アルスラーン戦記@ 王都炎上
田中 秀樹
目次
[#目次1]第一章 アトロパテネの会戦
[#目次2]第二章 バシュル山
[#目次3]第三章 王都炎上
[#目次4]第四章 美女たちと野獣たち
[#目次5]第五章 玉座《ぎょくざ》をつぐ者
……パルス暦三〇一年、第十六代|国王《シャーオ》ゴタルゼス二世|崩御《ほうぎょ》す。没年六十一歳。王太子オスロエス即位して第十七代国王オスロエス五世と称《しょう》す。
パルス暦三〇三年、オスロエス五世、王弟アンドラゴラスを大将軍《エーラーン》として国境の東南バダフシャーン公国を滅ぼす。バダフシャーン公カユーマルス自殺。その妻タハミーネ、アンドラゴラスにより王都エクバターナに連行さる。
パルス暦三〇四年、第十七代国王オスロエスにわかに崩御す。没年三十歳。王弟にして大将軍たるアンドラゴラス、即位して第十八代国王アンドラゴラス三世と称す。
パルス暦三〇五年、アンドラゴラス三世、タハミーネをたてて王《おう》妃《ひ》となす。
パルス暦三〇六年、アンドラゴラス王とタハミーネ王妃との間に王子誕生。アルスラーンと名づく。
パルス暦三一〇年、トゥラーン王国の軍、北方より侵攻、撃退さる。
パルス暦三一一年、アルスラーン王子を正式に王太子となす。
パルス暦三一二年、トゥラーン王国の軍、ふたたび北方より侵攻、撃退さる。
パルス暦三一三年、ミスル王国の軍、西方より侵入。王都エクバターナにせまるも、パルス軍これを撃破す。
パルス暦三一五年、トゥラーンおよびシンドゥラ、チュルク、三国の連合軍、東北方、東南方、東方より侵入。パルス軍これを撃破す。
パルス暦三二〇年、西北方ルシタニア王国軍、パルスの友邦マルヤム王国を滅亡せしめ、パルス王国に侵入。アンドラゴラス三世、自《みずか》ら軍をひきいてアトロパテネの野に侵略軍をむかえうつ。王太子アルスラーン初陣《ういじん》す。ときに十四歳……
(パルス王国年代記)
[#改頁]
[#目次1]
第一章 アトロパテネの会戦
T
とうに太陽は東の空にのぼっているはずであったが、平原をおおう霧のヴェールをつらぬくことはできなかった。十月中旬である。秋の陽光は弱く、風はまったくない。パルスの気候にはめずらしい厚い霧は、いっこうに晴れる気配をみせなかった。
パルス国王アンドラゴラス三世の息子アルスラーンは、不安そうな馬の首を平手でかるくたたいた。最初の戦いをひかえて、アルスラーン自身も不安だったが、馬をなだめておかないと、戦いも何もあったものではない。
それにしても、何という霧だろう。ゆるやかな起伏を無数にかさねあわせた平原も、はるか北方にかすんでいるはずの万年雪の山々もまったく見えないのだ。
右の方角から馬《ば》蹄《てい》の音がひびいて、武装したひとりの老《ろう》騎士《きし》があらわれた。パルス王国の大将軍《エーラーン》ヴァフリーズである。すでに六十五歳だが、戦いと狩猟と乗馬にきたえられた肉体は、なおたくましい。
「王太子殿下、ここにおられましたか。あまり国王|陛《へい》下《か》の本陣をはなれなさるな。この霧じゃ、いちど道をうしなったらおおごとですぞ」
「ヴァフリーズ、この霧は味方には不利ではないのか」
冑《かぶと》の中に、はれわたった夜空のような色の瞳をひからせてアルスラーンは老騎士にたずねた。
「霧であろうと夜の闇《やみ》であろうと……」
ヴァフリーズは笑いとばした。
「あるいは吹雪であろうと、パルス騎兵隊の突進をはばむことはできませぬ。ご心配なさるな。殿下のお父上、アンドラゴラス王が即位なさってよりこのかた、わがパルス軍は不敗であることを殿下もご存じでしょう」
十四歳の王子は、老人の自信をそのまま受けいれなかった。道をうしなったらおおごとと、いま老人も言ったではないか。アルスラーンの馬も、霧を不安がっている。霧のために行動の速度がにぶったら、騎兵隊はとりえをうしなうだろう。
「やれやれ、殿下はこの老人よりも心配性でおいでじゃ。パルス騎兵八万五千、アトロパテネの地形はすべてのみこんでおります。それにひきかえ、ルシタニアの蛮族《ばんぞく》どもは、四百ファルサング(約二千キロ)の道のりをこえてきており、地形にくわしくありません。蛮族どもめ、わざわざ遠い異国に墓をつくるためやってきたようなものですじゃ」
右の腰にさげた短剣《アキナケス》の柄《つか》を、アルスラーンはもてあそんでいたが、その手をとめて問いかけた。
「先だって、マルヤム王国はルシタニア人にほろぼされた。マルヤムとてルシタニア人にとっては遠い異国ではなかったのか」
りくつ《ヽヽヽ》の多い王子に、老人が何か答えようとしたとき、霧のなかからまた一騎の騎士があらわれて声をかけた。
「大将軍《エーラーン》ヴァフリーズどの、いそいで本陣へ来てくだされ」
「いよいよ出陣かな、カーラーンどの」
中年の騎士は、赤い房のついた冑ごと、大きく頭をふった。
「そうではない。貴《き》公《こう》の甥《おい》がもめごとをおこしてな」
「ダリューンが?」
そう言ったのはアルスラーン王子で、老人のほうは万年雪のように白いひげを指先でつまみ、顔をしかめたままだまっている。
「は、さようです、殿下。国王|陛《へい》下《か》がいたくお怒りで、ダリューンどのの万騎長《マルズバーン》の職をとくとおおせなのです。ダリューンどのはわが国において五本の指にはいる勇者……」
「|戦士のなかの戦士《マルダーンフ・マルダーン》。知っている」
「戦いを前にそのようなことをなされては、全軍の士気にかかわります。大将軍、どうぞ本陣へいらして陛下をなだめていただきたい」
「こまった奴じゃ、ダリューンめが」
老人はうなったが、甥に対する愛情をかくしきれない声だった。カーラーンに案内されて、アルスラーンとヴァフリーズは、霧にしめった草の上を、アンドラゴラス王の本陣へと馬を走らせた。
パルス国王《シャーオ》アンドラゴラス三世は、四十四歳、みごとな黒いひげをはやし、眼光するどく、即位以来十六年にわたって不敗をほこる武人の風格にあふれている。長身で、肩も広く胸もあつい。十三歳でライオンをたおし、獅子狩人《シャールギール》の称号《しょうごう》をうけ、十四歳で戦場に出て戦士《マルダーン》と名のる資格をえた。パルスの全軍――十二万五千の騎兵と三十万の歩兵を指揮するにふさわしい男である。
その国王が、いま、本陣の豪華な絹のテントのなかで、怒りにふるえている。王の前には、武装したひとりの青年がひざまずいていた。これが大将軍ヴァフリーズの甥で、パルス全軍に十二名しかいない万騎長《マルズバーン》のうちの最年少、二十七歳のダリューンであった。
万騎長《マルズバーン》は、その名のとおり、騎兵一万騎をひきいる将軍のことである。パルス軍は伝統的に騎兵をおもんじ、歩兵をかろんじた。騎兵は士官が騎士《アーザーターン》で兵士が自由民《アーザート》であるが、歩兵は士官が自由民《アーザート》で兵士が奴隷《ゴラーム》である。万騎長ともなれば、軍隊での格式は王族《ワースプフラーン》につぐほどだ。
ダリューンは二十七歳の若さでその万騎長になったのである。どれほど勇猛であるか、それだけでも想像がつくであろう。
「ダリューン、そなたを見そこなったぞ!」
国王はどなりつけ、手にした乗馬ムチでテントの柱をなぐりつけた。そのいきおいに、側近たちはびくりとした。
「トゥラーンやミスルにまで勇名をとどろかせたそなたが、いつから臆病者《おくびょうもの》の死霊《しりょう》にとりつかれたのだ。そなたの口から退却などということばを聞こうとはな。しかも戦いがはじまるよりはやく……」
「陛下、私は臆病で申しあげているのではございませぬ」
はじめてダリューンが口をひらいた。冑の房から甲《よろい》、軍《ぐん》靴《か》にいたるまで黒一色のよそおいである。マントの裏地だけが、落日のしずくでそめあげたように赤い。陽にやけたわかわかしい顔は、するどくひきしまって、美男といってもよかったが、絹と宝石の礼服よりはるかに甲冑姿《かっちゅうすがた》が似あうであろう。
「戦士が戦いをさける。臆病でなくて何だというのだ」
「陛下、お考えください、わがパルス軍の騎兵がきわめて強力であること、諸国に知れわたっております。それなのに、なぜルシタニア軍はことさら騎兵戦に有利な平原に陣をしいて、わが軍を待ちうけているのでしょうか」
「…………」
「何やら罠《わな》をしかけていると思われます。ましてこの霧です。味方どうしの動きさえ、よくわかりませぬ。ひとまず後方にさがって、王都エクバターナの手前に陣をしきなおすべしと申しあげているのに、なぜ臆病などとおっしゃいますか」
アンドラゴラス王は、青年の心を傷つけるような笑いかたをした。
「弓や剣より、いつのまにか口のほうが達者になったようだな、ダリューンよ。地理に暗いルシタニアの蛮人《ばんじん》どもが、どのような罠をしかけるというのだ」
「そこまではわかりませぬ。ですが、ルシタニア軍のなかにわが国の者がいれば、彼らが地理に暗いとはいえなくなります」
王は若い戦士《マルダーン》をにらみつけた。にらまれただけで側近の者たちがふるえあがるほど強烈な眼光だが、ダリューンはおそれずに見かえした。
「わが国の者が、ルシタニアの蛮人どもに協力していると? ありえぬことだ」
「いえ、おことばですが、ありえることです。虐待《ぎゃくたい》された奴隷《ゴラーム》が逃亡したら、復讐のためにもルシタニア軍に協力するかもしれませぬぞ」
ふいに王の乗馬ムチがうなりをあげてダリューンの甲《よろい》の胸をうった。側近たちが息をのんだ。
「奴隷がどうしたと!? そうか、何やらりこうげな口をたたくと思ったら、あのナルサスめに、ろくでもない考えを吹きこまれたとみえるな。あの不心得者が王宮より追放され、武官であれ文官であれ、わしの王宮につかえる者との交際を禁じられた身であることを忘れたか!」
「忘れてはおりませぬ、陛下、この三年間、ナルサスとは一度も会っておりませぬ。彼は私の友人ではありますが……」
「あの不心得者が友人だと。よく言った」
王は歯ぎしりした。怒りが一国の王としての分別を吹きとばしたようであった。王はムチを投げすて、宝石のかざりのついた剣を抜きはなった。側近のなかで、気の弱い者が小さな悲鳴をあげた。ダリューンが斬られると思ったのだが、王もさすがにそこまではやらなかった。王は剣をのばすと、ダリューンの甲の左胸をかざっていた黄金の小さなメダルを刃先ではじきとばした。それはライオンの頭部を形どったもので、大将軍《エーラーン》と万騎長《マルズバーン》のみが身につけることを許される名誉のメダルであった。
「汝の万騎長の任をとく! 戦士《マルダーン》と獅子狩人《シールギール》の称号《しょうごう》をとりあげぬのが、せめてものなさけと思え」
ダリューンは何も言わない。テントのなかにしきつめられたカーペットの模様に視線をおとしているが、武人の名誉を不当に傷つけられた怒りはかくしようもなく、甲につつまれた肩がゆれた。アンドラゴラス王は剣を鞘《さや》におさめると、にくにくしげにテントの出入口を指さした。
「行け、二度とわしの前に姿をあらわすな」
テントの出入口がゆれた。ダリューンはまだその場を動いていなかった。王の指先に姿をあらわしたのは、アルスラーン王子ら三人であった。
U
テントにはいってきた王子と大将軍《エーラーン》を見て、アンドラゴラス王の表情が険悪さをました。自分の息子と重臣があわただしく来訪してきた理由を一瞬でさとったからである。
「父上……」
呼びかけたアルスラーンの声は、それに十倍する音量の、見えない壁にはねかえされてしまった。
「呼びもせぬのに、何をしにきたか。おまえなどの出しゃばる幕ではない。ひっこんで自分の武《ぶ》勲《くん》のことだけ考えておれ!」
たしなめるというより突きはなすような言いかたに、アルスラーンは反感をそそられた。父王の言うことが正しいのだろうとは思う。それにしても、なぜそのような言いかたをされるのかがふしぎだった。アルスラーンの母であるタハミーネ王《おう》妃《き》にはやさしい、というより甘いほどの父なのだ。
パルス軍には、国王《シャーオ》アンドラゴラス三世と大将軍《エーラーン》ヴァフリーズの下に、十二名の万騎長《マルズバーン》がいる。サーム、クバード、シャプール、ガルシャースフ、カーラーン、キシュワード、マヌーチュルフ、バフマン、クシャエータ、クルプ、ハイル、そしてダリューンである。このうちキシュワードとバフマンは東方国境の守備にあたり、サームとガルシャースフは王都エクバターナをまもり、他の八名が国王と大将軍にしたがってアトロパテネの会戦に参加している。この八名がそれぞれ一万騎を指揮し、「不死隊《アタナイト》」と名づけられた国王親衛隊が五千騎、合計八万五千の騎兵が歩兵とともにアトロパテネの野に展開したのであった。
アルスラーンは王太子であり、やがて国王《シャーオ》として彼ら全員の上にたつことになる。だが、このさい身分と職権は別ものであって、彼は百人ていどの騎兵をあてがわれた下級士官であるにすぎなかった。むろん、初陣であるからには部下がつくだけでたいへんなことなのだが、正確には部下というよりお目つけ役というべきであろう。それにしても、一言ぐらい意見をきいてくれてもよいであろうに……。
ことばを失ったアルスラーンに、ヴァフリーズがかわった。もっとも、彼はまず行動を先に立てた。つかつかと甥に歩みよると、いきなり、かるくではあったが、甥の若々しい頬を平手で一撃したのである。
「この慮外《りょがい》者が! 大恩ある陛下に口ごたえするとは何ごとか。身分をわきまえよ」
「伯父上、私は何も――」
反論しかけた口もとを、もう一発たたかれると、ダリューンは大きく息をつき、無言で国王に深く頭をさげた。大将軍ヴァフリーズもひざまずき、王にむかって一礼する。
「陛下、不心得な甥めにかわりまして、この老骨めがおわびいたしまする。何とぞご慈悲《じひ》をもちまして、甥めの罪をおゆるしたまわれ」
「もうよい、ヴァフリーズ」
王は老人に答えたが、表情も声も、不快感をかくしようもなかった。老人が甥を叱責《しっせき》するとみせて、じつは巧妙にかばったことを、王は見ぬいていた。むろん、それによってアンドラゴラス王の名誉も救われたのである。あのまま両者がたかぶる感情をぶつけあっていれば、思いもかけない破局がおとずれていたかもしれなかった。
「ダリューン!」
下をむいたままの若い騎士に、アンドラゴラス王は好意のかけらもない声をかけた。
「万騎長《マルズバーン》の任をとくとの一言は変更せぬ。だが復職の機会をくれてやろう。本陣づきの騎士として、このたびの戦いにのぞめ。武勲しだいで罪をあがなうこともできよう」
「……ご厚恩、感謝のことばもございませぬ」
努力しながら答えるらしいダリューンに目もくれず、テントの奥へはいろうとして、王は立ちつくすアルスラーンにひややかなまなざしをむけた。
「何だ、まだおったのか」
「すぐに出ていきます、ご安心を」
ことばどおり、すぐにアルスラーンはテントを出た。父も不快であろうが、彼も不快であった。ヴァフリーズの立場に、あきらかにアンドラゴラス王は配慮していたが、王太子たる彼に対しても、いますこし配慮してくれてよいではないか。
後ろから追いついたダリューンが、恐縮したように長身をかがめた。
「殿下には、とんだご迷惑をおかけしました。おゆるしください」
「かまわない、おまえは正しいことを言ったのだから。そうだろう?」
「はい、カーラーンどのも同じように考えておいでです。べつに罪を分かつつもりはありませんが、王にご忠告もうしあげたがよいと言われたのはカーラーンどのです」
そうか、と、アルスラーンはうなずいたが、彼の興味は、この戦場にいないべつの人間に向けられていた。
「ダリューン、ナルサスとはどのような男なのだ」
「私の友人で、私の知るかぎり、あれほど智略《ちりゃく》にとんだ男はおりません」
「なに、ひねくれ者でござるよ」
と、老いた大将軍が、甥のことばを一言のもとにほうむりさった。抗議する視線をダリューンが向けて、
「伯父上とて認めておられたではありませんか。ナルサスの智略は一国に冠絶《かんぜつ》すると。あれはいつわりだったのですか」
「わしは性格のことを言うておるのじゃ。頭のことを言うておるのではない」
言いあらそう伯父と甥をながめて、アルスラーンはかるい羨望《せんぼう》の思いを胸によぎらせた。父王と自分が、こうも率直《そっちょく》に、しかもあたたかくことばをかわしうる仲であれたら、とふと思ったのである。自分が割りこむのは悪いように思えて、アルスラーンは、ひとり馬を返した。
立ちさる王子の後ろ姿に一礼すると、大将軍はまた甥をしかりつけた。
「ダリューン、諫言《かんげん》するにしても時機というものがあろう。陛下がせっかく、おまえの功績と才能を認め、万騎長《マルズバーン》に任じてくださったというのに、せっかくの抜擢《ばってき》を自分から無にするとは、浅慮《せんりょ》のいたりではないか」
「そうです。諫言には時機というものがあります。負けてからではおそい」
国王や王子に対して遠慮せざるをえなかった、その分だけ伯父に対してはいっそう遠慮がなくなるダリューンであった。
「そもそも伯父上、この戦いが終わって、私が生きていられるとはかぎりません。幽霊になってから諫言できるほど、私は器用ではありませんから……」
老いた大将軍は鼻を鳴らした。
「にくまれ口をたたきおる。ナルサスもそうだった。自分が正しいと思うと、言うことにかわいげがなくなるものじゃて」
ダリューンは何か言いたそうであったが、伯父にやりこめられると思ったらしく沈黙していた。老人が急に話題をかえた。
「ダリューン、わしが大将軍《エーラーン》に叙《じょ》せられてから、もう十六年になる」
「私が生まれたときは、すでに万騎長《マルズバーン》でおいででした」
「そうだ、それほどみじかい間でもない。このとおり、ひげもすっかり白くなった」
「ですが、まだまだ、お声は大きい」
「おせじ《ヽヽヽ》のへたな奴だな。まあいい、わしもそろそろ若い者に席をゆずってもよいころだと思うてな」
ダリューンはまばたきした。伯父の話がやたらとあちこちへ飛ぶのに、ややついていきかねた。甥の当惑をよそに、老人はごくおだやかに言いはなった。
「パルス王国のつぎの大将軍は、おまえだ。わしは出陣に際して、王都を守られる王妃さまに、その旨《むね》を申しあげておいた」
あきれてダリューンは伯父を見つめた。
「ありがたいことですが、それは国王陛下の御心《みこころ》にあること。まして今日のようなことがあれば、いかに伯父上が申されようと、陛下がおいれになるはずもないでしょう」
「なに、おいれくださろうよ。おまえの器量は充分にご承知の陛下じゃ」
老人は小さくあくびをした。
「ところで、ダリューン」
「は?」
今度は伯父が何を言いだすかと思って、ついダリューンは身がまえてしまう。
「アルスラーン王子にひさびさにお目にかかって、殿下のお顔だちをどう思った?」
「よい顔だちをしておられます。もう二、三年もすれば王都の姫君たもがさぞさわぐことでしょう。ですが、伯父上……」
「王子の顔だち、国王と王妃と、どちらに似ておいでと思うかな」
たたみかけられて、ダリューンはやや困惑《こんわく》した。顔の美醜《びしゅう》など、王者の資格として不可欠なものではないはずなのに、なぜ伯父はこだわるのであろう。
「さて、しいていえば王妃さまのほうでしょうか」
正確にいえば、父親であるアンドラゴラス三世のほうに、|より似ていない《ヽヽヽヽヽヽヽ》とダリューンは思うのだが、臣下としての意識が、はっきりそう言うのをこばんだ。
「なるほど、国王陛下には似ておられぬか」
甥の心情を察して、大将軍はうなずいた。父王に似れば、もっと線の太い、ごついほどのたくましさと精悍《せいかん》さを感じさせる顔だちになっていたであろう。うなずきにつづいて大将軍は言った。
「アルスラーン殿下に、忠誠をちかってくれぬか、ダリューン」
ついさっきまで万騎長《マルズバーン》であった若い戦士は、おどろいて伯父を見かえした。国運をかけた戦いを前に、伯父の態度はいわくがありすぎる。
「私はパルスの王家につねに忠誠をつくすつもりでおります。いまさらちかえとは……」
「殿下個人にじゃよ、ダリューン」
「わかりました、伯父上がおのぞみとあらば」
「剣にかけてちかうか?」
「剣にかけて」
明言してから、ダリューンはするどくひきしまった顔に苦笑をたたえた。伯父の執拗《しつよう》さが、いささか度をこしたもののように思えた。
「何なら誓約書をさしあげましょうか、伯父上」
「いや、おまえがちかってくれれば充分じゃ」
苦笑さえうかべぬ、きまじめすぎる表情でヴァフリーズは重々しく言い、ダリューンは皮肉を言う気をなくしてしまった。
「おまえにだけは、アルスラーン殿下のお味方をしてさしあげてほしいのじゃよ。おまえひとりで千騎の兵にまさると思えばこそだ」
「伯父上……」
たまりかねて、ダリューンは声を高めた。敬愛する伯父のことばゆえ、受けいれてきたが、彼にも疑念をただす権利があるはずだった。
そのとき霧をつらぬいて角笛の音が彼らの耳をうった。戦いがはじまるのだ。ヴァフリーズは老齢を感じさせぬ勢いで本陣へ馬を走らせはじめ、ダリューンは、ついに伯父の意図をききそこねてしまった。
V
アンドラゴラス王はテントを出て馬を陣頭に進めた。これほど威厳と風格にみちた王者は、異国には存在しないであろう、と、彼をかこむ臣下たちは誇らかに思わずにいられない。大国パルスの王であり、不敗の猛将として近隣諸国の王侯から畏怖《いふ》される男ざがりの王である。
ヴァフリーズが深く一礼して報告した。
「騎兵八万五千、歩兵十三万八千、ことごとく戦う用意はできております」
「敵の兵力はどれほどか」
老いた大将軍《エーラーン》はカーラーンをうながし、偵察の全権をもつ万騎長《マルズバーン》がうやうやしく王の問いに答えた。
「あくまでも推定ではございますが、騎兵が二万五千から三万、歩兵が八万から九万というところでございましょう。彼らがマルヤム王国に上陸したときの兵力がそのていどでございました」
「あいつぐ戦いで、すこしは数をへらしておろう」
「本国からの増援で、逆にふえたかもしれませぬ」
ふむ、と王はうなずいたが、やや不本意げであった。いますこし正確で実効性のある報告を期待していたのである。そもそも、先陣偵察の任を自《みずか》ら申しでたのはカーラーンであったし、これまでも充分に任務をはたしてきた。だからこそ今回も彼に偵察の全権をゆだねたのであるが、つねひごろはダリューンやヴァフリーズ以上に慎重で堅実なカーラーンが、今目は王にむかってきわめて積極的な態度をしめすのである。
「それにしても、この霧では、敵軍の配置も見えぬ」
「ご心配なされますな、陛下、当然のこと敵からもこちらの配置は見えませぬ。条件が五分五分であれば、わが軍の勝利はうたがいなしと存じます」
カーラーンの声は力強く、アンドラゴラス王はうなずいた。二十ガズ(約二十メートル)ほどはなれて馬をとめるヴァフリーズが、やや気がかりそうな視線を投げかけたが、低声の会話は老人の耳にとどかなかった。
「前方に敵!」
遠くであがった叫びは、つぎつぎと連《れん》鎖《さ》して、王の本陣にとどいた。伝令の騎士が馬をとばしてきて報告した。前方、八アマージ(約二千メートル)ほどの距離に敵の先頭部隊がうごめいているというのである。
「前方というと、バシュル山につづく方角です。英雄王カイ・ホスローの霊《れい》が守護したもうのでしょう、その方角には断層も窪地もございません。いくら霧があつくとも、馬の足にまかせて直進することができます」
カーラーンが断言すると、アンドラゴラス王は会心の表情になった。ダリューンの慎重論を一蹴《いっしゅう》したように、もともと積極攻勢型の、彼は猛将であった。一直線の猛攻こそ彼ののぞむところであったのだ。だが、この場にダリューンがいあわせたら、カーラーンが王をいわばけしかけたことに不審の念をいだいたであろう。
風がひるがえり、霧が流れた。吉兆であるようにアルスラーンには思われた。霧が風によって吹きはらわれれば、アトロパテネの広大な平原全体が見わたせる。騎兵を主力とする大軍にとっては有利なはずである。
だが、霧は重かった。ゆらいだだけで、平原から立ちさろうとしない。本陣のはずれに、部下もなく一騎でたたずむダリューンの黒衣が、白い霧のなかで王子の印象にとどまった。
アンドラゴラス王の声が朗々と霧のヴェールを破ってとどろいた。
「パルス歴代の諸王よ! 聖賢王《せいけんおう》ジャムシード、英雄王カイ・ホスロー、その他の王者の霊よ、わが軍を守りたまえかし」
「……わが軍を守りたまえかし!」
本陣の騎士たちが王に和し、その声はさらに遠くのパルス軍に、波紋をえがいてひろがっていった。王のたくましい右手があがり、ふりおろされると、喊声《かんせい》がふきあがり、パルス軍は突撃を開始した。
八万の騎兵が突撃したのである。馬《ば》蹄《てい》の轟《とどろ》きは、文字どおり地軸をゆるがすかと思われた。
疾走する人馬の左右で、霧が流れた。甲冑が鳴り、かざされた剣や槍が、まといつく霧の水滴にぬれ光る。
この騎兵集団の突撃を見ると、パルスの敵国は戦う前から恐怖と敗北感にかられ、殺到するパルス軍の剣と槍に、草よりももろく斬りたてられたものである。霧とても、馬蹄のとどろきをさえぎるわけにいかず、姿が見えぬだけにかえって恐怖をそそられるはずであった。
パルス軍は霧の向こうに勝利を見ていた。だが、その幻想がふいについえた。大軍の先頭にあった騎士たちは、乗馬の足もとから大地が消失したのに気づいた。狼狽《ろうばい》の叫びがあがった。手《た》綱《づな》をひいたがすでにおそく、彼らは断崖から宙へ放り出され、落下していった。
第一列は第二列によってつきおとされ、第二列は第三列によってつきおとされた。人間と馬が悲鳴の大きさをきそいあった。
巨大な断層が、彼らの前に口をあけていたのだ。それはアトロパテネ平原においても最大級のものであった。長さは一ファルサング(約五キロ)をこえ、幅は三十ガズ(約三十メートル)、深さは五ガズに達していた。その天然の濠《ほり》のなかに、パルス軍の精強な人馬がおりかさなり、泥しぶきをはねあげた。骨折してもがくところへ、あらたな犠《ぎ》牲者《せいしゃ》が上から落ちかかり、下にいる者をおしつぶした。狂乱がパルス軍をつつんだ。かろうじて立ちあがった者は、異臭をかぎ、ひざに達するどろどろの半液体が油であることを知った。戦慄《せんりつ》が彼らをおそった。
「気をつけろ! 油だ、奴ら、おれたちを火攻めにする気だぞ」
叫びがおわらぬうちに、炎の壁が宙空《ちゅうくう》へふきあがった。火矢が放たれたのだ。あらかじめ平原の各処にまかれていた油に、同時に火が点じられ、パルス軍を炎の舌につつみこんだ。
霧のなかで、何百もの火炎の輪がつらなった。そのひとつひとつの輪が、数百騎のパルス騎兵をとりこめているのだった。八万をこす騎兵隊が行動の自由と統一をうばわれ、分断させられたのだ。そして、火の輪は霧の厚いヴェールをとおして、パルス騎兵の位置をはっきりとルシタニア軍の前にさらけだしたのである。一瞬のできごとであった。
「どうっ、どうっ」
火におびえてたけりくるう乗馬を、パルスの騎士たちはけんめいに鎮めようとした。馬のいななきと、乱れた馬蹄のひびきと、騎士たちの怒声がいりまじるなかに、あらたな音がくわわった。
それは無数の矢がふりそそぐ音であった。
パルス軍の指揮官たちは、回避命令を絶叫した。だが、命令を実行するのは不可能であった。前方では、長さ一ファルサングをこす長大な火の壁が前進をはばんでいる。のこる三方に対しても、無限につらなるかと思われる火の輪が行動の自由を奪っていた。炎の壁のなかから、生きながら焼き殺される人馬の悲鳴が脈うってひびいてくる。
ルシタニア軍は、高さが人間の身長の五倍にもおよぶ塔車《とうしゃ》を数百台も用意し、そこから地上の火の輪をめがけて矢を乱射したのであった。行動の自由をもたない相手に、高みから矢を射かけるのだ。ルシタニア兵にすれば、おもしろいほど命中する。一方的な殺戮《さつりく》がくりひろげられ、火と血に赤く染めあげられたパルスの軍衣が野の草をおおった。
だが、やがて、火と煙と霧の幕をつきやぶって、パルス騎兵の一部がルシタニア軍の前面に姿をあらわした。どうせ死ぬのであれば――と覚悟した騎兵が、練達の馬術にものをいわせて、火の壁をとびこえたのだ。失敗した者は火中に転落して、生きながら炎の塊《かたまり》と化した。成功した者も、多くは火傷《やけど》をおっていた。人馬ともに炎の塊となってよろめき出たものの、そのまま力つきて倒れこむ者も多い。
近隣に無敵を誇ったはずのパルス騎兵隊は、おりかさなって地上に倒れてゆく。まるで、雪雨に打たれた泥人形の群のように。数万の生命と、数万の誇りと、一国の歴史とが、矢の雨と白い霧のなかで、土に帰そうとしている。アルスラーンは、袖やマントについた小さな炎を手でたたき消し、煙にせきこみながら叫んだ。
「父上! ダリューン! ヴァフリーズ!」
どこからも返事はない。
火炎の包囲網を突破したパルス騎兵は、なお剣をかざし、マントを燃えあがらせながら突進していた。ルシタニアの騎兵がそれをむかえうつ。
正面からの激突は一方的な結果をうんだ。馬術においても、馬上の剣技においても、ルシタニア軍はパルス軍の敵ではなかった。パルス騎兵の刃《やいば》に血を吸わせて、ルシタニア兵は文字どおりなぎたおされた。パルス兵の屍衣《しい》に、ルシタニア兵のそれがつぎつぎと、おりかさなった。
「パルス軍の、何という強さだ。まともに戦っておれば、とうてい勝ちめなどなかったわ」
三重の柵《さく》と濠に守られたルシタニア軍の陣で、将軍モンフェラートがつぶやいた。そのとなりで将軍ボードワンがうなずく。どことなくうそ寒い表情が、勝者となりつつある彼らの顔にたゆたっている。
彼らの前で、つぎつぎとパルス騎兵が屍《しかばね》をつみあげている。ルシタニア騎兵を蹴ちらし、斬りすてて敵陣まで殺到しても、三重の柵と濠を突破することはできない。立ちつくすところへ、塔車から放たれる矢の雨をあびて、人馬もろとも横転し、息たえていくのだった。
つみかさなる死屍《しし》が、柵の高さに達するのではないかと思われるころ、ルシタニア軍のラッパが高々となりわたった。総反抗の合図である。柵の門があけ放たれ、無傷のルシタニア軍主力が甲冑の洪水となって平原へ流れ出ていった。
「カーラーンは、どこにおる!?」
怒号するアンドラゴラス王の顔が、怒りと不安にひきつっている。戦場では、アンドラゴラスはつねに自信と勇気にみちており、それは先王時代に大将軍《エーラーン》としてバダフシャーンを討って以来、変わることなくつづいてきたはずであった。だが、その剛《ごう》毅《き》さに、この日はじめて刃こぼれが生じている。敗北を知らぬ彼ゆえに、それはひときわ恐怖だった。
国王の怒号に、カーラーン麾下の千騎長が首をすくめた。彼は国王とカーラーンとの連絡を密にするため、本陣に常駐することを命じられていたのだった。
「そ、それが、万騎長《マルズバーン》はさきほどより姿が見えませぬ。臣らもさがしているのですが……」
「さがしてつれてまいれ! 奴を見つけるまで予《よ》の前にあらわれるな!」
「……御《ぎょ》意《い》」
王の怒りに全身を打たれた千騎長は、愛馬を駆って走り出ていった。見送りつつ、アンドラゴラスは憤《ふん》怒《ぬ》のうめきをもらした。前方に断層などないと報告し、全面的な攻勢をすすめたのはカーラーンであった。それにしたがったばかりに、この惨状である。
「カーラーンめ、裏切ったのであろうか」
疑惑のつぶやきを耳にしながら、ヴァフリーズは王に答えず、乗馬をあやつって本陣の端へ歩みよった。ダリューンがふりむいた。鞍《くら》の前輪に横たえた長槍、それをおさえる手にかるいいらだちがある。
「出番じゃ、ダリューン」
大将軍《エーラーン》は、甥の腕をかるくおさえた。
「国王陛下は、わしがお守りする。おまえはアルスラーン王子をおさがししろ」
「王子のお姿が……?」
「突撃の先頭におられた。こころもとないことじゃ。おそまきかもしれぬが、守ってさしあげよ。王のお怒りはわしがひきうける」
「わかりました、伯父上、エクバターナで再会しましょう」
一礼すると、ダリューンは黒馬の首をかるく平手でたたき、向きを変えた。霧の厚い天幕の彼方ヘ姿を消す甥の姿を、老いた大将軍はじっと見送っていた。
W
霧のなかに、刀槍のひらめきが走る。夏雲を雷光がつらぬくようであった。さらに各処で赤くにごった炎がまいあがり、こげくさい熱気をふきつけてくる。
自分は勇敢というより無謀なのではないか、と、黒衣の若い騎士は深刻にうたがわずにいられなかった。この混乱をきわめる広大な戦場でただひとりの人間をさがそうというのだ。
「アルスラーン殿下! いずこにおわす!?」
何度めかの叫びを放ったとき、ダリューンの黒い甲冑《かっちゅう》はルシタニア兵のかえり血でまだらに染まっていた。王の本陣を出てから、何人のルシタニア兵を槍先にかけたか、いちいちおぼえてはいない。ただ、三|合《ごう》と彼の前に立ちつづける者はいなかった。
左右に放ちつづけた彼の視線が、一点にとどまった。百ガズ(約百メートル)ほど離れて、見知った顔があった。万騎長《マルズバーン》カーラーンである。ただ、その顔にあったのは、見なれぬ表情であった。
ダリューンが近づくのを見て、カーラーンが無言で片手をあげると、周囲の騎士たちが槍先をダリューンにむけた。彼らがパルスでなくルシタニアの騎士たちであることを、ダリューンは知った。
「これはどういうわけか、カーラーンどの」
問いはしたが、そのときすでにダリューンはカーラーンの顔に無言の回答を見出していた。カーラーンは敵味方を誤認したのではない。狂したのでもない。ダリューンをダリューンと知って、彼はルシタニアの騎士たちを動かしたのである。彼は大きく息をすい、はきだした。
「裏切ったのか、カーラーン!」
「裏切りではない。まことパルス王国のためを思えばこそ、アンドラゴラスを玉座《ぎょくざ》から追うくわだてに加担したのだ」
陛下という敬称も用いず、カーラーンは王を呼びすてた。ダリューンの瞳に、完全な理解のきらめきが走り、彼はうめいた。
「そうか、わかったぞ。戦いを前にして、後退するよう陛下に申しあげろとおれにすすめたのは、おれが陛下のご不興《ふきょう》をこうむって万騎長《マルズバーン》の任をとかれる――それをねらってのことだな」
高笑いがそれにこたえた。
「そのとおりだ、ダリューン。おぬしは強いだけの|あほう《ヽヽヽ》ではないな。だからこそ、おぬしに一万もの騎兵を指揮させておくわけにはいかなんだのよ。おぬしがいかに勇猛でも、単騎で戦況を左右できるものでもないからな」
勝ちほこったカーラーンの舌が回転をやめた。槍をかまえたダリューンが、黒馬を駆って突進してきたのである。
カーラーンをかこむルシタニア騎士のひとりが、それにこたえて葦《あし》毛《げ》の馬を躍らせた。パルスのものとはやや形がことなる、中央部に鍔《つば》のついた長大な槍を、ダリューンにむけて突きだす。
二条の雷光がすれちがうようであった。ルシタニア騎士の槍はダリューンの冑をかすめて宙に流れ、ダリューンの槍は相手の咽喉《のど》をつらぬいて後頭部から穂先をとびださせた。騎士はわが身をつらぬいた槍ごと地上へ転落する。
そのときすでにダリューンは長剣を抜きはなっていた。冬の早朝、太陽の最初の光がさしこむように長剣が白くきらめくと、つづくルシタニア騎士の首が、冑ごと、血の尾をひいて宙にとんだ。
「そこを動くな、カーラーン!」
三人めの騎士を地上へ斬りおとし、かえす一撃で四人めを血しぶきとともに鞍上《あんじょう》からなぎはらう。マルヤム王国を劫《ごう》火《か》のもとに滅ぼしたルシタニアの騎士たちが、ダリューンの剣技にかかっては幼児のごとく無力であった。騎手を失った馬がつぎつぎと狂ったように霧の奥へ走りさってゆく。
「国王陛下を裏切り、おれをだました。二重の罪をいまつぐなわせてやるぞ!」
騎手の怒りに呼応するように、黒馬が高くいななき、まっしぐらにカーラーンめがけて走りよった。
このときなおルシタニア騎士の生きのこりが、身をもってダリューンの突進をはばもうとしたのは賞賛に値《あたい》するであろう。だが、彼らの勇気は彼らの生命を価値として要求した。ダリューンの突進は、その速度をいささかもゆるめなかった。カーラーンの前方で剣光が交錯し、すさまじい刃音が鳴りわたり、あらたな血が大地に吸いこまれた。そしてカーラーンは、眼前に見た。もはや彼とダリューンとの間に人影はなく、彼をねらって、血ぬれた長剣が高くふりかざされるのを。
カーラーンも歴戦《れきせん》の勇者であったはずだが、ダリューンの予想をこえた驍勇《ぎょうゆう》と、おそらくは彼自身のかかえる後ろめたさとで動揺したのであろう。いきなり馬首を転じて逃げにかかった。ダリューンの長剣は空をないだ。
渦まく霧のなかを、二騎は駆けた。王を裏切ってなお万騎長《マルズバーン》の座にある者と、王に忠誠をつくしながら万騎長の座を追われた者とが、もつれあうように平原の一角をよこぎった。逃げながらもカーラーンは応戦し、十合ほど剣を撃ちあわせた。これほどダリューンの斬撃をもちこたえた者はいなかった。ふいにカーラーンの馬が前脚をおり、騎手を地上へ投げおとした。カーラーンの手から剣がとび、はねおきた彼は、両手で頭部をかばうようにしながら、ダリューンにむけてかすれた声をふりしぼった。
「まて、ダリューン、話を聞け!」
「いまさら何を言う」
「まて、事情を知ればおぬしとて、おれの行為をせめはすまい。聞いてくれ――」
ダリューンは剣を水平にひらめかせた。カーラーンを斬るためではない。彼をねらって放たれた数本の矢を払いおとすためであった。みじかいが激しい矢の驟雨《しゅうう》がやんだとき、ダリューンは、ルシタニアの弓箭《きゅうせん》隊の列にかけこむカーラーンの後ろ姿を見た。五十騎ほどもいるだろう、弓にあらたな矢をつがえつつ前進してくる敵を見て、ダリューンは追うのを断念し、馬首をめぐらした。
「奴はいつでも殺せる」
自分にそうダリューンは言いきかせた。伯父から課せられた重大な使命が彼にはあった。アルスラーン王子を乱戦のなかから救出して、王都エクバターナにつれ帰らねばならない。一時の熱狂にかられて、こんなところで死ぬわけにいかなかった。
駆けさるダリューンの後ろ姿めがけて数十本の矢がとんだが、命中はしなかった。カーラーンを復讐者の手から救ったことで、ルシタニア弓箭隊の任務はすでにはたされたのである。
X
国王《シャーオ》とちがい、大将軍《エーラーン》ヴァフリーズには敗戦の経験があった。老いた武人は、ひきつった形相《ぎょうそう》のアンドラゴラスにささやきかけた。
「国王陛下、もはやこの戦いに勝ちはございませぬ。おひきくだされ」
大将軍をにらんで、国王は怒号した。パルスの国王にして大陸公路の保護者たる身が、むざむざ逃げ出すことができようか。自分は武人として恥というものを知っている!
「陛下、お忘れか。先年ミスルの大軍が進入したとき、エクバターナの城壁によって、ついに彼らを撃退したことを。明日勝つために、今日の恥をおしのびくだされ」
王都エクバターナにはなお二万の騎兵と四万五千の歩兵がおり、国内各地にも二万の騎兵と十二万余の歩兵が残っている。これらに敗残兵をくわえて再編成すれば、まだ充分にルシタニア軍に対抗できるはずであった。
そのていどの計算は、用兵家としてアンドラゴラス王も充分にたてている。だが、彼は一国の王たるにとどまらず、大陸公路の保護者としての誇りもあわせもっていた。
大陸公路。パルス王国を中間点として、東西へ八百ファルサング(約四千キロ)ずつのび、広大きわまる大陸の端と端をつなぐ交易の道である。その交易路と、そこを通る隊商とは、パルス王の保護をうけ、王に通行税をしはらい、パルスの繁栄をささえる。それも不敗の強兵あってこそのことではないか。
老将軍は国王を説得しつづけた。王の抵抗がついえたのは、王妃タハミーネの名を耳にしたときであった。王都を守る王妃の身をいかがなさるか、敵の手におゆだねあるか――そう言われて、国王は退却を決意し、行動にうつした。ただし、全軍こぞってのことではなかった。
「国王が逃げたぞ! アンドラゴラス三世が逃げた」
混乱と流血のなか、その声は、烈風にひとしい速度で戦場をかけぬけた。カーラーンの輩下の者が、アンドラゴラス王の動静をみはっていたのである。苦戦をつづけていたパルス軍の戦意は目にみえてくじけた。
「われらが生命がけで戦っているのに、わが軍を統率したもう国王がお逃げになるとは。パルスの軍旗は泥にまみれた。とりかえしがつかぬ」
万騎長《マルズバーン》のひとりシャプールが、血と泥によごれた冑をぬいで大地にたたきつけた。それでも彼はなお王に対する敬意を失わなかったが、より過激に失望を表明する者もいた。
「やめたやめた、もはや誰のために戦うというのだ。部下をすてて逃げるような君主にささげる生命などないわ」
片目のクバードは大剣をふって刃に付着した人血をふりおとしながら、部下たちにむかってどなった。部下たちは狼狽と不安の顔をみあわせた。
「クバード、おぬし、何を言う」
馬を駆けよせてシャプールが叫んだ。
「万騎長たるおぬしが、兵にむかって戦いをやめるようそそのかすとは! 王は王、われらにはわれらの責務があるだろうに」
「国を守るべきは、まず王の義務。それあればこそ、王は王としての権威をもつ。もはや王は王たりえず、われらとて同じことだ。おぬしとていま冑をなげうって怒ったではないか」
「いや、あれは軽はずみであった。思うに、王はお逃げあそばしたのではない。王都エクバターナにおもどりあって再戦を期されるおつもりであろう。おぬし、臣下の身でこれ以上、王をはずかしめるとあらば、味方とて容赦せぬぞ」
「ほう、おもしろい、どう容赦せぬというのだ」
ひとつだけの目をクバードは、すっと細めた。
万騎長《マルズバーン》のうちで、クバードはダリューンと、いまひとりキシュワードについで若い。三十一歳である。彫りの深い顔だちに、一文字につぶれた左眼が印象的である。いうまでもなく勇猛で用兵に長じた戦士だが、宮廷の一部ではその武勲にもかかわらず評判が悪かった。というのも、ほら《ヽヽ》を吹くくせがあるからで、彼が左眼を失ったのも、遠い辺境のカーフ山にすむ三頭竜《アジダハーカ》と戦って傷つけたのだ、と本人は主張している。そのかわり、自分も竜の三つの首にある目をひとつずつ傷つけたから、「いまごろ三頭竜は三眼竜になっておるわ」というのだが、冗談というものを理解しない人々のなかには、不謹慎だ、と、眉をしかめる人もいるのだった。
シャプールは三十六歳で、クバードと正反対に、いたってかたくるしい男である。当人たちも意識しあってか、十二人の万騎長が整列するとき端と端に立つという噂《うわさ》だった。
いずれにしても、類のすくない武勇をほこる万騎長どうしが、剣の柄に手をかけてにらみあったのである。パルス騎兵たちは愕然《がくぜん》としたが、殺気が臨界に達する直前に、「敵襲」の叫びがあがった。ルシタニア騎士の一団が近づいてくる姿を見て、クバードが馬首をめぐらした。
「逃げる気か、クバード!」
なじられて、片目の万騎長は、舌打ちした。
「そうしたいのは山々なれど、あの敵軍を撃ちはらわぬことには、退路もつくれぬ。奴らをしまつしてから、臣下たる者の責務について、おぬしとゆっくり語りあおうではないか」
「よし、後日になって忘れたなどと言うなよ」
シャプールはするどいひとにらみを投げつけておいて、部下を指揮するために走りさった。
「忘れはせんさ、後日というものがあればな」
本気とも冗談ともつかずつぶやくと、クバードは自分の部下たちのほうをふりむいた。
「さて、まだ千騎はのこっているな。これだけあれば何とかなろう。ものずきな奴は、おれについてくるがいい」
戦場を離脱しようとしたアンドラゴラス王の一行が、その意図をはばまれたのは、ミルバラン河の流れにそった細い道においてであった。剣と槍のひびきが後方に遠ざかり、戦場からの離脱がはたされたらしく思われたとき、とびきたった矢が一騎士の顔面につきたったのである。馬上からもんどりうって転落した騎士の悲鳴、それを合図として、ごうっとイナゴの大群がとびたつような音とともに矢の雨がふりそそいだ。待ち仰せであった。
王と大将軍《エーラーン》の左右で、人と馬が、もろい石柱のように倒れていく。王の身にも大将軍の身にも矢が突きたち、甲冑をつらぬいて肉をえぐった。
矢の雨がとだえたとき、王と大将軍の周囲に生者の姿はなかった。ひとりの騎士が、王と大将軍の前に馬をたてていた。軍装はルシタニアのものではなく、パルスのものだが、あるものが王と大将軍の視線をうばった。
それは銀色の仮面だった。両眼と口の部分だけに細長い穴があけられている。そして、両眼の穴からは、たけだけしくしかもひややかな光がもれていた。
明るい太陽のもとでそれを見れば、国王も大将軍も、笑声《しょうせい》をあげたであろう。銀色の仮面は、あまりにも演劇《しばい》じみた印象をあたえ、現実のものとも思えない。
だが灰白色《かいはくしょく》の霧が陽光をさえぎり、すべての光景が|絹の国《セリカ》の墨絵のように暗くしずむなかで、その仮面はこの世の兇事《まがごと》をことごとく集めて凍りつかせたもののように見えた。
「恥知らずにも、部下を見すてて逃げだしおったか、アンドラゴラス。きさまのやりそうなことよな」
口の部分にあけられた穴から、パルス語が流れ出た。その声には、聴く者の心を寒くするような調子があった。
「王よ、お逃げなされ、ここはこの老骨がふせぎますれば……」
五本の矢を身体に突きたてたまま、ヴァフリーズが剣を鞘《さや》ばしらせ、王を守って銀仮面の男の前に馬を立ちはだからせた。
銀仮面の男は、両眼からすさまじい光を放った。怒りと憎《ぞう》悪《お》のかがやきであった。
「敗残のおいぼれ! 出すぎたまねをするなっ」
落雷に似た怒声と同時に、長剣が白くきらめいて、大将軍の頭部を一撃にうちくだいた。
負傷し、しかも年老いているとはいえ、パルスの大将軍たるヴァフリーズに反撃もゆるさず、一刀で斬殺してのけたのである。息をのむほどの剣技であった。
アンドラゴラス王は、老いた忠臣の肉体が重々しく地上へ転落するありさまを、喪神《そうしん》したような目で見まもった。剣を持つ腕が動かない。腕をつらぬいた矢が、どうやら筋を傷つけたようであった。抵抗の手段を失って王は泥人形の無力さで鞍にすわったままである。
「殺しはせぬ」
銀仮面の男の声がふるえた。むろん恐怖のためではなく、抑制しがたい激情が、男の声を波だたせていた。ヴァフリーズに対したときと比較すべくもない。
「殺しはせぬ。十六年の間、この日がくるのを待ちつづけていた。簡単に楽をさせてなるものか」
男の合図で、五、六人の騎士がアンドラゴラス王を馬上から引きずりおろした。矢傷が激痛を発したが、それには王は耐えた。
「おまえは何者だ……?」
ふとい革紐《かわひも》で甲《よろい》ごとしばりあげられながら、アンドラゴラスは低くあえいだ。
「いまにわかる。いまにわからせてやる。それとも、アンドラゴラスよ、これほどの憎しみを受けながら相手がわからぬほど悪業をかさねてきたか」
ことばの間に、金属がこすれあうような不快な音がまじった。歯ぎしりの音である。銀仮面の男は、歯と歯の間で、長きにわたった雌《し》伏《ふく》の日々をかみくだいているようであった。
そのありさまを見た部下たちの表情に、悪《お》寒《かん》の色が流れるのに気づくと、銀仮面の男は無言で馬首をめぐらした。捕虜となったアンドラゴラス王をかこんで、一行は勝利のよろこびにわくでもなく、陰気な沈黙のうちに河ぞいの細い道を進んでいった。
Y
アンドラゴラス王の去った戦場では、なお流血がつづいていた。平原の各地で、火勢はおとろえをみせず、火は煙を発するとともに風をうみ、霧は無秩序に渦まいた。もともとパルスは太陽の光と、澄明《ちょうめい》な空気にめぐまれた土地であるのに、天候までがこの国を見はなしたようであった。
勢いにのったルシタニア軍は攻撃と殺戮《さつりく》をくりかえし、もはやパルス軍は王のためではなく自分たち自身の生命と名誉のために抵抗をつづけていた。むなしい強さであるにせよ、パルス騎兵は強かった。ルシタニア軍は勝ちすすみながらも出血をしいられた。堅固な防壁を出て攻勢に転じて以来、ルシタニア軍の戦死者はパルス軍のそれを上まわるほどだった。ダリューンひとりで、ルシタニア軍の憎悪の半分をひきうけてもよいほどであったかもしれない。血と炎のなかで、彼は万騎長《マルズバーン》クバードのひきいる一隊に出会い、たがいの無事を祝うのもそこそこに問いかけた。
「アルスラーン王子をお見かけにならなんだか、クバードどの」
「王子を? 知らんな」
そっけなく言いはなってから、クバードはあらためて若い騎士を見つめ、不審げに首をかしげた。
「おぬし、自分の部隊はどうした? 一万騎ことごとく戦死したか」
「いまの私は万騎長《マルズバーン》ではありません」
ダリューンの気分はほろにがい。クバードはものといたげであったが、それは口にせず、自分たちと同行して戦場を脱出するようすすめた。
「残念ですが、伯父との約束があります。アルスラーン殿下をさがさなくてはなりません」
「ではおれの部下を百騎ほどつれていくか」
クバードの好意を謝絶して、ダリューンはふたたび単騎で駆けだした。一万騎ならともかく、百騎では敵の目につくだけで、かえって危険であり無為《むい》に兵を死なせることになる。
強風がしだいに霧を追いはらいはじめると、戦場の様相が目にあらわになってきた。死体と死体の間に草がはえ、その草も血にぬれている。嗅覚《きゅうかく》が血と煙と汗のにおいにマヒしているのに気づいたが、ダリューン自身の努力でどうなるものでもなかった。
行く手に五人のルシタニア騎士が出現したのも、彼ののぞんだことではなかった。できることなら無視して通りすぎたいところであったが、先方が興《きょう》をおぼえたようであった。なにしろ五対一である。手ごろななぶりものに思えたのであろう。
「パルスの敗残兵が、ものほしげにうろついているぞ。どこへ行くあてもないようだから、おれたちの手で道案内してやれ」
ダリューンに理解できるはずもないが、ルシタニア語で嘲弄《ちょうろう》まじりにそうささやきかわすと、五騎が槍をそろえてダリューンのほうへ馬を躍らせてきた。
そのルシタニア騎士たちにとっては、生涯の最後の厄《やく》日《び》となった。ダリューンの剣が彼らのために天国への近道を切りひらいたのである。
四人めを血しぶきの下にのけぞらせたとき、ダリューンは、最後のひとりが剣を放りだして逃げ出す姿を視界の隅に認めたが、追いかけようとはしなかった。騎手を失った馬がうろうろしているなかに、血まみれの負傷者を鞍にしばりつけた一頭がいる。パルス騎士のひとりが捕虜にされていたのだ。
駆けよって馬からとびおりると、ダリューンはその騎士をしばる革紐を剣でたちきった。
名は知らないが、顔に記憶がある。万騎長のひとりシャプールの下で千騎長をつとめていた男だ。ダリューンが鞍から革の水筒をはずして、血と泥によごれた顔に水をかけてやると、男は低くうめいて目をひらいた。
重傷者の口から、ダリューンはアルスラーン王子の行方を聞きだすことができた。火と煙の包囲網を突破し、ごくわずかな騎士たちに守られて、東の方角へ走っていった、と。さらに男は苦痛にあえぎながらつづけた。
「万騎長《マルズバーン》のうち、マヌーチュルフどのとハイルどのはすでに戦死なさいました。わが隊の主将シャプールどのも矢と火によって重傷をおわれ、はたして生命がおありかどうか……」
僚友《りょうゆう》たちの死を聞いて、ダリューンの心は傷んだが、まだ彼の任務ははたされていなかった。ダリューンは男を馬の背にすわりなおさせ、手綱をつかませてやった。
「安全な場所へ送っていってやりたいが、私は大将軍《エーラーン》の命令で、アルスラーン王太子殿下を捜さねばならぬ。何とかおぬしひとりの力で逃げのびてくれ」
負傷者が馬に乗るのは、体力のはなはだしい消耗につながる。といって、戦場に放置してもおけない。ルシタニア軍は敵の負傷者をことごとく惨殺する。それが彼らの神に対する信仰のあかしだとダリューンは聞いていた。
男と別れて、百ガズほど馬を走らせたところで、ある衝動にかられてダリューンはふりむいた。男の馬は主人をのせておらず、長い首をのばして、地上にうずくまる|もの《ヽヽ》を鼻先で悲しげにつついていた。ダリューンはため息をつくと、もはやふりかえることなく東の方角へ走りつづけた。
アルスラーンの周囲には、味方の一兵もいなかった。もともと父王から多くの兵を与えられていたわけではない。独立した行動を許されたのがせめてものことであったが、父が初陣のときは五千騎の長であったというのに、アルスラーンに与えられたのは百騎でしかなかった。ならば武勲をたてて実力で大軍をあずかるようになってみせると彼は思ったのだ。だが、現実には彼は混戦と火炎のなかで部下のことごとくを失ってしまった。半数は戦死し、半数はちりぢりになった。マントは焼けこげ、槍はおれ、馬はつかれきっている。身体の各処が痛い。生命があるのが、いっそふしぎであった。アルスラーンはため息をつき、槍を放りだした。
ルシタニア騎士が一騎、槍をふりかざして馬を駆けよせてきたのはそのときである。一国の王子らしく、アルスラーンは黄金の冑をかぶっていた。それを見て、よき獲物と思ったのであろう。アルスラーンは全身に緊張を走らせ、剣をぬいてむかえうった。
最初の激突後、アルスラーン自身よりも乗馬が根《こん》つきて、どうと横転してしまった。アルスラーンは地上で一回転しておきあがり、馬上からつきだされた槍の穂先を剣の一閃《いっせん》で斬りおとした。自分でびっくりした。こんなことができるとは思わなかったのだが、自分で自分の生命を救ったことは事実であった。
騎士はただの棒と化した槍を放りだし、剣を抜きはなった。
騎士の口から、ややぎこちないパルス語が走り出た。パルス語は大陸公路の公用語で、異国人の教養ある者は、あるていど話せるのである。
「ほめてやるぞ、孺子《こぞう》、あと五年もすればパルス全土に名のひびく剣士になれたかもしれぬ。だが、あいにくと、きさまもパルスも今日で終わりだ。のこりの修業は、きさまら異教徒どもの地獄でするがいい!」
強烈な斬撃が嘲弄《ちょうろう》につづいた。ななめにおそいかかってくる剣を、アルスラーンはかろうじてはねかえしたが、掌《てのひら》から肩まで走った衝撃は、小さなものではなかった。それが消えるよりはやく、第二撃がおそいかかってくる。右、左、右、左と、剣光がひらめきつづけ、ほとんど本能と反射だけで、アルスラーンはそれをふせぎつづけた。
馬上の敵に対して徒歩で戦う不利を思えば、アルスラーンの善戦は奇《き》蹟《せき》にひとしかった。ルシタニア騎士は、自分の神に対する不信感をいだいたかもしれない。あからさまないらだちの声をあげると、いきなり馬をさおだたせた。即断でアルスラーンをふみつぶそうというのだ。おりしもアルスラーンがよろめいて横転したので、騎士は成功を確信した。つぎの瞬間に、馬は大地をけりつけ、騎士の咽喉はアルスラーンの投げつけた剣につらぬかれていた。
アルスラーンは自分の呼吸の音だけをききながら、しばらく大地にすわりこんでいた。急接近する馬蹄のひびきが、彼を正気づかせた。音の方向に視線をむけて、彼はとびあがり、夢中で両手をふった。
「ダリューン! ダリューン、ここだ!」
「おお、殿下、ご無事でしたか」
黒馬からとびおりて地にひざまずいた若い騎士の黒ずくめの姿が、アルスラーンにはこの上なくたのもしいものに思えた。ダリアーンの甲冑は、かわいてこびりついた人血で塗装されている。どれほど苦労して彼をさがしあてたことであろう。
「大将軍《エーラーン》の命令をこうむり、殿下をおさがしもうしあげておりました」
「ありがたい。それにしても父上はご無事だろうか」
「伯父と不死隊《アタナトイ》がついておりますれば、おそらくご無事で戦場を離脱されたかと存じます」
自分自身の不安をおしころしてダリューンはこたえ、
「国王陛下のほうこそ、殿下の御《おん》身《み》を案じておいででした」
と、嘘をついた。王子を脱出させるためのやむをえぬ方便である。一瞬、はれわたった夜空の色の瞳を向けられて、ダリューンは内心でややひるんだ。
「これ以上、戦場におとどまりあるは無意味です。陛下の御心にそうためにも、まずご自分の安全をこそお考えください」
「わかった。だが、王都へもどるにはまた戦場をつっきらねばならぬ。おまえの武勇をもってしてもそれはむりではないか」
その点については、ダリューンには腹案があった。
「わが友ナルサスをたよりましょう。彼はバシュルの山中に隠棲《いんせい》しております。ひとまず彼のもとに身をよせ、機会を見て王都へ帰る方法を考えればよろしいかと存じます」
王子は小首をかしげた。
「だけど、話を聞くと、ナルサスは父上との間に隙《げき》があったというではないか」
「さよう、わが軍が今日の戦いで勝ち、殿下が勝利者としてお会いになろうとなさるのであれば、ナルサスは会おうとはしますまい。ですが、さいわいというのも妙なものながら、われわれは、みじめな敗残者です」
「敗残者……うむ、そうだな」
アルスラーンの声がかげったのはむりもない。
「だからこそ彼はわれわれをこばみはしません。伯父の申した、ひねくれ者たるゆえんです。たよるにたりましょう」
「だが、ダリューン……」
少年の声と眼光が、はじめて激した。
「戦場にはまだわが軍の兵が残っている。彼らを見すてていくのか」
ダリューンの顔が沈痛なものになった。
「今日のところは、もうどうしようもございません。後日、復讐戦をおいどみください。生きておいでであればこそ、仇《あだ》もうてましょうから」
「…………」
黙然《もくぜん》と、アルスラーンはうなずいた。
なお晴れやらぬ霧と、急速におちかかる暮色とが地上の支配権をあらそっている。そのおかげでアルスラーンとダリューンは、ルシタニア軍の追《つい》捕《ぶ》の手をのがれて、バシュル山系の深い森と渓谷のなかへ姿を消しさることができた。たとえ執拗に追おうとする者がいても、ダリューンの馬蹄のおもむくところ、つみかさねられた死屍の数をおもえば、ひるまざるをえなかったであろう。この日、ルシタニア軍の高名な騎士をかずしれず斬ってすてた黒衣のパルス騎士の存在は、ルシタニア軍にとって悪夢のひとかけらとなったのである。
半月がのぼり、しつこく平原に残留する霧をてらしだしたとき、戦いは完全に終わっていた。
ルシタニア兵は半月にてらしだされた夜の戦場をなお歩きまわり、重傷を負ったパルス兵を見つけては、抵抗も逃走もできない「異教徒」を殺してまわった。彼らの神と彼らの聖職者が、そうすることを命じたのである。異教徒は「唯一絶対の神」にそむいた罪を、もっとも残酷な死によってつぐなわなくてはならなかった。異教徒に情けをかける者も、神意にそむく者として死後、地獄におとされることになるのだ。血に酔ってもいたであろう、ルシタニア兵は彼らの神イアルダボートの栄光をたたえながら、負傷兵の咽喉を切りさき、心臓をえぐった。
パルス暦三二〇年、十月十六日、この日アトロパテネ平原において、五万三千の騎兵と七万四千の歩兵が戦死し、パルスは国軍総兵力の半数を失った。勝者となったルシタニア軍も騎兵と歩兵を合計して五万以上を失っており、あれほど有利な状況をつくり完璧《かんぺき》な罠におとしこみながら、こうむった打撃の巨大さに慄然《りつぜん》とした。むろん、これらの名誉ある戦死者は、神の栄光に殉《じゅん》ずる者としてほめたたえられるであろうけど。
「神ががりの国王と、聖職者のくせに人殺しがすきな罰あたりのおかげで、かくも多くの者が異国に屍をさらすはめになるわ」
「いいではないか。奴らは天国へいけるのだし、生きのこったわれらは、この豊かなパルスを支配できるのだ。大陸公路と、銀山と、広大な穀倉《こくそう》地帯をな」
血によごれた顔のままボードワンが笑ったが、モンフェラートは不機嫌な表情のまま、彼らの国王イノケンティス七世のテントヘと馬をすすめていた。心臓をえぐられたパルス兵の断末魔の声が夜気をふるわせ、モンフェラートはびくりとした。先だって彼らが滅ぼしたマルヤム王国では、子供や赤ん坊が火中に投じられたのである。マルヤム王国は異教徒の国ではなく、ルシタニアと同じくイアルダボート神を信仰していたのに、ルシタニア王の教会首長権をみとめなかったばかりに、「神の敵」とみなされたのだった。
「あのときの悲鳴が、いまも耳についてはなれぬ。異教徒だからとて、赤ん坊を殺すような者どもに、神は祝福をたれたもうであろうか」
だが、ボードワンは聞いていなかった。モンフェラートの陰気さとまったくことなる大声が、前方からひびくのに気をとられていたのだ。
「パルスの国王を捕虜にしたぞ!」
何百人ものルシタニア兵が同じことを歌うように叫びまわっているのだった。
[#改頁]
[#目次2]
第二章 バシュル山
T
アトロパテネの会戦から五年をさかのぼったパルス暦三一五年のことである。この年、トゥラーン、シンドゥラ、チュルクの三国が同盟をむすび、合計五十万の大軍をもってパルスの東方国境を破り、侵入を開始した。トゥラーンは過去何度もの戦いでパルスとの間に勝敗をくりかえした、歴史的な敵国である。シンドゥラはバダフシャーン公国の滅亡以来、パルスと直接に国境を接するようになり、小さな紛争がたえない。チュルクは「大陸公路」におけるパルスの交易権と徴税権をねらっていた。
それぞれ目的はことなるにせよ、パルスがじゃまだという点で利害は一致し、トゥラーンは東北から、チュルクは東から、シンドゥラは東南から、しめしあわせて同時にパルスヘ攻めこんだのである。豪勇をほこるアンドラゴラス王もおちついてはいられず、国軍を総動員するとともに、国内各地の|諸 侯《シャフルダーラーン》に命令し、私兵をひきいて王都エクバダーナに集結させた。
諸侯のなかで、北方のダルバンド内海に面したダイラム地方の領主テオスは、王の古くからの友人で、五千の騎兵と三万の歩兵をひきいて駆けつけると約束し、王をよろこばせた。
ところが出陣の直前、テオスはあやまって館《やかた》の階段から落ち、頭を石段の角で打って死んでしまった。そのしらせをうけて、王はおどろいたが、とりあえずテオスの息子ナルサスに領主権の相続をみとめさせた。テオスが死んでも、その兵力は王にとって貴重なものであった。
やがてナルサスは兵をひきいて王都エクバターナにあらわれた。王は最初よろこび、つぎにあきれ、最後に激怒した。ナルサスのひきいていた兵力は、騎兵二千、歩兵五千でしかなかったからである。あてがはずれたとはこのことであった。
「なぜもっと多くの兵をひきいてこなかったのか。そなたの父は予《よ》と約束したのだぞ」
「申しわけございませぬ」
淡々として、当時二十一歳の若い領主は一礼した。かろうじて、王は怒声をおさえた。
「申しわけないとは当然のことだ。予は理由をきいておる」
「じつはわが家の奴隷《ゴラーム》をすべて解放いたしまして」
「なに……!?」
「陛《へい》下《か》もご存じのように、歩兵は奴隷でございますれば、歩兵がいなくなってしまいました。給料を出すゆえきてくれと申しましたところ、ようやく五千人ばかり集まってくれましたので、つれてまいったのです」
「騎兵の数がすくないのは?」
「あきれはてて私のもとから去ってしまいました。むりからぬことでございます」
ことばはていねいだが、恥じいったようすもなく、けろりとしている。
「たしかにむりからぬことだな、彼らの気持はよくわかる」
もともとアンドラゴラスは短気で剛愎《ごうふく》な男であった。失望と不満を、たくましい全身にみなぎらせ、それを両眼に集中させてナルサスをにらみつけたが、歴戦《れきせん》の勇者たちもおそれる王の眼光を、若者は平然とうけとめた。それどころか、正気とは思えないことを言ってのけたのである。
「いかがでございましょう。もし陛下がおのぞみであれば、私の策をもって三か国同盟軍を退散させてごらんにいれますが」
「たいそうな口をきくものだな。どうせ兵の十万もよこせというのだろう」
「一兵もいりません。多少の時間をいただければ」
「時間だと?」
「御《ぎょ》意《い》。五日間いただければ、彼らを国境の外へ追いはらってごらんにいれます。もっとも、最終的には陛下の武力が必要でございますが」
アンドラゴラスは若者の申し出を許可した。信用したというより、むしろ失敗したときの面《つら》を見てやりたかったからである。
若者は十人ほどの部下をともなって陣から姿を消した。逃げたのだろう、と多くの者は言った。アンドラゴラスもそう思い、ダイラム地方を没収して王室の所領とする決心をかためていた。ところが三日後にナルサスはひょっこりもどってくると、王にむかって願い出た。三か国同盟軍の捕虜たちのうち、シンドゥラ軍の捕虜たちの処分をまかせてくれというのである。それもアンドラゴラスは許可した。「毒くらわば皿まででございましょう」と大将軍《エーラーン》ヴァフリーズが言ったからであった。
ナルサスは二千人のシンドゥラの捕虜をあずかると、それを全員、逃がしてしまった。苦戦して捕虜をとらえてきた武将たちは激怒し、いったいどういうつもりでそんなまねをしたのか説明せよ、とつめよった。ダリューンの制止もとどかなかった。
ナルサスがそ知らぬ顔なので、逆上した千騎長のひとりが剣を抜いて決闘をせまった。勝負はあっさりついた。文弱の貴公子と思われていたナルサスが、五合におよばず相手の剣をたたきおとしてしまったのである。気をのまれた武将たちを、ナルサスはどなりつけた。
「仲間われしている場合か。今夜のうちにもチュルク軍がシンドゥラ軍に攻撃をかけ、トゥラーン軍はチュルク軍を襲う。総攻撃の準備をしないと、武《ぶ》勲《くん》をたてそこなうぞ」
ヴァフリーズと、当時まだ千騎長になったばかりのダリューンだけがそれを信じた。
予言はみごとに的中し、その夜、三か国同盟軍は激烈な同士討ちをおこした。それに乗じてパルス軍は敵を潰走《かいそう》させ、ダリューンはチュルク王の弟を馬上から一刀のもとに斬り落として武勲をかがやかせた。
ダリューンに賞賛されて、ナルサスは笑ってこたえた。
「なに、かんたんなことさ。ときとして、一片の流言は十万の兵にまさる」
ナルサスは、三日間、彼自身と彼の兵を使って流言をばらまいたのだ。チュルク軍に対しては、「シンドゥラ軍は裏切ってパルス軍に通じている。その証拠に、一両日中にシンドゥラ軍の捕虜たちは全員、解放される」といい、トゥラーン軍に対しては、「チュルク軍はじつはパルス軍と結託している。近日のうちにシンドゥラ軍を急襲するはずで、その口実としてシンドゥラ軍がパルスに通じている、というはずだ。信じてはいけない」といったのである。
また、解放したシンドゥラ軍の捕虜たちにはこう言った。「じつはわれわれパルス国王と、おまえたちシンドゥラの国王との間では、とうに話がついているのだ、講和することにな。だが、そのことをチュルクとトゥラーンがかぎつけている。味方と思っていた連中に攻撃されぬよう気をつけろよ」
……かくして、三か国同盟軍は疑《ぎ》心《しん》暗《あん》鬼《き》となり、内部崩壊したのだった。
とにかくもナルサスの奇略が成功し、三か国同盟軍が自滅してパルスが救われたのは事実であったから、アンドラゴラスも彼を賞さざるをえなかった。あらためて領地の相続をみとめ、金貨《デーナール》一万枚をあたえ、宮廷の書記官《デイビール》に任命した。おそらく将来は宰相《フラマータール》の地位にものぼるだろう、と人々はうわさした。
ナルサスは、かたくるしい宮廷づとめより、自分の領地で気ままに生活することをのぞんでいたが、王は許さなかった。すくなくともこのときは、アンドラゴラスはナルサスの智略《ちりゃく》と識見を貴重なものと思っていたのである。しかたなくナルサスは王都にとどまった。
二年間はいちおう平穏にすぎ、ダリューンは武官として、ナルサスは文官として、それぞれ名をなしていったが、パルス暦三一七年に、東のはて|絹の国《セリカ》へ修好の使者がおもむくことになり、ダリューンが一行の護衛隊長に任命された。|絹の国《セリカ》の文化と歴史をまなんでいたナルサスは、たいそう友人をうらやましがり、祝宴をひらいて送りだした。
そのころからアンドラゴラス王の治世にゆるみが生じはじめ、官吏や神官や貴族の不正がめだってきた。
ナルサスは、そのときすでに宮廷人としての生活に、たえがたい気分をいだいていたようである。彼は政治の実情を調査して、さまざまな改革案をアンドラゴラス王に提出したが、ろくに受けいれてもらえなかった。アンドラゴラスは政治より戦争を好んだし、いまのところ国庫は豊かで外敵の脅威《きょうい》もなく、ことさら改革をおこなって、神官や貴族のなかに敵をつくる必要もなかった。王はナルサスの改革案を無視したが、そのうち放っておけなくなった。神官たちが、ナルサスを宮廷から追放するよう、王に願いでてきたのである。
ナルサスは、神官たちが地位と特権を利用してさまざまな不正をはたらいていることを調べあげていた。神官は税をおさめなくてもよく、罪をおかしても刑吏にとらわれることはなかったのである。
農民に違法な高利で金を貸し、それが返せなくなると、土地をとりあげる。地下用水路《カレーズ》や用水池を独占して、人々から水代をまきあげる。さからえば私兵を使って放火や殺人をおこない、財貨をうばって山わけする。人々に売る塩に砂をまぜて差額を着服する。農民が自分で井戸をほると毒《どく》を投げこむ。これらの悪事を調べあげ、証拠をそろえると、ナルサスは神官たちの厳重な処罰を王に要求した。
怒った神官たちは、宮廷から帰宅する途中のナルサスをおそって殺そうとしたが、これは失敗した。八人の刺《し》客《かく》をさしむけたのに、ナルサスひとりのため四人が斬りすてられ、ふたりは負傷してとらわれ、ふたりは生命からがら逃げだしたのである。神官たちはあっさり方針を変え、ナルサスが不法に人を害したむね、王に訴えた。ナルサスは、よい時機と思ったのであろう。宮廷を出奔《しゅっぽん》して領地へ帰ってしまった。
|絹の国《セリカ》から帰国したダリューンは、自分が不在の間に友人が宮廷から追放されたことを知って、おどろきもしたし残念にも思った。いつか会いにいこうと思いつつ、はたせずにいるうち、アトロパテネの会戦にいたったのである。
U
静けさをやぶって、梟《ふくろう》の鳴き声がひびき、空気の冷たい流れをわずかに乱した。
「それ以来、ナルサスには会っていないのか」
アルスラーンの問いに、ダリューンはうなずいた。夜の山道である。半月の光が針葉樹の枝ごしにふたりの人間と二頭の馬を青銀色にてらしだしていた。
「それにしても、それだけなら、父上が彼を宮廷から永久に追放なさるとは思えない。何かあったのではないか」
「じつは、それでして……」
宮廷を出奔するとき、ナルサスはアンドラゴラス王に置き手紙をしていったのだ。ダリューンの伯父ヴァフリーズなどに言わせると、それがよけいなことというのだが、ナルサスは、不正を横行《おうこう》させている政治のありさまを批判し、神官の金貸しを禁じること、地下用水路《カレーズ》の管理を農民たちの代表にゆだねること、身分の高低にかかわらず法を公正に適用することなどを提案し、最後にこう書いたのだった。
「王よ、目をひらいて広く国政の実状をごらんください。美しいものばかりでなく、みにくいものを直視するよう、おつとめいただければ幸いです」
「うぬ、ナルサスめ、登用してやった予の恩を忘れ、したり顔で諫言《かんげん》するか!」
激怒したアンドラゴラスは、手紙をひきさき、ナルサスを追ってとらえるよう命令したが、ヴァフリーズになだめられ、さらにナルサスがダイラムの領地を返上したので、怒りをしずめた。ただ、追放は解かれず、ナルサス自身もむしろそれを喜んで、山荘にひきこもり、絵を描いたり異国の書を読んだりして平和にくらしている……。
「ナルサスは、絵が好きなのか」
アルスラーンの質問は、何気ないものだったのだが、ダリューンの返答は、いささか単純ではなかった。
「まあ誰にでも欠点はあるものでして」
不審そうな王子の視線をうけて、彼はつけくわえた。辟易《へきえき》した口調であった。
「言ってしまえば、へたの横好きというやつでござる。あの男は、天体の運行、異国の地理、歴史の変化、何でも知らぬことはございませんが、たったひとつ、自分の絵の技量《うでまえ》についてだけは例外と申すべきでしょう……」
いきなり夜気が「しゅっ」という音に切りさかれた。白銀色の細い光が、彼らの眼前をかすめて、針葉樹の幹に突きたった。馬が緊張と不安の鼻息をもらし、それをなだめながら、ふたりは一本の矢を目にとめた。針葉樹の幹に深くつきささって月光を反射している。
「それ以上進むと、今度は顔のまんなかにおみまいするぞ」
黒々とした森の奥からひびいてきたのは、アルスラーンと同じ年ごろかと思われる少年の声であった。
「ここからはダイラムの旧領主、ナルサスさまのお住居《すまい》だ。招かれぬ者が境をおかすことは許されぬ。けがをしないうちに立ちされ」
ダリューンが叫んだ。
「エラムか? おれはダリューンだ、おまえのご主人に、三年ぶりで会いにきた。ここを通してもらえぬか」
数秒の沈黙の後、闇《やみ》がざわめいて、そのなかから切りとられたように人影が近づいてきた。
「これは、ダリューンさま、おひさしぶりでございます。知らぬこととはいえ、失礼しました」
背中に矢筒をせおい、短弓《ケサク》を手にした少年が、ダリューンに一礼した。むきだしの髪が月光に黒く光った。
「おまえも背がのびたな。おまえのご主人さまは息災《そくさい》か」
「はい、お元気でいらっしゃいます」
「で、あれか、あいかわらず、うまくもない絵を描いては捨てている毎日か」
少年は思慮ぶかげな表情をつくった。
「絵のよしあしは、私にはわかりません。私は死んだ両親の遺言で、ナルサスさまのお世話をするだけです。両親を奴隷《ゴラーム》から自由民《アーザート》にしてくださったのはナルサスさまですから」
少年はふたりを案内して山道を歩いていったが、夜目がよほどきくのだろう、足どりはかるく、しかもたしかなものだった。
石と木をつんだ三角屋根の山荘が、森と草地の境に建っていた。草地の下から渓流のひびきがきこえ、頭上に満天の星が乱舞している。三人が近づくと、扉がひらいて、屋内の光が地面に落ちかかった。少年が駆けだして主人に頭をさげると、ダリューンも黒馬からおりて声をかけた。
「ナルサス、おれだ、ダリューンだ」
「名のる必要はない、そうぞうしい奴め、一ファルサングも遠くから聞こえておったぞ」
山荘の主人は、ダリューンほどではないにしても、背が高く、均整《きんせい》のとれた身体つきをしていた。感じのよい、知的な顔で、口の悪さと対照的に、両眼があたたかく笑っている。年齢はダリューンより一歳下であるはずだ。青い短衣と同色のズボンの組みあわせが、若々しく、かざらない印象である。
「ナルサス、こちらは……」
「アンドラゴラス王の子、アルスラーンだ。おぬしの噂《うわさ》はダリューンから聞いている」
「それはそれは、お耳よごしでございました」
ナルサスは笑って一礼すると、少年のほうをむいた。
「エラム、ご苦労だがお客さまたちに食事の用意をしてくれ」
骨おしみしない少年が、ふたりの馬を山荘の裏手へつれていったあと、厨房《ちゅうぼう》へまわる間に、アルスラーンとダリューンは甲冑《かっちゅう》をぬいだ。疲労はとれるはずもないが、身はひときわ軽くなったように思える。
侍童《レータク》の少年が、大きな盆をはこんできた。葡萄酒《ナビード》、鳥肉のシチュー、蜂蜜をぬった薄パン、羊肉と玉ねぎの串焼き、チーズ、乾リンゴ、乾イチジク、乾アンズなどがこうばしい匂いをふりまき、アルスラーンとダリューンの食欲を刺激した。考えてみれば、今日ほど体力をつかった日はないのに、朝食以後、何も口にしていなかったのである。
ふたりは低い木のテーブルにつき、しばらく食べることに専念した。エラムが給仕をし、ナルサスはゆっくり葡萄酒《ナビード》の玉杯《グラス》をかたむけながら、ふたりの食欲を感心したように眺めていた。
テーブルに出されたすべての食物が、客人たちの胃におさまってしまうと、エラムは食器をかたづけ、食後の緑茶を出し、ナルサスに一礼して自分の部屋にひきとった。
「おかげで人心地がついた。礼を言う」
「お礼にはおよびません、アルスラーン殿下、私は殿下のお父君から、一万枚もの金貨《デーナール》をいただいたことがあります。今日の食事は銀貨《ドラフム》一枚にもおよびませんな」
ナルサスは笑い、旧友ダリューンの顔を見た。
「さて、だいたいの事情はわかっているが、くわしく話をきこう。アトロパテネではわが軍は惨敗したのだな」
ダリューンの物語るアトロパテネの敗戦のありさまを、ナルサスは緑茶をすすりながら聞いた。カーラーンの裏切りを聞いたときは、眉を動かしたが、ルシタニア軍の戦法に対しては、おどろいたようすもなかった。
「騎兵を用いるの利は、その機動力にある。それに勝とうと思えば、動きを封じこむのが唯一《ゆいいつ》の策だ。濠《ほり》と柵《さく》をめぐらし、火を放ち、霧を利用する。裏切り者も使う。ルシタニアの蛮族《ばんぞく》どもにも智恵者がいるものだな」
「そう、智恵者がいる。そこで、アルスラーン殿下のためにおぬしの智恵をこそ借りたいのだ」
「ダリューンよ、せっかくだが、いまさら浮世と縁をもつ気はない」
「しかし、山奥でへたな絵など描きちらしているより、はるかにましだろう」
へたな絵、といわれたとたんに、ナルサスの表情が不機嫌になった。
「このダリューンが何と申したかは想像がつきます。信用なさってはいけませんぞ、殿下、こいつはわが国に比《ひ》類《るい》する者もない勇者で、ものの道理もよくわきまえておりますが、芸術を理解する心を持ちません。まことになげかわしいことで」
ダリューンが抗議しかけたが、ナルサスは片手をあげてそれを制した。
「芸術は永遠、興亡は一瞬」
おごそかにナルサスは言ったが、客人たちにそれほどの感動は与えなかった。アルスラーンはめんくらって沈黙していたし、ダリューンはつねの重厚さをすてて、にやにや笑っている。笑うしかない、というところなのだろう。
気をとりなおして王子は言った。
「一瞬がいまこのときとすれば、手をこまねいていられない。どうか、ナルサス、おまえの考えをきかせてくれ」
「さて、考えといわれましても……。ルシタニア人は唯一絶対の神イアルダボートを信じています。この神たるや、信徒の平等を認めるいっぽうで、他の宗教を信じる者は地上から一掃せよと信徒に命じているそうです。マルヤムから来た旅びとに聞いたことですが、おそらく王都エクバターナにいたる野も山も、奴《やつ》らのいう異教徒の屍《しかばね》に埋まりましょうな」
「そんなことはさせたくない。どうすればよいとおぬしは思う?」
「アルスラーン殿下、いまさら申しあげるもせんなきことながら、父王陛下は奴隷《ゴラーム》制度を廃止なさるべきだったのです。国によってしいたげられた者が、どうして国のために戦いますか」
ナルサスの声が熱をおびた。いつのまにか世をすてた隠者の心ではなくなっている。
「このさきどうなるか、目に見えています。ルシタニア軍は奴隷にイアルダボート教への改宗をすすめ、改宗した者に自由をあたえるでしょう。彼らが武器をとって決起し、ルシタニア軍に呼応すれば、パルスはついえます。奴隷《ゴラーム》の数は貴族や神官よりはるかに多いですからな」
皮肉っぽい口調で、ナルサスが不吉な予測をしめくくると、不安がふくれあがるのを感じながら、アルスラーンは反論した。
「だが、エクバターナは陥《お》ちぬ。あの王城は、先年、ミスルの大軍に包囲されたときも、小ゆるぎもしなかった」
気の毒そうにナルサスは王子を見た。
「殿下、エクバターナの命運も長くはありませぬ。なるほど、あの城門は、火矢をもっても破城鎚《はじょうつい》をもっても、容易に破れるものではありませぬが、外から攻めるばかりが戦法ではありませんからな」
「城内の奴隷《ゴラーム》たちがルシタニア軍に呼応すると?」
「そうだ、ダリューン、城外からルシタニア軍は呼びかけるだろう。奴隷たちよ、起《た》って圧制者を打倒せよ、イアルダボート神は、おまえたちに自由と平等を約束する。土地も財宝もおまえたちのものだ、と。こいつは効果があるだろうな」
声をのんだまま考えこんでいるアルスラーンをちらりと見て、その対抗策をダリューンがたずねた。
「そうだな、戦って武勲をあげた奴隷《ゴラーム》兵を自由民《アーザート》にする、むろん恩賞もあたえると約束するのだ。それでいくらかの効果はあるだろう。だが、長くはつづかないな」
「それまでにエクバターナにもどりたい。ナルサス、おぬしはどうしても智恵を貸してくれぬのか」
王子の真剣な眼光から、ナルサスは視線をそらせた。
「せっかくですが、殿下、私は山にこもって芸術的創造に余生をささげるつもりでおります。もう山の外のことに関心はありませぬ。どうか悪く思わないでください、いや、そう思われてもしかたありませんが……」
ダリューンがテーブル上の茶碗を横へ押しやった。
「ナルサスよ、無関心は悪の温床であって善の味方ではない、というりっぱな台詞《せりふ》があるのだがな」
「りっぱな、というより、こざかしい台詞だな。誰が言ったのだ?」
「おぬしが言ったのだ、ナルサス。おれが|絹の国《セリカ》へ旅だつ前日、ともに飲んだときにな」
「……つまらぬことをおぼえているものだ」
ナルサスが舌うちすると、ダリューンは追いうちをかけた。
「ルシタニア人はイアルダボート神を信仰せぬ者を虐殺《ぎゃくさつ》するという。神の名において人を差別する者が、本心で奴隷《ゴラーム》を解放するはずがないだろう」
「だとしても、将来の恐怖より現在の不満を解消するほうを奴隷たちはえらぶだろうよ」
断言して、ナルサスは王子にむきなおった。
「アルスラーン殿下、私はあなたの父王にきらわれております。その私を幕僚《ばくりょう》になされば、ご不興《ふきょう》が深まりましょう。おためになりませぬぞ」
王子は若すぎる、父王に似ない繊細な顔に苦笑をひらめかせた。
「そんなことは問題にならぬ。私はもともと父上にきらわれている。このダリューンも、父上のご不興をこうむった。どうせなら、仲よくきらわれようではないか」
この王子はすなおなのかひねくれているのか、一瞬、測る目つきをナルサスはした。アルスラーンは後ろめたさのない、きりっとした表情で見返し、ナルサスは小さく息をついた。
「戦争も政治も、しょせん灰となって消えさるのみ。後世に残るのは偉大な芸術のみです。まことに非礼とは存じますが、この山をおりてからのことは、いっさいお約束できません。ここにおいでの間は、できるかぎりお世話させていただきますが」
「わかった、無理を言ってすまなかった」
アルスラーンはかるく笑い、急に疲労した表情で小さくあくびをした。
V
隣室で王子が寝台にもぐりこんだ後も、ダリューンとナルサスは、しばらく低声で会話をかわした。ダリューンが、伯父ヴァフリーズの奇妙な命令のことを友人にうちあけたのはこのときである。
「タハミーネ王《おう》妃《ひ》には、あれほど甘い陛下が、アルスラーン殿下には妙に隔《かく》意《い》をしめされる。おれには納得いかぬ」
「王妃か……」
ナルサスは腕をくんでつぶやいた。
「タハミーネ王妃には子供のころ幾度かお目にかかったことがあるが、あれは魔性《ましょう》の美しさだった。なにしろカユーマルス公の妃《きさき》となられる以前は、その宰相《フラマータール》の婚約者であったそうだ」
「臣下の婚約者を主君が奪ったか。国が乱れるゆえんだ。そのあわれな宰相はどうなった?」
「自殺したそうだ。気の毒ではあるが、生きていてもよいことはなかったろうな」
ふたりは葡萄酒《ナビード》を前に沈黙し、アルスラーンの生まれる以前の歴史に思いをはせた。
パルス暦二〇一年、三十年にわたって王位にあり、「大陸公路の偉大な守護者」とうたわれた国王《シャーオ》ゴタルゼス二世が没した。六十一歳の王には、ふたりの息子がいた。二十七歳の長男オスロエスと、二十五歳の次男アンドラゴラスである。王の生前、すでにオスロエスは正式に王太子となっており、弟のアンドラゴラスも兄の即位を支持したので、つつがなくオスロエスが王位についた。
新王は弟を大将軍《エーラーン》に任命して全軍の指揮権をゆだねた。それから二年間、兄弟はよく協力して偉大な先王のあとを守っていたが、やがて破局がおとずれる。
パルス暦三〇三年、それまでパルスと盟邦の関係にあった東南方のバダフシャーン公国で内戦がおこった。もともとこの国は、パルス、シンドゥラ国の中間にあって、右についたり左についたりしていたが、ゴタルゼス二世が即位した後は、ずっとパルスと盟邦関係をつづけてきたのだ。ところが、ゴタルゼス二世が没すると、それまで小さくなっていたバダフシャーン国内の親シンドゥラ派がうごめきはじめた。
「ゴタルゼス王あってこそ、パルス王国の安定がある。大王なき今日、パルスをたよることはもはやできぬ。シンドゥラ王国と盟約をむすんで、わが国の平和をたもつべきだ」
その声が有力になり、バダフシャーン公国はパルスの大使を追放し、シンドゥラ王国と修好条約をむすんだ。
アンドラゴラスはヴァフリーズを副将として、十万の騎兵をひきい、バダフシャーン公国領へなだれこんだ。バダフシャーン公カユーマルスは悲鳴をあげてシンドゥラに救援をもとめた。シンドゥラ国はいちおう援軍を送ったが、アンドラゴラスはすさまじい速度でバダフシャーン領内を横断し、シンドゥラ軍の進路にあるいくつかの川にかかった橋を、すべて破壊してしまった。このためシンドゥラ軍が前進をはばまれている間に、アンドラゴラスは軍を転じてバダフシャーンの首都ヘルマンドス城をおとした。バダフシャーン公カユーマルスは城内の塔から地上へ身をなげて死に、彼をそそのかしてきた親シンドゥラ派の大臣や将軍など二千人あまりはパルス軍に殺された。アンドラゴラスは、バダフシャーン公国をパルスに併合すると宣告し、シンドゥラ軍はあきらめて本国に帰っていった。
ここまではパルス王国にとって、不吉な影は何もなかった。
だが、城内でアンドラゴラスが見出したひとりの女が、兄弟の生涯を一変させてしまう。それは自殺したカユーマルス公の若い妃タハミーネであった。
王都エクバターナに凱旋《がいせん》した弟を、オスロエスはよろこんでむかえた。彼は弟への恩賞として、旧バダフシャーン公国の全領土と、「副王」の称号を用意していた。だが、アンドラゴラスは首をふって答えた。
「兄上、おれは領土も副王位もいりません。ただひとつ、カユーマルスの妃さえいただければ……」
彼がそう言ったのも、戦利品はすべて国王の手にはいったあと、あらためて将兵に分配するというのがパルスの国法だったからである。
「なに、領土や地位より、たったひとりの女がほしいと申すか。無欲な奴だな。よし、ではその女にあたらしい邸宅と身をかざる宝石をそえて、おまえにあたえるとしよう」
アンドラゴラスが感謝して退出したあと、ふとオスロエス王は弟の心を動かした女に好奇心をいだいた。アンドラゴラスは戦争と狩猟と酒宴には熱心だが、女との浮いた話はあまりなかったのだ。
オスロエスは、タハミーネが軟禁されている館《やかた》をひそかに訪問し、月光の下で庭を歩く彼女の姿を見た。そして、館をでたときは、タハミーネとの結婚を決意していた。国王としての立場も、兄としての立場も、重いものではなくなっていた。
オスロエスは王太子時代、十八歳で妻をむかえ、翌年には息子が生まれた。その後、妻が病死すると正式には妃をたてず、独身生活をつづけていたが、それを打ちきることにしたのである。翌日、アンドラゴラスがタハミーネをたずねたとき、彼女はすでに兄王の命令で宮廷にうつされていた。
アンドラゴラスは激怒した。「約束がちがう」と兄王につめよったが、オスロエスは、証人も証文もないことを盾《たて》にして、弟の抗議をつっぱねた。そのいっぽうで、旧バダフシャーン公国の全領土と副王の地位、さらに百万枚の金貨《デーナール》と幾人もの美女をあたえて弟をなだめようとしたが、アンドラゴラスは自分の邸宅にひっこんだまま王宮に姿を見せなくなった。
オスロエス王はタハミーネとの結婚を強行しようとしたが、ヴァフリーズらの重臣たちにいさめられ、さすがに思いとどまった。いかに自己を弁護しようとも、弟との約束をやぶったことは事実だったからである。
こうして兄と弟との仲はいちじるしく悪化し、宮廷内部にも対立がひろまった。どちらかといえば病弱なオスロエスより、武人として勇名をほこるアンドラゴラスのほうに心をよせる廷臣たちも多かったのである。弟に味方する者たちを、当然ながらオスロエスは不快に思い、宮廷から地方都市や国境地帯へ追い出した。ヴァフリーズも、西方ミスルとの国境の砦《とりで》へ左《さ》遷《せん》されてしまった。
アンドラゴラスは、ますますおもしろくない。大将軍《エーラーン》としての任務を放りだし、自分の家で酒ばかり飲んでいた。オスロエス王にしてみれば、よい口実であった。彼は弟を大将軍の地位から解任し、一万騎長《マルズバーン》に格さげして、東方国境に配転することにした。
「アンドラゴラスとヴァフリーズを近くにおいておけば、協力して叛乱《はんらん》をおこすかもしれぬ。東と西に、三百ファルサングもはなれていれば、たがいに反逆の相談をすることもできまい」
そう考えたのだが、あたらしい人事を発表する直前に、オスロエスは病床についてしまった。タハミーネをつれて猟園《りょうえん》にでかけたとき、馬が何かにおどろいてはね、落馬して肩を傷つけたのだが、その傷がもとで高熱を発したのである。
熱は何日もさがらず、王の肉体を急速にむしばんだ。医師団のけんめいの治療もおよばず、神官の祈りもむなしく、王は危篤状態におちいった。
王が死ねば、かわりの王が必要になる。本来なら王の長男たる者が王位をつぐべきであったが、オスロエス王の息子は、このときまだ十一歳で、正式に王太子として認められるための儀式をすませていなかった。王弟アンドラゴラスと、彼を支持する者たちに、オスロエス王は遠慮していたのである。なにぶん東西に強大な敵国が存在しており、わずか十一歳の少年が王位につけば、隣国の野心をそそることになるかもしれなかった。
五月十九日、晴れわたって月の光と花の香にみちた初夏の夜、王弟アンドラゴラスは王宮に召しだされた。そして一時間後、オスロエス王の崩御《ほうぎょ》とアンドラゴラスの登極《とうきょく》が公表されたのである。
「オスロエス王は、自分亡きあと王子を即位させ、アンドラゴラスが後見となることを依頼したのだ。だが、アンドラゴラスは病床の王の顔にまくらをあてて窒息死させ、自分が王となったのだ」
「いや、オスロエス王は弟とタハミーネ妃との仲をうたがって嫉妬に狂い、弟を王宮によびよせて殺そうとし、返り討ちにされたのだ」
さまざまな噂が流れたが、アンドラゴラスが軍隊の圧倒的な支持のもとに国王《シャーオ》となると、人々は口をとざした。やがて、王宮の一角に火災が生じて、先王オスロエスの王子が焼死した。失火の責任者であるとされた宮廷料理長は死刑に処せられた。ついで新王アンドラゴラスはヴァフリーズを大将軍《エーラーン》に任命した。長きにわたって王宮の奇妙な客人となっていたタハミーネは翌年、アンドラゴラスと結婚し、王妃の称号《しょうごう》をうけた。さらに翌年、王子アルスラーンが誕生した……。
そして今年までアンドラゴラス王の治世はゆるがぬものに見えていたのである。
X
翌朝、アルスラーンが夢ひとつ見ない深い眠りからさめたとき、すでに秋の陽は高くのぼっていた。今後に不安や困難がいくらでもあるのに、貪欲《どんよく》な眠りをむさぼったことが、いささか気はずかしい。板ばりの床《ゆか》に、一組の寝具がそろえてあって、これはダリューンが使ったものらしかった。自分が王の息子というだけで、ひどい特権を独占したような気がして、アルスラーンはおちつかなかった。いそいで着かえて隣室へいくと、ダリューンもナルサスもまだ起きだしたばかりのようだった。
三人があいさつをかわしかけたとき、外で数組の馬《ば》蹄《てい》のとどろきがして、屋内の人々はいっせいに緊張した。
わずかに開いた窓の隙間から、ダリューンが外界に視線を走らせた。甲冑《かっちゅう》を身につけるひまはないが、片手には鞘《さや》ごと長剣を持っている。
「顔に見おぼえがある。カーラーンの部下だ」
「ほう……」
ナルサスが指先であごをつまんだ。
「おぬしをさがしてここへ来るとは、いい読みをしているではないか。さすがにカーラーンはよく部下をしつけているな……」
ふいにナルサスは口を閉ざし、ダリューンにうたがわしげな視線をむけた。ダリューンは知らぬ顔をしようとしたが、ナルサスの追求はするどかった。
「いままで訊くのを忘れていたが、ダリューン、おぬし、ここへ来るのにどの道をたどってきた?」
おどろいて彼を見つめるアルスラーンの視線を横顔に感じながら、ダリューンは、幅の広い肩をすくめるようにして、いくつかの地名をあげた。
「……とまあ、そういうところだ」
「カーラーンの城の近くを!」
ナルサスはうめき、不穏な視線をダリューンの顔に投げつけた。
「この悪党め、他に道もあるものを、ことさらカーラーンの部下どもの目につくように道を選んでくるとは。最初からおれをまきこんで味方につけるようたくらんだな!?」
見ぬかれて、ダリューンはいなおった。
「赦《ゆる》せ、といっても無理であろうな。ひとえにおぬしの智略《ちりゃく》をとうとしとすればこそだ。こうなったからには隠者生活などあきらめて殿下におつかえすることだ、ナルサス」
ナルサスはもう一度うなると、床をけりつけた。ダリューンと結着をつけている時間はなかった。彼はアルスラーンとダリューンに、隣室から天井裏へあがってはしご段を引きあげるよう言った。玄関からエラムの声がひびいてきた。
「ナルサスさまはまだお寝《やす》みです。出なおしてください――あ、無礼な!」
あらあらしく扉がひらき、兵士につきとばされたエラム少年が室内にころがりこんできた。それをナルサスがたすけおこして立ちあがったとき、すでに甲冑に身をかためた騎士が六人、室内にはいりこんでいた。片手を剣の柄《つか》にかけている。ナルサスの剣名を知っているのであろう。六人を代表して、最年長者らしい中年の男が声をだした。
「先年までダイラムの領主であったナルサス卿《きょう》、それに相違ありませんな」
「いまはいっかいの隠者にすぎぬ」
「ナルサス卿ですな!?」
「さよう、ナルサスに相違はないが、当方がかく名のったからには、そちらも身分を明らかになさるべきではないかな」
ほとんど気づきえぬほどに、ナルサスの声が低くなった。騎士たちは一瞬ひるんだように見えたが、ナルサスが剣をおびていないのに気づいて安心し、それでもやや鄭重《ていちょう》にあいさつした。
「失礼いたした。われらはパルスの大将軍《エーラーン》カーラーンさまの麾下《きか》の者でござる」
天井裏の闇のなかで、ダリューンの長身がわずかに動いた。アルスラーンも呼吸がとまる思いだった。アンドラゴラス王の即位以来、パルスの大将軍といえばヴァフリーズひとりであるはずだった。
「エーラーン・カーラーンとは、韻《いん》をふんだよき呼称《こしょう》でござるな。それにしても、世の有為《うい》転変《てんぺん》はただならぬ。私が宮廷をしりぞいたとき、この国の大将軍はヴァフリーズ老であったが、老は引退でもなさったのか」
ナルサスが声を大きくしたのは、かくれているダリューンらに事情をはっきり聞かせるためであった。
「それとも、まさか亡くなったとか……」
「ヴァフリーズ老人はたしかに死んだ。ただし病死ではない。いまごろ、あの|しわ《ヽヽ》首はエクバターナの城門の前にさらされて、ひびわれた口で城内の者どもに降伏をすすめておろうよ」
ダリューンの身体がぐらりとゆれ、その音が厚い天井板をとおして騎士たちを不審がらせた。
「何の音でござる?」
「野ねずみでござるよ。穀物をねらってはいりこむので、こまっている。ところで、朝からのご来訪は何が目的かな」
じつのところ、たずねる必要もないくらいだったが、ことさらしらじらしくたずねるナルサスだった。騎士は不快げに唇をゆがめた。
「敗軍の将、アルスラーンおよびダリューンの両人が、この山地に逃げこんだと幾人かの証言がござる。ナルサスどのにはご存じであろうか」
「さて、とんと知らぬ」
「まことに?」
「敗軍の将とおっしゃるが、そもそもダリューンが負けるはずはない。よほど卑《ひ》劣《れつ》な裏切りにでもあわぬかぎり」
騎士たちの顔に怒気がみなぎったが、代表者が同僚たちを制した。
「それでは、いまひとつの用件をおつたえする。われらが大将軍カーラーン公におかれては、ナルサス卿を麾下にくわえたくお考えでござる。貴《き》公《こう》の知略にくわえ、剣名もまた一流と、高く評価しておられるのですが……」
興味なさそうにナルサスはあごをなでた。
「ふむ、もし私がカーラーン公の麾下となったあかつきには、何を保障してくださるのかな」
「イアルダボート教の信徒としての権利をすべて」
「…………」
「それに、返上なさったダイラム地方の領主権を回復させてやろうとの、ありがたいおことばでござる。ご返答はいかに?」
「この場で返答せねばならぬかな」
「ぜひとも」
辛辣《しんらつ》な笑いがナルサスの顔にうかんだ。
「では帰ってカーラーンの犬めにつたえてもらおう。腐《ふ》肉《にく》はひとりで喰《くら》え、ナルサスにはまずすぎる、とな!」
言うがはやいか、ナルサスは飛びすさった。六つの怒気と剣が彼におそいかかってきた。六対一で騎士たちは勝利を確信したであろうが、それも一瞬だった。
三ガズ(約三メートル)四方ほどの広さにわたって、床板がひらいたのである。騎士たちは怒声と悲鳴をのこして深い床下に落ちていった。はげしい水音と甲冑がひびきがわきおこった。水をためた陥《おと》し穴がほられていたのだ。
「ばかめ、呼ばれもしないのにおしかけてくる無礼な客のために、おれがもてなしの用意をしていなかったと思うか」
ナルサスは胸をそらした。すさまじい罵声が暗い床下からつたわってきたが、ナルサスは無視して、天井裏のアルスラーンたちに、おりてくるよう声をかけた。歩みよったダリューンが陥し穴の暗みをのぞきこんで、
「奴ら、はいあがってはくるまいな」
「心配ない。水面からここの床まで七ガズある。奴らがイモリの一族でもないかぎり、はいあがってこれはせぬよ。それにしても、奴ら、どうしてやろう」
「伯父が殺されたとあれば、奴らは仇《かたき》のかたわれだ。相応のむくいをくれてやる」
ダリューンの声に危険なふるえがあり、ナルサスは考えこむ身ぶりをした。
「まあまて、人を殺したところで食べることもできぬ。いますこし、役に立てる方法を考えよう」
「おぼれ死にはしないか?」
「殿下、お気づかいなく。水は一ガズていどの深さしかありませぬ。自分でのぞまぬかぎり、おぼれ死ぬことはまずございません」
そこへ、エラム少年が口をはさんだ。
「ナルサスさま、朝食の用意が先ほどからできていたのですが、どういたしましょう」
「や、忘れていた」
ナルサスはおかしそうに口もとをほころばせた。
「まず腹ごしらえといこう。あんな無礼者どもの始末はいつでもできるが、料理は食べどきというものがある」
これは不敵なのか鷹揚《おうよう》なのか、単に感覚がずれているだけなのか、判断がつけにくいところだった。
いずれにしても朝食をとることになって、アルスラーンはエラムが食事のしたくをするのを手つだおうと思った。彼と同い年の少年がはたらいて、彼がすわったままでいることに、やや割りきれないものを感じたのだ。だがエラムはアルスラーンの申し出を、ていねいなことばづかいと、そっけない態度とでことわった。要するに、かえってじゃまになるということなのであった。
結果として食べることに専念しながら、アルスラーンは自分自身に多少のこだわりを感じている。昨日以来、自分は他人の助けや奉仕をうけるばかりで、誰の役にもたっていないのではないかという気がするのだった……。
ふいにナルサスが、からになった皿をとりあげると、手首をひるがえした。皿は回転しながら飛び、まさに陥し穴から床の上にはいあがろうとしていた騎士の顔にみごとに命中した。怒りと苦痛のうめき声に、甲冑のひびきと水音がつづいた。何人かで肩車をかさねて、ようやく陥し穴の底から床面《ゆかめん》に達したとたん、もときた場所へ追いはらわれたのである。
「ご苦労だが、もう一度出なおしていただきますかな」
人の悪い口調でナルサスは言ったが、
「ナルサスさま、皿を粗末になさらないでください」
「すまん、すまん、エラム」
侍童《レータク》の少年にいわれて、ナルサスは頭をかいた。やりたいほうだいにやっているように見えるこの男も、他人に頭のあがらない場合があるようだった。
「ダリューンさま、お食事がすすまないようですが、何かべつの料理をつくりましょうか」
「いや、エラム、もういい、充分だ」
ナルサスが急に不機嫌になった。
「こいつに何かしてやる必要はないぞ。この悪党のおかげで、あたらしい隠れ家をさがさなくてはならないのだからな」
「だから、ナルサス、世捨て人などやめて……」
「だまれ、裏切り者め、おれの平和な生きかたに口をさしはさむな」
聞く耳もたぬ、と言いたげなナルサスの顔を見て、ダリューンは幅の広い肩をすくめた。それきり沈黙しているのは、伯父の死について陥し穴のなかの兵士たちに問いただすことを考えているからであろう。
アルスラーンはスープのさじをおいた。
「ナルサス、どうだろう、私からもたのむ。ダリューンとともに私を助けてくれ」
「ありがたいおことばですが……」
「ではこうしよう、私はおぬしの忠誠を求めるかわりに、おぬしに充分な代償をしはらうことにする」
「代償とおっしゃると、父王のように金貨《デーナール》でもくださるというのですか」
「いや、金銭《かね》でおぬしの忠誠心が買えるとは思わぬ」
「すると地位ですか、宰相《フラマータール》とか」
興味なさそうなナルサスの反応だった。富や地位で買われてたまるか、という思いが顔じゅうにみちている。
「そうではない。私がルシタニアの蛮族《ばんぞく》どもを追いはらい、パルスの国王となったあかつきには、ナルサス卿、おぬしを宮廷画家としてむかえよう。どうだ?」
ナルサスは口をあけたまま王子を見かえした。たしかに彼は意表をつかれたのだった。数秒間の沈黙に、愉快そうな低い笑い声がつづいた。何かがたしかにとりのぞかれたのである。
「気に入った。なかなかどうして……」
小声で自分自身につぶやいてから、ナルサスは友人のほうに勝ちほこった視線をむけた。
「どうだ、聞いたか、ダリューン、殿下のおっしゃりようこそ、君主としての度量というものだ。芸術に縁のないみじめな一生を送るであろうおぬしと、心性の豊かさにおいて雲泥《うんでい》の差だな」
「放っておいてもらおう。どうせみじめな一生なら、せめておぬしの芸術とぐらいは無縁でいたいものだ」
毒舌《どくぜつ》に毒舌でむくいておいて、ダリューンは王子にむきなおった。
「殿下、ナルサスを宮廷画家になさるなど、パルスの文化史上に汚《お》点《てん》を残すことになりますぞ。この男を書記や宰相になさるのは、王君としての見識ですが、よりによって宮廷画家とは……」
「いいではないか、ダリューン。私はルシタニアの高名な画家に死に顔を描かれるより、ナルサスに生きた姿を描いてもらいたい。おまえもそうだろう?」
ふたたびダリューンは沈黙し、ナルサスは喜んで手をたたいた。
「殿下、ダリューンは、死ぬのもいやだが私に肖像を描かれるのもいやというところらしゅうございますな。これだけでも私としてはお引きうけしたいところですが……」
彼はふざけた表情を消し、まじめに考えこんだ。
「ルシタニア軍に国土が踏みにじられるのを傍観しているわけには、たしかにいきませんな。お力をお貸しするべきかもしれませんが、昨夜も申しあげたように、私の名はアンドラゴラス王の忌避《きひ》にふれるところ。殿下がご不興をこうむることもありえますが、それでもよろしいのですか?」
「むろん」
「わかりました。では殿下におつかえしましょう。ダリューンめの策にはまったのは不本意ですが……」
ナルサスが心のけりをつけたように一笑すると、エラム少年が主人にむかって身をのりだした。
「私もつれていっていただけるのでしょう、ナルサスさま?」
「……うむ」
即断しかねたのであろう、ナルサスの返答は明快さを欠いた。
「ギランの港町に知人がいる。おまえはそこにあずけるつもりなのだがな」
その知人は十隻ほどの帆船をもつ商船主で、もしルシタニア軍が侵攻しても船に乗って海上へ逃がれ、さらに異国へわたることもできる。手紙をあずけ、旅費と生活費をわたすからそこへ行っているように――ナルサスはそう言ったが、エラムはこばんで、ナルサスさまのおともをするといってきかない。
結局、ナルサスは折れて、エラムをつれていくことにした。アルスラーンもダリューンも、侍童《レータク》の少年に味方したからである。エラムは心きく少年で何かと役に立つであろうし、弓《ゆみ》や短剣《アキナケス》の技倆《うで》もなかなかのものだ。それに同年齢のアルスラーンにとって、宮廷で得られなかった友人になってもらえれば。そのようないくつかの考えがとけあった結果であった。
X
水と血と泥と屈辱《くつじょく》とでずぶぬれになり、よごれはてたカーラーン配下の騎士たちが、全員、陥し穴からはい出すことにようやく成功したのは、その日の太陽が中天《ちゅうてん》に達したころであった。むろん、すでにアルスラーンら四人は姿を消してしまっている。七人の騎士が乗ってきた馬もすべていなくなっていた。彼らはしばらく床にへたりこんでいた。
「おのれ、逃げられるものか」
やがて、ナルサスの皿で顔面を割られた騎士が、血のこびりついた唇から怒声を発した。
「山から平地へ出る道は、カーラーンさまの配下にきびしくかためられておるわ。そのていどのことも気づかんで、何が軍師だ、万騎長《マルズバーン》だ。見ておれ、今日じゅうに奴らの死体に、つばをはきかけてくれるぞ!」
「包囲網など、斬りぬける自信があるのではないのか。なにしろダリューンとナルサスだぞ」
陰気に、仲間のひとりが答えた。あまりにみごとにしてやられたので、すべてを悪いほうへ考えるくせがついたようだった。
腹いせに室内をたたきこわしてまわると、騎士たちはその名にふさわしくなく徒歩で山道をおりていった。その報告を、山上の洞窟のなかで、アルスラーンたちはエラムからうけた。
「ご苦労なことです。甲冑を着たまま山道を歩いておりるのでは、今日じゅうに麓へはつけますまい。まあ、熊や狼に出あわぬことを彼らのために祈るとしましょうか」
ナルサスはアルスラーンとダリューンに説明していた。いますぐ山をおりても、かならず包囲網に捕《ほ》捉《そく》される。しばらくこの洞窟にこもって敵の不審をさそう。それからがナルサスの策の見せ場である。
「ダリューンがよけいなことをしたおかげでカーラーンの一党が山を包囲したのだ、と申したいところですが、いずれにせよ包囲網はさけられないところでした。それを逆用する道を考えましょう」
とナルサスは、むしろ楽しそうである。どうするのか、とアルスラーンが問うと、具体的には答えず、
「自分たちののぞむ場所に、敵の兵力を集中させるのです。それがまず戦法というものの第一歩です」
いかに武勇があろうとも、それを費《つか》いきる以前に勝利をおさめること、無理をしないことが戦法の価値だ、とナルサスは言うのである。
アルスラーンは、ちょっと反論してみたくなった。
「ダリューンは私のために、大軍のなかを突破してくれたが」
「あれは個人の勇です」
断言して、ナルサスはダリューンに片目をつぶってみせた。ダリューンはかるく苦笑したまま沈黙している。
「ダリューンのような勇者は千人にひとりもおりません。だからこそ価値があるわけで、軍の指揮者たるものは、もっとも弱い兵士を基準として、それでも勝てる戦法を考えなくてはならないのです。これが一国の王者ともなれば、もっとも無能な指揮者でも敵軍に負けないよう、あるいは戦わずともよいよう方策をめぐらすべきなのです」
ナルサスの口調が熱をおびた。アルスラーンは思う。結局、彼は隠者の生活をすてるべくしてすてたのだ、と。
「申しあげにくいことながら、兵の強さにおぼれて敵をあなどり、戦法を案じるのをおこたったとき、ひとたび事態が狂えばどうなるか。アトロパテネの悲劇こそが、よき例というべきでしょう」
アルスラーンはうなずかざるをえない。アトロパテネの野で、パルス軍の騎兵がいかに勇戦し、しかもそれがいかにむなしかったか、彼はすべてを目撃したのだ。
「アンドラゴラス王は、王となられる以前より、戦って敗れたことのない方でした。そして自負のきわまるところ、どのような問題も戦いによって解決しようとなさり、戦いで解決できないことは避けようとなさいました。戦場で敵将の首をとることには熱心でも、国内の矛盾《むじゅん》や不平等をなくすことには関心がおありではなかった……」
ナルサスは冗談とは思えぬ目つきをした。
「殿下、あなたがそのような意味においてアンドラゴラス王の後継者たらんと思われるのであれば、私は宮廷画家の地位をいつでも捨てますぞ」
臣下には主君をすてる権利がある、と、ナルサスは言っているのだが、彼は三年前にそれを実行しているのである。こけおどしではないのだった。アルスラーンは心からうなずいた。父王の施政に、王子はけっして無批判ではなかった。ナルサスはかるく笑うと、黙々と長剣をみがいている友人に声をかけた。
「ダリューン、カーラーンと出くわしても殺すなよ。彼は何やら、とほうもないことを知っているにちがいないからな。聞き出さねばならぬ」
「とほうもないこと?」
耳ざとくアルスラーンが聞きとがめたので、ナルサスは笑ってみせねばならなかった。
「さよう、とほうもないことです。ただ、それが何ごとであるやら、いまのところまるで見当もつきませぬ」
アルスラーンはうなずいて、洞窟のなかを見まわした。四人の人間と十頭の馬が悠々と起居できるほどの広さがあり、出入口は曲折して外から内部を見すかすことはできない。自然のものにしてはよくできていると思うと、出入口はナルサスらが掘ってつくったものだという。
「何ごとがあるかわかりませんからな。隠れ家は複数、持っておく主義でして」
と、ナルサスは言うのである。もしやべつの出入口があるのではないか、と問うと、平然とうなずく。山荘の陥し穴といい、用意周到な男である。
自分は自分の年齢と力量にふさわしからぬ、すぐれた味方をえた。そう思わざるをえないアルスラーンだった。頼もしいことはこのうえないが、いかにもだいそれたことであるようにも思える。ダリューンとナルサス、彼らの忠誠心を獲得するにたりる人物に、アルスラーンはならなくてはならないのだった。
[#改頁]
[#目次3]
第三章 王都炎上
T
西の地平を黄金色で縁どりながら、太陽が没していく。
透明度の高い空は一瞬ごとに青の深みをまし、それを流線状にひきさいて鳥の群がすみかへと帰っていく。平原は小麦の穂とオレンジの果実によって金褐色にざわめき、東と北に遠くつらなる山嶺《さんれい》は万年雪に落日の余光を反射して、虹色の光の波を道ゆく人の視界に投げかけてくる。楡《にれ》、糸杉、ポプラの並木にはさまれた道を、旅人が馬や徒歩でやってくる。王都エクバターナの城門がとざされる前に到着しようといそぎながら。
……本来、パルスの秋の夕方とは、そのようなものであった。しかし、いま、麦畑は、放たれた火によって黒煙におおわれ、路上には虐殺《ぎゃくさつ》された農民の死体がつみかさなり、空気は血のにおいにみちている。
アトロパテネにおける大敗の後、パルス王国の首都エクバターナは、ルシタニア軍の包囲下にあった。
王都エクバターナは、ただパルス一国の首都たるにとどまらず、広大な大陸を東西につらぬく「大陸公路」のもっとも重要な中継点であった。東西の諸国から隊商があつまり、|絹の国《セリカ》の絹と陶磁器と紙と茶、ファルハール公国の翡《ひ》翠《すい》と紅玉《ルピー》、トゥラーン王国の馬、シンドゥラの象牙と革製品と青銅器、マルヤム王国のオリーブ油と羊毛と葡萄酒《ナビード》、ミスル王国の絨毯《じゅうたん》――など、さまざまな商品がもたらされ、交易の熱気があふれかえっていた。
大陸公路の公用語であるパルス語のほか、数十か国語がいりみだれ、人間、馬、ラクダ、ロバが石畳の道を行きかう。酒場では、金髪のマルヤム女、黒髪のシンドゥラ女、各国の美女が妍《けん》をきそい、それぞれの国の名酒を、客の杯《さかずき》にそそいでまわる。|絹の国《セリカ》の奇術師、トゥラーンの曲馬師、ミスルの魔術師がたくみな技で人々をよろこばせ、ファルハールの楽士が笛の音《ね》をひびかせる。エクバターナの繁栄はこうして三百年もつづいできたのだ。
だが、いまや旅人の群はたえ、玉座《ぎょくざ》に国王《シャーオ》アンドラゴラスの姿はなく、不安の雲が王都をつつんでいる。
エクバターナの城壁は、東西一・六ファルサング(約八キロ)、南北一・二ファルサング(約六キロ)、高さ十二ガズ(約十二メートル)、厚さは上部で七ガズ(約七メートル)におよぶ。九か所の城門は二重の鉄《てっ》扉《ぴ》に守られている。先年、ミスル王国の大軍によって包囲されたときも、小ゆるぎもしなかった。
「しかし、あのときは城内にアンドラゴラス王がいらした。いまは……」
サーム、ガルシャースフと、ふたりの万騎長《マルズバーン》がいるとはいえ、国王の行方は知れず、王《おう》妃《ひ》タハミーネ以下、城内の人々の不安は高まるいっぽうであった。
突然、奇妙なことがおこった。城をとりかこむルシタニア軍の陣頭に、十騎ほどの兵にまもられて、一台の屋根のない馬車がすすみ出てきたのである。馭者《ぎょしゃ》のほかにふたりの人間がそれに乗っていた。背の高いほうの人影を、くれなずむ空の下でようやく見わけたとき、パルス軍は動揺した。
それはパルスの万騎長のひとりシャプールであった。首にはふとい革紐《かわひも》が二重に巻きつけられ、両手首は背中でやはり革紐にくくられている。全身、血と泥にまみれていたが、ことに額と右脇腹の傷は深く、包帯の下からにじみでる血は一瞬ごとに領域をひろげていった。パルスの兵士たちは声をのんで、勇名高い万騎長のむざんな姿を見つめた。
「きけ、城中の神を恐れぬ異教徒どもよ」
なまりの強いパルス語の大声がとどろき、城壁上の兵士たちは、シャプールのかたわらに立つ黒衣の小男に注意を集中した。
「わしは唯一絶対の神イアルダボートにおつかえする聖職者、大司教にして異教審問官《インクイシチア》たるボダンだ。神のご意思を汝ら異教徒どもにつたえるためにここにおる。この異教徒の肉体をもって、それをつたえるのだ」
ボダンは重傷をおったパルス武人を残忍そのものの目つきで見あげた。
「最初にこやつの左足の小指を斬り落とす」
舌なめずりの音がした。
「ついで薬指、ついで中指……左足がおわったら、つぎは右足。さらにつぎは手だ。神にさからう者の末路を、城内の異教徒どもに思いしらせてやろうぞ」
城壁にたつパルスの兵士たちは司教の残忍さをののしったが、ボダンを怒らせたのは、味方の陣から生じた非難の声だった。それは小さいものだったがはっきり聞こえた。
「罰あたりめ!」
大司教は味方の陣をにらみまわすと、非難にこたえるように黒衣の胸をそらし、ルシタニア語でわめいた。
「こやつは異教徒だ。唯一絶対の神イアルダボートをあがめぬ悪魔の使徒、光に顔をそむけ、闇黒《あんこく》のなかに生まれ育った呪われたけだものだ。異教徒に慈悲《じひ》をあたえるなど、神にそむくことなのだぞ!」
このとき、血と泥によごれた万騎長《マルズバーン》の両眼が光り、口がひらいた。
「きさまなどに、おれの信仰を云々されるいわれはないわ」
シャプールは、はきすてた。彼はルシタニア語を解しないが、大司教の狂態を見ていれば、何を言っているか見当はつく。
「さっさと殺せ。きさまらの神などに救われるくらいなら、おれは地獄へでもどこへでも行ってやる。そしてそこから、きさまらの神と国とが自分たち自身の残忍さに食い殺されるのを見とどけてやるわ」
大司教は躍りあがると、手にした杖《つえ》で、シャプールの口もとをしたたかになぐりつけた。不気味な音がして、唇が切れ、前歯がくだけ、血が飛散した。
「異教徒め! 罰あたりめ」
ののしりながら、二度めの殴打を横顔にたたきつけると、杖がへし折れた。おそらく頬骨もくだけたであろうが、シャプールは赤くそまった口をひらいてなお叫んだ。
「エクバターナの人々よ! おれのことを思ってくれるなら、おれを矢で射殺してくれ。どうせおれは助からぬ。ルシタニアの蛮人《ばんじん》になぶり殺されるより、味方の矢で死にたい」
彼は最後まで台詞《せりふ》を言うことはできなかった。大司教がとびあがってわめくと、ルシタニア軍の兵士が二名かけよって、ひとりは剣をシャプールの腿《もも》に突きたて、ひとりはムチをふるって彼の胸をなぐりつけた。エクバターナの城壁から、怒りと同情の叫びがあがったが、不幸な勇者を戦うために、ほどこす術《すべ》もないように思われた。
そのとき、するどい羽《は》音《おと》が人々の耳をたたいた。ルシタニア人もパルス人も、ともに見た。エクバターナの城壁上から飛来した一本の矢が、シャプールの両眼の間に突き立ち、彼を永久に苦痛から救ったのである。
うめき声がおこった。城壁からシャプールの身体までの距離を思えば、一矢で彼を即死させるとは、おそるべき弓勢《ゆんぜい》といえた。城壁の一角にたたずむ人影をめがけて、ルシタニア軍の陣地から十本ほどの矢がとんだが、命中どころか、城壁上にとどいた矢は一本もなかった。
人々の視線が一か所に集中し、賞賛と好奇のざわめきがうまれた。城壁から矢を放ったのは、ひとりの若者だった。甲冑《かっちゅう》を着た兵士ではない。弓を手にし、腰に剣をつるしてはいるが、刺繍《ししゅう》のはいった帽子をかぶり、やはり剌繍のはいった上着をきた旅人風の若者であった。足もとに琵琶《ウード》がたてかけられている。ふたりの兵士が早い歩調で若者に近づいて声をかけた。
「心妃さまのお召しである。勇者シャプールを苦痛より解放した者に、ふさわしい恩賞を与えようとおおせだ」
「ほう……殺人の罪は問わぬとのおおせかな」
若い男の声が、かるい皮肉をこめてひびいた。
U
王妃タハミーネは、謁見《えっけん》の間《ま》で、無名の弓の名人を待っていた。玉座の左右には、王都に残った重臣たち――宰相のフスラブ、万騎長《マルズバーン》のガルシャースフとサームらがひかえている。
三十六歳の王妃は年齢より若く見えた、というよりむしろ年齢不明の美しさであった。黒い髪、黒い目、象牙色の肌は、宝石と絹にかざられてひときわ照りかがやいて見える。
玉座から十ガズほど離れた絨毯の上に、うやうやしく若者はひざまずき、興味ぶかげに王妃はその姿をながめやった。
「そなたの名は何という」
「ギーヴと申します、王妃さま。旅の楽士でございます」
若者は顔をあげ、歌うような声で王妃の問いに答えた。
ギーヴと名のった若者は、二十二、三歳であるように思われる。濃く深い色調の赤紫色の髪と紺色の目をしていた。長身だが華奢《きゃしゃ》にすら見える体格と繊細な美貌とが、宮女たちに感嘆のささやきをあげさせたが、王妃を見かえす表情には、ふてぶてしいほど大胆なものがあった。先ほどの弓術のみごとさといい、単に音楽を生業《なりわい》として世をわたりあるくだけの人物とも思われない。王妃が小首をかしげると、ランプの明かりがそれに応じるようにゆらめいた。
「楽士というが、では、どのようなことができるのじゃ」
「琵琶《ウード》をひきます、王妃さま。その他に、笛も吹けば歌もうたい、詩もつくれば舞もいたします。竪琴《バルバド》もとくいです」
謙遜の色もなく言ってのける。
「ついでに申しあげておけば、弓も剣も槍も、たいていの人間よりはうまく使います」
万騎長《マルズバーン》サームがわずかに眉をしかめ、ガルシャースフがあざけるように低い笑声《しょうせい》をもらした。勇猛なふたりの戦士《マルダーン》を前にして、これは大言壮語というべきであった。
「そなたの弓の腕は、わたしも西の塔から見せてもろうた。忠実なシャプールを苦しみから救うてくれて、礼をいいます」
「おそれいります」
とは言ったものの、この若者は謝辞以外の何ものかをあきらかに期待する目つきで、王妃を見かえしている。
それは崇拝か、あるいは憧憬《どうけい》であるように見える。王妃タハミーネの、表現しがたいほど艶《えん》冶《や》な美貌に対して、若い男がもっともいだきやすい感情であり、それを受けることにタハミーネもなれていた。だが、じつはそうではない。ふてぶてしくも、それは、一国の王妃を女として品さだめする目つきであったし、さらには、単にことばでほめてもらうだけでは不満であって、何か形のあるもので礼をしてもらう、その意思表明を待つものでもあった。
王妃の左右にひかえた宮女たちの群から、ひとりがとびだして、かんだかい声をはりあげたのはそのときである。
「おそれながら申しあげます。王妃さま、その者をわたしは存じあげております。とんでもない男です」
宮女は指をあげて、「流《る》浪《ろう》の楽士」を弾劾《だんがい》した。
「この男を信じてはいけません。わたしをだました詐欺師ですわ」
「そなたをだましたと? どういうことですか、それは」
「それはこの男とわたしを対決させていただければおわかりいただけると存じます」
王妃が許可をあたえると、宮女はギーヴをにらみつけて難詰《なんきつ》した。
「自分はシースターン侯国の王子で、戦士としての修行のため楽士に身をやつして諸国を旅している――つい先夜、あなたはわたしにそう言ったではありませんか」
「言った」
「それがいま、王妃さまに、自分は楽士だと。では、あれは嘘だったのですね!?」
宮女が金切り声をあげると、ギーヴは平然としてあごをなでてみせた。
「そう身も蓋もない言いかたをするものではないぞ。あれはおれの夢で、おぬしはその夢を一夜おれと共有したのだ。そして夜の闇《やみ》が暁《あかつき》の光に座をゆずるとき、夢は草の葉にやどる露のごとく消えさって帰らぬ。うるおしい思い出がのこるのみだ」
歯がうく、とはこのような台詞のためにある形容であろうが、ギーヴが音楽的な声でいうと、もっともらしく聞こえるのが不思議である。
「なあ、せっかくのうるわしい夢を、みにくい現実の剣で斬りさくなど、おろかしいことではないか。おぬしさえ納得すれば、夢は思い出となって、より甘さと美しさをまし、おぬしの人生をあでやかに色どろうものを。むりやり現世の法と損得勘定で律《りっ》するのは、やぼというもの。あえて不毛の道をたどるにはおよぶまいに」
つまりギーヴは、この宮女に、金品をみつがせたのである。宮女が返答もできないでいると、彼は王妃にむきなおった。
「シースターンなどは古《いにしえ》の国名にて、現存するものではございませんゆえ、誰の迷惑にもなりませぬ。それより私めが不思議でならぬのは、世の女性たちがいかに王子ということばに弱いか、でございます。どれほど誠実な恋人がいても、女はそれをすてて、王子と称するえたいのしれぬ流浪の者に身をよせてしまいます。まこと、浮《ふ》薄《はく》なる女には浮薄なる夢がふさわしいようでございます」
ずうずうしくも、故意に論点をずらしているのだが、ギーヴという若者には、たしかに、だまってすわっていれば王族として通用するだけの優美さ典雅さがそなわっていた。それは事実よりむしろ若い女の夢想にこそ、ふさわしい種類のものだった。
「そなたの能弁《のうべん》はよくわかりました。すでに弓の技もみせてもらっております。この上は、本来のそなたの職業について、技をみせてもらうべきでしょうね」
タハミーネ王妃がかるく片手をあげると、宮女が黄金づくりの竪琴《バルバド》をはこんできた。ギーヴはそれを受けとると、自信満々でかきならしはじめた。
ギーヴの竪琴の技《ぎ》倆《りょう》は完璧《かんぺき》ではないにしても、それに気づいた者はその場にはいなかった。
充分に耳のこえた宮廷人たちにとっても、彼のかなでる竪琴の音色は、優美かつ流麗《りゅうれい》であり、とくに女たちにとっては官能的ですらあった。
一曲をひき終えると、女たちは熱い拍手を美貌の楽士に送り、男たちは半ばしぶしぶそれにならった。
タハミーネ王妃は、侍従に命じて、ギーヴに二百枚の金貨《デーナール》をあたえた。百枚はその弓技に対して、百枚はその音楽に対して、ということであった。うやうやしく頭をさげながら、ギーヴは心のなかで王妃の意外な|しわさ《ヽヽヽ》に悪口をたたいた。金貨五百枚ていどの報賞《ほうしょう》はあたえられるものと思っていたのだ。すると王妃が言った。
「そなたが、わたくしの侍女をいつわった罪の分は、さしひいてありますからね」
いちだんと、ギーヴは頭をさげた。
V
ギーヴの竪琴《バルバド》の音がとどかない城壁の周囲では、火と剣が殺戮《さつりく》の曲をかなでつづけている。人質を射殺されて、ひとたびは鼻白《はなじろ》んだルシタニア軍だが、城壁への攻撃を再開し、パルス軍はそれをむかえて、城壁上に展開していた。ルシタニア軍の塔車《とうしゃ》が城壁に近づくのを見て、ひとりの兵士が、万騎長《マルズバーン》サームに注進におよんだ。
「あれです、あの塔車から放たれた火矢のために、わが軍は苦しめられたのです」
「あのような児戯《じぎ》にか」
舌打ちしたサームは、兵士たちに指示して、羊皮の袋に油をつめたものを用意させた。塔車からの矢は、盾をならべてふせぎ、矢がとだえた一瞬に、袋を投石機にのせてうちだす。袋は塔車に命中すると、破れた縫い目から油をこぼして、塔車やそれにのった兵士たちをぬらした。
「火矢をうちこめ!」
命令に応じて、数百の火矢が宙に赤い軌跡をえがいた。城壁からみれば塔車は水平の位置にあり、さえぎる何ものもない。
ルシタニア軍の塔車は、そのまま炎の塔と化した。全身を火炎につつまれたルシタニア兵が、絶叫をあげて地上へ転落し、ついで塔車自体がくずれおちていく。
塔車をうしなったルシタニア軍は、攻城用の長ばしごをつぎつぎと城壁にかけ、よじのぼりはじめた。これに対し、城壁上のパルス軍は、敵の頭上から矢をあびせ、煮えたぎった油をあびせて火矢をはなち、ときには投石機で巨大な石を落下させて、ルシタニア兵をたたきつぶす。まれに、城壁上にたどりつくルシタニア兵もいたが、ことごとく守備のパルス兵に包囲され、斬り殺された。
かくしてエクバターナの攻囲戦は、すでに十日におよび、ルシタニア軍は一歩も城壁内にふみこむことができずにいる。アトロパテネの会戦ですでに五万の兵をうしなっているルシタニア軍としては、力だけによる正面攻撃の愚《ぐ》をさとったのであろうか、ある日、心理攻撃に出てきた。
十一月五日、ルシタニア軍の陣頭に、百をこすさらし首の台がならべられた。「降伏せよ、さもなくば、かくのごとし」という脅迫《きょうはく》は単純なものであったが、生前に見知った顔をそこに見出した者の衝撃は小さくない。王宮へ報告にきた万騎長《マルズバーン》サームに、王妃タハミーネは青ざめた顔をむけた。
「まさか、まさか、陛《へい》下《か》が……」
「いや、王妃さま、見たところ陛下の御《み》首級《しるし》はさらされてはおりませぬ。大将軍《エーラーン》ヴァフリーズどの、それに万騎長のマヌーチュルフ、ハイル……」
サームの声は歯ぎしりにかわる。かつてともに戦場で馬をはせ、酒をくみかわした者たちの生首を見せつけられて、心おだやかでいられるはずもなかった。
「サームよ、城門をひらいて、うって出るべきだ。何のための騎兵か。これ以上、ルシタニアの蛮族《ばんぞく》どものすきにはさせておけぬ」
万騎長ガルシャースフが主張する。
「あわてることはない。城内には十万の兵がおり、食糧も武器も充分にそろっている。東方国境から援軍がくるまでささえておき、呼応してルシタニア軍を城壁の内と外からはさみうちすれば、一朝《いっちょう》にして彼らの軍は潰《つい》えるだろう。あえて出撃する必要があろうか」
城内の軍事面の最高責任者であるガルシャースフとサームとは、しばしば意見を対立させていた。ガルシャースフは速戦即決《そくせんそっけつ》をとなえ、サームは持久を主張する。さらには、城外からルシタニア軍が城内の奴隷《ゴラーム》たちに解放と蜂《ほう》起《き》をよびかける声があると、ガルシャースフは力ずくで奴隷たちをおさえつけようとしたが、サームは反対して、そんなことをすれば奴隷たちの反感をそそり、かえって不安を増大させるだけだ、というのだった。
「何度もいうが、あわてることはないのだ。キシュワードがいる。バフマンも。彼らがかならず兵をひきいてやってくる」
「いつくる?」
ガルシャースフの反問は、みじかいが底意地が悪い。サームにも答えようがない。東方国境を守るキシュワードらが、アトロパテネの敗報をうけ、ただちに王都を救いにかけつけるとしても、ひと月はかかるかもしれぬ。さらに、サームらには軍事をはなれたところに深刻な問題があった。
「国王陛下も王太子殿下も安否が知れぬ。いったい吾らはどなたを主とあおいでこの戦いをつづければよいのか」
ガルシャースフはそういう。
「もし、おふたかたに万一のことがあれば、パルス王国はどうなるのだ」
「そのときは、王妃タハミーネさまにご戴冠《たいかん》いただき、女王としてこの国を統治していただくほかあるまい」
「ちっ……」
と、ガルシャースフは舌打ちした。
「そういうことにでもなれば、バダフシャーンの遺民たちが、さぞ喜ぶことだろうよ。かつてのバダフシャーンの公妃がパルスの女王になる! 結局、勝ったのはバダフシャーンということになってしまうではないか」
「古いことにこだわるな。昔はともかく、いまはたしかにわが国の王妃であられる。他に、あおぐべき方もいないではないか」
彼らが話しあう間にも、ルシタニア軍の攻勢はつづいている。とくに、城内の奴隷《ゴラーム》たちに対する呼びかけは、はげしくなる一方であった。
「城内の、しいたげられた者たちよ、人の世に奴隷などいてはならぬもの。イアルダボート神のもとでは、万人は平等である。国王も騎士も農民も、神のもとにおなじ信徒である。いつまで圧政の下に呻吟《しんぎん》するのか。おのれの尊厳を守るために、鎖をたちきってたて!」
「何をぬかす。おれたちをしいたげているのはきさまらではないか」
にがにがしくつぶやくガルシャースフのもとへ急報がはいった。
「大神殿の奴隷どもが火を放ちました。神官たちを鎖でなぐり殺し、西の城門をあけてルシタニア軍をよびこもうとしております」
ガルシャースフはそのとき北門の上で防戦の指揮をとっていたが、その場を部下にゆだね、ただひとり馬にとびのって西門へかけつけた。炎と黒煙がうずまくなかで、奴隷と兵士の群がせめぎあい、もみあっている。
「城門を守れ! あけさせるな」
馬をとばしてガルシャースフが城門にかけよると、たいまつや棒をもった奴隷たちが、最初は逃げちりかけたが、ガルシャースフがただひとりであるのを見て、むらがりよってきた。馬からひきずりおろそうとする。
ガルシャースフの剣が馬上から右に左に、白い光となって振りおろされると、それにこたえて地上から鮮血がはねあがり、奴隷たちの死体が石畳にころがった。悲鳴があがり、奴隷たちが今度こそほんとうに逃げちろうとしたとき、サームと彼のひきいる兵士たちが周囲をとりかこんでいた。かろうじて城門は守られた。
「ガルシャースフよ、奴隷を殺して自慢になるのか」
にがにがしくサームがはきすてると、ガルシャースフはいきりたった。
「奴《やつ》らは奴隷ではない、むほん人だぞ」
「棒きれしか持たぬ、か?」
「心には剣を持っておったわ」
するどく切りかえされて、サームは口をとざしたが、ムチでなぐられつつ連行される奴隷たちを見やって、ふたたび言った。
「見ろ、彼らの目を。ガルシャースフ、おぬしは十人のむほん人を殺したが、かわりに千人のむほん人を生むことになるぞ」
サームの予言は的中した。
翌日、北の城門付近で、小屋にとじこめられていた奴隷《ゴラーム》たちが蜂起した。
続発する奴隷たちの暴動にたまりかねた万騎長サームは、王妃タハミーネに面会をもとめ、ことばをつくして、事態の改善策を進言した。
「もはや他に方策はございませぬ。王妃さま、城内の奴隷をすべて解放して自由民《アーザート》となし、彼らに報酬と武器をおあたえください。さもなくば、王城の難攻不落も、絵に描いただけのものとなりはてましょう」
王妃は、ひそめた細い眉に困惑のようすをあらわした。
「サームどののおっしゃること、わからぬではありませぬが、|王 族《ワースプフラーン》、|貴 族《ワズルガーン》、|騎 士《アーザーターン》、自由民《アーザート》、奴隷《ゴラーム》とつらなる身分制はパルス社会の礎《いしずえ》、一時の安泰のために国家の基礎をゆるがせるようなことがありましては、国王陛下がご帰城なさったときに申しわけがたちませぬ」
サームは王妃のかたくなさにため息をついた。
「おことばではございますが、王妃さま、その礎なるものが、いま現在、王都をあやうくしているのでございます。誰が鎖につながれて国のために戦いましょうか。王都を包囲している敵は、われらが奴隷たちにあたえることができぬものをあたえると約束しているのです。そのような約束、信じるにたるものではございませんが、奴隷たちにしてみれば、現在に希望がない以上、その約束を信じたくなるのも道理でございます」
「わかりました、考えておきます」
それ以上の言《げん》質《ち》を王妃はあたえず、サームは退出するしかなかった。
状況は悪化の一途をたどった。
王宮に一室をあたえられた楽士ギーヴは、戦火と混乱を他人ごとのように、悠々と美食と惰《だ》眠《みん》におぼれていたが、ある夜、宰相のフスラブに呼びだされて彼の執務室へ出かけた。
胃弱だとかで貧民のようにやせほそった宰相は、若い楽士にこびるような笑顔をつくってみせた。
「そなたは弓だけでなく、才知もすぐれておると見たが、どうかな」
「子供のころからそう言われておりました」
ぬけぬけとギーヴは相手の世辞をうけとめ、宰相フスラブは返答に窮して、壁の細密画に視線をおよがせた。それから気づいたように、ギーヴに椅子をすすめた。自分が強い立場にあることをさとって、若い楽士は遠慮なく腰をおろした。
「さて、そこで話がある。そなたの才知をみこんでのことじゃが、たのまれてくれるかな」
ギーヴはすぐには返答せず、視線を宰相の顔に固定させたまま、全身で周囲の気配をさぐった。剣と甲冑の、金属的な気配が感じられる。宰相の申し出をことわれば、完全武装の騎士を、ひとりならず相手どることになろう。しかも、いま彼は素手であった。いざとなれば宰相を楯にする策《て》もあるが、このやせほそった高官は、意外にすばやそうにも見える。
「どうじゃ、引きうけてくれるかな」
「さよう……正当な理由と正当な報酬、それに成功の可能性があれば、引きうけさせていただきますが」
「理由はパルス王国の存続、ひとえにそのためじゃ。報酬は充分につかわそう」
「宰相閣下がそうおっしゃるのなら、微力をつくさせていただきます」
満足そうにフスラブはうなずいた。
「そうか、それを聞いて王妃さまもお喜びであろう」
「王妃さま!?」
「そなたをここへ呼んだのは、わしの一存ではない。王妃さまの御《ぎょ》意《い》でな。そなたに信頼をよせられてのことじゃ」
「それはそれは、流浪の楽士ごときをかくもご信頼いただいて、恐懼《きょうく》にたえませぬ」
誠実さを欠くのはおたがいさまである。権力者の世辞などを信じるのは豚なみの低能だ。
「つまりだ、ギーヴ、秘密の通路をとおって、王妃さまを城外の安全な場所へおつれしてもらいたいのだ」
「王妃さまは王都を脱出なさると?」
「そうだ」
「王都とは、王と王妃あってこその名称。そのいずれもご不在であれば、エクバターナはもはやその名に値《あたい》しませぬな」
皮肉は、ひびきのよい美声にくるまれて発せられたので、宰相は気づかなかったようだ。
「王妃さまに都を脱出していただき、国王陛下とともに安全な地でパルスの王権の健在を証明していただけば、忠誠なる将兵と民衆はそこに結集しよう。なにもエクバターナにこだわることはない」
つごうのいいことを言う。
「エクバターナの城内には百万の市民がおります。彼らの身はどうなりますか」
ギーヴの指摘は、みるみるうちに宰相を不機嫌にした。これは皮肉ではなく弾劾であったから、気づかざるをえない。
「そなたには関係ないことだ。だいじなのは王室をお守りすることであって、いちいち平民どもをおもんばかってはおられぬ」
「これだ。これだから善良な人民は自分で自分の身を守らざるをえんのさ、おれみたいにな」
宰相は神通力を持ちあわせておらず、ギーヴの心のつぶやきを読みとることはできなかった。彼が、パルス王国の宰相として十六年間を無事につとめあげてこれたのは、絶対者たるアンドラゴラス王の意思をたくみに察して、その機嫌をそこねることなく、宮廷内外の事務をさばいてきたからである。
すべてはアンドラゴラスが決する。フスラブは彼のさだめたことを実行すればよかった。彼自身が私《し》腹《ふく》をこやしたこともしばしばあるが、多くの貴族や神官にくらべて度がすぎていたわけでもなかったし、高官が地位を利用するのも、人民が権力者に奉仕するのも、当然のことであるはずだった。ギーヴごとき、いやしい流浪の楽士などに、口はばったいことを言われねばならぬ理由はなかった。
百枚の金貨《デーナール》がギーヴにわたされた。ギーヴは表面うやうやしくそれを受けとった。くれるというものをこばむ必要はなかった。
W
城外へとつづく長大な地下水路を、ギーヴは歩いていた。石と煉《れん》瓦《が》でかためられた水路は、各処に、たいまつがともされ、流れる水の深さはギーヴのすねの半ばほどである。ギーヴと、彼にみちびかれる黒いヴェールの女とは、すでに一時間ほど、暗い通路を歩きつづけてきた。
この地下水路が、急時に王族の脱出に使用されるものであることを、ギーヴは宰相からきかされた。いつでも、どこでもそうなのだ。王族や高官のため、彼らだけのための脱出路が用意されていて、一般の民衆はそこを使用することは許されない。存在を知らされることすらない。民衆が敵兵に殺され、死体の壁をつくる間に、王やその一族は安全な場所に逃げだすのだ。話が逆ではないか。国がなければ、こまるのは王であって民衆ではないのに。
「それにしても、かるく見られたものだ」
ギーヴは自分と宰相の双方をあざけった。王妃がひとりの家臣、ひとりの宮女もしたがえず、旅の楽士などに命運をゆだねるはずはない。そんなことは吟遊《ぎんゆう》詩人の妄想にしか存在しないのだ。
「つかれたでしょう、すこし休みますか」
黒ヴェールの女は無言でかぶりをふった。体形ほどに声が似ているという自信がないのだろう。
「むりしないがいい。王妃さまのふりをするだけでもたいへんなのだから」
長い沈黙は、観念したような声で破られた。やはり別人の声であった。
「なぜわかったのです?」
「香《にお》いで」
ギーヴは形のいい鼻の頭に指をあてて笑ってみせた。
「あんたと王妃さまとでは、肌の香いがちがう。たとえ同じ香水をつかっていてもな」
「…………」
「あんたが身がわりになって、その間に嘘つきの王妃さまを逃がす、そういう段どりだろう」
宮女はだまったままである。
「身分の高い人とは、そういうものだ。他人が奉仕してくれるのが当然と思っている。他人が自分のために犠《ぎ》牲《せい》になってもあたりまえと思って、感謝することをしらぬ。いい気なものさ」
「王妃さまを誹《ひ》謗《ぼう》するのは許しませぬぞ」
「おやおや……」
「王妃さまや宰相さまのお考えがどうであろうと、わたしは忠実にご命令にしたがって、自分の役目をはたすだけのことです」
「そういうのを奴隷根性というのさ」
容赦のなさすぎることをギーヴは言ってのける。
「あんたみたいに献身的な人間の存在が、身分の高い連中をのさばらせる。奴らをいい気にさせて、結局のところ、あんたの仲間たちを苦しめることになる。そんな役まわりは、おれはごめんだね」
「では、これ以上、わたしをつれて先へはいけぬというのですか」
「さて、おれがひきうけたのは、王妃の護衛であって、王妃にばけた宮女の護衛ではないのだ。ここでおりたところで、とがめだてされる筋合いはないな」
急にギーヴは長身をのけぞらせ、宮女のぬきはなった短剣《アキナケス》の一撃をかわした。つづく第二撃もかるくかわし、苦笑をうかべる。
「おい、よしてくれ。おれは不忠者だが、美人に剣をむける気はないよ」
その苦笑は、一瞬で雲散霧消《うんさんむしょう》してしまった。短剣での第二撃と同時に、宮女はひざでしたたかギーヴの股間をけりつけたのである。
「……!」
さすがにギーヴがへらず口もたたけずにいる間、宮女は水音をたてて走りだしていた。王宮へもどって、事情を説明するつもりなのである。方向が逆だ、とギーヴは言おうとしたが、声もでない。
しばらく走ったところで、宮女は方角をうしなって、わずかなたいまつのあかりの下に立ちつくした。やがて悲鳴を放ったのは、すぐ近くに異様な人影を見出したからである。
「これはこれは、光栄あるパルスの王妃さまは、民衆の苦難を忘れて自分ひとり脱出なさるおつもりか」
たいまつのあかりが、銀色の仮面に反射して光の波頭を小さくはじけさせていた。
「あのアンドラゴラスめと、似あいの夫婦というべきだな。かたや兵士をすてて戦場から逃げだし、かたや都と人民をほうりだして地下へもぐる。玉座にすわる者の責任はどこへやら」
不気味な銀仮面の背後の闇には、さらに数十人の人影がわだかまっていた。宮女は恐怖のうちに自分の役目を思いだした。
「そなたは何者です?」
平凡だが深刻な問いかけは、銀仮面ごしの冷笑にはじきかえされた。
「パルスにまことの正義をしこうとこころざす者だ」
声は壁と水に反響して闇にとけた。
それは冷笑ではあったが揶揄《やゆ》のひびきはなかった。すくなくとも銀仮面の男自身は、自分が正義であることを、うたがってはいなかった。
恐怖に身をすくめながら、それでも逃げようとして、宮女は足もとの水をはねあげた。その視線が、身おぼえのある顔の上を通過すると、悲鳴をあげる形にひらかれた。
「万騎長《マルズバーン》カーラーンさま! なぜこのようなところに……」
「カーラーン|さま《ヽヽ》だと?」
聞きとがめた銀仮面の男は、一瞬のうちに疑惑を確信に変えていた。
「こやつ、王妃ではないな!」
男の手が、ヴェールをむしりとると、端整ではあるがタハミーネ王妃にはおよびようもない若い女の顔があらわれた。恐怖によって青白く化粧をほどこされた顔をにらみながら、銀仮面の男は事情のすべてをさとったようであった。
「あのヴァフリーズのおいぼれといい……どいつもこいつも忠義づらで、おれのじゃまをしおる」
歯ぎしりの音が銀仮面の細い口からもれたとき、周囲の騎士たちがぞっとしたように首をすくめた。
宮女の顔が、恐怖にひきつり、ついでそれを圧倒するような苦痛に支配された。銀仮面の男は、宮女の首をしめあげた手に、容赦なく力をくわえていった。両眼のところにあいた細い穴から、正視しがたい赤い光がほとばしっている。
空をかきむしる宮女の両腕がだらりと下がった後も、銀仮面の男は両手に力をくわえつづけた。にぶい音をたてて頸骨《けいこつ》が折れたとき、ようやく男は不幸な宮女を解放した。
宮女の身体は棒のように浅い水面にたおれこみ、はねあがるしぶきで銀仮面の表面に水の玉をいくつかはりつかせた。
無言のうちに、銀仮面の男は水のなかを歩きだそうとした。憤《ふん》怒《ぬ》と憎悪《ぞうお》と失望を、宮女とともに水葬に付したようにも見える。
「待て!」
するどい声が、銀仮面の男の歩みをとめた。一同が振りむいた先に、優美とすらいえる容姿の若者がいて、波うつたいまつの光をあびながら歩をすすめてくる。
「絶世ではないにしても、美人を殺すとは何ごとだ。生きていれば、くいあらためて、おれにみついでくれたかもしれぬのに」
そんなことを言う者は、「流浪の楽士」ことギーヴの他にはありえなかった。彼は、友好的でない沈黙のなかを、おちつきはらって歩みよると、半ば以上水におおわれた宮女の遺体に、自分のマントを投げかけた。
「顔を見せたらどうだ、色男」
「…………」
「それとも、血管を血のかわりに水銀が流れているので、そんな素顔になったのか」
「おぬしら、このこうるさい蚊《か》をたたきつぶせ。おれはほんものの王妃を追う」
言いすてるなり、銀仮面の男は長身をひるがえした。カーラーンがそのあとにしたがい、騎士たちのうち五人がギーヴの前に立ちはだかる。
鞘《さや》鳴りが連鎖し、五本の剣光がギーヴの前に網をつくった。したたかというべきであろう、ギーヴは背後に水路の壁をひかえて、四方から包囲されるのをさけている。彼が自分の剣を抜きはなったとき、最初の斬撃が宙を斬り裂いた。
地下水路の壁と天井が、剣の刃音を二重三重に反響させた。すねまである水のしぶきがかさなりあって、たいまつのあかりに不吉な色どりをそえた。
「ひとり!」
かぞえる声とともに、ひときわ大きな水しぶきが、赤い色をまじえてはねあがった。
ギーヴの剣が、たいまつのあかりを反射するつど、血と水が、さかさの滝をつくった。銀仮面の男がその場にいあわせたら、ギーヴの剣技のさえを無視することはできなかったであろう。それでも、五人めを剣光の下に沈めたとき、かなりの時間と体力を、ギーヴは消費していた。なまやさしい敵ではなかったのだ。
「さて、嘘つきの王妃さまを救いにいくか、それとも、もらった金貨《デーナール》の量にふさわしいだけの仕事でとどめておくか」
あごをなでながらギーヴは思案したが、結局、第三の道をいくことにした。地下水路を逆にたどって王宮へもどり、混乱にまぎれて財宝の一部をちょうだいしよう、というのである。自分ひとりの身なら、いかようにも守りぬく自信が彼にはあった。
歩きだしかけて、ギーヴは立ちどまった。いま彼の手で斬りたおしたルシタニア騎士たちの身体をさぐり、羊毛の小さい袋をいくつか手におさめる。袋の口をひらいて、ルシタニア金貨の存在を確認すると、ふてぶてしく謝礼の身ぶりをしてみせた。
「死人には必要のないものだ。おれが有効につかってやるから、感謝しろよ」
むろん死者たちは返答しなかったが、ギーヴは意に介するようすもなく、死体をまたいで、暗い地下水路をエクバターナの城内へともどりはじめた。
X
宮殿で異変が生じたとき、万騎長《マルズバーン》サームは城門上で防御の指揮をとっていた。この夜、ルシタニア軍の攻撃はひときわ激しく、はしごで城壁をよじのぼり、矢の雨をふらせ、撃ちはらっても撃ちはらっても、そのたびに陣形を再編成して押しよせてくる。
むろん、それは地下水路から銀仮面の男たちが侵入するのに呼応してのものであった。パルス軍に息つく間をあたえてはならぬのだ。
城壁の下には、ルシタニア兵の屍《し》体《たい》がおりかさなり、さらにその上にはしごをたてて、なおも城壁によじのぼるすさまじさだ。
王宮に火の手があがったのは、すでに夜半をすぎていた。城壁上からそれをのぞんだサームは、部下に防戦を命じておき、自分は城壁からおりると、馬をとばして王宮にかけつけた。
王宮は煙につつまれ、各処で剣をうちかわすひびきが聞こえた。馬からとびおり、おそいかかってくる敵を、ふたりまで斬りすてたサームは、三人めに出あったとき驚愕《きょうがく》せずにいられなかった。
「お、おぬし、カーラーン……!」
血ぬれた剣を片手に、サームは呆然《ぼうぜん》と旧友を見つめた。だが、それも一瞬であった。アトロパテネの戦場から半死半生で王都にたどりついた兵士が言っていたではないか。カーラーンが敵に寝がえったため、味方は大敗したと。そのときは信じなかったのだが、報告した者とされた者と、いずれが正しかったか、答えはここにある!
サームの手首が風をおこした。
刀身が激突し、薄闇のなかに火花が飛んだ。つぎの瞬間に、両者の位置は入れかわっている。
第二撃は、カーラーンがはやかった。夜風を裂いておそいかかった斬撃は、だが、サームの剣にはじきかえされて、その首すじにはとどかなかった。
薄い煙と、宮廷人たちの悲鳴のなかで、すさまじい斬りあいがつづいた。カーラーンの冑《かぶと》がはねとび、サームの甲《よろい》に亀裂が走った。刃と刃が奇妙な角度でからみあい、両者は至近距離でにらみあった。そのときすでに何|合《ごう》わたりあったか、両者とも記憶にない。
「カーラーン、おぬし、なぜ国を売った?」
「ゆえあってのことよ、おぬしにはわからぬ」
「おお、あたりまえだ、わかるものか!」
刃がはずれ、両者はとびはなれた。サームが愕然《がくぜん》としたのは、周囲をカーラーンの一党に完全に包囲されていたからである。彼の背後に投槍を持ってたたずむ銀仮面の男にまでは気づかなかったが。サームと逆に、カーラーンは余裕をいだいた。
「降伏しろ、サーム、イアルダボート教に改宗すれば、きさまの生命も地位も保障してやる」
「犬が人間の地位を云々《うんぬん》するなど、片腹いたいわ」
罵声を投げつけると、サームは、カーラーンの顔めがけて剣を突きだした。カーラーンが半身の体勢でそれをかわす。一瞬、生じた隙をのがさず、サームはそのかたわらを走りぬけていた。前方に立ちはだかろうとした騎士を、一合と打ちあわず斬りたおすと、その前方に人影はない。サームは包囲の突破に成功したように見えた。
銀仮面の男の手から、投槍が放たれたのはその瞬間である。重く長い槍は、甲《よろい》をつらぬき、サームの背から胸へぬけた。無言のままのけぞったところへ、追いついたふたりの騎士が剣をつきたてる。
一本の投槍と二本の剣を胴に突きさされたまま、サームはなおしばらくその場に立っていたが、やがて重々しい甲冑のひびきをたてて石畳の上にくずれおちた。
「……惜しいな」
銀仮面の男が発したつぶやきは、夜気にすいこまれて、誰の耳にもとどかないはずであったが、カーラーンがうなずいたのは、彼自身がそう思ったからであろうか。彼は旧友を見おろし、やや表情を変えると、床にひざをついてサームの脈をあらためた。
「これはしたり、まだ生きておりますぞ」
カーラーンが開いた城門から、ルシタニア軍が突入してきた。悲鳴をあげて逃げまどうエクバターナ市民を馬《ば》蹄《てい》で踏みつぶし、駆けぬけざまの一撃で頭をたたきわり、背から胸へ槍を突きとおす。女でも子供でも関係ない。ひとりの異教徒を殺せば、一歩天国へ近づくことができるのだ。
その人馬の奔流《はんりゅう》をくいとめようと、なお努力していたのはガルシャースフである。浮き足だつ部下を叱《しっ》咤《た》しながら、剣をふりかざして侵入者たちの前に馬を立ちはだからせた。
だが、その一瞬、ルシタニア兵のくりだした槍が馬の前肢《まえあし》のつけねをつらぬいた。馬は高い悲鳴を発し、騎手を鞍《くら》からほうりだして横転した。地面にたたきつけられたガルシャースフがかろうじて半身をおこしたとき、ルシタニア兵の剣が、上、左、右、前、後の五方向から突きだされた。万騎長《マルズバーン》ガルシャースフは血まみれの肉塊と化した。
夜明けの風が、血の臭気《しゅうき》をのせて、エクバターナの市街を吹きぬけていく。
血と酒に酔いしれたルシタニア兵が、片手に女の身体をひきずりながら、市民の死体をふみこえてうろつきまわっている。
王宮の一角から、銀仮面の男は、血と醜行《しゅうこう》によごれた街を見おろしていた。
「今日の勝利を驕《おご》るがいい、ルシタニアの蛮人ども」
銀仮面の男は、味方であるはずのルシタニア軍に対する侮《ぶ》蔑《べつ》をかくそうともせず、つぶやきすてた。
「きさまらが愚劣と流血の狂宴をさかんにすればするほど、パルスの民は救世主をもとめる。きさまらを追いだし、国土を回復してくれる英雄をもとめるのだ。きさまらはそのとき、今日の罪業《ざいごう》をつぐなうことになる」
彼の足下を、また一群のルシタニア兵が走りぬけていった。大神殿を略奪するためである。パルスの王権をおそれぬ彼らはパルスの神権もおそれはしなかった。偶像崇拝の本拠を神の名のもとにたたきつぶすという大義名分もある。大神殿の扉を苦労の末うちこわして、彼らは乱入した。
パルス神話に登場する神々の像が、彼らの左右にならんでいる。黄金の冠をかぶり海狸《ビーバー》の毛皮の衣をまとった水の女神アナーヒター。出産の女神でもある。
黄金のたてがみを持つ白馬は、雨の神ティシュトリヤの化身した姿である。
巨大な鴉《からす》の羽根を手にする勝利の神ウルスラグナ。
美と幸運の女神、処女の守護神である、光りかがやくアシ。
千の耳と万の目を持ち、天上界と人界のすべてを知るといわれる、契約と信義の神ミスラ。軍神としても崇拝される。
これらの神々の像に、ルシタニア兵たちは声をあげてむらがると、力をあわせて台座からひきずりおろしにかかった。像の材質は、一様ではなかった。大理石でつくられたものもあれば、銅の上に金箔《きんぱく》をはりつけたものもあった。
大理石の像は、床につきたおされてくだけた。銅像は、むらがる兵士たちの手や剣先で金箔をはぎとられた。「異教の神め!」「邪悪な魔神め!」と信仰上のたてまえを口にしながら、兵士たちはむしりとった金箔を懐《ふところ》におしこみ、神々の顔につばをはきかけた。
「豚は豚らしくふるまうものだな」
ひややかな嘲笑《ちょうしょう》の声が、彼らの動作を急停止させた。パルス人の若者の姿が、たおれた神像の間にあった。
「これほど美しい女神の像を無残にこわそうとするとは、きさまらには美を愛《め》でる心というものがないのか。蛮族たることを自《みずか》ら証明するようなものではないか」
ルシタニアの兵士たちは顔をみあわせた。大陸公路の公用語であるパルス語を解する者がいて、ののしりかえす。
「何をぬかすか。偶像を崇拝する魔道の徒めが。唯一神イアルダボートが世の終りに降臨したもうとき、おのれら異教徒どもは永劫《えいごう》に地獄に落とされるのだ。そのときになって悔やんでもおよばぬぞ!」
「きさまらルシタニアの豚どもがでかい面《つら》をしているような天国に、誰がいきたいものか」
若者――ギーヴは、ことばの毒《どく》矢《や》をはなちながら、いつでも剣を抜けるよう体勢をととのえていた。ルシタニア兵たちが、人数にひとしい数の剣の環《わ》を彼の周囲につくりはじめる。
「うるわしき幸運の女神アシ、泉を守護し大地をうるおしたもう女神よ」
美女にささげる一篇の詩をうたいあげるようにギーヴは天をあおいだ。
「あなたの信徒のうちでもっとも容姿端麗なる美丈夫が、うすらぎたないルシタニアの豚どもに殺されようとしております。心あらばご加護をたれたまえ!」
パルス語を解する者は激怒したし、解せぬ者も不快感をそそられた。隊長らしい兵士が、刃幅の広い剣を振りかざした。
ギーヴの剣が月光をはじいて銀色の弧をえがくと、躍りかかってきたルシタニア兵の隊長の剣を高々と夜空へはねあげていた。あまりにも簡単に敗北した隊長が、まだ呆然自失からたちなおらないうちに、ギーヴは相手の手もとにとびこんでいた。
隊長の右手首を左手でねじあげたギーヴは、右手には長剣を水平にのばし、ルシタニア兵を威《い》嚇《かく》しつつ、二段、三段と石の階段を下りはじめた。
ルシタニア兵たちは狼狽《ろうばい》と不安の視線をかわしつつ、たじたじとあとずさった。この優美な容姿と、軽薄そうな言動とをもちあわせた若者が、すさまじいまでに卓絶した剣士であることを、思い知らされたのだ。いっそ隊長が斬り殺されていたほうが、敗北感はすくなかったかもしれない。
「動くなよ、罰あたりの蛮族ども」
半ば歌うようにギーヴはルシタニア兵をおどしつけた。
「一歩でも動けば、おまえらの隊長は、肩までの高さで身長をはかることになるぞ。人間のことばがわかる奴、他の豚どもに通訳してやれ」
言いたいほうだいである。
「さてうるわしの女神アシよ、私はあなたの無念をわずかながら、はらしてさしあげました。これから、この豚どもに、罪ほろぼしの喜《き》捨《しゃ》をさせるつもりです。もともとはパルスの良民や王宮からうばったもの、こころよくお受けください」
ギーヴは声を高めた。
「そこの豚、マントをぬげ。そして仲間から掠奪《りゃくだつ》品を集めろ。いやだというなら、隊長の身長が……」
いやであったに相違ないが、完全に気をのまれたルシタニア兵たちは、さからおうとしなかった。
五分後、掠奪品をくるんだマントを、隊長にかかえさせて、ギーヴは地下水路にはいりこんでいた。厚い扉の外ではルシタニア兵たちがいまさらのように騒ぎたてていたが、痛くもかゆくもない。
適当な場所で、隊長の頭を剣の柄《つか》でなぐりつけて気絶させ、壁によりかからせると、その先は自分で掠奪品のつつみをかかえて、ギーヴは域外の森のなかで地上へ出た。王城と反対の方角に煙があがっている。
またルシタニア軍がどこかの集落を焼き、掠奪と虐殺をおこなっているのだろう。朝になれば、槍先につらぬかれた「異教徒」の首が数百、城壁の下にさらされる。
「何ともみじめな終りかただな」
ひと財産を背中にせおい、どこかで馬を調達しなくては、と考えながらギーヴは歩きだした。
「……かくして英雄王カイ・ホスロー、黄金の玉座につきければ、列王は大地にひざつきて服従を誓約し、ここにパルス国の統一はなれり……」
建国伝説の一章を、ギーヴは低い声で歌いあげた。両眼からは、軽薄なほど陽気な表情がうしなわれ、星の光を反射する剣のように、かたくするどいかがやきがある。
パルスが滅亡するのは、いたしかたのないことだ。この国自体、他国の灰燼《かいじん》のなかにきずきあげられたもので、灰から生まれて灰に還るだけのことである。だが、だからといって、ルシタニアの蛮人どもが、パルスの大地を馬蹄でふみにじり、掠奪と虐殺をほしいままにするありさまを、心たのしく見物する気にはなれなかった。彼自身がささやかな利益をあげたのとは、べつのことである。いずれ奴らに思いしらせてやろう。
完全に夜が明けはなたれる前に、ギーヴは王都を後にし、夜の最後衛のなかに姿をけした。
Y
いまや王宮は甲冑をまとった肉食獣どもの猟場となりはてている。
「王妃をさがせ! 王妃をとらえろ」
乱入するルシタニア兵の怒号と足音が、モザイク模様のタイルの上をあらあらしく走りぬけた。
王妃タハミーネをとらえることは、ルシタニア兵の公的な目的であったが、その一方で彼らは自分たち個人の欲望もみたしていった。逃げまどう宮女を犯し、殺した後に首飾りや指輪をうばえば、一度に三つの欲望をみたすことができた。
異教徒に対しては、どのような蛮行《ばんこう》をなしても、イアルダボート神が許してくださるのだった。司教たちがそれを保証している。異教徒を迫害すればするほど、神のご意思にそい、信徒としての義務をはたすことができるのだった。ためらう理由などない。まして、ついでに自分自身の獣性《じゅうせい》を解放できるとあれば……。
こうして、王宮は勝者の狂笑と敗者の悲鳴にみちあふれた。アンドラゴラス王の出陣までは、栄《えい》華《が》と豪奢《ごうしゃ》にあふれていた大理石の壮麗な建物は、血と汚辱《おじょく》の沼と化した。
銀仮面の男は、王宮内をひとり歩きまわっていたが、それはルシタニア兵と同じ目的からではなかった。革の長靴が血にまみれても、切断された人体を踏みつけても、彼は無感動だった。誰にも聞こえぬつぶやきが、仮面のなかにこもっていた。
「あの女は、かくも早くエクバターナが陥《お》ちるとは思わなんだのだ。にせものをしたてて、そちらへルシタニア軍の目をそらし、いずれ警戒がゆるんだころに脱出するつもりだったのであろう。とすれば、どこかに隠し部屋かべつの通路があるはずだが……」
銀仮面の男は足をとめた。半ば切りさかれた厚い緞帳《どんちょう》が、毛虫のようにもぞもぞとうごめいていた。銀仮面の男は、周囲に、功をきそうべきルシタニア兵の姿が見えないことをたしかめると、大股《おおまた》に歩みよって緞帳をはねあげ、うずくまる人影を外気にさらした。
大神官《マグパト》の服装をした中年の男であった。黄金と紫のはではでしい僧衣が、この脂ぎった男の、聖性ではなく俗性を強調している。
「改宗します! 改宗いたします!」
銀仮面の男が口をひらくより早く、大神官は床にはいつくばってわめいた。
「わたくしめの弟子たちにも改宗させます。いえ、国じゅうの神官どもに、イアルダボートの神に忠誠を誓わせます。ですから、どうぞお助けを」
豚の鳴き声を無視するような態度で、銀仮面の男が歩きすぎようとすると、大神官は卑屈さと狡猾《こうかつ》さのないまざった声をはりあげた。
「じつは、私、タハミーネ王妃がどこに身をひそめているか、存じあげております」
銀仮面の男がむけた視線のすさまじさにたじろぎつつ、恥知らずの大神官は言いつのった。
「それをお教えいたしますゆえ、改宗と助命の件をよしなに、よしなに」
「……わかった、言ってみろ」
こうして、タハミーネ王妃は、さまざまな特権と恩寵《おんちょう》をあたえてきた大神官によって、敵国に売りわたされたのである。
酒庫《さかぐら》の床下の秘密部屋から数人の宮女とともにひきずりだされたとき、さすがに王妃は悪びれもせず、銀仮面の男をまっこうから見すえた。男も見かえしたようであった。
「そうだ、この女だ。アンドラゴラスが執着《しゅうちゃく》したバダフシャーンの王妃……」
記憶の深い井戸の底から、古くよどんだ水をくみあげるような声であった。タハミーネは表情をかえこそしなかったが、その頬は目にみえて青ざめた。
「あのころとすこしも変わらぬ。幾人の男の生命と運命を糧《かて》にすれば、こうも美しくいられるのだ、人妖《ばけもの》め!」
その罵声にこめられた憎悪の深刻さは、人を総《そう》毛《け》だたせるものであった。
エクバターナの城頭に二本の旗がひるがえった。ルシタニアの国旗と、イアルダボートの神旗である。両者は、地の色がことなるだけで、意匠はまったく同一であった。中央に、二本のみじかい横線と一本の長い縦線をくみあわせた銀色の紋章があり、縁どりも銀。国旗の地は赤く、神旗の地は黒い。赤は地上の権勢をあらわし、黒は天上の栄光をしめすものだという。
その旗をみあげつつ、ルシタニアの武将たちが会話をかわしていた。
「銀仮面の男が、王妃タハミーネをとらえたそうな」
「ほう、奴ひとりで国王夫妻をとらえたわけか。大てがらだな」
「やはり、あの男、心からわがルシタニアに忠誠をつくしているのだろうか」
「ふん、だとしたら奴はなぜ、パルスの国王を捕虜にしたことを、いまもってパルス人どもに明らかにしようとせんのだ」
不信と疑惑と嫌《けん》悪《お》の声が、ひときわ大きくひびく。
「おのれらの国王が捕らえられたと知れば、パルスの異教徒どもも抗戦の意思をくじけさせよう。この城も、とうに陥落《かんらく》していたろうに、なぜそうしなかったのだ。あの地下水路の抜け道にしてもだ、自分たちだけでもぐりこんで、われらには力攻めをさせた」
「てがらをひとりじめしたかったのであろうよ。可愛気はないが、気持はわかる」
「そうだな、そうかもしれぬ。だが、何やらたくらんでいるのではないかと思えてならぬのだ」
……それらの声は銀仮面の男には聞こえなかったし、聞こえたところで気にとめもしなかったであろう。銀仮面の男は、とらえたタハミーネ王妃を、ルシタニア国王イノケンティス七世の前にひきたてていた。その場所は、国王|謁見《えっけん》に使われる大広間で、あわただしく血と死体がかたづけられたばかりだった。
ルシタニア国王イノケンティス七世は、強大な征服者のようにも悪虐《あくぎゃく》な侵略者のようにも見えない。背が高く肉づきはよいが、血色が悪く、皮膚には生気が欠けている。両眼は熱っぽいが、その熱は地上にむけられたものではなかった。
彼は模範的なイアルダボート教の信徒だといわれていた。酒を飲まず、肉を食べず、一日三回の礼拝を三十年にわたって一日も欠かさない。十歳のとき大病にかかり、異教徒の大国を滅ぼしてその都にイアルダボート教の神殿を建立《こんりゅう》するまで結婚せぬと誓い、四十歳の今日まで独身であった。
「聖典の教えにそむくすべてのみだらな書物を焼きつくし、地上から異教徒を一掃する」
ことは彼の一生をかけた理想であった。彼の在位はすでに十五年に達しており、その間に三百万人の異教徒を――赤ん坊までふくめて――殺し、魔術や無神論や異国文化の書物を百万冊ほど焼いた。「神など存在しない」ととなえた学者は舌をぬかれ、寺院の礼拝をおこたって密会した男女は、真っ赤にやけた巨大な鉄串《てつぐし》で「ふたつの身体をひとつ」にされた。
そのような狂信家の国王が、異教徒の王妃を遇する道があるとすれば、もっとも残酷な刑死があるのみ、のはずであった。だが、彼の家臣たちの予想ははずれた。
タハミーネの姿を見たルシタニアの国王は、しばらく無言だった。衝撃の深さが、ゆっくりと顔じゅうにひろがっていき、やがて全身が小きざみに慄《ふる》えだした。
家臣たちの幾人かが顔を見あわせた。不吉な影が彼らの心に落ちかかり、彼らはおしだまったまま、自分たちの国王と滅亡した敵国の王妃をながめやった。
[#改頁]
[#目次4]
第四章 美女たちと野獣たち
T
国王イノケンティス七世に親率《しんそつ》されて母国を出発したとき、ルシタニア軍の総兵力は騎兵五万八千、歩兵三十万七千、水兵三万五千、合計四十万といわれていた。それが、マルヤム王国征服に際して三万二千の戦死者をだし、アトロパテネにおいて五万余をうしない、エクバターナの攻囲戦で二万五千を死なせて、すでに三十万の大台を割りこんでいる。
虐殺《ぎゃくさつ》と掠奪《りゃくだつ》の嵐が一段落すると、ルシタニア軍のおもだった将軍たちは、大国であるパルスの征服を恒久的なものとするべく、策をねらなくてはならない。そこへひとつの知らせがとびこんで、ルシタニア出立以来の驚愕《きょうがく》で彼らをゆすぶった。
彼らの国王イノケンティス七世が、パルスの王《おう》妃《ひ》タハミーネとの結婚を望んでいる、というのであった。
「それにしても、パルスの王妃はいったい何歳なのだ」
「さて、三〇代後半というところだろう。国王|陛《へい》下《か》とつりあわぬ年齢《とし》ではない」
「問題はそのようなことではあるまい。あの女は一国の正式な王妃で、しかも異教徒だ。結婚などできようはずがないではないか」
あまりの意外さにうろたえた将軍たちは、首をそろえて国王の前にいき、無謀な望みをすてるよう説得した。
「タハミーネなるパルスの王妃は、不吉な女性でございます。かかわりある男どもを、ことごとく不幸な境遇におとしこんでおります」
「なにも異教徒、しかも他人の妻でなくとも、陛下のご威光をもってすれば、いくらでもお妃《きさき》のなりてはおりましょう。ルシタニアの本国から美女をえりすぐっておつれあそばせ」
国王はふてくされたように沈黙している。もともと、むりを承知の希望なのだ。その態度を見て、将軍のひとりは思わず大声で国王につめよった。
「バダフシャーン公カユーマルス、その宰相、パルス王オスロエス五世、そしてアンドラゴラス三世。タハミーネの美しさゆえに不幸となった男どもの末路をごらんあれ。それでもあえて五人めになりたいと陛下はおぼしめすか」
イノケンティス王は衝撃をうけたようにだまりこんだ。鈍重《どんじゅう》で脆弱《ぜいじゃく》な王の体内に、迷信的な恐怖と、それをはるかに上まわる執着《しゅうちゃく》とのあらそいが生じているようであった。ようやく言ったのは、
「だが、不幸な男どもとやらは、すべてイアルダボート神の恩寵《おんちょう》をうけぬ異教徒ではないか。あるいは神が彼女に試練をさずけたもうたのかもしれぬ。敬虔《けいけん》なるイアルダボート教徒の妻となることこそ、彼女の運命かもしれぬ」
ということであった。これには将軍たちは反論のしようがない。国王の執着と詭《き》弁《べん》に舌打ちしながら、ひとまずは退出してつぎの諫言《かんげん》の機会を待つしかなかった。
黄金、金剛石《ダイヤモンド》、緑柱石《エメラルド》、紅玉《ルビー》、青玉《サファイア》、真珠、紫水晶《アメジスト》、黄玉《トパーズ》、裴《ひ》翠《すい》、象牙……パルス王宮の宝物庫に山とつまれた財宝は、ルシタニア人たちの目をうばった。これだけ富強を誇る大国によくも勝てたものだ、と、彼らは思った。ルシタニア一国を限界までしぼりあげても、これほどの財宝をえることはできない。だからこそ彼らは対外侵略に狂奔《きょうほん》したのである。
王と王妃の専用の乗馬は、たてがみと首にサフランの香料をぬりこめられていた。宮殿の通路をてらしだす松明《たいまつ》からも芳香がただよった。松明のなかに麝香《じゃこう》がしこまれていたのである。
王宮の宝物庫は、兵士たちの掠奪の対象とはなっていなかった。王宮の他の部屋や民衆の家とはちがって、ここを掠奪する者は火刑に処せられることになっていたからだ。
宝物庫をはじめて国王が視察したとき、随行の将軍たちはいまさらのように感嘆のうめきを発した。
「パルスの富は聞きしにまさりますな」
「すべては神のものだ! そのほうら、けっして手をつけてはならぬぞ」
イノケンティス王の純粋な信仰心は、将軍たちには気に入らなかった。彼らが水と緑にとぼしい石ころだらけの祖国を捨てて、何ら迷惑をうけたこともない異教徒の国土を侵略したのは、むろん|たてまえ《ヽヽヽヽ》としてはイアルダボート神の栄光のため異教徒たちを地上から一掃するためである。だが、すでにアトロパテネ平原での勝利と、王都エクバターナの陥落《かんらく》とによって、神の栄光は達成された。あとは人間が実益をうけるべき順番ではないか。
すべてを神に、と、妄信者たる王はいうが、結局のところ神の財貨を管理するのは、ボダンに代表される「聖職者」たちである。奴《やつ》らが征服と勝利のために何をしたというのだ。
タハミーネ王妃の一件もあって、国王に対する不満をつのらせたルシタニアの武将たちは、王族のギスカール公爵に対する期待を強めるようになった。
王の弟で、公爵とか騎士団長とか将軍とか領主とか、両手両足の指を全部つかうほどの肩書をもつギスカールは、兄王とほぼ同じ身長ながら筋肉ははるかに若々しくひきしまり、眼光にも動作にも精力がみなぎっている。神と聖職者にしか目をむけない兄王とことなり、彼は地上と人間とに大いなる関心があった。それらのすべてを支配し、その富をすべて独占できれば、生まれてきた甲斐があるというものだった。
もともと、弟からいわせれば「神ががり」のイノケンティス王に、大陸の西三分の一を横断するような遠征を実施する能力などない。
「補給はどうするのだ、兄者《あにじゃ》」
と問われて、
「神は信徒たちに|天界の慈味《マナ》を降らせてくださる」
と答えるような男だ。結局、四十万の大軍を編成し、補給の計画をととのえ、船団を用意し、進路をさだめ、実戦では将軍たちをひきいて勝利をおさめてきたのは、彼ギスカール公爵だったのだ。兄王は、神に勝利を祈願するだけで、一兵を指揮したこともない。馬にすら乗れず、馬車や輿《こし》をつかってここまでやってきたのは、いっそ見あげたものであった。
ルシタニアの事実上の王はこのおれだ、パルスを実際に征服したのもおれだ、と、ギスカールは思い、彼のもとへやってくる将軍たちの不満に同調するのだった。
「おぬしらの気持はよくわかる。おれも以前から思っていた。兄王は口先だけの聖職者どもを遇するに厚すぎ、おぬしら功績ある武将らを遇すること薄すぎる、と……」
王弟ギスカールの声は低いが熱をおびている。彼は自分自身の野心のために、将軍たちの不満をあおりたてているのではあるが、言うことに嘘はない。ことに、王のかたわらで影響力をふるう大司教ボダンに対しては、不快感はなはだしいものがあった。
「王弟殿下、あのボダンめをごらんください。異教徒征伐だ異《い》端《たん》者《しゃ》退治だ魔道士狩りだと称して、抵抗のできぬ者を拷問《ごうもん》し虐殺するばかり。自分で戦場にたって敵と剣をまじえたことなど、一度もないのでござる。なぜあのような者が、生命がけではたらいた吾々より、富と力をほしいままにできるのでござろう」
「この前の件もそうでござった。あのシャープールなる者、異教徒ながらあっぱれな勇者でござって、あの者の両手が自由であったら、ボダンごとき、ひよこも同様にひねりつぶされたはずでござる。それを鞭《むち》うってわめきたてるありさま、みぐるしいこと、発狂した猿のようでござった」
そのような将軍たちの怒り、不平不満は、ギスカールにとって貴重な情報源でもある。くどくどと聞かされても、すげなくあしらうことはできない。
兄がパルスの王妃にご執心《しゅうしん》ときいて、最初ギスカールはひそかに冷笑した。
「兄者でも女に迷うことがあるか。やはり人間は神への信仰だけで生きられるものではないらしいな。それにしても、どうせなら年《とし》増《ま》でなく若い娘を望めばよいに」
好奇心にかられて、とらわれのタハミーネ王妃の姿をのぞいたギスカールは、兄を笑えなくなってしまった。美貌もさることながら、タハミーネには、権力の中心や周辺に居住する者を蠱《こ》惑《わく》する磁力があるのかもしれなかった。
今度はひそかに懊悩《おうのう》するギスカールに、忠告する者がいた。ギスカールの非公式の参謀であり、遠征軍の地理案内役であり、ギスカールも正体を知らない男である。銀色の仮面を人前では絶対にはなさないその男は、そそのかすように公爵に言ってのけたのだ。
「王弟殿下が志《こころざし》をとげられた暁《あかつき》には、ひとりといわず一万人の美女をも、御《ぎょ》意《い》のままになさることがかないましょう。何をこのんで、亡国の、しかも他人の女に執着なさいますか」
「……うむ、たしかにそのとおりだ」
自分の未練をふりはらうように、ギスカールはうなずくと、一杯の葡萄酒《ナビード》をあおって兄王のもとへおもむいた。ともかくも、あきらめることができる点が、彼と兄王との差であったろう。
U
将軍たちに対しては神や運命を持ちだして自己正当化したイノケンティス七世も、さすがにこの問題で神に直訴する気にはなれないのであろう。流血の跡も完全にはかたづかないアンドラゴラス王の寝室で、ひとり悶々《もんもん》としていた。酒をまったく飲まないので|絹の国《セリカ》渡来の紫《し》檀《たん》のテーブルにおかれた銀の杯《さかずき》には、何と砂糖水がつがれている。ギスカールが兄にうんざりする理由のひとつだ。それでも気をとりなおして、ギスカールが兄とタハミーネの結婚に賛成するとのべると、
「おお、そうか、賛成してくれるか」
イノケンティス七世は血色の悪い顔じゅうに喜色をたたえた。
「賛成しますとも。ですが、兄者おひとりのためにではありませんぞ。パルスの王妃がルシタニアの国王と結婚すれば、それはすなわち両国の絆《きずな》を強めることとなります」
「そうじゃ、そなたの申すとおりじゃ」
五歳下の弟の力強い両手を、イノケンティス王はふとったしまりのない手でにぎりしめた。
「不幸な流血はあったが、もはや過去のことは忘れねばならん。ルシタニア人とパルス人は、唯一絶対の神のもとに手をたずさえて、この地に王道《おうどう》楽《らく》土《ど》をきずかねばならんのだ。そのためにはタハミーネとの結婚がたしかに必要だな」
たちまち自己正当化に成功した兄を、ギスカールはあきれて見つめた。手をたずさえて、とはいい気なものだ。これほどひどい目にあわされたパルス人が、「過去のことを忘れる」ことなどできるものか。そう思ったが、口に出したのはべつのことであった。
「兄者、ただし兄者のご結婚には難点が二、三ございますぞ」
それを聞いたルシタニア王は、不安そうに両の眼球をいそがしく動かした。
「それはいったい何じゃ、愛する弟よ」
「まず、大司教ジャン・ボダンでござるよ。タハミーネ王妃は異教徒でござれば、あの小うるさい大司教が、きっと承知しますまい。いかがなさいます?」
「なるほど、だがそれは大司教に命じてタハミーネをイアルダボート神に改宗させればすむことじゃ。大司教が望むなら、パルス王室の財宝など、いかほどでも寄進しようし、それで不足なら、わが王室の財産とて……」
冗談もいいかげんにしてほしい、と、ギスカールは心のなかでののしった。「パルス王室の財宝|など《ヽヽ》」を手にするため、どれほどの犠《ぎ》牲《せい》をはらったのか、この兄にはまったくわかっていないのだ。
適当に話をきりあげて、ギスカールは退出したが、自分の部屋へもどると、たてつづけに葡萄酒《ナビード》をあおった。自分が砂糖水を飲みすぎたように、胃のあたりがむかつく。
そこへ銀仮面の男があらわれたので、ギスカールはつばをとばして会談のようすを語った。
「それでようござる」
銀仮面の男は王弟を賞賛し、毒《どく》にみちた声を耳のなかへ送りこんだ。
「国王陛下がボダンめに過分な寄進をなされば、武将たちの不平不満はさらに高まりましょう。またボダンめがおろかしく教義を墨守《ぼくしゅ》して陛下のご結婚をじゃまだてすれば、奴《やつ》に対して陛下はご不興《ふきょう》の念をいだかれるはず。いずれにしても、殿下のご損にはなりませぬ」
「そのとおりだ、それはよい。だが、それにしても兄は何ひとつわかっておらぬのだ。パルス国内にはまだ敵が多くいる。ミスル、シンドゥラ、トゥラーンの動静も不安だ。結婚どころか! 奴らが万一、連合して攻撃してくれば……」
ギスカールは口をとざし、やや表情を変えて銀仮面の男を見やった。何か思いだしたようであった。
「そういえば、アトロパテネ会戦のおりは、おぬしに何かと助けられたな」
「おそれいります」
「あのときアトロパテネ平原に、出るはずのない霧が生じたのは、魔道士の業《わざ》によるものだ、と言う者がいる」
「…………」
「たしかに、あの霧はつごうがよすぎた。いかに策をたてようと、あれがなければパルス軍に勝てたはずもない」
「イアルダボート教では、魔道はついに神に勝たずというではありませんか。神のご加護でござるよ」
「ふん……」
なお釈然《しゃくぜん》としないようすではあったが、酒が精神の持続力をにぶらせたのであろうか、ギスカールはそれ以上、追及しようとはせず、銀仮面の男が去るにまかせた。
銀仮面の男は、王宮内の複雑に入りくんだ長い廊下を、迷いもせず速い歩調であるいていった。途中、すれちがうルシタニアの将兵が気色《きしょく》悪げな目をむけるのを無視して、それがくせらしいひとりごとを自分にささやきかけていた。
「バダフシャーン公国が滅びたとき、あの女は生きていた。パルス王国がいったん滅びたいまも、あの女は生きている。だが、ルシタニア王国が滅びるときは、そうはいかんぞ。冥《めい》府《ふ》へいったら、あの女、自分のために死んだ男たちに何とあいさつするつもりかな」
広い、短期間のうちに荒らされつくした中庭に面した回廊で、銀仮面の男は立ちどまった。カーラーンが周囲に人影のないことを確認して歩みより、一礼したのだ。
「カーラーン、アンドラゴラスの小せがれはまだつかまらぬか」
「申しわけございませぬ。私めの部下に、総力をあげるよう命じておるのですが、まだ行方がしれませぬ」
「手ぬるいのではないか」
それほど強い語調ではないにもかかわらず、カーラーンを粛然《しゅくぜん》とさせるものが、銀仮面の男の声にはあった。また、その声はごく自然であって、王弟ギスカール公爵にむけてていねいに話しかける声がつくりものめいてひびくのと、いちじるしい対照をなしていた。カーラーンがまた、他人が見ればおどろくであろうほど腰が低いのである。
「そうおっしゃられると、恐縮するよりございませぬ。まことに不甲斐《ふがい》ないことで……」
小さくもない身体を万騎長《マルズバーン》らしくもなくちぢめるのだ。
「いや、よい、おぬしのことだ。手ぬかりのあろうはずはなかったな。考えてみれば、パルスは広い。小せがれのひとりぐらい、オレンジの葉かげにでも隠れられるわ。小せがれのひとりぐらい……」
銀仮面の男は声をきり、みじかい沈黙をみじかい笑いにつづかせた。庭園のオレンジの葉をすかして、夕陽が仮面にななめから接吻している。
……肉体の傷よりも心の傷からの出血にあおざめた騎士のひとりが、カーラーンの領地からエクバターナにいる主君のもとへ駆けつけたのは、その翌日のことであった。
V
「まことにもって面目なき仕儀《しぎ》にございます。アルスラーン王太子と、それに加担する不《ふ》逞《てい》の者ども、われらの包囲をのがれて、行方をくらましてしまいました」
はいつくばって報告する部下を見おろすカーラーンの目には、殺意に近い怒りが躍っていた。もともと彼は部下に対して寛大かつ公正であり、それがため今日まで部下が彼にしたがってきたのである。だが、このとき、カーラーンは、はいつくばる部下の頭を蹴りくだく衝動に、けんめいに耐えねばならなかった。
「なぜそのようなことになったのか、子《し》細《さい》を話してみよ」
ようやく平静をよそおって命じることができたのは、かなりの時間が経過してからである。
ここでくどくど弁解すれば主人のおさえている怒りが爆発するであろうことを、部下はさとって、できるだけ整然と事情をのべた。
バシュル山にひそんだアルスラーンが、なかなか山をおりてこないので、カーラーンの部下たちは山狩りをおこなおうとした。そこへひとりの樵夫《きこり》があらわれて言うには、先日、人《ひと》気《け》のないはずの洞窟で人の話し声をきいた。そこにひそんだ男たちは、鳩の足に手紙をむすびつけて山の外にいる仲間と連絡し、その月十四日の夜を期して山の内外で呼応し、封銀線を突破しようとしている、と。
カーラーンの部下たちは小おどりしてよろこび、十四日の夜にそなえた。そして――安心して寝こんでいた十三日の夜に封鎖線を突破されてしまったのである。はねおきて防戦したが、ダリューンの驍勇《ぎょうゆう》に敵しえる者はなく、指揮も混乱をきわめ、ついにとり逃がした。あげくのはて、ナルサスと思われる男は、カーラーンの部下のひとりに言った――山中にこもっていると、暦を見ることもないので日にちをまちがえた、あしからず……。
「つまり完全に手玉にとられたのだな。その樵夫とやらは買収されていたのだろう」
「はっ……」
「ダリューンにしてもナルサスにしても尋常な男どもではない。心してあたれ、と、あれほど言いおいたではないか。役たたずどもめが!」
不快感をむきだしに、カーラーンは、たのむにたりぬ部下をしかりとばした。それは焦慮《しょうりょ》と不安の裏がえしである。アルスラーンにダリューンとナルサスがしたがい、東方国境に配置されたキシュワードらの大軍をひきつれてエクバターナに殺到してきたらどうなるか。ルシタニア軍の敗亡はともかくとして、|あのかた《ヽヽヽヽ》の大望がはたせなくなってしまうではないか。
ダリューンの名は、カーラーンをひるませないではないが、こうなっては彼自身が出馬するしかなかった。
ギスカール公爵に、兵を動かす許可をもらうため、カーラーンは回廊を急ぎ足で歩《あゆ》んだが、いきかうルシタニア人たちの声が耳にはいらずにはいなかった。
「ふん、裏切り者がでかい面《つら》をして……」
「改宗もすませぬ被征服民が、いつのまに枢《すう》機《き》に参画《さんかく》するようになったのやら」
「生命がけで異教徒どもと戦うより、異教徒に生まれて味方を売ったほうが、出世への近道らしいな。ああ、生まれるべき場所をまちがったわい」
カーラーンに聞かせるための高声である。パルスの万騎長《マルズバーン》は抗弁しなかった。屈辱《くつじょく》が彼の頬にかたいしこりを生んでいた。
王弟ギスカール公爵は、ルシタニア王国と自分自身のため、将来の土地分配や治安維持の計画をたてているところだった。あてがわれた宰相の旧執務室をカーラーンがおとずれたとき、たいして待たされもしなかったのは、気分転換をしたかったからかもしれない。
入室したカーラーンは、深く一礼すると、アルスラーン王子とその一党を討伐する許可を王弟に求めた。
「アルスラーンは未熟な子供にすぎませんが、ダリューンとナルサスの両名は軽視できませぬ」
「どのような男たちなのだ?」
「ナルサスはかつて王宮の書紀《デイビール》をしておりました。アンドラゴラス王も彼の智略《ちりゃく》を評価しておりましたがいまは野《や》に下《くだ》っております」
「ふん……」
「ダリューンのほうは、王弟殿下もご存じでおいでかもしれませぬ。過日、アトロパテネ平原において、ただ一騎、ルシタニア軍のただなかを突破した男でござれば……」
はじめてギスカールは反応した。孔雀《くじゃく》の羽のついたペンを机上になげだす。
「あの黒衣の騎士か!」
「御意……」
「奴のために、わが友人知己が幾人も異郷にはてることとなったわ。生きながら皮をはいでやりたいところだ」
「…………」
「にしても勇者であるにはちがいない。おぬし、勝算あって願いでたのであろうな」
「いささか考えがございます」
「そうか、まあやってみることだ。おぬしらパルス人の手におえなんだときは、ルシタニア正規兵を動かして始末をつけるだけのこと」
ギスカールにも打算がある。パルス人どうしがかみあってくれれば、ルシタニアの立場は不利にはならない。パルスの王子をパルス人の手で葬りされば、ルシタニアの手はそれに関するかぎり汚れずにすむ。それに、王子を手にかけたとなれば、カーラーンもいまさら道を変えることはできなくなろう。
兄王やボダン大司教がどう思っているかしれぬが、もともとパルス人のすべてを地上から一掃できる道理がない。パルス人の一割を味方につけて、のこる九割を支配させる。分断支配こそが、征服者の賢明さというものである。
カーラーンのような男は、最大限に利用しなくてはならなかった。すくなくとも、ボダンのような輩《やから》より、はるかに役だつはずである。功績をたてたがっているなら、たてさせてやればよい。
パルス人の土地と奴隷《ゴラーム》をうばい、それをルシタニア人に分配する。それがギスカールの計画の基本ではあるが、カーラーンのような積極的な協力者を、他のパルス人と同列にはおけぬ。領地を安《あん》堵《ど》してやるくらいのことはしてやるつもりのギスカールだが、おそらく反対者がルシタニア人のうちに出るであろう。
「冗談ではない。なぜ征服者が被征服者にこびねばならぬ。敗者の富はすべて勝者に帰するべきではないか。われらは、われら自身の血でそれをあがなったのだ。誰にはばかることがあろうか」
欲が深く、視野のせまい者はそういう。しかも、その種の人物が、つねに多数をしめ、つよい勢力をもつのが、世のつねである。そのあたりを整合させなくては、ギスカールの真の野心は達成できない。
「とにかくアルスラーン王子の件は、さしあたっておぬしに一任する。よいようにしろ」
「おそれいります」
「ところでな、カーラーン」
ギスカールはふとたずねてみたくなった。パルスの王妃タハミーネを、ルシタニア王が妻にしたら、パルスの貴族たちや武将は、どのような感懐《かんかい》をいだくであろうか。
カーラーンは表情を消して答えた。
「あの御《お》方《かた》は、もともとパルスの人ではなくバダフシャーンの公妃であられました。みなそのことをおぼえておりましょう」
「……ふむ、そういう考えもあるか」
ギスカールは小首をかしげたが、それ以上ひきとめる必要をおぼえなかったのであろう、手を振ってカーラーンを退出させた。
W
落城後、はじめて再開された市場《バザール》は、それなりの人出と商品でにぎわっていた。これなくしてパルス人の生活はなりたたない。
群衆のなかに、ひとりの少女がいた。
小麦色の肌、黒絹の髪、黒暗色の瞳をした、背の高い少女で、なかなかに美しい。それ以上に、生気と聡明さのかがやきが無視できず、市場《バザール》の警護にあたっていたカーラーン麾下《きか》のパルス兵のひとりが声をかけた。少女はやや迷惑げであったが、市場《バザール》のかたわらを通過する騎馬の軍列を見て、何者の部隊だろうかとたずねた。
「あれはおまえ、万騎長《マルズバーン》、いや、こんど大将軍《エーラーン》になられるカーラーン公の直属の部隊さ」
「どちらへいらっしゃるのかしら」
少女の声はいかにも無邪気に聞こえたし、いいところを見せたくもなって、兵士は知るかぎりのことを教えてやった――といって、むろん大した知識があるわけでもなかったが。
そして、何げなく、しかし強引に少女の手首をとって市場《バザール》から離れ、人どおりのない小《こう》路《じ》にひっぱりこんだ。ルシタニア兵の暴行狼籍《ぼうこうろうぜき》をこれまで指をくわえてながめていなくてはならなかったのだ。パルスの女はパルスの男のものであるべきなのに……。少女があらがって身をもんだので、興奮の極に達した兵士は、少女の頭をおさえてねじふせようとした。
兵士は叫び声をあげた。頭部をつつんだ布ごと、少女の髪がすっぽりとはずれてしまったのだ。かつらだった! 兵士のおどろきが怒りに変わりかけた瞬間、短剣《アキナケス》がみじかく、するどくきらめいて彼の胸を刺した。兵士が土埃《つちぼこり》のなかに倒れこんだとき、加害者はすばやい小鳥のようにべつの小路へとびこんでいる。
「ああ、気色《きしょく》わるい」
美しい少女――ではなく、そうよそおっていた少年は、不快げにつばをはいた。エラムであった。
ナルサスに依頼されて、王都エクバターナにもぐりこみ、城内のルシタニア軍の動静をさぐっていたのである。くれぐれも危険なまねをせぬように、と、ナルサスはしつこく念をおし、そのあたりの矛盾《むじゅん》がエラムにはおかしい。
とにかく、ナルサスに報告せねばならない。
エラムは二度三度と道をまがり、一軒の家の裏庭にはいりこんだ。少女の衣服をぬぎ、洗濯されてほされていた男ものの服を着こんだ。少女の衣服にくわえ、銅貨《ミスカール》を五枚、代金としておき、顔と服に泥をぬりつける。
市場《バザール》をとおりぬけるエラムの耳に、仲間の死体を発見した兵士のさわぐ声がかすかに聞こえた。
「カーラーンが千騎以上の兵をひきいて城を出た?」
王都からもどってきたエラム少年の報告に、ナルサスは小首をかしげた。ルシタニア軍の侵攻で廃墟《はいきょ》となった村々を、アルスラーンらは転々としているのだった。
アルスラーンは腕をくんだ。
「私をとらえるために、いささか大げさではないのかな」
「それは当然です。殿下、彼らはわれわれの数を知りません。それにあなたは歩く大義名分ですからね。あなたを陣頭におしたてれば、ルシタニアに抵抗する勢力を糾合《きゅうごう》できます。ルシタニア軍としては、はなはだまずいし、カーラーンがおちつかぬのもむりはありません」
なるほど、とは思うが、アルスラーンにはさらに疑問がある。彼がどこに姿をかくしているかわからないはずなのに、カーラーンはどうやって彼を見つけだすつもりなのか。
「私がカーラーンで、あたうかぎりはやく殿下をとらえねばならぬとしたら、まずどこか適当な村を襲って焼きます」
「村を焼く?」
アルスラーンが目をみはると、ナルサスは、エラムに顔を洗うようタオルをわたしてやりながら説明した。
「その先は、いくつかの方法があります。村を焼き、村人を殺し、それを布《ふ》告《こく》して殿下を脅迫《きょうはく》するのが、まずひとつ。殿下が出頭しないかぎり、つぎつぎと村を襲い、罪なき者を殺すというわけです。他にもいろいろありますが、順序としては、これから手をつけるでしような」
アルスラーンは息をのんだ。
「そこまでカーラーンがするだろうか。あれでも彼は武人だ」
「王と国を売った模範的な武人ですな」
ナルサスの皮肉な指摘は、アルスラーンを沈黙させた。カーラーンはすでに河をわたって、向う岸に着いたのだ。いまさら無益な殺戮《さつりく》をさける必要をみとめはしないだろう。考えこんだ末、アルスラーンは沈黙をやぶった。
「ナルサス、カーラーンがどこの村を襲うかわかるか」
「わかりますとも」
「どうやって?」
「彼らが案内してくれます。後についていけばよろしい。そうなさいますか」
強くアルスラーンはうなずいた。
王子が愛馬に鞍《くら》をおくために出ていくと、考えぶかそうに問答をきいていたダリューンが口をひらいた。
「カーラーンは単純な男ではない。白昼あからさまに隊列をくんで王都を出るなど、今回のこと、最初から殿下をさそいだす罠《わな》とは考えられぬか」
「ありうることだな」
「と思ったら、なぜおとめせぬ」
「ダリューンよ、おれはけっこうあの王子の器量に期待しているのだ。そしてその期待に忠実でありたいと思っている」
まばたきするダリューンに、ナルサスは笑いかけた。
「いずれ、カーラーンの口からでなくては、裏面の事情を知りようもない、獅子《シール》の子をとらえるためだ、獅子《シール》の巣にはいりこむのも、ときにやむをえぬだろうよ」
ダリューンはわずかに眉を動かした。
「おぬし、王子が村を救いにいかぬときは、君主たるの資格なしとみなして、見はなすつもりだったのではないか」
ナルサスは、口に出しては答えなかった。人が悪そうに笑っただけである。だがその表情は友人の明察をはっきりと肯定していた。
X
「流《る》浪《ろう》の楽士」と自称するギーヴは、王都エクバターナを脱出した後、馬を手にいれた。最初は近村の農民から買いとろうとしたのだが、ルシタニア兵に食糧や羊ともども掠奪されたと聞いて方針をあらため、伝令兵らしい単騎のルシタニア兵と剣をまじえて、無料で手にいれたのである。ついでに財布と、黄金のかざりのついた腰帯をちょうだいしたのは、力仕事に対する正当な報酬であった――と、ギーヴ自身は思っている。
その人物とギーヴがすれちがったのは、偶然とばかりはいえない。ルシタニア兵と出あうのをさけて旅をすれば、たどるべき道も時刻も、おのずと制限される。
馬と馬ですれちがうとき、たがいに距離をおき、いつでも剣を抜けるようにしたのは、当然の用心であった。半月の夜、七、八ガズの距離をおいていたため、最初、ギーヴは気づかなかった。男装《だんそう》の女と気づいたのは、風向きが変わって、女の体香を夜風が運んできたからである。ギーヴは馬上でふりかえって観察した。
頭部は絹布でつつんでいるが、闇《やみ》をとかして染めあげたような漆黒《しっこく》の髪は、腰の下までとどく長さである。瞳は初夏の万緑《ばんりょく》を映したように濃いあざやかな緑であった。それとわかったのは、女のほうでも肩ごしにふりかえったからで、これはギーヴとはまったくことなる理由からであったにちがいない。ギーヴの視線をうけると、馬の足をはやめて彼から離れていく。
しばらくの間、ギーヴは、半ば呆然《ぼうぜん》として、月下に遠ざかる女の後姿《うしろすがた》をながめていたが、やがて平手でひざをたたいた。
「うん、めったにいない、佳《い》い女だ。若い分、あの嘘つき王妃さまを上まわるな」
ギーヴはいそがしく思案をめぐらせた。彼にはさしあたり行動する目標ができたのだ。
「あの美女が、悪党どもに襲われる。そこをおれが助けると、当然ながらおれに感謝と敬愛の念をいだく。そして何か形としてお礼をしなくては、と考える。そうなるだろう。そうなるといい。そうなるべきだ」
勝手に決めこむと、ギーヴは適度の距離をおいて女の後方から馬をすすめた。
機会はほどなくやってきた。王都の陥落以来、ルシタニア兵の跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》は当然ながらさらにはげしく、数騎が隊をくんでほしいままに殺人や掠奪をおこなっている。ギスカール公から、良民を害さぬようにとの布告は出ているが、徹底しないことおびただしかった。
糸杉の並木の間から、七、八騎の黒い影があらわれ、女の行手をさえぎろうとしたのである。女に投げかけられるルシタニア語には、はなはだ下品そうなひびきがあった。
女はわずらわしげにかるく馬の腹をけった。馬はよく訓練されているらしい。騎手の意図をのみこみ、ルシタニア兵たちが反応するよりはやく疾走を開始した。あっという間に三十ガズほどもひきはなされたルシタニア兵たちが追いはじめたとき、女は馬上で満月のように弓をひきしぼっている。
つぎの瞬間、月光そのものが矢の形となって騎士に突きささったようにみえた。
射ぬかれた咽喉《のど》から、わずかな叫びと血をほとばしらせて、騎士は路上へと転落する。
一瞬の驚愕からたちなおると、他の騎士たちは怒りの叫びと剣光をはしらせて女に肉迫した。否、そうこころみたのだが、弓弦《ゆみづる》のひびきが夜気をひきさくと、またしても一騎が空をけりつけながら鞍上《あんじょう》から砂《さ》塵《じん》のなかへ落ちていく。さらに一矢がはなたれ、三頭めが騎手を失った。
「こいつはいかん」
ギーヴは予定よりいささか早く、馬を躍らせて街道へとびだした。このまま手をつかねていては、女に恩を着せる機会を失ってしまう。馬《ば》蹄《てい》のとどろきにふりむいた最初のルシタニア兵がまず犠牲者となった。
ルシタニア兵の左肩から胸まで、一刀でギーヴは斬りさげた。絶叫と血しぶきを半月へむけて高くはねあげ、ルシタニア兵は馬上から吹きとんだ。
あらたな、しかも軽視しえぬ敵の出現が、ルシタニア兵たちをおどろかせた。ギーヴには理解できない異国語がとびかい、剣と馬が左右に散開する。ギーヴを三方からおしつつもうとしたのだが、その意図はギーヴの迅速さにはばまれた。ひとりが頸動脈《けいどうみゃく》から弓なりに鮮血をほとばしらせ、ひとりが鼻梁《びりょう》を撃ちくだかれてのけぞる。
のこった二騎は、もはや名誉などに執着しなかった。馬を走らせる方向をそのままに、速度をあげて街道の彼方の闇へ逃げこんでしまう。冷笑まじりに見送ったギーヴが、ふりむいてややあわてた。女がそのまま馬をすすめてその場を去りかけていたからである。これはおおいに予定とことなる。
「お待ちあれ、そこのご婦人!」
大声でよびかけた。だが、聞こえなかったのか、無視するつもりか、女は馬の歩みをとめようとしなかった。
「そこの美女……」
さらに声を大きくして、よびかけたが、女は反応しない。
「そこの絶世の美女!」
はじめて女の歩みがとまった。ゆっくりとギーヴをかえりみる。月影をななめからうけた端整な顔が、ごく平静な表情をうかべて、
「わたしをよんだか?」
さすがのギーヴが、ごくわずかな時間ながら、反応の選択にとまどっていると、女がことばをつづけた。
「ただの美女というならともかく、絶世の美女といえばそうはおらぬゆえ……」
けろりと自分の美貌を肯定する態度が、奇妙にいやみがない。ギーヴは何となしにうれしくなり、ようやく彼らしいことばを発することができた。
「いや、あなたの美しさにくわえ、武芸のさえ、まことに感服いたしました。わが名はギーヴ、住む家もなき旅の楽士ながら、美を愛《め》でる心は王侯貴族にもまさるものとうぬぼれている。いま、とぼしい詩心《しごころ》をふるって、あなたを賛美する詩をつくったところだ」
「…………」
「その姿は糸杉のごとくすらりと伸び、黒き髪は夜空の一部を切りとり、瞳は緑玉《エメラルド》をしのぎ、唇のあでやがなることはバラの花びらが朝露にぬれるに似て……」
「おぬしは吟遊《ぎんゆう》詩人としては独創性に欠けるようじゃな」
冷淡に女がいうと、ギーヴは頭をかいた。
「まあ、詩人としてはたしかに未熟でござるが、かさねていえば、美と正義を愛する心は、いにしえの大詩人にもおとらぬつもり。であればこそ、つごうよくあなたをお救いできた」
「いささかつごうがよすぎると思うのだが、時機をみはからっていたのではないか」
「それは邪推《じゃすい》というものだ。わが守護神たるアシ女神が、あなたと私とに加護をたれたもうた結果、罰あたりのルシタニアの蛮族《ばんぞく》どもが不信心のむくいをうけたまでのこと。天が正義を嘉《よみ》したとはいえまいか」
女は苦笑したようである。ギーヴが名をたずねると、あっさり答えてくれた。
「わたしの名はファランギース。フゼスターン地方のミスル神の神殿につかえる者じゃ。女神官長より使者として王都エクバターナにつかわされてな」
「ほう、ミスル神! おれはアシ女神につぐ尊敬をミスル神に対しておはらい申しあげている。ファランギースどのとは、ただならぬ因縁があるにちがいない」
ギーヴのうわついた声を美しい女神官は無視した。
「だが聞けば王都はすでに陥《お》ちたという。すごすご帰るわけにもまいらず、とにかく今夜の宿を、と思うておるうち、ルシタニアの犬どもに出おうてしもうたのじゃ」
「どのようなご用が王都におありだったのかな」
「王太子アルスラーン殿下のもとへまいろうとしておったのじゃ。ひとつたずねるが、王太子殿下のご所在を、尊敬すべき楽士どのはご存じかな」
「いや、存じあげぬ――が、ファランギースどのがおさがしであれば、力をお貸しすることもできよう。それにしても、なぜアルスラーン殿下をおさがしか」
「わたしどもの神殿は、アルスラーン殿下ご誕生のさい、殿下の御《おん》名《な》をもって寄進されたもの。ゆえに、殿下の御《おん》身《み》にことあるときは、神殿につかえる者のうち武芸をこととするものがお助けせよ、と、この春なくなった先代の女神官長が遺言なさったのじゃ」
黒い髪をファランギースはゆらした。
「遺言などのこす者は、のこされるほうの迷惑など考慮せぬものじゃ。で、条件にかなう者のなかから、わたしが選ばれたのだが、これはわたしがもっとも武芸すぐれたものであるからばかりではない」
「というと?」
「わたしのように美しくて学問にも武芸にも練達した才女は、同僚にねたまれるのでな」
「……なるほど」
「このさい故人の遺言を実行させるという名目で、わたしを神殿から追い出したわけじゃ。得心がいったかな、楽士どの」
ファランギースのいうことをうたがいはしなかったが、ギーヴには多少の想像をはたらかせる余地があった。好色な神官にせまられて、したたかに|ひじてつ《ヽヽヽヽ》をくわせ、神殿にいづらくなったのかもしれない。いかに武芸に通じているにせよ、女ひとりが派遣されるには危険すぎる使命である。
「いっそ、ファランギースどの、不本意な任務などうちすてられればよろしかろうに」
「いや、いずれにしてもルシタニア人どものやりよう、わたしは好かぬ。わたしはミスル神につかえる者だが、いやがる者に信仰を強制したおぼえはない。彼らをパルスから追い出せるものなら、そうしたいのじゃ」
ギーヴは大きくうなずいた。
「ファランギースどののおっしゃること、もっとも。おれもまったく同感だ」
「口先だけのことではないのか」
黒髪緑眼の美女の声は辛辣《しんらつ》だが、ギーヴにはこたえたようすもない。
「いや、口先だけのことではないぞ。ルシタニア人が自分らの神を他の宗派にもおしつけようとするやりかた、おれにも気にくわぬ。たとえていえば、髪は黄金色、目は青、肌は雪白の女のみを美女とあがめ、他の女を美女とは認めぬ、と、そういうやりかただ。美しいと思うも貴重と感じるも人それぞれで、強制されるものではないはず……」
ギーヴは熱弁を中断した。ファランギースが目をとじ、小さな水晶の笛を口にあてているのに気がついたからだ。何の音《ね》色《いろ》もきこえなかったが、半月の光にてらしだされた、|絹の国《セリカ》の陶器に似た白い顔を、ギーヴはほれぼれとながめた。と、ファランギースは目をあけ、笛を口からはずすと、あらためてギーヴを品さだめするように見やった。
「……そうか、ではよかろう」
何者かの声に応じるようにそう言った。
「精霊《ジン》どもが言うには、おぬしがルシタニアをきらう心にかぎっては、いつわりはないそうじゃ」
「おれにはさっぱりわからぬ」
「そうであろうな」
ファランギースの声には愛想がない。
「赤ん坊には人の声は聴こえても、ことばの意味はわからぬ。おぬしもそれと同じじゃ。風の音は聴こえるが、それにのる精霊《ジン》のささやきはとうてい理解できまいな」
「なるほど、おれは赤ん坊か」
「納得するでない、たとえが悪かったようじゃ。おぬしは赤ん坊にしては邪気が多すぎる」
ファランギースの白い指先に、小さな水晶の笛がはさまれている。精霊《ジン》を呼ぶためのものであろう。
「いずれにしても、おれの誠意は認めてもらえたわけだ。どうだろう、ファランギースどの、なべて人と人との出会いは因縁の糸によるもの。あなたと行動を共にしたいと思うのだが」
「好きにするがよい。ただしわし同様、アルスラーン殿下に忠誠を誓うなら、だが……」
「おれの忠誠心はあまり量がないのでな、さしあたりファランギースどので手いっぱいだ」
「わたしには、おぬしの忠誠心など必要ない」
「そういう言いかたは、つれなかろう。ファランギースどのとおれとの仲ではないか」
「どんな仲じゃ!?」
高まりかけたファランギースの声が急に静まった。ギーヴも口をとざし、耳をそばだてた。どちらからともなく馬を街道わきのポプラの林にいれる。夜の街道を疾駆する騎兵の大集団の姿が王都の方角からわきおこり、数分にわたって彼らの視界を占拠《せんきょ》しつづけた。
「あれは万騎長《マルズバーン》カーラーンの軍だ」
陣頭にルシタニアの旗をかかげたパルス兵の集団といえば、他にはない。馬蹄のとどろきと砂塵が月下に遠ざかるのを見送ると、美しい女神官は不敵につぶやいた。
「あの者たちのうちに、アルスラーン殿下のご所在を存じておる者がいるかもしれぬな。ひとつためしてみようか……」
Y
その日、昼のうちに、カーラーンのひきいる一隊はひとつの村落を焼き、五十人からの村人――男だけであったが――を火中に投じた。「もしこれ以後、アルスラーン王子とその一党をかくまえば、女子供も皆殺しになると思え」との一言が、灰と憎《ぞう》悪《お》と悲哀とともに残された。
カーラーンにしてみれば、もはや底まで毒杯《どくはい》をのみほすしかない。このような殺戮をくりかえすことで、アルスラーンとその一党を追いつめ、ルシタニア軍の信頼をあつくするのが唯一の選択であった。
陽がしずみ、宿営しようとする時刻、ひとつの報告がもたらされた。馬の背にしがみついた半死半生の男が荒野をさまよっているのを発見されたのである。その男は、アルスラーン王子の一党に荷物はこびとしてやとわれたが、荷物を盗もうとして見つかり、鞭でさんざんなぐられて、翌日には殺されるというので必死に逃げだしてきたというのである。
カーラーンは男の傷口をあらためさせた。もしかして彼を罠にかけるためのいつわりの傷ではないかと考えたのである。しかし、身体じゅうに走る無数の傷はほんものであった。カーラーンはみずからその男を尋問した。
「アルスラーン王子の一行は何人だ?」
「たった四人でさ」
「嘘をつくな、その百倍はおろう」
「ほんとうでさ、しかもそのうちふたりは子供で……だからこそ、おれを荷物持ちにやとったんで」
「で、王子らはどちらの方角へ行った?」
「南でさ」
ひととおり尋問が終わると、男は、密告の報賞を求めた。「よかろう」とうなずいたカーラーンは、にわかに剣の鞘《さや》をはらうと、男の首をはねてしまった。砂上にころがった生首に、カーラーンははきすてた。
「しれ者め、その策《て》にのるか」
そして、男がつげたのとは反対の方角、北への進軍を命じた。男がナルサスの命令で、カーラーンのもとへきた間者《かんじゃ》だと彼は考えたのである。傷をうけたのも、カーラーンを信じこませるための詭《き》計《けい》であろう。
カーラーンは知る由《よし》もない。ある村に立ちよったアルスラーン一行が、ことさら信用のおけそうもない男を選んで荷物持ちにやとったことを。そして、鞭うたれた男がカーラーンの部隊の方角へ姿を消してから、彼らも針路を転じて、南から北へむかったことを。そして北へむかう姿を、ことさら人目にさらしたことを……。
すべてナルサスの策略であった。カーラーンの部隊は北方の、森林と山岳が錯綜《さくそう》する地域へ、みずから求めてさそいこまれていった。しかもすでに夜である。騎兵の大部隊にとっては、まことに不利な条件がかさなりつつあった。
夜半すぎ。すべての手配を終えたナルサスは、山道を一列になって進むカーラーンの部隊を、森のなかからながめて微笑した。なまじ頭のきれる者ほど、彼の掌《てのひら》の上でよく踊ってくれる。
敵軍が通過すると、彼はつないでいた馬のところにもどろうとした。急に足をとめ、腰をうかせたのは、ある気配が殺到してきたからである。
ナルサスはとびすさった。水平にひらめいた剣光が、彼の上着をかすめて、数本の織糸を宙に飛散させる。
さらにとびすさったとき、ナルサスは剣をぬきあわせ、銀色の斬撃をうけとめていた。耳をさす金属音とともに火花が飛散した。二合めは未発におわった。双方が予期した敵を見出しえず、刃《やいば》をひいたからである。
「ルシタニア兵ではないのか?」
若い女の声が、わずかな香水のかおりとともに、さすがにナルサスをおどろかせた。
「おぬし、何者だ」
と問いかけて、すぐ自分のほうから「アルスラーン殿下につかえるナルサス」と名のった。彼の直感したとおり、反応はすばやかった。
「失礼した、わたしはファランギース、ミスル神につかえる者。アルスラーン殿下にお力ぞえしたく参上《さんじょう》した。ずっとカーラーン公の部隊をつけてまいったのだ」
「ほう……」
ナルサスには精霊《ジン》の助力はない。彼がファランギースを信じたのは理性によってである。彼女がカーラーンの党派なら、大声をあげてナルサスの所在を知らせればよいのだ。
「アルスラーン殿下にお味方するというのか」
「いかにも」
ことばには色気はないが、声は音楽的なまでに美しい。
「では協力しろ。これから裏切り者のカーラーンをとらえてアルスラーン殿下のもとへつれていく」
「わかった。ひとつうかがいたいが、いまアルスラーン殿下におつかえしているのは幾人か」
美女の問いに、ナルサスは平然と答えた。
「おぬしらをいれて五人になったところだ」
背後にギーヴがいることを、ナルサスは気づいていたのである。
誰かが叫び声をあげ、カーラーンの部隊はざわめいた。最初に一本の、ついで十本ほどの指が崖の上をさししめした。青ざめた半月の光に身をさらして、アルスラーンがひとり馬を立て、隊列を見おろしていたのである。
「アルスラーン王子だ、殺せ! 奴の首には金貨《デーナール》十万枚がかかっているぞ」
その賞金が高いか否か、アルスラーンには判断がつかなかったが、カーラーン麾下の騎士たちには、生命と等価以上の大金である。欲望と興奮の叫びをあげると、馬をあおって、急な斜面を駆けあがりはじめた。精悍《せいかん》なパルス馬でも、この突進を持続するのは容易ではなく、たちまち隊列がくずれる。先頭の馬があえぎながら崖上へたどりついた瞬間、アルスラーンの剣が騎士の胸をつらぬきとおした。剣尖《けんせん》が背中からとびだし、鍔《つば》が胴《どう》衣《い》のボタンにぶつかって音をたてるほどの勢いであった。
アルスラーンは剣をひきぬいた――というより、死者の身体が、自分の重量でかってに落下していった。死体は斜面をころげ、それをよけようとした馬がさお立ちになり、均衡をくずして転落する。
夜の闇と、足場の悪さが、彼らを混乱におとしいれた。アルスラーンは単なる囮《おとり》として以上の役割をはたした。弓をとって、つづけざまに矢を射こんだ。カーラーン軍は密集しており、回避することができなかった。アルスラーンは六本の矢を放ち、四本が命中し、そのうち二本が敵を負傷させた。のこる二本は、すさまじい勢いで斜面を躍りあがってきた騎士をねらったのだが、水車のごとくふりまわされる槍でたたきおとされてしまったのである。「王子!」と呼びかける声は、カーラーンのものであった。王子は息をのみ、弓をなげすてて、裏切り者の万騎長《マルズバーン》に相対した。
「カーラーン、おぬしに尋ねたい」
声に緊張がはらまれるのを、アルスラーンは自覚した。
「万騎長として、いや、それ以前からパルス国の戦士として誰にも後ろ指をさされたことのないおぬしが、なぜルシタニアの侵略者などにひざを屈したのか」
「…………」
「欲につられたとも思えぬ。理由があるならぜひ聞かせてくれ」
「知らぬがおぬしのためだ、アンドラゴラスの呪われた息子よ」
カーラーンの声には、単なる嘲弄《ちょうろう》とよぶには陰惨にすぎるひびきがあった。アルスラーンをにらむ両眼も、どこやら鬼火に似た光をたたえている。
「このカーラーンを醜悪《しゅうあく》な裏切り者と信じて死んでいくがいい。忠臣に殺されようと、裏切り者の手にかかろうと、死は死、ことなるところがあるでもない」
戦慄《せんりつ》の風が、アルスラーンの身心にまつわりつく疑惑の蔦《つた》を吹きとばした。カーラーンの身体がふくれあがったように見えた。圧倒的な戦士としての力量の差が、アルスラーンには視覚でとらえられたのだ。
おびえたような鼻息が、アルスラーンの乗馬からもれた。騎手の心を、馬が増幅《ぞうふく》してうけとめたようであった。
カーラーンは低い鬨《とき》の声をはなつと、乗馬をあおって突進してきた。持主とおなじく古い戦歴をほこる巨大な槍が、王子の心臓めがけてくり出される。
半ば本能的に、アルスラーンははねかえした。槍先はそれて宙に流れたが、剣をふるった王子の手は、肘《ひじ》までしびれた。
「こざがしい!」
怒号とともに、第二撃がおそいかかった。
第一撃を受けたのが奇《き》蹟《せき》に近いとすれば、第二撃を回避したのは奇蹟そのものだった。だが、天なり運命なりのえこひいきもそこまでだった。第三撃は微弱な抵抗をはねとばしてアルスラーンの身体の中心をつらぬきとおすはずだった。それを永久に停止させたのは、ダリューンの声である。
「カーラーン、きさまの相手は、このおれだ!」
彼が予定より遅れたのは、森のなかをすすむとき、二日ほど前の雨でできた泥沼に道をはばまれたからであった。
カーラーンの顔が失意にゆがんだ。あきらかに彼は、アトロパテネの野でダリューンの鋭鋒《えいほう》に屈した記憶をひきずっていた。目の前の貴重な獲物を、カーラーンは断念した。馬首がひるがえり、アルスラーンの眼前にせまっていた死は、急速に遠ざかった。
「殿下、ご無事で!」
その一声を投げかけて、人馬一体となった黒い影が、アルスラーンの周囲に敵兵の死屍をおりかさねていった。
背後からダリューンの背へ槍を突きさそうとした騎士が、絶叫をはなって馬上からもんどりうった。ファランギースの射放った矢に横面をつらぬかれたのである。
狼狽《ろうばい》した騎士たちの間に、二騎の黒影が躍りこんだ。
ナルサスもギーヴも、誕生したばかりの仲間の剣技を、眼前で確認することになった。
刃音と血しぶきが連《れん》鎖《さ》した。
数頭の馬が、たちまち鞍上を空にして、闇のなかへ逃げさっていく。半数は崖を走るのに失敗して、悲鳴とともに転落していった。
カーラーンの部下たちにとって、おそらく最悪の夜であったろう。彼らの敵は驍勇であるだけでなく、おそろしく狡猾《こうかつ》であった。混乱と闇と地形を味方にして、カーラーン軍のなかへ躍りこみ、四方に死をまきちらしては、人馬の渦からとびだして夜の衣の下へ姿を消す。二度三度とそれがくりかえされ、カーラーン軍の秩序は致命傷をこうむった。もはや隊列のたてなおしようもない。
「ダリューン、おぬしはカーラーンを追え!」
あらたな犠牲者を血しぶきの下にのけぞらせておいて、ナルサスが叫んだ。うなずきを返して、ダリューンは黒馬の腹をけりつけ、馬蹄に小石と土くれをはねかえしながら、逃げるカーラーンを追いにかかった。
馬首をめぐらして襲いかかってくるカーラーンの部下がいたが、長槍でひとりを突きおとし、ひとりをはねあげると、夜風に散る人血をよけもせず、カーラーンに肉迫し、するどく叱《しっ》咤《た》をあびせかける。
「年《とし》端《は》もいかぬ少年を相手どるだけが、きさまの武勇か。ルシタニア人につかえる以前の、きさまの勇名はどこへいった。この恥さらしな逃げようは、まことに、音にきこえたカーラーンのものが!?」
挑発は効果をあらわした。傷ついた矜持《きょうじ》が、カーラーンを激させたのだ。
「青《あお》二《に》才《さい》、つけあがるな!」
怒号するなり、自分の槍をふるってダリューンの槍をはらいのけた。すさまじいほどの衝撃であった。ダリューンの身体も槍も空に流れて風をうみ、黒馬までが足どりをみだしてわずかによろめいた。あやうく、急斜面からとびだしかけてふみとどまる。
すかさず、カーラーンの槍が、ダリューンの顔面めがけて突き出される。ダリューンは乗馬の体勢をたてなおしつつ、その猛撃を間一髪《かんいっぱつ》ではねかえした。
カーラーンの部下たちが、おどろいて両者の間に割ってはいろりとしたが、すでに人と人、馬と馬、槍と槍の激突は、他者をまじえるだけの空隙《くうげき》を消しさっている。突く。なぐ。はらう。撃ちこむ。はじきかえす。火花は半月の光をうけて青白く散乱した。
さすがにカーラーンは万騎長《マルズバーン》となるだけの武人だった。心に怯《ひる》むことさえなければ、ダリューンに劣らぬ勇猛を発揮することができるのである。
だが、カーラーンの部下たちは、主人ほどの闘志を持続できなかった。したたかに斬りちらされ、射すくめられて、敗者を保護してくれる夜の懐《ふところ》の奥へ逃げさってしまう。ひとつには、まさか敵が一桁《ひとけた》の人数だなどとは思わなかったのである。
アルスラーンが馬をとばして決闘の場にかけつけ、危惧《きぐ》の念をこめて見まもっていると、ナルサスが血刀をさげたまま馬を寄せてきた。
「大丈夫です。殿下、ダリューンの勝ちは動きませぬ。ですが、このままでは生かして捕えるだけの余裕がなくなるかもしれませんな」
ナルサスの観察は正確だった。ダリューンにくらべてカーラーンの槍と身体の動きが、やや重くなったと見えた瞬間、最初の血がカーラーンの左頬から散った。
ダリューンの槍先が、敵手の頬から肉をそぎとったのである。深《ふか》傷《で》ではなかったが、噴きだした血はカーラーンの目にはいって、視力をうばった。
ダリューンの槍が電光のはやさで突きだされる。アルスラーンは息をのんだが、ダリューンは自分の役目を忘れてはいなかった。槍の穂先でなく石突《いしづき》が、したたかにカーラーンの脇腹をつき、均衡をうしなったカーラーンの身体は、馬上から一転して地表にたたきつけられていた。
そこまではダリューンの計算とナルサスの期待どおりであった。それを裏切ったのは、急峻《きゅうしゅん》な地形とカーラーンの槍である。カーラーンの手ににぎられたまま、斜面上の石をついた槍は、音たかく折れ、しかも完全には折れず奇怪な角度にねじまがって、その穂先が所有者の頸《けい》部《ぶ》をななめにつきとおした。
馬からとびおりてダリューンがかかえおこしたとき、カーラーンはすでに半ば息たえている。槍が首の左右からつきでたままの姿で、しかし両眼は鈍い光をたたえて、なおひらかれていた。
「王はどこにおられる?」
必死の問いを、ダリューンは死にゆく者の耳にそそぎこんだ。
「アンドラゴラスは生きておる……」
声というよりそれは喘鳴《ぜんめい》である。
「だが王位はすでに奴のものではない。正統の王が……」
声のかわりに、赤黒い血の塊《かたまり》が咽喉をふさぎ、みじかいがはげしい痙撃《けいれん》の後に万騎長《マルズバーン》カーラーンは絶息した。
「正統の王だと……?」
ダリューンと、ちょうどそのときかけつけたナルサスは顔を見あわせた。
彼らが思いださざるをえなかったのは、アンドラゴラス王が即位した事情である。兄王を弑逆《しいぎゃく》して自分が王位をえた――すなわち簒奪者《さんだつしゃ》ではないか、との非難は、ごく小声ながら当時からささやかれていた。だが、強大な国軍の支持をうけたアンドラゴラスは、近隣諸国との抗争に勝利をかさね、それによって国内をうるおしもしたので、いわば実効的な支配が王権の正統性を証明することになったのである。
ふたりにくらべて馬術の練達度でおとるアルスラーンが、このときやっと馬をよせて、ふたりに視線でといかけた。
「アンドラゴラス王は生きておられる由にございます。それ以上のことは、残念ながら聞きだせませなんだ」
ナルサスが答えると、アルスラーンは、カーラーンの死体を地上に横たえているダリューンを見やった。若い黒衣の騎士は沈黙していた。カーラーンの残したことばの後半をナルサスは王子につたえなかったが、その判断に彼も賛成だった。十四歳の少年には、消化しがたいことばであろう。
ダリューンがようやく声を出してはげました。
「殿下、生きておられれば、いつかはお会いできましょう。それに、ルシタニア軍が今日まで王を生かしているとすれば、相応の理由があるはず、この先もむげに害を加えることはございますまい」
アルスラーンがうなずいたのは、心から納得したというより、ダリューンを心配させないためだった。
ナルサスが、このときふたりの若い男女を、王子に紹介した。まず、腰までとどく髪の、美しい女がうやうやしく一礼した。
「アルスラーン殿下でいらっしゃいますか、わが名はファランギース、フゼスターンのミスル神の神殿につかえていた者でございますが、先代の女神官長の遺言により、お味方になるべく参上いたしました」
若い男がつづいて名のった。
「わが名はギーヴ、殿下におつかえせんものと、王都エクバターナより脱出してまいりました」
これはまっかな嘘であるが、うたがわれるよりもはやくギーヴは事実をのべて王子の信頼をえる策にでた。
「殿下、ご母《ぼ》堂《どう》であらせられるタハミーネ王妃さまは、私が脱出するまではご健在でした。私は王妃さまよりしたしくおことばをたまわる栄に浴したものでございます」
将来のことは将来のことである。もともと、もめごとは大好きなのだ。さしあたり、ファランギースのそばにもいられるし、ルシタニア兵を剣先にかける大義名分も手にはいる。窮屈になったら逃げだせばよいのだ。そうギーヴは達観している。
やや離れてたたずんだダリューンが、友人に苦笑まじりにささやいた。
「四人が六人。まあ戦力が五割増大したわけではあるが、はたして信頼をよせていいものかな」
「ルシタニア軍が三十万いるとして、ひとりで五万人かたづければいいわけだ。ずいぶん楽になったではないか」
ナルサスは太平楽をならべているわけではない。これまでの立場がいかに困難なものであり、これからもさして改善が望めないことを、彼らしく皮肉ったのである。
それにしても、王と王妃の所在を確認するために、どうやら本格的にエクバターナに潜入する必要があるようであった。
[#改頁]
[#目次5]
第五章 玉座《ぎょくざ》をつぐ者
T
水滴にまではなりえないひえびえとした湿気が、石の壁にはりついている。
陽光のめぐみをうけない地下の一室であった。おとなの両手にもあまるほどの巨大なランプが、十ガズ(約十メートル)四方ほどもある部屋の中心部だけを照らしだしている。
いくつかの棚に、書物、薬剤、そのほか魔道に用いられるさまざまな品物がならべられている。それは、ネズミの胎児であったり、毒草《どくそう》の粉であったり、硫黄をかためたロウソクであったり、切断されて酒精《アルコール》にひたされた人間の手であったりする。
銀仮面の男が石の床にたたずんでいた。彼は客人であったが、さほど厚遇をうけてはいなかった。部屋の主である暗灰色《あんかいしょく》の衣の老人は、自分だけ樫《かし》の椅子にすわり、非礼を正当化するように、声を発した。それはさびた鉄ばりの車輪がきしる音に似ていた。
「わしだけがすわっておるからとて、とがめるでないぞ。あの術がどれほど体力の消耗を必要とするか、知らぬおぬしではあるまい。谷や山あいでなく平原に霧をおこし、近隣に敵なきパルス騎兵を昏迷《こんめい》せしめたのじゃからの」
「しゃべる力は充分に残っているようだな」
銀仮面の男は冷淡に評した。
「そんなことより、わざわざおれを呼びだてした用件について話したらどうだ」
「おお、それじゃて」
ひからびた声にわずかな音律《おんりつ》がともなった。
「おぬしにはうれしくない知らせであろうがな、カーラーンが死んだぞ」
銀仮面の男が一瞬、身をかたくした。両眼からもれる光が強さをました。反問しなかったのは、その必要を認めなかったからである。
「だまってアンドラゴラス王に忠義をつくしておれば、誉《ほまれ》たかいパルスの武将として生をまっとうしえたものを、おぬしに加担したばかりにあわれなことよの」
よそおわれた同情には関心をしめさず、銀仮面の男は声をおしころした。
「カーラーンは、おれによくつくしてくれた。彼の遺族は、おれが責任をもってとりたててやろう」
それからひと呼吸をおいて、
「カーラーンを殺したのは誰だ。仇《かたき》をとってやらねばならぬ」
「そこまではわからぬ。いうたであろう、わしの力が完全に回復するまで、今年いっぱいはかかるとの」
「よい、いずれアンドラゴラスの小せがれの一党であることはうたがいないのだからな。これでますます、アンドラゴラスの小せがれめは、おのれの生きる道をせばめることになるだろう」
銀仮面の男が、目に見えぬ何者かにむかって宣告すると、やせた老人は奇怪な声で笑った。
「やれやれ、不吉なことじゃ。誰にとってもっとも不吉かはわからぬがの」
銀仮面が表情をあらわすことができるとすれば、このときその所有者はあきらかに不快そうであった。ただ、彼は、老人と相対するときの不快さになれているようで、態度は平静をたもっている。
「そのようなことより、心するがよい。おぬしに敵対する者が近くにきておるぞ」
「おれに敵対する者?」
危険な眼光が銀仮面からほとばしって、老人のしわだらけの顔にはじけた。
「アンドラゴラスの小せがれか?」
「いや、ちがう。だが、それに近しい者じゃ。ひょっとするとカーラーンを手にかけた輩《やから》かもしれぬな」
無言で立ちあがる銀仮面を、老人は、濃い煙をすかすような目つきでながめやった。
「仇をうつつもりもよいが、相手はひとりではないぞ」
「何人いようと同じことだ」
「一対一なら闘ってもよいが、一対二なら避けることじゃ、おぬしの剣技をもってしても、ふたりを同時に相手どることはかなわぬぞ」
「…………」
「世のなかに、強者はおぬしだけではない。パルスの太陽はおぬしひとりのためにのみはかがやかぬ。自信と過信は、夜と闇《やみ》のようにわかちがたいものであるからの」
銀仮面の男はうなずいたが、半ばは形式、半ばは反射がそうさせたもののようであった。やがて銀仮面の男が立ちさると、老人は、男がテーブルにおいていった牛革《ぎゅうかわ》の小さな袋をあけ、金貨《デーナール》の数をかぞえた。たいして執着《しゅうちゃく》はなかったのであろう、無《む》造《ぞう》作《さ》にむきだしの金貨を机の抽斗《ひきだし》に放りこむと、ぶつぶつとひとりごとをつぶやいた。
「あやつには、金貨がめあてと思わせておいたほうがよい。蛇王ザッハークをよみがえらせるためには、パルス全土の大地をおおう流血が必要なのじゃ。いずれザッハークさまの餌《え》食《じき》となるのであれば、パルスの王が何びとであろうと、いっこうにかまわぬが……」
老人は片手をあげて天井からたれさがった紐をひいた。一枚の、古い羊皮に描かれた絵が、壁面に巻きおろされてきた。
王冠をいだいた、浅黒い顔と赤い両眼をもつ男の肖像が、老人の前にあらわれた。銀仮面の男に対したときとは別人のようなうやうやしさで、老人は一礼した。
「わが主ザッハークよ、いますこしおまちあれ。主の僕《しもべ》たるこのほうは、主が再臨《さいりん》なさるために日夜努めておりますれば……」
蛇王ザッハークの名を知らぬ者は、この国にはいないであろう。生まれたばかりの赤ん坊でもないかぎり。それはいにしえに地上を支配し、悪虐《あくぎゃく》のかぎりをつくした魔王の名である。聖賢王《せいけんおう》ジャムシードをのこぎりで切り殺し、死体の肉片を海にばらまき、その富と権勢のすべてをうばった。
ザッハークの両肩からは、黒い二匹の蛇がはえていた。「蛇王」の名のゆえんである。この蛇は人間の脳を餌としており、ザッハークの在位中、毎日ふたりの人間が、貴族《ワズルガーン》や奴隷《ゴラーム》の区別なく殺され、蛇に脳を食われた。恐怖の治世は千年にわたってつづき、世は荒廃し、人々は恐怖の枷《かせ》をはめられたまま生まれ、絶望の首輪をはめられて死んでいった。四十回にわたって世代が交替し、ついに蛇王の支配が終わるときがきた。パルス王朝のはじまりである――
老人は、肖像画に描かれた二匹の黒蛇が、ザッハークの両肩から鎌首をもたげるさまを、崇拝の目でしばらく見まもった。それから大儀そうにやせおとろえた身体を動かして、冷たくしめった空気のなかを、深海の奇怪な魚のようにおよぎまわった。やがて、岩のひびわれに似た唇がひらいた。
「グルガーン」
老人はせきこむように何者かをよんだ。
「グルガーン!」
「はい、尊《そん》師《し》、ここにひかえております」
こたえる声は、部屋の暗い一隅《いちぐう》から流れだしてきたが、こたえる者の姿は見えない。だが、老人は気にするようすもなく、やや性急に命じた。
「汝の他六人を、すぐに呼んでまいれ。アトロパテネ以来、兵士と人民とあわせて百万人ほどが死んだが、まだたりぬ。パルスの民二千万、せめて半分は大地に血を吸わせねば、わが主たるザッハークさまの再臨はかなわぬわ」
「いますぐにでございますか?」
「できるだけはやくじゃ」
「……かしこまりました。尊師のおおせのごとくいたします」
声は急速にしぼみ、空気を構成する微粒子のなかにとけこんだ。老人はしばらく無言でたたずんでいたが、不吉なよろこびを目と口もとにたゆたわせた。
「蛇王ザッハークの栄光をさまたげる者どもに呪いあれ……」
U
市場《バザール》の再開にみられるとおり、王都エクバターナは、ルシタニア軍の占頷下におかれて以後、それなりの秩序をもちはじめていたが、流血はなお乾きを見せなかった。
暴動によって城内を混乱させ、ルシタニア軍の侵入に呼応した奴隷《ゴラーム》たちは、当然ながら、報賞《ほうしょう》をもらえるものと思っていたが、ルシタニア軍はみごとに掌《てのひら》をかえしたのである。
「これらの財貨は、ことごとくルシタニア国王イノケンティス七世|陛《へい》下《か》の御《おん》手《て》に帰するもの。きさまらごときの手にゆだねられてよいはずがあろうか」
一時期、貴族《ワズルガーン》や富豪の邸宅にはいりこんでさまざまに復讐の快感をむさぼっていた奴隷たちは、ルシタニア軍によって、それまでとじこめられていたみじめな奴隷小屋へ追い返され、鎖でつながれた。抗議に対しては、鞭《むち》と怒声がふってきた。
「たわけめ。光栄あるイアルダボート神の使徒たる吾らが、いやしい異教徒の、しかも奴隷であるきさまらと、成功をわかちあわねばならぬ理由がどこにある。つけあがるな」
約束がちがう、ルシタニア王都に入城したあかつきには奴隷を解放するといったではないか。
「異教徒との約束など守る必要はない。きさまらは豚や牛と約束などするか?」
こうして、奴隷《ゴラーム》たちは、過去とおなじく未来をもうばわれたのである。
富める者をさけてとおらない、という一点においては、大陸の西北端ルシタニアからパルスにいたったこの嵐は、ごく公平であった。うしなうべきものを多くかかえる人々ほど、多くをうばわれた。貴族、神官、地主、豪商らは、これまで自分たちが無慈悲《むじひ》な法と権力によって収奪し蓄積してきたものを、無慈悲な暴力によって強奪されたのである。彼らのために、夜ははじまったばかりだった。
「殺せ、殺せ、邪悪な異教徒どもを殺せ」
乾ききった砂のように血を求めて叫びくるったのは、大司教のジャン・ボダンであった。彼の陶酔《とうすい》は日をおって深みとはげしさをましている。
「神の栄光は、異教徒どもの血によって、かがやきをますのだ。慈悲などかけるでないぞ! ひとりの異教徒が生きて食物をくらえば、正しい信仰を持つイアルダボートの信徒が食すべき食物がひとり分うしなわれるのだからな」
だが、むろんルシタニア軍三十万のすべてが、ボダン大司教と「異教徒撲滅」の情熱を共有したわけではなかった。国政に参加する武将や官人たちは、自分たちの目的が征服と破壊から支配と再建に変わったことを知っていた。王弟ギスカールがそう注意を喚起したことでもあった。一般の兵士にも、流血の屍臭《ししゅう》にうんざりし、また賄《わい》賂《ろ》をもらって、パルス人の助命を申し出る者がいた。
「この者は、家族ともども改宗すると申しております。であれば、生命を助けて神におつかえさせればよろしいかと思います」
そのような申し出に対し、
「いつわりの改宗じゃ!」
ボダンはとびあがってわめく。
「拷問《ごうもん》によらず改宗を申しでる者など、信用してはならぬ!」
そのようなボダンであるから、パルス王《おう》妃《ひ》タハミーネを見る目も単眼である。
「あれはパルス王アンドラゴラスの妃《きさき》、当然ながらイアルダボート神の恩寵《おんちょう》をうけぬ、のろわれた異教徒でございますぞ。なぜはやく火刑になさいませぬ」
国王にむかってつめよるくらいであるから、イノケンティス七世は言を左右にその鉾先《ほこさき》をかわすのがせいいっぱいで、タハミーネとの結婚など口に出せるものではなかった。
「神のお怒りもですが、その前に、ボダン司教を説得なさることです、兄者《あにじゃ》」
王弟ギスカレルはもっともなことを言うのだが、兄王のすがるような目つきに対しては、そしらぬふりをよそおって、自分がボダンを説得しようとはしなかった。もともと、何か困難があればすぐ弟に解決をゆだねようとする兄王の惰弱《だじゃく》さを、ギスカールはにがにがしく思っている。誰でもない自分自身の結婚である。自分で困難を克服すべきではないか。
ギスカールがそう思うのは、むろん兄のためではない。ボダンに対する兄の憎《ぞう》悪《お》が信仰心をしのぐ日が、ちかぢか到来するであろうことを、彼は待ちのぞんでいた。
王宮の広大な中庭のひとつには、装節用のタイルがしきつめられ、各処に獅子《シール》の噴水やオレンジの木や白《しろ》花《か》崗岩《こうがん》づくりの四阿《あずまや》が配されている。一時はパルスの貴人や宮廷奴隷たちの血によごされた場所だが、いちおうながら血の痕はかたづけられ、昔日《せきじつ》の華麗さにはおよばぬまでも、みぐるしさはなくなっている。不粋な騎士や兵士たちがはいりこむことも禁じられていた。
これらはルシタニア国王イノケンティス七世がきびしく――同時にボダン大司教に知られぬように――命じた結果であった。というのも、この中庭に面した一画には、ひとりの婦人が軟禁されていたからである。形式的には軟禁とはいえ、ルシタニアの名門の女たちですらのぞみえぬ贅《ぜい》を許された異教徒の婦人、つまりパルス王妃タハミーネであった。
イノケンティス七世は、一日一度はかならずこの中庭に面した一画をおとずれ、タハミーネに面会を求めた。タハミーネは黒いヴェールで顔をおおったまま一言も発せず、征服者であるはずのルシタニア国王は、何か不自由はないか、などと埓《らち》もないことを口にした末、ボダンの目をはばかるように早々に立ちさるのである。だが、十二月にはいったある日、イノケンティス七世は賞賛を期待するように、こころもち胸をそらした。
「年があければ、予《よ》は、王ではなく皇帝を称することとなろう」
旧ルシタニア、マルヤム、パルス三国の王にして新ルシタニア帝国の皇帝たるイノケンティス。もはや単に一国の王たる「七世」ではない。
「そこでじゃ、のう、タハミーネどの、皇帝には皇《こう》妃《ひ》が必要と世間では思っておる。予もそれは正しいと思う」
「…………」
タハミーネの沈黙が意味するものを、ルシタニア国王は理解できなかった。否定であるのか肯定であるのか、それとも何かを待っているのか。イノケンティス七世にはわからなかった。彼はそれまで単純な世界に生きてきた単純な男だった。善と悪は、夏の昼と冬の夜とのように歴然《れきぜん》とわかたれていた。それによってはかりえぬものもあるのだ、ということを、すでに若いとはいえぬ王は、漠然と感じとるようになっていた。
V
その日、王都の南門前の広場で、盛大に焚書《ふんしょ》の儀式がとりおこなわれた。焼きすてられるべき「邪悪な異教の書」は千二百万巻にのぼり、王立図書館は完全に空虚となった。書物の山と、見物人の群を前に、大司教ボダンはわめきたてている。学術に興味のある一騎士が勇敢にも――あるいは無謀にも――、焚書に異議をとなえたのである。
「いかに異教の書とはいえ、これほど貴重な書物を、研究もせぬまま火中に投じてよいものでしょうか。燃やすとしても、充分な時間をかけてその価値を判断してからになさってはいかがですか」
「冒涜者《ぼうとくしゃ》め」
ボダンは地面を踏みならした。
「これらの書物がイアルダボート聖典と同じことを記してあるなら、聖典だけで人の世には充分じゃ。もし聖典に反することが記してあるなら、それは悪魔の奸《かん》知《ち》にもとづくもので、滅ぼさねばならぬ。いずれにしても火中に投じるべきじゃ」
「ですが医学書までも火中に投じるのは……」
したたかに口もとを平手打ちされて、騎士はよろめいた。
「イアルダボート神を心からうやまう者には病魔などとりつかぬ。病にかかる者は、心に悪《あ》しき種をやどすゆえ、神の懲罰《ちょうばつ》をうけておるのだ! たとえ一国の王といえども……」
毒《どく》のこもった眼光を、はなれた玉座《ぎょくざ》にすわる国王にむけて、ボダンはさらに声をたかめた。
「たとえ一国の王といえども、異教徒の女をめとろうなどと邪心をおこしたとき、病毒は神の杖《つえ》となって驕《おご》れる者を撃つであろう。邪心ある者は、侮いあらためよ!」
イノケンティス七世は青ざめ、しまりのない身体をふるわせた。畏怖《いふ》ではなく、不快感のためであった。かたわらにひかえた王弟ギスカール公は、内心で満足した。これは彼にとってよい徴候《ちょうこう》というべきであった。
ボダンの片手があがると、書物の山に油がかけられ、たいまつが投じられた。
炎は燃えあがり、燃えさかって、千二百万|巻《かん》の書物をのみこんだ。パルスの建国以前から千年にわたって蓄積されてきた人間の思惟《しい》と感性の記録が、侵入者の神によって抹殺《まっさつ》されていくのである。
歴史、詩、地理、医学、薬学、哲学、農事、工芸……一冊の書物が完成されるまでにそそぎこまれたであろう無数の人々の苦労や情熱が、炎のなかで炭化し、灰と化していった。
ルシタニア兵の鉄甲の列にさえぎられながら、焚書のありさまを見まもるパルス人の間から、おしころした怒りと悲哀の声がもれた。
群衆のなかに、目《ま》深《ぶか》く陽よけのフードをかぶった長身の男がふたり、ならんでたたずんでいた。つれにくらべてやや背の低いほうの男が、にがい怒りをこめてつぶやいた。
「財貨をうばうというならまだしも、文化を焼きつくすとはな。もはや蛮人《ばんじん》とすらもいえぬ。猿のやることだ」
「指揮している大司教とやらを見ろ、楽しげに踊りくるっている」
「あのボダンとかいう男は、おれに殺させろ。国王だの王弟だのはおぬしにまかせるから。いいな、ダリューン、奴《やつ》はおれにゆずれ」
「よかろう」
ダリューンとナルサスであった。
焚書を最後まで見とどけることはせず、ふたりは城門前の広場を離れて、半ば迷路のような下町に歩みいった。焚書に対する怒りはともかくとして、彼らはアンドラゴラス王とタハミーネ王妃に関する情報を集めなくてはならなかった。
「イアルダボートとは、もともと古代ルシタニア語で『聖なる無知』の意味なのだそうだ」
歩きつつ、おもしろくもなさそうに、ナルサスが説明した。
彼らの神話によれば、もともと人間は常春《とこはる》の楽園で、苦悩も疑念もしらず幸福にくらしていたが、神によって禁じられていた知恵の実をかじったばかりに、楽園を追放されてしまったのだという。ナルサスには不快な神話である。人間を豚におとしめる思想だと思う。矛盾《むじゅん》に疑いをいだかぬ人間、不正に怒りをいだかぬ人間は豚にも劣る。なのになぜ、イアルダボート教にかぎらず、疑うな怒るなと宗教は人々に説くのであろう。
「知っているか、ダリューン、奴らがマルヤムをほろぼし、パルスに侵攻してきたのも、もともと奴らの聖典に記された文章が原因といってよいのさ」
「彼らの神がパルスを彼らにあたえると?」
「パルスと明記されてはいない。だが、彼らの聖典によれば、彼らの神は信徒たちに世界でもっとも美しく豊かな土地をあたえると約束したそうだ。だから彼らにしてみれば、パルスのように美しく豊かな土地は、当然ながら彼らのものであって、おれたちこそが不法な占拠者ということになるのだ」
「勝手きわまる話だな」
ダリューンはフードをかぶりなおし、額におちかかる髪を無《む》造《ぞう》作《さ》にかきあげた。
「で、ルシタニア人どもは、その神のおおせとやらを心から信じているのか?」
「さて、信じているのか。信じるふりをして自分らの侵略を正当化しているのか」
後者ならルシタニア人と共通の場に立って、外交という手段で事態の解決をはかることもできるだろう。前者であれば、ルシタニア人を力ずくでたたきのめさぬかぎり、パルス人自身が生存できない。いずれにしても彼らを倒す方法を考えておくべきであった。
「ルシタニア人を手玉にとる方法はいくつかある」
彼を宮廷画家にしてくれると約束した王子のために、ナルサスは、彼の能力で可能になることなら何でもやってのけるつもりになっていた。
「たとえば、王子の名でパルス全土の奴隷《ゴラーム》を解放し、奴隷制度を全廃すると約束すれば、そのうちの一割が武器をとっても、五十万からの大軍を編成できる。この場合、自給自足が前提になるが」
なるほど、と、ダリューンがうなずく。
「ただし、そうなれば、現に奴隷を所有している領主や貴族どもの支援は期待できなくなる。損をさせられるとわかっていて味方になるおひとよしはいないからな」
「おぬしはダイラムの領主でありながら、奴隷を解放し、領地も返上したではないか」
「おれは変わり者だからな」
むしろいばるようにナルサスは言い、急に、にがい表情をつくった。
「……それに、奴隷を解放しても、それですべてよしというわけにはいかぬものさ。後のほうがたいへんでな、机の前で空想しているようなわけにはいかぬ」
ナルサス自身の経験が、そう言わせているようであった。ダリューンはあえて問わなかった。ナルサスはひとつ首をふると、気をとりなおしたように。ルシタニア軍を打倒すべきいくつかの策略を指おりかぞえはじめた。
「旧バダフシャーン公国の土地を餌にして、シンドゥラを釣りあげる策《て》もある。マルヤム王国に潜入して、再興をはかる王党派に蜂《ほう》起《き》させ、ルシタニア軍と本国との連絡を絶つ策《て》もある。あるいは、いっそルシタニア本国に工作して、残留している王族なり貴族なりに王位をねらわせてもよい。ルシタニアの近隣諸国を煽動《せんどう》して本国に攻めこませる策《て》も使えるな……」
ダリューンは感心して友人を見やった。
「よくもそうつぎつぎと奇手奇策が出てくるものだな。おれのように単純な武《ぶ》辺《へん》とは、おぬし、やはり、格がちがう」
「パルス随一の勇者からおほめにあずかって恐縮だが、考えだした策《て》が百あるとして、実行にうつせるのは十、成功するのは一、そのていどのものさ。考えることがすべてかなうなら、亡国の君主などいないだろうよ」
ふたりは酒場にはいろうとした。戦乱の世でもすたれない商売がいくつかある――売春宿がそうだし、賭博場《とばくじょう》がそうだし、戦利品や掠奪品《りゃくだつひん》の故《こ》買《ばい》屋がそうである。そしてそれらにかかわる連中が酒をくらいつつ談合し取引する店がそうであった。当然ながらそこには、無責任な噂《うわさ》もふくめて、集まる人間の数をうわまわる情報が流れこんでくるはずであった。
酒場からよろめきでてきたひとりのパルス兵がいる。当然ながらカーラーンの一党に属してルシタニアに忠誠を誓約した者であろう。六割がた酔っているらしいその兵士は、よけようとしたダリューンの肩にぶつかると、何かののしりつつフードの下の顔を見あげた。表情が一変する。
「……わっ! ダリューン!」
はなばなしく悲鳴をあげて、兵士はとびあがると、周囲の人々を押しのけ、つきとばして逃げだした。酒精《アルコール》分など、天空の彼方へ投げすててしまったようで、襟首《えりくび》をつかんでひきもどす間すらない。
あごをなでて、ナルサスが感心した。
「闘いもせずに逃げだすとは、よくおのれの力量をわきまえているな」
それからふたりは、逃げた兵士の後を追った。かけだしはしない。走ってそう追いつけるものではないし、彼らにはあらかじめ計算があった。
ふたりは、わざと距離をおいて、迷路めいた街路のさらに奥へ歩《あゆ》みこんでいった。建物の壁をつたうように、ささやきが流れ、ひそやかな監視の目がひとつのこらず彼らの姿を追った。
ナルサスが、報賞めあての見えない札を首からかけた四人の兵士に行手をさえぎられるまで、千をかぞえる間もない。
ダリューンは十代で戦士《マルダーン》、獅子狩人《シールギール》の称号《しょうごう》をえ、最年少の万騎長《マルズバーン》でもあった。「|戦士のなかの戦士《マルダーンフ・マルダーン》」という呼ばれかたさえある。それにくらべれば、ナルサスのほうを与《くみ》しやすしとみたのは、むりもない。だが、その選択は、結局のところ彼らに何のさいわいももたらさなかった。四本の白刃をぬきつれるまでが、彼らの主導権の限界だった。
ナルサスは右側の敵にむけて一気に跳躍すると、ななめに長剣を撃ちおろした。敵は、かわす余裕もなく、自分の剣でナルサスのそれをはねあげようとする。刀身が激突したつぎの瞬間、ナルサスの剣が宙に白くみじかく弧をえがき、相手の頸《けい》部《ぶ》をしたたかになぎはらった。
視野をかげらせるほどの噴血《ふんけつ》をたくみにかわし、地にかるくひざをつくと、ナルサスは間髪《かんぱつ》をいれず剣先をまいあげた。眼前にせまった敵の右手首が、剣をつかんだまま、血の尾をひいて宙をとんだ。悲鳴の半ばに、三人めの兵士は、かけもどったダリューンの長剣|一閃《いっせん》に胸をつらぬかれてくずれおちている。
四人めの兵士は、立ちすくんだまま声も出せずにいたが、ふりむいて、ダリューンの歩みよる姿をみとめ、もう一度ふりむいてナルサスの皮肉っぽい笑顔を見ると、剣をほうりだしてへたりこんでしまった。むなしく口を開閉させながら、牛革の袋をなげだす。
袋の口がひらいて、十枚ほどの金貨《デーナール》とそれに倍する銀貨《ドラフム》が地にこぼれたが、ダリューンもナルサスも関心をしめさない。
「ほしいものはただひとつ、アンドラゴラス王の居場所だ」
知らぬ、と、最初から兵士の声は悲鳴に近い。知っていれば教える、おれも生命が惜しい、だがほんとうに知らぬのだ。
「単なる噂でもかまわぬ。おまえ自身のために思いだせ」
おだやかにナルサスが脅迫《きょうはく》する。兵士は彼自身のために、知るかぎりのことを口にした。アンドラゴラス王が生きていることはたしからしい。どこかに幽閉《ゆうへい》されているのだろうが、カーラーン公はわずかな側近にしかそれを教えてくれなかった。ルシタニアの将軍たちですら、そのことを知らされず、不満をいだいているようだ。そう、それといまひとつ、軽視できない噂がある……。
「タハミーネ王妃は、ルシタニア王とご結婚なさるそうな――そうルシタニア兵どもが噂しているのを聞いた。奴らの王は王妃さまをひと目見て魂をうばわれたと」
「何だと……!?」
不敵なナルサスも豪胆《ごうたん》なダリューンも、唖然としてあとのことばが出てこなかった。
しばりあげた兵士をごみ箱にほうりこんで、ふたりはまた街路を歩みはじめた。タハミーネ王妃の件が、彼らを陽気にしなかった。人間は死ねばそれまでだが、生きていると何と困難な問題に直面することか。
「バダフシャーン、パルス、そしてルシタニア。三か国の君主をまどわすとは、王妃さまの美貌も罪なことだ」
「それにしても、王妃が結婚なさるとあれば、アンドラゴラス王の身が思いやられる。いずこの国であれ、重婚が認められるわけもない。たとえいま生きておいででも、結婚の障害になるとて、害されるかもしれぬ」
「あるいは、ルシタニア国王が、アンドラゴラス王の生命とひきかえにタハミーネ王妃に結婚をせまっているのかもしれぬな」
ふたりで語りあったところで、明白な結論のでるはずもない。どれほど効果があるかわからぬが、彼らはいま一度、先ほどの策を使うことにした。効果がなければ、そのときのことである。先ほどの兵士の告白を補強すべき材料がほしかったし、ナルサスですら、あらたな方法を考えだすのが、このときはめんどうくさいように思われた。
何もなければ最初の予定の酒場で待ちあわせることにして、ふたりは足のむく先を変えた。
偶然であったか、運命なるものが公正を期したのかはわからない。ダリューンがいくつめかの角をまがったとき、危険は今度は彼にほえかかってきた。
まがまがしい銀色の仮面が、ダリューンの眼前にあったのだ。
X
ダリューンに、ファランギースのような、人ならぬもののことばを聞きわける能力があれば、冥界《めいかい》から彼に警告する伯父ヴァフリーズの声を感じとることができたかもしれない。
だが、その能力をかいていたとしても、初対面の相手から危険な匂いをかぎとるのは容易であった。むきだしの敵意と悪意が、砂漠をわたる風のように、ダリューンめがけて熱く吹きつけてきたのである。
殺気に応じて、ダリューンが長剣をぬきはなったのは、戦士の本能というべきであったろうか。
「小細工、ご苦労なことだな、しれ者が」
仮面ごしの低い笑声は、それを発した者の外見にひとしい不吉さだった。それ以上、無用な会話はかわされなかった。敵手であることは、たがいに自明だったのだ。
わきおこった刃音は激烈だった。とびちがい、最初の刃《やいば》を撃ちかわすと、ダリューンはたてつづけに攻勢に出たが、相手の身体にかすることもできない。
ダリューンは戦慄《せんりつ》した。誰もが勇猛と認める彼でさえ戦慄をおぼえずにいられないほど、相手の力量は巨大だった。彼は戦法をきりかえた。攻撃をやめ、半歩しりぞいて守勢に転じてみせたのだ。
銀仮面の男はするどく踏みこみ、苛《か》烈《れつ》な斬撃をたてつづけにあびせたが、つい先ほどのダリューンと同じく、完璧《かんぺき》な防御に直面しただけであった。
縦横《じゅうおう》に斬りむすび、剣光の残影を宙にひらめかせながら、両者はたがいのうちに、かつてない雄敵《ゆうてき》の存在を見出していた。
白刃と白刃が強烈ないきおいでかみあい、宙に停止した。両者の顔が至近の距離にせまり、たがいの呼吸音がかさなりあって聴覚をみたした。
「名を聞いておこうか」
銀仮面の男が言った。ひややかな声《こわ》音《ね》の底から、感嘆の思いがにじみでている。仮面の細い穴からもれる眼光を見かえして、ダリューンはみじかく名のった。
「ダリューン」
「ダリューンだと……?」
記憶へむかって問いかけた声は、一瞬の後、悪意にみちた嘲笑《ちょうしょう》の声となってはじけた。意外な反応が、ダリューンをおどろかせずにはいなかった。
「こいつは傑作だ。あのヴァフリーズの甥《おい》か。どうりで……」
強い、と、つづけようとしたのかどうか、銀仮面はことばをのみこむと、両眼から悪意を放射して、ダリューン以外の者なら総《そう》毛《け》だつであろう笑いの波動で、彼のかぶった仮面そのものを震動させた。それがおさまると、傲然《ごうぜん》たる告白が彼の口からとびだした。
「教えてやろう、きさまの伯父ヴァフリーズの白《しら》髪《が》首《くび》を胴から斬り離したのは、このおれだ」
「なに!?」
「アンドラゴラスの飼犬めが、それにふさわしいむくいをうけたわ。きさまも死にざまを伯父にならうか?」
かみあっていた白刃が離れた一瞬、ダリューンの長剣が宙にうなった。その迅速さとはげしさは、銀仮面の男の予測をこえていた。ふせごうと動いた剣は、むなしく空をおよいで、男はダリューンの斬撃を顔にうけた。
|ばしっ《ヽヽヽ》と銀仮面が悲鳴を生じて、ふたつに割れとんだ。厳重にまもられていた素顔が、外気にさらされた。激情のあえぎが、男の口から噴《ふ》きあがった。
ダリューンは、そこに見た――ふたつの顔を。たちわられた銀仮面の下には、ダリューンとほぼ同年齢の若い男の顔があった。左半分の白い秀麗《しゅうれい》な顔と、右半分の赤黒く焼けただれたむざんな顔とが、ひとつの顔の輪郭のなかに同居していた。
一秒にもみたぬ短時間だが、その顔はダリューンの視界にやきついた。男は左腕をかかげて顔をかくしたが、血光をほとばしらせた両眼がダリューンをにらんだ。反撃の一刀が閃光《せんこう》を生じた。
ダリューンはとびすさったが、憤《ふん》怒《ぬ》と憎悪をこめた剣先のするどさは、つい先ほどまでの比ではなかった。蛇の鎌首が躍るように、白刃はのびてダリューンを追いつめた。さすがのダリューンが歩調をくずし、よろめいた。
銀仮面をうしなった男は、必殺の一閃をたたきこもうとして、にわかにその方向をかえ、横あいからなぎこまれてきた刀身を、かろうじてはじきかえした。男のすさまじい視線の先に、ナルサスがたたずんでいる。
「おいおい、名前を訊いてくれないのか。でないと、こちらから名乗るのは、気はずかしいではないか」
顔をかくした腕とマントの蔭から、眼光が殺意の矢となって突きささってきたが、ナルサスは気にもとめなかった――すくなくとも表面は。
「だれだ、道化者」
「気にくわぬ言種《いいぐさ》だが、訊かれては、名乗らざるをえまいな。わが名はナルサス、つぎのパルス国王の世に宮廷画家をつとめる身だ」
「宮廷画家だと!?」
「芸術に無縁なおぬしは知るまいが、画《が》聖《せい》マニの再来と心ある人は呼ぶ」
「誰が呼ぶか!」
とつぶやいたのは、体勢をたてなおしたダリューンである。呼吸も鼓《こ》動《どう》も、完全に制御しおえたその姿を見て、銀仮面の男は、勝機がさったことをさとらざるをえなかった。一対二、しかも彼は片腕で顔をかくしつつ雄敵とわたりあわねばならない。あるいは、地下の一室で暗灰色の衣の老人に予言されたことを、思いだしたかもしれなかった。
「勝負は後日にあずけた。今日はひきわけにしておこう」
「型どおりの場合に、型どおりの台詞《せりふ》を言う奴だ。今日できることを明日にのばす必要はないぞ」
ナルサスの挑発に、銀仮面をうしなった男はのらなかった。片腕で顔をかくしながら、挟撃《きょうげき》の危険をたくみにさけて後退する。
「さらばだ、へぼ画家、今度あうときまでに絵の技倆《うで》をあげておけよ」
それは根拠のない悪《あく》罵《ば》であったが、ナルサスの自尊心を傷つけるには充分であった。未来の宮廷画家は、無言のまま、つつっと前進し、風をきる一撃をあびせかけた。
銀仮面をうしなった男は、それを受け流しつつ身を反転させた。巧妙というより流麗《りゅうれい》な動作に、ナルサスのみかダリューンですら、つけいる隙がなかった。
銀仮面の男はせまい小《こう》路《じ》にとびこみ、壁ぎわの桶《おけ》や樽《たる》を蹴たおして追跡を封じた。マントの端が最初の角に消えると、アルスラーンにつかえるふたりの騎士は、追うのを断念した。ダリューンが友の肩をたたいた。
「奴め、誰かは知らぬが、おそろしく腕がたつ。おぬしが助けてくれねば、いまごろ奴に脳天をたたきわられていたところだ」
「そんなことはどうでもよいが、気にくわぬ奴だ。おれのことを|へぼ《ヽヽ》画家などとぬかしおった。芸術も文化も理解せぬ奴らが、でかいつらで横行《おうこう》する。末世というべきだな」
ダリューンが無言でいると、
「ところで、あの男、おぬしの伯父上をよく知っていたようだが、旧知の仲か」
「おれもそれを考えているのだが、どうも思いだせぬ。あの仮面はこけおどしかと思ったが、そうでもないようだ。あのひどい火傷《やけど》では、顔をかくさざるをえんだろうな」
ダリューンの声にうなずきながらも、ナルサスはやや釈然《しゃくぜん》としないものを感じている表情であった。
どうもそれだけではないような気がするのである。仮面をかぶる理由は、他人に素顔を知られぬためだが、まったく未知の土地で未知の人間に対するとき、その理由はうしなわれるはずだ。あの火傷がなければ、ナルサス自身も、あんがい簡単に思いだせるかもしれないのだが。
X
ルシタニア兵によって荒廃に帰した一村の農家に、ささやかだが強固な反ルシタニア勢力が集まっている。アルスラーン、ダリューン、ナルサス、ファランギース、ギーヴ、そしてエラム、いずれも若い――エラムなどは十三歳になったばかりである。だが、強大なルシタニア軍に対して蟷螂《とうろう》の斧《おの》をふりかざす彼らに、かならずしも豊かな未来は約束されていなかった。
母である王妃がルシタニア国王との結婚をせまられている、という知らせは、アルスラーンに衝撃をあたえた。
ナルサスにしてもダリューンにしても、こんな情報はかくしておきたかったのだが、いずれ結婚式がおこなわれれば、いやでもアルスラーンの耳にはいる。秘密にしておけるものではない。
しばらく無言で部屋のなかを歩きまわる王子を、騎士たちも無言で見まもった。
「一刻もはやく母上をお助けせねばならぬ」
やがて立ちどまると、アルスラーンは歯ぎしりをまじえてつぶやいた。美しい、だが息子にはどこかひややかな母。はじめて馬に騎《の》ったときも、狩猟に出たときも、ほめてはくれたが、どこかあたたかみをかいていた。
「王妃さまはご自分だけがたいせつなのだから……」
という宮女たちの蔭口を、耳にしたこともある。あるいはそれは正しい批判だったのかもしれない。だが、とにかくタハミーネは彼の母親であり、子として母を救わねばならなかった。
「母上をお助けせねばならぬ。ルシタニア王に結婚をせまられぬうちに……」
アルスラーンはくりかえした。
ダリューンとナルサスは、ひそやかに視線をかわしあった。王子の心情は当然のものではあるが、勢力|劣弱《れつじゃく》な彼らとして、王妃救出を最優先課題とすることは、今後の戦術上の選択をいちじるしくせばめることになろう。
「あの嘘つき王妃さま、色じかけでルシタニア王にせまってわが身の安泰をはかったのではないかな。そのていどのことはやりそうな女だったが……」
不《ふ》遜《そん》な想像をめぐらせたのはギーヴだが、さすがにそれを口には出さなかった。彼は四人のなかでもっとも必然性のうすい理由から、アルスラーンの党《とう》与《よ》となったのだが、現在の自分の立場をけっこう楽しんでいた。ナルサスが宮廷画家になると聞いて、では自分は宮廷楽士にしてもらおうか、などと考えているのだった。
緑色の瞳のファランギースが、同情の視線を王子にむけた。
「殿下、おあせりになりますな。ルシタニア国王がお母上との結婚を望んだところで、お母上はルシタニア人から見れば異教徒。おいそれと周囲が認めるはずもございません。近々にどうという事態はおこらぬと存じます」
ナルサスがうなずいた。
「ファランギースのいうとおりです。結婚を強行すれば、とくに聖職者どもの反発をよびましょうし、それに野心ある王族や貴族がからめば、内紛が生じるかもしれませぬ。あえて強引なまねはできますまい」
さらにダリューンもいう。
「殿下にとってはご不快でしょうが、そのような事情であれば、王妃さまの身が害されるおそれはすくのうございましょう。国王|陛《へい》下《か》にしても、とにかく生きておいでのようですから、お助けする機会はあるでしょう」
彼らは自分たちが正論をのべていることを知っていたが、十四歳の少年がそれを納得するかどうかは、またことなる問題であった。酷《こく》とは承知の上で、彼らは、アルスラーンに、一国の王者としての度量と責任を、個人の義務より優先させるようのぞんだのである。
やがてアルスラーンは肩から力をぬいた。
「いずれにしても、われわれは少数すぎる。どうやって味方をふやせばいい、ナルサス?」
ナルサスは、ややあって答えた。
「完全な正義というものを、地上に布《し》くのはむりでしょう。ですが、今日までのパルスの国政やルシタニアの暴虐《ぼうぎゃく》よりはましな政事《まつりごと》が存在してもよいはずです。条理にあわぬことをなくすことはできなくとも、へらすことはできるはずです。味方をふやすには、殿下が将来そうなさることを、パルスの民にしらしめることです。王位の正統は、血にはよらず、政事の正しさによってのみ保障されるのですから」
それは本質をついた意見ではあったが、アルスラーンが期待していたのは、もっと直接的な策略であった。それを承知でナルサスはつづけた。
「失礼ながら、王者たるものは、策略や武勇をほこるべきではありません。それは臣下たる者の役目です」
赤面するアルスラーンを見やって、ナルサスは一杯の葡萄酒《ナビード》を口にふくんだ。
「まず殿下のめざされるものを明らかになさい。それがかなうよう、われらは協力させていただきますから」
「…………」
「征服が完了すれば、ルシタニア人はパルス文化の絶滅にのりだすでしょう。パルス語の使用を禁じ、パルス人の名もルシタニア風にあらためさせ、パルス神話の神々の殿堂を破壊して、イアルダボート神の殿堂をいたるところに建てるでしょう」
「それにちがいないか?」
「蛮人とは、そういうものです。他人にもたいせつなものがあるということを理解しないのです。殿堂がこわされるのはともかく……」
ナルサスは酒杯をテーブルにもどした。
「イアルダボート教においては、異教徒に対して三とおりの処遇をしております。すすんで改宗した者は、いちおう財産を保障されて自由民となることができます。強制されて改宗した者は、財産を没収されて奴隷とされます。あくまでも改宗せぬ者は……」
咽喉《のど》に指をあてて、いきおいよく横にひいてみせたのは、ギーヴである。その動作に、ナルサスはうなずいてみせて、考えこむアルスラーンを見やった。王子は頬を紅潮《こうちょう》させた。
「パルスの民をそのような目にあわせるわけにはいかぬ。そのためにはどうすればよい? おぬしたちの力を、未熟な私に貸してくれ」
エラムをふくめた五人は王子を見つめた。やかてダリューンが一同を代表して答えた。
「私どもの力はわずかなものですが、殿下がルシタニア人の侵攻を排され、パルスに平和を回復されるためのおてつだい、よろこんでさせていただきましょう」
「感謝する、よろしくたのむ」
アルスラーンはまだ漠然とした予感以上のものをいだいてはいない。自分がこれから自分自身をさがしだすための長い旅に出なくてはならない、ということを、彼はまだ洞察していない。十四歳の彼は未熟で、彼をとりまく戦士《マルダーン》たちに対しても、複数の敵に対しても非力な存在であった。彼がかかえている多くの責任のなかで、もっとも大きいものは、おそらく彼自身を成長させることであった。
Y
獄舎《ごくしゃ》の地下に、さらに獄舎があり、それは厚い壁と扉と長い階段によって地上の部屋部屋とへだてられていた。さらに、各処にたたずむ武装した兵士たちが、侵入者を、目的地のはるか前方でさえぎることになろう。
この獄舎で唯一の囚人は、たくましい筋骨をほこる中年の男で、髪もひげものびほうだいながら、彼に拷問をくわえる男たちより、はるかに威厳をたもっていた。
地上では行方不明とされているパルス国王アンドラゴラスであった。
無数の傷と出血にもかかわらず、アンドラゴラスは生きているのだった。正確には、生かされていたというべきであろう。拷問吏たちの責めが一段落すると、彼らの半分ほどの大きさにしか見えない貧弱な体格の医師があらわれ、囚人に治療をほどこした。鞭や焼けた鉄棒の傷を酒で洗い、薬《やく》油《ゆ》をぬりこみ、薬草の湿布をほどこし、口をひらかせて薬酒をそそぎこみ、睡眠をとらせる。男の強健な肉体に抵抗力が回復したとみると、ふたたび拷問吏たちが、自分たちの仕事にとりかかるのである。
幾日も幾晩も、それがつづいていた。一度、男が膂力《りょりょく》をふるって鎖をひきちぎりかけたため、以後、獅子《シール》をつなぐ鎖が使われるようになっていた。
単調で残酷な日々に、そのとき変化が生じた。地下ふかい獄舎に、客人があったのだ。憎悪と怨念《おんねん》を丹念にすりつぶして、復讐心の炎で焼きあげた――客人のかぶっている、まあたらしい銀色の仮面には、そのような雰囲気があった。
拷問吏たちは、うやうやしく銀仮面の男をむかえた。獄舎の毎日は、拷問をほどこすがわの者にも、忍耐を要求していた。変化は、どのようなものであれ歓迎すべきであった。
「……どうだ、奴のようすは?」
弱ってはいるが生命に危険はない旨《むね》を代表者が答えた。
「それでよい。殺すなよ」
銀仮面の男の声には、歌うような抑揚《よくよう》があった。
「かさねて申しつけておくが、殺してはならんぞ。こやつを殺すのは、こやつの眼前に息子の生首を見せつけてからだ」
アンドラゴラス王の鈍い視線をうけて、銀仮面の男は低く笑った。
「アンドラゴラスよ、聞いたとおりだ。きさまの跡とり息子は、まだ生きている。だが、それもながくはない。ただ、おれに見つかり、おれの手で殺されるために生きておるだけのことだ」
銀仮面の男は、囚人に顔を近づけた。
「おれが誰かわかるか?」
「…………」
「まだわからぬか。では教えてやろう。聞きおぼえのない名ではないはずだ。おれの名はヒルメス、父はオスロエスだ」
「ヒルメス……?」
「そうだ。ヒルメスだ。先王オスロエスの嫡子《ちゃくし》で、きさまの甥だ。そして、パルスのまことの国王だ!」
アンドラゴラスは無言であったが、両手首にはめられた鉄の環《わ》が、わずかにきしむような音をたてた。銀仮面の男は、大きく息をはきだした。
「おどろいたか、それともおどろく気力すらうせたか。あいにくと、きさまが無法に登極《とうきょく》したとき、おれは殺されなかったのだ。きさまを守護する悪神がよそ見をした隙に、おれはあの炎のなかから逃がれることができた」
音をたてて、男は銀仮面のとめがねをはずした。仮面がはずれ、アンドラゴラスの目に男の顔がむきだされた。
「きさまに焼かれた顔だ。よく見ろ! 顔をそむけずに。十六年前にきさまが犯した大罪のあかしをよく見てみろ」
銀仮面の下からあらわれた顔は、ダリューンが目撃したものだった。本来の秀麗な半面と、火神のいけにえに供された半面とが、ひとつの輪郭のなかに同居している。乱れた髪の間から、アンドラゴラスは鈍い眼光をむけたようであったが、疲労しきったようにすぐ顔をうつむけてしまった。
「……おれこそがパルスの正統の王だ」
銀色の仮面をかぶりなおして、ヒルメスは自分自身の主張を、今度は静かにくりかえした。
「その正統の地位を回復するために、この十六年、おれがいかに苦闘してきたか、きさまにわかるはずもない。過去に思いをはせる必要はない、きさまはこれから先、きさまの妻と息子と、そしてきさま自身がどのような未来をむかえるのか、それだけを考えていればいいのだ」
声がとぎれ、足音がそれにかわった。銀仮面をかぶったヒルメスが、拷問吏たちのうやうやしい最敬礼の列の間を歩きさっていくのが、囚人の視界に映った。叔父と甥の十六年ぶりの対面は終了したのである。
ヒルメスを見送るアンドラゴラス王の両眼に光がともった。針先のように小さな光が、急速に拡大して瞳いっぱいに充満し、それがはじけたとき、凍らせた毒酒《どくしゅ》にも似た冷笑がアンドラゴラスの顔をいろどった。
王は声をたてて笑った。玉座から追われ、国土をうばわれ、いま王位の正統性すら否定された男が、身をしばる鎖を鳴らして笑っていた。
彼以外の何者も知りえぬ理由によって、アンドラゴラスは地下牢の壁に、笑いを反響させつづけた。
――パルス暦三二〇年。国王アンドラゴラスは行方をたち、王都エクバターナは陥落した。パルス王国はほろびた。