TITLE : ファディッシュ考現学
ファディッシュ考現学   田中 康夫 著
目 次
ファッドからファッションへ、新しい時代の空気は皮膚感覚に始まる。
唯一生き残ったブランド、ルイ・ヴィトンが仏大使館で開いたパーティー。
“物を得る充足感”を売る堤清二=辻井喬が“物に頼る寂しさ”を語ることについて。
アイスクリームの新ブランドを青山で展開するためのマーケティング講義。
精神的ブランドに頼るビートたけしは“日本のレニー・ブルース”になりそこねた。
「純文学」から「中間小説」へ転身した山本耀司の目は笑っている。
社員食堂で定食Aの夫を尻目に妻はフランス・コルベール展。勝負あり、でした。
清里のペンション感覚? 今はねえ、ラヴ・ホテルの時代なんだよ。
満ち足りてるのにサースティ。メジャーな遊び人が選んだラヴ・ホテル。
“理念なき雑誌”にあるのはクサい修身。大日本雄弁会講談社は健在だ。
GFと出かけたトゥール・ダルジャン、縁の欠けたグラスでリカルドを飲んだ。
『フライデー』デスク氏から電話が入りました。「約束が違うじゃないですか」。
十代の子たちと渋谷・自由が丘を探検。近頃のツッパリ少女はレイヤード・ヘア。
雑誌の“ご推薦”は嘘ばかり。懐を痛め、かつ主観的に、「田中康夫の嫌いな店」。
キャピキャピの子が“明るいSM”を楽しんでる。悩みは教則本がないこと。
パリ祭はシケていて、お祭り気分はごく一部。日本の広告代理店が演出したら……。
ニューオータニ屋外プールのシーズン・パス値上げは新中産階級への“挑戦”だ。
ロマネ・コンティをクルクル回し、かざして、ゴックンしつつ山本益博氏と討論。
空からの贈りもの――JALへ愛をこめて。日航は“ナショナル・フラッグ”に疲れてる。
ケバ目な女の子や奥さんが目立った軽井沢の“名士テニス”パーティーにて。
もうひとつの都市の遊び方。スティミュラスな板橋――区立美術館から東京大仏へ。
ポール・ポワレ衣装展のエトランゼ気分は、現在のデザイナーの世界にまで続いてる。
日航スチュワーデスの制服に使われてる“赤”が俄愛国主義を呼びさます。
かつて前衛だった今井俊満の日本回帰。日本人は皆、皮膚の衰えと共にこうなる?
カルティエ主催パーティーの有名人招待客が、ターゲットの中産階級を満足させる。
カラー・コンサルタントによると、僕は「サマー」。世の中、色んな職業があります。
エグゼクティヴ・フロアは増えたが、女の子連れのフリの客がホテルには有り難い。
「そうかあ、まだ、二六歳か」――“雨夜の品定め”で川上宗薫さんがおっしゃいました。
行楽感覚の一般大衆向け「手頃な高級品」の少ない横浜そごう、イマイチ。
上野の丸井は、現金はないがブランド物を着たいポスト暴走族への“救いの手”。
非自律的大衆社会状況におけるニュートラの復権について、ちょっとお勉強。
カラス服の「主張派」も時には「かわいい女」に。彼女たちが選んだ新ニュートラは似非シャネル。
どうしてわざわざ輸入車に乗り、どうしてアメックスのカードを持ちたがる?
ミラノからパリへ、一時間半のフライトにもアルコールつきミール・サービスがあった。
バスチーユ広場のディスコで、サーファー風春日部少年が集う新宿のディスコに思い至る。
いち早く文化的に“成熟”したJALは、日本の「マンデー・カー」的未来を暗示している。
“おおらかなポカ”を続発させるのに、JALのクルーにおおらかさが足りない理由。
“ナショナル・フラッグの威信”でコチコチのJALに創価学会系の女性クルーがなぜか増えてる。
イモツバシ少年とインゲボルグ少女のカップルが日本の活力のヒミツ、との“学術的見解”。
麻布十番のマハラジャの客は夜十二時すぎると、隣にオープンした支店イーストへゾロゾロ。
アメリカ車は本当に「燃費が悪くて、故障が多くて、図体だけ大きい」のだろうか?
南ア製右ハンドルのBMW320iAが大人気。ドイツ車は“スカイライン化”しつつある。
ご存知ですか? 学習院女子高等科で歌うプリンス・ヒロのパパご誕生のお歌、皇后陛下のお歌。
今度は電話が来ました。「僕の妹は皇族と付き合ってたんだ。宮邸に泊まったこともあるみたい」。
「皇族はつつましくて、デートも割り勘。人間、無名でベンツ持つ余裕あるのが一番だね」。
聖心と本女の偏差値は同程度なのに、出身高校を見るとスクール・カラーの差は歴然。
偏差値も知名度も今イチの白百合に男の子がコーフン――大学にも“スタイリング化現象”。
ヌード撮影に頻繁に使われる某シティ・ホテル――高級イメージに無頓着とは、なかなか曲者。
ローマへ向かうJAL機内で――「西武と日航については真実しか書きません」。
「キンキラのバッグは日本人のために売り出したのよ」――ミラノのブチック「プラダ」で。
あとがき
ファッドからファッションへ、
新しい時代の空気は皮膚感覚に始まる。
ファッド (fad)という言葉があります。所謂《いわゆる》、流行と訳されている、ファッションなる言葉の親類であります。ただし、カタカナを多用した文章に出っくわすと、もう、それだけで、「みずみずしい心が描けていない」などと、いささか感情的拒絶反応を示すことが多い文芸評論家の人でも、今や抵抗なく使えてしまうくらいに、親分格のファッションが一般しちゃっているのに比べると、まだまだ、って単語です。
物好き、気まぐれ、といった意味合いの他《ほか》に、一時的で気まぐれな流行、という意味を持つファッドは、ファッションと呼ぶのには、まだ、早過ぎる現象を捉《とら》える時に、やたらと便利な言葉です。たとえば、「すべての子供が生き生きと出来る、格差のない教育を」と大きな声で叫ぶ人たちが、現在の教育体制を批判する場合に、格好の材料として、しばしば、取り上げることの多かった暴走族とか竹の子族は、ファッションでした。ある種の社会現象にまで成り得たからです。
今では、現代日本に於《お》ける“動くシーラカンス”と呼ばれるまでになってしまった、髪の毛かき上げニュートラ少女にとって、必要条件のひとつだったレイヤード・ヘア。これも、ファッションでありました。けれども、今では、わずかにサーファーの間で崇拝されるだけになってしまったそのレイヤード・ヘアと、しばらくしてから後発組として登場した、手塚理美《てづかさとみ》チックなワンレングスや石原真理子風なロング・ストレートの、ちょうど間に挟《はさ》まれて、それほど市民権を得ることなく終わってしまった、結婚前の夏目雅子がやってたソフト・ソバージュやマリアン風なトニック・ヘア。これらは、ファッドであったと言えるのかもしれません。あるいは、近頃《ちかごろ》、ジュリアン・レノンなんぞがやってる“綺麗《きれい》な長髪”というのも、これまた、ファッドなのかもしれません。
ソフト・ソバージュやトニック・ヘア。これらは、ファッションにまでは広がることのないまま、終わってしまいました。綺麗な長髪。こちらの方は、同じようにファッドのままで終わるかもしれませんし、あるいは、今後、ファッションにまで広がっていくのかもしれません。が、それは、評論家だの学者だの、はたまた、マスコミ人だのとネーミングされたジャンルの人たちはもちろんのこと、実際、長髪をやってる当の本人たちにとっても、わからないことなのです。
確かに、世の中の新しい動きではあります。ただし、それが、ファッションと呼ぶことが出来るほどプリベイリングな代物《しろもの》になるのかどうか。繰り返しますが、誰《だれ》にとっても、正確な予測を立てることは難しすぎます。現象という、目の前で起きている、その対象物に対して、その他大勢の人たちが皮膚感覚によって示す反応の多寡《たか》が、ファッドとファッションの違いを作り出していくのですから。もちろん、ある種の集団が意識的な作業を行うことによって、ファッドからファッションへの広がりを助けようとすることは出来ましょう。けれども、それは、絶対的なものではありません。あくまでも、街中の人たちの皮膚が、決めていくことなのです。
「ってことは、つまり、ファッションとなるものを、他の人々よりも一足先に見極めていくのは、ほとんど不可能だというのかい?」と聞かれてしまいそうです。いや、そのように決めつけることも出来ません。まだ、世の中のごく一部の人々の皮膚でしか感じられていないファッドを、絶えず、観察していくことによって、少なくとも、それが、ファッションとなるかどうかという予測の確度を高めてはいけるからです。ちょうど、高校時代、微積分の練習問題を、何回も繰り返し繰り返し、鉛筆片手に行うことによって、次第に正解を引き出す確率が高まっていったのと同じようにです。
ただし、それは「若者たちの神々」最終回でも述べたように、ムダな時間とお金を必要とします。フィールドワークを絶えず行うことによって、その鋭さを磨《みが》いていかなくてはならないからです。そうして、ファッドとしてこの世の中に登場したものがファッションとなっていくことを、誰よりも早く予測出来たとしても、ただ、それだけのことで、誉《ほ》めてくれる人は、残念ながら、まだ、あまり、日本にはいないみたいです。形而上学《けいじじようがく》的フレイムワークの中で、理論としてのファッドとファッションを説明出来ることの方がずっと優れた作業であるかのように錯覚している人が多いからです。
けれども、もちろん、改めて言うまでもないことですが、ファッドとファッションを見極める際に、前者の作業と後者の作業に優劣の差を付けることは出来ません。むしろ、最近、しばしば、僕《ぼく》が言うように、「アルキメデスも、何日間かお風呂《ふろ》に入らないうちに、体中がかゆくなった。その生理が、彼に偉大な発見をさせたのだ。新しい時代の空気は、常に、そうした皮膚感覚から始まり、理論は後から出来上がってくる」ということを、もう一度、確認してみれば、ファッドとファッションをめぐるフィールドワークが、なるほど、ムダな時間とお金を使いながらも、その実、決して、ムダな作業ではないことが、わかってくるはずです。
ファッドの形容詞であるファディッシュ(faddish)と、フィールドワークという意味を持つ考現学という言葉によってタイトルが作られたこのページは、今まで、不当に軽視されてきた、こうした作業を行っていく連載です。ファッドとして注目した現象が、予測通りにファッションにまで広がっていくかもしれません。それは、僕にとっての大きな喜びです。あるいは逆に、ファッドのままで終わってしまう現象ばかりで、空振りが続いてしまうかもしれません。けれども、それは、次に大きなファッションを生み出すエネルギーとなっていくのです。落胆する必要などありません。考えてみれば、ファッション自体が、不連続の連続として、目まぐるしく変わっていくものなのですから。
《・4・19》
唯一《ゆいいつ》生き残ったブランド、ルイ・ヴィトンが
仏大使館で開いたパーティー。
ルイ・ヴィトンという名のフランスのバッグがあります。新しい海外のブランドが、やったらめったら紹介されるこの日本で、唯一といっていいほど、不動の人気をかち得ているブランドです。
思い起こせば、日本におけるブランド物語史上、一時代を築いた代物《しろもの》であっても、今や、人目にも触れることなく、押し入れの片隅《かたすみ》で、シーラカンスとしての侘《わび》しい余生を過ごしているバッグが、かなり多いのです。お弁当箱型していたクレージュ。ジャガード織の生地《きじ》を使っていたディオールやフェンディ。もちろん、それらは、決して、日本でだけ流行した、実体のないブランドだったわけではありません。特に、オートクチュール・ファッションでのディオール、毛皮でのフェンディは、未《いま》だに、知る人ぞ知る超高級ブランドなのだそうでありますから。
では、なぜに、ルイ・ヴィトンだけが生き残り、なんでも自分が一番だと思っている、いささか、お目出たい中華思想を持つフランス人が手塩にかけて育てた、その他のブランド物のバッグは、遅れて日本に入ってきたイタ公のトラサルディやゲラルディーニ、アメ公のハンティング・ワールドなんぞに、地位と名誉を譲り渡さざるを得なくなったのでしょう。その理由は、二つあります。
一つは、耐久性でありましょう。成田なり羽田なりへお出かけした時に、スチュワーデスのお姐《ねえ》さんたちが、キャリーにくっつけて機内に持ち込むボストン・バッグを、注意して観察してみて下さい。圧倒的にヴィトンのはずです。中国語では空中飯盛人と表記する彼女らは、「キズがつかないの」「破れることもないわ」などと、もっともらしいことを言うでしょう。ただし、くやしいことには、今回の場合、それは本当です。どんなに丈夫だと言われているバッグであっても、空飛ぶ贅沢《ぜいたく》娘たちの酷使に、ヴィトンほどには耐えられないらしいのです。
もう一つの理由。それは、ルイ・ヴィトン・ジャパンという、本社直系の正規輸入代理店を通って、デパートやファッションビルのブチックに並べられたものに関しては、その価格をパリ本店の一・四倍以内に抑えたことであります。日本の輸入業者と契約して展開を図った他のブランド物バッグは、パリ・フォーヴル・サントノーレ通りの本店より遥《はる》かに高い、二倍近い値段がつけられました。勝負は、ここでついたのです。
「よく、わからん、言ってることが」とおっしゃる方の為《ため》に、もう少し、丁寧に解説いたしましょう。この手の代物には、必ず、並行輸入という形で入ってくるものがあります。パリのお店で一般のお客としてワンサと買い込んだものを、輸入品ディスカウント・ショップで売り捌《さば》く。それで、おまんまを食べている並行輸入業者がいるのです。現地価格に税金だの運賃だのをプラスして、そこに、利益を乗っけたものが、並行輸入価格です。けれども、本店の一・四倍以内にするのは、殆《ほとん》ど不可能なのだそうであります。ということは、ルイ・ヴィトンに関しては、並行輸入業者で買う方が、むしろ、高い。こういう現実が展開されることになります。
ところが、正規輸入で入ってきたバッグが現地価格の二倍もしていれば、これは、並行輸入業者の勝ちです。一・七倍で売ったって、もうかっちゃうわけですもの。かくして、目先の利益を考えたブランド物バッグは、すぐに値崩れを起こし、自ら、その命を短くさせていることになるのです。
ところで、そのルイ・ヴィトンが、先日の夜、南麻布《あざぶ》のフランス大使館で晩餐会《ばんさんかい》を開きました。なんでも、福武書店という、善良なる受験生諸君から御布施《おふせ》を戴《いただ》くことで大きくなった出版社から、「La Malle aux Souvenirs」という、初代ルイ・ヴィトンに始まって四代、一三〇年にわたる歴史が書かれた本の日本語版(邦題『思い出のトランクをあけて』)を出した記念パーティーなのだそうであります。一二リットルも入ってるバカデカいシャンペンを三本開けて、乾杯。なぜか、その味付けのヘビーさから、在日フランス人にだけ受けている青山のレストラン、ジョエルと、有吉佐和子女史がお気に入りだったという、値段だけはやたらと高い、新橋の割烹《かつぽう》、京味の料理が交互に出てくるという不思議なメニューで晩餐会は進行しました。
フランスだのイタリアだのの在日大使館が凄《すご》いところは、この手のファッション関係のパーティーを大使館公邸で開くことを許す点です。もちろん、諸経費はメーカー持ちであるにせよ、大使夫妻の主催という形をも取らせます。日本という大得意さんに、いい気持ちになっていただいて、一杯、買ってもらうのが、これからの我々の繁栄だ、ってところがあるのでしょう。これに引き替え、日本の大使館は、どうなのでしょう。日本人デザイナーが仮にパリでコレクションを発表した場合、同じような晩餐会が日本大使館公邸で開かれるとは、あまり、想像出来ないのです。
けれど、この日のパーティーも、石原慎太郎、岩井半四郎、猪谷千春《いがやちはる》、相沢英之《ひでゆき》、三船敏郎、千代の富士といった、少しずつお金を溜《た》めては、ルイ・ヴィトンを買いに来てくれる若い女の子とは、およそ、直接、関係のない人たちばかりが、御夫妻で登場でした。市井《しせい》の女の子たちがルイ・ヴィトンに払ってくれたお金で、仮に買うとしても、自分は、三〇%引きで買う人たちが、ご飯を食べている。何の宣伝効果があるわけでもない、こうした晩餐会に出席すると、つくづく、パーティーとはバニティーであるということを、再確認することが出来ます。そう言えば、アンチーク屋さんと御結婚以来、ジャグワーにお乗りになっていらっしゃるとかの桐島洋子《きりしまようこ》女史も、嬉々《きき》としてお出《いで》になってらっしゃいましたが、僕《ぼく》と目が合った瞬間、「あら、まずいわ」って表情に変わられたのが、いやはや、なんともでした。
《・4・26》
“物を得る充足感”を売る堤清二=辻井喬《つじいたかし》が
“物に頼る寂しさ”を語ることについて。
西武百貨店や西友なんぞの連合体である西武流通グループの、そのネーミングを、近頃《ちかごろ》、西武セゾングループと改称して張り切ってる人に、同時に詩人であり文学者でもある堤清二氏がいます。ご存知《ぞんじ》のように、池袋の片隅《かたすみ》でスタートした、“安かろう、悪かろう”イメージの武蔵《むさし》野《の》デパートを、“日本で一番品揃《しなぞろ》えがいい”イメージの西武百貨店へと変身させたのは、多分、氏の存在があったからこそでありましょう。
ところで、その彼が、このところ、『ブルータス』や『鳩よ!』での対談やインタビューで、「田中康夫が面白《おもしろ》い」といった類《たぐい》の発言を、辻井喬氏として行っています。
「ぼくは、最近また『なんとなく、クリスタル』を読み返してみたわけ。そしたら、なんと、こんなに寂しい小説ってそんなにないと思ったわけね。ファッション・ブランドみたいなものに頼って差別をする普通の現代人の寂しさというものがもろに出ていますね。そういう意味で、現代を象徴する小説だと思う」(『ブルータス』109号)
なるほど、と思わせるところはあります。けれども、よおく考えてみると、“普通の現代人の寂しさ”が生まれてきた、その過程において、当の発言者である堤氏の会社が大きな影響力を持っていたことを思い出してしまいます。いや、もしかしたら、寂しい現代人を作り出してきたのは、西武セゾングループであると言えるかもしれないのです。
既に、あまりに何回も述べて来たことですが、海外から数々のブランドを導入することで、彼らは自らのプレスティージを高めていきました。僕《ぼく》が言うところの新しい器を求めたのです。それは、誰《だれ》もが、かなり似通った教育レベルと生活レベルである日本人が、都市生活の中で、他人との差別化、つまり、使い古された表現を使えば、アイデンティティーの確立を行うために物質的ブランドへと走った際、大きな助けとなりました。
物質的ブランドの洗礼を受けた後、私たちが、“いい物、安く”でもありたいと考え始めると、無印良品なる代物《しろもの》を作り出しました。けれども、もちろん、これだって、新種の精神的ブランドに他《ほか》なりません。
そうして、これは大きなことなのですが、彼らのキャリアというものが、上昇ベクトルの物質的、精神的ブランドを一般の前に提示した場合でも、生理的拒否反応を起こさせず、安心して受け入れさせることを、可能にしたのです。外の器は啓蒙《けいもう》的な新しさを感じさせても、その中には、極めて日本的なるものが含まれていることこそ、多くの支持を集める上で重要なのだ、とする最近の僕の持論を証明する、格好の例のひとつでした。
練馬大根と狭山《さやま》の砂利を運んでいた西武電車が、その沿線にマイホームを念願かなって建てたサラリーマンの人たちを運ぶ、関東で一番に冷房比率の高い通勤電車へと変わっていったように、西武セゾングループも、彼らと歩調を合わせて、一歩一歩、上昇ベクトルとしての成長を遂げていきました。
もっとも、当然のことながら、世の中には西武よりも一歩か二歩先に、物理的豊かさを享受《きようじゆ》し始めていった人たちもいます。
その昔、経済学部を卒業するまで、幼稚舎からずうっと慶応だったという女の子と仲の良かった時期がありました。別段、そのこと自体は、おもしろくもなんともないお話ではあります。けれども、白百合《しらゆり》以外の学校で学んだことのない彼女の母親は、なかなかに興味を引かれる存在でした。西武百貨店でお買い物をしたことがなかったからです。三越と高島屋、せいぜい、松屋と伊勢丹へしか、お出かけしなかったのです。それは、学校帰り、友だちと一緒に西武渋谷店へお出かけしていた娘との、際立《きわだ》った違いでありました。
西武的なる空気が日本全体を覆《おお》おうとしている今、このジャンルの人たちを、いかにして陥落させるかは、彼らにとっての課題でありましょう。池袋や渋谷と違って、西武と共に歩んできた人たちだけがお客を構成しているのではない有楽町西武の悩みも、実は、そこにあります。去年、販売促進部長と話をしていると、彼は、「丸の内にある大手企業の秘書課で働くOLを集めてパーティーを開いたり、特典のある会員組織を作ろうと考えている」、そう言いました。
「大会社の役員やってるような人には、まだ、西武はブランドじゃない。でも、短大出の秘書には、西武への抵抗感はゼロ。彼女たちを優遇しておけば、たとえば、役員が急に海外出張。なのに、ネクタイとYシャツが足りないって時に、頼まれた彼女は西武へ買いに来てくれるでしょ。使ってみた役員は、西武もなかなかの品揃えだと、ウチのお客になってくれるかもしれない」
こういう発想が出てくるところに、その効果の程度や僕の生理に合う合わないは別として、西武の凄《すご》さがあります。もはや、東急や阪急では到底出て来ないであろう、そうした雑種混交の強さを持つ西武セゾングループを率いる堤氏は、けれども、西武が豊かになればなるほど、その分、普通の現代人の寂しさが増していくことを、辻井喬の名前で、ポロリと告白してしまいました。
これは、企業人、堤清二にとってみれば、消費者を欺《あざむ》く発言です。芸能界同様、流通業界を動かしていく人は、普通の人たちに、夢を与え続けなくてはいけないからです。たとえ、それが、アヘンであったとしてもです。多くの普通の現代人は、物に頼ることによって生じるその寂しさよりも、むしろ、物を得た時の一瞬の充足感に喜びを見いだしているからです。
戸籍上の堤清二氏の悲劇は、単に、ウソでもいい、ただ、一瞬の夢を売り続けることだけを考える企業人にしては、良い意味での芸術家の多感さを、少し、持ち合わせすぎていたのかもしれません。
《・5・3》
アイスクリームの新ブランドを
青山で展開するためのマーケティング講義。
今週は、マーケティングのお勉強をすることにしましょう。たとえば、新しくお店がオープンする場合、お客さんをたくさん呼ぶためには、どのような方法を取るのが、グッドでありましょう。まず、考えられるのは、広告です。テレビやラジオのスポット、電車の中吊《なかづ》り、駅張りポスター、屋外ボード、新聞の折り込み、新聞、雑誌への出稿、街頭でのチラシ配布。と、まあ、一口に広告といっても、結構あります。
では、こうした広告以外には、どのような方法があるでしょうか。近年、流行《はや》っているものに、パブリシティーという代物《しろもの》があります。結局は、広告みたいなものなのですが、『ポパイ』編集部の少年に頼み込んで、最初の方のページ、「Pop-eye」に、「新しく代官山の外れにオープンのこのお店は、心なごみのインテリアにして、彼女もニッコリ」なんぞと載っけてもらったり、あるいは、『週刊朝日』の「二人で食事」のページに、「私たち夫婦が贔屓《ひいき》にしていた銀座のレストランで、長らくシェフを勤めていた山中君が自由が丘に自分の店を出した。清楚《せいそ》な細君が、接客係だ。応援してあげようと思っている」と、功なり名遂げた文化人の先生が、現在、別居中の糟糠《そうこう》の妻と一緒にニッコリ登場していらっしゃる。これが、パブリシティーであります。
けれども、はっきし言って、最も効果的なもののひとつは、口コミなのです。これは、本当です。もし、あなたがファッション・メーカーの経営者だったとしたら、競争相手のデザイナーズ・ブランドの人気を凋落《ちようらく》させるのは簡単です。全国の主要都市で、いかにも、それっぽい少年少女を二人一組ずつ、アルバイトとして雇って、ハウスマヌカンやヘア・スタイリストの人が一杯やって来る、これまた、いかにも、それ風なカフェ・バーやディスコで、「ねえねえ、あそこのブランド、デザインがクサイんだ」「そうらしいわね。私の友だちも、みんな着たくないって話」とかなんとか、お喋《しやべ》りさせておけばいいのです。一カ月もたたないうちに、相手の売り上げは、明らかな下降曲線を描き始めるはずです。
同様に、古典的な方法であるにもかかわらず、かなりの効果を発揮するものに、さくらがあります。マーケティングの講義にふさわしく、これについては、ケース・スタディで学んでみることにしましょう。ちなみに、受講生は一〇〇名です。少し多い気もしますが、ここは、民主日本を代表する『朝日ジャーナル』ビジネス・スクールです。
さて、アイスクリームの新ブランドを扱うショップを、いかに成功へと導くか。これが、ケース・スタディです。一緒に考えて下さい。
不二家系列のサーティワン、日世アイスクリーム系列のスエンセンズ、この二つが当面の競合店であると、皆さんの手元に配られた資料には書かれています。一号店は、南青山三丁目交差点角にあるファッション・ビル、プラザ246の一Fに開く予定。日頃《ひごろ》、青山地区の考現学をしているあなたなら、「これは、苦しい」と舌打ちするでしょう。そうなのです。プラザ246は、苦戦しているファッション・ビルです。テナントの移り変わりが激しいのです。ベルコモンズから、テイジン・メンズショップ、ブルックス・ブラザーズへと続く反対側の歩道に比べると、歩行者が少ないのです。
アイスクリームという、家具や家電品と違って意識来店者が少ない、客単価の低い商品を扱う上では、大きなマイナス要因です。けれども、保証金、家賃の低いプラザ246への出店は、減収減益で頭を抱える親会社からの絶対命令です。さて、どうしましょう。まず、ここで、ディスカッションが行われてもいいのですが、授業時間の残りが、あと、わずか一〇分です。今日は、レポーターの発表だけに留《とど》めましょう。
「さくらを使うことです。それも、組織的にです」
レポーターは、こう言いました。
「アルバイトではなく、親会社や関連会社の社員にお金を渡して、勤務時間中に行列を作らせるのです。オーナー社長の下、会社全体がひとつの新興宗教のようになっていれば、社外にその事実が漏れることはありません。商品の性格上、女子社員を多めに動員する方がベターでしょう。さくらが常に二、三十人並んでいれば、露店と同じで、通りがかりの人が、気にするはずです。さくらの社員は、口々に、『早く食べたいなあ』『すっごく、おいしいんだって』と言うことも必要です。口コミとの連動です。幇間《ほうかん》としての分も含めてギャラを払っているのに、同業他社のアルカリ飲料のCFに出ちゃった節操のないコピーライター氏に圧力をかけて、『おいしいね、さっちゃん』と、雑誌の連載に書かせて、パブリシティーすることも可能です」
その、突拍子もないレポートに教室内は、しーんと静まり返っています。彼は、続けて、
「もうひとつ、注文を受けるのを一人ずつにし、また、商品を渡すまでの時間をかけることで、回転を悪くするのも効果的です。ベーコン・エッグ・バーガーで大当たりしたハンバーガーショップでの経験を始め、さくらの動員についてのマニュアルは、完璧《かんぺき》に近いはずです」
と付け加えました。
「次回までに、各人、このレポートについての意見をまとめておくように。今日は、このケース・スタディのレポートが、事実に基づくと思う人に、手元のスイッチを押してもらいましょう」
指導教官がそう言うや否《いな》や、黒板横の電光掲示板に九九の数字が出ました。押さなかったのは、ただ一人、日本で一番大きな洋酒メーカーからの企業研修生として受講していた青年です。
「そうしたケース・スタディがフィクションであることを僕《ぼく》は望みます。けれども、ノンフィクションではないと、今の僕には断言出来るだけの自信はありません」
彼は、今にも泣き出しそうな声で答えました。
《・5・10》
精神的ブランドに頼るビートたけしは
“日本のレニー・ブルース”になりそこねた。
その昔、ビートたけしが、「オレは、日本のレニー・ブルースになるのだ」と、いくつかのインタビューで答えたことがあります。それは、「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」に代表される、ある種のラディカルさを抱えて登場した彼にお似合いな発言でした。
けれども、よおく考えてみれば、日本のレニー・ブルースとなるのは、大変なことなのです。なぜならば、多くの人間の皮膚にとって心地良い発言、つまり、考え方というのは、洋服なんぞのデザインと違って、あまりに新しすぎてはいけないからです。
その内容の八〇%くらいは、目配り、気配りだけで生き延びる「オピニオン・リーダー」たちも以前から述べていて既に一般社会の中で市民権を持っている、とりたてて新しいところのない代物《しろもの》であることが望ましいのです。そうして、後の二〇%が、多少の新しさを感じさせる代物である。正解はこれです。つまり、安心して聞いていることの出来る部分が基本としてあって、でも、ちょっぴり、新しい意見もある。その意見は、ほんの少しだけ背伸びをすれば容易に手が届く範囲内にあるというわけです。
ところで、この比率が新しい意見の方へと多めに傾いてしまうと、人々は、不安を感じ始めます。皮膚にとって刺激的な代物であるからです。そうしてそれは、ちょうど、まったく独創的で新しい物理や数学の理論が滔々《とうとう》と述べられた時、理解出来ないまま聞いている自分は、いわれなき劣等感、不安、屈辱を味わっているのだということを認めたくないがために、むやみと、その理論や、そのことを発見した人物への反発を行いがちなのと同じように、件《くだん》のラディカルな発言者へ押し寄せる波が高くなる、という結果を招くことになるのです。
一般的消費者のニーズよりも半歩か一歩先の商品を、同様に、半歩か一歩先の意識を小出しにしたマーケティングで売っていくと、最も多くの消費者を捉《とら》えることが出来るように、半歩か一歩先の意見を述べる人間こそが、多くのオーディナリー・ピープルから拍手で迎えられるのです。そうして、三歩も四歩も先の意見を述べる人物は、逆に石を投げられてしまうでしょう。コペルニクスが、そうしてレニー・ブルースが、よい例でした。
初期のビートたけしは、なるほど、和製レニー・ブルースとネーミング出来るだけのラディカルさを持っていました。けれども、不思議なことに、そのラディカルさを多くの人々が、さほどの抵抗感なく受け入れてしまったのです。どうしてだったのでしょうか? それは、以前、『an・an』の「今週の眼《め》」でも書いたように、社会規範、道徳に対する彼の挑戦《ちようせん》は、あくまでも、縦文字感覚に基づくものだったからです。
つまり、彼の風貌《ふうぼう》、出身、学歴、職歴、あるいは漫才師という肩書が、チンケなシャンデリアの輝く応接間も作ったけれど、そこにはカラオケ・セットが置いてあって、おまけに冬になると、ソファを端に寄せて、コタツを置いてテレビを見かねない、所謂《いわゆる》、卓袱《ちやぶ》台《だい》がある雰囲気《ふんいき》の精神性を残す大多数の日本人にとって、安心出来るものを、同時に与えてくれたからです。
「テメエラ、レイヤードした女子大生がさ」と彼が発言しても、その攻撃の対象となっている女子学生たちが、「アハハハ」と、劇場の観客として笑えたのも、そこに理由がありました。
もっとも、繰り返しますが、初期の彼には、横文字感覚に基づいて、「すべての物は等価である」と発言していた田中康夫と似通った、価値紊乱者《びんらんしや》的なところがありました。けれども、残念ながら今日の彼は、むしろ精神的ブランドに頼る、ごくごく普通の、何も新しいもののない一人の日本人になりつつあります。いくつか、例を挙げてみましょう。
家元という名の精神的ブランドなんてクダラネーと落語界に反発したものの、結局は自分も新しいお山の大将になっただけの立川談志の下へ、ペコペコ、頭を下げながら近づいて行ったこと。たけし軍団と称する年下の少年を一杯集めて、萩本欽一《はぎもときんいち》と何ら変わらぬファミリーを結成したり、あるいは、正しい批判と評価をお互いの間で行うことなく、ただ仕事をまわし合い、褒《ほ》め合うだけのサル山のノミ取り的互助会を放送作家やカタカナ商売の人たちと運営していること。
どうやら、彼には、あせりがあるのでしょう。自分は大変な読書家であるとインタビューで力説するのも、最近の特徴です。別に、読書家である、そのこと自体は、結構なことです。けれども、それは別段、大きな声でみんなに自慢するような類《たぐい》のことではなくて、むしろ、黙っているべきことでありましょう。
漫才師も小説家も、一般の人々からは、何をやっているのかわからない、馬鹿《ばか》な人だと思われていても、平気な顔をしてすべてを見せ、もう、見せるものは何もないと思われても、まだまだ自分は大丈夫と走り続ける、自信と不安を背中合わせに抱えた生き物でなくてはならないはずです。「本が部屋に一杯だよ」と言うのは、自分をすべて見せているのではなく、ただ、精神的ブランドに寄りかかった、不安を隠すための発言でしかないと、僕《ぼく》には思われるのです。
彼は、落語、文学といった「文化」なるネーミングでくくることの出来る範疇《はんちゆう》内の代物に対して、コンプレックスがあるのでしょうか。けれども、それは、価値紊乱者の漫才師としてスタートした彼自身の軌跡を否定することになるのです。そのことに、本人は気がついているのか、いないのか。そこのところは、僕にはわかりません。ただし、近い将来、「昨日、園遊会でお声をかけられました」「見てくれ、これが、勲章だ」とテレビの画面に頬《ほお》を紅潮させた彼が出てくるかもしれない、そのことだけは、かなりの確信を持って思えるのです。
《・5・17》
「純文学」から「中間小説」へ転身した
山本耀司《ようじ》の目は笑っている。
「これからは、ファッションだぜ」という感じで、新聞社がファッションづいております。それぞれに傾向の違うデザイナーを外国から何人も呼んできて、ごちゃ混ぜオムニバス・ショーを開いてみたり、かと思うと、新進気鋭と称する日本人デザイナーを集めて、置き屋の遣《や》り手ババアよろしく、バイヤーへのお披露目《ひろめ》ショーを開いてみたり、結構、盛り上がっているのです。
中には、夕刊の第一面にファッション業界物語を連載している新聞もあります。「今日から、お前は、ファッション担当だあ」と言われてしまった、つい先日まで経済部の記者をやってた人が、記事を書いているのです。遂《つい》には、今シーズン、ファッション・ショーを開催する会場を各メーカーに無料で提供しちゃう、太っ腹な新聞社まで登場しました。商業紙としては世界一の発行部数を誇る読売新聞が、その新聞社であります。
千人余りを収容の黒いテントを、西新宿の高層ビルの谷間にドカーンと二つ。おまけに、基本的照明、音響設備までをも無料で、というのですから、モデルの出演料、プロデューサーへの演出料、コレクションの縫製料なんぞで、一回のショーに二千万円近くのお金がかかるメーカー側にしてみたら、まさに、救世主現る、でありました。なんてったって、そこで浮いた三〇〇万円余りを、他《ほか》のことに使えるわけなのですから。
かくして、今までは、四月から五月半ばまでの一カ月半にもわたって、あっちこっちの会場で開かれていた秋冬物のコレクションが、今年は、四月一五日から二七日までの約二週間に集中。しかも、なぜか、読売新聞の企てにヘソを曲げて、わざとラフォーレ赤坂やラフォーレ飯倉《いいくら》で開催したビギ・グループ以外は、そのほとんどが、西新宿の二つのテント、もしくは文化服装学院の遠藤記念館を使って、でありました。
空調が悪かったり、会場整理がなってなかったり、と幾つかの不満はあったものの、「やっと、これで、日本もフランスっぽいノリのファッション・ショーが開けるようになったわ」と、毎シーズン、契約している日本の出版社のお金でパリのテントまでショーを見に行ってるスタイリストやライターたちは、感激。例年なら、九月半ばから一〇月一杯かけて開かれる春夏物のコレクションも、どうやら、今年は読売新聞主導の下、二週間にまとめて、西新宿のテントで、ってことになりそうです。
ところで、今回の東京プレタポルテ・コレクションは、一五日の午後、川久保玲《れい》がデザインしたコム・デ・ギャルソンからスタートしました。コム・デ・ギャルソンといえば、山本耀司がデザインするワイズと共に、ボロ・ルック、カラス・ルックという黒を基調にした、いかにも、観念的なフランス人が喜びそうな作品で、一時代を作ったブランドであります。当時、それは、広島生まれの三宅一生《みやけいつせい》が、広島市民の誰《だれ》もが抱く衰えゆく自分の足への不安を、“一枚の布”という形で表現したのと同様、ある種の思想性を持った作品だと評されました。
インタビューでのスナップ写真も、常に考え込むような表情である川久保玲は、ストレプトマイシンを服用している病弱のリセを連想させる作品を、今回もステージの上で展開しました。そして、同じ日の夜九時からショーを行った山本耀司は、昔、川久保と仲が良かった頃《ころ》、体よりもやたらと大きな黒い服を作っていたことなど、きれいさっぱり忘れてしまったかのように、カラフルな色合いの体にフィットした普段着でコレクションをまとめてみせました。それは、際立《きわだ》った違いでありました。
大方のファッション関係者たちは、「山本の豊かな才能を再認識した」という感想を述べました。けれども、カラス服を出す前、山本の作っていた洋服が、女性雑誌『モア』あたりが好んで取り上げていた、何の変哲もない「キャリア・ウーマン」ファッションであったことを知る僕《ぼく》にとっては、一時期の彼のカラス服が、川久保とは違って単なる箔付《はくづ》けのために利用したのでしかなかったことを、改めて思い知らされたような気がしたのです。
たとえば、山本が現在作っている男物のパンツは、そのほとんどが、テイジン・メンズショップで売っていても、ちっとも違和感を感じさせない、ごくごく普通の代物《しろもの》です。けれども、テイジン・メンズショップよりも値段の張るそのパンツを、ありがたがって買っていく若者がいます。それは、カラス服という「純文学」的作品で評価を得た山本の「中間小説」的作品だからです。如何《いか》にしたら、多くの人々に受け入れられるごく普通の作品を、ある種の権威性を持たせた上で展開できるか、という商売の目利《めき》きに優れていた彼は、だからこそ、川久保に接近することで、彼女の持っていたエキスを吸い取ろうとしたのです。
無欲な芸術家である川久保のショーに集まる一般の観客が、正に失語症的な人たちであったのに対して、山本のショーに集まるそれらが、ファッションとしての失語症を楽しんでいるような、多分、最低限の礼儀すらもわきまえないであろう、似非《えせ》っぽさを持った鼻持ちならない人たちであったことからも、そのことはわかるでありましょう。一見、哲学者風な表情をする山本は、けれども、その目は笑っています。険しい目付きの川久保とは、この点でも、違いを見せるのです。
繰り返しますが、多くのファッション関係者は、今回のコレクションについて、山本の更なる飛躍と、川久保の停滞、という捉《とら》え方をしました。川久保の更なる深化と、山本の俗化という風には捉えなかったのです。それは、サントリー的なるものが世の中の空気である今の日本においては、当然、予想された意見ではありました。
《・5・24》
社員食堂で定食Aの夫を尻目《しりめ》に
妻はフランス・コルベール展。勝負あり、でした。
たとえば、コンサートとか映画、芝居といった類《たぐい》の代物《しろもの》は、あらかじめ、先方が定めた時刻までに会場へ行かなくてはなりません。そうして、お目当ての“パフォーマンス”とやらが始まったならば、今度は、やって来た人たち全員が同じ方向に顔を向けていなくちゃいけないのです。不気味です。
おまけに、「あっ、今の曲、もう一度聴きたい」とか、「この場面でストップさせて、しばらくの間、見ていたい」などといった、観客一人一人の我儘《わがまま》を通すことはできません。先方のご都合に従って拝聴、拝見するのみです。
コンサートの場合などは特に、でしょう。「アンコール」と叫んでさしあげなくちゃいけないからです。拍手をしてると、外国から出前をしにやって来た、アーチストと称する人が、ガムをクチャクチャとかみながら再びステージの上に登場。で、予《あらかじ》め決まっていたアンコール曲を、ズンチャッチャ、ズンチャッチャ。拝聴している方は、「すごい、感激だぜ」という感じで、「ウワオーッ」と、またもや、大声を上げることになります。
ところで、僕《ぼく》の驚きは、それだけにとどまりません。アンコールが二曲終了すると、それまであんなに興奮していた観客の少年少女が、ごくごく普通の表情をして、おまけに整然と歩いて中野駅まで。そうして、これまた、ごくごく自然に、初乗り運賃区間の切符を買って家路についてしまう、この現実に対してもなのです。
それに比べると、展覧会は気分であります。もちろん、通常、朝から夕方までしかオープンしていないという制約はありますけれど、期間中、都合がいい日の好きな時刻に訪れることができます。「今日は晴れているから、お庭もきれいな白金台の畠山《はたけやま》記念館へ行って、茶の湯の道具を見てこよう」「今日は雨だから、京橋のブリヂストン美術館を訪れて、ついでに、雨のオフィス街を味わってこよう」。おセンチ少女よろしく、一人で作ったストーリーの中に、自分自身を置くことができます。
そして、気に入った展示品を見つけたら、何分でも見ていることができます。逆に、つまらなければ、すぐに出て来てしまっても平気なのです。もちろん、途中で出て来てしまうのは、展覧会ではなくとも可能でしょうけれど、でも、それには、多少の勇気を必要とします。かくのごとき理由で、コンサート、映画、芝居には滅多に行かないこの僕も、展覧会に行くという「知的行為」に関しては、まあ、人並みに行っているのです。
四月一日から五月一二日まで、白金台の都庭園美術館で、「フランス・コルベール展」が開かれました。一九五四年に生まれたコミッティ・コルベールという、「良質で創造的最善のフランス伝統を新しい時代に残し、それを広い大衆の手の届くところにおこう」とする委員会が主催した展覧会であります。
なんでも、百年戦争後のフランス経済を軌道に乗せたコルベール蔵相の名にあやかってつくられたというこの委員会は、洋服、装飾、香水、ブドウ酒、宝石、織物、食器なんぞの、所謂《いわゆる》、一流ブランドを製造しているメーカーが七〇社ほど集まって構成されています。今回は、バカラ、シャネル、クリストフル、ジバンシー、ゲラン、エルメス、ルイ・ヴィトン、デュポン、ヴァン・クリフ・エ・アペルといった、もう、皆様、先刻ご承知のブランド四五社が一堂に会しての、商品展開催でした。
たとえば、エジプト国王がブシュロン社に作らせたシガレット・ホルダー。イラン建国二千年を記念して国王がポルトー社に作らせた金糸刺繍《ししゆう》のテーブルクロス。インドの藩侯マハラジャがモーブッサン社に作らせたプラチナ、ダイヤ、エメラルドの首飾り。
大英博物館でもルーブル美術館でも、ヨーロッパにおけるその手の場所には、よその国から掠奪《りやくだつ》してきた戦利品ばかりが、まるで自分の国の文化的成果であるかのように飾られているものなのですが、今回の展示品は、それとはかなり趣を異にするものでした。
「ご注文に応じて、手前どもが謹製させていただきましたものでございます」という偉大なる農業国フランスが、今日、ブランド商品の上顧客《とくい》である大金持ちが生息するアメリカ、中近東と並んで、一人一人は中顧客ではあるものの、その数がやたらと多いため、トータルとしては大変に結構なものになる、それぞれが、目先、自由に使えるお金を持つ小金持ちの生息する日本に、「手前どもは、こんなに値の張るオーダー・メイドもお引き受けいたしておりますので、今後、よろしくお引き立てのほどを」って意味合いの秋波を送ったものだったのです。
ま、もっとも、誇り高き伝統と文化の国でもありますフランスのことでありますから、モナコのカロリーヌ王女が御愛用のディオールのドレス。サラ・ベルナールが御愛用だった金やレース模様のプラチナを素材にリボン結びのデザインにしたブローチ。ナポレオン三世のウージェニー皇后なる人物が御愛用の、金やブリリアン・カットのダイヤ、真珠などをデザインした首飾りブローチなんぞも展示して、「エヘン、どうだね」というところも忘れてはいませんでしたが。
旧朝香宮《あさかのみや》邸であるアール・デコの建物が、とても脇《わき》に首都高速が走る都心にあるとは思えない緑色が目にまぶしい広大な敷地の中に建つ、都庭園美術館で開催されたフランス・コルベール展。果たして、一〇年前の日本で開かれたら、こんなに大勢の人がやって来ただろうかと思うくらいに盛況でした。
ただし、その大部分は、老若《ろうにやく》男女ならぬ老若女だったのです。もちろん、男性もいなかった訳ではありませんが、文化服装学院っぽいか、もしくは、彼女のお供で仕方なく、の少年ばかりでした。
夫が、社員食堂で二八〇円の定食Aを食べて頑張《がんば》ってる間に、その妻は、お友だちと一緒にフランス・コルベール展へ出かけ、そうして、帰りには西麻布のビストロでランチを楽しむのでしょうか。勝負、あった、という感じを受けました。
《・5・31》
清里のペンション感覚?
今はねえ、ラヴ・ホテルの時代なんだよ。
「ラヴ・ホテルについて、考察を加えてみるべきだよ」
同じ『朝日ジャーナル』で「都市の遊び方」を連載している私のところに、田中康夫さんから電話がかかってきました。
「えっ、ラヴ・ホテルですか」
「だめだなあ、そんなんじゃ。今はねえ、ラヴ・ホテルの時代なんだよ、ラヴ・ホテルの」
結構、興奮しています。でも、彼のイメージというのは、「都市ホテルが、イッチャンに新しい」って感じですものね。なんだか、不思議です。
「とにかく、午後一番に車でラヴ・ホテル巡りをしてみましょう。連れて行ってあげるから」
最初に連れて行ってくれたのは、渋谷の大坂上にある、ホテル1983でした。ここなら、名前くらい、知っています。公園通りの裏手にあるナンバー2というホテル同様、ペンション感覚のラヴ・ホテルとして大当たりをしたのだそうです。中に入ってみました。
ひとつひとつの部屋の中を撮った写真がパネルになって、入り口のドアを入ったところにドカーンと掲げてあります。それぞれの部屋の写真の下に赤い色をしたボタンがついています。
「試しに、どれかひとつ、ボタンを押してごらんなさい」
田中さんに言われて、303号室のボタンを押してみました。すると、パネルの下のほうに、コロンとキーが出てきました。303号室のボタンは、赤いランプが消えて、くすんだ色になっています。
「フーン、よく出来ているのね」
「ちょっと、部屋の中を見てみますか?」
エレベーターに乗って、三階で下りました。ベージュ色のカーペットが敷き詰められた廊下には、ところどころ、観葉植物が置いてあります。白いペイントで塗られた木のドアには、「303」と押印《おういん》された金属製のプレートがついていました。まさに、清里で高原牛乳を飲んでいる女の子が喜びそう。
ドアを開けてみました。
「ウワーッ、グラビア雑誌っぽい」
本当に、ここがラヴ・ホテルなのかしら。ラタンのソファとテーブルが置かれ、丸井のインテリア館にでもありそうなベッド。毛布をシーツでくるんで、という、都市ホテル式ではないものの、お布団《ふとん》はシェルピンク色。品のいい白いカバーもついてます。会計は、エア・シューターがついていて、従業員の人と目を合わせずに済みます。
「こんなので感心していちゃ、駄目《だめ》ですよ。今や、1983は、ごくごく普通のファッションしたカップルが歩いてやって来るホテルですから。昔は、ベンツやBMWで来る人も多かったんですけれどね」
新横浜駅前に1984、フェリス女学院の近くに1985という、ロゴ・タイプもそっくりのラヴ・ホテルを経営する人まで現れたくらいに、若者の心を捉《とら》えたこのホテルは、なんと、ファッション・メーカーのビギが経営しているのだとか。
池尻《いけじり》ランプから首都高速に入って、東名の横浜インターで下りました。連れて行ってくれたのは、ホテル・ファッション。ここも、1983同様に、ペンション感覚でした。東名横浜インターといえば、大きな客船の形をした外観の、クイーン・エリザベス石庭のイメージが強いのだけれど。
「ギラギラのラヴ・ホテルは、時代遅れですよ。カジュアル感覚でセックスを楽しむ若者が多いんだもの。恥ずかしさなんて、みじんもないんだよ。だって、ほら、待合室に二組、カップルが待ってるじゃない」
おかしいわ、外には空室のランプが出ていたのにな。でも、ビデオ・スクリーンの備え付けられた待合室があるなんて。二、三組、待っているくらいなら、満室のランプにはしないみたい。さらにビックリしたことには、今、ここで知り合ったばかりのカップルが、ペチャクチャ、おしゃべり。本当に、カジュアル感覚。
「ここのホテルは、部屋の名前が、クレージュの間、ディオールの間という具合に、ブランド名なんですよ。スカGの中古とか、ディズニーランドのステッカーを貼《は》ってやって来る普通のカップルも、その手のブランドを知ってる時代になったんだよね」
ちょっぴり、自慢気に田中さんは喋《しやべ》ります。彼の功績だわ。
「でも、ゲラルディーニとかハンティング・ワールドってのは、ないんだよ。まだ、その辺りまでは、一般的になってないってことかな」
続いて、彼が一番のお勧めだという第三京浜港北インターのHOPSへ行きました。四月の末に出来たばかりだというのに、ここも待合室に三組、キャピキャピのカップルがいました。『コットン・クラブ』が大きな画面に映っています。
「まだ、夕方の四時なのに、どうして、こんなにいるのかしら?」
私がびっくりすると、「なんにも、わかっていないんだね」という感じで、「土曜日なんて、午後一時から、東名横浜インターや新横浜駅前のホテルに車の行列だよ。週末の夜は、もちろん、一軒残らず、満室」と教えてくれました。
HOPSは、お部屋の床が板張りでした。ベッドも、オーキッド・ピンク色のカバーがかかっています。各種のヒット・チャートから中国の音楽、雷の音まで三二〇チャンネルの有線放送も入ってます。そうして、ブラインド式になったベッド・カバーと同じ色のカーテンを上げると、第三京浜を走る車と鶴見《つるみ》川ののどかなせせらぎが不思議なミス・マッチ感覚で眺《なが》められます。
「明るいんですね」
「でしょ」
本当は、どうして今、ラヴ・ホテルがオッシャレーなのか、そこのとこを彼にじっくり語ってもらうつもりでしたが、枚数が足りません。来週、「ファディッシュ考現学」のページで、きちんと、分析してくれるそうです。
《・6・7》
満ち足りてるのにサースティ。
メジャーな遊び人が選んだラヴ・ホテル。
先週のラヴ・ホテル探訪記は、ついつい悪乗りして、中学生の社会科見学になってしまいました。今週は、せめて、まともな大学生のレポート風にはなるよう、頑張《がんば》ってみます。
このところ、僕《ぼく》のまわりにいる男の子や女の子の間で、ラヴ・ホテルへの回帰現象が起こっています。外人モデルや大使館員の多い六本木のディスコ、ネオ・ジャポネスクや、六本木野獣会の残党みたいな、お金だけは持ってる中年のオジさんがたむろする西麻布のキャンティあたりへ、大きな顔で出入りしている、所謂《いわゆる》、メジャーな遊び人たちが、であります。これは、一体どういうことなのでしょう。
こうした子たちは、セックスに関してサースティな状態に置かれているのです。もちろん、はたから見たら、満ち足りたセックスの状況でしょう。けれども、当人たちにとっては、「たしかに、お腹《なか》は一杯だし、とりわけ、のどが乾いているわけでもないけれど、でも、なんかこう、もうちょっと、のどが潤《うるお》ったような感じになってみたいな」、こうした気分なのです。“出来れば、もう一杯”といった意味合いでのサースティです。
高校生の頃《ころ》から、ペロペロちゃんやグリグリちゃんをしている彼らや彼女らは、結構、その相手の数は多いはずです。また、自分と同い年もあれば、年上も年下も、って具合でしょう。場所だって、相手のお部屋、シティ・ホテル、ラヴ・ホテル、リゾート・ホテル、車の中。バリエーションに富んでいます。それは、満ち足りている、ってものでしょう。けれども、どこかサースティなのです。
そのサースティに思える自分らのセックスに“もう一杯”を加えるため、ラヴ・ホテルを選択しました。もちろん、シティ・ホテルを使うだけの余裕はあります。ダイナースやアメックスの家族カードを持っているからです。金銭的理由に基づく、ラヴ・ホテルへの回帰現象ではありません。
もしかしたら、知ってる誰《だれ》かに見つかっちゃうかもしれない、あるいは、ラヴ・ホテルという言葉が持つ、秘め事とか後ろめたさを連想させる、その雰囲気《ふんいき》が、逆にセックスにおける自分たちのサースティな気分を幾らかでも解決してくれるのでは。あまりにも、アッケラカンとした明るいペロペロちゃんやグリグリちゃんを実践してきた反動として、そう思い出したのです。
けれども、とっくの昔に生理が終わっちゃったオバアさんが、魔法瓶《びん》とお茶菓子を持って来て、「どうぞ、ごゆっくり」なあんて言い出しかねない雰囲気のラヴ・ホテルは、パスしてしまいます。オッシャレーな気分になれないからです。確かにそこはラヴ・ホテルだけれど、でも、かなりの部分、シティ・ホテルやリゾート・ホテルのノリがある。こうでなくては合格しないわけです。
考えようによっては、これは極めて思い上がった行動かもしれません。文化の香り漂う杉並《すぎなみ》区あたりに住んでいる、ある若手の文芸評論家が、その精神的優越感を捨てることなく、「でも、下町の谷中《やなか》あたりにね、仕事場を持ってみたい気もするんですよ」と、得々とした表情で語ったのと同じことだからです。
杉並区とは別の意味で、これまた文化の香り漂う、谷中という地区もいいな、と思っている件《くだん》の評論家の頭に、同じ下町でも下水処理場のある足立《あだち》区の中川や江東区の新砂といった地名は、多分、最初から選択の対象として入って来なかったように、僕のまわりにいる子たちは、床が板張りで、太陽がサンサンというラヴ・ホテルだけが、行くことを許せちゃう場所なのです。
「『デートの際の食事代を節約してでも、バスのないレンタルルームよりはラヴ・ホテルへ行きたい』、そういう風に思ってる人たちとは、私たち、違うの」
当然という顔をして、こう叫ぶ、僕のまわりにいる子たちは、ですから、あくまでも、オッシャレーなファッションとしてのラヴ・ホテルを選択していることになります。なるほど、ふざけたお話ではあります。けれども、これまた考えてみれば、今日、少なくとも目先の生活は豊かになった私たちの行動は、そのすべてがファッションでしかないのだとも言えるのです。
そうして、実際、オッシャレーなラヴ・ホテルへお出かけしているのは、「行こうと思えばシティ・ホテルにも行けるんだけれど、わざと、ラヴ・ホテルへ来ているの」という屈折した差別意識からだけではなくて、この他《ほか》にも、ちゃあんと理由があるのです。ベッドとバスルームが広いことです。
シティ・ホテルを利用する人たちの大部分は、まともな利用であれ、よこしまな利用であれ、ベッドとバスルームさえあればいいわけなのです。「大きなライティングデスクが欲しい」などとほざく人は、ホテルに泊まると、もうそれだけで上手な文章が書けるような錯覚を起こしてしまう、どこかの小説家くらいなものでしょう。
なのに、多くのシティ・ホテルは、お世辞にも広いとはいえないバスルームと、レギュラーサイズのツインなりダブルなりのベッドです。「バスとベッドが広いことを、お客は望んでいる」、この事実に気がついたホテルマンは、インペリアルタワーの客室において、それを現実化させた帝国ホテルの犬丸一郎氏だけでした。
そうして、ラヴ・ホテルは壁が厚いのです。シティ・ホテルと違って、隣室へ声が聞こえてしまうことはありません。万が一、聞こえたとしても、それはそれで、別段どうってことでもないわけです。経験を積む中で、男の子も女の子も声が大きくなってしまった僕のまわりの子たちにとって、それは重要な問題でした。単にオッシャレーなラヴ・ホテルをファッションとして味わうだけでなく、ちゃあんと、実も取ってしまう。メジャーな遊び人たちを見ていると、おもしろいことを知ることが出来ます。
《・6・14》
“理念なき雑誌”にあるのはクサい修身。
大日本雄弁会講談社は健在だ。
「雑誌としての理念? そんなもの、ありませんね」
『フライデー』副編集長の高橋忠義氏は、そう言いました。去年の一一月五日、よく晴れた日の午後のことです。ちょうど、一カ月前、一〇月五日の夜に開かれた有楽町西武のオープニング・パーティーでカメラマンが撮ったという、ある女の子と僕《ぼく》が一緒のエレベーターに乗っている写真をめぐって、デスクの武田一美氏も加えて三人、会っていたのです。「新しいタイプの写真雑誌を出されるとおっしゃいましたね。じゃあ、どのような理念をお持ちなんですか?」。冒頭の高橋氏の発言は、こうした僕の質問に答えたものでした。
「『なんとなく、クリスタル』に出ているお店に、写真を持って出かけては聞いてみたんです」。一緒にいた女の子が誰《だれ》であるかを突きとめるため、女性記者が二人、三年半前に出た本を片手に、一カ月近く、調べ歩いたのだとか。東販と日販のコンピューターは、『たまらなく、アーベイン』や『葉山海岸通り』などを、文京区音羽地区へ配本するのを忘れていたのかもしれません。「どこのお店の人も、口が固くてね。なかなか、わかりませんでしたよ」。武田氏は、取材の苦労話を語ってくれました。「だから、田中さんの恋人発覚、って感じで、ぜひ、やりたいんですよ」。
けれども、僕がエレベーターで一緒だった女の子は、当時、既に別れていた、昔のガールフレンドでした。東京女学館の短大を卒業した後、ファッション関係の会社に勤めていた彼女は、その会社のブチックが西武の中に出ていたからか、同僚たちとパーティーへやって来ていたのです。『MRハイファッション』の編集長と二人で来ていた僕は、久しぶりに再会した彼女と、ごく自然の成り行きで一緒に店内を見て回ることになりました。
当時、付き合っていたのは、慶応義塾《ぎじゆく》大学出身の日本航空のスチュワーデスでした。「写真の女の子とは、もう別れてます」。そう言うと、高橋氏は、「じゃあ、今の恋人と一緒のところを、隠し撮り風にお願いしますよ」。もちろん、その提案を僕は断りました。
自ら“理念なき雑誌”なる“理念”を標榜《ひようぼう》して創刊された『フライデー』編集部は、翌週、金曜日に発売した第二号に有楽町西武での写真を掲載しました。昔のガールフレンドの顔がはっきりとわかる写真を、です。前の週の『フォーカス』が、瀬古選手がお見合いした何人かの女性をスクープした写真を掲載した際、彼女たちの顔がわからないように処理した上で発売したのと、それは大きな違いでした。“理念なき雑誌”は、事実誤認を承知の上で僕の昔のガールフレンドを現在の“恋人”であると紹介したのです。隅《すみ》の方には、カンビールを片手に持った文化出版局の件《くだん》の編集長も一緒に写ってました。
半年近くが過ぎた6月14日号の『フライデー』は、「山城新伍が美人OLと“不倫”バレて……」なる記事を掲載しました。第一期オールナイターズの一人だった二二歳の女の子と山城新伍氏が熱愛中であるという内容です。日本女子大を今年卒業した彼女は、僕の友人と付き合ってたこともあります。ですから、僕のまわりにいる、夜の六本木でメジャーに遊んでいる大学生たちとは、全然、コネクションのない地味めな子ばかりだったオールナイターズの中で、珍しい存在でした。
ところで、同じ日に発売になった『フォーカス』も、「山城新伍の大阪『深夜デート』」と題した、ほぼ同じ文章内容の記事を掲載しています。けれども、その写真は全く異なるのです。『フォーカス』は、深夜、ホテル日航大阪二一階エレベーターホールでの二人一緒の写真です。動かぬ証拠です。山城氏本人の弁明も載っています。
一方、『フォーカス』のスクープを知ってから取材を開始したらしい『フライデー』は、TV出演中の彼と、出勤途中の彼女を撮った、別々の写真です。本人への取材はなく、代わりに、関係者と称する匿名《とくめい》のコメントが載っています。写真雑誌のはずなのに、証拠写真はありません。文章も伝聞推定からなるものです。幸いにして、事実に基づく記事を掲載した『フォーカス』が同じ日に出たから、読者は「なるほど」と理解出来たのです。
けれども、オールナイターズから市井《しせい》の人に戻《もど》った彼女を、綿密に取材した『フォーカス』は匿名としたのに対して、首から上だけを三原順子の写真と合成して販売したビニ本と同じレベルの、安易な作業で商品を作り上げた『フライデー』は、実名を載せました。
その昔、戦場へ送る慰問袋に『少年倶楽部《クラブ》』を独占的に入れることで、講談社は大きくなりました。少しずつキナ臭い状況になりつつある昨今の日本は、『フライデー』や『ペントハウス』を慰問袋に詰めるのでしょうか?
「これじゃあ、いくら、今度はコーラが飲める戦争だとは言っても、モラールがなくなっちゃうな」。そう思いながら『フライデー』のページをめくると、そこには、広島カープの高橋慶彦《よしひこ》選手とセックスをしたという成城短大の女の子の写真が載っていました。
『フライデー』が旅費を負担した見返りに、名古屋で“不倫写真”を撮らせた、有名人を追いかけるグルーピーの一人である彼女は、我らが『朝日ジャーナル』の兄弟というには、いささか腹違いの感もある『週刊朝日』6月7日号のインタビューで、「健気《けなげ》に耐えていると書いてくださいね」と答えているのです。
けれども、『フライデー』の反対ページには、「ファン、それも一〇代の女性と、いとも安易に『関係』を結ぶような実態は見逃せない。(中略)本誌はこういうプロ野球界の『甘え』に一石を投じ、反省を求めたつもりである」という、故市川房枝女史ですら言えないであろうクサい内容の文章が載っていました。“理念なき雑誌”は、その独特の平衡感覚で、下半身を煽情《せんじよう》するページと並んで、修身のページまで設けていたのです。有事ともなれば、安心して慰問袋に入れられる雑誌を作れるだけの気くばりが、まだまだ大日本雄弁会講談社には健在なのでしょう。
《・6・21》
GFと出かけたトゥール・ダルジャン、
縁の欠けたグラスでリカルドを飲んだ。
世の中には、一応、行ってはみたいんだけれど、でも、今のところはちょっとね、みたいな場所というのもあります。あまりにも、旬《しゆん》になり過ぎている場所が、それです。たとえば、ホテルニューオータニの中にあるトゥール・ダルジャン(La Tour D'Argent)が、です。ソニービルの地下にあるマキシム・ド・パリも、かつては、「今のところは、ちょっとね」の存在だったと思われます。けれども、時の経過が、初めての訪問者に対しても、ごくごく普通の気持ちで訪れることを許すようになっています。
去年の九月四日にオープンしたトゥール・ダルジャンの場合は、まだ一年もたっていないせいか、それを許すだけの余裕を持っていないように思えてしまいます。それで、「今のところは、ちょっとね」な存在です。もちろん、気になる存在ではあるのです。行ってはみたいのです。けれども、だからといって、いそいそとカップルでお出かけするのは、なんだか農協の旗を持ってパリのフォーヴル・サントノーレ通りを歩くような感じもして、ちょっぴりいやらしい衒《てら》いから、尻込《しりご》みしたくなります。
五月三〇日、午後七時、件《くだん》のトゥール・ダルジャンへ勇気を奮ってお出かけしてみました。その日がバースデーだった成城大学のガールフレンドとです。ロビーからトゥール・ダルジャンへと続く通路には、さきほどまでの喧騒《けんそう》がウソに思えるくらいの静謐《せいひつ》が漂っています。こうした、使い慣れない単語で形容したくなる、重厚な雰囲気《ふんいき》であります。
エントランスには、開店以来、東京店を訪れたらしき著名人のサインが何枚も、額に入れられて飾ってありました。多分、お客の比率としてのかなりの部分を占めるであろう、目先の金銭的羽振りだけが自慢の中年おじさんに連れられてやって来た、よこしまな関係を結ぶ若い女の子が喜びそうであります。
ウエイティング・バーで、彼女はトゥール・ダルジャンのオリジナル・カクテルを、僕《ぼく》は、縁の欠けたグラスに入った、薬草みたいな味のするリカルドの水割りを飲みました。予想されたよこしまなカップルが二組ばかりと、こちらは夫婦らしきカップル六人グループが一組。そして、山本益博《ますひろ》夫妻と春風亭《しゆんぷうてい》小朝・岸本加代子“夫妻”の四人グループも、バーにいらっしゃいました。
匿名《とくめい》の調査員たちによる評価だからこそ客観性を持たせることの出来るフランスのホテルレストラン・ガイド、『ギド・ミシュラン』の日本版を作るとおっしゃる山本氏は、つい最近、『an・an』の「今週の眼《め》」でも触れたように、TVや雑誌で自分の顔を露出されながら、日夜、人間フォアグラへの道を極められようとご努力なさっております。
仮に、僕がフロアのキャプテンであったならば、「山本氏の料理だけ、塩を多めにして下さい」とシェフに伝えることでありましょう。もちろん、評価を良くしてもらうためにです。顔の知られた有名人である山本氏は、そもそもの立脚点が、「池波正太郎の好きな店」「田中康夫の好きな店」といったタイトルの本を作ることと同じ場所にあるのです。
僕たちよりも一足先にメイン・ダイニングへと向かわれた山本氏ご一行の中の女性二人に、「トゥール・ダルジャンからでございます」と、メートルドテルが、それぞれ、花束を渡しました。「いやあ、恥ずかしいなあ」とおっしゃられながら、けれども、ご一行は花束を手にされて歩まれました。
何回もお出《い》でになるお客さまに、気の利《き》いたプレゼントをするのは、少しもやましいところのないサービスです。いや、むしろ、当然のことでありましょう。トゥール・ダルジャンは、当たり前のことをしたに過ぎません。そうして、ご自分の舌覚に絶対の自信をお持ちの山本氏が、花束ごときで、トゥール・ダルジャンへの評価に客観性を失うことも、もちろん、ありますまい。ガールフレンドと、そんなことを話しながら、僕もまた、メイン・ダイニングへと向かいました。
前菜に、野菜のテリーヌ・トマト風味、オマール海老《えび》のトリュフ・ゼリー寄せ、魚料理として甘鯛《あまだい》とアカザ海老サフラン風味、帆立て貝アンディーヴ添えを、肉料理として鴨《かも》ローストのリンゴ酒風味ソース、それに、当日のお推《すす》めだという仔羊《こひつじ》の背肉ソース添えをオーダーしました。もちろん、前菜、魚、肉、その度毎《ごと》に、二人のプレートを交換してもらって、両方を味わいました。
ワインは、白ワインにムルソーの八〇年物、赤ワインにアーロス・コルトンの七九年物。いずれも、ブルゴーニュ・ワインです。
オーダーした料理は、それぞれにおいしく、また、そのサービスも、このクラスのレストランにおいて、しばしば体験する慇懃《いんぎん》無礼なところも、まったく感じられず、大変に心地良いディナーでありました。けれども、残念なことには、せっかく来たのだからと、二時間半以上かけて楽しんだ僕ら以外のテーブルは、かなり早いスピードでメニューを消化すると、これまた、アッという間に席を立ってしまったのです。
料理を口の中へと運ぶ度、大袈裟《おおげさ》な動作をされながら、そのリッチな出来映えを体全体で味わっておられた山本氏も、比較的早目のお帰りでした。『グルマン』の中で、「食べ終ってもそそくさと帰らず、時間の許す限り楽しもう」とおっしゃってるのにです。きっと、忙しいスケジュールを調整したのであろう、もう一組の“夫妻”が、早く二人だけになりたかったのでしょう。
片言の日本語しか喋《しやべ》れない、パリ大学出の二七歳のマネージャー、クリスチャン・ボラー氏が、まだ、一〇時を回ったばかりだというのに、フランス語で会話を楽しんでくれるお客もいないフロアで、所在なげに立っていたのが、妙に印象的でした。
《・6・28》
『フライデー』デスク氏から電話が入りました。「約束が違うじゃないですか」。
「『朝日ジャーナル』の原稿、見ました。ちょっと、話したいこと、あります」
六月一四日、金曜日の午後、僕《ぼく》の留守中、自宅の留守番電話にメッセージが入ってました。先々週の「ファディッシュ考現学」に登場した、『フライデー』のデスク氏です。編集部へコール・バックしてみました。「近くの喫茶店へ出かけてます」。教えてもらった番号へ、ダイヤルし直しました。
「今、編集会議中なんですがね。約束が違うじゃないですか」
戸惑いました。喫茶店で編集会議が開かれていることにではありません。約束を守れ、と言われたことにです。一体、何を約束していたのでしょう。
「あの件は、どこにも書かないって、約束してたでしょ」
けれども、それは彼の記憶違いでした。「そのうち、顛末記《てんまつき》でも書いて下さいよ」。創刊第二号に、有楽町西武での写真を載せると編集長が決めた後も続けられた、「一緒に写っている女の子の名前も出す」「そこまですることはないだろ」という彼と僕とのやりとりの一番最後の時、たしかに、そう言っていたのです。
「男と男の約束を破った訳ですから、こうなると、キャンティでの写真を持ち出さない訳には、いきませんね」
どうやら、その後、“理念なき雑誌”のデスクは数々のスクープを狙《ねら》っていくうちに、キャンティでの一件を自分の中で勝手にゆがめて記憶し始めていたみたいです。仕方がないので、彼と一緒に電話口で復習してみました。
去年の一一月三日、夕刻、僕はスチュワーデスのガールフレンドを、車で成田のオペレーション・センターまで送って行くと、六本木キャンティへ向かいました。『家庭画報』の女性編集者に、連載している原稿を渡すためでした。渡した後、彼女と雑談していると、そこへ、昔のガールフレンドが会社の友だちと一緒に入って来ました。キャンティは、ロア・ビルの近くにあるお店です。ここは当時、所謂《いわゆる》、六本木でメジャーに遊んでいた若い男の子や女の子、それに、TVの製作会社や外車のディーラーを経営している中年のオジさん、カメラマンの加納典明氏や画家の今井俊満《としみつ》氏らが、たむろしていたお店でした。その日も、奥の方には、そうした若者やオジさんたちが集まってました。
僕は、『家庭画報』の編集者と別れると、集団に加わり、ビーフ・ピラフとキャンティ風サラダを食べました。当時、自分とは別のファッション関係の会社に勤める男性と付き合っていた、僕の昔のガールフレンドも、その中にいました。キャンティに集まる人たちの間では、昔のボーイフレンドとガールフレンドが同じテーブルに着いているなど、僕に限ったことでなく、ごくごく自然の光景だったのです。
と、そのうち、向かい側のビルの前に赤いランプを点滅させたパトカーがやって来ました。どうやら、酔っ払い同士のケンカを仲裁するために、みたいです。人だかりになっています。僕たちも五、六人、店の外へ出ました。フラッシュが光ったのは、その瞬間です。張り込んでいた『フライデー』のカメラマンが、写真を撮ったのです。以上が、電話で復習した内容でした。そうして、復習しているうちに、その翌々日、つまり五日の午後、副編集長も交えた三人で会った時に言ったことも、僕は思い出していました。
「ニュースとは、何か? それを、考えていただきたいのです。田中康夫が女の子と一緒に、有楽町西武のエレベーターに乗っていたことは、果たして、ニュースでしょうか。多分、犬が人をかんだ、というのと同じ、単なる事実でしかないと思えるのです。むしろ、一カ月間、一度も女の子と一緒に歩いたことがなかった、という方が、僕の場合、ニュースかもしれません。それと、もうひとつ、政治や経済と違って、意外性がなくては、この手の問題はニュースたり得ないはずです。たとえば、一泊二千円の旅荘から、明け方、僕が女の子と出て来たとしましょう。これは、ニュースです。僕のイメージを崩すだけのものが、そこにはあるからです。けれども、デパートの中で女の子と一緒にいた。これは、意外性ゼロです。しかも、相手は昔のガールフレンド。これでも、おやりになりますか?」
けれども、『ダカーポ』八六号で、「当初は『フォーカス』の物マネといわれていたが」という問いに、編集次長が「いくら体裁が似ていても、作る人間が違えば、マネようたって、マネようがないのです。絶対にオリジナルなものが出てくる」と、オリジナルという単語を異訳して答えている『フライデー』は、ニュースという単語も正確に訳すことが出来なかったみたいで、一一月九日の夜、「記事にします」と電話をかけて来ました。
「とにかく、『朝日ジャーナル』に書かれたのを見て、もう、これからは違う関係だな、と思ったわけですよ」
喫茶店で編集会議中だったデスクは、そう言って電話を切りました。四六時中、言動をTVカメラで監視されていた『1984』の登場人物みたいな気分です。けれども、まだ僕には、こうして反論するチャンスがあります。『フライデー』が、顔はもちろんのこと、実名までも安易に出して報道している市井《しせい》の人々には、その場がありません。黙って斬《き》られるしかないのです。
父親が阿南《あなみ》陸軍大将の息子にして講談社の社長であるという、反論の場が幾らでも用意された女の子が、日本女子大国文科の二年にいます。彼女が、それほどメジャーでもない慶応の男の子たちと、六月一五日の夜、代官山のフランス料理屋、フラッグスで戯《たわむ》れてたところを、たとえば、『フライデー』は実名で載せてみるべきでした。僕が女の子とデパートにいるのをニュースだと彼らが感じるならば、レノマやヴィトンのバッグが大好きで、金の指輪を二つも三つもしてるゴルフ部員の彼女の動向も、これまた、立派にニュースたり得ると、僕には思えるからです。“理念なき雑誌”も、まだまだ、そのラディカルなテーゼを徹底出来ない幾つかのジャンルがあるみたいです。
《・7・5》
十代の子たちと渋谷・自由が丘を探検。
近頃《ちかごろ》のツッパリ少女はレイヤード・ヘア。
先々週の日曜日、十代の女の子たち三人と一緒に、渋谷と自由が丘を探検してきました。野外実習、フィールドワークです。僕《ぼく》をナビゲートしてくれたのは、川崎の多摩区にあるミッション系の女子高、カリタス学園から玉川大学のフランス語学科に入った女の子。同じ多摩区にある日本女子大の付属高校から、今度は目白の家政経済学科に入った女の子。二人とも、一年生です。そして、もう一人、青山学院高等部三年生の女の子。
待ち合わせをしたのは、パルコの近くにあるUgly Ducklingでありました。ルノアールが経営しているというこの新しいお店は、イタリアンアイスクリーム&パーラーズと称しています。所謂《いわゆる》、アイスクリームとシャーベットの中間のような味がする、イタリアのジェラートを売り物にしているみたいです。それじゃあ、当然、イタリア名物のピスターチオのアイスクリームもあるんだろうな、と思ったのですが、やはり、そこまでを、渋谷の、それも高校生が集まるお店に期待するのは、酷でした。スパゲッティ・ジェラートという名の、モンブランの上に載ってるような渦状《うずじよう》になった代物《しろもの》や、ザ・目玉焼という名の、バニラ・アイスを円形に、その上にプラムがチョコンの代物が、メニューの中で大きな顔をしていたのですから。
けれども、ジェラート(gelato)というイタリア語を前面に押し出している点は、なかなか、ファディッシュです。そのイタリアはシシリア島のあたりへ行くと、ハンバーガーのバンズの間に、アイスクリームを挟《はさ》み込んだ代物を、大人も子供もムシャムシャと食べてます。一時期のクレープ・ブームに替わるものとして、ジェラート・バーガーをスタンド形式の店舗で売り出したら、ますますファディッシュなのに、って気もします。
お店を出ると、このところ流行《はや》っている、Caf de HaricotやSoho's Vino Rossoといったフランス語やイタリア語でネーミングされたお店を覗《のぞ》いてみました。それぞれ、お茶も出来るし、フランス“風”料理やイタリア“風”料理をオーダーすることも出来ます。彼女たちは、普段、こういうお店で、一皿《さら》千円ちょっとのお料理を食べているみたいです。
「ハチ公前の大井ビルにある、Shower'sやLindy'sは、どうなの?」。今年の春、目茶苦茶、人気のあったカフェ・レストランのことを尋ねてみました。「はっきり言って、終わってますよ、あそこら辺は」。三人とも、口を揃《そろ》えて答えました。「ツッパリが来てるの」。青学の高校生が、つけ加えました。ガラス張りの自然光サンサンのお店に、ツッパリ。なんだか、不協和音です。丈の長いスカートをはいたおネエさんたちが登場してるのでしょうか?
「違いますよ。レイヤードですよ、レイヤードですよ」。なんと、最近のツッパリは、レイヤード・ヘアにしているらしいのです。「でもね、どことなく、髪の色が黄色と茶色の中間みたいな色をしてるの。でね、ピンク色のパームツリーのバッジを、カバンにつけてるの」「そうなの。あと、サーフボードの形をしたバッジも。でも、そういうバッジには、“伊豆半島”なんて書いてあるんだけれど」
どうやら、近頃のツッパリは、レイヤード・ヘアをして、おまけに、サーファーの格好をしているらしいのです。「中森明菜が通ってた千歳《ちとせ》船橋の大東学園とか、町田の手前にある鶴川《つるかわ》女子高とかの子が、そういうノリ」「黙って坐《すわ》ってるとね、だから、いい子っぽいの。でも、喋《しやべ》り出すと、バッドすぎちゃう」。そう言う彼女たちは、ワンレングスの髪型をしていました。首のあたりまでのワンレングスの子もいれば、ロングストレートに近い、肩より下まで伸ばしたワンレングスの子もいます。
そこで、「ワンレングスは、どうなの?」と、続けて聞いてみました。「やだあ、私たち、最近、フルレングスなんだから」。なんでも、額のところの髪の毛を、眉《まゆ》のあたりで揃えて切っておくのがフルレングスなのだとか。といっても、もちろん、ボブ・ヘアみたいに揃えてあるわけじゃ、ありません。今まで、全《すべ》て横に流していた髪の毛の一部分を、ちょっぴり額にかかるような長さにした、というまでであります。
前述のレイヤード・ツッパリ少女たちとは、また、別の形で、お勉強はほどほどに、遊びのエネルギーは目一杯、という毎日を送っている彼女たちも、結構、大変です。それはそれで、日々、机に向かって御本を読んでる「知的作業従事者」たちと同じ、人知れぬ努力と悩みがあるのでしょう。
僕の運転する車に乗って、今度は、自由が丘までお出かけして、カスタネット、新参者のハイアニスポート、茶屋なんぞを覗いてみました。
出来てから五年になるカスタネット、略称カスタは、ウイークデーもウイークエンドも、日吉にある慶応の塾《じゆく》高の男の子たち、東京女学館、森村学園、田園調布雙葉《ふたば》の女子高校生たちで、相変わらずの賑《にぎ》わいを見せているみたいです。内装は、どうってことないし、イスやテーブルも落ち着かない雰囲気《ふんいき》だというのに、不思議です。それまで、塾高生たちと彼らを取り巻く女子高生たちの溜《た》まり場として君臨していたイングランド・ヒル、略称インヒルが、その地位を、アッという間に奪われてしまったことを懐《なつ》かしく思い出しました。
いくらお金をかけても、人気の出ないお店があります。たとえ、人気が出たとしても、すぐにアウトになってしまったり、客層の変わってしまうお店もあります。かと思えば、カスタのようなお店もあるのです。本当に、不思議です。そうして、その予想は、誰《だれ》にも立てることが出来ません。「だから、こういうツアーをしていないとね」。そう思いながら、ハイアニスポートに入ると、そんな僕には、一向、お構いなく、彼女たちはお目当てのクレープを注文しました。
《・7・12》
雑誌の“ご推薦”は嘘《うそ》ばかり。
懐《ふところ》を痛め、かつ主観的に、「田中康夫の嫌《きら》いな店」。
街中の書店で売ってるレストラン・ガイドやグラビア雑誌の紹介ページで絶賛されているレストランというのがあります。ついつい、それらを参考にして、もちろん期待をした上で、お出かけします。けれども、裏切られてしまうことがあるのです。先日も、そうした体験をしました。
三国清三氏なるシェフが出した「H冲el de Mikuni(オテル・ド・ミクニ)」は、四谷の学習院初等科裏手にあります。古い洋館の内装を綺麗《きれい》にして、このところ流行《はや》りの一軒家のレストランです。ガールフレンドと一緒に出かけた僕《ぼく》は、窓際《まどぎわ》の席に案内されました。
変な匂《にお》いがします。犬や猫《ねこ》を一杯、飼っているウチ特有の匂いです。黒服を着た給仕頭に、そのことを告げると、「そうですか? チーズの匂いじゃありませんか?」。そう言いました。でも僕も彼女も、匂いを感じるのです。「席を変えていただけませんか」。いかにも、わがままそうな顔付きの女の子とディナーしちゃってる、電通のバッジを胸につけた男性の坐《すわ》る横を通って別のテーブルへ案内してもらいました。
そこは、廊下を隔てて反対側にある窓のない部屋です。けれども、相変わらず、深呼吸すると、匂ってきます。「マルチーズも、チーズの一種だったかしら?」。ガールフレンドは、そう言うと、メニューを手に取りました。一万円のコース・メニューを選択するお客が九割近いという、このお店は、六月一三日号の『週刊文春』で山本益博氏が、「まぎれもなく大人が遊べるレストランである」と絶賛されております。大人が遊べるレストランならば、ア・ラ・カルトで頼むお楽しみをも、満喫させてくれるはずです。そう思って、メニューの説明を受けようとすると給仕頭の二番手にあたる黒服は、何も商品知識がありません。いちいち、奥の方へ聞きに行くのです。「まあ、出来たばかりだからね」。僕にしては珍しく、優しい心で包み込んであげながら、前菜と魚料理を頼みました。
けれども、僕の目の前に置かれた、スズキの香草入りソースは、おびただしい数の香草がプカプカと浮いています。まるで、モミの木の葉っぱをしゃぶっているみたいです。「ちょっと、これ、飲んでみて」。彼女に言われて、今度は、イサキの上にキャビアの載った代物《しろもの》のソースを一口、飲んでみました。塩の固まりをなめているみたいです。ミネラル・ウォーターをゴックンしてから、もう一度、挑戦《ちようせん》してみます。同じ結果です。昨今、フランスで流行の“大人が楽しめる味”は、こうした珍味なのかもしれません。まだまだ、大人になり切れない“永遠のモラトリアム少年”である僕は、そう思いながらも、ついつい給仕頭を呼んで、「シェフに食べてもらって下さい」と言ってしまいました。
「コースと違って、イサキが倍以上の大きさでしたので、それと同じ比率でキャビアも入れました。塩辛いのはそのせいです」。戻《もど》ってきた給仕頭は、当たり前という表情で答えました。びっくりしました。答えになっていないからです。友人の家へお呼ばれされて、若奥さんの失敗作を食べさせられるのとは訳が違います。プロの料理人の作品を、お金を払って食べに来たのです。魚が倍以上の大きさだったから、キャビアもその分、増やす、などという作業が、どのようなソースの味を作り出すことになるのか、三国シェフは、知らなかったのでしょうか。まるで、原因は安物のキャビアを持ってきた原材料屋にあるかのような答えを頂戴《ちようだい》したイサキのプレートは、六五〇〇円というお値段でした。「マキシム」でも滅多にお目にかかれないプライスです。
「俺《おれ》と行けば、全然、味が違うよ。あいつ、緊張して作るからさ」。かねてから「三国シェフは、料理の天才だ」と喧伝《けんでん》していた『ブルータス』の編集者に、この一件を伝えると、そう言いました。ますます、僕はびっくりしました。一見《いちげん》のお客にも、常連と同じサービスと料理を提供するのが、優れたレストランであるという考えを持つ僕には、到底、信じられないことです。その昔、『モア』の女性編集者が、同じく、僕が最低のサービスと料理であると確信した、コース・メニューしかない、けれども、山本氏は絶賛する西麻布の「クイーン・アリス」を、「私たちが行くと、特別のア・ラ・カルトを作ってくれるから、好き」と言っていたのを思い出しました。
新小岩のキャバレーに勤めていた方がお似合いな「クイーン・アリス」の給仕頭は、多分、お金を溜《た》めてやって来たに違いない『モア』の読者とその彼という雰囲気《ふんいき》のカップルが、ナイフとフォークの使い方を間違えると、クスクスと笑いました。けれども、僕の前に置かれたプレートに三回も毛が入っていようと、また、ワインにコルクが浮いていようと、あやまろうともしませんでした。そうして、「サービスとは何かを考えていただきたいです」と石鍋《いしなべ》裕シェフに告げると、一言、「ああ、そうですか」と答えました。
多分、自分のお金では行ったことがないであろう『ブルータス』や『モア』の編集者、そして、人間フォアグラ氏が好むレストランを、一回だけで評価するのはフェアではないかもしれません。けれども、『ギド・ミシュラン』と同じ客観的ガイドを作ると広言する山本氏は、去年、一度も「オランジェリー・パリ」を訪れていないのに、否定的評価を『グルマン1985』に載せました。『グルマン1984』を初めて出した段階では、「マダム・トキ」「ル・レカミエ」「伊万里《いまり》」へは一度しか足を運んでいませんでした。載っていた評価は、いずれも、否定的なものです。
お給料やアルバイト代を溜めた若者は、不幸にもこうした“客観的”ガイド・ブックや、自分の懐を痛めたことのない編集者の書いた提灯《ちようちん》記事を参考にして、レストランを選んでいるのです。であるならば、ただ単に主観的な、けれども、懐を痛めて書いた「田中康夫の嫌いな店」という今回の原稿も、その存在くらいは許されるでありましょう。
《・7・19》
キャピキャピの子が“明るいSM”を楽しんでる。
悩みは教則本がないこと。
「SMって、結構、楽しいんだよ」と発言する女の子が、このところ増えています。僕《ぼく》が付き合っている女の子だったり、友人のガールフレンドだったりする彼女たちは、大学生、社会人、家事手伝いと、そのジャンルは様々ですが、いずれも、明るい女の子であります。こうした子たちが行う“明るいSM”とは、一体、どういう代物《しろもの》なのでありましょうか?
「SM」と言われて、我々が一般的に思い浮かべるSM愛好者のジャンルとパターンは、キャピキャピの彼女たちとは、かなり、異なるものでしょう。弁護士、医師、教師、警察官。もちろん、その大多数は男性ではありますが、「なるほどね」と大きくうなずけるジャンルの人たちです。日頃《ひごろ》、“聖職者”としての顔を演じなければならない彼らは、そのストレスをSMという行為を通じて発散しているのだ。ま、このように認識されているからです。
もっと、わかりやすく言い換えれば、崇高な理念という名の建前を外では言い続け、けれども家庭においては、しばしば、中野、杉並、両区居住者に見られる、平然と自己の権利ばかりを主張する小市民の顔をしている人たちに、多く見られる嗜好《しこう》。そうして、さらにつけ加えるならば、こうした、外では建前を言い続けなくてはならないジキルとハイド的な偽善者の親を見て育った子供たちは、所謂《いわゆる》、問題児となる確率が高い。私たちがSMに関して理解している事柄《ことがら》は、こんなところかもしれません。
僕のまわりにいる女の子や男の子も、ストレスが溜《た》まっていないわけではないでしょう。やたらと真面目《まじめ》で、お互い以外の異性と付き合ったことのないのが自慢の両親に育てられたものの、隔世遺伝で女遊びの激しかった祖父の血を受け継いだ大学生や家事手伝いの彼女や彼らは、その華麗なる異性交遊関係を、フランクに親へと伝えることが出来ないという悩みがあります。あるいは、下手なサラリーマンよりも収入が多く、これまた、一見、華麗に遊んでいるように思われているスチュワーデスやコンパニオンの子たちも、我々の同胞から、「オイ、姉ちゃん」と呼ばれ、狭いギャレーやステージでの煩雑《はんざつ》な作業を続けるうちに腰痛《ようつう》が襲ってくるという悩みを抱えてはいるのです。
けれども、こうしたストレスを解消するために、彼女や彼らがSMの道に走っているとは思えません。考えられるとしたら、しばらく前に、ラヴ・ホテルについて扱った項でも述べたように、サースティな気持ちから、ってことでしょう。数多くの相手と、様々な場所で様々な体位を経験してきたことから生じた、とりわけ不満やストレスがあるわけではないのだけれど、出来れば、もう一杯、お水が欲しい、というノリなのです。これは、従来、SMの道に走っていた人たちの中に見られた、社会的地位から生じるストレスを解消するために、という動機とは、また別の、楽しみすぎて刺激がなくなっちゃったから、それで、というパターンの人たちに、似ています。
もっとも、そのノリは、異なります。従来の人たちは、「貪欲《どんよく》にセックスをむさぼりたい」というノリでした。ある種、ハングリーなノリなのです。僕のまわりの、サースティな気持ちから、という若者は、カジュアル感覚としてのSMを楽しもうとしているのです。ハングリーなノリのSMは、日本の伝統的セックスのパターンである、暗いところで淫靡《いんび》な交わりを、という枠組《わくぐ》みから抜け出していません。カジュアル感覚としてのSMは、まさに、窓から午後の日射《ひざ》しが差し込む部屋で、という明るいセックスの延長線上にあります。かなりの違いを見せているのです。
ところで、こうした明るいSMは、どのように執り行われているのでしょうか。多くの場合は、ロープと手錠、足錠、電動バイブ、そして鞭《むち》といった道具を使うに留《とど》まっています。「なあんだ、単なるお遊びとして、SMごっこをしているだけじゃないのか」といった意見もあるかもしれません。が、これは、彼女や彼らが、まだSM初心者であるという点に、その理由を見いだすことが出来るでしょう。今後、ローソク、浣腸《かんちよう》、放尿といった段階にまで進むことは大いに考えられます。
そうして、明るいSMが、僕のまわりにいる男の子や女の子ばかりでなく、サースティな若者の間に広まっていくことも、大いに考えられるのです。けれども、こうした、明るいSMの世界に入って来る彼らや彼女にも、悩みがあります。それは、SMの入門書がない、ということです。『SMスナイパー』を始めとするSM専門誌が幾つか発行されてはいますが、そこには、ロープの縛り方の解説は出ていません。「亀甲《きつこう》縛りや菱型《ひしがた》縛りは女体を美しく見せる」などといった記述はあっても、その方法は、どこにも記されていません。
どうやら、まだSMは市民権を得ていないものだと、勝手に思い込んでいるらしい編集者たちは、昔からの同好の士ばかりを対象に誌面作りをしているのでしょう。けれども、たとえば、若者雑誌は、毎年、「そんなこと、わかってるでしょ」と言いたくなるような、ラヴ・ホテルやソープ・ランドのシステム、キスの仕方、セックスの体位を、これでもか、ってくらいに載せています。それらの記事は、“新人”たちにとっては、なくてはならないものなのです。SM雑誌も、定期的に、「How to SM」の記事を載せることが、部数拡大につながるかもしれません。あるいは、相米慎二の『ラヴ・ホテル』のように、ごくごく普通の女の子でも見ることの出来る、キレイなカラー写真を使って初歩から解説された「SM教則本」が出版されることが待ち望まれます。
このところ、『世界』を読む高校生、大学生が多くなったと喜んでいる岩波書店あたりが出版すると、精神的ブランドに弱い人たちの間で、SMが市民権を獲得し、また、ブックレット以上に幅広い層の若者の脳裏に、ほとんどシーラカンスとなっていた岩波の名を刻み込むことが出来るでしょう。
《・7・26》
パリ祭はシケていて、お祭り気分はごく一部。
日本の広告代理店が演出したら……。
七月一一日から一七日まで、パリへ行って来ました。このところ、しばらく、生放送のテレビ番組に週一回、出演していたので、実に海外へ出かけるのは三年ぶり、そうして、パリは四年ぶりであります。
昼間の一二時発の日本航空406便、モスクワ経由パリ行きに乗りました。――どうも、JALという言い方をするのはニガ手です。タクシーをシータクと言ったり、ビールをルービと言ったり、はたまた、日本料理を縦飯《たてめし》、西洋料理は横飯《よこめし》と言う、広告、音楽業界のみなさま方のノリっぽいからです。「あのさあ、行きはJALだったから、縦飯にありつけたんだけど、帰りがエアフラ(エア・フランスのことか)だったから弱っちまって。デス(スチュワーデスのことか)も知ってる子が一人もいなくて、やっぱ、鶴丸《つるまる》(日航のことか)に乗らねえと楽しくないぜ」、これです。
ところで、毎月、二八日発売の『25 ans』に連載している短編小説の今月分を、出発前に四〇〇字詰め原稿用紙一枚しか書いてなかった僕《ぼく》は、「胃が痛くて」と泣きべそをかいているチャーミングな女性編集者に、「もう一二枚書いてありますから、大丈夫です。後一五、六枚でしょ。パリから、まとめて、ファックスで送ります」と空港の電話口でウソをついてました。もちろん、印刷所が特別態勢をとっても限界です。テレコム・ジャパンから創刊になった『スタイリング・インターナショナル』の、日本航空のスチュワーデスが大好きで和食ばかりを摂《と》る編集長と一緒の取材旅行である僕は、パリまで一睡もせず、ひたすら、婦人画報社という他社の原稿を書き続けました。
流暢《りゆうちよう》にフランス語を操り、“文化”も解する中曽根氏が二日後に泊まることとなったオテル・ド・クリヨンに、夜の九時近くに着いた僕は、「ファックスのサービスはありますか?」とレセプションで尋ねました。「テレックスのことか?」逆に、質問されます。「テレファックスといって、印刷物や原稿を、そのまま、遠隔地の……」と説明しても、首を傾《かし》げるばかりです。
仕方ないので、オテル・ニッコー・ド・パリへ電話しました。ここにもありません。それぞれ三日目、四日目に泊まる予定のオテル・ムーリス、ジョルジュ・サンクへも電話をして聞いてみました。ありません。どうやら、漢字を使う国と違って、テレックスで十分に用が足りてしまうのでしょう。最後に電話をしたパンナム系のインターコンチネンタルに、やっと、ありました。二九枚送って、一五五〇フラン(一フラン二七円)でした。
滞在中に、パリ祭がありました。コンコルド広場から凱旋門《がいせんもん》までの両側に、縦にやたらと長い三色旗がズラーッとぶら下がっていて、結構、お祭り気分です。けれども、お祭り気分になっているのは、そこだけなのです。もちろん、そりゃ、コンコルド広場に作られた天井付きのシートに坐《すわ》った大統領以下ムニャムニャゴニョゴニョの前まで、凱旋門からズンズンと陸、海、空軍、警察、そして消防が行進してくるのは、いい悪いは別にしても、なかなかのものでした。
けれども、それだけです。閲兵式と称するパレードが終わると、いつもと同じように一般車が行き交うようになってしまうのです。ルーブル美術館を駆け足で、それでも、一通りはグルリと全部回ったものだから、多分、日本へ帰ると、「ルーブルのことなら、まかしておくれ」って顔をするに違いない日本の善良な老若《ろうにやく》男女が、ワンサと時間をかけてお買い物を楽しまれるブチックの並ぶフォーヴル・サントノーレ通りにしても、日本みたいに「パリ祭記念セール」のポスターや旗が出ていたり、なんてことはありません。あくまでも、パリ祭とは関係なしの、たまたま、時期的にバーゲンだから、ってことでのセールなのです。
夜になると、トロカデロ広場のあたりで、ドーンと出た花火が綺麗《きれい》だな、のイベントが始まります。けれども、日本の花火に比べると、シケたものです。そうして、人出だけは、こんなにどこから出て来たの、ってくらいの賑《にぎ》わいなのに、ソーセージを焼いてる出店があるくらいで、こちらもシケています。パリ祭に便乗のキャラクター商品も、かわいい帽子が売られているくらいです。仕方のない若者たちは、遊びの少ない中国の若者同様、シャンゼリゼ通りで明け方近くまで爆竹をして盛り上がろうとしています。
日本の広告代理店のスタッフがパリ祭の演出をするようになると、おもしろいかもしれません。もっとも、フランス人にとっては、日本のように、町全体を巻き込む大がかりなイベントが、それも、ミスひとつなく予定通りに進められることは、恐怖に近いことなのかもしれません。なぜって、各所で道が通行止めになるため、動きのとれない車で大混乱に陥るのですが、やたらと一杯、街角に出ている警察官は、交通整理をする訳でもなく、ただ突っ立っているだけなのです。そうして、ドライバーたちも、先に進めないと判断するや、反対車線をブウォーンとバックしていっちゃうのです。オリンピックの開会式に一糸乱れぬ行進をすることを善しとする日本の国民性に不気味がるこの僕にも、ちょっと理解出来ないことが当たり前になっています。不思議です。
ところで、「ファディッシュ考現学」一四回目(「雑誌の“ご推薦”は嘘ばかり。……」)の内容に関して、『ブルータス』編集者氏より、「発言は事実無根であり、『ブルータス』というブランドを引き合いに出すことで、そのイメージを傷つけられた。謝罪いただきたい」というお電話がありました。「オテル・ド・ミクニ」の料理に関して、「俺《おれ》と行けば、全然、味が違うよ。あいつ、緊張して作るからさ」と言ったことはない、という主張です。シェフの三国氏が以前に勤めていた「ビストロ・サカナザ」に関して、柔らかいニュアンスで、そうした発言を編集者氏が行ったのを、僕が混同していたのでした。この点に関して訂正とお詫《わ》びをいたします。ただし、「オテル・ド・ミクニ」での僕の体験は記述通りであります。この点に関しての訂正はありません。
《・8・2》
ニューオータニ屋外プールのシーズン・パス
値上げは新中産階級への“挑戦《ちようせん》”だ。
六月一日から九月八日までオープンしているホテルニューオータニの屋外プール・シーズン・パスは、今年、一〇万円というプライスです。多分、心理的サイフに基づく一般的反応は、「高いなあ」。これでしょう。ゴルフ場の会員権が何千万円もし、テニスクラブの会員権だって、一〇〇万円以上するところが、ごくごく普通に存在するのが今日的傾向だとは言っても、やはり、です。なんてったって、ワン・シーズンだけのお値段なのですから。
他のホテルの屋外プールは、どうでありましょうか? 東京プリンスは、全日会員五万円、平日会員三万円。パシフィックは、全日会員六万円、平日会員四万五千円。オークラは、全日会員六万五千円、平日会員四万五千円。市民プールに通ってる皆さまからすると、「これだって、高いよ」ってことになるのでしょうが、でも、まだ、ニューオータニに比べれば、です。ちなみに、去年のニューオータニは、六万五千円でした。なぜに、こうした価格設定をすることになっちゃったのでしょう?
理由は、簡単です。お客さんが、あまりにも殺到し過ぎちゃうからです。たとえば、よく晴れて、しかも蒸し暑い八月の日曜日、あなたがガールフレンドを誘って、一日だけの“シティ・ホテルのプールサイドでの優雅なるデート”を楽しもうと、午前一〇時過ぎにお出かけしたとしましょう。多分、あなたは、一人四千円から七千円あまりするビジター料金を払って、ものの五分も経《た》たないうちに、「バーロー。これだったら、二人、延長料金を払ってでも、ラヴ・ホテルの広いバスタブに水を一杯入れて、“大人のコロタン・プール”をトライしてみるべきだった」と、じだんだ踏むことでしょう。
プールサイドのデッキチェアにズラーッと人、人、人、なのです。仕方ないから、床にタオルを敷いて寝転がってる人もいます。豊島《としま》園のジャンボ・プールにて家族でお楽しみの図、と何ら変わりのない光景が展開されているのです。ただ、多少、来ている人たちが、少なくとも、おにぎりを持参で登場するような家族連れではなかったり、パンチ・パーマのおにいさんと、茶色に染めた頂点レイヤード・ヘアのおねえさんカップルでなかったりする。それだけの違いです。
そうして、シティ・ホテルのプールに登場している団塊世代の家族連れはもちろんのこと、アベックや若い女性同士だって、一応、アーベイン風に装ってはいるものの、その実は、丸井の一〇回払いやJCBのキャッシング・サービス御愛用の、まさに目先の小金だけがある新中産階級だったりするのです。日本人と欧米系の白人が同時にチェック・インしようとカウンターへ歩み寄った時に、perhapsというよりは、むしろ、without failという確率で、欧米系の白人を先に接客することで定評のある“民営、新山王ホテル”ホテルオークラの場合でも、去年の夏、正午近くにノコノコとお出かけしたシーズン・パス保有者が、お買い得な夏休みパックで“リッチな休日”を過ごそうと宿泊していた家族連れや若いOLの大軍団で満員御礼となっていたプールに、入場出来ないような事態を何度か経験しました。
元々、上は皇室から下は横丁のおかみさんまでを相手にするというコンセプトの下にオープンした、プリンスやニューオータニのプールが繁盛するのはもちろんです。そうして、階級意識のない民主主義の国、日本においては、だからこそ余計に、ちょうど、終戦直後、国電にくっついていた進駐軍専用車両に潜り込んでは、チューイング・ガムをもらって自慢気に見せていたという人たちと同じように、“租界ホテル”に足を踏み入れることで、「自分は、こうした場にも足を踏み入れることを許された人間である」という一人だけの優越感を味わおうとする人たちが結構いて、それで、オークラのプールも満員御礼となってしまうのです。
ニューオータニが、シーズン・パスのプライスを一〇万円としたのは、こうした状況への挑戦でありました。平日のビジター料金を、去年の四千円から今年は六千円に、週末のビジター料金を五五〇〇円から八千円にしたのも、なんとか、客筋を絞り込んでいきたいという考えからです。もうひとつ、三〇〇人以上は入場させないという新しい施策も進めることになりました。そのかわり、デッキチェアをノー・エキストラ・チャージで三〇〇個、用意してあります。芋を洗うような混雑になったら満員御礼にするのとは、全然、違います。従来から、さすがにタオルは無料だったものの、ロッカーやガウンは有料としていたシステムも撤廃しました。
そうして、新プライスの公表はしているものの、その画期的なサービス内容について、ホテル側からのインフォメーションは、まったくと言っていいほど行っておりません。「来ていただいて、初めて、他のホテルのプールとの違いを知っていただけたらと思います」と語る関係者のその言葉には、大学、短大はおろか高校の謝恩会、日本酒片手にカラオケ大会の結婚披露宴《ひろうえん》、はたまた得体の知れないベンチャー・ビジネスのパーティーだって受注していかねばならない平和な日本のシティ・ホテルが抱える悩みが出ています。
ところで、「この夏、キャピキャピ娘は都市ホテルのプールが大好き」なんて『週刊宝石』の記事も読んでしまった異端派『朝日ジャーナル』読者のためにインフォメーションです。期待してお出かけするのなら、週末でも六五〇〇円と一番安い東京プリンスでしょう。社名を印刷したビニール幕を外側に貼《は》って赤坂プリンス新館を建設していた鹿島《かじま》建設に、「タダで宣伝させるつもりはない」と無地のビニール幕に替えさせた商売人、堤義明氏の方針でプールのなくなってしまった、けれども『JJ』が未《いま》だにバイブルの女子大生が大好きな、その赤坂プリンスから、二、三人でお泊まりのキャピキャピ娘も専用シャトルバスに乗ってお出かけして来るからです。まあ、頑張《がんば》って下さい。
《・8・9》
ロマネ・コンティをクルクル回し、かざして、
ゴックンしつつ山本益博氏と討論。
山本益博氏とディベートをしました。七月五日、南麻布にあるイタリア料理店「イ・ピッゼリ」のバーにおいてです。この日、夕刻から「ワインを飲む会」みたいな類《たぐい》の集まりが持たれたのであります。開高健氏の功績なのか、日頃《ひごろ》、酎《ちゆう》ハイばかりを飲んでる人の間でも、その名を知られるようになったロマネ・コンティを始めとして、いずれも赤ワインのエシゾー、リシェブル、ラターシェなんぞが、チーズやキャビアと一緒に並べられたこの会には、「イ・ピッゼリ」に足繁《あししげ》く通う人たちが登場しました。
グラスにワインが注《つ》がれると、皆、クルクルクルクルと一〇回近く、右手を小さく動かしてグラスを回します。ワインは、かくはんされます。その動きが停《と》まると、今度は、ダウンライトの光の中にグラスをかざします。グラスを斜めに傾けながら、そうやって、おりの有無を確かめているのです。茶の湯なんぞに見られる、お碗《わん》を何回か回して、ハイ、ゴックン、というのと同じ、まわりはともかく、少なくとも本人だけは「おいしいね」と思うことが出来るためには欠くことの出来ない儀式といえます。
普段は、コルクが浮いていないかどうか、あまりにも匂《にお》いが酢みたいに酸味を帯びていないか、といったことを試飲の時にチェックするだけで済ませているこの僕《ぼく》も、その一種異様な雰囲気《ふんいき》の中で、「クルクル回して、かざして、ゴックン」という、もっともらしい箔《はく》づけ作業をしなくてはいけないような強迫観念にかられてしまいます。その後、甲南女子大学出身のガールフレンドとデートの約束もあった僕は、一通り飲み終えると早々に退散しようとしました。「田中さん、ちょっと」。それまで、慣れた手つきで、グラスをテーブルの上でクルクル回して、の作業を熱心に行っていらした山本氏から声をかけられたのは、その時でした。
「あなたは、『ギド・ミシュラン』を過大評価していますね」。氏は、そうおっしゃいました。「三年に一回しか、調査員が回っていないのです。それに、匿名《とくめい》調査員といったって、メニューの見方、選び方で、店側は、すぐに見抜いちゃいますよ。更には、編集長というのは、TVや雑誌に顔を出してますし」。それが本当であるのだとすれば、『ギド・ミシュラン』に関して、僕は不勉強でありました。認めなくてはなりません。けれども、だからといって、それが、僕が指摘した幾つかの点に対するイクスキュースにはなりますまい。『グルマン』の中での厳しい表現は、むしろ、共著者の見田盛夫氏によるものであることが多い、と山本氏は語るのですが、それは、たとえば、雑誌の掲載内容に関して訴訟が起こされた際に編集長が、「記者が知らないうちに書いちゃったものですから」と言うのと同じです。そうして、三年に一回の調査の『ギド・ミシュラン』が、けれども、毎年、バーションを変えているから、仮に前年度、一度も行っていないビストロがあろうと、『グルマン』だって、毎年、バーションを変えても差し支《つか》えないのだ、という意見も、同様に、ちょっとね、です。
生意気なこの僕と一時間以上もディベートなさったことからもわかるように、山本氏は論客です。小学校の通知表問題に見られるように、健全なる競争心、向上心は、客観的評価からこそ生まれるのだという、人間の生理に基づく真実が禁忌とされる日本において、多分、初めて、客観的レストラン・ガイドを出そうと考えたと思われる山本氏のそのモチーフ自体は、むしろ、僕は評価しているのです。そういう点では、小さな声で山本氏批判をするにもかかわらず、デートの際にテレ笑いしながら『グルマン』を車のダッシュボードから取り出す人たちや、忠告通りに料理や内装を“改善”していく理念なき調理人、経営者たちこそ、責められるべきでありましょう。
「オテル・ド・ミクニ」の三国シェフは、『ブルータス』編集者氏に、「田中さんが来たので、うまいものを出そうと緊張してしまった」と語りました。それを聞いて、代官山にある和食屋「だいこんや」へ、以前、行った時のことを思い出しました。『ポパイ』と同じ判型のせいか、セックス情報が満載でも電車の中で童貞少年が胸張って読める『ホットドッグ・プレス』なる“表本『スコラ』”の編集者が好む、この店は、先に入った当時のガールフレンドに、けんもほろろな接客をしながら、けれども、車を停めて後から僕が入って行くと、擦り寄らんばかりの態度を取りました。こうした店が、僕は嫌《きら》いです。誰《だれ》が来ようと同じサービスでなくては、ウソだからです。ホテルオークラでなく、永田町のキャピトル東急ホテルを東京で一番のホテルだと僕が言うのも、その点です。ここの従業員は、たとえ、初めて待ち合わせをした高校生の女の子が先に一人で来ていようと、僕が来た後とまったく同じ接客態度を取るのです。
三国氏は、「もう、田中さんは店に入れない」とも言ったそうです。以前、「ラ・ベル・エポック」にいた仏人シェフ、ジャック・ボリー氏のように、「山本氏よ、あなたの評価は納得出来ない。もう一度、食べに来てくれ」と言える日本人シェフが、なぜ、いないのでしょう。ディベートの生まれない日本の風土は、山本氏にとっての不幸であります。けれども、肩ひじ怒らせてワインの試飲を行う氏を見ていると、serviceという言葉に、「神が見守る下、その代理人として尽くし、それゆえ、受け手も純粋なる感謝の念を持つ」なる意味合いがあることを認識されていないのではと、どうしても、思えてくるのです。その認識の有無は、根本的な問題です。願わくば、神をも怖《おそ》れぬ山本氏が、肩のみならず、ピンと張ったヒザの力も弛《ゆる》められますように。でないと、小学校の朝礼時、直立不動の優等生が今回の僕のように向こう見ずな悪ガキに後ろからヒザをチョンと押されてコロッ。それは、小さな声で語る弱虫たちを、ただ、喜ばすだけに終わるからです。
《・8・16》
空からの贈りもの――JALへ愛をこめて。
日航は“ナショナル・フラッグ”に疲れてる。
「子供が出来ちゃったとか、裁判沙汰《ざた》になっちゃったとか、ま、そういうトラブルにならない限りは、いくら社内で不倫しちゃおうと、昇進にはまったく関係ないね」
日本航空組織人事部採用グループの若手社員は、そう言いました。昭和五四年二月、まだ僕《ぼく》が大学生だった頃《ころ》、本社内で聞いたセリフです。それから六年が経過した今、妻子ある社内の人間と付き合っている何人かの客室乗務員(クルー)を、僕は知っています。異例の早さで出世している管理職がその相手であるケースもあります。彼の言っていたことは本当だったのかもしれません。けれども、昨今、その事実が社内に広まっても平気かどうかの違いがあるだけで、こうした“不倫”が掃いて捨てるほど転がっているのは、商社であろうと銀行であろうと、はたまた、もちろん、マスコミにおいてであろうと変わらぬ状況になりました。
大屋政子女史が発案したという、イクラご飯ならぬキャビアご飯を食べるクルーがいます。ファースト・クラス(F)の乗客にサービスした後に残ったオードブルのキャビアを、同じく和食メニューの残りの白飯に載せて、クルー・ミールと一緒に食べるのです。トレイに載ったテーストレスな機内食を食べさせられるエコノミー・クラス(Y)の乗客からすれば、「ふざけんなよ」と言いたくなる行為ですが、次の寄航地に到着すれば食中毒を防ぐため、その他の残ったミールと一緒に処分されるキャビアです。まあ、大目に見てあげることも出来なくはないでしょう。
『スチュワーデスの本』とやらに登場しているスチュワーデス(SS)やアシスタント・パーサー(AP)の中には、所謂《いわゆる》、サラ金業者の息子と付き合っている子や、ボーイフレンドとのSMが趣味という子がいます。あるいは、日本のボーイフレンドと国際電話でテレフォン・セックスするのが、ステイ先での楽しみという子もいます。けれども、それがどうしたというのでしょう。何ら恥じる必要のない、また、極めて自然な人間の生理に基づく行為であると僕には思えます。
日本航空の体質について声高に語る人たちがいます。批判的見解が主流を占めています。『朝日ジャーナル』読者のように、本来、リベラルな思考をするはずの人たちまでもが、「日航の甘えの体質を正せ」「世間が許さない」といった、一歩間違えば修身にもなりかねない発言をするのです。そうして、安全に飛んでさえいれば、別段、問題にもならないであろう前述のような事柄《ことがら》は、たとえば、一旦《いつたん》、事故が起きると、すべて、その遠因であるかの如《ごと》く語られていくこととなります。
もちろん、忌《い》むべき日航の現状も、数多く僕は知っています。大手の旅行代理店には、JALCOMVと呼ばれる日航のオン・ライン端末機が置かれています。日航の国内、国際線の予約、発券を行うためです。全日空、東亜国内航空の予約、発券は、それぞれに独自のオン・ラインがあります。けれども、国際線については、すべてJALCOMVを使って発券するのです。もっとも、JALCOMVで予約出来るチケットは、東京発着便、いずれかが日航でなくてはなりません。ですから、東京―ニューヨーク―シカゴ―東京というチケットを予約する場合、東京発着便が、それぞれユナイテッド(UA)、ノースウエスト(NW)だったりすると、駄目《だめ》です。この場合、航空会社に電話をして予約するのです。
ただし、その後の発券に関してはJALCOMVを使うシステムになっています。従来のように手書きでない印字された国際線のチケットは、こうして我々の手元に届きます。が、同時に、各旅行代理店の販売動向は、JALCOMVを通じて日航のデータとなります。アメリカの場合は、幾つかの予約、発券オン・ラインがあるのに、なぜか日本の場合は、日本中の旅行代理店が日航に支配されている形なのです。
国際線の予約は一年前から行うことが出来ます。たとえば、混《こ》み合うお正月のホノルル便は、仕事始めの日、どこの旅行代理店も競って予約を入れます。翌年のお正月をホノルルで過ごす予定の顧客からの予約に従ってです。けれども、UAやNWは座席が空いてさえいれば無条件で予約OKが出るのに、日航だけはJALCOMVの画面にウエイティングを意味するULが表示されます。これはキャンセルを見越している日航が、いずれの旅行代理店に対してもOKを出さず、ある種、オーバー・ブッキングの形にしていることを意味します。予約OKの欲しい旅行代理店は、日航側の担当営業マンの心証を良くするための努力を行うことになります。
けれども、ギリギリまでウエイティングさせられた挙げ句の果て、その力関係からエグゼクティヴ・クラス(C)が取れずに、Yのチケットが日航から下りてくることがあります。日時の関係でこのチケットを使うしかなかったビジネスマンは、格安チケットで乗り込んで来た団体客の間に挟《はさ》まって、アルコール有料、機内食もサービスもCとは比べものにならないくらいに差のあるYでお出かけすることになるのです。もちろん、理不尽なことに、ディスカウント・チケットを買ったのではない彼の場合、Cを利用した場合と同じ正規料金を払っているのです。同じお金を払いながら、そのあまりの違いに苦情を述べた僕の友人に、日航パリ支店のある社員は、「だって、Yはカーゴみたいなものですから。運が悪かったですね」平然と言い放ちました。
そのせいでしょうか。クルーは、C客と同じミールを食べるのです。そうして、Fを担当したクルーは、F客と同じミールです。人員繰りや就業時間数の関係からデッド・ヘッドと称するノー・デューティ・フライトで次の寄航地まで移動する場合、座席は原則としてCです。CやYが一杯の場合、Fに座ることさえあります。
正規料金で買う国際線チケットが世界で一番高いのは、日本です。それは、1FUC(=1〓)=296 円というレートを日航が変えないからです。東京―シドニー往復チケットを日本で買うと、四九万六一〇〇円するのに対して、オーストラリアで買うと、2444オーストラリア〓(1オーストラリア〓170円として、四一万五四八〇円)。約八万円の違いがあります。この差で利益を得るのは、誰《だれ》でしょう? 国際線チケットの場合、旅行代理店の手数料は九%です。残りの九一%は航空会社の収入です。国際線の日本発着が最も多い日航が、一番の恩恵を被《こうむ》っているのです。
多くの読者諸兄は、こうした事実に怒ることでしょう。この僕も、呆《あき》れてしまいます。「日航の体質は」と修身したい衝動に駆られます。けれども日航がこうした体質になったのは、社内だけに原因があるのでしょうか? 次に掲げる事実も知る僕は、複雑な思いになります。
旅行の際に便利な携帯用カセットプレーヤーで定評のある電器メーカーの会長夫妻の斜め後ろの席に乗り合わせた僕の友人は、びっくりしました。ミール・サービスの際に、たとえば、ナプキンに包まれたフォーク、ナイフがテーブルの上に心持ち曲がっておかれただけで、会長夫人はSSを叱《しか》ったのです。SSは謝りました。けれども会長夫人は続けてAPを呼びつけて同じことを言いました。更に、キャビンの責任者であるチーフ・パーサーをも呼びつけました。夫である会長は、その間、黙って本を読んでいました。僕が卒業した大学の前身を出た、長期信用系銀行の元頭取、そして、外務省関係の中にも同様に理不尽な要求や不遜《ふそん》な立ち居振る舞いを機内で行う者がいることも、この業界では周知の事実です。あるいは、「オイ、姉ちゃん、ビール」とクルーに命令するYの団体客の存在については、改めて説明するまでもないでしょう。日頃から僕が口を酸《す》っぱくして説く、“サービス”という単語の意味を畏《おそ》れぬ日本人が、日航の乗客の多くを占めているのです。
そうして更に不幸なことに、こうした乗客の要求に応《こた》えようと、日航はするのです。コンプレインの多いF客には、地上からのシート・チャートの備考欄に、ウルサいという符丁らしきUUUマークが記されて、クルーへの注意が喚起されます。「ファーストのお客様がコール・ボタンを押される前に、その御希望を察知出来なくては、クルーとして失格よ」と言うAPもいたりします。過剰サービス精神です。が、それほどまでの対応は、果たして必要なのでしょうか?
我々は飛行機というものが、とてつもなく高級な乗り物だと思い込んでしまっているところが、どこか、あるのではありますまいか。FやC専用のチェック・イン・カウンターで、係員のささいなミスに対して、「オレは、しょっちゅう日航に乗ってやってるんだぞ」と怒る日本人は、バスや電車の職員に対しても、そうした怒り方をするでしょうか。また、事あるごとに、「ナショナル・フラッグ・キャリアとしての日航が」と発言するマスコミも、日航の国際線は国威高揚のためにあるのだと未《いま》だに信じて疑わないのではありますまいか。
パリやローマの空港を利用した際に、運良くエア・ガボンのジャンボ・ジェットを見たことのある人がいるかもしれません。緑色をしたカワイイ小鳥のマークが垂直尾翼に描かれたガボン共和国唯一《ゆいいつ》の国際定期便運航会社であるエア・ガボンは、全部で八機の飛行機しか保有してないのに、その中の一機がジャンボ・ジェットなのです。それはまさにナショナル・フラッグ・キャリアと呼ぶにふさわしい、ある種の感懐を与えてくれます。けれども、“盟主”アメリカからも愛想をつかされがちな経済大国、日本が、未だに肩ひじ張って、「ナショナル・フラッグ・キャリアの威厳が」などと言う必要がどこにありましょう。外交団の訪問にUAやNWを使えば、アメリカへの点数稼《かせ》ぎにもなろうというのにです。
そうして、飛行機が特別なものだと考えるFに座る財界人、与野党の政治家、官僚は、Cに座る大手企業のビジネスマンたち同様、機内で理不尽な要求をするだけでなく、更に渡航先の外地でも現地の日航社員に観光案内や夜の世話までさせるのです。これは、わが親愛なる同胞、マスコミ関係者とて同じです。一般乗客からの運賃収入の一部を使って、幇間《ほうかん》よろしく日航社員は接待しているのです。大手企業にならどこにでもいる、精神的ブランドと安定を求めて入社した社員が、こうした卑屈な日々を送る中で、ついつい、一般乗客を小馬鹿《こばか》にした前述のパリ駐在員のように逆の特権意識を持ってしまうことを、一方的に批判することには僕は抵抗を感じます。
我々は、そろそろ、JALをごくごく自然な形の会社に戻《もど》してあげるべきなのではないでしょうか。単なる運輸会社としての姿にです。それは、完全民営化、ANA、TDAとのフェアな市場競争が行われるために不可欠な、分割化の上で、です。そのことで一時的に日本の航空会社の国際線輸送占有率が落ちようとも一向に構わないではありませんか。未だに、そんなメンツを気にする必要のある国では、日本はないはずです。
今週、日航機に搭乗《とうじよう》される読者諸兄は、普段は搭載されている各種の週刊誌が漫画誌以外は用意されていないことに驚くでありましょう。その日の新聞も、リクエストしなければ持って来てくれないはずです。そうして、救出されたAPの発言は、なぜか、警察の事情聴取よりも先に病室に入室することの出来た日航関係者によって伝えられました。生え抜きの現社長が再任中に辞任して、運輸省出身の副社長が昇格することになっていたそのシナリオを、今回の事故で早めることで会社としての責任問題も片付けられようとしています。どうして日航は、我々の前にありのままの姿を見せようとしないのでしょう。それは半官半民の日航に、国も国民も単なる運輸会社以上の役割を要求してきた中で生まれた弊害なのかもしれません。
そうして、そのことは、我々、マスコミに従事する者への警鐘でもあります。感情レベルで日航を批判したマスコミ関係者たちが、たとえば、一年後、日航とのタイアップ記事取材で訪れた外地で日航社員を幇間扱いし、また、社内で七人の犠牲者を出した広告代理店と、生存者救出場面をスクープしたTV局、それに直木賞“日航”作家が協力して「新スチュワーデス物語」を作ることで、ナショナル・フラッグ・キャリアの威信回復が図られ、忌まわしい記憶が薄らいだとしても、それは事故機に搭乗していた人々の望むところではないでしょう。
繰り返しますが、JALをごくごく自然な形の運輸会社に戻してあげること。それが、我々利用者、そして、過度なサービスを要求されながらも黙って仕事を続ける、心ある日航社員への真の贈り物。僕には、そう思えるのです。
《・8・30》
ケバ目な女の子や奥さんが目立った
軽井沢の“名士テニス”パーティーにて。
八月二日、軽井沢セレブリティ・テニストーナメントと称するイベントが、開催されました。今年で九回目になるのだそうであります。セレブリティとネーミングされているからには、きっと、参加するのにも数々の条件があるに違いない、と思っていたのですが、別段、参加規約みたいな代物《しろもの》が作られているわけでもないみたいです。従来からの参加者が推薦したならば、もうそれでOKなのです。
ところで、その“選ばれた参加者”の中では、猪谷千春《いがやちはる》夫妻、大宅《おおや》映子妻夫、森瑶子《ようこ》妻夫、宮本恵造夫妻、神田法子《のりこ》・正輝妻夫といったあたりが、所謂《いわゆる》、有名どころでありました。この他《ほか》の皆さんに関しては、参加者リストの字面《じづら》を追う目線の動きは、途中で止まることなく、一定のスピードです。時折、珍しい名字だな、などと思う参加者が目につくくらいです。
けれども、多少の知識のある人がリストを見たならば、その昔は貴族だった、先代が高名な政治家であった、所謂、老舗《しにせ》と称されている和菓子屋の息子である、などといった人々の名前を、そこに捜し出すことが出来るでしょう。こうした人たちの多くは、メーカーだったり、広告代理店だったりにお勤めしていて、本人自体の実力で獲得した精神的ブランドは、社内的地位を除けば、さほどないものですから、知らない人がリストを見ると、当然のことながら見落としてしまうこととなるのです。
はてさて、日中のテニストーナメントが終了すると、夜、七時からはパーティーが行われました。優勝者への賞品授与、ダンス・タイム。おっと、そうそう、忘れるところでした。このトーナメントに参加した人たちからの募金が、ユニセフへと寄付されました。赤坂にあるユニセフのオフィスから、わざわざやって来た、僕《ぼく》も知っている女性職員へと、途中で手渡されたのです。
家族全員で参加していた、たとえば『25 ans』あたりに家事手伝いとして登場しそうな会場の女の子や、早くも永久就職をして、その相手であるところの、結構、年の離れた夫と一緒に参加していた女性が、「あら、彼女、知っているわ。学校で見たことあるもの」とつぶやいたことからもわかるように、ユニセフの女性職員もまた、会場の女性のうちの多くを占めていた聖心女子大学出身者でした。
ところで、コンラート・ローレンツというドイツ人の動物行動学者が書いた本に、『攻撃―悪の自然誌』(みすず書房)があります。この中で、ローレンツは、「ふつう門外漢は(中略)ダーウィンの『生存競争』という言葉に出会うと、たいていの場合、誤って、異なった種の間に起こる闘争のことだと思ってしまう。だがじつは、ダーウィンの考えた進化を推し進める『闘争』というのは、何よりもまず近縁な仲間どうしの競争のことなのだ」(日高敏隆・久保和彦訳)と述べています。これは極めて刺激的な意見であります。
「食うほうと食われるほうとの間の闘争の結果、捕食獣が獲物を根こそぎ絶やすことはけっしてなく、双方の間にはつねにある平衡の状態が成り立っている。この状態は、種全体としてみれば、どちらにとっても不つごうはないのである」。この箇所もです。ライオンはシカやシマウマを必要以上に殺すことはしない、というわけです。
人間という名の動物を例にとって、このローレンツ言うところの法則を考えてみましょう。同じようなレベル、もしくは同じ意識レベルの人たちの集団である日本株式会社には、なるほど、個々の間に闘争という緊張があります。そうして、それが、経済成長という進化を推し進めてきました。勉強や学問について考えてみても、同様です。同じレベルの生徒、学生、研究者の集団には、闘争が生まれます。そうして、それが、学術の進化を推し進めます。
けれども、もちろん、同じようなレベル、同じ意識レベルの人たちばかりが一緒にいると、変な形での闘争という弊害の起きる場合もあります。自殺者が続出する大規模な団地や、金属バット事件の起きる郊外分譲住宅などは、そのいい例でしょう。坂の上にはお屋敷があって、坂の下には八百屋さんがあって、という地区のように、様々な人たちをザーッとタライの中に入れてグルグル回して墨絵のような分布にする、という作業が抜けているからです。
この日、トーナメントに集まった人たちも、同じようなレベル、同じ意識レベルの人たちばかりでした。ただし、ある種のクラスを感じさせるのであろう、という点で同じレベルだという人たちの集団です。もっとも、たとえば、良き時代に生きたイギリス人貴族とは違って、選ばれた人には地位やお金の享受《きようじゆ》だけでなく、それを得ることの出来ない人々には課せられない義務というものも同時にあるのだ(noblesse oblige)、という意識の希薄な人たちの集団だった気がします。
比較的、ケバ目な女の子や奥さんが目立ったパーティー会場へ入った瞬間、その昔、洋雑誌で見た、落ちぶれゆくスペイン保守党の選挙時のパーティーの写真を思い出しました。が、それは、単に彼女たちの顔立ちが、スペインの金持ちの女房《にようぼう》子供に似ていたから、というだけでないことは確かです。でなければ、ユニセフへの寄付金受け渡しの際に、どこか、いたたまれない感じを受けることなどなかったはずです。
もっとも、軽井沢プリンスホテルという、“大規模団地や郊外分譲住宅在住者の友”であるホテルのコートとホールを使って開催されたのですから、無理もないのかもしれません。一応は日本で一番のリゾートだと言われている軽井沢には、けれども、大規模なテニストーナメントの出来る場所が、なんと、プリンスホテルくらいしかないのです。それが、日本です。参加者たちが、二四時間テレビに感動する多くの人たち同様、単なるファッションとしてのチャリティーを行ったのだとしても、僕には大きな声で批判することなど、出来ないのかもしれません。
《・9・6》
もうひとつの都市の遊び方。
スティミュラスな板橋――区立美術館から東京大仏へ。
今週は久しぶりに、「都市の遊び方」が「ファディッシュ考現学」に登場です。先週、扱っていた“防人《さきもり》たちの石の箱”がある高島平の南側、板橋区立美術館の話からスタートします。この板橋区立美術館、その昔は赤塚《あかつか》城と称するローカルなお城があった場所に、昭和五四年、東京二三区で最初に出来た区立美術館です。
普段は、区内在住の画家の絵をズラリと並べてみたり、所謂《いわゆる》、クラーい世界のビデオ作品を流してみたりのスペースです。まあ、一応のノリとしては、北品川は御殿山にある原美術館の板橋区版、こんなところでしょうか。もっとも、区民のための美術教室が開かれるアトリエが一部にあるあたり、オッシャレーなカフェの併設されている原美術館との大きな違いです。どこか、器と訪問者に、西武的、もしくは『広告批評』的雰囲気《ふんいき》の漂う原美術館にはない、言ってみれば、区立図書館の延長線上のノリが残っているのです。
ところで、八月三日から九月八日まで、「都市に棲《す》む――ネコのひたいに建った家」なる展示が開かれています。安藤忠雄、石井和紘《かずひろ》、相田武文、長谷川逸子、宮脇檀《まゆみ》といった一一名の建築家と象《ぞう》設計集団なる一団体による住宅の写真、設計図などが展示してあるのです。行って来ました。タイトルからもわかるように、ほとんどの作品が一〇〇坪以下の、しかも、二、三〇坪の敷地に建てられたものです。中には、一〇坪の敷地に、という作品もあります。
およそ、インテリア雑誌などに紹介されている住宅というのは、実物よりもかなり美しく見えるものですから、その点、差し引いて考えてみなくてはなりませんけれど、それぞれに奇抜なデザインの建造物でした。ただし、その多くは、コンクリート打ち放しです。所謂、ファッションメーカーのビルなんぞにお似合いな代物《しろもの》です。で、“ネコのひたいに建った家”なのですから、こりゃ、どうしても、僕《ぼく》が言うところの“箱庭感覚”です。
その昔、マイカー・ブームだった頃《ころ》、ドブ板またいだような場所に住んでいるのに、なぜか、いつでもピカピカに磨《みが》き上げられた小さなパブリカだけは自慢気に持っていた人たちがいました。その手のジャンルの人は、朝早くマイカーに乗って会社の近くまで到着します。と、まだカーステレオなんぞが市場に出回っていませんでしたから、カー・ラジオのスイッチを入れて、ニュースを聞きながら、サンドウィッチとミルクでムシャムシャゴックンと朝食を取っていたのです。
始業時刻ギリギリまでマイカーの中で過ごすと、会社へ行きます。仕事が終わると、すぐにマイカーへと戻《もど》ります。そのマイカーは、外側だけでなく内側までもが、綺麗《きれい》、綺麗です。そうして、一日のうちの多くの時間を過ごしているのにもかかわらず、そこは、生活の匂《にお》いがポッカリと抜けた奇妙な空間、彼一人の城なのでした。
家を建てることは出来ないけれど、マイカーを持つことぐらいは出来る。家の中は、収納スペースがグワーンと広くないとゴチャゴチャになってしまうけれど、マイカーの中だけはチリひとつない空間として維持できる。まさに箱庭です。今回の展示は、そのマイカーに代わって、二、三〇坪の敷地に建てられた一軒の家というレベルで箱庭感覚を追求してみたらどうなるか、ということを教えてくれました。それは、“ほどよい狭さの、大世界”という有楽町西武のオープニング時のコピーにも通じるところがあるように思えます。極めて日本的ノリなのです。
幸か不幸か、オリジナリティと称するものには恵まれていないと一般的に思われている日本人は、見てくれを美しくする小手先の技術には優れているみたいです。それぞれの作品は、こうした技の成果に満ちあふれていました。文章や絵画におけるオリジナリティの追求とは違って、立方体にせよ、球形にせよ、中に人が入って暮らせる空間でなくてはいけないという基本的制約条件のある建築の場合は、こうした“ネコのひたいに建った家”のほうが「オリジナリティ」に思える技を出しやすいのかもしれません。
何回か訪れたことのある板橋区立美術館にしては珍しく、西武、『広告批評』、原美術館的であった今回の展示を見た後は、「高島平ばかりが板橋区じゃありませんよ」という感じで、このところ、僕が注目している板橋区巡りをしてみることにしましょう。
なんと美術館の傍《かたわら》には、知る人ぞ知る東京大仏のある乗蓮《じようれん》寺、そうして、赤塚植物園、家康以下歴代将軍の朱印状もある松月院、竹の子公園なんぞがあって、スティミュラスです。高島平の団地からは想像できないカヤブキの農家もあって、ガーデントラクターの世界です。その昔は田んぼだった低地の高島平のちょうど南側にあたるこの辺りは、高台になっているんです。南武線沿いの多摩丘陵に似ています。うっそうとした樹木が生い茂った公園が、その段丘沿いに続きます。
が、これだけが板橋区ではありません。東武東上線ときわ台駅北口は、城北地区の田園調布です。ロータリーから放射状に何本かの桜並木が出ていてなかなかの雰囲気を持った住宅街です。そうして九月三〇日からは埼京《さいきよう》線とネーミングが変わる赤羽線の十条駅から程近い東板橋公園には、フラミンゴやサルなんぞのいるこども動物園、淡水魚水族館があります。前野町や小豆沢《あずさわ》、舟渡といった中仙道《なかせんどう》から少し入ったあたりにも善福寺公園なんぞより盛り上がる公園が幾つもあります。
別に、高島平と東上線、荒川沿いの工場、幾つもの病院、研究所ばかりが板橋区ではありません。なんと治承四(一一八〇)年に頼朝《よりとも》、義経《よしつね》が通過したことが『義経《ぎけい》記』に出てくる歴史ある板橋区は、そうして意外なことに、全国各地から出て来た者同士が雑種混交で結婚して暮らしているせいか、各種の美人コンテストの上位入賞者も多いのです。たまには、高島平以外の板橋区も訪れてみましょう。きっと、もうひとつの都市の遊び方を発見するはずです。
《・9・13》
ポール・ポワレ衣装展のエトランゼ気分は、
現在のデザイナーの世界にまで続いてる。
ハウスマヌカンという言葉があります。ブチックで販売を担当する女性のことです。が、これは、ご存知《ぞんじ》のように日本の中だけで通用する意味合いです。ブチックお抱えのモデル。ハウスマヌカンとは、本来、こうした女性のことを指します。Rue du Faubourg St-Honor氏iフォーヴル・サントノーレ通り)に店を構えて、注文に応じて作られるオーダー・メイドのオートクチュールや、年二回、それぞれのシーズンの半年前に、春・夏物、秋・冬物コレクションを開催する、レディ・メイドのプレタポルテを扱っている、たとえばクロエ、ランバンといったブチックお抱えのモデルを、です。
ごく少数のフランス人、そして、数多い日本人とアメリカ人の皆様が、プレタポルテをドバドバ買っていかれるこの手のブチックには、アラブのお金持ちもやって来られます。戸籍上は何のつながりもない白人の女性を連れてです。リッチしてそうな彼らは、連れの女性に洋服を買い与えます。ハウスマヌカンは、ここでお出ましです。フカフカの椅子《いす》に坐《すわ》って葉巻の煙がプァオーンと昇っていく間にも、自分の持ってる油田からはブァオーンと宝の水が噴き出しているアラブのお金持ちは、取っ替え引っ替え、お洋服を着てマヌカンたちが登場するのを見ては、「コレとアレとソレ」。注文するわけであります。なぜか日本では、従来、販売員と呼ばれていた洋装店に勤める女の子たちのプライドとモラールを高めて、店への定着率を良くするための飴玉《あめだま》として使われるようになったハウスマヌカンという言葉は、ですから、本来の意味合いは、まったく違うのです。
はてさて、『朝日ジャーナル』読者へ向けての蘊蓄話《うんちくばなし》はそのくらいにして、八月二五日から九月七日まで、「ポール・ポワレ衣装展 モダンの原点 アール・デコ」なる催しが開かれました。ポール・ポワレは、一九世紀末から二〇世紀前半にわたって活躍したデザイナーであります。服飾キュレーターというネーミングの学芸員として、パリ市立パレ・ガラリエ服飾美術館に勤務するギヨーム・ガルニエ氏によれば、「女性をコルセットから解放した、アール・デコの著名なデザイナー」であり、「ポワレは洋服が環境の一部となり、生活に輝きを添えなければならないと考えた」のだそうであります。
貴族やサラ・ベルナールのような女優が、ビロードやレースを使った豪華絢爛《けんらん》なドレスを、けれども、苦痛を伴うコルセットで人工的矯正《きようせい》を行いながら着せられていたことに反発した彼は、コルセットを使わないハイウエストで、スカートが体にフィットした流れるようなラインのドレスをデザインすることで、フランスのみならず、アメリカの裕福な女性にも支持されました。
けれども、画期的だったこれらの洋服も、依然として、ハウスマヌカンがフロアを歩くのを見て購入する、所謂《いわゆる》、上流階級を対象としたものでありました。第一次世界大戦後、さらに活動的で自由になった女性に、地味で着やすいスポーティなアンサンブルを主体としたジャン・パトウやシャネルのプレタポルテが、代わって人気を集めるようになったのは、ですから、これまた当然のことでありました。ここまでは、多少なりともファッションに関心のある方ならば、ある程度、ご存知な内容でありましょう。
ポール・ポワレは、その活動の初期において、ワインレッドの布地に中国風のメダイヨン飾りを縫いつけ、中国刺繍《ししゆう》をほどこした黒いサテンが襟《えり》として使われたキモノ型のコートを作っています。これは孔子コートと呼ばれ、一世を風靡《ふうび》しました。大戦直前には、東洋のエキゾチシズムが一杯のドレスを発表しています。単にエレガントな、いかにも西欧、西欧したドレスのみならず、こうした、彼《か》の地から見たエトランゼ気分の作品が、結構、見受けられるのです。いや案外、こうした作品でポール・ポワレは高い評価を受けていたのかもしれません。
こうした傾向は、現在のファッション・デザイナーの世界においても存続しています。いや、むしろ、そうした傾向が、より一層、強まっているように僕には思えます。例を挙げてみましょう。“一枚の布”なるメッセージを追求してきたと言われる三宅一生氏の作品の数々をスライドで見ていくと、アフリカ、中南米、中近東、東南アジアといった地域の民族衣装の影が色濃く入り込んでいたのだな、という印象を再確認することが出来ます。
中、高校生からの御布施《おふせ》によって大きくなった、牛込は横寺町にある伝統的受験雑誌社の、ブランド物が大好きでジャグワーを運転なさるジュニア氏を、「これからは、ファッション度の高いグラビア雑誌しかないぜ」と、その気にさせたことからも推察出来るように、実体のない空っぽでいい加減な思いつきを、いかにも時代を捉《とら》えた代物《しろもの》であるかの如《ごと》く思わせることがクライアントへの「プレゼンテーション」というものだと考えてる節がある浜野商品研究所の浜野安宏《やすひろ》氏と仲が良かった時期に、現地へお出かけしてパチパチ撮って来た写真でイメージをふくらましながら作られたらしき、以前の三宅氏の作品は、多くのファッション関係者から、「思想」性のあるものとして評価を受けました。
当時のポール・ポワレについても、同じようなところがあったのかも知れません。先週、扱った建築同様、“人が入る器”という制約の下で作られる洋服は、ですから、我々の先祖が作り出して来た衣装からヒントやモチーフを借用してつくるしかない宿命が、多かれ少なかれ、あるみたいです。そうして、この点が、オリジナリティはなくとも手先が器用で、しかも箱庭感覚で育った日本人の中から、近頃《ちかごろ》、多くの優秀といわれるデザイナーを輩出している理由でもあるのです。
《・9・20》
日航スチュワーデスの制服に使われてる“赤”が
俄(にわか)愛国主義を呼びさます。
人間は赤い色を見ると興奮します。ファディッシュな皮膚感覚に基づきながらも、その実、理性的部分を残す“感性”といった言葉からは大きく掛け離れた気分が襲ってくるのです。それは、ある種、狂信的ペイトリオティズム(Patriotism)にも似た気分であります。闘牛における赤い布は、その好例でありましょう。興奮は、赤い色を使った国旗を見た際にも、同様に起こります。多くの為政者たちは、そのことを知ってか知らずか、赤い色を国旗の中へと取り込みました。たとえば、ヨーロッパ三三カ国のうち、赤い色を使っていないのは、五カ国だけです。本来はリベラルな思考を行っているのであろう私たちもまた、個人としてのアイデンティティーが不安定な状態になる海外へ出かけた際に“日の丸”を見ると、それが“君が代”同様、忌《い》まわしい記憶を呼び起こさせる代物《しろもの》であるにもかかわらず、変に愛国主義者的感動をすることがあります。赤い色を使っているからです。
今回、墜落事故を起こした日本航空についても、同じことが言えるでしょう。赤い色を使ったマークだからです。おまけに、日本的叙情性をかき立てる鶴《つる》です。国会議員、官僚、財界人、文化人という名の人々、マスコミ関係者たちには幇間《ほうかん》を演じ、けれども実際に運賃を支払って搭乗《とうじよう》する一般人はカーゴ同然に扱うことの多い、その日航の体質を批判する他企業の海外駐在員たちも、日本へと帰国する際に空港で鶴のマークを見つけると、「あー、日本人でいて良かった」などと、これまた、俄愛国主義者となってしまうのです。「日航って、嫌《きら》いさ」などと悪態をつきながらも、ついつい日航機を利用する人たちは、日本人特有の判官贔屓《ほうがんびいき》と、赤い色をした鶴のマークが持つ叙情性との間で、アンビバレントな気持ちを抱いているのでしょう。そうして、飛行機という科学の産物に鶴のマークという組み合わせは、海外のブランドを積極的に展開することで、高級、かつ新しいイメージを獲得しながらも、同時に、高度経済成長と共に豊かになった人々を安心させる“箱庭感覚”を忘れなかった西武と同じ、新しい器に日本的感覚を盛る作業でした。そうして、更にもう一つ、日航の女性クルー、女性地上職の制服が、紺と赤の原色を使っている点も、アンビバレントな日航への想《おも》いをつのらせることとなっているかもしれません。
森英恵《はなえ》女史のデザインによる、紺と赤の、その制服からは、昔、一世を風靡《ふうび》したニュートラの匂《にお》いが漂って来ます。以前から僕《ぼく》が述べているように、ニュートラは男性を欲情させる洋服です。それは、たとえば、吉原や銀座に働く女性たちの制服が、今もなお、似非《えせ》シャネル風スーツだったり、原色を使ったブレザーやワンピースだったりすることからも窺《うかが》うことが出来ます。ニュートラ少女と一緒に歩いていた少年が穿《は》いていることの多かった、ファーラーというブランドのダブル・ニット・パンツの素材に酷似した日航の制服は、ですから、その色合い、布地、デザイン、すべてにおいて、ニュートラなのです。
もっとも、ご存知《ぞんじ》のように、ニュートラを着ていた女子大生やOLの多くは、我がままな気分屋さんでした。やっとのことでお知り合いになれた中年のおじさんが、お金をかけてデートしたとしても、彼女たちは最後に訪れたケーキ屋さんで、けだるそうに左手で長い髪の毛をかき上げながら、「でもおう、今日は、やっぱし、オウチにー、帰らないとお」と気のない返事をしていたかもしれません。
金銭を多く使った人ほど、その分、いいことが期待出来る、ある意味では極めて自由主義経済の精神にのっとった吉原や銀座の女性と違って、同じニュートラを着ていても、単なる金食い虫でしかなかった女子大生やOLに、中年のおじさんは怒りを覚えました。けれども、「ごめんねえ」と甘えた声を出されると、ニュートラのスクウェアなデザインが従順そうな雰囲気《ふんいき》に今度は見えて来て、ついつい、「いいんだよ」と言っちゃったりしました。
ニュートラ・ブームが過ぎ去って、原色を使わないソフト・トラッドの洋服を、もちろん、語尾を伸ばす喋《しやべ》り方はそのままなものの、多くの女子大生やOLが着るようになってしまった今、亭主《ていしゆ》関白気分から脱却出来ない日本人男性にとって、日航の制服を着た女性は貴重な存在です。ですから、接客する側の彼女たちにとっては不幸なことに、運賃という名の金銭を払って搭乗して来た、“サービス”という単語の真の意味を怖《おそ》れぬ日本人乗客の大多数は、ニュートラの制服を見た瞬間、コール・ボタンを必要以上に押して彼女たちを忙しくさせることで、日頃《ひごろ》の満たされない気分を解消したい衝動に駆られるのです。
蝶《ちよう》という日本的叙情性がモチーフの森英恵女史と違って、全日空の制服をデザインした芦田淳《あしだじゆん》氏は、大空に対する子供の憧《あこが》れにも似た色合いのスカイ・ブルーと瑠璃《るり》色を選びました。そうして、翼からも赤い色を使ったマークが次第になくなり、制服と同じ色調のロゴに変わりつつあります。私たちが、海外で日の丸や鶴のマークを見た時と同じような奇妙な気持ちを抱かずに全日空に乗れるのは、一私企業に対する判官贔屓ばかりからでもない気がします。
今の日航にとって必要なのは、他の週刊誌の搭載を再開する中で、相変わらず、「〈日航747乗員が緊急発言〉ジャンボは全機点検しなおさねば不安だ」なる記事の載った『週刊朝日』9月13日号は搭載を中止したり、「来年七月に変更予定だった制服は、事故の四九日が過ぎた後に考え直します」などと広報部が発言することで、嵐《あらし》の過ぎるのをジッと耐えることではないでしょう。予想された通り沈黙を続ける直木賞“日航”作家も、たとえば、『週刊現代』に連載の「サラリーマン発奮学」で、「意気消沈している社員のモラールを高めるため、女子社員の制服を早期に変えたい」くらいの発言はされてみたらいかがでしょう。それも、ニュートラ・トリコロールカラーを使わない制服にです。少しは、日航女子社員の間で、彼への人気が出るかもしれません。
《・9・27》
かつて前衛だった今井俊満《としみつ》の日本回帰。
日本人は皆、皮膚の衰えと共にこうなる?
夕刻、六本木のキャンティへお出かけすると、いつでもそこに、今井俊満氏の姿を見ることが出来ます。なかなかに素材のよろしい、けれども、夏も冬も、二、三種類のシャツを取っ替え引っ替えして着ている氏は、ただただ、ジーッと椅子《いす》に坐《すわ》って、店内の人々を観《み》ています。多くの人々は、今年、五七歳になる、その初老の人物が、マチウ、デュビュッフェ、セザールといった人たちと一緒に、かつてアンフォルメル芸術運動のメンバーとして活躍した今井氏であることに気づかないでしょう。
氏は、たとえば、二〇歳前後の女の子たちがキャンティへ入って来ると、ゆっくりと立ち上がって彼女たちの隣の席へ坐り、とりとめもない、と一般的知識人には思えるであろう事柄《ことがら》を話し込むのです。髭《ひげ》を生やした氏に、最初、女の子たちは戸惑います。もっとも、すぐに馴染《なじ》みます。人のいい日曜画家に毛が生えた程度のオジさんに思えるのです。聖心や玉川に通う、僕《ぼく》の知っている女の子たちは、氏が御馳走《ごちそう》してくれたり、洋服を買ってくれたりすることを、ただ、単純に喜んでいます。そうして、キャンティに集う、その他大勢の大人たちは、「変わった人だね」と言うだけで、それ以上の関心を払おうとはしません。
けれども、この僕には、氏の存在はスティミュラスであります。フランスでは芸術文化勲章オフィシェを受章したものの、日本画壇内での政治、あるいは、社会的名声とは極めて離れたところで活動を続ける、そのスタンスがです。氏の作品と発言は、常にラディカルでありました。世の中の多くの人々の皮膚感覚よりも二、三歩先だったのです。人々におもねって半歩先の活動をする人物が、優れた新しい感覚の持ち主だと評価されることの多い日本において、それは勇気ある歩みでした。
その今井氏が、草月会館で「花鳥風月と飛花落葉」個展を開きました。その昔、星条旗のジーンズを履いてキャンティに登場したこともある氏を知る人にとっては、森有正が晩年、日本的なるものへ戻《もど》っていったのと同様、「お前もか」と複雑な思いにかられる、屏風絵《びようぶえ》のような作品が飾られています。
日本人は皆、皮膚の衰えと共に、そうなっていくのでしょうか。着物を着て、三人目の妻である夫人や、まだ小さな子供たちと一緒に靖国《やすくに》神社の前で撮った写真の載った画集『花鳥風月』を見ながら、そう思います。そうして、常に孤高の人であったはずの氏の個展のオープニング・パーティーでは、いつでも物の怪《け》に取り付かれたような表情をしている元YMOの細野晴臣《はるおみ》氏が音楽を担当していました。「今井さんと、お知り合いでしたか」と尋ねた僕に、「いやあ、なんだか、知らないうちに、やることになっちゃって」、細野氏はニガ笑いしながら答えました。
ところで、「ファディッシュとは何ぞや?」と尋ねられることが、しばしば、あります。「ファディッシュとは、fadの形容詞でありまして、……」と、もう一度、説明した方がいいのかな、と考えていると、ラッキーなことには、9月13日付『朝日新聞』夕刊の「世相語年鑑5〜8月」で、編集委員氏が署名入りで、「『ファッド』は一時的な気まぐれな流行をさす。ある種の社会現象に定着すればファッションになる。暴走族、竹の子族はファッションだが、そこまで行かないものは、衣服にしろ、ヘアスタイルにしろファッドにとどまる。世の中の大勢がそこに反応を示せばファッション」と、解説しておられるのを見つけました。具体的な例を挙げることで、極めて、わかりやすく、また、説得力を持った文章です。
「なるほど、夏目漱石《そうせき》以来の伝統ある朝日新聞の編集委員として、健筆を揮《ふる》っておられるだけのことはある。日頃《ひごろ》、外を走り回って、僕とは別のジャンルでフィールドワークを重ねている政治部や社会部の第一線記者たちばかりでなく、一人静かに机に向かって読書を重ね、形而上《けいじじよう》の世界に生きることで、訓詁《くんこ》学派や百科全書派の啓蒙《けいもう》主義的系譜を忠実に伝承する部署にも、形而下的現象への目くばりを忘れない人がいるのだ」。やたらと感動しながら、けれども、ふと、「どこかで見たことのある文章だな」、そう思いました。
「物好き、気まぐれ、といった意味合いの他《ほか》に、一時的で気まぐれな流行、という意味を持つファッドは、ファッションと呼ぶのには、まだ、早過ぎる現象を捉える時に、やたらと便利な言葉です。(中略)暴走族とか竹の子族は、ファッションでした。ある種の社会現象にまで成り得たからです」(『朝日ジャーナル』4月19日号「ファディッシュ考現学」1=「ファッドからファッションへ、……」)。連載第一回目で、書いていたのでした。この後、レイヤード・ヘアやワンレングス、ロング・ストレートはファッションとまでなり、ソフト・ソバージュやトニック・ヘアは、ファッドで終わった、みたいなことも書いています。もっとも、件《くだん》の編集委員氏の方が、短い文章で解説しております。人間、わかりやすくて読みやすい文章を書けるだけでは駄目《だめ》です。簡潔でもなくては合格出来ません。日頃“朗読できる文章を”と生意気にも心掛けているために、かえって冗漫気味な僕の解説よりも、ですから、編集委員氏の方が、読者にとっては便利でしょう。
「精神的ブランド信奉者の臭《にお》いがプンプン」と、“拙著”『トーキョー大沈入』の中で、「朝日新聞書評委員会」なる一つの項を設けて、コラム「書評委員会から」をカリカチュアライズしたところ、「決めつけがすぎるし、なによりブランド信奉者らしからぬブランド懐疑論で一貫しない」(7月8日付『朝日新聞』)と、むしろ、逆に物質的ブランドも精神的ブランドも等価である、そのブランドという言葉のディフィニションが出来ない人の未《いま》だにいることを露呈してしまった朝日新聞にだって、優秀な人材は多士済々《せいせい》であります。
石原慎太郎氏同様、カタカナ言葉を多用し過ぎだと批判される僕の連載における未知の言葉の意味については、このところ、両三浦氏のインタビューと手記、立花vs.渡部論争で忙しい『朝日ジャーナル』編集部へ照会されるよりも、むしろ、今後は、編集委員氏や学芸部あたりへされた方がよろしいかと思われます。
《・10・4》
カルティエ主催パーティーの有名人招待客が、
ターゲットの中産階級を満足させる。
カルティエ(Cartier)という名の宝石店がパリに存在しています。カルチェと発音する日本人も多い、宝石商です。が、むしろ一般にはカルティエ・サントス・ウォッチを出すところとして知られているかもしれません。もっとも、このサントス・ウォッチが登場したのは、一九〇四年。カルティエ自体は、創業一五〇年になります。ざあっと、その歴史をおさらいしてみましょう。
一九世紀の半ば過ぎ、所謂《いわゆる》、上流階級の人間は、カルティエの宝石を好みました。ナポレオン三世の従妹《いとこ》、マチルド公爵《こうしやく》夫人御用達《ごようたし》だったからです。創業者ルイ・カルティエ・フランソワの息子、アルフレッドと、孫にあたるルイ、ピエール、ジャック三兄弟は、更にインド、ペルシア、アラブといった地区の王侯貴族も顧客とすることに成功しました。世界で最初に腕時計なる代物《しろもの》を考案したルイは、それを、飛行家、サントス・デュモンの手首につけて空を飛んでもらうことで、腕時計の、そしてカルティエの認知度を一気に高めました。皮革製品やエナメル、シルバー製品をも新設のS部門というディビジョンから売り出したのも、この頃《ころ》です。
けれども、まだ、その当時、カルティエの宝飾品の多くは、オーダー・メイドでありました。そのひとつひとつに通し番号が入っていたのです。もしも読者諸兄の中に「ワシは、宝飾品に興味があってのおう」と、『朝日ジャーナル』読者にしてはお珍しいタイプのお方がいたならば、たとえば欧米のアンチーク・ショップで手に入れたカルティエの古い宝飾品の、そのキャリアを照会なさるとおもしろいでしょう。意外な人物が、何十年も前に買い求めていたことがわかるからです。
それは、ともかく、限られた人たちの持ち物だったカルティエが、中金持ちや小金持ちの手の届くところとなったのは、つい最近です。そうして、その作業は、カルティエ家とは何ら血縁関係にない新オーナー、ロベール・オックによって、でありました。レ・マスト・ドゥ・カルティエという新しいネーミングによる商品展開を彼は行うことで、第二次世界大戦後、低迷を続けていたカルティエの復興を成し遂げたのです。ワンレングスやってる日本の女の子なら、その誰《だれ》もがロレックスの腕時計同様に欲しがるであろう、日本円にして一〇万円少々の三連指輪を始め、ライター、スカーフ、万年筆、眼鏡なども売り出すことで、顧客の裾野《すその》を広げたのです。
もちろん、レディ・メイドです。おまけに、あの誇り高きフランス人が、英単語であるところのmustを使ったネーミングをしたのです。けれども、同時に、「人が持つべき(マスト)もの」という、ある種の権威性を持っていました。そうして、これは、最大のお客であるアメリカの中金持ちたちの心をくすぐる効果を生みました。日本においても、同じことです。三連指輪を欲しがる件《くだん》の女の子たちを始めとして、箱庭感覚に生きる、名もなき、けれども、馬鹿《ばか》に出来ない数の小金持ちたちが顧客となりました。
以前から、僕《ぼく》が言うところの、上昇ベクトルと下降ベクトルをうまく使い分けたのです。由緒《ゆいしよ》あるカルティエの製品を使いたいと考える中金持ち、小金持ちたちの上昇ベクトルを満たしてあげるために、レ・マスト・ドゥ・カルティエという、権威的、かつ啓蒙《けいもう》的匂《にお》いのする、けれども、ちょっぴり手を伸ばせば、目先の小金で買うことの出来る下降ベクトルの商品を提供したのです。もちろん、それは、平等な、けれども、だからこそ余計、他人との差別化を図るために精神的、物質的ブランドにこだわる多くの日本人の琴線を捉《とら》えました。
とは言うものの、日本におけるカルティエ製品の売り上げは、世界第七位です。日本での売り上げが一番のインペリアル・プラザ店も、全世界に一五〇近くあるカルティエ・ブチックのベスト三〇に入りません。「もっと、伸びるはずだ」と考えた四二歳の新社長、アラン・ペラン氏は、数年前、今後は毎年、東京でパーティーを行うことを命じました。今年は、新高輪《たかなわ》プリンスホテル・飛天の間で、九月二〇日に開催されました。ホテル・リッツのあるヴァンドーム広場に、パリのカルティエ・ブチックはあります。そのヴァンドーム広場に似せた、大掛かりな張りぼてで会場を包み込むようにしての、題して“ソワレ・カルティエ・プラス・ヴァンドーム”でした。
二五〇名に及ぶ招待客は、その殆《ほと》んどが夫妻での出席だと、駐日代表のサンドロン氏は電話で言います。最年少の招待者であるこの僕も、また、ガールフレンドにドレスとシューズ、バッグ、そして、カルティエのイヤリングを新調して、二人で出かけました。各国の駐日大使夫妻、元皇族の竹田恒正夫妻、島津久永・貴子《たかこ》夫妻、北原秀夫元駐仏大使夫妻、石原慎太郎夫妻、相沢英之《ひでゆき》・司《つかさ》葉子夫妻、磯村尚徳《ひさのり》夫妻、芦田淳《あしだじゆん》夫妻、三船敏郎夫妻。この他《ほか》、トヨタ自動車だの服部《はつとり》セイコー・グループだのの一族からも出席者がいます。
実際には、こうした人たちは、カルティエ製品を正価で買うことはないでしょう。けれども、そうした夫妻が出席したパーティーの光景がTVに流れることで、カルティエの上昇ベクトルの部分は維持されるのです。クラスのない日本において、微《かす》かにクラスを感じさせる人たちに、タダでご飯を食べさせることは、決してパーティーに呼ばれることはないであろう、ただし、レ・マスト・ドゥ・カルティエの商品を支える名もなき日本人たちの、心の中での上昇ベクトル意識を満たしてくれるのですから。
ところで、帰りがけ、これまた夫妻で出席の森英恵女史に、「田中さんの考え方、私、好きなので、連載や単行本、拝読してますわ」と言われました。先々週、このページに登場した日航女子社員の制服に関する文章も、お読みになってらっしゃったのでしょうか? 人と多く知り合いになればなるほど、その分、甘い毒を含む文章を書き続けることの辛《つら》さが増します。ついでに、直木賞“日航”作家氏は、遠くからジッと僕を見ていました。そうして、元クルーの奥様は、キッとにらみ付けたような気がしました。
《・10・11》
カラー・コンサルタントによると、
僕《ぼく》は「サマー」。
世の中、色んな職業があります。
これまた、その昔から、僕が言っているように、「物離れの物価値」が世の中に蔓延《まんえん》しつつあります。たとえば、食べるという行為は、本来、何も食べないでいると栄養失調を起こして死んでしまうから、それを防ぐために、というのが第一義の目的でした。けれども、時は移り変わり、今や読者諸兄の家で飼っている犬のジョンや太郎だって、前の晩のスキヤキの残りに牛乳をブッかけた代物《しろもの》を食べさせてもらえるようになりました。
着るという行為について、今度は考えてみることにしましょう。裸では寒くて危険だから、それで、というのが第一義の目的でした。けれども、未《いま》だに額の前に髪を下ろして、しかも耳のあたりの両サイドの髪同様、シッカとウエーブのかかった、歌舞伎《かぶき》町風俗ギャルのような“頂点レイヤード・ヘア”をしたシーラカンスなOL嬢だって、洋服ダンスに入り切らないくらいにワードローブがあります。五年前、青学西門付近に行列を作って買い求めたボートハウスのトレーナーなんぞが、洋服ダンスの片隅《かたすみ》で眠っているのです。
こうした、基本的に満ち足りた生活が出来るようになると、人々は物に対して、第二義、第三義の目的と価値を求めるようになります。おいしい味、気持ちの良いサービスや雰囲気《ふんいき》を食べ物に、肌触《はだざわ》りがいい、デザインが素敵だ、ムニャムニャさんというデザイナーによる作品だといったことを着る物に、それぞれ、期待するようになるのです。それらは、本来、あってもなくても構わない価値です。けれども、その昔から、たとえば、お茶碗《ちやわん》の回し方は何回、漬《つ》け物は京都のどこどこという老舗《しにせ》、といった具合に、縦文字感覚の流儀=ブランドにこだわって来た日本人には、極めて自然な、また、予想された延長線上のことでありました。物、それ本来の目的と価値を離れたところに、新しい目的と価値を置く。これが、「物離れの物価値=行為のスタイリング化現象」です。
そうして、「物離れの物価値」に関係する商売は、そのいずれもが、高付加価値産業であります。広尾にある日本赤十字社医療センター南半分の敷地に出来たマンション群、広尾ガーデンヒルズに住むミッキー中安さんも、また、そうした商売に従事する、なかなかに美貌《びぼう》の女性です。「カラー・コンサルタント」、彼女のネーム・カードには、そのように書かれています。人には、それぞれ肌、目、髪の色にマッチしたカラー・パレット(色の配列)があるとの考えの下、その人を最高に引き立たせる色をコンサルトするのです。それが、仕事です。
スタンフォードを出た後、カリフォルニア州にあるファッション・アカデミーなる学校で勉強したというキャロル・ジャクソン女史が設立した、カラー・ミー・ビューティフル社(Color Me Beautiful INC.)は、こうしたカラー・コンサルティングを行う世界最大の会社です。聖心女子大出の中安さんは、ご主人の仕事の転勤で訪れたニューヨークにある、聖心の姉妹校、マンハッタンビル・カレッジの大学院で人類学を、そして、ニューヨーク・スクール・オブ・インテリア・デザインでインテリア・デザインを学んだキャリアの持ち主で、現在、全世界に二〇〇名余りいる、カラー・ミー・ビューティフル社のカラー・コンサルタントの一人として契約しています。
人は皆、シーズンで呼ばれている四種類のパレットのどれかに当てはまると彼女はいいます。まず、一番多いと言われるウインターの人。髪はダーク、目も濃い色、肌の色調はベージュかオリーブ。頬《ほお》にピンク色は全然なし。エリザベス・テーラーやオードリー・ヘップバーンが、このタイプ。コントラストのはっきりしたビビッドな色、鮮やかな原色、冷色が似合います。たとえば、白系統の色で言ったら、ピュア・ホワイトです。
サマーの人は、通常髪はトープの色合いを持つソフト・ブラウン。肌の基調はブルー。頬の色はピンク。グレース王妃、エリザベス女王が、このタイプ。ブルーがベースの、まじり気のあるパステル・カラー、中間色が似合います。白系統の色で言ったら、オフ・ホワイト。
スプリングの人は、いくらか赤いハイライトのあるソフト・ブラウンな髪。ピーチ系かクリーミー・アイボリーの肌、ゴールドが基調のデリケートな肌です。目はソフト・ブラウン、ゴールデン・ブラウン。マリリン・モンローやジュリー・アンドリュースが、このタイプ。まじり気がなくてブリリアントな暖色が似合います。白系統の色でいったら、アイボリー。
最後に、オータム。同じく、ゴールドが基調の肌です。頬は赤味がなく、髪の色はダーク・ブラウン、または、チャコール・ブラック。目は、ダーク・ブラウン。ローレン・バコール、キャサリン・ヘップバーンが、このタイプです。渋み、深みのある茶系、オレンジ系の色が似合います。白系統の色で言ったら、オイスター・ホワイト。
各シーズン三〇色、全部で一二〇色もの布地を僕の肩から胸のあたりに掛けて調べた結果、「あなたは、サマーです」、宣告されました。なるほど、白衣の上にサマーの布地を当てた場合は、顔が浮き出ます。そうして、髭剃《ひげそ》りあとが、目立たなくなります。表情が活《い》き活きとしてきます。なるほど、似合います。もちろん、サマーの色とは言っても、黒系統も茶系統もあります。ただ、それらがソフトなパステル・カラーなのです。
二時間のコンサルティングで一万五千円。女性の場合は、六時間以上かけて、メークアップ・カラーの選び方、つけ方もアドバイスして、二万円。高いと思う人もいることでしょう。けれども、自分にあった色合いの洋服、メイクでありたい、あるいは、パーティーや面接で存在感を際立《きわだ》たせたい、こういった「物離れの物価値」を認める人にとっては、心理的サイフの範囲内なのです。それが証拠には、日本にもカラー・コンサルタントが、一二名ほどいるのです。世の中、色んな職業があります。
《・10・18》
エグゼクティヴ・フロアは増えたが、
女の子連れのフリの客がホテルには有り難《がた》い。
「ニューヨークでは、安全を買うために、ユダヤ人はホテル暮らしをする」ってなことをのたまわれてたのは、確か、イザヤ・ベンダサンとかなんとかいう名前の人物だった気がします。まだ世の汚濁と、そのからくりを知らない純情少年だった僕《ぼく》が、「ウーム」と大きくうなずいた記憶のある、昔々の人物です。けれども、この意見に関しては、そのからくりを知った今でも、「なるほど」と思わせるところが、ないわけではありません。
ただ、「平和な日本じゃあ、まだまだ、一般的にはならないね」、どうしても、そう考えてしまうのです。平和でないことを企《たくら》んでいる為政者が存在するのに、なぜか、今のところは、竹槍《たけやり》持たされたり、防空頭巾被《ずきんかぶ》らされたり、なんてこともなければ、泥棒《どろぼう》や殺人者に出っくわす確率も、さほど高くはならずに、毎日が過ぎていくからです。
もっとも、安心し切っているのは、我々が何も知らないせいなのでしょう。イザヤ・ベンダサン氏が安全だと信じ切っていたホテルですら、実は当然のことながら、たとえば、盗難事件くらいは起きるのです。日本においてもです。世界中を飛び歩いているアメリカのビジネスマンに、年一回、ベスト・ホテルを選ばせている『インスティテューショナル・インベスター』なる雑誌で、常に上位にランクされている、東京はアメリカ大使館の向かい側にあるホテルとて、例外ではありません。
数年前、ワン・フロアまるごと、客室内での盗難が、このホテルで発生しました。マスター・キーのスペアを、どこかの金物屋で作らせて、犯人氏は客室内へ入っちゃったのです。本当です。まあ、フロアまるごとというのは、極めて珍しいケースですが、自分が宿泊した部屋のキーをコピーしておいて、後から泥ちゃんしちゃうのなら、他《ほか》のホテルでもその昔から、結構ありました。街中でスペア・キーを作れちゃうような、そんなレベルのキーを、日本のホテルは使っていたのです。
時は移り変わって、多くのホテルの客室キーは、少なくとも、コピー出来にくい代物《しろもの》となりました。あるいは、新宿ワシントンホテルのように、テレフォン・カードみたいなキー・カード方式を採用するところも登場しました。サラリーマン、OLや高校、大学生のカップルが宿泊(休憩)客の主体を占める新宿ワシントンホテルでは、お客がチェック・アウトする度に、磁気を違えた新しいキー・カードを作成しているのです。前夜、宿泊したお客が、次の晩、客室に忍び込もうとしても、駄目《だめ》です。
また、所謂《いわゆる》、エグゼクティヴ・フロアを設けるホテルも出て来ました。ホテルセンチュリー・ハイアット、東京ヒルトンインターナショナル、そして、新参者の浅草ビューホテルが、です。たとえば、地震が起きた場合に九階までが揺れにくい構造になっているハイアットの場合は、六、七階がリージェンシー・クラブと呼ばれる特別のフロアになっています。それぞれの客室が、デラックス・タイプで、六階にはコンシェルジェが朝七時から夜九時まで常駐しています。その脇《わき》のラウンジでは、コンチネンタル・ブレックファストが無料サービス、また、開設時間中はジュース、コーヒー、紅茶類が、そうして、夕刻にはカクテルが無料サービスになります。
ヒルトンの場合は、三六、三七、三八の最上階三階が、エグゼクティヴ・フロアです。ラウンジの他、ミーティング・ルームもあります。そうして、このラウンジでチェック・インをすることが出来ます。浅草ビューホテルの場合も、同様のシステムです。そうして、本来は、アシスタント・マネージャー・デスクで取り扱っている、たとえば、劇場や飛行機のチケットの予約なんぞを、コンシェルジェ嬢が代行してくれるのです。
「なるほど、よおく、わかった。けれども、それが、安全と一体、どういう関係があるんだ」。聡明《そうめい》なる多くの読者は、そうおっしゃるでありましょう。もちろん、確かにその通りであります。アメリカに多く見られる、エグゼクティヴ・フロアの客室キーをエレベーター内の特別な鍵穴《かぎあな》に差し込まないと止まらない仕組みになっているのは、場所柄《がら》、お上りさんや怖いオニイさんが宿泊客に多い浅草ビューだけです。入ろうと思えば、誰《だれ》でもエレベーターから降りて、しかも、ガードマンなど立ってはいない、か弱き女性ばかりのコンシェルジェの前を通って、ズンズン、客室の前まで行くことは出来るのです。
ですから、正直言ってしまえば、あんまし変なお客は、そのフロアには泊まっていないであろう、という、性善説に基づく日本的セキュリティのエグゼクティヴ・フロアではあります。ただし、欧米系の外国人には人気があるのです。日本で最も早く取り入れたハイアットでも半数以上が、ヒルトンでは、そのほとんどが、日本を訪れているビジネスマンです。彼らは、専用ラウンジで朝食を食べ、昼間はそこで商談をし、そうして、夕食前のアペリティフも、ノー・エクストラ・チャージで利用しているのです。カンパニー・エキスペンスで来ているのに、なかなかのしっかり者です、欧米人って。
ところで、「俺《おれ》は、エグゼクティヴじゃねえから、今週の内容、みいんな関係ねえ」と、なお言う人へ、最後に一つ。この手のお客は、みいんな、ホテルの営業と会社とが契約したディスカウント料金で泊まっています。旅行代理店を通して泊まってるお客も、コミッションがホテルから代理店に支払われています。ってことは、直接、自分で電話予約をしたり、あるいは、ウォーク・インと業界では呼ぶ、真夜中に予約なしで女の子と一緒にトコトコとフロントにやって来て、正規料金を現金で支払うお客の方が、ホテルにとっては有り難いのですよ。シンガポールのハイアットなんぞ、正規料金で宿泊の人は、もう、それだけで、お部屋にフルーツがドンサカのVIP待遇にしちゃうくらいですから。いじけないで、むしろ胸張ってフロントへどうぞ。
《・10・25》
「そうかあ、まだ、二六歳か」――
“雨夜の品定め”で川上宗薫《そうくん》さんがおっしゃいました。
「じゃあ、君に名刺を上げよう」
そう言いながら、ベッドの上で起き上がると、川上さんは、僕《ぼく》の横にいた女の子に手渡しました。
「えー、川上さん、まだ、僕には下さったことないですよ」
「編集者にだって、滅多には上げない、特別の名刺だよ」
――なるほど、お気に入りの女の子にだけ、あげるんだ。
「今週は、僕は手術を受けるからね、ずうっと、病室で寝たっきりだけれど、来週は成城の自宅に戻《もど》っているから。電話をかけてきて頂戴《ちようだい》」
――弱ったな、結構、本気になっちゃってるよ、川上さん。
今年の四月一九日、川上宗薫さんが入院中の東京女子医大付属病院の病室へと、お見舞いに伺いました。日本女子大に通うガールフレンドを一緒に連れてです。きっと、沈鬱《ちんうつ》な表情をなさっているに違いないと思っていたのに、二年ほど前、初めてお会いした時と変わらぬ、飄々《ひようひよう》とした雰囲気《ふんいき》でした。
ある種の驚きだった記憶があります。自分の病がガンであることを知りながら、まるで、なにもなかったかのようにベッドに横たわって、相変わらずの駄《だ》洒落《じやれ》まじりな喋《しやべ》り方をした、当時六〇歳の、その作家の姿に、です。文章を書くことを生業《なりわい》とする人たちが多く集まる飲み屋で、ちょっとした口喧嘩《くちげんか》が始まっただけでも、「僕は、暴力反対だよ」と遠くのテーブルに席を移されたという逸話があるくらいに、“か弱い”川上さんの一体どこに、それだけの強靱《きようじん》なる精神力が隠されていたのだろう。不思議に思ったのです。
もっとも、お亡《な》くなりになってしまわれた今、「いや、むしろ、川上さんだったからこそ、冷静であり続けられたのだ」と、僕は考えるようになりました。日頃《ひごろ》、声高に、しかも、もっともらしく人間の喜びや悲しみを語る「文化人」ほど、むしろ、その分、逆に精神的ブランド信奉者であり、また、飽くことなき権力志向を持っていることを知るようになったからです。多分、こうした人たちは、自分の死が確実に射程範囲内に入ると、これまた声高に、そうして、今度はみっともなく取り乱すのでしょう。
けれども、川上さんは、ご自身の生理に極めて忠実な方であられました。初めてお会いしたのは、ある小説雑誌の対談においてです。昭和五八年一月二八日、雨模様の日のことでした。
「田中さんは、付き合う女の子が『田中教』という恋愛宗教に入信して、徐々に敬虔《けいけん》な信者となって行く、その過程を見るのが好きなんでしょ」
「ウーム」、僕は心の中でうなりました。ごくごく普通の一人の女の子が僕によって、精神的にも肉体的にも変わって行くのを見守るのが、僕の恋愛哲学だったからです。「成城の僕のウチに、寄ってきますか?」と誘って下さった川上さんをアウディの助手席にお乗せして、対談後、首都高速を飛ばしました。免停歴八回の、この僕は、スピードと車線変更の鬼です。川上さんは怖がりました。
「田中さんの車には、もう、乗らないよ」、けれども、途中のコンビニエンス・ストアで買い求めた、「ニュートラ・グラビア雑誌」を、川上さんのおウチで一緒に見ました。読者モデルとして登場している女の子たちを一人一人、雨夜の品定めしたのです。
たまたま、その号には、幼稚舎からずうっと慶応という経済学部の女の子が載っていました。当時、僕が付き合っていた、そうして、実は、離婚の遠因だったアヒル顔の女の子です。「この子は、どうですか?」、僕との関係は何も言わずに尋ねると、「ちょっと、首が太いね。スチュワーデスに多いタイプだよ、顔の感じも首の感じも」、「じゃあ、次のページへ行きましょうか」、約二カ月後、彼女は内定していた日本航空のスチュワーデスになりました。
それからの川上さんとのお付き合いは、電話で時折、お話しする程度でした。『週刊文春』の『トーキョー大沈入』で「シティ・ホテル」を扱った時に、「おもしろいね。ところで、ラヴ・ホテルっぽくないラヴ・ホテルは、どこか、ない?」、あるいは、逆に、「夕暮族」問題でTVに追い回された時、「一番最初にインタビューしに来たからって、『アフタヌーンショー』だけを受けちゃ駄目ですよ。都合いいところだけを流すんですから」、かつての経験に基づいて、ご注進したりしました。
「見てあげて下さい、子供みたいな顔をしているのよ」
川上さんが若い女の子と会う時には、「行ってらっしゃい」と送り出したこともあるという、僕とあまり年の違わない三度目の奥さんは、声をかけてくれました。自宅で行われたお通夜《つや》は、静かなものでした。無宗教だった故人の意志を尊重して、バロック音楽が流れる中、白い菊の花を献花していくだけのお通夜です。人は誰《だれ》にも知られることなく静かに生まれてくるように、また、静かに死んで行くのが生理に適《かな》っているのだと、川上さんは考えていたのかもしれません。
「二階へどうぞ」と言われるまま、上ってみると、「文壇バー」、「文壇パーティー」へ行かない僕でも、顔だけは写真で知っている、たとえば、純文学短編の名手と言われるようなお方が、編集者の人たちと一緒に、お鮨《すし》の前に坐《すわ》っていられました。誰一人、面識のない僕は、「もしかしたら、『先生への手みやげです』と病室で冗談半分に紹介した本女《ぽんじよ》のガールフレンドが、川上さんの名刺をもらった最後の女の子かもしれない」、そう思いながら、靴《くつ》を履いて外へ出ました。
「田中さん、一言」、TVカメラのライトが当たります。僕は神妙な面持《おもも》ちで答えました。けれども、もしも、川上さんが僕の立場だったならば、こうした場でも飄々と答えていたのかもしれないな、と思いました。そうして、「そうかあ、まだ、二六歳か。いいなあ、若いうちから女の子と不自由なく遊べて。僕も、そのくらい若いうちから、田中さんのような立場になりたかったよ」。雨夜の品定めの際におっしゃったことも、また、思い出しました。
《・11・1》
行楽感覚の一般大衆向け「手頃《てごろ》な高級品」の
少ない横浜そごう、イマイチ。
たとえば、山本山の“銘茶”を御歳暮《おせいぼ》に贈る場合を考えてみましょう。多分、どこのデパート、スーパーで買おうとも、その値段は変わらないはずです。だとすると、僕《ぼく》のまわりにいる少年少女は、仮に御歳暮を贈ることになった場合、西武だの伊勢丹だのへお出かけするでしょう。そうして、彼らの母親たちが、その立場にあったならば、三越や高島屋へお出かけするでしょう。それぞれ、ごくごく普通のスーパー、あるいは、他のデパートの包装紙にくるまれた“銘茶”よりも、付加価値が出るだろうと考えているのです。
けれども、じゃあ、ごくごく普通のスーパーに並べてある山本山の“銘茶”を贈答品として選ぶ人が、この世の中にいないかというと、いえ、決して、そんなことはありません。一般的には、「ウーン、あそこのデパートから御歳暮を贈るのは、ちょっと」と、我々が考えてしまうデパートにだって、贈答品を選びに来る人はいます。今は東急百貨店日本橋店となった、昔の白木屋デパートなんぞは、その典型でありました。
近くに三越や高島屋があるのにもかかわらず、白木屋で山本山の発送を頼むのです。それは、白木屋だと安心して買い物が出来るのだけれど、三越や高島屋では、どうも気遅れしちゃって落ち着いて買い物出来ないや、というジャンルの人たちが、この世の中に厳然として存在したことの証《あかし》でした。
時は移り変わって、今や、デパートと名の付くところは、何処《どこ》も彼処《かしこ》も、上昇ベクトル志向に基づく店作りをしています。田舎にあるデパートですら、イン・ショップ形式でデザイナーズ・ブランド物を商品展開しているのです。どうやら、ファッション・ビルと称する専門店街を多分に意識して、こうした動きが出てきたみたいです。
けれども、ここには大きな落とし穴があります。ファッション・ビルは、それぞれに程度の差こそあれ、ある範囲内の消費者を対象とした代物《しろもの》です。ファッション傾向やそのレベル、また、心理的サイフの具合が上から下までの、ありとあらゆる消費者を対象としたデパートとは、この点で大きく異なるのです。
デパートの場合、様々なレベルの消費者、それぞれに、「エヘン、私は、ちょっぴり背伸びをすれば、こんなに値段の張るセーターを買えるのよ」という、ファッション・ビルへ行く時と同じ気持ちを抱かせることが出来なくてはいけません。そうして、同時に、気遅れせずに店内を見させることが出来て、「デパートに来たわ」という、ある種、伝統的に深層心理として残っている期待感をも満足させてあげられる。これが必要なのです。上昇ベクトルと下降ベクトルを上手に内包しているデパートは、ですから、くやしいですが、西武が一番かもしれません。
横浜駅東口に出来た「横浜そごう」は、こうした点を間違えてしまった、かわいそうなデパートです。地上一〇階、地下三階。売り場面積約六万八千平方メートル、一階だけでも後楽園球場とほぼ同じ面積なんだそうです。今のところ、人は入っています。いや、もちろん、日本で一番大きなこのデパートに、今後も多くの人が来店することではありましょう。けれども、もう少し、上昇ベクトルと下降ベクトルの出し方が上手であったならば、売り上げは飛躍的に伸びたであろうにと、僕には思えてしまったのです。
批判を怖《おそ》れずに言うならば、所謂《いわゆる》、一般大衆=ボリューム・ゾーンの人たちにとって、今一つなデパートなのです。もちろん、このクラスの人たちが、入る前に気遅れしてしまうということはないでしょう。日本一の床面積のデパートへ行くことは、「東京ディズニーランド」へ行くのと同じ、行楽感覚なのですから。ただし、安心して手を伸ばせる商品が少ないのです。いや、本当はボリューム・ゾーンの人たちにとって手頃な商品も数多く揃《そろ》っているのかもしれません。が、それは、展示の仕方も照明も新鮮さのない広い売り場の中で、埋没しちゃってる感じです。
ボリューム・ゾーンの人たちは、スーパーでなら、安い物にだけ目が行く、つつましい主婦です。が、デパートというジャンルの中に入ると、しかも、オープンしたてだと余計に、悲しいかな、実際、買うわけでもないのに、「高級な物が多いのかしら」と思って見て回ることになります。この際に、「あら、ちょっと手を伸ばせば買えそうな高級品ね」と思わせる価格帯の商品を、どれだけ用意しているか。これが、下降ベクトルを押さえた上での正しい上昇ベクトルです。
ボリューム・ゾーンの人が、ちょっと手を伸ばせば買えそうな中間より少し上の商品を豊富に集めなかった「横浜そごう」は、日本一のデパートという気負いがありすぎたのか、イタリアのルチアーノ・ソプラーニなんぞのジャケット、スカートをコーナー展開しました。今期からオンワードが輸入することになったこのブランドは、ジャケットが二〇万円近くします。そうして、都内にある小さな単独ブチックを除けば、展開は全国でも、ここだけです。
普通、この手のクラスのブランドをデパート内で扱う場合には、ちょっと手を伸ばせばボリューム・ゾーンの人も買えそうなセーター類の比率を多くしなければいけません。が、「横浜そごう」でのソプラーニは、ストレートな上昇ベクトルでの展開です。以前、三崎商事がインペリアル・プラザのゲラルディーニ・ブチックで扱っていた時には、その場所柄《がら》、トータルで揃えて買うお客が多くいました。が、同時に、セーター類も積極的に入れることで、たまたま訪れた主婦にも、「あら、買えそうね」と思わせました。
有楽町、千葉、八王子各店のイメージが足を引っ張る「横浜そごう」へ、わざわざ、ゲラルディーニ・ブチック時代の上顧客が訪れることはありません。そうして、行楽感覚のお客には手が届かない商品構成です。その結果、今までに一点も売れてないのです。それぞれのゾーンの人に不満足な「横浜そごう」の将来は、ですから、かわいそうなものだと僕は思います。
《・11・8》
上野の丸井は、現金はないがブランド物を
着たいポスト暴走族への“救いの手”。
上昇ベクトルと下降ベクトルの使い方を間違えてしまった、かわいそうなデパートとして、今は亡《な》き上野の京成百貨店がありました。このデパートの不幸は、もちろん、あまりに頑張《がんば》って上昇ベクトルしちゃった点にあります。本当は、御徒町《おかちまち》の吉池のように、分相応な商売をしていればよかったのです。
吉池には、未《いま》だに、鮭《さけ》の切り身を買い求めにやってくる人たちがいます。こうした、伝統的常磐《じようばん》線在住者であるオネエさん、オバさんは、吉池でお買い物を済ませると、活版の女性週刊誌を読みながら、常磐線にゆられて在へと戻《もど》るのです。中には、ワンカップ大関片手に、家から持参のお弁当を広げてしまう担《かつ》ぎ屋のオバさんだっています。
五木ひろしの明治座公演を観賞した後、全ページカラーの大判パンフレットの御真影を指でなぞっている、やたらとシースルーでケバケバなジョーゼットの素材のワンピースを着ているオネエさんもいます。会場で買ったカセットテープをコンパクト・カセット・プレーヤーで聴きながら、けれども、横には、しっかと吉池のビニール袋が置いてあるのです。平和な常磐線の光景です。
ところが、昨今の常磐線には、この手のジャンルの人たちとは明らかに異なるタイプが乗り込んでくるようになっていました。たとえば、北柏《きたかしわ》に出現した東急の柏ニュータウン在住者、といった人たちがです。綺麗《きれい》綺麗なグラビア雑誌を持っています。日本橋の高島屋で買った、フォションのクロワッサンとブリオッシュが入った紙袋を持っています。常磐線のエイリアン、けれども、着々とその数が増えつつある、常磐線の新人類です。
かわいそうな上野の京成百貨店は、こうした人たちに愛されるデパートを目指しました。提携関係にある高島屋からフォションの紅茶を入れるようになりました。デザイナーズ・ブランドも入れるようになりました。
けれども、それは、インペリアル・プラザのゲラルディーニ・ブチックでルチアーノ・ソプラーニを買っていた顧客が、横浜そごうのソプラーニ・ブチックへは足を運ばないのと同じように、土台、無理なお話ではありました。そうして、悪いことには、この上昇ベクトルが、従来からの微々たる数の上野京成を愛する人々の足をも遠ざけることとなってしまったのです。
丸井上野店は、上野京成の後に出来た大規模小売店舗です。従業員も、しっかり、そのまま、引き継いでいます。展開している商品には、丸井が初めて手掛けた食料品類もあります。独身者、共稼《ともかせ》ぎの夫婦に照準を合わせて、お総菜中心の構成で、無難に乗り切っているのです。
が、もちろん、販売品目は、その大部分がファッションです。縦長の建物といい、商品構成といい、新宿にあるヤング館の上野版です。で、結構、人も入っています。とんねるず、チェッカーズ予備軍のような少年たちが、松田聖子、中森明菜予備軍のような少女たちからモテるようにと、たとえば、パーソンズやアーストン・ボラージュの洋服をクレジットしに出かけて来るのです。
ところで、クレジットという言葉を導入したことが、今日の丸井の繁栄を築きました。早い話が、割賦《かつぷ》販売なのです。一度に支払うことが出来ないから、それで、月賦なのです。ダイナースやアメックスのカードを使って、約一カ月後に銀行口座から引き落としてもらうのとは、大分、意味合いが違います。JCBやVISAカードを使って、ボーナス一括払いにしてもらうのとも、これまた、意味合いが違います。
多額の現金を持ち歩かないためのカードではなく、あくまでも手持ちの、そして、目先の現金が少ないことが理由の、〇|〇|カードなわけです。ですから、月賦、割賦といった縦文字言葉を使わずに、クレジットという横文字言葉を使ったのは、あたかも、プラスチック・マネーを自由に使えるエグゼクティヴになれたような感覚を味わわせてくれる魔法でありました。
もうひとつ、正価販売を徹底したことも、成功の理由でした。さくらや、あるいは、ヨドバシ・カメラの紙袋を持って電車に乗り込むことは、若者にとって、ある種の気恥ずかしさです。新宿西口の京王、小田急デパートの有料紙袋にカメラやストロボを移し変えて、そうして、ディスカウント・ショップの紙袋は、デパートのゴミ箱に捨ててしまう人たちが多いことが、そのことを如実《によじつ》に物語っています。
けれども、従来、現金一括払いの場合にサービスしていた三%割引も廃止した丸井での買い物には、こうした後ろめたさはありません。そうして、徹底した若者層への絞り込みによっても、後ろめたさを薄めて行きました。彼らや彼女らが欲しいデザイナーズ・ブランドばかりを揃《そろ》えることで、逆に、カメラ・ショップの紙袋のように、オジさん、オバさんが持ち歩く率を低めたのです。
自分たちと同じ、手持ちのお金は少ないけれど、目先、友だちに胸張って見せることの出来る洋服を着ていたいと頑張《がんば》ってる同世代ばかりが持っている丸井の紙袋は、ですから、むしろ、内なる親近感を抱かせます。スキーのディスカウント・ショップの紙袋が、カメラ・ショップの紙袋ほどの気恥ずかしさを感じることなく持ち歩けるのと、似ています。
分不相応に上昇ベクトルしちゃった上野京成は、どの層からも支持されることなく終わってしまいました。割賦の可能な日本信販のクレジット・カードを取ることも出来ない若者層に救いの手を差し伸べた丸井は、上野においても、ポスト暴走族、スケバンに支持されて、成功しつつあります。
彼らは、シーズン毎《ごと》に、目先、いい気分になれる洋服が欲しいのです。ただし、現金では買う余裕がありません。街中にあるデザイナーズ・ブランドのブチックでは買えないのです。丸井へ行くしかありません。としたら、毎月の支払いをきちんと行わないと、次回、購入することが出来なくなっちゃいます。意外にもコゲつきの少ない理由は、ここにあります。
《・11・15》
非自律的大衆社会状況における
ニュートラの復権について、ちょっとお勉強。
「ニュートラは、シーラカンスだ」と田中康夫が発言すると、「アハハ、そうなんだよね」と笑いながら、うなずく人たちが数多くいます。読者諸兄も、先刻ご承知のように、ここで言うニュートラとは、四年くらい前まで街を席巻《せつけん》していた「ニュートラ」です。
たとえば、オレンジ色のセーターに緑色のスカートを合わせる、といった類《たぐい》のです。いかにも、女子大生、女子大生したこの手のファッションは、レイヤード・ヘアが下火になっていくのと軌を一にして、アウト・オヴ・デイトなものとなっていきました。
ここで、しばらく、ニュートラについての復習をしてみましょう。セーター、ブラウス、スカートという単品構成のニュートラは、どんな色の組み合わせ方をしてもオーケーな、それぞれが原色でした。「昨日まで、パジャマとセーラー服しか着たことのなかった、色彩感覚ゼロの女の子でも、失敗せずに着れるファッション」だったのです。
それは、一人一人の着ているブランドや組み合わせ方は異なっても、ある種の“制服”でありました。以前も述べたように、人は、なぜか、制服に対して、アンビバレントな気持ちを抱きます。その権威に反発しながら、同時に、憧《あこが》れてもみるのです。
進歩的な市民運動を進める人たちは、たとえば、警察官といった存在には嫌悪《けんお》を抱きながら、けれども、皆、御用提灯《ぢようちん》持って、お揃《そろ》いのネーム入りトレーナーを着るではありませんか。「モーター・ショーのコンパニオンやスチュワーデスって、気にくわない存在だ」とかなんとか言ってるサラリーマンや大学生は、けれども、ニコニコ一緒にスナップ写真を撮ったりするではありませんか。
前者は、あくまでも、自分の身を被抑圧者という“弱い立場”に都合よく置きながら、抑圧者の立場を擬似体験することの快感です。後者は、オフ・リミットの区域に、IDカードを胸につけて自由自在に立ち入れる人が抱くのと同じ快感です。そうして、後者の場合、近づきたいのに近寄り難《がた》かった制服というスクウェアな存在を、一旦《いつたん》、手に入れてしまうと、今度は、その相手方のスクウェアさが従順さというものに変化して、つい本人としては、一人の女の子を征服したような錯覚に陥る、忘れてはならない効果もあります。
ところで、ニュートラはドッヂボールの円みたいなものでした。その昔、世の中の大きな円からスピン・アウトして、自分の若い生理から生まれた理想を追い求めようとした人たちも、「分別」がついたのか、あるいは、理想を貫き通すことの金銭的困難さに音を上げたのか、次々に円の中へと戻《もど》って来て、何くわぬ顔して暮らし始めた70年代後半、若い人たちは、無意識の内、ドッヂボールの円の中に生きることを最初から選択するようになりました。
ドッヂボールの円の中に立っていると、外にいる人たちから石の代わりに玉を投げられます。「無個性ね」とアジる、批難という名の玉を投げかえすことも出来ず、ただただ、逃げ回ることに情けなさを感じてしまいます。けれども、みんなと一緒にいられることの安心感を、同時に味わってはいるのです。同志とまではいかないにせよ、少なくとも、円の中にいる者は、お互い、敵対関係にないお友だちです。外へ出てしまうと、違います。無個性者を批難する点では共闘しながらも、一人一人、本当のところは、誰《だれ》よりも早く円の中へ戻りたいと考える人たちなのです。
ニュートラという制服を着た人たちは、円の中に暮らしながら、アクセサリーやバッグといった単品を他人とは違うものにすることで、差異を出そうとしました。批難を受けた時に感じる後ろめたさを、こうした作業で解決しようとしたのです。
「ニュートラは、ちょっと」と、円から出て行った人たちもいます。けれども、その人たちが着たソフト・トラッドだの、ニュー・コンサバティヴだのも、やはり、制服でした。最初から、「ニュートラ、グエーッ」と言ってた人たちの着た「カラス服」のようなデザイナーズ・ブランド物も、これまた、考えてみれば、制服でありました。それぞれ、新しいドッヂボールの円を形成しているにすぎないのです。
ただ、その円が、ニュートラの円のようには大きくなく、ひとつひとつ、小さくなっているのです。大昔のように、「ひとつの大きな円があって、人は円の中の者と外の者の二種類。で、中の人は無個性で外の人は個性がある」。こうした単純な図式は、通用しないことになりました。ニュートラの円の外にいる人たちも、それぞれ、小さいながら、幾つものドッヂボールの円を作って、安心しているのですから。
こうした意味では、「ニュートラは、シーラカンス」という言葉に笑う人たちも、また、どこか別のドッヂボールの円に、その身を置いてはいるのです。そうして、ファッションでは、お互い、異なる円に身を置いてる者も、たとえば、スポーツや音楽においては、同じ円に入っているかもしれません。ファッション、スポーツ、音楽と、ワン・アイテムで一枚ずつ透明なスライドに円の分布を描いて、それらを何枚か合わせてみると、少しずつ、円の重なる部分が出て来ます。新しいベン図です。
11月6日付『朝日新聞』夕刊文化欄の「歩き目です」で引用されている村上泰亮《やすすけ》氏の「多様化・差異化は、自律性を意味するわけではない」は、こうした点を捉《とら》えていると思われます。机に向かっていてもある程度は考えられる、こうした総論は、これまでにして、来週は、「非自律的大衆社会状況におけるニュートラの復権」という各論を扱うことにしましょう。
《・11・22》
カラス服の「主張派」も時には「かわいい女」に。
彼女たちが選んだ新ニュートラは似非《えせ》シャネル。
『オリーブ』という雑誌があります。フランスのリセへ通う女の子に憧《あこが》れる女子高校生たちが愛読している雑誌だと言われています。なるほど、ファッション・ページに登場しているモデルたちは、ソバカスだらけな白人の女の子です。読者モデルとして登場している日本人の女の子たちも、もちろん、ソバカスの数こそ少ないものの、成城、玉川、森村といった“リセ気分”の高校へ通うワンレングス少女です。
『オリーブ』は、ですから、『ポップティーン』や『ノンノ』には満足出来ないクラス意識を持つ女子高校生たちに読まれていると、業界では思われています。けれども、たとえば、キヨスクの前にしばらくの間、立ち止まって、『オリーブ』を手にする女性を観察してみたならば、女子高校生ばかりでなく、『JJ』好みな女子大生やOL、あるいは、『an・an』好みなハウスマヌカンの女の子までも読者であることに気づくでしょう。
本人自身はともかく、高校時代、まわりには、“リセ気分”というより、むしろ“はいすくーる落書気分”の友だちも多くいたであろう女の子までもが、なんと、『オリーブ』の読者なのです。どうしてでしょう? それは『an・an』に載っているファッションの写真と比べてみると、よおく、わかります。
『an・an』に登場しているモデルの子たちは、みな、険しい表情をしています。口を開けて笑ったりなんぞしてません。そうして、一人で立っていることが多いのです。男性モデルと一緒の写真が載ることも、ほとんどありません。一方、『オリーブ』に登場しているモデルの子たちは、みな、ニコニコしています。男のモデルと一緒です。『an・an』の方が、ノルマンディーの岩場に一人で立つ強い女とするならば、『オリーブ』の方は、フォンテーヌブローの森をボーイフレンドと一緒にスキップして行く、かわいい女の子です。
「何を、つまんないこと言ってるの。単純に載ってるファッションが違うだけでしょ」。こうした反論をする人がいるかもしれません。もちろん、その通りです。『an・an』には、吉本先生も大好きな黒白物が多くて、『オリーブ』には、原色ニュートラがメルヘンっぽい味付けで今風になった感じのアツキ・オオニシが載っています。明らかに違います。
けれども、じゃあ、どうして、『an・an』ファッションの女の子が、『オリーブ』も買って行くのでしょう? 元気よく反論をした人は、この質問を前に、たじろいでしまうのではありますまいか。どんなにか女の自立を標榜《ひようぼう》する人でも、同時に、どこか、かわいい女の子でありたいと考えているところがあることを、この事実は物語っているからです。もっとも、誤解なきよう付け加えますが、アツキ・オオニシの洋服を着てみたいと思って、『オリーブ』を見るのではありません。あくまでも自分のファッションは『an・an』っぽく、その上で、男の子と二人、スキップしている写真の、その雰囲気《ふんいき》は楽しみたい。こうした選択なのです。
先週号で、ちょっぴり、ご案内した「非自律的大衆社会状況におけるニュートラの復権」は、こうした中で始まりました。『an・an』好みな女の子と、『JJ』好みな女の子が、新しいニュートラを求めることで、意見の一致を見たのです。その代表が、インゲボルグなる、ビギの一ブランドでした。
ご存知《ぞんじ》のように、インゲボルグは、ピンクハウスを担当するデザイナー、金子功氏が同時に担当するブランドです。それは、一言で言えば、似非シャネルであります。似非シャネル風スーツやワンピースに金のジャラジャラベルトを腰に巻いて、で、首には、似非真珠のネックレスを二つも三つも。持ってるバッグは、ケリー・バッグもどき。時計は、ロレックス。これであります。
『an・an』好みな女の子は、東京デザイナーズ・ブランドのデザイナーであるところの金子氏が作ったニュートラだから、安心して買うことが出来ました。純文学作家が描いたポルノ小説を、人は誰《だれ》も、堕落したと評価することはありません。むしろ、芸域が広がったとして積極的に認めるではありませんか。インゲボルグは、それと同じ存在たり得たのです。
以前から述べているように、ニュートラは男を欲情させるファッションです。銀座や吉原の女性が、一貫して似非シャネル・スーツを着ているのは、彼女たちが、スクウェアなファッションほど男どもを喜ばせることが出来ると確信しているからに他《ほか》なりません。髪を刈り上げにして、カラス服を着ていた『an・an』好みな女の子たちは、自己を主張することの快感と、男たちから「かわいい女」と言われることの快感を両天秤《りようてんびん》にかけました。
『オリーブ』と『an・an』を併読していたのは、その気持ちの表れです。けれども、「高校生でもないのに、今さら、メルヘンのアツキ・オオニシでもないな」と思うのです。かといって、もちろん、『JJ』風ニュートラなど、「私は、ファッション、わかってるのよ」という自尊心が許しません。デザイナーズ・ブランドのエンターテインメント、インゲボルグは、彼女たちにとっての救世主でした。
そうして、「今さら、私、『JJ』が大好きです、なんて恥ずかしくて言えないな」と、ニュートラのシーラカンス化を認めながら、けれども、「アルファ・キュービックからは、やっぱり、逃れられないの」という女の子たちにとっても、インゲボルグは救世主たり得ました。東京デザイナーズ・ブランドから出て来た“ニュートラ”を着るのなら、相変わらず、男の子に媚《こび》を売ることが出来て、同時に、「私、未《いま》だにレイヤードしてるニュートラ娘じゃないのよ」と優越感に浸ることも出来るからです。
お嬢さんっぽく見られたい、彼のお母さんに好かれる格好したい、というドッヂボールの円感覚が、女の子の間に広まりつつあるのを、『オリーブ』読者の広がりと、インゲボルグの成功は、如実《によじつ》に物語っています。
《・11・29》
どうしてわざわざ輸入車に乗り、
どうしてアメックスのカードを持ちたがる?
どうして、輸入車に乗る人たちがいるのでしょう。patriotたちは、発言します。「日本車で、十分ではないか。いや、というよりも、むしろ、日本車の方が故障もしないし、右ハンドルだし、エアコンの類《たぐい》だって、ちゃあんとしてるし、それに、なにより、価格が安い」。
まあ、このあたりが、一般的日本人の“コモンセンス”でありましょう。それぞれ、「いや、そんなことはないよ」と反論しようと思えば出来ないことはありません。が、それは、ひとまず横に置いておいて、こうした“コモンセンス”を述べる人たちには、僕は次のように答えます。
「アメックスのクレジット・カードを使う人たちと同じところがあるのですよ、心理としてはね」
アメリカン・エキスプレスのクレジット・カードは、手数料が高いのです。加盟店は、売り上げの六%もをアメックスに対して支払うことになっています(もちろん、実際の金銭の授受としては、六%分、差し引かれた金額が、アメックスから加盟店に対して支払われることになるわけですが)。
他のクレジット・カードは、VISAもJCBもダイナース・クラブも、その手数料は三%です。更に、カード会社から加盟店に対する決済が、最短一週間で行われることもあるVISAに比べると、手数料は高いのに決済は早いわけでもないのがアメックスです。
けれども、不思議なことには、アメックスのカードを使う人たちが、日本には、結構、います。いや、もちろん、カードを利用する人たちにとっては、加盟店の手数料が高かろうと低かろうと、そんなこと、一向に関係ないことではありましょう。が、カード保有者にとっても、少なくとも、いくつかの点では、決して得するカードではないのです、アメックスは。
まず、ゴールド・カードの場合、年会費が一万五千円です。その他のカードは、せいぜいが、千円とか二千円でしょう。カードの保険料のみというところだってあります。会員になるのが難しいダイナースでさえ、六千円です。
そうして、本来、アメックスのゴールド・カードを持つ人たちは、一カ月の支払額を制限されることなく利用出来るメリットがあるからこそ、会員になったはずです。ダイナースと同じメリットです。というよりも、むしろ、それが、この二つのカードにプレスティージを感じさせることとなっているのです。
けれども、この点についても、最近のアメックスは、失格です。ご存知《ぞんじ》のように、どこのカード会社も、カード保有者が加盟店で高額の買い物をする際、加盟店がカード会社に電話をして来て、承認番号を取ることを義務づけています。盗難・紛失カードのリストが配られる前に悪用されるのを防ぐためです。
通常、五万円、もしくは一〇万円が、そのラインです。ダイナースの場合、二〇万円です。アメックスは、では、幾らでしょう。ジャーン、二万五千円が、線引き金額です。「盗難カードの悪用が、昨今、多い」「では、承認番号を必要とする金額を引き下げましょう」と、なぜに日本人がアメックスのゴールド・カードを持ちたがるのかという、その理由を全然、理解していないアメリカ人のヘッドたちが、勝手に決めちゃったのです。今年からの変更です。
短い時間の間隔で、続けて買い物をした場合には、盗難カードの恐れありとして、チェックを厳しくすることも決めました。そのため、たとえば、ひとつのファッション・ビルの中のAブチックで四万円の買い物をして、五分後に、Bブチックで三万円の買い物をした場合、承認番号を取る際に、カード保有者を電話口に呼んで、生年月日、住所等を聞くような具合になりました。いやはや、なんともです。
「なのにね、相変わらず、アメックスを使いたがる日本人が多いのですよ。もちろん、そりゃ、海外へ出た時には、トラベル部門が充実してますから、有り難《がた》いと思いますけれど、でも、国内でだったら、どこのカードを使ってもいいわけでしょ。それに、アメックスのゴールドを持ってる人なら、多分、他《ほか》のカードだって、既に持っているはずですし。けれども、アメックスをテーブルの上に差し出しちゃう」
こう言うと、“コモン”たちは、大きくうなずきます。
「カード保有者だけじゃなくてね。実は、ブチックやレストランの側も、アメックスを出すと、『うーん、このお客は、信用出来る』なんて思っちゃうところがあるんですよ。手数料が高いから、実は、決して、いいお客じゃないのにね」
「なるほど、国産車でもいいのに、わざわざ輸入車を買う人たち、そうして、それを見る周りの目に似ていますな」
ますます、大きくうなずきます。以前から僕《ぼく》が説いている“物離れの物価値”のひとつでしょう。そうして、逆に、輸入車、それも、五〇〇万円以上のセダン・カーを買えるだけの余裕があるのに、「いやあ、私は、輸入車に乗るほどの身分じゃ、ありませんよ」と、セドリックやクラウンに乗る人たちの選択も、これはこれで、人から反感を買わないための車選びという点で、“物離れの物価値”なのです。
一一月の初旬、晴海《はるみ》で開かれた第二六回東京モーターショーの外国車館に集まるお客たちを見ていて、そのことを再確認しました。輸入車のディーラーたちと親しげに話している顧客の表情は、レストランでアメックスのカードをテーブルの上に出したお客の表情と似ています。それを周りから見ている人たちの表情は、レストランの経営者、もしくは、セドリックやクラウンに乗る人たちです。
もっとも、どのカードでもお客にとっては変わりないクレジットの場合とは違って、輸入車、特に、ドイツ、アメリカ車の場合、事故の際の危険回避という点で日本車とは明らかに異なるところがあるのですが、このことについては、以前、『トーキョー大沈入』の中で述べたので、省きます。
《・12・6》
ミラノからパリへ、一時間半のフライトにも
アルコールつきミール・サービスがあった。
一一月一八日から二週間、日本を留守にしました。出かけたのは、フランス、ドイツ、イタリアです。アンカレジ経由のエア・フランスで、一九日早朝、パリに入りました。本当は、そのまま乗り継いでミラノへ入る予定だったのですが、例によって、機内で書いた原稿をファックスで送るために、市内のホテルまで行きました。
相変わらず、ファックスの普及率は極めて低いようなのです。「空港の営業所に、置いてありませんか?」とエア・フランスの職員に尋ねると、「なんですか、それ」と言われてしまいました。
午後、ミラノへ入りました。一時間二五分のフライトなのに、ミール・サービスがあります。Cクラスに坐《すわ》っていた僕《ぼく》は、スパークリング・ワインをゴックンしながら、パテやキッシュをムシャムシャしました。横に坐っていた少壮のビジネスマンは、食事もそこそこに、数字が一杯の資料を見詰めています。
マッキンゼーとか、その手の事務所に勤めているのでしょう。そのまた、彼の横に坐っている、秘書とも恋人ともつかないスーツ姿の女性は、『ヘラルド・トリビューン』を読んでいましたが、突然、チョンチョンと彼の腕を肘《ひじ》でつつくと、ある記事を指さしました。
「フムフム」と彼は斜め読みをし、そうして、また、資料に目を通し始めました。「どれどれ」と僕も、座席のポケットに入れておいた『ヘラルド・トリビューン』を手に取って、同じ面を開いてみます。そこには、イタリアの大臣が、「どうの、こうの」と発言したという内容が載っていました。
ミラノでは、二つのトランクのうちの片方が、バゲッジ・クレイムのベルトの上に登場しませんでした。仕方ないのでカウンターで書類にサインすると、レンタカーに乗ってホテルへ向かい、グーグーとベッドでお休みしました。トランクは、夜中になって、空港から到着しました。
日本人は、トランクが出て来ないと、ギャーギャー騒いで空港職員を困らせるケースが多いのですが、だいたい、次の便に乗って登場するものなのです。それより、やたら海外旅行経験のあるようなフリをして、前回、前々回のデスティネイション・タッグを付けたままにしておく方が、よっぽど、困り物です。ただ、出て来るまでの間、不自由しないように、トランクは二つにして、下着、シャツといった当座必要な物だけは、その両方に分けて入れておく。対策その一です。
ミラノに二泊して、パビア、ベルガモといった、今まで行ったことのない街を訪れました。パビアは、その郊外に有名な僧院Certosa di Paviaがあります。
つい数年前までは小さな手袋屋さんでしかなかったのに、一体、どこから資金調達して来たのか、今や、『Mondo Uomo』『Donna』といったイタリアのファッション雑誌への広告出稿量ナンバー・ワンのファッション・メーカーとなったトラサルディの工場があるベルガモは、アルプスを眺《なが》めることの出来る街です。丘の上の旧市街は、一二世紀の自治都市。丘の下に新市街が広がります。ある種、シエナをもう少し都会にした感じの綺麗《きれい》な街です。
パリへと戻《もど》る機内でも、ミール・サービスがありました。ご存知《ぞんじ》、全日空がB747の二階席で始めたスーパー・シートのことを思い出しました。六千円〜八千円のチャージを取る、ファースト・クラスのシートを使ってのサービスです。おせんべいやプティ・フールの入った小さな箱が、ソフト・ドリンク類と一緒に出て来ます。
「アルコールやミールも、サービスした方がいいと思われますか?」とスチュワーデスに尋ねられて、「いやあ、いらないんじゃない、短い時間なんだから。静かな空間さえあれば、十分だよ」と答えた記憶のある僕も、この後、それぞれ一時間ちょっとのフライトでしかないパリ―フランクフルト、フランクフルト―ベニスのルフトハンザ機内でも、もちろん、コールド・ミールではありますが、アルコール付きの、結構な食事が出されたのを見て、「ウーム」と思いました。やっぱ、人間、自分でお金を出して飛行機に乗っていると、欲が出ます。
ミラノ同様、パリも、みぞれのような、雪のような天候でした。夏だと入るまでにやたらと時間のかかる印象派美術館、オランジュリー美術館でモネなんぞを見た後、マレ地区に新しく出来たピカソ美術館へ足を伸ばしました。九時四五分の開館です。二〇分過ぎに到着した時には、二人しか並んでいなかったのに、開館時には、なんと一〇〇人以上の行列が出来ていました。
なるほど、ピカソは偉大です。今となりゃ、誰《だれ》もがやってるパターンばかりなのかも知れませんが、一番最初というのは、なんだって、大したものなのです。膨大な数の作品の中には、日本で人気を集めているイラストレーターや画家たちのタッチにそっくりな代物《しろもの》も幾つかあって、これまた、「ウーム」と思いました。
と、まあ、こうやって書いてくると、やたら知的な見学ばかりをして来たように思われますが、いえいえ、しっかりファディッシュ考現学もして来ました。パリのディスコです。東京で言ったら、新宿と浅草が混ざったような雰囲気《ふんいき》のルー・モンマルトル(モンマルトルとは離れている)には、映画館がワンサとあります。西武がやっている大森キネカのヒントとなった、入り口だけは同じミニ・シアターが、三つ、四つとビルの中にあります。
一番人気のPalaceは、こうした動きに乗り遅れた大規模映画館の建物を、そのまま使ってのディスコです。地下にレストランがあります。九時くらいから、若者が集まって来て食事を始めます。映画館時代の客席をそのまま残してある上のフロアが、ディスコです。銀幕のあった辺りを広くして、そこがダンス・フロアです。が、始まるのは、なんと、午前零時です。前回、パリへ行った時に、午後一〇時過ぎのディスコを何軒か覗《のぞ》いて、「パリのディスコは、活気がない」と『an・an』の「今週の眼《め》」に書いた僕は、深く反省しました。
《・12・20》
バスチーユ広場のディスコで、サーファー風
春日《かすか》部《べ》少年が集う新宿のディスコに思い至る。
ごくごく普通の作家が、ごくごく普通の雑誌に、ごくごく普通の文章を書いてる感じの「ファディッシュ考現学 ヨーロッパ編・その2」は、パリのディスコから始まります。
ルー・モンマルトルのPalaceは、前回、述べたように、午前零時過ぎから続々と若者が集まってきます。地下のレストランでの食事が終わった連中もです。かかる曲は東京とさほど変わらないのですが、タバコを吸いながら踊ってしまう男女の多いのが新鮮です。
ひとしきり楽しんだ後、もう一軒、バスチーユ広場の近くにあるBalajoへ行きました。噂《うわさ》通り、混《こ》んでました。けれども、Palaceとはお客の感じが違います。再開発が計画されているとはいうものの、今のところは、蒲田《かまた》みたいな具合の地区です。早い話、新宿は歌舞伎《かぶき》町のジョイパック・ビルにあるダンス・ホールの客層です。おじさん、おばさんが、一夜のお友だちを捜しにやって来ているのです。お金を稼《かせ》ごうと思って、最近、フランスへやって来たらしき男性もいます。
ところで、今、新宿や渋谷のディスコへ集まっている少年たちは、その多くがサーファー風か、シブがき隊風であります。といっても、前者は、昼間、湘南《しようなん》でサーフィンを楽しんでいたタイプではありません。つい最近まで、パンチ・パーマにしていた暴走族OBなのです。
今時、暴走族風な少年は、新宿、渋谷のディスコへやって来るような女子高校生、各種アルバイト中の少女にだって相手にしてもらえません。そこで、髪型やファッションをサーファー風、もしくはシブがき隊風に変えて、イトーヨーカドーが作ったロビンソン百貨店のある、開けゆく春日部あたりから遠征してくるのです。
シブがき隊風なのはわかるとしても、今さら、シーラカンスなサーファー風というのは、どうしてなの? と疑問に思う人たちもいることでしょう。が、その理由は、簡単です。なぜか、女子高校生というのは、ある短い一時期、誰《だれ》でもサーファーに憧《あこが》れるのです。それは、そこそこ以上の家庭の子女が通っていると世間で勝手に思われているような、ミッション系女子高の生徒であろうと同じです。
そうして、このジャンルの女子高校生たちも、新宿や渋谷のディスコへ足を運ぶ時期があるのです。彼女たちは、すぐに六本木のディスコへと移っていくのですが、卒業後も新宿、渋谷のディスコを愛する他のジャンルの女子高校生、そのOGであるところの各種アルバイト中の少女に混じって踊っている時期があるのです。
春日部少年たちは、サーファー風、シブがき隊風な髪型とファッションでその本性を隠して、新宿や渋谷のディスコへ登場します。大学へ入ったら、とても新しい友だちには言えない秘密を、ミッション系女子高の生徒に与えて上げるのです。
ま、それはともかく、こうした少年や末長く新宿や渋谷のディスコを愛する少女が、これから先、人並みに結婚をして、これまた人並みに倦怠《けんたい》を迎えた時のためのディスコが、必要とされて来るかも知れません。いや、既に十分、商売として成り立つのかも知れません。
ピクニック気分で多くの老若《ろうにやく》男女が、昼間からラヴ・ホテルへ行く時代なのですもの。そうして、これは、“パリの蒲田”にあるBalajoのターゲットより上のクラスを対象としても、同じように成功する気がします。
パリで泊まったのは、所謂《いわゆる》、有名なブチックが数多くあるルー・ドゥ・フォーヴル・サントノーレ沿いのル・ブリストルでした。ドイツ人が経営するというこのホテルは、コンコルド広場にあって、各国の政府高官が泊まる“パリのオークラ”ル・クリヨンのような慇懃《いんぎん》無礼さが感じられない、僕《ぼく》にとってはパリで一番の、そうして、最近、赤坂に出来たプチ・ホテル、エルミタージュもお手本にしたホテルです。
いったんフランクフルトに寄って、ちょっとした用事を済ませた後、ベニスへと入りました。ここから、レンタカーを借りて、ベローナ、サン・マリノ、リミニ、ラヴェンナ、フィレンツェ、ミラノ。前半一週間が連日、雪混じりだったのとは打って変わって、快晴でした。
フィレンツェで泊まったのは、リージェンシーというホテルでした。一般的にフィレンツェの高級ホテルとされているエクセルシオール、ビラ・メディチ、サボイ同様、ミシュランのぶ厚いイタリア・ガイドの中では、トップの評価を受けているプチ・ホテルです。その昔、やんごとなき一家が住んでいたという建物を使っています。
ところが、部屋に置いてある調度品は、ピンクや黄色の超近代的な代物《しろもの》です。ミラノが本拠地のデザイナー・グループとして数年前に話題となった、メンフィスの作品に似ています。どうにも建物と不釣《つ》り合いで、日本の一般的ラヴ・ホテルにいるような気がするのですが、泊まっているのは、なぜか、なかなかに品のありそうな人たちばかりです。
リージェンシーと同じように、客室数が二〇とか三〇のプチ・ホテルが、ヨーロッパには数多くあります。そうした中には、世界的に有名なホテルもあります。けれども、それらは、いずれも、きめの細かいサービスと伝統的内装を売り物にしています。
リージェンシーは、サービスの面においては、他のプチ・ホテルと同じベクトルです。けれども、内装に関しては、明らかに異なるのです。僕は、一年前、ニューヨークに出来たホテル、モーガンズのことを思い浮かべました。ディスコ「ステュディオ54」で成功した若者二人が経営するモーガンズは、「ブチック・ホテル」と名乗るだけあって、古い外観の建物とは異なる内装です。市松模様のタイル張りのバス・ルームだったりするのです。
モーガンズは、自由業の人たちに支持される、新しいアメリカのホテルです。リージェンシーも、モーガンズほどではないにせよ、ディレッタントな人間をターゲットにした新しいヨーロッパのプチ・ホテルかもしれません。
《・12・27》
いち早く文化的に“成熟”したJALは、
日本の「マンデー・カー」的未来を暗示している。
ミラノ市内にあるアリタリアのオフィスで買い求めたパッセンジャー・チケットに、LIT2276000と印字されているのを見て、僕《ぼく》は驚きました。ミラノ―ローマ―東京のビジネス・クラス、片道チケットの値段です。ヨーロッパの或《あ》る都市から東京までのチケットをイタリア国内で買った場合の値段、と言い直してもよいでしょう。
驚いたのは、その値段の安さにです。100リラ11.55円、として、262,878円です。が、電卓を叩《たた》かなくとも、二〇万円台であることくらい、誰《だれ》にだってわかります。日本で買った場合、405,400円することを知っていた僕が驚いたのも無理ありません。142,522円もの差があるのですから。
「もっとも、それはリラの価値が下がりっ放しのイタリアでだけ起こり得ることなのかもしれない」。飛行機に乗り込んでから多少、冷静になった僕は、そこで、フランスで買った場合の計算をしてみました。パリ―東京のビジネス・クラス、片道チケットの値段は、12,740フラン。1フラン26.00円として、331,240円。イタリアで買う場合より高いとはいえ、日本での場合よりも74,160円安いのです。
「ウーム」とうなりながら、では、ヨーロッパ内のフライトはどうだろうか、と計算してみました。パリ―ミラノのビジネス・クラス、片道チケットをフランスで買うと、1,725フラン44,850円、イタリアで買うと、377,000リラ43,544円、そうして、日本で買うと、79,800円。やっぱり、違います。
パリ―フランクフルト―ヴェニスは、大奮発して、座席のクッションが堅めのせいか、疲れないことで有名なルフトハンザのファースト・クラスに両区間とも乗ってみたのですが、パリで買ったチケットは、2,755フラン71,630円。日本で買うと、114,000円。これまた、現地で買い求めた方が安いのでした。
航空運賃は、FCU(Fare Construction Unit)と呼ばれるIATA(International Air Transport Association)が定めた通貨単位によって、表示されます。たとえば、東京―ヨーロッパ間のビジネス・クラスは、1488.20 FCU、パリ―ミラノ間のビジネス・クラスは、292.70 FCUです。
このFCUに対して、どういうレートを設定するかは、IATAに加盟している各国の航空会社が定めています。たとえば、アメリカでは1FCU=1〓(203円)としています。もちろん、日本の場合は、我が親愛なる日本航空株式会社が、であります。その日本航空が、1FCU=296円というレートを、未《いま》だ変えずに頑張《がんば》っています。日本で買うチケットが高いのは、このせいです。
文化を解し平和を愛する宰相の「貿易不均衡の是正を」という呼び掛けに応《こた》えて、今回の旅行では、往《い》きも帰りも外国の航空会社を利用しました。特に往きのエア・フランスには、日本でチケットを購入したために、74,160円も余分に貢献しました。
偉い人から言いつかったことを素直に実行へと移す僕は、良い子なのです。きっと、有事には率先して大政翼賛会の中堅活動家となることでしょう。お国のために尽くした後は、気分も爽《さわ》やかです。運賃比較を終えた僕は、帰りのアリタリア機内でシシリア産の白ワイン、コルボを飲みながら、「帰りの分も日本で買っておけば、イタリアへも貢献して、もっと良い子になれたのに」とさえ思いました。
けれども、前菜と一緒にサービスされた小さな海苔《のり》巻きを見た瞬間、「いかん。単純に喜んでるわけにもいかない」と感じました。1FCU=296円のレートを変えないことで恩恵を被《こうむ》っているのは、エア・フランスやアリタリアの日本支社だけではないことに気がついたからです。日本からの発着便数が一番多い日本航空が、恩恵を最も多く被っていたのです。
貿易不均衡是正のために協力した後の僕としては、複雑な気持ちです。スチュワーデスが持って来てくれた、二週間ぶりに見る『朝日新聞』11月27日付を読むことにしました。と、「小トラブルは年に一〇〇件・日航の場合」なる記事が目に留まりました。公表されずに社内処理されて来た、たとえば、降下中、客室ドアが開きそうになった、なんてトラブルが一覧表になっていました。
そうして、自分の部屋に帰って来て、留守中に溜《た》まった新聞を見ていると、ソウルの金浦《キムポ》空港で日航機がドアを開けたまま動き出して、搭乗橋《とうじようきよう》とドアの両方を壊した、などという記事も見つけました。「日航機またポカ」と見出しがついています。「弛《たる》んでるねえ」と整理部の人は思ったのでしょう。
なるほど、弛んでいるのかもしれません。けれども、僕は別の感想を持ちました。ある国の経済的繁栄度と文化的成熟度のグラフは、それぞれ、一定のタイムラグを置いて釣《つ》り鐘型を描きます。そのことは、今までの人類の歴史が証明しています。
ところで、経済的繁栄が頂点を極めた後、文化が成熟していく段階においては、同時に人間、良く言えばおおらかな性格に変わっていきます。その昔から僕が述べて来たように、「ムダな時間とお金を費やす中から、文化は生まれてくる」ものだからです。
今の日本は前者のグラフが頂点を過ぎるか過ぎないか、といったあたりなのでしょう。そうして後者のグラフは、上り坂七、八分目に差しかかって、これから、カーブが急になる、ってところかもしれません。まだまだ、多くの企業のサラリーマンたちは、“勤労は美徳”だとの教えをシッカと守って働いています。おおらかなポカなど生まれるはずもありません。
けれども、政府に保護されて育ってきた親愛なる日本航空の社員たちの二つのグラフは一般よりも早い動きだったのかもしれません。おおらかな性格が社内に蔓延《まんえん》している現状を見ると、そう思います。
近い将来、アメリカ同様に“マンデー・カー”が生まれてくるかもしれない日本の未来を暗示している日本航空は、ですから、偉大な企業です。
《・1・3》
“おおらかなポカ”を続発させるのに、
JALのクルーにおおらかさが足りない理由。
「弛《たる》んでる」と正義感あふれる人たちから言われっ放しの日本航空には、実は肯定的意味でのおおらかな性格が蔓延《まんえん》していて、それは、近い将来“マンデー・カー”が生まれてくるかもしれない日本の未来を暗示していると、前章で述べました。
それでは、経済的繁栄度と文化的成熟度の二つのグラフが、とうに両方とも釣《つ》り鐘型の頂点を通り過ぎてしまった感のある国、イタリアの航空会社アリタリア(Alitalia)なんぞには、日本航空以上におおらかな性格が蔓延しているのでしょうか? もちろん、答えはイエスです。
まずは、九九%以上の株式を政府が保有しているのです。国際線と国内主要幹線を独占しています。そうして、国内ローカル線を運航するATI(Aero Trasporti Italiani)は、一〇〇%の子会社です。三七・七%の株式を政府が保有しているだけで、アーダ、ウーダと言われる日本航空なんて、いやあ、これに比べれば、かわいいもんです。
加えて、ご存知《ぞんじ》のように、元々、おおらかな性格が国是のイタリアです。いわんや、独占企業、アリタリアのクルーにおいてをや、であります。今までに何度か乗る中で、そのことを実感しました。
DC9やエアバス300のコックピット・ドアを開けたまま、最初から最後まで飛んだことがあります。地上職員のミスなのか、座席数よりも一人多く、乗客が機内にいたこともあります。どうするのかと見ていると、キャビン・クルー用のジャンプ・シートに坐《すわ》らせました。もちろん、見ている乗客が日本でも少ないとはいうものの、でも、一応は説明してくれる非常用設備についてのアナウンスや実演など一切しないフライトが、結構あります。
そうして、もっと、すごいおおらかさを僕《ぼく》の女友達は経験しました。一番最後に乗り込んだ彼女に、コックピット・クルーの一人は、「どこのホテルに泊まるんだい? 今晩、デートしないかい?」、飛行機が動き出してからも話しかけました。彼がちゃあんと前を向いてコックピットのシートに腰を下ろしたのは、離陸直前だったと彼女は言います。
まさに、おおらかな性格です。けれども、それが、おおらかなポカにつながったという話は、あまり聞きません。一方、おおらかなポカの続出する日本航空は、冷静に考えてみると、それほど、おおらかな性格が蔓延しているわけでもない気がするのです。
「新人類の旗手たち」の一人だと認定された、コンピューター会社の若手副社長は、しばしば日本航空を利用します。アメリカでの仕事を終えて、ファースト・クラスのシートにドカン、坐りました。ミール・サービスの時間です。どのメニューをチョイスするかを聞きに来た男性パーサーに、「和食や」、答えました。
すると「申し訳ございませんが、和食は人気がありますので」と婉曲《えんきよく》的に他のメニューを勧められました。けれども、横に坐っていたスーツ姿の中年紳士には、和食が運ばれて来ます。「どうなっとるんや」、半ズボンにTシャツという出《い》で立ちの彼は尋ねました。
「お客さまは、本来、ビジネス・クラスなのですが、座席が一杯だったため、アップ・グレイドでファーストにお乗りいただいております」、地上職員から渡されたシート・チャートを見ながらパーサーは答えました。「なにい、ちょっと、見せてみい」、ファースト・クラスの正規料金を支払って乗っている彼は、シート・チャートを手に取りました。
なんと、地上職員のミスで、半行ずつ欄からずれて記入されていたのです。アップ・グレイドしていたのは、横の紳士の方でした。パーサーは、見間違えてしまったのです。思い違いの非を彼にわびました。けれども、気まずい雰囲気《ふんいき》になりました。
その後、成田にあるオペレーション・センターに、「身なりでお客様のクラスを判断しないように」という、件《くだん》のトラブルを告げる掲示が出ました。スーツ姿で働く「若手副社長」のオフィスへ取締役の一人が、わざわざ、陳謝しに来ました。たまたま、共産党系の客乗組合員だったパーサーは、厳重に注意されました。
もちろん、彼のミスが原因です。けれども同時に、地上職員のミスも原因なのです。が、そのことは問題にされませんでした。去年の上半期に起こったお話です。どこか、不思議な反応と対応だな、という気がします。それぞれの登場人物たちがです。
やはり、まだ、日本人にとっては、飛行機は特別な乗り物だという意識があるのでしょう。ミール・サービスが終われば、バー・コーナーを通路に出して、クルーは仮眠を取るおおらかさが欧米の航空会社にはあるのに、日本航空機内では水一杯のために乗客はコール・ボタンを頻繁《ひんぱん》に押し、これまた、日本航空側も欧米で買うよりも高い運賃であることの免罪符のつもりなのか、過剰とも言えるサービスを売り物にしています。
そうして、精神的ブランド価値の高い乗客には、たとえ彼が自分のお金で乗ってなくとも、キャプテン以下、わざわざ頭を下げ、逆の場合には、自分でお金を払ってくれていようとも、特には頭を下げない不思議さが当たり前となっているのです。
本来ならば、日本の企業の中で最もおおらかさが満ちあふれていてしかるべきはずの日本航空は、むしろ、逆のベクトルを社員たちに求めています。日本一、世界一の航空会社に勤めているのだという、ある種、三菱《みつびし》グループのサラリーマンやOLと共通する精神的ブランド意識を持つことを求め、同時に、過剰なサービスを行うことも当然とする空気があるのですから。
トランスポートというサービス業を営む日本航空の悲劇は、そこにあります。そうして、そのことが、おおらかさはあるのに、おおらかなポカの少ないアリタリアを始めとする他国の航空会社との違いを生み出しているのです。
《・1・17》
“ナショナル・フラッグの威信”で
コチコチのJALに
創価学会系の女性クルーがなぜか増えてる。
人間、膝《ひざ》の部分に遊びを持たせずにピンと足を張っていると、かえって、ちょっとしたことで転げてしまいがちです。小学校の全校朝礼なんぞの時に、直立不動の学級委員の膝の後ろ側をチョコン、悪戯坊主《いたずらぼうず》が押したところがゴロンとなってしまったことは、誰《だれ》しも、記憶にあるのではありますまいか。
一方、悪戯坊主というのは、いつでも膝の部分に遊びを持たせて立っているものですから、チョコンと押しても、ユラユラするだけで転げることはない。これも、誰もが認めるところです。前章で触れた、おおらかさはあるのに、おおらかなポカは生まれにくいアリタリアを始めとする欧米の航空会社は、さしずめ後者でしょう。
では、日本航空は、どちらでありましょう? 1月6日付の朝刊各紙には、「20、878人の新しい決意」と題した日本航空の全面広告が載っていました。年末に代表取締役社長となった山地進氏の写真入り意見広告であります。読み進むうちに、僕《ぼく》は膝をピンと伸ばした優等生としての日本航空を感じました。
「もう一度、日本航空への信頼を取り戻《もど》すにはどうすべきか。安心して日本航空をご利用いただくには、何をなすべきか。日本航空二〇、八七八人ひとりひとりがそのことを考え、一丸となって努力を続けてまいりました」と始まるこの意見広告は、「安全運航対策について」という最初の項で、「自主的かつ徹底的な」点検整備を行ったことを報告、「この整備体制を堅持して、『信頼の翼・日本航空』の評価を再びいただけるよう全力を傾ける決意です」と述べます。
そうして、続いての「二〇、八七八人の思いはひとつ」と題する項には、「情熱と持てる力のすべてを注いでまいります」「その結晶が一便一便のフライトとなり、皆さまの旅を力強く支えます」とあります。膝をピンと伸ばして、直立不動です。おおらかさなんてありません。が、もっともこれは、別段、日本航空だけを責めれば、それで済むことでもないでしょう。
ご存知《ぞんじ》のように、敵が攻めて来たら、“神風信じて、竹槍《たけやり》持って”の反応パターンが、悲しいかな日本なのですもの。言ってみれば、膝をピンと伸ばして、直立不動、応用編そのTです。そこで、理性的意見を述べる人など、非国民として断罪されてしまいます。そうして、負けてしまえば今度は“一億総懺悔《ざんげ》”。これまた、膝をピンと伸ばして直立不動、応用編そのUです。もちろん、こうした国民性は今でも変わりません。おおらかな気分で、「ま、色々とありましたけれど、一応、今後は頑張《がんば》りますから、ひとつよろしく、ケセラセラ」みたいな態度は、とてもじゃないけれど許されないのです。
ですから、三番目の「完全民営化に向けて」も、「新体制のもと、新たなスタートを切」った、首を垂れる“新生”日本航空の決意表明であります。「民営化、および国際線・国内線の複数社運営は、まさに時代の求めるところ」「皆さまの空の旅をより便利に、より快適にしていくものであり、またぜひ、そうしていかねばなりません」。“民活”と称して、森ビル、東京興産、大京観光といったノン・エスタブリッシュメント・カンパニーに国有地払い下げの功徳《くどく》を施す宰相に“新体制”が支えられているせいもあってか、なるほど、謙虚です。
そう思いながら次面へ目線を移そうとすると、「日本を代表するエアラインとして、再び、日本航空は、『信頼の翼』への歩みを一歩一歩、着実に進めてまいります」との一文が最後に載っているのに気が付きました。「ウーム」です。直立不動で首を垂れる優等生は、けれども、まさに膝をピンと伸ばしたままだったのです。
いや、もちろん、膝をピンと伸ばしていなくては直立不動と呼べません。ここで言っているのは、違うニュアンスです。首を垂れてはいるものの、それは、まさに首から上だけが恭順の意を表しているのであって、首より下の直立不動は、むしろ、旧態依然とした硬直以外の何物でもない。こう表現した方が、わかりやすいかも知れません。
早い話が、「手前どもの民営化と、国際線・国内線の複数社運航は、世の声、人の声でござりまする」と言いながら、「だが、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての威信は、守り通さねば」と結んでいるのです。つまらぬ色気を捨て切れない日本航空という組織は、ですから、依然として自分でお金を払ってるわけではない、精神的ブランド価値の高い乗客には過剰サービスを、そうして、実際に自分でお金を払って搭乗《とうじよう》した乗客には慇懃《いんぎん》無礼な態度をとることになってしまうのです。
「単なる一運輸会社に戻りなさい」と去年の夏、“愛を込めて”“空からの贈り物”をプレゼントした僕としては、いやはや、なんともです。けれども、心優しい面も持つ僕は、「こうした組織の中で、実は、二〇、八七八人の社員も、そのひとりひとりは、秘《ひそ》かに心を痛めているのかも知れない」と、ついつい、気づかってあげてしまうのです。
救ってくれるのは誰でしょう? 残念ながら既存の労働組合ではなさそうです。「長時間フライト反対」と叫んでいた日共系の客乗組合も、特別路線手当としてニューヨーク・フライトに五万円が出ることになるや否《いな》や、「ハーイ」とお返事しちゃうのですから。ソ連や中国の高級官吏といい勝負です。
「ウーム」、悩んでいると、なんと、このところ、ギスギスした社内の空気に耐え切れずに、創価学会の信者になる女性キャビン・クルーが増えているという確かな情報が入ってきました。池田大作先生の教えに一筋の光を感じた彼女たちは、そのせいか、常にニコニコと別《わ》け隔てなく乗客にサービスをするらしく、その表情で入信したことが容易にわかるのだとか。
もちろん、「信頼の翼・日本航空」のためなら、不平不満など口には出さぬタイプとなるみたいです。
いやあ、思わぬところから、処方箋《しよほうせん》が出て来ました。創価学会系の組合を会社側主導の下で結成させるのです。あるいは、間もなく始まるであろう再開キャンペーンに薬師丸ひろ子を起用して、彼女の父が職員を務める霊友会系の組合を結成させるのもどうでしょう。労使問題の達人、伊藤淳二《じゆんじ》日航副会長への提言です。
《・1・24》
イモツバシ少年とインゲボルグ少女のカップルが
日本の活力のヒミツ、との“学術的見解”。
その昔、『an・an』の「今週の眼《め》」に「日本の活力のヒミツ」みたいな文章を書いたことがあります。一言で言ってしまえば、「大卒女子の採用に大手企業が積極的でないのが、日本の活力のヒミツだ」といった内容です。
もう少し詳しくご説明いたしましょう。所謂《いわゆる》、偏差値が高い大学を卒業した少年たちは、ご存知《ぞんじ》のように、大手企業に入社するわけであります。一般的に、学生時代、それほど女の子に恵まれていなかった、たとえば、一橋大学あたりを卒業した少年たちは、朝から晩まで、一所懸命に働きます。ですから、大学時代同様、相変わらずガールフレンドを見つけることが出来ないのです。
たとえば、慶応大学あたりを卒業して大手企業に入社した少年たちは、イモツバシ大学を卒業した同僚よりは、少なくとも恵まれた女性関係のある大学時代を送っては来ていることでしょう。プリンス・ヒロのママがご卒業遊ばされた広尾の女子大の女の子なんぞとペロペロちゃんやグリグリちゃんをしていたかもしれません。
けれども、さすがに社会人ともなると、やはり同じように朝から晩まで、一所懸命に働きます。年下なものだから、まだ在学中だったり、あるいは卒業後、家事手伝いと称するプータローをやってるプリンス・ヒロのママの後輩とデートする回数は、徐々に、そして確実に減っていくこととなります。
ところで、こうした大手企業では、短大や高校を卒業した少女たちがOLをやっています。日本の活力のヒミツは、ここから佳境に入ります。短大時代、悪い男の子とお付き合いしてたものだから、赤坂レディス・クリニックのお世話になったことも一度や二度では済まないタイプである、たとえば、山脇《やまわき》や川村なんぞを卒業した少女たちは、そろそろ、相手のフェイスのひどさなどには目をつむって永久就職を考えなくてはと、作戦を立てます。
イモツバシ大学を卒業した、恋愛し慣れていない、そうして、それほど、頭の回転が早いわけでもない、社内では平均点の少年は、こうしたインゲボルグ少女がモーションをかけてくると、「ウーム、やっぱり、立派な会社に入ると、俺《おれ》もモテるようになるんだ」、彼女の過去も知らないまま、ゴールインしちゃいます。
一方、青短や学短あたりを卒業した未《いま》だにレイヤード感覚の抜け切らない、ごく一般的OLの少女も、大手企業には大勢います。彼女たちは、学生時代、児童文学研究会や野草の会で知り合った駒《こま》トラ、早トラファッションの少年との清く美しく、そして淡いお付き合いの想《おも》い出を心の片隅《かたすみ》に仕舞い込んで、永久就職の相手を社内で見つけようとします。
慶応大学あたりを卒業した少年は、気まぐれなプリンス・ヒロのママの後輩に、そろそろ、音を上げ始める頃《ころ》です。残業でデートがつぶれたりするとブリブリ怒られてしまうからです。そうした時、“男の仕事は厳しい世界だ”ってことを知っているレイヤードOLから優しくされると、つい反動で、これまた、ゴールインしちゃったりするのです。
では、「就職差別」を受けた、英文タイプも英会話も出来ます、みたいな偏差値の高い大学を卒業した少女たちは、どうしているのでしょう。彼女たちは、所謂、かるーいジャンルの企業に就職しています。日本興業銀行よりも、むしろ、日本長期信用銀行が喜んで融資をしちゃうような、そうしたジャンルです。
こうした企業に勤めている少年は、彼女たちよりも一般的には偏差値の低い大学出身かもしれません。学生時代に付き合っていた、当時、短大生の女の子は、赤坂レディス・クリニックにカルテの残る、今は大手企業のOLだったりします。学校のお勉強は苦手だった少年です。けれども、バイタリティはあります。
と、なぜか、不思議なことには、学生時代は、そうした少年を心底、バカにしていたはずの優秀な、けれども、もちろん遊び慣れていない少女は、その彼のバイタリティを新鮮に感じて、ゴールインしちゃったりするのです。
以上三つの例は、いずれも、残業が多くて、会社以外に異性と知り合う場のないことが原因であります。が、皮肉なことには、そのために、メンデルの法則が拡大適用されて、たとえば最初のカップルには、フェイスが良くてお勉強の嫌《きら》いな遊び人の男の子と、フェイスが悪くて、でも、お勉強は大好きな女の子が生まれたりするのです。そうして、第三のカップルには、その逆の男の子と女の子が生まれたりするのです。
「これこそが、日本の活力のヒミツである」。僕は以前から、こうした考えを持っていたのです。その昔のイタリアなんぞが、農村出身の優秀な若者が官僚となる途《みち》を次第に閉ざしていくことで血が濁ってしまい、衰退していったことをも考え合わせると、ますます、“学術的見解”であります。
板橋区巡りの項でも述べたように、全国各地から種々雑多な人間が寄り集まって作られた東京の強さも、似たところにある気がします。一見《いちげん》さんお断りの店がほとんどないのも、東京らしさであります。その東京に、季刊『東京人』なる代物《しろもの》が御目見得しました。
発行は、財団法人、東京都文化振興会。編集委員は、粕谷一希《かすやかずき》、芦原義信《あしはらよしのぶ》、高階秀爾《たかしなしゆうじ》、芳賀徹《はがとおる》の各氏。「いま、東京は面白《おもしろ》いという囁《ささや》きに呼応して、その面白さの奥行きと広がりを模索し、東京と東京人の品位と趣味を高めることに役立つ生活雑誌」であります。
常にファッドなものを吸収出来るピチピチした皮膚が衰えてしまったオジさんたちのノスタルジー雑誌が『サントリー・クォータリー』以外にも登場か、と、この欄の獲物現るって感じで読んでみたのですが、この頃は敵もさるもの、「埋立地もいいね」みたいな発言も載っていて、「ウーム」と思ってしまいました。
もっとも、「住みにくいから面白い東京」という編集委員による座談会のタイトルから、うかがえるように、“東京の様々な歪《ゆが》みが、かえって良さなのだ”みたいなノリが、ちと、気にかかります。“過去に目をつむって”日本学を確立せんとする宰相と京都学派の皆さまと、ある種、通じる美学があるように思えるからです。
《・1・31》
麻布《あざぶ》十番のマハラジャの客は夜十二時すぎると、
隣にオープンした支店イーストへゾロゾロ。
今週は、知らない人はそのネーミングからインド料理店かと間違えるマハラジャを中心とした昨今のディスコ情報をお伝えいたしましょう。まずは、そのマハラジャ。陸の孤島、麻布十番に登場したのは一昨年の一一月のことでありました。
地下鉄六本木の駅から徒歩一〇分以上もかかるロケーションにありながら、多くの若者を集めたのには、幾つかの理由がありました。まずは、交通の便が悪い西麻布近辺のお店に、かえって若者が集まるようになったのと同じ理由からです。
車を使わないで来るには不便な場所だから、渋谷や六本木と違って誰《だれ》もが気軽にやって来れるわけではなく、したがって、ある種、訪れる人々が自分たちと同じように限られているので落ち着ける。こうした選民意識が西麻布へと一時期、人々を集めました。最近の白金人気も同じことです。
鳥居坂下から新一ノ橋へと続く広い道路沿いにあるマハラジャは、従来の六本木のディスコと違って店の前まで車で乗りつけて、路上駐車をしておくことを可能としました。
BMWを持っていることを何気《なにげ》で自慢したいと思っている少年、あるいは、窓にフィルムを貼《は》った黒いベンツをこよなく愛する芸能関係や夜のお仕事関係、ちょっぴり怖いお仕事関係の人々にとっては、快感です。ドアボーイも立っていて、車を移動してくれます。
が、それだけの理由では、あの広い店内を人々で一杯にすることなど出来ません。車で来る人ばかりを相手にするだけでも十分に採算の合う規模のカフェ・レストランではないのですから。では、この他《ほか》の理由には、どんなものがあるでしょう。
従業員が気取りのないハンサムな少年たちである。これは、かわいい女性客を集める上での大事な問題です。今のところ、日本一の照明、内装ではないかと業界では言われているのに、なぜか、今イチ、お客がサラリーマンとOLの仕様もない集団と化している、六本木に新しく出来たディスコ、エリアの場合も、マハラジャ並みの従業員を揃《そろ》えれば、もう少し健闘出来たかもしれません。
女の子二人でディスコへやって来ているのを見て、男の子を捜しに来ているのだろうと判断するのは間違っています。それがかわいらしい女の子の場合は特にです。もちろん、そうした気持ちがまるっきりないと言えばウソでしょうけれど、ただ単に踊りに来ただけ、ディスコの雰囲気《ふんいき》を楽しみに来ただけ、というケースが多いのです。
この場合に、気取りのないハンサムな従業員の多いことは威力を発揮します。別段、従業員とベッドを共にしてみたいと思うわけではなくとも、テーブルについている時に親しく話の出来る従業員がいたらなあ、と彼女たちは考えるわけです。それは、常連っぽく見られることです。仕様もない男のお客から声をかけられるのを防ぐことになるのです。
そうして、彼女たちは、いつでも女の子同士でやって来ているわけでもありません。元々、モテるわけですから、次回は男の子と一緒かも知れません。その場合にはその場合で、また多少違った感じで親しくお話してくれる気転の利《き》く従業員は、より一層、彼女たちから好感を持たれます。
マハラジャ開店前に勤めていたディスコで、こうした、メジャーに遊んでいる女の子たちと数多く知り合いだった従業員が多かったことも成功のひとつでした。彼らがいるから、彼女たちはマハラジャへやって来ます。銀座のホステスが店を移ると、お客も移るのと同じことです。
そうして、店側もメジャーな女の子たちを一番目立つテーブルに坐《すわ》らせて、華やいだ店内の雰囲気を作り出すものですから、いかにも、ファッショナブルで流行《はや》ってる感じを与えます。こうしたウワサを伝え聞いて、今度は、メジャーに遊べるようになりたいと思っている予備軍の女の子たちもやって来るようになって、ますます、店内は華やいだ雰囲気です。男性客は、もうこうなると、黙っていてもワンサカ押しかけて来てくれます。
『日経流通新聞』あたりが訳知り顔に書く、ドリンクだけでなく、フード・メニューを充実させて、ただ踊るためだけの空間ではなく、くつろいで会話も出来るラウンジ感覚を持たせたことも、なるほどマハラジャの成功要因のひとつではありましょう。でも、こうした具体的に目に見える部分だけでなく、人と人のつながりというサル山のノミ取り的体質の有無も、結構、大事なのです。
さて、このマハラジャの成功に気を良くして、マハラジャ・ウエスト、マハラジャ・イーストが去年の暮れにオープンしました。マハラジャ・ウエストは、六本木交差点から六本木通りを溜池《ためいけ》方向に進行した左手。その昔、メビウスという名の一世を風靡《ふうび》したディスコがあった場所です。が、マハラジャ本店の小型版です。とりわけ、どうってことはありません。
おもしろいのは、本店横に出来たイーストの方でしょう。ディスコという区分けが風営法にないため、キャバレー営業としての許可をもらって営業することになるディスコの場合、ですから、本来、一二時で店を閉めなくてはいけないのです。大人気のせいか、警察から目をつけられているマハラジャの場合、しばしば、時間外営業が摘発されて、営業停止になっています。これ以上続くと、営業取り消しにもなりかねません。
そこで、イーストをオープンさせたのです。本店の半分以下の広さのイーストは、キャバレー営業の許可はありません。単なるレストランとしての保健所への届け出だけです。踊れるだけの広さのフロアは、もちろん、あります。が、店側の建前としての説明は、「お客様が、勝手に踊っているだけです。こちらとしては、ディスコとして考えているわけではありませんので」、これです。
こうして、夜一二時を過ぎても、まだ遊び足りないと思ったマハラジャのお客は、健全に営業時間を守る本店からゾロゾロゾロ、隣のビルにあるイーストへ移って、明け方まで楽しむわけです。ちなみに、警察のイーストに対するご指導は、今のところ、まだありません。
《・2・7》
アメリカ車は本当に「燃費が悪くて、
故障が多くて、図体だけ大きい」のだろうか?
その昔、キャデラックの広告には、Joy of livingというコピーが入っていました。背中がパックリと開いたイブニング・ドレスの女性と、ブラック・タイの男性が車から下りてくるシーンのポスターに、このキャッチ・コピーが付いていたのです。
ニューヨークの、たとえば、ザ・ウォルドルフ・アストリアやピエールといったホテルの車寄せにキャデラックで乗り付けて、慇懃《いんぎん》にドアを開けてくれたドア・ボーイに後は車の移動を任せる。詳しい説明を加えるならば、こうしたシチュエーションです。
多分、ポスターの中の二人は、これから、パーティー、もしくは豪華なディナーを楽しむのでしょう。それは、まさに“アメリカン・ドリーム”でありました。
ところで、しばしば、日本では、今でもキャデラックに乗っているアメリカ人と、クラウンの最上級車に乗っている日本人には、選択の際、ある種、共通した心理が働いているのではないだろうか、と間違って考えられています。
クラウンの最上級車に乗っている人たちの中には、自分で商売を営んでいる人が、かなりの数、いることでしょう。そうして、この中には、たとえば、このところ大人気のベンツやBMWの上級シリーズ車を、心理的サイフの上で、それほどの苦痛を伴わずに手に入れることの出来る人たちが、これまた、かなりの数、いることでしょう。
けれども、彼らは相変わらず、クラウンを選択します。そこには、外車は左ハンドルで運転しにくいからね、国産車の方が故障が少ないからね、といった理由が、まず、あります。
実際に、外車を運転してみたならば、むしろ、大きな車の場合には左ハンドルである方が、会社役員も多く住む鎌倉《かまくら》あたりの狭い道で擦れ違う場合、路肩《ろかた》ギリギリまで寄れるので便利であることや、左折時に自転車や歩行者を巻き込む可能性が著しく減ることに気づくでしょう。
右側通行のイタリアでは、こうした現実的観点から、大型トラックには右ハンドルの車が結構、あります。そうして、また、八三年以降に作られた外車は、あのイギリス車でも故障が極めて少なくなっていることにも気づくでしょう。アメリカ車の場合は、なおのことです。
相変わらず、クラウンを選択する理由は、ですから、もっと別なところにあります。ベンツなんぞに乗ってしまうと、「景気がよろしいみたいで」と、取引先の銀行や支店長や同業他社の社長に言われそうで怖い。案外、このあたりなのです。
最上級のクラウンは、結構、いいお値段です。4ドア・ハードトップのロイヤルサルーンG3000CCなる代物《しろもの》は、四〇八万九千円です。彼らは、外見的には、2000CCのクラウンと変わらない、このクラスの国産車を二年に一回、買い替えることで、「堅実ですね」と他人に思わせ、けれども、自分自身としては、「車検より一年も前に買い替えてるんだ」と心の中で満足出来る状況を作り出しているのです。いかにも、日本らしい選択です。
アメリカで、キャデラックに乗る人たちは違います。他人の目や評価を気にして、キャデラックを選択しているわけではありません。彼らには、唯一《ゆいいつ》の戦勝国であり、農業も工業も世界一だったアメリカが、これまた、世界で一番最初にエアコンを取り付けて走らせたキャデラックを、今でも誇りに感じているのです。
今のキャデラックの広告には、趣味のいいビジネス・スーツを着た30代前半の男性と、デザイナーズ・ブランドっぽいスーツを着たお利口そうな20代後半の女性が登場しています。日本では、なぜか、かるーいニュアンスとなってしまったけれども、アメリカでは、ヤング・エスタブリッシュメントという意味合いで捉《とら》えられているヤッピー、あるいはその卒業生にターゲットを合わせているのです。
ところで、『週刊朝日』2月7日号は、「米国車よ、サヨウナラ! 西独車〈ベンツ・BMW〉に追われ、ついに〈ムスタング〉も輸入打ち切り」という特集記事を掲載しました。正規代理店によるムスタングの輸入が中止されることを報じるこの記事は、同時にベンツ、BMWといった西ドイツ車が人気を集めていることも紹介しています。
なぜにベンツやBMWが日本で売れるようになったかについては、いずれ、別の機会に述べなくてはと思いますが、五四年には一万六七〇〇台売れていたアメリカ車が、去年は一八一六台、一方、西ドイツ車は去年、四万台も売れているのです。明らかに違います。
これには、幾つかの理由があります。が、最大の理由は、「燃費が悪くて、故障が多くて、図体だけ大きい」イメージがアメリカ車にまとわりついてしまったのに対して、西ドイツ車には、「故障が少なく、乗り心地が良い」というイメージが出来上がったせいでしょう。
そうしてもうひとつ、アメリカ車をお手本として来た日本車メーカーが、いつの間にか、欧州車、中でも西ドイツ車を目標とするようになってしまった。これも、エンドユーザーたちのアメリカ車に対する認識を変えてしまった大きな理由のひとつでしょう。
では、アメリカ車は、今でも本当に、「燃費が悪くて、故障が多くて、図体だけ大きい」のでしょうか。いいえ、決して、そんなことはありません。九四五万円のキャデラック・フリートウッド・エレガンスは、実に快適な車です。故障も少なく、運転もしやすく、室内も広々としています。
BMWの745iは一一四八万円、ベンツの560SELに至っては一五九五万円もすることを考えると、実にお買い得です。アメリカでは、ベンツに乗る人は、たとえば、フジTVの社長や久米宏氏のようなニュースキャスターと考えられています。そうして、キャデラックに乗る人は、たとえば、三井物産の社長と考えられています。が、日本では、所ジョージ氏のような人がアメリカ車に乗るイメージとなってしまいました。
このイメージを変えれば、では、アメリカ車は再び日本で売れるようになるのでしょうか?
《・2・14》
南ア製右ハンドルのBMW320iAが大人気。
ドイツ車は“スカイライン化”しつつある。
ここ二、三週間のうちに、右ハンドルのBMW320iAが、やたらと目につくようになるかも知れません。並行輸入業者が一〇社合同で五〇〇台のBMW320iA右ハンドル仕様車を仕入れて来たからです。正規ディーラーのBMWジャパンが販売する318iと、ほぼ同車格の320iAは、即日、五〇〇台が売り切れの人気でありました。
BMWジャパンが三九五万円で販売する318iと、さほど変わりのない価格の三九〇万円する320iAを、メインテナンス・サービスがしっかりしているわけでもない並行輸入業者から多くの若者が買い求めるのは、一種の謎《なぞ》です。
が、謎は、まだ他《ほか》にもあります、それは、この320iA右ハンドル仕様車が南アフリカ共和国で生産された代物《しろもの》であることです。日本の自動車メーカーのように、国連の言いつけをちゃあんと守って、現地での生産は現地資本でね、で、日本から持っていくのはエンジンの類《たぐい》のみ、だから利益はそこそこ、といった優等生ぶりを発揮してみたところで仕方ないじゃねえかよお、と勤勉なドイツ人は前々から考えてたのか、BMWもメルセデス・ベンツも、国連が経済制裁を決議する以前から南アに進出しているドイツ資本の工場を、今までと同じ状態にして利益を上げています。
ま、それはともかく、左側通行の国、南アフリカ共和国製の右ハンドルBMWを、日本の若者が競い合ってローンで買い求める。いやはや、なんとも平和な光景です。
四月には三〇歳になるというのに、未《いま》だにブランド少年やってる僕《ぼく》としては、どうせなら、西ドイツ製の左ハンドル車を正規ディーラーから購入すればいいのにと考えてしまいます。けれども、そんなことはあまり関係ないようなのです。前回、述べた、日本で左ハンドル車に乗ることの実質的効用など考えたこともないようなジャンルの少年たちが、BMWのユーザーになろうとしているのです。
ソアラは、やたらと値段が高いのに、なぜか老若《ろうにやく》男女が全国津々浦々で乗っていて、おまけに、すぐにモデル・チェンジもするからなあ、と考える、従来、新車発表会の日には必ず国産車のディーラーへ足を運んでいたような少年たちが、BMWへ目を向けるようになった。こういうわけなのです。
ソアラを買うのなら、BMWを買った方が、今、付き合っている東京スクール・オブ・ビジネスのガールフレンドとは、「キャッ、ステキ」ってなことで安泰、安泰だろうし、それに、たとえば、男同士二人でマハラジャへ出かけた時に、BMWのロゴマーク入りキーホルダーをテーブルの上にチョンと置いておけば、目白女子短大や戸板女子短大のレイヤード少女はもちろんのこと、上手《うま》くいけば、川村女子短大のワンレングス少女だって、ヒョコヒョコとくっついてくるかも知れない。少年たちの夢はふくらみます。だから、ディーラー車より五万円安い、右ハンドルのBMWを俺《おれ》も一台。これであります。
その昔、BMWのイメージを、しばしば、僕は次のように述べていました。「お父さんは、地方にある国立の医学部を卒業した後、勤務医を経て開業。七年前に製造のスウェーデンのボルボに乗っている。けれども、息子の方は、二浪して私立の聖マリアンナ医科大や埼玉医科大に四千万円の効果が実って、目出たく御入学。通学用にとBMWの3シリーズ(318i等)を買ってもらう」。『ポパイ』あたりに書くと、結構、受けた発言でありました。
けれども、今や、そのBMWは、聖マリアンナ医科大の少年とは、その親の経済状況や社会的地位が比べものにならないくらいにかけ離れた少年たちも乗り回すようになってきているのです。ソアラ、スカイライン化しつつあるのです。
日本での売り上げが急増しているBMWの悩みは、実はそこにあります。“6シリーズ(635CSi等)、7シリーズ(745i等)といった一千万円前後の車を行動派のエグゼクティヴたちよ、ぜひ、社用車として”みたいな内容の広告をクラス・マガジンに出稿しているのは、そのためです。
技術的にもメルセデスやアウディに大きく遅れをとり、また、デザイン的にも古いとされて、本国、西ドイツでは売り上げシェアをガクン、ガクンと落としているBMWの現状をも合わせて考えると、あせりはなおさらです。
こうした状況が現れてくる前から、BMWが3シリーズ車だけのイメージになっていくことを懸念《けねん》して、「3シリーズ車は、若者たちのアイドル、西武セゾン・グループの西武自動車にディーリングを移す。BMWジャパンは、5シリーズ(518i等)以上のみを販売する。そうして、今まで、西武自動車が扱っていたサーブ、シトロエン、プジョーは、そのイメージをアップするために、東急と阪急が合同でディーラーを新設する。これが、それぞれの将来にとっての幸せである」と述べてもいた僕としては、「ほら、ごらんなさい」という感じです。
けれども、似たようなことはメルセデス・ベンツについても言えるのです。昨年、マハラジャのVIPルームでくつろぐ、ヤの字のお兄さんたちは、そのほとんどが、窓にフィルムを貼《は》って中を見えにくくした黒塗りのメルセデスです。あるいは、功成り名遂げた演歌歌手のみなさんも、これまた、昨今は自動車電話付きのメルセデスです。
こうしたドイツ車の状況を横目で見ながら、乗り心地が良くて運転がしやすい最近のアメリカ車を、真剣、購入しようかとも考えている僕としては、オピニオン・リーダーならぬ、日本における消費のフレーバー・リーダー、テイスト・リーダーたちにGMあたりが無料でビュイックやキャデラックを与えたら、少しはイメージが変わるのでは、とも思います。
が、BMWやメルセデス・ベンツの裾野《すその》が、いくら広がったとはいっても、昔のムスタング人気のように盛り上がることはないのと同様、ドッヂボールの円がひとつひとつ小さくなっている今という時代ではあまり効果を期待出来ないのかもしれません。
《・2・21》
ご存知《ぞんじ》ですか? 学習院女子高等科で歌う
プリンス・ヒロのパパご誕生のお歌、
皇后陛下のお歌。
突然、このようなお便り、差し上げますこと、お許し下さい。「ファディッシュ考現学」は、いつも楽しく読ませていただいております。特に、“インゲボルグ少女”なんて言葉が出てまいりますと、つい、一人でクスクス、笑ってしまいます。
田中先生(もしも、こうした呼ばれ方が、あまりお好きでないようでしたら、ご免なさい)ならではの感覚で、そこが、なんとも気に入っちゃいますね。(リラックスした言い方になってしまいました。ご免なさい)
でも、金子功さんデザインの、ビギが出している、似非《えせ》シャネル風スーツを主体とするインゲボルグよりも、最近では、島田順子さんがデザインしているJunko Shimadaの方が、たとえば玉川大学あたりの女の子の間では、人気みたいですわ。ご存知のように、傾向としては似ているんですけれど、ほら、インゲボルグよりも多少、大人っぽいイメージがあって、そこがいいみたい。
実は、今日、お便りを差し上げましたのは、こうしたお洋服についてお伝えしようと思ったからではございません。学習院女子高等科について、知っていただけたらと思いまして、それで筆を取ったのです。
一学年が二四〇名でございます。高等科から入ってまいります方たちは、そのうち四〇名です。場所は、ご存知のように、新宿区戸山。都立戸山高校の横でございます。
ぶ厚い歌集があるのは、ご存知でらっしゃいますでしょうか? 現在の皇太子殿下がお生まれになられた時のお歌、初等科にお入りになられた時のお歌、皇后陛下のお作りになられたお歌等々、それはそれは、ものすごい数でございます。
もちろん、四番まであります学習院歌も載っております。入学式や卒業式の時には、院歌の他《ほか》に、この歌集に載っております皇室関係のお歌を六曲くらい歌うのです。
貞明皇后がお作りになられたお歌は、いつでも必ずでございます。 玉の光も磨《みが》かずば……。大学を卒業いたしました今でも、きちんと歌えますわ。
女子中等科からの生徒は、中一の時に、女子高等科からの生徒は、高一の時に、歌の特訓がありますの。放課後、歌って歌って覚えるんですわ。
「君が代二唱」というのもございます。「君が代斉唱《せいしよう》」ではございません。式の時には、必ず、二唱です。
大学の方は、院歌のみですから、やはり、付属ならではの行事でございます。もちろん、生徒たちは何の抵抗もなく歌っておりますわ。むしろ、張り切って歌っているのではないかしら。運動会の時には、伴奏なしでグラウンドで歌うのです。体育委員長が、一人で、まず、 立ち上がれ、新学習院。と大きな声で歌ってから、「ハイ」と言いますの。すると、全校生徒で合唱です。
中一と高一の時には、多摩御陵へ参拝に出かけます。この日にも、歌集に載っております皇室の歌を何曲も歌うのでございます。
皇后陛下のお誕生日は、学校がお休みでございます。ちょうど、試験期間中にあたりますの。学級委員のような存在の総務委員というのが各クラスにおりますが、その代表者数名は皇居まで出かけまして、記帳してまいります。
ご興味、おありになりますか、こういう話題? 体育の授業は、三つに分かれておりますの。ダンス、プール、球技。この三つでございます。ダンスは、創作ダンスです。社交ダンスは、残念ながら習いませんでした。プールは、室内プールがございますので、一年中。球技は、ソフトボール、バレーボール、テニス、バドミントンと様々。以上、三つの授業がございます。
陸上競技は、いたしませんの。毎年四月に体力測定がございますが、その時に一〇〇メートル走の時間を測るだけです。ハードルというものを、ですから、私は越えたことがありません。
お昼は、お弁当でございます。外のお店へ行って、何か買ってくるなどといったことは、許されておりません。けれども、キムラヤのパンは売っております。カレーパンやクリームパン。もちろん、アンパンもございます。
パンを入れる白い袋に名まえを書いて予約するのですが、この白い袋を入れる籠《かご》が、温泉の脱衣籠みたいですの。おかしいですわ。ほとんど全員が牛乳をお弁当と一緒に飲むものですから、各クラスに交代で牛乳当番がおりまして、その生徒がパンも取ってまいります。それから、校内には飲み物の自動販売機はございません。
蓁々《しんしん》会と呼ばれる売店もございます。学習院のマークが印刷されたノートなどを販売しております。女子ばかりの学校ですから、生理用のナプキンやタンポンも売っております。けれども、箱ごと、白い紙に包んで、しかも、なるべく見えにくい場所にひっそりと置いてあります。
高一の時には、八幡平《はちまんたい》へ参ります。全員が紺のスラックスと白のワイシャツを着て、それはそれは異様な光景でございます。高三の時には、サイクリングの日がございます。世田谷区の砧《きぬた》ファミリーパークへ出かけて、一日中、ギーコギーコと貸し自転車をこぐのでございます。
この時にも、紺のスラックスと白のワイシャツです。わざわざ、二回だけの行事のために、作らなくてはいけないのです。如何《いかが》でございますか、学習院女子の話は。初めてお聞きになること、多ございました?
もうひとつ、皇太子殿下のお子様がいらっしゃる学年は、おもしろい体験が出来ますのよ。遠足のバスの中にも、私服の護衛官が乗られますの。そうして、その学年だけは、遠足のバスはノンストップでございます。信号が全部、青になってしまうからですわ。到着時間が狂うことなど、ですから、ございません。
たしか、田中先生は皇太子殿下、天皇陛下といった表記はお嫌《きら》いで、プリンス・ヒロのパパ、おじいちゃんといった逃げ方をされますわよね。でも、皇室の話題にご関心がないわけではございませんでしょ。次にお便りを書きます時には、そうした話題をお知らせいたしましょう。では、ごきげんよう。
《・2・28》
今度は電話が来ました。「僕《ぼく》の妹は皇族と付き
合ってたんだ。宮邸に泊まったこともあるみたい」。
先日、僕の妹が突然、手紙を出しちゃったみたいで、いやあ、失礼、失礼。えっ、なあに? おもしろかった、内容が? ならいいんだけれど。そうなんだ、ぶ厚い歌集があるんだ。えっ、貞明皇后の? いや、知らない。
ひどいな、あいつも。間違えているんだ。それは、昭憲皇太后がお作りになった、 金剛石もみかかすは 珠のひかりはそはさらむ……の歌でしょう。困った卒業生だね。ちゃあんと、僕は歌も知っているよ。同じ学年には皇族がいたからね。一応、御学友さ。
彼のことは、ニックネームで呼んでいたよ。えっ? ああ、君がプリンス・ヒロと呼んでる方の場合は、宮って呼んでる。もちろん、彼とクラスメイトじゃないよ。東宮御所のある元赤坂の御用地には他《ほか》の宮家も住んでいるだろ? あるいは、都内の他の場所にもね。年齢を考えてみてくれよ、僕の。ハハハ、もう、二児の父親だ。
御用地の宮邸には、しょっちゅう遊びに行っていたよ。そりゃ、そうさ、僕より年下のプリンス・ヒロの御学友だって東宮御所に遊びに行くよ。彼の母親の方針で、むしろ、積極的に、って感じじゃないかな。ただし、同じクラスの生徒を、公平に順番に、だろうね。
初等科の頃《ころ》は、母親のつきそいが必要だ。小さな一室に通されて、子供たちが遊んでいる間、コーヒー一杯、出されるだけ。でも、子供たちにとってはね、楽しみのひとつだよ。そりゃ、楽しいよ。動物が沢山いるんだ。下手な動物園より盛り上がる。
御用地の中は、夏でもヒンヤリしてる。樹木が多いからね。青山通りに立っているより、二、三度は低い気がする。そうそう、後、桜並木がステキなんだ。青山通りと並行して、御用地の中には一本、道があるんだけれど、春先には桜のトンネル。なあに、桜の宮だって? 好きだねえ、田中も。ビデオの見過ぎだ。
実はね、僕の妹は皇族の一人と付き合ってた時期があるんだ。結構、長い間ね。ああ、ウチに泊まっていったこともあるよ。彼には一応、私服の皇宮警察官がガードマン役で、ついてくる。そうだよ、デートの時もずうっとだ。
どうなのかな。一緒の席に着く場合もあるだろうし、店の外でジッと待っている場合もあるだろうな。よく、ウチの玄関先で聞いていたよ。「明朝は何時にお迎えにあがりましょう?」
すると、彼は答える。「九時に来ておくれ」。もちろん、ちゃあんと九時前からウチの前に立っている。「来なくても大丈夫」と言われれば、来ないしね。
二人で、奈良とか金沢とか、旅行に行ったこともあったよ。僕らが見れないような場所も見学出来ちゃうらしいんだ。いや、各地に皇室のお世話をするのが大好きな人たちが、必ずいるものだよ。車で色んなところを案内してくれるんだって、妹は言っていた。宿? そういう経営者にも、ファンがいるだろうね。
御用地の中の彼のおウチにね、泊まったこともあるみたいだ。外界というか、外から出入りする門は三カ所。妹は、外苑《がいえん》東通り沿いの門を利用することが多かったよ。もちろん、入り口に警官が立っている。けれども、あらかじめ、彼の方から連絡が入っていれば、名まえを告げるだけで、中へ入れてくれる。連絡が入ってないと、ジーコジーコと電話をしてね、「ムニャムニャさんという方がお見えですが?」「はあい」って感じで彼がOK出してくれると、入れるんだ。
ああ、大抵は彼が門のところまで迎えに来てくれたみたいだよ。なにせ、門から歩いて一〇分以上もかかるからね。車でブーン、ってこともあったみたいだ。
でもね、彼の父親は、ほら、研究機関に勤めていらっしゃるんだけれど、毎日、青山一丁目から地下鉄を使って通っておられる。本当だよ。ウソじゃないよ。うん、そうなんだ。意外だろ。雨の日も風の日も、なあんて言っちゃうと格好いいけれど、地味なものだよ。定期券を持っていらしてね。
皇宮警察の方では、もちろん、「殿下、お車をお使い下さい」と申し上げてるんだろうけれど、いつでも、地下鉄。私服が一緒についてくるのも、お好きではないみたいで、いつでも、お一人だ。うん、門のところから地下鉄の入り口までは、テクテクと徒歩でいらっしゃる。
きっと、秘《ひそ》かに私服が同行しているとは思うんだけれどね。でも、我々が電車に乗るのと同じだよ。もちろん、息子たちは学習院時代も電車で通っていたからさ。そうだよ、ごくごく普通だよ。しっかと、ガードされて学校まで来るのは、プリンス・ヒロ君の兄弟だけなんだ。
一人で電車に乗っていれば、イギリスのアンドリュー王子の恋人がヌードで載ってる写真雑誌の中吊《なかづ》り広告を見ることもあるし、あるいは若いサラリーマンが横で皇室の悪口を言っているのが耳に入ることもあるさ。
生活だって、ラグジャリーからは程遠いよ。ウソじゃないよ、本当なんだから。でも、そうしたことばっかり言ってると、なんだか、フジテレビの番組みたいになりそうだな。続きはまた今度ということにして、そうだなあ、プリンス・ヒロ君のママの話でもしようか。
昔、僕が女の子を二人連れて行って、御用地の中のテニスコートで四人、テニスをしたことがあるんだ。ちょうど、美智子さんが通りかかってね、女の子二人が「今日は」って緊張しながら申し上げた。
彼女は、「学校は学習院でらっしゃいますか」とお聞きになったんだ。「いいえ、私たち、成城大学なんです」、レイヤード全盛の頃だったから、髪の毛を手で押さえながら一人の彼女が答えたのかな。そうしたら、「あら、そうですか」って、なんだか、ホッとされたような感じで、笑みを浮かべられてね。それが、すごく印象に残ってるよ。
《・3・7》
「皇族はつつましくて、デートも割り勘。
人間、無名でベンツ持つ余裕あるのが一番だね」。
弱っちゃうな、田中。すぐに文章にされちゃうのは。僕《ぼく》の妹も、今ではごくごく普通の相手と結婚して、まるで何もなかったかのように静かな毎日を送ってるんだから。ちゃあんと、その辺のところ、考えてくれなくちゃ。
でもね、まあ、別にいいんだ。怒ってなんかいないよ。喋《しやべ》っちゃったのは、この僕だからね。ただ、皇室の人たちも我々と変わりのない生活してることを、もう少し伝えておこうと思って。再び、電話をしたのは、そのせいだよ。今、平気かい?
日曜日になると、料理人のオジさんがお休みを取っちゃうんだ。えっ、どうするのかって? そりゃ、自分たちで作るしかないよ。中等科の頃《ころ》、日曜日に宮邸に遊びに行ったら、ホットケーキが出てきたことがあったんだ。「ヘエーッ、宮家特製のホットケーキだあ」って僕が大きな声を上げたら、ほら、その家の住人だったクラスメイトがね、「うん、これぞ本物の宮家特製だよ。だって、母親が作ったんだもの」って言うんだよ。あれには、びっくりしたなあ。味? 結構、おいしかったよ。
最近じゃあ、料理人が住み込みではなくて通いらしい。だから、夜になると街中にある自分の家に帰っちゃう。それで、おかしな話なんだけれど、夜中に僕の妹が焼きそばを作って、彼と彼の両親に食べていただいたこともあったらしいよ。
本当の話なんだから。毎日、豪華なフランス料理や懐石料理、食べてるわけじゃないんだ。おでんの日もあれば、カレーライスが夕食のこともある。ちょっぴり、意外だろ。東宮様の所は、僕、知らないけれど、他《ほか》の宮家は、みいんな、つつましい生活だよ。
ほら、なんだっけ。田中が好きなワーズワースの言葉。そうそう、"Plain living, High thinking" っての。まさに、その世界だな、という気がする。妹が付き合ってた彼の父親が特にそんな感じだったせいだからなのかもしれないけれど。
地下鉄に乗って研究機関まで通っておられるのは、この間、話したよね。ある時、妹が青山一丁目で地下鉄を下りて、外苑東通り沿いの門の方へとテクテク歩いていたんだって。そうしたら、自分の少し前を歩いてるオジさんも同じように門の中へと入って行く。
誰《だれ》だろうな、と思いながら、彼が車で迎えに来てくれるのを待っていたんだ。助手席にチョコンと坐《すわ》って、御用地の中の例の桜並木を彼のオンボロ車がブーン。途中で、テクテク歩いてるオジさんに追いついた。と、彼は窓を開けて、「やあ」と声をかけた。うつむき加減だったオジさんも「おお」と、顔を上げながら答えた。父親だったんだね。
なあに? どうして、妹は別の男性と結婚したのかって? そりゃ、そうだよ。とても、結婚させるだけの財力がないよ、我が家には。えっ? 国からお金がもらえて、嫁入り準備が出来るんだろって。甘いんだな認識が、田中は。やっぱり、三多摩地区のイモツバシ大学出身だ。
冗談でも何でもなく、我が家の全財産をつぎ込まなきゃいけなくなるよ。そうだなあ、ゼロが八個ぐらい、平気でついちゃう金額だよ。しがない会社経営者のウチのオヤジにそんな余裕、あるわきゃないじゃないか。だろ?
結婚したらしたで、また、大変だよ。一カ月の生活費が、二人で一六〇万円くらいだもの、国から。いや、ちょっと、冷静に聞いて欲しいな。一六〇万円の中で、料理人、運転手の給料も払わなくちゃいけないんだ。お客様が来た時にお出しする料理の材料も、それに、食器を揃《そろ》えるお金も、すべて。
結構、大変、なんてものじゃないよ。信じられないくらいのつつましさになっちゃうの、無理もないよ。わかるだろ。だから、嫁いだ後もパーティー用のドレスを作るお金だのなんだのって、毎月、えらい額の仕送りを親としては続けなきゃ、娘が苦労することになるというわけさ。わかったかい。
それで、妹が付き合ってた頃も、デートは割り勘が多かったみたいだね。それも、安いところばっかり。『ポパイ』に出ているような気の利《き》いた店で食事をしたこと、まず、ないんじゃないかな。妹が払うことも多かったみたいだね。
ほら、当時、妹はスチュワーデスをやっていたから、独身時代の彼が国からもらうお金よりも、はるかに収入が多かったんだよ。でも、いつでも、妹が払ってたんじゃ、彼だって男としての面子《メンツ》が丸つぶれだものね。そこで、女官に頼んで前借りしていたみたいだよ。あるいは、母親に言ったりとかね。
ねっ、皇族として生まれた人間は、本当に大変だろ。僕、真剣、同情しちゃうよ。パーティーだのコンサートだのも、我々はたまに行くから楽しめるんであって、毎日毎日、オブリゲーションで御臨席ってのは、苦痛だと思うなあ。
付き合う相手だって、慎重に選ばないといけないもの。我々みたいに、友だちに紹介された女の子と初めてデートした日にペロペロちゃんグリグリちゃんまで、なんてこと、怖くて出来ないよ。妹と付き合うようになるまでだって、大分、迷ったらしい。
学習院って、大学の学園祭の最終日、血洗いの池と呼ばれる池のまわりで、みいんな、ペロペロちゃんしちゃうんだよね。知ってるだろ。それも、普段、付き合ってる者同士じゃなくて、たとえば、同じ体育会のクラブ員同士が、たまたま、気分が乗るとペロペロちゃんしちゃうんだ。
中には、ホテルへ行ってグリグリちゃんしちゃう連中もいる。でも、それは学園祭の時だけで、翌週になると、お互い、それまでのステディと元通り、付き合ってるんだ。農耕社会のお祭りみたいだね。僕も学生時代、その行事の恩恵を随分と受けたんだけれど、でも考えてみると、皇族たちは決して参加しなかったね。
だから、僕、思うんだよ。マスメディアの上では無名で、けれども、余裕もってベンツ一台買えるくらいの収入はある、ってのが、人間、一番幸せなんじゃないかってね。なにしたって、後ろ指、差されるわけじゃないし。田中も、これは同感だろ?
《・3・14》
聖心と本女《ぽんじよ》の偏差値は同程度なのに、
出身高校を見るとスクール・カラーの差は歴然。
ご存知《ぞんじ》、新聞社系週刊誌の売れ行きがグワーンと伸びる時期を迎えております。「大学合格者高校別一覧」なる企画が掲載されているからでございます。「『朝日ジャーナル』とは違って、近頃《ちかごろ》、読み終わるまでに、たったの五分もかからない兄弟雑誌になったねえ」とお嘆きの諸兄も、この企画にだけは、ジーッと注目であります。
もっとも、日頃、「すべての生徒、学生が、生き生きとした眼《め》をして机に向かうことの出来る、格差のない学校教育を」なあんて社説を掲げている本紙への手前、各誌とも「学校のランキング化を助長するわけでは決してない。読者の方々も、その点はわかって下さることと信じる」みたいな編集長のアポロジャイズが載ったりはするわけですが。
ま、それはともかく、こうした「大学合格者高校別一覧」を見ていると、ある種のことに気がつきます。それは、ミッション系女子大と非ミッション系女子大では、それぞれの上位に登場する高校に大きな違いが見られるという点であります。
聖心女子大と日本女子大を例に挙げてみます。聖心女子大とは違って、学科別に募集を行う日本女子大の場合、河合塾《じゆく》の資料によると難易ランク3、偏差値60・0〜62・4の英文学科から、難易ランク8、偏差値47・5〜49・9の家政経済学科に至るまで幅があるのですが、それでも、多くの学科は難易ランク5、偏差値55・0〜57・4の聖心女子大と、ほぼ同じ難易度であります。
まずは、聖心女子大の方から見てみましょう。浦和明の星女子の二四名をトップに、女子学院、光塩女子、田園調布雙葉《ふたば》、横浜雙葉、清泉女学院、雙葉、晃華《こうか》学園とミッション系女子高が続きます。ようやっと、九番目に県立船橋が登場してはいるものの、その後も湘南白百合《しようなんしらゆり》学園、白百合学園、頌栄《しようえい》女子、聖ドミニコ学園、東洋英和、立教女学院といったミッション系女子高の名まえばかりが目につきます。
もちろん、一口にミッション系女子高とはいっても、浦和明の星女子や高円寺にある光塩女子のように地味めな少女の多いところもあれば、四谷の雙葉とは違って制服がトッポいこともあってか、かわいらしく見える子の率が高い田園調布雙葉、同様に制服らしからぬ制服が人気を呼んでいる調布の晃華学園、高輪台の頌栄女子、二子玉川の聖ドミニコ学園と、その雰囲気《ふんいき》は様々ではあります。が、白金三光町の聖心女学院高等科、ワンレングス少女が多い宝塚市の小林《おばやし》聖心、裾野《すその》市にある不二聖心、札幌聖心といった姉妹校からの進学者の数も考えると、圧倒的にミッション系女子高校出身者が多いという事実だけは否定出来ません。
日本女子大の方を見てみましょう。もちろん、こちらも内部進学者がかなりの数いるのですが、七六名の浦和一女をトップに、都立武蔵《むさし》、女子学院、千葉女子、富士、西、川越女子、浦和明の星、青山、国立、戸山。ウーム、ミッション系女子高は二校のみ、で、おまけに、地味な高校名が続きます。件《くだん》の兄弟誌『週刊朝日』によれば、その後に登場する高校も、ミッション系女子高はゼロ。公立の共学校が目につきます。
いや、もちろん、「だからって、何なんだ」と言われれば、「はあ、それだけのことなんですけれどね」と答えるしかないのでしょうが、でも、少なくとも、この違いがそれぞれのスクール・カラーに大きく反映している。このことだけは胸張って言えましょう。
このところ、再びパンチ力が出て来た渡辺プロダクションの美佐女史には二人の娘がおります。母親と同じ日本女子大を下からずうっと上がって卒業しました。が、その交友関係を見ていると、我々が想像していたよりも地味な女の子や男の子が多いことに驚きます。ごくごく普通の家庭の子たちが多いのです。
もちろん、これまた、「じゃあ、聖心へ行ってたら、どういう具合に交友関係が違っていたんだよ」と尋ねられると、「うーんとねえ」、物理や数学ではないものですから、そのイメージの違いを言葉で上手に説明することは困難です。
けれども、たとえば、有栖川宮《ありすがわのみや》記念公園の横にある東京ローンテニスクラブの会員名簿の家族欄を見ていると、妻もその子供も、圧倒的多数が聖心女子学院、聖心女子大の出身、または在学中です。続いて、高校が学習院女子、慶応女子だったというケースが続きます。日本女子大を含めた、その他の学校は、まったくと言っていいほど登場してこないのです。そうして、彼女らの夫や父は、もちろん、大部分が下からずうっと慶応、あるいは学習院です。
早稲田と仲が良いと一般的には思われている日本女子大へ通っていた美佐女史のお嬢さん二人が、もし、ずうっと下から聖心だったら、と僕《ぼく》が述べるのは、こうした点からです。本女では、下からずうっと、という子でも、ごくごく普通のサラリーマン家庭出身者が多いのです。
付属校レベルでのこうした違いの他《ほか》に、大学段階においては、先に述べた大学合格者高校別一覧の違いもプラスされて、ますますオッシャレー度の差が開くこととなります。
そりゃ、そうでしょうに。「頑張《がんば》ってお勉強して、授業料が安い県立浦和一女や都立富士、西へ入りなさい」とお尻《しり》を叩《たた》く家庭の出身者と、「中、高一貫の四谷の雙葉へ入れましょう」、あるいは、「四谷大塚での成績は、女子学院や雙葉へ入れるほど上位ではないけれど、でも、ほら、ミッション系へ入れた方が、なんとなく聞こえもいいじゃない? それで、頌栄女子か聖ドミニコ学園はどうかしら」と妻が夫に相談したような家庭の出身者とでは、そこはかとなく違うものです。
同じ偏差値の大学でも、スクール・カラーが違う。このイメージの違いが、たとえば、慶応の男の子をして、「本女のガールフレンドがいるんだ」と言うのよりも、「一応、聖心にね、いるんだ」と言う方が、胸を張れる、という現象を生んでいるわけです。
《・3・21》
偏差値も知名度も今イチの白百合《しらゆり》に男の子が
コーフン――大学にも“スタイリング化現象”。
大学には全国区と東京地方区の二種類が存在します。共立女子大、実践女子大、日本女子大、大妻女子大といった大学は、全国区です。全国的に知名度が高いせいか、学生も全国各地から集まります。
たとえば、実践女子大の合格者上位高校を見ていくと、磐城《いわき》女子、足利《あしかが》女子、新潟中央、福島女子、市立浜松といった名前が目につきます。前回、聖心女子大との比較で登場した日本女子大の場合は、鶴丸《つるまる》、水戸二、宇都宮女子、前橋女子、浜松北、富山、松山東と、更に全国区の風格です。
では、これに対して、東京地方区の大学には、どんな学校があるでしょう。白百合女子大を、その好例として挙げることが出来るでしょう。合格者上位高校は、ある種、聖心女子大の場合と似通っています。豊島岡《としまがおか》女子、白百合学園、東京女学館、光塩女子、浦和明の星女子、吉祥女子、恵泉女子、田園調布雙葉……。多少、聖心女子大よりもミッション系女子高の率が低くはなるものの、いずれもが首都圏にある私立の女子高です。
では、これらの大学の偏差値は、それぞれ、どのような具合でしょう。またもや、河合塾《じゆく》の資料によります。もちろん、学科によって偏差値の違いが多少はありますが、それでも、ランキングの順番自体は変わりません。ここでは、国文学系で比較してみます。
一番、難易ランクの高いのは、実践女子大です。難易ランク5、偏差値55・0〜57・4。続いて難易ランク7、偏差値50・0〜52・4の大妻女子大と共立女子大。そうして、白百合女子大は難易ランク9、偏差値45・0〜47・4。ちなみに、武蔵《むさし》野《の》女子大は難易ランク8、昭和女子大は難易ランク9です。
けれども、男の子にとってのイメージ上でのランキングは、不思議なことにこれらの中では白百合女子大が一番高いのです。女の子が自分の付き合っている男の子の学校名を友だちに話す場合は、一般的に偏差値の高い学校であればあるほど、自慢気になるのとは、大きく異なります。
この法則が適用されないのは、彼の家がよっぽどの金持ちであるとか、四千万円ほど使って新設私立医大に入学してフェラーリを乗り回している男の子がボーイフレンドであるといった場合のみでしょう。
話を元に戻《もど》しましょう。どうして、多くの男の子たちは「僕《ぼく》の彼女、実践なんだ」と言うより、「一応、白百合なんだけれど」と言った時の方が、胸を張れる気がするのでしょう。
それは、白百合が東京地方区の大学だからです。全国的レベルでの知名度と偏差値の、そのいずれもが低くても、出身者の大部分は東京の、しかも、ミッション系である率が高い私立女子高を卒業している。この事実がオッシャレーな錯覚を抱かせるのです。
ミッション系女子高へ子供を入れる家庭と公立の共学高校へ子供を入れる家庭の違いについては、前回、述べました。こうした点での家庭の考え方の違いは、その子供の雰囲気《ふんいき》にも大きな影響を与えます。ただし、それはどちらの選択が好ましいか、という問題ではなく、ただ単にオッシャレー度が違うというだけのお話でしかないのですが。
けれども、こうした、本来、どうでもいいことにエネルギーを使うのが、最近の傾向です。今までに僕が繰り返し述べて来ているように、寒くて死にそうだから服を着るという、第一義の目的を誰《だれ》もが満たせるようになると、それ以外の、たとえば、肌触《はだざわ》りがいい、デザインが素敵だ、どこそこのデザイナーの服だ、といった、本来、あってもなくても本質には影響のないことに、人間、エネルギーを使うようになります。“物離れの物価値”、あるいは“スタイリング化現象”と僕が呼んでいる傾向です。
大学についても、昨今、同じようなことが言えます。そうして、この場合、自らの知的欲求に応《こた》えるために、より高度な教育を受ける、という第一義の目的は、もう、ほとんど考慮に値しないものとなってしまっています。誰もが、入ろうと思えば大学に入れるようになってしまったからこそ逆に、学力上の偏差値というスケールとは別の、オッシャレーかどうかという意味合いでの偏差値に重きを置くようになって来たのです。
もう一度、今度は全国区であるとした大妻女子大の合格者高校別一覧を見てみましょう。豊島岡女子、熊谷女子、長生、吉祥女子、土浦第二、足利女子、前橋女子、浦和西、千葉女子と、圧倒的に公立の高校が続きます。
もっとも、実践女子大や日本女子大とは違って、関東地方の高校ばかりです。東京地方区と呼ぶことは出来ないにしても、広域首都圏地方区とネーミングすることくらいは出来そうです。けれども、前述のように、ドーナツ・ゾーンの公立高校ばかりです。それが、残念ながら、全国区の大学としてリスト・アップされる理由となっています。
こうした傾向は、短大についても言えます。青山学院、東京女子大、学習院のそれぞれ、短大は、偏差値は高いものの、全国区であるため、今イチ、オッシャレーでない学生の数が多いのです。けれども、偏差値は決して高くない川村短大、玉川学園短大の場合は、インゲボルグからジュンコ・シマダへと早くも移行しつつある東京地方区ならではの雰囲気が醸《かも》し出されています。
知的欲求を満たすためというよりも、むしろ、聞こえが良くて、しかも、数多くの男の子にチヤホヤされるために女子大へ通うならば、人間、何も無理して偏差値の高いところを狙《ねら》う必要はありません。形而下《けいじか》の生理に素直に従って行動しながらも、その学校のネーミングとミッション系であることが、清楚《せいそ》そうな錯覚を抱かせて、若い男の子を興奮させる白百合女子大の存在は、そのことを見事に物語っています。
《・3・28》
ヌード撮影に頻繁《ひんぱん》に使われる
某シティ・ホテル――
高級イメージに無頓着《むとんちやく》とは、なかなか曲者《くせもの》。
女性との付き合いが充実しているか、していないかには関係なく、とにかく、この一年近く、若者向け男性誌に載っているヌード写真を、一人、自分の部屋で注意深く見ている読者諸兄ならば、次に述べる傾向に、あるいは既に気がついているかも知れません。
どうやら、ある特定のホテルの客室で撮影したらしいヌード写真が、それぞれ、モデルは違うのに、やたらと目につくのです。そのホテルの形態が、シティ・ホテルらしいことは、バスルームで撮影した写真の具合から、まず、わかります。
客室のカーペットの色合いは、おとなしいパープルです。そうして、ベッドはキングサイズのダブル・ベッド。ソファは、淡いピンク色の模様であることも確認出来ます。
このあたりまで説明しただけで、あるいは、「わかった、そのホテル」と元気良く手を挙げる読者が、いらっしゃるかも知れません。その手のジャンルの人たちは、多分、ステディな、あるいは、単なる割り切ったお付き合いの女性と実際に何度もこのホテルを、ある時はポケットマネーで、また、ある時は、なぜかカンパニー・エキスペンスで利用したことのある、たとえば、アドバタイジングとかブロードキャスティングとかいったカタカナ商売の方たちでありましょう。
が、こうした色合いのシティ・ホテルは、現在、東京に二つあります。東京ヒルトンインターナショナルと浅草ビューホテル、この二つです。堂島という、その立地の良さもさることながら、サービスの良さで高い評価を受けている大阪の全日空ホテル・シェラトンでも、これまた、淡いピンクが基調色として採用されていることと合わせて考えてみると、こうした、いかにも女性好みな色合いを使うことが昨今のホテルの傾向なのらしい、とわかってきます。そうした意味では、男性好みの芥子《からし》色やモス・グリーンを、いまだに基調色としているホテルオークラやキャピトル東急は、遅れたホテルでありましょう。
が、今回、お伝えしなくてはいけないことは、失礼、もっと他《ほか》にありました。ヌード写真の撮影で頻繁に使われている件《くだん》のホテルは、一体、ヒルトンなのか浅草ビューなのか? この謎《なぞ》を解かなくてはならないのです。
ヒントを差し上げることにいたしましょう。ベッドのある「洋間」なのに、障子窓がモデルの背後に写っているケースが多い。これで、もう、おわかりいただけたことでありましょう。正解は、東京ヒルトンインターナショナルです。今はキャピトル東急ホテルになった永田町の旧東京ヒルトン時代から、障子窓がヒルトンの特徴であったのです。
正解が出たところで、それでは、どうして、ヌード写真の撮影に東京ヒルトンインターナショナル(以下、ヒルトン)ばかりが使われるのでしょう。この謎を、今度は追求してみることにいたしましょう。
まず第一の理由は、新宿というロケーション。これです。ゴールデン街とはまるっきり違う世界なのに、それでも、マスコミ関係者が、どことなく、ホッと一息つける場所だと錯覚出来るものが、新宿という言葉の響きにあるのでしょう。が、それだったら、京王プラザホテルでもホテルセンチュリー・ハイアットでも一向に構わないわけです。
ヒルトンが一番新しいホテルだから。なかなかによろしいお答えです。けれども、もうひとつ理由があります。タワー・スウィートと名付けられたヒルトンのスウィートは、リビングルームとベッドルームが、ドアで二つにきっちりと分けられているのです。
バスルームが狭いのはマイナス要因ですが、リビングルームの広さと、ベッドの大きさはなかなかのものです。そうして、お値段の方は、四万五千円。帝国ホテルのタワー・フロアにある、二部屋に区切れているわけでもないタイプのスウィートが六万円もするのと比べると、実にお値打ち品です。
が、そのお値打ちであることが、ヌード撮影に多く使われる結果を招いてしまった。いやはや、なんともです。もっとも、京王プラザホテルにもホテルセンチュリー・ハイアットにも、同じような試練はありました。
それぞれのホテルは、なんとか、それを食い止めようと、ドアボーイや駐車場のガードマンがカメラ機材を持っているお客に質問したり、あるいは、ベルボーイがグルグルと廊下を歩きながら、シャッター音のチェックを。はたまた、ライトの熱で火災報知機が教えてくれたりと、涙ぐましい努力を続けたのです。
白夜書房系の雑誌はもちろんのこと、最近ではSM雑誌やブラック・ビデオでも、淡いピンク色のソファと障子窓にお目にかかれるそのヒルトンは、多分、広報担当者がそうしたことに無頓着なのでしょう。
あるいは逆に、一人、自分の部屋でジッとヌード写真を見つめる若い男性たちに、「ヘエーッ、ヒルトンって、いい感じの客室なんだなあ。いつか、彼女が出来たら、いままでは赤坂プリンスに泊まろうと思っていたけれど、ヒルトンにしてみようかな」と思わせることを狙《ねら》っているのでしょうか。
イメージなどという、カタカナ商売の人たちが気にかけるような実体のない代物《しろもの》は、さほど関係ないのだよ。むしろ、そんなことを気にして、イメージ維持のためにお金を使うよりは、とにかくお客をドンドコ入れて客室の稼働率《かどうりつ》を高めた方がいいよ。どうやら、そう考えてる節もあるヒルトンは、本当はなかなかの曲者なのかも知れません。
生協食堂よろしく舟型の器に入ったカレーライスを出す赤坂プリンスも、相変わらず従業員にホスピタリティが感じられないホテル日航大阪も帝国ホテルも、客室の稼働率が極めて高いことと合わせて考えてみると、日頃《ひごろ》、サービスとは何かを繰り返し説いている僕《ぼく》としては、ウーム、頭を抱えてしまいます。
《・4・4》
ローマへ向かうJAL機内で――
「西武と日航については真実しか書きません」。
――アンカレジ、コペンハーゲン経由、ローマまでの日本航空機内で、あるチーフ・パーサーと。
「お仕事でらっしゃいますか?」
「ええ、ちょっと、南アフリカまで。その実際の様子を見てみたくて」
「大変ですね。ところで実は私、以前にある作家の方をお乗せいたしました時、ひどい目に遭いました」
「我儘《わがまま》な方だったのですか?」
「いえ、いえ」
「じゃあ、他《ほか》に何か?」
「ほら、日航機がハイジャックされた事件がありましたでしょ。その時に私が乗務していたことをチラッとお話し申し上げましたら、関心をお持ちになられて」
「それで色々と喋《しやべ》られたら、書かれちゃったんでしょ。脚色された上で」
「なんでおわかりになるんですか? その通りです。まあ、フィクションだからと言われてしまえば、それまでですが。でも、女性のクルーがハイジャック犯にレイプされた、なんて創作部分まであったものですから」
「大丈夫ですよ。僕《ぼく》は日本航空と西武については真実しか書きませんから」
「そうですか。有り難《がと》うございます」
――同じ機内で別の、あるパーサーと。
「ANAやTDAが、どんどん国際線に進出するのは、いいことだと思うね。だって、飛行機というのが単なる空を飛ぶ乗り物に過ぎないって、みんなが思うようになるでしょ。理不尽な要求をする政財界人や有名人も少なくなるんじゃないかな」
「いや、田中さん、それは、むしろ逆だと思います。他社さんが進出すればするほど、うちの会社に特別なサービスを求める方が多くなるのではないでしょうか。また、会社としても、今まで以上に、そのご要望にお応《こた》えしようという動きが出てくると思います」
――はたまた同じ機内で、あるスチュワーデスと。
「いつも、日本航空をご利用下さいまして、有り難うございます」
「いや、僕、乗るのは、本当に久しぶりですよ」
「でも、とってもお詳しいですよね。私たちの世界のことに。私、いつも、びっくりしちゃってますの」
「まあ、それは、昔、何人か仲の良かった女の子がいたものですからね、あなた方の会社に。でも、最近は、本当に乗らないよ。他社ばかりだもの」
「どうしてですか?」
「1FCUという、IATAに加盟している航空会社が決めた運賃の単位に対して、アメリカでは1〓が換算レート。なのに、日本では296円だもの。おかしいでしょ? 日本で唯一《ゆいいつ》、IATAに加盟しているのは日本航空なわけだから」
「でも、今度、国際線に往復割引の制度を導入いたしましたし、国内線でも各種の割引を日航が申請いたしましたのに、反対なさったのは、ANAさんやTDAさんですわ」
「だって、そりゃそうだよ。ANAやTDAは国内線でご飯を食べているわけだもの。あなた方の会社は、国際線でボロ儲《もう》けしているんだから、国内線の運賃を少し下げるくらい、簡単だよ。それに、国際線の往復割引だって、じゃあ、1FCUが200円くらいに換算出来るようなレートになったかと言えば、決して、そんなことないもの」
――そこへ登場した女性のアシスタント・パーサーと。
「チーズは、いかがですか?」
「お願いします。何がありますか?」
「はい、カマンベールとブリー、それに、こちらは、えーと、ご免なさい、名前を忘れてしまいました。あまり、チーズはお客様方、お食べにならないものですから」
「多分、ロヴローションだと思うよ。でも、日本人以外のお客様は、チーズを結構、オーダーするでしょ?」
「はい、それでも、日本航空をご利用下さる外国人のお客様方は、それほどチーズをお食べにならないケースが多いですね」
「食後のドリンクは、どう?」
「はい、日本人のお客様の場合、お飲みにならない方が殆《ほとん》どです」
「飲んだとしても、ヘネシー」
「あっ、はい、そうですね、ブランデーのお客様が、時々、いらっしゃるくらいかしら。ですから、ドランブュイやベネディクティンをオーダーなさる方がいらっしゃったりすると、うれしいですね。ワァーッ、本当にサービスしているんだなあ、食事を最後まで楽しんで下さる方にサービスしているんだなあって」
「まあね、『お姉さん、ヘネシー頂戴《ちようだい》』なんてオジさんに、まっとうな人って、あんまり、いないものね。キンキラ・バッヂ付けた田舎の議員さんの海外視察団とかね」
「ええ、でも、ソウル線やマニラ線に比べたら、まだ……」
「マニラ線もそうなの? ソウル線にギラッたオジさんが多いのはわかるけれど」
「マニラ線にも、ギラッたオジさん、多いですよ。あと、中が見えないように黒いフィルム貼《は》った黒塗りのベンツを乗り回してらっしゃるような職業の方とか」
――再び、さっきのスチュワーデスと。
「それに、北回りのヨーロッパ線で日本航空を使う人って、わからないな」
「どうしてですか?」
「だって、ビジネス・クラスの座席のコンフィギュレイションが三十何列目まであったりするでしょ。太平洋線の場合は、アメリカのエアラインも同じような具合だから仕方ないけれど、欧州系のエアラインは、正規料金払って三十何列目ってことは、まず、ないよ」
「他社便も、お詳しいですね」
「いやあ、それほどでも」
「ただ、さっきから疑問に思っていたんですけれど、今回は、どうして日本航空をお選びになったんですか?」
「それは、あの、今回の仕事が文藝《げい》春秋でして、そこの編集部が日本航空のチケットを調達してきて僕に渡してくれまして。いや、困ったなあ。ドランブュイのロックを一杯、下さい。なんだか、眠くなってきちゃった」
《・4・11》
「キンキラのバッグは日本人のために
売り出したのよ」
――ミラノのブチック「プラダ」で。
――ミラノにあるブチック「プラダ」の販売嬢と。
「ドゥオモの傍《そば》にあるお店は、まだ、あるんでしょ」
「もちろんよ」
「でも、ゲラルディーニやトラサルディのブチックも近いスピガ通りのこの場所に、こうしてプラダが出来ると、なんだか、別のブランドみたいな気がするね」
「どういう風に?」
「ほら、本店はガレリアと呼ばれる回廊のようになった屋根のある商店街の一角にあるでしょ」
「はい、それで」
「うーん、こう言ったらなんだけれど、あのアーケードって古いから、皮製品を扱う、時代から取り残されたお店という感じがするもの」
「あら、それはひどいわ。ミラノっ子でプラダを使ってる人たちは、みな、本店へ行くわ、今でも」
「なるほどね。実は、そこが一番聞きたいところだったんだ。明るい店内のこっちのお店は、じゃあ、誰《だれ》のためのものなんだい?」
「えっ、どういうこと」
「だから、つまり、本店との間で、お客に違いはあるのか、ってこと」
「このお店は、アメリカ人と日本人のために開いてるのよ」
「それは、本当かい?」
「モンテ・ナポレオーニ通りやサン・アンドレア通りの新しいブチックから近くないと、アメリカ人や日本人はやって来てくれないわ」
「ふうん。ところで、最近、日本ではロレックスの時計をして、腰のあたりにキンキラのチェーンを巻く格好が、女子大生とかファッション関係者の間で流行《はや》っていて。で、彼女たちは、バッグはプラダのを持っているんだ」
「知っているわ。シャネル・バッグが大きくなったようなタイプのものでしょ」
「うん、うん。ゴールドやシルバーの布地で、キンキラのチェーンがついている代物《しろもの》ね。あれって、昔からあったのかい?」
「ないわ。アメリカ人と日本人のために売り出したのよ」
「……」
「ほら、あなたの国のお友だちがドアを開けて入ってくるわ」
「僕《ぼく》も、あなた方のお店が狙《ねら》っていたタイプのお客の一人なのかな?」
「さあ、どうかしら」
――ローマのフィウミチノ空港内にあるラウンジで、アリタリアの日本人職員の方と。
「最近の若い日本人を見ていると、本当に大丈夫なのかな、って思いますよ」
「どうしたんですか」
「いや、ツアー・コンダクターがね。ほら、アルバイト的な若い女性であるケースが多いんですよ。で、たとえば、昼の一二時に出発の飛行機に搭乗《とうじよう》することになっていたとしますね。一二時の出発というのは、その時刻に滑走路から離陸するってことでしょ」
「はい」
「なのに、一〇分前になっても、そのツアーのお客さんが買い物をしているんですよ。『早くボーディングして下さい』って言うと、『でも、ツア・コンさんが、一二時になってから乗り込めばいいからって』、これです」
「フィウミチノの場合、エプロンから滑走路の端まで移動するだけで十二、三分、かかっちゃうのに」
「でしょ。『君、そんなことをツア・コンが言ってちゃ困るじゃないか』って怒るわけですよ、僕らが」
「すると、どうですか。結構、素直に謝ってしまうでしょ、怒られると」
「いやあ、そうでもないですよ。男性のツア・コンの場合はね、ちゃあんとしている人が多いですけれど、職業意識のない女性の場合は、怒っても返事がないんです。本当に、白い空気なんですよ」
「へえー」
「考えちゃいますね」
――リスボン経由ヨハネスブルグへと向かう南アフリカ航空(SA)265便の機内にて、スチュワーデスと。
「今晩は、ミスター田中。自己紹介させていただきます。私は、サリーです」
「今晩は」
「何か、お手伝いすることがありますか?」
「ううん、大丈夫」
「途中、リスボンでの一時間を含めて、一七時間ものフライトですから、ごゆっくりなさって下さい」
「有り難《がと》う。でも、やっぱり、遠いんだね、ヨハネスブルグまで」
「はい。私たちの飛行機は、アフリカ大陸の上空を飛ぶことが出来ないから。ほら、このイン・フライト・マガジンに載っている飛行図を見てみて。ロンドンからも香港《ホンコン》からもシドニーからも、ニューヨークからも、みんな、海の上を飛んでいるでしょ」
「そうなんだ。たしか、アリタリアもブリティッシュ・エアウエイも、ナイロビにワン・ストップして、ヨハネスブルグだものね。でも、たとえば、ロンドンからだと、ノンストップのSAの方がBAよりも早く着くんでしょ?」
「いいえ、違うんです。アフリカ大陸の上を飛んだ方が、途中、ナイロビでの一時間を加えても、なお、二時間も早いんです」
「……」
「でもね、ミスター田中。私たちのサービスがありますもの。ゆっくりとお休みになれますよ」
――ミール・サービスの後、食後の運動がてら、絵葉書をもらいに、テクテクとギャレーまで。
「有り難う。ところで、クルーはフライト中、ずうっと起きているの?」
「いいえ、交代で休みます」
「ジャンピング・シートに坐《すわ》って?」
「まさか。飛行機の一番後ろに三段ベッドがあるの。私たちだって、睡眠不足のままじゃ、いざという時に機敏な対応が出来ないわ」
「過度なサービスを要求される、どこかの発展途上国とは違うんだ」
《・4・18》
あとがき
「『朝日ジャーナル』で連載をしてみませんか?」と勧めて下さったのは、編集長の筑紫哲也《ちくしてつや》さんでありました。「はい、喜んで」と答えてはみたものの、「でも、本当に喜んでいいものなのだろうか?」、心の中では迷っていました。
当時、僕《ぼく》が抱いていた『朝日ジャーナル』のイメージは、次のような具合だったからです。「ルイ・ヴィトンのバッグを持って青山通りを散歩することと、岩波書店の本を持って上野の森を散策することは、まったく異なる行為である」と信じて疑わない人たちの読む雑誌。これです。
前述の二つの行為は等価であると、一貫して主張し続けてきた僕にとっては、ですから、『朝日ジャーナル』は、およそ、縁のない場だと思えたのです。
けれども、僕の返事をそのまま素直に受け取ってしまわれた筑紫さんは、早速、編集部の山崎幸雄さんを担当者として紹介して下さいました。
「一体、何を書けばよいのでしょう?」と戸惑う僕に、「『海の手帳』の感じはいかがですか」、その後、遅筆の僕に悩まされるようになるとは露知らぬ彼は、ニコニコしながらアドバイスしてくれました。
フレキシブルな文芸雑誌として評価の高かった、今は亡《な》き『海』に設けられていた「海の手帳」というページで、毎月、ファッションに関する一頁《ページ》時評を担当していたことがあったのです。
「ファッションに限らず、ホテル、車、食事、女子学生。田中さんの皮膚が反応する対象を毎回、取り上げてみましょう。大丈夫、きっと評判になりますよ」、「はあ」。こうして、「ファディッシュ考現学」はスタートしました。
毎回、取り上げた現象は、ですから、様々です。けれども、こうして一冊の本にまとめてみると、自分で言うのは、多少、気恥ずかしいところもあるのですが、ひとつの新しい日本論なのかも知れないな、と思えるのです。
たとえば、日本航空について述べた回が、かなりあります。けれども、それは、ある女性の読者からの手紙の文章を引用させていただくならば、「JAL―ナショナルフラッグ―高すぎるブランドイメージetcは、日本人論を考えるうえでの貴重なシンボル」だからなのかも知れません。
もっとも、書き手である僕は、現在だってこうしたことを意識した上で連載を続けているのではありません。社会という名の昆虫《こんちゆう》に興味を抱く、単なる採集家にすぎない僕は、毎週、“不連続の連続”を続けているだけのことです。
「ファディッシュ考現学」は、甘い毒を含んだ読み物です。が、これまた、自分で言うのもなんですが、いずれも、取り上げた対象へ温かい愛情を持った上で書かれています。残念ながら、その愛情を感じ取っていただくことが出来なくて、お怒りになった方々もいます。けれども、何回か冷静にお読みいただいた後、喜んで下さった方もいます。それは、僕の喜びでもありました。
50本の中で、僕が一番気に入っているのは、19回目の日本航空に関する原稿でしょう(「空からの贈りもの……」)。日航機事故特集のひとつとして、通常の二倍の分量で書いたこの項を読んで、電話や手紙を下さった見ず知らずの日航社員の方たちがいました。機内でのサービスの際に感想を述べて下さったクルーの方たちもいました。
意外に思われるかも知れませんが、『朝日ジャーナル』を定期購読している人が、なぜか、日本航空には多いのです。それも、「おとなしい社員」の間にです。
新しい『朝日ジャーナル』の読者は、僕が勝手に思い込んでいたような、たとえば、伝統的「純」文学雑誌や大新聞の「文芸」部あたりに未《いま》だに生息するリジッドなシーラカンスたちではなくなっているのかも知れません。少なくとも、おいしいものを食べることも、難解な本を読むことも、それらは同じ価値であると最初から理解している人たち、です。
毎回、締め切りを過ぎないと書き始めない僕は、山崎さん、そして、デスクの永山義高さんに、ご迷惑をかけっ放しです。連載でのイラストを担当して下さっている日比野克彦《かつひこ》さんにも、ですから、原稿を読んでいただく前に描いていただくというご迷惑をおかけしています。ご免なさい。
また、単行本化に際しては、図書編集室の柴野次郎さん、そして、装丁を担当して下さった平塚重雄さんにお世話になりました。ありがとうございます。
一九八六年五月
田中康夫
この作品は昭和六十三年十二月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
ファディッシュ考現学
発行  2001年1月5日
著者  田中 康夫
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861052-0 C0895
(C)Yasuo Tanaka 1986, Corded in Japan