田中康夫
スキップみたい、恋みたい
目 次
寂《さび》しがり屋のあなたへ
最初の記念日
指輪で結ばれて
心がわり
知り合った時のこと
おやすみのキス
SQ6便・夜間飛行
苗場《なえば》のヴィラから
ペディとチョコレート
レディス・クリニック
下り坂のドライヴ
カールヘルム・ボーイ
夜の埠頭《ふとう》で
Handle with care
わがままだった頃《ころ》
昔の彼
ひとりきりの聖夜
寂《さび》しがり屋のあなたへ
「好きな人と一緒《いつしよ》にいれば、楽しさは二倍になり、悲しさは二分の一になる」、あるいは、この本を手に取ったあなたも聞いたことがあるかも知れないこの言葉を、僕《ぼく》は結構、気に入っています。本当だなと思うからです。
それは人間に限らず、この世に生を受けた生き物すべてに共通して言えることなのかも知れません。私たちは一人ではなかなか暮《く》らして行くことの出来ない寂《さび》しがり屋さんなのです。
この本に収められた十六の短編に登場する女の子たちも、それぞれの性格や趣味の違《ちが》いこそあれ、寂《さび》しがり屋さんであることには変わりありません。大好きな相手といつまでも一緒にいることが出来ればなあ。そう思っているのです。
なのに不思議なことには彼女《かのじよ》たちは、本当は大好きなはずの彼《かれ》に対して、不満を抱《いだ》いてしまったりします。それはとりわけ大した理由からでもなかったりするのですが、その不満を彼に直接ぶつけて喧嘩《けんか》してしまったり、あるいは内緒《ないしよ》で他の相手と親しくなってしまったり、といったことが起こるのです。
豊かな時代に育った私たち特有の、贅沢《ぜいたく》な悩《なや》みなのでしょうか? ううん、そう簡単に片付けてしまうわけにもいかないような気が僕にはするのです。
寂しがり屋の彼女たちは、大好きな彼と一緒にいたいと思う反面、自分たちは彼なしでもやっていける一人前の女性でもあるのだと思いたいところがあるのです。
ほら、たとえば、ファッション雑誌に載《の》っている写真を見てみると、そのことが良くわかります。カメラがローアングルで捉《とら》えたモデルたちは、皆、キリリと口を閉じています。腕組《うでぐ》みして岩場《いわば》の海岸線近くに立っていたりもします。
これだけ見ると、強い女たち のイメージです。着ている洋服も、自分一人でクリエイティヴな仕事を持って生きていますといった雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせた代物《しろもの》です。
けれども、その同じファッション雑誌には、笑いながら野原をスキップしているモデルの写真だって載《の》っています。
ある種の純粋で永遠な幼児性を連想させる、スキップをしながらのその写真は、私たちの心の中にかわいらしい女たち でもありたいという気持の潜《ひそ》んでいることも教えてくれます。
今までは、こうした強い女たち とかわいらしい女たち は、一人の女性の中に共存するはずがないと言われて来ました。けれども前述の例は、そうした考え方が間違《まちが》っていたことを明白に示しています。
この本に登場する女の子たちも、また、今こうして本を手に取っているあなたも、強い女たち になることを望む気持よりは、むしろ、かわいらしい女たち になることを望む気持の方が、心の中で占めるウエイトとしては大きいことでしょう。それは多くの人が認めるところです。
でも、どこかに、単にかわいらしい女たち だけではない自分を確認してみたい気持が潜《ひそ》んでもいるのです。が、それは単に強い女たち になりたいという気持ではありません。ただかわいらしいだけでしかない自分ではありたくないという気持なのです。
自分のことをとっても大切にしてくれる彼のことを、登場人物たちは嬉《うれ》しく思いながら、でも、その彼には言えない自分だけの秘密を作っていってしまうのは、そうした理由からです。
そうした秘密は、たとえば、内緒《ないしよ》で年上の男性とも付き合っていたり、年下の男の子とデートをしてしまったりと、それぞれに違います。こうした彼女たちを、僕はとてもかわいらしいと思います。
常識の世界に生きる大人《おとな》たちからは、「けしからん」と言われてしまうのかも知れません。けれども彼女たちは、きっと心のどこかに、一番最初に紹介した「好きな人と一緒にいれば、楽しさは二倍になり、悲しさは二分の一になる」という気持を残しているのです。
自分のことをとっても大切にしてくれる彼に言えない自分だけの秘密を作ってしまう彼女たちが、けれども不思議と清潔な印象でいるのは、多分、その辺《あた》りからなのでしょう。
「スキップみたい、恋みたい」の十六編の物語は、いつかはスキップも出来ないくらいに心身ともに衰《おとろ》えてしまうかも知れない、そこに登場する女の子達をただ単に描《えが》いたわけではありません。なぜならば、これら十六の物語は、多少、あなたよりは年を取っている僕にとっても、また、毎日がスキップみたいなあなたにとっても、自分だけの秘密の時間に潜《もぐ》り込《こ》める場所なのですから。
最初の記念日
「なんか、別にどうってことなかったような気がする」
純彦《すみひこ》君に腕枕《うでまくら》してもらいながら、そう、つぶやいた。
「えっ、どういうこと? だって、ちゃあんと平気だったじゃないか、最後まで」
言ってる意味が、うまく、理解してもらえなかったらしい。困っちゃう。
「ううん、由季《ゆき》、そういうんじゃなくて。だから、なんて言うのかな。もちろん、きちんと出来たのよね」
すごいんだ。結構、露骨《ろこつ》な発言しちゃってる。大人《おとな》の女の子になっちゃうと、もう、それだけで、色々と変わってきちゃうのかな。
「そんなこと、僕だってわかってるよ」
ちょっぴり、苛立《いらだ》っちゃったのかもしれない。でも、彼の喋《しやべ》り方は、ゆっくりで、それに、モソモソしてるから、きつくは感じないけれど。
「違《ちが》うの。心だけじゃなくて、たしかに、二人は一緒《いつしよ》になれたんだけれど。でもね……。えーん、うまく言えないよおん」
由季の国語力が、足りないわけじゃあないと思う。だって、現代国語の成績だけは、自慢《じまん》出来るもの。そりゃ、成績が良ければ、表現力も豊か、ってわけじゃあないことも、これまた、言えてるんだけれどね。
「どうして、うまく言えないのかなあ」
両足をバタバタさせた。子供みたい。ベッドが、ギシギシッて音を立てる。純彦君と二人、箱根の宮ノ下にある富士屋ホテルにいた。初めてのお泊《と》まり。彼も私もだ。
「ほら、あっという間、じゃなくて、やったあ、わかった。あっけない。これ、これ」
「そおかあ」
本当に、あっけない具合だった。
「もっと、感動しちゃうかな、って思っていたのに」
「僕がいけなかったのかもしれないね、もしかしたら」
ちょっぴり、寂《さび》しそうな声を出した。
「そんなことないわ。耳|年増《どしま》になっちゃってたんだわ、由季。そう、きっと、そうよ」
最初から期待しちゃうなんて、そんなの贅沢《ぜいたく》過ぎるのかもしれない。だから、真剣《しんけん》に受け取られたら困っちゃう。
「気にしなくても、いいのかなあ、じゃあ」
「うん、大丈夫よ」
「なら、いいんだけれど」
顔を少し左側に向けると、上目遣《うわめづか》いに彼を見た。腕枕《うでまくら》してもらってる私は、彼よりも少しだけ頭の位置が低い。ベッド・サイドにある、さっきつけたばかりの古いランプが、ほの明るかった。
「どうしたの、鼻の頭に汗《あせ》かいちゃってるよ」
「えー、本当」
「うん」
慌《あわ》てて、左手の甲を使って汗をふこうとする。二、三回、左手の運動。一緒に、鼻を鳴らす。スーッ。ちょうど、鼻をかんだ後、誰《だれ》もが微《かす》かに鳴らす音。かわいらしい、純彦君ったら。もう一度、さっきと同じように、私は足をバタバタさせた。
「そんなに、おかしい?」
「犬みたいなんだもの」
「たまんないね、そんなこと言われちゃって」
ちょっぴり、脹《ふく》れっ面《つら》しながら、けれども、もう一度、鼻の頭をふいた。
「暑い?」
「ってわけでもないんだけれど、ほら、一応、頑張《がんば》っちゃってみたものですからね」
わざと、おどけた言い方をする。そうなんだ。純彦君に感謝しなくちゃいけないんだ。それまで、腕枕してもらっていた私は、体全体をよじると、うつ伏《ぶ》せになった。ちょうど額《ひたい》の辺《あた》りが、彼の右手のところ。少しだけ頭を上げると、その右手の二の腕《うで》にチュッ、キスをした。
「ご免《めん》なさい。さっきは、つまらないこと言っちゃって」
なぜか、もう一度、謝《あやま》らなくちゃいけないような気がした。
「平気だよ」
チュッ。今度は、彼の方からお返しのキス。頬《ほお》にしてくれる。そうして、あごの下の部分に左手の指の腹を当てて、私の顔を持ち上げるようにすると、くちびるにキス。優しい。
純彦君は、同じ学校に通ってた。今年のお誕生日《たんじようび》がやって来ちゃった彼の方が、年はひとつ上だけれど、二人とも、高校二年生。小田急《おだきゆう》線の沿線に、学校がある。幼稚園から大学まで、全部、一緒のキャンパス。
「由季ちゃんのことをね、榊原《さかきばら》が好きなんだってさ」
谷川君から聞いたのは、六月のことだった。梅雨《つゆ》の季節にしては珍しく、真っ青な空が広がっていたあの日、私はクラスメイトの麻里衣《まりえ》と一緒に、学校近くのサーティワンに立ち寄った。放課後のことだ。
「榊原君って、あの榊原君?」
コーンのシングルで頼んだジャモカ・コーヒーをペロペロと舐《な》めながら、尋《たず》ねた。
「うん、あの榊原」
ニキビが右の頬《ほお》に二つ、真っ赤になってる谷川君は答えた。
「グラウンドホッケー部の榊原君のことなわけ?」
こちらは、バーガンディ・チェリーを舐めていた麻里衣が言った。
「そうだよ」
男の子一人でお店の中に入って来た彼は、恥《は》ずかしそう。なぜって、女の子ばかりがお客さんなんだもの。ニキビが、余計に赤くなっちゃうかな。
「だとしたら、キャー、おかしい」
麻里衣は大きな声を出して笑った。お店の中にいる他の子たちが、一斉《いつせい》に視線をこちらへ向ける。彼女の腕をつねった。もちろん、左手に持ったアイスクリームをペロペロしながらだけれど。
「痛いなあ、由季」
私をにらむ。勝ち気な麻里衣は、きっと、頭に来たのだ。みんなの憧《あこが》れだった純彦君が、私のことを好きになっちゃったわけだから。本当かどうか、まだ、はっきりとはわからないけれど、でも、少なくとも伝令係の谷川君は、そう言ってる。
「気をつけてよ、一学年上の人たちもいるんだから、麻里衣」
こちらを見た女の子たちの中には、メジャーしてる高三の人が何人かいた。
「『あの子たち、ちょっと、生意気《なまいき》よね。大きな声で笑っちゃって』。そんなこと言われちゃったら、まずいでしょ」
「ご免《めん》、ご免」
すぐに、自分の非を認めちゃうところが、かわいらしかった。いい子なのだ、彼女は。だから、些細《ささい》なことで幾《いく》ら喧嘩《けんか》しようとも、ずうっと一番の仲良し。
「ちょっと、からかってるんじゃないでしょうね、谷川君」
「と、とんでもない。なんで、そんなウソ、つかなくちゃいけないんだよ」
「本当?」
尻上《しりあ》がりのイントネーションで、「ほんとおう?」、尋《たず》ねてみた。横目でジロッて見ちゃう。なんか、まるで、性格悪そうな年輩《ねんぱい》の女教師みたい。結構、私も意地が悪い。そう思った。
「絶対、絶対。だって、榊原に直接、頼まれたんだから。『お前、由季ちゃんに伝えてくれないか』そう言われたんだよ」
興奮気味に喋《しやべ》った。小柄《こがら》でファニーなフェイスの谷川君も、グラウンドホッケー部。純彦君同様、二年生なのにレギュラー。注目株の選手ってわけ。けれども、二人が対等な競争相手でいられるのは、練習や試合の時だけだ。オフの時間は、完全に親分と子分の関係。もちろん、ボスは純彦君。
「ねっ、信じてくれよ」
「大丈夫かな、麻里衣?」
顔を見合わせる。二人とも、やっぱり、まだ、半信半疑だ。なぜって、スポーツ万能、スタイル抜群《ばつぐん》な純彦君が、その相手なのだもの。谷川君がモーションかけて来たのとは、訳《わけ》が違った。
「でも、どうして、直接、彼自身が由季に言わないの? おかしいじゃない」
麻里衣ったら、自分のことでもないのに、真剣になっちゃってた。溶《と》けてしまったバーガンディ・チェリーが、ポタポタポタ、床《ゆか》に落ちてしまう。普段《ふだん》の彼女なら、「キャー、大変。私のアイスクリームが。もったいない、もったいない」。騒《さわ》ぎ立てるはずなのに、気がついてないのだった。
「待ってるんだよ、榊原。部室の裏で、一人、待ってるんだよ」
谷川君は、そう言った。
「ちょっと、それって、クサすぎる。まるで、青春ドラマの世界じゃない」
やっと、アイスクリームのポタポタポタに気づいて、慌《あわ》ててペロペロを再開した麻里衣を見ながら、私は言った。
「でも、まあ、取り敢《あ》えず、一緒《いつしよ》に来ておくれよ。由季ちゃんだって、榊原のこと、気になる存在だろ」
痛いところを突かれてしまった。当たっていた。ちょうど、前のボーイフレンドと三月に別れたばかりだった私には、特定の男の子がいなかった。そうして、昔から秘《ひそ》かに、純彦君のことは意識していたのだ。
「さ、悪いこと言わないから、行ってあげておくれよ。案内するからさ」
きっと、一刻も早く、サーティワンの店内から逃げ出したかったのだろう。自動ドアの前のゴム板に、ポン、ジャンプすると、先に外へ出た。そうして、全然、サマにならないウインクを、わざとした。
「緊張《きんちよう》してたんだ、あの時」
シャワーを浴びた後、再びパジャマを着て、ベッド・ルームへと戻《もど》った私に、彼は話しかけて来た。窓のところに立っていた。
「部室の裏で会った時のことね」
純彦君は、そわそわしながら待っていた。ズボンのポケットに両手を突っ込んで、バスケット・シューズを履《は》いた右足で、近くの雑草を蹴《け》っていた。
「お連れいたしやした」
顔に似合わず、変に繊細《せんさい》なところがある谷川君は、だから、わざと、おどけたセリフを吐《は》いた。なのに、純彦君の方は微笑《ほほえ》むこともなく、相変らず下を向いたまま。
「ねえ、僕たち、あっちの方へ行ってるからさ」
更《さら》に気を効《き》かした谷川君は、麻里衣と一緒にグラウンドの方へと立ち去った。
何でもいいから、私の方から話し出さないとね。これじゃあ、お通夜《つや》みたいになっちゃう。「今度、お休みの日に、どこかへ行きましょ」。私は誘《さそ》った。
すると、女の子を扱《あつか》い慣れているものだとばかり思っていた彼は、意外にも小さな声で、「うん」、答えてくれた。
「一杯《いつぱい》、付き合ってる女の子がいると思ってたの、由季」
「警戒してたものね、最初の頃《ころ》」
「そりゃそうよ。なんてったって、学校中の女の子が憧《あこが》れてた相手だもの」
「実は、真面目《まじめ》な少年だってことも知らないで」
みんなが抱《いだ》いているイメージと、その実体が全然、違《ちが》う場合がある。純彦君の場合も、そうだった。グラウンドホッケーの練習で忙《いそが》しい彼は、女の子と付き合ったことがほとんどなかったのだ。多分、デートをしたことのある回数は、私なんかとは比べ物にならないくらい、少なかったと思う。そうして、もちろん、ステディな関係になった相手は、私と同じようにゼロだった。
「寒くないかい?」
「平気よ」
お部屋《へや》の中は、暖かかった。スチームが効《き》いているから。ちょっと昔の病院なんかにあった、パイプがグニュグニュグニュッて剥《む》き出しになったスチーム。いかにも、クラシックなホテルっぽい。
「初めての時は、一晩中、一緒にいたいな」
夏休み前、彼にお話しした。お友だちの中には、パパやママのいない間に、彼のお部屋でコソコソッとね、なあんて子もいたけれど、なんだか、おウチに帰った時、顔にシッカリそのことが書いてありそうで、だから、抵抗《ていこう》があった。
それに、どんなに感激的な時間を過ごすことが出来たとしても、その日の晩、一人で自分のベッドに入らなくちゃいけないなんて、考えただけでも、辛《つら》そうだったから。
「どこに泊《と》まろうか?」
彼が尋《たず》ねた瞬間《しゆんかん》、「箱根の富士屋ホテルがいいな」、答えてた。中学生の頃《ころ》、ファッション雑誌のロケ先として使っているのを見て以来、行ってみたいと思い続けていたから。
ただし、問題は、日程《につてい》と、そうして、お金だった。クラブの合宿がある彼は、十一月の試験休みまではプライベートなお休みが取れない。夏休み中は、合宿所へ差し入れに行く時しか会えなかった私は、だから、旅行の費用|稼《かせ》ぎにアルバイトをした。純彦君の気持を谷川君が教えてくれた、サーティワンでだ。
自分でも驚くくらいにいい子していた夏休みが終わる頃には、彼の貯金と合わせれば、もちろん、大豪遊《だいごうゆう》とまではいかないけれど、一泊二日の箱根行きには充分なだけのお金が溜《た》まっていた。
「きっと、外は冷え切っているんだろうな」
彼は、そう言いながら、窓に懸《か》かっていたレースのカーテンをめくった。木で出来た枠《わく》に入った窓ガラスに、一面、水滴《すいてき》がついている。
「うわっ、寒そう」
お部屋の中は暖かいのに、思わず、身震《みぶる》いしちゃう。見ると、彼も両腕を腋《わき》にピタッとくっつけて、首を縮めていた。
私は窓ガラスに、「純彦」、彼の名まえを指で書いた。すると、同じように彼も人差し指で、「由季」、私の名まえを書いた。続けてその下に、今日の日付。私たちが、本当にお互いのことを知った記念の日だ。ずうっと、ずうっと、覚えていなくちゃ。
「私も書いていい?」
尋《たず》ねた。いつもと同じ、彼の優しそうな目が頷《うなず》いている。大好きなまなざし。
「いつまでも、忘れないね」という言葉も窓ガラスに記した。
そうして、ニッコリと微笑《ほほえ》んでいる彼の方を向くと、「大好きよ、純彦君」、彼の首に腕をまわし、背伸《せの》びしながら、チュッ、さっきよりも大きな音でキスをした。
指輪で結ばれて
「どうだい? 感じる?」
大藤《おおふじ》君は尋《たず》ねた。「うん」、そう答えようとしたのだけれど、声が出なかった。重たかったわけじゃあない、彼の体重が。程良《ほどよ》い感じだった。きっと、私以外の部分へ自分の重さを逃《の》がしてくれていたのだと思う。たとえば、手足の先を通じてベッドへと。
感じ過ぎてたわけでもない。ううん、もちろん、結構、感じていたのは本当だ。でも、答えることが出来ないくらいに一杯《いつぱい》、というわけでは、まだ、なかった。だって、大藤君の前にそうなったのは、二人だけだもの。
だから、やっぱり、感動しているのかな? 彼に抱《だ》かれながら、そう思った。愛撫《あいぶ》だけのシーンは既《すで》に終わって、次のシーンへと移っていた。なんて言うのかな、さっきまでがオードブルだとしたら、メインディッシュなのかも知れない。
そうして、魚料理というよりは、むしろ、肉料理という感じだった。けれども、激しく体を動かしているわけではなかった。さっきから、あまり彼の顔の位置は変わらない、多分ね。時折、私の顔に近づけて、首筋や唇《くちびる》にキスをしてくれることはあったけれど。
なのに、どうして肉料理なのだろう。それまで閉じていた目をうっすらと開けてみた。少し汗をかいている大藤君の顔が、そこにあった。目と目が合って、彼は微笑《ほほえ》んだ。もっと大きく目を見開いて、私も微笑み返そうと思った。でも、なかなか言うことがきかない。
目を大きく見開こうとしても、それだけのエネルギーを瞼《まぶた》に集中させることが出来ないのだ。一体、どこへ分散してしまっているのかしら、エネルギーが。薄《うす》ぼんやりとした彼の顔を見詰《みつ》めながら考えた。
お腹《なか》の少し下あたりから背中にかけて、さっきから強い刺激《しげき》が何度も訪れていた。ズキンというのともツッキンというのとも違う、上手《じようず》に表現出来ない、けれども、心地《ここち》良い感覚だった。
堪《こら》えようとしていたわけじゃあない。むしろ、積極的に受け入れようとしていた。ただ、その感覚があまりにも強過ぎて、だから、神経も下腹部に集中していた。瞼《まぶた》がなかなかパチッという感じにならなかったのは、そのせいだ。
「感じている?」
もう一度、尋《たず》ねられた。コックン、黙《だま》って私は頷《うなず》いた。今更《いまさら》、「うん」でもないし、かといって、「はい」とお返事するのも、なんだか、わざとらしい気がした。それで、黙って頷いただけ。
でも、感じていることを告白して、少し気持は楽になった。不思議なもので、瞼《まぶた》にもエネルギーが回るようになった。それで、ベッドの上に横たわったまま、少しだけ頭を上げて、胸よりも下の方へゆっくり、目を動かしてみた。
胸は、相変らずの小ささだった。いつでも気にしていることだ。「女の子は、胸の小さい方がいいよ。その方が好きだなあ」、以前に付き合ったことのある男の子は二人とも、そう言ってくれていた。「なまじっか大きいよりもね、綺麗《きれい》じゃない」、最初に付き合った男の子は、そうも言ってくれた。
本当なのかな、いつでも疑問だった。無い物ねだりでしかないのかも知れないけれど、やっぱり、大きな胸でありたかった。あんまり大きいのも、もちろん、困るけれど、でも、ほどほどには欲しかった。だって、少年のような胸だったのだもの、私は。
ただ、これまた、現金なことには、「小さい方が、その分、敏感《びんかん》なんだ、体の反応が」、二番目に付き合った男の子にそう言われると、つい、喜んでもしまうのだった。「結構、当たっているね」、本当の喜びなんて、まだ数えるほどしか経験したことがないのに、生意気《なまいき》な発言をした。
そんなこんなの私の小さな胸だったのだけれど、うん、今のような時には圧倒的《あつとうてき》にふさわしかった。ちょっぴり頭を上げるだけで、お腹はもちろんのこと、腰から足の方まで、その様子を眺《なが》められるのだもの。もっとも、私を抱《だ》いている大藤君の体が邪魔《じやま》をして、両足のつけ根よりも下の方は、あまり良く見えなかったけれど。
「他の男の子よりも、感じるだろ?」
ズワーン。そうだわ、ズワーンという感じの強い刺激《しげき》が背中へと抜けて行く。さっきよりも、すごい。もちろん、今までの人たちとは比べものにならないくらい。
どうしてなのだろう。大藤君のこと、私が一杯《いつぱい》好きだからなのかしら。それとも、体全体では決して激《はげ》しい動きをしているわけではなくても、私の一番敏感な部分に当たっている彼の動き方が、他の人とは違うのかしら。
「とってもよ」
私は、彼の背中にまわしていた両手にギュッと力を込《こ》めた。そうして、「ありがとう」、心の中でつぶやいた。
大藤君に初めて出会ったのは、一週間前のことだった。六本木にあるディスコ、シパンゴでだった。彼は、そこで働いていた。私より二つ年上なのに、留年をしているらしくて同じ二年生だった。大学生でもあったのだ。
「菜穂美《なおみ》ちゃん、元気?」
シパンゴの常連客になっていた私の友だちに熱いおしぼりを渡しながら、彼は言った。それが、初めての出会いだった。大藤|嗣也《つぐや》。雰囲気《ふんいき》のある名まえだった。
「もち。大藤君は?」
菜穂美は、おしぼりで手を拭《ふ》きながら尋ねた。彼女の目の前には、ヘネシーが置かれていた。びっくりした。ブランデーをボトル・キープしているなんて、「菜穂美、あなた一体、どうしちゃったの?」、尋《たず》ねてみたかった。
高校時代の同級生だった菜穂美は、英語の専門学校へと進んだ。高校の頃から、ディスコへ足繁《あししげ》く通っていた彼女は、どこへ行っても顔だった。けれども、ヘネシーをボトル・キープして、おまけに、VIPルームのソファーにドカンと腰を降ろすようにまでなってしまうなんて。
あんまり、まともじゃないようなジャンルの人たちと付き合っているのじゃないかしら。たとえば、夜になると、やたらと目がパッチリとしちゃうような、なんだか得体《えたい》の知れない商売をやっている人たちとか、窓にフィルムを貼《は》った黒塗《くろぬ》りのメルセデス・ベンツを乗り回しているような、怖《こわ》い人たちとか。
けれども、それは私には直接、関係のないことだった。人にはそれぞれの考え方があるのだから。というより、その時の私にとっては菜穂美がどのように変わったか、なんてことより、むしろ、自分の目の前にいる大藤君のことを少しでも知る方が大事だったのだ。
「元気。で、一応、昇格《しようかく》したんだよね。副主任ってことになったから、よろしく」
片膝《かたひざ》をカーペットの上に付けて、彼はヘネシーの水割りを二つ、作ってくれていた。爽《さわ》やかな感じだった。在《あ》り来《きた》りの言い方だけれど、でも、その表現が一番ピッタリな気がした。背が高くて、でも、体つきはしっかりしていて、そうして、フェイスは少しだけ甘い感じ。いいなあ、と思った。
「あっ、本当だ。黒服になったんだ」
菜穂美は、テーブルの上に置かれていたミックス・ナッツの入ったグラスの中からジャイアント・コーンだけを選んでは、口の中に放り込んだ。普通、誰《だれ》もが敬遠する代物《しろもの》なのに、不思議。ガラス張りのVIPルームは、音楽の音も小さい。彼女がジャイアント・コーンを噛《か》み砕《くだ》く音だけが、やたらと不釣《ふつ》り合いな感じで響いた。
「そうなんだよ。もう、宇宙服を着なくてもいいんだ」
シパンゴの従業員の人たちは、赤や青の素材に金や銀のステッチが入った制服を着ていた。肩パッドも入っていて、だから、宇宙服という形容がピッタリだった。そうして、副主任以上が黒服、つまり、タキシードを着れる。どうやら、大藤君は最近、VIPルームの副主任に昇格《しようかく》して黒服組になれたみたい。
「ヘネシーの水割りでよろしいですか?」
私には丁寧《ていねい》な喋《しやべ》り方で尋《たず》ねた。
「あ、はい」
本当は、カンパリ・ソーダが飲みたかった。けれども、そんなことを言ったら、わがままな女の子だと思われてしまうかもしれない。まだ、出会ってから五分も経《た》っていないのに、心臓がドキドキしちゃうくらいに気に入ってしまった彼に、悪い印象を持たれたくないな、そう思って、「あ、はい」、返事をした。
「ねえ、菜穂美ちゃん、紹介《しようかい》してくれないの、こちらの女性」
まだ、二十歳になったばかりなのに、こちらの女性なんて言われてしまった。それだけでもう、ちょっぴり大人になれたような気になっちゃう。いけない、いけない。用心しなくては。だって、相手はきっと沢山《たくさん》のガールフレンドがいるに違いないディスコの人なのだもの。心の中で自分に言い聞かせた。
「中浜利佳子《なかはまりかこ》ちゃんよ。高校が一緒《いつしよ》だったの」
菜穂美の紹介に合わせて、チョコンと頭を下げた。
「また、シパンゴへ行ってもいい?」
大藤君の胸元を、そっと右手で触《さわ》りながら尋《たず》ねた。まだ、背中の方へと向いた快感のベクトルが、足の付け根のあたりから何本も出ている気がした。
「え、もちろんだよ。今まで通り、遊びに来ればいいじゃない」
天井《てんじよう》を見詰《みつ》めたまま、そう言うと、彼はクルリと頭を半回転させ、私のおでこにキスをしてくれた。嬉《うれ》しかった。彼が一人で住んでいる祐天寺《ゆうてんじ》にあるワンルーム・マンションのベッドの上でだった。
「でも、利佳子、VIPルームに入れないじゃない? 寂《さび》しいなあ」
多少、長い間、ディスコ業界にいる従業員ならば、その誰もが顔を知っているともっぱらのウワサの菜穂美だって、ヘネシーをボトル・キープして、それでようやっと、VIPルームへの出入りを許してもらえたのだ。ちゃあんと入口で正規の料金を払ってディスコへやって来ている、ごくごく普通のお客でしかない私なんて、だから、VIPルームで、くつろげるのは夢のまた夢だ。
「顔を合わせることは出来るだろ。VIPルーム担当とはいったって、他のお客さまの接待で、一般のフロアの方へ出ることだってあるもの」
優しい言葉をかけてくれた。それとも、こうした言葉を言い慣れているのだろうか。一体、同じセリフを何人の女の子に今まで吐《は》いてきたのだろう。今の私たちと同じようなシチュエーションの時に。考え始めると、不安な気持が胸の中にグワーンと広がっていってしまう。
――大丈夫よ。そんなんではないわ、彼。
一所懸命《いつしよけんめい》、自分に言い聞かす。
――だって、今日、シパンゴが終わって、だんだんと店内の照明が明るくなった後も大藤君に話しかけたくて、出口のあたりでソワソワしていた私に、「一緒に帰らないかい?」、声を掛《か》けてくれたのは彼の方からだったもの。
それは、本当だった。彼のマンションの住所も電話番号も知らない私は、ただただ彼に会いたくて、一人でシパンゴを訪れた。
「好きにならない方が、いいと思う?」
電話で尋《たず》ねた私に、
「わかんないよ、そんなこと。まあ、あんまり悪《わる》だって話は聞かないから、平気なんじゃないの」
どうぞ、勝手にやって下さい、という感じで菜穂美は答えた。
――大丈夫だよね、きっと。
もう一度、自分に言い聞かせようとした。
――もしも、完璧《かんぺき》に遊びだったら、利佳子の体を愛してくれた後も、こんなに優しい喋《しやべ》り方、してくれないはずだもの。
シパンゴを出た後、夜遅《おそ》くまでやっているうどん屋さんへ行った。西麻布《にしあざぶ》から広尾《ひろお》へと向かう地中海通りを、途中《とちゆう》で右に入ったところの左側。大阪が本店だといううどん屋さんだった。二人、横に並んで食べた。向かい合っちゃうと、何も喋《しやべ》れなくなってしまうような気がして、それで横に並んだ。
大藤君の住んでいるワンルーム・マンションへやって来たのは、その後だった。もう、日比谷《ひびや》線の終電なんて、とっくに終わってしまっていたから、タクシーに乗った。後部座席で、手をつないだ。彼の肩《かた》によりかかるくらいのこと、してもいいな、と思った。けれども、緊張《きんちよう》し過ぎていて、それで背中をシートにピタッと、くっつけたままだった。
――大丈夫よ。もしも、完璧に遊びだったら、利佳子の体を愛してくれる前に、小綺麗《こぎれい》なうどん屋さんへ寄ってなんてこと、するわけないものね。
本当は、次に会える日をきちんと決めておきたいのに、何も言えなかった。心配で心配で仕方ないのに、シパンゴへまた一人で行って、少し遠くから彼のことを見ているだけでもいいわ。自分を納得《なつとく》させようとした。
「利佳子ちゃん、どうする? そろそろ、帰らないとね。もう二時半だから」
碑文谷《ひもんや》にある私の家へは、ここからタクシーを使っても、充分、千円以内で行ける距離だった。そんなに近い所に二人、住んでいるというのに、まだ、「利佳子ちゃん」、「大藤君」と呼び合っているのだ。「利佳子」、「嗣也《つぐや》君」と呼び合えるようになるのは、一体、いつ頃だろう。いや、そもそも、そんな日が訪れるのだろうか、いつか、私たちにも。
「ねえ、この指輪」
そう言いながら、自分の左手の中指にしていたシルバーの指輪を彼に差し出した。
「えっ、どうしたの?」
意味がわからなかったらしくて、大藤君はとまどったような声を出した。
「なあに、プレゼントしてくれるの?」
彼は尋《たず》ねた。
「ううん、違うの。預かってほしいの」
私は答えた。しばらく、沈黙《ちんもく》が続いた。いけない、どうにかしなくっちゃ。そう思って、
「預かっていてね。だって、そうしたら、今度、返して欲しくなった時、会うことが出来るでしょ」
続けた。
「うん」
さっき、目が合った時と同じように、彼は微笑《ほほえ》みながら頷《うなず》いてくれた。それで不安が全部、消えてしまったわけではないけれど、でも、嬉《うれ》しかった。私も黙《だま》って、頷いた。
心がわり
「変わったね、圭《けい》」
バス・ルームから戻《もど》って来ると、正史《まさふみ》にそう言われた。
「えっ、なにが?」
どぎまぎしてしまう。けれども、努めて冷静そうな声を出した。だって、彼のことは、やっぱり、まだ、一応は好きなのだもの。
私たちは、ホテルの一室にいた。四ツ谷《よつや》にあるニューオータニのタワー。夜景が綺麗《きれい》だ。クラウディピンクのパジャマを着ていた私は、返事をしながら窓の方へと進んだ。ちょっぴり曇《くも》った感じのピンク色。
「変わったよ。なんとなく、どこかね」
ソファーに坐《すわ》っていた正史も立ち上がって、また、窓の方へと歩いてくる。彼のパパとママが取ってくれたシングル・ユースのツイン・ルームなのだもの、もっとふんぞり返ってたって構《かま》わないのに、本当にチョコン、という感じで坐って、私が戻《もど》ってくるのを待っていた。
かわいらしい。高校生だった頃《ころ》の正史と変わらないな。そう思った。
去年の今頃は、二人ともが大学受験だった。現役の受験生。彼も私も、ホテルにお部屋《へや》を取ってもらって、そこから受験会場へと向かった。けれども、今年は正史だけが受験生だ。そうして、この私は、彼の客室へ遊びに来ている短大生。
「そうかなあ。変わらないよ」
彼の目を見るのが怖《こわ》くて、だから、外の景色を眺《なが》めながら答えた。
「ううん。やっぱり、変わった気がする」
私の後ろにやって来た彼は、片手を肩の上に置きながら、そう続けた。一体、どういう意味で、「変わったね」と言ってるのだろう。私は、いぶかしげに首をひねった。もちろん、小さな動作でだけれど。
「そりゃ、東京に一年近く暮《く》らしているんですもの。仙台に住んでいるのとは、どうしたって違《ちが》ってくるわ。でしょ? たとえば、お化粧《けしよう》だって、するようになったし」
「わかってるよ」
正史の声は、柔《やわ》らかい感じのテノールだ。私の耳の中へ、フワーンと入ってくる。そのせいなのかしら、彼には言えない秘密を持っているのに、少しだけ気が楽になった。
「でも、悪い子になったわけじゃないわ。誰もが高校を卒業して東京に出てくると、ちょっとずつ変わっていく、そのスピードと同じよ。圭《けい》、自信持って言えちゃう」
真下には手入れの行き届いた広い庭園が見えた。といっても、ところどころ、街灯のついているあたりだけが、ほの明るい。後の部分は、暗く静まり返っている。
「ご免《めん》ね、そうだよね。わかってはいるんだ。ただ、なんだか気分が高ぶっちゃってるものだから、それで、ついつい」
結局、彼は、そう言ってくれた。私が秘密にしていることを感づいてたわけじゃあなかったのだ。久しぶりに会った私が、仙台の予備校に通ってる女の子たちよりも大人《おとな》びていたものだから、それで、「変わったね」と口に出しただけみたい。
そうして、受験生特有のナーバスな気持も影響していたってことは、今、正史自身が話してくれた。うれしい。オドオドしたりする必要、もうないのだ。でも、寂《さび》しい気はした。
「圭」
今度は耳元でささやかれた。フワーンって感じと同時に、ゾクーッって感じも襲《おそ》ってくる。その後に彼が吐《は》く言葉は、もう、ちゃあんとわかっているのに、それでも、一応、「なあに?」、振り向きながら尋《たず》ねた。
「一緒《いつしよ》にベッドへ行こう」
百七十六センチもある彼は、だから、私よりも十五センチ、背が高い。見上げる感じになる。
「いいけれど……」
躊躇《ちゆうちよ》してるような声を出した。すぐにオーケーしてもらえるものだとばかり思っていた正史は、怪訝《けげん》そうな表情になる。私は微笑《ほほえ》みながら、
「明日、試験でしょ。別々のベッドに入るって提案、しちゃいたい気分。だって、圭、ちゃあんと志望校に合格して欲しいから」
答えた。正史は、新宿《しんじゆく》区の北端《ほくたん》にある大学を目差していた。政治経済学部とか法学部とか商学部とか、節操《せつそう》がないと言われてしまうと、もう、それだけって感じもするのだけれど、文科系の学部を全部、順番に受けていた。去年に続いての挑戦《ちようせん》。
「大丈夫だよ。明日は最終日でね、それに文学部なんだ」
少しは考え込《こ》むかもしれないと期待していたのに、やたらと元気な声で言われてしまった。さっきまでのナーバスな正史は、どこへ行ってしまったのだろう。
今までの試験に手応《てごた》えがあったのかもしれない。あるいは、文学部を受けるのは一応の記念であって、もしも、他の学部が全部|駄目《だめ》でも、一浪の今年は、既《すで》に結果が判明している他大学の法学部か経済学部へ進もうと考えているのかもしれない。就職のこと、やっぱり、考えているのだろうか。
「だから、ねっ」
体を少し屈《かが》めると、私のおでこにキスをした。困ってしまう。
「ワアーッ、やっぱり、うれしいわ。一緒のベッドに入ることが出来るなんて」といった表情をして頷《うなず》きながら、けれども、心の中では、「バレないといいんだけれどなあ、秘密にしてることが」、つぶやいていた。
去年、私は女子大ばかりを受けた。「東京へ出るのなら、女子大です。共学は、いけません」。両親から、言われていたのだ。
地方在住の親に、よくあるパターンの意見。きっと、共学の大学へ入ると、悪い男の子につかまってしまうとでも思っていたのだろう。
もっとも、そうした考えが愚《おろ》かであることくらい、私たちはみな、知っている。なぜって、女の子ばかりの学校へ通っていると、かえって、男の子と知り合うチャンスは多くなるのだもの。
有名な大学と合同のテニスやスキーのサークルが一杯《いつぱい》ある。ディスコ・パーティーのチケットも、簡単に手に入る。そうして、まわりの友だちは、とにかく、ボーイフレンドが欲しい、欲しいと叫んでいる子たちだ。自分にも付き合ってる相手がいないと、肩身《かたみ》の狭《せま》い思いをしなくちゃいけなくなる。
共学の大学へ通っていると、いつも、まわりにクラスメイトの男の子たちが沢山《たくさん》いるから、別段、特定のボーイフレンドを作らなくたって、ごく自然に過ごすことが出来る。
おまけに、ここのところが、世の親たちには理解してもらえないのだけれど、共学の大学の女の子の方が、男の子と知り合うチャンスは少なくなるのだ。サークルは学内。ディスコ・パーティーのチケットも、同じ学校の男の子が主催するものくらいしか回ってこない。
親の言うことを素直《すなお》に「ハイ」と聞く子だった私は、繰《く》り返すことになるけれど、女子大ばかりを受けた。けれども、受験した五校は、いずれも不合格だった。併願《へいがん》していた短大二校のうち一校だけに合格した。
浪人しようと思っていた。正史は、受験した学校、すべてが不合格で、だから、地元の仙台で予備校へ通うことを決めていたのだ。けれども、「浪人は、許しません」、遅《おく》れた考えの持ち主である私の両親は、ここでも言い張った。使えない奴《やつ》。
それで、私は短大に通うこととなった。国鉄の市《いち》ヶ谷《や》駅か地下鉄の半蔵門《はんぞうもん》駅からテクテクと歩くことになる学校だ。英文科。最初は馴染《なじ》まなかった。
「今からでも遅《おそ》くはないわ。浪人して、希望の大学に入り直そう」。結構、真剣《しんけん》に悩《なや》んだ。でも、人間っていうのは、今いる自分の状況が案外、心地《ここち》良いと、その場に慣れていってしまう。抜け出そうとはしなくなってしまう。
五月の連休が終わる頃《ころ》には、夏はテニスとヨット、冬はスキーを楽しむシーズン・スポーツのサークルにも入っていた。そうして、高校時代と同じ、キャピキャピな私に戻《もど》っていた。調子がいい。
それでも、正史のことが大好きだった私は、二日に一回、仙台の彼のところへ電話をしていた。サークルやディスコ・パーティーで知り合った男の子と、食事をしたりドライヴしたりすることはあっても、でも、それは、ただそれだけでしかなかった。変わってしまったのは秋になってからだ。
「本当は試験会場まで、一緒《いつしよ》に付いて行きたいんだけれど……」
チェック・アウトをするために、二人、本館の方へと歩きながら、正史に話しかけた。タワーと本館を結ぶ連絡通路からは、庭園が見える。芝生《しばふ》の色が薄黄緑色をしていた。レタスのような色合い。徐々《じよじよ》に春が近づいて来ているのかしら。
「えー、いいよ、いいよ。大丈夫、一人でちゃんと行けるから」
大きなバッグを片手に下げた彼は、そう答えた。私も、大きなバッグを手にしている。ゲラルディーニのバッグ。外の芝生より、ちょっぴり枯れた感じの色をしていた。そうして、色違《いろちが》いのポシェット。
「サークルの合宿があるの、今日から。志賀《しが》の方へ行くみたい」
「だったら、余計《よけい》、いいよ」
八時を少しまわった時刻。きっと、受験生なのだろうな、って感じの子たちが何人か、私たちと同じように本館へと向かって歩いていた。母親と一緒の男の子もいる。みんな、表情が堅《かた》いから、すぐにわかる。その中で私たちだけが、どことなく浮いてる感じがした。
文学部の入学試験が済《す》んだら、そのまま、正史は新幹線で仙台に帰るのだ。受験参考書に終わりを告げる日。昨晩、私と久しぶりに抱《だ》き合った彼は、そのことも手伝っているのか、とても、これから受験に出かけるとは思えないくらい溌溂《はつらつ》とした顔付きをしていた。
「スキーは、新宿駅のロッカーに預けて来たの。取りに行かなくちゃ」
聞かれたわけでもないのに、前もって考えておいたセリフを吐《は》いた。待ち合わせ場所は、西口で、そこから全員、貸し切りバスで出かけるの、ってことも言った。けれども、それは、みんなウソだ。
サークルの合宿は、来週の木曜日からだ。そうして、貸し切りバスなんて使わずに、先輩たちの車を何台も連ねてお出かけするのだ。今日、正史が受験する大学と合同のサークル。私が十月の終わりから付き合いだした隆昭《たかあき》は、そのサークルで幹事をしている法学部の三年生だった。
本当は、今日のお昼過ぎに隆昭と待ち合わせをして、伊豆《いず》の温泉に二泊三日、彼の車で旅行にお出かけするのだ。連絡通路で浮いている感じの私たちを、よおく観察する人がいたならば、きっと、私の表情には多少の翳《かげ》りがあると思ったに違いない。ウソをつくと、どうしても、表情が作ったものになるから。
旅行代理店が作成したクーポン券をチェック・イン時に、渡していたらしくて、カウンターでの精算は、案外、短い時間で済んだ。彼は国電で飯田橋《いいだばし》まで行って、そこから、地下鉄東西線を使うらしい。
阿佐ヶ谷《あさがや》に住んでいる私は、下りの国電だ。スキーの入っていることになってるロッカーがある新宿へも、同じく下りの国電。逆方向。四ツ谷駅までの道を手をつないで歩いた。
「四月からは、一杯《いつぱい》、会えるね」
彼は、つぶやいた。この頃は、一週間に一度くらいしか電話で話さなくなったのに、それが、サークルの練習やクラスメイトとお茶してる時間が長くなったせいだからだと思い込《こ》んでいる。
「そうねえ」
私も、答えた。きっと、正史は東京へ出て来て一か月も経《た》たないうちに、隆昭と私のことを知ってしまうだろう。一杯、会うことは、だから、多分、彼の方から無しにすると思う。
もうじき三月だというのに、風が冷たい。私は肩をすくめた。と、無意識のうちに、正史の手をキュッ、ちょっぴりきつく握《にぎ》り締《し》めてしまう。改札口が見え始めた。
「うれしいよ。ありがとう」
「一杯、会いましょうね」という意味で握り締めたのだと勘違《かんちが》いされてしまった。
首筋《くびすじ》や乳首《ちくび》を舌の先で愛撫《あいぶ》されると、昔より大きな声が出てしまうようになった私は、昨夜、気をつけなくちゃ、と考えた。もっとも、始まるまでは年上の隆昭との場合ほど感じることはないだろうとも思っていた。けれども、予想以上に私の体は反応した。秘密がバレないように、一所懸命《いつしよけんめい》だった。
彼は自動券売機でキップを買った。私は定期券を持っている。けれども、
「圭、バスで行くことにするね。新宿の西口まで、バスが通ってるの」
そう言った。
「どうして?」
「ボケーッとね、バスに乗って新宿まで行ってみたくなったの。ご免《めん》なさい、正史は、これから受験だというのに」
また、ウソをついてしまった。けれども、私と一緒《いつしよ》に朝を迎《むか》えた彼は、ウキウキしちゃってるのか、
「そうか、そうか。じゃあ、ここでね」
笑みを浮かべてた。
考えてみたら彼と一晩、ずっと一緒にいたのは、昨夜が初めてなのだ。高校時代、私たちは予備校の土・日講座に出た後、時々、二人だけの時間を過ごしていただけなのだ。
「頑張《がんば》ってね、試験」
彼の目を見ながら言った。
「うん」
元気がいい。そうして、続けて、
「大学入ったらさ、東京の地理も覚えるからさあ」
四ツ谷から新宿西口までバスで行ったことなんて、ないに決まってる彼は答えた。昨夜、お部屋のテーブルの上に、「東京デート特集」ってタイトルのついた若者雑誌を彼が置いていたことを思い出した。
「じゃあね」
ボストン・バッグというより、むしろ、剣道《けんどう》か柔道《じゆうどう》でもやってる少年が遠征《えんせい》する時にでも使いそうなスポーツ・バッグを下げて、彼はホームへと下りて行く。後、二、三か月も経《た》たないうちに、それは、デザインの素敵《すてき》なバッグと交代することになるのだろう。
彼の姿が見えなくなると、私は改札口から少し離れたところにある電話ボックスに入った。隆昭のおウチの番号を押《お》した。まだ決めてなかった今日の待ち合わせ場所を相談するためにだ。バス停には、もちろん、向かわなかったのだ。
改札口の脇《わき》にあるキオスクの一角にも、赤い公衆電話はあった。けれども、他の人に声が聞こえにくい電話ボックスへ入った。今回が最初で最後のお泊《と》まりになりそうな正史に対する、それがせめてもの誠意だと思えた。
知り合った時のこと
「そうなんだよね、私、利道《としみち》君のこと、気に入っちゃった」
「正解だね、それって。すっごく、何て言うか、男らしい感じがするんだもの」
カフェテリアに入っていくと、同じクラスの女の子たちがお話ししていた。どこの大学でもそうであるように、語学を一緒《いつしよ》に受けるためのクラス。英語が第一外国語で、フランス語が第二外国語。
だから、第二外国語にドイツ語を選択《せんたく》しているクラスよりも、少しはハデ目な感じがする。もっとも、国文科だから、ハデ目だとはいっても、たかが知れています、ってところはあるのだけれど。
私は手を振《ふ》りながら、みんなが坐《すわ》っているテーブルに近づくと、持っていた何冊かのテキストとバインダーを置いた。そうして、バッグの中からお財布《さいふ》を取り出した。
「ねえねえ、崇子《たかこ》はどう思う? 利道君って、結構だったと思わない?」
授業の時に座席が斜《なな》め前になるくるみが尋《たず》ねた。珍しい名まえでしょ。目がクリクリとしている。肩くらいまでの髪《かみ》の毛。スレンダーで、多少、ボーイッシュなかわいらしさ。クラスの中心人物になりそうな明るさもある。
「そうねえ」と答え出そうとした。けれども、先に真美《まみ》が喋《しやべ》り始めた。
「崇子の好みではないと睨《にら》んだね。だって、アーストン・ボラージュ着た男の子と崇子って、一緒に並んでも似合わないもの」
真美は、やはり、クラスの中で目立つ存在。けれども、目がクリクリのくるみとはちょっぴり違《ちが》って、人が言わないこと、あるいは、言いにくいことを一手に引き受けて処理します、みたいなところがある。
まだ、みんな入学したばかりだから、誰《だれ》とでも仲良くしましょうね、って感じの状態が続いている。でも、これから、段々と月日が経《た》っていくと、どうなっちゃうのかな。人事《ひとごと》ながら、ついつい、心配してあげたい気分になってくる。
「うーん、そんなこともないんだけれど。まあ、とにかく、ちょっと待っててね。スパゲッティを頼んでくるから」
一応、今のところは誰にでもニコニコ、という感じにしておかないとマズいと、この私も考えている。小首をかしげて、でも、もちろん、ニコッと微笑《ほほえ》みながら答えると、私はオレンジ色をしたプラスチック製のトレイが置いてある方へと向かった。
二年前に新築したばかりだというカフェテリアは、まだ、小綺麗《こぎれい》な雰囲気《ふんいき》だった。女子ばかりの学校だからなのかもしれない。この間の土曜日、夕方から渋谷《しぶや》で合同コンパが始まる前に訪《おとず》れた共学大学のキャンパス内にある学生食堂のことを、ふと、思い出した。
なんとも在《あ》り来《きた》りな感じがするのは否《いな》めない気もするのだけれど、私はテニス同好会に早くも入っていた。お茶の水にキャンパスのある大学と一緒のサークルだ。
「ねえ、どうして、こんなに汚《きたな》いのお?」、一緒の短大からサークルに入った友だちが嘆《なげ》いちゃうくらいに、ひどかった。もちろん、お掃除《そうじ》はしているのだろうけれど、壁にペタペタとポスター。テーブルの上にはビラが何枚も置いてある。床《ゆか》に落っこちてしまっているものもある。
「建物が古いとは言っても、でも、やっぱし、ちょっとねえ」
肩より少し長めなワンレングスがかわいらしい亜矢子《あやこ》は、そう言って私に同意を求めた。でも、冷静に考えてみると、どんなサークルでも自由にポスターが貼《は》れたりビラが配れるキャンパスの方がキャンパスらしいのかな、って気もしないわけではないのだけれど。
――私たちの短大なんて、クラブの勧誘《かんゆう》のポスター一枚貼るのだって、学務課の許可が必要なんだもの。
「崇子、今日のサラダはバッドな選択だよ。赤い大根の酢漬《すづ》けみたいのが入っているんだもの」
無難な選択のスパゲッティ・ミートソースと一緒に日替《ひが》わりサラダを取って来た。一応、ミックス・サラダなのだけれど、毎日、一種類か二種類、珍しい野菜が入っている。たとえば、アンディーヴと呼ばれるベルギー白菜だったり、アーティショーと呼ばれる西洋アザミの茎《くき》の部分を茹《ゆ》でてあったり。
都心にあるシティ・ホテルのレストラン事業部が学校から依頼されて運営しているせいなのだろう。とても、短大のカフェテリアで出てくるサラダとは思えない充実度。けれども、なぜか、私のまわりでは不評だった。
「これ、苦みがあるよ」とアンディーヴさんをいじめたり、「ネチョッとしている」とアーティショーさんをいじめたりする子が圧倒的《あつとうてき》なのだもの。今日、登場のビーツさんが同じようにいじめられるのは、当然、予想された結果なのかも知れないな。そう思う。
「私、この酢漬《すづ》けが好きなの」と言い出しそうになって、けれども、思い止まった。そうして代わりに、「あっ、本当? 失敗しちゃったかな」、いい子の発言をした。
「どうも有《あ》り難《がと》う、送ってくれて」
マンションと呼ぶのには、ちょっぴり、かわいらしすぎるかなと思える、私が一人で住んでいる三階建ての集合住宅の前で、私は林君に向かってお礼のごあいさつをした。
「ううん、気にしないで。だって、僕《ぼく》のウチ、近所だから」
二人、渋谷駅から井《い》の頭《かしら》線の富士見ヶ丘《ふじみがおか》駅行き最終電車に乗って西永福《にしえいふく》で下りた。合同コンパの時、テーブルの斜め向かい側に坐《すわ》っていた彼とは、最後の方になってから話し始めた。
「でも、ほら、やっぱり、一応は有り難うって言わないと」
彼の目を見て話すのは、少し怖《こわ》い気がして、だから、うつむき加減に答えた。下唇《したくちびる》を軽くかむような感じになる。もしも、その時の私を見ている人がいたならば、きっと、小さな子供が、はにかみながら喋《しやべ》っているのと似ているな、と思ったかも知れない。私は、上がり気味だった。
「そうかあ。なら、いいんだけれど」
電車の中が明るかったせいなのかも知れないけれど、ついさっきまでは二人で一杯《いつぱい》お喋りしていた。コンパの前半、どうも雰囲気《ふんいき》に乗ることが出来なくて、それに、女の子にしては珍しく、お好み焼が苦手なものだから、一人|黙《だま》ってムシャムシャと食べるわけにもいかなくて、なんとも苦痛な時間を過ごしていた私は、同じようにノリが悪いままコンパに出席していた林君と、変な一体感を持ってしまったのかな。
「では、これから、合同コンパを始めちゃいたいと思います」
幹事役の男の子が、大きな声で叫んだ。
「今日は、みんな、お忙《いそが》しい中を、でも、当然、成果を期待してノコノコ出かけて来たと思うんだけれど、まあ、ひとつ、エネルギーの方、よろしくお願いいたします」
アハハハハッと何人かの子たちが笑った。でも、私にとっては面白《おもしろ》くもなんともないごあいさつだった。一体、どこがおかしいのかなあ。こういう白い感じの冗談《じようだん》って、むしろ、嫌《きら》い。だって、コマーシャルの世界の人たちが雑誌に書いたりする文章に出て来そうなんだもの。そんなことを考えた。
「エネルギーの方、みなさん、お出しになる前に、それでは、ひとつ、乾杯《かんぱい》の方、よろしくお願いいたします」
彼は、続けてそう言った。すると、みんな、一斉《いつせい》に元気よく「かんぱあい」と声を出した。両隣《りようどな》りに坐《すわ》っていた男の子たちも、右手を大きく上に伸《の》ばしてる。もちろん、ビールがなみなみと注《つ》がれたグラスを握《にぎ》り締《し》めてだ。
「ほら、崇子《たかこ》。乾杯、乾杯」
真向かいに坐っていたくるみに小さな声で言われた。違うんだよねえ、って感じのその雰囲気に圧倒されてしまってボワーンとしていた私は、促《うなが》されるまま、グラスを持ち上げて、まずは、くるみのグラスとカチャン、乾杯をした。
きっと、カフェテリアでの微笑《ほほえ》みと変わらぬ表情に戻《もど》っていたと思う。そうして、両隣りの男の子と、「はい、乾杯」、グラスを合わせた。
他の子たちは、ゴックンとビールを飲み干《ほ》してしまっている。女の子の中にも、早くも二杯目を隣りの男の子に注《つ》いでもらっている、なかなかの子がいる。みんな、ついこの間までは受験生をやっていたのに、「へえー、たいしたものなんだ」、心の中で舌を巻いてしまった。
といっても、この私だって、名古屋に住んでいた高校時代、親の目を盗んではディスコへ出かけたりして、ジントニックを大人《おとな》の顔して注文していたのだけれど。人は誰でも、自分のことは純粋で綺麗《きれい》な部分しか思い出さないようにしようと、無意識のうちに考えているところがあるのだろうか。
――困ったなあ、お好み焼が苦手だから、一体、何を食べたらいいんだろう。
グラスをテーブルの上に置くと、本当に形ばかりの突き出しを食べながら、悩《なや》んだ。
――別に、もっとカタカナ感覚のお店でやって欲しかったとも思わないけれど、でも、せめて、いろんな日本料理というか家庭料理というか、そういうのが出てくる居酒屋《いざかや》さんの大きなところにしてくれたら良かったのに。
くるみは、隣《とな》りの男の子に取ってもらった、多少、焦《こ》げ過ぎちゃった感じもするお好み焼を、けれども、「うわあっ、おいしい」、如才《じよさい》のない言い方をしながら食べている。
もちろん、私の目の前のお皿にも隣りに坐《すわ》っている男の子が表にしたり裏にしたりして作ってくれたお好み焼が載《の》っている。ただし、手付かずのまま。
「食べないの?」と聞かれた。「えっ、うーん、あんまり、まだ、お腹《なか》がそんなに空《す》いてなくて」と私は答えた気がする。「崇子、熱いのって食べられないから、ちょっと待ってるの」、首をすくめながら、かわいらしい言い方をした方が良かったのかも知れない。けれども、出来なかった。
乾杯《かんぱい》の音頭《おんど》を取った男の子の喋《しやべ》り方に付いていけなかったのが、きっと第一の理由なのだろう。第二の理由は、これまた、延々《えんえん》と述べて来たように、お好み焼が苦手だったこと。そうして、もうひとつ、合同コンパにやって来た男の子たちの外見が、もうひとつ、好きになれそうもない雰囲気《ふんいき》だったせい。
名まえを聞いたならば、多くの女の子たちが、「えーっ、いいなあ」、と声を挙《あ》げる、教養課程が東横《とうよこ》線の日吉《ひよし》にある大学の一年生の男の子たちが、コンパのお相手だった。私たちと同じように、必修の語学で分けられたクラスのメンバー。二十五人対二十五人の合計、五十人。
ビールを注《つ》いであげたり注いでもらったりしながらお話ししてみると、そりゃ、付属校からずうっと、という男の子が多かったから、結構、遊んではいるのだろうけれど、まともではあった。ただ、うーん、やっぱり、外見が私好みじゃなかったのだ。
みんな、所謂《いわゆる》、今っぽいハンサム顔だった。背が高くて、アーストン・ボラージュみたいなノリの明度の低い色合いなデザイナーズ・ブランド物を着ていて、フェイスは、アイドル・タレントにいそうな格好良さなのだ。
くるみたちは、みんな、「やったね、レベルが高い」みたいなウキウキした表情をしていた。初めての合同コンパだったということを差し引いて考えてみても、やっぱり、みんな、興奮していた。
私くらいなものだったのかも知れない。ブルーがかった気分で参加していたのは。でも、その私も、林君の存在に気がついた後半は、随分《ずいぶん》と盛り返した気がする。
「私、崇子の趣味ってのは、結構、古典的なハンサム・タイプという気がするんだよね」
イスに坐《すわ》って、スパゲッティを食べ始めると、真美が再び話し始めた。鋭い。
「私たちは、ほら、ボラージュっぽい男の子が好きなのよ。でも、崇子は違《ちが》うね」
くるみやその他、一緒《いつしよ》に坐《すわ》っていた何人かの女の子が、「ふうん、なるほど」という感じで大きくうなずいた。
「だから、崇子は利道君のこと、関心ないと思うんだ、真美としては」
「うん、そうだね、自分でもそう思う」
私も答えた。利道君というのは、私の近くに坐っていた、その手のタイプの男の子。真美は、私のことをちゃあんと観察している。ただ単に、人が言わないこと、言いにくいことを一手に引き受けて処理します、というだけの女の子でもないみたいだ。そうして、その鋭さの証拠《しようこ》に、
「でも、私、崇子も気に入った男の子が一人はいたと思うな。少なくとも一人はね。くるみの横、三人目あたりに坐っていた男の子」ハッとするようなことを続けた。
林君は、たしかに私のタイプだった。最初のうち、彼も私同様、コンパの雰囲気に馴染《なじ》めなくて、ボーッと所在無げに坐っていた。することのない私は、参加者の様子を一人ずつ、見るというわけでもなく見ているうちに彼の存在を知った。
コンパは途中《とちゆう》から、それまで坐っていた場所をみんな離れて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、そんな具合になった。「いいですか、横に坐っても」、今から思うと、なんと大胆な行動をしたのかしらという感じだけれど、私は林君に声をかけて横に坐った。
想像していた通りの、いい子だった。二次会も三次会も、もちろん、みんなの目があるから、ベッタリというわけではないけれど、でも、ずうっと一緒にお喋《しやべ》りした。そうして、一緒に終電車に乗った。
「今日は、一緒に終電車に乗っただけだけれど、今度は、もうちょっと、いろんなところに二人で行ってみよう、ねっ」
きっと、グルーミーな感じになってしまうのを怖《おそ》れて、それでだったのだろう。夜空がびっくりしちゃうくらいに明るい声で私に向かって言った。それまで、うつむき加減だった私は顔を上げると、「はい」、もうちょっと、柔《やわ》らかい言葉で返事をしようと思ったのに、ついつい、心の中の緊張《きんちよう》を感じさせる言い方をしてしまった。
「覚えてる、覚えてる。たしか、林君って名まえだった男の子。崇子、付き合っちゃうの?」
くるみが、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を出した。
私はみんなが嫌《きら》いな赤い色をしたビーツをフォークで刺《さ》した。そうして、
「うーん、どうかなあ。今度、会いましょ、ってことにはなっているんだけれど」
お部屋《へや》の前で緊張《きんちよう》しながら彼に返事したことを思い出しながら、でも、多少、勝ち誇《ほこ》った感じで答えた。
おやすみのキス
「菜摘《なつみ》さんは、何がお好きなの?」
真一《しんいち》君のお母さまに尋《たず》ねられた。三人で、買い物に来ていた。中軽井沢《なかかるいざわ》の駅から歩いて二、三分といった距離にあるスーパーマーケットへだ。運転手は、もちろん彼だった。
「何でも食べられます」
咄嗟《とつさ》に、そう答えた。本当は嫌《きら》いな物が一杯《いつぱい》あるというのに。「困ったなあ」、心の中では後悔し始めていた。
「あら、それはいいことね」
よそゆき顔した私の返事を、そのまま、信じ切ってしまったお母さまは、ニコニコしながらおっしゃった。
買い物に来ている人たちは、そのほとんどが別荘客らしかった。家族連れが多い。お坊ちゃんのまま大人《おとな》になってしまいました、って感じの男性と、女性の方はお見合いで一緒《いつしよ》になりました、って顔をした、三十代のカップルがいる。
子供は、まだ、ヨチヨチ歩きだ。どんな夫婦の間に生まれた子供でも、幼い時はかわいらしい。なあんて、ご免《めん》なさい、つい、性格悪い子の発言となってしまった。別に悪意があるわけじゃあないわ。
老夫婦と息子《むすこ》夫婦が一緒に、という集団もいる。そうして、白人の避暑客もだ。そのいずれもが、軽井沢《かるいざわ》という街の雰囲気《ふんいき》に溶《と》け込んでいた。ごく自然な感じで。
中には元気のいい若者の集団もいた。ずうっと南の方にある塩沢湖《しおざわこ》のあたりでテニス合宿をしているのだろう。あれにしよう、これにしようと大きな声で喋《しやべ》っている。きっと、軽井沢へやって来たというその出来事だけで興奮しちゃっているのだ。
けれども、そういう私だって、今まで軽井沢へやって来たのは、合宿とか旅行とかいった形でだ。塩沢湖の民宿だったり、軽井沢とは名ばかりの群馬県にある北軽井沢のペンションだったりした。
避暑客の気分になっていただけだ。だから、普段は学食の片隅《かたすみ》に置いてあるウォーター・クーラーのお水をゴックンしているような少年が、「ペリエも買っていこうよ」なんて合宿仲間に大きな声で喋っているのを聞くと、「わかるなあ、その気持」と思ってしまう。
本当に、そう思うのだ。なのに、今の私ときたら、ごく自然そうに「毎年、軽井沢で二か月近く過ごしているの」みたいな振《ふ》りをしていた。
本当にそういう夏の過ごし方を、それこそ、生まれた時からしている真一君と一緒にいるものだから、つい。
「大丈夫なの? 何でも食べられるなんて言っちゃって」
カートを引いていた彼が、助け船を出してくれた。ほら、青山や広尾《ひろお》あたりのスーパーマーケットに行くと置いてある、金属製のカート。手提籠《てさげかご》よりも多くの商品を、それも、無造作に入れていくことが出来る。
「えー、大丈夫よ」
ドギマギしながら、答えた。
「また、そんなこと言って。実は違うんだ、ママ。ナッピンは生の魚が駄目《だめ》なんだ。後、トマトとキュウリもね」
言われてしまった。どうしたらいいのだろう。もちろん、彼は好意で言ってくれたのだろうけれど、でも、素直《すなお》じゃない子だとお母さまに思われてしまうかもしれない。
何か言わなくては、と思った。それも、明るい声でだ。けれども、出来なかった。どんなことを言ったとしても、単なる弁解で終わってしまうような気がして。
「どうしたんだよ、ナッピン。いつものナッピンらしくないよ。緊張《きんちよう》しちゃっているのかな」
もう一度、助け船を出してくれた。今度のは、コックン、うなずくことが出来た。ご免なさい、真一君。
「そうだったのね、菜摘さん。いいのよ、遠慮《えんりよ》しないで言って下さればいいのに」
お母さまも、そう言って下さった。冷静に考えてみたら、嫌《きら》いな食べ物があったとしても、それは隠《かく》し通さなくてはいけないほど恥ずかしいことでもないはずだものね。それに、「エヘヘ、本当は嫌いな食べ物、結構、あるんです」って、途中《とちゆう》で白状《はくじよう》したってよかったのだよね。
なのに、駄目《だめ》だった。どうしてなのかな、やっぱり、緊張しているのかな。
「はい」
小さな声で、けれども、精一杯《せいいつぱい》、明るい感じで答えた。
「軽井沢へ行くかい、夏休みに?」
真一君が誘《さそ》ってくれたのは、六月の中旬《ちゆうじゆん》だった。雨続きで、だから、デートは都内の映画館やファッション・ビルをグルグル、というワンパターンが重なっていた。
五月の頃は、三浦半島や房総半島、それに渋い感じで奥多摩《おくたま》にまでドライヴ、というデートを重ねていたせいもあってか、余計《よけい》に物足りない感じだった。
「うん、もちろん」
渋谷《しぶや》の宮益坂《みやますざか》下の交差点で信号待ちしている時に聞かれた私は、体をギュッとねじるようにして彼の方を向いた。すると、片手をハンドルの上に置いたまま、もう一方の手で私の頭を撫《な》でてくれた。
「絶対によ」
私は念を押《お》した。
「約束するよ」
彼は微笑《ほほえ》みながら答えた。
「うわあ、楽しみだなあ、お泊《と》まり出来るなんて」
そう言いかけた私の口を、なのに、彼の唇《くちびる》がふさいでしまった。ムグムグムグという感じで、その後に言おうと思っていた私の言葉は、掻《か》き消されてしまった。
二人だけで泊まれるのだとばかり思っていた。ホテルに部屋を取るのだとばかり思っていた。けれども、よおく聞いてみると、|千ヶ滝《せんがたき》にある彼の家の別荘に行こう、という話なのだった。
「えー、じゃあ、私が食事を作らなくちゃいけないの」
今年、二十歳になったばかりの私は、お料理なんて出来やしなかった。少しは習い始めた方がいいのかな、と思ったりもするのだけれど、でも、それよりも楽しいことが一杯有り過ぎて、だから、せいぜいが、ハンバーグ・ステーキくらい。そうそう、後はシチュー。
「ううん、平気だよ」
一歳年上の彼は、そう言った。
「やったあ、外へ食べに行くんでしょ。だったら、ナッピン、御機嫌《ごきげん》だね」
旧軽井沢にある菊水《きくすい》あたりへ行くのかな、と思った。家族でやっている菊水は、洋食屋さんだ。頬《ほ》っぺたが落ちるほどにおいしいというわけではないけれど、でも、軽井沢ではなかなかのものだ。
中華料理の栄林もあるなあ、と思った。赤坂に本店がある栄林は、四月から十月まで軽井沢でも営業しているという話だ。他の多くの店が夏場だけなのに、随分《ずいぶん》と商売熱心。少し油っぽい気はするけれど、でも、これまた、なかなかのものだ。
どちらの店も、去年の夏、同好会の合宿の時に覚えた。日曜日は、午後から自由行動になる。毎年、塩沢湖へやって来ているものだから、一応は一人前の軽井沢通になっている先輩《せんぱい》に連れられて、それで覚えた。
ホテルのコーヒーハウスってパターンも有りだな、と思った。でも、軽井沢プリンスホテルのカレーライスは、学食でカレーライスを頼んだ時に出てくる舟型の器だから、出来れば、万平ホテルかホテル鹿島の森がいいなあ、贅沢《ぜいたく》なわがままを考えたりもした。
けれども、こうしたわがままな夢《ゆめ》は、あっという間に消されてしまった。なぜって、別荘には彼の両親もいるのだ、ってことを話してくれたから。
「考えちゃうなあ、だって、初めてお会いすることになるのよ」
板橋区の徳丸《とくまる》に住んでいる私のことを、デートの度《たび》に必ず送ってくれる彼は、私の家でお茶をしていくこともあった。だから、もちろん、私の両親とも顔を合わせている。
けれども、彼の両親には、まだ会ったことがなかった。ひとつには、横浜の鶴見《つるみ》区に家があるからだった。私の家からは、随分《ずいぶん》と遠い。もちろん、たとえば、湘南《しようなん》の方へドライヴした帰り途《みち》に寄ることも出来ないわけではなかった。
でも、ほら、門限ギリギリになるまで、二人だけでいたいでしょ。お茶をして食事をしてドライヴをして、そうして、静かな時間も過ごしたいし。私が彼の両親に会うのを避《さ》けていたわけでは、だから決してなかった。また、彼が私を両親に会わせるのを避けていたわけでも、もちろんなかった。
「平気だよ、ごく普通にしていればいいんだから」
彼はそう言った。
「だって、初めてお会いしたその日に、軽井沢のお家に泊《と》まらなくちゃいけないのよ。やっぱり、心配」
いつもは、彼の言うことを割合と逆らわずに受け入れてしまう私なのに、ちょっぴり抵抗《ていこう》してしまった。
そりゃ、そうでしょ。誰でも付き合っている相手方の両親に初めて会う時には、緊張《きんちよう》してしまうもの。なのに、その上、同じ屋根の下で一晩を過ごして、次の朝、顔を合わせなければならないなんて。
「リゾートへの旅行のつもりで来ればいいんだよ。平気、平気、僕も一緒《いつしよ》だから」
真一君は、相変らずの口調《くちよう》だった。まったく、もう、という感じだ。リゾートへ出かける時には、いつでもワクワクしていた私なのに、今回ばかりは気が重かった。
「今日は、ご免《めん》なさい。菜摘、ダメな子だったかなあ」
二階の部屋で、二人、話していた。もちろん、十二時を回っているせいもあるのだろうけれど、あたりにモミの木が生《お》い茂っている|千ヶ滝《せんがたき》西区の別荘地では、物音ひとつしない。静まり返っていた。
「そんなことないよ。大丈夫、二人とも気に入ってくれてるみたいだよ」
彼は、私の肩を抱《だ》きながら、喋《しやべ》った。
「そう? なら、いいんだけど」
窓を開けていた。気持良い外気が部屋の中へと入ってくる。今晩、私が一人で眠りにつく部屋だった。
「僕も、ナッピンと一緒の部屋で眠りたいよ」
一人っ子の彼は、甘えた声でお母さまに言った。お父さまは、一足先にベッドルームへと行かれてしまっていた。
「何、馬鹿なことを言ってるんですか。いい加減にしなさい」
言葉だけ聞くと、随分《ずいぶん》と厳しい口調《くちよう》に感じるかも知れない。けれども、実際の彼女は、ニコニコと微笑《ほほえ》みながら話したのだった。
「どうして? いいじゃない。僕だけ一階の部屋で眠らなきゃいけないの」
食事の後、お父さまとウイスキーのロックを結構、飲んでいた真一君は、少し酔《よ》っ払っていたのかも知れない。子供のような口調で陽気に振舞《ふるま》っていた。
「ねっ、どうして、別々に眠らなくちゃいけないんだろう?」
今はもう大分、酔いも醒《さ》めてきたらしい彼は、いつもと変わらぬ喋り方で私に尋ねた。
「だって、そりゃ、そうでしょ。私たちは、恋人同士なわけだもの」
当たり前のことを、私は答えた。すると彼は、
「なんで? 恋人同士なんだから、一緒に眠ったって一向に構わないじゃない」
これまた、当たり前のことを言った。
どちらも間違ってるわけではないのだろう。けれども、彼や私の両親たちの世代の感覚でいくと、「別々に眠りなさい」、これだった。
「わかったよ。でも、少しだけナッピンの部屋で話をしてからね」
彼は最大限に譲歩《じようほ》した上での、最後のわがままを言った。
「はい、はい、わかりました。本当に少しだけですよ」
やっぱり、一人|息子《むすこ》はかわいらしいみたい。お母さまは笑いながら許してくれた。
「じゃあ、おやすみなさい。今日は本当に楽しかったです」
私は、ごあいさつをした。そうして、
「駄目《だめ》よ、あんまり、お母さまを困らせるようなことを言ったりしちゃ」
忠告しながら、彼の鼻の頭をチョン、軽く押《お》した。スーパーマーケットの店内でドギマギしていた昼間に比べると、随分と余裕《よゆう》が出て来たものだわ。
先週から軽井沢で過ごしているという彼の両親は、朝早く東京を発《た》って午前十時過ぎに着いた私たちを、優しく出迎《でむか》えて下さった。けれども、優しければ優しいほど、私は緊張《きんちよう》してしまった。
もちろん、真一君と将来をどうのこうの、という話ではないのだから、別にごく普通に振舞《ふるま》っていれば、それでいいはずなのに、やたらと固くなっていた。
きっと、彼の家の別荘でだったからだと思う。本来はリラックスするためにある場所も、今回の私にとっては、ストレスが増えてしまう場所だった。
「困らせているわけじゃあないよ。それに、いいんだ。昼間、一所懸命《いつしよけんめい》、ナッピンの宣伝をしてあげたんだから」
「そのことは感謝しているわ、本当よ」
緊張気味の私に助け船を何度も出してくれたのは、彼だった。お陰《かげ》で、お母さま御手製のロースト・ターキーとポトフーが出来上がる頃《ころ》には、すっかり、いつもと同じ陽気な私になっていた。
「両親が気に入ってくれたのだって、エヘヘ、自分で言うのは照れ臭《くさ》いけれど、結構、僕の努力の賜《たまもの》だぜ」
「だから、感謝しているってば」
まだ、付き合い出してから半年あまりの私たちは、将来のことを具体的に話し合ったことがあるわけじゃあない。一人一人、心の中で考えたことがあるわけでもない。
ただ、このまま、ずうっといつまでも付き合えたらいいなあ、そう思っているのだ。だから、彼の両親にも気に入ってもらえる方が、そりゃ、嬉《うれ》しい。
「おやすみのキスをしよう」
少し肌《はだ》寒くなってきた。彼は窓を閉めながら、そう言った。「明日は、もっと親しく話せるようになるといいなあ」、別にそれ以上の何かを期待しているわけでもないこの私は、心の中で独り言をつぶやきながら、大きくうなずいた。
SQ6便・夜間飛行
隣《とな》りのシートの義宏《よしひろ》は、眠っていた。42J。彼のシート・ナンバーだ。そうして、私は42K。窓側だった。窓のところについているプラスチック製のシェードを、さっきから上げたり下げたりしていた。
他にすることがなかったのだもの。座席の前のポケットに入っている機内誌は、往《い》きに読んでしまっていた。機内では、映画を上映していた。けれども、私たちの坐《すわ》っているシートからは見ることが出来なかった。
ちょうど斜《なな》め前にギャレイがあったのだ。スチュワーデスの人たちが、機内食の準備をしたりするスペース。それで、スクリーンが隠《かく》れてしまっていた。
オーディオ・サービスを楽しむという手もあった。けれども、ほら、飛行機の中で聴《き》ける音楽プログラムって、遅《おく》れているんだもの。ちょっと気恥《きは》ずかしくてデートの時に車の中でかけることが出来ないくらいに流行《はや》り過ぎちゃった曲ばかり。
「何か、お飲みになりますか?」
日本人スチュワーデスが声を掛けてくれた。シンガポール航空のスチュワーデスは、ロングドレスを着ている。東南アジアっぽい柄《がら》。マレー語でサロンケバヤと呼ぶらしい。誰《だれ》もが痩《や》せている。こんなにもスタイルが良くて、仕事をこなし切れるのかしらと心配しちゃいたくなるくらいに、スリム。
「ええ、ジンジャーエールを下さい」
ニコッと私も微笑《ほほえ》みながら答えた。隣《とな》りの義宏は、こうした遣《や》り取りの間も、ずうっと眠ったまま。グッスリだ。
もちろん、わがままな理江子《りえこ》になりきって、彼を叩《たた》き起こすことも出来ないわけではない。けれども、それはちょっぴりね、という気がした。どうしてって、そりゃ、プーケット島とシンガポールに泊《と》まっている間にいろいろと不満な出来事はあったけれど、でも、やっぱり、義宏のことが大好きだったから。
そうして、もうひとつ、今回の旅行の費用は、まだ大学生の彼が、今までに溜《た》めたお金を全部|叩《はた》いて出してくれたものだったから。お金の多い少ないで愛情が決まるわけでは、もちろんないけれど、でも、彼に対して負い目が出来てしまったことは確かでしょ。
「フーッ」
これ以上、一人で考え続けると息が詰《つ》まってしまう気がした。それで、さっきと同じように、シェードを上げたり下げたりし始めた。静かにだ。だから、義宏はもちろんのこと、他の乗客の人たちが起きてしまう怖《おそ》れは、まったくといっていいほどなかった。
外は真っ暗だった。日本とは一時間の時差があるシンガポールを夜中の十一時五十九分に発《た》って、日本には朝の七時十五分に着くSQ6便は、ただひたすら、闇《やみ》の中を飛び続けている。明るい空を飛ぶのは、多分、着陸|間際《まぎわ》の一時間半くらいだけだろう。
顔をピタッ、窓にくっつけてみた。なにも見えない。ただただ、暗闇が広がっているだけだ。きっと、北極経由の北廻《きたまわ》り便だったりしたら、オーロラが見えたりなんてこともあるのかも知れない。けれども、東南アジア線でそんなことを望むのは、無理なお話だった。
だから、何も見えるはずがない。なのに、ピタッ。相変らず、窓に顔をくっつけて外を見ていた。なんだか、クマのパディントンになってしまったような気がした。
きっと、パディントンが飛行機に乗ったならば、大好物のママレードをペロペロしているか、ペルーの老グマホームに住んでいるルーシーおばさんに汚《きたな》い字で絵ハガキを書いているか、さもなきゃ、今の私と同じように窓にピタッ。そんな感じがする。
「お待たせいたしました、お客さま」
さきほどのスチュワーデスが、ジンジャーエールを持って来て下さった。
「有《あ》り難《がと》う」
もう一度、ニコッとすると、私は、透《す》き通ったプラスチック製のコップを受け取った。指先がひんやりとした感じになった。
「よかったよ、理江子。最高だったよ」
プーケット島にあるホテルの一室で、彼はそう言った。もう少し正確に言うならば、ホテルの客室のベッドの上に二人、横になっていた時のことだ。
そうして、更《さら》に詳《くわ》しい説明を加えるならば、プーケット島はタイにあるリゾート地で、また、ベッドの上に横になっている義宏は、ちょうど、私を抱《だ》き終えたところだった。
外では、雨が降っていた。昼間は、雲ひとつない、とても快適なお天気だったのに、夕方近くから雨が降り出した。夜になっても、止まなかった。
もしかしたら、日本よりも、ひとつひとつの雨粒の大きさが大きいのかも知れない。彼に抱かれながらも、なぜか、やたらと醒《さ》めた気分でベッドの上にいた私には、だから、雨音が一際《ひときわ》大きく聞こえた。
義宏は一つ年上だった。三年生。渋谷《しぶや》にある大学へ通っていた。去年までは、厚木《あつぎ》市にある教養課程のキャンパスで勉強していた。
「これで、やっと、本当の東京都民になれたよ」
金沢出身の彼は、小田急線の祖師谷大蔵《そしがやおおくら》に一人で住んでいた。けれども、去年までは毎朝、下り電車に乗って帰省客 にならなければならない不幸な少年だった。「東京都民」でいられたのは、授業が終わって戻《もど》って来てからの夜だけでしかなかった。
私は、目白《めじろ》にある短大へ通っていた。このところ、かわいらしい女の子が増《ふ》えてきたと評判の短大だ。麻布《あざぶ》十番のマハラジャへ行って石を投げると、必ず、四人や五人、見つけることは出来ると言われてるくらいに遊んでいる女の子の多い学校だった。
もっとも、それはどこの学校にも言えることなのだろうけれど、地味目《じみめ》な女の子だっている。そうして、ごくごく普通な女の子だっている。私はと言えば、自分としては、ごくごく普通のジャンルに入ると思っていた。けれども、友だちに言わせると、「大丈夫よ。理江子は、しっかり、遊び人よ」ってことになるみたいだった。
「何て言うかさあ、理江子の反応が敏感《びんかん》になってきたような気がね、するんだ」
義宏は、そう言った。
「そおう? だったら、うれしい」
私は答えた。そうして、続けて、
「でも、恥《は》ずかしいなあ」
精一杯、子供っぽい声を出した。
女性という名の動物って、すごいんだなあと思う。心の中にはひとかけらもないような感情を、いかにも本当らしく言うことが出来るのだもの。この時の私がそうだったように。
義宏とのセックスで、充実感を味わえたことは今までに一度もなかった。彼のテクニックに問題があることは、ある程度、はっきりしていた。もしも、彼の腕前をVTRか何かで撮《と》って、再生してあげたならば、当の本人だって思わず、「なるほど」とうなずいてしまう気がする。
けれども、彼にばかり問題があったわけではない。私の方にも原因はあったのだ。
一年ほど前、義宏と知り合った頃、私はかなり年上の男性と付き合っていた。三十八歳。インテリア・デザインの会社を経営していた。高校三年の秋口から付き合っていた人だ。
もちろん、年齢がいっているから、ベッドの上でのテクニックも上手《じようず》、なんて相関関係があるわけじゃあない。でも、今でも冷静に考えて、素敵《すてき》だったと思う。「どういうところが上手だったの?」と尋《たず》ねられても、咄嗟《とつさ》には答えられないのだけれど。
うーん、たとえば、愛撫《あいぶ》の仕方が上手だったのだと思う。二人の体が一緒《いつしよ》になってからの運動の仕方が、上手だったのだと思う。言葉で説明すると、ただ、それだけのこと。けれども、実際に義宏に抱《だ》かれてみると、違《ちが》いが体でわかる。愛撫ひとつ取ってもだ。
彼は、私の唇《くちびる》へのキスの仕方が単調だった。唇と唇を、ただ合わせてみました、みたいな具合なのだもの。そのくせ、急に舌を私の口の中へと強引に入れようとする。雰囲気《ふんいき》がなくなっちゃう。
「年上の男性」は、もっとバリエーションに富んだキスの仕方だった。唇と唇が触《ふ》れるか触れないかの微妙《びみよう》な感覚を、まずは楽しませてくれる。すぐにブチュッ、なんて感じのキスをしたりはしなかった。
触れそうになると、サッと顔を引く。何回か繰り返す。早くキスをしたいな、と思っていた私は、焦《じ》らされて焦らされて、もうそれだけでも彼のことが余計に好きになってきてしまう。
餌《えさ》がすぐ目の前にぶら下がっているのに捕《つか》まえることが出来ないと、ほら、誰《だれ》でも欲しくて仕方がないという状態になるでしょ。
でも、捕まえてみたら、案外、つまらなかったという場合もある気はするんだ。「年上の男性」は、唇と唇とがしっかりとくっついた後も失望するどころか、むしろ、ますます、充実した気分を味わわせてくれた。
舌の先を器用に動かして、私の舌を愛撫するのだ。舌の付け根の部分。裏側。もちろん表側も。そうして、私の舌の先。動かし方も、スピードを早めたり緩《ゆる》めたりする。単調な感じを私に与えない。
こうしたキスの上手《うま》さは、唇と唇の場合だけではなかった。首筋や鎖骨《さこつ》へ愛撫をしてくる時も、同じように変化に富んでいる。極《きわ》め付けは、手や足の指を一本一本、丁寧《ていねい》に口に含《ふく》んでくれる愛撫《あいぶ》の仕方だった。
まずは、舌の先を指の表と裏にサッと走らせる。続いて、口の中に含む。今度は、口の中で舌の先を使って指に愛撫をしてくれる。そうして、最後に指の付け根の部分。ここを舌の先を使って軽く押《お》す。高校二年から三年にかけて付き合っていた私と同い年のボーイフレンドには思いもつかなかったであろうテクニックだった。
「本当に良かったよ」
義宏は、そう言うと、上半身を起こした。私の乳首《ちくび》にキスをした。体がピクッと反応した。ジェットコースターがグワーンと下っていく時のような感じを味わうことなく終わってしまったプーケット島の夜なのに、それでも、体は敏感になっていたのかも知れない。
義宏の愛し方を、本当は、私の体は素直《すなお》に喜んでいたのかも知れない。だから、その興奮が完全には収まらないうちに乳首へもう一度キスされて、ピクッ、反応したのだろう。そう思った。
結局のところ、上等な食べ物を与えられ過ぎていた私は、少し贅沢《ぜいたく》になっていたのかもしれない。義宏は、今度は乳首を軽く噛《か》んだ。さっきよりも大きく、ピクッ、体が反応する。彼は、上半身を起こしたままだ。私は、両手を伸《の》ばすと彼の首に巻き付けるようにした。
「お代わりは、いかがですか?」
スチュワーデスが、また声を掛けてくれた。眠らずにいる私のことを気に留めていてくれるのだ。うれしい。
私のまわりは、同じパターンで行動したグループ・ツアーのお客さんばかりだった。プーケット島とシンガポール五泊六日の旅に参加した人たちだ。私と同い年くらいのカップルもいた。二十代半ばの女性ばかりのグループもいた。
皆、真っ黒に日焼けしている。日本人じゃないみたい。時計をすべてマレー半島に置いてきてしまったくらいにのんびりとしたプーケット島と、街がとてもキレイなシンガポール。それぞれの胸の中には、いろんな思い出が詰《つ》まっているのだろう。
初めて二人で海外へ出かけた私たちは、途中《とちゆう》、何度も喧嘩《けんか》をした。いずれも、取るに足らないつまらないことばかりでだ。たとえば、私のお化粧《けしよう》時間が長いとか、レストランで彼の英語がなかなか通じなかったとか、日本にいたら、お互い、エヘヘと笑って済ませられることばかりだ。
けれども、外国では、笑って済ませられなかった。いずれもが、口喧嘩の格好の材料となった。そうして、もうひとつ、私には、毎晩、義宏に抱《だ》かれた時に充実感を味わうことなく終わってしまったことに対する、もやもやとした気持もあった。
彼の首に両手を巻き付けるようにした時もやはり、心の片隅《かたすみ》に、こうした気持はくすぶっていたのだろう。最後には、本当につまらない、たとえば、シンガポールの街を歩いた時に、どちらかの歩調が早い遅《おそ》いといったことで喧嘩をするまでになっていた。
「いいえ、もう、結構です」
私は、そう言うと、空《から》になったコップを彼女に手渡そうとした。けれども、かなり手を伸《の》ばさないと駄目《だめ》だ。私の隣《とな》りに義宏。そうして、もう一人、中年の日本人のおじさん。スチュワーデスが立っている通路は、その次だった。結構、距離がある。
「あっ、よろしいですよ、このトレイの上に載《の》せていただければ」
ランの花を描《えが》いたシートが敷かれたトレイを差し出してくれた。
「はい」
私は、努《つと》めて明るい声を出した。出してしまってから、ちょっぴり明る過ぎて、おまけに、ボリュームが大き過ぎたかな、と心配になってしまうくらいな声をだ。
彼女は、微笑《ほほえ》んでくれた。スチュワーデス特有の、少し鼻につくような微笑みではなく、ごく自然な感じでだ。
「彼とご旅行だったの?」
尋《たず》ねられた。どうしようかな、と一瞬《いつしゆん》、思った。「いいえ、兄弟です」と言うことも可能なのだ。でも、正直に答えようと思った。
「ええ、まあ」
さっきの返事よりも、心なしか、元気がなかったような気がした。喧嘩《けんか》ばかりしていたから、明るく「はい」とは言いにくかったのだ。心の中で言い訳をした。
「でも、喧嘩ばかりだったんです、旅行中」
正直に答えてしまった。だって、本当のことなのだもの。すると、彼女は、
「海外への旅行って、誰もがそうなのよ。私だって、いまだにそうよ。ボーイフレンドと出かけた時に」
優しく答えてくれた。やっぱり、私がわがままになり過ぎていたのかも知れない。そう思った。シェードを上げたままの窓の外が、少しずつ明るくなってきている。
きっと、もうしばらくすると、朝食のミール・サービスが始まるのだろう。疲れて眠っている義宏のことは、それまで、そっとしておいてあげよう。
見ると、両手を組んで、シートベルトの上あたりに置いていた。私は、その上に左手を載《の》せてみた。暖かい感触が伝わってきた。
苗場《なえば》のヴィラから
えへへ、もしもし、だあれだ? そう、美和《みわ》よ。でも、どうして、すぐに、わかっちゃったのよう。
なあに? いつも、学校で話しているからですって。うーん、そうかあ。やっぱり、簡単に、わかっちゃうんだ。せっかく、いつもとは違《ちが》うトーンの声、出してみたのにな。つまんない。
でも、ちょっぴり、喋《しやべ》り方が早いでしょ、今夜は。結構、興奮しちゃってるんだ、実は。だって、今、苗場《なえば》にいるんだもの。雪が降ってるの。
なあに? そんなこと、わかってるって。おかしいなあ。お休みに入る前に、美和、友紀子《ゆきこ》に話していたっけ。じゃあ、いつの間にか、忘れちゃっていたんだ、喋った当の本人が。弱ったもんだね、こりゃ、えへへ。
でもね、きっと、次のこと聞いたら、びっくりしちゃうと思うんだ。ほら、少し、声の雰囲気《ふんいき》が変わった。落ち着いてよ、友紀子。興奮するのは、私一人で十分だから。
なあんて言いながら、実は、こうして、勿体《もつたい》ぶっちゃってる私も、性格いいなあ、とは思うんだけれどね。
ジャーン、実は、耕治《こうじ》君と一緒《いつしよ》なの。そう、美和のボーイフレンドの。えー、どうして、驚いてくれないの。拍子抜《ひようしぬ》けしちゃうじゃない、やっぱり、もっと、ちゃあんと驚いてくれなきゃ、いやだあ。
そりゃ、冷静に考えてみれば、たしかにさ、今まで、スキーをしたこともない美和が、冬の苗場に来ているんだから、「ムムッ、これは、誰《だれ》か、男の子と一緒だな」って想像するくらい、みんな、出来るとは思うんだ。
だって、スキー・スクールに入るんだったら、もっと、地味目《じみめ》なところにバスで送り込まれちゃってるだろうからね。
でも、やっぱり、一応は、驚いてほしいんだなあ、美和としては。友紀子って、どこか、不思議なところがあるね。まだ、ボーイフレンドと呼べるような相手が一人も登場していないのに、私がいろんな男の子と付き合ってきた話、平気な顔して、「フン、フン」、うなずいて聞いちゃうんだもの。
他の女の子って、違うよ。「エーッ」とか、「ヤダー、信じられない」とか、大きな声を出して、嫌《いや》そうな表情するもの。でも、そのくせ、真剣《しんけん》に聞いてるんだよね。あれって、結構、おかしい。
本当は、知りたくて知りたくて、仕方ないんだ、それに、自分も、早く、そうなりたくて、仕方ないんだよ。もちろん、わかるわ、美和にだって、そのくらいのこと。だって、昔、中学生だった頃の私が、同じ立場だったもの、彼女たちと。
で、最初はね、驚いてもらうと、とっても、うれしいの。なんて言うのかな、自分が、みんなより偉くなったような気がして。一種の英雄気分だね。だから、ベラベラ、喋《しやべ》っちゃう。すると、その度《たび》に、「エーッ」。ちゃあんと、驚いてくれるんだ。気分、いいよ。
ただし、それは、最初のうちだけ。「エーッ」に乗せられて、ベラベラ、喋っちゃう自分のことが、なんだか、段々、ピエロみたいな気がしてくるの。
だって、そうでしょ。今のところは、自分たちにとって未知の世界を、この私だけが知ってるから、それで、彼女たちは、「エーッ」なの。きっと、ちょっとでも、自分自身が、その中に入れるようになったら、むしろ、「美和なんかより、よっぽど詳《くわ》しいのよ」みたいな素振《そぶ》りを見せたがると思うわ。本当よ。
でも、それは、あくまでも素振りの部分だけ。自分のことを具体的には喋らないもの、きっと。そうして、言いふらすようになるの、今まで、ちょっぴり尊敬していた私のことを。「美和ったらねえ」って。
くやしいじゃない。都合のいい部分だけ大人《おとな》になったフリして、でも、後は、いつまでも、いい子のままでいようとするんだから。そうして、親切に教えてあげた私だけが、まるで、浮気性《うわきしよう》な娘《むすめ》みたいに言いふらされちゃうのよ。あー、たまんない。
だから、最近は、なるべく、他の子たちには、喋らないようにしているの。例外は、友紀子だけ。友紀子は、「フン、フン」って静かに聞いてくれて、おまけに、そのこと誰にも喋らないでしょ。
やっぱ、誰か一人には喋りたいのよ。変なたとえだけれど、犯罪者がその行ないを誰にも打ち明けないでいるのは難《むずか》しいのと同じようにね。ああん、気にしないでね。美和も友紀子も、大丈夫、善良な一市民だもの。
なんだか、話がモニョモニョしちゃったけれど、一体、どこまで進んでいたんだっけ? 苗場に来ていて、それが、耕治君と一緒《いつしよ》で……。そうそう、思い出した。友紀子は、ちっとも、驚かなかった。ここまでよ、ね。
うーん、やっぱり、ちょっとは、驚いてみて欲しいなあ。えっ、なあに? わがままですって。ご免《めん》、ご免、他の子たちみたいな驚きは、もちろん、グエーッだけれど、でも、ほら、わかってよ、友紀子。私だって、まだまだ、十八になったばかりの、気まぐれなヒヨッ子だから。
そうそう、どうも、ありがとう。「まあっ」なんて言葉が友紀子の口から出るだけで、うんうん、これは、驚き以外の何物でもないわ。真剣、よろしい、なあんてね。
耕治君のことは、どのくらい知ってるんだっけ。私より三つ年上なこと、言ってあるよね。やったあ。よかった。美和の記憶力も、それほど鈍《にぶ》ってるわけじゃあないんだ。
大学一年生だってことは、知ってたっけ? えー、そんなに驚かないで、駄目《だめ》よ。もう、いつもの友紀子らしくしていて。つまり、二浪して大学に入ったわけ。それだけのことよ。
えっ、なあに? 大学名? うーん、来ると思ったんだ、その質問。答えないと、やっぱり、まずいよね。じゃあ、教えてあげる。小田急《おだきゆう》線沿線にあるんだ。ううん、都内じゃないよ。ずうっと、遠く。町田《まちだ》より、相模大野《さがみおおの》より、もっと、遠く。
違う、違う、厚木《あつぎ》にある大学じゃないよ。あそこは、だって、渋谷《しぶや》にもキャンパスがあるじゃない。耕治君の通ってる大学は、まだ先のね……。すごい、わかっちゃったの。それ、それ、その大学。野球の原選手が出た大学。学生の数が、やたらと多いんだ。
学科? えー、結構、友紀子って、聞き上手《じようず》なんだ。本当は、こんな話をするために、わざわざ、お電話したわけじゃないのに、なぜか、喋《しやべ》っちゃう。ところで、平気なの? 長電話してて、パパやママが怒らない?
ふーん、そうなの。両親で、クラシックのコンサートにお出かけしているから、おウチにいるのは、友紀子と妹だけなの。じゃあ、大丈夫だね。でも、クラシックのコンサートかあ。友紀子のおウチっぽいね。なあに、話を元に戻《もど》しなさいよ、ですって。まいったわ、友紀子には、やっぱり、かなわない。彼は、経済を勉強しているの。
あのね、おかしいんだよ。美和、大学での出欠の取り方、よくわからないけれど、でも、多分、名まえを呼ばれたら返事をするとか、出席カードに自分の名まえを書くとか、そういう感じなはずでしょ。
耕治君の学校って、違うの。一応、出席カードの方式なんだけれど、でも、そのカードの三分の二くらいにラインが引いてあって、そこに、授業内容の要約を記入するんだって。すごいでしょ。まるで、小学生みたい。初めて聞いた時、思わず、笑っちゃった。
彼のおウチは、藤沢《ふじさわ》なの。うん、自宅通学。そうだよ。知り合ったのは、九月だから、へえー、自分でもビックリ、もうじき、半年だね。早いなあ。
美和が行ってる原宿《はらじゆく》のカットハウスがあるでしょ。そう、そう、東郷《とうごう》神社の近くにあるカットハウス。彼は、そこでアルバイトしてたの。ノー、ノー、美容師さんの見習いじゃないよ。受付係兼キャッシャー。
まあ、誰でも出来る仕事だって言えば、素直《すなお》に、「うん」と、うなずくしかないんだけれど、でも、なんとなく、カットハウスの受付係なんて、スマートなアルバイトでしょ、大学生にしたら。でも、多分、この話は、大昔《おおむかし》、友紀子にしてるよね。失礼しました。
なあに、もう少し、まともな場所で知り合って欲しかった? それは、ひどいよ。そんな言い方って、ないと思うなあ。
図書館で知り合おうと、学園祭で知り合おうと、それから、ママに内緒《ないしよ》でお出かけするディスコで、あっ、そうか、友紀子はディスコなんて行かないものね。でも、まあ、とにかく、そうした、ディスコで知り合おうとも、関係ないんだ。場所が、どこであろうと、男の子と女の子が知り合ったこと、それ自体は変わらないんだから。
それにさ、私たちみたいに、小学校から、ずうっと女子校育ちだと、チャンスが少ないじゃない。学園祭とかディスコ・パーティーで知り合うのって、なんか、やたらとお互い、ギラギラしてる感じがしちゃう。どうも駄目《だめ》なの。好きになれないの。
学園祭は、ようやっとのことで、私たちの女子高の学園祭入場チケットを手に入れた、ニキビだらけの男の子ばかりでしょ。パスしたい世界だわ。
たまあに、「おっと」って感じの、素敵《すてき》な男の子がいたりもするけれど、でも、その手の男の子には、学園祭前から付き合ってる女の子がちゃあんといて、その子と校内を仲良く歩くために、わざわざ、やって来ましたっぽいじゃない。期待できないのね、学園祭って。
どうして? グッド・チャンスだって、本当に思ってるの、学園祭を。甘いなあ、考えが、友紀子は。一対一で付き合ったことが、まだ、一度もないから、真剣、そんなこと、思っちゃうんだね。
そりゃ、グループ交際の花を咲かせる人だったら、なんてったって、学園祭よ。でも、このパターン、危険過ぎると思わない? いつまでたっても、グループ交際のまま、進展が見られないんだもの。
みんなで映画見に行って、スパゲッティ。四対四で旅行に行ったって、昼間は高原牛乳ゴックン、夜はトランプ。ねっ、高校生にもなって、いまだに健康優良児。やめて欲しいなあ。
ディスコ・パーティーも、危険なんだよねえ。ほら、暗いじゃない。あっ、そうか。ご免《めん》、行ったことないんだ、友紀子。ううん、別に馬鹿にしてるわけじゃないんだから、誤解しないで欲しいなあ。
とにかく、暗いからダマされ易《やす》いの。「これは、よい、よい」って、期待してチェックした男の子が、パーティーの後、明るいところで目を合わせた瞬間《しゆんかん》、「これは、いけない」とガックリきちゃうこと、多いし。
だから、美容院で知り合ったなんて、適度に健康的で、でも、適度に妖《あや》しい匂《にお》いもして。ね、なかなかのものよ、エヘヘ。
なあに? 今、彼も一緒にいるのか、ですって? うーん、なかなか、いい質問。ブー。耕治君は今は、隣《とな》りのヴィラまで遊びに行ってるの。
そうなんだ、プリンスホテルへ泊《と》まってるんじゃないの。彼のおウチ、ヴィラを持ってるの。で、お友だちのヴィラが隣りなのね。当ったりい、早い話が、マンションみたいな感じね。それが、何棟《むね》もあるの。
お料理? ウエーン、そんな質問、しないで。美和、スクランブル・エッグだって、黒みがかった黄色になっちゃうんだもの。でも、平気よ。安心して。ホテルの中に、沢山《たくさん》、レストランがあるから。
それに、耕治君のお友だちも、ガール・フレンド同伴で何組も登場してるから。大学生や家事手伝いやってるお姉さんたちが、お料理してくれるの。「美和ちゃん、頑張《がんば》って、少しずつ、お料理を覚えていきましょうね」って。
「はーい」。もちろん、元気よくお返事よ。でも、はっきり言って、お姉さんたちの腕前も、もうひとつだね。今晩は、スコッチ・エッグだったの。ちょっぴり、塩辛《しおから》かったなあ。
えっ? そりゃ、当然でしょ。耕治君は、一級の免許を持ってるんだもの。美和? もち、月とスッポン。ボーゲンを教えてもらってるの、ゲレンデで。転んでばっかり。でも、楽しいよ。好きになりそうだな、このスポーツ。
道具? はい、はい、一緒に駿河台《するがだい》下のスキー・ショップへ行って、彼に選んでもらったの。そうでしょ、うらやましいでしょ。早く、友紀子もボーイフレンド、作ればいいのに。選《え》り好みなんて、してちゃ、駄目《だめ》、駄目。
うん、随分《ずいぶん》、長くお喋《しやべ》りしたね。平気。だって、彼のおウチが払うもの。それより、実は、友紀子にお願いがあるんだ。美和、ママに「誰と行くの?」って行きがけに聞かれて、「あ、あの、友紀子と」。口から出任《でまか》せを言っちゃった。
ご免《めん》ね。だから、もしかしたら、ママから友紀子のおウチに電話があるかもしれないの。「お宅の友紀子さんも、苗場ですか」って。その時は、お願い、うまくやって。友紀子のママ、平気だよね。お祈りしちゃおう。
えーっ、もう美和のママから電話があったの? で、誰が出たの? ギャーッ、友紀子が出たの。どうしよう。なんで? そうかあ、コンサートへ行ってるんだ。まずい。
何て尋《たず》ねられたの。「友紀子さん、いらっしゃいますか?」。ガビーン。何て答えたの。
「いいえ、苗場へ行ってます」。友紀子が自分で? うわぁっ、なあるほど、頭、いい。妹のフリしちゃったの? だから、友紀子は頼れちゃうんだよね。
この御恩は、忘れませんわ。ほんと、ほんと、ウソなんかじゃないわ。えっ、なあに? バレンタイン・デーに、プレゼントを渡したい人がいるの。で、どうすればいいかって? オーケー、相談に乗るわよ。
美和、なんたって、中学二年の時、チョコレートを二十個買って来てね、|市ヶ谷《いちがや》の駅の改札口で、ステキな人に「はい、どうぞ」、プレゼントしたくらいだから。まかして。
ひどいなあ。そんな浮気《うわき》っぽい人のアドバイスは、当てにならないですって。ううん、それは友紀子が間違《まちが》ってるわ。そういう、ドジなこと、一杯《いつぱい》、して来てるからこそ、いいのよ。なんだって、失敗を経験しなくっちゃ自分のものにならないわ。恋愛だって、そうよ。なあんてね、お姉さんぶっちゃった。エヘヘ。でも、そう思うでしょ、ねっ。
あっ、耕治君が戻《もど》って来たみたい。チャイムが鳴ってるの。「ハーイ、今」。じゃあね、友紀子、どうもありがとう。うん、もちろん、楽しんでくるわ。わかってる。
東京へ戻《もど》ったら、じっくり、相談しましょ。綿密な計画、立てて。本当に、ありがとう。じゃあね。バイバイ。
ペディとチョコレート
「伝えておいた方がいいんじゃないかなと思うことがあるの?」
伸子《のぶこ》から電話のかかって来たのは、昨日《きのう》の夜だった。私はチョコレートを食べながら、雑誌を見ていた。出張で香港《ホンコン》へ出かけたパパがおみやげに買って来てくれた、ペニンシュラ・ホテルのチョコレートだ。おいしい。
「なあに?」
尋《たず》ねた。また、どうせたいしたことのない内容だろう。そう思った。同じ大学の国文科に籍《せき》がある彼女は、物事を大げさに言うところがある。そこが、まあ、彼女の純粋でいい点でもあるのだろうが。
「浩美《ひろみ》の悪口、言ってる子たちがいるの」
「ふうん、また」
努めて冷静な声を出した。いや、実際は少し心の中の動揺《どうよう》が声に表われていたかも知れないけれど。
「どんなこと、言ってるの」
伸子が喋《しやべ》るのを聞いていようと思ったのに、自分から質問してしまった。悪口を言われてる、なんてことを聞いてしまうと、やっぱり、不安になっちゃう。どんな内容なのか、早く確かめたくなっちゃう。
もちろん、聞かずにいたい、と思う気持もないわけではない。ううん、もしかしたら、その気持の方が大きなウエイトを占めているかも知れない。なのに、伸子に質問してしまった。
高校時代、中間や期末試験の答案を返却《へんきやく》してもらう時に感じた気持に似ていた。「では、この間行なった数学の答案返却を始める」、などと先生が教壇の上で言った瞬間、キューッと胃が締《し》め付けられるような感じになった、あの気持にだ。
「いやだなあ、返してもらいたくないなあ」、ドキドキしながら思う。試験が出来なかったことはこの自分が一番良く知っているのだ。低い点数だとわかっているものを、今さら、見ることもあるまい。そう思うのだ。
けれども同時に、「早く見てしまいたいわ」と思う気持も、なぜか、あるのだ。怖《こわ》いもの見たさだろうか。
あるいは、次のような場合の心理にも似ているのかもしれない。冷蔵庫に長い間、入れっ放しにしておいた食べ物が変な匂《にお》いを漂《ただよ》わせていた時、ついつい、鼻を近づけて嗅《か》いでしまう、あの心理にだ。
臭《くさ》いことはわかりきっているのだから、わざわざ、嗅いでみなくたっていいのに、でもそうしてしまう。友だちが一緒《いつしよ》だったりすると、「ほら、臭いでしょ」、彼女にまで匂いを味わわせようとしちゃう。本当に不思議だ。
「浩美が英文科に入ったことをね、いろいろと噂《うわさ》しているの」
そうなのか、と思った。やっぱりね、って感じだ。四月に私たちは大学生になった。伸子も私も付属高からだった。二人とも小学校からずうっと一緒。最初にも紹介したように、彼女は国文科、私は英文科へ入った。
高三の九月に志望学科名を書いた用紙を提出する。希望通りに入れるかどうかは、もちろん、各自の成績次第だ。十二月の末に、結果がわかる。伸子も私も、幸いなことに希望通りになった。
自分の入った学科について自慢するのは、ちょっぴり恥ずかしい気もするのだけれど、一番人気だった。英文科へ行きたいと思う人が多いのだ。だから、毎年、内部から進学出来る枠《わく》を希望者数がオーバーしてしまう。
私の学年もだった。四十五人入れる枠のところへ、五十二人の応募があった。それでも例年より、希望者の数は少なかった方なのだが、結局、七人が第二志望の学科へ回されることとなった。
「浩美って、ギリギリの成績で英文科へ入れたみたいよ」
こういう噂は、高校を卒業する前からあった。特には気にしてなかった。だって、上位の成績で入れたとは私自身、思っていなかったもの。
「エヘヘ、そうなんだ。ラッキーだったのかもね、浩美」
明るい声で答えてた。みんなも、「アハハ、浩美っておかしな性格」、笑って済《す》ませてくれた。そうこうするうちに、大学生となった。
「噂してるって、一体、どんなことを言ってるの?」
もう一度、伸子に尋《たず》ねた。少しドキドキしていた。きっと今までの噂とは、内容が違うのだろう。何かしら。
「うん、あのね」
そこで一度、声が途切《とぎ》れた。言い淀《よど》んでいる感じだった。
「浩美は裏から手を回して英文科へ入ったんじゃないかって、そういう噂《うわさ》が流れているらしいの」
伝聞推定《でんぶんすいてい》の形で話してはくれているけれど、きっと、伸子は誰かがそう言っていたのを、直《じか》に聞いているのだろう。私への心遣《づか》いから、ニュアンスの弱い形で伝えてくれてるのだ。
「そうかあ」
明るい声は、出せなかった。
「もうちょっと、具体的なこと、わかる?」
食べかけのチョコレートが、テーブルの上に置かれたままだ。せっかく、パパのおみやげを楽しんでいたというのに。ペニンシュラのチョコレートは我が家全員のお気に入りで、だから、香港《ホンコン》へ出張する度《たび》、買って来てくれるのだった。
「うん、あのね」
もう一度、言い淀んだ。そんなに言いにくい内容なのかしら。お腹《なか》がキューッ、さっき以上に締《し》めつけられる。
「あのね、浩美のおばあちゃま、学校の理事かなんかをしてるでしょ。だから、英文科へ入れたんだって、そういう話」
「そうかあ」
今度は、私が言い淀んでしまった。伸子の話を聞いている途中から、ある程度、予期してはいたけれど、でも、実際に聞いてしまうと、うーん、やっぱりショックだ。
「えー、おばあちゃま、理事なんかじゃないよ。評議員だよ、単なる評議員」
私たちの学校の大先輩《だいせんぱい》ってことになるおばあちゃまは、今年、七十六歳だった。評議員を長年、務《つと》めている。理事の次のクラス。
「そうだったの。でも、ほら、同じようなものでしょ」
「どうかしら。大分《だいぶ》、違うとは思うんだけれどなあ」
本当だった。おばあちゃまから、聞いたこともある。「理事とは違って、何の権限もないのよ」という話だった。もっとも、そうしたことは在校生である私たちにとっては、どちらでもいいことだ。
そうして、どちらでもいいことだから、私のおばあちゃまが理事なんかをやっていると聞くと、もうそれだけで私の英文科入学に影響力があったのでは、などと変な勘繰《かんぐ》りをされる。
「浩美、ちゃあんと実力で入っているんだから。まったく、もう信じられない、そういうのって」
少し膨《ふく》れっ面《つら》で私は言った。
「怒らないでよ、浩美。言われなくたって、信じているわ」
伸子が慌《あわ》ててしまった。ご免《めん》なさい、つい、きつい口調《くちよう》になって。私だって、伸子のことは信じているわ。お互い、わかり合っていることでしょ。
電話の横には、授業の時間割を書き込んだ小さな紙がペタッ、テーブルの上に貼《は》ってあった。私の部屋《へや》に電話があるのだ。他の部屋で受話器を持ち上げても、会話を聞くことは出来ない。
「長電話ばかりしていないで、ちゃあんとお勉強しなくっちゃ」、ママはいつでも私にお小言《こごと》を言う。もっとも、それは彼女の口癖《くちぐせ》でしかない。だって、本当にそう思っているのなら、私の部屋《へや》の電話を取り外してしまうくらいの強行策、取ればいいのだもの。
「ありがとう、伸子」
もう一度、気持を落ち着けて、
「でも、そんなこと、誰が言ってるの?」
尋ねた。すると、伸子は、
「千恵美《ちえみ》よ、高瀬《たかせ》千恵美。彼女が一番中心になって、言い触《ふ》らしているの」
答えた。
「浩美、平気だった? 心配していたのよ」
伸子からの次の電話は、翌日の夜|遅《おそ》くにかかってきた。本当に心配そうな声をしている、嬉《うれ》しいな、と思った。
「うん、全然、平気」、そう言いながら、昼間の出来事をお話しした。
授業が午前中に二つ、午後に一つあった。このところお気に入りのコーデュロイ・パンツをはいて、学校へ出かけた。パープルがかったグリーンという、なかなかお目にかかれない細畝《ほそうね》のコーデュロイ・パンツだった。
午前中の授業が終わると、カフェテリアへ敦子《あつこ》と一緒に出かけた。敦子は同じ英文科の学生だ。中学から入って来た。
「ウワーッ、今日は混《こ》んでるね」
普段は空《す》いているのに、テーブルのまわりにビッシリだ。どうしたのだろう? 期末試験が近くなってきたからだろうか? でも、まだ、余裕《よゆう》はあると思うのだけれど。
「まずは、坐《すわ》るところを探さなくちゃね」
私がそう言うと、キョロキョロと周囲を見回していた敦子が、
「ほら、ほら、あそこ。みんなが坐っているよ。大丈夫、きっと、席が空いているよ」
早くも歩き出しながら、私のことも誘《さそ》った。見ると何人か、下からの友だちがいた。そうして、その中には千恵美もいた。
一瞬《いつしゆん》、どうしようかなと思った。まだ、彼女の方は気付いていないみたいだ。このまま私だけ、学校の外へ出て食事をしたっていいのだ。考えた。
でも、別段、私が悪いことをしたわけでもない。だとしたら、何もこそこそと隠《かく》れる必要も、これまた、ない。いつもと変わらない私でいれば、それでいいのだ。敦子の後から、歩いた。
「お久し振《ぶ》り、浩美」
大きな声でそう言ったのは、なんと、千恵美だった。びっくりした。真剣、びっくりした。私に関する噂《うわさ》を広めている。その張本人が挨拶《あいさつ》して来たのだもの。
「本当ね。随分《ずいぶん》と久し振りね」
平静な声を出した。意識して、というわけでもない。ごく自然な感じで、私は答えた。心理学科に籍《せき》がある千恵美とは、一緒《いつしよ》の授業がひとつもなかった。一般教養科目でも、なぜか、不思議と顔を合わせることがなかったのだ。
「元気してるの、浩美?」
白々《しらじら》しい質問をして来た。「良く言うわ」、心の中でつぶやいた。満席状況のカフェテリアは、みんなのお喋《しやべ》りする声で、ゴワアーンという音がする。大きな声で話さないと、聞こえない。私は小さな小さな声で、「良く言うわ」、つぶやいた。
けれども、もちろん、そんな気持は顔の表情には出さずに、
「うん、元気、元気」
答えながら、空いていた座席に坐った。それが、昼休みの一部始終。
「ふうん、千恵美って、たいした性格しているのね」
伸子は、「呆《あき》れちゃって、怒る気にもならないわ」って感じの声を出した。
「まあね、私もびっくりはしたけれど。でも、いいんじゃない、そういうのも。幸せだとは思うわ、本人は」
「浩美のことをいろいろと千恵美が言っているわよ」、そう伸子に教えてもらってから初めて、負け惜《お》しみっぽいことを吐《は》いた。やっぱり、多少は悔《くや》しかったのだ。
でもその後に伸子は、たとえば、高三の秋、高校の校舎|脇《わき》に出来た花壇を私の家が寄付したらしい、といった根も葉もない噂《うわさ》まで、千恵美が言い触《ふ》らしていると教えてくれた。
「そうなんだあ」
負け惜しみっぽいことを吐いた後に、また、落ち込んでしまいそうだ。単におばあちゃまが学校関係だから、という程度の噂なら、「気にしない、気にしない」と笑い飛ばすことも出来る。でも、具体的な作り話だと、いくら私だって、動揺してしまう。
「ご免《めん》ね。いろんなこと浩美に伝えちゃって、かえって悪かったみたい。でも、気にしちゃ駄目《だめ》だよ」
私の喋り方が変わったのを敏感《びんかん》に察知したらしい。伸子はそう言って慰《なぐさ》めてくれた。
「みんな、浩美のこと、やっかんでいるんだよ」
そんなものなのだろうか。一体、私のどこにやっかむべき部分などあるのだろう? 一般的な顔立ちだし、ボーイフレンドだって同い年の子だ。
もちろん、たまには夜|遅《おそ》くまでディスコで踊っていることもあるけれど、でも、それはほんのたまにだ。いつもは、チョコレートをナメナメしながら、電話をしたり、ビデオを観《み》たりしている。あっ、そうそう、時々、形ばかりの勉強もだ。
そうした私が、どうしてやっかまれなくてはいけないのだろう。ただ単に、おばあちゃまの存在があるから、ということでなのだろうか? ギリギリだったとはいえ、正規に英文科へ進学したのに。
「うん、わかった。ありがとう」
黙《だま》っていると伸子が困っちゃうんじゃないかなと思って、当たり障《さわ》りのない発言をしてみた。
「元気出すから、大丈夫だよ」
続けて、そうも言った。彼女も安心したらしい。
「じゃあ、明日、学校で会おうよ。昼休みにカフェテリアで」
明日の約束をして、電話を切った。
一人だけの時間になってしまった。一緒《いつしよ》にいるのは、ベッドの上にチョコンと坐《すわ》っている私の大好きな縫いぐるみだけだ。立ち上がってベッドのところまで行くと、ペディという名まえのそのクマさんを抱《だ》き締《し》めた。
彼はいつもと同じ、ちょっぴり哀愁《あいしゆう》のある目をしていた。どんなに嬉《うれ》しいことがあっても、悲しいことがあっても、その目は変わらない。
もちろん、そんなの当たり前のことだ。でも今の私にとっては、その当たり前のことがすごく大事なことのように思えた。
「楽しいことがあっても辛《つら》いことがあっても、時間は一分一秒、いつもと同じように過ぎて行くんだものね、ペディ」
彼の目を見詰《みつ》めながら、そっとつぶやいた。
「だとしたら、お前と同じように目を見開いていた方がいいんだよね、ずうっと」
そうなのだと思う。目の前で起きている現実は、逃《のが》れることなど出来ないのだ。そうして、時間は一分一秒、同じように過ぎて行く。だとしたら、いつも目を閉じることなく、ペディのように見開いていた方がいいのだ。
「ねっ、そうだよね、ペディ」
もう一度、彼のことをギュッ、抱《だ》き締《し》めた。
レディス・クリニック
「ご気分、いかがですか?」
枕元《まくらもと》で声がした。私は、ゆっくりと目を開けた。すると、そこには看護婦さんが立っていた。わすれな草の花のような色合いをした、淡《あわ》い水色の制服を着ている。
――こういう色をしていても、やっぱり、白衣と言うのかなあ。
まだ、フル回転し始めたわけではない、ボワーンとした感じの頭の中で、そう考えた。結構《けつこう》、私は冷静だ。
――不思議なものねえ。
目覚《めざ》めたならば、その瞬間《しゆんかん》から思いっ切り泣いてしまうに違《ちが》いない、って考えていた。けれども、意外なことには、今、私はこうして、普段、自分のお部屋《へや》のベッドの上で目を覚ました時と同じような具合だ。
「大丈夫かしら」
ショートヘアの彼女は、まだ若い。もしかしたら、今年、二十歳《はたち》になる私と、あまり変わらないのかもしれない。あどけない表情をしている。赤い頬《ほ》っぺ。
ちょっぴり事務的な感じのする喋《しやべ》り方なのも、それは、私と年齢が近いせいなのだろう。だって、そうでしょ。「安部《あべ》さん、どうかなあ、平気かなあ」なんて、優しいお姉さんみたいな話し方、やっぱり、出来ないだろうし。
「体温、測りますから、これを腋《わき》の下に入れてください」
言われるままにした。ピタッと腕《うで》を脇腹《わきばら》にくっつけて、少しずつボワーンとした感じが薄らいできた頭の中で、また別の考えも浮かんでくる。
冷静に考えてみたならば、看護学校を出てから、このレディス・クリニックで働いているわけだもの、表情があどけないだけで、実は、当然、私なんかより年上なはずだ。
だから、かえって、事務的な喋り方をした方が私にとって、心理的負担が軽くなる、そう思っての行動なのかもしれない。
優しいお姉さん口調《くちよう》で話しかけられたならば、それはうれしい。患者と呼ばれる人たちは、みな、ベッドの上では弱気になってしまうのだもの。そうして、自分の体の中で育ち始めていた小さな生命《いのち》に別れを告げる手術を受けたばかりの私にとっては、余計《よけい》にだ。
でも、こうした時に優しい言葉が本当に優しく感じられるのは、その瞬間だけでしかない気もする。優しい言葉は、時間が経つにつれて、かえって、心の中の辛《つら》さを増していくように思える。
「お腹《なか》、空《す》きましたか?」
看護婦さんは、尋《たず》ねた。
「うーん、そうでもないかなあ」
頭の中では、一応、大人《おとな》の考え方していたのに、言葉として出てきたのは、年相応《としそうおう》の喋《しやべ》り方だった。困ったね。
「でも、昨日の晩から、何も食べてないでしょ?」
今度は、黙《だま》って頷《うなず》いた。夕方、四時ぐらいに、ママが作ってくれた特製クラブハウスサンドをホット・ミルクと一緒《いつしよ》に食べたのが最後だ。水分も摂《と》っていない。
「少し、お腹が空いてきた、やっぱり」
なんだか、暗示《あんじ》にかけられたみたいだ。「何も食べてないでしょ?」と言われたら、急にそう思えてきたのだもの。
「今、ペストリーとミルク・ティーをお持ちしますから」
看護婦さんは、そう言うと、小さな病室から出て行った。右腕をペタッ、脇腹《わきばら》にくっつけたまま、私は天井《てんじよう》を見た。
目が疲れないように、ってことなのだろう、天井の蛍光灯《けいこうとう》は、青白い色をしていた。けれども、寂《さび》しい気持にさせる色合いではない。患者として、一人でこの病室に横たわる女性のことを考えて、慎重《しんちよう》に選んだのだと思う。
青山にある、このレディス・クリニックはビルの中だった。表参道《おもてさんどう》の交差点から、根津《ねづ》美術館の方へ少し行った右側のビルだ。三階のワンフロア全部を使っている。
レディス・クリニック、つまりは、産婦人科の医院ってことなわけだけれど、でも、なんとなく、響きがいい。明るいニュアンスだもの。
ワンフロア全部を使っているとはいっても、そんなに広いわけじゃない。今、私が休んでいるような病室は、たったのひとつしかないのだもの。でも、それが、ますます、レディス・クリニックって感じを高めてる。
ニューヨークとかの産婦人科医も、きっと、こんな雰囲気《ふんいき》なのだろうな、という気がする。都会的な匂《にお》いがする。それは、淡《あわ》い水色で統一されたインテリアや壁《かべ》からも感じられる。
私は左手で体温計を取り出すと、「どれどれ」、わざと、おどけた声を出して自分を景気づけながら、顔の前へ持って来た。
六度三分。
よかった。普段《ふだん》と変わらない。目覚めた時から体調はおかしくないから、もちろん、大丈夫だとわかってはいたのだけれど、でも、やっぱり体温を確かめてみるまでは、ちょっぴり不安だった。
――ママにだけ相談したのが、結局は良かったんだわ。
現金な性格の私は、「ペストリーって、一体、何が出て来るのかしら。楽しみだわ」と考える余裕《よゆう》さえ持てるようになっていた。
「久美子、ちょっと、お話ししたいことがあるの」
ママに尋《たず》ねられたのは、十日くらい前のことだった。その日、私はいつもと同じように学校へ出かけようとした。キャンパスは吉祥寺《きちじようじ》にある。小学校から、ずうっと。駅から歩いて、十五分くらいのロケーション。バスを使ってもいいのだけれど、お友だちがみんな歩いているから、それで私も、雨の日以外は徒歩。
「なあに?」
ごくごく普通のお返事をした。でも、ちょっぴり早口で。というのも、二限目の英文法の授業に、ギリギリ間に合うかな、どうかな、という時刻だったから。その前の週、ついつい、お寝坊をしちゃって欠席だった私は、だから、「今週こそは」という感じだった。
「そこへ、お坐《すわ》りなさい」
ママは、ゆっくりとした口調で話した。ダイニング・ルームのテーブル近くでだ。
「なあに? ママ、私、急いでいるの」
さっきよりも、多少、険しい言い方をした。だって、本当に早くおウチを出て、浜田山《はまだやま》の駅から井《い》の頭《かしら》線に乗らなくてはいけなかったのだもの。なのに、ママったら。
「大事なお話なのよ、久美子」
私と違って、彼女の声はアルトだ。こうした時には、だから、やたらと説得力がある。授業に遅《おく》れてしまうって、わかっているのに、私はイスに腰を下ろした。さっきまで、ヨーグルトとブリオッシュを食べていた場所にだ。
「はい、ちゃんといい子して坐《すわ》ったんだから、ママ、手短にね」
口元《くちもと》の筋肉を少し緩《ゆる》めて、ニコッとしながらそう言うと、
「あなた、生理が遅《おく》れてるんじゃない?」
ママは私に尋《たず》ねた。
お腹が、キュッと締《し》め付けられるような感じがした。口元の筋肉は、ピクン、固くなってしまう。そうして、ママの目を見ながら話していたのに、つい、下を向いてしまった。でも、どうして、わかってしまったのだろう。
「うん、五日くらい……遅れてるかな。珍しい……ね」
「落ち着かなくちゃ、落ち着かなくちゃ」と心の中で自分に言い聞かせながら、本当はもう二週間以上も遅れているのに、ウソをついた。「遅れてないわ」と言うのは、かえって、怪《あや》しまれる気がする。だから、こういう時は、心配されない程度の日数を言っておいた方が無難《ぶなん》だわ。咄嗟《とつさ》にそう考えて、「五日くらいかな」と言ったのだ。でも、人間、完璧《かんぺき》にウソをつくことは出来ない。自信のない喋《しやべ》り方となってしまった。
「久美子。正直に言って欲しいの、ママは。どのくらい遅れているの?」
「十七日」
今度は、正直に答えた。私の生理は、いつでも規則正しい。二十八日周期。始まる三日前から、やたらと眠くなる。そうして、期間中は、お腹がチクチク痛くなる。そのことを、もちろん、ママは知っていた。
――でも、どうして、遅れていることがわかったのだろう?
「仁《ひとし》君には、話をしたの?」
「ううん」
いつもは、少し甲高《かんだか》い声の私なのに、ママと同じくらい低いトーンになっちゃってる。気付かれた原因が理解出来ないまま、私は答えた。
「久美子、吹き出物が多いみたい。具合、悪いんじゃないの?」
二、三日前、大学のカフェテラスで、クラスメイトの久恵《ひさえ》に言われた時のことを思い出した。
「うん。ほら、あの最中だから」
その時は、こう言ってごまかした。実際、生理の間は、いつでも吹き出物が多くなるのだ。でも、今、出来ているのは、種類が微妙に違う気がする。
いつもより、小さい吹き出物。けれども、数は多い。血のつながっているママは、久恵なんかより観察が鋭《するど》くて、わかってしまったのだろうか? まさか、そんな。
「ダメよ。仁君にもお友だちにも言ったら、絶対にダメよ」
「うん」
一体、ママは何を考えているのだろう。もちろん、妊娠《にんしん》しているのではないかしらと不審に思って、それで、問い質《ただ》しているのだということくらいは、私にも理解できる。
けれども、「どうして、あなたは、そんな子なの!」と嘆《なげ》くわけではない。私には、その点が不思議だった。
去年の夏、同い年の仁君と二人、合宿だと称して伊豆《いず》の温泉へお出かけしたことが、バレてしまっている。だから、他の親とは違って、ボーイフレンドとの間にステディな関係を娘が持っていたのを驚き嘆くようなことは、もう今更《いまさら》、ないはずだ。
が、とは言ってもだ。こんなにも母親というものは、冷静に対処出来る存在なのかしら。ママに勘《かん》づかれたことよりも、むしろ、そちらの方が私には驚きだった。
「明日、一緒《いつしよ》に検査してもらいに行きましょうね」
どうして、生理が遅《おく》れていることに気がついたのか、私はわからないまま、黙《だま》って頷《うなず》いた。
「浜田山までお願いします」
朝、おウチを出る時には雨が降っていたのに、すっかり晴れ上がっていた。表参道の街路樹も、大分《だいぶ》、葉が生《お》い茂ってきている。ちょうど、タクシーが西の方角に向かって走っているせいか、木漏《こも》れ日《び》がフロントガラスを通じて、後部座席の私のところにまで、キラキラと届く。
その感覚を楽しむだけの余裕《よゆう》が出来た私は、三日前、ママと一緒に出かけたレディス・クリニックの待合室で、「ねえ、ひとつだけ質問したいの」、尋《たず》ねたことを思い出していた。
「だって、久美子、ナプキンとタンポンが全然、減ってないじゃない」
五つ年上の兄は、電機メーカーの地方工場に勤務していた。だから、東京のおウチには両親と私の三人だけだ。
おまけにママも私も、パパのことは、お給料を運んで来てくれる点に感謝している以外は、もう肉体的には引退しちゃった一人の男性、くらいにしか思っていないところがある。
それで、私が使うナプキンとタンポンは、トイレの片隅《かたすみ》に置いてあった。ママは、ちっとも減らないことで、遅れているのを知ったのだ。「鋭い」。変なところで感心しちゃった。
検査の結果は、クロだった。「どうなさいますか?」と初老の先生が尋ねた。「出来れば、手術をお願いします」、ママは答えた。私は、少しうつむき加減に坐《すわ》っていた。
母親と一緒に産婦人科医のところを訪れるなんて、「エーッ、恥ずかしい」、行く前は、そう思っていた。もちろん、待合室にいた時は、尚更《なおさら》だった。
なぜって、私のような若い女の子が母親と一緒に訪れているなんて、もう、それだけで理由は明白なのだもの。一人で来院している女性はもちろんのこと、多分、同じ理由で来ていたに違いない、私と同い年くらいの、友だちと一緒だった女の子にまで、ジロリ、冷たい視線をプレゼントされてしまった。
本当に恥ずかしかった。一人で来れば、よかった。ママにバレなくたって、ここ二、三日のうちに、診察してもらいに行こうとは思っていたのだもの。いろいろなことを考えた。
けれども、今は自信持って、このことだけは言える。ママに相談に乗ってもらえて良かった、と。
ママが勘《かん》づかなかったなら、多分、私は仁《ひとし》君か、あるいは、クラスメイトの、たとえば、久恵あたりに相談していた気がするのだ。
もちろん、手術を受ける費用の問題もある。けれども、それだけじゃなくて、精神的に誰《だれ》か頼れる人が欲しい。そう思って、喋《しやべ》ってしまってたような気がするのだ。
人間、嬉《うれ》しかった出来事を、必ず誰かに自慢したくなるように、本当は隠《かく》しておきたい出来事も、少なくとも誰か一人には喋ってしまう。きっと、そうなのだ。
「久美子にも、これは今まで教えてなかったけれど、ママは結婚する前に、パパとの間に子供が出来ちゃったことがあったの。パパには言えないし、もちろん、ママの両親にだって言えなかったわ。仕方ないから、学生時代のお友だちに相談したわ」
手術日を予約して、エレベーターで二人、一階へと下りる途中《とちゆう》、ママは話してくれた。
「そのお友だちはね、幸い、口が堅《かた》くて誰にもお喋りしないでくれたの。でも、それは本当にラッキーなケースだったと思うわ。人の口に戸を立てることは出来ないものね」
今と違って、どことなく熱っぽかった私は左手を額に当てながら、ママの話を聞いた。
「だから、久美子、あなたはママだけに話してくれて、すごく良かったと思うの。血がつながっている者は、他人に言うことなど、決してありませんもの」
タクシーは、代々木《よよぎ》公園を通り抜けて、なだらかな坂道に差し掛かった。坂の下は、代々木|深町《ふかまち》の交差点だ。夕暮れまでには、まだ、多少の時間がある。午後の日射しは、木漏《こも》れ日《び》だったさっきよりも強く、そして、今度は斜め横のほうから奥の方まで後部座席に。
――これで、良かったのよね。
目をつむりながら、でも、何も知らない仁君の顔が網膜《もうまく》の裏側に、ふと浮かんで来た。今頃《いまごろ》、彼は大教室で経済の授業を受けているのだろう。そう思ったら、今まで平気だったのに、急に目頭《めがしら》が熱くなってきてしまった。
下り坂のドライヴ
「ねえ、ねえ、良介《りようすけ》。そろそろ、香織《かおり》、おウチに帰らなくちゃいけないと思うの」
彼が運転して来た車の助手席にチョコンと坐《すわ》っていた私は、ちょっぴり甘えた声を出した。横浜の鶴見《つるみ》区にある大黒埠頭《だいこくふとう》の一角。向こう岸の石油コンビナートだけが、明るく浮かび上がっている。
「えー、まだ、平気だよ。門限まで、後、二時間近くもある」
それは、本当だった。ハンドルより少し左側にあるデジタル時計を横目で見ると、八時九分。けれども、「今日は、これで、おしまいね」、そう思った。
「なんか、この頃、様子が変だよ、香織ったら。だって、食事が終わると、すぐに帰りたがるんだもの」
「もうじき、期末テストでしょ。少しは、お勉強しなくっちゃ」
わざと、陽気な言い方をした。
大学三年生の彼は、私よりも四つ年上だ。三田《みた》にある大学へ通っている。商学部でマーケティングの勉強をしている。中学から付属校育ち。学校は違《ちが》うけれど、だから、私と環境《かんきよう》が似ていた。
「期末テストなんて、まだ、先の話じゃないか。十二月に入ってからだろ?」
「まあね。でも、ほら、一応、二週間くらい前からは、真面目《まじめ》な女の子にならないと、まずいじゃない」
「おんなじだよ、早くから始めようと始めまいと。結局、直前になってから、ドタバタするだけなんだから」
「わかってるわ、香織」
試験が終わる度《たび》、「よおし、今度こそは、しっかり計画を立てて、準備|万端《ばんたん》、臨《のぞ》むんだ」、固い決意をする。けれども、自慢出来るのは、いつでも、試験開始一か月前、自分のお部屋の机に向かって、試験勉強のスケジュールを綿密に立てることだけだ。後は、一日一日、そのスケジュールを遅《おく》らせることだけにエネルギーが注がれてしまう。
「でもね、やっぱり、心の準備を徐々《じよじよ》にしていかなくちゃ、駄目《だめ》だと思うなあ。ギリギリまで遊んでいて、で、パッと頭の中を勉強の方へ切り替《か》えるなんて器用なこと、香織には出来ないもの」
そう言いながら、良介の方を見た。優しそうなまなざしをしている。日本人にしては珍しく、ブラウンがかった目。私を見詰《みつ》める。
――えーん、そんな目で見ないで、良介。悲しくなってきちゃうじゃない。
サイド・ウインドー越しに、外を眺《なが》めた。フロント・ガラス越しに眺めたのでは、どうしても、運転席の彼が視界の中に入って来てしまう。辛《つら》いでしょ、それは。だから。
大分《だいぶ》、離れた向こう岸は、どうやら、山下|埠頭《ふとう》らしい。赤いランプが幾《いく》つか、チカチカと点滅していた。けれども、そのまわりは暗闇《くらやみ》に包まれている。彼の側のサイド・ウインドー越しには、さっきの石油コンビナートが見えた。手を伸《の》ばせば、すぐに届きそうなくらい近い向こう岸。おまけに、明るい。剥《む》き出しの鉄パイプがグニュグニュと絡《から》まっていて、白夜《びやくや》の人工都市、って感じ。全然、雰囲気《ふんいき》が違う。
「じゃあ、送って行こうか?」
黙《だま》って私は、うなずいた。下唇《したくちびる》を、ちょっぴり噛《か》みしめながらだ。けれども、口元には笑《え》みを忘れないようにした。
「僕と付き合うくらいだからさ、結構、何でも割り切れるんだと思ってたのに、香織、意外と真面目なところ、あるんだね」
埠頭《ふとう》の一番先っちょに停《と》めていた車をバックさせながら、「ふうん」って感じの喋《しやべ》り方をされてしまった。別に、かんかちこな真面目さじゃあないと思う。ただ、やっぱり、人並み以上の成績を取って、ママの前では、いい子を演じていたいから。
「早く帰りたいの」と言った理由は、実は、もうひとつ、あった。少しずつ、良介と会っている時間を短くしていこうと考えてたから。付き合いだしてから、半年。二人|一緒《いつしよ》に並んで歩いていると、ちょうどいい感じになれる時期に差し掛かってる。「でも、そろそろ、お別れしないと、いけないよね」、そう思い始めていたのだ。
なぜって、良介には、私と並行《へいこう》して付き合ってる彼と同い年の女の人がいたから。目白《めじろ》にある女子大の学生。会ったことはない。写真を見せてもらったこともない。だから、格別、意識していたわけでもない。
――ただ、なんて言うのかな、このままずうっと、良介とだけお付き合いしていっちゃうと、怖《こわ》いなあ、って気がするの。
中学に入学した時から、ずうっと使っている勉強机に向かって、先々週、試験勉強のスケジュールを立てていた私は、なぜか、急に、そう思った。そうして、不思議なことには、一旦《いつたん》、思い始めると、気になって仕方なくなってきちゃった。
試験前だったのも、その気持を一層、強いものとさせた。そんな気がする。なぜって、一人で机に向かっていると、いろんなことを考えちゃうでしょ。もちろん、まだ、期末試験は、ずうっと先の話だから、気休めで向かっているようなところがあるのだけれど、でも、だからこそ逆に、ボケーッと坐《すわ》りながら、普段《ふだん》は、ゆっくり考えることもない、自分の内側を覗《のぞ》いてみるようになる。
「ねえ、香織。本当に送ってって、いいんだろ?」
良介に声をかけられた。
「うん、そうして」
答えた。
「なら、まあ、そうするけれど、でも、一体どうしたんだよ、一人で物思いにふけっちゃってさ」
正直に言おうかな、と思った。けれども、今から喋《しやべ》り始めたら、それこそ、夜が明けるまでかかっちゃいそう。だって、良介は、私が彼のことを好きで好きで、どうしようもない、って思い込んでいるのだから。時間をかけて、判《わか》ってもらうより他に、仕方ない。
「試験のことを、考えていたの。ね、やっぱり、香織は真面目な少女。ウソじゃないでしょおう」
もう一度、精一杯《せいいつぱい》、陽気な言い方をした。
「えー、なんか、すごいの」
良介に抱《だ》かれながら、大きな声を出してしまった。知り合ってから、ちょうど、一か月目の日曜日。西新宿《にししんじゆく》にあるヒルトンホテルのお部屋でだ。キングサイズのダブル・ベッドの上で二人、夕暮れの運動をしていた。
「ほんとに、僕とが初めてなの」って感じの目をしながらも、彼は、私の首筋にキスを続けた。そうして、私の上で体を動かした。ペロペロちゃんとグリグリちゃん。
今でも、どうしてなのか、その理由がよく判《わか》らないのだけれど、最初から素敵《すてき》な気持だった。髪の毛の上から、フーッと耳に息を吹きかけられると、もう、それだけでゾクゾクッとなっちゃった。
舌の先を使って、手慣れた感じで髪の毛をかき分けると、今度は直接、私の耳に息を吹きかけた。最初と違って、耳の中へとストレートに息が入ってくる。生《なま》温かい。けれども、その感じは、「うわあっ、本当に抱かれているんだ」、かえって、私の気持を高めてくれた。
「こんなにも、一杯、ペロペロちゃんをするものなのかしら」って、感心しちゃうくらいに丁寧《ていねい》な愛撫《あいぶ》が続いた。「やっぱり、良介さんにしてよかったんだわ」。当時、まだ、良介のことを、さん付けで呼んでいた私は、そう思いながら目を閉じた。
次のステップが、始まりそうになったからだ。それまで、彼の体を抱《だ》き締《し》めるようにキュッとまわして、背中のところで両手を組んでいた。その腕を外《はず》すと、シーツをつかんだ。
そうして、ちょっぴり、薄目をあけた。良介と私が一緒《いつしよ》になる前の、お部屋の中の景色を見ておきたかったから。ヒルトンホテルは、ピンクが内装の基調色だった。
けれども、もちろん、ショッキング・ピンクじゃあない。だって、それだと、渋谷《しぶや》にある東急デパート本店裏に広がる、所謂《いわゆる》、カップルでお出かけするホテルのイメージになっちゃうでしょ。
ヒルトンは、オーキッド・ピンクの雰囲気《ふんいき》だった。ランの花みたいな薄紅色。女の子っぽい。そうして、適度に和風だった。カーテンの代わりに、障子《しようじ》と襖《ふすま》。落ち着いている。
「ヒルトンか、それとも、センチュリー・ハイアットがいいな」、私は、わがままを言った。初めての時には、そのどちらかのホテル。心に決めていた。
西新宿にある、この二つのホテルって、不思議だ。あんまり、新宿のイメージが漂《ただよ》ってこない。きっと、中央公園があるからなのだろうな、ホテルの向かい側に。だって、東京のセンチュリー・パークだもの、新宿中央公園って。真剣、そうだよ。
お部屋の中は、暗かった。襖を閉めていたから。そうして、シーツの白さだけが、一際《ひときわ》、目立った。私は、シーツをつかんでいる手のあたりへと、目線を動かした。ローズピンクのマニキュアが、光っていた。前の晩、一所懸命《いつしよけんめい》、塗《ぬ》ったマニキュアだ。三色持っている中から、「どれにしようか、神様の言う通り」、一人でムニャムニャ言いながら、決めた。
もちろん、良介との間で、未知との遭遇《そうぐう》をする特別の日だったから、念入りに決めたのだ。夜には綺麗《きれい》に落とさなければいけない一日だけのマニキュア。「はかないんだよね」、愛されながら、生意気《なまいき》なことを考えた。
マニキュアの色合いが、白いシーツと一緒に、目の中へ飛び込んでくる。と、「痛い」。鈍《にぶ》い感じが体の下半身に広がった。本当は、もう少し、シンデレラの運命にある私のマニキュアの、その光り具合を眺《なが》めていたかったのに、目をつむってしまった。
けれども、痛さは、ほんの一瞬《いつしゆん》だった。「もう、大変な騒ぎよ。私なんて、ギャーギャー言っちゃった」、クラスメイトの郁子《いくこ》と美香《みか》は、そう言って、私を緊張《きんちよう》させた。
だから、決死の覚悟《かくご》。シーツを握《にぎ》り締《し》めたのも、目をつむってしまったのも、そのせいだった。なのに、信じられないことには、首筋を舐《な》められた時以上に気持良くなってきちゃったのだ。
びっくりした。彼が私の上で、まるで、腕立て伏せをやってるみたいな動作をする度《たび》、下半身にジワーンと電気が走るのだから。「おかしいのかな、私って」、頭の片隅《かたすみ》で考えながら、これまた、今でも、その時の自分が信じられないのだけれど、「2足《た》す3は、5」、足し算をやっていた。
小学校の低学年だった頃、コンセントを抜く時に、ビリッとなったことがあった。「どうしよう、おばかさんになっちゃったら、どうしよう」。私は咄嗟《とつさ》に、学校で習った、ありとあらゆることを、頭の中で反復してみた。
「漢字は、大丈夫、覚えている。じゃあ、算数。大丈夫、これも。ちゃあんと、足し算が出来るもの」
十七歳の私は、小学校の時と同じことをやっていた。ビリッとジワーン。電気の種類は、全然、違っていたのにだ。
「今度は、何時《いつ》、会うことにしようか、香織」
信号が青に変わるのを待ちながら、良介は尋《たず》ねた。私たちの他にも、何台かの車が停《と》まっていた埠頭《ふとう》の先っちょを後にして、今は、鶴見の街へと続く道路。信号の先には、大黒埠頭連絡橋があった。
釣鐘《つりがね》型をした大きな橋。右のサイド・ウインドー越しに見えた石油コンビナートの島を通り抜けて、無機質な街から数え切れないほどの人たちが暮らす街へと戻《もど》る第一関門。
「良介は、何時《いつ》がいいの?」
結局、何ひとつ、自分の心の中をお話し出来なかった私は、おまけに、こんな、気を惹《ひ》かせるような言葉を吐《は》いてしまった。
「出来れば、来週は、土曜日の方がいいな。日曜日は、もう予定が入っているから」
――わかっているのよ、私。日曜日は、大学生の彼女と会うのだってことが。ううん、怒ってなんか、いないわ。だって、既《すで》にあなたに彼女がいたから、それで、私は付き合いだしたんですもの。
渋谷《しぶや》から青山通りを少し都心へ向かったところにある大学の付属高校に通っていた私は、同じ学校の男の子とだけは付き合わないようにしよう、って昔から決めていた。なぜって、同い年の男の子って、一度、二人だけの時間をベッドの上で過ごしてしまうと、もう、「彼女は、僕の宝物」みたいな感じになっちゃうんだもの。
自慢気にみんなに言いふらしちゃう。でも、それだけだったら、まだ、いい。問題は、女の子の気持よりも早いスピードで、夢中《むちゆう》になってっちゃうこと、かな。
まだまだ、いろんな男の子を見て、少しずつ、大人《おとな》の女の子になろうと思っているのに、それじゃあ、デートが重たくなっちゃう。
――だから、良介、あなたにしたの。でも、やっぱり、半年も続いちゃうと、駄目《だめ》。もう一人の彼女のことが気になっちゃう。それに、ほら、他の男の子からモーションをかけられても、デートが億劫《おつくう》で。実際に、あなたと会えば会ったで、今日みたいに悩んでしまうのよ。でも、ずるずるべったりの付き合いを捨てること出来ないし。
信号が、青に変わった。車は、連絡橋を上り始める。
――ご免《めん》なさい。期末試験が終わったら、ちゃあんと時間をかけて、私の気持、説明するから。
もちろん、良介のことは大好きだ。そうして、他に誰か好きな男の子が出来たわけでもない。ただね……。
「じゃあ、土曜日は、夕方までのデートにしてみない?」
そう言うと、彼は、
「オーケー。ガリ勉のお嬢《じよう》さん」
笑いながら答える。
明日、学校へは、何も塗《ぬ》っていない爪《つめ》で登校しなくてはいけない私は、左指のマニキュアを、右手の中指の腹で、そっと、撫《な》でた。
なめらかな感触。
釣鐘《つりがね》型をした橋の頂点が近くなった。通り過ぎれば、後は、下り坂だ。今日の私のシンデレラ・タイムも、終わりに近づく。
――そうなのよ、どんなことでも、いつか、お別れしなくちゃいけない時がやって来るのよ。ただ、それが早いか遅《おそ》いか、ってことの違いだけ。香織、そう思う。
良介の方を、見た。何も知らない彼は、しっかりハンドルを握《にぎ》り締《し》めて、下り坂になった道をじっと見詰《みつ》めていた。
カールヘルム・ボーイ
「違《ちが》うわ。私、そんなところへなんて行ってないもの」
「本当かい?」
「もちろんよ。だって、その日はアルバイトが入ってたはずだもの」
フェリックスのシールをペタンと貼《は》った手帳を開いて確認しているふりをしながら、私は答えた。
「でも、まどかを見たって話を聞いたんだ。だから……」
公徳《きみのり》は、さっきよりも自信なさそうな喋《しやべ》り方になった。私たちは、新|神戸《こうべ》駅のそばにあるファミリー・レストランで夕ご飯を食べていた。ファミリー・レストランといっても、普通のとはちょっぴり違う。アーリー・アメリカン調のものだった。
公徳は、同い年だ。大学二年生。東灘《ひがしなだ》区の岡本にある大学へ通っていた。付き合い出してから、ちょうど一年。好きだ。けれども、このところ、少しうまく行ってなかった。
束縛《そくばく》するのだもの。だから、時々、鬱陶《うつとう》しくなっちゃう。それは、私のことを大好きだからなのだ、と判《わか》ってはいても、やっぱりね。鬱陶しい。
彼は、体育会に入っていた。といっても、ハンドボールだ。なんとなく暗そうなイメージがある。「どこのクラブに入っているの、彼って?」と聞かれた時に、胸を張って答えられるジャンルではなかった。
もちろん、クラブ名で彼を選ぶわけじゃあない。その本人に少しも魅力《みりよく》がないのに、ただ単に、ラグビーとかアメリカンフットボールをやっているというだけで付き合っちゃうなんて、最低だ。そんなことくらい、わかっている。
でも、もう少し、明るいイメージのクラブに入っていて欲しかったなあ。ついつい、贅沢《ぜいたく》な悩みを抱《かか》えてしまう。練習のために割《さ》く時間が長いのだもの、私と会える時は限られている。だから、こちらだって随分《ずいぶん》と耐《た》えているのだ。せめて、そのくらいのわがまま、言ってもいいでしょ。
まあ、それはともかく、束縛する公徳には、ちょっぴり困りものだった。自分が練習していた間に、私がどうしていたのかを知りたくなるのは、そりゃ、よく判《わか》るけれど、毎日、毎日、電話で尋《たず》ねてくるのだ。
ごく普通の感じで、「ところで、今日は何をしていたの?」、お喋《しやべ》りする中で聞かれるのなら、平気だ。ところが、彼の場合は違った。素行《そこう》調査をしているみたいなのだもの。
テニスやスキーの同好会に入っている友だちが主催するディスコ・パーティーに誘《さそ》われることがあった。阪急《はんきゆう》六甲《ろつこう》の駅から北に坂道を上ったところにキャンパスがある女子大に通っていたから、他大学の男の子たちが主催するパーティーに誘われることもあった。
「ねえ、今度の土曜日、ミナミのディスコでパーティーがあるの。学校のお友だちと行くんだ」、何の気なしにそう言うと、「駄目《だめ》だよ。絶対に駄目」、真剣な声で言われてしまうのだった。
「大丈夫よ。男の子を探《さが》しに行くわけじゃあないもの」、そう言っても、公徳の返事は変わらない。いつでも、諦《あきら》めるしかなかった。
最初のうちは、それも楽しかった。「公徳が、私のことを本当に考えてくれているから、そう言ってくれるのだわ、きっと」、そう思っていた。けれども、次第に辛《つら》くなってきた。なぜって、束縛《そくばく》され過ぎだったのだもの。
それで、次第に公徳には黙《だま》ってパーティーへ出かけるようになった。何人かの女の子や男の子と一緒に遊びに出かける時も、彼には、黙っているようになった。
「本当に、キタのディスコへ行かなかった? 誰か男と二人連れで」
もう一度、彼は私に質問をした。どうやら、彼の大学の友だちが私のことを見かけたらしい。狭《せま》いなあ、世間は、そう思った。もっとも、白《しら》を切り通さなくてはいけない。
「ううん、違うよ。ジェラートのお店に出ていたもの」
三宮《さんのみや》と北野の、ちょうど中間に当たる生田《いくた》新道にあるイタリアン・ジェラートのお店でアルバイトをしていた。けれども、その日はお休みだった。調べればすぐにわかってしまう嘘《うそ》を、私はついた。ドキドキしていた。
「そうかあ。じゃあ、人違いなのかな」
彼はそう言うと、和風ドレッシングのかかったサラダを食べ始めた。「フーッ」、心の中で溜息《ためいき》をつきながら、私はそうした彼の姿をしばらく眺《なが》めていた。
「ねえ、まどかに紹介《しようかい》したい男の子がいるんだ。かわいいんだ」
由香利《ゆかり》が私に言ったのは、夏休み明けのことだった。
「まだ高校生なんだけれど」
そう続けた。
「なんなの、それ。私、年下なんて、パス、パス」
アルバイト先で知り合った彼女は、私より一歳年下で、学校は西宮の夙川《しゆくがわ》にあった。私の通っている学校よりも地味《じみ》なスクール・イメージなのに、彼女は結構《けつこう》、メジャーな遊び人だった。
一緒《いつしよ》に大阪のディスコへ遊びに行ったりすると、来ているお客や、それにお店のウエイターの中に知ってる人が一杯《いつぱい》いる、顔の広い子だった。一応は年上になる私にも、友だちに話すのと同じ言葉|遣《づか》いをする。けれども、それが生意気《なまいき》に思われない得《とく》な性格だった。
さっぱりとした子だったのだ。もっとも、彼女を遊び仲間として以前から知っていたらしい私と同じ学校の友だちは、「やめた方がいいよ、由香利と遊ぶのは。だって、彼女、マシーンなんだもの」と忠告してくれた。
何人もの男の子と、すぐにベッドの上のデートをしてしまう女の子を、私たちの間ではマシーンと呼んでいた。由香利は、そのタイプだと言うのだ。
「そうなんだ? でも、いい子だから」、サバサバした性格が気に入っていた私は、「私さえ、マシーンにならなければ、それでいいわけだもの」、アルバイトの後、一緒に遊びに行くことを続けた。
「かわいいよ、年下って。高二だから、まどかより三つ年下」
「えーっ、信じられない」
アルバイト先のジェラート屋さんは、一階がテイク・アウト専門。そうして、二階がジェラート・レストランになっている。私たちは、その二階でハニー・ジェラートとヨーグルト・ジェラートを交換し合いながら、アルバイトが終わった後の取り留《と》めもない話をしていた。
「一度、会ってごらんよ。気に入っちゃうよ。カールヘルムの雪ダルマシャツを着ているんだ。絶対、お勧めだよ」
紹介してくれるという年下の男の子は、なんと、公徳が通っている大学の付属高生だった。所謂《いわゆる》、お坊っちゃん学校として関西では知られている。
「平気かなあ。彼にバレちゃったら、まずいもの」
躊躇《ちゆうちよ》した私に、
「平気だよ。大学とはキャンパスも違うし。それに、まどかの彼って、高校までは和歌山でしょ」
ちょっぴり意地悪な言い方をした。でも、そう言われてみると、悔《くや》しいけれど「ウン」、素直《すなお》に頷《うなず》かなくてはいけなかった。地方の高校出身でハンドボール部。きっと、DCブランドの知識も詳《くわ》しいに違いない圭太郎《けいたろう》という名まえの年下の少年とは、どこにも接点がないと思う。会っても平気かな、そう思った。
「とにかく、カールヘルム、着ているんだよ。かわいいと思わない? 雪ダルマシャツだもの、なんてたって」
「なあに、その雪ダルマシャツって?」
カールヘルムがピンクハウスやインゲボルグと同じ金子功さんのデザインする男物ブランドだということは知っていた。けれども、雪ダルマシャツというのが、一体、何なのか、恥ずかしいけれど私は知らなかった。
「もう、これだから困っちゃうんだよね。ちゃあんと、男物だってチェックしておかなくっちゃ」
雪ダルマがプリントされたかわいらしいシャツが秋物のカールヘルムにあるらしい。で、それが圭太郎のまわりで注目されているのだとか。由香利の解説によると、そういうことだった。
「よかったら、今週の土曜日は? 会わせてあげるよ。圭太郎、ガールフレンド募集中だから。大丈夫、会えば気に入るって」
彼女は、そう言った。公徳は月曜日だけがオフだった。そうして、日曜日が夕方までの練習だ。いつも、日曜日の夕方、私は岡本の駅の近くにあるお店で彼と待ち合わせをしては一緒《いつしよ》にご飯を食べた。月曜日は二人とも、出席を取らない授業ばかりを選択していた。
土曜日は、夜|遅《おそ》くまで練習がある。いつもは、だから、アルバイトを入れていた。カップルで訪れる同い年くらいの男の子や女の子に、アイスクリームとシャーベットの中間みたいなジェラートをコーンやカップに詰《つ》めて、「ハイ」、ニコニコしながら渡してあげるのだ。
活気がある職場で楽しかった。けれども、仕事が終わった後、ポツンと一人、地下鉄に乗って須磨《すま》にある自宅まで帰るのが辛《つら》かった。
「アルバイト、他の子に替《か》わってもらえばいいじゃない?」
しっかり、ウィークデーだけのスケジュールでアルバイトを組んでいる由香利は、そう言った。
「うん」
束縛《そくばく》気味なところを除けば、特にこれといって公徳と私との間に決定的な問題点はなかったのに、紹介してもらうことになってしまった。
「前から来たいと思っていたんだ、この店にね」
オフショアは、明石《あかし》市との境《さかい》近くにあった。舞子《まいこ》の海岸線沿いにステキな店が出来たという話は、去年から私のまわりでも話題になっていた。
「国道と防波堤の間の、ほんの五メートルもない幅のところに、カワイイお店があるの。横長のバー・カウンターみたいな感じ」
早速《さつそく》、行って来たという友だちは、興奮気味に教えてくれた。ドリンクと、ハンバーガーやピザといった簡単なフード。アメリカの田舎《いなか》町を走る国道沿いにあるというドライバーズ食堂、ダイナーの小型版のイメージなのだろう。
「でね、一番最高なのが、お店の外にもテーブルがあるの。そうなの、防波堤とお店の間に。淡路島《あわじしま》が目の前に見えて。いいよお」
十五人も来れば、お店の中も外も一杯《いつぱい》になってしまうというそのオフショアに、夕ご飯を食べた後、公徳の運転する車でやって来た。私たちと同じような若いカップルが三組ほどいる。どうやら、アメリカで録音して来たらしい音楽専門FM局のエア・チェック・テープが流れていた。
明石海峡を行き交う船の明かりが見える。薄曇りのお天気のせいか、ボワーンとした明るさだ。それが、とても雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出しているような気がした。
「さっきはご免《めん》。つまらないことを一杯、喋《しやべ》っちゃって」
車で来たからと、ジンジャー・エールを頼んだ彼は、「でも、ストローが付いてると、アルコール、全然、駄目《だめ》みたいでみっともないよね」、そう言って、グラスに直接、口をつけて飲んだ。お店の外のイスに二人、横に並んで坐《すわ》っていた。私だけが、カルーア・ミルクだった。
「もうじき、レギュラー・メンバーの選考があるんだ。来年は三年生だから、どうしても入りたいんだ。でも、今の実力だと、僕、微妙《びみよう》なところなんだよね。ご免。だから、つい、イライラしちゃっていたんだ」
「体育館まで来るのは、駄目だよ」、そう言って、いつでも、学校の外で待ち合わせをした。だから、彼の練習振《ぶ》りを見たことがない。試合には、まだ出ていなかったから、そうした場に行ったこともない。デートの時も、自分からハンドボールの話をすることはなかった。私もまた、尋《たず》ねることをしなかった。
「ううん、いいの」
いつもよりテンポの遅《おそ》い喋り方で答えた。きっと、間延《まの》びした感じを彼に与えたことだろう。けれども、それは私の誠意でもあったのだ。
アルバイトをお休みにして、由香利と圭太郎に会ったあの日、たしかに私はキタにあるディスコにいた。「じゃあ、後は二人で楽しんでね」、そう言って由香利が先に帰ってしまった後、二人でディスコへ行った。「彼の家、お金持だから平気よ。まどかは出す必要ないわ」、親切なアドバイスを受けていたのに、なぜか悪い気がして、ディスコを出た後、そっとお金を渡した。
電車がなくなって、だから、どちらからともなくタクシーに乗ってブチック・ホテルが密集する地区まで行ってしまった時にも、「はい、これ」、ポシェットの中からお財布《さいふ》を取り出した。
「年下の男の子を自分好みに飼育《しいく》するのって、楽しいんだから」、彼女にそう言われて、結構、心の中では期待していたのに、でも、やっぱり駄目だった。私を自由にさせてくれない公徳に不満は感じていても、だからって、雪ダルマのシャツがお似合いの圭太郎と付き合うだけの勇気は、私にはなかったのだ。
「ううん、いいの」
本当は、もっとテンポのある明るい言い方をした方が私らしかったのかも知れない。けれども、それでは、せっかく自分の方から謝り出した彼に申し訳ない気がした。私の秘密を何も知らない彼に明るい声で答えるなんて、許されない気がした。
「そう、ならいいんだ。ありがとう」
彼はジンジャー・エールの残りをゴクゴクゴク、一気に飲んだ。私は、カルーア・ミルクを一口、飲んだ。さっきよりも、海峡を行き交う船の明かりがはっきりと見えるようになった気がする。晴れて来たのだろうか? それとも、今度の土曜日、圭太郎と会うことになっていた約束を断わろうと心で決めたからだろうか?
――やっぱり、好きよ、公徳。
聞こえないくらいに小さな声でつぶやくと、テーブルの上に置いていた彼の左手の上に、そっと、私の右手を重ね合わせた。
夜の埠頭《ふとう》で
「もう、いいよ。じゃあね」
そう言って彼は電話を切ってしまった。「ねえ、ちょっと待ってよ」、そう言う間もなく切られてしまった。別にどうということはない内容で、こうなってしまった。弱ったなあ、そう思った。
今日の和仁《かずひと》は、電話の最初から、なんとなく、おかしかった。いつもの彼は、やたらとひょうきんな電話をかけて来る。たとえば、ダミ声って感じのシワクチャ・ボイスで「ドナルド・ダックだよ」、そう言ってかけてくるのだ。
あるいは、低くて太い声で、「もしもし、こちら警視庁保安二課の者ですが」。これには真剣、だまされたことも二回ほどあった。グラウンドホッケー部に入っている彼は、だからというわけでもないのだけれど、ドスの効《き》いた声も出すことが出来た。
「お宅の優子さんがよく行かれる六本木のディスコの従業員が逮捕《たいほ》されまして」
本当に警視庁の人からの電話だと信じ切っている私は、緊張《きんちよう》しながら、
「はい、ご用件は?」
何か言わなくてはいけないと思って声を出した。
「ま、そのう、所謂《いわゆる》、麻薬で逮捕になったわけです。その件で、少し、優子さんからお聞きいたしたいことがありまして」
お腹《なか》がキューンと締《し》め付けられるような具合になった。何も私は悪いことなんてしていないのに。
「は、はい」
学校の先生に答える時のような返事をした。すると、そこで、
「エヘヘ、僕だよ、和仁」
いつもの彼の声になった。
「ひどいわ、悪戯《いたずら》っ子過ぎる」
くちびるをタコのようにムーン、とんがらせて抗議した。けれども、ストレートに怒るのでは私の一方的な負けのような気がして、
「ちょっとね、そういう心当たりのディスコの従業員、何人か仲が良かったものだから、驚いちゃったあ」
フェイント攻撃をしたりした。
今度は彼の方が驚く番だった。体育会の練習が忙《いそが》しくて、なかなか私とデートすることの出来ない彼としては、こういう発言って気が気じゃなかったのだろう。
「エッ、どういうこと、どういうこと? 優子、お前、本当にそうなの?」
心の中の動揺《どうよう》を素直《すなお》に言葉に表わした。かわいらしい。
「うーん、まあ、なんというか、フフーン、とにかく、そういうこと」
禅問答《ぜんもんどう》のような答え方をしてあげた。冷静に考えてみたら、私がそうしたディスコの従業員と一緒《いつしよ》にドラッグの世界を楽しんでいるなんてこと、あるはずがないのだ。それは、誰が見たって明白なことだ。
なのに、頭に血がポワーンと上ってしまった和仁は、真剣な声で追及してきた。こういうところって、体育会特有のノリなのかも知れない。最初は彼を軽くからかってあげているつもりだった私も、こうなると困ってしまう。
「ごめん、ごめん、和仁、ごめん。今のは、みいんな、ウソ。ね、ウソ」
おどけた声を出して、でも、ちゃあんと謝った。
もちろん、いつでもひょうきんな電話ばかりかけてきたわけではない。ごくごく普通の喋《しやべ》り方でかけて来ることの方が、本当は多かったのかも知れない。
けれども、今日の彼からの電話は、ひょうきんなパターンでもなければ、ごくごく普通のパターンでも、そのどちらでもなかった。声が最初からイライラしていた。
「和仁だけれど」
警察の人の真似《まね》をした時とは、また違う、低い声を出した。ちょっぴり不思議に思いながらも、
「はい、今晩は」
明るい声で答えた。
「何していたの?」
同じ低い声で尋《たず》ねられた。
「うーんとねえ、本、読んでいたの」
FMをつけていた。ボリュームは小さくしていたのだけれど、それでも、ちょうどかかっている曲がラップ、ラップしたノリだったものだから、私の部屋は結構、賑《にぎ》やかな雰囲気《ふんいき》に包まれていた。
「どんな本?」
ギクッとした。読んでいたのは、女性向けの雑誌だったからだ。どういうふうに答えようかしら、悩んだ。
「ファッションの本なんだ」
とりあえずは、そう答えた。それ以上、深く質問して来ることはないだろうと思ったからだ。けれども、それは甘かった。
「日本の? それとも、外国の?」
「向こうの人が書いた本なの。もちろん、日本語に翻訳《ほんやく》されているけれど」
人間、後ろめたいことがある時には、どうしても饒舌《じようぜつ》になってしまう。今日の私も、また、そうだった。言わなければいいのに、口から出任《でまか》せのウソをついた。
「ふうん。何っていうタイトルなの」
早口で尋《たず》ねられた。思うのだけれど、多分、彼としては深い意味があって質問して来たのではないと思う。ただ単に尋ねたのだと思う。それは早口だったことから、わかる。
あまり関心のない話題を話す時には、彼は早口になることが多かった。たとえば、私が学校の友だちの中で、どうしても好きになれない女の子の話をしたりする時がそうだった。「ふうん、何って名まえ?」、「どうして、嫌《いや》なのに会っているの」、「じゃあ、誰と一緒にいると楽しいんだよ?」。質問された。
一見、私の悩みを一緒になって真面目《まじめ》に考えてくれているように思える。けれども、それは違った。たとえば、人の話を聞きながらも、何か別のことを考えている時って、「うん」とか「どうかなあ?」とか「いいんじゃない」とか、ごくごく一般的な対応の言葉を言うようになってしまう。私の場合もだ。
和仁が早口でいろいろと尋ねて来る時は、それと同じパターンだった。興味がないものだから、本当は別の話題に行きたいのだ。けれども、すぐに話題を変えてしまうのでは、たとえば、私なら私というその相手に悪いような気がして、それで、なんということはない質問を幾《いく》つかして来るのだった。
タイトルまで尋ねられたその時も、だから、冷静に考えてみれば、適当に答えておけば良かったのだ。けれども、好きになれない友だちの話をしている時とは違って、気合いが入っていなかったから、ついつい、ボロが出てしまった。
「本当はね、雑誌を読んでいたの」
大人《おとな》の人たちから見ると、読書というのはあくまでも本を読むことらしい。それも出来ることならば、新書や文庫本でないハードカバーの単行本を読むことがだ。けれども、私たちにとっては、雑誌をパラパラとめくって見ていることも、読書の一種なのだ。
同い年の和仁なら、そのくらいのこと、わかってくれるはずだと思っていた。けれども、最初から御機嫌《ごきげん》斜めだった今日は、
「どうして、そんなウソ、つくんだよ」
冷たい答えが返って来てしまった。
「ごめんなさい。でも、みんな、雑誌を見ることを本を読むって言い方するから」
ちょっぴり弁解をした。それも、いけなかったらしい。多分、グラウンドホッケー部の練習で何か上手《うま》くいかなかったことがあったのだろう。虫の居所《いどころ》が悪かった彼は、
「もう、今夜はいいよ、会わないよ」
そう言った。
私たちの家は、車で十分くらいの距離だった。練習の忙《いそが》しい和仁とは、お互いの授業が終わった後の午後二時とか三時からデートをするなんて、とても不可能だった。校門のところまで彼が車で迎《むか》えに来てくれている友だちが、だから、羨《うらや》ましかった。
もっとも、夜、十時くらいから一時間ほど、デートをすることがあった。彼の運転する車でドライヴしたり、お茶しに行ったり、どうってことのないデートだったけれど、それはそれで楽しかった。付き合っていることを、両方の家の親が知っていたから、夜遅《おそ》くなってから外出することも、大目に見てもらえていた。
今日も二人、真夜中のデートをすることになっていたのだ。彼が電話をかけてきたのは、それでだった。なのに、私のセリフが原因でおじゃんになってしまった。
「もう、いいよ。じゃあね」
ガチャンという音がした後、しばらく、受話器の向こう側からは何も聞こえなかった。もっとも、きっと、それは、一、二秒のことだったのだろう。すぐに、ツーツーツーという音が聞こえて来た。
「駄目《だめ》なんだよなあ、すぐに怒っちゃうからさ、僕って」
和仁は、ゆっくりとしたテンポの声でそう言った。大井|埠頭《ふとう》にいた。正確に言うと、城南島《じようなんじま》と言うらしい。新幹線の車庫やコンテナを積み込む埠頭のある大井埠頭の南にある。羽田空港の離着陸する飛行機を観るマニアやアベックで一杯《いつばい》の京浜島《けいひんじま》とも、また別だ。京浜島から見ると、斜め上にあった。
「ううん、いいのよ」
もう少しいろいろと喋《しやべ》ろうかと思った。けれども、また舌禍《ぜつか》事件≠起こしてしまうといけない、そう考えて、言い留《とど》まった。
車の外は真っ暗だった。私たちの他には誰もいない。どこまでも続く直線道路の先に、未来都市の建物のように輝《かがや》いている建物があった。
「ねえ、あれは?」
このくらいの発言ならば平気だった。仮に和仁がその建物について何の知識も持ち合わせていないとしたら、逆効果だ。
けれども、地図も何も見ないで大井埠頭からここまで運転して来たということを考えれば、当然、初めて訪れたわけでもないだろう。建物についても、それが何なのかくらいは知っているはずだった。
「ゴミ焼却場《しようきやくじよう》だよ。でも、超近代的でしょ」
本当だった。パイプがグニュグニュと剥《む》き出しになっている。去年、ツアーで行ったことのあるパリのポンピドー・センターみたいに冷たい銀色をした建物だった。
「ヘエー、最近はゴミ焼却場もすごいんだ」
もう一度、無難な発言をした。未来都市の建物という雰囲気《ふんいき》のゴミ焼却場は、ライトで浮かび上がるような具合になっている。そこだけが明るくて、後は闇《やみ》に包まれている。荒地が広がるだけだ。それが、城南島だった。
――一体、誰とここまで来たのかしら。私とこうしてやって来る前に。
尋《たず》ねたい気持を、グッと我慢《がまん》した。一度、怒って電話を切ってしまった和仁が、自分からもう一度、かけて来てくれたのだ。今日は少しは私が大人の女性になって、彼をリードしてあげよう、そう思った。
「もしもし、和仁だけれど」
電話をかけ直して来たのは、五分くらい経《た》ってからだった。「あーあ」という感じで、私はパジャマに着換《きが》えている最中だった。
「はい、お元気?」
咄嗟《とつさ》に私の姉の直子さんチックな声を出した。どうして、そうしたのかは、自分でもあまり良くわからない。ただ、瞬間《しゆんかん》、そのまま私が出てしまうのは勿体《もつたい》ない、そう思ったのかも知れない。
「あ、はい、元気です」
当然、私が電話に出るものだとばかり思っていた彼は、急に丁寧《ていねい》な言い方になった。
「優ちゃん、今、お風呂《ふろ》に入ってるの。どうしましょうか?」
姉は少し鼻にかかった声をしている。比較的、真似《まね》しやすかった。
「かけさせましょうか?」
尋ねると、
「あ、いいです。僕からかけます」
そう言って切った。かけ直して来たのは、およそ十分後だった。
「ごめんなさい。今日は疲れちゃったからって、もうベッドみたいなの。どうします?」
沈黙していた。しばらく経《た》ってから、
「そうですかあ。じゃあ、仕方ないね」
自分に言い聞かせるかのようにつぶやいた。ちょっぴり、かわいそうな気がした。
「待っててね、優ちゃん、見て来てあげるわ、お部屋まで行って」
本当は私の部屋で電話を取っているというのに保留ボタンを一旦《いつたん》、押した。しばらくしてから、今度は眠たそうな、けれども、私自身の声で喋《しやべ》った。
「さっきは、悪かった」
姉を演じていた際の私と喋っていたのとは違って、ちょっぴり、威厳《いげん》のあるふうな言い方をした。かわいいな、と思った。
二十歳《はたち》前後って、どうしたって女の子の方が男の子よりも大人だ。だから、かえって逆にそのくらいの年齢の男の子って、女の子の前で虚勢《きよせい》を張ろうとする。そうしないと、自分の立場がなくなってしまうような不安があるのだろう。
体育会での上下関係にも耐えている彼の場合は、余計《よけい》にだろう。それが今日と来たら、練習でクタクタになっているのにもかかわらず電話をしたら、私の方はラップをかけて女性雑誌を読書していたのだから。こりゃ、怒るのも無理ないな、ってところだ。
「ううん、私がいけなかったの」
謝った。きっと、これで彼としては気分良くなったはずだ。
「出来れば、今日、ちょっとだけでいいから会いたいな」
続けて、そう言った。
「うん」
すぐに返事があった。それで二人、こうして車の中にいるのだ。
「今日は、練習で先輩《せんぱい》にいろいろと言われたものだから」
ハンドルを握《にぎ》り締《し》めながら、和仁は言った。
「いいのよ、私。今日、こうして会えただけでも嬉《うれ》しいの」
もちろん、それは本当だった。けれども同時に、「私が大人になって、彼を甘えさせてあげればいいのね」、そうも思っていた。私から会いましょうと言ったのも、だからだった。日本の場合って、ある種の母親役を相手の男性に対して演じないと駄目《だめ》なのかも知れない。
城南島から大井|埠頭《ふとう》へと続く道を走っていた。未来都市の建物を見ながら二人だけの時間を過ごした私たちは、それぞれの家へと戻《もど》るのだ。
「ねえ、和仁。私、嬉《うれ》しいわ」
小さな声でつぶやきながら、運転中の彼の膝《ひざ》の上にそっと手を置いた。
Handle with care
おんなじ行為《こうい》をしているというのに、どうしてこんなにも違《ちが》うのかしら。そう思った。もちろん、私の感じ方が、だ。ホテルの一室に、私は高間《たかま》さんと一緒《いつしよ》にいた。
ものすごく丁寧《ていねい》に私の体を扱《あつか》ってくれる。まるで、"Handle with care" という赤いシールがベタベタと貼《は》られたダンボール箱を取り扱っているかのように。中身は、美術品。そんな感じだ。
いつでも、まず最初、立ったまま、キスをする。それも、一番最初のキスは、お互いの唇《くちびる》が触《ふ》れるか触れないかの微妙《びみよう》な感覚でだ。「ねえ、一杯《いつぱい》、キスをしたいの」と思っている私の気持を知っていて、それで、わざと焦《じ》らしているのではないかしら。一瞬《いつしゆん》、疑《うたぐ》りたくなる、そのくらい、あっけないキス。
唇だけではなくて、顔も離した彼は、けれども、私を見つめてニコッとする。下手《へた》したら、「私の父親です」と他人に紹介《しようかい》したとしても、「あら、そうでしたか」、納得《なつとく》されてしまいそうな年齢差の彼が微笑《ほほえ》むのだ。その度《たび》に、私はまいってしまう。
ゾクッとした感じが、体全体に襲《おそ》ってくるのだ。ある外資系の銀行で、日本人としてはトップのランクにいる、そんな仕事バリバリのエグゼクティヴな彼に笑みを浮かべられてしまうと、もう、駄目《だめ》なのだ。
どうしてなのだろう、と考えてみたことがある。もちろん、そのアンバランスなコントラストが原因だろう。仕事をしている時の高間さんを、私は一度だけ見たことがある。丸の内にあるオフィスへ遊びに行った時にだ。夕方の六時過ぎのことだった。
コンコン。ドアをノックして彼専用の部屋へ入って行くと、国際電話をしていた。外資系の銀行なのだから、英語で喋《しやべ》っていたとしても、行内《こうない》の人との事務連絡に過ぎないケースもあるだろう。ただ、その時は、彼の部屋の手前にデスクを置いて仕事をしている若い女性の秘書の方が、「今、ロンドンと電話中ですから」って教えてくれたので。
高間さんの皮膚《ひふ》は、その時、とっても緊張《きんちよう》しているように私には思えた。早口で電話の相手に何かを、といっても、もちろん、仕事上のことなのだろうけれど、捲《まく》し立てていた。私は、ちょうど、目線《めせん》を流してきた彼に向かってウインクすると、傍《そば》にあったイスにチョコン、腰を下ろした。
当然、ウインクをお返ししてくれるものだとばかり思っていた。もしかしたら、それだけではなく、おいで、おいでの手招きもしてくれるんじゃないかしら。そうも思った。
「エヘヘ、お久しぶり。今日は、オフィスで待ち合わせだなんて、素敵《すてき》。だって、佐知子《さちこ》、丸の内のオフィス街を歩くだけで、興奮ものよ」みたいなことを、心の中で独り言しながら彼に近付いて行く。すると、彼は電話の相手と流暢《りゆうちよう》な英語でやりとりしながら、屈《かが》み込むようにして、私の唇《くちびる》にキスをする。ほんの短い一瞬《いつしゆん》の出来事。
期待していたのは、そうしたシチュエーションだった。なのに、高間さんは微笑《ほほえ》んでくれることさえ、してくれなかった。チラと私を見ただけで、仕事の電話を続けた。皮膚《ひふ》も緊張《きんちよう》したままだった。微笑みながらキスしてくれたのは、電話を切り終わってからだ。
けれども、例のゾクッとした感じが、体全体に襲ってくるようになったのは、その時からだ。きっと、仕事中の彼の表情とはあまりにも違う、なんて言うのかな、あどけない子供みたいに透き通った目で私を見つめる彼に、まいってしまったのだろう。そう思う。
一番最初のキスの後の微笑みで、ゾクッ。すると、もう一度、キスをしてくれる。今度は、長い時間をかけてのキス。彼の舌が私の口の中に入ってくる。私も、彼の中へと舌をピクニックに連れて行ってあげる。楽しい対応。
首筋に彼の舌の先が触《ふ》れると、ゾクッとした感じは、もっと強くなる。触れ方が、微妙な具合《ぐあい》なのだ。本当に舌の先の部分だけを使って、彼は首筋に愛撫《あいぶ》をする。ゆっくりとした動きで、首筋を上下に愛撫する。
舌の先だけを使っての刺激《しげき》は、舌全体でベローンとされる時よりも、鋭《するど》い。もちろん、爪《つめ》の先で首筋を上下に、なんて時の鋭さとは比べものにならないだろうけれど。ゆっくりとした動きと、舌の先だけを使うことから生まれる鋭さと。コントラストは、この段階でも登場だ。
決して、くすぐったいわけではないのだけれど、私は彼の舌の先から逃《のが》れたいと無意識のうちに考えて、首を傾《かし》げる。すると、フーッ、耳の中へと今度は息を吹きかけてくる。熱い息だ。ゾクッて感じは、ますます強くなる。
といっても、ただ単にフーッと熱い息を吹きかけてくれるのなら、他の男性にだって、男の子にだって、出来る。高間さんと並行《へいこう》して私が付き合っている、同い年の一成君にだって。
きっと、若い男の子向けの雑誌には、「彼女をその気にさせるテクニック習得講座」なんて特集が載《の》っていて、そこには、「あせってはいけない。インサートは最後の最後だ。唇にキスをしたら、次は首筋だ。そうして、耳へも。耳には熱い君の息を吹きかけて、熱い気持を伝えよう」とかなんとか書いてあるのだろう。きっと、そうだ。
でもねえ。熱い息を吹きかけるにしたって、コツがあるでしょうに、コツが。一成君の場合は、単なるフーッだ。感じることは感じるけれど、でも、ただそれだけ。高間さんの場合は、違う。フーッとフッが組み合わさっている。もしかしたら、フーフッ、みたいな吹きかけ方もあるような気がする。とにかく、普通じゃない。その度《たび》、感じ方が違う。
「佐知子」
熱い息と一緒《いつしよ》に、私の名まえをささやく声が耳の中に入ってきた。高間さんの声は、バリトンだ。ズーンと体に響《ひび》く。
お返事をする必要はない呼びかけであることは、確かだ。別に何かを私に伝えようと思って、彼は私の名まえを呼んだわけではないだろう。けれども、私の方は、さっきから同じ声の繰《く》り返しだ。「感じているのよ、私」ってことを伝える、少しは気の効《き》いた別の言葉が見つからないものかしらと思う。
でも、駄目《だめ》。頭の中が、全然、回転してくれないのだもの。「ほら、ちゃあんと動いて下さいな」とお願いしてみても、駄目。彼のテクニックの前に、バタン・キュー、って感じ。仕様もない女の子だ、この私は。
「だったら、せめて、ベッドへ行きたい気持だけは、なんとかして伝えるべきよ」
頭の中のごく一部分に、まだ生息していた理性という名の代物《しろもの》が私に命令する。
「でないと、貧血《ひんけつ》になった時みたいに、ヨロヨロヨロ、倒れちゃうわよ」
――わかっているわ。
彼の愛撫《あいぶ》を受けているうちに、ほとんど活動しなくなってしまった頭の中の他の部分が、微《かす》かに反応する。
「だったら、『ベッドに横になって、続きはして下さい』、そう言いなさいよ」
――でも、言葉が喋《しやべ》れないの。っていうより、文章を組み立てることが出来ないの。
頭の中で、論争だ。このまま、放っておいたら、パンクしちゃいそう。私は、少しずつ少しずつ、ロボットが足を動かすように、ベッドの方へと近づいた。抱《だ》き合っていた高間さんも、私と一緒にロボットの動き方をしてくれる。
「アッ」と思わず声を出してしまいそうになってしまった。なぜって、高間さんに会ってしまったのだもの。ううん、別に私が一人で歩いている時にバッタリ会ったのならば、むしろ、ラッキーだ。「キャッ、うれしい」と叫びながら、人目なんて気にせず、抱《だ》きついちゃうかもしれない。
けれども、なんとも運の悪いことには、それは、一成君と一緒の時に起こった。まったく、もう。
「ホテルのコーヒー・ハウスで、お茶しようか?」
日比谷《ひびや》の映画館で、新作物のSFXを観終《みお》わると、彼はそう言った。すぐ傍《かたわら》には、帝国ホテルがある。
「うん、いいわよ」
私は、すぐにオーケーした。不思議だな、と思うのだけれど、ホテルのコーヒー・ハウスでお茶すると、すごく、大人になったような気がする。
「ほんとにねえ、今の大学生は、親からお金をもらってデートしているのに、ホテルのコーヒー・ハウスでお茶したりお食事したりするんですから。ママたちが学生だった時分には、とても考えられないことだわ」
母は私と外にお出かけする度、そう言う。まあね、って感じはする。でも、たとえ、街中のお店よりミルク・ティーの値段が百円高くたって、その分以上に落ち着けるのだもの。でしょ。
普通のお店は、せわしない。それに、ポットでサービスしてくれないお店が圧倒的《あつとうてき》だ。けれども、ホテルのコーヒー・ハウスならば、ミルクも温めてもって来てくれる。プラスチック製のミニ・ミルク・ピッチャーが出て来ることもない。そうして、もうひとつ、ホテルのコーヒー・ハウスに入ると、ちょっぴり、背伸《の》びしたような気分にもなれる。
「すごい、行列だよ。どうしようかあ?」
一成君は私に尋《たず》ねた。見ると、コーヒー・ハウス、さいくる≠フ前に人が三十人くらい。これじゃあ、まるで、西|麻布《あざぶ》の交差点にあるアイスクリーム屋さん、ホブソンズの前に並ぶようなものだ。金曜日の夕方だからなのかもしれないけれど、でも、それにしたって、という感じだ。
「かなり、待ってしまいそうだわ」
私が言うと、
「じゃあ、ロビーの方にあるティー・ラウンジへ行ってみようか」
彼は答えた。
ロビーの脇《わき》にあるランデヴー・ラウンジは、大人の雰囲気《ふんいき》だ。いかにも、エグゼクティヴって感じのビジネスマンや、これから、上の階にある宴会場でのパーティーに出席いたしますのよ、って感じの、おめかしをしたご婦人が集まっているスペースだ。
ちょっぴり、気後《きおく》れしちゃいそうなラウンジ。でも、池袋《いけぶくろ》にある大学の付属校へ小学校から通っている一成君となら大丈夫。「いつもは、両親と待ち合わせする時に使っているんですけれど、でも、今日は子供同士でね」みたいな表情をしていればいいのだもの。
コーヒー・ハウスは、宝塚劇場側にあった。ラウンジのあるロビーは、日比谷公園側だ。ホテルの中の通路を二人、手をつないで歩いていた。高間さんと目が合ってしまったのは、ちょうど、その移動中だ。
背の高い彼以上に大きい白人男性二人と一緒《いつしよ》に早足で向こうから歩いて来た。一成君は、ドラッグ・ストアのショー・ウインドーにディスプレイされていたパコ・ラバンヌのオーデコロンを見ながら、
「あれって、匂《にお》いがいいんだよね。今度、つけてみようかな。ねえ、どう思う?」
と私に尋《たず》ねていた。
だから、高間さんを見かけて、頬《ほお》が引きつってしまった私の表情を知らない。本当に、引きつってしまったのだもの。
高間さんは、私のことを見つけた。手を口のあたりに持っていって、「えー、どうしよう」という感じの私の横を、両脇《りようわき》の男性と話しながら通り過ぎる際、ウインクをした。微笑《ほほえ》んでもくれた。
「ねえ、お店の人に頼んで、匂いをシャツに、ちょっぴり、つけさせてもらおうかな。平気だよね、言ってみても」
本当は、振《ふ》り返って高間さんの後ろ姿を、ずうっと見ていたかった。けれども、その気持をかなえることの出来ない私は、
「うん、大丈夫よ、もちろん」
平静そうな声で答えた。
「腕枕《うでまくら》って、あんまり好きじゃないなあ。そりゃ、最後に二人とも素敵《すてき》な感じの電流がピピピッて体に流れて終わった後、ベッドの上に二人でペタッと横になって余韻《よいん》を楽しんでいるのは、いいんだけれど」
一度、私がそう言って以来、腕枕ではなしに、右手の指先で髪の毛を梳《す》いてくれることを、セックスが終わった後にしてくれるようになった。最初の愛撫《あいぶ》と同じように、"Handle with care" を守ってくれる。
「シャワー、浴びて来てもいい?」
私は、わざと甘ったれた声を出すと、立ち上がった。スリッパを履《は》かずに素足のまま、チョンチョンチョン、つま先で歩いた。
皇居前にあるパレス・ホテルは、ヨーロッパのデュッセルドルフあたりにでもありそうな感じのホテル。もちろん、佐知子は行ったことなんてあるわけないのだけれど、大手町《おおてまち》のオフィス・ビルに囲まれた低層階のパレス・ホテルには、ドイツのイメージがある。ドイツ人も日本人も、ビジネス・マンが勤勉だから、そのあたりから連想しちゃったのかな。多分、そんな感じ。
仙川《せんかわ》にある女子大の、まだ二年生になったばかりの私には、「うーん、ちょっと、雰囲気《ふんいき》違うね」というところかな。でも、高間さんと一緒《いつしよ》だと、ミス・マッチな感じになるから、不思議。
私は、バス・タブの内側に裾《すそ》を入れて、ビニール製のカーテンを引いた。シャワーのお湯が、外へと出てしまわないようにだ。左手でシャワーを持って、そうして、洗うことにした。
一成君だけでなく、高間さんとも付き合い出してから、もうじき、半年だ。一成君は、とってもいい子で、だから、別段、不満に思っていることがあるわけじゃあない。でも、ほら、男の人って、年を取らないと醸《かも》し出せないものってあるじゃない。会話とか、ファッションとか、セックスとか。みいんな、全部。そこなんだと思う。
この間の帝国ホテルのことも、高間さんは話題に出そうとすらしない。それは、私にとっては、かえってプレッシャーなのだけれど、でも、大人《おとな》だ。
お湯を体中にサッとかけるだけで終わりにしよう。シャワーを浴びる前は、そう思っていた。けれども、体中で一番|敏感《びんかん》な部分だけは、石けんを両手で泡立《あわだ》てて、丁寧《ていねい》に洗い流そうと途中《とちゆう》で思い直した。
中年の小説家の人の作品を読んだ時、石けんの匂《にお》いの違いで妻に浮気《うわき》がバレないようにと、主人公がお湯を使うだけのシーンが出てきたことがある。そのことを思い出したのだ。
今の私は、一成君に内緒《ないしよ》で浮気をしている主人公。けれども、むしろ、石けんの匂いで今日の出来事をすべて消し去った方が、似つかわしいのかもしれない点は、異なるんじゃないかしら。そんな気がする。石けんを泡立てると、プーンとラヴェンダーのような匂いがした。
わがままだった頃《ころ》
「お久しぶりね、元気?」
イスに坐《すわ》りながら、私は挨拶《あいさつ》をした。なのに、友美《ともみ》ったら黙《だま》ったまま顔を上げた。それも、おずおずとした動作でだ。弱ったなぁ、と思った。
「お通夜《つや》の席にいるみたいな表情、しないで欲しいなぁ」
彼女の顔をジッと見つめながら言った。短大時代のクラスメイトだった友美は、白い肌《はだ》をしている。今のシーズンだと、雪のように白い、といった形容の仕方がお似合いかも知れない。
けれども生憎《あいにく》と私は、文学的というか何というか、そうした表現をするのが苦手《にがて》だ。だから、単に白い肌という言い方、簡単だ。でも、的確で、それに間違《まちが》ってはいないでしょ。
「私、全然、元気なんだから」
続けて、そう言った。きっと、私の気持を傷つけまいと考えて、おっかなびっくりなのだ。大丈夫、そんなところにエネルギーを使わなくたって、由香《ゆか》、本当に平気なんだから。本当に、本当に、平気なんだから。
もっとも、あまりにもそうしたことを強調し過ぎるのも考えものだ。結構《けつこう》、心が疲れているのに、わざと肩肘《かたひじ》張って「あら、私、いつもと変わらなくってよ」と言っているようなものだ。寂《さび》しい気がする。それで、少しフォローしようと思った。
「最近、ようやっと、落ち着いたって感じだから」
すると、友美の表情が柔《やわ》らかくなった。やっぱり、心配してくれていたのだ。でも、それは意地の悪い見方をしてしまえば、あくまでも他人に対する心遣《こころづか》いでしかない。だって、誰か他の人が私のことをどんなにか心配してくれたとしても、決して私に成り代われはしないのだもの。最後は自分で解決する問題。
ミルクティーを注文した。一度、結婚することを決めて、結納《ゆいのう》はもちろん、式場から新婚旅行から新居まで、すべて事を進めていたのに直前になって婚約を解消してしまった私の選ぶ飲み物としては、少し不釣《ふつ》り合《あ》いな気がした。だって、ミルクティーって、少しブリッ子な雰囲気《ふんいき》があるでしょ。
メルヘン、メルヘンした格好《かつこう》をして、彼と一緒《いつしよ》にケーキ屋さん巡《めぐ》りをしちゃうような女の子にお似合いだ。ううん、もちろん、大人《おとな》の女性が飲んだって、それはちっともおかしくはないのだけれど、でも、久しぶりに友美と待ち合わせをした今のシチュエーションには、やっぱり不釣り合いな気がした。
「そう、なら、よかった。だって、結婚を取り止めたって聞いた時は、本当にびっくりしちゃった」
彼女の飲んでいたホット・レモネードは、もう大分《だいぶ》、残り少なくなっていた。私が遅刻《ちこく》してしまったからだ。それは、昔から変わらないパターンだった。いつでも、待ち合わせ場所には友美が先に登場していて、そうして私は例外なく遅刻をするのだった。
別に勿体《もつたい》をつけて遅刻していたわけではない、早目に到着しよう、到着しようと思って出かける準備をしているのだ、毎回。私が両親と一緒に住んでいる場所は、目黒区だった。だから、都心で待ち合わせをしていても、四十分もあれば充分、着いてしまう。
「今日は絶対に遅《おく》れないぞ」、心に決めて待ち合わせ時刻の三時間も前から準備を始める。
「エヘヘ、これなら大丈夫」と一人、ニヤニヤしながら髪の毛を洗ってブロウする。そのあたりまでは正解なのだ。
なのに、どういうわけか、その後、雑誌を読んでしまったり、お化粧《けしよう》に時間がかかったりしてしまって、気がつくと待ち合わせ時刻の十五分前、なんてことになっている。もちろん、遅刻だ。
その悪い傾向は、克史《よしふみ》との結婚を取り止めた今になっても相変らずだ。今日も同じ。短大を卒業した後、アルバイト的に二、三のオフィスやショールームで働いたことはあるものの、|9《ナイン・》 |to《トウ・》 |5《フアイヴ》の規則正しくて、でも退屈なOL生活を送ったことはない私と違って、友美は今でも正真正銘《しようしんしようめい》、バリバリの大手町《おおてまち》オフィス・レディだ。
きっと今日だって、いろんな仕事を終えて疲れてもいるだろうし、あるいは、残業が多少あって会社を出るのが遅《おく》れてしまったから、地下鉄の駅から早歩きで、この待ち合わせ場所までやって来てくれたかもしれないのだ。なのに、今は毎日ブラブラしている私の方が、またもや遅れてしまった。
性格ってものなのかも知れない。そうしてこうした性格も、真面目《まじめ》だった克史と上手《うま》くいかなくなってしまった原因のひとつではあったのかも知れない。
「うーん、由香って、やっぱり、駄目子《だめこ》ちゃんなんだよねえ」、苦笑いしながら、でも半分は反省もしながら心の中でつぶやいた。
友美と私が通っていた女子短大は、世田谷《せたがや》区にあった。電車の駅が近くになくて、バスを使わないとちょっと、というロケーションだった。でも、都心にある学校とは違って、テニスコートが何面もあったし、校舎も比較的|綺麗《きれい》だったし、結構、満足はしていた。自宅からバスで一本、というのも、なぜか電車に馴染《なじ》めない私にはお気に入り要因のひとつだった。
前にも話したように友美は卒業と同時に就職をした。大手町に本社がある製鉄会社。制服のないのが自慢だった。私はちょっとした会社の事務アルバイトをやってみたり、輸入家具のショールームでコンパニオンとも受付嬢とも、どっちともつかない仕事をやってみたりしていた。
克史と知り合ったのは、ま、言ってしまえばお見合いでだった。といっても、そんなに堅苦《かたくる》しいものではない。ママが習っているレザー・クラフトの教室に同じように通っている吉川さんの紹介《しようかい》で付き合い始めた。
丹羽克史《にわよしふみ》。うーん、いい名まえだなあと思う。私より六歳年上。二十八歳。医師をしていた。大人の紹介で付き合い始めた相手の職業が医師だなんて、なんかもう、それだけでいかにも、という感じがしてしまうでしょ。
だから、あまり説明したくはなかったのだ。でも本当なのだから仕方ない。御茶ノ水にある大学病院の外科に勤務していた。
一応、一緒《いつしよ》に歩いても恥ずかしくない、というレベルには到達していた。じゃあ、そういうあなたはどうなの? と聞かれると、もちろん、私だって大きな顔をすることは出来ないのだけれど。
でも、ほら、なんていうのかなあ、人間って自分のことは横に置いて、他人に関してのことは一廉《ひとかど》の評論家になっちゃったような気になって発言しちゃうところ、あるでしょ。私もその一人なのだ。
短大を卒業して、アルバイトで外資系の小さな機械輸入商社に通っている時に知り合った。それまで付き合っていた直弘《なおひろ》とお別れして間もない頃《ころ》だった。寂《さび》しい時だったから、すぐに好きになった。
きっと、恋愛ってそういうものなんじゃないかな、って思う。誰か一人、付き合っている人がいたならば、他の男性を余裕《よゆう》持って見ることが出来る。「自分のことを好きでいてくれる男性がちゃあんといる魅力的《みりよくてき》な女性なのよ、私は」という密《ひそ》かな自信を持った上で、新しく周りに登場した男性を品定めすることが出来るのだ。
けれども、誰も付き合っている人がいないと、そうした余裕は出て来ない。「私は仕事が生き甲斐《がい》よ」なんて強がりを言ってみたところで、やっぱり誰か一人は自分のことを好きでいてくれる男性が欲しいものなのだ。そう思う。
もちろん、付き合っている相手がいない時に現われた男性であっても、どこかに魅力がなければ、さすがにデートしてみようという気は起きないだろう。たとえ、相手が猛烈《もうれつ》にモーションをかけてきたとしてもだ。だって、神様じゃあるまいし、慈善《じぜん》事業で恋愛をするわけじゃあないもの。
克史は、だから、一応、私が気に入った男性だった。デートを重ねた。彼の家は徳島だった。実家のお父様はベッド数が幾《いく》つもある外科病院をなさっていた。長男の彼は、だから、いずれは徳島に帰って病院を継《つ》ぐことになる予定だった。
デートの度《たび》に遅刻してくるこの私に、彼がいい加減、愛想をつかしてしまったのが、なるほど、別れることとなった理由のひとつではある。でも、そうした私の性格は充分理解した上で彼は婚約をしたのだ。だから原因は、やはり、私のわがままにあった。
その私のわがままさを、今日は友美に話さなくてはいけない。別にくどくどと彼女に述べる必要はないとは思うけれど、でも一番の親友だ。これからもずうっと二人が会っていけるようにするためには、心配してくれている彼女に今までの状況を説明しておかなくては。そう思った。
私たちが食事をしたのは、小さな日本料理屋さんだった。赤坂と六本木の、ちょうど中間くらい。通りから少しだけ中に入った路地沿《ろじぞ》い。静かだった。
「会社のお友だちがね、一度、来たことがあるらしいの。結構、お勧《すす》め出来るって話よ」
友美はそう言いながら、引き戸を開けた。雰囲気《ふんいき》がある。けれども、値段の方は手頃《てごろ》だった。オフィス・レディの友美と今はプー太郎している私が、ちょっと財布《さいふ》のヒモを緩《ゆる》めればなんとか払えるという値段のお品書きだ。
「やっぱり、感覚的なところで無理だったんだと思うよ」
綺麗《きれい》な焼き物の器に盛られたお刺身《さしみ》を食べながら、私は喋《しやべ》り始めた。
「たとえばね、由香は美術館へ行くのが好きじゃない? けれども、彼の方はそういうこと、まるっきり関心がなかったの」
それは本当だった。こう見えても私は絵が好きだった。なんたって、中学、高校と美術部だったのだもの。もちろん、腕前《うでまえ》の方はその辺にゴロゴロしているフェリックスやドナルドやそれにガンビのイラストが上手《じようず》な女の子の域を出ているわけではないけれど、でも、取り敢《あ》えず美術館へ行くのが好きだった。
なのに克史ときたら、美術への関心がまるっきりだった。「ねえ、たまには美術館へ行きましょ。上野の博物館で中世の絵巻物の特別展示をやっているの」、こう言って誘《さそ》っても、反応がまるでなかった。
「楽しいわよ、美術館とか博物館へ行くのって。上野だったら、観《み》た後に日暮里《につぽり》の方へ出かけて、お団子《だんご》を食べたっていいし」、二十代後半にもなった男性にしては珍しく甘い物の大好きだった彼の気を引こうと思って、こうした誘い方もした。けれども、無駄《むだ》だった。
「そんなに行きたかったら、一人で行ってくればいいじゃない。せっかくの休日に、好きでもないもの、観に行くつもり、ないよ」、こう言われてしまう。彼とデートをしない限りは毎日が日曜日みたいな私と違って、彼の方は一週間に一日、休みが取れるかどうかだった。それは本当だ。
土曜日や日曜日も、宿直が入ったり、あるいは他の病院へ日直や宿直のアルバイトをしに出かけることが多かった。たまの休日くらい、自分の好きなように過ごしたいというその気持は、私にだって痛いほど良くわかる。でも、その休日の過ごし方が、いつでもドライヴばかりというのでは、さすがの私もちょっと、という感じだった。
自分でも車を運転する私は、もちろん、ドライヴが大好きだ。だから、その点では合格なのだけれど、でもやっぱり、箱根の山道をグイングイン飛ばして、食事はごくごく普通のファミリーレストランに毛が生えたようなところで、というのでは物足りなかった。
「難《むずか》しいよね、お互いのそういう趣味の違いって」
友美は同じ会社の三歳年上の男性と付き合っていた。このまま、もうしばらく続いて行くならば、結婚するのかも知れない。お互い、似たような環境にいた方が、上手《うま》くやっていけるのかも知れない。
同じ職場にいるのだから、家庭に入っても夫の仕事を理解することが出来る。夫の方も妻にいちいち、仕事のことを話さなくても安心して夜|遅《おそ》くまで会社で働いていることが出来る。
けれども克史と私のような場合だと、そういう具合《ぐあい》にはいかない。神経使って手術をしているのだろう彼の気持を、私は充分に理解することが出来なかった。彼の方は彼の方で、美術好きの私を何の仕事もしない仕様もないプー太郎だ、くらいにしか理解出来なかったのかも知れない。
もしかしたら、無類《むるい》のドライヴ好きだったのは、人の命を救う仕事から解放されてホッと息をつくのに最もふさわしい時間の過ごし方が、彼にとってはドライヴだったからなのかも知れない。
けれども、そうしたことは婚約を破棄《はき》して二人の間に距離を置いてみた今になってみて、やっとわかったことだ。あの頃《ころ》は、美術にまったく関心のない繊細《せんさい》さのない外科医、そのくらいにしか思っていなかったのかも知れない。
「私たちみたいに昼間、会社の同じフロアにずうっと一緒《いつしよ》にいるカップルだって、ケンカすること、多いんですもの」
きっと半分は私へのリップサービスでもあろう言葉を、けれども彼女は浮わついた感じではなくて喋《しやべ》ってくれた。ちょっぴり嬉《うれ》しかった。
彼がいつか徳島へ帰らなくてはいけないというのも、結婚が具体的なものとなってから、急に私が気にし始めたところだった。生まれてからずうっと目黒区育ちの私には、たった人口二十五万人しかない徳島市に住むのは、退屈極まりないことのように思えて来たのだ。
「大阪のテレビ、全部、映るんだ」、そう言われてみても、ピンとは来なかった。みんなの反対を押し切って私が取り止めようと言い出したのには、こうした理由もあった。彼も、それほど、抵抗《ていこう》しなかった。趣味を始めとする幾《いく》つかのことが、私と合わないと気付いていたからかも知れない。
「私たち、きっと、わがままというか贅沢《ぜいたく》というか、そんな具合になっているんだよね」
海老《えび》の擂《す》り身《み》のお団子を揚《あ》げたものを食べながら、友美が言った。その通りだな、と思った。そうしてそれは、職場恋愛だとは言っても、結婚してしまえば結局は毎朝、慌《あわただ》しく夫を送り出して、夜遅く、残業を終えて帰ってくるまで待っている、どこにでもある妻という脇役《わきやく》を演じなくてはいけなくなる自分自身に対して、彼女が言い聞かせているようにも思えた。
何か言おうと思った。けれども、彼女がどんなにか私のことを心配してくれようとも私になることは出来ないように、私も彼女に成り代われはしないのだ。私は黙《だま》って、さっき彼女が食べた海老の擂り身団子を口へと運んだ。
昔の彼
久し振《ぶ》りに出会った。文昭《ふみあき》は、赤や黄色や緑の幾何《きか》学模様がプリントされたシャツを着ていた。書生《しよせい》風の髪型をしていて、それが不思議なアンバランスさだった。
「元気にしてた?」
彼は尋《たず》ねた。髪の毛が前に少し垂《た》れると、首を斜《なな》め上へ振った。それが、いつもの癖《くせ》だったことを私は思い出した。
「うん、まあね」
再会したのは、西|麻布《あざぶ》の焼肉屋さんだった。私は今、付き合っている達也《たつや》と一緒《いつしよ》に横に並んで坐《すわ》っていた。文昭の方は、男性ばかりのグループだった。きっと、お店の人たちなのだろう。月曜の夜、九時ちょっと前だった。
「こんにちは」
達也の方を見ながら、文昭は軽く頭を下げた。ユッケビビンバをムシャムシャと食べていた彼は、慌《あわ》ててボールをテーブルの上に置くと、
「あっ、どうも、池上《いけがみ》です」
答えた。もっとも、口の中にまだ残っていたみたいだったから、あんまり、はっきりとは聞こえなかったのだけれど。
「文昭です。昔、摩耶《まや》ちゃんの髪の毛をいじってたもんですから」
木村という名字を言わずに、下の名まえで答えた。文昭らしいなあ、と思った。今年、二十八歳になるというのに、それより若く見える。美容師という職業に就いているせいだからなのだろうか。
「そうなの。高校生だった時、ずうっと担当してもらっていたの」
達也の目を見ながら喋《しやべ》ると、今度は文昭の方に顔を向けて、「ねっ」って感じに首を傾《かし》げてみせた。
文昭は、「フロム・ニューヨーク」の美容師だった。といっても、六本木にある本店に勤めているわけじゃあない。用賀《ようが》と二子玉川《ふたこたまがわ》の中間あたりに七、八年前、出来たショッピング・センター「パーク・アベニュー」の中の支店勤務だった。
「パーク・アベニュー」には、「スポーツ・コネクション」と呼ばれるスポーツ・クラブもある。だから、私にとっては魅力的《みりよくてき》なスポットだ。けれども、空《す》いていた。車でないとちょっと不便な場所にあるからなのだろう。もっとも、その空き具合も私にとっては魅力のひとつだった。
「そりゃ、どうも、いろいろとお世話になってますみたいで」
達也は、ピョコンと頭を下げた。今度は、はっきりとした喋《しやべ》り方だった。何も知らないのだ、彼は。ちょっぴり、悪い気がした。
「いや、今はもうね、僕、担当してないんですよ」
文昭は、そう答えると、
「じゃあ、後で、また。お腹《なか》、ペコペコだから、僕たち」
続けた。今日のグループの中では、彼が一番|古参《こさん》者なのかもしれない。他の人たちは、ウエイターが案内してくれたテーブルの前に立ったまま、文昭が来るのを待っていた。徒弟《とてい》制度的体質の残る美容業界らしい光景だなという気がした。
「ねっ、文昭さんて、なかなかでしょ。私、憧《あこが》れてた時期があったんだ」
わざと陽気な声で、そう言った。でないと、なんだか、感づかれてしまいそうで、怖《こわ》かったのだ。もっとも、それは私の考え過ぎだったのかもしれない。達也は、いつもと変わらぬ声で、
「結構、感じいい人じゃん」
それだけ言うと、再び、ユッケビビンバを食べ始めた。ヒレ塩とか上カルビとか四、五種類の焼肉を頼んだ上に、ユッケビビンバまでをも平らげてしまう食欲だ。きっと、文昭とのことは何も疑っていないに違いない。
――良かったわ。
素直《すなお》には喜べないものの、でも、少しホッとした気分で、私はワカメ・スープをスプーンですくうと口元へと運んだ。
文昭と知り合ったのは、高校二年生の始めだった。だから、二年半も前のことだ。それまで家の近くの美容院へ行っていた私は、初めて「フロム・ニューヨーク」へ足を運んだ。オフセット印刷の月刊女性誌に紹介されているのを見たのが、きっかけだった。
「どこで、髪の毛、やってもらっているの?」とクラスメイトに聞かれた時、「ヘエー、すごいね。私も行ってみたいと思っていたんだ、そこのお店」と、一応、尊敬されてしまうようなクラスの美容院を行きつけにしていたいと、女の子ならば誰もが思うことだろう。
それまで私が通っていたのは、母と一緒《いつしよ》の美容院だった。決して、下手《へた》なわけじゃあない。ううん、むしろ、かなりのテクニックだった。けれども、ローカルに知られているだけだ。新玉川《しんたまがわ》線の桜新町《さくらしんまち》あたりに住んでいる人たちだけが知っている。
それが私には不満だった。困ってしまうのだ、それじゃあ。「ねえ、摩耶の髪型、私、気に入ってるんだ。どこで、切ってるの? 教えて」、せっかく期待して尋ねてくれているのに、私は小さな声で「うーんとねえ、桜新町の駅の傍《そば》なの」と答えるしかない。すると、友だちは決まって、がっかりとした表情をするのだった。
つまらないことだと思う人も、中にはいるかもしれない。けれども、多少は自分の服装とか髪型に関心のある女の子ならば、「わかるなあ、その感じ」、そう答えてくれるはずだ。「一応、このところはね」と、大きな声で言える美容院へ行っていると、だからって、どうだというわけでもないのに気分がいい。
「摩耶ちゃんは、どんな音楽を聴《き》くんだい? 多分、ディスコっぽい奴《やつ》でしょ」
初めてカットしてもらった時、尋《たず》ねられた。私の髪型はサイドにウエーヴのかかった、所謂《いわゆる》、それ風の雰囲気《ふんいき》をしていた。
「どうして? 摩耶、そんなことないわ。ディスコ、ディスコしたところへは行かないもの」
反論した。多少、向きにもなっていた。なぜって、当時の私には、「普通の女子高生とは違《ちが》うのよ」みたいな虚勢《きよせい》を張ったところがあったのだ。
幼稚園から大学まで、ずうっとつながっている女子ばかりの学校へ通っていた。だから、まわりの女の子たちは適当に遊んで適当に勉強して、というタイプが多かった。もちろん、私も、その中の一人ではあったのだけれど。
ただ、みんなと同じではいたくないの、みたいな意識があった。同じように付属校育ちの男の子たちに気に入られるような、かわいいタイプの女子高生ではいたくないな。そう思っていた。だから、本当にディスコ、ディスコしたところへは行かなかった。
「本当かい?」
枝毛が大分《だいぶ》、多くなっていた私の髪の毛を整えてくれながら、彼は尋《たず》ねた。
「本当よ。だって、乗れないの、ああいうところって。大学に入ったら、上手《じようず》でもないのにゴルフ同好会かなんか入っちゃって、私立医学部の男の子たちが開くパーティーへウキウキとお出かけしちゃうタイプの世界でしょ」
「そうなのかい? 詳《くわ》しいね」
多分、その手のディスコへは行ったことないのだろうな、という感じの彼は、早くもくだけた喋《しやべ》り方で聞いて来た。お客の気持をリラックスさせる術《すべ》を知っているな、と小生意気《こなまいき》だった私は思った。
「うーん、ま、そうじゃないタイプもいるとは思うけれど。でも、やっぱり、そう。私のまわりで行ってる女の子は、みんな、かわいいタイプよ。だから、嫌《いや》なの、ディスコ、ディスコしたお店って」
「じゃあ、どこへ行くの?」
「もち、トゥールズ」
元気な声で私は答えた。トゥールズ・バーは、西麻布にあった。その昔は霞町《かすみちよう》と呼ばれていた西麻布の交差点から青山墓地の方へと向かった左手。コンビニエンス・ストアが一階に入っているマンションの地下だった。
「じゃあ、ラップが好きなんだ?」
「うん」
またしても、元気な声で答えた。
「人は見かけによらないな。意外だね」
驚いた様子だった。トゥールズ・バーは、なんて言ったらいいのだろう、ブッ飛んだ人たちが集まる場所だった。デザイナーやミュージシャン、それに、ハウスマヌカンやヘアデザイナー。川久保玲《かわくぼれい》とか菊地武夫《きくちたけお》のファッション・ショーにスタッフやギャラリーとして登場しそうな人たちばかりだった。
ディスコとしての営業許可を取っているわけじゃなかった。だから、本当は踊ってはいけないのだ。それで、フロアにはテーブルとイスがところどころ、置いてあった。もっとも、白人や黒人のDJがまわすラップのレコードに合わせて、みんな、勝手気ままに踊り出してしまうのが、いつもだったけれど。
「僕もよく行くんだよ」
「そうなんですかあ?」
壁には大きな鏡が取り付けられていた。私は、その鏡の中の彼に向かって尋ねた。
「今度、一緒《いつしよ》に行こうか?」
「うん、もちろん」
内心、ドキドキしながら私は答えた。一緒にトゥールズへ行けるなんて、嬉《うれ》しい。そう思った。けれども同時に、ちょっぴり不安だった。なぜって、口では随分《ずいぶん》と大きなことを言ってしまったけれど、本当はトゥールズへ行ったことなんて、ほんの数えるほどでしかなかったのだ。
「連れてって下さいね」
ちょうど、目の前に髪の毛がかかって、鏡の中の彼が見えなくなった瞬間《しゆんかん》、私はさっきよりも丁寧《ていねい》で、しかも、小さな声でそう言った。
「うー、お腹《なか》、一杯《いつぱい》だよ」
サービスで出て来たデザートのバニラ・アイスクリームも綺麗《きれい》に平らげると、達也は空気を入れて頬《ほお》を膨《ふく》らませていた口からプーッと息を吐《は》き出した。そうして、お茶をゴックン、飲んだ。
「私もよ」
さすがに、プーッと息を吐き出して、なんてことはしなかったけれど、アイスクリームは全部食べた。小さな子供のように、器もペロリなんてことはしなかったけれど、でも、スプーンは最後に舌の先で綺麗《きれい》に舐《な》めた。
「さあ、じゃあ、行こうか?」
イスを引いて、彼は立ち上がった。そうして、自分のクラッチ・バッグから、このところ、彼がお気に入りのアルトイズを出すと、二粒、私にくれた。ミント味のアルトイズは、スターミンツなどよりも甘みが少なくて、スーッとする。好きだった。
「うん、でもその前に、ちょっと、私、挨拶《あいさつ》してくるわ」
文昭たちは、一番奥の席に坐《すわ》っていた。もちろん、人数が多いせいもあるのだろうけれど、テーブルの上に並べきれないくらいに沢山《たくさん》のお皿を取っていた。仕方ないから、お店の人が持ってきてくれた折り畳み式の補助テーブルを横に置いて、その上にも並べていた。
「今の彼かい?」
タレの入った小皿の上にお箸《はし》を置きながら、文昭は尋ねた。私は黙《だま》って頷《うなず》いた。
「感じのいい青年じゃない。学生っぽくってさ」
焼肉屋さんに二人で来ているのだ。ステディな関係に決まっていた。思うのだけれど、焼肉屋さんに来ているカップルというのは、絶対、ベッドの上で二人だけの時間を過ごしたことがあると思う。
もちろん、最近は小綺麗な内装の焼肉屋さんも増えてきていて、今日、私たちが居るお店もそのひとつではあるのだけれど、でも、やっぱり、デートを焼肉屋で、というのは付き合い始めたばかりのカップルには抵抗《ていこう》あるのじゃないかしら。
これが、まだ、鰻《うなぎ》とかどぜうというのだったら、「精力をつけなくちゃ」とお互い、笑いながら暖簾《のれん》をくぐることも出来るとは思うのだけれど。だから、焼肉屋さんで文昭にバッタリ会ってしまったというのは、「そうよ、私、あなたと別れてから、新しいステディが出来たの」と言っているようなものだった。
「同い年なの」
月並みだけれど、シーズン・スポーツの同好会で知り合った彼だった。近頃《ちかごろ》、流行《はや》りのメンズ雑誌の街頭スナップなんかに登場していそうな、かわいらしいフェイスの少年だった。結局、こういうタイプに私は落ち着いてしまうのかな。久し振《ぶ》りに文昭の顔を見て、そう思った。
トゥールズへは、文昭と一緒に何度も出かけた。父が出張している日には、「学校の友だちとオールナイトで海へ行っちゃうから」、母にウソをついて、朝まで文昭と一緒だった。髪型こそ変えなかったけれど、わざとスカートを穿《は》かないで、ピカデリーの洗い晒《ざら》しのジーンズを愛用した。けれども、それはもう昔の話だ。
「最近は、どこへ行ってるの?」
尋《たず》ねられた私は、六本木にあるいくつかのディスコの名まえを言った。
「実は、今日もこれから、そうなの」
はにかんだ子供のような感じで、喋《しやべ》った。笑われるかな、と思ったのに、文昭は暖かい表情だった。でも、やっぱり、心配で、
「恥ずかしいよね、普通の女子大生しちゃってて、今の摩耶」
ビクビクしながら尋ねた。
「そんなことないさ。たまたま、あの頃の摩耶は僕のような感覚の世界に浸《ひた》りたかったわけだし。そうして、今は、池上君の感覚と同じ世界を共有したいと思っているのだろうから。ただ、それだけの違いだよ」
言葉も、表情と同じように優しかった。文昭と別れたのは、どちらかが嫌《きら》いになったからじゃない。他のクラスメイトとは違うのよと背伸《の》びをして、文昭と一緒にトゥールズへ出かけていた私は、でも、やっぱり、そうした友だちを完全に無視して一人でいるわけにもいかなくて、それで、徐々《じよじよ》に文昭とデートするよりも、同年代の男の子や女の子といることの方が再び多くなってしまったのだ。
ちょっぴり、おませな女子高生の麻疹《はしか》みたいなものだったのかしら、文昭との思い出は。
「髪の毛、最近、どこへ行ってるの?」
最後に彼は尋ねた。「うーん、いろいろと」、彼と会わなくなってしまってから、どこの美容院と決めずに転々としていた私は、口籠《くちごも》った。
「良かったら、たまにはおいでよ。カットしてあげるよ」
文昭のその言葉に、私は再び黙《だま》って頷《うなず》きながら、
「今の彼、何も知らないでレジのところで待ってるの。だから、また」
普段《ふだん》、友だちと話す時と同じ、肩の力を抜いた喋《しやべ》り方で答えた。
ひとりきりの聖夜
「よかったら、葉子《ようこ》も一緒《いつしよ》に行こうよ」
万由里《まゆり》は、そう言って私を誘《さそ》ってくれる。うれしい。とっても、うれしい。けれども、心の中とは正反対のお返事をしてしまった。
「ありがとう。でも、今年は、やっぱり、遠慮《えんりよ》しておくつもり」
自分に言い聞かせるかのように、テンポがあって、それに、歯切れのいい答え方でだ。私たちは、夜|遅《おそ》く、電話でお話ししていた。
「おいでよ。みんなも、きっと、葉子が来ること、待ち望んでるから」
彼女は、しきりに勧《すす》めてくれる。クリスマス・イヴに、パーティーを開くのだ。ホテルのお部屋《へや》を借りて。
――もちろん、行きたいわ、葉子。
口には出さず、つぶやいた。
――本当に行きたいのよ。でもね、行くと、余計《よけい》、辛《つら》くなっちゃいそうだから。
「じゃあ、おとなしく、明日はおウチにいるというわけ?」
ちょっぴり、詰問《きつもん》するって感じで万由里が尋《たず》ねた。お互い、両親が起きてきちゃうと困るから、小さな声で喋《しやべ》っている。中学時代、修学旅行へお出かけした時、お布団《ふとん》の中でヒソヒソ話したことを、ふと、思い出した。夜中、見回りにやって来る先生に見つからないようにするための、ヒソヒソ話だったのだ。今の私たちも、そんな感じ。
小さな声で喋ると、どうしても、皆、トーンが低くなっちゃう。すると、これまた、どうしても、問い詰《つ》めるような感じになっちゃう。だから、「うん、行くわ」と答えない私のことに、万由里は、決して愛想《あいそう》をつかしたわけじゃあないと思う。
「今年はね、赤坂プリンスでパーティーをすることになったの。だから、夜景が綺麗《きれい》よ。それに大勢、来るし」
去年のパーティーは、西新宿にあるセンチュリー・ハイアットでだった。クリスマス・イヴに、何人ものお友だちが集まって、一晩中、ワイワイガヤガヤ、騒《さわ》いじゃうのだ。今年で三回目。つまり、私たちが高校生になった時から。
「生意気《なまいき》ね。まだ、子供のくせに、ホテルでパーティーですって」
きっと、目くじら立てちゃう人たち、世の中には、いるんだろうなあ。でも、いつも、いつも、そんな贅沢《ぜいたく》しているわけじゃあないもの。年に一回のお楽しみ。
毎年、やって来る三十人余りの男の子や女の子は、それぞれに違う学校へ通っていた。各学校で、一応は目立ってる、つまり、メジャーやってる子たちばかりが、集合しちゃうクリスマス・イヴのパーティー。
くどいかもしれないけれど、決して贅沢してるわけじゃあない。ちょっぴり、普通よりも広いお部屋を借りて、そこに集まる。だから、一人が負担《ふたん》するお部屋代は、二千円くらい。ねっ、ブルジョワしてるわけでもないでしょ。そうして、女の子が食べ物を、男の子は飲み物を持ってくる。
「おウチになんかいて、一体、どうやって過ごすつもり?」
小さかった頃《ころ》は、いつでも、パパやママと一緒にイヴを過ごした。ママが作ったクリスマスの御馳走《ごちそう》を食べる。お部屋の中には、クリスマス・ソングが流れていた。
けれども、その場に誰《だれ》かいたならば、「あら、不思議ね。おんなじ声のアーチストが、何曲かのクリスマス・ソングを繰り返し、繰り返し、歌っているわ」、そう思ったことだろう。当時の我が家には、ダークダックスのクリスマス・ソング・アルバムが一枚、あっただけ。パパは、それを表にしたり裏にしたり、忙《いそが》しかった。
「サンタさんに、お手紙を書くのよ、葉ちゃん」
一人っ子の私に、ママはそう言った。
「プレゼントは何が欲しいの? サンタさんに教えてあげないとね。それから、ほら、ちゃあんと、いい子でいますから、ってことも書いておかないと」
「うん」
元気よくお返事した私は、お手紙のまわりにクレヨンでクリスマス・ツリーを何本も描《か》きながら、
「ママ、今年は、サンタさんがやって来るまで、葉子、ちゃあんと起きてる」
両親を困らせるようなことを言った。
「起きてちゃ、サンタさんはやって来ないの。おやすみしてる、よい子にだけ、プレゼントを届けてくれるのよ」
「ふうん。でも、やっぱり、今年はサンタさんとお話しするんだ」
頑張《がんば》って目を開けているのだけれど、いつの間にか眠ってしまう。気がつくと、朝になっていて、そうして、プレゼントは枕元《まくらもと》に置いてあるのだった。
「まさか、サンタクロースを待ってるわけにも、いかないわね」
私は電話口で、つぶやいた。
「そうよ、一人でめそめそしてるより、パーティーでみんなに会った方がいいよ」
心がぐらついた。けれども、もう一度、歯切れのいい答え方で、
「弘行《ひろゆき》のこと、一人、自分のお部屋で考えてるわ」
随分《ずいぶん》と、よそゆき顔の発言をして、その場を切り抜けた。
「大変だよ、葉子ちゃん」
三島《みしま》君から電話のかかって来たのは、十一月二十二日の朝だった。私のおウチは、健康の為《ため》にと称《しよう》して、ライブレッドのトーストが朝食に登場する。大きなプラムの赤ワイン煮が一つ入ったプレーン・ヨーグルトと一緒《いつしよ》に食べていると、ベルが鳴った。
「どうしたのぉ、朝から!」
やたらと三島君の息が荒いことを不思議に思いながら、でも、その時点では何も知らなかったこの私は、「まったく、もう、朝は誰だって時間に追われているのよ」って感じの声を出した。
「弘行の奴、死んじゃったんだよ」
三島君は、早口で続けた。
「えっ? なあに?」
すぐには事態《じたい》をのみ込めなかった私が、相変らずの、テンポの遅《おそ》い喋《しやべ》り方をすると、もう一度、彼は同じセリフを口にした。
「弘行の奴、死んじゃったんだよ」
体中の力が抜けていくような気分になったのは、この時だ。私は慌《あわ》てて、そばにあったイスに坐《すわ》った。ダイニング・ルームにある、別段、どうってことのないデザインのイス。けれども、一番頼りになるのは、他の誰でもなく、そのイスだという気がした。
なんだか、おかしいでしょ。一番頼りになるのが、イスだなんて。でも、普段《ふだん》から貧血気味の私には、早くどこかに坐ることが必要だったし、それに、多分、人間という動物は、今まで経験したことのないような事態に出っくわすと、普通なら、「アハハハ」と笑えちゃうようなおかしなことを、結構、真面目《まじめ》に信じ切っちゃうのだ。だから、あの時の私には、ダイニングのイスは、救世主的《きゆうせいしゆてき》存在だった。
「どうして、どうして」
大きな声を出した。その日は金曜日で、そうして、二十三、二十四と祭日、日曜が続く、本当ならウキウキ気分になれる週末の朝だ。ママは怪訝《けげん》そうな顔をしていた。
――きっと、ボーイフレンドの弘行が、週末のデートの約束をキャンセルして来て、それで、自分の娘がブリブリしちゃってる。そのくらいにしか思ってないのだわ。
受話器をギュッと握《にぎ》り締《し》めながら、考えた。
――違うのよ、ママ。私の彼が死んでしまったのよ。どこで死んだのか、原因は何なのか、まだ、聞いていないわ。もちろん、直接、私が確認したわけじゃ、なくってよ。だから、もしかしたら、悪夢なのかもしれない。でも、三島君が電話をかけて来てるの、こうして。本当なんだと思う。ものすごく悲しくて、残念で、くやしくて、そうして、何だか訳《わけ》がわからない。
「お通夜《つや》が今晩なんだ。行くだろ?」
「うん」
泣きながら、答えた。
「弘行のウチ、遠いからさ。一緒に行こうか、地下鉄に乗って」
「うん」
学校が終わると、渋谷《しぶや》のお店で待ち合わせをした。いつも、弘行とデートする時に使っていたお店。公園通りから少し奥まったところにある。田園調布《でんえんちようふ》にあるミッション系の女子高に通ってる私は、従業員の人たちとも顔見知りだった。いつもは元気よく挨拶《あいさつ》をする。けれども、その日は、みんな、遠慮《えんりよ》がちな気がした。
「元気、出せよ、葉ちゃん」
弘行のお通夜があるというのに、いつも、デートの時に飲んでいたバニラのミルク・セーキを、ついオーダーしてしまったこの私に、店長は声をかけてくれた。早くも、知っていたのだ。
――弘行ったら、死んだ後まで、メジャーしているのね。あなたらしいわ。
三島君と同じ男子高に通っていた。大学は、池袋《いけぶくろ》にあるのだけれど、高校は東武東上《とうぶとうじよう》線の志木《しき》。弘行と私は、六月にあったディスコ・パーティーの後から、真剣、付き合い出した。もちろん、高校生がディスコでパーティーなんて開いちゃいけないのだけれど、でも、エヘヘ、仕方ないでしょ、年頃《としごろ》なんだから。
麻布《あざぶ》十番のマハラジャを借り切って、三島君と弘行が中心になって主催した。
「二百人くらい来たら、成功だね」って、男の子たちは話してたらしい。広尾《ひろお》の日赤病院の真向かいにある、制服がかわいらしい女子高に通ってる万由里も、そして、もちろん、私も、チケットをお友だちに売りさばいた。
「どうしよう。もう、中に四百人以上いるんだよ。三百五十人が定員だというのに。ギューギューだ」
弘行は、額《ひたい》にかいた汗を左手の甲でぬぐいながら、嬉《うれ》しい悲鳴を上げた。二階のフロアへ上がれない子たちが、仕方ないから、一階のフード・コーナーのまわりにワンサといる。
「やったね。私たちの時代だよ」
いつもは、おっかないオニイさんが、夜っぽいオネエさんと一緒にドカンとふんぞり返ってるVIPルームのソファーに、チョコンとかわいらしく坐《すわ》っていた万由里と私は、口先だけ生意気《なまいき》した。
「お前ら、実力あるよ。だって、去年、こんなに、人、集められなかったもの、俺《おれ》たち」
今年、大学に入ったばかりの先輩《せんぱい》から認められると、「いやあ、ボリボリ」、頭をかく真似《まね》しながら、弘行は照れた。
「葉ちゃん、盛り上がってるよ。今からでも遅《おそ》くないから、おいでよ」
三島君が、ホテルのお部屋から電話をかけて来た。千代田《ちよだ》線に乗ってお通夜《つや》に出かけた時とは、当然、違う。陽気だった。
「ねえ、どうして死んじゃったの? 教えて頂戴《ちようだい》」
表参道《おもてさんどう》で銀座線から乗り換えると、私たちは二人、横に並んで坐った。
「日本酒さ、飲み過ぎちゃったんだ」
電車の中だというのに、目を真っ赤にしている私の耳元で、三島君はささやいた。
「カップ入りの日本酒をさ、冷やで五本、一気に飲んじゃったんだ」
弘行のおウチは、常磐《じようばん》線の亀有《かめあり》にあった。地元では、結構、大きい工務店を、お父様が経営しているらしい。けれども、私は、まだ一度も行ったことがなかった。
「あなたが葉子さんですか? ウチのヒロがお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ」
泣きながら、けれども、努《つと》めて冷静に喋《しやべ》ろうとしているお母様の姿は、その冷静さ分だけ余計《よけい》に私の悲しさをつのらせた。そうして、何か言おうと思うのだけれど、言葉が見つからなかった。病気や事故で死んでしまったのなら、まだ、言葉は見つかりそうだ。
でも、ふざけて一気飲みしたために死んじゃった弘行のことを、一体、どうお悔《く》やみしたらよいのだろう。私は、ハンカチを使いながら、悩んだ。本当に、悩んだ。
「やっぱり、弘行、こんなに大勢の連中に来てもらえて、幸せな奴《やつ》なんだ」
「馬鹿野郎、お前、なんで、こんなこと、しちゃったんだよ」と、ニッコリ笑った遺影《いえい》の前で手を合わせながら、顔をくしゃくしゃにさせて叫《さけ》んだ三島君は、門のところで、私にそう言った。
都心から遠いし、それに、お通夜だから、小学時代の地元のお友だちと、後、ディスコ・パーティーの幹事役だった人たちくらいかな、と思っていたのに、三百人近い高校生がやって来た。そのほとんどが、いつもは大人《おとな》ぶって、六本木や西|麻布《あざぶ》をウロチョロしている子たちだ。
「お客さん、なんか、今日は、べっぴんの高校生ばっかり、泣きながら乗ってくるけど、誰が亡《な》くなったの?」
亀有の駅前から乗り込んだタクシーの運転手さんに尋《たず》ねられた私たちは、黙《だま》って顔を見合わせた。弘行のおウチの前には、行列が出来ていた。どこかのディスコで顔を見たことくらいはあるのかもしれないけれど、でも、名まえなんて全然、わからない男の子や女の子も一杯《いつぱい》いた。
私は、その行列の一番後ろに並んだ。そうして、ひっそりとお祈《いの》りをした。お母様とお話はしたけれど、でも、「私の弘行が」みたいな素振《そぶ》りはしないようにした。ステディに付き合っていたのは本当だけれど、でも、だからって、大きな顔をするのが当然だとは思いたくなかったから。
「おいでよ、葉子、楽しいんだから」
お通夜の夜、むしろ、私なんかよりワンワン泣いていたのは万由里たちの方だったのに、十二月の初めに開いたディスコ・パーティーの時には、弘行の話なんて、もう、ほんのちょっぴりしか出なかった。もちろん、今日のパーティーでもだろう。
みんな、毎日毎日の楽しいことに追われて、昔のことを少しずつ忘れていってしまう。それは、仕方ないことなのだろう。
この私だっていつか、きっと他の男の子のことで頭の中が一杯《いつぱい》になっちゃうのだろうから。
――でも、だからこそ、今は、まだ、弘行のことを考えていたいの。
「ご免《めん》ね。万由里。やっぱり、今日は、パス。みんなに謝っといて」
くどくど説明してもわかってもらえそうにない私は、電話口で、ただ、それだけ言った。
昭和61年8月、主婦と生活社より単行本として刊行
角川文庫『スキップみたい、恋みたい』昭和63年11月1日初版発行