようすで話に割りこんだ。
「食べるのではありません。クチバシ状のとがった口を獲物に突き刺して、体液を吸いとるのです。獲物はからからにひからびて、ミイラ状になってしまいます」
自分の体液を吸いとられていく気分はどんなものだろう。つい想像して、私は自分かってに気色《きしょく》悪くなった。ドミニクが、いささかサービス精神過剰に説明してくれる。
「巨大な注射針を突き立てられて体液を吸われるわけです。髄液《ずいえき》を採取されるときでも、かなり痛いそうですから……」
イヤだなあ、と、心から私は思った。警察の健康診断で、検査のために注射針を突き立てられ、血を採《と》られるのでさえ、快適にはほど違いのに。死にかたを自分で選べるなら、そんな死にかたはしたくない。
突然、クルーザーの右側で海がはねあがった。陽光を受けた黒と白の流線型の影が、飛沫《しぶき》をまといつかせながら宙を舞う。
「オルカですわ」
涼子と私の疑問に、ドミニクが答える。オルカ、つまりシャチだ。イルカに似ているがひとまわり大型で腹部が白く、剽悍《ひょうかん》な印象がある。
「ヴィクトリアには、オルカに関するグッズをあつかってる専門店もありますよ。写真とかTシャツとか人形とかを。オルカ見物ツアーには日本人の参加者も多いんです」
「そうですか」
岸本はオルカには興味がないだろうな。そう思いつつオルカの姿を迫って視線を動かしたが、すでに影も形もない。
「泉田クン、あれ」
涼子の指がまったく別の方角をさし、その姿にドミニクの声がかさなった。
「あれが黒蜘蛛島です」
V
その島は黒々と海上にわだかまっていた。土も黒く、岩も黒く、樹木も黒いのだ。黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》とはよくいったものである。たしかに、巨大な黒蜘蛛に見える。空が暗ければ、さらに雰囲気が出るだろう。ドミニクが告げる。
「港は島の反対側にありますので、島にそって半周します」
クルーザーは左へと舵《かじ》を切った。右前方に黒い断崖が立ちはだかり、白く砕《くだ》ける波を受けながら、右後方へと流れていく。流れ去るということはない。黒い断崖はあとからあとから出現して、とぎれることがなかった。
「海面へ開いた洞窟はない?」
涼子にいわれるまでもなく、私も注意して観察したつもりだが、黒い断崖に開いた暗い洞窟を発見するなんて、むりな話だった。しかも、存在するとはかぎらないのだ。
一〇分ほどで、クルーザーは港にはいった。クモの二本の足にはさまれた、半径二〇〇メートルほどの湾だ。他の船は出はらっているのか、姿が見えない。
私たちは上陸した。眼前に黒い断崖がせまっている。
断崖の高さは、海面から約六〇メートル。一五階建てのビルというところ。その高さを大理石づくりの階段でつないである。一直線に伸びた階段ではない。断崖の途中にいくつものテラスが設けられ、つづら折りの形式に、階段がテラスを結んでいるのだった。
この階段とテラスだけで、一〇〇万ドル以上かかっているのだろうな。貧乏人らしいことを考えながら、私は階段を登りはじめた。涼子やドミニクのあとについて。
ハイヒールをはいたまま、必要以上に胸をそらして階段を登るのだから、本来ならバランスがこころもとないのだが、涼子にかぎっては心配ない。ドミニクが私に並んだ。階段の幅は三メートルほどあって、楽に並べる。ただし手摺《てすり》はない。上にいくほど、高所恐怖症の人にとっては試練になりそうだ。
「ガードマンはいないんですか」
「おりません」
「無用心じゃありませんか、大富豪なのに」
「ご心配なく」
こともなげなドミニクの返答だった。
「ガードマンはおりませんけど、ガードアニマルがおりますから」
「アニマル? 犬ですか?」
「いえ、キャノン氏は犬はおきらいです」
「へーえ、それじゃ猫にでも警備させてるの?」
振り向いて、涼子がつっかかる。ドミニクは余裕をもって応じた。
「猫科にはちがいありません。お目にかけましょう」
ひと呼吸おいて、彼女は声を張りあげた。
「バルバリッチェ、アリキーノ、カルカブリーナ!」
声に応じて、重々しい鳴声がした。たしかに犬の咆哮ではない。黒い岩の蔭から白い大理石の階段へ、三つの大きな影が躍り立った。思わず私が立ちすくんだとしても、笑わないでほしい。
「カニッチオ、リビココ、ドラギナット!」
またしても鳴声がひびいて、猫科の猛獣が褐色の姿をあらわした。ライオンだろうか。いずれもタテガミはない。とすると、すべて牝《めす》のライオンなのだろうか。
「チリアト、グラフィカーネ、ファルファレロ、それにルビカンテ!」
今度は四頭が視界に躍り出た。私たちは階段を登りかけたまま、上下を猛獣にふさがれてしまった。
「なるほど、ピューマを飼いならしてるの」
涼子がうなずいた。やや不本意ながら、感心したような声だ。
バルバリッチェ以下、ピューマの名は、ダンテの『神曲』に登場する一〇人の鬼の名だ、とドミニクは教えてくれた。ダンテとヴェルギリウスを護衛して地獄の「|邪悪の濠《マルボルジェ》」を渡った一〇人の鬼。それらの名を持つピューマが、この島を警護している、というわけだった。
ピューマ、別名アメリカライオン。カナダの西部山岳地帯にも棲《す》んでいると聞いてはいたが、それを番犬がわりに飼っているとは。よくいえばスケールが大きい。悪くいえば非常識だ。
涼子が皮肉な目でピューマたちを見まわす。
「人件費もかからなくて、けっこうな警護係《ガーディアン》ね。でも野生動物保護法はクリアしてるの?」
「もちろん。キャノン氏は法を守る術《すべ》をこころえております」
「法を利用する、でしょ」
せせら笑って、ふたたび涼子は階段を登りはじめる。ピューマなど眼中にないようだ。すくなくとも私にはそう見えた。彼女の豪胆《ごうたん》さに、いまさらながら私は舌を巻いた。私自身はというと、飼育されたピューマがドミニクの前でおそいかかってくることはない、と、理性ではわかっていても、不安は禁じえなかったのだ。
それでも、足が動かなくなる、という醜態は演じずにすんだ。咆哮《ほうこう》されたら、蒼《あお》くなって立ちすくんだかもしれないが、ピューマは虎やライオンとは舌骨の構造が異《こと》なるので、鳴声や唸《うな》り声は出せても、咆哮はできないのだという。後日しいれた知識である。
階段を登る私に、ドミニクがささやきかけてきた。
「彼女あんなに強いんだから、あなたのガードなんか必要ないでしょ?」
「そうともかぎりませんよ」
私は何とか落ちついた声を出すことができた。
「戦況によっては、女神アテナにだって盾《たて》が必要になりますからね」
ドミニクは、いささかおおげさに眉を動かした。
ピューマを呼んだ声といい、やはり彼女は舞台女優だと思える。
「あなた、すごい比喩《ひゆ》をなさるわね。自分の上司を女神だと思ってるの?」
「まあね」
「そんなに彼女を崇拝なさってるの?」
「いや、何というか……」
私はいささか返答にこまった。私が、薬師寺涼子を女神に、自分を盾に喩《たと》えたのは、むしろ自分の自尊心のためだ。涼子を魔女と呼んだら、私は自分をヒキガエルかカラスにでもたとえなくてはならない。べつにヒキガエルやカラスを差別する気はないが、まあ気分の問題である。
ようやく断崖上に着いた。ビルでいうと一五階分の高さを登りきったわけだ。適度の運動をこなした満足感と同時に、ある疑問が胸にきざしたが、口に出すより早く、ドミニクが海を指さした。
「あのあたりの海面から先は、もうアメリカの領海です」
といわれても、距離の見当がつかない。応じたのは涼子だった。
「ずいぶんつごうのいい位置よね。密輸も密出入国も、やりたい放題じゃないの」
「そうでもありませんわ。両国の沿岸警備隊が、いつも船を出しています。おかげで安全ですわ」
今度は平地を移動し、舗道を歩いて樹々の間をぬけた。
白と青の建造物があった。水をたたえた大理石のプールだ。ずいぶん大規模なもので、五〇メートル四方はありそうだった。大理石には縦横に黒い格子模様がはいっており、古代ローマの神殿めいた円柱や彫像にかこまれていた。
「夏になるとキャノン氏はこのプールでスキニー・ディッピングをなさいます」
ドミニクの言葉の意味をとらえるのに、わずかを時差《タイムラグ》があった。つまり裸で泳ぐということだ。
涼子が褐色の髪をかるくかきあげた。
「スキニー・ディッピング? あたしもたまにやるけど、気持ちいいわよ」
私の脳裏に、ふたつの映像が浮かびあがった。とびきり美しく魅惑的で、しかも危険きわまる映像。危険ではないがグロテスクでキタナイ映像。私は頭を振って、後者の映像を追いはらった。そんな種類のものは、高山総領事閣下の拷問シーンだけでたくさんだ。
プールを横目に歩きつつ、おぞましい記憶を追いはらうため、私は考えをめぐらした。
私は一生、豪邸なんてものを建てることもできないし、住むこともないだろう。だが大学では英文学科に所属し、イギリスやアメリカの探偵小説をけっこう読んだ。だから『赤毛のレドメイン家』なども知っているわけだが、警察官という職業についたこともあって、家の見取図などには興味がある。アメリカの建築雑誌などを、洋書店で買いこんで、いろいろと見くらべてもみた。
その成果、というのもオオゲサな話だが、わかったことがいくつかある。たとえば、「リビングルーム」というのは日本では「居間」と訳するが、これはむしろ「応接室」。「ファミリールーム」というのが、日本でいう「居間兼食堂《リビング・ダイニング》」になる。
なぜこんなことをいい出したかというと、目の前にあらわれた建物を「家《ハウス》」と呼んでいいかどうか、迷ってしまうからだ。パレスとかシャトーとか呼んだほうがよいだろうが、蒼然《そうぜん》として見える宏壮な建物だった。
その館は、三〇〇メートル四方はありそうな芝生の中央に建っている。芝生の三方は北アメリカ杉の黒々とした森で、一方はさえぎるものなく海に面している。カナダ・アメリカ国境の、海と島々がおりなす絶景を独占しているようだった。
ヨーロッパの城館のように歴史が古いはずはないのだが、最初から意図的に、古く見えるよう建てられたのだろう。地上四階、もちろん地下室もあるにちがいない。赤というよりピンクの砂岩でつくられており、屋根のかわりに屋上があるということもあって、個人の住居というより裁判所のような印象だった。
ドミニクの先導で近づいていくと、館の正面に人影が見えた。玄関から出てきたのだろう。広すぎるほど幅の広い階段をおりてくるようだ。執事《しつじ》が客を出迎えにきたのだろうか。
「キャノン氏がお迎えにあがりました」
大豪邸の主人みずからとは、鄭重なことだ。ハリウッドの帝王はずいぶんと紳士らしい。そう思ったが、近づくにつれ、服装は紳士らしからぬことがわかった。礼服どころかスーツも着ていない。何と日本の浴衣《ゆかた》を着ている。着かたが悪いので、型がくずれてじつにだらしなく見えた。浴衣の藍色の地には白い文字がいくつも書かれている。
ハリウッドの帝王が、奇妙に高い声でいった。
「よく来てくれたミス・ヤクシージ」
W
「私はヒロイン役を探していたのだ。かのイタリア文学の精華《せいか》『狂えるオルランド』を映画化するにあたって、アンジェリカ姫を演じることのできる女性をな。だが既成《きせい》の女優にはいなかった。ミス・ヤクシージ、君こそが私の理想だ」
写真で見たことが一度ならずあるはずだが、グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》の実物は、これまでの印象と異《こと》なった。もともと痩《や》せては見えなかったのだが、いまや前後左右の四方向に膨張しきって、ゆで卵のような体形になっている。顔も同様で、剛《こわ》いヒゲに下半分をおおわれ、よけいにふくれて見えた。茶色の緑をした眼鏡の奥に、水色の瞳が明るく光っている。うつろなほど明るく。その明るさが、私にはいささか気味が悪かった。
浴衣を着たハリウッドの帝王は、足にはサンダルをはいていた。裾から出た足首は、胴体から想像もつかないほど細い。そして浴衣に書かれた文字は、「因果応報《いんがおうほう》」「七転八倒《しちてんばっとう》」「四面楚歌《しめんそか》」などと読めた。意味を知らずに着ているのだろうが、秘書のドミニクは教えてやらないのだろうか。
「会長《チェアマン》」
ドミニクの声で、はっとしたようにグレゴリー・キャノン二世《ジュニア》は動きをとめた。涼子は無言のまま腕を組んでたたずんでいる。涼子の腕に、キャノンは手を触れようとしたのだ。
「……いや、これは失礼した。きちんと挨拶《あいさつ》もせずにな。君の魅力に惹《ひ》かれてのこと。赦《ゆる》してくれたまえ」
涼子の返答も聞かずにつづける。
「さあ、館のなかへどうぞ。昼食も用意してある。ゆっくりしていってくれたまえ」
背中を向け、せかせかと歩き出す。
浴衣の背に大書された「絶体絶命《ぜったいぜつめい》」という文字を見ながら、私は涼子に尋ねた。
「『狂えるオルランド』って何ですか」
「『狂えるオルランド』を知らないの? 君いちおう文学部出身でしょ」
「英文学科です。だから『赤毛のレドメイン家』は知ってましたけど、イタリア文学は専門外でして」
「あたしなら知ってると思うの?」
「ええ」
「上司を信頼してるわけね、よろしい」
いささか誤解があるようだったが、とにかく涼子が教えてくれたところでは、『狂えるオルランド』とは一六世紀にアリオストという人が完成させた叙事詩で、勇敢な騎士オルランドが、地上だけでなく地獄や月世界にまで冒険の旅をくりひろげる内容なのだそうだ。
アンジェリカ姫というのは、『狂えるオルランド』のヒロインで、主人公オルランドを迷わせる絶世の美女、なのだとか。姫というからにはどこの王女さまかと思うと、中国の皇女さまなのだという。私はいささか違和感をおぼえた。
「アンジェリカという名は、中国人女性らしくありませんが」
「それはしかたないわよ。当時のヨーロッパ人にとって、中国はひたすらエキゾチックな別世界なんだから。だいたい中国も日本も韓国もベトナムも、ヨーロッパ人には区別つきゃしないわよ」
「おおざっぱですね」
「たしかにおおざっぱだけど、日本人だってヨーロッパに関しては、そんなものでしょ。ルーマニアとブルガリアとのちがいがわかる日本人が、どれだけいると思う?」
たいしていないと思う。ルーマニアはドラキュラ伯爵の故郷で、ブルガリアはヨーグルトの名産地、とだけでも知っていれば、物識《ものし》りの部類だろう。まして、スロバキアとスロベニアとのちがいなど問われた日には……。
「どうぞこちらへ」
ドミニクにうながされ、涼子と私は階段へと足を向けた。何気なく肩ごしに振りむくと、まるで競技場のような照明灯が、森と芝生との境界線上に何本か立っているのが見えた。防犯のためか、芝生で野外コンサートでも催《もよお》すためなのか、そのときの私には想像力がはたらかなかった。
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第四章 赤い館の秘密?
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グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》が存在するからには、グレゴリー・キャノン一世《シニア》が存在する道理である。その人物は二世の祖父で、二〇世紀の中期に、ハリウッドで映画プロデューサーをしていた。名前だけでなく、職業においても、孫の先達《せんだつ》だったわけだ。
ただし、孫ほど成功はしなかった。孫はハリウッドの帝王となりおおせたが、祖父のほうはせいぜい小領主というところだった。制作した映画は三〇本ほどあるが、その評価はというと、
「B級の下が一〇本、C級が一〇本、D級が一〇本」
だそうである。主要作品のタイトルをならべると『恐怖のカマキリ男』、『地獄から来た人喰いアリ軍団』、『哀愁の蚊男《モスキートマン》』、『蛾男《モスマン》と|蝶 女《バタフライウーマン》』、『怪奇クモ女』、『クモ女の復讐』、『夜霧の殺人バッタ』『振り向けば巨大ゴキブリ』……
何だかやたらと昆虫が好きな御仁《ごじん》だったようである。厳密にはクモは昆虫ではないが、似たようなものだ。
「一世《シニア》の終生《しゅうせい》の望みは、フランツ・カフカの『変身』を映画化することだったんだって」
「そりゃ徹底してますね。人間が大きな虫に変身する話ですからね」
「カフカだって迷惑よね。実現しなかったからいいけどさ」
涼子と私がそんな会話をかわしたのは、館の玄関ホールからダイニングルームへとつづく廊下を歩みながらのことだった。廊下の幅は三メートル以上あり、左右の壁には古い写真や映画ポスターが飾られていて、つまりはギャラリーというわけだ。
ひときわ大きな白黒《モノクロ》写真がパネル化されていた。肥満ぎみの白髪の老人が、幼児を抱きあげて笑っている。老人が一世で、幼児が二世だ。「キャノン家の過去と未来」というところだろうか。とすると、当時の「現在」はどうなっていたのだろう。
ドミニク・H《ヘンリエッタ》・ユキノが説明してくれた。
「一世には息子さんはいらっしゃいませんでした。お嬢さん、つまり二世の母親にあたる女《ひと》が、キャノン家をついだのです」
「つぐほどの家だったの?」
涼子の質問は無礼かつ不穏当《ふおんとう》だが、私の見るところ、ドミニクは笑顔のプロらしかった。
「ええ、家系は独立戦争のころまでさかのぼれますし、資産もまず富豪と呼ばれるほどはありました」
いまや富豪の上に「大」の一字がつくわけだ。いや、「巨大」の二字か。孫の成功に、祖父もさぞ満足だろう。それとも、いまだに『変身』を映画化してくれないことを、不満に思っているだろうか。
「一世《シニア》はプロデューサーとして人気があったんですか、ミズ・ユキノ?」
「生前は、あまり名声にめぐまれていたとはいえません。でも死後かえってカルト的な人気を一部で得ています。『不遇の天才』と呼ぶ人もいます。日本の映画評論家ですけど」
「ダメな映画を絶讃することでしかアイデンティティをたもてない、無能な評論家っているのよねえ」
涼子がせせら笑ってみせる。
「その点については、よくわかりません。ただ外国の人に好意的に評価していただけて、一世も喜んでいるでしょう。文字には国境があるが、映像にはない、というのが口癖だったと聞いております」
ドミニク・H・ユキノの応対は、まことにソツかない。私の上司にも、すこしは見習ってほしいものだ。涼子は才能とおなじくらい豊かにソツがあるので、いつだって部下はフォローに苦労させられる。
「一世《シニア》は昆虫がお好きだったんですか」
「そうともかぎりません。『大都会の獣人《じゆうじん》』とか『吸血サボテン男』とかいう作品もありますし」
一世《シ二ア》の作品に対する社会的評価に、私は疑問をいだいた。「D級が三〇本」というのが、正しい評価ではないのだろうか。
ふいに涼子が足をとめた。大理石を打つハイヒールの音がとだえて、鋭気《えいき》に満ちた視線が銀のナイフさながらに壁面の一点を突き刺す。私もその視線を追った。
そこには一枚の映画ポスターがあった。やはりパネル化されており、安っぽくけばけばしい原色が強調されている。タイトルは『怪奇クモ女』。背景は一面に赤く、中央に黒々とクモの影。その左下で、恐怖と嫌悪《けんお》に絶叫するヒロイン。彼女の顔面に、涼子の視線は突き刺さっていた。
ドミニク・H・ユキノが完璧なまでに模範的な笑顔をつくった。
「おどろかれました? ええ、そのヒロインはわたしによく似ています。そのはずですわ、わたしの祖母ですから」
たしかによく似ている。色彩処理のどぎつさを取り去れば、生き写しといってよいほどだ。
映画自体は題名からしてC級かD級に決まっている。だが『クモ女の復讐』という作品はおそらく続編だろうから、続編がつくられるていどにはファンがいたらしい。ドミニクの祖母の演技を一見《いっけん》したい気もするが、DVDが売り出されるとも思えない。
ドミニクにうながされ、涼子と私はけばけばしい廊下をぬけた。ダイニングルームは小学校の教室よりも広大で、中央には二〇人がけのオーク製のテーブルがすえられていた。
ハリウッドの帝王が供《きょう》してくれる昼食とはどんなものか。興味はあったが、じつのところ敬遠したい気分のほうが上まわっていた。ルイ一四世風か満漢《まんかん》全席《ぜんせき》か、けばけばしく豪奢《ごうしゃ》な宮廷料理。あるいは、昆虫やら爬虫類《はちゅうるい》やら両生類やらの素材を大量に使ったゲテモノ料理。そのどちらかではないか、と予想したからだ。私はごく保守的な小市民なので、べつに珍味を求めてはいないのである。
だからテーブルの上を見て、内心、安堵《ほっと》した。ミートボールをそえたスパゲティ・ミートソースに、ミネストローネ、サラミソーセージやチーズをふんだんに盛ったイタリアンサラダ。それらの姿が見えたからだ。どうやら常識的な食事にありつけるらしい。まさか毒が盛られているとも思えない。
グレゴリー二世とともにテーブルに着いているのは、取り巻きの連中だった。ドミニク以外の秘書に、マネージャーに、映画会杜やゲーム会社の役員、演出家やら|C G《コンピュータ・グラフィック》技術者やら。ひととおり紹介されたが、記憶に残すべき人物はいないようだ。
すぐ食事にうつって、私はスパゲティを口に運んだ。とたんに私の口のなかを満たしたものは。「ぐにゃり」という使い古された擬音そのまま、気色《きしょく》悪いやわらかな感触がつぶれ、ひろがり、舌や頬の内側にねばりつく。
声も出ない状態で、私は同席者たちを見まわした。涼子は冷然と、スパゲティもどきの醜悪な山を見おろし、フォークを手にしてすらいない。その他の連中はというと、信じられないことにグレゴリー二世は早くも皿の半分を空《から》にし、取り巻きたちも平然とフォークを動かしている。吐き出すこともできず、ようやく口のなかの異様な物体をのみこんだ私に、意地悪く涼子がささやいた。
「カナダではスパゲティだけは食べないこと。絶対に日本人の食感にあわないから。ガイドブックにまで書いてあるわよ」
「読み落としました……」
カナダには「かたゆで《アルデンテ》」という料理用語がないのだろうか。たしかに、地上に天国は存在しないものだ。風景が美しく、物産は豊かで、人々は親切、政治は模範的な民主主義で、外交は穏健、文化は多様、治安も良好、メジャーリーグの野球も見られる、でもおいしいスパゲティにはありつけない。
お茶ででも口のなかを洗いたかったが、飲物としてはコーラしか用意されていない。しかたなく手を伸ばしたとき、かたじけなくもハリウッドの帝王おんみずから、私ごときにご下問《かもん》があった。
「日本人はキモノを着ないのかね」
私はつつしんで奉答《ほうとう》した。
「気温三五度C、湿度九〇パーセントでも、スーツを着てネクタイをしめてますよ」
ハリウッドの帝王は、太くて薄い眉を不審そうに動かした。
「何のために、そんなことをしてるんだ」
もっともな疑問だが、もっともな解答はない。私が返答を考えている間に、私の明敏《めいびん》な上司が口を出した。
「いまの日本人には、キモノの似あう体型の人がすくないのよ。似あわないキモノほど、みっともないものはないからね」
取り巻きたちの何人かが、フォークを動かす手をとめた。ハリウッドの帝王は、膨大な量のスパゲティをフォークに巻きつかせ、口いっぱいに頬ばった。だらしなく着くずした浴衣に、「暖衣飽食《だんいほうしょく》」の四文字が看《み》てとれた。
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膨大なスパゲティを食道から胃へ送りこんでも、グレゴリー二世の口は動きをとめなかった。脂《あぶら》に光る唇の間から、声が押し出される。
「どうかね、ミス・ヤクシージ、私と契約してハリウッドでデビューしないか」
「ノー」
ただの一口で、涼子は、ハリウッドの帝王からの誘いを粉砕した。
「怪物にさらわれて、男が救出《たすけ》に来るのを、ただ待ってるような役、あたしが引き受けるわけないでしょ。あたしは、もっと気高《けだか》くて優雅で華麗で、魅力あふれた役を演じるのにいそがしいの」
「どういう役かね」
「薬師寺涼子」
「……それは君自身のことではないのかね」
「そうよ」
平然と、涼子はうなずいてみせる。
「あたしみたいに知性の豊かな女は、意識して、あるべき自分の姿を理想的に演じているものなの。だからことさらカメラの前で演技する必要なんてないわ」
ハリウッドの帝王は沈黙した。もし私に問いかけてきたら、「ウソです、彼女はただ自分の好きかってに行動しているだけです」と教えてやったのにな。彼が沈黙をつづけているので、私は、万国共通の不粋な刑事らしい質問を発した。
「ミスター・キャノン、イクコ・イオとヨーへイ・ニシザキ、先日バンクーバーで不自然な死をとげた日本人の男女を知っていましたか?」
「知っていたよ」
即答だった。
即答を、私は予測していた。ただし即答の内容は正反対だった。私が予測していた即答は、「知らないね」というものだったのだ。
ハリウッドの帝王は、ナプキンで口をぬぐい、侮蔑《ぶべつ》の念もあらわにまくしたてた。
「女のほうは、女優《アクトレス》志望だった。男のほうは、彼女の愛人だ。年に何千万ドルもかせぐハリウッド女優と、そのマネージャーになるつもりだったよ」
「何でそう思うんです?」
意外なことだが、私の愚問《ぐもん》はハリウッドの帝王を興《きょう》がらせた。グレゴリー二世は空《うつ》ろな水色の瞳に虚《うつ》ろな光を満たし、赤ん坊のようなピンクの手を上下に動かしてテーブルをたたいた。
「何でそう思うのかって!? いや、君は私を読心術師だとでもいうのかね。何でそう思ったかって!? そいつはもちろん、彼らが自分の口でそういったからさ!」
彼は笑ってみせた。私は不快感をそそられた。私は西崎陽平や井尾育子のような人間が好きではない。それでもグレゴリー二世の言動は不快だった。
「容姿もたいしたことはなく、演技力も歌唱力もなく、ダンスもできない。馬にも乗れない。それでどうやってスーパースターになれるのかね」
「あら、日本ではそうよ、知らなかった?」
涼子が冷笑した。グレゴリー二世の取り巻きたちは、あきれかえったようすで、極東から来た不遜《ふそん》な美女を見つめている。ハリウッドの帝王みずからの勧誘を一言でしりぞけるとは、この若い女性はあでやかに美しいが、正気を欠いているらしい。
グレゴリー二世はジョッキのコーラをふたくち飲むと、いきなり私に声をかけた。
「君、私のボディガードにならんかね」
つい私は、まばたきしてしまった。ハリウッドの帝王は、人材をコレクションする癖があるのか。いや、たぶん私を陣営に引きこんでおいて、あらためて涼子を手にいれる算段《さんだん》をめぐらす気だろう。
「給料は現在の三倍出そう。どうだ?」
「私にそんな価値があるでしょうかね」
すると、はじめてドミニクが口を出した。
「ありますわ。ヨシノウチたちにも、それぐらいの報酬は出しています」
私はかつて警護官《SP》への途《みち》を、横暴な上司によって妨害されたことがある。だが、今回、私は自分の意思で明言《めいげん》した。
「せっかくですが、おことわりします」
「なぜ?」
心からふしぎそうなグレゴリー二世の反応だった。その表情を見るかぎり、反応の裏に何かふくむところがあるとも思えない。だから私はまじめに答えることにした。
「あなたは個人の財力で、優秀なボディガードを何百人でもお雇《やと》いになればいい。私の雇い主は、個人的にボディガードを雇う力のない人々なんです」
日本語に訳すと、何とも気恥ずかしい。英語だからいえた台詞《せりふ》だと思う。日常的な表現をはずして、高校生用の辞書にのっているような単語と構文だけでしゃべると、かえって演説風になってしまうものだ。その証拠に、涼子が皮肉っぽく拍手したではないか。
「いよっ、名演説! 公僕《こうぼく》のカガミ!」
「恐縮です。何しろ模範的な反面教師が、すぐ近くにいるもので」
「ああ、お由紀ね」
「ちがいますよ!」
私たちの日本語の会話を聞いて、ドミニクが笑った。美しい笑顔。だが、ほんの一瞬、その笑いがグレゴリー二世のそれよりよほど底意《そこい》のあるものに感じられたのはなぜだろうか。
『赤い館の秘密』。
『クマのプーさん』の作者A・A・ミルンが書いた探偵小説のタイトルを、私は思い出した。『赤毛のアン』といい、『赤毛のレドメイン家』といい、どうも今回は赤だらけだ。すると、つぎにひかえているのは、コナン・ドイルの『赤毛連盟』か、エドガー・アラン・ポオの『赤死病の仮面」か。
空腹をかかえたままダイニングルームを出て、来たときと別の廊下を歩きながら、私の思いは、いささかとりとめなかった。赤というよりピンクの砂岩でできた巨大な建物の内部は、奇妙に存在感がなく映画のセットを思わせるのだ。
「帰りは当家の飛行艇でお送りします」
涼子と私を案内するドミニクの声もまた、洞窟内に反響するかのようだった。
V
ビクトリアに着いたときの水上飛行機の機内がワゴン車サイズだとすれば、こんど涼子と私が乗りこんだ飛行艇の機体は、大型観光バスのサイズを誇っていた。しかも内装の豪華さときたら、警視庁における涼子の執務室みたいだった。
「一時間でバンクーバーにもどれますわ」
ドミニクが、微笑とともにそう告げる。私たちを送ってくれるのだから、とやかくいってはバチがあたるが、往ったり来たり、ご苦労なことだ。グレゴリー二世が気まぐれに誰かをスカウトしようとするたび、彼女が東奔西走《とうほんせいそう》するのだろうか。今回、まるで不成功だったわけだが、別に失望しているようにも見えない。慣れているのか、それとも第二段が用意されているのか。
それより気にすべきは、フライングジャケットを着てコクピットにはいった三名の乗員だった。
ひとりはたしかに吉野内だった。彼のような男が飛行艇に乗りこんでいる意味を、私は考えた。想像の興は、明るい方角へはひろがらなかった。涼子と私を空中から海へ突き落とすつもりではないか。それとも、自分たちだけパラシュートで脱出し、機体を爆破するか。
涼子がサロン風の座席で高々と脚を組み、私の心配性を笑いとばした。
「あの風船男は……」
というのは、グレゴリー二世のことだろう。
「あの風船男は、まだそれほど強引な策《て》は打ってこないと思うわ。あたしの予測が寛大すぎて、もしやつらがあたしたちに危害を加えようとしたら……」
「そのときはどうするんです」
「どうすると思う?」
「実力で|乗っ取り《ハイジャック》するんでしょう?」
「あたり! さすが、あたしの助演男優」
主演女優どのが笑っている問に、飛行艇は離水していた。
涼子とドミニクがつれだって化粧室へ姿を消し、私がひとりになると、女性たちと入れかわるようにコクピットから男がひとりあらわれた。吉野内ではない。おなじ日本人の加戸直彦だった。私と対面の座席に、すすめられもしないのに腰をおろす。態度にふさわしい無礼さで声を出した。
「おれのことを知っているようだな」
「有名だからね」
私の非社交的な返答に、加戸は薄笑いの表情をつくった。吉野内と較《くら》べれば小男に見えてしまうが、胸板は厚く、腕は太い。吉野内と互角に、ということは私と互角以上に闘えるはずの男である。
「どう思ってるか知らんが、あのとき、賭けをしていたのはキャリアどもだ」
「意味がよくわからないな」
私は用心した。実際、加戸の台詞《せりふ》は唐突《とうとつ》で、よく意味がわからない。しゃべりたいのだったら、ひとまずしゃべらせてみよう。
「おれたち三人のうち、誰が優勝するか、準優勝が誰で、三位が誰か。それによって分配金が決まるシステムだったんだ。キャリアどもにとって、おれたちは競馬の馬にすぎなかったのさ。あほらしい話だろう、ええ?」
分配金とは何のことだ。いささか当惑したが、私はすぐ解答を見出した。窓外の風景にかるく視線を走らせる。
「つまり、裏金のことか」
「それ以外に何がある」
裏金、ウラガネ、URAGANE。そのうちオタクやカローシ同様、世界共通語になるかもしれない。
考えこんだ私に、加戸はいやな視線を向けている。薄刃でえぐられるような気分だった。とうてい、こいつとは友人になれそうにない。
「なぜ、そんなことを、おれに話す?」
「なぜだと思う?」
「おなじノンキャリアとして、心情を理解してほしいとでもいうのか」
吉野内は表情にとぼしい男だが、加戸のほうはそうではなかった。おもしろいほど大きく口もとをゆがめる。
「けっ、おれたちの気持ちが、お前なんぞにわかってたまるか。キャリアの、それも女にへイコラして、何とか免職《クビ》にならずにすんでる飼犬やろうなんぞにょ」
私は意識して目を細めた。加戸の嗜虐《しぎやく》的な笑《え》みが意味するものは、ただひとつだ。私を挑発して、騒ぎをおこそうとしている。それにしても、私が涼子の部下であることを、どうやら正確に知っているようではないか。
私は挑発に挑発で応《こた》えてやることにした。
「暴力団と癒着《ゆちゃく》したのを正当化するために、キャリア批判を持ち出すようなやつらの気持ち、最初からわかるわけないだろう」
「……何だと」
「お前らが日本から逃げ出したあと、いろいろなことが明るみに出たんだよ。たのむから犠牲者|面《づら》しないでくれ」
明るみに出た、というのは不正確だ。不祥事が明るみに出ないよう、警察は必死に工作したのである。
吉野内らが暴力団と組んでおこなっていたのは、賭博だけではない。警察の捜査情報の漏洩《ろうえい》にはじまって、覚醒剤の売買や人身売買にまでおよんでいた。彼らは暴力団から女もあてがわれていたが、それは東南アジア諸国出身の女性たちで、暴力団に売春を強要され、吉野内たちからは暴力をふるわれ、不法滞在のため、公的機関に保護を求めることもできなかったのだ。
加戸はふたたび口もとをゆがめた。
「日本の法を破って不法滞在しているような後進国のやつら、どうなろうと自業|自得《じとく》だ。いやなら自分の国へ帰ればいいのさ」
「それなら尋《き》くが、お前ら、カナダへは合法的に入国したんだろうな」
「さあてな」
「答えられないのか」
「かってに解釈しろ。たしかなのは、日本の警察が、おれたちのやったことを立件《りっけん》せず、カナダ政府に身柄の引き渡しも要求しなかったってことだ」
ふいに加戸は舌を動かすのをやめ、あわただしく立ちあがってコクピットへもどっていった。化粧室から出てきた涼子がまっすぐ歩み寄ってきたからだ。
「聞いてたんですか」
「まあね。君にだって、ほんとは、飼主がいたほうがいいのよ」
「どんな飼主です?」
「だから、ほら、あたしみたいな、いわば心の飼主」
「いりません」
「いるときには、スナオにいうのよ」
「いりませんったら!」
飛行艇の窓からは、あいかわらず美しいジョージア海峡周辺の風景が見える。ただ、飛行艇の高度や太陽の角度などが関係しているのだろう。海は青ではなく、あわい黄金色にかがやいていた。東北方にそびえる山々の雪冠も、白というより銀色にきらめき、影になった部分は紫色だ。森や島の緑だけは往路と変わらない。
ふと、自分はなぜこんなことをしているんだろうという気がした。ふたりの日本人男女が不自然な死をとげた、その件に関してカナダの治安当局に捜査協力するためやって来たはずなのに。
ふいに涼子がつぶやいた。声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ!」
「何です、それは?」
「『神曲・地獄篇』に出てくる呪文《じゅもん》よ」
「意味は何です」
「教えてあげない」
「どうしてそう……」
「作品発表後七〇〇年、いまだに意味を解明した学者はいないの」
そうか、単なる意地悪かと思った。
涼子はふたたび脚を組むと、何かを期するようにいってのけた。
「ま、遠からずまとめて撮影終了《クランクアップ》にしてやるから、どんな謎も気にすることないわ」
その声が聞こえたように、ドミニクが涼子の前に歩み寄ってきた。
「もうすぐバンクーバーに到着します」
私にも微笑の一部が向けられた。
「ぜひもう一度、黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》へおいでください」
「そうね、考えておくわ」
飛行艇は獅子門橋《ライオンズゲートブリッジ》の上を悠々と飛びこえ、摩天楼群を右手にながめながら高度をさげていった。
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涼子と私は手近のシーフードレストランで遅めの昼食をとった。レッドサーモンのフライでスパゲティの呪いを駆逐し、コーヒーを飲み終えて腕時計をのぞくと、もう午後四時近い。
今日はもうこれ以上、非日常的な乗物の客となることはないだろう。と思っていると、涼子が形のいい指を折りはじめた。
「あとは潜水艦と熱気球と飛行船、あ、それに海賊船をクリアすれば終わりかしらね」
「テーマパークじゃないんですよ」
「あら、この世界自体がテーマパークでしょ。料金ばかり高くて、おもしろいアトラクションなんてめったにないけどね」
ホテルにもどって、午後六時までは自由行動のお許しが出たので、私は自分のシングルルームにはいった。ネクタイをほどき、靴をぬいで、セミダブルのベッドにひっくりかえる。目を閉じても、仮眠どころか、脳神経のあちこちがざわついてしかたない。
加戸に井関に吉野内。日本人三人の名前を反芻《はんすう》するうち、いやな気分になってきた。何か思い出しそうになったのだが、脳内の迷路を右往左往して、ようやく記憶のドアをノックできたのは三〇分もたってからだ。東京に電話して確認する必要があった。
時差を考えると、東京は、|明日の《ヽヽヽ》午前一〇時か一一時ごろになる。迷惑をかけることもあるまい。私はガイドブックの「国際電話のかけかた」のページを開き、慎重に番号をプッシュした。応答があった。
「あー、泉田警部補、あれ、するとこれってカナダからの電話なんですかあ!?」
声の主は、刑事部参事官室の貝塚《かいづか》さとみ巡査であった。つい二、三日前に会っているのだが、なつかしい印象がするのは、単に旅先の感傷だろう。
「そうだよ」
「わあ、わたし、カナダから電話もらったのはじめてですう」
「おれもカナダから電話するのは、生まれてはじめてだよ。悪いが、ちょっとたのまれてほしいんだ。資料の確認なんだがね」
貝塚さとみは外見や口調こそ子どもっぽいが、コンピューターと広東《カントン》語に通じ、護身術では大の男を投げとばす。籍は刑事部参事官室に置いているが、あちこちの部署で重宝《ちょうほう》がられて、お呼びがかかる。国際刑事課から通訳を依頼されたり、生活安全部に派遣されたりするのだ。熱烈な香港フリークである彼女は、しばしば「呂芳春《ルイ・ファンチュン》」の異名で呼ばれる。いや、本人がそう名乗っているのだが。
貝塚さとみは私の依頼をこころよく引き受けてくれたが、すこし時間がかかるとのことだったので、私の部屋の電話番号を教えて、いったん受話器を置いた。
三〇分後、呼出音に受話器をとると、貝塚さとみの声が告げた。私の依頼の件で、参事官室の留守をあずかっている丸岡《まるおか》警部が、電話に出たがっている、というのだ。
「それじゃ丸岡警部にかわりますう」
丸岡警部は私よりさらにローテクなおじさんだ。国際電話のかけかたがよくわからず、貝塚さとみに頼んだにちがいない。
「もしもし、泉田です」
「やあ、泉田クン、そちらは夕方なんだよな。五時ごろだって?」
「ええ、日本から見ると昨日の午後五時をすぎたところですね」
「五時すぎか……妙な気分だな。そのころおれは帰り電車を待ちながら文庫本を読んでたよ。横溝正史《よこみぞせいし》の昔のやつだが……ああ、それよりまず用件、用件。いいかね?」
「あ、ちょっと待ってください、いまメモをとります」
おたがいパソコンを持っていて回線をつなぐことがでさればいいのだが、ローテクどうしだとこうなってしまう。いや、じつは貝塚さとみはマリアンヌやリュシエンヌと電子メールをかわす仲なので、彼女たちに頼めばよいのだが、この件に関して私は当面、涼子に知られたくない気分だったのだ。
用件がすむと、「ところで」と丸岡警部が口調を変えた。
「このごろ右も左も何かとうるさくてかなわんよ」
丸岡警部がいっているのは、警視庁と東京都庁との関係についてだ。何かと話題づくりの好きな都知事が、治安問題担当の副知事という席《ポスト》にすえた人物は、警察官僚で、東北地方のどこかの県の県警本部長をつとめていた。
「あたらしい副知事は、いまの警視総監と同期のキャリアだったんですよね」
「そう、もろに総監の座をあらそって敗れたお人さ」
「何でわざわざそんな人を副知事にしたんですかね」
「そりゃ知事の意趣《いしゅ》返しさ。いまの総監は、ほれ、この前の知事選挙で、ずいぶん知事派の選挙違反をとりしまったからな。うらまれてるんだよ」
都知事は与党のA派に友人が多い。警視総監はB派に近いといわれている。いずれ副知事はA派から総選挙に出馬するのではないだろうか。
「ま、これぐらいにしておくよ。この電話だって、総監派か副知事派か、どちらかに盗聴されてるかもしれんしなあ。停年退職までは無難《ぶなん》にいきたいもんだ」
笑えない冗談だった。私は礼を述《の》べ、カナダ土産《みやげ》を確約《かくやく》してから電話を切った。
現在の東京都知事は、若づくりの老人で、「東京からカラスと不法滞在の外国人どもを、のこらずたたき出してやる」と豪語している。新聞記者に、つごうの悪い質問をされると、イタケダカにどなりつけ、都庁には週二日しか出勤せず、自分の私邸に職員を呼びつけるのが慣習だ。「国賊《こくぞく》は爆弾をしかけられてあたりまえだ」とか、「子どもを産《う》めなくなった女は生きていてもしかたない」とか、「外国人は兇悪犯罪をおこすDNAを生まれつき持っている」とか、暴言放言もかずしれない。私などには、幼稚で無責任な煽動政治屋《アジテーター》だとしか思えないが、都民とマスコミの支持は、なぜだか圧倒的である。知事は政策上の失敗が明らかになるたびに、警視庁をけしかけて六本木や歌舞伎町で外国人狩りをやらせる。
「警視庁も堕《お》ちたもんだ」
とは、舌が腐っても口に出すわけにはいかない。だが、警察内部の不祥事や兇悪犯罪の未解決から都民の目をごまかすために、マスコミと結託《けったく》しカメラの前で外国人狩りをくりかえす姿を見せつけられると、なさけなくなる。偽造カードや大麻の末端の売人をつかまえ、組織犯罪をとりしまるのは、もちろんけっこうなことだ。当然のことでもある。だとしたら、姑息《こそく》な目くらましなどに走らず、まじめに職務をはたすべきだろう。
ふと気づくと、六時になろうとしている。私は広くもないバスルームで顔を洗い、ネクタイをしめなおして、ワガママな上司のもとへおもむいた。
マリアンヌとリュシエンヌに見送られて、エレベーターホールへと向かう。涼子はブルーのスーツに着かえて、薄地の真珠色のハイネックセーターの首からカメオをぶらさげていた。どうせ高価《たか》いものだろう。腕にはコートをかけている。
「すこし歩こう、まだあんまりお腹《なか》へってないしね」
「ギフトショップをのぞいていいですか」
「いいけど?」
「丸岡警部にお土産を買わなきゃならないんですよ。あ、呂芳春《ルイ・ファンチュン》にもね」
丸岡警部にはスモークドサーモン、貝塚さとみにはメイプルシロップというところか。ガイドブックはいちおう持参したが、バンクーバーの街路は縦横に整然としており、都心《ダウンタウン》の北に海と山がひかえている。歩いていける範囲内で、道に迷うことはなさそうだった。
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丸岡警部たちへのお土産をまとめて日本へ発送してもらい、ギフトショップを出て鮨《すし》屋にはいった。バンクーバーの鮨はネタが上質なことで有名だが、涼子の選択にしては俗っぽい気もする。だが、これにはきちんと理由があって、つまり鮨は空腹の度に応じて品数をコントロールできるからだ。何しろ昼食が遅かったのだから。
鮨屋を出ると、また私たちは街路を歩きはじめた。
「どう、グレゴリー二世のお館について、感想は?」
「正直に申しあげていいんですか」
「君、あたしに対して不正直であるべき理由があるの?」
そんなものはない、この件に関しては。
「何とも空虚ですね」
私がいうと、涼子は無言で私を見つめ、先をうながした。宝石のような瞳、とはいうまい。宝石には生命がない。
「建築もインテリアも、私は専門家じゃないので、印象でものをいうしかないんですが、あれは悪趣味ですらないように感じられます。趣味なんかなくて、そう、ただ空間を埋めるため買いこんだだけのような」
涼子はかるくうなずいたまま無言だ。私はグレゴリー・キャノン二世《ジュニア》という人物について考えた。何とも空虚で実体を感じさせない男だ。熱もなければ愛もなく、物質的な豊かさの沼に首までつかっている印象だった。
涼子の場合は、さて、どうなのだろう。美貌に肉体美、富に権力、頭脳に戦闘力、忠実な臣下(私ではない、マリアンヌとリュシエンヌのことだ)、いびるべき上司とこき使う部下(こちらが私)。すべて掌中《しょうちゅう》にあり、めぐまれすぎての退屈を一時的にしのぐため、スリルを渇望《かつぼう》する虚無主義者《ニヒリスト》、なのだろうか、彼女は。
そうとは思えない。涼子は風船男のグレゴリー二世とちがう。グレゴリー二世の棲家《すみか》がなまぬるい沼だとすれば、涼子のそれは清冽《せいれつ》な急流だ。それぐらい生命力のあざやかさ、強さに差がある。もっとも、この急流、しばしば洪水をおこして人に迷惑をかけるのだが。
それにしてもグレゴリー二世は、みずからの才能と腕力によって、祖父を大きくしのぎ、ハリウッドの帝王になりおおせたはずだ。自力で地位を獲得するような人間が、あれほど空虚でいられるものだろうか。
「何考えてるの?」
ふいに問われて、一瞬とまどったが、こういうとき無難な返答は職業がらみにかぎる。
「もちろん今度の事件のことです」
無言で五歩あるいて、六歩めに涼子は突然、話題を変えた。
「やっぱり北国だわ、ちょっと寒いね」
「私のコートをお貸ししましょうか」
「あたし、もうコートを着てるわよ」
それじゃどうしよう、と、思案《しあん》していると、涼子は私の左腕に自分の右腕をからめて身体を寄せてきた。
「これですこしはあたたかいわ」
私は歩くヒーターということらしい。
「泉田クン、カフカの『変身』だけどさ」
「はい?」
「主人公の名前おぼえてる?」
「ええと、たしかザムザ……いや、ザモザだったかな」
「それは姓。ファーストネームは?」
「すみません、知りません」
「グレゴールっていうのよ」
「……英語でグレゴリーですか」
「そう」
うなずく涼子の秀麗きわまる横顔を見ながら、私が沈黙していると、涼子の紅唇が動いて、即興《そっきょう》らしい歌声が流れ出てきた。
「グレゴールは虫になっちゃったグレゴリーは虫になりたがる……」
悪趣味な歌だ。だが、なぜか、良識家ぶってとがめだてする気になれなかった。氷の粒が、見たこともない虫の形に変わり、列をなして背筋《せすじ》をはいおりていく。そんな感覚におそわれ、私はかるく身ぶるいした。歩くヒーターにしては、なさけないかぎりだ。
いきかうカナダ人の男性が、涼子に対して賛美の私に対して羨望《せんぼう》の、視線を向けてくる。まさか殺人や死体や容疑者の話をしているとは思うまい。
いきなり、耳のあたりに雨滴《うてき》を感じた。どうやら天候まで暗黒の方向へ流れはじめたようだ。本格的に雨が降り出すまでにホテルに帰ったほうがよさそうだった。これまで雨にあわなかったことを幸運と思うべきだろう。
やや歩調を速めてホテルへ帰りついたのは八時。これで今日のおつとめは終わり、と思ったのだが、とんでもない誤りだった。これからが本番だったのだ。
ロビーにはいると、待ちかまえたように歩み寄ってきた人影がある。岸本をしたがえた室町由紀子の姿を見て、涼子がひややかにうそぶいた。
「あら、どこかで見た顔ね」
「そうでしようとも、整形手術を受けたおぼえはないから」
「受けたらいかが? 人生が変わるかもしれないしさ」
「必要ありません。それより、お涼、ちょっと話があるのだけど」
「へー、こんなところに待ち伏せて、お話ときた。あんた、いよいよストーカーの本領発揮しはじめたみたいね」
「待ち伏せなんかしてないわ! わたしたちもこのホテルに泊まってるんですから」
「うわ、身分不相応」
「いっておくけど、いちばん廉《やす》いシングルルームですからね」
「何くだらないこと、いばってるの。あたしはインペリアルスイートに泊まってるけど、うしろぐらいところは何にもないわよ。自慢の種にもいろいろあるけど、廉い部屋に泊まってるのを自慢するなんてあまりにもアワレよねえ」
「自慢なんてしてません! 公務出張でスイートに泊まる必要がどこにあるの!」
ここでようやく私が口をはさむことができた。
「ここはロビーです。他のお客の迷惑にもなりますし、場をうつしてはいかがでしょう。スイートのリビングルームを使うということで、いいですね、薬師寺警視!?」
「よくない」
「ぜひいらしてほしい、と、薬師寺が申しております。室町警視、こちらへどうぞ」
「こら、通訳、裏切るな!」
「ありがとう、泉田警部補はやっぱりオトナだわ。誰かとちがって」
「誰かとは誰さ、はっきりいってごらん!」
修学旅行生を引率する教師の気分で、私は三人のキャリアをエレベーターに乗せ、最上階へつれていった。マリアンヌとリュシエンヌがおどろいたように一行を出迎える。
「お涼、これはあなたのシワザでしょ!?」
由紀子が突き出したのは、今朝の新聞だった。一面にあの(具体的に記す気にもなれない)写真が大きく載っている。どうやら由紀子は、午前中に新聞を読みそこねたらしい。
「高山総領事にこんなカッコウさせて、大恥をかかせたのは、あなたでしょう。白状なさい!」
ときとして偏見や先入観が、事態の真相を見ぬいてしまう場合がある。今回がまさにそれだった。写真を見て、表面的な記事を読んだだけで、由紀子はこの笑劇《ファルス》の演出家が誰であるか見ぬいたのである。
見ぬかれたほうは、いっこうに平気だった。
「恥をかくのは当人の勝手でしょ。あたしはこいつにむりやりパンティをはかせたオボエはないわよ。当人が好きではいてるの。それとも、あんただったら、こいつのパンティをぬがせたとでもいいたいの?」
由紀子の怒りはさらに燃えあがった。
「話をそらせないで! わたしの目を見て、きちんと答えなさい!」
「何よ、それ。いよいよ風紀委員になってきたじゃない。あ、それとも、おっかない舎監《しゃかん》のオバサンかな」
ついに爆発するか、と思ったが、由紀子は深呼吸して心気《しんき》をととのえた。マリアンヌとリュシエンヌが興味深げな表情で、コーヒーセットをワゴンに乗せて運んでくる。
「だいたい、あなたにはきちんとした公務があるでしょ。カナダまで何しにやって来たの!?」
ふたりのメイドが退出した後、再開された由紀子の詰問《きつもん》に、素直に答えるような涼子ではない。
「あなたっていいかたはないでしょ。正確には『あなたがた』。泉田クンだって共犯なんだからさ」
共犯っていいかたはないでしょ、といってやりたい。沈黙している私を一瞥《いちべつ》して、由紀子は表面だけは静かにいった。
「わたしは泉田警部補は共犯ではなくて犠牲者だと思うけど、できるだけ公正に事情を説明していただけるならありがたいわ」
「捜査上の秘密を、かるがるしく部外者に洩《も》らすわけにはまいりませんことよ。イヤあね、常識のない方とお話しするのは、時間とエネルギーの浪費でございますわ」
「す、すみません、ボク、お手洗いお借りします」
精神的な限界に達したか、未来の警察庁長官を自称する岸本は、猟師に追われるタヌキのごとく逃げ出した。私は逃げ出すこともできず、心のなかでひたすらキャリアの卑怯さをののしるだけであった。
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第五章 蜘蛛之巣《くものす》塔
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「それで、ちゃんと捜査協力はしてるんでしょうね」
「モチロンよお」
「あなたはだまってらっしゃい!」
私の代わりに、由紀子が涼子を一喝《いっかつ》してくれた。心のなかで私は拍手し、ロビーからこの部屋に到《いた》るまでの間、用意しておいた説明を、用心深く口にした。
ふたりの日本人が不審な死をとげたこと。総領事館が徹底して捜査に非協力的なこと。遅々《ちち》として捜査が進まないこと。以上みっつの事実を、私は由紀子の前に並べた。このみっつの事実の間に、因果関係があるかどうか、それは由紀子が判断すればよい。
「一義的にカナダ警察に捜査権のあることですし、でしゃばったマネもできません。また明日、王立騎馬警官隊《RCMP》のオフィスに出向いて、説明を受けることになるでしょう。万事それからのことですが、急速な進展は期待できないというのが実状です」
もっともらしく説明を終える。
そのときだった。私の視界に奇怪なものが映《うつ》ったのは。
由紀子の背後は窓、というよりガラスの壁だ。バラード入江をへだてて、ノースショアの山々が黒い輪郭を描いている。その麓は高級住宅地で、海岸部にはマンションが建ち並び、光の宝石がばらまかれて、昼間におとらぬ絶景だった。
その絶景の中央部が、いきなり何かにさえぎられた。上から下へ、何かが音もなく降りてきたのだ。黒いフットボール形の胴は、長さ二メートルほど。その左右にうごめく脚の数は、六本、七本、八本あった。
私は口を開《あ》けてしまったが、声は出てこなかった。むりに出せば、とんでもない奇声になってしまったと思う。だが、表情だけでも、ふたりの優秀なキャリア女性官僚を動かすには充分だった。涼子は視線を左へ八〇度ほど動かし、由紀子は上半身をひねりながら肩ごしに、ほとんど同時にそれを見た。
時間が凍結する。
私自身をふくめて、息をのむ音ぐらいはたてたと思うが、それ以外、聴覚を刺激するものはなかったガラス壁一枚をへだてて、黒い異形《いぎょう》の物体も音をたてない。赤い小さな光点がいくつか見えるのは目だろうか。
時間を解凍したのは、流れてきたハミングの音だった。場ちがいに軽妙なメロディだ。つづいて、はっきり岸本とわかる奇声がひびきわたる。
「ひゃあ、『振り向けば巨大グモ』!」
その声と同時に、涼子が動いた。ハリウッド映画であれば、怪物めがけて銃を乱射し、ガラス壁を撃ち砕く場面だ。だが、ここはカナダで、日本から来た捜査官も全員が白手《すで》である。
涼子はソファーの横に立っていたフロアスタンドをひっつかみ、その笠をもぎとると、むき出しの電球をガラス壁に向かって突き出した。
怪物をおそったのは、白熱光の槍だった。むろんそれで怪物を斃《たお》すことはできない。だが二重の効果があった。怪物は白熱光のまぶしさにひるみ、動きが鈍くなる。私たちは光を受けた怪物の姿をはっきりと視認することができる。もっとも、見て嬉《うれ》しくなるようなものではない。
私はべつにクモがきらいではないが、それはクモが小さいからで、これほど大きくなっては、やはりイヤである。赤い目が八つ、不純物をふくんだルビーのように光り、表現のしようもないほど複雑な形の口から嘴管《しかん》みたいなものがのぞいていた。
突然、巨大グモは頭部をそらせると、音もなくガラス壁の外を上昇しはじめた。
「こら、逃げるな! 勝負しろ!」
涼子がどなったが、これは勇敢というより無責任な台詞《せりふ》だった。こちらには何も武器がないのだ。いや、マリアンヌとリュシエンヌがいる。彼女たちが武器を持っているかもしれない。たちまち女主人《ミレディ》の声で駆けつけてきたふたりは、メイド服の短い黒スカートの裾をまくり、純白のストッキングをむき出しにして、あきらかに何か取り出そうとした。だが涼子が由紀子に視線を飛ばしつつ、片手をあげて制すると、一瞬で姿勢をただし、つつましく壁ぎわにひかえる。
「い、いったい何なの、あれは!?」
あえぐような由紀子の疑問は当然に思われるが、涼子の反問《はんもん》は無慈悲をきわめた。
「あんたも見たでしょ? 何に見えた?」
「お、大きなクモに見えたけど」
「あーら、えらいわね。八本足だからタコとでもいうかと思ってた」
涼子のニクマレ口《ぐち》も、由紀子を完全に解凍することはできなかった。ソファーにすわりこんだまま、まだ動けずにいる。
岸本が両手を振りまわした。
「警察に知らせましょうよ。それがいい。、与えと、管轄は州警察かな、市警察かな」
「いったい何ていうのよ。プロレスラーなみに大きい黒クモが窓の外にいたって? フン、すぐに黄色い救急車がお迎えに来てくれるでしょうよ」
涼子が一言で岸本の提案を蹴とばしたので、私が別の提案をした。
「このホテルには屋上がありますか? あるならいってみましょう。巨大グモは天から降ってきたわけじゃないと思います」
「よし、いくぞ、あやしいやつは皆殺しだ!」
涼子が右の拳《こぶし》で左の掌《てのひち》をたたいた。
「やっぱり」
「何よ、やっぱりって」
「いま警察に通報すると、好きかってができない。だから知らん顔で、まずカタをつけた上で、あとしまつだけ警察にさせる気ですね」
涼子は私に人の悪い笑みをひらめかせただけで答えなかった。
「いくわよ、リュシエンヌ、マリアンヌ!」
ふたりのメイドが女主人《ミレディ》の左右を守るように、かろやかに歩き出す。と、それまでソファーにすわりこんでいた室町由紀子が、我に返った態《てい》で立ちあがった。
「わたしもいきます」
「いや、室町警視は……」
制止しかけて、私は絶句した。不審そうに私を見やって、由紀子が柳眉《りゅうび》をひそめる。
「わたしが同行すると足手まといなのかしら、泉田警部補?」
「いえ、そうではなくて……岸本警部補とごいっしょに残っていただいたほうが……」
岸本が口をとがらせて異《い》をとなえた。
「泉田サン、ボクのこと誤解してますね。危険を避けていて警察官はつとまりません。ボクもいく、断じていきますよ。とめてもムダです」
何だか勇敢そうだが、私は超能力なんぞに頼ることなく、岸本の本心を見ぬいた。こいつはひとりで取り残されるのが怖いものだから、私たちの後にくっついて行動するつもりなのだ。せこいやつめ。だが、こうなると、由紀子だけ置いていくのは考えものだ。ひとりでいるところを襲撃される可能性もある。
「そんなやつ、来なくていいわよ。さっさとおいで泉田クン。ぐずぐずしてると敵が逃げてしまうかもしれないわよ」
このフロアは、すでに最上階だ。エレベーターを待つより、階段を使ったほうが早い。涼子を先頭に一行六名は階段を駆け上った。
屋上へ通じるドアのノブに手をかけ、ためらいもなく涼子は開く。まったく、恐怖を知らない女《ひと》だ。最後尾にいる岸本のほうが腰を引いて、危険と見ればたちどころに退散《たいさん》する用意をおこたらない。
雨がやんだ直後の外気が私たちを迎えた。涼気というより冷気に近い。
ホテルの広大な屋上は、三分割されていた。第一の区画には、給水や給電、電波の送受信など、ホテルの機能を維持するための、さまざまな設備が配置されている。第二の区画はヘリポート。もっとも広い第三の区画は屋上庭園になっており、テラス、芝生、白い大理石づくりの四阿《あずまや》、花壇などで形成されていた。ガーデンプールもあり、それをかこむ生垣には、早春のバラがいくつか咲いている。
東と南の二方向には、大都市バンクーバーの灯火の海。西にはライトアップされた獅子門橋《ライオンズゲートブリッジ》と、太平洋へとつづく海。北にはバラード入江とノースショアの山々。一〇〇万ドルの夜景を眼下に見おろしながら、美女たちとスキニー・ディッピングでも楽しめば、王侯《おうこう》の気分になれるだろう。ただし、北国の四月では、まだ物好きもいないらしく、したがってせっかくの屋上庭園にも人影は見えない。
私たちは夜空の下に出た。奇妙な一行をただちに出迎えてくれる者はいなかった。そう、奇妙な一行だ。スーツ姿の美女が二名、メイド姿の美少女が二名、スーツ姿の男が二名。目的は化物《ばけもの》グモの捜索。
涼子は右手にスカーフをにぎっていた。それが炭素繊維をしこんだ危険な武器であることを、私は知っている。
「気をつけるのよ。気をつけてもムダかもしれないけど」
涼子は屋上庭園を闊歩《かっぽ》する。それについて歩きながら、私は左右に視線を投げ、左手だけでネクタイをほどいた。炭素繊維はしこんでない、単なるネクタイだが、使いようによっては多少の役に立つ。
「あった」
涼子がつぶやいた。「いた」ではなく「あった」という言葉の意味を、私はすぐに知った。生垣の蔭《かげ》に地球人の死体がころがっていたのだ。
死体というより残骸《ざんがい》である。清掃担当のスタッフらしく、作業服を着た姿で、不幸な犠牲者はころがっていた。涼子と私は死体をのぞきこんだ。あまりくわしく描写する気にはなれないが、一言でいってミイラである。それも、古代エジプトや中国の貴人のように、ていねいに製造されたミイラではない。土色にひからび、かつては生命の器だったとも思えなかった。
「これ見て、泉田クン」
死体の左|顎《あご》の下に、黒々とした穴がうがたれていた。直径三センチというところか。乾いた血がこびりつき、その奥はひたすら空洞になっているようだった。庭園灯の光では、それ以上のことはよくわからない。
「血液をふくめて、体液をすべて吸いとられたみたいね」
「このミイラはごく最近、生産されたのだ、と?」
「ごくごく最近ね」
「ど、どこにいったんでしょう、加害者は」
岸本の声は、オクターブが乱れている。
「過去形でいわないほうがいいんじゃないの、岸本?」
涼子におどされて、岸本は左右を見まわし、モグラがつぶされるような声をあげた。
いつのまにか三人の男が、私たちの前方に立っていたのだ。
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三人のうちふたりは、つい最近、正面から見た顔だった。吉野内と加戸だ。そして三人めは。
極端な三白眼《さんぱくがん》で、頬骨が張って、顔の下半分が長い。人間はワニから進化した、と思いたくなるほど爬虫類《はちゅうるい》めいた顔の男だった。
「井関!」
警察を追われた日本人が三人まとめて姿をあらわしたのだ。どういう経緯《けいい》でカナダに渡航したか知らないが、警察を追われて以来、行動を共《とも》にしていたわけである。美しい友情、と呼ぶのには抵抗がある。つるんで、ろくでもないことをつづけていたのだ。
「井関って……あの井関もと巡査部長?」
声の主は、室町由紀子だった。とりみだしたりはしていないが、意外さを隠しおおせることはできなかった。それにしても、どんなときでも肩書《かたがき》を忘れないところが、由紀子ならではだ。
「ほう、おれの名をおぼえていたのか」
井関は口もとをゆがめ、そのままの形に、ゆがんだ笑いを吐き出した。
「おれたちのほうも、きさまのことはおぼえてるぞメガネ女。正義派気どりのデシャバリめ、きさまがよけいなまねをしたおかげで、おれたちは人生を狂わされたんだ。忘れられるわけがない」
私が東京に電話して、丸岡警部に確認してもらったのは、そのことだった。吉野内、加戸、井関のトリオが何をやっているか追及し、彼らを辞職させたのは、警視に昇任する寸前の室町由紀子だったのである。
前後関係はまだはっきりしないが、由紀子を逆うらみする吉野内らは、仇敵《きゅうてき》がバンクーバーにあらわれたことを知り、報復をもくろむのではないか。同行する岸本は、まるで頼りにならないから、吉野内らは易々《やすやす》と由紀子を拉致または殺害してしまうかもしれない。由紀子も剣道三段だが、吉野内らに三人がかりで襲撃されたら、対抗するのはむずかしいだろう。
吉野内らがバンクーバー近辺にいることを、私は由紀子に告げようと思ったが、彼女がどこに宿泊しているかわからないし、携帯電話の番号も知らない連絡のつけようがなく、翌日に持ちこしかと思っていたら、先刻、由紀子がホテルのロビーに姿を見せたのだ。しめた、と思ったが、さてこのことを涼子に知られてよいものかどうか。
私は決断をためらった。ある意味よけいな情報を入手して、それを処理しそこねると、こういう醜態《ざま》になる。由紀子に告げるタイミングを失《しっ》し、彼女を仇敵視する三人の男に、いきなり直面させてしまった。由紀子ひとりでないのがせめてものことではあるが。
「上司に隠しごとなんかするからよ」
明敏な涼子が、事情を察して皮肉な視線と声を飛ばしてくる。私は一言もなかった。
涼子は明らかにこの事態を娯《たの》しんでいるように見えた。
「すっかり忘れてたけど、そんなこともあったわねま、お由紀の人柄じゃ、怨みを買うのも当然、自業自得《じごうじとく》だけどさ」
三人組のひとり、加戸が、由紀子に向かってうなり声をあげた。
「正義派|面《づら》して他人を糾弾《きゅうだん》するのは、さぞいい気分だったろうな、メガネ女」
加戸の両眼に、暗赤《あんせき》色の毒炎が燃えあがっている
「きさまらキャリアは、けっして自分の手を汚さね、え。何でもかんでもノンキャリアに押しつけて、甘い汁だけはたっぷり吸いあげやがる。組織と税金に寄生してるだけのくせして、何でそういばってやがるんだ、キャリアのやつらは!」
つい私は口を出してしまった。
「おれもキャリアはきらいだがね、お前さんたちがいうのでは、せっかくの批判も説得力がないだろうよ。とりあえず、ここはじゃましないでくれないか」
人の動く気配がした。室町由紀子が一歩すすみ出たのだ。庭園灯の光を受けて、彼女の顔はわずかに青白く見えた。
「不正の摘発《てきはつ》に、キャリアもノンキャリアも関係ないでしょう。わたしは気づいたから、無視できなかっただけ。無視できるくらいなら、最初から警察官をやってはいません」
正論である。そして正論であるほど、相手を怒らせるものだ。加戸がわめいた。
「このメガネ女、きさまの正義のしたり顔を見てると、へドが出らあ。こうやって、めでたく再会したからには、世の中の厳しさってやつを身体で思い知らせてやるからな!」
告発が不当という以前に、非礼をきわめている。私はさりげなくネクタイをにぎりなおした。それに気づいて加戸が服の内ポケットに手を走らせる。
「銃は使うなといわれてるぞ」
吉野内がいい、加戸が舌打ちして手をおろす。緊張が急激に量を増したとき、ハイヒールが屋上庭園の化粧タイルに鳴りひびいて、涼子が吉野内ら三人組の前に立ちはだかった。
「どうせ痛めつけてやるけど、その前に質問してあげる」
不敵な視線で、三人の顔をひとなでする。
「聞きたいことはいろいろあるけどね。まず、あんたたち三人、どうやってあの風船男に取りいったのさ」
「風船男? 誰のことだ」
「あきれた。風船男を知らないの!? よくそれでキャリアの悪口がいえるわね」
毒気をぬかれながらも、井関が当惑したようすなので、私が「涼子語」を通訳した。
「グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》のことだ。お前たち、どういう経緯で、彼の下で働くことになったんだ?」
井関は唾《つば》とともに、言葉を吐きすてた。
「イキサツもニセサツもあるか。ハリウッドの帝王が、おれたちの腕を買って、スカウトしたというだけのことだ」
加戸が口をはさんだ。
「おれたちは日本の警察なんぞに安月給でこき使われてるような身分じゃないんだ」
「それがいまや化物グモの手下? 出世したもんね」
容赦なく、涼子が嘲弄する。吉野内、加戸、井関の三人は、いっせいに顔をどす黒く変色させた。身におぼえがあるというやつだ。正直は美徳ではあるが、これでは用心棒より上の地位にはいけないだろう。よけいなお世話だけど。
「これ以上いわせておく必要があるか! まとめてかたづけてやれ!」
井関が咆《ほ》えた。
本来なら六対三だ。そうてこずるはずもなかったのだが、岸本は最初から戦力外である。それどころか、敵につかまって人質にでもされたら、めんどうなことになる。
吉野内が背後に手をまわし、スタンガンを取り出した。スイッチを入れ、電気の火花を見せつけながら涼子にせまる。井関は刃がノコギリ状になったアーミーナイフをひらめかせ、マリアンヌとリュシエンヌに躍りかかった。そして三人めの加戸は由紀子に近づく。
加戸の手にあるのは黒い棒だった。野球のバットほどの長さで、太さは直径三センチというところだ厚いゴムのなかに、粉末状の鉛をつめてある。重い打撃力を有する兇器で、側頭部を一撃されれば脳震盪《のうしんとう》をおこして昏倒《こんとう》する。そのまま死に至ることもあるだろう。
加戸の手がひらめき、棒は黒々と一閃して由紀子におそいかかった。
由紀子は白手《すで》だ。とっさに後退する。私は右手のネクタイを鋭く振った。ネクタイは風を切って加戸の右面にたたきこまれた。
右目のあたりをしたたか打たれて、加戸は短い叫びをあげる。ステップをやや乱しつつも、つぎの攻撃にそなえ、黒い棒を猛然と横に払ったのはさすがだ。私は身体を開いてその一撃をかわし、ふたたびネクタイをふるった。ネクタイは音をたてて加戸の右手首に巻きつく。そのまま私はネクタイを引き、同時に脚をあげて加戸の脚を払った。
加戸の身体は、右手首を中心に一回転した。私が手を放さなかったら、加戸の右手首には全体重がかかり、骨折していたはずだ。そうならなかったかわり、加戸の身体は屋上庭園の舗石《ほせき》の上に背中から墜《お》ちた。鈍い音に苦鳴《くめい》がかさなる。私は由紀子に「だいじょうぶですか」と声をかけ、用心深く距離をとりながら、前ぶれもなく加戸に問いかけた。
「西崎陽平と井尾育子のふたりを殺害したのは、お前たちじゃないのか」
「おれたちじゃない」
反射的に加戸は答え、顔面筋肉を引きつらせた。失敗をさとったのだ。加戸はまず「何のことだ」とか「それは誰だ」とか反問すべきだった。
「お前たちと被害者とをつなぐのは、麻薬の腐った線らしいな。いずれきちんと尋問するから、いまはおとなしくしていろ」
タイル上に落ちた黒い棒をすくいあげると、私は加戸の右脇腹を一撃した。加戸は身体を丸めて苦悶する。人道的な行為ではないが、とりあえず戦闘力を奪うために、やむをえない。
他の連中はどうしているかと見てみると、井関の左右にメイドが肉薄《にくはく》している。
絶妙というしかないコンビネーション。
リュシエンヌに右脚を、マリアンヌに左脚を、同時に払われた井関は、一瞬だけ宙に浮いた。怒りと失望の叫びをあげて落下する。受け身をとりそこね、したたか右の肩口を打ちつけた。それでも手にしたアーミーナイフを放さず、メイドたちに投げつけようとする。
「この小娘ども……!」
罵声《ばせい》をあげる口が、一瞬後、赤く染まった。リュシエンヌが蹴りつけたのだ。涼子じこみだろうか、容赦のない、効果的な一撃だった。井関は左手で口をおさえ、ころがって第二撃を避けようとする。今度はマリアンヌが右手を思いきり踏みつけた。ふたたびリュシエンヌが形のいい脚をふるい、井関の右耳の上を蹴る。井関の身体から力がぬけ、手足が長く伸びた。
三人の兇悪な男のうち、これでふたりまでが無力化した。吉野内ひとりが立っているが、涼子のスカーフで服の胸元を切り裂かれて顔色がない。と、吉野内の背後で何かが黒々と山のように盛りあがった八本の脚がタイルを打つ。
化物グモのお出ましだ。
「出たわね、バケモノ!」
涼子の左右で、メイドの美少女ふたりが戦闘態勢をとった。黒いスカートの裾がはねあがり、純白のストッキングがむき出しになって、一瞬後にはふたりの手に拳銃があった。たまたま私は知っていたがアメリカ軍の制式拳銃として使われている一五連発のベレッタM92FSである。そんなもの、どうやって手に入れて、どうやって持ちこんだのだ。
涼子が鋭く声をかけると、リュシエンヌとマリアンヌが同時に引金《トリガー》をしぼった。
問答無用というところだが、平和的に交渉する意味はない。化物グモの頭部や胴体に着弾し、白煙があがる。吉野内はスタンガンを放り出した。頭をかかえ、ころげまわって跳弾《ちょうだん》を避ける。私は右手にネクタイ、左手に棒という妙なスタイルで、射撃の結果を見守った。銃声が静まる。化物グモは平然と立ちつづけている。
化物グモは笑った。そう私には感じられた。
猛然と、化物グモが突進する。涼子が合図するとマリアンヌとリュシエンヌは銃を引き、踵《きびす》を返して走り出した。見ると、どこかに隠れていたはずの岸本が、短い脚を回転させながら逃げて来る。まるでスローモーションを見ているような鈍足ぶりだ。
「岸本、早くしろ!」
「む、無理ですよお。何せ脚の数がちがうんだから。二対八じゃ勝てっこありません」
脚の数だけでなく、長さもちがう。だが、算数で負けていたら、最初から化物蜘蛛に勝てるはずもない。
化物グモが糸を吐き出した。
白銀の糸が流麗なラインを空中に描いて、リュシエンヌをおそう。リュシエンヌは大きくのけぞって糸の攻撃をかわし、そのまま後方へ一回転して体勢を立てなおす。オリンピックの体操選手なみに、あざやかな動き。それもメイド服を着たままだから、罪づくりなことだ。そのリュシエンヌの手を引いてマリアンヌが走る。いつのまにやら、岸本が、ふたりのメイドともつれあうように走っている。
涼子は世界一危険なスカーフを手に、化物グモとの距離を測っているが、容易には近づけない。化物グモが岸本らにせまった。それを察知して、リュシエンヌは右へ、マリアンヌは左へ、大きく跳《と》んだ。
だが岸本は。
ふたりのメイドが鳥だとすると、岸本はカメさんだった。敵の攻撃を避けようという意思はあるのだが、神経も筋肉も反応がおそすぎる。「あわわ」といいながら左へよろめき、「おっとっと」と声を出しながら右へかたむき、足がもつれて、タイルの上にへたりこみそうになった。若いくせに運動不足の男だ。
大量の白い糸が、岸本の全身に巻きついた。「しゅるっ」と音がしたように思えるが、さだかではない。
岸本は立ちすくんだ。糸で動きを封じられたのか、自分の身に何ごとが生《しょう》じたのか理解できず、茫然《ぼうぜん》となったのか。動いたのは口だけだ。
「うひゃわひゃっひゃっひゃあ……!」
正確に文字化するのは不可能な、岸本の奇声であった。同時に、ころころした小柄な身体が宙へ舞いあがる。岸本が飛行能力を発揮したのではない。化物グモが、吐き出した糸をあやつり、とらえた岸本の身体を、あざやかに宙へ放りあげたのだ。ぽーん、と音がしないのがフシギなくらいだった。
「クモの糸は鋼鉄より強度に富む」
そう私は聞いたことがある。具体的なことはよくわからないが、クモの糸で防弾ベストをつくる、という話もあった。岸本の身体は、それはそれは美しい放物線《ほうぶつせん》を描いて、屋上庭園のフェンスをとびこえていった。
化物グモがいったん糸を切ると、その端《はし》はくるくるとフェンスに巻きついた。どうやら岸本はホテルの外壁にぶらさがったらしい。
リュシエンヌが涼子に問いかけた。
「ミレディ、彼を助けますか?」
「ほっときなさい!」
このフランス語の会話も、私に理解可能だった。涼子の表情も口調も態度も、岸本に対して無慈悲そのものだが、これはやむをえない。強大かつ兇悪な敵を前にして、岸本を庇護《ひご》している余裕などないのだ。いや、余裕があっても、すすんで岸本を助ける気などなかっただろうが。
すでにマリアンヌは全弾を撃ちつくしている。ふたたびスカートの裾をまくり、予備の弾倉を取り出してベレッタに装填《そうてん》する。緊張はしても恐怖はないようだ。だがマリアンヌがふたたび拳銃をかまえたとき、たてつづけに銃声がひびいて、彼女の足もとに着弾の白煙があがった。
忘れていた。吉野内だ。どこかに隠しておいたオートライフルを持ち出してきたらしい。仲間に「銃を使うな」といったのは彼のはずだが、状況が変わったと判断したのか、目と歯をむいた形相で、右に左に私たちを射すくめる。「殺してやる」とわめきながら涼子に銃口を向けた。身を隠すどころか、涼子は、化物グモを背にして、銃口の前に立ちはだかった。
吉野内は、発砲できない。オートライフルは極端なところ、乱射するための武器だ。だが、うかつに撃てば、化物グモにあたってしまう。たとえ実害をあたえないとしても、味方が銃弾を撃ちこむわけにはいかないのだろう。
「どうしたの、撃ちなさいよ」
涼子の豪胆《ごうたん》さは感歎に値した。背後に化物グモ、前方に吉野内、形としてははさみうちにされてしまったのに、平然と胸を張り、威風《いふう》あたりをはらう姿である。
化物グモが動いた。背後から涼子におそいかかろうとする。すかさずマリアンヌとリュシエンヌがベレッタを撃ち放った。赤く光る八つの目の周囲に着弾する。
吉野内が目をぎらつかせ、ふたりのメイドをねらって銃口の向きを変えた。瞬間、涼子の長い美しい脚が高々とはねあがり、吉野内の右手をしたたかに蹴りつける。
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吉野内の手からオートライフルが飛んだ。兇暴きわまる男が白手《すで》になった瞬間、私は駆け寄り、がらあきになった脇腹に、吉野内自身のスタンガンを押しつけた。くぐもった叫び声とともに空気を吐き出し、吉野内は片ひざをつく。その腹部に、さらに私は蹴りをいれた。
ライフルは落ちてこない。地球の重力を無視し、宙に浮いている。と思ったとき、ライフルは空中で勢いよくはねた。グロテスクな金属製のウサギみたいに。無言でリュシエンヌが跳躍し、オートライフルめがけて手を伸ばす。指先はわずかにとどかず、オートライフルはさらに高く苗に舞った。
「クモの糸よ!」
涼子の声で、私は事情をさとった。宙に飛んだライフルを、化物グモが糸を吐いてからめとったのだ屋上庭園の照明か、大都会の灯火か、光を受けて青白くきらめいた糸は、視認《しにん》しがたいほどの細さだった。
「あの化物グモ、糸の太さまでコントロールできるんですか」
「とにかく、つかまったら、おしまいよ」
あの強力な糸にとらえられたら、最期をとげるバージョンも、さまざまに考えられる。頸《くび》に巻きつかれたら、そのまま絞首刑だ。口と鼻をふさがれても窒息死まちがいない。胴をしめつけられたら、肋骨《ろっこつ》が折れ、内臓が破裂するだろう。
宙で踊りまわるオートライフルの銃口が、こちらを向く。反射的に、涼子も私も跳《と》びのいた。軽快な発射音とともに、オートライフルが赤く火箭《かせん》を吐き出す。屋上の舗石に弾列が小穴をうがち、石片が飛散した。
化物グモは糸で引金《トリガー》をしぼり、地球人の武器をあやつっているのだ。
「かわいくないやつ!」
涼子が舌打ちする。私も同感だった。化物グモは、かわいがってもらおうとは思っていないらしい。右に左に銃口を向け、弾丸のシャワーをまきちらす。
銃声がやんだ。乱射のあげく、銃弾がつきたのだ。化物グモは、金属クズと化したオートライフルを、乱暴に投げ出した。足もとで異音とともにはねる。それを素早く左手でひろいあげて、私は涼子に手渡した。殴打《おうだ》用の武器にはなるはずだ。涼子はかるく頭を振った。
「岸本はクモに食べられてしまうしねえ。ちっとも貴《とうと》くないけど、犠牲は犠牲だわ。あいつの徒死《いぬじに》をムダにしないようにしましょ」
「まだ食べられてませんよ。助けたらどうです」
「そんなことより、化物グモを退治《たいじ》するのが先よ」
化物グモは地球人のつくった武器を活用するのを当面、断念したらしい。長すぎる脚をもてあますような動きで、それでもかなり素早く肉薄してきた。銃声がひびいて、マリアンヌの撃ち放った銃弾が、脚の関節部に命中する。つづいてリュシエンヌが発砲し、ほぼおなじ箇所《かしょ》に着弾させた。
化物グモの目が、八つの赤いランプとなってかがやく。怒りと憎悪に、声にならない咆哮をあげると化物グモは太い糸の束を吐きつけた。リュシエンヌとマリアンヌが軽捷《けいしょう》そのものの動きで跳《と》び別れた。間一髪《かんいっばつ》、いや、間一糸《かんいっし》。化物グモの吐き出した糸はふたりが身を隠していたヴィーナスの大理石像に巻きついた。
同時に二本の糸は吐けない。化物グモは自分自身の動きを封じることになってしまった。時間的には長いものではない。だが涼子にとっては、それで充分だった。
「地獄へおいき!」
宣告すると同時に、涼子は跳躍した。オートライフルを振りかざし、銃身をななめに振りおろす。
化物グモは、頭部に痛撃《つうげき》をくらった。鈍いというより、やわらかい音がして、八つの目がひときわ赤くかがやいた。憤怒《ふんぬ》と苦痛の叫びは、地球人の聴覚をこえてとどろいた。
吐き出した糸をいったん切ると、化物グモは頭部を旋回させ、涼子めがけてあらたな糸の槍を突き出す。すさまじい速さと勢いだったが、涼子はバレリーナのごとく優雅に、飛鳥のように素早く、かわしている。今度は私が躍りかかり、全身の力をこめ、黒い棒を脚の一本にたたきこんだ。マリアンヌとりユシエンヌに撃たれた脚だ。
化物グモはバランスをくずし、勢いよく横転《おうてん》した。八本の脚が宙をかきむしる。そのうち一本が、明らかに動きが鈍い。関節部に集中攻撃をあび、ダメージを受けているのだ。それを見逃す涼子ではなかった。手にしたオートライフルを剣のようにふるってしたたかに頭部をなぐりつけた。他の脚の動きをかわし、糸を吐く口からの死角にはいりこんで、なぐる、なぐる。
強烈な一撃が顔面にたたきこまれ、目のひとつが赤く弾《はじ》けた。赤い絵具のようなものが飛散《ひさん》する。
そのとき、意外な近さに、爆音がひびいた。顔をあげて、私は、黒い無機的な影が頭上にせまっているのに気づいた。
「ヘリよ!」
由紀子が、光景を言語化した。私にはヘリコプターのことなどよくわからないが、軍隊で兵員輸送などに使う、かなり大型のもののように見える。まさか機銃や対地ミサイルなどは装備していないだろうが、ためらうことなく接近してくる姿には、猛々《たけだけ》しい兇意《きょうい》が感じられた。と、機内から外へ、オートライフルの銃身が突き出され、発射の閃光につづいて屋上の各処に着弾の煙があがる。
涼子が憤慨した。
「赦《ゆる》せないわ、あいつら、必然性もなしに見せ場ばっかり考えて!」
「誰かさんに似てますね」
「フン、しょせん亜流よ。降りて来てごらん、二度と飛び立てなくしてやるから」
ヘリはホテルの上空に達した。回転製《ローター》で夜の大気を円形に切り裂きながら、すこしずつ降下してくる。
吉野内、加戸、井関の三人組が走り出した。さんざん痛めつけられているので、よろめきながら、ではあるが。ヘリに向かって、ではない。下へ降りる階段のある塔屋《とうおく》へ、である。
追おうとするマリアンヌを、涼子が手をあげて制した。
「雑魚《ざこ》どもに用はないわ。ヘリが降りて来ても、あの化物グモを乗せないようにするのよ」
日本語でいったのは私に向けてだろう。私はヘリポートへと走り出しかけた。とたんにヘリから銃弾をあびせられる。つんのめり、二転三転して、あやうく四阿《あずまや》にころげこんだ。柱の蔭《かげ》に身を寄せたが、これではヘリの着陸をふせぐことなどおぼつかない。
だが、化物グモには、わざわざヘリを着陸させで乗りこむ必要などなかったのである。
白く光る糸が、化物グモの口から、ヘリへ向けで夜空を駆け上った。細い銀色の滝が逆流するような光景だった。
糸は音もなくヘリの機体に巻きついた。
「あっ、ちくしょう、卑怯者、逃げるか!」
涼子が叫んだが、すでにおそい。ヘリの乗員は、化物グモの糸が巻きついたことを確認すると、たちまち上昇をはじめた。最初から化物グモだけを救出する意図だったのだろう。
リュシエンヌとマリアンヌが、ヴィーナス像の蔭から飛び出した。ベレッタをヘリに向けながら、涼子に呼びかける。
「撃ち墜《お》としますか、ミレディ!?」
そのフランス語が翻訳なしで理解できたので、私も四阿《あずまや》から飛び出してどなった。
「ノン、ノン、だめだ!」
正直なところ、ヘリに乗っているやつらがどうなろうと、自業自得だと思う。だが、ヘリが市街地に墜落すれば、無辜《むこ》の市民が巻きぞえになる。墜落させた者の責任も、きびしく追及されるだろう。私たちが住んでいる世界は、ハリウッドのアクション映画の世界より、すこしばかりシビアに制作されているのだ。
ヘリの爆音が夜空から屋上へ、不快なシャワーとなって降りそそぎ、私たちを嘲弄《ちょうろう》した。化物グモは宙で揺れている。右から左へ、左から右へ。それは目に見えない巨大な神々が天上からぶらさげた奇怪な振子《ふりこ》のように思われた。
「身のほど知らずのクモ野郎! 自力で空も飛べないくせに、あたしに挑戦するな。タマゴからやりなおせ!」
夜空めがけて拳を振りあげる涼子の横で、私は無言のままネクタイをしめなおしたのであった。
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第六章 過去へとつづく糸
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ヘリの爆音が夜空の奥へと遠ざかっていく。
私は誰にともなく肩をすくめ、涼子の姿を求めた。涼子はオートライフルを放り出した。化物グモの吐いた糸に指をはわせる。輪ゴムほどの太さがあり、糸というよりは紐《ひも》だが、そうしながら私に呼びかけた。
「泉クン、この糸だけどさ」
「はい?」
「本来、クモの糸は、一本が、二本の繊維《フィラメント》からできているの。そして、一本のフィラメントは、クモの体重に匹敵する弾性限界強度を持っているのよ。わかる?」
「え之と、つまり、フィラメント一本でクモの体重をささえることができる。したがって、クモの糸はクモの体重の二倍をささえることが可能だ、と、こういうことですか」
由紀子は呼吸をととのえながら、夜空を見あげている。マリアンヌとリュシエンヌはベレッタをスカートの下に隠し、女主人《ミレディ》からの指示を待つようすでひかえている。とりあえず、全員無事なようだった
「この太いクモの糸、フィラメントの数はいったい何本になるかしらね」
「一〇〇〇本ぐらいですか」
もちろん、アテズツポウである。ありがたいことに、涼子は、とがめようとはしなかった。
「仮に一〇〇〇本とするわね。いっぽうあの化物グモの体重だけど、サイズはプロレスラーなみ。身体の構造からいって、おなじサイズの人間よりはずっと軽いはず。仮に五〇キロとしてみると……」
涼子は、指先であごをつまんだ。
「あのクモは、自分の吐く糸で五〇トンの重量をささえられることになるわね」
仮定に仮定をかさねての計算ではあるが、かなりの蓋然性《がいぜんせい》と説得力とを有するように思われた。五〇トンの荷重《かじゅう》に耐える糸! 岸本ひとりを吊《つ》りさげることなど、易々《やすやす》たるものだろう。
そこまで考えて、ようやく私は、ホテルの屋上から宙吊《ちゅうづ》りにされた若いキャリア警察官僚のことを思い出した。まだ全員無事とはいいされない。
「そうだ、岸本がいた。あのままにはしておけませんよ」
「何だ、思い出したの」
つまらなそうな涼子の口調だが、実際につまらないのだろう。私としても、べつに楽しく感じているわけではないが、思い出してしまったからには、放置しておけない。
私は屋上庭園のフェンスに歩み寄った。高さは私の腹のあたりだ。推測どおりだとすれば、フェンスに巻きついた化物グモの糸は、岸本の体重ぐらいで切れるはずがない。
フェンスを両手でつかんで、私は下方をのぞいた歩道に人だかりができているようだ。街灯の光で、さまざまな肌や髪の色の人々が、ホテルの壁面を見あげ、指さしているのがわかった。壁面を注視すると、何かがぶらぶら揺れている。白いタマゴのような形で、人間ぐらいの大きさだ。
岸本は地上に墜《お》ちてはいなかった。私は安堵《あんど》し、隣にきた室町由紀子に、彼女の部下の姿を指さしてみせた。
「まあ、ミノムシみたい」
おかたい室町由紀子までが、感心したようにつぶやく。私は失笑《しっしょう》をこらえた。高層ホテルの壁面で夜風に揺れている、白い大きなミノムシ。若きエリート官僚の経歴に、あらたな栄光の一歩が加わったわけだ。将来、この経験が役に立つかどうかはわからないが。
「しぶといやつねえ」
私をはさんで由紀子の反対側にいる涼子が、舌打ちする。私も同感だったが、口に出しては別のことをいった。
「どうも地上の人たちが気づきはじめたようですね」
「みんなの注目を集めて、岸本もさぞ本望でしょうよ。芸能人は、目立ってこそ存在価値があるんだから」
「岸本は芸能人じゃありませんよ」
「似たようなものよ。それで、どう、元気そう?」
「ぜんぜん動きませんよ。ぐったりしているみたいです」
「まあ、気の毒ね。生きていたら関東管区警察局長か神奈川県警本部長ぐらいにはなれたのにね」
「まだ生きてまーす……」
うらめしげな声が這《は》いあがってくる。私はあわい銀色に光る糸をつかんだ。多少ねばつくのは、しかたない。夜ごとオタクに枕元《まくらもと》に立たれるのは、精神的負担が大きすぎる。救いあげるとしよう。
室町由紀子が腕をのばし、私をてつだってくれた。リュシエンヌとマリアンヌも、涼子に指示をあおいだ上で、手を貸してくれる。
美しい女性三人との共同作業になった。男としては嬉しいのだが、目的が岸本を救うためなのだからその点はちょっとむなしい。
ようやく屋上に引きあげられると、岸本は、生命の恩人たちに礼も述《の》べず、涼子に呼びかけた。
「お涼さま、ボクがどうなってもいいんですかあ」
「どうなってもいい、なんて思ってないわよ」
「ほ、ほんとに?」
「ほんとよ。もっとひどい目にあえばいい、と思ってるんだから」
あまりにもムゴい発言である。岸本は悲憤《ひふん》のあまり卒倒《そっとう》するか、と思いきや、小肥りの身体に糸を巻きつかせたまま笑声をたてた。
「えへへ、ボク、お涼さまのそういう冷たいところが好きなんです。冷たさと甘美さを兼ねそなえた、お涼きまってアイスクリームみたいな女《ひと》なんですよねえ」
「何ならドライアイスになってあげようか。ジャマだからそっちへいっておいで、シッシッ!」
マリアンヌとリュシエンヌが、戦利品のアーミーナイフで岸本に巻きついた糸を切断しはじめる。涼子は私に向きなおった。
「さてと、警察が来る前に、ちょっと総括《そうかつ》しておこうか、泉田クン」
「吉野内ら三人組は、グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》の使用人で、化物グモの仲間です」
「一行でかたづいたわね。それじゃ、あの風船男がボスで、すべての元兇だと思う?」
印象だけで人間を判断するのはまずいだろう。何年もつきあった後で、はじめて正体がわかる、という例も多い。だが、グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》が実力でハリウッドの帝王になりおおせた、というお話に、私は説得力を感じなかった。あるいは、こちらに、人を鑑《み》る眼力がないだけかもしれない。だが。
「私には、あの人物が、自分の意志で他人を動かしえるとは、どうしても思えません」
「だったら答えはひとつね。あの風船男は、天才プロデューサーでもなければハリウッドの帝王でもないのよ。人前でそう見せかけてるだけ」
「誰かが裏面《うら》で彼をあやつってるというんですか」
「まさにそうよ、わが侍従長」
ふむ。私は思考をめぐらせた。グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》が天才でも辣腕《らつわん》でもなく、何者かの傀儡《かいらい》でしかない、という涼子の仮説には、説得力がある。
すくなくとも、私にとっては。私が感じたグレゴリー二世の虚《うつ》ろさ、それは涼子が表現したように風船そのものだった。弾《はじ》けたあとには何も残らない。
ただ、そうなると別の疑問が出てくる。それもひとつならず。
「第一の疑問。グレゴリー二世を蔭《かげ》であやつっているのは、いったい何者でしょう」
「まだそこまでは不明ね」
「では第二の疑問。その何者かは、なぜ蔭に隠れているのでしょう」
「いいかえれば、なぜ人前に出てこないのか、なぜ名声や社会的地位を他人のものにして、おとなしく蔭にひそんでいられるのか。それは……」
涼子と私は同時にいった。
「人前に出てこられない理由があるから!」
ハーモニーになってしまった。一〇歩ほど離れた場所から、由紀子が奇異《きい》の目を向け、岸本がわけもなく笑い、マリアンヌとリュシエンヌが何かささやきあう。
「で、その理由とは、具体的にどんなものでしょう」
「そうね、たとえば、まるで土星人みたいな顔をしているとか」
「ちがうと思います」
「断言できるの?」
「これだけは自信があります」
かさねて断言しながら、私は内心で祈った。仮に土星人が実在するにしても、どうか気まぐれをおこして地球へやって来たりしませんように。
塔屋の方角で、人声と靴音がした。どうやら警察のお出ましらしい。カウボーイハットをかぶった制服姿は、王立騎馬警官隊《RCMP》のメンバーであった。
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室町由紀子が、涼子と私のほうを向いた。何やら思いつめた表情で、姿勢まで正している。
不吉な予感がして、私は制止しようとしたが、由紀子が頭をさげるほうが早かった。
「ごめんなさい、わたしのために、あなたがたにまで迷惑かけてしまって。まさか吉野内や加戸がバンクーバーに来ていたとは思わなかった」
無言で私は天をあおいだ。由紀子が涼子の一万倍は良心的な地球人であること、疑いない。だが、この場合、謝罪など不必要なことである。事件の全体像はまだ見えていないし、人の弱みにつけこむキャラクターがここにはいるのだ。
「そう、やっとわかったのね、自分がいかに迷惑な人間であるかがさ。いまさらあやまってもおそいとは思うけど、ま、これからせいぜい悔いあらためて、すこしは他人に好かれるよう努《つと》めることね、オーツホホホホ!」
満足げな涼子の高笑い。さすがに由紀子はシャクにさわったようだが、まだ反省したりないようで、つぎに、屋上庭園での決闘で自分があまり役に立たなかったことをわびはじめた。
あわてて私は、由紀子がこれ以上、涼子をつけあがらせないよう口をはさんだ。
「薬師寺警視を基準にしてはいけません。あの女《ひと》の運動能力は哺乳類《ほにゅうるい》ばなれしてますから」
室町由紀子はまばたきした。私は比喩《ひゆ》を使いそこねたようだ。横あいから繊手《せんしゅ》が伸びて、私の頭をこづいた。
「あたしは爬虫類《はちゅうるい》か、コラ!」
「すみません、ちょっといいまちがえました。超人的だといいたかったんです」
「うるさい、あんまり人をバカにすると、子どもを産《う》むときタマゴで産んでやるからな。そのときになって後悔するなよ」
何で私が後悔するのだろう。考えこんでいる私を由紀子がちらりと見た。その間に、涼子は振り向いて、歩み寄ってきた男のあいさつを受けている。
王立騎馬警官隊《RCMP》の呉《ウー》警部だった。ひいきの野球チームが逆転負けしたような表情をしている。
「グッド・イヴニング、と、すなおにいえないのが残念です。せめてグッド・ナイトで終わらせたいものですな」
開口一番、呉《ウー》警部はそういって、かるく両手をひろげた。型どおりのやりとりが五分ほどつづき、化物グモの犠牲者になった不幸な死者が運び出されていく。今夜は検死官たちにとって、多忙で悩み多き夜になりそうだった。
溜息が聞こえた。室町由紀子が私の視線を受け、白皙《はくせき》の顔に苦笑めいた表情をたたえる。
「わからないことだらけ。あのお化けグモはいったい何?」
「それはまだわかりません。こうなったら、どうあっても吉野内たちをつかまえておくんでした」
あのときの涼子の判断はまちがっていなかった、とは思う。だが結果としては、吉野内たちにも化け物グモにも、まんまと逃げられてしまった。
由紀子は私の言葉にうなずいた。
「吉野内たちが、ふたりの日本人を殺害したというのは、たしかなの?」
「物的証拠は何もないんです。別件で逮捕して、拘留期間中の尋問で自白を得るしかないでしょうね」
由紀子は眼鏡《めがね》の位置を微調整した。
「じゃあ、バンクーバー駐在総領事館は、この件には関係ないのかしら」
高山総領事のおぞましい下着姿を思い出して、げっそりしながら私は答えた。
「殺人にはね。麻薬やセックスがらみの秘密パーティーなんかはやっていたと思いますが、こちらには治外法権《ちがいほうけん》の壁がある。カナダの法で高山総領事が罰せられることはありません」
「だとしても、あんな記事が出た以上、何らかのペナルティは受けるでしょうけどね」
由紀子が小さく頭を振る。今度は私が苦笑せざるをえなかった。
おそらく吉野内らに殺された井尾育子と西崎陽平ふたりの遺体に関しては、カナダ側の保管期間はとうに過ぎている。遺体のまま、あるいは遺骨にして日本へ送還し、遺族に引き渡すということになるのだが、その遺族があらわれない。カナダ側としては、さっさと遺体を日本側に押しつけてヤッカイばらいしたいだろう。バンクーバーの総領事館があらゆる点で非協力的といっても、日本国民の遺体を放置しておくわけにもいかない。日本へ送還するとして、その費用は誰が負担するのだろう。
涼子と呉《ウー》警部とが話しあいながら歩いて来た。由紀子と私、それに岸本は、とりあえず涼子の声に耳をかたむけた。
「黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》の地下には、あれとおなじミイラ化した死体が何百もころがっているでしょうよ。犠牲者は、密入国者、ホームレス、家出人、失業者そういった人たちでしょうね」
呉《ウー》警部が口を開いた。ゆっくりと、だが大量の言葉が紡《つむ》ぎ出される。
「黒蜘蛛島については、いろいろな話を聞いてますよ。億万長者《ミリオネア》が所有する島というだけで、話の種ですからな。グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》はハリウッドの女優やラスベガスのショーダンサー、その卵たちを島に集めて、チューチーローリンをやっているそうです。麻薬に性的虐待、ほんものの殺しあいまであると……」
チューチーローリンって何だ? 謎の言葉にとまどっていると、涼子が説明してくれた。
「酒池肉林《しゅちにくりん》よ。酒池肉林《チューチーローリン》」
なるほど、本来の中国語ではそう発音するのか。
涼子が皮肉っぽく呉《ウー》警部に質《ただ》す。
「で、そういう疑惑がありながら、捜査はされないの?」
「グレゴリー二世はカナダ市民ではなくアメリカ合衆国市民で、いまの大統領の有力な支持者です。被害者が訴え出ないかぎり、捜査などできません」
「被害者はどうして訴え出ないの?」
「まあ、たぶん金銭《かね》で解決してるのでしょうね」
それに圧力、たぶん脅迫も。グレゴリー二世はメディアの巨頭でもあり、多くのTVとと新聞が彼の支配下にある。
「つまり、黒蜘蛛島で何がおころうと、カナダ警察は関知しない、というわけね」
呉《ウー》警部は微笑した。欧米人の小説家が「仏像のような」と形容する笑いで、かなり底が深そうだ。
「おことわりしておきますが、私はカナダ警察の代表じゃないのでね。高度の政治的判断など、求められてもこまりますよ。私はただ、上層部《うえ》からの指示がないかぎり、黒蜘蛛島に足を踏みいれることはできない、と、そう申しあげているだけです」
この食えない警部どのは、自分からすすんで指示を求める気もなさそうであった。
呉《ウー》警部は目礼《もくれい》して踵《きびす》を返した。部下たちが彼に呼びかけたのだ。涼子が何やら期する表情で、ひとりうなずく。声をひそめて、私は上司に問うた。
「乗りこむ気ですか、黒蜘蛛島へ?」
「当然!」
「これは誘いです。化物グモにせよ吉野内らにせよ行動がわざとらしすぎる。うかつに乗りこめば、それこそクモの糸にからめとられますよ」
「だったら、よけい、乗りこんでやろうじゃないのクモの餌になったかどうかはともかく、黒蜘蛛島では、罪のない多くの人が殺されてるにちがいないんだから。仇をとってやらなきゃ」
本心だとしたら、りっぱなことだ。つい私は失礼な感想を口にしてしまった。
「へえ、案外あなたは勧善懲悪《かんぜんちょうあく》の人だったんですね」
「勧善懲悪というと、ちょっとちがうなあ」
「どうちがうんです?」
「あたしは勧善なんてどうでもいいの。興味があるのは懲悪のみ!」
昂然《こうぜん》と胸を張って宣言する涼子の姿は、ハリウッドの帝王でも平伏するであろうほど美しく、覇気と鋭気にあふれていた。あやうく感動しそうになって、寸前で私は良識の世界に踏みとどまった。
「で、あなたにとって悪とは何です?」
「決まってるでしょ。あたしが気にくわないこと。それがすべて悪よ」
独裁者というより専制君主である。由紀子は涼子を見やったが、無言を守っていた。
「とにかく、あたしは黒蜘蛛島へいく。何か異存があるなら、いってごらん」
異存はない。というより、とめてもムダである。
ただし、黒蜘蛛島へ乗りこむ前に、今夜のところは、王立騎馬警官隊《RCMP》のオフィスに出向く必要がありそうだった。
V
バンクーバー三日めの朝が明けた。今夜、いよいよ女王さまのオトモで黒蜘蛛島へ乗りこむ。昨夜は化物グモの捜索だったが、今夜は征伐《せいばつ》ということになるだろう。いろいろと準備が必要なはずだった。
岸本明を電話で呼び出し、ロビーで会った。どうも気になることがあったのだ。昨夜、化物グモを窓の外に見たとき、岸本は何といったか。
「振り向けば巨大グモ」と口走ったのだ。彼はそのモトネタを知っているにちがいない。
「お前さん、もしかして『振り向けば巨大ゴキブリ』って映画を知ってるのか?」
「し、知ってますよお。『振り向けば巨大ゴキブリ』、原題はTHE ENORMOUS COCKROACH AT YOUR BACK<nリウッド怪奇映画の傑作じやないですか」
傑作とはとても思えないが、岸本が原題まで知っているのは、よくわかった。さすがオタク・オブ・オタクズだ。
「普通なら『背後の』と訳すところを、『振り向けば』と訳するあたり、邦題《ほうだい》にも工夫《くふう》が見られますよね。それにひきかえ、近ごろの映画輸入会社は、アルファベットの原題をカタカナに変えるだけ。先人の工夫に対して、恥ずかしくないんですかね。猛省《もうせい》をうながしたいですよ」
岸本はオタクチックな義憤に燃えているようである。
「その点はおれも同感だが、それはさておき、『振り向けば巨大ゴキブリ』を制作したプロデューサーの名は知ってるか」
「ああ、なさけない」
「何が?」
岸本が私を見る目は、アワレミに満ちているようだった。
「そのていどのこと、知らないはずがないでしょ! グレゴリー・キャノン一世《シ二ア》。怪奇映画界のナポレオン、俗世に容れられぬ不遇の大天才です」
絶讃である。故人が聞いたら嬉《うれ》し泣きするにちがいない。
「その大天才がつくった『怪奇クモ女』という映画のビデオ、手にはいらないかな。どうもとっくに廃盤になってるらしいんだが……」
たいして期待していなかったのだが、岸本はあっさりうなずいた。
「そんなの簡単ですよ」
「え、ほんとに入手できるのか?」
「オタクのネットワークを過小評価してはいけません」
岸本は腹を突き出す。本人は胸を張っているつもりだろう。この件に関するかぎり、岸本には、いばる資格がある。私は彼をレオタード・コンプレックス、略してレオコンと呼んでいるが、これからは単なるレオコンではなく、「レオコン大王」とでも呼んでやるとしよう。
「それじゃ、ぜひ入手してくれ。どれぐらい時間がかかる?」
「まあ今日の午前中には」
「頼んだぞ。昼食《ひるめし》をおごるから」
すると、岸本は、妙にとがめだてするような目つきで私を見た。
「ノンキャリアがキャリアにおごったら、供応《きょうおう》ということで問題にならないかなあ。あ、いやいや、お気づかいはくれぐれもご無用に、と申しあげているだけですから」
そうだ、こいつはイヤミなキャリア官僚だった。彼我《ひが》の関係に思いを致《いた》しながら岸本と別れて、涼子のスイートに参上する。ふたりのメイドは不在だった。岸本の件を告げ、メイドたちがどこへいったか尋ねたが、涼子は答えない。カードをサイドテーブルからとり出し、時間つぶしにポーカーをやろうといい出した。
「あなたはブリッジでもなさるのかと思ってました」
「ご冗談、何でお遊びに頭脳《あたま》を使わなきゃならないの。捜査だけでたくさんよ」
「それもそうですね」
「運とハッタリだけで勝負を決めるのがいい。ポーカーやろう、ポーカー」
「いいですけど、何か賭けるんですか」
「何も賭けなきゃ、おもしろくないでしょ。あたしが勝ったら、あたしの命令をきくの。君が負けたら君が命令をきくの。いいわね」
「…………? ちょっと待ってください」
「何よ」
「私が勝ったらどうするかは決めなくていいんですか」
あざやかな手つきでカードを切りながら、涼子はすまして答えた。
「必要ないわよ。あたしが勝つに決まってるもの」
「そうとはかぎらないでしょう」
「かぎるって。あたしのほうが君より運がいいし、ハッタリも効《き》くんだから」
私は反論に窮《きゅう》した。まったく涼子のいうとおりだと思う。だが、それなら、最初からポーカーなんぞやる意味がない。もともと涼子は、何かたくらんでいて、それをごまかすためにカード遊びなど提案したに決まっているのだ。
「やめておきましょう」
「何でよ、もうカードを配ったのに」
不満げに詰問する上司に、私は、ゲームをやる意味がないことを告げた。理性的に説明したのに、上司の不満はさらに募《つの》った。
「あのね、人間、負けるとわかっていても戦うべき時があるのよ」
「ありますね、たしかに。でも現在はそれじゃありません」
「それじゃいつよ。いつ? 何日何時何分何秒?」
あんたは小学生か。
さすがに私があきれていると、ドアをノックする音がして、マリアンヌとリュシエンヌが帰って来たそれぞれ大きな布の袋をさげている。涼子に何か報告すると、涼子が応じて、さらに何か指示しているようだ。
涼子が下している指示には、かなり違法をものがふくまれているにちがいない。私の前で平然とやりとりしているのは、私にフランス語が理解できないと思っているからだろうか。いや、マリアンヌやリュシエンヌがときおり私を見て微笑するのは、どうも、主君をおなじくする仲間と思っているらしい。
仲間ならまだしも、共犯と思われてはこまる。
そうこうするうち、岸本が得意満面でやって来た。ドアをあけた私に報告する。
「『怪奇クモ女』のビデオ、入手しましたよ」
「おう、でかした」
「でも個人的には、『怪奇クモ女』がグレゴリー一世《シニア》の最高傑作だとは思わないんです。むしろ『哀愁の蚊男《モスキートマン》』のほうがいいですね。信じていた女性に裏切られ、殺虫剤のプールに落とされて悶《もだ》え死ぬラストシーンが涙をさそいますよ。そちらのビデオも入手しましょうか?」
ずいぶんとディープな世界のようだ。必要以上に近寄るのはやめておこう。そう思っていると、涼子が室内から声をかけた。
「あら、岸本、ビデオ持ってきたの? だったらおはいり」
たちまち岸本は、目に見えない尻尾《しっぽ》を振って涼子にすり寄った。
「どうです、お涼さま、ボク役に立つでしょ?」
「役に立たなかったら、生かしておく必要を認めないわよ。ほら、さっさとビデオをセットおし」
私は電話して室町由紀子にビデオを見に来るようすすめた。由紀子はすぐやって来た。涼子は「誰があんたを呼んだの」とイヤミをいったが、それ以上の意地悪はしなかった。
映画がはじまった。こんな事件でもなければ、一生見ることはないであろうC級ホラー映画だ。
タイトルを見ていると、つくづく不本意な心境になってきた。警視庁の第一線で犯罪捜査にしたがっていたはずの身が、こんなところで何をやっているのだろう、まったく。
だが、白黒《モノクロ》の地味な画面を見ているうちに、愛着とまではいかないまでも、頭から否定する気にはなれなくなってきた。
制作費もかかっていない。|C G《コンピューター・グラフィックス》はおろか、特殊撮影《SFX》だって安っぽいものだ。だが、ストーリーにはそれなりに苦心の跡が見えるし、俳優も無名ながら演技に熱がこもっている。
第二次世界大戦が終わって一〇年ほどたったころ。バンクーバーだかシアトルだか不分明《ふぶんめい》だが、太平洋岸西北部の港町の郊外に、医療刑務所がある。これまたカナダだかアメリカだかはっきりしないが、政府の人権調査委員とやらが、そこを訪問する。一〇年前、錯乱して自分の一家を皆殺しにしたという女性が、そこに収容されているのだが、さまざまに不審な点があって、再調査がおこなわれることになったのだ。場合によっては、彼女は解放されることになるかもしれない。
調査委員は初老と青年の男二人組だが、初老の男を演じているのは、プロデューサーのグレゴリー・キャノン一世ご本人であった。
俳優の出演料をすこしでも節約したかったんだろうなあ、と思うと、何だかシミジミとした気分になってくる。
さて、調査委員の前にあらわれた女性は、拘束衣《こうそくい》を着せられていた。これを演じる女優が、ドミニク・H《ヘンリエッタ》・ユキノの祖母なのである。しかしまあ、ヘアスタイルなどは古風だが、顔は孫娘そっくりだ。順序としては祖母のほうが先に存在したわけだが、隔世遺伝もきわめっきという気がする。芸名か本名かは知らないが、ブレンダ・S・ハワードという名で出演している。
ブレンダ演じる女性は、調査委員たちの質問にいっこうに答えようとしないので、年長の委員ドッブスが彼女に催眠術をかけて答えさせることになった。このあたりのストーリーはすこし展開が雑かもしれないが、時間制限もあることだし、しかたないというところか。
画面は、ブレンダ演じる女性の告白に応じて回想シーンになる。第二次世界大戦の末期、ナチス・ドイツはすでに降伏し、日本の降伏も時間の問題という時期だ。
海水に触れそうなほど松や杉の密生した海岸に、ゴシック風の宏壮《こうそう》なお屋敷が建っている。戦地への物資輸送で巨富を得た成金《なりきん》の一家が、そこへ転居してくる。両親と子ども三人、父親の老いた両親、秘書やらメイドやらコックやら運転手やら、あわせて一五人。それぞれ個室に落ちつくが、地下室は封印されて、立入り禁止状態だ。
末っ子はマギーと呼ばれる一二歳の少女だが、屋敷の近くを探検していて、先住民《インデイアン》の老婦人に出会う。老婦人は、マギー一家の住む屋敷が、先住民の祈りの場所を強引に買収し、墓地をつぶして建てられたものであることを告げ、何も兇事《まがごと》が生《しょう》じないうちに退去するようせまる。このあたりは、怪奇映画としてはパターンどおりだ。
画面にはときおり黒いクモやその影が、わざとらしく映し出される。監督としてはブキミな雰囲気を盛りあげているつもりだろう。
その夜、ベッドでめざめたマギーは、見たこともない巨大な黒クモが蒲団《ふとん》の上にいることに気づいて絶叫する。クモは隣室へと姿を消してしまう。家族全員が起き出してくるが、隣室で寝ていた姉は、クモなど見たこともない、といい、マギーは悪夢を見ていたということにされてしまう。
翌日、マギーがひそかに姉を見張っていると、姉は指先から銀色の糸のようなものをほとばしらせ、空中の虫をとらえ、おいしそうにそれを食べるのだった。
マギーの家族は、ひとりずつクモに乗っとられていくようだ。夕食の席で、出された皿の上に何百匹もの虫がうごめいている。父も母も手づかみでそれをむさぼり食う。二階の一室に張られたクモの巣がしだいに二階全体にひろがり、一階へと降りてくる。
ついにマギー以外の全員がクモの糸につつまれて眠りに落ち、すこしずつクモに変容していく。孤立したマギーは地下室に逃げこみ、そこから太古の地下道に並んだミイラの間をぬけて丘の上に出る。屋敷を見おろすと、巨大なクモの姿が何匹も窓に映っている。ふたたび先住民の老婦人に出会ったマギーは、その教えにしたがい、屋敷に火を放って、かつては家族だったクモをすべて焼き殺したのだった。
……ここで回想シーンは終わる。拘束衣の女性こそ、成人したマギーだった。調査委員ドッブスは冷笑し、一〇年前の新聞記事を同僚たちにしめす。マギーの家族は全員ライフルで射殺されており、マギーはクモ幻想にとりつかれたあわれな狂人なのだ、と。
とたんにマギーの拘束衣が裂けちぎれ、マギーは立ちあがる。頸《くび》すじから背中にかけて皮膚が割れはじけ、クモの脚が一本二本と出現する。立ちすくむドッブスに向かって高笑いするマギー。
「これでもまだ信じないの?」
ドッブスはクモの糸に巻かれ、身動きならず、恐怖の叫びをあげる。その全開した口に、クモの嘴管《しかん》が刺しこまれる。血と体液を吸いとられ、みるみるひからびていくドッブス。
やがて武装督官隊が駆けつけ、クモの糸だらけの医療刑務所で攻防がくりひろげられる。火炎放射器が使用され、マギーだった化物グモは炎のなかで死ぬ。
すべては終わったかに見えた。だが、化物グモの死の直前、その腹から何十匹もの子グモが飛び出し炎によって生《しょう》じた気流に乗って飛び去っていく。
善良な市民諸君、気をつけよう。おそるべき化物グモは、いつふたたび出現してあなたや家族をねらうかわからないのだ……!
W
「駄作ねえ」
映画が終わるなり、涼子が酷評した。
「科学性も必然性もありゃしない。料金《おかね》をはらった観客がいたなんて信じられないわ」
科学性や必然性をそなえた怪奇映画なんてあるのだろうか。それに、涼子が必然性をあれこれいうのは、天にツバする行為であろうと思われる。
「東西冷戦の時代につくられた映画だから、化物グモは共産主義者の暗喩《あんゆ》かもしれないわね」
と、あくまでもまじめに由紀子が分析する。
「でも、このばかばかしいC級ホラー映画が、もしドキュメンタリーだとしたら?」
いきなり涼子が、とんでもないことをいいだした由紀子があきれて宿敵を見やる。
「それこそばかばかしい話ね。本気でいってるの?」
「あたしたちが昨夜あの化物グモに遭遇したことだって、ばかばかしいかぎりじゃない。でも、ここにいる岸本が、事実であることを証明してくれるはずよ」
岸本は、もっともらしくうなずいた。
「あれは得がたい体験でした。今後の人生の糧《かて》にしたいと思います」
「カテになんかなるわけないでしょ、あんな異常な体験。あんたは単に恥をかいただけよ」
と、涼子はナサケヨウシャない。
「それより主演女優の顔を見たでしょ、泉田クン。あのドミニク・H・ユキノにそっくりじゃない?」
「ええ」
「だから、あのふたりはじつは同一人物にちがいない、と、あたしは思うの」
論理の飛躍もいいところだ。私は異議を申したてた。
「ただ似ているだけですよ。じつによく似てはいますが、祖母と孫なんですから」
「祖母と孫でも、ホタロの位置まで遺伝するかしらね。岸本、ちょっとビデオを巻きもどして」
「はいはいはい」
涼子に命令された岸本が、嬉々《きき》としてリモコンを操作した。ブレンダ・S・ハワードの顔が映った画面をコマ送りし、ひときわ大きく映った箇処《かしょ》で静止画像にする。彼女の右眉のそばに、はっきりとホクロがあった。
「ほら、おなじ場所でしょ」
たしかにホクロの位置までは気づかなかった。涼子が決めつける。
「これで決まったわね。祖母と孫なんて大ウソ。ふたりは同一人物なのよ」
「ですが、この映画は五〇年以上、昔のものです。ブレンダ・S・ハワードが生きていたとしたら七〇代でしょう。化粧や美容整形では追いつきませんよ」
「もしこの女が、何十年どころか何百年も齢《とし》をとらないとしたら、人前に出ようとは思わないでしょうね。その存在を隠すためのダミーが必要だと思わない?」
反論しようとして、私はやめた。理屈《りくつ》で勝ったところで、意味はない。薬師寺涼子は独断と偏見、そして実行の女《ひと》だ。ある意味おそろしいことに、この三点は、天才たる者の条件なのである。
「ゆえに、あたしは、黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》へ潜入する。あの女の正体をあばき、すべての謎を解明するために!」
「…………」
「よって決定。これからドミニク・H・ユキノのことをクモ女と呼ぶことにするから」
「英語だと、スパイダー・ウーマンですね」
と、岸本がよけいな口をはさみ、何やら陶然《とうぜん》たる目つきになった。
「すてきな映画ができそうだなあ。『決戦! 黒蜘蛛島』、いや、それより、『クモ女対アイスクリーム女』のほうがいいかも……」
「誰がアイスクリーム女だ、誰が!?」
「あいた、いたた、ごめんなファい、ホッペタを引っぱらないレ……」
岸本が思いきり顔面を左右にひろげられている、その光景を室町由紀子は横目でながめたが、涼子を制止する気にもなれなかったらしい。テーブル上には新開が置かれ、昨夜の怪事件が断片的に報じられている。ホテルの写真も小さく、マスコミはまだ事態を把握《はあく》していないようだ。由紀子が低声《こごえ》で話しかけたのは私だった。
「泉田警部補、お涼はどうしてもその島にいく気なの?」
「ええ、まちがいなく。私もいかなきゃならないみたいで」
「いったいどんな理由で?」
「あの女《ひと》のやることに、いちいち正当な理由なんかありませんよ。あの女《ひと》は黒蜘蛛島へ乗りこんでひと暴れしたいんです。その欲求が先にあって、あとはすべて口実にすぎません」
「それなのに、いっしょにいくわけ?」
「はあ、まあ」
「なぜ? 忠誠心? 義務感? 責任感? 使命感?」
全部はずれ。自分でもよくわからないが、私にとっては当然であり自然なことのように思えた。強《し》いていえば好奇心かもしれないが、さすがにそうは答えられない。
「いや、べつにたいした理由はないです。いかなかったら後悔すると思って」
「いったら後悔するとは思わないの?」
「いったら……するのは反省ですね」
「ちょっとちがうかもしれないけど、そういうことじゃこまるわ」
「申しわけありません。でも黒蜘蛛島に化物グモと仲間がいて、犠牲者の死体がころがってると、薬師寺は確信してます」
「そのことも何だか既成事実みたいになってるけど物証も証言もないことでしょう?」
いつものことだ。今回にかぎらない。
「どうかご心配なく。まずくなったときは、私が背任をもって、薬師寺警視を退去させます」
できるだけ毅然《きぜん》と、私は約束した。具体的にどうするかは考えてもいないし、問いつめられたら答えようもないところだったが、由紀子は私を見つめ、かるく溜息をついて腕を組んだ。説得してもムダだ、と思ったらしい。私が、涼子を説得してもムダだ、と思ったように、だろうか。それとも異《こと》なる理由でだろうか。
後者のようだった。由紀子はいったのだ。
「わかったわ、わたしもいきます。誰かがお涼を監視しなきゃ」
リビングルームの片隅で、電話が鳴声をあげた。
私は歩み寄って受話器を取りあげた。英語で通話するときには、やはり神経を使う。涼子と由紀子、それにメイドたちが会話するのが見えたが、表情を読むゆとりもない。
受話器を置いて、私は涼子に報告した。
「電話は呉《ウー》警部からでした」
「何かイチャモンつけてきたの?」
「そうではありません。王立騎馬警官隊《RCMP》に匿名の寄付があったそうです。小切手で一〇万カナダドル」
私は上司の表情を観察したが、涼子は興味がなさそうなようすをくずさない。
「ふたりの日本人の葬式代、およびホテルの屋上庭園で殺された清掃作業スタッフの遺族へ、というメッセージがついていたそうです」
「奇特《きとく》な人がいるのね」
そういったのは由紀子で、涼子のほうはそっけなかった。
「いったでしょ、あたしは勧善には興味ないって。物好きにかってにやらせておけばいいことよ。そんなことより、今夜にそなえて、いろいろ準備があるんだからね。ぼんやりしてたら置いていくわよ」
「つつしんで、おともします」
私はそう答えた。
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第七章 クモ女VSアイスクリーム女(※[#○C、unicode24b8]岸本明)
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晴れわたった夜空に、満月に近い月がかがやいている。すこしゆがんだ銀貨を中央にのせた、濃藍色《のうらんしょく》の巨大なプレートだ。昨夜は雨後の曇天《どんてん》だったが、今夜は雲といえば、水平線のあたりにひとつふたつ浮かんでいるだけである。
敵意と悪意をもって他人の土地に侵入するには、明るすぎる夜かもしれない。だが、「天の時」がないからといって、予定を変更するような薬師寺涼子ではなかった。
バンクーバーからチャーターしたクルーザーでビクトリアの近くまで航行。海上でエンジンつきのゴムボートに乗りかえ、月夜の海上を三〇分。
黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》のすぐ近くでエンジンをとめ、一〇分ほどオールで漕《こ》いだ。まったく今回は、さまざまな乗物を経験する。生きているうちに宇宙船に乗りこむ日が来るとは、これまでは思っていなかったが、あんがい実現してしまうかもしれない。涼子のオトモで冥王星へ、というのはごめんだが。
小さな湾にゴムボートを乗りいれ、せまい砂浜に上陸した。午後一〇時になっていた。
上陸部隊にとって、問題はいくつもあるが、当面のそれは日本人の三人組だ。加戸に吉野内に井関。室町由紀子に対する旧怨《きゅうえん》に加え、昨夜はさんざん痛めつけられて、あらたな憎悪に駆られているはずである。どのような手段で、攻撃をしかけてくるか知れなかった。
だが、島への侵入は、妨害なしに果《は》たすことができた。最初から涼子は自信たっぷりだった。わざわざ島へ来るよう誘いをかけているのだから、海上で攻撃をしかけてくるはずがない、というのである。戦場における用兵の天才さながら、涼子の読みは的中して、一行六名は無事に黒蜘蛛島の土を踏むことができたのだった。
そこまではいいのだが、涼子の服装は何だろう。いつものタイトなミニのスーツを着ないのは、相当のアクションを覚悟しているからだ、と本人はいうのだが、かわりに何を着ているのかというと、肌に密着して身体の線がはっきり見える漆黒《しっこく》のボディスーツなのである。シルエットだと、服を着ているとは思えない。しかも、短い黒マントに、蝶が羽をひろげた形のアイマスクまでつけている。
「ボディスーツはまあいいとしてですね」
「何よ、この期《ご》におよんでまだ何かモンクあるの」
「素朴な疑問です。そのアイマスクはいったい何のために着けてるんですか?」
「葬式では喪服を着るでしょ。ナースは白衣でしょ。何ごとにも、それにふさわしい服装があるの。アイマスクはその一部」
「それじゃマントは……」
「マントだなんて呼びかた、やめてよね。ケープと呼んで、ケープ」
「わかりました。で、そのケープは何のために?」
「ファッションに完璧を期してるだけよ。様式美は基本がダイジなの」
今夜の場合、ファッションに完璧を期するほど、他人の土地に侵入して破壊工作におよぶという目的があらわになり、見つかったときに弁明しづらくなるだろう。もちろん薬師寺涼子は、誰何《すいか》されても弁明などしない。誰何する相手を蹴倒して押し通るまでだ。
涼子の歩きかたは、つい見とれてしまうほど颯爽《さっそう》としてカッコいい。ましてこのとき、蒼銀色《そうぎんしょく》にきらめく月光の下、完全無欠の曲線美を漆黒のボディスーツにつつみ、表は黒で裏地は深紅のケープをはおり、昂然《こうぜん》と頭をあげて闊歩《かつぽ》する。背筋《せすじ》もひざもまっすぐ伸び、スーパーモデルも顔色がなかった。
涼子の左右に、半歩おくれてリュシエンヌとマリアンヌがしたがう。漆黒のボディスーツは女主人《ミレディ》と同様。ケープははおらず、背中にはバックパック。なかには破壊工作に必要なさまざまの道具がはいっているはずだ。
さらに一歩おくれて室町由紀子。黒蜘蛛島への同行を決意したとき観念したと見えて、やはり身体の線に密着した漆黒のボディスーツである。涼子はどゴージャスではないにしろ、何とも優美で均整のとれた曲線だ。
つぎに岸本明。美の女神に感謝すべきだが、この男はボディスーツを着ていない。もちろんスーツに革靴《かわぐつ》というわけにもいかないから、迷彩のはいった野戦服に軍用ブーツだ。昼間、バンクーバー市内のミリタリーショップで購入したもので、じつは私も岸本とおなじ服装である。服のサイズまでおなじなので、私にはちょうどよいが、岸本にはダブダブであった。袖など、折りかえした袖口が肘《ひじ》にとどくほどだ。
月光と潮騒《しおざい》のなか、ほんの二、三分歩くと、第一の関門にたどり着いた。断崖の上までつづく、つづら折りの階段だ。月光をあびた大理石の階段は、白く夢幻的につやめいて、月そのものにまで遠く長く伸びているように思われた。
「こ、この階段を上るんですかあ」
岸本が、なさけない声をあげた。慢性的運動不足のオタク青年としては、もっともな欺《なげ》きである。
「下るのは無理だな、上るしかない」
つい意地悪なことを口にして、私は涼子を見やった。彼女には何か別の考えがあるかもしれない。そう思っていると、涼子のほうでも私を見た。
「泉田クン、風船男の体型、運動と無縁だったよね」
「ええたしかに」
グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》は、岸本とすら比較にならないほど、だらしなく肥満していた。スポーツも肉体労働も、彼とは無縁だったろう。
「あの男は、身体を動かさないのが、えらいと思ってるのよ。クルーザーをおりて、自分の足で階段を上るような根性があると思う?」
「わかりました、どこかにエレベーターがあるんですね」
たちまち岸本が反応した。
「エレベーターがあるなら、それを使いましょうよ。階段なんか使ったら、崖の上に登るまでに、精根《しょうこん》つきてしまいます」
「そうね」
涼子が考えるようすなので、私はおどろいた。岸本の提案を、言下《げんか》に拒絶すると思ったのだ。エレベーターがあるのはまちがいないが、それに乗りこむのは、密室に閉じこめられることを意味する。エレベーターに監視カメラがついているのは、これまた確実だから、私たちの動静《どうせい》はすべて敵に把握《はあく》されてしまう。カメラを破壊しても、そのこと自体が、敵に情報をあたえることになる。エレベーターが崖の上に着いて、扉が開くと同時に、オートライフルやショットガンを撃ちこまれたら、たちまち「ゲームオーバー」である。
私が気づくていどのことに、涼子が気づかないはずはない。それなのに、なぜ予想される危険を冒《おか》すのか。
すました表情で、涼子が提案した。
「それじゃ、このさい二手《ふたて》に分かれましょ。お由紀と岸本はエレベーターを使って上に昇る。他の者は、このまま階段を使う。崖の上で合流するの。OK?」
私はとびあがりそうになった。涼子のコンタンが読めたからだ。私は岸本を押しのけ、涼子に近づいてささやいた。
「あのふたりを囮《おとり》に使うつもりですか!?」
「いけない?」
「いけませんよ!」
「だって、あのふたり、ジャマなんだもの。おとなしくホテルで待ってればいいのにさ」
「岸本はともかく、室町警視は戦力になりますよ、きっと」
「へえ」
アイマスクごしに視線をそそがれると、何だか落ち着かない。涼子は、ひそめた声にたっぷり毒をこめた。
「泉田クンは、このごろ妙にお由紀に甘いからなあ」
「そんなことはありませんよ」
「口では何とでもいえるけどね。だいたい、君、自分の上司が誰だが、ちゃんとおぼえてる?」
「もちろんですよ」
「それじゃ君の忠誠心の対象は?」
「納税者です」
即答できたのは、この質問を予期して、あらかじめ自問自答していたからだ。涼子が舌打ちしそうになったとき、すこし離れたところで由紀子が声を発した。
「いえ、わたしたちも階段を上るわ。そのほうがいいと思うから」
「あら、そう」
涼子の声は、失敗した陰謀家のものだ。
「じゃ、みんなで上りましょ。番犬がわりのピューマに出会うかもしれないけど、それぐらいは覚悟の上よね」
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「ピューマですって!? そんなものがこの島にいるの?」
さすがに、由紀子がかるく息をのむ。岸本は身体を三六〇度回転させ、左右の眼球をフル稼動《かどう》させて危険な動物の姿をさがした。
涼子は形のいい鼻の先で笑った。
「ピューマの何がこわいのよ。ネコがちょっとばかし大きくなっただけじゃないの。まったく役立たずの上に臆病なんだから」
私は一歩すすみ出て上司に要請した。
「もったいぶってないで、出してください」
「何をよ」
「ピューマから身を守るための道具をです。ちゃんと用意してあるんでしょう? あなたは勇敢ですが、無謀な女《ひと》ではありませんからね」
本心とは、すこしちがう。私は上司が相当に無謀な女性である、と思っている。ただ、それ以上に、負けるイクサをするような愚将《ぐしょう》ではない、と評価しているのだ。実際、負けたことは一度もない。
「そういわれちゃ、しかたないわね」
涼子は恩着せがましい態度で、由紀子や私にうなずいてみせた。
「マリアンヌ、リュシエンヌ、あれを出して。ピューマのきらう超音波を出すやつ」
涼子が声をかけると、ふたりのメイドがたがいのバックパックをあけ、ひとりに一個、携帯電話によく似た形とサイズの小さな機械《メカ》を手渡した。涼子がスイッチをいれてみせる。
「これでピューマは、あたしたちに近づけない。半径、そう、五メートル以内にはね」
半径五メートル。微妙な数字だ。強健《きょうけん》なピューマには跳躍可能な距雛ではないだろうか。
「もうすこし強力なやつだったら、よかったですね。半径一〇メートルは有効なやっとか」
「それじゃスリルがなくなるでしょ」
私の上司はスリル至上主義者なのであった。まあ実際問題として、出力が大きくなれば、機械のほうも大型化する。人数分を持ちこむのは、むずかしくなってくるだろう。
私たちは階段を上りはじめた。もちろん涼子が先頭で、マリアンヌ、リュシエンヌ、岸本、由紀子とつづく。私は最後尾を守った。最初は五、六段ごとに後方を振りかえっていたが、途中から半ば後ろ向きになって上っていく。気を使ったか、由紀子が声をかけてくれた。
「気をつけて、泉田警部補」
前方で、涼子が肩ごしにかえりみた。
「泉田クンなら平気よ。お由紀のほうこそ、足下が暗いんだから注意するのね」
台詞《せりふ》だけだとわかりづらいが、涼子の口調から、それが忠告ではなくイヤミだということが判然とする。由紀子は沈黙して、無益なあらそいを避けた。
尋《き》かれもしないのに、岸本が声をあげる。
「あ、ボクもいまのところダイジョーブです」
それに対して誰も応《こた》えず、三つめのテラスにたどりついたとき。
低いくせに鋭く切りつけるような唸《うな》り声がした。
地球人のものではない。ネコ科の猛獣のものだ。
「来たわよ!」
涼子の声を待つまでもない。一陣の夜風が猛獣の体臭を運んできた。月光をさえぎって、大きな黒影が躍り寄ってくる。力強く、柔軟に。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
アリキーノとかルビカンテとか、中世イタリア風の名前があるはずだが、一〇頭全部の名をおぼえていたとしても、私にはピューマの顔など見分けがつかない。まして月光ていどでは。
あるいは涼子は、赤外線を利用した暗視装置《ノクトビジョン》ぐらい用意しているのかもしれないが、まだ公表する気はなさそうだった。
「後ろからも来ましたよ」
なるべく冷静に私が告げると、由紀子と岸本があいついで応じた。
「右からもよ」
「ひ、左からもですう」
私はポケットの上から超音波発生器をおさえた。
スイッチはたしかにオンにしてあるが、何しろ超音波だからして、人間の耳には聞こえない。ピューマたちに効果があるのかどうか、私は不安を禁じえなかった。
たしかにピューマたちは、私たちの半径五メートル以内には近づいてこなかった。目に見えない壁にはばまれているようだ。鳴声をあげたり大きく口を開いたり前肢を振ったり、さまざまに威嚇《いかく》してみせるだけ。それでも、見るからにびくついている岸本を、涼子が冷然と揶揄《やゆ》した。
「あんたの体型がピューマの食欲をそそるのよ。すこしかじらせてやったら?」
「ひえー、ボクはまずいです。運動不足だから、肉もしまってないし。食べるなら泉田サンにしてください」
「お、いってくれたな。おぼえてろよ、レオコン」
「緊急避難なんだから、メクジラたてないでくださいよ。ところでレオコンって何ですか」
「ほら、さっさと上れよ。あとがつかえてるぞ」
私たちはテラスからテラスへ、階段を上りつづけた。前後左右をピューマたちにかこまれて。涼子は平然、メイドたちは沈着、由紀子は意志と理性で不安をおさえている。
私はピューマの数をかぞえてみた。一〇頭いた。
「ピューマは全部いるみたいですね」
「そう思う? あと一頭いるわよ」
「え、まだいるんですか」
「いるのよ。クモ女のやつ、隠してたけどね。『神曲』に登場する鬼たちの長《おさ》が」
ひと呼吸おいて、涼子は鋭く呼びかけた。
「マラコーダ!」
さらにひと呼吸おいて、たけだけしい唸り声が夜気を撃ちくだいた。最後のテラスの上方に、ひときわ大きな黒影が躍った。
それに呼応《こおう》するかのように、一〇頭のピューマが唸り声を高める。あきらかに、彼らのリーダーが登場したのだ。
岸本が卒倒《そっとう》しそうになった。後方につづく由紀子めがけて背中から倒れこみそうになったので、あわてて由紀子が抱きとめる。私も階段を三段ほど駆け上り、ダブダブの迷彩服の襟をつかんだ。
その間に、涼子は一一頭めのピューマと対峙《たいじ》していた。他のピューマより、あきらかにひとまわり大きい。両眼は炉のなかの石炭みたいに黒々と燃えさかっている。威嚇《いかく》の唸り声には、地球人の胃と心臓をしめあげるほどの迫力があった。岸本が失禁《しっきん》しないことを、私は祈った。
「『神曲』に出てくる鬼たちの名を、ピューマにつけているなんていったくせに、いちばん大物のマラコーダがいないから、妙だなと思ってたのよ。かりに一〇頭までやっつけて、安心していたら、そこへ最強の一一頭めがあらわれるというわけ」
涼子の説明に、私は舌を巻いた。敵のやりくちも辛辣《しんらつ》だが、それを洞察《どうさつ》した涼子にも感心してしまう。それにしても、イタリア文学の素養が身を守ることになるとはね。
涼子より一段さがって、リュシエンヌとマリアンヌがベレッタM92FSをかまえた。マラコーダがわずかに身を低くしたようだ。跳躍する気か。私の全身にも緊張の小波《さざなみ》が走る。
「まだよ、まだ。超音波発生器が動いている間は、こいつでも五メートル以内に近づけない。あえて撃つ必要ないわ」
「そ、そうですよね、よかったあ」
眩暈《めまい》がおさまったらしく、岸本がゲンキンな声をあげた。
「だったら、こわがる必要なんかないんだ。やい、ピューマ野郎、くやしかったら五メートル以内に近づいてみろ!」
「あ、そうだ、岸本、あんたの超音波発生器は、電池が切れかけてたっけ」
「ひえー、そ、そんな……」
またしても岸本が目をまわす。へたりこむ岸本の襟首をつかんで引きおこしながら、私は上司に苦情を申したてた。
「こんな状況なのに、いちいちレオコンをからかわないでください。こいつが立って歩けなくなったら、あなたに背負《せお》っていっていただきますよ!」
「イヤよ。お由紀にやらせたら? お由紀の部下なんだからさ」
私が由紀子の顔を見ると、きまじめな表情で彼女は無言の問いに答えた。
「わたしもこまります。ついてきた以上、個々の安全は自己責任。岸本警部補も承知のはず。置いていきたくないけど、いざとなればしかたないわ」
キャリア官僚の社会を吹く風は、なかなか厳しいようだ。と、今度は英語の声が夜の奥から流れてきた。スピーカーを通した声は、ドミニク・H・ユキノのものだった。
「侵入者に警告! ここは私有地です。あなたたちは合衆国《アメリカ》市民の私有財産権を侵害しています。ただちに退去なさい。さもないと、法の認める権利にもとづいて、あなたたちを排除します。どのような結果が生《しょう》じようと、当方はいっさい責任を負いません。くりかえします……」
慇懃無礼《いんぎんぶれい》な警告がくりかえされるなか、涼子が高高と冷笑した。
「何を小癪《こしゃく》なクモ女め、どんな結果になっても責任をとらないって? おもしろい、望むところだ、返り討ちにしてくれるわ!」
「それじゃ悪役の台詞《せりふ》ですよ」
「悪役のドコが悪いのよ!」
「ドコがって……何しろ悪役というくらいですからね」
上司と部下とで不毛な言葉のフェンシングをやっていると、マリアンヌが「ミレディ!」と低く鋭く叫んだ。涼子は階段の上を見あげ、私は岸本の襟から手を放した。
マラコーダという名のピューマに、いつのまにか人影が寄りそっている。女性だ。月光に照らされた姿は、まごうことなくドミニク・H・ユキノであった。
V
ドミニクの表情はよくわからない。だが着ているものはわかった。乗馬服だ。ビクトリアの観光馬車で馭者をよそおっていたときの服ではなく、乗馬クラブやらキッネ狩りやらで使われる、オーソドックスなものだった。しかも手には乗馬ムチがある。
そのような服装をしていると、妙に権高《けんだか》な人物に見えるものだが、ドミニクは特にそうだった。変貌したというより、もともとがそうなので、これまでは演技していたということだろう。
「黒蜘蛛島《ブラックスパイダー・アイランド》へようこそ。進んで再訪していただいて嬉《うれ》しいわ」
尊大《そんだい》な声だったが、同時に、ごく自然なひびきがあった。どんなに鈍感な地球人でも、彼女ドミニク・H・ユキノがこの島の真の統治者であることを悟らないわけにはいかない声だ。いや、こうなるとドミニク・H・ユキノという名が本名とはかぎらない。
体格|雄偉《ゆうい》なピューマが唸り声をあげた。
「静かに、マラコーダ、静かにおし」
ピューマを制するドミニクの声には、愉快さと優越感がこもっているようだ。ピューマたちも彼女の支配下にあるということを、来訪者たちに誇示《こじ》している。
「お客さまがた、どうぞおあがりなさい。こんなところで事を荒らだてる気はないから」
「当然よ」
吐きすてて、涼子はリズミカルな足どりで階段を一段上った。月光をすかすように、ドミニクをにらみつける。
「グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》と称するあの風船男は、あんたのダミーだったってわけね」
「そういうこと」
「何でダミーなんか使うのさ」
「いうまでもないことよ。女で、しかも天才だと、男どもに憎まれるの。自分に才能と自信のない男ほど、女の才能をねたむものだから」
「その点はまったく同感。無能で嫉妬《しっと》深い男ほど、始末の悪いモノはないわよね」
ドミニクは、かるく笑った。
「うれしいわ、話があいそうね」
「ご冗談、あうわけないでしょ」
ドミニクが向けた融和《ゆうわ》の微笑を、涼子は、敵意の氷弾《ひょうだん》で撃ち砕いた。
「あんたは男の背中に隠れて、姑息《こそく》に悪事を働いてるだけじゃないの。女だったら堂々と男どもを屈服《くっぷく》させなさい。でないと長生きしてきた甲斐がないでしょうに」
「どうしてそう思うのかしら」
「だって、あんた、シワがあるもの。厚化粧で隠してるけどさ、お肌の衰えは隠しきれないわよ。ムダな抵抗はやめて、年齢《とし》相応のヨソオイをしたら? 九〇歳だか一〇〇歳だか知らないけど、無理するほどにきわだつのが年齢ってものよ、クモ女さん」
「シワ」という単語で、ドミニクの頬が微妙に動いたかもしれない。
涼子は単に無札なのではない。ドミニクを挑発しているのだ。ドミニクのほうも、それを充分、承知している。涼子がもう一段上るのをながめながら、すぐには口を開かない。
涼子につづいて、リュシエンヌ、マリアンヌ、由紀子も階段を上った。私も岸本の身体を引きずりあげる。立てるくせに立てないふリをして、楽をしようとしているのかもしれないが、そうと判明したら階段から突き落としてやるからな。
ドミニクが、いささかわざとらしい手つきで、マラコーダの頸《くび》すじをなでた。
「呼びかたは気にいらないけど、わたしの実体について何か確信しているようね。いったい、その根拠は何かしら」
「あら、教えてほしいの」
今度は涼子が薄笑う。もうドミニクは落ちついていた。
「あなたの知的虚栄心を満足させてあげようと思ってね。どうやってわたしの正体を見ぬいたか、自慢したくてたまらないでしょう、ミス・ヤクシージ」
涼子の性格の一部を、よく見ぬいているようだ。
涼子は、はぐらかそうとせず、あっさり答えた。
「昨日《きのう》島へ来たクルーザーの船上でよ」
「わたしが何かミスを犯したかしら」
さりげなさをよそおって、ドミニクは涼子の表情をさぐった。涼子はもったいぶってうなずいてみせる。
「ミスといえばミスよねえ」
「どんなミス?」
「あんたはコーヒーをあたしたちに勧《すす》めただけで、自分は飲もうとしなかった」
「…………」
「クモは水を飲む。蜜を吸う。血や体液をすする。でもコーヒーは飲まない。クモにとってカフェインがきわめて有害だからよ」
それは私にとって、あらたな知識だった。涼子の指摘が正鵠《せいこく》を射たことは、ドミニクの反応からあきらかだ。
「なるほど。あなたたちにはミルクかジュースのような子どもの飲物でも勧めて、わたしもいっしょに飲めばよかったのね」
なお余裕を見せ、ドミニクは肩をすくめてみせた
「相手が子どもなら、それらしい対応をすべきだった。今後のいい教訓になるわ」
「教訓? あきれるわね、あんたに今後なんてないのよ。あたしを島にいれて、無事に明日の太陽がおがめるとでも思ってるの?」
「たいした自信だこと」
「自信じゃないわよ、自覚よ」
涼子が言い放つと、ドミニクよりも室町由紀子のほうが、あきれたように首を振る。
「ついてらっしゃい。パーティーに招待してあげるから」
ドミニクは背中を向けた。私たちの返答を待たずゆっくりと歩みはじめると、マラコーダという名のピューマがそれにつづいた。
涼子はさらに一段だけ上って立ちどまり、月下にドミニクの後姿をすかし見て、いまいましげにつぶやいた。
「あの背中を一発で撃ちぬいてやることができたら、話は簡単なんだけどね」
「だめよ、お涼!」
道徳的な見地《けんち》から、室町由紀子が制止する。私も同調した。ただし、利害打算《りがいださん》の見地からだ。
「だめですよ、薬師寺警視、背中に穴があいていたら、正当防衛といっても通用しません。それに、たぶん、どこかから銃口が私たちをねらっているんじゃありませんか」
涼子はリズミカルな足どりで階段の頂点まで上り、そこで由紀子や私を振り返った。
「泉田クンの意見、前半は正しい。後半は、ちがうと思う」
「どうしてです?」
「あのクモ女、やたらと自信たっぷりだもの。自分ひとりで、あたしたち全員、相手にするつもりよ」
意地悪く笑って、つけ加える。
「ウヌボレだけどね」
それこそウヌボレだ、とは私は思わなかった。涼子は戦いの女神なのだ。これまで自信過剰の犯罪者を、ハイヒールの下にどれほど葬り去ってきたことだろう。
樹々の間をぬけ、プールサイドを通りすぎて芝生に出る。
いきなりだった。月の光が漂白され、何も見えなくなってしまったのだ。反射的に身がまえながら、手を眼前にかざす。光は鈍い白銀色に変わり、昼に近いほど明るくなっていた。
広大な芝生の周囲に配置された照明灯が、いっせいに点灯されたのだ。メジャーリーグの球場みたいだった。照明を受けて、巨大な館の偉容が浮かびあがる。ピンクにかがやく地獄の館だ。私たちが当惑するうち、ピューマたちが躍動しながら左右に走り半円形の陣を形成した。
またしても突然、声がとどろいた。
「よし、いいぞ、合図したら撮影開始だ!」
マイクを通した声だ。館の二階、芝生を見おろす大理石づくりのバルコニーに、いくつかの人影が見える。声の主は明らかにグレゴリー・キャノン二世《ジュニア》であった。
「……あの風船男」
涼子が舌打ちした。私は唖然《あぜん》として、「ハリウッドの帝王」を遠くにながめ、視線をドミニクにうつした。乗馬服姿の美女は、嫣然《えんぜん》とほほえんだ。
「あなたがたはスターになるわけよ。ドキュメント映画のね。一般的に公開はされないけど、あなたがたが血を流して死んでいくありさまを、世界のVIPたちが観賞してくれるわ」
由紀子がピューマをかえりみて、声に怒りと嫌悪をこめた。
「そうだったの。ここで殺人ビデオの撮影をしていたのね!」
なるほど、そういうわけだったのか。ここは海上の闘技場《コロシアム》だったのだ。誰からもさまたげられることなく、孤立した環境で流血の狂宴がくりひろげられていたのである。
「そうよ。殺人や児童虐待の実録ビデオは需要が多くてね。なかなか制作が追いつかないくらい」
うそぶくドミニクに、涼子が皮肉な視線を投げつける。
「ためしに尋《き》くけど、ビデオ一本いくらで売ってるの?」
「知りたい?」
「ええ、とっても知りたいわ。教えてくださらない? お・ば・あ・さ・ま!」
何だか空気が音をたてて氷結したような気がした。やや間をおいて、ドミニクは答えたが、毒いりの氷片をころがすに似た声だった。
「一本ごとに価格はちがうけど、あなたが内臓を芝生にばらまきながら死んでくれるなら、今回は一本一〇万ドル。カナダドルではなくアメリカドルで、いくらでも買い手がつくでしょうね」
「ゼロがひとつすくないんじゃない?」
「強気ね」
「それと、もうひとつ。主演女優の取り分について契約が結ばれてないじゃないの」
「いくらはしいの?」
「一本一〇万ドルで、一〇〇〇本売れるなら一億ドルになるわよね。五〇パーセントでゆるしてあげるから、五〇〇〇万ドルおよこし」
「おもしろい娘《こ》ね。一回きりしか出演させてあげられないのが、つくづく残念だわ。ダメよ、お嬢さん。グレゴリー二世はそもそも最初から、こういったビデオの売りあげを資金源にしてきたんだから。出演者はみんなボランティアなの」
「祖父に劣る孫ね。グレゴリー一世は自分で出演してたわよ」
「ああ、愛《いと》しのグレゴリー・キャノン! もちろん一世のほうよ。二世のほうは、語るにたりない。映画に愛なんか持ってないしね」
ドミニクはかるく夜空をあおいだ。
「グレゴリー一世は虫が好きだった。大好きだった。だから虫になりたかった。心からそう望んだのに、気の毒なこと」
私は涼子の即興歌を思い出した。あらためて悪寒《おかん》が走った。
「グレゴールは虫になっちゃったグレゴリーは虫になりたがる……」
涼子が鋭く詰問の槍を突きつける。
「グレゴリー一世に何をしたの!?」
「あなたには関係ないわ」
「だったら関係あることを尋《き》こうじゃない。この忌まわしい島で、いったい何人ぐらい殺したのき」
W
私たちは緊張した。ドミニクのほうは淡々としたものだ。
「かぞえたことはないわね。まあ一〇〇〇人ぐらいだと思うけど、修正にはいつでも応じるわよ。ついでに教えてあげるけど、出演者で一番多いのは不法移民ね。それにホームレス、家出人、すてられた子ども、売られた子ども、逃亡中の犯罪者……」
日本でもそうだが、「行方不明になった不法入国者の正確な人数」など、統計のとりようがない。いまの都知事のように、不法入国者と聞いただけで犯罪者と同一視してヒステリーをおこす連中もいるが、むしろ問題なのは、不法入国者が組織犯罪の被害者になることなのだ。奴隷労働をさせられようと、人身売買されようと、彼らには不法入国したという引け目があり、公的機関にうったえることをためらってしまう。彼らはこの島につれてこられ、人知れず惨殺されていったのだ。
「西崎陽平と井尾育子について尋《き》くけど、どうしてあのふたりを麻薬で殺したの。死体はほとんど無傷だった。殺人ビデオの愛好者どもが満足したとは思えないけど」
「ああ、あのふたりの日本人?」
ドミニクの声に悪意がこもった。
「まったく身のほど知らずの上に、役立たずだったわ、あのふたりは。もともと、グレゴリー二世の趣味をかぎつけて脅迫なんかしてきたから、おしゃべりを永遠にやめてもらったのだけど、殺人ビデオに出演させる前にへロインを注射したら、ショック死してしまった。ほんとうにダメなやつら。演技力以前に体力がないんだから」
これほど冷酷無惨な墓碑銘《ぼひめい》を、私は知らない。二の句もつけずにいると、ドミニクの背後に人影がいくつもあらわれた。野球チームがふたつできるぐらいの人数だ。全員が中年より若い男で、オートライフル、ナイフ、特殊警棒、ロープなど、非平和的な道具をたずさえている。
涼子が軽蔑の身ぶりをしてみせた。
「ガードマンはいません、かわりにガードアニマルがいます。昨日、あんたはそういったじゃないの。でも、どうやら口先だけだったみたいね」
ドミニクは肩ごしにかるく視線を走らせ、落ちつきはらって涼子を揶揄《やゆ》した。
「あいつらを人間だと思うの? 野獣同然よ。まあアニマルではなくてビーストと呼ぶほうが、より正確でしょうけどね」
ドミニクは涼子に笑いかけた。
「わたしが手を下すまでもないときには、道具を使うわ。あなたにだって仲間がいるんだから、おたがいさまでしょ?」
「仲間?」
「ちがうの?」
「臣下が三人、オジャマ虫が二匹よ」
一方的な区分で納得したのは、女主人《ミレディイ》を崇敬《すうはい》するふたりのメイドだけであったにちがいない。敵方はというと、たしかに野獣めいていた。服装も統一されておらず、刺青《いれずみ》をした者、スキンヘッド、モヒカン刈り、鼻ピアス、鬚《ひげ》に長髪と、多彩といえなくもない。ただ嗜虐《しぎゃく》的な表情と、むき出しの暴力性とが共通していた。楽しげに語りあっている。
「男どもは殺してもいい。だが女どもは生かしておけとさ」
「どうせ殺すんだろうに」
「殺すまでにたっぷり楽しむのが、ボスの趣味なのさ」
「殺してからだって、たっぷり楽しめるじゃないか。この前のメキシコ女だって……へへ」
その意味を正確に悟って、室町由紀子が怒りと嫌悪に蒼《あお》ざめた。変態どもの口数が多いのは、女性たちに恐怖感をあたえる手段のひとつだろう。
「これだけの美女が四人いっぺんに集まるとは、奇蹟みたいなもんだな。ハリウッドの女優のタマゴといっても、これだけ綺麗《きれい》なのはひとりもいなかったぜ」
「美女だけど、頭蓋骨のなかには脳細胞じゃなくてクリームチーズがつまってるのさ。わざわざ好きこのんで殺されにやって来るんだからな。遠い土地で平和に暮らしてればいいものをよ」
男たちは下劣《げれつ》な笑声をあげた。彼らの頭蓋骨のなかには、脳細胞ではなくて、ヘドロでもつまっているのだろう。ふたりのメイドも、単なる美少女にしか見えないらしい。
「何とかいえよ、プリティ・ガールズ。おそろしくて、声も出ないってか。いくら大声を出してもいいんだぜ」
マリアンヌとリュシエンヌが声を出さなかったのは、出せないからではない。声を出す必要と価値を認めなかったからである。そのことを私は知っていたが、単に同性だからというだけの理由で、安っぽいサディストどもに教えてやる気にはなれなかった。
わざとらしい足音がして、私たちの後方にまた複数の男があらわれた。すこしも嬉しくないが、私や岸本とおなじように迷彩服を着ている。これまた嬉しくないが、私たちとおなじ国の人間だった。吉野内、加戸、井関の三人組だ。
「そのメガネ女は、おれたちの獲物だ。手を出すな!」
そううめいた加戸の両眼に、妄執《もうしゅう》の鬼火がちらついている。
由紀子は一歩さがって身がまえた。加戸ら三人の手にかかったらどのような運命におちいるか、それこそ闇夜に灯火を見るよりあさらかだ。
「撮影開始だ、ビデオをまわせ!」
グレゴリー二世の声が、マイクを通してひびきわたる。興奮にうわずった声だ。プロデューサーとしてはどうか知らないが、ディレクターとしては感情が先行するタイプのようである。
ドミニクが男どもに命じた。
「カメラに映るようになさい。それが、お前たちの仕事よ」
「わかってますよ。おれは女の黄色い悲鳴がきらいでね。まず、このメガネ女の舌を斬りとって、ボスの皿に献上しますよ」
由紀子が反射的に口をおさえ、加戸が歯をむき出す。ドミニクがあざけった。
「いったはずよ。ここは私有地。不法侵入者に何をしようと、わたしたちの自由」
「もちろん何をやろうと自由よ。あたしの目ざわりにならないかぎりはね。でも、いったんあたしの目にはいったら、埃《ほこり》だろうと悪党だろうと、洗い流す」
涼子は白魚と呼びたくなるような美しい指を、黒蜘蛛島の女支配者に突きつけて高らかに宣告する。
「というわけで、洗眼《せんがん》開始!」
古来、戦闘開始に際して「洗眼開始」と叫んだ将軍はいないと思う。
女主人《ミレディ》の声に応じて、マリアンヌとリュシエンヌが電光のように動いた。まるで微速度撮影した体操選手さながら。
私は岸本の襟首を放した。悪いが、もうかまっている余裕はない。
「自分で戦え、レオコン!」
男たちのひとりが歯をむき出してアーミーナイフを振りかざした。振りおろすことはできなかった。右手首に細い光が突き刺さったのだ。マリアンヌが投じた細身のナイフだった。
男は苦痛の叫びをあげ、身体のバランスをくずした。ひざが折れ、地に倒れこむ。そこには岸本がへたりこんでいた。男は岸本に抱きつく形になった。
岸本が目を見開く。
「びえええー……!」
涼子の宣告よりもむしろ岸本の絶叫によって、「黒蜘蛛島の決戦」ははじまったのである。
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第八章 決闘は貴婦人《レディ》の嗜《たしな》み
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「簡単に殺すんじゃないぞ。お客たちを失望させるな。充分に時間と手間をかけろよ。効率なんて考えなくていいからな」
マイクを過してひびきわたるグレゴリー二世の指示は、なぶり殺しだった。腸《はらわた》の底まで腐ったやつだ。
黒衣の女王さまは、不敵そのものの微笑を浮かべて私をかえりみた。グレゴリー二世の指示など、歯牙《しが》にもかけていない。両手には、メイドたちから受けとった拳銃がある。右手の一丁はドイツ製のSIGザウエルP226。一五連発だ。
左手の一丁を、彼女は私に向けて放った。こちらはブローニング・ハイパワーであった。
「ひとりぐらいは泉田クンにゆずってあげる」
「ご配慮に感謝します」
それにしても開けた芝生で、遮蔽物《しゃへいぶつ》というものがない。多人数相手には不利なはずだが、涼子は平然としていた。
「遮蔽物なら、そのへんにいくらでもあるでしょ。動くやつが」
彼女の指先に、褐色の猛獣がいる。
「ピューマですか?」
「あのふたりを見習いなさい」
ふたりのメイドは、女主人《ミレディ》の作戦を忠実に実行していた。彼女たちに近づくだけでおそえないピューマの身体を盾にして、たてつづけに発砲する。
マリアンヌもリュシエンヌも、敵の腰から下をねらっていた。敵を殺す必要はなく、戦闘力を奪えばいいのだ。脚を傷つければ、立つこと歩くこと走ることができなくなり、放置して近づかなければすむ。敵がよこしまな目的を持ち、メイドたちの戦闘力が敵より卓《すぐ》れているからこその余裕だった。ただし正当防衛が成立する状況になれば、彼女たちはためらわないだろうし、誰もとがめることはできない。
加戸がわめいた。
「この小娘ども、ふざけたマネしやがって!」
以下、独創性と無縁の罵声《ばせい》がつづく。日本語のわからないリュシエンヌは無言だったが、加戸がショットガンの銃口を向けたとたん、芝生に身を投げ出し、ベレッタを撃ち放った。
加戸のショットガンが轟然《ごうぜん》と散弾《さんだん》をまきちらす。
ただし、夜空に向けてだった。加戸はリュシエンヌに左ひざを撃ちぬかれ、大きくのけぞった姿勢で引金《トリガー》をしぼってしまったのだ。
野獣のような唸り声をあげて、加戸は芝生の上をころげまわる。だが、なおショットガンを離さない。うかつに近づけば、至近距離から散弾をあびるだろう。とりあえず放置しておくしかなかった。
「けっ、小娘どもにやられやがって。役立たずが」
兇漢《きょうかん》どうしの友情にあふれる言葉を吐きながら、井関がせまってくる。腰だめの姿勢でオートライフルを撃ちまくり、芝生の各処を弾列《だんれつ》がうがった。
脚をねらって涼子が撃つ。命中して着弾《ちゃくだん》の煙があがった。だが井関は倒れない。歯をむき出して、ズボンの裾をめくってみせると、黒い金属性の光沢《こうたく》が見えた。プロテクターをつけているのだ。となると、おそらくは防弾ベストも着用しているだろう。
涼子が合図し、私たちは樹々の間へしりぞいた。
勝利を確信した井関が樹々のあいだに踏みこんだ瞬間。マリアンヌとリュシエンヌが飛びかかった。
それがバレーボールなら「回転レシーブ」、野球なら「シューストリング・キャッチ」と呼ばれるだろう。リュシエンヌとマリアンヌは頭から地上へ突っこみ、くるりと一回転して起きあがった。スポーツとちがうのは、彼女たちの手にナイフがあったことだ。
何かが弾《はじ》ける音がした。風船が破裂するよりは小さい音だ。突進してきた井関の身体がいきなり宙に浮き、頭から地面に突っこんだ。地上で一転、二転して、起きあがろうとしたが、ただそれだけのことができない。
「うがあ、あ、足が……! 小娘ども!」
井関の両足のアキレス健は、ふたりのメイドによって同時に切断されていたのだ。井関は立てない。すくなくとも今後二カ月ほどは歩けないままだろう。
リュシエンヌが井関の投げ出したオートライフルを左手ですくいあげ、そのまま撃ちまくる。芝草がちぎれ飛び、土壌が舞いあがり、足を撃ちぬかれた敵が悲鳴とともに横転する。
これまで彼らが虐待し、殺害してきたのは、抵抗する力もなく、恐怖に泣き叫ぶことしかできない女性や幼児たちであったろう。だが、今夜、彼らは過去につくった罪業《ざいごう》を、まとめて償《つぐな》わされつつあった。しかも、たっぷり利息をつけて。
リュシエンヌもマリアンヌも、女主人《ミレディ》におとらぬ身軽さで、芝生上を駆け、回転し、跳躍する。体操の床運動を演じているようだ。敵は乱射しようとしても、味方やピューマにあたるのを恐れ、ためらううちに自分たちの手足を撃ちぬかれて倒れていく。
ピューマたちも右往左往《うおうさおう》していた。島への侵入者におそいかかろうとしても、超音波のバリヤーにはばまれる。メイドたちは女主人《ミレディ》の指示どおり、ピューマに近づいて敵弾を避ける。するとピューマは超音波に打たれて、自分でも思わぬ方角に跳《と》び、味方の射撃を妨害する結果になるのだった。
「よし、いいぞ、作戦どおりの展開」
涼子が満足そうにうなずく。
この世に生まれるとき、母親の胎内《たいない》に、エンリョとかケンソンとかツツマシサとかいう美徳を置き去りにしてきた女《ひと》だ。そのかわりに、勇気と自信と闘志とが、他人の二倍以上そなわっている。それらの要素が全身にみなぎり、あふれ出して、薬師寺涼子の造形的な美しきに、錦上《きんじょう》花をそえるのだ。
バルコニーでは「ハリウッドの帝王」が興奮の態《てい》である。デッキチェアにふんぞりかえり、左手に双眼鏡、右手にはポップコーンやらコーラやらをかかえこんで、流血のナイトゲームにご満悦だ。血を流して倒れるのが自分の部下でも、いっこうにかまわないらしい。
室町由紀子が、敵の放り出したオートライフルをひろいあげた。プールサイドに近い場所だ。横あいから兇暴な声がかけられた。
「メガネ女、そこを動くなよ!」
吉野内の巨大な影が躍り出る。手にはチェーンソーがあった。不快なモーター音がひびきわたる。由紀子の表情が凍りついた。私はどなった。
「室町警視、撃って!」
「撃てるもんか」
嘲弄《ちょうろう》して、吉野内は突進する。駆けつけてもまにあわない。思いきって私が撃とうとした瞬間、由紀子はプールサイドの、松明《たいまつ》を手にした女神の彫像に半ば身を隠しながら、吉野内の足もとめがけて発砲した。吉野内のフットワークが乱れる。
吉野内は自分から彫像に突っこんだ。まともに衝突し、抱きあう形になる。吉野内は巨体だ。彫像が揺れ、大理石づくりの手から松明が落ちた。落ちた先は、地面ではなく、吉野内の頭だ。たっぷり油性の整髪料をつけていたにちがいない。一瞬で燃えあがった。
上半身を炎につつまれ、たてつづけに絶叫を放ちながら、吉野内はプールサイドを走りぬけた。巨体を宙に浮かせ、そのままプールの水面に墜《お》ちる。大きく白く水柱があがった。
由紀子は息を吐き出した。私に気づき、かたい微笑をつくって意見を求める。
「助けあげなくていいかしら」
「もちろん、いいですよ」
いっこうに良心がとがめない。
「あれぐらいで死ぬやつでもないでしょう。まずご自分の身を守ってください」
「わかったわ」
「なるべくマリアンヌやリュシエンヌといっしょにいてくださると、安心です」
そういうと、涼子が何か皮肉をいうより早く、由紀子が不安そうな表情になった。
「いっしょというと、岸本警部補はどこにいったのかしら」
「あそこよ、あのアホ」
涼子が吐きすてる。見ると、芝生と森の境界線のあたりを右往左往している小柄な人影がある。たしかに岸本だ。要領よく戦闘を避けて逃げまわっているらしいが、一頭のピューマが彼の周囲をうろついている。
「ほうら、この超音波発生器がこわいか。来るなら来てみろ」
岸本が調子に乗って超音波発生器を振りかざしたとき、どこからか銃弾が飛来して、それに命中した。岸本の顔面筋肉が、音をたててひきつった。
おそるおそる、超音波発生器に視線を向ける。大きな穴があき、なかの部品がはみ出している。
鼓膜《こまく》に突き刺さるピューマの鳴声。岸本はバンザイをする恰好《かっこう》で、超音波発生器を放り出した。
「ひえー、ひえー」
逃げまどう岸本に、グレゴリー二世はバルコニーから嫌悪と軽蔑の声を投げつけた。
「ああ、何という醜悪さだ。ビデオに収録する価値もない。さっさとピューマに食わせてしまえ!」
肉づきのよすぎる手を振るのが見えた。ゆがんだ美意識と殺人嗜好、富と権力。彼はネロやカリギユラのような古代ローマの暴君のカリカチュアだった。
岸本は逃げる。ピューマが追う。
ウィンナーソーセージがころがって、子猫がそれを追っかけているみたい。ほほえましい光景だ。
などといってはいられない。私はあわてて上司に進言した。
「岸本がピューマに食べられてしまいますよ」
「自然の摂埋《せつり》って、きびしいものよね」
「そうじゃなくて、助けてやらないと」
「うーん」
「迷っている場合ですか!」
「迷ってなんかいないわよ。助けたくなんかないから、放っておくつもりだけど、それをどうやって正当化しょうかと……」
それ以上は聞かず、私は走り出した。じつのところ私だって積極的に岸本を助けたりなんかしたくないのだが、日本に帰ってから岸本の両親に恨《うら》み言《ごと》をいわれるのもイヤである。まだ会ったことはないが、さぞ自慢の息子だろうし。
走りながらブローニング・ハイパワーを撃ち放つ。命中はしなかったが、ころんだ岸本のズボンの裾をくわえたピューマが、一メートルほど跳《と》びのいた。私をにらむ。視線があって、正直ひるんだが、超音波発生器のご利益《りやく》か、ピューマは唸りつつ身をすくませた。だが遠くから三頭ほどのピューマが走り寄ってくる。
そのとき、涼子のさえざえとした声がひびきわたった。
「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ!」
それが『神曲』に記された謎の呪文であることは、すでに涼子が教えてくれた。意味は不明だというが、それはあくまでも文学上の話だ。ピューマの飼主が、何か特別な意味をこめて、ピューマにその呪文を教えこんでいた可能性がある。吉か兇か。
結果はすぐに出た。
ピューマたちが動きをとめた。一瞬で静止画像に変わってしまったのだ。その場で停止し、つづいて芝生の上に身を伏せた。猛獣たちの表情から敵意が消えているように見える。用心しながら、私は岸本に近づき、へたりこんでいるレオコンをかかえ起こした。
「た、た、助かったあ……」
岸本は気絶寸前で現実に引きもどされたようだ。
「成算《せいさん》はあったんですか?」
私が問うと、上司はいばった。
「いったでしょ、あたしが賭けに負けるわけないって」
「おまけに、賭けのチップはどうせ岸本だし」
「そうそう」
チップあつかいされた岸本は、芝生の上にすわりこみ、おそるおそるピューマたちを見まわした。安全を確信すると、懐《ふところ》から何か取り出して頬ずりする。
「ああ、ルンちゃん、君のおかげで助かったよ」
「何だ、その妙な人形は」
「『レオタード戦士ルン』のお守りです」
「は!?」
「ダメですよ、泉田サン、『レオタード戦士ルン』のことを忘れちゃ」
「何でダメなんだ」
「オタクとしての仁義に反します」
「おれはオタクじゃない!」
「認めれば楽になるのになあ」
「事実に反することを認めてたまるか。それよりさっさとどこかに隠れてろ。さっきの呪文をおぼえてれば、超音波発生器がなくてもピューマにおそわれずにすむから」
心から私は決意した。かならず生きてこの島から脱出してやるぞ、こんなオタク・オブ・オタクズとおなじ場所で、変態どもに殺されてたまるか。そんなことになったら、ご先祖さまに申しわけない。べつに名のある先祖がいるわけでもないが。
岸本を置き去りにして、涼子と私は「ハリウッドの帝王」の姿を求めた。
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グレゴリー・キャノン二世《ジュニア》の私設軍隊は、三〇分ていどで無力化したように思われた。もともとピューマが主力だったので、それが戦力にならないとすると、あとはサディストの変態どもが武器を振りまわすしかないわけだ。それでは地上最強のメイドたちに勝てるわけがない。
涼子はバルコニーに通じる、これも大理石づくりの外階段を駆け上った。グレゴリー二世の左右にいたボディガードが拳銃を向けたが、ひとりの右肩を涼子が、ひとりの臑《すね》を私が、それぞれ撃ちぬいた。涼子はただ一発で、私は二発めで、というのが天分《てんぶん》の差というものだ。
バルコニーに上ると、逃げ去るカメラマンの後姿が見えた。ひとりグレゴリー二世がとりのこされている。涼子が風船男の前に立ちはだかった。
「何かいうことがある? あるならいってごらん。弁護士はいないけどね」
「……ドミニクと私とでは、君に対して意見の相違があった」
昨日とおなじ浴衣姿のグレゴリー二世は、デッキチェアから立ちあがりながらあえいだ。
「ドミニクは君を生かしておけという。私は不満だった」
「殺したいほど、あたしを憎んでるってわけね」
「ちがう!」
「どうちがうっていうのよ」
「私は君を愛したいのだ。だから死んでほしい」
「…………?」
「私は死者しか愛せないんだ」
グレゴリー二世は、虚《うつ》ろに笑った。舌もまた虚ろに回転をつづける。
「死者しか愛せないのは、私の罪じゃない。生きた成人男女どうしの愛だけが正常で、それ以外は異常だ、というのは、愚昧《ぐまい》な凡人どもの偏見だ。私はずっと、凡人どもの偏見に苦しめられ、人権を侵害されてきたんだ」
人権ときたね。
「私こそ被害者だ、犠牲者なんだ。死者しか愛せないよう、神は私を創《つく》られたというのに、偽善的な社会と法は、私が自然のままに愛を求めるのを拒否したのだ!」
犯罪は大きくなればなるほど人を惑わせる。あたかもそれが、不公正な社会に対する異議の申し立てであるかのように誤解させてしまうのだ。「犯人こそ、あわれな犠牲者だ。社会が悪いのだ!」という「識者の声」を、私は何百回も聞かされた。
だが、今回はきわめつきかもしれない。私の眼前にいる、肥満した死体愛好者《ネクロフィリスト》は、自分が神の使徒だとでも思いこんでいるようであった。
グレゴリー二世が虚ろな視線を私に向ける。
「君が知りたいのは、私がヨシノウチやカドやイゼキをどうして雇ったのか、ということだろう?」
そのとおりだ。接点が知りたい。
「教えてやるよ。あの三人は、私とよく似た嗜好《しこう》の持ち主だったからだ」
「何だと!?」
「ジャパンは窮屈な社会だと、彼らはいっていたなあ。カドは六歳以下の幼女しか愛せない。ヨシノウチにとっては、相手が息絶えるまで頸《くび》をしめあげ、なぐりつけるのが、愛情表現だ。イゼキは女の身体をカミソリで切りきざまないと満足できない。三人とも、私の前で実演してくれたよ」
私は必死で嘔吐《おうと》感をこらえた。岸本のような「オタクの連帯」どころではない。こいつらは日米変態同盟を結んでやがったのだ。
涼子が息を吸いこんで吐き出した。彼女でさえ、冷静さをたもつ儀式が必要だったのだ。
「なるほどね、吉野内たちは暴力団とつるんでいた。日本で、やつらの欲望に応じることができるのは、暴力団だけだものね。それがあんたたちの橋渡しをしたわけね」
そうか。暴力団はグレゴリー二世のつくった変態殺人ビデオを買いとって、日本国内で流通させていた重要な代理店でもあったにちがいない。最初から太いパイプがあったわけだ。吉野内たち三人は、そのパイプを利用して日本を脱出し、グレゴリー二世の庇護《ひご》を得ることになったのだろう。暴力団と関係の深い政治屋はいくらでもいるから、そいつらが仲介したかもしれない。
ふと私は思い出した。バンクーバーにおける涼子の最初の被害者を。
「タカヤマ総領事は、やはり、お前たちの仲間なのか?」
「タカヤマ?」
答えたのは、グレゴリー二世ではなく涼子だった。
「高山? あいつはちがうでしょ。女物のパンティをはいてるていどの安っぽい変態じゃ、こいつらの仲間にはいれてもらえないわよ。こいつらに比べれば、高山なんて三流の道化《どうけ》者。死刑には値しないわね」
高山総領事が聞いたら、傷つくか安堵するか、むずかしいところである。
「いずれにせよ、あんたは殺人、死体|損壊《そんかい》、拉致《らち》監禁、麻薬常用、その他の罪で、法によって裁かれる。人間社会は、あんたを赦《ゆる》さない。あんたの好きな神さまに、魂だけは救ってもらうのね」
グレゴリー二世は不満げに鼻を鳴らした。
「才能のない貧乏人どもを保護するための法やモラルを、なぜ我々が順守しなくてはならないのかね?」
安っぽい詭弁《きべん》だった。この男をつつむ風船の皮は、ずいぶんと薄いようだ。
「強大な国家や民族は、くだらない国際法の外に立つ。個人もまた然りだ」
涼子が吐きすてた。
「それ以上しゃべらないことね、風船男《バルーンマン》」
「風船男? 誰のことだ」
「あんたのことよ。それ以上しゃべると、あたしはいつもの哲学を実践したくなるから」
かつて薬師寺涼子は言明したものだ。「正当防衛に見せかけて、気にくわないやつを撃ち殺す。これぞ警察官のダイゴミ」と。
グレゴリー二世は突然、奇声《きせい》をあげ、彼としては可能なかぎりすばやく身をひるがえした。追おうとしたとき、銃声とともに弾丸が涼子と私との間を飛び去った。涼子が左脇の下から銃口を突き出す姿勢で撃ち返す。
右ひざを撃ちぬかれた男が、絶叫を放って横転《おうてん》した。血が噴き出て、傷口をおさえた手指の間から、赤い小蛇《こへび》がはい出てくる。先ほどバルコニーから私たちを撮影していたカメラマンだった。
「根性のないやつね。自分の醜態《ざま》を撮影して売りつけようと思わないの」
涼子は冷笑し、踵《きびす》を返した。歩き出そうとしてそのまま立ちつくしたのは、あらたな人影に気づいたからだ。
ドミニク・H・ユキノが外階段の上り口にたたずんでいた。味方がほぼ全滅したにもかかわらず、微笑には余裕がただよっている。
「あら、グレゴリー二世に逃げられたの?」
「すぐつかまえてやるわよ。それとも、もうあんなやつ必要ないかな。主犯のあんたさえつかまえればね」
「できるかしら」
そう笑うドミニクを見やって、涼子は何かべつのことに気づいたようだ。
「あんたみたいな商売《ビジネス》していると、きっと顧客《おとくい》のリストがあるんでしょうね」
「あるといったら、どうするの?」
「こちらにおよこし。どこの国の有力者だろうと、仮面を引っぱがして、法廷に立たせてやるから」
「おや、案外ね。あなたはもしかして法と正義の使徒だったのかしら、ミス・ヤクシージ?」
「ちがうわよ。いばりくきってるやつらの泣きっ面《つら》が見てみたいの。日本人にも顧客はいるわよね」
「もちろん」
「だったら、なおのこと手にいれるわ」
涼子の表情を観察して、ドミニクは声をたてずに笑った。
「すっかり勝った気でいるようね」
「あんたこそ、負けたことがわかってないんじゃない、クモ女?」
「負けって、何が? ダミーは取りかえる。巣は引っこす。それだけのこと。どうせ、この館を一〇〇年|保《も》たせようとは思ってなかった」
ドミニクはふたたび笑った。負け惜しみとは思えなかった。あるいは彼女は、グレゴリー二世と彼の手下どもに利用価値を認めなくなり、むしろその破滅を望んでいるのかもしれない。ふと、そう思った。
「ただ、あなたとは決着をつけておきたいわね、ミス・ヤクシージ。どう、挑戦に応じてくれる?」
「決着? どうやって?」
「剣で」
古風なことを、平然とドミニクは告げた。
「あなたはけっこう達人と見たけど、どうかしら。できれば私を失望させないでほしいわね」
たしかに涼子は剣の天才である。ただし、日本の剣道であって、西洋のフェンシングや中国の剣法に関してはどのていどのものか、私は知らない。
「おもしろい、受けて立つわよ。決闘は貴婦人《レディ》の嗜《たしな》みだものね」
誇り高く、涼子は言い放った。
V
それまで腰の後ろにまわしていた両手を、ドミニクは前に出した。左右の手に、それぞれ長い剣が鞘《さや》ごとにぎられている。装飾をほどこされた武器を、涼子は興味深く見やった。
「サーベルね」
「そうよ。突き刺すだけじゃなくて斬れるわよ」
ドミニクは右手をひるがえした。サーベルの一本が鞘ごと宙を舞い、涼子の手におさまった。涼子は剣の柄をつかんで二〇センチほど抜いた。銀灰色の刃が、あざやかに光る。
「どう、いい剣でしょ?」
「いい剣ね。でも、交換していただきたいわ」
涼子が刃を仔細《しさい》に見ながらいうと、ドミニクは憫笑《びんしょう》で応えた。
「剣に細工《さいく》したとでも思ってるの? ずいぶんケチくさい発想だこと」
「とんでもない。あまりにすばらしい剣だからこそ、あんたに使ってほしいのよ。すこしはハンディをあげておかないとね」
剣より先に、舌が火花を散らす。ドミニクはかるく肩をすくめ、自分の持っていた剣を差し出した。
二本の剣が交換される。涼子は完全に剣を抜くと、二、三度かるく素振りをくれた。満足したようにうなずく。
「泉田クン、鞘を持ってて」
「はい」
「君はあたしの功業《こうぎよう》を観察して記録する役目。手を出しちゃ絶対タメよ」
「手なんか出しませんよ」
答えてから、一言つけ加える必要を感じて、私はそうした。
「あなたが勝てないわけありませんからね」
どうやら私は古くさく縁起《えんぎ》をかついだらしい。「負ける」という言葉を使わなかった。そのことに気づいたのかどうか、涼子は一瞬の間をおいて、微笑をひらめかせた。
「当然よ」
ドミニクが声をかけた。
「もういい? ミス・ヤクシージ」
「いつでも」
バルコニーの幅は六メートル、長さは三〇メートルというところ、一対一で剣をまじえるに不足はない。月光と、照明灯の光とがまじりあって、何やらこの世ならぬ雰囲気がバルコニーにたちこめる。
ふたりの美女は、照明灯の青白い光をあびながら、たけだけしい優美さで斬撃《ざんげき》をかわしあった。二本のサーベルは電光のごとく飛びかい、右に突き、左に払い、上に揮《ふる》い、下に薙《な》ぎ、鏘然《しょうぜん》として火花を散らしつづけた。
ドミニクが鋭い気合とともに大きく一歩踏みこみ、涼子の咽喉《のど》へ剣尖《けんせん》を突きこむ。左へ半ば跳《と》んで、涼子はかるくすくいあげるように、敵の攻撃を弾《はじ》き返した。一瞬の遅滞《ちたい》もなく、返す一閃《いっせん》、ドミニクの右肩へ振りおろす。ドミニクが払いのけ、涼子の心臓めがけて撃ちこむ。刀身が激突し、刃音が鳴りひびく。
両者の位置がいれかわった。
剣光が飛びかい、ドミニクの袖口が切り裂かれ、涼子の頭髪が数本、宙に舞う。たてつづけに七、八合の応酬《おうしゅう》。いったん跳《と》びわかれて、涼子が嘲笑をあびせた。
「息が切れてきたみたいね、クモ女!」
「あなたこそ剣が重くなってきたんじゃないの、小娘!」
「あら、ありがとう、若いのを認めてくれて」
ドミニクは反論せず、鋭く一歩踏みこみ、あざやかに手首をひるがえした。サーベルが虹色にきらめき、魔法のように涼子の左の頸部《けいぶ》をおそう。
ためらいも容赦もない一閃だった。涼子の頸部が両断され、美しい頭部が宙に舞いあがるかと見えた。だが涼子は上半身と右手首を同時にひねり、致命的な斬撃を左上から右下へ受け流したのだ。その動作は華麗の極致というしかなかった。
「おみごと!」
思わず私は感歎の声を発した。だが、まだ拍手するのは早かった。涼子は瞬時にして防御から攻撃へと転じている。勝利を確信したドミニクが、強烈な斬撃を受け流されて、わずかにフットワークを乱し、姿勢をくずす。すかさず涼子は跳躍して、ドミニクの左側面にまわりこみ、たてつづけに刺突《しとつ》をくり出した。ドミニクの乗馬服をかすめるように火花が連鎖《れんさ》する。かろうじてふせいだドミニクだが、姿勢を完全に立てなおすまでに、乗馬服のボタンをふたつうしなった。
そこで、とんだ幕間狂言《まくあいきようげん》が演じられた。たしかグレゴリー二世の秘書だと思うが、私から五メートルほど離れた柱の蔭《かげ》から拳銃で涼子をねらったのだ。気づいた瞬間、私は手中の鞘を投げつけ、男の手から拳銃をはね飛ばした。発砲しなかったのは、銃声をたてることをはばかったためだ。
「だいじなところなんだ、ジャマするな!」
男はおびえた表情で後退し、敵意のないことをしめすように、両手を振ってみせた。せっかくの演技だったが、私はだまされなかった。
男が急激に身をかがめ、右足首に隠したアーミーナイフを投《とう》じようとした瞬間、私は躍りかかって蹴りをいれた。これほど容赦のない攻撃は、私も初体験だった。容赦なんぞしている場合ではなかったのだ。重い軍用ブーツは男の右手首の骨にひびを入れたにちがいない。アーミーナイフは大理石の床に落ちてころがった。
のけぞった男に、今度は全体重をのせたフックをくらわせる。男はもんどりうって大理石の床に抱きついた。左手で右手首をかかえこみ、苦痛に泣きわめきながらころげまわる。
私は肩で息をした。ハードボイルドを気どりたいところだったが、そんな余裕もなく、涼子に視線をもどす。やむをえない仕儀《しぎ》とはいえ、この騒動で涼子の集中力が乱れ、決闘に敗れるようなことがあれば、私は自分を赦《ゆる》せない。
美女どうしの決闘は、まだつづいていた。というより、さらに激しくなっている。ふたりとも疲れを知らず、闘志は募《つの》り、嵐のような攻撃と鉄壁の防御とをくりかえして、いつ果てるともしれない。
双方が同時に斬撃に出て、サーベルの刀身だけでなく鍔《つば》どうしが激突した。鍔ぜりあいになって、一方が相手の刃をはねのけようとすれば、もう一方が敵の刀身をおさえこもうとする。至近距離でにらみあうと、四つの瞳から放たれた視線どうしでさえ、ぶつかりあって火花を散乱させる。
「だ、だ、ダイジョーブですか!?」
調子はずれの声に振り向いて、はじめて私は気づいた。外階段に、四つの人影がいる。声の主は岸本で、敵からの戦利品らしいオートライフルや拳銃を両手にかかえこんでいた。そして室町由紀子とマリアンヌ、リュシエンヌ。バルコニーの剣戟《けんげき》に息をのんでいる。
「他の敵は!?」
私の問いに、せきばらいをひとつして由紀子が答えた。
「あらかた無力化したと思うわ。お涼やあなたがどうなったかと思って駆けつけたの……あぶない!」
由紀子の警告で、私は、あわてて階段下り口の柱に背中をつけた。刃鳴りが私の鼻先をかすめすぎる。卓絶《たくぜつ》したふたりの女剣士は、サーベルを激しく撃ちかわしながら、バルコニーから外階段へ移動していた。一段また一段、あるいは数段を駆けおりつつ、なお剣をふるう。由紀子や岸本やメイドたちは、上りかけた階段を下りて芝生に散った。私は右手に拳銃、左手に鞘を持ったまま、涼子たちのあとを追う。決闘の場は芝生上にうつり、観客の数は五倍になった。
私は息をのんだ。涼子の顔面から、黒っぽい血のかたまりが飛んだように見えたのだ。
だが、血ではない証拠に、それは宙を舞って、ふたたびドミニクの剣尖にひっかかった。ドミニクが勝ち誇った笑声をあげ、剣尖を涼子に突きつけて、獲物を見せびらかした。涼子は素顔になっている。
彼女は敵の剣で、アイマスクをもぎとられたのだ。
「美しいわね、リョーコ・ヤクシージ」
ゆるやかに剣尖を舞わし、アイマスクをひるかえしながら、ドミニクが評した。涼子は無言。かるく息をはずませ、茶色の髪を乱し、頬を紅潮させて、ドミニクをにらみつけている。クモ女が感歎するのも無理はない。生気に満ち、怒りをたたえ、負けん気をあふれさせた涼子の、何という美しさ。
「顔立ちだけでなく、表情も、あでやかに美しい。わたしの人間型の器として、これ以上ふさわしい存在はない」
ドミニクは、剣をひと振りしてアイマスクを夜空へ放りあげると、まっすぐ涼子を見すえた。
「リョーコ・ヤクシージ、敗北を認めなさい。そして無傷の顔を、肢体《したい》を、わたしに譲りなさい。そうすれば、わたしが生きて在《あ》るかぎり、あなたも生きて在ることができる!」
声楽家のように、美しい豊かな声。酔ったかのような口調。だが、言葉の内容は、恐怖と嫌悪を最大限に呼びおこし、魂をすくませるものだった。一九世紀の貴婦人《レディ》なら「あれー」とひと声、脳貧血をおこして倒れてしまうかもしれない。
だが、薬師寺涼子は二一世紀の貴婦人《レディ》だった。
「あんたはそうやって、人間型の器をつぎつぎと取りかえながら、何百年も生きてきたわけね」
ドミニクの利己的な昂揚に、冷水《れいすい》をあびせる。
「そうよ。この半世紀、わたしはずっとよりよい器を求めていた。ただ美しいだけでは満足できなかった。ようやく望みがかなった。あなたはわたしのものよ!」
ドミニクの両眼に、おぞましい光が宿った。
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涼子はしりぞいて、ドミニクとの距離をとった。
「あたしは、あたしのもの。あたしの精神も、肉体も、運命も、全部あたしのもの。あたしの過去も、現在も、未来も、すべてあたしのもの。あたしは自分を誰にも売り渡さないし、誰にも支配させない」
油断なく剣をかまえながら、朗唱《ろうしょう》するように告げる。
「あたしの人生に、あんたのはいる余地《よち》はないのよ。というか、あたしに余地はあるんだけど、そこにはいるのは、あんたじゃないの。誰がはいるかは、あたしが決めるわ」
涼子が言葉を切ると、あざけりをこめてドミニクが応じる。
「誰がはいるの? たとえば、そこにひかえてる、ハンサムな刑事さんかしら?」
ドミニクの視線が私を突き刺す。とても、ほめられたとは思えない。涼子が笑いとばす。
「あんたの知ったことじゃないわ。でも、主従《しゅじゅう》である以上、はいる余地はあるわね」
「主従ですって?」
「そうよ。あたしと泉田クンとは、理想的な主従関係にあるの」
ないよ。
心のなかでそう応《こた》えたが、せっかくのテレパシーもドミニクには通じなかった。涼子の言動に、矜持《きょうじ》を傷つけられたのはまちがいない。
「では主従もろとも、かたづけてあげる。わたしのいうとおりにすればよかった、と、冥界《あのよ》で後悔するがいい!」
サーベルがうなりをあげる。
「あんたなんかに、あたしが何度でもやられると思ってるの、クモ女! さすがは脳ミソのない節足《せつそく》動物だこと!」
嘲笑と、サーベルのひらめきと、どちらがより冷たく、より鋭かっただろうか。涼子はドミニクの斬撃を刃音高く払いのけると、間髪いれず一閃をあびせかけた。まっこうからドミニクの額《ひたい》に。
ドミニクの悲鳴が夜気を破ってひびきわたった。
「顔を……わたしの顔を……この小娘が!」
サーベルがドミニクの眉間《みけん》を割ったのだ。ドミニクは左手で顔をおさえてよろめいた。
涼子が右手のサーベルを立て、左手の指をドミニクに突きつける。
「どうせ盗んできた他人の顔でしょ! 血も出ないくせに。さっさと正体をお見せ!」
私をふくめて五人の観客は、声もなくドミニクを見守った。たしかに血は出ていない。ドミニクはサーベルを芝生に放り出した。勝敗が決した瞬間だった。ドミニクが顔にあてた手の下で、さらに皮膚が左右に割れ、顔そのものが裂けていく。
ドミニクの背中から、黒い光沢を放ちながら何かが突き出した。服地が引き裂かれる音をたてて、その何かは長く伸びた。剣のようにも牙のようにも見える。いや、どちらでもない。細く、筋があって、いかにも強靭《きょうじん》そうな、それは脚であった。一本、二本、三本……。
ドミニクの顔は完全に左右に割れ、亀裂《きれつ》は音をたてる勢いで下方へ走って、服も皮膚も弾《はじ》け、裂ける。あとから出現したのは、黒い剛毛《ごうもう》が密生した丸い胴体だ。美から醜へ、おそろしいほどの変貌ぶりだった。
人間がクモに変わる光景を、私は生まれてはじめて見た。願わくば最後であってほしいものだ。食欲をそそる光景では、絶対にない。
「警視、こちらへ!」
どなって、私は駆け出した。
「手を出さない」
との約束は、もはや無効であろう。
「まだよ!」
涼子は短く答えると、右手のサーベルを、ドミニクが変身した化物グモに投げつけた。化物グモの脚が躍って、サーベルを遠くへはね飛ばす。その間に涼子が右手を後ろへ出すと、駆け寄ったメイドたちが女主人《ミレデイ》に何かを手渡した。大型拳銃のように見えたが、妙に銃身が膨《ふく》らみ、形がよくない。
涼子は左手を右手首に添《そ》え、かるく両脚を開いた
「くら、え、バケモノ!」
朗々と宣告すると、涼子は、ドミニクが変身した化物グモをめがけ、銃を撃ち放った。
着弾の衝撃波が風をおこすなか、もう一発、さらに一発……たてつづけに六発を撃ちこむ。一発が頭部に、一発が左前脚に、のこる四発が胴体に、全弾命中した。
化物グモはよろめいた。倒れはしなかったが、ひるんだように見える。
「あれは何です?」
ただの銃弾ではない。私の問いかけに、涼子は自慢げに答えた。
「カプセル弾よ。たっぷりカフェインが詰まってるわ。象でも一週間ぐらい不眠症になるほどね」
「カフェイン……」
「クモが極端にカフェインに弱いってことは話したでしょ。中枢神経をやられてしまうのよ。昼間のうちに、マリアンヌとリュシエンヌに用意してもらったの」
私は振り向いて、ふたりのメイドを見た。歎声が出た。
「まったく、世界一役に立つメイドさんたちですね」
「世界一の雇い主がいるからよ」
つい先刻までドミニク・H・ユキノという名の「人型」だった化物グモは、よろめきつつ、なお前進しようとしていた。八本の長い脚がコントロールをうしない、右に揺れ、左にもつれ、それでも倒れない。
「化物グモのやつ、とまりませんよ」
「とまらないわね」
「カフェインで中枢神経をやられて、動けなくなるんじゃないんですか!?」
由紀子や岸本が、化物グモが近づいてくるのを避けて後退する。涼子も一歩しりぞいて、小首をかしげた。
「それが、ちょっとちがうんだよね」
「どうちがうんです?」
「つまり、中枢神経をやられて、糸を吐くのもコントロールできなくなって、巣もつくれなくなるの」
化物グモの口から、白銀色の滝がほとばしり出た。ねらいをつけられないのか、上下左右にやたらと吐きまくる。周囲の地表は雪が降りつもったような光景を呈《てい》しはじめた。
マリアンヌが涼子の腕に手をかけて何か話しかけ、涼子はうなずいて、カプセル弾を撃ち出した特製銃をメイドに返した。
「糸を吐くのもやめませんね」
「だから、巣をつくれなくなるっていったでしょ。糸を吐いても、量も方角も形も思いどおりにならない。身体も、とまろうとしてもとまらなくなる」
「つまり……」
不吉な影が私の心をおおいはじめた。
「つまり、動けなくなるどころか、暴走してとまらなくなるんじゃないですか!」
「そういう表現って、ミもフタもない、っていうのよ」
「いえ、率直というんです」
主従、ではない、上司と部下とで日本語の表現について論争になりかけたとき、化物グモがぐんと接近してきた。
「まずい!」
反射的に私は、事態を悪化させた最高責任者の手をとり、踵《きびす》を返した。涼子は、暴走トラックの運転手にウオッカを何杯も飲ませたも同然である。
「逃げろ! 糸に巻きつかれたら終わりだぞ!」
ふたりのメイドも由紀子も走り出した。岸本も戦利品を放り出し、短い脚をフル回転させる。戦利品といっても、動けなくなった敵が放置したものを、ひろいあげただけにちがいないが。
涼子は私の手を振り払おうとはしなかったが、走りながら不満げに叫んだ。
「勝ったのに、どうして逃げ出さなきゃならないのよ!」
すばらしい質問である。私もぜひその答えを知りたい。
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第九章 海神《ポセイドン》に献杯《けんぱい》
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化物グモの胴体と頭部の大きさは、たしかにプロレスラーぐらいである。だが八本の脚は、いずれも四メートル以上の長さがあるから、全体としては装甲車なみの量感があった。右に左に糸を吐き散らし、樹々や芝生を白く汚している。
涼子は振り返ってそのありさまを見ると、なぜか高笑いした。
「オーホホホ、すべてあたしの計算どおりね」
「何のことです?」
「あの化物グモを錯乱、暴走させて、風船男の本拠地を潰滅《かいめつ》させるのよ。あたしたちは手を汚さずして、敵を葬り去るという計算。これを深慮遠謀《しんりよえんぼう》といわずして何といおう!」
「偶然のナリユキマカセというのでは?」
なるべく冷静に私が指摘すると、女王さまはご機嫌《きげん》をそこねた。
「君ね、一度くらいスナオにあたしをほめたらどう?」
「何度もほめてますよ」
「ウソだ、お由紀のことは何かとほめるくせに、あたしのことはちっともほめない」
「そんなことはありませんって」
「その口調、誠意がない!」
つい立ちどまっている間に、よろめきながら化物グモが肉薄《にくはく》してくる。こうなるとセイイよりセイメイがたいせつなので、口論を中断して、私たちはまた駆け出した。
化物グモだって無限に糸を生産できるわけではないだろう。いつかは体内の糸がつき、カフェインの毒がまわって倒れるのではないか。私はそう期待した。
だが糸がつきる前にこちらが殺されてしまうかもしれない。まともに闘える相手ではないから、逃げまわるしかないのだ。暴れまわるほどに、毒が体内にまわるのも早くなるだろうし。
人間どもの走る姿を見て、しなやかに力強くピューマたちが躍り寄る。さいわい超音波発生器の電池はまだ働いているようだ。接近はしても、攻撃はできない。と、悲鳴じみた唸り声があがった。化物グモが襲来したのだ。
ピューマたちにとって、化物グモは主人のはずである。ドミニク・H・ユキノという地球人の皮をかぶっていたころは。だが、いまや、暴走する怪物はピューマたちに向けて糸を吐きつけ、鉤爪《かぎづめ》のついた脚をふるっておそいかかる。ピューマたちも、異形の怪物に対する敵意をあらわに、応戦しようとしていた。
マラコーダの鋭い鳴声に応じ、一〇頭のピューマは左右に散開《さんかい》した。化物グモの左に五頭、右に五頭、半円から円へと包囲陣を形成していく。私はピューマをふくめて野生動物の習性などろくに知らないが、これほど組織的な動きができるとは意外だった。
一頭のピューマが跳躍し、動きの鈍い一本の脚にかみついた。それは昨夜、涼子にしたたか殴打《おうだ》されて傷ついた脚ではないだろうか。疾走《しっそう》する化物グモが、脚の一本にピューマをぶらさげる形になり、均衡をくずしかけた。他の七本の脚がもつれ、化物グモの巨体がつんのめる。すかさず他のピューマが左右から躍りかかろうとしたとき、化物グモは脚をふんぼり、最初のピューマに勢いよく糸を吐きつけた。
白銀の糸が蛇のごとくピューマの頸《くび》にからみつく。
そのままピューマの身体は糸に振りまわされた。
宙に二度、三度と円を描き、頭から地にたたきつけられる。重く、鈍い音がしたのは、頭蓋骨が砕かれたのだろう。他のピューマはひるんだか、攻勢を急停止させた。
「ひえー、ムザンやな」
岸本があえいだ。見せつけられた光景に胆《きも》をつぶしただけではない。昨夜の岸本も、ひとつまちがえば、不幸なピューマとおなじ最期をとげていたかもしれないのだ。そう思えば、冷汗の三リットルぐらいは噴き出してくるというものである。
私も思わず半歩しりぞいたが、背後に獣的な唸り声を聞き、慄然として振り返った。ピューマかと思ったのだが、ちがった。ピューマのほうがまだましだった。
吉野内である。松明《たいまつ》の炎で顔を焼かれ、プールに転落しながら、やはりまだ生きていたのだ。しかも戦意をうしなわず、焼けただれた紫色の顔に憎悪をみなぎらせて私にせまってくる。たいした根性だが、もちろん賞賛する気にはなれない。
「さっさと病院にいったらどうだ」
いちおう、すすめてみた。私は上司よりすこしは人道的な地球人である。
「やかましい、図に乗りやがって。きさまら、生きたまま皮を剥《はい》いでやる……」
不気味に宣告する声がかすれているのは、唇が焼けただれているだけでなく、口の内部も火傷《やけど》しているからだろう。
「やってごらん。あんたこそ、地球人の皮をかぶったケダモノのくせして」
涼子がSIGザウエルP226をひと振りしたとき、背後でまたも唸り声がおこった。地を這《は》うような声、と感じられたのも道理、その唸り声は、地に這った男の口から発せられたのだ。井関だった。
両足のアキレス腱を切断されながら、井関は両手で這ってきたのだ。ワニに似ているのは顔だけではなかった。動きも生命力も、冷血動物なみ、鈍感きわまるタフネスぶりといえる。
「き、きさまら、きさまら、きさまら……」
こわれたレコードのように呪詛《じゅそ》の言葉をくりかえしながら、井関は迷彩服のポケットから銃を引き出した。サブマシンガンだ。憎悪に狂った目でねらいをつけるや、発砲した。
涼子と私は横に跳《と》んだ。
井関の撃ち放った銃弾は、吉野内の巨体に吸いこまれた。たてつづけに七、八発、胸から腹にかけて穴をうがたれた巨漢が、苦痛の咆哮《ほうこう》で天をゆるがす。井関は同僚を撃った自覚も自責もなく、さらに涼子をねらって銃口を動かした。苦悶する吉野内が、アーミーナイフを投《とう》じ、力つきて地に横転する。アーミーナイフの厚い刃が、井関の頸すじを深々と縫《ぬ》っていた。井関が絶叫する形に口を開いたが、声のかわりに血を吐き出す。
そこへふわりと白いものがかかった。化物グモの吐いた糸が夜風に乗って流れてきたのだ。
加害者も被害者も、まとめて化物グモの糸におおわれ、白くつつまれていくのが、屍衣《しい》をまとうかのようだった。
「ほらね、あたしの作戦どおりでしょう」
いばる機会は絶対に逃《のが》さない涼子である。私は肩をすくめ、絶息《ぜっそく》した井関の手からサブマシンガンを奪《うば》いあげた。戦場荒らしみたいな気分だが、死者には必要ないものだ。クモの糸を払いつつ走り出そうとすると、
「そこにいやがったかあ!」
怒声《どせい》とともに、加戸が左脚を引きずりながらせまってきた。苦痛に顔をゆがませながら、腰だめの姿勢でショットガンを撃ち放つ。涼子と私は、うろつくピューマたちの蔭《かげ》に身を伏せた。
加戸が撃ち放つと同時に、ピューマの悲鳴があがった。散弾の一部が、ピューマにあたったらしい。
仲間の悲鳴を耳にして、近くにいたピューマの何頭かが躍り寄って来る。加戸はふたたび発砲しようとして、ピューマたちの姿に気づいた。愕然《がくぜん》として、威嚇するようにショットガンを振りまわす。
加戸の行為は、ピューマたちにとってあまりにも刺激が強すぎた。
ピューマたちの唸り声がかさなりあう。唸り声の種類が、これまでと異《こと》なっていることに、加戸は気づく余裕があっただろうか。
銃声と絶叫。
涼子と私は、伏せたまま、しばし顔をあげなかった。
起きあがると、振り向かずに早足で歩き出す。興奮したピューマの唸り声と足音がせまってきたが、超音波の壁にはばまれて、追いつくことはなかった。
日本を脱出した吉野内、加戸、井関の三人は、どの国の裁判にもかけられることなく滅び去ったわけだ。どうせ終身刑ぐらいには処せられる身だったろうが、このような終わりかたは、心から楽しめるものでもなかった。
「どうも、まだあちこちに残党がいそうですね。みんな無事かな」
私の言葉に涼子が答えようとしたとき、樹々の間から人影が飛び出してきた。身がまえかけたが、その必要がなかった。それぞれに美しい三人の女性たちだった。
「ミレディ!」
「マリアンヌ、リュシエンヌ、無事ね、よかった」
ふたりのメイドを左右の腕に抱く涼子の姿は、美しいだけでなく慈《いつくし》みにあふれていて、つい感動しそうになる。あぶないあぶない。
「お由紀も無事ね。まあいいわ、これで全員そろった」
誰かひとり忘れているぞ、と思ったとき、岸本があぶなっかしい足どりで姿をあらわした。これでほんとうに全員そろった。
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由紀子、岸本、それにメイドたちに、身をひそめているよう指示すると、涼子は私についてくるよう命じた。とうに超過勤務だと思うが、私だけは免除してくれないようだ。上司本人が休まないのだから、まあしかたないが。
「あのクモ女や風船男が、この島で何をやっていたか、証拠品を捜し出すのよ」
「だったら、たぶん館のなかでしょうね」
「よし、書斎《スタディ》とか図書室《ライブラリー》とか寝室《ベッドルーム》とかを荒らしてみよう」
「捜索してみよう、では?」
「表現より実態のほうがだいじよ」
涼子と私は外階段を使って二階のバルコニーに上った。まだ散発的な銃声やピューマの鳴声が聞こえ、照明灯の周囲に雲のようなものが白く舞っているのが見える。化物グモが吐きちらした糸だろう。
バルコニーから二階のラウンジらしい空間にはいり、奥へつづく廊下へ踏みこむ。
ヒステリックな喚声《かんせい》をあげながら、ひとりの男が躍りかかってきた。いかにも高価そうなゴルフクラブを振りまわし、私の頭部めがけてなぐりかかる。
あいにく私はゴルフボールではないし、人道的な気分でもなかった。身を沈めてゴルフクラブに空《くう》を切らせ、がらあきになった腹部に、下から拳をたたきこんでやる。口を直撃された男は、短い悲鳴をあげてくずれ落ちた。白眼をむき、口角《こうかく》から泡をこぼした男の顔を、私はのぞきこんだ。
「顔に見おぼえがあります。グレゴリー二世の取り巻きのひとりですね」
「どうせ変態でしょ。しばらくマゾの歓《よろこ》びにひたらせておやり」
私たちは廊下を進み、ドアを蹴り開《あ》けては部屋をのぞきこんだ。撞球室《ビリヤードルーム》、喫煙室《シガールーム》、カード室、チェス室、体操室《エクササイズルーム》、朝食室《モーニングルーム》……書斎や図書室らしい部屋はいっこうに見あたらない。そもそも、館のなかに一冊の本も見あたらないのだ。
「どうも見つかりませんね」
「あの風船男、ひょっとして本なんか読まないんじゃないの。日本のネット成金《なりきん》みたいにさ。このあと地下にいってみようか。ホームシアターでもあれば、殺人ビデオそのものが置いてあるかもしれない」
「殺人ビデオの編集スタジオがあったら、物証《ぶっしょう》の宝庫なんですけどね」
観葉《かんよう》植物の巨大な鉢が並ぶ広い温室《フォーシーズン・ポーチ》に、私たちは足を踏みいれた。
とたんに弾丸の暴風雨がおそいかかってきた。壁に床に天井に、弾列が溝《みぞ》をうがつ。
グレゴリー二世だった。浴衣を着たまま、マシンガンを乱射しているのだ。もともと軍隊で二脚《にきゃく》に固定して使用するものを、ムリして両手でかかえているらしい。重さと発射の反動とでよろめいているのがお笑いである。笑ってすませるには危険すぎるが。
シャンデリアが大きく揺れた。クリスタルガラスが数千の破片となって飛散する。鎖がちぎれ、鉄の蛇となって宙に踊りはねる。私たちが身を隠したソファーの向こう側に落下して、地震さながらの鳴動《めいどう》がおこった。涼子が両眼に危険な光をみたす。
「風船男のやつ、図に乗りやがって……あのふくれあがった腹を針でつついてやる!」
「それはけっこうですが、マシンガンには対抗できませんよ」
「対抗してやろうじゃないの。サブマシンガンを貸して」
私の手から戦利品のサブマシンガンを受けとると、涼子はソファーから顔の上半分と腕を出し、景気よく撃ちまくった。観葉植物の鉢がくだけ、ガラスの壁面が無数の破片と化し、寝|椅子《いす》に穴があく。他人の家だと思って、はでにやってくれること。
何やらわめいて床にころがり、銃弾を避けていたグレゴリー二世は、射撃が一段落すると、マシンガンをかかえつつどうにか起きあがり、もう一度わめいた。
「私の王国を、よくも、私の王国を……!」
「あら、クモ女に魂を抜かれたかと思っていたのに、怒る気力が残っていたとはね」
涼子がせせら笑う。
「それにしたって、『|私の王国《マイ・キングダム》』はないでしょ。クモ女にあやつられていた傀儡《かいらい》のくせしてさ。自力で築いたものならともかく、他人につくってもらったのに、いばるんじゃないわよ」
「|だまれだまれだまれだまれだまれ《シャラップシャラップシャラップシャラップシャラップ》!」
速射砲のごとく、グレゴリー二世は咆《ほ》えたて、床を踏み鳴らした。
「お前らにわかってたまるか。祖父がくだらない怪奇映画ばかりつくっていたおかげで、私は子どものころから笑いものにされていたんだ。祖父はそこそこあった財産を蕩尽《とうじん》して、残したのはこの離れ小島だけだった。そんな状態から、ハリウッドの帝王に上りつめた私の苦労が、すこしでもわかるか!?」
「わかるわけないでしょ、この変態!」
一ミクロンの共感もしめさず、涼子が決めつける。グレゴリー二世は嵐のような呼吸につづけて宣告した。
「何と罪深い女だ。この偉大な私に対して、一片《いっペん》の理解も尊敬もしめさないとは。だが私はお前を愛してやろう。汚れた魂の去った後に、その美しい肉体を、腐って朽《く》ちはてるまで愛してやる。だから死ね! 私に愛されるため」
ハリウッドの帝王は必要以上の力をこめて、マシンガンの引金をしぼった。無機的な音がした。弾丸は発射されなかった。二度、三度。グレゴリー二世は興奮のあまり、弾丸を撃ちつくしたことに気づかなかったのである。マシンガンはかなり軽くなっていただろうに。
頬の肉をひきつらせたグレゴリー二世は、立ちあがって歩み寄る涼子に向けて悲鳴を発した。
「ま、待ってくれ、悪かった、あやまる……」
「うるさい、あやまってすむなら、あたしは必要ないわよ!」
懲罰の女神と復讐の女神とをあわせたような台詞《せりふ》を吐いて、涼子は、グレゴリー二世の股間《こかん》をひと蹴りした。
苦悶の咆哮《ほうこう》を発して、グレゴリー二世はのけぞった。彼の脆弱《ぜいじやく》な筋骨《きんこつ》では、だぶついた贅肉《ぜいにく》の重さをささえることができない。役立たずのマシンガンをかかえたまま、地ひびきをたててあおむけに倒れてしまう。私の視界にはいった浴衣の四字熟語は、「自業自得《じごうじとく》」と読めた。
「気絶させてしまったら、連行するのがたいへんですよ」
「あたしのせいだとでもいうの!?」
「そうです」
「フン、じゃ、そういうことにしておいてもいいけど、こんなやつ、ほっといていいわよ。捜索する間寝かせとけば手間がかからなくて、かえっていいじゃない」
反論すれば、私が風船男をかかえて歩くはめになりそうだ。涼子が隣室へと歩き出し、私は無言で彼女を追った。鍵がかかっているのをたたきこわし、室内をのぞきこむ。埃《ほこり》っぽい空気。涼子が電灯のスイッチをいれた。
私の目に見えたもの。それは後日になっても、正確に表現するのが不可能だった。一部はたしかに白骨化した人体だったが、それ以外はひからびた皮やキチン質やクモの糸らしいものが堆積《たいせき》し、もつれあって、ゴミに埋もれた何かの残骸としか思えなかった。涼子が無言でドアを閉める。
「誰です、あれは……?」
私の問いかけは不正確だったかもしれない。
「何です、あれは」と尋《き》くべきだったろうか。呼吸をととのえて涼子は答えてくれたが、さすがに陽気さに欠けていた。
「グレゴリー・キャノン一世《シニア》よ」
「…………!」
この夜だけで、何度、声をのんだことだろう。
「たしかですか」
ようやく、かすれた声を出すことができた。涼子がうなずき、額に落ちかかる髪をかきあげる。
「クモ女のいったこと、おぼえてるでしょ。グレゴリーは虫になりたくて、虫になったのよ。でも、半分だけ。下半身だけがクモにね」
「それは……ドミニクの何か超常的な能力で?」
「きっとそうでしょう。あの女の魔力よ」
グレゴリー・キャノン一世《シニア》は公的にはとうに死んでいるはずだ。生きていれば一〇〇歳をこしているだろう。生きていれば? 生きていた。何十年も、この奥まった部屋で、つい何年か前まで生きていたのだ。
V
さらに涼子と手分けして、ふたつみっつの部屋をのぞいてみたが、収穫らしいものはなかった。私ひとりで厨房《ちゅうぼう》をのぞくと、散乱した食器や食材のなかにすわりこんでいる人影がある。
「た、助けて、生命だけは」
声の主は、古ぼけたエプロンをつけた老婦人だった。白髪で肥満ぎみだが、どこか上品な印象だ。服装を見ると使用人らしい。
なぜか私は彼女に既視感《デジャブ―》をおぼえた。彼女とは初対面にちがいないが、たとえば彼女の孫を知っている、といったような。
武器は持っていないし、おびえている。変態同盟の一員とも思えない。私はどうにか彼女をなだめて立たせた。だが足腰が弱っているらしく、すぐ倒れそうになる。この老婦人もクモ女ではあるまいな、という不安が脳裏をかすめたが、やむをえず私は彼女をせおって廊下を歩き出した。歩きながら尋ねてみる。
「どこかでお目にかかりましたかね」
「あら、これでも、わたし、子役でハリウッド映画に出たこともあるんですよ。もう半世紀以上も前のことだけど……」
「へえ、そうですか」
老婦人には申しわけないが、私はあまり関心を持てなかった。ハリウッドは極端な優勝劣敗《ゆうしょうれっぱい》の世界だ。ひとりのスターは、一万人のスター志望者のつくった涙の池に両足をひたしているはずだから。だが、老婦人が心を開いてくれるなら、会話をつづけたほうがいい。
「どんな映画に出演なさったんです?」
「怪奇映画よ。『怪奇クモ女』、ちょっと恥ずかしい題名だけど、主人公の少女時代をね」
これにはおどろいた。
「え、するとあなたがあのマギーだったんですか、少女時代の?」
「あら、ご存じだった?」
「え、ええ、隠れた名作ですね、あの映画は」
ウソをついた、といわないでほしい。辛酸《しんさん》をなめたらしい高齢者《おとしより》に対する無料サービスだ。
「でも、その後は芽が出なくてね。グレゴリー一世は何かと心配してくれたけど、あの人自身あんまり順境《じゅんきょう》じゃなかったし……自分が年齢《とし》をとってからは、わたしを世話係としてやとってくれたのよ」
老婦人は私の肩を強くつかんだ。恐怖と怒りが、彼女に力をあたえたようである。
「何でまあ、あんなことになってしまったのかしらね。あのブレンダ・S・ハワードつて女は悪魔ですよ。ええ、わたしは知ってますとも、悪魔は実在するんですよ。まったく、グレゴリー一世みたいないい人に、あんなことして……おそろしい……」
いささか脈絡《みやくらく》のない老婦人の述懐《じゅつかい》だったが、私は何かの糸口をつかんだような気がした。早足で歩きながら確認する。
「では、この島で何があったか、あなたはご存じのわけだ。王立騎馬警官《RCMP》隊に証言してくれますね?」
「ええ、ええ、いいですとも。この島からつれ出してくださるならね」
「この島にどれくらいいました?」
「ええと、そうね、いまは何年?」
私が年を答えると、少女マギーを演じた老婦人は大きく溜息をついた。
「では、わたしがこの島に来てから、もう三〇年になるわね。その間、一歩も島を出ていないのよ」
「いまお何歳《いくつ》ですか」
とは尋かなかった。相手は女優さんである。
「どこにいってたのよ!」
とがめる声がして、涼子がどこかの部屋から顔を出した。私のせおっている老婦人を見て、さすがに意外だったようだ。
「泉田クン、その女《ひと》は誰?」
感心なことに、「誰よ、そのバアサン」とはいわない。
「『怪奇クモ女』でマギーの少女時代を演じていた女優さんです。三〇年もこの島に閉じこめられて、何もかも見ていたんですよ」
私が手短かに説明すると、涼子はたちまち諒解した。「こっちへ」と手招きして、周囲を警戒しつつ小走りに進んでいく。
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クモの糸が形成する自銀色の迷路。そのなかを五分間ほど走ったり歩いたりして、涼子と私はようやく館の裏口に出た。まつわりつくクモの糸を払いながら芝生から林の方角へ進むと、ふたつの人影に出会った。それが由紀子と岸本であることを確認する。さらに後方にメイドたちもいた。
「岸本、女性をひとりオンブするのよ!」
「え、ボクがですか」
「あんたが適役なの」
「はいはい、よろこんで。お涼さまですか、それともメイドさんのどちらか……」
喜々《きき》として、両手をもみながら岸本が進み出る。
私はせおっていた老婦人をおろし、岸本に「たのむ」と声をかけた。岸本の喜色《きしょく》が一瞬で褪《あ》せ、見るからにいやいや老婦人をあずかる。失礼なやつめ。
「この女《ひと》がケガでもしたら、あんたに責任とってもらうからね」
失意の若手キャリアをおどかしておいて、涼子は由紀子に告げた。
「お由紀、この女《ひと》はだいじな生証人《いきしょうにん》なの。この女《ひと》をつれて、先にゴムボートまでいってて」
「ちょっと待って、この女《ひと》はいったい……」
私は涼子に対したのとおなじ説明をした。
由紀子もすぐに事情を諒解した。
「わかったわ、たしかに引き受けました」
そういってから、老婦人に向けて、やさしい先生みたいに話しかける。
「もう安心ですよ、マギーさん、さあ、いきましょう」
マギーとは老婦人の名ではなくて、映画のなかの役名であるはずだが、由紀子には印象が強かったらしい。
老婦人を由紀子や岸本、それにメイドたちに委《ゆだ》ねて、涼子と私は、ふたたび館にとってかえした。書類なり写真なりディスクなり、どうしても物証を手にいれる。上司がそう主張してやまないのだ。仕事熱心でけっこうだ、といいたいところだが、まさか世界各国の変態有力者どもを脅迫するため、材料《ネタ》をしいれるつもりではなかろうな。
芝生の上に毛皮のかたまりが横たわっている。
ピューマの死体だった。全身に白銀色の糸がまといつき、照明灯の光を受けて、あわくかがやいている。一頭だけではなかった。ひときわ体格雄偉なピューマも倒れていた。糸が巻きついて頸《くび》をしめつけさらに胸の肉が大きくえぐれ、半乾きの血が赤い泥沼をつくっている。
「マラコーダだわ」
「あれを見てください」
マラコーダの頑丈《がんじょう》な口が、黒くて長大なものをくわえている。折れた槍のようにも見えた。死んでも放すものか、という肉食獣の強烈な意志が感じられた。ピューマのリーダーは、自分の生命と引きかえに、化物グモの脚を一本、喰いちぎったのだ。
「ケダモノとはいえ、あっぱれね」
上司の評に、私も同感だった。
壮烈な戦死をとげたマラコーダの傍《そば》を、いささか粛然《しゅくぜん》たる気分で通りすぎて、館の正面までたどりつく。一見して嘆声《たんせい》が出た。
「ふう、こりゃダメだ」
私たちが老婦人を由紀子たちに託していた間、化物グモがこのあたりを走りまわったらしい。
館の玄関は、白銀色の糸で完全に封じられていた。一〇〇年の歳月が、一夜のうちに館を老衰させてしまったように見える。縦横無尽に張りまわされた糸は、鉄条網よりきびしく、私たちの侵入をはばんでいた。
「これじゃとてもはいれませんね」
「窓からでもダメかしら」
館の側両にまわりこもうとしたとき、ぬっと突き出された物体がある。化物グモの脚の一本であった。
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息をころして私は後退し、上司に提言《ていげん》した。
「われわれもゴムボートに乗りましょう。これ以上、島にとどまる必要はありませんよ」
「だって、クモ女との決着が完全にはついてないし、証拠品も見つかってないわよ」
「証人がいるんですから、無理に証拠品を集める必要はありません。化物グモだって、無人になった島で、かってに暴れさせておけばいい。王立騎馬警官隊《RCMP》に連絡して、武装警官を派遣してもらえば、かたづきます。何なら軍隊でもいい。私たちがここでやるべきことはもうないですよ」
「警察に干渉されたくないなあ」
「あなただって警察官でしょう!」
「どならないでよ、わかってるってば。でも、追い出されるみたいで不本意だわ」
「自主退去です。日本人ふたりは風船男たちに殺されたと判明したし、ついでに国外逃亡した三人組の末路も見とどけました。出張の成果はあがったじゃありませんか」
「あ、そうか、これって出張だったっけ」
とぼけるんじゃない。いや、もしかしたら、ほんとうに忘れていたのか。
「いいですか、あとをカナダ警察にまかせると思うから、いけないんです。日本の場合とおなじ、後始末《あとしまつ》を押しつけると思えば、楽しい気分になるでしょう」
「まあ、ものは考えようだけどね。でも、何だか陥《おと》し穴があるような気が……」
「ありませんよ、そんなもの。さあ、早く!」
私はワガママな上司をせきたてて、芝生を駆けぬけ、プールサイドや林を通り、階段へと駆けた。先行した五人は、まだ途中のテラスにいた。老婦人をせおった岸本が、力つきてペシャンコになっていたので、結局ふたりを他の三人がかかえる形になっていたのだ。
涼子が岸本を蹴とばして立たせ、私が老婦人をせおう。ようやく岸辺に下り、ゴムボートを出した。もう島の住人に気づかれないように、という配慮も必要ないので、最初からエンジンをかけ、全速力で島から離れた。一秒ごとに、いまわしい島の黒影が離れていく。
すこし気分が落ちついたのか、老婦人が溜息まじりに語りはじめた。
「三〇年ぶりだわ……バンクーバーもずいぶん変わったでしょうねえ。わたしも変わってしまったし……それにしても、これからどうやって生活していけばいいのかしら。身寄《みより》もないしねえ……」
一同が返答できずにいると、ゴムボートの横前方にいる涼子が、肩ごしに老婦人をかえりみた。
「回想録を書けばいいのよ。これまで黒蜘蛛島で何があったか、書いて本になさったら?」
「わたしは文章なんか書けませんよ」
「口述筆記でいいのよ。有能なライターがまとめてくれるから。ミリオンセラーまちがいなし。ハリウッドから映画化の申し出だってくるわ。何しろまともな脚本がなくて、コミックの映画化ばかりなんだから」
老婦人は当惑しきりである。
「まあまあ、そんなことになれば嬉《うれ》しいけど、わたしは出版社も知らないし……」
「あたしが紹介してあげる。サウンドフェザー社なんてどう? 良心的な出版社として有名よ!」
由紀子が私にささやきかけた。
「お涼、いやに積極的ね」
「同感です。きっと裏に何かコンタンがあるんですよ」
ゆるやかだが大きな波が来て、ゴムボートはゆっくりと揺動《ようどう》した。黒蜘蛛島の影はまだ大きいが、のしかかるような威圧感は薄れつつある。エンジンの音を聞きながら、私は涼子のコンタンに思いあたった。
サウンドフェザー社は、「マダム・ロスリン」という冒険ミステリー・シリーズの版元だ。そのシリーズの、日本における翻訳刊行権は、たしか|JACES《ジャセス》の関連企業がにぎっていたはず。つまり涼子が次期オーナーになる出版社である。
涼子は今回の事件を奇貨《きか》として、世界的ミリオンセラーの版権をせしめる気なのだ。常人にくらべて勇気が二倍あるとすれば、商魂は三倍である。
老婦人があらためて問いかけた。
「ところで、あなたがた、女優さん?」
「いいえ」
と由紀子。
「あら、そう、いえね、あんまり|すごい美人《ノックアウト・ビューティー》ぞろいだから、そうじゃないかと思って……それじゃ男の人たちは、マネージャーというわけじゃないのね」
「似たようなものです」
わざと私が日本語で答えると、由紀子が苦笑した。岸本は、かえって嬉《うれ》しそうにうなずきつつ、美女たちを見まわす。
何か音が聞こえた、ような気がした。涼子が頭上を振りあおぐ。他の者も彼女に倣《なら》った。暗い空を暗い影がかすめる。
「どおん」とも「どすん」とも区別しにくいひびきをたてて、人間大の物体がゴムボートの上に落下してきた。さいわい、乗っていた誰にもあたらなかった。だが、老婦人がかすれた悲鳴をあげ、両手で顔をおおった。
落ちてきたのはグレゴリー・キャノン二世《ジュニア》であった。顔の下半分を糸に厚く巻かれ、すでに窒息している。両眼は見開いたまま、生前とおなじように虚ろだった。
「ク、ク、クモが海の上にいますよお。ウソでしょ、海面を歩いてる! ボクたちを追って来ます!」
懐中電灯で後方の海上を照らしながら、岸本があえいだ。涼子が立ちあがり、ねらいをつけざまハンドガンを撃ち放った。黒い影が脚を動かして火箭《かせん》をかわす。化物グモには、水上を歩行するミズグモの能力まであったのか。
ゴムボートは疾走をつづけ、飛沫《しぶき》が顔をぬらした。前方に船の灯が見えた。
「クルーザーよ!」
由紀子が蘇生《そせい》の声をあげる。マリアンヌから携帯電話の連絡を受けて、迎えに来たのだ。一晩のチャーターに、涼子は一〇万カナダドルを支払ったという。気前のいい客にサービスが厚くなるのは、資本主義社会の王道ではある。
クルーザーの規模は、長さ九〇フィート、幅一八フィートにすぎないが、巨大戦艦みたいに頼もしく見えた。船長が手を振っている。私と身長はほぼおなじだが、体重は一〇キロほど多いだろう。赤い髪に赤い鬚《ひげ》のアイルランド系だ。愛想《あいそ》笑いを浮かべた顔が驚愕にゆがむまで、一秒ジャストだった。太い指で怪物をさしてどなる。
「な、何だあれは、何だあれは!?」
涼子が叫び返す。
「ビクトリアの観光馬車の馭者よ。いま化粧してないけどね。ほら、さっさとお客を乗せなさい!」
船長の手ぎわは悪くなかった。ゴムボートを接舷《せつげん》させ、ロープで固定し、ひとりまたひとり、手首をつかんでは船上に引っぱりあげる。グレゴリー二世の死体はゴムボート上に放置されてしまったのだが、それに気がついたのは後刻《あと》のことで、このときには誰もがそれどころではなかった。
船長の視線の動きを、涼子が見とがめた。
「何かぞえてるのよ」
「ひとり人数が増えてるじゃないか」
「追加料金二〇〇〇ドル!」
「オ、OK、わかった」
うなずいてから、巨体に似あわぬ小さな声で、
「クモの料金は?」
「クモから取り立てたらいかが?」
涼子が冷たく突き放すと、船長は、うろたえさわぐ五人ほどの船員《クルー》たちを叱咤《しった》した。
「そのクモを無料《ただ》で乗船させるな! 全速力でバンクーバーへ向かえ。でもって、電話だ、沿岸警備隊に連絡しろ!」
夜目にも白く波を蹴って、クルーザーは海上を走り出した。風光明美《ふうこうめいび》なジョージア海峡は月光に蒼《あお》く照らされ、大陸や島々の各処に灯火がきらめく。ロマンチックな夜の船旅を楽しむ人もいることだろう。だが、この船は悲しい例外だった。
化物グモは健在な七つの目を赤く光らせ、七本の脚を振りたててクルーザーによじ登って来た。水上を歩いてきたから、たいして濡れていない。マリアンヌが銃口を向けたが、豪速球のように飛来した糸の束《たば》が、美少女メイドの手から一撃で武器をはね飛ばし、暗い海へ放りこんだ。リュシエンヌが同僚の手を引き、ふたりは反対側の舷側《げんそく》へ逃《のが》れた。
化物グモは長すぎる七本の脚で、クルーザー全体をかかえこみつつあった。涼子と私は船首の方角へ走った。
岸本の声がなさけなくひびいてきた。
「ひえー、ルンちゃん、ボクを守って。お涼さま、お助けを……!」
「レオコンがおそわれてるようですよ」
「おかまいなく」
「おかまいなくって……」
「あの声じゃ、まだ余裕があるわよ」
ふたたび岸本の声がひびく。
「ああっ、このままではボクは日本の歴史上はじめて、クモに食べられたキャリア警察官僚になってしまう。警察庁の前に銅像を建てるときには、ぜひルンちゃんといっしょの姿を……」
「たしかにまだ余裕がありますね」
「岸本のやつは化物グモと遊ばせておきましょ。お由紀はマギーさんを守って。マリアンヌ、リュシエンヌ!」
由紀子は老婦人をかばいながら船室《キャビン》の奥へとしりぞいた。マリアンヌとリュシエンヌが駆けつける。
マリアンヌの手にはセミオートマチックのサブマシンガンがあった。そしてリュシエンヌの手には……。
「地上でトドメを刺しておかなかったから、結局、二重の手間になった。いくら何でも人型の首はちょん切れないけど、正体をあらわしたからにはもう容赦いらないわね」
涼子はサーベルを抜き放った。そう、リュシエンヌは、決闘に使われていたサーベルを、うやうやしく女主人《ミレディ》に差し出したのだ。
船室《キヤビン》から顔を出して、由紀子が私たちに貴重な情報をもたらした。
「化物グモは、さっきから糸を吐かないわ」
「やっと糸を吐きつくしたらしいわね。だとすれば、もはや勝ったも同然」
「すぐに油断するんだから」
「何かいった?」
「いいましたが、気になさる必要はありません」
「あとで尋問するからね。せいぜい気のきいた供述《きょうじゅつ》を考えておきなさいよ」
そこへ船長が興奮の態《てい》でやってきた。
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髪とおなじくらい顔を赤くして、船長はまくしたてた。単なる夜間巡航《ナイト・クルージング》だと思っていたら、これは何ごとだ。危険な上に専門家を無視してかってなマネばかりする。客だと思ってガマンしていたが、これ以上、船長である自分をナイガシロにするなら考えがあるぞ……!
ひとこと涼子は問いかけた。
「いくら?」
「え、何……?」
涼子はかさねて、ややくわしく問いかける。
「あんたや乗組員《クルー》をふくめて、このクルーザーいくら?」
船長は目を丸くした。その目の奥で、脳内打算器が猛然と動きはじめる。
「一五〇万ドル、かな」
「一〇〇万ドルね」
「一四〇万」
「一二五万!」
「……よし、売った!」
どなった直後、船長の声には疑惑がこもる。
「アメリカドルだよな、カナダドルじゃなくて」
「何なら香港ドルでもいいけど」
船長が各国ドルの換算《かんさん》に頭をなやませている問に、涼子は私をしたがえ、後部甲板へと足を運んだ。
「さあ、もうこの船では、どんなことやってもいいわよ。遠慮の必要なし!」
「いままで遠慮してたんですか」
私がいい終えないうちに、涼子は勢いよく振り向くと、私の唇に右手の人差指を押しつけて、重々しく宣告した。
「ムダグチひとこと、罰金一〇〇ドル!」
「……え?」
「もうこの船では、あたしの意思が法律なの。わかったらついておいで」
わかったので、私はついていった。
美しい独裁者は、恐怖の色もなく闊歩《かつぽ》する。彼女の勇気と行動力の前には、地球人だろうと土星人だろうと異形の怪物だろうと、つつしんで道を開くしかないように思われた。
ふと気づくと、私の背後にマリアンヌとリュシエンヌが並んで、広くもない通路を歩いている。マリアンヌはサブマシンガンを持ち、リュシエンヌは拳銃をにぎっていた。
「今度こそ決着をつけようじゃないの、クモ女! 正々堂々とかかっておいで! 臣下たちに手は出させないから」
クルーザーをかかえこんだ形の脚の間から、クモの頭がさかさに突き出た。七つの赤い目がぎらつく。のこり一個の目は、涼子につぶされたのがまだ回復していないのか、光が鈍い。複雑な形の口がいやらしく開閉した。
こいつは何かたくらんでいるのではないか。
私の胸を疑念《ぎねん》がよぎった。
何百年も、あるいはそれ以上の歳月を、ときに人間の器を借りて生きのびてきた化物グモだ。その狡知《こうち》をかるく見るのは危険である。もしかして、すでにカフェインの毒から解放され、何か悪辣《あくらつ》な奇襲の手段を考えているかもしれない。涼子とは悪辣どうし、いい勝負ではあるが、私は一方をひいきする立場にあった。
化物グモが姿勢を変え、涼子に正対《せいたい》する。涼子がゆっくりとサーベルをかまえた。
「警視、気をつけて! 何か吐きます!」
私は叫んだ。
同時に、いくつかのことがおこった。
化物グモの口が鉄製の罠《トラップ》さながらに開いたかと見ると、半透明の粘液がすさまじい勢いで飛び出した。涼子は左足を軸にし、全身を回転させて間一髪それをかわした。粘液は甲板をたたき、異音《いおん》と白煙を噴きあげた。毒液だ。
涼子が甲板を蹴って跳躍する。いや、それはほとんど飛翔《ひしょう》だった。日本刀のように左右の手で握られたサーベルは、高々と月を突き刺したのもほんの半瞬、光の滝となって化物グモの頭部を上から下へ両断している。
軽い音をたてただけで甲板に着地すると、涼子はふたたびサーベルをひらめかせた。今度は水平に、左から右へ。
乾いた音をたてて、化物グモの頭部は胴体から切り離され、夜空へと舞いあがった。空中で左右に割れると、もつれあうように弧《こ》を描いて海面へ落下していく。
頭部をうしなった胴体は大きくよろめいた。七本の脚は機械じかけのように伸びたり折れまがったりをくりかえし、甲板を打ったり宙をたたいたりしていたが、それも数秒、胴体がかたむくと脚が引きずられ、完全に均衡をくずした。化物グモの胴体と脚は、頭部を追って、海面へと転落していった。
涼子は息を吐き出し、サーベルをかかげた。
「あんたの愛剣だったんでしょう? 海の底まで持っておいき」
涼子が投《とう》じたサーベルは、一瞬、月光を受けてかがやいた。それ自体が、月から削りとられた欠片《かけら》のように。そして波を立てることもなく、ジョージア海峡の暗い水面に吸いこまれて消え去った。
「ミレディ!」
マリアンヌとリュシエンヌが、勝利をえた涼子に抱きつく。船室《キャビン》から出てきた由紀子が安堵したように私を見て微笑した。私は大きく溜息をつき、甲板をながめた。毒液を受けた箇処は、直径四〇センチほどにわたって青黒く腐っていた。
私は舷側の手摺《てすり》に両|肘《ひじ》をのせて潮の香を吸いこんだ。王立騎馬警官隊《RCMP》の呉《ウー》警部に連絡するとか、やるべきことはいろいろあったが、もうすこし後でいいように思えた。
涼子が私の左隣に来たかと思うと、身軽に伸びあがった。手摺の上に腰をおろし、ボディスーツにつつまれた長い優美な両脚を舷側から突き出す。
「あぶないですよ、落ちたらどうするんです」
「そのときは君が生命《いのち》がけで助けるの」
「……あ、はい、わかりました」
「わかったら、こっちへお寄り」
涼子の右腕が私の頸部にまわされた。潮の香とはちがう、よい香りが嗅覚を刺激した。後方で船員《クルー》たちの歓声らしきものがあがり、船長の太い声がひびいた。
「オーナー、どこへ向かいます?」
と、調子がいい。
「バンクーバーよ。帰港するの」
「アイアイサー」
「あ、それから、この船にワイン置いてある?」
「缶ビールでしたら」
「それでいいわ、ひとつ持ってきて」
命じながら、涼子は、右手で私の頭髪をオモチャにしている。
「祝杯ですか」
そう尋いてみたが、涼子は返事しない。
「はい、ビール」
缶ビールが差し出される。声の主は由紀子だった
「あら、ありがとうといいたいけど、津波でもおきるんじゃない?」
涼子のニクマレ口《ぐち》に、いつもの由紀子なら同レベルのニクマレ口で応じるところだ。だがこのとき由紀子は、おとなの表情をしていた。涼子の勇戦《ゆうせん》ぶりを認めたのだろうか。
「船長の代理よ。彼は操船《そうせん》でいそがしいからね。マギーさんは無事。岸本警部補も、ちょっと目をまわしたけど、船室で寝てるわ」
「そう」
「バンクーバーまでは、わたしがマギーさんにつきそうからご心配なく。泉田警部補、お涼はまかせたわよ」
船室にもどる由紀子の後姿を見ようともせず、缶をあけると、涼子はそれをかたむけた。海面にビールの細い滝をそそぐ。
「|海の神さま《ポセイドン》に、つつしんで献杯《けんぱい》。いつも悪いものや汚れたものを、のみこんでくださるからね。おわびと感謝をこめて」
殊勝《しゅしょう》なことである。だが三分の一くらいで涼子は献杯をやめ、私に缶を差し出した。
「君にもひと口」
「あ、どうも……」
多少とまどったが、受けとってひと口飲む。ほんとうにひと口だけで、涼子は缶を奪《うば》いもどした。
「君はひと口だけ。あたしが落ちたら助けなきゃならないんだから、飲みすぎちゃダメ」
だったら最初からひと口も飲ませなければいいのに。私の内心の声を知っているのかどうか、涼子は右手で私の頭をかかえ、缶に口をつけた。手摺の上で脚を組み、海の夜景を楽しむようすだ。いつのまにかリュシエンヌとマリアンヌが、左右から涼子と私をはさむ形で舷側にたたずんでいる。
クルーザーのななめ前方で海面が盛りあがったかと思うと、月をめがけて一匹の大魚が躍りあがったいや、海棲《かいせい》の哺乳類だ。優美でしかも機能的なその姿は、どうやらオルカのようだが、無知な私には正確なことはわからなかった。