天岩屋戸の研究
私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その3
田中啓文
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)伊邪耶《いざや》
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(例)亦|兒《ちご》の
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(例)それ[#「それ」に傍点]は
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〈帯〉
<最後の審判>がいま、始まる!
国史の嘘は暴かれるのか!?
常世の森≠ノ天岩屋戸が存在している……!?
[#改ページ]
〈カバー〉
<最後の審判>後の世界について書かれているという幻の預言書『伊邪耶《いざや》による黙示録』によると、伝奇学園の敷地内に広がる常世《とこよ》の森≠フある洞窟を開けば、世界はよきものへと一変するという。森に近づく者は容赦なく殺されていた。日本神話の根幹を揺るがす秘密に保志野《ほしの》・比夏留《ひかる》ら民俗学研究会が迫る伝奇ノベルス!
ようやく伝奇学園シリーズの第三巻を皆さまにお届けすることができ、感無量である。前二巻とは少し趣のちがった、ヘヴィーなネタも入っているが、泣いても笑っても今回が最終巻。今までおつきあいくださった読者諸氏には深く感謝しております。比夏留たちの活躍もこれで読み納めなので、どうぞごゆっくりお楽しみください。
[#地付き]――田中啓文
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪生まれ。'93年、『背徳のレクイエム』で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。同年『落下する緑』で「鮎川哲也の本格推理」に入選。SF、ミステリ、ホラー、ファンタジー、時代小説など多岐にわたる分野で活躍中。'02年、『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で星雲賞短編賞受賞。
主な著作に『水霊』(角川文庫)、『邪馬台洞の研究』(講談社ノベルス)、『蹴りたい田中』(ハヤカワ文庫)、『忘却の船に流れは光』(早川書房)、『笑酔亭梅寿謎解噺』(集英社)など。
[#改ページ]
天岩屋戸《あめのいわやど》の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会
田中啓文
講談社ノベルス
KODANSHA NOVELS
ブックデザイン=熊谷博人
カバーデザイン=坂野公一(welle design)
カバー・本文イラストレーション=瀬田 清
目次
オノゴロ洞の研究
天岩屋戸の研究・序説(二)
雷獣洞の研究
天岩屋戸の研究・本論
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_007.jpg)入る]
オノゴロ洞の研究
今は昔、源頼光の朝臣の美濃守にてありける時に(中略)其の國の渡《わたり》と云ふ所に、産女あるなり。夜になりて、其の渡《わたり》する人あれば、産女、兒《ちご》を泣かせて、「これ抱け/\。」と云ふなる、など云ふ事を云ひ出でたりけるに(中略)九月の下つ闇《やみ》のころなれば、つゝ闇なるに、季武、河をざぶり/\と渡るなり。(中略)其の度《たび》聞けば、河の中程にて、女の聲にて李武に、げに、「これ抱け/\。」と云ふなり。亦|兒《ちご》の聲にて、「いが/\。」と泣くなり。其の間、なまぐさき香、河より此方まで薫《くん》じたり。三人あるだにも、頭の毛|太《ふと》りて、おそろしきこと限りなし。(中略)此の産女と云ふは、狐の人謀らむとてすると云ふ人もあり。また女の子生むとて死にたるが、靈になりたると云ふ人もありとなむ語り傳へたるとや。
[#ここから3字下げ]
――「今昔物語」巻第二十七「頼光《よりみつ》の郎等|平季武《たひらのすゑたけ》、産女《うぶめ》にあひし語 第四十三」より
[#ここで字下げ終わり]
ここに伊邪那岐命|詔《の》りたまはく、「然らば吾と汝とこの天の御柱を行き廻《めぐ》り逢ひて、みとのまぐはひせむ」とのりたまひき。かく期《ちぎ》りてすなはち、「汝は右より廻《めぐ》り逢へ。我は左より廻り逢はむ」と詔りたまひ、約《ちぎ》り竟《を》へて廻る時、伊邪那美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後《のち》に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各《おのおの》言ひ竟《を》へし後、その妹に告げて、「女人《をみな》先に言へるは良からず」と曰《の》りたまひき。然れどもくみどに興《おこ》して、子|水蛭子《ひるこ》を生みき。この子は葦船《あしぶね》に入れて流し去《う》てき。
[#地付き]――「古事記」上巻より
プロローグ1
出してくれ。
外に……出してくれ。
こんな狭いところにいるのはいやだ。
どうしてこんなところにいるのだろう。
とじこめられたのか。
それとも。
みずからのぞんで入ったのか。
わからない……わからない……わからないわからないわからない。
昔の……はるか昔のことだ。
そんなことはどうでもいい。
今は、とにかくここから出たいのだ。
誰か。
私に力を貸してくれ。
いまひとたび……この世を……もとどおりにするために……。
はやく……はやく……はやくここをあけてくれ。
がば、と藪田《やぶた》は起きあがった。
見回すと、いつもの民俗学研究会の部室のベンチだ。
(夢、やったか……)
額に、いやな脂汗《あぶらあせ》がにじんでいるのを手の甲でぬぐう。額だけではない。下着も服も、びっしょり濡れている。
(きのう、飲み過ぎたんか……)
かたわらに転がる二本の酒瓶にうつろな視線をおくる。錆《さ》びたフルートを手にしたが、こみあげてくる吐き気に、すぐにほうりだした。かわりに、新聞を拾いあげる。三日まえのものだ。
「I国でまた自爆テロ。百二十人死傷」
「R国でテロリストが学校占拠。こどもを含む二千三百人が人質に」
「A県で男子小学生が家族を殺傷。祖父母と母親、姉が死亡。父親は助かる」
「D県で航空機墜落。全員死亡か?」
「Y証券破綻。三万人が路頭に迷う」
「失業率戦後最悪に」
「K国がW国に宣戦布告。国連の仲裁、不調に」
一面に、これみよがしに並ぶ見出しの数々。ひとつとして明るい未来を予感させるものはない。だが、それらを読んで、みなが騒ぎたてるようなことはない。もう慣れてしまったのだ……災厄に。
(もうちょいや……)
藪田は新聞をくしゃくしゃにすると、ぶあっくしゅーん! と豪快な音をたてて洟《はな》をかんだ。
(もうちょいで……見つかるはずや。わしがぜったいに出したるさかい、待ってえよ……)
そして、酒臭い大きなげっぷをすると、ふたたびベンチに寝転がり、
(世直しや。世界の立て替え立て直し……わしがこの世をもとに戻したるんや)
どこからか、声が聞こえてくる。体育祭の練習をする学生たちの声だ。
(アホどもが……)
藪田は顔をしかめると、目をつむった。
プロローグ2
「ここさ」
男は、両手を広げた。その声には、わずかばかり自慢げな響きがあった。
暗く、じめじめした空間。天井が高いのか低いのかさえわからない。潮のにおいが鼻をつく。女は最初、気のせいかと思ったが、そうではないようだ。でも、どうしてこんな場所で海の香りが……。そういえば、どこかで水音もしているようだ。
「ここは、ぼくが見つけたんだ。ぼく以外誰も知らない。ぼくと……きみ以外はね」
「なんだか怖いわ」
「怖くなんかないさ。ここは、ぼくらだけのために天が用意してくれた空間なんだよ」
「今、いったいどのあたりにいるのかしら」
「たぶん、〈常世《とこよ》の森〉のどこかだろうね。でも、入り口は裏山だから、こうやって自由に出入りできるのさ」
暗さに目が慣れてきたせいか、周囲のようすがおぼろげにわかりだしてきた。岩壁に囲まれた、二十畳ほどの部屋だ。中央に、天井まで届く大きな岩柱があり、その根もとに水がたまっている。
「この柱をそっちから回って。ぼくはこっちから回るから」
「どうしてそんなことするの?」
「いいから、早く」
女は言われたとおりにした。ふたたび出会っても、男が押し黙っているので、
「どうしたの?」
「先に口をきいたね」
「え……?」
「なんでもない。おまじないさ。それより、その水、なめてごらんよ」
「水……? うん……」
不潔だとは思ったが、女は言われるまま、しゃがんで、その水を指先につけた。妙に、ねっとりとした感触だ。おそるおそる口にいれる。液体が、まるで意識を持っているかのようにすばやく、舌のうえを広がっていった。
「塩《しょ》っぱーい!」
男はにやりと笑い、
「この洞窟、どこかで海とつながってるんだろうな。それってすごいと思わない? 〈常世の森〉の下に海が流れてるんだよ」
「そ、そうね……」
女はとくに感銘を受けた様子はなく、どちらかというとこの状況を気味悪く思っているようだった。
「こんなとこ、どうやって見つけたの?」
「山を……何となくうろついてたんだ。そしたら、小さな洞穴があって、入ってみたら……」
「ここにたどりついたのね」
「そうさ」
男は言いながら、女の腰に手をまわした。
「な、なにするのよ」
「いいじゃないか、愛しあってるんだから」
「だめ……だめよ。あ……ああ……本気なの……?」
「もちろんだ。きみとなら、ぼくは地獄に堕ちてもかまわない」
「うれしい……でも……やっぱり……知りあったばかりだし……」
「勇気をだせよ。ぼくは、もうとうに決めていたんだ」
「ほんと……?」
「ホテルなんかに入るところを見られたら、大騒ぎになる。ここなら人目がないから、学校でするより安心だろ」
「でも、岩だらけだし……」
「だいじょうぶ。そこのくぼみのところに仰向《あおむ》けになってみなよ。背中も痛くないから」
「――なんだか慣れてるのね」
「え? いや、そうじゃないかなと思っただけさ」
「私、知ってるのよ。あなたがほかの子ともつきあってるってこと」
「そんなことないさ。今はきみだけだよ」
「嘘」
「ほんとさ。神に誓う。どこからそんなくだらないことを聞いてきたんだ」
「みんな言ってるわ、あなたは誰彼かまわず声をかけてるって」
「あははは。ぼくはそんなプレイボーイじゃないよ。それより、なあ……」
「だめ……今日は……危険日なの」
「心配ないって。外に出すから」
「危ないわ。私、あとでつらい思いしたくない。ちゃんと避妊してよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。さあ……」
「あ、やめて……危ないんだってば……ああ……」
「すぐすむからすぐすむから」
「やめてって……おねがい……」
「ほら、口で……しろよ」
「命令しないで」
「うるさいな、早くしろ」
「いやなんだって。やめて……お願い、やめてよっ。ひっ……殴らないで」
「じゃあ、しろ」
「う……うぐ……うう……ぐ……」
「ああ、いい気持ちだ。歯をたてたら殺すぞ」
「う……うむ……ぐぐ……う……」
「もういい、やめろ。これ以上されたらいきそうだ。そろそろ入れるから、後ろ、向けよ」
「いやあ、バックはいやよ」
「口ごたえするな」
「ひいっ、殴らないで、お願い」
「言われたとおりにしてればいいんだ、馬鹿」
「やめて、やめて、やめてっ……ああああ……」
「…………」
「あああ……あああああああ……」
「…………」
「ああ……あなた、かわったわ。まえは……こんな……」
「ふふふふふ。たしかに……ぼくはかわった。はじめて……ここに来たときからね」
「ああ……あああ……」
「ぼくは……の……しもべになったんだ……」
「ああああああ……」
「そろそろ行くよ……行くからね」
「だめっ、中で出しちゃだめっ。いやああああああっ」
その瞬間、男は勝ち誇ったように笑ったが、それは射精の快感のためとはとうてい思えない、悪魔じみた笑いだった。
1
月が隠れた。濡れたように光っていた地面が、ふいに暗くなった。
(遅くなっちゃった……)
比夏留《ひかる》は、右手につかんだフランスパンのバゲットをかじりながら、夜道を急いでいた。今まで、来週に迫った体育祭のための雑用をこなしていたのだ。各クラスの応援合戦の練習や、応援のための大きなパネルの作製など、やるべきことは山のようにたまっている。それに、彼女が所属している民俗学研究会は、休み時間に行われる仮装行列にも参加するので、そのための西部劇のコスチュームも作らねばならない。
どうして民俗学研究会が西部劇なのかというと、全クラブ・同好会によるくじ引きの結果なのだ。比夏留は、ゴスロリや平安貴族、旧石器時代などに当たらなかったことを神に感謝した。カンブリア紀の生き物、深海魚、住宅展示場などというのもあり、それらにくらべたら西部劇など「普通」に近いではないか。
もう午後八時をまわっており、おなかはきゅうきゅうと音をたてそうなぐらいに減っていた。というのも、昼休み返上で準備をしなくてはならなかったから、昼ご飯を食べるひまがなかったのだ。比夏留にとってそれは拷問《ごうもん》にも等しい、つらいつらいことだった。だが、クラス全員が昼ご飯抜きで作業をしているのを見ていると、自分ひとりだけわがままはいえない。
(あー、おなかぺっこぺこ。はやく帰って、晩ご飯をたらふく詰め込まないと気絶しちゃう。今夜は、すき焼きだって言ってたっけ。楽しみだなあ。今日は、三人前、いや、五人前は食べるぞ……)
ちなみに、比夏留の一人前は、常人の数人前にあたる。
(すき焼きすき焼き楽しみ楽しみ……)
頭のなかはぐつぐつ煮えたすき焼きがパノラマのように広がっている。ほんのりと赤みの残ったお肉、くたっとしたネギ、ぷるぷると震える焼き豆腐、味がほどよく染《し》みた糸こんにゃく……。その映像には、香ばしい匂いまでもついていた。
坂本九《さかもときゅう》の「上を向いて歩こう」をきげんよく口ずさみながら、比夏留はバゲットをかじる。バゲットといっても、長さ一メートル三十センチはある長大なもので、そのうえかなりかたいやつだが、比夏留はそれをまるでポッキーでも食べるように楽々とこなしていく。しかも、実はこれ、二本目なのである。
(やっぱり、ドイツパン専門店のフランスパンはおいしいね。あの店、若い女のひとがふたりでやってるんだけど、雰囲気もいいし、値段も安いし、味もいいし……ほんっと私のためにあるみたいな店。名前、なんてったっけ……そうそう、『パンだ! このパンだ!』)
そんなことを思いながら歩いていると、
「うぎゃああああああっ!」
男性のものと思われる悲鳴が、前方から聞こえてきた。比夏留は反射的にダッシュした。細い腕と脚、薄い胸……どう見ても四十キロぐらいしかなさそうなスリムな身体だが、実は二百二十キロという相撲取り並の体重をほこる比夏留にとって、ちょっと走るだけでもみるみるおなかが滅っていくのだ。
十メートルほど先の、細い路地の入り口で誰かがひとり仰向けに倒れている。何かにあらがうように、両腕を振りまわしているのがぼんやりと見える。
「どうかしましたか!」
叫びながら駆け寄ろうとしたとき、月が雲の合間から顔を出した。白い光線に浮かびあがったのは、なんだかわけのわからない光景だった。男性が、赤黒い座布団のようなものを抱きかかえている……ように見えた。男の顔は恐怖に歪《ゆが》み、目は眼球がとびだしそうなほど見開かれている。
「助け……てくれっ」
男は、座布団のようなものを引き剥がそうとしているようだったが、その赤黒い物体は、まるで意識あるもののように男の身体にまとわりついている。やがて、それは男の頭部をすっぽり包んでしまった。
「ひ……ぎゃあ……ううおおっ」
くぐもった悲鳴が続き、男は座布団に頭を包まれたまま地面のうえをのたうちまわっていたが、やがて動かなくなった。比夏留が到着したときには、さっき目撃したはずの座布団のようなものはどこにも見あたらなかった。暗かったから目の錯覚だったかも……と思いつつ、男性を介抱しようとしたが、すぐに無駄とさとった。
男は死んでいたのだ。
顔面に、細かい紫色の斑点が無数に浮きでており、よほど強い力で締めつけられていたのだろうか、あちこち骨が砕《くだ》け、顔自体の形が変形していた。両頬のあたりが陥没し、鼻梁《びりょう》が折れ、右の眼球が潰れて体液がどろりと染みだし、上唇がちぎれて歯茎が剥きだしになっている。
さすがの比夏留も声をあげそうになったが、それをこらえ、周囲に油断なく目を配った。こういうときこそ落ちついて行動することが必要なのだ。それが、父|諸星弾次郎《もろぼしだんじろう》にたたき込まれた古武道〈独楽《こま》〉の教えだった。
(この人を殺したやつは、まだこのあたりに潜んでいるはず……)
〈ガスパビリオン〉の構えをとりつつ、比夏留は全身を耳にした。
ぺちゃっ……。
ぺちゃっ……ぺちょっ……。
粘着質の、ガムテープを剥がすような音が、右前方にある繁みのなかから聞こえてくる。
(あそこに……いる!)
比夏留は、構えをくずさず、じりじりと繁みのほうに移動していった。相手が何者かわからぬという不安が、比夏留を慎重にさせていた。なにしろ、人をひとり殺したやつなのだ。
ぺちゃっ……。
ぺちょっ……。
もう、藪に手がとどく距離まで近づいた。比夏留は意を決して、
「だああっ」
持っていたフランスパンを藪に突っ込んだ。
「ありがとうございます」
「へ?」
藪のなかから聞こえてきた女性の声に、比夏留はきょとんとした。そこに立っていたのは、生まれてまもないと思われる赤ん坊を抱いた、若い女だった。暗くてよく見えなかったが、ジーンズにTシャツというラフな格好だが、どことなく薄汚れて見えた。ストレートヘアが風になびいて、顔の半分を覆い隠しているが、ときおり、その間からのぞく目……。氷のように冷えきった目をしている。赤ん坊は、目をつむっていたが、全体にぬめっとしていて、そんなことはあるまいが、たった今、羊水のなかから生まれ落ちたばかり、という風に見えた。比夏留の背筋に寒いものが走った。母親も赤ん坊も、どこか、この世のものとは思えなかったのだ。
「このパン……いただけるんですか」
「え? いや、そういうわけでは……」
女は腕のなかのこどもに視線を落とし、
「この子……抱っこしてもらえませんか」
「はあ?」
「ほんのちょっとのあいだでいいんです。お願いします」
「で、でも……私、赤ん坊なんて抱っこしたことないし……それに、今、それどころじゃ……」
「だいじょうぶですよ。おとなしい子ですから」
女は赤ん坊を比夏留に向けてつきだした。その赤ん坊は、肌がぬるりとしたピンク色で、肉屋の冷蔵庫から取りだしたばかりの肉塊のように見えて、不快だった。
「そこで、男のひとが誰かに襲われて死んだんです。私、その犯人を……」
「びゃあああおおおおおん」
赤ん坊が、鳥のような奇声を発した。つまり……泣いたのだ。
「おお、よしよし。もう、おなかいっぱいなのね」
女は赤ん坊をひとしきりあやしたあと、
「この子はもうおなかいっぱいみたいです。でも、私がおなかがすいてまして……ふふふ……どうもすみません」
女は淡々とした口調でそう言って、比夏留の手からバゲットを受けとると、
「運のいいひとね、あなた……」
つぶやくように言うと、藪の奥にあとずさりしていった。
「ちょ、ちょっと待って……」
比夏留はあとを追おうとしたが、ふと気づいた。――その女の下半身は、べったりと血に染まっていたのだ。
「ひいっ」
比夏留が思わず立ちどまったすきに、母子は藪の奥へと消えた。文字通り「消えた」ようだった。
「パン……とられた……」
比夏留の目尻から涙がこぼれかけていた。
◇
S県警から大勢の警察官がやってきて、現場検証をおこなった。比夏留もそれにつきあわされ、そのあと、八重垣《やえがき》という、ゴリラのような体格をした五十がらみの刑事に、矢のように質問を浴びせられた。
「きみの言ってる、その『座布団みたいなもの』というのは何かね」
「さあ……座布団みたいなものは座布団みたいなものです」
「どこにも見あたらんじゃないか」
「はあ……そのようですね」
「それじゃ困るんだ。人がひとり死んでるんだ。もっとしっかりしてくれよ」
「そんなこと言われても……」
「で、赤ん坊を抱いた母親がいたんだね」
「はい(あー、おなか減ってきた)……」
「下半身が血に染まっていたというのはほんとかね」
「はい。そうだった……と思います」
「思います? 頼りないなあ。その母親は、男の悲鳴を聞いたのかね、それとも……」
「知りませんよ、そんなこと(だんだんいらいらしてきたぞ)」
「そこが肝心なところなんだ。きみは、その母親とどんな会話をしたんだね」
「さっき言ったじゃないですか。パンを……フランスパンをとられたんです(おなかすいたおなかすいた)」
「よくわからんなあ」
「私にもわからないんです。とにかく二本目のパンを持っていっちゃったんです(あー、おなかすいた。すき焼きすき焼き)」
「死んだ男のところに駆けつけたとき、ほかに誰か見なかったかね」
「はい、誰も……」
「見なかったんだね、それはたしかだね、絶対だね、まちがいないんだね」
「そ、そう言われると……暗かったし……(すき焼きすき焼きすき焼き……)」
「あいまいなことじゃまずいんだ。よーく思いだせ」
「思いだせったって……おなかがすいてて……」
「あのなあ、きみにはことの重大さがわかっとらんようだな。飯なんか一食ぐらい抜いたって人間死なないんだよ」
「し、死にますよ。それだけはたしかです。絶対です。まちがいないです」
「ふざけるんじゃないっ。人がひとり死んだんだぞ。しかも、殺された可能性もあるんだ。そんなときに腹が減っただと……」
「私だって、たいへんなことが起こったってわかってます。死んだかたは気の毒です。でも、すき焼きが……」
「すき焼きがどうしたって?」
「いや……なんでもないです。とにかく、私、おなかがすいてると……あっ、そうだ。カツ丼とってください」
「はあ……? きみ、何言ってんの」
「だって、ほら、刑事ドラマなんかだと、取り調べのとき、かならずカツ丼をとるじゃないですか。あれって、法律か何かで決まってるんですか? でも、できたら、『大黒屋』の海鮮丼のほうがいいな。大盛りでお願いします。あ、あと、お漬けもの盛り合わせとブタ汁も……」
「やかましい! これは、取り調べじゃない。ただの事情聴取だ。それに、ここは路上だぞ。どうやってカツ丼を食べるんだ」
「え? 食べられますよ、私。立ったままだろうが、逆立ちしてようが」
「そういう問題じゃない。とにかくカツ丼は出ないんだ。我慢して質問に答えるように。きみが早く答えれば、それだけ早く解放されるわけだから、協力してくれたまえ」
「あのー……牛丼でもいいですけど……」
「馬鹿っ、丼は出ない」
「じゃあラーメン……もだめなんですよね。はいはいわかりました(もう、すき焼きなんてのぞみません、神さま、おにぎりでいいです)」
「ということは、きみが出会ったその母子が、最有力容疑者となる。もう一度、人相や服装をくわしく教えてくれ」
「それも、さっき言ったじゃないですか(おにぎりがなければ、お菓子でもいいんです、神さま、ねえ、神さま)」
「もう一度だ」
「だからー、女のひとはTシャツにジーパンで……」
「色は?」
「暗かったから……。あ、でも、Tシャツの柄は、マカロニでした」
「マカロニ……?」
「知らないんですか、刑事さん。マカロニっていうのはパスタの一種で……」
「そんなことわかっとる。――女性の人相は?」
「マカロニの穴って、どうしてあいてるか知ってます? 私、こないだテレビで見たんですけど」
「女性の人相はっ!」
「刑事さん、私の話、きいてるんですかっ」
「きみこそ、私の話をきいてるのかっ。女性の人相はっ」
「あー、はいはい。マカ……」
「マカロニはもういいんだ!」
「まか不思議な顔って言いたかったんですよ。きれいなんですけど、なんていうか……この世のものでないというか……(マカロニかあ、急に食べたくなってきちゃったなあ……)」
「幽霊だっていうのかね」
「そこまでは……でも、変な感じでした(マカロニグラタンもいいよね。熱々の、チーズのかかったマカロニグラタン……)」
「年齢は?」
「二十歳ぐらいと思ったんですが、もしかしたらもっと若いのかなあ……」
「顔に見覚えはなかったんだね」
「それがその……どこかで会ったような気がするんです。でも……思いだせないんです」
「なんだと。思いだせ! がんばって思いだすんだ!」
「うーん……うーん……むりですよ」
「そこをなんとか」
「うーん……うーん……」
「がんばれっ、がんばるんだっ」
「警部補どのっ!」
若い警官がすぐ横で大声を出した。
「何だ、今、だいじなところなんだ」
「被害者の死因がわかりました。失血死です。検死によると、体内の血のほとんどが失われていたそうです」
「ふむ……現場にいた女の下半身が血にまみれていたというしな。だが、あたりには血は一滴たりとも流れていなかった。――ひょっとすると、殺害現場はここではないのかもしれん。別の場所で殺害されて、ここへ運ばれた……」
「でも、この女子高生が悲鳴を聞いたと……」
「偽証かもしれん」
「ちょ、ちょっと何を言うんですかっ」
「だいたいさっきから言ってることがおかしい。関係ない食べものの話ばかりして、話題をそらそうとしているし、座布団がどうの、この世のものでない女がどうのと……。全部、作り話じゃないだろうな」
「私、偽証なんてしてませんっ」
「あやしい」
「あやしくないです」
「あやしい」
「あやしくないってば、このゴリラ!」
「誰がゴリラだ!」
結局、思いだしたらただちに連絡するように、との条件付きで比夏留が解放されたのは、十時をとうに過ぎており、空腹は限界にまで達していた。一歩踏みだすたびに、身体がふらつく。
◇
「ただいまー! おそくなってごめんなさーい! おなかすいたっー! すき焼きすき焼きーっ!」
玄関に倒れ込むようにして比夏留が声をあげると、彼女の父親で、古武道〈独楽〉宗家、諸星弾次郎が奥からどすどすと地鳴りをあげて現れた。
「遅かったじゃないか、比夏留ちゃん。パパ、心配したぞー」
「ごめーん。体育祭の準備が終わって、帰ろうとしてたら、事件があってさ」
「事件? どんな事件だ」
「その話はあと。まずはすき焼きすき焼き」
「えっ? 今日は外で食べてくるんじゃなかったのかい」
比夏留はいやな予感がした。
「――そんなこと言ってないよ……」
「ごめん。全部食べちゃった」
くらくらくらくら……。比夏留はめまいとともにその場にしゃがみこんだ。
「ひどいっ。ひどいよ、パパっ。今日、昼ご飯抜きだったのに。おなかが減りすぎて死にそうなんだからっ」
「悪い悪い。今、ママに言って、何か作ってもらうから、ちょっと待ってなさい」
あわててキッチンへ走り去る父親の背中をうらめしそうに見つめながら、比夏留はため息をついた。今日はついてない。ついてない日はとことんついてない。
ふたたびどすどすという足音。弾次郎が真っ青な顔で戻ってきて、
「何もないって。どうしようか」
「どうしようかって……何とかしてよ。このままじゃ……このままじゃ……」
ぎゅるるるるるるるるる。比夏留のおなかが盛大な音をたてた。
「わ、わかった。何とかする」
弾次郎は業務用の巨大な鍋にいっぱい湯を沸かし、そこにインスタントラーメンを十五個放り込んだ。どれも、種類のちがうラーメンである。それをいっぺんにゆでる。十五個の丼鉢をテーブルに並べると、それぞれに粉末スープを入れ、そこにゆであがった麺と湯を入れていく。ひとつの鍋で作ったのに、なんと、うまかっちゃんの鉢にはうまかっちゃんの麺だけが、サッポロ一番の鉢にはサッポロ一番の麺だけがきちんと仕分けされて入れられていく。鍋が馬鹿でかいので、熟練の技法によって、おのおのの麺を混じりあわさずにゆであげることが可能なのだ。なるべくかたいうちに仕分けするのがコツだそうだ。もちろん、チキンラーメンのように麺自体に味がついているものや、高級インスタント麺のように調理法が異なるものは省き、粉末スープの商品ばかり選んでいることは言うまでもない。
「さ、できたぞ」
比夏留は、テーブルにずらり並んだインスタントラーメン群を見渡し、目を輝かせた。
「はやく食べないと伸びるぞ」
「了解っ」
言ったがはやいか、比夏留の箸《はし》はまず、「出前一丁」に伸びた。ごまラー油の香りが食欲をそそる。ずるずるずるずるずるっと一気にすすりあげた。スープも残さず飲み干して、所要時間十八秒。次に、博多ラーメン風の「うまかっちゃん」。しょうゆとんこつ、こくとんこつ、まろやかとんこつ、ピリ辛とんこつの四種を味わいわけて、合計約七十二秒。それから、一番好きな「サッポロ一番」にとりかかる。みそラーメン、塩らーめん、しょうゆ味を順番にクリア。やっぱりみそラーメンはサッポロだ。合計五十五秒。「明星《みょうじょう》チャルメラ」のしょうゆ、塩、みそ、とんこつの四種を合計八十秒。和風の味わいの「好きやねん」を二十一秒、とんこつしょうゆ味の「ごっつ好きやねん」を十七秒。おなじみ「ワンタンメン」を二十三秒(具のワンタンも、ほかの鉢には一片たりとも混入していなかった)。
「あー、完食」
最後の一杯のスープを飲みおえたとき、食事開始からまだ五分もたっていなかった。常人なら十五杯分のスープを飲み干したわけだから、おなかがたっぽんたっぽんになっているはずだが、比夏留の胃は「すっきり」していた。
「満足したかい」
「腹八分目ってとこね。ありがとう、パパ。あっ、胡椒《こしょう》かけるの忘れてた」
ようやく人心地ついた比夏留は、さっきあった事件のことを父親に話した。
「ふーむ……殺人事件か。しかも、死体に血がほとんど残っていない。――これは、吸血鬼のしわざかも」
「嘘っ!」
「に決まってるだろう。吸血鬼なんかいるわけがない。あんなものは、ヨーロッパの言い伝えなんだよ」
「どうゆうこと?」
「向こうは日本とちがって火葬じゃない。棺桶に入れて土葬するだろ。『早すぎた埋葬』っていって、まだ完全に死んでいない病人を死んだとかんちがいして、土のなかに葬《ほうむ》ったら、あとで蘇生して、棺桶を内側からひっかいたり、声を出したりする。あけてみると、埋葬したときより、髪や爪は伸びているし、肌もつやつやだ。これはまさに吸血鬼だと、心臓に杭を打ちこんでみると、血がどばっと出る。これはあたりまえで、だって、生きてたんだからね。――そういうのが吸血鬼伝説のはじまりじゃないかな」
「なーるへそ。じゃあ、吸血鬼なんてほんとはいないのね。よかったー」
「吸血コウモリや、蚊とか蚤とか、吸血性の生きものはいるけれど、人間が人間の血を吸うなんてことはありえないだろうね。吸血|嗜好《しこう》のある異常者は別だけど、それは精神的な問題で、肉体がほんとうに血を欲しているわけじゃない。それに、そういう人は、一度に何リットルもの血を飲むことはできないだろう」
「じゃあ、今度の事件は誰のしわざなの? 身体の血がほとんどなくなっていたらしいけど。――血液銀行に売ってお金にするとか」
「まさか。――明日も体育祭の準備で早いんだろ。はやく寝なさい。インスタントラーメン食べて、すぐに寝るのも〈独楽〉の修行のうちだよ」
「はーい。――ねえ、パパ」
「なんだい」
「明日もすき焼きにしてね」
「う……わかった」
◇
古武道〈独楽〉は、肥満した肉体を利用して相手を倒す武術であり、技をマスターするためには「太る」ことが不可欠なのだ。
(少しは『効く』かなあ……)
ベッドのうえでパジャマをまくりあげて腹部を見つめ、比夏留はため息をついた。むだな脂肪がまったくない下腹部は、体型を維持するために必死にダイエットしている雑誌のモデルなどから見たらうらやましいかぎりだろうが、比夏留は逆に「猛烈に太りたい」のだった。ラーメンを食べてすぐに寝れば太る、と世間では言われているし、しかも、それを十五杯、汁一滴も残さず完食したのだから、常人ならテキメンなところだが、比夏留には何の効き目もない。まだ、これからあと十五杯ぐらいは楽勝で食べられそうだ。
目をつむって寝ようとしたが、さっき見た不可解な殺人現場の様子と、そのあと出会った母子のことが脳裏のスクリーンから消えない。赤黒い座布団状の物体に頭を覆われて、絶叫しながら転げまわる男。ぬめぬめした赤ん坊を抱いた若い女。
(幽霊……じゃないよね。幽霊はパンをとったりしないもん。でも……パン好きな幽霊もいるかも……)
眠れないので、比夏留はきっちり千数えてから、壁の時計を見た。スヌーピーの手足が午前零時を指している。
(まだ……いいよね)
比夏留は枕もとの電話を取りあげ、プッシュボタンを押した。夜に電話するのは、いつも気恥ずかしさと後ろめたさがつきまとう。
「――あ、もしもし、保志野《ほしの》くん? 私です。さっきさあ……」
「これは留守番電話です。ご用のあるかたは、ピーという発信音のあとに……」
ガチャン。
(肝心なときにいないんだから、もー)
フグのようにふくれた比夏留は、鼻で息をすればふくらませた頬をたもったまま眠れるのではないか、と実験してみたが、だんだん苦しくなってきたので中止し、眠りに落ちた。
ぐー。
2
「というわけなんですよ、ひどい目にあっちゃいました」
校舎の裏、〈常世の森〉と学校の敷地を隔てるフェンス際に建っている民俗学研究会(略称・民研)のプレハブ部室で、「昼だよ、眠れ」とプリントされたTシャツを着た比夏留は、昨夜の事件について先輩たちに縷々《るる》説明をおこなっていたのだ。
「ふーん、物騒ね」
解くと二メートル五十センチにもなる黒髪を誇る、三年生で部長の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》が言った。猫のようにつりあがった目と、緑色のルージュをひいた薄い唇は、彼女の性格を物語っていたが、冷静で酷薄と思われがちな伊豆宮の心に、情熱的で涙もろい一面が隠されていることを比夏留は知っていた。
「最近、外国でも日本でも、テロとか狂牛病とか少年犯罪とか、暗い、いやなニュースばっかだけど、いよいよそれが身近に迫ってきた感じね」
伊豆宮は鬱々《うつうつ》とした声で言った。
「伊豆せん、なーんか憂鬱そうですね」
「そーなの。クラスメイトがひとり、いなくなっちゃってね」
「そいつは、失踪しちまったってことかよ」
頭にちょんまげを結った三年生の白壁《しらかべ》が、巨体にまんべんなくついた贅肉《ぜいにく》をふるわせながら言った。白壁の家は相撲部屋で、彼も毎日土俵で稽古をしたあとちゃんこを食べ、鉄管ビール(水道水のこと)を飲んで昼寝をしているので、比夏留にはうらやましいぐらい太っている。もっとも、比夏留の父親やその弟子たちのゾウアザラシのような肥満度には比べるべくもないが。
「そう。おとといから学校来てないの。ご両親、警察に捜索願を出したらしいわ。軽いノリの子だったけど、けっこう仲良かったんだ。家出ならいいけど、私には何も言ってなかったなあ。事件とかに巻き込まれてなきゃいいけど……」
「そういえば、うちの隣のクラスでも、女の子がいなくなったって言ってました。流行《はや》ってるのかなあ」
そう言ったのは二年生の犬塚志乃夫《いぬづかしのぶ》だ。動くたびにポニーテールがふぁさふぁさ揺れる。身体の曲線や丸みを帯びた肩などは、比夏留よりもはるかに女らしい。だが、彼女は……彼は、というべきだろうか……男なのだ。家の都合で(どんな都合だ)中学生まで女として育てられたので、心身ともにすっかり女性になってしまっている。
「やめてよ。連続誘拐事件だなんて洒落《しゃれ》にならないわ。それよか比夏留ちゃんの話だけど、死んだひとは血を抜かれてたってわけ? ヤバいわね」
「吸血鬼のしわざかも、って思ったんですけど、うちの父は、吸血鬼なんかいるわけないって笑ってました」
「いねえとは言えねえさ。チスイコウモリ、蚊、蚤、ダニ、ツェツェバエ、ブヨ、ヤツメウナギ……動物の世界にゃあ、ドラキュラはいっぱいいるぜ」
「吸血妖怪はドラキュラだけじゃないわ。日本の妖怪にだって、血を吸うやつはいるわよ」
妖怪にくわしい伊豆宮の目が輝いた。
「代表的なのは、磯女《いそめ》ね。長い髪の毛を若い男の身体にまきつけて、血を吸うの」
「長い髪の毛? おめえみてえじゃねえか」
「ばーか。私は男は相手にしないわ。河童も、尻子玉を抜くとか言われてるけど、川で人を襲って血を吸うっていわれている地方もあるの。牛打ち坊っていうのも、家畜の血を吸うらしいし、あと、ツツガムシも吸血妖怪ね」
「ツツガムシって、実在の昆虫じゃないんですか?」
と犬塚。
「昆虫じゃなくて、ダニの一種ね。病気を媒介するから、昔のひとは妖怪だと思っていたのよ」
「ダイモンってえやつもいるぜ」
「あのねえ……それは『妖怪大戦争』っていう映画に出てくる、創作された妖怪よ。それに、日本の妖怪じゃなくて、バビロニアだったかな……どこか中東のほうからやってくるの」
さすがに詳しい。
「じゃあ、日本の吸血妖怪は磯女、河童、牛打ち坊、ツツガムシ……そんなものですか」
比夏留が言うと、
「そうね……」
ちょっと首をかしげ、
「産女《うぶめ》なんかも、下半身が血まみれの姿で現れるっていうけど……血は吸わないわよね」
比夏留は、「下半身が血まみれの姿」という言葉に反応した。
「きのう、私がパンをとられた母子連れの母親のほう……下半身が血まみれだったんですよね……」
「ふーん……それ、産女かもしれないわね」
伊豆宮がこともなげに言った。
「冗談よしだしょういん……」
「いや、マジでよ。だって、比夏留ちゃんに、赤ん坊を抱っこしてって言ったんでしょう? 産女というのはね……」
伊豆宮は、産女について嬉々として話しだした。
産女は、全国に出現する妖怪で、難産で死んだ母親の霊魂といわれている。深夜、河原や夜道に現れ、赤ん坊をしばらく抱いてほしいと懇願する。同情や恐怖心などから言われたとおりにすると、赤ん坊はどんどん重くなっていき、ついには下敷きにされて殺されてしまう。地方によっては、産女は女怪ではなく、子どもを害する鳥の一種とされている。
「でも、このあたりには産女の伝承はないんだけどね」
伊豆宮はそう言ってしめくくった。
「それに、産女って座布団みたいな形じゃないんでしょう?」
比夏留の言葉に、伊豆宮は飛びついた。
「そうそう、野ぶすまっていう妖怪もいるわ。野原を歩いていると、突然、ぐにゃぐにゃしたふすまみたいなものが覆い被さってくるの。モモンガのような形をしてるっていう話もあるけど、ノヅチや塗り壁の一種でしょうね」
「妖怪はともかくとして、たしかに、その母子、怪しすぎますね。何ものでしょうか……」
犬塚が考え込むように言うと、白壁が暗いムードを笑いとばすように、
「けどよう、殺人事件の現場を見られるなんてなあ、一生に一度できるかできねえかの貴重な体験だぜ。よかったなあ、諸星」
「冗談よしだけんこう。どれだけ怖かったと思ってるんですか」
「へー、比夏留ちゃんでも怖いときがあるのね」
と犬塚。
「私だって、怖いことありますよー。お化けはこわいし、テストの結果はぶるぶるぶるだし」
「でも、人間相手じゃ、すっごく強いしさー、それに、いくら食べても太る心配がないもん」
「肥満が一番怖いのよね。その点、諸星さんは無敵よね」
伊豆宮がしみじみと言った。しかし、伊豆宮もどちらかというと痩せ型だ。このクラブ内で太っているのは白壁だけなのである。
「冗談よしだしげる。私は太りたいんですっ」
比夏留がぷっとふくれると、
「いつも思うんだけど、比夏留ちゃんが食べてるあれだけの食べ物っていったい、身体のどこに入ってるのかしら」
と犬塚。
「きっと、ものすごく消化吸収がいいんだぜ。胃や腸にたまっているあいだがおいらたちにくらべてほんの一瞬なんじゃねえかな。それしか考えられねえ」
「でもさ、それだったら……アレはどうなるのよ」
伊豆宮が言った。
「アレってなんだよ」
「アレは……アレじゃないの」
伊豆宮は真っ赤になった。
「あっ、なるほど。ウンコか」
「大きな声で言わないでよ、馬鹿!」
「そりゃそうだよな。いくら消化吸収が早くったって、ウンコはどんどんたまるいっぽうだからなあ。もしかしたら、諸星、おめえ、一日三十回ぐらいウンコに行くんじゃねえだろな」
「な、何言ってんですか、一日一回ですよ!」
思わず、比夏留は白壁を諸手突《もろてづ》きした。タイミングがうまくあったのか、白壁は後ろ向きに吹っ飛び、壁に激突した。プレハブ作りのクラブ棟がぐわらりと揺れた。
「す、す、すいませんっ、白《しら》せん」
比夏留があわてて駆け寄ると、濛々《もうもう》たる埃《ほこり》のなかから白壁はよろよろ立ちあがり、
「おめえ……手加減しろよ。おいらだったからよかったものの、ほかのやつならおっ死《ち》んでるぜ」
そう言って、白壁は着物の胸をはだけると、そこには力士の手形のように、比夏留の両手の型がピンク色にくっきりとついていた。
「騒々しい連中やで。ちいとは静かにせえ」
しゃがれた大阪弁が部室の奥の暗闇から聞こえてきた。顧問教師の藪田|浩三郎《こうざぶろう》だ。七十歳をこえているが、大酒飲みで、酒瓶をかたときもはなさない。これ以上痩せるところがないほど痩せており、ミイラというよりは骸骨に近い。古代人のように角髪《みずら》を結《ゆ》い、喉の肉は七面鳥のように垂れ、首には複数の瘤《こぶ》が盛りあがっている。暗闇からぬうと出てきたら、女性なら悲鳴をあげることまちがいなしのご面相《めんそう》だ。
「わしは、諸星の大食いについて、ひとつの仮説を持っとる」
藪田はおごそかな声で言った。
「ど、どういうことですか、先生」
「諸星は、食うても食うても太らん。これはどう考えてもおかしい。質量保存の法則に反しとるやないか。つまり……諸星はほんまは太っとるんやな」
「はあ?」
いあわせた全員が声をあわせた。
「痩せてるように見えるだけなんや。昼間は痩せてるけどな、夜、寝たあとに身体がぶくぶくぶくっと太ってくる。本性をあらわしよるんや」
「それって……妖怪『寝太り』じゃないですか」
伊豆宮があきれたように声をあげ、比夏留もぶーぶー文句を言った。
「じゃかあしい。それ以外に説明のしようがあるんか。諸星の正体は『寝太り』や。妖怪ポストに手紙入れてこい」
「まじめに聞いて、損したぜ」
白壁が肩をすくめた。
「おまえら、そんなことより、体育祭の準備はできとんのか。もう日にちがないぞ」
「順調といえば順調です。今、カウボーイの衣装の最終作業に入ってるところです」
伊豆宮の言葉に藪田はコップ酒をあおると、
「ほんま、わけのわからん体育祭やで。仮装行列するのはええとしても、なんで夜中にやらなあかんねん。誰も見てへんがな」
「ええっ、夜に仮装行列するんですか!」
比夏留が大声をあげた。
「なんだ、比夏留ちゃん、知らなかったの? うちの体育祭、開始が夜の十一時なのよ。だから、仮装行列がはじまるのは、えーと……午前二時頃かな」
犬塚の言葉が比夏留には信じられなかった。そんな高校、ほかにある……?
ないない。
「じゃあ……じゃあ、徒競走も騎馬戦も綱引きも応援合戦もぜーんぶ夜にやるんですか?」
「そうよ」
「そんな……せっかくの競技が見えないじゃないですか」
「一応、多少の照明はあるんだけど、客席からは、大勢のひとがなにかやってるなあ……というのがわかる程度。『だんまり』みたいなものよ。だから、父兄もほとんど来ないわ」
「どうしてそんなことを……」
「さあ……? 理由はわからないけど、とにかく『日の出の時刻にあわせて閉会する』のが原則なんですって」
「へー……」
「言っとくけどよ、徒競走は『牡鹿牝鹿早駆《おじかめじかのはやがけ》』、騎馬戦は『丈夫騎馬組討《ますらおきばくみうち》』、相撲は『蹴早《けはや》・宿禰一騎打《すくねのいっきうち》』、綱引きは『天手力男豪腕合戦《あめのたぢからおごうわんがっせん》』ってえ名前だからな」
「はあ……」
比夏留は脱力しまくり、何もやる気がなくなった。
◇
その日はまたしても昼食抜きだった。夜も、前日にまして遅くなった。比夏留は、途中で何度も家に電話を入れ、すき焼きをキープしておくように念を押した。
「わかってるよ、ちゃあんと一人前確保してあるから心配いらないよ」
という弾次郎に、
「一人前じゃなくて、三人前。わかった?」
「はいはい」
もちろん「諸星家的三人前」という意味である。
「どうもよくわからないなあ」
途中まで一緒に帰る犬塚が、比夏留に言った。考えてみれば、夜道を男性とふたりきりで肩を並べて歩いていることになるわけだが、そんな意識は比夏留には毛ほどもなかった。
「なにがです、犬せん?」
比夏留は、ちょっとまえに買ったフランスパンのバゲットをかじりながら応えた。
「西部劇の衣装なんだけど、カウボーイはいいとして、カウガールってどんな感じかなあ。まえにテレビで見たときは、胸もとにバンダナを巻いてたように思ったんだけど……」
「さあ……私、西部劇ってあんまし見たことないんですよね」
「私も。えっーと、ジョン・ウェインだっけ……うちの叔父さんが好きでよく見てたけど」
言いながら歩いているうちにふたりは毛石町の交差点までやってきた。
「じゃあ、また明日ね、比夏留ちゃん。暗いから気をつけて」
「はーい、犬せんも」
「ばいばい」
犬塚と別れた比夏留が自分の家のほうに歩きだしてしばらくたったころ、
「あ、犬塚さん、きみも今、帰り?」
という声が後ろから聞こえてきた。振り返ると、犬塚が背の高い男子生徒としゃべっている。
(うい? まさか、犬せんの彼氏?)
暗いし、遠いのでよく見えないが、けっこう親しそうだ。犬塚の言葉は、声が小さくて聴きとれない。ふたりが何をしゃべっているのか興味津々になった比夏留は、いたずら心をおこして、フランスパンをしっかり持ったまま、気づかれないように彼らのほうへと近づいていった。
「ねえ、犬塚さん。今度の体育祭、何の競技に出るの?」
「…………」
「ふーん、そう。ぼくは、『牡鹿牝鹿早駆』ていうのだけ。まいっちゃうよ。足、遅いから」
「…………」
ゴミ箱のうしろやポストの陰に隠れながら、できるだけ接近する。耳の感度をぐいーんとあげて、必死になって会話を聴きとろうとする。比夏留に対して背を向けているので、どんな顔なのかわからないのがじれったい。
「うちの高校の体育祭ってかわってるよね。ぼく、転校してきたばっかりだから、びっくりしどおしなんだ」
「だよね。普通、驚くよね」
「――こうしてふたりだけでいろいろしゃべるの、考えてみたらはじめてですね。同じ学年なのに」
「そうね。千代田《ちよだ》くんってあんまりめだたないし……」
「女の子と話すの、苦手なんだ。とくに、犬塚さんみたいな美人が相手だと気おくれしちゃって」
「まーたまた。けっこう慣れてるトークじゃない?」
「そんなことないよ。これでもいっしょうけんめいなんだ」
「そうかなあ……いろいろ噂、聞くよ」
「え? どんな?」
「いろんな女の子に声かけてるって」
「マジ? えー、マジ?」
「だって……みんな、言ってるよ、千代田くんに声かけられたって」
「嘘でしょー。ぼくは潔白だよ。誰かが言いふらしてるんだろう」
「まあ、そういうことにしておきましょう」
「信じてよ。犬塚さんにまでそんな風に思われてたなんて、ショックだな……」
「いいじゃない。人気あるってことだから。千代田くんにあこがれてる女子、いっぱいいるみたいよ」
「あのさ……ぼく、親が離婚したんだ。ぼくの母親は、ぼくが小さいころから、毎晩、いろんな男と遊び歩いてたし、親父は小さい会社の社長で、毎晩、会社に泊まりこんで働いてたから、ぼくはずっとひとりぼっちだった」
「…………」
「うちの親、まえからすごく仲悪かったから、離婚は時間の問題だと思ってたけどさ、いざ本当に離婚されるとちょっとね……。とうとう母親が若い男と家を出ていったんだ。親父は、会社が忙しいからぼくの面倒みられないって、ぼくをこっちの親戚に預けたってわけ」
「そうだったの……」
「転校してきてまもないから、友だちがひとりもいない。ぼくはさびしいんだ。だから……つい、みんなに声をかけてしまうのかもしれないな。そんなつもり、ないんだけど……」
「わかるけど……」
「でも、これは信じてほしいんだけど、ぼくは今、好きな子はひとりしかいないんだ。片思いなんだけどね」
「ふーん、そうなんだ」
「誰だかわかる?」
「さあ、興味ないから」
「そんな冷たいこと言わないでよ。あのう……さっきまでひょろっとした男子と一緒だったでしょう? あれ、犬塚さんの彼氏?」
「ば、馬鹿言わないで。そんなこと、本人が聞いたら激怒するわよ。あの子は、女の子」
「え? あははは、そうなんだ。仕草や歩き方ががさつだったから、男子かと思っちゃった。じゃあ、心配いらないや。――犬塚さん、今、つきあっている彼氏はいるの?」
「――いないわよ」
「よかったあ。もし、いたら、ぼく、泣いちゃうよ」
「千代田くん、何が言いたいの」
「そんな怖い顔しないでください。美人が台なしだよ」
比夏留は、そっと千代田の横手にまわり、顔を盗み見た。
(わわわっ、美形っ)
その男子生徒は、夜目にもイケメンがわかるほど整った顔立ちだった。カールした長髪に、逆三角形の顔。日本人離れした高い鼻梁に、一文字の薄い唇。少し顎がとがりぎみだが、それがシャープな印象につながっている。
「千代田くん、人をおちょくってるんなら帰るわよ」
「おちょくるなんてとんでもない。ぼくは真剣なんだ。犬塚さん、ちょっと時間もらえないかな」
「はあ?」
「どうしても相談にのってほしいことがあるんだ。一生のお願い」
「かんべんしてよ。相談ならほかの誰かに言って。私、悪いけど、千代田くんの相談にのれるほど親しくないわ」
「きみも……ほかのみんなとおんなじなんだね。ぼくの話をまともにきこうとしない……」
「あの……私、あなたに言ってなかったけど、実はね……」
「――好きなんだ」
「え……?」
犬塚の顔に一瞬赤みがさした。
「ほんとなんだ。好きなんだよ、犬塚さん。ぼくとつきあってくれないか」
コクった! 比夏留は手に汗を握っていた。
「ごめん、私……」
「もちろんすぐに返事してくれとはいわない。ぼくという人間をよく知ってくれてからでいい。だから……」
「冗談よしだけんこう!」
その言葉を耳にした瞬間、比夏留は思わず用水桶(この町にはまだそんなものがあるのだ)の陰から飛びだしていた。
「犬せん、それ、私がさっき言ったギャグですよ!」
犬塚と千代田という男が同時に振り向いた。
「あ……あの……立ち聞きするつもりはなかったんですけど……」
バリバリの立ち聞きである。
「すいませーん。おじゃまのようですから、その……ただちに消滅します」
「待って、比夏留ちゃん、ここにいて。私、先に帰るから」
犬塚が言った。
「ちょうど帰ろうと思ってたところだったんだ。じゃあ、千代田くん、さよなら」
そう言うと、犬塚はダッシュでその場から消えた。
「あ、犬塚さんっ」
千代田は数歩追いかけたが、追いつけぬとさとったか、がっくりと肩を落とした。
「真剣だったのにな……。でも、やっぱりほかの尻軽な子とは全然ちがうよ、犬塚さんは……」
千代田は深いため息をついたあと、比夏留に向き直り、今までとはうってかわった憎々しげな形相《ぎょうそう》になって、
「――きみは誰だ。いいところだったのに邪魔しやがって……」
「えーと、事情がよくわかってないんですが……コクってらしたんですよね」
「きみには関係ない。――行けよ。男には用がない。ぼくは忙しいんだ」
比夏留は、思わず千代田の襟首《えりくび》をぐいとつかみ、
「あのねえ、あんた。誰が男だって? あーん?」
「ちょ、ちょ、ちょっと苦しいよ。何するんだよ、乱暴な」
「あんた、目を開いて、よーく見てみなさいよ。このキュートな顔の、このナイスバディの、どこが男なの」
「えっ」
千代田は、真剣にびっくりしている様子だった。
「ふーん、そうだったのか。そう言われてみれば……」
その言い方、むかつく。きーっ。
「ボーイッシュな格好してるからわかんなかったんだ、ごめんごめん」
千代田は、犬塚を相手にしていたときとはまるでちがう、獲物を狙う狼のような目で、比夏留の身体をなめまわすように見つめると、
「きみ、名前はなんていうの? 諸星比夏留? いい名前だね。ぼくは、犬塚さんと同学年の千代田|雅弘《まさひろ》。今から、時間あるかな?」
「どどどういうことです?」
「話したいことがあるんだ。でも、とっても大事なことなんだ。ここじゃ話せない。――そうだ、ぼくの知ってるいい場所があるんだけど、そこにいかないか?」
「あのねえ……今の今まで犬せんをくどこうとしてたのに、だめとわかったらすぐに私に乗り換えるなんて不純です」
「すぐにじゃないよ。女性だってわかってから……」
「よけいだめでしょうが!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。さ、行こう」
千代田はゆっくりと比夏留に迫ってきた。その全身から、こちらを圧倒してくるような威圧感が噴きだしているようだ。
「行こうって……どこへ」
「ちょっと歩くけど、すぐだよ。裏山なんだけど……」
千代田の手が、比夏留の両肩にかかった。ぞくっ……とした。
「裏山って、蛭女山《ひるめやま》のことですか? そんなところにこんな時間から行って、何するつもりですか」
「セックス」
「じょ、じょ、じょ、冗談よしもとしんきげき!」
比夏留は、思わず千代田の頬をひっぱたいていた。常人ならふっとんでいるところだが、千代田は少しよろけただけだった。
「馬鹿にしないでっ」
そして、あとをも見ずに、千代田のまえから歩き去った。背後から、何ともいえない嫌なオーラのようなものが漂《ただよ》ってくるのを感じながら……。
◇
しばらく歩いたとき、
「ぎゃああ……おおおおおおおっ!」
どこからか、闇を引き裂くような悲鳴が轟《とどろ》いた。はじかれたようにそちらの方向へ走る。信号のない交差点のところまで来たとき、金髪の女性がひとり、上半身を歩道から車道へはみだすようにして倒れているのが見えた。このままでは車にひかれると思い、足首を持って、歩道にひっぱりあげる。軽い。いくらなんでも軽すぎる。下を向いている顔面を上に向ける。
(あ……っ!)
比夏留は自分の口を押さえた。女性の顔に見覚えがあったのだ。比夏留の自宅近くのスナックのママさんで、たしか畑《はた》という名前だったと思う。だが、記憶にある顔に比べて、眼下の顔は異常に青ざめ、あちこちに紫色の斑点が浮かんでいる。両眼が恐怖に見開かれ、昨夜の死体同様、顔の骨が折れているらしく、ひょうたんのように全体がいびつに歪んでいる。もちろん、すでに息はない。大きく口をあいており、悲鳴をあげたままの状態で絶命したことがわかる。まだ、さっきの悲鳴がそのあたりに漂っているように思える。
ぺちゃっ……ぺちゃっ……。
ぺちょっ……。
比夏留は、熱いフライパンに触ったみたいに飛びしさり、きょろきょろと周囲三百六十度を見回した。
(また……あの音だ……)
全神経を両耳に集中させる。
ぺちゃっ……ぺちゃっ……ぺちゃっ……。
常人なら聞き逃すような微細な音。
(そこだ……!)
比夏留は、すぐ横にとめてあったトラックの下を凝視した。暗がりに、何かが蠢《うごめ》いている……ようにも見えるし、ただの気のせいのようでもある。そろそろと近づき、しゃがみ込んでじっと見つめたが、わからない。
(そうだ)
比夏留は、持っていたフランスパンの先端をトラックの下に突っこんだ。ぐるぐるとかき回してみる。何にもぶつからない……あれ? 何も手応えがない。粘液質の音も聞こえなくなった。
(どこかに逃げたのかも……)
そう思いながら、なおもフランスパンで探り続けているとき。
ぶうわあっ。
そんな風をきる音が聞こえたと思うや、何かがトラックの下から飛びだしてきて、比夏留に覆いかぶさった。それは、大きな風呂敷のようなもので、直径は一メートル以上もあった。身体を横倒しにした無理な姿勢でいたのがわざわいし、かわそうとしたがかわしきれなかった。そいつは、比夏留の頭部を押しつつんだ。ぶちゃっ、という感触。視界がゼロになり、呼吸が苦しくなった。喉を押さえつけられているせいもあるが、それが比夏留の頭全体に隙間なくぴったりと密着しているため、空気がなくなったのだ。比夏留は渾身の力をこめて引き剥がそうとしたが、「何か」は蛸《たこ》の吸盤のように比夏留の皮膚を吸引していて容易に剥がれない。力まかせにむりやり剥がそうとしたら、皮膚が破れてしまうだろう。「何か」は、ものすごい力で比夏留の顔を締めつけてきた。きりきりきりきりきりきりきり。痛い……痛い。頭蓋骨が割れそうだ。眼球がつぶれ、耳がちぎれ、鼻が折れ、顎や頬骨が砕けそうだ。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。肌がヤスリでこすられているみたいな激痛。血を吸われているらしい。――呼吸が限界にきてる。頭の芯がぼうーっとしてきた。もう……だめ……だめだ……。パパ、ママ、先立つ不幸をお許しください。比夏留は死にます。すき焼きが食べられなかったのが唯一の心残り……いや、ほかにも心残りはある。ステーキもお寿司もピザもお好み焼きもしゃぶしゃぶもオムライスも最後におなかいっぱい食べたかった……。
「諸星さん……!」
保志野くんの声。死ぬ間際の幻聴ってやつね、きっと……。
「まわるんだ、諸星さん!」
まわる……?
比夏留は、その言葉に導かれるように左脚一本で立ち、いきなり回転をはじめた。
「もっと速く! もっともっと速く!」
比夏留はまわった。独楽のように。速く速く速くもっと速く。
(死ぬまえに、自分のこれまでの人生が走馬灯のように蘇るっていうけど、私は走馬灯として死ぬんだ……)
酸欠のせいか、わけのわからないことを思いながら、比夏留はひたすら回転することに集中した。こんなに速くまわったのは生まれてはじめてだ……。
顔面を覆っていた「何か」がびくりと動いた。肌とそいつのあいだに隙間ができはじめた。
(しめた、もうちょいだ)
比夏留はますます回転速度をあげた。ぎゅううううううううう………………ん。身体がバラバラになりそう。焦げくさい臭いがたちのぼっている。空気との摩擦で服が燃えているのだろう。
ぶわばっ。
「何か」がとうとう比夏留の頭部から浮きあがった。そいつは、必死になって触手状のものを伸ばし、比夏留の顔にしがみつこうともがいている。
(今だ!)
比夏留は右手でそいつをむんずとつかみ、地面に叩きつけた。その瞬間、比夏留の肉体制御の限界がきた。頭が真っ白になり、比夏留は猛スピードで回転したまま、コントロールを失って、トラックに衝突した。
3
なんだか身体の節々が痛む……。
「諸星さん……諸星さんっ」
痛い……痛ててててて。
「諸星さん、諸星さんっ」
誰かが呼んでいる。諸星さんって誰のことだろう。
「諸星さん、起きてください、お願いしますっ」
聞いたことのある名前だけど……諸星、モロボシ……あ、私だ。
比夏留は目をあけた。
「よかったあ……諸星さん!」
保志野が抱きついてきた。目には涙が浮かんでいる。
「どうして保志野くんがここにいるの……? それに私どうなって……うぎゃあっ!」
比夏留は自分の身体を見て、悲鳴をあげた。裸だったのだ。比夏留はとりあえず胸を両手で隠すと、うしろを向いた。
「どどどどどどどうしてこんなことに……私の服は……?」
「燃えちゃいました」
「へ?」
「摩擦で燃えちゃったんです。ほら……さっき回転したときに」
今まで、回転しすぎて服が焦げたことはあったが、すっかり焼失してしまったのははじめてだ。
「でも、よかった。死んだかと思いました」
「あ、あの、私……どれぐらい気絶してたの?」
「一分ほどですよ。どこか痛みますか」
「だい……じょぶ……」
「のわけないでしょう。あれ、見てください」
かたわらにあったトラックは、比夏留の衝突のせいで、スクラップになっていた。
「怪我してるかもしれない。診《み》てあげます」
保志野が手を伸ばしてきたので、
「いいからあっち向いてて!」
「だって、もし……」
「ほんっとだいじょぶだって。こっち見ないで」
保志野は肩をすくめ、自分の上着とズボンを脱ぐと、
「とりあえずこれ着といてください」
「え? 保志野くんは?」
「しばらくパン一ですごします」
保志野はきっぱりと言った。
「どうしてここがわかったの? 偶然?」
比夏留は、保志野の服を身につけながらたずねた。下着をはいていないとなんだかスースーして変な気持ちだが、保志野の服を裸身に直接着るというのは、さすがにほんのちょっと興奮した。
「……のわけないでしょう。犬塚さんが報《しら》せてくれたんです、諸星さんが、男にナンパされてるかもしれないって」
「犬せんは?」
「今までそこにいたんですけど……あれ? どこ行ったんだろ」
保志野が犬塚を捜そうとするよりはやく、
「あんたたちね、きのう、比夏留ちゃんが会った母子っていうのは」
犬塚の声がした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あんたたち、何もの? 毎晩、殺人現場にいあわすなんておかしいわ。警察呼んだから、来るまでここにいてください。あ、待ってよ」
「犬せん……! 危ないです。手を出しちゃだめ」
比夏留は、声を嗄《か》らした。さっきの座布団状の怪物は、並の人間が立ち向かえる相手ではない。あの母子も彼らに関わりがあるのはまちがいない。
「潔白なら、警察に堂々とそう言えばいいじゃない。逃げるなんて……あら? あんたの顔、どこかで見たこと……もしかしたら、あんた……ねえ、ちょっと!」
しばらくして、犬塚がやってきた。
「逃げられたわ……」
「それでいいんです。あの母子にはうかつに近寄らないほうがいいと思います」
「フランスパンを持ってたわ。これをくれたひとによろしく、だって」
きーっ。あげたわけじゃないのにっ。
「ごめんね、比夏留ちゃん。千代田くんがあんまりうっとうしいから、比夏留ちゃんならだいじょうぶと思って身代わりになってもらったんだけど、気になって、戻ってきちゃった。なんだか危ない目にあわせちゃったみたいね。あれ? 千代田くんはどこ?」
「知りませーん」
「ナンパされませんでしたか」
保志野が心配げにきく。
「ご心配なく。歯牙にもかけられませんでした」
千代田という男とのやりとりは、保志野にはとても言えなかった。自分がすごく軽く見られていたようで、情けなかったのだ。
「千代田さんとはあのあとすぐにわかれたんです。そしたら、女の人の悲鳴が聞こえて……」
「そうだったの」
「あの赤ん坊……なんだか気持ち悪くありませんでしたか? 赤ん坊っていうぐらいだから赤いのは普通かもしれないけど、真っ赤でしたよね」
「そう。まるで……血の色みたいだった。それに、肌がぬるぬるした感じで……」
「それより、諸星さんを襲ったあの座布団みたいなやつですけど……」
保志野が割って入った。
「まちがいなく生き物でしたよね」
比夏留は少し考えてから、
「……と思う」
パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「私たちはともかく、比夏留ちゃんは事情聴取があるわよね」
「そんな……」
比夏留の腹がぐぐぐうと鳴った。
「今日も昼ご飯抜きだったんですよ。私、ちょっと消えてもいいですか」
「どこ行くの」
「コンビニまで走って、おにぎりとか買ってこようと思って」
「だ、だめよ。警察が来たときに当事者がいなかったら、私たち困るから」
「いいじゃないですか、適当に言っといてくださいよ。それじゃっ」
「だめっ。それに比夏留ちゃん、食べ物より先に、服をなんとかしなさいよ。どこかで調達して、保志野くんに返さないと、警察に行ったとき、ふたりとも説明に困るわよ」
比夏留は、自分の服を見下ろして、
「忘れてた……」
と小声で言った。
◇
警察と救急車が到着した。その直前、比夏留は、近所にある同級生の家に走り、拝み倒して、下着と服を貸してもらった。その同級生は比夏留よりも大きかったので、Tシャツもズボンもぶかぶかだが、ないよりはずっとましだ。
犬塚と保志野は連絡先を言うだけですんだ。しかし、比夏留はS県警に連れて行かれた。
「どうして私だけ警察に来なきゃなんないんですか!」
比夏留は、取調室で机を叩いた。
「あのなあ、人がまたひとり殺されたんだ。二晩連続でだ。大事件だろうが」
きのう大げんかしたゴリラに似た刑事が、凄《すご》みのきいた声で言った。たしか、八重垣といったっけ。
「そりゃそうかもしれませんけど……」
おなかがすいているのだ、という言葉を、比夏留はぐっと飲み込んだ。そんなことを口にしようものなら、またしても、人命を軽《かろ》んじているとか事件の重大さがわかっていないとかぼろかすに言われるにきまってる。
「しかも、きみがどちらの現場にもいあわせとる。おかしいだろうが」
「おかしくありません。偶然です」
「そんなわけない。それも、座布団みたいな化け物に頭を食われそうになったとか、赤ん坊を抱いた女がいたとか……。でたらめこいてんじゃねえぞ」
比夏留は、見聞きしたことをそっくりそのまましゃべったのだ。
「でたらめじゃありません。私が言ったこと、全部ほんとなんです。嘘だと思うなら、犬塚先輩や保志野くんにきいてみてください」
「どうせかばいあってるんだろう。本当のことを言いなさい。今なら悪いようにはしない。きみはまだ若い。罪をつぐなえば、やり直しがきかんでもない年齢だ。自棄《やけ》になってはいかん。さあ、しゃべりなさい。きみが殺したんだろう」
「だから、殺してないってば!」
「嘘をつくなっ」
「ついてないってば!」
ゴリラ男は毛むくじゃらの太い腕を組み、野獣のように唸《うな》った。
「警察に奉職して三十年。私がこれとにらんだ目に狂いはない。なぜ殺したんだ。どうして死体の血を抜いたんだ。あのふたりに恨みがあったのか。それとも、遊ぶ金がほしかったのか。さあ、言え。言うんだ」
「私……何もしてません!」
「トラックがぐちゃぐちゃになっていたぞ。あれはどうなんだ」
「そ、それは……」
口ごもる比夏留に、刑事は追い打ちをかけるように、
「とにかくあやしすぎる。しばらくここにとまってもらうからな」
「いやです。家にかえしてください」
「だめだ」
「私、容疑者じゃないんでしょ。ただの参考人でしょ。未成年をいつまでも警察にとめておくことできるんですか」
「なんだと、この……」
怒ったゴリラ男が比夏留の胸ぐらに伸ばした腕を、比夏留は反射的につかんだ。次の瞬間、刑事は壁にさかさまに叩きつけられていた。本人も何がおこったのかわからなかったのだろう。逆立ち状態のまま、きょとんとした顔で、
「な、な、な、何なんだ何なんだ何がおきたんだ何なんだ」
「す、すいません、つい……」
「やっぱりきみが犯人だ。まちがいない。絶対だ。きみは……」
比夏留が、彼を助けおこそうとしたとき、ノックの音がして、若い刑事がひとり入ってきた。若い刑事は、さかさまになっている上司をいぶかしそうに見つめたあと、腰をかがめて、なにごとか耳打ちした。彼が出ていくと、ゴリラ男は肩や背中を痛そうにさすりながら、こわばった顔の筋肉をほぐすように作り笑いを浮かべ、
「まあ、その……なんだ。実は私もきみが嘘を言っているとは思っていないんだ」
「へ?」
「きみの目は澄んでいる。嘘をつきそうにない目だ」
「はあ……」
「私にも娘がふたりいるからわかるんだよ。どちらも親父の職業をきらって、ふたりそろってグレてしまい、一時は暴走族の副幹部だったが、今は立派に更生して、共同でパン屋をやっている」
「それってもしかしたら、ドイツパン専門店の……」
「『パンだ! このパンだ!』というんだ。知ってるのかね」
「知ってるもなにも、きのうも今日もそこでパンを買ったんです。あそこ、おいしいし、安いし……いい店ですよねっ」
「そうかそうか。私は一目見たときから、きみは正直ないい子だと思っていたよ。わははははは」
「じゃあ、信じてくれるんですね? 座布団みたいな怪物のことも、赤ん坊を抱いた女のひとのことも」
「もちろんだ。きみのいうことを私がちらとでも疑ったりするものか。これからも『パンだ! このパンだ!』をよろしくな。あそこはS県一、いや、日本一のパン屋だぞ。わはははははははは」
比夏留は釈放(?)された。パトカーで家まで送ってくれた若い刑事に、比夏留はきいてみた。
「さっきの刑事さん、どうして急に私のこと信じてくれるようになったんでしょう」
「ああ、それはね……きみも関係者だし、すぐにニュースにもなるだろうから話してあげるけど、また、犠牲者が出たんだ」
「えっ」
「いましがた、日鉾通りでホームレスの男がもがき苦しんでるって通報があって、派出所の警官が行ってみたら、きみが見たのと同じような、座布団みたいな化け物が男を襲っていた。警官は発砲しようとしたが、被害者に当たりそうで、できなかったらしい。そのうちに化け物はどこかに行ってしまい、警官が駆け寄ると、ホームレスの男はすでに死んでいた」
「死体には血がなかったんですか」
「そう。それだけじゃない。不審な母子も目撃されている。でも、きみが見た女はストレートヘアだったんだろ。今度のは、パーマをかけていたそうだ」
「じゃあ、別人……」
「その可能性が高いね。とにかく、そちらの事件が起きたとき、きみは警察にいたんだから、これ以上のアリバイはないよ」
「はあ……」
なるほど、あのゴリラ男が比夏留の言うことを突然信じはじめたのは、比夏留の目が澄んでいるとかいった理由ではなく、単に、別の犠牲者がいたからなのだ。
家に着いたときは十一時を過ぎていた。
「比夏留ちゃん、食べてかえってくるときは、そう言いなさいよ」
玄関で、弾次郎がむすっとした表情で立っていた。
「まさか、食べちゃったんじゃ……」
「食べたとも。せっかく比夏留ちゃんのために奮発して、超高級和牛の肉をキロ買いしたのに」
「ま、ま、待ってよ。何言ってんの、パパ。ちゃんと電話したじゃない。すき焼き、置いといてって」
「あれは何時間もまえだろう。八時半までには帰るって言ってただろうが。予定がかわったのなら、電話を……」
「だからー」
比夏留は電話したくてもできなかった事情を説明した。
「なんと二晩続けてなあ……」
弾次郎は腕組みして唸った。
「ほんとにほんと、ひどい目にあったの。警察じゃ、犯人じゃないかって疑われるし」
そのまま弾次郎は目をつむって沈黙した。静寂のなかに、比夏留のおなかがぐうーと鳴る音だけが響いた。
「比夏留……気をつけなさい」
「え?」
「その母子連れ、この世ならざるもの、かもしれない」
「この世……ならざるもの……?」
「人間以外の力を借りているやつ、ということだ」
弾次郎は太い息を吐くと、
「次々と起こっている吸血事件は、座布団みたいな怪物のしわざだろうが、その赤ん坊連れの女たちが噛んでいることはまちがいないな」
ぐうー。
「とにかく捨てておくわけにはいかん。明日から、パパが乗りだして、次の事件を未然に防いでやる」
ぐうー。
「あのー、お話の途中ですが、私の晩ご飯は……」
「ない」
弾次郎は即答した。
「すき焼きは全部、パパが食べてしまった。――うまかったなあ、松阪牛」
それを聞いた瞬間、比夏留は目がくるくるくるくるくるくるくる……とまわって、玄関に倒れた。
◇
結局、またしてもインスタントラーメンの暴れ食いで空腹をおさめるしかなかった比夏留は、腹がたって腹がたって眠れなかった。こう毎日毎日昼ご飯抜きで晩ご飯が遅いと、死んでしまう。
トゥルルルルルル。
枕もとの電話が鳴った。
「はい、諸星です」
「あ、諸星さん。ぼくです。保志野です」
比夏留の顔に、にやあというだらしなく崩れた笑みが浮かんだ。
「はーい、どーもー」
語尾がオクターブあがる。
「その声の様子だと何ともなかったみたいですね、取り調べ」
「え? い、いや、そんなことないそんなことない。たいへんだったんだからー。完璧に犯人扱いされてさー、別の事件が起きなかったら逮捕されてたかも」
「別の事件って、ホームレスの男性が殺されたというやつですか。ニュースで見ました」
「あれでアリバイが成立したみたい」
「よかったですね」
「よくなーい。またすき焼き食べられなかったんだから」
「はあ?」
「あ、いやいや、こっちのこと。保志野くん、私のこと心配して電話してくれたの?」
「――いや、べつに……」
「ふーん。ねえねえ、もし私が、誰かにナンパされたらどーする?」
「え? それは仮定の質問ですか?」
「仮定っていうか……」
「諸星さんはたいがいの男性より強いからだいじょうぶでしょう」
そりゃそうだけど……。
「あのさあのさ、今からハンバーガー食べにいかない? 遅くまでやってるおいしい店があるんだ。グレイトジャンボバーガーっていうのが、九谷焼の大皿にも載りきれないような大きさで……」
「夜間の外出はしばらく控えたほうがいいですよ。また、殺人事件に出くわしたら、今度こそ言い訳がきかなくなります。それじゃ」
がちゃり。
変にハンバーガーのことなど考えたせいか、またおなかが減ってきた。比夏留は、まくらをかぷっと口にくわえ、そのまま眠りについた。
4
またしても昼食抜き。放課後、比夏留は、民研の部室で、テンガロンハットやガンベルトの手直し作業に追われていた。
「UMAってやつかもな」
「宇宙生物じゃないかしら」
「きのう、うちは、警察から、夜間の外出は控えてほしいって通達がまわってきたわ」
ひとしきり、例の吸血生物に関する話題が続いたあと、
「ふーん、犬塚がコクられるとはなあ……」
白壁が言った。犬塚は照れたように首筋を掻き、
「何考えてるんでしょうね、あいつ」
「転校してきて間もねえらしいから、おめえが男だってこと知らねえんだろ。それじゃ、無理もねえぜ」
「いつ転校してきたのかしら」
と伊豆宮。
「二、三週間まえだったかなあ。クラスではおとなしいらしいですけど、いろいろ噂があって……」
「どんな噂でえ」
「ナンパ師なんですよ。誰彼かまわず声かけてるって」
比夏留は、自分がその「誰彼」に入ったことを悲しんでいた。
「ねえ、ガンベルトってこんな感じだっけ」
伊豆宮が自作のベルトを示した。
「ふーん……ちょっとちがうような……でも、どこがどうちがうとは言えねえな」
白壁が首をひねった。
「専門家にきいたらどや」
奥の暗がりから、藪田が声をかけた。
「専門家って……誰です。藪田先生ですか?」
「アホ。わしは西部劇なんか興味ない。西町の交差点のとこに、こないだマカロニ専門店がでけたの知らんか? 名前は『ウエスタン・マカロニ』や」
「あ、聞いたことあるっ」
比夏留が、大声で言った。
「最近できたところで、すごくはやってるみたいなんです。私も行こう行こうと思ってるんですけど、なかなか機会がなくて……。チリ・ビーン・マカロニというのがおいしいんですって!」
「その店は、ウエスタングッズがいっぱい展示してあって、店長もウエスタンマニアや」
「でも、藪田先生、どうしてそんなことご存じなんですか?」
「店長は、わしの昔の教え子やねん。どや、いっぺん、行ってみたら」
「はーい、はーい、はいはいはいはい」
比夏留は小学生のように元気よく手をあげた。
「私、行きまーすっ」
「じゃあ、諸星さんと犬塚さん、今から行って、いろいろきいてきてくれる?」
伊豆宮が言うと、比夏留は大きくうなずいて、
「はいっ。いろいろ食べてきますっ」
◇
「マカロニ専門店って興味深いですよね。パスタ専門じゃなくて、マカロニだけなんて」
比夏留はうきうきと言った。
「食べ物が目的だと、比夏留ちゃんは遠足に行くみたいるんるんね」
「遠足より楽しいですよ。あ、あそこに見えてきました。うわー、建物が幌馬車の形なんですね。うわー、横に水車がついてる。うわー、馬をつなぐ場所もある。うわー……」
「うるさいなあ、比夏留ちゃん。だまって入ろうよ」
「はーい」
ふたりが入り口をくぐると、いきなり、
ばっ・ばっばばっ、ばっば・ばばば、ばっ・ばっばばっ、ばっば・ばばば
という軽快なリフが聞こえてきた。おなじみの「荒野の七人」のテーマだ。店内には、「シェーン」、「駅馬車」、「黄色いリボン」、「OK牧場の決斗」、「真昼の決闘」……といった名作西部劇のポスターがところ狭しと貼られ、ウエスタンブーツ、レプリカの拳銃やライフル、保安官バッジ、テンガロンハット、ナイフ、投げ縄……といったグッズが無数に展示されていた。
「うわー……」
「もういいって。早く席につきましょう」
ほかには数組の客がいる。ウエスタンルックの店員が注文を取りにきた。犬塚は「ホワイトソースのマカロニグラタン」を、比夏留は「ほうれんそうとナスとトマトのマカロニグラタン大盛り」と「シーフードのマカロニグラタン大盛り」と「七面鳥のマカロニグラタン大盛り」と「ミートソース詰め焼きマカロニ大盛り」と「フィッシュフライ大盛り」をたのんだ。ちなみに、大盛りというメニューはこの店にはなく、比夏留は最初、「全部二人前ずつ」と言ったのだ。
「あとからお連れさまがいらっしゃるのですか」
「いえ、全部、私が食べます」
「あの……当店のメニューはどれも他店よりもかなり盛りが多いので……」
「だいじょぶ、まかして」
「とおっしゃいましても……」
押し問答のすえ、大盛りにすることになったのである。しばらくして運ばれてきた料理を見て、比夏留は感嘆の声をあげた。
「お・い・し・そーっ。ねえねえ、犬せん、おいしそーですよっ」
「私も見てるんだからわかるわよ。じゃあ、いただきましょう」
ふたりはしばしのあいだ食べることに集中した。比夏留も無口になった。ときおり、「うわー」とか「おいしすぎっ」とか「めっちゃ○○○……」とか口走るだけだ。ふと気づくと、すぐ隣の席に、ガンマンスタイルの痩せた中年男が座って、じっと比夏留を見つめている。まばらな口ひげが貧乏くさい。
「何か……」
比夏留は食べるのを中断して、その男の顔を見た。
「いや、すごい食べっぷりだと思ってね。見てて、気持ちいいねえ。気にしないで食べて食べて」
「気になりますよ」
「いいからいいから。しかし、なんだねえ、マカロニが音をたてて、口のなかに飛び込んでいくみたいだねえ。もしかして、喉の奥に掃除機かなにか隠してない? あ、そう。隠してないんだ。でも、これだけおいしそうに食べてくれたら、料理人|冥利《みょうり》につきるよねえ」
「もしかしたら、ここの店長さんですか」
犬塚がきくと、男は大きくうなずいて、
「そう。何を隠そう、私がこの店のオーナーシェフ、アラン山岡《やまおか》だ」
「アラン? アラン・ラッドからとったんですか?」
「いや……『宇宙怪人ゴースト』のファンでね」
「店長さんなら、おうかがいしたいことがあるんです。ねえ、比夏留ちゃんもお願いして」
「(ぱくぱくぱくぱく)ああ……うう……げふっ」
「いいっていいって。そっちの子は食べることに専念してもらおう。途中でとめて、噛みつかれたりしちゃいやだからね。で、私にききたいことって?」
「私たち、田中喜八《でんなかきはち》学園のものなんです。藪田先生にこの店のこと聞いてきたんですけど……」
「藪田先生……? はいはい、脇田先生のことだね」
「脇田……?」
「あ、いやいやこっちのこと。藪田先生の教え子なら、民俗学研究会かな」
「そうなんです。店長さんも藪田先生に習ってたんですか」
「ずいぶん昔のことだよ。先生には、民俗学のことだけじゃなくて、思想的なことや……いろいろ教えていただいた」
「へー、そうなんだ」
「いろいろ誤解を受けやすいひとだけどね、真実を見抜く目はたしかだよ」
「で、今度、体育祭の仮装行列で西部劇の仮装をするんですけど、いろいろわからないところがでてきちゃって……。教えていただけますか」
「もっちろん! そういうお客をずっと待ってたんだよ。で、何のことかな、有刺鉄線《バーブド・ワイア》の結び方かな? 牛の焼き印の見分け方かな? テキサス・レンジャーズの歴史? |芝土の家《ソッド・ハウス》の建て方?」
「あ……そんなにマニアックなことじゃなくて、ガンベルトのことなんですけど……」
「お答えしましょう。ガンベルトっていうのは、そもそも一八七〇年代になったあたりから……」
アラン山岡のレクチャーは延々二時間も続き、比夏留はその間に大盛りマカロニを四度おかわりした。
「……というようなところかな、ガンベルトについては。で、次は何が知りたい?」
「も、もういいです。じゅうぶんわかりました。お忙しいところお時間をいただいてすいませんでした。お勘定は……」
犬塚が財布を出そうとすると、
「いいよ、タダで」
「そ、そういうわけには……」
「うれしいじゃないか、こんなすばらしい食べっぷりのお客ははじめてだよ。料理を残されると悲しいけど、ばくばく食べてくれると気分がよくなる。今日は、ひさしぶりにスカーッとしたよ。それに、思う存分、西部劇のウンチクを語らせてもらって、これまたスカーッとした。お金なんかいらない。また、来てくれたまえ」
「でも……」
犬塚は、比夏留のまえに積みあげられた大皿の山を横目で見ながら、
「こんなに食べてしまったのに……」
「いいじゃないですか、犬せん。せっかくそうおっしゃってるんですし、ご好意を無にするわけにも……」
「あんたはだまってなさい。やっぱり払います。ためになることをたくさんうかがいましたし、お時間もとらせて、そのうえタダにしていただくわけには……」
「いや、ほんとにいいんだ。そのかわりと言っちゃなんだけどさ……」
アラン山岡はにやりと笑って、
「拳銃のウンチクも聴いてほしいんだ。ほら、ここにあるのは有名なコルト・ピースメーカーだ。シングル・アクション・アーミーってやつ。もちろん本物じゃない。モデルガンだが、九十九パーセントまで本物に近づけてある。見てよ、この重量感。知ってるかい? コルト社は、はじめてリボルバーを発売した会社でもあるんだぜ。こっちは、レミントンのリボルバー。レミントン社はね……」
またまた講義は一時間にわたった。へとへとになった犬塚はついに、
「すいません。降参です。勘弁してください……」
アラン山岡は犬塚に握手を求め、
「三時間も聴いてくれたのはきみたちがはじめてだよ。たいがい三十分ぐらいで白旗をあげるからね」
「そ、そうなんですか。もっとはやく降参すればよかった……」
「でも、そっちの子は、まったく疲れてないみたいだね。それどころかますます食べるピッチがあがってる。『底なし沼』ってあだ名を献上しよう」
比夏留は、口のまわりをソースでべたべたにしながら皿から顔をあげ、
「すいませーん、デザートって何があるんですか」
犬塚が「比夏留ちゃん!」と叫んだのと、店長が「トレビアン!」と叫んだのが同時だった。
「それじゃ、彼女が『特大アラモ・パフェ』と『超特大リオ・ブラボーあんみつ』と『超々特大騎兵隊アイス』を食べているあいだに、スー族が自分の足取りを後続に知らせるための合図について教えてあげよう。たとえば、石を積みあげたり、草を結び合わせたり……」
特大パフェ数種に囲まれてご満悦の比夏留を、犬塚はうらめしそうに見つめた。
またまた一時間の拷問のすえ、
「じゃあ、行こうか、比夏留ちゃん」
疲労しきった声を出して、犬塚はたちあがった。そのとき、
「あれっ?」
比夏留が大声を出した。彼女の目は、店の壁に掛けられた一枚のTシャツに注がれていた。マカロニの柄がプリントされている。
「これって……」
「ああ、それは販促用に作ったんだ。常連のお客に配ってるんだけど、欲しかったらあげるよ」
「このTシャツ、配った相手ってわかります? 女性だけでいいんですけど」
「まだ、あんまり配ってないし、DMを送るために連絡先を書いてもらうようにしてるからすぐわかるよ。でも、個人情報だからなあ……」
「大事なことなんです。最近、このあたりで立て続けに起きている殺人事件をご存じですか」
「もちろん知ってるよ。血を吸われたってやつだろ、怖いよねー」
「あの事件の解決につながるかもしれないんです。もし、お疑いでしたら、知りあいの刑事さんに来てもらってもいいです。えーと、あの刑事さん、なんていったっけ……ゴリラ……ゴリラ……」
「いいよ、きみたちを信用するよ。大食いに悪いやつはいないっていうしね。えーと……女のひとは……」
店長は、リストを示した。載っていた女性は七人。うち、三十代が二人、二十代が三人、十代が二人。比夏留は、十代のふたりに注目した。ひとりは、柴田祐子《しばたゆうこ》。もうひとりは遠松奈津《とおまつなつ》。
「あ……この子……」
犬塚が、遠松奈津の名前のうえに指を置いた。
「隣のクラスの子なの。たしか……失踪したってきいたけど……」
「店長さん、この子、常連さんなんですよね。どんな子ですか?」
比夏留が言うと、アラン山岡はまばらなひげを撫でながら、
「そうだなあ……なかなかの美人だよ。ストレートヘアで……そうそう、いつも彼氏と一緒に来てたっけ」
「彼氏って?」
「最近、転校してきたばっかりだっていってた。名前は……えーと、千代田くんって呼ばれてたっけなあ」
比夏留と犬塚は顔を見合わせた。
◇
店を出たときはすっかり夜になっていた。もう十時近い(あたりまえだ。なにしろ四時間以上、アラン山岡の話につきあっていたのだから)。比夏留が、警察に千代田のことを報せようと主張すると、犬塚が言った。
「ちょっと待って、比夏留ちゃん……まだ、千代田くんが犯人だと決まったわけじゃないでしょ」
「そりゃそうですけど、あの赤ん坊を抱いた血まみれの女性は、たぶん犬せんの隣のクラスの遠松奈津さんですよ。遠松さんが事件に関係していることはまちがいないでしょ。だったら千代田さんも……」
「だから、あとちょっとだけ警察に言うのは待ってあげて。千代田くんのことを私たちで調べてからでも遅くないはずよ。お願い、比夏留ちゃん……」
「どうして、犬せん……」
「きのうの晩、はじめて話したんだけど、たぶん、あいつろくなやつじゃないわ。でも……さびしいって言ってたこと、ほんとだと思う」
「…………」
「ごめんね、勝手なこと言って」
「いえ……」
ふたりは夜の町を早足で歩いた。千代田の自宅へ赴《おもむ》くためだ。住所は、犬塚が隣のクラスの友人に電話で確認した。どうやら、父親の弟夫婦の家に預けられているようだ。
かなり老朽化した一戸建。チャイムを鳴らすと、脂ぎった顔の、頭の禿《は》げあがった中年男が、不機嫌そうな顔で現れた。
「どなた」
「遅くにすいません。あの……千代田くんのクラスメイトなんですけど……」
犬塚がそう言った。もちろん、同じクラスではないが、それぐらいの嘘は許されるだろう。
「雅弘はいないよ、三日まえからな」
「え……?」
「出ていった。今どこにいるのかしらん」
「警察には……?」
「行くわけないだろ。面倒ごとに巻き込まれたくないからな。たぶん、ただの家出だ」
「家出するような理由があるんですか」
「姉ちゃん、あんた、刑事みたいな口きくなあ。雅弘は、兄貴から急に押しつけられて俺たちゃ迷惑してたんだ。出て行ったのはあのガキの勝手さ」
「あなたがたが冷たくしたからじゃないんですか」
犬塚にしては、きつい物言いだと比夏留は思った。
「馬鹿いえ。俺たちはちゃんと飯も食わしてやったし、寝る場所も与えてやった。それ以上何がいるんだ。たしかに、ときどきひっぱたいたりしたけど、それはほれ、教育の一環てやつだ。あのガキ、何考えてるんだかわからないんだ。うざいんだよ。だからさ……」
「千代田くんの部屋、見せてくださいますか」
「はあん? どうして」
「千代田くんが今どこにいるかの手がかりがあるかもしれませんから」
男は不快そうに一旦ひっこむと、
「かあちゃん、雅弘の部屋、見たいんだと。いや、警察じゃないよ。クラスメイトとかいう姉ちゃんふたりだ。そうか、わかった」
ふたたび顔をだし、
「いいってよ。ま、あがりな」
やけにぎしぎしいう階段をあがる。
「そっちの姉ちゃんが歩くと、なんだかやたらときしむなあ」
男に言われて、比夏留は赤面した。なにしろ二百二十キロの体重がかかっているのだから、きしむのも無理はない。
千代田が使っていたという部屋に入る。壁土が落ちて、内部が剥きだしになっている。正面に、掛け軸が二幅さがっている。ひとつは、比夏留にもわかる、烏帽子《えぼし》をいただき、釣り竿をかついだふくよかな人物、つまり、えべっさんだ。右横に「蛭子天絵像」とへたくそな字で書かれている。もうひとつは、神話時代の衣装を着た女性で、「天照大神絵像」とある。どちらも、赤い絵の具で描かれており、その稚拙さもてつだって、なんとなく陰惨な感じがする。
「これ……血で描いてあるわ」
犬塚がぽつりと言い、比夏留はぎょっとして絵を見直した。
「なんで、こんなものが飾ってあるんでしょう」
「さあ……」
「これ、蛭っていう字ですよね。ひる、こてん……?」
「それは、えびすって読むのよ。――あ……」
犬塚は押し黙った。二幅の絵に見いるその真剣な横顔に、比夏留はしばし見とれた。
「まるであさってかもしれないけど……もしかしたら……」
「なにかわかったんですか」
「あのね、蛭って血を吸うでしょ。今、起こってる吸血事件に関係あるかも」
「そういえば、千代田さんが私を連れていこうとしたのも、蛭女山でした」
「蛭女山のどこかに何かあるのかな……」
犬塚はまたしてもしばらく沈黙したあと、ゆっくりと口を開いた。
「日本神話では、日本の国を作ったのが、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》、伊邪那美命《いざなみのみこと》の二神だってことは知ってるわね」
「一応は」
「そのふたりが高天原《たかまのはら》からオノゴロ島というところに降りてきて、『国生み』をすることになったの。天御柱《あめのみはしら》という柱のまわりを、伊邪那岐命が左から、伊邪那美命が右からまわって、出会ったときに、まず、伊邪那美命が先に口をきいたの。『ああ、いい男ね』ってね。つぎに伊邪那岐命が『ああ、いい女だな』って言って、その場で……アレをしたの」
「アレってなんです」
「ほら……アレよ」
犬塚は真っ赤になった。
「ああ、セックスですね」
「大きな声で言わないの。そうして生まれた子がヒルコだったのよ」
「ヒルコ……?」
「骨がなくて、足のたたない、ぐにゃぐにゃの、蛭みたいな子……つまり、不具の子という意味だとされているんだけどね」
「蛭、みたいな子……」
「伊邪那岐命、伊邪那美命の二神は、その子を葦船に入れて海に流すの。どうしてそんな子が生まれたのか考えた結果、女が先に口をきいたからだということになって、伊邪那美命が後で口をきくようにしてもう一度やりなおしたら、今度はうまくいって、日本を形作る島々が生まれたというわけ」
「セックスして島を産むというのがすごいですね」
「捨てられたヒルコが流れ着いたのが西宮で、そこで蛭子《えびす》神として祀られることになった、といわれているんだけどね」
「へー」
「沖縄のほうじゃ、発育の悪い子を『ビールー』と称するらしいんだけど、そこからヒルコになったという説もあるわ」
「ヱビスビールってありますよね」
「あのねえ、比夏留ちゃん……」
「でも、えべっさんの絵のほうはわかりましたけど、天照大神《あまてらすおおみかみ》のほうは何の意味があるんでしょう」
「これは、牽強付会かもしれないけどね……天照大神というのは、漢字を見てもわかるけど、太陽神だと言われているの。天岩屋戸《あめのいわやど》の神話なんかも、日蝕のことじゃないかって説があるぐらい。この神さまには別名がいくつかあって、そのうちのひとつが、|大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴《おおひるめのむち》っていうんだけど、大とか貴とかいった尊称をとると、つまり、ヒルメよね。これが、ヒルコに対するヒルメじゃないかっていう説があるのよ。ヒルコは男性形で、ヒルメは女性形。日本神話にはよく出てくるパターンね」
「ふーん……」
話についていけなくなってきた比夏留は、なんとなく千代田の机のうえのものをもてあそんでいたが、
「あれ……? 犬せん、これって……」
彼女がつまみあげたのは、小さな大学ノートだった。表紙には、「日記」と書かれている。他人の日記を盗み読むのがよくないことだとはわかっていたが、ふたりは同時に一ページ目をのぞきこんだ。それは、千代田がこちらに引っ越ししてきた日からはじまっていた。最初は、慣れない田舎暮らしの悩みや、叔父夫婦に露骨に邪魔者扱いされるつらさ、クラスメイトから無視される不快さ、あと、隣のクラスの犬塚という子のことが好きになってしまったみたいだ、ということなどが書かれていたが、ある日付の箇所がふたりの目をひいた。
○月○日(○曜日)
今日、何もかも捨ててしまうつもりで、授業をサボって裏山に行った。蛭女山という名前だそうだ。死ぬ場所を探してあちこちうろついているうちに、変な洞窟を見つけた。入り口は狭いけど、思いきって入ってみた。手探りで十五分ぐらい進むと、一番奥にかなり広い場所がある。場所はたぶん、〈常世の森〉の地下あたりではないだろうか。まんなかに岩の柱が立っていて、その根もとに水がたまってる。なめてみると、塩からい。海水だ。海と通じているのだろうか。それとも、昔はこのあたりは海だった……? 岩の陰になって見えにくいところに、船の形をした、小さな土の容器があった。もともとは、草の繊維で編んだ、籠みたいなものに包まれていたらしいが、今はぼろぼろになった繊維の断片しか残っていない。ぼくは、その容器の蓋をあけた。どろりとした何かが、底のほうにたまっている。思いきって、指を突っ込んでかきまわしてみる。ねちやねちゃして水飴みたいだ。オナニーしたときの手みたいに、ぷーん、と生ぐさい臭いもする。虫に刺されたみたいに、びりっ、と痛みを感じたので、反射的に指をなめてしまった。瞬間、ぼくの身体に変化が起きたのが自分でわかった。なにかがぼくの身体に入ったのだ。この洞窟の名前が、突然、頭にひらめいた。オノゴロ洞というのだ。ぼくは、しゃがんで、両手で容器を持ち、口をつけて、中身を残さず飲みほした。どんどん……が流れ込んでくる。ぼくは……になったのだ。……を解放してやるのがぼくの仕事だ。ようやくわかった。ぼくはこのために生まれてきたのだ。たくさんの……をこの世に。
そこで日記は終わっていた。比夏留と犬塚はそっと日記を閉じた。
「千代田さん……なにがあったんでしょう」
「さあ……わかんないけど……彼はもう、人間じゃないのかもしれないわね」
比夏留は、弾次郎の言った「この世ならざるもの」「人間以外の力を借りている」という言葉を思いだしていた。
だが、同じころ、街中ではたいへんなことが起きていたのだ。
5
「ただいまー」
帰宅した比夏留は、どすん、どすん、という地響きを耳にした。家が揺れている。
「なにごとなの? パパ、ママ、いるのーっ?」
地響きは居間のほうから聞こえてくる。おそるおそる入ると、弾次郎が地団駄を踏んでいた。地団駄、といっても、ほとんど四股を踏むに近い。
「どうしたの、パパ」
「くそっ、もうちょっとというところで、犯人を逃がしてしまった」
「嘘。また、あったの?」
「ああ。それも三件」
三件の事件のうちの二件は、ほぼ同じ時刻に離れた地点で起きたので、犯人は少なくとも二人以上いることがわかった。しかも、どの現場でも、「赤ん坊を抱いた血まみれの若い女」が目撃されており、被害者の年齢・性別はまちまちだが、体内に残存している血がきわめて少ない点で一致していた。新聞もテレビも、「連続吸血殺人事件」についてセンセーショナルに報道していた。弾次郎はそのうちの一件に遭遇したのだ。しかし、そのかげで、若い女性が行方不明になる事件が相次いでいることは、大きく扱われなかった。家出の可能性もあって、事件性があるかどうかの見極めがむずかしく、家族があまりおおっぴらにしたくない場合も多いからである。
「悲鳴が聞こえたんで駆けつけてみたら、爺さんが倒れていた。もう手遅れだった。犯人がいないか、と思ってあたりを探したら、まるまる太った赤ん坊を抱いた若い女が歩いていた。例によって、下半身は血まみれだった。つかまえようとしたら、若い男がパパのまえに立ちはだかった」
「それってどんな子?」
「髪はカールしてたな。すっごい男前だった」
(千代田さんだ……)
「なんだかよくわからないんだが、そいつの目が急に緑色に光りはじめてな、うっかり見ていたら、頭がぼんやりしてきて……気がついたら逃げられてた。幻術を使うんじゃないかと思うんだ。あいつが犯人にちがいないのに……くそっ、もうちょっとで……お、おい、比夏留ちゃん、帰ってきたばっかりでまた出かけるのか」
「ごめん、パパ。学校に忘れ物してきた。ちょっと行ってくる」
「危ないぞっ。外は殺人犯がうろついてるんだ。おい、比夏留ちゃん!」
比夏留は、夜道をダッシュしていた。向かうは、学校の裏山……蛭女山だ。きっと千代田は山中のオノゴロ洞とかいう洞窟にいるにちがいない。
やっと蛭女山にたどりついたときには、比夏留は全身に汗をかいていた。いくら古武術で鍛えた身体とはいえ、二百二十キロの体重での長距離走はきつい。しかし、比夏留は休むことなく、山のなかを探しはじめた。
(どこかにあるはず……オノゴロ洞の入り口……)
そんな彼女の行動を、別々のところから、ふたりの人間が見つめていることに比夏留はまるで気づいていなかった。
一時間ほど蛭女山を歩きまわったが、暗いということもあって、洞窟はまったく見いだせなかった。
(やっぱり無理なのかな、でたらめに探すだけじゃ……)
半ばあきらめて、路傍の石に腰をおろしたとき、
「やあ、また会えたね」
背後から声がかかり、比夏留はぎょっとして振り向いた。
千代田がにやにや笑いながら立っていた。
「探しものは見つかったかい」
「い、いえ……」
「どうしてぼくのことをかぎまわってるの? きみ、ちょっとばかり目障《めざわ》りなんだけど」
「お、オノゴロ洞ってどこにあるんですか」
「どうして知ってるの? あ、そうか、日記を読んだんだね。困ったもんだよ。好奇心ってやつは身をほろぼすからね」
「そんなんじゃありません。千代田さん、私、あなたのことが心配で……」
「嘘だね。女はみんな同じ。いい男とヤルことしか考えてない。みんなぼくが誘うと、いやがるふりをしながら、ここまでついてくる。――おふくろと一緒だよ」
吐き捨てたその言葉が比夏留の胸に突き刺さった。
「犬せんも……犬塚さんもですか?」
「…………」
「千代田さん、今からでも遅くないです。自首してください。私と一緒に警察へ……」
「――もうとっくに手遅れだよ。それに、ぼくはとんでもないおかたから力を得ているんだ。人間なんかよりはるかに崇高なおかただよ。警察なんかぼくにとっては虫けらも同然さ」
「千代田さん……」
「とにかく、きみにうろうろされてると、ぼくの仕事がやりにくくなる。このへんで終わりにしよう。きみにオノゴロ洞を見つけさせるわけにはいかないんだ。あそこはヒルメさまの聖地だからね」
「ヒルメ……さま……?」
「きみをここでぼくのモノにするよ。さ、おいで」
比夏留はむっとした。
「女はモノじゃありません。あなたはまちがってます」
「ふふふふふ。女はモノだよ。古代から、女は男の精を受容して、こどもを作るための受け皿にすぎないんだ」
頭の線がぶちっと音をたてて切れ、比夏留は思わず、相手が素人《しろうと》であることを忘れて、軽く回転蹴りを食らわしてしまった。途中で気づいて、寸止めにしたが、驚いたのはそのときの千代田の反応である。半歩身をひくと、比夏留の蹴りに身体を添わせ、一分のむだもない動きでそれをかわした。完全に攻撃を見切っていたとしか思えない。比夏留は、全身に汗が噴きだすのを感じた。
(この人……武芸の心得があるのか……そうは見えないけど……)
まあ、比夏留自身も武道の心得があるようには見えないが。
「ちぇえいっ!」
千代田が蹴り返してきた。鋭い。そして、速い。比夏留は間一髪でそれをかわしたが、常人ならどんな急所でも思いのままヒットされているだろう。こんな速い攻撃に対しては、〈独楽〉の技のように、始動に時間を要するやりかたは通用しない。比夏留はあせった。あせったが、なぜ、千代田が自分を攻撃してくるのかわからなかった。
「ちぇい、ちょうっ!」
続く第二撃、第三撃を左右に身体を振ってかわしたが、四撃目の真っ向からの正拳突きをかわせなかった。
びしっ。
比夏留の呼吸が一瞬とまった。千代田の拳は、比夏留のみぞおちに深々と命中していた。比夏留は口からびゅうっと胃液を吐いた。さすがに相手の体重が軽いので、骨が砕けたり、内臓が破裂したりはしていないようだが、身体の隅々の細胞に至るまでが相当なダメージを受けた。
比夏留の四肢が硬直した。
(怖い……)
三歳のとき父親から武道の手ほどきを受けて以来、カバだのクマだのイノシシだの……といったわけのわからない相手と対戦させられてきたが、相手が人間だった場合、怖いと思ったことは一度もなかった。どんなに優れた武術家と相対しても、恐怖の感情は起こらなかった。だが、今、比夏留は心の底からおびえていた。
「殺してもいいんだけど、きみにはやってほしいことがあってね」
「な……んですか……それ……」
「ぼくとセックスして、ぼくの子を……ヒルコを産むこと」
「――へ?」
千代田は、息もたえだえの比夏留の腕をつかもうとした。比夏留は、ぐらりと斜めに回転しながらそれをかいくぐったが、バランスを崩して道路に倒れた。そのまま、ごろごろと転がり、千代田の足もとをすりぬけて、反対側に立ちあがる。
「へえ、きみ、ちょっとつかえるみたいだね。柔道かな。いや、ちがうな。もしかしたら、古武道……?」
「…………」
「なんでもいいや、どうせぼくにはかなわないから」
千代田はにやりと笑った。狡猾そうな笑みだった。
「千代田さんは……何か武術を……たしなまれているのですか」
しゃべりながら、呼吸をととのえる。だが、一度乱れた息はなかなかもとに戻らない。
「ふふふふふ。そんな意味のないことはしないよ。ぼくには……力があるっていっただろ。ヒルメさまの力がね」
千代田の目が光った。文字通り、光ったのだ。暗いなかで、彼の双眸《そうぼう》は、緑色の輝きを放っていた。
「さあ、ぼくといっしょにおいで」
蛍のようにぼんやりと輝く両の目。比夏留の恐怖は頂点に達した。あたりに人通りは皆無である。
「い、い、いやです」
「きみには拒絶する自由はないよ。おいで」
「いや……近寄らないでっ……」
「ふふふふふふ……」
千代田はゆっくりと近づいてくる。比夏留は、蛇ににらまれた蛙のように身体が萎縮してしまい、まるで動けない。千代田が伸ばした手が、比夏留のTシャツにかかった。全身に粟がたつ。だが、どうしても身動きできない。千代田の指さきが比夏留のTシャツのしたから潜り込もうとしている。
(保志野くん……助けて……)
比夏留は必死になって、少しでも動こうとしたが、汗ばむばかりで身体は言うことをきかない。
(もう……だめ……)
千代田の指が比夏留の腹を撫でさすったあと、下着にかかった瞬間。
だうん!
銃声が山中に轟いた。
千代田は音のした方向に頭をめぐらした。比夏留の呪縛が、すっと解けた。比夏留は両の拳を腰のところで構えると、左脚を軸に回転をはじめた。熟練したバレリーナのピルエットのように、支柱がぶれることなく、まったく同じ位置で正確に回転する。その回転は、少しずつ少しずつ速くなっていく。まるで、小さなハリケーンである。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……だああああああっっ!」
じっと比夏留の行動を見つめていた千代田は、その気合いを聞いて、ふっ、とため息をもらすと、
「なんだ……〈独楽〉か」
馬鹿にしたような口調で吐き捨てた。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……でええええいっ!」
比夏留の必殺の蹴りが空気を切り裂いた。しかし、同時に、いや、比夏留よりも一瞬はやく、千代田の突きが比夏留の右肩に決まっていた。
(痛いっ……!)
すさまじい激痛。比夏留の体勢が崩れた。比夏留は猛烈な勢いで回転したまま、あたりの木々をなぎ倒したあげく、横倒しになってなおぐるぐると回りつづけた。回転はゆっくりと遅くなっていき、やがて、とまった。汗みどろの比夏留がその場に両膝をついていた。はあ……はあ……と荒い息。右肩と左脚にすごい痛み……。
「聞き分けのない子だね。こうなったら死んでもらうしかないみたいだな」
千代田はすぐ近くまで来ると、大振りのナイフをとりだし、比夏留の首筋にひたと当てた。ぶるぶるぶるっと身体が震えた。
「さようなら、諸星比夏留さん」
ぶつっ、という頸動脈が切断される音が聞こえるのを、比夏留は待っていた。だが、そのかわりに、
だうん!
だうん!
二発の銃声。
「誰だ、あんたは」
千代田の低い声。
「誰でもええ。あのなあ、ヒルメはアマテラスのことなんか、それともちがうんか」
「ヒルメさまはヒルメさまさ。アマテラスなんかじゃない」
「おまえ、オノゴロ洞の場所、知っとるやろ。わしに教え」
「馬鹿言っちゃいけない。誰があんたなんかに……」
「死にたいんか」
だうん!
だうん!
「ちっ、このジジイ……」
「こら、逃げるな。待たんかい!」
会話を耳にしながら、比夏留の意識は遠のいていった。
◇
気がつくと、ふとんのなかにいた。
「だいじょうぶ、諸星さん!」
心配そうにのぞきこんでいるのは、伊豆宮と白壁だ。
「私……どうして……」
起きあがろうとしたが、
「痛たたたたたたたたた痛い痛い痛い痛い……」
右肩と左脚を激痛が襲った。
「無理だよ、比夏留ちゃん」
弾次郎が、ふたりをかきわけるようにして進みでた。
「鎖骨と左脚の太ももの骨が折れてるんだ。当分、入院だとさ」
弾次郎の目には涙が光っていた。
「藪田先生がおまえをおんぶして、この病院まで連れてきてくれたんだ。学校の裏山の道で倒れてたってね。どれだけ心配したことか……」
「ごめんなさい、パパ……」
「じゃあ、パパは先生を呼んでくるから」
弾次郎が出ていったあと、比夏留は伊豆宮に、
「私、藪爺に助けられたんですか」
「そうみたい。うちに藪爺から電話があったんで、白壁くんと犬塚さんに非常招集かけたんだけど……いったい何があったの?」
比夏留は、蛭女山でのできごとを伊豆宮と白壁に話した。
「じゃあ、その千代田ってやつにやられたのね。諸星さんより強いなんて信じられない」
「犬せんは……?」
「あの子、最初に電話したときは、すぐ行くって言ってたのに、あとで、急用が入ったからって」
「そーなんだ。藪爺は……?」
「警察にいるわ」
「警察……?」
「銃器不法所持だって。本人は、『ウエスタン・マカロニ』っていう店の展示品を勝手に持ちだしたって言ってるらしいわ。『ウエスタン・マカロニ』の店長さんもかかわりあいで出頭してるみたい。迷惑な話よね」
あのモデルガン、改造銃だったのか……。
「ともかくよう、絶対安静だぜ。体育祭も出てこねえでいいからな」
「うわー、ちょっとうれしかったりして」
「じゃあ、とっとと治して出てきやあがれ。わかったか」
「はーい」
◇
伊豆宮と白壁が帰り、弾次郎も母親に報告するために一旦帰宅した。
(あー、ひまだ)
布団のうえで天井を向いたままじっとしていると、退屈で退屈で、あーあ……たまらんわい、という落語のセリフをつい口走りたくなる。
(でも、全然痛くないや。もしかしたら、もう治ったのかな。そーだそーだきっとそーにちがいない)
比夏留は上半身を起こしてみる。
(なんともない。やっぱり治ったんだ。折れたっていうのも、誤診だったのかも)
るんるん気分になり、そのまま立ちあがろうとすると、
「痛いっ……!」
脚をおさえてうずくまる。
(だめか……。しかたないね)
ふたたび横になる。
(退屈だー退屈だー退屈だー。こーゆーときこそ保志野くん、電話してきてくれたらいいのに。お見舞いにも来てくれないなんて、気がきかないよねー。病人の心理っていうものを理解してないんだよね)
比夏留は大きく伸びをした。その途端、さっきのできごとがフラッシュバックした。
千代田との戦い。燐光を放つ目。右肩への突き。激痛。「なんだ、〈独楽〉か」……馬鹿にしたような口調。Tシャツの下へもぐりこむ手。首筋に押し当てられたナイフの冷ややかな感触……。
大声で叫びたくなるのを必死に押し殺し、布団を頭からかぶった。いまさらながら、身体が震えだす。
(怖かった……)
目尻に涙がにじんでいる。比夏留は、しばらくのあいだがたがた震えていた。あのまま、殺されていたかもしれないと思うと、ぞっとする。目を閉じても、いろいろな雑念が頭をよぎり、眠ることなどできない。
そんななかで、比夏留はふと、後輩思いの犬塚が来られなくなるほどの急用って何だろうと思った。
(まさか、と思うけど……)
いやな予感がした。
(まさか、犬せん……)
チリリリリン、リリン……。
枕もとの電話が鳴った。個室なので、電話があるのだ。受話器を取る。
「諸星さんですか」
その声が、今、一番待ち望んでいる相手のものとわかったとき、比夏留は号泣していた。
「保志野くん……保志野くん……!」
「犬塚さんから電話で聞きました。ひどい目にあいましたね」
「うう……怖かったよお……」
「わかります。でも……ちょっとぼくの言うこと、聞いてください」
「何……?」
「犬塚さんが、気になることを言ってたんです。私は、行かなきゃならないから、保志野くん、電話してあげて、って」
「行かなきゃならない……?」
「はい。どこに行くのかきいたんですが、教えてくれないんです。手紙が来た、とか言ってました。――もしかしたら犬塚さん……」
比夏留は、いやな予感が的中したことを知った。
「そうよ。犬せん、蛭女山に行ったにちがいないよ。きっと……千代田さんから呼びだしがあったんだ。犬せん、千代田さんをつかまえるつもりで、わざとそれに乗ったんだよ。たぶん千代田さんは、オノゴロ洞っていう洞窟に隠れてるんだと思うんだけど、私、ずいぶん探したんだけどわからなかった。犬せんは、その場所をつきとめようとしてるんだ」
「やっぱりそうですか。じゃあ、ぼく、今から蛭女山に行って……」
「だめ、絶対。千代田さんは、私でもこんなにされるほどの怪物だよ。保志野くんひとりじゃどうしようもないって」
「でも、それじゃどうすれば……」
「私も行く。ふたりで行こう」
「だ、だめですよ。脚、折れてるんでしょう?」
「そうだけど……犬せんが……危ないんだもん」
がちゃり、とドアがあいた。
「比夏留ちゃん、パパも行こう」
入ってきたのは弾次郎だった。
「パパ、私……」
「わかってる。我々武道家には、たとえ骨が折れていようが、やらねばならないときがある」
そう言って、弾次郎はうなずいた。
6
山道にさしかかった。時刻は午前三時。懐中電灯のあかりがなければ、とうてい進むことができない暗さだ。左右の森からはりだした木々の枝が道にいびつな影を投げかけている。犬塚は一歩一歩確かめるようにゆっくりと進む。しかし、足の裏が地面と乖離《かいり》して、ふわふわ浮かんでいるような感覚をぬぐい去れなかった。じっと息を殺して、五感を研《と》ぎすませても、近くに人がいるのかそれともいないのかまるでわからない。
「やっと来てくれたね」
右斜め前からいきなり声がかかり、犬塚はぎょっとして身をひいた。闇のなかから千代田の白い顔があらわれた。
「て、手紙をもらったから来たの。相談って何……?」
「あとで話すよ。こないだは聞いてくれなかったのに、どういう風の吹きまわしかな」
「気が変わったのよ。あなたのこと、もっと知りたくなったし」
「ありがとう。とてもうれしいよ。今から、いいところに案内しよう」
「いいところ?」
「秘密の……最高の場所さ」
そう言うと、千代田は先にたって歩きだした。
真っ暗な山道を、あかりもなしにすたすたのぼっていく。その足の速さに、犬塚はついていくのがやっとだった。何度も脇にそれ、うねうねと続く獣道のような細道を進む。
(ひとりじゃ絶対にたどりつけないわ……)
犬塚はそう思いながら首筋の汗をぬぐった。
「だいじょうぶかい? 疲れた?」
犬塚が、何度かしゃがんでいるのを気にして、千代田が振り返った。
「ええ……だいじょうぶ。すごい道ね」
「だろ?」
歩きはじめてから一時間近くが経過したころ、千代田は鬱蒼とした藪のまえでたちどまった。棒きれでその藪をさっと掻きわけ、
「ここさ」
そこには、巧妙に隠された洞窟の入り口があった。
「オノゴロ洞へようこそ。さ、中へ」
千代田はひょうきんに腰をかがめた。
◇
ぐしっ、ぐしっ、ぐしっ。
ぐしっ、ぐしっ、ぐしゃっ、ぐしっ。
山道をのぼっていく四つの影。保志野、伊豆宮、白壁、そして、比夏留を背負った弾次郎だ。ぐしっ、ぐしっという音は、弾次郎のスニーカーが地面を踏みしめるたびに鳴り響く。むりもない。比夏留が二百二十キロ、弾次郎が二百十キロあるから、合計四百キロ以上の体重がかかっているのだ。
「比夏留ちゃんパパから電話があったときは驚いたわ。今から蛭女山に乗り込むから、手を貸してくれ、ですもんね」
「まるで、ヤクザの出入りだぜ」
弾次郎はかぶりを振り、
「OK牧場に赴くワイアット・アープ一行と言ってもらいたい。――でも、暗いし、こんなだだっ広い山のなかじゃ探しようがないな」
「私が来たときも、結局、まるっきりわかんなかったもん」
背中のうえで比夏留が言った。
「でも、急がないと犬塚さんが……あれ?」
保志野はたちどまると、足もとの地面を懐中電灯で照らした。
「どしたの、保志野くん」
「うん……この草……」
保志野が指さしたところを見ると、二種類の雑草が結びあわされている。
「パパ、おろして」
比夏留は、ふたりにすがって地面に立つと、その雑草を凝視したあとに、言った。
「これ……スー族の道しるべ」
◇
「なんか湿っぽいわ。それに、なんだか潮の香りがする」
「そうだろ。ここは海とつながってるのさ」
ふたりの声がわんわんと反響する。
「ほんとなの?」
「大昔、このあたりは海だったんだろうな。それが、地形の変化で地面のしたに潜りこんだんだと思う。すごいだろ、こんな山奥に海があるなんて」
千代田は、得意げに言った。
「ここは、〈常世の森〉の地下洞窟だ。ぼくたちは今、森の地下にいるんだよ」
「驚きね」
「これを見てよ」
千代田は、岩で囲まれた広間の中央にある、巨大な岩柱を手でぽんぽんと叩いた。
「これは、天御柱だ。ぼくにとって、もっとも根源の、神聖なものなんだ。知らないかもしれないけど……」
「知ってるわ。伊邪那岐命と伊邪那美命がまわりを回ったあと、子作りをしたっていう……」
「ふふふ、さすがだね、犬塚さんは。思ったとおりだ。やっぱりほかの子とは全然ちがうよ」
「一応、民俗学研究会ですからねー。でも、どうしてこれが天御柱だってわかったの? 証拠はあるの?」
「そんなもの、ないよ。でも、教えてくれたんだ、これが天御柱だよって……彼女がね」
「彼女……?」
「ヒルメさまさ」
「…………」
「疑うのかい」
「いえ……信じるわ。でも、記紀に出てくる天御柱がこんなところにあるなんて……」
「民俗学研究会のくせに知らないのかい? 〈常世の森〉と呼ばれているこのあたりはね、日本神話の舞台なんだよ。たとえば、森のどこかに、あの有名な〈天岩屋戸〉があるはずさ」
「〈天岩屋戸〉……? 天照大神が隠れたっていう、あの洞窟が? まさか……」
「本当さ。そのことも、ヒルメさまが教えてくれたのさ。でも、森は広いから、どこにあるのかはわからないけどね」
「あのね……さっきから言ってるヒルメとかヒルコって……神話に出てくるあのヒルコなの?」
「そうさ。ヒルコは伊邪那岐命と伊邪那美命がまぐわって、最初に生まれたこども。女性が先に口をきいたために、骨がなくて、足がたたず、ぐにゃぐにゃの姿だった。伊邪那岐命と伊邪那美命によって、葦船に入れられて、海に捨てられた……」
「それが、西宮に流れついてエビス神になった……」
「あっはははは。そんなはずないだろう? きみも知ってるとおり、エビス神は普通の人間の姿をしている。ヒルコさまは、骨がなくてぐにゃぐにゃなんだぜ。いくら昔のひとでも見間違うはずないだろう」
「そりゃそうだけど……」
「ヒルメさまは、ぼくと一心同体の存在さ。全てのヒルコさまを司る共通の『意志』のようなものかな。ヒルメさま=ヒルコさま=ぼく、と考えてもらっていい。三位一体というやつだ。――ヒルメさまやヒルコさまのこと、教えてほしいかい」
「ええ」
「教えてあげてもいいよ、きみがぼくの仲間になってくれたらね」
「どういうこと?」
「相談があるって言ったよね。ぼくは……たくさんのヒルコさまをこの世に送りだすために働いているんだ。きみも手伝ってくれないか」
「え?」
「ヒルコさまを作るには、ぼくが女性と交わる必要がある。女性は、ヒルコさまを産む」
「でも、私は……」
「心配いらない。きみにはそんなことはしない。ぼくが交わるのは、何の取り柄もない、こどもを作るための受け皿にすぎない女性だけだ。きみは、そういった連中とはまるでちがう」
「何の取り柄もない人間なんていないわ」
「いるよ。たくさんいる。ぼくが彼女たちに産ませたヒルコさまを、きみが管理してくれないか。ふたりで力をあわせて、世界中にヒルコさまをひろめよう。どうだい」
「あなた……頭がおかしいんじゃないの」
「とんでもない。正常だよ」
「だって……世界にヒルコを広めるなんて……」
「ぼくはね、復讐がしたいんだ。ぼくは、両親に捨てられた。ぼくの母親は、男と寝ることしか考えていない馬鹿女だった。親父も仕事のことしか考えていない間抜けだった。幼いころから、どれだけふたりをうらんだことか。ヒルメさまも同じさ。生まれてすぐに両親に捨てられた。ぼくが、この洞窟を発見したときに、ヒルメさまと精神が同調したのは、気持ちが相通じたからだと思う。ぼくも、ヒルメさまも、親に、この世の中に復讐したいんだ」
「…………」
「ぼくの目に狂いはない。犬塚さんも、同類だろう? 一目見て、そう思ったんだ。きみも、事情はわからないけど、幼いころからの影を背負っているはずだ」
「私は……たしかにそうかもしれないけど、親をうらんだり、この世に復讐しようと思ったりしてないわ。私は、今の自分が好きなの」
「嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「嘘だ」
犬塚は、しばらく考えたすえ、半ば目を伏せたまま、
「嘘よ。私……生まれてすぐに、親にひどいことをされたの。だから……あなたのお手伝いしてもいいわ」
「ほ、ほんとうかい! うれしいよ」
千代田は犬塚の手を握った。
「思ったとおりだ。ぼく……ぼく、犬塚さんを大事にするよ。ありがとう」
「だから、ヒルコのこと、教えてくれる?」
「ああ、もちろん。ヒルコさまというのは、文字通り、大きな大きな蛭なんだ。普段はぼくの身体のなか……睾丸に宿っていらっしゃる。ぼくが葦船の蓋をあけて、ヒルコさまを解き放ち、体内に取り込んだんだ。微小なヒルコさまの幼虫が、セックスのときに、精子に混じって女の膣に注がれる。ヒルコさまの幼虫は、子宮に定着すると、母体の血を飲みながら成長し、人間の胎児そっくりになる。つまり、胎児に擬態するんだ。もちろん、十月十日なんてかからない。せいぜい一週間もあれば、新生児と同じぐらいの大きさになる。子宮から出たヒルコさまは、人間の赤ん坊同様に『出産』される。難産の場合はほとんどない。ぬるっ、と出てくるよ」
赤ん坊を抱いた女の下半身が、産女のように血で染まっていた理由が、犬塚にもやっとわかった。出産時の出血なのだ。
「あとは、ヒルコさまを産んだ女が母親がわりになって、ヒルコさまを育てるんだ。ヒルコさまの食事は人間の血だから、彼女たちの仕事はもっぱら、犠牲となる人間のところにヒルコさまをお連れすること。あとは、ヒルコさまが本来の姿に戻り、人間を襲うというわけさ」
「そんなこと……」
「あるはずないっていうのかい? じゃあ、百聞は一見にしかず、というからね。ヒルコさまに会っていただこう」
犬塚は唾を飲みこんだ。
「あ……まだ、いい。気持ちの整理ができてないし……」
「気にしない気にしない。さ、こっちへおいで」
犬塚は、千代田の手招きに抵抗できなかった。
広間のまだ奥に、小部屋があり、千代田は犬塚をそこに誘った。小型の懐中電灯のあかりぐらいでは、内部がどうなっているのかまるでわからない。ふと気づくと、千代田がいない。
「千代田くん……どこ……?」
返事はない。かわりに、ずるずる……という粘着性の音がどこからともなく聞こえてきた。ずるずる……びちゃっ、ぺちゃっ、ぺちゃっ……。その音は次第に犬塚のほうに近づいてくる。
「ち、千代田くん……もうわかった。わかったから、ここから出たいの。出口はどっち?」
べちゃっ、べちゃっ……べちゃっ……。
「お願い……いじわるしないで。千代田くん……」
鼻の先に、突然、ぬめぬめした赤ん坊の顔が、ぬう、と突きだされた。
「ひっ」
悲鳴は口のなかで凍りつき、外へはでなかった。
「それが、ヒルコさまさ」
千代田の声が後ろのほうから響く。赤ん坊は、顔色の悪い若い女が抱いているのだ。女の下半身は、乾いた血で染まっている。
「あ、あなた、遠松奈津さんね。私、同じ学年の犬塚志乃夫よ」
女は表情を変えない。犬塚は声を低めると、
「あなたを助けにきたの。千代田くんの言うことなんかきいちゃだめ。まだまにあうわ。私と一緒にこの洞窟を……」
「助ける……どうして……」
「早くしないと、あなたはこの赤ん坊に全部血を吸われて、死んでしまう。そうならないうちに……」
「この子のことを……悪く言うと……許さないわ……」
「あなたが抱いてるのは赤ん坊じゃないわ。大きな蛭なのよ」
「この子は私の子よおおっ!」
遠松奈津は大きく口をあけて悲鳴のような声で叫んだ。瞬間、腕のなかの赤ん坊の顔がみるみる崩れ、目も鼻も口もないのっぺらぼうのようになった。四肢も消え、座布団のような形状に変化した赤ん坊は、天井近くまで跳躍し、犬塚に襲いかかった。反転してかろうじてかわし、次の攻撃を手で払いのけたが、ヒルコは床に降り、犬塚の隙をうかがっているようだ。
「やめてっ……千代田くん、やめさせて」
「やっぱり、犬塚さん、そういう魂胆《こんたん》があったんだね。急にぼくの呼びだしに応じたから、おかしいなとは思ってたんだ。ぼくの手伝いをしたいなんて嘘だったんだ」
「あたりまえでしょう。あなたはまちがってる。私はそのことをあなたに告げにきたの。警察には言ってないわ。だから……こんなこともうやめて」
「そうはいかないよ。ぼくはぼくであってぼくではない。ぼくはヒルメさまのご意志のまま動いているんだ。ヒルメさまが、やめたいと言いださないかぎり、ぼくは続けるしかないんだ」
「どうやればヒルメやヒルコをあなたの身体から追いだせるの?」
「むりだよ。ヒルコさまの種は、ぼくの睾丸のなかにいらっしゃるんだ。ぼくとヒルメさまは不可分なのさ」
座布団状の怪物が、ふたたびジャンプした。大きく広げた膜のような部分で、犬塚の顔を押しつつもうというのだ。そうなったら、犬塚の力ではとうてい引き剥がすことはできないと思われた。
「待て」
千代田が声をかけた。ヒルコは、その言葉に従い、遠松の腕に戻った。
「彼女はぼくの選んだ女性だ。ただの餌にするわけにはいかない」
千代田は微笑し、犬塚に向かって数歩進んだ。
「ぼくの右腕になってほしかったんだけど……でも、ようやく望みがかなうよ。犬塚さん、ヒルコさまの母親になってもらう。それが、ぼくの愛のカタチだと思ってほしい」
「いや……来ないで」
犬塚は逃げようとしたが、部屋が狭いうえ、遠松たちもいるので逃げ場所がない。千代田は 微笑んだまま、時間を楽しむかのようにのそりのそりと近づいてくる。犬塚は壁際に追いつめられたかっこうになった。千代田の手が、犬塚のトレーナーにかかった。一気にまくりあげる。
千代田の表情がかすかに変化した。続いて、ズボンのベルトを外し、股間にタッチする。
「犬塚……さん……」
千代田が震える声で言った。
「きみって……もしかしたら……」
犬塚は小さくうなずいた。
「うわあああああああ……!」
千代田は頭を抱えて叫んだ。よろよろと後ずさりし、両手が顔を覆うと、
「信じられない……信じられないよ」
「ごめんなさい。だますつもりはなかったの。うちの学校じゃ、みんな知ってることだし……」
「…………」
「私ね、生まれてすぐに女として育てられたの。理由はいろいろあったみたいだけど、うちの両親、私が本当は男だということを忘れてしまったのね」
「――つらかっただろ。いろいろ悩んだんだろ。親を恨んだだろ」
犬塚はかぶりを振り、
「ううん、全然。そういうもんだってずっと思ってたし、よくぞそうしてくださいましたって、親には感謝しているぐらい」
千代田は下を向いて拳を握りしめると、
「きみが男だとしても、ぼくの気持ちは変わらない。変わらないけど……セックスできないということは……ぼくはきみをヒルコさまの餌にしなくちゃならない。全てを知られて、このまま帰すわけにはいかないんだ……」
千代田は、悲しげに言うと、遠松奈津に向かって合図をした。奈津が抱いていたヒルコが、ぶるぶるっと震え、宙を飛んだ。膜が上下左右に広がり、犬塚の頭上で巨大な花弁のようになった。犬塚は観念して目を閉じた。それが落下してきたとき、犬塚の命は絶たれるのだ。
そのとき。
ユンボが家を解体しているときのような、凄まじい音と振動が洞窟いっぱいに轟きわたった。地震か……いや、そうじゃない……。
「なにごとだっ」
千代田が叫びながら、広場のほうに戻っていった。もう一度、激しい音と振動。ヒルコはすぐ脇の地面にべちゃっと落ちた。犬塚は、千代田のあとを追った。そこには、阿修羅のような形相で、天御柱にむかって腰をぐっと落とし、掘削機のような張り手をかます弾次郎と白壁の姿があった。
「どすこいっ、どすこいっ、どすこいっ、どすこいっ」
ふたりは巨体を揺すぶりながら、天御柱を相撲部屋の「鉄砲柱」に見立て、目にもとまらぬ速度で腕を回転させている。天御柱はぐらぐらと左右に揺れ、てっぺんからは剥離した小石が落下しはじめている。
「遅かったじゃない、比夏留ちゃん!」
犬塚の言葉に、比夏留は床に座ったままピースをした。
「やめろっ、やめてくれっ」
千代田が両手を広げ、大声をあげたが、弾次郎と白壁の突っ張りはますますヒートアップする。
「どすこいっ、どすこいっ……」
ついに、巨柱の根もとに、数条の亀裂が走った。
「もうちょいだ。一気に行くぞっ」
弾次郎が吠えると、
「オッケー、シェリフ。怒濤《どとう》の寄り身だぜっ」
白壁は体当たりをかました。二回、三回……四回目に天御柱の一部が粉々に砕けた。弾次郎がここぞとばかりに張り手を繰りだし、岩柱はとうとう跡形もなく粉砕された。今まで柱があった場所には大きな穴があき、その下からは塩分を含んだ強い風が吹きあがってきていた。はるか下方から、だぶ……ん、だぶ……ん、という水音が聞こえてくる。海、が、この真下にあるのだ。
千代田は座りこみ、ばらばらになった柱の残骸を見つめていたが、やがて立ちあがった。その顔は憎悪に燃えていた。
「伊邪那岐命、伊邪那美命二神の依りたまいき太古より、この洞窟に鎮座まします神聖なる天御柱を……許せない……」
その目が、ぼうっと緑色に輝いた。
「目くらましだよ。見ちゃだめっ」
比夏留の言葉は、一瞬遅かった。比夏留は、顔をそむけていたし、犬塚は立ち位置が千代田の後ろ側だったので難を逃れたが、弾次郎、白壁、保志野、伊豆宮の四人は、たちまちその場に倒れてしまった。
「な、な、な、なんだこれは。身体がしびれて……」
「動けねえやっ」
意識はあるのだが、身体の自由がきかないのだ。
「殺してやる……」
千代田は、脚を折っていて動けぬ比夏留に真っ先に近づいた。
「まず、おまえからだ。そのあと、おまえの父親、友人、先輩を順番に殺してやる。最後に……」
彼は悲しそうな目で犬塚を見ると、
「犬塚さんもあとを追ってもらうよ」
比夏留は動くほうの脚を使って、必死になって移動しようとしたが、千代田はすぐに追いつき、比夏留の顔面をつま先で蹴とばした。ほっぺたに青あざができた。
「人間の分際で、ぼくの邪魔をしようなんて、身のほどを知れ」
千代田は、比夏留の頭部を何度も何度も蹴った。比夏留は腕で顔を覆って防いでいたが、しだいに顔面が腫《は》れあがっていき、鼻や口から血が垂れはじめた。
「やめろ、娘に手を出すな!」
弾次郎が悲痛な声で叫ぶが、千代田は悪魔じみた形相になり、今度は比夏留の身体を蹴ろうとした。
ぐきっ。
千代田が足先を押さえて、その場にうずくまった。
「痛たたたたたたた」
そう、千代田は二百二十キロの物体を思いきり蹴ったことになるのだ。足をねんざするのも無理はない。
「くそっ……産女たちよ!」
千代田は、隣の小部屋に向き直った。そこから、遠松奈津が、ぬめっとした赤ん坊を抱いて現れた。その後ろから別の女性が、これも赤ん坊を抱いて姿をみせた。続いて、もうひとり……。
結局、六人の若い女が、それぞれに赤ん坊を抱いて、広場に出現した。彼女たちは、動けぬ比夏留を取り囲むと、赤ん坊をそっと地面におろした。六人の赤ん坊は、ぐにゃりとその輪郭が崩れ、大きな蛭の姿になった。もぞ、もぞ、もぞ……と前進し、比夏留のまわりの輪を狭めていく。
(気持ち悪い……)
蛭たちの頭部には、被害者の皮膚を破り、吸血するための口吻《こうふん》があり、微細だがカミソリのように鋭い歯がびっしりと植わっている。それが、開いたり、閉じたりを繰りかえしている。
「さあ、この女の血を吸うのだ。干からびたミイラになるまで吸い尽くせ。腹を血で満たせ」
横たわったまま比夏留は、防御のポーズをとったが、役にはたたなかった。座布団状に変化したヒルコたちは、一斉に比夏留に襲いかかった。
「比夏留ちゃん!」
「諸星さん!」
見ていた皆が絶叫した。比夏留は、視界が真っ暗になった。たくさんの座布団に覆い被さられ、べったりと鼻や口をふさがれて、息ができない。蛭たちは、比夏留の皮膚を食い破り、血を吸いはじめた。身体中にやけどを負ったような痛みが走る。振り払おうとしたが、蛭たちの締めつける力はすさまじい。鉄の拘束衣を着せられているようで、びくともしないのだ。喉、胸の下、背中、腹部、脚のつけね、尻……各所に蛭が噛みついている。ざらざらしたヤスリのような歯で皮膚を削り、流れでる血潮をすすっている。力が……抜けていく……。大量の出血と呼吸困難のせいで、気が遠くなっていく……。
「諸星さんっ!」
保志野の声。
「聞こえてるか、諸星さん!」
聞こえてる……聞こえてるけど……。
「血を吸うんだ。蛭たちの血を……」
血を吸う……? どういうこと?
「諸星さんが、逆に、蛭たちの血を吸ってやるんだよ。諸星さんならできる」
そんな……気色悪い……。
「それしかないんだ。やるんだ。諸星さん!」
といわれても……。
「比夏留ちゃん、保志野くんの言うとおりだ。助かるにはそれしかないぞ」
弾次郎の声だ。
「パパとママが、どうして比夏留という名前をつけたと思う。蛭と蚊、二大吸血動物の名前からとったんだ。だから、比夏留ちゃんは蛭より強い!」
そんな話は聞いてない……。
「がんばれ、諸星。おいらたちゃ、声は出せるけど、身体の自由がきかねえんだ。おいらたちの命はおめえにかかってんだよ!」
「お願い、諸星さん! トマトジュースだと思えばいいのよ」
ええい、ままよ。
比夏留は、大きく口をあけ、手近な蛭の胴体に、がぶり、と噛みついた。蛭が、びくん、と震えた。口のなかに、どばっ、と血があふれてきた。生ぬるい。生ぐさい。うえっ……うえええっ。でも、やらねばならない。比夏留は、その血をごくごくと飲んだ。気持ち悪かったのは最初だけだった。喉を通過してしまうと、あとは勢いでどんどん飲めた。
(うう……きしょい……けど、飲まなきゃ……)
比夏留は全身をバキュームカーと化して蛭の血を飲み続けた。蛭は身をよじり、もがき、なんとか逃れようとしたが、それより比夏留の吸血スピードが上回った。一匹目はカラカラに干からびてしまい、床に落ちた。比夏留は二匹目にとりかかった。がぶり、と噛みつき、ちゅうちゅうと血を吸う。うーん……ますます気持ち悪くなってきた。生まれてから一度も「胃が悪い」という状態を経験したことないけど、もしかしたらこんな感じなのかな……。そんなことを考えながら二匹目も「空」にした。
「そいつから離れろっ。そいつは……人間じゃない」
千代田が怒鳴った。おあいにくさま、人間ですよ、と心のなかで叫びつつ、比夏留は逃してはならじと腕を伸ばし、残る四匹のヒルコをつかまえ、片っ端から血をすすっていく。
「人間の胃の容量には限界がある。そんなにたくさんの血は吸えないはずだ」
千代田が期待を込めてそう言ったが、伊豆宮が、
「馬鹿ね、あんた。なーんにも知らないのね。諸星さんは人間じゃないんだってば」
人間だってば。
◇
終わってみれば、あっという間のできごとだった。地面には、六匹のヒルコの死骸が、乾燥ナマコのように並べられていた。そのとなりには、比夏留が苦しそうに顔をゆがめ、胃のあたりに手を当てて横たわっていた。脂汗がにじみ、ほとんど意識はないらしい。すぐ横に、真っ青な顔の千代田ががっくりと膝をついていた。目の緑色の輝きもすでに失せている。十歳ぐらいいきなり年をとったような、疲労しきった表情だ。隣の部屋では、六人の女性が折り重なって倒れていた。全員、気を失っているようだ。
「終わった……もうおしまいだ……」
千代田は涙を流していた。
「ヒルメさまの……ぼくたちの完敗です」
しばらく肩を震わせていたが、突然、ポケットに手を突っ込んだ。そのとき、
「ヒルメは、死ぬ気だよっ」
気絶していたはずの比夏留が、かっと目をあけて叫んだ。千代田はナイフを取りだすと、自分の首に押し当てようとした。ようやくしびれから解放された弾次郎が、軽やかに一回転して、足先でナイフを蹴りとばす。そして、首根っこを押さえると、
「こら、おまえ、簡単に死んではいかん。おまえは生きて、自分がしたことの責任をとれ」
「そんなこと言っても……ぼくのせいでいっぱい人が死んだし……もう、どうしようもないんです……」
犬塚が彼の肩に手をのせ、
「千代田くんだってヒルメに操られてたんだから、あなたひとりが悪いわけじゃないわ」
「…………」
「でも……ぼくの身体のなかには、まだヒルコさまの種が巣くってるんだ。だから……」
犬塚は少し考えていたが、千代田の耳に口をつけ、なにごとかをささやいた。千代田は蒼白な顔でたっぷり十五分ほど悩んでいたようだが、やがて意を決したように首をたてに振った。犬塚は、つぎに弾次郎に歩み寄ると、彼にも何かを告げた。弾次郎は、最初、驚いたような顔をしていたが、千代田が頭をさげて、
「お願いします」
「うーん……本当にいいのか」
「かまいません。それしか、道はないんです。あとは、それを壺に入れて、葦船に……」
「わかった。そこまで言うなら、私がやろう」
そう言うと、千代田を隣室に連れて行き、
「ふん……むっ!」
「うぎゃあああああああっ!」
ふたたび現れた弾次郎の手には血まみれの「何か」が握られていた。弾次郎は、それを広場の隅にあった容器のなかに入れた。ガムテープでぐるぐる巻きにして封印し、リュックの中身を出して葦船がわりにして、なかに容器を納め、岩柱があった場所にあいた穴のなかに放り込んだ。遠くで、「とっぷーん」という水音がした。犬塚が、千代田の股間を応急的に止血した。
「これじゃあ、どこかへ流れていって、そこでまた同じことが起きるんじゃねえのか」
白壁が言うと、保志野が、
「古代においては、こうした穢《けが》れは全部『水に流し』ていたんです。ヒルコも、黄泉国《よみのくに》の穢れも、疫病も……。消滅させることができないものは、とりあえず、水の力で浄化するしかないんです」
皆は、暗い穴をのぞきこんだ。何も見えない。ただ、漆黒の闇と静寂が広がっているだけだった。
「さ、行こうか」
弾次郎が、比夏留に手を貸して、立ちあがらせようとすると、比夏留はその手を振り払い、這って、穴のところまで行った。穴に顔を入れ、口に指を突っ込むと、げろげろげろげろげろげろ……と嘔吐した。大量の真っ赤な血が、滝のように穴に注がれていく。ひとしきり吐いたあと、比夏留は唇の血をぬぐい、
「はあ〜」
と大きなため息をつくと、
「もう二度と血なんか飲みたくない。吸血鬼の気持ちがわかんない。こんなまずいもの、よく飲むよ! 最低っ」
そう叫んだあと、涙をふいた。その背中を、弾次郎がやさしく叩いた。
◇
気を失っている女たちは、あとで警察に連絡して迎えにきてもらうことにして、弾次郎が比夏留を背負い、白壁が出血多量の千代田を背負い、一同が洞窟を出たあとのこと。
広場の一角にある暗がりから、ひとつの影が抜けだした。
「ふーん……結局、ここも〈天岩屋戸〉ではなかったか……」
その影は、腕組みをして、床に転がっているヒルコや女たちを見つめたあと、
「しゃあけど、このあたりが創世神話の舞台になった場所やった、ちゅうのはまちがいないな。――もうじきや。もうじき出したるさかい、待っててや」
その言葉に呼応するように、地面がぐらり、と揺れた。
エピローグ1
深夜の体育祭はとどこおりなく行われた。開会にさきだって、校長の田中喜八は挨拶に立ち、
「諸君のなかには、どうして我が校が体育祭をこんな夜中に行うのか、疑問をお持ちのかたも多いと思います。そのわけは、諸君の住んでいるかけがえのないこの世界が、永遠に今のままであることを祈願してのことなのです。平和な世の中がいつまでも続くよう願って、それでは体育祭を開催いたします」
パラパラ、とまばらな拍手に校長は深々と礼をした。藪田は舌打ちをして、壇に背を向けた。
(なーにが平和な世の中じゃ、アホ。テロ、戦争、自然災害、疫病、貧困……今の世界は腐っとるやないか。こんな世の中、いつまでも続いてもろたら困る。わしは、それを何とかしたいだけなんや……)
体育祭のクライマックスは、ラストに行われる「天照大神出洞儀」で、大きな張りぼての洞窟の扉が左右に開かれ、中から光輝が出現するという趣向の、一種のショーである。今、ようやく扉に手がかかった。ぎりぎりぎりぎり……扉は悠然と開いていく。
光が差した瞬間、学生たちの歓声があちこちから聞こえてきた。
エピローグ2
保志野は目を丸くして、比夏留の食べっぷりを見守っていた。十人前はありそうな、山盛りのマカロニが、みるみる減っていく。
「あいかわらず……すごいよねえ……」
「だって、おなか減ってるんだもん。ここんとこ体育祭の準備で昼ご飯抜きだったし、こないだ血を飲んだでしょう。あれから気持ち悪くて、病院でもご飯が食べられなくなっちゃって……やっと元通りになったの」
「諸星さんでも食べられなくなることあったんだ」
「そーなの。ちょっと痩せたんだから」
「えっ、ほんと?」
「ほんとよ。二百十二キロに落ちてて、ショックだった。もちろん、もう戻したけどね」
ぱくぱく、ぱくぱく。
「でも、今度のことでは保志野くんの『わかったああああ!』が聞けなかったね。ちょっとさびしいかも」
「いまいち、出番がなかったですね。ま、いいんですけど」
ぱくぱく、ぱくぱく。
「脚とか肩はだいじょうぶなんですか?」
「もう、くっついたみたい。カルシウム分を摂るために、あれから目刺し、一日百匹ずつ食べてたし。病院の先生も、人間とは思えない回復力って言ってた。松葉杖はまだ手放せないけどね」
「崩していた体調は?」
「うん……なんとか。血をものすごくたくさん飲んだでしょう? あれで、血糖値がめちゃめちゃあがったみたいなの」
「魔物みたいな巨大蛭六匹分の血でしたからね」
そこへ、店長のアラン山岡が、おかわりを持って現れ、
「魔蛭の血糖、ということですかね」
そう言ってにやりとした。
「店長さん、改造モデルガンの件はもういいんですか」
「書類送検、ということで。ゴリラみたいな刑事にさんざん油をしぼられたよ」
店長は笑いながら、「ハイ・ヌーン」を口ずさみながら厨房へ下がっていった。
「ところで、ぼく、わからないことがひとつあるんです」
「何?」
「どうして諸星さん、気絶していたのに、千代田さんがナイフで自殺しようとしたのがわかったんですか。完璧なタイミングでしたよね」
「ああ、あれ?」
比夏留は顔を赤らめ、
「あのときは寝ぼけてたんだ。またまた昼ご飯抜きだった夢を見て、『昼飯抜きだよっ』って叫んだところで目が覚めたの」
「ははあ……それが『ヒルメは死ぬ気だよっ』に聞こえたわけか。ま、そんなことだろうとは思ってましたけど」
「私のほうも、わかんないことがいくつかあるんだよね。あのさ、どうして、ヒルコは赤ん坊に擬態したんだろう」
「さあ……」
「うーん、なんか物足りないなあ。いつもの保志野くんみたいに、ずばっと解決してよ」
「そう言われても……あ、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
期待を込めた目で比夏留は保志野を見た。
「血飲み子……っていうことじゃないでしょうか」
がっくし。
「あのさあ、駄洒落じゃなくて、もっとちゃんとしたっていうかさ……」
「擬態というのは、生物界で広く見られる現象です。多くの場合は、自分の身を守るために行われます。赤ん坊になるのが、ヒルコにとって一番安全だったのでしょうね」
「わかったようなわからないような……。あの、もうひとつ疑問があるんだけど、イザナギとイザナミが天御柱をまわったとき、イザナミが先に口をきいたら、どうしてヒルコが生まれるの?」
「うーん……そうですねえ、先に口をきく……」
瞬間、保志野の目がぎらりと輝いた。
「わかったああああああ!」
その声の大きさは、デザートを運ぼうとしていた店長が思わずそれを取り落としてしまったほどだ。
「やっとわかったぜ、比夏留。どうして、イザナミが先に口をきいたら、ヒルコが生まれたのか」
「すごい。教えて教えて」
「蛭っていうのは、環形動物門……つまり、先口動物に属するんだ。先口動物というのは胚の原口が成体の口になるタイプの動物だ。先に口をきいたものの腹に、先口動物が宿るというわけだ」
「あのねえ……」
比夏留は、テーブルをひっくり返したい気持ちを必死になって抑え、
「地口《じぐち》はもういいって言ったでしょ!」
保志野はたちまちしおしおとなり、
「――だめですかね、この解釈」
「だめ。わかってないのに、わかったふりをしてはいけませーん」
「ごめんなさい……見せ場がなかったもので……」
保志野は小声で言った。
「でもね、諸星さん。日本の創世神話に何かの意味があるとすると……原初の地球において、海のなかに生命が誕生したとき、まず、先口動物というものが生まれたわけです。それが、伊邪那岐命、伊邪那美命がヒルコを最初に産み落としたということなのかもしれませんね」
しみじみと言う保志野に、比夏留は皿から顔をあげて言った。
「ごめん。――聞いてなかった」
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天岩屋戸の研究・序説(二)
ぐらっ、ときた。
(また、地震……)
比夏留《ひかる》は机にしがみついた。最近、やたらと揺れる。四月に入学した当時は、やけに地震が多いなとは思ったが、そのうちおさまった。だが、このところまただ。それほど強い揺れではないのだが、直下型で震源が蛭女山《ひるめやま》の真下というのが気になる。ニュースを見てもほとんど報道されない。揺れているのは蛭女山とその界隈だけで、ほかの地域は何ともないのだ。ぐずっ、ぐずっ、という渋り腹のような揺れかたに、比夏留は、焦りや苛立《いらだ》ちに似た、陰湿なエネルギーの発露を感じずにはおれなかった。
明日は「鶏鳴《けいめい》祭」だ。私立|田中喜八《でんなかきはち》学園高等学校には、年二回の文化祭がある。六月に行われる「蛭女山祭」と、十一月のこの「鶏鳴祭」だ。民研は、毎年、アクセサリーショップを出店する。それが伝統なのだ、と伊豆宮《いずみや》に教えられた。店の名前は「マダム○○の幸運を呼ぶ神秘のアクセサリー」。「○○」の部分は毎年替わる。今年はなんと、「マダム諸星《もろぼし》」なのだ。比夏留は明日の準備のため、〈常世《とこよ》の森〉に隣接した民研の部室で、午後七時をすぎても、ひとり作業を行っていた。
河原で採ってきた単なる小石に、鎖を瞬間接着剤で取りつける。あるいは、木片を組みあわせ、紐で縛ったものに、ビーズをはめ込む。あるいは、三つ葉のクローバーに葉をひとつ足して、四つ葉にする。あるいは、セミの抜け殻に金粉《きんぷん》で着色する。それらは、明日、アクセサリーショップの店頭に並び、「マダム諸星の神秘の力によって聖別された、おそろしいほど幸運を招く開運グッズ」として、高価で販売されるのだ。高校生がそういうことをするのを容認してしまうのが、田中喜八学園のすごいところである。
「こんなことして、捕まらないのかなあ……」
比夏留は、作業をしながらつぶやいていた。
「開運だなんてでたらめもいいとこなのに、小石に紐つけて千三百円はぼったくりだよね。逮捕されたらどうしよう」
「だいじょうぶや」
部室の奥の暗がりから声がした。比夏留はぎくっとして身を固くした。
「や、藪田《やぶた》先生、いらっしゃったんですか」
民研の顧問、藪田|浩三郎《こうざぶろう》は、いつも見事なまでに気配を消す。まるで忍者だ。うっかり、鼻くそをほじったりしていなくてよかった、と比夏留は内心思った。
「先生、いらっしゃるならちょっとは手伝ってくださいよ。今夜は徹夜態勢なんですから」
藪田は、ベンチから上体を起こすと、一升瓶の蓋をポンとあけ、酒をラッパ飲みした。
「なんで、おまえだけやっとるんや。ほかの連中はどないした」
「白《しら》せんは、お香とかタローカードとか、いかがわしさを演出するための小道具の買いだしです。犬せんは、校庭で店を作ってます」
「部長は?」
「伊豆せんは……知りません。教室に行ったらいなくて、きいてみたら、今日は早退したって……。体調悪いのかなあ。あとで電話してみます。それより……こんな悪徳グッズ販売して、問題にならないんですか?」
「なにが悪徳グッズや。うちが長年販売を続けてきた伝統工芸品やで、これは」
「長年って、民研ができてからまだ三年でしょう? それに、神秘的でもないし、幸運も呼びませんよ。偽のブランドものを売ってるのとかわりないでしょう」
「ちゃうちゃう」
藪田は手をひらひらと振った。
「おまえな、こういうのは気持ちのもんなんや。信じるものにとっては、小石も、伊勢神宮も、聖ペトロ大聖堂のマリア像も、町の生き神さまもおんなじやで。ほれ、『イワシの頭《かしら》も信心から』ゆうやろ」
実は、明日は「イワシの頭」も販売する予定なのだった。
「お守りゆうのは、もともとそういうもんや。それを身につけてたら事故にあわへん、幸せがくる……そう信じてたら、ほんまに事故を免《まぬが》れたり、ラッキーなことがあったりするねん。逆に、どんな立派な神社のどんな高い開運グッズを持っとっても、持ってる本人が信じてなかったら、ただのガラクタや。そういうやつにはラッキーは来ん。信じる力が福を招くんや」
「そうですかねえ……」
「こらこら、売る側がそんな弱気でどうする。がんがん売りまくったれ」
「強気になれませんよー。先生は罪悪感、ないんですか」
「ない。雑誌の裏表紙に載っとる開運商品の広告とか、信者に壺売りつけて何千万稼いどる新興宗教とかに比べたら、十分、胸張れる。慈善事業みたいなもんや」
「はあ……」
比夏留はため息をついた。
「ところで、先生、〈鶏鳴祭〉ってどういう意味ですか?」
「おまえ、そんなことも知らんと祭に参加するつもりやったんか」
「だって、誰も教えてくれないし……」
「ニワトリをな、鳴かすねん」
「へ?」
「〈鶏鳴祭〉のクライマックスは、明け方、まだ夜が明けきらんうちに、集められた何百羽のオンドリが一斉《いっせい》にときをつくる。それはそれは……じゃかましいで」
「明け方って……じゃあ、〈鶏鳴祭〉って夜通しやるんですか」
「せや。明け方でないと、オンドリはときをつくらんやろ」
「でも……どうしてそんなことを……」
「それは知らん。校長の考えなんや」
「この学校、かわってますよね。〈蛭女山祭〉ではストリップやるし、体育祭は深夜にやるし、文化祭は夜通しやって、そのうえ、ニワトリ集めて鳴かせるなんて……」
藪田は一瞬、口ごもったあと、
「ま、なんぞ意味があるんやろな」
かたり。
という音がした。風のせいかな、と比夏留は思い、部室の入り口のほうを向くと、そこにいたのは部長の伊豆宮だった。
「あ、伊豆せん、おはようございます。私、〈鶏鳴祭〉が夜中じゅうやるなんて全然知らなかったんです。それだったら、食料をたくさん買いこんでおかないと……」
そこまで言って、比夏留は言葉を飲みこんだ。伊豆宮のただならぬ様子に気づいたからだ。
伊豆宮は、幽鬼のように顔面蒼白で、憔悴《しょうすい》しきっているようだった。よろよろと比夏留に向かって歩むと、そこで立ちどまった。
「どうしたんです、伊豆せん……」
「姫子《ひめこ》が……」
そう呟《つぶや》くと、伊豆宮はその場にずるりとくずおれた。
◇
藪田は、自分が今まで寝そべっていたベンチに伊豆宮を寝かせた。
「ど、どうしたんでしょうか、伊豆せん……」
おろおろする比夏留を制しておいて、伊豆宮の脈をとると、顔をしかめ、
「いかんな……」
「どうしましょう!」
「医者に診《み》せなあかんが……あんまり動かしたないな。おまえ、近所の病院行って、誰でもええから医者呼んでこい」
「え? で、でも、どこの病院の何科が……」
「なんでもええから、はよ行ってこい!」
痩せこけた身体のどこからこんな声が出るのだろうと思えるような大声に、比夏留はぴょんと飛びあがり、そのまま部室から走り去った。
「さてと……」
藪田は、しばらく伊豆宮を見おろしていたが、かたわらにあった酒瓶をとり、ごくりとひとくちラッパ飲みし、ぷわーっと酒の霧をその顔に吹きかけた。伊豆宮の、猫のようにつりあがった目がうっすらと開いた。
「あ……藪田……先生……」
「気づいたか」
「私、どうして……」
「部室に入ってきたとこで気絶したんや」
「諸星さんは……」
「今、医者呼びにいっとる」
伊豆宮は半身をひねってベンチから起こし、
「もう……だいじょうぶですから……」
「あかん。もうちょっと寝とけ。それよりおまえ、姫子がどうとか言うとったな」
たちまち伊豆宮の顔が曇った。
「姫が……姫子が……」
「姫子て、ハンググライディング部の部長やった道村《みちむら》姫子のことか」
道村姫子は、伊豆宮の「恋人」である。四ヵ月ほどまえ、伊豆宮との喧嘩がきっかけで、学校側から飛行を禁止されている〈常世の森〉上空をハンググライダーで飛び、何ものかにライフルで撃たれて墜落した。奇跡的に一命をとりとめた姫子は、全身に大怪我をした状態で伊豆宮たちのまえに現れ、「キリ……スト……」と言いのこして、意識を失った。姫子の身体には、青銅の鏡や、化石化したニワトリの骨などがひっかかっていた。どこからどういうルートをたどって〈常世の森〉から脱出できたのかは、快復後、本人にたずねてもわからなかった。彼女は、事故の恐怖からか一切の記憶を失っていたのだ。入院中の病院で、またしても何ものかに銃で襲われ、殺されかけた姫子は、「親切に、強く、そうすすめてくれる人」の仲立ちで、行き先を伊豆宮に告げることなく、どこかに引っ越ししてしまった……。
「道村姫子がどないしたんじゃ!」
「死にました……」
「えっ」
伊豆宮の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、錆びたベンチのうえをビー玉のようにころがった。
「転院先の病院で……点滴の薬品に毒物が混入してたらしくて……」
「な、なんやと……」
「姫のお母さんから、きのうの夕方、矢口唯夫《やぐちただお》くんに連絡があったらしいんです。矢口くんが私に電話で教えてくれました」
「矢口……?」
「あ、矢口くんは、ハンググライディング部の副部長で……姫のことをずっと好きだったひとです。お母さんは治療ミスだと主張しておられるようですが、病院側は、そんなことはありえないと言ってるみたいです……」
「くそっ、ぬかったで……道村姫子が死んだやと……」
「姫子は……私が殺したのかも……」
「どアホ! おまえが殺《や》ったんやない。殺ったんは……殺ったんはなあ……」
藪田は言葉を切ると、こぶしを握りしめ、
「あのガキや!」
「――え?」
藪田は普段からは想像できぬ素早さで入り口に向かって走った。
「先生! 姫のお母さんは、藪田先生にいろいろお世話になったと言っておられました。もしかしたら、姫子を転院させたのは先生なんですか。だったら、どうして私に転院先を教えてくださらなかったんですか」
藪田はそれには答えず、
「わしは警察行ってくる。もうじき諸星が医者連れて戻ってきよる。それまで、ここにおれ。ええな」
そう言いすてると、部室から出ていった。
◇
民研の部室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
白壁《しらかべ》も、犬塚《いぬづか》も、比夏留も、下を向き、黙々と開運グッズを作っていた。だが、その作業は遅々として進んでいなかった。ときどき、みな、ベンチに座っている伊豆宮のほうを、ちら、ちら、と見る。だが、伊豆宮が涙に濡れた目で見返すと、びくっとして視線をそらしてしまう。
藪田は、床に座り、酒を飲んでいた。まるで、酒を飲むことが作業の一環であるかのような早いペースであった。すでに、二升ほどあけていたが、固形物はまったく口にしていない。
時刻は午前零時を回っていた。かなり酔った藪田が、壁に掛かった時計を見やり、
「もう十二時過ぎか。道村が、〈常世の森〉で墜落した時間やな」
「先生っ」
犬塚がたしなめようとしたが、藪田は続けた。
「道村は、『キリ……スト……』と言いのこしたが、あれはどういう意味なんやろ。おまえら、考えたことないか?」
「もういいじゃありませんか、先生。姫子さんは昨日亡くなられたばかりなんです。今は、伊豆せんも、思いだしたくないんじゃないですか」
犬塚が、少しきびしい口調で言ったが、
「そうか? わしは思うんやが……道村姫子は、〈常世の森〉のうえを飛んどるときに『何か』を見たんや。そうちゃうか」
「かもしれません。でも、今さらそんなこと言ったって……」
「何になる、ていうんか。道村は、自分が見たもののせいで撃たれて、そのあともえらい目に遭うて、とうとう殺されてしもた。警察は、医療事故や言うとるけど、わしにはそうは思えん。点滴に混じってた薬は、道村のおった病棟では使うてないもんやったらしいし、看護婦も、絶対まちごうてない、ゆうて言いはっとるそうや」
「じゃあ、やっぱり殺人……」
比夏留が言うと、白壁ににらまれた。滅多《めった》なことを口にして、伊豆宮を刺激するな、というのだろう。
「たしかに、道村が何を見たのか、今さら詮議しても、死んだもんは返ってこん。それはわかっとる。せやけどな、伊豆宮……」
藪田は、ベンチでうつむいている伊豆宮のほうに身体を向け、
「おまえの大事やった人間が、死ぬ間際に何を見たんか知りとうないんか。そのせいで、道村は殺されたんかもしれんねんど」
「先生、やっぱり先生が姫を引っ越しさせたんですね!」
伊豆宮が叫んだ。
「せや。わしは、あの子は命を狙われてると確信しとった。警察は、ライフルで撃たれた件もまじめに調べようとせんかったし、病院で襲われた件は、事件そのものを疑うて、全然動いてくれんかった。このままやったら、また襲われる。今度は命を落とすやもしらん。わしは、あの子を安全なところにかくもうてやりたかったんや」
「そのこと……私には教えてくださってもよかったじゃないですか」
「おまえにはすまんかったが、道村は、口封じのために殺されかけたんやとしたら、行き場所は誰も知らんほうがええ。そう思たんや。それに、あの子の母親も、本人が元気になったら、おまえに居場所を教える、言うとったやろ。そのつもりやったんやが……」
「口封じ……」
伊豆宮はぽつりと言った。
「それ以外に考えられんやろ。道村は……よほどのもんを見たにちがいない。それが何やったんかつきとめることが、あの子の供養《くよう》になる……そう思わんか」
「先生、そんなこと……!」
犬塚が気色《けしき》ばんだ。
「そんなことしたら、今度は伊豆せんが狙われるじゃないですか。そんな危険なこと……」
「するな、ちゅうんか。ほな、おまえは、このまま泣き寝入りせえちゅうんか」
「そ、それは……」
「犬塚さん、もういいの」
伊豆宮は、かすれたような声で言った。
「でも、伊豆せん……」
「私、危険なことはしないわ。だから安心して」
「は、はい……」
伊豆宮は、時計を見て、
「ほんと。もうすぐ姫が飛んだ時刻ね。私……ちょっと出かけてくる」
「どこへ行くんですかっ」
比夏留がとがめたが、伊豆宮は悲しげに笑って、
「どこへも行かないわ。ひとりで……姫のことを思いだしたいの。すぐ戻るわ」
「〈常世の森〉なんか行っちゃだめですよっ」
「わかってる。私もそんな馬鹿じゃないから」
「あ、はい……そうですよね……」
「――心配してくれてありがとう、諸星さん」
伊豆宮は、夢遊病者のようなふわふわした足取りで、比夏留の横を通りすぎていった。
◇
伊豆宮は、丘のうえに立ちつくしていた。満天の星が、目に痛いほど輝いている。
(ごめんね、諸星さん。私……馬鹿なのよ)
伊豆宮は、斜面に置かれた長いケースのファスナーをあける。ハンググライディング部の倉庫に忍びこんで、盗みだしてきたのだ。ここまで運ぶのは、たいへんな重労働だったが、このグライダーで姫子の軌跡をたどり、姫子があのとき見たのと同じ光景を目に焼きつける……それが、自分にできる姫子への最大の供養だ、と伊豆宮には思えていた。姫子のフライトはしょっちゅう見ていた伊豆宮だが、もちろん自分で飛んだ経験は皆無だ。そんな初心者がまともに飛行できるはずもないし、また、運良く飛びたてたとしても、無事に着陸できるはずもないが、今の伊豆宮はまともな判断力を失っていた。とにかく頭のなかは、
(姫子と一緒に飛ぶ……)
それだけだった。
だが、ことはそううまく運ばなかった。まず、組みたてかたがわからない。いつも、姫子がするのを横で見ていたつもりだったが、自分でやってみると、部品が多すぎて、どうすればいいのかわからない。一時間ほど格闘して、なんとかそれなりに組みたてたものの、まだ、部品が余っている。
(やっぱり甘かったかな……)
伊豆宮が肩を落とし、星座を見あげたとき、――足音が近づいてきた。
(やばい……)
警察かもしれない。ハンググライダーを盗みだしたのがバレたのかも……。今さら、この大きなブツを隠すわけにもいかず、伊豆宮は身体を固くするしかなかった。
「伊豆宮さん……」
若い男性の、柔らかな声。その声には聞き覚えがあった。
「きみも、道村さんのこと思いだしに来たの?」
「――矢口くん」
男は、矢口唯夫だった。ハンググライディング部の副部長だ。矢口は、伊豆宮のすぐ隣の草のうえに腰をおろした。
「あの……私、グライダーを勝手に……」
「わかってる。実はね……ぼくも、今夜、飛ぶつもりだったんだ。無許可でグライダー持ちだしちゃまずいんだけど、どうしても道村さんがやったこと、自分でも体験したくて……。そしたら、倉庫の扉があいてて、一台、グライダーがなくなってたんで、もしかしたら、と思ってここに来たのさ」
「ごめんなさい……」
「はははは。どうせ、素人《しろうと》には組みたてられないって」
「そのとおりでした」
そう言って伊豆宮は、余っている部品を指さした。
「あのね……あの……矢口くん……」
「知ってるよ。きみと道村さんが、その……恋人同士だったってこと。思いきって道村さんに告白したとき、はっきり言われたんだ。『私は、伊豆宮|竜胆《りんどう》が好きだ』って。正直、参ったよ」
「…………」
「でも、ぼくの気持ちは変わらなかったし、いつかぼくのほうを振り向かせてみせる……そう思ってた。まさか……こんなことになるなんて、ね」
「そう、ね……」
「ぼくもショックだったけど、きみのほうがきっとつらいだろうね。わかるよ、その気持ち。ぼくになんかわからないって思うかもしれないけど、わかる。たぶん、今の伊豆宮さんの気持ちがわかるのは、世界中でぼくひとりだと思うよ」
伊豆宮はうなずいた。
「どう思う?」
「どうって……?」
「道村さんは、殺されたんだと思う?」
「ええ。――たぶん」
「ぼくもそう思う」
ふたりはしばらく、黙ったまま星を見つめた。オリオン座の三つ星が、まるで手の届くところにあるような錯覚を覚える。それほど大気が澄みわたっていた。
「仇を討ちたいんだ」
「――え?」
「道村さんは、あの日、〈常世の森〉のうえを飛んで、『何か』を見たために『誰か』に殺された。そうだろう? ぼくは、道村さんがあのとき、何を見たのか……見てしまったのかを知りたい。ぼくがそれを知ったと『誰か』が気づけば、きっとぼくを殺そうとするに決まってる。そうやって、そいつをおびきだして、尻尾をつかむんだ。そのために、ぼくは、今夜、飛ぶ」
伊豆宮は、矢口の横顔を見た。一心に思いつめた、かたい決意にあふれた表情だった。
「私も、連れてって」
「いいのか」
「ええ。――死んでもいいから飛びたい、そういうつもりで、グライダーを盗みだしたのよ。私の手にはおえなかったけど、矢口くんが来てくれてよかった」
「――そう言うと思ったよ」
ふたりは同時に立ちあがった。
◇
簡単な口頭レッスンを受けたあと、矢口はハンググライダーの下にぶら下がるハーネスのベルトに伊豆宮を固定し、自分は彼女を抱えるような体勢になった。伊豆宮とともにベース・バーを握り、
「行くよっ」
斜面を走りだす。
「離陸《テイクオフ》!」
ふたりの身体は、たちまち空へ舞いあがった。
「どう……?」
「す、すごいっ」
伊豆宮はそう応えるのが精一杯だった。夜空と市街地の入りまじっためくるめくパノラマが、ジェットコースターに乗っているときのように、めまぐるしく展開する。
(姫は……いつも、こんな景色を見てたんだ……)
恋人の、知らなかった面を今頃になって味わい、伊豆宮は矢口に少しだけ嫉妬した。自分の背中に密着した矢口の身体から、体温が伝わってくる。
「〈常世の森〉のほうに行きます」
グライダーが左へ大きく傾き、伊豆宮はぎくりとした。
「怖がらなくていいよ。ぼくがちゃんとコントロールしてるから」
内心の恐怖をさとられたのがわかって、伊豆宮は赤面した。
「さあ、森のうえに来たよ。ここからは、撃たれる危険がある。覚悟を決めて、ぼくに命を預けてほしい」
「――はい」
伊豆宮はすなおにうなずいた。
グライダーは、森の奥深くに向かい、吸いこまれるように進む。鬱蒼《うっそう》たる青い森、小さく光る沼、何だかわからない動物の群、そして、いくつかの洞窟……。ふたりは、それらのうえを悠々と通過していく。
「あっ、あれ……!」
伊豆宮は下を指さした。矢口も、そちらに顔を向けた。
「十字架……」
それは、一種の洞窟だった。入り口がはっきりと見えた。だが、全体の形状は、十字架の形をしていた。
(姫が『キリスト』って言ったのは、このことだったのね!)
伊豆宮は、奇妙な形をしたその洞窟の周囲の様子や、〈常世の森〉のなかでの位置などを頭にたたき込んだ。
「見たね」
「見たわ」
「よし、戻ろう」
矢口がバーを握り直したとき。
たん。
たん。
たん。
たん。
短く、軽い音が、はるか下方から聞こえてきた。
「しっかりつかまってろ」
矢口は、グライダーを急降下させた。
「わあああっ」
伊豆宮は思わず絶叫した。
たん。
たん。
たん。
「くそっ、狙い、正確だな」
その言葉とともにグライダーはいきなり右旋回し、みるみるスピードをあげていった。
「怖い……っ」
「大丈夫。預かった命は粗末にできないって」
たん……。
たん…………。
ライフルの発射音は、後ろに遠ざかっていく。
ハンググライダーは、ゆっくりと〈常世の森〉を越えていった。
◇
「ふーむ……」
伊豆宮の話を聞いて、藪田は唸《うな》った。
「十字架の形をした洞窟なあ……」
そう言ったあと、彼はたっぷり五分ほど唸りつづけた。伊豆宮たちは固唾《かたず》を飲んで、顧問の次の言葉を待った。やがて、藪田は一升瓶から酒をごくりと飲むと、
「道村姫子が見た、ゆうのは、その洞窟のことにちがいないな」
「と思います。姫が、『キリスト』と言いのこしたのは、十字架のことでしょう」
伊豆宮がそう言った。
「姫は、あの洞窟を目撃したために殺されたんです。あの十字形の洞窟に、何か秘密があるんでしょうか」
「うーむ……」
藪田は、もう一口、酒を含むと、目を閉じ、
「十字架……十字架……キリスト教……」
呪文のようにそうつぶやいた。そして、目を閉じたまま、
「伊豆宮、キリスト教ゆうたら何を連想する」
「そうですね……黙示録、ハルマゲドン、最後の審判、反キリスト……」
「なるほど、終末思想やな。白壁は?」
「ザビエル、禁教令、踏み絵、隠れキリシタン、迫害……てえところかな」
「ふむ。犬塚は」
「一神教、三位一体、十二使徒、洗礼、聖体拝領、ミサ、ローマ法王、カトリックとプロテスタント……」
「さすが詳しいな。――諸星は」
「えっ、私ですか……えーとえーとえーと……たしか東北にキリストの墓ってありますよね。関係ないか。あははは。あと、えーと……こどものころ、アーメン、ソーメン、冷やソーメンってなかったですか。ああ、いわなきゃよかった」
藪田の目が光った。
「今、何て言うた」
「えっ? 冷やソーメンですか」
「ちがう、そのまえや」
「えーと……アーメン……」
「ふむ。犬塚、アーメンちゅうのは、どういう意味やったかな」
「ヘブライ語で、『まことにそのとおり』という意味です。誓約のときなどに使われる文句ですね」
藪田は、わざとらしい欠伸《あくび》をして、
「さっぱり、わけわからんわ。十字の形をしてたからいうて、キリスト教と関係あるかどうかわからんしな。ただのバッテンかもしれんし、プラスとかエックスとか掛け算とか……なんぼでも意味はくみ取れるわけや」
「それはそうですけど……」
「とにかく伊豆宮と矢口くんは気ぃつけるこっちゃ。狙われるかもしれんからな」
「はい、注意します」
伊豆宮はうなずくと、みなに向かって、
「さ、いよいよ『マダム諸星の幸運を呼ぶ神秘のアクセサリー』開店よ。がんばりましょう!」
◇
四人が出ていったあと、藪田はにやりと笑った。
「でかした。でかしたでえ、伊豆宮……とうとう所在地がほぼ特定できた。うふふふふふ……この日を何年待ったことか」
彼は、奥の部屋の埃《ほこり》だらけの机のうえに無造作に積みあげられた古文書のなかから、一冊を抜きだした。ぼろぼろになった和綴《わと》じの書物。表紙には、「伊邪耶《いざや》」という文字だけが判読できた。
「すべてはこれに書いてあるとおりや。いよいよ……いよいよ世の立て替え立て直しのときが来たで……」
◇
「『伊邪耶による黙示録』?」
五皿目の大盛り焼きそばをぱくつきながら、比夏留は眉根を寄せた。
「ヨハネのまちがいじゃないの?」
「それより……いいんですか? マダム諸星がこんなところで油を売ってて」
模擬店のまえの床机《しょうぎ》に腰かけ、コーラを飲みながら保志野《ほしの》が言った。
「いーんだって。もう疲れたの、あんなインチキ商売に加担するのは。だって、飛ぶように売れちゃうのよ、ただの石ころが千三百円で」
「いいことじゃないですか」
「よくなーい。だって、善良な一般市民をだましてるわけだから……」
「イワシの頭も信心から、っていうじゃないですか」
「あっ、藪爺とおんなじこと言ってるー」
保志野は頭を掻き、
「『伊邪耶による黙示録』という書物があるんです。イザヤというのは、旧約聖書に登場する大預言者で、〈最後の審判〉を預言した人物として知られています」
「〈最後の審判〉って、神がすべての人間に最終的な裁きをくだす日なんだよね」
「そうです。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は、その日の到来を待ちこがれているのです。でも、これまで人類が築いてきたものが何もかもくつがえされ、崩壊するときでもあるんです」
「どうして、そんなものを待ちこがれるの?」
「神の審判で『良し』とされたひとは、天国に召され、永遠の命を得ます。逆に、『悪し』とされたひとは、地獄に堕ち、永遠に苦しむことになります。その日の来ることを信じている敬虔《けいけん》な信者たちは、永遠の命を得るために、現世では神の教えに忠実に生活し、いつ『審判』がくだってもいいように準備してるんです」
「はあ、なるほど……」
「旧約聖書の『イザヤ書』のなかに、こういう一節があります」
そう前置きして、保志野はつぎのような文章を暗唱した。
この日には高ぶる者はかがめられ
驕《おご》る人はひくくせられ
唯《ただ》エホバのみ高くあげられ給わん
かくて偶像はことごとく亡《ほろ》びうすべし
エホバたちて地を震動《ふるいうごか》し給うとき
人々そのおそるべき容貌《みかたち》と
その御稜威《みいつ》の光輝《かがやき》とをさけて
巌《いわお》の洞《ほら》と地の穴とにいらん
「巌の……洞……」
比夏留が、焼きそばを口に運ぶ手をとめて、そう言うと、
「これは、『最後の審判』のときの様子をあらわしたものと言われています。神は、大地を震動させて、すべてを滅ぼしてしまうのです」
タイミングよく、ぐらり、と地面が揺れた。比夏留は真っ青になった。
「『伊邪耶による黙示録』は、そのイザヤの名前を借りて、世界がこれからどうなるかを記述した預言書です。中身はめちゃくちゃで、大ぼらと妄想にみちています。大預言者イザヤが書いたことになっていますが、イザヤは日本人で、伊邪那岐命の直系の子孫ということになっています」
「……それってほんとなの?」
「もちろん偽書です。たぶん、大正時代に作られたものだろうと言われています。世界の現状を憂えて、世の中の立て替え立て直しをしなければならぬ、というのがその主張です。そのあたりは、同時期の大本《おおもと》教と似ていますね」
「大本教」というのが何のことかわからぬ比夏留はだまってうなずくだけだった。
「簡単にいうと、今の世界を一度根底からぶちこわして、神の教えに基づいた理想の世の中をつくろう、ということです」
「そんなことできるの?」
「できるわけありません。だから、こういった新興宗教はテロに走ったり、みずからハルマゲドンを演出しようとしたりするんです」
「…………」
「危険思想だということで、昭和初期に禁書に指定されて、流布していた分は回収され、ことごとく破棄されたはずです。ぼくは、国立民俗学資料館でその断片のコピーを読んだだけなんです。だから、肝心のところは目にしていないんですけど……」
「ふーん……」
「で、ぼくが何を言いたいかというと……『伊邪耶による黙示録』のなかで、著者は『伊邪耶の洞窟』というものに何度も言及しています。その洞窟こそ、さっきぼくが言った『イザヤ書』に出てくる『巌の洞』だというのです。この洞窟を開くことによって、世の立て替え立て直しを実現することができる、というんです」
「それが、道村さんや伊豆せんが見た、十字架の形をした洞窟だっていうの?」
「もしかしたら、と思ったんです。『伊邪耶による黙示録』には、『巌の洞』の所在地はしかとはわからぬが、S県の北東部の大森林のいずこかではないか、と書かれています。そして、すみやかに場所を特定し、その洞を開くこと肝要なるべし、とあります」
「S県の北東部の大森林って……」
「そう……〈常世の森〉でしょう」
「じゃあ、道村さんは、『伊邪耶の洞窟』の場所を知ったから殺されたっていうの?」
「可能性はありますね」
保志野は、コーラの残りを飲みほすと、
「どうしてこんなことを言うかというと、ぼく、『伊邪耶による黙示録』の現物を見たことがあるんです」
「え? どこで?」
「民研の部室で。藪田先生の机のうえで」
「まさか……」
「ぼくが入部させられそうになったとき、ぼくが机のうえの『伊邪耶による黙示録』に目をとめると、あのひとはその内容についてぼくの知らないことまで詳しく語り、どう思うかときいてきました。もちろん、ぼくはでたらめな戯言だと思ったので、そう言うと、藪田さんは怒りだし、今の日本の置かれている最低の状況について声高に言いたてはじめ、若者こそがこの現実を認識し、命を賭けてそれを変革しなければならないのに、とぼくをなじりました。それが、ぼくとあのひとが決裂した原因なんです」
「保志野くんが知らなかった、『伊邪耶による黙示録』の内容って何?」
「――それは……また今度お教えします」
「藪爺は、それを真剣に信じてるのかなあ」
「でしょうね。あの……『伊邪耶による黙示録』の著者は、脇田竜三郎《わきたりゅうざぶろう》。ぼくは、藪田さんは、十年以上まえに『天岩屋戸《あめのいわやど》論争』の果てに学界を追放された脇田|鳳三郎《ほうざぶろう》の変名だと思ってるんだけど……」
そういえば、比夏留の父、弾次郎もそんなことを言っていた。
「――じゃあ……」
「そうなんです。脇田竜三郎は、脇田鳳三郎の父親なんですよ」
◇
コッ、コッ、コッコッコッコッコッコッ……
コーケコッコー!
コケコッコー!
コケーッコッコッコー!
数百羽のオンドリが一斉にときをつくった。そのやかましさは言語を絶するものがあった。〈鶏鳴祭〉のクライマックスだ。
コケーッ!
コケーッ!
コケーッ!
コケーッ!
コケーッ!
まだ明けきらぬ空のした、運動場狭しと駆けまわり、鳴きたてるニワトリたちと、それを追いかけまわす生徒たちを壇上から満足げに見つめながら、田中喜八学園高等学校校長田中喜八は、べつのことを考えていた。
(あのふたり……)
彼の頭には、昨夜、〈常世の森〉上空をハンググライダーで通過した二名のことが浮かんでいた。
(どこの誰かわからんが……見つけだして、始末せねばなるまい。アレを見られたかもしれんからな……)
田中喜八は、誰にも見られないように、唾を足もとに吐いた。
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_135.jpg)入る]
雷獣洞の研究
(前略)益頭郡花沢村、高草山に雷獣と云獣あり。生温柔にして、よく晝寝し、覚るといへども、眼見えざるが如し。雷鳴暴雨の日、雲に乗り、空中を飛行し誤て落る時は、木を擘《さ》き、人を害《そこな》ふ、其猛勢当るべからず。其形猫の如く鼬《いたち》に類せり。惣身の毛は、乱生して、薄赤く黒みを帯び、腹より股の辺り、うす黄色の毛あり。髭はうす黒に栗色の毛交り、真黒の斑ありて長く、眼は円にして尖く、耳は小さく立て鼠に似たり。爪は尖りて、其先裏に曲り、尾は殊に長く、四足の指、前四後に水かき指一あり。頭より尾に到る、長さ二尺余、尾其半を過ぐ、是を撫れば甚臭気あり。
[#地付き]――「駿國雑志」より
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いの……。
ゲーム……。
です……。
プロローグ
あれはどこにあるのでしょうか。
いったいどこに隠されているのでしょうか。
これだけ探しても見つからないということは。
寺の……遠雷寺《えんらいじ》のなかではないようです。
ということは、この広大な庭のどこかに埋まっているのでしょうか……。
わからない。
わからない。
でも……。
なんとしてでも見つけなければ……。
住職はどうしても口を割らないのです。
ならば、私の命とひきかえてでも……。
それが私の使命……。
金竜《きんりゅう》和尚のドクロ。
そして……そして、ポンポ。
1
「あれー?浦飯《うらめし》先輩は?」
バスに乗りこんだ比夏留《ひかる》が、まわりの席を見まわして伊豆宮《いずみや》にたずねると、
「あいつ、またドタキャンなの。きのうの夕方、うちに電話があって、急に〈ピヌルヴェンカの蹄《ひづめ》〉の集会が入ったから、合宿キャンセルするって。ほんっと、困るのよね」
部長はため息まじりに応えた。今回の合宿の手配一切を担当した犬塚は、
「人数もちゃんと向こうに伝えてあるのに、マジ困る〜」
憂鬱《ゆううつ》そうな顔でそう言った。
「ひとり減ったことは伝えたんですか?」
犬塚はかぶりを振った。
「今朝、出がけに電話したんだけど、誰も出なくて……」
浦飯|聖一《せいいち》は、民俗学研究会に所属する二年生だが、部室にもめったに顔を見せないし、合宿だの文化祭だのといった行事ごとにもたまにしか参加しない。一種の幽霊部員だが、本人は霊魂の不滅を信じており、
「幽霊部員、けっこう。俺は幽霊は存在すると思ってますから」
などとうそぶいている。オカルトに造詣が深く、〈ピヌルヴェンカの蹄〉という新興宗教だか悪魔崇拝だかにのめりこんでおり(本人は「一種のアニミズム」と言っているが)、そちらの活動が忙しくて、なかなか民研のほうには出てこられないらしい。
「あんなやつ、クビにしてくださいよ、伊豆せん」
浦飯と同じ二年生の犬塚が訴えたが、
「あれでもオカルト系にはめっぽう強いからね、一応、うちの戦力にはなってるから……」
「でも、こんなに出てこないんじゃ、いてもいなくても一緒じゃないですか」
「おいらは好きだぜ、浦飯の野郎」
巨体を窮屈そうに座席に沈めていた三年生の白壁《しらかべ》が言った。
「あいつは、ある意味、民俗学を体得してらあね。宗教なんてえものは、外《そと》っ面《つら》を撫でてるだけじゃわからねえ。信者になってみて、はじめてわかることもあらあな」
「そんなものかしら」
犬塚は小首をかしげた。
「十一時のニュースです」
車内にかかっていたラジオで、ニュース番組がはじまった。
「一昨日より非公式に来日中のサンダース王国皇太子、ブラック・サンダース王子の行方がわからなくなっており、サンダース王国の王室警察が日本の警察庁に捜索を求めました。これを受けて、警察庁は外務省と連携して捜査を開始しました。王室警察のブラゼアミ特務部長によると、王子はこれまでにも何度か、誰にも行き先を告げずに姿を消す奇行を行ったことがあり、おそらく今回もそうした自主行動によるものと思われるとのことですが、何らかの事件に巻きこまれた可能性もあり、警察庁は各都道府県の警察に指示して……」
「ブラック・サンダース王子? なんだかものすげえ名前の野郎じゃねえか」
白壁があきれたような声をだした。
「王子は、ケインという名の愛犬一匹を連れているとのことです。警察庁は、王子の写真を一般公開しておりますが、王子は変装の名人でもあるとのことなので、現在は顔かたちや衣服がかわっている可能性もあ……」
ニュースが、歌番組にかえられた。
「……なのよん。そうなのよん。わたしは馬鹿なのよん」
音程のふらついた歌手の声が車内に充ちる。
今日は、私立|田中喜八《でんなかきはち》高等学校民俗学研究会恒例の冬合宿の初日だ。もちろん、バスを借りきるような人数ではないから、現地までは乗り合いの観光バスを利用する。
「まあまあ、いいじゃないですか。これから楽しい旅行がはじまるんですよ」
ドーナツをぱくつきながら、比夏留が言うと、
「旅行じゃないわよ。これは、合宿なの」
ぴしゃり、と伊豆宮が言った。
「それに、比夏留ちゃんと一緒に合宿行くと、最近、ろくな目にあわないからなあ」
と犬塚。
「そそそそそんなことありませんよ。ぱくぱく。人聞きが悪いじゃないですか、犬せん。ぱくぱくぱく。私と一緒だったらろくな目にあわないってどういうことですかっ。ぱくぱくぱくぱく」
「あんた、食べるか怒るかどっちかにしなさいよ。それ、ドーナツ、いくつ買ってきたの?」
「ミスタードーナツ全種類です」
比夏留は平たい胸をはった。
「まあ、今度はそんなこともあるめえよ。行き先は、山間《やまあい》村の『遠雷寺』ってところだが、静かな村だそうだ。泊まるのはおいらたちだけ。事件ももめごとも起きようがねえよ」
「比夏留ちゃんを甘くみるのは禁物よ」
伊豆宮が言った。
「火のないところにも大火事を起こすんだから」
「ひどいっ。いくら先輩でもそんな言い方ひどいっ……ぱくぱくぱくぱくぱく」
「ちょっと、なげくか食べるかどっちかにしな……うわあっ」
ぎいいいいいいいい……ん。
フェラーリが一台、猛スピードでバスを追い抜いていった。運転手はその車をさけるためにハンドルを思いきり左にきり、車体が大きく揺れた。
「気をつけろ、バカヤロー!」
運転手が窓をあけて大声で怒鳴り、客たちは皆、青ざめたが、比夏留はひとり平然としてドーナツを食べ続けていた。
◇
今回の合宿先を見つけてきたのは、伊豆宮だった。田中喜八高校民俗学研究会は、別名「洞窟研究会」としても知られているが、S県の東端の山中の山間村というところに「雷獣《らいじゅう》洞」という洞窟があり、その近くに「遠雷寺」という古寺がある。
遠雷寺の本尊は、「雷鳴観世音菩薩」という秘仏だそうだが、これが観音というようなおごそかな外観をしておらず、動物、もっとはっきり言うと、化け物にしか見えないというのだ。あるアマチュアのオカルト研究家が写真をネットに公開したことで有名になった。
「これって、雷獣じゃないの?」
妖怪や伝承・伝説の類に詳しい伊豆宮が、ネットからダウンロードしてきた写真を皆に示して、そう言った。
「なんですか、雷獣って」
犬塚がきくと、比夏留が、なんだそんなこともしらないのかという顔で、
「ポケモンですよ。ピカチュウが進化してライチュウになるんです」
「ライチュウじゃなくて、雷獣。昔の日本人は、雷を落とすのは、雷神という神さまと思ってたみたいだけど、それとはべつに、雷のなかには雷獣という四足獣がいて、雷雨のときに雲に乗って飛ぶと考えられていたのよ。ときどき、足を滑らせて、雲から落雷とともに落ちてくるから、落雷のときに目撃情報が多いのよ」
「ほんとにいるんですか、そんなやつ」
比夏留の言葉に、
「森の木に落雷したときなんかに、そこに棲んでたテンとかハクビシンとかがびっくりして飛びだしてきたのを見まちがえたんじゃないかって言われてるわね。だから、ときどき、雷獣の剥製っていうのがお寺に祀《まつ》られてるけど、たいがいその手の哺乳動物のものらしいわ」
「へー、そーなんですか」
「おもしろそうじゃない? 今度の合宿場所、ここにしようよ。近くに『雷獣洞』っていう洞窟もあって、そこは雷獣が棲んでいたという言い伝えもあるらしいわ。うちにぴったりじゃない?」
世間一般の高校三年生は、受験勉強の最後の追いこみで必死になっているはずだが、伊豆宮も白壁も実にのんびりしている。なぜかというと、相撲部屋のひとり息子である白壁は、卒業と同時に入門することになっているので、受験も就職もする必要がないし、東京の大学を受験するつもりだった伊豆宮も、「恋人」だった道村姫子《みちむらひめこ》がハンググライダーで飛行中に大怪我を負い、病院で謎の死をとげてしまったことで受験に対する意欲がすっかりなくなってしまったようなのだ。もともと、道村姫子が東京の大学を受けるというので、自分もそうしようと思っていただけだったから、道村の死去で受験勉強を続ける理由がなくなってしまったのだ。かといって就職する気もないらしいが、現在、伊豆宮のまえで将来の話をするのはタブーになっていた。
「それじゃ、犬塚さん、手配よろしくね」
というわけで、山間村での合宿を手配しようとした犬塚だが、これが一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない仕事だった。
山間村は過疎の村で、たしかに「雷獣洞」も「遠雷寺」もあることはあったが、肝心の宿がない。村役場に電話してきいてみても、ホテル、旅館はおろか民宿も国民宿舎もなーんにもない。
「どこか泊まれるところはありませんか。山小屋でもいいんですけど。最悪、テントが張れるようなキャンプ場でもいいです」
「なんにもねえっだなんし。このあたりは過疎地でのう、村人も高齢者ばっかでよ、再来年には村人全員が村を捨てることになっとるがんも。それにのう、あんたらが行きてえつう『遠雷寺』も『雷獣洞』も、うちの村内ちうことにはなっとるばし、山ひとつ越えていかねばならんで、うちの村に泊まっても、なかなかたいへんざわ。歩いて、三時間はかかるがんも」
うひゃあ。
「どうしてもってばあ、山ばふたつ越えたとこに、W村ちゅうとこがあるで、そこなら観光旅館があったはずばっし」
「山間村とW村は近いんですか」
「歩いて六時間ちうところがんも」
どひゃあ。
犬塚は、村での宿泊をあきらめ、「遠雷寺」に直接電話をしてみた。電話に出たのは、かなり高齢とおぼしき住職で、
「ほほう、あんたら、うちの寺に関心がおありかね。そりゃあええ。いくらでも泊めてやるがんも」
「ほ、ほんとですか」
「びっくりするほどのポロ寺じゃが、それでもよければ、寝る場所はいくらでもあるざわ」
「あ、あ、ありがとうございます」
「ざがのう、あんたがた、民俗学を研究なすっとるんじゃろう。うちの寺は、なかなか古うてのう、お目当ての雷鳴観世音菩薩以外にも、いろいろご興味をひきそうなものがごろごろしとるがんな。楽しみにして、いらっしゃい」
犬塚は電話を持ったまま最敬礼した。
「わしは年寄りざで、細かいことは、儀山《ぎざん》という若い僧がおるゆえ、それと相談しなされ」
住職は電話を、甲高《かんだか》い声の僧侶にかわった。
「儀山と申します。これまでお客人を受けいれたことはないのですが、住職の言いつけですので、できるかぎりご希望にそいたいと思います。お食事などはどうさせていただいたらよろしいでしょうか」
てきぱきとした応対で、犬塚はすっかり恐縮してしまった。話はトントン拍子に進み、民研一行は遠雷寺に宿泊させてもらうことになった。しかも、宿泊料金はとんでもない格安で。
儀山という僧によると、「遠雷寺」は天台宗に属する、非常に由緒のある寺だが、周辺の村の過疎化とともに荒れ果て、今は、住職の雷山《らいざん》と儀山のふたりしか残っていないのだという。しかし、儀山によると、雷山はなかなか立派な人物らしく、阿闍梨《あじゃり》の資格をもっているが、高齢になった今も、大阿闍梨を目指して、日夜、修行をおこたらないのだという。
阿闍梨というのは密教における位のひとつだが、大阿闍梨になるには、千日回峰や不眠の行などの苛酷な修行を経る必要がある。とうてい常人には不可能な、スーパーマン的な精神力と体力が要求される荒行であり、挑戦するには、住職は年をとりすぎていると思われるが、本人はどうしてもやるのだといってきかないらしい。
「では、一週間後にうかがいますので、よろしくお願いいたします」
犬塚は、儀山と詳細を打ちあわせてから電話を切った。
◇
出発してから三十分ほどしたころ、バスはサービスエリアに入った。
「あー、小便、小便」
よほど溜まっていたのか、白壁が真っ先にどすどすと降りていき、比夏留たちもそのあとに続いた。トイレは混んでいた。やっと用を足しおえ、バスを目指して歩きだしたとき、停めてある車の陰からひとりの男がふらりと現れた。痩せて、ひょろひょろした、情けない体格。陰気そうなその顔を見て、犬塚が叫んだ。
「浦飯くん!」
「よ、よう……」
浦飯は片手をあげた。
「キャンセルじゃなかったの?」
「それが、〈ピヌルヴェンカの蹄〉の集会が中止になっちゃったんす」
「なーにが集会よ。サバトじゃないの?」
浦飯は大仰《おおぎょう》に手を左右に振ると、
「まじめな団体っすよ。――というわけで、俺も合宿行けることになったんで、よろしく」
そう言って、先頭に立ってバスに乗り込んだ。
「いつもながら勝手なやつ」
浦飯の後ろ姿をにらみつける犬塚に、比夏留が小声で、
「でも、人数変更しなくてすんで、よかったじゃないですか」
「まあね」
犬塚は少し、ホッとした表情をみせた。
彼らが降りているあいだに、バスには新しい乗客がふたり増えていた。
ひとりは、いまどき珍しい禁煙パイポをくわえ、サングラスをかけた大男だ。茶色い髪に、鷲鼻。外国人のようだが、よくわからない。髪が薄く、顔が面長《おもなが》で、下唇が異様に分厚く、亡くなったいかりや長介によく似ている。黒いアタッシェケースを大事そうに抱え、悠然と席に身体を沈めている……ように見せているが、ときおりぴくぴく震えるパイポの先端が、この男の苛立《いらだ》ちをあらわしているようだ。
もうひとりは、こどものように背が低い老婆だ。となりの席を占領して、犬の運搬用の大きなケースを置いている。髪を紫に染め、耳には趣味の悪い、ドクロのピアスをした老婆の顔を見て、白壁がぷっと噴きだし、比夏留にささやいた。
「あの婆さん、ベラにそっくりじゃねえか」
「ベラってなんですか」
「知らねえのかよ。『妖怪人間ベム』に出てくるおばはんだ。あの婆さんみてえなきっつい顔だちなんだ」
「知りませんよ、そんなアニメ黎明期のキャラなんか」
「何言ってやがる。名作は時を超えるんだ。だいたい、おめえはこないだ、『狼少年ケン』のディックとボウが好きって言ってたじゃねえか」
「あれは、たまたまビデオで見たんですっ」
そんなふたりの会話をよそに、ベラに似た老婆は、ケースのなかの犬にしきりに話しかけている。どうやら外国語のようだが、どこの言葉かはわからない。犬は応えて、妙にしゃがれた声で鳴く。少なくとも「ワンワン」には聞こえないから、これもどこか外国の犬なのだろう。
「外人がふたりも、こんな田舎に何の用かしら」
伊豆宮が誰に言うともなく口にした問いに、浦飯が言った。
「さあ……」
バスの車窓から見える風景がどんどん寒々としてきている。
「もうじき山間村に入るはずです」
犬塚が言った。山道に入ってからは、急なS字カーブの連続で、客のなかには気分の悪くなるものもいたが、比夏留は残りのドーナツをすっかり平らげてしまい、続いてマクドナルドのハンバーガーをパクつきだした。
「よく食べるぜ、まったく。おめえっちも、ちったあ諸星《もろぼし》をみならえよ。その痩せっぽちのままじゃ、女にもてねえぜ」
白壁が、浦飯の背中を平手で「どん」と叩き、浦飯は咳《せ》き込みながら、悲しげに笑った。
◇
バスは終点の山間村に着き、乗客は全員降りた。犬塚と比夏留は、村役場に行って、遠雷寺までの道をきくことにした。
「ああ、遠雷寺のう……これはなかなか説明しにくいがんも……」
役場の担当者は困ったような顔をした。
「そんなに行きにくいんですか」
「そうなんし。あのあたりは一種の『隠れ里』みたいなもんで、わしらもめったに行かんざわ。山道はきついし、車では行けんしのう……。それに……」
担当者は犬塚の耳に口をひっつけんばかりにして、声をひそめると、
「ぶっちゃけて言うと、こないだの台風で地盤がゆるんどるがんも。崖が何ヵ所か危ねえんざわ。崩れたらどえれえことになるずばん。補修はおっつかねえし……できたら、やめたほうがええと思うがのう」
「そんなに危ないんなら、通行止めにしたほうがいいんじゃないんですか」
「そうしてえのはやまやまなんじゃが、あそこは寺と村を結ぶライフラインざっで、なまなかのことでは通行止めにはできん。悪いことは言わんから、引き返しなっせい」
「そうはいかないんです。遠雷寺のご住職と約束してしまっていますから」
「ああ、雷山和尚のう。あのひとは人格者ざわ。大阿闍梨とかいうのになるちうて、九十歳近いいまでも、修行をおこたらぬがんも。えらいおかたざっす」
「へー、でも、そんなにえらいひとだと、すごく気むずかしかったり、めちゃめちゃ頑固だったりするんじゃないですか」
比夏留が言うと、
「なんのなんの。なかなかくだけたところのあるおかたでのう、気持ちは若いままざわ。ま、会うてみたらわかるがい」
比夏留たちは、じゅうぶん気をつけるという約束で、担当者に簡単な地図を書いてもらった。
「しかし、なんざのう。今日は妙な日ざわ。遠雷寺に行く道なんぞ、何年かに一度しかきかれることはないのに、あんたらで今日は二件目がんも」
「ほかに誰がきいたんですか」
犬塚がたずねると、担当者は言った。
「背の低い、犬を連れたババアざわ。ほれ、なんちゅうたか……そうそう、『妖怪人間ベム』に出てくるベラみてえな顔をした……」
◇
役場の担当者は嘘をついていなかった。山道は、とてつもなくたいへんだった。坂は急だし、大きな岩がごろごろしていて、歩きにくいことこのうえない。体重の重い白壁と比夏留はすぐに音《ね》をあげた。いくら身体を鍛えているといっても、脚には人一倍……いや人十倍ぐらい負担がかかるのだ。
「しんどいよー、つらいよー」
「うるさいわよ、諸星さん。ぐだぐだ言わずに歩く!」
伊豆宮の叱責に、足をちょっとだけ動かす。
「誰でえ、こんなとこ合宿先に選んだ野郎は」
「私です。白壁くんも文句言わない。男でしょ」
噴きだす汗をぬぐい、斜面を踏みしめ、のろのろと蝸牛《かたつむり》の歩みを続けているうちに、夕方になった。
「なーんか、空が暗いわねえ……」
伊豆宮が、樹木のあいだからのぞく空を見あげて、言った。
「そうですね。嫌な雲。雨が降らなければいいけど……」
その言葉が終わらぬうちに、ぱらり、と数粒の水滴が髪にかかった。
「うわっ、これはまさか……」
どっかーん。
天の底が抜けた、というのはこのことだ。一瞬にして、車軸を流すような大雨になった。持参の雨具も、何の役にもたたないほどの土砂降りである。五人は全身ずぶ濡れになって、木の陰に雨宿りした。山道が、川のようになっている。
「どうします、これじゃ前にも後ろにも進めないし……」
空が光った。
直後、大気を引き裂くような雷が、彼らの目のまえに落下した。爆弾が落ちたみたいな衝撃。地響き、そして、焦げくさい臭い。犬塚も伊豆宮もしゃがみこんで、頭を抱えている。浦飯は気絶してひっくり返り、白壁はべったりと尻餅をついている。比夏留ひとりが立ったままである。怖くないわけではない。それどころか、あまりの恐怖に泣きそうになっているのだ。しゃがみたかったが、足がまるで動かず、しゃがむにしゃがめなかったのだ。
ふたたび、空が発光した。ごん……ごろ……ごん……ごろごろごろ……バスドラムをマレットで叩くような低い音が全天に轟《とどろ》き……。
巨大な鉈《なた》が降ってきたみたいだった。すぐまえにあった杉の大木が、真っ二つに裂けたのだ。白い水蒸気がしゅうしゅうとあがっている。そして……。
「うわああああっ」
比夏留は絶叫した。木の裂け目から、焦げ茶色の何かが彼女に向かって飛びかかってきたのだ。
2
(雷獣……!)
後ずさりしながらも、比夏留は〈独楽《こま》〉の技を繰りだそうとしていた。だが、あわてふためいているので、足もとがお留守になっていて、両脚がからまり、そのまま後ろむきに転倒した。その「何か」は比夏留のうえにのしかかってきた。獣特有の、荒い息づかいと濃い体臭が迫ってくる。
(殺される……っ)
比夏留が両手で顔を覆ったとき。
大地が鳴動した。
これまでで一番激しい落雷が、すぐ横の崖を直撃したのだ。
崖を構成していた大岩が次々と崩れていき、みるみるうちに道をふさいでいった。比夏留は、ただ呆然としてそれを見つめるしかなかった。
◇
数分のちには、空は嘘のように晴れわたっていた。夕焼けが西の空を血のように染めている。雷も、黒雲も、雨も、どこかに行ってしまった。残ったのは、焦げた杉の木と、崩れた崖、そして、へたりこむ五人の男女……。
「こいつは、マジ、やべえぜ」
白壁が言った。
「道がなくなっちまった。これじゃ、帰れねえ」
「行くしかないわね」
伊豆宮が言った。
「行くって……どこに?」
「もちろん、遠雷寺よ。最初の計画どおりでしょ」
「ま、まあそうだけどよ……」
白壁は道ばたの石を蹴り、
「なあにが『遠雷』寺だ。直撃じゃあねえか」
犬塚が携帯電話を取りだし、
「とにかく、このことを村役場と警察に連絡しておきます。あと、お寺のほうにも……」
しかし、電話はつながらなかった。山のなかで電波が届かないようである。
伊豆宮が先に立って歩きだし、ひとりまたひとりと続いた。比夏留はやれやれと首を振り、いちばんしんがりについて歩きだした。
そこから、寺までは意外と近かった。二十分も歩かないうちに、古い山門が山稜から頭をのぞかせているのが見えたときには、比夏留は、ほっとして、泣きそうになった。あちこちがひび割れた、百段近い石段をのぼる。山門には額が掲げられているが、あまりに古色蒼然としていて、何と書いてあるのかすらわからなかった。門のしたに、木の看板が据えてあり、白いペンキで次のような文章が書かれていた。
遠雷寺縁起
当山は天台宗の寺院にして、延喜式にもその名の見える由緒《ゆいしょ》ある寺である。雷鳴観世音菩薩を本尊としているが、そもそも当寺の開山は、雷鳴国なる異国より来たる高僧・金竜三十六である。天台密教の奥義《おうぎ》に達した金竜和尚は、その法力を用いて、霊験あらたかなる秘薬「ポンポ」を作り、病に苦しむ人々を救ったとの言い伝えも残されており、当地では、生き神さまと崇《あが》められていたが、百十八歳で大往生を遂げた。
寺内には、「幽霊の井戸」や「首つりの松」といった古跡も多くあり、また、寺からほど近い「雷獣洞」なる洞窟には、雷獣という妖怪が棲んでいたとの伝承もあり、観光の名所となっている。
門をくぐると、寺内はやたらと広かった。手入れがまるでされていないらしく、草がぼうぼうにおいしげり、荒れはてた印象である。この時期にこれなのだから、夏から秋にかけては、無惨ではないか、と比夏留は思った。
「おい、あれ……もしかして……」
白壁が、塀際にある三本の松の木を指さした。少しずつ離れた場所にあるのだが、いずれも、枝も幹も醜く歪《ゆが》み、あちこちに瘤《こぶ》があり、枝振りは妖怪が両手を広げたようで、なんとも薄気味悪い。
「さっきの看板にあった『首つりの松』じゃあねえのかよ。だって、ほかにゃあ松の木なんぞねえし……」
比夏留も、内心、
(嫌な感じの木だなあ……)
と思った。
すでに太陽は没しかけており、東の空には気の早い月が低くかかっていた。比夏留は、敷地内を見回したが、暗いせいもあってか、「幽霊の井戸」とおぼしき井戸は見あたらなかった。
「肝試しにはもってこいのシチュエーションね」
と伊豆宮が言った。
「や、やめてくださいよ。私、怖いの苦手ですからねっ」
寺の本堂は、山門に輪をかけてぼろぼろだった。屋根は、瓦は落ち、あちこちが陥没している。柱はシロアリに食い荒らされているのが一見してわかるほど朽ちていて、壁は半ば崩れかかっている。ほとんど廃屋《はいおく》といってよく、マニアが泣いて喜びそうだ。本堂に隣接して建てられているいくつかの建物も、似たようなものだ。
「ここに……泊まるのか……」
白壁は泣きそうな声を出した。
だが、何より比夏留は、寺の全体から押し寄せてくるような「嫌な気」に圧倒された。寺の建物が、怪物のように口をあけて、比夏留たちが罠《わな》に足を踏みいれるのを待っている……そんな悪い想像が頭に広がる。
「すいませーん、誰かいませんかー」
犬塚が口に両手をあてて叫んだ。
「田中喜八高校の民俗学研究会のものでーす。儀山さん、いらっしゃいますかー」
犬塚の声が建物に反響して、わあああん……とエコーがかかる。
「いないのかなあ。すいませーん!」
犬塚は、なおも数回、声をはりあげた。しばらくすると、本堂の横にある建物の裏木戸があいて、年老いた僧侶があらわれた。手も脚も枯れ木のように細い。染《し》みだらけの僧衣を着、頭には、法主頭巾というのか、錣《しころ》のついた頭巾をかぶっている。
「これはこれは、遠いところをご苦労さまざわ。いくら若い衆でも疲れたがんも。わしが、この寺の住職の雷山じゃ。ま、ごゆるりとしていきなされ」
「よろしくお願いします」
一同は頭を下げた。
伊豆宮が進みでて、自分を含め五人のメンバーを簡単に紹介した。
「あんたがたは民俗学を研究しておられるとか。この寺は、天台宗に属してはおるが、一種の異端でのう、いろいろとおもしろいことがあるで、あんたらには興味深いと思うんざわ。たとえば、当寺の本尊は雷鳴観世音菩薩と申さるるが、見かけが変わっておってな、こないだもどこかのオカルト雑誌の記者とかいうやつが取材にきよった」
住職は、自慢げな口調で言った。
「山門のところの看板で見たんですが、外国から来たかたがはじめられた寺院だとか……」
犬塚が言うと、
「ほっほほほ。さよう。初代の住職は金竜和尚と申し、異国から来られたおかたざわ」
「珍しいですね」
「なんの。さほど珍しいことではないぞ。かつては、中国から来られた高僧が開山となる例がいくらもあったのざわ」
「唐招提寺《とうしょうだいじ》なんぞもそうなんじゃねえかな」
石を積んだ台のようなものに寄りかかりながら白壁が言うと、住職はうなずき、
「うちの寺の場合は、中国から来たのではないというところが、まあ、珍しいといえば珍しいかもしれんがんも」
「どちらの国から……?」
伊豆宮がきいた。
「雷鳴国という国らしい」
「雷鳴国?」
「今でいう、サンダース王国のあるあたりにあった国ざわ」
一同は顔を見合わせた。
「あのお……サンダース王国って、どこらへんにあるんですか」
おずおずと比夏留がたずねると、
「中国とインドのあいだあたり。地図でもめだたぬ小さな小さな国ざわ。普通のひとは、まず知らんわなあ。ほっほほほほ」
「この地方には、その雷鳴国の風俗が残ってたりするんでしょうか」
民俗学のテーマを見つけたとばかりに犬塚が勢いこんできくと、
「開山以来、千年以上を経ておるが、いまだにこのあたりでは、異国じみた風貌のこどもが生まれることがあるがんも。東アジア風というかのう……」
そう言う住職の横顔も、よく見ると、少し大陸風に感じられた。
「こいつを見てみい」
住職は、古びて黄ばんだ紙をみなのまえに示した。そこには、薄れた字で何かが書かれていた。
「読めるかのう」
「おいらが読んでみます。えーと……」
白壁が、つっかえつっかえ読みあげる。
是より書き記すは、当山の大秘事にして、他所に聞こえては悪しきことどもなれば、ゆめ口外いたすまじきこと。
開山金竜和尚、異国より忌はしき習俗を密かに持ち来る也。雷鳴国にては普遍の習俗も我が国においては受け入れがたく、なほかつそれは仏門にある者には到底許されざる所業にて、金竜和尚もこのことばかりは誰にも知られぬやう内密に伏せたりけり。
「ほほう、おまえさん、古文書の旧仮名遣いがそれだけ読めれば、立派りっぱ」
「忌まわしい習俗って何でしょうか」
伊豆宮がたずねた。
「さあてのう……わしにはわからぬ。それはこの寺に伝わる秘事縁起で、住職以外は読んではならぬと言い継がれてきたもんざわ」
「そんな貴重なものを私たちに見せてもいいんですか」
「ほっほほほ。それは縁起のほんの一部でのう、残りの肝心の部分は失われてしもうたがんも」
「これも看板で見たんですが……」
犬塚が言った。
「ポンポという秘薬が伝わっているとか。それはどんなものですか」
住職は少し顔を曇らせ、
「ポンポは……ポンポざわ。そうとしか言うことはできぬ」
「薬草みたいなものなのかしら」
「豆の一種でのう、その豆を煎《い》って、粉に挽《ひ》いて、湯に溶《と》いて……珈琲《コーヒー》のようにして飲んでおったそうざわ」
「本当に病気が治るんですか」
「む……まあ、そう言われてはおるが、そんな魔法みたいな薬はあるわけないがんも。ところで、あの松をご覧じろ」
住職が、するりと話題を変えたように比夏留には思えた。
「あれが、『首つりの松』ざわ。その昔、この寺で修行をしておった三人の若い僧が、次々と首をくくりよったといわれとる。今でも、その僧たちの亡霊が、あの三本の松の木のしたに現れるというがんも。ほっほっほっ」
白壁は、巨体をぶるっと震わせ、
「冗談じゃねえぜ、まったく……」
「冗談ではないざわ。わしも見たことがある。深夜、丑三つ刻になると、あの松のまえの広場あたりに、黒い影が跳梁《ちょうりょう》しとるのをなあ。ほっほっほっほっほっ」
「『幽霊の井戸』というのは……?」
伊豆宮がきくと、白壁がその二の腕を叩き、
「つまらねえことをきくんじゃねえよ」
「どうして? 私はききたいのよ。ほんと、白壁くん、怖がりなんだから。そんな蚤の心臓じゃ、土俵にあがっても黒星ばっかりよ」
「う、うるせえんだよ、この野郎」
住職は愉快そうにふたりのやりとりを聞いていたが、
「『幽霊の井戸』は、これざわ」
そう言うと、白壁が寄りかかっていた石の台を指さした。
「ふえっ」
白壁はあわてて飛びのいた。
「古井戸でのう、今は水も出ないので使うておらんがんも。初代住職のころより、なかから幽霊が出るゆえ、近寄ってはならぬと言われてきたようじゃが、わしは見たことはないぞ」
「そ、そうけえ」
白壁は額の汗をぬぐった。
「あんたがたには、この客殿に泊まってもらうことになっとるがんも。本堂に比べるとぼろっちいがのう、部屋数はいくらもあるゆえ……」
そう言いながら住職が指さしたのは、建物が菱形にひしゃげかけている、今にも崩壊しそうな建物だった。
「寺のなかはどこも自由勝手に見てまわってもらって結構。ただし、朝は五時に起床し、勤行《ごんぎょう》をしていただくことになっとるざわ」
「ご、五時ですかあ。そんなの聞いてな……」
比夏留が文句を言おうとすると、犬塚がさっとその口を手で塞《ふさ》ぎ、
「わかりました。五時ですね。全員でかならず参上いたします」
「あとのことは、儀山に申しつけてあるゆえ、ここでしばらく待つがええ。儀山と申すは……」
「電話にでられたかたですね」
「さよう。二年ほどまえに中国から参った若者でのう、なかなかよく働きよる」
「中国のかたですか……? 電話では日本語ぺらぺらで……」
「ほっほっほっ。儀山はたいがいの日本人よりも日本語は達者ざわ。それでは、わしは修行があるゆえ、これで失礼させていただきますがんも」
「修行って、儀山さんにおききしたんですが、大阿闍梨を目指しておられるとか」
「儀山のやつ、いらぬことを……」
「いえ、すばらしいことだと思います。大阿闍梨って、たいへんな修行を経ないとなれないんですよね」
「ほっほっほっ……三年間、毎日、夜明けまえから山を縦横に走るのざわ。それから、二週間にわたって、何も食べず、一睡の睡眠もせずに、経文を唱えつづける。中途で断念した場合は、死なねばならぬのざわ」
犬塚と住職のやりとりを聞いていて、比夏留はめまいがしそうだった。二週間、飲まず食わず……? 絶対に、絶対に、ぜーーーーーったいに、自分には不可能だ。
「す、すごい……。でも、そのお歳で……」
「むりだとおっしゃるか」
「え? いえ……その……はい」
「たしかに今のわしの体力、気力ではとうてい成しとげることはできまい。じゃが、人間、いくつになっても何か目標を持って進むことが大事ざわ。目標なしに無為に人生を送ることは、仏に対しても申しわけがない。ゆえに、わしは、いつの日か千日回峰にチャレンジしようと、日々、修行を怠《おこた》らぬのじゃ。わしゃあ、ヒップホップも聴くし、ジャズダンスもする。新しいことをはじめたいと、いつも思うておるがんも」
「すばらしいことだと思います。私、感動しました」
「ほっほっ。おしゃべりがすぎました。では失礼いたすざわ」
住職は軽《かろ》やかな足取りで、本堂の西側に建っている小さな御堂のほうに去っていった。そのすぐあとに、若い僧侶が、客殿のなかから現れた。
「たいへんお待たせいたしました。どうぞ、なかへ」
それは、そういうことにうとい比夏留ですら目を見はるほどの、超美形の僧だった。長いまつげ、二重まぶたの潤んだような目、通った鼻筋、柔らかそうな桃色の唇……。つるつるに剃りあげた禿頭すら、彼の美しさに奉仕しているようだった。たしかに中国系らしく、日本人にはないエキゾチックな雰囲気が漂《ただよ》っている。
「あ、あの……ぎ、儀山さんですか」
犬塚がどもりながら言った。
「申しおくれました。当寺の番僧の儀山です。これから一週間、皆さんのお世話をさせていただきます。男所帯で、しかも、高齢の住職以外には、わたくししかおりませんので、いたらぬ点も多々あると思いますが、なにとぞご寛恕《かんじょ》くださいませ」
儀山となのった僧は、こわばった顔つきで頭をさげた。もともとそういうタイプなのかもしれないが、立ち居振る舞いもしゃべりかたも、妙によそよそしい。
「ととととんでもないっ」
比夏留は犬塚を押しのけて、まえに出た。
「宿泊させていただけるだけでじゅうぶんであります。料理もお掃除も洗濯もなにもかもすべて私たちでやりますので、どうかお気遣いなさらぬようお願い申しあげますです」
「何言ってるの、比夏留ちゃん。あなた、料理なんか全然できないじゃない」
犬塚が言うと、
「だから、『私たち』って言ってるじゃないですか。私は食べるほうを担当しますから……」
儀山は柔らかな微笑みをうかべ、
「ありがとうございます。何もできませんが、誠心誠意ご接待させていただきます」
「中国から来られたんですよね。日本語、おじょうずですね」
「この寺に参りましたのは二年ほどまえですが、それまでにも日本には何度も来ておりますから」
そう言うと、大きな目で比夏留を見つめてにっこりした。比夏留はぼーっとなって、二、三歩後ろへさがった。
「あの……もうご存じかもしれませんが」
犬塚が言った。
「さっきの雷で、崖が崩れて、山道が通れなくなったみたいです。村役場か警察に連絡しようと思ったんですが、携帯が使えなくて……」
「そうですか……」
儀山は形のよい眉をひそめ、
「それはまずいですね。あの道は、ここと村を結ぶ唯一のルートですから、復旧しないうちはここから出られないことになります」
「どれぐらいで復旧するでしょうか」
「すぐに電話して確認してみます。――このあたりは、どういうわけか雷が多くて、しょっちゅう落ちるんです。崖が崩れたのはきっと、こないだの台風の影響でしょうね……」
「こうなっちまったら腹をくくって、ゆっくりとごやっかいになりますぜ」
白壁がやけにうれしそうに言った。
「では、どうぞ」
儀山は、先にたって建物への段をのぼろうとした。そのとき、
「うわあー、ひとがいたぞ」
という声が、庭のほうから聞こえた。
◇
皆が、声のしたほうを見やると、三人の若い男女がそこにいた。疲労困憊《ひろうこんぱい》しているだけでなく、あちこちに怪我をしていて、衣服が破れたり、血が出たりしているものもいる。三人とも地面に座りこんで、息も絶えだえの様子である。
「助かったー、もうダメかと思ったよん」
「ほんと。地獄で仏てえやつですな。なまんだぶなまんだぶ」
ひどい状態のわりに、どことなく呑気さが感じられる口調だ。
「皆さまがたはどちらさまですか」
儀山が凜《りん》とした声で問うと、なかのひとりで、黒縁眼鏡をかけた青年が座ったまま、
「ぼくたちは、M大学の落語研究会のものです。ぼくは、えーと、雁須磨亭《かりすまてい》ノストラダムス。こっちが雁須磨亭ヨハネ、それに、美女家《びじょや》マリリンです」
ノストラダムスは頭をさげたが、あとのふたりは顔を動かすこともしなかった。
「W村にある旅館に合宿に来たんですが、ぼくら三人だけ途中で道に迷ってしまって……。ここはいったいどこですか」
「ここは、遠雷寺です。W村からはかなり離れています」
「歩いたらどれぐらいかかりますか」
「そうですね……まず、山間村まで出て、そこから六時間ですから、合計九時間はかかります」
「く、九時間……!」
三つ編みのおさげにした、そばかすだらけの小太りの女、マリリンが大げさなリアクションをとった。
「ひーっ、そんなに歩いたら、筋肉ムキムキになっちゃうわ」
「でも、歩くしかないでげしょ。車は山道、通れないんでげすから」
狸のような丸顔の男、雁須磨亭ヨハネが、しゃがれた声で言った。
「ねえ、このお寺に泊めてもらおうよ。もう夜じゃない。こんな時間から山道歩けないわ」
「そんなこと言っても、急にはむりでげすよ」
「私もう歩けないっ。おなかもすいたっ。ここに泊まるったら泊まるのっ」
ノストラダムスが立ちあがると、
「わがままばかり言うな。おまえ、迷ってるときも、ずっとわがまま言い放題だったろ。脚が痛いからおぶれとか、荷物を全部持てとか……いいかげんにしてくれ」
「何よ、あんた、私に説教しようっていうの? だいたいあんたが、こんな馬鹿げたこと思いつくから……」
「まあまあ……」
儀山が割ってはいった。
「わかりました。道路が復旧するまで、当寺にお泊まりください」
「わあ、やったー!」
マリリンが儀山に抱きついた。
「こんな美男のお坊さんのいるお寺に泊まれるなんて超ラッキー。ねえねえ、お坊さん、彼女いるの?」
儀山はやんわりと彼女をおしとどめ、客殿にあがった。一同はあとに続いた。腐りかけた廊下の板が、盛大にぎしぎしぎしときしむ。白壁と比夏留という超重量級のふたりがいるからしかたないとはいえ、かなり危険そうだ。
田喜学園の五人のうち、比夏留、伊豆宮、犬塚の女性(?)陣は「雷神の間」という八畳の部屋を、白壁と浦飯は「風神の間」という六畳の部屋を、M大学の三人のうち、雁須磨亭ノストラダムスとヨハネのふたりは「雷夢雷人の間」という六畳の部屋を、美女家マリリンは「雷座峰梨の間」という同じく六畳の部屋を使うことになった。
「お風呂は、六時から女性、六時半から男性の順番で入っていただきます。夕食は七時から、食堂のほうに用意させていただきます。時間厳守でお願いいたします。では、のちほど」
儀山が去ったあと、民研の五人は「雷神の間」に集まった。
「ああ、やっと落ちついた」
ラフな服装に着替えた犬塚が両手を伸ばした。
「でも、すっごい美形ですよね、あの儀山っていうひとっ」
比夏留が勢いこんで言うと、
「そうね。私もちょっと見とれちゃった。何歳ぐらいかなあ……」
「二十五、六歳じゃねえのか。たしかに中国っぽい顔だちだよなあ。なんてえか、東洋の神秘ってえのかな……」
「あのですね、白せん、儀さまは男性ですからね。白せんには関係ないんじゃないですか?」
「いやあ……」
白壁は照れたようにちょんまげを掻き、
「おいら、その気はねえつもりだったが、あれだけ美形だとちょっと心がぐらつくぜ」
「な、何言ってるんですか。だめですよっ」
「あーら、比夏留ちゃんには保志野《ほしの》くんがいるじゃないの」
「保志野くんとは何でもないんですっ。私は儀さま命ですっ」
「おめえは食べ物命だろうが」
「まー、失礼な。何とか言ってくださいよ、伊豆せん」
比夏留が伊豆宮のほうを見ると、なぜか伊豆宮は下を向き、なにごとか考えこんでいる。
「どうしたんですか、伊豆せん?」
「え? いえ……なんでもないのよ」
言いながらも、伊豆宮の顔色はさえない。
「そういえば、このお寺に来てから、あんまりしゃべりませんね。体調悪いとか?」
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ」
皆の視線が自分に集中していることに気づいたのか、伊豆宮はぎこちない口調で話題を変えた。
「ところで、あの落語研究会とか言ってた三人……なんだか感じ悪いわよね」
「そうそう、とくにあのマリリンとかいう女!」
比夏留はすぐに伊豆宮の策略にはまって、その話題にのった。
「なにがマリリンですか。ゴブリンみたいな顔して。儀さまに抱きつくなんて百年早いですよね」
「比夏留ちゃん、声が大きいわ。襖《ふすま》越しに聞こえるわよ」
「いーんですよ、聞こえても。だいたい、向こうは飛びこみの客なんだから、もっと小さくなってるべきですよ」
「おいら、だいたい、あの落語家口調って嫌えなんだよな。あの『なんとかでげす』ってえの。うちの高校のオチ研のやつらもああいうしゃべりかただろ。本職の落語家は、あんな口調のやつ、いねえぜ」
「でも、ノストラダムスっていう眼鏡かけたひとは普通の言葉づかいでしたよ。ほかのふたりはともかく、ノストラダムスさんはけっこうしっかりしてたみたいな……」
犬塚が言うと、
「犬せん、儀さまとノストラダムスさんを天秤にかけようなんてダメですよっ。どっちかひとりに決めてください」
「比夏留ちゃんこそ、保志野くんと儀さまを天秤にかけてるじゃない」
「保志野くんは関係ないんだってば」
いきなり襖がからりとあき、M大学の三人が入ってきた。
「なんだかおもしろい話してるじゃない?」
美女家マリリンがにやにやしながら言った。
「あの……部屋に入るときは声ぐらいかけてください」
伊豆宮がややきつい語調で言うと、
「へっへっ、これはごあいさつでげすな。どうせ山道は通れないんだから、おたがいいやでもしばらくはこのポロ寺にいなくちゃならんのでげす。仲良くやりましょうや」
扇子でぺしゃぺしゃ頭を叩きながら、雁須磨亭ヨハネがその場に腰をおろした。
しばらく、気まずい沈黙が続いた。何の共通の話題もないのだ。
「このお寺って、大昔に外国の人が作ったらしいね。山門のところの看板にそう書いてあったよ」
とりあえず何か言わなければ、と思ったのか、ノストラダムスがまず口を開いた。
「さっき、ご住職にうかがったんですが、雷鳴国といって、今のサンダース王国とかいうのがあるあたりにあった国らしいですよ」
犬塚が言った。
「バスのなかで、サンダース王国の王子が失踪したとか言ってましたけど」
比夏留が言うと、ノストラダムスはうなずいて、
「そうらしいね。ブラック王子が、例によってまた、空港でいなくなったらしい」
「ブラック王子って有名なんですか」
「そうだね。トラブルメーカーなんだな。一国の王子のくせに、性根の腐った、ろくでもないやつらしくって、あちこちの国で問題を引き起こしている。入国してすぐにどこかへ行ってしまうんだ。スピード狂で、暴走行為を行ったり、変装してものを盗んだり……むちゃくちゃなんだ。国王もさじを投げているって、もっぱらの噂だよ」
「へー」
「いつも、ケインっていう犬を連れててね、あと、乳母のハンナっていうのがずっとくっついてるんだけど、こいつが王子に悪事をそそのかしてるんだそうだ。それに、虞《ぐ》っていう中国系の若い女が配下にいて、王子の手足になって働いてるらしいよ」
「詳しいんですね。私なんか、サンダース王国っていう名前も知りませんでした」
「そ、そうかな……ぼくたち、オチ研だから、落語のこと以外はあまり知識はないんだけどね」
それまで黙っていた浦飯が、
「皆さん、オチ研なんっすね。どんなネタができるんっすか? おひとりずつ持ちネタを教えてくださいよ」
「えーとね……えーと……」
「あんたたち、高校生なんだって? どこの高校?」
マリリンがとつぜん、話の流れを断ちきるように口を挟み、一瞬の間のあと、白壁がぼそっと応えた。
「田中喜八学園」
「ああ、あの変な私立高校。それでわかったわ。あの学校、奇人変人の吹きだまりみたいなところって聞いてたけど、あんたも頭にちょんまげ結ってるし、あんたも……」
マリリンは伊豆宮に、
「すごい髪の毛じゃない? それ、くくってるからわかんないけど、ほどいたらどれぐらいになるのかしら。ちょっと見せてよ」
マリリンは伊豆宮の髪を触ろうとした。
「やめてくださいっ」
「なにしょってるのよ。減るもんじゃなし」
伊豆宮は、立ちあがって逃れようとしたが、そのとき、とめが外れて、くくってあった髪がばさりとほどけた。
部屋中に「漆黒」が広がった。黒々とした、つややかな絨毯《じゅうたん》を一面に敷きつめたような光景に、一同が目を見はった。
「何これ? 百人一首のお姫さまよりすごいじゃない。この子、奇人変人っていうより異常者だわ。髪の毛フェチ?」
「出ていってください!」
伊豆宮は、黒髪を必死にまとめながら叫んだ。
「言われなくても出ていくわよ。なにさ、たかが髪の毛ごときでえらそうに。私はだいたいねえ……」
そのとき。
凄まじい絶叫が聞こえた。
3
「外だわ!」
立っていた伊豆宮が、真っ先に廊下に飛びだした。比夏留たちは顔を見あわせてから、部屋の外に出た。すでに伊豆宮の姿はない。
「どっちに行きやがった?」
「外だって言ってたみたいですけど」
白壁、犬塚、浦飯、比夏留の四人は、とりあえず客殿から出ると、庭を横ぎり、伊豆宮を探した。
「あそこだ」
本殿の隣に、六角形の堂がある。入り口は六段ほどの階段をのぼったところにあり、二枚の扉のうち、右側の一枚だけがあいていて、なかから光が漏れている。その光のなかに、髪を無造作《むぞうさ》にたばねた伊豆宮が後ろ向きに立っている。(比夏留や白壁よりは)足の速い犬塚と浦飯が段を駆けあがり、伊豆宮のすぐうしろまでたどりついて、堂のなかをのぞきこんだ。
「う……わあ」
この合宿ではいつになく寡黙な浦飯の口から叫びが漏れかけた。だが、彼はそれをかろうじて押し殺した様子だった。犬塚は、何も言わずに比夏留たちを振りかえり、早く来いと手招きした。比夏留はどきどきしながら犬塚の肩越しになかを見ようとしたが、入り口が狭すぎる。それに気づいた伊豆宮が、一旦、堂の外に出て、比夏留と白壁に場をゆずった。
六角形の堂のちょうどまんなかに、儀山が立ちすくんでおり、その足もとに、うつぶせになった住職の雷山が、禿頭を床にべちゃっと押しつけたように横たわっている。首の骨が折れているのか、身体はうつぶせになっているのに、顔は天井のほうを向いており、比夏留は「エクソシスト」という映画のなかで、少女の首が三百六十度回転する場面を思いだした。顔はどす黒く変色し、苦悶の表情がはりついている。すでに死亡していることは明らかだ。喉には、太い縄で絞めたような紫色の跡がくっきりとついている。だが、凶器とおぼしきロープのようなものは周囲に見あたらない。唇の左端から、一筋、たらっと垂れている鮮血が、皺《しわ》だらけの顔に妙な生々しさを与えている。頭を剃っていたところらしく、カミソリが一本、死骸の頭のすぐ脇に置いてある。剃りおとした毛が少しばかり散らばっている……。
小さな堂のなかに、忌まわしい「気」が濃厚なスープのように充満しているのを感じ、比夏留は息苦しくなった。さっきまでにこやかにしゃべっていた人間が、今は物言わぬ、ただの物体となってここにある。巨大な「死」の気配に、比夏留は押しつぶされそうだった。
少し遅れて、M大学の三人も到着した。
「何なの? 何があったの? つまんないことで大騒ぎするような……」
マリリンが甲高い声でまくしたてながら皆を掻きわけて、堂に入りこみ、
「ひゃああああああっ」
あたりはばからぬ悲鳴をあげた。
「な、な、何これ? 気持ち悪いわね。死んでるの? 死んでるの? ねえ、死んでるの?」
「うるさいな、ちょっと黙ってろ」
ノストラダムスが、マリリンを突きとばすようにして外に出し、冷静な口調でそこにいる全員に言った。
「第一発見者は誰ですか」
儀山がおずおずと手を挙げた。
「発見したときの様子をくわしく教えてください」
「悲鳴が聞こえたので来てみたら……住職が……それだけです」
「そのとき、この堂の扉は閉まっていましたか」
「はい……閉まっていました」
「鍵は掛かっていませんでしたか」
「はい」
「ということは、あなたは悲鳴を聞きつけてここに駆けつけ、扉をあけて中へ入った、と」
「そうです」
「犯人らしきひとの姿を見ましたか」
「いいえ」
「死体に触れましたか」
「いいえ……あ、いえ、はい。触れました。息があるかどうかたしかめようと思って……」
「それだけですか。何かを拾ったり、隠したり、動かしたりしていませんか」
「していません。――それはどういう意味ですか」
儀山は、ムッとした表情で問い返した。
「不思議なことがいくつかあります。たとえば……」
ノストラダムスは堂のなかをゆっくり視線を一巡させてから、
「この死骸は、絞殺されたものだと思われますが、手や腕で絞めたのではなく、あきらかに縄かなにかを使用しています。でも、その凶器が死骸のそばにない」
言われて、比夏留もなるほどと思った。この六角形の堂のなかは、調度品も仏像も置かれていない。がらんとしており、ひとが隠れることはおろか、ものを隠したりすることもできない。天井にも床にも隠れられそうな場所はないし、入り口は一ヵ所だけである。
「もうひとつ、どうして犯人は首を絞めて殺したのか。ここに、こんな……」
ノストラダムスは、死骸のそばに置かれたカミソリを指さし、
「便利な凶器があるというのに」
誰も答えられるものはいなかった。
「つまり、私が儀山さんにおききしたいのは、犯人が使用したはずのロープを隠したりしていないか、ということです。もちろん、あなたが犯人ではないと仮定しての話ですが」
「隠していません。どうぞ、身体検査でもなんでもしてください」
そんなことをしなくても、儀山の薄い僧衣に隠し場所などないことは明らかである。
「あのねえ、儀山さんが犯人のわけないでしょうが! あんた、失礼すぎるよ」
マリリンが叫んだが、ノストラダムスは無視して、
「では、第二発見者はどなたですか」
「私です」
伊豆宮が低い声で言った。その顔には血の気がない。
「状況を説明してください」
「そのまえに、どうしてあなたが名探偵きどりでこの場をしきってるんですか。私たちはあなたに無礼な質問をされなければならない義務はありません」
「そりゃそうだ。ぼくは、ミステリ好きで、たくさん本を読んでいる、というのは理由にならないかな。無礼と言ったけど、よく考えてみてほしい。山道が閉ざされて、我々はこの寺のある一帯に閉じこめられたも同然だ。そこで殺人事件が起こった。誰が犯人なのかわからない。犯人はここにいる誰かかもしれないし、もう逃亡したのかもしれない。しかし、いずれにしても、土砂崩れが復旧するまではこのあたりからは出ていけない。つまり、我々は殺人犯人と一緒に過ごさねばならないわけだ。――一刻もはやく、事件の謎を解明し、犯人を特定するべきではないかと思わないかい」
「あのー、それは警察の仕事じゃないかと思うんですけどー」
比夏留が小声で言うと、耳ざとく聞きつけたノストラダムスは、
「警察も、道が復旧しないうちは来てくれない。自分たちの身は自分たちで守るしかないんだ」
「ひいいっ」
マリリンが儀山に抱きついた。
「怖いわ。ここに殺人犯人がいるだなんて……」
「ノストラダムスさん、いたずらに恐怖心をあおるようなことは言わないでください」
犬塚が言ったが、ノストラダムスは彼女(?)を見つめ返し、
「そうかな? ぼくは根拠のないことは言ってないつもりだけどね」
伊豆宮が深くため息をついたあと、
「わかりました。私が見たことをお話しします。私も、悲鳴が聞こえたので外に出ました。そしたら、この堂の扉があいているのが見えました。少しおくれて、私もなかに入ってみると、ご住職が死んでいて、そばに儀山さんが立っておられました。――あとのことは、皆さんもご存じのとおりです」
「そのとき、誰かがここから出ていったとか、そんなことは見なかったんだね」
「はい」
「じゃあ……雷山和尚を殺したのは、儀山さんということになる。この堂からは誰もでていけないわけだから、第一発見者の儀山さんが、イコール犯人だ」
「ちがいますっ」
伊豆宮がいつになく大きな声で言った。
「どうちがうんだい」
「私……儀山さんがこの堂に入っていく後ろ姿を見ました。そのあとすぐに、私も堂に入ったんです。だから、儀山さんは犯人ではありえません」
「ふーん……」
ノストラダムスは、おもしろそうに何度もうなずきながら、
「だとすると、これは……密室殺人ということになる。消えた犯人、そして、消えた凶器……」
そう言うと、パイプを手に持った体《てい》で、目を細めた。
「あのよお……」
白壁が言った。
「これって、事故か自殺の可能性はねえのかな」
「バカなことを言うね、きみは。状況を見たら、事故でないことは一目瞭然だろう。考えられるのは自殺か他殺だが……儀山さん、住職が自殺するような兆候がありましたか?」
「い、いえ……」
「あなたが一番、住職と親しかったわけですから、よく考えて答えてくださいよ。住職に、自殺すべき理由がありましたか」
「わたくしがこの寺に来て、まだ二年ほどにしかなりません。歳もちがいますし、住職のお考えになっていたことのすべてをわたくしが知っていたとは思えません。わたくしなどには思いもつかないことでお悩みだったかもしれませんし……」
「たしかに自殺の可能性もあるでげすね。ロープを天井にかけて、首をくくったあと、そのロープが切れて落っこちたのかもしれんでげすから」
ヨハネが口を挟んだ。
「おまえも頭の働きが鈍いなあ。この堂の天井には、ロープを引っかけられるような梁もないし、だいいちそのロープはどこにいったんだ?」
「でも、自殺したあと、ロープが勝手に回収されるような仕掛けがしてあったのかも……」
「そんなことをして、住職になんの得があるんだ。おまえ、ミステリの読みすぎなんだよ」
比夏留はそのセリフをすっかりノストラダムスに返したいと思った。
「儀山さん、住職はこの堂に籠もって、ひとりで何をしておられたんですか」
「大阿闍梨になるための修行の一環として、精神を集中し、読経《どきょう》をしておられたのです。昼間はこの界隈の山を回峰して足腰を鍛え、夕方以降はこの堂に籠もって、経を読むのが日課でした」
「ここにあるカミソリは?」
ノストラダムスが指さした床のカミソリを、儀山は手に取ろうとした。
「触っちゃだめです!」
ノストラダムスが怒鳴ったが、ときすでに遅く、儀山はカミソリの柄をつかんでしまっていた。
「あーあ、犯人の指紋がついてるかもしれないでしょう」
儀山はあわてて手をひっこめ、
「出家は、数日に一度、頭を剃髪します。住職は、この堂に入ったときに、ご自分でそれを行っておられたのです」
「だとしたら、やっぱり自殺説は否定されますね。今から死のうと思うものが、頭を剃ろうとしますか」
「死のうとするからこそ、身だしなみをきちんとしようと思ったのかもしれねえじゃねえかよ」
「この死体の頭部を見ると、全体に毛がちょぼちょぼと生えている。床には少しだけ、剃った毛が落ちている。つまり、今まさに頭を剃ろうとしているときだったように思えるんだ。剃っている途中に、急に自殺するなんておかしいし、それならそれでカミソリで喉を切らないかねえ」
「そんなこたあ本人の勝手だろうが。カミソリは痛そうだから、首を吊ろうと思ったのかもしれねえだろ」
「たしかに自殺しようとするときの神経は常識でははかりしれないとは思う。じゃあとりあえず、他殺と思われるが、自殺の可能性もかろうじてある、程度でどうかな」
「それでいいよ」
白壁はぶすっとして言った。
「住職の死体をこのままにしておくわけにはまいりません。本堂のほうへ移してもよろしいですね」
儀山が言うと、ノストラダムスが言下に、
「だめです。警察が来るまで現場は保存しておかなくては」
「そう言われても、警察には連絡がとれないんです」
一同は同時に「え?」と言った。
「申しあげておりませんでしたでしょうか。この寺の電話は通じなくなっているのです。たぶん、土砂崩れのせいで電話線が切れたんだと思うんですが……」
「なんですって。それじゃあ、私たち、ずっとこのまま……」
マリリンが悲痛な声を出し、
「そんなことないさ。村のほうじゃ、土砂崩れが起きたことはわかっているだろうし、今、何とかしようとしてくれているはずだ」
「でも、殺人があったってことを警察に連絡できないじゃないのさ」
「そりゃそうだけど……しかたないだろ。たとえ連絡がついたとしても同じことだ。道が開通するまで、ぼくたちが殺人犯と一緒にいなくちゃならないというのはね」
ノストラダムスの言葉は、一同の胸に重たく刻まれた。
◇
ノストラダムスの指示により、住職の死体にはまったく手をつけぬまま、六角堂の扉は閉ざされ、外から鍵をかけられた。儀山は伊豆宮の手で、伊豆宮は犬塚の手で、身体検査を受けた(もちろん、何も発見されなかった)。この身体検査には、マリリンと比夏留も立ちあった。
「さて……これからどうするか、だが……」
ノストラダムスが腕組みをしてそう言うと、
「わたくし、もう一度、電話を調べてみます。もしかしたら、直るかもしれませんし」
儀山が言った。
「ねえねえ、ご飯はどうなるのよ」
マリリンの質問を白壁がさえぎり、
「こんなときに飯のことなんざあ、どうでもいいだろうが」
「いえ……」
儀山はこわばった笑みとともに、
「人間にとって食事は大事です。こんなときだからこそ、食事はきちんと摂《と》ったほうがいいんじゃないでしょうか。夕食は、七時からです。食堂のほうにお集まりくださいませ。あと、お風呂も沸かしておきますから」
その言葉をきっかけに、みなはそれぞれの部屋に引きとることになった。
「何もすることがないし……落語の稽古でもしようかな」
ノストラダムスが腰に手をあて、上体をそらせながら言った。
「それがいいでげす。我々は、もともとオチ研の合宿に来たんでげすからね」
「じゃあ、おいらたちも明日の洞窟調査に備えて、準備するか」
「えっ、やっぱり洞窟、行くんですか」
比夏留が驚いたような声を出すと、
「あったりめえだろ。おいらたちがここに何しにきたかわかってるのかよ。雷獣洞の調査、だろ?」
「そりゃそうですけど……こんなときに洞窟なんか行く気になれませんよ」
「それに、洞窟の入り口は地震でふさがってるんでしょ?」
犬塚の言葉に白壁もしぶしぶ、
「じゃあ、あきらめるしかねえか」
儀山が風呂場へ去り、残りの八人は客殿へと戻ってきた。別れ際にマリリンが民研の五人に、
「ちょっと、あんたたち……」
「なんですか」
全員を代表して伊豆宮が応えた。
「卑怯なまね、するんじゃないわよ」
「卑怯……? どういうことです」
「あんたたちのなかに犯人がいることはわかってんの。私たちを襲ったりしたら、承知しないからね」
「おいらたちのなかに犯人……? てめえ、言っていいことと悪いことがあるぜ」
「だってそうでしょう……」
マリリンは挑戦的な目で白壁をにらみつけ、
「私たち三人が犯人でないことはまちがいないでしょ。だって、一番遅くに堂についたんだからね。単純に引き算したら、あんたたちが犯人ってことになるじゃないの」
「おいおい、待ちやがれ。おいらたちが到着したときにゃあ、住職はもうこときれてたんだぜ」
「そんなのわかんないわ。あんたら仲間でしょ。全員グルで、口裏合わせてるのかもしんないじゃない」
「ななななんだとお!」
いきりたつ白壁を押しとどめ、犬塚が言った。
「一番最初に堂に入ったのは、儀山さんでしょう? どうして私たちが犯人なんですか」
「儀山さんは犯人じゃないわよ。私にはわかるの。あんなかっこいいひとが犯人のわけないわ」
めちゃくちゃな理屈である。
「さ、行きましょ」
伊豆宮は比夏留たちをうながして、部屋に入り、ぴしゃりと襖を閉めた。五人は、円座になった。
「さてと……今んとこわかってることをまとめてみようじゃねえか」
白壁が口を切った。
「まず、住職は他殺だってことでいいよな」
犬塚がうなずき、
「ご住職は高齢でしたけど、大阿闍梨の位に挑戦するために真剣に修行をしておられたみたいだし、そんなかたが自殺なんかするとは思えません」
「それじゃ、犯人は誰かってことになるが……やっぱり第一発見者の儀山さんが怪しいよな」
「ちがうと思うっす」
間髪を入れずに、浦飯が言った。
「だって、伊豆せんが言ってたじゃないすか。伊豆せんは、儀山さんが堂に入る後ろ姿を見たし、そのあとすぐに自分も堂に入ったって。儀山さんが住職を殺すひまなんかないっすよ。だから、それよりまえに住職は死んでたんでしょう。ねえ、伊豆せん」
「え……ええ」
話を振られて、伊豆宮はぎこちなくうなずいた。
「じゃあ、犯人はべつにいるってことか」
「これだけ広い敷地だし、どこかに誰かが潜んでいてもおかしくないですからね。とにかく今日は、みんなでかたまって寝ましょう」
犬塚が言ったが、それ以上、誰も良い知恵を出せなかった。しばし、重苦しい静寂が部屋を訪れた。
「女性陣は風呂に入ってきたらどうでえ」
沈黙に耐えきれなくなった白壁が言った。
「いやよ、もし、あのマリリンとかいうやつと一緒になったらいやだもの」
伊豆宮の言葉に、比夏留も賛成した。
「お風呂なんか入らなくても死にはしませんから」
それを聞いた白壁は、ため息をついてテレビのスイッチを入れた。アナウンサーがニュースを読んでいる。
……の山中にある山間村から二十キロほど入った山道において、先日来の豪雨で地盤がゆるんでいた崖が八十メートルにわたって崩れました。その先には民家はありませんが、この崖崩れで電話線が数ヵ所で切断され、遠雷寺という天台宗の寺院と連絡がとれなくなっております。遠雷寺には、二名の僧のほか、合宿中の高校生数名が孤立していると思われ、S県の災害対策室では山道の復旧を急ぐとともに、必要があればヘリコプターを飛ばすことも検討しているとのことですが、山道が狭いために作業は難航しております。
「なんとかなりそうですね。あと少しの辛抱ですよ、きっと」
犬塚が言った。
「でも、作業は難航してるって言ってたぜ。おいらが心配してるのは、食料がなくなったらどうするかってことさ」
「大丈夫ですよ。いざとなったら、山の栗の実を食べてもいいんだし……」
「いや……おいらたちはそれでもいいんだけどよ、なにしろこっちにゃあ……」
白壁の言葉に一同は一斉に比夏留を見た。
「わ、私……?」
比夏留は自分を指さした。
「そうね……」
伊豆宮はこめかみを押さえ、
「諸星さんがいたら、この山の栗の木全部食べ尽くさないとおさまらないかもね」
「あはは……あはははははは」
比夏留は笑うしかなかった。
次のニュースです。
サンダース王国のブラック・サンダース王子の消息は依然としてわかっておりません。王室警察のブラゼアミ特務部長によると、サンダース王家は数百年前、日本と深い親交があり、そのとき、サンダース王家の宝物が日本に伝わったとの言い伝えが残されているとのことで、ブラゼアミ部長は、ブラック王子は、この宝物を取り戻そうとして行動しているのではないか、との見方をしめしております。
(ブラゼアミ氏の映像とコメント)
「私の口から申しあげるのはいささか問題があるとは思いますが、率直に申しあげましょう。ブラック王子は、きわめて危険な人物であります。悪への傾斜とでも申しましょうか、善を憎悪し、悪徳を称賛する傾向があるのです。王子を放置しておくことは、日本の皆さんへ多大な迷惑をかけることにつながりかねません。一日も早く王子を見つけ、サンダース王国に連れ帰ることが私の今の願いです。宝物……? ポンポという名前のものです。どういうものかは、差し障りがあるので、ここでは申しあげられませんが……」
ブラック王子は、ここ数年、部下を秘密裡に日本に派遣したり、みずから日本語を学ぶなどしていたとのことで、警察庁は今回の来日・失踪が周到に計画されたものである可能性がある、として、広範囲にわたって捜索を行っているとのことです。
では、次のニュース。芸能人の大麻汚染は……。
白壁は、テレビのスイッチを切った。
「ポンポって何でしょうね。おいしいものだったりして」
比夏留が、赤ん坊の頭ほどもあるカルメラ焼きをパクつきながら言った。
「それはねえだろ。秘薬って書いてあったから薬品だろうぜ」
「とにかく、見つけたら大金持ちですよね。民研の部室も建てなおせるかも」
と犬塚。
「それどころか、ごちそうハウスが建てられるかもっ」
と比夏留。
「なにが『それどころか』なの? それに、『ごちそうハウス』って何?」
犬塚が突っこんだが、比夏留は自分の夢想に浸ってしまっており、帰ってこない。
「世界中のごちそうが、大広間にずらっと並んで……私はそれをひとつひとつ味見をして……おお、これは美味である。お椀と箸を持て……」
襖が乱暴に引きあけられ、血相変えたマリリンが走りこんでくるなり、比夏留につまずいて倒れこんだ。べしゃっ、という音がした。
「うわあっ、ごちそうハウスが……」
「何わけのわかんないこと言ってるの」
「部屋に入るときは声をかけてって言ったはずですけど」
伊豆宮の冷ややかな声も聞こえない風に、マリリンは一枚の紙切れを差しだした。
「これ、見てよ。私がお風呂に入ってたら、脱衣場の服のうえに置いてあったの」
そこには、次のような文章が汚い字で殴り書きされていた。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いの……。
ゲーム……。
です……。
欲するものは滅びる。
それがこのゲームのルールです。
死にたくなければここを去りなさい。
みなは、顔を見合わせた。
4
「何なんでえ、このふざけた文章は」
白壁があきれたような声を出すと、
「とぼけないでよ。あんたたちのうちの誰かが書いたんでしょ」
「知らねえよ、おいらたちはここでテレビ見てたのさ。だいいち、そんなバカなこと書いて何の意味があるってえんでえ」
「私たちを怖がらせて、このお寺から追いだそうとしてるんでしょ。でも、そうはいかないわよ」
「てめえらをここから追いだして、おいらたちになんの得があるってえんだ。それともなにかい、おいらたちに追いだされそうなことを、てめえら、しでかしてるとでも言うのかい」
白壁が啖呵《たんか》を切ると、マリリンは、うしろに立っていたノストラダムスとヨハネのほうを向いて、二言三言しゃべったあと、何も言わずに襖をぴしゃりと閉めた。三人が立ち去る足音が聞こえた。
「ふえーん、カルメラ焼きが……」
マリリンが倒れたときに、比夏留のカルメラを全部ぺしゃんこにしてしまったのだ。潰れたカルメラを手に泣いている比夏留を尻目に、白壁が吐きすてた。
「なんだ、あの連中。ばっかじゃねえの」
「たしかにおかしいですね」
と犬塚。
「おかしいだろ、頭が」
「そうじゃないんです。あの人たち、本当は……」
犬塚はそこで言葉を切り、下を向いて考えこんでしまった。白壁が、
「本当は何なんだよ」
と問いかけても黙ったままだ。
「ちっ。だいたい、今の紙っぺらは何だ。『これは呪いのゲームです』って、住職が殺されたのがゲームだってえのかよ。もしかしたら、あれはあいつらの自作自演なんじゃねえのか」
だが、誰も応えない。伊豆宮も、何やらうつむいて考えごとをしている様子だ。浦飯も、ほとんどしゃべらない。比夏留が、ぺしゃんこになったカルメラをぱりぱり食べる音だけが、部屋に響いている。空気は陰鬱によどみ、ときどき、みなが交互につくため息が聞こえる。殺人があったのだからむりもない。それに、山越えの疲れが今頃出てきたのかもしれない。
「ええい、うっとうしい! 飯、食いにいこうぜ」
白壁が立ちあがった。
「行きましょう!」
比夏留が残りのカルメラを一気に口に押しこんだ。しかし、伊豆宮は顔もあげずに、
「私、ご飯いらない」
「だめですよ、伊豆せん。何も食べないと身体を壊しますよ」
「一食ぐらい抜いたってどうってことないわ」
「そんなこと言ってると、私が伊豆せんの分、食べちゃいますよー」
「いいわよ、諸星さんにあげるわ」
「やったー!」
「やったー、じゃねえ」
白壁は比夏留の後頭部を軽くはたくと、伊豆宮に向かって、
「どうして晩飯食わねえんだよ。わけを言いやがれ」
「だって……あの三人と一緒に食べるのいやなの」
「まあ、その気持ちもわかるけどよ、それじゃこっちの負けじゃねえか。うざいこたあうざいが、堂々と食いに行って、こっちはこっちで楽しくにぎやかにがんがん食おうぜ。なっ」
伊豆宮もしぶしぶ納得し、五人がかたまって客殿のなかにある食堂に行くと、なかからマリリンのヒステリックな声が聞こえてきた。
「何、このおかず! 粗末にもほどがあるわ。もうちょっとましなものを出してよねっ」
「ま、そう言わんもんでげす。こっちは飛びこみのゲストなんでげすから、しかたないでげす。それに、お寺の食事は質素なものと決まってるでげすよ」
「質素ったって程度ものよ。こんなもの、うちの犬だって食べないわ。臭くってさあ……」
「でも、おかわりはいくらでもしていいって、儀山さん、言ってたでげすよ」
「おかわり? こんなもん、一口以上食べる気しないわ。だいたい私は日本食って苦手なのよ。貧乏くさいじゃない?」
「静かに食えよ。気に入らないんなら食うな。これは儀山さんの好意なんだぞ」
「ふんっ、あんた、ここに来てから私に大きな口きくけど、私はあんたの手下じゃないんだからね」
「まあまあ、おふたりとももう少しの辛抱でげすよ。あれさえ見つかったら……」
「そのとおりだ。そうなれば大金持ちだぞ」
「ほんとにあるんでしょうね。この話をもってきたのは、あんたよ。もし、なかったら、責任とってもらうからね」
「疑うんならおりてもいいんだぜ。借金であとは自己破産しかないから一口乗せてくれって、泣いて頼んだのは誰だ」
「じゃあ、どこにあるのよ」
「俺が手に入れた古文書の断片によると……」
あとは聴きとれなかった。白壁を先頭に民研の五人が食堂に入っていくと、三人はぎょっとして会話をやめた。
五人は、彼らからかなり離れたところに座った。おかずはたしかに質素だった。ひじきの煮たやつ、豆の煮たやつ、湯豆腐、それにタクアン。ご飯は麦飯だった。あきらかに落胆した表情の白壁は、タクアンをカリカリっとかじりながら、
「精進料理ってのはこんなもんだぜ。さ、食うか」
だが、ひじきの煮物を一口口に入れた比夏留の顔が太陽のように明るくなった。
「おいしいーっ。甘からず辛からず、食感もグー」
箸が速射砲のように繰りだされる。
「これ、最高。あっ、ご飯もおいしー」
ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱく。
「比夏留ちゃんにそう言われてみたら、なんだかすごくおいしいような気がしてきたわ」
犬塚も目を細めて、煮豆を味わっている。
「ほっこりしてて、お昆布の味もきいてるし、やっぱりそのへんのレトルトとは全然ちがうわね」
白壁も、湯豆腐にノックアウトされたようだ。
「豆の味がするぜ。手作りの豆腐なんだろうな」
結局、白壁は四回、犬塚は一回、比夏留は十八回、ご飯のおかわりをした。伊豆宮が自分もご飯をおかわりしようと立ちあがったとき、比夏留はにっこり笑って、
「残念でした。私のでおひつがからになりました。ひっひっひっ」
そう言う比夏留のお椀には、およそ三人分とおぼしきご飯がてんこもりによそわれている。
◇
食事を終えた五人は、食器を片づけて、洗い場に持っていった。食事の準備はするから、洗いものは自分たちですること、というのが、ここに泊まる際の遠雷寺側の条件だったのだ。
「あいつら、飛びいりゲストのくせに、洗いもしやがらねえ。あいつらの皿はほっとくかあ」
白壁が言うと、
「だめですよ。そしたら儀山さんが洗わなきゃならないじゃないですか。癪《しゃく》だけど、今日のところは私たちで洗っておきましょう。でも、あのひとたち、なんだかんだ言ってたわりに、おかずもご飯もぺろりと平らげてますね」
「『腹を減らした羊は苦い草もおいしく食べる』って言うっすからね」
浦飯がわけのわからない格言を引用した。空腹は最高のソース、ということらしい。
「さっきのテレビの様子じゃ、あと二日もすりゃあ道は復旧するだろうよ。あいつらとのハネムーンもそれまでさ」
腹がいっぱいになった白壁は、楽観的なセリフを吐いたが、
「でも……私はまだまだ何か起こるような気がします」
洗いおえたお椀を拭きながら、犬塚が冷静な意見を口にした。
◇
寺の夜は早い。消灯時間は九時である。殺人犯への防衛対策として、白壁と浦飯も八畳の「雷神の間」で眠ることになった。昼間の疲れから、五人はすぐに寝いってしまった。
深夜。
白壁の、ごうごうという嵐のようないびきが轟いている。
ふと……。
比夏留は目が覚めた。
時計を見る。午前二時半である。一度目覚めると、いびきが気になって眠れない。比夏留が、白壁の鼻に栓でも詰めようかと考えていると、となりの布団から、誰かがむくりと起きた。上体を起こした姿勢で、しばらくほかの四人の様子をうかがっているようだ。
(隣に寝てたのは……伊豆せんのはずだけど……)
伊豆宮は、誰も起きていないのをたしかめると、立ちあがり、襖をあけて、そっと部屋から出ていった。
(何しにいったんだろ。おしっこ……に行くような態度じゃなかったし……)
比夏留があとを追って廊下に出たのは、好奇心からだけではなく、人殺しがうろついているような場所を夜中に伊豆宮ひとりで歩かせるのが心配だったからだ。
廊下の明かりは全部消えているが、月明かりがまぶしいほどで、何もかもよく見える。伊豆宮はかなり先を歩いているが、比夏留はあえて近づかなかった。なにしろ、比夏留の体重のせいで、床がぎしぎしと盛大に鳴るのだ。昼間はさほどとも思わなかったが、なんだか今にも足もとがぱっくり割れそうで、比夏留はびくびくしながら歩を進めた。
伊豆宮は、客殿から庭におりた。少し遅れて、比夏留も続いたのだが、そこで伊豆宮の姿を見失ってしまった。
(どこ行ったんだろう、伊豆せん……)
比夏留は焦って、広大な庭をきょろきょろ見回したが、伊豆宮は見あたらない。
(本殿に行ったのかなあ……それとも六角堂? でも、あそこは儀山さんが鍵をかけてたし……)
この寺の敷地内には、本堂と六角堂、客殿、山門、そして、倉庫ぐらいしかない。比夏留は、とりあえず本堂に行ってみることにした。本堂から廊下でつながっている建物には、亡くなった住職や儀山の寝所がある。
(儀山さんには、伊豆せんや私が夜中にうろうろしてること、気づかれないようにしなければ……)
そうでなくても、あの大学生三人は、比夏留たちが殺人犯あるいはメモを置いた犯人じゃないかと疑っているのだ。これ以上、痛くない腹をさぐられないようにしなければならない。
比夏留は、本堂にそっとあがると、襖をあけた。真っ暗だ。
(ここじゃないな……)
襖をしめようとして、ふと正面の仏像に目が行った。
月光に浮かんだその像に、比夏留は絶句した。
普通、仏像というのは、大仏に代表されるような巻き髪にしているものだが、その仏像の頭髪はもじゃもじゃで、肩にかかるほど長かった。表情は険しく、仁王か不動明王のような憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》である。大きくあけた口のなかには、牙が生えており、今にも比夏留に噛みつきそうな迫力だ。両腕はなにかを掴み、ねじ切ろうとしているようだが、何を掴んでいるのかは暗くてよく見えない。
(これが……観音?)
魔物としか思えない。この像が、遠雷寺の本尊、雷鳴観世音菩薩なのだろうか……。
(こんなことしてる場合じゃないよ。伊豆せんを探さなきゃ……)
比夏留は襖をしめ、ふたたび庭に降りた。
瞬間、妙な臭いが鼻を突いた。
妙な、というより、はっきり「嫌な臭い」といったほうがいい。何というか……死骸を焼いたときのような……。
臭いはすぐに失せた。
(気のせい……かな)
今見た観音像の不気味さがあたまに残っていて、五感がおかしくなっているのもしれない。
比夏留は、足音を立てないように注意しながら、庭を進んだ。
きらっ、と何かが光った。あわてて身体を茂みに伏せる。首だけを目一杯伸ばして、光の方を見る。
(ひ、人魂……!)
ふわふわした光輝が、遠くの木々のあいだを、ぽわん、ぽわんと浮遊している。
(たしか……あのへんって、『首つりの松』のまえあたりだよね……!)
比夏留は、住職の話を思いだした。その昔、この寺で修行をしていた三人の若い僧が、次々と首をくくり、その僧たちの亡霊が三本の松の木のしたに現れる……。
(そんな馬鹿なことって……ねえ?)
比夏留は、誰だかわからない相手に同意を求めながら、がくがく震える両脚をなんとかとめようと努力した。
(亡霊は、丑三つ刻に出るって言ってたなあ。今はちょうど……)
丑三つ刻である。
比夏留は、光の正体を見極めるために、茂みから出ようとしたが、身体が言うことをきかない。茂みから出るどころか、ますます奥へ入っていこうとするではないか。
(なーんて情けないの、諸星比夏留。それでも古武道〈独楽〉の後継者なのっ)
自分を叱咤《しった》して、なんとか立ちあがる。
暗闇に目を凝らすと、「首つりの松」のすぐまえに黒い影が跳梁しているのが見える。住職が言ってたとおりだ。比夏留は、必死になって、その影に足があるかどうか見極めようとした。
(足があれば人間、なければ……)
よく見えない。一歩まえに出る。わからない。もう一歩まえに……。
突然、後ろから、背中を強く突きとばされた。
まえにつんのめる。
足もとの地面が消えた。
比夏留の身体は、遊園地の「フリー・フォール」のように落下していった。
◇
ばしゃっ。
水が顔にぶちまけられ、比夏留は気がついた。
(あれ……? ここ……どこ?)
真っ暗だ。しかも、身体の自由がきかない。狭い、檻のなかに押しこめられたみたいだ。手足を伸ばそうにもそれが……あ痛たたたたたたた。
右腕と左脚から発した痛みが、全身に伝わった。
「もう一杯、行くよーっ」
頭のうえから声が降ってきた。
「へ?」
うえを見あげようとしたとき、大量の水が滝のように落ちてきた。
「うひゃあっ」
「あ、諸星さん、気がついたのね」
伊豆宮の声だ。
「大丈夫? 怪我してない?」
「えーと……たぶん、してないと思いますけど……ここ、どこですかー」
「井戸のなかよ、『幽霊の井戸』の。あなた、井戸に落っこちたのよ」
うわー、そうだったのか。
「すっごい音がしたから飛んできたんだけど、気絶してるみたいだったから、水をかけてみたの。ごめんねー」
「いえいえー、ありがとうございまーす」
言いながら、比夏留は立ちあがった。あちこち痛いけど、折れたりはしていないみたいだ。だが、二百二十キロの体重はだてではない。よく怪我しなかったものだ。さすが、鍛えに鍛えたこの身体……。
と思いながら、ふと足のしたに注意を向ける。なんだかふわふわしている。手で探ってみると、暗いのでよくわからないが、弾力性のある、棒みたいなものが一杯、足もとに堆積しているのがわかった。
(これがクッションになって、助かったんだ……)
「誰か呼んでくるから、ちょっとのあいだ我慢しててねー。じゃあねーっ」
顔が見えないので、伊豆宮の声ははるか天空から聞こえてくるみたいだ。
「はーい、お願いしまーす」
伊豆宮は行ってしまったらしい。少し心細くなってきた。比夏留は、足のしたにある棒のようなものを手探りで何本か集めて、ポケットに入れた。なおも手探りを続けていると、紙の束みたいなものが指に触ったので、それもポケットに押しこむ。
しばらくすると、何かが頭にちょこんと当たった。ロープらしい。洞窟探検のときに使うために持ってきたやつだろう。
「届いたー?」
「はーい」
「白壁くんにも来てもらったからねー。ひっぱりあげるから、つかまっててー」
比夏留はロープを両手で握りしめた。だが……。
「重い……重いぜっ」
「がんばるのよっ」
「おいらひとりじゃ、無理だ。みんな、手伝え」
「わかったわ」
「重いっ、全然動かない」
「こいつはいけねえや。大学生を呼んでこいよ」
「それが……いないのよ。三人ともどこかに行ってるみたいで。それに儀山さんもいないの」
「こんな夜中にかよ。ちっくしょうめ。うーっ」
比夏留も脚を井戸の壁にかけて、踏んばってみたが、だめだった。これほど自分の体重をうらめしく思ったことはない。
「よし、行くぜ。そーりゃあっ」
「そーりゃあっ」
「もういっちょう」
「そーりゃあっ」
少し、身体が持ちあがった。
「そーりゃあっ」
「そーりゃあっ」
ぶつっ。
(嘘……っ)
「どわああああっ」
複数の叫び声が頭上から聞こえてきた。ロープが切れ、その反動で、みながひっくり返ったらしい。比夏留はため息をついた。
「比夏留ちゃーん、新しいロープ持ってくるから、もうちょっと待っててねーっ」
犬塚の声。かなり疲労しているようだ。
比夏留は、狭い井戸の底を、もう一度手探りで点検してみた。堆積した棒みたいなものを掻きわけてみる。
あれ……?
手がずぼっと貫通した。
(もしかしたら、これって……)
そのとき、またロープがおりてきた。それも、三本。
「比夏留ちゃーん、それを腰に巻きつけて」
比夏留は言われたとおりにした。
「よっしゃあ、行くぜえええっ」
白壁がやけくそのように怒鳴り、ロープがぴんと張った。
◇
一時間以上にわたる全員の奮闘努力の甲斐あって、ようやく比夏留は井戸から脱出できた。何ものにも代えがたい解放感が全身を包んだ。
「ああっ、空気がおいしいっ」
そう叫びながら、先輩たちを見ると、みな、木の根もとに倒れふし、荒い息をついている。
「そんなに空気がおいしいんだったら、これからは空気を主食にしてよね」
と犬塚。
「おいら、もうだめだ。遺書を書いとくから、あとは頼まあ」
白壁は、滝のような汗をかいている。
「諸星さん、今、どんな気持ち?」
伊豆宮に言われて、比夏留は、
「長いあいだの便秘がやっと解消して、それが全部すっきり出たような気分です」
「つまり、腸がこの井戸で、ウンコが諸星ってことだな」
「そんな分析はいいんですよ。――どうもありがとうございました」
比夏留は先輩たちに頭をさげた。
「ねえ、比夏留ちゃん、ポケットからのぞいてるそれ、なあに?」
犬塚の問いに、比夏留は自分のポケットを見た。
「あっ、そうだ。井戸の底にこれがいっぱい溜まってたんですよ。何だろうと思って……」
言いながら、それをポケットからつまみ出した比夏留は、次の瞬間、あたりはばからぬ悲鳴をあげた。
それは……骨だった。
◇
「骨は骨だけど、人骨じゃないみたいね」
犬塚が言った。そう言われてよく見ると、たしかに人骨ではない。
「これって……鶏の骨みたい」
「そうみてえだな。それも、そうとう古いものみてえだ」
「でも……どうして鶏の骨があんなに大量に井戸の底に……」
「さあ……」
答えられるものはいなかった。
「それはそうと、どうして比夏留ちゃん、井戸なんかに落ちたの?」
「寝ぼけて、歩きまわってたんじゃねえのか」
「ハイジみたいに言わないでください。誰かに突きとばされたんです」
「だから、夜中に庭にいた理由をきいてるのよ」
「えーと、あの……じつは伊豆せんが……」
「伊豆宮がどうしたんだよ」
「伊豆せん、――言ってもいいですか?」
伊豆宮は青ざめていたが、
「しかたないわね。私、夜中に部屋を抜けだしたんだけど、諸星さんはそれに気づいて、私を尾《つ》けてきたのね」
「はい。だって、人殺しがいるかもしれないのに危ないと思って」
「ありがとう」
「ふーん……なんで部屋を抜けだしたんだ?」
「それに、伊豆せん、このお寺に来てから様子がおかしいですよ」
「そ、そう……?」
「そうです。じっと考えこんだりして……伊豆せん、何かあるんだったら、教えてくださいよ」
「水臭えぜ、伊豆宮。隠しごとはおいらたちのあいだにゃあなしのはずだろ」
伊豆宮はしばらくうつむいていたが、
「みんな、ごめん。あと少し待って。あと少ししたら全部話すから」
「そうは言ってもよ、人がひとり殺されてるんだぜ。おめえが隠してることが殺人と関係あるんなら、言っちまったほうがよかあねえか」
「わかってる……わかってるんだけど、今は話せないの。私が、自分できちんとたしかめてから……」
そう言って下を向く伊豆宮に、誰もそれ以上は強要できなかった。
気まずい雰囲気が流れた。比夏留はなんとかそれを打開しようと、
「そういえば、私、井戸に落ちるまえに、幽霊を見たんですよー」
白壁がびくっとして比夏留を見た。比夏留は、事の次第をみなに報告した。
「じょ、冗談じゃねえ。おいら、こんな気持ちの悪いとこはもうやだぜ」
「でも、人間だったかもしれないわよね」
犬塚が冷静な意見を言う。
「人間? 夜中に好きこのんで庭なんぞうろつきまわるやつがいるかってんだ」
「いますよ、いくらでも」
それが誰かとは、犬塚は言わなかった。
「比夏留ちゃんが見た幽霊って、『首つりの松』のあたりだったんでしょ。今から、確かめにいかない?」
「い、いやですよ。どうして自分からそんな怖いことしなきゃならないんです? 私、お金払ってホラー映画観にいったり、絶叫マシーンに乗ったりするひとの神経がわからないんです」
「確かめてみたら、幽霊の正体みたり枯れ尾花ってことになるかもしれないわよ」
「やっぱり本物だった、ってことになったらどうするんです」
「そんなの、行ってみなきゃわからないでしょ。さ、行きましょう」
犬塚は、比夏留の腕を掴んで引っぱった。
◇
「このあたり……だったんですよー」
茂みに懐中電灯を向ける。すぐ後ろでは、三本の松がねじくれた異形《いぎょう》の姿をさらしている。
「何もねえなあ……」
「やっぱり幽霊だったんじゃ……」
「そ、それを言わないでくださいよっ。――ぎゃっ」
「どうしたの、諸星さん」
「な、な、何かにつまずいて……」
比夏留は足もとを照らしてみた。
最初は、犬でも寝ているのかと思った。
だが……ちがった。
5
真っ赤に充血した眼球。
口から剣のように突きだした舌。
鼻からは鼻汁が、耳と目と口からはどす黒い血が垂れている。
それは……マリリンという女の死体だった。
首に、ロープがしっかりと巻きついている。
そして、その胸のうえに紙きれが置いてあった。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームです。
これは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いのゲームですこれは呪いの……。
ゲーム……。
です……。
欲するものは滅びる。
それがこのゲームのルールです。
死にたくなければここを去りなさい。
「ひっ……ひいいっ」
比夏留は数歩後ずさりして、別の何かにぶつかり、尻餅をついた。手で探ると、生あたたかいものが触れた。
嫌な予感……。
見たくはない。見たくはないが……。
見てしまった。
もう、声も出ない。
雁須磨亭ヨハネだ。こちらも、喉にロープの跡がくっきりとついていて、死んでいるのは明らかだった。
◇
寝室に戻った五人は、へとへとにくたびれていた。
「幽霊の正体見たり、変死体……ってことね」
伊豆宮が言った。
「これで三人ですね……」
比夏留が泣きそうな顔で言った。
「もうじき朝だ」
と白壁が言った。
「朝までがんばるんだ。そうすりゃ明るくなって、少しは安全になる」
「あれ? それ、何、比夏留ちゃん」
犬塚に言われて、比夏留はポケットを見た。白いものが顔をのぞかせている。
「あ、これですか。これもさっき、井戸の底で見つけたんです」
「ちょいと見せてみろよ」
白壁は、比夏留の手から紙の束を受けとった。ほとんどが破れており、墨もかすれていたが、一部は判読できたようだ。白壁の顔色が変わった。
「こ、こいつは……」
「何ですか?」
「金竜和尚の弟子が書いたもんだ。住職が言ってた、この寺の縁起の残りの部分じゃねえのかな。今、聞かせてやる。えーと……」
白壁は、その文書を低い声で読みあげていった。
……なり。ポンポの害の甚だしきを知り、金竜和尚、深く憂へたり。さんぬる日、金竜和尚、他出の用件ありて、運雷、翠暁、楓雷の三人の小坊主どもに言ひ置きて曰く、
「これなる壺に毒あり。決して蓋開くることなかれ」
なれど、三人の坊主、和尚の言を邪推して曰く、
「あの壼に入りたるは、毒にあらず、万病に効く妙薬ポンポにちがひなし。和尚は、ポンポを我等が盗まんと思ひて、毒などと言ふなり。懲らしめのため、我等三人、和尚を謀らむ」
小坊主ども、ポンポの蓋をとり、中にありし黒き豆を盗みて煎り、粉に挽き、湯に溶きて飲む。一刻ののち、三人の坊主、にはかに発狂して、松の木にて首をくくりき。
帰山してそのことを知りたる金竜和尚、深く悔やみて、自らの命を絶ち、我に命じて、ポンポを自らの髑髏に封じ込めさせ、地中深く埋めさせたり。その場所、備忘の為、ここに書き記す。北を向きて、三本の松が一本の如く見ゆるところを探すべし。そここそ金竜和尚の髑髏のありか也。
ポンポは人の心を病ます悪しき薬にて、世に出すことあたはず。万が一にも掘り出さるることのなきやう、金竜和尚、雷鳴国より連れ来たる守り神「雷獣」を番人として、盗掘を防ぎたりといふ。
「北を向きて、三本の松が一本の如く見ゆるところ、か……」
白壁が庭のほうを見た。そして、しばらく頭のなかで見取り図を描いていたようだったが、やがて、頭を振ると、
「やめとこうぜ。金竜和尚が、悪しき薬だから掘ってはいけねえって言ってるんだ。そっとしとこう」
「そうですよ。ポンポってきっと、この世に出してはいけないものなんです」
比夏留が言うと、犬塚もうなずき、
「そういえば、亡くなったご住職も、ポンポの話題をさけたがっていたようでした。私たちさえ、この古文書を見なかったことにしてしまえば……」
ガタリ。
廊下で音がした。浦飯が、さっと襖をあける。
立っていたのは、雁須磨亭ノストラダムスだった。
「てめえか!」
白壁が叫んだ。
「てめえの仲間ふたり、松の木の根もとで死んでたぜ。てめえが殺《や》ったんじゃねえのか」
「ははははは……馬鹿なことを。あのときは、ぼくも危うく殺されそうになって、命からがら逃げたんだ」
「夜中に、あんなところで何してやがった」
「もちろん、ポンポを探してたのさ。三本の松の木が、隠し場所に関係あるってことまではわかってたんだ。『北を向きて、三本の松が一本の如く見ゆるところ』か。ようやくわかったよ。サンキュー」
「ポンポがどんなものかわかってるの?」
犬塚がたずねると、
「さあね。とにかくたいへんな価値のある財宝らしい。発見したら日本一、いや、世界一の大金持ちだ。ビル・ゲイツよりも上かもしれない」
「世に出してはいけない『悪しき薬』なのよ」
「良薬は口に苦し、ってね」
「お金のためにポンポを探してたの?」
「人聞きの悪いことを言わないでほしいね。ぼくは、M大学の埋蔵金研究会のものだ。純粋に、財宝を探したい。それだけさ。もちろん、見つかったら、お金にする。それは役得というものでしょう」
「やっぱりオチ研って言ってたのは嘘だったのね」
「犬せん、わかってたんですか」
「うすうすはね……。だって、あまりにオチ研らしくないんだもの。変な幇間《ほうかん》言葉をわざと使うし、持ちネタの話題が出たら話をそらすし……」
「ぼくは落語好きなんだ。これは嘘じゃない。『寿限無』だって『たらちね』だって暗唱できるぜ」
「ほかのふたりを殺したのは、ほんとにあなたじゃないの?」
「とーんでもない。ぼくがそんな非道なことをするわけないだろう」
「よくあるでしょ? 分けまえをひとりじめしようとして、仲間を殺してしまう……」
「ははは。それは考えすぎ。もちろん、結果的にひとりじめできることになったのはうれしいけどね。あのさ、きみたちは信じないだろうけど、ぼくがノストラダムスっていう名前を名のったのは半分マジなんだ。ぼくには未来がある程度わかるのさ。だから、彼らが途中で死ぬことはなんとなくわかっていた」
「じゃあ、誰があのひとたちを殺したの?」
「さあ……そこまでは。でも、そんなことどうでもいい。今は、お宝を掘りだすのが先決だ」
「やめたほうがいいぜ……といっても聞く耳持たねえか」
「もちろん。急がないと、道が開通してしまう。警察が来たら、取り調べだの現場保存だのでやっかいなことになるからな。それじゃ、諸君、さらば」
ノストラダムスは、身をひるがえして、その場から去った。
「あの人、危ないわ。助けにいかないとほかのふたりの二の舞になる」
伊豆宮が言った。
「おめえ、やっぱり何か知ってるな、殺人犯人のことを」
「…………」
「三人も死人が出た以上、そろそろ話してもらうしかねえぜ」
「…………」
「おいらは信じてるよ、伊豆宮のことを。おめえもおいらたちのことを信じて、何もかもぶちまけちまえよ」
「わかったわ。ごめんなさい、隠したりして……。実はね……」
「待ってください、伊豆せん」
比夏留が言った。
「お話はあとでうかがうことにして、今は、ノストラダムスさんを助けに行くべきじゃないでしょうか。もし、あの人がほんとに危険なら」
「いいこと言うわね、比夏留ちゃん」
犬塚が比夏留の肩を叩いた。
◇
すでに朝になっていた。
比夏留たち五人は、庭に出て、ノストラダムスの姿を探した。
「いねえな……」
「『北を向きて、三本の松が一本の如く見ゆるところ』を探しましょう。きっとそこにいますよ」
と犬塚。
みなは、北の方角を向いて、ゆっくりと歩き、
「首つりの松」が一本に重なって見える位置を探した。そういう場所はすぐに見つかった。
「『幽霊の井戸』のところだったとはなあ……」
白壁が言った。
「でも、私が落ちたときは鶏の骨しかありませんでしたよ」
比夏留が言うと、
「ポンポとは鶏の骨のこと……じゃねえよな、まさか」
白壁はそう言いながら、古井戸のなかを懐中電灯で照らした。
「あれ? こんなところにロープがあるぜ」
井戸のなかにロープが入りこんでいる。その端は、井戸の土台にくくりつけてある。白壁は、そのロープをぐいと引いてみた。嫌な感触。
「重いな……」
なおも、ぐい、ぐいと引く。
「おい、みんなで引っぱりあげてみようぜ」
お母ちゃんのためならエンヤコーラと、五人が力をあわせてそのロープを引く。
「何となく、この先にあるものの予想がつくわね」
みなの気持ちを代弁して、犬塚が言った。
最初は、何かにひっかかっているのか、なかなかあがらなかったが、急に「ずぼーっ」と抜けた。五人が尻餅をついたそのうえに、井戸から飛びだしてきた「もの」が降ってきた。伊豆宮、犬塚、浦飯、白壁は身体をよじってかわしたが、比夏留は逃げきれなかった。おかげで、「もの」と真正面から対面することになった。
「ひゃあああああっ」
それは、ロープのもう一方の端を首に巻きつけた、ノストラダムスの死体だった。
◇
「こいつ、ロープで井戸のなかに降りようとしていたところを、そのロープで首を絞められ、そのまま、井戸に放りこまれたんだな。もうちっとでお宝ゲットできたところだってえのに、さぞ無念だったろうぜ」
白壁が言うと、伊豆宮が小さな声で、
「許せない……もう許せないわ」
白壁が、死体を草のうえに横たえる。ポケットから文庫本がはみ出していたのを、比夏留が手に取った。
「『落語全集』……このひと、落語好きって言ってたのは、本当だったみたいですね」
「財宝に狂うことさえなければ、いい人だったかもしれないのに……」
と犬塚。
全員が目をつむって、しばし黙祷した。
「けどよ、これで誰が犯人なのか、だいたいわかったぜ。残るは、ひとりしかいねえもんな」
そう言いながら目をあけた白壁は、いぶかしげな表情できょろきょろとあたりを見わたした。
「伊豆宮……どこ行ったんだ」
みなも周囲を探したが、伊豆宮の姿はどこにもなかった。
「やべえ。あいつ、ひとりで……。みんな、手分けして探すんだ」
白壁の顔は真っ青だった。
◇
比夏留は、本堂から廊下でつながっている、僧たちの寝所のほうを探すことになった。長い廊下を、ぎしぎしいわせながら歩く。シロアリの被害がひどい箇所など、比夏留の体重を支えきれずに崩壊しそうだ。ゆっくりゆっくり、そろそろ歩かないと、通路自体が折れてしまいかねない。
廊下の端に電話があった。今どき珍しい、黒電話だ。
(電話は不通だって言ってたよね……)
比夏留は、受話器を取って、耳に当てた。
ツー、ツー、ツー、ツー、ツー……。
(直ってる! 電話、直ってたんだ!)
比夏留は狂喜して、ダイヤルを回した。
(まずは、警察だ)
だが、なぜか比夏留の指は、ひとりでにちがう番号を回していた。
「はい、保志野です」
「うわっ、保志野くん!」
「えっ、諸星さんですか? 大丈夫ですか? 今どこですか? みんな心配してますよ、電話がつながったのに、連絡がつかないって。山道は、今日の夕方には復旧するらしいですよ」
「うわあああああん……」
比夏留は思わず泣きだしてしまった。
「あのね……あのねあのね、ひとがいっぱい殺されて……呪いのゲームがね……それで、ポンポがね……」
「ちょ、ちょっと、落ちついて話してみてください」
「うわああああああん……」
保志野は、泣きじゃくる比夏留をなだめたりすかしたりしながら、この二日間の遠雷寺でのできごとを少しずつ聞きだしていった。
「なるほど……住職が殺されたけど、凶器が見あたらなかったわけですか。『凶器なき殺人』というやつですね。ほかには何かありましたか」
比夏留は、思いだせるかぎりのことを保志野にしゃべった。
「サンダース王国のブラック王子ですか。今、テレビですごく話題になってますね。とんでもない悪人だそうです」
「へー」
「ぼくが聞いた話では、虞雨林《グウーリン》という、ものすごい美人を助手にしていて、あと、ハンナという老婆と、ケインという犬を連れて、世界中を飛びまわり、いろんな国で悪事の数々をしでかしているとか。サンダース王国の王室もお手あげ状態だそうです」
「でも、そいつは一度も見かけてないよ」
「変装の名人だそうですからね。それに、古文書にあった『忌まわしい習俗』というのが気になります。サンダース王国では、鶏のカラアゲが名物なんだそうですが……」
保志野は押し黙った。
「どうしたの、保志野くん……何かしゃべってよ。保志野くんの声聞いてないと心細いよ。ねえったら……」
「わかったあああああ!」
保志野は叫んだ。あまりに大きな声だったので、比夏留は受話器を落としそうになった。
「わかったぜ、比夏留。あっはっはっはっ。なんてこったい。これで全ての謎が解けた」
「ほんとなの? じゃあ、誰がどうやって住職を殺したのか、とか、鶏の骨のこととか……」
「ひとつだけ調べなければならないことがある。すぐに電話をかけ直すから、そこを離れるなよ」
「えっ? いいけど……早くしてよね」
「心配するな。それと、警察や村役場には俺のほうから連絡しておく。比夏留のパパたちにもな。――じゃあな」
自信たっぷりに保志野は言いきると、電話を切った。
比夏留はなんだか、急に不安になってきた。自分の心臓の音が聞こえそうだ。
リーン!
黒電話が震えた。比夏留は飛びつくようにして受話器を取った。
「俺だ。やっぱり思ってたとおりだったぜ。――比夏留、よく聞けよ……」
保志野は、この二日間に遠雷寺で起きたできごとの「真相」のすべてを比夏留に語った。比夏留の顔は最初、不審気だったが、だんだんと緊張が増してきて、ついには驚愕の表情になった。
「信じられないよ、そんなこと」
「でも、そうとしか考えられない。たった今、出勤してきたばかりの山間村の村役場のひとにきいたんだ。『遠雷寺で合宿している友人と連絡がとれました。ご住職が殺害されたそうです。死体がご本人かどうか確認したいので、ご住職の容姿をお教えいただきたいのですが』とたずねたら、そのひとは言ったよ。『そんなもん、まちがえるわけないがんも。遠雷寺の和尚はのう、腰まである長髪の御仁ざわ[#「腰まである長髪の御仁ざわ」に傍点]』とね」
びゅうん、と鞭《むち》のような唸りが耳もとをかすめた。比夏留は反射的に身体を半回転させてかわしたが、電話機が身代わりに木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になっていた。廊下の反対側に、儀山が立っていた。整った顔立ちにかわりはないが、今はそこにあふれんばかりの殺意が加わっていた。手に、白いロープを持っている。
「儀山さん……みんな、あなたのしわざだったんだね」
「そうです。本格ミステリ小説なら、一番怪しい人間は犯人ではないはずですが、残念ながら、これは本格ものではありませんから」
ひゅっ、と風を切って、ロープが蛇のように飛んでくる。比夏留はしなやかに身体を右左にひねりつつ、かわしていく。
「なかなかやりますね」
「あなたこそ。そのロープを使った技は、サンダース王国に伝わる武術なの?」
「いいえ、これは縄紐術といって、中国の古武道です」
「儀山さん……あなたは女性だよね。本当のなまえは、ブラック王子の右腕、虞雨林。虞美人というあだ名までついた凄腕の諜報員」
「はい、わたくしは女です。二年ほどまえに僧侶見習いとしてこの遠雷寺に潜入しました」
「日本語、うますぎるしー」
「それまでにも日本には何度も来ています。留学生としてF大学に籍を置いていたこともあります。みな、ブラック王子のお言いつけで、ポンポのありかを探るためでした。二年ほどまえに、ようやくこの寺のことをつきとめたのです」
儀山は……いや、諜報員虞はロープを両手で掴み、じりじりと比夏留に迫る。
「どうしてポンポにそれほどこだわるの?」
「もともと、ポンポはサンダース王国に伝わっていた秘薬です。それが、古代日本とサンダース王国との交流によって、この国に伝えられたのですが、本国ではその製法は失われてしまいました。ブラック王子は、どうしても先祖の残した遺産を取りもどしたいのです」
「でも、ポンポって、要するに麻薬なんでしょう?」
「LSDの何百倍もの効果があると言われています。おそらく、入手できれば、世界を動かせるほどの大金が手に入るでしょう」
「それを服用した三人のお坊さんが発狂して首をつって、金竜和尚が地中に封印したんだよ。それを掘りだすなんて、しちゃいけないことでしょう」
「すべてはブラック王子のお言いつけ。わたくしは、王子のご命令どおりに動くまでです」
「そんなのおかしいって。虞さんは王子のこと好きなの?」
「え……?」
「好きなんだったら、そんな悪いことしちゃだめって言ってあげなくちゃ」
虞はおかしそうに笑って、
「王子は、根っからの『悪人』なんです。諫《いさ》めたぐらいでお考えを変えるようなおかたではありません」
「だったら、なおさら……」
「すべては、王子を育てた乳母のハンナがいけなかったのです。ハンナは邪悪な女です。彼女が、『悪いことはいいことだ』と幼い王子に吹き込んだのです」
「それって、『妖怪人間ベム』に出てくるベラみたいな顔のお婆さん?」
「かも」
「変な犬を連れてる?」
「ケインといって、王子の愛犬です」
虞は、ロープを打ち振った。ロープは、一本の棒のようになって、比夏留に襲いかかった。飛びしさりざま、比夏留がその先端を、手の甲で払ったら、そこに五センチほどのみみず腫れができた。
「でも、よく女だって雷山和尚にばれなかったね」
「住職は高齢で、目も疎かったのがさいわいしました。でも……もしかしたら、今となっては、うすうす気づいていらっしゃったのかも、と思います。わたくしが深夜、松の木の付近を掘りかえしていることもご存じだったみたいですが、住職はそんなことにはこだわらない性格でした。いいおかたでした……」
「そんな雷山さんを、あなたは殺した」
「はい……しかたなかったんです」
虞は下を向いた。
「住職は、あなたたちの合宿を引きうけてしまいましたし、あきらかに様子のおかしいM大学の学生までもが現れました。そのうえ、サンダース王国の王室警察の派遣したスナイパーがこちらに向かったという情報もありました。王子が来日したことを知り、わたくしは焦りました。あなたがたやM大学の三人よりも先にポンポのありかを探りだし、それを入手しなければなりません。わたくしは、住職に執拗《しつよう》に、ポンポの隠し場所を教えるよう迫りましたが、雷山和尚は頑として口を割りませんでした」
「だからって殺さなくても……」
「あれは、事故だったのです。言い訳じみて聞こえるかもしれませんが、わたくしと住職が揉みあったとき、住職の長い髪が彼の首に巻きつきました。脅すつもりでその髪を引っぱると、高齢の住職の身体はわたくしの想像以上にもろく、住職は即死してしまいました……」
ロープの端を、まるで生きているみたいにひくつかせる虞の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「それで、髪を切りとったんだね」
「はい。あのカミソリはわたくしのものです。髪を切りとり、住職自身が剃髪していたように見せかけました」
「で、その髪は……」
比夏留が言いかけたとき、
「私が隠したのよ」
比夏留と虞が同時に声のしたほうを見た。伊豆宮が、死人のような顔色でそこにいた。そのうしろには、犬塚、白壁、そして浦飯も立っていた。
「竜胆……あなたは何も……」
「もう、いいの。私のいちばん大事な仲間にこれ以上隠しておけないわ。――私が虞雨林と知りあったのは、彼女がF大学に留学生として在籍していたとき……今から四年まえ。私にとっては、あこがれのひとだった。生まれてはじめて……そういう気持ちが自分のなかに芽生えた。私が、レズビアンになったのは……なれたのは、虞さんのおかげなの」
「竜胆……」
「だから、このお寺に来て、儀山というお坊さんを見たときは驚いたわ。私は、虞さんがサンダース王国の秘密の仕事をしていることも知っていたから、このお寺で何かをしているということはわかったけど、そのすぐあとにあの事件が起こって……。悲鳴を聞きつけた私が六角堂に行くと、虞さんが長い髪を持ったまま立ちつくしていた。床には住職の死体があった。何があったかすぐに理解した私は、その髪を自分の髪の毛のなかに隠したの」
あのとき、伊豆宮は髪の毛がほどけたあとで、軽くくくっていた。そこに、雷山の毛をまぎれこませるのは容易だった。
「じゃあ、庭で私が嗅いだ臭いは……」
「こっそり住職の髪を焼いた臭いよ。――ごめんね、諸星さん」
「おめえは、知りあいの犯行を隠そうとしたんだな。気持ちはわかるがよう……」
「竜胆は、咄嗟《とっさ》にわたくしをかばってくれたんです。この子は悪くないの。悪いのは……悪いのはわたくし。竜胆は、わたくしに何度も自首をすすめたの。でも……ポンポを手に入れるまではそれはできなかった」
「M大学の三人を殺したのも虞さんですね」
「はい。彼らは最初から、お金のためにポンポを手に入れる目的で、隠し場所に関してもある程度の知識をもってここに来たのです。わたくしは、『呪いのゲーム』の紙を置いたり、なんとかして彼らを追いだそうとしましたが、彼らは出ていきませんでした。それで、やむをえず……」
「殺した、と」
「でも、彼らを殺したことは後悔していません。ただ、住職は……」
「殺したくなかった」
「はい……」
「伊豆せんも虞さんも悪くないよっ。一番悪いのは……ブラック王子だよっ」
比夏留が叫んだ。
「い、いえ、それは……」
「だって、何もかもブラック王子がポンポという麻薬を手に入れるために起こったことじゃないですか。虞さんは、ブラック王子の命令にしたがっただけ。全部ブラック王子のせいなんでしょう?」
「…………」
「けどよお、そのブラックってやつはいってえどこにいるんだ? 空港で失踪したってえが、この寺に向かってるんじゃねえのか」
白壁が言うと、比夏留は、
「ブラック王子はもう来ていますよ。――ねえ、浦飯先輩」
そう言って、浦飯の顔を指さした。
6
「な、な、何言ってんだよ、俺がブラック王子のわけないじゃないの」
浦飯は端《はた》から見てもわかるほど動揺していた。
「そりゃそうだ。こいつは、おいらの知ってる浦飯聖一だぜ」
「本物の浦飯先輩は、今、おうちにいらっしゃいます。〈ピヌルヴェンカの蹄〉の集会があるっていうんで合宿をキャンセルしたあと、それが偽情報だとわかって、ふてくされて家で寝ておられるみたいですよ」
「保志野くんに聞いたのね」
犬塚が言うと、比夏留はうなずき、
「ここにいるのは浦飯先輩じゃないんです。つまり……」
「ブラック王子、だってえのか。そういや、こいつ、あんまりしゃべらねえなあとは思ってたんだが、まさか……」
白壁は、穴のあくほど偽浦飯の顔を見つめた。
「ひひひひ……にひひひひひひひ」
浦飯、いや、ブラック王子は低く、濁った声で笑いだした。
「バレちゃあしかたがねえ。いかにも俺はサンダース王国のブラック王子だ。ポンポを手に入れるためにこの国にやってきた。日本語は長年にわたって稽古してきたんでバッチリなんだよ。虞雨林を潜入させておいたこの寺に、あやしまれずに行く方法を考えてたら、おめーたちが合宿に行くってことがわかったんで、そのなかのひとりをだまくらかして、よそに連れだし、入れ替わったんだ。うーひっひひひひ」
「浦飯くんのしゃべりかたとか、人となりがよくわかったわね」
と伊豆宮。
「そんなもの、本人と十分もしゃべってりゃ盗めちまう。俺は悪いことの天才なんだ」
ブラック王子は下を向き、自分の顔に両手を当てて、くしゃくしゃっと混ぜた。ふたたび顔をあげたときにそこにいたのは、浦飯とは似ても似つかない外国人だった。
「さあ、虞雨林、こいつらをやっちまいな。俺は、ポンポを掘りだしてくるから。これで俺さまは大金持ちなんだよ」
王子は勝ち誇ったように高笑いした。
そのとき。
「危ないっ!」
虞が、ブラック王子を突きとばしたのと、銃声が聞こえたのがほとんど同時だった。虞は、その場に仰向けに倒れた。左胸から鮮血が噴きだしている。
「虞ーっ!」
ブラック王子は虞の耳もとで叫んだ。
「お、王子さま……わたくしは……」
それが、虞の最後の言葉だった。がくり、と頭を垂れた虞は、もう息をしていなかった。
比夏留が、みなをかばうようにしてまえに進みでた。
廊下の向こう側に、ライフルを持った男がひとり立っていた。禁煙パイポを口にくわえた、いかりや長介に似た外国人だ。
「あいつ……バスのなかで見かけたやつだぜ」
白壁がつぶやいた。
「貴様……王室警察のチョースケだな」
「王子さま、お久しぶりでございます」
「貴様、よくも虞を……」
「わたくしは王子さまを狙ったのですが、虞のせいでしくじってしまいました。とんだ失敗です。でも、今度はしくじりませんよ」
「俺を撃つっていうのか」
「はい。これが、国王陛下の勅命でございます。国王陛下も皇后陛下も、あなたさまをこれ以上野放しにしていては、国家が崩壊しかねぬと危惧なさいまして、わたくしにあなたさまの暗殺をお命じになられたのでございます。王子さま、お覚悟を……」
チョースケと名のった暗殺者は、ライフルの照準をぴたりとブラック王子の左胸にあわせ、今にも引き金を絞ろうとした。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……とわああああああっ!」
比夏留が、回転しながらライフルの銃口のまえに飛びだした。
「な、な、何だこいつは!」
猛烈な速度で旋回する比夏留は、廊下を暗殺者のほうに向かって突進していった。
「く、来るなっ来るなああっ」
チョースケは引き金を引いた。だが、比夏留は弾丸をはねかえしてしまう。
「化けものめ……」
暗殺者はライフルを乱射した。比夏留が竜巻のように回転しながら彼にのしかかっていった。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……つええええええええっ!」
廊下の床板はめくれあがり、壁はひきちぎれ、天井には大穴があき、柱は割り箸のようにぱきぱきと折れていく。しまいには、廊下全体がばらばらになってしまった。
残骸のなかに、ライフルをひしと抱きかかえた、下唇の分厚いスナイパーが失神して倒れていた。鼻の穴にささった禁煙パイポが、情けなさを倍加させている。
遠くから、大勢が近づいてくる足音が聞こえてきた。
「しまった、警察だ。ここで捕まるわけにはいかねえ。あばよ」
ブラック王子は身をひるがえすと、庭のほうに走っていった。
「逃がさないよっ」
比夏留は、〈独楽〉の技で疲弊《ひへい》しきった身体にむち打って起きあがり、ブラック王子を追った。だが、みるみる離されてしまう。
ブラック王子は、「幽霊の井戸」のなかに飛びこんだ。
「馬鹿だねー、ここはいきどまりなのに。隠れたつもりなの?」
比夏留もようやく追いついて、井戸のうえから叫ぶ。
「ブラック王子、もう逃げられないよっ。おとなしく観念してお縄をちょうだいしなさい!」
いくらなんでも古すぎるセリフかなと思いながら返事を待ったが、井戸の底からは何も返ってこない。何度も呼んでみたが、人の気配がしないのだ。
(まさか……)
比夏留は、おもいきって井戸に入ってみた。
自由落下。衝撃。またしても、鶏の骨のおかげで助かった。
狭い井戸の底。どう見てもブラック王子はいない。この骨のなかに潜りこんだのだろうか。いや……いくらなんでも……。
「おおおい、諸星、どうなんだよーっ」
頭上から、白壁の声が降ってきた。
「王子はいませーん」
「そんな馬鹿なーっ。逃げ場はねえはずだぜーっ」
比夏留は思いだした。そういえば、前回落ちたときに、手探りしていたら、手が貫通したっけ……。もう一度やってみる。
あった……。
「先ぱーいっ、横穴があるみたいでーすっ」
「ほんとかよ。くぐれるのか」
「わかりませーん。えーと……はーい、なんとか」
「もしかしたら、どこかに通じてるのかもしれねーぜ」
「そうですね、行ってみまーす」
「危ないわ。気をつけてね」
「はーい、了解」
ぼそっ、と何かが落ちてきた。懐中電灯だ。
「それでは、私立田中喜八高等学校民俗学研究会会員諸星比夏留、『幽霊の井戸』の横穴探検に出発いたしまーす」
比夏留は懐中電灯を握りしめて、横穴に潜りこんだ。
◇
最初は、横穴、と呼べるようなしろものではなかった。モグラの通り道のほうがまだまし、と思えるほどの狭さだったし、口のなかには大量の土やら木の根やら虫やらが入ってくるし、両手で土を取りのぞかないとまえに進めず、
(これって、人工の横穴じゃなくて、単なる自然の穴で、途中で行きどまりになってるんじゃないかな……)
比夏留は何度もそう思った。しかし、そのたびに気を取りなおし、腹這いになって前進を続けると、
(開いた……!)
ぼこっ、という感じで、目のまえが急に開けた。懐中電灯で照らしてみると、けっこう広い空間のようだ。壁は、明らかに人の手で塗りかためられたものだ。比夏留は立ちあがり、全身の泥をはたいて、大きく伸びをした。
「ここは……どこかなあ」
声に出して言ってみると、わああ……んと反響する。
「おおおい……だあれかいませんかああああ」
大声で叫びながら、少し歩いてみる。もちろん、返事はない。足もとには苔が幾重にも生えており、つるつる滑りそうだ。あちこちに天井から水が垂れていて、眼を持たない数種の昆虫や甲殻類がそのまわりを走りまわっている。
「ふーふふふふふ。あったぜ。こいつが例の髑髏だぜ。透明で、まるで水晶でできているみたいだ」
奥のほうから声がする。ブラック王子の声だ。
「おめでとうございます、王子さま。これで長年のご苦労が報われましたですね」
老婆のものとおぼしき声。
比夏留は懐中電灯を消し、足音をたてないよう注意しながら、声の聞こえてくる方向に向けて、そっと進んだ。
「このなかに、ポンポがあるんでございますねえ」
「これで俺たちは世界一の大金持ちだ。この金を元手に、悪いことをいろいろやってやるぜ」
虞さんが身代わりに亡くなったというのに、なんてやつだ。比夏留は憤りつつ、少しずつ近づいていく。あと少しで、彼らのすぐ後ろに到達するというとき。
横あいから何かが、咆哮しながら飛びだしてきた。それは、比夏留に飛びかかると、鋭い牙で比夏留の喉を狙う。
(雷獣……!)
比夏留はパニックに陥り、必死になって両手を振りまわし、その怪物の攻撃をかわそうとした。
「なんだなんだ、なにごとだ、ケイン」
ブラック王子がやってきて、比夏留を見つけた。
「やや、貴様はさっきのくるくる回る女だな。俺さまはもうポンポを見つけちまったよ。ひーひっひっひっひひひ」
王子の手には、人間の頭蓋骨が握られていた。それは、古いものとは思えないほど白く、透きとおっていて、王子の言葉どおり、まるで水晶でできているみたいに輝いていた。
「ケイン、もういいぜ。そいつから離れろ。――ハンナ……」
「妖怪人間ベム」のベラに似た老婆は、すばやい動作で比夏留の喉にナイフを突きつけ、ロープでその身体を縛った。
「雷獣……じゃないの……?」
比夏留は、ケインと呼ばれたそれに目をやる。犬だ。ただの犬ではないか。ということは、崖崩れを起こした落雷のとき、木のところから飛びだしたのも、この犬……。ケインと呼ばれた犬は、馬鹿にした表情で比夏留を見ると、とても犬とは思えぬ、しわがれた声で笑った。
「よくわかったな。そうさ、ここは〈雷獣洞〉だ。『幽霊の井戸』と、なかでつながってやがったんだ」
「私はこちらに参って以来、この洞窟の付近でずっと王子さまがいらっしゃるのを待っていたんですよ」
老婆が低く笑った。ブラック王子は、水晶のような髑髏を愛《いと》おしげに撫でさすり、
「この髑髏は、われらサンダース王国の先祖のものだ。この眼窩《がんか》に入ってるものこそ……」
王子は、なかから変色した豆をつまみ出し、
「ポンポ豆だ。こいつを粉に挽き、珈琲のように飲むと……ひひひひひひひひひ」
「あなたたちはまちがってるわ。ポンポは麻薬なんだよ。人の心を狂わせる薬なんだ」
「『悪いこと』に、正しいもまちがってるもないんだよ、お嬢ちゃん」
「虞さんは、あんたのせいで死んだんだよ。あんたをかばって……そのことを何とも思わないの」
「あいつにはかわいそうなことをした。けど、これは運命ってもんだ。しかたがない」
「そんな……」
「そして、お嬢ちゃん、あんたがここで死ぬのも運命なんだ」
ブラック王子が顎をしゃくると、ハンナがナイフを振りかぶった。比夏留はあらがったが、ロープで縛られていては〈独楽〉の技は使えない……。
「死ねっ」
ナイフが比夏留の胸に突きたとうとした瞬間。
「待て!」
懐かしい声がした。
◇
「保志野くんっ」
比夏留が、声のほうを向くと、立っていたのは保志野だけではなかった。伊豆宮、白壁、そして犬塚。そのうしろには警官が十数人、拳銃を抜いて待機している。サンダース王国の王室警察の人間とおぼしき外国人も数名いる。
「くそっ」
ブラック王子は逃げようとしたが、大勢の警官に飛びかかられ、ピラミッドのように何重にも馬乗りになられて、とうとう捕まってしまった。ハンナも同様だ。
「保志野くん!」
ロープを外された比夏留は保志野をうるんだ目で見つめた。
「ありがとう。危機一髪だったんだ」
保志野は頭を掻いた。
◇
警察たちは、ブラック王子とハンナを連行していった。
あとに残ったのは、保志野と比夏留、それに民研の三人だ。
保志野は、ブラック王子が置いていった、澄んだ髑髏を持つと、
「これは、遠雷寺の縁起に記載のあった、寺の開山、金竜和尚の頭蓋骨です。和尚は、サンダース王国からポンポをこの地に伝えましたが、最初はその効能から万病に効くと思われていたポンポが、じつは人間を狂わせる怖ろしい麻薬だと気づき、自ら命を絶ったのです」
「あの鶏の骨の山は何なんでえ」
「サンダース王国の名物は、鶏のカラアゲだそうですね。和尚がサンダース王国から伝えた、もうひとつの『忌まわしい習俗』……というのは、おそらく鶏を食べることでしょう」
「えっ? 鶏を食べることがどうして忌まわしいの?」
犬塚が口を挟むと、
「奈良時代以降、鳥や獣を食べることは禁じられていました。江戸時代になると、卵を食べる習慣は復活しましたが、鶏自体を食べることは一般的ではなかった。ましてや、殺生禁断の天台宗の寺の住職が、鶏を食べているだなんて、とうてい許されることではありませんでした」
「生臭坊主ってわけね……」
伊豆宮は拍子抜けしたように言った。
「金竜和尚は、ひそかにカラアゲにして食べていた鶏の骨を、古い井戸に放りこんで隠していた。それが積もりに積もって、あれほどに堆積したんでしょう。そして、その骨を隠すために、幽霊が井戸から出る、なんていう噂を流したんでしょうね」
「なるほど。さすが保志野くんね、鋭いわ。――でも、どうしてわかったの?」
「実は……ピンときたんですよ。金竜《カネル》・サンダース……鶏のカラアゲ……古井戸にチキン……」
全員がずっこけた。
「じゃあ、雷獣の言い伝えは……? やっぱり、犬だったの?」
比夏留が質問すると、
「いや、あれはたぶん……」
保志野はそのあたりを歩きまわりながら、地面を何やら探しはじめた。
「あ、あったあった。やっぱりだ」
彼は何かを拾いあげた。それは、古い骨だった。人間のものではない。
「金竜和尚は、この洞窟にひとを近づけないために、雷鳴国より連れてきた守り神『雷獣』を番人とした、とあったでしょう? これがその『雷獣』の骨ですよ」
みながのぞきこんだ。
「狼……にしては大きいわね」
「イノシシじゃねえのか」
「鹿、でもないわね」
保志野はいたずらっぽく笑って、
「これはおそらく、ライオンの骨です」
「ライオン……!」
「サンダース王国はインドに近い。インドはライオンの生息地ですから、不思議はありません。和尚は、番人としてライオンを、鶏を餌として、この洞窟で飼っていたんじゃないでしょうか」
「あっ、本堂にあった雷鳴観世音菩薩……!」
伊豆宮が言った。
「よく考えてみたら、あれもライオンの姿を模したものなのね」
「そうでしょうね。名称も、雷鳴観音……略せば雷音、ですから」
比夏留はもういちどずっこけるべきかどうか迷った。
◇
一同は、髑髏を地中に埋めた。二度と掘りかえされることのないように、深く深く……。
洞窟を去るとき、比夏留は保志野にぴったりと寄り添い、みなに冷やかされた。歩きながら、比夏留は小声で言った。
「あのさあ……電話で頼んだもの、買ってきてくれた?」
「電話で頼んだもの……何でしたっけ?」
「な、な、何でしたっけじゃないでしょ。フライドチキンよフライドチキンっ! ファミリーパック五つ、お願いねって言ったじゃないっ」
「すいません、それどころじゃなかったので……」
比夏留は、保志野の胸ぐらを掴んでいた。
エピローグ1
警察に拘束され、専用車で護送されていたブラック王子が途中のサービスエリアで逃走し、行方がわからなくなった。なんでも、犬のケインがいきなり吠えかかり、警官がひるんで王子の腕をはなした一瞬の隙をついたらしい。
ブラック王子は、後年、愛犬ケイン・ケインとともに、ハンナ婆《ばあ》ベラの後ろ盾のもと、悪の世界で大活躍するようになるが、それはまた別の話。
エピローグ2
帰りのバスのなかで、比夏留は、雁須磨亭ノストラダムスが残していった「落語全集」をぱらぱら読んでいた。そして、そのなかに一枚のメモが挟まっていることに気づいた。それは、ある落語の一節を抜きだしたものだった。
比夏留は驚いた。そのメモの内容は、今回の事件の全貌をすべて予言するものだった。
(もしかしたら、あの人って……ほんとに未来がわかったのかも……)
そう思わざるをえない比夏留だった。
呪ゲーム、呪ゲーム
和尚の首くくれ
大阿闍梨修行の
翠暁松
運雷松
楓雷松
カーネル髑髏に
澄む髑髏
あ、ブラック王子、ブラック王子
パイポ、パイポ
パイポのshooting gun
shooting gunの
虞雨林 die
虞雨林 die の
ポンポ珈琲の
ポンポ粉の
勅命の
長介
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_221.jpg)入る]
天岩屋戸の研究・本論
かれ、ここに天照大御神見|畏《かしこ》みて、天の岩屋戸《いはやど》を開きてさしこもりましき。ここに高天原《たかまのはら》皆暗く、| 葦 原 中 国 悉 《あしはらのなかつくにことごと》に闇《くら》し。これによりて常夜《とこやみ》往きき。ここに万《よろづ》の神の声《おとなひ》はさ蠅なす満ち、万の妖《わざはひ》悉に発《おこ》りき。
[#地付き]――「古事記」上巻より
それ[#「それ」に傍点]はもがいていた。
出たい。
出たい出たい出たい出たい出たい。
外に出たいのだ。
自由になりたいのだ。
身体をよじり、あがき、泣き叫ぶ。
出してくれ。
ここから出してくれ。
そうすれば、すべてを変えることができるのに。何もかも、旧に復することができるのに。
それ[#「それ」に傍点]は熱い涙をだらだらとこぼした。
だが。
出られない。
あれがある限り。
誰か……。
あれを……。
切ってくれ。
1
「伊豆《いず》せん、白《しら》せん、もうすぐ卒業ですねっ」
お茶菓子として、二箱目のカステラを頬張りながら、比夏留《ひかる》がのほほんと言った。
懸案の冬合宿も無事(?)終わり、三学期の期末試験も無事(?)終わり、卒業式を間近に控えて、民俗学研究会では三年生卒業後のことを話しあっていた。
「あんまりまだ実感はねえなあ」
白壁《しらかべ》が大銀杏《おおいちょう》のたぶさを揺らしながら言った。
「まだ、最後の難関の、卒論峠てえものが残ってやがる。そいつが不可だったら、卒業はできねえ仕組みなのさ」
「えっ、この学校、卒論があるんですかっ」
比夏留が大声で叫んだ。
「比夏留ちゃん、そんなことも知らずにこの学校に入ったの? 三年生になったら、それぞれテーマを決めて、卒業時までに研究をまとめるのよ」
犬塚《いぬづか》の言葉に、比夏留は真剣に驚いた表情で、
「知らなかったー。のほほんと卒業するつもりだったのに」
「大丈夫。諸星《もろぼし》なら、何も考えずに、のほほーんと卒業できるって」
来期のことを決めねばならないということで、久しぶりに顔をみせていた浦飯《うらめし》が言った。
「なんか、浦せん、感じわるーい。まだ、誰かが化けてるんじゃないでしょうね」
「ちがうって」
「顔の皮をべろっと剥いだら、なかから超イケメンがでてきたりして」
「諸星、感じわるーい。――ところで、白せんの卒論のテーマは何なんすか」
「おいらは、『相撲界における食と強さの関係』てえんだ。なかなか深えだろ」
「深いというより……おなかが減ってきそうなタイトルですね」
「おう、研究のためにちゃんこ食べまくり、えびすこ決めまくりよ」
「ねえねえ白せん、相撲部屋のちゃんこ鍋っておいしいんでしょうねー」
「そりゃあもううめえなんてもんじゃねえぜっ。作り方も豪快なもんだ。こんにゃくだってアブラゲだって、そのまんまさ。キャベツなんざ手でちぎってぶちこむんだ。後援会からいろいろ最高の食材をもらえるし、いっぺんに大量に作るからよう、出汁《だし》もいい出汁が出る。基本は鶏ガラを使ったソップ炊きだが、みそ味ちゃんこ、キムチちゃんこ、カレー味ちゃんこなんぞもうめえ。残った汁は飯にかけてもいいし、うどんやラーメンを入れたらよお、これがいくらでも食えるんだ」
「うひゃあっ」
比夏留はよだれをだらだら垂らしながら、
「一度、相撲部屋見学に行きたいんですー。今度、行ってもいいですか」
「だめだ。おめえが来たら、うちの力士衆が食べるもんがなくなっちまわあ」
「そんなこと言わないで、ねえねえねえ」
「だーめだって。おめえ、うちの部屋を破産させるつもりか」
「ちぇっ、白せんのケチ。明日、こっそり行って、鍋にネコイラズを入れてやる」
「おめえなあ……」
「――あの……部長の卒論のテーマは何なんすか」
会話がよじれてきたのを察知した浦飯が話題を戻した。
「私? 『髪に宿る神――女性の頭髪の持つ霊性について』よ」
「うわあ、こりゃまた、おなかが減りそうにないタイトルですね」
と比夏留。
「諸星さん、あなたの物ごとの判断基準はおなかが減るか減らないかしかないの? 私と白壁くんが卒業したら、部員は三人になってしまう。あなたはそのなかのひとりなのよ。もうちょっとしっかりしてもらわなくちゃ……」
「へーい、すいませーん。でも、年中幽霊部員の浦せんよりはましでしょう?」
「何言ってるの。民俗学研究会の部員のくせに、民俗学のこと全然知らないひとなんて、幽霊以下」
「げっ。それはひどい」
「やーい、幽霊以下」
浦飯にそう言われて、比夏留はプーッとふくれた。
「そうそう、フグのちゃんこがこれまたうめえんだよな」
白壁がしみじみと言い、比夏留はまたよだれを垂らさなくてはならなかった。
伊豆宮《いずみや》はため息をつき、
「やっぱり、次期部長は犬塚さんで決まりね。犬塚さん、お願い。あなたしかいないみたいだし……」
「は、はい……わかりました。なんとかやってみます」
「とにかく、新入部員をとらないと廃部になってしまうわ。四月になったら、がんばって部員を獲得してね」
「はい」
「――ということでいいですね、先生」
伊豆宮は部室の奥のベンチに横たわって、錆びたフルートをもてあそんでいる顧問の藪田《やぶた》に声をかけた。藪田は顔もあげず、
「うむ」
と言った。
「じゃあ、次期部長は犬塚さんということになりました。犬塚さん、新部長としての抱負をお願いします」
「えっ……? そんなこと急に言われても……そ、そうですね。えーと……先輩がたの名前を汚さぬよう、精一杯努力します」
みなが一斉《いっせい》に拍手をし、犬塚は照れたように笑った。
「次に、浦飯くんも来期の抱負を言ってみて」
「俺もっすか? うーん……来期も幽霊なりにがんばります」
「ま、いいか。じゃ、諸星さん」
「えっ? えっ? ほ、抱負ですか? 豆腐なら、ちゃんこ鍋に入ってるんですけど……」
「おめえはそこから離れろって」
「私も、民俗学のことをこれからいろいろ勉強して、みんなの話題についていけるよう、がんばります」
「これから勉強って……あなた、この一年、何やってたのよ。ああ、来月にはもう、新入部員にいろいろ教えなきゃならないっていうのに……」
伊豆宮は頭を抱え、
「犬塚さん……あなただけが頼りよ」
「は、はい……」
犬塚は不安そうにうなずいた。
「それじゃあ、今日はこれで解散ということに……」
伊豆宮が言いかけたとき、
「待て」
藪田が言った。
「先生、何か?」
「卒業まえにな、伊豆宮、白壁を交えた、最後のフィールドワーク、行こか」
「えっ? どこに……?」
五人の視線が集中するなか、藪田|浩三郎《こうざぶろう》はゆっくりと言った。
「十字架の形をした洞窟や」
一瞬、しん、とした。すぐあとに、犬塚が言った。
「危険すぎます。これまでも、何度か〈常世《とこよ》の森〉には入りましたが、そのたびに危ない目にあいました。今度は、ひとが一人、殺されているんです。伊豆せんや矢口《やぐち》さんも狙撃されたわけだし、単に〈常世の森〉に入るだけでも危険なのに、十字架の形の洞窟はほかよりもずっと危険度が高いです」
「言われんでもわかっとるわ。せやけどな、伊豆宮……」
藪田は、伊豆宮に向きなおり、
「おまえ、道村姫子《みちむらひめこ》の仇、討ちたないんか」
「どういう意味ですか!」
伊豆宮は、返答によっては容赦しないという表情で、藪田を見つめた。
「道村は、あの十字の形をした洞窟を見てしまったために、ライフルで撃たれ、病室で毒殺された。おまえら、腹立たへんのか」
ちょっと間をおいて、伊豆宮が言った。
「もちろん……腹はたててます。煮えくりかえってます。でも、私に何ができるというんですか。誰が仇かもわかってないし……」
「せやから、十字架の洞窟を調べてみ、ゆうとんじゃ。姫子が殺されたのも、おまえらが狙撃されたのも、その洞窟を見たからやろ。相手は、そこを調べられることはおろか、見られるのさえ嫌がっとる。つまりは、その洞窟を調査することが仇を討つことにつながるやないか」
「…………」
伊豆宮は腕組みをして考えこんでいる。犬塚が、
(どうして部長を焚《た》きつけるようなこと言うんです!)
という目で藪田をにらみつけたが、藪田は視線をそらした。
「先生、私……」
伊豆宮は下を向いたまま、言った。
「私、十字架洞の調査には行きません」
「な、なんやと。おまえ……」
「洞窟の調査に行くことが姫の仇を討つこととは思えません。それに……」
伊豆宮は四人のメンバーを見渡して、
「これは個人的なことですし、みんなを巻きこむわけにはいきません。犬塚さんの言うとおり、危険すぎます。卒業まえの最後のフィールドワークなら、もっとふさわしい場所がほかにいくらでもあると思います」
「ふん、根性なしめが」
「なんですって」
「いやいや、なんでもあらへん。そうか、まあそれやったらしゃあないな。せっかく、あの洞窟まで無事にたどりつける方法を発見したちゅうのに……」
「え? 今、なんとおっしゃいましたか」
「なーんでもないがな。ほな、フィールドワークの場所、みんなで考えといてや」
藪田はそう言うと、ふたたびベンチに寝ころがり、フルートを吹きはじめた。曲は、「アンソロポロジー」だ。
「では、解散します。次のミーティングまでにおのおのフィールドワークに行きたい場所を考えてくること。いいですね」
みなはうなずき、なんとなく尻切れとんぼのうちに、ミーティングは終了となった。
「新部長の誕生を祝して、『大黒屋』に晩ご飯食べにいきませんか。私、こないだ、割引券もらったんですよ。ねえねえねえねえ……」
のほほんとした顔で、比夏留は大量の割引券をぱたぱたと振った。
◇
がちゃり、とドアがあいた。
「伊豆宮か」
藪田はドアのほうを見ずに言った。
「失礼します」
「行く気になったんか」
「もともとそのつもりでした。でも、みんなに迷惑はかけられないし……」
「そう思うのも無理はないけどな、伊豆宮……」
藪田はベンチに座りなおすと、
「民研は今、なかなかええ状態にあると思う。それは、おまえが部長としてこの一年、努力してきた成果や。あんな個性の強い連中がひとつにまとまって、結束しとる。これは、おまえが誇ってええことやで」
「先生……」
「おまえの抱えとること、ほかの連中にも振りわけてしもたらちょっとは楽になるやろ。そう思て、あんなこと言うたんや。ほかの四人も、きっとおまえに協力すると思うがな」
「いいんです。私ひとりでやります。このことは、みんなには絶対内緒にしてください」
「決意はかたそやな。わかった。内緒にしとこ」
「――で、あの洞窟に行く裏技というのを教えていただけますか」
「道村姫子が、墜落したあと、ここまで戻ってきたときのことを思いだしてみ。身体じゅう傷のないところは一ヵ所もないほど傷だらけで、何ヵ所も骨折し、皮膚はずたずたやった。頭から足先まで泥だらけで、歯も折れとった……」
「ええ。だから……?」
伊豆宮は、そのときの姫子の姿を思いだしたくない様子で、いらいらと言った。
「そんな状態で、あの広大な〈常世の森〉を横ぎってくることは不可能や。あそこは、危険に満ちとる。未知の古生物がいっぱいうろついとるし、あちこちにトラップめいた大穴やら沼やらが隠されとる。森林も広がっとるし、磁場のせいかコンパスも役に立たんし、携帯も使えん。そこを抜けて、森の外にたどりついたちゅうことは……おそらく、十字架の洞窟付近と森の外を結ぶ、何らかの直通ルートがあるんやろ。――と、ここまではええな」
「はい。私もそう思ってました」
「そこで、わしが思いだしたのが、この学校の七不思議や。校庭のあちこちにギリシャ哲学者やローマの英雄の石像がある、とか、体育祭を深夜に行う、とか、文化祭にストリップがある、とか、ニワトリを集めて鳴かせる行事がある、とか……いろいろあるが、そのうちのひとつに、『校庭の朝礼台の下に、牛の首が埋まってる』ちゅうのがある。知っとるか」
「もちろん。でも、それは、どこの学校にでもある、ありきたりの怪談じゃないでしょうか」
「そうか? 『朝礼台の下にひとの首』ゆうのは、だいたい小学校の怪談やろ。なんで、高校にそんなアホみたいな怪談があるねん。それに、なんで『牛の首』なんや。普通は、ひとの首やろ。牛の首なんか怖いことあらへんがな」
「それは、実体のない怪談の『牛の首』の話とごっちゃになったんじゃないでしょうか」
「都市伝説の『牛の首』か。そうとも考えられるが……わしは、ピンときたんや。牛というのは牛頭《ごず》天王、すなわち、須佐之男命《すさのおのみこと》に通じる。わかるな」
「はい。京都の祇園社《ぎおんしゃ》で、須佐之男命と牛頭天王が習合したことから、牛頭天王は須佐之男命の別名となっています」
「須佐之男命は、もともと根の国底の国とかかわりの深い神や。黄泉《よみ》国におる母親、伊邪那美命《いざなみのみこと》に会いにいこうとしたり、大国主命《おおくにぬしのみこと》が根の国底の国に到ったときは、そこの大王《おおきみ》となっていたり……」
「そうですね」
「根の国底の国というのは、地の底にあると思われとった、死者の国のことや。これは、もしかしたら、地下道のこととちゃうか」
「はあ……」
「天照大神《あまてらすおおみかみ》は、弟である須佐之男命の乱暴に怒って、天岩屋戸《あめのいわやど》に隠れてしまう。八百万《やおよろず》の神々は、相談のうえ、須佐之男命を追放してしまう。須佐之男命は、根の国底の国の王になる。スサノオは、どこを通って、根の国底の国に至ったのか……」
「先生、何がおっしゃりたいんです」
「わしはな、おまえや道村姫子が見た十字架の形をした洞窟ゆうのは、天岩屋戸やと確信しとるんや」
「――えっ?」
さすがに伊豆宮は、信じられないという顔つきになった。
「天岩屋戸の伝説は、日蝕を神話化したものだと思っていました。岩屋戸が実在するなんて……」
「ここが天岩屋戸や、という場所は、日本中にある。有名なのは、宮崎の高千穂《たかちほ》にある天岩戸神社や。この神社は洞窟そのものがご神体になっとる。奈良の橿原《かしはら》にも天岩戸神社があって、ここも洞窟をご神体にしとる。わしは日本中にある天岩屋戸伝説の地をたずね歩いてきた。せやけど、どこもあてはずれやった」
「でも、それだけで十字架の洞窟が天岩屋戸と決めつけるのは……」
「証拠がある。おまえにだけ、見せたるわ」
藪田は、木製の小箱を取りだし、なかから古ぼけた鏡をつまみだした。
「それは……姫の身体にひっかかっていた鏡……」
「せや。ここを見てみ」
藪田は鏡の裏側をフルートの先端で示した。摩耗《まもう》してはいたが、そこには、
八咫鏡《やたのかがみ》
の文字が読みとれた。
「これぞ、天照大神を天岩屋戸からひっぱりだすときに使用された八咫鏡や。神話では、天宇受売《あめのうずめの》命の裸踊りで神々が笑《わろ》とるのを不審に思うた天照大神が、岩屋戸をちょこっとだけ開けたとき、ある神がこの鏡を差しだした。天照大神は、自分の顔が鏡に映ったのを見て、新しい神がやってきたと思いこんだ、ちゅうことになっとる」
「…………」
「こっちも見てみ。道村の身体にいっぱいくっついとった。ほとんど化石化しとるが、ニワトリの骨や」
「常世の長鳴鳥《ながなきどり》、ですか」
「そういうこっちゃ。神話では、ニワトリをたくさん集めて鳴かせたことになっとる。これは、朝が到来した、ちゅうことを天照大神に知らせて、『なんで太陽神である私が隠れてるのに、朝が来るんや』と天照大神に思わせるためでもあるが、一説には、ニワトリの鳴き声には悪霊を払う効果があると信じられとったためともいう。とにかく、ここに鏡とニワトリの骨とがある」
「ということは、〈鶏鳴祭〉というのは……」
「天岩屋戸に関係する儀式ということになるな」
「もしかしたら、文化祭でストリッパーを呼んで踊らせるのも……」
「天宇受売命が、『胸乳《むなち》をかき出で、裳緒をほとにおし垂れ……』、つまり、ストリップをしたことにちなんどるんやろな」
「体育祭を夜中にやって、ラストに張りぼての洞窟の扉を開くのは……」
「そのものずばり、天照大神が天岩屋戸を出た故事を再現した神事なんや。もうわかったやろ。わしはこれまで、天岩屋戸の所在地をつきとめようと、生涯かけて日本中を遍歴してきた。この歳になってようやくこのS県にたどりついたんや。ここにある蛭女山《ひるめやま》と〈常世の森〉こそが日本創世神話の現場であること、天岩屋戸も〈常世の森〉のどこかにあることがわかった。あとは……知ってのとおりじゃ。アホの校長が〈常世の森〉を囲いこんでもうたさかい、天岩屋戸の場所を特定するのに今までかかったけどな」
「どうして、それほどまでに天岩屋戸に執着しておられるんです」
「それは……まだ言えん。せやけど今、おまえとわしは利害が一致しとるはずやで。それで十分やろ。おたがい、天岩屋戸に行きたいと思うとるわけやろ。ここは、手を結んだほうがええんとちゃうか」
一瞬のためらいのあと、伊豆宮は言った。
「わかりました、先生。一緒に行きましょう。まずは、先生のお考えのように、本当に朝礼台の下に抜け道があるのかどうか調べないと……」
「もう調べた。――地下道があった。入り口は巧妙に隠されとったけどな」
藪田はそう言って、メフィストフェレスのような笑いを浮かべた。
2
ここを以ちて八百万《やほよろづ》の神、天の安《やす》の河原《かはら》に神集《かむつど》ひ集《つど》ひて、高御産巣日《たかみむすひの》神の子| 思 金 《おもひかねの》神に思はしめて、常世《とこよ》の長鳴鳥《ながなきどり》を集めて鳴かしめて、天の安河《やすのかは》の河上の天の堅石《かたしは》を取り、天の金山《かなやま》の鉄《まがね》を取りて、鍛人天津麻羅《かぬちあまつまら》を求《ま》ぎて、伊斯許理度売《いしこりどめの》命に科《おほ》せて鏡を作らしめ、| 玉 祖 命 《たまのおやのみこと》に科《おほ》せて八尺《やさか》の|勾※[#「王+總のつくり」、第4水準2-80-88]《まがたま》の五百津《いほつ》の御《み》すまるの珠を作らしめて、天児屋《あめのこやねの》命・布刀玉《ふとだまの》命を召して、天の香山《かぐやま》の真男鹿《まをしか》の肩を全抜《うつぬ》きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合《うらな》ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木《いほつまさかき》を根こじにこじて、上枝《ほつえ》に八尺《やさか》の|勾※[#「王+總のつくり」、第4水準2-80-88]《まがたま》の五百津《いほつ》の御《み》すまるの玉を取り著《つ》け、中枝《なかつえ》に八尺鏡《やあたのかがみ》を取りかけ、下枝《しづえ》に白和幣《しらにきて》・青和幣《あをにきて》を取り垂《し》でて、この種々《くさぐさ》の物は、布刀玉《ふとだまの》命|太御幣《ふとみてぐら》と取り持ちて、天児屋《あめのこやねの》命|太詔戸言祷《ふとのりとごとほ》き白《まお》して、天手力男《あめのたぢからをの》神戸の掖《わき》に隠《かく》り立ちて、天宇受売《あめのうずめの》命、天の香山の天の日影《ひかげ》を手次《たすき》にかけて、天の真折《まさき》を鬘《かづら》として、天の香山の小竹葉《ささば》を手草《たぐさ》に結《ゆ》ひて、天の石屋戸にうけ伏せ、蹈《ふ》みとどろこし神懸《かむがか》りして、胸乳《むなち》をかき出で、裳緒《もひも》をほとにおし垂れき。ここに高天原|動《とよ》みて、八百万《やほよろづ》の神共に咲《わら》ひき。
[#地付き]――「古事記」上巻より
「ただいまー、今日の晩ご飯なに?」
目一杯買い食いをして帰宅した比夏留は、玄関先で夕刊を読んでいた父親の弾次郎《だんじろう》に言った。
「今日は、ママが腕によりをかけたきりたんぽ鍋だよ。あきたこまちの炊きたてを五分づきにして、こんがり炙ったきりたんぽに、比内鶏から出た熱々のスープがからみついて、それはそれはおいしいよ。鍋のしめは、雑炊もいいけど、ラーメンを入れるという手もある。比夏留ちゃんはどっちがいい?」
「どっちも食べる」
「やっぱりな。パパもそのつもりだった。――あ、そうそう、手紙が来てたよ」
比夏留に、弾次郎が封書を手渡した。
「ありがと、パパ。誰からだろな」
裏返してみると、伊豆宮|竜胆《りんどう》とある。
「部長からだ。しょっちゅう学校で会ってるのに、どうして手紙なんか……」
言いながら、比夏留は封筒を破き、中身を取りだした。文面は、パソコンで打ったものだった。
「なになに、えーと……」
「何が書いてあるんだ?」
「ちょっと、パパ、見ないでよ。私信なんだから」
「いいだろ、親子なんだから」
「親子でもプライバシーはちゃんと守ってよね」
「はいはい、わかりましたよ」
「パパ、これ何て読むの?」
「どれ? お、おまえ、こんな字も読めないのか」
「まだ習ってない字なんだもん」
「馬鹿っ、小学生じゃあるまいし。これは、『拝啓』と読むんだ」
「あっ、そうそう、ど忘れしちゃってた。あはははは。で、その次は?」
「春陽の候、だ」
「じゃあ返して。私信なんだからねっ。――えーと、春陽の候、ますますご清祥のこととお喜び申しあげます、か。さて、この度……」
読みすすめていくうちに、比夏留の顔色がすーっと青ざめていった。弾次郎は声をかけようとして、やめた。比夏留の表情があまりに思いつめたものだったからだ。しばらくして、比夏留は言った。
「パパ……私、出かけてくる」
「かまわんが……どこへ行くんだ」
「それは言えないの。何もきかずに、行かせて」
「わかった。どうやら、よほど重大なことのようだな。パパは手伝っちゃいけないのかい」
「ありがたいけど……これは民研のメンバーだけで解決しなくちゃならないの。パパが出馬したら、大ごとになっちゃうもん」
「そうか……じゃあ、気をつけて行きなさい」
「はい。気をつけます」
「ひとつきいておくが、その手紙を寄こした伊豆宮というのは、たしか民研の部長だったな」
「そうよ」
「パパも何度か会ったことのある、あの、髪の長い、和風の美人だな」
「そうそう」
「あの子は、甘いものが好きかね」
「すごく好きみたい。とくに和菓子に目がないの」
「お酒のほうはどうだ?」
「あのねえ、パパ、私たちまだ未成年なんだからね」
「そりゃそうだが……」
「伊豆せんは、頑固で杓子定規《しゃくしじょうぎ》なところあるから、お酒なんて一滴も飲まないよ……たぶん」
「そうかそうか」
弾次郎は何ごとか考えていたが、
「比夏留ちゃん、おまえにはそろそろ〈独楽《こま》〉の究極の技を教えておくつもりだ。春休みになったら、その稽古をはじめるからな」
「えっ? 〈独楽〉の究極の技って、まさか……」
「そう……〈防御《バリア》ガイア〉だ」
「〈防御《バリア》ガイア〉は、〈独楽〉の宗家が必ず身につけなくてはならない技。でも、一生のうちに一度も使ってはいけない技。――ということは……」
「そうだよ、比夏留ちゃん。おまえに第四十四代目宗家を譲るときが来た」
「だ、だって、私、全然太れてないし、まだまだ未熟だし、それに……それに、パパはどうするの?」
「自分のことはちゃんと考えている。とにかく、無事に戻ってくるんだぞ、いいね」
「わかりました」
比夏留は強くうなずくと、玄関から出ていこうとした。
「待ちなさい、比夏留ちゃん」
「――何?」
「きりたんぽはどうするんだ」
「もちろんおいといてよ!」
そう言うと、比夏留は出ていった。やれやれ、と頭を左右に振りながら、弾次郎が電話に手を伸ばそうとしたとき。
がらっ、と扉があいて、ふたたび比夏留が顔を出した。
「五人前はおいといてよ。いや……たぶん、おなかがすいてるだろうから、八人前」
「わかったわかった。わかったから早く行きなさい」
比夏留は飛びだしていった。弾次郎は、わざわざ外へ出て、比夏留がほんとうに去っていったかどうかたしかめたあと、ため息をつき、受話器を取りあげた。
◇
リュックを背負った比夏留は、何やら決然とした顔つきで、校庭を横切っていた。すでに外は暗くなっており、懐中電灯がなければ、足もとさえおぼつかなかったが、あえて懐中電灯は使わなかった。
(朝礼台、朝礼台……と)
暗闇のなかに、おぼろげに朝礼台が見える。それと同時に、黒い影も……。
比夏留は、咄嗟《とっさ》に身体をかがめた。
(誰……? 校長先生かな。それとも……)
「諸星だろ。おまえ、何しゃがんでんだよ。ウンコか?」
白壁の場違いに大きい声が響きわたった。
「平常どおりウンコいたします」
そう言ったのは、浦飯だった。
「これでやっと揃ったわね。じゃあ、出発しますか」
それは犬塚の声。
比夏留が目を凝らすと、朝礼台を囲むようにして、三人の先輩たちが立っているのが見えてきた。
「せ、先輩たち、何してるんですか!」
「何してるって……部長から手紙が来たんだよ、ほら」
浦飯が一枚の紙を比夏留に示した。目を近づけて読むと、そこには次のような文章が書かれていた。
民研のみなさんへ
拝啓
陽春の候、ますますご清祥のこととお喜び申しあげます。
さて、この度、私一人で十字架洞の調査にまいることといたしました。
それが姫の仇を討つことにつながると思うからです。
校庭の朝礼台の下に、洞窟につながる地下道への入り口があります。
絶対にあとを追わないでください。
これは私の問題なのです。
では、みなさん行ってまいります。 敬具
[#地から1字上げ]伊豆宮竜胆
「これ、うちに来たのと同じ……」
「みんな、この手紙をもらったんでえ」
白壁が言った。
「あいつ、水くせえにもほどがあるぜ。三年生の卒業イベントに、おいらが参加しねえはずねえじゃねえかよ」
「そうよ。私も、次期部長として、クラブを預かるものとして参加します」
犬塚が決然として言った。
「俺もその……」
浦飯がもじもじと、
「伊豆せんが心配なんで、その……」
比夏留は感動で胸がつまった。
「やっぱり民研はひとつなんですねっ。このクラブに入ってよかった……」
「おい、青春してるひまはねえぜ。学校側の連中に見つかるまえに、朝礼台の下を掘りかえすんだ」
朝礼台自体をずらした跡はない。四人は注意深く、台の真下の地面を探った。
「これか、な……?」
浦飯が、手で砂を払いのけながら言った。そこには、マンホールの蓋のようなものが隠されていた。器具を使ってそれをあける。なかから、ガス臭がたちのぼってきた。
「臭えっ」
白壁が鼻をつまんだ。
「しっ。静かに」
懐中電灯で内部を照らす。鉄パイプでできた梯子《はしご》が取りつけられている。犬塚はそれをつかんで、何度も強度を確かめ、
「これなら、比夏留ちゃんが乗ってもだいじょうぶみたいね。じゃ、私から行きまーす」
明るく言うと、身軽に穴のなかを降りていった。続くのは白壁。浦飯。最後が比夏留の番である。パイプは、たしかにしっかりしていたが、比夏留がおそるおそる段に足をかけた瞬間、「きししっ」という嫌な音がした。
「あっ、比夏留ちゃんはちょっと待って。みんなが下に降りてから……」
うえを見あげた犬塚がそう言いかけたときはすでに遅かった。白壁、比夏留、あわせて三百キロ以上の体重が一気にかかったため、梯子自体がぐにゃりとゆがみ、比夏留はずるっと滑ってそのまま落下した。もちろん、白壁、浦飯、そして犬塚までもが、玉突き状態になって次々と落ちていき、しまいにはひとつの団子のようになって……落ちて……落ち……落……。
◇
どすっ。
どす。
どすどすどすん。
どっすーん。
「痛てててててて」
「ひいいっ」
「あ痛たたた」
みなが悲鳴をあげるなか、比夏留はひとり、何ともなかった。
「えー、そんなに痛いですかあ。みんな、大げさなんだから」
「馬鹿っ。俺たちがクッションになったんだよ!」
浦飯が大声で言った。
「でも、たいして深くなかったからよかったわ。もし、深かったら、私、死んでたかも」
一番下だった犬塚がしみじみと言った。
「洒落《しゃれ》になりませんよね、尻に敷かれて死亡、なんて。あはははは」
「おまえが言うなっ」
比夏留は全員に突っこまれた。
「横穴があるわ。こっちへ行きましょう」
犬塚が懐中電灯で照らした先には、たしかに横へ延びている穴があったが、狭くて、白壁にはかなりきつそうだ。まず、犬塚がくぐり、比夏留、浦飯と続き、最後に白壁が通ろうとしたが、
「白せん、だいじょうぶでしょうか。通れます?」
比夏留がたずねると、
「むり……だ……」
白壁は、肩のあたりですでにつっかえており、そこをむりやり通してはみたものの、だぶついた腹の肉が「みちっ」という感じでつっかえ、前にも後ろにも動かなくなった。比夏留は、この光景、どこかで見たなあ、と考えていたが、やっと思いだせた。修学旅行で行った、奈良の東大寺で、柱のくぐり穴を通りぬけられずに苦悶している肥えたおばさんがいたが、あれにそっくりだ……。穴の縁からぱらぱら土が落ちて、横穴全体が崩壊しそうになったので、比夏留はあわてて、
「白せん、もう身体を揺するのやめてください。全員生き埋めになりますよ」
「だって、よ……おいら……これじゃあ、ここから……動けねえ……じゃねえかよ……。この……姿勢じゃ……息が苦しくて……ううう……」
「おーい、比夏留ちゃん。少し行ったら、すごく広くなってるわ」
前方から犬塚の声がした。比夏留は決心した。
「わかりました。白せん、私が白せんの身体を引っぱります。痛いと思いますが、がまんしてくださいね」
「う……わかった」
「行きます。せえの……でやあああああっ!」
比夏留は、白壁の両腕をつかんで、思いきり引っぱった。最初はびくともしなかったが、比夏留が顔面を紅潮させて金剛力を発揮すると、白壁の周囲の土にみるみる亀裂が入り、やがて、白壁の巨体が少しずつ少しずつ前進しはじめた。
「痛い……痛い痛い……痛たたたたたた……」
「がまん、して、ください、って、言った、でしょ。でやああああああああっ!」
途端、四方の土が崩落した。白壁の身体は比夏留とひとつになり、前方へずぼっと抜けた。彼らのすぐうしろで、横穴は崩壊し、すっかり埋まってしまった。
「ああ、助かった。腕がちぎれるかと思ったぜ」
そこは、白壁でも、腰をかがめれば十分通れるほどの高さと広さがあった。
「全然助かってないっすよ。俺たち、もう戻れないかも……」
浦飯が、自分たちが通ってきた穴が潰れてしまったのを見て、呆然として言った。
「ま、ここまで来たら一蓮托生よ。先に進みましょう」
新部長の、前向きのような、やけくそのような発言を受けて、四人は前進した。
◇
足もとの地面が突然崩れおちた。田中喜八《でんなかきはち》高等学校校長の田中喜八は、思わず飛びのいて、難を逃れた。今まで朝礼台があった場所には、深い大穴があいていた。飛びのくのが一瞬でも遅れていたら、この穴に落ちこんで大怪我をするか、へたをしたら死んでいただろう。
「誰かが潜ったな……」
田中喜八は、ライフルの弾倉を確かめると、
「いよいよか……。ふふ……皆殺しにしてやるまでだ」
そう言って、校庭の隅にある倉庫のほうに歩みだした。
◇
「もう一時間以上歩いてるっすねえ」
「腰が痛くてよお……限界だよ、こいつあ」
「というかおなかがすきました」
「今どのあたりですかね」
「ああっ、なんか……腰が今、ぎっくりと……」
「というかおなかがすきました」
「まだなんすかねえ、十字架洞窟」
「うう……腰が……腰が……」
「というかおなかがすきました」
犬塚が振りかえると、きびしい声で、
「みんな、だらしないわよ。伊豆せんを助けるんでしょ!」
「はーい」
◇
「ここが……天岩屋戸……」
伊豆宮は感嘆の声を発した。
「うむ……」
かたわらに立つ藪田も、感無量の様子だ。
その洞窟は、周囲を高い雑木に覆われ、ふつうに一瞥《いちべつ》しただけでは、どんなに近づいても見つけることはできないだろうと思われた。道村姫子のように、上空から俯瞰《ふかん》したものだけが、その存在に気づくことができたのだ。
「ほんとうに、ここに天照大神が隠れたんでしょうか」
「のはずや」
「そう思うと、すごいですよね。ここで八百万の神が集まって、鶏を鳴かせて、天宇受売命がストリップをして、天手力男神が戸をひきあけて、天照大神を連れだしたんですよね。私たち、今、古代史の現場に立っているんですよね」
「ふふふふ。ま、そういうことにしとこか」
藪田は微妙な言い方をした。
「私、民研に入ってよかったです。卒業まえにこんな体験ができるなんて……。先生にも感謝しなくちゃ……」
「そんなことどうでもええから、はよ、中へ入ろ」
藪田は懐中電灯をかざすと、すたすたと洞窟に入っていった。
「先生、戸はどこにあるんでしょうか」
「戸? 何のこっちゃ」
「天手力男神がひきあけた、という岩屋戸の戸です。たしか、長野県の戸隠《とがくし》神社に、吹っとんだ戸が落ちてきたという伝説があるそうですが、実際には、この洞窟の入り口あたりに落ちているはずじゃないでしょうか」
「あのな、わしの考えでは、戸はこの奥のどこかにあるはずなんや」
「あ、そうなんですか」
「それを、今から探す」
「はい」
そのあとふたりは無言で洞内を進んだ。
「伊豆宮、おまえ、天照大神男性説を知っとるか」
「一応は……。犬塚さんほどは詳しくないですけど」
「天照大神のもともとの名前は天照国照彦やが、『彦』という言葉がつく以上、もとは男神やったと考えられる。また、スサノオが根の国底の国に行くまえに、アマテラスのところにやってくることがわかったとき、アマテラスは『自分の国を奪いにきたのでは』と思て、頭髪を男性の髪型に結いなおし、身体中に勾玉《まがたま》を巻きつけ、千本の矢が入る矢筒を背負い、弓を振りたてて、股まで没するほどに大地を踏みこみ、土を蹴散らかして、雄叫びをあげた、ちゅうねん。これ、男以外の何もんでもないやろ。現に、江戸時代には、天照大神イコール男神説が広まって、かなり一般的になったらしいわ。男の姿で描かれたアマテラスの絵像もいっぱい残っとる。なんでかちゅうと、江戸時代は国学が盛んやったが、当時の男尊女卑の考えかたからして、女性が最高位の神ということ自体が受けいれにくかったんやろな。わしも、アマテラスはもともと男神やったと思とる」
「天照大神は太陽神ですしね。太陽は男性、月は女性というのが神話における世界的な傾向なのに、天照大神が女性神というのは、その傾向にも反していますから」
「ところが、わしは、天照大神は太陽やないと思とんねん」
「は?」
「岩戸隠れの故事を、太陽が隠れる日蝕に結びつける説も多いが、わしはちがうと思う。アマテラスは、もっと別の何かを象徴しとんねや」
「はあ……」
「ここ、見てみ」
藪田は、懐中電灯を壁に向け、伊豆宮の注意をうながした。丸い光のなかに浮かんだものは、道祖神のような、稚拙な石の彫刻であった。目も鼻も、ただの線だが、胸は大きくふくらみ、女性であることを示している。しかし、股間には明らかにペニスがぶらさがっている。
「アンドロギュノス……いわゆる『ふたなり』やな」
男性、女性、両方の特徴を兼ねそなえたもののことである。
「おもろいのは、この額の印や」
藪田は、その石像に近寄ると、額を指さした。そこには十字のマークが刻まれていた。
「これはキリスト教にかかわるもんやな」
「でも……どうして天岩屋戸にキリスト像が……」
「伊邪那岐命の子孫にして旧約聖書の預言者イザヤが、この洞窟のことを書きのこしとる。『エホバたちて地を震動《ふるいうごか》し給うとき、人々そのおそるべき容貌《みかたち》と、その御稜威《みいつ》の光輝《かがやき》とをさけて、巌《いわお》の洞《ほら》と地の穴とにいらん』……とな。『伊邪耶による黙示録』にも『伊邪耶の洞窟』として何度も登場するこの洞窟が、十字架の形をしとることは決して偶然やないのや」
「『伊邪耶による黙示録』というのは、大正期に作られた偽書だと聞きましたが……」
「偽書?」
藪田は目を剥いた。
「ちゃう。ちゃうちゃうちゃう。ちゃうねん。あの書物は、富士の裾野にある伊邪耶神社の宝物蔵に長く保管されてきた門外不出の品や。もとは神代文字で書かれとった。それを、伊邪耶神社の神官で、民俗学者でもあった脇田竜三郎《わきたりゅうざぶろう》が解読して、出版したんや。中身に関しては、脇田は片言もいじってえへん。それが、偽書扱いされて、政府から発禁処分を受けたのは、その内容が、従来知られとった皇国史観と真っ向から対立する、あまりに問題あるもんやったからや。体《てい》のええ焚書や。国家権力が、正しいものを葬りさったんや」
藪田は顔を紅潮させて、熱に浮かされたようにまくしたてた。その様子は、ふだんののろのろした藪田からは想像もつかぬほどであった。
「それだけやないで。おまえも、民俗学を囓《かじ》っとるなら、耳にしたことあるやろ、神道とキリスト教の関係について」
「ええ……もちろん。『日ユ同祖論』のことですね。たとえば伊勢神宮のカゴメ紋がユダヤのダビデの紋章に酷似《こくじ》している、とか……」
「ほかにも傍証はいろいろあるが、皇室やら神道にキリスト教の影響が少なからずあることはまちがいないやろ。天照大神がキリストのことやという説もあるみたいやしな」
「そうなんですか……」
ふたりはいろいろしゃべりながら洞窟のなかを進んでいたが、突然、藪田が立ちどまった。
「先生……どうしたんです?」
「…………」
「先生……先生!」
「見てみい、伊豆宮」
「はい……?」
藪田にうながされて、伊豆宮は老人の指ししめす方向に視線を向けた。
そこは、畳二十畳ほどの広場になっていた。奥に、高さ四メートルほどの岩壁があった。黒く、ごつごつとした表面の凹凸は、爬虫類の鱗《うろこ》を思わせる。何の装飾があるわけでもないが、その圧倒的な質感、量感は何ともいえぬ荘厳さをかもしだしている。中央に縦の筋目があり、一種の門のようになっているらしい。その上部に、自然樹の枝を縒りあわせた、太い注連縄《しめなわ》が巻きつけられていた。
「これが、『天岩屋戸』や」
◇
藪田は岩壁に歩みより、しみじみと撫でさすった。
「やっと……やっと来たでえ。長い道のりやった」
「これが、天岩屋戸、ですか」
伊豆宮の声も震えていた。日本神話における最も重要なエピソードとも言われている「岩屋戸開き」の神話。その「岩屋戸」が目のまえにあるのだ。巨大な門は、伊豆宮を圧倒していた。
「すごいですね、これ……。火成岩ていうんでしたっけ……」
「伊豆宮、これ見て何か気づかんか」
「――え?」
「天岩屋戸の神話を思いだしてみい。須佐之男命の乱行に怒った天照大神は、天岩屋戸に身を隠す……」
「はい。それによって、天の国も日本も暗黒となり、あらゆる災厄が一斉に起こった。困った八百万の神々は相談して、知恵のある| 思 金 《おもひかねの》神が常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、八咫の勾玉と八咫の鏡を飾り、布刀玉《ふとだまの》命と天児屋《あめのこやねの》命に神事を行わせ、天宇受売《あめのうずめの》命に踊りを踊らせた。その騒ぎに、何ごとかと思った天照大神が岩屋戸から少しだけ顔をのぞかせると、天手力男《あめのたぢからおの》神がむりやりに引きあけてしまった……」
「せや。ということは、岩屋戸は今、どうなっとるはずや?」
「――あっ」
伊豆宮は、もう一度、岩屋戸を見た。それは、二枚貝のように固く閉ざされている。
「天手力男神が引きあけたのなら、岩屋戸は今は開いているはず……」
「そういうこっちゃ。せやけど現に、戸は閉まっとる」
藪田は、ざらざらした岩肌を拳でコン! と叩くと、
「わしは、今からこれを開くつもりや」
「開く……?」
「ええか、よう聞けよ。この岩屋戸が開かれることを死ぬほど恐れとるやつがおる。そいつは、これを開こうとするやつは皆殺しにしよるんや。道村姫子が殺されたのも、おまえと矢口が撃たれたのも、みーんなそいつのしわざなんや」
「どうして……そのひとは恐れるんでしょう、ここが開かれることを」
「そんなことどうでもええ。わしは、この岩屋戸を、あるべき姿に戻したいと思うとるだけや。――伊豆宮、おまえにも手伝うてもらうで」
「私に……ですか?」
「せや。それこそ、道村姫子の仇討ちやないかい」
「…………」
「ただし、この岩屋戸を開くには、わしらふたりではあかんのや。あと……五人必要や」
「じゃあ、どうすれば……」
「民研のメンバーに声をかけたらええ」
「で、でも、今からじゃ、まにあいません」
「心配いらん。わしが手紙を出しといた。おまえの名前でな」
「そんな……!」
「わしの勘では、もう、みんなそのへんまで来てくれとるはずや」
そう言うと、藪田は懐中電灯を元来た方角に向けた。
「先輩思いの、民俗学研究会ののこり四人、出ておいで」
3
ここに天照大御神|恠《あや》しとおもほして、天の石屋戸を細めに開きて、内より告《の》りたまはく、「吾が隠《こも》りますによりて、天の原|自《おのづか》ら闇《くら》く、また葦原中国も皆闇からむとおもふを、何の由《ゆゑ》にか天宇受売《あめのうずめ》は楽《あそび》をし、また八百万《やほよろづ》の神| 諸 咲 《もろもろわら》へる」とのりたまひき。ここに天宇受売|白言《まを》さく、「汝《な》が命《みこと》に益して貴き神|坐《いま》すが故に、歓喜《よろこ》び咲《わら》ひ楽《あそ》ぶ」とまをしき。
[#地付き]――「古事記」上巻より
「うへー、見つかっちまったか」
白壁が、照れ笑いを浮かべながら現れた。続いて、犬塚、浦飯、比夏留の順に続いた。
「み、みんな……」
伊豆宮がうろたえた声を出した。
「私、みんなを巻きこみたくないから……だから、誰にも言わずに出てきたのに……」
伊豆宮は、藪田に向きなおると、
「先生、ひどいじゃないですか!」
「まあ怒るな。この儀式にはな、どうしても六人の人間が必要なんじゃ。ただし、わしを除いてな」
「六人……? 五人しかいませんよ。うちの部は全員で五名なんですから」
と犬塚。
「大丈夫。もうじき現れるはずや」
「誰がです」
「諸星を心配して、ひとりな。――おお、来た来た。馬鹿がまたひとり」
遠くから聞こえてくる足音……。
「保志野《ほしの》くんっ」
比夏留が大声を出した。
「諸星さん、無事でしたか!」
保志野は比夏留に駆けよった。
「ど、ど、ど、どうして来たの? 誰に聞いたの?」
「諸星さんのお父さんから電話があったんだ。伊豆宮さんから手紙が来たけれど、封筒も便箋も酒臭いってね。たぶん藪田先生が書いた偽手紙だろうから、あとを尾《つ》けてくれって」
「パパが……でも、どうしてここに来る道がわかったのよ」
「諸星さんのお父さんによると、わからない漢字の読みをきかれたとき、中身は全部見えたってさ」
「ありゃー」
比夏留は頭を掻いた。
「これでフルメンバー揃ったな。めでたいめでたい」
藪田は、満面の笑みをたたえてうなずいた。
「先生……どういうことか説明していただきましょうか。私は、この洞窟の謎を解くことが、姫の仇討ちにつながると思ったから来たんです。ほかの部員には関係ないことです。それに、岩屋戸を開くとか、儀式とか……聞いていません!」
伊豆宮が柳眉を逆だてて言った。
「そんな怖い顔せんといてくれ。説明が聞きたかったら、保志野にきけ。なあ、保志野……おまえは何もかも見通しとるはずや」
みなが保志野を見た。保志野は一歩進みでると、
「真実かどうかはわかりませんが、あなたの考えていることならだいたい察しはついています」
「言うてみい」
「あなたの本名は、脇田|鳳三郎《ほうざぶろう》。異端の学説を唱えて学界から追放された民俗学者です。藪田|浩三郎《こうざぶろう》というのは世を偽る偽名ですね。あなたの父親は、脇田竜三郎。偽書『伊邪耶による黙示録』を書いた人物です」
「『伊邪耶による黙示録』は偽書やないし、わしの父の著作でもない。わしの父が神代文字から翻訳したもんや」
「それなら、今はそういうことにしておきましょうか。ぼくはこのまえ、ようやく、『伊邪耶による黙示録』の全文を読むことができました。国立民俗資料館まで行って、マイクロリーダーで読んだのです」
「ご熱心なこっちゃなあ」
「『伊邪耶による黙示録』を貫く思想は、旧約聖書『イザヤ書』に書かれている『最後の審判』にかかわるものです。『イザヤ書』で預言者イザヤは、いつかこの世の終わりが来て、あらゆる人間が神のまえで裁きを受け、新しい世界が訪れる、ということを預言しています。それを受けて、『伊邪耶による黙示録』では、『伊邪耶の洞窟』を開いたとき、世界は、今の汚れきった、腐った世界から脱却し、新しい世界が生まれる。それは、卵の殻を剥くがごとくである……と言いきっています。来るべき新世界には、戦争も病気も貧富の差も差別もないのだ、と。また、こうも言っています。世の立て替え、立て直しを行うには、天岩屋戸を引きあけることが絶対条件だ、と。そうすれば、天照大神が岩屋戸の奥から姿を現し、世界を『立て直す』と……」
「でもさでもさでもさ、『古事記』にも『日本書紀』にも、天岩屋戸は開かれたって書いてあるんでしょ。天照大神は、もう出てきたんでしょ」
比夏留が言うと、保志野はかぶりを振り、
「そうじゃないんだ。――と、脇田鳳三郎先生はおっしゃってるのさ。それはつまり、先生の父親である竜三郎氏の学説なんだけど……ぼくに言わせれば、学説なんてものじゃない。世迷い言、虚言妄言のたぐいだ」
「何とでも言え。真実はひとつや」
「『伊邪耶による黙示録』によると、アマテラスが天岩屋戸から出た、というのは国史の嘘だそうだ」
「どういうこと?」
比夏留がきいた。
「つまり、アマテラスはまだ、岩屋戸から出ていないんだ。天岩屋戸に籠もったままなんだよ」
「そんな馬鹿な……」
浦飯が叫んだ。
「だって、『古事記』にも『日本書紀』にもそう出ているじゃないっすか」
保志野は、藪田のほうを向くと、
「あとは、先生からどうぞ。ぼくには、馬鹿馬鹿しくて、とても説明できません」
「そうかあ? わしには、理路整然としとるように思えるがなあ。――ま、ええやろ。あとはわしが説明しよ。天照大神がまだ天岩屋戸からでとらんという最大の根拠はな、今のこの世の中や」
藪田は声を張りあげた。
「考えてみ。アマテラスが岩屋戸に隠れたことによって、世界にはあらゆる災いが充ち満ちた。せやけど、アマテラスがふたたび外へ出ると、その災いはなくなったはずやろ。ところが、今の世の中、見渡してみい。毎日毎日、新聞やテレビに、どこそこの戦争で何万人死んだとかや、テロで何千人死んだとか、エイズやSARSや鳥インフルエンザや狂牛病で何万人死んだとか、こどもを誘拐して殺したとか、こどもがこどもを殺したとか、親がこどもを殺したとか、地震や津波で何万人死んだとか、宗教団体が毒ガス撒いたとか……そんな記事の出えへん日はないやろ。海も川も廃水で汚れきっとるし、魚は頭がふたつになったり、背骨が曲がったり……。食い物はどれもこれも、農薬やら水銀やらカドミウムがたっぷりや。山は削りとられ、海は埋めたてられ、人間のために作られた自動車が、連日、人をはねて殺しとる。今の、この世の中こそ、災いに充ちとるんや。つまり……天照大神はまだ、岩屋戸から出てきてへんねん。『万の妖《わざわひ》悉に発《おこ》りき』ちゅうのは、まさにわしらが生きとる『今』のことなんや」
藪田の声は、不気味な情熱を帯びて震えていた。
「わしらにできることは何か。世界を、わしらにとって住みやすいものにするにはどうしたらええか。簡単や。天岩屋戸を引きあけて、アマテラスを外に出せばええ。そうしたら、この世はもう一度、アマテラスが岩屋戸に籠もるまえの姿になる。すばらしい世界がわしらを待っとるんや」
「先生の説が正しいとして……どうしてそんな嘘を国史が書く必要があったんですか」
犬塚が言った。
「国史ゆうのは、日本の歴史を国家の立場に立って書いた書物や。今はまだ、万の災いに満ちた最悪の世の中や、なんちゅうことを国が認めるわけにはいかんかったんやろ。嘘でも、岩屋戸は開放され、天照大神は外に出てきている……国民にはそう知らしめるしかなかったのや」
「まえに言ったでしょう。藪田先生は頭がおかしいって」
保志野は冷たい声で言った。
「ほほう、そうかな。わしとおまえら、どっちの頭がおかしいか、岩屋戸を開けてみたらはっきりするわな。少なくとも保志野、おまえはひとつまちごうとるで」
「何がです」
「藪田浩三郎ゆうのは、偽名やない。わしの、神官としての名前や。わしは、伊邪耶神道第二十一代宗家藪田浩三郎や」
「じゃあおたずねします。先生はどうして、この洞窟が天岩屋戸だと思われたんですか」
「ほな、教えたろ。この洞窟……『伊邪耶の洞窟』は十字架の形をしとるやろ。十字架ちゅうたら、アーメンや。アーメンの伊邪耶洞……アメの伊邪耶洞……アメノイワヤド……天岩屋戸というわけや」
比夏留があきれて叫んだ。
「それだけですか」
「それで十分やろ。鏡も勾玉も鶏の化石もあったけど、確信を得たのは、アーメンの伊邪耶洞に気づいたときや。わしは、この岩屋戸を開ける。そのために親子二代、血を吐くような思いをしてきたんや。この腐った世の中を立て替え・立て直しするのが第一義やが、それだけやない。著作を全部発禁処分にされ、宮司の地位を剥奪されて伊邪耶神社を追いだされ、流浪の果てにのたれ死んだわが父のためにも、かならず開けてみせる。誰にも邪魔はさせん。ふふふふふはははははは」
藪田は、岩屋戸のまえに仁王立ちになって高笑いした。比夏留には信じられなかった。これまでの、藪田のイメージ……汚らしい身なりをしていて、傍若無人の大酒飲みだが、民俗学や古代史、歴史などに関しては博識で、なにより民研部員のことを愛してくれている老人……それが一瞬にしてくつがえってしまった。たしかに……おかしい。
保志野は、みなの顔を見渡して、
「ね?」
と言った。一同はうなずいた。
「なにが『ね?』や。とにかく、おまえらには岩屋戸開きを手伝うてもらうで。そのためにわざわざ集まってもろたんや」
「もうしわけありませんが、先生のおっしゃることには従えません」
伊豆宮が言った。
「なんでや。わしは道村の仇を討ったるゆうとんのや。それに、わしはええことをしとるんやで。むちゃくちゃになってる世界をもとに戻したるゆうとんねん。積極的に協力してほしいわなあ」
「世の中の立て替え・立て直しというのは何のことなんですか」
「それは……わしにもわからん。どっちにしても、ええことに決まっとるやろ」
「そうとはかぎりませんよ。たとえば……」
伊豆宮の言葉をさえぎるかのように、銃声が轟《とどろ》いた。弾は、近くの地面に当たって、カキンとはねかえった。
「来たか」
藪田はそれを予期していたのか、にんまりと笑うと、二、三歩しりぞいた。比夏留たちはひとかたまりになって壁に身体を押しつけた。
まだ白煙のあがるライフルを構えて、足早にやってきたのは、アフリカの仮面をつけた人物だった。
「とうとうここをつきとめたか。いらざる真似を……」
仮面の男は吐きすてるように言うと、ライフルの狙いを藪田の左胸につけた。
「面をつけたままやったら、狙いにくいやろ、校長先生」
藪田がおもしろそうに言った。男は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが、すぐに仮面を外した。男は、みなの想像どおり、校長の田中喜八だった。
「死んでもらうよ、藪田先生。あんたを雇ったときから、おかしいなとは思っていたんだが、やっぱりこういうことか。しかし、長い間うまいぐあいに私の目をごまかし続けてこれたもんだ」
「部員やら関係ない生徒やらをうまく使って、わしはなるたけ表に出んように、目だたんようにしてきたからな」
「えっ? じゃあ、民俗学研究会が洞窟研究会であったのも……」
比夏留が言った。
「そらそや。本来、民俗学と洞窟はなんの関係もない。わしが、天岩屋戸を探すための方便や。今ごろ気づいても手遅れやけどな。あはははははは」
屈託なく笑う藪田を、みなは呆れた顔で見つめた。
「校長先生よお」
白壁が一歩進みでて、
「先生は、藪田先生がこの戸を開いたからって、なんの損もしねえんじゃねえの? そこまでして、この戸を守りとおす必要なんかねえだろ。開けたがってるんだから開けさせてやりゃあいいじゃねえかよ」
「岩屋戸を開くと、大いなる災厄が訪れる……私は幼いころからそう教えられてきた。私だけではない。わが田中の一族は、遥か悠久の昔より、この天岩屋戸を守り、これを開けようとするものあらばその命を絶つことを使命として暮らしてきたのだ。岩屋戸は、断じて開けてはならんのだ!」
田中喜八の顔は、狂熱に歪んでいた。
「言っておくが、天岩屋戸を開けてはならぬというのは、わが田中一族だけの考えではないぞ。日本国政府の……いや、古来より日本を支配してきた大和朝廷が現在の皇室にまで引きついできた、永劫変わらぬ方針なのだ。このだだっ広い〈常世の森〉の土地……個人で所有するのは不可能だ。固定資産税がどれほどになると思うね? つまり、この土地の所有者の名義人は私だが、税金その他は宮内庁が支払っているのだ」
「おかしいと思ってたんすよねー、こんな広いとこ、いくら大金持ちでも税金払えないよって。そういうカラクリがあったんすかー」
浦飯が、感心したように言った。
「まあ、どうでもいいわ。藪田先生は戸を開けたがってる。校長先生は開けてほしくない。ふたりでよく話しあって、解決してください。私たちは関係ないから、帰りましょう」
犬塚がそう言った。
「そうはいかへんで、おまえら。ここを開けるには、おまえら六人の力がどうしても必要なんや」
藪田が言うと、校長もうなずき、
「そのとおりだ。きみたちを帰すわけにはいかない。なぜならば、この洞窟の所在を知ったものは……」
校長は、犬塚の顔面に銃口を突きつけて、
「全員、死んでもらうからだ」
「どっちにしても私たちは帰れないということね」
伊豆宮がため息まじりに言った。
「ところで、校長先生、そういうことでしたらひとつだけおききしたいんですが」
「なんだ、早く言え」
「道村姫子の乗ったハンググライダーを撃ちおとしたのは先生ですか」
「道村……? ああ、ハンググライディング部の部長だな。そのとおりだ。〈常世の森〉の上空は絶対に飛行してはならないという約束だったのに、それを破ったからな」
「そのあと、病院で姫の点滴に毒を入れて殺したのは……」
「それも私だよ。藪田先生がこっそり転院させたりしたから、探すのに手間がかかったがね」
「やっぱりそうだったんですか……」
伊豆宮は下を向き、何度か一人合点したあと、校長に向かってにっこり微笑みかけると、
「姫の仇っ!」
いきなり飛びかかって、ライフルをもぎとろうとした。
「こいつ、やめろ。やめないかっ」
校長は伊豆宮と揉みあった。
引き金にかかった指に力が入った。
短い発射音がして、保志野がその場に倒れた。左肩を撃ちぬかれたらしく、トレーナーが真っ赤に染まっている。
「ほ、ほ、保志野くんっ」
比夏留が保志野にしがみついた。
「動くな。動くとこいつの命はないぞ」
田中喜八は、ライフルの銃口を保志野の首筋にぴたりと押しあてた。比夏留は人差し指を校長に突きつけ、
「保志野くんにこれ以上何かしたら、殺してやるからね」
「おまえ、こいつから離れろ」
「いやだ」
「離れないと引き金を引くぞ」
それでも保志野から離れようとしない比夏留を、白壁と犬塚がむりやり引きはがした。比夏留は目に涙をためて、校長を視線で射殺そうとするかのようににらみすえた。
「おまえら、両手をあげて、そこの壁際に並べ。藪田先生、あんたが先頭だ」
田中喜八にうながされて、みなは「おてあげ」のポーズをしながら一列になった。保志野も、歯を食いしばって、最後尾に並んだ。
(どうしたらいいんだろ。このままじゃ保志野くんが出血多量で死んじゃう。早くなんとかしないと……)
比夏留は両手をあげたまま、考えに考えた。だが、良い思案など浮かぶはずもない。
(保志野くんを助けるために私が捨て身で校長先生に体当たりしたとしても、そのせいで、ほかの誰かが撃たれるようなことになったら……)
そう思うと、後先考えない無茶もできない。比夏留は歯がみをした。目から、涙がぼろぼろっとこぼれ落ちた。
「まずは、藪田先生、あんたから死んでもらいましょう」
田中喜八がライフルを構えなおしたとき。
「みんな逃げてっ」
伊豆宮が校長の銃口のまえに飛びだすと、両手を横に広げて立ちはだかった。
「こ、こら、どけっ」
田中喜八が怒鳴っても、伊豆宮は一歩もしりぞかず、
「保志野くんが撃たれたのは私のせいだわ。諸星さん、早く保志野くんを連れて、ここから逃げ……」
銃声。
伊豆宮は左胸からおびただしい血を噴出させながら、ゆっくりと倒れていった。
「伊豆せんーーーっ!」
比夏留は絶叫しながら、保志野を抱えるようにして、洞窟の出口目指して走った。だが、四メートルも行かないうちに、左脚のかかとに焼け火箸を押しつけられたような熱さを感じ、次の瞬間、足がまったく動かなくなり、比夏留は右脚でけんけんをしながら、保志野と一緒に、岩陰に前のめりに倒れた。左のかかとを撃ちぬかれたらしい。
「どいつもこいつも手間をかけさせる。何が新しい世界だ。今の世の中は、大和朝廷が二千六百年以上かけて築きあげてきた土台のうえに成立しとるんだ。それを安易に覆されてたまるか。おまえたちもみんな、その恩恵を受けて生活してることを忘れるな。馬鹿どもめが」
校長の声が遠ざかったり近づいたりして聞こえる。左脚を動かそうとしたが、激痛が走るだけだ。
「では、順番を入れ替えて、そこの倒れてるふたりから片づけようか。悪く思うな。逃げようとしたおまえらの身から出た錆だ」
(保志野くんを……守らなきゃ……)
比夏留は岩壁にすがって、右脚だけで立ちあがった。そして、よろり……よろり……よろめくようにして回転をはじめた。
「な、なんだ? 何をしようとしている」
校長は、予想外の比夏留の行動に驚いたようだが、縁日の射的ゲームのようにライフルを右手だけで伸ばし、比夏留が軸にしている右脚のかかとにくっつけて、引き金を引いた。
ばちゅっ、と血がほとばしり、比夏留は横倒しになった。
「何をしようとしたのかわからんが、もう、おまえたちに望みはないことを教えてやる」
校長は、比夏留に近づくと、頭といわず胸といわず腹といわず……めったやたらに蹴りまくった。比夏留は、両手をクロスさせて、頭や顔面への打撃はかろうじて防いだが、あとの無防備な部分は痣《あざ》だらけになった。右の肋骨が、一回、ごきっ、と音をたてた。ひびが入ったかもしれない。呼吸ができないほどの痛みが肺を襲う。
「どうだ……これで……懲《こ》りたろう……。すぐに……あの世に……送ってやるからな……」
サッカーの練習のように比夏留を蹴りつけたあげく、肩で荒い息をしながら、田中喜八は言った。比夏留は絶望的な気持ちになり、目を閉じた。
「諸星さん……」
耳もとで保志野がささやく。
「諸星さんてっば」
「もう、おしまい。ジ・エンド。最終回」
「最後まで望みを捨ててはいけません」
「でも……もうどうにもなんないよ。〈独楽〉の技も、足が動かなけりゃつかえないし……」
「何か……何かあるはずです。助かる道が……」
「ないと思いまーす。あの……保志野くん……私ね、その、ね、保志野くんのこと……」
大音響とともに、洞窟全体が激しく揺れた。
「じ、地震……?」
「そうじゃないみたいっ」
左側の岩壁が、どすん、どすん、と外側から丸太か何かを打ちつけているみたいに、ぐらぐら揺らいでいる。揺れるたびに表面の岩が剥落し、しまいには一部が吹っとんで、大きな穴があいた。
「な、何事だ。自衛隊の攻撃か」
田中喜八はわけのわからないことを叫びながら、穴のところに走った。穴の向こうに、茶色い毛の塊《かたまり》のようなものが見えた。
(もしかしたら……)
比夏留は上体を起こし、叫んだ。
「アオーっ!」
それに呼応して、悲鳴のような、泣き叫んでいるような声が返ってきた。
おおん……おん……。
おん………………。
(やっぱり……!)
比夏留の顔が輝いた。
「助けて、アオっ。このひとにいじめられてるの!」
とうとう岩壁は、三メートル四方ほどにわたって崩れ落ちた。そこにいたのは、高さ二メートル、全長六メートルほどもありそうな巨大な生物だった。全身を褐色のふさふさした毛に覆われ、手には長いカギ爪が生え、顔面は猿のような犬のような面相だ。これこそ〈常世の森〉が育んできた、古代哺乳類の生き残り、メガテリウムである。以前、比夏留がお好み焼きを大量に与えて手なずけたことがあったのだ(「大南無阿弥洞の研究」参照)。「アオ」というのは、比夏留がこの個体につけた名前である。
「うう……オオナムチめ……」
田中喜八は唸った。
「まだ生きていたのか。よけいなときに出てきおって……」
彼はライフルを巨大生物に向けて発射したが、あわてていたためか、毛皮をかすっただけだった。メガテリウムが怒りの咆哮《ほうこう》とともに両腕を伸ばした。鋭い爪がライフルをはじいた。逃げようとして四つんばいになった田中喜八のうえに、五トンはあろうかという体重が一気にのしかかった。
べき。
ばき。
ぼき。
べきべきべき。
ぼきん。
「うぎゃああああああっ!」
悲鳴は長く尾をひいたあと、不意に途切れた。
「アオーっ」
比夏留は巨獣に抱きついた。メガテリウムはうれしそうに目を細め、鼻面を比夏留の首や胸に押しあてる。
「私がピンチだと知って、助けにきてくれたんだね」
古代生物は、子犬のような声で鳴いた。その鼻面を撫でながら、
「バッチリのタイミングだったよ。ありがと、アオ……」
すごく近くで、火薬が破裂するような音がした。メガテリウムが、カッと血を吐いた。
(う、嘘……)
巨獣の両眼の輝きが、みるみる失せていった。メガテリウムは、その巨体を突っぷすと、その場に長々と横たわった。
「アオ……アオっ……アオーっ!」
比夏留は、メガテリウムを抱きしめた。しかし、その身体はすでに半ば冷たくなっていた。
比夏留が顔をあげると、藪田が、校長のものだったライフルを手にして立っていた。
「貴重な生きた標本やが、天岩屋戸を開くためや。しかたない」
「どうして……どうしてこんなことを……」
泣きながら比夏留は立ちあがろうとしたが、脚が言うことをきかない。
「言うたやろ、誰にも邪魔はさせん、て」
「何も殺さなくても……」
「世界を救うためや」
藪田は、白壁、浦飯の二人を壁に向かって立たせると、その後頭部を、ライフルの台尻で次々に殴っていった。ふたりはなかよく崩れおちた。藪田は、伊豆宮の脈を取った。
「死んでるの……?」
比夏留がきくと、藪田はにやりと笑い、
「まだや。――死んでもろたら困る。今から、役目を果たしてもらわなあかんさかいな」
「どういうこと?」
「そのまえに……」
藪田は、比夏留の頭上にライフルの台尻を振りあげた。
「私を……殺すつもり?」
「何遍言うたらわかるねん。おまえら六人には死んでもらたら困るんや。今のところはな」
「私たちをどうする気ですか」
「おまえらには……依りましになってもらう」
「――え?」
「おまえらに、今から、神が宿るんや」
「藪田先生……あなたが憎いです」
「そやろな」
藪田はライフルを振りおろした。比夏留は意識を失った。
4
かく言《まを》す間に、天児屋《あめのこやねの》命・布刀玉《ふとだまの》命その鏡を差し出だし、天照大御神に示《み》せ奉《まつ》る時、天照大御神いよよ奇《あや》しと思ほして、やくやく戸より出でて臨《のぞ》みます時に、その隠《かく》り立てりし天手力男《あめのたぢからをの》神、その御手《みて》を取りて引き出だしまつりき。即ち布刀玉命、尻《しり》くめ縄《なは》をその御後方《みしりへ》に控《ひ》き度《わた》して白言《まを》さく、「これより内に得《え》還り入りまさじ」とまをしき。かれ、天照大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自《おのづか》ら照り明りき。
[#地付き]――「古事記」上巻より
藪田は、洞窟内に累々と横たわる六人の男女を見おろすと、
「ほな、やるか」
そうつぶやいて、神官の装束《しょうぞく》に着替えた。
「この格好も久しぶりやな……」
藪田は、六人の若者をずるずると岩屋戸のまえに引きずっていった。棒を組みあわせ、板を渡し、白布をかけて、簡単な祭壇を作ると、そこに三宝を置き、勾玉と鏡を並べた。
「まずは、浦飯やが……」
藪田は、浦飯の顔を見おろし、
「ほとんど部室にも来んかったが、宗教の実践派であるおまえには、占いの神、布刀玉《ふとだまの》命こそがふさわしい」
つぎに伊豆宮を見て、
「伊豆宮……気づかいも多い部長の職責をよう果たしてくれた。顧問として、わしは礼を言いたい。おまえは、言霊の神、天児屋《あめのこやねの》命の役をやってもらおう」
白壁のところでは、
「相撲部屋の跡取りである怪力のおまえは、もちろん天手力男《あめのたぢからおの》神や。この岩屋戸が開くも開かんもおまえの力にかかっとる。たのむで」
比夏留の顔を愛おしそうに見やると、
「おまえは、おちょけやさかいな……天宇受売《あめのうずめの》命になって、踊ってもらおか」
保志野には、
「おまえにもちゃんと役があるで。八百万の神をまとめる知恵袋。天岩屋戸計画を立案した人物……| 思 金 《おもひかねの》神になってもらおか」
そして、最後に犬塚のところで足をとめ、
「犬塚よ。男であり、また女でもあるおまえは、男神か女神かいまだにわからぬ、天照大神こそがふさわしいやろ。おまえが入部してきたときから、ずっとそう思とった」
藪田は、岩屋戸に向かって御幣を捧げ、深く一礼すると、地面に坐した。指で印契を結んだあと、愛用のフルートを取りだし、口に当てた。西洋楽器とは思えぬ幽玄かつたくましい調べが流れだす。
(ヒート、フータ、ミー、ヨー、イーツ、ムーユ、ナーナ、ヤー、ココーノ、ターリ、モーモ、チー、ヨローツ……)
心のなかで念じながら吹く。もちろん、帰神法における、岩笛のかわりである。帰神法とは、古神道において、神をひとに憑依させる方法のことで、幽斎の法ともいう。神が憑く依りましとなるもの、それが正しい神か悪しき神かを判別する審神者《さにわ》、岩笛を吹く係の琴師の三人が必要であるが、藪田はこの審神者と琴師をひとりで兼ねたのである。岩笛は、依りましが神懸かりになりやすいような雰囲気を整えるために吹奏されるのだ。
藪田は、目を閉じ、口を開いた。しゃがれた声が、微妙な抑揚をともなって唇からこぼれだす。それは、洞窟内に反響してこだまとなり、幾重にも折りかさなって空間を埋めつくしていった。
「あちめ……おおお……天地に……き揺《ゆら》がすは……さ揺がす神わかも……神こそは……きねきこう……きゆるならば……」
それは、「年中行事秘抄」にも収録されている鎮魂祭歌であった。
「あちめ……おおお……あがります……豊日霊女《とよひるめ》が……御魂ほす……本は金矛……末は木矛……」
それは、何の伴奏もついていなかったが、バロック音楽のように荘厳であり、聴くものの魂を古代に連れさるような趣があった。
「あちめ……おおお……魂函に……木綿《ゆう》取り垂《し》でて……たまち……とらせよ……御魂上……魂上ましし神は……今ぞ来ませる……」
藪田の額や首筋から汗がしたたりおちた。
「あちめ……おおお……御魂みに……いましし神は……今ぞ……来ませる……魂函持ちて……さりくる御魂……魂がえしすなや……」
突然、浦飯の身体が、びくん、と震えた。彼は目を閉じたまま立ちあがると、三宝に載せられた鏡を手に取り、ゆっくりとそれを上下させはじめた。
「ヒート、フータ、ミー、ヨー、イーッ……」
続いて、伊豆宮が左胸から血を流しながら、ゆらり、と立ち、勾玉を手にして、じゃらじゃらと鳴らしはじめた。
「ムーユ、ナーナ、ヤー、ココーノ、ターリ……」
保志野は、正座して、両手で何やら四方八方を指さしている。何かの指示を出しているようだ。
「モーモ、チー、ヨローツ……」
比夏留が、着ていたトレーナーを脱ぎ捨て、上半身裸になった。もともとブラジャーをつけていないので、薄い胸が丸見えだ。膝を使って身体を起こし、両腕を高くあげて、海中の昆布のように左右に打ちふり、わけのわからない座り踊りを踊っている。
藪田が両眼を見開き、すっくと立ちあがると、両手を口もとに当て、
「コーーーーーーーケコッコオオオオオ……!」
そう絶叫した。その叫びに誘導されるがごとく、白壁があやつり人形のようにヒョコッと立ち、岩屋戸に両手をかけた。
「そうやそうや……そうや……これですべてのお膳立てはととのったで。あとは……」
藪田は、岩屋戸の上部にかけまわされた注連縄を引きちぎろうとした。しかし、背丈が足りない。ぴょんぴょん跳ねたが、惜しいところで手が届かない。しかたなくフルートを掴み、その先で引っかけようとしていると、
「お待ちなさい」
野太い声がした。
「誰や」
これは、完全に予想外だったとみえ、藪田はぎょっとした表情で振りかえった。
「おまえは……何もんじゃ。校長の手の者か」
立っていた人物はかぶりを振った。
藪田には、その人物に見覚えがなかった。太いげじげじ眉毛、針金のように尖った固そうな髭、石川五右衛門の大百鬘《だいびゃくかずら》のような頭髪……全身これ脂肪の塊というべき、丸々と肥え太った体躯《たいく》を猪の毛皮でできたどてらで包んでいる。身の丈は二メートル十センチ以上はあるだろうが、体重は何キロあるのか……ぱっと見にはわからないぐらいの肥満体だ。
「諸星弾次郎と申します」
「ほほう……あんたが古武道〈独楽〉の宗家の……。名前は、よう耳にしとる。なるほど、〈独楽〉を学ぶには太るのが条件というが、さすがに宗家だけあって見事な肥えっぷりやな」
「そこで裸踊りをしている比夏留の父親でもあります」
「それも知っとる。ええ娘を持ったもんやな。鼻が高いやろ」
「ありがとうございます。私は若いころ、先生の著書を愛読しておりました。『古武道の民俗学』という本です。もちろん、脇田鳳三郎のお名前で出されたものでしたが……」
「あれか。あれは名著やでえ。わしの本のなかでも、なかなか上出来の部類や」
「はい。私も、あの本に触れたのがきっかけで、いろいろと民俗学の研究書を読みあさるようになりました。家業を継ぐということで、武道家の道に入りましたが、民俗学への関心はつねに持っております。ですから、娘が民俗学研究会に入ったと申しましたときには、非常に喜ばしかったです。今も、じつはひそかに民俗学の勉強も続けておりまして……」
「――あんた、まさか、『わがおいたちの記』を語るためにここに来たわけやなかろ。はよ、本題に入らんかい」
「わかりました。では、単刀直入にうかがいます。――その注連縄を切って、どうするおつもりですか」
「ここにおる六人に神懸かりさせたことで、条件は揃った。あとは、注連縄を切れば、天照大神を、岩屋戸の外に呼びだすことがでけるのや」
「具体的には、どのようなことが起こるのですか」
「知らん。そこまでは考えとらん。せやけど、わしの父親が訳した『伊邪耶による黙示録』には、世の立て替え・立て直しが行われるとある。それを信ずるならばおそらく、この腐った世のなかを清浄化してくれる『何か』が起こるにちがいない」
「私に、天照大神の正体について、ひとつの仮説があります。申しあげてよろしいですか」
「――言うてみい」
「天照大神は、噴火する火山を象徴しているのです」
「な、なんやと……」
藪田は顔をしかめた。
「火山が噴火すると、その火山灰が空を覆い、日本中……いや世界中が暗くなります。アマテラスの岩屋戸隠れは、そのことを意味しているのです」
「アホな……! しょうもない冗談はやめとけ」
藪田は叫んだが、弾次郎は真顔で続けた。
「確信があります。この蛭女山は休火山です。最近、やたらと地震が多いですね。でも、地震を感じているのはこの〈常世の森〉一帯だけで、S県の地震計はほとんど揺れを感知していません。本当に局地的な地震ということですね。ですが、もし、蛭女山が噴火するとしたら……」
「地震はその前兆やというんか」
「何千年も噴火したことのない、地方の小山にすぎない蛭女山について、まじめに研究している地震研究家はひとりもいません。ですが、私は昨夜、東京にいる知りあいの地質学者に電話でたずねてみました。あの山の下には、たいへんな量の安山岩質のマグマ溜まりがあって、もし噴火したら、とんでもないことになるらしいです」
「…………」
「近頃、夜になると、蛭女山のほうから、鳴動が聞こえてくるのです。低い……地鳴りのような音が。私には、それが、『出してくれ……自由にしてくれ……』という、アマテラスの叫びに聞こえてならないのです」
「でたらめを言うな。なんで、それが世の立て替え・立て直しにつながるねん。それやったら、みな、死んでまうやないか」
「『伊邪耶による黙示録』にある『世の立て替え・立て直し』というのは、文字通り、世界を一旦清算して、一からあたらしくはじめる、ということです。地質学者に、もし、蛭女山が噴火したら、最悪の場合どうなるかをきいてみたところ、彼は『そんなことありえないと思うが……』と笑いながら教えてくれました。S県は、流れだした溶岩流と火砕流で全滅、焼けた砂は東京にまで到達し、二週間以上にわたって降下。火山灰は日本全土を覆いつくし、S県周辺では三メートルの高さに積もるそうです。もちろん、農作物はたいへんな打撃を受けるでしょう。火山ガスも日本中に影響を与えるほど大量に噴出するらしいですね」
「ははははは。S県が壊滅したとしても、日本が全滅するわけやないやろ。言うてみたら、一地方の災害ちゅうこっちゃ」
「それが、そうじゃないんです。S県の位置から考えて、蛭女山の大噴火は、東海地震、南海地震の引き金になる可能性が高いそうです。その知人は、『蛭女山は小さいけれど、日本中の火山に点火するマッチみたいなもんだ。ここに火がついたら、噴火のドミノ倒しが起こるぜ』と教えてくれました。一番怖いのは、蛭女山がフォッサ・マグナの真上にある火山だということです。蛭女山の噴火が、フォッサ・マグナに連なるほかの火山の連鎖的な噴火を引きおこしたとしたら……富士山が噴火するかもしれない、というんです。また、海に流れこんだ土石流によって、津波が起こる可能性もあるそうです」
「…………」
「それだけの規模で日本中の火山が噴火したら、影響は世界中に及ぶでしょうね。火山灰のせいで、あらゆる国が闇に包まれます」
「『ここに高天原皆暗く、葦原中国悉に闇し……』か……」
「農作物が全滅して、世界的な食料危機が起こることも必定です。飢餓のために、どれだけの人間が死ぬでしょうか」
「あのなあ……おまえ、『ムー』の読みすぎやで。そもそも、アマテラスが噴火のことやという証拠もないしなあ」
「旧約聖書『イザヤ書』の預言によると……」
弾次郎は、その一節を暗唱した。
かくて偶像はことごとく亡《ほろ》びうすべし
エホバたちて地を震動《ふるいうごか》し給うとき
人々そのおそるべき容貌《みかたち》と
その御稜威《みいつ》の光輝《かがやき》とをさけて
巌《いわお》の洞《ほら》と地の穴とにいらん
「地は震動し、偶像はすべて滅ぶのです。イザナギ・イザナミによる国生みのことを思いだしてください。神話によると、世界はどろどろした広大な沼地のようでありました。そこに、イザナギ・イザナミの二神が島を作っていくのです。『伊邪耶による黙示録』にある『世の立て替え・立て直し』とは、すべてをそのときの状態……どろどろした沼地のような状態に戻す、という意味ではないでしょうか」
「溶岩に埋めつくされた原初の地球、か……」
藪田はそうつぶやいた。
「いかがですか、先生。これでも、その注連縄を切りますか」
「む……」
藪田は下を向いたまま、
「わしはこのために……生涯をかけて苦難の道を歩んできたんや。今さら、やめられん」
「日本が滅んでも、ですか。先生自身も死んでしまうんですよ」
「こんな腐った世の中……一旦パーにしてしもたほうがええ」
「いけません、先生っ!」
藪田は、フルートの先端で、注連縄を引っかけ、ぐい、とちぎった。
◇
数万個のバスドラムを叩き鳴らしているような低音の響きが地の底からわき起こってきた。ぐらり、ぐらり、と地面が揺れた。天岩屋戸は、中央の裂け目が少しずつ左右に広がろうとしていた。その合間から、赤く輝くものがちろちろと見えた。天岩屋戸はまさに、巨大な女陰のようであった。
「この……大馬鹿っ」
弾次郎は藪田に飛びかかった。痩せこけた藪田は、弾次郎の巨体のタックルを浴び、壁にぶつかった。藪田は口から血を吐きながらも、かたわらにあったライフルをつかみ、弾次郎の腹部に押しつけて、何度も引き金を引いた。弾次郎は、ぶはっと血の塊を吐き、そのまま仰向けに倒れた。
「あははははははは。これで……何もかもが清算される。世界は原初に戻る。すべてが『ごわさん』になる。あーはっはっはっはっは……」
地面が立っていられないほどに揺れ動き、藪田は四つんばいになった。下から突きあげてくるような揺れ。直下型だ。
今まで、ただひとり何の動きも示していなかった犬塚の身体が、蛙の脚に電気を通したときのように、びくびくびくびくん! と痙攣《けいれん》した。
「あああ……ああああああ……ああっ」
悲鳴とも愉悦ともつかぬ叫びがその唇からあふれだした。背を、満月のように反りかえらせ、白目を剥いて、手も脚も、普段では曲がらぬような方向に折りまげている。口から、叫びとともに、白と緑の入りまじった色の液体が噴きだした。それは、間欠泉のように、間をおいて数度、高々と噴きあがり、天井付近まで届いた。そのうちに、液体の噴出は止み、そのかわりに、緑色の泡がぶくぶくと口の端からこぼれ落ちるようになった。あたりは、ぬるぬるした泡でいっぱいになった。
「あああ……ああん……あああああん!」
藪田は、ハッとして、犬塚に向かって平伏した。
「畏《かしこ》くももったいなくも、天照大神さまのお越しであそばしまするか。ここにいてまするは、あなたさまの臣、藪田浩三郎でおます」
「あああああ……ひあああああああっ」
地の底から、深い深いところから、何かが地上めがけて凄まじい勢いで駆けのぼってくる。その怒濤のエネルギーを藪田は身体で感じた。
洞窟の岩肌が崩落しはじめ、天井にも床にもひびが入りだした。土塊《つちくれ》が大量に降ってきた。
その衝撃で比夏留は、目をあけた。今まで……何をしていたのだろう。何か……夢を見ていたような……。
「比夏留ちゃんーっ」
ハッと両目を全開にする。父親の叫び声。夢ではない。比夏留はあちこちを見渡した。弾次郎が、腹から大出血した状態で倒れている。
「パパ……っ」
「気がついたか……」
「パパ、どうしたのっ!」
「私のことはいい。注連縄をもとに戻すんだ」
「でも……どうやって」
「〈独楽〉の技を使いなさい」
「私、両脚をやられてるの。歩けないのよっ」
「いいか、今からおまえに〈独楽〉の最大の秘術〈防御《バリア》ガイア〉を教える。心して会得しろ」
「そ、そんなことしてる場合じゃないよっ。パパが……保志野くんが……みんなが死んじゃうっ」
「落ちつけ、比夏留。今はこれしかみなを助ける術がない。何もかも、おまえがこの技を習得できるかどうかにかかっている。出血がひどくて、パパの体力ではもうむりだが、おまえならできる」
「むり……むりだよ。自信ない……」
「やるんだ。おまえなら……比夏留ちゃんならできる」
「う……うん」
「脚が動かなければ手を使え。手が使えなければ頭部を使え。脚での回転にこだわる必要はない。自分を一個の〈独楽〉であると感じ、回ればいい。無心になれ。そして、ひたすら回るんだ。実際に回らなくてもいい。回っている自分を感じろ。そうすれば……」
比夏留は目をつむった。脚が動かないのに、無心になって、回っている自分を感じとる……そんなことができるのか……。だが、やらねばならない。
最初は、何も感じなかった。天井から落ちてくる土塊や、地面の揺れ、藪田の動向、保志野たちが無事かどうか……などが気になって、それどころではなかったのだ。
だが。
ある瞬間、それら煩悩が一切消えさった。
比夏留は回りはじめた。
はじめはゆっくりと……次第に速度をあげて……。
どこを軸にしているわけでもない。
比夏留は一個の球体となっていた。
回る……回る回るまわる……。
比夏留の回転スピードは徐々にあがっていった。
これまで体験したことのない速さだ。
だが、比夏留はおそれなかった。
回っている自分を感じろ。
無心になれ。
比夏留は……回った。
その速度は、いつのまにか秒速四百メートルを超えていた。
そして……。
そして、比夏留は、地球になっていた。
地球は独楽だった。
神の回す一個の独楽だった。
◇
「な、な、な、何やこれは……どないなっとるんやっ」
藪田は信じられぬ思いだった。比夏留を中心にして、あらゆるものが回転していた。自分も、弾次郎や保志野たちも、洞窟も……。〈常世の森〉も、日本も、世界も何もかも……。
そうだ。
回っていて当然だ。
なぜなら……地球は回っているのだから。秒速四百三十メートルのスピードで。そのことにふだんは気づいていないだけなのだ。
しかし。
比夏留だけが回っていなかった。
比夏留は、藪田の目のまえで、どっしりと腰を落ちつけていた。
なぜなら、比夏留は地球《ガイア》と完全に一体になっていたから。
保志野も、大量の出血のために朦朧《もうろう》とはしていたが、いつのまにか目覚めていた。そして、猛烈なスピードで回転する自分と、不動の状態にある比夏留とを交互に見つめていた。
「す、すごい……これはすごい」
思わず保志野は口走っていた。
「凄い技だな。そうだ……ぼく……名前をつけて……あげましょう。手も脚も……使わずに回るから……秘技〈ひとりでできるもん〉……っていうのはどうかな……」
「あのねえ、保志野くん……」
腹部に数発の弾丸を受けている弾次郎が、はあはあと荒い息をつきながら、
「これにはすでに、〈防御《バリア》ガイア〉という立派な名前があるんだ。変な名前をつけないでほしいね」
そう言ったとき、保志野はもう聞いていなかった。ふたたび気を失ったのだ。
「何をしようとしとるんかしらんが、もう手遅れやで」
藪田が、悪鬼のような形相になって獅子吼した。
「マグマはもうすぐそこまであがってきとる。地上に出る喜びで全身をわななかせとる。今にも、天岩屋戸から外に飛びだそうとしとる。これは大地の射精や。誰にもとめられん。これをとめられるのは……神だけや」
「そうでしょうか」
「おまえもしぶといな。そろそろ死ね。伊豆宮は死んだ。保志野ももうじき死ぬやろ。浦飯と白壁、諸星も順次わしが殺していく。そして、わしも死ぬ。最後まで残るのは犬塚や。あいつには、すべてのはじまりと終わりを見てもらう。おまえの娘が何をしようと、今、『最後の審判』がはじまったんや」
弾次郎は、藪田の眼前にすっくと立ちあがった。その威圧感に、藪田は気圧され、一歩あとずさった。
「な、なんや。腹のなか、弾でいっぱいにしとるくせに、よう立てたな」
「比夏留ちゃん……! 今だああっ」
弾次郎は絶叫した。
「逆回転しろ! 逆回転するんだっ」
その声は、地球《ガイア》と一体になっている比夏留の耳に届いた。だが、時速四百メートルの速度で回るその回転を、急にとめることはできない。
「む、むりよ、パパっ」
「やれ。やるんだ。〈防御《バリア》ガイア〉の逆……これが……これが〈独楽〉の秘技……〈アイガ・アリバ〉だ!」
最後の力を振りしぼってそう叫んだあと、弾次郎はがくりと頭を垂れた。
比夏留は、わかった。わかってしまった。
愛が……あれば……。そう、愛があれば、何でもできるはず。
比夏留は、全身の細胞を精神力でコントロールし、回転に制動をかけた。身体がちぎれそう……。
そして……。
逆回転……。
する……。
少しずつ……少しずつ……少し……ず……つ……。
比夏留は……地球は……逆に……回転を……は……じ……め……た……。
それは、ほんの数千キロ分にすぎなかったが、その影響は甚大だった。
「な、な、な、な、なんじゃこりゃあっ!」
藪田には、何が起きたのかわからなかった。
「これは……ま、まさか……せやけどこんなことが……」
◇
「……がとこなんこどけやせ……かさま、ま……はれこ」
。たっかならかわかのたき起が何、はに田藪
「!っあゃりこゃじんな、な、な、な、な」
きゅるきゅるきゅるきゅるきゅるきゅる……。
巻きもどしがはじまった。
◇
天岩屋戸がゆっくりと閉じていく。
膨大な量のマグマが地下に降りていく。
注連縄が、岩屋戸に張りつき……。
伊豆宮も、田中喜八校長も、メガテリウムも生命を取りもどした。
保志野も、弾次郎も、大怪我をするまえの身体になった。
白壁も、浦飯も、意識を回復した。
すべてが、約一時間まえの状態に復した。
ずっと荒い息をついていた犬塚の呼吸も、ようやく平静になった。
ただ……。
比夏留ひとりが、そのままだった。
両脚に被弾し、身体中に怪我をしている。
だが、その表情は晴ればれとしていた。
みなが、倒れた比夏留のまえに集まってきた。
「よくやったぞ、比夏留ちゃん。我々が元に戻っているということは、おまえが〈独楽〉の最大の秘技を裏表両方とも身につけたということだからな」
「ありがとう、パパ……」
「今から、おまえを病院に運ぶ。しばらくは入院して、ゆっくり休むといい」
「はい」
「諸星さん……」
保志野が比夏留を見下ろし、
「ぼくたちみんな、諸星さんのおかげで助かった……らしいです。全然覚えてないんだけど……ありがとう」
「いいのよ、保志野くん、お礼なんて……」
「ていうか……」
保志野は照れたように、
「どうして、上半身裸なんですか?」
比夏留は悲鳴をあげた。
エピローグ
こうして、事件は終わった。比夏留は一週間ほど入院しただけで、「病院の食事(の量)が口にあわない」とだだをこねまくり、退院した(実際には、保志野や犬塚たちが、毎日、こっそり食料を病室に届けていたのだが、それでも足らなかったらしい)。
◇
田中喜八は、銃刀法違反と道村姫子の殺害容疑で逮捕されたが、容疑否認のまま保釈された。彼は、ただちに校長の職をしりぞき、隠居した。田中喜八高等学校の経営権を他人に売りわたし、学園にかかわる一切から手を引いた。今は、趣味だった料理の才能をいかしてのレストラン経営を計画しているらしい。また、彼は〈常世の森〉をS県に譲渡した。S県は、〈常世の森〉のなかを、生物学者、地質学者などからなる調査団に踏査させたが、特殊な動物も珍しい植物もまったく見つからなかった。十字架の形をした洞窟がある、という噂もあったが、発見された洞窟はどれもありきたりのものばかり'だった。失望したS県は、〈常世の森〉のほとんどを更地にし、分譲住宅として販売することにした。
伊豆宮は、県内の着つけサロンに就職が決まり、白壁は実家の相撲部屋に入門した。浦飯はあいかわらず幽霊部員だが、以前よりは部室に顔を出す回数が増えた。犬塚は、部員が三人しかいない部ではあるが、四月の新入生を獲得するために虎視眈々《こしたんたん》と計画を練るなど、部長としての職責を立派に果たしている。藪田は、あれ以来、憑きものが落ちたようになり、毎日、部室のベンチに寝そべって酒をかっくらったり、フルートを吹いたりしている。
◇
始業式を間近に控えたある夜、新入部員勧誘のための準備で遅くなった比夏留は、部室を出たところで、保志野とばったり会った。
「あっ、保志野くん、今、帰り?」
保志野はかぶりを振り、
「諸星さんを迎えにきたんですよ」
「私を? どうして?」
「ちょっと散歩しませんか。これ、差しいれ」
保志野はだまってサンドイッチの大量に入った紙袋を比夏留に差しだすと、先に立って歩きだした。
ふたりは、部室の裏手にある〈常世の森〉の間際まで来た。すでにフェンスは撤去されており、かわりに「進入禁止」という立て札と、ロープが張られているが、もちろん、比夏留たちにとっては、何もないも同然だった。ふたりはロープを乗りこえ、森のなかに入った。
「明日から、伐採がはじまるそうですよ」
「そうなんだ……」
比夏留はカツサンドをぱくつきながら、保志野と並んで歩いた。
「この森の中と外で、いろんなことがありましたね」
「そうだよねー。あのときはあんなもの食べたな、とか、食べ物にからんで、いろいろ思いだすよ」
「ふーん……そんなもんかなあ」
ふたりの手は、一瞬、触れんばかりに近づいたが、磁石の同極同士のように、ふわっと離れた。
「そういえば、〈独楽〉の宗家になったそうですね。おめでとう」
「宗家になったっていっても、何もかわらないよ。あいかわらず、どんだけ食べても太らないし……」
四個目のサンドイッチを口に押しこみながら、比夏留はため息をついた。
「それでいいんですよ。お父さんはどうしてるんです?」
「ごろごろしてる」
ふたりは、森の奥へと進んだ。
突然、
いーっ、いっ、いっ、いー、ぐ、あっげー、ごー
甲高い鳴き声が梢のほうから聞こえてきた。ふたりはハッとして顔をあげたが、それらしいものはどこにも見あたらなかった。
「聴いた?」
「たしかに聴いたよね」
そのとき、ふたりのすぐ後ろを、騒々しい足音が通りすぎていった。何十頭もの、馬らしきものの蹄の音だ。
「まさか……シマウマ……?」
「珍しい生き物は一匹もいなかったって発表されたけど……」
ふたりは自然に手をつないで、走りだした。だが、シマウマたちの姿はどこにもなかった。
おおおお……ん
ぶおお……んぶおお……ん
それは行く手にある岩陰から聞こえてきた。
「『出世法螺《しゅっせぼら》』かも……!」
岩をぐるりと回ってみたが、そこには何もいなかった。
「おかしいな……」
「変よね……」
ふたりが手をつないだまま、なおも森の奥へと進もうとしたとき。
目のまえに、茶色い毛の塊が出現した。
「アオ……っ」
比夏留が駆けよろうとすると、巨獣は比夏留のほうを見て微笑んだ。
そして。
すーっと、空気にとけ込むようにして、その姿は消えてしまった。
ふたりは呆然として、その場に立ちつくした。
夜の森は、静まりかえっていた。
「もしかしたら……」
だいぶしてから、保志野が押しだすように言った。
「あいつら……ぼくたちに別れを告げにきたのかもしれませんね」
「別れ……?」
「明日から、この森は消滅するんです。もう、彼らをかくまってきた安息の地は、なくなってしまったんです」
ふたりはそのあと、無言でしばらく〈常世の森〉をぶらついたあと、小さな岩のうえに腰をおろした。
「ねえ、保志野くん」
サンドイッチを全部食べおえた比夏留が言った。
「はい……?」
「もう、森の住人は、みんないなくなってしまったのかなあ」
「でしょうね。彼らが住めない場所になってしまうから、そのまえにみずから引きはらったんだと思います」
「森のみんなのことを、語り継ぐことが必要だよね。たとえ、誰も信じてくれなくても」
「もちろん」
「――じゃあ、民研に入らない?」
「えっ……」
予想外の申し出に、保志野はためらいの表情を見せたが、
「わかりました。藪田先生とも、これからはうまくやっていけそうですし」
「やったー。新入部員ゲット。犬せん、喜ぶぞー」
比夏留が万歳を叫ぼうとしたとき、
「でも、ひとつだけ条件があります」
「何?」
「特典をください」
「――へ?」
「今、ここで」
そう言って保志野は、比夏留の唇にそっとキスをした。
比夏留は、数分間、蝋人形のようにかたまっていたが、やがて、身体中の空気がなくなりそうなほどの長い長い息を吐いてから立ちあがった。
「今から、行かない?」
「ど、どこへ……?」
「おいしい中華料理屋さん見つけたの。もちろん保志野くんのおごりでね」
「どうしてぼくが……」
「新入部員は先輩の命令には絶対服従よ。中華料理のあとは、えーと……スパゲティ屋さんに行こうかな。最後のシメは、お寿司屋さんなんていいかも」
保志野の顔が青ざめた。
[#改ページ]
本作中の引用は、
○「古事記(上)全訳注」次田真幸(講談社学術文庫)
○「今昔物語集 本朝世俗部 上巻」佐藤謙三校註(角川日本古典文庫)
○「駿國雑志」阿部正信編(吉見書店)
によるものです。
また、資料として、
○「図説日本未確認生物事典」笹間良彦(柏美術出版)
○「上代説話事典」大久間喜一郎・乾克己編(雄山閣)
を参考にさせていただき、一部を引用させていただきました。
校注者ならびに出版元に心より御礼申しあげます。
なお、本作品はフィクションであり、登場する地名、人名、団体名、宗教名その他はすべて架空のものであり、実在の事物には一切関わりありません。万一、類似が見られた場合は、偶然の結果であることをお断りしておきます。
[#地付き]著者
[#改ページ]
底本
講談社 KODANSHA NOVELS
天岩屋戸《あめのいわやど》の研究《けんきゅう》
著 者――田中啓文《たなかひろふみ》
二〇〇五年二月五日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・「諸星さんてっば」
置き換え文字
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|※《たま》 ※[#「王+總のつくり」、第4水準2-80-88]「王+總のつくり」、第4水準2-80-88
|※《め》 ※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53