摩天楼 薬師寺涼子の怪奇事件簿2
田中芳樹
目 次
摩天楼
第一章 赤い月の下で
第二章 上役が多すぎる
第三章 女王さま東奔西走
第四章 トラブル・イズ・パラダイス
第五章 石にひそむ影
第六章 正義とはあたしが勝つことよ!
さわらぬ女神にタタリなし
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摩天楼
――薬師寺涼子の怪奇事件簿
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第一章 赤い月の下で
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あるとき三人の作家が集まってグチをこぼしあった。作家の人生には何の保障もない。本が売れなくても保険金は出ないし、筆を折っても失業手当はもらえない。契約金もなければボーナスもない。休日明けが|〆切《しめきり》、ということが多いから、日曜でも祝日でも机に向かってペンを走らせるかワープロをたたくかしなくてはならない。目は疲れるわ腰は痛むわ、たまったものではない……しばらくグチがつづいた後、それでもやっぱり作家のほうがサラリーマンよりいい、という結論になった。その理由はというと、
「作家には上役がいない。上役がいない人生、それこそ至福《しふく》の人生だ!」
……というような笑話を、しみじみと、私こと泉田準一郎《いずみだじゅんいちろう》は思いおこしていた。なぜなら私は警視庁刑事部に所属する警部補で、当然ながら上役がいる。しかも私が上役にめぐまれていないことは、万人が認めるところだった。誰もが私に同情している。だが私を異動させようとはしなかった。私が異動したら、別の誰かが後任にならなくてはならない。他の人々の幸福のために、三三歳の私、泉田準一郎は犠牲になっているのだ。
この夜、というのは、秋風が夏の残存勢力を完全に追い払ってから半月ほど後のことである。東京の夜空は晴れわたって、地上に満ちあふれる毒々しい灯火の大群も、満月の光をかき消すことはできなかった。満月は奇妙に赤く大きく、安っぽい銅貨のように、世界最大の都会を見おろしていた。
私は、ガラスごしの満月から視線をそらした。何だか不吉な気分がしたのだが、根拠もないことだし、これまでめったに的中したことがない。たぶんソファーで時間つぶしに読んでいたD・R・クーンツの文庫本のせいだろう。パーティー会場の方角を見やり、立ちあがってエントランスホールを歩き出す。文庫本はスーツのポケットに押しこむ。ハイヒールの踵《かかと》が床を打つ音がひびいてきた。
「ああ、ばかばかしいったらありやしない。やっぱり来るんじゃなかった。ただのひとりも、いい男なんていやしない」
声の主はまだ若い女性だった。背が高い。日本人男性の平均身長よりさらに三センチほどは高いだろう。褐色味をおびた髪は短い。黒のスーツを着て、スカートはタイトのミニ。そこから伸びたみごとな脚線が、周囲の男たちの視線を釘づけにする。背筋と膝《ひざ》をまっすぐ伸ばした諷爽《サッソウ》たる歩きかたは、一流のモデルを思わせる。
美人といってもさまざまだが、「たぐいまれな」とか「とてつもない」とか形容をつけても、さほど異論は出ないだろう。彫りが深く、繊細《せんさい》だがひ弱さを感じさせないのは、両眼に活力と鋭気があふれているからであった。
「あれはアテナ女神の美貌だね」
と、警視庁記者クラブのベテラン記者が賛歎《さんたん》したことがある。彼女こそ私の上役だった。姓は薬師寺《やくしじ》、名は涼子《りょうこ》、職名は警視庁刑事部参事官、階級は警視、年齢は二十七歳である。世にいうキャリアだった。
「お帰りですか、参事官」
「空腹をかかえて、誰もいない部屋に帰る気になると思う?」
「いないんですか」
「いないのよ、今夜はね。二階にレストランがいくつかあるでしょ」
いうなりさっさと歩き出す。一歩おくれて私は彼女にしたがった。女王さまと侍従のように見えたにちがいない。
キャリアといわれるのは、国家公務員試験一種に合格して警察庁に採用されるエリート官僚である。大学を卒業してすぐに警部補になり、三ヵ月の研修と九ヵ月の見習い期間の後に、警部に昇進。さらに研修と警察庁勤務をへて二年と三ヵ月ほどで警視に昇進する。警視というのは、小さな警察署の署長クラスだ。わずか二十五、六歳で「署長さん」になってしまうのである。日本全体で、警察官の総数は約二二万人。そのうちキャリアは五〇〇人たらず。四〇〇人にひとりの超エリートが、巨大で強力な警察機構を支配しているのだ。
私はノンキャリアだった。ありふれた大学を出てごく普通の警察官になった。それでも、ノンキャリアで三三歳にして警部補というのは、ずいぶん昇進が早いほうである。退職までに警視にはなれるかな、と思っていたのだが、どうもこのごろ自信がなくなってきた。理由はひとえに上司の存在である。
薬師寺涼子と往《ゆ》きかう人々は、まず振り返らずにいられない。男性は賛歎のまなざし。女性は賛歎と敵意のまなざし。どちらにしても、涼子の正体を知らないかぎり、表面を見てだけの反応である。いったん正体を知ったら、とてもとてもそんなものではすまない。そして世の中には、知らないほうが幸福なことがいくらでもあるのだ。
ドラよけお涼。薬師寺涼子警視は警察内外からその異名で呼ばれている。ネーミングの由来は、「ドラキュラもよけて通る」を略したものだ。
東京大学文科T類に、浪人もせず合格。法学部を留年もせずに卒業、成績はオール優であった。在学中に、司法試験、外交官試験、国家公務員一種試験に合格。最後の進路を選んで警察庁にはいる。警部補から警部へ、さらに警視へと、最短時日で昇進。この間、国際刑事警察機構に出向し、フランスのリヨンに二年間滞在。帰国して警視庁刑事部参事官となる。どうもかわいげのない経歴である。
もともと涼子がフランス行きを命じられたのは、英語とフランス語を自在にあやつるからである。表向きはそういうことになっている。だが、裏にまわると、
「どうも彼女がからむ事件は妙なことになる」
という評判であった。妙なこと、というのは未解決という意味ではない。犯人は逮捕されるか自殺するかして法的に結着するのだが、警察内部で首をかしげる者が多いのである。口が裂けても公認するわけにはいかないのだが、何やら超自然的な要因がからんでいる、と思われる節《ふし》が多々あるのだった。それで閉口して、いったん国外に追い出したともいわれている。
「いいかね、薬師寺君、とにかく無難《ブナン》に、無難にな」
「ご心配なく」
フランス行きの直前、人事課長にいわれたとき、涼子は胸をそらせて応じた。
「あらゆる怪事件の真相と犯人は、例外なくあたしの前にひざまずきますのよ!」
「……まあ、がんばってきてくれタマエ」
「最大限に期待していただいてけっこうですわ。吉報をお待ち下さいませ」
一週間後、人事課長のもとに「吉報」がとどいた。インターポールのお偉方が、涼子のすばらしく魅力的なお尻をなでて平手打ちをくらい、三メートル吹っとんで窓ガラスに頭を突っこんだ、というのである。さいわいにして、頸動脈を切るとかいうこともなく、軽傷ですんだのだが、インターポールでもリョウコ・ヤクシージをトラブルメーカーとみなし、なるべく早く日本へ追い返そうとした。それでもいくつか目立った功績をあげて日本に帰ってくると、警察庁は涼子の処遇にこまり、とりあえず警視庁刑事部にポストをつくり、私ほか数人を下につけた、という次第であった。
もともとキャリア組の警視というものは、捜査の実務についたりしない。もっともらしく会議に出席するぐらいで、あとはデスクで本を読んでいるか、官僚間の人脈づくりに精を出しているか、だ。なまじ実務に口を出したら、ノンキャリアの第一線捜査官たちから白眼視されるだけである。だが、むろん涼子は平然として出しゃばり、ノンキャリア組からもニクまれるに至った。迷惑なのは、丸岡《まるおか》警部や私のような、涼子の部下たちである。
「しかし何だねえ」
つい昨日、丸岡警部は口をすぼめて熱い玄米《ゲンマイ》茶をすすりながらいったものだ。
「ドラよけお涼のお傅《もり》役にされたってことは、もう私らに未来はない、定年まで飼い殺しってことなんだろうねえ。私はいいが、若いのに泉田クンは気の毒だね」
「……はあ、いや、どうも」
私は返答に窮した。五〇代半ばの丸岡警部は達観しているようだが、私はまだ三〇代前半だ。ベつに出世が人生の目的ではないが、「定年まで飼い殺し」といわれると、前途の歳月の長さを思って、暗然《アンゼン》とせざるをえなかった。
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エントランスホールには、畳一〇枚分ほどの大画面のプロジェクターが設置されている。ホールごとにあって、この「ベイシティプラザ」の外観が映し出されていた。ビル内にいる者も、ビルの外観をいながらにして観賞できるというわけだ。私たちはその前を横切った。
何かにつけて「一言《ヒトコト》多い」という人間はいるものだが、涼子ときたら「二言《フタコト》多い」のであった。それが主として上の方角に発せられるから、涼子に対する上層部の視線は、にがにがしさに満ちていた。
「よくまあそれで、あんな厳しい階級社会で生きていけるものだ」
と、普通の人間なら疑問に思うであろう。それに対する答えは明快だ――薬師寺涼子は普通の人間ではなかったのである。上に「あらゆる意味で」とつけてもよいくらいだ。涼子に警察権力をにぎらせるのは、殺人狂に刃物を持たせるも同様、といった者がいる。おおむね私も同感である。
それにしても、あきれるほど広い建物だ。廊下を通り、巨大な青銅製のライオン像がおかれた奥のホールまで来て、道をまちがえたことに気づき、またエントランスホールの方角へと引き返した。私が道をまちがえたのなら、「役たたず!」という罵声《ばせい》がとんでくるところだが、まちがえたのは彼女だったので、かわりにとんできたのは、「まちがっていると思ったらなぜそういわないの!」という声だった。どこまでも理不尽《りふじん》な女だ。
ふと、涼子の足がとまった。壁を見あげる。
「これ、誰が描いたのかしらね」
「さあ、私は美術《そちら》のほうはさっぱり……」
私も廊下の壁を見あげた。大理石の壁面に、何やら昆虫らしい大きな赤褐色の影が描かれている。クモとサソリの中間にあるような形で、頭部には太い角が二本、節だらけの胴に足は八本、尾は二本あった。ステンシルの技法だろうか。スタッフらしい男が来たので尋ねてみた。
「誰かが描いた壁画ということではないと聞いております。この巨大な大理石を採掘しましたときに、最初から模様がありましたそうで、消すのも惜しいということでそのままにしてあります」
そう答えた男が、レストランへの道を教えてくれたので、私たちはエントランスホールへ向かった。と、エスカレーターの付近に人が群らがってざわついているのに気づいた。制服を着たガードマンに涼子が声をかける。
「何かありましたの?」
涼子の正体を知らなければ、傾国《けいこく》の美女の婿然《エンゼン》たる微笑に見える。鋼鉄も溶け、ドライアイスも気化するにちがいない。たちまちガードマンの頬がゆるんで、くわしく説明してくれた。べつに重大なことでもない、ホールのエスカレーターの調子がおかしくなり、上りのエスカレーターが下へ、下りのエスカレーターが上へ、それぞれ逆方向へ動き出したのだ、という。幾人かが転倒したが、傷というほどのものを負った人はなく、現在、電源をとめて原因を調査中だという。べつに警察官が介入するようなことでもなさそうだった。
私たちはエスカレーターを避けて、広い階段を上った。二階のロシア料理店
「ヴォストーク」にはいる。
暗い海面をへだてて五キロの距離に羽田空港の灯火がひろがっている。離着陸する旅客機の灯も小さく、だがはっきりと見えた。その後方には、横浜の市街が明るい光の島となって夜のただなかに浮かんでいる。この夜景が、「ベイシティプラザ」の大きな売物となっていた。今夜も窓際のテーブルでは幾組かのカップルが肩や頬を寄せあって、一〇〇〇万ドルの夜景に見とれている。
私たちがテーブルに着くと、店の支配人があいさつに来た。栄養のよさそうな中年の男だ。このロシア料理店の本店は銀座にあるのだが、この年の春、何やら奇妙な事件がおこったときに、涼子が表ざたにせず解決してやったとかで、感謝しているのである。
「どうもあの節《せつ》はたいへんお世話になりまして」
頭をさげながらメニューを差し出す。私にはロシア料理のことなどわからないから、まず涼子が選ぶのを待った。
涼子が注文したのはサラダとスープだけである。
といっても、サラダは「サラート・スタリーチヌイ」といって、各種の野菜に、蟹《かに》、イクラ、ハム、ゆで卵、鶏のササミを加えた豪勢なものだ、という。スープは「ボルシチ・シビルスキー」、つまりシベリア風のボルシチで、肉ダンゴとジャガイモがたっぷりはいっている。栄養のバランスもボリュームも充分な取りあわせだ。
「君は何を注文する?」
「同じもの。それにピロシキでもいただきましょうか」
ピロシキぐらいなら私も知っているのだ。
「遠慮しなくてよくってよ」
「そうそうおごってもらうわけにはいきませんから」
「何であたしがおごるの。経費で落とすに決まってるでしょ」
「経費で落ちますかね」
「今夜の苦役《クエキ》からすれば当然よ。でなければ今夜ここで何か事件でもでっちあげたらいいの」
警察官にあるまじきことをいう。私の視線に咎《とが》めだてを感じたのか、涼子は開き直った。
「戦後、冤罪《えんざい》事件や迷宮入り事件はいくらでもあるけど、責任をとって辞任した警察官僚なんてひとりもいやしないわよ。みんな平気な表情《かお》で天下《アマクダ》りしたり政治屋になったりしてるじゃないの。さっき壇上でふんぞりかえっていた鬘《かつら》のおっさんだって、神奈川県警の刑事部長のころ、とんでもない捜査ミスを……」
「聞こえますよ」
「聞こえるようにいってるのよ」
そんなことはわかっているが、いちおういってみたまでである。
壇上でふんぞりかえっていたおっさん、というのは、この夜に開かれたパーティーの主賓であった。名を梶岡信勝《かじおかのぶかつ》という。何だか戦国大名の家老あたりにありそうな名だが、もと警察のお偉いさんであった。そのパーティーに、いやいや薬師寺涼子は出席し、途中でうんざりして退席してきたというわけである。
梶岡という人は警察庁次長、警視監であったが、昨年末に退任した。今度の参議院選に出馬することになって、おべっか使いの誰かが、「警察全体で応援しよう」といいだしたわけだ。警察官僚の派閥は、政治家の派閥と結びついて、たがいに足を引っぱりあっている。そう簡単に「警察全体で」というわけにはいかないのだが、梶岡氏が「覚醒《かくせい》せよ日本人」などという気恥ずかしいタイトルの本を書いたので、出版記念パーティーという名目《めいもく》で、会が開かれることになった。会費がひとり三万円、食事と酒の他に著者サインいりの本が配られる。このようなパーティーで出される食事や酒はお粗末《そまつ》なもので、しかも招待された企業などは会費を支払うだけで出席はしないものである。何やかやで、この夜、梶岡氏のフトコロにはざっと五〇〇〇万円の選挙費用がころがりこむことになっていた。
当然ながら梶岡氏はご機嫌うるわしく、壇上で三三分四八秒にわたる挨拶《あいさつ》をおこなった上、マイクをつかんで彼が若いころの――涼子にいわせれば石器時代の――流行歌をうたった。聴いているほうにとっては、拷問《ごうもん》にひとしかったらしい。いやいや出席していた涼子は、たまりかねて拷問の途中で飛び出してきたのだ。
それにしても、ワガママを絵に描いて|C G《コンピュータ・グラフィクス》で動かしたような涼子が、いやいやでもそんなパーティーに出席するというのは珍しいことだ。じつは招待されたのは彼女の父親で、|JACES《ジャセス》という日本最大の警備保障会社の社長である。警察のOBでもあるのだが、海外出張中のために涼子が代理として出席したのだった。あくまでも父親の代理であって、現職の警察官ではないというタテマエである。じつのところ、女性に人気のある有名な男優がお祝いに来るという予定だったのだが、父親が危篤《きとく》だとかで来られなくなり、涼子としては「おっさんたちばかり」のパーティーに我慢《がまん》できなくなった、ということであった。
JACESの社長の娘、というだけでも、薬師寺涼子という女性には、たいへんな社会的価値があるのだ。
もともとJACESは「大日本警備保障」という社名で、ガードマンと探偵調査の二部門を柱として活動していた。その二部門は現在、日本で最大の業績を誇っている。それに加え、各種のホームセキュリティ、損害保険、企業情報、救命医療、ビル管理システム、海外での日本人の安全確保などさまざまにビジネスの手をひろげ、創立五〇年で年商五〇〇〇億円の巨大企業となっていた。
さらにJACESが出資して、いくつもの財団をつくっている。「海外危機管理協会」だの「コンピュータ−・セキュリティ協会」だので、これらの財団の役員はほとんど警察官僚OBだった。JACESを創立した薬師寺|正基《まさもと》、つまり涼子の祖父は、最初から計画的にそうやって、警察との関係を深めていったのである。
つまりJACESは多くの警察官にとって貴重な再就職先なのだ。オーナーの孫娘であり、将来は三代目オーナーになるであろう涼子に対して、強い態度に出られるはずがなかった。それだけではない。
JACESの二代目社長は、薬師寺|弘毅《ひろき》といって、これが涼子の父親であった。彼は東大法学部を卒業してキャリア警察官僚となり、階級は警視監、職は警察庁交通局長にまでなって退任した。一年間、私費で英国の大学の犯罪学研究所に留学した後、帰国してJACESの社長におさまった。彼の人脈はたいへんなもので、後輩の世話をよくしたから、現在のお偉方はみな弘毅に頭があがらない。つまりは涼子に対しても頭があがらないというわけである。
「あの小娘、JACESの威を借りてやりたいほうだい、まったく気にいらん」
と思っても、さわらぬ神にたたりなし、というわけで、みな腰が引けるのであった。
しかも涼子はJACESの組織を使って、警察の最高幹部たちの弱みや恥をすべてつかんでいる、という噂であった。誰それは某銀行からSMクラブで接待を受けて病《や》みつきになった。誰それはやはりSMプレイにふけっているが、涼子に鞭《むち》でたたかれて彼女を女王さまとあおいでいる……あまり名誉とは縁のない噂のかずかずは、深海魚のように、警察内部の奥深くを回遊していた。
当の涼子はというと、噂に対して否定も肯定もせず、お偉方の顔色が交通信号のように変色するのを楽しんでいた。涼子に向かって噂の真偽《しんぎ》を問いただすわけにもいかず、一同、びくびくしているのが実状だ。私はかんぐっているのだが、不穏当な噂を流したのは涼子自身ではないだろうか。何の実益もないはずだが、おもしろいというだけで、そのていどのことはやりかねない。私の知ってるかぎり、日本で一番とんでもない女である。
そのとんでもない女がいった。
「このコーヒー、『パステル』よりまずいわね」
「パステル」とは警視庁ビルの一七階にあるカフェテリアの名である。
「ロシアは紅茶でしょう。コーヒーがうまい国だとは聞いていませんよ」
「メニューに書いてある以上、おいしいものを出す義務が店にはあるのよ!」
正論である。私は反論せずに熱いロシア紅茶をすすった。自分自身に関しないことについては、涼子はよく正論を吐くのである。
視線を落とすと、大胆に組んだ涼子の脚が視界にとびこんできて、私はただちに視線を窓の外に移した。
「この脚を隠すなんて、人類の損失よ」
と涼子は豪語する。こまったことに、豪語にふさわしい、みごとな脚線美なのだ。この脚に一瞬、気を奪われ、股間を蹴られて悶絶《モンゼツ》した兇悪犯を、私は五人も知っている。まったくもって、男というものはアホである――私もふくめて。
窓外の夜景に視線を放ちながら、涼子は皮肉っぽく唇の片端をあげた。
「都知事が泣いて喜んでるわね」
「そりゃそうでしょう。このビルができなかったら、ご自慢の湾岸副都心は、見わたすかぎりの荒野になっていたところですからね」
六〇〇ヘクタールもの広大な埋立地には、いっこうに企業が進出せず、来るのはピクニックやウィンドサーフィンの観光客ばかりというありさまだった。夜になるとキツネやタヌキが出る、というナンセンスな噂まであった。そこへ建設されたのが、この巨大な複合ビル「ベイシティプラザ」なのである。
敷地面積九万九〇〇〇平方メートル。建物の延べ床面積六〇万平方メートル。建築費総額三〇〇〇億円。来場者は一日平均五万人。内部には、ホテル、マンション、デパート、オフィス群、それに美術館、スポーツクラブ、コンサートホールまである。マンションの家賃は、毎月三〇万円から二〇〇万円。某国の大使も入居している。ホテルのスイートルームは一泊五〇万円。誰が泊まるんだ、といいたいところだが、どんな不景気な時代でも、泊まる人はちゃんといるものだ。地上五〇階の巨大ビルは、鉄とコンクリートとガラスと大理石でつくられた恐竜の群にも見える。
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「お気に召していただけましたか」
暇をもてあましているとも思えないが、支配人が私たちのテーブルにやってきた。よほど涼子がこわいらしい。私にもその気持はよくわかる。
「最後のコーヒーで三〇点減点ね」
「それは申しわけございません。コーヒー代はなしにさせていただきます」
「当然ね。こんな地の涯《はて》まで来てくれるお客を失望させるものじゃなくってよ」
「おそれいります。地の涯と申しますと、第二次大戦のころ、日本軍の秘密研究所で捕虜を人体実験に使って、敗戦のとき死体を東京湾に沈めた。その上に埋立てをしたんで、湾岸副都心には最初から呪いがかかってる、なんて話もございましてね」
「信じてるの?」
と、涼子の反応は身も蓋《フタ》もない。支配人は苦笑して、右手を宙に泳がせた。
「ま、都市伝説のひとつでしょう。日本軍もそうやたらと手をひろげてはいないと思いますよ。私がむしろ気になるのは……」
いいかけて、支配人の舌にブレーキがかかった。彼の視線の先を、銀髪長身の初老の紳士が通過していった。支配人は三秒ほどの沈黙の後、声をひそめた。
「あの方が、このビルを運営している湾岸開発事業団の理事長でして、高市《たかいち》さまとおっしゃいます。辣腕《らつわん》というだけでなく、東洋の叡智《えいち》である風水学《ふうすいがく》にも造詣《ぞうけい》が深く、このビルの設計にも風水学が生かされているそうで……」
「ばかばかしい」
東洋の叡智とやらを、涼子は一刀両断してのけた。
「風水学がすべて正しいなら、古来、滅びる王朝なんて存在しないわよ。血液型や星座占いよりはもっともらしいけど、茶飲み話の種以上のものじゃないわね」
「は、たしかにごもっともで」
支配人が薄くなった頭に手をやる。高市という男のことを、私は考えた。長いこと東京都の副知事をつとめていた人物だが、一時的な人気だけで当選した素人《しろうと》同然の知事をあやつり、東京都庁を底なしの腐敗の泥沼に引きずりこんだという噂だ。いや、噂でなく事実であった。五〇億円もの裏金をつくり、すべての責任を知事に押しつけて、さっさと退職し、いつのまにかこんなビルの主人におさまっていた、というわけだ。ノイローゼになって退陣に追いこまれた哀れな知事の顔を私は思いおこした。そうすると、「警察なんかやめてやる」とはなかなか言えなくなってしまう。
私とちがって、警察をやめても(やめさせられても)、涼子にはJACESの重役、いずれは社長という途《みち》が開けている。現在でさえ、彼女はJACESの大株主で、毎年三億円もの株式配当金がころがりこんでくる。警察から受けとる給料など、涼子にとってはコーヒー代ぐらいの感覚である。
涼子の住居は港区|高輪《たかなわ》の超高級マンション、それも最上階にある。リビングルームの広さが和室にして四〇畳、ダイニングルームが二〇畳、その他に、寝室、書斎、応接室、床ノ間つきの和室、ドレスルームとして使っている洋室があり、バスルームが二つにパウダールームが三つ、むろんキッチンにユーティリティ、そして広々とした屋上庭園ときたものだ。何で私がそんなことを知っているかというと、一度、訪問したことがあるからだ。手料理をごちそうするといわれたのだが、そのとき、部屋の広さと家具調度の豪華さにおどろく私に、涼子は言ってのけた。
「どうせあたしはネタまれてるんだから、ネタまれるような生活するのが社会に対する義務というものよ」
涼子は「ネタまれる」と表現するが、これには「キラわれる」とか「ニクまれる」とかいう意味が含まれているかどうかわからない。これほどの美女なのに、「二度と顔も見たくない」といわれる女性は、世にまれであろう。もっとも、彼女を忌みきらう方も、べつに聖人君子ではないと思うが、まあ、何かにつけて「無能者にネタまれるのはいい気持だわ、オッホホホ」などと高笑いすれば、それはニクまれるのが当然だろう。
七時半をすぎたころ、涼子と私は「ヴォストーク」を出た。支払いは涼子がカードですませ、私が領収書をあずかる。この支払いが経費で認められないとなると、後日、私が涼子にフランス料理のフルコースをおごらされる破目になりかねない。安月給の身にはムゴい話だ。
店を出て、「さて」と涼子が紅唇《こうしん》を開いた瞬間、空気と床が震動した。どおおん《ヽヽヽヽ》という大きな音が、鼓膜《こまく》と胃と靴底とを同時にゆるがして、涼子と私は顔を見あわせた。吹きぬけのエントランスホールを見おろす、二階の回廊の手摺《てすり》に駆け寄る。
「シャンデリアが落ちた!」
ご親切な誰かが、情況を説明してくれた。その説明は正しかった。吹きぬけの天井から、重さ一トンに近い豪華なシャンデリアが落下して、床にたたきつけられている。砕かれたガラスやへし曲がった金属が散乱し、埃《ほこり》が舞いあがっていた。それだけなら単なる事故だ。問題は、シャンデリアと床との間に、はさまれた人影がいることだった。それも複数である。スーツの袖につつまれた腕がシャンデリアの下から突き出し、ハイヒールをはいたままの足が床に伸びて、ともに微動だにしない。
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犯罪史ということでは、一九九五年は劇的な変化の年だった。東京の地下鉄に、ナチス・ドイツの発明になるサリンという毒物が流れ、五〇〇〇人以上が死傷したのだ。それをきっかけとして、狂信的な宗教テロ組織による大量殺人事件のかずかずが明らかになり、日本だけでなく全世界を震撼《しんかん》させた。それ以後、世の中はどこかタガがはずれてしまったように思える。
それまで、「地下鉄に毒ガスをまく」とか「貯水池に細菌を投入する」などということは、誰も信じなかった。「ばかばかしい、マンガじゃあるまいし」と、せせら笑われたものだ。だが、一九九五年以後、笑う者はいなくなった。どんな荒唐無稽《こうとうむけい》な、あるいは不条理な犯罪でも成立しえるのだ。
そんな心理的背景があって、このシャンデリア落下も事故ではなく事件ではないか、と、涼子も私も思ったのだった。私たちはやたらと幅の広い階段を躯けおりたが、ふと見ると涼子はエルメスだかシャネルだかのハンドバッグをあけて、拳銃をつかみ出したではないか。あきれて私は彼女の顔を見なおした。
「こんな場所に拳銃を持って来てるんですか」
「いつも持ってるわよ。気にくわない奴を正当防衛に見せかけて撃ち殺すチャンスが、どこに転がってるかわからないもの。これこそ警察官のダイゴミつてものでしょ!」
「あちこちから異論が出ると思いますが……」
「べつにかまわないわよ、言論は自由だから」
涼子が手にしている拳銃はコルト三二口径である。だいたい日本の刑事は、拳銃を警察署のロッカーにまとめて保管しているのが常で、よほどのことがないかぎり持ち歩くことはない。まあ涼子の場合は、存在自体がよほどのことであるが。
ハイヒールをはいたままとも思えぬ速度でシャンデリア落下の現場に駆けつけると、涼子は、立ちすくんでいる人々に「救急車!」と命じ、つぎに私に声をかけた。
「助手A! ちょっと、こちらへ来てちょうだい」
助手Aとは誰のことだ。そう思ったが、私はさからわなかった。この場にいる人たちに本名を知られるくらいなら、記号や番号で呼ばれるほうが、よほどましである。
「はい、何でしょうか、警視」
「シャンデリアの下から負傷者を引きずり出せないかしら」
「一〇人くらい協力者が必要ですね。やってはみますが……」
すると涼子は周囲を見わたして声をあげた。
「そこの男! そことそことそこと……シャンデリアを持ちあげるのに協力しなさい! ことわったら後悔することになるわよ!」
こういう言いかたで、いくら敵をつくることになっても、涼子はいっこうに気にしないのであった。アホな男たちが、美女のご指名にむしろ喜んで足を踏み出したとき、またしても震動と音響が生じた。小さいのは距離が遠いからだ。一瞬で涼子はその方角を察知すると、往古《イニシエ》の剣客みたいな身ごなしで走り出した。私もあわてて後を迫った。
剣客という表現を使ったが、涼子は剣道二段である。しかも二段にとどまっているのは、昇段試験を受けるのがめんどうくさいからで、男の三段に勝ったことが一度ではない。剣でも天才といってよかった。まったく天才で、猛練習などするのを、誰も見たことがない。
逮捕術も拳銃射撃も一級。とにかく何をやらせてもみごとにこなす。「あれだけ何でもできる奴は見たことがない」と、涼子の研修時代、私は舌を巻いたものだ。もっとも、性格が悪いこともたちまちわかったから、私は、涼子にあこがれるなどという危険な所業《マネ》はしなかった。どのみち涼子はキャリア組で、すぐ雲の上に舞いあがって、私は彼女と緑が切れてしまうはずであった。豈《あに》はからんや、上司と部下という関係になろうとは。
半月前のこと、私に「刑事部参事官|付《づき》」という忌々《いまいま》しい辞令を渡しながら、警視庁の人事課長はいやな笑いかたをしたものである。
「君は研修時代のお涼と、けっこううまくいっていたそうじゃないか」
「誤解です」
「彼女の手料理をごちそうになったこともあるとか」
「私は人体実験の材料にされたんです!」
憤然として私はどなった。
「だいたいあの女、ゆで卵以外の料理なんぞつくれもしないくせして、トルコの宮廷料理とやらに挑戦したんです。身のほど知らずとはあのことで、あの女が四〇種類もの薬味《スパイス》を使いこなせるわけが……」
「あの女、とは不穏な表現だな。君の上司だぞ」
「あなたの部下でもありますね」
人事課長は両眼を針のように細めた。
「ほう、君もけっこうしゃらくさい口をたたけるんだな。知らなかったよ」
「気にしないでください。免職《クビ》になるのも悪くない、と思っているだけですから。
「いかんいかん、君は若くて有望な人材なんだ。自棄《やけ》になってはいかんよ。
「有望な人材に対してひどい仕打ちですね」
「ま、ま、やめるのはいつでもやめられるじゃないか。ひとつ修行と思って、一、二年がまんしてくれ」
誠意のない説得に私は応じた。納得したわけでなく、観念したのだ。どのみち人事にはさからえない。ささやかな抵抗をこころみただけだが、それでもにらまれるには充分だった。かなり高くついたかもしれない……。
一五〇メートルの距離を走る間、どういうわけか私はそんな光景を思いおこしていた。
「ドラよけお涼」と並んでこんな場所を走りまわっている自分の姿が、奇妙なものに感じられたからだろうか。だが現実の光景が、無益な回想をたちどころに追いはらった。
ホールの中央に大理石の台座がある。幅二メートル、長さ四メートル、高さ二メートルの台座には、いま何ものっていない。
青銅製の巨大なライオンが台座から落ち、床との間に四、五人の男女をはさみこんでいた。赤黒い池が床の上にひろがりつつあった。ライオンの巨大な胴体の下から、手や足が突き出ているありさまは、つい五分前、エントランスホールで見た光景とよく似ていた。ハイヒールの踵《かかと》を高々と鳴らしつつ、涼子はライオンの口のそばに歩み寄った。
「あんな重い物、誰がどうやって動かしたのかしらね」
涼子のつぶやきを、奇声がかき消した。ヒステリックで音楽性のかけらもない喚《わめ》き声だ。イタリア製だろうか、明るい色のスーツを着こんだ若いかぼそい男が、床に両ひざをつき、頭髪をかきむしっている。涼子が声をかけた。
「関係者の人? ちょっと話を聞かせて」
だが若者は意味のない喚き声をあげるだけだった。おそらく知人が青銅のライオンの下敷きになってパニック状態になっているのだろう。普通なら同情するところだが、涼子は忌々《いまいま》しげな目つきで若者を見すえた。ショック療法をほどこす、というより、単にこの種の男がきらいだからであったろう、涼子はいきなり右手をひらめかせた。
平手打ち、などというものではない。プロ野球の強打者さながら、上半身を回転させて拳でなぐりつける。拳に体重をのせ、なぐると同時に手首をひねる。大の男も吹っとぶ破壊力だ。まさしく、その若者は吹っとんだ。三メートルほど後方へもんどりうって床に伸びてしまう。つかつかと歩み寄った涼子が襟首《えりくび》をつかんで引きおこすと、若者は鼻血を流してうめいた。
「な、な、何をするんだ」
「口でいってもわからないような奴には、痛い思いをさせてやるにかぎるのよ」
「何もいわないで殴ったじゃないか!」
「うるさいわね。ちょっと順序がちがうだけでブックサ文句をいうなんて、それでも男なの!?」
「ひどい、あんまりだ、人権侵害でうったえてやる」
「あたしにさからう奴に人権などない!」
思わず私は拍手したくなった。一生に一度くらいは、こういう台詞《せりふ》を吐いてみたいと思う人もいるだろう。だが涼子は週に一度はこの種の台詞を口にしているのだ。
若者は三度ばかり口を開閉させていたが、音をたてて唾を呑《の》みこむと、私が予想したとおりの台詞を吐いた。
「あんたたち警察なんだろ。さっさと何とかしろよ!」
「いま人手を呼んでるところよ」
「遅いじゃないか」
「不満なの? だったらあんたがあの青銅のライオン像を引きおこすのね。他人をあてにして喚《わめ》いていても奇蹟はおこらないわよ!」
そこへ蒼白な顔でガードマンやらフロント係が駆けつけてきた。信じられない、こんなことはありえない、と言いたてるのを抑えて、外との連絡をとるよう指示したが、電話が不通だという。涼子が、彼女に鉄拳をくらってへたりこんでいる若者について尋ねた。
「政財界のお偉方の二世たちと、アイドル女性タレントとの合同コンパに出席された方です。出席者は男女とも厳選されます」
「幹事役は誰?」
「佐山《さやま》さまとおっしゃいます」
日本でもトップクラスの広告代理店の常務取締役だという。政党の選挙ポスターや広報誌もとりあつかっているし、政治家の息子も入社しているから人脈は豊かで、このようなコンパを主催することも容易というわけだった。あることを私は思いだした。
「たしか、その広告代理店は大麻《マリフアナ》がらみで何人か逮捕者を出してますね」
「そうそう、何とかいう大臣のドラ息子がそこに勤めてて、大麻で逮捕されたとき、うちの会社ではみんなそれくらいやってるなんていってたっけね」
涼子は人の悪い笑いかたをした。
「ま、ゆっくりとそちらは調べるとして、外部への電話はまだ通じないの?」
「だめです」
「携帯電話も」
「まったく通じません」
「そう。だめね、JACESの管理システムでないと、この醜態《ざま》だわ」
理不尽《りふじん》きわまる評価を下すと、涼子はガラスごしに視線を放った。
「外の公衆電話を使うしかなさそうね」
「一番近い電話で八〇〇メートル先ですよ」
「ご苦労さま」
涼子は私の顔を見て微笑した。私は肩をすくめ、中距離ランニングをするためにエントランスの方向に向かった。五、六歩あるいたとき、ガラスの向こうでいきなり夜景が消失した。
何ごとが生じたか、とっさに理解できず、私は棒立ちになった。横あいで風をおこした人影がある。ドアに駆けよる涼子の後姿を見て、私も事情をさとった。いっせいにシャッターがおりて、そのために夜景がさえぎられたのだ。涼子と私がドアの前に駆けつけたとき、厚い硬質ガラスの向こうには、さらに厚い特殊ジェラルミン製の隔壁がおりていた。エントランスホールにいた人々は、うろたえたような視線をかわしあった。
「……閉じこめられた!」
誰かが悲鳴まじりの声をあげた。
X
おりから梶岡氏の出版記念パーティーが終わって、出席者の群があふれ出てきた。半分ほどが警察の関係者で、楽しい刻《とき》をすごしたというより、義務をはたしてやれやれという表情が多いように見えた。パーティ会場から廊下へと流れてきた人の群が、エントランスホールでせきとめられる。
「何だ、何があったんだ?」
「どうして出られないんだ」
「私は九時には一度、会社にもどっていなきゃならんのだがね」
「おい、責任者は誰だ。責任者を呼んでくれ」
不満といらだちにみちた声が各処《アチコチ》であがり、シャンデリアや青銅のライオン像の事故現場を見た者は、おどろきと不満の声をもらす。群衆のなかに、私は、日本警察の二大巨頭の顔を見出した。警察庁長官と警視総監のご両人である。
警察官僚のトップは警察庁長官。ナンバー2は警視総監である。もっとも、知名度からいうと、警視総監のほうがはるかに上で、一九九五年に当時の警察庁長官が何者かに狙撃されて重傷を負ったときなど、巷《ちまた》では、
「警察庁長官って何だ? 警視総監の別名か」
などといわれたものであった。
両巨頭のそばから、秘書だか案内係だか知らないが、眼鏡《メガネ》をかけた男が私に歩み寄ってきた。どうせキャリア組だろう。頭ごなしに詰問《きつもん》する。
「いったい情況はどうなっているのかね? 説明したまえ!」
うやうやしく私は拒絶した。
「上司からの指示がないかぎり、口外《こうがい》を禁じられております」
「上司とは誰だ」
「警視庁刑事部参事官の薬師寺警視で」
「あっ、ドラよけお涼か!」
そう声には出さなかったが、顔面筋肉を総動員させて、眼鏡の男は叫んだ。なお鄭重《ていちょう》に私は提案した。
「薬師寺に直接、説明させましょうか」
「ああ、いや、ちょっと待ってくれ」
眼鏡の男はあわてたように手を振り、二大巨頭のほうへ小走りに寄っていく。あらためて見なおすと、警察庁長官はコリーに、警視総監はブルドッグに似ていた。体格も、長官は細長く、総監は丸い。並ぶと、アラビア数字の10を思わせた。ブルドッグのほうが眼鏡の男に問う声が聴こえた。
「湾岸副都心の管轄《かんかつ》はどの署かね」
「湾岸署のはずです」
「ああ、そうか。たしかできたばかりだったな。そこへ連絡すればよかろう」
「それが……」
「外部と連絡がとれませんの」
オペラ歌手のようによくひびく声は、むろんわが尊敬する上司の声だった。大理石の床に高々とハイヒールの踵《かかと》が鳴って、人波が左右に割れた。「主演女優登場!」といいたいところである。
「すでに推定七、八人が落下物のために死傷しております。シャッターがおりて、外に出ることもできません」
「何でまたそんなことになったのかね」
「それをこれから調べるところですわ」
涼子が答えたとき、ざわめきがおこった。大画面のプロジェクターの前で、人々が声をあげている。そこに映し出されているのは、この複合ビルの外観だった。夜空にそびえる光の塔。それに人々の視線が集中している。長官も総監も、涼子も私も、人々にならってプロジェクターに視線を向けた。
「見ろ、ビルの壁に、光の文字が」
正確にはホテル棟《とう》の壁面だ。灯火のともった明るい窓と、暗い窓とがある。それを組みあわせることでビルの壁面に光文字を描きあげるという趣向は、べつに珍奇なものではない。だがこんな文字が描きあげられることは、通常ないだろう。
「ミナゴロシ」
壁面に描きあげられた光の文字はそう読みとれた。私は慄然《ぞっ》とした。長官も総監も息をのんで巨大な画面を凝視《ぎょうし》している。不吉で挑戦的な光文字は、だが、ある意味で歓迎すべきかもしれなかった。
「ベイシティプラザで何かが起こっている!」
そのことが外部にわかるはずだ。電話も通じず、パーティーの出席者がそろって出てこないこととあわせ、外部で対応策がとられるはずだった。不意に涼子が声を出した。
「ひとつだけ確実なことがあるわ」
いったん言葉を切ったのは、質問をしろ、という意志表示である。しかたなく、私は尋《たず》ねることにした。
「何です?」
「この事態を演出した奴が何者であろうと……」
涼子は自信に満ちて断言した。
「そいつは漢字が書けないのよ!」
私は横目で二大巨頭のようすをうかがった。長官は白っぽい顔で口もとをすぼめ、総監はサウナでのぼせたような赤い顔で口を引きむすんでいた。
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第二章 上役が多すぎる
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ベイシティプラザの管理センターはパニック寸前だった。わずか一五分の間に、シャンデリアの落下とライオン像の倒壊、シャッターの誤作動、と、あるまじき事故がかさなったのだ。
シャンデリアはどうにか移動されて、即死者二名の遺体と、二名の重傷者が引きずり出された。重傷者はホテル専属医の治療を受けているが、設備不足で危険な状態だ。ライオン像のほうは手つかずのままで、下敷きになったままの人たちは気の毒なことである。
「さてと、いまこのビル内に閉じこめられている人数は正確にどれくらいかしら。あのくだらないパーティーだけで出席者が一〇〇〇人はいたわね」
「そのうち警察関係者が二〇〇人ぐらいはいます」
「そう、警察関係者。ところがこれが第一線の捜査官とはいえないものね。デスクにふんぞり返って命令する連中ばかり」
ことさらに涼子は舌打ちした。
「士官ばかり集めたって戦争はできやしない。優秀な兵士を集めないことにはね」
重要なことを私は尋ねてみた。
「で、誰の命令を受けるのですか」
「さあね、いずれにしても問題なのは、あたしの役に立ちそうな奴がひとりもいないってことだわ」
管理センターには館内から苦情と抗議が殺到している。突然シャッターがおりて外に出られなくなったから当然のことだ。ホテルの宿泊客のなかには、いきなり室内の灯火を消された者もいた。だが、苦情が殺到しているということは、館内の電話は通じているということだった――とりあえずは。
それにしても、今回、涼子のいうことはあながちまちがっていない。新米刑事のころ経験した連続殺人事件の捜査を私は思い出した。
参事官、理事官、専門官、監察官、管理官、審議官、そういった連中があちこちから捜査本部に集まってきたのである。
「おい、誰が一番えらいんだ?」
「階級で決めるしかないでしょう」
「階級が同じだったら?」
「そのときは任官の早い順でしょうね。先輩を立てる、ということで」
「任官の時期が同じだったら?」
「そこまでは知りませんよ」
というわけで、捜査状況の説明より先に、「席次決定会議」が開かれることになった。有名な一九七二年の「あさま山荘事件」のときもそうだったというが、これが官僚機構というもので、全員のすわる椅子《いす》が決まらないかぎり、仕事なんか始まらないのである。
きっと今夜もそうなるだろう。そう思って、私はふと気づいた。いつのまにか、今夜の件を「事件」として考えている。単なる事故で、これ以上何かおこると決まったわけでもないのに。
「まいったな」
珍しく真剣な声を涼子が出したので、何ごとかと私は思って、彼女の台詞《せりふ》のつづきを待った。
「予約録画してこなかったのよね。九時までには帰れると思ってたから……」
「ロボットアニメですか」
「何であたしがロボットアニメを見なきゃならないの。ドラマよ。『怪奇・十二日の木曜日』の最終回。見そこなってしまうわ」
「きっと再放送しますよ」
「するもんですか、あんなくだらない番組。見てるのはあたしぐらいのものよ」
番組よりくだらない会話をかわしているうちに、館内放送が始まった。平身低頭するスタッフの手からマイクを受けとったのは、ベイシティプラザの支配者である高市だ。なめらかすぎる声がマイクを通して流れた。
「当プラザの管理センターより放送しております。ご静聴《せいちょう》ください」
私は高市を観察した。銀髪の紳士は、動揺しているようには見えない。むしろ傲然《ごうぜん》として、「文句があるか」といいたげである。ただ、言葉だけは慇懃《いんぎん》だった。
「このたびはご来訪のお客さまがたに、不本意ながらご迷惑をおかけしまして、当方の遺憾《いかん》とするところでございます。ただいま可能なかぎりの策《て》を打ちまして、お客さまがたのご不快を解消いたすべく努力しておりますので、いましばらくのご辛抱《しんぼう》を願います。何よりもお客さまがたの安全が最優先でございますので、係員の指示にしたがっていただくよう、お客さまがたのご良識に期待させていただきます」
淀《よど》みなく述《の》べたてた。
「……たいしたものね」
涼子が肩をすくめた。
「一言の謝罪もなければ、責任をとることも明言しない。良識がどうとかいって、全部、客に責任|転嫁《てんか》してるわ」
「あれくらいでないと、お役所で出世できないんですよ」
「だったらとてもあたしは出世なんてできないわね」
「ご謙遜を」
じっは「幻想ですよ」といいたかったが、さすがに自制した。大きくもないテーブルに、ベイシティプラザの平面図や立体図をひろげる。コンピューターの画面《ディスプレイ》に映しだされるものと対照するためだ。
涼子とふたりして平面図のほうをのぞきこんだとき、ドアの方角で大きな人声と押しあう音がした。スタッフの制止を振り切って、誰かが強引にはいってきたのだ。高市が眉をしかめつつ、立ちあがって、招かれざる客に対した。
TVで何度も見た顔だ。代議士の福神幸利《ふくがみゆきとし》氏であった。これほどおめでたい名前はめったにあるものではない。背が低く、目も鼻も口も小さいが、耳は大きいみごとな福耳であった。せかせかした足どりで歩いてくると、涼子を見て、目と口をO字形にした。それでも五秒ほどで本来の目的を思い出したらしい。半ば涼子に視線を向けたまま、高市をどなりつけた。
「君、何とかしたまえ! 今すぐ何とかするんだ。帰れなきゃこまるのだよ!」
「何とかと申されましても……」
高市は眉ひとつ動かさなかった。
「さきほど申しましたように、可能なかぎり策《て》はつくしております。落ち着いてお待ちいただく以外ございませんが」
「シャッターをあけることはできんのかね」
「先ほどから、電動、手動、双方で最善をつくしておりますが」
「ぶち破ったらどうだ!」
「テロにそなえて万全を期してあります」
「どういう意味だ」
「戦車でも持ち出さないかぎり破れません」
高市が断言すると、福神代議士はうなり声をあげた。高市の冷静さこそ、戦車でも持ち出さないかぎり破れそうになかった。
福神代議士の愛人は三人いて、それぞれ、赤坂、白金《しろがね》、元麻布《もとあざぶ》に住んでいる。いずれも港区というのが笑えると涼子はいう。代議士ご当人は鎌倉に本邸があるが、南青山にマンションを所有してそこで起居している。あくまでも港区なのだ。
もっとも、涼子自身も港区の住人だから、その点で福神代議士を笑う資格はないかもしれない。ちなみに私が住んでいるのは練馬《ねりま》区で、警視庁まで地下鉄で直行できる。
「いいかね、私の身に何かあったら、私に投票した一四万七五六九人の有権者が黙っていないぞ。わが党も、それに政府もだ。私が雑誌で『二一世紀の日本を背負うニューヒーロー一〇〇人』のひとりに選ばれたことを知っているだろう!?」
そんなことは私は知らなかった。どこの雑誌が選んだか知らないが、二一世紀の日本にはあまり期待できそうにない。
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「一〇分たって事態に変化がなかったらまた来るぞ」
そう言いすてて福神がいったん去った直後、今度は梶岡氏のパーティーに出席していた警察関係者が数名、押しかけてきた。警視庁の公安部長がまず口を開く。
「これは過激派のテロだ。それ以外に考えようがあるか!? さっさとその線で捜査をすすめろ」
「どこの過激派です?」
意識してかどうかはわからないが、涼子の口調にはからかうようなひびきがある。
「落下したシャンデリアは一トン弱、青銅のライオンは一〇トンはありますわ。多くの目撃者の前でどうやってそれを動かしたのか。最近、過激派はさっぱり活動してませんけど、地下で重力制御のテクノロジーでも開発していたのでしょうか」
公安部長が口をつぐむと、犬猿《ケンエン》の仲である警務部長がわざとらしく声を高めた。
「もしほんとうに過激派のテロだとしたら、公安部の責任は大きいですな。これほどだいそれた犯罪計画を立てているのに気づかないとは、無能にもほどがある」
「あまり先走ったことをいわんでもらおう。犯行声明文が来たわけでもない。単なる事故かもしれんじゃないか」
つい三〇秒前と逆のことを公安部長はいった。
「あきれたわね」
自分のことを遠くの棚に放りあげて、涼子は批判した。
「過激派のテロ、という架空《かくう》の事態にもとづいて、あれだけ真剣に責任のなすりあいができるんだから、官僚は度しがたいわ」
「あなただって官僚でしょう」
そういってみたが、涼子は私の皮肉など聞き流して、一方の壁面に並ぶモニターの画面に視線を向けた。
「あら、ドアの前に、これ以上ないお偉方がそろってやって来たみたい」
同じ画面を見て、私は涼子の表現の正しさを認めた。ドアが開いて、はいってきたのは警察庁長官と警視総監だ。ひととおり高市から事情の説明を受けると、両巨頭はじつに不本意そうに涼子を呼んで説明を聞いた。そして、湾岸署から正式に捜査官たちが来るまでとりあえず捜査の主体となるよう命じた。
「それはけっこうですけど、そうなったら責任はどちらがとっていただけますの?」
長官と総監は同時に沈黙した。「ドラよけお涼」の行動について責任をとるなど、ふたりとも好むところではなかった。もっともなことである。
「責任の所在を明確にしていただきませんと、捜査活動に支障をきたしますわ」
「そうだな、君の所属は警視庁だから……」
長官がいい、総監が反論しようとしたとき、女性の声がした。
「そんなことをいってる間に、さっさと捜査をはじめたらいかが、薬師寺警視。時間のむだよ」
それまで余裕たっぷりだった涼子の表情と態度が一変した。彼女が猫なら全身の毛をさかだてたところだ。涼子の視線の先に、端正なスーツ姿の室町由紀子《むろまちゆきこ》が立っていた。
猛毒を持つコブラでもマングースを苦手とする。薬師寺涼子にとってのマングースこそ室町由紀子であろう。彼女もどうやら梶岡氏のパーティーに出席していたらしい。
由紀子は涼子と同年同期のキャリア組だった。出身も同じ東大法学部である。涼子がインターポールに出向してリヨンに滞在している間、由紀子は国内にとどまり、内閣情報調査局に勤務し、さらに東京近郊の小さな町で助役をつとめた。それで涼子に「ドサまわりのお由紀」と冷笑されるのだが、「異色の美人助役」としてTVにも紹介され、女性雑誌の表紙まで飾っている。「美人助役」とはけっして社交辞令ではなく、黒髪を後頭部でたばねて腰まで垂《た》らし、眼鏡をかけた白皙《はくせき》の顔は、たしかに知性派美人の代表といえた。
室町という姓は、珍しさで薬師寺といい勝負だが、警察内部ではさらに大きな意味を持っていた。というのも、彼女の父親は何代か前の警視総監で、警察庁長官や国家公安委員長をも圧倒する実力者として知られていた。当時、警視庁には、総監のやりかたを批判する者などひとりもおらず、あまりの実力者ぶりに、マスコミは警視庁を「室町幕府」と呼んでいたほどである。
室町氏は退任後、東京都知事選挙に出馬したが、これは落選。参議院議員を経て、現在はある私立大学の総長をつとめている。彼は息子を警察官僚にして自分のあとをつがせるつもりだったが、生まれた八人の子供がすべて女だったので、末っ子の由紀子に父親と同じ道を歩ませた。由紀子はみごとに期待にこたえ、現在、警視庁警備部参事官の地位にある。階級はむろん警視だ。
それやこれやで、警察内部のアンチお涼派は、お由紀こと室町由紀子を、希望の星とみなしていた。お由紀こそお涼に対抗できる唯一のスーパーヒロインというわけだ。由紀子自身はというと、明らかに涼子に反感をいだいていた。というのも、涼子とちがって、由紀子は心から警察の正義を信じ、警察の上層部を尊敬し、よき警察官たろうと努《つと》めていたからである。名門女子高校の風紀委員長が、不マジメで反抗的な同期生をニクむように、由紀子は涼子をきらっていた。
むろんのこと、涼子のほうでも由紀子を忌避《きひ》しており、ふたりが同席でもした日には、空気が帯電《たいでん》して無色の火花がスパークするのだった。同年のくせに、涼子は由紀子を「ドサまわりのお由紀」以外に「説教おばさん」とも呼んでいた。何かにつけて心得《ココロエ》ちがいを非難されるので、不愉快でたまらなかったのである。涼子は私にいったことがある。
「あたしは死んだら地獄に行くことにするわ。天国に行ったらお由紀が聖人|面《づら》して神さまのそばにすわっているに決まってるから!」
涼子が地獄に行くのはたしかだと思うが、あるとき丸岡警部も私の前でこういった。
「お涼とお由紀とを足《た》して三で割ったら、女性としても犯罪捜査官としても理想的だ、という奴もいるがなあ」
「二で割るんじゃないんですか?」
「水で薄めなきゃとても飲めんよ、原酒《モルト》ってやつはな」
丸岡警部は音をたてて玄米茶をすすったものである。
その後、涼子と由紀子を観察して、私は丸岡警部の評言にうなずいたのだった。要するに、あのふたりは似ているのだ。服務規程違反がブランド商品で身をかためているような涼子も、まじめで上層部の信頼あつい由紀子も、じつは他人が眼中にない、という点でそっくりなのである。涼子と由紀子は、どちらかが史上最初の女性警視総監になる、といわれているが、どちらがなっても警視庁には粛清《シュクセイ》の嵐が吹き荒れることだろう。
敵意に満ちたあいさつがかわされ、まず由紀子の舌端《ゼツタン》が火を噴いた。
「まだおひとり? 綺麗すぎると、つりあいのとれるお相手がいなくて大変ね。わたしの場合、仕事仕事で暇がないだけだけど」
「ご心配なく。恋人はいないけど、奴隷と家畜が何人もいますから」
ちらりと涼子は私を見やった。どうやら私は助手Aの他に、奴隷や家畜も兼任しているらしい。脇役はひとり何役も兼ねなくてはならず、我ながらいそがしいことである。
一方、由紀子のほうは正面から私を見た。
「泉田警部補、あなたは歴然《れっき》とした公務員なんですからね。いくら上司でも、理不尽な命令にしたがう必要はないのよ」
ありがたいお言葉、といいたいが、そもそも薬師寺涼子の下に私を配した人事が理不尽なのだ。私が黙っていると、涼子が由紀子のほうに向きなおった。
「そういう台詞《せりふ》は、気の毒なアンタの部下にいうことね」
「わたしの部下は心からわたしに協力してくれるわ」
「あら、そうかしら」
「わたしはだいじな部下を奴隷よばわりしたりしません。だいたい、あなたは、自分を中心に世界が回っていると思っているのでしょう!?」
「そんなこと考えたこともないわ」
「そうかしら」
「警察権力はあたしのために存在するとは思ってるけどね、オホホホ」
最後の笑声はひときわ高く、挑発的であった。眼鏡の緑《ふち》に隠れていた由紀子の形のいい眉が急角度にはねあがる。私は一歩しりぞき、長官と総監のようすをうかがった。ふたりとも、何やら咳《せき》ばらいするような身ぶりをしながら、まさにドアの外へ姿を消そうとするところだった。さすがに高級官僚だけあって、危険から身を避けるタイミングを心得ている。
いつの間にか私のそばに立っていた高市が、低い声で話しかけてきた。
「あのショートカットの美人は、あなたの上司ですか」
「ええ、まあ」
「どういう方ですか」
「祖父以来、三代がかりで日本警察を乗っとろうとしている女ですよ」
「過激な冗談ですな」
「そう思いますか」
「どうせなら楽しく笑える冗談をいっていただきたいものです」
私がいったことは、こまったことに、笑えもしないし冗談でもなかった。事実だが、誰も信じてくれないのだ。
「冗談はさておき、このビル内にいま何人いるか、だいたいの数は把握《はあく》しておられるんでしょうね、社長さん」
「理事長です」
「では理事長さん、どうなんです?」
「ホテル、マンション、パーティー会場にデパート、全部あわせて一万人ぐらいになるかと」
「この時刻にまだ開店してるんですか」
「夜九時まで開店しています。平日はむしろ夕方からお客さまが多いのでね」
私はできるだけさりげなく高市の表情を観察した。
「落ち着きはらっておられますね」
「いけませんか、警部さん」
「警部補です。いや、いけないどころか、たいへんけっこうなことで……こういう不慮《ふりよ》の事故に関して、対応するシステムはできあがっているのでしょうね」
高市は腕時計を見た。スイス製の重厚なアナログ時計だった。
「最初の不幸な事故から二五分すぎました。外界との通信が三〇分|途絶《とぜつ》すれば、すぐ湾岸署の警報システムが作動《さどう》するはずです」
「ほう」
「何しろ近くに警察署がないものですから、最初から要心《ようじん》しました。将来はともかく、現在のところこの埋立地には、他に建物もないことですし」
うなずいて、私は、この孤立した巨大ビルの交通事情に考えを向けた。物好きが何時間もかけて歩いて来るのは別として、現在、ここへ来るには二種類の交通機関しかない。自動車と、ビルの地下まで乗りいれる無人モノレールだけである。地下に「ベイシティプラザ駅」が設けられており、そこを起点として路線が晴海《はるみ》を経て浜松町《はままつちょう》まで延びている。距離は一〇キロというところだ。
「地下の駅の状態はどうなっていますの?」
尋ねる声は室町由紀子のものだった。眼鏡ごしに怜悧《れいり》そうな視線が高市を見すえている。どうやら実力行使にはおよばなかったようだ。高市は彼女を見、私に視線をうつした。答えてもよいのか、というところである。私としては、ノーという権限も理由もない。
「駅でも改札口でシャッターがおりていまして、その前に二〇〇人ほどのお客さまがおられます」
「まだ騒ぎ出していない?」
この質問は涼子である。高市はまた私を見て、いきなり、とんでもない悪い冗談をいった。
「両手に花ですな、警部補さん」
私は思わず首をすくめたが、涼子も由紀子も平然として図面をのぞきこんでいる。レベルの低い冗談にいちいちつきあう気はないらしい――おたがいならともかく。
「このビルはすべてがコンピューターで、つまりこの部屋で管理されているわけね」
涼子は特定の何者かに向かって質《ただ》したわけではないが、スタッフの中の最年長者らしい男が、緊張しきった表情で答えようとした。それをさえぎったのは、ベつのスタッフの悲鳴である。
「かってに、かってにコンピューターが動いてる……!」
V
画面《ディスプレイ》に、文字が打ち出されていく。カタカナだ。つい先ほどの涼子の迷台詞《メイセリフ》を私は思い出した。「そいつは漢字が書けないのよ!」だが今回は「ドラよけお涼」もよけいな口を差しはさもうとせず、無言で画面を注視している。その横に立って、室町由紀子も真剣に画面をにらむ。私はさりげなく半歩退き、画面よりも、画面を見守る人々の表情に視線を走らせた。
画面上に文章が完成される。
「マダワカラナイノカ。オマエタチハミナゴロシダ」
文字は無限の嘲笑をはらんでいた。スタッフのひとりが低くうめき、ひとりが蒼《あお》ざめて慄《ふる》えだす。そしてひとりが喚《わめ》いた。
「誰だ、ふざけているのは! ここまで来たら冗談じゃすまんぞ。名乗り出ろ! 連帯責任なんて、おれはまっぴらだからな」
途中で声が揺れ、裏返った。誰も笑わない。胃と心臓を、見えない冷たい手でわしづかみにされて、肉体的にも心理的にも立ちすくんでいる状態だ。出口を見つけたらそこへ向かって突っ走る、という感じだから、誰かが「犯人はこいつだ!」と叫んだら私刑《リンチ》ざたになりかねない。
「どうか落ち着いてください、皆さん」
室町由紀子が口にしたのは型にはまったことだが、この場合、あまり独創的なことをいってもしかたがないのだ。
「今回の件はコンピューターが暴走した、と考えるのが妥当《だとう》でしょう」
せっかくの由紀子の意見を、涼子が一蹴《いっしゅう》した。
「青銅のライオン像までコンピューターに制御されていたわけじゃないでしょ。まさか、ロボットだったとも思えないしね」
「それはまあ、たしかにそうね」
涼子とちがって、由紀子は、相手の意見にうなずくこともあるようだ。糊《のり》のききすぎたシャツさながら、不快にこわばった空気を、スタッフの声が破った。
「パトカーが近づいてきます!」
通信途絶の時間が三〇分すぎて、湾岸署からパトカーが出動してきたのだ。新設されたばかりの湾岸署にとって、おそらく最初の事件であったろう。
「一台じゃなく、三台も」
スタッフの声がはずんだ。
「よかった、これで助かりますね?」
善良な市民の期待する声が耳に痛い。私としてもそう信じたいところであったが、じつはあまり自信がなかった。
三台のパトカーはモニターTVの画面の中、ヘッドライトの光で夜を切り裂きながら移動し、姿を消した。スタッフがモニター画面を切りかえようとしたが、涼子は迂遠《うえん》に感じたらしい。
「階上《うへ》に行くわよ」
短くそういって、返事も待たずに歩きだす。つづいて私が足を運ぶと、横あいから、室町由紀子警視どのが声をかけてきた。
「ほんとうにたいへんね、お察しするわ、泉田警部補」
「そうですね、みんな口先だけですしね」
本心である。だが口に出す必要はなかった。一瞬、鼻白《はなじろ》む由紀子に目礼《もくれい》して、私は、上司の後姿《うしろすがた》を追った。
涼子に追いついて並ぶと、正面を向いたまま彼女は質問を投げつけてきた。
「お由紀に何かいわれたの?」
「あたたかい激励の言葉をね」
「フン、つぎは造反《ゾウハン》をけしかけるんじゃないの」
「援軍なしで強敵と戦う趣味はありませんね」
「いい心がけだわ」
「痛みいります」
エスカレーターに乗るとき、不安のかけらが胸底に落ちた。思い出したのだ。今夜の変事のはじまりは、エスカレーターが逆方向に動いたことではなかったか。原因は不明のまま、正常に動くようになったし、その後の事件続発で誰からも忘れられてしまったが。
私の上司はというと、そのことを単に忘れただけではない。ハイヒールのままエスカレーターを駆けあがっていく。こうなると私も万が一のことを考えている暇はない。つづいてエスカレーターを駆けあがった。
エントランスホールの吹き抜けをかこむ回廊を走って、広大な前庭をのぞむ部分に出る。正面の壁は一面、硬質ガラスぼりで、数十人の男女が外を見ていた。一階のシャッターがすべておりてしまったので、外のようすを知りたい者はそこに集まるわけである。
「警察よ、そこをどいて!」
ここぞとばかりに、涼子が警察手帳を振りかざす。黒い金文字の手帳より、むしろその持主を見て、人々は波が引くように左右にわかれた。「女王さまのお通り!」というところだ。私もその恩恵にあずかって、一番よい場所に立つことができた。といっても、その後何がおこるか予測していたわけではない。
三台のパトカーが、正面玄関の前に停車したところだった。ドアが開き、合計六名の制服警官が車外に出てきた。ひとりはドアに上半身をいれ、マイクで本署に何か連絡するようすだ。それからそろって歩き出す。当然ながら慎重な足どりで周囲に視線を走らせながらだ。広い前庭にはタイルが敷きつめられ、庭園灯に青白く照らされている。各処に「前衛芸術」と称する意味不明のコンクリート製のオブジェが置かれている。そのオブジェのひとつが突然、宙に浮いた。重い無機物が空を飛ぶのを、私の両眼はたしかに見た。
巨大なオブジェがパトカーをたたきつぶした。まるで安物の玩具を放り投げたようだった。車体がひしゃげ、窓ガラスが砕け、六人の警官はかろうじて地上で一転する。
立ちあがると、拳銃を抜いて両手でかまえながら、あわただしく四方を見まわす。二階のガラスごしに、ひきつった顔の筋肉まで見える気がした。私が彼らの立場にあっても、動転して、どうしたらよいやらわからないだろう。たがいに不安と驚愕《きょうがく》にみちた視線を見かわし、無惨な姿になったパトカーを見やり、そして視線を上方に転じた。二階正面のガラス壁にむらがる人々と視線があう。
「引き返せ! その人数じゃどうしようもない。応援をつれて来い!」
思わず私はどなったが、厚いガラス壁が人声を通すはずもなかった。警官たちが大きく口をあけたのは、私たちに向かって「大丈夫か、何があった!?」と問いかけたのだろう。直後、彼らのすぐそばでオレンジ色の火球が生じた。ガラスが震動する。ひしゃげたパトカーのガソリンに何かが引火して爆発したのだ。爆風にあおられて警官が横転する。たちまち黒煙がたちこめて、前庭の光景を私たちの目からさえぎってしまった。
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「警視庁全体でパトカーは七六〇台しかないのに、一度に三台も炎上してしまいましたよ」
「これはもう警視総監の進退問題に発展するわね。在任日数の記録更新をねらっていたのに、お気の毒だわ」
涼子の表情と口調からみて、他人の不幸をスナオに喜んでいるのは明らかである。オブジェが宙に飛んだことは問題にしていないようだ。
警視庁は単なる「東京都警察本部」ではない。「国家警察実戦司令部」ともいうべき強大な存在である。警察庁はあくまでも行政事務をつかさどるので、いるのは官僚だけ。刑事も機動隊員もいない。刑事や機動隊員を、質量ともにもっとも保有しているのが警視庁なのだ。当然、警視庁のボスである警視総監の実力は、警察庁長官を上まわるといってよいほどだ。
私たちの周囲で声がおこった。
「警察はこれからいったいどうするつもりなんですか?」
「わたしたちを助けてくれるの、どうなの」
「いつまでこんなところに閉じこめられていなくちゃならんのだ」
「何とかしてくれ」
「何とかいったらどうなの?」
これまでおとなしく不安と不如意《ふによい》に耐えていた人々が、駆けつけてきたパトカーの惨状を見て、感情を爆発させたらしい。無理もないことだが、誠実な対応をしている余裕はないので、涼子と私は遁走《とんそう》を決めこんだ。涼子の好きなようにさせておくと、「おだまり、愚民《グミン》ども」などとどなって事態をこじらせる恐れがあるので、私が遁走を進言したのだ。そしてようやく管理センターにもどってくると、あらたな兇事が発生していた。
「地下駐車場で自動車が全部ひっくりかえって……」
モニターの画面《ディスプレイ》のひとつが、広大な地下駐車場の光景を映し出している。数カ所に炎がちらつき、ひっくりかえった車の群が見えた。私はそれほど車に精通しているわけではないが、ジャガー、ベンツ、ランボルギーニ、ボルボなどの車種がわかった。金額からいえば、火の一カ所ごとに家一軒が燃えている計算だ。すぐに白っぽい霧のようなものが画面を煙らせた。スプリンクラーが作動しはじめたのだ。
「いったい何ごとがおこっているんですか?」
スタッフが頭髪をかきむしる。むろんひとつひとつの事象については理解しているが、連続しておこると、全体像が把握《はあく》できないのだ。管理センター内には涼子や私の他に室町由紀子もいあわせたが、答えようもなく憮然《ぶぜん》と腕を組んだままである。
それにしても、警察庁長官と警視総監が顔をそろえている場所で、こんな事件が続出したのでは、ともに面目《めんぼく》丸つぶれである。同席の幹部たちも同様。責任追及の声と責任|逃《のが》れの主張で、警察全体が大さわざになるのはまちがいない。
「ま、いいんじゃないの。一九九五年に警察庁長官が撃たれたときだって、捜査の現場はべつに何もこまらなかったもの。仕事が増えはしたけどね」
涼子は冷然たるものだ。
警察でも自衛隊でも消防でも、第一線に立つ者の士気《モラール》は高い。地下鉄サリン事件でも、自分の身をすてて乗客の生命を守った地下鉄職員のみごとな行動が語りぐさになっている。その一方、大蔵省では金銭がらみの、厚生省では人命がらみの、建設省では総合建設企業《ゼネコン》がらみの深刻なスキャンダルが続出して、高級官僚に対する信頼は地に堕《お》ちるどころか、地の底にもぐってしまった。これを回復させるのは、重要で同時に困難なことである。
「さしあたり、日ごろ公安部が監視している過激派の連中を逮捕して、事態をとりつくろうのね。そのあとゆっくり真犯人を捜せばいいわ」
涼子の発言に、室町由紀子が吃《きっ》となった。
「薬師寺警視! 公務員でありながら憲法をないがしろにするつもりなの」
「フン、憲法がこわくて警察官がやってられますか」
「ちょっと、あなた、そういう誤解を招くようなことを人前で……」
「うるさいわね。警察官が憲法をきちんと守っていたら、冤罪《えんざい》事件なんておこるわけがないでしょ! 法をねじまげ、無実の人間を牢獄に放りこむ。これこそ権力者でなければできない楽しみじゃなくって?」
「な、何ということを……」
涼子はどゴージャスではないが、由紀子もかなりの知的美女である。その彼女が眉にも口もとにも怒気をみなぎらせて、
「以前からあなたを非常識で不見識で無責任な人間だと思っていたけど、これほどだとは思わなかった。いまこそ、わたしは決心したわ」
「へへえ、何をさ」
「警察の名誉と市民の安全と国家の将来のため、そしてわたし自身の正義のため、薬師寺涼子、あなたをかならず警察から追放します!」
まっすぐに指を突きつけて、高らかに宣言したのであった。
「あらまあ、あんたとは大学以来の不本意なつきあいだけど、目をあけたまま寝言《ねごと》をいう癖があるとは知らなかったわ」
涼子は邪悪な微笑をうかべた。
「きっと欲求不満で体調がおかしくなってるのよ。どんなまずい料理でも、モンクいわずに食べてくれるやさしい男性をさがして結婚して、退職なさったがいいわね」
「わたしは料理だってひととおりできるのよ。あなたみたいにゆで卵しかつくれないような家事オンチといっしょにしないで!」
「ゆで卵がつくれれば充分よ! 中国の女帝|武則天《ぶそくてん》だって、ロシアの女帝エカテリーナ二世だってそんなものよ」
「何でここに歴史上の人物が出てくるのよ」
「あんたとちがって、あたしは理想が高いの。料理はシェフにつくらせて食べるものよ。誰かさんみたいに、老後ひとり暮らしで誰も食事をつくってくれない孤独な境遇なら、そりゃあひととおり料理もマスターしなきゃならないでしょうけどね」
「誰が孤独な老後ですって!?」
「あら、これだけはっきりいってもわからないの。どうか鏡をごらんあそばせ、オーホホホホ!」
管理センターにいあわせた一同は、唾《つば》をのんで、美女どうしの舌戦《ぜつせん》を見守るばかりである。こんなとき両者の間に割ってはいる男がいたら、よほどの勇者か、身のほど知らずのマヌケだろう。そのどちらも存在しなかったので、闘いはさらにつづくかと思われたのだが、スタッフの誰かが緊張のあまり手にした紙コップをとりおとし、コーヒーを床にぶちまけたので、涼子も由紀子も一歩ずつしりぞいた。無益な闘いは中断された。
X
靴音も高く管理センターを出ると、わざとらしく涼子は伸びをした。
「ああ、正義の味方ブリッコを相手にして遊ぶのも楽じゃないわね」
「え、遊びだったんですか」
「あたりまえよ。あんな中学校のクラス委員なみの奴を相手に、ムキになるわけないでしょ。お由紀とちがってあたしはオトナなんだから」
私が対応するのには、二秒間の空白が必要だった。
「ですが、室町警視のほうは本気だと思いますよ」
「本気であたしに勝とうとしてるって?」
「ええ」
「オホホホホ! おもしろいわ、その挑戦、受けて立とうじゃないの。ドサまわりお由紀ごときの浅知恵《あさぢえ》で、あたしの足を引っばれると思うなら、やってみるがいい。お手腕《てなみ》拝見といきましょう!」
涼子は高笑いした。「悪の女王」の貫禄《かんろく》充分、といいたいが、これで彼女は警察のエリート官僚なのである。昔の江戸川乱歩《えどがわらんぽ》の小説に登場する女賊みたいな見得《みえ》を切っていていいのだろうか。
「いいんですか、ぐずぐずしていたら今夜の事件、お由紀、じゃなかった、室町警視に先をこされますよ」
「室町警視? あんな奴、ドサまわりお由紀でいいッ!」
「はあ」
「第一、お由紀の奴は警備部じゃないの。機動隊員にオニギリでもつくって差し入れしてればいいのよ。あの女にお似あいだわ」
「だから、そこですよ。このまま事態が悪化すれば、機動隊が出動してくると思いませんか」
「ああ、たしかにそうだわね」
機動隊は警備部の管轄だから、もしそうなれば、現場の主導権は室町由紀子の手にうつるかもしれない。涼子としては、絶対、由紀子に功績をたてさせるわけにはいかないだろう。
「ようし、お由紀に泣顔《なきっつら》をかかせてやるわ。助手A、ついておいで!」
「はいはい」
青銅のライオンが床に落ちたままのホールに、私たちははいっていった。
「台座に上ってみるわ、手伝って」
台座の高さは二メートルある。涼子はハイヒールをぬいだ。私は台座の側面に両手を突いて腰をかがめた。涼子は身軽に私の背中を踏んで台座に上った。周囲の人々がおどろいて視線を集中させる。ま、おどろくだろうな。
台座の上に立ち、左手を腰にあてて周囲を見わたす涼子の姿は、たしかに女神のように優美で、女将軍《レディゼネラル》のごとく凛然《りんぜん》としている。これで口さえ開かなければ、男の九九・九パーセントと女の七五パーセントぐらいはだまされるにちがいない。実際、外に出られぬままホールにたむろしている人々が、いまや涼子の容姿に感歎の視線を送っている。「モデルかしら」という声まで聞こえる。思慮のたりない者が写真撮影などはじめないうちに、私は彼女に声をかけた。
「そこに立って何かわかりますか」
「立ってるだけでわかったら苦労はないわよ」
もうすこし可愛げのある返事ができないのか、この女は――とは私は思わない。ないものねだりというものである。
多少は苦労する気になったと見えて、涼子は台座の上にかがみこみ、その表面を調べはじめた。一分ほど視覚と触覚を活動させていたが、いまいましそうに立ちあがる。収穫はなかったらしい。上がるときと逆の手順で床におりると、ハイヒールをはいた。無言のまま足早に歩き出す。侍従みたいに私はそれを追い、ホールを出た廊下で彼女の後姿にぶつかってしまった。彼女がいきなり立ちどまったのだ。
「何で急停止するんですか!」
私はどなった。これは機先を制したのである。以前、同じような状態で、彼女のヒップに衝突した刑事が、ハイヒールで蹴とばされた実例がある。どこかのサーカスの調教師が語っていたが、猛獣に対しては、弱気なところを見せてはいけないのだそうだ。
涼子は振り向いた。蹴りが飛んできたら跳びのくつもりで体勢をととのえたが、涼子はべつのことを考えていたようだ。
「泉田クン、この壁おかしくない?」
油断させる策《て》かもしれない。なお体勢をととのえたまま、私の視線が涼子の視線を追う。白い大理石の壁だ。おかしいものは何もない。何もないこと自体がおかしいのか。
「ああ、そうだ、赤褐色の変な影があったのに、それが消えてるんですよ……」
自分自身の言葉に不審をおぼえて、私は語尾を消してしまった。あれは消えてしまうようなものだろうか。何百万年か何千万年か知らないが、長い永い間、石についていた影が、一時間かそこらで消えてしまうなんてことがあるのだろうか。
「たしかにこの廊下の、この場所だったわよね」
「ミステリーの基本的なトリックで、同じ場所と思わせてじつはべつの場所だった、というやつがありますけどね」
「エラリー・クイーン?」
「それ以外にも」
涼子は大きく息を吐き出して、左手の指を髪に這《は》わせた。敵意をこめた視線が、何もない壁に向けられる。
「どうも気にいらないわね」
「誰か呼んで事情を聞いてみますか」
「君には合理的に説明できないの?」
「できません」
「だったらスタッフに聞くまでもないわ」
べつに私を高く評価したわけではなく、誰に聞いてもむだだ、という意味であろう。
「とにかく、口にするのもおぞましい邪悪な意思を感じるわ。あたしにはわかるのよ」
「あなたにしかわかりませんね」
「……どういう意味、それ?」
「たのもしい上司だと思ってるんですよ。いずれにしても、武則天やエカテリーナ二世は、こまかいことを気にしませんよ」
「君、会ったことがあるの?」
涼子は形のいい鼻の先で笑ったが、それ以上、皮肉をいう気はなかったと見えて、あらためて壁に一瞥《いちべつ》をくれると、さっさと歩き出した。とりあえず私は彼女について歩き出す。立ったまま動かないでいれば、「なぜついて来ないの!」といわれるだろう。反対に、「なぜついて来るの!」といわれることもある。今回は前者のほうだった。まったくやっかいな上司だ。
傍若無人《ぼうじゃくぶじん》という四字熟語を擬人《ぎじん》化すれば薬師寺涼子になる。彼女に美貌と才能を与えたのはたぶん悪魔だろうが、権力を与えたのは人間だから、さて、どちらの罪が大きいだろうか。
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第三章 女王さま東奔西走
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毒々しく赤い月が、虜囚《りょしゅう》の群を見おろしている。
腕時計を見た。午後九時をすぎたところだ。あちこちの家庭では、TVの前で国営放送のニュースショーか、「怪奇・十二日の木曜日」でも見ているのだろう。そしてニュースショーを見ていれば、臨時ニュースが飛びこんできて、「湾岸副都心のベイシティプラザに多くの人が閉じこめられ、出動したパトカーが何者かによって破壊された」と知らされるかもしれない。そのときすでに機動隊は出動していた、ということになるかどうか。
涼子と私は、梶岡氏のパーティーがおこなわれていた会場に足を運んだ。外へ出られないので、出席者たちがしかたなくそこへもどり、中途半端にかたづけられた床の上にすわりこんでいるのだ。
一歩そこへはいって、あやうく私は失笑するところだった。普通の人にはおかしくも何ともないにちがいない。自分が見た光景の意味がわかるのは、警察関係者だけだろう。
輪の中心にいるのは、警察庁長官と警視総監である。そのすぐ外をかこんでいるのは、階級が警視監クラスの幹部たちだ。その外が警視長クラス。その外が警視正クラス。そして一番外に警視クラス。それ以下の警察官はいない。
「何とまあ、みごとな同心円かしらね」
さすがの薬師寺涼子も、苦笑せずにいられなかったようである。私は軽く首を振った。
「階級社会というのは、日本の警察も、昔の共産主義国もまったく同じなんですねえ。関係者が見ただけで序列がわかる」
「そうよ、動物園の猿山《サルヤマ》の猿と同じよ」
痛烈すぎる台詞《せりふ》を、涼子は吐き出した。
「ま、輪の中心にいれば、いい気分ではあるでしょうけどね」
「いい気分になりたいですか」
私の問いに、涼子は柳眉《りゆうび》を軽くしかめてみせた。
「周囲に侍《はべ》らせるのが美青年、美少年、美少女だったらいいんだけどねえ、あんなオッサンたちでは食指《しょくし》がいまひとつだわ」
「美少女も守備範囲なんですか」
「見た目が心地《ココチ》よいじゃないの。あ、あたし、ちょっとレコーディングしてくるから、ここにいて」
レコーディングとは録音《オトイレ》のことである。ハイヒールの音が遠ざかり、私はもう一度軽く首を振った。食指が動かない、などと涼子はいったが、すくなくとも室町由紀子の下風《カフウ》に立つ気はないだろう。
「君、たしか泉田クンだったな」
振り向くと、警視庁の警務部長が立っていた。これまた私にとっては雲上人《ウンジョウビト》である。
「ドラよけお涼の下で苦労しているようだねえ」
「はあ……」
「われわれ上層部としても、どこか警視庁から離れたところに分室でもつくって、お涼を押しこめようともしてみたんだが……」
警務部長は深い深いタメイキをついた。
「逆効果ということもあるからな。分室まるごとお涼の植民地になって、本国に対して闘争をはじめたらどうする?」
「本国に勝算《カチメ》はありませんね」
「そうなんだ……いや、ちがう、何をいっとるのかね、君! ニッポン警察がたかが小娘ひとりに右往左往《ウオウサオウ》すると思うのかね」
「してるじゃありませんか」
といいたいところだったが、私は沈黙した。このあたりが、私のように善良な苦労人と、涼子のようなヨコガミヤブリとのちがいである。ヨークシャーテリアみたいな顔つきの警務部長は、私に向かって声をひそめた。
「それでだな、君を見こんでひとつ尋ねたいことがある。あのドラよけお涼の弱みは何だろう。教えてくれんかね」
「お涼の弱みねえ……」
じつのところ、それについては私も一度ならず考えてみた。だが、思いあたることが全然ないのだ。万人が認める美女で、プロポーションもスーパーモデル級、頭脳は東大法学部、射撃も剣道も天才、英語もフランス語も自由自在。料理はまるきりだめだが、由紀子との舌戦でわかるように、すこしも気にしていない。
「弱みなんてないんじゃないですか」
「それじゃこまるんだよ」
「こっちこそこまりますよ、そんなこといわれても。ま、あらゆる長所と美点を差し引きゼロにするほど性格は悪いけど、当人はそれを弱みだとは思ってないでしょう」
私の返答に対し、警務部長はロコツに失望の表情をうかべ、ぶつぶつとひとりごちた。
「そもそも警察庁がいかんのだ。あんな危険人物を採用しやがって。大蔵省か外務省に押しつけておけばよいものを、才色兼備の美女が来てくれるというのでホイホイ喜びおって、おかげで迷惑するのは警視庁《こっち》だ!」
「美女が来てくれるので喜んだ」のは、おそらく警務部長ご当人もだろう。気をとりなおしたように、ふたたび彼は問いかけた。
「どうだ、いくらお涼でも、美男子には弱いのじゃないか」
「おおいに可能性はありますが、これまで、お涼が誰か男に夢中になったという話は聞いていませんね」
「しかし、あの性格だ。修道尼《シスター》じゃあるまいし、男がいないわけはない」
おおげさに腕を組む警務部長を見やって、私はばかばかしくなった。そもそも警務部長といえば人事課長の上役で、つまるところ私を「ドラよけお涼」の下に追いやった責任者のひとりである。何やら自分だけが被害者|面《づら》して、もっともらしく対策を立てるなど、笑止《しょうし》というべきであった。
「こんな自分かってな、保身《ほしん》ばかり考えているオッサン、お涼が長官か総監になったら大粛清だろうな」
いっそ見てみたい気もする。きわめて危険な考えに私がとらわれかけたとき、さらに危険な声がひびいた。
「話がはずんでいるようですわね、警務部長、おじゃましてもよろしいでしょうか」
警務部長の足が床から五センチほど離れるのを、たしかに私は目撃した。とびあがって着地した警務部長が、むなしく口を開閉させるのに、涼子が意地悪な声をかける。
「部長」
「な、何だ」
「左肩のあたりに、迷宮入り殺人事件の被害者の霊がただよってましてよ」
「やめんか!」
ヒステリー寸前の声で警務部長がどなる。そのどなり声に何かの音がかさなった。いや、音だけでなく震動もだ。先ほど青銅製のライオン像が倒れたことを、私は思い出し、背中に悪寒《おかん》が走るのをおぼえた。だが先ほどとはちがった。さらに大きく、さらに近い場所で生じた震動だった。顔を見あわせつつ、多数の人が立ちあがる。
「何だ今のは、何だ今のは!?」
無意味な問いを、警務部長はくりかえした。誰も彼に答えない。コンソールのランプのひとつが激しく点滅し、それを確認したスタッフが額に汗の粒をうかべた。
「エレベーターが落ちました。デパートのBエレベーターです。ワイヤーが切れたようです」
「何人乗っていたの?」
異口同音《いくどうおん》に涼子と由紀子が問う。いつのまにか由紀子もその場に来ていたのだ。
「そこまではわかりませんが、Bエレベーターは定員四〇人でした」
「落ちた階は?」
「地下三階ですが、ワイヤーが自然に切れるはずはありません。安全基準は完全にクリアしていましたし、開店前には厳重な点検を……」
弱々しい弁明の声を聞きすてて、数人が走り出した。涼子と由紀子が先頭を切り、私がそれにつづく。非常階段を使ったのだが、床を打つ靴の音がこれほど不吉にひびいたことは、私の人生ではじめてだった。
エレベーターの内部がどうなっているか、多くの者には想像がついていたかもしれない。だが、扉が音をたてて開くと、強烈な血の匂いが吹きつけてきて、思わず私は鼻をおさえた。涼子はそんな軟弱な行為《こうい》はしなかったが、わずかに息を吐き出したようだ。かすれた声が、端麗な唇からすべり出た。
「……これはちょっとしたものね」
ずいぶんと控え目な表現だったといえるだろう。エレベーターの天井と床、三方の壁にまで、赤黒い液体が塗りつけられ、同じ色に塗られた物体が床にいくつかかさなっている。
「……用はないわ、行くわよ」
涼子が低くいった。
「いいんですか」
「うるさいわね。これ以上あたしにさからったら、迷宮入り連続殺人事件の犯人にしたてて十三階段を上らせてやるわよ!」
涼子ならやりかねない。私は沈黙して涼子の後につづいた。室町由紀子も、ちらりと私たちを見ただけで無言だった。
ひどい夜になりそうだ。あらためてそう思わざるをえなかった。おそらく湾岸署では、あらためて出動の準備をしているだろうし、すでに警視庁に連絡しているかもしれない。まったく間《ま》の悪いこ、とに、幹部たちがこぞって不在だが、機動隊を動かすていどの判断は誰かが下すはずである。
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一階にもどったときには、涼子は、完全に自分をとりもどしたようだった。エントランスホールに出て、腕時計を見ると、いまいましげな声をあげる。
「ああ、もう『怪奇・十二日の木曜日』が終わってしまうわ。結局、四人のうちの誰が地底人だったのかしら」
「そんなに見たかったら、どこかの部屋でTVを見せてもらえばよかったんじゃありませんか」
涼子は一瞬、黙りこんだ。それからいったものだ。
「何ばかなこといってるの。捜査官の任務のほうがはるかに重要でしょ!」
あまりにも説得力のない台詞だが、たたかれるのもいやだから、私は「ごもっともで」とだけ答えた。涼子はホールの装飾柱に背をもたれかけさせた。
「君の意見を聞かせてもらえる?」
「私は番組を見ていませんので……今夜の事件のことでしたら」
「それでいいの。犯人像について、君の思うところは? どんなダボラでもいいからいってみて」
私はガラスごしに赤い月を見あげ、そのまま答えた。
「愉快犯ですね」
「フン……」
「でなければ、ベイシティプラザの経営陣に怨恨《えんこん》をいだく者」
「金銭《カネ》目あてのテロリストという線は?」
涼子の問いに、私は首を振った。肩にかけて、筋肉がこわばっている。
「まずないと思いますね」
「その理由は?」
「その種の脅迫状が来ていたら、長官や総監がそろってのこのここんなところに来たりしませんよ」
「三五点というところね」
「辛《から》いな」
「五〇点満点でよ」
「減点理由は何です?」
私が問うと、涼子はハイヒールの踵《かかと》で大理石の床を蹴った。
「脅迫状がベイシティプラザにとどきながら、会社のほうが警察にそれを通報していない、という可能性があるわ」
「なるほど、そうですね」
外国の例はよく知らないが、日本の企業の場合、いつも警察に協力的だとはかぎらない。企業犯罪を捜査する刑事部捜査二課や暴力団担当の捜査四課など、企業の非協力をぼやくのが常だ。重役が何者かに殺されても、「もうすんだこと」といって協力を拒否した大企業があったほどである。よほど知られたくないことばかりやっているのだろう。
「で、どうします。エレベーターのほうは室町警視にまかせて、われわれは」
「もちろん尋問するのよ」
「高市理事長をですか」
「雑魚《ざこ》どもに用はないわ」
「ごもっとも」
私たちはスタッフを探し、警察の権威を振りかざして、高市理事長に面談を申しこんだ。高市は承知した。きわめて多忙につき、五分間だけ、という条件つきではあったが。彼が指定したのは、エントランスホールに隣接する業務用の応接室である。形式的なあいさつがすむと、高市は口を開いた。
「副知事時代、私は湾岸副都心の建設に心血をそそいでまいりました」
高市の口調は荘厳《そうごん》をきわめていた。官僚や財界人の口調ではない。宗教団体の最高幹部を思わせる。荘厳とかゲンシュクとかいう類の雰囲気を、他人がただよわせるのは、涼子の好まざるところだった。
「ずいぶんと強引《ごういん》なこともなさった、と、うかがっておりますけど」
「そう誹謗《ひぼう》されたこともあります」
落ち着きはらって、高市はかわした。
「誹謗されて、さぞご不快だったでしょうね」
「ま、うれしくはありませんでしたな。ですが、大事業をなす者は凡俗《ボンゾク》の徒にねたまれるものです」
「その点はまったく同感ですわ」
かなりずうずうしいことを涼子は口にして、高市の表情を探《さぐ》った。高市は笑った。表情を隠すための笑いであるように、私には思えた。
「あの当時の都知事は、高市さんの立案なさった湾岸副都心計画に反対だったそうですね」
「最初はね。ですがその後、勉強なさったようで、結局は賛成していただけました」
聞いていて私はいやな気分になった。「勉強していただく」というのは官僚の用語で、大臣や知事に自分たちにつごうのいい資料ばかりを並べたて、心理的な圧迫を加えて、ついには自分たちのいうことをきかせてしまうのだ。
「で、知事は心労《しんろう》のあまり入院して、あげくに辞任してしまいましたわね」
「お気の毒でしたが、湾岸副都心の開発は、知事の業績として後世にのこるでしょう」
「知事は病床で『高市にだまされた、あいつだけは赦《ゆる》せない』といったそうですね」
「お嬢さん」
高市は頬にきざんだ笑いを深くした。
「あなたはすぐれた知性をお持ちのようにお見受けします。愚劣なマスコミの虚報を信じるような女《ひと》とは思えませんが」
「お言葉の前半はたしかにそのとおりですけど」
「謙遜《けんそん》」の二文字と、涼子は無線である。
「知事はもともと環境保護派の応援を受けて当選した人ですもの。際限なく海を埋めたてて、東京の過密化をすすめるような計画に賛成したのは、やっぱりだまされてのことかもしれませんわね」
「お嬢さん」
高市の笑いはさらに深くなり、見ている私は気味が悪くなってきた。
「お嬢さん、環境保護派と自称する無責任な連中の俗論《ぞくろん》にまどわされてはいけませんな。私は山を削《けず》ったわけでもなく、森の樹を伐《さ》ったわけでもありません。無から有を生《う》み、あたらしく誕生した土地に価値を与える。私がやったことはそれです。その意義を理解できないというのは、人の営《いとな》みを理解する能力がないということです。気の毒なことだ」
高市の笑いが浅くなり、それが消えると、宗教家というより異端審問官《いたんしんもんかん》めいた酷薄な表情が彼の顔を支配した。高市はその表情のまま、形式的に目礼《もくれい》すると、踵《きびす》を返して応接室を出ていった。
涼子と私もエントランスホールへ出た。無言で六歩あるいて、七歩めに涼子が苦々《ニガニガ》しげに結論づけた。
「つまり、あのおっさんはこの草ボウボクの埋立地を、自分の個人的な領地と思いこんでいる、ということね」
「そしてこのばかでかいビルが彼のお城ですか」
「ぜひ後で、理事長室を見学したいものだわ。これまで蹴落《けお》としてきた連中の首が、剥製《はくせい》になって飾られているかもしれない」
「やめてください、そういうグロテスクな想像は」
「フン、あの男、精神的にはそれくらいのことやってるわよ。目を見たでしょ。目的のためには手段を選ばないし、いくらでも自分を正当化できる種類の人間だけが、ああいう目を持ってるの」
涼子の観察と判断は正しいにちがいない。それにしても、どうして人間は他人に関するかぎり正しい観察と判断ができるのだろう。
V
高市への尋問は疑惑を深めるだけの結果に終わった。いくらでも怨《うら》まれるフシがあるという点は確認できたが、具体的に容疑者の姿が浮かびあがってきたわけではない。今夜の事件のかずかずにおいて、単一で同一の犯人が存在するとしても、どのような手段で犯行をおこなっているのか、皆目《かいもく》見当がつかなかった。
青銅のライオン像が倒れた件については、ホールに何百人もの目撃者がいたのだが、頼りになる証言はひとつとしてない。
「いきなりぐらりと揺れて倒れた。誰もライオン像にさわっていない」
というのが最大多数の証言だった。二メートルの高い台座の上にあるライオン像に、誰かがこっそり触れたとして、それだけで重い青銅の像が倒れるはずがない。
「ドラよけお涼」に関する噂のひとつを、私は思い出した。「ドラキュラもよけて通る」。なぜドラキュラなどという名が引きあいに出されるのか。
「どうも彼女がかかわると変なことがおこるんだ」
変なこと、とは、現代科学の常識が通用しないことだ。良識ある人々に忌避《きひ》され、神秘主義者やオカルト業者や自称超能力者たちに喜ばれるようなこと。涼子がかかわると、なぜかそういったことがおこる。ゆえに涼子は「切り裂きジャックもよけて通る」とか「怪人二十面相もまたいで通る」とかは評されなかった。「キリよけ」とか「ニジまた」と呼ばれず、「ドラよけ」と呼ばれるようになったのだ。
私の内心を知ってか知らずか、涼子は押しつけがましい目つきで私を見た。
「感謝するのね。あたしといっしょにいると、ずいぶんおもしろい目にあえるんだから」
おもしろいかどうかはべつとして、退屈しないのはたしかなようだ。むろん感謝しようとは思わない。こんな上司を押しつけられた不運を呪うのみである。
それにしても、いつまでこんなことがつづくのか。明日になったら「悪夢みたいな夜だった」と過去形で語ることができるのだろうか。
コンピューターからアウトプットしてもらったマンション棟の居住者リストを見ていると、横あいから声をかけられた。涼子と離れて私がすわっていたのは、管理センターからエントランスホールへと通じる廊下の壁ぎわに置かれたソファーだ。声の主は岸本明《きしもとあきら》といった。警視庁警備部参事官付。つまり室町由紀子の部下である。
警視庁の警備部といえば、日本国最強の機動隊や要人警護隊《SP》をかかえる|こわもて《ヽヽヽヽ》の部署である。そこの参事官付ともなれば、どれほどごつい男かと思ってしまう。だが岸本は、中背よりはやや低い身長で、色は白く、頬はふくよか、髪はカールしており、口もとは赤ん坊のようだ。彼は東大法学部の卒業生ではないが、他の一流大学を出たキャリアで、警部補に任官したばかりだった。つまりヒヨコに孵化《ふか》したばかりで、尻にはまだ卵の殻《から》がくっついている。
「居住者のリスト、ボクにも見せていただけますか」
「見てどうする?」
役立たずのキャリアに意地悪するのは、ノンキャリアとしての義務であるし私に冷たくいわれて、岸本は気色《キショク》悪いおちょぼ口で笑った。
「ええとですね、泉田警部補」
「警部補と呼ぶのはやめてくれ。お前さんだって警部補だろうが」
「それじゃ先輩」
「おれは別に、お前さんの先輩でもない」
「いやだなあ、そんなに冷たくしないでくださいよ。いくら上司どうしが仲が悪くても、ボクたちまで角《ツノ》突きあわせる必要はないじゃないですか」
岸本は根本的に誤解している。彼が室町由紀子の部下だからという理由で、私は彼をきらっているわけではない。岸本自身が、私は気に入らないのだ。「キャリアに対してひがんでいるんだろう」といわれれば、じつはまったくもってそのとおりである。
無言で私はリストを岸本に向かって突き出した。岸本は過剰にていねいな手つきでそれを受けとると、すばやく視線を通す。眼球がいそがしく上下左右に動いていたが、やがて口が開いて感歎の声を出した。
「そうか、葉山江里《ハヤマエリ》はこのマンションに住んでいたのか、知らなかったなあ」
「誰だ、それは?」
「泉田さん、知らないんですか? まさか、当代一の人気タレントを!」
とがめだてする口調である。つい私は掌《てのひら》で顔をなでた。
「すまんな、どうも世間が狭くて」
「ルンちゃんのキャラクターボイスです」
「……?」
「毎週金曜日、夜七時、サクラTVの人気アニメ『レオタード戦士ルン』の主人公の声をあてている声優ですよ。どんな話かご存じですか」
「べつに知りたくない」
冷淡に私はいったが、おかまいなしに岸本はしゃべり出した。
「ルンちゃんは中学二年の女の子で、新体操部のホープなんですが、あるとき女神ヘラのお告げがあって……」
「ヘラって、ギリシア神話に出てくる女神さまか」
「そうです、女性の権利を守る神さまです」
「ああ、そうだっけ」
「で、女神ヘラのお告げを受けたルンちゃんは、地球の平和を守る愛の戦士として、レオタード姿で邪悪な敵と闘うのです。武器はリボンに輪に棍棒《こんばう》――新体操の道具ですね」
「…………」
「原作のマンガは巷談社《コウダンシャ》の『月刊おじょうちゃま』に連載されてますが、ボクはアニメのほうが好きですね。そうそう、ルンちゃんのレオタードの色はピンクでしてね、仲間が四人いてそのレオタードの色が、赤、青、黄、緑なんです。で、今後さらに紫、金、銀が増《ふ》えて美少女八人組になるはずで……」
ひとつ確実にわかったことがある。岸本を少年課にまわしてはいけない。こいつに末成年の女性をまかせたりしたら、まずいことになるだろう。
「そうかい、ルンちゃんによろしくな」
言いすてて私はリストをひったくり、立ちあがった。わが上司どのが、横着《オーチャク》そうな身ぶりで私を手招きしているのに気がついたからである。早々に駆けつけないと、必殺の蹴りがとんでくる。
「お呼びですか」
「ちょっとね。ホテルのスタッフから連絡をもらって」
すぐに涼子は歩き出した。
「それより、岸本と何を話してたの?」
肩書《カタガキ》をつけずに呼びすてである。
「いや、くだらない話で……」
「わかってるわよ。レオタード戦士でしょ」
私はまばたきした。
「ご存じなんですか、奴の性癖《せいへき》を」
「岸本は、あたしに忠誠を誓ってるの」
「どうやって懐柔《かいじゅう》したんです?」
「あたしは巷談社にコネがあってね、『レオタード戦士ルン』の等身大の人形を岸本にもらってやったのよ。喜々として、岸本は上役についての情報を教えたわ。今後も引きつづきね」
レオタード戦士の等身大の人形。そんなものを岸本の奴は何に使うのだろう。想像しかけて私はやめた。岸本にはなるべく遠いところでシアワセになってほしいものだ。
W
涼子と私はホテル棟に移動して、フロントで中年のベルマンの説明を受けた。一〇分ほど前、血まみれで半裸の一〇代の少女が救いを求めに来た、というのである。湾岸副都心の高級ホテルで上流階級の秘密パーティーをやる、といって誘われ、多額のアルバイト料を提示された、ところが行ってみたら、さんざん殴られたあげく、乱交と麻薬服用を強要され、必死になって逃げ出して来た――ということだった。
「当ホテルがこんなことに使われるとは、お恥ずかしいかぎりですが」
うなだれるベルマンに、ホテル名は絶対に公表しな事ことを確約して、涼子と私はその部屋に向かった。二〇階、セミスイートの二〇〇八号室であった。応援など無用、と涼子はいい、実際にそのとおりだった。麻薬を服用して正常な判断力を失っていた二〇〇八号室の客たちは、涼子がドアをノックし、覗《のぞ》き穴に向けてウインクしてみせると、すぐドアを開いた。おろかな子豚《コブタ》が狼を招きいれる、の図だ。
「赤子《あかご》の手をひねる」
という表現そのままだった。一瞬、とはいわないが、ほんの三瞬ほどで、三人の若い男が床に迫《せま》ってしまった。ひとりは鼻血の噴き出る顔をおさえてうめいている。ひとりは股間に両手をあて、白眼をむき、口から泡だか涎《よだれ》だかをこぼして悶絶している。ひとりは胃液を吐きながら全身をひくつかせている。数人がかりで少女を痛めつけようとしたクズどもの自業自得ではあるが、ほんのすこしだけ気の毒である。
「意識があると見張っておく必要があるからね。気絶させておくのが一番」
無慈悲きわまることをいって、涼子は、顔をおさえてうめいている男の右脇腹を蹴りつけた。四人めの男がバスローブ姿のまま腰を抜かしている。
「麻薬等取締法違反、および婦女暴行未遂の現行犯で逮捕する!」
白い粉のはいった小さなビニール袋を手に涼子が宣告する。バスローブ姿の若者がうなった。
「な、何で警察がここにいるんだよ!」
「オホホホホ、おぼえておくのね。あんたたちの目に見えないところにも、警察はかならずいるの。ひとり制服警官を見かけたら、一〇人はいると思いなさい」
「ゴキブリみたいだな」
「やかましい!」
涼子の長い美しい脚がうなりをあげ、ハイヒールの靴尖《くつささ》が若者の右臑《すね》にくいこんだ。若者の両眼から火花が三〇センチほど飛び出し、口からは悲鳴がほとばしる。
涼子が「捜査官の不当な暴力」をふるっている間に、私は若者の服をかきまわして免許証やクレジットカードを調べた。彼の名は川名英二《かわなえいじ》といい、住所は渋谷区|広尾《ひろお》であった。
「いいところに住んでるじゃないか。職業は何だ」
「アーティストだ」というのが答えだった。アーティストにもさまざまあるが、「前衛詩と演劇と音楽の完全な融合」をめざして、自分で劇団をひきいているのだ、という。
涼子が免許証を手にして冷笑した。
「ゴールドカードを何枚も持ってるアーティストねえ。どうせ金持ちの道楽息子が、父親の援助を受けてムダメシ食ってるんでしょ」
「ぼ、ぼくのダディは政治家や官僚にたくさん知りあいがいるんだぞ。お前ら、こんなことして、あとで後悔するぞ」
ダディと来たもんだ。私はひとつ肩をすくめて、涼子にまかせた。
「何がダディよ、まともな日本語もしゃべれないくせに。あとで後悔? 後悔ってのはもともと先にするものじゃないでしょ」
「ああ、まったく日本は愚者の天国だ。何か創造的な行為をしようとすると妨害される!」
「麻薬を使ったり女の子を痛めつけたりするのが創造的な行為なの?」
涼子はせせら笑った。
「日本の一流のクリエーターで麻薬なんぞやっている人がいる? 麻薬を使わなきゃ創作ができないということ自体、二流三流だという証拠でしょうが」
「う……」
「あんたは三流よ、三流!」
「…………」
「ほれ、何かいってごらん。即興《そっきょう》で詩のひとつもつくれないくせに、アーティストが聞いてあきれるわね」
私はさらに部屋の中を捜しまわり、注射器やらスポイトやら、数枚のポラロイド写真やらを押収した。写真は、二〇〇八号室の客たちが少女に暴力をふるうありさまを写したもので、写った男たちはいかにもうれしそうに笑っていた。その一枚を目にすると、涼子は、女王のごとく宣告した。
「まったく性根《しょうね》も股間も腐った奴だわね。そんな奴の遺伝子を後世にのこすのは、人類にとって有害だわ」
涼子は大きく右足を引いた。私はくるりと後ろを向いた。鈍い音と絶叫。
絶叫の最後のひびきが空中に消え去ってから振り向くと、若い男は、股間をおさえて床に丸くなっていた。
「ま、これで、今年中は女性に乱暴をはたらきたくても不可能でしょうよ。本来なら、永久に去勢《キョセイ》してやっていいんだけどね」
「とんだ副産物でしたね、しかし」
麻薬乱用でおかしくなって、ベイシティプラザ内で何が生じたか、まったく知らなかったのだろう。だが、他にもそういう客がいるかもしれない。外に出ようともせず、電話もかけず、この巨大などルの中で、安楽の夢をむさぼっている、うらやましい客が。いや、夢をむさぼったまま、何者かに殺害されてしまうとしたら、うらやむどころではないが。
床に這った四人のうちの誰かが、半ば意識をとりもどしたようにうめき声をたてた。
「うるさいわね、さっさと地底へお帰り!」
涼子が吐きすてたところを見ると、よほど「怪奇・十二日の木曜日」の最終回に未練があるらしい。
「逮捕しないんですか」
「あんな小物にかまっている暇はないわ。どうせ逃げられやしないんだし、免許証だけとりあげておいて」
両手の埃《ほこり》を払う動作を、涼子はしてみせた。
「後日、所轄のほうにまわして、たっぷりいじめてもらうとしましょう。ついでに公務執行妨害もつけ加えてあげようじゃないの」
涼子の後について、私も二〇〇八号室を出た。何だか犯罪捜査官というより、押しこみ強盗になった気分であった。
X
午後一〇時すぎ。小康状態がつづいている。あるいはベイシティプラザの周囲に機動隊が忍び寄っているのかもしれないが、まだ突入してくるような状態ではなさそうだ。TVもまだバラエティ番組やドラマを放映している。警察としては、事態の重大さに気づいて青くなり、必死に対策を立てつつマスコミに知られぬよう苦心している、というところだろうか。
私の上司が椅子の上で、まことに挑発的な脚を組みかえた。
「この二時間におこったことを小説にしたら、スティーヴン・キングなら一〇〇〇ページくらい使ってるわね。そう思わない?」
「そうですね。でも私はあまりキングは読みませんので」
ホテル棟のティーラウンジである。テーブルの上に、私はクーンツの文庫本を置いた。涼子の視線が文庫本の表紙をひとなでして、私の顔に移動する。
「へえ、すると泉田クンは『愛と正義はかならず勝つ』のハッピーエンドが好きなの?」
「そういうわけでもありませんが、クーンツは、後味の悪さと文学性の高さを混同するようなことはありませんからね」
「キングのファンが聞いたら怒るわよ」
「べつにキングを誹《そし》ってはいませんよ。一般論にすぎません」
涼子は好奇心らしきものをこめて私を見やった。組みかえたばかりの脚をまた組みかえると、
「君は大学はたしか英米文学科だったわね」
「ええ」
「何で警察官になったの?」
「わかりませんか」
「警察ミステリーの読みすぎ?」
「正解です」
私の返答がごく短いので、涼子は気にくわなかったようだが、ちょうどそこへウェイターがやって来て、もったいぶった手つきでメニューを差し出した。
「お客さまにはスコーンにバニラクラレットティーなどいかがでしょうか」
「バニラ……何?」
「バニラ、赤ワイン、オレンジジュースをいれたお上品な紅茶でして」
チーフウエイターの声を、涼子の一喝《いっかつ》がたたき消した。
「そんなもんで腹に力がはいると思う? カツサンドかアメリカンクラブサンドに、コーヒーを持っておいで!」
涼子はダイエットなどしない。その必要もなく、完璧なプロポーションを保っている。よく活動して代謝《たいしゃ》しているからだろうし、たぶんそれ以上に、彼女のテンションを維持するため多大な栄養が必要なのだろう。何しろ、「めざせ、エカテリーナ女帝!」だから。
ウエイターは飛ぶように姿を消した。
「食欲がありますね」
「食欲はあたしの唯一の欲だからね」
「はあ、唯一の……」
「あたしは無欲な人間だからね。欲ばりどもみたいに、世界を平和に、とか、全人類を幸福に、なんてだいそれたことは願わないの。あたしひとりが幸福なら、それ以上のことは要求しないわ。謙虚でしよ?」
「そういうの、無欲とか謙虚とかいうんですかね」
武則天やエカテリーナ二世を理想とする女性が無欲だとは、とうていいえないだろう。
涼子はうそぶいた。
「アドルフ・ヒットラーの売り文句は、『世界に恒久的な平和と秩序を』だったのよ。何千年もみんなで努力して実現すべきものを、自分一代でやってやろうなんて強欲もいいところよ」
それ以上、私は論評しなかった。
ティーラウンジを出て管理センターへと歩き出したとき、悲鳴をあげて廊下へよろめき出てきた人影と衝突しそうになった。三〇代後半かと思われる女性だ。足をもつれさせ、床に倒れこみそうになるのを、間一髪でささえる。彼女のスーツの胸に名札があった。「湾岸美術館キュレーター村野《むらの》」とある。ベイシティプラザの中に開設された美術館のスタッフらしい。
鋭く涼子が声をかけた。
「警視庁刑事部の薬師寺といいます。何があったの?」
「あ、あれを見てください」
キュレーターの慄《ふる》える指が美術館の室内をさししめす。その方向へ視線を走らせて、私は意外な思いがした。何しろ今夜の経験のかずかずからして、床には血が流れ、不幸な人々の死体がころがっているものと思いこんでいたのだ。だがなめらかな大理石の床は、清掃がいきとどいており、血や死体どころか塵《ちり》ひとつとどめていないかに見えた。
ハイヒールのひびきを高々とたてて、涼子が室内へ歩んでいく。もちろん右手にはコルト三二口径がにぎられていた。私があわてて後を追うと、正面をさえぎる隔壁をまわった涼子の声が聞こえた。
「あらあら、すっかり切り裂かれてる。これはひどいわね」
つづいて私の視界に飛びこんできたのは、壁に並んだ絵である。いや、かつては絵であったろうが、すべて引き裂かれ、破られて、額縁《がくぶち》にかこまれた画布《キヤバス》の残骸と化していた。左を見ても右を見ても、正視に耐えない惨状である。床にへたりこんだキュレーターをかえりみて、涼子が散文的な質問を発した。
「この部屋に展示されている絵画の価格を合計すると、どれくらいになるの?」
「一枚一億円未満のものはありません。おおざっぱに見て、一〇〇億円は下らないでしょう」
キュレーターの声はわなないている。美術的な価値など私にはわからないが、金額を聞いて心臓が体内でスキップした。涼子のほうは、私のように小市民的なおどろきなど感じなかったようだ。むぞうさに一枚の絵を額縁ごと壁からはずすと、引っくりかえして裏面を確認した。
「額縁が裏からたたき割られてるわ。ずいぶん器用で面倒なことをしてるわね」
涼子の示唆《しさ》したことが私にもわかった。
すべての絵は、裏側から破かれていたのだ。壁に密着していた裏側から。
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第四章 トラブル・イズ・パラダイス
T
美術館を出たときは一〇時半をすぎていた。館長は京都に出張中ということで、出勤しているスタッフを集め、被害状況の正確な調査をした上で被害届けを提出するよう女性キュレーターに指示した。それ以上はさしあたって、私たちにできることは何もなかった。
廊下を歩きつつ、涼子が問いかけてきた。
「いまでも今夜の件を愉快犯のしわざだと思う?」
「ええ、美術館のあの惨状を見ればね、ますますその感が深まりますよ」
私たちは、犯人を探してくれないのか、と詰《なじ》られたが、涼子は「明日までお待ち」といってしりぞけた。スタッフに対する事情聴取も簡単に切りあげてしまったのである。何か考えついたことがあるようだった。
「じゃもうすこしくわしく話してみなさいよ」
「頭がいい、というより狡猾《こうかつ》というべきかもしれませんね。一方で、理非《りひ》善悪の区別がつかない。人を恐怖させ、おもしろがっています。ビルの機能を大混乱におとしいれながら、TVなどはちゃんと映るようにしている。ビル内にいる人たちは、TVを通じて、いずれ自分たちの状況を知ることができるでしょう。ですが電話は通じないから、自分たちの状況を外部に知らせることはできない。焦《あせ》りと不安が高まる。パニックの発生を、わくわくしながら待っているように思えますね」
長々としゃべって口を閉ざすと、二秒半の間を置いて涼子がいった。
「いい線をいってるわね」
私は耳をうたがった。何と「ドラよけお涼」でも他人をほめることがあるのか。私がアイマイに「どうも」と応じると、涼子は指先で耳タブをかるくつまんで話をつづけた。
「ま、あたしの部下なんだから、そのていどの推理はしてもらわないとね。それにしても大きな問題が残ってるわ」
「美術館の絵が全部、裏側から破られていたことですか」
「そう。名探偵の見解は?」
「私は単なる助手Aですが」
答えると同時に、私の上半身は前のめりになりかけた。いきなり涼子が私のネクタイをつかんで引っぱったのである。
「何よ、かわいくないわね!」
私は怒ってもよいはずだったが、めんくらって涼子の顔を見ただけだった。涼子は、たぶん私のマヌケな表情が不満だったのだろう。邪慳《じゃけん》に手を離すと、「もういい、ひとりで考えるから」といいすて、ひときわ高くハイヒールを鳴らして歩き出した。私は追うに追えずその場に立ちつくしたが、不意に粗野《そや》な声をかけられた。
「おい、君、君は警察の人間だそうだな。ひとつ聞きたいことがある」
振り向くと、立っていたのは、初老の男だった。TVで何百回も見た顔だ。名は何とかいった――憶《おぼ》えていない。
この男の肩書は政治評論家で、TVの討論《卜−ク》番組の司会をやっている。本人は「海外通」だの「国際派」だのと自称しているが、まったくの嘘である。この男は何かというと他人に指を突きつけるが、それはヨーロッパやアメリカではとんでもない非礼で、けんかを売っているも同様、殴られてもしかたがない行為だ。平然とそれをくりかえしているところを見ると、忠告してやる友人などひとりもいないらしい。彼は猛然とまくしたてた。
「これはどういうことなんだ。警察は何を隠してるんだ。我々には知る権利があるし、君たちには知らせる義務があるだろう!?」
一般的にはまったくもってそのとおりだが、この男の金属的な高音で詰め寄られると、生理的な反感が先に立つ。
「申しわけありませんが、上司の許可がないとお答えできません」
「いちいち上司に相談しなきゃ何もできんのかね。人をこんなところに閉じこめておいて」
「おそれいります」
「君みたいな下《した》っ端《ば》におそれいってもらったって、何の役にも立たんよ。ボクはね、一時間を浪費すると三〇〇万円の損失になるんだ。TV局にも講演会にも毎日、出かけてる。何百万人もの市民が、ボクの話を聞きたがってるんだ。どうしてくれるんだね!?l
この男を私が引きとめているわけではない。さっさと出ていってもらいたい、と、心から思っている。だがそう口に出すわけにはいかなかった。私は薬師寺涼子ではないのだ。もし私が薬師寺涼子だったら……。
「うるさいわね、オジサン。ほんとにあんたが大物だったら、下っ端をいじめたりしないで、一番上の人間に抗議なさいよ。ほんとにスケールの小さい男だこと。きっと脳ミソもアソコも小さいんでしょ!」
幻聴かと一瞬、思ったのだが、その声は私以外の者にも聞こえたようだ。評論家氏の顔色が変わった。音をたてないのが不思議なほどの変わりようである。私は振り向いて、声の主を見た。薬師寺涼子は腕を組んで評論家氏をにらみすえていたが、私と視線をあわせると、叱《しか》りつけた。
「礼儀なんてものは、礼儀正しい相手に対してだけ守っていればいいのよ。失礼な奴には失礼で応じなさい。わかった、助手A?」
「い、いったい君は何だ」
評論家氏はお得意のポーズをとった。右手の指を涼子に突きつける。その手首をいきなりつかむと、涼子はかるく自分の手首をひねった。
「おみごと」
私はつぶやいた。評論家氏の身体は宙に舞い、重力の見えない手に引かれて床に落ちた。涼子としてはそれでも手かげんしたにちがいない。
「人に向かって指を突きつけるような無礼者は、いつかこういう目にあうのよ。以後つつしみなさい!」
涼子は厳然《ゲンゼン》として忠告したが、評論家氏は床の上で目をまわしていたから、たぶん聞こえなかっただろう。呆然と立ちすくんでいた取り巻きたちが我に返って涼子に詰《つ》め寄ろうとした瞬間、一〇メートルほど離れた場所で天井のガラスが割れた。
ガラスの豪雨が人々の頭上に降りそそぐ。ガラスが床に落下する音と、傷ついた人々の悲鳴とがかさなりあって、ホールは異様な音響に満たされた。
「よくまあ、いろいろとやってくれること」
涼子は舌打ちしたが、自分のやるべきことは忘れていなかった。
「そら、いまのうちよ!」
涼子と私は、卑劣にも、混乱にまざれて現場から逃げ出したのであった。一分ほど走って、エントランスホールに出る。疲れはて、不安そうにすわりこんでいる人々の間を歩いて、観葉植物の大きな鉢が並んだ一隅に立った。
「お礼は?」
いきなり涼子がいったので、私はまばたきした。
「は?」
「急場を助けてあげたでしょ、お礼は?」
「あ、どうも、おかげで助かりました、と、そういうんですか?」
「いわない気なの? 感謝してないの?」
「しないとはいいませんよ。ですがね、どうせならべつの方法で助けてほしかったな」
「生意気《ナマイキ》な! どんな方法でよ」
「理性的に説得するんですよ。自分たちにも事態の全貌《ぜんぼう》はつかめていない、できるだけ冷静に待機していてほしい、とか……」
涼子は両手を腰にあてると、頬を紅潮させて叫んだ。
「へえ、自分にできないことを他人に要求するの、そんな人間だったの、君は!」
「そうじゃありません。無用に敵をつくることはないといってるんです。あんな奴には、私が頭をさげてればすむことなんですから」
「何いってんの。君はあたしにさえ頭をさげてりゃいいのよ!」
やや理解困難な台詞なので、私は無視することにした。
「みんな外に出たいんです。それができないんでイラついてるんです。多少のことなら私は我慢しますよ」
「そんなに外に出たいのなら、二階から上の窓ガラスをたたき割って飛びおりればいいのよ。とめやしないから」
「とめないわけにいきませんよ」
「どうして? 日本は自由主義国家よ。自分の生命を粗末にするのも、人それぞれの自由じゃないのさ」
涼子の声が次第に大きくなる。
「だいたい、死にたがるふりをして説得してもらおうなんて甘ったれた奴を、助けてやるような暇、警察にはないッ! 死にたくないのに殺されてしまった人たちの仇を討つだけで手いっぱいなんだから!」
床にすわりこんだり壁に寄りかかったりしていた人々が、おどろいて私たちに視線を向ける。私は閉口した。と、前方から三〇人ほどの男女が何やら不穏なようすで押しあいつつやって来る。声高な会話が耳にはいった。プールサイドパーティーを開く予定が、水温も水位もボタンひとつで調節できるインドアプールが閉鎖されたといって怒っているのだ。これさいわいと私は話題を変えた。
「こんな状況でもプールで泳ぐような人たちがいるんですねえ」
「そりゃいるわよ。プールで泳がないでください、という館内放送はなかったもの。明確に禁じられないかぎり何をやってもいいんだ、という社会の風潮はナゲかわしいかぎりだわ」
涼子にナゲかれるようでは、社会の風潮とやらもおしまいである。
プールサイドパーティーを開きそこねた一団は廊下にひしめいて私たちの前方をふさぐ形になった。涼子が一喝して追い散らすかと思ったのだが、ドラよけお涼でもそんな気にならないときもあると見えて、横あいの通路にそれた。私はつづこうとして一団にさえぎられ、彼らが通過してから見てみると、涼子を見失ってしまっていた。
U
涼子と私と、どちらが年甲斐もなく迷子になってしまったのか。苦笑しつついったんホールにもどろうとすると、岸本警部補がなれなれしげに近づいてくるのに出会った。
「何だ、呼んだおぼえはないぞ」
「冷たくしないでくださいよ。ボクのこと、薬師寺警視から聞きませんでした?」
「お前さんが毎晩、レオタード戦士の等身大のお人形さんを抱いて寝てる、という話なら聞いた」
「いいじゃないですか! 誰に迷惑かけてるわけでもなし、プライバシーですよ」
一瞬むきになった岸本だが、すぐにけろりとした表情になる。
「ま、何にしても、泉田センパイとは仲よくさせていただきたいですね」
「センパイと呼ぶなといったろう。第一室町警視の下にいながら、他人の上司に忠誠を誓うとはどういうことだ。知れたらコトだと思わんか」
いっこうに岸本は動じない。
「何だ、やっぱり知っているんじゃないですか。ベつに何の問題もありませんし、恥じいる必要もありませんよ」
「どういう論理でそうなる?」
「ボクが忠誠心をいだく対象は警察全体であり、ひいては日本国家です。室町警視個人ではありません。そもそも上司個人に対して忠誠心をいだいたりするのは、派閥の発生につながりますよ」
「なるほどね、そう来たか」
「だいたい泉田サンだって、薬師寺警視個人に忠誠心をいだいたりはしてないでしょう」
岸本は軽薄そうな笑いかたをした。あるいは軽薄をよそおっているのかもしれない。いずれにしても、私は、このエリート青年をうかつに信用するつもりはなかった。
「おれは室町警視の手先になって薬師寺警視のことを探ったりはせんぞ。お前さんといっしょにするな」
「泉田サンはいい人ですね。あ、そんな目つきしないでください。泉田サンが強いことはよく知ってます。仲よくしてくださいよ」
いいながら岸本はすばやく一歩きがった。
「あと何年かたてば、ボクが泉田サンの上司になるかもしれないんだし」
反論する気にもなれない台詞だった。私は肩から力を抜き、踵《きびす》を返した。まったくとんでもない夜だった。薬師寺涼子より不愉快な人間につぎからつぎへと出会うとは。
歩きながら涼子の姿を探したが、見あたらない。どうせ外へ出られるはずはなし、そのうち「助手A! どこをうろついていたの」とどなりながら出現するだろう。私は上司のほうに部下を探させることにして、ホテルのフロントへと足を運んだ。
中年のベルマンがすばやく私の姿を認めて、歩み寄ってきた。川名英二という麻薬常用の若者から逃げ出した少女をかくまった人だ。おだやかに微笑をたたえて一礼する。
「ご苦労さまです、刑事さん」
ごくあたりまえの挨拶《あいさつ》が私をほっとさせた。
「例の少女はどうしています?」
「シャワーをあびさせて、あたたかいミルクを飲ませました。いま空《あ》いている客室で寝かせております」
「それはお手数をおかけしました」
私は恐縮した。加害者どもは報《むく》いを受けたが、被害者の救済には隣人の善意というものが必要不可欠である。その少女にとっては、そういう善意に接することができて、不幸中のさいわいだろう。
「いえ、こちらこそ刑事さんたちのお手をわずらわせまして」
「公僕《こうぼく》ですから当然のことです。じつはちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」
そして私はベルマンに問いかけた。どんなくだらないことでもいい、このビルに関して奇妙な噂を聞いたことはないか、と。
「じっは妙な噂を耳にしたことはございます」
ベルマンの口調はひかえめだったが、岸本の一万倍くらいは信用できそうだった。
「もしかして、壁の中に何かいる、というような噂ではありませんか」
私が身を乗り出すと、ベルマンはゆっくりと首を横に振った。
「すこしだけちがいます」
「といいますと?」
「壁だけでなく、床にも天井にもです」
「くわしく話してくださる?」
割りこんできた声の主は、振り向かなくてもわかった。ベルマンの態度には変化がなかった。
「何だか他人に見られているような気がする。最初はそれだけのことでした。そのうち閉ざされた客室の中で、家具がひっくりかえされたり壊《こわ》されたりしはじめました。お客さまから苦情が出ましたが、宿泊料をただにするとか、そういうことでご勘弁いただいているうちに……」
「客商売だから、変な噂が流れてはこまるものね。このビルの大理石は、どこで採掘されたの?」
「たしかトルコから最高級の石を輸入したと聞いております」
トルコと聞くと、私は、自分の舌と胃に甚大《ジンダイ》な損害をおよぼした宮廷料理のことを思い出してしまう。むろん料理に罪はない。巨大科学も宗教も同じだと思うが、罪は常に人間にある。
「トルコの北のほう?」
「さあ、そこまでは存じません」
「高市サンならご存じかしら」
「理事長ですか。たぶん。このビルを建てるにあたって、何ごとも専門家まかせにはなさらなかったようで」
涼子はうなずく。その横顔を見て、私はいささか落ち着かなかった。先ほどの岸本の表情と台詞を思い出したのである。岸本みたいな奴を信用するな、といってやりたいが、よけいなお世話というものだろう。べつに私は涼子を案じているわけではない。岸本ごとき奴に涼子がしてやられるようなことがあっては、ドラキュラ伯爵が気の毒だからだ。何しろ涼子は「ドラキュラもよけて通る」女なのだから。
「どうもありがとう、参考になったわ」
涼子がいうと、ベルマンはもう一度おだやかに笑って一礼し、自分の持ち場へと帰っていった。涼子が咎《とが》める目つきで私を見た。
「だめじゃないの、あたしから見えない場所にいたら」
「はあ、すみません」
「いつ何がおこるかわからないんだから、そばを離れないでよ!」
そこへ勢いよい靴音がして、女性のきびしい声が投げつけられてきた。
「薬師寺警視、ちょっと尋ねたいことがあるんだけど」
今度は室町由紀子である。眼鏡《メガネ》の奥から、警察官というより生活指導の女性教師みたいな目が私たちをにらんでいた。正確には、にらまれているのはあくまでも涼子で、私は単なるオマケであるが。
V
「ホテルの二〇〇八号室で……」
そう室町由紀子は告げた。
「やたらとハデな女刑事と、背の高い男の刑事とが、無法のかぎりをつくして立ち去ったそうだけど、あなたたちではないの?」
まさしく私たちだ。正確にいえば、無法のかぎりをつくしたのは涼子で、私は見物していただけだが、制止しなかったのだから同罪といえば同罪である。私は答えた。
「二〇〇八号室では麻薬の常習者たちが未成年の女の子に暴行を加えていたんです。被害者の通報でただちに駆けつけ、証拠品を押収しました。それだけのことですが」
「やりすぎはなかったの?」
「ありません」
「お涼をかばってるんじゃないでしょうね」
「お涼、じゃない、薬師寺警視がやりすぎたのなら、死者が一ダースぐらい出てますよ」
私がいうと、あきれたように室町由紀子は私を見やった。
「ちょっと、泉田警部補、大丈夫? 何だかお涼に洗脳されたみたいな台詞だけど」
「陶冶《とうや》といいなさいよ」
涼子が、豊かで張りのある胸をそらせた。脚と同様、ご自慢の胸だ。
「薫陶《くんとう》でもいいけどね。とにかく偉大な人格というものは、周囲に光を投げかけるものなのよ。ま、あたしが太陽で泉田クンは惑星《わくせい》というところね」
「とにかく、泉田警部補」
と、由紀子はもはや涼子を無視することにしたようだ。
「二〇〇八号室に宿泊していた川名という客から抗議が来てるの。あなたたちふたりに不当な暴力をふるわれた、謝罪を要求する、場合によっては告訴するってね」
「KOKUSO?」
思わずローマ字で声を出してしまった。「自分が煙草《タバコ》をやめられないのは煙草会社が悪いのだ」といって裁判をおこした人物がいたが、それ以来の珍事のように思える。
「身のほど知らずね」
涼子がせせら笑った。
「こんな狂った世相だから、『麻薬を常用するのも少女を暴行するのも市民の当然の権利だ』といいだす弁護士や新聞が存在してもおかしくないけど、お由紀、あんたもそんなアホどもに加担《かたん》する気なの?」
由紀子は酢を飲んだような表情で、
「問題はあなたたちが彼に暴力をふるったかどうかなのよ。どうなの、彼を殴ったり蹴ったりしたの」
「とんでもない」
「ほんとうに?」
「あたしはただ踏んづけてやっただけよ。奴の薄ぎたない欲望の根源をね」
反省するどころか、誇らしげに、涼子はハイヒールをはいた右足を上げてみせた。
「あたしの脚は、ただ観賞するためだけのものじゃないんだから。悪を蹴散らし、邪を踏みつぶす正義の脚なのよ!」
「だったら自分で自分を踏んづけたらいかが」
吐きすてて、由紀子は私に向きなおった。
「上司の暴走を諫止《かんし》するのも部下の役目でしょう。むし返すようだけど、泉田警部補ともあろう者が、何で手をこまねいていたの?」
「評価していただいてありがたいのですが、市民運動のデモに暴力をふるったわけではありません。今夜の場合、二〇〇八号室の客たちは、あのていどですんで幸いですよ」
「それでこそ、あたしの弟子《デシ》だわ」
涼子は満足そうである。私の肩書がまたひとつ増えたようだ。由紀子は深い深い深い溜息をついた。
「朱にまじわれば赤くなる。よくいったものだわ。ノンキャリアでありながら将来を嘱目《しょくもく》されていた泉田警部補も、今ではすっかり、ドラよけお涼の従順な子分というわけね」
私が薬師寺涼子の部下になったのは、自《みずか》ら志願してのことではない。押しつけられた人事の結果である。私はひややかに答えた。
「よけいなお世話です」
「そうよ、よけいなお世話よ!」
「薬師寺警視は黙っていてください。事態が険悪になりますから」
「何いってるの。もともとあたしの問題でしょ。あたしが、自分のやったことを部下のせいにすると思ってるの!? あたしは大蔵省や厚生省の役人じゃないわよ」
涼子の声に室町由紀子は答えず、視線を横に動かした。人影が近づいてきた。川名英二だった。
「そうだ、この女だ」
うめいた男は、半ば腰をひいたなさけない姿勢で立っている。顔は苦痛と憎しみにゆがんでいた。涼子のハイヒールで踏みつけられた股間が、よほど痛むのだろう。私はすこしも同情しなかった。
「ちくしょう、お前なんか警察をやめさせてやる。社会から葬《ホウム》ってやるからな。おぼえてろよ」
「やってみなさいよ、自力で。それともダディに泣きつくの?」
涼子のせせら笑いに、重厚な声がかさなった。
「私をあてにしてもむだだぞ、英二」
「ダディ……!」
川名英二が立ちすくんだ。私たちの視線の先に、高市理事長がいた。信じられぬ思いで、それでもようやく私は尋ねた。
「あの川名英二という人物は、ほんとうに理事長のご子息なのですか」
「そうです」
他にどういう欠点があるにせよ、高市は、堂々として悪びれない男だった。他人を犠牲にするときにも、堂々として悪びれないことだろう。
「失礼ですが、苗字《みょうじ》がちがいますね」
「私は一度、離婚しましてね。英二は妻の、つまり英二にとっては母親の姓を名乗っております。英二《あれ》にとっては、つごうのいいことでしょうな」
「つごうといいますと?」
「自分が努力も成功もしないことを、両親の離婚のせいにできるからです」
思わず私の視線は川名英二のほうへ動いた。実父から冷然と侮蔑された若者は身体を慣《ふる》わせていたが、それが怒りのためか絶望のためかはわからなかった。はじめて私は、この若者にわずかな同情を感じた。
「両親の離婚のせいだけですの?」
涼子の質問は平凡なようだが、皮肉っぽい口調からしても、意図は明らかだった。威圧的な父親の存在そのものが、ひ弱な息子にとって重荷だったのではないか、というのである。
「さて、英二に他の言分《いいぶん》があるとすれば、当人に尋ねていただきたいものですな。もう二〇歳をすぎているのです。質問に答えるていどのことはできるでしょう」
「ふざけるな、バカ野郎!」
怒声があがった。まるで創造力とは無縁の罵言《ばげん》を放ちながら高市につかみかかったのは、むろん川名英二である。彼の手が父親のスーツの襟《えり》にかかった瞬間、涼子が「正義の脚」を勢いよくはねあげた。ハイヒールの尖端が後ろから川名の股間に埋まった。私はいまや心からの同情をおぼえながら、悶絶した川名が深海魚のように平べったく床に這うのを見やった。
平然として、高市はスーツの襟元をなおした。
「どうも醜態をお見せしました」
高市は頭をさげたりはしなかった。むしろ由紀子のほうがかるく狼狽《ろうばい》して、まがってもいない眼鏡をなおしながら応じた。
「あ、いえいえ、どうも思いがけないことで、何と申しあげてよいか……」
「それでは、あとはおまかせします。私はベイシティプラザ、いや、湾岸開発事業団理事長としての責任がありますので、個人的な事情にかかずらう暇はありません」
「ではご子息は……」
「現行犯とあっては、事実関係をあらそう余地もありませんな。末成年ではあるまいし、自分で法的責任をとるでしょう」
「にべもない」とはこのことだ。さすがに室町由紀子も当惑しきったようすで、いかに応じるか考えこんだ。わが上司の薬師寺涼子はといえば、ハイヒールの爪先で不幸な川名英二の身体をつついてつぶやいていた。
「しぶといわね、まだ生きてるわ」
W
気絶したまま川名英二はホールから運び出された。運んでいったのはベイシティプラザのスタッフたちで、医務室で治療するということである。それを見送った室町由紀子は、振り向くなり涼子を糾弾《きゅうだん》した。
「やりすぎよ、わかってるの? 川名英二の言分《いいぶん》も聞かないで……」
「オホホホ、充分聞いたわよ。負け犬の泣言《ナキゴト》ほど耳にこころよいものはないわ。それを聞きたくて、あたしは警察官になったのよ。さっきはホント、いい気分だったわね」
「あなた、自分が負け犬になっても同じことがいえる?」
「あら、ご心配なく。あたしは負けたりしないもの。まして相手があんたじゃね。最初から負けないってわかってるのも案外つまらないものね」
「その台詞、忘れないでよ」
「忘れるわよ。いちいち憶えていられるわけないでしょ。あたしは過去にこだわらない女なんだから」
このふたりも、大学生時代からよく飽きないものだ。ひとつ頭を振ったとき、私は声をかけられた。
「あの、警察の方でしょう。いったいどういうことになってるのか教えていただけますかしら」
声の主は桜色の高価そうな和服を着た初老の女性であった。痩せ型で上品な印象。同じ質問でも先ほどの評論家氏とはえらいちがいだ。だが同じぐらいの有名人だった。こちらは私も名をおぼえている。たしか浅井京華《あさいきょうか》といった。
彼女は作家である。作家にもいろいろあるが、彼女は「論」を書く人だった。恋愛論、青春論、人生論といったものを書いて、ベストセラーをつぎつぎと出している。たしか昨年、「愛の真実」という本を出して一〇〇万部売り、今年は「真実の愛」という本をやはり一〇〇万部売った。たぶん来年は「愛の愛」か「真実の真実」を出すのだろう。
そう思っていると、気づいた涼子が声をあげた。
「あら、『いつわりの愛』をお書きになった浅井先生。いえ、『愛のいつわり』でしたかしら」
浅井京華女史が立ちすくむ。私は涼子の端麗すぎる横顔を見やったが、単純なまちがいか、故意のことか、判断がつかなかった。
「いつも警察の味方をしてくださってありがとうございます。お世話になってますわ、オホホ、あたし警視庁刑事部の者ですの。|これ《ヽヽ》はあたしの部下ですわ」
これ《ヽヽ》とはむろん私のことだ。浅井京華女史はかろうじて態勢を立てなおした。
「アナタ、ほんとうに警察官でいらっしゃるの?」
「あら、スーパーモデルかハリウッド女優に見えます?」
「いえ、まあ、あのね、あまりにもハデでいらっしゃるから、その、公務員としてはね」
「ご心配なく。お偉方みたいに裏金《ウラガネ》でも賄賂《ワイロ》でもなく、自分の資産で買いそろえた服装ですから。オホホホホ」
すっかり毒気にあてられた態《てい》で、浅井女史はわざとらしく咳《せき》ばらいした。
「あたくし日ごろから警察の首脳部のカタガタと親しくさせていただいておりますけど、アナタのようにユニークなカタがおいでとは存じあげませんでした。警察ってズイブンと自由な組織ですのね」
「あら、それは過大評価ですわ。あたしは特殊なんです」
感心なことに、いかに薬師寺涼子でも、そのていどの認識はあるらしい。すかさず口をはさんできたのが室町由紀子である。
「そうです、浅井センセィ、この女はきわめて特殊、異常な例ですので、どうか誤解なさらないでください」
「あら、室町サン、おひさしぶりね。お父さまにはこの前お会いしたけど、お嬢さんのご活躍を喜んでいらしてよ」
なるほど、浅井女史は室町由紀子の人脈につながる人物らしい。それを知っての上で、涼子は、先ほどどうやらイヤミをいったらしかった。それとも、警察で冤罪事件だの裏金《ウラガネ》づくりだのの不祥事がおこるたびに浅井女史が警察の味方をしているのが気にいらないのか。「ドラよけお涼」は自分には甘いが、警察組織全体に対しては厳しいのだ。お涼とお由紀がにらみあう間に、私は先ほどの自分の意見を実行した。浅井女史に対し、ていねいに事情を説明して自制を求めたのだ。うなずいて聞いていた浅井女史は、いきなり質問してきた。
「刑事部長と部長刑事って、どっちのほうがえらいんですの?」
「はあ?」
「ずっと気になってたのよ、教えてくださらない?」
「刑事部長のほうが、ずっと地位が上ですよ。各都道府県にひとりずつしかいませんからね。部長刑事というのは、刑事捜査にあたる巡査部長ってことです」
私自身、一昨年まで部長刑事だったのである。浅井女史はうなずくと、口を半ばすぼめ、ことさらに低い声で話題を変えた。
「大の男なのに、年下の女に顎《あご》で使われて不愉快でしょうねえ」
「べつにそんなことはありませんが」
「あらま、つらい立場ね。あんなケバケバしい尻軽《シリガル》女でも上司は上司ですものね」
「そういういいかたは不愉快です。とりけしてください」
私の表情と口調に鼻白《ハナジロ》んだらしい。浅井京華女史は表情をとりつくろうと、私から離れて歩き出そうとした。涼子の声が飛んだ。
「お待ち、そこの反美人!」
空気が帯電した。
浅井京華女史はそのまま三歩あゆんで、四歩めに振りかえった。自分が何と呼ばれたか理解するのに、それだけの時間が必要だったわけである。歩み寄ってきた涼子に、
「い、いまのはあたくしに向かっておっしゃったの?」
「他に誰がいるっていうのさ」
浅井女史はあえいだ。
「あ、あたくしに向かって。かつて文壇一の美女といわれたあたくし、良識派の、しかもベストセラー作家であるあたくしに向かって。文化庁長官や参議院議員の声もかかっているあたくしに向かって……」
「良識派が、自分で自分のことを良識派だなんていうわけないでしょ。ケバい尻軽女? 人を外見だけで判断する、どこが良識派なのさ!」
室町由紀子が、救いの神を演じようとした。
「ちょっと、いいかげんになさい。この人は警察にとってもたいせつな文化人なのよ」
「うるさいわね。あんたは役場ぐるみで裏金づくりにはげんでるようなケチくさい町で、助役をやってればいいのよ!」
「神聖な地方自治をバカにするの?」
「あんたをバカにしてるのよ。べつに地方自治をバカにしてやしないわよ」
「あのー、よろしいですか、薬師寺警視」
私は呼びかけた。ふたりとも警視で参事官だから、名を呼ばないと区別ができないのだ。不機嫌そうに、わが上司は振り返った。
「何よ、いまだいじなところなんだから」
「あれを見てください」
私は床の一点を指さした。そこには古風な葡萄唐草《ぶどうからくさ》模様のカーペットが敷かれている。そのカーペットが大きく小さく波打っていた。そのことに気づいた人々が悲鳴をあげてとびのいた。
X
涼子も由紀子もさすがに沈黙して、あるはずのない光景を見やった。カーペットの揺動《ようどう》する波は、スビードをあげて私たちの方角へ奔《はし》ってくる。
「な、何かいる、カーペットの下に……!」
けたたましい悲鳴が連鎖して、和服を着た初老の女性が転倒する。浅井京華女史である。誰も助けようとしないので、しかたなく私が飛び出し、和服の襟と帯をつかんで、カーペットの敷かれていない場所へ引きずり出した。
カーペットが大きく波うった。何とも形容しようのない音がして、カーペットが裂けた。繊維が弾《はじ》け、飛び散った。浅井女史のはいていた高価そうな草履《ぞうり》が宙に飛ぶ。瞬間、私は見たような気がした。クモともサソリともつかない多足動物の大きな影を。だが、二度、三度と裂けたカーペットが波打って静まると、あとには、そらぞらしいほど滑《なめ》らかで光沢《こうたく》のある大理石の床が、裂け目から見えるだけであった。
浅井女史がヒステリックに喚《わめ》きたてるのを、由紀子がなだめる。涼子は「あんなの助けることないのに」といいたげだったが、めずらしく口には出さなかった。騒ぎが一段落したところで、私たちは警視総監のところに行った。事情説明の後、由紀子が提案する。
「わたしが脱出して何とか外部と連絡をとってみます」
「いや、いかん」
総監が頬の肉を揺り動かした。
「危険だし無謀でもある。冷静に外からの救援を待つべきだ。そう長いこともなかろう」
「そうおっしゃいますけど、警察の関係者が二〇〇名もいながら、手をこまねいて傍観していたとあっては、後になってマスコミに何といわれるかわかりませんわ」
すると涼子がまたよけいな口をはさんだ。
「マスコミにはいわせておけばいいのよ。連中はそれが仕事なんだから。マスコミが警察の悪口をいわないのは独裁国家だけでしょ」
「それとこれとはべつよ。警察が不当な評価を受けてもいいの?」
「べつに。あたしさえ正当に評価されれば充分よ。あたしは無欲な女だもの。ね、泉田クン」
同意を求められては迷惑だ。それよりも、当然のことを私はつい忘れていた。警察庁長官や警視総監には|S P《セキュリティポリス》、つまり警視庁の警護課員がついているのだ。彼らは拳銃を所持しているし、格闘技に関しても実力者ぞろいのはずである。長官や総監を守るのは他のお偉方にまかせて、一般市民の保護にまわってくれないものか。でしゃばりかとも思いつつ提案してみた。
「何をいってるんだね、君! 長官や総監の身に何かあったらどうする。だいたいSPというものは……」
警務部長の声である。さすがに警視総監が苦笑した。
「そう本末転倒のことをいってはいかんよ。まず市民の安全だ。といっても、すでに何十人もの死傷者が出てしまったが、ここにいる者の半数ぐらいは部屋を出て活動してもよかろう」
「ですが……」
そこでまたお偉方の議論がはじまったので、涼子は行儀悪く舌打ちし、私をうながして部屋を出た。
巨大なビルの中に一万人からの男女がいるのだ。行動を統制するなど不可能である。もともと日本人は世界でもっとも従順な国民だなどといわれるが、犯人の姿も見えず、外部の状況もわからず、救出の見こみもたっていないというありさまで、いつまでもおとなしくしているはずもない。
「責任者は何とかしろ!」
という怒声《どせい》だけですんでいるのは、むしろ幸運というべきであろう。問題は、責任者は誰か、ということだ。どういう形で事件が終わるかわからないが、終わった後、ベイシティプラザの経営母体である湾岸開発事業団と警察との間で、責任のなすりあいがおこることは明白すぎるように思われた。
「あーあ、まったくトラブルの多い夜ね」
涼子がかるく伸びをした。トラブルのほとんどに彼女がかかわっていることは自覚していないらしい。もっとも私自身、評論家氏や浅井京華女史とのトラブルにかかわったから、とやかくいう資格はないだろうが。
ホールに置かれた大画面TVの前に、人々が群らがっていた。民間放送の夜のニュースショーの最中だったが、もったいぶった中年のキャスターが話しているところだ。
「たったいまニュースがはいりました。湾岸副都心のベイシティプラザで何か事件が発生した模様です。湾岸署だけでなく、警視庁の動きがあわただしくなっているようですが、くわしいことはまだわかりません。ただいま当放送局のレポーターもベイシティプラザに向かっておりますので、あたらしい情報がはいり次第、視聴者の皆さまにお伝えいたします……ではCMをどうぞ」
人々が歎声をもらした。ついに自分たちの現在の状況がマスコミで報じられたのである。
「CMなんかやってる場合か!」
「だめだめ、日本のTVがCMをやらないのは年号が変わるときだけだからな」
「国営放送にかえてみたら?」
「だめだ、のんびり邦楽《ほうがく》の番組なんかやってる」
ようやくCMが終わると、ふたたびキャスターがもっともらしい表情であらわれた?
「消息筋によりますと、今夜はベイシティプラザ内で警察関係者の会合が開かれ、警察庁および警視庁の首脳陣が列席していたそうです。もしテロリストによって人質になっているとしますと、これは前代《ゼンダイ》未聞《ミモン》、警察史上に例のない事件ということになります」
ざわめきがおこった。そんなことを知らなかった人たちが多数いたのだ。
「じっは五分前、この件に関して警視庁広報課に問いあわせてみましたが、回答は、ノーコメントということでした。一分たってさらに問いあわせたところ、回線がつながりませんでした。とにかく、きわめて重大な事態であることはまちがいありません」
ひと呼吸おいて、
「いまあらたに情報がはいりました。警視庁の第一機動隊および第六機動隊がすでに湾岸副都心へ向けて出動したそうです。さらに、第二機動隊および特殊車両隊が準備できしだい出動……事態は緊張の度を加えてきました」
私の近くで話声がした。警察関係者らしい男がふたり、ささやきあっている。
「だから私はまずいといったんだ。特定の候補者が政治資金を集めるためのパーティーに、長官と総監がそろって顔を出すというのはな」
「後日、マスコミにたたかれるぞ。それにしても、こんなことがTV局に知られるなんて、情報管理はどうなってるんだ」
そんなことをいってる場合ではないだろう、と私は思った。ふたりともさいわい知った顔ではなかったので、さりげなく私はその場を離れた。涼子の存在が気づかれなかったのは、次元は高くないが奇蹟というものだろう。
「二機が出動となると、水上からも来るということね」
涼子が腕を組む。二機とは横川橋《よこかわばし》に本部のある第二機動隊のことだ。水上の警備・救難に強く、「カッパの二機」と呼ばれている。私が返答する間もなく、二階の回廊にいた人々が騒ぎはじめた。先ほどとは比較にならないほど多数のパトカー、装甲輸送車、レスキュー車、クレーン車などが続々と到着しはじめたのだ。広い前庭をライトが埋めつくし、サイレンの音が伝わってくる。
「すごい布陣《ふじん》ですね」
「それはそうよ。警察庁長官と警視総監を同時に救出しなきゃならないもの。今夜は他の事故や犯罪にかかわってる余裕はないわね」
私は慣れているが、警務部長が涼子のイヤミな台詞を聞いたら、さぞ神経をさかなでされるにちがいない。
「もう安心だ、警察がこれだけ来たんだ」
「これで助かったわね」
警察の実力を信頼しきっている善良な人々のはしゃぐ声が聞こえる。どうやらその中に、涼子に投げとばされた評論家氏や浅井京華女史、それに福神代議士もいるようだった。大画面TVに視線を向けた涼子が、私に注意をうながした。
「すごい大軍に見えるけど、あれ、後ろのほうは警察じゃないわよね」
埋立地全体に光点の群が押し寄せつつある。パトカーや装甲輸送車があれだけ数が多いはずがない。湾岸副都心で大事件がおこっていると知って、見物人《ヤジウマ》が殺到してきたにちがいなかった。神戸で巨大地震がおこったときも、富士山麓に毒ガス工場が発見されたときも、見物人が子供づれで押し寄せたものだ。被害者の迷惑になるだろう、とか、もし毒ガスが洩れたらどうしよう、とか、そういった想像力とは無縁の人間たちが、暇を持てあましているのだからどうしようもない。まあ今夜の場合、ベイシティプラザに出かけたまま帰ってこない家族の安否《あんぴ》を気づかって車を飛ばしてきた人もいるかもしれなが……
涼子が肩をすくめた。そういう動作が|さま《ヽヽ》になる人間は多くないが、涼子はまちがいなく、そのひとりだった。
「泉田クンの描いた犯人像が正確だとすると、これだけ見物人が増えたら、さぞや張りきるでしょうね」
私が黙って涼子を見やると、彼女は自分自身が張りきった表情になっていた。
「さあて、いよいよこれからが本番だわ」
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第五章 石にひそむ影
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過剰な自信と余分な脂肪とのどちらが人間にとって真に厄介《やっかい》なものだろうか。薬師寺涼子の場合、その完璧な肢体に余分な脂肪などまったくついていなかった。自信のほうは、むろん過剰ではあるが、美貌においても才能においても並ぶ者はすくなく、直言する者もおらず、裏金《ウラガネ》づくりに必死にならなくとも金銭《カネ》はありあまっている。退職後も、走りまわって再就職先を探す必要もない……。
というわけで、結論は――薬師寺涼子にこわいものなし、ということになる。いまさらのような結論だが、確認しておかないと、私自身の現在と未来がきわめて危ういものになってしまう。室町由紀子が「朱にまじわれば赤くなる」といった。悪い冗談はやめてくれ、といいたいが、どうやら今後はそれが警察内部で共通の認識になりそうな雲行きだ。それを防ぐには、レオコン(レオタード・コンプレックス)の岸本を見習い、警務部長あたりのスパイになって涼子のことを密告するしかないかもしれない。だがそんなことはイヤだしなあ。
部下の心、上司知らず。大騒動を楽しむ風情《フゼイ》で、涼子が口を開いた。
「強行突入してくるかしらね」
「そう簡単には突入してこないでしょう。いざというときまで、日本の機動隊は慎重ですよ」
ビル内部の事情もまったくわからない。包囲したまましばらくは待機ということになるだろう。複数の機動隊が同時に出動するなど、いつ以来のことか。いまさらに、自分たちが重大な危機の中にあることを思い知らされた。
「どれくらいの時間がメドかしら」
「最短でも朝までは動くに動けないでしょうね」
「冗談じゃないわ。それじゃこちらも徹夜ってことじゃないの」
「眠いですか」
「寝不足だとお肌が荒れるのよ」などと月並《ツキナミ》なことは涼子はいわない。
「あたしは受験のときだって余裕シャクシャク、徹夜なんかしなかったのに、こんなことで徹夜だなんて!」
大画面TVの中で、興奮したレポーターがしゃべりまくっている。
「ビルの中にいる人たちがガラスの隔壁《かくへき》ごしに見えます。縛られてはいないようです。ええと、武器を持った者は……ちょっといないようです。私には見えません。ただ、どこかに隠れているのかもしれません。正体はまだわかりませんが、いったい目的は何でしょうか」
呼吸をととのえて、さらにつづける。
「ビル内に閉じこめられている人の数は、推定で一万人にも達するといわれています。おそらく、局には、ご家族や関係者からの安否を気づかう声が殺到しているものと思われます。心中、察するにあまりあります。機動隊は慎重にビル内のようすをうかがっているようですが、こうしている間にも、中では善良な市民の皆さんが恐怖におののいて……あっ、ヘリが二機、飛んできました。屋上にはヘリポートがあります。そこに着地しようとしています。重要人物《VIP》を救出するためでしょうか」
大画面TVの前にいた群衆の間に、電気が走ったようだった。
「屋上にヘリがおりるぞ!」
「一般市民を置き去りにして、お偉方だけ逃げる気じゃないだろうな」
意図的に煽動《せんどう》したとは思えない。ここまで耐えてきた不安と不信感が暴発しただけであろう。誰かが走り出し、一瞬の差で数百人がそれにつづいた。あらゆる種類の靴音が床をとどろかせた。人々は押しあい、突きとばしあいながら屋上へリポートへと階段を駆け上っていく。何人かが、足を踏みはずしたり引きずりおろされたりして、群衆の波の下へ沈んでしまった。私は思わず走り出して彼らを制止しようとした。
「やめなさい、とめられっこないわよ」
涼子が私を叱りつけ、腕をとって装飾柱の蔭《かげ》に引きずりこんだ。
「パニックに対して素手でそれを制止しようなんて、無謀もいいところよ。しばらく放っておきなさい。頭に血が上りきったら、あとは冷《さ》めるわ」
涼子の判断は正しい。暴走する羊の群は狼ぐらい簡単に踏みつぶしてしまうものだ。とはいえ、手をこまねいていては、老人や幼児に負傷者が出るかもしれない。
「いっとくけど、あたしの持っている拳銃を天井に向けて撃つ気はないからね。銃弾《タマ》は六発しかないんだもの、むだづかいはできないわ」
涼子の声は残念そうだった。「むだづかいできない」というのが残念なのであろう。彼女は贅沢《ぜいたく》が好きで、それは多くの方面におよんでいたから、ほんとうは景気よくマシンガンを乱射したかったにちがいない。
いずれにしても人力ではどうしようもない状態だった。闘牛の牛さながらに逆上した人々は、呼吸が乱れ、脚や腰の筋肉が悲鳴をあげるまで階段を駆けあがり、つぎつぎと落伍《らくご》していった。エレベーターやエスカレーターが動いていれば、別種の混乱がおきたことだろう。
涼子と私は、いきなり無人になったホールで大画面TVをながめた。ちょうどそのチャンネルではカメラが絶好の位置を占《し》めていたらしい。望遠の暗視レンズを駆使した映像が、大画面いっぱいにひろがった。そこに映った何やら不気味なビルの中に自分たちがいると思うと、妙な気分だった。
二機のヘリは空中停止《ホバリング》の状態から徐々に高度をさげていく。機体に書かれた「警視庁」の文字がはっきりと見えた。ほどなく降下の速度をはやめた一機が、ついにヘリポートに着地した。リビングでTVを見ていた人々がほっとした瞬間であったろう、そのヘリは何の前触れもなく横転したのである。
屋上に転がったヘリの真上に、二機めのヘリがおり立った。逆にいえば、まさに着地しようとしたヘリの真下に、最初のヘリが転げこんだのだ。あわてたパイロットは、当然、上昇して回避しようとする。だが一瞬、いや半瞬おそかった。転がったヘリの回転翼《ローター》が、二機めのヘリの機体をまともにたたく。異音が夜空を打ち、ヘリは空中で均衡を失い、失速した。
五メートルの垂直距離をヘリは墜《お》ちた。二機のヘリは激突し、轟音《ごうおん》とともに火につつまれた。パトカーが炎上したときよりも一段と強烈なオレンジ色の火球。つづいて黒煙が湧きおこり、東京湾からの夜風に乗って都心の方角へと流れていく。
「ヘリが墜ちました!」
レポーターが絶叫する。
「ここからではこまかいことがわかりませんが、最初に着陸したヘリは明らかに攻撃された模様です。二機めはそれに巻きこまれたようですが……乗員は無事でしょうか。ヘリポートではいま作業員が消火にあたっているようですが、気をつけてもらいたい、いつ再度の攻撃があるかわかりません……!」
「ありゃあ露骨《ロコツ》に、再度の攻撃とやらを期待してるわね。いやね、他人の不幸を喜ぶなんて!」
涼子は手きびしく他人を批判し、黙っている私に確認した。
「ヘリは空中で攻撃されたわけではないわよね」
「屋上に着陸してからだそうです」
「そう、やっぱりね」
涼子は指先で顎《あご》をつまんで考えこんだが、すぐに何か決断したようである。
「助手A、ついておいで。デパート棟に行ってみるから」
U
デパート内は照明もつき、人もいたが、本来の活気はまったくなかった。閉じこめられた客どうし、店員どうしが集まって、おびえたように低声《こごえ》で会話をかわしている。幼児の泣き叫ぶ声も聞こえた。
持久戦ということになっても、食料品には不自由しないだろう。何しろデパートが丸ごと一店、ビルに入居しているのだ。ただ、いったんパニックになれば、食料をめぐって流血|沙汰《ザタ》がおきるかもしれない。
売場《うりば》案内の表示板の前で涼子が立ちどまったので、私は問いかけた。
「どの売場に行くんです?」
「どこだと思う?」
「全部の階を見てまわる、なんていうのはごめんですよ」
ショッピングというものに対する女性の執念、それは男には完全に理解不可能だ、と私には思われる。事《こと》この点に関するかぎり、地球人の女性より宇宙人の男性のほうと話があうのではなかろうか。
「本屋よ!」
「本屋は四階ですが……」
「そこへ行って、『幻獣妖虫大全』という本を探すの。手伝いなさい」
四階まで階段を半ば駆け上る。
「お客さま、本日はもう営業しておりませんが」
そういう店員の鼻先に、涼子が警察手帳を突きつけた。権力と権威の閃光に目がくらんだのだろう、まぶしそうな目つきで店員がしりぞく。神話・伝説関係の棚がどこにあるかを聞くと、涼子はハイヒールの踵を鳴らしてそこへ直進した。私と店員が後につづく。五分間ほど涼子は棚に並んだ本の背表紙をにらみまわし、平積《ひらづ》みの本をひっくりかえしていた。そのあげく、
「品ぞろえが悪い!」
涼子は叫んだ。店員が狼狽《ろうばい》したようすで、一歩、二歩と後退する。
「デパートの本屋なんかに期待したのがまちがいだったわ。数だけはそろってるけど、肝腎《かんじん》なものがありやしない。役立たず!」
「まあもうすこし探してみましょう」
「関係書の棚は全部見たわよ」
「そうですか」
「これ以上探してもむだだわ、帰るわよ」
「まあちょっと待ってください」
私の視線は、生物学関係の本の棚をたどっていた。そのままの姿勢で、私は涼子に話しかけた。
「私がよく行く近所の書店は、けっこう大きいんですが、店員が不勉強でしてね」
「何をいいたいの」
「コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』がペット本の棚に置いてあったんですよ。ここの店員も似たようなレベルらしい」
棚の最上段に手を伸ばして、私は分厚い本を抽《ひ》き出した。「幻獣妖虫大全」という表題をたしかめてから涼子に差し出す。涼子は眉と口もとを微妙に動かして、探していた本を受けとった。ページを開こうとして、手をとめる。
「スティーヴン・キングってクモがきらいよね」
「作品中に、悪の権化がクモの姿で出てくるらしいですね」
「泉田クンはどう? クモを見てこわいということはない?」
「いや……」
人間には二種類あるそうだ。
「支配する者と支配される者とだ!」と咆《ほ》えれば、これはアドルフ・ヒットラーになる。何をきらっているか、で二分すると、「クモぎらい派」と「ヘビぎらい派」になるのだそうだ。つまり、「足が多いのがきらいだ」という人と、「足のないのがきらいだ」という人とに分かれる。不思議なことに、「両方ともきらいだ」という人は案外いないということだ。
私は「ヘビぎらい派」である。正確にいうと、ヘビはそれほどでもないが、もっと小さくて足のない生物がきらいなのだ。ミミズとか寄生虫とかの類である。と、こういっただけで悪寒《オカン》をおぼえるほどだ。一方、クモのほうはまったく平気である。
「ご心配なく。クモがこわかったことは一度もありません」
「そう? 生まれてはじめての経験ができるかもしれなくってよ」
いいながら涼子は指先でページをめくった。マニキュアのCMモデルになれそうな指だ。やがて指がとまり、イラストのついた見出しが私の視界に飛びこんできた。
「石棲妖蠍《パレオロザキス》」
その姿には、たしかに憶《おぼ》えがあった。廊下の壁にあった影であり、おそらく裂けたカーペットの隙間に見えた影であった。イラストは無彩色だから色は不明だが、まちがいないものと思われた。
「いったい何ですか、こいつは?」
私の質問に、直接の解答は返ってこなかった。
「ペルガモン王国って知ってる?」
「世界史の授業で教わったような気もしますが……」
「しょうがないわね。無学な部下を持つと苦労するわ」
そういいながらも、涼子は説明してくれた。ペルガモンというのは、現在はトルコ領になっている小アジア半島の西北部の地名で、紀元前四世紀末、つまり今から二四〇〇年ほど前に栄えた王国だった。古代ギリシアからローマ帝国の時代に、豊かで文化・芸術・科学の発展した国として知られ、大理石づくりの都市には劇場、図書館、体育館、公共の浴場などが建ち並んでいた。図書館には二〇万冊の書物がおさめられ、ペルガモンを征服したローマの武将アントニウスは、その書物すべてを奪って、エジプト女王クレオパトラ七世に贈ったという。当時、紙はまだ発明されていなかったから、書物は「Charta Pergamena」、つまり有名なペルガモン羊皮紙でつくられていた。
ペルガモン遺跡は後年、ドイツの調査隊によって発掘され、現在、貴重な出土品はベルリンの博物館におさめられている。とくにギリシア神話の神々と巨人族との戦いを描いた巨大な|浮彫り《レリーフ》が有名である。
「いや、たいへん勉強になりました」
「何を逃げ腰になってるの。本題はこれからよ」
一九三一年、アドルフ・ヒットラーがドイツの独裁者となる二年前のことだが、ドイツ考古学協会の一員であったヨーゼフ・ハーゲマイヤーという人が、遺跡発掘現場で、ひとつの石碑を発見した。碑文は古代ギリシア語で書かれ「ハーゲマイヤー碑文」と呼ばれてベルリンに運ばれた。ハーゲマイヤーは他人の協力を求めず、自分ひとりで碑文の研究をすすめていたが、ユダヤ人の血を引いていたため、ヒットラーの政府に迫害され、一九四〇年に秘密警察《ゲシュタポ》に連行されたまま永遠に消息を絶った。石碑も国立の研究所にうつされたが、一九四五年、連合軍の爆撃にあって研究所ごと地上から消失してしまった。
戦争が終わってから、ハーゲマイヤーの遺族が断片的なメモを集めて出版した。これが「ハーゲマイヤー碑文研究序説」だが、碑文に記されていたペルガモンの動植物に関する記述は、あまり高く評価されなかった。あまりにも断片的で系統性を欠き、しかも実在するはずのない生物についての記述が、「論文というよりファンタジーだ」といわれたのである。
石の中に棲《す》む妖虫。いちおうサソリの一種とされているが、むろん近代生物学の検証を受けているわけではない。そもそもサソリとは、節足動物|蛛形類《ちゅけいるい》に属する一群の動物の総称で、一対のハサミと四対の足がある。四対とは八本だから、まったくクモと同じだ。
涼子の手にある本のイラストを、あらためて私はのぞきこんだ。たいしてこわくはなかったが、静止した絵だからであろう。これが眼前で八本の足をくねらせて動く姿を想像すると、やはり相当に気色《キショク》悪かった。
V
「今夜の一連の事件の犯人がこいつだ、というんですね」
私は涼子に確認したが、「犯人」という表現は正確ではない。「犯虫」とでも呼ぶべきだろうか。
「九割がたね」
涼子は慎重に応じた。
「最終的には高市理事長に確認するけど、たぶんこいつが出没してると思う。ミトラダテス六世の伝説に照らしあわせてもね」
「ミトラ……何ですか」
「ミトラダテス六世。紀元前一世紀のボントス王国の王よ」
「…………」
「わかってるわ、手短かにすませるから、そんな表情《かお》しなくてもいいわよ。ボントス王国も小アジア半島にあって、ローマ帝国と覇権をあらそったのだけど、ミトラダテス六世は武将としてすぐれていた上に、語学の天才だったの。二一ヵ国語を話したそうよ」
きっと才能を鼻にかけたイヤな奴だったにちがいない。心の中でそう私は断定した。専門の歴史学者が何というかは知らないが。
私の上司は、しばしば私の心理を読む。図版を開いたまま、私の顔を見て笑った。
「二一ヵ国語をしゃべったなんていうからおどろいたでしょうけど、それほど驚異的なことでもないのよ」
「そりゃあなたはフランス語の能力を買われて国際刑事警察機構《インターポ−ル》へ出向した人ですからね」
「フランス語だけじゃないわよ」
あっさりと、わが上司どのはのたもうた。
「イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ラテン語、どれもまずまず不自由はしないわね」
日本語以外は不自由だらけの私としては、唖然《アゼン》とするしかない。
「いったいどうやったらそんなにマスターできるんです?」
「簡単よ。まずラテン語をおぼえたのし
「ラテン語が一番むずかしいんじゃないですか」
「だからこそ最初におぼえるのよ。そうすると、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、どれもこれもラテン語から派生したもので、文法は同じ、単語も似ているから、楽におぼえられるわ」
「楽にねえ……」
ひがむ気にもなれなかった。そもそも最初にラテン語をマスターするという発想それ自体、私みたいな凡人のおよぶところではない。
話がそれた。ミトラ何とかいう王さまの話である。
「まあそういう人で、西洋史上に異彩を放っていた人だから伝説も多いの。ローマの大軍に敗れて、紀元前六三年に自殺したということになっているけど、じつは死んだのは影武者で、本物はペルシアに亡命したという話もあるのよ」
「で、その王さまが……」
私としてはなるべく古代史の話から遠ざかりたかった。
「怪物についての話を書き残していたんですか、それとも崇《たた》りか呪いかで、パレオ何とかに変身したと……」
「石棲妖蠍《パレオロザキス》」
語学の天才は、厳格な態度を示した。
「まあまとめていうと、石棲妖蠍《パレオロザキス》は大理石の中に棲《す》む怪物なの。思いきり邪悪で、争いや恐怖を好む奴なのよ」
W
邪悪で争いを好むというと、私の上司もそうなのではないかと思うが、むろん口には出さず、私は涼子の説明を聞いた。
石棲妖蠍《パレオロザキス》に関する伝説は、小アジア半島の北部に集中している。いいかえれば黒海の南岸だ。後にイスラム教の勢力圏にはいったが、古代においてはギリシアやローマの影響下にあった。建築には大理石が多用される。その大理石の中に怪物がひそんでいたのだ。
大理石はもともと石灰岩が変質してできた結晶質の変成岩だが、その成分である炭酸カルシウムの中を、空気中のように自在に移動する怪物がいる。その怪物は壁の中から毒針を突き出して人をおそう。壁に寄りかかっていた人が、突然、背中を刺され、倒れて死んでしまう。床に立っていた石像は押し倒され、寝台は引っくりかえされて人が圧死する。人々は恐れおののいた。怪物が壁の外に出て来れば、火で焼くことも剣で斬ることもできるが、いったん大理石の中に逃げこまれると、石ごと撃ち砕くことしかできない。
「ハーゲマイヤー碑文」には、その「石棲妖蠍《パレオロザキス》」に関する伝説がいくつか収録されているのだが、ユダヤ系の学者がのこしたメモによると、ペルガモン王国がローマ帝国に吸収された直後、おとなりのボントス国王ミトラダテス六世が「石棲妖蠍」を退治した。その方法はというと、「オリーブの恵みが平和を回復する」というものだったという。
「……何のことです?」
私の質問は当然のものだったと思うが、涼子の返答はいつものように明快ではなかった。
「猫にマタタビ、みたいなもので、オリーブかその油で怪物をおびき出したんだと思うけど、正確にはわからないのよ。大理石がトルコ産だと聞いて、あたしはこの伝説を思い出したの」
「ははあ……」
「どう、怪物の存在を信じる?」
「信じますよ」
心から私はそう答えた。「ドラよけお涼」が実在するのだから、壁の中にひそむ怪物の存在ぐらいのことは信じてよい。
「あたしに協力する?」
「むろん」
「それじゃこのことを長官や総監に教えてやりましょう。ついておいで」
涼子と私は、またしても、閉会後のパーティー会場へと舞いもどった。
それにしても石棲妖蠍《バレオロザキス》はどこにいるのだ。私はつい四方に落ち着かない視線を送った。いまのところ、この会場に乱入して来てはいないようだ。呼んだわけではないが、またまたレオコン岸本が近寄って来て、あらたな犠牲者が出たと告げた。
「手動でシャッターをあげようとしたんだけど、失敗して死傷者が出ましてね。いきなりびゅんとおりてきて頭がぐしゃりとつぶれて、思わずおえっと……」
「お前さん、擬音語が多すぎるぞ」
口うるさい国語教師のようなことをいってから、私は気づいた。コリー犬のような顔をした警察庁長官の姿がない。
「長官でしたらSPつきで医務室です」
「負傷したのか」
「いえ、メニエール症候群とかで、めまいがして倒れてしまったので……」
女性どうしが激しく口論する声が聞こえた。それだけで声の主がわかった。むろん私の上司と岸本の上司である。
「あなたのいう大胆な推理とやらは、根拠のない妄想のことでしょ!」
「オホホホ、根拠はあってよ」
「どんな根拠よ」
「あたしの教養と学識が、事件の真相と犯人の正体とを、あざやかに見抜いたのよ。正確にいうと人間じゃないけどね。あたしだからこそできたことだわ」
室町由紀子が噴火寸前の表情になると、涼子はひときわ意地悪くせせら笑って、無言で床にすわりこんでいる警視総監のほうを向いた。
「小物なんか相手にしていられないわ。総監、話を聞いていただけますか」
「君、順序というものがある。まず私を通してだな」
しゃしゃり出る警務部長を、涼子は冷然としりぞけた。
「むだな手間をかけたくありませんの。事は急を要します。そうあたしが申しておりますのよ」
「……話してみなさい」
総監が立ちあがった。涼子より身長は低いが、身体の幅は広い。涼子は総監をしたがえて――そうとしか見えなかった――会場の一隅に移り、説明した。一〇分間ほどして、ふたりは他の人々のところにもどって来た。総監が、半ば一同に向けて口を開いた。これまでに見たこともないほど顔色が悪いのは、怪物の話を聞かされたからであろう。
「わかった、私が責任をとろう」
安穏《あんのん》な老後は断念した、ということだろうか。総監はとうとう最終的な発言をして、涼子を満足させたのである。
「では泉田クンにSPの拳銃を貸してあげてください。銃弾もね」
総監が振り向いて何かいうと、命令がつぎつぎと伝達された。私と身長はほぼ同じ、身体の幅はひとまわり広いという大男のSPが近づいて来て、いやいやながら拳銃を差し出した。それを受けとったところへ、いきなり口をはさんできたのは警務部長である。
「泉田クン、君はじつに寛大な男だな」
「はあ?」
「女の上司、年下の上司、どちらか一方だけでも男はなかなか我慢できないというのに、君はその両方を我慢している。いや、まったくもって寛大な男だ、君は」
一〇歳ぐらいまでだったら、ほめられたと思ったかもしれない。残念ながら、そのような純情さは、とっくに失ってしまった。
「いえ、それほど寛大でもありませんよ。女の上司や年下の上司には我慢できても、無能で卑劣な上司には我慢できそうにありませんからね」
そこまでいうか、と、我ながら思った。だが、やめられない。
「つい兇暴になって殴ってやりたくなりますよ。誰かの悪影響だと思いますがね。泉田は朱にまじわって赤くなった、と、このごろよくいわれます。困ったもんです」
警務部長の顔が白っぽくなった。いい返されるとは予想もしていなかったらしい。
「殴っちやっていいわよ、泉田クン」
私よりはるかに危険な上司が、ここぞとばかりけしかけた。
「懲戒免職になっても、|JACES《ジャセス》で課長ぐらいにはしてあげるからね。警務部長が再就職してきたら、課長補佐。思いっきりこき使ってやるといいわ」
漂白されていた警務部長の顔が今度は赤くなった。
「な、何をいう。おれがJACES《ジャセス》なんかに再就職すると思うか。おれは京浜共同銀行の常勤顧問に天下《アマクダ》りすることが、とっくに決まってるんだからな!」
はっ《ヽヽ》と気づいて口をつぐんだとき、漂白されていたのは室内の空気のほうだった。苦虫をかみつぶしていた警視総監が、床の上から立ちあがる。
X
総監は、狼狽《ろうばい》しきりの警務部長に目もくれず、私に声をかけてきた。
「ああ、君、泉田クンといったな。階級は警部補?」
「そうです」
「そうか」
総監は、おあずけをくわされたブルドッグのように、哀愁に満ちた表情をつくった。
「実力の割に恵まれなかったようだが、今回はすぐ君を警視にしてやるからな、たいへんだろうが、がんばってくれタマエ」
警視にしてやる? 私は警部補だから、警視になるとすれば二階級を特進することになる。それはつまり殉職するということだ。
「ご親切に、おそれいります」
もうすこし気のきいた台詞をいってみたいが、しかたない。すると、私の「女の上司で年下の上司」が口を開いた。
「総監、あたしからもお願いがあります」
「な、何だね」
総監は半歩しりぞいたが、それを非難しょうとは私は思わない。涼子が微笑したのは、総監を安心させるためだったにちがいないが、どれほど効果があっただろうか。
「今夜の事件について、公式発表の内容をよく考えていてください。合理的な説明でつじつまをあわせていただきたいんです。お願いできますかしら」
「う、うむ……」
「総監だけが頼りですわ、この件に関しては」
薬師寺涼子でも、いざとなればこのていどのことはいえるのである。総監は無言のまま、くりかえしうなずいた。
「高市理事長をおつれいたしました」
そう報告があって、室町由紀子が総監の前に立った。涼子は一歩しりぞいて、ライバルに場を譲る。これはべつにおどろくことではない。涼子が席を譲るのは、譲った相手に責任を押しつける場合にかぎるのだ。要するに、涼子は、はでなアクションを引き受けるかわりに、地道な捜査や尋問は、由紀子に押しつけることにしたわけだ。いまや私は行動を見ただけで上司の思惑《オモワク》がわかるようになってしまった。
高市はあいかわらず自信と落ち着きに満ちていた。彼の表情に、虚勢の翳《かげ》りを発見しようとしてみたが、私には不可能だった。三〇年後に、これほど堂々たる態度の人物になれるとは思えない。総監がいった。
「高市さん、すこしうかがいたいことがありまして」
「光栄ですな。警視総監じきじきの尋問ですか」
「石棲妖蠍《バレオロザキス》をご存じですね」
質問の矢を放ったのは涼子だった。じつのところ、石棲妖蠍《バレオロザキス》などという名を、彼女以外は憶《おぼ》えていられなかったのだ。高市は涼子を見やったが、その両眼は奇妙に無機的だった。涼子の圧倒的な美しきに、いっこうに感銘を受けていないように見える。うかつなことに、ようやく私はそのことに気づいた。高市の唇が皮肉な形に動いた。
「おや、一挙に四階級ほど下がったようですな。それにしても、最初に結論ありき、という感じで、身におぼえのないことを詰問《きつもん》されるのは、愉快ではありませんぞ」
「あら、気になさらないでくださいな。これが世界共通の警察のヤリクチですから」
総監が口を開いたが、何もいわずにふたたび閉じた。ブルドッグのような顔に、以前にまして哀愁がただよった。どうやら今夜は私にとって、さまざまな発見をする夜らしい。上役には上役の苦労というものがあるのだ。
「では、あとはおまかせしますので、どうぞよろしく」
涼子が総監に一礼する。同時に、軽いどよめきがおこった。会場に設置されていた大画面TVに、奇怪な光景が映ったのだ。ベイシティプラザの前庭に、怪獣めいた金属の巨大なかたまりが登場していた。特殊車両隊のクレーン車である。
巨大なクレーン車は、太いワイヤーロープの先に、これまた巨大な鉄球をぶらさげていた。ボウリングの球を、直径で一〇倍ほどに大きくした感じの、黒光りする鉄球だ。画面の中で、レポーターが声を張りあげる。
「これから鉄球による破壊作業が開始されます。一九七二年の、あの、あさま山荘事件以来、何十年ぶりのことでありましょうか。あのころ私はまだ幼稚園に通う小さな子供でした。ああ、思えばなつかしい一九七〇年代……あのころは日本中が元気でしたねえ」
鉄球による破壊作業とは、ずいぶん思いきった決断を下したものだ。総監も、由紀子も、私も、そして涼子でさえ、画面に向けた視線をはずすことができなかった。
「やめろ、許さん!」
怒りに満ちた大声が弄《はし》って、数人が視線を大画面TVからはずした。声の主は高市理事長だった。全身を慣《ふる》わせ、両眼には雷火《らいか》がひらめき、おそろしい形相《ぎょうそう》になっていた。
「やめろ、許さん、私の城に傷をつけることは許さんぞ」
寸前までの高市のイメージとはまったくことなる。頑迷な暴君のおもむきである。
「許さんといわれましてもな、高市さん」
警視総監の声が重い。
「一万人近くの生命がかかっております。すでに五〇人ぐらいが亡くなっていますし、負傷者はその何倍にもなる。私もいささか拙速《せっそく》とは思いますが、何らかの策《て》を打たないことには……」
「行くわよ、泉田クン、長くなりそうだからあとは総監におまかせしましょ」
涼子がすましていい、さっさと歩き出したので、私はその後を追った。会場を出かかったとき、背後で激しい物音が聞こえた。私は振り向いて、めったに見られぬ光景を見た。総監が床に倒れ、高市がその上にのしかかり、またがって首をしめあげているのだ。うろたえ騒ぐお偉方を突きとばすようにして、五、六人のSPが殺到した。高市は激しく暴れまわったが、ほどなく総監からもぎ離され、背後から両腕をかかえこまれた。
「暴行傷害、公務執行妨害の現行犯で逮捕します!」
由紀子の声がひびく。SPに助けられて総監はようやく立ちあがったが、襟元も、すくない髪も乱れ、目や唇が腫《は》れ、鼻血が噴き出していた。まごうかたなく、高市は暴行傷害の現行犯である。
高市がSPたちにかこまれて会場の反対側へとつれていかれると、由紀子が涼子と私のところ、つまり出口へとやってきた。
「小さなテガラはあんたに譲ったわよ」
涼子がいうと、由紀子は苦笑した。
「あの逆上ぶりを見てると、ゆっくり尋《き》くべきことが山ほどありそうだわ。あなたのほうはどう? わたしが手伝ってもいいけど」
「いえ、けっこう」
涼子は頭を振った。
「そのかわり、あんたの部下を貸してよ」
「岸本警部補を?」
涼子がうなずくと、由紀子は、あっさりと承知した。
「どうぞ使ってちょうだい。あなたも彼に目をかけてくれてるようだしね」
何だか物の貸し借りみたいだが、由紀子の台詞《せりふ》からいって、岸本が涼子に買収されていることは悟られているにちがいない。そして涼子のほうも、悟られていることをどうやら承知している。ばかばかしい関係だと思うが、キャリア連中の世界ではありふれたことなのだろうか。
「え、ボクが薬師寺警視に同行するんですか」
岸本は色を失った。
「せ、せっかくのご指名ですが、つつしんで辞退させていただきますです、ハイ。ボクのように未熟かつ非才《ひさい》の者がオトモしては、薬師寺警視や泉田警部補の足を引っぱることになるでしょう。ここはひとつ誰か他の人に……いたたた!」
岸本は悲鳴をあげた。右の耳をしたたか引っぱられたからである。
「それでは、全警察の期待を一身にニナって、怪物退治に出かけてまいりますわ。お見送りはけっこう。では皆さま、ごきげんよう」
たしかに一同は涼子に期待していた。それは、涼子が怪物と共倒《トモダオ》レになってほしい、という切実《セツジツ》な期待だった。涼子は岸本の耳を引っぱりながら歩き出し、私が後につづいた。
部屋を出てドアを閉めるとき、警務部長のすがるような声が聞こえた。
「総監、日本警察の将来は大丈夫でしょうか」
「私のやめた後まで責任は持てんね」
オトナの返事というべきであった。
[#改ページ]
第六章 正義とはあたしが勝つことよ!
T
一八世紀、ロシアの女帝エカテリーナ二世が軍服に身をかためて馬上ゆたかに閲兵《えっぺい》すると、その颯爽《サッソウ》たる美しさに感動した将兵は、剣や銃を高くかざして「万歳《ウラー》!」と叫んだそうである。薬師寺涼子が眠るときマクラの下にエカテリーナ二世の肖像画を置いていたとしても、おどろくことはない。ただし、現実としては、彼女にしたがう者はふたりの男だけである。私こと泉田準一郎と、岸本明。私や岸本にとっては、エライコトニナッタ、というところだが、涼子にしても不満があるにちがいない。桃太郎でさえ三匹の家来がいるというのに、それ以下なのだから。それとも涼子のことだから、由紀子をキジぐらいに思っているかもしれない。しかし、そうすると岸本がサルで私がイヌか。あまり楽しい図柄ではないから、考えるのはやめておこう。
岸本は何度も逃げる隙をうかがっていたが、涼子と私の間にはさまれて実行できなかった。そのうち逃走をあきらめたらしく、黙りこんで何やら考えこんでいたが、唐突《とうとつ》にしゃべりはじめた。
「も、もしほんとに薬師寺警視のおっしゃるような生物だとするとですね」
「何よ?」
「生かしてつかまえないんですか。すごい科学上の発見だと思いますよ。大発見! 名前が科学史に永久に残りますよ」
「そう思うなら、あんたがやれば?」
ひややかにいいすてて、涼子は足どりを速めた。
大理石の床にハイヒールが鳴りひびく。いやいや後を追いながら、岸本は私にささやいた。
「薬師寺警視のあのカッコウに比べたら、レオタードのほうがずっと運動に適してますよね」
「あくまでもレオタードにこだわるんだな」
「いえ、チャイナドレスでも乗馬服でも、シルクハットに燕尾《エンビ》服に網タイツでも、すごくよく似あうと思いますよ。あれだけのプロポーションだと、何を着ても似あうなあ。ナチスの軍服なんかもたぶん……」
私は諒解《りょうかい》した。この男にとって、女性とは要するに、生きた着せかえ人形なのだ。すると岸本は上目《うわめ》づかいで私を見て、一段と声をひそめた。
「ねえ、泉田サン、ボクを逃がしてくださいよ。いずれお礼はしますから。こんな目にあうなんて、泉田サンだって不本意でしょ?」
「べつの考えかたをしてみろよ」
親切に私はいってやった。
「ドラよけお涼は不死身だ。お涼にくっついていたほうが安全だぞ。役立たずのお偉方と群れているよりよっぽどな」
「泉田サン、ほんとにそう思ってるんですか」
「疑うのか」
「お涼が無事だからって、ボクが無事とはかぎらないでしょ! むしろ逆ですよ。台風の目は静かだけど、周囲はものすごい風雨になるんですよ!」
「ああ、そうか。それじゃ、いっそもっと目に近づこうじゃないか。そのほうが安全だ」
べつに涼子のマネをしたわけではないが、私は岸本のネクタイをつかんで引っぱった。岸本は「ひえー」とあえぎ声をあげる。
「か、勘弁《かんべん》してくださいよ。こんなビルの中でドラよけお涼のために危険な目にあうなんて……!」
「お前なあ、いっとくが、ビルの中だからまだいいんだぞ」
「え?」
「もしここが高速道路で、お涼がジャガーだかポルシェだかをぶっ飛ばしてると想像してみろ。熱帯夜にだって凍死できるぞ」
「……そ、そんな」
お涼の運転哲学を、私は聞いたことがある。
「あたしの車をよけきれないような奴に、運転免許を与えるな!」
というのだから、おそろしい。もっとも、この件に関して、お涼にばかり罪はない。悪いのは彼女に免許を与えた日本国政府だ。具体的には、免許証を発行した警察である。まわりまわって、自業自得《ジゴウジトク》とあきらめるしかないわけだ。
そのお涼が靴音高く引き返してきた。
「ずっと前方の廊下に、奴のいる気配がするわ。岸本!」
「は、は、はい」
「行って奴をおびき寄せておいで」
「ひえー、何とぞお赦《ゆる》しを」
「黙っていうとおりにおし! あんたなんか囮《おとり》ぐらいの役にしか立たないんだから!」
「ひどい、ひどい」
岸本は泣き出した。
「ボ、ボクはキャリアなのに。将来は警察庁の幹部になって、そのあとはパチンコのカード会社に天下《アマクダ》って気楽な人生を送ろうと思ったのに、こんな若いうちに殉職するなんて……」
「あんたが殉職したら、お棺の中に、レオタード戦士全員の着せかえ人形を入れてやるわよ。お葬式のときには主題歌を流してあげるわ。さあ、男なら覚悟を決めてさっさとお行き!」
「男だからって何で覚悟を決めなきゃならないんだ。逆差別だ。男らしくとか女らしくとかいう性差《ジェンダー》の強制が社会の病理を生むんだぞ。男も女もなく、人間は人間らしく……」
「男らしくというのが気にいらないの? だったら警察官らしくしたらどうなのさ。生まれるときに男か女かは選べないけど、職業を選んだのは自分の意志でしょ!」
なおも岸本は抗弁しようとしたが、もはや涼子は説得に時をついやそうとはしなかった。彼女は一流サッカー選手のようにみごとな足さばきで、岸本の尻を蹴とばした。ハイヒールの尖端が尻の肉に食いこむと、岸本は断末魔の悲鳴をあげ、カーペットの敷きつめられた床の上を転がった。四度めに起きあがり、ふらふらと歩きはじめる。その頼りない後姿を見やって、私は上司に問いかけた。
「レオコン岸本を信用してなかったんですか」
「誰があんなレオコン野郎!」
一刀両断してから涼子は尋《たず》ねた。
「で、レオコンって何なの?」
「レオタード・コンプレックスです」
涼子は笑ったが、すぐ表情を引きしめて、岸本が酔っぱらいのような足どりで廊下の角を曲がるのを見送ったい私はふたたび涼子に問いかけてみた。
「どうせなら室町警視に協力してもらったほうがよかったんじゃありませんか。能力だけなら信用できるでしょうに」
「あたしが警察で信用してる人間はひとりだけよ。お由紀じゃないわ」
私はおどろいた。涼子が誰かを信用しているとは思いもよらなかった。
「へえ、誰ですか、それは?」
空気と床が揺れた。遠雷に似た音がとどろく。鉄球がビルの外壁をたたいたのだろう。涼子が答えないので、私はべつのことを口にした。
「うまくいきますかね、鉄球なんかで」
「うまくいかなくても、あたしのせいじゃないわね。ま、国家公安委員長あたりが決断力を見せびらかしたくてゴーサインを出したんだろうけど」
廊下の角から何かが飛び出してきた。私たちは反射的に身がまえたが、半ば転がりつつ近づいて来るのは岸本だった。
「き、来た来た、来ました!」
岸本の声も表情も引きつっていたが、意味のある台詞《セリフ》をしゃべれただけでも上出来《じょうでき》であろう。
すでに涼子も私も拳銃の安全装置をはずしていた。岸本は半ば床の上を転がりつつ近づいて来る。その背後の空間には、人の姿も獣の影もない。だが床を見ると、赤褐色の大きな染《し》みが、おどろくべきスピードで接近していた。兇々《まがまが》しい、突起物の多い染みが床面を奔《はし》り、まさに、若きエリート警察官僚の足もとに到達しようとしている。
銃声がひびきわたった。涼子が右手でコルト三二口径をにぎり、左手で右手首をつかみ、赤褐色の床面めがけて引金をひいたのだ。たてつづけに三発の銃弾が床面をうがち、大理石の破片が飛散する。
赤褐色の染みは動きをとめた。だがそれも一瞬のことで、いくつもの突起物があわただしく蠢《うごめ》くと、近づいてきたときと同じスピードで遠ざかっていく。私は発砲のチャンスを逸《いっ》してしまった。自分をののしりながら前方に飛び出す。弾痕《だんこん》にうがたれた床を蹴って、遠ざかる影を追ったが、幼児がオリンピック短距離走のメダリストを追いかけるようなものだった。影はたちまち角を曲がって姿を消してしまった。
V
またしても床と空気が震動した。機動隊のクレーン車が、巨大な鉄球をビルの壁にたたきつけているのだ。穴があけば、そこから機動隊の精鋭が突入して来るだろう。
「行くわよ」
涼子がいって歩き出す。発砲しないままの拳銃を手に、私もつづいた。岸本もつづく。発砲の間に逃げ出すこともできたはずだが、そうはしなかったらしい。すると涼子が、肩ごしにかえりみて命じた。
「岸本、鉄球での破壊作業がどうなっているか、ちょっと見ておいで」
はい、と応じて、岸本は後方へと駆けていった。妙に足どりが軽い。ふたたび歩き出した涼子に、私は問いかけた。
「機動隊と連係しなくていいんですか」
「向こうにその気があるとは思えないわね。おたがいかってにやりましょ」
もともと協調性ゼロの涼子である。機動隊がわけもわからず彼女のジャマをするようなことがあったら、
「めんどうくさい、まとめてやっておしまい!」
などとどなりかねない。
考えてみれば、涼子がはいったのが警察でまだよかった。防衛大学校から自衛隊にはいって「史上最初の女性統合幕僚会議議長」にでもなった目には、いったいどうなることか。戦車の上にすっくと立つ涼子の勇姿は、さぞ絵になるだろうが、絵になればよいというものでもない。
涼子と私は、フロアの中央にあるドーナツ形のソファーに腰をおろした。いつどこから怪物がおそって来るかわからないが、とりあえずひと休みである。むやみに走りまわってもいられない。
涼子が黙っているので、私も黙って、何となく周囲を見わたした。状況が「出たとこ勝負」という感じなので、つい私の思考は目前の事態からはずれていく。
男というものは、おおむね「美女性善説」の信奉者である。むさくるしい髭《ひげ》と虱《しらみ》だらけの自称超能力者にだまされない男でも、美女の涙の一滴に、ころりとしてやられる。まあ生物の原初的本能にかかわる問題だから無理もないが、警察全体がまだ薬師寺涼子の美貌にダマされていたころ、しばしば涼子は対外広報《PR》に登用された。涼子の美貌によって、口うるさい文化人どもを警察の味方につけようとしたわけだ。
あるとき、涼子は何とかいう文芸評論家と対談した。どんな兇悪な事件でもかならず加害者を正当化して、一部のマスコミから進歩派だの人権派だのと持ちあげられている男だ。この男は、上機嫌でこんなことをいった。
「ボクはたとえ、自分の妻や子がサリンで殺されても、犯人の人権を守りますよ、生命《イノチ》がけでね。それが知識人としてのつとめですから」
すると涼子は、あくびをひとつしてから応じた。
「つまりあなたは、自分の奥さんや子供さんには、サリンをまかれたりせず平和に生きる権利などない、とおっしゃるんですね。父親に見殺しにされる子供さんのご意見を、ぜひうかがいたいわ」
またあるとき、「男女同権、家庭の民主的運営」を主張する女性評論家と対談した。彼女の家では、サラリーマンである夫が、料理から洗濯、掃除、あとかたづけまで大半の家事をやってくれるという。これこそ民主的な家庭のあるべき姿だ、という評論家に涼子は答えた。
「ふうん、ダンナに経済力がないというだけの事実を、よくまあそんなに美化できますね。だいたい、家庭のありかたに一種類しかない、という考えのどこが民主的なんですか」
さらにあるとき、制服をつくりかえて髪を金色に染め、鼻と唇にピアスをしたため卒業式に出席するのを禁じられた高校生に会ったときには、こういった。
「何でそんなに卒業式なんかに出たがるの? あんなに退屈でばかばかしくてくだらないものはないわよ。あたしなんか、高校でも大学でも卒業式になんか出なかったけど、あなた本気で校長の長たらしい挨拶《あいさつ》とか聞きたかったわけ? バカじゃないの!」
……というわけで、涼子と対談した者はことごとく怒りのあまり泡を噴いたから、さすが頑迷《ガンメイ》な警察首脳もまずいと気づいて、人前に涼子を出さなくなった。そして、ほどなく涼子はインターポールに出向し、日本を離れるのである……。
「泉田クン」
声をかけられて、私は意識を現時点に引きもどした。まだ怪物の再出現はないようである。
「何ですか」
「警察官になったのを後悔したことある?」
「かぞえきれませんね」
「だったらどうしてやめないの?」
「後悔するのが好きなんだと思います」
涼子は私の顔を見た。そして不意打ちの質問を発した。
「後悔するのが好きだから彼女と別れたわけじゃないでしょ」
思わず私はすわりなおしてしまった。
「プライバシーですよ」
「あたしはかまわないわよ」
そういうものではないと思うが……。
V
なぜ話がこういう方向へ進んでしまったのだろう。いぶかりながら、どうしてだか私は答えてしまったり
「私が一〇〇パーセント悪かったんですよ」
「どう悪かったの?」
妙に涼子はしつこい。
「彼女がダイエットをはじめたんです。野菜とゆで卵とウーロン茶しか摂《と》らなくなって」
「肥《ふと》ってたの?」
「そうは思えませんでしたが、彼女は鶴《つる》みたいな体形になりたがってました。それでまあ、手遅れにならないうちに、と思ってとめたんです」
「何といって?」
私は大きく溜息をついた。
「いくらダイエットしたって、脚が長くなるわけじやないだろ、って」
「……そりゃたしかに君が悪いわ」
「ええ、ちゃんと報いを受けました」
彼女はいま外国にいる。オーストラリアのシドニーに住んで、日本語の情報誌の記者をしているそうだ。オランダ系の男性と同居して、まずまず幸福に暮らしているという。彼女と共通の友人から聞いた話だ。
「別れた女性が幸福になっていると聞いたような気分」
という表現がある。実際そういう立場になると、何と表現したものか、よくわからない。気分を整理するだけの時間はあったはずだが、仕事はいそがしいし、薬師寺涼子の部下にさせられたこともあって、中途半端なまま今日まで来てしまった。不用意な一言ですべてを失ってしまったことはわかっている。逆にいえば、それは、一言でくずれてしまうていどのものだったのだ……。
空気と床がまた揺れた。鉄球による破壊作業がなおつづいているのだ。
私はひとつ咳《セキ》をした。
「さっきは申しわけありませんでした。発砲のチャンスを逃してしまって」
「何よ、いまさら。もういいわよ」
「それと、その前の、何とかいう評論家のオッサンの件です。お礼を申しあげませんでしたが、あれは感謝すべきでした。で、いまお礼を申しあげます」
私は頭をさげた。
正確にいうと、「感謝している」というより、借りをつくったままにしておきたくないのだが、まあいずれにせよ「お礼をいってもバチはあたらない」というところである。
満足そうに、涼子はうなずいた。
「そうそう、そうやって素直にしてれば、君もすこしは可愛いところがあるわよ」
「それで例の評論家のオッサンが気になるんですが、投げとばされたことを根に持って、後日、何かいってきませんかね」
「ああ、そんなの気にすることないわ」
「そうですかね」
「あのオッサン、酔っぱらい運転で追突事故をおこしたあげく、相手と口論して殴りつけたことがあるの。酔いがさめた後、平あやまりして示談にしてもらったんだけど、オッサンが生意気にもあたしを訴えようとしたら、そのことをマスコミに流してやるわ」
どうして涼子がそんなことを知っているのだろう。
「交通部にも、あたしに忠誠を誓っている奴隷がいるのよ」
なるほど、それくらいのことはなければかえっておかしい。得意満面の態《てい》で、涼子は胸をそらした。
「あたしが負けるケンカをすると思う?」
「思いません」
「そうでしょ。だからあたしにくっついていれば、君の人生はバラ色よ」
私が返答に窮していると、「おーい」と声がして、将来の警察庁幹部が駆けて来た。私はずいぶんと意外な気がした。岸本は逃げ出して帰ってこないものと思っていたからだ。
「いま突入作戦がはじまったところです。エントランスホールは割れたガラスで床じゅうがきらきら光ってますよ。かなりケガ人も出たらしいです。閉じこめられていた人も我先《われさき》にと逃げ出しましてね」
必死になって逃げ出した人々で、前庭は、通勤時刻のターミナル駅のようなありさまらしい。機動隊の半数は動くに動けない状態で、まさか一般市民を蹴散らして通るわけにもいかず、かなり混乱しているようだ。
ビル内にはいった機動隊は、公平に見て、できるかぎりのことをしているという。民間人を外へと誘導し、老人や女性、数すくない子供などは抱きかかえるように外へつれ出された。一方で男性はいささか不親切にあつかわれたようだ。男女の不平等というより、テロリストや過激派が群衆にまぎれて脱出するのを警戒したためであった。何といっても、見切り発車の形で強行突入したため、ビル内のようすがよくわからなかったのである。
機動隊員たちはようやくビル内に閉じこめられていた約二〇〇人の警察関係者と合流し、そこで警視庁警備部長や参事官と会った。そこで室町由紀子が、私たちの出動について説明し、発見したら援護するよう指示したらしい。機動隊員たちはそれにしたがったが、わずか数分の間に、壁から壁へと飛ぶ赤褐色の影に出会って、一〇人以上の死傷者を出してしまった。
空気の中を移動するのは、石棲妖蠍《パレオロザキス》にとって、一般の生物が真空中を移動するにひとしい。それが涼子の説明であったが、壁から壁へとジャンプするていどのことは可能なようであった。
何ら予備知識のない機動隊員たちが、この怪物に出会ったときのショックは、想像するにあまりある。警棒をふるう間もなく、なぎ倒されたにちがいない。機動隊員たちはビル内を駆けめぐって、民間人を救出する一方、神出鬼没《シンンシュツキボツ》の怪物を相手に前例のない戦いを強《し》いられている……。
岸本の報告を受けて、涼子は舌打ちした。
「お由紀の奴、よけいなことをして。こちらはあたしにまかせておけばいいのに」
「どうします? 前進しますか」
「もちろんよ。これ以上、役たたずの機動隊にじゃまされたらたまらないわ」
そこで私たちは前進したが、デパート棟で見たくないものを見つけてしまった。仲間の死体だ。
人間たちは、いわば水面上に立っている。怪物は水面下を泳ぎまわる鮫《サメ》のようなものだ。たとえていえばそういうことになる。赤褐色の影が床面を移動しているのが見えれば、回避することも反撃することもできるはずだ。
ところが大きな盲点があった。
カーペット上にかさなりあう機動隊員たちの死体を見て、私の心臓の表面は冷たい汗にぬれた。床に敷きつめられたカーペットは、怪物の姿を完全に隠してしまうのだ。いかに勇敢でも、思いがけぬ方角から奇襲されては防ぎようがない。
「ちょっとここで待ってて!」
何を思いついたのか、涼子がそういってどこかへ駆け出していった。今夜、東京全体でハイヒールをはいている女性が何万人いるかわからないが、それをもっとも酷使《コクシ》しているのは薬師寺涼子であるにちがいない。彼女を待ってただ立っている気にもなれず、私は死体に近づいた。片手で拝んでから死体を調べる。どのようにやられたのだろう。
靴の底に穴があいて、そこから血が流れ出ていた。ほとんど黒に近い、濃い色の血である。何ごとが生じたかを悟って、私は、今夜何度めかの悪寒《おかん》におそわれた。床にひそんでいた怪物が、下から毒針を突きあげて、機動隊員の靴底を刺しつらぬいたのだ。
「こいつはまいったな。床の上に立っていられないぞ」
私がうなると、やはり状況を悟った岸本があわれっぽい声を出した。
「ど、どうやって防ぐんです」
「どうしようもないな……宙に浮いてろ」
岸本に劣らず、私も怖《こわ》かった。ただ、岸本より一〇も年齢《とし》をくっているから、虚勢をはるだけの余裕がかろうじて残っていたというわけだ。岸本は、これ以上ひきつりようがない表情で考えこんでいたが、やがて両手を打ちあわせた。
「そ、そうだ、竹馬《タケウマ》なんかどうでしょうね。あれだったら足の裏を床に着けなくてすみますよ」
「えらくローテクな発想だな」
「ハイテクをねらっても、どうせ、コントロールできないでしょうからね」
私は足をとめた。よいかっこうではないが爪先立ちになったのは、すこしでも床との接着面を減らしたかったからだ。奇妙な音が急接近してきた。いや、本来なら奇妙な音とはいえない。音の正体はすぐわかった。だが、このような場所で聞くべき音ではなかった。廊下の角を曲がって登場したのはハーレ−・ダビッドソンだった。運転者はヘルメットをかぶっていない。薬師寺涼子が、サイドカーのついた大型オートバイにまたがり、ビルの中を走って来たのだった。あきれはてて私は叫んだ。
「こんなもの、どこにあったんです?」
「一階のショールームによ。五台あったうちで一番|高価《たか》いのを持ち出して来たの」
「かってに持ち出していいんですか」
「乗るの、乗らないの?」
「乗ります」
「早くしなさい!」
私はサイドカーに飛び乗った。完全に座席に身体を落ち着けるより早く、排気音も高らかに、オートバイは走りはじめた。半ば排気音にかき消されて、なさけない声が伝わってきた。
「ボ、ボクを置いてかないでくださいよう」
「いけない、レオコンも乗せてやらなきゃ」
「いまはそれどころじゃないわ」
排気音が高まって、オートバイはさらにスピードをあげ、デパート棟からホテル棟へとつづく通路を駆けぬけていく。
W
まるで目印だった。長い長い廊下のあちこちに、死体や盾《たて》や警棒が置き去りにされている。怪物が暴威をふるって通りすぎた痕跡だった。サイドカーの中で、私は横を向き、|ぎょっ《ヽヽヽ》として声をのんだ。
いつのまにか赤褐色の影が壁面を移動している。
オートバイと同じスピードで、並行して疾走しているのだ――壁の中を。
「撃って!」
涼子の声が飛んだとき、すでに私はコルト三二口径を両手でかまえていた。狙点《そてん》をさだめる。引金《トリガー》をしぼる。手首に反動が来た。二発、三発。銃声が連鎖する。
むろん私は疾走する影の前方をねらって撃ったのだ。銃弾は壁をうがった。だが、一瞬にもみたない差で、影をとらえそこねた。壁の曲がり角で、影も急カーブし、それにわずかにおくれてオートバイもカーブを切る。
「どう、あたったり!?」
「おそろしく速いですよ、奴は!」
壁面から影が消えている。見失ったか。私はひやりとしたが、天井にそれを見出した。狡猾《こうかつ》にも、壁から天井へ移動しているのだ。すかさず四発目を撃ちこんだが、天井の破片が散らばっただけだった。
「どう、警察官になってよかったでしょ!」
「はあ!?」
「大理石の壁に思いきり銃弾をぶちこむ。善良な市民には不可能なことよ。警察官だから、犯罪捜査という大義名分のもとに、破壊行為もやりたい放題なんだから!」
私が返答しないうちに、重力が変わった。|すうっ《ヽヽヽ》と体重が消えたのだ。オートバイは宙を飛んでいた。放物線を描いて、階段の上を飛行している。|どん《ヽヽ》と音をたてて踊り場に着地したところで、ようやく私は声を出した。
「薬師寺警視!」
「騒ぐことない! あたしは不死身よ!」
涼子はたしかに不死身でも、私はそうではないのだ。サイドカーの窮屈《きゅうくつ》な座席で、私はもがこうとしたが、すでに涼子はオートバイの車首をめぐらして、踊り場から下の階へと突進している。車体が激しく揺れ、舌をかまないようにするのがやっとだ。そして三階に達すると、涼子はさらに無法な暴走行為に出た。
幅の広い上りのエスカレーターを、オートバイは猛然と駆け下る。サイドカーの側面がエスカレーターの側壁を激しくこすって、耳ざわりな音とともに火花を散らした。このような状況だから一般客はいなかったが、警棒と盾を手に駆け上って来ようとした機動隊員が四、五人いた。文字どおり仰天してオートバイを見あげ、悲鳴をあげて隣りのエスカレーターへ飛びこんだ。放り出された盾の上を、オートバイの車輪が容赦なく走りすぎる。
「逃げろ、ドラよけお涼だ!」
恐怖に駆られた声がひびく。涼子を見知った者がいたらしい。
「失礼な!」
涼子はいったが、とくに怒っているようには見えなかった。自分の悪名を楽しんでいるようすで、浅井京華女史にヒボウされたときとは反応がちがった。
一階に着くと、涼子はエンジンをとめた。擦《こす》り傷だらけのサイドカーから私は飛びおりた。涼子をその場において、エントランスホールの方角へ私はようすを見に走った。と、廊下で奇妙なものを見つけた。子供が遊ぶような一輪車にまたがった人影である。岸本であった。
「おーい、こっちだ、レオコン」
叫んで手招きすると、岸本は、悲喜どちらか判断しかねる表情で一輪車を走らせて来た。
「よ、よかった。ひとりだけ取り残されたかと思いましたよお。ところで、レオコンって何ですか」
その質問には私は答えなかった。
「お涼がオートバイでお前さんが一輪車か。そんなものどこで見つけたんだ」
「スポーツ用品売場です。とにかく足を床に着けてたら危険ですからね。自転車でもよかったけど、一輪車のほうが子供のころからボク得意だったんです」
一輪車をあやつって巨大ビルの中を走りまわるエリート警察官僚。絵にはならないが、とにかく自分で工夫《クフウ》して床を踏まずにすむようにしたのは感心である。
「あら、生きてたの?」
岸本を涼子のところへつれていくと、彼の顔を見た涼子が酷薄な目つきをした。岸本はヒクツそうな笑顔で応じた。
「えへへ、『レオタード戦士ルン』の放映が終了するまでは死ねませんから」
「ま、そんなとこでしょうね。それじゃ、この世のことをすこし報告して。他の場所のようすはどうなの?」
「いやもう、ムチャクチャです」
床や壁、さらには天井まで奔りまわる怪物の影を見て、民間人と警察官とを問わずパニックにおちいっているという。とりあえず民間人は外へと逃げ出せばよいが、警察官はそうはいかず、武器を持ったままヒステリーをおこして走りまわっているから危険この上ない。
おりから、廊下の角を曲がってSPのひとりがあらわれた。拳銃を手にしたまま、血走った目で私たちをにらんだ。何か喚《わめ》きながら駆け寄って来る。
涼子のご自慢の脚が水平にあがって、SPの顎《あご》の下を強烈に一撃した。SPはわずかな声と大量の空気を吐き出し、五メートルほど後方に吹っとんでカーペットの上で一回転した。長々と伸びて動かない。
「あれは味方ですよ!」
「錯乱した味方なんて、敵より始末に悪いわよ。おとなしく眠っていてもらおうじゃないの」
「おみごとです」
よけいなことを岸本がいって手をたたいた。私は意見を述べてみた。
「あのスピードを見ると、拳銃を命中させることは至難の業《わざ》です。フルオートの自動小銃なりマシンガンなりがなければね」
「あればあたしだってほしいわよ」
「そうなると、いよいよ自衛隊の出番ですね」
岸本がまたよけいなことをいう。こいつは怪獣映画のファンでもあるにちがいない。
明らかに涼子は、自衛隊にテガラを譲る気はないようだった。柳眉《りゆうび》をわずかにひそめていたが、ほどなく決心したようだ。
「やってみる価値があると思うわ。伝説にしたがって、奴をおびき出す」
「どうするんです?」
「あたしのいうとおりにおし! 最悪でも、あたし以外の全員が死ぬだけよ!」
たいそう励みになる台詞である。
「はいッ、おおせのとおりに」
私の一万倍ほども忠誠心に富んだ返答をしたのは岸本であった。何やら表情に喜々《キキ》としたものがある。こいつは何を考えているのだ。
涼子の指示にしたがって、私と岸本はデパートの地下へと走った。大量の油を持ってくるよう、女王さまのご命令である。
「お前さん、妙にお涼に対して忠誠をよそおっているじゃないか」
私がいうと、岸本は頬をふくらませた。
「泉田サン、お涼だなんて呼びすてにしちゃいけませんよ」
「ああ、それはもちろん薬師寺警視と呼ぶべきだが……」
「そうじゃありません。お涼さまとお呼びすべきです」
「お涼さま!?」
「そうです」
オゴソカに、若きエリートはいう。こいつ、ついに錯乱したのだろうか。
「ボクはようやく悟りました。さっき、お涼さまに尻を蹴とばされて、眠っていた真の自分がメザメたのです。それに気づいたのはつい先ほど、一輪車に乗っていたときですが」
「おいおい」
「虚構の世界において、ボクの心はルンちゃんの上にあります。ですが、現実の世界においては、ボクはお涼さまに忠誠をささげます」
「……あ、そう」
「泉田サン、相手がアナタでもボクは負けませんよ!」
何をいってるのだ、こいつは。ばかばかしくなって、私はさらに足を速めた。
急いだつもりだが二〇分ほどかかった。私たちはデパートの地下から大量のオリーブ油を持ち出し、台車で運んで来たのだ。
私と岸本はオリーブ油を床一面に撒《ま》いて歩いた。
最初は食欲をそそる芳香のように思えたが、どんどん鼻にも胃にももたれてきて、当分の間、オリーブを使った地中海料理など食べる気になれなくなった。それがすむと、うやうやしく岸本が報告する。
「こんなものでよろしゅうございますか」
「けっこうよ。泉田クン、拳銃の弾倉はあたらしいのに交換した?」
「しました」
「それじゃ待機しましょう。伝説どおりならオリーブ油の匂いに惹《ひ》かれて来るはずだから」
私たちは床の上に立つのを避け、ソファーに上った。私と岸本は立っていたが、さすがに涼子はハイヒールでソファーの上に立つのは困難で、足をあげて横ずわりした。長く待つ必要はなかった。一分もたたず、涼子が叫んだのだ。
「上よ!」
声と同時に、赤褐色の影が落下してきた。天井に怪物はいたのだ。私は涼子の身体を横抱きにして、床に身を躍《おど》らせた。間髪の差で、怪物がソファーに毒針を突き刺す。八本の脚がソファーを踏みつける。
「あわ、わ、わ、わわわ」
腰をぬかした岸本が這《は》って逃げようとする。その間に涼子と私は一転して起きあがっていた。涼子がたてつづけに発砲する。
「じゃまよ、おどき!」
発砲をつづけながら、涼子は岸本の尻を蹴りつけた。岸本はひと声あげて床を転がり、そのまま失神した。パニックから歓喜へ、心理が急変して、神経の負担が限界をこえたらしい。「お涼さま」に折檻《せつかん》されて、じつにうれしそうな表情で失神したものである。
私のほうは失神などしていられなかった。両手でコルト三二口径をにぎり、狙点《そてん》をさだめて引金《トリガー》をしぼった。銃声が鼓膜《こまく》を連打し、手首に反動が伝わる。
三発達射して、すべて命中した。だがダメージを与えたようには見えなかった。怪物の毒針がひらめく。とびのいた私の眼前を、死の光がなぎ払った。
「神経節をねらって撃つのよ!」
涼子が叫ぶ。あまりむずかしい注文をつけないでほしい。涼子のほうは空《から》になった弾倉を放り出し、SPから召しあげた弾倉を詰めかえた。そしてコルト三二口径をかまえなおした瞬間、怪物の足の一本が宙を払った。涼子の手から拳銃が弧《こ》を描いて飛ぶ。素手になった彼女をめがけ、兇々《まがまが》しく光る毒針が伸びていく。
瞬間、私は左の肘《ひじ》で毒針の側部をはねあげた。おどろいた。自分にこんなことができるとは思わなかった。宙で泳いだ毒針が、今度は私めがけておそいかかってくる。私は身を沈め、かろうじて必殺の一撃をかわした。だが身体のバランスがくずれ、床に片ひざをついてしまう。毒針をひらめかせた怪物が、にわかによろめき、オリーブ油の池に倒れこんだ。涼子がしたたかに怪物の胴を蹴とばしたのだ。
右のハイヒールがぬげ、怪物はその尖端を胴に喰いこませたまま床面に逃げこもうとして――それができなかった。
オリーブ油の膜が大理石の表面をおおい、怪物が石の中にもぐりこむのを妨害しているのだった。
X
ただ怪物をおびきよせるだけではない。その逃走をさまたげる効果がオリーブ油にはあったのだ。「オリーブの恵みが平和を回復する」とはこのことだったのか。
「オホホホホ、すべてあたしの計算どおりね」
勝ち誇った涼子の高笑い。ほんとうか、という気もするが、涼子の思考回路は私などとたしかにちがうから、計算どおりなのかもしれない。ただ、そうだとすれば最初からこの策《て》を使っていればよさそうなものだ。もしかしたら単なる偶然だろうか。だとしたら、薬師寺涼子の悪運の強さは底が知れない。
「ほら、くやしかったら何とかいってごらん」
ぶざまに油膜の上を這《は》いまわる怪物に、涼子は嘲笑を投げつけた。自分でもいったように、涼子には、敗者に対するアワレミの情などないのである。怪物は、油膜におおわれていない天井に飛びつこうとするが、油膜ですべって反動をつけることができず、さらにぶざまにもがきまわるだけだ。醜怪な頭部が油にまみれている。そこに表情などあるはずがないのだが、よりによって涼子にしてやられた無念さをただよわせているようにも見えた。
涼子が右手を突き出すと、そこに女性用のライターがにぎられていた。私はあわてて二歩しりぞき、油の池から離れた。
手先に黄金色の炎をともすと、涼子は右手を高くかかげた。ニューヨークの自由の女神のポーズである。ただし表情は復讐の女神そのものだった。
「おとなしく大理石の中で眠っていればよいものを、この時代この場所、薬師寺涼子さまの支配する領域にやって来て無法残虐のかぎりをつくすとは。サタンやルシフェルが赦《ゆる》しても、このあたしが赦さない!」
涼子の手首がひるがえり、ライターが放物線を描いて飛んだ。
「消えておしまい!」
炎は勢いよく、一瞬にして燃えあがった。怪物は黄金色の光と熱につつまれ、苦悶のうめきをあげる。いや、発声器官はないはずだが、足をこすりあわせて音をたてているようであった。火と油のためか、その昔もすぐ消え、かわって、怪物の身体の燃える音がおこった。いまや炎のかたまりとなって怪物は転げまわった。
「思い知った? 正義はかならず勝つ。いえ、正義とはあたしが勝つことよ!」
涼子は高笑いしたが、むろん返答はない。燃えあがった炎が煙を生み、天井をなめはじめた。床の上でも炎がひろがりはじめる。涼子が腰にあてていた手をはずし、小首をかしげた。
「変ね」
「何が変なんです?」
「これだけ燃えあがったらさ、スプリンクラーが作動するんじゃない?」
涼子と私は顔を見あわせた。
「たぶん怪物がその種のシステムを破壊してしまっているんじゃないですか」
「……そうすると、もしかして、防火シャッターもおりないかしらね」
「おりないと思いますよ」
涼子と私はふたたび顔を見あわせた。
「水もないのに、火って自然に消えないわよね」
「燃えるだけ燃えてしまわないとね」
「消火器!」
涼子が叫んだ。
「その前にいちおう火災報知器を押してみましょう」
「システムが破壊されてるといったじゃないの」
「だめでもともとでしょう!」
「ムダなことはきらいなのよ!」
……かろうじて私たちは、「放火魔お涼とその手下」にならずにすんだ。将来あるエリート岸本青年も、炎にまかれて殉職せずにすんだ。岸本はエントランスホールの一角でまだ失神している。もうすぐ順番が来て、救急車に乗せられるだろう。それとも、「ケガらしいケガはない」というので、放っておかれるだろうか。
「損害はいったい何億円ぐらいになるでしょうね」
「気にしなくていいわよ。どうせ、あたしたちが支払うわけじゃなし」
そうだろうか、損害額の一割くらいは涼子が負担すべきであるような気もするのだが。もっともそうなると、私もごく一部ながら負担を求められるかもしれない。上司を見習って、私も口をぬぐうことにした。
ふと気がつくと、室町由紀子が私たちの前に立っていた。私を見て「ご苦労さま」というと、すぐ身体ごと涼子に向かって話しかける。ごく事務的な口調で説明したのは、高市理事長の妄想とコンピューターの暴走という線で話をつくる、怪物の存在は絶対に認められない、基本となる報告書は彼女がまとめる、というようなことであった。それらを話し終えると、由紀子は、やはり事務的にあいさつして背を向けた。彼女を見送って、私は上司に視線を転じた。
「あれでいいんですか」
「いいのよ。警察と科学者がオカルトを認めちゃいけないの。あたしも外部に対しては自分の功績をフイチョウする気はないわ。全部、総監にゆずってあげてよ、オホホホ」
つまり総監が全責任をとらされるわけだ。気の毒ではあるが、もともと涼子を採用したほうが悪い。自分自身の管理能力を再確認するためにも、何とか無難にこの一件を処理してもらうとしよう。
「いま何時?」
「ああ、もうとっくに明日《ヽヽ》になってますよ」
「とんでもない夜だったわ。超過勤務といってもホドがある。あとはお由紀に押しつけて、しばらくあたしはサボるぞ!」
「どうぞ、そうしてください」
「どうして君はそうテイネイな口しかきけないの!」
理不尽《リフジン》なことを涼子はいい、さらに理不尽なことに、繊手《せんしゅ》を伸ばして|ぐい《ヽヽ》と私のネクタイを引っぱった。今夜二度めのことである。まだ慣れるほどの回数ではなかった。
「私は部下なんですから、上司に対してテイネイな口をきくのが当然でしょう?」
「フン、上司を上司とも思ってないくせに」
「思ってますよ」
「ほんとに?」
「ほんとですったら」
「ようし、わかったわ。それじゃ上司命令。明日、じゃなかった、今日は休暇をとるからおともしなさい。ショッピングして、『オペラ座の怪人』を観《み》て、インド料理を食べるの。荷物持ちがいるの!」
公私混同もいいところだ、休日のおともを部下に強要するとは。だが私は答えた。
「わかりましたよ。でも、とりあえずアパートに帰ってひと眠りしたいですね」
「軟弱だけど、まあいいわ。あたしも家でひと眠りするから。でも、いい? 九時すぎには起きて、あたしにモーニングコールするのよ」
ここまで堂々とワガママをいわれると、何となく笑ってしまって、怒る気にならない。
「かしこまりました、女王陛下」
「よろしい、ではあたしをおぶって、あの馬車までつれておいき」
女王陛下は右のハイヒールを怪物もろとも焼いておしまいになったのだった。私はうやうやしく腰をかがめて薬師寺涼子を背負った。そして、警察官と救急隊員と民間人とで混雑する深夜の前庭を、一台のパトカーへと向かって歩きはじめた。
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さわらぬ女神にタタリなし
――薬師寺涼子の怪奇事件簿
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T
「平和と退屈は同義語である」
とは誰がいったことだろう。
「退屈に耐えうる者だけが平和を希求《ききゅう》できる」
なんてセリフもあった。重みのあるセリフだが、最初から平和なんて希求していない人物にとっては何の意味もない。
「あー、タイクツだこと。何か血なまぐさい事件がおきないかなあ」
デスクにみごとな両脚を投げだした姿勢で、平和主義にケンカを吹っかけたのは、私の上司《じょうし》である。
ひややかに私は答えた。
「つい先日、警察庁長官と警視総監の首をまとめて切りとばしたくせに、何がタイクツですか。ほどほどにしておかないと、神サマが怒りますよ」
私の名は泉田準一郎《いずみだじゅんいちろう》。警視庁刑事部に所属する三三歳の警部補である。ふだんはいたって不信心《ふしんじん》なのだが、上司の神をも畏《おそ》れぬ行動を見ていると、つい陳腐《ちんぷ》なイヤミのひとつもいいたくなる。
「泉田クンの発言を聞いてるとさ、あいつらが辞任したのは、まるであたしのせいみたいじゃない」
「ちがうとでもいう気ですか」
「ええ、ちがうわよ。ひとえに、あいつらの危機管理能力が不足してたからじゃないの。だいたい無事に退職して、退職金も恩給ももらえるんだから、おめでたいかぎりでしょ。これでモンクをいったらバチがあたるわよ!」
バチがあたるのはしかたないとして、涼子《りょうこ》にバチをあてられたのでは、長官も総監も浮かばれないだろう。
警視庁刑事部参事官・薬師寺涼子《やくしじりょうこ》。二七歳にして警視。人は彼女を「ドラよけお涼」と呼ぶ。「ドラキュラもよけて通る」という意味だ。容姿、才能、経歴、財力、どれをとっても完全無欠。趣味は上司をいびることと、騒ぎを大きくすること、そしてあとしまつを他人に押しつけること。警視庁はじまって以来のトラブルメーカー、というよりトラブルクリエーターだが、おえらがたのさまざまな弱みをにぎっている上、いくつも怪事件を解決している実績があるので、彼女をやめさせることなど誰にもできないのだ。
内線電話が鳴り、私は受付からの報告を受けた。涼子への面会人がいるというのだ。
二分後、その面会人があらわれた。
涼子の部下になってから、私は、なぜか美女に会う機会が増えたような気がする。いま眼前にいるのは、清楚《せいそ》な若奥さま風の美女で、年齢は三〇歳ぐらいか。やや後方にひかえているのは、おそらく妹だろう。正面にいる女性よりすこし若く、鼻やあごの形がよく似ている。
「わたしたち、こういう者です」
差し出された名刺《めいし》を見ると、
「花岡天海」
「花岡空海」
と書かれている。
「天海《てんかい》サンと空海《くうかい》サン?」
歴史上、有名な坊さんがふたりそろってよみがえったのか、と思った。そうではなかった。
花岡天海の職業は「フラワ−・コーディネーター」、空海のほうは「国際保険コンサルタント」となっている。どちらも仏教とは関係なさそうだ。
「わたしは天海《てんみ》、妹は空海《くうみ》といいます」
ちょっと無理な読みのように思えるが、私がとやかくいうスジアイではない。
「それで、どんなご用件でしょうか」
私の問いに、姉のほうが答えた。
「涼子さんにお目にかかって、ご相談したいことがありまして」
「涼子さんというと、薬師寺警視のことですね」
ある意味で妙な念のおしかたをしたのは、「涼子さん」という呼びかたがどうもしっくり感じられなかったからだ。むろん返事はイエスだったので、私は彼女たちの来訪をとりつぎ、涼子の執務室に送りこんだ。
三〇分ほどで花岡《はなおか》姉妹が辞去《じきよ》すると、いれかわりに私が涼子の執務室に呼びつけられた。
「悪いけど、ちょっとつきあってくれる? 知人の知人の知人が事件に巻きこまれたらしいの」
花岡姉妹の姉のほう、つまり天海が涼子の知人だという。彼女の妹、つまり空海の恋人が、奇妙な状況で行方不明になった、というのだった。
「花岡天海という女《ひと》がどういう女なのか、お聞きしていいですか?」
「オヤジの愛人よ」
「オヤジって……お父上ですか」
「いくらあたしでも母親をオヤジとは呼ばないわよ」
私は記憶のテープを巻きもどした。涼子の父親である薬師寺|弘毅《ひろき》氏は、かつては警察庁のキャリア官僚で、現在は巨大企業|JACES《ジャセス》のオーナー社長である。資産は一〇〇〇億円ぐらいで、年収は二〇億円ぐらいだったかな、とにかく私には現実感のない数字である。ほんもののブルジョワなのだ。
薬師寺弘毅氏の妻、つまり涼子の母親は、一〇年ほど前に亡くなっているはずだ。弘毅氏が愛人を持っていても、不倫《ふりん》ということにはならない。オトナの関係というやつである。
薬師寺氏は、現在ニューヨークへ出張中だという。愛人をつれていかないのは現地で調達するつもりだからだろう、と、娘の推測はシンラツだった。
「で、天海サンは火曜日の担当なんだけどね」
「担当?」
私は意味を把握《はあく》しそこねた。
「オヤジには愛人が五人いるのよ。ひとりずつ、月曜日から金曜日まで担当してるってわけ。土曜日と日曜日はフリー。わが父親ながら、道徳の敵だわね」
「お父上はおいくつでしたっけ」
「ちょうど六〇のはずよ。戸籍をごまかしてなければね。オヤジならやりかねないけど」
六〇歳で愛人が五人。めでたいというか、おさかんというか。私はくだらない冗談を思いついて、口にしてみた。
「で、妹さんのほうは木曜日あたりですか」
「はずれ。水曜日」
「え……?」
「冗談だってば。妹の空海さんにはちゃんと恋人がいたの。それもふたり。ま、何人いてもいいけど、ひとりが売れない画家で、ひとりが売れない舞台俳優。どちらも自称天才。売れないのは世間がオロカだから」
にがにがしげな口調になって、涼子は吐《は》きすてた。
「いるのよねー、そういうやつ。クリエーターとしてもアーティストとしてもまったくだめなくせして、自分の生活力のなさを美化する才能だけはたっぷりあるやつがさ」
よくいえば、涼子はコトバをかざらない。わるくいえば、身もフタもない。いったん床におろしていた脚を、ふたたび彼女はデスクに投げ出した。
「で、そういうやつにひっかかる女がかならずいるんだ。けっこう顔も頭もいいくせして、何でああも口先だけの男にエジキにされるんだろ。あげくに、ひとりが失踪《しっそう》して、ひとりが容疑者だって」
涼子の発言の最初のほうは、私も同感である。「何であんな口先だけのやつが、才能ある女性にもてるんだろう」とフカシギに思ったことが何度もある。
まあ男というものは、自分がもてない理由と他人がもてる理由とがどうしてもわからない生物ではある。
「ま、とりあえず所轄署《ショカツ》に行ってみましょう。たしか自由《じゆう》が丘《おか》署だったわ」
「どちらが失踪《しっそう》したんです?」
「画家のほうですって」
長谷川三千男という三五歳の男が姿を消したのだ。しかも衣服を残して。
画家の長谷川は有名な美術大学を卒業して一〇年以上になるが、さっぱり芽が出ず、イラストレーターへの転向をはかっていたという。「それぐらいなら何とでもなるし、すぐカネにもなる」といっていたそうで、これは安直《あんちょく》な話だし、イラストレーターたちに対して失礼でもあるだろう。それでも、怪物だの魔道士だのが登場するパソコンゲーム・ソフトの外箱に絵を描く話が持ちこまれた。じつは話をつけたのは花岡空海だが、恋人のプライドを傷つけないよう、その点は秘密にしてある、という。
「自立もできずに、何がプライドよ」
と、涼子などはせせら笑うのだが、それはともかく、長谷川はアトリエと称する安アパートの一室にこもって仕事を開始した。
昨日のこと。空海のもうひとりの恋人である舞台俳優の鳥井星志《とりいせいじ》が長谷川をおとずれた。鳥井のほうもとんと一人前になれずにきて、声優へ転じようとしていたという。以前から長谷川と鳥井は仲が悪かった。これはまあ当然のことだろう。ひとりの女性を間にはさんで、たがいに存在を知っているふたりの男が仲がよかったとしたら、かえって気味が悪い。ましてふたりともカイショウがなくて、女性の経済力に依存《いぞん》していたとしたら、たがいに軽蔑《けいべつ》しあっていただろうし、女性に見放されることに恐怖をおぼえてもいただろう。
で、鳥井が長谷川のアパートをおとずれたのは、長谷川と電話で口論したからだ、という。たいそう勝ち誇った、酒を飲んでいるような声で、長谷川は告げたそうだ。
「すごいものを手にいれた。今度こそおれは成功する。空海はおれのものだ。お前なんぞもう相手にしてもらえないだろうよ。気の毒だなあ、生ゴミみたいにすてられて」
さんざんののしられた鳥井は、長谷川をなぐりつけてやるつもりで、恋敵《こいがたき》のアパートへ駆けつけた。鳥井のアパートは目黒《めぐろ》区の自由が丘にあった。自由が丘はおしゃれな街だが、ところどころに安アパートが残っている。長谷川はミエをはって、「自由が丘に住んでいる画家」と称していたわけである。
鳥井は長谷川のアパートのドアをたたいた。
「誰?」
「鳥井だ、ここをあけろ!」
「迷惑だ、帰ってくれ」
「話があるんだ、あけろ!」
「話なんか何もない、帰ってくれ。でないと警察を……」
呼ぶ、というつもりだったのだろうが、長谷川の声がとぎれ、あらあらしい息づかいにつづいて、何とも形容しようのない悲鳴がアパート全体にとどろいた。
うろたえた鳥井は、その場を離れようとして足を踏みはずし、階段から転落した。住人の誰かが警察に通報したようで、パトカーのサイレンが近づいてくる……。
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涼子と私は覆面パトカーで自由が丘署に向かった。黒いジャガーで、かえって目立つのだが、涼子の所有車《もちもの》だから誰もモンクをいえない。鼻歌まじりでハンドルをにぎるのはもちろん涼子である。彼女の「運転哲学」を知っているので、私は助手席で硬直していたが、とりあえず上司にクギをさした。
「やりすぎたらだめですよ、権限もないくせに。逮捕するには逮捕状が必要です。くれぐれも自由が丘署の足をひっぱらないでください」
「逮捕するには、たしかに逮捕状が必要だけど」
「だけど?」
「ぶっ殺すのには、殺人許可証は必要ないのよ。だから、逮捕なんかしないで、犯人をぶっ殺してしまえばいいじゃない」
「そんなムチャな理屈が通るとでも思うんですか」
「うるさい! あたしが通れば道理《どうり》がひっこむのよ!」
それ以上、私はさからわなかった。道理がこそこそひっこむ姿を、視界のはしにちらりと見たからである。
事態がどうころぶやら、想像すると寒気《サムケ》がしてきた。車外はよく晴れたおだやかな晩秋の一日なのだが、人工の氷嵐《ブリザード》が吹きあれるかもしれない。何とか、この件が涼子のタイクツしのぎの役に立ってほしいものだ。期待はずれだったりしたら、涼子はさらにフキゲンになるにちがいないから。
「天海サンはオヤジともう三年ぐらい関係がつづいてたと思うわ。フラワ−・コーディネーターとしてはけっこう有名なの」
走りつづける車のなかで、涼子は、艶福家《エンプクカ》の父親について語った。
「愛人になる以外に能のないような女、オヤジはきらいなのよ。何か才覚があって、必要なときに必要な援助をしてやればきちんと自立できるような女が好きなの。だから、これまでの愛人たちはみんな店やオフィスを持って独立してるってわけ」
「ずいぶんゼイタクな好みですね」
佳《い》い女がなかなか若い男にまわってこないわけだ。ようやく私のところへひとりまわってきたと思ったら、ダイエットに理解のない恋人をすてて、南半球へと去ってしまった。
ちょっと感傷的な気分になりかけたが、私はせつない記憶を追いはらってムダ話をつづけた。
「で、そういった女性たちの店やオフィスは、JACESの情報収集基地になってるわけですね」
「そうよ。どうしてわかったの?」
「……私は冗談のつもりだったんですが」
「そのていどの冗談じゃ、オヤジに勝てないわよ。人間界のもっとも悪質な冗談を粉にして、非常識という名の水でねりあげて、地獄のカマドで焼きあげたのが、うちのオヤジなんだから」
実《じつ》の娘がそこまでいうか。
「そうですか、ま、いずれにしてもお父上に勝とうなんて思っていませんから、どうでもいいですけど」
話題を打ちきるつもりでそういったのだが、なぜだか涼子はムキになった。
「いまからそんなこといってどうするの! どんな手段を使ってもいいから、オヤジを追いつめて降参させなきゃだめじゃない」
「そんなことをいわれても……」
「最初からそんなに弱腰だったら、カサにかかったオヤジにどんな無理難題《ムリナンダイ》を吹きかけられるか、知れたものじゃないわよ。覚悟を決めて、敵よりアクラツな手段で、テッティテキにたたきつぶして再起不能にしてやるのりいいわね?」
「何で私が覚悟を決めなきゃならないんですか。あなたのお父上がそんなに危険な人なら、近づこうなんて思いませんよ。家庭内の覇権抗争《ハケントウソウ》に、部下をまきこまないでください!」
たまりかねて私が声を大きくすると、涼子はだまりこんだ。何かに気がついたような表情がひらめいて消え去ると、涼子はやや白々《シラジラ》しい口調をつくった。
「まあいいわ。今日のところはとりあえず天海サンの件をかたづけるとしましょう」
自由が丘署に着くと、駐車場に黒いジャガーをとめて、私たちは建物にはいった。昭和時代のナゴリを濃厚にとどめた、古びて殺風景《サップウケイ》な建物だ。
玄関に立っていた制服警官が、涼子を見て目と口を大きくあける。どぎまぎして、用件をきくことも忘れたようすだ。涼子は平然として、彼の前を通りすぎ、私をしたがえてさっさと階段をあがった。この署の捜査課とは以前の事件で知りあいである。涼子はさんざんワガママにふるまったあげく、刑事たちのメンツを丸つぶしにする形で事件を解決してしまったので、いまでもニクまれているのだ。
涼子の姿を見た刑事たちは、一瞬ぎょっとしたようだが、決心したようにひとりが近づいてきて、芸のないイヤミをいった。
「本庁の参事官のようなエライお人が、こんなところへ何のご用で?」
このていどのイヤミでは、涼子の白珠《しらたま》のような肌にかすり傷すらつけることはできない。
「用があるから、こんなキタナイところに来てあげたのよ。あー、やだやだ、安タバコとラーメン、ビンボーくさい社会派の悪臭がただよってるわ。昭和の遺物《いぶつ》よね。これだから未解決事件も多くなるのかしら」
刑事たちの顔面筋肉がひきつる。私はさりげなく一歩すすみ、旧知の坂田《さかた》警部補に連絡してもらった。
捜査課の部屋を出ていこうとしたとき、聞こえよがしの声が背中を打った。
「けっ、キャリアにシッポふりやがって、裏切者《ウラギリモノ》が」
私にとっては二重三重に不本意《ふほんい》ないわれようだった。足をとめ、振り向きざまに反論しようとして、私はやめた。キャリアに対するノンキャリアの心情は、私にもわかっているつもりだ。
だから無視してすませるつもりだったのに、そよ風を暴風に変えてしまうのが私の上司である。ハイヒールのかかとが勢いよく床に鳴って、涼子がわざわざ引き返してきた。
「ちょっと、面と向かって何もいえないイクジナシのくせして、何えらそうな口をたたくのよ。泉田クンがあたしに忠実なのは、キャリアにシッポを振ってるからじゃないわ。あたし個人に服従するのをヨロコビとしているからよ。よくおぼえておおき!」
刑事たちは沈黙し、私はあわてた。
「ヨロコビとしてなんかいませんよ」といったりしたら、さらに事態が悪化するから、その件については無視して涼子をせかせる。
「早く行きましょう。坂田警部補が鳥井星志に会わせてくれますから」
取調室《とりしらべしつ》のひとつで、坂田警部補と鳥井星志が私たちを待っていた。坂田警部補は赤黒いカニみたいな顔の中年男だが、人柄は悪くない。
鳥井星志は美男子だった。とはいっても、彼以上の美男子はいくらでもいるだろう。線の細い、たよりなげな雰囲気が女性の保護欲をそそるらしいが、同性から見ると、たのむからまっすぐ立ってくれ、といいたくなる。せめてもうすこし姿勢《しせい》がよくないと、舞台俳優として大成《たいせい》するのはむずかしいだろう。まあ、よけいなお世話だが。
「あなたたちが、ボクの無実を証明してくれるんですか」
甘えるような声を鳥井は出した。私には目もくれず、ひたすら涼子を見つめている。自分の顔が女性に感銘をあたえることを信じきった表情だった。
「あんたが無実ならね。そうでなければ有罪を立証してあげるわよ。その結果、いまは任意同行でも、正式に逮捕ということになるかもしれない。あたしはある根拠によって、へボ画家の長谷川はもう死んでいると思ってるけどね」
鳥井は息をのみ、両手で頭をかかえた。
「長谷川がもう死んでいる? おお、何という残酷な所業《まね》だ! 何という血なまぐさい話だ! 何という悲惨なできごとだ!」
すると、半《なか》ば歌うような、半ばあざけるような声が答えた。
「何というオオゲサな反応だ。何という空虚な台詞《セリフ》だ。何という不実《ふじつ》なおどろきようだ」
鳥井がだまりこんで声の主を見やる。声の主はむろん薬師寺涼子である。彼女はあからさまなケイベツのマナコで若い俳優を見やった。
「あんた、プロをめざすならもうすこし自分の言葉ってものを持ったほうがいいんじゃない? そんな貧弱なボキャブラリーじゃ、この国の首相ぐらいしかつとまらないわよ」
鳥井の顔に怒りと失望があらわれた。何かいいたそうだったが、ボキャブラリーの貧困さがわざわいしたか、作戦を立てなおす必要をおぼえたか、結局、だまりこんだままだった。
涼子は坂田警部補をかえりみた。
「現場にのこされていたという絵を見せてくださる?」
「はあ、こちらへどうぞ」
涼子に対する態度を決めかねているようすで、坂田警部補は私たちを先導した。地下の証拠品保管室へとみちびく。建物は古いが、保管室のドアだけは新品で、暗証番号のボタンを押してあけるようになっている。
私たちが見た絵は「食人鬼《しょくじんき》」と題されていた。
暗く濁《にご》った色調で背景が塗りつぶされており、前方には若い女性が描かれている。恐怖に目と口を大きく開き、両手をかざして逃げまどう姿だ。衣服が破れ、白い肌があらわになっている。たいして魅力も独創性もない絵で、故人《こじん》となった長谷川には気の毒だが、イラストレーターとしても才能が豊かだとは思えなかった。
それより重要なことは、給の中の空白である。不自然な形で、絵具がごっそり落ち、キャンバスがむき出しになっているのだ。それは両腕をかかげ、頭に角《つの》のある、大きな人間の形をしていた。
絵のなかの食人鬼がぬけ出して画家をくいころし、どこかへ姿を消した、ということになるのだろうか。
あまりにばかばかしくて、私は口に出すのをはばかった。それが常識人の態度というものである。
ところがだ。薬師寺涼子の辞書に「タメライ」という項目はない。ご自慢の胸をそらして、彼女は断言した。
「犯人はアキラカ。もはやうたがう余地《よち》はないわ。絵のなかの食人鬼がぬけ出して画家をくいころし、どこかへ姿を消したのよ!」
V
坂田警部補の眉がひくついた。口をあけたが何もいわずに閉じたのは、自制の結果であろう。気の毒ではあるが、そのていどのストレス、私には毎日のことである。
「たちどころに犯人を指摘していただいて、たいへんありがたいことです」
ようやく、坂田警部補はうなり声を出した。不遜《ふそん》きわまる態度で、涼子はうなずいてみせる。私はなるべくさりげなくフォローした。
「問題は犯人をどうやって逮捕するかですね。絵のなかの食人鬼に、裁判所が、逮捕状を出してくれるでしょうか」
フォローは失敗だったようだ。坂田警部補の顔が噴火寸前にひきつるのが見えた。
「あたしにまかせておきなさい。ただ、この件に関しては、犯人の所在をアキラカにする資料が必要なの」
「資料はどこにあるんですか」
「警視庁のあたしの部屋。ちょっと確かめにいかなくてはね。助手A、ついておいで」
涼子がハイヒールのかかとを鳴らして歩き出したので、私は坂田警部補に一礼してあとを追った。坂田警部補の表情を見ると、私が知人の信頼を失ったことはたしかなようだった。だが、私としては上司にしたがうしかない。涼子の発言はムチャクチャなようだが、私にはひっかかるものがあった。
警視庁へひきかえす車内で私は涼子に問いかけた。
「参事官がおっしゃったのは、食人鬼を描いた絵具《えのぐ》が生きていた、ということですか」
「そういってもいいけど、より正確には、特殊な微生物を絵具にまぜるの。その微生物が光を受けると、仮死状態からさめてうごめきだす。そしてその場にいる人間を食べつくしてしまうというスジガキね」
「そんな微生物がほんとにいるんですか」
こういう平凡で常識的な質問をするのが、ワトソン役の義務というものである。わがうるわしのホームズ女史は、あざやかすぎるハンドルさばきで、とびだしてきたネコをかわした。
「以前に読んだ英国の『ネイチャー』誌によるとね、クマムシという微生物がいてね、学問的には緩歩《かんぽ》動物とかいうらしいんだけど、マイナス二五三度C、六〇〇〇気圧という苛烈《かれつ》な環境下でも生存できるの」
「六〇〇〇気圧?」
「体の湿度をいちじるしく低下させて超高気圧に耐えるのよ。そうやって乾燥して、粉末状態に見えるのを『タン状態』と呼ぶんだけど、クマムシの同類でもっと極端なものに、Qovejuna《クォヴェフェ−ナ》≠ニいうのがいるの」
女王さまは警視庁にご帰還あそばした。
ハイヒールを鳴らして闊歩《かっぽ》する涼子の姿に視線があっまる。彼女に敵意や反感をいだく者(つまり警視庁関係者の大部分)でも、彼女の姿勢と動作の美しさは認めざるをえない。ひざをまげず、長いスネを前方に投げ出すような歩きかたで、背筋《せすじ》はまっすぐ伸びている。征服した土地で敗将《はいしょう》を引見《いんけん》する女王サマのようにカッコいい。
涼子の執務室の書棚には、エタイの知れない古書の類《たぐい》がならんでおり、彼女以外には書名も内容もわからない。だからわざわざ彼女自身で確認にもどらなくてはならないわけだ。
書棚の隅《すみ》から、彼女は一冊の分厚《ぶあつ》い洋書を引っぱり出した。
Libro de Indias y hechicerias
どうやらスペイン語の本らしいが、それ以外は私にはさっぱりわからない。革《かわ》の表紙をつけた、辞書のような感じの本だ。
私は大学は英文学科を卒業した。第二外国語はフランス語を選択した。ドイツ語でなくフランス語にしたのは、どうせならフランス産のミステリーを読みたいと思ったからだ。怪盗ルパンとかメグレ警部とかオペラ座の怪人とか、そういうやつをである。ドイツ文学にはミステリーの伝統がないから、私としては当然の選択だった。
その結果、英語もフランス語も自由自在になった、かというと、もちろんそんなことはない。英語は中学生よりはマシ、というていどだし、フランス語は単語をいくつか知ってます、ぐらいのものだ。その点だけでも、私は涼子に遠くおよばない。
「日本語に訳すと『インディアスと妖術に関する書』とでもなるかしら」
「インディアスというのはインドのことですか」
「コロンブスがインドだと信じていた土地のことよ」
「ああ、なるほど、わかりました」
西暦一四九二年に大西洋横断に成功したクリストファ−・コロンブスは、南北アメリカ大陸をインドだと信じこんでいたのだ。
「一六世紀のスペインに対する君のイメージは?」
「そうですね。大航海時代に無敵艦隊《アルマダ》、異端審問《いたんしんもん》にドン・キホーテ、アメリカ先住民の虐殺《ぎゃくさつ》……そんなところですか」
脳裏《のうり》で世界史の教科書のページをめくりながら私は何とかそれだけ答えた。
「まあまあね。ドン・キホーテの出版は一七世紀の初頭だけど、内容的には一六世紀末のスペイン社会を描いたものといえる。で、この本のなかにホセ・デ・バルベルデという悪党の話が出てるの」
何しろ昔話《ムカシバナシ》を集めた本だから、バルベルデは残忍で強欲《ごうよく》、それこそ「昔話に出てくるような悪党」なのだそうだ。
彼がスペインのトレドにある自宅で謎の失踪をとげたのは、西暦一五九八年のことだという。
「その当時は毎年、五トンの黄金と三〇〇トンの銀が、大西洋をこえてスペイン本国へ運ばれたそうよ。現代の貨幣価値になおすと、何兆円になるかしらね」
「それなりに経費だってかかったんでしょうね」
「ないにひとしいわ」
そっけなく涼子は断言する。
「だって、よく考えてみてよ。そもそも人件費がいらないんだから」
「ああ、そうですね」
「インディオ」と呼ばれていたアメリカ先住民を家畜のように酷使《こくし》していたのだから、人件費など必要ない。軍人であったバルベルデは五年にわたって現地の鉱山で監督をつとめ、おおいに功績をあげた。つまり、何万人という先住民の血と涙の上に大量の金銀を山づみして、スペインに帰国したのだ。
「そして無限に流れこむ金銀はスペインを豊かにはしたけど、勤労者としてのスペイン人のモラルを急激に低下させていったの。当然といえば当然のことね。で、はたらかなくなったスペイン人のかわりにせっせとはたらいて、経済を動かすようになったのがユダヤ人なの]
シェークスピアの「ベニスの商人」の世界だ。ユダヤ人に対する反感が、ヨーロッパ全域ではぐくまれていく。
おなじころ、スペイン国内で迫害されていたプロテスタントが、叛乱《はんらん》をおこしたけれどたちまち鎮圧される、という事件があった。バルベルデはそのときずいぶん残酷に事件を処理して、プロテスタントの幼児まで殺しているし、無関係のユダヤ人に共犯のヌレギヌを着せて拷問《ごうもん》し、釈放と引きかえに大金をまきあげている。
その後、バルベルデは軍を退役《たいえき》し、悠々《ゆうゆう》と引退生活にはいった。
つまりバルベルデは、インディオとユダヤ人とプロテスタントの三者から憎まれ、うらまれ、呪われる人物であったわけだ。一言でいえば「弱い者いじめの卑劣な悪党」というわけだが、こんな男でも家庭ではよき夫よき父親であったという。これはまあよくあることで、アウシュビッツの看守などにも見られる例だ。
めずらしいのは、バルベルデに画家の才能があったことだろう。この時代のスペインの大画家といえば、エル・グレコ、本名ドメニコ・テオトコプーロスだが、バルベルデは彼に対して強烈なライバル意識を燃やしていたらしい。後世の私たちから見れば、「エル・グレコにライバル意識? 何とだいそれたやつだ」ということになるが、どんな偉人でも同時代人からは「運のいいやつ」としか思われないものである。
バルベルデはせっせと絵を描きつづけた。そこそこの名声は得たが、エル・グレコとの差はひらく一方だった。バルベルデはあせり、ついに、絵具が悪いだの筆が悪いだの、責任を他に押しつけはじめた。召使《めしつかい》のひとりは、酒に酔ったバルベルデに筆で目を突かれ、失明してしまった。バルベルデの評判はさらに下落《げらく》し、ますますバルベルデは粗暴になった。
とある日、ユダヤ人の年|老《お》いた商人がバルベルデの屋敷をおとずれた。
「じっは私ども、インディアスより渡来しました不可思議《ふかしぎ》な絵具を手にいれましてございます。ヌエバ・エスパーニャ副王領の奥地の密林に産しますキノコより採取したものでございまして、光をあてますと微妙にうごめきます。これで絵を描きますと、あたかも、生きたもののごとくに見えましょう」
ヌエバ・エスパーニャ副王領というのは、やたらと広い土地だ。現在のメキシコとベネズエラ、それに中央アメリカ諸国と西インド諸島の全域にまたがっている。だから「奥地」というのはずいぶんとおおざっぱな表現なのだが、バルベルデはあやしまなかった。エル・グレコをしのぐことができるなら、邪神《じゃしん》の力を借りることもいとわない気分だった。それでも、いちおう慎重をよそおって、尊大に答えた。
「眉唾《まゆつば》な話だな。おれの才能は絵具なんぞに左右されるものではないが、まあ試《ため》してやってもよい。手持ちの分を全部置いていけ。代金はあとばらいだ」
「それはこまります。半分はエル・グレコさまにご予約をいただいておりまして……いえ、代金はたかだか一〇〇〇レアルていどのものでございますが……」
一〇〇〇レアルというのは、その当時、信用ある開業医のひと月分の収入であったという。絵具にしては高価すぎるが、エル・グレコの名を聞いた以上、バルベルデはひくにひけない。二五〇〇レアルを支払って、絵具をすべて買いとった。むろん、
「おれをだましてみろ、血管を切りひらいて全身の血をブタに飲ませてやるぞ」
という脅《おど》しとともに、である。
バルベルデは「魔法の絵具」をかかえて、豪香《ごうしゃ》なアトリエにこもった。巨大なキャンバスに、「地獄へ追い落とされるルシファー」と題する絵を描くつもりだったという。家族もアトリエへの出入りを禁じられ、三〇年来の従僕《じゅうぼく》だけが一日二回、アトリエの扉口《とぐち》まで食事を運ぶだけであった。ちょうど五〇日後の夜、
「できたできた! ルシファーの全身が光に応じて動いておる!」
という狂喜の叫びを、従僕は聞いたが、アトリエにははいらず、扉口にワインとパンとガリアーノ(鳥肉とウサギ肉と野菜の煮こみ)の深皿をおいてひきさがった。そして翌朝また食事を運んでくると、昨夜の食事は扉口におかれたまま冷《さ》めきっている。相談の末、家族が扉を破ってみると、アトリエのまんなかにはキャンバスがおかれ、床には衣服や画材が散乱していたが、主人の姿はなかった。キャンバスの絵は完成していた。ただ中央に魔王の形をした大きな空白があるのをのぞいては。
W
「……それで犯人はつかまったんですか?」
「つかまるわけないでしょ。一六世紀のスペインには、あたしがいなかったんだもの」
「はあ、なるほどなるほど」
「なるほどは一度でいいわよ。ま、犯人がわかっても、あたしは逮捕したとはかぎらないけどね」
「同情ですか」
「感謝よ。イヤなやつを消してくれたんだから」
そのとき絵具にまじっていたのがQovejuna≠セということが、涼子の手にしたスペイン語の本に記されている、というわけであった。
「この本はまだ日本語に訳されていないのよ。魔法の絵具の存在を知っているのは、スペイン語を読めるやつだけ。そういうことになるわね」
そういうと、涼子は私に命じて、自由が丘署の坂田警部補に連絡をとらせた。私は電話口で平身低頭《へいしんていとう》しながら、もういちど鳥井星志にあわせてくれるよう頼んだ。
一時間後、ニガムシを半ダースまとめてかみつぶしている坂田警部補の前で、薬師寺涼子警視は、鳥井にむかって頭ごなしに決めつけた。
「あんたが長谷川を殺したんでしょ。白状おし!」
「おお、何というひどいイイガカリだ。何という非科学的な推理だ。何というズサンなとりしらベだ!」
「すこしだけ演技が進歩したわね。声をおさえることをおぼえたじゃないの。でも、ま、あいかわらず一流への道は遠そうだけど」
涼子の皮肉で、鳥井の態度が一変した。ふてぶてしい表情になっていいかえす。
「そういうあんたはどうなんだ? 一流の捜査官にしちゃ、やってることがいいかげんで、証拠もないし手順も踏んでないじゃないか」
「あたしは一流じゃないもの」
「へえ、あんたでも謙遜《けんそん》するのかい」
「何ネボケてるの。あたしは一流じゃなくて超一流よ。だから手順なんて省略していいことになってるの」
鳥井星志が絶句《ぜっく》したので、それにかわって、というわけでもないだろうが、坂田警部補が私にささやいた。
「おいおい、泉田サン、このまままかせておいて、ほんとにダイジョウブなんだろうな」
「そうですね、ま、タイタニック号に乗った気で安心してたらいかがです」
「安心できんよ、それじゃ!」
坂田普部補は、声とストレスをひとかたまりに吐き出して、颯爽《サッソウ》たる薬師寺涼子の後姿をにらみつけた。
涼子はというと、へボ役者の鳥井星志を相手に何やらしつこく話しかけているが、声が小さいうえに早口らしくて、私にはよく聞きとれなかった。鳥井星志の声のほうは聞こえた。
「何いってんだよ、せめてボクにわかる言葉で話してくれ」
そして取調用のテーブルに手を伸ばすのが見えた。茶碗をとって、口をつける。空気が乾いているのと、大声でしゃべったのとで、咽喉《のど》が渇いたらしい。天井を向いて勢いよく茶を体内に流しこんだ。
それを涼子はじっと見ていたが、無言だった。
「まったく、つきあいきれないよ。正式につぎの呼び出しがあるまで、ボクは帰らせてもらう。ボクの話を聞きたかったら、令状《れいじょう》だったかな、そいつを持って来てくれ」
そして鳥井は私たちに嘲笑《ちょうしょう》を向けながら立ちあがった。坂田警部補はうなり声をあげた。このようなとき、わざと鳥井の前に立ちはだかって身体を接触させ、「公務執行妨害!」とどなる策《て》もあるのだが、さすがにそこまではできなかったようだ。
「また近いうちにお会いしましょうかね」
そうイヤミをいうのがせいぜいだった。鳥井は口もとをゆがめ、勝ち誇ったような視線を涼子に投げつけた。
「ひとつききたいがね、正義の味方|面《づら》して人を裁《さば》くのが、それほど楽しいのかい」
痛烈《つうれつ》な一言をあびせたつもりだったろうが、涼子にはまるで効果がなかった。
「あら、もちろんよ。これ以上、楽しいことがあったら教えてほしいわね。ぜひやってみたいから」
鳥井星志は絶句した。涼子は皮肉っぽく笑ってつけ加えた。
「ま、せいぜい咆《ほ》えてなさいよ。どうせ長くはないから」
「お前らまとめて人権侵害でうったえてやるからな。首を洗って待ってろよ」
そういいすてて鳥井は出ていった。これが生前の彼にとって最後のセリフとなった。というのも、その夜のうちに、彼は世田谷《せたがや》区|下北沢《しもきたぎわ》のマンションから永遠に姿を消したからだ。
鳥井の帰宅をとめることはできなかったが、自由が丘署としては彼をすきかってに行動させておくつもりはなかった。坂田警部補の指示で、刑事がふたり、鳥井のマンションに張りこんだのだ。マンションとは名ばかりのアパートだが、道をへだてて駐車場があるので、そこで晩秋の夜寒《よさむ》に耐えて、刑事たちは張りこんだのだ。
二階の鳥井の部屋に灯火がともり、何時間かが経過した。叫び声が聞こえたように思って、刑事たちが目をこらすと、窓のカーテンに、人影がうごめくのが映った。苦悶しているようすだ。刑事たちのひとりが携帯電話で署に連絡、もうひとりが駆けつけてドアを破ってみると、室内は無人で、ぬぎすてたような感じの衣服が床に散乱していただけであった。
人の出入りなどなかったことについては、刑事たちが証人である。鳥井は消えてしまったのだ。
翌日は土曜日だったが、困惑《こんわく》しきった坂田警部補から連絡を受けて、私はすぐ涼子に報告した。
「やっぱりね」というのが、上司の返答である。
「あのダイコン役者が犯人なわけないのよ。昨日あたしがスペイン語でさんざん面と向かって悪口をいってやったのに反応がないんだもの。気がついたでしょ、泉田クンも」
そういえば鳥井星志は、「ボクにわかる言葉で話してくれ」なんていっていた。あれは比喩《ひゆ》でもイヤミでもなかったのだ。
「それじゃ犯人は……」
「花岡空海よ」
「たしかですか」
「花岡空海は今年の五月まで、カリフォルニアに三年間ほどいたの」
私は納得した。カリフォルニアには|スペイン系《ヒスパニック》の住民が多い。スペイン語を修得《しゅうとく》する機会はいくらでもあったろう。
「空海が犯人だったとして、動機は何です。いつまで待っても一人前にならない恋人たちに、いやけがさしたというところですか」
「もうすこし積極的よ。身辺整理」
「ほかに恋人ができたとか……」
涼子はなげかわしそうに首を振った。
「君、そんな発想しかできないと、時勢おくれになっちゃうぞ。空海はJACESに入社して、ロサンゼルス支局の要員になる予定だったの。依存心ばかり強くて自立できないようなオトコは、仕事と出世のジャマというわけ」
男と女を逆にすれば、たしかにめずらしくもない動機だ。だが、そうすると涼子は最初から花岡空海に目をつけていたということになる。鳥井星志を犯人あつかいしたのは、カムフラージュだったということか。
「ま、あいつを犯人あつかいしてれば空海が油断してボロを出すとは思ったわ。でも、あのときには、あいつが犯人ということで丸くおさまれば、それはそれでいいや、とも思ったの。イヤなやつだしさ」
「冤罪《えんざい》ですよ!」
「冤罪のひとつやふたつでっちあげてこそ、一人前の警察官僚といえるのよ」
「いえませんってば」
「わかったわよ。反省してるわよ。だからこうして結着《かた》をつけようとしてるんじゃない」
涼子は口に出さないが、みすみす鳥井星志を死なせてしまったのは、犯人の空海にしてやられたわけだから、いまいましいにちがいない。
自由が丘署の坂田警部補に連絡すべきだ、と私は思ったが、協調性ゼロどころかマイナスの涼子にはそんな手間をかける気はないようだった。私をしたがえて、黒いジャガーで花岡空海のマンションに直行したのだ。
空海のマンションは渋谷区の西原《にしはら》にあって、これは上に「高級」とつけてもよい。涼子の黒いジャガーが前に駐《と》まっても違和感はなかった。
空海は、外出するので来客は迷惑だ、とインターホンで答えたが、涼子が鳥井星志の名を出すと、ドアのロックを解除して私たちを自室に通した。
低層のマンションだが、高台《たかだい》にあるので、リビングルームの窓からは新宿の高層ビル群を望むことができる。だがむろん涼子はのんびりと風景を愛《め》でる気はないらしく、すでに外出用のスーツ姿になっている空海に、冷笑まじりの視線を向けていた。
「カイショなしどもをかたづけて、いよいよあたらしい生活にはいろうというところを、ジャマして悪かったわね」
「何のことでしょうか」
当惑《とうわく》したように、空海は眉をひそめる。
「よんどころない事情があってね、この件をあたしは午前中にかたづけたいの。あんたの演技はダイコンの鳥井よりましだけど、貴重な時間をついやしてまでつきあうだけの価値はないわ。ありがたい世の中で、ふたりの人間を殺しても、たぶん無期懲役《むきちょうえき》ですむでしょうから、さっさと自首しなさい」
正面からの攻撃である。はたして空海に対して効果があるものやら。
今度は空海はうすく笑った。からかうように小首をかしげてみせる。
「たいへんな自信ね。でも、あなたにはどのていどのことがわかってるっていうの?」
「殺人の動機と方法」
「それはあなたが思いこんでるだけでしょう? とくに方法については立証できないんじゃない? 第一、死体がないのに殺人を立件《りっけん》できるのかしらね」
楚々《そそ》たる風情《ふぜい》の美女だが、鳥井なんぞよりよほどしたたかな対応ぶりだ。
「立件するのは自由が丘署の仕事だし、起訴して公判を維持するのは検事の役目よ。あいつらはあいつらで苦労すりやいいの。あたしとしては、あんたを放っておけないだけ。お姉さんをおなじ方法で消してアトガマにすわろうなんて、ずうずうしいことを実行されちゃたまらないからね!」
私は涼子と空海を見くらべた。なるほど、そういう可能性もあるわけだ。空海はJACES内で出世したいだろうし、姉の天海のようにオーナー社長の愛人になれば、立場はさらに強化される。いや、オーナー夫人が不在なのだから、結婚して次期オーナーの地位につく可能性すらあるのだ。そして、犯罪者というものは、これまで成功してきた方法を変えることはない。決定的な破局にいたるまで、おなじ方法を何度もくりかえすのである。
「ばかばかしい。あなた、妄想癖《もうそうへき》があるんじゃないの」
わざとらしい笑声を空海はたてたが、涼子は平然として言葉をつづけた。
「あんたのお姉さんは笑わなかったわよ」
一瞬にして、空海の笑声は可聴域《かちょういき》から消え去った。
「今朝、出勤前にあたしは天海サンに電話して、考えてたことを全部、話してあげたの。あの女《ひと》も当然、生命と地位が惜しいわけよね。あんたがカリフォルニアから帰る直前、航空便を送ってきて帰国後に受けとったことを思い出してくれたわ。植物の標本だといわれたけど、白い粉末だったから麻薬じゃないかと心配で、念のためこっそり一部分を保存しておいたんですってさ。鑑定すればわかることよ。観念おし!」
沈黙は重かったが、長くはなかった。奇妙なうめき声が空海の口からもれたと思うと、彼女の身体は硬直し、ソファーに倒れこんでいったのだ。
X
私は空海に近づき、あらためて彼女をソファーに横たえ、手首の脈をとってみた。
「弱いけど、ちゃんと脈がありますね」
「転換性ヒステリーの発作《ほっさ》よ。死にやしないわ」
「これもご存じだったんですか」
「天海サンから聞き出したの。必要があったら、もっと心理的に追いつめるつもりだったけど、案外もろかったわね」
「証拠の粉末とやらは、ほんとうにあるんですか」
「あるわけないでしょ」
涼子は優雅な指さばきで髪をかきあげた。
「安直《アンチョク》な野心の報《むく》い。同情なんかするのは精神エネルギーの浪費ってものよ。逮捕だの起訴だの裁判だの、めんどうな手間は自由が丘署のほうにまかせて、これで万事、終わりにしましょ」
「そうはいきませんよ」
「どうしてよ。犯罪の背後にひそむ現代社会の病理のツイキュウなんて、ヒマ人にまかせとけばいいの。あたしにヒマなんかないのよ。午後から国立劇場でロイヤル・シェークスピア劇団の『リチャード三世』を観《み》るんだから」
さきほど「よんどころない事情」と空海に向かっていったのは、劇を観ることだったらしい。
「現代社会の病理なんかツイキュウしなくてもかまいませんが、食人鬼はツイキュウする必要があるでしょう?」
マイナス二五三度Cでも六〇〇〇気圧でも死なない食肉性の微生物が、東京の地下ででも繁殖《はんしょく》しはじめたら、どういうことになるか。ハリウッド製SFホラー映画のような光景が、私の脳裏に浮かんだ。
「そうなったら自衛隊にまかせりやいいのよ。ようやく出番が来て、自衛隊《レンチュウ》だってよろこぶでしょ」
「それまでに多くの犠牲者が出ますよ」
「そうなったとしてさ、あたしのせいなの?」
「幾分かの責任がありますよ。破局が来る可能性を承知しながら、何の手も打たないとしたらね」
私は何とかという微生物の名を思い出そうとしたがだめだった。
「ええと、その微生物をやっつける方法は、例のスペイン語の本には書いてないんですか」
「いちおう書いてあるけど」
「じゃ、それを実行しましょう」
すると、涼子は、人の悪い笑いを浮かべて答えた。
「いいのかな。例の本に書いてある方法はこうよ。家ごと火を放って焼きつくすべし」
私は舌打ちしたくなった。
「そりゃまた簡潔《かんけつ》な記述で」
「じっはこの方法だって、完全とはかぎらないわ。原子炉のなかで生きてる微生物だっているわけだしね。それでも他に方法はないでしょうから、自衛隊が火炎放射器を持ち出すのが一番いいはずよ」
「ハデですしね」
「そうそう、そうよ」
「だめです。もっと他の方法をマジメに考えてください。私は空海がどこに微生物を隠してるか探しますから、その間に」
「あてはあるの?」
「かたっぱしから探しますよ」
「それじゃ時間がかかりすぎるわ」
「そんなこといってる場合ですか!」
私がリビングルームを出ていこうとすると、涼子は「お待ち」と声をかけ、しかたなさそうに告《つ》げた。
「かたっぱしから探す必要ないわよ。このマンションの部屋には、たぶんバスルームがふたつあるでしよ。住人ひとりにバスタブふたつは必要ないわ」
うなずいて、私はバスルームの位置を確認した。広い浴室、洗面所、トイレがあり、その他に、三者が一体になったせまいホテル式バスルームがあった。私は手袋をはめてせまいバスルームにはいり、蓋《フタ》をとってバスタブをのぞきこんだ。密閉された強化ガラスのケースが見えた。ケースの内部にはカビらしいものがはえており……それ以上、確認する必要はなさそうだった。
リビングルームにもどると、涼子が電話をかけていた。私の顔を見ると、「いそいで」と先方に告げて受話器をおく。
「いま手配したの。JACESの社員がすぐに駆けつけるわ」
「火炎放射器を持って?」
「ちがうわよ」
「じゃ、セメントですね」
私がいうと、涼子は、まばたきとともにうなずいた。
「そうよ、よくわかったわね」
「一六世紀のスペインにはセメントはなかったでしょうからね。焼くしか方法がなかったでしょうけど、考えれば微生物を殺してしまうのは困難だし、あえてその必要もない。活動を封じこめてしまえばいいんですからね。では私は坂田警部補に連絡します」
電話に手をのばしかけて、私は空中でとめた。涼子をかえりみる。
「妹のやっていたことを、姉のほうはまったく知らなかったんでしょうかね」
「さあね、妹の野心に姉が気づいて、たくみに妹をあおり、破局に追いこんだのかもしれない。ま、たとえそうだとしても、あたしがいずれ始末《しまつ》をつけるわ」
……一時間ですべてが終わった。バスタブはセメントでかためられ、花岡空海は、駆けつけた坂田警部補の監視のもと、救急車で運ばれていった。
それを見送って、涼子はギョウギわるくのびをした。
「あー、つまらない事件だったわね」
「そうですかね。けっこう楽しそうにやってるように見えましたが」
私の異議を、涼子は、ワガママいっぱいの表情でしりぞけた。
「だって警察庁長官にも警視総監にも責任をとらせてやる余地《よち》がなかったじゃない」
「たまにはそういうこともありますよ」
いってから、どうもマトモな返事ではなさそうだと気づいた。涼子をなだめるつもりでいったのだが、もしかして彼女に感化されてしまったのだろうか。
「それに終わりかたもジミでイヤ。バスタブをセメントでかためておしまい、なんて、あたしの美学に反するわ」
思いだしたように、腕時計をのぞきこんで、涼子は声を高めた。
「あら、もうこんな時間。たいへんだ、『リチャード三世』がはじまっちゃう。いそぐのよ、泉田クン」
「何で私がいそぐんです?」
「S席券がむだになるでしょ!」
涼子の手に二枚のチケットがあった。
「あたしがオトモなしで国立劇場に行くはずないじゃない。ほら、いそいで。開幕にまにあわなかったら泉田クンのせいよ!」
黒いジャガーに向かって足早《あしばや》に歩き出す涼子のあとを、あわてて私は追いかけた。