東方巡歴 アルスラーン戦記外伝
(出典:ザ・ファンタジーV)
田中 芳樹・著
T
凍《い》てついた月が青銀色の粉を地上にふりまく冬の夜であった。パルス王国の首都エクバターナは、新|国王《シャーオ》アルスラーンの即位後、はじめての寒冷季節を迎えている。破壊と掠奪《りゃくだつ》とをほしいままにしたルシタニア軍は、国境の外へとたたき出され、平和が回復した。侵略者たちがもたらした荒廃は、なお市街に濃い翳《かげ》りを残していたが、南方の港町ギランから運びこまれる物資が市場を彩り、市民は飢えと寒さをまぬがれることができるようになった。エクバターナの市場経済がギラン商人の手に握られることを不快がる声もあるが、それはまた別の問題である。
隣国シンドゥラよりの使者を迎えて宴《うたげ》が開かれた夜。いまだ完全に修復されていない王宮の露台《パルコニー》で、酔いをさますつもりか、ふたつの人影が夜気に身をさらしている。
「月の夜には柄《がら》になく過ぎし日の事どもを想いおこします」
「……|絹の国《セリカ》のことか」
会話をかわしているのは、十五歳の誕生日から三か月ほどすごした国王《シャーオ》アルスラーン、そして彼の麾下《きか》にあって無数の武勲をたてた万騎長《マルズバーン》ダリューン卿《きょう》である。冬用の厚ぼったい礼服で、腰に剣をさげただけの姿だが、どのような服装をしていても、ダリューンがパルスの詩や歴史書に登場するときには、「黒衣の騎士」と呼ばれるのだった。
アルスラーンの問いは、やや性急すぎたようだ。礼儀ただしい黒衣の騎士が即答しなかった。お寒くございませんか、と反問してから、彼は国王《シャーオ》の問いを肯定した。
「つい先年のことですが、もはや百年の往古《むかし》のことであったかのように感じられます」
ダリューンの視線が、ふたたび銀色の月に向けられる。二千ファルサング(約一万二千キロ)の距離をへだてて、おなじ月が異なる国を照らしだしているはずである。対岸も見えぬほどの大河。北の涯《はて》までもつらなる長い長い城壁。桃や李《すもも》の香にむせかえる晩春の花苑《はなぞの》。反りかえった形の屋根に瑠璃《るり》色の瓦《かわら》をしいた巨大な宮殿。パルスには存在しない、草とも木ともつかぬ不思議な植物――竹。パルスには生存しない、優美で誇り高く危険な動物――虎《とら》。豊かに実った水田から垂直に天へ伸びたような形の山。人間の子供ほどもある淡水魚の群。米からつくられた白い酒。上から下へと縦に書かれる表意文字。箸《はし》と呼ばれる二本の細い棒をたくみにあやつって、人々は食事をとる……。無数の映像が一度に押しよせて、ダリューンは気の遠くなる思いにとらわれた。
……砂嵐の最後の咆吼《ほうこう》が消え去ると、砂漠は一転して音のない世界に還《かえ》った。見わたすかぎりうねる砂丘の群は、永い時を埋葬した墳墓のように見える。
ごく小さな砂丘のひとつが不意にうごめいた。砂がはじけて、宙へ突きだされたのは人間の手だ。手首まで黒い甲《よろい》につつまれている。つづいて黒い大きな布がはねあがり、かなり多量の砂をはらい落とした。マントを手に起《た》ちあがったのは、砂嵐による死をかろうじてまぬがれた人間だ。たくましい長身を黒衣黒甲につつみ、年齢は二十代半ばと思われる。
この年、パルス歴でいえば三一七年の五の月。ダリューンは二十四歳であった。
彼が砂の一端に手をかけると、さらに大きな布が砂をはらって、その下で息をひそめていた生物たちが起きあがった。馬が二頭、驢馬《ろば》が一頭、それに人間の男がひとりである。
「やれやれ、助かりました」
砂粒と吐息《といき》とを、男は同時に吐きだした。両手をあわせて、パルスの若者に一礼する。
「ダリューン卿は生命《いのち》の恩人です。いずれ、ご恩は返させていただきますので、忘れずにいてくだされ」
「おぬし自身が憶《おぼ》えていればよかろう。おたがいさまで、恩に着てもらう必要もないが」
「いやいや、小生はあちこちで調子のいいことを触れまわっておりますでな、いちいち憶えておられませんで」
ぬけぬけといいながら、男は完全に立ちあがって身体《からだ》の各処をたたいた。そのつど、こまかい埃《ほこり》が舞いあがり、ダリューンはわずかに眉《まゆ》をしかめた。思いもかけぬ砂嵐で、本隊とすっかりはぐれてしまった。|絹の国《セリカ》の皇帝に献上する財宝をつんだ驢馬の一頭が行方不明になり、それを探しまわった末に、このありさまだった。
この年、|絹の国《セリカ》におもむくパルスの使節団は、使節団長マーカーン卿以下、文官が十名。留学生が二十名。医師と彼らの助手とが合計八名。荷物を運ぶ驢馬や駱駝の世話人が五十名。料理人が八名。それに、車輪を修理する職人、弓職人などがいて、非戦闘員の合計は百二十名に達した。彼らを守る護衛隊の隊長がダリューン、副隊長をバーヌという。
ダリューンたちの統率する騎兵は三百騎。選びぬかれた精鋭だが、むろんこれで大軍に対抗するのは不可能である。ただし、パルスから|絹の国《セリカ》へ派遣された使節団を攻撃するような者は、両大国からの報復を覚悟しなくてはならない。バーヌはダリューンより年長で、若輩の風下に立つのをこころよく思っていないようだったが、それを露骨にあらわすほど心が狭くはなかった。これまで、とくに問題もなく、ふたりは協調してきたのだ。
砂嵐がおさまった直後、周囲の地形は一変していた。無数につらなる砂丘の群は、大地にとっては生まれたての乳児も同様だ。風にしたがって移動し、まれには豪雨で溶けるようにくずれさる。これらを目印《めじるし》にしていたのでは、永久に砂漠から脱出することはできない。ダリューンたちも助かったのだから、使節団の本隊が全滅したとは思えなかった。ダリューンたちのことは半ばあきらめつつ、砂漠を出る足をいそがせているにちがいない。
とにかく東に進めば、反対方向ということはないはずだ。最悪の場合でも、|絹の国《セリカ》の帝都で本隊に合流することができるだろう。さいわい、いまや空は晴れあがって、太陽の位置ははっきりとわかる。それに加えて、通訳兼案内役のムルクがいてくれるから心づよい。ムルクはパルス人ではなく、ファルハール人であった。最後の埃《ほこり》をはらって、彼はいった。
「ま、砂漠もそろそろ終わりです。今日明日にも国境に着きますので、ご安心を」
|絹の国《セリカ》人もパルス人も、国際交易が盛んなわりに外国語に通じない。自国語でほぼ用がたりてしまうからである。したがって、大陸公路に沿って点在する小さな都市国家の民に、通訳や案内役を依頼することが多い。今回、パルスの使節団は、ファルハールという都市国家の住民を五名やとっていた。
東西各国の血がいりまじっているためか、ファルハール人の容貌《ようぼう》は個人差が大きい。親子や兄弟でも、たいがい似ていないので、「みんな浮気のしほうだいさ」という、いささか危ない冗談もかわされる。大陸公路で、もっとも美男美女の多い土地ともいわれるが、それも混血ゆえであろう。
二十歳をこしたファルハール人は、最低でも三か国語に通じている。ファルハール語、パルス語、|絹の国《セリカ》語である。ムルクは年齢不詳の男で、「花もはじらう十八歳」などと、とぼけて自称しているが、トゥラーン語、チュルク語、シンドゥラ語、さらにはミスル語にまで長じていた。地理や習俗にもくわしく、通訳や案内人としては、この上ない男である。
|絹の国《セリカ》について、どういうわけか、ムルクはあまり好意的ではなかった。東へと馬を歩ませながら彼は語るのである。
「建物が大きく、りっぱでも、室内は埃だらけということもありますでな」
批判めいたことを、ムルクは口にした。
「|絹の国《セリカ》は富み栄え、強く、芸術と学問の華が咲き誇っております。ですが、住民のすべてが聖人ではございませんでな」
「おぬしよりあくどい輩《やから》もいるか」
「ご冗談を。小生は善良でだまされやすい人間でございましてな」
ダリューンは推測した。どうやらムルクは|絹の国《セリカ》の商人に「してやられた」経験があるらしい。一方的にだまされたのではなく、ぬけめなさを競いあって敗れたのだろう。ムルクが聖人だとはダリューンは思っていない。パルス人の内心をよそに、ムルクは話をつづける。
「|絹の国《セリカ》では、前《さき》の皇帝が六年前に退位なさって、太上皇《たいじょうこう》と称されました。皇太子があらたな皇帝となられたわけです。天下は泰平、国家の礎もかたく、めでたしめでたしと思われたのです。が……」
いささか演技《しばい》くさく言葉を切った。ダリューンは、しかたなく相手の手に乗ってみせた。
「ところが、残念ながらそうはならなかったというわけだな」
「ご明察」
ムルクは重々しくうなずいた。単なる通訳兼案内人というより、無知な生徒に知識をさずける教師、という印象である。さほど腹がたたないのは、このファルハーク人に奇妙な愛敬《あいきょう》があるからであろう。
毬《まり》のように丸い身体をしているが、不思議と、たるんではいない。本人にいわせると、砂漠で何日も飲まず食わずでいられるように、栄養を体内にたくわえているのだという。駱駝《らくだ》なら背中のこぶ[#「こぶ」に傍点]に栄養をたくわえるが、人間はそうもいかないから、というのだった。彼はまた、パルス使節団から受けとる報酬を、金貨でも銀貨でもなく真珠にしてほしいと望んだ。
「真珠がそんなにいいのか」
「四月の雨に打たれた真珠でお願いいたしますよ」
どのような理由からか、パルス産の真珠で最高級のものはそう呼ばれるのである。大陸の奥地では、鉱山で採掘されるさまざまな宝石よりも、真珠のほうが珍重される。海がないから当然のことだ。
その真珠を内陸でつくろうというのが、ムルクの願望だった。他人から見ればまともな思案とはとても思えないが、当人は大まじめである。内陸に点在する塩湖《えんこ》のなかから、もっとも条件のよい湖を選んで、そこで真珠貝を養殖するというのが彼の計画である。そのためには、時間と資金と技術とが必要で、ムルクはパルスと|絹の国《セリカ》の両国で資金を集め、技倆《うで》のよい養殖家を募って、「大陸公路きっての真珠王になるのだ」と豪語していた。ほかのファルハーク人たちはあきれたように首を振るだけだが。
ムルクは、さらに|絹の国《セリカ》の国内の事情を語った。現在、帝位をめぐって宮廷内で抗争が生じている、というのである。
|絹の国《セリカ》の皇統は約千年、五十二代にわたってつづいている。現在の太上皇は五十一代目で四十年間帝位を占めた。箍《たが》のゆるんだ国政を引きしめ、五度にわたって外敵をしりぞけ、財政を再建して名君と称された。皇后は早く亡くなったが、太上皇となって後、藍妃《ランフー》という愛人に男児が生まれた。これが火種となった。
藍妃にしてみれば、自分が生んだ子を帝位に即《つ》けたい。だが、現状では、彼女の子は皇帝の異母弟であるにすぎず、帝位継承の順位はきわめて低い。このままでは単なる宮廷貴族として生涯を終えることになろう。
そこで彼女は太上皇を復辟《ふくへき》させようとしている。皇太子をさだめる権利は皇帝にしかないから、藍妃が生んだ子を後継者として宣告させようというのだ。本来、筋のとおらない話なのだが、老いた太上皇は藍妃を愛していたし、老いて生まれた子がかわいい。困惑した重臣たちが諌《いさ》めるのを振りきり、息子である皇帝に対し、帝位を返上するよう要求してやまないのだった。
「平地に乱をおこすとはこのことだな。おれのような異邦人がいうのは出すぎたことだが、退位なさった後に自分の名声を自分でそこなうことになるとは」
ムルクは、そういうダリューンを見返した。
「そうお思いで?」
「思う」
そもそも帝位を父から子へ、子から孫へ世襲させるのは何のためか。帝位継承の原則をたて、帝権を安定させるためであろう。いったん退位した先帝が復辟し、現在の皇帝が玉座を追われるというのでは、帝権の権威がゆらぎ、信頼がそこなわれるだけではないか。そのようなことが事実なら、ムルクがいうとおり、|絹の国《セリカ》の内情もほめたものではなかった。
U
大陸公路の民なら誰でも知っていることだが、|絹の国《セリカ》の北と西とをくぎる国境線には長大な石の防壁が築かれている。それは「長城」と呼ばれ、総延長はパルスの里程で二千ファルサング(約一万二千キロ)にもおよぶといわれる。五十万人の兵士がそれを守り、城門の数は千、望楼の数は三千、城壁の上は道路になっており、馬車が三台平行して走れる、とダリューンは聞いていた。それほど壮大な建築物が地上に存在するとは、にわかには信じられない。だが、いまムルクが手をあげて指ししめすのは何だろう。
「あれです、ダリューン卿、あれが|絹の国《セリカ》の長城でさ」
ひたすら平坦だった荒野の彼方《かなた》に、低い起伏がつらなっている。|絹の国《セリカ》の北と西の国境をくぎる山脈だ。その稜線《りょうせん》には、どこか自然でないものが感じられた。ダリューンは目をこらした。それはたしかに城壁だった。信じられないほど長く長く延びた石の壁だ。ところどころが小高くなっているのが望楼であろう。馬を歩ませるにつれ、伝説的な長城の姿は、はっきりとパルス人の目に映ってきた。最初は茫然としていたダリューンも、慣れてくると、武将として観察をはじめた。
「よくつくられている」
ダリューンは感銘を受けた。長城は、ただ規模が大きいだけではない。それは山々の尾根の上に築かれているので、長城を攻撃するときには、山上へ向かって駆けあがらねばならない。城壁にたどりついたときには、人も馬も疲労しきっている。息を切らしてへたりこんだところへ、城壁上から矢や石をあびせられ、なす術《すべ》もなく撃退されてしまうのだ。しかも、城壁上から地上を見おろすと死角がなく、稜線の外側には樹木がなくて草だけだから、あびせられる矢や石を防ぐこともできない。
「これは難攻不落だな。場内から裏切者でも出ないかぎり、とうてい攻め落とすことはできまい」
「そうでしょうな。あの長城を境界として、気候さえちがいます。長城の彼方は|絹の国《セリカ》の本土で、樹木が豊かに茂っておりますが、こちらは砂漠と草原で……」
|絹の国《セリカ》の北には、まだ国家として組織されていない遊牧の民族がいくつか存在する。彼らにしてみれば、長城は、富める文明国と貧しい自分たちとを冷たく区別する存在なのだ。彼らは長城を憎み、あの壁をこえて豊かな民から掠奪することを夢見ている。
「半日で長城に着きます。城壁にそって歩けば城門のひとつに……」
ムルクの声がとぎれた。ダリューンは馬上で振りむいた。彼らの後方は砂地の多い平坦な荒野で、そこにひとすじの砂煙があがっている。砂煙をあげているのは一個の騎影で、さらにその後方には七、八本の砂煙が走るのが見えた。一騎を追って数騎が疾走している。それはわかった。わからないのは、そうなった事情である。
騎影はみるみる近づいてきた。いまや馬上の人間の姿がはっきり見える。紅《あか》い房のついた|絹の国《セリカ》の冑《かぶと》、腰には束帯をあて、銀色の甲《よろい》を着用している。だが顔は見えなかった。
騎士は後ろむきに鞍《くら》にまたがっているのだ。追撃してくる敵と、正面から向かいあった姿勢だ。いかに平坦な地形とはいえ、後ろむきに騎乗して馬を疾走させるとは、大胆さもきわまるといってよい。
その姿勢で、騎士は弓をかまえ、弦《つる》を引きしぼった。隙《すき》もなく、乱れもない。完璧《かんぺき》なまでの騎射の型である。
弦音《つるおと》が風を引き裂いた。
追跡者のひとりが両手と両足をはねあげ、馬上からもんどりうった。目に見えない巨人が彼を突きとばしたように見えた。だが、砂上を転がる彼の胸には、垂直に矢が突き立っている。
騎手を失った馬は、にわかに荷重が減ったので均衡をくずし、よろめいて横転した。他の七騎は怒りの叫びとともに、なお疾走をつづけた。だが、ひとかたまりに走るのをやめ、左右に馬首をそらして散開する。ひとりふたりがさらに射落とされたとしても、他の者がその間に肉薄して斬《き》りつけようというのである。
「あの逆乗《さかの》りしている騎手は女ですな」
ムルクがいったとき、ダリューンは長剣の柄《つか》に手をかけていた。追われる者が、ダリューンのすぐ近くまで来ていた。疾走する馬が速度をゆるめたので、騎手が振りむいた。白皙《はくせき》の顔に、おどろきと緊張の色が走った。別の敵が待ち受けていた、と思ったのであろう。
速度を落としつつ、女騎士はダリューンの傍《そば》を走りぬけた。わずか数瞬の差で、追跡者たちが殺到してきた。ひとたび散開したのが、網をしぼるように馬首を収束させてきたのだ。革《かわ》の甲《よろい》を着け、羊毛の帽子をかぶった彼らは、あきらかに|絹の国《セリカ》人ではなかった。ダリューンを敵のかたわれと見たのだろう、奇声をあげ、彎刀《わんとう》をかざしてダリューンに斬ってかかった。
対応を選んではいられなかった。言葉が通じるとも思えない。ダリューンの長剣がうなり、光と血の軌跡を宙に描いた。羊毛の帽子が血にまみれて空を舞い、彎刀をつかんだままの手が地に転がった。
敵はすばやかった。勝算なし、と、一瞬にしてさとると、重傷を負った味方ふたりをささえ、風をくらって逃げ去っていく。夢からさめた気分で馬首を転じたダリューンは、助けたはずの女騎士が彼をにらみつけ、逆乗りの姿勢のまま矢のねらいをダリューンの咽喉《のど》もとにつけていることに気づいた。
弓をかまえた敵に対しては、左へまわりこむのが鉄則である。敵から見れば右側へまわりこまれることになる。弓は右手で弦を引いて左方向へ矢を放つような構造になっているから、右側へまわりこまれると、にわかに対応できない。対応するには、自分が右へ向きなおらねばならない。
ダリューンが弧《こ》を描いて左へまわると、相手はそれに応じて右へまわる。両者がそれぞれ大小の円を地上に描いて、しばらくまわりつづけることになった。生命《いのち》がけの行為だが、はなれて第三者の目から見ると、かなり滑稽《こっけい》に見えたであろう。まして、一方は後ろ向きに騎乗している。ダリューンの正面には、つねに相手の馬の尻《しり》があって、その上方で、緊張しきった表情の女が鏃《やじり》を向けている。
「やあ、もうおやめなされ、御両人。遺恨があるわけでもないのに、生命を的ににらみあうとは愚かしいことだて。まずは剣を引き、弓をおさめて、話しあいをなさってはいかがか」
ムルクの大声であった。パルス人騎士は大きく息を吐きだした。
「ムルク、その御仁《ごじん》に伝えてくれ。おれは西のかたパルス王国よりこの地に到《いた》った者。害意はない。このとおり剣をおさめるゆえ、そちらも弓をおろしてほしい、と」
ダリューンが話し終えるより早く、ムルクは勢いよく舌を回転させはじめた。女騎士の表情から鋭い敵意が消え、ゆっくりと弓をおろした。
V
馬上で前後の向きを変え、まともな騎乗の姿勢をとると、興味ぶかげに、|絹の国《セリカ》の女騎士はダリューンを観察した。それも長くはない。本来のものらしい闊達な笑顔をつくった。
「赦《ゆる》せよ、異境の騎士。黒づくめの姿ゆえ、鴉軍《あぐん》の者かと思うたのじゃ」
「パルス語が使えるのか」
ダリューンの声は、おどろきを隠しきれない。完璧に近いパルス語を、|絹の国《セリカ》人の口から聞こうとは思わなかったのだ。
「|絹の国《セリカ》のおもだった都市には、パルス人が多数おる。宮廷や役所につかえる者もな。彼らから教わったのだ。異国語をひとつ修得すると、おどろくほどに世界が広がる」
そう説明してから、ふたたび表情が変わった。何やら重要なことを思いだしたらしい。そもそもどのような理由で追われていたのか。彼女は馬首をめぐらしつつ声をかけた。
「パルス人よ、さっさと来い。お前に武勲をたてさせてやるから」
「武勲?」
「皇帝陛下より感状をたまわるほどの、な」
皇帝の名を出されて、ダリューンは当惑した。
「公主殿下が」
と、彼女はいう。公主とは|絹の国《セリカ》で皇族の女性に与えられる称号だと、ダリューンは学んでいた。皇帝の娘で星涼《シンリアン》公主という女性が、辺境の巡行中に遊牧民の剽盗《ひょうとう》の一団におそわれた。彼女はその護衛の者で、急を知らせに長城へと馬を走らせてきたのだが、いそいで救いにもどらねばならぬ、という。
「かってに決められてはこまる」
「はて、戦いを恐れるような者とも見えぬが」
「戦いを恐れはせぬ。無益な戦いに巻きこまれるのを忌《い》むのみだ」
「ほ! さかしげな」
「そもそも、おぬしが正しい陣営に属しているという証拠はないぞ。どう証明する?」
このように理屈をいいたてるのは、本来、ダリューンの気質ではない。だが、パルス王国の使節として来た以上、うかつに剣戟《けんげき》に巻きこまれるわけにもいかなかった。
「この目を見よ、波斯《パルス》人」
「…………?」
「この目を見よというておる。正義と真実の光が溢《あふ》れておろうが。お前にはわからぬか」
「……あのな」
「わからぬとすれば、おぬしの目は死んだ魚も同様、膜《まく》がかかっているにちがいない。頼むにたりぬ役立たずよ。いつまでもそこに馬を立てて、右か左かと思い悩んでおればよい」
言いすてると、女騎士は馬を走らせはじめた。
「ふむ、パルス語であれほど悪口雑言をたたけるとは、たいしたものだ」
妙なことに、ダリューンは感心した。彼本来の気質が、ためらいに打ち勝った。どうせすでに巻きこまれたのだ。女性に救いを求められて拒絶するなど、武人の道に反するであろう。ダリューンが馬を駆って女騎士の後を追うと、何やら大声をあげてムルクも後にしたがった。彼と別れるのは心細いらしい。片手の綱で驢馬《ろば》を引いているので、全力疾走というわけにはいかなかった。
千を算《かぞ》えるほどの時間の後、ダリューンたちは戦いの場に達した。高く低く、角笛の音がひびきわたる。それは明らかに一定の音律を持っていた。その音によって、部隊の全員が一糸みだれず行動するのだ。兵数は五十騎ほどだが、地に伏して動かぬ影がいくつもあるところを見ると、最初はもっと多かったにちがいない。襲撃者は百騎ほど。革《かわ》の甲《よろい》をまとった、あきらかに先ほどの追跡者と同じで、北方遊牧民の一団である。
「なるほど、洗練されている」
ダリューンは感心した。数でまさる襲撃者たちが、なかなか防御の環《わ》を突破できずにいる。環の中心には、半円形の筒の形をした絹張りの大きな馬車があり、十二頭もの馬に引かれていた。あの馬車のなかに、公主殿下とやらが乗っているのであろう。矢が何本も突き刺さっているが、車内には達していないようだ。それらのことをすばやく観察すると、ダリューンは鞍《くら》にかけてあった盾《たて》をはずして左手にかまえた。奇妙なことに気づく。防御する兵士たちはいずれも女ではなかろうか。
「公主殿下を守りまいらせる娘子軍《じょうしぐん》だ」
女騎士が説明し、ダリューンはおどろいた。|絹の国《セリカ》には、女性だけで編成された軍隊があるのだ。
皇帝の後宮だけでも三千人から五千人の美女がいるという。彼女たちを護衛するために女性だけの軍隊が存在しても、不思議はないのかもしれない。
女騎士は剣を抜き放つと、馬を煽《あお》った。「殺《シャア》!」という叫びがほとばしる。それはパルス語の「全軍前進《ヤシャスィーン》!」にあたる言葉のようであった。彼女に半馬身おくれて、ダリューンは馬を疾走させ、彼女に並び、抜きさった。眼前に地と砂の煙が舞いくるっている。
ダリューンは左手に盾をかざし、右手に重い長剣をかまえて、足で馬腹を蹴《け》りつけた。煽られた馬は、たけだけしく乱戦の渦中《かちゅう》に躍《おど》りこんだ。閃光《せんこう》の滝が宙空から落ちかかり、まさに女兵士の咽喉《のど》を突き刺そうとしていた敵兵の首を地にたたき落とした。
首を失った胴体がよろめくのを無視して、ダリューンはさらに突進し、ふたりめの敵を血煙のもとに斬って落とした。犠牲者の身体が完全に地に落ちるより早く、パルス人の強靭《きょうじん》な手首がひるがえり、三人めの顎《あご》の下から鮮血が噴きあがる。盾が強烈な異音を発した。四人めが重い戦斧《せんぷ》をふるって、横なぐりの一撃を送りこんできたのだ。この男だけは羊毛の帽子ではなく、房のない丸い冑《かぶと》をかぶっていた。強烈な打撃をあびて、盾の上部が割れとんだ、飛散した破片が礫《つぶて》のようにダリューンの額《ひたい》を打つ。
第二撃がおそいかかってきた。落雷にも似た勢いで、それを受けたダリューンの盾はまっぷたつに割れた。だが、鞍上《あんじょう》に身を沈めたダリューンは、死の旋風ともいうべき第三撃に空を斬らせると同時に、鋭い突きをくりだしていた。たくましい腿《もも》を突き刺された相手は、咆哮《ほうこう》をあげて馬上でよろめく。つづく一撃が冑を強打し、目がくらんだ相手はまっさかさまに落馬していった。
狼狽《ろうばい》の叫びがあがり、ダリューンの身辺から刀槍《とうそう》のひびきが退きはじめた。ダリューンが負傷させた男は、どうやら襲撃者たちの指揮官であったらしい。まっさかさまに落馬して頚骨《けいこつ》を折ることもあるが、すぐふらふらと起きあがったところを見ると、かなり頑丈な人物のようであった。せっかく起《た》ちあがったのに、気の毒ではあったが、ダリューンは彼の後頭部を剣の平《ひら》で一撃して、ふたたび地に昏倒《こんとう》させた。
その男が意識を回復させたとき、革紐《かわひも》で厳重にしばりあげられた自分自信を発見することになった。周囲には彼の仲間が四十人ほどいたが、呼吸している者はひとりもいなかった。皇族を襲撃した罪はきわめて重く、男は帝都に連行されて断罪されることになるであろう。
もっとも、|絹の国《セリカ》の法は法として、ダリューンには別の考えがある。彼は女騎士にともなわれ、馬をおりると、半円筒型の馬車の前に立って深々と一礼した。馬車の入口には厚い錦《にしき》の幕がかかっていたが、それが開くと今度は羅の幕があらわれた。その内部で影が動き、女性の声が短く流れ出てきた。当然ながら、ダリューンは声の主に興味をそそられた。
「お顔を見せていただくわけにはまいらぬか」
「論外である」
一言のもとに、ダリューンの要請は拒絶された。|絹の国《セリカ》の皇族の女性は、夫と父子兄弟以外の男に素顔を見せることはない、というのであった。
「だが、そなたの助力を心より感謝する、との仰せである。帝都において、かならずや労に報《むく》いるであろう」
かたくるしい表情がここで変わって、女騎士は親しげに語りかけた。
「おかげで助かった。おぬしが来てくれねば、防ぎきれなかったかもしれぬ」
「いやいや、たいしたお手柄で」
いったのはムルクである。ちゃっかりしたこの男は、血なまぐさい戦闘が終わってから、この場に到着したのである。ムルクは、何か貴重品がないかと周囲を探しまわったが、そんなものを遊牧民が遺棄《いき》しているわけもなく、彼の手には槍《やり》に似た武器があるだけだった。ダリューンは興味をひかれた。柄《え》の先には、三叉《みつまた》にわかれた剣が付いている。
「この武器は何だ?」
「戟《げき》というものだ。斬るも突くも自由で、槍より応用がきく」
「ふむ、おもしろいな」
あらためてダリューンは初見の武器をながめやった。刃の左右に突き出た銀色の枝が、役に立ちそうである。敵の剣や槍を受けやすいし、ただ受けるだけではなく絡《から》めとってへし折ることもできるだろう。絹の国《セリカ》の本土でよき師をえて、技を学びたいものだ。そうダリューンがいうと女騎士は笑ってうなずき、心あたりがあるから紹介しよう、といった。
このときはじめて、ダリューンと女騎士とは名乗りあった。といっても、彼女のほうは、花冠《かかん》将軍と名乗り、それは本名ではなく娘子軍《じょうしぐん》の隊長としての称号だということだった。いま気づいたわけではないが、花冠将軍は娘子軍のなかでもっとも美しく、両眼のきらめきが黒真珠さながらだった。鼻も口も、名工が心をこめて彫りあげたような秀麗さである。一瞬、まぶしさを感じたダリューンは、やや唐突に話題を変えた。
「おれの友人に変わった奴がいて、事情さえ許せばこの国を訪れたい、と言っていた。すくなくとも五年は滞在して、あらゆる知識を吸収したい、と」
「学者か、武人か?」
「いや……画家だ」
ダリューンは短く苦笑して、友人の姿を想《おも》い浮かべた。大貴族としての身分と、若くして宰相がつとまるほどの力量をあわせ持ちながら、一本の画筆《えふで》に生涯の夢を賭《か》けたがっている男だ。ダリューンが|絹の国《セリカ》から帰ったとき、どのような表情で彼を迎えてくれるか、楽しみでもあり、いささか不安でもあった。
W
公主の車をかこんで、娘子軍は長城へと歩みはじめた。ムルクもふくめて全員が騎乗している。遊牧民の首領は縛られたまま、馬上で不機嫌そうに沈黙していた。ダリューンと馬を並べて進みつつ、花冠将軍が問いかけた。
「波斯《パルス》の王とはどのような御仁《ごじん》だ?」
「剛勇の武人で、決断力にすぐれておられる」
パルスの国王《シャーオ》アンドラゴラス三世は、登極《とうきょく》した後、宮廷内にはびこっていた怪《あや》しげな予言者や呪術師《じゅじゅつし》を一掃してしまった。外に対しては、バダフシャーン公国を併合して領土をひろげ、東方三か国の連合軍を撃ちしりぞけて、武威をとどろかせている。年齢もまだ四十代で、この国王《シャーオ》が健在であるかぎり、パルス王国の礎は揺るぎようもない。文武の廷臣たちは、ほとんどがそう信じていた。
ダリューンも、たぶんそうだと思っているが、全面的に信じこんではいない。それは宮廷書記官をつとめていた友人の影響だった。ダリューンにむかって、彼はこういったのだ。
「アンドラゴラス陛下はお強い。そして、人も国も強くありさえすればよい、と信じておられる。いったんつまずいて転んだときのことが思いやられるて」
「おれには、おぬしの口のほうこそ危うく思える。求めて災厄を招くことなかれ、だ」
ダリューンがそういうと、友人は、「わかった、気をつけよう」と答えたが、はたしてどこまで本気だろうか。やさしげな容姿に似ず頑固で好戦的な男だから、いまこの瞬間も王宮でもめごとをおこしているかもしれなかった。
花冠将軍の口調は、どこかその友人に似ている。彼女が、パルスの国王についてダリューンに尋ねたのは、自分たちの皇帝と比べてどうか、知りたかったからのようであった。
「おそれおおい申しようながら、皇帝陛下は、偉大な君主であられた太上皇《たいじょうこう》に対し、つねに引目《ひけめ》を感じておられた」
パルスでもあったことだ。どこの国でも、王室でなくとも、あることだろう。偉大な父親の存在は、子にとって負担になる。父親をしのぐ才能があればよい。父親と異なる道を選べばよい。だが、どちらも不可能となれば、子にとっては辛《つら》いことになるであろう。
退位した後、太上皇は東都《トンツー》の離宮に住むようになった。東都とは|絹の国《セリカ》の東部にある大きな城市《まち》で、皇室の発祥の地である。太上皇は古くなった宮殿を改装し庭園を整備して梅や桃など一万本もの花木を植え、舟遊びなどのできる大きな池をつくった。さらに書庫を建てて十万巻の書物をあつめた。多忙な政務から解放されて、歴史の研究や散策や歌舞音曲《かぶおんきょく》の鑑賞に、のんびり日を送るつもりだった。
一年ほどは無事にすぎた。だが、しだいに太上皇は心|娯《たの》しまぬようになった。もともと精力的で勤勉な統治者であったから、国政にかかわらなくなると、退屈でしかたなくなるのだ。歴史の研究にしても、政務の合間《あいま》にやるからこそおもしろいので、それに専念すると、たいして楽しくもなかった。西都《シーツ》にいる新皇帝はといえば、こちらも不本意な毎日だった。父のさだめた法にしたがうだけで、独自な政策は何もできなかったし、重臣たちはいまだに新皇帝を「幼い王子」あつかいする。日ごとに、いらだちがつのった。つまり父子ともに不本意な日を送るようになっていたのだ。
離宮には、太上皇の身辺を世話するという名目で、三百人の女官が勤めていた。帝位に在《あ》ったころは、彼につかえる女官は三千人とも五千人ともいわれていたが、年齢が六十をすぎると、さすがにそれほど女色《じょしょく》には興味がなくなる。美貌《びぼう》の女官たちも、ただいるという感じであった。
ところが、ある晩春の一日であった。あたたかな陽光と鳥の歌声に誘《いざな》われて、太上皇は朝食前に庭園を散歩する気になった。わずらわしい侍従もつれず、ひとりで、奥まった池の畔《ほとり》を歩いていると、水音と悲鳴があがった。おどろいて太上皇が池を見やると、ひとりの女が池のなかに立っていた。水深は女の膝《ひざ》までしかない。水面に竹の篭《かご》と百合《ゆり》の花が浮いているのを見ると、水辺の花を採《と》ろうとして、女官が足をすべらせたものであろう。太上皇の書斎を花で飾るのは、女官たちの重要な任務であった。
人を呼んで女官を救おう。そう太上皇は思ったが、水深が膝までとあっては、生命の危険はない。女官自身、自分の失態がおかしそうに笑っているので、太上皇もひそかに笑った。その笑いに、好色そうな表情がかさなった。女官の衣服は水に濡《ぬ》れて肌に貼《は》りつき、流れるような肢体の曲線や豊かな乳房が太上皇の目を奪ったのだ。太上皇は唇をなめると、水辺に歩みよって女官に声をかけた。それが太上皇と藍妃《ランフー》との出会いであり、一年後、彼女は老いた先帝の子を出産するのである……。
話を聞いて、ダリューンは不審をただした。
「最初から計画的だった、と、そう思うのか?」
「まあ、そう疑われてもしかたがないのではないのではないかな」
なるべく公正を期《き》そうという努力の形跡が、その返答には見られた。藍妃が池に落ちたのは偶然だろうか。最初から好機をねらっていたのではなかったか。それは疑問というより確信であるにちがいない。それだけなら、引退した太上皇が最後の愛人をえたというだけのことだが、一方、新皇帝にも問題があった。
「陛下はすでにご兄弟を四人まで死なせておられる」
「殺されたのか、ご兄弟がたは?」
「自殺を命じられた」
ある者は、叛逆《はんぎゃく》の疑いをかけられた。ある者は、素行をとがめられた。そして彼らの家族は皇族の身分を剥奪《はくだつ》されて追放されたのだ。
「それというのも、陛下はご自分に自信がないからだ」
花冠将軍の声に憂いがある。
自分の、皇帝としての人望と力量とに自信がないから、高圧的に威厳を守ろうとする。誰かが笑声をたてれば、自分を嘲笑《ちょうしょう》しているのではないか、と思う。誰かが不平をもらせば、叛乱をたくらんでいるのではないか、と疑う。血が濃い者ほど玉座に近いがゆえに、より忌まれることになるのだ。皇族は皇帝にとって頼もしい味方であるはずなのに、猜疑《さいぎ》心に駆られた皇帝には、そうは思えなかった。危険をさとって、皇族たちは恐怖した。彼らを救い、守ってくれるのは太上皇しかいない。彼らはひそかに太上皇に接近し、藍妃《ランフー》の生んだ幼児を将来の皇帝にしようとしている……。
「幼児を帝位につけて、自分が後見役となり、権力を独占しよう――そう野心をいだく者もいそうだな」
「ああ、雷河《ライホー》の砂粒よりもたくさんな」
女騎士は口をとざした。異邦人に対して、語りすぎたと思ったかもしれない。ダリューンもそれ以上は尋《き》けなかった。
不意に、丘陵の上に、黒雲が湧《わ》きおこった。ダリューンの目には、一瞬そう見えた。次に彼の目に映ったのは、波打つような反射光のつらなりであった。陽光を弾きかえしてかがやきわたるのは、甲冑《かっちゅう》の列であった。光の波は揺れながら娘子軍《じょうしぐん》へと近づいてくる。ダリューンはほどなく完全に確認できることができた。黒い甲冑をまとい、黒い馬にまたがった兵士たちの一隊である。千騎ほどはいるであろう。
おどろいたことに、彼らは顔までが黒かった。黒い布の面をかぶっているのだ。それは黒い紗《しゃ》でつくられ、両目の部分だけがあけられていた。多くの者が槍を手にしているが、槍の柄《え》も黒く塗られている。
「見よ、あれが鴉軍《あぐん》だ。全体のごく一部だが、その名にたがわぬ姿であろう?」
たしかにそのとおりである。鴉軍とは「からす部隊」を意味するのだ。沈黙のうちに軽々と馬を走らせていく彼らの姿は、不吉な鳥の群を思わせた。紗でつくられた覆面は空気をとおし、呼吸にも発音にも問題はないはずであった。彼らが至近距離に達したとき、女騎士が馬を躍らせ、鋭く叱咤《しった》をあびせた。
「非礼なり!」
全ては当然ながら|絹の国《セリカ》語で話され、ダリューンはムルクの通訳で内容を知った。
「武器をたずさえ、馬を躍らせて、皇族の行列をさまたげんと欲するは、そも何者ぞ!? ただちに馬を下り、地に膝《ひざ》ついて非礼を公主殿下に謝したてまつれ!」
形式ばった高圧的な態度は、むろん作戦でもあったろう。彼女は、鴉軍に対して弱みを見せるつもりは、まったくないようであった。
鴉軍の兵士たちは、答えようとしない。黒面にあいた穴から目を光らせて沈黙している。その沈黙が破れた。胃《い》に徹《こた》えるような、力感に満ちた声が後方からひびくと、黒衣黒面の騎士たちは流れるように左右へと退いて道を開いた。馬から下り、地にひざまずく。開かれた道を、ひとりの男が歩いてくる。左手で乗馬の轡《くつわ》をとり、徒歩で公主の車の前へと近づいて来るのだった。黒い馬、黒衣の人間。どちらもひときわ雄偉な体格である。この男だけが覆面をつけず、顔をむき出しにしていた。赤銅色に灼《や》けた顔、鋭くたくましい造作《ぞうさく》、太い眉、雷光に満ちた両眼、左頬《ひだりほお》に白く走った刀痕《とうこん》。渦中の色にとけこんだような、みごとな黒髯《こくぜん》。年齢はダリューンより十歳ほど上か。
大陸公路諸国の軍隊で最強なるはパルス軍であろう。そうダリューンは信じていた。トゥラーンの騎兵も勇猛だが、意外と粘《ねば》りに欠け、守勢に弱い。チュルク軍は山岳地帯では強いが、平原では語るにたりぬ。パルス軍こそ最強であるはずだった。だが、いま、ダリューンは自信が揺らぐのを自覚した。
男は公主の車の直前で立ちどまり、轡を手放した。地にひざまずき、左手でつくった拳《こぶし》を右手でつかみ、額の前にかざした。鴉軍の全員がそれに倣《なら》った。きびしい目で、花冠将軍は彼らを見すえていた。
「殊勝である、公主殿下もそなたらを嘉《よみ》したもうであろう。だが、そなたらの礼節、今後とも変わる気づかいはあるまいな」
「鴉軍はただ皇室に忠誠を誓うのみでござる」
「皇帝と太上皇と、いずれに?」
これはかなりきわどい質問であったにちがいない。
「失礼ながら、そのような質問は不祥のきわみかと存じまする。帝国においては皇統は万世、皇帝と太上皇の両陛下も一心同体、お分けして考えるなど、臣下の身でできようはずもございませぬ」
静かな声であるが、大河のように底知れぬ深みがあり、異論をとなえる隙もなかった。
この男は、とほうもなく強い。武器を手にして闘わずとも、ダリューンにはそれがわかった。戦慄《せんりつ》の風が、パルス人騎士の体内を吹きぬけた。自分はパルスでも屈指の勇者であるという自負がある。先年には、豪勇をうたわれたトゥラーンの王弟を、戦場で討ち果たし、周辺諸国に武名をとどろかせた。実績にささえられた自負も、だが、この絹の国《セリカ》人の武将の前では、鉄壁に弾《はじ》き返される遠矢に似て無力だった。いまこの男と闘えば、かならず負ける。この男の名が銅虎《どうこ》将軍ということを後にダリューンは知ることになるのだが、銅虎将軍のほうは彼をちらと見ただけであった。
「公主殿下も、ご酔狂はほどほどに……」
いったん言葉を切ってから、つけくわえた。
「このような辺境を、娘子軍の護衛のみで旅行なさるなど、あまりに御身《おんみ》を軽んじるなされよう。臣下の身で僭越《せんえつ》ながら、なにとぞご自重ねがわしゅう存ずる」
一礼すると、銅虎将軍は巨体をゆるがして立ちあがった。彼の後方にひざまずいていた千余人の黒衣の騎士たちが、一斉にそれに倣った。甲冑や剣環のひびきがつらなって砂に反射した。あらゆる動きが、見る者を圧倒するに充分だった。彼らがふたたび騎乗し、一群の黒雲となって長城の方角へと走り去るのを、ダリューンは声もなく見送ったのである。
X
長城をこえると、たしかに風景が一変した。樹木におおわれた山野の彼方に、太い銀色の帯が見えた。それは雷河《ライホー》と呼ばれる大河の支流である、と、ムルクが教えてくれたが、やがて本流の岸に立ってダリューンは唖然《あぜん》とした。パルスにもいくつかの大河はあるが、これほどの規模のものはない。河幅はパルスの里程にして一ファルサング(約六キロ)を算《かぞ》えるという。しかも、これは|絹の国《セリカ》では最大の河というわけではなく、東南を流れる龍江《ロンチャン》の河幅は一ファルサング半にもおよぶといわれる。
岸にそって東へ半日。本流に面して河港があり、そこから一行は用意された船で|絹の国《セリカ》の帝都へ直行することになった。水路のほうが陸より安全で速いのだ。
さらにダリューンをおどろかせたのが、大河を渡る船の姿だった。船体の左右に、直径五ガズ(約五メートル)はありそうな巨大な車輪がついている。その車輪が水面で回転すると、高々と飛沫《しぶき》があがり、船は人が地上を歩くよりも速く、河流を横ぎって進んでいくのである。
「地形や気流の関係でな、この河を帆船で横断するのはむずかしいのだ。風は河の上流から下流へと吹くから、帆船は吹きながされてしまう。櫂《かい》を使って漕《こ》ぐとしても、人力の限界がある。だから機械《からくり》を使って車輪を動かす」
説明を受けながら、ダリューンは、外輪船の動きを見守っていたが、ふと視線を動かした。港の一隅に、どこかで見たような旗が何本か立っていたのだ。三角形の旗に獅子《シール》の図は、パルス使節団のものであった。ダリューンは馬を走らせ、ほどなく同胞と再会を果たした。ムルクも、皇帝への献上品をつんだ驢馬を、いささか残念そうにパルス人たちに引き渡した。
「おう、ダリューン卿、それにムルクも無事であったか」
喜びの声をあげたのは、パルス使節団長のマーカーン卿であった。五十歳前後の貴族である。過去に二回にわたって|絹の国《セリカ》におもむき、国情に通じている。最初の滞在時に、|絹の国《セリカ》の女性と恋愛して、子供もでき、再会を楽しみにしているということであった。むろんパルスには正式に結婚した妻がおり、子供も男女あわせて八人いるが、どうやら、遠い異郷でつくった家庭のほうに愛着を感じているらしい。長い危険な旅も、一日ごとに|絹の国《セリカ》に近づくと思えば、楽しいばかりのようであった。
マーカーン卿たちからすれば、ダリューンは十日間も行方不明になったいたわけである。
恐縮して、ダリューンは罪を謝した。彼が不在の間は、副隊長のパーヌ卿が責任を果たしてくれたのだ。つつがなく|絹の国《セリカ》に着いたし、献上品も無事だったので、もともと鷹揚《おうよう》なカーマーン卿は、すっかり気分をよくして、ダリューン卿を深くとがめもしななかった。ひとつには、|絹の国《セリカ》の公主の危機を救ったことを告げられたからでもある。それは思わぬ功績であり、|絹の国《セリカ》の皇帝のおぼえ[#「おぼえ」に傍点]がよくなるにちがいなかった。
これまでの経緯《いきさつ》からなりゆき上、ダリューンとムルクは公主の船に同乗した。船旅は三日つづいた。四日め、河に面してたつ巨大な城壁都市の姿が見えた。
河水が城内に引きこまれて水路となっているのだろう。巨大な穹隆《アーチ》型の門が河に向かって開き、大小さまざまな船が城内へと吸いこまれていく。外輪船が多いが帆船や手漕《こ》ぎの船もあり、舷《げん》が触れあうほどの混雑である。
「あれが西都永安府《シーツイーアンフ》だ。われらの大いなる都だ」
花冠将軍の声に、ただダリューンはうなずくばかりだった。
地上において、エクバターナの栄華をしのぐといわれる唯一の都市である。北は雷河《ライホー》の流れに面し、他の三方からは街道が集まり、城壁の高さは十五ガズ、総延長は八ファルサング、上空からみると正方形をしており、城門の数は十一、そのうち三つは水門である。城内の人口は二百万、そのうち三割は東西南北の四方から集まった諸外国の民であり、パルス人だけで二万人に達するといわれていた。
公主一行の到着は、すでに知られていた。長城をこえたとき、警備の部隊から伝書鳩による報告が帝都にもたらされたという。巨大な水門をくぐるとき、彎曲《わんきょく》した石の天井には、宝珠をめぐって争う竜と虎の姿が描かれていた。
船が城内の港に係留されると同時に、槍をかまえた兵士たちが甲板に躍りあがってきた。美々しい甲冑は近衛兵のもののようであった。花冠将軍とダリューンとを目にすると、彼らは大声をあげた。
「公主殿下の御前である、ひかえよ!」
ムルクの通訳を受けて、ダリューンは当惑した。非礼をとがめる視線と声は、彼に向けられている。だが、公主はなお船室におり、甲板上に姿を見せていない。まだひざまずく必要はないはずであった。
ダリューンがひざまずかないのを見て、|絹の国《セリカ》の近衛兵たちは怒ったようである。後方から、太い二本の槍が伸び、ダリューンの左右の肩をおさえつけた。力をこめて、無礼な異国人を拝伏させようとする。反抗しようとして、ダリューンは力をぬいた。船室から、白と淡紅食の絹衣をまとい、顔を紗で隠した女があらわれたのだ。彼女の行動はダリューンの想像を絶した。いと貴《たか》き身分であるはずの彼女は、うやうやしく花冠将軍の前にひざまずいたのだ。脳裏に電光がひらめいて、ダリューンはすべてをさとった。この公主は身代りだったのだ。真物《ほんもの》の公主は、いっかいの武人をよそおって自由に行動していたのである。彼女が片手をあげると、ダリューンの両肩をおさえつけていた槍が引かれた。
「あなたが真物《ほんもの》の公主殿下か」
「すまぬ、わたくしが星涼《シンリアン》公主だ」
美しく勇敢な|絹の国《セリカ》の姫は、あでやかに笑った。紅白の桃につつまれた翡翠《ひすい》の宮殿。そこに住んで小鳥と会話する東方の姫君。童話めいた想像はみごとにくずれて、ダリューンもムルクも立ちつくすしかない。
「銅虎将軍が酔狂と申したが、たしかに、わたくしは傍《はた》迷惑な女でな。深窓でおとなしく琴でも弾《ひ》いていればよいものを、つい長城すらこえて地の涯《はて》まで走りまわってみたくなる」
星涼《シンリアン》公主の笑顔を、ただダリューンは見つめていた。
「よく|絹の国《セリカ》に来た」
好意に満ちた声がダリューンの胸に浸《し》みた。
「この広大な国には、人の世でもっとも美しいものと、もっとも醜《みにく》いものと、両方がある。その一部なりとたしかめて、帰国して後、語りぐさにするとよい」
公主はもう一度笑うと、身をひるがえした。何やら体術でも用いたのか、体重のない者のように、彼女の身体は桟橋の上に移動していた。
「そして|絹の国《セリカ》の帝都における生活が始まったのでございます」
ひとまず語り終えたダリューンの横顔を、若い国王《シャーオ》は月光のヴェールごしに見つめた。
「ダリューン、このようなことを尋《き》いてよいかどうかわからぬが、ずっと|絹の国《セリカ》にとどまりたかったのではないか」
ためらいがちの質問に、黒衣の騎士はおだやかな微笑で応じた。アルスラーンの問いを予想していたようでもあった。
「とんでもございません。もし|絹の国《セリカ》にとどまっておりましたら、殿下、いえ、陛下の御為《おんため》に働くこともできず、ナルサスと再会することもできず、ギーヴやファランギースに会うこともできませんでした。私の現在も未来も、パルスにのみございます」
力強い誠意に満ちた言葉である。それが真実であることを、アルスラーンは疑わなかった。ただ、それが真実のすべてではないことを、アルスラーンは知る年齢になっており、できればダリューンが|絹の国《セリカ》でのできごとについてさらに語ってくれる時機《とき》を待ちたいと思ったのであった……。
生まれて初めて書いた短篇あとがき
いやー、短篇集一冊ならともかく、短篇ひとつに「あとがき」を書かされるとは思わなかった。K川書店ってほんとに「あとがき」を書かせるのが好きだなあ(苦笑)。そのうち「まえがき」や「なかがき」まで書かせるようになったりして。
……危ない冗談はさておき。
この作品は御覧のとおり「アルスラーン戦記」の外伝ですが、ストーリーとして完結してはおりません。アルスラーンに出会う前のダリューンが|絹の国《セリカ》でどのような体験をするか、それはまだ始まったばかりで、当然ながら続編の構想は立ててあります。ただ発表はいつ、どのような形になるか、現在のところ見当もつきません。全体のタイトルが「東方巡歴」となることは確かですので、本伝と同じく一冊が五章仕立てで一章のタイトルが全体のタイトルとなるものとお考え下さい。ですから、このあとがきは、一章が終わったところで一章に関してあとがきを書く、という奇妙なものになってしまいました。やれやれ。
ダリューンが出会う「星涼公主」に特定のモデルはありません。ただ|絹の国《セリカ》のモデルである中国の歴史上、武装して戦場に立った女性は何人もおりまして、彼女たちを「巾幗英雄《きんかくのえいゆう》」と呼びます。「巾幗」とは女性の髪飾りのことです。
遠い中国の美女は西洋の騎士にとっても、あこがれの的だったようです。「アーサー王物語」ほど日本人には知られていませんが、ルネサンス時代の「オルランド」という英雄叙事詩には、主人公の恋人として中国《カタイ》の王女が登場します。名はアンジェリカ。中国らしくない名前ですが、五〇〇年昔のヨーロッパの人々がいだいた遠い異国のあこがれが伝わってくるようです。
というわけで、神村幸子さんの艶麗なイラストともども、遠い異国への旅をつかのま楽しんでいただければ幸いです。
田中芳樹《たなかよしき》
●略歴=一九五二年、熊本県生まれ。学習院大学国文学科大学院修了。一九七八年、「緑の草原に…」で第3回幻影城新人賞を受賞。主な作品に、『アルスラーン戦記』『マヴァール年代記』『地球儀の秘密』『銀河英雄伝説』『創竜伝』などがある。