邪馬台洞の研究
私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その2
田中啓文
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)常世《とこよ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)高校生|保志野《ほしの》春信《はるのぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あいつ[#「あいつ」に傍点]じゃない
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[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
〈帯〉
好調、学園伝奇ミステリ!
日本史を根底から覆す異説。
異界への入口は学園内に!?
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〈カバー〉
私立伝奇学園の敷地内に拡がる立入禁止の常世《とこよ》の森≠ノは、卑弥呼の財宝が眠り、巨大な昆虫が生息しているという。仮面の男の出現、洞窟の地面から突き出した死体の手。近づく者は命を落とす!? 民俗学研究会のお荷物、諸星《もろぼし》比夏留《ひかる》と、天才高校生|保志野《ほしの》春信《はるのぶ》が事件を究明し、日本神話の根底を覆す異説に迫る!
伝奇学園シリーズの二作目をお届けする。
なんと、一作目より確実におもしろくなっているではないか。著者である私が言うのだからまちがいはない。
もちろん最終巻である次巻三作目はもっともっとおもしろい。
と書いてもないのに広言する私である。
それぐらい言わせてよ。
[#地付き]――田中啓文
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪生まれ。'93年、『背徳のレクイエム』で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。SF、ミステリ、ホラー、ファンタジー、時代小説など多岐にわたる分野で活躍中。主な著作に『水霊《ミズチ》』(角川書店)、『蓬莱《ほうらい》洞の研究』(講談社ノベルス)、『ベルゼブブ』(徳間書店)、『忘却の船に流れは光』(早川書房)、『UMAハンター馬子 闇に光る目』(学研)など。'02年、『銀河帝国の弘法も筆の誤り』で星雲賞短編賞受賞。
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邪馬台洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その2
田中啓文
講談社ノベルス
KODANSHA NOVELS
[#地付き]ブックデザイン=能谷博人
[#地付き]カバーデザイン=城所 潤
[#地付き]カバー・本文イラストレーション=瀬田 清
目次
邪馬台洞の研究
死霊洞の研究
天岩屋戸の研究・序説(一)
人喰い洞の研究
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[#挿絵(img/02_007.jpg)入る]
邪馬台洞の研究
プロローグ
鋼《はがね》のように硬質の闇《やみ》がまわりを包んでいる。
(このあたりだ……)
男はペンライトのスイッチをそっと入れた。この森では、懐中電灯をつけただけで狙撃されることがある、と聞いていたから、今まで控えていたのだ。
(噂が正しければ……このあたりにあるはずなんだが……)
周囲を注意深く見回して、約十五分後。ようやく、雑草に覆い隠された、苔《こけ》むした石像を見いだした。雨風でかなり風化してはいるが、くびれたボディラインからして、女性の立像であることはまちがいない。
(こ、これだ。これが卑弥呼《ひみこ》の石だ。ということは、このすぐ近くに……)
石像を中心に歩きまわって、低い岡のような場所のそばに草と木の枝に覆い隠された小洞窟《しょうどうくつ》の入り口を見つけたとき、彼は小躍《こおど》りした。
(このなかに、財宝があるんだ。卑弥呼の財宝が……)
男は感慨深げに洞の入り口を眺めた。奥がどうなっているかは、ペンライトのか細い光ではわからない。
(ふふふ……場所さえわかればこっちのもんだぜ。兄貴に誘われてわざわざ来たかいがあった。さっそく報告して、人数をそろえて……)
男は、ポケットから携帯を取り出したが、ボタンを押そうとせず、しばらく考え込んでいた。
(俺が今、ひとりで洞窟に入って、お宝を見つけりゃ、まるごと総取りだ。そうなりゃ億万長者……)
だが、彼は闇のなかでかぶりを振り、
(うう……そんなことしたら身の破滅だ。あいつらは絶対に俺を赦《ゆる》さねえだろう。地の果てまでも追いかけてきて、俺を殺すにちがいねえ。危ねえ橋を渡るより、おとなしく分け前をもらっといたほうが得策だよな)
男は携帯を操作し、耳に当てる動作を何度も繰り返したあげく、地面に唾《つば》を吐《は》いた。
「電波が届かねえ。そんなはずはねえんだが……」
そのとき。
硬《かた》い闇の殻《から》にひびを走らせるほどの激しい音が轟《とどろ》き、男は振り返った。
何かが……近づいてくる。凄《すさ》まじい勢いで。男は身体を震わせながら、ペンライトをそちらに向けた。光のなかに浮かびあがったものは……。
(信じられない……こんなものが存在するなんて……でも、どうしてこんなものがここに……)
胸を、腹を、強打され、仰向けに倒れたそのうえをめちゃくちゃに蹂躙《じゅうりん》されて、喉《のど》が裂け、肋骨《ろっこつ》がへし折れ、心臓が破裂し……薄れゆく意識の最後のひとひらのなかでも、男は自分がそんな目にあった、その「意味」すら覚ることができなかった。
1
「ヤマタイコクはどこですか?」
ドアがあき、空《から》っ風とともに店に入ってきた青年が、いきなり比夏留《ひかる》にたずねた。比夏留は、食べていた大盛り海鮮丼のイカを喉に詰まらせ、ぐふっ、とえずきながら、顔のまえで手を左右に振った。
「し……し、知りません」
「そうですか……」
大学生とおぼしきその青年は、がっくり肩を落とし、泣きそうな顔をして去っていった。だが、泣きたいのは比夏留だった。これでもう、今日、四人目だ。
(どうして私にきくのよ。私、邪馬台国がどこにあるのか知らないし、興味もないし)
入り口のすぐ近くの席に座っているのが悪かったのだろうか。誰が入ってきて何をたずねてきても絶対に無視することに決め、比夏留は四杯目の海鮮丼に集中しようとした。学生やサラリーマン相手のこの定食屋は、安くて量がやたらと多く、しかもおいしいので、比夏留はよく利用する。「手力通りの大黒屋」といえば、このあたりのB級グルメのあいだでは知らないものはないというぐらい有名だ。魚料理が売りもので、その日に仕入れた新鮮な魚を、刺身、煮つけ、焼き魚、フライ、天ぷらなどいろいろな調理法で食べさせてくれるが、なかでもうまいのはこの海鮮丼だ。炊《た》き立ての飯のうえに、煮アナゴ、イワシ、マグロ、イカ、甘エビ、サザエの刺身、生ウニ、イクラ……などがてんこもりになり、そこにしょうゆ味のタレをかけまわしたもので、これの「並」でも、ほとんどのひとは食べきれないだけの分量がある。大盛りにすると、丼がちょっとした洗面器ほどもあるのだが、比夏留はいつもこの大盛りを下校途中のおやつがわりに六杯は平らげる。一杯五分、六杯で三十分、というのが比夏留のペースだが、今日はどうも集中できず、まだ四杯目なのにすでに食べはじめから二十五分が経過している。
(もっとペースをあげないと……)
べつにフードファイターではないのだから、時間を気にする必要もないのだが、食事のとき、比夏留は常に急いでいる。普段よりも早く食べ終えたら、「勝った……」という気になるのだ。
(あと五分で二杯……は無理よね。でも、努力だけは……)
一度におにぎり大の飯塊を箸《はし》ですくいあげ、大口をあいてそこに押し込む。顎《あご》がはずれそうだが、これもまた修行である。がつ、がつ、がつ……と一定のリズムを崩さずに、食べる・食べる・食べる・食べる……。もちろん、咀嚼《そしゃく》したりしない。全部飲み込むのだ。ご飯は噛んだりすると味わいが半減する。飯をぐびぐび飲み込む快感を一度知ってしまったら、噛むなんて馬鹿馬鹿しくって……。
また、扉があき、突風をまとわりつかせて、長髪の若者が入ってきた。比夏留はびくっと身体をかたくして、おそるおそるその顔を見ると、
「ヤマタイコクはどこですか?」
「もう、いやっ」
比夏留は丼をテーブルに叩《たた》きつけると、立ちあがった。長髪の青年は、ひきつった顔で一歩さがると、
「あ、あの……なにか、俺、悪いこと言いましたか……」
「邪馬台国だか卑弥呼だかしらないけど、私は海鮮丼が食べたいの! 今食べたいの。すぐ食べたいの。わかった? そんなに邪馬台国の場所が知りたきゃ、この店出て、右にずーっと行って、最初の角を曲がったところに交番があるから、そこできいてよっ」
「は、は、はいっ、そうします」
青年は、素直にうなずくと、逃げるように店から去った。
比夏留は壁の時計に目をやる。三十分が過ぎてしまった。ため息をつくと、残りの二杯を電光石火で平らげ、顔なじみのパートの老人に、
「ごちそうさま。お勘定してください」
「はいはい。海鮮丼六杯で……えーと、二千七百万円」
「並じゃなくて大盛りよ」
「え? ああ、ごめんごめん、のぞみ≠竄ネ。三千六百万円」
のぞみ≠ニいうのは、この店の符帳《ふちょう》で、大盛りのことである。比夏留は、代金を支払った。比夏留の両親は、食事代だけは鷹揚《おうよう》に出してくれる。
「半額に負けてよ」
「あっはははは。比夏留ちゃんにはかなわんなあ。ほな、三千五百万円でどないだ?」
「三千三百万円」
[#挿絵(img/02_013.jpg)入る]
「かなわんなあ。三千四百万円」
「もう一声っ」
「かなわんなあ、かなわんなあ。ほな、三千三百五十万円」
比夏留は、この老人と値切り交渉するのが楽しかった。
「さっひ、入ってひた人と喧嘩《けんか》しとったけど、何かあったんけ?」
この爺さんは、「き」と「ひ」の区別がつかない。
「たいしたことじゃないよ。食事の邪魔をするから、ちょっとムッとしただけ」
「比夏留ちゃんが食べとるとこを邪魔するやなんて、命知らずやなあ」
それを聞いて、比夏留はまたムッとした。私や犬か。気の利《き》いた文句を言い返そうとしたが、老人は、ふふふん……ふーん……ふんふん……と昭和歌謡めいた鼻歌を歌いながら厨房《ちゅうぼう》に戻っていった。
◇
「ただいまーっ。あー、おなか減ったあ」
帰宅した比夏留は、食堂に飛び込むと、食卓のうえの菓子鉢に盛られていたドーナツを目ざとく見つけ、二個を口に放り込んだ。
「こらっ、比夏留ちゃあん、帰ったらまず先に手を洗ってうがいをしなさああい!」
銅鑼《どら》を連打したような太い声が広い食堂にわんわん反響した。椅子を三つ占領して座っている、布袋《ほてい》さんのような巨体の人物が、比夏留の父親にして、古武道〈独楽《こま》〉宗家、諸星弾次郎《もろぼしだんじろう》である。こないだ体脂肪率をはかったら、七九パーセントという数字が出た、といって威張《いば》っていたが、プロの格闘家としては珍しく、ぶくぶくに太っている。ひげはごわごわだし、胸毛も腕毛もごわごわだ。本人は、「戦国武将」と称しているが、近所の人たちのあいだでは「放射能で巨大化した狸《たぬき》」とか「放射能で巨大化したイノブタ」とか「放射能で巨大化したアナグマ」とか呼ばれていることを比夏留は知っている。
「インフルエンザの九〇パーセントは手から感染するんだ。今日、『奥さまは暇』でやってた。だから、ちゃんと手を……」
「はーい」
もぐもぐしながら洗面所に入った比夏留は、手を洗いながら、
「ねえ、パパ、邪馬台国ってどこにあるの?」
「どうしてそんなこときくんだね」
「実はね……」
比夏留は、定食屋での体験を話した。
「ああ、あの店か。安い・うまい・めちゃくちゃ量が多いの三拍子そろったいい店だ。パパも昔、よく通ったよ。海鮮丼もいいが、焼きガキ、生ガキ、カキフライ、味噌煮の載《の》った四色カキ井もうまいし、お金のないときは、アジフライ一品とつけあわせのキャベツにどぼどぼウスターソースをかけて、それだけで大飯を十八杯食べたこともある。ああ、思いだすだけでも、よだれが出てきたよ」
「そんなことはどうでもいいの。どうしてみんな邪馬台国、邪馬台国って言うのかな」
「うーん……最近、邪馬台国ブームが再燃したとは聞いてないがなあ……」
冷蔵庫をのぞくと、昼ご飯の残りらしい、赤ん坊の頭ぐらいある馬鹿でかいおにぎりが、大皿に盛ってあったので、比夏留はそれを食卓に運んで、食べはじめた。
「おいおい、もうじき晩御飯だぞ。今日は、昔の内弟子で、今は漁師をしている男が、伊勢エビを大量に送ってきてくれたからな、伊勢エビの刺身に伊勢エビのフライに焼き伊勢エビに伊勢エビ鍋に伊勢エビの味噌汁……とにかく伊勢エビ尽くしの大ごちそうだ。それが入らなくなるぞ」
「おやつよ、おやつ」
言いながら、比夏留はおにぎりをぱくぱく食べる。
「それもそうだな。比夏留ちゃんは、もう少し、テイドしなくちゃいかんからな」
「何、そのテイドって」
「DIETを逆さから読んでTEIDだ。もっとがんばって食べなきゃ、いいデブにはなれんぜよ」
でたらめな高知弁を使う父親に、比夏留はため息をついてみせ、
「これでもがんばってるつもりなんだけど……」
「パパの経験だと、寝るまえにこってり系のラーメンを食べると効《き》くみたいだよ」
「もうやってる」
「じゃあ、二杯に増やしなさい。あ、パパは鮭《さけ》のおにぎりね。それじゃなくて、そっちの大きいやつ」
食べるんかい、と思いながらも、比夏留は弾次郎におにぎりを手渡した。
「ねえ、パパ。邪馬台国ってどこにあるの?」
「有力なのは畿内説と九州説の二つらしいな」
詳しいことは知らないが、と前置きし、特大おにぎりを一口で頬張ってから、弾次郎は説明をはじめた。
2
邪馬台国というのは、三世紀頃に日本のどこかに存在したと思われる国家の名前である。その頃、日本には「文字」がなかったから、当時の日本についての情報は中国の史書に頼るより方法がない。中国の史書にはじめて日本についての記述がでてくるのは、『漢書地理志《かんじょちりし》』における「楽浪《らくろう》の海の彼方《かなた》に倭人《わじん》がいて、百余国にわかれている」という箇所で、これは紀元前のことである。『後漢書東夷伝《ごかんじょとういでん》』には、「西暦五七年、倭の奴《な》の国の使者が後漢の光武帝《こうぶてい》に拝謁《はいえつ》し、『漢委奴国王《かんのわのなのこくおう》』と刻《きざ》まれた金印を賜った」とある。同書には、後漢の安帝《あんてい》に「倭の面土《めんと》国の王|帥升《すいしょう》たちが奴隷百六十人を献上して、拝謁を乞うた」ともあって、これは一〇七年のことである。
次に書かれた『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』に、いよいよ邪馬台国に関する記述が登場するのだが、原文わずか二千字程度のその文章こそが、江戸時代以降今日まで続く「邪馬台国論争」のもとなのである。
同書から、その場所に関する部分を要約すると、次のようになる。
倭人は帯方《たいほう》の東南の大海のなかにいる。帯方郡から倭へ至るには、海岸にしたがって水行し、韓国《かんこく》を経《へ》て、南へ東へと進んでいくと、狗邪《くや》韓国に至る。そこまでは七千里である。
そこからはじめて海をわたり、千里で対馬《とま》国に達する。
さらに海をわたること千里で、一大《いちだい》国に達する。
さらに海をわたること千里で、末廬《まつろ》国に達する。
そこから東南に陸を五百里行くと、伊都《いと》国に至る。
さらに東南に百里行くと、奴《な》国に至る。
さらに東に百里行くと、不弥《ふみ》国に至る。
そこから南へ、水を行くこと二十日間、投馬《とうま》国に至る。
そこから南へ、水を行くこと十日、陸を行くこと一月で、邪馬台国に達する。
帯方郡から邪馬台国までは、一万二千里である。
男は全員、入れ墨をしている。
男は横幅の広い布を身体に結ぶだけ(横幅衣)、女は衣を単被《たんぴ》のようにして、中央をうがち、そこに頭を通す(貫頭衣)。
気候は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな裸足《はだし》で過ごす。
真珠や青玉《せいぎょく》(翡翠《ひすい》)を産出する。
もともとは男子を王としていたが、長期の戦で国が乱れたので、卑弥呼という女王をたてた。
卑弥呼は鬼道につかえ、よく衆を惑わした。
西暦二三八年、卑弥呼は魏に使者を送り、魏王から「親魏倭王」の称号と金印紫綬をもらう。
卑弥呼の死後、おおきな冢《つか》を造って、そこに葬《ほうむ》った……。
◇
「ふーん……どうしてこれが論争のたねになるの?」
武道家でありながら、かつては民俗学を志したこともある弾次郎は、よくぞきいてくださったとばかりにぐふぐふ笑った。
「距離の単位として『里』が使われているだろ。日本では一里は四キロだけど、当時の中国では、一里は四百メートルほどだった」
「じゃあ、そのまま計算すれば……」
「ところがそうはいかない。『魏志倭人伝』における邪馬台国の場所を特定するための起算点は、この『帯方郡』というところだが、これは朝鮮半島の北西にあった中国の領地で、今のソウルのあたりだ。ここから『狗邪韓国』、つまり、釜山《プサン》のあたりまでが七千里とあるから、一里が四百メートルだとすると、二千八百キロになるはずだろ。でも、記述どおり、海岸に沿って船で移動するコースをたどると、だいたい七百キロ弱になるそうだ」
「どうしてなの?」
「どうやら、『魏志倭人伝』では、『短里』という特殊な単位を使っていたらしい。七百キロが七千里だから、一里はだいたい百メートルということだな。ここまではいい。その計算で、記述のとおり、まず海をわたって百キロ行くと、『対馬国』に至るとあるけど、そこには今でいう対馬《つしま》がある。つまり、一里が百メートルという換算は正しいということがわかる。ここまではいいだろ?」
比夏留は最後のおにぎりを平らげてから、うなずいた。
「このあとも、そんなにぴったんことはいかないけど、書いてある方角とか距離を少しずついじれば、それに該当するような場所が存在する。たとえば、対馬の次に到達する『一大国』、この『大』は『支』の誤記だというのが定説で、つまり、壱岐《いき》のことだ。『末廬国』は松浦郡、今の佐賀県唐津市付近だろうと言われている。『伊都国』というのは、よくわかっていないけど、怡土《いと》郡、福岡県の糸島郡付近ではないかという説が有力だ。『奴国』は、怡土郡のすぐ隣に、那珂《なか》郡というのがある。今の、博多あたりらしい。この先の『不弥国』はどこのことなのか、あまりよくわかっていないみたいだけど、北九州のどこかというのが定説みたいだな」
「ねえ、パパ、ポテチ食べてもいい?」
「まあ、黙ってききなさい。ここまでは、距離と方角が書いてあったけど、『不弥国』から先は、方角は書いてあるけど、距離のかわりに日数が書いてある。当時の船足は一日にだいたい二十五キロ、歩いた場合は一日に約三十キロという資料があって、それがまあある程度正しいとすると、『不弥国』が北九州のどこかだとして、そこから南に五百キロ行ったあたりに、『投馬国』があるはずだ」
「そうよね。おかしいな、ポテチの業務用の大袋、買っといたはずなんだけど……」
「あれはパパが食べたよ。ところが、北九州から南へ五百キロも行ったら、鹿児島あたりまで行ってしまうのさ。船で九州の海岸をぐるっと回ったとしても、宮崎ぐらいまでは行ってしまう。そこに『投馬国』があるとしたら、そこから南へ『水行十日、陸行一月』、つまり、約千キロも行ったら、九州を通り抜けて、沖縄あたりまで行っちゃうのさ」
「ありゃまー」
「だからこそ、議論が起こってくる。畿内説をとる学者は、方角がまちがってると主張してる。南じゃなくて、東に行かない限り、近畿には至らないからね。九州説をとる学者は、距離がまちがってると主張してる。そこで、陸行一月は、陸行一日の誤記だ、とか、船で十日行ったあと陸を一ヵ月行くのではなく、船なら十日で徒歩ならひと月という意味だ、とか、いろいろ解釈をしてるみたいだ」
「ようするに、どっちの説も、倭人伝の記述のどこかがまちがってる、という前提でないと、うまくいかないわけね」
「そういうこと。もともと江戸時代の学者の新井白石《あらいはくせき》が、畿内説を唱《とな》えたんだけど、それは大和朝廷が邪馬台国の発展したものだという考えに基づいている。彼が行った、倭人伝に出てくる国名を実際の地名にあてはめる作業結果は、今でも通用してるんだ。でも、白石は、途中で自説を翻《ひるがえ》して、九州説に鞍替《くらが》えした。それは、もし邪馬台国が大和朝廷だとしたら、神であるべき天皇が、中国の皇帝に膝《ひざ》を屈し、奴隷や貢《みつ》ぎものを贈ったことになるからで、そういう屈辱的なことは認められなかったんだろうな。国学者の本居宣長《もとおりのりなが》なんかは、邪馬台国なんかは九州の豪族が勝手に倭王を自称して朝貢《ちょうこう》しただけで、倭人伝の記述はでたらめだとまで断じてる。明治になってからは、京大の内藤虎次郎《ないとうとらじろう》が畿内大和盆地説を、東大の白鳥庫吉《しらとりくらきち》が九州肥後説を主張しての大論争がまきおこって、それ以降も、京大系が畿内説、東大系が九州説という流れが続いている」
「どっちの説が有力なの?」
「さあねえ……パパにはわからない。でも、ほら……あの彼ならよく知ってるんじゃないのか?」
「あの彼って?」
「こないだ、鶏鳴通りを並んで歩いてた……民研には入ってないけど、民俗学好きの友だちで、雑誌に論文が載ったりしてる子だって言ってたじゃないか」
父親としては、一応、娘が親しくしている男友だちのことは気になるようだが、
「ああ、保志野《ほしの》くん。――そうかもね」
比夏留はさらっとそう言うと、
「じゃあ、道場行ってくる。伊勢エビが入るように、ちょっと腹ごなししないとね」
「あのねえ、比夏留ちゃん……」
「私、伊勢エビ、五匹は食べるからね。よろしくっ」
3
翌日の放課後、〈綺麗なカルビには棘《とげ》がある〉と印刷されたTシャツを着た比夏留は、民俗学研究会の部室で、先輩たちをまえに話をむしかえしていた。
「おかしいでしょ、何人も、『邪馬台国はどこですか?』って。そのたびに、知りません、って言うの、疲れましたよ。邪馬台国を探してるんなら、九州か奈良に行くべきですよね」
「ああ、あの店ね」
三年生の白壁《しらかべ》が舌なめずりをした。家が相撲部屋なので、頭に髷《まげ》を結《ゆ》っている。普通の高校なら、かなりの変人として扱われるだろうが、ここ田中喜八《でんなかきはち》学園高校では、「ちょっと変わってる」程度の認識になる。
「おいらも贔屓《ひいき》にしてんだ。とくに、コノワタ(ナマコの内臓の塩辛)とホヤとアワビの肝と海藤花(タコの卵)とウミぞうめん(アメフラシの卵)を使った『珍味定食』。なにしろ量が多いからね、おいらみてえな育ち盛りにはぴったりなのさ」
そう言って、白壁が便々《べんべん》たる腹を撫《な》でると、
「白せんは育ちすぎです」
セーラー服姿の犬塚《いぬづか》が言った。彼女は男だが、十四歳まで女として育てられたため、姿形も思考も行動も女性そのものだ。
「あの店って、繁盛《はんじょう》してるみたいね。こないだ、駅の北側に支店を出したらしいわよ。そっちは山菜料理専門の定食屋だって」
部長の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》が言った。くくっているとわからないが、リボンをほどいて髪を垂らすと、披露宴の新婦のドレスのように床を引きずる。「髪には神が宿る」というポリシー(?)なのだそうだ。
「じゃあ、一度行ってみねえとな。っていうか、今日、みんなで行かねえか?」
「いいですねっ。行きましょ、行きましょ、すぐに行きましょう!」
比夏留はすぐに立ちあがったが、伊豆宮ににらまれた。
「あんた、今日は、今度の『鶏鳴祭』の、うちの研究発表のことを決めるっていったでしょ」
田中喜八学園ほど行事の多い学校はない。『鶏鳴祭』というのは、秋に行われる一種の文化祭だが、屋台が出たり、芸能人が来たりすることはなく、純粋に各クラブが研究発表をするだけの地味なイベントだ。
「はーい」
しおしおと座りなおした比夏留に、犬塚が耳打ちした。
「私、割り引き券持ってる。終わってから、一緒に行こ」
比夏留の顔が輝き、
「何枚持ってるんですかっ。私、三枚予約!」
ふたたび伊豆宮のアイスピックのような視線が飛び、比夏留はしゅんとして下を向いた。部長は、冷徹な声で、
「犬塚さん、浦飯《うらめし》くんは?」
「休むそうです。〈ピヌルヴェンカの蹄《ひづめ》〉のイニシエーションがあるとかで」
「あいつはもう……」
部長のこめかみにぴりぴりと稲妻が走った。〈ピヌルヴェンカの蹄〉というのは、二年生の浦飯|聖一《せいいち》が所属している秘教団体だ。
「浦飯くんはほっといて、四人で決めてしまいましょう。諸星さんは、研究発表のテーマとして、何がいいと思いますか」
「えっ、えーっ、私……?」
いきなり振られて、比夏留はうろたえまくった。
「えーと……えーと……えーとですね……」
「先週、各自、研究テーマを考えてくるようにって言っといたわよね。まっさか、忘れてたとか言うんじゃないでしょうね」
こういうときの伊豆宮は蛇のようにしつこい。
「もももちろんです。ちゃあんと覚えていました。でも……」
「でも、何?」
「あ、いや、その、つまり……そうそう、邪馬台国はどこにあるのか、っていうのはどうかなー、なんて考えてたんですよ。――前から」
部長はこれみよがしのため息をつき、
「いかにも、今思いつきましたっていうテーマね。ま、いいでしょ」
伊豆宮は黒板に、「邪馬台国」と書いた。
「犬塚さんは?」
「私はですね……」
犬塚が言いかけたとき。
部室の扉に、外から何かがぶつかる大きな音がして、直後、扉が乱暴にあけられ、男子学生がひとり顔をのぞかせた。
「ヤ……ヤマタイ……」
「だから、私は知らないって言ってるでしょお!」
比夏留はそう叫んだあと、学生の顔を見て、口をつぐんだ。目のまわりが紫色に腫《は》れあがり、口の両端が切れて、血がこってりとこびりつき、鼻からも血を垂らしている。
比夏留は学生の腕を掴んで、部室に引き入れた。同時に、白壁が外に飛び出していった。比夏留は、学生を椅子にもたれさせると、白壁に続いた。
四人の男たちが、部室に向かって立っていた。皆、屈強そうで、一様にサングラスをかけ、ひげをはやし、アロハを着、きわめて柄の悪い……一言で言うと、ヤクザのような連中だった。ひとりは、木刀を手にしており、もうひとりは自転車のチェーンを持っていた。白壁は、彼らと真っ向から対峙《たいじ》している。
「おい、ちょんまげの兄やん……」
先頭の、パンチパーマの男がガムをくちゃくちゃ噛みながら、
「今、学生が一匹、中に逃げ込んだだろ。そいつを渡してもらおうかな」
妙なアクセントでそう言った。
「たしかに学生が入《へえ》ってきた。あんにゃろが何をしたってんでえ。犯罪をおかしたてえんなら、おいらたちが警察に届けりゃいいだろ。そうでねえんなら、あいつをあんたらに渡さなきゃならねえ理由をちゃんと言ってもらおうか」
「おまえらには関係ないんじゃ。痛い目ぇにあいたくなかったら、とっとと渡しなよ」
「窮鳥《きゅうちょう》懐に入れば猟師もこれを殺さず!」
白壁は、凛《りん》とした声で言い放ったが、ヤクザたちはきょとんとした顔で、
「級長? 兄ちゃん、学級委員か?」
「そうじゃねえ。おいらたちを頼ってきたやつを放り出すことはできねえってこったい」
「何だと……」
ヤクザたちは一斉に白壁に襲いかかった。
「どすこーいっ」
一声叫ぶと、白壁は、腰を落とし、両手をまえに突き出した。パンチパーマの男は、白壁の激しい突っ張りに頬を張り飛ばされ、空中を飛んだ。モヒカンの男は、ベルトを掴まれ、上手投げで転がされ、地面に顔を埋めた。木刀を持ったスキンヘッドの男は、猫だましに驚いて木刀を落としたところを、鯖折《さばお》りでしとめられた。残ったのは、チェーンを持った角刈りの男だ。
「兄ちゃん、なかなかやるな。じゃどん、わしも相撲は得意なんじゃ。一番、行くか!」
男は自らチェーンを捨てると、白壁目がけて突進してきた。ベルトを掴まれ、すさまじい勢いに押されて、白壁はずるずる後退した。
「がぶり寄りじゃあっ」
男は、白壁をどんどん押していく。しかし、白壁が軽く小手投げをうつと、男は体勢を崩し、右手を地面にちょんと突いてしまった。
「しまった。土ついたらわしの負けじゃわ」
男は蒼白になると、
「くそっ、修行のし直しだ」
そう叫んで、駆けだした。
「兄貴、待ってくれよお」
残りの三人も彼を追って、逃げ去った。
「すごいですねー、白壁先輩」
比夏留が駆け寄ると、白壁は荒い息をしながら、
「ごっつぁんです」
と言いながら、四股《しこ》をふんだ。
4
逃げ込んできた学生は、タイからこの高校への留学生で、ナロンチャイ・藤村《ふじむら》と名乗った。比夏留と組はちがうが、同じ一年生で、クラブは東南アジア研究会に所属しているという。
「ご両親のどちらかが日本人なの?」
手当てをしながら、犬塚がたずねると、曾祖父が関西出身の日本人だとの答だった。
「それで日本語が達者なんだな。――今の連中に心当たりはあるかい」
白壁の問いには、下を向いたまま、応えない。
「心当たりはあるが、話したくはねえ、か。かまやしねえよ。人それぞれ事情ってもんがあらあ」
白壁はそう言ったが、納得していないのは明らかだった。それを察したのか、藤村は、すまなそうに白壁に頭をさげた。
「ねえ、どうしてうちの部室に来たの?」
伊豆宮が言った。
「あいつらに追われて、たまたまここに逃げてきたんじゃないんでしょ。だって、入ってきたときに、ヤマタイ……って」
藤村は顔をあげた。切迫した表情だった。
「実は、民俗学研究会の皆さんに教えてほしいことがありますねんでおます」
彼は、曾祖父に習ったという異常な関西弁で言う。
「おう。わかることなら何でも答えてやるぜい」
白壁は胸板をずどんと叩いた。
「では、おききいたしまんねんでおます。邪馬台国はどこでおまんの?」
伊豆宮、白壁、犬塚、比夏留の四人は、その場にずっこけた。
「あ、あのねえ……」
真っ先に体勢を立て直した伊豆宮が、
「それは一般論として言ってるの? それとも……」
「曾祖父に聞きましてん。この学校の裏に〈常世《とこよ》の森〉という森がありますやろ? そのなかのどこかに、財宝があるらしいんですわ」
「ざ、財宝……?」
比夏留は身を乗りだした。
「それが、卑弥呼の財宝らしゅうおまんねやわ」
「ひ、卑弥呼の財宝……!」
比夏留は口から火を吐かんばかりに叫んだ。
「すっ、すごおい。ロマンです。古代のロマンですよっ」
藤村は、彼女を無視して、
「ぼくが聞いたとき、曾祖父はすでにかなりぼけとりまして、言うてることもようわからなんだんですが、なんでも、あの森の一部は、昔、曾祖父のもんやったらしゅうおまして……」
「へー、初耳ね」
伊豆宮が言った。比夏留も、あの森は全て、校長の田中喜八個人の持ち物だと聞いていた。
「ほとんどを所有してはったのは、ここの校長先生のお家で、うちの曾祖父の持ち分はごくごく少なかったらしいんですけど、それも、曾祖父が日本での事業に失敗して、新天地を求めてタイに渡ったときに、校長先生のお家に売却しはったらしゅうおます」
「ふーん」
「日本での事業って、何?」
犬塚が言うと、
「曾祖父はそのことはあまり語りたがらへんのんですが、動物園みたいなものを経営してたみたいでおま」
「個人で動物園? ムツゴロウの動物王国みたいなもんかしら」
犬塚は呟《つぶや》いた。
「三年まえ、病床にあった曾祖父は、世話係をしとったぼくに、よく昔話をしたもんだっけど、あるとき、変なことを言いだしましたんでおます」
その内容というのを、藤村がまくしたてるのだが、妙にねじまがった関西弁なのでよくわからない。長時間かけて、ようやく聞き取れたのは次のような内容だった。
◇
ナロンチャイ・藤村の曾祖父は、大阪の新世界生まれだが、昭和初期、S県に単身でやってきて、親戚が所有していた土地を譲り受け、商売をはじめた。珍獣・奇獣を集めた小さな動物園のようなものだったらしい。最初は、物珍しさもあって、けっこう繁盛したのだが、だんだん飽きられて、客足が減ってきたので、やむなく動物園をたたみ、もう一旗|揚《あ》げようと、新天地を求めて、タイに渡る決心をした。土地は、売りたくはなかったが、〈常世の森〉の九九パーセントを所有する田中家から購入の申し出があり、借金もあったし、タイ渡航の資金もいるしで、しかたなく売却した。藤村の曾祖父の困窮につけこみ、足もとをみた田中家の購入価格は、二束三文だったらしい。
タイでの生活は困難を極めたが、第二次大戦後に遅い結婚をしたのを機会にタイに帰化し、夫婦ではじめたクリーニング店が軌道にのって、すっかりタイでの生活に馴染《なじ》んでいたナロンチャイの曾祖父だが、おりにふれて思いだすのは、〈常世の森〉のことであった。
「ナロンチャイよ、わしはあの森にたいへんな忘れものをしてもうたんや」
「忘れもの?」
「お宝や。こっち来るときは、あわてとったさかいな、ついついうっかりしとったんや。うう……あれが今あったらなあ……」
ナロンチャイは、曾祖父の祖国である日本にあるというその財宝の話に心奪われた。金が欲しいわけではない。ロマンを掻きたてられたのだ。しかし、そのお宝なるものがいったい何なのか、森のどこにあるのか、彼は頑として口にしなかった。
その後、老人の病気がいよいよ重くなってきたとき、ナロンチャイは思い切って質問をぶつけた。
「そんなことは考えたくないけど、あなたがもし死んだら、そのお宝のありかは二度とわからんようになってしまいまんがな。お願いしますわ。教えてください、そのお宝のありかちゅうやつを」
ナロンチャイの曾祖父は、二、三日熟考していたようだが、あるとき、彼を枕辺《まくらべ》に呼び、苦しい息のもとで、
「かなわんなあ……おまはんには負けたわ。よっしゃ、ナロンチャイ……おまはんにだけこっそり教えたるさかい、遺言のつもりでよう聞きや。お宝はな、〈常世の森〉にある洞窟のなかや。それがちょうど、わしが昔、商売しとった場所にあるんや」
「洞窟でっか……」
「〈常世の森〉はめちゃめちゃ広いし、洞窟もやたらとあるからまちがえんようにせえよ」
「で、でも、それじゃ探せまへんがな」
「安心すな……やのうて、心配すな。ちゃんと目印がある。それはやな……」
そこでナロンチャイの曾祖父は激しく咳《せ》き込み、ついにはおびただしい血を吐いた……。
5
「ああ、じれってえな。結局、どうなったんでえ。洞窟の目印は聞きだせたのか聞きだせなかったのかよ、おい」
「めでたく聞きだせましてん。『卑弥呼の石』が目印だそうでおまんねやわ」
「卑弥呼の石っっ!」
比夏留の声が二オクターブほどはねあがった。
「ロマンですねえ。わかりました。私、あなたを全面的に応援しますっ」
比夏留の情熱に冷水をぶっかけるような冷ややかさで伊豆宮が言った。
「まだ、話が見えてこないわね。さっきのヤクザは何ものなの?」
「ぼくは、曾祖父の財宝を探そ思て、日本に留学しましてん。こっちへ来る船のなかで知りおうたひとに、ついうかうかっと、卑弥呼の財宝を探してる、て言うてしもたんだす。最初、そのひとは親切に、下宿を探してくれたり、いろいろ世話してくれましてんけど、今から考えたら下心がおましてんなあ。急に、財宝の場所を教えろ、言いだしはりまして、ぼくが断ったら、仲間を大勢呼んできて、どつかれたり蹴られたり……。日本人ノ心ハキレイデナイデス」
「ふーん……金欠のヤクザかなあ」
「ぼこぼこに痛めつけられたさかい、とうとう『卑弥呼の石』のことと、洞窟のことをしゃべったら、ようやっと解放してくれたんで、ぼくはあいつらより先に財宝を見つけようと、必死でがんばりましてんわ。『魏志倭人伝』を研究して、卑弥呼や邪馬台国のことを調べたり、〈常世の森〉に入るのを許可してもらお、思て、校長先生に掛けあいにいったり……」
「校長は認めてくれたのかい?」
白壁がきくと、ナロンチャイはかぶりを振り、
「どんな事情があろうと、あの森に侵入することは絶対に許さない、侵入したら、警察に引き渡す、と頭ごなしに言い渡されましてん。ぼくは、曾祖父のことを話して、元の持ち主の子孫が、思い出の場所を見たい、ちゅうだけなんで、ぜひとも許可してほしい、財宝については、もともと曾祖父のもんやさかい、もし発見でけたら、半分はほしいけど、残りの半分は、土地の所有者である校長先生に差しあげまっさ、とまで申しでましてんけど……昔のことは知らない、今は土地は私のものだ、そこに足を踏み入れるやつには容赦しない、ゆうて……。日本人ノ心ハキレイデナイデス」
「でも、校長は、ヤクザたちにも同じことを言ったんじゃないかしら」
「らしいですわ。あいつら、すぐに見つけられる思うてたらしゅうて、ぼくを解放したみたいですねんけど、森に入る許可はでえへんし、こっそり入ってみても、だだっ広すぎて、なにがなにやらわからんし、そうこうしとるうちに、ひとりで森を探索しとった仲間が戻ってこんようになったみたいで、えらい焦りだしよって……。さっきも、図書館で邪馬台国のこと調べとったら、急にやってきて、嘘を教えただろう、とか、財宝探しから手をひけ、とか、またまたどつかれたり、蹴られたり……」
そう言って、痛そうに顔をしかめた。
「こうなったら、ぼくも意地でおます。曾祖父の残した財宝を、あいつらより先に見つけとうおまんねん。それには、民俗学研究会の皆さんのお力を借りるのがいちばんええ、と思うたんで、ここに参じましてんわ。頼んます。お願いします。協力したっとくなはれ。邪馬台国の場所を、ぼくに教えとくなはれ」
「古代史研究会には行かなかったの?」
犬塚が素朴な疑問を口にすると、
「行きましてんけど……邪馬台国は奈良の纏向《まきむく》遺跡以外には考えられん、ちゅうのが、あの研究会の主張やそうでして、全然相手にしてもらえまへんでした」
「ふーん……」
伊豆宮が腕組みをして、
「なーんか嘘っぽい話ね」
「ぼくが嘘をついとるちゅうんですか!」
「だって……邪馬台国って、畿内か九州のどっちかなんでしょ? S県の森のなかにあるなんて、聞いたことないわ」
「曾祖父がそう言うたんです。曾祖父は、ちょっとぼけてはいましたが、嘘はつけない人でおました」
「嘘とは言ってないけど……何か勘違いとか……」
「そういうことならこのおいらに任してくんな」
白壁が、ずいと身を乗りだした。
「邪馬台国がどこにあるか、についちゃあ、ひとくちに畿内、九州といっても具体的な内容は人によってまちまちで、畿内説にゃあ十ヵ所、九州説にゃあ四十ヵ所以上のバリエーションがあるんだが、それだけじゃねえ。いろーんな説があるんだぜ」
「そうなんですか?」
比夏留が首をかしげた。きのう、父親はそんなことは言ってなかった。
「邪馬台国の所在地は、研究者の数と同じだけの説がある、といわれてるぐらいなんだ。四国説、岡山説、越前説、越後説、能登説、山梨説、伊豆半島説……なかでも有名なのは、沖縄説。『投馬国』から南へ、水を行くこと十日、陸を行くこと一月。『投馬国』が九州南部にあったとすると、ちょうど沖縄本島にたどりつく。倭人伝にゃあ『その道里を計るに、まさに会稽東冶《かいけいとうや》の東にあるべし』という文章もあるけど、会稽郡東冶てえのは、今でいう福建省のあたりなんだ。福建省の東には何がある? 沖縄だよ。畿内も九州も、そこにはねえんだ。それに、『男は全員、入れ墨をしており、気候は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな裸足で過ごす』というような記述もあるが、これも沖縄あたりの習俗にぴったりだろ?」
比夏留は、感心した。そうだ。沖縄だ。邪馬台国は沖縄にあったにちがいない!
「でも、白せん。沖縄からはそれらしい遺跡も出土品も出てないじゃないですか」
「そこが、この説の欠点なのさ。同じようなタイプの説に、東南アジア説があるぜ。畿内説にしろ九州説にしろ、特殊な『短里』が使われているという前提になってるが、当時の中国じゃあ、一里が四百メートルという『長里』を使うほうが一般的だった。それを当てはめると、だいたいフィリピンやジャワ島のあたりまでいっちまう。倭人伝に載ってる習俗は、ポリネシアや東南アジアのものともいえるだろ? それに、法顕《ほっけん》という中国の僧侶が書いた『仏国記』という本には、ジャワ島のことを『耶婆提国』と書いてあるらしいぜ。こいつが、内田吟風《うちだぎんぷう》てえ人が唱えたジャワ島説だ」
比夏留は、感心した。そうだ。ジャワ島だ。邪馬台国はジャワ島にあったにちがいない!
「でも、白せん。それじゃあ福建省の東にはならないでしょ」
「そこが、この説の欠点なのさ。中国からみて、ジャワ島のあたりはもはや東夷とはいえねえからな。加瀬禎子《かせさだこ》のフィリピン説というのもある。あと、これだけ探しても邪馬台国の場所が特定できねえのは、邪馬台国は現在存在しねえ場所……つまり、沈没した島だった、てえ説もあるぜ。近頃、与那国《よなぐに》島付近の海域に、大規模な海底遺跡が見つかって、写真集が出たりして話題になってるが、あそこが邪馬台国だったっていう意見もある。それどころか、ムー大陸こそが邪馬台国だった、て主張してるひともいるんだぜ」
比夏留は、感心した。そうだ。沈んだんだ。邪馬台国は沈んだにちがいない!
「でも、白せん。それはただの仮説で、証拠がないじゃないですか」
「そこが、この説の欠点なのさ。実証には、今後の研究を待たにゃあならねえ。ほかにも、いろいろあるぜ。エジプト説、異次元説、他の天体説……」
「だったら、邪馬台国がこの部室の裏の森にある、ぐらいの説はかわいいもんじゃないですか」
比夏留は小躍りした。
「それこそ証拠がないわ」
と伊豆宮。
「あったりめえだろ。調べようがねえんだからさ」
「そうよね。『卑弥呼の石』があるって言ってる人がいるっていうだけで、それすら確かめられたわけじゃないですし……」
犬塚も、伊豆宮と同じく否定的な感じだ。比夏留のなかに、不思議な対抗意識が芽生えた。
「で、でも、もし、あったらすごいじゃないですか。畿内だ九州だといわれていた邪馬台国は、実はS県にあった……。新聞に出ますよっ。新聞だけじゃないです。テレビ、雑誌、DVD、インターネット……どんなメディアにも出まくるんじゃないですか?」
「ラジオが抜けてるぜ」
「そんなことどうだっていいんです。――臨時ニュースを申しあげます。長年、その所在地をめぐり、学界で喧喧諤諤《けんけんがくがく》の議論が続いていた邪馬台国論争についに終止符が打たれました。謎を解明したのは、S県在住の高校生諸星比夏留さんで……」
「私は、ガセだと思うけど……」
伊豆宮の口調はあくまで冷たい。
「もし、民研あげて取り組んで、やっぱりでたらめでした、ってことになったら、いい恥さらしよ」
「何言ってるんですか。ここに、困ってるタイの学生がいるんですよ。義を見てせざるは勇なきなりっていうじゃありませんか」
「たしかにあの森にゃあ、豊臣《とよとみ》家の財宝があるとかいう噂もあったけどもよ、あれもガセだったじゃねえか。そもそも、邪馬台国の財宝って何なんだ?」
「財宝は財宝ですよ。きっと、『宝島』に出てくるみたいな、王冠とか宝石のついた剣とか黄金の延べ棒とか……」
「あのね、諸星さん、あなた……」
そのとき、部室の奥にわだかまっている暗闇のなかから、低い声が響いた。
「聞いたことあるで」
一同、ぎょっとした。一番驚いたのは、ナロンチャイだろう。ぼろぼろのベンチに、各種粗大ゴミとともに寝っころがっているのは、顧問教師、藪田浩三郎《やぶたこうざぶろう》ではないか。
「せ、先生……いついらっしゃったんですか」
伊豆宮が言うと、
「ずーっとおったわ。あのな、今思いだしたんやが、〈常世の森〉の洞窟のなかに、〈邪馬台洞〉ゆう名前の洞窟があるはずや」
「〈邪馬台洞〉!」
比夏留は嬉しそうな声をあげた。
「そ、そ、それにちがいありませんよ! やっぱり邪馬台国は〈常世の森〉にあったんですね。先生、その洞窟はどのあたりなんですか?」
「知らん」
「知らん、て……」
「けど、どうせ、そこのタイ人の曾祖父が所有しとった土地のなかにあるねやろ。役場へ行って、登記簿とか不動産台帳見たらわかるんちゃうか」
[#挿絵(img/02_035.jpg)入る]
「そりゃそうだ。さっすが先生。だてに年輪を重ねてませんねっ。ナロンチャイくん、さっそく役場に行ってみない?」
比夏留は勝ち誇ったように言った。
「ほんでも、〈邪馬台洞〉と邪馬台国が関係あるかどうか知らんで」
「邪馬台国と邪馬台洞でしょ。関係あるに決まってるじゃないですか。うううーん、血湧き肉躍りますね!」
興奮した比夏留がその場で飛び跳ねると、プレハブの床がめりめりと陥没した。
6
というわけで、比夏留は、ナロンチャイ・藤村に協力することになった。伊豆宮も白壁も犬塚も、
「いくらなんでもすぐ裏の森に邪馬台国があるとは信じられないわ。藪爺が思いだした『邪馬台洞』という名前も、当の藪爺にしてからが、そういう名前の洞穴があるらしい、という以上の知識はないみたいだし」
「証拠てえのが、どこの馬の骨だかわからねえタイ人留学生の、少々ぼけていたてえ曾祖父の遺言だけだしな」
「それに、比夏留ちゃん、どうせ〈常世の森〉には入れないじゃない。こないだのお好み焼き事件のあと、校長がフェンスの補強工事をしたみたいだし……」
と、財宝探しには消極的だったので、なんだかかわいそうになった、というのも理由のひとつだが、何といっても、あの邪馬台国が、すぐに手の届くところにあるというのだ。これでロマンを掻きたてられなくちゃ女じゃない。
「先輩たち、冷たすぎますよ。こうなったら、私ひとりでもやります。いくら、校長がだめだと言っても、若者の情熱まではとめられませんからね」
「比夏留ちゃん、まさか森に入るつもりじゃないでしょうね。無茶はやめてよ。最近、あそこには、ライフル持った変な人がうろついてるでしょ。危険すぎるわ」
「ふっふっふっ。我に勝算あり。まあ、みといてください」
比夏留は薄い胸を叩いた。
ふたりがまずたずねたのは、法務局の分局で、そこで〈常世の森〉の登記簿謄本を閲覧したのだ。すると、たしかに昭和初期、〈常世の森〉の一部(ほんの一部だが)の所有権が、藤村|源左右衛門《げんざえもん》から田中|四郎五郎《しろうごろう》にうつっている。ナロンチャイの曾祖父が、森の一角の所有者だったことはまちがいではなかったわけだ。その場所の地番も確認できた。田中喜八学園からは少し離れた、旧国道に面したあたりだった。そこなら、動物園を開業できないこともなかったろう。
次に、ふたりは、保志野|春信《はるのぶ》をたずねた。比夏留のいう「勝算」とは保志野のことだった。民俗学の専門誌に寄稿するほどの知識のある彼なら、他人は気づかないような、邪馬台国についての有益な情報を与えてくれるにちがいない……。
しかし、案に相違して、保志野の答は先輩たちと同じく冷ややかなものだった。
「あるわけないですよ」
「だって、ナロンチャイくんの曾祖父さんが言ってるのよ、『卑弥呼の石』があるって。それに、藪爺だって、『邪馬台洞』っていう洞窟があるって……。邪馬台国は絶対に〈常世の森〉にあったのよ」
「そんなはずないと思うけどなあ……。たしかに、畿内説と九州説の論争に決着がついていないのは、これぞという決定的な遺物が出土していないからではあるんです。畿内から大量に発見される三角縁神獣鏡《さんかくぶちしんじゅうきょう》こそ卑弥呼の鏡だという人もいるけど、あの鏡は中国ではまったく出土例がないし、奈良の箸墓《はしはか》古墳が卑弥呼の墓だっていわれてますけど、あれは前方後円墳で、卑弥呼の時代は円墳だからおかしいし、九州の吉野《よしの》ヶ里《り》遺跡が邪馬台国だと主張する学者もいるけど、あれも年代的に少しずれがあります。もし、〈常世の森〉を発掘してみて、これぞという出土品が見つかったら、邪馬台国が〈常世の森〉にあった可能性もでてくるでしょうけど、それは、九回裏にサヨナラ満塁ホームランで逆転するぐらいに確率が低い……いや、もっと低いかな、五百人参加のマラソンでべったを走っていたのに、ゴール寸前で、まえを走っていた四百九十九人が全員転倒して一位になるぐらいに確率が低い……いや、もっとかな、麻雀で、トリプルハコテンだったのが、オーラスに、リーチ一発、大三元、字一色、四暗刻のワンチャンスを引き当てるぐらいに……」
「そんなに低い低い言わないでよ」
「それに、昔はともかく、今はその場所は田中家のものなんでしょう? 入るわけにはいかないじゃないですか。ということは、発掘もできないということです。だいいち、遺跡の発掘なんて、ふたりや三人でできることじゃないんです。もっと組織的に……」
「もういいわよっ」
比夏留は目を三角にして、叫んだ。
「保志野くんには頼まない。私とナロンチャイくんのふたりだけでやるわ。もし、財宝が見つかっても、保志野くんには分け前あげないからねっ」
「はあ……分け前はいりませんが……ふたりだけで森に入るのは感心しません。これまでも何度も危険な目にあったじゃないですか。忘れたんですか? それに、そのヤクザグループのひとりも戻ってきていないっていうし……」
「そんなことわかってる。でも……でも……」
比夏留は、がくりと肩を落とした。
◇
あわよくば、「一緒に行ってあげよう」という言葉も期待していたのに、保志野はのってこなかった。
(なにが逆転サヨナラよ、なにが四百九十九人が転倒よ、なにがリーチ一発よ! よーし、私が〈常世の森〉で邪馬台国を見つけて、保志野くんを土下座させてやるっ)
先輩たちも保志野も協力してくれないので、比夏留はひとりで部室に行き、顧問の藪田に相談してみた。
「そやなあ……。ここで『邪馬台国は〈常世の森〉にある』ゆうていくら力んどっても、証拠はゼロや。誰も相手にしてくれんわなあ」
藪田は、ベンチに寝そべり、一升瓶から酒をラッパ飲みしながら言った。
「ということはやっぱり、森に入って、証拠を入手してくるしかないわけですね」
「そうは言うとらん。あの森は、校長の私有地や。入り込むのは、不法侵入になる。生徒に、犯罪をおかせ、とは、わしの立場からは言えんな。けど……」
「けど……?」
「あの、謎とロマンに満ちた邪馬台国が、もしかしたらすぐ身近にあるかもしれん。わしみたいなおいぼれはともかく、おまえみたいな青春まっただ中、飛びだせジャンプ……みたいな若いものが、それを指くわえて見過ごすことがでけるんか?」
「青春……まっただ中……」
「わしに言えることはそれだけや」
そう言うと、藪田はフルートを構えて、何やら耳なじむ旋律を奏《かな》ではじめた。
「ありがとうございました」
一礼すると、比夏留は、浜辺をランニングしているような足取りで部室を出た。彼女を後押しするフルートのメロディーは『太陽がくれた季節』だった。
7
保志野と先輩諸氏を見返してやろうと、比夏留はナロンチャイとともに〈常世の森〉に侵入することにした。フェンスが高くはられているため、穴を掘って、地下を潜《もぐ》る作戦だ。午前一時。風はまだ冷たかったが、作業が終わるころには汗だくになっていた。実際には、計画ほどうまくいかず、フェンスの下端が土のなかのかなり深いところにあるため、人間がとおれる穴を貫通させるのに、ふたりがかりで三時間もかかったためだ。この森のなかは、磁気異常があるため、コンパスは役にたたない。勘を頼りに進むしかないのだ。迷ったら、二度と戻れないかもしれない。そのことを比夏留は身に染みてよく知っていた。月明かりを頼りに、ゆっくりゆっくり前進する。
出発してから、一時間以上。一歩の幅と歩数から計算して、そろそろ登記簿謄本にあった、ナロンチャイの曾祖父の土地のあたりに来ているはずだった。はじめて懐中電灯をつける。
「このあたりに、卑弥呼の石があるはずなんだけど……」
言いながら、比夏留は周囲を懐中電灯で照らす。
「こう暗いと、何がなんだかさっぱりわから……」
比夏留は何かにつまずいて、その場に転倒した。リュックサックから、非常用の巨大おにぎりが数個、ごろごろと走り出した。
「わわっ、もったいなーい!」
おにぎりを拾おうとして、屈んだとき、彼女は、自分が今、何につまずいたのかを知った。
それは、大男の死骸だった。頭をつるつるに剃《そ》りあげ、茶色い革ジャンを着ている。眼球が両目とも飛びだし、舌もナイフのように突きでている。
「うわ、うわうわ、うわうわうわ、うわわわわわわわ……」
比夏留はうわずった叫びを発すると、空気を掴みとるような仕草をしながらその場から離れようともがいたが、脚が言うことをきかない。パニックに陥《おちい》っている比夏留のよこを、ナロンチャイがすっとすり抜け、死体の顔をのぞきこんだ。
「ヤクザの仲間やね。たぶん、ひとりで森を探索してて戻ってこんかった、ちゅうやつでっしゃろ」
「ああ、この人が……」
比夏留は冷静さを少し取り戻した。
「どうして死んだのかな」
「暗くてようわかりまへんなあ……」
ふたりは周囲に、凶器などが落ちていないか、ざっと見渡してみたが、それらしいものはない……。
「あ、あれは……」
懐中電灯のか細い光が、女性の立像らしきものをかすめた。高さ九十センチぐらい。石でできているのだろうが、苔が全体を満遍なく覆っているため、コーラ瓶のような輪郭しかわからない。どんな顔なのか、裸身なのか何かを着ているのかも不明だ。
「こ、こ、これって、もしかしたら、『卑弥呼の石』じゃないの」
「そ、そ、そうかもしれまへん。いや、きっとそうでおまっせ!」
ふたりは立像をためつすがめつ見たが、どこにも何の文字も刻まれていない。
「苔を剥《は》ぎとってみよっか?」
「どっちにしても、ここではくわしく調べられまへんがな。部室に持ってかえって……」
「でも、これかなり重そうだよ」
ふたりは、立像を地面から持ちあげようとしたが、相当深く埋め込まれているとみえ、びくともしなかった。〈独楽〉の奥義《おうぎ》『地面から重いものを持ちあげる術』をもってしても、不可能だったのだ。汗だくになって、比夏留はあきらめた。
「持ってかえれなきゃ、保志野くんや先輩たちに証拠として見せることができないよー。うー、くやしー」
「『卑弥呼の石』がだめなら、財宝そのものを見つけてしまえばええやおまへんか。この近くに、洞窟があるはずでっせ!」
疲れてへたりこむ比夏留のとなりで、興奮したナロンチャイはしばらくうろうろしていたが、
「あった……」
「え?」
「あった……ほんまにあった……」
彼が指さすところに比夏留が目をやると、低い岡というか、こんもりした土の隆起があるそばに、洞窟らしきものの入り口がある。
「これが……『邪馬台洞』かな……」
「そうに決まってますわ」
「入って……みる……?」
「もちろんでんがな。ここまで来て、引き返せるわけおまへん」
「そ、そうだね……」
ふたりは、洞窟に向かって一歩を踏みだした。
◇
洞窟のなかは、じめじめしているだけでなく、壁も地面も崩れやすくなっていて、比夏留は、ケービングの道具を持ってこなかったのを悔《く》いた。内部は狭く、曲がりくねっており、懐中電灯のしょぼい光ではとうてい全貌を知ることはむりだった。
「ねえ、ナロンチャイくん……」
まえを歩くナロンチャイの袖を比夏留が引っ張った。
「今日は、ここまでにして、引き返そう。これ以上はむりよ」
「怖じ気づいたんでっか。ぼくはひとりでも財宝を探しまっさ」
「そうじゃないの。この洞窟、かなり手強《てごわ》いよ。私、民研入って、いくつか洞窟入ったことあるから、ちょっとはわかるけど、ちゃんとした道具がないと危ないんだ」
「そないな弱気でどないしまんねん。ここまで来て引き返すやなんて……」
「先輩に聞いたんだけど、足もとに急な段差があったり、縦穴や深い水たまりがあったり、なかには川が流れてるときもあるんだって。ライトももっと強力なやつがいるし、ガスが溜まってたりする場合もあるから、酸素ボンベも必要だし……。あと、長いあいだ、誰も入っていないような洞窟は、急に落盤したり、地面が崩れたりすることがあるんだって」
「そんなん、だいじょぶだいじょぶ。ほら、頑丈なもんでっせ」
そう言って、ナロンチャイは、壁を爪先《つまさき》で蹴飛ばした。その部分から、亀裂が走り、壁の一部が崩落した。ナロンチャイはまっ青になり、
「やっぱり……引き返しまひょか……」
「それがいいよ。場所は特定できたし、今度、みんなで来ようよ。このことを話せば、先輩たちや保志野くんもきっと乗り気に……」
比夏留は言葉を切った。自分の懐中電灯の光がたまたま、ナロンチャイが崩した壁の土の上っ面に当たっていて、そこにキラリと光る何かを見つけたからだ。比夏留は、それをつまみあげた。
「これって……もしかしたら……」
そのとき、どどどどどどどどどどどどどどどどどどどど……という激しい地響きがして、洞窟が小刻みに揺れた。
「じ、地震やっ」
「はやく外に出ましょう」
四つん這いになって、必死に洞窟から抜け出したふたりの眼前を、何かが凄まじい音をたてて通り過ぎていった。それが何であるかはわからないが、比夏留には巨大なエネルギーの塊《かたまり》であるように思えた。はふっ、はふっ、という荒い息づかいや、空気を伝わってきた体温などから、それが生物であることはまちがいないようだったが、一匹なのか複数なのか、大きいのか小さいのか、そういったことはまるで不明だった。ただ、わけのわからないものに対する恐怖心が腹の底からこみあげてきた。
「逃げよう」
「逃げまひょ」
そのとき、すぐ近くで銃声が轟いた。
「かえ……れ……」
まえにも聞いたことのある声。
「この森に……入ることは……許さぬぞ……かえ……れ……」
木彫りの仮面をつけた人物の姿が、木々のあいだから見え隠れしたように思えた。
「言われなくても帰るわよっ」
そう怒鳴ると、比夏留は、フェンスのある方角に向かって走りだした。
8
「ほほう……」
「ふーん……」
「へえー……」
民研の三人が、比夏留の手にしているものをのぞきこんで、感嘆の声を発している。
「どーです?」
比夏留はふんぞり返って、得意げに鼻をうごめかせた。
それは、金印だった。幅二センチほどの四角い直方体に、蛇を模したようなつまみがついている。底面には、
漢
奴委奴
王国
の六文字が鏡文字状に刻印されている。
「これを、『邪馬台洞』のなかで見つけたってかい。すげーねー。おいらも行きゃあよかったぜ」
白壁がうらやましそうな声を出した。
「諸星さんが見つけたそれって、そんなにすごいものなんでっか? ただのハンコにしか見えまへんけど」
ナロンチャイひとりが首を傾げている。
「これは、金印てえもんだ。すげえ発見なんだ」
「ああ、あれはたしかに『すげえ』でんなあ。タイは湿気が多いさかい、ぼくもまえになりましたけど、痒《かゆ》うて痒うて……」
「何なの、それ?」
伊豆宮の問いに、ナロンチャイは胸を張って、
「インキンですやろ」
「ち、ちがうわよ。キ・ン・イ・ン」
「イ・ン・キ・ン……?」
「だから……ああ、もうどうでもいいわ」
伊豆宮は横を向いたので、白壁があとを引き取った。
「金印てえのは、古代中国の皇帝が、属国の王にくだした印章だよ。有名なものに、『後漢書東夷伝』てえ書物に載ってる、後漢の光武帝が、倭の奴の国王に贈った『倭奴国王印』がある。江戸時代の中頃に、博多の志賀島《しかのしま》てえところの農民が、田んぼの溝を修理してたら、でっけえ石が出てきて、そいつを掘り起こすてえと、金でできた印がでてきたんだ。こいつの印面にゃあ、
漢
委奴
国王
という文字が、漢隷《かんれい》てえ書体で彫られていた。これこそ、光武帝が奴国の王に贈った金印だ、てえんで大騒ぎになったんだ。『漢委奴国王』は、『漢に従属する倭の奴国の王』てえ意味だてえのが定説だが、ほかにも『漢の委奴《いと》国の王』と読んで、『魏志倭人伝』にある『伊都国』のことだ、とか、『漢の委奴《やまと》の国王』と読んで、日本国王の意味だ、とかいう説があらあね。それに、その金印自体が本ものかどうかてえ議論も昔からあった。古墳とかじゃなくって、田んぼから出てきたてえのが怪しいし、ほかの副葬品が出土してねえのもおかしいってな。でも、最近はだいたい本もの説が有力らしい」
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「この金印、彫ってあることも、それとほとんど同じですよね」
と比夏留。
「そうね。本ものだったらすごいわよね」
犬塚も目を輝かせている。
「もしかしたら、この金印こそが財宝じゃないの?」
「そうかもしれねえな。考古学的価値ははかりしれねえからなあ」
「『邪馬台洞』から金印が出てきたということは、邪馬台国があの森にあるっていう証拠じゃないですか?」
と比夏留。
「卑弥呼が二三八年に魏に使者を送ったとき、魏の明帝《めいてい》は、銅鏡百枚なんかとともに、『金印紫綬』をさずけた、と倭人伝に書いてあるんだ。この金印にゃあ『親魏倭王』と刻まれているはずなんだが、残念ながら見つかっちゃいねえんだ。だから、諸星が見つけたこの金印が、卑弥呼がもらった金印そのものじゃねえにしても、倭人伝に載ってる周辺諸国のもんだてえことはじゅうぶん考えられるし、〈常世の森〉に邪馬台国があった可能性がますます高くなったってわけだ」
白壁の言葉に、皆が感心してうなずいた。
「それに、そのそばに、こんもりした小さな岡があったんですよ。もしかしたら、倭人伝にある『卑弥呼の塚』かもしれません」
「おおきな冢《つか》を造って、そこに葬る……ってやつだな。こいつぁますますもっともらしくなってきやがったぞ」
白壁がそう言ったとき、金印をちらと見た顧問の藪田は、
「ふん……くだらん」
馬鹿にしたように鼻で笑い、ベンチから立ちあがると、酒瓶片手にふらりと部室を出ていった。
「何、あの態度!」
犬塚が藪田が出ていった扉をにらんだ。
「この金印が偽ものだって決めつけてるのよ。私は本ものだと思う」
「おいらもさ。藪爺の鼻をあかしてやろうじゃねえか」
「私も、あの森に邪馬台国があるわけない、なんて言ったこと、反省してるの。こうなったら、民研の総力をあげて、邪馬台国の探索よ」
伊豆宮が右の拳《こぶし》を出すと、白壁、犬塚、比夏留の順に、そのうえに拳を重ね、さいごにナロンチャイが手を置いた。
「ナロンチャイくんの曾祖父の遺産を見つけるぞーっ!」
「おーっ!」
金印をまえに、民研はふたたび結集したが、比夏留はどうしてもこのことを話しておきたい相手がもうひとりいた。
◇
その日の夜、比夏留は海鮮料理専門の定食屋「大黒屋」に保志野を呼びだし、夕食をともにしていた。比夏留のまえには、例の海鮮丼大盛りをはじめ、メバルの煮つけ、アナゴ寿司、天ぷら盛り合わせ、刺身盛り合わせ、フライ盛り合わせなどがところせましと並べられていたが、保志野のまえには刺身定食だけが置かれていた。
「少食ね」
「大食ですね」
「もっとちゃんと食べなきゃだめよ」
「ぼくはいつも、夕食はこれぐらいです」
「あら、私は、夕食は家に帰ってから食べるのよ」
言いながら、比夏留は海鮮丼の一杯目を息もつかずに平らげ、顔なじみのパートの老人におかわりを注文した。反対に、保志野は箸が進まない様子だった。
「食欲ないの? 食べてあげようか」
「え……? ああ……自分で食べます。それより、死体はどうしたんです?」
「どうした、って……そのままよ。だって、地響きとライフルであわてちゃって……」
「警察には届けたんですか」
「ううん、まだ。とにかくこの大発見を一刻も早く保志野くんに伝えなきゃと思って」
保志野は、さっき比夏留に手渡された金印をもてあそびながら、
「一応、届けたほうがいいんじゃないでしょうか。これまでのことからいって、警察が動くかどうかはわかりませんけど」
「そんなことより、どう? それが証拠よ。参った? 邪馬台国の場所がついに特定されたのよ」
ため息とともに、金印を比夏留の味噌汁の横に置いた保志野は、
「これは邪馬台国の金印じゃないですよ。ていうか……金印ですらない」
「どーゆー意味よ。私の戦利品に文句あるっていうの?」
「文句も何も……よく見てください。この鈕《ちゅう》のところ……」
鈕とは、蛇がとぐろを巻いているようなつまみのことらしい。
「表面が剥げて、地が出てるでしょう? これは、印章用の木を彫ったものに、金色の塗料を塗っただけのものです。それも、ごくごく近年のものですよ。比夏留さんがわからなかったのはともかく、民研の先輩たちが見破れなかったのは、不思議だなあ……」
「どうして私だけ『ともかく』なのよ……とか言ってる場合じゃないわ。ということは、これは金印の偽もの……」
「有名な『漢委奴国王』の印とは、微妙に字の並びがちがっていますしね」
「じゃあ、藪爺……藪田先生は、これが偽ものだとわかったから……」
「研究者なら、一目でわかりますよ。あの人は、主張自体は頭がおかしいとしか思えないけど、学者としての基礎はしっかりしています」
比夏留は両肩を二十センチほど落とした。露骨な落胆振りであった。
「でも、誰が何の目的でこんなものを作ったんでしょうね」
保志野が、印章をつまみあげてひねくりまわしていると、
「おんや? その金印《ひんいん》……」
「き」と「ひ」の区別がつかないパートの老人がひょこひょこ近づいてきた。
そのとき。
定食屋の入り口の引き戸が乱暴に引きあけられ、犬塚がまっ青な顔を突きだした。
「あっ、やっぱりここだった。比夏留ちゃん、たいへん! ナロンチャイくんが……。とにかく一緒に来てっ」
9
比夏留、保志野、犬塚の三人は、〈常世の森〉目指して走った。事情は、走りながら犬塚が説明した。それによると、犬塚とナロンチャイは、放課後のがらんとした図書館で、金印に関する資料を調べていた。そこへ突然、こないだ白壁が痛めつけた連中がやってきて、ナロンチャイを校舎の裏に連れだし、殴る、蹴るの暴行を加えはじめた。とめようとした犬塚は、パンチパーマの男にぶっ飛ばされた。そう言われてみれば、犬塚の左目を青痣《あおあざ》が暈《かさ》のように包んでいる。朦朧《もうろう》とした意識のなかで、犬塚は、男たちとナロンチャイの会話を耳にした。
「てめえをずっと見張ってたんだよ。あの森から、何持ちだしやがった」
「死んでも言うかい」
「じゃあ、殺してやる」
ドスッ、ボスッ、バキッ……。
「言う言う言いまんがな。『漢奴委奴王国』と彫ってある金印ですわ」
「金印だと……? じゃあ、やっぱり邪馬台国の財宝はあるんだな。どこで見つけた」
「死んでも言うかい」
「じゃあ殺してやる」
ドコッ、バシッ、ガキッ……。
「言う言う言いまんがな。『卑弥呼の石』のあるところに洞窟がおまして……」
「それではわからん。よし、おめえ、案内しろ」
「そ、そればっかりはご勘弁。ライフル持ったやつやら、凄い地響きやら……」
「るせえ。こっちゃ財宝さえ手に入ればいいんだよ」
ドコッ、バシッ、ガキッ……。
「行く行く行きまんがな」
ナロンチャイは、男どもに引っ立てられていった。犬塚は、すぐに皆にしらせようとしたのだが、殴られて脳震盪《のうしんとう》を起こしたのか、ふらふらで歩けず、しゃんとするまでに三十分ぐらいかかった。それから、伊豆宮と白壁に連絡を取ろうとしたのだが、どこに遊びにいってるのか、ふたりとも家にいない。しかたなく、比夏留の家に電話をすると、まだ帰っていないけれど、おそらく食べ物屋だろうとの返事だったので、真っ先にここに来てみた……。
「勘が当たったわ。とにかく、森へ急ぎましょう」
「待って……ちょ、ちょっと待って……」
保志野がたえだえの息で言った。
「何? あなた、ナロンチャイくんが殺されて、邪馬台国の財宝が盗まれてもいいっていうの?」
犬塚が走りながら彼をにらむ。
「邪馬台国の財宝なんかあの森には存在しないとぼくは思うんですが、まあ、それはいいとして、ナロンチャイくんが危険なことはまちがいありません。ここは、警察に連絡すべきだと思うんですが」
犬塚は立ちどまった。
「そ、そうね……私たちだけで解決できる問題じゃないみたい。誰が警察に行く?」
比夏留は頭を下げた。
「犬せん、お願いします」
◇
前回、比夏留とナロンチャイがあけた地下道を使ってフェンスをくぐる。コンパスが役にたたないのはわかっているから、月と星座を手がかりに方角を定めて、走る。道のない森のなかにも、特殊な地形や木の形、枝の重なりかた、大きな岩……など目印になるものはある。それらのほかは、勘だけが頼りだ。一時間走ったあと、比夏留たちはスピードを落とし、足音を殺した。
「本当にこのあたりなんだな」
ドスのきいた声が聞こえてきた。ふたりは藪に身を隠す。
「まちがいおまへん。たしか、そこらへんに『卑弥呼の石』が……」
これはナロンチャイの声だ。
「あ、兄貴、こいつじゃありませんか」
比夏留がそっと藪から頭を出そうとすると、
「危ないですよ。じっとしてて」
保志野が手をひっぱる。
「あーあ、カタツムリみたいに目が突きでてたらいいのに……」
比夏留は真剣にそう思った。
「ふふん……たぶん、こいつだな。てえことは、洞窟もこのあたりにあるはずだ」
「あったぜ! ありましたっ。これが『邪馬台洞』ですよ」
ぞろぞろと足音が遠ざかっていく。比夏留と保志野は藪から出た。
「おかしいわね……」
「何が」
「死体がなくなってる。ここに横たわってたのよ」
「始末したのかもしれませんね。仮面の男が」
「何のために?」
「仮面の男は、この森に人が入るのを極度に嫌ってる。死体のことで、警察沙汰になるのがいやなのかもしれない」
「なーる……」
ヤクザ風の連中とナロンチャイは、洞窟に入っていったようだ。
「私たちも入ろうか」
「いや、ここで待っていたほうがいいでしょう」
「でも、財宝を見つけられちゃう」
「だから……そんなものありませんってば」
保志野はそう言うと、苔むした女性の立像を調べはじめた。ポケットからナイフに似た器具を取りだし、表面の苔やゴミをこそげ落としていく。
「ふーん、そうか……そうだったのか……」
保志野の目が輝きはじめた。地面に四つん這いになり、しばらく小さな岡を掘り起こしていたが、何か白いものをつまみあげて、比夏留に示した。
「それ……何?」
「骨さ」
「まさか……あの男の人の死体の骨……」
「そんなに早く白骨化しないよ。これは、たぶんね……」
結論を言わずに、保志野は次に、周囲の枯葉と土をたんねんに取り除いていたが、やがて、何か板きれのようなものを手に、立ちあがった。
「わかったあああああっ!」
保志野は、勝ち誇ったようにその板きれを比夏留に見せ、
「比夏留、やっぱりここは邪馬台国でも何でもないぞ。あっはははは。くっだらねえ……ほんっとにくだらねえ話だよ。大笑いもいいとこだ。この立像は、『卑弥呼の石』なんかじゃなくて……」
そこまで言いかけたとき、洞窟から、パンチパーマの男がナロンチャイを引きずるようにして現れた。比夏留と保志野は、あわてて藪に駆け戻った。
「何もねえじゃねえかっ、このガキ、だましやがったな」
「し、知りまへんがな。ぼくは曾祖父に教わったとおりに……」
「それじゃ、どうして洞窟がすっからかんなんだよ。掃除機かけたみてえにすっきりしてやがる。おい、ほんとのことを言え。財宝はどこにあるんだ」
「し、し、知りまへん。ほんまに知りまへんねん。ほんまにほんまにほんまに……」
「やかましいっ」
男はナロンチャイを数発殴った。ナロンチャイはすでに顔が倍ほどに膨《ふく》れあがっており、容貌が変わってしまっていた。
「兄貴、どうするね。こいつ、しゃべらねえつもりですぜ」
「強情なやつだな。命が惜しくねえとみえる」
「強情ちゃいます。命も惜しいんです。知りまへんねん。ほんまに、正真正銘、まるっきり知りまへんねん!」
「しらを切り通すつもりなら、俺たちにも考えがあるぜ」
パンチパーマの男は、アーミーナイフを取りだすと、ナロンチャイの右頬をぶすりと貫《つらぬ》いた。
「ひぎっ」
「このまま、ぐるりっと輪を描くと、おめえの頬にでかい穴があく。そうなりゃ、食いもんも飲みもんも、だだ漏れになるぜ」
「たす……たす……お助け……」
「財宝はどこなんだよ、おい」
「しゃあから、それは知りま……うぎゃあおおっ」
ナロンチャイが叫ぶと同時に、比夏留は藪から飛びだしていた。
「な、なんだ、てめえは」
比夏留は応えず、いきなりその場に逆立ちした。そして、両腕を軸にして、そのままの姿勢で旋回をはじめた。回転の速度はしだいにあがり、あっというまに比夏留の姿は掻き消えた。両脚を開いたり、閉じたりするたびに、Iの字とYの字が交互に見える。
「何なんだ……何が……どうなってるんだ……」
ヤクザたちがうろたえるのも無理はなかった。人間が、道具を使わずに、これほどまでに急速な回転ができるとはとうてい思えないからだ。地面の枯葉が舞いあがり、土が舞いあがり、一緒に回っている。ヴうううううううう…………ん、という古いクーラーのような音が地の底から聞こえてくる。
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「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……きえええええええっ!」
凄まじい気合いの声とともに、猛烈な回転を続ける人間独楽は、ふわりと宙に浮いた。仰天するヤクザたちの頭上をUFOのように飛翔すると……。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ぎええええええええっ!」
ずどおおおおおお……ん!
という落雷のごとき轟音《ごうおん》とともに落下した。大量の土や石、砂が雨のようにあたりに飛散し、木々の幹が裂け、枝が粉砕《ふんさい》され、きな臭いにおいが漂《ただよ》った。地面には、隕石の落下孔を思わせる大穴があき、そこに、旋回に巻き込まれたヤクザたちが投げ出されていた。皆、服はぼろぼろに破れ、髪の毛は引きちぎれ、嘔吐《おうと》物が顔面に覆いかぶさり、皮膚が裂けて血だらけになっている。なかには、首が妙な角度にねじ曲がったり、腰がねじれているものもいる。かわいそうなのはナロンチャイで、ヤクザたちと同じく、比夏留のわざを浴びて、ほとんど全裸となって、倒れている。
「諸星っ!」
やっと回転をやめ、大木に取りすがって嘔吐している比夏留に、保志野が駆け寄った。
「大丈夫か……」
「うん……なんとか……」
紙のように白い比夏留の顔を、保志野は両手で挟んで、そっとさすった。鼻からも耳からも出血している。保志野は、駅前でもらったティッシュで、血を拭《ぬぐ》った。ティッシュには、「大黒屋二号店(山菜料理専門)・駅の北側にオープン!」と印刷されていた。
「それにしても凄い技だな。何ていう名前?」
「名前はとくにないけど……」
「じゃあ、俺がつけてやろう。回旋して、どーん! とぶつかったから、秘技〈回旋どん!〉ていうのはどうかな」
「そんなことどうでもいいから、みんなを介抱してあげて」
保志野は、築地のマグロのように地面に転がっているヤクザたちの状態を調べてみたが、全員、仲良く気絶している。ナロンチャイも白目を剥いていて、意識がない。しかし、命に別状はなさそうだ。
「どうやら、ナロンチャイくんの曾祖父さんが、ここで動物園を開業するときに、客寄せのイベントをしたらしいな」
「そんなことがわかるの……?」
少し元気を取り戻した比夏留が言うと、保志野はうなずいて、さっき拾った板きれを比夏留に見せた。
「これが、その看板の破片だ。これでだいたいの謎は解けた。あとは、どうしてこの洞窟が『邪馬台洞』と呼ばれるようになったか、だけど……」
と、そのとき、比夏留にとっては耳慣れた、あの「どどどどどどどどどど……」という音が、地響きを伴って聞こえてきた。
「もしかしたら……」
保志野は、音が近づいてくる方向に向かって立ちはだかり、ライトを向けた。
比夏留は、呆然とした。保志野も、あいた口がふさがらないようだった。
激しいひづめの音をたてて突進してくる、それは……馬の一群だった。
ただの馬ではない。シマウマだ。しかも……。
「縞模様が……」
そう。一丸となって駆けてくるそのシマウマたちの縞模様は、比夏留たちがよく見知っている「縦縞」ではなく、胴体と平行に黒い線が並ぶ「横縞」だった。
「ヨコシマな……馬……」
保志野は、信じられない思いでそう呟いた。
10
ヤクザたちは、犬塚が呼んだ警察の手で全員逮捕された。場所は、フェンスの外側である。彼らも、自分たちがどうしてそこにいたのかわからなかっただろう。もちろん、比夏留と保志野が、気絶していた彼らを、シマウマの背にひとりずつ載せて、森の外まで運んだのである。
「じゃあ、ヨコシマのシマウマの群れが棲んでる場所だから、『ヨコシマな馬の洞窟』と呼ばれてたのが、いつのまにか『邪馬台洞』っていう名前になったっていうわけ?」
伊豆宮の問いにうなずいた比夏留は、大盛り海鮮丼を頬張った。また、飽きもせずに、『大黒屋』に来ているのだ。メンバーは、比夏留のほか、伊豆宮、白壁、犬塚、そして、ナロンチャイだった。
「ということは、そういう名前になったのは……」
「ごく最近のことみたいですね。ナロンチャイくんの曾祖父さんが、動物園を廃業したときに、猛獣とか危険な動物はだいたい処分したんです。その死体を葬ったのが、洞窟の近くにあった塚なんですが、横縞のシマウマは、あまりに貴重で処分しきれなかったんでしょう。それが、野生に戻って、あのあたりに棲みついていたのを、たまたま目撃した人が言いだしたのがはじまりだと思います。だから……」
比夏留が、保志野からの受け売りを並べたてると、
「昭和中期のことだろうな。ナロンチャイくんの曾祖父さんが、田中家に土地を売る直前の、短い期間のことだろうから……」
白壁が落胆した声で言った。
「でも、この金印はどうなの? どうして、洞窟のなかにあったの?」
と伊豆宮。
「これは、木彫りの印章に金色の塗料を塗っただけのものなんです」
「じゃあ、この金印自体が財宝って可能性はなくなったわけだ。たちの悪い悪戯《いたずら》だったのかもしれねえな。ナロンチャイくんのお亡くなりになった曾祖父さんの遺言なんだから、嘘じゃねえと思いたいけどもよ、ぼけがきてたってえからなあ……」
「え?」
ナロンチャイはきょとんとした顔つきで、
「ぼくの曾祖父さんは、まだ死んでまへんで」
今度は、比夏留たちが驚く番だった。
「だ、だって、曾祖父さんの遺言なんでしょ」
伊豆宮が皆を代表してきいた。
「曾祖父さんは『遺言のつもりで』て言うたんです」
「あなた、『激しく咳き込んで、おびただしい血を吐いた』って言ったじゃない」
「その後、持ち直しまして、すっかり元気になって……」
「じゃあ、まだタイでご存命なのね」
「いえいえ、今は日本にいるはずですわ。どこに住んでるかは知らんけど、『故郷で死にたい』とか言うてはったから、意外とこの町にいてはったりして……」
そこへ、パートの老人がお茶のおかわりを持ってひょこひょこ近づいてきた。
「おっ、おまえ、ナロンチャイやないか」
「そういうあなたは曾祖父さん!」
あんぐり口をあける比夏留たちのまえで、まるで小説の登場人物のような劇的再会を果たしたふたりは、とくに抱きあったり、涙を流す様子もなく、にこにこと喜びあっている。
「いやあ、奇遇やなあ。おまえとこんなとこで会うとは、かなわんなあ」
「いつからここで働いてはりまんねん」
「一年ほどまえからや。日本に来《ひ》てすぐにこの店に雇われてな、機嫌《ひげん》よう暮らしとるで。おまえ、えろう顔の形が変わったけど、整形でもしたんか?」
「いや、そういうわけやないんですけど……」
「そうそう、おまはんらの持ってるその金印《ひんいん》な、それ、わしのもんやで」
「や、やっぱり。これは、あなたが作ったものなんですか」
伊豆宮が印章を突きつけると、老人は莞爾《かんじ》として笑い、
「せや。わしが作った、それは銀行印や」
◇
老人の話を聞いて、比夏留たちは「もういや」になった。
かつて藤村老人は、この地に動物園を開業した。個人営業の小規模な園なので、象だのキリンだのサイだのカバだの……といった大物を飼育することはできず、アライグマやロバ、スカンクなど、小動物・中動物が中心だったが、唯一の目玉が、横縞のシマウマ……世に言う珍獣であった。老人は、自分の口癖から、動物園を「漢奴委奴王国《かなわんなおうこく》」と名づけ、銀行印を洒落で金印に模した。
「日本を脱出するとひなあ、預金《よひん》をおろしてくるのをコロッと忘れとったんや。それだけが心残りでなあ……」
「ほ、ほな、森に残してきた忘れものちゅうのは……」
「せや。預金《よひん》通帳と銀行印や」
「でも、財宝て……」
「財宝? そんなこと言うとりゃせん。わしゃ、お宝ちゅうたんや」
「卑弥呼の石ゆうのは……」
「卑弥呼の石? そんなこと言うとりゃせん。わしゃ、『ひみこいし』ちゅうたんや」
「『ひみこいし』ゆうたら、卑弥呼の石でっしゃろ」
「ちゃうちゃう。おまえも知ってるとおり、わし、昭和歌謡の大ファンやろ。『漢奴委奴王国』の開業のとひにな、客《ひゃく》寄せのイベントに、当時、売り出し中の歌手、中山寺明美を呼んだんや。あのとひ、中山寺明美がヒャンペーンしとった曲《ひょく》が、『君恋《ひみこい》し』や。二村定一でヒットした往年の名曲《めいひょく》やけど、明美はリバイバルヒットさせようと思とったんやなあ。わし、すっかり感激してなあ、園の入り口に、明美が『君恋《ひみこい》し』歌っとるところの彫刻たてて、大歓迎したんやで。しかし、あのとき、逃がしてやった横縞のシマウマたちが、そうやって群れをつくるまでになっとるとは……よかったよかった。ああ、何もかもみな懐かしい……」
老人の目にはうっすら涙が浮かんでいる。比夏留たちの目にも、別の意味での涙が浮かんでいる。そのうちに、老人は「君恋し」を鼻歌で歌いだした。ごきげんである。
「じゃあ、比夏留ちゃん、私たち帰るから」
あほらしくてつきあっていられないという表情で、伊豆宮、白壁、犬塚は立ちあがった。
「えっ、もう帰るんですか」
「あたりまえでしょ。私たち、こんな話につきあってられるほど暇じゃないの。それじゃあね」
伊豆宮は冷たく言い放った。
「じゃあな」
「じゃね」
「犬せん、せめて『大黒屋』二号店の割り引きチケット、置いといてくださいよー」
すると、老人が言った。
「二号店の割り引ひ券やったら、あげるで。おかげさまで向こうも盛況でな、コンパとかする大学生のあいだでは、こっちが海鮮料理専門の『海大黒《うみだいこく》』て呼ばれとって、あっちは山菜料理専門やさかい、『山大黒《やまだいこく》』て呼ばれとるらしいわ。二号店の地図、入り口に貼ってあったんやけど、こないだ、えろう風の強い日があったやろ。あれでどこぞへ吹き飛ばされてしもたみたいでな……」
「『山大黒』……ということは……」
比夏留が思わず箸を置いたとき、入り口の扉ががらりとあき、大学生風の若者が顔を出した。
「あのー、すいません。『山大黒』はどこですか?」
◇
先輩たちが帰ったあとも、ナロンチャイと比夏留は『海大黒』に残って、だらだらしていた。あまりの結末に、帰る気になれなかったのだ。そこへ、保志野が入ってきた。比夏留が保志野に、たった今聞いたことを伝えると、
「だいたい、ぼくの推理どおりですね」
「じゃあ、保志野くんは、金印が銀行印だってこと、気づいてたの?」
「底面に朱肉のあとがありましたから」
「『卑弥呼の石』が『君恋し』だったってことも?」
「苔を削ぎ落とすと、『全国縦断キャンペエン・〈君恋し〉中山寺明美』っていう文字が確認できましたから」
「わかってたんなら、早く教えてよっ」
「あのときは、それどころじゃなかったでしょう」
比夏留はドラム缶一本分ぐらいのため息をついた。
「あーあ……やっぱり邪馬台国は畿内か九州なのかなあ……」
すると、保志野は息がかかるほど比夏留に顔を寄せて、
「実はぼく……今度の一件でいろいろ邪馬台国の場所について考えているうちに、ひとつの仮説を得たんです。聞いていただけますか」
「すごいじゃない! さんざんな目にあったわりには、ろくなことなかったけど、その仮説が実証されたら、お釣りがくるわ。どんな仮説なの?」
「聞きたいですか?」
いつになく、保志野はじらす。
「ナロンチャイくんにも関係があるんですけどね」
「ぼくにもでっか? 聞きたい聞きたい聞きたいわあ」
保志野は頭を掻きながら、小さな声で話しはじめた。
「ぼくは、邪馬台国はタイにあったんじゃないかと思ってます」
「タイに? そんなアホな」
ナロンチャイが大声を出した。
「まあ、聞いてください。『魏志倭人伝』の記述をそのまま鵜呑《うの》みにすると、邪馬台国の位置がジャワやフィリピン付近になってしまうというのは、ふたりとも知ってますよね。それなら、タイやミャンマーのあたりも候補としてあげることはできるはずです」
「でも、証拠がないじゃない」
「あります。倭人伝には、『邪馬台国の女性は、貫頭衣を着ている』と書かれていますが、これは、タイやミャンマー、中国雲南地方で今でも用いられています。また、卑弥呼の鏡と言われている三角縁神獣鏡ですが、文様に象やラクダといった、日本にはいない動物が刻まれています。象は呉《ご》の南、つまり、ミャンマーの国境あたりになら生息していました。もうひとつ、倭人伝には、倭の特産物に翡翠がある、という記述があります。中国では翡翠は産出しません。ミャンマーから持ち込まれるものがほとんどだそうです」
そこまで言うと、保志野はお茶をこくりと飲んだ。
「どうしてそんなこと思いついたの?」
「え? そ、それはですね……」
保志野は照れたように笑うと、
「ミャンマー・タイ国……っていうでしょ」
比夏留はずっこけた。
「冗談です」
「わかってるわよ。じゃあ、卑弥呼の正体はタイの女王ってわけ?」
「卑弥呼は、ですね……その正体は、ちゃんと『日本書紀』に書いてありますよ」
「えっ?」
『日本書紀』といえば、正史である。それに、卑弥呼の正体が書かれているとは……。
「『日本書紀』のなかの『神功皇后摂政紀』に、『魏志によると、倭の女王が使者を帯方郡に送った。翌年、魏帝は、詔書《しょうしょ》や印綬を持たせた使者を倭国に派遣した云々』とある。ここでいう『倭の女王』というのは、仲哀天皇の妃だった神功皇后をさしているんだけど、明らかに卑弥呼のことだよね」
「…………」
「神功皇后のこと、知ってるかい? 夫である仲哀天皇が神託を信じなかった罰で急死したので、自ら大軍を率いて、新羅《しらぎ》を攻めたといわれる女傑だよ。『日本書紀』は、『神功皇后摂政紀』をもうけているし、八世紀に成立した『風土記』では神功皇后は『天皇《すめらみこと》』と呼ばれている。三世紀には、『天皇《すめらみこと》』という言葉はまだなかったから、実際には『天皇《おおきみ》』と呼んでたと思うけど、とにかく完全に特別扱いだ。つまり、即位こそしなかったけど、実質的には『倭の女王』であったんだ。そんな扱いを受けているのは、神功皇后しかいない。神託を受ける巫女であり、女帝……『日本書紀』の著者が、卑弥呼=神功皇后と考えたのもむりはないよね」
「じゃあ、どうしてその説が一般的じゃないの? だって、正史にそう書いてあるなら……」
「『日本書紀』によると、初代天皇である神武天皇の即位は紀元前六六〇年ということになってるけど、そんな頃、日本はまだ弥生時代がはじまった頃で、大和朝廷が存在したなんて考えられない。初期の天皇はどれもみな、異常に寿命が長いことになってるし、その実在すら疑われている。書紀の著者が、日本国の権威づけのために、架空の歴史を捏造《ねつぞう》したというのが通説なんだ。だから、その辻褄《つじつま》あわせのために、三〜四世紀に存在したことになっている神功皇后を、中国の史書に載っている卑弥呼に仮託した、というわけさ」
「じゃあ、神功皇后は卑弥呼じゃないの?」
「通説ではね。でも、ぼくはやはり卑弥呼は神功皇后だったんじゃないか、あるいは、それに近い、女性天皇だったんじゃないか、と思ってる。つまり、邪馬台国は大和朝廷である、ということさ」
「根拠は?」
「ない」
「はあ?」
「根拠と呼べるほどの根拠はないんだけど、きのう、ふっと気づいたんだ。卑弥呼という字をローマ字で書いて……」
「あっ」
比夏留は、父・弾次郎が、DIETを逆さからTEIDと読んだのを思いだした。
「わかったかい? HIMIKOを逆さから読むと、OKIMIH……天皇《おおきみ》になる。卑弥呼はおそらく、大和朝廷初の女性天皇だったんだ」
なーんだ、これも冗談だったのか……。比夏留が笑いながら、保志野を見ると、彼は笑っていなかった。
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死霊洞の研究
その秋の頃より紫宸殿《ししんでん》の上に怪鳥《けてう》出で来たつて、「いつまで、いつまで」とぞ鳴きける。その声雲に響き眠りを驚かす。聞く人皆忌み恐れずといふ事無し。(中略)衛士《ゑじ》の司《つかさ》に松明《たいまつ》を高くとらせてこれを御覧ずるに、頭《かしら》は人の如くにして、身は蛇《じゃ》の形なり。觜《くちばし》の先曲がって歯|鋸《のこぎり》の如く生ひ違ふ。両の足に長きけづめあって、利《と》きこと剣《けん》の如し。羽先を延べてこれを見れば、長さ一丈六尺なり。
[#地付き]――太平記「広有怪鳥《ひろありけてう》を射る事」より
プロローグ1
きしきしきし……と鳴く廊下を歩んでいる足がとまった。前方から、あまり会いたくない人物がやってきたからだ。だが、もう避けようがない。
「おはようございます、校長先生」
「お、これはお久しぶりですな、藪田《やぶた》先生。お元気そうで」
「ぼちぼちですわ。――どなたかお身内にご不幸でも?」
「よくおわかりですな」
「いえ……左腕に喪章をしてはるさかい……」
「じつは、母が亡くなりましてな。九十四歳でしたので、歳に不足はございませんで……」
「それはそれは、知らんこととは申せ失礼いたしました。お通夜やお葬式のほうは?」
「身内だけで密葬をすませました。うちは代々土葬が決まりでしてな、あまり一般のかたがたにお見せするようなものでもないので」
「そしたらせめてお墓まいりでもさせてもらいますわ」
「お気持ちはありがたいのですが、そうしていただけぬ事情がございましてな。実は、うちの墓は〈常世の森〉のなかにあるのです」
「ほほう。わしとしては、森のなかだろうが、川のなかだろうが、一向にかまいまへんけどな」
「ははははは……」
「はははははは……」
「藪田先生……まだ、あの森にご興味をお持ちですか」
「さあ……そう言うたらば、近頃、森のほうから、なかなか妙なる歌声が聞こえてきまんなあ」
「ほ、ほほう……さようですかな」
「風が洞窟か何かを吹き抜けるときの音ですやろか。それに、あれは何ちゅう種類になるんかなあ、鳥の声が混じって、天然自然のメロディーやハーモニーが奏でられて、なんともいえん気持ちになりますわ。校長先生もお聞きになったことありますやろ」
「い、いや、私は……」
「うちの民俗学研究会の部室の裏から、まっすぐ西へいった方角……そうそう、〈死霊洞〉とかいう洞窟のあるあたりから聞こえてきますねやが、あれが聞こえんとは……校長先生、少々、耳が遠なったんとちゃいますか」
「私、明日、県庁で会議がございまして、これから出かけねばならんので、これで失礼させてもらいます」
「それはお忙しいとこ、お引きとめしました。そうすると、今夜は向こうに泊まりですな」
「――藪田先生、あまりあの森のあれやこれやに首を突っ込むと、――えらいことになるかもしれませんよ」
「心得てまっさ。わしはただ、真の〈天の岩屋戸〉がどこにあるのか、それが知りたいだけですわ」
「そ、それがいかんと……」
「こりゃあ口が滑りました。ほな、わしも用事があるもんで、失礼しまっさ」
プロローグ2
どうして……どうしてこんなことに……。
頭に浮かぶのは、そのことだけだった。
つい何時間かまえまでは、家で快適にくつろいでいたのに、今は、わけのわからない森のなかで、わけのわからない状況に陥《おちい》っていて、しかも……。
ひぐっ、ひぐっ、ひぐっ。
ぶーき、ぶーき、ぶーき。
上下左右の闇のなかから、粘着質の奇妙な声が投げつけられる。そのたびに懐中電灯を持つ手が震え、明かりが大きく左右にゆらぐ。
(しっかりしろ、これはただの蛙の声じゃないか。あいつ[#「あいつ」に傍点]じゃない……)
少年は懐中電灯をぎゅっと握りなおし、一歩を踏みだす。スニーカーがざっくりと草に沈む。半ズボンに麦わら帽子。手には破れてぼろぼろになった捕虫網を掴み、腰に大きな虫かごをさげた少年の目尻には涙の乾いたあとがあった。剥《む》きだしの太ももや膝は、傷だらけだった。
(比夏留《ひかる》姉ちゃんが悪いんだぞ。虫捕りに連れていってくれないから……だから……だから……)
すでに東西南北もわからなくなっていた。星座をしるべにしようにも、今日はあいにくの曇天だ。プラスチック製の虫かごには、甲虫類とおぼしき黒光りする虫たちがぎっしり詰まっており、ときどき、キキキッという切磋音《せっさおん》をたてていた。
いーっ、いっ、いっ、いっ、いっ、きいーぐ、あげー、ごー
背後から追いたてるような絶叫が聞こえてきた。
(来た……、あいつだ!)
少年は駆けだした。
いーっ、いっ、いっ、いっ、いっ、いーぐ、あ、げーぎょー
異常に下手くそなオペラ歌手のようなひきつった声が、わらべうたのような抑揚をともなって、すごい速度でみるみる近づいてくる。少年はこけつまろびつ走ったが、とうてい逃げきれるものではない。恐怖で小便をちびりそうだ。
いーっ、いっ、いいっ、きっ、きっ、いー、ぐあ、げー、ごー
声がすぐ真後ろに迫り、同時に突風が少年の身体を包んだ瞬間、彼は咄嗟《とっさ》に、前のめりに地面に倒れた。顔を激しくすりむく。瞬間、褐色の巨大な物体が、ぐおおっという音とともに少年の身体をかすめ、地面すれすれを滑空《かっくう》したかと思うと、突然、九十度の角度に上昇した。あっというまに小さくなったその姿が網膜に焼きついたとき、少年は思った。
(鳥を……見た……)
と。
1
比夏留がおととい、隣に住む小学校三年生の少年、宍倉三太郎《ししくらさんたろう》に一匹のクワガタムシをあげたのがすべてのはじまりだった。クラスでも昆虫博士とあだ名の三太郎は、
「あのさあ、お姉ちゃん、珍しいっていっても、ぼく、たいがいのクワガタなら知ってるよ」
「すっごく珍しいんだってば」
「そうかなあ。ぼく、ローゼンベルグオウゴンオニクワガタの標本も持ってるんだぜ。アンタエウスオオクワガタも、ユーリケファルスヒラタクワガタも、ウエストウッドオオシカクワガタも、ダールマンツヤクワガタも、アスタコイデスノコギリクワガタも、マンディブラリスフタマタクワガタも、メタリフェルホソクワガタも……ぜんーぶ標本持ってるんだよ」
「あっそう。でも、たぶんもっともっと珍しい種類だと思うけど」
そのクワガタムシを見て、三太郎は狂喜乱舞した。大小の角が六本生え、まるで白亜紀の角竜のような威容である。昆虫、とくに甲虫類については知らないことはないと自負していた三太郎も見たことのない種類である。
「お、お、お姉ちゃん、これ、どこにいるの?」
「うちの学校のなかにある〈常世の森〉っていうところ。あそこには、こんな風な変な虫、いーっぱいいるよ」
「いーっぱい?」
三太郎の瞳がクワガタムシの形になった。
「連れてって。お姉ちゃん、その〈床屋の森〉に連れてって」
「〈常世の森〉だってば」
「どっちでもいい。連れてって連れてって連れてって」
「だーめ。あそこは校長先生個人の土地だから、生徒も入っちゃいけないの。すっごく高いフェンスとか鉄条網とかで仕切ってあるしね」
「こんなクワガタ、見たことないよ。もしかしたら大発見かもしれないんだよ」
「だめなものはだめ。このクワガタだって、私が部室でおにぎり食べてたら、たまたま森から飛んできたの」
おにぎりにとまったクワガタを、塩昆布とまちがえて食べそうになったことは内緒だ。
「フェンスなんか、ちょこっと乗り越えたらいいじゃん」
「ちょこっと乗り越えられるような高さじゃないのよ。森のなかはめちゃめちゃ危ないんだってば。ライフル持ったおっさんとか、わけわかんない動物とかうじゃうじゃいるんだから。また、森から飛んできたら捕まえといたげる」
「じゃあ、比夏留姉ちゃんは森に入ったことないの?」
「え……? そ、それは……あるけど」
「じゃあ、ぼくも入ろっと」
「だーかーらー、だめなんだってば。先輩に聞いた話だけど、珍しい虫が多いのは、森のなかでも、えーと……〈死霊洞〉とかいう洞窟があるあたりなんだって」
「し、〈死霊洞〉……怖そうな名前だね……」
「そこはさすがの私も行ったことないのよ。だから、三ちゃんの案内もできないしね」
「…………」
「だいたい私、明日から期末テストで忙しいの。虫捕りにつきあってる暇なんかないの。明日はいちばん苦手な現国と物理なの。物理の繁山《しげやま》先生、顔も怖いけど怒るとめっさ怖いの」
「そんなこと言わないでさー、お願いお願いお願いったらお願いっ」
「だめだめだめだめだめったらだめ」
〈悟空の大冒険〉の袈裟《けさ》コンテストの巻のような問答を繰り返していたが、
「もーいーよ、わかったよ。比夏留姉ちゃんがそんな薄情ものとは思わなかった」
「誰が薄情よ。だったら、そのクワガタ返しな」
「だ、誰が……。こうなったらぼくひとりでも行くよ」
「無理むり。三ちゃんにはあのフェンスは越せないって。それに三ちゃんパパがそんなこと許すわけないよ」
三ちゃんパパというのは三太郎の父親、宍倉|鉄蔵《てつぞう》のことだ。隣家で『鋼鉄塾』という学習塾を経営しており、謹厳実直な教育者として知られている。じつは比夏留も、中学のとき、『鋼鉄塾』に通った経験があるが、あまりの厳しさに音をあげて、一ヵ月でやめた。そのとき、三ちゃんパパの真面目一本槍の性格はいやというほど体感した。とにかく曲がったことが大嫌いで、真面目のうえに糞がつく、というか、糞のしたに真面目がつく、というか、柔軟性のかけらもない、要するに「鋼鉄」のような人である。子供はふたりで、三太郎のうえに、歳のはなれた兄がいるが、彼はどこかの大学院でレーザー光線の研究をしているそうだ。
宍倉家は、本当か嘘かわからないが、もともとはこのあたり一帯を領地としていた蘇我《そが》某という武家の末裔《まつえい》で、大層な屋敷に代々住んでいたが、彼の代になって屋敷を手放したという。教育者の道を選んでからも、武家の矜持《きょうじ》はいささかも失っていない。夜中に、外部者の侵入を禁じている場所に忍び込むなどということを、信号が故障してずっと赤だったとき、「交通法規の遵守《じゅんしゅ》は国民の義務なり」と叫んで四時間も横断歩道のまえで立ち続けていたあの宍倉鉄蔵が認めるわけがない。
「パパには言わないさ。勝手に行けばいいじゃん」
「だーめっ。じゃあ、私、『お勉強』があるから。さらば」
あのときの比夏留の言葉が、三太郎に火をつけたのだが、それだけではなかった。
比夏留にもらった角だらけのクワガタは、何も食べなかった。スイカなどの果実をとっかえひっかえ与えても、見向きもしない。カサ・コソ・カサ・コソ・カサ・コソ……と歌うだけだ。
(このままじゃ、死んじゃう……)
昆虫博士としてのプライドが頭をもたげた。
(生息地には、きっとこいつの餌が生えているはずだ。それさえわかれば……)
三太郎は、夜十二時、家のものが寝静まったのを確認してから、昆虫採集の完全装備に身を包んだ。二階のベランダから植え込み目がけて飛び降りて、脱出成功。田中喜八《でんなかきはち》学園までは走って十五分。校門をくぐり、クラブ棟を抜け、高いフェンスのまえに立った。たしかに高い。最上部がどうなっているのか見えないほどだ。どうやってこのフェンスを越そうかと思案していると、
「おい」
突然、うしろから声をかけられた。心臓がきゅっと縮みあがる。おそるおそる振り返ると、クラブ棟のひとつの陰に誰かがいる。暗くて、どんな人物かはわからない。
「森に……入りたいのか」
「う、うん」
「どのあたりに行きたいんだ」
「え? えーと……し、〈死霊洞〉……」
「ガキのくせにいい度胸やな。何しにいくねん」
「珍しいクワガタを探しにいくんです」
「ふーん……〈死霊洞〉には、妖怪がおるらしいで」
「よ、妖怪……?」
「墓から子供の死骸を掘りだして喰うてしまう、鳥の化け物や。たしか、以津真天《いつまで》とか言ったな。死骸をいつまでほっとくんや、いつまでも、いつまでも……ゆうて鳴きよるねん」
三太郎の膝はがくがくと震えた。
「〈死霊洞〉は、ここからまっすぐ西へ三十分ほどいったところにあるらしい。小川を越して、すぐだ。洞の周囲には、えもいわれぬ香りが漂《ただよ》っていると聞く」
「小川……えもいわれぬ香り……」
「ここにロープがある。貸してやるから、自由に使え」
「え? あの……」
三太郎が言うより早く、その人物の姿は消え、かわりに白いロープの束が草のうえに置かれていた。ごていねいに、先端に鉤爪《かぎづめ》がついている。
「ありがとう……」
彼は暗闇に向かって礼を言うと、ロープを握りしめた。
(なんて親切な人だろう……)
ここまで来たらやるっきゃない。ロープを振り回し、えいっと放す。数度の失敗のあと、鉤爪がフェンスのどこかに引っかかった。それも、かなり高いところだ。ぐいと引いてみると、手応えあり。三太郎は捕虫網を口にくわえると、フェンスをスパイダーマンのようによじのぼっていった。
鉤爪のあたりまでたどりつくのに二十分ほどかかった。だが、フェンスはまだ上に続いている。三太郎は、鉤爪を外し、うえに向かって投げようとした。そのとき、突風が吹いて、フェンスがぶわんとしなった。あわててフェンスにしがみつく。その拍子に手からロープが滑り落ちた。ロープは白蛇のように身体をくねらせながら、遥か下方に落下していった。
(どうしよう……)
三太郎は、動物園の猿のようにフェンスにしがみついたまま、考えた。もう少しでフェンスを越せる。内側は、珍しい昆虫の宝庫だ。今夜をおいて、機会はない。三太郎は、ロープなしで少しずつ上昇を開始した。最上部は鉄条網が張り巡らされており、手が血だらけになったが、我慢するしかない。てっぺんをまたぎこし、今度は内側を下降していく。しかし、小学生の手の力には限界があった。痛みをこらえて降りていく途中、突然、感覚がなくなり、ずるっと両手がフェンスからはなれた。必死になって掴みなおそうとしたが、だめだった。三太郎の小さな身体は、鞠《まり》のように何度かはずみながら、フェンスにそって墜落していった……。
◇
気がついたとき、三太郎は雑草のしとねに横たわっていた。あちこち痛かったが、骨折などの大怪我はないようだ。立ちあがると、頭が少しふらついたが、
(だいじょうぶ……歩ける……)
すぐ近くに落ちていた捕虫網を拾うと、懐中電灯の細い明かりだけを頼りに、三太郎は歩きだした。西へ向かって、真っ直ぐに……。
ひぐっ、ひぐっ、ひぐっ。
ぶーき、ぶーき、ぶーき。
四方から声がかかる。最初はどきっとしたが、牛蛙などの小動物のものとわかったあとも、なんとなく薄気味悪い。
三十分ほど歩いたとき、足先をひんやりしたものに突っ込んだ。
「うわっ」
尻餅をつく。懐中電灯を向けると、ちろちろと輝いている。それは、幅二メートル半ほどの小川だった。
(〈死霊洞〉の近くには小川があるって言ってたよね。ということは……)
三太郎はきょろきょろと洞窟を探したが、懐中電灯がしょぼいためか、確認できなかった。
(そうだ、香りだ……)
鼻をひくつかせる。たしかに、水の匂いに混じって、なんともいえない芳香が漂っている。どこかで嗅《か》いだことのある香り……さわやかで……口のなかに唾《つば》が湧いてくるような……。
「あった!」
思わず、彼は大声を出していた。小川のほとりに、一面に繁茂しているものを見つけたからだ。
「紫蘇《しそ》だ……!」
自然科学に興味を持っている彼にはわかった。卵のような形で、ふちにぎざぎざがある葉、そして、食欲を刺激する香り……それはたしかに紫蘇の群生だった。三太郎はその場にかがみ込むと、数枚の紫蘇の葉をちぎり、ポケットに入れた。これで、あのクワガタの餌が何であるかわかった、と彼は思った。
懐中電灯に、何かが衝突した。拾ってみる。
(やっぱり……やっぱりいた!)
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あのクワガタだ。しかも、比夏留にもらったものよりも、角が二本多い。三太郎の胸は高鳴った。虫かごにそっとしまい込む。懐中電灯の光をあたりの木に向ける。いる。いるいるいるいるいる。ざっと数えただけでも、五、六匹の巨大クワガタが確認できた。人が入り込まないせいか、カブトムシ、オオクワガタ、ミヤマクワガタ、コフキコガネ、ヒゲコガネ、ノコギリカミキリ……といった、日頃なら涎《よだれ》が垂れそうなほど欲しい虫たちも山のように見つかったが、三太郎の目にはそんなものは屑《くず》同然に映った。巨大クワガタだけを片っ端から採集し、虫かごに入れる。たちまちかごははちきれんばかりになった。クワガタたちは、カサ・コソ・カサ・コソ……と歌う。
(すごいすごいすごい。もしかしたら、新種発見で有名になれるかも……)
小川のせせらぎを背中に聴きながら、夢中になって虫をとりまくっていた三太郎は、こっそりと近づく黒い影にまるで気づかなかった。
ぢぴゅぅぅぅわん
金属が擦《こす》れあうような音に振り返った三太郎は絶句した。小川から、幅五十センチほどの何かが、三太郎の背丈よりも高く突きだしていた。その先端には、バスケットボールほどの頭部があり、頭部のほとんどは巨大な複眼でしめられていた。そのため、大きな眼鏡をかけているように見える。電車の連結器を思わせるような口吻《こうふん》が左右に開く。
「ひっ……ひいやあああああっ!」
三太郎が身体をそらせるのと、その怪物が前脚を伸ばすのがほとんど同時だった。間一髪、怪物の爪は空を切った。
「たす……助けてえええっ」
悲鳴がコーヒーゼリーのようにねっとりした闇に吸い込まれていく。捕虫網を振りまわしたが、怪物にあっさり破られた。
「来るなっ……来るな」
三太郎の叫びもむなしく、怪物は身体を前倒しにすると、六本の長い脚をすばやく動かして接近してくる。すぐに怪物と三太郎の距離は縮まってしまった。逃げきれない。くわっ、と口吻が開く。肉食昆虫特有の、重そうな顎《あご》。
(もう……だめだ……お父さん……兄ちゃん……比夏留姉ちゃん……)
三太郎は観念して目をつむった。およそ三秒後には、あの鋭い爪が彼の胴体を引き裂き、あの鈍重な口吻が彼の喉笛《のどぶえ》を食いちぎるだろう。
そのとき。
いーっ、いっ、いっ、いっ、いっ、きぃーっぐ、あーああ、げごーっ
森の空気を分断するような、甲高《かんだか》く、ひきつったような叫び声が鼓膜に突き刺さった。思わず目をあける。化け物は、いつのまにか三太郎から離れ、周囲を見渡している。その様子は、どことなくおどおどしているように見えた。
いーっ、いいいいいいいいい、きいきいきいきい、いーぐあ、げー、ごーっ
いきーっ、きっ、きっ、きっ、きーぐ、あげっ、ごーっ
いーっ、いっ、きききききき、いぐあげ、ごおーっ
聞きようによっては、「いつまでも」と聞こえないこともない。まさか、これが、あの人の言っていた「以津真天」なのか……。
いーっ、ききき、きぐ、あああげ、ごーっ
いぐ、いぐ、いぐあげ、ごーっ
三太郎は、その叫び声に、何パターンかのメロディーがあることに気づいた。これは……「歌」なのだろうか……。
突然、小川の水が波だった。台風のような突風が顔に吹きつけられ、立っていられなくなって、三太郎はしゃがみこんだ。風が吹いてくる方向に目をやると、そこに洞窟の入り口があった。どうして今まで気づかなかったのかと思えるほどの馬鹿でかい洞窟だ。
(あれが……〈死霊洞〉……?)
叫び声と風はその洞窟のなかから発しているようだ。
六脚の化け物が、向きをかえて、小川のなかを逃げはじめた。洞窟にいる「何か」を怖れているようだ。三太郎も怖くなって、化け物のあとを追うようにして逃げだした。
刹那《せつな》。
背後から凄《すさ》まじい風が叩きつけられ、三太郎は突き倒されて顔面から川のなかに突っ込んだ。続いて、耳をつんざく轟音《ごうおん》。その音は一旦、上空に去ったが、次の瞬間、ふたたび近づいてきた。今度は真上だ。三太郎が両手で頭を抱えたとき、何か茶色い飛行物体が墜落するような角度で川に飛び込んだ。それは、激突寸前に機首をあげた。巨大な昆虫の姿はどこにも見あたらなかった。
(あの化け物を……食った……?)
三太郎は、懐中電灯と捕虫網をめちゃくちゃに振りまわしながら、駆けだした。悲鳴をあげ、わあわあ泣きながら、でたらめに走りまくった。どうしてこんなことになってしまったのか、まるでわからなかった。ただ単に、珍しい虫をとりにきただけなのに……どうして……どうしてこんなことに……。
2
比夏留はカリカリしていた。べつに、鉛筆を削っているわけではない。期末試験の勉強が手につかないのだ。高校生になってからはじめての期末試験。中間試験は一度経験したが、期末というのは、学期のしめくくりであるからして、意味合いは重い。なにしろ、比夏留の中間試験の成績は、クラスでうしろから五番目。学年でもうしろから八番目である。しかも、田中喜八学園の一年生は百七十五人。比夏留は百七十五人中百六十八番ということになる。「一六八《いろは》」などと喜んでいる場合ではない。
「学生の本分は、よく食べ、よく遊び、よく眠ること。学問などできなくてもいい!」
中間試験の結果を見たとき、父親の諸星弾次郎《もろぼしだんじろう》はそう断言したが、その口調がどことなくひきつっていたことに比夏留は気づいていた。
(やっぱり、百五十番ぐらいには入らないとまずいかなー……)
しかし、明日は苦手中の苦手の現国と物理である。授業中はだいたい居眠りするか間食していたから、教科書は新品同様。どのページも、ほとんど初見状態である。このままだと赤点は必至だった。
机のよこには、大鉢がある。業務用のスナック菓子三袋分が、さっきまでそこにあったのだ。だが、手垢のついていないページをじっとにらみつけているうちに、右手が勝手に動き、気がついたら、すっかり空になっていた。
(いけないいけない。集中しないと……)
ものを食べているときは、どうしてもそっちに気がいく。つまみ食いをやめるべきだ……とかいうことは、食べおわるまえに気づけよ、自分ー。
(えーと……猿どんは大きなおにぎりと柿の種を蟹《かに》どんと交換しました。猿どんはそのおにぎりをぺろりと食べてしまいました……)
なんと!
「猿蟹合戦じゃない。高一の現国の教材とはとても思えーん。最近の教科書はまったくもってどーなっておるのだ」
一学期中教科書を開かなかったことを棚にあげて、口では憤慨してみせたが、頭のなかはべつの思いでしめられていた。つまり……。
(猿どんはそのおにぎりをぺろりと食べてしまいました……おにぎり……ほかほかのおにぎり……大きな……大きなおにぎり……)
古人曰く、腹が減っては戦ができぬ。勉強まえの腹ごしらえも大事よね、などとつぶやきながら比夏留は立ちあがると、台所に行った。ぼーん……時計が午前一時を告げる。三升は入るだろう大きなジャーをあけると、なかにはあつあつのご飯がいっぱいに入っていた。
(これこれ……これなるかな)
舌なめずりをしながら、比夏留は両手を水で濡らし、塩をたっぷりつけて、おにぎりを握りはじめた。ほかの料理は一切苦手な比夏留だが、おにぎりだけは何とかなる。というのも、握りかたを失敗しても、味に大差がないからだ。もちろん、なかに具を入れるような技術はないので、プレーンタイプの塩にぎりしかできない。本当は、梅干し入りのおにぎりが一番好きなのだが……。
「おむすびころりんすっとんとん……恐喝者はミルバートン……」
と鼻歌を歌いながら、比夏留は、きゅっきゅ、きゅっきゅと握っていく。一時間ほどのちには、三升入りのジャーが空になり、かわりに大皿いっぱいの四十個ほどのおにぎりができあがった。
「さて、と……海苔を巻こうかな」
しかし、焼き海苔も味つけ海苔も見あたらない。
「いくらなんでも、裸んぼというのは……ママー、裸じゃいや〜。みんなで、海苔を巻こうよ〜、うん、おいしいや、○○屋海苔〜」
古いCMソングを歌いながら、台所中を探してみたものの、どこにもない。かわりに、冷蔵庫のなかから塩漬けの紫蘇の葉がたくさん見つかったので、比夏留はそれでおにぎりをくるむことにした。おそらく、母親が梅干しを漬けるために取ってあったものだろうが、ほかに何もないのだからしかたがない。奮闘十五分、湯気のあがるおいしそうな紫蘇おにぎりがピラミッド状に積みあげられた大皿をまえにして、比夏留は満足そうにうなずいた。今までの時間を勉強にあてればよかったのでは、ということに気づいたのは、その直後だった。
(どうしよう……)
一時間以上もおにぎり作りでむだにしてしまった。
(とりあえず食べよう)
一つ目をぱくぱく。
(おいしいっ)
二つ目をぱくぱく。
(おいしいおいしい)
紫蘇の香りと塩気が食欲を猛然と刺激するのだ。四十個のおにぎりがすっかり姿を消すまで、ものの五分もかからなかった。
「あー、おいしかったー! でも、考えてみたら、作るのに一時間十五分もかかったのに、食べるのはたったの五分。なんだか哲学的」
わけのわからない感慨を抱きながら、比夏留は自室に戻り、勉強机のまえに座った。おなかがいっぱいになったので、まぶたが重くなってくる。
(いけない。ここで眠ってしまったら、なんのために腹ごしらえしたのかわかんない。勉強よ勉強っ)
もう一度現国の教科書を開く。
「えーと、なになに、蟹どんは、猿どんにもらった柿の種を庭に植えました。はやく芽を出せ柿の種……」
比夏留は読むのをやめ、決然とした表情で立ちあがると、ふたたび台所に行った。食器棚から柿の種の大袋を取りだすと、大事そうに抱えて部屋に帰り、ぽりぽり囓《かじ》りながら教科書に目を落とす。
「はやく芽を出せ柿の種。出さぬとはさみでちょんぎるぞ。柿の種が驚いて、あわてて芽を出すと、早く葉を出せ柿の種。出さぬとはさみでちょんぎるぞ……」
さすがにおかしいと思い、教科書の表紙を見ると、「小学三年生用」とあった。
「やっぱり……!」
比夏留は愕然とした。
(これって……三ちゃんの教科書じゃない! いつまちがえたのかな。私の教科書はどこ……?)
必死になってかばんをひっくりかえし、机のなかをひっかきまわしたが、どこにもない。
(三ちゃんが持っていっちゃったのかも……)
比夏留は床にあぐらをかいた。
「あー、困った。せっかくばりばりやる気になってたのに、これじゃ勉強ができないよー」
今までの行為の目撃者がいたら、後頭部をどつかれそうなセリフを口にしながら比夏留は大欠伸《おおあくび》をした。
「これは不可抗力だよね。――寝るか」
そのとき、ふと頭にひらめいたことがあった。
〈馬のパディントン〉の壁掛け時計を見る。午前二時半。
(明日、試験だもん。まだ、起きてるよね……)
比夏留は居間に行き、電話の受話器を取った。
(試験前日にもかかわらず教科書がない。これは、緊急事態といっていいのでは……)
だから、深夜だけど電話をしてもいいのだ。とはいうものの、こんな時間帯に電話するのははじめてである。比夏留は深呼吸すると、プッシュボタンを押した。
(本人が出ますように……)
「もしもし、保志野《ほしの》ですが……」
やった。
「もしもし、あの……諸星です」
「どうしたんですか、こんな時間に」
「ごめんなさい。でも、緊急事態なんだ。明日の現国の教科書がなくなっちゃって……」
そこまでしゃべったとき。
ガンガンガンガンガンガン!
階下からただならぬ物音が聞こえてきた。誰かがシャッターを叩いているらしい。
「な、何ですか、その音?」
「わかんない。ちょっと見てくるから、待っててね」
「えっ? ちょ、ちょっと、諸星さん。もしもし? もしもし?」
比夏留は、保志野の声を無視して、階段を駆けおりた。ちょうど、比夏留の父親で、古武道〈独楽《こま》〉宗主である諸星弾次郎も、音を聞きつけて起きだしてきたところだった。
「泥棒かな。お弟子さんたち、起こしてこようか」
大部屋には、十数人の住み込みの弟子たちが寄宿している。
「バカ言うな。こんなでかい音を立ててたら、泥棒にならんだろ。それに、あいつらは昼間の疲れで白河夜船だ。爆弾落としても起きんぞ」
ガンガンガンガンガンガン!
「おーい、諸星殿! 諸星殿、おらっしゃるかね!」
どこかで聞いたような声だ。それに、この大時代的な言葉遣い。親子は顔を見合わせた。弾次郎がうなずき、比夏留がシャッターをあけた。
立っていたのは、隣家の『鋼鉄塾』経営者、宍倉鉄蔵だった。最近ではめったに見かけぬカイゼル髭《ひげ》をはやし、羽織袴《はおりはかま》に鉄扇《てっせん》といういでたちである。
「宍倉先生、どうしたんです」
「すまぬな、夜中に。実は……うちのせがれがいなくなりよったんだ」
「三ちゃんが……?」
比夏留の言葉に宍倉はうなずき、
「それがしが喉のかわきを覚えて目を覚ましたとき、ひょいとせがれの部屋をのぞくと、姿が見えぬ。台所にも風呂場にも厠《かわや》にもおらぬ。すわ誘拐かと家人を起こして手伝わせ、家中探したがどこにもおらんのだ。部屋の窓があいとるし、靴がなくなっとるところからみて、いずくへか出かけよったにちがいないが、心当たりに電話したり、手分けして立ち回りそうなところを探してみても、見つからんのだよ」
「手紙や伝言はなかったのですか」
弾次郎が問うと、宍倉は首を横に振り、
「そもそも家出するような理由が見あたらぬ。あんたがたも知ってのとおり、それがし、栄誉ある蘇我一族の末裔として、せがれを厳格にしつけてきた。そそのかすような悪い友人もおらぬはずだし……」
宍倉はその場にがばと両手をつき、
「せがれはこちらのお嬢さんとは昔からの馬あいだ。なにか、せがれの失踪について知っとることがあったら教えてくだされ」
比夏留は首をひねった。まさか……あのクワガタ……。
「何? 〈常世の森〉だと!」
宍倉は獅子吼《ししく》したあと、深いため息をついた。
「せがれのやりそうなことだ。あやつはクワガタ狂ゆえ……」
「でも、あそこは高いフェンスで区切られているし、子供が入り込むのはむりじゃないでしょうか」
弾次郎が言うと、
「いや……せがれは森に行ったに相違ない。そこで、迷っておるのだろうて。あのたわけめが」
「だとすると、少々やっかいですよ。〈常世の森〉は田中喜八学園の校長の私有地で、あの校長は、外部のものが森に入ることを絶対に許さんのです」
田中喜八がどういう人物かは、弾次郎に言われなくても、宍倉もよく心得ていた。
「小学生が迷い込んだと警察に届け出て、警察のしかるべき部署から申し入れてもらえば……」
「まず、だめでしょうな。たしかに小学生が迷い込んだという証拠を提示しない限り、校長は調査を許可せんでしょうし、警察も動けんでしょう」
「むむ……むむむ……」
宍倉は髭をふるわせ、天を仰いだ。
「とりあえず、警察に行って、事情を説明してみてはいかがでしょう」
「そ、そうだな、そうしよう。ついては……」
宍倉はふたたびふたりのまえに両手をつき、
「一緒に行ってくれ。それがしひとりでは心許ないのだ。頼む」
◇
ずっと電話口で待っていた保志野に簡単にいきさつを説明すると、比夏留は宍倉、弾次郎とともに警察に向かった。警察の担当者は、県下の全警察署、パトカーに、三太郎の特徴を伝達し、手配してくれた。
「朝まで待って、発見できなかったら、その高校に参りますので」
「朝まで待つだと? そんな悠長なことは言うとれん。今からすぐに……」
「まあまあ、お父さん、落ち着いてください」
「これが落ち着いておらりょうか! せがれの一大事だぞ。こうなったらそれがし一人で探しにまいる!」
鉄扇を振りまわす宍倉の肩に、弾次郎はキャッチャーミットのような手を載せると、
「ここはお任せして、家に帰りましょう。ひょっこり戻ってくるかもしれませんし、素人《しろうと》があれこれ動きまわると、かえってマイナスかもしれませんよ」
「そうですよ、先生。奥さまだって、ひとりではご心配でしょう」
ふたりでなだめすかして、ようよう宍倉を帰宅させ、
「警察から連絡があったら、すぐにうちにも知らせてくださいよ」
そう言ってから、比夏留たちは家に入った。弾次郎は大欠伸を連発し、
「パパはもう寝るよ。比夏留もはやく休みなさい」
「明日、期末試験なの。もう少しがんばってみる」
そうは言ったものの、机についても、まるで勉強は手につかない。
(私が、三ちゃんにはあのフェンスは越せないって、って言ったからかな。そもそも、私が渡したクワガタが原因だし……)
比夏留は責任を感じていた。教科書がない現国をあきらめ、物理の教科書を開いても、内容がまったく頭に入ってこない。
(よっしゃ!)
比夏留は家を出た。
◇
(こうなったら、私ひとりで探す)
そう決意した比夏留は、学校に赴《おもむ》いた。時間は午前三時。足は、民俗学研究会の部室に向かう。黒々とそびえ立つ塗り壁のようなフェンスのまえに鎮座する、今にも潰れそうなプレハブの建物が見えてきたとき。
(あれ……?)
比夏留は首をかしげた。
ぶもーん……もーん……もーん……
のぶーん……おーん……おぼーん……
どこからか……歌声がきこえる。いや……歌ではない……何か、獣の叫び声のような……だが、メロディーを伴っている。単純な音列の繰り返しだが、力強く、それでいてどことなく哀愁がある。一種のわらべうたのような旋律だ。
声は、〈常世の森〉の奥の奥から、風に乗ってきこえてくるようだ。あまり楽器の知識のない比夏留だが、深みのあるその音色は、バストロンボーンかチューバのように思えた。
ふと見ると、部室のとなりに誰かが立っている。三太郎か、と思わず駆け寄ろうとしたが、踏みとどまった。背丈からみて、子供ではないようだ。相手は、比夏留に気づかず、何か棒状のものを口に当てた。
る、る、り、り、ら、ら……
木管と金管の中間のような、暖かみのある音色が流れだす。
り、り、ら、ら、る、る……
その人物が誰であるかはすぐにわかった。顧問の藪田だ。彼は、そのよれよれの外見に似合わず、フルートの名手なのである。森から聞こえてくる低い、朗々とした響きと、フルートの軽やかな旋律がブレンドされ、「音楽」が形成されていた。
(そうか……藪爺、あの音とセッションしてるんだ……)
〈常世の森〉からの低音を、ときにはベースのようにして、自分はそのうえで跳びはね、ときには自分も低く降りてきて寄り添い、一本の糸のように見せ、ときには自分がリズムにまわり、相手を引き立てる。
ときおり、森のほうからは、
いーっ、いっ、いっ、いいいっ、いっ
という甲高い音もかぶさってきて、三つの音が絶妙に融合して、荒削りだが、力強く、幽玄なサウンドが、そこにあった。深夜の学校裏で奏《かな》でられている一期一会《いちごいちえ》の演奏。比夏留は、何をしにここに来たのかさえ忘れて、しばし聞《き》き惚《ほ》れた。
のもーん、おぶーん、ぼーん、もももーん……
る、る、り、り、ら、ら……
いーっ、いっ、きっ、きっ、きっ……
ぼばーん、のーん、ももーん……
り、る、り、る、ら、ら……
いーっ、いっ、いいいっ、いー、ぐあ、げごーっ
不意に、低音がやみ、それに少し遅れて、甲高い音も失せた。藪田はゆっくりとフルートを口からはなし、比夏留のほうを振り向いた。
「諸星か、何しとるんや」
それをききたいのはこっちのほうだ。
「あの……宍倉三太郎くんっていう小学生が、こっちに来ませんでしたか」
「さあ、知らんなあ」
「そうですか……。先生は何してるんです」
「わしか。部室でひとりで飲んでたら帰りそびれてな、今日は泊まりや。暇やから、こうして……」
藪田はフルートを唇に当て、〈ブルー・アンド・センチメンタル〉の一節を吹くと、
「夜中の演奏会を楽しんでたわけや」
「さっきのあの音……何なんでしょうか」
「さあなあ……昔から、ときどき、風の強い日にああいう音が聞こえてくるねん。たぶん、〈常世の森〉のなかにある洞窟を風が吹き抜けるときに、ああいう音を出すねやろな。いーっ、いっ、いっ……ちゅう音はたぶん、鳥か何かの声や。酒杯をかたむけ、鳥の声や風の声とともに遊ぶ。なかなか風流やろ」
洞窟という言葉に、比夏留は反応した。
「〈死霊洞〉っていう洞窟があるって聞いたんですが、どのあたりですか」
「ここから、ずーっと西へまーっすぐ行ったへんや。歩いて三十分ぐらいか。小川を越して、すぐらしい」
「ありがとうございます」
「あと、これは言い伝えやが、〈死霊洞〉のまわりには、ええ香りが漂っとって、その香りにひかれてふらふら近づくと、洞に棲んどる鳥の化け物に襲われると聞いた。その化け物は、えーと……以津真天とかゆうてな、墓から子供の死骸を掘りだして、食べてまうそうや。民俗学研究会としては、見逃せんネタやわな」
「そんなこと、今はどうでもいいんです。三ちゃんを探さないと……」
「その子供がおらんようになったんか」
比夏留はうなずいた。
「隣の家の子なんですけど、クワガタを探しに、夜中に出ていっちゃったみたいなんです」
「そら心配やわな。しゃあけど、ここには来とらんで。わし、ずっと笛吹いとったが、猫の子一匹通らんかった」
「そうですか……ありがとうございました」
ふたたびフルートを奏ではじめた藪田に会釈したあと、その場を去った比夏留は、フェンスの周辺を検分してみた。しかし、暗いのとあまりにフェンスが長すぎるのとで、思うにまかせなかった。
(やっぱり、森に来たんじゃなかったのかな……)
比夏留が、フェンス越しに暗い森をのぞきこんでいると、
「諸星さん……」
びょーん、とジャンプしたあと、恐るおそる振り向くと、立っていたのは保志野だった。
「すいません。驚かすつもりじゃなかったんですが……」
「もー、びっくりさせないでよ。心臓どきどきしてる。――でも、どうして?」
「電話を切ったあと、気になったんで……。諸星さんのことだから、たぶんここに来てるんじゃないかと思ったんです」
比夏留は薄い胸が熱くなった。保志野くん、私のこと心配して……。
「はい、これ」
保志野が差しだしたのは、現代国語の教科書だった。表紙に、天才ブラックボンの顔が落書きしてある。ということは……。
「どーして私の教科書を保志野くんが……。わかった、まちがえて持ってかえってた」
「ブブー」
「私の成績をねたんで、教科書を隠してた」
「ブブー」
「じゃあどうして?」
「電話で、『現国の教科書がなくなっちゃって……』って言ってたでしょう。だから、心当たりを探してみたんです。ちゃんとありましたよ」
「どこに?」
「駅前の二十四時間営業のラーメン屋さんに」
「あ、ラーメン〈大爆発〉?」
「こないだ、あそこで大盛りラーメン八杯食べたって言ってたでしょう。入り口に、『○月○日、当店でラーメン八杯食べたアメイジングな彼女、国語の教科書をお忘れですよ。食い気もいいけど勉強もね』って張り紙がありましたよ」
比夏留は頭を抱えた。
◇
フェンスの土台に並んで腰をかけ、保志野が持ってきたコロッケパンと三角パックのコーヒー牛乳をありがたくちょうだいしながら、比夏留はこれまでのできごとを順を追って彼に話した。電話でだいたいのことはしゃべってあったのだが、もう一度詳しく説明したのだ。
「〈死霊洞〉について、何か知ってる?」
保志野はノートパソコンを取りだし、しばらくキーを叩いていたが、
「これ……見てください。『奇談漫録』という、この地方の領主のひとりだった武士が、家に出入りするいろんな人たちからの聞き書きをまとめた随想集なんですが……」
比夏留は液晶画面をのぞきこんだ。古文書らしきものの現物がスキャナーで取り込まれて、そのまま画面表示されている。
「残念ながら、最後の部分がネットには載ってないんですが……これ、どう思います?」
「どうって……」
「なかなか興味深いでしょう?」
「だーかーらー、何て書いてあるのかわかんないんだってば」
保志野はため息をつき、指で差しながら、声にだして読みくだしはじめた。
「夷倭宿《いわやど》の山中に大なる森あり。あまりに広く、深きがゆえ、黄泉国《よみのくに》に通じるとて、世人、〈常世の森〉と呼びならわす。森に、一洞あり。名を〈死霊洞〉という。黄泉より来たりし死霊ども、この洞に集《つど》うゆえか。土地の古老の曰く、この洞のあたり、角生えたる珍奇なる子虫多くして、これ死霊の変化なりとぞ。洞に奇怪なる音あり。音曲を奏で、詩歌を吟ずるがごとく聞こゆるなれば、またの名を〈歌吟洞〉と申すなり。これ、死霊の叫びと申すものもあり……」
「さっき聞こえてた音だよね。トロンボーンみたいな……」
保志野の言葉が終わらぬうちに、
もべーん、よーん、ぼぼーん、もー、ももーん……
「ほら、あれ。どういう音階かな。ドレミファ……えーと……」
「すいません、ぼく、音楽のことは全然わからないんです。――続きを読みますね。えーと……洞のまえに川あり。川に、異形《いぎょう》の怪あり。眼鏡かけた老翁がごとき風貌のゆえ、眼鏡老と名づくるべし」
「眼鏡をかけたおじいさんね」
「洞のなか、まことよき香りして、香りに誘われしものども、洞に巣くう化鳥に喰らわれしという。この鳥、洞の主にして、翼の端から端までおよそ六間。鷲《わし》のごとくにして鷲にあらず。梟《ふくろう》のごとくにして梟にあらず。鳩のごとくにして鳩にあらず。唐土にいう鳳、神奴抜刀の故事にみゆる勒鳥というがこれなるか。その鳴き声、『いつまでも、いつまでも』と聞こえるというものあるなれば、あるいは、広有の射落としけりと『太平記』にある怪鳥以津真天か。いずれにしても、ただ不可思議というよりほかなし……」
比夏留ははっとした。
「その、以津真天というの、藪爺も言ってた。〈死霊洞〉にはそいつが棲んでるっていう言い伝えがあるんだって」
「興味深いですね。洞窟にまつわる妖怪伝説か……」
「以津真天って、どういう妖怪なの?」
「さあ……『太平記』を読んでみないとね」
「へー、保志野くんでも知らないことあるんだ」
保志野は口をとがらせ、
「最近、民俗学って妖怪のことを調べる学問だと思われてるふしがあるけど、ちがいますよ。民俗学というのは、民間伝承とか習俗、宗教……」
比夏留は相手にせず、
「続きを読んでよ」
「この怪鳥を滅ぼすことあたわず。ただ、当家にのみ伝わる秘法あり。それすなわち……」
そこで保志野はだまりこんだ。
「どしたの?」
「ここで終わってるんです。次のページは、ネットには掲載されてなくて……」
「ふーん……」
コロッケパン五つを食べ終わった比夏留は、ぺろぺろと親指をなめ、
「三ちゃんは、絶対に森に入ったんだと思ったんだけど、藪爺は見てないっていうの」
「――フェンスは何キロもあるんですよ。あの人に見えている部分は、フェンスのごく一部です。ほかのところから、いくらでも入れるはずです」
「〈死霊洞〉への最短距離は、ここから真っ直ぐ西、なんだってば。ほかからじゃ、すっごく遠回りになるの。三ちゃんがそのことを知ってたら、このあたりから入ろうとするはず。あ、そのコロッケパン、食べないんだったら食べたげる」
「え、ぼくはべつに……はい……どうぞ」
「ありがと(ぱくぱく)」
「でも、最短距離がどうとかいうより、フェンスの破れ目とかを見つけようとするんじゃないですか?」
「そんなもの、ないはず。校長は、毎日フェンスを見回ってて、ちょっとでも破れた箇所があったら、大あわてで修理してるもん」
「だったら……子供がこれだけのフェンスをこえるのはちょっとむりじゃないですか? ロープか何かないと……」
「そうよねー」
ふたりはフェンスの先端を見あげた。いつのまにか雲が切れて、月が出ている。保志野とふたり、深夜の学校で、並んで腰かけ、月を見ている。考えてみれば、なかなかロマンチックではないか。
「あの……保志野くん……」
比夏留は保志野をじっと見つめた。
「何です?」
「あの……あの……」
「はい?」
「帰りに、〈大爆発〉寄ってかない? あそこの時限爆弾ラーメン、けっこういけるんだけど……」
3
もう遅いからと保志野に断られて、やむなく帰宅した比夏留は、そのまま爆睡した。
「朝だよ、比夏留ちゃん、起きろよー」
「うーん、もう少し……」
「今、宍倉さんから連絡があってな……」
がば、と上体を起こす。
「どうだった? 三ちゃん、見つかった?」
弾次郎は山賊の親玉みたいな髭面《ひげづら》を左右に振り、
「夜通し待っても戻ってこなかったそうだ。早朝から、警察が、フェンス際を調べたんだが、三太郎くんが森に入ったと考えられる証拠は発見できなかった。一応、校長には申し入れをしたらしいが、『小学生が入り込めるはずがない』と、当然、拒否された。あれだけ厳重に侵入者を許さない造りになっているわけだから、校長側の言い分ももっともだし、警察側もそれを認めて、よそを探す方針だそうだ」
比夏留はベッドのうえで腕組みをして、昨夜のことを思い返していた。
「たしかに、小学生にあのフェンスは越せないという意見も一理あるけど……三ちゃんのクワガタにかける情熱は半端じゃないでしょ。それに、なんとなく……気になるのよね……」
「何が?」
比夏留は、森から聞こえてくる歌声のような叫び声のようなものについて父親に言おうとしたが、うまく説明できそうになかったので、断念した。あの音と三太郎の失踪に関連があるとは限らない。あくまで、比夏留の「勘」にすぎないのだ。
「朝ごはん、できてるぞ。力いっぱい食べなさい」
「はーい」
目をこすり、欠伸をしながら、比夏留はベッドからおりた。
「ところで、今日、試験じゃなかったのか」
「え……」
比夏留の全身が硬直した。
(何も……勉強……できてない……)
どうしよう。どうしよう。どうしよう……あー、パッキャマラド、パッキャマラド、パオパオパ……。
ショックのあまり、わけのわからない言葉が頭のなかを駆け巡る。家を出るまでにあと三十分は余裕がある。ざっとでも教科書見ておくか……。
「今朝は、ママ特製の、特大ふわふわオムレツとドライカレー、それにどんぶりポタージュと海の幸サラダだとさ」
「わーい、やったー」
◇
結局、朝食を飽食してしまい、教室に飛び込んだときはすでに問題用紙が配られかけていた。それからの二時間は、比夏留にとって難行苦行だった。なにしろ、問題を読んでも、何が書いてあるのかまったく理解できないのだ。一時間目の物理は、ただひたすら呆然として終わった。二時間目は現代国語。日本人なんだから、現代日本語で書いてある問題を理解できないわけがない。一、二問は、なんとかなる問題もあるのではないか。そう思って挑《いど》んでみたが、もののみごとに玉砕した。再び唖然呆然の一時間。ぐったりとして、ほぼ白紙に近い答案を見つめていると、終了のチャイムが鳴った。
よろよろ立ちあがり、疲労と後悔とほんの少しの解放感とともに廊下に出る。
「あ、諸星さん」
後ろから声をかけられた。振り向くまでもなく、保志野である。
「どうでした?」
「まったくだめ。討ち死に。どっちも一問もできず」
「そうじゃなくて……三太郎くんのことですよ。見つかりましたか?」
比夏留はかぶりを振った。
「警察は、森に入るのをあきらめて、ほかをあたるらしいんだけど、私、やっぱり三ちゃんは〈常世の森〉にいるような気がするんだ……」
「ぼくもそう思います」
比夏留の顔がぱっと明るくなった。
「保志野くんにそう言ってもらえると、自信でてくるっ。じゃあ、今から一緒に三ちゃん、探しにいこう!」
「今から、はだめなんです。ちょっと調べものがあって……」
「あっ、薄情もの。子供がひとりいなくなったんだよ。調べものなんて、今度でいいじゃん」
「もしかしたら、三太郎くんの失踪にかかわることかもしれないんです。そうですね、じゃあ……」
保志野は腕時計を見ると、
「三時に、ソクラテスのまえで待ち合わせしましょう。どうです?」
ソクラテスというのは、田中喜八学園の七不思議のひとつである。校庭のあちこちに、なぜかギリシャ哲学者やローマの英雄の上半身の石像が置いてある。どれもものすごく古いものらしく、顔の表情などは摩耗《まもう》してほとんど失われているのだが、台座に「ソクラテス」とか「プラトン」と「シーザー」とか「クレオパトラ」とかいった名前が、下手くそなペンキ文字で殴り書きされている。保志野はそのうちのソクラテスの像のまえで待ち合わせしようと言っているのだ。
「了解。じゃあ、あとでね。――そうそう、保志野くんはテストどうだったの?」
昨晩は明け方近くまで一緒にうろついていたのだ。全然できなかった……という言葉を期待していると、
「どっちもばっちりでした。それじゃ三時に」
去っていく保志野の背中を、比夏留はにらみつけた。
◇
学食で、まずいうどんとまずいカレーをしこたま腹に詰め込んだあと、比夏留は手持ちぶさたになった。三時までまだ二時間以上ある。明日の試験(音楽と世界史)の勉強をするべきなのだろうが、
(どーも、今日のふたつで出鼻をくじかれた感じ。なんかのらないんだよねー)
のるとかのらないとか、そういうものではないはずだが……。
(試験のことは、当面、忘れよう。晩ごはんを食べてから、真剣に考えればいいって)
比夏留は、きっぱり気持ちを切り替えると、民研の部室に向かった。期末試験中なのだから、誰もいないだろうと思ったのがまちがいで、部長で三年生の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》、同じく三年生の白壁雪也《しらかべゆきや》、それに驚いたことに、いかがわしい宗教活動が忙しくてめったに現れない二年生の浦飯聖一《うらめしせいいち》までが顔をそろえていた。欠席者は、犬塚《いぬづか》だけのようだ。
「よおっ、諸星くん。試験のできは……ときくのも悪いっすね、その顔つきじゃ。ま、人生いろいろあらあなってことで」
真夏なのに黒い長袖のセーターを着、浦飯が下を向いたままぼそぼそと言った。
「浦せんこそ、どうしたんですか、今日は」
「俺だって、試験には出るさ。そのついでっす」
「どうだったの?」
伊豆宮がきくと、浦飯は陰気くさい顔を一層暗くして、
「全滅。赤点まちがいなし。俺の席、犬塚の斜め後ろだったんだけど、あいつ、身体で答案隠して、見せてくんねーのよ。日頃、あれだけ俺に世話んなっておきながら、薄情ったらねーすよ」
「あんたがあの子に世話になってんでしょ。だいたいカンニングばれたら退学よ」
「あーあ、『悪魔ベルフェゴールの召還の方法』とか『リヴァイアサンの秘印の描きかた』とかならばっちりなんだけどなー」
白壁がどんよりした声で、
「おいら、明日、英語なんだよ。日本男児が、どうして鬼畜米英の言語を習わなきゃなんねえんだ。ほんと、狂ってるぜ、今の世の中は」
伊豆宮も眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、
「私も、今回の期末は、今日に賭けてたんだけどね……見事に軍艦沈没破裂、破裂沈没軍艦よ」
濁りまくったその場の空気に、比夏留はなんだか元気が出てきた。
「じゃあ、先輩たちも私の仲間じゃないですか。なーんだ、気落ちして損しちゃった」
「比夏留ちゃんもだめだったの?」
比夏留は力いっぱいうなずき、
「試験勉強なんかするなんて、まちがってますよねっ。そーだそーだ。私なんか、教科書すら持ってなかったんですからねっ」
同意を求めて、皆の顔を見たが、
「おめえ……それはめちゃくちゃだろ。やるだけやってだめだったら、しかたねえけどよ」
白壁に真顔で諭《さと》されて、比夏留はふたたび奈落に落ちた。
「諸星さん、明日は何なの?」
「それが……音楽と世界史なんですっ」
比夏留は、化膿《かのう》した箇所を突っつかれたみたいに身体を後ろに引いた。
「そーなのよね、この高校、私立だから、二年まで音楽の試験があるのよねー。あなた、音楽、苦手なの? たしか民研に入ったのも、藪爺のフルートを聴いて、吹奏楽部と勘違いしたんだったわよね。だったら……」
「明日は、歌の試験なんです。私……歌は……もののみごとに下手で……」
「そういや、鼻歌はよく聴くけど、諸星がちゃんと歌うの聴いたことねえな。まえにみんなでカラオケ行ったときも歌わなかったぜ」
「課題曲は何?」
「教科書に載ってる歌ならなんでもいいんですけど……どれも自信なくて……」
〈埴生の宿〉、〈故郷の人々〉、〈エーデルワイス〉、〈今日の日はさようなら〉、〈なごり雪〉、〈花〉……などなど、どれも比夏留の手におえそうにない曲ばかりだ。
「歌のテストなんざ、音程を正確に、でけえ声ではっきり歌ってりゃあ通るんじゃねえのか? 諸星、おめえ、ちょいとドレミファソラシド歌ってみねえ」
「ドレミファソラシドですか? えーと……ドー、レー、ミー、ファー、ソー、ラー、シー、ドー……」
皆が耳をふさいだ。白壁が、ほかのふたりの気持ちを代表して、言った。
「ひどすぎるぜ。おめえのは、ドレミファソラシドじゃなくって、ドドドドドドドドなんだよ」
「つまり、音程が悪いんじゃなくて、音程がないってことっすよ」
と浦飯がいらぬ解説をつけた。
「はーっ」
深い深い深いため息。
「まあ、諸星だけじゃねえさ。おいらたちもよ、明日の試験が嫌で、家に帰ったら勉強しなくちゃなんねえだろ。だから、ちっとのあいだだけでも、試験から目をそらそうとしてここに逃避にきてるんだ」
「私も、そう」
「俺もそうなんす。部室にいるあいだは試験の話題はなしってことにしませんか」
皆、首を縦に振ったが、かわりの話題の持ち合わせがあるものはいなかった。しかたなく、比夏留は、昨晩のできごとを話した。
「へー、そんなことがあったたあ知らなかったぜ。おいらも、試験さえなけりゃあ、その三太郎って子を探すのに協力するんだけどよ……。その宍倉さんて、たしか蘇我氏の末裔だとか自称してる人だよな」
「白せん、よく知ってますね」
「歴史は俺の専門だからな。俺が聞いた話じゃ、蘇我氏の末裔っていっても、稲目《いなめ》、馬子《うまこ》、蝦夷《えみし》、入鹿《いるか》……のあの蘇我氏じゃなくて、まるっきり別の系統らしいんだけどよ、古《ふり》いことはめちゃめちゃ古くってよ、もとは田中喜八家と並ぶこの地方の有力豪族だったていうぜ。屋敷にゃあ、いろんな古文書とかがあったみてえだけど、今はどうなってんだか……」
「〈以津真天〉という妖怪については、私が知ってるわ」
と妖怪、伝説に詳しい伊豆宮が言った。
「『太平記』の巻の第十二に、『広有化鳥を射る事』という一節があるんだけど……室町時代の建武元年、紫宸殿というところに夜な夜な、鳥の妖怪が現れて、『いつまでも、いつまでも』と鳴くという変事があった。不吉なので、誰かこの妖怪を射落とせる勇者はいないかと探したら、隠岐次郎左衛門広有《おきじろうざえもんひろあり》という侍《さむらい》が適任だということになったのよ。広有が、鳥が鳴くのを待って矢を放ったら、大きな岩みたいなものが空からふたつに折れて、墜落した。これが、頭は人間、身体は蛇、くちばしの先が曲がって、歯がノコギリみたいに生えた怪物で、足には剣みたいに鋭い蹴爪《けづめ》があって、羽根を伸ばすと五メートルもあったそうよ。――太平記には、それだけしか書かれていないけど、後世、この鳥の怪物のことを、その鳴き声から、『以津真天』と名づけたの。鳥山石燕《とりやませきえん》の『百鬼夜行』にもでてくるし、ある本には、戦場や山野で野垂《のた》れ死《じ》にした死体を食いあさって、『いつまで死人を放置しておくのか』という意味で『いつまでも……』と鳴く、とあるわ」
「いつまでも……か。ねえねえ、伊豆せん。最近、〈常世の森〉のほうから、『いつまでも……』っていう声が聞こえません?」
「そんな馬鹿なことあるわけ……」
そのとき、風にのって、
いーぐ、あっ、げっごーっ
という声が部室にこだました。あまりのタイミングのよさに、皆は顔を見合わせたが、言葉を発するものはひとりもいなかった。
◇
「お待ちぃっ」
比夏留はソクラテス像のまえでぼんやり立っていた保志野の背中を思い切り叩いた。
「げほっ」
保志野は前方へ二メートルほどすっ飛ぶと、ケヤキの木の幹に鼻をぶつけた。
「あ……ごめん」
ときどき、自分が武道家であることを忘れてしまう。鼻柱を痛そうにさすっている保志野が暗い表情をしていたので、比夏留はあわてたが、
「実は、言いにくいんですけど、悪い知らせがありまして……」
「え……?」
「『奇談漫録』の最後のページを探しにいってたんですけど……」
「なかったの?」
「ええ、残念ながら……」
なーんだ、たいして悪い知らせでもないじゃん、という言葉は腹に持ってて口には出さず。
「図書館にあったのは、ネットに掲載されてたのと同じコピーだけで、現物は郷土史研究家の所蔵品らしいんだけど、その人の名前も住所もわかんないんです。また、心当たりを探してみます」
「そのページに何が書いてあるの? 三ちゃんの行方がわかるの?」
「それは……何ともいえませんが、手がかりになるんじゃないかと思って……。あと、角のいっぱい生えてるクワガタについても調べたんですが、こっちは専門じゃないんで、全然わかりませんでした」
「古本だのクワガタだの探してるひまがあったら、足を使って三ちゃんを探しましょうよ。捜査の基本は足よ」
「はあ……」
「行きましょう」
「どこへ?」
「どこへって……とにかく行動よ。行動あるのみ」
「目的がなければ行動できませんよ」
「――私、やっぱ、三ちゃんが〈常世の森〉にいるんじゃないかって思えてしょうがないの。ねえ、お願い。一緒に森に入ろ」
「だめです」
〇・一秒で答が返ってきた。
「危険すぎます。何度も言ったでしょう。あの森には謎が多すぎる。クワガタにかぎらず、生態系も異常だし、変な怪物がうようよしてます。深すぎるし、地図はないし、迷ったら二度と出られません。それに、ライフルを持ったやつが侵入者を狙撃するし……。あんなヤバいところに諸星さんを行かせるわけにはいきませんよ」
「だからふたりで……」
「だめです」
また〇・一秒。
「ぼくは『奇談漫録』の残りを探さなければなりません。だから、森へは行けない。自明の理です」
「…………」
「いいですか、約束してください。絶対にひとりで森に入ってはいけませんよ」
保志野の息が鼻にかかるほど迫られて、思わず比夏留は、
「や、約束する……」
「じゃ、ぼくはこれで」
右手をあげると、保志野はすたすたと行ってしまった。
「ちょちよちょちょちょちょっと待ってよ。何のために待ち合わせたのよ。もーまったく!」
比夏留は大声でわめいたあと、ソクラテス像の頭をぺしぺし叩いた。
4
もう少し……もう少しでフェンスが見えてくるはずだ……。
なんとか逃げ切れた……。三太郎の胸は安堵に満ちた。だが、それもつかのま。茶褐色の塊が目の前に、どす、と落下した。
いーっ、い、い、いっ、いーづ、までっ、おーっ
大きな頭部に、鱗のようなものが生えた胴体を持つその鳥は、高らかにそう叫ぶと、悲鳴をあげる三太郎の身体に鋭い蹴爪を食い込ませた。
「ひぎゃああああああああっ」
◇
三太郎の悲鳴に、比夏留はがばと上体を起こした。
(ゆ、夢か……)
右手に鉛筆を持ち、左手に大きなアンパンを持ったまま、机に伏して熟睡していたのだ。鏡を見ると、額から右頬にかけて、筆箱のかたがくっきりとついている。広げた教科書は、盛大に垂らしていたよだれのせいでびしゃびしゃだ。
明日の試験は、音楽と世界史だが、音楽については曲も決めかねている状態では練習のしようもなく、しかたなく世界史の教科書を読もうと一ページ目をひらき、
「人類の発祥地はアフリカで、アウストラロ……」
というところまで読んだことは覚えている。そのあと、ぷつりと記憶が途切れている。時計を見ると、三時間ほど寝ていたことになる。比夏留は、アンパンを口に押し込むと、水をかぶった犬のように顔をぶるぶるぶるぶるっと震わせ、教科書に目を落とした。
学校から帰ってすぐに、父親に、三太郎が見つかったかどうかたずねたが、手がかりは皆無《かいむ》とのことだった。警察は、現在、市内の溜め池や川、池、山林などを中心に捜査しているらしいが、三太郎の居場所につながる何の発見もできていなかった。
弾次郎もかなり参っていた。三十分おきに、宍倉鉄蔵がやってくるのだ。何か用事があるというよりは、誰かとしゃべっていないととうてい平静を保てないらしい。
「家内は半狂乱になってしまいましたによって、実家に帰しました。それがしも誰かにすがりたい思いでござる。大学院でレーザーとやらの研究をしておる長男を呼び戻しましたるなれど、いまだ連絡とれず……それがし、この歳になって生まれてはじめて神仏に祈りましてござる」
鉄蔵の気持ちもよくわかるが、三十分おきではさすがに困る。弾次郎は、弟子に稽古《けいこ》をつけることもままならず、かといって鉄蔵を追い返しもできず、ほとほと困惑している様子だった。
(何とかしなくちゃ……。でも、明日、試験だし……)
学生にとって、たしかに試験は大事だ。だが、たった今見た夢が頭から離れない。三太郎が、助けを求めるために比夏留に見せた正夢のような気がするのだ。次第に、いてもたってもいられなくなって、比夏留は立ちあがり、涎を手の甲でぬぐうと、
(保志野くんはだめだって言ってたけど、森を探してみるしかない。それで、見つからなかったらあきらめればいい。このまま、何もしないでじっとしてるよりは……)
ひとりで、そうだそうだとうなずき、教科書を閉じると、比夏留は部屋を出た。
◇
二日続けて、試験中の保志野を深夜に誘いだすわけにもいかず、比夏留はたったひとりで学校に向かった。とりあえず、部室のまえまで行く。今日は、明かりもついていない。藪田は泊まっていないようだ。
フェンスを見あげる。
(無理だよね、これ、のぼるの……)
体重二百二十キロの比夏留には、ちとつらい。やむなく、〈独楽〉の技を使うことにする。
(誰も……見てないよね……)
呼吸を整え、両の拳を腰のあたりに引き、フラミンゴのように片足をあげ、もう片足を軸に回転する。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……づあああああっ!」
高速回転する比夏留の身体が、じりじりとフェンスに近づいていく。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ちょわあああっ!」
比夏留の鮮烈な蹴りが、フェンスを直撃した。
しかし、次の瞬間。
スリップした比夏留の身体は、ネズミ花火のように地べたを転がりまわり、あちこちに深い溝をつくった。肩や背中からしゅうしゅうと白い煙をあげつつ、比夏留は起きあがった。折角の「俺は今、オムレツに感動している」とプリントされたTシャツもずたぼろになっている。〈独楽〉の技も、特殊ステンレスを幾重にも重ねあわせたフェンスには通用しなかったのだ。ぶじゅじゅ……じゅじゅっ……という嫌な音をたてて軋《きし》む身体をなだめながら、比夏留は悔し涙を流した。
「さがっていなさい、比夏留ちゃん」
振り向くと、弾次郎が立っているではないか。
「パパ……」
どうしてここに……という言葉を言うまえに、
「このフェンスは、おまえにはむりだ。私に任せなさい」
弾次郎はそう言うと、たぷたぷの身体をぎゅううんと一回転させた。それだけで、周囲の枯葉がぶわりと舞いあがる。二回転、三回転、四回転……腹部にたっぷりついた脂肪分が遠心力で外側に集まり、横からはきれいなピラミッド状に見える。脂肪は風をきり、肉塊は土砂を巻きあげ、巨体は凄まじい唸りをあげて旋回する。汗が飛び散り、シャワーのように撒き散らされる。
(これだよね……この重量感が私にはないんだよね……)
比夏留は羨望と崇拝のいりまじった気持ちで、目のまえでまわりにまわる父親の勇姿を凝視していた。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……どばああああああっ!」
空気が焦げ、発火し、黒煙があがる。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ぱおおおおっ……ん!」
燃えさかるピラミッドがフェンスに激突した。ステンレスが真っ赤に膨《ふく》れあがり、フェンス全体が地震のようにわっさわっさと揺れた。弾次郎の身体は、回転したまま、森のなかに突入して、岩を粉砕し、木々をへし折り、ようやくとまった。
フェンスが約二メートルにわたって溶解し、飴のように曲がっていた。比夏留はあまりの感動で胸がいっぱいになった。
(凄い……凄い……凄すぎる……)
比夏留は、父親に駆け寄った。弾次郎は、何ごともなかったかのように立ちあがり、
「家にいると、宍倉さんがうるさくてな。ちょっと散歩にきたんだ」
そう言うと、先に立って歩きだした。
◇
西へ西へ西へまっすぐ歩く。〈常世の森〉には照明はいっさいなく、ふたりの手にしている懐中電灯だけが頼りである。
「最近、人が入ったあとがあるな」
地面を照らしていた弾次郎が言った。
「三ちゃんかな」
「かもな」
三十分ほど歩いたとき、弾次郎が突然たちどまったので、比夏留は父親の背中に衝突した。
「たったたた。急にとまらないでよ」
「比夏留ちゃん、何か匂わないか」
弾次郎はそう言いながら、鼻をひくひくさせた。
「そういえば……」
比夏留も父親にならって鼻をひくつかせる。
「これ……紫蘇の匂い!」
「そのようだな」
比夏留は、「洞のなか、まことよき香りして……」という『奇談漫録』の文章を思いだした。
もうしばらく歩くと、小川があった。
(これも、『奇談漫録』に載ってたとおり……。ということは、このすぐ近くに〈死霊洞〉が……)
小川の両側には、無数の紫蘇が繁茂していた。
「たくさん採っていこうっと。紫蘇おにぎり、おいしいからね」
ここに来た目的も忘れてしゃがみこみ、紫蘇を摘みはじめた比夏留は、背後に近づく気配に気づかなかった。
「伏せろ、比夏留ちゃん!」
父親の叫びに、はっとして地面に上体を倒す。頭のすぐうえを、何だかわからない、鋭いものが通過していった。あわてて身体を転がして、体勢を整える。
そこにいたのは、大きな眼鏡を思わせる複眼と、まさかりのような牙、六本の長い脚を持った、化け物じみた巨大な昆虫である。
ぢぴゅぅぅぅわん
耳障《みみざわ》りな声を発し、ナイフのような爪を蠢かせながら、虫は比夏留に迫ってくる。
「くたばれ!」
弾次郎が三回転して、虫の背中をキックした。硬そうにみえた虫の皮膚に、〈独楽〉宗主の蹴りが命中し、つま先が背中から腹部にまで突き抜けた。虫の胴体は破裂し、どろどろした内臓が小川にぶちまけられた。虫は、前のめりに小川に倒れ伏すと、動かなくなった。
「何なの、こいつ……」
「わからんが……ヤゴに似てるな。めちゃめちゃでかいヤゴだ……」
化け物虫の死骸を見おろすふたりの横を、一陣の風が吹き抜けていった。
そのとき。
ぶもーん……もーん……もーん……
のぶーん……おーん……おぼーん……
すぐまえから、低く、ざらざらした音色の旋律が聞こえてきた。
そこに、洞窟があった。
「これが……〈死霊洞〉か……」
弾次郎の表情が引き締まった。
洞窟といっても、入り口が幾つもあり、天井や壁にも孔があいている。
「なーるほど、ここを風が通り過ぎたとき、いろんな音列が出るんだな。天然の管楽器というわけだ」
「ふーん……死霊の叫び声じゃなかったんだね……」
「入るぞ、比夏留ちゃん。気をつけてな」
「はい」
ふたりは、洞に足を踏みいれた。足もとの土はスクランブルエッグのように柔らかく、それを踏みしめながら、ゆっくりと前進する。
比夏留は何かを踏んづけた。それは、足下でもぞもぞと動いた。
「ひゃうっ」
恐るおそる、懐中電灯を向けると、
「クワガタだ……」
それは、比夏留が三太郎に渡した、あの多角クワガタだった。
「こっちにもいたぞ、比夏留ちゃん」
二匹が、弾次郎の太い指のあいだでじたばたもがいている。
よく見ると、洞窟の地面は、何十匹もの多角クワガタでいっぱいだった。カサ・コソ・カサ・コソ・カサ・コソ……軋むような、奇妙な声で鳴く。
「さっきのヤゴといい、この洞窟のあたりは変な虫が多いよね。パパ、私、思うんだけど……」
そこで比夏留は言葉を切り、
「ひやあああああああああああっ!」
一メートルほど後ろに飛びしさり、洞窟の壁に身体を押しつけた。
「どうした、比夏留ちゃん」
「パパ、あそ、あそ、あそこ……」
比夏留は洞窟の隅《すみ》を指差す。そこは、土が少し盛りあがっており、そのなかから……。
「人間の……手だな」
虚空を掴むような形をした手が、土中から少しだけ突きでていた。その指のまわりや手のひらで、クワガタが何匹も遊びたわむれている。
「このままにはしておけないな。掘りだしてみるか」
比夏留が恐れていた言葉を弾次郎が口にした。怖いけど、しかたがない。比夏留もうなずき、その手に向かって一歩進んだとき。
いいいいいいーいーいーっ、いっ、いっ、いーつ、あでーおーっ
まるで耳もとで鳴いているような、馬鹿でかい声が洞の奥から聞こえてきた。父娘は顔を見合わせ、うなずきあった。言葉に出さずとも、意思は通じている。「手」はあとまわしにして、あの叫び声の主を調べるべきだ。そこに三太郎がいるかもしれないから。
いいーっ、いいいーっ、いぐ、あげっごおーっ
いぐあ、げごー、いーっ、ぐあ、でもーっ
弾次郎は、すぐまえをのっしのっしと進む。父親の存在がこれほど頼もしく思えたことはない……と思いながら歩いていると、弾次郎が突然たちどまったので、比夏留はまたしても彼の背中に衝突した。
「たったたた。急にとまらないでよ」
だが、弾次郎は応えない。比夏留がそっと覗きこむと……。
洞窟はそこで行きどまりになっていた。突き当たりの壁のまえに、白い塊が無数に転がっていた。懐中電灯を向けてよく見ると、それは鳥の卵のようであった。懐中電灯を横にずらしていく。円形のあかりのなかに浮かびあがったものは、
「三ちゃん!」
「比夏留姉ちゃん!」
やつれ果てた三太郎がいた。
「今、行くからねっ」
「来ちゃだめだ!」
いぐあー、ごおおおっ!
洞全体を揺るがすような叫び声。鳥だ。洞の天井につかえそうなほどの巨大な鳥が、翼と翼で三太郎を抱きかかえるようにして比夏留たちをにらみつけていた。全身を羽毛ならぬ鱗《うろこ》に覆われているところは、たしかに蛇のようで、比夏留は『奇談漫録』の描写の正しさを認識した。
「比夏留ちゃん、さがってなさい」
弾次郎が言ったが、
「パパ、私がやる。だって、私には、三ちゃんをこんな目にあわせた責任があるもん」
比夏留は切迫した声でそう言うと、懐中電灯を地面に置き、ゆるゆると回転をはじめた。
「気をつけろよっ」
「はいっ」
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる……。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……だああっ!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに、火を噴くような蹴りが、巨鳥を襲った。それは、弾次郎さえも、「見事!」とつぶやいたほどの、壮絶な一撃であった。しかし、鳥の腹部は、比夏留のキックをあっさりと跳ね返した。比夏留は洞の壁に激しく衝突し、天井から土塊がばらばらと落下した。そのうちのひとつが、比夏留の懐中電灯にぶつかって、明かりが消えてしまった。
いーっ、いっ、いぐ、あ、げおーっ
鳥は上を向いて高らかに叫んだ。
「よし、こうなったら、あれしかない。比夏留ちゃん、ダブル・キック、いけるかな」
「は、はい……。でも、暗くて、目標が定めにくいかも……」
弾次郎は、自分の懐中電灯を床に置くと、ふところから百円ライターを取りだし、炎を最大に噴出させた。それを、鳥の足もとに向かって投げる。
「あの炎が目印だ。行くぞ、一号!」
「はい、二号!」
ふたりは、同時に大きくジャンプすると、怪鳥の腹部目がけて、キックを放った。だが、結果は人間側の大敗に終わった。鳥の身体は鋼鉄よりも硬く、ふたりははじき飛ばされた。比夏留がまず地面に叩きつけられ、
「ぎゅう」
と蛙が潰れたような声をだした。そのうえから、弾次郎の巨体が降ってきた。
「ぎゅきゅう」
比夏留はもう一度声をだした。
いーっ、いっぐ、まっげええええっ
巨鳥はノコギリの歯のような鋭い牙が並んだくちばしを上下に大きく開くと、翼を広げ、ばさばさと打ち振りながら、比夏留たち目がけて猛スピードで近づいてきた。
「い、いかん、比夏留ちゃん、逃げるぞ」
「でも、三ちゃんが……」
「このままでは我々もやられる。一旦退却して、対策を練るんだ」
「そ、そうね……」
ふたりは、文字通り、こけつまろびつ洞の入り口を目指して走ったが、暗くて足もとがよく見えない。何度もつまずき、倒れ、そのたびに壁や地面で頭を打った。何度目かに転んだとき、弾次郎は脳震盪《のうしんとう》を起こしたのか、手を小刻みに震わせて、動かなくなった。
いーっ、いっ、いっ、いづーま、あぜーっ
鳥は、狭い洞窟をたくみにすり抜け、比夏留たちに追いつくと、倒れた弾次郎に、太い蹴爪を突きだした。
[#挿絵(img/02_117.jpg)入る]
「パパーっ!」
比夏留が叫んで、父親をかばおうとしたとき。
一瞬はやく、黒い影が弾次郎と鳥のあいだに飛びだし、松明を化鳥に向かって大きく打ち振った。鱗が数枚焦げて、鳥は、ぎゃああんと悲鳴をあげた。
「今です。はやく……」
保志野だった。保志野は、倒れた弾次郎を抱え起こそうとしたが、もちろんそれはむり。比夏留が、
「えいっ」
と気合いをいれて、父親を立たせた。
「パパ、大丈夫……?」
「あ、ああ……ちょっとふらついただけだ。――きみは?」
「お嬢さんの級友で、保志野ともうします。はじめまして」
「え? はあ……その……こちらこそはじめまして」
「そんなことやってる場合じゃないでしょ。逃げなきゃ」
保志野が松明を鳥に投げつけると、下腹部に当たって、鳥ははばたきながら飛び退いた。
「今です!」
三人は逃げる。やっと洞窟の入り口に到達し、外へ。
ぜいぜいはあはあぜいぜいはあはあ。鍛えているとはいえ、比夏留と弾次郎は重すぎるし、保志野はふだん運動をしていないつけがまわってきて、三人はそれ以上一歩も進めず、小川のほとりにへたりこみ、荒い息をついた。
「もーだめ。もおおおーだめ。限界っ」
「私も……もーだめだ。鳥が来ようが、ヤゴが来ようが、ここで休むっ」
「ぼくもだめです……だ、だけど……さっきのおふたりのキック……陰ながら拝見してたんですけど……凄い技ですね。名前がなかったら……ぼくがつけましょうか。ライターの炎を……目印にしたから……〈ライター・ダブル・キック〉というのは……どうでしょう……」
「さしでがましいぞ、きみは。そんなことしてもらう必要はない。あれには、ちゃんと〈ふたり一緒蹴り〉という名前がついている」
「パパ、命を助けてもらったのに、保志野くんに失礼よ」
「そうですよ、パパ」
「きみにパパと呼ばれるおぼえはない」
弾次郎はぷいと横を向いた。
いーっ、いーっ、いーっず、まげっ、おーっ
洞窟深くから、叫び声が聞こえた。その声が、「いつまでも、そんなところにいるな!」と聞こえ、三人は手をつなぐと、フェンスの方角目指して駆けだした。
◇
ようやくフェンスをくぐったときには、心臓が爆発するかと思えるほどバクついていた。部室の陰で休憩。二十分ほど、誰も口をきかず、いや、きけず、ひたすら動悸の鎮《しず》まるのを待つ。
「あの……」
保志野がおずおずと口を開こうとしたとき、それにかぶさるように、比夏留が言った。
「おなか……すいた……」
「そうだな……」
と弾次郎。
「帰ったら、大盛り焼きそばと大盛りカレーライスと大盛り……」
「あのですね、ちょっとぼくの話をきいてください!」
「何だ。早く言いたまえ」
「あの鳥を倒す方法が載っている『奇談漫録』という文献の所持者がわかったんです。名字だけで、住んでいる場所もわからないんですけど……」
「へー」
と比夏留。
「あと、あの角がいっぱい生えてるクワガタのこともわかりました。あれは、スチラコクワガタといって、本来は南米の森林深くに棲み、屍肉《しにく》を常食にしている非常に珍しい種類だそうです」
「屍肉……」
比夏留は、洞窟の地面から突き出ていた手のことを思いだして、ぞっとした。あそこに群れていたクワガタは、あの死骸を食べていたのだ。
そんな三人の様子を、明かりの消えた部室のなかからじっと見つめている目があった。
「〈死霊洞〉も、岩屋戸ではなかったようやな。それやったら、どうでもええわ……」
そんな呟きを聞いたものは誰もいなかった。
◇
三人が比夏留の家のまえまで戻ってきたとき、街灯のしたに誰かがたたずんでいた。
「おお、諸星殿。どちらに行っておられたのだ。何度もおたずねしたのだがお留守のようで……」
「宍倉先生、見つかりましたよ、三太郎くんが」
「な、なんと。し、して、三太郎はいずこに」
「詳しくお話をしますから、お宅へあがらせてください」
大きくうなずいて、真っ先に家に入ろうとする宍倉に、保志野が言った。
「あの……もしかして、宍倉鉄蔵さんですか。塾の先生で、郷土史研究家の……?」
「いかにも。貴公はどなたかな」
宍倉は怪訝《けげん》そうに言った。
5
「だーかーら、でっかい鳥なんだ。ちがうちがう、鶴でも鷲でもフラミンゴでもない。翼長が十何メートル……『以津真天』っていって、『いつまでも、いつまでも』って鳴くんだ。だーかーらー、気はたしかかって、気はたしかだよ。そいつが三太郎くんをつかまえて……ほんとだってば。そいつだけじゃないんだ。化け物じみたヤゴだの、屍肉を食べるクワガタだの……そうそう洞窟の地面に死体が埋まっていておいもしもし? もしもしっもしもしっもしもしっ……」
弾次郎は受話器を叩きつけると、宍倉に言った。
「だめですな、まるでとりあってくれません。どうもあいつら、校長のことをかなりおっかながっているようで、失踪した少年が巨大な鳥にとらわれているというなら、その鳥が実在するという証明をしろと抜かしやがる。どうして民間人がそこまでやらなきゃならんのだ。そのうえ、勝手にフェンスを壊して、他人の敷地内に入ったのは、器物破損と不法侵入罪になるとか抜かすんだ。税金泥棒め」
宍倉は、今にも嘔吐《おうと》しそうなほどの黄色い顔で、がたがた震えながら、
「諸星殿、それがし一生の願いでござる。こうなってはもはや頼れるのは諸星殿とお嬢さまよりほかなし。なにとぞ、三太郎を怪物の手から救いだしてくだされ。お願い申すお願い申すお願い申す」
「はあ……そうしたいのは山々なんですが、あの怪鳥には〈独楽〉の必殺技も通用せんのです。何か対策を講じなければ……」
「警察は動いてくれん。諸星殿でも無理となったら……ああ、三太郎……三太郎の運命やいかに。本日これまで、となってしまうのか……おお……おおおお……」
比夏留は、男泣きに泣く宍倉に声をかけることができなかった。比夏留自身も、目のまえで三太郎が鳥に捕まっているのをみすみす見捨てざるをえなかった悔しさ、それに、〈独楽〉の技が敗れた悔しさでいっぱいだったのだ。
「なんとかなりそうですよ」
古文書らしきものを手にした保志野が隣室から現れ、そう言った。
「おおっ、さようでござるか!」
宍倉は、一縷《いちる》ののぞみを彼に託した顔つきになったが、比夏留は不安だった。自信があるときの保志野は、いつももっと乱暴な言葉遣いになる。もっといえば、別人格が憑依《ひょうい》したようになるのだが、今の保志野はおとなしいままだからだ。
「宍倉さんのお家は、蘇我氏の末裔という由緒《ゆいしょ》ある家柄で、いろいろな古文献が残されています。宍倉さんご自身も郷土史研究家で、そういった文献を保存・研究なさっておいでです。そんななかに、宍倉さんのご先祖が書き残した『奇談漫録』の原本がありました。宍倉さんが、S県図書館の求めに応じて、一部分をネットに公開なさったもののうちの一冊ですが、そこにあの鳥を倒す方法が明記されていました。これが、そうです」
保志野は、その古びた、今にも崩壊しそうな和綴《わと》じの本を皆に示した。
「それがし、恥ずかしながら、我が祖先の書き残したものなれど、真剣に読んだことがない。なんと書いてあるのです」
「それがですね……」
保志野は、ちょっと困ったような表情になり、
「黄泉国より来た死霊が集うという〈死霊洞〉にまつわる伝説を収録した箇所に、角の生えた虫や、洞が奏でる奇怪な歌や、小川に棲む怪物……などなどにまじって、例の『以津真天』という鳥についても記載がありまして……最後の部分だけ読みますね」
保志野は次のような文章を読みあげた。
この怪鳥を滅ぼすことあたわず。
ただ、当家にのみ伝わる秘法あり。
それすなわち、『ししくらてつぞうのまえにてしこをふむ』べし。
夢疑うことなかれ。
一同は、きょとんとした顔になった。宍倉鉄蔵のまえにて四股を踏む……?
「えーと……ちょっと見せてくれ。それがしの前にて、四股を踏めば、怪鳥を滅ぼすことができる……というのか」
比夏留は、保志野が自信がなさそうな理由がわかった。それが、あの化け物鳥を倒す方法だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しすぎるではないか。
「むむ……しかし、溺《おぼ》れるものは藁《わら》にもすがるのたとえあり。諸星殿、さっそくお願いいたす」
「は、はあ……。でも、四股というのはやったことがなくて……」
比夏留はひらめいた。
「待ってください。四股を踏める人に心当たりがあります!」
深夜にもかかわらず、電話をする。
「もしもし……? ああ、よかった。やっぱり試験勉強で、起きてましたね。白せんにどーしても今すぐ来てほしいんです。一大事なんです。ほら、できれば三ちゃんの失踪事件に協力したいって言ってましたよね。今こそそのときです。試験? そんなことどうだっていいじゃないですか。子供の命がかかってるんですよ! ねっ、ねっ、ぜったい来てくださいねっ」
がちゃん。
「これでだいじょうぶです」
比夏留はにっこりした。
◇
三十分ほどして、白壁はやってきた。当然だが、自分が何のために呼ばれたのかわかっていない様子で、おどおどと部屋に入ってきた。
「あの……おいら、諸星くんと同じクラブの先輩で、白壁……」
「ああっ、そんなあいさつは抜きだ。早くそれがしのまえで、四股を踏んでくれい」
「はあ?」
「だから、それがしのまえで、四股を踏んでくれい」
「はあ?」
「だから、それがしのまえで……とにかくここで四股を踏めばいいのだ!」
白壁は、助けを求めるように比夏留を見たが、比夏留は強くうなずくだけだった。ますますわけがわからなくなった白壁は、カイゼル髭に羽織袴という人物の気迫に負け、浴衣を脱ぐと、彼のまえで四股を踏みはじめた。両脚をひろげ、右と左を交互に高々とあげ、おろすときに膝を手で包み、力いっぱい踏みしめる。どうっ、という地響き。さすが、相撲部屋の跡取りだけのことはあって、みごとな四股だった。皆、思わず、
「よいしょーっ!」
と掛け声をかけていた。
「よいしょーっ!」
「よいしょーっ!」
「よいしょーっ!」
白壁の顔はみるみる紅潮し、全身に汗の玉が浮かぶ。踏みおろす足にも力が入る。
「よいしょーっ!」
「よいしょーっ!」
およそ十五分ほど、深夜の四股は続いたが、やがて、白壁は顔をあげ、
「こんなもんでどうでえ……」
宍倉はぶすっとした顔で保志野を見、
「何も起こらぬではないか」
「そそそうですね……」
保志野はすまなそうにうなずく。比夏留は、この白けきった空気を何とかして、保志野を救いたかったが、なんの妙案も浮かばなかった。子供がひとりたいへんな目にあっているというのに、夜中に四股を踏んだり踏まれたりしている我々っていったい……。
ドレミーレド、ドレミレドレー
窓の外から、ラーメン屋のチャルメラの音が聞こえた。何だか、妙に甲高いチャルメラだったが、途端、弾次郎と比夏留の腹が、ぐぐーっと鳴った。
「少し、小腹がすいたな。皆さん、どうです、ラーメンでも?」
弾次郎が言ったが、ほかの三人は首を横に振った。
「じゃあ、こんなときになんですが、我々ふたりだけでも……。比夏留、ラーメン買ってきなさい」
「はーい」
父親に財布を渡され、比夏留は宍倉の家を出た。
「すいませーん、ラーメン屋さーん」
行きすぎようとする屋台をダッシュで追いかけ、ようやく呼びとめた。
「ラーメン、二十杯……熱くして持ってきてください。お願いします」
屋台のカウンターに両手を突いて息をととのえ、顔をあげた比夏留は驚いた。
「や、藪爺……じゃなくて、藪田先生!」
「諸星やないか。こんな時間に何しとるんや」
「それはこっちのセリフです。先生こそ、なんでラーメン屋さんなんか……」
「これがわしのバイトや。嘱託の顧問だけでは食うていけんからな。味がええゆうて、夏冬問わず、けっこう売れるで」
「はあ……」
「ところで、諸星。ええこと教えたろか。明日、音楽の試験やったな」
「はい……?」
「言葉に言霊があるように、音にも音霊《おとだま》がある。わかるか」
「…………」
「三太郎とかいう子供の失踪は、何もかも、この音霊のせいや。あの〈死霊洞〉ちゅう洞窟は、音霊が寄り集まる場所やったみたいやな」
「えっ?」
「ヒントだけ、やるさかい、あとは自分で考え。〈死霊洞〉を風が吹きすぎるときに発生するメロディー、覚えとるか?」
「ええと、たしか……ぶもーん……もーん……もーん……のぶーん……おーん……おぼーん……みたいな」
「そや、それや」
藪田は、フルートを取り出し、ラーメンの脂にまみれた手で掴むと、比夏留が口ずさんだメロディーを、フルートでなぞった。
「こんな感じやろ。これは、ハ長調の、シ・レ・ド……の繰り返しや」
「はい……」
「シ・レ・ド……つまり、死霊洞《シレド》や」
「ああっ」
「もうひとつヒント出しとこか。宍倉鉄蔵の家は、蘇我氏の末裔やったな」
「ええ」
「もうわかったやろ。ほな、わし、忙しいさかい、行くわ」
藪田は、フルートを唇に当て、
ドレミーレド、ドレミレドレー
ともの悲しいメロディーを吹きながら、屋台をゆるゆる引っ張っていった。
「先生――っ、どうして私にそんなことを教えてくださるんですかーっ」
老人の後ろ姿に、比夏留が叫ぶと、藪田は振り向きもせず、
「〈死霊洞〉が、岩屋戸やないとわかったからや。またしても、どうでもええ、屑みたいな洞窟やった」
よく見ると、屋台の後ろから、何かがぞろぞろとくっついていく。その正体がわかった瞬間、比夏留は悲鳴をあげ、二メートルほど跳びしさり、電柱の後ろに隠れた。それは、無数のドブネズミだった。
「ど、ど、どうしてネズミが屋台についていってるんですか」
震え声でたずねる。
「これが、わしのもうひとつのバイトや。今、わしが言うたこと、ほかのもんに言うてもええけど、わしの名前は出したらあかんで。わかったな」
「は、はい……」
ドレミーレド、ドレミレドレー
藪田の引く屋台と、ネズミたちが角を曲がって消え去るまで、比夏留はその場に立ちつくしていた。ラーメンの注文に応じてもらえなかったのに気づいたのは、そのあとだった。また、おなかがぐぐうっと鳴った。
◇
保志野が豹変《ひょうへん》した。
「そうか……そうだったのか!」
彼は、比夏留の肩を思いきり叩いた。
「これで何もかも平仄《ひょうそく》が合う。そうかそうかそうかそうか……そうだったのだあっ!」
顔つきも挙動も自信がみなぎっている。
「わかったぜ。〈死霊洞〉の秘密が……それに、あの怪鳥の正体も。音霊か……それにしても、比夏留、よく思いついたな。たいしたもんだぜ」
「私の娘だからな」
弾次郎は自慢げに言った。
「じゃあ、今から、学校に行く。みんな、ついてくるんだ」
保志野の語調は、ひとりの脱落者も許さないという厳しさがあった。
「何がわかったというのだ。それだけでも教えてくれぬか」
宍倉が言うと、
「黙ってついてくりゃいいんだ。自分の子供を助けたくないのか」
「い、いや、それは……」
一同は、保志野に従うことにした。
深夜の道をぞろぞろ歩く。弾次郎が小声で比夏留に言った。
「いつも……ああなのか?」
「そうなの。何かを思いつくと、ああなっちゃうの」
「まるでジキル・ハイドだな」
「痔切るおいど?」
「いや……なんでもない」
「そこ、うるさいぞ!」
「はーい」
ふたりは首をすくめた。
保志野が皆を連れていったのは、校庭に置かれたソクラテス像のまえだった。保志野は、白壁に、
「白壁さん、この像の土台部分の底を、思い切り踏んでみてもらえますか?」
「あ、ああ……いいけどよ」
白壁は、こうなったらもう自棄のやんぱちだと、像の台の底部を、四股を踏む要領で目一杯踏んだ。と、驚くべし、ぎしぎしぎしぎし……という音がして、ソクラテスの胸像が後ろにずれ、そのあとにぽっかりと三十センチ四方、深さ十五センチほどの穴があいたのだ。
「説明してくだされ、保志野殿」
「いいとも。『奇談漫録』は蘇我氏が書き残したもの。蘇我氏……『ソがシ』……つまり、あの文章は、『ソがシに置き換わる』のさ。『ししくらてつぞうのまえにてしこをふむ』は『そそくらてつぞうのまえにてそこをふむ』……すなわち、『ソクラテス像のまえにて底を踏む』となるだろ」
「暗号だったのね……。でも、それなら『ソソクラテス』になって変じゃない?」
「いや、それはだな……昔から言うだろ。『ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか……』って」
弾次郎や宍倉はなるほどと合点したが、比夏留には何のことかわからなかった。
「そんなことより、早く穴のなかを……」
宍倉にうながされて、保志野は穴を探り、一枚の紙を取りだした。ぼろぼろで、今にも風化しそうな和紙である。
「ここに、鳥を倒す方法が書かれているはずだ。何々……『これは、わが蘇我一族が子孫へと伝える遺産である。シーザーにて倒せ』……」
「今度はシーザー像ね!」
一同は、校庭を斜めに横切り、古代ローマの政治家シーザーの像のまえまで行った。
「また、底を踏みゃあいいのかな」
白壁が、シーザー像の土台部分の底を、さっきと同じように踏んでみたが、何も起こらない。像自体を揺すってみたり、取り外そうとしてみたりしたが、どうにもならない。
「おかしいな……」
皆の冷たい視線を浴びて、保志野はその場にあぐらをかき、両手の指先をこめかみに当てた。
「推理の道筋に誤りはないはずだ。俺はどこでまちがったのか……そうか!」
比夏留には、「チーン」という音が聞こえたような気がした。
「そうかそうかそうだったのか。あっはははは。わかったわかった。宍倉さん、あんたの先祖もなかなかやるね」
「はやく説明したまえ」
と弾次郎。
「まあ、そう急ぎなさんな。『これは、わが蘇我一族が子孫へと伝える遺産である』とあっただろ。あれが、ヒントなんだ。『遺産』……つまり、『レガシー』だ。あの文章は、『レがシに置き換わる』のさ」
「ということは……」
「そのとおり。『シーザーにて倒せ』ではなくて……」
「『レーザーにて……』……あの鳥を倒すにはレーザー光線が必要ということか!」
「さいわい、それがしの息子が大学院でレーザーの研究をしており、研究中のレーザー銃をたずさえて、今、旅の疲れでわが家の二階にて寝ておりまする。やつに頼めばなんとかなりますぞ!」
ほんとかなあ……という思いは誰の胸にもあるにせよ、なんとなく『以津真天』対策が見えてきたようだ。
「でもさ、どうして蘇我氏がレガシーだとかレーザーだとか英語を知ってるのかなあ……」
比夏留が保志野に耳打ちすると、
「さ、さあ……あれだろ、蘇我氏はもともと百済《くだら》からの渡来人だから……」
あとはむにゃむにゃと聞き取れなかった。
6
夷倭宿山の稜線にうっすらと陽の筋が重なるころ、比夏留、保志野、弾次郎、宍倉、白壁、そして、宍倉に呼び出された彼の長男で、都合よくレーザー光線銃の研究をしている青年の計六人は、弾次郎があけた穴からフェンスをくぐり、〈常世の森〉に侵入した。
「校長が出張というのが幸いしたな。そうでなかったら、すぐにフェンスを修繕されているところだ」
道しるべ用のロープを結びつけながら、弾次郎は言った。今回は、完全装備である。ロープ、大型サーチライト、松明、燃料、木刀やバット、ナイフなどの小型武器、そして、なによりレーザー銃。比夏留だけは、リュックにいっぱいの食糧を背負っていたが。
ぶもーん……もーん……もーん……
のぶーん……おーん……おぼーん……
という不気味な風の歌も、〈死霊洞〉という名称も、「シ・レ・ド」の旋律という意味しかないとわかれば、どうということはない。
小川を渡ったが、幸いにもヤゴの怪物の姿はなかった。続いて、香り高い紫蘇の群生のなかを通り抜ける。
「紫蘇……つまり、シとソ。こいつが繁茂しているのも、音霊の作用によるもんだろうぜ」
と保志野は言った。
洞窟に入る。やけに静かだ。
保志野が、ライトで例の手首を照らす。スチラコクワガタが十匹ほど、わらわらと光の輪から逃げだす。手首は、虫たちにむさぼられて、ほとんど白骨化していた。保志野のライトは、何か別のものをとらえた。高さ四十センチほどの石塔だ。
「思ったとおりだぜ。やっぱり俺は天才だったか」
にやりと笑って、皆に見るようにうながす。石塔には、「田中家先祖代々之墓所」とあった。
「そういえば、校長先生、お母さんが亡くなって密葬したとかで喪章をつけてたけど……じゃあ、この手首は……」
比夏留はぴょんと飛び退いた。
「そうさ、田中喜八氏の母親の死骸だろうよ」
スチラコクワガタの群れが、カサ・コソ・カサ・コソ・カサ・コソ……と一斉に鳴きはじめた。
「誰か、このクワガタの鳴き声の音程がわかるやつはいるか」
保志野が一同を振り返ると、宍倉の長男が手をあげた。
「ぼく、ピアノを習ってたんで、少々なら……。これは、ドソ・ミソ・ドソ・ミソ……の繰り返しですね」
「な?」
保志野は比夏留に同意を求めたが、比夏留は頭に五つほど「?」マークが点滅していた。
「じれったいな。まだ、わかんないのか。クワガタたちは、この洞窟で、土葬・密葬・土葬・密葬……が行われていると鳴いていたんだよ。これも、音霊だ」
奥へ奥へと進む。
「気をつけろよ。どこからやつが襲ってくるか……」
わからんぞ、と先頭に立っていた弾次郎が言いかけたとき、
いーっ、いいいいっ、いっ、いっ、いーつ、あーげ、おーっ
左側の横穴から、いきなり鳥が飛び出してきた。
「『以津真天』だ、逃げろっ!」
皆は一旦退き、火をつけた松明を振り回して、鳥の前進をとめる。
いー、ぐあ、げっごーっ
いーつ、あっ、げっおーっ
数本のサーチライトが鳥に注がれる。はじめて、怪鳥の全体像がくっきりと浮かびあがった。ぎざぎざの牙が無数に植わったくちばし、蛇のような鱗に覆われた胴体、そして、そのうえに生える羽毛……。
「あれは、――始祖鳥だ」
と保志野は言った。
「中生代、ジュラ紀後期に出現した恐竜と鳥の架け橋的存在。証拠がある」
彼は、宍倉の長男に向き直り、
「この怪物の『いつまでも』に聞こえる叫びですが、調子《キー》は何かわかるか?」
「そうですね……さっきから聞いてると、どうも、BとG……つまり、ロ長調とト長調が交互にでてくるようですね。わかりやすくいうと、シではじまる音階とソではじまる音階です」
保志野は我が意を得たりとばかりに、
「すなわち、シ・ソ調。これも音霊だ。翼があるにもかわらず、こいつが〈常世の森〉の外に出ることがなかったのも、始祖鳥だとしたら説明がつく。始祖鳥は、高い木にのぼって、グライダーみたいに滑空することしかできなかったらしい。あのフェンスを越すことができなかったというわけだ」
自分を無視してごちゃごちゃしゃべっている人間たちに業を煮やしたか、巨大な太古の怪物は鋭く叫ぶと、羽毛が松明の火で焦げるのもかまわず、比夏留たちに近づいてきた。
「今だ、レーザー光線を!」
保志野の声に、宍倉の長男が進みでると、肩に載せた二メートルほどの筒状のものの先端を、鳥の胸部に向けた。彼がまさに引き金をしぼらんとした瞬間、
「待って。待ってよ!」
誰かが鳥のまえに飛びだした。
「さ、三太郎っ」
宍倉が我が子を抱きしめた。
「この鳥をいじめないで。こいつは……『以津真天』は悪いやつじゃないんだ。ずっとひとりぼっちでこの洞窟に暮らしていて、さびしかったんだ。こいつはぼくに何もしなかったよ。食べ物も運んできてくれたし、水もくれた。ぼくたち、友だちになったんだ!」
「し、しかし、こやつは危険な怪物ではないか」
「ちがわい。『以津真天』を殺すなら、ぼくを殺してっ」
三太郎の言葉に、彼の兄はレーザー銃をおろした。
「わかった、三太郎……おまえの言うとおりにしよう。皆さん……」
宍倉は、一同に向かって頭をさげ、
「せがれがかように申しておりまする。なにとぞここはそれがしの顔にめんじて、せがれの朋友となったこの鳥をこのままそっとしておいていただけぬか」
反対するものはひとりもいなかった。
「おわかれだね、『以津真天』……」
三太郎は鳥の首にすがって、そう言った。
「きゅうい……」
鳥も、三太郎の身体に首をこすりつけた。
「じゃあね、また絶対に絶対に会いにくるからね。ぼくたちはずっとずっとずーーーっと友だちだよね」
洞窟にとどまる『以津真天』に、皆は手を振って、別れを告げた。巨鳥も、うなだれて彼らを見送った。
最後尾にいた比夏留が、ふと思いついて、
「ねえ……おまえはほんとに『以津真天』という名前なの? ほかに名前があるんじゃないの? 古代から生き残ってきた巨大な鳥……大きなヤゴを食べている鳥……」
比夏留の問いかけに応えるように、怪鳥は、大口をあけて、
いーっ、いーっ
力強く二声を発した。絶対音感などかけらもない比夏留だったが、その二声がどういう音程であるか、誰に教えられなくてもわかった。
(「ラ」……と、「ド」、だよね……)
比夏留はそう思った。
エピローグ
まったくの寝不足状態で、翌日の音楽の試験にのぞんだ比夏留だったが、彼女の歌を聴いて、教師は意外にもこう言った。
「ふーん……下手は下手なんだけど、感情がこもっていて、とても良いできですよ、諸星さん」
それもそのはずである。比夏留が選んだ曲は、「今日の日はさようなら」であった。
『以津真天』もたえることなく友だちでいよう
今日の日はさようなら、また会う日まで
だが、もうひとつの「世界史」の試験が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》だったことは言うまでもない。
(夏休み、夏休み……試験が終わったら夏休み……!)
眠い目をこすりながら、比夏留は入道雲に向かって、大きく伸びをした。
◇
保志野は、なぜ宍倉が「それがし」などという武家言葉を使うかに気づいていたが、あまりにくだらないことなので誰にも言わなかった。蘇我氏のレガシー、あわせて「それがし」なのだ……。
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[#挿絵(img/02_137.jpg)入る]
天岩屋戸《あめのいわやど》の研究・序説(一)
それ[#「それ」に傍点]はもがいていた。
土中深く、何年も、何十年も、何百年も、何千年も。出してくれここから出してくれ。
誰かがそれ[#「それ」に傍点]をここに封印したのだ。
いや……ちがったかもしれない。
おのれの意志でここに入ったのだったかも……。
いや……。
忘れた。
遠い昔のことだ。覚えていない。
とにかく、今は出たいのだ。
出たい……出たい出たい出してくれ……。
それ[#「それ」に傍点]は身もだえし、熱い息を吐いた。
「そう……別れたいのね」
伊豆宮《いずみや》は淡々と言った。ブランコの夜露に濡れた鎖を握る指に微《かす》かに力が入る。隣のブランコに座っている、栗色の髪を肩まで伸ばした女が、頭を強く横に振った。
「そうじゃなくって……何遍言ったらわかってもらえるの? 私たちもう三年生でしょ。本腰入れて、受験勉強しなくちゃいけない時期なのよ。だから……志望校に合格するまで、会うのをやめようって言ってるだけ。わかった?」
「わからない。受験勉強は受験勉強。私たちは私たち。どうして会うのをやめなきゃいけないの。それって、別れたいってことよね」
「ちがうったら、もう! 竜《りん》は、K大の人文志望よね。あそこ、すっごくむずかしいじゃない? 夜中に会って……こんなことしてる場合じゃないと思うよ。それに、竜はクラブもずっとやってるでしょ。あれだってそろそろいいかげんに引退しないと……」
「民研は私の命よ。卒業まで続けるわ」
「竜、まさか、夏の合宿も……」
「もちろん、参加。白壁《しらかべ》くんも参加するわ。姫は、ハンググライディンク部の合宿は行かないの?」
「あたりまえでしょ。あんなクラブ、とっくに引退したわ。あんたたち、おかしいんじゃない? 大学受験控えた高校三年生が、夏合宿なんて……」
「受験勉強は受験勉強。クラブはクラブ……」
「そういうことは、受かってからまたはじめればいいじゃない。今は、勉強のときよ」
「今じゃなきゃできないことがあるの。クラブもそう。恋愛も……」
「私は……そう思わない。次のステップに進むために、我慢することだって大事よ。あれもしたいこれもしたい大学も合格したいなんて、欲張りすぎるわ」
「やっぱり私と別れたいってことね」
「どうしてそういう結論になるのよっ! 竜とは、大学に入ったって、就職したって、ずっとずっと永遠につきあってくつもり。先のことを考えて、今はお互い……」
「先のことなんて考えられない。今がすべてなの」
「ああ、もうっ。どうしてわかってくれないの!」
栗色の髪の女はブランコから降りると、
「竜は自分のことばっかり! いつもいつもいつもいつも! ふたりのことなんか、全然考えてくれないんだから!」
そう叫んで、夏にしては冷たい夜気のなかを走りだした。
◇
比夏留《ひかる》は、暗闇のなかから飛びだしてきたものにぶつかった。気配《けはい》を感じ、咄嗟《とっさ》に左方に避けようとしたのだが、そちらが溝だったので避けきれなかったのだ。体重差で、相手は「塗り壁」にぶつかったように跳ねとばされ、尻餅をついた。
「だ、だいじょうぶですかっ」
あわてて助け起こすと、相手は比夏留よりも大柄の若い女性で、どうしてこんなスリムな子に私のほうがはじき飛ばされたのかわからないという表情で比夏留を見つめていた。
「ああっ、姫子《ひめこ》先輩じゃないですか」
比夏留は相手の顔に見覚えがあった。三年生の道村《みちむら》姫子。たしかハンググライディング部の部長だったはずだ。そして何よりも、伊豆せんの「彼女」……。
「あ……」
道村姫子は、相手が自分を知っていたことにあわてたのか、比夏留のわきをすり抜けて、ふたたび闇のなかに没してしまった。
「なーにを急いでるんだか……」
比夏留はちょっと考えたが、考えてもわかることではないのですぐにあきらめ、
「まあ、いーや。明日、伊豆せんにきいてみよっと」
そうつぶやくと、コンビニで買いだししてきた今日の夜食――おにぎり全種類とサンドイッチ全種類の入ったビニール袋を、よいしょっと持ちあげた。
◇
道村姫子は、街を見おろす小高い丘のうえに立っていた。空には雲ひとつない。今夜は満月だ。目玉焼きのように膨《ふく》らんでみえる月を中心に、黒いスクリーンに白絵の具をぶちまけたみたいな星空が彼女の頭上に覆いかぶさっている。姫子は、部室に忍び込んで持ちだしたハンググライダーを組みたておえていた。受験のため、とうにクラブを引退した彼女だったが、身体に溜まっていたもやもやが、さっきの伊豆宮とのやりとりで表層に出てきてしまった。たしかに念が残っていたみたいだ。それにけじめをつけるつもりで、重い機材を背負って、ひとり、この丘に来た。ここは、県が管理するフライトエリアなのだ。
もちろん、クラブの機材を勝手に持ちだすことも、アシスタントのいないひとりでの飛行も、夜間の飛行も、ハンググライディング部の規則に違反しているが、彼女は「日本ハンググライダー協会」発行のパイロット技能証を持つ熟達したフライヤーなのだ。
(これが高校生活最後のフライトよ。これが終わったら、勉強に専念する。――竜もそのうちわかってくれるわ)
ヘルメットをかぶり、ベルトで身体を固定し、コントロールバーを掴むと、斜面を走りだす。いい感じで風が来ている。
(離陸《テイクオフ》!)
いつもながら緊張の一瞬だ。だが、飛んでしまえばあとは天国である。上昇風《サーマル》をとらえ、弧を描きながら高度をあげていく。たちまち千メートルもの高みに達する。星のなかに埋もれて、自分も星座のひとつになる。実をいうと、夜の飛行はこれがはじめてではない。合宿に行ったときも、夜中にこっそりひとりで飛んだものだ。危険は承知しているが、この感動は何ものにもかえがたい。コントロールバーを倒し、西の山に向かう。
突然、強風が右からセールに叩きつけられた。グライダー全体が大きく揺れる。必死でバランスをとり、風を避けるべく旋回しようとするが、舵がきかない。それほどの猛烈な風なのだ。
(このままじゃ……〈常世の森〉のうえに流されちゃう……)
森のうえは絶対に飛んではいけない。これは、ハンググライディング部創立時に、当時の部長が校長の田中喜八《でんなかきはち》とかわした誓約である。
「〈常世の森〉のうえは、異常な風が渦を巻いていますから、たいそう危ないんです。この約束を一度でも破ったら、ただちに廃部にして、二度と復活はさせません。いいですね」
そのとき、校長はそう言ったそうだ。
(もし、私が森のうえを飛んでるのを見つかったら……クラブが廃部になってしまう……!)
彼女は、なんとかコースを変えようと死にものぐるいで努力したが、しだいに強まる風に翻弄され、ますます森に近づいてしまう。下方で銀色に鈍く光っているのは、例のフェンスだろう。とうとう〈常世の森〉のエリア内に入ってしまった。
(こうなったら、風に逆らわずに、できるだけ早く森を通り越してしまうしかないわ)
方針が決まると、少しだけ落ち着きが戻ってきた。うまれてはじめて通過する〈常世の森〉の上空。夜間ではあるが、満月がサーチライトがわりになって、下の様子がよく見える。原始林という言葉がぴったりの、太古からその姿をみじんも変えていないと思われる広大な森林。ところどころに洞窟らしきものがある。いくつかを行き過ぎたあたりで、彼女は何かを見た。
(嘘……っ、これってもしかしたら……)
高度をやや低くしてみる。
(こんな……こんな洞窟ってある? これって、まるで……)
たん。
軽い音がして、瞬間、左の耳朶《じだ》がカッと熱くなった。霧のようなものが目に入る。
(血……?)
たん。たん。
それが銃声だと気づくのにかなりかかった。全身が痙攣《けいれん》のように震えだした。コントロールバーを握る両手もがくがくしている。
(逃げなくちゃ……)
そう思っても、強風と焦燥感でうまくいかない。
たん。たん。たん。
翼に孔《あな》があき、右横のパイプがぐにゃりと歪《ゆが》んだ。つんのめるような感じで機体が斜めに回転しはじめ、きりもみになって墜落していく。
道村姫子の最後の記憶は、ぐるぐるまわる視界の中心に位置する、大きな赤い月だった。
◇
「姫子さん、帰ってこなかったんですか?」
犬塚の問いに、伊豆宮は唇を噛んでうなずいた。
「今朝、家の人から電話があったの。そっちに行ってないかって。来てませんって言ったら、夜中に出ていったらしいけど、行き先を知らないかって……。私……たしかに姫とは会ってたけど……」
伊豆宮は部室のテーブルに顔を伏せた。
「私が悪いの。姫の言ってることはよくわかってたんだけど、何でも割り切って考えられるあの子のことがうらやましくてくやしくて……ちょっとわがまま言っちゃったの」
比夏留は、いつもクールな伊豆宮が「わがままを言う」というのが信じられなかった。
「あの子、すごく怒って、走って帰ってった。そのまま家に戻ったんだろうと思ってたんだけど……」
「あの……」
比夏留がおずおずと、
「私、きのうの晩、姫子先輩と会いました」
「えっ? ほんと? どこで? どこで会ったの?」
伊豆宮の目の色が変わっている。
(伊豆せんもこんなとこあるんだなあ……)
比夏留はそう思いながら、
「恵麗王公園のすぐそばです。すごい勢いで駆けておられました」
伊豆宮は肩をすくめ、
「それって、私と別れた場所よ。そのあと、どこに行ったのか……」
「行き先の心当たりとかないんですか」
かぶりを振った伊豆宮は、
「行きそうなところは全部行ってみたの。授業、さぼってね。あと、事故りそうな場所とかも……。でも……」
「あのよお……おいら、ちょいと小耳に挟んだんだけどよ……」
白壁が、伊豆宮を気遣うように横目で見ながら、
「昼休みに食堂で、ハンググライディング部のやつらがしゃべってやがったんだけど、ハンググライダー一台、なくなったらしい。きのうの夕方には倉庫にあったのを確認してるから、きのうの夜中に盗まれちまったってえことだそうだが……」
「それよ!」
伊豆宮は身を乗りだした。
「あの子、きっとひとりでグライダー持ちだして、飛んだんだわ。それで……それで……」
事故ったのだ、という言葉があとに続くのだろうと、誰もが予想できた。
「きのうの夜中な……」
突然、部室の奥の暗がりから声が聞こえたので、皆、ぎょっとした。
「藪田《やぶた》先生、いつからいらっしゃったんですか」
犬塚《いぬづか》が気色悪そうに言うと、
「ずっと、ここで寝とったがな。きのうの夜中、一時頃やったかな……わし、ここで酒飲んどったら、森のほうから、たん、たん、たん……ゆう音が聞こえたんや」
「音……?」
「あれ、銃声やで」
しん、とした。
伊豆宮の顔は、この場にいない浦飯《うらめし》のように真っ青だった。
「姫……私と喧嘩して……腹立ちまぎれにグライダー持ちだして、ひとりで飛んだんだわ。それで……〈常世の森〉のうえを飛んで……撃たれたのよ、きっと」
伊豆宮は、拳が白くなるまで握りしめ、
「森に墜落して……あああ、私があんなことさえ言わなかったら……あの子を殺したのは私よ!」
「伊豆せん、落ち着いてください」
犬塚が懇願するように言った。
「まだ、そうと決まったわけじゃないんですから。ハンググライダーだって、他の誰かが盗んだのかもしれないし、藪田先生が聴いた音だって、銃声じゃないのかも……」
「いや、あれはたしかに銃声やで」
犬塚は藪田をにらむと、
「銃声だったとしても、姫子先輩がいなくなったこととは関係ないかもしれません。伊豆せんは悪いほうに考えすぎですよ」
「いや、ぜったいそうよ。そうとしか考えられない。あの子のことは私が一番よく知ってるんだから!」
叫ぶように言った伊豆宮の両肩を、比夏留がぐっと押して、椅子に座らせたが、伊豆宮はすぐまた立ちあがり、
「私、今から森に行く。探さなきゃ……姫を探さなきゃ……」
「危険すぎます。森に、銃を持ったやつがいるってわかってるんですよ」
比夏留が言うと、
「そんなことわかってる。でも、私のせいで……」
「伊豆せんのせいじゃないったら!」
がたっ、と入り口のほうで音がした。皆の視線がそちらに集中した。
「姫っ!」
伊豆宮が数歩進みかけて立ちどまった。道村姫子は、顔といい、手足といい、全身がくまなく傷だらけで、あちこちに凝固した黒い血がこびりついていた。左腕は折れているらしく、だらり、と垂れている。頭にはヘルメットをかぶっており、ハンググライダーに乗っていたことがわかる。衣服はずたずたに引き裂け、裂け目から見える肌はやすりでこすったみたいに血みどろになっている。身体中に土や草が付着しており、首筋や耳までも泥にまみれている。目はうつろで、唇はひび割れ、歯も数本折れているようだ。
「姫……いったいどうして……」
あとは声にならなかった。その言葉に誘われるように、道村は、伊豆宮の腕のなかに倒れこんだ。何かを言いたげに口を動かしているので、
「今は黙ってて。すぐ病院に連れていってあげるから」
「キリ……スト……」
「え……?」
直後、道村はがくりと首を垂れた。
「ひ、姫っ」
伊豆宮が揺すぶったが、道村は目を覚まさなかった。藪田がのそのそと近寄り、脈をとった。
「だいじょうぶや。気ぃ失うとるだけ……」
言いかけた藪田の顔色が傍目《はため》にもわかるほど変わった。道村の右足の足首に、ぼろぼろの紐がからみついており、その先に何かが結びつけられていた。藪田はそれを道村の足首から外すと、手にとった。直径五十センチはあるだろう、青銅製とおぼしき鏡だ。腐食して、緑青が一面にふいているが、鏡であることは疑いもない。藪田は、震える指でその表面を撫《な》で、続いて裏返すと、
「や、やった!」
彼は大声でそう怒鳴った。
「そうか……そうか……そうか……そうか……やっぱりそうか! わしの考えは正しかったで。アレはあの森に……うは、うははは、うははははははは!」
藪田は、鏡を両手で握りしめ、高く差しあげると、狂ったように哄笑した。伊豆宮以外の三人は、呆然として子供のようにはしゃぐ老人を見つめた。
◇
「ふーん……鏡、ですか……」
保志野《ほしの》の目が光った。
「うん、なーんかぼろっちい鏡。触ったら、手に青いのがついちゃった」
言いながら、比夏留は大きな紙袋に入ったカレーパンを手づかみで食べている。歯をたてるたびに、がしゅっ、という快い音がして、香ばしい、汁気たっぷりのルーが飛びだしてくる……そんな揚げたてさくさく熱々のカレーパンだ。
「手、洗いましたか?」
「へ? 何のこと?」
「いえ、べつに……。道村さんはどうなったんですか」
「全身の複雑骨折とかいろいろで入院した。命に別状はないけど……記憶が戻らないんだって。空を飛んでるときに撃たれたのが、よほど怖かったんだと思うよ」
「でしょうね……。でも、伊豆宮さんの腕のなかで口にした言葉……」
「キリスト……だったっけ」
「そう。どういう意味なんでしょう」
「さあ、意味なんかあるのかなあ。ひどい目にあった人が、『神さまっ』とか『なんまんだぶつっ』とか言うでしょ。そんな程度の言葉かと思ったんだけど」
「道村さんはクリスチャンですか?」
「え? うーん……わかんない」
九個のカレーパンを平らげてしまった比夏留は、もうひとつの袋からハヤシパンというのを出して、食べはじめた。ハヤシライスのルーが入った揚げパンだ。彼女のTシャツには「林も悪《わる》でよ……」という文字が印刷されており、なかなかぴったりのチョイスである。
「でも、もし道村さんが〈常世の森〉の内側に墜落したんだとしたら、おかしいですよね。あれだけの高さのフェンスをどうやって通過して、民研の部室までたどりついたんでしょう」
「そういえばそうね」
「最近は、校長も破れ目なんかの補修は徹底的にしているみたいですし……もしかしたら……」
「もしかしたら、何?」
「もしかしたら、〈常世の森〉と外部は、トンネルか何かでつながっているのかも」
「まさか。そんなの、校長がほっとくわけないよ。すぐに埋めちゃうんじゃない?」
「仮説その一、校長も気づいていない抜け穴である。仮説その二、校長はその抜け穴のことを知っていて、ひそかに自分が利用している」
「なーるへそ」
「どうしてそう思うかっていうと、道村さんの身体中にいっぱい土がついてたって言ってたでしょう? それで……」
「あっ、そうそう。それで思いだしたんだけど……」
比夏留は、もうひとつの紙袋をあけ、中から何かをつまみだし、保志野に示した。
「これ、何だかわかる? 道村さんの身体についてた土のなかとか、破れた服の隙間に、いっぱい入ってたんだけど……」
黒く変色した、いびつな木の枝のようなものだ。受け取ると、保志野はしばらくひねくり回していたが、
「枝みたいだけど、動物性のものですね。何かの骨かな……」
「じ、人骨……!」
「じゃないと思いますよ。ぼくはあんまり知識はないけど、知り合いに詳しいやつがいるからきいてみます。――ところで、伊豆宮さんはどうしてます?」
「それなのよ……」
比夏留は腕組みをして、
「責任感じちゃってるみたいで、ずっと病室につきっきりなの。授業にもまるで出てないんだって」
「道村さんの家族は?」
「お父さんは早くに亡くなってて、お母さんがいらっしゃるんだけど、仕事が忙しくて毎日は来られないんだって。だから、今から私、伊豆せんと交替してこようと思ってる。だって、全然寝てないらしいんだ」
「伊豆宮さん、身体を壊しますよ」
「私もそう思って、元気が出るような差し入れを持ってきて……あっ!」
「どうしたんですか」
「差し入れのカレーパン……食べちゃったよ……」
◇
藪田が病室に入ったとき、数ヵ所にギプスをした病人は、ベッドに横たわったまま両目を見開いて、天井をまばたきもせずに見つめていた。そのかたわらで、疲労の濃く浮きでた顔の伊豆宮が、椅子にもたれて寝息をたてている。藪田は、伊豆宮が、叩いても起きそうにないことをたしかめたうえで、両腕に点滴をつけた道村姫子の胸ぐらを掴んでベッドから起こし、乱暴に揺すぶった。
「おい、あの鏡はどこで拾たんや。こら、言わんかい」
低い声にドスをきかせ、
「ほんまに記憶なくしたんか。ふり[#「ふり」に傍点]しとるだけとちゃうやろな。わしは、病人やからゆうて手加減はせんぞ。こらあ、吐かんかい」
だが、道村の両目は焦点があわず、どこか遠いところを見つめているようだ。藪田は、乱暴に道村をベッドに放りだすと、舌打ちをして、
「このガキ……ほんまになんもかんも忘れてしもとるみたいやな。あの鏡があった場所さえ思いだしてくれたら、万事は解決するんやが。さて、どうするか……」
ノックの音がした。
◇
ノックをしても返事がないので、比夏留は病室の扉をあけた。
「こんにち……あれ……?」
比夏留は、伊豆宮が椅子のうえですうすう眠っているのを見て、起こすのも悪いと思い、足音を忍ばせてベッドに近づき、病人をのぞきこんだ。道村は、目をあけたまま微動だにしない。
「こんにちは。伊豆せんの後輩の諸星《もろぼし》比夏留です」
病人は無反応である。
「おいしーいカレーパンがあったんで、持ってこようと思ったんですが、えー、ちょっと事故があって、なくなってしまいました。今度また、持ってきますね」
言いながら、比夏留は道村の着衣の胸もとが乱れていることに気づき、そっとそれを直した。
「しばらくここにいさせてください。何かしてほしいことがあったら、言ってくださいね」
応えがないことはわかっていたが、比夏留はそう話しかけておいて、小さな冷蔵庫のよこに置かれた折り畳み椅子に腰をかけたが、その椅子は、比夏留の体重を支えるにはもろすぎたらしく、パイプがふにゃりと曲がってしまった。やむなく、比夏留は窓際に行き、壁にもたれた。分厚いカーテンが風でふわりと膨らんだ。何となく気になってカーテンに手を伸ばしかけたとき、入り口のシャッター状の引き戸がカラカラ……とあいた。
顔に直径一メートルほどのアフリカ風の仮面をつけ、黒いシャツに黒いズボンという黒ずくめの男が飛び込んでくるや、サイレンサーをつけたライフルを病人の胸もとに向け、
「見られた以上は……しかたがない……死ね……」
引き金を引こうとした。
「つあああっ」
比夏留は窓際から数メートルを飛び、大きく身体をひねりながら、足に弧を描かせ、その足先を仮面の男の脇腹に叩き込んだ。ぐふっ、と何かを吐きだすような音が仮面の内側から聞こえた。男はよろめいて後ずさりし、
「何ものだ……」
「それはこっちのセリフ。あんた、この病人には指一本触れさせないからね」
「この……女は……見てしまったのだ。殺すより……ほかない……」
「何わけのわかんないこと言ってんの!」
「邪魔だてするなら……おまえも殺す」
言いざま、仮面の男はライフルを比夏留目がけて数発放った。比夏留は身体を沈めてかわしたが、突然だったので一発目はよけそこない、右肩から血が噴きだした。そのまま、半回転。比夏留のつま先は狙いたがわず、男の仮面の中心をとらえた。大きな仮面は縦真っ二つに割れ、男は顔をライフルと腕で隠すと、そのまま病室から逃げだした。
比夏留は、あとを追おうとしたが、
「な、何があったの……!」
伊豆宮の声に振り返った。かくかくしかじかと説明すると、伊豆宮は蒼白になり、
「わ、私、全然気づかなかった。主治医の先生に知らせてくる!」
「私も、警察に電話します」
ふたりは並んで病室を走りでた。
◇
カーテンの陰から藪田は抜けだし、カーテンについた数ヵ所の焦げ目を見ながら、自分の左頬の傷にそっと触った。薄く血がにじんでいる。
「危ない危ない。もうちょっとで死ぬとこやったがな。しゃあけど……」
彼は、何ごともなかったかのように天井を見つめている病人を見おろしてため息をつくと、
「向こうは本気、ゆうことやな。口封じのためなら、殺しも辞さん、ゆうこっちゃ。これはこのままではすまんやろ……」
藪田は、首筋の蚊に噛まれたあとをぼりぼりと掻いた。
◇
「引っ越したあ?」
比夏留と犬塚、白壁の声が、ぴったりと重なった。
「また、急な話ですね」
伊豆宮はうなずき、
「このあたりにいたら、またいつ狙われるかわからないということで、姫のお母さんが即決したらしいの。強く、そうすすめてくれる人があったらしくて……。その人が、転居先も新しい仕事もお世話してくれたみたい」
「でも……行き先も言わないなんて……」
「どこで住所が漏れるかわからないからって……。でも、病状が好転したらかならず連絡するって、お母さんも約束してくださったから……だから、私も、知らないほうがいいの。姫の安全が第一だからね」
伊豆宮は自分に言い聞かせるようにそう言ったが、彼女が内心、激しく落胆していることが、皆には痛いほどわかっていた。
「そんな目で見ないでよ。私は、納得してるわ。いい病院に入って、姫がよくなってくれることが一番うれしいことだし……。それよか、諸星さん、肩の傷、だいじょうぶ?」
「私はへっちゃらです。唾つけたら治っちゃいました。でも、あの仮面の男……いったい誰なのかな」
そこへ、一升瓶をさげた藪田が、臭い息を吐きながら、よろよろとおもてから入ってきた。
「あ、藪田先生、たいへんなことがあったんです。伊豆せんと比夏留ちゃんと、あの道村さんが……」
犬塚が言おうとするのを制して、
「庶務課にこんな手紙、届いとったぞ」
藪田は、伊豆宮に封筒をぽんと放った。受けとった伊豆宮は裏を返したが、差出人の名前はない。中をあけると、便箋に走り書きで、たった一行、こうあった。
〈常世ノ森〉ニ近ヅクナ。命落トスゾ。
同封されていたのは、ライフルの弾丸だった。皆は、顔を見合わせた。
◇
りりりりーん。
「こないだ渡された骨みたいなやつのことなんですが……」
「あ、それそれ。聞こうと思ってたの。何だかわかった?」
「まあ、一応。ニワトリの骨だそうです。半ば化石化してました。あんなのがたくさんあったんですか」
「道村さんの身体のあちこちにくっついてたから、七、八個かなあ……。でも、どうしてニワトリの骨なんか……」
「道村さんの足に引っかかっていた鏡のことですけど……それを掴んで、藪田先生は『やった!』って叫んだんですね」
「そう。子供みたいだったよ」
「そうですか。『やった!』……とね」
「ねえねえ、どういうこと?」
だが、保志野は応えず、低く唸《うな》るばかりだった。
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人喰い洞の研究
プロローグ
暗闇のなかに、それはいた。じめじめとした黴《かび》臭い場所で、何かを待っていた。どこかで水の流れる音がする。どこかでコウモリの羽ばたく音がする。どこかでシロオビヤスデが壁を這《は》う音がする。だが、それはそんな物音に心動かされることなく、じっと待ち続けていた。あの子が戻ってくる日まで、いつまでもいつまでも……。
入り口のほうで声がした。それは、びくん、として身体を伸ばした。
戻ってきた……あの子だ!
だが、喜びはすぐに泡のように消えた。
ちがう……あの子じゃない……。
失意と嘆息。そして、激しい怒り。
それは、牙を剥《む》きだすと、ゆっくりと両手をまえに突きだした。
1
「うわあっ、晴れてるっ」
比夏留《ひかる》はバスの窓から顔を出して、叫んだ。
第二|亦棹《またさお》トンネルに入るまえは、外が全く見えないほどの土砂降りだったのに、長いトンネルを抜けると、雲一つない青空が広がっていたのだ。
「もしもしお客さん、窓から顔や手を出さないようにお願いします」
二年生の犬塚《いぬづか》に、「大きなノッポの喉仏、お祖父さん喉仏」と書かれたTシャツの裾をひっぱられ、しぶしぶ席に戻ると、一個が直径三十センチほどもある「超大型ドーナツ」全八個をむしゃむしゃ頬ばっていた比夏留だったが、それもつかのま、
「うわあっ、川! 川ですよ、犬せん! きれいーっ。川ーっ。熊がいそう!」
またしても身を乗りだす。
「あれがメールにあった洛陽《らくよう》川ね。でも、川ぐらいでがたがた騒ぎなさんな」
三年生で部長の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》に注意され、しょぼんとして席に戻ると、今度は一枚が直径四十センチぐらいある「超々大型草加煎餅」全十枚をばりばり囓《かじ》っていた比夏留だったが、それもつかのま、
「うわあっ、『鹿に注意』だって! 鹿が出るんですよ。ダンボみたいなのいるかもっ」
「ダンボじゃなくて、バンビでしょ」
犬塚が細かいチェックを入れていると、
「す、すまんですっけど……」
運転手が青い顔をして彼らのほうを見た。
「そこのお姉ちゃんが身ぃ乗りだすたびに、なんでかわからんけんど、バスがぐらっとするんじゃ。頼むけえ、じっと座っとってくれや」
比夏留は赤面して座席のうえで硬直し、伊豆宮と犬塚はくすくす笑った。
私立|田中喜八《でんなかきはち》学園高等学校民俗学研究会の四人は、夏休みを利用して、P県とQ県の県境にある長安《ちょうあん》村にやってきたのだ。例によって、顧問の藪田《やぶた》はついてこなかったし、二年生の浦飯《うらめし》は「俺、パス」とのことだった。
いかにも「田舎の駅」という感じの駅からバスで二時間ほど揺られ、もうすぐ終点の「長安村口」に着くはずだが、最初は数人いた乗客も途中で次々と降りてしまい、今では彼らだけになっていた。
「もー、私、そんなに暴れてないですよ、ったく失礼なんだから」
比夏留は、そう言いながら、恥ずかしさを食べることにぶつけて、一個が直径五十センチはある「超々々大型大福餅」全十二個を片っ端から平らげはじめた。
「比夏留ちゃん、だいじょうぶ? いくら何でも食べ過ぎだわ。腹も身のうちっていうでしょ」
犬塚が小声で注意すると、伊豆宮が、
「お煎餅よりも静かでいいわ。しばらくほっときましょ」
だが、直後、
「ぐふっ、ぐふっ、ぐふっふっふっ、す、すみません、水、誰か水くださいっ」
比夏留は、巨大な大福を両手に掴んだまま、両脚をばたつかせはじめた。
だが、三年生の白壁《しらかべ》だけは、そんな騒ぎも耳に入らぬ様子で、腕組みをしてじっと窓の外を見つめている。いつも陽気な白壁なのに……と比夏留にはそれが不思議でならなかった。
そもそもこのフィールドワークを企画したのは白壁なのだ。彼の元同級生に、西澤百合子《にしざわゆりこ》という女性がおり、相撲好きということもあって、実家が相撲部屋の白壁とは親しかったのだが、家庭の事情で一年まえに長安村に転居した。その後、とくに連絡もなく疎遠になっていた彼女から、先週、突然メールが来た。
ごぶさたしています。
白壁くん、私のこと、覚えていますか。
テニス部だった西澤です。
長安村は、何もない、つまらない、本当にさみしい村です。毎日が憂鬱《ゆううつ》です。
そんな、何もない村ですが、唯一の自慢は「わんこそば」です。
私はあまり詳しくはないのですが、盛岡や花巻のものとは発祥がちがう、独特のものらしいです。
来週の日曜日、村で大会があります。もし、興味があったら、ぜひ来てみてください。
白壁くんにどうしても優勝してほしいんです。
村はずれには、〈人喰い洞〉という、昔、〈子獲り鬼〉が棲んでいたという洞窟もあります。
近くにある洛陽川には泥鰌《どじょう》が多くて、それを使った泥鰌鍋も名物のひとつですが、この川の泥鰌には目がありません。
民俗学研究会的にもぴったりではないでしょうか。
弟も、久しぶりに白壁くんに会いたいと言ってます。
お返事お待ちしています。
[#地付き]西澤百合子
そろそろ夏合宿の場所を決めようとしていた矢先だったし、〈人喰い洞〉と聞いては、民研として黙っているわけにはいかない、ということで、みんな、一も二もなく賛成した。白壁も喜んだ。だが、村が近づくにつれて白壁は無口になり、なんだか落ち込んだようになっていった。
「ねえねえ、犬せん……その、白せんの同級生の西澤さんって、白せんとつきあってたんですか?」
比夏留は隣席の犬塚に小声できいたが、
「うーん……それがよく知らないの。伊豆せんも知らないみたい」
「でも、あの落ち込みよう、フツーじゃないですよ」
「そうね……」
「あっ、もしかしたら、白せん、振られたのかも」
「振った相手に、どうして『わんこそばを食べに来い』なんてメールするのよ」
「離れてみてはじめて気がつく愛もある、ってやつですよ。離ればなれになって、私にとってあなたがどれほど大切な人だったかわかったの……なーんちゃって、ぐふふふ」
「それなら、もっと早く連絡よこせばいいじゃない。転校してもう一年もたつのよ」
「最近になって気づいたんじゃないですか、その……愛に」
「とにかく、よくわかんないけど、ふたりのことはふたりに任せること。私たちが首を突っ込まないほうがいいわ。わかったわね」
「へーい。で、その西澤百合子って、どんな人だったんですか。相撲好きだったって聞きましたけど、高見盛《たかみさかり》みたいな顔とか」
「そうね……めっちゃ美人だったわね。タレントでいえば、杉山ルル」
「うひょー。白せんもやるなあ」
「テニス部のキャプテンでね、明るくて、男女問わず人気があったみたい。とても、あんな……暗いメールを寄こすような感じじゃないと思ったけどなー」
「何度も何度も、何もない、つまらない村って書いてましたよね。村の暮らしが肌にあわないんじゃないですか?」
「そうね。都会的で、いつもセンスのいい私服着てたし、髪も染めてたし、音楽もヒップホップとか聴いてたみたいだから……」
「なんで転校したんですか? ご両親のお仕事の都合とか」
「あのね……西澤さんのご両親、事故でお亡くなりになったの。それで、弟さんと一緒に、長安村の親戚に引き取られたってわけ。このこと、西澤さんにお会いしても、言っちゃだめよ」
「そうだったんですか……」
比夏留は、あいかわらず沈んだ顔つきの白壁をちらと見、
「もしかしたら白せん、友だちが変わってしまったのを見るのがつらいんじゃないでしょうか」
「そうかもねー……」
「く」の字を描くような急カーブの連続で、バスは揺れまくる。
「ところで、長安村って、わんこそばが名物なんですよね。めちゃめちゃ楽しみにしてるんです」
「そうね。比夏留ちゃんのためにあるような食べ物よね、わんこそばって」
犬塚はため息とともにそう言った。
比夏留は昨晩、父親で古武道〈独楽《こま》〉の宗主である諸星弾次郎《もろぼしだんじろう》に、わんこそばについていろいろ話を聞いた。食べることに関して誰にも負けない情熱を持つ弾次郎はさすがに詳しかった。それによると、わんこそばというのは、岩手県で行われている独特の蕎麦《そば》の食べ方で、給仕のお姐さんがつきっきりで、客が持った塗りの椀のなかに、「はいっ、じゃんじゃん」という掛け声とともに少量の蕎麦を放り込んでいく。客がそれを食べ終わるや、間髪をいれず、お姐さんが次の蕎麦を投入する。その行為は、客が椀のふたを閉じるまで続けられる。
花巻では、昭和三十二年以来、毎年二月に「わんこそば全日本大会」が開催されており、盛岡でも、昭和六十一年以来、「全日本わんこそば選手権」が行われ、このふたつの都市がわんこそばのルーツとされている。ちなみに、花巻の大会は制限時間五分間で、最高記録は平成十五年の二百二十二杯。盛岡の大会はもともと時間無制限で、当時の最高記録は平成八年の五百五十九(!)杯、現在の制限時間十五分になってからの最高記録は、平成十二年の四百五十一杯だそうである。
わんこそばの発祥は、今から四百年近くまえ、南部利直《なんぶとしなお》という殿さまが、参勤交代の途上に花巻城に宿泊した際、名物の蕎麦をうまいうまいと食べ何度もおかわりをしたことにさかのぼるという。また、一説には、大正の総理大臣|原敬《はらたかし》が盛岡に帰省したとき、「蕎麦は椀コに限る」と言ったのが元祖であるともいうが、実際にはすでに明治時代に「わんこそば」という名称は定着していたらしい。
「パパは、わんこそば、食べたことあるの?」
しゃぶしゃぶにすき焼き、寄せ鍋にてっちりにすっぽんという「夏なのにずらり鍋尽くし」(比夏留の母談)の夕食のあと、比夏留がたずねると、弾次郎は厚い胸板をどすんと叩き、
「もち[#「もち」に傍点]さ。二度ほど挑戦したことがあるよ」
「何杯食べたの?」
「七百杯ぐらいかな。大会のときじゃないから、記録には載ってないけどね」
「すっごーい、さすがパパ。七百杯なんて化けもの……いや、超人的じゃない」
「それが、わんこそばの椀はすごく小さくてね、だいたい十五杯でふつうのかけそば一杯分ぐらいかな」
「なーんだ」
「一般人ならいざしらず、〈有芸大食〉を理念に掲げている古武道〈独楽〉の宗主たるこの諸星弾次郎、七百杯ぐらいで満足はできん。次回は、千杯に挑戦したいと思ってるよ。それに成功したら特許をとるのさ。千杯特許、なーんちって」
親父がいう親父ギャグ。
「で、おいしいの、わんこそばって?」
「おいしいのなんのって。蕎麦も出汁《だし》もうまいけど、薬味がまたいいんだ。葱《ねぎ》、海苔、削り節、まぐろ、とりそぼろ、なめこおろし、くるみ……ああ、こうして思いだすだけで涎《よだれ》が垂れそうだよ……」
垂れそうだ、と言いながら、すでにだらだら涎を垂らしている。話を聞いているだけで、比夏留も涎が垂れてきた。親子で、だらだら涎の垂らしあいをしているうちに、
「パパ、なんだかおなか減ってきた。なにか食べにいかない?」
「いいね、じゃあ、蕎麦屋でも……」
というのが昨晩のできごとである。
「比夏留ちゃんなら、チャンピオンになれるんじゃないかしら」
「でも……メールには、白せんに優勝してほしいって書いてあったんでしょ」
「そうなの。どうしてかしらね……」
犬塚は首をかしげた。
◇
ようやくバスは終点につき、四人はぞろぞろと村に降りたった。
「ど」をつけたくなるほどの田舎。
というのが、第一印象である。見渡すかぎり、田んぼと畑ばかり。そのなかに、ちょい、ちょい、と家が建っている。家はどれも木造平屋の古いものばかりで、昔懐かしい木の電柱にはレトログッズの店で高値を呼びそうなカルピスとボンカレーのぼろぼろの看板がかかっていた。田中喜八学園のあるS県も田舎だが、それを二乗したぐらいの田舎度である。
「おかしいな……」
白壁が、曲がった髷《まげ》をもとに戻しながら、頭をひねっている。
「迎えに来てるはずなんだが……」
「西澤さんが?」
「ああ。三時のバスで着くってメールしたら、迎えにいきますって返事があったんだけどな」
一同は、西澤百合子を引き取った親戚の家に宿泊する手はずだった。大荷物を抱えた四人は、三十分ほどその場で待っていたが、誰もやってこない。迎えはおろか、人というものが通りかからないのだ。
「しゃあねえな」
白壁は、大きなボストンバッグとリュックを担《かつ》ぐと、少し先にある藁葺《わらぶ》きの一軒家を指差した。
「見ねえ。おあつらえ向きに蕎麦屋があるじゃねえか。あそこならバス停も見える。蕎麦でもたぐりながら、待つとするか」
蕎麦屋と彼らのあいだには、幅三メートルぐらいの川があった。たくさんの泥鰌が群れているのが、比夏留には見えた。バスから見えた、あの川に続いているのだろう。比夏留がハンカチを使って一匹すくいあげてみると、メールにあったとおり、退化してしまっているのか、目は痕跡しかない。もう一匹すくいあげようと比夏留が悪戦苦闘していると、突然、
「ぎゃおおおえええええっ」
という怪鳥のような叫び声とともに、少年がひとり、川のなかを裸足で走ってきた。全身ずぶぬれで、髪の毛はぼさぼさ、皮膚はやけに生白く、ぼろのようなものを一応身にまとっているが、ほとんど裸同然だ。長い木の枝を振りまわしながら、
「死ねっ、死ねっ、どいつもこいつも死んじまえっ、いいいいいいいいいっ、あああああああああっ、ぶきーっ、きゅーっ」
よく見ると、枝には野良猫とおぼしき大きな死骸が串刺しになっている。
「殺しちゃる、殺しちゃる、この村のやつら、みんなみんなみんなみんなみんな、ぶっ殺しちゃる! ぶきぶきぶきーっ、きーっきっきっきっ」
一同が唖然としているなかを、少年は反対方向に走り去った。
「な、何なの、あれ……?」
犬塚が呆《ほう》けたように言うと、
「なんだかわからないけど……これは、荒れ模様になりそうね」
伊豆宮が言った。
「そうだな……なんだか、雲行きがとんとあやしいぜ。こいつぁ土砂降りになるかもな。早く宿に行きてえところだがよ……」
「そうじゃないの。最初っからケチがついたわね、って言ってるの」
「な、なにが」
「今回の合宿は『荒れる』予感がするわ」
そう言うと、伊豆宮は蕎麦屋目指してすたすた歩き去った。
〈生蕎麦・山下《やました》屋〉という看板が掲げられたその店は、入り口のまえに「名物わんこそば」というのぼりが立てられており、扉をあけなくても、蕎麦の端境期《はざかいき》にもかかわらず、蕎麦粉のいい匂いがぷーんと漂《ただよ》ってきた。それだけで、比夏留のお腹は「ぐう」と鳴った。
なかは意外なほど広くて、テーブル席だけでも十席、それに座敷がいくつかあったが、時間の関係か、客は彼らのほかに一組だけだった。店内には、
「美味《おい》しいものに目がないかたへ。名物・目なし泥鰌鍋」という貼り紙のほかに、あちこちに「わんこそば」の字が躍っており、よほどの名物と察せられた。壁には、「長安村わんこそば大会」のポスターが数枚貼られ、マジックで「いよいよ明日に迫る!」と大書されていた。
「あれ、何ですか?」
比夏留は壁の品書きのひとつを指差し、店中に聞こえるような声でゆっくり発音した。
「てたてゆてたちう。伊豆せん、『てたてゆてたちう』ってなんですか?」
伊豆宮が比夏留の口をふさいだ。
「あれは『打ちたて茹でたて』よ。昔は、横書きの文章は右から書いたの」
「もがもがもがもが」
「恥ずかしいから、あんたはしばらくだまってなさい」
「もがもがもがもが」
メニューを見ると、
当村の「わんこそば」は、岩手県で広く行われているものとはその発祥を異にする独特のものである。もともと、当村は中国からの移民であった王珍民が建村したと伝えられ、麺類を食する伝統は大陸渡来のものと考えられる。
今からおよそ三百五十年ほど昔、村はずれに今も現存する洞窟に居住していた大食の女鬼が、村の子供をさらっては大きな木の椀に入れて食べていたが、通りがかった有徳の高僧に諭《さと》され、過去の罪業を悔悟し、断食をはじめ、ついには骨と皮ばかりになって命を失った。村人は、大食漢だった女鬼を供養するため、蕎麦を打ち、子供の代わりに椀に入れて、洞窟の入り口に置いた。すると、いつのまにか椀のなかの蕎麦はなくなり、また入れるとまたなくなった。それがまるでおかわりを催促するようであったので、村人たちは争って、木椀に蕎麦を投入することとなった。
これが、当村の「わんこそば」の起源である。「わんこ」の名称は、村の創始者である王珍民(王《わん》ちゃん、王《わん》公というあだ名だった)に由来するという説もあるが、さだかではない。
と書かれている。
「ふーん、盛岡や花巻の起源と比べると、なんだか暗いわね」
伊豆宮がそう言うと、犬塚もうなずいた。
「そうですね。子供を食べる女鬼だなんて、伝説としてもかなりえぐいし、要するにお蕎麦は子供の肉のかわりなんでしょう? 食べる気しないですよね」
白壁はしばらくメニューをひねくったあと、
「ひょっとすると、女鬼が棲んでいたってえこの洞窟、おいらたちが行こうとしてる〈人喰い洞〉のことじゃねえのかな……、なあ、諸星」
だが、比夏留の目は壁に貼られた品書きに釘づけになっており、
「え? 私はとりあえず、薬味は大根おろしととりそぼろ、それから……」
伊豆宮は肩をすくめ、
「あーあ、でも、ほんっとに諸星さんのためにあるような料理よね、わんこそばって。犬ちゃん、この『おかわり自由』って言葉、怖くない?」
「怖いですよー。比夏留ちゃんがまともに食べはじめたら、かなうひとなんて誰もいませんよ。この店、潰《つぶ》しちゃうかも。私の知ってるかぎり、日本一の『大食の鬼』ですよ。明日の大会でも、もし出場したら優勝まちがいなしですよね」
「勝手にひとを鬼にしないでくださいよー」
そのとき、奥のテーブルで丼ものを食べていた一団のうちの、中年男が立ちあがると、比夏留たちのテーブルに向かって近づいてきた。髪に白いものが混じっているが、まだ四十代後半だろう。赤ら顔で、唇が分厚く、口紅を塗ったように赤い。
「おめえら、旅の人だろ」
「え? ええ……そうですけど」
部長として、伊豆宮が応える。
「余所者《よそもの》なら、あんましでけえこと言うもんじゃねえざあよ。教えといちゃるが、わんこそばってえのは、おめえらみてえな都会もんの軟弱な胃袋じゃ到底無理なんざに。わしらの胃袋ぁ、鍛えに鍛えて、鉄みたくなってござるんぞ。日本一の大食だと? 優勝まちげえなしだと? おっほほ、笑わせるがや」
聞いたことのないような、独特の抑揚《よくよう》があるイントネーションだ。日本語というより、中国語を聞いている感じに近い。
「おい、中井《なかい》、旅のおかたの冗談《てんご》にムキになるでねえ」
テーブルについていた、鼻が天狗のように高い、五十歳ぐらいの男が、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「しゃけっども、チャンプ、こいつらがあんまし身の程知らずのこと言うもんだで、つい……」
「何もしらねえやつらに言うてもはじまらねっやし。大会に参加したところで、びっくらこいて尻尾巻いて逃げだすのがオチざあよ」
「そりゃそうざ。わんこのことになると、どうもカッとするざね」
自分たちのテーブルに戻りかけた赤鼻の男の手首を、犬塚が掴んだ。
「痛てててててて。何しゃあがる、この女《あま》!」
「あなたたち、失礼でしょう? 初対面なのに、なにが尻尾巻いて逃げだす、よ。あなたたちこそ、こっちの秘密兵器の食べっぷりに腰抜かさないでくださいね」
赤鼻男は、犬塚の手を振りほどくと、
「やっぱし、おめえら、大会目当てか。どこのもんだ。花巻か、盛岡か、それとも……」
興奮して唾をとばしていた男は、突然、白壁を指さし、
「わ、わ、わかったざ。てめえ……西澤んとこのガキが呼んだ、相撲部屋の……」
彼は、テーブルの天狗鼻男に向かって、大声で、
「チ、チャンプ! こいつだ! 西澤んとこのガキが言ってた、日本一の蕎麦っ食いとか世界第三位の大食とか生意気なことを抜かしとる、何とかいう相撲部屋の跡取り息子ざね」
「ほほう……」
天狗鼻男はゆっくり立ちあがった。座っているときは堂々たる体躯に見えたが、立つと、意外と背が低い。上野の西郷《さいごう》さんの銅像の上半身に、子供の足がついているようなアンバランスさだ。
「貴様か、あの娘が言っちょった『S県から旋風児が来て、わんこそば大会をぶっ飛ばす』とかいうのは。体格はええが、はたしてわんこはどうかのう。ぶっふふふふ、ふふ。この村のわんこを甘くみると、胃腸をいわして、一生病院暮らしざ」
「チャンプは、これまでにも八人も病院送りにしとるざあね。そのうちの二人は廃人ざがや」
赤鼻男がお追従《ついしょう》のように言うと、天狗鼻男は鼻をこすりながら、
「見りゃあ、まだガキのようざ。悪いこた言わね。今回は見逃してやらい。すぐに帰れ。帰って、母ちゃんのおっぱいでも飲んでな。ぶっふふははははは」
白壁は、事情が飲み込めず、きょとんとした顔をしていたが、どうやら自分がののしられているとわかったらしく、とりあえず拳《こぶし》をかためて、天狗鼻男の眼前に突きつけようとした。しかし、伊豆宮が彼をかばうように、すっと前に出て、
「私たちは、S県の私立田中喜八学園の民俗学研究会のものです。私は部長の伊豆宮竜胆と申します。我々がこの村に来たのは、洞窟の研究のためで、わんこそば大会に参加するためではありませんから、どうかご安心ください」
天狗鼻男は鼻白むと、
「そ、そうかい。そいならば、わしも何も言うこたあねえが……」
「ですが、これだけは言っておきます。うちの部員に対して無礼な言動をするような人がいたら、部長として私は許すことはできません。よろしいですね」
「な、何を生意気な……」
高い鼻を赤く染める天狗鼻男を白々とした目で見つめ、
「それと、もうひとつ。うちの部は、大食いに関しては凄いんです。あなたがどれほどのものか知りませんが、うちの部員とは勝負にならないと思いますよ」
「何だと。そ、それじゃ……」
「はい。うちの部は、全員、明日の大会に参加します。今、そう決めました」
「馬鹿こくなかれ! 女がわんこそば大会に参加するだと? そんなこたあ、このわしが……」
両拳を振りあげて、男は吠えた。
そのとき、入り口の扉ががらりと引きあけられた。白壁が小さな声で、
「に、西澤……」
立っていたのは、水色のワンピースを着た女性だった。たしかに、アイドルタレントの杉山ルルによく似ていると比夏留は思った。その女性の背中に隠れるようにして、痩せた少年がいた。坊ちゃん刈りで、メタルフレームの眼鏡をかけ、黒いケースを大事そうに抱え、おどおどと上目遣いに店内を見渡している。
「やっぱりここだったのね。白壁くん、お久しぶり。遅れてごめんなさい」
西澤百合子はかすかに微笑むと、天狗鼻男に鋭い視線を向け、
「羊歯山《しだやま》さん、この人たちは、私のお客さまざね。失敬なこつ、せんでって」
「ふん、やっぱしそうかや。そうとわかったらば、容赦しねえで。お、チョーバツも来ちょったんか。ぶふははは。今日は、剛《つよし》たちの使い走りはせんでえかんかのう」
西澤百合子の顔色がそれとわかるほどに変わった。チョーバツと呼ばれた少年は、涙目になっている。
「もう、あんたらの好き放題にはさせねえざ。この……」
百合子は白壁の肩に手を置くと、
「白壁くんがあんたらを木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に粉砕するがや。白壁くんは、スーパー食いしん坊選手権で優勝したこともあるんざね」
羊歯山と呼ばれた天狗鼻男はせせら笑い、
「そんな、テレビのくだらぬ企画で優勝しようが、わしの鉄の胃袋のまえにゃあ土下座せざるをえんめ。大会なんぞ待たず、今、ここで決着つけてやるざ。さ、どっからでもかかってきやあがれ!」
厨房の奥から、ねじり鉢巻きをした禿頭の店主が出てきて、
「羊歯山先生、うちの店で揉めねえでくり。お願えだ、頼んざあね」
西澤百合子は、店主に頭をさげ、
「わかったざあ。今日は帰りますがや」
そして、羊歯山に向き直ると、
「明日になって、吠え面かくね。首洗って待ってろ」
「そ、そりはこんちのセリフがい! そこの相撲デブ。おめえこそ、病院の診察券は持っとんじゃるか!」
白壁は、グローブのような両手をテーブルに叩きつけると、
「てやんでえ、べらぼうめ! こちとら江戸っ子でえ。売られた喧嘩だ、いつでも受けてたってやらあ! わんこそばだと? 上等だよ。百杯でも二百杯でも食ってやろうじゃねえか!」
それを聞いた羊歯山一派は皆、腹を抱えて笑いだした。
「百杯? 二百杯? ぶはははは。わしの去年の記録を聞いて驚くな。八百二十一杯ざ。ぶははははははは」
白壁は蒼白になり、下を向いたまま、
「上等だよ……」
と何度も何度もつぶやいていた。
2
「変わっちまったな……」
しげしげと見つめたあと白壁が言うと、西澤百合子はくすっと笑い、
「この村じゃ、茶髪厳禁、ピアス厳禁、ミニスカート厳禁……どこかのお嬢さま学校の校則みたいなことになってるの。私たちが住まわせてもらってるうちの人も、私や弟が規則を破ることを嫌がるわ。だから、しかたないわけ」
「まさか、公の規則じゃねえだろうな」
「超法規ってとこね。女性はしとやかで慎み深く、男に従うべし。男はマッチョで居丈高《いたけだか》で誰よりも強くあるべし。男は外で働き、女は家庭を守る。稼ぎがあれば、男はいくら妾《めかけ》を置いてもいい。それは男の甲斐性だから。村長がそういうレトロな価値観が好きなのよ」
「おいおい、そんな時代錯誤の村長いるわけねーだろ」
「いるのよ。さっき、蕎麦屋にいた羊歯山|雄三《ゆうぞう》……あれがこの村の村長なの」
比夏留たちも唖然とした。百合子によると、羊歯山家は、かつては代々、庄屋をつとめた家柄らしい。羊歯山雄三は、年一回のわんこそば大会において、昨年まで五回連続優勝している強者《つわもの》で、本人もそれを誇りにしており、村のものからは「チャンプ」と呼ばれていて、「村長」と呼ばれると機嫌が悪いのだという。
「この村じゃ、わんこそば大会で上位に入賞しないものはクズ扱いなの。男たちは、大会に照準をあわせて、毎日トレーニングしてるの」
「村中がフードファイター状態ってわけか」
白壁はため息をつくと、百合子のうしろに隠れたままの少年に、
「よう、誠《まこと》。久しぶりだな」
少年は、黒いケースをしっかりと抱えたまま、顔を見せようとしない。
「おいらのこと、覚えてねえのか。まえはよく一緒に遊んだじゃねえか、よう」
だが、少年がかたくなに動こうとしないので、白壁はあきらめて、
「誠も変わっちまった。――やけに、痩せたよな」
「拒食症なの。どこも悪くないんだけど、ものが食べられなくなって……」
百合子は、暗い話をさらりと言う。
「さっきの親父が、誠のこと、チョーバツって呼んでたけど、あれは……?」
「その話はあとでするわ。さ、行きましょう。少し歩くけど……」
少し、というのは、この村においては約一時間という意味だったらしく、西澤姉弟が引き取られている親戚の家は、〈生蕎麦・山下屋〉からかなり遠かった。一応、ここが村のメインストリートらしく、商店がいくつかかたまっている。比夏留は、
「あっ、お菓子屋さんだ。ラッキー。これでおなか減ったときも安心、と。あっ、雑貨屋さんだ。なるほど、日用雑貨はここでそろうのか。へー、薬も売ってる。『つらい便秘に除糞丸』か。あっ、電器屋さんがある。『パソコンは但馬《たじま》屋』だって。ねーねー、犬せん、パソコンショップがありますよ」
「ほんとね。今は、どんな田舎でもインターネットが必要な時代だもんね」
百合子は、白壁が、バス停に出現した半裸の少年のことをたずねると、
「それ、ヒロシよ」
と目を伏せながら応えた。
「ヒロシの父親は、わんこそば大会でずっと横綱を張ってたの。それが、五年まえに村長に負けて、その悔しさで自殺してしまったのよ」
「わんこそばで負けたぐらいで、そんな……」
「この村の価値観は異常なの。それから、残された母親とヒロシは村のみんなにさんざんいじめられて……とうとう母親は首を吊って……ひとりぼっちになったヒロシは、ああやってひとりで暮らしてるんだけど、どこに棲んでいるのか、どうやって暮らしているのか、誰も知らないのよ」
悲惨すぎる話に、誰も言葉を発せずにいると、前方から歩いてきた四人の子供たちが、彼らに気づいて立ちどまった。
「おっ、チョーバツざ。おーい、チョーバツ!」
一番年かさの少年が言った。鼻が前方に突出しているところは、羊歯山を思わせる。彼を見ると、誠は顔を白く塗ったように蒼白にさせ、身をぎゅっとかたくして姉の背後にしゃがみこんでしまった。
「何やっとんげ、チョーバツ。遊びにいくざあ」
青い半ズボンをはいたもうひとりの少年が、にやにや笑いながら言う。
「誠、ちゃんとあいさつしなさい」
百合子が困ったようにそう言っても、誠は目をつむり、百合子の背に顔を押しつけている。
「おめえら、誠の友だちか?」
浴衣《ゆかた》を着た白壁が声をかけると、子供たちはげらげら笑った。頭を一休さんのように丸坊主にした少年が、人を小馬鹿にしたような顔で、
「そうざあ、俺だち、チョーバツの友ざね。あんたたち、都会もんずり? 奇抜な恰好しとっとやんが。ひっっひひひひ」
「おい、坊主」
白壁がずいと進みでた。
「人がどんな恰好しようと自由だろうが。それとも、この村じゃあ何か? 人の服装だの髪型だのまでいちいち誰かにおうかがいをたてねえといけねえのかい」
紅一点の少女が、
「あはははは。相撲取りみたいなやつ、怒ったざ。逃げろ、あっはははは」
四人の子供たちは、大笑いしながら村道を駆けだした。かなり行ったところで、年かさの少年が振り返り、
「おーい、チョーバツ。あとで迎えにいくざあね。逃げんなよ!」
子供たちがいなくなったあとも、誠はしゃがんだままだ。百合子が強くうながすと、ようよう立ちあがった。
そのとき、ずっと村の上空に垂れ込めていた黒雲が、たっぷり孕《はら》んでいた水分の最初の一滴を白壁の首筋に落とした。
「やべえ。急ごうぜ」
白壁が駆けだそうとしたとき、百合子は目のまえの古い民家を指差して、
「ここよ」
そう言ったとき、ぱらぱらっと雨が降ってきた。
◇
とうとう来たか、とそれは思った。
ずっと……ずっと待ちこがれていたものがやってきた。
この暗闇から救いだしてくれる相手にちがいない。
しかし、注意しなければならない。
これまでも、何度もだまされてきた。
よく見極めることがたいせつなのだ。
でも、本当は……とそれは思った。
一歩踏みだす勇気さえあれば、自分ひとりの力でこの闇のなかから出ていけるのではないのか……。
だが、それを試したことはこれまでもなかったし、これからもないだろう。
そのことをそれは知っていた。
◇
応対に出たのは、百合子の父親の姉で、岩倉妙子《いわくらたえこ》という六十歳ぐらいの女性だった。もんぺを着、顔は畑仕事のせいか赤黒く日焼けしている。
「今日からよろしくお願いいたします」
伊豆宮が頭を下げると、妙子は険のある顔つきで一同をじろりと見回し、
「学生は勉強が本分と聞いとったが、暇な連中もおるんだのう」
「いえ、これも学問の一環です。こちらの村に〈人喰い洞〉という洞窟があるとうかがいまして、調査にきたんです」
「くだらん、ただの古い洞穴ざ。あんなもんわざわざ調べにくるなんて、よほどの暇人か茶人ざね。おいたちは、そげなことにつきあってられね。離れはあいとるで、勝手に泊まって勝手に帰れ。もちろん宿泊代はいただくがのう」
「ありがとうございます」
「ただし、いかがわしいことやら不埒《ふらち》なことは許さねえで、そのつもりでな」
「なんでしょうか、そのいかがわしいこととか不埒なことというのは」
「そりゃ、つまり、その、あれだ。酒とか煙草《タバコ》とか乱交パーチーとか」
犬塚がぷーっと噴きだし、伊豆宮ににらまれた。
「そのようなことはしないとお約束いたします」
「ならばええが、近頃の若えもんは何しでかすかわかんねえでのう」
「伯母さん、私の友だちだげ、あんましひでえことば……」
たまりかねて百合子が口を出すと、
「ふん。この百合子も、おめえらの学校でろくでもねえこと覚えて、こっち帰ってきたときゃ、耳に孔あけたり、髪の毛染めたりしとったが、おいがぶっ叩いて矯正しちやったざ。学生のうちから洒落《しゃれ》っけだすようなやつは、死んだら地獄に落ちるざ」
「あのお……」
比夏留がおずおずと、
「食事は……どうなるんでしょうか」
妙子は比夏留をぎろりと見、
「もちろん自炊してもらうざ」
◇
離れというのは、母屋とは別棟の、今にも崩壊しそうな二階建ての建物で、比夏留たちは一階の十二畳ほどの部屋に入れられた。百合子と誠はそこの二階で暮らしているのだという。
「ひどいですよー、自炊なんて。せめて、おいしい郷土料理が食べたーい」
比夏留が文句を言うと、
「私たちも自炊しているの。――わかってくれた、私と誠がどんな目にあってるか?」
一同は深い深いため息をついた。
「伯父さんと伯母さんは、世間体《せけんてい》があるから私たちを住まわせてくれてるけど、最初っから邪魔もの扱いして、朝から晩まで家の掃除から洗濯から野良仕事から全部やらせるのに、ご飯も作ってくれないの。毎月、家賃だけはきちんととるくせにね。でも、私たち、ほかに行き場がなくて……」
「ひでえ話だよな」
白壁が憤然と言うと、
「私はまだいいの。誠がね……」
言いながら、百合子は弟をちらと見た。小学校四年生だそうだが、幼稚園児ぐらいにしか見えない。
「いじめがひどいのよ。学校でも、近所でも、もうめちゃめちゃなの。なかでも、さっきの四人組がいちばんひどくてね……。いちばん年かさの子は、羊歯山剛っていって、小学五年生。村長の息子よ」
「やっぱり。おいらもそうじゃねえかと思ったんだ。鼻がそっくりだったからな」
白壁がひとり合点した。
「青い半ズボンの子は、但馬|亨《とおる》。電器屋さんの長男。丸坊主だった子は、おととし、町から転校してきた島村甚太《しまむらじんた》。村の訛《なま》りを覚えようと必死なのね。女の子は、宮崎満《みやざきみ》ちる。村一番のお金持ちのひとり娘。――あの子たちにチョーバツって呼ばれてたでしょ。いつも懲罰《ちょうばつ》を与えられているって意味。この村では、学校で立たされたりすることを、チョーバツっていうのよ。それに、チョー|×《バツ》、つまり最低最悪って意味もあるみたい」
「子供同士って、大人よりも徹底的なとこありますよね」
犬塚が言うと、百合子はうなずき、
「さっきのヒロシが、その……ちょっとおかしくなってしまったでしょ。そうなると、いじめの標的からは外れるの。そのかわりになったのが、誠というわけ。ちょうど、引っ越ししてきたところで、誠は、飛んで火にいる夏の虫って感じだったのね」
「いじめられる理由は何なのかしら」
伊豆宮がきくと、百合子はかぶりを振った。
「理由なんてないわ。都会から来たのが気にくわない。坊ちゃん刈りが気にくわない。メタルフレームの眼鏡が気にくわない。パソコンを持ってるのが気にくわない。言葉づかいが気にくわない……」
「はあ……」
「私は何度も村長や小学校の校長先生に、いじめをやめさせてくれって訴えたんだけど、村長は、女がそういうことをするのが気に入らなかったみたいで、それから私や誠への大人たちからの風当たりがよけいに強くなったわ。伯父さん、伯母さんはあんな風だし、ここでの暮らしが誠にはよほどこたえたみたいで、何も食べなくなってしまったの。それで、こんなにガリガリになって……。この村では、食が細いと一人前の男として認めてくれないのよ」
百合子があまりに淡々としゃべるので、かえって部屋のなかの沈鬱なムードが増していく。
「で……おいらにわんこそば大会で優勝してほしいってわけは?」
百合子はしばらく下を向いていたが、
「このままじゃ、私たち姉弟はいつまでも肩身の狭い思いをして生きていかなくちゃならない。でも……私の友だちがわんこそば大会で優勝してくれたら……あの村長をやっつけてくれたら……この村じゃわんこそば大会の優勝者は神さまみたいなものだから、私たちも陽の当たる場所に出られる、と思ったときに、白壁くんのことを思いだしたの。白壁くん、昔から大食いだったし、その体格だから、きっと一位になれると思って……勝手なことしてごめんなさい。でも、今の私たちには白壁くんしか頼れる相手がいないの」
「むむむむむ……」
白壁は太い腕を組み直して、唸《うな》った。
「おいらにだって、あの天狗っ鼻野郎をぺしゃんこにしてやりてえ気持ちはある。でもよお……八百二十一杯というのはなあ……」
「お願い、白壁くん。白壁くんならできるわ」
「と言われてもなあ……」
白壁は頭を掻いた。
「ねえねえ、西澤さん、その大会、女性は出場してはいけないの?」
犬塚が言った。
「さっきも言いましたけど、男尊女卑の気風の強い村ですし、わんこそば大会は男性の戦場みたいなものです。女性はエントリーすらできません」
「じゃあ、だめね……」
「犬塚さん、大食いに自信があるんですか?」
「い、いえ、私じゃないんですけど……」
犬塚は、苦笑しながら、ついさっきお菓子屋のまえを通ったときに電光石火の早業で購入したポテトチップのお徳用袋を早くも空にしている比夏留を、横目で見た。
「あーあ、はじめて比夏留ちゃんの大食いが世のため人のためになると思ったんだけどなあ……」
百合子は笑って、
「無理ですよ、諸星さんみたいなスリムな人、とてもあの村長とじゃ勝負になりません」
その一言で、比夏留はマリアナ海溝よりも深く落ち込んだ。
◇
百合子たちが二階にあがったあと、伊豆宮はぴしゃりと襖《ふすま》をしめ、白壁に詰め寄った。
「白壁くん、あなた、こうなることわかってたわね」
「え? い、いや……おいら……」
「おいらもボイラーもないわ。食事も自炊で、泊まるところはこんなぼろぼろで、ババアは因業《いんごう》で……全部、知ってたんでしょ」
「そ、それがだな……つまり……その……」
「だから、バスのなかで態度がおかしかったのね。そうでしょ」
「す、すまねえっ」
白壁は、擦《す》りきれた畳に両手を突いた。
「さすがに、ここまでひでえたあ思ってなかったが、メールのやりとりしてるうちに、事のあらましはわかってたんだ。おめえらにゃあ悪いたあ思ったが、あいつらの窮状を聞いてると、断りきれなくてなあ」
「白せん、ちゃんと話してくれればよかったのに」
犬塚が言うと、
「でもよ、話してたら、おめえら、来たか?」
伊豆宮、犬塚、比夏留の三人は一斉にかぶりを振った。
「どうしてあの姉弟に、そこまで肩入れするんですか?」
比夏留が、お菓子屋で買った「名物・ぼたぼた餅」というのを二個ずついっぺんに頬ばりながらたずねた。ちなみに、ぼたぼた餅のおもて面には、「名物にうまいものなし」と印刷されている。
「かつて将来を誓いあった恋人同士だったとか?」
「ちがわい」
「百合子さんのお父さんに、昔、一文なしで道中してたときにおなかいっぱいご飯を食べさせてもらったとか」
「ちがう」
「百合子さんに弱みを握られてるとか」
「ちがうって言ってんだろ」
「じゃあ、なんなんです」
「実ぁよ……」
白壁は巨体を縮めて、蚊の鳴くような声で言った。
「昔、おいらが中坊だった時分、川で溺れたことがあってよ……」
「百合子さんに助けられたんですか?」
「ちがわい」
「じゃあ、百合子さんのお父さん?」
「ちがう」
「百合子さんのお母さんにですか?」
「ちがうって言ってんだろ」
「へ? じゃあ、誰にですか」
「だから……誠にだよ」
「誠くん? だ、だって、白せんが中学生のときって、あの子……」
「そうさ。まだ五歳ぐれえだった。あいつぁ、ああ見えても水練の達人でな、半死半生で流されていく俺を、片手で抱えて、片手で抜き手ぇ切って、岸まで泳ぎ着いたのさ」
「あんな小さな身体で、デブ、いや、大柄な白せんをですか」
「あいつも必死だったみてえでよ、かなり水を飲んでな、あとですげえ熱ぅ出して、入院しやがった。だから、よけいに頭があがらねえんだ」
「なーるほど……」
「それから、誠と親しくなってな、ちょいちょい一緒に遊ぶようになった。あの頃は、明るくって元気ばりばりだったのによ……。誠の姉貴が、同級生の百合子だってわかったのは、そのあとだ」
白壁は、いらいらと髷を直した。
◇
コーンという甲高《かんだか》い音が響いた。二階の雨戸に外から小石がぶつけられたのだ。しばらくして、もう一度、小石の音。みかん箱を机にして勉強をしていた百合子が顔をあげ、
「剛くんたちじゃない?」
だが、床に寝そべってマンガを読んでいた誠は、無視を決め込んでいる。
「おおい、チョーバツ! 降りてっけえや」
声がかかった。
「ほら、やっぱり剛くんたちよ」
「ぼく、チョーバツなんて名前じゃない」
「それはわかってるけど……」
「おおい、チョーバツ! さっき約束したあざーい」
今度はべつの子供の声。
「ぼく……行きたくない」
「いつまでも逃げてちゃだめ。向きあわなきゃ。死ぬまであの子たちの小間使いすることになるわよ」
誠は腫《は》れぼったい目で姉を見つめ、
「姉ちゃんにぼくの気持ちなんかわかるはずないんだ!」
そう叫ぶと、リュックをひっつかんで、部屋から出ていった。
(がんばるのよ、誠……もう少しの辛抱よ。白壁くんが……きっと……きっとわんこそば大会で……)
百合子は祈るように薄い胸のまえで両手をあわせた。
◇
「白せん……わんこそば大会、優勝する自信ありますか?」
犬塚の問いに、
「ねえよ」
白壁は即答した。
「おいらも、人よか食うほうだが、八百何十杯なんてとてもじゃねえが無理だ」
「でも、きのう、父にきいたんですけど、わんこそばの一杯分ってすんごく少ないそうですよ。たしか、十五杯で普通のかけそば一杯分ぐらいとか」
と比夏留が言ったが、
「だとしても、蕎麦六十杯ってことにならあ。はなっから勝負は見えてるぜ」
「どうするんです? あの姉弟は白せんに賭けてるみたいですけど」
「だから……困ってんだよ!」
白壁の太いため息は、部屋を揺るがすほどだった。
「諸星が男だったらなあ……」
白壁はそう言うと、ごろりと畳のうえに横になった。
「わんこそばのことはとりあえず置いときましょう。私たちはあくまでフィールドワークに来たんですからね。〈人喰い洞〉の調査が先よ」
伊豆宮が気持ちを切り替えるように言ったが、白壁は寝ころんだまま、
「そっちも、無理かもなあ……」
とつぶやいた。
「どうして?」
「外、見なよ」
その言葉に伊豆宮たちは窓の外を見た。雨滴ひとつひとつが見えるような、大粒の雨が降っていた。
◇
村はずれに、小さな山がある。天津《てんしん》山という名前のその山は、現在、誰の所有物でもなく、村の共有財産になっているが、ここ十数年というもの、手入れされたことがなく、雑木が生え放題で、まともな山道すらない。
山のふもとに狭い洞穴がある。内部に、先端の鋭利な鍾乳石と石筍《せきじゅん》が上下から伸び、鬼の牙のように噛みあっているのが、外からでもわかる。
雨がぽたぽた降っている洞の入り口のまえで、四人の子供たちがサッカーをしている。そのかたわらの岩のうえで、誠が数冊のノートを広げている。ときどき、遠くで稲妻が光っている。
「おい、チョーバツ、宿題でけたかや」
トオルが叫んだ。
「もう……ちょっと……」
誠は、四人のために宿題を書き写しているらしい。
「遅いじ。たらたらすんな。終わったら、お菓子、取ってこう」
「え? さっきいっぱいあげたじゃない」
「おめえ、チョーバツだろ。チョーバツなら調達してけ。わかったな」
そう言ってトオルが蹴ったボールを、ツヨシが受け損なった。
「俺の勝ちざあ」
トオルが嬉しげに言うと、ツヨシは苦い顔になり、
「おめえの蹴りかたが悪いざね。今のはノーカンじよ」
「そりゃおかしがや。俺、ちゃんと蹴ったがい。ツヨシちゃんが……」
「俺が悪いちいてか」
「い、いや……そうざねえが……」
「ああああ……サッカーも飽きたんべ。そろそろべつの遊びしよが」
「何やるがい」
「探検ざ。この洞窟んなかば、入っでみが」
「洞窟? 危ねえじ。俺、父《とん》べにここは絶対入っちなんねで……」
「トオルっち、おめえ、怖かざや?」
「そうじねっけっど……父べが、ここは昔、女鬼ば棲んでたとこざ言うてだい。女鬼ば、子供さらって、生きたまま椀コのなかば入れて、その肝喰らってたって……」
「あはははは。トオルっち、おめえ、そんなこと信じてっがい」
「嘘じゃなかんもん。俺の父べが……」
「俺の父べは、そげなあば迷信ざて言うとった。女鬼なんて、おらん。悪い人間が、行く場所がのうて、ここに棲んでたんじ、言うとったがい」
「でも……俺の父べ、言うてたがい。その女鬼の魂は、いまでもこの洞窟ざいるて。入ってくる子供を待ちかまえとるて。だから、入っちなんねで……」
「俺の父べは、村長ざ。おめえの父べよか、偉かざあよ。どっちを信じるに」
「そ、そりゃあ……」
「おい、ジンタ。おめえはどうだ」
ツヨシはいきなりジンタに振った。ジンタはお追従笑いを浮かべながら、
「俺は、もち、ツヨシちゃんの父べを信じるざあ。なんせ、村長で、わんこそば大会のチャンプざげ」
「だよな。ミチルはどだ?」
「私、まえから一度、ここさ入ってみたかったんだ。暗いとこ入るのって、おっかねえけど、ツヨシちゃんと一緒ならだいじょぶざ。トオルっち、おっかねえなら、ひとりで待ってたらいいがいやい」
「お、お、俺も行くざあ」
女の子のまえで臆病なところを見せたくなかったのか、トオルは胸を張ると、
「俺はただ……父べの言いつけを守らにゃと思うただけじよ。ほんとは、入りたかったざあ」
「よっし、決まったざ。――おい、チョーバツ! おめえも来いやし」
ツヨシの大声に、誠はびくりとして、
「ぼ、ぼくは……いいよ。ほら……雨も降ってきたし……」
雨足は強まってきており、
「何言っとるが。こんな雨、通り雨ざ。すぐやむざあね。――おめえ、男になりたくながんが」
「え……?」
「ここさ一緒に入ったら、おめえを男と認めてやるがい。どだ?」
「う、うん……でも、やっぱりいい。ほら、宿題できたからここに置いとく。今日はもう帰るよ」
「このやろっ」
ツヨシは、誠が座っていた岩のところに駆け寄ると、彼の足もとにあった黒いケースを奪い、洞窟のなかに投げ込んだ。
「何するんだっ!」
「おーほ、チョーバツが怒ったじ」
ツヨシは両手を叩きあわせて笑った。
「ぼ、ぼくのパソコン……パパの形見なのに……」
誠は洞窟に駆け込むと、暗いなかをあちこち探し回り、やっと、一本の石筍の根もとに落ちていたケースを見つけだした。
ガラガラガラガラガラ……とアイスキューブを掻き混ぜるような音がして、皆の目のまえが白く光り、大音響とともに土煙があがった。四人は衝撃で尻餅をついた。きなくさい臭いが立ちこめるなか、さっきまで誠が腰かけていた岩が落雷によって真っ二つになっている。
「ふわあっ」
ツヨシが真っ先に洞窟に飛び込み、あとの三人も彼に続いた。途端、天の底が抜けたような凄まじい豪雨になった。皆が震えていると、ふたたび白い柱が眼前に屹立《きつりつ》した。雷の直撃だ。
次の瞬間。
洞窟の入り口が崩れ、五人の周囲は闇に閉ざされた。
3
来た。
いよいよだ。
それは手に汗を握りしめた。
でも、まただまされたとしたら……。
今度は許さない……絶対に許さない。
闇の奥の奥で、それはきりきりきりと歯がみをした。
◇
「あー、おなかすいた。ご飯どうします?」
比夏留が今日三十六回目の質問を発した。
「この雨じゃ、買い出しにいけないわ。我慢してよ、比夏留ちゃん」
犬塚が言うと、比夏留は駄々っ子のように、
「やだやだやだ。ご飯ご飯ご飯」
「子供じゃないんだから、やだやだ言わないの。雨が小降りになったら、買い物に行きましょ」
「はーい」
「でも、田舎だから、その頃には店、閉まってるかも」
伊豆宮の冷ややかな一言に、比夏留は畳に仰向《あおむ》けになり、四肢をじたばたさせながら、
「ご飯ご飯ご飯ごはーん」
「伊豆せん、それは禁句です」
犬塚ににらまれ、伊豆宮は口をおさえた。犬塚が子供をあやすように、
「比夏留ちゃん、いい子だからおとなしくしましょうね」
「やだやだやだ。ご飯ご飯ご飯」
「もー、あなた、いっぱい食べてるじゃない。特大煎餅とか特大ドーナツとか特大大福とかポテチとか……」
「そんなのみんなおやつじゃないですかっ。おやつはご飯とは別腹ですよっ」
「西澤さんの冷蔵庫に何か入ってるかもしれないし、カップ麺とかの買い置きがあるかもしれないから、あとできいてあげる」
「はーい」
比夏留は右手をあげた。
「〈ひとくひどう〉のいはれについて……か」
白壁が寝そべったまま、コピーの束を読んでいる。
「何ですか、それ」
比夏留がたずねると、
「『長安神社縁起』。この村の鎮守の蔵から見つかった書物。江戸時代後期に書かれたもんでよ、P県の県立図書館に保存されてるんだ」
「へー。すごいじゃないですか。いつ、図書館に行ったんですか」
「図書館なんて行ってねえ。ネットだよ、ネット」
白壁は、大儀そうに起きあがると、畳のうえに放りだされたノートパソコンを示し、
「きのうの晩、『長安村』で検索したら、図書館のホームページがひっかかってきやがってよ、そこで公開されてたのさ」
比夏留は、
(パソコンなんて持ち歩いてるのは、保志野《ほしの》くんだけかと思ってたら)
という言葉をぐっと飲み込み、
「白せんもパソコン持ち歩いてるんですね」
「あたぼうよ」
白壁は鼻をひくつかせた。
「おいらも機械音痴だからよ、メールのやりかたとか、前に誠に教えてもらったんだ。今じゃばっちしよ。まあ、見てくんな。ここんところだ」
白壁がコピーを指差した。
「何て書いてあるんです」
「このとおりさ」
「だから、何て書いてあるんです」
「だから、このとおりだって」
「読めないからきいてるんです!」
「あ、そうか」
白壁は声に出して読みあげた。
当社の裏山の麓《ふもと》に〈人くひ洞〉と云ふ洞窟あり。くめといふ女鬼隠れ棲み、子を獲つて食ふといふは俗説なり。事実は、八代藩主|義秀《よしひで》公の世継ぎを巡り藩内二分して争ひしとき、藩公の子を宿したるくめなる女、子を奪はれ、この洞にて殺されき。その遺恨洞内にとどまりて往来する子を害す、といふ風聞流れたるにより、これを〈人くひ洞〉といふとぞ。また、一説に曰く、義秀公性質多情にして荒淫、酒を甚《はなは》だ好み、| 政 《まつりごと》をかへりみることなし。諫言《かんげん》する家臣を、洞内に数多立つ杭状の石柱にて串刺しにし、鳥獣に腑を食はしたれば、これを〈人杭洞〉と名づけしとかや。疳強き義秀公の心慰めんがため、当村民、蕎麦を打ちて義秀公に献上す。これ、当村名産のわんこそばの縁起なり。
「ふーん……」
「わかったか」
「いえ」
「ようするに、女鬼がいたとかいうのは嘘で、ほんとは藩主の子供を宿した女がいて……たぶん百姓女だろうがよ、世継ぎ争いに巻き込まれたんだな。子供を奪われて、自分はこの洞窟で殺されちまった。そういう悲惨な話があるから、〈人喰い洞〉てえ名前がついた、てえんだ。もう一説は、その藩主はとんでもねえ悪逆非道の野郎で、気に入らねえ家臣を、石筍で串刺しにして放置したってんだな。それで、〈人杭洞〉になった、てんだ」
「ひどい藩主ですね」
「ほんとのことかどうかはわからねえぜ。こういう縁起は、中国の史書の真似をしてることがよくあるからな。だいたい暴王がいて、妾とともに酒池肉林の暮らしをしてやがる。民衆にゃあ苛税を強いて、諫《いさ》める忠臣を次々と牢に入れたり、処刑したりする。次の世代で、良王が立ち、善政をしく……てえのがひとつのパターンなんだ。ひとつの伝説だろうな」
「なーるほど」
「もうひとつ、『○○家三代実記』てえ文献もあってよ、義秀が藩主だった頃のお家騒動のことが事細かに載ってるらしいんだ。ダウンロードはしたんだが、かなり長いんでな、まだ読んでねえ」
「でも、洞窟を調べたら、そのくめって女の人の骨が見つかったりして。ひーっ……」
比夏留は、自分の思いつきに自分で震えた。
「可能性はあるわね」
と伊豆宮。
「その人が生んだお世継ぎの骨も見つかったりして。ひーっ」
またしても比夏留は震える。怖がるぐらいなら考えなければよいのに、頭が暴走する。
「もしかしたら、串刺しになった家臣のひとの骨まで見つかったりして。ひーっ! ひーっ! その女のひとの幽霊まで出たりして。ひっー! ひーっ! ひーっ!」
「うるせえぞ、諸星。おめえはだいたいな……」
白壁が意見しようとしたとき、襖ががらりとあいた。
「ひーっ!」
比夏留が叫んだのもむりはない。そこに立っていたのは、髪を振り乱した、蒼白な顔の、幽霊のような女性だった。
「にっ、西澤……どしたんでえ」
それは百合子だった。
「誠が……帰ってこないの」
「もう、七時前だぜ。ちょいと遅えな。言いたかねえけどよ、いじめにあって、どっかの物置きとかに入れられてるんじゃねえのか」
「それが……剛くんや甚太くんたちも帰ってないのよ」
「ふーむ……」
「さっき聞いたんだけど……大雨のせいで、〈人喰い洞〉の入り口が崩れてしまったらしいの。あの子たち、まさか、洞窟に入ったんじゃあ……」
「考えられるわね。村の人たちはどうしてるの?」
伊豆宮がたずねた。
「洞窟のまえに集まってるみたい」
四人は顔を見合わせた。伊豆宮が皆の気持ちを代表するように、
「私たちも行きましょう」
◇
鼻をつままれてもわからないとはこのことだろう。どれだけ目をこらしても、何も見えない。生まれてこのかた、これほどの「真の闇」に囲まれた経験がない子供たちは、心底からおびえていた。
「どうするじや」
トオルがツヨシに言った。
「何がざ」
「俺ら、閉じこめられただい。なんとかしなくちゃなんねず」
「そんなこた、わかってるざ!」
ツヨシの声は苛立《いらだ》っていた。
「すぐに助けがくるず」
ジンタが、震え声で言った。
「俺たちがいなくなっちこつは、みんな気づいてるはずざね。きっと、大人たちが今ごろこっちに向かって……」
「そりは甘えざ」
ツヨシが言った。
「俺たちがいねえこつはわかっても、この大雨のなかざい。この洞にいるちいことばわかるのは、だいぶ先ざね」
「それじゃ、俺らだけでこっから出なくちゃ」
「無理ざあよ。この土砂崩れは、俺らの力ざ、どうにもなんね」
「ツヨシちゃん、なに落ち着いてるがい。早くしねえと、天井がまた崩れて、押し潰されっかもしんね。空気が濁ってきて、窒息すっかもしんね。食いもんがなくなって、餓死すっかもしんね」
「ひいいいっ」
ジンタが甲高い声で悲鳴をあげた。
「俺、死ぬのはいやだ。いやだいやだ。助けてくり」
「おろおろすなっ!」
ツヨシが叫んだ。
「おろおろすりゃするだけ、腹が減るし、体力もなくなるじ。じっとして……助けが来るのを待つしかねっが」
「俺はやだ」
トオルがいつになくきっぱりとした口調で言った。
「じっとして、そのまま死んじまったらどうする。そんなの俺はやだ」
「じゃあ、どうする」
「こうするのさ」
がりがり……がりがり……がりがり……。
石をほじくり、土を掻きだす音が暗がりに聞こえはじめた。トオルが土砂を掘っているのだ。
「無駄ざね。やめとけ、トオルっち」
「やだ、やめね。おい、何ぼやぼやしとるざ、手伝えチョーバツ!」
「あ、はい……」
「チョーバツ、トオルば手伝うことねが。俺の言うとおりにせっ」
「う、うん……でも」
「俺の言うことがきけんがい」
「わかったよ……」
「じっとしとりゃ、今に助けが来る。目のきかんときは、動かんに限るじ」
「お、お、俺は、トオルっちば手伝う。トオルっち、どこざ?」
ジンタの声。
「ここざね。ジンタ、一緒に掘ろう」
「おい、ジンタ、おめ、俺よりトオルっちにつくがや」
「お、お、俺、死にたくね。死にたくね。死にたくねっが」
がりがり……がりがりがり……がりがりがりがり……。
土砂を掘る音が倍になった。
がりがり……がりがり……がりがり……がり……。
しばらくして、音がやんだ。ぜいぜいという荒い息づかい。
「へへっ、もうやめがい? だらしねえのう」
「こりゃあ……無理だ……一センチも掘れね……」
「だから言うたんがい。馬鹿っちが」
しばらく、洞内は静まり返り、その沈黙に耐えられなくなったようにツヨシが言った。
「どうやら、空気はだいじょぶみてえざあね。完全に塞《ふさ》がってるわけざねえようざばい」
「じゃあ、窒息はしないんだね」
と誠。
「あとは食いもんだが……おい、チョーバツ、おめえ何か持ってねえが」
「何もないよ。ぼくが家から持ってきたお菓子、みんな、ツヨシちゃんたちが食べちゃったじゃないか」
がつん、という鈍い音。チョーバツが殴られたのだ。
「俺らのせいにすんじゃねっ。チョーバツの癖に生意気ざ」
「ご、ごめん……」
「トオルっち、おめえはどうだ」
「チョコがちっとと、あとはガムだ」
「ふん、それっぱかしか。ガムはだめだが、チョコは腹の足しになる。俺の手のうえに置け」
「えっ、ツヨシちゃんが取っちまうのか」
「今から、食い物はみんなの共有財産ざ。俺が預かっちょくがや」
「で、でも……」
「おめも、チョーバツみてに殴られてっか!」
「…………」
「そりでええんざ。ジンタ、おめはどだ?」
「俺……何も持ってね」
「使えねえやつ。ミチルはどだ?」
「わ、私も……」
ミチルの声はか細く、ぴりぴりと震えていた。
「食いもんは結局、チョコだけがよ。こりで、しばらくつなぐしかねえが……こんだけじゃ、五人分にゃ少なすぎるじ。――数が減りゃあええんざがのう」
「ツヨシちゃん、そり、どういう意味ざね」
トオルが声を荒らげると、
「俺らのうちの誰かが死にゃあ、その分、一人あたまの取り分が増える、ちゅうことじ」
「冗談ざろ、ツヨシちゃん……」
「ああ、冗談ざ」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
「なあ……どっかで、音しねが?」
トオルが言った。
「おめも気づいたか。俺もさっきから気になっとんざ。水の流れるような音がい」
「水? 水があるの?」
誠が言った。
「それじゃあ、飲み水もだいじょうぶってことだね。ぼく、喉渇いてるんだ。ちょっと飲みに……」
「馬鹿ちん! だから、おめは馬鹿ちんだっつうの。こんな暗いなかで、奥がどうなってっかもわかんね場所で、へたに動いたら、絶対だめざ。水が流れてるっちこつは、川があんのかもしんねじ。川に落ちたら、それこそお陀仏《だぶつ》ざ」
「川……? こんな洞窟のなかに?」
「地の底にも川があるんじ。俺、父べから聞いたことあんじ」
「お、俺も聞いたことあるざ」
ジンタが言った。
「とにかく、動かねことだ。動かなけりゃ、何も起こらね。助けが来るのを待つんじよ」
「でも……でも、天井がまた崩れるかもしんねっぜ」
「こっちから動いて、川に落っこちるよかましざね」
「俺はそう思わね。どうせ死ぬなら、じっとしてて死ぬよか、なんとか助かろうと動きまわってから死んだほうがええざ。な、みんな、そう思わねが?」
トオルの言葉に応じるものはいなかった。
「な、な、な、なあ……」
ジンタがおろおろした声で、
「ここ……女鬼の霊がおるんでねが? 子供が入ってくるのを待っでで、入ってきたら食っちまうって……お、お、俺たち、ここにいたら、女鬼に、く、く、食われちまうんざ……」
「馬鹿っち。おめらは、ほんっこ、馬鹿っちばっかしざ。そんなもん、おるわけねがっ」
そのとき。
どこからか。
聞こえてきた。
「死ね……」
「え……?」
「死ね……」
「何か言った? 誰か……」
「…………」
「何て聞こえたんざ?」
「いや……死ね、って……」
「女鬼ざ! 鬼の霊が来たんじ! ひいいっ」
「うろたえな、ジンタ。空耳ざ」
「いや、空耳じゃないよ。ぼく、たしかに……」
がつっ。
「な、何するのさ、ツヨシちゃん」
「チョーバツ、おめ、くだらねえこと言って、みんなをびびらすな」
「そんなつもりじゃないよ。ぼく、たしかに……」
がつっ。がつっ。がつっ。
「黙ってろ、ど馬鹿っち」
闇のなかに、誠の啜《すす》り泣きが響いた。
「泣くな、鬱陶《うっとう》しい」
ツヨシが叱りつけても、いつまでも誠は泣いていた。
「あのね……」
ミチルの声。
「私……ちょっと……奥に行ってみる」
「だめざ。動くなっち、言ったがい」
「すぐ戻ってくるがや」
「だめざ。俺が許さね」
「どうしても行きたいんじ!」
「なしてざ? 理由ば言えや」
「そ、そりは……」
「何、もごもご言うとっとや」
「わ、わ、私……に行きたいんじ」
「聞こえん。何じて?」
「ツヨシちゃん、ミチルは小便に行きてえんじよ」
ジンタが言った。
「ジンタ、でけえ声で言うないっ」
「なしていかん。小便ぐらい、ここですりゃええが」
「馬鹿っ。女の子が、こんなとこで……恥ずかしゅて、でけんがい」
「お尻丸出しにすんのがいやなんか。暗いけえ、どうせ見えん」
「見えんでも、音がするがあ!」
それを聞いて、ジンタはうれしそうに、
「そうざ、そうざ。臭いもすんがい。小便が逆流してきて、このへんべちょべちょになるかもしれんじのう」
「うううっ、ジンタの馬鹿ちん! 私、行ってくっが」
「いかん、やめれ。危ねっぞ」
ツヨシが強い語調で言ったが、直後、誰かが立ちあがり、奥のほうへ歩いていく足音が聞こえた。
「真っ直ぐ行って、真っ直ぐ戻ってこいや。俺ら、ここで話ししてっから、声を頼りに戻ってけえ」
ツヨシは足音の方角に向かって叫んだ。
またしばらくのあいだ、どんよりとした静寂がその場に溜まった。
4
今度こそ本物だ。
これまで何百回だまされたことか。
でも。
待ったかいがあった。
とうとう会えたのだ。
私の子供……。
大好きな大好きな私の子供……。
私が母ですよ……。
こちらにおいでなさい。
私が母ですよ……。
◇
「遅えじ……」
ツヨシが闇のなかで呟いた。
「もう、戻ってきてもええんじが……」
「小便だけじゃなぐて、ウンコもしとるん……ぐはっ」
トオルの言葉が終わらぬうちに、ツヨシの鉄拳が彼の首筋に振りおろされた。
「黙ってろ」
「ひ、ひでえじゃねが、ツヨシちゃん」
「るせえ」
「ツヨシちゃん、もしかしたら、ミチルのこつ、好きなんざねが」
「黙ってろ、て言ってが!」
「心配しねえでも、もうじき戻ってくるがい。お、足音ざねが?」
皆は、耳を澄ました。たしかに、洞窟の床を歩く、かすかな音が近づいてくる。だが……四人は次第に首を傾《かし》げはじめた。その音は、ミチルにしては小さく、か細すぎるのだ。
「こり……ミチルざねえじ……」
トオルがそう言いかけたとき、
「死ね……みんな死ね……」
エコーをかけすぎたカラオケマイクのような声が洞内に響きわたった。
「誰ざっ!」
ツヨシの声は震えていた。
「死ね……死ね……」
わんわん反響するその声は、四人のあいだを通り抜けたかと思うと、
「うっふふふふふ」
甲高い笑い声をあげると急に反転し、犬のような素早さで、ふたたび洞の奥に戻っていった。
「ヒロシか。ヒロシだろが! てめえ……俺らを脅かそうってたってむだじよ」
応えはない。
「ヒロシ! 何とか言えや。おめがヒロシだっちこつはわかっとんざね」
だが、彼らを取り巻く闇は、ねっとりと押し黙ったままだ。
「もう、いやだっ」
ジンタが悲鳴に近い声をあげた。
「ぼく、もうここにいたくない。パパ……ママ……助けてよっ。パパ! ママ!」
付け焼き刃がはがれて、標準語になっている。
「うるせえぞ、ジンタ。ヒロシが近くに来ても、わかんねえざろが」
ジンタは叫ぶのをやめた。
「でも、こいで、さっきチョーバツが聞いた声つうのが、霊の仕業《しわざ》なんかざなくで、ヒロシだとわかった。一安心がい」
トオルが言うと、ツヨシは、
「ミチルのやつ……ヒロシに襲われたりしてねだろうな……」
ぼそりと言った。
「そうだっ、いいこと考えた」
誠の声。
「なんぞ、チョーバツ。どうせくだらね思いつきざろがい」
だが、誠は応えず、何かごそごそしている。やがて、闇のなかに、ぼんやりとした緑色の明かりが灯った。
「ノートパソコンだよ。少しは明るいでしょ」
閉じこめられて以来はじめての明かり。皆はなんとなくほっとした。だが、パソコン画面程度では、互いの顔がはっきりわかるというわけにはいかない。
「おい、チョーバツ、俺に貸せ。こり持って、俺、ミチル、探してくっから」
「だめだよ。もっといいことが……」
「なんざと! おめは、ミチルが心配ざねのが!」
がつっ。がつっ。
鉄拳が誠の頬に炸裂した。誠はパソコンを抱えたまま後ろ向きに倒れた。
「待てや、ツヨシちゃん。こいつの言うこともきいてやれや」
トオルがツヨシの手首をつかんだ。
「お、お、おめえ……俺に逆らうんがや。上等ざい」
「そうじねえ。こいつ、電器屋の息子の俺よりパソコンにくわしい。なにかいい思案があんのかもしんねがい」
トオルに抱えおこされ、起きあがった誠の顔は鼻血で真っ赤になっていた。
「泣きやめ、チョーバツ。言いてえこと、言ってみがい」
トオルにうながされて、誠はしゃくりあげながら、
「バッテリーが持つ時間は短いんだ。そのあいだに、なんとか洞窟の外と連絡をとろう」
「そんなこつ、できんのか」
「わかんない。大雨だし、入り口が塞がってるから、うまくいかないかもしれないけど、やってみる価値はあるよ」
そう言うと、誠はパソコンのキーボードを叩きはじめた。
[#挿絵(img/02_209.jpg)入る]
◇
「何とかせっ!」
天狗鼻の男が、雷雨のなか、仁王立ちになって怒鳴っている。村長の羊歯山だ。
「パワーショベルか掘削機持ってけえ。土砂をのけるんじ!」
「チャンプ、この村にゃそげなもんねえじ」
「だったら、発破かけろや。早くしねえと、剛が死んじまうじ」
「発破なんかかけたら、よけいに危ね。爆発が子供たちば直撃したらえれえことになるし、落盤を誘発するかもしんねし」
「だったら……どうすりゃええんだ!」
「県の災害対策課に連絡して、専門家と震災工作車を派遣してもらえることになっとうが、ほれ、県道がこれまた土砂崩れで使えんざろ。早うて明日の朝、復旧が遅れりゃ、明日の晩以降になるち、報告あったがい」
「そ、そんな悠長なこと……剛が死んだらどうすっがあっ」
吠える羊歯山に、ゴミ袋に水を入れたみたいにぼてっと太った中年男が、
「お願いしますざあ。うちの満ちるを助けてくだせ。金はいくらでも出しますざね」
村一番の金持ちという、宮崎という男だ。
頭の禿げた、ダチョウのような男も、
「チャンプ、あんただけが頼りざ。うちの亨を助けてくんだしっ」
これは但馬屋という電器店の主人だろう。
羊歯山は、面倒くさ気にうなずくと、泥水をはねとばしながら、百合子たちのほうにやってきた。
「おい、おめえ、おめえの弟のせいで、わしらが子がとんだ目にあった。チョーバツが、みなを洞窟に連れ込んだにちげえね。責任とっちくり。責任とっちくり」
「何言ってるがい。あんたらの子供が誠をいじめとるんじ。誠は被害者がや。とくに、あんたの馬鹿息子がほかの子を先導しとるんじ。あんたもそりはよう知っとうんじや」
「ううう……わしは村長ぞ。村長に向かってなんちゅう口のききかたじ」
「村長なら、落盤の危険がある洞窟を放置した責任ばとらんね。その責任ば、誠になすりつけるなんち、とんでもねえ話ざ! あんたなんぞ村長とは認めねっが」
「き、貴様……よう言うたげ。その言葉、忘れねぞ」
「チャンプ、今はそんなこつで揉めとる場合でねが」
ダチョウ男が羊歯山の袖をひっぱり、羊歯山は憤然として洞窟のまえに戻った。
入り口は、岩石と土砂で完全に塞がれている。
「おおおい……剛ーっ、そこにおるんかーっ! おるんなら、返事ばせーっ! おおおおい、剛ーっ」
羊歯山は、岩に口をつけて、大声で叫んだ。ほかの子供の親たちも、彼にならった。
「うおおおおい、亨ーっ!」
「甚太ーっ、無事かーっ」
「父べじゃーっ、満ちるーっ、聞こえよるかーっ」
比夏留たちは、少し離れたところにある、農具をしまうための納屋の軒下で彼らの作業を見つめていた。調査に来るつもりだった〈人喰い洞〉を、人命救助のために訪れることになるとは、誰も思ってもいなかった。
「無事だといいんだけど……」
伊豆宮が祈るように言った。
「無事に決まってらあね」
白壁が自分に言い聞かせるように言った。
男たちは、ショベルや農具を使って、岩を少しずつ砕き、土を除去しはじめた。とてもはかがいくとは思えないが、何もしないよりはましということだろう。
「比夏留ちゃん……」
伊豆宮が小声で比夏留を呼び、
「〈独楽〉の技で、なんとかならないの?」
彼女は、〈黒洞〉のときに、比夏留の技を目撃している。
「そうですね……」
比夏留は洞の入り口に積みあがった岩をしばらく見つめていたが、
「〈独楽〉の技を使ったら、洞窟全体に衝撃が加わります。天井が崩れたりしたら、なかの子供たちが危険です」
「そう……しかたないわね。――白壁くん、あなたも作業を手伝いなさいよ!」
伊豆宮は、白壁の背中を拳で叩いた。その口調にイライラを感じた比夏留は、〈独楽〉の技の無力さを責められているように思え、いたたまれなくなった。
「わかってらい」
大きなショベルを掴んだ白壁の胸ポケットから、けたたましい「けたぐりサンバ」のメロディーが流れだした。携帯の着信音らしい。
「誰だよ、今ごろ、メールなんて……」
舌打ちして携帯を取りだした白壁の顔色が変わった。
「み、見ろ、こいつ……」
彼がそれを百合子に示すと、百合子も口を押さえた。
「誠からのメールだわ!」
皆が作業をやめて、白壁のまわりに集まってきた。
ひとくいどうにとじこめられています
たすけてください
まことつよしとおるじんたみちる
「やっぱりこのなかにおるんざい!」
村長が絶叫した。
だれかがいるみたいです
「どういうことかな」
と犬塚。
「誠くんたち以外の誰かが洞窟のなかにいるということかしら……」
みんなしねといってる
はやくたすけ
一同はその文章の続きが現れるのを待った。しかし、言葉はいつまでも途切れたままだった。
「ヒロシざね……ヒロシの野郎……洞窟のなかに棲んどりゃがったんじ。剛が危ね。――はやく掘れっ。掘って掘って掘りまくるんざ!」
羊歯山が絶叫し、みずから鍬《くわ》を持って、がつがつと岩を切り崩しはじめた。
◇
なにかが洞窟の壁を、天井をつたい、誠の頭に覆い被《かぶ》さってきた。
「うわあああっ」
「どうした、チョーバツ!」
「うわっ、うわっ、うわっ、うわああああっ」
「どこざね、チョーバツ」
「たすけ……たすけてっ」
「死ね……死ね死ね死ね……」
「ヒロシざな。このガキ。ぶっ殺して……」
「ひいいっ」
「死ね……みんな死ね……」
「やっと……やっと戻ってきた。私の子供……」
「あああ……ぐぐぐああああ……」
「もうはなさぬ。はなすものか」
ぐちゃあっ、ぐちゃあっ……。熟柿《じゅくし》を潰すような、汁気の多い音。何かの倒れる、どたんという音。そして……。
血の匂い。
「チョーバツ! チョーバツ!」
「今こそ恨み晴らすときぞ……死ね……みんなみんなみんな……」
声が、ふたたび洞窟の奥に向かって駆け抜けていく。
「こら、ヒロシ、逃げるなっ」
「誰にもじゃまはさせぬぞ……みな、死ぬがよい……」
声は遠ざかっていく。
そして。
静寂。
「パソコンどこ行った? また、真っ暗になっちまったげ」
「わかんね。チョーバツが落っことしたんで、潰れちまったんざないがや」
「くそっ、ヒロシの野郎……」
ツヨシが何かにつまずいて、転倒した。そのとき、生暖かい、サンドバッグのようなものが手に触れた。
「な、なんだこいつ……うわああっ」
「どした、ツヨシちゃん」
「チョーバツ……こり、たぶんチョーバツじ」
「どうなっとる」
「――死んどるじ」
ツヨシは、何の反応も示さないその物体を気持ち悪そうに床に寝かせた。
「わあああああん……パパ、ママ」
ジンタが泣きだした。
「こら、泣くな。泣くなってのに。こらあっ」
ツヨシは、ジンタに馬乗りになって、頭をぼこぼこ殴った。
「やめろよ、ツヨシちゃん。今は、みんなで力あわせねと、ヒロシのやつに対抗できねっぜ」
「うるせ。だまってろ。――おい、ジンタ、おめえ、奥行って、ミチル探してけえ」
「そんなむりだよお。さっき、じっとしてるほうがいいって、ツヨシちゃん言ったじゃないか」
「いいから行ってけ。ヒロシの野郎がこげなことすっとは……ミチルが心配ざね」
「だったら、ツヨシちゃん、じぶんで行けばいいじゃないか」
「おめ、口答えすっか。この……この……このっ」
がすっ、がすっ、がすっ。
「やめねか。それ以上やっと、ジンタ、死んじまうで」
「死んだって……ええが……死んだって……」
「やめんざ。――だいたい、俺らがこんな目にあっとるの、全部おめのせいざねえか」
「な、なんだと!」
「おめが、チョーバツのパソコンば、ここに放り込んだりしたっげいかんのざね。おめの……」
がすっ。
闇のなかで、トオルの顎にパンチが入った。
「ツヨシちゃん……俺、殴ったな……」
「ああ……殴ったがどした。俺に逆らうとどうなるか覚えとけや」
「このやろっ、もう許さんじ!」
「許さん? あははは。許さんなら、どするがい」
「殺しちゃあるじ」
「殺せるもんなら殺してみっがい。俺の父べは、わんこそばのチャンプざい」
「そりがどしたやい。ただの大食いざねえが」
「なんだとやっ。父べは、この村の村長でっがあ」
「来年はかわるじ」
「な、なんざと?」
「俺の父べが村長選挙に立候補すっぜ。根回しもすんどんじ。○○党やら△△党の後援もあるってよ。おめの父べは、もうおしめいざあね」
「嘘じ……嘘じよ……俺の父べは……」
「もう、村のもんは、おめの父べの無茶なやりかたにあきあきしとんだと。誰ももう、ついていがねえんだと」
「ううう……うう畜生……」
「おめの父べ、村長でなくなって、あと、都会から来たチョーバツの姉貴の友だちの相撲取りが、わんこそばで優勝すっと、なーんのとりえものうなるがや。そったら、ツヨシちゃん、おめも、なーんのとりえもなくなるがや」
「うう……糞ったれ……」
「ミチルだっち、俺ん惚《ほ》れとんが。おめなんぞ、洟《はな》もひっかけねえじ」
「…………」
「おい、ジンタ、行こじよ」
「えっ……どこに……?」
「奥にっざ。こんなやつと一緒にいたくねえがい?」
「…………」
「どこにいたって、ヒロシに殺されるかもしんねじ。そりなら、こっちから出向いて、さきにやっつけちまったほうがええ。二対一だ。勝てるっちよ。それに、もしかしたらこの奥に、外に出られるとこがあるかもしんねえじ」
「そ、そうだよね」
「お、おめら、行くな。じっとしてたほうが……」
「もう、誰も、おめの言うことなんぞきかねえじ。ツヨシちゃん、ばいばい」
二組の足音が遠ざかっていった。
「やめとけ。ヒロシに殺されっぞ。俺、知らねっぞ、馬鹿っ」
ツヨシはしばらく叫んでいたが、やがてがくりと両膝をつき、地面を拳で叩きはじめた。
◇
「何か返事、来た?」
伊豆宮の問いに、白壁はかぶりを振り、
「今、岩をとりのぞいてる。もう少しのしんぼうだからがんばれ……ってメールしたんだが、それからは……」
そう言うと、肩を落とした。
いつのまにか雨はあがり、風もおさまっていた。月が空の遥か高みに小さく輝いている。
「チャンプーっ! チャンプーっ!」
役場の職員が息せき切ってやってくると、羊歯山に、
「ショベルカーやダンプは、県道で土砂が崩れてるすぐ向こうまでは来とるそうですじ。こっち側から県道を復旧する手伝いをしてほしいちゅうとりますじ」
「わかった。全員で県道の復旧ざ。一人残らず、そっちを手伝え。わしも行くざあよ」
皆は県道のほうに駆けていった。残ったのは、民研の四人だけだ。
比夏留が、犬塚に借りた携帯で電話している。
「あ……パパ。私。――だから、今、わんこそばどころじゃないの。たいへんなことになってるのよ。相談に乗ってほしいんだけど……」
手短に、現在の状況を説明し、
「ええ、私や先輩は無事。でも、子供たちが……。そうそうそうなの。でね……〈独楽〉の技を使うと、すごく危険だと思うんだけど……何かいい方法はないかと思って……」
しばらく父親と話していた比夏留だが、次第にその表情が明るくなり、
「そっか、それがあったのね。――わかった。まだ習っていない技だけど……パパたちのを見て、何となく覚えてるから……いちかばちか、見よう見まねでやってみる。――うん……わかってる。気をつけます。それじゃね」
電話を切ると、比夏留は別人のように真剣な顔つきになり、持っていた袋からスルメをむしゃむしゃ食べながら、
「伊豆せん、私、やってみます」
「え? 〈独楽〉の技を……?」
「はい」
「でも、洞窟全体に衝撃が走って、危険だって……」
「今、父に聞いたんですが……天井や壁には衝撃を与えずに、入り口に積もった岩や土壌だけを粉砕するようなソフトタイプの技があるんです。まだ習っていないんで、うまくいくかどうかわかりませんけど、失敗しても私が傷つくだけで、洞窟のほうには影響ないはずです」
「それじゃ、諸星さんが危険じゃない」
「それはそうなんです。高速回転するよりも、中速以下でまわるほうが身体に無理がかかりますし、熱も持ちますから。でも……ここでショベルカーが来るのを待っていたら手遅れになるかもしれません」
「…………」
比夏留は、バケツに一杯の水を用意し、
「皆さん……下がってください」
そう言って白壁たちを遠ざけると、両の拳を腰のあたりに構え、左脚を軸に、右脚を高々とあげた。そして、カポエィラの蹴り技のように、脚で大きな弧を描きはじめた。右脚の先が地面に着くと同時にそれを軸に左脚をあげる。それを、すさまじい速さで繰り返す。しかも、速度はどんどん増していき、しまいには比夏留の姿が消滅し、黄色い風がその場に吹き荒れているようにしか見えなくなってしまった。
どうなるのかと、固唾《かたず》を飲んで見守っている先輩たちのまえで、比夏留の風は次第に洞窟の入り口に近づいていき、
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……てえええええええっ!」
ぶわおっ。
積み重なった岩や土砂が、砂漠の砂嵐のように高く高く舞いあがり、天を覆い、月を隠した。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……でええええええええっ!」
ぶわおっ。
ぶわおっ。
ぶわおっ。
舞いあがった砂礫《されき》や岩がぐるぐる渦を巻き、バベルの塔のように洞窟のまえにそびえたった。
「な、な、なんぞ、こりはっ!」
羊歯山が、呆然としてその光景を見つめている。
「誰かが残らねばと戻ってきてみたら……何がどうなっとるんじ」
「村長さん、危険ですから少し後ろに……」
伊豆宮に言われて、羊歯山はおどおどと後ずさりした。
やがて、海面にクジラが墜落したみたいな、ばっしゃあああああん! という大音響とともに、空中を舞っていた土砂が霰《あられ》のように地面に降り注いだ。濛々《もうもう》とあがる粉塵《ふんじん》のなか、ぐったりと地面に倒れ伏す比夏留の姿があった。
「諸星さんっ」
「比夏留ちゃん」
駆け寄ろうとする先輩たちを、腕をあげて制して、
「近づかないで……ください……今……私の身体……四百度ぐらい……ありますから……」
ぶす……ぶす……と焦げつく衣服。その下からのぞく肌は、火傷《やけど》で真っ赤になっている。
「水よ。水をかけてっ」
伊豆宮の声に、白壁がバケツの水を比夏留にぶっかけた。
じゅじゅじゅーっ、じゅーっ。
「だ、だいじょうぶ、比夏留ちゃん?」
「は、はい……それよりも……はやく……洞窟を……」
うなずいて、伊豆宮たちは洞の入り口に向かった。すでに羊歯山が、血相を変えて、砕けた岩や土砂を取り除いている。やっと、四十センチばかりの穴があいた。
「剛ーっ! 剛、おるんかーっ!」
喉から血が出そうなほどに、羊歯山は絶叫した。しかし、返事はない。また、土砂を掻きだす。
そこへ、村人たちが戻ってきた。
「やっぱ、俺らの力では無理じった。今、県にヘリコプターの出動を要請したっざい。そいつさえ来りゃあ……おおおおっ、チャンプ、こりはどしたこっだ」
「わしにも……わかんね。わかんねが……この学生たちが……洞の入り口をあけよったんじ……」
手で石を除去しながら、羊歯山は言った。ほかの村人たちも一斉に手伝いはじめた。
「おーい、満ちるっ。満ちるっ。返事せーっ」
「亨ーっ、俺じゃ、父べじゃーっ」
「こらあっ、ヒロシ、そこ、おるんはわかっとるんじ。おるんやったら出てけっ、この穀潰《ごくつぶ》しが」
皆は口々に叫びながら、ようよう、洞窟の入り口の岩や土砂などをことごとく取り除いた。
数条のサーチライトの光線がぽっかりあいた穴のなかに注ぎこまれた。
洞窟自体は、さほど深くはなかった。五、六メートルも入れば行きどまりである。羊歯山を先頭に、村人たちがなかに駆け込んだ。
だが。
そこには誰もいなかった。
5
ひとりぼっちになってしまった。
ツヨシは生まれてはじめて心細さを感じた。
(トオルっち……ジンタ……戻って来てくりや……)
本当はそう叫びたかったのだが、彼のプライドがそれを許さなかった。
「ちっ……行きてやつは行け。俺はひとりでもやってけるざあね」
唾を吐き捨てると、壁にもたれる。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。普通なら、今ごろ、家で、アニメを見ながら夕飯を食べ、風呂に入ったあと、パジャマに着替えて、寝床で弟相手にプロレスごっこでもしているところだ。なぜ、自分はこんな暗い洞窟のなかで、たったひとりでいるのか……。
「チョーバツのせいじ。こいつの……こいつのせいで……」
ツヨシは、足もとに横たわる物体を蹴った。
「こいつ! こいつがパソコンなんぞ持っとるから、俺らは閉じこめられちまったがい。なんもかんも、こいつが悪いっじよ。こいつ……こいつこいつこいつ!」
もの言わぬ、動かぬ身体を蹴りまくる。
「引っ越してきたときから気にくわなかったんじ。こいつも……こいつの姉貴も。ヒロシに殺されち、いい気味ざ」
しばらく鬱憤を晴らしていたが、足先が痛くなり、汗だくになったので、そのかたわらに座り込む。
いつのまにか、涙が出ていた。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……どうして……どうして俺……」
あ……じ……が……ぎ……で……
と……と……と……
ね……わ……あ……あ……あ……
どこからか、不気味な声が聞こえてくる。わんわんと反響して、よく聞きとれないが、人間のものとは思えない。洞窟の奥からというより、すぐそばから湧きあがってくるように思えた。気のせいか。いや、ちがう……。ツヨシは、さっき自ら否定した、女鬼の伝説を思いだした。
(子供を……獲って……食う鬼……)
ツヨシは、我知らず悲鳴をあげていた。
「も、も、もう嫌じ。助けてくり。誰か……父べ……母《かん》べ……」
彼は奥に向かって駆けだした。
「おおおい、トオルっち、ジンターっ、俺を置いてかねでくれっ。俺が悪かったじよ。俺は……」
何かにつまずいて、転倒した。
「痛え……」
腹だちまぎれに、つまずいたものを蹴飛ばす。ぶにゅっ、という感覚。屈んで、触ってみる。
「こ、こりは……っ!」
触感だけしか頼れるものはないが、それはまちがいなくミチルのポーチだった。小用に行くといって、彼女が持っていったものだ。
「ミチル……ミチルううっ」
ツヨシは号泣した。
と。
「ひぎいいいいいいっ」
妖怪の叫び声のようで、ツヨシはびくっと身体をかたくした。だが、
「や、や、やめてく……」
トオルの声だ。
「助けてっ、ぼくは殺さないでっ。ああ……あっあああん」
ジンタの声。
どちらも、スイッチを切ったみたいに、ぱたっとやんだ。
あとは、静寂。
(ヒロシのやつじ……ヒロシが……トオルとジンタを……糞ったれ!)
ツヨシは、声の聞こえたほうに向かって走りだした。
(ヒロシめ……チョーバツを……ミチルを……トオルを……ジンタを……)
闇のなか、何度も転びそうになりながら、憤りに突き動かされて、ツヨシは駆けた。
(俺は……俺だけは殺されねっぜ。俺がてめえをぶっ殺してやるじ。みんなの仇、うっちゃるがい)
壁にぶつかり、膝や臑を、肘を擦りむきつつ、握り拳をかためてツヨシは洞奥に突進した。
つるっと足が滑った。仰向けにひっくり返る。足もとに水が溜まっていたのだ。そういえば、さっきからしていた水音が大きく、はっきり聞こえる。川だ。やはり、この近くには川があるのだ。立とうとしたが、後頭部を岩かどにしたたかぶつけたため、全身がしびれたようになって、動けない。
必死になって起きあがろうともがくツヨシは、すぐ目のまえに、誰かが立っていることに気づいた。
「お、お、おめえは……」
あとは言葉にならなかった。
◇
洞窟はそれほど深くない。隅々まで見渡したが、いくら子供でも、人間が隠れられるようなスペースはない。
「剛ーっ」
「亨、どこじやーっ」
皆は大声で我が子の名を呼ばわりながら、洞壁を叩いたり、床を蹴ったりしていたが、すぐにあきらめて、その場にへたりこんだ。
「どういうこっざ」
「子供が閉じこめられとるのは、ここざあなかったんが?」
「もしかして、雨で増水した洛陽川に流されて……」
「馬鹿こけ。チョーバツが『ひとくいどうにとじこめられています。たすけてください。まことつよしとおるじんたみちる』ちゅうメールば送ってきよったざんが」
「チョーバツのやつ、嘘こいたんでねか?」
「まさか……」
「じゃ、どこにおる」
「…………」
伊豆宮たちも洞のなかに入った。ようやく体力を回復した比夏留も、空きっ腹を抱えて先輩たちに続いた。
「これが〈人喰い洞〉……なんだか怖いわね」
比夏留がそう漏らすと、
「そんなこつ、どうでもええんじ!」
村長が怒りを爆発させた。
「剛はどこ行ったんざ。剛を探さんか!」
「でも、これでは……」
村人のひとりが狭い洞内を見回して、
「探しようがないですじ……」
べつの村人が言った。
「チャンプ、もしかしたら、あっちの……」
そのとき。
「けたぐりサンバ」のメロディが陽気に流れだした。白壁はあわてて携帯を見た。
「誠から?」
百合子の問いに、白壁はうなずいた。だが、その顔は少し曇っていた。
「何? 悪い知らせですか」
比夏留が勢い込んできく。
「いや……そういうわけじゃねえんだが……」
「じゃあ何なんですか。早く……早く教えてくださいよっ」
白壁は、携帯の画面を比夏留のほうに向けた。
わわわわわ
たたた¥*%?
「はあ……? 何これ。ほんとに誠くんからなんですか?」
「まちげえねえ。誠のアドレスから来てるからな」
「でも、この文章……なんのことですかね?」
「さあ……」
羊歯山がずかずかとやってくると、白壁の胸ぐらをつかんだ。
「おい、剛はどこざ」
「知らねえよ」
「チョーバツにきけや。剛たちが今、どこにおるんか、そりと、誰が犯人なのか、をな」
「わかった。わかったから、手をはなしゃあがれ」
白壁は、太い指で、打ちにくそうに携帯を操作する。
今、どこにいる
すぐに返事が返ってきた。
洞
一同は顔を見合わせた。白壁はまたメールを打った。
犯人は誰なんだ
今度も返事は早かった。
はそこんは、たしまや
「パソコンは但馬屋、だと? なんじゃ、こりは」
画面をのぞきこんでいた羊歯山は叫んだ。
「チョーバツは、わしらを馬鹿にしとるんか。こっちは犯人は誰かときいとるんじ。なにが但馬屋電器の宣伝なんぞ教えてもらわんでも知っとるぎ! 待てよ……」
羊歯山は、隣にいた、亨の父親をにらみつけ、
「おめえのせがれが犯人でねえんがい。チョーバツは、但馬屋の息子が犯人と言うとるんじゃねが?」
「ちょ、ちょっと待っちくり、チャンプ。俺がせがれはそんなこと……」
「いいや、わかんねじ。おめえら親子がぐるになって、剛をひでえ目にあわせたんじねえんが。おい、但馬屋、おめえ、今度の村長選挙ば出るち噂、あれ、ほんとか」
「チャンプ、今、ここでそんな話題ば……」
「うるせっ。わしら親子ば追い落とすつもりなら、正々堂々とやらんが。こんな姑息《こそく》なやりかたで……」
「俺はほんとに知ら……」
羊歯山のパンチが亨の父親の右頬に決まった。歯が折れる音がして、亨の父親は洞窟の地面にどすっと尻から倒れた。血にまみれた歯を、べっと吐きだし、
「村長だつ思って、こりまで我慢しとったが、もう許せね。俺がせがれを犯人呼ばわりしたばっかりか、暴力ふるうとは、なにが村長だ。なにがチャンプだ。村長選挙できちんと勝負するつもりだったが、待ってらんね。ここで決着つけっちゃるじよ」
「のぞむとこざあね」
今にも殴りあいをはじめようとするふたりのあいだに、〈生蕎麦・山下屋〉の主人が割って入った。
「ふたりとも待ちんか。子供らの居場所がここでねえことはわかった。早う、あっちに行ってみるじよ」
憑《つ》きものが落ちたように、ふたりは腕をおろした。
「あの……『あっち』って、どこなんですか?」
比夏留がたずねると、山下屋の主人は、わかりきったことをきくな、とばかりに言い捨てた。
「もちろん、〈人杭洞〉ざね」
◇
洞を出て、羊歯山を先頭にぞろぞろと移動する。月が皆の影法師を畦道《あぜみち》に長く伸ばす。
「それじゃあ、〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉は同じものじゃないんですか?」
比夏留の問いに、村人たちは皆、呆れたような顔で、
「あたりまえでねか。〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉……まるでちがうでねか」
「一緒にしか聞こえませんよ!」
「あのな……〈人喰い洞〉……だろ? 〈人杭洞〉……だろ?」
村人はゆっくりと発音した。たしかに、〈人喰い洞〉は後半が上がっているように聞こえるし、〈人杭洞〉は一旦さがってから少しあがるように聞こえる。
「も、もしかしたら、それって、中国語の四声……」
「そうじ。この村の創始者は大陸から渡ってきた人ざね。だから、大陸風の発音が残ってるんじ」
現代中国語では、第一声(五の高さにはじまり、五の高さに終わる高平調)、第二声(三の高さにはじまり、五の高さで終わる高昇調)、第三声(二の高さから一の高さに下降したあと、四の高さにあがる降昇調)、第四声(五の高さから一の高さに急降下する高降調)の四つの発音があり、それぞれ別の言葉として認識される。つまり、この村の村人は、〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉を、発音を変えることによって完全に使い分けていたというのだ。
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿なちゅうても、そうなんで」
「――で、その〈人杭洞〉というのはどこにあるんですか」
「この天津山をぐるっとまわったところでな、ちょうど裏っ側ざ。ここにおらんということは、そっちかもしんね」
「てゆうか、そっちに決まってるじゃないですか」
比夏留がそう言っても、村人たちはなぜ比夏留が怒っているか理解できない様子だ。
ぬかるんだ田舎道を、ショベルや農具を担ぎ、二時間ほどかかって、やっと一同は〈人杭洞〉のまえまで来た。外観は〈人喰い洞〉とよく似ており、入り口が土砂で封鎖されている点もそっくりである。
「あちゃー、こっちも崩れとったか」
「まちがうのも無理ねえじよ。子供らがこんな遠いとこまで来とるとは思うとらなんだがい」
「こっちの洞は深いで、日頃から、近寄っちゃなんね、て言い聞かせてあったからぬう」
羊歯山が比夏留のところにやってきた。
「おい、おめ」
「はい……?」
「もっぺん、この土砂、のけてくりや。さっき、やったみてえにちょちょいちょい、とな」
「はあ……」
比夏留はげっそりした。さっきの技は、とてもではないが「ちょちょいちょい」とできるようなものではない。しかも、二度目となれば当然腹も減る。空腹で身体に力が入らない。
「あの……やってもいいんですけど、そのまえに何か食べさせていただけませんか」
「馬鹿こくな。せがれの命がかかっとうじ。いじきたねえ野郎ざのう。おめ、人命と腹減りとどっちが大事がい」
どっちも大切だ、と言いたかったが、我慢した。
「洞の入り口さえあけてくれりゃあ、いくらでも泥鰌鍋ば食わせてやるじ。だから、とっととやっちくり」
ぷしゅーっと空気の抜けた風船のようにしぼむ比夏留。
「お願いです。なんでもいいからちょっとだけ食べさせて」
「そんな時間はねがっ。やり、ちったら、早くやり!」
比夏留は泣きそうな顔で先輩たちを振り返ったが、
「ごめんね、比夏留ちゃん……こんなことになると思わなかったから、食べものは全部、置いてきちゃったのよ……」
犬塚がすまなそうに言った。
「こらっ、はやくやらんか。手遅れでせがれが死んだら、おめのせいだっからな」
「何言ってるの。うちの諸星は善意で手伝っているんですよ。強要するのはやめてください」
伊豆宮が毅然《きぜん》として言ったが、羊歯山は彼女を荒々しく突き飛ばすと、
「善意も糞もあるか。せがれが死んだら、おめら全員、この村から生きて出せねっぞ」
「なんだと、この野郎!」
白壁が腕まくりしたが、比夏留は彼を押しとどめて、
「なんとか……やってみます。だから、喧嘩しないでください」
そう言うと、一本足でよたよた回転しはじめた。
「だいじょうぶかしら、比夏留ちゃん……」
「さあ……ダメっぽいけどな」
先輩たちがささやくなか、比夏留は、よたっ、よたっ、と危なっかしく回る。亀の歩みより遅かったその回転だが、それでもしだいに速度をあげていったとき。
ぎゅーっぐるぐるぐるききゅーっ
比夏留のおなかが盛大な音を発し、同時に彼女はその場に仰向けに倒れた。
「諸星さんっ」
「比夏留ちゃん」
駆けつけた先輩たちに抱えられた比夏留は、聞き取れないほどの小さな声で、
「お……なか……へった……」
三人の先輩は深いため息をついた。
「おおい、ヘリに吊りさげられて、役場にショベルが来たじっ。もうじき、こっち来るざあよ」
役場の職員が大声をあげて駆けてくる。
「ぶっふふふふふ。待ちかねたざね。こりで、おめらの馬鹿げた技に頼らずともようなったじ。おお、こっちざ、こっちざ。早うしろ」
羊歯山は、嘲笑を比夏留に投げつけると、両手をあげてどたばたとショベルを迎えに行った。
◇
さすがに文明の利器はたいしたものであった。パワーショベルは、ものの二十分ほどで、〈人杭洞〉の入り口を塞いだ土砂や岩を取り除いてしまった。
こちらの洞窟は、大小の鍾乳石や石筍が上下から生えており、その点が〈人喰い洞〉とちがう。
「なーるへそ。こいつを『杭』に見立てたってわけか」
白壁が、入り口近くで立派に育った石筍を撫でた。
羊歯山たちは、先を争って洞のなかに入った。
「剛ーっ」
「亨ーっ」
「満ちるーっ」
「甚太ーっ」
返事はない。ショベルカーとともに到着した大型サーチライトによって、強力な光が洞窟に送り込まれたが、〈人喰い洞〉と異なり、かなり奥が深いようで、光は途中までしか届かない。しかし、その光のなかに子供たちの姿はない。
「おかしいのう。入り口の近くにおってもええんざが……」
言いながら、奥へ奥へと入っていく。
「あー、あー、あー、おなか減りましたっ。村人が女鬼の供養のためにここに置いてたっていうお蕎麦、残ってないのかなあ」
比夏留がきゅっきゅっと腹部をさすった。
「あのね、何百年もまえの話なのよ。残ってるわけないでしょ」
「あー、あー、あー、あー、おなか減った。このへんに埋まってたりして……」
言いながら、比夏留は地面を足先で軽く掘った。
何か白っぽいものがつま先にひっかかり、
「蕎麦、じゃないですよね。まさか、うどん……?」
比夏留はそれをつまみあげて、
「びひゃあああああああああっ」
なにごとならんと皆が集まってきた。比夏留がつかんでいるもの……それは、人間のものとおぼしき頭蓋骨であった。
「ま、まさか、子供たちの……」
羊歯山が比夏留から髑髏を奪いとったが、直後、ふうっとため息をつき、それを地面に放りだした。
「関係ねっ。いつのもんかわかんねが、古い古いもんざ」
村人たちが、洞内の地面を掘り起こしてみると、出るわ出るわ、黄色く変色した人骨がやたらと出てきた。およそ十体分ぐらいであろうか。伊豆宮がそのひとつをしげしげと見つめ、
「この骨……焼いた痕があるわね」
「焼いた痕……? 火葬されたってことですか?」
と比夏留。
「たぶんね。それに、ここの地面の土……灰が一杯混じってるわ。たぶん、ここは昔、火葬する場所だったのよ」
「くだらぬ」
羊歯山は骨のうえに痰を吐き、
「古い骨のことなんぞどうでもええじ。――もっと奥へ入るんざ、ええな!」
言いながら、彼がライトの向きを変えたとき、光輝のなかに何かが浮かびあがった。それは……。
「チョーバツ!」
「誠!」
羊歯山と百合子が同時に叫んだ。
頭髪も衣服もどろどろになった誠は、鋭い目でふたりを見つめていたが、操り人形の糸がぷつっと切れたように、その場に崩れ落ちた。
「ま、誠っ」
百合子が駆け寄ろうとしたが、誠のすぐそばに横たわっている血だらけの物体を見て、悲鳴をあげた。
それは、ヒロシだった。
「ヒロシが死んどるじ」
「いや、待て……」
村人のひとりが、脈を取った。
「気ぃ失っとるが、まだかすかに息があるざあね。今から病院運べば、なんとかなるじ!」
「ちょうどヘリが来とるっ。県立病院に運ぶざい!」
羊歯山は苛立ちを隠さず、
「そんな頭のおかしいガキ、死のうが生きようがどうでもええじ。チョーバツしかおらんのか。剛はどこざ」
そう吐き捨てると、誠のほうに進もうとしたが、凝固したように歩みをとめた。彼の視線は、誠の身体のすぐうえの天井付近に集中していた。
「ひやああああああっ!」
羊歯山は尻餅をつき、情けない声をあげた。比夏留たちも、そちらに目をやり……。
「なんだ、あれ」
白壁が震え声で言った。洞窟の天井のあたりに、白い薄物をまとった、やつれ果てた女性が浮かんでいる。髪の毛はざんばらで、顔は青ざめ、その下半身は空間に溶け込んで消えてしまっている。
「わたくしは……この村のもので、くめと申します……。わたくしの申しますことひととおり……おききなされてくださりませ……」
この世ならぬものは、ゆっくりと話しはじめた。一同は、手足を動かすこともならず、宙に浮かぶ彼女を見つめるしかなかった。
「わたくしは、お殿さまのご寵愛《ちょうあい》を受けて懐妊し、ひそかに男児・長松《ちょうまつ》を出産いたしましたが、お世継ぎに決まっておられたご嫡男《ちゃくなん》さまご死去にともなうお家騒動に巻き込まれ、わたくしのことをこころよく思われぬ奥がたさまの内命を受けたある男に愛児を奪いさられたうえ、もともと蕎麦を食すると身体に変の来る体質であったるにもかかわらず、四肢を押さえつけられて、大量の蕎麦をむりやり食べさせられましてございます。そのせいでわたくしは命を失いました」
「蕎麦アレルギーだったのね……」
伊豆宮がぽつりと言った。
「わたくしは、この場で火葬に処され、遺骨は川に流され、灰はあたりにばらまかれましたが、愛児を想う念の激しきにより成仏《じょうぶつ》することかなわず、魂魄《こんぱく》この洞にとどまりて、迷いこむ子供あらば、わが子長松ではないかと顔を見、異なるときは、落胆の思い、怒りに転じて、その子供をくびり殺すこと幾たびぞ。あの洞には鬼が棲むと噂され、鬼封じのため、わたくしの嫌いな蕎麦を打って供える風習もできました」
「供養のためじゃなくて、封じるためだったとはなあ」
と白壁。
「ですが、本日ただいま、わたくしはようやくわが子長松と対面することができました。もう二度とはなしはせぬぞ、長松。母と一緒に、参りましょうぞ」
くめの霊がするすると下降し、誠を抱えあげようとしたとき、比夏留が進みでた。
「待ってください。その子は、長松さんなんかじゃありません。チョーバツって呼ばれてるのを聞き間違えたんだと思いますが、本当の名前は誠くんっていうんです」
「何……?」
「よく顔を見てください。あなたのお子さんとちがうでしょう? お母さんなら、自分の子供の顔を見間違うはず、ないですよね」
「な、何を言う。この子は長松です。わたくしの可愛い子供です……」
くめの霊は、誠の顔をのぞきこんでいたが、
「ち、ち、ちがう……長松じゃない……。それじゃあ、長松はどこに……」
「長松さんは、かわいそうですが、もう何百年もまえに死んだはずです。今ごろ、あの世であなたが来るのを待っていますよ」
「そんな……そんな……長松が死んだだなんて……」
霊は泣きだした。
「わたくしは四百年間、ここでわが子の来るのを待っていました。そのあいだに募《つの》りに募った思慕の念は、子供が死んだといわれても、いまさら消せるものではありませぬ。わたくしは……わたくしはどうしたらよいのでしょう」
比夏留は少し考えていたが、
「あの……ちょっとしたご提案があるんですけど……」
「何でしょうか」
「ここに……」
比夏留は、地面に横たわったままのヒロシを指差した。
「子供がいます。不幸続きのせいで、精神もおかしくなってしまってるんですけど、もしかしたら、誰かが愛情を注いで、守ってあげれば、もとにもどるんじゃないかと思うんです」
「それを……わたくしに……?」
「はい。できれば」
くめの霊は、しばらくヒロシを見つめていたが、やがて、こくりとうなずき、
「消えた……」
皆は、口をあんぐりとあけていつまでも、何もない空間を凝視していた。
「ええい、ヒロシもチョーバツも関係ねっ。剛はどこじ。剛っ、剛ーっ!」
村長の怒声で我にかえった一同は、洞の奥へ奥へと足を踏み入れていった。しかし、いくら探してもほかの子供たちの姿はなく、いくら呼んでも彼らからの返事はなかった。
「こうなったら、チョーバツば叩き起こして、剛がどこ行ったか吐かせるじ」
村長は、あらがう百合子を投げ飛ばすと、意識を失っている誠の胸ぐらを掴み、
「おい、起きろ、このガキ。わしの子をどこへ隠した。こら、言うてみっ、言わぬかっ」
誠が目を覚まさないので、彼の頬に張り手を喰らわせる。それを見た村人たちが、
「チャンプ、いくらなんでもやりすぎざい。相手は子供ざで……」
「やかましっ。わしは村長で、わんこそばチャンピオンじ。何をしてもええんざっ」
羊歯山の形相は、鬼のように見えた。
「見つかったじ。子供らが見つかったじ!」
その声は、洞窟の外からもたらされた。
「なんじと!」
羊歯山は誠を地面に投げ捨てると、どすどすと外へ出た。
「どこにおったんじ」
「下流ざね。洛陽川の下流に流れ着いてたじ」
「洛陽川の……? どういうこつざ」
「わかんね。わかんねが……とにかく四人とも疲労しとるが命に別状ねっとのこつだ。よかったなあ」
全員救出の朗報が伝播《でんぱ》していくなか、比夏留のおなかが、「ぎゅー、きゅるきゅるきゅーっ」と歓びのファンファーレのように鳴りだした。
◇
その日の深夜。
百合子の親戚の家の一階で、比夏留はインスタントラーメンを茹でていた。二十個のラーメンは、「坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》ラーメン」とか「カピバララーメン」とか「おにひとでラーメン」とか、どれもこれも聞いたことのない名称で、しかも、賞味期限の切れたものばかりだったが、乾物屋にむりを言って、わけてもらったのだ。先輩たちは、疲れているとかで、夕食もとらずに泥のように寝てしまった。比夏留はひとり、ラーメンを茹で続ける。
「そうだ……」
比夏留は、そっと犬塚の寝床に近づいた。
(犬せんの寝顔、かわいいなあ……)
上下する胸をしばらく見つめていたが、意を決して、胸ポケットをそっと探る。
(あった……)
それは、犬塚の携帯である。
(犬せん、ごめん。どうしても電話したいんです)
ゴキブリのようにしゅしゅしゅしゅっと部屋の反対側に逃げ込むと、比夏留は暗記している番号を押した。
「もしもし、保志野くん……? ごめんね、こんな夜中に。寝てた? あっそう。うん、そうなの。今、長安村にいるんだけど、いろいろあって……」
比夏留は、今日一日のできごとを克明に保志野に話した。
「へえ、それはお疲れさまでした。洞窟を崩さずに、岩や土壌だけ粉砕するなんて、すごいなあ。さすが〈独楽〉、多彩な技があるね」
「見よう見まねだったんだけど、うまくいったの」
「それにしても凄い技だな。何ていう名前?」
「名前はとくにないけど……」
「じゃあ、ぼくがつけてあげましょう。〈秘技【独楽】gotta土壌〉というのはどうですか」
「そんなことどうでもいいから、この村の謎を解いてよ。――あ、待って。ラーメンできたから」
比夏留は井にラーメンを移すと、それを抱えて、左手で携帯、右手で箸をあやつりはじめた。
「ぼくも、白壁さんの言ってる文献はふたつとも読みましたよ。『○○家三代実記』のほうには、くめという人がお家騒動に巻き込まれて、奥方の密命を受けた蕎麦屋に殺されたこともちゃんと書いてありました」
「ふーん、そうなの。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「結局、そのふたつの洞窟、〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉は、もともとつながっていたんですね? それを、誰かが途中に壁を作って、分断した。分断した、というより、〈人喰い洞〉から〈人杭洞〉のほうに行けないようにしたんでしょう。でも、なんのために……」
「わからないなー。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「ヒロシという少年は、ずっと〈人杭洞〉の側に棲んでいて、たぶん泥鰌や迷い込んだ猫なんかを食べて、飢えをしのいでいたんでしょう。〈人杭洞〉の奥には地下水脈があって、洛陽川とつながっていた。目が退化した泥鰌が洛陽川にいることでも、それはわかります。少年はたぶん、洞窟から出るときは、その地下水脈に飛び込んで、洛陽川に抜けていたんですよ」
「白せんもそう言ってた。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)。ちょっと待って。おかわりしてくるから」
「最初、ヒロシという少年は誠くんに襲いかかった。だけど、くめに憑依《ひょうい》された誠くんに逆にやられてしまい、その場に気絶してしまった。誠くんは、くめに誘われて、ひとりで洞窟の奥に入り込んだんです。剛くんたちは、気絶したヒロシを誠くんの死体だとずっと思いこんでいた。そのあと、洞の奥に向かった満ちるちゃん、亨くん、甚太くんたちは、誠くんにつかまって、川に投げ込まれ、洛陽川まで流された。しまいにはとうとう剛くんまでが同じ目にあった……そんな経緯でしょうか」
「うん、子供たちもそう証言してるみたい。誠くんにやられた、ってね。みんなも、誠くんを見直した、っていうか、一目置くようになったみたい。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「ヒロシくんの容態はどうなんですか」
「最初、誠くんの反撃で怪我をしたんだけど、そのあと、剛くんたちに殴られたり蹴られたりしたみたいで、骨折とか内臓破裂があちこちにあるんだって。でもね、県立病院からの連絡によると、超人的な回復力でぐんぐんよくなってるみたい。どうしてだかわかる?」
「くめの力でしょうか」
「ぴったしカンカン! ちょっと待って。おかわりしてくるから」
「だいじょうぶですか、そんなに食べて。明日はわんこそば大会なんでしょう?」
「どうせ私は出られないの。白せんが出るのよ。――でも、不思議ね。みんなは、洞窟のなかで妖怪じみた気味悪い声が聞こえてたって言ってるみたいだけど、私の印象じゃ、くめという人はそんなことしそうにないもの。空耳だったのかなあ。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「それはね、たぶん……捜索してた村の人の声ですよ。〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉はなかの壁一枚隔てて、つながっていた。だから、〈人喰い洞〉のほうで村の人たちが子供を呼ぶ声が、〈人杭洞〉のほうでは、奥から妖怪の声みたいに聞こえていたんでしょう」
「なーるへろ。保志野くんにかかったらなんでも炎天下のアイスみたいにとけちゃうから、毎度びっくりしている比夏留です。ちょっと待って。おかわりしてくるから」
「でも、とけないこともあるんですよね……」
「なにが?」
「さっきも言ったけど、もともとつながっていた〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉の中間に壁を作って、〈人喰い洞〉と〈人杭洞〉の行き来をさえぎったのはどうしてでしょう。山をぐるっと廻っていくより、洞窟を通っていったほうが早いし、便利なのに……。それと、わんこそばの起源の言い伝え……。そういえば、比夏留さん、パソコン通信で『犯人は誰なんだ』とメールしたら、『パソコンは但馬屋』という返事が来たって言ってましたよね……」
「そうそう。村長は、但馬屋電器の社長の息子が犯人じゃないかって言いだして、たいへんだったんだから」
「ふーん、但馬屋……但馬屋……タジマヤ……。わかったあああああああっ!」
保志野は携帯から唾が飛びだすような大声を出した。来た来たと比夏留は舌なめずりをした。
「わかったぜ、何もかも。そうか、そういうことか」
「なにがわかったの?」
「教えてやろうか、比夏留」
「おねがいします。ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「資料にもあるとおり、当時の藩主義秀という人物はかなり血の気の多い性格だったんだ。それで、気に入らない家臣や自分の意向に逆らう村のものはどんどん処刑した。といっても、いくら藩主でも、見さかいなく人を殺していては、いずれ幕府の耳に入り、藩がお取りつぶしになってしまう。だから、殺した相手の死骸をひそかに火葬にして、闇に葬ってしまった。その火葬の場所が、〈人杭洞〉のあたりだったんだ。比夏留、おまえが見つけた死体は、藩の手で殺されて、焼かれた人たちのものさ」
「ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「藩は、秘密の火葬場を誰にも知られたくなかった。それで、洞のまんなかに壁を作って、村から行けないようにした」
「根拠はあるの?」
「もちろん。蕎麦をこの洞窟に供える風習は、くめの祟《たた》りを防ぐためにはじまったのだろうが、なぜそれを『わんこそば』と呼ぶようになったのか。それは……藩・火葬場がなまったにちがいない」
「藩・火葬場……わんこそば……ずるずるずるずる(ラーメンをすする音)」
「それと、『犯人は誰なんだ』というメールに返事をしたのは、誠くんだけど、そのとき彼はすでにくめに憑依されていた。つまり、メールの返事は、くめが書いたんだ」
「幽霊がメールを?」
「肉体は誠くんだから、パソコン操作の知識はある。けど、意識はくめだから、『犯人は誰なんだ』という問いに、自分を殺した相手の名前を答えたんだ。ただし、昔の人だから、つい右から書いてしまった。『はそこんはたしまや』は、『パソコンは但馬屋』じゃなくて、『やましたはんこそは』……と読むのさ」
「やましたはんこそは……山下わんこそば!」
「そう。奥方の命令で、蕎麦アレルギーのくめにむりやり大量の蕎麦を食べさせて殺したのは、生蕎麦・山下屋の先祖にちがいない。おそらく、くめを暗殺した功によって、藩出入りの蕎麦屋になったんだ。それで、今みたいな、大量の蕎麦を食べさせるやりかたがこの村に定着したんだろうよ」
「…………」
「じゃあ、俺はもう寝るから。明日の大会の健闘を祈ってる」
「だから、私は出ないんだってば」
「そうかな……? おやすみ」
比夏留は、つー、つー、という音をしばらく名残《なごり》惜しそうに聞いていたが、ため息をついて、残りのラーメンを平らげにかかった。
(パソコンで右から左に書くのは、さぞたいへんだっただろうな……)
と思いながら。
エピローグ
「たいへん、たいへんですっ」
犬塚が部屋に駆け込んできた。
「どうしたの、いったい」
伊豆宮が問うと、犬塚は泣きそうになりながら、
「白せんが……白せんが……」
あとは言葉にならない。伊豆宮と比夏留、それに百合子の三人は、表に飛びだした。そこには、担架《たんか》に載せられた白壁の姿があった。顔が腫れあがり、肩や腕も紫色になっている。とくにひどいのは両手の手首で、倍ほどの太さに膨《ふく》れあがっている。
「大会まえに腹を減らしておこうと思って散歩してたら、林から急に、四、五人出てきやあがって、あっという間にぼこぼこにされちまった。いつもなら、あんな連中の十人や二十人、なんてこたあねえんだが、うっかり四股を踏んじまってよ、そのあいだにやられちまったんだ。あいつら、仕切りってものをわかっちゃいねえ」
「相手が誰だかわかってるの?」
「怪傑砂布巾みてえな覆面してやがったから、わかんねえ。だがよ、どうせ村長の手下だろ。おいらにわんこそば大会で優勝されたくねえってわけだ」
「出場は無理?」
「ほれ、これ見ねえな」
白壁は両の手首を見せた。
「手首の骨……腕骨《わんこつ》ってのかな、それがバキッと折れちまってる。箸も椀も持てねえよ」
百合子がいきなり白壁に抱きついた。
「ご、ごめんなさい、白壁くん……わ、わ、私のためにこんな目にあわせてしまって……私が悪いんだわ。私が白壁くんをこんな村に呼びさえしなければ……」
「い、いいってことよ。気にすんなよ」
白壁は真っ赤になっているが、百合子は彼の胸にとりすがってぼろぼろ涙を流している。
「腕骨バキッは〜腕骨バキッは〜恋の花〜」
比夏留が小声で歌うなか、白壁は百合子につきそわれて、病院に運ばれていった。
「どうするのよ!」
伊豆宮が叫んだ。
「もう大会がはじまってしまうわ。このままじゃ、またあの村長に優勝をさらわれてしまう」
「比夏留ちゃんを出しましょう、伊豆せん」
犬塚がまなじりを決して、そう言った。
「だめよ。男しか出ちゃいけないのよ。そういう封建的なルールなんだってば」
「いえ……ここまでされて黙って引きさがるわけにはいきません。――行きましょ、比夏留ちゃん」
「は、はいっ」
比夏留は犬塚の背中から、炎が燃えあがっているように見えた。
◇
「ほほう、あの相撲取りは欠場か。でけえ口ば叩いてたが、直前になって、ぶるっちまったざあ、ぶっはははは」
案の定、羊歯山は大口をあけて笑った。彼は、羽織袴という正装で、意気込みのほどをアピールしている。
「闇討ちにあって、大怪我したんです。あなたがやらせたんでしょう」
犬塚が、火のような視線を羊歯山にぶつけた。大会会場である村民会館の二階の会議室では、すでに準備が整えられていた。普段はタイル張りの部屋に畳が敷かれ、横長のテーブルが何列にも据えられている。そこに全百二十八名の出場者全員が座っていた。昨年の覇者である羊歯山は、最前列のテーブルについていた。
「な、何を言うんじ。痩せても枯れてもこの羊歯山、長安村の村長を拝命しとる身ざ。そんな没義道《もぎどう》なまねはでけぬ。それに、そんなことをせずとも、わしの実力なら楽々ぶっちぎりで優勝でけるんじ。ぶっはははははは」
「じゃあ、白せんのかわりに私と諸星比夏留が出場します」
「馬鹿っこくな。この大会は、男と男の真剣勝負ざ。女は出ちゃあなんね」
「そういう明文化された規定があるんですか」
「そ、そりはねえじ。ざども、昔っからそう決まっとるんざい」
「昔はいざしらず、今の時代にそんな古くさい規則はあわないと思います。女性の参加を認めてください」
「大会委員長!」
羊歯山が怒鳴ると、禿げ頭の男がおどおどと顔をあげた。山下屋の主人だ。
「なんでしょうか、先生」
「女は、由緒あるこの大会に参加しちゃならんとわしは思う。しかし、そういう規定はねえ。こりは委員長であるおめに一任するから、おめが決めろ」
「き、急にそう言われても……」
「うるせ。とっとと決めり!」
観客のなかから、ひとりが進みでて、
「女の参加を認めてやってもええ、と俺は思うじ」
それは、亨の父親で但馬屋電器の主人だった。
「この大会は伝統ある催しだが、開かれた催しでもある。それとも、チャンプ、あんたは女に負けると思うて、びびっとるんか」
「ば、馬鹿言うねっ。わしが女に負ける気遣いねっ」
「そりならよかろっが。俺は、この学生さんたちにせがれの命ば救われた。その恩もある。チャンプ、あんたんとこの息子もそうでないんか」
「わ、わしは……」
「女の参加ば、認めてやろうじねか、のう」
そうだそうだ、という声が観客のあいだからわきおこった。羊歯山は苦虫を噛みつぶしたような顔をして唸っていたが、山下屋のほうを向くと、
「おい、おめが決めろと言うたはずじ。わしに逆らって、長い伝統を潰して、女の参加ば認めっか、そりとも、わしの言うとおり、今までどおりにするか……早う決めんが!」
脅しである。山下屋は蒼白な顔で、
「い、い、今までどおりにするじ……」
「聞いたか、みんな。大会委員長がこう言うとる。女の参加ば、今年も認めんことになった。文句あるか」
犬塚が、口を一文字に引き結んで、つかつかと村長のまえに立つと、
「それならけっこうです。私たち、田中喜八学園民俗学研究会のものは、全員、参加させていただきます」
「おめ、耳はあるんけ。委員長が今、言うたざあね。今年も女は……」
「私たちは、実は三人とも男なんです」
「ぶっはははは。馬鹿こく馬鹿こく。せっぱ詰まって、無茶苦茶言いだしよったがい」
「いいえ、ほんとうです。嘘だと思ったら……」
犬塚は言葉ひとつひとつを押しだすように、
「私の身体を調べてください。――そこの人」
犬塚は、村役場の若い男性職員を指名した。
「一緒に来てください。お願いします」
「犬せん……」
比夏留は、それが犬塚にとってどんなに恥ずかしいことか知っている。犬塚は、血の気のない、真っ白な顔で、その職員とともに会議室を出ていった。
「ふん、くだらん、くだらん、くだらん、くだらん。嘘をつくなら、もう少しうまい嘘をつくがええじ。オカマだニューハーフだちうが、あれが男ざったら、わしは首くくってもええじよ」
役場の職員はすぐに戻ってきた。彼は、ぽかんと口をあけ、とても信じられないというように何度も首を横に振ったあと、
「チャンプ……彼女は……男でした」
「ま、まさか」
「本当です。ほんとにほんとなんです!」
客たちが騒ぎだした。
「おおい、村長、首くくれっ」
「約束だぞ、村長」
羊歯山は拳を握りしめて、歯がみをしている。
伊豆宮が、比夏留に耳打ちした。
「犬塚さん、きっとすごいショックを受けたと思うわ。ちょっと様子、見てくる。あとは、諸星さんに任せます。よろしくね」
比夏留は強くうなずくと、立ちあがった。
「それじゃ、私の大会出場を認めてくださいますね」
「うう……うううう……」
出してやれ、出してやれ、のシュプレヒコール。途中からそのなかに、数人の子供の声が混じった。
「つ、剛……!」
それは、剛、亨、甚太、満ちるの四人だった。
「お、おめ……いつ病院から……」
「先生がもう帰ってええて。のう、父べ、俺からも頼む。この人らを大会に参加させてやっちくり。この村のわんこそばは、みんなで楽しく、おいしく食べるもんであってほしいんざ」
村長は、大会委員長に向き直ると、
「ちっ、しかたあんめい。それじゃ、この大会は、今回から男女問わず参加でけるもんとすっ。こりでええの」
「ありがと、父べ」
「ざがの……」
羊歯山は比夏留を突き刺すような目で見つめ、獅子吼《ししく》した。
「わしが女に負けるはずもねえ。おめら、目にもの見せてやるざあ!」
◇
「ようい、はじめっ」
大会委員長の掛け声によって、競技がはじまった。盛岡の大会は十五分勝負、花巻は五分勝負であるが、この村のルールは、食べられなくなるまでのデスマッチである。元椀と呼ばれる椀を手に持ち、なかの蕎麦を一口ですすりこむ。からになった元椀をちょいと上げると、隣に立っている給仕係が椀に入った一口分の蕎麦を放り込み、その椀を重ねていく。花巻や盛岡のものよりは多いとはいえ、この村のわんこそばも一回分の量は少ないが、それでも百杯、二百杯と食べると、そうとう腹にこたえる。薬味として、葱、海苔、削り節、まぐろ、とりそぼろ、なめこおろし、くるみ……などがあるが、それらを食べていては蕎麦が食べられないので、競技の際は薬味は取らないのが基本である。もちろん、つゆも飲まない。
「ほいっ、ほいっ、ほいっ、ほいっ」
「よっさあ、よっさあ、よっさあ、よっさあ」
「いーあるさんすーうーりゅーちーぱー」
「とんとことんとこ、すっとこすっとこ」
「うんこまちんたまきんたまぎんたま」
変な囃《はや》し声にあおられて、出場者は次々と蕎麦を平らげ、椀を重ねていく。しかし、比夏留はペースが遅い。ほとんどの出場者は三百杯を越し、羊歯山にいたっては四百杯の大台にのろうかという状況なのに、彼女はまだ二百杯と少しである。それもそのはず。比夏留は、ひと椀ごとにあらゆる薬味を椀のなかにぶち込み、つゆも味わってごくごく飲み干しているではないか。
「おいしーっ、このなめこおろし。薬味、おかわりねっ」
「あのー、差しでがましいこと言うようざが、あんまり薬味喰うと蕎麦が食べられねっぜ」
給仕が耳打ちしたが、
「だって、おいしいんだもん。もっともっと持ってきて」
「ああ……これで薬味のおかわり十回目ざあね」
しだいにリタイア選手が出はじめ、二十分を経過したあたりから、残っているのは三分の一の四十名ほどになっていた。しかし、彼らのほとんども、四百杯に届かずにリタイア。三十分をまわった頃にまだ食べ続けているのは、羊歯山と比夏留、それにあと三人の、計五人だけである。なかでも羊歯山はぶっちぎりで、すでに六百五十杯を越している。比夏留はまだ三百杯足らず。あとの三人は五百杯と少しである。
「ぶっははは。こりで今年も、わしの優勝ざな」
羊歯山は、ほかの出場者の様子を横目で見ると、勝ち誇ったように笑った。
はじまって四十分が過ぎたあたりで、三人がリタイア。残っているのは、羊歯山と比夏留だけである。ただし、羊歯山七百二十杯に対して、比夏留は三百八十杯と、約半分である。
そろそろ打ち止め感が来ているのか、羊歯山はしきりに腹をさすりながら、椀をあけつづけている。ペースもかなり落ちてきている。しかし、比夏留の積みあげている椀の少なさをみて、余裕の表情である。
「やはり、女は女ざ。わしの敵ではねっ」
だが、彼はふと、椀の山の横に重ねられた薬味の皿の数を見て、目の玉が飛びでそうになった。そこには、薬味皿がおよそ八百枚近く積み重なっているではないか。それを目にした瞬間、それまでに食べたすべての蕎麦が胃から逆流してきて、羊歯山は思わず「うっぷ」と口を押さえた。
(こ、こいつあ化けもんざ。だが、わしもチャンプ。女に負けるわけにいかねっじ。糞ったり……)
いっぽうの比夏留はまったくペースがかわらない。
「あー、おいしいなあ。幸せ。幸せって、食べることなのね。そうよ、比夏留ちゃん。るんるん」
わけのわからないことを言いながら、蕎麦を味わい、薬味を味わい、つゆを味わっている。羊歯山は、五十分かけて、昨年の自己最高記録八百二十一杯を更新したが、その時点で相当いっぱいいっぱいになっているようだ。羽織や袴の紐をゆるめ、ふう、ふう、と肩で息をしはじめた。しかし、彼は自分の勝利を確信しているらしく、極端にペースダウンした。八百五十杯を食べたとき、羊歯山はよろよろと立ちあがり、呑気に蕎麦をすすっている比夏留に指を突きつけ、
「どうざ。参ったか。降参したと言え」
「まーだまだ」
「何ざと」
一時間かけて、比夏留は五百二十杯だ。
「わしは八百五十杯ざ。いくらがんばっても、とうていおめえは追いつけねえじ。あの相撲取りみたく、病院にかつぎ込まれてもしらねえじよ」
「まーだまだ」
比夏留のペースは、最初とまるで変化がない。スポーツカーで飛ばしていた羊歯山に比べ、まるで重戦車のように、ゆるゆる、じわじわと突き進む。
「わしが助け船出してやっとるのに、そりならしかたねっ」
羊歯山は、座りなおすと、八百五十一杯目を苦しげに食べた。
「どうざっ、あきらめて白旗ば振れ」
「まーだまだ」
[#挿絵(img/02_249.jpg)入る]
一時間半が経過した。比夏留は、
「わんこそばをカツにして揚げりゃ、これがほんとのパン粉蕎麦」
などと言いながら、七百五十杯を突破した。しかし、羊歯山は八百六十杯目の最後のひとすすりから進んでいなかった。
「チャンプ、もうおしまいにされざあか?」
給仕がたずねたが、羊歯山はのろのろとかぶりを振り、
「ま……まだざ。あいつが……まだ喰っとるあいだは……わしは……」
「もうむりざね。身体壊しちまうじよ」
「わ、わしは……チャンプざ。敵に後ろを見せられぬ」
羊歯山は八百六十一杯目に箸をつけたが、箸の先はぴくりとも動かなかった。親の仇ででもあるかのように、椀のなかの蕎麦をにらみつけ、取組直後の関取のように、ふーっ、ふーっ、と荒い息をついている。
比夏留はというと、とうとう八百二十一杯、つまり、昨年の羊歯山の記録と並んだが、その食べっぷりには何の変化も見られない。おいしそうに、つるつると蕎麦とたわむれている。
(あいつ……とんでもねえやつざ。い、いや……そんなはずはねっ。もう、いくらなんでも限界のはず。呑気そうに見えるが、実は苦しいにちげえねっ。そうだ、ぜったいにそうだ。そうでなくってはこのわしが……)
「負けてしまう……」
「チャンプ、何かおっしゃいましたか?」
「い、いや……」
「もう、おしまいざあか?」
「馬鹿抜かせっ、わしはまだ喰うぞ!」
箸で蕎麦をひっかけて、口のなかに押し込んだが、それを啜りこむことができない。
「うう……うううう……うううううう……」
羊歯山の顔色が赤に、青に、黄色に、紫にと目まぐるしく変化しはじめた。
「チャンプ、もうむりだじ。限界ざあね」
「うう……ううううう……」
比夏留は、
「一杯が十円なら、これがほんとのワンコイン蕎麦」
などと言いながら、楽々と八百六十一杯目を平らげた。
「諸星比夏留、昨年のチャンピオンと並びましたっ」
どんどん、と太鼓が鳴らされ、客たちは、うわああっと歓声をあげた。
「行けっ、行け行けっ、ねーちゃん! 村長なんざ、抜いちまえっ」
「このねーちゃんはすごかざっ」
「村長をやっつけろっ」
羊歯山は立て膝をして彼らをねめつけ、
「き、き、貴様ら、このわしを……」
脅し文句を並べようとしたが、まるで迫力がない。そのあいだに、とうとう比夏留は八百六十二杯目をあけ、八百六十三杯目にかかった。
「順位入れ替わり。現在、諸星比夏留一位」
羊歯山は決死の形相で八百六十一杯目を飲み込もうとしたが、蕎麦が食道を入っていかない。
「うむむむ……むむ……苦しい……ううう……ああああ……」
苦しみもがく羊歯山に、剛がすがりつき、羽織を引っ張った。
「父べ、父べ、もうやめてくり。これ以上食べたら、父べが死んじまう。お願えだから、もう降参しちくりっ」
「だ……め……ざ……。わしは……喰う……じ……」
羊歯山は、箸をむりやり口のなかに突っ込んだ。
その瞬間。
八百六十一杯分の蕎麦が、溶岩のように胃から押し寄せてきた。
あわてて口を押さえたが、まにあわなかった。
羊歯山はなんとか下を向いた。
ずどどどどどどどどどど……っっっ。
まるで、ロケットの発射のように、膨大な量の蕎麦が、彼の口から床に向かって噴射された。羊歯山の身体はその反動で空中に浮きあがり、ものすごいスピードで屋根を突き破って、そのままどこかに飛んでいった。呆然とする皆が、視線を目のまえに転じると、そこには……。
蕎麦が羽織を着て座っておりました。
そんな騒動をよそに、比夏留はそのあとも食べ続け、とうとう千三百杯目を平らげたところで、
「もう蕎麦がありません」
との大会側の泣きが入った。
「じゃあ、薬味は?」
「それも、ありません」
「あ、そうですか。じゃあ……」
比夏留は、元椀のふたを閉じ、
「ごちそうさまでした」
大歓声がわきおこった。
「すごいっ、すごいじっ」
「すごすぎるじっ」
「俺あ、すげえもん見た。すげえもん見た」
「信じられんっ」
「とんでもねえねーちゃんざよっ」
「優勝ざあっ、すげえねーちゃん、優勝ざあっ」
村人たちは、比夏留を胴あげしようとした。しかし……比夏留は持ちあがらなかった。しかたなく、床に彼女をおろすと、役場の助役と亨の父親が前に立ち、
「諸星比夏留さん、優勝おめでとうございますじ」
「あ、ありがとございます……」
「つきましては、おめえさまにお願いしたいことがあるんじよ」
嫌な予感がして、比夏留は五センチほど後ずさりしながら、
「な、なんでしょうか……」
「この村の村長になっちくり」
比夏留はずっこけた。
◇
「あー、よく食べたなー」
すがすがしい気分で大きく伸びをする。きのうとうってかわって晴れあがった空は、大気圏まで見通せそうだ。山も、瑞々しい緑に彩られ、朗らかに笑っているようだ。
伊豆宮がうしろからポンと肩を叩き、
「よかったわね、諸星さん。あの村長も、大怪我はしたけど、命に別状がなくて」
羊歯山は、近くの小学校のプールに浮いているところを発見されたのだ。
「終わりよければ全てよし、ね」
「はい。でも……」
比夏留は、犬塚のことが気になっていた。大会の出場資格を得るために、自分が男であることを証明しなければならなかった犬塚。彼女にとって、それはかなりの精神的苦痛だったのではないだろうか……。
「比夏留ちゃんっ」
犬塚が、ポニーテールを揺らしながら、にこにこと家から出てきた。
「よかったわね、優勝して。ていうか、私は、比夏留ちゃんが出たら、まちがいなく優勝するって信じてたけどね」
「ありがとうございます。私も、久しぶりに『食べたっ』て感じです。満腹満腹」
言いながら、比夏留は、
(よかった。犬せん、だいじょぶそう……)
と胸を撫でおろしていた。
「ところでね、比夏留ちゃん……」
「は、はい?」
「私の携帯……まるでバッテリーがなくなってるんだけど……あなた、どうしてだか知らない?」
「しししししししし知らないです。わわわわわわわわ私、保志野くんに電話なんか……」
比夏留は真っ赤になって逃げだした。
[#改ページ]
本作中の引用は、
○「太平記二」山下宏明校注(新潮社「新潮古典集成(第三八回)」)を参考にさせていただき、一部を引用させていただきました。
校注者ならびに出版元に心より御礼申しあげます。
なお、本作品はフィクションであり、登場する地名、人名、団体名、宗教名その他はすべて架空のものであり、実在の事物には一切関わりありません。万一、類似が見られた場合は、偶然の結果であることをお断りしておきます。
[#地付き]著者
[#改ページ]
底本
講談社 KODANSHA NOVELS
邪馬台洞《やまたいどう》の研究《けんきゅう》
著 者――田中啓文《たなかひろふみ》
二〇〇三年十一月五日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
《→ 【
》→ 】
置き換え文字
|ヴ《※》 ※[#濁点付き平仮名う、1-4-84]濁点付き平仮名う、1-4-84
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
稽《※》 ※[#「稽」の「ヒ」に代えて「上」]「稽」の「ヒ」に代えて「上」
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6