アップフェルラント物語
田中芳樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)令名《れいめい》
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(例)|塩の国《ザルツランド》
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目 次
第一章 旅人たちと住民たち
第二章 樹の上と窓の中
第三章 逃走と追跡
第四章 女王陛下と奇術師
第五章 女賊と警部
第六章 地下の危険と地上の危機
第七章 天下無敵と史上最強
第八章 小国の主張と大国の論理
第九章 未来と未来
「ルリタニア・テーマ」について
あとがき――いささかとりとめなく
解説 吉岡 平
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アップフェルラント王国概要
※沿革
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西暦一五三〇年、神聖ローマ皇帝カール五世が部将のひとりグスタフ・フォン・シュヴァインフルトをザルツラント辺境伯に封じたことに始まる。
グスタフが前年、オスマン・トルコ軍との間におこなわれたウィーン攻防戦において武勲いちじるしかったゆえとされる。シュヴァインフルト家は一七世紀末に血統がとだえ、姻戚であるシュタウピッツ家が辺境伯領を継承。
その際に南部領土を皇室に献上し、国名を変じてアップフェルラント公国とした。
さらにナポレオン戦争後、王国を称し、現在に至る。
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※民族
主としてゲルマン系。北スラブ系も。
※言語
ドイツ語(高地系)
※宗教
主としてカトリック
※位置
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ヨーロッパ中央部。四方とも陸地で海には面しない。東はロシア領ポーランド、北はドイツ領シレジア、西はドイツ領ザクセン、南はオーストリア・ハンガリー領ボヘミアに接する。
[#ここで字下げ終わり]
※国土面積
一万三六六五平方キロメートル(一九〇四年調査)
※人口
一〇四万八九二〇人(一九〇四年調査)
※首都
シャルロッテンブルク
※元首
女王カロリーナ二世(一八七四年即位)
※主要産業
農業、牧畜、林業。かつては大量の岩塩を産出し、当初の領土名「|塩の国《ザルツランド》」の由来となった。
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第一章 旅人たちと住民たち
1
西暦一九〇五年といえば、フランスで天才少年探偵の令名《れいめい》も高いイシドール・ボートルレ氏が、ノルマンディーの荒涼たる海岸に、アルセーヌ・ルパンと称する正体不明の人物の隠れ家を発見した年として一般に知られている。
この年、ヨーロッパはおおむね平和であったが、一月にはロシア帝国の首都ペテルスブルクで、皇帝《ツァーリ》に請願《せいがん》するため平和的に行進していた民衆に向け、軍隊が発砲した。「血の日曜日」事件の発生によって、いよいよロシアには革命の日が近づいているかと思われた。アフリカではモロッコの支配権をめぐってイギリス、フランス、ドイツが狂犬のように咆《ほ》えたてあっていた。
極東では、日本帝国がロシアとの戦争をつづけ、陸でも海でも戦闘に勝利しつづけていた。ゼネラル・ノギやアドミラル・トーゴーの名は遠くヨーロッパにまで伝わってきた。ただ、日本の国力はとうに底をついて、これ以上の戦争継続は不可能となり、講和の機会を必死に求めていた。
学術の世界では、アルバート・アインシュタインという人が「相対性理論」という高邁《こうまい》な学説を発表した。高邁すぎて、残念ながら凡人たちにはよく理解できなかった。また、シャウディンとホフマンというふたりの医学者が、梅毒《ばいどく》スピロヘータというおっかないものを発見した。
飛行機は二年前にアメリカのライト兄弟によって発明され、一年前にドイツのクーツェルによってタングステン電球が発明された。ノルウェーのアムンゼンは北西航路の完全なルートを発見し、イギリスのスコットとの間に南極点到達を競おうとしていた。
この年、フランスではジュール・ヴェルヌが七七年におよぶ偉大な生涯を終えた。ドイツではルードヴィヒ・トーマが「悪童《あくどう》物語」を発表した。ライダー・ハガードは四九歳、アーサー・コナン・ドイルは四六歳、モーリス・ルブランは四一歳、ハーバート・ジョージ・ウェルズは三九歳、カレル・チャペックは一五歳、アガサ・クリスティーは一四歳、エーリッヒ・ケストナーは六歳、ジョルジュ・シムノンは二歳だった。小説が一部の人々の占有《せんゆう》物から、多くの人々の共有財産になるまで、もうひと息だった。
科学は進歩であり、進歩は幸福であると信じこむことができた時代。そういう時代の、これはお話であるはずだ。
アップフェルラント王国の首都をシャルロッテンブルクというが、これは一八世紀初頭に在位した女王の名がもとになっている。とくに政治的業績があった人ではなく、町の名によって人々の記憶にとどめられているのだが、それはともかく、シャルロッテンブルクはなかなか風光のよい町で、新旧の様式がほどよく調和した家並みのむこうに、あわい紫色の山々が望める。五月はじめ、東からシャルロッテンブルクにはいってきた特別仕様の列車に乗ってきた旅人も、心地よい晩春の風と整った町並みを望めるはずだった。
アップフェルラントの四方の国境を囲む山嶺《さんれい》は、アルプスのように峻険《しゅんけん》ではない。標高一〇〇〇から一五〇〇メートルというところで、山頂の雪も四月には溶《と》けてしまう。そのかわり、山頂まで豊かな樹林におおわれており、木材資源が豊富で、野生動物の種類と数も多い。五月ともなれば、森の豊穣《ほうじょう》な生命力が碧空《へきくう》へと萌《も》えあがって、深く厚い緑の色調が光の潮となって人々の目に押しよせてくる。
それらの、目を休ませる光景が列車の窓ガラスごしに望めたのも、束《つか》の間《ま》のことであった。列車がシャルロッテンブルク駅の構内に近づくと、愛想の悪い古い軍服姿の大男がはいってきて、窓のシャッターがおろされてしまい、乗客である少女は薄暗いコンパートメントのなかに視界さえ閉じこめられてしまった。少女の抗議の視線を、大男は分厚《ぶ あつ》い皮膚ではね返した。
「列車をおりるのは夜になってからだ」
散文的な言葉を散文的な口調で告げると、大男はコンパートメントから出ていった。出ていくとき、大きな音をたてて額《ひたい》をドア上の横木にぶつけたが、睫毛《まつげ 》一本も動かさず、身をかがめてドアをくぐった。ふたたび音がして、通路からの光が遮断《しゃだん》される。
ドアが閉ざされると、少女は怒りと不安をこめて、すでに見えなくなった大男の後姿をにらんだ。左手をあげると、鎖《くさり》が音をたてた。少女の左手首には、細いとはいえ鉄製の環《わ》がはめられており、そこから伸びた鎖は、左足首に伸びてもう一方の環につながっていた。鎖は彼女が身をかがめずにすむていどには長かったが、逃げたり走ったりするのを妨害するには充分だった。この鎖をつけたまま全力疾走するには、左手と左足を同時に同方向に出さねばならないであろうから。
少女は肩にかかった髪を、うるさげに揺らした。シャッターを見つめ、コンパートメントの座席に丸められたままの毛布を見つめ、小テーブルに置かれた花瓶《か びん》を見つめた。何やら期するようすで立ちあがりかけたとき、ふたたびドアが開いて通路の光がコンパートメントになだれこんできた。少女は表情と身体をこわばらせ、音もなくはいってきた影を見つめた。
それは犬ではなかった。猫に似ていたが猫にしては大きすぎた。胴体の長さが少女の身長の二倍ほどもあり、太さはそれに比例した。毛皮は黒曜石《こくようせき》の粉末でつくられたように黒くつややかで、少女を見やる両の眼は黄玉《トパーズ》色に光っていた。虎《とら》よりは小さく、豹《ひょう》よりは大きく、猫科の肉食獣であるという以外、正体は明らかではなかった。少女が呼吸をのみこんで一歩しりぞくと、それに応じるかのように黒い怪物は一歩すすんだ。なめらかな動きは優美とすらいってよかったが、それは血の色を美しいと呼ぶ意味においてである。その口から低い威嚇《い かく》の声が洩れて少女を打った。
「静かに、アッチラ、下品に唸《うな》るのはおやめ」
女の声が猛獣を制した。黒い怪物は、威嚇の声をおさめ、わずかに姿勢をととのえた。王者を迎える儀仗《ぎじょう》兵のようであった。怪物がドアの正面から端へ寄ったため、どうにか人間ひとりが通過できる空間がつくられて、そこに声の主があらわれた。むろん女性であった。
女は二七、八歳に見えた。女性としての円熟した美しさと魅力が完成される半歩手前であるかもしれない。陽光を受けると暗い黄金色にかがやく栗《くり》色の髪は短くカットしてあるが、長く伸ばせば豊かな波を描くことであろう。細い眉《まゆ》は描かれたように形がよく、その下で両眼は鋭いほど生気に満ちて碧《あお》くかがやき、端整な鼻と口に欠ける個性を充分におぎなっている。
だが、彼女が異彩を放っているのはその服装だった。彼女がしたがえている獰猛《どうもう》なペットと同様、黒ずくめの装《よそお》いである。トーク帽のかわりにシルクハットをかぶり、絹のローブのかわりにフロックコートを着こみ、パラソルのかわりにステッキを手にしていた。この当時、流行の先端はパリにあったが、パリの淑女ではなくパリの紳士の装いである。
「ゴルツは無口で説明がたりなかったようだけど」
女が口にした名前は、シャッターをおろした大男のものであるようだった。
「ちょっと事情があって、夜にならないと列車をおりられないのよ。もう半日だけ我慢《が まん》していただけるかしら」
「とっくに我慢できなくなってるわ」
はっきりした口調で少女は切り返した。
「これまでのことを謝罪しろとはいわないから、わたしを解放して」
「問題がひとつあるわ。あなたがお祖父《じい》さんから受けついだ遺産よ。その件さえかたづけばね」
「法律的には何の問題もないわ。弁護士さんがそういってたもの」
「法律についてはね。ところが政治と物欲《ぶつよく》が、法律を白眼視《はくがんし 》しているの。困ったことにね」
女はフロックコートにつつまれた肩をすくめてみせた。これまでの会話は、アップフェルラントの公用語である高地系のドイツ語でおこなわれたのではなかった。いずれにしても、黒い毛皮の野獣に理解はできず、彼ないし彼女は白い牙《きば》をむき出しにして小さくあくびした。
「夜になったら必要な書類が全部できあがる。それに署名してもらいたいのよ、お嬢さん」
「もしわたしがそれに署名したらどうなるの?」
「一生食べるに困らなくなるわね。充分に代金は支払ってあげるから。もっとも、半年ぐらい待ってもらうことになるでしょうけど」
「それじゃ、もし署名しなかったら?」
「一生食べるに困らなくなるわね、やっぱり」
女の唇《くちびる》の線が皮肉っぽいカーブを描いた。
「なぜなら、もう食べる必要がなくなるからよ。いずれにしても、わたしは非合理的なことはしたくないの。わかってくれるかしら」
少女は、理解したくないといいたげな表情で沈黙をたもった。そのようすを眺《なが》めて、女は苦笑に近い表情を目もとにひらめかせた。この時点で少女を納得させることはできないと、すでに判断を下している表情だった。
「あせる必要はないわね。ゆっくり話しあいましょう。あなたも二〇世紀の若者らしく合理的に考えてくれれば幸いだわ」
ステッキの先で、女は床を突いた。
「ドアを閉める必要はないわね。アッチラの毛皮は厚さ三〇センチの鉄板より頼りになるわ」
女は猛獣に信頼の視線を向けた。ペットではなく友人に対する視線であり、それを見ていた少女がもっと人生の年齢をかさねていたら、種属をこえた友誼《ゆうぎ 》の歴史を看《み》てとることができたかもしれない。
女は身をひるがえして出ていった。
アッチラと呼ばれた漆黒《しっこく》の野獣は、黄玉《トパーズ》色の目を少女に向け、可聴領域《かちょうりょういき》の最下端に属する低いうなり声を洩らした。少女の嫌悪感と恐怖を楽しむような魔的な声であった。
2
シャルロッテンブルクは、むろんアップフェルラントで最大の都会だが、人口は一〇万人をこえるていどで、パリ市内の一区にもおよばない。花崗岩《か こうがん》や煉瓦《れんが 》づくりの建物は、高いものでも四階までである。市街の中心は王宮だが、正面は官庁街に、背面はヴェーゼル湖に面していて、玄武岩《げんぶ がん》づくりの塀は高さ二メートルに達しない。建物も二階建で、豪壮というにはほどとおい小ぢんまりしたものである。スコットランドから来訪した某公爵が、「うちの分家の別荘より小さい」と評したほどだ。まあ、国が小さいのに王宮だけはやたらと壮麗というのも、あまりほめられた話ではない。世のなかには、釣りあいというものも、たしかに存在するのである。
ヴェルという通称で呼ばれるヴェルギール・シュトラウスは、この日いつもどおりに七時ちょうどに目をさました。彼が住んでいる屋根裏部屋の天窓は西に向いているので、朝日が差しこむことはない。目覚《めざ》めは強制されず、自然なものである。
ヴェルは頑丈《がんじょう》な軍隊用の寝台に上半身をおこし、大きいあくびとともに手足を伸ばす。ごくありふれた色調の茶色の髪を片手でくしゃくしゃにしながら寝台からおりる。ヴェルの年齢は一四歳で、身長は年齢相応だ。むだのない、機敏で健康そうな肢体と、夏の陽を受けた常緑樹の葉のように生々《いきいき》と光る緑色の目を持っている。母親を失ってから一二年、父親を失ってから九年、祖母を失ってから三年、初等学校を卒業して自活を始めてから二年というのが、彼の閲歴《えつれき》である。自活のための技術は祖母が教えてくれた。警察ににらまれる類《たぐい》のものだが、その他にリンゴ園の手伝いをしたり、ペンキ塗りとか馬車の修理とか、正業《せいぎょう》だって営《いとな》んでいる。祖母は少額ながら金銭を遺《のこ》してくれたが、それにまったく手をつけていないのがヴェルの自慢だ。孤児院《ワイゼンハウス》だの救貧院《アルメンハウス》だのの世話になるつもりもない。
寝台の他に、古ぼけた樫《かし》材のテーブルと椅子《いす》、やはり古ぼけた小さなタンス、そして軍隊用の衣裳《いしょう》箱。家具といえばそれくらいしかない屋根裏部屋である。服を着、洗面器を出して顔を洗い、口をゆすぐと、ヴェルは部屋を飛び出した。健康的な腹の虫の鳴声を伴奏《ばんそう》に、狭い階段を二段ずつ駆けおりる。裏通りから表通りへ出て、石畳の街角を曲がると、目的地に着いた。ポーランド人のワレフスキーが開いている屋台《ヘルカウフススタンド》だ。食欲を刺激してやまぬ匂《にお》いが湯気とともに吹きつけてくる。
「おはよう、ワレフスキーさん」
「おはよう、今朝は何にするね」
「ミルク、熱くして蜂蜜《はちみつ》をいれたやつね。それとジャガイモのゆでたやつ、バターをたっぷりつけてよ」
「パンはいらないかね」
「今朝はいいや」
「昨日の残りでよかったら、おまけしとくがね」
礼をいいかけたとき、べつの人影がのっそりとヴェルの横に立った。ヴェルは思わず首をすくめ、ワレフスキーは精いっぱいの笑顔《え がお》をつくって新来《しんらい》の客にあいさつした。
「夜勤《や きん》明けですかい、警部さん」
「ああ」
「何か大事件か怪事件でも起きましたか」
質問する声の半分は好奇心で、他の半分は警察に対するご機嫌うかがいというところだ。むっつりと頭《かぶり》を振った男ほ、ヴェルより三〇センチ近く背が高い。ごくありふれた、明るい砂色の背広とズボンを着用し、ほどけかかったネクタイだけが赤褐色《せきかっしょく》のアクセントになっている。
顔の下半分に、剛《こわ》い暗褐色《あんかっしょく》の髯《ひげ》が密生しているので、顔の他の部分は、ほとんど印象に残らないほどだった。この人物がアルフレット・フライシャー警部どので、この二年ほど、ヴェルとの職業的|相性《あいしょう》はきわめて悪いというお役人だった。
「この町じゃ夜勤するほどの事件なんて起こらんさ。警視総監閣下は部下が休んでるのがきらいなんだ。そんなことよりコーヒーをくれ」
「へい、ミルクは?」
「いらん。それに黒パンと、そこのソーセージと卵。卵は半熟《はんじゅく》でな。ソーセージには焦げめをつけてくれよ」
警部が注文している間に、ヴェルは大いそぎでミルクとゆでジャガイモを胃袋に直行させていた。しかも一秒ごとに一ミリずつ、身体を警部から遠ざけている。「ごちそうさま!」という声とともに銅貨が三枚音をたて、ヴェルの姿は罠《わな》をすりぬけた兎《うさぎ》の勢いで遠ざかっていた。
そちらを見やる警部の前に、ワレフスキーがソーセージの皿を差し出す。
「警部さん、ヴェルのやつはいい子なんですよ、ほんとは」
「ほんとにそう思ってるのか」
「え、ええ、もちろんです」
「だったら本気で心配してやったらどうだ。あのまま一〇年も二〇年もすごしていって、いいわけはないぞ」
ワレフスキーが、先刻のヴェルのように首をすくめると、それ以上追及する気はないらしく、フライシャー警部は黙々と朝食をたいらげはじめた。小さなお顧客《と く い》と自分自身のためにワレフスキーは安堵《あんど 》した。
一方、朝っぱらから警官に出会ったりすると、ヴェルとしては、仕事の先行《さきゆき》についていささか不吉さを覚えずにいられなかった。彼は自分の職業的技巧に絶大な自信をいだいていたが、殊勝《しゅしょう》なことに、運が実力を凌駕《りょうが》する場合もあるということを心えていた。
「ホクスポクス・フィジブス、ホクスポクス・フィジブス!」
祖母がそのまた祖母から教わったという魔よけの呪文を唱えながら、ヴェルは速い歩調で街路を歩いていった。呪文の効果というよりも、まことに爽涼《そうりょう》たる五月の風のおかげで、ヴェルの気分は急速に晴れていった。まだ生じてもいない兇事《きょうじ》を恐れるのは、老人はともかく、一四歳の少年にはふさわしくなかった。鳶《とび》色の服、それはおとな用の服を仕立てなおしてもらったものだが、その裾《すそ》をひるがえすようにヴェルが歩道を進んでいくと、にぎやかな排気音とエンジン音をたてて、自動車が反対方向へ走りすぎていった。
ドイツ人ダイムラーがベンツ自動車を発明したのが一八八六年である。一八九四年にはフランス国内で世界最初の自動車レースが開催され、この物語の翌年、一九〇六年には第一回フランス|GP《グランプリ》レースがおこなわれて、全ヨーロッパのスピード狂たちを熱狂させることになる。だが、アップフェルラントではまだまだ馬車のほうが圧倒的な勢力を誇っていた。数からいえば、自動車一台に対して馬車一〇台というところだ。
ヴェルが好きなのは鉄道で、一日に一度は中央駅近くの陸橋《りっきょう》に上って列車をながめないと気がすまなかった。アップフェルラントは小国だが、ヨーロッパ内陸の要処《ようしょ》に位置するだけあって、一日幾本もの国際列車が国内を通過していく。列車の行先は、パリ、ウィーン、ベルリン、プラハ、ワルシャワ、ミュンヘン、キエフなどで、東方からの列車はアジアまでつらなる大草原の匂いを運んで来るし、ベネチアからの急行は潮の香とともにやって来る。すくなくとも、ヴェルにはそう感じられる。
出勤や登校の時間帯がすぎたばかりで、陸橋の上は無人だった。ほんの一刻《いっとき》ではあるが、この陸橋はヴェルひとりの支配下に置かれる。彼の眼下に操車場《そうしゃじょう》がひろがり、二〇本以上の線路が、むき出された赤土の上に幾何学《き か がく》的な軌道を並列させたり交差させたりしている。そこから視線をあげて、町をかこむ山なみを眺《なが》めやると、ヴェルは声に出してつぶやいた。
「こんなけちな山国なんかに、いつまでもいてやるもんか。あと二年もしたら、おれはパリに出ていくんだ」
そのために、ヴェルは貯金しているのである。花の都バリに出かけて金銭《かね》がなかったらさぞ惨《みじ》めだろう。パリの町からは山など見えず、かわりにエッフェル塔とかいう高い高い鉄の塔がそびえているのだ。街灯もガス灯ではなく電灯で、何年に一度か万国博覧会が開かれ、世界じゅうから見物客が押し寄せ――要するにシャルロッテンブルクのような田舎町にはないものが溢《あふ》れかえっている。その活気と繁栄のなかにヴェルは身を投じてみたいと思っているのだ。
ヴェルが線路と列車をとおして、彼自身の夢を眺めている間に、現実世界では、ささやかな平和が破られようとしていた。陸橋の下をのろのろ通過しようとしていた列車が停止し、最後尾の車両からひとりの男が飛びおりた。その男が陸橋の階段を足音を忍ばせるように上がってきて、現実と夢想を衝突させた。
「孺子《こ ぞ う》、こんなところで何をしている!?」
金属的な怒声がヴェルの鼓膜を突き刺した。その半瞬前に、空気が動くことをさとって、彼は跳びすさっていた。乗馬用の鞭《むち》が音たかく空気を切り裂いて、ヴェルは、自分が屈辱的な殴打《おうだ 》をかわしたことに気づいた。彼の視線が現実を見つめると、陸橋の上には、赤みをおびたシルクハットにフロックコート、蝶《ちょう》ネクタイにはどうやら真物《ほんもの》らしいエメラルドのピンをひっかけた男が立っていた。カールさせた口髭《くちひげ》の下に嗜虐《しぎゃく》的な笑みをたたえてヴェルをにらんでいるのだった。
3
ヴェルにとって、よい位置を占めたとはいえなかった。陸橋の手すりを背にしてしまい、男は半円状に動いてヴェルの退路を絶《た》つことができるのだ。それを承知した男が、嗜虐的な笑みを濃くして鞭をあげかけた。ヴェルはいきなり前方に跳び出し、男に身体をぶつけた。激しくもつれあい、ついに振りほどかれたヴェルは、鞭が頭上から落下するのを覚悟した。ところが、そうはならなかった。突然、いまひとりの男が陸橋にあらわれ、フロックコートの男から鞭をもぎとったのだ。その男におとらずヴェルは仰天したのだが、少年を助けてくれたのは、先ほど屋台で気まずい遭遇《そうぐう》をしたフライシャー警部だった。警部は静かな迫力をこめてフロックコートの男にいった。
「子供を鞭で殴《なぐ》る風習は、この国にはありません。この子に対して使用せぬとお約束いただければお返ししますよ」
「……ふん、そういう軟弱な気風だから、この国は世界に雄飛《ゆうひ 》することができんのだ。植民地のひとつも持てず、けちな山国のままで最後の審判を迎えることになるだろうさ」
毒々しい悪意をこめて、男は警部をにらみつけ、コートについた埃《ほこり》を払った。その負け惜しみを無視して、わざとらしい鄭重《ていちょう》さで警部が鞭を差し出すと、男は無言でそれを引ったくった。踵《きびす》を返し、足音に怒りをこめて遠ざかっていく。「ばかやろー」とどなってやろうかと思ったが、下品なことだと思えたので、ヴェルはその形に口を動かすだけにした。
さりげなくハンチング帽をかぶりなおしたフライシャー警部が、じろりとヴェルを見おろした。印象としては、髯ごしに視線を向けたように思われた。まず礼を述べてから、ヴェルはあわてて釈明《しゃくめい》した。
「助けてくれてありがとう。でも、おれ何もやっちゃいないよ。列車を見てたら、いきなりあいつが鞭で殴りかかってきたんだ」
「ふむ……」
「あいつ、外国人だろ。ドイツ人かな」
「さあな。このごろ何か悪いことがあると何でもドイツ人のせいにする風潮があるからな」
世相《せ そう》を皮肉っておいてから、警部は非友好的な視線で少年の顔をひとなでした。
「で、お前、ほんとうに何も盗んじゃいないんだろうな」
「見そこなうなよ」
ヴェルは胸をそらした。
「何か盗んでたら、あんな奴に見つかるまで現場をうろついちゃいないよ。いまごろヴェーゼル湖の畔《ほとり》にでもいて昼寝してるさ」
「それならいい。いや、あんまりよくないが、それはそれとしてだ、いったいあんな場所で何をしていたんだ」
「官憲《かんけん》の知ったことじゃないね」
反射的に突っぱったが、ヴェルは外見ほど自信満々ではなかった。彼の服の内ポケットには、先刻の外国人らしい男からまんまとすりとった財布《さいふ 》がおさまっていたのだ。つかまって身体検査をされたら、現行犯で即刻、留置場行きである。こころもちヴェルは爪先《つまさき》に体重を移動させ、すぐに全力疾走を開始できる体勢をととのえた。だが警部は、この場でヴェルにつかみかかるつもりはなさそうだった。ヴェルは相手の沈黙を受けとめられずに、よけいなことを口にした。
「警部はおれのこと目の敵《かたき》にしてるけどさ、おれはただ自由に生きてるだけだぜ。誰《だれ》に迷惑をかけたおぼえもないし、ほっといてくれよな」
「ハンス・ツェランて人を知ってるか」
「知らねえよ」
不意に話題を変えられて、いささかヴェルはとまどった。
「先週、ボイエル街で誰かに財布をすられたそうだ」
「………」
「その財布は結局、翌日見つかったんだが、ツェラン氏にとっては遅すぎた。借金の返済期限は、財布を盗まれた当日の夕方だったんだ。借金を返せなくなったツェラン氏は、家も工場も取りあげられることになった。そして絶望の末に自殺しちまった。夕べ遺体が発見されたんだ」
ヴェルは返答できなかった。先週だかその前だったか、ボイエル街でえらそうな男を相手に祖母ゆずりの手先の技をふるったことがあったのだ。金貨を一枚いただいただけで、翌日、財布は市庁舎の玄関前に放り出し、すべて終わったものと思っていた。まさか相手が自殺していたとは。
「おれ……」
困惑していいかけたヴェルに、あっさりと警部は答えた。
「嘘だよ」
「嘘って……」
「嘘だよ、ハンス・ツェランなんて人物は実在せん。いまのは作り話だ」
事情をのみこむと、ヴェルは激昂《げきこう》せずにいられなかった。
「きったねえ! 警察の人間がそんな嘘ついて他人をだましていいのかよ」
弾劾《だんがい》された警部は、動じる色もなく、ヴェルを正面から見すえた。
「そう、汚《きた》ない嘘だ。だが、これでわかったことがあるはずだぞ。お前さんの理屈なんてものは、おとなの汚ない嘘ひとつで崩《くず》れさるていどのものだってことだ」
反論に窮《きゅう》して、ヴェルが黙りこむと、警部はかさねていった。
「なあ、あんまりお説教をする気はないが、すこし考えてみろ。お前さんに好きな娘《こ》ができたとしてだ、自分の職業はスリだと胸を張っていえるか」
「好きな子なんていねえもの」
「かならずできるさ。思うに、おれなんかがお説教するより、好きな子ができるほうが、お前さんの生きかたに影響を与えるだろう」
警部の大きな手が髯をかるく引っぱった。
「人間って奴は、不思議なもので、自分自身のために努力する気になれなくても、好きな相手のためになら努力できるものらしいからなあ」
さしあたり、ヴェルは、誰のためにも努力する気になっていなかった。ただ、警部の述懐《じゅっかい》には、それまで蓄積された人生の地層があらわれているように思えた。
「警部もそういう経験あるのかい?」
「何度もあるなあ」
「じゃ、その逆は?」
すると警部は即答せず、陸橋の手すりから下界を見おろした。
「人間、だいじなときにだいじなことに気づくとはかぎらんよ」
大きな掌《てのひら》でヴェルの肩を軽くたたくと、警部は長い肢《あし》をもてあましたようなかっこうで歩き去った。
動揺はあったが、結局、ヴェルは警部に告白しなかった。先刻もみあったとき、フロックコートの男から財布をすりとったことを。警部も嘘をついてヴェルをおどかしたのだから、これでおあいこだ。そう思って、ヴェルは、自分の行為に対する弱気なうしろめたさを追い払った。財布の重みを実際以上に感じながら、ヴェルはひとまず自分の部屋にもどった。
ヴェルに用があるのは現金だけだった。それも財布の全額ではない。ごく一部だけ、紙幣《し へい》の一枚や銀貨の幾枚かだけを抜きとって、残りは返しておくのである。財布の所有者当人のポケットに気づかれぬようもどしておく場合もあれば、警察署の建物の窓から屋内へ放りこんでおくこともある。これまでヴェルにとって最高の傑作は、ロシアの貴族からすりとった重い財布を、警視総監のポケットに入れておいた一件であった。あのときの、いばりくさった連中の表情《かお》といったらなかった!
屋根裏部屋のドアを閉め、念をいれて閂《かんぬき》をかけると、ヴェルは、テーブルの上に財布の中身を勢いよくあけた。
万事、ヨーロッパ列強《れっきょう》の先端性から遅れぎみのアップフェルラントでは、未《いま》だに警察は指紋による捜査法を全面的に導入していない。おかげでヴェルは悠々と素手で技術的生活にいそしむことができた。
「かまうもんか。これまで生活に困ってる人から盗んだおぼえはないや」
口に出してつぶやいたのは、まだつづいている後ろめたさのためであった。
「外国の紙幣ばかりじゃしようがないなあ。ドルってどこの通貨だ。あ、アメリカか。フランなら、そのうち必要になるだろうけどなあ」
ひとりごとをつづけながら紙幣をめくっていくうち、異種の触感《しょっかん》が指先を打った。紙幣と同じサイズの、べつの何かがはさまっていたのだ。
それは一枚の写真だった。写っているのは少女だった。肩にとどくていどの長さの髪と、正面を見すえた大きめの瞳《ひとみ》と、きゅっと結んだ唇とが、ヴェルの目に映《うつ》った。
4
きれいな子だな、と、ヴェルは感心した。写真の下方に何やら文字が書きつらねてあったが、ヴェルには読めない。ドイツ語でないことは確かだった。
ヴェルは学校に通っておらず、当然、外国語を修得《しゅうとく》してもいない。将来、パリに行くつもりだからフランス語はいくらか独習している。古書店で手に入れたフランス語の辞書をひもといては、単語をおぼえている。この辞書は盗んだものでなく買ったものだ。金持ちでもない古書店の老主人から盗むなど、ヴェルの衿持《きょうじ》に反することであった。だから、ずいぶんと値切りはしたが、ちゃんと代金を支払って購入したのである。
「こいつはフランス語じゃあないな。英語かな。アメリカは、たしか英語の国だったよな……」
とすると、あの男はアメリカ人だろうか。考えたが、それで判明することではない。ヴェルは写真を見なおした。いくつかの思案《し あん》が彼の脳裏《のうり 》で弾《はじ》け、ジグソーパズルの断片となって無秩序に飛びまわった。あるていどパズルの絵が完成されたところで、ヴェルは行動を決意した。ドアの前にテーブルを移動させ、天窓を閉め、服をぬいでひとまとめにし、軍隊用寝台にもぐりこんだのである。すべては夜になってからのことだった。徹夜してもよいように、寝だめしておくのだ。
と思ったが、一時間ほど寝台のなかで寝がえりをくりかえしてから、ヴェルは起き出してしまった。神経が冴《さ》えて、とても眠れそうにない。ふたたび服を着て、ヴェルは街へと飛び出した。
その日、空が暮れなずむまで、ヴェルはさまざまな試《こころ》みをしてみた。中央駅で邪慳《じゃけん》にされながら駅員からいくつかの情報を集め、もう一度、操車場へ出かけて、あのフロックコートの男が乗っていたままの列車が停まっているのを捜しだした。陸橋に上って見おろせば簡単だが、それはやめておいた。陸橋の両端をふさがれたら逃げ場を失ってしまうからだ。広い操車場を、用心しつつ歩きまわって、ようやくその列車を発見することができた。フロックコートの男が乗降口に立っているのを、五〇メートルほど離れた貨車の蔭《かげ》から確認し、ヴェルはひとまずそこから引きあげた。
財布を屋根裏部屋のある場所に隠し、労働者や貧乏学生用の安食堂で充分に腹ごしらえしながら、完全に日が暮れるのを待った。六時三〇分に、ヴェルの姿は、操車場にみたびあらわれた。すこしは怖《こわ》いだろうと自分で思っていたが、興奮のほうが強いらしく、ヴェルは恐怖を感じなかった。足音をころして貨物車の蔭に身をひそめ、例の列車を眺める。車内には薄暗い灯火がともり、窓のシャッターはあげられて、コンパートメントの内部がよく見えた。そして、ヴェルの目は、コンパートメントの住人の姿を正確にとらえたのだ。
それは少女だった。ヴェルと同年か、一歳ぐらいは下かもしれない。写真の少女と同一人物であることが、ヴェルの目には明らかだった。写真では黄色っぽい単色《たんしょく》に固定されていたものが、いま現実世界で、自然の色彩のなかに存在している。窓辺にすわって、どこともなく視線を放っているようだ。
ヴェルの胸郭《きょうかく》の奥で、心臓がダンスを踊りはじめた。それも、かなり速くて強い律動《りつどう》のもので、血の循環《じゅんかん》が加速するにつれて体温も上昇しはじめたようであった。呼吸をととのえながらヴェルが見守るうちに、少女は窓辺で立ちあがった。毛布らしいものが窓をさえぎったと思うと、鈍い音がして窓ガラスがくだけた。毛布の上から花瓶か何か重いものをたたきつけたようであった。毛布がそのまま押されて窓から地上へ舞い落ちた。
一瞬、ヴェルの神経網《しんけいもう》は凍結して、彼の筋肉から日ごろの俊敏さを奪いとってしまった。自分の見た光景の意味をヴェルが理解できたとき、列車の窓から飛びおりた少女は、懸命に走り出した。身体が不自由なのだろうか。そうヴェルが思ったのは、少女の動作ができそこないのあやつり人形さながらにぎこちなかったからだが、その原因がすぐにわかった。少女は左手と左足とを鎖でつながれており、その長さが充分でないため、走るには右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に前方に出すしかなかったのだ。
義憤《ぎ ふん》がヴェルの体内で爆発した。女の子を鎖で縛《しば》るような奴らが悪漢《あっかん》でないはずがない。彼は危険も用心も忘れて、貨物列車の蔭から飛び出した。
「助けにいくよ、待ってるんだ!」
そう叫び、赤土を蹴《け》って少女に走り寄った。いや、走り寄ろうとしたとき、にわかに何やら圧倒的な量感のものが迫ってきたのだ。
月の光が何かに反射した。硬く冷たく滑《なめ》らかな物体が青白く輝いて、ヴェルに襲いかかってきたのだ。それが重く鋭い、騎兵士官用の軍刀《ぐんとう》だと知れたのは、閃光がヴェルの頭上を通過した後のことだった。機敏に跳びすさったものの、ヴェルの心は冬の寒風にさらされてしまった。相手は明らかにヴェルを殺すつもりだった。無言のままヴェルを見すえた眼光で、それがわかった。
軍刀は巨大な手に握られており、その手は太い腕へ、さらにたくましい肩にとつづいていた。フライシャー警部より一〇センチ以上も頭の位置が高い巨人が、軍刀を乗馬鞭のように軽々とあやつって、ヴェルの頭をメロンみたいに撃《う》ち砕《くだ》こうとしていた。
嵐のような斬撃《ざんげき》がふたたび襲いかかって、ヴェルに後方への跳躍を強いた。着地すると同時に、ヴェルは靴先に赤土をはねあげていた。赤土が顔にあたったが、巨人はおかまいなしに力強い一歩を踏み出し、軍刀の一閃《いっせん》をたたきつけた。かろうじてかわしたものの、ヴェルは敗北をさとらされた。あの少女を救うどころではない。ヴェル自身を救うことすら困難をきわめた。ふたたびヴェルの靴先が赤土を蹴りあげ、今度はその一部を巨人の目に飛びこませた。軍刀が回転をやめ、巨人は片手で顔をおおった。その瞬間にヴェルは身をひるがえし、逃げ出した。
無力感にさいなまれ、口惜《くや》しさに心臓を乱打《らんだ 》されながら、この場は逃げ出すしかなかった。
立ちつくす巨人を呼ぶ声がして、彼は軍刀をさげ、引き返しはじめた。フロックコート姿の女と男が列車の乗降口で会話をかわしている。
「逃がしたの?」
「何と身の軽い孺子《こ ぞ う》だ」
「逃がしたのね」
容赦なく女は確認し、不満と不本意をあらわに男はうなずかざるをえなかった。
「ゴルツの奴、熊《くま》を素手でしめ殺すことはできても、小鼠《こねずみ》を引き裂くには、ちと不器用なようだ」
「ゴルツはそうでしょうよ。で、あなたはゴルツが働いていた間、何をしていたの」
その質問に、男はことさら意外そうな身ぶりをしてみせた。
「これはしたり、君は将軍と兵士を同列にあつかうのかい」
「誰が将軍ですって?」
「……まあ、いいじゃないか。あの娘には逃げられずにすんだんだし、あの孺子《こ ぞ う》が逃げ出して誰に何をいったって信用されるはずがない」
男の楽観を、ひややかに女は制した。
「わたしがいっているのは、あなたが無用に人目を惹《ひ》くような行動をとったということよ。今朝の行動、あれはいったい何? わざわざ、疑わしいものがここにありますと宣伝しているようなものじゃないの」
男はカールされた口髭《くちひげ》を片手の指先でひねり、声と表情をつくろった。
「なに、心配ないさ。ここはロンドンでもパリでもない。ホームズやルパンに張りあえるような名刑事がいるとも思えんね。銃声と雪崩《な だ れ》の音との区別もつかんような、いなか者ぞろいさ」
「あなたが彼らを軽視するのは勝手だけど、彼らのほうがあなたの評価に甘んじる義務はないのよ。|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》の刑事たちのなかに地方出身者がいくらでもいることは、忘れないほうがいいわね」
女の指摘は、男の精神上の古傷を刺したようであった。男は両眼を細め、口もとをゆがめた。
相手の表情の変化を無視して、女はさらに口調を厳しくした。
「この際はっきりさせておきましょうか、|ヘル《ミスター》・デンマン。わたしは利己主義者なの。自分の失敗は赦《ゆる》すことができるけど、他人の失敗には我慢できないのよ。そして今度の件で主導権をにぎっているのはわたし。あなたではなくてね」
男は弁明の方途《ほうと 》を失い、ひきつった笑顔をようやくつくって軽く両手をあげた。
「わかったよ、わかったとも。私はこれまでも充分気をつけてきたつもりだが、今後はさらに注意することにするよ」
「それがいいでしょうね、おたがいのために」
冷然といいはなつと、女は律動的な動作で踵《きびす》を返した。フロックコートにつつまれた後姿を見送る男の目に、悪意の灯火がともり、それは容易に消え去りそうになかった。
5
アルフレット・フライシャー警部のデスクは、警視庁の建物の二階西翼、刑事部の一角にある。たとえばロンドン警視庁のようには、警官たちの職務は整然と分類されてはおらず、フライシャー警部が受けもつ犯罪の種類は六〇種にものぼる。そのなかに、「悪質なデマや空《から》さわぎによって世間をさわがせる罪」というのもあって、午後七時すぎに、その犯罪の現行犯候補者が警視庁に飛びこんできたのであった。階下で怒号や叫び声、足音が入り乱れ、それを耳にしたフライシャー警部が吹き抜けから階下を見おろすと、ヴェルが両腕を警官たちにおさえられてもがいているところだった。
「おれの話|聞《き》いてくれよ、警部!」
階上を見あげて警部の姿を認めると、空中で、ヴェルは激しく両足を振りまわした。
「おれ、自分のためならでたらめ[#「でたらめ」に傍点]もいうけど、これには他人の生命がかかってるんだ。嘘なんかつかないよ!」
ヴェルは必死だった。このさいフライシャー警部以外、頼れる相手がいないのだ。彼に信じてもらえなければ、ヴェルはどうすることもできない。
「いい台詞《せ り ふ》だ。つい信用したくなるな」
警部がうなずいてみせると、警官たちは不本意そうな表情をつくりながらも、ヴェルをおさえつけていた腕を解いた。
「あがってこいや、ヴェル」
いわれるまでもなく、解放されたヴェルは二階への階段を駆けあがった。
警部は濃いコーヒーを淹《い》れると、砲弾のような速さと勢いで刑事部の部屋に飛びこんできた少年にブリキのカップを差し出した。
「さあ、話してみろや、なるべく落ち着いてな」
「悪漢たちが女の子をつかまえてるんだ!」
「ほう?」
「列車に閉じこめてて、軍刀をもった大男を見張りにつけてるんだ」
「ほほう、その大男には角と翼はついていたかね」
「警部!」
「いや、悪かった。人の生命がかかってるんだったな、話をつづけてくれ」
ヴェルは懸命に記憶を整理しつつ話しはじめた。話している間にも、あの少女がどうなったか、気が気ではなかった。フロックコートの男からすりとった財布のことも正直に話した。警部の表情は途中からすっかり真剣なものになって、ヴェルが話し終えたときには、気むずかしいほどに思案をめぐらす態《てい》であった。警部が口を開いて何かいおうとしたとき、あわただしい足音が近づいてきて、いかめしい制服姿の警官が敬礼をほどこした。
「警部、総監がお呼びです」
これは、かなり異例に属することだった。たかだか警部にすぎない身が、直接、総監に呼ばれたのだ。警部は首をかしげたが、むろん拒否できるわけもない。待ってろ、すぐもどる、とヴェルに言い置いて、警部は総監室に出かけていった。
この警視総監は卵型の顔と身体を持つ五〇代の人物で、フライシャー警部をとかく白眼視していた、というわけではない。たかが少壮《しょうそう》の一警部など、警視総監から見ればとるにたりぬ存在で、意識するほうがおかしいというものだ。それだけに、フライシャー警部は内心で身がまえざるをえなかった。ヴェルが目撃した件とまったく無関係と思うのは、想像力が不足しているというものである。型どおり礼をほどこした警部は、無言で総監の第一声を待った。
「何やら君のところへ騒動を持ちこんだ無責任な市民がおるようだね」
横たわる長方形、そう表現したくなる口髭が動いてそういった。
「は、騒動にはちがいありませんが、無責任とも決めつけかねます。こういう次第でして……」
手短かに警部は説明したが、総監は感銘《かんめい》を受けなかったようである。
「そのヴェル何とかいう子供は、札《フダ》つきの浮浪児《ふ ろうじ 》だっていうじゃないか。そういう手合《て あい》のいうことをまともに信じるのかね」
ヴェルも存外、有名人だと見える。おえらい警視総監閣下にまで知られているとはな。そう考えたフライシャー警部は、黙ったままつぎの総監の反応を待った。総監はいらだたしげに命じた。
「さっさと警視庁から追い出したまえ。子供だから流言罪《りゅうげんざい》の適用はかんべんしてやるといって。それでもだめなら、少年院に直行させるんだな。だいたい君は、浮浪児のたわごとにつきあっていられるほど暇《ひま》なのか」
「いえ、けっこう多忙《た ぼう》な身です」
総監室から退出した警部は結局、ヴェルを警視庁から追い出してしまった。ただし自分自身も追い出して、ふたりは夜道を肩を並べて歩き出すことになった。ヴェルは不満の声を、高い位置にある警部の耳めがけて投げあげた。
「信じてくれるっていったじゃないか。それなのに、このあつかいは何だよ」
「おれは信じてるさ」
警部の声は、おとなが高処《たかみ 》に立って子供をなだめるときの典型的な例では必ずしもなかった。彼自身、当惑させられていたのだ。警視総監の態度は、いささかならず妥当性《だ とうせい》を欠いていた。閉ざされたドアの向こうに何か隠されていると思わざるをえなかったのである。
「どうするんだよ、あの子、殺されちまうよ」
「いや、さしあたってその心配はないと思うな。その子はおそらく人質か何かで、生かしておく必要があるんだろう。心配なのは、どこか別の場所に身柄《み がら》をうつされることだ」
「じゃ、とにかく急いで助け出さなきゃ」
ヴェルが熱心に主張したとき、その顔に光の帯がたたきつけられた。愕然《がくぜん》として肩ごしに振り向いた警部の目が、殺到してくるふたつの光球をとらえた。自動車のヘッドライトだった。とっさに警部はヴェルの身体を突きとばし、自分はのけぞって反対方向に倒れこんだ。黒く猛々《たけだけ》しい人工の猛獣が、ふたりの中間を走りぬけた。ヴェルと警部を轢《ひ》き殺そうとしたのだ。
路上で長身を回転させた警部の鼻先を、方向転換した自動車のタイヤが三センチ半の差でかすめすぎた。低く怒声をあげると、警部は、背広の内ポケットから制式拳銃《せいしきけんじゅう》を引きぬいた。だが、射撃の姿勢をととのえぬうちに、タイヤをきしらせながら箱型の自動車がみたび接近し、車内から銃声がひびきわたった。
路面で跳《は》ねた銃弾が夜気を引き裂いて、どこかでガラスの砕ける音がした。それにあらたな銃声がかさなったのは、警部が撃ちかえしたのである。またしてもガラスの砕ける音がして、黒い人工の猛獣はよろめいたように見えた。乱暴な方向転換をタイヤに強いて、自動車は走り去った。人々が椿事《ちんじ 》におどろき、駆け集まってきたからだった。
「ヴェル、無事か!?」
「うん、何とかね」
せいぜい元気そうに警部に答えて起きあがりながら、ヴェルは実感したのだった。自分がどうやら平和とも安静とも無縁な世界の扉《とびら》をあけてしまったらしいと。
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第二章 樹の上と窓の中
1
この当時、ヨーロッパ最大の、というより世界最大のトラブルメーカーといえば、「皇帝《カイゼル》」と呼ばれている人物である。ドイツ皇帝兼プロイセン国王ウィルヘルム二世。本名はフリードリッヒ・ウィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・ホーエンツォレルン。父親はドイツ帝国の第二代皇帝フリードリッヒ三世。第二代皇帝であるのに「三世」と称するのは、ドイツ統一以前からのプロイセン国王として、この名の者が三人めであったからだ。そして母親は英国のヴィクトリア内親王《ないしんのう》で、有名なヴィクトリア女王の娘である。つまりドイツ皇帝ウィルヘルム二世は、英国女王の孫ということになる。
一九〇五年に、ウィルヘルム二世は四六歳である。即位して一七年になる。「カイゼルひげ」と呼ばれる、えらそうな髭《ひげ》をはやしたこの中年男は、知能が高く、教養に富み、片手がやや不自由であったにもかかわらず乗馬の名手であった。だが、一国の君主としてはどうも困りものであったようだ。感情が不安定であり、考えることもしゃべることも大げさで節度に欠けていた。口を開くたびに国際問題をおこしている。ドイツは強国であり、その強国の皇帝がかるはずみなことをいえば国際的にどのような影響があるか、その点についてまったく自覚や自省《じ せい》というものがなかった。一九〇〇年に清《しん》帝国でドイツ人の外交官が排外主義の過激派に殺されたとき、激怒したカイゼルは「野蛮人どもに思い知らせてやれ」と軍隊に訓辞《くんじ 》した。清の首都|北京《ペ キン》に進駐《しんちゅう》したドイツ軍は、一般民衆を虐殺し、女性に暴行を加え、民家を破壊し、大量の財貨を掠奪《りゃくだつ》し、ありとあらゆる悪事をはたらいたのである。
「カイゼルが殺人や掠奪をけしかけた」
と、欧米|列強《れっきょう》の間でも悪評がたった。カイゼル当人には、けしかけたつもりはない。興奮してそうわめいただけのことであり、彼がそうわめいたことによってどれだけの血が流れる結果となるか、まるで想像力がなかっただけのことである。
さらに困ったことに、カイゼルは、想像力が不足しているくせに妄想力が過剰《かじょう》だった。彼は、白人に虐《しいた》げられているアジア人が、ジンギスカンのような指導者を推戴《すいたい》してヨーロッパに攻めよせてくるという悪夢に悩まされていた。また、周辺の列強が陰謀をめぐらして、同時に四方からドイツへ攻めこんでくるという強迫《きょうはく》観念に苦しめられていた。それらの妄想を克服するために、彼は世界一の強者であろうとし、せっせとドイツの軍備を拡大していた。
さらにさらに、カイゼルは、なるべくドイツの国境を首都ベルリンから遠ざけようとしていたが、ロシア、フランスなどに面した国境はこれ以上動かしようもない。それやこれやで、カイゼルの心理はさらに不安定にならざるをえなかった。
その日、つまり五月一日の夜、ベルリンの皇宮でカイゼルは側近の某将軍を相手に、彼のいわゆる「世界政策」を語りあっていた。ドイツ周辺諸国の地図を熱心に眺めている。
「アップフェルラントという土地は、本来ドイツ帝国の一部となるべきだったのだ。それをビスマルクのおいぼれめが、どういうものか贔屓《ひいき 》しおってな」
苦々《にがにが》しげにカイゼルは紫煙《し えん》を吐き出した。鉄血《てっけつ》宰相《さいしょう》と称されるオットー・フォン・ビスマルク公爵は、およそ散文的な現実主義的政治家で、感傷的なことが大きらいであったはずなのに、ときとして妙にものわかりがよい男だった。「狂王」と呼ばれるバイエルン国王ルードヴィヒ二世に対しても好意的だったし、アップフェルラントについても、むりやり併合しようとはしなかった。青年期のカイゼルは歯がゆくてたまらなかった。
むろんビスマルクは感情だけでアップフェルラントの独立と中立を認めたわけではなかった。この小国を力ずくで併合すれば、ロシアやオーストリアとの対決は必至《ひっし 》である。すると、アルザス州とロレーヌ州をドイツに奪われたフランスが報復の牙《きば》をむくであろうし、そうなればドイツはヨーロッパの三大国に挟撃されてしまう。ドイツの統一という大事業を果たした以上、ビスマルクは彼がつくった国を、政治的・軍事的なギャンブルの賭物《かけもの》にするつもりはまったくなかった。統一ドイツの独立と安全こそが最大の優先課題であり、そのためにはヨーロッパ全体が平和でなければならない。それがビスマルクの、いわゆる現実主義的平和外交というものであった。
ビスマルクを帝国宰相の地位から追い払い、さらに彼が死去するにおよんで、カイゼルを制するものはいなくなった。やりたい放題が始まった。カイゼルにとって好運なことに、ドイツ経済界は好景気がつづき、労働者の生活もよくなって、カイゼルの国内人気は高まった。国庫《こっこ 》も豊かになって、カイゼルが軍備増強や植民地獲得につぎこむ資金も増えたのである。
「ところで、将軍、予が注文しておいた列車砲は、たしかに完成したのだろうな。まちがいではないな」
「むろんでございます、陛下」
「世界最大の列車砲だな!」
「史上最強の列車砲でございます、陛下」
さりげない阿諛《あゆ》をこめた返答が、カイゼルを大いに喜ばせた。彼は最大とか最強とかいう表現が好きで、その両者を兼ねた存在にドイツ帝国をすることが望みだった。一〇年以上後に、ドイツがロシアの革命政府と単独講和を結んだとき、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを割譲《かつじょう》させたカイゼルは、全面降伏に追いこまれるまでのごく短い期日とはいえ、ヨーロッパ最大の領土の支配者となったのである。
「つぎは世界最大の戦艦だ。ネルソンの栄光に一〇〇年もおんぶしたままのイギリス人どもに、顔色を失わせてやるぞ!」
さも豪気《ごうき 》そうにカイゼルは髭《ひげ》をふるわせて大笑したのであった。
2
アップフェルラントの女王であるカロリーナ・フォン・シュタウピッツは、一八四四年に生まれ、この年六一歳になる。母親はデンマークの王族であった。カロリーナは中背《ちゅうぜい》で血色がよく、わずかに肥満ぎみで、銀灰《ぎんかい》色の頭髪を持ち、暗褐色の瞳《ひとみ》が弾性《だんせい》に富んだ若々しい知性の光をたたえていた。彼女は若いころとりたてて美女ではなかったが、年齢を加えるにしたがって人格に深みと厚みが加わり、それが精神の核から皮膚の表面に滲《にじ》み出して、若いころよりはるかに魅力に富んだ老婦人となっていた。ただ、凡庸《ぼんよう》な目には、明るくていささか口の悪い婆《ばあ》さんにしか見えないであろう。
王宮の本館は横から見たH字にたとえられる。奥の建物の一階南端は図書室にあてられていて、四方の壁面には古今東西の出版物が並び、女王は小さな暖炉の前に揺り椅子を置いて編物をすることが多い。この年、アップフェルラントは春が遅く、シャルロッテンブルクの街並みを飾るリンゴの並木も、まだ白い宝珠《ほうじゅ》のような花を開こうとしていなかった。夜ともなれば一段と冷《ひ》えこみ、曖炉には火が欠かせないのであった。
揺り椅子の傍《かたわら》の小さなテーブルには、女王の愛読書が何冊か積みかさねられていた。「海底二万里」「八十日間世界一周」「地底旅行」「ソロモン王の洞窟《どうくつ》」「透明人間」「バスカヴィル家の犬」などのドイツ語版だ。ドイツ語文学はゲーテをはじめとする巨人たちを多く生んだが、どうも血わき肉おどり骨くだける冒険活劇小説に欠ける、というのが女王の不満だった。ちなみに、ドイツ語文学で彼女がもっとも好む英雄は、ジークフリートでもファウスト博士でもなく、尊敬すべきミュンヒハウゼン男爵である。
暖炉の小さな火を眺め、両手は正確に編棒《あみぼう》を動かしながら、カロリーナ女王は銀髪の下でさまざまな思惟《しい》をめぐらせていた。彼女は二二歳でベルギーの貴族と結婚し、三〇歳で父王の後を継いで即位した。父王は、プロイセン王国によるドイツ統一に抵抗し、独立を保《たも》つことができたものの、心労《しんろう》で倒れ、三年を経《へ》て死去という形で病床を離れたのである。後を継いだカロリーナの統治も、平穏とはいかなかった。アップフェルラントは小国とはいえ、ドイツ、ロシア、オーストリア・ハンガリー、三大帝国の角逐《かくちく》する地理的要地にあり、三大帝国いずれもこの地を欲していた。カロリーナはそれを逆用し、三大帝国いずれにも付かず、彼らの野心と欲望を巧妙に制御して、併合や分割をまぬがれてきた。夫は善良だが平凡な人で、カロリーナを政治的に補佐することはできず、病弱でもあり、一〇年前に肺炎で亡くなっていた。
扉がたたかれ、女官が姿をあらわして来客を告げた。予定の客である。総理大臣のボイス卜が国政|諸般《しょはん》について報告し、かつ指示をあおぐために、夜九時に女王のもとへ伺候《し こう》する慣例となっていた。ややかたくるしいが実直な印象の五〇代の男である。アップフェルラントの内政は、小国らしく大過《たいか 》なくおさまっており、問題は主として外交にあった。
「最近ドイツが、わが国の鉄道|債券《さいけん》を大量に買いこんでおります。財政的にはありがたいことなのですが、その動機がいささか、火薬の臭《にお》いをただよわせておりまして……」
総理大臣は声をひそめ、周囲を見まわした。ドイツはヨーロッパの全王室に密偵《みってい》を放っているという評判であった。
「つまり、ドイツの狙《ねら》いはわが国の鉄道それ自体にございます。あってはならぬことですが、将来ドイツがロシアと戦端を開きますときに、軍用列車をわが国の線路に走らせようという魂胆《こんたん》、見えすいておりまして」
「ドイツの計画どおりにいけば、師団単位の兵力が三、四時間でロシア領に到達することができるわね」
明快に指摘し、女王はおかしそうに口もとをほころばせた。
「大丈夫ですよ、総理、カイゼルのスパイはここにはいません。いたとしても、わたしたちが乗《じょう》ぜられなければ、それまでのことです」
「は、おっしゃるとおりで。小心なことでございました」
苦笑して、総理は額の汗を木綿《も めん》のハンカチでぬぐった。平民出身の彼は、この一〇年間、女王にとって誠実で信頼できる政治上のパートナーであった。総理のようすを見ながら、女王は話題を転じた。
「アップフェルラントに別名があることは知っていますね」
「|塩の国《ザルツラント》。もちろん知っております。それは質のいい岩塩が採れましたからな。過去形でいわなくてはならないのが残念でございますが」
「オーバーケルテンの廃鉱《はいこう》を……」
と、女王は、かつて国庫の重要な供給源であった岩塩鉱の名をあげた。
「どういうわけか買い求めたいという声があるのですよ。それもひとつならず、すべて外国からね」
「女王陛下、もしあの廃鉱をいずこかの国に売りつけることができましたら、国庫にとっては喜ぶべき商談ということになります」
「まあ、あわてることはないと思いますよ、総理」
穏《おだ》やかに女王は総理大臣の性急《せいきゅう》さを制した。完全な廃鉱を高価に売りつけたのでは商道徳にもとるし、アップフェルラント王国の信用にもかかわる。仮《かり》に廃鉱でないとすれば、列強が垂涎《すいぜん》するような何物が地下に埋まっているのか確認しなくてはならない。でなければ、宝の山をみすみす古銅貨一枚で売りわたす愚《ぐ》を犯しかねない。塩は人間の生存に必要不可欠の物資ではあるが、岩塩鉱ならドイツにもあるし、大陸の周囲には無限の塩水が波うっているではないか。
「それに、あの廃鉱には、ちょっと問題があるのよ。発見したのは外国人で、わが国が塩を売って利益をあげるかわり、毎年、売りあげ額の五パーセントを支払うという契約があったはずです。わたしも子供のころで、正確にはおぼえていないのだけどね。その外国人だか、その子孫だかの承諾《しょうだく》がないと、勝手にあの廃鉱を売りわたすことはできないはずなのよ」
「たしかにそれは問題でございますな。さっそく調査させます」
「お願いしますよ。それともうひとつ問題があるわね」
編棒をとめ、編物を顔の前にあげて、女王は毛糸の織《お》りなす模様を確認した。
「あの岩塩鉱は何十年も前に廃棄されたものですよ。それをなぜ外国がほしがるのでしょうねえ。とくにドイツあたりがなぜ」
「カール大帝の財宝でも隠されているのとちがいますかな」
「あるいは赤髯王《バルバロッサ》のね」
カロリーナ女王は愉快そうに笑いだし、編物をひざの上に置いた。
「話としてはおもしろいし、カイゼルは何をしでかすかわからない人だけど、大昔の財宝というのはね」
「ありえませんか」
「カイゼルという人は、玩具《おもちゃ》が大好きな男の子なんですよ。宝石とか金貨より、騎兵隊とか大砲とか軍艦とかが、あの人の好きな玩具です。もっとも、玩具を買うお金銭《かね》はいくらあってもいいものでしょうけどね」
カロリーナ女王は、編物を小テーブルにのせ、鈴を鳴らして侍女を呼んだ。自分と総理大臣にクリームコーヒーを運んできてもらうためである。
「ビスマルク公爵がなつかしいわねえ」
老女王は、しみじみと述懐《じゅっかい》した。
「ビスマルクは、そりゃあ油断のならない人でしたよ。ずぶとくて、あつかましくて、思いこみが強くて、目的のためには手段を選ばなくて。でも目的が明確で、やりかたが合理的だったから、その線でいくらでも話しあいができたのだけど……」
運ばれてきたクリームコーヒーを総理大臣に勧《すす》めながら、女王は自分もコーヒーカップを手にした。
「ビスマルクは、何がドイツの長期的な利益になるか、ちゃんと正確に知ってましたよ。ところがカイゼルときたら、ドイツの利益とは何か、それがそもそもわかってないんですものね。いずれあの人は、天国への近道と信じこんで、地獄へつづく陥《おと》し穴にドイツ全体を引っぱりこむことでしょうよ!」
女王カロリーナ・フォン・シュタウピッツは、カップをテーブルに置き、編棒を振りあげて宙をたたいた。悪戯《いたずら》こぞうをこらしめるような雰囲気であったが、彼女にとって、一五歳下の隣国の皇帝は、そのような存在であるのかもしれない。
にわかに扉をたたく音がして、侍女が姿をあらわした。外務大臣から伝言がもたらされたと聞き、あわてて総理大臣は立ちあがり、女王に一礼して退室した。五分後に彼はもどってきたが、額にはふたたび汗の粒が浮かんでいた。
「女王陛下、ドイツ軍の山岳師団が、わが国の西方国境へ向けて進軍しつつあるということです。いかが対応いたしましょうか」
「カイゼルらしい火遊びですね。恐れる必要はありません。ドイツ軍が国境をこえてくるには名分《めいぶん》が必要です。それを与えるようなことは、わが国はしていませんよ」
女王は動じる色もなかった。
「いたずらに騒ぎたてたら、かえってカイゼルを喜ばせるだけです。ドイツ軍がドイツ国内で動きまわるのは彼らの勝手です。放っておきなさい」
総理大臣は頭をさげ、溜息《ためいき》をついた。
「いまさらのようですが、小国とはせつないものでございますな、陛下。大国のやることにいちいちおびえねばならないとは」
「まったくね。でも、だからといって独立を放棄するわけにもいきませんからね。そんなことをしたら、それこそ、列強と自称する恥知らずの野獣たちの思う壷《つぼ》ですよ」
何度めのことか、女王は編棒を動かす手をとめて編目《あみめ 》をたしかめた。総理大臣は書類をまとめ、彼の忠誠心の対象に敬愛《けいあい》の視線を向けた。退出の用意をととのえつつ、ついぐち[#「ぐち」に傍点]がこぼれる。
「いつまでも平和で静かな国であってくれればよいと思っておりましたが、まったく列強というものは、始末に悪いものですな。武力をもって他国をおびやかすのがそれほど楽しいのでしょうか」
「他人を痛めつけてばかりいる人間は、戦いを好むものですよ。自分が痛い目にあわないとわからないのです、困ったことにね」
女王の言葉を受けて、総理大臣はまじめくさってうなずいた。
「わが国は負けてばかりおりましたから、その点だけはよく心えておりますな」
「それを残念に思っている人もいてねえ。価値観はさまざまだこと」
短い苦笑が女王の頬《ほお》を飾った。
「ノルベルト侯爵も、小国には小国の生きかたがあるとわかってくれればいいのだけど……」
ゴッドリープ・フォン・ノルベルト氏は、アップフェルラント王国の重要人物である。貴族にして軍人であり、侯爵、陸軍中将、陸軍大臣、陸軍総司令官、王室顧問官、貴族院議員を兼ねていた。本人は陸軍大将か元帥になりたいのだが、たかだか一個師団ていどの軍隊で元帥を称するのも滑稽《こっけい》なことであった。したがって、ノルベルト侯爵は中将で我慢《が まん》していた。だが、永久に我慢するつもりはなかった。彼はこの年五五歳で、片眼鏡《モ ノ ク ル》を右目にはめ、髯《ひげ》はきれいに剃《そ》り、銀髪がまだ八割ほどは健在な、痩せ型の人物である。アップフェルラントの貴族というより、大土地所有者《 ユ ン カ ー 》出身のプロイセン軍人という印象で、本人もどうやらアップフェルラントよりドイツのほうに精神的祖国を感じているようであった。とにかくアップフェルラントは、ドイツの隣からひっこすわけにはいかないのだから仲よくするしかない、というのがノルベルト侯爵閣下のご意見であった。
アップフェルラントの軍事力は、周辺の列強に対して微々《びび》たるものだ。内陸国であるから海軍はなく陸軍だけ。一九〇四年度の国際軍事年鑑によれば、兵員総数は一万二四〇〇名で、構成は、騎兵大隊一、歩兵大隊三、砲兵大隊一、山岳大隊一、それに近衛中隊と憲兵隊ということになっている。ドイツ軍の一個歩兵師団に、かろうじて対抗できるといわれるが、それは兵員数だけのことで、火力からいえば一個連隊に対抗できるかどうか、あやしいものであった。むろんノルベルト侯爵は、ドイツと戦争する意思などなかったが、軍隊が弱小であるという事実は、彼の軍人精神をたいそう刺激するのである。
女王と総理が会話している時刻に、陸軍大臣は自邸の書斎を歩きまわりながら、副官にむけて声を高めた。
「あの女からまだ連絡は来ないか」
「はい、シャルロッテンブルクに到着した後、連絡が絶えております」
その筈えに舌打ちして、陸軍大臣は床を踏み鳴らした。彼の邸宅はシャルロッテンブルクでも最も豪壮な家のひとつで、陸軍省の建物より大きい。というより、陸軍省の建物が軍隊の規模にふさわしく、ささやかなのであった。陸軍大臣閣下は、自邸でも褐色の軍服を着用しているが、むろんこれしか服を所有していないわけではなく、自分の職業と制服に誇りをいだいているということである。
いらだたしさに耐えかねたのであろう、陸軍大臣は副官を相手に演説をぶちはじめた。
「わが国は小国だ。何もせずに手をつかねておれば、今後もずっと小国のままだろう。この悪意と野心の時代に、小国の地位に甘んじるということは、衰亡《すいぼう》への道でしかない。そうだろうが!?」
「まことに閣下のおっしゃるとおりでございます。ところで、警察筋からひとつ情報がはいってまいりました」
空虚な演説を巧妙にさえぎって、副官が報告したのはフライシャー警部の件であった。
「その警部は有能な男か」
「さて、どうやら警視総監にはきらわれておるようですが」
「ふん、では有能な男にちがいないな」
陸軍大臣はわざとらしく冷笑した。彼は警視総監の才幹《さいかん》と器量を、まったく評価していなかったのである。
「警察はこそどろ[#「こそどろ」に傍点]を追っかけておればいいのだ。国家の大事は陸軍にまかせておけばいい。分際《ぶんざい》を忘れてしゃしゃり出てくるようなら、懲罰の鞭《むち》をくれてやる」
陸軍大臣の片眼鏡《モ ノ ク ル》が白く光った。
「女王陛下にも、きっとおわかりいただけるだろう。あれ[#「あれ」に傍点]を手に入れればアップフェルラントは一躍《いちやく》、列強の一角たる位置を占めることができるのだ。ロシア、オーストリア、フランス、わが国をないがしろにしてきおった奴らも、膝《ひざ》を折ってご機嫌をとりにくるぞ」
「そうなれば当然、閣下はわが国史上最大の英雄となられ、盛名《せいめい》を万古不朽《ばんこ ふきゅう》のものとなさることになりますな」
「おだてるな」
陸軍大臣は厳しくたしなめた、そのつもりであったが無意識に頬がゆるんだ。
「わしは自己一身の名誉など求めてはおらん。ひとえに祖国の隆盛《りゅせい》を願うのみだ。貴官《き かん》もわしの側近だからといって考えちがいをしてはならんぞ」
「はっ」
うやうやしく副官は敬礼した。が、その表情はどことなく不分明《ふ ぶんめい》であった。
3
五月の朝が光となってヴェルの顔の上を通過した。断続的な夢が完全に断ち切られて、ヴェルは目覚《めざ》めの水面上に急速浮上した。ここは彼の屋根裏部屋ではない。窓が東を向いており、朝はお仕着《しき》せがましく部屋に押し寄せてくる。
ひとつ寝返りをうつと軍隊用寝台の端《はし》に達し、そこから身をひねって床に降りたつことができる。できるはずだったが、この寝台はやたらと大きくて、二度寝返りをうってもまだ端に着かなかった。ようやく床に降りたって、ヴェルは室内を見まわした。彼の屋根裏部屋より、たしかに一段はよい部屋で、ちゃんと壁紙も貼《は》ってあるし、床には安物ながら敷物もしいてある。窓も天井《てんじょう》ではなく壁についていたし、天井が傾斜してもいない。寝台と反対側の壁ぞいに大きなソファーがあって、毛布が乱雑にたたまれている。不意に鼻孔《び こう》を刺激されてヴェルは振り向いた。扉があいて、食欲を刺激する匂《にお》いが流れこみ、ひとりの男が姿を見せた。見知らぬ男だ。
「おう、起きたか、ちょうど朝食ができたところだ」
「だ、誰《だれ》だよ、あんた」
少年の誰何《すいか 》を無視して、男は、テーブルに朝食を並べはじめた。背の高い、りっぱな体格の男で、髯《ひげ》をきちんと剃っているわりには赤黒い頭髪はぼさぼさである。全体に鋭い顔だちだが、線の太さがそれを上まわって、超然とした雰囲気もただよわせていた。黒パン、目玉焼、ミルク、ソーセージと玉葱《たまねぎ》のバターいためなどをいちおう並べ終わると、男は聴《き》きおぼえのある声をかけてきた。
「おれだよ、わからないか」
「……フライシャー警部!」
ヴェルは唖然《あ ぜん》とした。
「そう、アルフレット・フライシャー警部どのだ。夕べのお前さんの宿主《やどぬし》さ。どうやら記憶喪失でもなさそうだな」
「だって初めてだもんなあ……」
警部の髯を剃った姿が、である。赤黒い剛《こわ》い髯の下には、ちゃんと人間の顎《あご》があったのだ。
ヴェルはこれまで警部の年齢を四〇代半ばだと思いこんでいたが、どうやら一〇歳は若く見るべきらしい。勧《すす》められて朝食の席に着きながら、ヴェルは確認してみた。
「警部、年齢《とし》は幾歳《い く つ》?」
「三五歳だ。それがどうかしたか」
「いや、髯を剃ると若く見えるなあと思って」
「実際に若いさ。まだ独身だしな」
とうに結婚して子供の二、三人はいる年齢なのに。そう思ったが口には出さず、ヴェルは朝食をたいらげることに専念した。「いただきます」に始まって「ごちそうさま」で終わるあたり、まるで良家の子弟《し てい》というところだが、これは祖母の教育のよい面であろう。朝食はうまかった。心配していたよりずっと、という意味でだが。
「さてと。腹ごしらえできたところで、宿題をかたづけはじめるとしようか」
食後、警部の一言で、ヴェルの脳細胞は活発に働きはじめた。勢いよく空の食器をかき集めて、せまくるしい調理室の流し台に放り出す。皿洗いぐらい、一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の礼としてするつもりだが、あとまわしにさせてもらうのは、この際しかたないであろう。
昨夜はさんざんだった。怪自動車の襲撃と逃走の後、ヴェルはフライシャー警部を引っぱって操車場へ駆けつけたのだ。制服私服とりまぜて一ダースほどの警官もついてきて、最近流行しはじめたマラソンとかいう競技さながら、集団で街路を疾走《しっそう》した。操車場に、例の列車は停《と》まっていたが、車内は空《から》で、毛布や食器が乱雑に残されていただけ。ただ、空気中に何か肉食獣らしき動物の体臭がただよっていたのが異常だった。窓ガラスの破れから、ヴェルの目撃は正確であったことが実証されたが、そこから捜査は進展しない。警部は、落胆《らくたん》するヴェルを自分の|アパート《ゲマッチ》につれて帰り、ベッドを貸してくれた。ご本人はソファーで寝て、五月二日の朝を迎えたというわけである。こんなとき眠れるもんか、と思いつつ眠りこんでしまったのはヴェルの若さというものであったろうか。
テーブルが討議用の机に変わった。昨日のことを再整理してメモにまとめると、とりあえず思いつくことを討議してみる。
「アップフェルラントにはいりこんでくる奇妙な外国人ってどういう奴らだろう、警部」
「まずロシアの革命党の連中だな。ポーランドの独立運動家だっているだろうし、ドイツの社会主義者とか、セルビアの民族主義者とか……」
警部は太くて長い指を折った。
「それは政治活動をやっている連中だけで、この他《ほか》に犯罪者や放浪者を加えたら、いったいどれくらいの数になるやら、実数も実態もつかめんな」
放浪者、という語を発したとき、ちらりと警部の視線がヴェルの方向をむいたような気がした。
「うさんくさい放浪者といっしょにしないでくれよな。おれには大望《たいもう》があるんだから」
「大望って、どんな大望だ」
「政府《お か み》から給料もらって生活が安定してるような奴にいったってむだだよ」
「パリにでも行くのか」
一言のもとにいいあてられて、ヴェルは、あやうくコーヒーにむせかえるところだった。自分が洞察《どうさつ》を的中させたことを警部は知ったが、べつに笑うでもなく話題を変えた。
「まず旅券《りょけん》局と中央駅の税関に協力を頼まにゃならんな。ただ外交特権を持った連中だとすると、二重三重にやっかいだが……」
パリに行ってどうするつもりだ、などと尋《き》かれなかったので、ヴェルは安堵《あんど 》した。とにかく情報を集めること、国境封鎖を政府に働きかけること、などいくつか討論の結果をえて、ふたりは出かける前に皿洗いをすることにした。不要不急《ふ ようふきゅう》のことに思えるかもしれないが、手を動かせば頭も働く。討論のつづきになって、あたらしい思案が生まれるかもしれないし、じつは調理室の流しがすでに飽和状態になっていて、ヴェルとしては他人の家ながら見かねたということもある。
「ヴェル、お前さんの親父《おやじ 》さんは定職についてたんだろう」
「うん、教師だったそうだけどね」
「どうだ、ヴェル、学校へ行かないか」
「ごめんだよ」
「だが、親父さんはお前さんを上の学校に行かせたかったと思うぞ」
ヴェルの名は正しくはヴェルギールというが、これは古代ローマの有名な詩人の名をドイツ語読みしたものだ。ごたいそうな名前だよな、と、当人が思っている。おまけに姓は、オーストリアの「円舞曲《ワルツ》王」と称される大音楽家と同じだ。何とも、両親のいない無学な少年にはうっとうしい姓名である。
「そんなことより警部、どうして髯を剃ったりしたのさ、似あってたのに」
「文学的な用語でな、心境の変化というのだ」
「ちぇっ、気どっちゃって」
「そんなことより、というのは、おれの台詞《せ り ふ》だ。学校に行くという話のほうはどうなった?」
「話なんか最初からないだろ。学校なんか窮屈《きゅうくつ》で、役にもたたないことを、わざわざ授業料をとって教えるだけじゃないか」
何だって警部はこう自分にかまうのだろう。ごく当然の疑問がヴェルの胸中《きょうちゅう》には生じた。まあ、かまってくれるからこそヴェルは一度ならず助かったのだが。
「知識が人を幸福にするとはかぎらんが、それは知識が多すぎる場合だ。お前さんはもっと知識をたくわえていいはずだぞ。でないと青い鳥をみすみす逃がすことだってあるぞ」
例の少女のことを、警部は持ち出した。あの少女が、イギリスなりフランスなりロシアなり、とにかく外国の人間で、ドイツ語がしゃべれないとしたらどうやって意思を通じあうつもりだ、と。この意見はヴェルには徹《こた》えた。たしかに、あの少女がヴェルと同じ言語を使って会話できるという保証はどこにもない。せっかく会っても、しゃべれなかったらどうしよう。
皿を洗うヴェルの手が重くなったのを見て、警部はせきばらいした。少年を追いつめるつもりはなかったのだ。彼はやたらと自分の手のなかの皿をこすりながら言葉を探した。
「まあ学校もだが、お前さんの生業《なりわい》もちと問題があるかもしれんな。スリというのは……」
「おれはスリじゃないぜ」
「だったら、たとえ話として聞いてくれ。お前さんが好きな女の子に胸を張って『おれはスリだ』と言えるのだったら、それはそれでいいと思う。ひとつの生きかただと思うさ。だが、そうでないのだったら、やめたほうがいい。後ろめたさがあると、どうも人間はほんとに自由にはなれないみたいだしな」
警部は流れるようにそういったのではなく、時間をかけてむしろ自分自身をかえりみるように、そのようなことをいった。ヴェルは間をおいて、率直でない答えかたをした。
「警部って、ひょっとしてすごくいい人なんじゃないか」
「うん、そうかな、ときどきは自分でもそう疑ってたんだが、あまり自信がなくてな」
警部は一番大きな皿から水をきりながら、不意に溜息をついた。
「で、問題なのは、これまでおれを振った女は、みんな、おれのことをいい人だというんだよなあ……」
4
ヴェルとフライシャー警部ほ活動を開始した。五月二日午前九時のことである。
フライシャー警部としては、まだ明確な戦略方針を確立できるような段階ではなかったが、とにかく動きまわることだと考えていた。昨夜、黒塗りの自動車が彼らを襲ってきたのは、ヴェルやフライシャー警部を邪魔者あつかいする者が実在するという証拠である。操車場の列車のようすからいっても、どうも健全でも公正でもない事態が、この山間の平和な小都市でうごめきつつあることは、どうやら疑いようがなかった。
ヴェルが自分なりの聞きこみのために駆け出していく一方、フライシャー警部は、勤務先である警視庁に顔を出したが、玄関で制服警官に誰何《すいか 》されてしまった。髯を剃ったりしたので、別人と思われたのである。部下の刑事たちも、西から上る太陽を見たかのような表情で彼を迎えた。何か気のきいた台詞《せ り ふ》を投げつけてやりたいところだったが、何も想《おも》い浮かばなかったので、結果として警部は、さも重厚《じゅうこう》げな沈黙を守ったままデスクにつくことになった。部下のひとりが、おそるおそる声をかけてきた。
「警部、いったい何があったんですか」
「そいつをおれも知りたいと思っているんだ」
綺麗《き れい》に剃りあげた顎《あご》を警部はなでた。こころもち、ものたりなさそうな表情だったかもしれない。
「教えてくれた奴には、警察から感謝状が出るかもしれん。町じゅうの情報屋たちから、詰を聞き出してくれ」
感謝状の効果など、警部はまったくあてにしていなかったが、正午すぎに部下の刑事が、ひとりの薄ぎたない服装の老人を引っぱってきた。住所不定無職の、八〇歳になる放浪者で、名前もヨハンとしか判明しない。コーヒーを飲ませて話を聞いてみると、昨夜七時半ごろ、操車場の列車から立ち去る一団の人影を見た。とくに指揮をとっている人物の姿を、かなりはっきり見た、というのである。
「そいつの服装は?」
「フロックコートを着て、シルクハットをかぶってましたね」
「あのなあ、フロックコートを着てシルクハットをかぶった男が、この国に何万人いると思うんだ」
「男じゃないんで」
さりげなくヨハン老人は警部の先入観を笑ってみせた。警部のおどろきを、ご満悦《まんえつ》で見守る。
「いや、相当にいい女でしたぜ。年齢は二〇代の後半と見たね。こう、すらりとしてるくせに色っぽくてね」
老人の陶然《とうぜん》たる目つきに、舌打ちをこらえて、警部は質問をつづけた。
「それで、奴らの行先は?」
「そこまでは知らねえ」
尾行しようかともヨハンは思ったのだが、彼らは自動車に乗りこんでしまったし、乗る前にも用心して四方に目を配っていた。おまけにやたらと大きい黒い犬が(と、半ば酔っていた老人の日には見えた)、その女の傍《そば》にいたので、とても近づけなかった。そう老人はいうのである。
「それにしても、あの女はたぷんフランス人ですぜ、警部さん」
「話もしないのに、どうしてフランス人だと思ったんだ」
「そりゃ、話はしませんでしたが、ありゃフランス人というか、パリの女にちがいないですぜ。センレンされてて、この国の女とはちょっと、ものがちがうね」
「五〇年若くなかったのが残念だな、爺《じい》さん」
「いやいや、八年前まではわしも現役だったからねえ」
ヨハン老人の話は、かなり脱線をくりかえしたが、あやしい一行のなかでひときわ大きな男が、子供ぐらいの大きさの袋を肩にかついでいたことについて、証言がえられた。警視庁内で金銭を渡すわけにはいかないので、フライシャー警部は、煙草《た ば こ》を一箱、老人に謝礼として手渡した。また呼び出すこともあるから、と告げて警部は彼を帰したが、後姿を見送って、ついぼやきが出た。
「ほとんど何もわかっとらんのと同じだな」
ヨハン老人をつれてきた刑事がなぐさめた。
「でも、男装《だんそう》の女ってのは、ずいぶんと目立つ特徴ですぜ」
「あほう」
警部の機嫌はよくない。男装の女といえば確かに珍しいが、男装を解かれたらそれまでではないか。列強から見ればけちな山国でしかないとしても、アップフェルラントを通過する外国人旅行者の数は多く、彼らのすべてを監視することは不可能である。ましてフライシャー警部は警視総監でも内務大臣でもなく、警察全体を指揮する権限などないのだ。
「それどころか、おれの首のほうがあぶないと来てやがる。もう明らかに総監の奴は、おれをはばかってやがるからな」
「今日は総監どの、出勤してきてないそうですぜ。どこで何をやってるんでしょうね」
「おれに尋《き》かんでくれ」
一段と警部は不機嫌になった。
一方、警視庁を出たヨハン老人は、六五年の経験を生かした歩行で、尾行する余地《よち》も与えずに街角に姿を消してしまった。やがて彼が姿をあらわしたのは、「黄金の小馬亭」という酒場の裏口で、そこで彼を待っていたのはこの稼業《かぎょう》の遠い後輩にあたるヴェルギール・シュトラウス少年だった。
談合が成立し、老人は少年から紙袋を受けとった。袋のなかに収まった紙幣と銀貨の数を算《かぞ》えて、老人は満足そうにうなずいた。
「警察にも教えねえことを教えてやるんだから、ま、このていどもらっても罰《ばち》はあたらねえやな。それにしても、お前さんの祖母《ばあ》さんはやっぱりけっこう小金《こ がね》を貯《た》めこんでたんだな」
「早く教えてくれよ。時間がないんだ」
「せくな、せくな。いま正確に思いだすから。一ヶ月分の酒代にふさわしい情報をきちんと知らせてやらにゃ、わしの誇りが赦《ゆる》さんでなあ」
にやりとほくそえんで、ヨハン老人は紙袋をぼろ服の内ポケットにしまいこんだのであった。
5
それはシャルロッテンブルク市街を南西方に見おろす丘の頂上に建っていた。王宮から三キロほど離れた場所で、屋根の高さは周囲の樹々の梢《こずえ》にほぼひとしく、外部から屋内をうかがうことは不可能である。さらに三メートル近い高い灰色の石塀《いしべい》があり、鉄張りの門扉《もんぴ 》はかたく閉ざされて人を拒絶していた。その石塀のごくわずかな凸凹《でこぼこ》に靴先をかけて、五〇〇秒の努力の末に、ヴェルは館の敷地に侵入を果たLた。
もともとヴェルは、豪壮な邸宅やその所有者に対して偏見を持っていたから、この偉容《い よう》を見ただけで、「あやしいぞ」と思ったものである。ヴェルは警察の鼻を明かすつもりなどなかった。ただ、警察がこの悪漢どもの隠れ家を襲う前に、偵察をやっておくという誘惑に打ち勝つことはできなかった。そもそも、自分の貴重な財産を供出《きょうしゅつ》して、ヴェルは同様に貴重な情報を入手したのだ。せめて少女の居場所ぐらい自力で突きとめる権利はあるはずだった。
それにしても、あの外国人たちは何者だろう。
ヴェルはべつに愛国者ではなかったが、国力を背負《せお》った外国人がやたらといばりちらしているのを見るのは好きではなかった。アップフェルラントの人間でも、いばりちらす連中は好きではなかった。まして、彼らは女の子をつかまえて監禁し、鎖をかけているのだ。二重にも三重にも気にくわない。
ヴェルは繁《しげ》みに身を隠しつつさらに進んでいった。
いまヴェルは人生の目的を発見していた。すくなくともそのつもりだった。これは正々堂々とした、誰に対しても恥じるところのない戦いだ、と、一四歳の少年は思ったのだ。ひとつの事象《じしょう》の裏に、膨大《ぼうだい》で錯綜《さくそう》した事情があることぐらい、漠然と想像はつく。だが、女の子を閉じこめて鎖につなぐことを正当化するような事情が存在するとは、ヴェルには思われなかった。
広大な庭は、手入れがほとんどなされておらず、半ば自然に帰しかけた印象があった。草木の間を羽虫が飛びかい、ときおり目にむかって飛びこんでこようとするので、ヴェルはまことに気ぜわしく手を振って払いのけねばならなかった。ヴェルがひとつ恐れていたのは、犬が放されているのではないか、という点であったが、それに対抗する準備だけは、ヴェルはととのえていた。ポケットのなかの小瓶《こ びん》に、アンモニアがはいっているのだ。犬の鼻面《はなづら》にこれをたたきつけてやれば、どんな猛犬《もうけん》もたまらない。だが、いまのところ、猛々《たけだけ》しい番犬の咆哮《ほうこう》はヴェルに近づいてはこなかった。
樹木帯を出ると芝生《しばふ 》に直面した。芝も雑草も伸びっぱなしで、何やら薄い紫色の小さな花さえ点在している。そして芝生の向こうに陰気そうな灰色の二階家が建っていた。屋根に天窓が見えるから、屋根裏部屋もあるのだろう。たぶん地下室もあるにちがいない。もし地下室にでも少女が監禁されているとしたら、救出以前に、処在《しょざい》を突きとめることが困難をきわめることになるだろう。
ためらいは最悪の選択だった。ヴェルは全力疾走で荒廃した芝生を横断して、一〇秒後に建物の壁に張りついた。呼吸をととのえながら、今度は用心深い忍び足で壁にそって歩きだした。半円形に張り出した一階の窓の下で身をかがめたとき、荒々しく窓を開《あ》け放つ音がして、ヴェルの視界が何かにさえぎられた。胸腔《きょうこう》のなかで心臓が跳《と》びあがったが、行儀の悪い住人が窓からバケツの水を捨てただけのことだった。
窓が閉ざされ、ふたたびヴェルは壁にそって歩き出した。館内に人がいることが判明したので、さらに用心しなくてはならなかった。それでも、少女の所在を突きとめずに逃げ出す気は、一ミリグラムもなかった。建物の角を曲がったとき、建物を庇護《ひご》するようにそびえたつ楡《にれ》の大木が視界にはいった。梢が屋根に接するほどに近々とそびえている。それを思わず見あげたヴェルの視線がさがるときに、何かが視神経にひっかかった。ヴェルはすばやく靴をぬいだ。靴紐《くつひも》をしばりあわせ、靴を首にかけて、楡の巨木にとびついた。
おとなも遠くおよばぬ迅速さで行動しながら、自分のやっていることの意味が、じつはヴェルには正確に把握《は あく》できずにいた。それが判明したのは、二階の窓を至近に望む太い枝に達してからである。窓のガラスには鉄線がはいっており、その向こうに人影が見えた。小さな、優しげな輪郭から、髪が見え、衣服の色が見えた。ヴェルは音をたてないよう注意しながら小枝の一本を折りとり、窓に投げつけた。硬《かた》い音がして、永遠の半分の長さにも思える五秒間が経過した。開かない窓に顔を寄せ、少女は、沈黙と観察につづいて質問を発した。ドイツ語だった。
「あなたは誰なの」
「ヴェルギール・シュトラウス。友だちはヴェルって呼んでる」
ヴェルの心臓は、この日たいそう多忙だった。自分の声より鼓動のほうがはっきり聴こえるほどだ。少女に会えて、しかも会話が通じるのは、つい二日前までは想像もしなかった喜びだった。この朝、フライシャー警部の部屋を出る前にシャワーをあびておいてよかった、などと埒《らち》もないことまで考えた。
「ええと、君の名前は?」
「フリーダ」
「いい名前だね」
名前が従属物にすぎないことを承知の上で、それでも心からヴェルはいった。
「君をここから助け出しに来たんだ。助けさせてくれるかい」
「ありがとう。でもむりよ。助け出すなんてことできないわ」
少女は冷静だった。すくなくとも、そうであろうと努めていた。鉄線のはいったガラスごしに、少女は若すぎる騎士を見つめ、声をはげました。
「さっさと逃げて。そして、もうここへ来ちゃだめ! あなたのためにならないわよ」
「いったん引きあげるけど、でも、すぐにもどってくるよ。警察をつれてね。ちょっとだけ待っててくれよ」
少女がそれに答えようとしたとき、ヴェルの姿は、刷毛《はけ》でぬぐわれたように消えていた。少女が自分の知覚を疑っている間に、ヴェルは楡の大木の太い枝と葉の間に身を隠していた。間二髪《かんに はつ》というところだった。フロックコートを着た人物が、部下らしい半ダースほどの屈強な男をしたがえて、楡の木のそばまで歩んできたのだ。
「どうも誰かが侵入したらしいわね」
それが女性の声だったので、ヴェルはおどろきの声をあげるところだった。シルクハットにフロックコートという服装だが女なのだ。ヨハン老人からいちおう話を聞いてはいたが、これまでしっかり失念《しつねん》していたのだ。少女自身のこと以外、すべて二義的《に ぎ てき》なことだったから。
フロックコートの女は、ヴェルには理解できない外国語で何かしゃべった。口調からいって命令であることは確かであり、その内容も想像がつく。部下らしい男たちが散っていくと、女も楡の樹に背を向けて歩みだした。
二瞬ほどの間隙《かんげき》に、ヴェルは楡の樹上からすべりおり、女と反対方向に駆け出した。繁みのなかにすべりこんだとき、女がフロックコートの肩ごしに振り向いた。遠くで繁みが揺れていたが、おりからの風が女の顔をたたいたので、女は気づきそこねた。鋭く二度、指笛《ゆびぶえ》がひびきわたると、建物の角を黒い大きな影が躍って、アッチラと呼ばれる黒い猛獣が駆け寄ってきた。
女はステッキを逆手《さかて 》に持ち、シルクハットの縁をその尖端《せんたん》でかるく押しあげた。
「リンゴの国の勇敢な騎士が、お姫さまを救いに来たのかもしれないわね。でも、こういう場合には、ドラゴンを退治しないとお姫さまは救えないものよ」
女は、最高級の天鵞絨《ビ ロ ー ド》のようになめらかな黒い毛並みを愛《いと》しげになでた。
「お行き、アッチラ、でも命令があるまで殺さないようにね」
黄玉《トパーズ》色の目で女主人を一瞥《いちべつ》して、アッチラは駆け出した。その毛並みにおとらずなめらかな動きで、わずかな足音すらたてなかった。それを見送る女の傍では、はっきりした足音がたって、赤みをおびたシルクハットとフロックコートの男が歩みよった。後ろ手にステッキを振りながら話しかける。
「君のご自慢のブラジル猫は、侵入者を見つけることができなかったようだな」
「決めつけるのは早すぎるわ、ヘル・デンマン」
「だといいが、過信は考えものだぞ」
軽薄な悪意が、デンマンと呼ばれる男の両眼と舌先にちらついた。女はもっとも効果的なやりくちで男の悪意に報いた。つまり、完全に無視して、男に背を向けたのである。その後姿に、男がさらに言葉の擲弾《てきだん》を投げつけようとしたとき、短い叫び声が空気を裂いてすぐに消えた。とまどったのは男で、女のほうは一瞬で事態を判断し、勢いよく、軽快に駆け出した。
建物の角を曲がって、女は、予測していた光景を芝生の上に見出した。アッチラという名の黒い肉食獣が、四肢《しし》を踏んばった姿勢で女主人を迎えた。その前肢《まえあし》は芝生ではなく、人間の両肩の上に乗せられていた。ハンチングが飛んで髪がむきだしになった侵入者は、少年であることがわかった。ヴェルは押さえつけられていたものの、あまりのことに、恐怖より呆気《あっけ 》にとられて、黒い肉食獣の顔を眺めていた。
「動かないことね、無謀《む ぼう》な坊や」
むしろ空気のなかをただよってきた女の声が、ヴェルの全身を縛る無形《む けい》の鎖となった。動きようがないじゃないか、という反論さえ声となって体外に出ることはなかった。フロックコートを着た女は、ヴェルの顔を興味ぶかげにのぞきこんだ。
「さて、どう料理してあげようかしらね。アッチラは生肉が好きだけど、変なものを食べてお腹をこわされても困るものね」
あでやかに冷笑する女の顔を、ヴェルは地上から見返していた。当惑と敗北感と、何としても逃げ出そうという決意とに三方向に引き裂かれながら。
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第三章 逃走と追跡
1
五月二日午後二時二〇分。シャルロッテンブルク警視庁のアルフレット・フライシャー警部は、かるい困惑のなかに身を置いていた。ヴェルことヴェルギール・シュトラウスの行方が知れなくなったのである。いちおう昼食時には連絡をとるよう約束していたのだが、本人が姿を見せるでもなく電話もかかってこない。探しに行くことも考えたが、留守中にヴェルがあらわれたら行きちがいになってしまう。外勤《がいきん》の警官に、ヴェルの姿を見つけたら警視庁につれてくるよう伝達したが、警部を満足させる報告はなかった。
もたらされたのは、べつの報告であった。他者にとっては、さして重要とも思われぬ報告であったが、浮浪者ひとすじ半世紀のヨハン老人が、昼間から高価なワインをラッパ飲みして酔っばらっているというのである。フライシャー警部の脳裏で信号が点滅した。彼は部下に命じて、ヨハン老人をつれてこさせた。一日に二度も警視庁の玄関をくぐるはめになったヨハン老人は、孤独ながら楽しい酒宴を中断させられてご機嫌ななめであった。警官たちにさんざん悪口《あっこう》雑言《ぞうごん》を並べたてながら、ヨハン老人は刑事部の部室につれこまれ、壁ぎわの長椅子にすわりこんだ。すばやく眼球を左右に動かしてようすをさぐろうとする老人の前に、フライシャー警部が立ちはだかった。
「いいか、爺《じい》さん、お前さんが正当にえた報酬をとりあげる気はない。だが八〇年も生きてりゃ、笑ってすむこととすまないこととの区別はつくよな」
警部が重々しく声をかけると、いささか居心地が悪そうに、ヨハン老人は身動きした。フライシャー警部は、老人の酒|灼《や》けした顔を眺めて確信した。こいつはまちがいなく何かを知っている、と。
「こんな不幸な老人をいじめて何が楽しいのかね。わしゃただつつましく老後を送ろうとしとるだけじゃないか。たまに安ワインぐらい口にしても罰《ばち》はあたらねえさ」
そうぼやいてみせる老人の節くれだった手が、たいせつそうにワインの瓶《びん》をかかえこんでいる。
「爺さんは知らんだろうが、ヴェルがひとりで出かけていった先は悪漢《あっかん》どもの巣窟《そうくつ》なんだ。ヴェルは悪漢につかまって殺されるかもしれん」
警部は声をさらに重々しいものにした。
「ヴェルは爺さんの知りあいだろう。あいつが悪漢に殺されたりしたら、爺さんもワインの味がわからなくなるんじゃないか」
「いや、わしはただ……」
「八〇年も人間稼業をやってきて、最後の人生訓《じんせいくん》が、友だちよりワインがたいせつ、というんじゃ、ちっとばかしなさけなかろう?」
「わかった、わかったよ。まったく、老人をねちねちいびりおって」
ヨハン老人は降服した。ヴェルとの間に成立した取引とその結果にいっさい警察は関知しない。その言質《げんち 》をとった上で、ヴェルに教えた場所を警部にも教えたのである。
フライシャー警部の想像と、現実と、ふたつの世界で、ヴェルギール・シュトラウスは危機に直面していた。彼の背中は芝生に押しつけられていて、彼の眼前では黒い猫科の猛獣が熱い鼻息を吹きかけてくる。そして身体の左右には、フロックコート姿の危険な紳士と淑女《しゅくじょ》がたたずんで、好意的といいがたい視線を突き刺してくるのだった。
「この孺子《こ ぞ う》には聞きたいことがある。私に話をさせてくれ」
男の声が頭上から降ってきて、つぎの瞬間、ヴェルは息がつまった。ステッキの先で、男がヴェルのみぞおちを強く押さえつけたのである。
「おい、きさまは昨日の朝、陸橋の上で私の財布をすりとったろう。隠してもむだだ。きさま以外に考えられんのだからな」
「知らねえよ」
ようやく呼吸と鼓動をととのえてヴェルは答えたが、わずかに不安を感じた。たとえ相手が悪漢であっても、このようなとき嘘《うそ》をついたら、サイゴノシンパンのときに悪い印象を与えるのだろうか。
「おやおや、ヘル・デンマン、子供を逃がしただけでなく財布まですられたの。たいした武勇伝だこと」
女が揶揄《やゆ》した。舌打ちした男が腹いせにステッキでさらに強くヴェルの胸を押し、ヴェルは苦痛に耐えて唇を噛みしめた。苦痛は男がステッキを引いたことで遠のいた。かわりに女の声が近づいてきた。
「で、坊やはここへ何しに釆たの。招待状をお出ししたおぼえはないのだけど」
何か相手をへこませる台詞《せ り ふ》を投げつけてやりたかったが、胸の痛みが残響をもたらしたこと、黒い猛獣が低い威嚇《い かく》の唸《うな》りをあげたことなど、ヴェルの機智をさまたげる事情が多く、少年は沈黙を守った。
「ひょっとして、坊や、警察と連絡とって行動してるのじゃなくて?」
「警察なんかに頼るもんか。ここの警察はほんとにまぬけなんだから」
これは瞬間的な思案の結果だった。ヴェルとしては、異なる返答もできたのだ。たとえば、「警察はもう何もかも知ってるんだ。すぐにでもこの屋敷に駆けつけてくるぞ」と。だが、そんなことをいえばヴェルは即座《そくざ 》に殺されてしまい、悪漢たちは少女をつれて逃げ出すだけのことだろう。口にした台詞《せ り ふ》とは逆に、ヴェルとしてはフライシャー警部の判断力と行動力をあてにするしかなかった。
時間をかせぐ。とにかく時間をかせぐ。現在のヴェルに、それ以外の方法は存在しなかったのである。
「あんたたちが閉じこめているあの女の子は何者なんだ」
何よりも知りたいその質問を自らの体内に封じこんで、ヴェルはべつのことをいった。
「ひとつ提案があるんだ。賭《か》けをしないか」
この発言はたしかに悪漢たちの意表を突いたと見えて、ヴェルと黒い猛獣の身体ごしに、フロックコート姿の男女は顔を見あわせた。ごくわずかに、女は眉《まゆ》を動かしたようだ。
「賭け、ですって?」
「そうだよ、おれがこの黒い動物と決闘して勝ったら、あの女の子を逃がしてやってくれよ」
一瞬の沈黙に、爆発的な哄笑《こうしょう》がつづいた。デンマンと呼ばれる男は、両眼に涙まで浮かべて、身のほど知らずの提案を笑いとばした。
「正気か、孺子《こ ぞ う》! 前肢の片方だけでマスチフ犬を殴り殺すブラジル猫と戦うだと!? その小さな身体で、ヘラクレスかサムソンにでもなったつもりか」
女のほうは笑わなかった。その両眼には、むしろ鋭い疑惑の灯がともったように見えた。開いた口から出る声にも甘さがない。
「本気なの、坊や」
「本気さ、だけど素手《すで》じゃない」
「だと思ったわ。銃を貸してくれといわれても、応じる義務はこちらにはないわね」
「こんな奴、棒が一本あれば充分さ。それに時間が三〇秒、いや、二〇秒でいいや。それだけくれたらいいんだ。すぐにやっつけてやるからさ!」
大言壮語《たいげんそうご 》をつづけたのは、ヴェルとしては必死の作戦だった。挑発の度が高まるほど、相手はヴェルの提案を無視できなくなるはずだ。男がカールさせた口髭《くちひげ》をひねり、悪意を眼光に乗せて放射した。彼がとうに忍耐の限界をこえていることは明らかだった。女がいなかったら、とうにヴェルに危害を加えていたにちがいない。
「おい、アリアーナ、この孺子《こ ぞ う》が自分で望んでいることだ。かなえてやったらどうだ。八つ裂きにされても誰《だれ》を怨《うら》みようもないことさ」
「気やすく呼ばないで。あなたたちの国とちがって、旧大陸では人と人との間に礼儀というものがあるの」
女はあらためてヴェルの顔を見なおした。
「おもしろい賭けだけど、現実的ではないわね。坊やがアッチラに勝てるはずがないわ。それに第一、坊やは賭けのテーブルに載《の》せるべきチップを持ちあわせていないじゃないの」
「おれが負けたら生命《い の ち》をやるよ」
「そう、残念だけどそんなものには価値がないわ。わたしたちにとってはね」
あっさりとヴェルの提案を霧消《むしょう》させて、女は男に視線を向けた。
「ヘル・デンマン、すくなくともあなたよりよほど勇敢で、しかも頭がいいわ、この坊やは」
「ほう、いってくれるじゃないか」
気色《け しき》ばむ男に、アリアーナという女は、冷厳《れいげん》な声を投げつけた。
「この坊やがどうして先刻《さ っ き》からくだらない挑発をつづけているか、あなたにはわからないの? 時間を稼《かせ》いでいるのよ」
その一言で、男もすべてをさとったようだった。短気であっても、まるきり低能というわけではないのだ。
「そうか、警察がここに目をつけているってわけだな。とわかったらこの孺子《こ ぞ う》をかたづけてさっさと逃げ出すとしよう」
ヴェルの心はふたたび寒風にさらされた。だが女は男の提案に乗らなかった。逃げ出すことには賛成したが、ヴェルを殺すことは拒否したのだ。逃亡の準備をととのえるためにデンマンという男があわただしく駆け去ると、女は黒い猛獣に命じてヴェルの身体から離れさせた。ようやく起きあがって、ヴェルは深呼吸し、腕をまわしたり首筋をたたいたりした。どんなときでも身体の柔軟さを確認しておくのはたいせつなことだった。
「さてと坊や、あなたにはすこし用があるの。いっしょに来て役だってほしいのだけどいいでしょう?」
ヴェルの内心を見すかすような女の目つきだった。
「逃げたいのなら、どうぞご勝手に。だけどそのかわり、あなたのだいじなお姫さまがアッチラの爪《つめ》でひっかかれることになるわ」
「女の子を殺すのか!」
「殺しはしない。でも死んだほうがましかもしれないわね。アッチラの爪でひとかきされて、顔の半分がえぐりとられた人間を、わたしは幾人も知ってるのよ」
余裕たっぷりに女は笑い、ヴェルは敗北をさとらざるをえなかった。この男装の女は、ヴェルよりはるかに交渉技術に富んでいた。鏡に映《うつ》すようなあざやかさで少年の心理を読みとり、鎖《くさり》も縄《なわ》も使わずにヴェルをがんじがらめにしてしまったのだ。
「……わかった、逃げ出さないよ」
「けっこう。もうひとつ、わたしの許可がないかぎりしゃべらないこと、これも約束してほしいわね」
むっつりとヴェルがうなずくと、女は逆手に持ったステッキの先でシルクハットの縁を押しあげた。かなり奇妙で奇怪な講和条約が、こうして成立した。
2
鉄線いりのガラス窓から地上を見ることは不可能だったので、フリーダという少女は外界の事情を正確に知ることはできなかった。ドアが開くとき、あわい期待がひらめいてすぐに消えた。少女の前に立ったのは、樹上《じゅじょう》から呼びかけた少年ではなく、シルクハットの女だった。少女の表情を観察しながらいう。
「事情があってね、転居《ひっこし》しなきゃならないの」
そう前置きして女は手短かに事情を説明した。たくみに、彼女につごうのよい脚色《きゃくしょく》がほどこされ、少女を救出に来た少年がとらわれたことも話した。少女は表情を変えぬよう努力したが、落胆《らくたん》は隠せなかった。
「とにかく、いろいろとたいへんなのでね。お嬢さんにこれ以上わずらわされたくないの。逃げ出さないと約束してくれる?」
「そんな約束をする気はないわ」
「そう、ご自由に。でもそのときはあの男の子を痛めつけることになるでしょうね、気の毒だけど」
その場にヴェルがいたら驚歎《きょうたん》するか憤激するか、どちらであったろうか。アリアーナと呼ばれる男装の女は、ヴェルに対してフリーダを、フリーダに対してヴェルを、それぞれ脅迫の道具として使用しているのである。その辛辣《しんらつ》な巧妙さは、一〇代前半の少年と少女がふたりで共謀しても、とうてい対抗しえるものではなかった。フリーダという少女は、一瞬息をのんで考えこんだ後、表情と声に見えざる甲冑《かっちゅう》を着こんで答えた。
「わたし、あの子に何の義理もないもの。だいたい、ついさっきはじめて会ったのよ。そりゃ痛い目にあうのは気の毒だけど、わたしに関係ないことだわ」
少女の必死の演技を、アリアーナという女は冷然と無視した。ステッキの先で床を二度突くと、ゴルツと呼ばれる大男が無表情に巨体でドアの空間をふさいだ。
「ゴルツ、お嬢さんをおつれして」
短い命令が実行されると、大男の後方を歩みながら、女ははじめて感情をあらわにし、舌打ちの音をたてた。
「昨夜のうちにきちんと書類ができていれば、いまごろはこの国を出てしまっていたのに。無能な連中と組むのは考えものだわね」
一方、失敗した若すぎる騎士のほうは、他人が考えるほど悄然《しょうぜん》としてはいなかった。大男に手をつかまれて建物から出てくる少女を見、失敗してすまないと思いつつ、内心で、やる気をすこしも失ってはいない。
「いいさ、ふたりでいっしょに逃げ出せばいいんだ。必ず隙《すき》ができるから」
ヴェルたちにとって敵である男女は、どうやらおたがいに仲が良くないようだった。ヴェルが観察したところ、男は女を生意気だと思っており、女は男を軽蔑《けいべつ》している。たがいの間に信頼も尊敬もなく、共通の利害だけで結びつきあっているにちがいなかった。裏切られることを警戒する一方で、裏切る機会をねらっているのだろう。そこにこそ、つけこむ余地がある。
少女を励《はげ》ましてやりたかったが、女との約束を思いだしてヴェルは言葉をのみこんだ。これは義理がたい性格の産物というより、報復を警戒してのことである。第一、アッチラと呼ばれる黒い猫科の猛獣が、芝生に身を伏せてヴェルを見あげながら、細い桃色の舌をちらつかせており、不気味なことこの上なかった。
それにしても、少女をとらえている大男の憎たらしいことはどうであろう。
アルフレット・フライシャー警部なら、このゴルツとかいう大男と何とか互角にわたりあえるかもしれない。昨日の朝、デンマンという男の手から乗馬|鞭《むち》をもぎとった動作は、不意をついたとはいえあざやかなものだった。だから警部に期待してもいいと思うのだが、事実としてこの場に警部はいない。ヴェルひとりの勇気と知略で窮地《きゅうち》を切りぬけなくてはならなかった。
悪漢どもの総人数は一五人ほどで、女性はアリアーナという男装の女ひとりだった。彼女と、デンマンという男と、どちらが優越した地位にあるのか、ヴェルはなお正確にたしかめたくて、黒塗りの自動車の傍で話しあっているふたりの姿を注視した。いくら耳をそばだてても会話の内容までは聴《き》こえなかったが、このときアリアーナはデンマンにこういっていたのだ。
「船でヴェーゼル湖上に出ましょう。警察が陸上を捜しまわる間、水に浮かんでいればいいわ」
用意された自動車に、悪漢たちが乗りこみはじめた。屋根のない自動車に少女がつれていかれるのに、ヴェルはついていこうとしたのだが、
「お前はこっちだ」
犬でも叱《しか》りつけるような声がして、ヴェルは襟首《えりくび》をつかんで持ちあげられた。自動車のトランクが金属製の河馬《かば》みたいに巨大な口をあけて少年をのみこもうとした。
「何だよ、こんなところに押しこめるなんてひどいじゃないか。せめて座席の床とか、そちらにしてくれよ」
ヴェルは抗議したが、足をばたつかせなかったのは、フリーダという少女の視線を感じて、あまり見苦《み ぐる》しいまねはしたくなかったからだ。それに、あまり反抗的にふるまうと、生命だけは助けてくれた女の気が変わるかもしれない。不平を鳴らしつつ、ヴェルはおとなしくトランクに放りこまれた。頭上の空が狭《せば》まり、暗黒が少年を封じこめる。すぐエンジン音がひびき、自動車が発進した。
トランクに放りこまれたヴェルは、むろん現在の劣悪《れつあく》な環境に甘んじる意思はなかった。すばやく手を動かして闇《やみ》のなかを探る。円と三角をくっつけた形の小さな光が、トランクの鍵穴《かぎあな》の位置を知らせた。ヴェルはポケットをさぐって、アンモニアの小瓶《こ びん》の隣から太い針金をとりだした。トランクのなかで姿勢を固定し、針金の先を鍵穴に差しこむ。要するに冷静さと応用力こそが、物語の主人公を窮地から救うというわけだった。
このときトランクの傍では、悪漢たちの自動車とべつの自動車がすれちがっていたのだ。べつの自動車というのは、シャルロッテンブルク警視庁が所有する貴重な何台かのひとつで、アルフレット・フライシャー警部が部下とともに乗りこんでいた。
すれちがった屋根のない自動車を見て、アルフレット・フライシャー警部は小首をかしげた。シルクハットの男が乗っているのは珍しくもないが、ひとりは男としても優男すぎるようだ。それにおとなたちに挟まれてかろうじて見えた子供の頭部。そして後部座席の床に見えた黒い毛皮のかたまり。ほんの一、二秒の観察が、いくつかの知識とぶつかりあって、警部の脳裏で火花を散らした。その火花が明確な形をとりかけたとき、目的地が見えた。高い石の塀《へい》、厚い門扉《もんぴ 》。その門扉が開放されたままになっているのを遠望したとき、事態はすべて明らかになった。運転席の警官は、勢いよく肩をたたかれた。
「あの自動車だ、追え!」
フライシャー警部がどなった。警察の自動車は鋭い警笛の音をひびかせて、方向を転換した。
3
デンマンと呼ばれる男の顔に、不快げな動揺が影を落とした。
「方向転換して追ってくるぞ。どうやら気づかれたらしい」
男装の女は落ちついていた。すくなくとも表面上は。
「追ってくるのは警察の仕事よ。でも、わたしたちが協力する義務はないわね。振りきりなさい!」
最後の言葉は運転手の背中に投げつけられた。短く応答して、運転手はハンドルにしがみついた。バックミラーに、追ってくる警察の自動車が映り、たちまち樹木や坂道にとってかわられた。まがりくねった坂道で、舗装《ほ そう》もされていない。追う者にとっても追われる者にとっても、快適な旅路とはいえなかった。
車輪が砂利《じゃり 》をはねとばし、五月の空に土煙を舞いあげる。躍りあがっては着地し、揺れうごく車体のなかで、もっとも迷惑をこうむった乗客はヴェルだった。狭いトランクの四方の壁に身体をぶつけ、額や側頭部に小さなコブをいくつもつくることになったのである。怒りと抗議の叫びをあげたいところだったが、万が一にも舌を噛《か》んだりしては目もあてられないので、ヴェルは服の袖《そで》をくわえて致命的な事故を避けた。一方、鍵穴に差しこんだ針金を離すわけにはいかなかったので、トランクの暗闇のなかにあって、ヴェルはかなり苦しい姿勢を強《し》いられた。
それがいささか楽になったのは、にわかに車体の躍動がやんで、走行がなめらかになったからである。自動車は舗装路にはいっていた。つまりシャルロッテンブルクの市街地に追跡行の舞台はうつったのであった。
シャルロッテンブルクは新旧の街並みが調和した美しい町である。石畳《いしだたみ》は隙間《すきま 》なく敷きつめられ、家々の窓には草花が飾られ、白塗りの壁も暗色の木柱も、オーストリアやバイエルンへとつづく南ドイツ風の趣《おもむき》をたもって、どことなく人肌の温かさを感じさせる。上品で静かな町だ。静かな町のはずだった。あの尊大で粗野なナポレオン・ボナパルトだって、一八一三年にこの町を通ったとき上品にふるまっていたものだ。
だが九二年ぶりに平和と静寂は吹きとばされ、道行く人はあわてて家々の壁ぎわに跳びのいた。東北方の坂道を、二台の無粋《ぶ すい》な自動車が、もつれあうように爆走《ばくそう》してきたのである。タイヤが悲鳴をあげ、警笛《けいてき》がわめきたて、排気煙《はいき えん》がたちこめた。人々はせきこみ、二台の環境の敵に対して怒りの声をあびせた。馬車の馭者《ぎょしゃ》は必死で馬をしずめ、幼児と子犬は抱きあってガス灯の蔭《かげ》に避難する。
異様な破裂音がとどろいて、警察の自動車はにわかに行動の自由を失った。タイヤのひとつがパンクしたのだ。フライシャー警部をふくむ警官全員がその直前に見たのは、彼らの下方に向けて拳銃《けんじゅう》を発射するフロックコート姿の人物だった。白い顔とあでやかな冷笑が、フライシャー警部に、ヨハン老人の証言を想い出させた。「パリから来たにちがいない男装の女!」にわかに視界が半転して、警部は、自分が、ひっくりかえった自動車から放り出されたことを知った。気の毒な部下のひとりが下敷きになってくれて、けが[#「けが」に傍点]らしいけが[#「けが」に傍点]もしなかった。
石畳に馬蹄《ば てい》がひびきわたった。軍馬にまたがり、深紅に黄金をあしらった上着の一隊があらわれたのだ。このはでな軍装は、シャルロッテンブルクの市民にとって一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》だった。
「騎馬《きば》憲兵隊《けんぺいたい》のお出ましだぞ」
群衆の間から歓声があがった。約二〇騎で構成される騎馬憲兵の一隊は、首都の平和をみだす怪自動車めがけて、果敢《か かん》な追撃を開始した。指揮する士官が何かどなると、兵士のひとりが鞍《くら》の横についた袋からトランペットをとりだして口にあてた。高らかに管楽器から行進曲が鳴りひびき、馬たちは昂揚《こうよう》する気分のままに脚をはやめた。車上の女が振りかえり、勢いよくしかも律動的に接近してくる騎兵隊の姿を眺めやった。
「時代錯誤もいいところね。騎兵隊なんて一九世紀の遺物なのに」
冷笑した女が、ふたたび拳銃をかまえた。騎馬憲兵隊の追跡は、トランペットの音色《ね いろ》とともに、自動車のすぐ後方に迫っていた。「抜剣《ばっけん》!」の号令と同時に、馬上の憲兵たちが軍刀を抜き放ち、光の帯を宙に走らせた。その瞬間、アリアーナという女は、最接近した馬の顔のそばで宙に向けて銃を撃ち放った。
耳もとでとどろいた銃声は、平和な国の軍馬をおどろかせるのに充分だった。高々といなないて馬は棹《さお》立ちになり、不幸な騎手を鞍から投げ出した。悲鳴を発した騎手は、宙を飛んで、路傍の果実商の店先に落下した。店先に並べられた、イチゴ、オレンジ、メロンなどの果物が、にぎやかな色彩と芳香を振りまきながら路上に散乱し、店主が歎《なげ》きの声をあげる。
他の馬も銃声におどろき、また仲間の動きにつられて、いちどに隊列をくずしてしまった。ある馬は騎手を振り落として商店街を駆けぬけていき、ある馬は騎手を乗せたまま銀行の玄関へと突進する。なかで、一頭の馬が芝生を敷きつめた公園に走りこみ、騎手の努力でようやく落ちつきかけた。そのとき不意に誰かが馬の傍に走り寄ったのだ。
「その馬を貸してくれ! おれは警視庁のフライシャー警部だ」
正しい順序で物事が運んだとはいえなかった。依頼の声を発したとき、フライシャー警部の姿は、すでに馬上にあったのだ。かわりに、乗馬の背から放り出された騎兵が、まだ事態をよく把握《は あく》できない表情で、呆然《ぼうぜん》と芝生の上にすわりこんでいる。
フライシャーは馬腹《ば ふく》を軽くひと蹴《け》りして、公園の白い柵《さく》を躍りこえた。あざやかな技倆《ぎりょう》だった。おどろいて跳びのく市民たちに「失礼」と声をかけながら、怪自動車に追いすがっていく。
それを見た騎馬憲兵隊の面々も、ようやく馬をふたたび馭《ぎょ》して、見えざる糸に引かれるようにフライシャーの後を追った。こうして、一五騎ほどの騎馬群が追跡を再開した。これはむろん悪漢たちにとってこころよいできごとではなかった。デンマンが舌打ちの音をたてる。
「職務に熱心すぎる官憲は気にくわんな」
「めずらしく意見が一致したわね」
アリアーナはそう応じたが、動こうとしない。デンマンという男に対し、今度はお前が役に立ってみろといわんばかりの態度である。無言の要求を男は理解した。
デンマンという男は助手席から後ろ向きに銃の狙《ねら》いをさだめようとした。だが揺れる馬上の相手を狙撃《そ げき》するのは容易なことではない。ようやく狙点《そ てん》をさだめかけたとき、自動車が鋭くカーブを切り、あわやデンマンは車外に放り出されそうになった。
フライシャー警部も制式拳銃を手にしていたが、さすがに狙撃する余裕はない。機会をふたたびとらえたデンマンが、ついに銃の引金をしぼった。銃声がとどろく。
つぎの瞬間、デンマンの頭上からシルクハットが宙に吹き飛んでいた。回転しつつ空中飛行するシルクハットの中心部に、銃弾があけた穴が白く光っている。
「あきれた、世の中にはこんなこともあるのね」
大胆不敵なはずのアリアーナが慨歎《がいたん》したのもむりはない。デンマンが引金を引くと同時に、自動車のトランクの蓋《ふた》が勢いよくはねあがり、発射された銃弾をはじき返してしまったのだ。トランク内に閉じこめられていた小さな乗客が、ようやく蓋をあけるのに成功したのである。
ヴェルの視界に大量の光がなだれこんできた。一瞬、目を閉じ、強い風を感じつつ目を開くと、すぐ傍に背広《せ びろ》姿の騎士が疾走しているのがわかった。いそがしく手足を屈伸《くっしん》させて血行を回復させながらヴェルは呼んだ。
「警部!」
「おう、ヴェル、そんなところに転居《ひっこし》してたのか」
「警部、馬になんか乗れたの!?」
「あたりまえだ。お前、一八九四年から三年連続で国内馬術競技会のチャンピオンになった名騎手を知らんのか」
その当時、若きアルフレット・フライシャー氏は警官ではなく陸軍騎兵大隊の准尉《じゅんい》どのだったのである。だが過去の栄光についてしみじみと語らっている場合ではなかった。
「そのうちゆっくり話を聞かせてくれよ!」
そうどなると、ヴェルは、トランクから後部座席へ身体を移動させようとした。敏捷《びんしょう》さと平衡《へいこう》感覚に自信のあるヴェルにとっても、それは容易ではなかった。トランクの蓋は開いたままだし、自動車は速度を落とさず、道路は坂になって、しかも傾斜は一定していない。二度、三度、ヴェルは車体から振り落とされそうになった。フライシャー警部も何とか馬を寄せようとするが成功しない。
風を切っての疾走がさらにつづき、にわかに前方の視界が開けた。追う者と追われる者の眼前に、白々と光る湖がひろがっていた。
4
「港よ!」
アリアーナが叫んだ。むろん海に面した港ではなく、ヴェーゼル湖にのぞんだ小さな港湾施設である。遊覧船、ヨット、淡水魚をとる漁船などが係留《けいりゅう》されているが、いずれもボートよりはひとまわり大きいというていどのものだ。
ヴェーゼル湖の面積は二〇〇平方キロほどのもので、この湖には大小八本の川が流れこみ、一本が東南方へと流れ出す。冬にはスカンジナビアから白鳥や雁《がん》が渡ってくるし、初夏にはイタリアから燕《つばめ》が北上してくる。中部ヨーロッパにおける渡り鳥の社交地として知られる名所だ。だが、この日けたたましく湖畔に乱入してきた人間どもは、社交や礼節とさしあたって無縁の存在であった。
船員や漁夫たちが唖然《あ ぜん》として見守るなか、急停車した怪自動車から悪漢たちがあわただしく飛びおりた。ヴェルはといえば、停車の寸前にすでに飛びおり、警部たちのほうへ走り出している。アリアーナは、一番大きい定期客船の前に走り寄ると、パイプを手にした船長らしい中年男に権高《けんだか》な声を投げつけた。
「すぐに船を出しなさい、命令よ!」
すると、どうやらイタリア人の血をひいているらしい垂《た》れ目の船長は、いささか好色そうに女の胸を眺めやった。
「綺麗《き れい》な姉ちゃんよ、何をそう殺気だっているか知らねえが、こいつは定期船でよ。あと四分たたねえと定刻《ていこく》にならねえんだ。あんたもおとななら規則ってやつを守りな」
「アッチラ!」
いらだたしげにアリアーナが叫ぶと、黒い猫科の猛獣が音もなく跳躍して船長の前に四肢を踏んばった。短いひと声で、船長の勇気と好色は国境の外まで飛び去ってしまった。甲板にへたりこみかけた船長に、女が、質問の形でとどめを刺した。
「船を出すの、定刻を守るの?」
「……わ、わかった、認める」
「何を認めるの」
「お、おれの時計は四分遅れていたんだ。それを認めるよ。すぐ出航する」
「けちらずに、いい時計を買うことね」
操舵《そうだ 》室によろけこむ船長の後につづきながら、アリアーナという女は港をかえりみた。彼女につづいて定期船に乗りこんだのはかぎられた人数であった。追跡者たちがついに桟橋《さんばし》に到着し、逃げおくれた悪漢の手下どもをねじ伏せたり押さえつけたりしている。背広姿の長身の男が、ヴェルという少年と並んで、定期船に大声をかけてきた。アリアーナとブラジル猫のために操舵室に閉じこめられた船長がせきばらいした。
「警察が呼んでますぜ、どうします」
「聴《き》こえないふりをしなさい」
一瞬、沈黙した船長は、自棄《やけ》になったように声を張りあげて「サンタルチア」を歌い出した。定期船は湖面に白く航跡を泡だてながら、一秒ごとに港から遠ざかっていく。
フライシャー警部は桟橋を走り出し、ヴェルもそれにつづいた。漁船の一隻に駆け寄り、あわただしく交渉する。一七秒で交渉が成立し、フライシャー警部、ヴェル、それにようやく警部に追いついた五名の警官が小さな漁船に跳び乗った。漁船は全速力で定期船の航跡を追いはじめた。エンジンの出力では定期船におよばないが、たくみに最短距離をとり、定期船を追いあげていく。
定期船の甲板で、ようやく呼吸をととのえたデンマンが、追ってくる漁船の姿を見て、うなり声をあげた。
「サンタルチア」につづいて「帰れソレントへ」を朗唱《ろうしょう》しはじめていた船長が、さすがに名曲への情熱を中断させ、脅迫者の苦境を喜ぶ声音《こわね 》でアリアーナに尋ねた。
「どうします、追って来ますぜ」
「舵《かじ》を切って反転するのよ!」
アリアーナは当然のごとく命じ、その表情と口調が船長に反抗を許さなかった。船長は広い肩をひとつすくめると、舵輪《だ りん》を左へまわし、船を反転させはじめた。
「おい、どうする気だ」
デンマンが拳銃を手にしたまま女をかえりみた。女は直接には返答せず、船長にむかってさらに命じた。
「全速力で漁船の腹に突っこみなさい」
「むちゃをいわんでくれ。そんなことをしたら……」
「そんなことをしなかったら[#「しなかったら」に傍点]?」
女の冷たい反問で、船長は抵抗をあきらめた。きりきりと歯を噛み鳴らし、決死の形相で舵輪をつかみなおす。漁船のほうでは、波を蹴たてて突進してくる定期船を見て、むろんおどろいた。回避をこころみたが、破局を数秒おくらせただけである。強烈な震動とともに、漁船の腹を定期船の船首が引き裂いた。木片が飛び、浸水がはじまる。
ただし定期船も漁船の船体を完全に分断することはできなかった。半ばのしかかって漁船を押しつぶす形になったまま身動きがとれない。ふてくされた船長は操舵室の床にすわりこみ、「オーソレミーオ」を歌いはじめた。もはや女も船長にかまっている余裕はない。
アッチラが烈《はげ》しく咆哮《ほうこう》し、乗りうつろうとする警官や船員たちを威嚇《い かく》する。彼らは黒い猛獣を前にして、とっさに対応にまよった。銃を向けても、黒い猛獣の視線を受けて硬直してしまう。と、いきなりアッチラに向けて何かが飛んだ。それは空中でひろがり、跳躍しようとしたアッチラは全身をそれにつつまれて甲板上に転がってしまった。なまぐさい匂《にお》いが黒い猛獣をおおって、アッチラは怒りの声をあげた。魚をとるための網《あみ》を投げかけられ、人間の術中にはまってしまったのだ。
アッチラを助けようと駆けつけたアリアーナは、アッチラに網を投げつけた男が甲板上に跳びあがってきたのに気づいた。フライシャー警部だった。アリアーナの顔を正面から見て、警部は感心したようである。
「やあ、美人だな。ヨハン爺《じい》さんのいったとおりだ」
「ありがとう、目の高いヨハン爺さんによろしくね」
会話は友好的だったが、行動はそれに照応《しょうおう》しなかった。アリアーナの手首が鋭くひらめいたと思うと、ステッキがフライシャー警部に襲いかかった。腕をあげて受けとめようとした警部が、何か直感したように長身を沈めた。ステッキが彼の頭髪をかすめたとき、警部は文字どおり間一髪の差で自分を救ったことを知った。彼は肢《あし》を伸ばして女の肢を払ったが、アリアーナはそれをかわし、第二撃を警部にあびせた。完全にはとどかなかった。警官たちの足音がひびき、女はステッキを引いてその場を離れた。
「警部、何てざまだよ、だらしない」
駆けつけたヴェルが叫んだ。
「そういうな。素手《すで》でフェンシングができるもんか」
やや憮然《ぶ ぜん》として、警部は襟《えり》もとを指さした。背広の襟からシャツの胸にかけて、鋭い刃物の痕跡《こんせき》が一五センチほどの裂目を形づくっていた。アリアーナのステッキには細身のサーベルがしこまれていたのだ。
いまや定期船には五人の警官と三人の漁民が乗りうつり、悪漢どもを船内に追いつめつつあった。ヴェルは操舵室をのぞいたが、そこには不幸な歌手がすわりこんで天地万物を呪《のろ》っている姿しかなかった。だが視線を動かしたとき、操舵室の反対側のドア、そのガラスごしにフリーダの姿が映った。フリーダの手をつかんでいる口髭の男。とっさにヴェルは計画し、判断し、行動した。凝縮《ぎょうしゅく》された時間のうちに。ヴェルは突進し、すわりこんだ船長のひざの上を跳びこえた。ドアに体あたりする。強烈な勢いで開いたドアは、デンマンという男の全身をたたいた。不意《ふい》をくらった男は鼻血を噴き出し、少女の手を離してよろめいた。
「フリーダ!」
「ヴェル!」
「助けに来たよ。あの、おれ、役に立たなくてかえって迷惑《めいわく》かけたかもしれないけど、でも、とにかく、行こう」
会話能力に自信を喪失《そうしつ》したヴェルは、フリーダの手をとって、フライシャー警部のいる方角へ駆け出そうとした。そのとき、べつの敵が彼の前に立ちふさがった。
5
それはゴルツと呼ばれる大男だった。片手でヴェルをひねりつぶせるほどの膂力《りょりょく》を誇るだけでなく、重く鋭い軍刀まで持っている。ヴェルは慄然《りつぜん》とした。黒い毛皮の猛獣の他に、人間の形をした猛獣がいたのだ。忘れていた、というより、フリーダのこと以外を考える余裕などなかった。
ゴルツの軍刀がうなりをあげて落ちかかってきた。ヴェルがかわすと、軍刀は甲板に厚い刃をめりこませて木片《もくへん》を飛散させた。残忍な勝利の表情が大男の両眼にひらめく。ヴェルが逃げまわるのをむしろ楽しむようだった。だがヴェルの手が何かを投じるのを見て、軍刀で払ったのが彼の敗因となった。
瓶《びん》が割れた。
ゴルツの両眼をアンモニアの飛沫《ひ まつ》が襲った。灼《や》きつく感触が走って、ゴルツはうなり声をあげた。うなるというよりとどろくような声だった。左手を両目にあてながら、魁偉《かいい 》な大男は右手でなお軍刀をふるい、五月の空気と湖の飛沫を荒々しく斬《き》り裂いた。船体が揺れ、大男の身体がよろめく。ヴェルは周囲に視線を走らせ、それを固定させると、目標物にとびついた。船縁《ふなべり》に転がっているデッキブラシをひろいあげ、騎士が槍《やり》をかまえるようにかまえて、思いきりゴルツの胸をついた。均衡をくずした大男は、絶叫を放つと、軍刀を持ったまま、もんどりうって湖面へ落ちていった。
盛大に水音があがって、それがおさまらないうちに、第三の敵がヴェルの前に登場して退路をはばんだ。アリアーナという女だった。
「子供と思って甘く見るものではないわね」
自戒《じ かい》と自嘲《じちょう》をないまぜにした女の表情であった。シルクハットを失い、頭髪が乱れているが、両眼にはまだ自信と戦意の光がみなぎっている。ヴェルがフリーダを背中に隠して一歩しりぞくと、その分、女は前進した。
「さあ、これはもう騎士道ごっこではないわよ。お姫さまをこちらへ渡しなさい、坊や」
「いやなこった!」
「誤解しようのない返事ね。それならそれでけっこうよ」
ステッキが光り、サーベルの刃が滑《すべ》り出てきた。素手のヴェルが身がまえた瞬間、何かをたたきつけるような音がひびきわたった。
女の振りあげたステッキがまっぷたつに折れた。仕込《しこ》まれたサーベルの刃が五月の陽《ひ》を受けて、ちぎられた虹《にじ》の破片のようにかがやきながら宙を舞い、湖面へと落ちていった。
怒りをこめたアリアーナの目が、妨害者の方角へ動く。定期船の揺れ動く甲板上で、フライシャー警部が両足を踏んばり、両手で制式拳銃をかまえていた。銃口から出た薄い煙は、湖面を吹きわたる風に、たちまちもぎとられてしまう。
「気にくわない男ね」
手に残されたステッキの半分を手にしたまま、アリアーナは苦々《にがにが》しくつぶやいた。すでにヴェルはすばやくフリーダをかばって、彼女との距離を開いていた。敗北した女王のように、アリアーナは孤独で、それでもなお昂然《こうぜん》と甲板上に佇立《ちょりつ》していた。
「武器をすてろ」
フライシャー警部はきびしい口調で命令し、銃口は正確に女の右腕を狙っていた。警部の射撃の技倆は、たったいま思い知らされたばかりである。アリアーナはゆっくりと右手をおろし、敗北を認める表情をつくって、サーベルをしこんだステッキを甲板上に投げ出した。
フライシャー警部の油断を責めるのは酷《こく》というものだろう。女が武器を棄てたことを確認したとき、ごくわずかながら銃口が正確な狙いを失った。
「アッチラ!」
鋭い、そのくせ音楽的なひびきを持つ声が女の口から発せられて、それと同時に黒い影が人間どもの視界をかすめた。ただひとりをのぞいて、定期船の内外にいた人間どもは全身を凍結させてしまい、睫毛《まつげ 》すら動かすことができない。ただひとりの例外が、すなわちアリアーナだった。躍りこんできたアッチラの、頸《くび》すじの黒い毛に手をかけると、もろともに船縁《ふなべり》を飛びこえ、ヴェーゼル湖の水面へと身を躍らせたのである。大きな飛沫があがり、いったん水中にもぐったひとりと一頭は、定期船から一〇メートルほど離れた水面に浮かびあがった。アリアーナという女は、片手を黒い猛獣の頸すじにかけたまま、片手で額に貼《は》りつく前髪をかきあげた。その手を高くあげて、あざけるような身ぶりをひとつしてみせると、猛獣とともに泳ぎ去っていく。
「いやはや、たいした女だ。おれなんぞ足もとにもおよばんな」
フライシャー警部が感歎《かんたん》した。彼は地上ほどの働きを水中でする自信がなかったので、湖に飛びこんで女を追うことができなかった。彼は船縁から振りむき、アッチラに引き裂かれた網の一部をひろいあげた。そしてついに少女を救出することに成功した少年の肩をたたいた。
「ようし、ヴェル、よくやったぞ。お前さんは一人前の男だ」
えらそうに警部は少年を賞賛したが、警察のほうはあまり報《むく》われたとはいえなかった。結局のところ悪漢たちの半数は逃がしてしまったのである。湖畔で逮捕されたのは運転手らの小物ばかりで、首領格の女、少女を監視していた大男、それに危険きわまる黒い猫科の猛獣、すべて逃走してしまった。だがデンマンという男はとらえられて、鼻血にまみれた不機嫌そうな顔で、警官たちの輪のなかに立っていた。
四〇分ほどの時間をかけて、ようやくヴェルたちが港にもどると、白い眉と白い髭《ひげ》の騎馬憲兵士官が警部の前に駆け寄ってきた。
「フライシャー准尉、あいかわらずいい技倆《うで》をしとるじゃないか」
「や、これはこれは、ツェーレンドルフ少佐どの、ご壮健《そうけん》で何よりです」
まじめくさって警部は敬礼をほどこした。白い口髭をひねって、士官はこころもち胸をそらした。
「いまは大佐じゃよ。いや、ひさしぶりに乗馬の名人にふさわしい技倆を見せてもらった。憲兵隊の馬を無断《む だん》拝借《はいしゃく》した件は不問《ふ もん》に附《ふ》しとこう。見物料ということでな」
豪快に笑って大佐は警部の肩をたたいたが、寛大な見物客ばかりではない。このとき港には一〇〇人をこす制服警官が集まっていたが、やたらと勲章をぶらさげた卵型の体格の男が、歩みよってきて警部をにらみつけた。警視総監閣下だった。
「きさまは免職《くび》だ!」
警視総監は肺活量のかぎりをつくしてどなり、両足を交互に踏み鳴らした。越権《えっけん》行為、命令違反、規則、退職金、名誉、損害賠償、そういった単語がたてつづけにフライシャー警部の鼓膜《こ まく》を打ち鳴らしたが、警部はあまり気にしないことにした。総監が何といおうと、この件は警部が手がけるしかないのである。
「その前に、この子の話を聞いてくれよ」
ヴェルが口をはさむと、警視総監は目をむいた。
「だまれ、浮浪児め、きさまのたわごとなど聞く耳もたん」
そこではじめてフリーダが口を開いた。
「わたしはフリーダ・レンバッハといいます。あなたが王宮の方でしたら、わたしを女王さまに会わせて下さい」
フリーダは総監でなく、騎馬憲兵隊のツェーレンドルフ大佐にそう話しかけた。こちらのほうが話がわかる、と見きわめたのだろう。鄭重《ていちょう》に大佐は応じた。
「|お嬢さん《フ ロ イ ラ イ ン》、女王さまは会いたい人ぜんぶにお会いになるわけにはいかんのです。まず警察にいらっしゃることですな」
「いいえ、ぜひ、すこしでも早く会っていただかないとなりません。オーバーケルテンの廃鉱のことで、と申しあげたら会っていただけるはずです」
ツェーレンドルフ大佐が白い眉をひそめると、横あいから警視総監が話に割りこんだ。
「大佐、これは警察の仕事だ。この女の子も私があずかる。よけいな口を差しはさまんほうがいいぞ」
大佐が感情を害して何かいいかけたとき、フリーダが自分の襟の裏に指先を入れた。糸を引きちぎる音がして、ふたたび指があらわれたとき、何か家紋《か もん》らしきもののはいった小さな印章《いんしょう》がその先につままれていた。
「これはわたしの祖父が先代の国王さまからいただいたものです。この印章に賭けて、女王さまへの謁見《えっけん》を要求します!」
少女が印章を差し出すと、総監と大佐は思わず姿勢を正した。ヴェルとフライシャー警部が顔を見あわせたとき、悲鳴がひびいた。何か黒い影が風をおこしてフリーダにとびかかった。少女の手から印章がもぎとられ、黒い影の白い牙《きば》がそれをくわえこんだ。
「アッチラだ!」
黒い影の正体をヴェルはさとったが、いまさらどうする術《すべ》もなかった。フリーダの手から印章を奪いとった黒い猛獣は、憲兵や警官が銃の狙いをさだめる暇もなく、家々と樹木の間をすりぬけ、わきおこる市民の悲鳴を無視して走り去った。
二転三転した事態の急変に、人々はしばらく呆然としていた。ようやく、ヴェルに助けおこされたフリーダが、つぶやいて両手をにぎりしめた。
「たいへん、あれが奪《と》られてしまったらとんでもないことになるわ」
「わかりました、フロイライン、ただごとではありませんな。何とか女王陛下にお目にかかれるよう、小官《しょうかん》が微力をつくしてみましょう」
ツェーレンドルフ大佐が決心したようにいい、文句があるかといいたげに警視総監をにらみつけた。総監は何もいわなかった。
ヴェルはフリーダの手をとってなぐさめようとしたが、何といっていいかわからなかった。フライシャー警部も無言で考えこんでいる。そしてこれら一場の無言劇《む ごんげき》を眺めやりながら、手錠をかけられたデンマンという男は、鼻血のこびりついた顔に毒々しい微笑をきざみこんでいた。
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第四章 女王陛下と奇術師
1
アップフェルラント王国の女王カロリーナ・フォン・シュタウピッツ陛下は、家庭的にはかならずしも恵まれていない女性であった。夫にも息子にも先だたれ、孫がひとりいるだけである。この孫はレオンハルトといい、将来はむろん小さな国のささやかな玉座《ぎょくざ》にすわることになるが、年齢はまだ六歳であるから国政に責任を持てるようになるまで一二年はかかるだろう。むろんアップフェルラントは中世の専制国家ではなくて、憲法も議会も政府も存在しているが、元首たる者は地位に対する自覚と立憲《りっけん》政治に対する識見とが必要である。それを欠くと、隣国の皇帝のように国際社会間のこまり者になってしまうであろう。
「カイゼルは士官学校に通《かよ》って悪い取りまきにかこまれたんですよ。英雄だの天才だのとおだてあげられて、自分は特別だと思いこんでしまったの。だからレオンハルトは普通の学校に通わせて、まず常識を習得させたいんですよ」
老女王はそう語ったことがある。芸術家なら常識を欠く天才であってよいが、一国の君主は天才などである必要はない。常識と、他者の心理に対する想像力こそがたいせつである。老女王ほそう考えているのだった。
五月二日の夕食前に、ボイスト総理大臣が女王の御前《ご ぜん》で報告したのは、この日の午後に首都近辺で展開された大追跡劇の件であって、女王を大いに興《きょう》がらせた。
「そのつかまりました男はヨーク・デンマンと申しまして、アメリカ合衆国の人間でございますとか。母国でもどうやらよからぬ経歴がありますようで」
「大西洋を渡って父祖の地までやってきたというわけなのかしらね」
編物を日の高さにあげて、女王は編目をたしかめた。一九世紀のアメリカは、広い海の彼方にひろがる遠い異国でしかなかったが、このところの強大化と対外進出はめざましく、ヨーロッパの列強《れっきょう》にひけをとらない。
一九〇五年現在、アメリカ合衆国は、大西洋と太平洋を結ぶ運河をパナマ地峡《ちきょう》に建設中である。運河の完成それ自体は、人類の文明にすくなからぬ貢献をなすものと思われるが、アメリカが用いた政治的手段は、心ある人々の眉《まゆ》をひそめさせる類《たぐい》のものであった。もともとパナマ地方はコロンビア共和国の領土であったが、ここに運河を掘らせてくれるようアメリカが頼んだのに、コロンビアは拒否したのだ。そこでアメリカはパナマの住民を煽動《せんどう》して、コロンビアに対する独立戦争をおこさせた。独立戦争が成功し、パナマ共和国が成立すると、アメリカは地峡部を永久|租借《そしゃく》という形で事実上、領土化してしまい、そこに運河を建設したのである。これに先だつ一八九八年、アメリカはスペイン領キューバの独立運動を支援すると称してスペインと戦争をおこし、勝利してキューバを独立させた。さらにスペインからフィリピン、プエルトリコ、グアムを奪って植民地にしてしまっている。
「これこそ二〇世紀らしく近代的でスマートなやり方というものだ」
アメリカ政府は自画自賛したが、他の列強はいっこうに感心しなかった。自らをかえりみて、彼らは慄然《りつぜん》としたのである。アメリカがパナマ地峡やフィリピンをまんまと強奪したような偽善的なやりくちに磨《みが》きをかけたら、今後どこの国が被害者の境遇に立たされるやら知れたものではなかった。イギリスはアイルランドやインドの独立運動に手をやいており、ロシアは革命派の弾圧に狂奔《きょうほん》し、オーストリアはバルカン半島の民族問題をかかえこんでいる。アメリカが火をつけてまわれば、世界じゅうが燎原《りょうげん》の火に焼きつくされるかもしれない。|よき時代《ベル・エポック》! などと称しても、所詮《しょせん》は弱肉強食の野獣の時代であり、弱小民族の犠牲の上に、列強が自分たちだけいい気な饗宴《きょうえん》を開いていただけのことであった。
皮肉なことに、列強のなかでもっとも国内が安定していたのは、カイゼルことウィルヘルム二世が君臨するドイツ帝国だった。すでにビスマルクの宰相時代、労働者や傷病《しょうびょう》者に対する近代的な社会保険制度が確立されており、領土内に民族問題もなかった。国内が安定していたので、はで[#「はで」に傍点]好きのカイゼルはついつい国外へ目を向け、ベルリンからイスタンブールを経由してバグダードまで世界一の鉄道を敷設《ふ せつ》しようとか、世界最強の陸海軍をつくりあげて武威《ぶい》をかがやかせようとか、よけいな火遊びをしたくなるのである。
そして中国に出兵したり、南太平洋の島を植民地にしたりしているのだが、こういったことは現地の人々には迷惑なことであっても、アップフェルラントにはあまり関係ない。アップフェルラントのような小国に極東や太平洋のできごとまで責任を持つことはできないのだ。とりあえず、自分の国を、おせっかいで強欲《ごうよく》で粗暴な近隣諸国から守りぬく、それだけで手いっぱいなのである。
「その後ドイツ軍の動きはどうなの」
「現在のところドレスデン近辺から動いておりませんようで。やはりカイゼルの火遊びにすぎなかったのでございましょうか」
「そうわたしも思うのだけど、火遊びで村ひとつ焼けてしまうこともあるしね。すくなくともカイゼルの目のとどくところに火種《ひ だね》を置いておくわけにはいかないでしょうよ。用心、用心。それにこしたことはありませんね」
女王はおどけた口調をつくり、編目の数を算《かぞ》えながら揺り椅子《いす》をゆらした。
「陛下、僭越《せんえつ》ながらひとつ提案がございます。内務省のほうからまわってきたものでございますが……」
総理が説明したのは、暗躍する列国《れっこく》のスパイを監視し、つかまえるための計画であった。市民を各戸ごとにグループにわけて、あやしい人物がいたら警察に通報するようにしたらどうであろう、というのである。
「そして同じ国民どうしが、たがいを外国の密偵《みってい》ではないかと疑って、密告したり探《さぐ》りあったりするの?」
女王は眉をしかめた。
「わたしはいやですよ。アップフェルラントをそんな陰惨な国にするくらいなら、密偵が大手を振って横行《おうこう》するほうが、はるかにましです」
「は、まことにさようでございますな。不見識《ふ けんしき》なことを申しました。お赦《ゆる》し下さい」
「そのデンマンとやらいう人物も、有能な警部と勇敢な少年のおかげで逮捕できたそうじゃありませんか。それでいいんですよ。悪漢《あっかん》がいなけりゃ、いさましい男の子の出番だってなくなるというものです」
ヴェーゼル湖畔から湖上にかけて展開した一大追跡劇は、女王陛下をたいそう愉快がらせたのであった。ただ、喜んでばかりはいられない。悪漢どもの手から解放された少女が、レンバッハという姓を名乗り、女王との面会を求めているというのであった。それもオーバーケルテンの廃鉱《はいこう》に関して。
「レンバッハ……レンバッハね」
女王は記憶を探る表情をつくった。溜息《ためいき》をついて小さく首を振る。
「どうもその名は思いだせませんね。やっぱりその女の子に直接会ってみたほうがいいでしょう。今夜のうちにでも手配してください、総理」
「かしこまりました」
名前そのものに記憶がなくても、オーバーケルテンの廃鉱の権利を持っている外国人があらわれたことはまちがいない。何やら躍動するような予感が近づいてきて、女王陛下は心が弾《はず》むのを感じていた。
2
陸軍大臣ゴッドリープ・フォン・ノルベルト侯爵閣下は、昨夜来のいらだちをこの日まで持ちこしていた。「例の女」からは報告がもたらされないままだし、ドイツ国内では山岳師団が国境付近に展開しつつあるという。カロリーナ女王はあいかわらず暖炉の前で編物に余念《よ ねん》がないのだろう。陸軍大臣は女王個人に怨《うら》みがあるわけではなかったが、これから全ヨーロッパがますます危機にむかい、アップフェルラントの未来にも国難《こくなん》がますというのに、編物ばかりやっていてどうするのか、と思うのである。
陸軍大臣のこのような考えや、それにともなう行動は、女王から見れば、それこそマッチを持ったカイゼルの前に薪《たきぎ》を投げ出すようなものであった。だが、むろん陸軍大臣は無私《むし》の愛国者をもって自認しており、アップフェルラントはドイツ帝国と組んで列強への道を歩んでこそ未来が開けるものと信じこんでいるのである。そのために、ぜひ必要なものを、例の女はもたらしてくれるはずであった。
公然と陸軍省で会うわけにはいかない相手なので、ノルベルト侯爵はこの日、早目に私邸へもどった。ヴェーゼル湖上での追跡劇を聞かされてもどうする術《すべ》もなく、書斎でさらにいらついていると、窓辺のカーテンが大きく揺れた。午後おそくの風が室内にはいってきた。
「アップフェルラント王国の陸軍大臣閣下でいらっしゃいますね」
女の声であった。陸軍大臣は振りむこうとして、その寸前に副官が表情をひきつらせるのを見た。副官の右手が腰の拳銃《けんじゅう》にかかり、愕然《がくぜん》とした陸軍大臣が理由を問う叫び声を発しかけたとき、黒々とした風のかたまりが視界をさえぎった。
副官の悲鳴につづいて、拳銃が床に投げ出され、車輪状に回転した。陸軍大臣は塩の柱さながらに立ちつくして動けない。床にあおむけに倒れた副官の上に、黒い猫科の猛獣がおおいかぶさっているのだ。そして、その向こうで窓のカーテンがふたたび揺らめき、髪を短くした男装の女が立っていた。シルクハットとフロックコートはなく、シャツとズボンであり、むろんこの時代としては異例きわまる姿だった。
ひとたび度胸をすえると、ノルベルト侯爵は悪びれなかった。ひとつ呼吸をすると、視線をアッチラという猛獣にすえた。
「この動物は何だ。黒豹《くろひょう》ではないな。虎《とら》でもライオンでもない。ピューマとやらいうやつか」
「近うございますわ、閣下、ブラジル猫と申します。アマゾン下流の住民にとっては死神と同義語ですの」
アリアーナという女は落ちつきはらって答え、アッチラの名を呼んで副官を解放させた。副官は立ちあがろうとして失敗し、床にすわりこんでしまった。陸軍大臣はいつもの口やかましさに似あわず、それをとがめなかった。シャツの薄い布地《ぬのじ 》が女の胸をつつんで、形よく盛りあがっている。その光景につい日を奪われたのかもしれない。女の手が動いて、陸軍大臣のほうへ差し出された。指先につままれた小さな物体を見て、大臣はうなった。
「おう、それが……」
「先代の国王陛下より、レンバッハ氏が賜《たま》わりました印章ですわ。つまりお約束のものです」
「そうか、ついに手に入れたか」
興奮した陸軍大臣は勢いよく女に歩みよろうとして、アッチラの唸《うな》り声で足を停めた。危険な黄玉《トパーズ》色の眼光に出会って、陸軍大臣は唾《つば》をのみこんだ。ようやく口を開いてその場をつくろう。
「よし、よくやった。その印章があれば、ドイツ皇帝に対してよい手土産《て み や げ》になるだろう。礼をいうぞ」
「するとアップフェルラント王国は、せっかく保《たも》っている独立を放棄して、ドイツ帝国の属領になりさがりますの? 独立を欲してやまぬ民族が、東ヨーロッパには数おおくいますのに、ご奇特《き とく》なこと」
女の声に皮肉を感じとったのであろう、ノルベルト侯爵は片眼鏡《モ ノ ク ル》を光らせて、かるく両手をひろげた。
「バイエルンを見るがよい。ドイツ帝国に所属してはおるが、独自の国王を戴《いただ》き、王国政府を有して内政に完全な自治権を有しておるではないか。あえて虚名の独立にこだわるなど、小児病《しょうにびょう》に類するというものだ」
「名演説ですわ。ぜひ議会でどうぞ」
かるくあしらわれて、陸軍大臣はいまいましげな表情をひらめかせた。それに気づかないふりをして、アリアーナはもっとも重要な話題を持ち出した。
「それではこの印章の市場価格について相談いたしましょう、閣下。当方としてはこれに一〇〇万ポンドの値をつけさせていただくつもりです」
「……いくらだと?」
「くりかえします。英国金貨で一〇〇万ポンド。銅貨一枚分もまけるわけにはいきません」
「強欲《ごうよく》だとは思わんか!」
「すこしも。たった一〇〇万ポンドで全ヨーロッパが手にはいるんですもの。自分の気前のよさに、そらおそろしくなるくらいですわ」
女の自己評価に、陸軍大臣は不賛同であるらしい。片眼鏡《モ ノ ク ル》を白く光らせて黙りこんでいると、女がたたみかけた。
「何なら直接、ベルリンで口髭《くちひげ》をひねっているカイゼルと交渉してもよろしいんですのよ。カイゼルは欠点の多い人ですけど、すくなくとも吝嗇《けち》ではありませんものね」
交渉技術としてさして巧妙なものでもないが、陸軍大臣を唸らせるには充分であった。大臣はへたりこんでいる副官ににわかに怒声《ど せい》をあびせ、一〇分間だけ時間を貸すように女に申し出た。女がうなずくと、陸軍大臣は荒い足音をたてて隣室に移り、ややよろめきがちに副官がそれにつづいた。
女は服のポケットから銀ばりのシガレットケースをとりだし、細い茶色の煙草《た ば こ》を端整な唇にくわえこんだ。「レセスビント」という銘柄のフランス煙草で、マルセイユに発売元があり、葉はアルジェリアの産である。アリアーナが愛用する銘柄《めいがら》であったが、紫煙《し えん》がただよいはじめたとき、彼女の表情はやや不満げであった。ヴェーゼル湖で着衣のまま水泳を強いられたとき、せっかくの煙草を湿らせてしまったのである。煙の輪を吐きだすと、アリアーナは黒い猛獣に話しかけた。
「正直なところ、こんなに苦労するとは思わなかったわね。こんなけちな山国、何ごとも軽くかたづくと思っていたのだけど……」
憂愁《ゆうしゅう》というほどではないにせよ、他者にはけっして見せることがないであろう表情を、アリアーナは睫毛《まつげ 》の付近にただよわせた。アッチラは黄玉《トパーズ》色の瞳《ひとみ》で美しい女主人を見あげ、光沢《こうたく》のある毛並みを彼女の脚にこすりつけた。
「なぐさめてくれるの、ありがとう。わたしが信頼しているのはお前だけよ。お前の忠実で勇敢で賢《かしこ》いこと。それにひきかえ、あのデンマンの役たたずときたら!」
吐きすてたアリアーナの口調には、怒りと軽蔑《けいべつ》の深刻な混合物があふれていた。彼女は衿持《きょうじ》と打算から、この日の苦労についていっさい陸軍大臣に語らなかったが、すべてを楽しく受けとめるという心境ではなかった。いちおう印章は手に入れたものの、手下どもを失い、五月はじめの山国の湖で水泳を強《し》いられたのである。いま着ている服を調達するのにも、苦労なしとはいかなかったのだ。体調もかならずしもよくない。明らかに熱があった。早いところ印章を換金《かんきん》したいと思って陸軍大臣が隣室に去るのを認めたのだが、その思案自体に、ふとアリアーナは不安を感じた。
立ちつづけているのに疲労をおぼえて、アリアーナは空《あ》いた椅子に腰をおろそうとした。そのときアッチラが低くうなって全身に緊張を走らせた。黒い毛皮が光って波うち、黄玉色の瞳が隣室に向けられた。
3
不幸にも「けちな山国の無能な警察」に逮捕されてしまった合衆国市民ヨーク・デンマン氏は、シャルロッテンブルク警視庁の刑事部の部室で、ひりひり痛む顔と心の傷をかかえこんで椅子にすわっていた。取り調べにあたるアルフレット・フライシャー警部どのは、いやみ充分に悪漢を見おろした。
「おやおや、せっかくの伊達《だて》男も罅《ひび》がはいって気の毒なことだな」
おしゃれな男というものは、だいたいにおいて同性から嫌悪《けんお 》されるようである。まして昨日の朝、陸橋《りっきょう》の上で双方にとって不愉快な出会いをした記憶があたらしい。デンマンは相手のいやみを無視した。
「不当逮捕に抗議する。私はアメリカ合衆国市民だ。公使館に連絡してもらいたい」
「連絡の必要は認めないな」
「そもそも私に何の罪があるというのだ」
「未成年者の誘拐、監禁、殺人未遂、船舶《せんぱく》強奪《ごうだつ》、脅迫、官憲に対する武力抵抗……どうだ、まだ聞きたいか」
「やめておこう。聞いても感銘を受けそうにないからな」
傲然《ごうぜん》と、デンマンは椅子の上で脚を組んだ。捜査に協力する意思など皆無《かいむ 》であることを、全身で表現している。この男に従順など求めていなかったので、いまさら腹を立てるつもりもない。ただ、眼前にいる人物がこの男でなく、ヨハン老人のいわゆる「いい女」であったら、フライシャー警部の熱意はいやましたであろう。
「それにしても鉄道にはじまって自動車、船と、いろいろ活用してくれたものだな」
「二〇世紀は科学の時代だ」
「お前さんみたいな輩《やから》を野放しにしておいたら、科学を悪用する悪党の時代になってしまいそうだな」
挑発してみたが、デンマンはその策《て》に乗らず、カールされた口髭ごしに嘲笑《ちょうしょう》を送ってよこしただけである。最初から長期戦のつもりであったから、警部はべつに失望はしなかった。デンマンの前に椅子を引いてきて自分も腰をおろそうとしたとき、先夜と同じようなじゃまがはいった。警視総監のお呼びだというのである。総監はヴェーゼル湖の畔《ほとり》で、フライシャーを免職《くび》にするとわめいたが、あまりに多くの証人がいて、そのような脅《おど》しが実行できるはずもなかった。
「何か御用ですか、総監閣下、これからいよいよ取り調べにかかるところなのですが」
なるべく頭《ず》を低くして、フライシャー警部は総監の呼び出しに応じた。ことさら総監と交戦するつもりはない。捜査の妨害さえ受けなければ充分なのだ。騎馬憲兵隊も事件にかかわりあい、目撃者もシャルロッテンブルク市民の一割ぐらいはいるだけに、もみ消すのは不可能であるはずだった。総監もそのことは承知している。免職しそこねた相手をにらんで不機嫌に告げた。
「アメリカの公使館から書記官がやってくる。デンマンはアメリカ市民であり、その安全と権利は守られなきゃならんというわけだ」
「公使館から……」
意外には思わなかった。来やがったか、というのが警部の思いである。後世、「帝国主義外交」とか「砲艦《ほうかん》外交」とかいわれる力ずくの外交がおこなわれる時代だった。この当時、弱小国に置かれた列強の公使館や領事館といえば、国営強盗団の本拠地のようなものであった。どうやって領土と権益《けんえき》を奪いとり、自国につごうのよい政権を樹立するか、そういうことを考え、陰謀をめぐらし、スパイと暗殺者をあやつるのが彼らの仕事だった。自国民の安全と権利を守るというだいじな仕事すら、相手国の弱みをにぎって脅迫するために利用する傾向があった。
一八九五年には、朝鮮国の王妃が日本帝国公使|三浦《み うら》梧楼《ご ろう》の陰謀によって王宮内で惨殺されるという事件がおこっている。有名な「閔妃《ミョンヒ》事件」である。これはアップフェルラントにとって遠い極東のできごとであったが、小国として大国の外交的圧力をつねに感じていなくてはならない点は、地球上どの地点でも同じであった。
アメリカ公使館の一等書記官は、四〇歳前後の長身中肉の男で、きびきびと能率的な印象を与える。ドイツ系移民の子だとかで、ドイツ語を正確にあやつってフライシャー警部に話しかけてきた。
「ヨーク・デンマンはわが国にとって好ましい市民とはいえない。ニューヨークにもどれば、債権《さいけん》者や被害者が集まって一個大隊ぐらいの人数にはなるだろうな」
このあたりは率直な態度というべきだが、むろん書記官の話はこれでは終わらない。
「だが合衆国市民であるにはちがいない。彼の正当な権利は守られなきゃならん。また私も外交官としての任を果たさなきゃならんのだ。彼の身柄を引き渡してもらえんかね」
「ご心配なく。わが国にもちゃんと警察署と裁判所と牢獄《ろうごく》があります。ヘル・デンマンは公明正大《こうめいせいだい》に自分の罪をつぐなって、一〇年もすれば善良な市民にもどれると思いますよ」
フライシャー警部の発言は、しかめ面《つら》によって応《こた》えられた。
「君は一介《いっかい》の警部だと聞くが、どうして、外務大臣のような口をきくじゃないか。アップフェルラントの国民は、みんな一家言《いっか げん》の持主ということか」
「買いかぶりですよ、書記官閣下」
先刻のデンマン同様、フライシャーも相手の挑発に乗らなかった。興奮して外国の外交官と暴言を応酬《おうしゅう》することにでもなれば、それこそ総監に免職の口実を与えることになるだろう。多くの市民が見守るなかで悪漢を追撃し、とらわれの少女を救出したので、ヴェル少年とフライシャー警部はすっかり有名人になってしまったが、それで万事がうまくいくとは、警部は考えていない。単なる刑事事件でなく、外交問題が絡《から》んでくると、個人的な正義感など通用しなくなるのだ。思えば「ゼンダ城の虜《とりこ》」の主人公ラッセンディル氏は幸運だった。なぜかルリタニア王国には外国の干渉《かんしょう》がまったくなかったのだから。
書記官は品さだめするように警部の顔を見なおし、あらたな攻勢をかけてきた。
「デンマンの正当な権利を守ってくれるなら、ひとつこちらも君たちを喜ばせてあげよう。どうかね」
恩着《おんき 》せがましい口調が、当然ながらフライシャー警部の癇《かん》にさわった。
「失礼ですが、何ごとも約束するつもりはありませんね。第一、ヘル・デンマンは正当な権利を主張する前に正当な義務を果たすべきだ」
書記官のほうも、警部の主張をしゃらくさいものに感じたようで、声がとがった。
「いざとなれば私は君など無視して外務大臣と話をつけることもできるんだぞ」
「偉大なる合衆国の政府機構はどうか知りませんが、この国では警察は外務省の管轄《かんかつ》にはないのですよ」
「ほう、そうか。だが君は警視総監の監督下にあるのだろう」
そう言ってから書記官は半瞬だけ後悔の表情をひらめかせた。
語るに落ちた、というところである。どうやら尊敬すべき警視総監閣下は、アメリカ公使館と非常に友好的な関係にあるようであった。書記官はハンカチで顔をぬぐった。
「まあいい。吾々《われわれ》は紳士としてふるまいたいと思っている。どんな場合にもな」
「けっこうなことですな」
「では取り引きといこうじゃないか」
自信に満ちた表情と口調を、書記官は回復し、わざとらしく声をひそめた。
「君たちの国では、スリを働くような者を逮捕もせず野放しにしているのかね」
意外な台詞《せ り ふ》であった。とっさにフライシャー警部はどう反応してよいかわからなかった。
憲兵隊といえば専制的な軍国主義国家では恐れられ嫌悪されるものだが、アップフェルラントの騎馬憲兵隊といえば儀式や祭典のときに街角《まちかど》に馬を立てて警備するのが主要な任務だ。嫌われるほどの権力が、もともとない。ギーセン街の本部に集まった新聞記者とやじうまをようやく追いはらって、みなヘルメットをぬぎ、ひと息いれていた。
「事態が奇妙にねじれとるようじゃな」
騎馬憲兵隊の老大佐ツェーレンドルフ氏が、コーヒーの熱い湯気に口髭《くちひげ》を湿らせた。彼の前には、合計年齢二七歳の少年と少女がすわって、蜂蜜《はちみつ》いりのミルクのカップを手にしている。小さなテーブルの上には、|たまねぎパン《ツワィエルプロット》とチーズとハーブいりソーセージが大皿に盛られていて、洗練にはほど遠いが実質的な軍隊式のもてなしかたを具現《ぐ げん》していた。遠慮なくヴェルが反論した。
「ちっともねじれてなんかいないさ。軍隊でも警察でも、えらい連中が悪いことをたくらんでる。それだけのことだろ」
「なるほど、そう考えればわかりやすく見えるな」
大佐は笑い、髭にくっついたコーヒーの滴《しずく》を指先ではじきとばした。
「だが、じつはそう簡単ではないて。外国といってもいろいろでな。陸軍大臣がドイツと仲よくすれば、警視総監はロシアに笑顔を売っとるかもしれん。どうせこんな小さな国で悪事をたくらむとすれば、外国と手を組むしかありゃせんのさ。だが、いいかね、ドイツがわめこうがロシアが咆《ほ》えようが、わしはお前さんがたの味方だからな」
老大佐は鼻を鳴らした。彼はお高くとまった陸軍大臣を嫌っており、当然のごとくドイツ帝国に対しても好意を持っていなかった。彼はかつて部下であったフライシャーを気に入っていたし、目の前にいる少年と少女も気に入っていた。ヴェルの勇敢さ、機敏さ、女の子を救おうとする侠気《きょうき》を目撃し、話も聞いて、完全に味方になっていたのである。ヴェルとフリーダが声をそろえて礼をいうと、老大佐は嬉《うれ》しそうにうなずいたが、部下に呼ばれてその場を離れた。
ミルクをひと口すすって、フリーダが口を開いた。
「ヴェルはわたしのこと、あんまり穿鑿《せんさく》しないのね」
「うん……君が話したくなったら話してくれるだろ」
滋味《じみ》に富んだ為人《ひととなり》のおとなみたいなヴェルの態度だが、すべてがおとなぶった演技というわけではない。少女の過去や事件の原因に対する好奇心はむろんあるが、じつのところヴェルはフリーダがこの場にいっしょにいてくれるだけで幸福なのだった。フリーダがいなくなったりしたら、事実や真相などヴェルにとって銅貨一枚の価値もないのだった。それに、ヴェルとしては、相手の過去を知れば自分のことをしゃべらなくてはならないのである。
フライシャー警部の正しさを、ヴェルは認めざるをえなかった。堂々と胸を張って「おれはスリなんだ」といえるものではない。フリーダに軽蔑されたくなかった。祖母の教育も自分の天分《てんぶん》も、このときにはありがたくなかった。ポケットのなかで指を動かしながら、こんな技術がいったい何の役に立つのだろうと自問した。その瞬間に、ヴェルの脳裏に天啓《てんけい》がひらめいた。彼はこれまで考えたこともなかった未来の構想を口にしたのである。
「フリーダ、おれさ、おとなになったら奇術師になるつもりなんだ」
「奇術師?」
「そうだよ、おれ指先がすごく器用なんだぜ。無責任な奴がスリになれっていうくらいさ。もちろんスリになんてなれるわけないだろ。だからさ、おれ、パリに行って修業するんだ。あそこにはほら、いろんな学校があるだろ。絵の学校とか踊りの学校とかさ」
話しはじめたときは単なる思いつきだった。だが、語をつづけるうちに頭のなかで星雲《ガス》状のものがかたまって輪郭《りんかく》を持ち、色彩と光彩《こうさい》すら持って膨張《ぼうちょう》してきたのだった。
「すてきね、夢があるって」
そう少女にいわれて、ヴェルはどぎまぎした。明らかに賞《ほ》められすぎだった。
「フリーダにだって夢があるだろ?」
「悪夢ならさんざん見たわ」
反射的にフリーダは答えたが、ヴェルの表情を見てつけくわえた。
「ごめんね、いやみをいうつもりじゃなかったの」
「気にしなくていいよ、おれも気にしてないからさ」
自分がおとなだったら、もっと大きく、しかも巧みにフリーダの心をつつんでやれるのだろうか。自分が一四歳でしかなく、学校にも行かず、正業にもついていないという事実が、ヴェルの心を針でつついた。
どの点をとっても、これまでほとんど気にしたことはない。「弱い者いじめをしない」というごく基本的な精神さえわきまえて、自分ひとりに責任をとっていればよかったのだ。だが、いったん誰《だれ》かを好きになると、それだけではすまなかった。
ヴェルの思いはそこで中断した。ツェーレンドルフ大佐がもどってきて、かしこまった姿勢で告げたのだ。女王陛下が、今日のヴェーゼル湖上の追跡劇に登場した主要人物を王宮にお招きになる、というのである。
「ヴェル、君も行くんじゃぞ」
「おれも!? だって、おれ……」
とまどうヴェルの手をフリーダがとった。
「むろんヴェルも行くわよね。今日の劇の主役は、あなただったんだもの」
4
王宮へ向かう馬車に乗り組む直前に、ヴェルはフライシャー警部から心外《しんがい》な話を聞かされた。ツェーレンドルフ大佐がうやうやしく「フロイライン・レンバッハ」の手をとって馬車に乗せてやっている、その光景を見ながら、ヴェルの顔は怒りで朱に染まった。むろんこれは視覚情報ではなく、聴覚情報による。フライシャー警部が、警視総監の命令で、口髭をカールさせたシルクハットの男を釈放させられたことを告げたからであった。
「何で!? 何であいつが釈放されるんだよ。警部、何かセイジテキトリヒキでもやったのかい」
「取引はやったがな、政治や外交よりもっと身近なものだ」
フライシャー警部は憮然《ぶ ぜん》として答えた。それ以上は答えたくなさそうであったが、ヴェルとしてはそのような抽象的な回答では満足できなかった。責めたてられてついに警部は答えた。
「ヨーク・デンマン氏は自由の回復と引きかえに、彼の財布をすりとった犯人に対する告訴を撤回する」
「……!」
声を失うとはこのことだった。黙りこんだヴェルの肩をたたいて、フライシャー警部はいっしょに馬車にむかった。ヴェルの背を押して馬車に乗せながら警部はささやいた。
「ま、これであの男とは貸し借りなしだ。今度会ったら遠慮なくぶちのめしてやるんだな」
一言も警部はヴェルを責めなかったが、ヴェルとしては、身から出た錆《さび》の味をたっぷり噛《か》みしめることになった。口髭をきざにカールさせたあの悪漢が自由の身になったのは、ヴェルのせいなのだ。だが、それは結局のところ、最初からもつれた糸であった。ヴェルがあの悪漢から財布をすりとり、フリーダの写真を発見した。そこからすべてが始まったのだ。しかもそれは昨日の朝のことである。何という変転だろうか。一昨日の夜には、ヴェルはこの世にフリーダが存在することすら知らなかったのに。
フリーダ、ヴェル、フライシャー警部、ツェーレンドルフ大佐の四人が王宮の通用門に降り立ったのが、ちょうど夜八時であった。黒い礼服を着こんだ中年の侍従《じじゅう》があらわれて、非公式の客人四名を建物のなかに案内した。天井《てんじょう》も高く廊下《ろうか 》の幅も広いが、ヴェルには、駅前に建つユダヤ人経営のホテルのほうが豪華に思われた。彼らは図書室に通された。この部屋こそが、女王陛下の非公式の謁見《えっけん》室であるのだった。
「何だ、普通のお婆さんじゃないか」
そうヴェルが思ったのは、失望ではなくむしろ好意のあらわれであった。ヴェルは王族とか貴族とかに偏見《へんけん》をいだいていたから、老女王といえば、青白く痩《や》せて冷厳《れいげん》な、黒魔女に似た老婦人を想像していたのである。だが、彼の前にいるのは、血色のよい、肥満ぎみの、温かさを感じさせる初老の婦人だった。ヴェルたちを見る目が、生気と活力に満ちてかがやき、豊かな知性と度量の存在を感じさせた。女王から一歩さがってひかえている紳士は、容姿こそ平凡であったが、堅実な行政能力と誠意ある為人《ひととなり》で知られる首相クラウス・ボイスト氏であった。
女王が最初に声をかけたのは、騎馬憲兵隊の老大佐だった。
「ツェーレンドルフ大佐、おひさしぶりだこと。あいかわらず元気そうで頼もしいわ」
誇らしげに老大佐は敬礼で応えた。さらに女王は有能な警部どのと勇敢な少年にも声をかけたが、生活ぶりを問われた少年が「自活《じ かつ》しています」と答えたとき、警部は可能なかぎり表情を消したものであった。そして最後にいよいよフリーダの番になった。
「あなたは外国の人なのね。名前もドイツ風で、ドイツ語もおじょうずと聞くけど」
「はい、もともとはドイツ人です。でも祖父の代にロシアに移住して、ペテルスブルクに住んでおりました」
ロシアにはドイツからの移住者が多く、官僚、軍人、医師、学者、技術者、企業経営者などになってロシア社会の中核をささえている。高名な女帝エカテリーナ二世も、もともとドイツの小公国の出身であったし、首都ペテルスブルクもドイツ名である。フリーダの祖父も、ペテルスブルクの大学に招かれ、化学の教授として家族とともにロシアへ移住したのだった。
フリーダはドイツ語とロシア語を両方使う環境で育った。祖父の息子、つまりフリーダの父親も化学者だったが、学者として大成する以前に少壮の年齢で亡くなり、フリーダは祖父に育てられることになった。この祖父は単に学者というだけでなく企業家としての才覚もあった人で、アップフェルラント出身の知人から岩塩《がんえん》鉱区の採掘《さいくつ》権を手に入れた。塩は国家の専売品であるから、その権利を政府に譲る。そのかわり権利金を支払ってもらうということで、代々レンバッハ家は安定した収入をえることができるはずだった。
ところがそのオーバーケルテンの岩塩鉱が地下|河川《か せん》からの浸水で内部が水没し、廃鉱《はいこう》になってしまった。残念に思ったフリーダの祖父は、アップフェルラントを訪れて岩塩鉱の奥深くを探検した。そしてそこで何かを発見したのである。
「黄金とか財宝ならよかったのだが、と、そう祖父はいっていました。それは何か、おそろしい兵器になるものなんだそうです。祖父はそれを秘密にしていたのですけど、とうとう人に知られてしまって……」
「まあ、新兵器、やっぱりそうだったの」
女王は歎声《たんせい》をあげ、ボイスト総理大臣を顧《かえり》みた。
「カイゼルがほしがるわけですよ。まったくあの人の好きそうな危険な玩具《おもちゃ》だこと。で、それはどんな兵器なの」
揺り椅子から身を乗り出すようにして女王は少女の話をうながした。
「わたしにもよくわからないんです。でも祖父がいってました。その兵器をパリで使ったら、パリじゅうの人がみんな死んでしまうって!」
沈黙が図書室の床でワルツを踊って通りすぎた。総理大臣がひとつせきばらいして、おどろくべき話の内容を確認した。
「死ぬって、何十万人もの人が一度にかね」
「ええ、そうです。パリでもロンドンでもベルリンでも、そしてペテルスブルクでも、街ごと吹き飛んで誰も生き残らないって」
沈黙がふたたび帰ってきて、人々の周囲をとびはねた。フリーダと同行した三人が何といってよいやらわからぬようすなので、また総理大臣が口を開いた。
「しかしその、まさかそんな強力な兵器が存在するとは思えないが……」
すると女王が敢然《かんぜん》として総理の常識に異《い》をとなえた。
「おや、総理、あなたは『悪魔の発明』を読んでいないの? あのジュール・ヴェルヌの傑作を!」
「は、まことに不調法《ぶちょうほう》なことで」
総理大臣が赤面すると、女王は一同を見まわして話をつづけた。
「どんなおそろしい兵器だってつくれますとも。人間が空を飛ぶ時代ですよ。| 孫 《レオンハルト》がわたしの年齢《とし》になるころには、月や火星にだって行くようになるかもしれません。逆にわたしの祖父のころには自動車なんて存在しなかったんですからね」
そこでフリーダのほうを見て尋《たず》ねる。
「ヴェルヌの小説に出てきた兵器は、たしか電撃砲《でんげきほう》とかいったけど、あなたのお祖父《じい》さんの兵器もやっぱり大砲なの?」
だがフリーダは残念なことに、女王の好奇心を満足させることができなかった。
「それはオーバーケルテンの廃鉱にじかに行ってみないとわかりません、陛下」
「そう、なるほど。とすると、このまま放置しておくわけにはいきませんね。ぜひ探ってみなくては」
女王が編物をテーブル上に置くのを見て、総理大臣があわてたように手を振った。
「なりません、陛下、廃鉱といえば普通《ふ つう》の洞窟《どうくつ》よりはるかに危険です。そんな場所へお出かけになるとおっしゃるなら、このボイスト、議会に働きかけてもおとめいたしますぞ」
忠実な総理大臣の真剣きわまる表情を見やって、女王は笑いだし、揺り椅子と身体を律動的《りつどうてき》にゆらした。
「むろんわたし自身は出かけたりしませんよ。探検隊を組織するといってるのです。わたしが行ったりしたら足手まとい。それぐらいわきまえてますよ」
「さようでございましたか、いや、私はてっきり……」
「こういうとき王者がすることは、資金を出すことと、還《かえ》ってきた人たちから話を聞くことです。あの偉大なアーサー王だって、聖杯《せいはい》探求の旅に自分自身で出かけたりはしませんでしたよ」
女王は丸々とした艶《つや》のいい手をこすりあわせた。心の底から楽しそうな表情になっている。
「さあ、なるべく早く探検隊の顔ぶれをそろえなきゃならないわね」
そのときフリーダが一歩すすみ出た。
「女王陛下、わたしも行きます。その探検隊に参加させてください」
「あらまあ、あなたが」
女王はかるく目を瞠《みは》り、賞賛の表情に気づかわしげな色をかさねた。
「いさましいのね。いさましい女の子はわたしは大好きですよ。でも危険ということも考えないとね。こういうことはたくましさが取柄《とりえ 》の殿方《とのがた》にまかせるべきですよ」
「でもわたし道を知ってます。わたしがいっしょに行かないと、せっかくの探検隊が廃鉱内の迷路にまよってしまいます」
「それは地図を書いてもらえばよいことだと思うけど……」
女王の視線が、少女の傍《そば》に立ちつくすヴェルの顔に固定された。
「そこにいるあなたのお友だちも、女の子が危険なまねをするのに反対だと思いますよ。どう、|ヘル《ミスター》・シュトラウス、あなたの意見を聞かせてほしいわ」
女王から声をかけられて、ふたたびヴェルは硬直してしまった。ようやく声を出す。
「おれ、いえ、ぼく、フリーダが行くというのなら止めません。でもひとつだけ条件がありますけど」
女王は老《お》いても若々しい頬《ほお》をほころばせて、少年の心理を洞察した。
「つまり、あなたもいっしょに行くということね」
「は、はい、そうです、女王陛下!」
「ヴェル……!」
フリーダが激しく首を振った。
「あたりまえだろ。おれ、行くよ。行かせてくれよ、何でもするからさ」
その光景に女王は心地《ここち 》よい印象を受けたようであった。
「総理、どうやらアップフェルラントの未来は明るいようですよ。新兵器なんかなくても、勇敢な男の子と健気《けなげ 》な女の子がいれば、国は滅びたりしないものです」
「はい、きっとそうでございましょう」
総理が一礼したとき、女官長からあらたな訪問者の登場が告げられた。陸軍大臣のノルベルト侯爵が、強硬に女王陛下との面会を求めているというのである。女王はいたずらこぞうのような動作で肩をすくめてみせた。
「おやおや、どうやらアップフェルラントの過去がやってきたらしいわ」
「陛下、私が陸軍大臣に会って話を聞くことにいたしましょうか。陛下にはここでこのままくつろいでいただいて……」
「ありがとう、総理。でもノルベルト侯爵はわたしに会わないかぎり引きさがらないでしょうね。それに彼はおろそかにあつかってよい人物ではないわ。お通しして」
最後の台詞《せ り ふ》は女官長に向けられたものであった。
正確に三分後、陸軍大臣は図書室に軍服姿をあらわした。背すじを直立させ、片眼鏡《モ ノ ク ル》ごしに先客を見まわす。社会的地位も年齢も雑然たるこの四人を別室にしりぞけるよう願ったが、女王はおだやかに、だが断固《だんこ 》としてそれを拒否した。
陸軍大臣は不満を押しころした。何といっても彼は臣下《しんか 》であり、カロリーナ女王こそが君主なのである。すくなくとも現時点においては。陸軍大臣は呼吸をととのえ、舞台俳優のように宣告した。
「では申しあげます。陛下、私は本日ひとつの印章を手に入れました。オーバーケルテンに廃鉱となった岩塩鉱がございます。その所有権を証明する印章です」
陸軍大臣は満足した。室内にいる一同の表情に驚愕《きょうがく》の波がゆれたのを看《み》てとったからである。陸軍大臣は左胸のポケットをかるくたたいた。そこに印章がはいっているのであろう。驚愕の呪縛《じゅばく》がとけて、フリーダが抗議の姿勢《し せい》を全身にみなぎらせた。
「それはわたしが祖父から受けついだものです。悪者に奪われたのです。返してください!」
「この|お嬢さん《フロイライン》は何をいっておられるのか、本職には理解しかねますな」
陸軍大臣はわざとらしい鄭重《ていちょう》さをしめして女王に片眼鏡《モ ノ ク ル》を向けた。女王はややきびしい目で陸軍大臣を見返した。声を発したのはフライシャー警部である。
「失礼ですが、陸軍大臣閣下。その印章が正当な所有者の手から不法に奪われたものであることは、私自身をふくめて多くの証人がおります。閣下がそれを何者かからお買い求めになったとしたら、盗品《とうひん》の故買《こ ばい》ということになりますが」
あえてそう決めつけたのは、陸軍大臣を挑発して、口をすべらせることを期待したのだ。刑事捜査官としてはありふれた技術だが、陸軍大臣は薄笑いで応じた。
「口をつつしめ、たかが警部の分際《ぶんざい》で。わしは犯人をとらえ、その手から印章をとりもどした。ただしこの印章は個人に帰《き》してよいものではない。国家のものであるべきだ!」
その一言で、あの男装の女が陸軍大臣の手中にあることをフライシャー警部は察した。あの女が、また黒い猛獣がどうなったのか、警部は知りたかったが、陸軍大臣の視線は女王に向けられていた。したがって、フライシャーも、何か緊張した表情でささやきかわしている少女と少年も無視された。
「そこで、陛下、わが国の今後についていささか存念《ぞんねん》を述べてよろしいでしょうか」
「うかがいましょう。いったいあなたはどのようにこの国の方針をさだめたいとおっしゃるの、侯爵」
「アップフェルラントがドイツ帝国と合併することでございます、陛下。これこそ正しい選択と申せましょう」
「合併?」
おだやかに女王は反論した。
「正確にいっていただきたいですね、それは吸収というのですよ。カイゼルが、ドイツ・アップフェルラント連合帝国などという国名を甘受《かんじゅ》するとも思えませんね」
「陛下、いまは弱肉強食の時代ですぞ。小国は大国につく以外に生存の方途《みち》がないのです。もともとわが国はドイツと民族の血を同じくします。ひとつの国家となることこそ、当然にして自然ではありませんか」
「オーストリア人もドイツ人と同じ血を持っていますよ。でも仰《あお》ぐ旗は別のもののようですね」
女王の声がきびしさを増した。
「あなたがオーバーケルテンの廃鉱にある何かを探し出してカイゼルに献上しようとしているのはわかっています。でも不正の土壌《どじょう》にまともな花は咲きませんよ。その印章はフロイライン・レンバッハにお返しなさい。その上であらためて話をうかがいましょう」
「せっかくのご命令ですが、お受けいたしかねますな」
不遜《ふ そん》に言い放ったとき、先客たちの列から少女が飛び出してきて、陸軍大臣にしがみついた。
「返してください、その印章を。それはお祖父《じい》さんのものです。あなたがそれを手にする資格はありません。返して!」
「何をする、小娘が!」
一喝して、陸軍大臣はフリーダを振りほどこうとしたが、少女は彼の腰にしがみついて離れなかった。さすがに女王の御前で子供を蹴《け》り倒すわけにもいかず、陸軍大臣は手だけでフリーダを自分の身から引きはがそうとした。おとなたちが、フライシャー警部でさえとっさに手を出すことができずにいるとき、ヴェルが行動した。勢いよく走り出すと、ためらいもなく陸軍大臣に飛びかかってしがみついた。
「フリーダを離せ!」
「何をぬかす。しがみついとるのは小娘のほうだ」
いつもの謹厳《きんげん》さを失って、陸軍大臣はどなった。ようやくフリーダをもぎ離し、床に突き倒す。ヴェルのほうはそれを見て自分から離れ、すばやくフリーダを救いおこして陸軍大臣から遠ざかった。警部がふたりの身を背後にかばった。大臣は荒い息を吐いて、襟もとをあらためた。
「ふん、礼儀知らずの浮浪児どもが。世界の歴史を変えるかもしれない印章をきさまらなどに渡せるか」
「印章ってこれのことかい」
さりげない一言が、落雷のような驚愕を広間にもたらした。眼鏡をかけた目、眼鏡をかけない目、片眼鏡《モ ノ ク ル》をかけた目が、声の主に視線を集中させた。視線が固型化するものであるなら、ヴェルギール・シュトラウスは人間の形をしたハリネズミになってしまったにちがいなかった。ヴェルの右手に印章が載って、照明に白く光っているのだった。
「きさま、さっき私の懐中《かいちゅう》から……!」
陸軍大臣はあえいだ。少年と少女が先ほど無謀な行動に出た理由をさとったのだ。同時にそれは敗北をさとることであった。現に印章を掌中《しょうちゅう》におさめてこそ彼の権利は実体化できるのに、それが本来の所有者の手にもどった以上、彼の権利は空想上のものでしかない。すさまじい沈黙を一〇秒ほどもつづけた後、陸軍大臣は完全に形式だけの敬礼を女王にほどこすと、軍靴《ぐんか 》の底で床を蹴りつけながら立ち去った。彼の背後で扉が閉ざされた。
「ヴェルギール・シュトラウス、あなたはすてきよ。きっと大西洋の東側で一番の奇術師になれるわ!」
フリーダがヴェルに飛びついた。ヴェルは喜びと誇りで顔を上気《じょうき》させて一言も応えられず、フリーダを抱きとめていた。
「現在でもアップフェルラントでは一番の奇術師じゃて。いや、おそれいった、おそれいった」
ツェーレンドルフ大佐が手を拍《う》つと、その隣でフライシャー警部が苦笑した。
「奇術師ねえ……こいつはもう天職《てんしょく》といわざるをえんな」
「たいへんおもしろいものを見せてもらいましたよ、ヘル・シュトラウス。あなたの最初の公演には、かならず出かけますからね」
拍手した女王は、喜びあう少年少女をながめやって、心のなかで独語《どくご 》した。
「さて、陸軍大臣がどう出るか、なかなか興味深いわね。いずれにしろぶっそうな玩具《おもちゃ》をカイゼルの手に渡すわけにはいかないわ」
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第五章 女賊と警部
1
五月二日の夜に、カロリーナ女王陛下は、オーバーケルテンの廃鉱に秘密の探検隊を送りこむことを決断した。そして翌五月三日の朝に、探検隊は威風《い ふう》堂々とシャルロッテンブルクの街を出発した。
という具合には、話はすすまない。決断と実行との間には深い危険な川が流れており、それを無事に渡るためには「準備」という橋を架《か》けなくてはならないことを、女王は承知していたのである。
女王自身は探検に参加せぬ。それだけに、探検隊の安全には最大限の配慮を払わねばならなかった。「死者から冒険|譚《たん》を聞かせてもらうわけにはいきませんからね。みんな無事に生きて還《かえ》ってもらわなくてはね」と、老女王は総理大臣ボイストに語り、「まことにさようで」とボイストは首肯《しゅこう》したものである。
「勇敢な男の子と健気《けな げ 》な女の子がいれば、国は滅びたりしないものです」
そうも女王は総理大臣に語った。むろん彼女は自分の意見の正しさを確信しているが、ただ確信だけで悪《あ》しき現実に対処できるわけではない。勇気を生かすためには思慮が必要であり、若者の力が充分に発揮されるためには老人の経験が不可欠であった。探検隊の隊長にほ、これまでの経緯《いきさつ》と社会的地位からして、騎馬憲兵隊のツェーレンドルフ大佐が選ばれるべきであった。副隊長は警視庁のフライシャー警部。そしてフリーダ・レンバッハとヴェル・シュトラウス。以上の四人が隊員として確定している。これに、現地の案内人、山岳大隊の熟練した兵士、臨床外科《りんしょうげか》の医師ないし看護人、総計で一二名ほどの集団が形成されるべきであった。
女王は自らのペンでメモを作成し、書棚からアップフェルラント国内の精密な地図を取り出した。老眼鏡をかけなおし、指先で丹念《たんねん》に地勢をたどる。女王の両眼と頬《ほお》は若々しい熱意と好奇心にかがやき、この老婦人の知性と気力が壮齢《そうれい》にあることを雄弁に証明した。
オーバーケルテンの岩塩鉱は、アップフェルラントの北西部に位置し、ルールホルト山へとつらなる山地の一角を占める。もっとも近い鉄道の駅はアイゼンヘルツという町にあり、首都シャルロッテンブルクから鉄道で九〇キロ、この国ののんびりした列車では二時間半を要する。駅からは馬車と徒歩で一時間半。朝に首都を進発して、昼食後に廃鉱内部の探検を開始することができるはずであった。いざ坑内《こうない》にはいれば、どのていどの時間を要するか判然《はんぜん》としない。食糧、衣服、照明、医薬品、各種の登山道具が必要であろう。おそらく、残念なことに護身用の武器も。そして万物《ばんぶつ》に先立つもの。探検の費用は宮廷費から捻出《ねんしゅつ》することにしよう。アップフェルラントの現在と未来にとって、その価値は充分にあるはずであった。
「そうそう、忘れていたわ。探検隊には科学顧問も必要ですね。適役の人物がアイゼンヘルツにはいたわ」
王立学士院会員ヘルムート・フォン・レーンホルム理学博士が、アイゼンヘルツの街に住んでいる。五〇代半ばの独身の人物で、科学者としてより変人として知られている。才能があることは確からしいが、それを浪費する傾向があり、ひとつの研究課題を歳月かけて追究するというより、興味を持った対象に、かたはしから手をつけて収拾《しゅうしゅう》がつかなくなるという一面もあった。
女王は受話器を取りあげた。アイゼンヘルツの街に通じるまで、四分かかった。電話に出た中年の男の声は不機嫌そうだったが、女王|自《みずか》らの電話だと知ると、睡魔《すいま 》をたたきだして、おごそかな調子に一変した。
「して、女王陛下がやつがれ[#「やつがれ」に傍点]めにご連絡いただきましたのは、例の飛行機に関することでございますか」
「いえ、残念だけど飛行機のことではないのよ、レーンホルム博士」
「すると魚竜型潜航艇《ぎょりゅうがたせんこうてい》のことで?」
「いえいえ、じつはお宅のご近所のことなの。オーバーケルテンの岩塩鉱を探検する試《こころ》みに、顧問として参加していただけないかしらね」
「はあ……」
自称天才学者にとって、どうやら役不足の申し出で、それはあったようである。
「いかにやつがれ[#「やつがれ」に傍点]の天才をもっていたしましても、岩塩を純金に変換《へんかん》する装置は、まだつくれませんですな。いや、あと五年待っていただけましたら、かならず完成させてごらんにいれますが」
「五年後ではねえ。五日後のことなのよ」
女王は笑い、用件を話した。レーンホルム博士はつつしんで女王の依頼を受けた。かなりもったいぶった台詞《せ り ふ》を並べたてたが、総理大臣ボイストやツェーレンドルフ大佐同様、博士も女王のよき友人であったのである。
世の中には、重大な問題と同時にささやかな問題も存在する。そして、それを無視していては、いつか重大な問題のほうも失敗に帰《き》することがある。五月二日の場合、フリーダ・レンバッハをどこに宿泊させるか、これはささやかだが無視できぬ問題であった。王宮に泊めるというわけには、さまざまな事情からいかなかった。
結局、ツェーレンドルフ大佐が、少女と少年に宿舎を提供することになった。大佐夫妻は官舎に住んでおり、ふたりの息子もやはり軍人だが、それぞれ兵営《へいえい》住まいであるため、部屋があまっている。少女と少年に、それぞれ独立した寝室をあてがうことができるのだった。オーバーケルテンの廃鉱を探検に出かけるまでの数日間、フリーダとヴェルは大佐の客人としてあつかわれることになったのだ。
「いや、わが家の平均年齢が一挙《いっきょ》に若返りますわい」
老大佐はそういって笑ったものだ。その笑顔《え がお》に、フリーダは祖父の顔をかさねた。けっして、顔だちといい雰囲気といい、たがいに似てはいないのだが。
フリーダの祖父は、しばしば幼い孫娘に語ったものである。
「なあ、フリーダ、世のなかには知られずにすむほうがよいものが、いくらでもあるのだよ。ギリシア神話に出てくるパンドラの匣《はこ》、あの話は人類にとって永遠の教訓なのだ」
人類は一九世紀から二〇世紀にかけて、科学という巨大な匣の重い蓋《ふた》をすこしずつすこしずつ開きつづけているのだ。そうフリーダの祖父は語った。開きつつある蓋の隙間《すきま 》から、自動車、電灯、電話、飛行機、映画などの発明品がつぎつぎと飛び出し、胞子《ほうし 》がはじけるように世界じゅうに拡散していく。遠い古代に、文字と車輪が発明されて以来の発明の時代であろう。
「だが、発明の数が、それだけ人間を幸福にするとはかぎらない。火薬の発明が、どれほど多くの生命を奪うことになったか、フリーダ、考えてみたことがあるかね」
祖父の問いは、いさか無理な注文というものだった。幼いフリーダに理解できたことは、祖父がある点で時代を超越した思考力を有していること、それゆえに深い苦悩を強《し》いられていること、それだけであった。その苦悩も、子供心には何やら大げさで考えすぎのように思われたのである。だが、いまではわかる。悪漢たちはフリーダを誘拐し、幽閉《ゆうへい》し、鎖《くさり》にまでつないだ。それだけのことをする価値があったということであり、祖父の懸念《け ねん》と苦悩には、正しい理由があったということである。
ツェーレンドルフ大佐の家で、ヴェルはフリーダに問いかけた。
「君のお祖父《じい》さんがいってたような、そういう兵器が実在するとしたら、フリーダはどうする気なの?」
「こわしてしまうわ」
断言してから、フリーダは、さらに考える表情になった。
「こわすというより、人の目に触れないようにするわ。そうだとすると、オーバーケルテンの廃鉱にわざわざ行ったりしないで、坑道《こうどう》をこわしてもらえばそれですむのかもしれないけど」
だが、やはりフリーダは、祖父が遺《のこ》したものをこの目で見てみたかった。その上で、祖父の生前《せいぜん》の意思を代行する者として、それを封印したかったのである。
フリーダにお寝《やす》みの挨拶《あいさつ》をして、ヴェルは自分にあてがわれた部屋で寝台にもぐりこんだ。だが、とうてい、すぐに寝つくことができる気分ではなかった。
パリへ行く。パリで高名な奇術師に弟子いりするか、専門の学校に通って、奇術を学ぶのだ。容易なことではないだろう。どのような分野も、一人前になるのは簡単ではなく、一流に達するのはさらに困難である。だが、それを承知の上で、ヴェルの熱意は衰《おとろ》えなかった。
「大西洋の東側で一番の奇術師!」
フリーダの言葉でヴェルがどれほど励《はげ》まされたか、そのことをヴェルはフリーダに知ってもらいたかった。だが、それは口に出していうよりも、歳月を経《へ》て、実際に大西洋の東側で一番の奇術師になることで告げるべきかもしれなかった。いずれにしても、ツェーレンドルフ家の屋根の下ですごした一九〇五年五月二日の夜は、ヴェルにとって、忘れられない貴重な夜となったのである。
2
ヨーロッパの列強《れっきょう》に比べれば、アメリカ合衆国の公使館は、シャルロッテンブルクにおいては後発《こうはつ》である。したがって、その立地は必ずしも一等地とはいえず、ヴェーゼル湖の畔《ほとり》に位置する旧湿地であった。だが、湿地に土を盛って整地し、草木を植え、規模からいってシャルロッテンブルクで最大の外国公館を完成させたのが二年前のことであった。
「こんな小国にまで、あんなでかい公使館を建てるなんて、アメリカという国は、よっぽど資金がありあまってるんだねえ」
見物に行って、感心して帰ってくる老婦人もいたものだ。だいたいにおいて、アメリカ人は陽気で気前がよかったので、アップフェルラントの住人たちから嫌われてはいなかった。ところが、五月二日の夜、公使館の一室では、三人のアメリカ人が陽気にほど遠い表情で、散文的な三角形を形づくっていた。デスクには公使が着いており、その傍に一等書記官がひかえている。フライシャー警部と交渉して、ヨーク・デンマン氏を釈放させた人物である。三人めの在室《ざいしつ》者こそ、当のデンマン氏であった。公使と書記官は、彼らの努力によって自由の身となった同国人に、行動の自重《じちょう》を求めたが、デンマンは無礼にも恩人たちを鼻先であしらったのである。
「公使館のご尽力《じんりょく》には感謝しておりますが、行動に枠《わく》をはめられる筋合《すじあい》はありませんな。小生《しょうせい》は自由に行動させていただきます」
「いいかげんにしたまえ!」
公使は紳士らしからぬ怒声《ど せい》を発したが、机をたたく行為は、かろうじて自制した。公使が背広のポケットから心臓病の薬剤をとりだし、卓上に置かれたコップの水で服《の》み下す。その間に書記官が代わって話をつづけた。
「君が合衆国市民であればこそ、この国の警察に無理を通して君を釈放させたのだ。いっておくが、吾々《われわれ》が好きこのんで外交官の権限を振りまわしたとは思わんでもらおう」
「ですから、ご尽力には感謝しておりますよ」
「そうは見えんがな。だが、すんだことはもういい。問題はこれからだ。アップフェルラントの国内法に反するような行為は厳《げん》につつしんでもらうぞ」
デンマンが返答しないので、書記官は声を半オクターブ高くした。
「今後、君がたとえば誘拐罪などで逮捕されたりしたとき、もう吾々の助力はあて[#「あて」に傍点]にせんことだ。吾々は外交官としてこの国に来ている。心がけの悪い同国人のために、外交の足を引っぱられるのはまっぴらだ。わかったな!」
「わかりましたよ」
誠意とは無縁の表情でデンマンはようやく答え、公使と書記官を等分に見較《み くら》べてわざとらしく一礼すると、踵《きびす》を返して部屋を出ていった。扉が閉ざされると同時に、書記官が吐きすてる。
「ニューヨークの恥さらしが! 大西洋を渡ってまで厄介事《やっかいごと》を引きおこしおって」
「奴は武器のブローカーとして、ウォール街の資本家《し ほんか 》連中にけっこう重宝されとるんだ。よほど目にあまる行為がないかぎり、奴の行動は黙認しろといわれている」
「すでに充分、目にあまっていると思われますが」
苦々《にがにが》しげに書記官が意見を述《の》べると、さらに苦々しく公使は応じた。
「ウォール街の奴らは、吾々よりはるかに心が広くて、そのかわり目が悪いのさ。財布を重くしてくれる相手なら誰《だれ》でも天使に見えるらしい」
二〇世紀の覇者となるアメリカ合衆国が、アップフェルラントのような内陸の小国に公使館を設置したのは、何といってもこの国が、三大帝国|角逐《かくちく》の地にあり、ヨーロッパの国際情勢|如何《い か ん》によっては重大な外交戦の舞台となりえるからである。公使館員たちも、それなりに希望や野心をいだいて当地に赴任《ふ にん》してきたのだが、現在のところ小国は小国のままであり、大西洋をはるばる渡ってきた外交官たちも、敏腕《びんわん》の発揮しようがなかった。書記官が憮然《ぶ ぜん》として太い頸《くび》を振った。
「所詮《しょせん》この国はドイツに呑みこまれて消滅してしまうのではありませんか。私たちが最初の、そして最後の合衆国公使館員ということになるかもしれませんよ」
「そうかもしれん」
公使はうなずきつつ左胸をさすった。
「だが、同じような位置にあったポーランドは三大帝国に分割されてしまったが、この国は生きのびている。なかなかもって、したたかな国さ。だからこそ列強も、この国を軽視しておらんのだ」
「では吾々も、この国が今後どのように巧緻《こうち 》な外交を展開するか、勉強させていただくことにしましょうか」
書記官は肩をすくめてみせた。外交は軍事力を背景におこなうものと彼らは信じている。三大帝国の領土に完全に包囲されたアップフェルラントで、アメリカが軍事力を行使《こうし 》する余地はない。極端なところ、何があろうと指をくわえて見ていなければならぬ身である。行動の自由という点から見れば、デンマンがうらやましいほどであった。
公使館を出たデンマンは、ガス灯の下を歩いて街角で辻《つじ》馬車をひろった。行先を尋ねる馭者《ぎょしゃ》に、一瞬の間を置いて告げた行先は、陸軍大臣邸の所在地であった。
陸軍大臣ノルベルト侯爵の邸宅には広大な地下室があった。階段室の左方には酒庫《しゅこ 》と食糧庫が設《もう》けられているが、右方は厚い樫《かし》の扉を開くと兵士たちの詰所《つめしょ》があり、いくつかの鉄扉《てっぴ 》が奥へとつづいて、重苦しく厳《いかめ》しい雰囲気をただよわせている。兵営というより営倉《えいそう》を想起させ、天井も壁も床もむきだしの石造りであった。湿度の高い冷気が肌にまつわりつき、詰めている兵士たちはうそ寒そうに頸《くび》を縮めている。
アッチラと呼ばれる黒い猫科の猛獣にとっては、さらに不快であったろう。彼もしくは彼女にとって、生地であるブラジル北部は冷気と無縁の土地であった。麻酔ガスから醒《さ》め、鉄の檻《おり》に閉じこめられていることに気づくと、アッチラは黄玉《トパーズ》色の両眼に憎悪の火花を散らした。檻の床を爪《つめ》でかきむしり、鋭い威嚇《い かく》の唸《うな》りで、監視の兵士たちをおどろかせた。
「ふん、好きに咆《ほ》えてるがいいさ。ロシアの大熊《おおくま》を閉じこめていた檻だからな。破るのはむりってものだぜ。黒|豹《ひょう》だか白豹だか知らねえがよ」
兵士は軍靴《ぐんか 》の先で檻の鉄棒を蹴《け》りつけた。アッチラが怒りの咆哮《ほうこう》をあげると、すばやく足を引いて毒づく。
「咆《ほ》えろ咆えろ。お前の御主人さまに聴こえたら助けに来てくれるかもしれんぞ。いや、御主人さまのほうにこそ助けが必要か。美しい主従《しゅじゅう》愛が実《みの》るかどうか観物《み もの》だぜ」
アッチラが閉じこめられた部屋と、厚い石壁一枚をへだてて、アリアーナという名の女も覚醒《かくせい》していた。彼女の黒い愛獣《あいじゅう》同様、めざめた世界は不快さに満ちていた。
全身が熱っぽく、けだるい。頭部の奥深くでは宿酔《ふつかよい》の鼠《ねずみ》が尾をばたんばたんと打ちつけているにちがいなかった。不規則に襲ってくる疼痛《とうつう》に耐えて手指の先を動かしてみたが、感覚が鈍化して、象皮《ぞうひ 》の手袋でもはめているようである。記憶の中断から考えても、ガスを嗅《か》がされて意識を失っていたにちがいない。
アリアーナは自分自身が置かれている状況を確認した。彼女は椅子《いす》に縛《しば》りつけられていた。両手は椅子の背にまわされ、手首をあわせて太い紐《ひも》で縛られていた。両足首も縛られていたが、椅子の脚に固定されていなかった。それだけ判明すれば、つぎは行動に移るだけである。完全に、悪質な風邪《かぜ》をひきこんでおり、時間を経過するほどに体力も気力も衰えるであろうことは疑いなかった。咽喉《のど》が渇《かわ》ききり、痛みさえもあることを無視して彼女は叫んだ。
「わたしをどうする気!? お願い、ここから出してよ。熱が出て苦しいの。お願いだから助けてよ、ねえ」
この呼びかけは、彼女を知る者にとっては異様なものと受けとめられたであろう。あまりにも彼女本来の個性とかけ離れた呼びかけであったからだ。むろん、これは演技であり、二流の敵は二流の演技でだましおおせると計算した結果であった。その計算こそが、彼女の本領《ほんりょう》といえるかもしれない。
「アッチラ、いま出してあげるからね。ちょっとだけ、いい子で待っているのよ」
内心でそう語りかけながら、アリアーナは、女性が男性に対してしかなしえない演技をつづけた。
「助けてちょうだい。ねえ、助けてくれたら何でもするから。せめて水ぐらい飲ませてよ」
固い靴音がして、ふたりの兵士がアリアーナの視界に姿をあらわした。ブリキのカップを持った兵士が、それをアリアーナの口もとにあてがう。むさぼるようにアリアーナは水を飲みほした、わけではなかった。巧妙にいくらかの水をこぼし、透明な水の流れを顎《あご》から咽喉へ、さらに形のいい胸もとへと伝わらせたのである。兵士たちの視線が、シャツの布地につつまれた胸に集中した。欲情のうずきが彼らの表情にひろがった。
「御礼をするわ。何がいいかしら」
アリアーナが濡《ぬ》れた唇を動かしていうと、男たちの理性は一秒で蒸発してしまった。
「おい、どうする。こんな機会はめったにないぞ」
「しかしだな、うかつに手を出してみろ、陸軍大臣閣下に何をされるか」
「だ、だけどよ、あの女のほうだって大臣に言いつけることなんてできっこないぜ。むこうから誘ってるんだしよ」
兵士たちは顔を見あわせ、うなずきあった。あの黒い猛獣は檻のなかだし、女は縛られている。しかもアリアーナほど艶麗《えんれい》な美女を「ものにする」機会が今後あろうとも思えない。
欲情が完勝《かんしょう》した。兵士のひとりがアリアーナの足もとにひざまずいて、足首を縛った縄を解きはじめる。
解きおわった瞬間に、兵士の眼前で天国の門が閉まった。かわりに開いたのは地獄の扉である。両足が自由になると、アリアーナは小さく溜息《ためいき》をつき、あでやかな微笑をたたえて兵士を見やった。立ちあがった兵士がだらしない笑顔で応じた瞬間、女の足がはねあがって兵士の股間《こ かん》にたたきこまれた。
兵士は苦痛の声すら発しえず、床に横転し、身をもんで苦悶《く もん》した。女性が出産するときの苦痛を、男性が理解しえないように、男性が股間を強烈に打撲《だ ぼく》されたときの苦痛も、女性には理解できないであろう。しかも出産には生命誕生の神聖さがともなうが、股間の痛みにそんなものはない。滑稽《こっけい》なだけである。
苦悶する同僚を横目で見ながら、いまひとりの兵士が腰の軍用拳銃を引き抜こうとした。半ば引き抜いたとき、腹から腰にかけて強い衝撃を感じた。椅子ごとアリアーナが体あたりしてきたのだ。椅子と女と男は、もつれあって床に横転した。罵声《ば せい》をあげた兵士が、椅子ごとアリアーナを押しのけようとしたが、アリアーナはやはり椅子ごと身体を半回転させ、兵士の片手を椅子の下敷きにした。
苦痛の呻《うめ》きを洩《も》らしながら、兵士はもう一方の手でなお拳銃を引き抜こうとする。さらにアリアーナは身体を半回転させ、思いきりブーツでその手を踏みつけた。手指の骨が折れる音がして、兵士は絶叫を放った。その口もとに容赦ない蹴りがたたきこまれる。兵士は赤く染まった口から折れた歯を吐き出し、後頭部から床に落ちて気絶した。
扉の外にいた三人の兵士が、ごく微《かす》かな物音に気づいた。扉をたたいて同僚の名を呼び、返答がないので異変を察した。拳銃を片手に鍵《かぎ》をあける。室内へ躍りこんだ瞬間に、扉の蔭《かげ》にひそんでいた女が脚を突き出した。ひとりがもんどりうって倒れる。残るふたりは、一瞬の感覚的混乱のうちに、女に先を制されてしまった。たてつづけに二発の銃声がとどろき、兵士の手から拳銃が飛ぶ。倒れた兵士の拳銃はアリアーナのブーツに踏みつけられてしまった。つい先刻までアリアーナの手首はかたくいましめられており、むりに紐《ひも》を解いたため、手首の白い皮膚がすりむけ、血がにじんでいる。射撃の反動で手首が痛むはずだが、アリアーナは兵士たちにつけこまれる隙《すき》を見せなかった。
「檻《おり》の鍵を出しなさい」
女の発した命令には、有無《うむ》をいわせぬ迫力があった。それでも兵士たちは命令にしたがうことができなかった。彼らは鍵を持っていなかったのである。それは屋敷の主人である陸軍大臣ノルベルト侯爵の手中にあるはずであった。兵士たちが両手をあげたままそう答えると、アリアーナは陸軍大臣の所在《しょざい》を問いかけた。兵士たちが銃口に威圧され、答えようとしたとき、遠く自動車の停車音が聞こえた。
3
すくなくともアップフェルラントにおいて、これほど不快な夜を体験した人物は、陸軍大臣ノルベルト侯爵その人以外にないであろう。王宮で野心の芽《め》を摘《つ》まれた陸軍大臣は、自動車に乗って帰宅するまで憤慨を持ちこしてきたが、それが凍結したのは、副官をしたがえて玄関ホールに踏みこんだときである。厚い扉に守られた彼の小さな領土は、すでに敵対者に占拠《せんきょ》されていたのだ。
扉をあけたとき、彼の正面には銃口があった。鋭い怒りと復讐《ふくしゅう》心に燃えたつ女の瞳《ひとみ》が、陸軍大臣のそれを射ぬいた。
「閣下、いろいろとお世話になりました。とても感謝の心情《き も ち》を言葉にはあらわせません。ですから御礼は申しあげないことにいたしますわ」
銃弾よりも早く、銃口から敵意がほとばしって、陸軍大臣の動きを封じた。陸軍大臣は急速に乾《ひ》あがった唇を舌先で湿《しめ》した。
「私を撃つか? 撃ったところでむだだ。何にもならんぞ」
「むだかもしれませんわね、たしかに。でも、わたしの安っぽい感情は満足しますわ。それだけでも充分に意味があるように、わたしには思えます」
アリアーナの両眼に銃火《じゅうか》さながらの光を認めて、陸軍大臣はあえいだ。
「待て、話しあおう。話しあう余地があるはずだ。おたがいに無益な殺人が目的ではあるまい」
「では、話しあいの前提として、わたしから奪《と》りあげた例の印章を返していただきましょうか」
陸軍大臣の片眼鏡《モ ノ ク ル》が白く光った。
「当然の要求だな。だが、あれはいま私の手もとにはないのだ」
「では誰の手中にありますの?」
「あの小娘だ。あの小娘が、けしからんやりくちで私から奪いおったのだ!」
陸軍大臣の表情に屈辱の翳《かげ》りが落ちかかる。それを鋭く看《み》てとったアリアーナは、冷笑を禁じえなかった。
「けっこうな話ですこと。わたしがさんざん苦労して手に入れた印章を、結局とりもどされてしまったとおっしゃるのですね」
「…………」
「かさねがさね、閣下には失望を禁じえませんわ。せっかく全ヨーロッパに覇《は》を唱《とな》える機会を与えられながら、ドイツ皇帝に自分の祖国を売り渡そうとし、あげくに印章を奪回されるなんて。でも、それはともかく、アッチラを閉じこめた檻の鍵を渡していただきましょう」
銃口を陸軍大臣の胸に擬《ぎ》したまま、アリアーナはもう一方の手を差し出した。
不意に陸軍大臣は叫び声を放った。それは恐怖の叫びではなかった。形勢を逆転させるための声、攻撃を指示する声であった。空気が帯電《たいでん》した。白い項《うなじ》に、慄然《りつぜん》たる感触をおぼえて、アリアーナは振り向き、同時に飛びのいた。憤怒《ふんぬ 》に狂った兵士の顔と、落下する軍刀《ぐんとう》の白い光が視界をおおった。
軍刀は重い音をたてて桜材《さくらざい》の床にたたきこまれ、木片《もくへん》が飛散した。アリアーナが柔軟な身ごなしで躱《かわ》さなければ、彼女の頸部《けいぶ 》は両断されていたにちがいない。アリアーナは致命的な斬撃《ざんげき》を回避したものの、明らかに、この日の昼までの彼女ではなかった。間髪《かんはつ》いれぬ反撃を加えることができず、よろめいて壁に寄りかかってしまう。
軍刀をふたたび振りかざした兵士は、股間に痛撃《つうげき》を加えられた男だった。すさまじい憎悪と復讐心に煮えたぎりながら、アリアーナめがけてさらに軍刀をかざしたとき、轟然《ごうぜん》と火箭《か せん》が走って、兵士の右肩を撃ちぬいた。軍刀を放り出して、兵士はもんどりうった。アリアーナは二者択一《に しゃたくいつ》せざるをえなかった。あくまでも踏みとどまってアッチラを救出するか、自分ひとりこの場を逃《のが》れるか。考えこんでいる余裕はなかった。彼女は一方の途《みち》に飛びこんだ。
「アッチラ、かならず助けに来るからね。待っていなさい。わたしが裏切ったと思わないで」
その選択は、彼女が自分の戦闘力に自信を失っていたことを証明するものであった。アリアーナは長椅子《ながい す 》から大きなクッションを取りあげると、それをかかえたまま、テラスに向けて開いたフランス窓に体あたりした。ガラスが音響と破片を撒き散らしながら割れ、アリアーナはクッションの上で一転してはね起きた。クッションをテラスの上に残し、塀《へい》へ向かって夜の庭園を駆け出す。彼女の背に複数の銃口が向けられたが、狙点《そ てん》を正確にさだめる間もなく、女の後姿は夜に溶けこみ、兵士たちは狙撃の微妙な時機を失してしまった。
それでもアリアーナがとくに有利な状況に立ったわけではなかった。彼女の肺と心臓は酷使《こくし 》に対して激しい抗議の悲鳴をあげつづけており、全身は熱っぽいと同時に冷汗にまみれていた。彼女はまず自分自身を救おうとしたのだが、いまやそれも成功がおぼつかなかった。
高い石塀に手をかけ、事実よりはるかに重く感じられる身体を引きあげようとしたとき、両のブーツにあらたな圧力が加わってきた。屈強な兵士が彼女に追いつき、左右の足をかかえこんでいた。引きずりおろされる! 恐怖に似た思いが胸郭《きょうかく》を斜めによぎったとき、鈍い音がたてつづけにして、呻《うめ》き声とともにアリアーナの両足は自由になった。塀を乗りこえるのに成功して、アリアーナは、何者かが投石で彼女を救ったことを知った。二〇歩ほどの距離をへだてて、塀の上から飛びおりる人影を彼女は認識したが、暗いために何者かはわからなかった。かまう余裕もなく、彼女は走り出した。
4
三分ほど走って、アリアーナは呼吸と鼓動《こ どう》の激化に耐えかね、この街の名物であるリンゴの街路樹に寄りかかってひと息ついた。頸《くび》すじに手を触れると、冷たい汗がぬるりと掌《てのひら》を濡らす。このまま地に倒れこんで、底なし沼のように深い眠りをむさぼりたかった。だが、靴音の接近につづいて、他人の不運を嘲弄《ちょうろう》するような声が、彼女の意識をつついた。
「やあ、アリアーナ女史、いささか健康に問題がありそうだな」
「デンマン……」
アリアーナは唖然《あ ぜん》として、一瞬、疲労を忘れたほどであった。
「あなた、どうやって逃げ出したの?」
「おれは君とはちがう。公使館のおかげで、天下晴れて自由の身さ。大国の市民であるありがたさだ」
「けっこうなことね。自慢しに来たの?」
「とんでもない。君を助けに来たのさ。これでも騎士道の心得《こころえ》があるつもりだ」
デンマンは余裕たっぷりに両手をひろげ、うやうやしい嘲《あざけ》りをこめて一礼した。
「ホテルをとったんだが、ダブルベッドの部屋しかあいてなくてね。君の美しい肢体《し たい》で、広すぎるベッドの半分をふさいでもらおうと思っているのさ。どうだい、しゃれた考えだろう。二〇世紀風というやつさ」
「……下衆《げす》!」
この一語が、ヨーク・デンマンのカールした口髭《くちひげ》に命中して、それは陰性の怒りに激しくひくついた。
「ふん、何を高尚《こうしょう》ぶっているんだ。貴族のご令嬢じゃあるまいし。お前みたいな女がいまさら男を知らない処女みたいな台詞《せ り ふ》を吐くとはお笑いだぜ」
アリアーナの誇りを傷つけるための痛烈《つうれつ》な一言であったが、彼女は表情を殺してその攻撃を受け流した。彼女は絶対に男に弱みを見せたくなかった。一〇年以上、男に頼らずに生きてきたのだった。ましてヨーク・デンマンのような男を愛情の対象とするなど、とうていありえないことだった。現に、こうやって相手の弱みや衰えに乗《じょう》じるような行為をしめす男ではないか。
「あんたと寝るくらいなら、修道院で辛気《しんき 》くさい一生を送ったほうが、ずっとましよ」
「かさねがさね、いってくれるじゃないか。だが、明日の朝までその態度がつづけられるかな」
デンマンは詰めよろうとした。アリアーナに、抵抗する体力がないことはわかりきっていた。たがいの力関係を決定するため、デンマンとしても真剣に行動している。
アリアーナを屈伏させ、手下として、また情婦として遇《ぐう》することができるか否《いな》か、この瞬間にかかっていた。
声をあげてデンマンが不意に跳びのいた。足もとの石畳《いしだたみ》に、煉瓦《れんが 》の欠片《か け ら》らしい堅いものがはねたのだ。いささか大げさに身がまえたデンマンが、ガス灯の下にあらわれた人影を見て、敵意の唸り声をあげた。彼にとって天敵というべき男、アルフレット・フライシャー警部であったのだ。
「き、きさま、こんなところに何しに来た」
「美人と口髭男が争っていたら、美人の味方をするのが、ギリシア神話の時代から男のありようってものでな。伝統を守っただけのことさ」
陸軍大臣が荒々しく退出した後、警部も王宮を辞したが、自宅には帰らず、陸軍大臣の屋敷《や しき》を監視していたのである。デンマンはようやく態勢をととのえた。
「忘れっぽい警部だな。おれはアメリカ公使館の口ききで自由の身になったんだぞ。おれに手は出せないんだ。思い出したか」
「過去の犯罪容疑についてはな。だが、婦女暴行未遂の現行犯について、あらかじめ免罪《めんざい》したつもりはない」
フライシャー警部は声を低め、それがデンマンの耳には危険信号とひびいた。
「それとも、アメリカ公使館がどこまで同国人の不祥事《ふしょうじ 》に対して寛大でいられるか、試《ため》してみるか。何度くりかえしたって、おれはかまわんぜ」
デンマンは警部をにらみつけていたが、激しい舌打ちの音をたてた。この場で結着をつけることを断念したのである。踵《きびす》を返し、速い歩調で歩き去った。あわく青い影を落とす街灯の下に、アリアーナとフライシャー警部が残された。
アリアーナが皮肉とも好意ともつかぬ視線を救いの騎士に向けた。
「目の高いヨハン爺《じい》さんはお元気かしら」
「元気がよすぎるくらいだね」
「陸軍大臣の屋敷で石を投げて兵士を倒してくれたのもあなたなの?」
「投げたら命中してしまっただけだがね」
「なかなか多芸多才なのね」
「芸とはいえない。金銭《かね》にはならないからな」
やや残念そうに警部が答えると、アリアーナは額に落ちかかる髪を指ですきあげた。
「過去のことには御礼をいうわ。だけど、それがこれからのことを規定するとは思わないでいただきましょう」
「つれないことをおっしゃる」
「未成年者|誘拐《ゆうかい》の容疑で逮捕なさる?」
「朝から晩まで逮捕状を持ち歩いているわけでもないのでね。またの機会にしよう」
警部がいうと、アリアーナは瞳を光らせ、探索《たんさく》の視線を投げあげた。彼女は女性としては長身であったが、むろんフライシャーにおよぶはずもない。
「わたしが何を手に入れたいと思っているか、もうご存じね」
「まあね。もっともおれは信じてはいない。というより信じたくない気分だな」
警部の発言は冷笑に近い表情で報《むく》われた。
「事実よ。信じたがいいわね。それがあれば、アップフェルラントは全ヨーロッパを制覇できるわ。オランダの三分の一にもならない小国が、列強を支配できるのよ。すばらしいと思わない?」
「支配すれば憎まれるだけだと思うね」
気のなさそうな警部の反応だった。
「アップフェルラントに強国とか大国とかいう表現は似あわんよ。せいぜいつつましく、他国に迷惑をかけずに生きていければそれでいいさ」
「アップフェルラントは独立しているから、そんな綺麗事《き れいごと》がいえるのよ。いったん独立を失ったら小国や少数民族がどんな目にあうか、歴史をかえりみればわかることでしょう。昔の、あなたたちの隣国を見てみたらどう? 北にはポーランドという独立国があったのよ」
「君はポーランド人か」
「どうしてそう思うの」
「ポーランドには美人が多いからな」
女は笑ったが、感銘《かんめい》を受けたようには見えなかった。
「あなたがもてない理由がわかったわ。お世辞《せじ》が拙劣《へた》だからよ。いまどき子供でも、もうすこし気のきいたことをいうわ」
女は黙り、間をおいて低く憂愁をおびた声で歌い出した。
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我ら生きてあるかぎり
ポローニアは滅びず
剣にて奪われしもの
剣にて取りもどさん
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ポーランド独立義勇軍の歌であった。ポーランド人は自分たちの国をポローニアと呼ぶのである。この歌がつまり女の返事であったが、その心境はフライシャーにはにわかに忖度《そんたく》できなかった。おそらくアリアーナ自身にしてもそうであろう。
石畳を、馬車の車輪音が近づいてきた。フライシャーは進み出て片手をあげた。酔客《すいきゃく》だろうと思っていやがる馭者《ぎょしゃ》との間に、二、三のやりとりがあった後に、フライシャーは手を貸してアリアーナの身体を馬車に乗せてやった。座席に身を沈めると、アリアーナはかろうじて低い声を出した。
「リューベッヒ街の一九番地一四号につれていって」
「そこがアジトか」
「行けばわかるわ」
アリアーナは目を閉じた。体力も気力も限界をとうに超えていたのであろう。身体が平衡《へいこう》を失い、フライシャー警部に倒れかかった。引きしまっているくせに柔らかな感触を楽しむ間もなく、ささえた警部の掌《てのひら》に高熱が伝わってきた。
「リューべッヒ街一九番地だ。急いでくれ!」
警部は馭者《ぎょしゃ》にどなり、片手でアリアーナの身体をささえながら片手を動かして上衣《うわぎ 》をぬぎ、それをかけてやった。女の唇が微《かす》かに動いたが、声は警部の耳に届かなかった。アリアーナは、「なさけないわ、警察の男に救われるなんて」とつぶやいたのである。
広くもない街である。七分ほど走ると、馬車は目的地に着いた。料金を支払い、アリアーナの身体を抱きあげて馬車をおりる。番地を確かめて、女を抱いたまま激しく扉を蹴りつけると反応があった。「こんな夜中に何の用かね」と太い声を出しながらあらわれた男を見て、警部はおどろいた。
「ワレフスキー!」
「フライシャー警部、何でまた……」
警部以上にうろたえたポーランド人の視線がわずかに動いて、警部の腕に抱かれた女の白い顔に落ちた。うめき声が、屋台をひく男の口から洩れた。
「アリアーナお嬢さま……」
こうしてフライシャー警部は、昨日以来シャルロッテンブルクの街を騒がせつづけている女賊《じょぞく》の名を知ることができたのである。
ワレフスキーが妻を呼びつけ、フライシャーはアリアーナの身体を寝室に運んで、古ぼけてはいるが清潔なシーツの上に寝かせた。看護はワレフスキー夫人にゆだねて、警部は玄関の小さなホールに出た。事情を語るべきか、逆に問うべきか、迷っているらしいワレフスキーに対して、警部は機先を制した。
「事情は聴《き》かずにおく。今夜のところはな。あんまり色々なことがありすぎて、貧弱な脳細胞が破裂しちまいそうだ」
フライシャー警部は軽く片手を振った。すべてが冗談というわけでもなかった。
「ただ、デンマンとかいうアメリカ人が、彼女を狙《ねら》っているようだし、身辺《しんぺん》に気をつけてやってくれ。事情を聴くにしても彼女が完全に回復してからのことだ」
むっつりとワレフスキーはうなずいた。屋台で客に対しているときの愛想よさとは別人のようであった。
「やれやれ、今夜もせつないベッドが広い、というやつだな。まあ、万事は洞窟《どうくつ》探検をすませてからのことだ」
美女を救ったことに満足して、フライシャー警部は家路《いえじ 》をたどりかけたが、あることに気づいた。あわてて引き返し、ワレフスキーの家の戸口をたたく。まことに散文的な事実であったが、アリアーナにかけてやった上衣のポケットに、フライシャー警部は財布を入れたままだったのであった。
5
五月三日。カイゼルは皇宮の朝食の間で、愉《たの》しからざる報告を受けた。アップフェルラント王国の陸軍大臣ノルベルト侯爵から秘密の国際電報がとどけられたのだが、それが要するに泣言《なきごと》で、自分の立場がいちじるしく悪化したこと、この窮状《きゅうじょう》を脱するためにドイツ帝国の力を借りたいこと、それらが書きつらねてあった。カイゼルが電文をポケットにねじこみ、無言でコーヒーをすすっていると、側近の某将軍が、冷静すぎる目つきで皇帝を観察しながら問いかけた。
「実力を行使なさいますか、陛下」
「待て、そうあわてるな」
やや不機嫌に、カイゼルは部下を制した。ご自慢の口髭《くちひげ》をひねりながら考えこむ。彼はノルベルト侯爵が不手際《ふ て ぎわ》を犯したこと、それを隠そうとしていることに腹を立てていたが、いまさら手を引くわけにもいかなかった。
「火遊びの好きなカイゼル」
そうカロリーナ女王は隣国の皇帝を評した。この評価には、なかなか微妙なものが含《ふく》まれている。「火遊びが好き」と評してはいるが、「火事が好き」とはいっていないのだ。実際カイゼルは、多くの人に信じられているように、戦争が好きなわけではなかった。彼は軍隊を好み、兵士を好み、兵器を好み、閲兵《えっぺい》を好んだが、真物《ほんもの》の戦争を好んだわけではなかったのである。
といって、むろんそれが免罪符《めんざいふ 》になるはずもなかった。そもそも大国の君主であるからには、まず火遊びをつつしむべきであったろう。とはいえ、カイゼルの主観からいえば、彼の言動にも計画にも充分な理由があったのである。彼の考えでは、ドイツ帝国は兇悪《きょうあく》な敵に包囲されており、主君として祖国を守護しぬかなくてはならないのであった。
ドイツ帝国の面積はアップフェルラントの四〇倍以上、人口は五〇倍をこす。軍隊に至っては一〇〇倍にも達するであろう。それだけの力を有しながら、カイゼルはびくびくしていた。びくびくしていたのは彼の妄想力が過剰《かじょう》だったからであり、自国が近隣諸国をびくびくさせていることに気づかないのは、想像力が貧弱だからであった。
なおも考えこむカイゼルに、側近の将軍は声をかけて決断をうながした。沈着で冷徹なひびきがその声に感じられた。
「ドレスデンに駐留しております山岳師団は、朝に当地を発すれば、昼にはシャルロッテンブルクに到達できます。行動に、何らの問題もございません」
「純軍事的なことを、予は心配しておらんのだ。問題は外交だ」
不機嫌そうにカイゼルは答えた。ナプキンを食卓に置いて立ちあがり、食堂を出る。側近の将軍がそれにつづく。歩きながらカイゼルは話をつづけた。
「どうもこのところフランスやイギリスの動向が気になる。モロッコの件もあるし、わがドイツが手を出すのを待ち受けている節《ふし》があるのでな」
「ですが、ノルベルト侯爵が実力を行使したら、わがドイツとして見殺しにはできますまい」
「見殺し」という表現に、カイゼルはこだわった。
「見殺しというからには、ノルベルト侯爵が自力でアップフェルラントを制圧することができぬ、と、そういう見解《けんかい》を、卿《けい》はいだいておるわけか」
「軍の過半《か はん》は、カロリーナ女王に忠誠を誓うこと疑いありませぬ」
「ふん、あの食えない婆《ばあ》さんは、妙に国民に人気があるからな」
カイゼルご自慢の口髭が、強い鼻息を受けて揺れ動いた。朝食室からテラスに出て、五月の風と光を受けながら歩む。とくに急ぎの用があるわけではないが、せかせかと歩調が速い。
「すると、ノルベルト侯爵にこれ以上かかわるのはまずいか。彼の考えているクーデターもやめさせたがよいかな」
「いえ、それでもやはりノルベルト侯爵に決起《けっき 》させるべきでございましょう」
「勝算もないのにか」
勝てぬにせよ、一日か二日は保《も》ちこたえて、あの小国を混乱に陥れることはできましょう。さすれば、それが出兵の口実になります。ドイツはあくまでもアップフェルラントの平和を維持《いじ》するために兵を動かすもの。何もノルベルト侯爵個人の幸福を図《はか》ってのことではございません」
カイゼルは足をとめた。ほくそえむ形に口髭が揺れ動いた。
「なるほど、わが軍を動かし、アップフェルラントの内乱を鎮圧する。ドイツ軍は彼《か》の国にとって恩人となるというわけだ。さすれば、例のオーバーケルテンの廃鉱《はいこう》を譲り受けること、わが軍をシャルロッテンブルクに駐留させること、最低でもそれくらいは要求できるな」
ドイツ皇帝は振りむいた。
「いや、気に入ったぞ。卿はまったくドイツ帝国陸軍の智嚢《ち のう》というべき人物だな。卿に計画をまかせるとしよう」
「おそれいります、陛下」
一礼する将軍にうなずいてみせて、ふとカイゼルは興味をおぼえた表情になった。
「この際だ、卿に尋《き》いておきたいが、オーバーケルテンの廃鉱に隠されておるとやらいう秘密兵器の実在を、卿は信じるかな」
返答は冷静だった。
「まことに失礼かとは存じますが、陛下、本職《ほんしょく》はそのような強力な兵器の存在を夢想してはおりません。勝利の要諦《ようてい》は、戦術と訓練と補給であります。存在しえぬ超兵器などを頼って、現実の課題から逃避する、その弱さは否定されねばならぬと本職は考えるものであります」
「ふむ、なるほど」
鼻白《はなじろ》んだようすで、カイゼルは将軍の表情をさぐった。
「だが、それならなぜアップフェルラントの占領など計画するのだ」
「彼《か》の国が戦略上の要地であるからです、陛下。オーストリアやロシアに渡すことはできません。廃鉱など、ついでのことです」
「わかった。もうさがってよろしい」
カイゼルが手を振ると、将軍は無表情に敬礼し、軍靴《ぐんか 》を鳴らして歩み去った。カイゼルは口髭をひねってその後姿を見送った。
「頭は切れるが、どうもいけすかないところのある男だ。ま、ビスマルクの頑固爺《がんこじじい》とは較《くら》べものにならんが……」
つぶやいて、ふたたび彼はテラスを歩きはじめた。
これより一一年後、第一次大戦の後半期において、ドイツ帝国陸軍参謀次長エーリッヒ・フリードリヒ・ウィルヘルム・フォン・ルーデンドルフ将軍は、皇帝《カイゼル》ウィルヘルム二世から権力を奪い、「軍部独裁」の名のもとに独裁者としてドイツを支配する。好ましからざる未来が、時空を超えてカイゼルの耳に不吉な予兆《よちょう》の音色を吹きこんだかもしれない。だが、一九〇五年のこの時期、カイゼルこそが名実ともにドイツの支配者であった。彼は、一軍人の発言に踊らされて簡単に他国への出兵を決断してしまった自己の軽忽《けいこつ》さを自省《じ せい》すべきであったにちがいない。
カイゼルは自省こそしなかったが、多少の後ろめたさを禁じえずにいた。彼は「血に飢えた悪辣《あくらつ》な野心家」ではけっしてなかったので、良心の壁に小さな棘《とげ》がひっかかるのであった。
「まあ余分な血が流れることにはなるまいて。わがドイツ軍の偉容を見れば、アップフェルラントの玩具《おもちゃ》のような軍隊など、戦わずして両手をあげるに決まっとる」
カイゼルは声に出してそうつぶやき、自分を納得させようとした。それでもなかなか落ち着くことができず、彼は侍従武官を呼んで、ベルリン南郊のポツダムにほど近い森の狩猟小屋に出かける旨《むね》を告げた。彼が鹿《しか》や猪《いのしし》を狩っている間に、彼の愛する軍隊は、彼のために小さいながらも重要なあたらしい領土を手に入れてくれるはずであった。
ベルリンに較べれば何十分の一かの規模ながら、シャルロッテンブルクもりっばな独立国の首都であった。小さな王宮、小さな国会議事堂、そして小さな総理大臣官邸。女王の信任あつく、議会からも相応の敬意を受けている総理大臣クラウス・ボイスト氏は、官邸の二階の一室で起床し、洗面と散歩につづく朝食の後、すぐ執務室にはいる。他の閣僚や外交官や官僚に会い、さまざまな書類に署名し、必要なものは女王のもとにまわして国璽《こくじ 》を押してもらう。この日は午前一〇時から定例の閣議が開かれることになっており、大蔵、外務、法務、内務、文部、農商務《のうしょうむ》、公共事業の各大臣が会議室に顔をそろえた。ところが、もっとも有力でもっとも尊大な閣僚の姿が欠けているではないか。
「陸軍大臣はなぜ閣議に出てこないのかね。何か届け出があったのかな」
総理大臣に問われたのは、内閣書記官長のヘルヴィヒ氏である。彼は国政全般に関して総理大臣を補佐するとともに、閣議のときは書記役をつとめていた。恐縮しつつ、書記官長は、陸軍大臣から病気欠席の届け出がでている旨《むね》を報告した。
「ほう、病気かね」
「ということですが、病名がはっきりしません」
「なに、私も子供のころ、その病気にときどきかかったものさ。仮病《けびょう》という病気でね。発病は月曜の朝が多かったな」
総理大臣は、まじめで実直な為人《ひととなり》だが、さほどユーモアの感覚に富んだ人とは思われていなかった。ゆえに、書記官長は半分だけ顔の筋肉を動かして、笑いに似た表情をつくるのが精いっぱいであった。
総理大臣からその件について報告を受けたカロリーナ女王は、編物棒《あみものぼう》を動かしながら小さく声をたてて笑った。
「仮病ねえ。陸軍大臣もちょっとやりかたが拙劣《せつれつ》ですね。それにしても、その病気[#「病気」に傍点]が長期にわたったらどうしますか?」
「陸軍大臣ぬきで内閣を運営するまでのことと考えております。仮に病気[#「病気」に傍点]が長期にわたるのであれば、陸軍大臣には辞任するなり代理を立てるなりしてもらわねばなりません。それが閣僚の責任というものでございます」
ボイストの意見は正論であったが、国内における陸軍大臣の勢力を考えると、そう正面からの攻撃もしかねる。陸軍大臣を処分して、ドイツからの圧力が増大することもありえるのだ。女王にとっては、慎重と果断とのかねあいを必要とする難事であった。
五月五日まで、表面的には何事も生じず、シャルロッテンブルクは平和な朝を迎えた。おそらく偽りの平和であろうけど。この早朝、合計一二名の探検隊が準備と編成を完了し、オーバーケルテンの廃鉱へと旅だった。王宮で、女王は彼らに激励の「|3F《ドライエフ》」を贈った。
「元気《フリッシュ》、自由《フライ》、快活《フレーリヒ》!」
これが探検隊の標語で、つまり「三つのF」というわけだった。女王に対して敬意のこもった礼をほどこすと、一行は王宮の通用門を出て、まず中央駅へと向かったのである。
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第六章 地下の危険と地上の危機
1
西暦一九〇五年五月五日、アップフェルラント王国はほぼ全域にわたって天候が安定し、快晴の空をいただいている。その空の下を、東から西北へ、首都シャルロッテンブルクからアイゼンヘルツの町へ、一両の急行列車が走っていた。驀進《ばくしん》する、といいたいところだが、時速は四〇キロに達しない。煙突から噴き出す煙は威勢がよいが、それがそのまま機関の出力に直結しないのである。パイプから煙をふかしながら、のんびり歩いているといった印象である。ときおり、文字どおり驀進する国際列車に線路をゆずって待ちあわせをするので、さらに時間がかかることになる。
四月までのヴェルであったら、この列車から国際列車に飛び移る衝動に駆られたにちがいない。だが、現在のヴェルは、むろん心境を異《こと》にしている。何といっても、この列車にはフリーダが乗っており、しかも彼女の隣の座席にはヴェル自身がすわっているのだから、これ以上の嬉しさがあるはずはなかった。
フリーダは洞窟《どうくつ》内を歩きやすい服装をしている。つまり男性登山家と同じ上衣《うわぎ 》とズボンと靴で、頭髪もまとめて登山帽に押しこんでいるので、顔だちが繊細で色白なことを除けば、男の子と異ならない外見になっていた。
列車の旅に、フリーダはあまり快適な想い出がないはずである。ヴェルは何かと気を使わずにいられなかった。窓ぎわにフリーダをすわらせ、窓をあけてやり、さらには、座席が堅いなら自分の上衣を敷いてやるつもりだった。
「大丈夫よ、ヴェル、風が当たっているから気持がいいわ。それに、逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せるもの」
ヴェルの厚意《こうい 》に感謝しながら、フリーダは両足を勢いよく動かしてみせた。
「そ、そうだよな。いつでも逃げ出せる」
ヴェルは大きくうなずいたが、このとき別種の不安が胸に兆《きざ》した。フリーダがこの列車から逃げ出すとしたら、悪漢《あっかん》どもが乗りこんでいて、襲撃してきたときではないか。
長距離を走る列車ではないから|個 室《コンパートメント》もなく、通路の両側に、向かいあわせ式の四人用座席が並んでいる。ヴェルは適当な口実をつくって席を離れ、列車内を探りに出かけた。三両先の車両で彼はあわてて引き返し、自分たちの車両の扉口《と ぐち》に立ってフライシャー警部を手でさしまねいた。不審そうに歩み寄ってきた警部にささやきかける。
「警部、あのアメリカ人が列車に乗ってた。あのデンマンという奴だよ!」
「たしかか?」
「たしかに見たよ」
「とすると、骨惜《ほねお 》しみするという欠点は、奴にはないようだな」
ヨーク・デンマンが探検隊一行と同じ列車に乗っている。不愉快なことだが、充分にありうべき、それは事実であった。ヴェルの案内で、その事実を密《ひそ》かに確認に行き、少年の観察眼に敬意を表して警部がもどってくると、今度はツェーレンドルフ大佐がささやいた。
「フライシャー准尉、気づいたかね」
「デンマンというアメリカ人のことですか」
ちっちっと舌を鳴らして、老大佐は立てた指を振ってみせた。
「陸軍大臣の副官のことじゃよ。軍服を着てはおらんが、たしかにこの列車に乗っておった。わしの視線に気づいて、新聞で顔を隠しおったがな」
「……たしかですか」
「君はわしの眼力を疑うのかね」
疑ってはいなかった。だからこそフライシャー警部としては、内心で舌打ちしたくなるのである。廃鉱で予想される危険は、自然よりむしろ人為《じんい 》のものだ、と警部は思うのだが、デンマンと陸軍大臣一派とがそろえば、考えうるだけの危険が舞台にあらわれたようなものだ。いっそ始末がいい、といってもいられない。
「往路《おうろ 》では手を出して来ないでしょう。我々はまだ例のものを手に入れてないのですから。何かあるとすれば復路《ふくろ 》ですよ」
「君の意見には賛成じゃが、どうせ敵対行為に出てくることは、わかりきっておるんじゃ。何か口実《こうじつ》をつくって拘引《こういん》することができんものかな。たとえば武器の不法所持とか」
「陸軍大臣の副官が武器を持っているからといって、逮捕するわけにはいきませんよ」
もともと警察の捜査権は軍隊内部にはおよばない。だからこそ憲兵隊というものが存在するのである。ツェーレンドルフはまさにその憲兵なのだが、だとしても、逮捕権を濫用《らんよう》するわけにはいかないのだった。
陸軍大臣の一派が何か、たとえばクーデターを画策《かくさく》しているとしても、陸軍の大半がカロリーナ女王に叛旗《はんき 》をひるがえすことはないであろう。ただ、陸軍大臣の背後にはドイツがひかえている。世界一、火遊びの好きな口髭《くちひげ》の男がひかえているのだ。
「カイゼルは興奮したら何をしでかすかわからん男じゃからな。悪人より始末が悪いわい。悪人は利益を計算してからしか動かんから、かえって対処しやすいというもんじゃ」
女王をしのぐ辛辣《しんらつ》さで、ツェーレンドルフ大佐は隣国の皇帝をこきおろした。その意見にうなずきつつ、警部は、あわただしく脳細胞を活動させた。
ひとつの要点は、デンマンの一派と陸軍大臣の一派とが、どのていど深刻な対立抗争関係にあるか、ということだ。彼らの利害が最終的に一致するはずはないから、戦術的対応の如何《い か ん》によっては彼らを噛みあわせることができるかもしれない。
あのアリアーナという女は、乗車しているのだろうか。その点も、警部としては気にかかる。単なる風邪ならもう全快しているだろうが、肺炎でも惹《ひ》き起こしていたとしたら、まだワレフスキーの家で病床にあるだろう。それにしても、屋台を引いて善男善女《ぜんなんぜんにょ》相手にソーセージを焼いていたワレフスキーが、アリアーナの知人だとは、想像もできなかった。まあ、想像もできない事実が存在するからこそ、人の世はおもしろい。
車両の扉口にたたずむ警部の側に、ふたたび座席を離れたヴェルが歩み寄ってきた。
「警部、あのデンマンという悪漢のことは、フリーダには黙っていてくれよ。心配させたらかわいそうだから」
「そうだな。しかし、女に惚れると男もいろいろたいへんだな」
「そこがいいんだよ。警部も早いところいい恋人を見つけなよ」
からかうつもりが、からかわれてしまった。フリーダのいる座席へもどるヴェルの後姿を眺めやって、警部は苦笑した。苦笑する以外、この場合どうしようもなかった。
2
アイゼンヘルツの駅に到着したのは午前一〇時八分。何らの妨害も事故もなしに八分遅れたのは、いかにもアップフェルラントの地方鉄道らしいことであった。ことさら不平を鳴らす者もおらず、一行は、ホームもない田舎《い な か》駅に降り立ち、多量の荷物をおろしてから、周囲の風光《ふうこう》にあらためて目をくばった。このときヴェルはデンマンたちの姿を探し求めたが、彼はすばやく姿を消しており、見つけることができなかった。
「アップフェルラントのスイス」という通俗的な呼称もうなずける。実物のアルプスに比べて、山の高さは遠くおよばないが、その峻険《しゅんけん》さと谷の深さは、さほど劣るものではないといわれていた。針葉樹の森は濃い影を落とし、空の青と地の緑が、それぞれの濃度を競いあっているかのようだった。山国といわれるアップフェルラントのなかでも、もっとも山国らしい土地なのだ。
街そのものが、シャルロッテンブルクより標高で五〇〇メートルほど高く、それにともなって気温も低いが、寒いというほどではなかった。陽光は惜しみなく大地と草木と人間に降りそそぎ、影の輪郭はくっきりと地面に刻みこまれる。
フリーダはもちろんのこと、ヴェルにとってもはじめての土地であった。これまでヴェルの世界は、シャルロッテンブルクと、せいぜいヴェーゼル湖周辺だけであった。中央駅近くの陸橋上から、たぶんオーバーケルテンの山地も眺望《ちょうぼう》していたにちがいないが、ヴェルの目が見ていたのは自分の未来であり、想像上のパリであったから、このような山地には興味がなかったのだ。だが、駅前の小さな広場には、ヤグルマギク、スイセン、チューリップ、パンジーなどの花々が多彩に咲き乱れ、その香気が風に乗ってただよってくると、一度ぐらい訪れていてもよかったな、という気になる。
そして一行は、この町に住むヘルムート・フォン・レーンホルム博士の出迎えを受けた。
レーンホルム博士は、名誉ある王立学士院会員のようには見えなかった。素朴な山男のようにも見えず、ロンドンの暗黒街に跳梁《ちょうりょう》する盗賊団の首魁《しゅかい》のようにも見えなかった。ヴェルたちが受けた第一印象は、「すごく意地の悪い銀行員」ないし「血も涙も涎《よだれ》もない税務署員」というところであった。中背で、痩《や》せて、黒い頭髪をポマードでかため、眼鏡《め が ね》をずりさげて陰気な目つきで相手を見やる。口は両端が下がるほどに愛想なく結ばれており、彼の姿を前にして、フリーダとヴェルは思わず顔を見あわせたほどであった。何とも、好きになれそうにない人だ、と思ったのだが、どうやらそれは先入観であったようだ。フリーダとヴェルを見ると、レーンホルム博士は破顔《は がん》した。たっぷり税金をとりたてることに成功した税務署員、という形容ができそうな笑顔であったが。
「ほう、ほう、君らが女王陛下の秘蔵《ひ ぞう》っ子か! いや、ふたりとも好ましい若人《わこうど》だな。やつがれ[#「やつがれ」に傍点]と女房との四〇年前を思い出すわい」
「お前さんは独身ではなかったのかね」
と、ツェーレンドルフ大佐がとがめた。
「いや、法律上の妻はおらんが、心の妻は幾人もおるのでね」
平然として博士は答え、フリーダとヴェルは顔を見あわせて笑いだしてしまった。
廃鉱へと向かう馬車のなかで、博士は、一枚の写真を見せてくれた。やたらと羽とプロペラの大きい複葉機《ふくようき 》の写真で、飛行機とは最初ヴェルはわからず、それと気づいたのはフリーダのほうだった。アメリカ人であるライト兄弟とまったく関係なく、レーンホルム博士が自力で発明したのだという。
「やつがれの才能の結晶じゃよ。ま、才能のすべてでなくて、ほんの一部分じゃがの」
レーンホルム博士は写真を服の内ポケットにしまいこみながら、フリーダに片目をつぶってみせた。「ほら吹きめ」と、聞こえよがしにツェーレンドルフ大佐がつぶやく。明らかに聞こえたはずだが、博士は意に介《かい》しない。
「まあ一〇年後を見とるがいい。やつがれは自分で造った飛行機に乗って、途中着陸なしにロンドンまで行ってみせるぞ」
「どこのロンドンですか」
そうフライシャー警部が尋《たず》ねてみせたのは、むろん皮肉だが、レーンホルム博士には通じなかったようだ。
「何ごともそうだが、立ちあがるまでが大変なのだ。いったん立ちあがったら全力疾走まで、さほど時間も技術も必要ではない」
大きく馬車が揺れて、山道を走っていることを乗客たちは思い出した。
「それで、現在のところは、どのあたりまで飛んで行けるんですか」
興味をこめてフリーダが尋ねた。
「まあシャルロッテンブルクまで行けるかどうかじゃな」
博士の声が、ややおとなしくなったようである。
「だが列車で二時間以上かかる距離を、三〇分たらずで飛んでみせるぞ。どうだ、ぼうず、お前さんはなかなか機敏で役に立ちそうだ。ひとつやつがれといっしょに、この果てしない大空を征服してみんか」
「考えておきます」
ヴェルは最大限の社交辞令を使った。空を飛ぶのはよいとして、墜《お》ちてはたまらない。大西洋の東側で最高の奇術師になるまでは死にたくなかった。
一時間をこす走行の後に、ついに岩塩鉱の入口に着いた。かつて管理事務所と一〇〇戸以上の労働者の住宅があったのだが、現在ここに住んでいるのは、わずかな人々にすぎず、ほとんど廃村《はいそん》と化し、半ば雑草に埋もれている。
レーンホルム博士につづいて、一行に対面したのは、案内人のヨーゼフ・クラフトだった。曾祖父《そうそ ふ 》以来、岩塩鉱で働いていたという。四〇代前半の、頑健《がんけん》で頼もしい印象を与える男だった。廃鉱について説明する声は、落ち着いていて、話しぶりも的確である。
「岩塩はまだ掘りつくされたわけではないのです。いや、今後一世紀や二世紀は、掘りつづけるだけの量があるでしょう。それが廃鉱になってしまったのは、ひとえに地下水のせいです」
クラフトの説明を聞きながら、かつての管理事務所の一室で昼食をとる。これはシャルロッテンブルクのレストランが作ってくれたりっぱな弁当《ラ ン チ》だった。それがすむと、最後の装備の点検がおこなわれる。
食糧は五日分を用意した。ハム、ソーセージ、塩味パン、チーズ各種、鮭《さけ》の燻製《くんせい》、ビスケット、乾《ほ》した李《すもも》と葡萄《ぶ ど う》、小麦粉、バター、それに水。
「水は水筒に詰めただけで充分です。鯨が泳げるほどの地下水がありますからね。餓死することはあっても、渇《かわ》き死《じに》することはありませんよ」
クラフトが保証した。いささか不穏な表現であるように思えたが。
ランタン、寝袋、防水布製の組立式ボート、蝋燭《ろうそく》、防水マッチ、磁石、医薬品各種、登山用ロープ、ピッケル、アルコールランプ、毛布、タオル、ブリキ製の食器。だいたいにおいて、登山用具と軍隊用具のなかにあるものである。それと、フリーダ、ヴェル、レーンホルム博士の三人を除く全員が拳銃と弾丸を携行《けいこう》していた。あのゴルツという大男に近い体格を持つハラーという軍曹は、小銃も持っている。それらの手入れをするおとなたちを見ていると、これは楽しい山歩きなどではないのだ、という実感が、ヴェルの胸中に湧《わ》きおこって、未来の大奇術師は緊張の慄《ふる》えを背筋《せ すじ》におぼえた。
坑道《こうどう》は高さ二・五メートル、幅三・三メートルのアーチ状を成している。ゆるやかな勾配《こうばい》をなして下降し、出入口から四キロほどの地点まで、現在も通行可能であった。つまり、そこから先は通行不可能となる。地下水が侵入して、水路になってしまっているのだ。といっても、クラフトは子供のころから幾度もボートなどを使って奥まではいりこんでいるのだが、水路の水量や流速が一定していないので、かなり危険なことはまちがいない。
「おそらく巨大な地下水系が、内陸ヨーロッパの地底にはあって、この廃鉱はその一部なのだろう。ザクセンかボヘミアあたりで豪雨があれば、一日か二日してここの水路が増水する、とまあ、そういう関係だろうさ」
それがレーンホルム博士の意見であった。
「では坑道にはいるとしようか。女王陛下がおっしゃった。つねに元気《フリッシュ》、自由《フライ》、快活《フレーリヒ》! これで恐れるものは何もないて」
ツェーレンドルフ大佐が宣言し、レーンホルム博士とクラフトを加えて一四名となった一同は、オーバーケルテンの廃鉱に第一歩をしるしたのである。五月五日午後一時のことであった。
そのころ、廃坑の外では「三つのF」と無関係な男が、やはり無関係な男に交渉を持ちかけていた。ヨーク・デンマンが陸軍大臣の副官に、である。
「すこし考えてみたらどうだ。奴らに手を出さずにおけば、新兵器のある場所へつれていってくれるのだぞ。いや、奴らが廃鉱から出て来たところを襲えば、吾々《われわれ》は苦労なしに新兵器を手に入れることができるじゃないか」
「吾々」という単語を聞いて、陸軍大臣の副官は不快そうに眉《まゆ》をひくつかせた。だが、感情だけで行動するほど正直な人物では、彼はなかった。彼と五人の部下は、陸軍大臣から至上《しじょう》命令を受けており、もはや目的のために手段を選んでいられる状況ではないことが明らかであった。この場で交渉を拒否すれば、デンマン一派七名を公然と敵にまわすことになる。そのような事態は避けねばならなかった。
「よかろう、手をにぎるとしよう」
これほど不信と我欲《が よく》をむき出しにした利己的な同盟関係もまたとなかったにちがいない。彼らはたがいに、この世でもっとも信用してはならない相手と同盟を結び、しかもそのことを自覚していた。どちらが先に裏切るか、その機会をえたほうが、たぶん生き残るであろうと思われるのであった。
3
先頭は案内人のクラフト。最後尾は大男のハラー軍曹。その間に、ヴェル、フリーダ、フライシャー警部、ツェーレンドルフ大佐、レーンホルム博士らをはさんで、一行一四名は坑道を進んでいく。最初の一時間ほどは何ごともなかった。坑道の各処に動物の足跡があり、そのひとつを指さしたフリーダに、鹿《しか》の足跡だ、とクラフトが教える。
「こんなところに鹿がはいりこむの?」
「兎《うさぎ》や、ときには猪《いのしし》もね。塩がなきゃ動物は生きていけない」
かならず動物が通行するとわかっているから、かつては密猟者が出没したらしい。塩場《しおば 》で動物たちが争うことはけっしてなく、肉食獣も草食獣も並んで塩をなめ、おとなしく帰っていく。塩場で血を流すのは人間だけだ。そう説明して、クラフトは苦笑まじりに、一行がたずさえた銃をながめやった。
「まあ、できれば吾々《われわれ》も、森の動物たちを見習いたいものですな」
そのとおりだ、とヴェルは思ったが、全面的な賛同は留保《りゅうほ》せねばならなかった。あのデンマンという男に代表されるような悪漢たちが襲ってきて、フリーダに危害を加えるようなことがあれば、ヴェルはとうてい黙ってはいられないだろう。女の子を誘拐して監禁し、鎖でつなぐような輩《やから》に対して、ヴェルは聖者のようにふるまうことはできなかった。
おとなたちに前後を挟《はさ》まれ、ヴェルとフリーダは坑道を進んでいった。それはランタンに照らされた細長い世界をどこまでも歩いていくような印象を受ける歩みだった。
「ね、ヴェル、あのレーンホルム博士って、おもしろい人だと思わない?」
「うん、そうだね」
おもしろいというだけですめばいいけど。内心そう思いつつ、ヴェルが同意すると、フリーダは熱心に話をつづけた。
「わたし、飛行機って好きよ。何者にも縛《しば》られずに大空を飛びまわるなんて、とてもすてきだと思うの。ねえ、ヴェル、わたし、将来は飛行士に、ええと、女飛行士になれればいいなと思ってるのよ」
「フリーダが女飛行士に?」
「なれないかしら。ヴェルはどう思う?」
フリーダに問われて、ヴェルが否定的な返事をできるはずがなかった。それに、たしかにフリーダは地面を歩くより空を飛ぶほうがふさわしい少女に思える。
「フリーダだったら、きっとなれるよ」
「ありがとう。わたしもヴェルみたいに夢を持って生きられたらいいなと思ったの。おたがいにがんばろうね」
「うん、がんばろう」
おとなから見れば他愛《た あい》ない会話だった。だが本人たちにとって、これほど貴重な会話はないはずで、おとなになってから後に、失った宝石にもまさる思いで想《おも》いおこすことになるのだろう。
二時間ほど歩くと、坑道の前方に空間が開けた。そこは岸だった。岩塩鉱を廃鉱に追いこんだ地下水の広大な溜《た》まりが、彼らの前にひろがっていたのだ。
「ここからはボートを使います。用意してください」
クラフトの指示で、探検隊員たちは荷物をおろし、ボートを組み立てにかかった。細い鉄の枠《わく》と防水布でつくられた八人乗りの軽舟《けいしゅう》が二|艘《そう》、三〇分たらずで完成する。荷物を積みこみ、一四名の隊員がそれに分乗した。一艘めに案内人のクラフト、ヴェル、フリーダ、フライシャー警部、ほか三名。もう一艘にツェーレンドルフ大佐、レーンホルム博士、ハラー軍曹ほか四名。オールは小型のもので人数分ある。すすんで探検に参加したからには、フリーダもヴェルも一人前の労働力としてオールを握《にぎ》らねばならなかったし、むろん当人たちは最初からそのつもりであった。
ランタンをかかげたクラフトの先導で、二艘のボートは水面を進んでいった。平穏な水路は、三〇分ほどでつきた。オールを漕ぐ手が軽くなり、楽になったと喜んだのも束《つか》の間《ま》、クラフトの声が鋭い緊張をはらんだ。
「流れが速いぞ……!」
気をつけろ、という一語は、発する必要もなかった。ボートの底から、咆哮《ほうこう》に似た音がひびきわたって、強烈な水流が二艘のボートをおそろしい速さで前進させはじめたのだ。前進はたちまち突進と変わり、急行列車の速度を超えた。ボートの左右に舞いあがった飛沫《ひ まつ》は、いつしか波に変わっている。ボート自体が水面を離れて躍りあがり、ふたたび着水する。ランタンの灯火が、暗黒のなかを高速で流れ、それに無数の水滴が反映して、夜空を斜行《しゅこう》する彗星《すいせい》のように遠くからは見えたかもしれない。
幻想的な光景を、ボート上の人々は観賞する余裕がなかった。たがいに気をつけるよう叫びあうのが精いっぱいで、ボートを制御する努力はとうに放棄せざるをえなかった。ボートがひときわ高く水面にはねたとき、フリーダの身体がよろめいた。その手首をつかんだヴェルが思いきりそれを引く。フリーダは倒れこんでフライシャー警部に抱きとめられた。だがその反動と、おりからの着水の衝撃で、ヴェル自身の身体はボートから暗い水面に投げ出されてしまった。「ヴェル!」というフリーダと警部の声につづいて、自分が水没する音をヴェルは聞いたように思う。
水面上にヴェルは浮かびあがって、激しく呼吸した。彼の肺細胞が完全に満足しないうちに、あたらしい波が襲いかかってきた。ヴェルはふたたび水中にもぐって、激しい水流のなかを、回転しながら運ばれていった。方向感寛が失われ、ヴェルはとにかく頭を打たないよう両腕でかばいながら、水流に揉《も》まれつづけた。不意に流速《りゅうそく》がゆるやかになり、腕に何か固体がゆるやかにぶつかった。ヴェルは水面に顔を出し、今度は完全に呼吸をととのえることができた。ゆっくりおろした足が水底に着いて、ヴェルは立った。周囲の闇《やみ》を見わたし、ふと思いついて大声で叫んだ。
「元気《フリッシュ》、自由《フ ラ イ》、快活《フレーリヒ》! 元気《フリッシュ》、自由《フ ラ イ》、快活《フレーリヒ》!」
ほとんど悲鳴のようだが、それが反響をかさねてついに消えかけると、別人の声が遠くから伝わってきた。
「元気《フリッシュ》、自由《フ ラ イ》、快活《フレーリヒ》! 元気《フリッシュ》、自由《フ ラ イ》、快活《フレーリヒ》!」
女王陛下の贈物は、地底世界で、思いもかけぬ合言葉《あいことば 》となって、探検隊一同を再合流させたのであった。
毛布で身体をくるんだヴェルが大きなくしゃみをすると、フリーダがブリキのカップを渡してくれた。アルコールランプで温めたお湯を手渡すと、今度は風邪薬《か ぜぐすり》の包みを開く。
「ヴェル、お湯をふくんで口をあけて」
いわれたとおりにすると、フリーダが粉薬をヴェルの口に流しこんでくれた。ヴェルはのみこんだ。味覚には苦《にが》さが、気分には甘さが残った。
おとなたちは平らな岩場にボートを引きあげ、荷物を再点検したり乾かしたりしていたが、ひとり何処《どこ》かへ出かけていたフライシャー警部が大きな岩の角から仲間を呼んだ。一同は駆けつけて岩の角から彼方を見やった。
「……ほほう、これは!」
歎声《たんせい》も当然のことだった。彼らの周囲には、地上ではけっして見ることのできない光景があったのだ。
真珠色にかがやく岩のホールだった。地上と地下を通じて、アップフェルラントの国内に、これほど巨大で豪華なホールはなかった。すべてが岩塩でできているのだ。ドイツのシュクッスフルトにあるという岩塩の大洞窟に匹敵するかもしれない。ランタンの光がおよばない場所も、仄《ほの》白く浮きあがって、塩の天井と壁と床とが、はるかに奥へつづくありさまを示している。塩資源としては無尽蔵《む じんぞう》といってよいであろう。
「白鯨《はくげい》の腹のなかにはいったようじゃな」
レーンホルム博士の表現は、とても美的とはいえなかったが、状況の一面をたしかに把握《は あく》していた。この豪奢《ごうしゃ》な塩の広間にはいったのはよいとして、出る方法が問題だった。往路《おうろ 》をそのまま帰ることは、ほぼ同水準の危険を犯すことになる。
「進むしかないな。第一、まだ目的をまったく達してないんじゃから」
ツェーレンドルフ大佐がいい、水筒に口をあてた。彼の水筒には水ではなく「気つけ薬用」と称するブランデーがはいっている。ツェーレンドルフ家秘蔵の品だが、最初のひと口は、水から這《は》いあがったばかりのヴェルに供《きょう》されたのである。
「それ以外にないでしょうな」
フライシャー警部もうなずく。食糧の一部や毛布などが水に流されてしまったが、三日分ほどの分量は残っているし、水と塩に関するかぎり、今後一〇〇万年ぐらいは不自由しないはずであった。
「動物の足跡を探してみて下さい。もし足跡があれば、彼らがどこからか出入りしていることになる。別の出入口があるはずです」
案内人のクラフトが指示し、一同は立ちあがってその指示にしたがった。こういう場合、指示を出してくれる人物が存在することはありがたい。いまひとつ心強い点は、多くの同行者がいることで、孤独な探検者であれば恐慌《きょうこう》に陥《おちい》ったかもしれなかった。
4
フライシャー警部が、岩塩の間隙《かんげき》部で湧出《ゆうしゅつ》する小さな泉を見つけた。そこへ手を入れてみた警部は、指先を引きあげてなめてみながら不審の声を洩《も》らした。
「あまり冷たくはないな。むしろ温かい、いや熱いくらいだ。これはどういうわけかな」
「温泉《へ イ ペ》というやつじゃよ」
天才科学者を自称するレーンホルム博士が知識を披露《ひ ろう》した。
「ボヘミアのカールスパートやドイツのバーデンバーデンにあるやつだ。地中の熱で水が温《あたた》められておるのさ。鉱物性か植物性《モール》かは、よく調査せんとわからんが、湧出《ゆうしゅつ》量によっては……」
言葉の半ばで、フリーダをかえりみる。
「フロイライン、お前さんはこの廃鉱に権利を持っとるそうだが、思案ひとつで億万長者になれるぞ。この岩塩洞《がんえんどう》と温泉があれば、カールスパートやバーデンバーデンに匹敵する観光保養地ができる。どうだね、ひとつやつがれに経営管理をゆだねてみんか」
「健全な少年少女をたぶらかすのはよさんか」
ツェーレンドルフ大佐が噛みついた。たちどころに博士が噛みつきかえす。
「何がたぶらかすだ。やつがれはフロイラインの将来を思って勧《すす》めとるだけだ」
「嘘《うそ》をつけ。フロイラインをたぶらかし、その利益を自分の研究資金に流用するつもりじゃろうが。この不良科学者め!」
「何だと、この古ぼけた石頭め! あんたのような生きた化石は、おとなしく地層に埋もれてればいいんだ。帰れ帰れ、石炭紀《せきたんき 》に!」
軍人と科学者の、おとなげない口論は、少年の叫び声で中断させられた。今度は人為《じんい 》による驚異が、はじめて探検隊を迎えたのである。白々とした岩塩の壁に、黒い文字が書きつらねられていたのだ。レーンホルム博士は老大佐との舌戦《ぜっせん》を放りだし、興奮の声をあげて壁に貼りついた。文字の列を凝視していたフリーダが、祖父の筆跡であることを証言すると、博士は天眼鏡《てんがんきょう》をとりだして文字のひとつひとつを観察した。
「これは何で書いたものかな。インクに似ているがちがうな。変色もしておらんようだし、はて……」
「墨《ツスチェ》というものです」
フリーダが説明した。
「何か植物の油脂《ゆし》から採《と》った東洋のインクで、二〇〇〇年も消えずに残るものだそうです。祖父がペテルスブルクにいた中国の商人から譲り受けたと聞きました」
「墨? そうか、その墨とやらを絵筆か何かで壁に書きつけたのだな。ふむ、これが女王さまのおっしゃった新兵器とやらの在所《あ り か》をしめす文章というわけだな」
このとき、彼らの背後に人影があらわれた。距離が遠く、岩塩の壁に身を隠していたので、一行は気づかなかった。登山服の男たち。カールした口髭の男。背に軍刀をせおった大男。それに軍服以外は似合わぬ男たち。総計で一ダースほどおり、すでにひとりを除いて拳銃を抜き持っていた。息をひそめ、地底湖の縁《ふち》をなす低い岩棚《いわだな》を伝って、探検隊の側面にまわりこもうとする。ふとヴェルが頸《くび》すじに寒風を受けたような表情で視線を動かした。他の者は、壁の文字を見つめていて気づかない。
「文字はロシア文字だ……だが、妙だな。これでは読めない。母音《ぼ いん》も子音《し いん》もむちゃくちゃだ。こんな文章があるはずはないぞ」
レーンホルム博士は、岩塩の壁がくぼむような視線を突き刺した。
「そうか、暗号だな。ふふふ、おもしろい、やつがれに挑戦する気と見たぞ。後世の天才に対して、ヘル・レンバッハは知恵の戦いを挑《いど》んだのだ。よし、受けてたとうではないか。何十日かかろうと解読してみせるぞ!」
「あの、わたし読めますけど」
フリーダが遠慮がちに口をはさみ、レーンホルム博士は爆風を受けたようによろめいた。老大佐が心地よげに口髭を慄《ふる》わせて笑った。
「それは当然じゃな。お祖父《じい》さんからフロイラインは教《おそ》わっとるはずじゃて。で、どう読めばよいのかな」
「ロシア文字の順序を、ひとつずつずらしてあるんです。アルファベットでいえば、Aと書くべきところをBと、Bと書くべきところをCと書いてあるんです。祖父は自由主義者としてロシアでは秘密警察に睨《にら》まれていましたから、日記などを書くときにこういう書きかたをしていました」
ようやく立ちなおったレーンホルム博士が、もったいぶってうなずいた。
「そうか、やつがれの考えたとおりだな」
「お前さんに考える暇があったとも思えんがね」
ツェーレンドルフ大佐が意地悪な喜びをこめて批評すると、彼と相性《あいしょう》が悪い王立学士院会員は、憤然として口を開きかけた。だが、言葉は彼の口からもぎとられてしまった。
「よし、みんなそこを動くな。動けば即座に皆殺しだぞ!」
勝利感と嘲弄《ちょうろう》をたたえた男の声がひびきわたり、フリーダほ悪寒《お かん》を感じた。それはロシアで彼女が悪漢に囚《とら》われたときに聞こえた声だった。
銃撃戦は未発《み はつ》に終わった。探検隊は包囲され、銃を突きつけられ、ことごとく機先《き せん》を制されてしまったのだ。拳銃を抜くことに成功したフライシャー警部も、他の人々に銃口が向いているのを見て、銃を棄《す》てざるをえなかった。それでも一言、皮肉をいわずにはすまなかったが。
「はたして撃てるものかな。銃声で洞窟がくずれて、お前たちもお終《しま》いだぞ」
この一言には効果があった。一瞬、かるい動揺が襲撃者たちの間に走った。
「銃声ていどでこの岩塩洞が崩《くず》れるものか。つまらん脅《おど》しに乗るな!」
叱りつけて、デンマンは害意《がいい 》にぎらつく目で一同を見まわした。
「あの小娘だけは殺すな。他の奴らは生かしておく必要はない。皆殺しにしてかまわんぞ」
ことにヴェルとフライシャー警部に対して、デンマンの怨《うら》みは深かった。この両者がいなかったら、彼はとうに公私両面で邪《よこしま》な欲望をかなえることができていたはずだった。そのヴェルの姿が見えないことに、デンマンは気づいた。たちまち険悪な表情になって、彼はフライシヤー警部に視線を向けた。
「あの孺子《こ ぞ う》はどこにいる?」
「おや、お前さんに食べられたんじゃなかったのか」
拙劣《へた》な冗談は、痛撃《つうげき》によって報《むく》われた。デンマンの左拳《ひだりこぶし》がフライシャー警部の胃にめりこんで、警部は低い音をたてて呼気《こき》を吐きだした。フリーダが小さな叫び声をあげ、ツェーレンドルフ大佐が憤激のうなり声をたてたが、銃口を突きつけられているのでどうすることもできなかった。
「もう一度だけ尋《き》くぞ。孺子はどこにいる?」
「そこさ」
あっさり答えて、警部が顎《あご》をしゃくる。思わず振り向いたデンマンの顔面に、雪玉のような白いものが命中して砕けた。岩塩のかたまりだった。デンマンがのけぞると同時に、岩塩の手榴弾《てりゅうだん》がもうひとつ飛んで、襲撃者の手からランタンをたたき落とした。にわかに薄暗くなった地下世界に、ヴェルの声がひびいた。
「逃げろ、フリーダ!」
それが合図となって、乱闘が始まった。双方が入り乱れたため、また薄暗さのため、襲撃者たちも発砲の機会を逸《いっ》してしまったのだ。
「やれ、ゴルツ!」
デンマンがわめいた。鼻血をしたたらせている。彼にとっては、ヴェーゼル湖上につづく二度めの屈辱だった。ゴルツは無表情で、すでに両手に探検隊員の襟首《えりくび》をつかみ、勢いよく振りまわしていた。手を離すと、ふたりの隊員が叫び声を残して宙を飛び、地底湖の水面に飛沫をあげた。ゴルツがひと呼吸おいて重い軍刀を抜き放つ。その前方にフライシャー警部が敢然と立ちはだかった。といいたいところだが、レーンホルム博士に背中を押されたのである。
「ほれ、お前さんの出番だ。がんばれ、シャルロッテンブルク警視庁の底力《そこぢから》を見せてやるがいいぞ」
「素手《すで》でこんな大男相手にどうしろっていうんですか。せめて軍刀でも下さいよ!」
「軍刀ならここにあるぞ」
これはツェーレンドルフ大佐の声で、それと同時に騎馬憲兵士官の軍刀が鞘《さや》ごとフライシャー警部の手もとに投じられてきた。警部はゴルツと白兵《はくへい》をもって対決するはめになってしまった。
その間に、混乱の渦に飛びこんだヴェルは、すばやくフリーダの手をひいて駆け出していた。
彼は逃げ去るつもりはなかった。フリーダを安全な場所に隠れさせておいて取ってかえし、フライシャー警部らとともに悪漢たちと戦うつもりだった。いくら逃げても、デンマンという男は果てしなく追いかけてくる。それをやめさせるには、完全にやっつけて国外追放にしてもらうか、あるいはそれ以上、最終的な手段をとるしかなかった。
そのデンマンが混乱の間を縫《ぬ》って追ってくる。
岩塩の大ホールの岩角を曲がったとき、フリーダとヴェルは声をのんだ。彼らの前には深い峡谷《きょうこく》があり、その峡谷には、白銀にかがやく一本の橋がかかっていたのである。
優美なアーチを形づくるその橋自体が、岩塩でできているのだった。少年と少女は、自然と時間という一組の芸術家がなしとげた偉大な業《わざ》に感歎を禁じえなかったが、長い時間をかけて観賞する余裕はなかった。後方に追跡者たちが迫《せま》っているのだ。
ヴェルはフリーダの手を引いて、その橋に駆け上ろうとした。岩塩のかたまりの上を走るのは、生まれてはじめてだった。銀白色の固形物は、何百万年もかけて固められたもので、表面は凍りかけた雪さながらに滑《すべ》りやすかった。登山靴でなければ、何度も転倒するはめになったにちがいない。
岩塩の建造物が強固なものであることはわかっている。橋は長さが三〇メートル、幅も厚さも三メートルという見当で、少女と少年の体重をささえるぐらいのことはできそうだった。一気に走りぬけよう。そう決断して、ヴェルは橋上を走り出した。だが一〇歩も走らぬうち、フリーダが身体の均衡をくずしたのだ。あわててささえようとして、ヴェルもよろめき、橋上に転倒してしまった。微妙な丸みをおびた橋の表面が彼らをさらにすべらせ、かろうじて彼らは橋の縁にすわりこんで転落をまぬがれた。そして今度は、より兇悪《きょうあく》な危機に直面してしまった。デンマンが追いついてきたのだ。三メートルの距離をおいて、銃口でヴェルたちの動きを封じると、デンマンは口をゆがめた。
「いいことを教えてやろうか、小娘」
憎々《にくにく》しげなデンマンの眼光を見て、ヴェルは瞬間的にさとった。この口髭の男が、フリーダにヴェルの正体を暴露《ばくろ 》しようとしていることをさとった。恐怖がヴェルの胸郭《きょうかく》をかすめた。恐怖の源泉はデンマンという男にはなく、ヴェルの過去それ自体だった。フライシャー警部は、まったく正しかった。ヴェルが自分の過去から報われるとすれば、これは最悪のあらわれかただった。
「こいつはいかにも善良な坊ちゃんのふりをしているが、とんでもない、正体は街の浮浪児なのさ。しかも札《ふだ》つきの犯罪者だ。いいか、こいつの正体は……」
「やめろ!」
「こいつの正体はスリなんだぞ」
残忍な勝利の声がとどろき、ヴェルは視界が暗くなるのを感じた。知られた。フリーダに知られてしまった! 絶望の井戸《いど》に沈みこもうとするヴェルの襟首をつかんでひきとめたのは、フリーダの声だった。
「それがどうしたというの?」
フリーダの声は平静だった。平静な反応は、デンマンにとってもっとも意外で不審な結果であった。口髭をカールした男が、不本意な当惑の表情を見せると、なおも平静に、フリーダは宣言した。
「ヴェルはわたしの恩人だわ。わたしが失った自由を取り返してくれたのはヴェルよ。あなたがわたしから奪ったものを、ヴェルは取り返してくれたの。わたしが、ヴェルとあなたと、どちらを信頼すると思うの?」
フリーダは両手を伸ばしてヴェルの両手をにぎった。
「ヴェルにひどいことをしてごらんなさい。あなたになんか絶対、あの暗号を教えてあげないから!」
「この小娘……」
デンマンはうなった。
そうじゃない、フリーダ、ちがうんだ。おれが君の恩人なんじゃない、君がおれの恩人なんだ。君がおれに未来をくれたんだよ! そうヴェルは大声で叫びたかった。だが想いを声にすることができないまま、ヴェルはフリーダの手を握りかえし、憤怒《ふんぬ 》に煮えたぎるデンマンと彼の銃口を見返したのである。
5
岩塩でつくられた優美な橋の周囲で、生死を賭《か》けた争いが展開されている。それは五月五日夜のことであったが、オーバーケルテンから九〇キロをへだてた首都シャルロッテンブルクにおいても、ひとつの戦いが、非公然の段階から公然たる存在に変化しようとしていた。王宮にあわただしく総理大臣が参上したのは午後八時のことである。いつもより一時間早い時刻だった。
「女王陛下、警視総監が参《まい》っております」
「すぐ通してください」
カロリーナ女王はあいかわらず図書室で編物をしている。いつ何が編みあがるのだろう、と、総理大臣はいまさらのように不思議に思った。
警視総監は、女王の前で硬直した姿勢をつくって敬礼した。
「陛下のおおせにしたがいまして調査いたしました結束、陸軍大臣邸とドイツ公使館との間で、きわめて頻繁《ひんぱん》に、文書、電信、使者の往来がおこなわれていることが判明いたしました。内容を確認いたしますことは、職権《しょっけん》をこえます。ですが回数はここ三日で一六回におよんでおりまして、不審の念に堪《た》えません」
女王の顔をちらりと見やって、総理大臣が告げた。
「警視総監、おそらく陸軍大臣はドイツと通謀《つうぼう》してクーデクーを計画しているのだ。文書や電信の往来は、そのうちあわせを目的としたものと推測される」
「クーデクーですと……!?」
警視総監は唖然《あ ぜん》として、それきり声も出ない。アップフェルラントとクーデターとは、ありふれた取りあわせでは、けっしてなかった。総監の驚きを無視して、総理大臣が女王に問う。
「もし陸軍大臣のクーデターが成功したら、議会はそれを承認するでしょうか」
「成功したら、承認するもしないもないでしょうね。わたしが考えているのは、クーデターが成功しなかったときのことですよ」
編棒《あみぼう》を動かす手をとめることもなく、女王は思案を口にした。
「ドイツ軍は陸軍大臣を助けるために出兵するのかしらね。どうもそこのところが、わたしの頭のなかの編棒にひっかかるのよ」
女王の思案は、いささか度をこしているように、総理大臣ボイストには感じられた。何といっても現在、王宮には近衛隊がいるだけで、総数は一四〇名、武器は拳銃と小銃、それに軍刀だけである。一方、ノルベルト侯爵は、陸軍大臣兼陸軍総司令官として一万以上の兵力を指揮統率しており、最新型の機関銃と、最新型ではないにせよ大砲まで持っているのだ。
「機関銃というのは、ロシアが日本とかいう国との戦争で使用したという武器ですね」
「は、おそるべき武器だそうで、旅順要塞《ボルト・アルツール》の攻防戦で、日本兵の死体が谷間を埋めつくしたと聞きおよんでおります」
総理大臣の言葉で、女王は目を閉じ、編棒を持つ手の動きをとめた。
「ですが、そのようなことより、陛下、一刻も早く陸軍大臣を罷免《ひ めん》なさいませ。軍の将兵の過半は、大臣の命令があっても女王陛下に忠誠を誓うでしょうし、大臣が罷免されたとなれば、残る将兵も武器を棄《す》てると思われます」
総理大臣は身体ごと警視総監に向きなおり、厳しく問いかけた。
「警視総監、警察はクーデクーに加担《か たん》して女王陛下の御身《おんみ 》に危害を加えるようなまねはしない。そう信じてよいのだろうね」
「むろん警察は非合法の武力|蜂起《ほうき 》などに加担はいたしません」
そう答えて、総監はハンカチで汗をぬぐった。
「ですが、軍隊と交戦するということになれば、正直なところ当方の勝算はございません。こちらの武器は拳銃だけでございますから」
まことに正直な答えだった。総理大臣ボイストは苦《にが》い表情になったが、むろん総監を「弱気だ」と非難できるようなことでもない。気をとりなおして、彼は女王に言上《ごんじょう》した。
「他国の公使館に調停を求めるという策《て》もございますが、後日が恐ろしゅうございます。ことにロシアなどに借りをつくれば、一〇〇倍にして返すよう強要《きょうよう》されましょう」
「わたしもそう思いますよ。いずれ各国公使館の調停が必要となるにしても、一方的に泣きつけば、足もとを見られます。何とか自力で解決することにしましょう。いざとなれば、わたしに考えがありますから」
「お考えが?」
「ええ。まあね、ロシアにだけ[#「だけ」に傍点]仲介《ちゅうかい》をお願いするのは、たしかに危険でしょうねえ」
王宮で女王と総理が対策を講じあっているころ、彼らの話題の対象となっている人物は、精力的に活動していた。陸軍大臣ノルベルト侯爵は、ついにクーデターを実行する肚《はら》をかため、軍の動員を進める一方、ドイツと連絡を密《みつ》にしていた。この夜、ドイツ公使館員がひそかに陸軍大臣の屋敷を訪問し、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世からの勅電《ちょくでん》をノルベルト侯爵に手渡したのである。それにはクーデターに協力して出兵することが確約されていた。
「作戦行動は三日間で終わる。列強が事態を把握《は あく》すらできぬうちに、わがドイツ帝国陸軍は風のごとくアップフェルラントに進攻《しんこう》して、風のごとく去るであろう」
その電文を受けとり、ノルベルト侯爵はクーデクーの成功を確信した。彼はペンをとって一文をしたためた。
「女王陛下に最後通告を差しあげる。本職は好んで流血の惨事を求めるものではない。女王陛下が退位なさり、本国とドイツ帝国との合邦《がっぽう》をご承知いただければ、アップフェルラント国民の血は一滴も流れずにすむであろう。ご賢慮《けんりょ》をたまわりたい」
ペンを置くと、陸軍大臣はカイゼルからの電文をとりあげ、火中に投じた。そうするようドイツ公使から強く指示されたからである。
このとき、アップフェルラントの国境から西北へ六〇キロをへだてたドイツの古都ドレスデンにおいては、世界最大と称する列車砲「台風《タイフーン》」を搭載《とうさい》した軍用列車が、まさに駅のホームを離れようとしていた。
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第七章 天下無敵と史上最強
1
ドレスデンの街は、古都としての風格と優美さにおいて、おそらくドイツ帝国随一であろう。往古《いにしえ》のザクセン国王アウグスト以来、ドイツ風バロック建築の粋《すい》とされる宮殿や寺院が、重い石と厚いガラスの裡《うち》に数百年の歳月を封じこめて、夜のなかに黒影をたたずませている。昼であればそれらの文化的遺産を水面に映し出すであろうエルベ河の河原には、はなはだ非文化的な影がうごめいていた。アップフェルラント侵攻作戦に従事するドイツ軍の将兵一万八〇〇〇人が行動を開始したのである。
山岳師団一個、砲兵連隊一個、機関銃中隊二個から成る侵攻部隊を指揮するのは、マグナス・フォン・デル・ウェンゼ陸軍中将であった。四〇代後半の、中背《ちゅうぜい》だが軍服の縫目《ぬいめ 》が内側から弾《はじ》け飛びそうに肉づきのよい人物で、皮膚も口髭《くちひげ》もつややかである。つい先年まで中国の青島《チンタオ》要塞に赴任《ふ にん》していた。河畔《か はん》に建つ石造の軍司令部で、薄暗い電灯の光を斜めに受けながら、彼は幕僚《ばくりょう》たちに作戦行動を指示していた。
「ノルベルトから……」
と、デル・ウェンゼ将軍は、小さな隣国の陸軍大臣を呼びすてにした。その非礼をとがめる者は、その場に存在しない。
「王宮を占拠したとの連絡があり次第《し だい》、わが軍は国境を越えて進軍する。クーデクーを鎮圧し、ノルベルトを拘禁《こうきん》し、アップフェルラント王国に平和を回復するのだ」
「ドイツ帝国のための平和を、ですな」
幕僚のひとりが先走った。デル・ウェンゼ将軍は、白っぼく光る目で幕僚をにらみつけ、幕僚はすくみあがった。
「お、お赦《ゆる》しください。分《ぶん》に過ぎたことを申しました」
「まあよい、すべては皇帝《カイゼル》の御意《ぎょい 》による」
鷹揚《おうよう》にデル・ウェンゼ将軍はいい、机上《きじょう》にひろげていた軍用地図をたたんだ。
「だが、貴官《き かん》ら、心しておかねばならんぞ。アップフェルラントはドイツの一県にもおよばぬ小国だが、その彼方には、無限にひろがるロシアがあるのだ。吾々は対ロシア戦略の第一線に立つ名誉ある戦士なのだぞ」
デル・ウェンゼ将軍こそ部下以上に先走っていたといえるだろう。たたんだ地図を副官に手わたすと、将軍は幕僚一同に軍用列車への乗車を命じた。
ドレスデンのドイツ軍が軍国色の夢をむさぼっているころ、アップフェルラント地下の一画では、小規模だが激しい攻防が展開されていた。
選《え》りすぐりの探検隊員たちは、追ってきた悪漢どもを相手に、闘いを有利に進めていたが、個別には、はなはだ困難な状況に追いつめられた者もいる。アルフレット・フライシャー警部がそのひとりで、騎馬憲兵隊のツェーレンドルフ老大佐から軍刀を押しつけられ、強大な敵と一騎討《いっき う 》ちするはめになってしまった。
ゴルツと呼ばれる巨漢は巧妙な剣士ではなかったが、その体躯《たいく 》と腕力は圧倒的であった。牡牛《お うし》のような顔から表情を消し、厚刃《あつば 》の軍刀を閃《ひらめ》かせてフライシャー警部に斬撃《ざんげき》をあびせかけてくる。警部は防戦一方に追いこまれ、際限なく後退をつづけた。相手の刃を受けとめるだけで手が痺《しび》れ、ともすればこちらの軍刀をはね飛ばされそうになる。火花と刃音《は おと》の散る位置は、岩塩のホールの隅へと移行していって、死闘を見物していたツェーレンドルフ大佐とレーンホルム博士が大声をあげた。
「こら、フライシャー、しっかりせんかい。そんな奴、ただ図体《ずうたい》がでかいだけの役たたずだろうが」
「後のことは心配せんでええぞ。公僕《こうぼく》らしく、納税者《のうぜいしゃ》を守るために花と散ってみせてくれ。墓碑銘《ぼ ひ めい》は、やつがれ[#「やつがれ」に傍点]が無料で書いてやるでな」
「……まったく、最近の老人《としより》ときたら、口だけは達者なんだからな」
フライシャー警部は憮然《ぶ ぜん》とした。ただし、老人たちの態度にいかに不満であろうと、論戦している余裕などない。ゴルツの斬撃は暴風に似ていた。警部の頭上から唸《うな》りを生じて振りおろされてくる。横あいから胴を両断するような勢いで薙《な》ぎこまれてくる。フライシャーが手首ごと身体をひねってそれを受けとめると、青白い火花とともに、手首に重い衝撃が走った。かろうじて防ぎつづけてはいるが、それにも限界がある。このまま闘いつづければ、遠からず、致命的な斬撃をあびせられることになるだろう。
フライシャーは、何十度めかの相手の攻撃を刃で受けとめると、相手の勢いをむしろ削《そ》ぐように刃を流した。一瞬にも満たぬ微妙きわまる| 機 《タイミング》だった。力あまってゴルツはよろめく。彼の軍刀は、フライシャーの軍刀の上を音高く滑走《かっそう》して、岩塩の床を激しく打った。フライシャーの足があがり、重い登山靴がゴルツの膝《ひざ》の裏を蹴りつける。「がくっ」と言う擬音《ぎ おん》が実際に聞こえたようだった。ゴルツの姿勢が完全にくずれる。だが、姿勢を大きくくずしながら、ゴルツは軍刀の一閃《いっせん》をフライシャーめがけて送りこんでいた。金属音がひびき、からみあった二本の軍刀が車輪のように回転しながら所有者の手から飛び去った。素手になったフライシャーは、岩塩の床に手と膝をついたゴルツに躍りかかり、のしかかって、胃の位置に思いきり膝蹴《ひざげ》りをたたきこんだ。
したたかな打撃であったはずだが、ゴルツにとってたいした負荷《ふか》ではなかったようだ。わずらわしげに咳《せき》をひとつしただけで、血なまぐさい歪《ゆが》んだ笑いを浮かべると、太い腕を持ちあげて勢いよく横に払う。ただそれだけで、けっして小さくはないフライシャー警部の身体は吹き飛ばされてしまった。岩塩の床にたたきつけられたとき、身体を丸めて被害を最小限にくいとめたが、それでも一瞬、呼吸がとまった。肺と気管の機能が回復したとき、猛然と襲いかかってくるゴルツの姿が見えた。
身体を一転させて、その猛襲《もうしゅう》をかわす。視界がともに一転したとき、ある物体が警部の注意を呼んだ。手を伸ばしてそれをつかもうとしたが、警部の身体は強い力で引っぱられて、彼は目的を果たせなかった。ゴルツが警部の両足首をつかんで引きずったのである。
「大佐、鞘《さや》を!」
引きずられながら、フライシャー警部はどなった。
「その鞘をください!」
警部の注意を引いたのは、岩塩の床に投げ出された軍刀の鞘だった。それまで見物役を決めこんでいたツェーレンドルフ大佐が身動きした。若い者におさおさ劣《おと》らぬ機敏さで、騎馬憲兵隊の老大佐はその場に駆けつけ、岩塩の床から鞘をひろいあげると、フライシャーめがけて投《とう》じた。
間一髪であった。ゴルツはフライシャー警部の右足首に両手をかけ、まさにへし折ろうとしていたのである。投じられた鞘をつかんだフライシャーは、たくみに上半身をひねると、ゴルツの顔面めがけて、勢いよく鞘を突き出した。手ごたえにつづいて、野獣じみた悲鳴があがった。フライシャーの足首から両手を離して、巨漢は大きくのけぞった。右目のあった部分が、安物の赤絵具《あかえ の ぐ》をたたきつけたようなありさまになっていた。
傷ついた右目を片手で押さえ、激痛と憤怒にもだえながら、ゴルツは警部をにらみつけた。だが、身体の自由を回復した警部は、一瞬で起《た》ちあがり、攻勢に転じていた。ゴルツの視界から警部の姿が消失した。死角となった右側面にまわりこまれたのだ。ゴルツの巨大な鼻と厚い唇の間、急所中の急所に、鞘による重い打撃がたたきこまれた。
岩塩の床を鳴動《めいどう》させて、気絶した巨漢は倒れ伏した。
大きく息を吐きだして、フライシャーは岩塩の床にすわりこんでしまった。貴重な武器となった鞘を膝の上に横たえて、彼はつぶやいた。
「ヴェルとフリーダは無事かな」
そのころ、白銀色にかがやく岩塩の橋の上で、ヴェルとフリーダはヨーク・デンマンという悪漢に追いつめられていたのである。
誰も彼も、自分のことで手いっぱいだった。ヴェルを助けに来るどころではない。ヴェル自身とフリーダを守るのはヴェルの責任だった。責任感と勇気において、ヴェルに欠けるところはなかったが、この場合、それ以外の事情が重要なのであった。彼は素手で、デンマンは銃を持っているのだ。たとえ、うかつには撃てないにしても。
「フリーダ、さがってて」
ヴェルはささやき、自分自身を前に押し出した。
三つのF、元気《フリッシュ》と自由《フ ラ イ》と快活《フレーリヒ》。どれもたいせつなものである。だが、ヴェルにとってさらにたいせつなものは、四つめのFだった。つまりフリーダだ。フリーダがいてくれるからこそ、ヴェルは元気《フリッシュ》でいられる。自由《フ ラ イ》でありたいと思う。快活《フレーリヒ》の価値を信じることができる。ヴェルは自分の死を恐れないわけではなかったが、フリーダを喪《うしな》うことはそれ以上に恐ろしかった。その恐怖に較べれば、デンマンのような悪漢と渡りあうことなど、とるにたりぬ。ヴェルは全身に戦意をみなぎらせた。
デンマンの左手が、黒い革鞭《かわむち》をつかんでいる。嗜虐《しぎゃく》性に満ちた笑いが、カールされた口髭《くちひげ》と、同じ色の瞳に浮かんでいた。わざとらしく、デンマンは鞭を鳴らしてみせた。
「きさまには、これがお似合だ。最初、陸橋《りっきょう》の上で出会ったときに躾《しつけ》をきちんとしておくべきだった。いまから教育をやりなおしてやるぞ」
鞭が兇暴《きょうぼう》に躍った。黒い毒蛇《どくじゃ》のように。ヴェルはかわしたが、完全にはかわしきれなかった。フリーダをかばうために、彼自身の行動は完全に自由ではありえなかったのだ。不快な音をたてて、黒革の蛇は、ヴェルの左腕に巻きついた。巻きつく形そのままに、痛みが帯状に走った。服地の表面が弾《はじ》ける。おかまいなしにヴェルは突進した。デンマンの表情に狼狽《ろうばい》が走った。銃と鞭を両手につかんだままで、ヴェルの突進に抗《こう》する術《すべ》がない。
「ま、待て、おい、危ない……!」
叫び終えないうちに、ヴェルの頭が激しい勢いでデンマンの胸に衝突してきた。心臓部にまともに頭《ず》つきをくらって、デンマンは大きくよろめいた。すべりやすい岩塩の上だ。よろめくと、体勢を立て直すのは困難だった。デンマンとヴェルはもつれあって岩塩の橋の上に倒れこんだ。一転してデンマンがヴェルの身体にのしかかる形になったが、ヴェルが反撃して、彼らはもう一転した。すると、もう橋の縁《ふち》に彼らは辿《たど》りついてしまって、わずかな揉みあいの直後、ヴェルは橋から下半身を宙に出してしまった。あわてて橋につかまろうとしたが、指先が岩塩にすべって、脇《わき》のあたりまでずり落ちてしまう。ばたつかせる足が岩塩の壁に触れて、彼はいつのまにか橋のたもとまで移動してしまったことを知った。
「ヴェル!」
叫んだフリーダが飛びついたのは、橋上に投げだされた鞭だった。それはヴェルの腕にからまったままだったので、フリーダはそれをつかんでヴェルの身をささえようとしたのである。だが、ヴェルの身がさらに肩口までずり落ちたので、ささえようとしたフリーダも、鞭をつかんだまま橋の端まで引っぱられ、身動きがとれなくなってしまった。そしてその間にデンマンは悠々と立ちあがることができたのである。
2
「ほう、こいつはうるわしい友情だ。いや、それとも愛情というべきかな。ませたがき[#「がき」に傍点]どもだぜ」
嘲弄《ちょうろう》するデンマンを、低い位置から見あげて、ヴェルは叫んだ。
「フリーダに手を出すな!」
「指図《さしず 》できる立場だとでも思っているのか。笑わせるな、孺子《こ ぞ う》!」
「笑わせるな」といいながら、デンマンは高々と笑った。相手を傷つけ、自分の優越を誇示《こじ》するための笑いだった。彼は橋上にうつ伏せになったフリーダに歩み寄り、嗜虐性をむき出しにして、その背中を踏みつけた。さらに体重をかけて踏みにじろうとした、そのときであった。
「待て、アメリカ人!」
鋭く制止の声を投げつけた者がいる。デンマンの背に拳銃《けんじゅう》の狙点《そ てん》をさだめ、岩塩の橋のたもとに立ちはだかった男は、フライシャー警部ではなかった。フリーダやヴェルの味方ではなかった。その男は、陸軍大臣ノルベルト侯爵の副官であった。乱闘のため髪も服も乱したまま、彼は笑いに似た表情で顔の下半分をひきつらせた。
「そのふたりは吾々の獲物《え もの》だ。こちらに引き渡してもらおう」
偽《いつわ》りの同盟が破綻《は たん》した瞬間だった。デンマンの表情を驚愕《きょうがく》がかすめ、たちまち憤激にとってかわられた。二重の怒りであった。もっとも重要なときに裏切られたこと、そして先に相手に裏切られたこと。デンマンは失敗した。先に陸軍大臣一派をかたづけておくべきだったのだ。
「さあ、アメリカ人、そのふたりを吾々によこせ。すこしでも不審な行動をとったら、二度と大西洋を渡れなくしてやるぞ」
歯ぎしりの音をたてながらデンマンは身体を半ば副官に向けた。その瞬間を、ヴェルは待っていたのだ。「フリーダ!」と小さく叫んだ彼は、彼女と握りあっていた鞭を強く引いた。
「あっ」と、悪漢たちは期せずして声をあげた。フリーダの身体が橋上から転落したのだ。少女と少年がまっさかさまに岩塩の谷底へ落ちるありさまを彼らは幻視《げんし 》した。だが、ヴェルは、彼らの先入観よりはるかに計算力にすぐれていた。フリーダと共に、悪漢たちの手から逃がれる方法を、彼は先刻から考えていたのだ。それは岩塩の壁面をすべりおりて、谷底に逃がれるというやりかただった。
フリーダとヴェルは、白銀色の急斜面を滑《すべ》り落ちていった。
「大丈夫だよ!」
フリーダを抱きかかえ、背中に摩擦《ま さつ》熱の薄い煙をあげながら、ヴェルはどなった。
「雪の坂道を橇《そり》で滑りおりるようなものさ。毎年冬にやってる。得意なもんさ。ちっとも心配いらないよ!」
誇張はあったが、そして発言者当人も自分が何をいっているのか完全には把握《は あく》できていなかったが、結果としてヴェルは自分の正しさを立証することができた。少女と少年は、岩塩の橋上から谷底へ滑走し、わずかな打撲傷《すちみ》と擦過傷《す り き ず》をこうむっただけで、危険な逃走に成功したのである。雪原と異なるのは、摩擦熱で登山服の表面が焼け焦げたことだったが、服地が厚いので火傷《や け ど》は負わずにすんだ。フリーダとヴェルは立ちあがり、上方の橋を見あげた。そしてあわてて跳びのいた。彼らを執拗《しつよう》に追いまわす悪漢たちが、なおも追って来たのである。悪漢どうし組みあい、岩塩の急斜面を転がり落ちてきたのだ。
運命は不公平だった。あるいは、岩塩の急斜面が、手持ちの善意を費《つか》い果たしたのかもしれない。ふたりの悪漢の身体は、斜面の途中に突き出た岩塩の瘤《こぶ》に当たって跳《は》ねた。滑落《かつらく》でもなく転落でもなく、三メートルほどの高さを、彼らはまともに落ちたのである。デンマンが下になり、奇妙にねじれた姿勢のまま、彼は陸軍大臣副官の下敷きになった。鈍い音にデンマンの悲鳴がかさなる。起きあがった副官も、平衡感覚が回復せず、目をまわした状態にあった。すかさずヴェルは飛びかかり、顎《あご》に拳の一撃をたたきこんだ。副官は運命に抗議するつぶやきを洩らしながらひっくりかえった。
「あ、肢《あし》が、肢が……」
デンマンの呻《うめ》きは真実の苦痛に満ちていた。彼の左肢が、曲がるはずのない方向に曲がっているのが見えて、フリーダは思わず目を閉じてしまった。ヴェルも胸が悪くなりかけたが、それに耐えて、デンマンから目を離さなかった。たとえ片肢を折っていようと、デンマンのような男に対して注意を怠《おこた》るようなことがあれば、いつ手ひどい反撃をこうむるか知れたものではなかった。
だが、デンマンの野心も執念も、激しい苦痛と敗北感の前で、強風にあおられた毒念《どくねん》のように飛び散ってしまっていた。血の気を喪《うしな》った顔に汗の玉を浮かべて呻《うめ》いていたデンマンが、そのうち静かになった。白目をむき、口角《こうかく》から泡を憤いて気絶してしまったのである。
フリーダとヴェルは顔を見あわせた。フリーダが走りだし、やがてもどってきたときには、救急箱と軍刀の鞘とを持っていた。鞘は折れた肢の副木《そえぎ 》にするためである。フリーダに一歩おくれて、探検隊に参加していた衛生兵が駆けつけ、ふたりを手伝ってくれた。
悪漢《あっかん》たちは全員とらえられた。当人たちにすれば、悪漢よばわりされるのはさぞ不本意であったにちがいないが、ヴェルやフリーダから見れば、それ以外に表現のしようがない。
デンマンとゴルツは治療を受けた後もまだ気絶したままである。ゴルツのほうは、何しろ普通の人間と思われていないので、両手首を革ベルトで縛《しば》られていた。他の者たちは輪になって縛られている。右手を右隣の者の左手と、左手を左隣の者の右手と、それぞれ縛りつけられ、全員ひとつなぎにされていた。足も同様に縛られ、何ともなさけないかっこうである。そのなかで、陸軍大臣の副官が傲然《ごうぜん》と探検隊一行をにらみつけた。
「いい気になっているがいいさ。いまのうちだけだ。いまごろはノルベルト侯爵閣下が王宮を占拠し、シャルロッテンブルクの支配者になっておられるだろうよ。お前たちはこの廃鉱を出ても、帰るところなどありはしないんだ」
副官はわざとらしい笑声をたてた。負け惜しみにしては、不吉な台詞《せ り ふ》だった。探検隊一同は慄然《りつぜん》としてたがいの表情を見かわした。ありえることだ、と誰もが思った。陸軍大臣が五月二日に王宮でどのような態度をとったか、想起《そうき 》せずにいられなかったのである。
3
西暦一九〇五年五月六日。いわゆる「五月事件」の渦中《かちゅう》に、シャルロッテンブルクの街はたたずんでいる。払暁《ふつぎょう》にも達しない時刻、午前四時三〇分に、陸軍大臣ノルベルト侯爵が軍の出動を命じたのだった。
「王宮内に叛逆《はんぎゃく》行動が生じ、女王陛下の御身《おんみ 》に危険がせまったとの報があった。わが陸軍はただちに王宮に向かい、叛逆行動を鎮圧し、治安を回復する」
これが一般兵士に伝えられた命令内容であるが、事実はむろん女王の拘禁《こうきん》と国権《こっけん》の奪取をめざしたクーデターであった。その事実を知る者は、陸軍大臣の側近と直属部隊をあわせて二〇〇名に満たない。動員された兵力は四〇〇〇名であったから、大部分の兵士は事情を知らぬまま命令にしたがって行動したのである。もし彼らが事実を知らされれば、どのように反応するか。従順に命令にしたがいつづけるか。動揺して武器を棄《す》てるか。否、それどころか銃口の向きをかえて陸軍大臣に反抗するかもしれぬ。ノルベルト侯爵は自分の正しさを確信していたが、女王をしのぐほどの信望《しんぼう》が自分にあるとは思っていなかった。
ではクーデターを成功させるにはどうするか。王宮を急襲して女王を人質とし、ドイツ軍が進駐《しんちゅう》するまでの時間を稼《かせ》ぐ。師団規模あるいはそれ以上のドイツ軍が進駐してくれば、ノルベルト侯爵の勝利は不動のものとなるにちがいない。
四時五二分。陸軍大臣のクーデター部隊は王宮に侵入した。高くもない塀《へい》を二〇人ほどの兵士が乗りこえ、厚くもない門扉《もんぴ 》を内側から開いた。待ち受けていた本隊が軍靴《ぐんか 》で石畳を踏み鳴らしながら乱入した。
王宮には近衛隊と騎馬憲兵隊とをあわせて一〇〇名をこす武装兵士がいたが、乱入する陸軍部隊に対して抵抗しようとしなかった。カロリーナ女王から厳命《げんめい》があり、アップフェルラント人どうしが血を流すことのないように、といわれていたからである。同国人どうしが血を流せば、回復しがたい傷が残る。女王は、国内においてはどのような事態も無血で解決する自信があった。問題はドイツ軍であった。
王宮とほぼ同時刻に、総理大臣官邸も急襲され、ボイストはガウン姿のまま囚《とら》われ人となった。陸軍省の建物に連行される直前、彼は、クーデタ一部隊の指揮をとる陸軍大臣と屋外で対面するはめになったが、昂然《こうぜん》としていった。
「ノルベルト侯爵、あなたはドイツの軍国主義者たちに利用されているのだ。そのていどのことがおわかりにならんとは、失礼ながら、ご思慮が浅いと申しあげざるをえない」
総理大臣ボイストの弾劾《だんがい》を、陸軍大臣は聞き流した。最初から彼はボイストが気に入らなかったのだ。平民出身の総理大臣などを登用するから国が乱れる。この自分、侯爵家の当主たる自分こそが、総理大臣の座に着くべきであったのに。
「私は国を救う志《こころざし》を持っている。それを実行するだけのことだ。一時の汚名《お めい》など私の顧慮《こ りょ》するところではない」
「一時で終わればよいのだがね」
総理大臣のボイストはもともと法律家であって、法廷や議会で論戦の経験を積んでいる。陸軍大臣にむけた表情は、温和ななかに鋭い皮肉がこもっていた。彼を包囲する銃口に対して、さほど恐怖する色も見せず、総理大臣はさらに痛烈な台詞《せ り ふ》を投げつけた。
「ノルベルト侯爵、あなたが悪党でいられるように祈っているよ。でないとあなたが気の毒だ。いや、あなたのご先祖がお気の毒というべきだろうね」
「どういう意味だ」
さすがに陸軍大臣が聞きとがめると、ボイストは落ちつきはらって答えた。
「クーデターなんて代物《しろもの》は、成功すれば悪党よばわりされるが、失敗すれば単なる愚行《ぐ こう》にすぎない。そうならなければよいが、と申しあげているのだ」
「だまれ、口巧者《くちごうしゃ》な!」
陸軍大臣の手袋をはめた手が、総理大臣の左|頬《ほお》で鳴りひびいた。殴《なぐ》られながら、なお昂然として総理大臣が相手を見返すと、陸軍大臣は荒々しい身ぶりで、総理大臣の連行を部下に命じた。彼は女王はともかく、総理大臣を見せしめのために銃殺することには、何らためらいをおぼえはしなかったが、カロリーナ女王からは、信頼する総理大臣の生命を保障するよう、厳しい通達がもたらされたのだ。
「総理大臣は無事でしょうね。他の人たちも。アップフェルラント人の血が一滴でも流れたら、ノルベルト侯爵、あなたはけっして赦《ゆる》されませんよ。わたしからではなく歴史から赦してもらえないのです」
女王の台詞に怯《ひる》んだつもりはなかったが、陸軍大臣としては、総理大臣殺害の罪はドイツ軍にかぶってもらいたかった。いったんクーデターに成功した以上、朝までの数時間を平穏に保《も》ちこたえてドイツ軍の進駐を待つべきだと考えたのである。
女王はというと、寝室の外をクーデター部隊の兵士に見張られながら、朝までもうひと眠りし、起き出したのは六時五〇分であった。
「なるほど、あれが機関銃という兵器なのね。何やら恐ろしげな形をしていること」
老眼鏡をかけなおして、老女王は珍しそうに、あたらしい世紀のあたらしい殺人兵器を観察した。溜息《ためいき》をついて首を振る。
「どうも好きになれない形をしてますね。あんな代物《しろもの》を陸軍に装備させるのではなかったわ。事態が落ち着いたら、あたらしい陸軍大臣と相談しなくてはね」
女王は、見張りの兵士に朝食を求めた。たっぷり睡眠と栄養をとり、然《しか》る後に脳細胞を働かせねばならない。彼女が睡眠不足で腹をへらし、判断力を減殺《げんさい》させていては、助かる人々も助からなくなる。勝負はドイツ軍が進駐してきてからだ。ノルベルト侯爵には気の毒だが、女王は、最初から彼など相手にしていなかった。
「朝食には卵と果物をつけてくださいよ」
そして女王は兵士にそう念を押したのだった。
……女王の忠実な友人たちは、廃鉱を出ることを決意した。だが、いったいどのように帰路《きろ》をとるべきであろうか。
「心配いりません、出口はもう見つかっていますから」
案内人のクラフトが落ち着きはらって宣言した。彼は岩塩層の上に印《しる》された鹿《しか》の足跡を発見していたのである。一定の時間さえかければ、かならず廃鉱の外に出ることができるのだ。彼の頼もしい発言によって、探検隊一行は、ひとまず憂色《ゆうしょく》を払うことができた。
「ではさっそく、地上に出てシャルロッテンブルクに帰るとしよう」
ツェーレンドルフ大佐がいうと、捕虜《ほ りょ》たちにむかってフライシャー警部が顎《あご》をしゃくってみせた。
「こいつらはどうします。つれていくわけにもいかんでしょうが……」
「むろん置いていくさ。水もあれば食糧もある。二、三日で死にやせんだろう。ま、死んだとしても、わしはいっこうにかまわんがね」
無慈悲なことを、老大佐はすましていってのけ、悪漢たちの間からはうらめしげな呻《うめ》き声がおこった。フライシャー警部が、洞窟を出たらすぐ医者と救援隊を呼んでやると確約したので、ようやく彼らは呻くのをやめた。彼らとしては、陸軍大臣のクーデターが成功することを祈るしかない。あわただしく脱出の用意をととのえる探検隊一行を、悪漢どもは見やったが、その両眼には、一行の失敗を期待する色が露骨《ろ こつ》だった。それと看《み》てとったツェーレンドルフ大佐が、人の悪い笑いを浮かべた。
「いっておくが、わしらが脱出に失敗したら、お前さんたちは地上の誰にも知られず、この地底の奥深くで餓死《がし》する運命なんじゃ。せいぜいわしらの幸運を祈ってくれよ」
とどめを刺された形になって、悪漢どもはうなだれてしまった。
その間に、レーンホルム博士は、フリーダの祖父が壁に書き記したロシア文字の暗号をカンテラの灯に照らしだしていた。
「なるほど、なかなか気のきいた暗号だ。だが、やつがれ[#「やつがれ」に傍点]は一度|憶《おぼ》えたら……」
「二度と思い出さない、というやつじゃろう。どうせそんなところさな」
ツェーレンドルフ大佐が鼻を鳴らしてみせたが、レーンホルム博士は珍しく咆《ほ》えかえそうとはしなかった。俗事《ぞくじ 》にかかわる気はない、といいたげな表情で、カンテラを足もとにおいてメモ帳と万年筆をとりだし、手早く書き写しはじめる。だがそれは文章のすべてではなく、数百行にわたる文章、その各行の最初の数文字だけであった。それでも、一〇分ほどの時間は必要だったが、やがて万年筆の動きがとまった。
「よし、これでよい、全部おぼえたぞ」
満足げにうなずくと、レーンホルム博士は手帳を服の内ポケットにしまいこみ、あたかも指揮官であるかのように一同をかえりみた。
「では諸君、なつかしき地上へ帰ろうではないか」
4
ドイツ帝国陸軍中将マグナス・フォン・デル・ウェンゼ閣下は、どのような小事も疎《おろそ》かにせぬ慎重な人物だという評判である。すくなくとも、これまではそういわれていた。彼の人生は、まず順当で満足すべきものだった。
五月六日早朝、彼はノルベルト侯爵からの電文を受領《じゅりょう》した。蜂起《ほうき 》に成功し、王宮を占拠した、という内容である。会心《かいしん》の笑みを、肉の厚い頬《ほお》に浮かべると、デル・ウェンゼ将軍は、麾下《きか》の全軍に作戦行動開始の命令を下した。
六時一八分。ドイツとの国境に位置するアップフェルラントの小さな町ケーペニッヒでは、人々はまだ夢路《ゆめじ 》の終着点に達していなかった。それを切り裂いたのは、いたけだかな機関車の汽笛であった。驚いて駅舎を飛び出した駅員たちは、払暁《ふつぎょう》の大気を切り裂いてドイツの方角から突進してくる列車の、兇々《まがまが》しい黒影を見出し、もういちど仰天した。両国の国境では、線路に遮断《しゃだん》機が設置されている。その前で停車するそぶりひとつ、機関車は示さなかった。
「停止しなさい、その列車、停止しなさい!」
駅長の絶叫を傲然と無視して、列車は線路上を突進した。たけだけしい蒸気機関の咆哮《ほうこう》とともに、遮断機がちぎれ飛んだ。ドイツの軍用列車はアップフェルラントの国内に侵入した。立ちすくむ駅長の眼前を、列車は荒々しく通過していく。
勇敢で機敏な駅員のひとりが、制止の声をあげながら列車に飛びついた。乗降口の手摺《て すり》につかまり、扉《とびら》をあけようとしたとき、その扉が内部から開いた。駅員の顔に銃口が突きつけられる。息をのんだ瞬間、駅員はドイツ兵の軍靴《ぐんか 》で胸を蹴られ、悲鳴をあげて転落した。
同僚を救いに駆け寄った駅員たちは、哄笑《こうしょう》とともにふたたび扉が閉ざされるのを見た。容易ならぬできごとがおこったのだ。
「電報だ。シャルロッテンブルクに打電《だ でん》しろ。ドイツ軍が国境を侵犯した!」
駅長の指示で、駅員のひとりが電信室に駆けこもうとしたとき、軍用列車の後尾部分から何か黒い物体が発射された。孤《こ》を描いて駅舎の屋根に落下した物体は、轟然《ごうぜん》と炸裂《さくれつ》し、光と炎と音と破片との非芸術的な四重奏《しじゅうそう》を完成させた。駅長と駅員たちは悲鳴をあげながら身を伏せ、両腕で頭をかかえこんだ。
ドイツ兵が擲弾筒《てきだんとう》を用いて駅舎を破壊したのだ。いわゆる「五月事件」において、ドイツ軍が使用した、これが最初の火力であった。
駅から走り去る軍用列車は、高々と汽笛を鳴らした。弱小国の無力をあざけっているかのようであった。
岩塩の大ホールから地上に出るまで三時間を要した。案内人のクラフトにとっても、はじめての道であったのだが、彼は慎重に動物たちの足跡を確認しながら、ついに迷うことなく、探検隊一行を地上へと導《みちび》いたのである。
地上は払暁に近い時刻であった。探検隊一行は徹夜で行動したのだが、最年長のツェーレンドルフ大佐から最年少のフリーダに至るまで、疲労も眠気も感じなかった。さらに一時間かけて山道を下り、六時五分にクラフトの住居にたどりついた。そこで休息時間をとり、ツェーレンドルフ大佐は電話を借りてアイゼンヘルツの町に連絡をとったが、会話の途中で大声をあげた。
「いったい何ごとがあったのかね。何、ドイツの軍用列車が国境を突破したと!? けしからん、わしが許したわけでもないのに、そんな暴挙《ぼうきょ》をやりおるとは」
憤然としてツェーレンドルフ大佐は電話を切り、おどろく探検隊一行に事情を説明した。
「陸軍大臣としめしあわせたことでしょうな」
フライシャー警部が推察すると、老大佐は大きくうなずいた。
「むろんそうに決まっとる。あの気障《きざ》な片眼鏡《モ ノ ク ル》野郎めが……」
老大佐は口に手をあてた。
「ほい、淑女《しゅくじょ》の前で下品なことばづかいをしてしもうたわい」
淑女とはこの場合フリーダのことなのだが、服装といい埃《ほこり》に汚れた顔といい、すっかり男の子のように見えたものである。このときフライシャー警部は高地の崖《がけ》の縁まで行って双眼鏡で低地を眺めていた。
やがて双眼鏡をおろしたフライシャー警部が、声と表情に緊張をたたえた。
「大佐がお聞きになったことは事実だった。あれはドイツの軍用列車だ。シャルロッテンブルクの方角へ向かっている」
「わしらもシャルロッテンブルクに行くぞ」
大佐があらためて宣言したが、案内人のクラフトが冷静に水をかけた。
「行くのはいいですが、現に軍用列車が通過しつつあるじゃありませんか。二時間ばかり遅れてドイツ軍の後を追ったところでどうなるというんです。すくなくとも奴らに追いつかねば意味がありませんぜ」
一同が反駁《はんぱく》できずにいると、急速に重さをました沈黙を、ひとりの声が破った。
「追いつく方法がただひとつあるぞ」
花崗《か こう》岩より堅固な自信に満ちた声は、レーンホルム博士のものであった。一同の視線が集中すると、王立学士院会員は、あやうくひっくりかえりそうになるほど胸をそらした。
「やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の才能が祖国存亡の危機に役立つとは、願ってもないことだ。神の御名《みな》は賛《たと》うべきかな。うるわしのアップフェルラントを守るために、不肖《ふしょう》このレーンホルムが大才《たいさい》を発揮する機会をお与えくださろうとは!」
「神さまがお怒りあそばすわい。悪魔のはからいじゃろう」
ツェーレンドルフ大佐の声が聞こえぬふりをして、レーンホルム博士は大きく両手をひろげてみせた。
「飛行機だ! 空の道こそ、あらゆる交通機関のなかで最高の速度を約束されたものだ。飛行機を使おう」
レーンホルム博士の自信に、他の人々は追随《ついずい》しなかった。無言で顔を見あわせるばかりである。副操縦士という名の助手が必要だという次第で、博士から同乗を求められたヴェルも、たじろがずにいられなかった。
「でも、おれ、飛行機なんて乗るのはじめてなんですよ」
「何だ、そんなことか。気にせんでよろしい。やつがれ[#「やつがれ」に傍点]だって飛行機を操縦するのは初めてだが、すこしも気にしとらんぞ」
すこしは気にしてほしいなあ。そうヴェルはつぶやいたが、レーンホルム博士の豪快すぎる笑いにかき消されて、その声は誰にも聞こえなかった。
「わかりました、行きます」
今度の声は明瞭《めいりょう》に伝わった。ヴェルは気をとりなおしたのだ。他に方法がなく、ヴェルが求められたとしたら、気おくれしてはいられなかった。もともとヴェルの気質と存在意義は、その積極的な行動性にあったのだ。そして何よりも、必要を前にして怯《ひる》むようなところを、フリーダに見られたくはなかった。
レーンホルム博士が独自に開発した複葉機《ふくようき 》には四つの座席がある。博士とヴェルの他に、あとふたりが搭乗《とうじょう》できるわけである。
馬車を飛ばして町まで下りる間に、ふたつの座席も埋まることになった。「ヴェルが行くならわたしも」とフリーダがいい、ふたりが行くなら放っておけないという次第で、フライシャー警部がしぶしぶ志願したのである。別の馬車に乗っていたツェーレンドルフ大佐は、馬車をおりて事情を知ると不平を鳴らして問うた。
「わしは? わしを乗せんのか」
「おや、大佐、やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の発明品を信用していただけるので?」
レーンホルム博士がうそぶくと、ツェーレンドルフ大佐は返答に窮《きゅう》した。
とやかく問答する余裕もなく、一行はレーンホルム博士の屋敷に駆けつけ、裏手の倉庫から複葉機を引き出した。「この世で一番|不細工《ぶ さいく 》なガチョウにそっくりじゃ」とツェーレンドルフ大佐は憎まれ口をたたいたが、この際、この木と鉄と防水布でつくられた人工ガチョウに頼るしかないのである。ちなみにこのガチョウの名は「天下無敵《ケイナーグライヒ》」号というのだった。
「ほれ、プロペラをまわさんかい!」
レーンホルム博士にどなられて、フライシャー警部はプロペラの羽に手をかけ、思いきり回転させた。警部の要領がよくなかったのか、プロペラがまだ働く意欲をおこさなかったのか、二度つづけて失敗してしまったが、三度めにようやくプロペラとエンジンが連動した。「天下無敵」号は飛行場がわりの草原を、ゆっくりと前進しはじめた。
「ほれ、さっさと飛び乗らんか」
もう一度どなられて、フライシャー警部は「天下無敵」号の機体に飛びついた。後部座席のフリーダが警部の手を引き、副操縦士席のヴェルも身を乗り出して警部の腕をつかんだ。ようやく機内に警部の長身がおさまったとき、「天下無敵」号の車輪が大地を離れた。
「頼んだぞ、わしらは列車で行くからな」
老大佐の叫びに、見物に集まった人々の歓声がかさなり、「天下無敵」号は碧空《へきくう》に舞いあがった。七時二〇分である。
5
表現しがたい感覚だった。身体が浮きあがり、足もとで風が舞うかのようだ。上半身が引きあげられ、下半身はべつの力で持ちあげられるようでもあった。かと思うと、前方からの力で座席の背に押しつけられる感触もある。だが、それらのすべてを圧倒して、重力の呪縛《じゅばく》から解き放たれ、無限に上昇をつづける感覚が身内から湧《わ》きおこってくるのだった。
「すごい、すごいや」
ヴェルの表現能力では、ただ繰り返すしかなかった。大地を踏んで立つ、大地を蹴って疾走する、それも爽快《そうかい》だが、地を離れて大気の海に浮かび、風と同化して舞いあがる快美感《かいび かん》はたとえようもなかった。
「すごいわね、すごいわ」
フリーダも表現力を失って、ヴェルと同じ台詞《せ り ふ》をくりかえすだけである。彼女が将来、飛行士になったとしたら、この最初の飛行を忘れることは、けっしてないだろう。彼女の隣席に長身を窮屈《きゅうくつ》そうに押しこんだフライシャーは「いやはや」とつぶやくだけであった。博士が操縦席で哄笑した。
「ライト兄弟は浮かんだだけだ。空を飛ぶとはこういうことをいうのだ。一九〇五年現在、これだけの搭載力と航続力を持つ飛行機は、世界にこれ一機だけだて!」
大言壮語《たいげんそうご 》の悪癖《あくへき》はともかくとして、レーンホルム博士の特異な才能を、フライシャー警部は認めざるをえなかった。二流のレオナルド・ダ・ヴィンチだな、と、彼は思った。いちおう何でもできるが、どの分野でも「最初の人」に一歩おくれてしまう。人々も公式記録も、金メダル受賞者の名はおぼえているが、銀メダル受賞者は忘れ去ってしまうのだ。レーンホルム博士は第二人者の悲哀《ひ あい》を背負った人物であるのかもしれない。
もっとも、当のレーンホルム博士は、悲哀と無縁の表情で「天下無敵」号の操縦桿《そうじゅうかん》を動かしている。副操縦士席のヴェルも、すっかりレーンホルム博士の才能を信用する気になって、いそがしく視線を動かした。大空や大地を展望すると同時に、博士の手もとを見て「天下無敵」号の操縦法をおぼえようというのである。だが、完全に記憶するには時間がなさすぎた。風の平原を走行すること一五分、「天下無敵」号は緑の森と渓谷のなかに好敵手を見出したのである。「天下無敵」に対抗できる存在は、おそらく「史上最強」だけであろう。
「あれだ、軍用列車だ!」
ヴェルの指先に、黒い鉄の大蛇がうねっているのが見えた。エルベ河の支流に沿《そ》って、曲がりくねった線路を走りながら無彩色の煙を吐きあげている。「ザクセン州のスイス」から「アップフェルラントのスイス」へ、中央ヨーロッパでももっとも風光の美しい山間部を、軍用列車は力強く走りつづけていた。一個師団をしのぐ兵力と、強国の血なまぐさい欲望を満載《まんさい》して南下しつつあるのだった。司令官デル・ウェンゼ将軍は、列車中の一両を臨時司令部にして、移ろいゆく窓外の風景に興味もしめさず、作戦計画書を肉の厚い膝《ひざ》の上にひろげ、幕僚たちと意見を交換していた。少佐の階級章をつけた三〇代半ばの幕僚が質《ただ》した。
「ですが、閣下、アップフェルラントごとき小国を制するのに台風《タイフーン》が必要なのですか。あれは皇帝陛下の秘蔵物と聞きましたが、ロシア軍かフランス軍を相手にするならともかく……」
「実際に使用する機会はなかろうな」
デル・ウェンゼ将軍は片手で口髭《くちひげ》をひねった。ドイツ皇帝の模倣《まね》というより、髭をはやした人間はそれをひねる癖《くせ》がつくのだ。
「だが、あれを見ただけでアップフェルラントの住民どもは胆《きも》をつぶし、抵抗の意思をなくすだろう。各国の外交官たちも、わがドイツの偉大なる軍事技術の成果に恐れをなすにちがいない。つまり、台風《タイフーン》は外交の武器として威力を発揮するというわけだ」
「なるほど、ご深慮《しんりょ》のほど感服しました。いずれにしても閣下は、一両の列車で一国を征服した英雄として、全ヨーロッパの歴史に名を残すことにおなりですな」
阿諛《あゆ》する者、阿諛されて喜ぶ者はどこの国にもいる。デル・ウェンゼ将軍は軍服につつまれた腹をかかえて笑った。その笑いがおさまらないうちに、あわただしく臨時司令室の扉が開いて、監視兵からの報告がもたらされたのである。「飛行機《フルークマシン》!」と。
ドイツ兵たちは茫然《ぼうぜん》として空を仰ぎ視《み》ていた。彼らのほとんど全員が、生まれてはじめて飛行機を目撃したのである。忠誠心や勇気とはべつの問題であった。銃を手にしたまま、あるいは双眼鏡を顔に押しあてたまま、目と口を開きっぱなしにして、窓や乗降口から空をながめている。何かすべきだとは思っているのだが、何をすればよいかわからないし、命令もない。ひたすら凝視をつづけるだけであった。
飛行高度を落として軍用列車の反応を確認したレーンホルム博士は上機嫌であった。あれほど驚いてくれれば、「天下無敵」号を俗事《ぞくじ 》で初飛行させた甲斐《かい》があるというものだ。
「ドイツの軍国主義者どもめ、猿《さる》が日蝕《にっしょく》を見るみたいな顔つきで口をあけとるわい。すこし威《おど》かしてやるとするか」
猿が日蝕を見るみたいな顔つきとは、どういうものだろう。ヴェルが考えこむうちに、「天下無敵」号の機体が大きくかたむいた。ヴェルはぎくりとしたが、これは墜落の前兆《ぜんちょう》ではなかった。レーンホルム博士は「女王陛下ばんざい!」とどなると、愛機を降下させはじめたのである。風が搭乗者たちの顔をたたき、遠く下方にあった光景が一瞬ごとに拡大してくる。
「博士、むちゃをせんでください!」
警部の声に、レーンホルム博士は、極彩色《ごくさいしょく》の自信をみなぎらせて応じた。
「安心してまかせなさい。理性と直観は、つねにやつがれ[#「やつがれ」に傍点]の味方だ。恐れるものは何もないぞ!」
「重力の法則ぐらいは恐れてほしいわね」
フリーダがヴェルにむかってささやいたとき、彼らの視界いっぱいに軍用列車の屋根がひろがった。驚きの声をあげる間もなく、「天下無敵」号は軍用列車の屋根をすれすれにかすめ、さらに機関車の前方を低空で横断して、レーンホルム博士をのぞくすべての人々の胆《きも》を冷《ひ》やした後、ふたたび大空へ舞いあがった。
「撃て! 撃ち墜《お》とせ!」
司令官デル・ウェンゼ中将は暗褐色の口髭《くちひげ》を慄《ふる》わせて怒号した。あの飛行機はアップフェルラントの秘密兵器であり、弱小国が小癪《こしゃく》にも「世界に冠《かん》たるドイツ帝国」に牙《きば》をむこうとしているのだと思った。赦《ゆる》しがたい敵対行為である。ドイツ帝国の敵に思い知らせてくれようと彼は決意した。
司令官閣下の命令は列車全体に伝わって、数百の窓が開け放たれ、窓の数に倍する小銃が空へ向けて突き出された。まず進行方向右側の窓から、銃火がほとばしった。数百発の銃弾が五月の空をぼろ布のように引き裂いて、何らの実効もあげることができなかったが、「天下無敵」号が空中で位置を変えると、今度は左側の窓から銃火の滝が空へ噴きあがった。数弾が「天下無敵」号の機体をかすめる。レーンホルム博士は鼻を鳴らした。ドイツ兵ごときの射撃を完全にかわすことができなかったのは、機体が重くなっているからだ。博士は後部座席をかえりみて、フライシャー警部に声をかけた。
「おい、お前さん、おりてくれ」
「え……?」
「お前さんひとりが降りれば、ふたり分の重量が浮く。これもひとえに正義のためだ。おりてくれんか」
「そりゃ正義のためなら降りてもかまいませんがね、ものには順序ってものがあるでしょう」
どこか平地に降りてくれるよう警部は頼んでみたが、返答は拒絶であった。
「それは無理というものだ」
「どうして無理なんですか」
「一度着陸したら、この飛行機は二度と飛びたてんのだ。やつがれは自信を持って断言するが、まあお前さんにはせいぜい河をめがけてここから飛び降りてもらうしかないなあ」
「冗談じゃない……」
いいさして、フライシャー警部は地上に視線を投《とう》じたが、それこそ冗談ではない不吉な光景に直面してしまった。
軍用列車の右で、黒い長大な円柱がゆるやかに砲口の角度を変えつつあったのだ。業《ごう》を煮やしたデル・ウェンゼ将軍が、巨大列車砲「台風《タイフーン》」の発射を命じたのであった。
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第八章 小国の主張と大国の論理
1
それは人類の歴史上はじめて、飛行機と列車とが戦闘をおこなった場面であった。悪い意味において記念すべき光景であったが、「五月事件」そのものが列強を中心としたヨーロッパ史の間隙《かんげき》に埋没しているため、歴史上の意義など誰《だれ》にも記憶してもらえなかった。まことに、レーンホルム博士は、非運の大科学者であるかもしれない。
「台風《タイフーン》」の名を知っているわけではなかったが、長大な砲身が旋回をやめ、砲口が固定された瞬間、それを上空から見おろすフライシャー警部の全身を悪寒《お かん》がつらぬいた。
本来、列車砲は自《みずか》らが移動しつつ、固定された目標を破壊するために使用されるべき兵器である。高速で空中を移動する飛行機に対して用いるべきではないであろう。だが、デル・ウェンゼ将軍にしてみれば、「台風」の破壊力に期待するしかなかった。また、強力な兵器を持てば使いたくなるのが、軍人の病質《びょうしつ》というものであるにちがいない。
操縦士席のレーンホルム博士も、ヴェルの報告で列車砲の動きに気づいた。気づいたからといって、だが、おそれいるような殊勝《しゅしょう》さを持ちあわせる博士ではなかった。
「ふん、石器時代人の分際《ぶんざい》で飛行機に対抗しようとは、身のほど知らずめが。命中させることができると思うなら、やってみるがいいわい。やつがれ[#「やつがれ」に傍点]は誰の挑戦でも喜んで受けるぞ。ゴリアテを斃したダビデのごとく、天下無敵《ケイナーグライヒ》号の名は永く歴史に残るであろう!」
「やめてください、博士!」
三人の同乗者が期せずして声をそろえたとき、「台風」が咆《ほ》えた。一〇〇〇頭の暴君竜《ティラノザウルス》がいっせいに咆え猛《たけ》るようであった。鼓膜《こ まく》を乱打する轟音《ごうおん》とともに、長大な砲身は、こうるさい複葉機めがけて砲弾を撃ち出したのである。
兇々《まがまが》しい黒い影が、「天下無敵」号の機体から一〇メートルほど離れた空間を切り裂き、天空へと上昇していった。狙《ねら》いは外《はず》れた。だが五秒ほどの間を置いて、「アップフェルラントのスイス」の一部をなす山の中腹で爆発音がとどろいた。火柱が噴きあがり、数十本の大樹が無残に吹きとんだ。大量の土砂が宙空に舞いあがり、褐色の滝となって地上に降りそそぐ。落下した砲弾の威力であった。そしてそのとき、砲撃を回避したはずの「天下無敵」号は失速し、列車めがけて舞い落ちていった。無念にも、砲弾の衝撃波であおられ、機体の平衡を失ったのである。
「天下無敵」号は機首を軍用列車に突っこませ、壮絶なる最期をとげた。というわけではなかった。四つの車輪と六本の脚《あし》で、かろうじて列車の屋根にしがみついた姿は、蜻蛉《と ん ぼ》が大蛇を吊りあげようとするかに見えた。
異様な昔と衝撃におどろいた兵士たちが窓から上半身を出し、首をひねって屋根を見た。あまりにもばかばかしい光景を認めて、最初は声が出なかったが、ひとりが大声をあげた。
「ざまを見ろ、落ちやがった!」
それにつづいて歓声がおこったが、すぐにそれはやんでしまった。ほとんど無傷の人影が屋根で動きまわっているのが見えたのである。デル・ウェンゼ将軍は、つぎのような報告を受けることになった。
「奴らは台風の隣の車両に落ち、ええと、いや、飛びおり、ちがう、とにかくおりてきました」
この当時、「着陸」とか「離陸」とかいう用語がまだ一般化していなかったのは当然のことである。報告した兵士は、言語学上の重すぎる課題を負《お》わされてしどろもどろであったが、デル・ウェンゼ将軍は軍事以外のことになど興味がなかった。
「あの不逞《ふ てい》な奴らを台風《タイフーン》に近づけるな! ひきずりおろせ!」
「台風」はカイゼルのお気に入りであり、いつか来るであろう全ヨーロッパの争覇戦において、ドイツ軍にかがやかしい勝利をもたらすにちがいない「勇者」であった。万が一にもそれを害《そこ》なうようなことがあれば、カイゼルの怒りは雷霆《らいてい》となってデル・ウェンゼの頭上に落ちかかるであろう。ドイツ帝国の栄光と彼自身の保身《ほ しん》とのために、デル・ウェンゼは、「台風」を守りとおさなくてはならなかったのである。
ドイツ軍がいろめきたつ間に、「天下無敵」号の名誉ある搭乗員たちは、機内から列車の屋根上へと脱出を果たしていた。まずヴェルが機外へ出て列車の屋根に片ひざで立つ。フライシャー警部がフリーダをかかえあげて機外に出し、フリーダはヴェルの差しだす手につかまりながら、列車の屋根へと移動を果たした。つぎにフライシャー警部は自分自身が脱出しようとしたが、レーンホルム博士が猛烈に抗議の声をあげたので、博士の身体をかかえあげて機外に放り出し、自分も列車の屋根に飛びおりたのである。
フライシャー警部が脱出すると、微妙な均衡がくずれたのであろうか、「天下無敵」号の機体は、列車に吹きつける風のなかでぐらりと揺れた。機体はさらに半転し、列車の車両と噛《か》みあっていた部分がはずれた。叫び声をあげてレーンホルム博士が愛機に飛びつこうとする。他の三人が三方から博士の身をおさえる。「天下無敵」号は列車の屋根にくっついてしまったプロペラだけを残し、ずり落ち、回転し、音高く分解しつつ後方へと飛び去っていった。勇敢な「天下無敵」号の、これが最期だった。
感傷にひたっている暇はなかった。列車の屋根に、ドイツ兵の顔があらわれたのだ。連結部分から列車の屋根に上がり、四人の無賃《む ちん》乗車犯を力ずくで排除しようというのである。
先頭に立った兵士の勇敢さは賞すべきであったが、彼は反対方向からその行為をおこなうべきだった。彼は列車砲「台風《タイフーン》」のある方向から姿をあらわしたのである。それが四人の脳裏に、対応策をひらめかせる結果となってしまった。
まずフライシャー警部が拳銃《けんじゅう》をぬき、ドイツ兵めがけて撃ち放した。弾丸はヘルメットに命中してはねかえり、兵士は悲鳴をあげて屋根の下にずり落ちる。その隙《すき》にヴェルが可能なかぎりの速度で屋根の上を走り、余勢《よせい》を駆《か》って連結部分を飛びこえた。ふたたび頭を出した兵士は、後頭部をヴェルに蹴《け》とばされ、またしても屋根の下に姿を消す。
エルベ河の支流が蛇行《だ こう》し、線路も曲折して、手摺《て すり》のない鉄橋と地上の線路とが、めまぐるしく入れかわる。変化に富んだ多彩な風光を愛《め》でる余裕もなく、四人はつぎつぎと「台風」の搭載された車両に移動し、その間に五、六人の兵士を蹴飛ばしたり殴《なぐ》りつけたりした。頭を屋根に出したとたんに攻撃されるのだから、ドイツ兵としては闘いようもなかった。
一度ならず危険な場面もあったが、やがておもむろにレーンホルム博士が発煙筒をとりだした。それを受けとったヴェルが屋根の上にはいつくばり、それを列車の窓から車内に投げこむ。黒煙が車内にたちこめ、ドイツ軍はさらに混乱した。まともな敵とまともに戦うのであれば、このような醜態《しゅうたい》はけっしてさらさないであろうが、口々に、性質《たち》の悪い無賃乗車犯をののしるだけで、ほとんどなす術《すべ》がなかった。車内で天井に向けて発砲する者までいる。屋根を撃ちぬこうとしたが、軍用列車であるだけに鉄ばりの屋根は堅固であり、跳弾《ちょうだん》で自分たちが危険にさらされただけであった。そのときヴェルが屋根からすばやく連結部分にすべりおりながら、フライシャー警部に提案した。
「連結器をはずしちまおう、警部!」
「台風」の威力は目《ま》のあたりに見せつけられた。シャルロッテンブルクの市街にこのようなものが撃ちこまれたら、大いなる災厄《さいやく》となるにちがいなかった。
「よし、やってやろう」
フライシャー警部も連結器の上におりたった。たちこめる黒煙の向こうから怒号がひびき、銃声とともに弾丸が飛来したが一発だけであった。さすがに同士討《どうし う 》ちを恐れたのだろう。警部とヴェルは、ふたりがかりで連結器をはずしにかかった。黒煙によごれた顔を見あわせ、にやりと笑いあう。
「ようし、元気《フリッシュ》!」
連結器が不平と抵抗の唸《うな》り声をあげた。ヴェルと警部の腕に力がこもる。
「自由《フ ラ イ》!」
連結器の唸《うな》り声がさらに高まり、ふたりの腕にさらに力がはいった。
「快活《フレーリヒ》……!」
短いが強烈な抗議の叫び声をあげて、連結器は、くいしばっていた歯を開いた。強力な鉄の顎《あご》がはずれると、列車の前半部は後半部を置き去りにして疾走《しっそう》をつづけた。「飛びおりろ」とフライシャー警部が叫び、後半部にとりのこされた四人の男女は、複葉機から列車に乗り移ったときとほぼ同じ手順で地上におりた。半ばは転げ落ちる形だったが、初夏のやわらかな草が彼らを抱きとめてくれた。
「台風」は列車に据《す》えられたまま、傾斜した線路を後方へと走りはじめた。彼が製造された故郷ドイツの方角へ向かって。傾斜の角度が急になるにしたがい、列車の自走速度は、見えない機関車に引かれるような勢いで駆け下っていく。
切り離された列車後部には、一〇〇〇人をこすドイツ軍将兵が搭乗したままであったが、状況をさとって狼狽《ろうばい》した。このままでは列車と、よからぬ運命を共有するしかない。いかに勇気と愛国心がありあまっていたとしても、人力で列車をとめるのは不可能であった。
乗降口が開放された。窓があけはなたれた。士官たちの制止の叫びもむなしく、兵士たちはつぎつぎと車外に身を躍らせた。エルベ河の支流は、飛びこみ競技の会場と化して、水面に無数の波紋《は もん》がひろがった。
臨時司令部の窓から首を突き出して、デル・ウェンゼ将軍は遠方に忌《い》むべき光景を見た。自走する列車が急カーブを曲がりそこねて線路からはずれ、躍《おど》り狂う鉄の竜となって河面へ舞い落ちていくありさまを。轟音のかけらが将軍の耳をたたき、彼は自分の軍歴《ぐんれき》に巨大な傷がついたことを知った。
「シャルロッテンブルクに急行しろ!」
デル・ウェンゼ将軍は喚《わめ》いた。こめかみ[#表示不能に付き置換え]に血管が浮きあがり、口髭《くちひげ》の先から冷たい汗がしたたっている。彼はカイゼルの秘蔵物を失ってしまった。戦わずして「台風《タイフーン》」を失ってしまったのだ。その大罪を償《つぐな》うには、完璧《かんぺき》な作戦行動によってアップフェルラントを皇帝陛下に献上するしかなかった。
機関車は怒りの咆哮《ほうこう》を吐き出し、シャルロッテンブルクの方角へと突進していく。カイゼルご自慢の軍隊に冷水をあびせかけた四人のアップフェルラント人たちは、草地にたたずんでその後姿を見送ったが、ささやかな勝利感にひたりつづけることはできなかった。何らかの交通手段を用いてシャルロッテンブルクに行かねばならなかったし、このまま時を費《ついや》していては列車から脱出したドイツ兵たちに襲撃される危険もあったからである。
2
複葉機のプロペラを屋根にしがみつかせたまま、軍用列車がシャルロッテンブルクの市街地に進入してきたのは、午前八時一八分のことであった。異様な光景を見て、シャルロッテンブルクの市民たちは、出勤途中の会社員も登校途中の小学生たちも線路近くに集まってしまったが、彼らの素朴な好奇心はたちまち不吉な雲におおわれてしまった。駅でもない市街の一角に列車が停止したと思うと、乗降口が背高く開き、ヘルメットをかぶった完全武装の兵士たちがつぎつぎと飛びおりて整列しはじめたのである。市民たちは目をみはり、自分たちの視覚の正常さを疑った。
「ドイツ軍だ」
「ドイツ軍だ!」
「ドイツ軍だ!!」
声の高まりは、不安の増大に比例した。小国アップフェルラントの住民は、大国ドイツに対する不安と不信とを両手にかかえて生活してきた。その不安と不信が、このとき形をえたのだ。この時刻、陸軍大臣がクーデターをおこしたことは一般市民の知るところではなかったので、事情が不明のまま、人々はとりあえずドイツ兵の姿からわが身を遠ざけた。幼い子供を抱いて家に駆けこむ母親もいれば、見知らぬ若者に命令して自分を背負わせる迫力充分の老婦人もいる。宣戦布告《せんせんふ こく》や号外発売があったわけでもないので、愛国心や敵愾《てきがい》心もまだ発揮されなかった。世界最初のラジオ放送がアメリカのピッツバーグで開始されるのは一九二〇年のことである。アップフェルラントにかぎらず世界じゅうの人々は、ニュースの速報性という二〇世紀文明の恩恵《おんけい》にまだあずかっていない。
ドイツ軍の行動は迅速をきわめ、八時二八分には陸軍省の門内に進入した。このとき陸軍省を警備していたのは、クーデターに最初から参画《さんかく》していた将兵であったから、ドイツ軍を頼もしい友軍と信じこんで、捧《ささ》げ銃《つつ》の敬礼で侵掠者《しんりゃくしゃ》たちを迎えたものである。デル・ウェンゼ将軍はすべての環境がととのったことを確認したうえで陸軍大臣と対面した。
「アップフェルラント王国の陸軍大臣閣下でいらっしゃいますな」
この台詞《せ り ふ》は、アリアーナが陸軍大臣と初対面を果たしたときに発したものと同じであったが、ノルベルト侯爵はべつに不吉な暗合《あんごう》とも思わなかったようである。
「そうだ、ノルベルト侯爵だ。よく来てくださった。新生アップフェルラントは心から友軍《ゆうぐん》を歓迎しますぞ」
歓迎と感謝の意をこめて、ノルベルト侯爵は右手を差し出そうとしたが、デル・ウェンゼ将軍はそれに応じようとしなかった。非好意的な眼光で陸軍大臣の顔をひとなですると、演技《し ば い》がかった動作で右手をあげ、指を鳴らす。それを合図として、ドイツ軍の将兵がいっせいに動いた。海水から勢いよく網を引きあげるような音が湧《わ》きおこって、ドイツ軍の銃口がアップフェルラント人を包囲した。陸軍大臣は唖然《あ ぜん》として、友軍と信じていた外国人たちを見わたした。
「こ、これはいったい何ごとですか、理不尽《り ふ じん》ではありませんか」
「ノルベルト侯爵、貴官を国事犯《こくじ はん》として逮捕する」
デル・ウェンゼ将軍が傲然《ごうぜん》として宣告すると、ノルベルト侯爵は雷に打たれたようによろめいた。かろうじて転倒をまぬがれ、身体を立てなおすと、無意識に軍用拳銃に手を伸ばす。だが、一〇丁をこす銃が、すでに陸軍大臣の心臓部に狙点《そ てん》をさだめており、陸軍大臣の筋肉と神経とは凍結してしまった。つづく一分間に、陸軍大臣と側近たちはドイツ軍の手で完全に武装解除されてしまったのである。
「説明してもらおう、どういうことだ」
あらためて問いかける陸軍大臣の声は無残《む ざん》にひびわれた。
「本職《ほんしょく》は、ひとえにわがドイツ皇帝陛下よりのご指示を実行するのみである。隣国アップフェルラントの平和を乱す叛逆者《はんぎゃくしゃ》を拘禁《こうきん》し、女王を救出し、もってドイツの求める正義を全ヨー口ッパに知らしめるのだ」
デル・ウェンゼ将軍の声を聴くうちに、ノルベルト侯爵の表情に変化が生じた。混乱が理解に、さらに憤怒《ふんぬ 》へと変じたのである。
「は、謀《はか》ったな。だましおったな」
ノルベルト侯爵の声は、抑制を破って、かんだかく響きわたった。
「私を利用したな! おのれ、最初からそのつもりで、すべてを仕組《しく》んだのだな!」
「何のことやら本職には理解しかねますな」
冷笑の微粒子がデル・ウェンゼ将軍の顔一面にまぶされている。それをノルベルト侯爵は見ていなかった。彼が幻視《げんし 》していたのは、カイゼルの顔であった。ドイツ公使から受けた指示が、嘲笑《ちょうしょう》しつつ彼の脳裏を飛びまわった。電報を火中に投じろ、とはこのためであったのだ。ドイツ軍がクーデターをそそのかしたという証拠を、ノルベルト侯爵は自分の手で消してしまったのである。
「陸軍大臣はお疲れのようだ。ご自宅に送ってさしあげろ。むろん外出はひかえていただくようにな」
デル・ウェンゼ将軍の表情が愍笑《びんしょう》に変じたのも、むりはない。陸軍大臣は死者の顔色となってうなだれ、自力で立つこともかなわぬありさまであった。
ほぼ同時刻、アメリカ公使館では、公使と一等書記官がつぎのような会話をかわしていた。
「つまりノルベルト侯爵とドイツ軍はつるんでいたというわけか」
「ノルベルト侯は有名な親独派《しんどくは 》ですからな、不思議はありません」
「ふむ……だが、それではあの光景をどう説明する?」
公使が右手の親指をそらして、窓外を指《さ》し示した。公使館前の街路は、ヴェーゼル湖畔の港へとつづく石畳《いしだたみ》の道で、五月二日には自動車と馬と人間との騒々《そうぞう》しい追跡劇が展開されたものである。四日後のこの日、同じ場所で、ドイツ軍とノルベルト将軍のクーデタ一部隊とが市街戦を展開していた。正確には、ドイツ軍が一方的な銃撃戦をしかけ、クーデター部隊は狼狽《ろうばい》と混乱を来《きた》し、撃ち返しつつかろうじて全軍潰走をまぬがれている。勝敗の帰趨《き すう》について、アメリカ公使は、部下と賭《か》けをする気にもなれなかった。石畳にはじける銃弾や、ドイツ兵のよく光るヘルメットをながめながら、公使はふたたび口を開いた。
「まさかカロリーナ女王が叛乱鎮圧のためにドイツ軍を呼びこんだとも思えんしな」
「それはありえません。ドイツ軍に救援を求めることが何を意味するか、カロリーナ女王はよく知っているはずです。兎《うさぎ》が狼《おおかみ》に向かって、わたしを食べて、というようなものです」
自分の冗談が気に入って、書記官は笑ったが、公使はそれに同調しなかった。笑いがやや不自然におさまるのを待ってから尋《たず》ねる。
「君、例のデンマンとやらいう男が、この騒動にからんでいるということはなかろうな。いかにもあの無頼漢《ぶ らいかん》が好きそうな騒動じゃないか」
「さて、ノルベルト侯爵はともかく、カイゼルがアメリカ人の策謀に動かされるとも思えませんな」
書記官が小首をかしげた。公使は心臓病の薬をポケットから取り出してながめたが、結局、服《の》まずにまたポケットにしまいこんだ。窓に背を向けて執務卓《しつむ たく》の椅子《いす》に腰をおろす。
「いずれにしても、ドイツ軍の好き放題にさせてはおけまい。イギリス公使やフランス公使と語らって、調停に乗り出さなくてはな」
「アップフェルラントの力ではどうしようもありませんからな。吾々《われわれ》が助けてやらねばならんでしょう」
小国を見くびるという点において、ドイツもアメリカも大差はなかった。アメリカ公使たちは、助力と引きかえにどのような権益《けんえき》をアップフェルラントから召《め》しあげるか、すでにそのことだけを考え、打算をめぐらしていたのである。
3
アリアーナは服装をととのえ、古ぼけた鏡に映った自分自身の姿に、皮肉っぽい賞賛の視線を送った。上衣《うわぎ 》なしの乗馬服姿。身軽で動きやすいという点が、このさい最優先課題である。部屋から狭い玄関に出たのは九時一五分だった。
「アリアーナお嬢さま、外に出てはいけません。軍隊がうろついていて危険です」
宿主《やどぬし》であるワレフスキーがそう制した。
「軍隊ってどこの軍隊?」
アリアーナは問い、ワレフスキーが表情と口を濁《にご》らせるようすを見やって低く笑った。
「隠すことはないわ。ドイツ軍だということはわかっているから。どうやらカイゼルが、理性という名の貸衣装《かしいしょう》をぬぎすてたらしいわね」
ワレフスキーは当惑しきって、大きな手をひろげつつ旧知《きゅうち》の女性をたしなめた。
「お嬢さま、わかっておいでなら何もあえて出て行かれることは……」
「わかっているから出て行くのよ。心配しないでちょうだい、ちゃんと武器もあるし」
アリアーナが手にした拳銃は、陸軍大臣ノルベルト侯爵の部下から「調達《ちょうたつ》」したものだった。弾丸は三発しか残っていないが、いくらでも再調達の手段はある。ワレフスキーがさらに何か口にしかけたとき、彼の妻が台所から姿をあらわした。無口な中年の女性である。夫とアリアーナとを交互《こうご 》に見やる、その表情に向けて、アリアーナは笑いかけた。
「迷惑かけたわね、ふたりには。いつか必ず御礼をさせてもらうわ」
「御礼だなんて、そんなことは気になさらんでください。お嬢さまの御父上には、それはお世話になりましたのですから。ボローニアを脱出できたのも御父上のおかげです」
「当人は脱出できなかったけどね」
アリアーナの端麗な口もとに、苦《にが》い翳《かげ》りが落ちた。生きていればちょうど六〇歳になる父親のことを彼女は忘れない。一日一四時間の重労働を強制されるロシア領ボローニアの労働者たち。暴動とストライキ。弾圧と処刑。ドイツ、ロシア、オーストリアの三国に媚《こ》びへつらって祖国の独立を放棄した「三面忠順主義者《ト ル イ ロ ヤ リ ス ト》」たちの卑劣な裏切り。そして父親の死体から流れ出る血と硝煙《しょうえん》の匂《にお》い……。
「ドイツ、ロシア、オーストリア。ボローニアを分割した盗賊どもの帝国がすべて解体されるまで、わたしは活動をやめないわ。彼らの決めた法律なんて知ったことじゃない。彼らが法や正義を口にする資格などないのだから」
アリアーナは玄関の扉に手をかけ、善良な同胞《どうほう》に最後の挨拶《あいさつ》を送った。
「さようなら、ワレフスキー。あなたたちには平和な生活がふさわしいと思うわ。うらやましいけど、わたしの生きかたとはちがう」
「アリアーナお嬢さま……!」
ワレフスキーの声が彼女の背中に弾《はじ》けた。アリアーナは街路に飛び出し、雌豹《めひょう》のような速さと柔軟さでワレフスキーの声のとどく範囲から脱した。五分後、彼女は二重の安堵《あんど 》をおぼえて歩調をゆるめた。ワレフスキーの制止の声から逃がれえたこと、そして五月一日以前の体力と俊敏性を回復しえたと判明したこと。それが安堵の原因であった。
ただ、完全に旧状《きゅうじょう》を回復できたわけではなかった。頼もしい忠実な戦友の姿が、アリアーナの傍から欠けていた。アッチラを彼女のもとに呼びもどすことができないかぎり、満腔《まんこう》の自信がよみがえることはないであろう。
上衣《うわぎ 》を欠いた乗馬服という装《よそお》いは、奇異なものであるにちがいないが、シャルロッテンブルクの市民たちはさほど彼女に関心を示さなかった。それどころではなかったのだ。クーデター部隊が逃げ、ドイツ軍が追い、双方の間に銃火が青く赤く橋をかける。路上に遺棄《いき》死体が点在し、硝煙が薄い靄《もや》となってただよう。人通りもすくなく、アリアーナを見とがめるような者はいなかった。
浮浪者ひとすじ半世紀のヨハン老人は、アリアーナを「パリの女」と評したが、その観察はあながち誤りではなかった。アリアーナはフランス人ではなくポーランド人であったが、幾度もパリを訪ね、滞在期間は合計して三年以上になる。
ポーランド人はフランスに対して好意的であることが多い。大国でありながら、フランスはポーランドを侵略したことがないのだ。「フランスとポーランドとの間にはドイツがあるからな。侵略したくてもできなかっただけのことさ」という評もあるが、一時的にポーランドをロシアから独立させ、「ワルシャワ大公国」をつくらせたのはナポレオン・ボナパルトであった。それに恩義を感じて、旧ポーランド王族であったユーゼフ・アントニー・ポニアトフスキー元帥はナポレオンに忠節《ちゅうせつ》をつくし、一八一三年ライプチヒ会戦において戦死をとげた。「キュリー夫人」の名で知られるマリア・スクウォドフスカも、パリに留学した。ロシア支配下の祖国では、女性が大学に進学することは禁じられていたのである。
アリアーナは、祖国ポーランドを滅ぼした三つの皇室を激しく憎悪していた。ロシアのロマノフ王朝、オーストリアのハプスブルク王朝、そしてプロイセン(ドイツ)のホーエンツォレルン王朝。この三つの王朝が流血と劫火《ごうか 》のうちに滅び去るまで、心やすらぐことはないであろう。ワレフスキーに言明したことは嘘《うそ》でも誇張《こちょう》でもなかった。
幾度かドイツ兵の小集団に出会って、そのつどアリアーナは建物や樹木の陰に身を隠した。彼女がねらっているのは、愚かにも単独行動をしている兵士だった。そういう兵士は、しばしば掠奪《りゃくだつ》や暴行の誘惑に我を忘れ、周辺への注意を怠《おこた》るものだ。二〇分ほどの孤独な探索行は、正しく報われた。一軒の家から、服装をやや乱した若い兵士があらわれたのだ。たるんだ笑いを浮かべて、片手で襟《えり》もとをなおしながら早足に歩き出す。狭い路地の前を通過した直後、彼のいかがわしくささやかな幸福感は市街の外に飛び去ってしまった。背中に硬いものが押しあてられたのである。
「動かないで、ボッシュ、いま動くと、将来、永遠に動けなくなるわよ」
ボッシュとはドイツ兵を揶揄《やゆ》したり罵倒《ば とう》したりするときに使用する呼称である。憤慨したとしても、ドイツ兵は、感情のままに行動することができなかった。眼球だけを動かして、背後の敵を何とか確認しようとするが、とうてい不可能であった。命令どおりに左手で拳銃を抜き、腰の後ろへその手をまわす。左手に加わった重量が失われ、ほとんど同時に、ヘルメットからはみ出た後頭下部に衝撃が走った。ドイツ兵は前のめりに倒れ、異国の石畳に頬《ほお》ずりして気絶した。
シャルロッテンブルクの市街を、ドイツ軍は完全に掌握《しょうあく》したわけではなかった。切り離された列車に乗っていた将兵が戦力として失われたのがその一因《いちいん》である。したがって、アルフレット・フライシャー警部と三人の仲間が首都への潜入に成功したのは、自分たち自身の功績の結果であるといってよいであろう。
少女と少年と科学者とを、ひとまず中央駅に近い廃屋《はいおく》に隠れさせておいて、フライシャー警部はひとりで騎馬憲兵隊の本部へ行ってみた。兵士たちは出動してしまったようで、誰もいないかに見えたのだが、
「フライシャー准尉《じゅんい》!」
旧《ふる》い階級で彼を呼ぶ声がして、騎馬憲兵隊の制服を着た若い下士官が駆け寄ってきた。警部と旧知の人物だった。彼の口から、警部は首都の事情を聞くことができた。
「とにかく何が何だか事情がよくわからんのです。陸軍大臣がクーデターをおこした、それに乗《じょう》じてドイツ軍が攻めてきた、そこまではいいとして、ドイツ軍と、陸軍大臣一派とが交戦してるんですからね。てっきり奴ら手を組んでいたものと思ってたんですがね」
「ドイツ軍はわが国に恩を押し売りする気なのさ。陸軍大臣は利用されただけだ。とんだ道化者《どうけ もの》だ」
警部が短く説明すると、下士官は得心《とくしん》し、舌打ちの音をたてた。
「なるほど、そういうことか。ドイツ軍は陸軍大臣をやっつけて、自分たちの功績にするつもりなんですな。そしてそれを口実に、ドイツの権益を要求する……」
「そういうところだな」
「とんでもない奴らだ。あんな奴らにアップフェルラントをいいように、弄《もてあそ》ばれてたまるものか。思い知らせてやるからな」
若い下士官が素朴な義憤《ぎ ふん》を発したとき、遠からぬ距離で銃声がとどろきわたった。たてつづけに二発、瞬間の差を置いてさらに三発。警部と下士官は、申しあわせる必要もなく、それぞれの拳銃を引きぬいた。
4
銃声につづいて湧《わ》きおこった音は、聴きあやまりようもなかったドイツ兵の軍靴《ぐんか 》が石畳を鳴らす音である。充分に用心しつつ、フライシャー警部と下士官は玄武岩《げんぶ がん》づくりの建物の角から街路を眺めやった。小銃をかまえた一団のドイツ兵が、誰かを追っている。追われる者の姿を見て、警部は声をあげてしまった。
「……あいつ!」
「お知合《しりあ 》いですか、准尉」
興味しんしんの質問には答えず、警部は下士官の肩に手を置いた。
「馬を貸してくれ、一〇分で返すから」
「え、よろしいですとも。フライシャー准尉に馬を使っていただくのは、騎兵として無上《むじょう》の光栄です」
喜んだ下士官は、自分の馬を引き出すために宙を駆けていった。
ドイツ兵の一団に追われていたのは、上衣《うわぎ 》を欠く乗馬服姿の女だった。そのような服装で、拳銃を持った女といえば、一九〇五年五月六日という時点で、アップフェルラントの国境内にはひとりしか存在しない。そのひとりが「ボッシュ」の一団に追いつめられて|○《ゼロ》に帰しようとしたとき、大きな黒い風のかたまりが、逃亡者と追跡者の間に割ってはいった。アリアーナの肩に、まさに手をかけようとしたドイツ兵が、驚愕《きょうがく》の叫びとともにはね飛ばされ、戦友のひとりを巻きぞえにして石畳の上にひっくりかえった。
「乗れ!」
馬上の男がアリアーナにむけて手を差しのべた。ためらう理由がアリアーナにあったとしても、それを振りおとすべき事情のほうがはるかに大きかった。アリアーナは相手の手をにぎり、石畳を蹴った。彼女の身体は地上から空中へ、さらに馬上へと、瞬時に移動を果たした。
馬蹄《ば てい》が勢いよく、律動的に石畳を蹴りつける。
遠ざかる騎影《き えい》を半ば呆然《ぼうぜん》と眺めていたドイツ兵たちが我にかえった。怒号とともに銃声がつらなり、馬上の逃亡者めがけて銃撃が集中する。だが騎手は、巧妙な乗馬術にくわえて、シャルロッテンブルクの街路に精通していた。すばやく馬首をめぐらして横道にはいりこみ、銃弾はむなしく石畳を穿《うが》ち、建物の壁を削《けず》りとっただけである。息をきらしながらドイツ兵たちが横道に達したとき、そこにもすでに逃亡者たちの姿はなく、馬蹄のひびきが遠ざかるのを確認したにとどまった。
五分後、アリアーナとフライシャー警部は騎馬憲兵隊本部の近くで馬からおりた。警部がかるく頸《くび》すじをたたくと、人間ふたりの荷重《かじゅう》から解放された馬は、さっさと自分の住居へ帰っていった。残された人間の男女は、いまや市街のいたるところを横行《おうこう》するドイツ軍を避けて、とりあえず裏道を歩きだした。
「借りばかり一方的に増えるのはいい気分じゃないわね。とりあえず御礼をいっておくわ。ドイツ語がいい? それともボローニア語?」
「いったい何ヶ国語しゃべれるんだ」
「八ヶ国で結婚|詐欺《さぎ》がやれるわ」
アリアーナは答え、その表情を見ながらフライシャー警部は考えた。可能性はともかくとして、彼女は、それを実行したことがあるのだろうか。
「それにしても、機《き》を見るに敏《びん》なお前さんが、どうしていつまでも、こんなけちな山国でうろうろしてるのかね」
「理由の第一は、ドイツ軍が嫌いだからよ」
「そいつはおれと同じだ。で、第二の理由は?」
「アッチラを救い出すの」
陸軍大臣邸に囚《とら》えられたままの黒い猛獣を、アリアーナは見すてることができなかった。アップフェルラントから逃亡するにしても、アッチラと同行するのでなければ意味はない。ほう、といいたげなフライシャー警部の表情を見て、アリアーナは肩をすくめた。
「理解してもらう必要はないわ。アッチラは人間ではないけど、わたしの親友なの。片手に載《の》るような乳児《あかんぼう》のころから育てたわ。ずっといっしょだった」
アリアーナは大西洋の西岸に一年ほど渡航していたことがある。アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジルと各国を渡り歩いた。祖国を再興する運動の資金を集め、各国に散在しているポーランド移民の協力をえるのが目的だった。ブラジル北部の都市ペナンで、檻《おり》のなかに囚われている雌《めす》のブラジル猫を見かけた。人間を襲ったため射殺されることになったという。その雌は仔を妊《はら》んでおり、出産の直後に殺された。売りに出された仔を、アリアーナは買いとったのである。アリアーナの掌《てのひら》からミルクをなめとっていた仔猫は、急速に成長していまや被保護者から勇猛な護衛者になった。
この数年、アリアーナが心から信頼し、親しんだのは、漆黒《しっこく》の衣をまとったこの「友人」だけであったのだ。
「どうも理解できんなあ」
「そうでしょうとも」
「おれがいっているのは、べつのことだ。アッチラが檻に閉じこめられているのを、それほど憎む君が、どうしてフリーダ・レンバッハを鎖につないで平気でいられたのか。それが理解できない」
アリアーナは即答しなかった。やがて答えた彼女の声には、自分の行為を正当化できずにいるいらだちがこもっていた。
「あの子はドイツ人よ。わたしはドイツ人すべてを憎んでいるの」
「本気でいってるのかな」
「どう答えれば、あなたは満足するの。悪うございました、今後、悔いあらためます。そういえばいいわけ?」
アリアーナの両眼が烈《はげ》しい光をたたえた。このような表情をするとき、彼女の美しさは単なる造形をこえる。烈しい挑戦の意思と、停滞《ていたい》を拒否する行動とが、ペチコートやパラソルに飾られた多くの美女たちと彼女との間に太い一線を画《かく》していた。彼女が男装を選んだのは必然であるように思われた。美女もさまざまだ。エプロンとスープの湯気《ゆげ》とが似あう女《ひと》もいれば、フロックコートと拳銃がふさわしい女もいる。
中央駅近くの廃屋では、ヴェルたちが気をもんでいるであろう。早く彼らと再合流して今後の行動を決するべきであったが、フライシャーは、ついつい、先日まで敵対していたはずの女性と別れがたい気分になっていた。
「あのアッチラという君のお仲間は、まだ実際に人を殺したことがないだろう」
「どうしてそう思うの」
「ブラジル猫は一度でも人血《じんけつ》の味をおぼえると、飼主のいうことなど諾《き》かなくなる。君に忠実なのは、まだ人血の味をおぼえていないからだ」
「くわしいのね。ブラジルに行ったことがあるの?」
「いや、世の中にはありがたいことに本というものがあってね。それで憶《おぼ》えただけさ」
フライシャー警部は、彼女に話しておくべき件がべつにあったことを想い出した。ヨーク・デンマンという男のことである。例の廃鉱で肢《あし》を骨折したと聞いても、アリアーナはべつに同情せず、生命があっただけ幸福というものだ、と見解を述べた。じつのところフライシャーも同感であったが、再起不能となったデンマンとしては、異《こと》なる言分《いいぶん》があるにちがいない。
「あんな役たたずの男と一時期でも組んだのは、一生の不覚だわ。ウォール街からいくらでも独立運動の資金を引き出せる、なんていうから仲間にしてやったのに」
「デンマンは小悪党だ。大悪党はウォール街の奥にひそんでデンマンのような奴らをあやつり、使いすてにするのさ」
彼らは足をとめ、建物の壁にはりついて、小走りに移動するドイツ兵の一団をやりすごした。どこかで銃声がひびく。小さな国の小さな首都は、まだ平穏にほど遠いようであった。
「ところで、もう新兵器とやらを手に入れるのは断念したのかね」
「あいにくと、わたしは執念深《しゅうねんぶか》いの。まだあきらめたわけではないわ。弱小国にこそ強力な兵器が必要なのよ。今日のこのありさまを見て、あなたもそのことに気づいたと思うけど」
フライシャー警部は否定的な表情をつくったが、アリアーナはそれに気づかぬふりをした。
「どう、あなた、わたしと組んでみない? デンマンなんかよりずっと有能で信頼するにたりると思ってるのだけど」
「光栄だがね、おれは君よりずっと器量の小さい男なんだ。大西洋を股《また》にかけて三大帝国に挑戦する気はない。このけちな山国で生涯を終えるつもりなんでね」
「そう……わかったわ」
うなずいて、アリアーナは急にそっけない表情をつくったのだった。
……九時四〇分、シャルロッテンブルクではあらたな混乱が生じた。この時刻になると、市民の口から口へと情報が伝わり、猫といっしょに窓辺にすわっている老婦人でも、ドイツ軍使攻の事実を知っていた。陸軍の一部がドイツ軍と銃火をまじえ、死者が出たことも伝わって、侵略者に対する市民の怒りは急速に拡大した。戦死したアップフェルラント兵士の死体をかたづける際に、ドイツ兵の態度が乱暴であったことから、ついに実力が行使されるにいたったのだ。
「出て行け、ボッシュ!」
声とともに、ドイツ兵の顔に泥玉《どろだま》が弾《はじ》けた。これがきっかけとなって、市民はいっせいに投石を開始した。街路から街路へ、広場から広場へ、自発的な抵抗の波はたちまち拡大して、いたるところでドイツ兵は罵声《ば せい》と投石の雨をあびた。
「出て行け、ボッシュ! お前たちの国に帰れ!」
「戦争をやりたいんならロシアかイギリスとやれ! 小さい国ばかり相手にしやがって」
これに対し、ドイツ軍は威嚇《い かく》射撃によって報いたが、投石をとどめることはできなかったので、軍刀を振りまわしての突撃で市民を追い散らした。それでもふたたび投石がはじまり、ついにドイツ軍は無差別射撃の決断を下しかけた。それが実行されなかったのは、女王が自《みずか》ら王宮二階の露台《バルコニー》にあらわれて、投石をやめるよう市民を説得したからである。
女王カロリーナの本心としては、市民と共にドイツ軍に投石してやりたいくらいである。だがドイツ軍を逆上させれば、どのような惨劇《さんげき》が生じるかわからない。中国や南西アフリカで、非武装の住民相手にドイツ軍がどのような蛮行《ばんこう》をおこなったか、彼女は知っていた。「忠勇なる大ドイツ帝国軍人ひとりの生命は、野蛮人一〇〇〇人の生命に値《あたい》する」というのが、ドイツ軍お得意の台詞《せ り ふ》だった。ドイツ軍の蛮行の基底には、民族的あるいは宗教的な偏見がある。アップフェルラント人はドイツ民族でありキリスト教徒であるが、同じ民族、同じ宗派どうしで殺戮《さつりく》しあった例はいくらでもあるのだ。
投石さわぎがひとまずおさまった一〇時三五分、女王のもとをひとりの客人が訪れた。ドイツ公使である。ドイツにとって、事態はしあげ[#「しあげ」に傍点]の段階にはいったようであった。
5
ドイツ公使はデル・ウェンゼ将軍と対照的で、飢《う》えた馬のように顔が長くて痩《や》せた初老の男だった。「五月事件」はこれまでカイゼルと陸軍の主導によって進行し、外務省や公使館は疎外《そ がい》されがちであったが、ついに外交官が登場する場面になったというわけだ。公使はたいそう張りきっており、デル・ウェンゼ将軍に外交の何たるかを教示《きょうじ》してやろうという熱意で体温を上昇させていた。
「女王陛下にはご無事でよろしゅうございました。謀叛《む ほん》人ノルベルトはわがドイツ軍によって逮捕され、もはや再起は不可能。陛下にはご安心くださいますよう」
「わざわざお教えくださって恐縮です。公使。それにしても、ノルベルト侯もさぞ不本意《ふ ほんい 》なことでしょうねえ」
おだやかな皮肉を受けて、公使は大きな咳《せき》ばらいをした。
「とにかく国際間の正義はつらぬかれました。めでたいことと存じますが」
「国際間に正義というものが存在するとすれば、それは小国の権利が大国の横暴によって害《そこな》われないということです。ドイツも統一されるまではナポレオンに支配されたりしてたいへんでしたね。どうやらお忘れのようですけど」
ふたたび公使は咳ばらいした。
「失礼ですが、くやしいとお思いでしたら貴国も強くなることですな。そうすれば他国から侮《あなど》りを受けずにすみましょう。もっとも、そのような機会はもはや訪れないでしょうが」
露骨《ろ こつ》な脅迫であった。公使本人の判断はともかく、弱小国に対する列強の外交というものは、所詮《しょせん》、脅迫と恫喝《どうかつ》に化粧をほどこしたにすぎない。それを熟知《じゅくち》しているカロリーナ女王は、ことさらにとぼけてみせた。
「ご心配にはおよびませんよ、公使、わがアップフェルラントは、どんなにドイツが弱くなっても侵略などけっしてしませんからね。相手が弱いからといってつけこんだりしないのが大国の節度、品格というものですからねえ」
公使は一瞬、顔をひきつらせたが、舌戦《ぜっせん》で勝敗を決する気はもともとない。
「ドイツ皇帝よりアップフェルラント女王陛下に対し、両国合併の申しこみをいたします」
ついに明確な宣告が出された。公使はたてつづけに、ドイツ側の勝手な条件を並べたてた。
「陛下ご一代にかぎり、女王の称号はそのまま保持《ほじ》していただいてけっこうです。嫡孫《ちゃくそん》であられるレオンハルト王子には、公爵の称号が与えられ、末代まで爵位を伝えることが許されるでしょう」
「誰が許すのかしらね」
「むろん、わがドイツ皇帝陛下であらせられます」
背筋《せ すじ》を直線化させて公使はおごそかに答えた。カロリーナ女王は軽く頭を横に振った。
「それはそれは、ありがたいこと。それであたらしい国名はどうなるのでしょうね」
「当然、ドイツ帝国となります。アップフェルラントは由緒《ゆいしょ》ある古名《こ めい》に復《ふく》し、ドイツ帝国ザルツラント州として偉大なる帝国の一翼をになうことになるでしょう」
「なりませんよ」
温顔《おんがん》のまま、カロリーナ女王は、ドイツ人の血なまぐさい夢の城に石をぶつけた。一瞬、声を失った公使にむかって、女王は淡々と語りかけた。
「ドイツはドイツ、アップフェルラントはアップフェルラント、それぞれ他国に迷惑をかけず、仲良くやっていきたいものです。まず最初に、ドイツ軍には自分たちの国へ帰っていただきましょう」
「女王陛下には、現状をご理解いただけないようですな」
公使の唇がゆがみ、それに応じて、押し出される声もゆがんだ。彼の貧弱な忍耐力は限界に達しつつあった。女王のほうはといえば、最初から変わることなく、平静を保《たも》っていた。
「いいえ、理解していますとも。ですからこうしてあなたと話しあってるんですよ、公使」
……こうして、ドイツ公使が老女王を屈服させるべく努《つと》めている間に、ドイツ軍には小さな不手際《ふ て ぎわ》が生《しょう》じていた。
陸軍大臣ノルベルト侯爵が、自邸に連行されたとき、ドイツ兵のわずかな隙をついて地下室に駆けこみ、内部から鍵《かぎ》をかけてたてこもってしまったのである。彼を追ったドイツ軍は、地下室の扉を開こうとしたが、頑丈《がんじょう》な鉄扉《てつぴ》をあけることは困難であった。報告を受けて、デル・ウェンゼ将軍は舌打ちしたが、さほど危機感はそそられなかった。絶望の末に狂乱した陸軍大臣の行為を笑いとばす余裕があった。たったひとりで地下室にたてこもったところで、何ができるというのであろう。出て来なければ餓死《がし》するというだけのことである。大砲で鉄扉を吹きとばし、力ずくで再逮捕してもよいが、それもおおげさなことであった。
「しばらく放っておけ。腹がへったら投降してくるだろう。ふん、小国には小国にふさわしい小人《しょうじん》がいるものだ」
デル・ウェンゼ将軍には、もっと重要な課題があった。シャルロッテンブルクへの進駐に成功したこと、列車砲「台風《タイフーン》」を失ったこと、以上の二点をカイゼルに報告しなくてはならない。成功を大きく、失敗を小さく報告するために、知恵をしぼらなくてはならないのである。あやつり人形として使いすてられた陸軍大臣が餓死しようと自殺しようと、もはや関心はなかった。
地下室の鉄扉の前に一〇名ほどの兵士が配置されて、陸軍大臣が力つきて投降してくるのを待ちかまえることになった。失意の陸軍大臣が鉄扉の奥で何を考えているのか、ドイツ兵たちは笑いながら話しあったが、誰ひとりとして事実を想像しえた者はいなかった。
薄暗い地下室のなかを陸軍大臣は歩きまわっており、彼の片眼鏡《モ ノ ク ル》には白い異様な光がちらついていた。
「アッチラといったな。お前に血の味を覚えさせてやるぞ。ドイツ兵の血の味を覚えて、奴らを喰《く》い殺せ」
彼がささやきかけた相手は、鉄の檻に閉じこめられた黒い猫科の猛獣であった。自由を奪った相手に、アッチラは低いが激しい抗議の唸《うな》りをあげた。その声がおさまり、アッチラは両眼に黄色い疑惑の光をたたえた。アッチラの前に、赤黒い液体がしたたり、小さな池をつくりはじめたのだ。黒い猛獣はその刺激的な匂いをかぎ、桃色の長い舌を伸ばしてなめはじめた。軍用ナイフで左手首の血管を切った陸軍大臣の顔に、理性を喪失したすさまじい笑いがこびりついている。自分の生命を惜しまぬ復讐《ふくしゅう》の笑いであった。
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第九章 未来と未来
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小さい耳ざわりな音が、ドイツ軍の兵士たちの神経に、見えない爪をたてた。鉄扉《てつぴ》のむこうがわから、その音はひびいてきたのである。兵士たちは銃をかまえて鉄扉の前に並んだが、奇妙には思っても、まだ危険をおぼえてはいなかった。
「何の音だ、あれは」
「這いずりまわって咆《ほ》えたててるのさ」
「誰《だれ》がそんなことを?」
「失意《しつい 》の陸軍大臣閣下さ。気の毒に、アップフェルラントのナポレオンになりそこなったんだ。くやし涙が樽《たる》からあふれても当然だろうぜ」
ドイツ兵たちはうなずきあい、冷笑とも憫笑《びんしょう》ともつかぬ表情を顔にきざんだ。あきらめて投降するよう、彼らは鉄扉のむこうがわに呼びかけた。だが。
「おい、人間の声じゃないぞ、あれは」
ひとりがささやき、仲間たちの表情を硬化させた。彼らが鉄扉に耳をよせると、何種類もの音が同時に聴覚に流れこんできたが、そのなかには明らかに動物のうなり声がまじっていたのである。
兵士のひとりが鉄の扉を軽く押してみた。内部から鍵《かぎ》がかかっていたはずなのに、扉はわずかに動いて、紙何枚分かの隙間《すきま 》がつくられた。
血の匂《にお》いが、目に見えない鋭い細刃《さいじん》となってドイツ兵たちの鼻孔《び こう》を突き刺した。彼らはためらいつつさらに扉を押した。扉は抗議するようなきしみをあげて大きく開いた。
兵士たちの視線が室内になだれこむ。
「うっ」と呼吸をとめるうめき声が彼らの口からもれた。彼らが見たのは、心臓と肺が緊《し》めつけられるような光景であった。石の床に血みどろの物体が倒れている。それがアップフェルラント王国陸軍大臣ノルベルト侯爵の死体であることを、ドイツ兵たちは衝撃とともに理解した。牙《きば》と爪で陸軍大臣を引き裂いた犯人は、被害者の身体に前肢《まえあし》でのしかかっている。黄玉《トパーズ》色の両眠が底知れぬ魔的な吸引力《きゅういんりょく》で兵士たちの瞳《ひとみ》をとらえて離さない。
陸軍大臣ノルベルト侯爵は、自《みずか》らの生命を道具として、ブラジル猫の本能を呼びおこしたのであった。音をたてぬよう地下室の鍵をあけ、檻《おり》の鍵をあけ、自分の血をアッチラの前にしたたらせた。
嗅覚《きゅうかく》から味覚へと移った感触は、アッチラの脳に達してそこで音もなく炸裂《さくれつ》した。アッチラの意識と知覚は血に支配された。すべてを忘れた。過去を失い、現在の欲望だけがアッチラをとらえたのだ。
そのような事情を、むろんドイツ兵たちは知らない。アッチラを見て黒豹《くろひょう》だと思い、知らぬままに恐怖《きょうふ》をそそられた。とにかく危険な猛獣であることはたしかだった。彼らは競《きそ》うように銃口を黒い野獣に向けた。
ただちに射殺すべきであった。だが、ドイツ兵たちはためらった。やたらと室内で発砲しては、跳弾《ちょうだん》の危険がある。
ためらいは、ほんの一瞬でしかなかった。だが、アッチラにとっては一瞬で充分だった。咆哮《ほうこう》をあげて殺意を知らせるようなまねはしなかった。アッチラは無言のうちに、立ちすくむ兵士たちに向かって跳躍した。
絶叫が連鎖《れんさ 》した。ドイツ兵のひとりが顎《あご》の下から血を噴き出させ、回転しながら石の床に倒れた。そのときすでにふたりめが、顔面を血のかたまりに変えてのけぞっている。アッチラの爪が鼻をくだき、唇をかき裂き、前歯を吹きとばしたのだ。
「わ、わ、わ」
惨劇《さんげき》を目撃した兵士たちの口から、意味のない絶叫がほとばしった。誰かが夢中で引金をひき、銃声が石の壁に反響した。弾丸は命中せず、石の壁にあたって跳ねた。発砲した兵士の頭からヘルメットがとび、黒い影がその頭上を躍りこえる。
地下室の外に出たとき、はじめてアッチラは咆哮《ほうこう》した。解放の喜びと、血に対する欲望とをまぜあわせた声であった。仰天《ぎょうてん》したドイツ兵たちが、地上から地下への階段にむらがった。士官が叫んだ。
「撃て! 撃ち殺せ!」
命令する声は悲鳴に急変した。アッチラは兵士たちの間を駆けぬけるようなことはしなかった。跳躍し、空中を通路として、士官にまっすぐ襲いかかったのである。異様な音がして、士官の首は半ばもぎとられた。
士官の身体は血をまきちらしながら階段を転落していく。それといれかわるように、アッチラの黒い影は階段を駆けあがった。
廊下から玄関ホールへ。ほとんど一秒ごとに、驚愕《きょうがく》と恐怖をふりまきながらアッチラは疾走《しっそう》し、玄関から屋外へ出た。ふりそそぐ五月の陽光をあびて庭を駆ける。あいつぐ銃声におどろいていた外の兵士たちが、またも驚愕した。
「何だ、こいつは……!」
疑問の声は、またしても急変して悲鳴となり、銃声が兵士たちの鼓膜《こ まく》を乱打した。交錯する銃火の一本として、疾走と跳躍をくりかえす黒い影をとらえることはできなかった。アッチラは高い石の塀《へい》を跳びこえ、ついに牢獄《ろうごく》から脱出して姿を消してしまった。血まみれの死者と汗まみれの生者が後に残された。
陸軍大臣邸の内外でドイツ軍が血なまぐさい不幸を味わっていたころ、フライシャー警部は何とかヴェルたちとの合流を果たそうとして市街を移動していた。何となくまだアリアーナも同行している。フライシャーが仲間と別れた廃屋《はいおく》の近くに、ドイツ軍の二個小隊がうろついていて、うかつに近づけないのである。その兵士たちが急に移動していったのは、黒い怪物の出現が報告されたからだが、そこまでの事情は警部たちにはわからなかった。
廃屋に駆けこみ、低声《こ ご え》でヴェルたちの名を呼んだが、すぐには反応がなかった。靴音をたてぬよう用心しながら探しにかかる。アリアーナが自嘲《じちょう》するようにつぶやいた。
「まったく、わたしは世界じゅうでこんなことをしてるわ。ボローニアが自分自身の自由と独立を守れるほど強い国だったら、わたしも苦労しなくてすむし、他国に迷惑もかけないのに」
そうかな、と、フライシャーは思った。
アメリカ合衆国の例がある。一八世紀後半、宗主国《そうしゅこく》イギリスの暴虐と圧政に対して独立革命の旗をひるがえしたとき、この国は「侵《おか》さず侵されず」という理想のために戦ったはずなのである。そして自分自身の自由と独立を守れるほど強い国になろうとした。
それが現在はどうだ。陰謀と軍事的圧力によってハワイ王国を併合し、スペインの国力|衰微《すいび 》に乗《じょう》じてフィリピンとプエルトリコ、グアムを奪い、キューバを属国にした。コロンビア共和国からパナマ地峡をもぎとった。ヨーロッパ列強の悪いところばかり模倣《まね》しているように見える。ポーランドが独立を回復した後、アメリカの模倣をしないとはかぎらない。そうでないとしたら、また別の苦難が待っているだろうが。
で、ポーランド、いや、ボローニアが独立を果たしたら、あとはどうする。やることがなくなるだろう」
「そのときは平和に暮らすわ。花でも栽培《さいばい》しながら、ボローニアの歴史でも書くのはどう?」
「むりだろうな」
と、口には出さなかったが、フライシャーは思った。アリアーナに平穏とか隠棲《いんせい》とかいう言葉は似あわない。そう思ったのだが、むろんフライシャーの観察が完全に正しいともかぎらない。彼が心|惹《ひ》かれた女性が、これまでそういう印象を与えなかったというだけのことである。
フライシャー警部が身がまえたのは、廃屋のなかに靴音がひびいたからだが、あらわれたのは王立学士院会員レーンホルム博士だった。飛行服のポケットに丸めた紙の束をつっこんで、指にインクの染《し》みがついている。
「やれやれ、ようやくもどってきたか。蕩児《とうじ 》の帰宅というところだな」
レーンホルム博士は皮肉っぽくいいながら後ろにつづく者を手招きした。騎馬憲兵隊のツェーレンドルフ大佐が姿をあらわす。つい先刻、市内に潜入してきたというのである。ヴェルとフリーダは、子供だから見とがめられる危険もすくないという判断で、総理大臣官邸にようすを見に行ったということも、警部は聞いた。大佐は鼻を鳴らした。
「なさけない、まだかたづいとらんとはな。わしが来るまでにドイツ軍の一個師団ぐらい全滅させてしまわんと、いかんじゃないか」
「そう簡単にはいきませんよ」
フライシャー警部は苦笑した。老大佐にかかると、まだ軍隊に籍をおいていた二〇代前半のころを想いだしてしまう。
ツェーレンドルフ大佐は、鉄道や馬を使ってようやくシャルロッテンブルクまでやってきたのだという。苦労話をはじめようとして、老大佐はアリアーナの存在に気づいた。口髭《くちひげ》の下で、唇の両端がつりあがる。
「ほほう、お前さんは乗馬の名人だが、今度は美しい雌《めす》のじゃじゃ馬を乗りこなすことにしたのかね」
「下品な表現をせんでください、大佐どの」
「何が下品だ。いきのいい雌馬ほど美しいものはこの世におらんぞ。せいぜい振り落とされんようにするんだな、未熟者め」
フライシャー警部は返答しなかった。とうてい老大佐に対抗できぬことは明らかであった。「じゃじゃ馬」よばわりされたアリアーナは、「美しい」という形容詞のほうを重視することにしたらしく、感情を害したようすは見せなかった。老大佐は話題を変えた。
「で、美しくない馬のほうだが」
これは片肢を折った不幸なヨーク・デンマン氏のほうである。廃鉱の案内人クラフトが手配して、遅くとも明日じゅうには担架《たんか 》で廃鉱の外へ運び出されるだろう。現地の病院に直行して、歩けるようになりしだい国外追放ということになる。もっとも、生涯にわたって松葉杖《まつば づえ》を手離すことはないであろう。
何かが彼らの視界の隅をかすめ去った。
それは人間ではない。黒い大きな影であった。廃屋の窓の外を、躍るとも走るともなく通りすぎていったのだ。
「アッチラ……?」
アリアーナがつぶやき、フライシャー警部とともに屋外に出て確認しようとした。ドイツ兵の一隊があらわれたので、すぐ建物の蔭《かげ》に身をひそめねばならなかったが、担架《たんか 》で運ばれる死者を見、恐怖と憎悪をあからさまにしたドイツ兵たちの会話を耳にして、彼らは事情をさとった。
「血の味をおぼえたらしいな」
フライシャー警部のつぶやきに、アリアーナは激しさをこめた声で応じた。
「殺されてるのはドイツ兵だけよ。武器を持って、それを使った連中だわ。同情する必要などあると思えない」
「そのうち無力な市民を襲いだすだろう。あるいは、その前にドイツ兵に射殺されるかもしれん。いずれにせよ、早いところ探しだしたほうがよさそうだ」
その点には、アリアーナも異論はないはずであった。彼女はかたい表情で立ちあがり、「ついてこないで」という一言を残して走り去った。フライシャー警部は追わなかった。ヴェルとフリーダのことが気になっていたからである。ひとつ首を振って、彼は総理大臣官邸へとむかった。
2
五月六日も半分が過ぎた。中央駅の駅長室を臨時司令部として、デル・ウェンゼ将軍は公使の交渉の結果を待っている。黒パンとソーセージの大きなかたまりで、前線らしい昼食をすませたデル・ウェンゼ将軍は、壁の鳩時計《はとど けい》を見やった。鳩時計はドイツの工業力が生んだささやかな発明品である。
「公使め、役たたずな。さっさと女王に署名させればよいものを。今日の夜までにはドレスデンにもどれるはずだったのに、何をてまどっておるのか」
デル・ウェンゼ将軍は舌打ちした。その舌打ちの音が消えぬうちに、轟音《ごうおん》が彼の背中を突き飛ばした。よろめいてようやく踏みとどまり、肩ごしに振りむくと、デル・ウェンゼ将軍はわめいた。
「どうした、何ごとだ!?」
もっともな疑問であったが、幕僚《ばくりょう》たちには答える準備ができていなかった。どこか近くで爆発がおこったことだけは確かだったが、たちのぼった煙の量はすくなく、その色も薄かった。ただ、確認された場所が問題で、それは総理大臣官邸の敷地に隣接した警備兵の宿舎だった。警備兵たちは追い出されて無人になっていたはずだったが、そこの調理室の窓が割れ、煙が流れ出していたのだ。ただちに、近くにいた五、六名の兵士が駆けつけた。
踏みこんだ調理室でドイツ兵たちが出会ったのは、強烈なトマトの匂《にお》いだった。くすぶるフライパン、壁と床と天井に飛散した赤褐色の流動体、たちこめる熱気。めんくらって立ちすくむドイツ兵たちのなかで、ひとりの若い兵士がうめき声をあげて口をおさえた。
「どうした、おい!?」
「お、おれ、トマトが苦手《にがて 》なんだ。匂いをかいだだけで気分が悪くなる。吐きそうだ。吐いていいか。吐くぞ」
「ばか、やめろ、吐くなら洗面所へ行け」
戦友たちに廊下に突き出された兵士は、青ざめた顔の下半分を両手でおさえながら洗面所に駆けこんだ。洗面所に顔をつっこみ、こころゆくまで吐こうとした瞬間、後頭部に火花が散った。兵士は洗面台に顔をつっこんだまま両ひざをくずし、気を失ってもたれかかった。暖炉の火かき棒を手に洗面所にひそんでいたのは、フライシャー警部とヴェル、それにフリーダであった。
「トマト爆弾の威力さ、大したもんだろ」
ヴェルは会心《かいしん》の笑いを浮かべた。
ドイツ兵をおびきよせるために、ヴェルが爆発させたのは、トマトの缶詰《かんづめ》だった。イタリアから輸入された皮むきトマトの缶詰。トマトの酸性成分が、安物のブリキを腐食《ふしょく》させ、缶の内部に水素ガスを蓄積《ちくせき》させる。これを加熱すると、水素が急激に膨張《ぼうちょう》して爆発するのだ。かつてヨハン老人から、古くなった安物のトマト缶に気をつけるよう教えてもらったことがヴェルにはあったのだった。
気絶した兵士の軍服を、フライシャー警部が身に着けようとしたが、警部の身体にはひとまわり小さかった。これは不平を鳴らすようなことではなかった。とうとう着がえるのをあきらめ、銃だけ手にして洗面所を出る。充分に用心して、本館の裏手の階段を上り、二階に出た。監視の兵士を避けながら廊下を歩いていったが、吹抜《ふきぬ 》けのホールに面した踊り場でドイツ兵に見つかってしまった。誰何《すいか 》の叫びをあげて、兵士が銃口を動かす。
ヴェルの投《とう》じた花瓶《か びん》が、ドイツ兵のヘルメットに命中して砕けた。ドイツ兵は身体の均衡を失い、花と水と陶片《とうへん》にまみれながら階段を転げ落ちていった。手を離れた銃が、その後を追ってすべり落ちる。
階下から怒声と銃火が襲いかかり、ヴェルとフリーダと警部はあわてて身体を伏せた。壁や天井の表面がはじけ、シャンデリアがくだけ、窓ガラスが割れる。銃声がいったんおさまると、数人の兵士が駆けあがってきた。彼らがあと五段ほどで階上に達しようとしたとき、階段に敷かれたトルコ産の敷物《しきもの》が勢いよく持ちあげられた。ドイツ兵たちは大きくのけぞり、両足で宙を蹴りつけながら落ちていった。したたかに腰や背中を打ち、かさなりあって、すぐには動くこともできない。
身軽な兵士が、吹抜けの高い窓にかかったカーテンに飛びついた。壁面に移動し、樹をよじのぼるよりはやく二階の高さにまで上ってくる。それと見た警部が駆け寄って兵士の腹を蹴とばした。
カーテンの端《はし》をつかんだまま、ドイツ兵は落下した。カーテンの輪《リング》がつぎつぎと弾《はじ》け、窓外からの陽射《ひざ》しを受けて宙にきらめいた。半ばカーテンにくるまれて、ドイツ兵は不幸な戦友たちの上に落ちた。怒りと苦痛の叫びがおこる。
再三の失敗にいきりたったドイツ兵たちが、さらに階上への攻撃をかけようとしたとき、屋外からべつのドイツ兵がホールへ駆けこんできた。興奮した口調で叫びたてる。「黒い怪物」とか「陸軍大臣邸」とかいう名詞が、階上にひそむアップフェルラント人たちの耳を刺激した。ホールではあわただしい動きがおこり、ドイツ兵たちは階上へいまいましげな視線を投げあげながら屋外へ駆け出していった。
二階の一室に監禁されていた総理大臣ボイストは、扉が動いたのを見て思わず椅子《いす》から立ちあがったが、姿をあらわした長身の男を見て喜びの声をあげた。
「おお、フライシャー警部!」
「総理大臣閣下、ご無事でしたか。どうもうかがうのが遅れまして」
「ありがたい。だが、私のことより女王陛下はご無事かな」
総理大臣は言葉を切り、ふいに笑いだした。
「いや、ご無事に決まってるな。ドイツ軍なんぞ陛下に手を触《ふ》れられるはずもない」
彼は、ドイツ軍をしりぞける女王の秘密兵器を知っていたのだが、一方それを気に病《や》んでいる人物もいた。ドイツ軍司令官デル・ウェンゼ将軍閣下である。
「あの黒い猛獣は女王が暗殺や脅迫の道具としてつくりあげたものではないか。ありうることだ。油断できん婆《ばあ》さんだからな」
暗殺とか陰謀とか、そのような発想ばかりしている人間は、他人もそうだと思いこむものらしい。デル・ウェンゼ将軍の脳裏で、アッチラは、アップフェルラントの生きた秘密兵器として、兇々《まがまが》しい輪郭《りんかく》をととのえていった。もしかしたら、あの黒い猛獣がアップフェルラントには何百頭も飼育されており、時間をさだめていっせいにドイツ軍に襲いかかろうとしているのではあるまいか。
そういう妄想をいだいてしまったため、デル・ウェンゼ将軍は市内に分散していた兵力を集め、まず自分の身辺《しんぺん》をかためた後、黒い猛獣を追いつめて殺そうとしていたのである。
このため、ドイツ軍は大いそぎで一ヶ所へ向かって移動し、兵力の空白が至るところに生じた。人質もカロリーナ女王がいれば充分だということになった。その間隙《かんげき》をぬって、フライシャー警部とヴェルとフリーダは、総理大臣を自分たちの臨時本部に案内した。ツェーレンドルフ大佐とレーンホルム博士が、喜んで迎えてくれた。そこで一同はしばらく潜《ひそ》んで時間を待つことにした。
「たぶん夕方には結着がつく。つかないようなら私は出ていって女王陛下のもとに参上するよ」
そう総理大臣は語ったのである。
3
ドイツ公使は焦慮《しょうりょ》の色をかくすことができなくなっていた。王宮に乗りこんで三時間になろうというのに、カロリーナ女王に合併宣言書への署名をさせることができないでいるのだ。シャルロッテンブルクに駐在する各国の公使館からは、しきりに面会を求めてくる。先頭に立っているのはアメリカとフランスで、なぜかイギリスやロシアの公使館が沈黙しているのが、かえって不気味《ぶきみ》であった。
図書室の揺《ゆ》り椅子にすわったカロリーナ女王は、公使のいやみや脅迫を聞き流し、のんびりと編物棒《あみものぼう》を動かしつづけている。それをとりあげてやりたい衝動に耐えながら、公使は何十度めかの台詞《せ り ふ》を口にした。
「すでに両国合併の宣言書はできております。女王陛下のご署名さえあれば、合併はただちに発効し、アップフェルラントは偉大なるドイツ帝国の一部として、栄光に満ちた歴史を共有できるのですぞ!」
「あなたの発言をぜひ記録しておくべきでしょうね、公使」
なお編棒を動かしながら、老眼鏡ごしに女王は公使をながめやった。
「その価値があるわ。中央ヨーロッパ諸国の歴史上、もっとも恩着《おんき 》せがましい脅迫としてね」
「女王陛下、あなたは利己主義者だ!」
公使は声と表情を荒《あら》げた。不名誉きわまる呼びかたをされた老女王は、落ち着きはらって編物の編目をたしかめている。
「あなたは女王の地位を守るために、アップフェルテントの国民を犠牲にするつもりなのだ。ドイツ帝国と合併すれば、アップフェルラントの形式的な独立は失われても、民衆は幸福な生活を送ることができるというのに。大ドイツ臣民《しんみん》として、大国の誇りと栄光に満ちたかがやかしい生活を!」
「そしてカイゼルの気まぐれのままに、赤道アフリカや極東に駆りたてられ、殺さなければ殺されるという状況におかれるわけね」
おだやかに老女王はいい、公使は歯ぎしりした。
「どうやらこれ以上、話しあっても無益のようですな」
「おや、はじめて意見が一致しましたね」
老女王は笑い、はじめて編棒を動かす手をとめた。
「では、わたしも最後通告を出すことにしましょうね、公使」
「何と……!?」
公使は唖然《あ ぜん》とした。この女王は自分が置かれた状況を理解できないのか。最後通告を出すのは公使のほうではないか。だが女王は、彼のおどろきを無視して、はっきりと告げた。
「ただちに兵をまとめて、あなたがたの国にお帰りなさい。今日のうちに。そうしたら、ドイツは滅亡せずにすみますからね」
「こ、これは笑止《しょうし》なおっしゃりよう……」
「でないと、デンマーク血盟《けつめい》が発動されますよ。ヨーロッパの八ヶ国が、同時にドイツに宣戦布告します。それでもいいの?」
女王は説明をはじめ、それが進むにつれ、公使の表情がみるみる変わっていった。
ドイツ統一が果たされる以前の西暦一八六四年、プロイセン王国は北方デンマーク王国との間に戦火をまじえ、同国の領土シュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ラウエンブルクを奪った。これはオーストリア・ハンガリー帝国と共同謀議の結果であり、デンマークから奪った三州は勝利国の共同統治下におかれた。だが一八六六年、プロイセンは対オーストリア戦争に勝利し、三州ことごとくを自国の領土に編入してしまう。ドイツ統一にむけて、プロイセンの強引きわまる政戦両略《せいせんりょうりゃく》が動きはじめたのだ。
「勝った勝った、領土が増えた」
勝者はそっくりかえって喜んだが、敗者は怒りと屈辱を忘れなかった。プロイセン、さらには統一ドイツに対するデンマークの反感は、決定的なものとなった。ことにデンマーク国王クリスティアン九世の息子や娘たちは、父王の苦悩を目《ま》のあたりに見て、ドイツへの復讐《ふくしゅう》を誓ったのだ。
国王の娘アレクサンドラ内親王《ないしんのう》はイギリス王室に嫁《か》した。その妹ダグマールはロシア皇室に嫁《とつ》いでマリア・フョードロヴィナと名乗った。一九〇五年現在、大英帝国とロシア帝国の君主は、デンマーク王家の一族であり、さらに、ルーマニア、ベルギー、スペイン、ノルウェー、ギリシア、各国の王座もデンマーク王家の血統を受けているのだ。
血統によるドイツ包囲網が、このときヨーロッパ大陸には完成されていたのである。知らぬはドイツばかりというわけであった。
ドイツ公使はうめいた。いまや彼の顔は、肺炎にかかった老馬《ろうば 》のように、弱々しいものになっていた。
イギリス、ロシア、デンマーク、ルーマニア、ベルギー、ギリシア、ノルウェー、そしてスペイン! それらの国々がいっせいに軍を動員させ、ドイツに宣戦布告してきたらどうなるか。デンマークやベルギーは小国だが、この対独大同盟《たいどくだいどうめい》にはかならずフランスが加わるであろうし、そうなれば全ヨーロッパ対ドイツという図式が完成して、ドイツは東西南北から袋だたきになってしまう。
故ビスマルク公爵は、生涯に幾度も対外戦争を指導したが、同時に二ヶ国以上を敵にまわしたことは一度もない。二ヶ国以上を敵にまわすことは外交上の敗北であり、それはただちに戦争それ自体の敗北を意味する。まして一対八ともなれば勝てるわけがない。
公使はよろめき、壁に寄りかかってようやく身体をささえた。ひからびた唇から声をしぼりだす。
「こ、皇帝陛下にお知らせ申しあげて、ご聖断《せいだん》をあおぎます。本職《ほんしょく》の一存《いちぞん》ではご返答いたしかねますので……」
公使を見る女王の両眼には、皮肉と同情とがほぼ等分にふくまれていた。
「そうね、そうしていただいたほうが両国のためにいいと思いますよ。もっともね、公使」
「は……?」
「すでにおたくの皇帝陛下のところには、各国から撤兵《てっぺい》の要請《ようせい》がとどいていると思いますよ。今朝のうちに、わたしが、あちこちに知らせてあげましたからね。電信って、ほんとに便利なものだこと」
「じ、時間をいただきたい!」
公使の声が裏がえり、同時にその身体もひるがえって、図書室を出ていった。扉が開いて閉まるまでのわずかな時間に、廊下にいたドイツ兵の不審そうな表情が女王に見えた。公使のようすがそれほど印象的だったのだ。
「すこしいじめすぎたかしらね」
いたずらっぽい微笑を浮かべて、女王はふたたび編棒を動かしはじめたが、ふとつぶやいた。
「ドイツの先帝が生きていらしたらねえ。ここまでする必要もなかったのに」
ドイツの先帝フリードリヒ三世が生存していれば七四歳になるはずだ。イギリスの内親王である妻と、わずか九九日間の在位期間とを持った彼は、歴史上に多くの可能性を残して五〇代で没した。彼は自分の財産でもっとも貴重なものを、息子に遺《のこ》すことができなかった。つまり、開明的な政治思想と、安定した精神とである。彼はドイツをイギリスのような開かれた議会制民主国家に変え、大規模な社会改革もおこなおうとしていたのだが、すべて実現せず、旧《ふる》いドイツは旧いままにカイゼルの支配を受けるようになってしまった。
「ま、これで今日のうちに結着《かた》がつくでしょう」
女王が揺り椅子にすわりなおしたころ。ドイツ軍の司令官デル・ウェンゼ将軍は、公使とべつの不幸に見まわれていた。黒い怪獣が市街に出没し、ドイツ軍の兵士をつぎつぎに殺してまわって、なおつかまらないのである。
デル・ウェンゼ将軍の口髭と頬肉《ほおにく》は、怒りと屈辱にひきつった。彼の過去の栄光も、未来の名誉も、他者には聴こえぬ雷鳴とともに崩壊してしまった。こんな醜態《しゅうたい》をさらすとは思わなかったのだ。アップフェルラントのような極小国は、ドイツ軍が小指を動かしただけで吹き飛んでしまうはずだったのに。
「その黒い怪物を何としてでも殺せ。殺してしまえ! 世界に冠たるドイツ帝国陸軍が、けだもの一匹にしてやられ、おめおめと母国に帰れるか。どのような犠牲を払っても、かならず殺すのだ」
カイゼルの怒りがおそろしい。同僚の将軍たちの失笑《しっしょう》がこわい。他国の軍人たちの侮蔑《ぶ べつ》に耐えられない。デル・ウェンゼ将軍は冷静ではいられなかった。そこへあらたな兇報が伝わって、デル・ウェンゼの神経網を卒倒《そっとう》寸前にまでかきむしった。幽閉されていた総理大臣ボイストが何者かに救出され、まんまと逃げだしたというのである。
「さっさとつかまえろ!」
デル・ウェンゼ将軍はようやくどなったが、これは命令や指示というより、文字どおり単なる怒号でしかなかった。それとわかっていながら、幕僚が反論しなかったのは、さからえば何をされるか不安だったからである。
彼らが安堵《あんど 》したことに、ほどなく吉報がとどいた。それもふたつつづけてである。ひとつは、例の黒い猛獣を発見し、一斉《いっせい》射撃を加えて負傷させたこと。もうひとつは、脱出した総理大臣ボイストを見つけ、網をしぼるように追いつめつつあるということであった。
デル・ウェンゼ将軍はいささか落ち着きをとりもどし、本来の有能さをしめして、シャルロッテンブルク市街の地図を机上《きじょう》にひろげつつ指揮をとった。
こうして、同一の敵に追われる人間たちと猛獣は、期せずして、たがいに近づいていったのである。それが一点で出会ったのは午後五時すぎ、カウフマン街一四番地のことであった。ドイツ軍の靴音を避けて裏町にはいりこんだ総理大臣、ふたりの少年少女、警部と大佐と博士――六名の人間は、正面に黒と赤の物体を見た。いくつもの銃創《じゅうそう》から血をしたたらせたアッチラだった。黄玉《トパーズ》色の魔的な瞳に出会って、人間たちはとっさに動けなくなってしまった。アッチラが悪意をこめて一歩踏み出したとき、アリアーナがあらわれた。ドイツ兵の動きと、地にしたたる血の跡を追って、黒い毛皮の親友に再会したのだった。
「アッチラ、いうことをお聞き」
アリアーナの声は低く、音楽的なひびきをともなった。子守歌をささやきかけるようにアッチラの心に働きかけようとしている。これまで幾年も生死をともにしてきた、アリアーナとアッチラの仲であった。アッチラの故郷であるブラジル東北部から、船で大西洋を渡り、自然と人工の困難をともに乗りこえてきた。そのことを想いおこさせようとした。
だが、感傷も追憶《ついおく》も、どうやら人間だけのものであったようだ。アッチラは血の匂いと味によって、過去に実在した人間との友誼《ゆうぎ 》を断ちきった。それは種属《しゅぞく》の本能によるものだったが、同時に人間の強制によるものでもあった。死せる陸軍大臣ノルベルト侯爵の呪《のろ》いが、アッチラをしばりあげ、支配してしまったようだった。
アッチラは咆哮《ほうこう》とともに宙に躍った。血を求めて。その黒い影が描く抛物《ほうぶつ》線は、まさにフリーダの頭上に落ちかかろうとした。
「アッチラ!」
アリアーナの声を銃声がかき消した。
黒い影は空中で一転した。自分の意思でそうしたのではなく、強《し》いられたのだ。跳躍は落下によって終わり、アッチラは激しく地表にたたきつけられた。多量の血が、安物の赤絵具めいた赤さで石畳の上にひろがり、暗く変色させていった。
生まれてはじめて、アッチラは跳躍に失敗した。そしてそれは最後の失敗だった。黒い四肢《しし》がもがいたのは、最後の痙攣《けいれん》だった。アリアーナはアッチラを苦しめるつもりはなかった。一発で即死させること。それ以外に選択のないことを、アリアーナは知っており、実行したのだった。
アリアーナの右手から拳銃が落ちて、石畳に鈍い音をたてた。それをひろいあげたフライシャー警部は無言であり、無言のままアリアーナの肩を抱くようにして彼女をささえた。
それを見て、フリーダとヴェルはとっさに声が出なかった。黒い猛獣の出現とその死も衝撃的であったが、そのおどろきも、たちまち過去のものになってしまったほどだ。まさかフライシャー警部が、あの男装の女賊《じょぞく》と知合いになっていたとは。とにかく女が自分を助けてくれたのはたしかであったから、決心してフリーダは恩人の前に歩み出た。
「助けてくれてありがとう、フロイライン……?」
礼儀ただしくフリーダが差し伸べた手を、姿勢をととのえたポーランド人女性は握《にぎ》ろうとしなかった。
「ヴィシンスカよ。アリアーナ・ゲィシンスカ。残念だけど、あんたの手をとる資格はないわ」
「……そうだ。手をとるより手をあげろ!」
どなり声がして、石畳に軍靴の踵《かかと》が鳴った。三〇をこすドイツ兵の銃口が一同を包囲したのだ。だがアップフェルラント人たちが完全に手をあげないうちに、またしても状況が一変した。顔を真赤《まっか 》にした士官が駆けつけてきてどなったのだ。
「全員ただちにひきあげろ。銃を引いて中央駅前広場に集合せよ。停戦だ。皇帝陛下の勅命《ちょくめい》が下ったのだ!」
4
カイゼルと呼ばれるドイツ皇帝ウィルヘルム二世が、アップフェルラント併合の夢を奪われたのは、五月六日午後四時のことである。
卓上《たくじょう》に置かれた八通の電文を、カイゼルは怒りと不満の視線でながめやった。イギリス、ロシア、その他の王室からとどけられた電文である。ただちにアップフェルラントから撤兵《てっぺい》しなければ、デンマーク王室出身という血の盟約に結ばれた八ヶ国が、ドイツに対して宣戦布告するというのであった。
「いずれにせよ、全ヨーロッパを敵にまわしてドイツ一国で勝つことはできません。デンマーク血盟とやらにフランスが加担《か たん》すれば、どうなるかおわかりでしょう」
側近の某将軍が冷静に指摘し、カイゼルは強い鼻息で口髭《くちひげ》をそよがせた。
「イギリスがそう簡単にドイツの敵にまわると思うか。いまの王妃は、たしかにデンマークの出身だが、予《よ》の母はイギリスの内親王だったのだぞ」
「では母君を、もうすこしたいせつになさるべきでしたな」
将軍の一言は無礼なほどに率直であり、カイゼルは反論できなかった。イギリス人である母親と、カイゼルは仲が悪く、父帝の死後に皇宮から追い出し、冷遇《れいぐう》してきたのである。それを知ったイギリス王室は、当然カイゼルに対して非好意的であった。二重三重に血縁が入りくんだヨーロッパの諸王室にあって、カイゼルは孤立し、うとまれていたのだ。
もはやドイツに、寸土《すんど 》といえども武力による領土拡張をさせぬ、という列国の意志をカイゼルは見せつけられた。このような対ドイツ包囲網を編《あ》みあげたのは、とるにたりない小国アップフェルラントの女王であることは明らかであった。あの老婦人の脳裏には、おどろくべき編棒《あみぼう》が隠されていたのである。
こう考えてみれば、彼女の母后《ぼ こう》もデンマークの王族であった。
「喰《く》えない婆《ばあ》さんだ、まったく喰えない婆さんだ!」
カイゼルはくりかえしたが、その声には真の憎悪が欠けていた。カロリーナ女王に対する敗北を、ドイツ皇帝は認めていたのである。それは彼の長所と欠点とを、同時にあらわすものであった。長所とは基本的な人のよさであり、短所は真剣な反省心の欠落《けつらく》であった。流された血の量と、ドイツが周辺諸国からいかに深刻な不信をいだかれているかということ。それを思えば、「いやあ、してやられた」と笑っている場合ではなかったはずである。だが、カイゼルは笑って手を振った。
「よしよし、今度は婆さんの顔を立ててやるさ。兵をひけ。いずれまた、神はドイツと予とに機会をくださるだろう」
……こうして、カロリーナ女王は揺り椅子にすわったまま、一兵も動かすことなくドイツ軍をしりぞけ、ヨーロッパは、一九一四年の破局《はきょく》に至るまで、なお九年間、平和を維持することになったのである。白刃の上に片足で立つような種類の平和ではあるにしても……。
五月六日の夜にはいり、ドイツ軍はシャルロッテンブルク市街からの撤収《てっしゅう》を開始した。公使を通して、皇帝陛下からの勅命が下ったのである。デル・ウェンゼ将軍は目もくらむ思いで軍用列車に乗りこんだ。列車砲「台風《タイフーン》」を失い、黒い猛獣のために一〇人をこす死者を出し、何ひとつ得るところなく、彼と部下たちは帰国せねばならない。むろん勅命にそむくこともできず、デル・ウェンゼは失意の身を母国へと運んでいくのであった。
一般の兵士たちにとっては、さらにばかばかしいことであろう。命令どおりに出動して何らの戦果もなく、「ボッシュ」などとののしられて投石され、死傷者を出し、疲れはてて帰っていくのだから。こういう場合、兵士というものは、自分たちが侵略者として自業自得《じ ごうじ とく》の目にあったとは思わず、被害者意識だけをかかえこむものである。司令官を見る彼らの目は冷たく「役たたずの上官」と決めつけていた。
陸橋の上で、ふたりの男女が、軍用列車の窓からもれる灯火を見おろしている。
「とんでもない結果になったわ、わたしとしてはね」
アリアーナは吐息《と いき》した。この国にやってきたとき、彼女は冷静で奸智《かんち 》に長《た》けた悪女だったはずである。フリーダ・レンバッハには死ぬまで憎まれる役まわりだったはずなのに、礼をいわれてしまった。しまらない結果だこと、と彼女は内心でつぶやいた。この国はどうも、彼女の調子を狂わせるところがある。
この夜、フリーダ・レンバッハの祖父が遺《のこ》した廃鉱内の暗号文について、解答が出されることになり、女王陛下から関係者一同にお招きがあった。アリアーナもいちおう関係者ということになるが、行くつもりはない。
「立ちあわないのか、君は」
「その場に立ちあえば、どうしてもほしくなるわ。それに、わたしは、どんなりっぱな人だろうと、王族はきらいなの。ボローニア共和国ばんざい、よ」
アリアーナは両手を軽くひろげてみせた。
「さて、一から出なおしだわ。無能な小悪党と、方便《ほうべん》でも組まないこと、という教訓もえたし、これ以上この国にいる理由もなくなった。失礼することにするわ」
「明日でもいいだろう、発《た》つのは」
さりげなさをよそおってフライシャー警部がいうと、アリアーナは苦笑未満の表情で応《こた》えた。
「以前から尋《き》きたいと思っていたんだけど、あなたはどうしてああもあのスリの坊やに肩いれしたの。あなたがよけいなことをしなければ、一件は成功したかもしれないのに。被害者としてうかがいたいわ」
「君はどう思うんだ」
「そうね、こんな筋書《すじがき》はどうかしら」
皮肉っぽい口調と表情をつくって、アリアーナは話しほじめた。
「淡《あわ》い美しい恋の物語。主人公の若者は、ある麗人《れいじん》に恋していました。その女性は若者と同い年、あるいはすこしだけ年上でした。若者が恋の告白もできないうちに、彼女はべつの男と結婚し、子供を産んだあと亡くなってしまいました。若者は彼女の産んだ子供のことが気にかかり……」
言葉を切って、アリアーナはフライシャー警部をながめやった。彼が異議をとなえるのを待ったのだが、暗い夜のヴェールのむこうで、長身の男は沈黙を守っていた。彼の視線の先で、軍用列車の灯火が黄色っぽいまたたきを放っている。
「もしかして、ほんとうにあたってるの?」
アリアーナは目をみはり、笑いだした。一瞬、少女のように見える笑いで、けっして嘲笑ではなかった。
「あきれた。すこしも二〇世紀風じゃないわね。そんな感傷的ロマン主義は、ヴィクトル・ユゴーの死で終わったのよ」
「べつに新式を求めてはいないんだ。どうせ流行を追っても似あわんしね。君のお気には召すまいが」
「おあいにくと、わたしは復古《ふっこ 》主義者なのよ。何しろ滅びた国を再興しようというんだから。あなたを軽蔑しやしないわ」
汽笛が夜空を引き裂いた。軍用列車が動きだしたのだ。ついえた野心と数千の将兵を乗せて、列車は北へ走りはじめる。二時間もかからずに国境をこえ、ドレスデンにもどるだろう。そしてひとつの小さな歴史が沈黙のうちに葬《ほうむ》られる。
その夜九時すぎ。中央駅前広場に面するホテル・トラウンに一組の男女が投宿《とうしゅく》した。ホテルの支配人は、背の高い壮年《そうねん》の男を見知っていたが、つれの一風かわった美しい女性には見おぼえがなかった。好奇心を隠しきれぬまま、支配人は鍵《かぎ》を差し出した。男は鍵を手にすると、にやりと笑って支配人にささやいた。
「子供が人生を楽しむには、広い場所が必要なのさ。だが、おとなの場合には、鍵のかかる扉がひとつあれば充分」
そしてこの男女は部屋にはいって扉の鍵をかけてしまったので、以後のことは支配人の見聞《けんぶん》ではなく想像力の範囲のできごとになってしまったのであった。
5
フライシャー警部が王宮への参内《さんだい》を辞退したと聞いて、ヴェルやフリーダは不思議《ふしぎ》に思ったが、騎馬憲兵隊のツェーレンドルフ大佐は意味ありげな笑いを浮かべてうなずいたものであった。彼は孫のような少女と少年の肩をだいていった。
「さて、学術的好奇心のない困り者は放っておいて、わしらはおえらい科学者さんの講義を受けるとしようか。でたらめにどうやって理屈《り くつ》をつけるやら楽しみじゃて」
それに対してレーンホルム博士のいわく。
「無学な者にいくらわかりやすく説明するにしても限度があるからな。ま、大佐以外の人にわかってもらえばいいて」
王宮の図書室に通された一同は、女王や総理大臣と無事を喜びあった。おとなにはコーヒー、少女と少年にはミルクが出され、いよいよレーンホルム博士の講義がはじまる。
「博士の異能《い のう》をひさしぶりに見せてもらえるわね」
揺り椅子で編物をしながら女王が楽しげであった。
たしかに異能というしかなかった。レーンホルム博士の記憶力は、魔法の写真機に似ていた。彼は、文章の各行の最初の一字を見ただけで、その行全部を想いだすことができるのである。そして、ドイツ軍がシャルロッテンブルクの市街を占領している間、廃屋の一室で、全文をノートに書きとめたのであった。差し出されたノートを見て、女王もヴェルもフリーダも驚歎《きょうたん》した。
「あんなもの、学者の才能じゃない。サーカスの芸人の才能さね。ま、現に役にたってはおるが、だからといって高尚《こうしょう》なわけじゃない」
老大佐もしぶしぶながら博士の異能を認めずにいられなかった。
心地《ここち 》よげに笑った博士は、ノートをとりあげて、ふたたび異能を披露《ひ ろう》した。つまり、暗号のままになっているロシア文を、一字ずつずらして原文字どおりに発音し、読み下してのけたのである。もはやツェーレンドルフ大佐も一言もいわず、黙ってコーヒーをすするだけであった。
「つまりですな、女王陛下、総理大臣閣下、未来ある少年少女諸君、フロイライン・レンバッハの祖父君《そ ふ ぎみ》の頭脳は、時代を一世代ほどもこえておったのです。彼はオーバーケルテンの廃鉱の奥深くで、自然に金属化したラジウムの鉱床《こうしょう》を発見したのです」
せっかく重々しく宣言したのに、聴衆がとまどっているので、博士は、フランスのキュリー夫妻が研究を進めている元素についていちおう説明した。それでも一同が当惑しているので、女王が現実的な評価法を提示《ていじ 》した。
「金属ラジウムというものは、どれくらいの価値があるものなの、レーンホルム博士? 学術上の価値ではなく、単なる金銭上の価値でいいのよ」
「さようでございますな、女王さま」
もったいぶって、博士は腕を組んでみせた。
「やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の聞きおよびますところでは、同じ重量の黄金に比較して、二〇〇倍になりますそうで。つまり金属ラジウム一グラムは、黄金二〇〇グラムに匹敵《ひってき》するわけです」
「黄金の二〇〇倍!?」
ツェーレンドルフ大佐が目をむいた。ヴェルやフリーダといえば、金額の見当もつかずに顔を見あわせている。
「それはすごいこと。こういうとき、アメリカ人みたいに口笛が吹けるといいのにねえ。残念ですよ」
老女王は首を振った。単に金銭的な価値だけからいっても、悪漢《あっかん》たちが生命がけで追い求めたのは当然であった。この場にいないアリアーナの目算としては、巨額の資金をえて祖国の独立回復運動に使うつもりであったのだ。
「現在キュリー夫妻は金属ラジウムを人工的に分離する研究を進めておりますが、あと五年はかかるだろうといわれております。それがかなえば、核分裂という手段による巨大なエネルギーがえられるでしょう」
「いやなことだけど、それは殺人兵器にも使われるということなのね」
「さようで。ラジウム爆弾というものは、人類史における最後の兵器といわれております。実用化されれば、たしかにパリでもロンドンでも一発で焼きつくされましょうな」
「火薬がつくられたときも、歴史上最後の兵器だといわれたことだろうて」
ツェーレンドルフ大佐の皮肉を、レーンホルム博士は黙殺《もくさつ》して、女王に一礼した。
「で、女王陛下、廃鉱を再調査して金属ラジウムを採掘《さいくつ》し、ラジウム爆弾をわが国の秘密兵器として研究開発いたしますか」
「やめておきましょう」
カロリーナ女王は、おだやかな決意を声にこめた。
「貧しい人が思わぬ大金を手にすると、いつ盗まれるか心配で夜も眠れないといいますからね。オーバーケルテンの廃鉱で、水のなかに沈んでいてもらいましょう。それでいいかしらね、フロイライン・レンバッハ?」
「はい、女王さま。祖父にしてもそれが望みだと思います」
「ではオーバーケルテンの廃鉱はもとどおり封鎖しましょう。記録もすべて抹消《まっしょう》します」
宣言して女王は揺り椅子から立ちあがり、編みあがったものをフリーダに差し出した。
「ささやかな御礼だけど、受けとってちょうだい、フロイライン。わたしは孫にセーターを編んでやりたかったのだけど、あいにくと男の子でね。あなたに着てもらえるとうれしいわ」
「感激です、女王さま!」
頬《ほお》を上気させるフリーダにセーターを渡すと、女王はヴェルにむきなおった。
「あなたにも御礼をしなくてはね。若者の勇気と献身《けんしん》に対して正しく報いることができるのは、老人にとって最大の喜びですよ」
……客人たちが退出した後、大きく息をついて総理大臣が女王に問いかけた。
「これで一件落着《いっけんらくちゃく》というわけでしょうかな、女王陛下」
「だとよいのだけどねえ、今日ドイツがあきらめても、明日ロシアが何かたくらむかもしれないし、イギリスだっていつまで味方してくれることか」
「まったく、たいへんなことで」
「たいへん? いえいえ、おもしろいですよ。軍事力さえあれば何をやってもいいと思いこんでいる列強とか大国とかを、ぎゃふんといわせるのが、小国の心意気《こころいき 》ってものですものねえ」
むろん女王は知っている。知謀《ち ぼう》のともなわない心意気は、多くの場合、害になるということを。だがまた、心意気のともなわない知謀は、単なる狡猾《こうかつ》さにおちいるということもたしかである。両方の均衡をとり、列強の毒牙《どくが 》を避けながら、小国の独立と権利を守りとおさなくてはならなかった。
「元気《フリッシュ》、自由《フ ラ イ》、快活《フレーリヒ》!」
老女王は声をはりあげ、おどろく総理大臣に笑いかけた。
「結局、小国の精神はそれにつきますね。国威《こくい 》だの栄光だのは大国ぶりたい国にまかせておけばいいわ。明日からまたお願いしますよ、総理大臣。気の毒なノルベルト侯爵のお葬式も出さなくてはならないしね」
「かしこまりました、陛下」
心からの敬愛の念をこめて、総理大臣は一礼したのであった。
「今年はリンゴの花が咲くのが遅かった。どうやらボッシュどもが追い出されるまで待っていたらしいな」
シャルロッテンブルクの市民たちが笑顔の挨拶《あいさつ》をかわしている。五月七日が明けて、アップフェルラントの首都は、満開したリンゴの花におおわれた。つれだって陸橋《りっきょう》に来たフリーダとヴェルは、あきもせず、花びらの乱舞《らんぶ 》を見物していた。彼らの手には、ワレフスキーの屋台から買ったばかりの熱いソーセージの包みがある。売り手も買い手も、共通の美しい知人がいることを、たがいに知らず、いつもの挨拶をかわしたのだった。
「あ……!」
フリーダとヴェルは同時に声をあげた。リンゴの白い花びらが舞いくるうなかに、見おぼえのある顔があったのだ。国際列車の車窓《しゃそう》に映ったのはアリアーナ・ヴィシンスカだった。シルクハットにフロックコート、手にはステッキ。アップフェルラントにやって来たときと、外見はまったくおなじ姿で、彼女はこの国を出て行こうとしている。
ヴェルの肩がたたかれて、振りむくとアルフレット・フライシャー警部の長身がたたずんでいた。背広の上衣《うわぎ 》を肩にひっかけている。彼はすでに駅で彼女との別れをすませ、陸橋上にフリーダとヴェルの姿を見つけて、階段をあがってきたのだった。
「いいのかい、警部、行かせちゃって」
ヴェルの問いに対して、フライシャー警部は短い笑いで応《こた》えた。
「気がむいたらまた来るとさ。それより、お前さんたち、ちょっとばかしやっかいな保護者をお傅《も》りしなくてはならんらしいな」
昨夜、カロリーナ女王は、ふたりの孤児《こじ》に対して法律上の保護者を与えた。フリーダにはツェーレンドルフ大佐、ヴェルにはレーンホルム博士である。フリーダにはアップフェルラントの国籍が与えられ、いずれこの国で最初の女性飛行士になるかもしれない。ヴェルは一年もすればパリに出て「大西洋の東側で一番の奇術師」をめざすかもしれない。いずれにせよ、彼らの未来は彼らの手のなかにあった。カイゼルはカイゼルの未来をにぎっていればよい。他人の未来までにぎろうとするのは、よけいなお世話というものだ。
六日前、すべてはこの陸橋からはじまった。ヴェルはフリーダを見つけ、自分の未来をも見出した。そのときから、季節も、ヴェルの人生も、夏への歩みを開始したのだ。
五月の風がふたたび吹き渡って、リンゴの花びらを舞いくるわせた。吹雪《ふ ぶ き》のようであった。そのなかを、アリアーナを乗せた国際列車は西へ、パリの方角へと走り去っていく。
汽笛が空中で光の音符《おんぷ 》となって、陸橋上の三人に降りそそいできた。
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蛇《だ》 足《そく》
世のなかには、けっこう詮索《せんさく》ずきの人が多くて、お手紙で質問などをいただくことも多いのです。それで先まわりして、この場でいくつかのことを申しあげておきます。
アップフェルラントという国に、特定のモデルは存在しません。
アリアーナという女性にも、特定のモデルは存在しません。
一九〇五年当時、「天下無敵」号のような性能を有する複葉機は、この世界には実在しません。
ブラジル猫という動物は、アーサー・コナン・ドイル卿《きょう》の作品世界に棲息《せいそく》します。興味のある方は、新潮文庫の「コナン・ドイル傑作集 恐怖篇」をご一読ください。
「ホクスポクス・フィジブス」というおまじないの文句の出典は、「ケストナーの終戦日記」です。
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「ルリタニア・テーマ」について
ファンタジーといってもいろいろあるが、ここで語りたいのは「ルリタニア・テーマ」のことである。近代または現代のヨーロッパ大陸の一角に、架空《か くう》の小国を設定し、そこを舞台に大冒険をくりひろげるお話のことだ。
「ルリタニア・テーマ」とは、私が勝手にネーミングさせてもらったが、ルリタニアという架空の国は、むろん私のでっちあげではない。でっちあげたのはイギリスの作家で、アンソニー・ホープという。この人が一八九四年に「ゼンダ城の虜《とりこ》」という小説を発表し、ルリタニアという架空の国をその舞台にしたのだ。設定された場所は、ドイツの東南地方というあたり。
イギリスの有閑《ゆうかん》青年紳士ルドルフ・ラッセンディルは、ヨーロッパ大陸を旅行中、ルリタニアの国王陛下と生きうつしということがわかって、王位をめぐる陰謀の渦《うず》に巻きこまれる。あとはもう、姫君との恋あり、王位|纂奪《さんだつ》者との智恵くらべあり、チャンバラありの大活劇になる。
敵《かたき》役に、ルパート・フォン・ヘンツォー伯爵という青年貴族がいて、これが主人公のラッセンディル氏より、若くて強くて美男子なのであった。陰謀ならず、正義の味方たちに追われて逃亡するとき、片手で前髪をかきあげつつ、にこりと笑い、「さらば、ルドルフ・ラッセンディル!」といって馬上で一礼するという、とんでもないキザな野郎だった。でも、まあ、たいていの人は納得すると思うが、悪党ルパートのほうが主人公より人気があったのである。これが映画化されたとき、ルパート役はジェームズ・メーソンが演じた。ちょっとイメージがちがったが、ふてぶてしい悪党ぶりは、やはり魅力的だった。
「ゼンダ城の虜」は大ベストセラーになり、続篇「ヘンツォー伯爵」が書かれた。ラッセンディルとルパートとの間に剣の結着がつくのはよいが、叙述をむりやり一人称にしたため、かなり構成上の破綻《は たん》が生じている。この正続二篇は、一五年ほど前に創元推理文庫で出版されたが、いまはあまり本屋では見かけない。チャンバラ好きの人は、古本屋でさがして一読するだけの価値がある。
まあ「ルリタニア・テーマ」というのは、ざっと右のような性質を持つ作品群のことである。私小説をはじめとする純文学がお好きな人には向かないことは、たしかである。
「ターザン」の作者バロウズも、「ルータ王国の危機」というルリタニア・テーマの作品を書いている。これも私は読んだのだが、いまこの文章を書いていて、内容も登場人物もさっぱり思い出せない。どうしてだかわからないが、「ゼンダ城の虜」より印象の弱い作品だったようだ。
「ルリタニア・テーマ」の作品は日本にもあるか、ということになると、小説ではほとんど思い出せない。一九七三年にカッパ・ブックスで発行された「ダイナマイト円舞曲」(小泉喜美子)ぐらいかなあ。少女マンガだと、それこそいくらでもあるはずだ。アニメになると、
「ルパン三世・カリオストロの城」と「天空の城ラビュタ」が双壁《そうへき》だろう。
さて、何で「ルリタニア・テーマ」なんて造語を持ち出したかというと、じつはこれが悪どくも宣伝のためなのであった。今年の終わりに私は「SFアドベンチャー」誌上で題未定の長篇を書くのだが、これが二〇世紀初頭中央ヨーロッパの小国を舞台にして、列車砲は火を噴くわ、複葉機は墜落するわ、その他いろいろあるお話なのだ。で、「どういうジャンルの話ですか」と尋《き》かれるので、「ルリタニア・テーマ」という造語をでっちあげたというわけである。ふふふ、こういうふうに公表してしまえば、他のものを書けとはいわれんだろう。
ルリタニアにかぎらず、架空の国や地名に興味がある人は、講談社刊の「世界文学にみる架空地名大事典」がおすすめ。欧米の作品しか出てこないのと、やや読みづらいのが欠点だが、架空の国の地図なども多くはいっており、読んで損はない。やたらと厚くて高価な本だが、図書館にいけば置いてあるはずだ。まともな図書館ならね。
[#地付き](パステルクラブ 1989年春季号掲載)
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あとがき――いささかとりとめなく
一九九〇年の元日に、私はドイツとチェコスロバキアの国境を列車で通過しました。前年末からの一〇日間の予定で、ツアーに参加して日本を離れ、旧《ふる》い国名でいえば、プロイセン、ザクセン、そしてボヘミアを訪問したのです。一九八九年最後の日はライプチヒで迎え、いったんドレスデンに移動してから、国際列車で両国の境をこえたのでした。
このツアーは「東ドイツとプラハ音楽の旅」と銘《めい》うたれたもので、参加人員は二〇名。皆さん音楽やオペラや歴史に造詣《ぞうけい》の深い方たちばかりでした。バッハやヘンデルの生地を訪《たず》ね、ドレスデンやプラハでオペラを鑑賞するのが旅の売り物だったのです。例外もおりまして、私の楽しみは、プラハでカレル・チャペックのお墓まいりをすること、そして両国の境を列車でこえることでした。
ドレスデンから南へ国境をこえて! つまりこの旅路は、「アップフェルラント物語」においてドイツ軍が通過したコースなのです。アップフェルラントの故地《こち》を陸路で通過する。それを知ったとき、私は、オペラなんぞろくに鑑賞するだけの素養もないくせに、妻とともにツアーへの参加を申しこんだのでした。
オペラ鑑賞や、東欧解放のようすを語り出すと長くなりすぎますので割愛《かつあい》させていただきます。一月一日ドレスデン発の国際列車は、四時間余をかけて無事にプラハに到着しました。車窓からながめた国境地帯は、山間部というより高原地帯という印象で、アップフェルラントは山国といってもスイスのようではなさそうです。白樺《しらかば》の木が多く、崖《がけ》も地質のせいか白いのが目につきました。国境の検問は、出国入国ともにずいぶん緊張したのですが、べつに荷物をあけろともいわれず、パスポートの写真と実物とをじろりと見くらべてスタンプを押しただけでした。ものものしげなわりに、思ったよりずっとソフトでしたね。そして今後、自由化と開放化がすすめば、さらにソフトになっていくと思います。けっこうなことです。ただ資本主義の流入が俗化をさそうことも当然あるでしょうね。
プラハの街は第二次大戦でほとんど戦災をこうむりませんでした。現地のガイドさんの話によると、「方向音痴のアメリカ空軍の兵士が、ドレスデンとまちがえて一発だけ爆弾を落としていった」そうです。由緒ありげな古い石造の建物が並び、選出されたばかりの大統領ハベル氏の写真が目につきました。この人はもともと職業政治家ではなく、高名な文学者で、反体制国民運動の精神的リーダーだった人です。「うちの大統領は文学者としてヨーロッパでもアメリカでも、とても有名なのです」と語るガイドさんの表情がたいそう誇らしげでした。
このガイドさんは、私がカレル・チャペックの名を出すと、大よろこびでした。
「日本人はチェコ人の名前を三人だけ知ってます。ドヴォルザーク、スメタナ、それにチャスラフスカですね。あなたがチャペックを知ってるのは、とてもうれしい。チェコの作家というとカフカという人もいるけど、あの人はプラハに住んでいただけ。ユダヤ人で、ドイツ語で書いた人です。チェコの作家とはいえませんネ。やっぱりチャペックです。チャペックがチェコの代表作家です」
そう力説しました。私は最初、「はて、やっぱりユダヤ人に対する反感があるのかなあ」と思ったのですが、これは民族的な偏見とかいうものではないようです。かりに、東京に住んでいる外国人が英語で小説を書き、それが「代表的な日本文学」と称されたら、日本人は「それはちょっとちがう」といいたくなるでしょう。それだけのことです。ちなみにガイドさんとの会話はすべて日本語でおこなわれました。私にチェコ語がしゃべれるはずがないってば。
いずれにせよ、国立墓地につれていってもらったとき、他の人たちはドヴォルザークやスメタナのお墓に見入っていましたが、私はガイドさんに教えてもらい、チャペックのお墓の前にすわりこんで、墓石をなでなでしていました。この人がいなければ、私たちは「ロボット」という言葉を知ることも使うこともできなかったのです。むろん、実体があればそれを表現する言葉がかならずあらわれるものですが、だからといって、チャペックの功績を過小評価する必要もないことです。
SF界の大恩人のお墓まいりをすませ、移動したのはモルダウ河の畔です。全長五〇〇メートルの古い美しい石の橋、カレル橋を渡りました。徒歩でしか渡れないのです。
中央ヨーロッパの冬の基調色はブルーグレイです。その深い寒色が、石像を並べた石橋には、まことによく似あいます。白鳥、鴨《かも》、それにカモメの一種までが、海から四〇〇キロ離れたこんな内陸部までやってきます。橋上からプラハ市民がパンくずを放りなげると、数十羽のカモメが強烈な羽音をたてながら飛びついてくるのですが、それが「乱舞」という表現にふさわしく思えました。
私は石の手摺《て すり》に肘《ひじ》をついて、ぼーっと風景をながめていましたが、ふと気づくと、左隣に一〇歳ぐらいの女の子が立っていました。服装は、冬の中央ヨーロッパではひとりの例外もありません。毛糸の帽子、ダウンジャケット、ズボンにブーツです。左手のパンをちぎってはカモメに投げているのですが、ときおり、ちぎったパンをカモメに投げるとみせて自分の口に放りこんでいます。近よってくるカモメが、怒ったように飛び去っていくのですが、するとまたほんとうにパンをちぎって投げ、またカモメは寄ってきます。何となく私がながめていると、その子がひょいと私のほうを見て、「エヘへ」という感じで笑顔をつくりました。その表情がじつによくて、私もつい笑ってしまいました。どうも「タハハ」という感じになってしまったようですが……。
今回の旅では、ドイツでもチェコでも、子供のかわいらしさが印象的でした。このごろ日本では、子供がかわいいというと、変な笑いで応じるという嫌な風潮がありますけどね。
ところで、このごろ子供が出てくる話を書くことが私は多いのですが、べつに子供に読ませる話を書いているつもりはありません。何ですか、このごろ、おとなと子供の、というより、世代をこえた交流みたいなことが気に入ってるようです。ですから子供だけでなく、お老人《としより》の出番も増えているでしょう?
さて、「アップフェルラント物語」の主演者であるヴェルギール・シュトラウス氏とフリーダ・レンバッハ嬢とは、ふたりとも両親がおりません。私の作品では、年若い登場人物に親がいないという状況設定はめずらしくもないのですが、それについて、つぎのような質問をされたことがあります。
「田中さんの作品の登場人物に、欠損家庭の出身者が多いのはなぜですか」
それに対して、私は答えました。
「欠損家庭という言葉は、私はきらいです」
どうにもそっけない回答であることはたしかですが、私はほんとうに「欠損家庭」という言葉がきらいなのです。この言葉を「広辞林」でひくと「両親またはどちらか一方の親がいない家庭」と記されています。両親がそろっている家庭だけが「完全、正常」で、それ以外の家庭は「不完全、異常」と優越感をもって決めつけているような語感を感じるのです。こんないやな言葉を誰が発明したのでしょうかね。たぶん、両親がきちんとそろった「完全な」家庭の出身者でしょう。
それはともかく、この質問自体は、なかなかいいところをついているように思えます。
そこで、ちょっとつぎのようなリストをつくってみました。
[#ここから1字下げ]
トム・ソーヤーの冒険
嵐が丘
ハックルベリー・フィンの冒険
小公子
即興詩人
テス
アーサー王物語
レ・ミゼラブル
アルプスの少女
十五少年漂流記
赤毛のアン
モンテ・クリスト伯爵
地底旅行
デヴィット・コッパーフィールド
大いなる遺産
フランダースの犬
オリバー・ツイスト
点子ちゃんとアントン
飛ぶ教室
エミールと探偵たち
ジャングル・ブック
[#ここで字下げ終わり]
際限がないのでこのあたりでやめておきますが、おわかりいただけるでしょう。右にあげた作品は、いずれも、主人公かそれに準じる主要人物に両親がそろっていない、という設定のものです。父親が生存していない、母親がいない、あるいはその双方がいない、というわけです。これに、「両親ともそろっているが、その片方が家を離れている」とか「両親が離婚している」とかいった設定を加えると、いったいどれほどになるでしょうか。右にあげた作品は、いずれも比較的ふるい作品ですが、「いまをときめく」作家たちのなかでも、ディーン・R・クーンツなどは「両親のそろっていない子供」をよく作品に出します。
したがって、私の作品だけをとりあげて「欠損家庭の出身者がなぜ多いのか」と問われるのは、「ちょっとちがうな」と思うわけです。私は古くからの物語設定の伝統を踏襲《とうしゅう》しているにすぎません。ではなぜ、物語の主人公にそういう境遇の人が多いか、という点ですが、今回はその答はおあずけとしておきます。自分なりの考えはありますが、まだ完全に体系化してないのです。たぶん、児童文学界などでは、この問題についてすでに論文なり評論なりが発表されていると思うのですが。
さて、こういう形の物語を書いたのは私としては初めてのことで、試行錯誤の連続でしたが、「ふうん、こうなってしまうのか」と自分自身で納得してしまったのは、フリーダ・レンバッハ嬢のキャラクター造形に関してでした。当初、私は、この少女をあんまり「いい子」にはしないようにしようと思ったのですが、結果は読者がご存じのとおりです。これはもう、「悪漢によって幽閉される」という状況を設定してしまうと、ほとんど必然的にキャラクターが固定されてしまうのでした。にくたらしい女の子だったら、男の子が生命がけで救い出そうとする意欲をそいでしまい、そもそも物語自体が成立しなくなります。なるほど、テーマがキャラクターを規定するというのはこのことなのかな、と思ったものでした。それでも、さめざめと泣きながらひたすら助けを待つだけ、という女の子にはならなかったのが、作者の癖というところでしょうか。
この物語を書き終えるにあたって、私は、後日談を略述《りゃくじゅつ》することも考えました。それはだいたいつぎのようなものです。
アップフェルラント王国は、第一次大戦のときはかろうじて中立を守りぬきました。しかしカロリーナ女王が八〇歳で亡くなった後、第二次大戦に先だってナチス・ドイツに併合されてしまいます。国王レオンハルト三世は王位を追われ、バイエルンの山中に幽閉されてしまうのです。当時、ヨーロッパ最高の奇術師となっていたヴェルはロンドンにいましたが、ナチスに占領されていた故国に潜入してレジスタンスを組織し、さらにバイエルンに潜入して国王を救出します。その間、ナチスにとらわれて収容所へ送りこまれること四回、脱走すること四回、ついにナチスの滅亡と故国の解放とを迎えることになります。しかしそれはスターリンのソ連軍が国土を占拠することによって水泡に帰し、一九四九年、「アップフェルラント社会主義人民共和国」がでっちあげられてしまいます。レオンハルト三世はふたたび王座を追われてパリへ亡命、それにヴェルもおともして故国を離れざるをえませんでした。このときヴェルはすでに五八歳になっていました。
その後、一九八九年、東ヨーロッパ諸国がルーマニアをのぞいて無血解放されたとき、アップフェルラントも解放されました。レオンハルト三世もヴェルも故人となっており、この年一二月三一日に故国の土を踏んだ青年は、祖父と祖母の遺影を胸にだいていました。彼の祖父は「大西洋の東側で最高の奇術師」であり、祖母は「アップフェルテントで最初の女性飛行士」 でした……。
まあ右のような後日談です。
ヴェルギール・シュトラウスというキャラクターは、私に、さまざまな話づくりの種を与えてくれました。彼はパリの奇術師学校に入学して、そこでアルセーヌ・ルパンと遭遇したかもしれません。どこかでエルキュール・ポワロとすれちがったかもしれません。ですが、もっとも私の空想欲を刺激したのは、つぎのようなプロットです。
この物語で気の毒に悪役を演じさせられたカイゼルことウィルヘルム二世は、第一次大戦の終結とともに退位しました。財産は没収されませんでしたので、オランダのとある城館に隠棲《いんせい》して、おだやかな老後をすごしました。アドルフ・ヒットラーのことを、「騒々しい下品な伍長」と呼んできらっていました。第二次大戦がはじまりますと、ヒットラーをきらう旧プロイセン王党派の一部が、カイゼルを復位させ、ナチスを打倒して、ホーエンツォレルン王朝を再興しようとします。ここでヴェルが登場します。彼は、スウェーデンに亡命していたドイツ貴族フェリックス・フォン・ルックナー伯爵と協力し、カイゼルを救出しようとします。ヴェルにしてみれば、「カイゼルはヒットラーよりまだましだ」というわけです。ルックナー伯爵は、第一次大戦当時のドイツ海軍士官で、偽装帆船「海鷹《ゼーアドラー》」を駆ってかずかずの武勲をあげ、しかもひとりの民間人も殺さず、戦後にローマ教皇から「人道の騎士」と賞賛された人です。彼はカイゼルの忠臣であり、ナチスから圧迫されて、スウェーデンに亡命しなくてはなりませんでした。
この人とヴェルとが協力してチームを編成し、オランダに潜入するのですが、彼らは城館のなかで、老《お》いたカイゼルの臨終を目撃するはめになってしまいます。こうして復位計画は失敗し、ヴェルとルックナー伯爵は失意をいだきつつ、今度は生命がけでオランダから脱出せざるをえませんでした……。
というように、ヴェルというキャラクターを通して、三文作家の空想欲は際限なくひろがっていきました。たぶん実際に作品化する機会はないと思いますが、考えるだけでも作者としては楽しかったのです。
いまひと組の主要人物たち、アリアーナ・ヴィシンスカ嬢とアルフレット・フライシャー氏については、なぜかあまり具体的な想像力がはたらきません。その後、再会することがあったでしょうか。フライシャー氏のほうは、その後意外に出世して警視総監ぐらいになり、退官後は悠々自適の人生を送って、第二次大戦前に平穏に亡くなったのではないかという気もします。生涯独身で、その理由を問われると、「好きな相手がいなかったわけでもないんだがね」と笑って答えたのではないでしょうか。
フライシャー氏については、まだそれくらいの想像ができますが、アリアーナについては、作者にもとんとわかりません。第一次大戦の結果、ロシア、ドイツ、オーストリア、三帝国の皇室は滅びさり、ポーランドは独立を回復します。その光景を、アリアーナは見ることができたでしょうか。どうもこの女性はあまり長生きしないタイプであるようにも思えます。ポーランド独立の直後に亡くなり、それを伝え聞いたフライシャーが、ポーランドまで墓参りに出かける。それが彼の人生でただ一度きりの外国旅行であった。そういう話も悪くありませんが、このふたりの場合、これが逆になってもいいような気もします。生きぬくとなったら、アリアーナは徹底的に長生きして、アドルフ・ヒットラーの滅亡もスターリンの死も見とどけたことでしょう。一九八九年の解放を見るのは、さすがにむりだったでしょうが……。
最初から「とりとめなく」と書いてはいますが、それにも限度がありますから、このあたりでお開きにしましょう。「アップフェルラント物語」は書いていて楽しい話でした。むろん、「読んで楽しい話」でなければ、買って読んでいただく意味がありません。中央ヨーロッパの小さな国、大国となって他国を侵害することを拒否した自立自尊の国、アップフェルラントの物語を楽しんでいただけたら嬉しく思います。
[#地付き]一九九〇年三月五日
[#地付き]作者拝
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解説――シャルロッテンブルク訪問記
[#地付き]吉岡平
今回、私が『アップフェルラント物語』の主要な舞台となったシャルロッテンブルクを訪れる機会を得たのは、まったくの偶然と言ってよい。
かつてドレスデンにあったツァイス・イコン社では、コンタックスというカメラを製造していた。日本のヤシカ(現・京セラ)と提携する遥か以前の、まだドイツのカメラ産業が我が世の春を謳歌していた頃の話だ。ライカと並んで小型カメラの双璧と謳われたコンタックスは、現在日本で製造されている同名のカメラとはまったくの別物である。
第二次大戦後の混乱時に、イコン社の工場は当時のソ連に接収されたのだが、この時にコンタックスの金型や部品をそのまま使って、ただ『CONTAX』の刻印のないカメラが製造された。マニアはこの刻印の無いモデルを『ノーネーム・コンタックス』と呼んで珍重する。このカメラが母体となって、『KИEV』(キエフ)というコンタックスのソ連製デッドコピーが誕生する。キエフはつい最近まで、ほとんど戦前のコンタックスと変わらぬ姿で製造され続けて、十数年前までは日本にも輸入されていた。なにしろ電子カメラ全盛の昨今に、ほとんど戦前のままの全金属製カメラなのだから、古いコンタックスファンの郷愁を誘う存在であったのだ。
僕はこのキエフカメラの足取りが知りたくて、ドレスデンからキエフを、列車で訪れる旅の最中であった。ところが急な予定変更で予定していた特急の切符が手配できず、僕の乗る鈍行列車は途中の駅で、実に四時間(!)の特急待ちを余儀なくされたのだ。
その駅こそ、かの田中芳樹氏の小説『アップフェルラント物語』の舞台として有名な、シャルロッテンブルクであったのだ。何という偶然!
小なりとはいえ仮にも一国の首都が特急通過駅とは……。しかし四時間の待ち時間を、単なるロスタイムと取るか、神の粋な采配と取るかは人それぞれであろう。幸いにして僕は後者だったという訳だ。待ち時間内なら、乗客は検札もなしに市内を自由に散策してよいことになっている。このあたりのおおらかさは、いかにもかのアップフェルラントだ。瀟洒な駅舎を抜け、駅前広場に出ると、小さな尖塔のある教会がお出迎え。これは史跡でもあり、その一方ではいまだに市民の心の拠り処でもある国教会だ。例えばケルンの大聖堂を厚化粧の美女に喩えるならば、こちらは清楚で純朴で小柄な美人といったところ。例えば人口数千のドイツの田舎でも、これより立派な教会を持った村はいくらでもある。それを思えば歴代の国王が、ここで戴冠式を行ったとは信じられないくらいだ。それほど小さな教会なのだが、さすがに中の荘厳さは格別であった(僕はちらっと覗いただけだが……)。考えようによっては、見映えばかり立派にして格式を装うよりも、教会としての用さえ足りればこれで充分とする気風が感じられて好ましい。「虚勢を張ってはなりません。小国は小国らしく、つつましい教会で結構。小さいことを恥じることはないのです。誇りを持って生きなさい。国威を粉飾するために国費を無駄に使ってはなりませんよ」というカロリーナ二世陛下の声が聞こえてきそうだ。
広場の中央に立つのは、黒猫のブロンズ像だ。おそらく等身大だろう。もちろん、モデルはかのフン族の英雄から名を頂いたブラジル猫である。トラファルガー広場のライオン以上の扱いを受けている彼は、もって瞑すべしと言うべきか。「五月事件」の折に、デンマーク血盟の絡繰《からく 》りを知らない一般市民たちが、かのアッチラこそドイツ軍をこの国から追い払った最大の功労者と信じたのも無理からぬ話だ。しかし、彼の働きは確かに銅像となるに値するものであった。アッチラは斃れた兵士と同じくらい手厚く葬られたと記録にはある。かの事件以来、この国では黒猫を飼うことが流行した。黒猫には『嫌な客を追っ払う』効果があるとされたのだ。そのせいかどうか、僅か数時間の滞在中に、僕は民家のテラスや路地裏で、実に多くの黒猫を見た。驚くなかれこの国の猫の大半は、黒猫である。
「パパ、ブラジル猫って何?」
と、僕の横ではアッチラ像の墓碑銘《エ ピ タ フ》を読んだ少女が、父親に尋ねている。同じ列車に乗り合わせたドイツ人の親子連れだった。父親の方はかつてこの国で起きた出来事にさほどの感銘を受けてはいないらしく、仕方なしの市内見物らしい。僕に少しでもドイツ語が話せたら、この銅像の由来を話してやったのにと悔しく思う。
「ブラジル猫? そんな動物はいないぞ。きっと黒変種のヤグァル(ジャガー)だろう」
という父親の説明。だがこれは野暮だ。やはりブラジル猫はブラジル猫のままとしておきたい。いずれ、誰かが論文を書いてくれるだろう。それまで待つのだ、アッチラ君。
街の外れには、戦史博物館という施設もあった。おそらくこのシャルロッテンブルクでもっともみすぼらしい建物だろう。『申し訳程度に』という形容詞が相応しい。多分ヨーロッパで、軍関係の博物館がこれほど冷遇されている国はアップフェルラントくらいだろう。よいことだ。
戦史博物館の展示品は、ごく少ない。目玉となるのは『天下無敵《ケイナーグライヒ》』号の破片(その中には、最近ドイツから謝罪とともに返還された同機のプロペラもある)と、その設計図、並びに四十八分の一の復元模型だ。ライトフライヤーとはまったく異なる発想で、さらにそれを凌駕する同機の系統が、ただ一機で絶えてしまったことは誠に惜しまれる。しかし、当時の情勢を考えればこの機がさらに改良発展しても、戦争に使われるだけであったろう。マニアとしては複雑な心境だ。
かの列車砲、『台風《タイフーン》』の残骸の一部というのもあった。あの事件の後、百八十頭の馬と六十四頭の牛を使って川底から引き揚げられたこいつは、しばらくは錆びるにまかせ放置されていたらしい。しかし、第二次大戦の鉄不足の折、既にナチス・ドイツに併合されていたにも関わらず、この役立たずの大砲の大部分は、鍋や包丁の材料として市民に供されたと伝え聞く。一部は教会の鐘にもなった。そういえば、同じ時代の地球の裏側で、それとまったく逆のことをやった国があった。因みに当時のドイツ大本営の意向に逆らってまで、断固それを遂行させたのは、当時の警視総監であったそうだ。
蛇足までに申し上げておけば、『台風』はベルサイユ条約以前における世界最大の列車砲であり、さらに第二次大戦時を含めても、単線用で、なおかつ車台に乗せたまま砲撃可能な列車砲としては世界最大である。その口径は三〇・五センチ(一二インチ)というから当時の戦艦主砲に匹敵する。同じクルップ砲の流用であるから当然だ。同時に川底から引き揚げられた砲弾も展示してあったが、これも戦艦用であった。因みに、第一次大戦後『台風』の設計図をもとに復刻された同タイプの列車砲(僅かに改良されていた)『テンペスト』と『シュトゥルム』は、セバストポリ要塞にその巨弾を撃ち込んでいる。カイゼルの性格を考えるにつけ、彼は国中の鉄道を複線化し、複線用のさらに巨大な列車砲を配備したかったのではないだろうか? 彼とよく似た幼児性の持主である僕には、そう思えてならないのだ。なんにせよ、当時のアップフェルラント内の鉄道がすべて単線であったのは幸いであった。
そうこうするうちに、列車の発車時刻が迫ってきた。あっという間の四時間。僕はまた必ず来るよと心に誓いつつ、キエフ行きの夜行列車のコンパートメントに飛び乗った。
一九九五年一月
[#地付き](この作品は1990年3月徳間書店より刊行されました)
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