蓬莱洞の研究
私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その1
田中啓文
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)常世《とこよ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女子高生|諸星《もろぼし》比夏留《ひかる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)後白河[#「後白河」に傍点]上皇
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[#挿絵(img/01_000.jpg)入る]
〈帯〉
先人なし、人外魔境の新♀w園伝奇ミステリ!
PS2かまいたちの夜2≠フ原作者渾身の新シリーズ!
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〈カバー〉
常世《とこよ》の森≠ナ続出する失跡事件、学園の秘密行事蛭女山祭《ひるめやまさい》£に現れる巨大な怪物、合宿中のいわくありげな旅館で発生する連続殺人!私立伝奇学園民俗学研究会を次々に襲う理不尽な事件に古武道の達人女子高生|諸星《もろぼし》比夏留《ひかる》と民俗学の天才高校生|保志野《ほしの》春信《はるのぶ》が挑む。かまいたちの夜2≠フ原作者が贈る学園伝奇ミステリの傑作。
本格伝奇と学園小説の融合実験です。伝奇ファンにも青春小説ファンにも駄洒落ファンにもアピールすべくがんばってみましたが、果たしてうまくいっているのでしょうか。いっててほしいなあ。伝奇ファンで学園小説ファンで駄洒落ファンの人はぜひご一読を。伝奇と学園小説は好きだけど駄洒落は嫌い、とか、伝奇も駄洒落も好きだけど学園物はダメという人も、だまされたと思って一度試してみてください。――ほら、だまされた。
[#地付き]――田中啓文
田中啓文(たなか・ひろふみ)
1962年大阪生まれ。'93年『背徳のレクイエム』で第2回ファンタジーロマン大賞に入賞しデビュー。SF、ミステリ、ホラー、ファンタジー、時代小説など多岐にわたる分野で活躍中。主な著作に『水霊《ミズチ》』(角川書店)『禍記《マガツフミ》』(徳間書店)『鬼の探偵小説』(講談社ノベルス)『ベルゼブブ』(徳間書店)など。'02年、「銀河帝国の弘法も筆の誤り」で星雲賞短編賞受賞。ゲームソフト『かまいたちの夜2』(チュンソフト)の脚本も手がけている。
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蓬莱《ほうらい》洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その1
田中啓文
講談社ノベルス
KODANSHA NOVELS
[#地付き]ブックデザイン=能谷博人
[#地付き]カバーデザイン=城所 潤
[#地付き]カバー・本文イラストレーション=瀬田 清
目次
蓬莱洞の研究
大南無阿弥洞の研究
黒洞の研究
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[#挿絵(img/01_007.png)入る]
蓬莱《ほうらい》洞の研究
夷倭宿《いはやど》の山中に仙境あり。名を蓬莱《ほうらひ》と云ふ。そこに於いては歳とらず、病あらず、人死なず、腹減らず、上にたつもの下に傅くものの隔てなく、四民同一にして、棲む人皆和し、生きながら極楽浄土に遊ぶが如し。俗に桃源郷と云ふは是なるか。蓬莱に至るには、竜ケ洞なる白く長き洞窟がその門なるべし。かつて竜の棲みたればこの名あり。その竜、いまだ長らへ、雨の降る日などその姿見ゆとは、土地の古老の云ひたり。多右衛門なる猟師、山中にて道踏み迷ひて洞に入り込み蓬莱にて二年《ふたとせ》の間暮らし、嫁を娶り、子らもまうけたれど、里心つきて洞窟を戻りたり。もとの里に出て振り返れば、すでに洞の口そこになかりしとぞ。ゆめ疑ふことなかれ、とは古人の言葉《ことのは》なり。
[#地付き]――「今昔諸国波奈志」より
古の文に曰く、夷倭宿の山中に竜の棲む蓬莱と云ふ仙境あるなりと云ひて、古今の行者、山伏、土地のものに至るまで、是を探しに行きしものども、帰りきたるは稀なり。おそらくは皆死にたるべし。竜に喰はれたるにや、狐狼毒蛇に襲はれたるにや、山賊の類に命奪はれたるにや、いずれにしても吾思ふに、桃源郷、蓬莱郷などと申すはこの世のものにあらず。それをやみくもに求むるは黄泉の入り口をあけるに等しければ、現世にて額に汗して達者に働き、父母また夫婦子供が恙なく、五体壮健にして食足り、寝酒の一合も飲めば、即ちこの世の蓬莱郷なり。
[#地付き]――「蛙頸山人夜話」より
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プロローグ
常世《とこよ》の森に行こう。
そう言い出したのが誰だったか、もうわからなくなってしまった。それほど皆したたかに酔っていたのである。
もう三月とはいえ、陽が落ちると急に肌寒くなる。そのうえ今日は、霧雨が樹々の葉をしとどに濡らしており、強い風も吹いている。だが、酔いのまわった彼らには、雨や風はかえって心地よかった。
手に棕櫚《しゅろ》の大葉をぐるぐる巻きつけて軍手がわりにし、有刺鉄線のびっしり巻かれたフェンスに飛びついて、ウエストサイドストーリーよろしく乗り越える。とはいっても、高さ四メートルを越えるフェンスである。のぼっているうちに、鉄条網の棘《とげ》は顔を手を足を突き刺す。皆が何とかフェンスを越えることができたのは、酔いのせいで痛みをあまり感じなかったせいである。
濡れた草のうえに降り立った彼らの身体は、血だらけだったが、それでもなお意気軒昂であった。
「ここは、田中喜八の私有地じゃないのか。見つかったらことだぜ」
誰かが言ったが、耳を貸すものはいなかった。
「広いよな。こっち側に来たのははじめてだ」
「迷い込んだら、まず生きては帰れないって話だ」
「じゃあ、俺、生きて帰る第一号」
「俺、第二号」
「どうしてあの田中の野郎が、ここを立入禁止にしてるか知ってるか。この森にはあちこちに洞窟がある。そのうちのひとつに、豊太閤《ほうたいこう》の財宝が眠ってるらしいんだ」
「豊太閤ってなんだ」
「豊臣秀吉《とよとみひでよし》だ」
「豊臣家の財宝……ほんとかよ。誰にきいた」
「坂上の婆さん」
「そりゃガセだ。あの婆あ、嘘ばかり言いやがる」
「そういえば、前に俺には隠れ切支丹の秘宝だとか言ってたぜ」
「何でもいいや、宝があるなら」
「俺のきいた話じゃあ、洞窟には竜が棲んでるらしいぜ」
「それこそガセじゃねえか。竜なんてこの世にいるわけねえさ。でも、財宝は……」
「よし、今から探しにいこう。財宝捜索隊だ」
「馬鹿言うな。明かりもないし、雨で月も出ていない。懐中電灯もない。真っ暗闇《くらやみ》じゃあ、洞窟なんて探せるわけがない」
「怖《お》じ気づいたのか。それじゃあおまえはここに残れよ。みんな行こうぜ」
「ま、待てよ。俺も行く。それにしてもひでえ風だな……」
そのとき。
ご……ももも……お……ぶ……おおお……おお……ん……
どこからともなく、全身の産毛《うぶげ》が逆立つような遠鳴りが聞こえてきた。風の音か。いや……ちがう……。
おん……ぶお……んんんん……んんん……ご……もも……んんん……
地の底からわきあがってくるようなその音は、暗い森の空間を響動し、酔った男たちの神経をざらざらと撫《な》であげた。
「竜の……声だ。竜が叫んでるんだ」
「そんなはずはない。これはきっと……何かの……」
うおん……ぼぼ……も……おおおおおん……んん……
「ひっ、たたた助けてくれ……」
「おたおたするな。何も出たわけじゃねえ。どうせこんな音は……」
いつのまにか霧雨はあがり、雲のはざまを押し開くようにして月光が森に射した。その光のなかに浮かびあがったのは、銀色に輝く一条の道と、そして……。
突き出された長い首が杉の木立をめきめきと押し倒しながら横方向に移動していく。男たちは呆然として、その凄まじい破壊を見つめるしかなかった。首の先端には頭部があり、二本の長い角が確認できた。
おおお……ん……んん……ぶお……おおおお……おおお……
その咆哮《ほうこう》はすぐ耳もとで爆発したように聞こえた。
「ひいっ」
「きあっ」
「うがはっ」
わけのわからない叫びを発しつつ、男たちはフェンスめがけて突進し、指が血みどろになるのも構わずよじのぼると、転がるようにして向こう側に転落した。鉄条網で顔を擦《す》りむいた者、落ちた拍子に腰をしたたか打った者、頭を岩にぶつけて脳震盪《のうしんとう》を起こしかけた者……だが、誰一人立ちどまる者はいなかった。皆、宙を泳ぐようにしてその場から逃げ去った。もちろん酒の酔いはとうにさめていた。
不様《ぶざま》な姿勢で駆ける彼らに追い打ちをかけるように、森を、いや、山全体を揺るがすほどの大音響が背後で轟《とどろ》いた。
ぶ……おおお……おおお……おおおおお……おおおおおおお……ん
1
まず、大盛りカレーライス(味が薄くて超まずい)。これでもかとばかりにカレールーのかけられたてんこもりの飯がスプーンで突き崩され、雪崩《なだれ》のように口に吸い込まれていく。まわりの級友たちは、三人前はありそうなその飯の山がみるみる消えていくさまを呆然と見つめていた。だが、それでことは終わらなかった。続いて、大盛りきつねうどん(味が濃くて超まずい)。洗面器のような丼に入ったうどんは、五玉はあるだろう。そのうえに揚げが五枚、蓋のように並べられている。スプーンを箸に持ち替えると、一分一秒でも惜しいというように、凄まじい勢いで麺を啜《すす》り込む。ずずずずっ、ずずずずずずっ、ずずずずずずずっ……。天井が落ちてきそうなほどの音を発しつつ、熱い汁もものともせず、大量のうどんを平らげていく。極めつけは、大盛りカレーうどんだった(味が薄いような濃いようなで超まずい)。本来、ここの学食のメニューはカレーライスときつねうどんと菓子パンだけなのだが、特別に注文して作ってもらったのだ。周囲に黄色い飛沫《しぶき》を撒《ま》き散らしながら、トドのようにうどんと格闘する彼女を、皆は少し離れたところから、檻のなかの猛獣を見るような目つきで見守っている。あっさりとその三品を片づけるのを目撃したあとでは、そのあと食べたジャムパン、クリームパン、あんパンが、デザートのようにしか映らなかった。しかも、彼女は、二時間目と三時間目の間の休憩時間に、早弁で、家から持参した弁当を食べている。それも、いわゆるドカベンという、縦横高さがほぼ同じの立方体みたいな馬鹿でかいやつにご飯をぎっしり詰めたものだ。
彼女は、誰かと早食いや大食いを競って、こんなことをしているわけではない。新学期がはじまってまだ三日目だが、その間の彼女の食べっぷりを見たことのある生徒たちは知っていた。これが、彼女の当たり前の食事スタイルなのだ。
あんパンを食べ終わって、立ちあがったとき、まばらな拍手が起こったが、気にとめた様子もなく、彼女は食堂の出口を目指して歩き出した。
諸星比夏留《もろぼしひかる》は、ここ私立田中喜八学園高等学校の新入生だ。背は百五十五センチと低く、胸も薄く、華奢《きゃしゃ》な体躯である。胃のあたりもまるで突出しておらず、今食べたあの膨大な食べ物はどこにいったのだろう。髪は短く、両脇を刈りあげているので、ボーイッシュに見える。大きくくりくりした一重瞼の目に、小さくてつんと上を向いた鼻。くすんだ藍色のジーパンに、「ちくわもとうふもおなじおでんのなかまさ」と大書されたTシャツ。ごく普通の女子生徒に見える。
田中喜八学園高等学校はS県の片田舎にあり、私立にしては珍しいほど規模の大きいマンモス校である。校長である田中喜八の方針として、入学試験も簡単至極で、学費も安く、来るものは拒まずという姿勢を貫いている。そのせいか、一風変わった生徒が集まることで知られており、一般の高校では受け入れられないような個性をもった連中が、ごく自然に風景に溶け込んでいる。比夏留もそのひとりといっていい。普通、あれだけの馬鹿食いを毎日披露していたら、化け物を見るような目で見られるだろうが、それほどの注目は集めない。そういうあたりがなかなか居心地のよい学校なのだ。
ただし、こんな学校にもイジメはある。そのことを比夏留は今日はじめて知った。休み時間になると、特定のひとりの生徒を数人が囲んで、こづきまわしたり、蹴ったりしている。
(あー、やだやだ。ほかにやることないのか、あいつら)
イジメているほうをしばきまわしてやることは簡単だが、双方の事情はわからないし、そこまではできない。ただ、鬱陶《うっとう》しい気持ちが湧き起こるだけだ。
(なんとかしろよ、田中喜八……)
ちなみに、田中喜八の田中は「たなか」ではなく、いわゆる重箱読みで「でんなか」と読む。生徒たちや近隣のものは、田中喜八を縮めて、田喜《でんき》学園とこの高校を呼んでいる。
この高校が変わっているのは、それだけではない。たとえば、どこの高校でも行う行事である体育祭ひとつとってみても、田喜学園では夜間に行うのだ。どういう意味があるのかわからないが、学校の、すなわち校長の方針なのだという。他にも、理由の不明な奇妙な行事やしきたりが目白押しで、地元では「田喜学園の七不思議」などと言われている。ほんとうに「不思議」の数が七つなのかどうかまでは知らないが、いずれにしても、そういったことを生徒たちもあまり気にしていない点がいちばん不思議かもしれない。
「おい、おまえ」
後ろから声がかかった。振り向きもせずに言う。
「えーと、同じクラスの、たしか……美津目徹《みつめとおる》くん」
さっきイジメにあっていた生徒だ。色が白く、ぷよぷよと病的に太っていて、授業中もずっと下を向いている変わった生徒という印象がある。無口で、陰鬱な感じなので、向こうから話しかけてくるとは思わなかった。
「どうしてわかる。声でか」
「武道をやってると、自然に背中に目ができるのよ」
言いながら、くるりと振り返り、
「何か用?」
「おまえ、目立ちたくてああいうことやってるのか」
「ああいうことって?」
「どか食いだよ。あんなことして注目集めりゃ人気が出るとか思ってるのか」
「はあ?」
「そうじゃねえよな。わかる、うん、わかるよ。おまえも俺と同じ人種なんだ」
「あんた、何言ってるのよ、ひとりで納得しちゃって」
「イジメだろ」
「?」
「おまえもイジメにあってるんだろって言ってんだ。そうなんだろ」
「あのねえ、私は……」
「俺もずっとそうだったからわかるんだ。中学の三年間は地獄だった。おとなしくしてたら、暗いって苛《いじ》められ、それじゃあ明るくしようと脳天気にふるまってみたら、よけいに苛められたよ。だから、知り合いのいない、こんなところの私立高校に行くことにしたんだ。高校に入れば変わるかと思って期待してたけど、甘かった。おとといの入学式からまたはじまったよ。中学のときはストレスで過食症になっちまってさ、こんなに太っちまった」
太るという言葉に、比夏留の身体がぶるっと震えたのに、美津目は気づかなかった。
「おまえが同類だとわかったのはどこか教えてやろうか」
「別にいらないけど」
「指だよ、指。食べたあと、指突っ込んで吐くんで、俺の指、ほら、吐きダコができてるだろ。おまえの指にも……」
「これは右手《めて》斬りの練習でできたタコなの! 言っとくけど、私はイジメになんかあったことないよ」
「強がり言うなって、馬鹿。あれだけ食いまくってたら、俺でなくてもわかるよ。ストレスはしかたないけどさ、人前で食うのはやめとけ。やればやるほど馬鹿に見えるから」
「私が昼ご飯に何をどんだけ食べようと、あんたに馬鹿呼ばわりされる覚えはないよ。初対面に限りなく近いくせに、不躾《ぶしつけ》すぎるんじゃない? 馬鹿、馬鹿って、馬鹿のひとつ覚えみたいに」
比夏留は自分で言って自分でおかしくなった。
「でもな……いいことを教えてやろう。もう絶対にイジメになんかあわないですむ」
「教えていらないよ」
「シーナさんに誰にも言うなって言われてるんだけどさ、おまえならかまわんだろうと思うんだ。あんなに食うなんて尋常じゃねえからな。ストレスに押しつぶされそうになってるんだ。シーナさんもわかってくれるさ」
「だから、教えていらないってば。シーナさんとかいう人に他人に言うなって釘刺されたんでしょ。だったらその約束を守ったらどうなの」
「いいんだ。俺はおまえを過食症から救いたい。――楽園があるんだよ」
「はあ……?」
「文字通りの楽園さ。蓬莱郷っていうんだ。そこに行けば、歳もとらないし、病気にもならない。なによりお腹が減らないんだ。それに、上下の差別がなくて、みんなが仲良く暮らしてる。古い書物に書いてあるんだそうだ」
「あんたねえ……頭、おかしいんじゃないの」
「ほんとだよ。ほんとにあるんだ。そこには竜がいて、そいつが守護神なんだ。俺はもうじきそこへ行って……」
「家族はどうすんの。親とか兄弟とか……」
「俺はこのままじゃ自殺するかもしれねえんだぞ。親も兄弟もあるかよ。それに……家族も学校も誰も助けてなんかくれねえしさ。それに……おまえだってそうじゃねえか。あんな食べ方してたら、すぐにぶくぶく太って、胃を壊して死ぬぞ」
比夏留の全身が、ぶるぶるぶるぶるっと小刻みに揺れた。
「あのねえ……あんた、今、言ってはならないことを言ってしまったね」
ずこっ。
という音がして、美津目は壁に叩きつけられていた。見ていたものは七、八人いたが、誰も何が起こったのかまるでわからなかった。
「馬鹿はあんただよ。楽園でもパラダイスでもどこにでも行っちまいな」
言い捨てると、比夏留は食堂の外に出た。
2
「さあさあ、御用とお急ぎでないかたはゆっくりと聞いておいで。手前、持ちいだしたるは四六の蝦蟇《がま》。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後ろ足の指が六本、これをあわせて四六の蝦蟇。大道芸クラブの入部説明会、ただいま行っておりまあす」
「人は皆、死んだら白鳥座七十六番星に転生します。我々は宇宙からの呼び声に耳を傾けるべきなのです。宇宙意志研究会に入会してくださあい」
「果たしてダーレスはラブクラフトの正しい継承者なのか。クトゥルー愛好会に入会すれば千の邪神の名前が覚えられますよっ」
「こちらはクトゥルー親睦会です。うちなら二千の邪神の名前と住所が……」
「来たれ、友よ、乾物同好会に。最高級の鰹節の作り方が実体験できるクラブはここだけ!」
かまびすしい勧誘の声が響きあうなかを縫うようにして、比夏留は早足で歩いていた。わあわあという喧《やかま》しさのあいだにも、なぜかどことなくぴりぴりした緊張感があるように感じるのは気のせいだろうか。錯覚かもしれないが、妙に目つきの鋭い大人が校庭をうろついている。
今日は新入クラブ員勧誘の解禁日である。この学校は、生徒数に比しても異常なまでにクラブ活動が盛んで、ひとり一サークルといっても過言でない。枝がしなわんばかりに満開の桜のアーケードの両側にクラブや同好会、研究会、愛好会、サークルなどの部員が総出で並び、新入生をゲットしようと怒鳴りあっている。だが、比夏留にはちゃんと腹づもりがあるので、そういった連中には目もくれず、ひたすらまっすぐに、突き出されるチラシの波をサーファーよろしく突っ切っていく。
「ちょっと、きみ」
出し抜けに右腕を掴まれた。反射的に家伝の轟天投げの体勢をとってしまうが、必死で技を自制し、相手の顔を見た。頭髪を真ん中から左右にぺったんこに撫でつけ、黒縁眼鏡をかけた、にきび面の男子。
「きみはアニメ顔をしてるね。往年の名作『みどりっ子チャプン』のヒロイン、塩澤《しおざわ》チャプンにくりそつだ。これは運命だよ。ぜひともわが総合アニメ研究部に入部してくれたまえ。今なら、もれなく石鹸を一箱プレゼントするよ」
「いえ、私……」
「遠慮することはないさ。今の世の中、アニメが嫌いな人間なんて存在しない。君も、アニメが好きだろ」
「いえ、私……」
「それに、君みたいにスタイルがよくてTシャツの似合う子が入部してくれたら、うちの部の男どもはこぞって君のしもべになるよ。さあ、さあ、さあさあさあさあ、この入部申し込み書に署名を……」
比夏留が、この男子の顎を蹴りあげようか、喉をぶち破ろうかと思案していると、左腕をも掴まれた。髪の毛をひっつめた女子生徒だ。
「君、君、君。うちへおいでよ、私のおうちへ。あなたにあげましょ、キャンディー。女の子ならキャンディー研究会にどうぞ。世界中のキャンディーを調べあげるのは快感よ。アニメ研なんて、ださいだけ。今なら、もれなくリンス・イン・シャンプーを一瓶プレゼントするわ」
「いえ、私……」
「遠慮することないのよ。女の子で甘いものが嫌いな子なんて存在しないわ。あなたもキャンディーが好きでしょう?」
「いえ、私……」
「あなたみたいな可愛い子が入部してくれたら、毎年、ロスで開かれる世界キャンディっ娘コンテストで入賞できるかもよ。さあ、さあさあさあさあさあ、この入部申し込み書にサインを……」
にきび面が叫んだ。
「おい、何言ってんだ。この子は俺が先に声かけたんだぞ。割り込むなよ」
「そっちこそ。私は彼女のためを思って、あんたの毒牙から救ってあげたのよ。アニメ研なんか入っても、つまらないオリジナルアニメのセル画描かされたり、声優のコンサートのチケット取りに並ばされたりするだけで、ちっとも面白くないわ。だから、キャンディー研に……」
「キャンディー研なんか入っても、まずいキャンディーばかり食べさせられて虫歯になるのがオチだ。君の白い歯に虫歯は似合わない。だから、アニメ研に……」
「ちゃんとキシリトールキャンディーも食べさせてるから虫歯になんかならないわ。こっちに入りなさい」
「こっちに入るんだよ」
両方から腕を引っ張られながら、比夏留はどうやってこの場を脱出しようか考えていた。どうしてもどちらか片方は血をみることになるが、それもやむなし、と決断したとき、
「あいやしばらく。采配は、講談研究会のそれがしにお任せあれ。この勝負、先に手を放したほうの勝ちといたす。本当に彼女のことを案じているなら、痛い思いをさせぬが真実の母親なり」
扇子を持った、四角い顔をした男子がわけのわからないことを言いながら割って入り、アニメ研とキャンディー研はあわてて手を放した。
「おい、俺が先に手を放したぞ」
「ちがうわ、私よっ」
「ここは仲介の労をとったわが講談研究会に……」
三人が揉《も》めだした瞬間。
ぐらり。
地面が傾《かし》いだ。
3
ぐら、ぐらぐらぐらぐら。
(まただ……)
比夏留はかろうじて転倒を免れた。最近、このあたりはやたらと地震が多い。震度五が上限ぐらいで、たいがい二か三程度の小さな揺れなのだが、それにしても頻々《ひんぴん》として起こるのが気味悪い。地震予知連も原因がわからないと首をひねっているそうだ。
だが、今に限っていえば、タイミングのよい助け船だ。尻餅をついている三人を尻目に、比夏留はまっしぐらに桜並木を駆け抜けた。この高校に入るまえから決めていたのだ、吹奏楽部に入ることを。家が古武道〈独楽《こま》〉の宗家である比夏留は、毎日毎日、親に武道の稽古ばかりやらされていいかげんきれかけていた。女性らしく、楽器なんかをやってみたい。しかし、ピアノを習いたいだのギターを弾いてみたいだのと言うと、「おまえはいずれはこの家を継ぐ身。音楽などにうつつを抜かしている暇はないはず」と拒否される。
(吹奏楽部に入って、楽器を演奏してみたい……)
それが高校入学に際しての比夏留の計画であった。それも、できればフルート。まえにテレビで見た、ドレスを着た髪の長い女性が銀色のフルートでもの悲しい曲を奏《かな》でている図にあこがれてしまったのだ。あとで、その曲は「レフト・アローン」というジャズの曲だということを知った。高校の三年間で、フルートを習得し、「レフト・アローン」を演奏する。これが比夏留の「三ヵ年計画」であった。
しかし、いくら探しても吹奏楽部の部室は見つからない。音を頼りに探せばよいと、ずっと耳を澄ましているのだが、聞こえてくるのは勧誘の怒鳴り声やクラブ同士の喧嘩の騒音ばかりである。
(おかしいな……この学校、ブラバンないのかな……)
実は吹奏楽部の部室はクラブ棟にはなく、北棟三階の音楽室に隣接しているのだが、そんなことを知らない比夏留はクラブ棟を通り過ぎてしまった。田中喜八学園の南側は鬱蒼とした森になっている。入ったら出てこられない死者の森という意味で、地元のものは皆「常世の森」と呼んでいるが、それが正式な名前かどうかは不明。いわゆる原始林というやつで、人の手がほとんど加わっていないから、管理者である学校側もどこに何があるかよくわかっていないらしい。非常に珍しい植物の群落があったり、見ただけでは種類のわからないような変わった動物が目撃されたりするというが、校長である田中喜八の私有地なので、研究者の立ち入りが許可されないのである。学生が入り込むと危険だから、という理由で、森の入り口には高いフェンスがめぐらせてある。噂では、沼や滝があるほか、大きな洞穴が幾つもあり、朽ち果てた神社の遺構などがあるというが、本当かどうかわからない。
常世の森のすぐうしろに聳《そび》えるのが、蛭女《ひるめ》山である。奇妙な名前の由来は、なだらかな外観が、環形動物がうねっているように見えるからだとも、その昔、女性を嫌うこの山の神の禁を犯して入山した女が、神の怒りに触れてヤマビルと化したからだともいう。
いつのまにか比夏留の周囲から人影は失《う》せ、かわりに松林が行く手を遮った。梵字のようにひね曲がり、節くれだった、グロテスクな松の古木に前後左右を取り囲まれたようで、比夏留は少し心細くなった。まさか、常世の森に迷い込んだのだろうか。フェンスを通った記憶はないから、ちがうとは思うが……。
どこからともなく、高く、透き通るような笛の音が聞こえてきた。澄んだ空気を貫くような、凜《りん》とした音色。フルートの音である。比夏留の胸は浮き立った。松のあいだをその音を追って歩く。しばらく聴いているうちに、曲名がわかった。
(「レフト・アローン」だ!)
偶然の符合に驚いた。クラブ勧誘解禁日に、比夏留が一番好きな「レフト・アローン」が聞こえてくるとは。
(これって、吹奏楽部に入れ、という天の声にちがいないよね)
比夏留はそう確信し、ハーメルンの笛吹きに誘われる子供のように、ふらふらと音のするほうに向かう。高音は氷のように鋭く、あくまで格調高く、低音は地を這《は》うように太く、あたたかだ。音程も、タンギングも正確そのもので、吹き手の人間性まで伝わってくるようだ。比夏留の脳裏には、早乙女愛《さおとめあい》のような典雅なお姉さまが、水晶みたいに透き通った細い指を楽器に這わせ、微《かす》かに眉根を寄せながら、形のよい唇をそっと歌口にあて、息を送り込んでいる光景が浮かんでいた。
あった。その音は、松林に埋没するようにして立つぼろぼろの小屋のなかから流れ出しているのだ。比夏留は、ためらいなくその扉を押した。
あとで考えてみれば、このとき、小屋の入り口に掛かっていた看板をどうして見逃してしまったのか。そのことを比夏留はのちのちまで後悔することになる。
小屋に入ると、黴《かび》臭い異臭と、何だか甘酸っぱいような匂いが入り混じって、つんと鼻をついた。暗くて、何があるのかわからないが、部屋の奥からフルートは聞こえてくる。つ……てぃ……るるりら……り……てぃてぃ……りら……。踊るような、なんという美しい旋律だろう。比夏留の胸はぞくぞくと震えた。次第に暗闇に目が慣れてくる。部屋の真ん中に、大きなテーブルがあり、その向こうの長椅子……いや、背もたれに「山本精肉店」という広告が入っているから、どこからかかっぱらってきたベンチだろう……にだらしなく寝そべったまま楽器を吹いているのは……。
「ひいっ」
思わず比夏留は声を立ててしまい、あわてて手で口を押さえた。
4
そこにいたのは、上半身裸の老人だった。骨と皮ばかりに痩せこけており、胸はあばらが突き出してブラインドのようだし、腕は割り箸のようだ。いわゆる角髪《みずら》というのか、残り少ない頭髪を真ん中で分け、耳のあたりで束ね、紐で結んで輪にしてある。比夏留は、映画でヤマトタケルの古代史ものを観たとき以外、こんな髪型の人間を見たことはない。眉の毛はほとんど抜け落ち、鼻はイタリア人のように高く、鉤鼻《かぎばな》である。歌口に当てられた唇は分厚いタラコ形で、血のように真っ赤だった。喉の肉が七面鳥のように垂れさがっており、首に瘤《こぶ》が幾つもついている。顔といわず、胸といわず、腕といわず、肌という肌には細かい縮緬皺《ちりめんじわ》がより、白い老人性斑点も浮いている。フルートのキーに置かれた指は蜘蛛《くも》の脚のようにぎすぎすしている。フルート自体も錆《さ》びついた真っ黒のもので、指紋の形の錆がいたるところについている。
しかし。
その演奏には一糸の乱れもなかった。比夏留は素人だが、ベンチに横になったままの演奏がかなりの技術を要することは想像がつく。
(脚が悪くて、この姿勢でしか演奏できないのかな……)
そう思って、比夏留は涙が出そうになった。
最後の一音を吹き終えると、嫋々《じょうじょう》とした余韻の漂《ただよ》うなか、老人はぎょろりとした両眼を剥《む》いた。
「誰だ」
「あ、あの……あの……」
射抜くような視線に比夏留はどぎまぎし、何を言ったらいいかわからず、一歩後ろに下がった。
「あのあのではわからん。何をしにきたかときいておるんだ」
「あの……入部希望者です」
部室が汚らしい小屋である点も、この異形の老人が顧問であるという点も、すばらしいフルートのまえには問題ではなかった。比夏留はすっかり今の演奏に魅せられていたのだ。
「入部……希望?」
老人は目を細めて、比夏留の顔をねめつけた。比夏留はその目から炯々《けいけい》とした光が漏れているような錯覚を覚えた。
「ふん……」
老人は横になったまま、かたわらにあった日本酒の一升瓶を掴むと、ごくりとラッパ飲みした。どうやら室内に籠《こ》もっている甘酸っぱい匂いのもとはこれらしい。
「げふ」
これはげっぷ。
薄暗い裸電球が吊された室内は暗いが、老人の寝そべっているベンチの下には空の一升瓶が十数本転がっている。なかには、割れているものもある。瓶と瓶のあいまに、分厚い本や楽譜の束、煙草の吸い殻、斜めになったノートパソコン……などが乱雑に散らばっている。
「わしは日本史の嘱託教師でここの顧問の藪田浩三郎《やぶたこうざぶろう》や。おまえのクラスと名前は」
「一年A組の諸星比夏留です」
「諸星……? 諸星|弾次郎《だんじろう》の娘か」
「は、はい、そうです。父をご存じですか」
「縄文期から続く古武道〈独楽〉の宗家や。知らんものはおらんわ」
これまで、〈独楽〉を知っているという人にあったことのない比夏留は、そうかな、と首を傾げたが、逆らうこともない。
「それにしては痩せとるな。〈独楽〉の継承者は、関取のように肥えとることが条件。おまえの両親も、そのまた両親も、皆、河馬のように太っとるはず。おまえは見たところ、わしとたいして変わらんほどすらっとしとるやないか」
枯れ木のような老人と自分が、同じく「すらっとしている」という意見には与《くみ》することはできないとは思ったが、これまた逆らうこともないので黙っていた。しかし、この年寄りは、どうやら本当に〈独楽〉についてよく知っているようだ。
「はい。私、太りたくて太りたくてしかたないんです。でも、いくら食べても太れなくて……」
ダイエットに苦しむ全国の女子高生が聞いたら激怒しそうな言葉を比夏留は発したが、それは真実の叫びだった。たとえば今日彼女は、朝から丼飯を四杯に豚の生姜焼き、鰺《あじ》の干物、豆腐の味噌汁三杯、昼はドカベンにカレーライス大盛りときつねうどん大盛りとカレーうどん大盛りにパン三個を食べた。晩はおそらく道場に通う兄弟弟子たちとともに鍋物。雑炊は十杯は食べることになるだろう。そういう食生活を、小学生の頃からずっと続けている。しかし……太らないのだ。老人が言ったとおり、〈独楽〉の基礎は「太ること」である。どっしりした、あんこ形の体型こそが、この知られざる古武道の根本なのである。入門者は、まず食生活の改善を強要される。朝昼晩と、今の三倍の量を食べねばならないのだ。弟子たちも、ひとりの例外もなく「でぶ」である。ただ、比夏留だけが痩せている。両親からも弟子たちからも白い目で見られているようでいたたまれず、少しでも肥えようと、唐揚げやフライなどの油ものを中心に、ラーメン、スパゲティ、ピザなどを就寝前にどか食いしたりと努力を続けているが、どこにも肉がつかないのである。
「そ、そんなことはどうでもいいんです。私、先生の今の演奏に感動しました。すばらしかったです。私……フルートを吹きたいんです」
藪田は怪訝《けげん》そうな顔になり、ついで乱杙歯《らんぐいば》を剥き出しにして、ベンチに横たわったまま、ぐわははははと笑った。
「あのなあ、ここはやな……」
がたり、と音がしたので振り向くと、入り口の扉があき、髪の長い女生徒が立っていた。長い、といっても尋常の長さではない。百人一首の絵札で見た紫式部だか清少納言みたいに、先端が完全に地面に届いている。顔立ちは逆三角形。目は切れ長でつり上がっており、猫というより狐を思わせる。唇は薄く、生々しい緑色のルージュをひいている。
「誰、そいつ」
女生徒は比夏留のほうに顎をしゃくった。
「入部希望者やそうな。おまえの後ろにおるのは……?」
「入部希望者よ。さ、入って」
陰で見えなかったが、女生徒の後ろから中肉中背の男子生徒が一歩進み出た。
「クラスと名前」
髪の長い女生徒は、居丈高な口調でうながした。男子生徒は上目《うわめ》づかいにおどおどとした口調で、
「保志野春信《ほしのはるのぶ》。一年A組」
A組といえば比夏留と同じクラスだが、こんな顔は記憶にない。でも、同じ吹奏楽志望なら仲良くしておいたほうがよさそうだ。
「で、何がしたあて、この部に入る気になったんや」
保志野は、寝そべっている藪田をちらりと見て、
「入りたくて来たわけじゃないんです。この人にむりやりに……」
髪の長い先輩は、老人に向かって、
「彼は、『民俗学の波』の秋号に論文が掲載されてるんです。『伊弉冉尊《いざなみのみこと》の埋葬地をめぐって』という……」
「ほう、伊弉冉尊が葬られたのは島根の比婆山やのうて和歌山やちゅう、あれか」
「ええ。絶対にうちの戦力になると思って、引っ張ってきたんです。あんた、入部しなさいよ」
保志野は、髪を掻きあげると、
「入ってもいいですけど……。こちらでは主にどういう研究テーマを……」
二人のやりとりを聞いていた比夏留はおずおずと、
「あの……すいません。ちょっとおききしたいんですけど」
「何? 早くきいてよ」
「ここって、吹奏楽部じゃないんですか」
女生徒は絶句し、藪田の手にあるフルートに目をやって深いため息をついた。
「あのねえ、いくらフルートが聞こえてきたとしても、入ってくるときに看板が掛かってたでしょうが。気がつかなかった?」
「はい」
女生徒のこめかみがひくひくと震えた。彼女は甲高い声で言った。
「うちはブラバンじゃないの。民俗学研究会よ」
5
「だいたいこの部屋見て、おかしいと思わなかった? 楽器も何もないし、スペースだって狭いし、本棚に民俗学とか郷土史とかの本がいっぱいあるでしょうが。わかった?」
女生徒はまくしたてた。
「え……ええ。あの……もうひとつだけ質問していいですか」
「いいわよ」
「民俗学って何ですか」
女生徒は再び絶句し、横にいた保志野はぷーっと噴きだした。
「民俗学っていうのはね……あのね……」
憤りで呂律《ろれつ》のまわらない女生徒にかわって、保志野が言った。
「風俗とか習慣とか儀礼、信仰、説話、民謡、伝承……みたいなものを手がかりにして、文化の歴史を探る学問ですよ」
何のことかわからなかったが、少なくともブラスバンドとは何の関係もないらしい。保志野は、ようやく立ちあがった老顧問とともに、何やら専門的な難しいことを話しながら隣室に行ってしまった。
比夏留は気を取り直して、
「どうもご迷惑をおかけしました。吹奏楽部の部室はどこにあるんでしょうか」
「北棟の三階だけど……あなた、どう? 間違ってここに来たのも何かの縁じゃない。うちに入らなきゃだめよ」
有無を言わさぬ語調だった。
「え? ええ……でも……私、高校に入ったら、フルートをはじめるって決めてたんです。だから……」
「そう言わないで。いいクラブよ。あなた、かわいいし、私の好み。一緒にフィールドワークに行きましょ。私は、部長の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》。よろしくね」
伊豆宮竜胆となのった女生徒は、比夏留に鼻と鼻が触れあうほどに顔を近づけてきた。わざとではないのかもしれないが、胸が比夏留の胸に押し当てられ、比夏留が身体をそらせると、よけいに上にのしかかってきた。熱い息が耳朶《じだ》にかかる。何だかぼーっとしてきた……。
「伊豆せん、新入生からかうのはいい加減にしたほうがいいですよ。いやがってやめちゃったらどうするんです」
透明感のある声が頭上から降ってきた。見ると、面長で、色の白い、涼しい顔の女性が立っていた。髪をポニーテールにし、オレンジ色のワンピースが似合っている。
「いやがってなんかいないわよね、比夏留ちゃん」
「は、はい……」
「じゃあ、入部しなさい」
「でも……」
「犬塚《いぬづか》、入部申し込み書、取ってきて。奥の書類棚の上から三番目」
「はいはい」
ポニーテールの女生徒は、スキップしながら隣室に行こうとして、足をとめた。中から、罵声《ばせい》が聞こえてきたからだ。
「おまえは若いくせに頭が固すぎるんじゃ」
「てめえは柔らかすぎるよ! 豆腐みたいにぐしゃぐしゃじゃねえのか」
さっきとは人がちがったような荒い語気だ。
「じゃかあしい。新しい視点でものを見るには、豆腐みたいな頭が必要なんや」
「それが岩屋戸伝承には根本的な勘違いがあるという根拠かよ」
「勘違いがあるかどうかそんなことはしらん。だが……」
「そういやあ、あんたと同じ主張をしている馬鹿な学者がいたよなあ。何ていったか……えーと……」
「そんなやつのことはどうでもええ」
「とにかくてめえの頭はひっくりかえってるぜ!」
部屋に入ろうかどうしようか迷っている犬塚という女性の前に、保志野が飛び出してきた。顔つき自体が変わってしまっている。目が倍ほどに大きくなり、目の下に隈《くま》ができ、目尻がつりあがり、眉根が寄って、まるで隈どりをしたみたいに見える。彼は、犬塚を押しのけると、比夏留のところに来て、
「このクラブは危険だ。顧問も部員もみんな狂ってる。こんなのどこが民俗学研究会だ。入るんじゃねえぞ」
指を突きつけて叫んだあと、入り口の扉を蹴って開け、憤然として出ていった。比夏留もそのあとを追って出ていきたかったが、伊豆宮部長に手首を掴まれた。細い指で握られたぐらい、振りほどくのは簡単だ……と思ったが、手首の関節部の骨の上を挺子《てこ》の原理で押さえており、容易に外れない。
(この人……武道の心得があるみたい……)
伊豆宮はにやりと笑うと、
「逃がさないわよ」
「そんな……困ります」
奥から角髪に結った髪を掻きつつ、藪田が顔をしかめて出てくると、
「一人逃がした。即戦力になるやつやったのに残念や」
「戻ってきませんか」
と犬塚。
「こんやろ。完全にわしと決裂してもたさかいな」
「何で揉めたんです。せっかくの貴重な新人だったのに」
部長が首を左右に振りながら言った。
「さあなあ……日本神話の話をしてたら、急に怒りだしよった。最近の若いやつらは皆あんなんか。キレるとかマジギレゆうやつか」
「どうせ先生が何か彼の気に障るようなことを言ったんでしょ。おまえのかあちゃん人面疽とか」
「濡れ衣や。完全に濡れ衣や。わしは何も言うとらん。もう、あんなやつのことは忘れ。ええな」
「でも、『民俗学の波』に論文が……」
「忘れ、ゆうとるやろ」
枯れ木のような老人がどすのきいた声で言うと、部屋がぶるっと身震いするほどの威圧感が迸《ほとばし》り、部長はぶすっとした顔で黙り込んだ。
「それに、新入部員やったら、そこの子がおるやないか」
「い、いえ、私は……」
比夏留が顔の前で激しく手を振ったとき、
「た、た、た、たいへんだぜっ」
ガラッパチの八五郎のようなおめき声とともに、相撲取りのように体格のよい男子生徒が飛び込んできた。
6
男子生徒は頭にちょんまげを結っており、学生服を着ているが、腕まわりなどははち切れそうになっている。その石油缶のように太い腕を振り回しながら、彼は大声で叫んだ。
「また、一人行方不明になりゃあがったぜ。新入生の、ええっと、美津目徹とかいう野郎だ」
比夏留はがばと顔をあげた。
「これで五人目ね……」
部長が腕組みして嘆息とともに言った。
「どういうことです。美津目くんがどうかしたんですか」
比夏留が割り込むと、太った男子生徒は不審気に彼女を見、
「誰でえ、あんた、見かけねえ顔だね」
「新人の諸星比夏留さん」
と伊豆宮が紹介し、比夏留はぶるぶる首を左右に振って、
「だっからちがいます。私は……」
「へえ、入部者、いたのかい。これで犬塚と浦飯《うらめし》も一番下っ端から格上げってわけだ。よかったなあ、犬塚よ」
犬塚がポニーテールを振って、にこにことうなずき、
「もうひとり来たんですけど、顧問と喧嘩してすぐ辞めちゃったんですよ。だから、今のとこ、この子が唯一の後輩」
だーかーらー、ちがうってー。
「じゃあ、おいらも自己紹介しなくちゃな。白壁雪也《しらかべゆきや》。三年生。好きな言葉は『さすらい』……」
「そんなことどうでもいいのよ」
部長が肥えた男を遮《さえぎ》った。
「諸星さん、あなた、美津目という生徒と面識があるの?」
「面識っていうか……つい今さっき、食堂で会ってましたけど……」
「そのすぐあとだな、失踪しやがったのは」
と白壁。
「それって失踪って言わないんじゃないの? だって、まだ十分ぐらいしかたってないんでしょ」
と犬塚。
「それが、教室の机のなかに書き置きがあったらしいんだ。蓬莱郷に行く、探さないでくれ、という内容の」
「前の四人と一緒ね」
話がさっぱりわからない。ひとり置きざりにされているようで、面白くない。それが顔に出たのか、犬塚が微笑みながら、
「ここ二週間ほどのあいだに、うちの生徒が四人、行方不明になってるの。今日で五例目ね。みんな、蓬莱郷に竜を探しにいくとかわけのわからないことを言い残していなくなってしまう。父兄が捜索願いを出して、警察が動き出したんだけど、森での遭難の可能性が高いから、学校側に常世の森の捜索許可を申請したら、校長がうんと言わないのよね」
「どうしてでしょう」
「さあ……校長って、あの森を命よりも大事に思ってるみたいで……ねえ、伊豆せん」
犬塚が部長を見ると、伊豆宮もうなずき、
「うちが何度も民俗学のフィールド調査のために入森許可を申し入れても、けんもほろろ。ずっと鉄条網を張り巡らせて、ネズミ一匹入る隙もないもんね」
「ところが、実ぁこの小屋の裏手あたりの鉄条網にゃあ穴があけてあって……」
と言いかけた白壁の後頭部を、伊豆宮は拳でばしっと叩いた。
「いらないことをべらべらしゃべるんじゃないの」
白壁は、一瞬呼吸困難に陥ったようで、両目から涙を滲《にじ》ませて、げほげほとえずいている。伊豆宮は彼を無視して、
「いなくなった子は、イジメにあってたり、失恋したり、親にひどく叱られたり……家出するような条件は備えてたみたいだけど、こう立て続けにあると、事件性が感じられるよね。美津目って子はどうだったか聞いてない?」
比夏留は食堂でのできごとを話した。初対面で馴れ馴れしく、しかもとんちんかんなことをしゃべりかけてくる美津目にむかついたこともあるが、イジメを受けている相手にひどい言葉を投げつけたうえ、〈独楽〉の奥義のひとつ、〈駱駝《らくだ》蹴り〉で壁に激突させてしまった。
「馬鹿はあんただよ。楽園でもパラダイスでもどこにでも行っちまいな」
たしかに比夏留はそう言ったのだ。あの一言が、彼を傷つけ、失踪させたのだとすると……。
(私にも責任、あるかも……)
半ば落ち込みかける比夏留の肩に、重みが加わった。
「気にすることないわよ、どうせ相手はあんたが何を言おうと、もともと蓬莱郷に行くって決めてたわけだし、だいたい他人を巻き込もうとするなんて最低だわ」
犬塚が比夏留の肩に手を置き、優しい口調で言った。
「ありがとうございます。でも……捜索、行われるんでしょうか」
「当分は無理だろうぜ。校長の態度は頑《かたく》なだし、警察も令状をとらなきゃあ強引に私有地の強制捜査はできゃあしねえだろうから。それに、失踪したやつらは、家出歴のある輩が多いらしいし、今回はただの家出じゃねえって根拠が示されねえ限り、警察は動けねえだろうよ」
と言った白壁に、比夏留が言った。
「そういえば、美津目くんは、蓬莱のことをシーナっていう人に教えてもらった、とか言ってました」
「また、シーナか……。これまでにいなくなったやつらもシーナっていうやつに聞いたって言い残してるんだよな。何者なんでえ、シーナって。まさかシーナ&ザ・ロケッツのボーカルじゃあねえだろうな」
もう一度、白壁の後頭部を叩くと、部長は宙に指で字を書きながら、
「椎名かな、椎奈かもしれない。そいつが黒幕かしら。でも、そんな名前の生徒、この高校にはいないんだよね」
そう言うと、しばらく腕組みして考え込んでいたが、やがて、軽い調子で、
「じゃあ、私たちだけで捜索しましょう」
「無茶言うねえ。人跡未踏の原始林だぜ。それに、いなくなった連中は、洞窟のなかで迷子になってる可能性が高え。いくら洞窟探検に慣れてるおいらたちでも、危険すぎらあね」
「あんたの言うように、洞窟に閉じこめられてるとしたら一刻を争うわよ」
「そ、そりゃそうだが……」
「これはフィールドワーク。クラブ活動の一環よ」
「学校の許可は出ねえぞ。常世の森に勝手に入ったなんて知れたら、それこそ退学もんだ」
「どうします、藪田先生」
部長が顧問のほうを見ると、老人はベンチのうえで涎《よだれ》を垂らして眠っていた。
「OKみたいね。じゃあ、明日の放課後、部室に集合ということで。いいわね」
白壁と犬塚が同時にうなずいた。
「浦飯くんにも伝言しといてよ。それでは、今日は解散」
三人が小屋から出ていこうとしたので、比夏留はあわてて、
「ちょちょちょちょっと待ってください。私も明日、連れてってください」
「どうして」
「美津目くんの失踪には私も責任がありますから」
「だめよ。あくまでもこれは民俗学研究会の調査の一環なんだから、部外者の参加はお断りよ」
部長はドライアイスよりも冷ややかに言い捨てた。
「そんな……」
「参加したければ……」
伊豆宮は額がくっつくほど顔を近づけてきて、
「入部することね」
比夏留はがっくりと肩を落とした。
「わかりました。入部します」
部長以下二名はにやりと笑い、入部申し込み書を差し出した。
7
クラブ勧誘日には午後からの授業はない。家の方向が一緒だったので、比夏留は犬塚と連れだって帰った。その道みち、今日、不本意にも入部してしまった民俗学研究会について、いろいろと教えてもらった。
「うちの部員は全部で四人。あなたを入れて、五人ね。三年生が、部長の伊豆宮竜胆先輩と白壁雪也先輩。私たちは、伊豆せんに白せんって呼んでるわ。伊豆せんは、顔も性格もきっついけど、妖怪とか伝説、伝承の知識は京極夏彦《きょうごくなつひこ》もまっ青よ」
「すごく髪が長いですね」
「女の髪には魔力がある、とか言って、切ろうとしないの。頭洗うの、たいへんだと思うけどね」
「でも、きれいなかたですよね」
「言っとくけど、伊豆せんはレズよ」
「マジですか」
「みんな知ってること。だって、今年の卒業生を送る会のときの送辞でカミングアウトしたからね。あんた、狙われてるわよ」
「まっさか。犬塚先輩は……」
「犬せんでいいわよ」
「犬せんは、伊豆せんに言い寄られたりしないんですか」
「あははは。少なくとも、私は関係ないみたいよ」
犬塚は白い喉を見せて笑った。
「白せんはねえ、古代史とか歴史、古文書なんかにめちゃ強いわ。時代小説オタクだし」
「すごく、その……太ってらっしゃいますよね」
比夏留は、羨望を込めて言ったつもりだったが、もちろん犬塚はそうはとらなかった。
「たしかにね。でも、しかたないのよ。白せんの親はお相撲さんなの。白壁部屋って聞いたことあるでしょ」
「それでちょんまげを結ってるんですね」
「そうなの。白せんが肥えてるのは、親の体質の遺伝もあるだろうけど、食事がお弟子さんたちと一緒だから、ちゃんことか太りそうなものばっかりなのよね」
「それは誤解です。ちゃんこ鍋は繊維質がたっぷりで、ダイエットには効果的なんです。お相撲さんが太るのは、一日二食の食生活が大きな原因なんですよ」
「ふーん、そうなの」
(親の遺伝で太れるなら、私だって太ってるはず。食事がお弟子さんと一緒というのも私と同じ。でも……どうして白壁先輩は太れて、私はこんな……)
白壁のことがうらやましくてしかたがない比夏留であった。
「でも、比夏留ちゃんは一生ダイエットなんかしなくてもだいじょうぶみたいね。うらやましー」
そう言って、犬塚は比夏留の二の腕の肉をつまんだ。
「私……太りたいんです」
「何言ってんの。私なんてちょっと油断すると太っちゃって、もうたいへんなんだから」
比夏留は犬塚のスレンダーな体躯を見た。どこが太っているというのか。どんなに痩せていようと、女は皆、痩せたい痩せたいと言う。比夏留の「太りたい願望」はなかなか理解されない。
「私は主に、宗教関係に興味があるの。民俗学と宗教は深い関わりがあるわ。ある国の文化を解読するには、その国の宗教を知る必要があるでしょ。世界中で、今、この瞬間にも人の魂を救うべき宗教のために人殺しが行われている。火星にロケットが行く時代になっても、修行をすれば空中浮遊ができるという話を東大卒のエリートが信じてしまう。宗教ほど面白いものはないわ」
「なーるほど。犬せんは、信仰心があるんですね」
「馬鹿言わないで」
犬塚は顔を歪めて、
「私は神も仏も魂の不滅も死後の世界も信じない。宗教と人間の関係が笑えるから調べてるだけ。人間は死んだら無になるだけよ」
そう吐き捨てた。
「じゃあ、幽霊とか心霊写真とか怖くないんですか」
「怖いわけないでしょ、そんなものないんだから。でもね……今日、来てなかったもう一人の二年生の、浦飯|聖一《せいいち》ってやつは、オカルトとかトンデモにはまってるわ。何とかかんとかの蹄とかいう、変なオカルト団体にも所属してて、魔女になりたいんだって。男のくせに馬鹿よね」
犬塚は、男のくせにというところに妙に力を込めた。
「これで部員全員の紹介終わり。もうききたいことないよね」
「あ、先生は……」
「ああ、藪爺ね。あいつは、前はどこで何してたんだかわかんないんだけどさ、三年前に嘱託でうちの学校に来て、民俗学研究会を設立したのよ。昼間っからお酒ばっかり飲んでるし、かっこうもめちゃくちゃでしょ。でも、けっこういいやつなんだ。私は好きよ」
比夏留も、悪い印象はなかった。
「あの人、何が専門なのかもわかんないんだけど、私たちはあちこちの洞窟をよく調べさせられるわ。去年だけで、二十ヵ所ぐらい行ったかなあ。フィールドワークなんていっても、ほとんどがケービング。田喜学園民俗学研究会、またの名を洞窟研究会ってね」
「洞窟……?」
「洞窟っていうのも、なかなか奥深いもんなのよ。あ、これ駄洒落《だじゃれ》じゃないからね」
犬塚は歩きながらくすくす笑った。
「洞窟って、独特の世界なの。棲んでる生き物も洞窟生物っていって独自の進化を遂《と》げているし、石器時代の遺跡が見つかることもあるし、埋葬地とか聖地として使われていたりもするわ。そういった洞窟に関係するいろいろなことを調べる学問を洞窟学というんだけど、民俗学的にみてもね、洞窟は地下世界、つまり黄泉の国への入り口だというイメージが日本では一般的みたい。常世と現世《うつしよ》の接点よね。伊弉冉尊が死んだとき、熊野の有馬村にある『花の窟《いわや》』に葬ったらしいけど、そこは『産立《うぶたて》の窟』とも呼ばれてて、産立っていうのは要するに出産ということよね。洞窟は、死の世界へ続く道でもあり、新しいものを生みだす母胎のようなものでもあるわけ。昔は、修行者が霊力を身につけるためや神仏の声を聞くために洞窟に籠もって修行したし、山のなかの洞窟では今でもよく胎内くぐりが行われたりもするわ」
一気にしゃべったあと、
「ま、そういうようなことを調べるの。あ、私、こっちだから。じゃあ、あした、放課後にね。道具とかは部室にあるけど、ライトがあったら持ってきて」
犬塚は明るく手を振り、ポニーテールを弾ませながら商店街に消えていった。ぺこりと一礼して見送った比夏留は、なんだか楽しくなってきた。生まれてこのかたずっと、古武道の修行に明け暮れる日々だった。高校に入ったら、フルートをやるんだという意欲に燃えていた。それが、どうした運命のいたずらか、
(民俗学研究会……?)
笑いがこみ上げてくる。はずみというのは怖ろしいものだ。ついさっきまで何の関心もなかったのに、私が、民俗学……? しかし、聞けば聞くほど、洞窟に潜ったり、神話や伝説を調べたりするのは面白そうではないか。
失踪した生徒たちに悪いとは思ったが、家路を急ぎながら、比夏留は新しいことをはじめるときのうきうきした気分が湧き起こってくるのを抑えられなかった。
8
途中、ふと気が変わった。明日は遠足ではないのだ。比夏留は、今日もらった自分のクラスの名簿を鞄から取り出した。
(えーと、美津目、美津目、と……あった)
住所を確認すると、美津目徹の家は、彼女の家のすぐ近くであることがわかった。しばらくためらったすえ、比夏留は行ってみることにした。彼が食堂で口にした「シーナ」という名前が心にひっかかっていたからだ。
チャイムを鳴らすと、おどおどした様子の中年婦人が出てきた。姿形だけでなく、その態度もどことなく美津目に似ている。まちがいなく、母親だろう。
「あの……私、美津目くんのクラスメートの諸星ともうします。美津目くんがいなくなった件でその……」
「あ、あなた、徹のことでなにか知ってるのっ」
クラスメートという言葉がきいたのか、比夏留はすぐに招きあげられた。母親はすでに、息子が机に書き置きを残していなくなったことを学校からの連絡で知っていた。それからまだ一時間ほどしかたっていないにもかかわらず、彼女は息子の失踪を確信しているようだった。警察には届けたそうだ。向こうも最近、失踪者が多いとは言っていたが、便乗したたちのわるい悪戯の可能性もあるし、本人の意志での家出ならば警察が乗り出すわけにはいかないから、しばらく様子をみるように言われたという。
「あの……近頃、美津目くんのところにシーナという人がたずねてくるとか、もしくは電話か手紙はなかったでしょうか」
「シーナさん……ですか。いいえ……」
だいたい美津目には手紙が来ることも電話がかかってくることも稀だったらしく、そういったことがあれば彼女が気づかないはずはない、とのことだった。
(おかしいよね。ということは、学校で接触したのか、それとも……)
「お母さん、美津目くんはパソコンか携帯電話を持っていましたっけ」
「携帯はないけど、パソコンならあの子の部屋に……」
「そ、それを見せていただけますか」
普通なら見知らぬ相手に家に押し掛けられ、いきなり息子のプライベートなものを見せろと言われたら拒絶するだろうが、気が動転していたのか藁《わら》にも縋《すが》る思いだったのか、母親は比夏留を二階の勉強部屋に案内した。ノートパソコンが机のうえに載っていた。電源を入れ、メールボックスをチェックする。個人メールを覗き見するのは気が引けたが、この際しかたがない。だが、差出人の名前に「シーナ」「シーナ」といったものはなかった。見当違いだったかとがっくりして、なおもメールを調べているとき、「ホラー小説」というハンドルネームの数通のアドレスに目がとまった。
seena@horror.ne.jp
(シーナ……だ)
比夏留は震える指でそのメールをあけた。
死にたいと思ったことはありませんか。今の世の中、生きていくのはつらく悲しい。でも、そんなあなたにだけひそかに教えましょう。楽園に通じる門を。嘘だと思うならこのメールを破棄すれば可。信じるも信じないもあなた次第。行動に移すも移さないもあなた次第。でも、信じた人だけが救われます。田中喜八学園高等学校の裏にある常世の森のなかに、竜ケ洞という竜が棲んでいるという伝説のある、白い洞窟があります。それを通り抜けると、蓬莱郷という場所に至ります。そこでは、歳もとらないし、病気にもならないし、空腹にもならないし、上下の隔てもないし、みんな和やかに仲良く暮らせるのです。繰り返しますが、嘘だと思うならこのメールを破棄すればいいのです。信じたひとだけがチャレンジしてみてください。これは「今昔諸国波奈志」という古い書物にも載っていることなのです。
別のメールをあける。
最近、あなたのまわりで急にいなくなる人が多いと思いませんか。彼らもあなたと同じ、社会の犠牲者たちなのです。イジメ、虐待、受験地獄……そういった辛酸は大人になっても解消しません。通勤地獄、上司や部下からのイジメ、不況、リストラ、過労死、倒産……もっと大きな視野をもってしても、核ミサイル、生物兵器、宗教戦争、テロ、地雷、海洋汚染、大気汚染……地球は病んでいます。失踪者たちは、ちょっとした勇気によってそういった諸々のものから逃れることができました。かつて仙人たちが、世を捨てて山に籠もることによって、世俗のしがらみから離れて自由と永遠の命を得たように。さあ、あなたも一歩を踏み出してみませんか。
また別のメール。
美津目徹くん。お返事をありがとう。きみが真剣に前向きに考えてくれているのはとてもうれしいです。きみの置かれている状況、つらい気持ちはとてもよくわかります。ぼくは、「ホラー小説」と名乗っているけれど、本当の名前は「シーナ」といいます。もし、きみが洞窟探しを決行するつもりなら、フェンスを乗り越えて常世の森に入る方法を教えます。返信をお待ちしています。
まちがいない。勧誘はメールで行われていたのだ。
比夏留は母親に礼を言って、辞去しようとすると、いきなり手を握られた。
「息子は……だいじょうぶでしょうか」
「そ、そうですね……たぶんだいじょうぶだと……」
そこまで言って相手の目を見ると、涙で潤《うる》んでいる。安請け合いは禁物だと思ったが、つい比夏留は手を握り返してしまい、
「私がきっと美津目くんを探し出しますからご安心ください」
あー、言っちゃった。とにかく明日はがんばらねば。
比夏留は責任が生じてしまったことを後悔しながら、家に戻った。
古びてはいるが、たいそうな門構え。時代劇に出てくる剣術の道場のような造りで、門の脇には檜《ひのき》の一枚板に墨痕|淋漓《りんり》と「古武道独楽四十三代目当主諸星弾次郎」と大書された看板が掲げられている。玄関をくぐると、弟子たちがこぞって正座して頭を下げた。
「若、お帰りなさいませ」
皆、一様に太っている。一番痩せているものでも百二十キロはあるだろう。広い玄関の間口が狭く見える。床がぎしっぎしっと軋《きし》んでいる。こういうときに比夏留はコンプレックスを感じるのだ。
「ただいま」
ぼそっと言うと、居間に向かう。ソファに学生鞄を投げ出して、ごろりと寝そべりながら、食パンに蜂蜜をつけて頬張っていると、
「おお、比夏留ちゃん、帰ってたか」
野太いバリトンの声とともに、のれんを頭ではねあげて、父親の諸星弾次郎が現れた。眉毛は味付け海苔ほど太く、ごわごわした髭を生やし、まだ血の匂いが残っているような毛皮のどてらを着、どこから見ても、武道家というよりは山賊の頭だ。身長二メートル十二センチ、体重二百十キロ。それも格闘家によくある筋肉の凝り固まった堅太りではなく、これ以上ないというぐらいぶくぶくと膨満している。デブという言葉が世界一ぴったりだ。〈独楽〉の技は、肉襦袢を着たのでは、と思わせるような肥満体の低い重心を利用して、身体を独楽のように回転させ、凄まじい破壊力をともなったキックやチョップを次々と繰り出すのが特徴であり、それには「健康に太った身体」が不可欠なのである。
「ブラスバンドはどうだった」
「うーんと……入らなかった」
「どうして。あんなにフルートやりたがってたじゃないか。雰囲気が悪かったのか。顧問の教師が鬱陶しかったのか。希望の楽器がやらせてもらえなかったのか」
「あの……私、民俗学研究会に入ったの」
[#挿絵(img/01_045.png)入る]
「ほう……」
弾次郎は意表をつかれたように唇を丸めたが、無言で次の間に行ってしまった。怒ったのかな、と比夏留は思った。弾次郎は、娘のやることに何でも口を出す。ブラスバンドに入りたいと言っても、武道家の娘が楽器なんかやってもしかたないといって許そうとせず、母親の光子《みつこ》のとりなしでようやく「稽古に差し障りのない範囲内ならば」と認めたぐらいだ。勝手に、民俗学研究会に変更したのが気に入らなかったのだろう。
だが、彼はすぐに戻ってきて、十数冊の古びた本を比夏留に示した。「初歩の民俗学研究」、「遠野物語に見る神性」、「比較研究・柳田国男《やなぎたくにお》と南方熊楠《みなかたくまぐす》」、「隠し念仏のなかのキリスト」、「素戔嗚尊《すさのおのみこと》は伊弉諾尊《いざなぎのみこと》と同一か」……。
「パパが若い頃、読んだ本だ。最初は、『古武道の民俗学』という本に興味をひかれたんだが、だんだん民俗学そのものが面白くなってな、修行の合間にいろいろ読んだものだよ。比夏留ちゃんがそういうクラブに入るのはパパは大賛成だな。でも、いつから民俗学に関心があったんだい」
「いや、べつに関心なんかなかったんだけど……」
父親が民俗学が好きだったなどとはこれまで聞いたこともない、と思いながら、「古武道の民俗学」という本の表紙をあけたところで、指がとまった。薄ぼけた著者近影が載っているのだが、その写真の人物がどこかで見たような……。
「あっ」
思わず声にのぼらせた。若かりし頃ではあろうが、面影が残っている。昼間会った、民俗学研究会の顧問、藪田浩三郎ではないか。しかし、表紙の著者名には脇田鳳三郎《わきたほうざぶろう》とあり、別人のようだ。
(藪田と脇田……浩三郎と鳳三郎……)
似ているといえば似ている。だが、学者がペンネームを使う理由もわからない。
「パパ、この人、有名?」
「ああ、脇田先生といえば、日本の民俗学の泰斗のひとりだよ。ご存命だとしたら、七十歳は越えてるだろうな。詳しくは知らないが、十年以上まえに、『古事記』や『日本書紀』の内容についてとんでもない主張をしはじめて、弟子たちにまで見放され、学界を追放されたと聞いてるね」
「どんな主張?」
「パパも内容はわからないけど、たしか『天岩屋戸論争』とか言ってたな」
「あまの……いわやど……?」
どこかで聞いたことのある言葉だ。
「ありがとう、パパ」
「参考になったかな。じゃあ、すぐに道場に来なさい。今日の稽古をしよう。そのあと、みんなでちゃんこだ。いっぱい食べろよ」
「なんのちゃんこ?」
「キムチ鍋だ。いいもち豚が手に入ったとママが言ってたよ」
キムチ鍋と聞いて、比夏留はひそかに舌なめずりをした。
9
翌日、クロワッサン八個とスープスパゲティ、ミニッツステーキ、ハムエッグ、大盛りポテトサラダの朝食を食べたあと、今日はクラブで遅くなる、下手をすると夜中になるかもと母親に言い残して、比夏留は家を出た。教室に入ると、やはり美津目の姿はなく、彼を苛めていた数人の生徒たちが所在なげに主のいない机をちらちら見ている。少しは罪の意識があるらしい。
放課後、部室小屋に行くと、すでに彼女をのぞく全員が集合していた。二年生の浦飯は流感で、今回は参加できないそうだ。顧問の藪田は、相変わらず上半身裸でベンチでいびきをかいている。きのうの「古武道の民俗学」の写真のことを思いだし、しげしげと観察してみたが、似ているようでもあり、別人のようでもある。
いつまでも顧問の顔を眺めていると、白壁が彼女の前の机にばさりと古い和|綴《と》じの書物を数冊投げ出した。
「これは……?」
「おいらたちが学校の禁を犯してまで今からやろうとしてることは、失踪者の捜査なんかじゃねえ。あくまで民研のクラブ活動だ。その古文献はうちの部員必読の、このあたりの郷土史資料で、蓬莱郷のことも書いてある。そこに載っている洞窟の実地調査をするのが名目なんだから、おめえも行く以上はちゃんと目を通しときなよ」
比夏留は触れると破けそうなほどぼろぼろの冊子の一冊目を開いた。が……。
「すいません。全然読めないんですけど」
やれやれと首を横に振って、白壁が太い指で草書体をいちいち指で示しながら声に出して読んでくれた。
「夷倭宿の山中に仙境あり。名を蓬莱と云ふ。そこに於いては歳とらず、病あらず、人死なず、腹減らず、上にたつもの下に傅くものの隔てなく、四民同一にして、棲む人皆和し、生きながら極楽浄土に遊ぶが如し。俗に桃源郷と云ふは是なるか。蓬莱に至るには、竜ケ洞なる白く長き洞窟がその門なるべし。かつて竜の棲みたればこの名あり。その竜、いまだ長らへ、雨の降る日などその姿見ゆとは、土地の古老の云ひたり……」
比夏留はしばらく感心したように唸《うな》っていたが、
「すいません。何のことか全然わからないんですけど」
「ああ、もうっ、いらつくぜ」
白壁は冊子をひったくると、
「このあたりの山のなかに蓬莱という場所があって、そこでは人は、老いることもなく、病気にもかからず、死ぬこともねえ。おなかもすかねえし、身分の差もなく、みんな仲良く暮らしてる。ここに行くには、竜が棲んでいた竜ケ洞という白くて長い洞窟を通らなければならねえ。以前、竜が棲んでいたためにそういう名がついた。実はその竜は今でも生きてて、雨降りの日に目撃されることがある……みてえなことさ」
「すごいですね。ちゃんと読めるんだ」
「あのなあ、日本人が書いたものなんだから、日本人であるおいらたちに読めないわけねえだろ。おめえもがんばったらすぐに読めるようになる」
「そうでしょうか……」
「今のは、『今昔諸国波奈志』てえ、江戸時代初期に書かれた随筆集だ。住岡同舟という旅籠《はたご》の主人が、泊まり客の噂話を書き取っただけの、いい加減な内容だけどな。こっちも見てくれ。『蛙頸山人夜話』といって、江戸中期の本草学者の随筆だけど、著者が学者だけあって、見方が冷静なんだよな」
今度も、何が書いてあるか読めない。
「古の文に曰く、夷倭宿の山中に竜の棲む蓬莱と云ふ仙境あるなりと云ひて、古今の行者、山伏、土地のものに至るまで、是を探しに行きしものども、帰りきたるは稀なり。おそらくは皆死にたるべし。古の文というのは間違いなくさっきの『今昔諸国波奈志』のことだと思う。このあたりの山のなかに、竜の棲む楽園があると聞いたいろんなやつらが探しにいったけれど、帰ってきた者はほとんどいねえ。たぶんみんな死んだのだろう……てえことだな」
「でも、死んだとは限りませんよね。もしかしたら、楽園で楽しく暮らしているのかもしれないし……」
と比夏留が言うと、白壁はかぶりを振り、
「お次は、『恵台上人奇譚集』という江戸時代のこの地方にいた高僧が収集したいろいろな奇談を集めた本の記述だ。吉原某なる侍、雨のそぼ降る日、仙境を求めて夷倭宿山に入りたり。十日あまりのち、麓にて倒れをりしを、杣人《そまびと》に助けられたり。からだ中の肌に蛇の鱗《うろこ》生えたるごとくになりて、高熱を発し、譫言《うわごと》に『洞窟に入りて竜を見たり』と繰り返して、三日ののちに死にたり。夷倭宿山の神は蛇体にして悪しき神なれば、決して近づくことなかれ、と杣人ども云ひしとぞ。これは訳さなくてもわかるよな」
からだ中の肌に蛇の鱗生えたるごとくになりて、というあたりで、比夏留はぞくっと震えた。そのさまを想像してしまったのだ。そのことを言うと、白壁はくくくと喉で笑い、
「こいつは甲賀三郎の伝説のぱくりだろうよ。なあ、部長」
伊豆宮は無言でうなずく。
「その甲賀なんとかって何ですか。忍者か何かですか」
がたん、と音がした。老顧問がベンチから落ちかけたらしい。部長が面倒くさそうな顔で説明をはじめた。
「甲賀三郎というのは、南北朝時代の『神道集』という本に載っている『諏訪縁起の事』という項に出てくる伝説の主よ。信濃の国、今の長野県のあたりでお兄さんにだまされて穴に落とされ、七十三の人穴と地底の国を旅してまわり、とうとう維縵《ゆいまん》国という一種の楽園にたどり着く。そこで、維摩姫という女性と結婚して、何不自由なく暮らしていたのに、しだいに里心が募ってきて、地上に帰りたくなった。三郎は、鹿の生肝で作った餅を千個食べるというげてもの喰いの修行に耐えて、ようやく地上に出ることができたんだけど、そのとき、自分の姿が蛇になっていることに気づくの」
「蛇に……」
「あさましい姿になった自分の身を恥じて、三郎は姿を隠してしまう。でも、石菖《せきしょう》が植えられた池に入って、脱蛇身の呪文を唱えることによって、再び人間になるの」
「ああ、よかった」
「よかったって、これはただの伝説よ」
「私、小説でもドラマでも、すぐに感情移入してしまう性質《たち》なんです。『水戸黄門』でも『とっとこハム太郎』でも、ちょっと悲しい場面があるとすぐに泣いちゃって……」
「ふーん」
興味なさそうに部長は髪を掻きあげると、
「あなた、今あげた三つの資料、『今昔諸国波奈志』、『蛙頸山人夜話』、『恵台上人奇譚集』の内容の共通点はなんだかわかる?」
「えっ、えーと……」
比夏留はしばらく考えていたが、急に顔を輝かせると、
「どれにも、竜が出てきますよね」
「卓球」
白壁が太った腰を揺すりながら言った。
「え?」
「ピンポン、だよ。どの資料にもなぜか竜が登場するんだ」
「どういうことでしょう。竜なんか空想上の動物なのに」
と比夏留。
「ところが、常世の森で竜を見たという噂があるのよ」
犬塚が言った。
「常世の森は立入禁止だけど、たまに不良学生とか酔っぱらった地元の連中が夜中に鉄条網を乗り越えて入り込んだりすることがある。そういうやつらのあいだの噂話だし、森のなかは明かりもないからあてにはならないけど、首の長い怪物を見てあわてて逃げ帰ったというやつが何人もいる。それに、竜の叫ぶ声を聞いた、という人。これはもっとたくさんいるわよ。現に、私も聴いたし、部長や白せんも聴いたはず」
「ほ、ほんとですか」
「ええ。この部室に泊まり込んだときなんか、すぐ裏の森のなかから、風の音に混じって、すごい声が聞こえてくることがあるわ。何ていったらいいのかな……地の底から響いてくるような……えげつない声。ねえ、先生」
犬塚は振り向くと、老顧問に同意をうながしたが、寝起きの悪そうな老人は、
「あほらしいな」
ぼそりとそう言って鼻で笑っただけだった。
10
「こんな文献もあるぜ」
白壁が実に楽しそうな顔つきで別の冊子を開いた。この肥満体の人物が異常に歴史好きであることが伝わってくる。
「これは江戸後期の怪談・奇談をおさめた『異怪真綺楼』という本だけど、ここを見てくんな」
彼が示した頁には、山を背にした竜の絵が載っていた。
「これは……竜?」
「こいつは出世螺《しゅっせぼら》だ。えーと、夷倭宿山に吾平という山猟師あり。さる雷雨の日、大山鳴動して、崖の崩れたるところより巨きな竜体のもの出づることありて、吾平の行きて見しかば、洞窟の残れり。これ、竜の抜け出たあとに相違なし。いわゆる出世螺と云うはこれなるか」
「はあ……?」
「この手の妖怪の説明はおいらより伊豆宮のほうが適任だろう。部長、頼まあ」
「そうね……」
伊豆宮は黒髪を掻きあげると、つまらなそうに、
「出世螺というのは、法螺が出世したものよ」
「法螺って……」
「法螺貝のこと。山に三千年、里に三千年、海に三千年の劫を経ると、法螺貝は竜になるの」
「まさか」
「と昔は信じられていたの。法螺貝は、蛇や蛟《みずち》、竜なんかと同じように思われていたのよ。それだけの齢を経た法螺貝は竜になって天上する。そのことを『法螺抜け』といって、今でも、法螺が抜けたあとだといわれている洞窟が残っているわ」
「じゃあやっぱり、常世の森にはほんとに竜がいるのかもしれないんですね」
「いるわけないでしょ、ばーか。竜っていうのは、鱗や甲羅をもった生き物の頭として、蛇だとか鰐《わに》だとか豚だとか……いろんな動物のパーツを集めて、中国で考えだされた空想上の動物よ」
「でも、鳴き声が……」
「そう。竜ではないかもしれねえが、少なくとも、何かがいる、あるいは何かがあることはまちげえなさそうだな」
と白壁。
「そうかしら。諸星さん、さっきの三つの文献と今度の資料、あわせて四つのうち、三つまでに共通する点は何?」
伊豆宮が冷ややかな口調で言った。
「竜が出てくると……」
「それはさっき聞いたわ。もうひとつあるの。気づかなかった?」
「は、はい……」
「だめね。人の話をちゃんと聞いていないからよ。民俗学ではね、ヒントは古い資料のなかのほんの短い一節や、民具、仏像なんかのちょっとした外観の違いに隠されていたりするの。注意してなきゃだめよ」
「…………」
比夏留は、入部早々、先輩にひどく叱られた気になり、うなだれた。
「もう一度、考えてみなさい」
部長の言葉に、比夏留は白壁が教えてくれた四つの資料の内容を思いだそうと努力した。実はその竜は今でも生きていて、雨降りの日に目撃されることがある……竜の棲む楽園があると聞いたいろんな人たちが探しにいったけれど、帰ってきた者はほとんどいない……吉原某なる侍、雨のそぼ降る日、仙境を求めて夷倭宿山に入りたり……さる雷雨の日、大山鳴動して、崖の崩れたるところより巨きな竜体のもの出づることありて……。
「あっ、わかりました」
簡単なことだった。たしかに注意していれば気がついただろう。
「言ってごらんなさい」
「あの……雨……」
「そう。三つの資料に、竜が出るのは雨のあとだと書いてあるわ。こんな原始林のなかで雨が降ったらどうなると思う? 靄《もや》や霧でものが見えにくくなるし、霧のスクリーンに影が映ったりしての錯覚も多くなるわ。有名なブロッケンの妖怪は知ってるわね」
もちろん知らない。部長はため息をつき、
「あなた、何にも知らないわね」
「おい、無茶言うねえ。古代史や歴史のことは知ってて当然だが、竜だの妖怪だののことは一般人は知らねえもんさ。自分の尺度で物事をはかるんじゃねえぜ」
白壁の言葉に、伊豆宮はつりあがった目をますますつりあげ、
「あなたこそ、誰でも『宮下文書』とか『カタカムナ文献』みたいな古史古伝のことを知ってるのがあたりまえだと思ってるでしょ。あんな偽書のこと、普通、知ってる人なんかいないわ」
「何だと? 古史古伝イコール偽書じゃないぞ。『上記《うえつふみ》』も『先代旧事本紀《せんだいくじほんぎ》』も『東日流外三郡誌《つがるそとさんぐんし》』も『秀真伝《ほつまつたえ》』も、『古事記』や『日本書紀』と同じく、古のことを知る資料として貴重なんだ。そいつはつまり……」
何のことを言ってるのかまるでわからない。
「もういい。わかったわ」
部長は白壁を遮ると、比夏留に向き直り、
「ブロッケンの妖怪というのはね、ドイツのハルツ山地にあるブロッケン山でよく起こる自然現象なの。霧がかかった山の頂で、太陽を背にして立つ人の影なんかが、霧のスクリーンに巨大な怪物のように投影されるわけ。もともとブロッケン山は、ワルプルギスの夜に|魔女の集会《サバト》が……ちょっと、あなた、ワルプルギスの夜は知ってるわよね」
「だから、知らねえって、普通」
と白壁。
「昔から、ブロッケン山は、五月祭の前夜に、魔王を囲んで魔女や妖怪の大パーティーが行われることで知られてるの。『ファウスト』とか『禿げ山の一夜』を知らないの? まあ、そんなことどうでもいいわ。とにかく、霧や靄が出ているとき、山のなかでは、ブロッケンの妖怪現象が起きやすいってこと。だから、雨の降ったあとに竜が目撃されてるのも、おかしくないわけ」
「つまり、錯覚ということですか」
「それ以外に考えられる?」
「え? いえ……」
伊豆宮の鋭い目でにらまれ、決めつけられると、比夏留は何の反論もできなかったが、白壁が机を手のひらで強く叩くと、
「別の解釈もできるぜ。妖怪のことはおいらの専門外だが、もともと竜は水と深いかかわりがある。インドでは竜《ナーガ》は水辺にいて降雨を司るし、中国でも降雨をもたらすとされてらあね。日本での竜は完全に池や湖に棲む水神で、竜王に対して雨乞いをすれば雨が降ると言われてる。つまり、竜と雨は切っても切れない縁があるってわけだ。さっきの資料の著者たちが、竜=雨という先入観にとらわれていて、ひとつのパターンとして『雨のあとに竜を見た』と書いたとしても不思議はねえだろ」
「そうね。その解釈は当たってるかも」
部長はあっさり肯定した。
「竜は水神だから雨の日に目撃される……うん、なかなか見事な解釈ね」
「そんなことねえよ。常識を言ったまでさ」
白壁が照れたように髷《まげ》を掻くと、伊豆宮は彼を睨みつけ、
「私が常識がないみたいな言い方ね」
「そういう意味じゃない。おいらは……」
何となく険悪なムードになってきたので、比夏留は何か言わなくてはと思い、
「あ、あの……この出世螺っていうやつですけど、法螺貝って要するに貝ですよね」
「だから、さっき言ったでしょ。昔は、法螺貝を蛇や竜と同じように考えていたの。何度も同じ説明させないで」
「でも……どうしてただの貝を妖怪みたいに……」
「それはね……貝の持つ神秘性がポイントなのよ」
部長は身体を乗り出し、目を輝かせて説明をはじめたので、比夏留はほっとした。作戦成功である。
「貝というのは、貝塚で象徴されるように、日本人にとってとても身近な生き物だったわけ。で、タニシ長者の話でもわかるとおり、貝は狐や狸、蜘蛛、蟹……なんかと同じく神秘的な動物と考えられていたのよね。蜃気楼ってあるでしょ。光の屈折で、海のうえに、はるか彼方にある建物なんかが浮かびあがる現象。蜃というのは、中国では大ハマグリのことなの。海のなかに大きな大きなハマグリが棲んでいて、それが口をあけたときに出す〈気〉が楼閣になる……これが蜃気楼の正体だと昔は思われていたわけね。こんな風に、貝全般につきまとう神秘性にくわえて、法螺貝は山岳仏教の修験者にはかかせない楽器兼仏具だった。鳥山石燕《とりやませきえん》の妖怪画でも、払子《ほっす》や鏡、経文なんかの仏具や神具を妖怪化しているケースが多いけど、宗教に使用する道具には、何となくミステリアスなイメージがあるんじゃないの。そんなわけで、法螺貝はとくに妖怪化しやすかったってことかな」
なるほどと感心はするものの、あまりに該博な知識をとうとうとまくしたてられると、口を挟む余地がない。
「法螺貝の肉を食べると、長命になる、と昔は言われていたらしいわ。ほんとか嘘か知らないけど」
伊豆宮の言葉に、やっと発言の糸口を見つけた比夏留は、
「あ、私、食べたことありますよ。前に、海辺の民宿で、法螺貝のお刺身が出たことあって……すごくおいしかったですよ」
五人前食べたことは言わなかった。
「ということは、君は長生きになったというわけだな」
と白壁が言うと、犬塚が馬鹿にしたように、
「少しぐらい長命になっても、意味ないでしょ。人間、死んだら無になるだけですよ」
その一言で、場は白けてしまった。比夏留は特定の宗教を信じているわけではないが、正月には神社に初詣に行き、命日には墓にお参りし、クリスマスにはキリストの生誕を祝う。そして、魂の不滅も信じているわけではないが、幽霊は怖いし、死後の世界もあるかもしれないし、ないかもしれないと思っている。いまどきの日本人ならたいていそうだろう。だから、「死んだら無になる」と断言されると、何だかどきっとする。
「さ、行くわよ」
伊豆宮の一言で、皆が身支度を開始した。用意してあったつなぎ服に着替え、ヘルメット、ロープ、サーチライト、ラダーなどをリュックに詰める。
「すごい装備ですね。民俗学のフィールドワークっていつもこんな重装備がいるんですか」
比夏留が率直に感想を言うと、
「うちは、別名洞窟研究会だからね」
部長の説明によると、洞窟の学術調査や探検をケービングといい、地形的にも明度的にも特殊な場所での行動になるので、十分な装備にくわえて、匍匐《ほふく》前進、懸垂下降等のロッククライミング技術、簡易測量の知識などが必要だという。また、日光の入らない洞窟内は生態系も独特で、光合成ができないので植物はほとんど存在せず、ホライモリやメクラウオ、ムカシエビといった洞窟生活に適応を遂げた生物のみが生存を許されているので、そういった知識も不可欠だ。それと、洞窟は古代人の住居、墓所、儀式の場などに利用されていることがあるので、考古学的な発掘技術や知識も欠かせない……。
「よかったー。私も一応準備してきましたから」
「そういえば、おめえも大層なリュック背負ってきてるな。どんな装備をしてきたんでえ」
「お弁当です」
「は?」
「おなかがすいたらたいへんと思って。あと、おやつ類もいろいろと」
「あなたねえ、ピクニックに行くんじゃないのよ」
「先輩たちの分はありませんよ」
「いらないわよっ」
伊豆宮はベンチでだらしなく眠りこけている老顧問に声をかけた。
「先生、行きますよ」
いびきしか返ってこない。
「先生! 出かけますよっ」
いびきまたいびき。
「しかたないわね。私たちだけで行きましょう」
「だいじょうぶですか、部長。さすがに私たちも常世の森に入るのはじめてだし……」
と犬塚。
「準備はきちんとしてあるし、危険な行動さえとらなければ、それほど心配することはないんじゃないの。それに、ご老体のお守りをしないでいいぶん、身軽でいいわ」
「誰がご老体やねん」
いつのまにか藪田は裸の上半身を起こし、伊豆宮をぎろりと睨みつけていた。
「あっ、あっ……センセ、お目覚めだったんですか」
「じゃかあしい。眠っとっても悪口だけは聞こえるんじゃ」
「そんなあ、私たち先生の悪口なんてまるで……」
「もうええ。はよ、行け。わしはもう一眠りするさかいな」
老顧問は再び横になると、目を閉じ、
「危ないことするんやないぞ。やばい、と思たら、すぐに戻ってこい。ええな」
「はい」
部員たちは一斉にうなずいた。
11
まだ陽は没しておらず、燃えるような赤が森を血の色に染めあげていた。背の高い、原初から人間の手が一度も触れていないのではないかと思われる草のあいだを、四人は進んだ。常世の森を取り巻く有刺鉄線付きのフェンスは、なぜか民俗学研究会の小屋のすぐ裏手のところだけが、まるでペンチかなにかで人為的に切り取ったように穴があいており、そこに板をたてかけて、ちょっと見にはわからないように細工されていた。
「このルートは私たちだけの秘密よ。誰にも言っちゃだめよ」
コンパスを手に先頭を進む部長が、二番手の比夏留に言った。
「誰が穴をあけたんですか」
「私よ」
伊豆宮は平然と応えた。
「一年生のとき、先生に言われて、金属カッターでね」
「穴があいてるのを知ってるのに、誰もこの森には入ったことないんですか」
「できれば学校側とことを構えたくないからね」
「藪田先生もでしょうか」
「私が知ってるかぎりでは、ないと思うわ。それに、常世の森はとんでもない広さなのよ。ひとりで入ったって、調べられることなんかたかが知れてるわよ」
しばらく晴天が続いていたが、雨の降る前触れなのか、それとも少し早目に宿った夜露なのか、草も地面もじっとりと濡れている。時々、強い風が吹き、草むらも木々もあおられてざさっざさっと湿った音をたてている。四人は、伊豆宮、比夏留、犬塚、白壁の順に隊列を組み、腰をロープで縛って、電車ごっこのようにして少しずつ前進する。これなら、よほどのことがあっても、まず遭難する危険はないだろう。
「動きにくくてしゃあねえや」
白壁が最後尾で声をあげた。
「迷って死ぬよりいいでしょ。文句言わないの」
と部長。
草むらから森へ。すぐに夕陽は遮断され、ライトをつけないと進めないほど真っ暗になった。もちろん森のなかも下草が生い茂っていて、道はないも同然であり、歩きにくいことといったらない。ときどき、なんだかわからない鳴き声が聞こえてくる。
「きゃひひひひっくすりりりりりっけあひひひひひひ……」
鳥とも獣ともつかないその鳴き声は、杉の木の梢《こずえ》のあちこちから雨のように降ってくる。怖々《こわごわ》うえを見上げる比夏留に、犬塚が言った。
「あれは、キャヒヒ猿よ。正式名称は知らないけど、夕方になったら、きゃひひひきゃひひひって鳴くから私たちはキャヒヒ猿って呼んでるの。クラブ棟のあたりにも出没するわ。たまに、糞を投げつけるから気をつけて」
比夏留は頭を抱えた。
「おかしいわね……」
部長が不機嫌そうな声で言った。
「このコンパス、狂ってる。今まで北に向いて歩いていたはずなのに、いつのまにか南に向かってることになってる。一本道だからまちがうわけないし……」
ライトの明かりのなかに、時々、ぎらりと輝くものが飛び込んでくる。
「お、人魂か」
と白壁が嬉しそうに言うと、犬塚が言下に、
「狐ですよ。狐の目がライトを受けて光ってるだけ」
そのとおりだった。狐は太い尾をミュージカルスターのように優雅に打ち振ると、スポットライトから消えた。
何かが頬に貼りつく。指で剥がすと、なにやらぬるりとした、こんにゃくのような手触りのものだ。ライトを向けると、それは黄色にぬめぬめと照り光った。蛙だ。大きな目に透明の膜をかけた、体長四センチほどの蛙。その頭部には短い角が生えていた。かりっ、と指先を噛まれたので、「ひっ」と叫んで、あわてて振り払うと、軽やかにジャンプして、近くの木の幹にへばりついた。
「蛙は蛙なんだけど、ギュンターツノガエルっていって、日本ではこのあたりにしか棲んでないらしいよ。噛むけど毒はないから安心して」
そうは言われても、気持ちが悪い。比夏留は噛まれた指を何度も服でこすった。
「きゃひひひひひひっくすりりりりりりりゅうはけけけけけけ……」
けたたましいBGMが鼓膜を揺るがす。フェンスを越えてから、もう一時間は歩いているが、まわりの景色に変化はない。つまり、ひたすら「森」が続いているだけだ。
「どこまで深いんだよ、この森はよお」
白壁が最初に音《ね》をあげた。どすん、とその場にへたり込み、
「部長、おいら、ここで待ってるから、先に行ってくれよ。ロープ外させてくんな」
「だめよ。迷ったらどうするの」
「ここから動かねえよ」
「あんたじゃないの。私たちが迷って、ここに戻ってこれなくなるかもしれないでしょ。こうなったら一蓮托生よ。さあ、立って」
そううながす伊豆宮の顔にも疲労と焦りが色濃く浮いていた。犬塚も、いっぱいいっぱいのところに来ているようで、白壁につられて一旦座ると立ちあがれない様子だ。彼らのあいだをびょお……と風がすり抜けていく。
「わかったわよ。小休止。私も座らせて」
伊豆宮もどかりと胡座《あぐら》をかいた。その太股をゲジゲジが這い抜けたが、疲れで反応する気にもならないようだ。彼女は、唯一立っている比夏留に、半ば呆れ、半ば感心したように、
「あんたは元気ねえ。そんなに大きな荷物背負ってるのに」
「私は鍛えてますから」
「そういえば、あんたの親って武道家なんだって? 空手? 柔道?」
「〈独楽〉です」
「コマ……?」
「古武道なんですけど、身体を極限まで太らせることによって得られる肉体的変化を利用して、技をかけるんです」
「へえ……でも、そのわりにあんたはまるで太ってないわね」
「体質なんです。いくら食べても太らなくて……」
「そのうち揺り返しがくるわよ。覚悟しときなさいよ」
「私は太りたいんですっ」
比夏留はそう言って、すぐ横にあった太い杉の木に向かって正拳突きをした。軽く突いたつもりだったが、ごぐぎっ、という音とともに木っ端が吹き飛び、幹が拳のかたちに陥没した。生木の青臭い匂いがぶわりと鼻を突き、茶色い木屑がばらばらと落ちた。皆、一様に呆然として比夏留と杉にあいた穴を交互に見つめている。
「あの……私の家、武道の家元だから……」
比夏留は弱々しい声で言い訳しようとしたが、誰の耳にも入らなかった。ヘビー級ボクサーでも不可能とおぼしき超人的な力が発揮されたことは誰の目にも明らかだったからだ。
「あ、あのですねえ……」
比夏留がなおも言い訳を重ねようとしたとき、
ぶご……お……お……ぶ……ぐおおお……おお……ん……
んご……おおおお……ん……ごお……んんんんんん……ん……
地鳴りのような、深い音が一同の鼓膜を揺すぶった。
おおおお……ごお……おおおおおお……ぶお……んんん……おおおお……
その音は次第に大きくなり、森の木々を揺るがし、空気を震撼させた。
「竜の叫び声だ。逃げろ。喰われるぞ」
白壁が叫んだ。
「早くしろよ。ロープでつながってちゃあ逃げられねえじゃねえかっ」
比夏留も、はじめて咆哮を聴き、震えあがった。だが、犬塚は知らぬ顔で、その声に耳を傾けていたが、
「あっちから聞こえます。ね、部長」
「ええ、どうやらこの奥ね。行くわよ、みんな」
伊豆宮は毛ほども動じた様子がない。
「お、おい、行くのかよ」
「あたりまえでしょ。なんのためにここまで来たの? これでやみくもに進まずにすむわ」
部長は、立ちあがると、声のした方角へ向けて歩き出した。
うご……おお……んんん……ご……おおお……んんんんん
んぶお……ううん……ご……んんんんお……おお……
次第に声が大きくなる。音源に近づいているのだ。
比夏留は反省した。武道家の娘ともあろうものが、正体のわからぬ声ごときで動揺するとは何たることだ。落ち着き払った二人の先輩を、見習わねばならない。比夏留は伊豆宮のあとに続く。犬塚も周囲に視線を走らせながら歩きはじめる。白壁は諦めたようにため息をついた。
森と森の切れ目に出た。すでに陽は沈み、半月が笑い顔の口のように梢にかかっている。伊豆宮が急に立ちどまったので、後ろのものは玉突き衝突のように鼻を前のものの背中にぶつけた。
「あった……」
部長が言った。
洞穴だ。生い茂った草に半ばふさがれてはいるが、入り口の直径は三メートルほど。内部がどうなっているかは、暗くて、ライトを向けてもわからない。もっと近づいてみる。入り口寸前で踏みとどまって、腕を伸ばし、ライトを突っ込んでも、なぜか光は吸い取られたように短く闇に飲み込まれてしまう。
「これが竜ケ洞……?」
犬塚が言うと、白壁がかぶりを振り、
「それはわからねえ。噂では、常世の森にはたくさん洞窟があるっていうからな」
「でも、この洞窟……白いわよ」
たしかに壁面は白っぽく、岩というよりある種の陶器を思わせるような滑らかさもあった。蓬莱に至るには、竜ケ洞なる白く長き洞窟がその門なるべし……という文章を比夏留は思い出していた。
「何だか、人工のものみたい」
そう言いながら壁を撫でさすっていた伊豆宮が残る三人に向き直り、
「入ってみる?」
反対者はいなかった。
「ロープもあるし、おいらたちは洞窟にゃあ慣れっこだ。なあに、危ねえって感じたら、すぐさま遁走すりゃあいいんだ」
白壁の言葉がだめ押しになり、入洞が決定した。
「穴があったり、急に段差があったりするから気をつけて……」
と、初心者の比夏留に注意を与えようとした部長の顔色が変わった。その目は比夏留の足もとに落ちている。
「きゃあああああああああっっ」
日頃クールな部長の取り乱しように、比夏留は驚いたが、そこに転がっていたものにもっと驚いた。
それは、人間の頭蓋骨だった。
「びゃあああああああああっっ」
比夏留は部長に輪をかけた大声で悲鳴をあげた。皆の視線が地面に集中した。あとの二人は、叫ぶことこそなかったものの、驚きは同じだっただろう。一歩退いてよく見ると、洞窟の入り口付近の草むらには、人骨がたくさん散乱していた。どれもすでに完全に白骨化している。頭蓋骨だけで三、四……六つはある。ほかにわかるだけでも肋骨や手足の骨などが、まるで肥料のようにそのあたりにぶちまけられていた。
「こここここれって……失踪した生徒たちの……」
比夏留がおぼつかない舌をむりに回すと、
「じゃあ……みんな死んで……うへえっ」
白壁が巨体に似合わぬか細い声をあげ、伊豆宮が両手を広げて、
「みみみみんな、餅つくのよ。こういうときは餅つきが肝心……」
「部長、それは落ち着きで……」
犬塚がそう言いかけたとき、
ぶお……おおおおおお……んんんんん
んぶわ……わ……おおおおお……おおおおお……おおおおおおおん
鼓膜をひきちぎり、脳を掴んで揺すぶるような大音響が、すぐ耳もとで轟き渡った。
「うわ」
「ひわ」
「どわ」
「きわ」
四人はそれぞれに小さく叫ぶと、てんでばらばらの方向に逃げ出した。だが、ロープに引っ張られ、みごとに四人同時に転倒した。比夏留は鼻の頭を擦りむいた。だが、そんなことに構っていられない。四つん這いのまま、もと来たほうに転がり逃げる。手に何かが触った。無意識にそれを掴み、不様な姿勢で走る。走る。ロープのせいで何度も何度もひっくりかえりながら、森のなかを全力疾走する。やみくもにでたらめに走ったために、すっかりへばってしまい、大きな岩のまえまで来たときには、全員がもう一歩も進めない状態だった。皆、岩のしたに座り込み、荒い息をつきながら、竜が追ってこないかと目だけを左右上下に走らせる。しばらくは、ぜいぜいぜいぜいぜいぜい……という四組の息づかいが対位法を奏でるだけだったが、やがて、比夏留が言った。
「これ……なんだろ」
彼女は自分がいつのまにか握りしめていた棒状の三十センチほどの物体を見つめた。少し弧状に反ってはいるが、先端に逆鉤がついており、捕鯨に使う銛《もり》のようでもある。材質はわからないが、プラスチックでできているかのように軽い。
「部長、これなんでしょう」
伊豆宮に示したが、彼女は肩をすくめただけだった。比夏留はそれをリュックにしまった。
「部長、ここ、どのあたりですか」
息を鎮《しず》めながら犬塚が言った。
「そうね……」
伊豆宮は周囲をぐるりと見回し、大きな息を漏らすと、
「――迷ったわ」
「ええっ」
「だって、あんな場合、どっちがフェンスだ、なんて考えてないし、コンパスはどういうわけか役にたたないし、日は暮れちゃってるしねえ……」
「そんな……じゃあ、私たちも……」
あんな白骨に……という言葉をかろうじて飲み込んだ犬塚は、ぼうっとして周囲の森を見渡していたが、
「そうよ、ロープよ! 伊豆せん、ロープがあるじゃない」
「あっ、忘れてた」
皆、顔を見合わせての大笑いになった。ロープの端はフェンスにつないである。これをたどれば、帰るのは簡単だ。そのために今まで歩きにくい思いをしてきたのではないか。伊豆宮は、汗を拭うと、ロープをたぐった。ぴん、と張ったら、その方向に進めばよい。だが……。
「おかしいわね……」
「何が」
「いつまで引っ張っても、何の手応えもないの。長さからしたらそろそろ……」
言いかけた部長の顔が瞬間冷凍されたように硬直した。
「何……これ……」
ちぎれたロープの先端が、ライトの光のなかをずるずると白蛇のように草のうえを滑って、こちらに近づいてくる。皆は、呆然としてロープの先を凝視した。
「お、お、おいら、ちゃんと結んだぜ。ほどけねえように何重にも巻いて、それから……」
「これ、見てよ」
伊豆宮がロープを掴むとその先端を皆に示した。
「これはほどけたんじゃないわ。ナイフか何かで途中を切ったのよ」
部長はそう言いながら、自分でも信じられないという風に何度もかぶりを振った。
「でも……いったい誰が何のために……」
犬塚の問いに答えられるものはだれもいなかった。
「俺たちがこの森をうろつくことを良しとしていない人、あるいは人たち、ということになるな」
と白壁。
「そいつらは、蓬莱郷を求めて入り込んだ生徒たちのことも良しとはしなかったはずだぜ」
「そりゃそうね。ということは……」
何か言いかけた部長の口を、比夏留が塞《ふさ》いだ。
「静かに。誰か近くにいますよ」
「真っ暗なのにどうしてわかるのよ」
「気配で」
それだけ言うと、比夏留は木と木の間の闇に向かって叫んだ。
「出てきなさい。そこにいるのはわかってるんだよ」
二、三秒の沈黙があって、黒い影がウナギじみたぬるりとした動きで滑り出た。全身黒ずくめのうえ、顔には縦一メートルほどの木彫りの仮面をつけている。仮面には蜘蛛のような蟹のような蠍《さそり》のような百足《むかで》のような彫刻が施されていた。
「か……えれ……」
仮面のせいか、妙に電気的な響きの声。
「かえ……れ……この……森から……出て行け……」
「どうしてそんなこと命令されなきゃなんないの。大きなお世話よ」
「ここは……守らなくてはならぬ場所……永遠に……このままでおかねばならぬ場所……」
「何わけのわからないこと言ってんの。ぐだぐだ言ってないで私と勝負しなさいっ」
おっかぶされると反発したくなるのが比夏留の性格だ。だが、TPOをわきまえねばならない。黒い影はぎらりと光るものを抜き払った。
「ふん、日本刀ぐらいで私が……うひゃあっ」
〈かまえ〉の姿勢をとろうとしたときに、腰を思い切り引っ張られた。刀を見てパニックになった残りの三人が逃げ出したのだ。
「ちょっちょっちょっと待ってください。私はこんなやつ……ぶわあっ」
石にけつまずいて比夏留は転倒し、顔面をしたたかその石にぶつけた。頭がじーんとして涙が出てきた。敵に後ろを見せるのはいやだが、こうなったらしかたがない。立ちあがると、比夏留は先輩たちに追いつくように必死に走った。それからどこをどう走ったのか、三十分以上、ノンストップで右往左往したのち、完全にガス欠状態となった四人は太い杉の木のまえでずてんどうと倒れ伏した。
「きゃひひひひひひひひっするっくるっするっくるきききききき」
頭上からキャヒヒ猿の鳴き声が降ってきた。
「もうだめ。私たちはこの森で迷ったまま死ぬのよ」
そう言いながらふと前を見た犬塚は驚喜して立ち上がると、部長、部長と連呼して目の前の杉の木を指差した。その幹は、拳のかたちに凹んでいた。皆のあいだに安堵が広がった。ここまでたどりつければ、あとはフェンスまで一直線だ。何とかなる。
「ああ、もうばてた。限界だぜ。今はこれ以上一歩も動けねえ」
分厚い胸を上下させつつ白壁が呟《つぶや》いたとき。
おお……ん……おぶおおん……おおおん……おん……ぶお……んん……
その声を耳にするや、「一歩も動けねえ」はずの白壁を含めて四人が、放たれた弾丸のように走り出したことは言うまでもない。
12
フェンスのところでは、顧問の藪田が待っていた。その姿が見えたとき、比夏留は胸が熱くなった。
(先生……私たちのこと心配して、ずっと立っていてくれたんだ……)
だが、老人がフェンスに片手をつき、げろげろと嘔吐しているのを見て、胸は急速に冷たくなっていった。あとで、「べろべろに酔うてもうたんで、風に吹かれよ、と外に出たら、気持ち悪なってきよって、部室小屋の裏手で吐いてたら、おまえらが帰ってきたんや」というのを直接聞いて、一瞬でも感動したことを後悔した。しかし、顧問の立ち姿を見て、「戻ってこられたんだ」とホッとしたのは事実である。
時計は七時半をさしている。出発からすでに二時間半が経過しており、疲労の極に達していた四人が、部室の椅子にぐったり座っていると、藪田が冷たいトマトジュースを出してくれた。それを飲むと、少し元気が出てきた。
四人は口々に今あったできごとを話そうとしたが、
「じゃかあしい。おまえら、いっぺんにしゃべるな。一人で話せ」
藪田にそう言われて、伊豆宮が代表で話すことになった。老顧問は酒臭い息を吐きながら熱心に聞いていたが、突然現れた人物の仮面の模様に話が及んだときには、その酔眼が輝いたのを比夏留は見たような気がした。ひととおり聞き終えたあと、
「風は吹いとったか」
唐突にそう言った。
「風? はあ……そうですね。ときどき強い風がびゅうっと……」
「その洞窟やがな、白くて瀬戸物みたいな感触がしたんやな」
「はい。岩にしてはやけにつるつるしてて……自然にできたというより、人が作ったもののような気がしました」
「それが竜ケ洞か。ふん……」
理由はわからないが、その口調に、多大な失望が込められているように比夏留には思えた。
「先生、どうしたらいいでしょうか」
「どうでもええ」
「え?」
「ま、警察に任せるこっちゃが、おまえらが今見たことをそのまま言うたかて、向こうは信用しよらんやろ。一連の学生失踪事件に関して、こっそり常世の森に入ってみたら、人骨が散らばってる場所があった、ぐらい言うてみたらどないや。それでもあちらさんが取り合わんかったら、あとはほっとけ」
そう言うと、すっかり興味の失せた顔で、ベンチに横になった。
「で、でも……失踪した学生が危険じゃないんですか」
「どうせメールひとつで蓬莱郷てなたわごとを信じるような連中や。自業自得とちゃうか。あほらしいにも程があるで。あー、あほらしいなあ」
吐き出すように言うと、目を閉じ、すぐに大いびきをかきだした。伊豆宮は残りの部員と顔を見合わせ、
「あーあ、私たちのあの努力は何だったのよ」
「しかたねえよ。あの日本刀男が出てきた時点で、もうおいらたちの手に負えねえ事件だとわかったぜ。先生の言うとおりだ。警察に任せるしかねえさ」
「じゃあ、今からみんなで警察署に寄ってから帰りましょう。お疲れさま。今日はこれで……」
部長が立ちあがりかけたとき、犬塚が言った。
「待ってください。私、今日のこと、推理してみたんです」
一同は再び座り直した。
「まず、本当に竜はいるのか、というところから考えてみました。もちろん、いるはずないですよね」
「そうとは限らねえだろ。洋の東西を問わず、竜の目撃例は多い」
白壁が口を挟んだが、
「そんなこと思ってるのは白せんだけですよ。頭に角があって、蛇みたいに長い胴をもつ、巨大な生き物……そんなものがいたらダーウィンもびっくりじゃないですか」
「じゃあ、あの声はどうなるんだ。おめえも聞いたはずだぜ」
「聞きましたよ。だからこの推理が成り立つんです。あの声、最初にキャヒヒ猿の鳴き声とか聞いてたから、つい生き物の叫び声だと思っちゃったけど、みんなよく思い出してみてください」
比夏留は頭の隅に録音されていた「あの声」を再生しようと努力した。ぶも……ももも……んん……んご……おおおおお……ん……。たしかに鳴き声、というのとはちょっとちがう。しかし、無機的ではなく、深みや暖かみがあり、なにより圧倒的な迫力があった。
「あの声も人工のものだとしたらどうかしら。それに、あの人骨。最初に生徒がいなくなってから、まだ二週間ちょっとでしょ。あんなにたくさん白骨があるっておかしいですよ。これも思い出してみてほしいんですけど、あの骨、変に茶色っぽくなかった?」
比夏留は、今度は頭の隅に録画されていた「あの骨」を再生した。犬塚の言うとおり、どれも薄汚れて、黄ばんでいた。もろもろに砕けているものもあった。
「それと、洞窟。たしかに言い伝えどおり、白かったけど、伊豆せんがさっき言ったみたいに、内壁はつるつるすべすべしてて陶器みたいな感触だったわ。あれは、自然にできた洞穴じゃないと思う」
「じゃあ、何なんでえ」
と白壁。
「もう一つ、噂がありましたね。豊臣家の……」
「財宝ね!」
伊豆宮が唸った。
「豊臣家でも隠れ切支丹でも聖徳太子でも足利尊氏でもいいけど、誰かがあの森に財宝を隠そうとした。そのために、洞穴みたいな構造の建築物を作ったとしたらどう? あのばらまかれていた骨は、侵入者をよせつけないためにわざとおいたものだとしたら」
「レプリカかしら」
「かもしれない。本物だとしても、今回失踪した学生のものじゃないと思います。怖ろしい竜の伝説を流布させたのも、盗掘者を遠ざけるため。でも、いつしか隠された財宝の噂は人の知るところとなって、それが、まぜこぜになって、『竜が守る楽園に通じる白い洞窟』という言い伝えが生まれたんじゃないかしら」
「なーるへそ」
白壁が感心したように言った。
「あの仮面の男……あいつはそのことを知っていて、財宝を独り占めにしようとしているのよ。だから、侵入者が現れたら、怪物じみた声で脅かしたり、刀を抜いて追いかけてきたりするんだと思うわ」
「でも、ちょっと待てよ。あの声はどうなるんでえ。あの声もあの仮面の野郎が出してたっていうのか」
「そうです、ある意味ではね。――ねえ、比夏留ちゃん、あなた、ブラバン志望でしょ。あの声、管楽器の音に似てなかった?」
「うーん……」
そう言われればそうかもしれない。トロンボーンやチューバの音と似ていたかもしれない。
「でも……でも、金管楽器って特有のきらきらした響きがあるものですけど、それはなかったと思うし、だいいちあんなに大きな音の楽器なんて……」
「きっと機械で増幅したのよ。これは想像だけど、あの洞穴の奥に、オーディオ装置があって、音を鳴らしたら、洞窟の壁に反響して、あんなに大きな音になるんじゃないかな。あのつるつるした壁は、音を反響させるための素材という意味もあるのかも」
一同の口から「ほー」という感心の息が漏れた。それなら、全て説明がつく。白壁が腕組みをして、
「ま、そんなとこだろうな。じゃあ、失踪者は、あの仮面の男が捕まえて、どこかに押し込めているのかもな」
「まさか、殺して埋めちまってるってことは……」
「どっちにしろ、警察に任せるしかないわね。あの広い常世の森を探すのは私たちだけじゃとてもむりだし、また刀で追いかけられるのはごめんだし」
部長の一言で結論が出たような雰囲気になった。皆は、荷物を持って、部室を出ようとしたが、比夏留はどうも釈然としないものを感じていた。彼女は食いさがった。
「見せていただいた文献には、竜を見たっていう目撃談がいろいろ載っていましたよね。あれは全部嘘っていうことですか」
「嘘というより、伝承てえものは、ひとつの事実の種があったら、それが伝わっていくうちに形を変え、おさまるべきところにおさまるってえのかな……。その過程を調べるのが民俗学というものだあね。財宝がある。蓬莱郷がある。竜がそれを守っている。竜を見た……」
白壁が訳知り顔で言い、比夏留もうなずくしかなかった。
13
四人はその足でS県警夷倭宿警察署に赴《おもむ》き、事情を縷々《るる》説明したが、藪田が言ったとおり、応対に出た警官にあまり熱心さは感じられなかった。彼は、常世の森の捜索を校長にもう一度申し入れることは約束したが、それではこれまでと何もかわらないうえ、彼らが勝手に森に入ったことがばれてしまう。伊豆宮は、
「私たちのことは絶対に学校には言わないでください」
と何度も念押ししたが、警官は「はいはい」と笑顔で軽い調子で応じるだけだった。
警察署を出ると、もう八時半だ。そこで解散になり、比夏留は犬塚と並んで帰宅の途についた。
「何だか今の人、いいかげんな感じでしたね。ばれませんかね、校長先生に」
比夏留が言うと、犬塚は、
「約束は守ってくれると思うけど、そのぶん、捜査も進展しないんじゃないかな」
「そんなことでいいんですか。いなくなった生徒たちのことは……」
「だって、しょうがないわよ。私たちはやるだけやったんだから」
「はい……」
「あの美津目っていう子のこと考えてるの? あなたが責任感じることないってば」
そうではなかった。美津目のことというより、比夏留はさっきの犬塚の推理に納得できていないのだ。しかし、それを本人に言うわけにはいかない。
「失礼します」
「じゃあね、また明日ね」
街灯のしたでわかれ際に、一度行きかけて、また戻ってきた犬塚は、比夏留の耳もとに唇を寄せ、
「あのね、比夏留ちゃん……私、あの仮面、どこかで見たことあるなーってずっと考えてたのよ。それで、やっと思い出したわ」
「…………」
「飾ってあったと思うわ、――校長室に」
「えっ」
「じゃあ、バイ」
犬塚の白い歯が街灯にきらめいたあと、闇に吸い込まれた。途端、ぐーっとおなかがなった。そうだ、せっかく持ってきた弁当を食べるのを忘れていた。
商店街はほとんどがすでにシャッターをおろしていたが、パン屋のあかりがまだ点いているのを発見した比夏留は、誘蛾灯に誘われる蛾のようにふらふらと中に入った。
「あら、比夏留ちゃん、今日は遅いわね」
顔なじみの店長が声をかけてきた。
「部活だったんです」
「悪いけど、もうあんまり残ってないわ。菓子パンとバターロールぐらいだけど」
「ください。全部ください」
比夏留はクリームパン二つ、チョココルネ三つ、レーズンデニッシュ五つ、オレンジデニッシュ一つ、バターロール四つを買った。
「全部って、ほんとに全部さらえてくれたわね。おまけしとくわ」
「いえ、そんな……」
と言いつつ、小遣いも乏しい身の上。ありがたくまけてもらう。大きな紙袋を満足げに抱きしめていると、客がひとり入ってきた。ジーンズのズボンに手を突っ込んで、空っぽになったパンの棚を唖然として見つめているその顔におぼえがあった。
「保志野くん!」
彼は小首を傾げて比夏留を見たが、やっと思い出したらしく、
「ああ、えーと……昨日、民研の部室で会った……」
「諸星比夏留です。よろしく」
「え? ああ……よろしく……」
言いながらも視線は空の棚をさまよっている。いわゆる小顔というやつで、頭髪を短く刈っているため、よけいに顔の輪郭が小さく見える。眉毛は薄く、目も細い。唇はおちょぼ口で、男のくせに桜貝のような桃色だ。
「ごめんなさい、お客さん、この子が全部買ってしまって、もうおしまいなの」
店長が、いらぬことを言いだしたので、比夏留はあわてて、
「あ、あの……あの……うちの家、道場してるんだけど、お弟子さんが多くて、だからパンをたくさん買わないと……」
「何言ってるの、比夏留ちゃん。いつもそのぐらいひとりでぺろりじゃない」
「ち、ちがうわよ、私はだいたい……」
店長はあわてふためくその様子をみて一人合点し、
「ああ、やっとわかった。それならそうと先に言ってくれればいいのに。あなた、比夏留ちゃんの彼氏ね」
「ち、ちがうってばっ」
比夏留は保志野を左手で押し出すようにして店の外に出した。
「あの人、冗談がきついのよ。混乱させてごめんなさい」
保志野はきょとんとした顔で、
「そうなの? ぼくはてっきり、食堂で話題になってる大食い選手権女ってのが、君かと……」
あちゃー。
「なんのこと、大食い選手権って?」
「いや、ぼくの勘違いみたい。気にしないでください。それより、君は入部したんですか」
「ええ。けっこうおもしろいところよ、民研って」
「そう」
二人は自然に肩を並べて歩き出した。
「――でも、気をつけたほうがいいですよ。とくに、あの顧問にはね」
「どうして?」
「気づきませんでしたか? あいつは、トンデモな学説の信奉者なんです。高校の民俗学研究会の顧問としては、かなり異常です。あんな考えを高校生に押しつけるなんて、どうかしてます。そう思いませんか?」
「私……民俗学って全然知らないのよ。そんなものがあるなんて、きのうまで聞いたこともなかったわ」
「へえ……それでどうして民研に入ったんですか」
比夏留は、物心ついたときから武道の稽古ばかりやらされて、いい加減、ちがったことをやりたくなったこと、本当はフルートを吹きたかったのだが、まちがえてあの部室に入ってしまったこと、先輩たちのやってることを見ているとなんだか面白そうに思えてきたこと……などを一生懸命になって説明した。
「保志野くんは、すごく詳しいんでしょ。専門誌に論文が載るなんてすごいことじゃない?」
「それほどでも……ありますよ」
彼はあっさり肯定した。
「顧問の先生は別として、たぶんあの研究会の誰よりも知識はあると思います」
「よほど好きなのね、民俗学が。入らないの、民研?」
「いやですね。ブラバンに入って、フルートでも習おうかな」
比夏留はくすくす笑った。しばらく話していて驚いたのは、保志野が、ユーモアのセンスもあり、民俗学への情熱を持った「いいやつ」だったことだ。昨日の昼、部室で見たときは、急にブチ切れるような危ないやつに思えたが、たいへんな誤解だった。
「あの……保志野くんの家ってこっちなの?」
「そうです。そこを右に曲がったとこにある喫茶店がぼくんちです」
比夏留はがっかりした。比夏留は左に折れなければならない。ということは、彼と一緒にいられるのもあと一分ほどだ。
「ねえ……ねえねえ、ちょっときいてほしいこと、あるんだけど」
自分でも信じられないぐらいの大胆な言葉が勝手に口から出ていた。
「え? いいですけど……ぼく、パン買いに出ただけだから、あんまり長い時間は……」
「夷倭宿山の蓬莱郷伝説のことなんだけど」
「蓬莱郷?」
案の定、彼は餌に食いついてきた。
「おもしろそうです。聞かせてください。えーと、そこに怒濤流コーヒーがあるから……」
彼は先に立って、コーヒーショップに入っていった。しめしめ。
14
三十分ほどかけて、比夏留は今日いちにちのできごとについて説明した。保志野は、ひとことも口を挟まずに最後まで聞いたあと、
「おもしろい。実におもしろい。思ったとおりです。やっぱりあの高校には何かありますね」
「何かって何?」
「それはわからないけど……あの顧問もそうとうおかしいけど、校長もおかしいです。だいいち体育祭を夜中にやる学校なんて聞いたことありますか? 文化祭の出し物もめちゃくちゃへんてこらしいですよ。聞いた話では、プロのストリッパーを呼んできて、ショーをするらしいです」
比夏留は絶句するしかなかった。
「ぼくは、単に、校長の個人的趣味かと思ってたんですけど、君の話をきいてると、どうやらちがうようですね。きっともっと何か深いものがあるんだ」
「深いものって……?」
「それはわからない。でも……あの学校に通うの、うざいような気がしてたんだけど、なんだか楽しくなってきました。君のおかげです」
「そんな……」
謙遜しているわけではない。ほんとうに比夏留は何もしていないのだ。
「で……その失踪事件だけど、君の先輩は、校長が常世の森の洞窟に財宝を隠していて、侵入者を捕まえている、と言うんですね」
比夏留はうなずいた。
「その洞窟は、豊臣家か何かが人工的に作ったものだと」
またうなずく。
「竜がいるというのも嘘で、鳴き声は管楽器の音を増幅したもの。人骨が散乱していたのも、脅かすためのレプリカだろうって?」
またまたうなずく。
保志野は二杯目のカフェラテLサイズを飲み干すと、沈思黙考しはじめた。比夏留は何度か「時間、だいじょうぶ?」と声を掛けたのだが、石になったみたいに反応がない。しかたなく、比夏留も同じように黙っていた。ただし、彼女が考えていたのは、「おなかがすいた……」そのことだけだ。弁当もパンも食べていない。もうおなかがすいて倒れそうだった。見えるところにあるから気になるんだ。比夏留はリュックをあけて、なかにパンの入った紙袋を押し込もうとした。何か変な棒のようなものがある。
(何、これ……)
取り出してみて、やっと思い出した。常世の森で拾った銛みたいなやつだ。汚らしいし、気持ち悪いから捨ててしまおうと、リュックから取り出す。
[#挿絵(img/01_081.png)入る]
「それ……何?」
保志野が銛に目をとめた。比夏留は簡単に説明したが、意外にも保志野の目が輝きはじめた。
「ちょっと貸して」
その棒を受け取ると、ためつすがめつ眺めながら、
「何もかもがひとつのことを示しているように思うんですが、最後のパズルの一枚がはまらないんですよね……」
独り言のようにそう言った。比夏留は何か手助けがしたく思ったが、助言できるようなネタは持ち合わせていない。
「洞穴……洞穴か……」
保志野はぶつぶつ口のなかで繰り返している。
「ねえねえ、ホラ穴とホラ貝って似てるよね」
重い雰囲気をほぐすためのくだらない冗談だったが、保志野はじろりと比夏留をにらんだ。
「何だと?」
「え? あの、ごめんなさい、ただの冗談よ、気にしないで」
「ホラ穴とホラ貝か。たしかにそういう説もある。山伏たちが、山中の洞穴はみんな大きな法螺貝だと吹聴してまわったために、『出世法螺』の言い伝えが生まれたというんだ。そこから、でたらめを言うことを大法螺を吹くというようになった、という説なんだけどほんとか嘘か……」
保志野は「法螺……大法螺……」と呟きはじめた。怒っているのではなさそうなので、ほっとしてコーヒーの残りを啜っていると、
「わかったあっっ!」
彼は怒濤流コーヒーの店内の注目を一身に集めるほどの大声を出すと、
「俺の想像が正しいとすると……いや、きっと正しいにちがいない。俺はいつでも正しいんだ……」
顔つきも言葉づかいも変わってしまっている。藪田と口論していたときの顔だ。彼は小さな桃色の唇をにやりと曲げると、ショルダーバッグからノートパソコンを取り出し、立ち上げた。
「あ、あの……パンを買いにきただけって……」
「うるせえな、俺は寝るときもパソコンを抱いてるんだよ」
彼はしばらくキーボードをかちゃかちゃいわせていたが、やがて顔をあげると、パソコンをぐるりとまわして比夏留に示した。そこには、巨大な法螺貝から首をのぞかせる竜が、口から水を噴水のように噴きだしている絵があった。
「これは……出世螺?」
「素人《しろうと》にしちゃよく知ってるな。竹原春泉という江戸時代の画家が描いた『桃山人夜話』に載っている絵だ。文章には、こうある。霧嶋渡氏の訳によると、『深山には法螺貝があり、山に三千年、里に三千年、海に三千年を経て龍《りょう》となる。その跡を「出世のほら」という。昔よりあることにて、遠州|今切《いまぎれ》の渡しも螺の抜けた跡だという。螺の肉を食えば長寿を得るという。貝は山伏の吹くものであるから、実を食した人もあるに違いない。螺を食って長生きしたという人の話を聞かない。このように禍いする物を食って長生きしたがるべきではない。嘘をつく者を「ほらふく」というのも、かかる事から出たのであろう』……」
「それって、伊豆宮さんが言ってたことと同じだよ」
保志野はまたパソコンを叩いた。
「『甲子夜話《かつしやわ》』の巻二十六によると、法螺貝の正体は、蛇に似て、角と四脚とをそなえ、気を吐く蛟《みずち》の類であるとしている。蛟というのは、雨龍という一種の竜で、山腹の土中に棲む。宝螺抜けといって、山がにわかに震動し、雷雨にみまわれ、何かが飛び出すというのは、この法螺が地中を出るためだというが見たものはいない、とな」
何が言いたいのだろう。おなかがすいているせいかよくわからない。
「おまえは言ってたな。このあたりの文献によると、竜は雨のあとに出る、と。それに、竜の鳴き声は、風の吹いているときに聞こえるとも」
「どっちも、先輩たちが言ってたことだけど……」
「そう。おまえの先輩たちは、なかなかいいところまで行ってたんだ。結論がまちがってるのは力不足で仕方ないけどな。甲賀三郎もどきの、洞窟に入ったものが蛇体になったという伝承と、洞窟は白くて人工のものと見まがう材質でできていた。そして、とどめはおまえが拾ってきたこの銛だ」
うう……おなかがすいたおなかがすいたおなかがすいたおなかが……。
「おまえの一言で全てが解けた」
「何のこと……?」
「行ってみるか」
「ど、どこへ?」
「常世の森」
「今から」
「ああ。竜の正体を知りたいだろ。それにいなくなった生徒を助けないと」
「捕まってるんじゃないの?」
「ある意味そうかもな。でも、人間にじゃない。俺の想像が正しいとすると……いや、正しいに決まってるんだが、彼らは危ない。とくに最初に失踪したやつあたりはな」
保志野は謎めいた言葉を漏らした。彼はすっかり「あんまり時間がない」などと言っていたことを忘れているようだ。どうやら、熱中すると他のことがお留守になる性格らしい。
「ライト持ってるかい」
さっき使ったやつがリュックに入っている。
「それで十分だ。道は案内してくれるな」
比夏留はかぶりを振った。さっきは伊豆宮のあとに電車ごっこのようにくっついていたから行けたのだ。とても、自分が先導することはできない。
「何とかなるって。行こう」
保志野は気軽に立ちあがる。なんだか彼のペースに飲まれてる。だが、比夏留にとってそれは決して不愉快ではなかった。
「俺、片づけとくから先に出てて」
セルフサービスの食器を保志野が返却口に持っていっているあいだに、比夏留はひそかに今買ったパン三つを瞬時に口のなかに押し込んだ。
15
部室の電気はまだ点いていた。犬塚によると、藪田は自宅があるにもかかわらず週の半分以上を部室小屋に寝泊まりしているという。時折、「うーい」とか「げほっげほっ」といった咳の音、「あほらしい……ほんま、あほらしなあ……」という呟きのような言葉が聞こえてくる。気づかれるとやっかいなので、比夏留たちは足音を殺して、そっと小屋の後ろにまわった。フェンスの切れ目から常世の森に入る。常世、というのは、あの世という意味だ、と白壁が教えてくれた。たしかに、フェンスをくぐっただけなのに、「禁断の場所」に足を踏み入れた、という忌まわしい感覚が呼び起こされる。地面は夜露のせいか、さっきより湿っている。一晩のうちにもう一度来るとは思ってもいなかったし、来たくもなかったが、しかたがない。
「あの日本刀男……まだいるんじゃないかしら」
「いないよ」
保志野は即座に断言した。
「向こうも一晩に二度も来るとは思ってないだろう。そこがこっちのつけ目だ」
それって、根拠としてはかなり薄弱だ。
ライトのか細い明かりが森の黒い木々をなめる。風はまだ唸っているが、空中の湿気はかなり増してきているようだ。月も雲に分厚く覆われているし、
(一雨きそうだ……)
と比夏留は思った。
ざくざくざくざく。落ち葉を踏みしめる音だけが耳をつく。不思議なものだ。人っ子一人いない夜の森のなかを、男性と二人きりで、手を握らんばかりに寄り添いながら歩いている。高校に入学するまえの比夏留には考えられないことだ。
だが。
一つ問題があった。
空腹がひどくなってきたのだ。
比夏留はなるべく早足で歩き、保志野と距離をあけるようにした。
「そんなに先々急ぐなよ。見失ったら遭難しちまう。おまえの背中だけが頼りなんだぜ」
「あ、ごめんごめん」
謝りながらも比夏留は保志野との距離を縮めない。
二人の頬を風がよぎる。
ぶも……んんんん……おおお……んんんん……
ごお……んご……おおお……ん……
「よく聞いてみろよ。風が吹くリズムとこの声……」
「あ」
同じなのだ。風が強く吹くたびに、竜の叫び声の高低が変わる。
「じゃあ、この声は風の音なの?」
「そのうちわかる」
三十分ほどで例の拳の跡がある杉の大木のところに出た。慣れたせいか、さっきよりも短時間で着いた。保志野はあえぎながらたどりつき、
「急ぐなって言ったろ」
「気がつかなくてごめんなさい。考えごとしてて……少しペースダウンするわ」
しかし、歩き出すと、また、距離が開いてしまう。保志野は背中を曲げて老人のような姿勢で歩いている。比夏留に追いつこうと必死なのだろう。しかし……しかたがない。我慢してもらうしかない。
ようやく見覚えのある、森と森との切れ目のところに出た。
「見て、あれよ」
比夏留はもごもごと言った。ライトを向けると、そこには白い洞窟があった。保志野は、すたすたと洞窟に近寄る。散乱する頭蓋骨のひとつをひょいと持ちあげると、比夏留の目の前に突きつけた。
「レプリカなんかじゃない。本物の人骨だ。――だけど……ものすごく古いものだ。変色してるし、光沢もない。こうして叩くと……」
保志野が骨を石にぶつけると、簡単に割れてしまった。
「脆《もろ》くなってるだろ。たぶん百年以上、もっとかな……たってる骨だ。民俗学には考古学の知識も不可欠だ。おまえの先輩たち、動転して、基本的なことを見逃したようだな」
皮肉ととれる発言だったが、そんなことに構っていられない。
「どうしてそんなものが……」
「今、確かめるから待ってろ」
保志野は洞窟の入り口に立つと、拾った手頃な岩でその壁面を叩いた。カーン、カーンという乾いた音がする。
「たしかに、陶器みたいにも見える。でも、そうじゃない」
カーン、カーン、カーン……。壁面の一部が割れて、白い断片が保志野の手のひらに零《こぼ》れた。
「これ、何だかわかるかい」
「さあ……」
「貝殻だよ」
と保志野は言った。
16
「この洞窟は……大きな大きな貝の貝殻だ。信じられないほど巨大な陸生貝類がこのあたりに棲んでいたんだ。たぶん、殻長は十メートル近いだろう」
最初は彼が冗談を言っているのかと思ったが、そうではないらしい。保志野は自信たっぷりだった。
「法螺貝というのは、海のなかに棲んでいる。だから、『出世法螺』とか『法螺が抜ける』といった、山中に法螺貝がいるという言い伝えはそもそもおかしいことになる。それに、法螺貝はいくら大きくても五十センチほどで、とても、竜になるほどの大きさはない。これは何を意味しているのか、と考えてみた。きっと法螺貝とは別の、化け物じみたスケールの貝が夷倭宿山にはいるんだろう、という結論が出た」
保志野は、洞窟全体を指差し、
「こうして推測が正しいことが証明された」
比夏留は、洞窟のなかにライトの光を入れてみた。内部は、巻き貝特有のゆるやかな螺旋《らせん》状になっており、前回来たときに、ライトの明かりが途中で吸い込まれるように消えてしまったのは、その弧状の構造ゆえだった。
「陸生貝類の代表はカタツムリだ。カタツムリというのは、誰でも知ってるとおり、雨のあとに出てくる。竜も雨のあとに出てくると言ってただろ」
「あ……」
「貝がいると俺が見破ったもう一つの根拠は、おまえが拾ってきた銛だ。あれは、イモガイの射出する歯舌に酷似している。イモガイを知ってるかい」
比夏留はかぶりを振った。
「狩りをする貝だ。イモガイの仲間のベッコウイモやアンボイナは、毒のある銛状の歯舌歯を筒状の吻を使って獲物に射刺して、殺してからゆっくりと飲み込むという習性がある。君が拾ったあの銛は、巨大な陸生貝類が狩りをするときに使う歯舌歯だったんだ」
言われてよく見れば、散らばる骨と骨のあいだに同様の銛が何本か落ちているではないか。
「蓬莱郷を求めて山に入った侍が蛇身と化したという伝説があったよな。あれはおそらく、巻き貝の歯舌による皮膚の損傷を表しているんだ。カタツムリの顔の拡大写真を見たことないかな。貝の歯は下ろし金みたいにざらざらで、無数の小さな棘《とげ》がびっしり並んでいる。それで、獲物を文字通り削りとるんだ。巨大な貝に襲われた侍は、肌を下ろし金のような歯で削られ、皮膚がぼろぼろになってしまった。それを、著者が『からだ中の肌に蛇の鱗生えたるごとくになりて』と表現したんだろう。そのあと、高熱を発するのも当然だ」
比夏留は、十メートルのカタツムリの歯に襲撃される侍の姿を思い浮かべてぞっとした。
「この山に竜が棲むという言い伝えだが、カタツムリが殻から首を長く伸ばしているところは、竜みたいに見えないこともない。それに、カタツムリの頭には『角出せ、槍出せ』の触角があるだろ。あれが、竜の角に思えたんだろう。それが、竜の……ひいては出世法螺の伝説につながったんだ」
比夏留はすっかり感心してしまった。これで全ての説明がつくではないか。いや……全てではない。
「でも……カタツムリは鳴かないよ」
「この声だろ」
ぶも……んんん……ももも……ごお……ん……
ごおお……んんんんん……ぶも……おおお……ん……
ちょうどあの声が響きわたった。しかも、すぐ横で。あきらかにその音は、洞窟から……巨大な貝殻から発していた。
「法螺貝は楽器として使うことで有名だ。この貝殻の後ろのほうのどこかに穴があいていて、そこから風が吹き込むんだろう。それが内部で反響して、声のような響きをともなってここから発しているんだ。もともと法螺貝は殻の細い部分を削って、口をつけ、唇を震動させて音を出す、トランペット類の管楽器だけど、これだけ大きな貝殻だと、風がなかのあちらこちらにぶつかる音だけでも、こんなすごい響きが出るらしいな」
なるほどなるほど。
「この怪物貝の正体が何なのかはわからないが、古代、デボン紀から白亜紀にかけて棲息していたアンモナイトというのは二メートルをこえる個体もあったそうだから、そういった仲間で特殊な進化をとげたやつの生き残りなんじゃないかな。見た限りじゃ、とっくの昔に中身は死んで、貝殻だけが残ってるみたいだ。江戸時代ぐらいまでは生きてたのかもしれないが」
これで疑問は何もかも晴れた。
「すごいね……すごいよね、保志野くんって。めっちゃすごいよ。尊敬するよ、ほんとだよ」
比夏留は、思わず保志野の手を握り、そのことに気づいて、耳を真っ赤に染めながらあわてて放した。
「たいしたことないさ。俺の頭は民俗学の知識は詰まってるけど、大法螺という言葉からこんなに馬鹿でかい法螺貝がいるって発想はないよ。おまえのひとことがなかったらどうなっていたか。――失踪したやつらはたぶん、この洞窟に入ろうとして、螺旋状になってどんどん細くなっていく内部のどこかにひっかかって、戻ることも進むこともできなくなってるんだろう。早く助けないと、最初に入り込んだやつはそろそろ餓死してるかもしれない」
「たいへんじゃん」
保志野は岩を持ち上げ、洞窟の壁を割ろうとしたが、もちろんかけらが散る程度でとても破壊することはできない。
「だめだな……やっぱり警察か消防団に頼んで……」
「そこ、どいてて」
「え?」
「危ないからさがってて」
そう言って、比夏留が洞窟のまえに立った。
17
比夏留は両拳を腰のあたりに構え、バレリーナのように爪先で立つと、回転をはじめる。最初はゆっくりゆっくり……次第に速く……。見る間に比夏留の姿は一本の棒のようになった。回転しながら、右脚を上げる。逆円錐の物体がものすごい勢いで回っている。まるで〈独楽〉のように。ぎゅわううううううん……という風の唸りが熱気を孕んでほとばしり出ている。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……きえええええええっ!」
裂帛《れっぱく》の気合いが轟き渡り、黒い斧のような影が独楽のなかから一瞬伸びて消えた。保志野の網膜には、比夏留の右脚が何倍もの長さになって、洞窟の壁に叩き込まれている画像が焼きついた。
ぱしっ。
ぱしっ。
ぴしっ。
ぺしぺしぺしぺしぺし。
洞窟に……巨大な貝殻の全体に、細かいひびが蜘蛛の巣状に走った。
比夏留はまだ回転している。その速度は微塵《みじん》も衰えていない。保志野は心配になってきた。人間がこんな高速で長時間回転することに耐えられるものなのだろうか。脳や毛細血管、臓器などに悪影響があるのではないか。なにより、呼吸ができるのだろうか。だが、比夏留はとまらない。激しい唸りはますます大きくなっていき、空気との摩擦で白煙が立ちのぼりだしている。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ぎええええええええっ!」
再びの気合いとともに、今度は鉄柱のように拳が繰り出され、ひび割れの中心に突き込まれた。次の瞬間、洞窟の壁面がまるで卵の殻ででもできていたかのように、細かい白い砕片となって、崩壊した。保志野は夢を見ているような気持ちだった。砕けた貝殻が、桜の花びらのように降る。そして、彼の目の前で、十メートルもの長さの洞窟が、ほぼ半分のあたりから、真っ二つに折れた。どすん、という大音響とともに天井が陥没し、二メートルほどの穴があいた。その頃、ようやく比夏留は回転をやめ、その場に倒れ伏した。
「諸星っ!」
保志野が駆け寄り、上体を抱きかかえたが、彼女の顔色は真っ白で血の気がなく、頭部は氷のように冷たかった。逆に、身体は火のように熱かった。涙と鼻水と涎がだらだら垂れ流されており、目は白目になり、半開きになった唇は濃い紫色になっていた。
「死ぬな、諸星!」
保志野の腕のなかで比夏留はうっすら目をあけた。
「だい……じょぶよ……保志野……くん……いつもの……ことだから……」
「いつものことって……」
「こういう……技なの……〈独楽〉って……」
「めちゃくちゃ身体に悪そうだけど」
「だから……身体を太らせることが……重要なの……太ってたら……こんな……情けないことには……ならないんだけど……」
「でも、いくら回転しても、おまえみたいな細い身体で、よくこの洞窟をぶち壊すほどの力が出るもんだな。信じられない」
「あのね……保志野くん……内緒にしててほしいんだけど……」
「何だい」
「私ね……痩せてるけど……体重二百二十キロあるの」
「――まさか……」
「ほんとよ」
そういえば、上半身を抱えているだけで、やたらと腕が疲れる。保志野は比夏留を抱きあげようと試みた……が、無理だった。大きな岩石を持とうとしているようだ。
「私、ほんとはもっともっと太らなきゃいけないんだけど……食べても食べても太らないの。胃に欠陥があるんだと思う。でも、体重だけは増えるから、なんとか〈独楽〉の技をマスターすることもできるんだけど、技を出し終えたときにこんな風になっちゃうから……だめだめなのよね」
体型からすれば、どう見ても、比夏留は四十キロあるかないかだ。それが二百二十キロ……。
「それにしても凄い技だな。何ていう名前?」
「名前はとくにないけど……」
「じゃあ、俺がつけてやろう。貝を割ったから、秘技〈貝割れ〉っていうのはどうかな」
「そんなことどうでもいいから、早くみんなを助けてあげて」
保志野は陥没した箇所から洞窟のなかに入ると、そこは螺旋状に入り組んだ構造になっていた。まちがいなく巻き貝の殻である。ライトを向けると、すぐに一人目が、続いて残りの四人も見つかった。皆、狭い通路に挟まって、身動きできなくなっていただけなので、岩で壁を叩き壊して、手助けをしてやると、ほとんどの者が自力で脱出できた。一番奥にいた男子生徒は、衰弱がひどくて歩けなかったが、意識ははっきりしていた。食料はなかったが、水は雨水が流れ込んできていたのが幸いしたようだ。
衰弱したひとりを背負って、比夏留のところに戻ると、彼女はすでに回復し、鼻水や涎も拭って、さっぱりした顔になっていた。ただ、顔色は決してよくはなかったが。
「さあ、戻ろうか」
あっさりと言う保志野に比夏留は勢い込んで、
「保志野くんてやっぱりすごい。明日、クラブのみんなにこのことを言うよ。みんな、絶対驚くよ」
だが、保志野は首を横に振り、
「俺が解決したことは内緒にしてくれ」
「ど、どうして」
「あの顧問は絶対に怪しい。俺はあの野郎が気にくわない。だから、あいつに俺の手の内を見せたくないんだ」
「そんなことないよ。先生は悪い人じゃない……と思うよ」
「だめだ」
保志野は有無を言わせぬ口調で言った。
小雨がぱらぱらと頬を撫でるなかを、五人の失踪者とともに比夏留と保志野は前進した。
「あとは、誰が何のためにこいつらにメールを送りつけたかだな」
「あの『ホラー小説』っていうハンドルの?」
「山中に蓬莱郷あり、か……。蓬莱……蓬莱……」
保志野は足をとめ、比夏留の顔を見た。
「もしかしたら、蓬莱……洞……法螺……ホラーという連想かもしれない。もともと、山中の洞穴が大きな法螺貝だというのは法螺貝を楽器として吹く山伏が広めたでたらめで、そこから嘘をつくことを法螺を吹くというようになった、という説については話しただろ。洞穴が蓬莱の入り口だというのも、ただの語呂合わせから起こった言い伝えかもしれない。『ホラー小説』というやつは、そういった法螺話を現代に蘇らせようとしただけかもしれない。イジメを受けたり、世の中が嫌になってる生徒のことをきくと、そいつのメールアドレスを調べて、勧誘のメールを送る……それだけの悪質な悪戯かも……」
比夏留は、美津目のところに来たメールにあった「嘘だと思うならこのメールを破棄すれば可。信じるも信じないもあなた次第。行動に移すも移さないもあなた次第」という文章を思い出していた。あのしつこい念押しは、メールの内容が「嘘」であるという伏線だったのかもしれない。犯人は、今頃どこかで、「何もかもただの法螺話」と笑っているのかもしれない。
「でも、ということは学校関係者が犯人……」
「ただの悪戯だったら、犯人を特定するのはかなりむずかしいと思うよ」
「そうね……ひゃあうっ!」
比夏留は何かぬるりとしたものを踏みつけて転倒した。二百二十キロの巨体がころんだのと同じなので、地響きがして、地面が少しへこんだ。
「痛てててて」
腰をさすりながら起きあがった比夏留は、何を踏んづけたのか見ようと、ライトを足もとに向けた。草のうえに、何だかわからないきらきら光る粘液がべったりと付着している。そして、よく見ると、それは帯状になって、森を横切るように続いている。しかも、その前後の草や木が何か大きいものに押し倒されたように潰れている。
「何だろね、これ」
そう言って保志野を見ると、彼は青ざめた顔で、
「まさか……そんなはずは……ないと思うが……」
「どうしたの」
「いや……その……」
そのとき。
ふと上に向けたサーチライトが何かを照らし出した。
彼らは見た。
小雨が霧を呼び、白い水滴が空中をくまなく覆う夜の常世の森。靄のスクリーンに浮かびあがったのは……。
「うわああああっ」
七人は、死にものぐるいで逃げた。目の錯覚かもしれない。あとで何回もそう思おうとしたし、実際にそうだったのかもしれないが、そのときはそう見えたのだ。
白い靄のなか、巨大な黒い影が蠢《うごめ》いていた。信じられないほど大きな殻とそこから長く伸びた首、そして、その先端にある頭部からは二本の角……。いや、そう「見えた」だけかもしれないが……。
とにかく彼らは走って走って走りまくった。何度も岩や木に行く手を阻まれ、そのたびに方向を変えて、とにかく少しでも遠くに行こうとした。その努力の甲斐あって、彼らはあっという間に道に迷ってしまった。それでなくても体力の落ちている者たちばかりだ。深夜の寒さで雨に濡れた身体が冷え切っていることもあって、皆、もう一歩も進めなくなってしまった。右も左もわからない。
「何だか、前にもこんなことがあったような気がするよ……」
比夏留は半ばべそをかきながら、そう呟いた。だが、それはつい数時間前のことなのだ。
「朝まで待つしかないかもしれないですね。こう真っ暗じゃ、動かないほうがいいかも」
いつのまにか自信のなさそうな顔つきに戻ってしまっている保志野の言葉に、比夏留はかぶりを振り、
「朝になっても、このあたりには陽は射さないから、おんなじだよ。このままじゃ、夷倭宿山死の彷徨で、私たち七人とも……」
保志野はげっそりした顔でため息をつくと、ライトで周囲を照らした。その手がとまる。何かを見つけたのだ。
「ふーん……なるほど」
保志野の顔に少し赤みがさした。
「行きましょう、比夏留さん」
いつのまにか君から、おまえになって、今度は比夏留さんだ。彼は、男子生徒を背負い直すと、よたよたした足取りで歩き出した。比夏留は、よくはわからないけど安心して彼の後ろに続いた。
◇
そこからフェンスまではあっという間だった。やっと常世から現世に戻ってきた。足の裏が地面にちゃんと密着しているような安心感。比夏留は嬉しさのあまり泣き崩れたいように思ったが、疲労と空腹でそれどころではなかった。
生徒たちを家まで送り届けたあと、保志野は比夏留を家まで送ってくれた。
「今日は疲れましたね。じゃあ」
深夜の商店街を戻ろうとする保志野の背中を比夏留は呼びとめた。
「待って」
「何ですか?」
用事があったわけではない。何か……何か言いたかったのだ。これで別れるのは嫌だった。内容はなんでもいいから、最後に一言だけ言いたかった。
「あの……あの……あの……どうして急に道がわかったの?」
「ああ、あれですか」
保志野は頭を掻いた。
「比夏留さん……行くときに、ぼくに内緒でパンを食べてたでしょう」
どうしてわかったのだ。
「ライトに、白いものが浮かんだんで、何だろと思って見たら、パン屑だったんです。それがずーっと落ちてたんで、あとは、それをたどっていけばオッケー」
「わ、わざとよ。帰りの目印のためにわざとパン屑を落としておいたの。ほんとよ」
「そう。小鳥に食べられなくてよかったですね」
保志野はにこりと笑った。
18
次の日の放課後。部室で、比夏留は先輩たちにきのうの出来事を逐一報告していた。ただし、保志野が一緒だったことは内緒にして。
「巨大な巻き貝……ねえ……ほんとかしら」
半信半疑の様子の犬塚が腕組みをして言った。
「たしかにそれで全部辻褄はあうけど、そんなものが森にいるなんて信じられないわ」
「おいらは信じるよ。だけど、最後に霧のなかで見たっていう怪物のことは、ちょっとなあ。昔々に、そういった貝が生存していて、それが言い伝えのもとになったてえのは、よくわかるし、そのとおりだと思うけど、もう絶滅してるって」
「私もそう思うわ。貝類の寿命ってそんなに長くないし、種を維持していくには、最低でも複数の個体がいないと無理でしょ」
伊豆宮も珍しく白壁に賛成した。
「それこそブロッケンの妖怪じゃないのかしら。疲労と雨と靄と……妄想、とまではいわないけど、私たちによって植えつけられた先入観が大岩か何かを誤認させる条件は揃いすぎるぐらい揃ってるし」
比夏留はそれ以上強くは主張できなかった。何より彼女自身が「見間違いだったのでは」と思っているのだ。あれは、ゆらりと動いた、ような気がしたが、それも大岩を包む靄のほうが動いたのだと言われたらそれまでだ。寿命や種の維持の問題も、貝類は卵を生むから、それが特殊な環境のなかで保存されて長い眠りにつき、近年になって蘇った……とか、トンデモなことを考えぬでもなかったが、言ったらまた馬鹿にされそうで黙っていた。
「でも、そのへんを確かめる術はもうないわね。この一件で、やっぱり森に入るのは危険が大きいってことになったから、校長はフェンスを補強して、誰の出入りもできないようにするそうです。たぶん、うちの裏の穴も見つけられて、ふさがれるでしょうね。学校側としては、常世の森を完全封鎖するためのいい口実ができたようなもんで、喜んでるでしょう。ねえ、先生」
犬塚がそう言ったあと、顧問に向かって同意を求めたが、老人はぶすっとした表情で、
「どうでもええ。世の中、何もかも法螺で固まっとる。あほらしいこっちゃ。あー、あほらしなあ」
そして、一升瓶の太い部分を鷲掴みにしてラッパ飲みしてから、ベンチに腕枕でごろりと転がった。
「これにて一件落着……というしかねえだろな。失踪していた生徒も、病院の診察じゃあ、軽度の栄養失調が認められる以外は大したことねえらしい。めでたしめでたし……てことで」
白壁が取りなすように言い、皆、釈然としない顔でうなずいた。なにしろ、肝心の「誰が彼らにメールを出したのか」、つまり、「ホラー小説」というハンドルの人物は何ものかがわかっていないのだ。それに、例の日本刀男の件も解決していない。誰もがすっきりしないのもむりはない。しかし、推理小説ではないのだから、最後に全ての謎が解き明かされるとは限らない。現実なんてこんなもんだ、ということで引き下がるしかあるまい。比夏留はそう思って、いびきをかく老人の枕もとに何気なく目をやった。それにしても汚い部室だ。十数本の空の一升瓶、分厚い専門書、楽譜の束、煙草の吸い殻、斜めになったノートパソコン……ノートパソコン?
たしかにそれは、老人の枕もとにあるには不釣り合いな代物だった。比夏留は、美津目の家で見たメールの差出人のアドレスを思い浮かべた。
seena@horror.ne.jp
@horror.seena
(まさか……)
比夏留は、藪田の口癖を思い出していた。
(まさか……まさか……)
だらしなく眠りこける老人に、彼女は食い入るような視線を向けた。しかし、戻ってくるのは、豚のようないびきだけだった。
(もし、この人が犯人だとしたら……いったい何のために……)
保志野が言っていた「あの顧問は絶対にあやしい」という言葉が重みを持って蘇る。校長もあやしい、顧問もあやしい……この高校には何かある。
「それにしても、諸星はすげえよな。おいらたちが解けなかった謎をあっさり解いちまった。たいしたもんだ」
と白壁。
「そうね、出世法螺とか竜のことについても、私たちでは思いつかないような視点から物事を見ることができてるわ。それって、民俗学を志すものにとって、一番必要なことじゃないかしら」
と伊豆宮。
「今回は、比夏留ちゃんに完敗ね。実は民俗学のこと知らないっていうの、嘘だったりして」
と犬塚。
口もとまで「ほんとは私じゃないんです。保志野くんが解いたんです」という言葉が出かかったが、約束なのでそれは言えない。しかし、先輩たちの賞賛がエスカレートしていくにつれ、比夏留はたまらない気分になっていき、
「あの……あの、先輩、私、実は……」
いきなり、ぐらり、ときた。小屋の薄い壁に斜めにぴしっと亀裂が走った。いつもの横揺れとはちがい、真下から突きあげてくるような揺れがきた。空の酒瓶がポップコーンのようにジャンプし、棚から本が雪崩落ちた。ベンチから顧問が転落し、床に額がぶつかる「ごち」という音がした。天井から埃が雪のように皆の頭上に降り注いだ。比夏留は体重を支えきれなくなり、地面に突っ伏した。揺れ自体は数秒でおさまったが、裸電球がいつまでも左右にゆらりゆらり揺らいでいた。
◇
その日の帰宅時も比夏留は犬塚からずっと賞賛の言葉を浴びせられていた。
「能ある鷹は爪を隠すってね。比夏留ちゃん、あの保志野って子よりずっと民俗学的なセンスあるんじゃない?」
ちがうのだ。今回のことは全部保志野が……。
「美津目って子も、比夏留ちゃんのとこの道場に通うことになったんだって?」
「ええ、他の生徒たちも健康を回復しだい、うちに来るんです。武道を身につければ、自信もつくだろうって、うちの父が……」
「それにしても比夏留ちゃん、あんたは優秀だわ。民俗学のことは知らなくったって、強力な戦力よ。伊豆せんもこれで、民研の紅一点、なんて威張れなくなっちゃったし」
「あはは、何言ってんですか。犬せんがいるから、紅二点でしょ。私が入って、これで紅三点……」
「あれ? 言ってなかったっけ」
犬塚は立ちどまると、悪戯っぽく笑いながら、
「私、男なのよ。本名は犬塚|志乃夫《しのぶ》だけど、みんなは志乃って呼んでるわ。生まれたとき身体が弱かったから、ずっと女の子として育てられたの。よろしくねっ」
愛らしくくるりと回ってポーズをきめる犬塚に、比夏留はほとんど瞳孔が開きかけていた。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_103.png)入る]
大南無阿弥《おおなむあみ》洞の研究
然《しか》して後《のち》に左《ひだり》の眼《め》を洗《あら》ひたまふ。因《よ》りて神を生《う》みたまひ、号《なづ》けて天照大神《あまてらすおほみかみ》と曰《まを》す。
[#地付き]――「日本書紀 巻第一 神代上」より
[#改ページ]
プロローグ
揺れた。
くるぶしまで埋まるほどに敷き詰められた落ち葉の絨毯《じゅうたん》に足をとられぬよう、ぐしゃり、ぐしゃり、と踏みしめながら歩いていた男は、顔をしかめて周囲の森を見回した。
(またか……)
男は小さく舌打ちした。最近、揺れの間隔が少しずつ狭《せば》まっているような気がしてならない。
(出たがっておらるるのではないか……)
そう思ったが、頭を振って自ら否定する。
(あってはならぬことだ。何もわかっておらぬどこぞの馬鹿者どもが、尻を叩こうとしているようだが、絶対に許されぬ)
だが、彼には、その「馬鹿者ども」の正体を掴みきれていなかった。それが歯痒《はがゆ》い。ときにこうして、パトロールをするほかに、とくに効果的な対抗手段はなかった。幸いなのは、相手がこの森のことをよく知らないことである。こちらは、隅々まで熟知している。そこが違う。
男は、ふと頭上の木々の枝を見る。高さ十数メートルもある巨木だが、その枝に葉がほとんどついていない。顔がこわばる。
(こんな食いかたをするのは、あいつしかおらん。こんなところまで出てきとるのか。〈大南無阿弥洞〉のあたりの木の葉は食い尽くしたのかもしれんが、それにしても……)
男は眉根を寄せ、
(見つかったらどうする。図体《ずうたい》ばかりでかくて、頭の足らんやつだ。無知にもほどがある。名前のとおりだ)
男は、枝に残った一枚の葉をちぎり取り、口に入れて、ぺっと吐きだし、
(まずいにもほどがある。よく、こんなものを食うもんだ……)
おおん……おん……。
おん………………。
長く余情を残す、叫びとも悲鳴ともつかぬ声が響きわたる。男がその声の方向に足を進めると、木と木のあいだからいきなり、巨大な茶色い塊《かたまり》がそこに出現した。全身を褐色の長い毛で覆われた、信じられないぐらい大きな生物だ。太く、長い、魚雷のように黒光りするカギ爪の生《は》えた手をぬうと伸ばし、男の顔に触ろうとする。男は、それを無視して、
「困りますな、勝手に出歩いては。洞窟のなかでおとなしくしてもらわぬと、うるさい連中に見つかりますぞ」
おおん……おおん……。
巨大な生物は、身体を左右にゆっくりと揺する。
「だめです。私にはそんなひまはないんだ。ひとりで遊びなされ。それと……」
男は指を生物に突きつけると、厳しい声で、
「このへんの葉っぱは食べてはいけませんぞ。フェンスから近いし、学校のほうから見られる危険がある。あなたさまのテリトリーはもっとずっと奥のはずでしょう」
巨獣は、悲しげに吠えた。
「それそれ、その吠えるのもいけません。馬鹿なやつらの好奇心を煽《あお》ることになりますからな」
ぐぐう……とその生物が口ごもったとき、フェンスの方角から、大音量のドラムとベース、ギターの音が聞こえてきた。続いて、PA装置で大きく拡声された、脳髄が破壊されそうなほどのひどい歌声が……。
ひっとりきりで、オウオウ
バイク走らせる、オウオウ
ロンリー・ハートだぜ、オウオウ
日本中どこにいたって、おまえのことだけ考えてるぜ
オウオウオウオウ、ラブリー・スイート・ハート・ロックンロール・ベイベー
イエーッ
生物は、好奇心に満ちた表情で、フェンスのほうに顔を向ける。
「いけません。ほうっておきなさい。帰るんです、洞窟へ」
男が方向を指示すると、巨獣は小さくいやいやをしたが、男は許さなかった。
「行きなさい。行け、早く! 行くんだ!」
のっそり、のっそりと去っていく後ろ姿を見送ったあと、男は、苦々しい顔で歌声のほうに視線をやると、呟《つぶや》いた。
「『蛭女山祭《ひるめやまさい》』か……」
1
揺れた。
ぐわらり、とひと揺れしたらすぐに治まるのだが、それでも気持ち悪いことは気持ち悪い。
(ま、気にしだすときりがないよね)
比夏留《ひかる》は左手でジャムパンを口に押し込みながら、右手でクリームパンの袋を器用にあけた。学食の菓子パンはまずい。ジャムパンのジャムは、サッカリンとチクロをぶちこんであるのではと思えるほど甘ったるいし、クリームパンのクリームは逆に味がしないうえ、クラゲみたいにぷるぷるだ。それでも、ないよりましである。すでに比夏留は、まずいジャムパン八個とまずいクリームパン二個、それに、まずいピーナツバターパン一個とまずいチョコクリームパン二個を平らげていた。今から学園祭の準備があるのだ。しっかり腹ごしらえをしておかないと倒れてしまう。
また、揺れた。比夏留はクリームパンを喉《のど》につまらせ、胸を叩きながらコーヒー牛乳をがぶっと飲んだ。最近、ほんっとに地震が多いな、と比夏留は思った。揺れているのは、どうやら蛭女山一帯だけで、近くの都市に設置してある地震計にはひっかからない局地的なものらしい。
(あー、やだやだ)
パンを全部食べてしまうと、比夏留は「道の果物は陸奥《みちのく》だもの!」と書かれたTシャツについたパン屑を払い落としながら立ちあがった。腹ごしらえ終了である。
◇
「常世《とこよ》の森」と呼ばれる広大な森林に隣接した、ぼろぼろの廃屋のような部室で、私立|田中喜八《でんなかきはち》学園高等学校民俗学研究会の定例ミーティングが行われていた。
常世の森は、あまりに広くて深いうえ、土地の所有者である校長の田中喜八が高いフェンスを張り巡らして出入りを禁止しているため、だれもその全貌をしらない。今は絶滅した「生きている化石」的な貴重生物が棲《す》んでいるという噂もあり、生物学者|垂涎《すいぜん》の場所でもあるし、居住可能の洞窟が多く、民俗学的にも興味深いスポットなのだが、校長は頑として各大学の立ち入り調査を拒んでいる。比夏留は、少しまえ、森のなかにある蓬莱洞《ほうらいどう》という洞窟をひそかに探検し、夢かうつつかわからないような体験をしたところであり、当分、森に近づく気はなかった。
どこから盗んできたかわからない、朽ち果てた机を囲んでいるのは、部長で三年生の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》、同じく三年生の白壁雪也《しらかべゆきや》、二年生の犬塚志乃《いぬづかしの》、そして、比夏留の四人である。顧問で日本史の嘱託教師である藪田浩三郎《やぶたこうざぶろう》は、あいかわらず、どこから盗んできたかわかる、「山本精肉店」という広告の入った汚いベンチのうえで、日本酒の一升瓶をラッパ飲みしており、ミーティングには加わろうとしない。
「浦飯《うらめし》の野郎はまた欠席かよ」
頭を大銀杏《おおいちょう》に結い、浴衣《ゆかた》を着た白壁が言うと、
「あいつがいると、まとまるものもまとまらなくなるから、いないほうがいいわよ。では、『蛭女山祭』で、我が民研が何をするか、ということについて議論したいと思います」
伸ばすと床を引きずり、掃除機がわりになってしまうため、長い黒髪を羊の角のように巻いた伊豆宮が、きりっとした口調で言った。比夏留は呆れたように、
「『蛭女山祭』は明後日ですよ! それなのにまだ何をするかも決まってないんですか」
「そうよ、悪い?」
「いえ……悪くはないですけど、今からで準備なんかできるのかなと思って……」
「できるわよ。毎年、こんな調子だから」
「そ、そうなんですか……」
田中喜八学園では、年に二回学園祭がある。十一月の「鶏鳴祭《けいめいさい》」と、六月に行われるこの「蛭女山祭」だ。「蛭女山祭」は、四月に入学したばかりの新入生を早く学校に慣れさせようという、新入生歓迎行事の意味もある。
「えーと、去年はたしか紙芝居をやったんだよな」
白壁が分厚い胸板を抱きしめるように腕組みをして言った。
「日本神話を題材にしたようなやつですか?」
「うんにゃ、『長靴をはいた猫』。出展することは決めてたんだが、何をするか思いつかねえ。しかたねえから図書館で紙芝居を適当に借りてきて、ぶっつけ本番でやったんだ。子供にはばっちし受けたぜ」
「おととしは、カブトを売ったわ」
と伊豆宮。
「カブトってカブトムシですか」
「まさか。新聞で折った折り紙のカブトよ。全然売れなかったけど」
あたりまえだ。自分でいくらでも作れるものをどうしてお金を出して買うか。
「さきおととしは、民研ができたばかりで、まだ『蛭女山祭』には参加していなかったはずよ」
折り紙のカブト売り、紙芝居と、やることがばらばらだ。
「で、今年だが、やはり民俗学研究会らしい、学究的で創造的で挑戦的なもので勝負したい」
「へー、それは何ですか」
「お好み焼き屋だ」
一同はずっこけた。
「お好み焼きのどこが学究的で創造的で挑戦的なんですかっ」
女装の麗人、犬塚が突っ込むと、
「おめえなあ、よく聞けよ。お好み焼きてえのはだ、材料、味つけ、焼き加減……やろうと思やあいくらでも研究の余地がある、クリエイティヴでチャレンジのしがいのあるもんなんだよ」
そのとき、比夏留の頭に浮かんでいたのは、鰹節粉と青ノリのくまなくかかった大きな豚玉だ。たっぷりした特製ソースが縁から鉄板にこぼれ落ち、じゅうじゅうという美味《おい》しそうな音とともにたまらない香ばしさを発している。コテで大きく切り分け、一片を口に運ぶと、あちあちあち……とまずはその熱さを味わう。山芋と出汁《だし》をいれてふんわりと焼きあげた生地を前歯でがしゅっと噛みきると、ソースや鰹節粉、青ノリの味にくわえ、加熱された細切りキャベツの甘み、かりかりに焼けた豚肉のコク、天かすの旨みなどが渾然一体となり、ああ、もう……。
[#挿絵(img/01_111.png)入る]
「お好み焼き、大しゅき。いいでしゅねえ……」
口中にはすでに涎《よだれ》がたまっていた。
「あのね、比夏留ちゃん、あなたが食べるんじゃないの。比夏留ちゃんは、作るほうなのよ」
犬塚にそう言われて、比夏留は夢想から覚めた。自慢じゃないが、食べるのは得意でも、作るのは大の苦手だ。お湯をかけて三分間待てばできあがるはずのカップラーメンすら往々にして失敗するほどの腕前だ。母親がプロ級の料理の達人であるうえ、〈独楽《こま》〉の弟子たちが皆、修行の一環として調理を手伝うので、作る機会がほとんどなかったせいもあるのだろうが、一度、ポテトサラダというのを作って父親の諸星弾次郎《もろぼしだんじろう》に試食させたところ、
「比夏留が作った? ほほう、そりゃあ……」
と言って一口食べた瞬間、いつもにこにこしている父親の笑みが凍りつき、何とかそれを嚥下すると、
「ちょっと急用を思い出した」
とそのまま外出して、その日はついに帰ってこなかった。比夏留は怒って、自分でも食べてみたが、あまりにまずくて、気絶しそうになった。以来、料理から足を洗ったのだ。
「ホットプレートはおいらが調達する。あとは材料を買ってきて、ポンポンって切って、ぐるぐるっと混ぜ合わせて、じゅっじゅっと焼いて、ソース塗ってカツブシとノリをかけりゃあ一丁上がりだ。誰にだってできらあ。なあ、部長」
「そうね……決をとります。お好み焼き屋に賛成の人」
挙手したのは、白壁と比夏留だけだった。
「それでは、二対三で、お好み焼きは却下ということで……」
伊豆宮が言いかけたとき、ベンチのうえから嗄《しゃが》れた声で、
「ええんちゃう? わしは賛成やで」
「先生、でも……」
「うちの部も、部員が増えへんさかい、財政貧困や。お好み焼きやったら、新聞紙のカブトよりはもうかるんとちゃうか」
それで決まった。
「うちの出展のことはこれでわかりましたけど、学校全体として何か催しはあるんですか」
比夏留がきくと、皆は顔を見合わせて、くすくす笑い出した。
(何かおかしなこと言っちゃったかな……)
悩む比夏留に犬塚が言った。
「うちの文化祭ってね……とにかく変なのよ。私も去年はじめて体験したときは、びっくりしたなー、もー状態になったわ」
「何があるんですか?」
「教えなーい。だって、先に聞いたら、びっくりが減るでしょ」
「えー、気になるよー」
一同はまたくすくす笑う。
「これじゃ、今晩眠れませんよ。ねーねー、教えてくださいよー。あっ、そうだ、先生、先生なら教えてくださいますよねっ」
比夏留が顧問のほうを向くと、寝そべってフルートを弄んでいた藪田は、めんどくさそうに、
「あほらしいことや。ただの……カラオケ大会や」
その言葉を聞いて、一同は爆笑し、比夏留はますますきょとんとするしかなかった。
2
「お帰り、比夏留ちゃん!」
でかいウーハーを耳に押し当てられているみたいな、ずぶとい低音の声が響いた。比夏留の父親、諸星弾次郎だ。ヨークシャー種の豚のようにでぶっとした巨体で、食堂の通路を塞《ふさ》いでいる。はっきり言って、とても邪魔だ。
「あ、ただいま。――ねえ、パパ、ちょっとききたいんだけど」
「なーにかな、なんでも答えちゃう」
弾次郎は、針金のような自慢の髭《ひげ》を摘《つま》みながら、にこやかに言った。
「明後日、文化祭があるんだ。『蛭女山祭』っていうんだけど……何か聞いてる?」
「いいや、何も。どうかしたのか」
「うちの文化祭って、なんだかびっくりするようなことがあるんだって。でも、どうびっくりするのか、先輩にきいても教えてくれないのよ。パパなら、噂とか知ってるかと思って」
「さあ……知らんなあ。あの学校は秘密主義だから、OBでもないかぎり、行事ごとの内容は父兄にも隠すことが多いみたいだ。だけど……」
諸星弾次郎は、腕組みをして、枇杷《びわ》のような目をくりくりさせながら、
「『蛭女山祭』っていうんだろ、その学祭は。蛭女という言葉には心当たりがあるぞ。えーとえーとえーと……たしか……」
弾次郎は、ぽんと膝を打つと、
「そうだ。うろ覚えだがな、天照大神《あまてらすおおみかみ》つー神さまがいるだろ」
「んー、聞いたことあるかも」
「日本でいちばんえらい神さまで、皇室の祖先でもある」
「皇室って?」
「天皇家だよ。『古事記』によると、伊邪那岐命《いざなきのみこと》という神さまが穢《けが》れを清めようと川で禊《みそ》ぎをしたんだが、左目を洗ったときに生まれたのが、この天照大神だ。太陽を司る神さまで、天界である高天原《たかまがはら》を統治していたが、弟の素戔嗚尊《すさのおのみこと》があまりに乱暴ばかりするのを怒って、天の岩屋戸というところに隠れてしまったんだ」
天の岩屋戸……どっかで聞いたような気が……。そうだ、保志野《ほしの》くんと藪爺がもめてたときに、たしかそんなこと言ってたっけ……。
「太陽の神が隠れてしまったので、地上は常闇《とこやみ》、つまり、真っ暗になり、あらゆる災いが一度に起こり、ろくでもない悪神たちが跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》しはじめた。なんとか天照大神に出てきてもらわないと、と神さまたちは首をひねったあげく、計略を用いて、岩屋戸を引き開けてしまった。こうして世の中はふたたび明るくなりましたとさ。めでたしめでたし。でも、素戔嗚尊は追放されてしまったけどね」
「ふーん……ねえ、パパ、岩屋戸って何なの?」
「そうさなあ……たぶん洞窟みたいなもんじゃないかと思うんだが」
「洞窟……洞窟かあ……」
それが実在の洞窟ならば、洞窟研究会こと田中喜八学園民俗学研究会の格好の研究テーマではないか。
「天照大神は、『日本書紀』やら『万葉集』には、|大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴《おおひるめのむち》とか|天照大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]尊《あまてらすおおひるめのみこと》なんていう別名でも出てくるんだ。蛭女山の蛭女というのは、このヒルメのこと、要するに、天照大神のことだと思うよ」
わかったようなわからないような話だ。
「そんなことどこで覚えたの?」
「ほら、前に比夏留ちゃんに貸した『古武道の民俗学』ってあっただろ。あの脇田鳳三郎《わきたほうざぶろう》先生の本に載ってたんだ」
そう言うと、五つ子を妊娠している妊婦のように突き出た腹をぽんぽんっと景気よく叩き、
「さ、晩飯だ。今日は、クジラの丸焼きだぞっ」
「ええええっ」
比夏留はのけぞった。いくら〈独楽〉の道場や庭が広いといっても、クジラを丸焼きにできるスペースはないはずだ。たとえ小型のクジラだとしても、いや、イルカやスナメリだとしてもむりだろう。いやいや、だいいちIWCが黙っているはずがない……。
「あはははは、もちろん本物のクジラじゃないぞ。クジラはクジラでもヤマクジラだ」
「ガマクジラ?」
「ちがう、ヤマクジラ。すなわちイノシシの丸焼きだ」
比夏留はほっとしたが、考えてみれば、それでもかなりすごいかも。クラスの友だちの誰の家で、イノシシを丸焼きにしているだろうか。
「そうとう食べでがあるよね」
「なあに、二頭しかないから、みんなで食べればあっという間さ」
イノシシの肉のステーキ、味噌漬け、ボタン鍋……。比夏留の口のなかに、唾《つば》が噴水のようにこんこんと湧いてきた。
◇
食後、比夏留は自室で、「古武道の民俗学」を眺めていた。「読んでいた」といいにくいのは、内容がまるで頭に入らなかったからである。唯一、わかった箇所は、
天照大神の別称であるヒルメが地名に取り入れられている例として、S県の蛭女山がある。蛭女山の麓《ふもと》には、太古よりその姿を変えぬという、その名も〈常世の森〉という広大な原生林が広がっており、現在は諸般の事情から研究者の立ち入りができぬ状況だが、明治初期にこの森で、オオツノジカ(縄文時代に絶滅)の化石化してない骨格や、比較的新しいアンモナイトの殻が発見されたり、成虫の状態では世界でまだ二匹しか採集されていないムカシトンボの一種が捕獲されたり、という学術的発見が相次いだこともあり、民俗学、考古学はいうに及ばず、生物学、地質学、環境学などの立場からも大いに興味深い場所であり、一日も早い本格的調査が望まれる。個人の権利を云々している場合ではないのである。
この地域には、数々の伝承があり、いわゆる「出世法螺《しゅっせぼら》」の伝説や天狗・鬼・山姥の伝説、山に棲む巨魚の伝説などのほかに、オオナムチに関する伝承も残されているようで興味深い。それによると、オオナムチ、すなわちオオクニヌシが皮を剥《は》がれた白兎を助けたのは、出雲《いずも》の海岸ではなく、この付近であるというのだが、それを裏付ける調査さえ許されていない現状では……。
オオナムチ? オオナムチってなんだっけ。思い出せない。頭のなかをいろいろ探った結果、思い出せないのではなく、はじめから知らなかったことがわかった比夏留は、安心して眠ることにした。
3
「オオナムチ? へー、比夏留ちゃんの口からそんな言葉が出るとは驚きね」
犬塚が目を丸くして言った。
「失礼な。私だって、オオナムチぐらい知ってますよ。これでも民研のメンバーですから」
「じゃあ、何?」
「え……。だから、名前ぐらいは知ってるんですけど、何かって言われるとそこまでは……」
「それは、『知ってる』たあいわねえんだよ」
白壁が、指に唾をつけて、髻《たぶさ》の先を整えながら、言った。ごもっともである。
「大己貴神《オオナムチ》ってえのはな、大国主命のことさ。おい、大国主は知ってるんだろうな」
「そ、そうですね……」
「知らねえわけだな。――日本の神さまには天津神と国津神の二種類があって、天津神ってのは、高天原ってとこにいる高貴な連中で、それに対して、国津神ってのは、葦原中国《あしはらのなかつくに》、つまり、人間界にいる土着のやつらだ。天津神の代表が、天照大神で、国津神の代表が、この大国主命だ。天津神と国津神は対立関係にあったんだが……よもや天照大神は知ってらあな?」
「さすがにそれは知ってますよ」
比夏留は苦笑しながらうなずいた。昨日の昼にきかれたら、別の返事をしていたわけだが。
「オオナムチは、天の岩屋戸事件がきっかけで追放された素戔嗚尊の子孫なのさ。大国主命のほかにも別名がいっぱいあって、葦原醜男《あしはらのしこお》、八千矛神《やちほこのかみ》、顕国玉神《うつしくにたまのかみ》、大物主神《おおものぬしのかみ》なんぞとも呼ばれてる」
「へー」
「オオナムチには八十神《やそがみ》といって多くの兄弟がいたんだが、旅の途中の因幡《いなば》というところの海岸で、ワニに身体の毛をむしられて赤裸になった白兎が泣いているのに出会った」
「日本にワニがいますか?」
「山陰の方言で、サメのことをワニてえんだそうだ」
「へー」
「八十神たちは兎に嘘の治療法を教えやがって、兎の症状はいっそうひどくなったけど、オオナムチはていねいに『真水で身体を洗って、蒲《がま》の穂《ほ》の粉を撒《ま》き散らして、そのうえで寝転がればよい』と教えたんで、白兎はもとに戻った、てえんだ」
「へー」
「オオナムチは素戔嗚尊のいる根《ね》の堅州国《かたすのくに》、つまり、黄泉国《よみのくに》に行って、いろいろな困難を乗り越え、とうとう素戔嗚尊の娘と結婚し、葦原中国の偉大な王、大国主命となったわけだ」
「へー」
「このオオナムチのところに、ある日、スクナビコナという小さな神さまがやってきて、二人は一緒に国造りをすることになった。二柱の神は、協力して、日本という国を平定していった」
「へー」
「そこへ現れたのが、天界の高天原からやってきた天照大神の使いだ。彼は、オオナムチに向かって、日本の国を天津神に譲れ、といいやがる。せっかく国造りした世界をみすみす……と思ったが、天津神の勢力は強大だ。オオナムチは泣く泣く日本を天津神に譲り渡し、その代償として、出雲の国に壮大な社を建造して、そこに自分を祀《まつ》ることを要求した。これが、出雲大社なわけだ」
「へー」
「のちに、大国主と大黒が音が同じところから、大黒天と習合して、戎・大黒として縁起物にも顔を連ねるようになった」
「へー」
「おまえは『へー』しか言えねえのか」
「世の中には私の知らないことが多すぎますね」
「あっさり言うねえ」
「でも、どうしてそんなこと言い出したの?」
と伊豆宮がたずねた。
「きのう読んだ本に載ってたんです。このあたりにオオナムチの伝承があるって。それで……」
「このあたりに? うーん、そいつは知らねえなあ」
「私も聞いたことないわ」
「私も」
博学の三先輩がそろって首を傾げる中、ベンチに寝そべっていた老人が、
「ぐげぇーっぷ」
熟柿《じゅくし》のような臭いのげっぷをしたあと、一冊の和綴じの本を、開いたまま、比夏留のまえの床に放り出した。
「な、なんですか、これ」
「読めや」
比夏留はしばらくそのページを見つめていたが、
「読めません」
藪田はベンチから落ちそうになるのをかろうじてこらえ、
「そこまで面倒みられん」
そう言って、反対側を向いた。
「おいらが読んでやるよ。どれどれ……」
古文書に強い白壁がその冊子を取りあげた。
「えー、なになに……『大穴牟遅神《オホナムヂノカミ》、蛭女川のほとりに到りしとき、八尋和邇《やひろわに》に毛を毟《むし》られたる赤裸の素菟《しろうさぎ》伏せりき。大穴牟遅神、菟を助けんとせば、菟、ただちに天照大神の姿を顕はして告《の》りたまはく、汝《いまし》のうしはけるここなる葦原中国は吾がものなり。吾、汝らをことごとく誅伐《ちゅうばつ》せんと欲すれど、汝の心|映《ば》へに免じてその一命を助けん。かれ、汝の心|奈何《いか》にと。大穴牟遅神、畏《かしこ》まりてそれを聞き、恐《かしこ》し、葦原中国は天津神の命《みこと》のまにまに献らむ、とまをしかば、天照大神大いに喜びて、大穴牟遅神に〈常世の森〉の一洞を与へたり。〈大南無阿弥洞〉といふがそれなり。この地に今も竜骨多く出づるは、大穴牟遅神と八尋和邇が骨なんめりと云ふ』か……。へー、こんなのはじめて聞いた。先生、よくご存じでしたね」
「おまえらとは年季がちがうわい」
「この蛭女川ってえのは?」
「今はもう枯れてもうたけど、千年以上まえにこのあたりを流れとった川や。そこにも書いてあるとおり、流域からはいろんな古生物の化石が見つかったらしいわ。ま、明治の頃の話やけどな」
白壁は冊子の表紙を見て、
「『蛭女山風土記拾遺』か……。因幡の白兎が天照大神の化身だったてえのもすげえが、オオナムチと天照大神が直接会って国譲りをするなんて、珍説もいいとこだぜ」
「そやな」
「〈大南無阿弥洞〉というのは、今でもあるんですか」
比夏留がきくと、
「ある。軽音楽部が野外ステージ造っとる場所の裏あたりから森に入って、ずーっと奥にいったところにある……と聞いたことがある。そのあたりはなあ、オンブーの森なんや」
「オンブー? お化けですか?」
「あほか。アルゼンチンのパンパとかに多い、根もとが広がってるのが特徴の、熱帯特有のヤマゴボウ科の木でな、高さが十数メートルもあるけど、ほんまは木やのうて草なんや。南米にはなんぼでもあるけど、あれだけの群生があるのは日本ではあそこだけちゃうかなあ。どや、おまえら、いっぺん〈大南無阿弥洞〉の調査に行ってくるか」
伊豆宮がかぶりを振り、
「遠慮しときます。〈常世の森〉に入るのは、こないだの〈蓬莱洞〉で懲《こ》りましたから。それに、あれから学校側もうるさくなって、フェンスを建て増ししたり、高さを高くしたり、穴を塞いだり、鉄条網を増やしたりしたみたいで、とてもむりですよ」
「ふん、根性なしどもが。あー、あほらしいわ」
老人は横になったまま器用に酒をあおると、目を閉じた。
「ねえねえ、そんなことより、『蛭女山祭』は明日に迫ってるのよ。だんどりとか役割分担とか、決めなきゃならないことは山のようにあるんだから、オオナムチだの天照大神だの、そんな浮き世離れした話はまた今度にして」
伊豆宮の、民研部長とも思えぬ一言で、みんなわれにかえった。
「そうでした。じゃあ、今までに決まったことを発表します」
犬塚がメモを読みあげた。
「ホットプレート調達……白壁。材料購入……犬塚、諸星。お釣りの用意……伊豆宮。以上」
「当日の分担はどうなるんだよ」
「それは今からくじ引きで決めます。恨みっこなしですよ。決定されたら、文句を言わずに従うこと。よござんすね、よござんすねえ……」
犬塚は紙縒《こより》を四本出した。伊豆宮、白壁、比夏留の順に一本ずつ引き、残った一本を犬塚が持った。
「勝負っ」
一斉に出しあった結果は、次のようになった。
洗い物……白壁。
ウェイター……伊豆宮、犬塚。
調理……諸星。
「えーーーーーーーーっ!」
比夏留は、部室が揺らぐような大声を出した。
「ちょっと比夏留ちゃん、地震とまちがうじゃないの」
「わ、わ、私、調理なんてできませんっ。お好み焼きなんか作ったことないし、それに、それに……」
「だいじょうぶ。お好み焼き焼けない人間なんて存在しないわ」
「ここにいますよ。私、ほんっとにだめなんです。ほかのことなら何でもやります。お願いですからかわってくださいっ」
「だーめ。文句を言わずに従うことって言ったでしょ」
「でも……でも、皆さんに、というか、お客さんにご迷惑を……」
「明日までまだ時間はたっぷりあるわ。練習すればいいじゃない」
「そりゃ……そうですけど……」
「じゃあ、決まりね。比夏留ちゃん、買い出しに行くわよ」
「あの、ですね……やっぱり、その……私は料理というのは……その……」
誰も聞いていなかった。
4
「あった、あった。こいつだよ」
闇の狭間で、ひとりが弾んだ声をあげながら、目の前の巨木を指差した。
「この辺一帯、全部そうだ。ここは、オンブーの一大群生地なんだ」
「すげえよな、あいつの言ったこと、でたらめじゃなかったんだ」
懐中電灯の楕円の明かりに浮かぶ木々は、高さ十メートルを超えるものばかりだ。
「何となく薄気味悪いな。怪物が腕を広げたみたいでさ」
「変なこと言うなよ。ただの木だろ」
「でも……〈常世の森〉には化け物が棲むって……」
「迷信に決まってるだろ。と、とにかく、早いとこすませちまおうぜ。見つかったら、停学もんだからな」
二人の若者は、幹にとりつき、めきめきと枝をへしおりはじめた。
「ちっ……。あんまり葉っぱがついてないな」
「うーん……こっちの木も同じだ。なるべく葉っぱのたくさんついてるやつを探すしかないか」
「それにしても、オンブーがこんな身近にあるとはな」
「ほんとだよな」
彼らは、南米自然研究部の部員であり、明日の学園祭に「アルゼンチンの動植物」という展示を計画していたのだが、なかなか標本が集まらず、部室で頭を抱えていたところに、部のパソコンに一通のメールが届いた。
「アルゼンチンの植物を探していると聞きおよび、一言ご助言申しあげ候。軽音楽部のステージの裏のあたりのフェンスを乗り越え、北東に一キロ進んだ地点に、オンブーの群生あり。シーナ」
最初は、たちの悪いいたずらだろう、と誰も信じなかったが、ここでこうして座っていてもしかたがない、いたずらかどうかこの目で確かめてくる、と自棄になったひとりが言いだし、もう一人がそれに同調したのだ。フェンスはかなり高く、最上部には鋭利な忍び返しも備わっており、乗り越えることは不可能だったため、思い切って鉄切り鋏でフェンスの下端の一部を切断し、その下の地面をスコップで掘りさげた。相当大きな音がしたが、軽音楽部がステージでPAのチェックをしていたので、それにまぎれさせることができた。なんとかフェンスをくぐることに成功した二人は、あとは勢いに任せて、夜の〈常世の森〉を疾走し、ようやくこうしてオンブーの森にたどりついたというわけだ。
「そろそろ引きあげようぜ。これだけ獲れば十分だろ」
「そうだな」
来た方向は、軽音楽部のPAの音でだいたいわかる。重い枝を抱えた二人は、深い落ち葉のうえを音のするほうに向かって歩き出そうとした。
そのとき。
みし、みし、みし、という木の軋《きし》む音がした。誰かが彼らと同じように、オンブーの枝を折り取ろうとしている……わけがない。顔を見合わせた瞬間、二人の背中を悪寒《おかん》が這《は》いのぼった。今までは、標本採集に夢中で見えていなかったが、オンブーの繁みの少し先に、大きな洞窟が口をあけているではないか。そして、洞窟のまえにある小山のようなもの……。二人が真っ先に考えたのは、自分の目と頭がどうにかなってしまったのではないかということだ。
茶色の剛毛で覆われたその「何か」は、ビデオのスロー再生のような緩慢さで、のそり、と動き、こちらを向いた。小山の上部に、顔があった。ひとりは、腰を抜かしてその場にへたりこみ、もうひとりは、
「ひぎいいあああああああっ!」
神経がねじ切れてしまったかのような、甲高《かんだか》い悲鳴を発すると、せっかく集めた枝を放りだして、あとを見ずに逃げ出した。
サイよりも巨大なその「何か」は、逃げたほうのあとを追おうともせず、座り込んでいる若者も無視して、地上に投げ出されたオンブーの枝に顔を近づけ、舌でこそぎとるようにしてその葉を食べはじめた。あっという間に平らげてしまうと、巨大な生き物は太い後脚を踏まえて立ちあがり、天に向かって悲しげに咆哮した。
おおん……おおおおお……おん……
おおおん……おん……
5
「聞いたか、部長」
白壁が、似つかわしくないレースのハンカチをどぼどぼにして汗を拭き拭き、ホットプレートを設置しながら、伊豆宮に言った。
「ああ、例の南米研のこと」
伊豆宮は、紅生姜や鰹節、青ノリ、天カスなどを袋からボールに移す作業をしながらうなずいた。
「何かあったんですか?」
キャベツをとんとんとんとんと小気味《こぎみ》よい音をさせて大量に刻みながら、犬塚がきいた。
「きのうの深夜、学園祭準備で部室に居残ってた南米自然研究部の部員二人が、展示に必要な枝を獲りにいくと言い残して部室を出たまま帰らねえんで、皆で探してると、ひとりが道ばたで白目を剥《む》いて倒れてやがるのが見つかった。そいつは、『オオナム……』と言い残したまま、気絶しちまったそうだぜ」
「オオナム……って、オオナムチのことかしら」
と犬塚。
「おいらもそうじゃねえかと思うんだが、よくわからねえ。気絶した野郎は、そのまま入院しちまって、いまだに意識が戻らねえんだとさ。外傷はなし。精神的ショックが原因だろうってことだ」
「もう一人は?」
「行方不明のままだ。見ただけで意識を失っちまうほどのモノって何だろうな」
「あの……展示に必要な枝ってなんですか」
手持ち無沙汰に立っていた比夏留がおずおずと言った。彼女も、下ごしらえをしたいと申し出たのだが、誰も手伝わせてくれないのだ。
「オンブーっていうウドの大木みてえな木の枝らしいぜ」
「ああ、ヤマゴボウ科の多年草ね」
伊豆宮がこともなげに言った。
(オンブー……オンブー……どこかで……)
比夏留は、はっとベンチのほうを見たが、そこには今日は顧問の姿はなかった。
「藪爺なら、お酒を調達に行ったわよ」
比夏留の視線の先を見て、犬塚がそう言ったあと、メモを見ながら、
「小麦粉よし、お酒よし、山芋よし、出し汁よし、卵よし、天カスよし、豚肉よし、イカよし、こんにやくよし、ちくわよし、キャベツよし、青ノリよし、鰹節粉よし、紅生姜よし、小海老よし、焼きそばよし、ソースよし、マヨネーズよし、サラダ油よし……と。チェック終わり。全部揃ってます」
「じゃあ、あとは諸星さん、お願いね」
そう言って、伊豆宮はコテを二本、比夏留に手渡した。
「お、お願いって……みなさんはどうするんですか」
「私たちは接客と洗い物があるから、作るのはあなたひとりよ。がんばってね」
「だ、だめですよ。わ、私、やっぱりむりです。他のことなら何でもしますから、代わっていただけませんか。いえ、代わってください」
「きのうの夜、練習したんだろ」
「そ、それは……」
したことはしたのだが、それは悪夢のような結果に終わったのだ。母親に教わったとおりに焼いてみたのだが、なぜかゴムをどろどろに溶かしたようなねばねばの物体ができあがり、ひっくり返そうとしたが、ホットプレートにへばりついてコテで持ちあがらない。渾身の力を込めて引き剥がそうとすると、ホットプレート自体が持ちあがってしまった。腹をたてて、両手で引っ張ってみたが、びくともしない。水に漬けてふやかそうとしても何の変化もない。
「小麦粉と卵しか使ってないのに、どーしてセメントみたいになるのよっ」
結局、〈独楽〉の弟子たち数人がかりでもそのお好み焼き(?)はホットプレートから剥がせず、ホットプレートごと捨てるしかないという結論になった。その時点でかなりめげていたが、母親の激励で再挑戦するつもりになり、新しいホットプレートを使ってもう一枚焼いてみた。結果は、もっとひどいことになった。小麦粉と出し汁と卵のあいだにいかなる化学反応が起こったのかわからないが、お好み焼きはホットプレートのうえで爆発し、ばらばらに飛び散った。たまたま部屋にいた弟子のひとりは、溶岩のように真っ赤に焼けたその断片を突き出た腹の贅肉《ぜいにく》のあいだで受けとめてしまい、掘りだそうとしても奥に入り込んでなかなか出てこず、ついには大やけどをして、そのまま病院に運ばれた。今朝、比夏留はその弟子の見舞いにいった足で、ここに来たのだ。
というようなことを縷々《るる》説明したのだが、先輩たちは冗談としか受け取っていないみたいで、相手にしてくれない。伊豆宮が言った。
「お好み焼きが爆発するわけないでしょ。諸星さん、あなたが調理を担当することは、くじ引きで決まったことよ。くじ引きというのは、古来、神聖な卜占の一種で、『続日本紀《しょくにほんぎ》』に聖武天皇が仁義礼智信の五文字を書いた紙を引かせたという故事が載ってるし、足利義教は、石清水八幡宮でくじ引きをした結果に基づいて将軍に選ばれたそうよ。鹿の骨を用いた太占《ふとまに》や亀の甲羅を使った亀卜、熱湯に手を浸ける盟神探湯《くかたち》なんかも広い意味でのくじ引きで……」
「あー、もうわかりましたっ。やりますやりますやればいいんでしょ。でも、どんなものができあがっても知りませんからね」
「どんなものって、食べられるものばかりを使うんだから、よほどの大失敗をしても、まあ、たいしたことにはならないはずよ。さ、度胸決めて、やりなさい」
伊豆宮に背中をどやされ、比夏留もあきらめの心境になった。もう、こうなったら破れかぶれだ。どーなってもしんないかんねっ。
「メニューは、豚玉とイカ玉、それにモダン焼きの三つだけ。なーんにも心配することないじゃない」
「心配……しますよ」
みなは、材料や道具を持って部室を出ると、屋台の場所へと向かった。そこは、軽音楽部の野外特設ステージのすぐ横であった。ビルのように積みあげられたPA装置から、超下手くそなロックバンドのサウンドチェックのひずみまくった破鐘《われがね》のような音が、ずんずんずんずんと地響きをたてて轟いている。普通の神経の人間なら、こんな騒音のところにお好み焼きを食べにくる気にはならないだろうし、たどたどしい指使いでギターを弾いているバンドのグレードをみている限りでは、バンドのファンが集まるともとうてい思えなかった。期待できるのは、バンドのメンバー自身が食べにきてくれるぐらいだが……。
「場所、悪すぎ」
伊豆宮が白壁に言った。
「こんなとこしかとれなかったの? あんたもくじ引きの才能、皆無みたいね」
「そう言うねえ」
白壁は頭を掻いた。
「場所決めの日にうっかり寝過ごしちまって、駆けつけてみたら、こんなとこしか残ってやがらなかったのさ」
「ふーん、そう」
伊豆宮が指の関節をめきばきと鳴らし、白壁は巨体を比夏留のうしろに縮こまらせた。
6
といっても、今さらどうしようもない。特設ステージ横の屋台に、四人はホットプレートや材料をセッティングし、「豚玉・イカ玉二百五十円、モダン焼き三百円」と書いた札を立て、「柳田国男推薦! 民俗学研究会の超うまいお好み焼き」というセンスの悪い看板(白壁が描いた)を屋根に取りつけた。
「まず、私が豚玉を一枚焼いてみるわね。でも、比夏留ちゃんは自分のやりやすい焼きかたでやればいいのよ」
犬塚が、ロックバンドに負けない声で叫ぶようにして、お手本を示してくれた。
「最初、ホットプレートに薄ーく油を引くでしょ。私のやりかただと、それから先に豚肉の薄切りを焼きます。豚は、焼きすぎてもあんまし堅くならないから、焼き色がつくまでよく焼いて……と、そのあいだに、小麦粉、出し汁、山芋のすりおろし、お酒少々、卵、紅生姜、干し海老……をよーく混ぜ合わせます」
あまりの手際の良さに、比夏留はほとほと感心した。エプロンをかけて、楽しそうに料理する犬塚を見ていると、お嫁さんにしたいぐらいだ。
「プレートの温度がよくなったら、焼いていきます。このとき、あまり広がらないように、このぐらいかなあ。できるだけまん丸にしたほうがいいと思います。そこに、ちくわの薄切り、刻んだこんにゃくを置いてから、たっぷりの天カスを撒いていきます」
天カスは、最初からタネに混ぜるとクリスピーな歯触りがなくなるので、この段階で撒いたほうがいい、というのが犬塚の持論だそうだ。
「こんがりといい匂いがしてきたら、コテを両サイドから突っ込んで、一番バランスのいい箇所を探して……えーいっ!」
満月のようなお好み焼きは、一瞬の気合いとともに見事に反転した。
「絶対にここでうえから押さえつけちゃだめよ。空気が逃げて、ざっくりした食感がなくなるから。あとは、両面をよく焼いて、ソースを塗って、好みでマヨネーズをつけて、青ノリと鰹節粉を生地が見えなくなるほど振りかけたら……じゃんじゃじゃーん、でっきあがり!」
それは、すばらしくも見事な「お好み焼き」だった。比夏留は、それを独り占めしたくてしたくて、こっそりと先輩たちの隙をうかがったのだが、もちろんそうはいかず、四等分されての試食となった。
「いけるぜっ」
「美味しいっ」
「最高っ」
皆一斉に犬塚の腕前を褒《ほ》めそやし、犬塚は顔を赤らめた。比夏留は、これなら五百円、いや、六百円払ってもいい、とさえ思った。犬塚がこのお好み焼きをどんどん焼いてくれる横で、それを片っ端からぱくぱく食べられたら、どんなにか幸せだろう。しかし……焼くのは犬塚ではなく、比夏留なのだ。
「イカ玉は豚をイカに代えればいいだけ。ただし、イカはすぐに堅くなるから、火の通しすぎに注意してね。モダン焼きは、先に焼きそばを焼いておいて、途中でお好み焼きのうえに乗っければいいの。さ、次は比夏留ちゃんの番よ。やってみて」
コテを渡されて、比夏留は呆然とした。きのうの練習のことは、きれいさっぱり忘れてしまっている。だが、とにかくやるしかない。やるしかないのだ。
比夏留は、コテを宮本武蔵のように二刀流に構えると、
「きええっ」
と気合いを入れた。そして、いきなり豚肉をホットプレートのうえに乗せた。
「まだよ。先に油を引いてから。それに、小麦粉を溶いておかないと……」
「あっ、そうか」
ボールに小麦粉を入れ、酒をどぼどぼと入れる。
「お酒をそんなに入れちゃだめだってば。出し汁で溶くのよ」
「あっ、そうか」
タネをホットプレートにお玉で流し入れ、コテで掻き混ぜる。
「何してるのっ。オムレツじゃないんだから、こんなときに掻き混ぜちゃだめよ」
「あっ、そうか」
何だかぐじゃぐじゃの、ナマコの死骸のようなものができた。とりあえずそれをひっくり返す……。
「気をつけてっ」
犬塚の注意の言葉はコンマ三秒ほど遅かった。お好み焼きはスカイフィッシュのように宙を飛んだ。
ひっとりきりで、オウオウ
ギターかき鳴らす、オウオウ
熱いハートだぜ……
熱いーーーーっ!
熱っ、熱っ、熱っ、熱っ、うぎゃああああああああっ!
ナマコの死骸は、サウンドチェックに余念のなかった、頭を極楽鳥のとさかのように押っ立てたボーカリストの顔面を直撃した。その渾身のシャウトは、マイクを通して、雷のように全校生徒の頭上を突き抜けた。
7
(あー、やっちゃった……)
昨夜の失敗で懲りていたはずなのに、またしても同じミスを犯してしまった。比夏留は目のまわりを真っ赤っかに腫《は》らしたそのボーカリストに平謝りに謝ると、伊豆宮たちに言った。
「私には焼くのはむりです。お願いだから、役を代わってください。また、今みたいなことになったら……」
「だいじょーぶ。そうなったらそうなったで、また謝ればいいのよ」
伊豆宮は比夏留の肩をぽんと叩き、
「下手だからって尻込みしてちゃだめ。うまくなるには、一に練習、二に練習。為せばなる、為さねばならぬ、なにごとも。私たちがついてるんだから、がんばりなさい」
だが、「ついている」はずの伊豆宮たちも、次に比夏留の作った試作品を食べてみたときには少し感想が変わったようだ。
「まっずー……」
一口食べた白壁がいきなり吐き出した。
「あんた、諸星さんに失礼よ。それに一度口に入れたものを吐き出すなんて、だいたい行儀として……まっずー……」
伊豆宮も吐き出した。見ていた犬塚は、口にしようかどうしようかしばらくためらっていたが、端のほうをほんの少しかじってみて、
「あ、だめ」
そう言って、貧血のようにしゃがみ込んでしまった。
「ごく普通の材料ばかりを組み合わせて、料理といっても火を通すぐらいのことしかしていないのに、どうすればここまでまずくできるのかしら」
伊豆宮が首をかしげた。
「おいらたちが見てねえ隙にこっそり毒物を入れたんじゃねえだろうな」
白壁も首をかしげた。
「これもひとつの才能なのかしら」
犬塚も首をかしげた。
「さあ……」
比夏留も首をかしげた。
あとは根比べになった。比夏留は焼いて焼いて焼きまくった。武道で鍛えているためか、腕が疲れたりすることは一切なかったが、一時間たっても二時間たっても上達の兆《きざし》はみられなかった。そして、そのお好み焼きは一枚も売れなかった。隣は怒号と騒音が渦を巻いているし、朝からかんかん照りだし、民研の屋台には誰ひとり近づかなかったのである。結局、朝十時から夕方五時まで、比夏留はナマコの死骸を製造しつづけた。
「誰よ、新聞紙のカブトよりもうかるって言ったのは! 材料費の分だけ大損じゃないの」
伊豆宮がついに切れた。
「私、いち抜けた。ちょっとそのへん回ってくるから」
「お、おいらも用事を思い出した」
白壁もそう言ってどこかへ行ってしまった。
犬塚は、かたわらに積みあげられたお好み焼きの残骸を見あげた。実際、それは「見あげる」ことができるほどの量だった。ざっと六百枚はあるだろう。
「どうするのよ、これ……」
独り言のように言うと、犬塚も立ち去った。あとに残されたのは、比夏留とお好み焼きのバベルの塔だけ。
そろそろ「蛭女山祭」も終わりだ。ほとんどの屋台は撤収にかかっている。隣のステージでは、ジャズのビッグバンドがトリをとっており、ソプラノサックス奏者がチャルメラのようなソロをしていた。
六百六十六枚目を焼きあげたときに、比夏留の膝から力が抜け、彼女はへなへなへなっとその場にへたりこんでしまった。考えてみれば、この七時間というもの、まったく何も食べずに、ただがむしゃらにお好み焼きを焼き続けてきたのだ。こんなことは生まれてはじめてかもしれない。おなかが、ぺこぺこを通り越して、べこべこになっている。それなら、目の前のバベルの塔を食べればいいわけだが、製作者の比夏留がみても、それはどう考えても食物とは思えない物体だった。ナマコの死骸、という言葉さえ、「それは誉《ほ》めすぎ」という感じである。嘔吐物の山、巨人の大便、エイリアンの臓物……。いくら比夏留でも、これを食べる気にはなれなかった。しかし、見かけはともかく、意外と味はいけるかも……。そう思って、少しだけかじりとってみた。
口のなかで爆弾が爆発したのかと思った。苦み、渋み、臭み、痛み……あらゆる不快感が一度凝縮してから破裂したようだった。
「うぎゃああっ」
比夏留は喉を押さえて、地面のうえをごろごろのたうち回った。
「おーい、そこ、うるさいぞ」
ステージのうえから、ベース弾きが叫んだが、そんなこと知ったこっちゃない。これほどの苦痛を、比夏留はこれまで味わったことがなかった。〈独楽〉の修行で、それこそ地獄の苦しみを受けたことはあったが、それ以上だ。屋台のまえを芋虫のように転がる比夏留の顔のうえに、校内放送が降ってきた。
「ただいまから、体育館において、『蛭女山祭』最終イベント、大カラオケ大会を行います。全校生徒は、体育館に集合してください。この行事には、本校の生徒以外は参加できません。繰り返します。ただいまから……」
[#挿絵(img/01_135.png)入る]
8
体育館は満員だった。普段は授業に出てこないような生徒や、「学園祭なんかかったるくてやってらんねーよ」と学祭をボイコットしていた生徒たちの姿もあった。水を百杯ほど飲んで、やっとまともに戻った比夏留も、彼らに混じって、所在なげに座っていた。
入り口で教師による厳重なチェックがあって、田中喜八学園の生徒以外は入場を拒否される。正面の舞台のまえに、逆さに伏せた巨大な樽のようなものが幾つも置かれている。夕方なのに館内は電気をつけていないので、ぼんやりとしか見えないが……。
(何がはじまるんだろう。カラオケ大会って言ってたけど……)
比夏留は、館内に次第に高まってくる熱気を感じながら、あちこちをきょろきょろと見回したが、カラオケセットらしいものはどこにもない。
「知ってるか、演劇部の話」
「ああ、芝居が校長にめちゃめちゃ叱られたってやつだろ。日本神話を題材にしたって聞いたけど」
比夏留の知らない男子たちの話しているのが耳に入った。
「天照大神が主人公でさ、天の岩屋戸を出たアマテラスがどこかに行ってしまったんで、みんなで探しにいったら、そこは尼寺っス……という寒いギャグがオチだったらしいんだけど、どこが気に入らなかったのか、とにかくカンカンだったそうだ。演劇部はしばらく休部だとさ」
「へえ……そこまで怒らなくてもなあ……」
やがて、白い装束を着、鉢巻きをしめ、たすきを掛け、手に手に太いバチを持った二十人ほどの生徒がぞろぞろと現れた。大きな樽ひとつにつき四名がつき、せえの、で、バチを振りおろす。ずだだん、というのをきっかけに、激しい二拍子のリズムが轟《とどろ》きわたり、密閉された体育館の壁にこだまして、わあああ…………んという蜂の羽音のようなエコーを伴った大音響となった。最初は、歩いているようなテンポだったのが、そのうちにどんどん力強く、速くなり、「疾走している」ようなリズムに変化した。
おおい、おいや、おい、おいや
隠れたまいし大神《おおかみ》を
引っぱり出さんそのために
猿女《さるめ》の祖《おや》のうずめのきみが
伏せたる桶をとどろに踏みて
おっぱい出して、女陰《ほと》出して
ああ、踊らんかな、踊らんかな
なんもかも忘れて踊らんかな、踊らんかな
今宵はヒルメさまのお祭りじゃ
おおい、おいや、おい、おいや
おおい、おいや、おい、おいや……
誰かが歌い出すと、皆が唱和し、たちまち大合唱となった。何度も同じフレーズをリフレインするので、比夏留もすぐに覚えてしまい、気がつくと、大声で歌っていた。
いつのまにか、横に伊豆宮が来ていて、
「わかったでしょ。カラオケ大会っていうのは、空の桶をひっくり返して叩くから、そう呼ばれてるの」
なるほど。
「このあとが見ものよ」
「何があるんです」
「まあ、見てて」
疾駆するリズムと、おおい、おいや、おい、おいやの歌声が、体育館の天井を吹き飛ばさんばかりに高まったとき、舞台の上手から、きらきらした輝きが登場した。それは……。
「うわ……」
比夏留は絶句した。館内に、息を呑むどよめきが広がった。それは、スパンコールで飾りたてたブラジャーとパンティを申し訳程度に身につけただけの、肌も露《あら》わな若い女性だった。背中に七色の鳥の羽根をつけ、臍《へそ》に宝石をはめ込み、食い入るように見つめる生徒たちに流し目をくれ、剥き出しの長い脚を太股を腹部を腰をしなやかにくねらせ、微笑みを浮かべながら、リズムにあわせて両手両脚を振りあげ、振りおろし、妖艶なステップを踏む。しかも、ひとりではない。同じような衣装の女性が、次々と舞台袖からあらわれ、狂ったように踊りだした。総勢七名。桶のリズムも、彼女たちの登場の瞬間から微妙に変化しはじめた。ファンキーな十六ビートだ。我慢できなくなって踊りだす生徒もいる。比夏留の腰も自然と動きはじめる。
おおい、おいや、おい、おいや
おおい、おいや、おい、おいや
七名の女性たちは、生徒たちの掛け声に乗せて尻を振り、腰をグラインドさせ、乳房を揉みたてながら、ブラジャーを外しだした。
(ありゃ……これって要するに……)
比夏留があんぐりと口を喉まで全開にしていると、伊豆宮が耳たぶに息を吹きかけながら、
「うちの学校、『蛭女山祭』の最後には、毎年、プロのストリッパーの人を呼んで、踊らせるの」
「な、なんでまた、こんなことを……」
「さあ……昔からの伝統なんだって」
いくら伝統だといっても、未成年の男女のまえでストリップを上演してもいいのだろうか。比夏留が誰もが思うであろう疑問を口にすると、
「これで風紀が乱れたとかいうこともないみたいだし、いいんじゃないの。それに、みんな楽しみにしてるし」
たしかに男子も女子も、とうとう全裸になった七名のストリッパーのお姉さんの踊りを明るくエンジョイしているようだ。はじまって十五分後には、生徒たちの過半数がフロアで踊っていた。
おおい、おいや、おい、おいや
おおい、おいや、おい、おいや
おおい、おいや、おい、おいや
おおい、おいや、おい、おいや
熱狂の度はますます高まり、踊り子たちも生徒も汗みずくになって踊りまくった。比夏留もじっとしていられず、でたらめなステップを踏み、腕を前後に振り、スウィングのような、ジルバのような、サルサのような、タンゴのような、社交ダンスのような、パラパラのような、モンキーダンスのような、タップのような、ハワイアンのような、ベリーダンスのような……ようするに単なるむちゃくちゃな踊りを踊った。
やがて、七名のダンサーたちはにこやかな笑顔で引き上げていき、桶を叩いていた生徒たちもリズムを刻むのをやめた。
「これにて、本年度の『蛭女山祭』を終了いたします。皆さん、お疲れさまでした。学祭本部からお知らせします。一時間以内に展示物などの撤収を行ってください。繰り返します。一時間以内に……」
アナウンスがあり、踊り狂っていた生徒たちは、憑《つ》き物《もの》が落ちたように我に返り、三々五々、解散した。比夏留も、いったい何があったんだ私は何をしていたんだ今何時ここはどこ私は誰きみは誰……という状態で人の波にたゆたうようにふらふらと体育館を出た。すでに外は日が暮れていて、静かな虫の音が荒ぶる神経を鎮《しず》めてくれた。
9
このままとんずらを決め込む手も考えたが、やはりそうはいかない。比夏留の足は、民研の屋台のほうに向かって進んでいった。誰かが片づけてくれていることをひそかに願った比夏留だったが、世間はそんなに甘くなかった。見慣れた屋台の横に見慣れたバベルの塔が見えてきたときはがっかりした。しかし、この塔をなんとかしなければ、今日は帰れない。そこへ伊豆宮たちも戻ってきて、看板その他の解体や、調理器具、材料などを片づけはじめたが、誰も「完成品」には近寄ろうとしない。そのうちに、片づけは終了し、
「じゃあ、また明日ね」
伊豆宮たちは荷物を担いでその場を去ろうとした。あわてて比夏留が、
「あ、あのお……先輩がた。これ……どうしたらいいでしょうか」
「自分で作ったんだから、最後まで責任もって処分しなさい」
伊豆宮は冷ややかにそう言うと、すたすたと歩き去った。白壁も、
「ま、そうだよな。おいらにもそうとしか言いようがねえや」
と言って、伊豆宮のあとに続いた。犬塚は、少し逡巡《しゅんじゅん》していたが、食べたときにしゃがみ込んでしまったのを思い出したのか、
「ごめん、比夏留ちゃん。手伝ってあげたいんだけど……そのお好み焼き、なんだか怖いの。ごめんねっ」
両手で拝むようにして、その場から逃げた。
比夏留は、ふう……とため息をついた。涙が出てきた。まずいものを作ってしまった、とか、自分の料理の腕に失望(絶望か?)した、とかもあるのだが、悲しさの最大の理由は、「食べ物を無駄にしてしまった」ということに尽きる。うまく調理すればおいしく食べられたはずの食材を、比夏留のせいで、誰にも食べられない「ゴミ」にしてしまったのだ。罪悪感が魂の底からわきあがってくる。食べ物さんごめんねごめんねと呟きながら比夏留はぼろぼろ涙をこぼして泣いた。それなら、こんなに作らなければよかったわけだが、焼いている最中は、無我夢中だったので、こういう結末を考えもしなかったのである。だが、いつまでも泣いていられない。これを片づけないと、今日は家に帰れないのだ。
比夏留は、台車を借りてきて、それにバベルの塔を少しずつ移し、ゴミ捨て場に運んだ。ところが、ゴミ捨て場は、学園祭のゴミで溢《あふ》れており、とても大量の生ゴミを足すことは不可能な状態だった。やむなく引き返し、思いつく限りの廃棄場所をあたってみたが、どこもかしこも満杯だ。疲れ果てた比夏留は、朝からの空腹とあいまって、台車の横にぺたんと座り込んでしまった。
(どうしよう……)
バベルの塔は一枚分たりとも減っていない。今夜は、ナマコの大群が襲ってくる夢を見そうだ。
(よし……決めた!)
ぐずぐず思い悩んでいても埒《らち》はあかない。比夏留は、手ぬぐいでほっかむりをすると、こっそり台車を軽音楽部のステージの裏まで押していった。グラウンドで行われている後夜祭に参加しているのだろう、あたりに人影はない。
〈常世の森〉との間のフェンスぎりぎりにとめると、地面のうえにお好み焼きを降ろした。ここなら、普段は誰も来ないだろうし、お好み焼きもそのうち土に還るだろう。死んだ金魚を庭の隅に埋めるような感覚である。
(ほんとにごめんね。食べられなくしちゃって。もう二度と料理はしないから。食べるほうに徹するから)
比夏留は、土のうえに置かれたお好み焼きに向かって両手をあわせ、残りを取りにいくため、屋台に戻った。六百枚のお好み焼きをすっかりフェンス際に移すのに八往復を要した。
(これでやっとラスト。しんどかった……)
比夏留が最後の一回分をのせて、ステージ裏にがらがらがらがらと台車を押していったとき。
それまでとはどこかがちがうことに比夏留は気づいた。
生臭い臭い。
体温。
はぐ、はぐはぐ、はぐ、という音。
比夏留は棒立ちになった。フェンス下端の破れ目から、何か茶色い物体がこちら側に突き出ている。〈常世の森〉側には、その物体の残り部分がある。高さ二メートルほど、全長は六メートル以上あるだろうか。茶色、というより、金色にちかいふさふさと長い毛に覆われている。こちら側に突き出ている部分には、横に寝た耳と青く輝く大きな目があり、犬のそれに似た口がある。フェンスの途中に掛けられた前脚の先端には、鎌のように湾曲した、三本の太い爪がにゅうと伸びている。
悲鳴をあげかけた比夏留が、そうしなかったのは、その怪物の行動のせいだった。
「た、食べてる……」
そう。巨獣は一心に、比夏留が捨てたお好み焼きを食べていたのだ。
10
「なーんか、おかしいんですよね」
犬塚が言った。
「諸星だろ。おいらもそう思ってるんだ。ほら、学園祭のときからだろ」
「私たちが後始末手伝わなかったからすねてるのかしら」
と伊豆宮。
「それはねえだろ。あいつの性格からして、そういつまでもうじうじしてねえはずだぜ」
「どこが変かって言われるとわからないんですけど、なんか普通じゃないんですよね。心ここにあらず、というか……」
「普段から普通じゃねえやつだが、いつもに輪をかけて普通じゃねえんだよな」
「何か隠してるって感じかな」
「そうなんです。でも、きいても言わないんです」
「恋の悩みじゃねえのか」
「ないない。諸星さんに限ってそれはない」
「それはそうと、行方不明だった南米研のやつ、見つかったそうじゃねえか」
「記憶喪失だって。何か怖い目にあったみたいなんだけど、そのときの記憶がすっぽり抜け落ちてるみたいなの」
「私の聞いた話では、化石みたいな大きな石を抱えてたらしいです。でも、何の化石だかわからないんですって。前から入院してるほうも、いまだに意識が戻らないらしいし……」
「化け物でもいるんじゃないだろうな、あの森に」
「あははは、まさか……」
◇
「なーんかおかしいんだよな、母さん」
諸星弾次郎が言った。
「練習をさぼるわけじゃないんだが、気が入っていないというか、心ここにあらず、というか……。ああいう集中力を欠いた状態じゃ、怪我をしてしまう。注意はしたんだが、ちゃんと聞いてないみたいだし」
「恋の悩みでしょうか」
「ないない。比夏留に限ってそれはない」
「私もおかしいなとは思ってたんです。よく台所に立ってるみたいだし、食材がいろいろなくなってるし……」
「ま、まさか料理の練習でもしてるのかな」
「さあ……それだけはやめてほしいんですけど……」
◇
「あっ、比夏留さん」
商店街で保志野が声を掛けたが、比夏留は気づかずに行きすぎようとする。
「比夏留さん、比夏留さん、比夏留さんっ」
「え?」
比夏留は、きょとんとした顔を保志野に向けて立ちどまった。
「いくら呼んでも聞こえてないんだもんなあ。考えごとですか?」
「え? まあ……ちょっと……」
「あ、あの……あのですね……」
「何か用?」
「あの……その……F町にサンドイッチ・バイキングの店ができたそうなんですが、今度一緒に行きませんか」
「え?」
「で、ですから、サンドイッチ・バイキングの店に行きませんか」
「あ、あ、ありがとう。でも……しばらく忙しいんです。ごめんなさいっ」
比夏留は逃げるように走り去った。その後ろ姿を見送りながら、保志野は頭を掻いた。
「あーあ……振られちゃったよ……でも、おかしいな。諸星さんが、食事の誘いを断るなんて……」
保志野は、頬を蚊に食われているのにも気づかずに、腕組みをしたまま唸《うな》った。
「なーんかおかしいんですよね……」
11
「ごめん、待ったあ?」
月の光がほろほろと落ちてくるなか、比夏留はいそいそとフェンスに駆け寄った。
おおん……
茶色い怪物は、嬉しげに鳴くと、破れ目から鼻面《はなづら》を突き出した。比夏留はしゃがみ込み、鼻のあたりをなでなでしたあと、ヒマラヤのシェルパが背負っているような大きなリュックを降ろして、なかから百枚ほどのお好み焼きを取り出し、怪物の口のまえに置いた。怪物は目を細めると、はぐはぐはぐはぐとお好み焼きをむさぼり食いだした。比夏留は顎のしたに手を組んで、そのようすをにこにこと見守っている。
「たくさんお食べ、アオ。といっても、これじゃ足らないと思うけど」
あのとき、捨てたお好み焼きをこの怪物が無心にパクつくのを見ているうちに、比夏留のなかに愛《いと》おしさがこみ上げてきたのだ。(作った本人も含めて)誰も食べられない失敗作のはずだったのに、それをおいしそうに食べてくれる。比夏留は、「ひとにものを作って食べさせてあげる喜び」を生まれてはじめて味わったのだ。
以来、比夏留は学校が終わると、民研のミーティングもそこそこに家に飛んでかえり、〈独楽〉の練習も適当に切りあげて、もちろん予習復習宿題など一切せず、百枚のお好み焼きを焼くのを日課としていた。そして、深夜、ひそかに家を抜け出すと、学校に忍び込み、目が青く輝くことからアオと名づけたその怪物にそれを食べさせていたのだ。
百枚のお好み焼きをぺろりと平らげると、怪物は、くうんくうんと甘えたような声を出して、比夏留の顔をなめはじめた。
「うふふ……アオ、くすぐったいってば」
舌の表面がやすりのようにざらざらなので、本当はくすぐったいというより痛いのだが、そこはがまんだ。巨獣の顎《あご》をこちょこちょくすぐったり、剛毛を指でくしけずったりしているうちに一時間ほどが経過。
「じゃあ、明日また来るからね」
名残《なごり》惜しそうな怪物に向かって手を振り、空のリュックを背負い、歩き出した比夏留に前方から声が掛かった。
「なるほど……こういうことだったんですね」
ひくっ、と身体をこわばらせる比夏留のまえに立っていたのは、保志野だった。
「最近、どうも様子がおかしいんで、悪いと思ったんですが、あとをつけてきました。ストーカーみたいなことしてごめんなさい」
「わ、私……」
比夏留は、怪物の顔面を身体で隠しながら、なにかうまいいいわけを考えようとしたが、そんなものあるわけがない。
「私こそ、ご、ごめんなさい。こ、こ、この子になんだか懐《なつ》かれちゃって……」
「子」というような大きさではない。
「よく見せてくれませんか」
保志野は比夏留をそっと押しのけると、怪物のまえにしゃがんだ。途端、怪物は首をもたげ、臼のような歯を剥いて、鋭く唸った。
「だめっ、この人はいい人なの。心配いらないから……ねっ、ねっ」
比夏留が怪物の首を抱きかかえるようにして、平手でとんとんと叩くと、それで気が治まったのか、頭を地面におろし、おとなしくなった。保志野は、しげしげとその頭部、そしてフェンスの向こう側にある胴体を観察していたが、
「うーん……信じられない」
と言ったまま、黙り込んでしまった。
「ねえねえ……ねえねえ、この子って……いったい何なの?」
保志野の目がすわってきた。リュックからノートパソコンを取り出すと、しばらくかちゃかちゃいじくっていたが、
「そうか……そういうことか……。これで万事|平仄《ひょうそく》があうじゃないか!」
「教えてよ。教えてったら」
袖をひっぱる比夏留ににやりと笑いかけると、保志野は言った。
「こいつは、メガテリウムだ」
12
眉根を寄せる比夏留に、
「知らないのもむりはない。こいつが生きていたのは、鮮新世中期から更新世あたりだからな」
「それって何百年もまえのこと?」
「三百万年まえから一万年ぐらいまえまでだ。アリクイとかアルマジロ、ナマケモノなんかと同じ貧歯類に属する巨大哺乳類で、体長六メートルで体重五トン。全身を褐色の毛で覆われ、手足に長い鉤爪《かぎづめ》がある。図鑑で見たとおりだぜ。化石は南北アメリカ大陸からよく見つかるんだが、こいつがまさか日本にいるとはな……」
「…………」
「和名は、オオナマケモノという」
「オオナマケモノ……」
比夏留ははっとした。オオナマケモノ……オオナマ……。
「そう。このあたりにオオナムチの伝説が残っているのは俺も知ってる。南米研の生徒が『オオナム……』と言い残したのは……」
「オオナマケモノ、と言いたかったのね」
「だろうな。だが、オオナムチとオオナマケモノ、語呂が似ているのは単なる偶然だろうか」
「どういうこと?」
「南アメリカにある、エーベルハルト洞という広大な洞窟で、メガテリウムの仲間のネオミロドンの、まだ化石化していない毛皮が発見されたりしているから、メガテリウムが洞窟に棲んでいた可能性は高いけど、オオナムチという名称はもともと大穴持とも書き、これは『洞窟にいる神』をあらわすものだ」
「洞窟にいる……神……」
「オオナムチは、天照大神に『国譲り』を行ったけれど、天照大神は伊弉諾尊が禊ぎのときに左目を洗った際に生まれたといわれている。メガテリウム……目が『照』を生む……これは国を譲った相手であるアマテラスのことを暗示しているのかもしれないぜ」
「まさか……」
「北アメリカ、アルゼンチン、ブラジルなどでは、メガテリウムの骨は人間の骨とともに出土してるし、さっきも言ったエーベルハルト洞ではネオミロドンを家畜として飼育していた痕跡も見つかってる。オオナマケモノは、人間と共存していたのかもしれない。だから、おまえがこうしてこいつと仲良くしてるのもおかしくはない」
比夏留はメガテリウムの鼻面をさすった。怪物は、気持ちよさげに「ぐーふ」と唸った。
「この子は……たった一頭の生き残りなのかな」
「パタゴニアのテウェルチェ・インディアンには、矢が刺さらない『イエミッシュ』もしくは『ウォーター・タイガー』と呼ばれる巨獣の伝承があるし、アルゼンチンの政治家で地理学者のドン・ラモン・リスタは十九世紀の終わりにネオミロドンとおぼしき動物と遭遇している。アラスカのエスキモーのあいだで神獣と呼ばれている、体長八メートルの、熊に似た、ときどき虹色に光る怪物がいるらしいけど、それがメガテリウムの生き残りじゃないかという説がある。だから、世界のどこかには、こいつの仲間が生き残っている可能性もある。でも……」
「でも……?」
「この〈常世の森〉にはたぶんこいつだけだろうな。現在のナマケモノは、アマゾンに多いセクロピアという木の葉を食べるそうだけど、オオナマケモノはアルゼンチンのパンパに生えているオンブーという木の葉を主食にしていたらしい。でも、オンブーもセクロピアも日本にはほとんどないはずで、〈常世の森〉のどこかにどちらかが生えているとしても、この巨体を維持していくに足る餌の量を考えると、何頭も棲んでいるとは考えにくい」
「そう……。きっと、いつもおなかを減らしてたのね。だから……」
私の作るまずいお好み焼きでも食べてくれたのね、という言葉を比夏留は飲み込んだ。
「それにしても、毎日、お好み焼き百枚とは大食いだな。オオナムチの別名、オオクニヌシというのは、大食い主がなまったのかもしれないな」
おまえとこいつは似たものどうしだ、という言葉を保志野は飲み込んだ。
「で……これからどうする」
「どうするって……?」
「おまえはこいつを餌づけしちまった。そのうち、他の生徒や教師に見つかるのは必定《ひつじょう》だろう。そうなったら、大騒ぎになるぞ。世界的な大発見だからな。こいつは学者たちによってどこかへ連れていかれ、研究対象として飼い殺しにされる。この森の奥でのんびり葉っぱを食べる……なんてわけにはいかなくなるだろうぜ」
「そ、そんな……」
「こいつの、というか、こいつの種の余生があとどれぐらいあるのかしらないが、それを平穏に過ごさせてやるためには、こいつを森に帰すことだ。――な」
比夏留は巨獣の顔をじっと見つめていたが、ぶんぶんとかぶりを振った。
「嫌。この子と別れるなんて絶対にできない」
「よく考えろ。いつまでもこのままの状態は続けられない。おまえの手におえない事態になったときにあわてても遅いんだぞ」
「でも……でも……」
比夏留は顔を伏せ、
「やっぱりできない。だって、この子は……」
そのとき、人の気配がした。比夏留の武道家としての直感は、その気配のなかに殺気を嗅《か》ぎとっていた。
13
闇に身体をまぶすようにして、フェンスの向こう側に一人の人物が立っていた。全身を黒い衣服で覆い、顔に縦長の木製の仮面をつけているため、男か女かすらわからない。比夏留は、節足動物の彫刻が施されたその仮面に見覚えがあった。まえにも〈常世の森〉で出会ったことがある。
「森の奥にいるように……あれほど……教えておいたのに……こんな……ところにまで出てくるから……こうして馬鹿な……連中に見つかってしまうのですぞ」
くぐもった声で仮面の人物は言う。
「馬鹿のくせに……妙に勘がいい。あなたさまの……正体を見破られてしまったようです」
保志野が進み出た。
「それじゃ、こいつはやっぱり……」
「そう……オオナムチノカミ……またの名を……哺乳類貧歯目メガテリウム」
「オオナムチがこんな怪物だったとはな」
「神話は……寓話ではない。表面を撫でるだけではわからぬ……真の意味が……込められているのだ。だが……」
仮面の人物は、メガテリウムに向かって、
「もう……これ以上……隠しておくわけには……いきませぬな。たびたびこんな場所に……出てくるようになっては……大勢に見とがめられるのも……時間の問題……」
「どうするつもりだ」
「殺す。もちろん……そのあとで……貴様たちも……」
ずる、と日本刀が抜き放たれた。仮面の人物は、それを逆手に持つと、メガテリウムの首に押し当て、
「あなたさまは……生きすぎたのです。御免……」
言い放つと、切っ先を突き立てようとした。
「いけないっ」
比夏留が跳躍した。フェンスに体当たりで飛びつくと、両手両脚をしゃかしゃかしゃかしゃかっと動かし、スパイダーマンのようにあっという間にフェンスのてっぺんにまでよじ登った。体重二百二十キロがのぼったのだ。フェンスは大揺れに揺れている。比夏留の指先は血塗れだ。
「比夏留、気をつけろ! そこには忍び返しがあるんだぞっ」
保志野が叫ぶ。フェンスの最上段には鋭い忍び返しがサメの歯のようにずらりと並んでいる。うっかり手で触ったり、踏んだりしたら、大怪我することはまちがいない。だが、比夏留は、そんなものを無視して、
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……きえええええっ!」
凄まじい気合いとともに、スパイダーマンのようにいきなり飛び降りた。
「うわあっ」
保志野が大声をあげたのも無理はない。高さ十メートルもある高みから飛び降りたら、無事ではいられない。
だが、比夏留はただ飛び降りたのではなかった。身体をおしぼりのように絞りあげながら頭から落ちたのだ。その姿は激しい回転のなかに埋没して見えなくなり、ぎゅううううんと甲高い音をあげながら、まるでドリルのように仮面の人物を襲った。
「うぶああっ」
いままさにメガテリウムに突き刺さろうとしていた日本刀が、根もとから折れて、宙を飛び、近くの草むらに落ちた。だが、まだ比夏留の回転はとまらない。それどころか、ますますその速度をあげているみたいだ。空気が焼けて、焦げ臭い臭いがあたりに漂《ただよ》いはじめている。保志野は、どうすることもできず、フェンスにすがりついて、わなわな震えながら、高速回転する比夏留を見つめている。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ぎええええええええっ!」
その瞬間、竜巻のようにうねる独楽の中心から、比夏留の腕が何メートルにも伸びたように、保志野には見えた。仮面は、ビスケットでできていたかのごとく砕け散った。
「う……ううあああ……あああ……」
その人物は、仰向けに倒れると、顔を押さえてのたうちまわっていたが、やがて、必死に立ちあがると、森の奥へと逃げ去った。
独楽の回転が次第にゆっくりになり、比夏留の姿が見えてきた。
「比夏留っ、だいじょうぶかっ」
フェンスにとりすがって叫ぶ保志野の声が聞こえたらしく、まっ青な顔の比夏留は、よろよろと彼のほうを向いた。短い頭髪がゼンマイのようにねじれており、鼻と耳と口から血が垂れている。比夏留は、その場に尻餅をつき、そのまま相撲の「股割り」のような姿勢で前のめりに倒れた。保志野は、比夏留がしたようにフェンスをよじのぼろうとしたが、無理だった。
「だい……じょぶ……」
比夏留は、メガテリウムの身体にすがって上体を起こした。メガテリウムはフェンスの下の破れ目から鼻面を抜き取ると、心配そうに比夏留の顔をのぞきこんだ。保志野はその破れ目からフェンスをくぐると、比夏留のそばに駆け寄った。
「無茶するぜ。あんなところから飛び降りるなんて」
「〈独楽〉の技って、基本的にむちゃくちゃなの」
「それにしても凄い技だな。何ていう名前?」
「名前はとくにないけど……」
「じゃあ、俺がつけてやろう。刀が突き立てられて万事休すかって思ったときにジャンプしたから、秘技〈万事ジャンプ〉っていうのはどうかな」
「そんなことどうでもいいけど……」
比夏留は、保志野の肩を借りてなんとか立ちあがると、メガテリウムに向かって優しく話しかけた。
「アオ……森に還りなさい」
おおん……
言葉の意味がわかったのか、巨獣は悲しげに鳴いた。
「いつまでも一緒にいたいけど……こんなところに毎日出てきてたら、そのうち人に見つかっちゃう。そうなったら、たいへんなことになるの。さっきの変なやつがまた殺そうとするかもしれないし、そうでなくても、見せ物にされたり、研究所に連れて行かれたり……今みたいに自由で呑気な暮らしはできなくなっちゃうの。わかる?」
おおん……
「だから……だから、森の奥に還って。二度と出てこないで」
おおん……
「早く……還って。還りなさいっ」
怪物は首を横に振る。
「だめ。還るの。それが、アオ、あなたのためなの」
怪物は首を横に振る。
「何度言ったらわかるの! 言うこときかないと……」
比夏留は右脚を軸に軽く回転した。メガテリウムは両手で頭を覆った。大木をへし折り、岩を砕き、サーベルタイガーの肉を引き裂くという鉤爪を使えば、比夏留ごときはたやすく吹き飛ばすことができるだろうに、この巨獣はまるで猫のように従順だ。
「ね、お願いだから……」
比夏留の目に光る涙を見て、メガテリウムはがくりと頭を落とし、巨体を持ちあげると、森の奥のほうに向きを変えた。
「ありがとう、わかってくれたのね」
おおおおおお…………ん……
切々とした一声を放ち、前世紀の生物はのそり、のそりと歩き出した。六メートルを超える巨体にもかかわらず、その身体が小さく見えた。
「さよなら……アオ……」
比夏留が小さく手を振ると、メガテリウムは顔だけ振り向き、未練がましい声で細く細く鳴いた。そして、闇のなかに消えていった。しばらくは、落ち葉を踏みしめる、ざく、ざく、という音が聞こえていたが、そのうちそれも途絶えた。
完全に気配が失せたのを確かめてから、比夏留は、保志野の腕のなかで大泣きに泣いた。
「比夏留さん……よく決心しましたね……」
保志野の言葉に、比夏留は何度もうなずいた。
14
「あれっ、比夏留ちゃん、早ーい!」
民研の部室のドアをあけた犬塚は、放課後の腹ごしらえをしてから来るため、いつもならもっと遅くに顔を出すはずの比夏留が、一番に来ていたので驚いた。
「あのですね、犬塚先輩……」
比夏留のまじめそうな表情に押されて、犬塚が半身になったとき、
「私、今日、クラブさぼりまーす。それだけ言いにきました。――じゃっ」
比夏留は満面の笑顔で叫ぶと、犬塚の脇をすり抜けて、ドアから駆け去った。
「何なの、あれ……」
犬塚はため息をついたが、
「学祭のあと、ずいぶん様子がおかしかったし、きのうはすごく落ち込んでたから、心配だったんだけど……なんだかもう立ち直っちゃってるみたいね。よかった……」
そう呟くと、テーブルのうえに学園祭の収支報告書を出し、さっきよりはるかに深いため息をついた。
◇
保志野は、皿にバベルの塔のように積みあげられたサンドイッチを見て、言葉を失った。皿の大きさは三十センチほどだが、そこに巧みに積み重ねられたサンドイッチはどう考えても百個はあった。
「これで……二人分ですか」
「いいえ、一人分。最近、積み重ねるのが得意になっちゃって」
「ちょっとだけわけてもらえます?」
「いいわよ。どうせまたあとで取りにいくし」
比夏留はそう言うと、席につき、まず、ハムサンドを十個ほど口に放り込んだ。続いて、ツナサンド十個、タマゴサンド十個、カツサンド十個、BLTサンド十個……。まごまごしていると、一つも食べられなくなりそうなので、保志野はあわててトマトサンドをつまんで、端っこのほうを囓《かじ》りとった。
みるみるうちにバベルの塔は平らになり、比夏留は、
「追加、取ってきますね。保志野くん、何が好き? あんまり食べてないみたいだけど……」
「あ、ああ、じゃあ……チキンサンドをひとつ」
「ひとつでいいの? せっかくのバイキングだし、もっと食べないと、元とれないわよ」
比夏留ひとりで十分、七、八人分の元はとっていると思うが、それは口にせず、
「じゃあ……三個ほど」
「三個ね。はいはい」
比夏留はふたたびカウンターを襲い、呆然とするほかの客たちを尻目に皿に巨大ピラミッドを作ると、にこにこ顔で戻ってきた。
「じゃあ、はい、チキンサンド三個」
比夏留は、きっちり三個のサンドイッチを保志野の皿に移すと、残りを猛然と食べはじめた。だが、半分ほど食べ尽くしたところで、急に手をとめ、顔に翳《かげ》を作って、ため息をついた。
「どうしたんですか」
「アオ……今頃、何してるかなあ……おなか、すかせてるんじゃないかな、と思って……。これ、持っていってあげたら、きっと喜ぶのになあ……」
バイキングの主催者も、比夏留ひとりでも大損なのに、大食らいのメガテリウムなどに横流しされたらたまったものではないだろう。保志野は話題を変えようとしたが、彼の話題は民俗学ネタしかない。
「このまえ、行方不明だった南米自然研究会の生徒が発見されたとき、化石を抱えてたって話、聞いてます?」
「うーんと……部室で先輩がそんなこと言ってたけど……」
「ぼく、ひとつの仮説を立てたんです。聞いてもらえますか」
「いいけど……」
「因幡の白兎の話、知ってますよね。大国主命がワニに毛をむしられて泣いていた白兎を助けるっていう……」
比夏留はうなずいた。
「この、毛のない、赤裸の白兎って、何のことかなって思ったんです。ほら、あの仮面をつけたやつが言ってたでしょ。神話には、表面を撫でるだけではわからない真の意味があるって」
「そうだったっけ」
「大昔、この世は恐竜、つまり、爬虫類が支配していました」
比夏留は、保志野が突然、変なことを言い出したのできょとんとした。
「その爬虫類の天下を奪ったのが、哺乳類です。哺乳類といっても、いろいろあって、マンモスやサーベルタイガー、オオナマケモノみたいな大型の哺乳類が勢力を伸ばしていた時期もありました。でも、そのなかから頭ひとつ抜け出して、結局、万物の霊長になったのは、我々人間です」
「はあ……」
「因幡の白兎の話は、人間がこの地球を支配していく過程をあらわしてるんじゃないかと思うんです。ワニ、つまり、爬虫類が支配していた世界で、毛のない赤裸の生き物、人間が覇を唱えていくにあたって、オオナムチ、すなわちオオナマケモノに助けられた、ということじゃないでしょうか。ネオミロドンは家畜として飼われていたというし、メガテリウムと人間がかつて親密な間柄であったことは、比夏留さんの事例を見ていてもわかります。オオナムチの国譲りのエピソードも、人間が地球の支配権を、それまで天下をとっていた大型哺乳類から譲り受けた、というのを示しているのかも……」
「え……? でも、私が聞いた話じゃ、ワニっていうのはサメのことなんじゃ……」
「普通はそう言われてますけどね、日本にもワニはいたんですよ。一九六四年に大阪の豊中でワニのほぼ完全に近い化石が発見され、マチカネワニと命名されました。近縁種は日本各地から見つかってますよ。このマチカネワニが生きていた時代は、だいたいメガテリウムが活動していた時代と重なるんです」
「でも……」
「それでね、ぼくの仮説の超薄弱な根拠なんですけど……さっき言った南米研究会の学生が抱えていた化石、あれ、ワニの化石だったそうなんです。どう?」
「どうって言われても……」
二皿目も完食し、三皿目を取りにいくタイミングをはかっていた比夏留のまえで、保志野は急に何かに気づいたように頭を下げた。
「ご、ごめんなさい、諸星さん。話題を変えようと思ったんですけど、結局、元に戻しちゃったみたいで……」
比夏留はかぶりを振った。
「気にしないで。アオのことなら、もう立ち直ってるから。でも……」
立ちあがりざま、
「ありがとう、保志野くん」
そう言うと、比夏留は三皿目を取りに、カウンターに向かって駆けていった。保志野はチキンサンドを前歯で少し囓ると、
(オオナムチが本当にいたっていうことは……アマテラスも実在するっていうことか。それって、まさか……民研の顧問のあのじじいの言ってることが正しいんじゃ……)
何度もかぶりを振り、
(そんなはずはない。あってたまるか……)
カウンターのまえでは、三皿目を積みあげていた比夏留が、店のオーナーらしき人物と何やら揉めていたが、保志野はそれにも気づかずに思索を続けていた。
[#改ページ]
[#挿絵(img/01_159.png)入る]
黒《くろ》洞の研究
又少納言|信西《しんぜい》は、(中略)はた探《さが》し獲《え》られて六条河原に梟首《かけ》らる。これ経をかへせし諛言《おもねり》の罪を洽《をさ》めしなり。それがあまり応保《おうほう》の夏《なつ》は美福門院《びふくもんゐん》が命《いのち》を窮《せま》り、長寛《ちゃうくわん》の春は忠通《ただみち》を祟《たた》りて、朕《われ》も其の秋世をさりしかど、猶嗔火熾《なほしんくわさかん》にして尽《つき》ざるままに、終《つひ》に大魔王《だいまわう》となりて、三百|余類《よるい》の巨魁《かみ》となる。朕《わが》けんぞくのなすところ、人の福《さいはひ》を見ては転《うつ》して禍《わざはひ》とし、世の洽《をさま》るを見ては乱《みだれ》を発《おこ》さしむ。
[#地付き]――上田秋成「雨月物語 巻之一 白峯」より
[#改ページ]
プロローグ1
「おかしい……」
左目に髑髏《どくろ》の眼帯をした老婆はひとりごちた。重厚なマホガニーのテーブルのうえに置かれた、「講談社文庫真夏のミステリーズ」と書かれた小冊子の最終ページを開き、射抜くような視線を向け、プロレスラーのように広く、肉付きのよい肩を震わせ、
「不吉じゃ。不吉が群をなして来る」
小冊子を閉じると、次に「理想の主婦」という婦人雑誌を開き、動物占いの「カンガルー」の項を熱心に読み出した。そこには「ぴょんぴょん跳んで彼氏をゲット。恋もスポーツもホップ・ステップ・ジャンプ!」と記されている。
「やはり、か。禍事《まがつごと》起こりて風雲急を告げ国家の安寧失わるるの卦……」
続いて、新聞の「アルセーヌ・ピッピちゃんの今日の星占い」欄に目をやる。老婆が指を置いた箇所には「すてきな出会いがあるかも。プリンとクリームソーダが吉」と書かれていた。
「むむ……凶星蘇りて世の乱れを喚起し、災厄の大魚口を開けて待つ。この凶星というのは……まさか、あの……いや、そんなことは……」
老婆はテレビをつけると、眼帯を外した。左目に異常は認められない。伊達《だて》眼帯だったようだ。ワイドショーが占いコーナーになるのをいらいらして待ちかまえる。
「今日のあなたのラッキー方位は南西、アンラッキー方位は東北です」
「東北か!」
絶句して、しばらく放心したように天井を見あげていたが、
「こうしてはおれぬ。もし、あれが蘇るとしたら……」
新聞を握り潰すと、
「日本は滅びる」
立ちあがると、大声で、
「誰か……誰かある」
「お呼びでございますか、ご隠居さま」
襖《ふすま》があき、三十過ぎの女性が顔を出した。
「坊はどこじゃ。学校か」
「今は夏休みです」
「そうか……そうじゃったな。すぐにここへ寄こせ」
「何か、まずいことでも」
「まだ、わからぬ。しかとは言えぬが……坊には東北に行ってもらう」
「東北のいずこへ」
「A県の黄頭《きがしら》村じゃ」
そして、眉毛のあたりを揉みながら呟《つぶや》いた。
「わしの思い過ごしであればよいのじゃが……」
プロローグ2
(やっと来ることができた……)
山麓の深い森に半ば埋没するようにたつ旅館を前に、その人物は独言した。険しい目の輝きが、ただならぬ決意を感じさせる。
(あれから三年……。とうとう宿願を果たすときが来た)
がさら、がさら、がさら、と風が草いきれを運ぶ。どこかで馬が甲高《かんだか》くいななき、張りつめた空気を震わせる。暗い夕陽が当たるだけでぼろぼろ剥がれ落ちそうな漆喰《しっくい》の壁に、クラゲのような陰影が映る。
(絶対に……絶対にこの願い、果たしてやる。絶対に……絶対に……絶対に……絶対に……)
その人物は、決然とした表情で、旅館の入り口に向かって一歩を踏みだした。その一歩が、惨劇の幕開けであったことを、本人を含め、誰も知らなかった。
プロローグ3
「あー、もう時間がなーいっ」
壁掛け時計をちらと見た諸星比夏留《もろぼしひかる》は一声叫ぶと、そのあたりに散らばったもの……懐中電灯、軍手、ロープ、下着、Tシャツ、靴下、スナック菓子、チョコレート、ガム、ビスケット、せんべい、乾パン、缶詰、カップ麺、レトルトカレー、二分でご飯、パック餅などなどなどを手当たり次第に巨大なリュックに詰め込みだした。
「おおおい、比夏留ちゃああん。朝ご飯だよおお」
朗々と響く上條恒彦《かみじょうつねひこ》のようなバリトンが階下から聞こえてきた。
「それどころじゃないよー。合宿の集合時間に間に合わなーい」
「何? それじゃ、朝ご飯を食べないというのか」
どすどすどすどすと荒々しい音が階段をあがってくると、比夏留の部屋のまえでとまった。
「わが古武道〈独楽《こま》〉宗家の跡取り娘たる者が朝ご飯を食べないとはけしからん。パパがいつも言ってるだろう。日に六度、食事が道のはじめなり、親が死んでも飯抜くなかれ。肥えたるは肥えざるものに勝るべし、食うは勝つなり食うは勝つなり。〈独楽〉初代諸星|当左右衛門《とうざえもん》さまの教えの歌を忘れたのか。だいたい比夏留ちゃんはだな……」
部屋の入り口に目をやっても、胸と突出した腹部の一部しか見えない。比夏留の父親、諸星|弾次郎《だんじろう》は二メートル十二センチの長身で、横幅も背丈と同じぐらいある。つまり、立方体のような体型なのだ。だから、弾次郎は比夏留の部屋の入り口をくぐることができず、一度もなかに入ったことがない。でぶでぶと太ったわが父親を見るたびに、比夏留は「タンク・タンクロー」という古いマンガを思い出す。
「私だって食べたいよ。でも、時間が……」
「何時なんだ、待ち合わせは」
「七時半……」
比夏留は小声で言った。壁の時計はすでに七時半を指している。この家から、待ち合わせ場所である駅前までは、自転車で必死で突っ走っても十五分はかかる。死にものぐるいで荷物を詰めても、三十分程度の遅刻は免《まぬが》れまい。朝食どころではないのだ。
「なーんだ、それじゃあもう遅刻してるんじゃないか。パパはまた、急げば何とかなるのかと思った。どうせ遅れてるなら、少しでもいいから、きちんと朝食をとるべきだな。空腹でばたばたあわてると、健康にも悪いし、だいいち痩せる原因になる」
「だって、ただでさえ遅れてるんだから、ちょっとでも遅刻時間を縮めないと……。クラブじゃ、私が一番下っ端なんだもん。部長の落雷で、また黒焦げになっちゃう」
「それはちがうぞ、比夏留ちゃん」
入り口を塞《ふさ》ぐ、首のない肉塊は落ち着いた口調で言った。
「空腹で何ごとか為してしくじるよりは、たらふく食べて今日も成功……という〈独楽〉二代目諸星|弾十郎《だんじゅうろう》さまの標語を忘れたのか。腹を減らしたままあたふたと何かをしてもどうせ失敗するぞ。たとえ、パンの一かけら、味噌汁の一口、うどんの一啜《ひとすす》りでも腹におさめて、落ち着いてぐっと気合いを入れ、それから行動を起こしたほうが、結局はうまくいくもんだ」
そんな標語は初耳のような気もするが、父親の言うことにも一理ある、と思った比夏留は、一応質問してみた。
「で、今日の朝ご飯は何?」
「メインは、カリカリに焼いたベーコンと目玉焼きだ」
「わあ、おいしそー」
「それにポテトサラダがついている」
「それもいいよね。ママのポテサラ、最高だから」
「シーザーズ・サラダと海の幸サラダ、中華風サラダもある」
「海老がたっぷり載ってるやつね」
「スパゲティが別皿に盛ってあったな。ボンゴレとタラコとナポリタンとミートソース、カルボナーラもあった」
「ペペロンチーノは?」
「それはなかった」
「残念」
「小さなミニッツステーキもあるぞ。比夏留ちゃんの好きなタマネギのソースをかけたやつ」
「あのソース、ほんっとおいしいよね」
「もちろん大きなステーキもある。でかいTボーンステーキが大皿に、こう、ごっそりだ」
「うううう、よだれが出るう」
「じゃ、早く降りてこい」
「オッケー」
比夏留はリュックを放り出して、父親とともに階段を降りた。朝食をゆっくり、しっかり、じっくり味わったことは言うまでもない。
「それで、今日からどこに行くんだい」
どんぶりに山盛りのポテトサラダを、おたまのように大きなスプーンでざっくざっくと口に放り込みながら弾次郎がたずねた。比夏留は口中の、厚さ二センチもある巨大なベーコンを咀嚼《そしゃく》しながら、
「えーと、たしか……A県の黄頭村だっけ……」
1
腰を落ち着けて朝食を食べてしまった比夏留は、待ち合わせに一時間遅刻した。道中、いろいろいいわけを考えてみたものの、うまくまとめきれない。
「すみませーん! ちょっと寝坊がトイレで朝ご飯が出がけに電話でえーとえーと……とにかく申しわけありませんでしたー」
「あんた、何考えてるの。新歓合宿に唯一の新入生が来なかったら、私たち大間抜けじゃないの」
部長の伊豆宮竜胆《いずみやりんどう》の叱責が飛び、比夏留は頭を低くして第一弾をやり過ごしたが、いつまでたっても第二弾は来なかった。いつものパターンなら、イボリバ族の吹き矢のように連続して襲いかかってくるはずだ。怖々頭をあげてみると、伊豆宮を含めた皆はいらいらした顔であらぬかたを見つめている。
「遅えなあ、まったくよお」
ちょんまげを結った白壁雪也《しらかべゆきや》が、そう言いながら、駅の柱に向かって腰を落とし、突っ張りを数発喰らわせた。
「すいません。ですからちょっと寝坊がトイレで朝ご飯が出がけに電話……」
「おめえじゃねんだよ」
「え?」
まさか、まだ遅刻者がいるのか。比夏留は集合している面々を見渡した。三年生の伊豆宮、白壁、二年生の犬塚《いぬづか》……。
「あっ、藪田《やぶた》先生ですね。なーんだ、先生が遅刻してるんなら、もう少しゆっくり食べてれば、あ、いやいや、その……」
「藪爺は来ないわよ」
[#挿絵(img/01_167.png)入る]
今からフィールドワークを兼ねた合宿に行くというのにセーラー服を着ている犬塚が言った。私立|田中喜八《でんなかきはち》学園高等学校は私服だから、犬塚のこの姿は個人の好みなわけだ。しかも、どこから見ても女子高生にしか見えないが、彼女は男である。生まれてから十四歳まで女として育てられたため、自分が男であることはつい最近まで知らなかったらしい。だから、立ち居振る舞いからしゃべりかた、化粧のしかた、性格、考え方など、全てがごく自然に「女」である。
「急病かなにかですか」
犬塚はかぶりを振り、
「藪爺は、合宿なんか一度も来たことないのよ。旅行は嫌いなんですって」
民俗学者がそんなことでいいのか。
「でも、顧問教師なしで合宿なんてできるんですか」
「うちはずーっとそうやってきたの。宿泊先には、最初、教師は遅れて到着することになってますって説明しておいて、あとで、急用で来られなくなりましたが、私たちだけできちんとしますからって言えば、問題ないわ」
そういうものか。だが、ということは、遅刻者は別にいることになる。
「もしかして、浦飯《うらめし》先輩?」
犬塚はうなずき、
「さっき電話したら、まだ寝てるのよ。もう最低だわ」
「あいつんとこからこの駅までは三十分はかかるぜ。まったく厄介もっかいしじみっ貝だあな」
白壁が突っ張りを続けながら、現代人に理解不可能な謎の言葉を吐く。
「先に私たちだけで行っちゃいましょうか」
比夏留は、自分が大遅刻したことを棚にあげ、そんな提案をしてみたが、
「だめなの。あの馬鹿が全員の分のチケット持ってるのよ。ああ、私としたことが、どうしてあんなやつに旅行の手配を任せてしまったのか……」
伊豆宮が、ほどけば地面を引きずると言われているがまだ誰もその状態を見たことのない黒髪を手で掴む。
実は、比夏留は浦飯に会ったことがない。犬塚と同じ二年生だが、比夏留が入部して以来、集合日にも欠席が続いており、一度も顔合わせをしていないのだ。
「犬せん、犬せん」
比夏留は犬塚の耳もとで、
「浦せんってイケてますか」
犬塚は右手の親指を下に向けて突き出し、
「最悪よ」
「どんな風に?」
「見たらわかるわ。説明したくもないもの」
そうなのか……。校風が極端なまでに自由で、入学が容易であるために、全国から奇人変人が集まってくるという田中喜八学園のなかでも、この民俗学研究会は、顧問教師をはじめ、とくに個性的なメンバーが揃っているように比夏留には思われた。それはそれでたいへん楽しいことなのだが、できればひとりぐらい、まともな人がいてほしいと……。
「よお、諸君」
覇気のあるようなないような声。そちらを見ると、袖の長い黒いセーター、黒いズボン、黒い革手袋、黒いサングラス……と黒ずくめの、見るからに怪しげな男がにやにや笑いながら立っていた。頬はこけ、幽霊のような顔立ち、といったら語弊《ごへい》があるだろうか。見るからに生気を感じさせない、脂っ気のない、出汁《だし》がらのような学生である。
「遅いぞ、浦飯」
部長の鷹のような視線をものともせず、
「俺を待ってたんすか、それともこれを待ってたんすか」
浦飯はポケットから電車の乗車券を取り出し、ぴらぴらと振った。
「もちろんこれよ」
伊豆宮はチケットの束をひったくると、
「私、指定取り直してくるから」
一秒でも惜しいという態度でみどりの窓口のほうに走っていった。
「じゃあ、私、ジュースとか買ってくるね」
犬塚はセーラー服のスカートを翻《ひるがえ》して、売店に走った。
「おめえ、遅刻してごめんとか悪かったとか申しわけないとかすまないとか、そういう殊勝なセリフを言っても罰は当たらねえぜ」
白壁が浦飯の胸ぐらを掴むと、今まで自分が鉄砲の稽古をしていた柱に押しつけた。
「うちは文化部でやんしょ。しごきはお門違いっすよ。それに、遅刻した理由がちゃあんとあるんです。不可抗力ってやつでね、俺のせいじゃないんっす」
「ほほう、その理由ってえやつを、ここに並べてみな。妥当かどうか、おいらが判定してやろうじゃねえか。どうだ」
「いえいえ、それは言わぬが花ってことで」
浦飯は白壁の手をはずすと、チェシャ猫のようなにやにや笑いを比夏留に向けた。
「ありゃ、君は誰だい。しばらく休んでるあいだに、部員が増えたんじゃないだろうね」
「あのなあ、浦飯よ」
白壁があきれたように肩をすくめ、
「この旅行は新歓合宿なんだ。新入生がいなくて、どうして新歓合宿ができんだよ」
「なーるほど、それは理屈だよね。理屈理屈」
比夏留はぺこりと頭を下げた。
「新入部員の諸星比夏留です。よろしくお願いします」
浦飯は比夏留を頭のてっぺんから爪先《つまさき》までじろじろ見ると、
「浦飯です。じゃあ、さっそくきみに魔法をかけてあげるっす」
「ま、魔法……?」
白壁が、口にするのも馬鹿馬鹿しそうに、
「浦飯は、魔女なんだ。男だから魔男《まおとこ》かな」
「白壁先輩、人を不義密通みたいにいわないでくださいよ。これはブードゥーの魔法でね……」
浦飯は旅行用のボストンバッグから砂みたいなものが入った小瓶を取り出し、
「このなかに入ってるのは、グーファーダストっていって、赤ん坊の墓の土なんです。諸星くん、君に振りかけてあげるっす」
「え、そ、そんな……結構です」
「遠慮するなって。おととい習ったばかりの魔術なんで、実験させてほしいんだよね」
「いえ、ほんとに……」
「ちょっと手のひらをうえにして、両手を出して」
「いいです、私」
二人は軽く揉みあう形になり、浦飯の右手がずるっと滑り、比夏留の胸をつかむ形になった。
「ひっ」
比夏留は、
(技をかけちゃいけない……)
という自制の思いから、口のなかで叫んだにとどまったが、本当は駅舎が吹っ飛ぶほどの大声で絶叫したかった。しかし、浦飯は、それでもあきらめず、執拗に「手のひらをうえに……」と繰り返す。
「諸星、こいつ言い出したらきかねえから、ちびっとだけつきあってやれ」
白壁が言った。
「ただし、犬塚が戻ってくるまえにすませろよ。また、揉めるもとだぜ」
「わかってるっすよ。あいつ、宗教好きのくせに、オカルトとか魔術のたぐいに偏見持ってますからね」
比夏留は、まえに犬塚が、「神も仏も魂の不滅も死後の世界も信じない。人間は死んだら無になるだけ」と言っていたことを思い出した。
「それじゃ……お願いします」
三年生に「つきあってやれ」と言われては、これ以上拒否するわけにもいかず、比夏留はしぶしぶ両手を突き出した。浦飯は、うやうやしく小瓶を捧げ持ち、栓を抜くと、何やら呪文を唱《とな》えながら、なかの砂をぱらぱらと振りかけてから、嬉しそうに、
「こいつは、いわゆる惚れ薬ってやつさ。これできみも、女の子にもてもてまちがいなし」
その言葉の意味を理解するまで数秒かかった。いくら短髪にして、「みみずもかえるもごめんなさい」と印刷されたTシャツを着、洗いざらしのジーパンをはいているからといって、それはあんまりだ。
(だから胸を触っても何の反応もせずに……いや、胸を触っても女だと気づかないってことは……このヤロー!)
比夏留は後ろに倒れそうになったが、かろうじて踏みとどまり、
「あの、ですね。私は……」
どう説明しようか言葉を選んでいると、
「浦飯、諸星は女だぞ」
白壁がこれ以上ないという簡潔な表現でそれを代弁してくれた。
「あれっ……?」
浦飯はしげしげと比夏留を見つめ、
「へー、そうだったのか。それならべつの魔法を……」
ちがうだろっ。
この憤《いきどお》りをどこにぶつけようかと悶々としているところへ、缶ジュースやお菓子類を抱えた犬塚が戻ってきて、場の微妙な空気を感知して、
「浦飯、何か比夏留ちゃんに変なことしたんじゃないでしょうね」
「してないよん」
「比夏留ちゃん、何もされてない? オカルト団体とか秘密結社の勧誘とかされなかった? こいつが誘うのは真剣にやばいやつばっかだから、無視してなくちゃだめよ」
「そんな言い方はないだろ。現に、この貴重なグーファーダストだって、たいへんな試練を乗り越えて、ようやく……」
「学校ずーっと休んでたのも、何とかいうくだらない団体のくだらない儀式に参加するためだったんでしょ」
「ど、どうしてそれを……」
「合宿のことであんたの家に電話したら、お母さんが出て、『息子は今、〈赤い蛇の鱗〉の秘儀に参っております』って言ってたわよ」
「あちゃー。ぺらぺらしゃべんなよ、おふくろー」
そこへようやく、切符を掴んだ部長が帰ってきて、
「みんな、ダッシュ。あと二分で発車だって。それが、今日の最終よ」
五人は荷物をひっつかむと、改札口に向かって走り出した。
2
電車のなかはとくに何の話もなく(昼食時に比夏留が、車内販売の幕の内弁当、洋食弁当、うなぎ弁当各一に、ミックスサンドとジャムパン、それにゆで卵を三十個、ちくわを七本食べた、ということぐらいか)、一行は無事、A県のR駅に着いた。ここは県庁所在地でこそないが、A県二番目の都市なので、駅前には高層ビルが並び、大勢の人が行き交っていた。ここからはバスである。「黄頭村行き」というのに乗り込み、がたがたの田舎道を揺られるあいだに、車窓の風景は変化していく。出発してしばらくすると、建物と建物のあいだの間隔が広くなりはじめ、そこに田畑が広がりだす。次第に建物がまばらになっていき、二時間もすると、藁葺き屋根の農家ですら見かけることが稀になった。すでに夕方になっており、山と森と田畑だけが延々と窓の外に展開する。彼らのほかには、年寄りが三名乗っているだけだったが、皆、途中でおりてしまったし、あらたに乗ってくる者はひとりもいなかった。
「さて、と……」
伊豆宮が一同を見渡して、
「あと一時間ほどで、目指す黄頭村に到着する。我々はそこで、二日間にわたって、民研としての合宿を行うことになる。黄頭村は人口二百五十名で、えーと……、白壁、あと説明して」
歴史好きな白壁は嬉しげにあとを引き取った。
「黄頭村の裏山には、〈黒洞〉という小洞窟があって、その昔、高貴な人物がここに隠れ棲んだという言い伝えがあるってことだ。洞窟研究会としちゃあ、ここは押さえておくべきだろうな。村にはほかにもいろんな伝説が残ってるらしいぜ。たとえば河童伝説とか、あとは、こいつはこの村に限らず、東北地方全般に伝わってる伝説だが……」
「ちょい待ち」
伊豆宮が右手を突き出して、白壁をとめると、
「じゃあ、新入部員の諸星さん。東北地方において民俗学的に興味深い事象を幾つかあげなさい」
「えええっ」
スナック菓子の摂取に忙しかった比夏留は、突然話を振られてどぎまぎした。
「あ、あの、私、民俗学のことはまだまだ勉強をはじめたばかりで……」
「でも、A県に合宿に行くってことは前から決まってたわけだから、当然、予習をしてきてるわよね。なーんの予備知識もなくフィールドワークに行ったって、成果があがるわけないんだから」
「そ、そりゃそうですよね」
「じゃあ、言ってみて」
「は、はい。東北ですよね。東北……東北……たしか琵琶湖の東北っていう歌ありましたよね」
「それは都の西北だ」
「東北……東北東北東北……」
比夏留は百回ほど東北東北と唱えたあげく、ぺこりと頭を下げ、
「すいません。調べてませんでした」
「ふーん、私なら調べるけどね」
と伊豆宮。
「おいらも」
「私も」
「俺も」
四面楚歌である。
伊豆宮がバッグから「東北の民俗」という本を取り出し、比夏留に突きつけた。
「あとで宿についたらこれを読んでもらうとして、とりあえず簡単な予備知識、いくわよ。東北地方には、修験道の修行地として名高い出羽三山やら、死者の霊魂が集まるといわれている恐山《おそれざん》なんかがあります。神おろしをするイタコという巫女や、各地のオシラサマの信仰なんかも有名です。家の守り神であるザシキワラシや霙《みぞれ》の降る夜にうろつきまわる甘酒婆《あまざけばばあ》といった妖怪の言い伝えも多く残っています。あと、クロボトケという親鸞像を拝む〈隠し念仏〉という異端の宗教もあります。わかった?」
「全然」
「でしょうね」
まるで期待されていない。
「ところで、白せん、今回の宿は〈割烹旅館・河童屋〉っていうところですよね。どうしてそこに決めたんですか」
犬塚がたずねた。
「よくぞきいてくれましたってやつだ。〈河童屋〉てえのは、江戸時代初期から続く旧家で、もともとは土地の大農家だったらしい。今でもその頃の建物を使ってるってえから、面白そうじゃねえか」
「評判はどうなんですか」
「ネットで噂を集めたら、亡くなった先代の主は、因業で、金に汚くて、副業に金貸しをして厳しく取り立てることで有名だったらしい。それがもとで潰れた商店もあるんだとさ。でも、その奥さんが女将《おかみ》になってからは、悪い噂もないみたいだ。あと、興味深いのは、今でもオシラサマを祀《まつ》ってるってえぜ」
「オシラサマ?」
比夏留の質問に、白壁はもう一度「東北の民俗」の表紙を叩き、
「読め」
と言った。
3
バスを終点の「黄頭村」で降りる。けっこう広い村だ。細い木造の橋を渡ったところの電柱に、骨董的価値がありそうなレトルトカレーの錆《さ》びた広告や、風雨でぼろぼろになった、村岡某という今は誰も知らない演歌歌手のレコードのポスターなどが貼られている。舗装していない砂利道を二十分近く歩いたところに、目指す旅館〈河童屋〉があった。敷地はだだっぴろく、塀の内側には草ぼうぼうの空き地が延々と続く。駐車場がわりになっているらしく、小型トラック数台と場違いの大型バイクが一台とめてあった。
「へえー、CBX400Fね」
伊豆宮がバイクを見て、言った。
「伊豆せん、くわしいんですね」
比夏留が言うと、
「ちょっとね……」
照れたように笑った。
ようやく旅館が見えてくると、白壁が舌なめずりをせんばかりに言った。
「こいつぁ、南部の曲屋《まがりや》だぜ」
「なんです、それ」
と比夏留。
「南部地方の農家じゃ、本来、外にあるべき馬屋を母屋にくっつけてある。上から見ると、カギ形に曲がってるところから、曲屋ってんだ」
「ふーん、世の中には私の知らないことが多すぎますね」
「あっさり言うねえ」
「とにかく早く中に入りましょう。私、もうおなかぺこぺこで……」
「きみ、さっきあれだけ弁当食べて、もう空腹かい?」
「そうです」
呆れかえる浦飯に、比夏留はきっぱりと言い切ると、先頭をきって旅館に入ろうとした。そのとき、入り口のかたわらに「国宝級逸品・西山京山《にしやまきょうざん》作・備前焼大壺(河童大群舞図)展示中・展示期間○月○日〜○日」という看板のようなものが立てかけてあるのが目についた。
「何でしょ、これ」
「さあ……河童大群舞図か。〈河童屋〉という屋号に関係あるんじゃねえか」
白壁が言ったが、もとより根拠があるわけではなく、一同は首をひねりながら中に入った。玄関はがらんとしていて、誰もいない。
「すみませーん」
伊豆宮が大声で叫ぶと、広い木造家屋のなかにその声は染み込んでいった。すぐに、淡い青色の着物を着た、背の低い、二十過ぎぐらいの女中が現れた。ほっそりした、少女のような顔立ちで、白壁と浦飯の目尻がだらしなく下がった。
「私たち、予約してあった田中喜八学園高校の民俗学研究会のものですが」
「ああ、聞いとります。しばらくお待ちくださいませ」
女中は奥に向かって、透き通るような細い声で、
「女将さん、女将さん、お客さんですよ」
しかし、反応はない。
「女将さん……女将さん」
何度も呼ばわると、馬の絵を染め抜いた着物を着た、化粧の濃い中年女性が姿を見せた。
「ようこそ、遠いところをおいでくださいました」
と最初はにこやかな応対だったのだが、女中が、
「何とか高校のかただそうです」
と言った途端、不機嫌な顔つきになり、
「どうぞこちらへ」
ぶっきらぼうに一同を案内したのは、布団部屋というのもおこがましいような汚らしい部屋だった。窓がないためか、じめじめと暗く、壁土は落ちて畳のうえに散らばり、綿ぼこりがうずたかく積もり、染みだらけの天井のあちこちに二重三重に張られた蜘蛛《くも》の巣には、いつ捕まったのかわからない蚊や小さな蛾、蠅などのミイラが無数にひっかかり、その重みでハンモックのように垂れさがっている。
「あの……ここだけですか」
犬塚がおずおずと言った。
「そうですけど、何か?」
「二部屋お願いしてあったはずなんですけど」
「ああ、手違いでね、一部屋しか空けられなかったんです。すいませんねえ」
すいませんと思っていないことが明白な口調で、女将はこともなげに言った。
「何とかならねえのかな。男女一緒に寝るわけにゃいかねえし、できればもう一部屋……」
白壁が巨躯《きょく》をずいと前進させたが、
「むりですね」
文句があるか、という目で白壁をにらむと、女は、雷のような音をたてて襖をしめた。
ややあって、廊下から、
「来んかったらええが、と思っとったが、来よったわ。いのりのせいだで。今は河童壺のご開帳で年に一度の書き入れ時だのに、あんな単価の安い学生の団体、とったらいかんべや。私が言わんかったら、二部屋占領されとるとこだべさ」
「そんたらこと言うても、お客さまはお客さまだべえよ」
「そんなこと言うとったら、旅館はたちゆかねんでねえか。ここの女将は私じゃ。私の言うことには従うていただきますからね。それでなくても、変な外国人やら何やら、来てほしくもないひとり客に部屋を使われてしもとるんじゃ。ちいとは考えてもらわにゃ」
「お母ちゃん、そんたら大きい声出してたら、お客さまに聞こえちまうべよ」
そのあと、廊下の話し声は聞こえなくなった。
「丸聞こえじゃん」
伊豆宮がため息とともに言った。
「それにしてもひっでえ部屋」
と白壁。
「見ろや、壁にきらきらした筋がいっぱいついてやがるだろ。あれ、ナメクジの這った痕《あと》だぜ」
ナメクジと聞いて、比夏留は身がすくんだ。
「この旅館、予約したの、あんただよね」
伊豆宮が白壁を見つめた。他の三人も白壁を見る。
「そ、そんな咎《とが》めるような目でおいらを見るなよ。電話をとったのは、たぶんあの若い女中さんだぜ。声に聞き覚えがあったからな。おいらだって、まさかこんな部屋に入れられるとは……」
「責任とって、交渉してきなさい。もう少し、ましな部屋と取り替えてって」
「むりだろ。さっきの女将の態度見たか? 交渉の余地なしだぜ」
「じゃあどうするのよ。今からほかの旅館に行く?」
「とれるかどうかわからねえし、ここのキャンセル料もかかるぜ」
しばらくは五人の漏らすため息が途切れることはなかった。
「で、でも、部屋は汚くても、料理はおいしいかもしれませんよ。だって、ほら、割烹旅館って書いてあったし」
比夏留が皆の気持ちを引き立てるように言ったが、もちろん望み薄だとはわかっていた。こんな客あしらいをする旅館が、料理に気を配っているはずがないからである。
「ま、〈黒洞〉の調査に全力を注げばいいっすよ。ここは寝るだけのつもりでいればいいんすから」
「そうね……そうよね」
伊豆宮が自分に言い聞かせるようにそう言ったとき、襖が開いて、初老の女中さんがお茶の盆を持ってきた。
「わたくし、皆さまがたのお世話をさせていただく女中の多田路子《ただみちこ》と申します。よろしくお願えするべ」
「なんだ、さっきの人じゃないのか」
白壁が露骨な反応を示す。
「さっきの人ちゅうと?」
「青い和服を着た、若い女中さんがいたでしょう」
「ああ、あれはいのりさんちゅうて、うちの女将さんの娘さんだあよ。身体が弱いんで、予約の電話を受け付ける係をしてる。もう一人、信二《しんじ》さんちゅう息子さんがおるが、板前じゃ。客室のお世話は、万事このおらが任されでっからなあ」
それから、多田という女中は、宿泊者台帳に名前と住所を記入させ、学生証の提示を求めた。
「どうして学生証を見せなきゃならないんすか。高校生の団体なんだから、学生に決まってるっしょう」
浦飯が言うと、
「学割のための規則だから、しかたねえべよ。あらっ、ひとり、学生証と名前がちがうがや。犬塚|志乃《しの》ゆうのはどなたじゃ」
犬塚がこそこそ手をあげた。
「あんた、学生証じゃあ、森広《もりひろ》ゆう名字になっとるべ」
「ちょっと事情があって、母方の名字を名乗ってるんです。いけませんか」
「学生証どおりの名前でないと、割り引きできんがや」
犬塚はしぶしぶ、宿泊者台帳の名字を二重線で消して、森広と直した。たずねることははばかられたので、比夏留は黙っていたが、犬塚の家庭にはなにか事情がありそうだ。
「女将さんはなかなかその……やり手なかただねえ」
話題を変えようと、白壁がそう言うと、女中はぷっと噴き出し、あわてて口を押さえた。
「ところで、他に部屋はねえのかな。二部屋って言ってたのが一部屋にされちまったんだから、せめても少し、そのこぎれいな部屋にかわりてえんだ」
「あいにく、全室塞がっとりましてな」
「さっき見た限りじゃ空き部屋があったみたいだぜ」
「予約が入っとるんですわ」
初老の女中は、マニュアルがあるかのように淡々と応対する。どうせ、急な団体客用にキープしてあるのだろう。
「ふん、商売繁盛でけっこうだよな」
白壁がいやみを言っても、
「いやいや、いつもいつもこげに満室じゃねえだよ。今は、年に一度のご開帳のときだから」
「なんですか、そのご開帳って」
犬塚がきくと、
「あんたたち、そんなことも知らんと、うちに泊まりなすったのか。今の時期の客は、だいたい『河童壺』目当ての人ばっかりじゃもの」
多田路子というその初老の女中の話では、江戸期の備前焼の名工某が作った壺に、今から五十年ほどまえ、有名な日本画家の森澤鬼山《もりさわきざん》が、したたかに酔ったときに戯《たわむ》れに筆を取り、河童の大群舞の図を描きあげた。備前焼の微妙な色合いがだいなしになったと当時の持ち主は激怒したが、その絵の出来映えのあまりの見事さに舌を巻き、絵師をとがめなかった。それをこの〈河童屋〉の主が借金のかたに譲り受け、旅館の宝とした。もともと、壺が歴史的名品であるばかりでなく、絵を描いた森澤鬼山が人間国宝となってから先年没したので、この壺の価値は国宝級となり、ほうぼうから壺を見たいという依頼が殺到したが、先代の〈河童屋〉の主が、大事の壺に万一のことがあってはならぬと、年に一度、一週間だけ開帳することとし、その期間は、日本中から、その壺を一目見たいという趣味人や芸術家たちが集まってくるのだ……。
「じゃあ私たちもその壺、見られるんですね。ラッキー」
比夏留が言うと、
「夕食後の七時から九時までの二時間だけ、宝物部屋の鍵をあけますだ。見たかったらどうぞ」
犬塚が口を挟んだ。
「私たちはそんな壺を見にきたんじゃないわ。こちらには今でもオシラサマを祀ってるっておききしてきたんですけど、それを見せていただきたいんです」
「ああ……オシラサマねえ……」
女中は顔を曇らせた。
「たしかに、うちは昔からオシラサマをお祀りしてるが……」
「他人に見せちゃいけないとか」
「そういうわけでは……ま、あとで女将さんにきいてみなさることだな」
女将さん、と聞いて、皆は顔を見合わせた。部屋を出ていこうとする女中に、伊豆宮が言った。
「あの……私たち、この近くにある〈黒洞〉っていう洞窟にも行きたいんです。〈黒洞〉のこと、何かご存じですか」
女中は首をかしげ、
「あんたらも物好きだねえ。なーんにもない、ただの洞穴だべえよ。ゴミ捨て場に使ってる罰当たりもおるから、中は汚いし、野犬が棲みついてっから、夜行くのは危ねえだよ」
「高貴な人が隠れ棲んでいたという言い伝えがあるって聞きましたけど」
「よう知っとられるな。そのとおりだよ」
初老の女中は本気で感心したようだった。
「昔むかし、都から落ち延びてこられたさる貴人が、あの洞窟に潜《ひそ》み、村人の世話を受けながら、しばらく棲み暮らしたというだが、わしには詳しいことはわからん。いのりさんなら、このあたりの歴史やら伝説を好いてっから、知ってっかもしれんなあ」
「じゃあ、いのりさんにきこうじゃねえか!」
白壁が勢い込んで言った瞬間、比夏留の腹の虫が「くーっ」と鳴り、多田というその女中ははじめて笑顔を見せ、
「夕食は一時間後に大広間ですだ。それまで、茶菓子でも食べて、虫養いを……」
言いかけて、今さっき自分が運んできた茶菓子がすでに跡形もないことに気づき、
「よう食べる学生さんたちだ」
と言いながら出ていった。
「おい、諸星。おめえのせいで、俺たちまで共犯になったじゃねえか。俺たちの分まで全部食べやがって、この……」
「すいませんっ。つい、我慢しきれなくて。おわびにこの鯨の大和煮の缶詰、食べますか?」
「いらねえよ、そんなもん!」
洞窟の下調べをしようという意見もあったが、夜は野犬がいて危険だという話を聞いたばかりなので、皆尻込みし、結局、オシラサマを見せてもらおうということになった。
「誰が、あの女将さんにお願いに行くの?」
と伊豆宮。
「おいらは勘弁しちくれ」
「私も」
「俺も」
というわけで、新入生の比夏留がその大役をおおせつかることになった。
「これって、新入生歓迎のための合宿じゃなかったんですか。これじゃ、新入生いじめですよっ」
「まあ、そう言うなって。楽アレバ苦アリ、苦アレバ楽アリ」
比夏留はため息をつき、部屋を出た。
旧家の廊下は薄暗く、足もともよく見えないほどだ。数歩歩いたとき、誰かに衝突した。見かけは華奢《きゃしゃ》でも、実際は二百二十キロの体重のある比夏留だ。相手は、吹っ飛び、廊下に仰向けにひっくり返った。
4
「すすすいませんっ」
比夏留はあわてふためいて、その誰かを助け起こした。やけに背が高い。
「大丈夫ですか。お怪我はありませんか」
「おお……だいじょぶです。私、お怪我はありません」
変な日本語なので、顔を見ると、もじゃもじゃの髪の毛にもじゃもじゃの髭、茶色い目に高い鼻……。女将が言っていた「来てほしくもないひとり客」のうちの「変な外国人」にちがいない。
「ごめんなさい、不注意で。私、そこの部屋に泊まっている高校生で、諸星比夏留と申します」
比夏留が深々と頭を下げると、二十五歳ぐらいのその外国人は痛そうにあばらの下をさすりながら、
「いえいえ、私のほうこそ悪いのね。うっかり前が見てないから。ボンジョールノ。私、三日前からここに宿泊している、イタリア人のカルヴィーノといいますね。以後よろしくお願いしますのね」
身長百九十センチはあるだろう長躯を折り曲げるようにして、そのイタリア人はていねいに挨拶をした。
「あなたも、河童の壺、見に来たか?」
「いえ、私たちは、民俗学研究会で……えーと、民俗学というのはですね……」
「おお、クニオヤナギタ、シノブオリクチ、クマグスミナカタ。私の国でもよく知られてるね」
もしかしたら、いや、もしかしなくても、私よりずっと民俗学の知識がありそうだ、と比夏留はへこんだ。
「カルヴィーノさんも河童の壺を見にきたんですか?」
「ノウ。私は、河童の壺を見るために来たんじゃないですね」
そう言って、それきり黙ってしまった。
「じゃ、比夏留さん、またあとで、夕食のときに。アリヴェデルチ」
「アリヴェデルチ」
狭い廊下のまんなかで二人は大仰に手を振りあった。
玄関を入ったところにある受付まで行ったが、誰もいない。
(夕食の支度で忙しいのかも……)
そう思って引き返そうとしたとき、誰かが廊下をこちらに向かって軽やかな足取りでやってくるのが見えた。ぶつかったら、またはじきとばしてしまう。比夏留は用心して、受付の陰に身を隠した。やってきたのは、この古い旅館とはあまりに不釣り合いな女性だった。白いふりふりのスカートにレースのブラウスという、友人の結婚式にでも出席するかのような服装。ソバージュの髪につけられた大きなピンクのリボン。色の白い、上品な顔立ちで、歳の頃なら十八、九か。「お嬢さま」という言葉がこれほど似合う相手はいない。後ろから、びらびらのついたパラソルをさしかけながら、爺やが追いかけてくるのではないかと思ったが、さすがにそれはなかった。腕時計も、指輪も、イヤリングも、ベルトも、靴下も、何もかも高価そうだ。たとえば、ストッキングひとつとっても、比夏留が今身につけている衣服を全部集めたよりも高かろう。両手に、白い絹の手袋をしているのがやけに似合う。
お嬢さまは、受付の横を通るとき、比夏留に気づき、軽く会釈をすると、行きすぎた。あとに残った淡い香水が古い木の匂いを和《やわ》らげた。目撃したことはまちがいないのだが、比夏留には夢を見ていたかのように思われた。
(あの人も、河童の壺を見にきたのかな……)
次第に高まる空腹感に、夕食の準備はどうなっているか見に行こうと思いつき、比夏留は大広間に足を向けた。広間では、お膳を並べ、支度の真っ最中であった。
「ええかね、今日お越しの新藤《しんどう》先生は食通でいらっしゃるから、とびっきりの料理を出すべえよ。他の客のはどうだってええ。新藤先生にだけは気に入っていただかねえといかんべ」
大声で失礼極まりない指示を出しているのは、例の女将だった。
「なんべんも言わんでもわかってるべ」
小太りの板前が包丁を天井に向けて仏頂面をした。顔が赤い。
「こらっ、信二。おまえ、まーた飲んでるべ! 大事なお客さんだっちゅうに、なんちゅうことを……」
「お母ちゃん、おれは飲んでも飲まんでも、包丁に翳《かげ》りはみせねえべ」
「何を生意気なこと」
女将の徳子《とくこ》は、信二というその板前の頬を平手打ちにした。
「冷たい水で顔洗ってくるべ、半人前のくせに色気だきゃあ一人前の、この馬鹿息子がっ」
信二は不承ぶしょうその場を離れた。
比夏留は恐る恐る声をかけた。
「あ、あ、あのお……すいません」
「なんですかね、学生さん。ご覧のとおり、忙しいんで、また、あとにしてもらえませんかね」
「オシラサマを拝見したいんです」
女将は、鳩が水爆を喰らったような顔になり、
「なんと言ったかね」
「ですから、オシラサマを……」
「オシラサマ? あんなつまらんものを見たいってか? 田舎者だと馬鹿にしてなさるのか」
「い、いえ、とんでもない。私たちは民俗学の研究をしているクラブなので、ああいうもの(どういうものか比夏留は知らなかったが)に興味があって……」
女将は鼻を鳴らすと、
「河童壺よりもあんな汚い人形がええやなんて、物好きというか何というか……。だいたい、誰が、うちにオシラサマがあるなんて教えたんかのう」
「さあ……それは……」
「どうせ、いのりだな。あの子がいらんことしゃべるから、書き入れ時にこんな客が……」
口が滑ったと思ったのか、女将はもごもごと口ごもると、
「まあ、見たけりゃあ勝手にご覧なさい。箱に入ってっから」
そう言うと、ああ忙しい忙しいと呪文のように呟きながら、立ち去った。
5
がらん、という音が遠くで聞こえた。続いて、ざざざ……という津浪のような音。
「降ってきましたね」
比夏留が襖をあけながらそう言うと、犬塚が新聞を指で示して、
「今夜はこのあたりは大雨ですって。よかったわ、出かけてなくて」
ボストンバッグから薄焼きせんべいのお徳用パックを取り出し、二枚いっぺんに頬張ってから、比夏留は部屋のなかを見回し、
「あれ? 白壁先輩は?」
「ここでえ」
部屋の隅から声がした。押し入れから大きな尻だけが突き出て、こちらを向いている。
「な、何してるんですか」
「白壁さんはね、雷が大嫌いなのさ」
浦飯が言った。見ると、白壁の巨体はふるふると少しばかり震えているようだ。押し入れのなかはさぞかし蒸し暑く、黴《かび》臭いだろうと思うが、個人の好き嫌いはしかたがない。
「かかか雷は、昔の英雄豪傑でも怖れる人がいたんだ。おおおいらがちっとばかり怖がっても驚くにはあたらねえぜ」
白壁は尻を震わせながら、言い訳にもならない言い訳を言う。
「そそそれに、雷は、古来、怨霊のしわざと考えられていたんだぜ。たとえば、大宰府に流されて、恨みを飲んで死んだ菅原道真《すがわらのみちざね》は、死後、雷となって天にのぼり、京都の空を暴れ回り、庶民は、怨霊の祟《たた》りだと怖れおののいた」
「あっははは、怨霊なんて……。雷は、ただの放電現象ですよ」
犬塚が馬鹿にしたように言うと、
「うるせえっ。雷ってものはだなあ……」
途端、凄《すさ》まじい轟音《ごうおん》とともに空が明滅した。近くに落ちたらしい。
「ふっ、ふへえっ」
白壁は尻を押し入れにねじこもうと必死だ。比夏留も背筋がぞくっとした。雨戸に叩きつける雨音はますます激しくなり、木造の家全体がみしみし軋《きし》んでいる。
「だいじょうぶっすかね、この家……」
心細そうに浦飯が言い、皆はたわんだ天井板をみあげた。
「そうそう……」
比夏留は一同を元気づけようと、
「女将さんが、オシラサマは好き勝手に見てもいいって言ってました。何だか投げやりな感じでしたけど……今から見にいきましょうか」
[#挿絵(img/01_189.png)入る]
「ふーん、オシラサマってどこの家でも大事に祀ってるのかと思ってたら、そうでもないんだな」
と浦飯が言うと、犬塚が、
「古くからの伝統だから捨てずに置いてあるけど、日頃は神棚や仏壇の奥に埃《ほこり》をかぶって仕舞われてることが多いみたいよ。昔はともかく、今じゃ、『祟りもしないし、守りもしない』ってね」
雷が鳴っている間は絶対に動かないと主張する白壁を残して、あとの四人は、女将に教えられた部屋にぞろぞろ行ってみた。襖をあけると、神棚のしたに誰かが向こうを向いて座っている。比夏留たちの気配に気づいて、はっと振り返ったその人は、女将の娘、いのりだった。青白い顔を火照《ほて》らせると、立ちあがり、何も言わずに部屋を出ていった。
「何か拝んでたのかな」
「オシラサマかも」
犬塚と浦飯が話しているあいだに、伊豆宮は神棚から古い木の箱を持ち出した。
「これみたいね」
あけると、黴臭い埃が舞う。なかを覗き込むと、木を粗く削った棒のようなものに、稚拙な頭部をつけた人形が二体、寝かせてある。全体を赤い布で包んで、紐でとめて、衣服とし、鈴を数珠《じゅず》のようにつないだものを掛けてある。
神さまだというから、どんな神々しいものかとあれこれ想像していた比夏留は拍子抜けしたが、見つめているうちに、古色蒼然としたなかから一種の威厳のようなものが感じられないでもなかった。だが、それも稚拙さの裏返しかもしれない。薄気味悪く、汚らしく、しょぼい。
「あの……オシラサマって、この人形のことなんですか」
「まあ、そういう理解でいいと思うわ。この人形は、オシラガミ、オシラボトケなどともいうんだけど、東北地方全般に広がる、いわゆる『家の神』よ。オシラサマの信仰は、オシンメイサマとかオクナイサマ、トデサマ……他の名前で呼ばれるところもいれると、青森県だけじゃなくて、岩手県、福島県、山形県、宮城県……東北全般に広がってるわ」
と犬塚が言った。宗教オタクの犬塚にとっては守備範囲の話題なので、説明したくてうずうずしていたらしい。
「このご神体は、桑の木や竹などで作った三十センチほどの棒の先に、男女の顔や馬の顔を彫ったり、描いたりしたものなの。貫頭衣みたいに着せてあるのは、オセンダクという布。普段は神明棚とか仏壇の奥に、箱に納めて祀ってあるみたい。もともと大農家なんかの旧家に祀られてて、その家の主婦が手に持って、その年の神意、吉凶、農作物の出来高などを占ってたんだけど、だんだんイタコなんかの職業的な巫女を招いてその行事を代行してもらうようになって、それにつれて、オシラサマの所持者も旧家からイタコに移行していったらしいのよ。だから、この旅館のようにいまだにオシラサマを祀っている家は、たぶんこの地方でも珍しい部類よ」
「なるほど……」
「オシラサマは、年に三回、祭の日に神棚から出されて、神饌《しんせん》を供えられ、オセンダクを新しいものに交換してもらうんだけど、そのとき、イタコが祭文を唱えながらオシラサマを両手に持って、舞を舞わせるの。それを、オシラアソバセっていって、ようするにオシラサマを久々に窮屈な箱から出して遊ばせるってことね」
「どんな由来があるんですか」
「うーん……オシラサマの起源については、どこかの高貴なお姫さまがウツボ舟に乗って流れ着いたとか、諸説あるんだけど、一番有名なやつを教えてあげるわ。ある長者が飼っていた馬が長者の娘に懸想《けそう》して、怒った長者がその馬を殺して皮を剥いだら、一天にわかにかき曇ってたいへんな風雨が巻き起こったの」
「ちょうど、今みたいな感じですね」
「そう……そうね。そしたら、その馬の皮が娘を包んで、天に昇ってしまった。しばらくしてその皮が桑畑に落ちてきたから、長者があわてて拾ってみると、なかに娘はおらず、かわりに黒い虫がうようよいて、桑の葉を食べていた。長者は、この虫が娘の生まれ変わりだと思って、大事に育てたわけ。これが、蚕《かいこ》で、長者は日本一の真綿屋になりました。めでたしめでたし。――いわゆる馬娘婚姻譚というやつね。原話は中国の『捜神記《そうしんき》』だそうよ」
「その話とオシラサマとどう関係があるんですか」
「それはね……関係あるのかないのか本当のところはわかんないの。オシラアソバセのときに必ず語られる祭文が、今言ったみたいな内容なのよ。オシラサマは、この家みたいに二体で一対になっているのが普通なんだけど、片方が馬で片方が長者の娘を象《かたど》っているという説もあるわ。でも、オシラサマはもともとただの棒だったのが、後年になって、顔をつけたり、服を着せたりするようになったという話もあるし、現にここの家のオシラサマも、馬と娘じゃなくて、おひなさまみたいに男と女でしょ。さっきの昔話みたいなやつの一番古い形は、室町時代ぐらいまで遡れるらしいんだけど、それより前は棒切れを神さまとして崇《あが》めるようなもっと原始的な信仰だったものに、養蚕の起源説話が途中でくっついて、今みたいな形になったのかもしれないわね」
「オシラサマっていう言葉自体はどういう意味なんですか」
「それもよくわかんないみたい。オシラは、蚕の忌み言葉だったという説もあるし、託宣をするから『お知らせ』という意味だという人もいるし、松前にいた白神という神さまに由来するという説もあって、結局のところ、どうしてこれをオシラサマって呼ぶのか、語源は謎なのよ」
「オシラサマを遊ばせる、そのイタコっていうのは?」
「イタコも知らないの? イタコは巫女よ。盲目の人が多いけど、全部が全部そういうわけじゃないわ。カミ憑けという儀式を行って、自分だけの守護神を持つことができた人のみが、イタコの資格を得られるのよ。東北地方には、ほかにもオカミンとかワカ、ミコ……なんていう巫女がいるけど、イタコが特徴的なのは、『ホトケの口寄せ』をすること」
「キス、のことですか」
「なわけないでしょ。ホトケオロシとかカミオロシとも呼ばれるけど、死んだひとの魂をおろすことよ。今でも、亡くなった家族に会いたいといって、イタコに口寄せを頼みに来るひとがたくさんいるらしいわ。私も一度、見たことあるけど、弓とか笹竹、長い数珠なんかを使うのよ。あと、オッパライといって、病気や不幸の原因となっている悪い憑き物を祓《はら》ったり、もちろんオシラアソバセもイタコの重要な仕事のひとつ。下北半島にある恐山という山の地蔵盆には毎年、大勢のイタコが集まることから、イタコ市とも呼ばれてるわ」
説明するだけして満足したらしく、犬塚は二体のオシラサマを箱にしまい、神棚にあげた。だが、比夏留には結局のところ、何がなんだかさっぱりわからなかった。
6
雷はややおさまったが、強い風雨のやまぬなか、ようやく夕食が始まった。献立《こんだて》は、山菜の白和《しらあ》え、白身魚の刺身、野菜の天ぷら、煮豆腐、キノコの味噌汁、松前漬けなどで、山菜類はどれもおいしかったし、松前漬けのスルメと昆布の味わいは比夏留がこれまで食べたなかでは最高だった。なぜか手ぬぐいでほおかむりをしている白壁(雷の怖さが少しは薄れるのだという)も、うまいうまいと言いながら茶碗で日本酒をぐいぐい干しているし、伊豆宮も犬塚もご飯をおかわりしている。瞬《またた》く間に膳のうえのものを平らげてしまった比夏留は、食の細そうな浦飯ににじり寄り、
「浦飯先輩、私がお手伝いしましょうか」
「あ、そうかい、じゃあ、天ぷらとか刺身は苦手なんで……」
と浦飯が言いかけたときには、天ぷらと刺身の皿はきれいに空になっている。
「ほかにはどれが苦手ですか」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
和気|藹々《あいあい》とした客たちに比べて、女将の機嫌の悪さは最高潮に達している様子だった。
「ほんとにもう、なんてことだ。落雷のせいで橋が落ちて、あてにしてた客がみんなキャンセルだなんて、商売あがったりだべ」
言われてみると、大広間に客の姿はまばらである。比夏留たち五人のほかには、例のカルヴィーノとかいうイタリア人と、あの楚々《そそ》としたお嬢さまの二人だけである。イタリア人は、巧みに箸《はし》を使って、漬け物などをばりばり食べているが、お嬢さまは背筋を伸ばし、白い手袋をつけたまま箸を持ち、おちょぼ口で上品にご飯を味わっている。比夏留と目があったとき、軽く目礼してきたので、比夏留もあわてて頭を下げた。
「橋は明日中には直るそうだから……」
と女中の多田路子が取りなしたが、女将は怒鳴った。
「それじゃ、遅いべよ!」
たしかにそのとおりだ。明日、橋が直っても、今日の客を明日に回すわけにはいかない。
「残っとるのは、こんたら単価の安い客ばかりだ。こいつらと新藤先生のご一行を取り替えてえもんだ」
橋が落ちたというのは困ったことだが、明日中に修理ができるのなら、帰るには問題ないわけだ。比夏留は、全く気にすることなく、目の前の食事に夢中になっていた。
板前の信二が、厨房から赤い顔でふらりと現れ、お嬢さまに向かって何やらしゃべりかけている。お嬢さまは微笑みながら受け流して、相手にしないので、信二は比夏留たちのほうにやってきた。
「よう、おれの料理はどうかね」
信二は犬塚に話しかけた。
「とてもおいしいですよ」
「そうかねそうかね。このへんは田舎だで、ろくな料理屋もねえ。おれのとこへ来りゃあ、いつでもうめえもの食わせてやるわい」
「そうですか、ありがとうございます」
「学生さん、あんた、別嬪《べっぴん》だねえ。今夜、おれとちょっと出かけんか。ええとこ、知ってるだよ。この近くの〈黒洞〉ちゅう洞穴じゃが、なかはひゃっこくて、雨露もしのげる。どうかね」
「野犬が棲んでるって聞きましたけど……」
「あははは。わしはガキの頃からあの洞窟に出入りしとるから、野犬も蝙蝠《こうもり》もモグラも友だちみてえなもんだ。な、一緒に洞窟に……」
「馬鹿があっ」
頬を張り飛ばされて、信二は畳のうえを後転した。
「い、痛えなあ、お母ちゃん……」
「この色惚けが。こんただところに来んな。厨房に籠もって、一生出てくな」
信二は舌打ちをすると、酒臭いげっぷをひとつして、大広間から出ていった。
やっと人心地ついたらしい白壁が、まだ井飯を抱え込んでいる比夏留に耳打ちした。
「あのお嬢さん、どこの何もんだい?」
「さあ……私もさっき廊下ですれ違っただけなんですけど……」
「別嬪だねえ。おいらのハートがうずくぜ」
「はあ……」
食事を終えてお茶を飲んでいたイタリア人が、比夏留たちの席に来た。
「ボナセーラ。またお会いしたですよね」
「こんばんは」
ご飯を頬張ったまま比夏留は応じ、伊豆宮たちに彼を紹介した。といっても、名前がカルヴィーノであることぐらいしか知らないのだが。
「皆さんは、民俗学を研究しておられるとお聞きしましたが、そのとおりですか」
「そのとおりです。カルヴィーノさんは日本は長いんですか」
と伊豆宮が言うと、
「日本は長い? さよう、日本は南北に細長い国ですね」
「いや、そうじゃなくて……いつから日本に滞在されてるんですか」
「おお、そのこと。二年前からでございます。はじめ、福岡、そのあと、東京にしばらくいました。今は、仙台でイタリア語の教師をしておるです。いい国ですね、日本の国は。私の父は、昔、日本で商売してましたが、人にだまされて金も財産も奪われ、失意のうちに帰国して、先年死にました。私は晩年の父から、日本の国のすばらしさをいろいろ聞かされました。気候もいいし、自然も美しいし、なにより食べものがおいしい、とね。まったくそのとおりでした。モルト・ブオーノ。こちらのシニョリーナがよく食べるのもわかりますね」
比夏留は、漬け物を喉につまらせて、咳《せ》き込《こ》んだ。
「二年間にしちゃあ、日本語、すごくうめえよね。てえしたもんだ」
「グラーツェ。必死で勉強しました。生きるためにね。でも、日本語、とてもとても難しい。聞くのも書くのも読むのもね。とくに読み方、右から読んだり、左から読んだり、縦から読んだりする」
「こちらへは何をしに来られたんですか」
「いろいろとね。このあたりには、興味深いものがたくさんあります」
カルヴィーノは片目をつぶって、にやりとした。
「ただいまから、壺のご開帳をいたします。ご覧になりたいかたは、おらについてきてくだされ」
多田路子が広間の真ん中で大声を張りあげ、伊豆宮たちは立ちあがったが、比夏留はまだ食べるのだと言い張って残ろうとした。しかし、もうお櫃《ひつ》がからっぽですと言われ、しぶしぶ腰をあげた。女将は、ぶすっとした顔のまま広間から動く気配はなかった。たぶん、新藤先生とやらが来ていたら、女将自ら案内したにちがいない、と比夏留は思った。
比夏留たちは、女中についてぞろぞろと廊下を移動した。女中は、ある部屋のまえで皆をとめ、その部屋の鍵をあけた。なかは六畳ほどで、床の間が作られ、そこにうやうやしく大きな壺が置かれていた。女中は、全員を廊下側の壁に背をつけて正座させ、自分は壺の脇に座った。
「そもそもこのお壺さまは、江戸初期の備前焼の名品でございますが、今を去ること五十年ほどまえ、日本画の第一人者にして、世界にもその名を轟《とどろ》かせた森澤鬼山先生が、壺の持ち主の招待を受けての酒宴の席で、銘酒にしたたかに酔いを発し、持ち主の中座したときに戯れに筆を取り、たちまち描きあげたのが、この河童の大群舞でございます。戻ってまいりました壼の持ち主は画伯のふるまいに怒りましたが、気を鎮《しず》めてよく見ると、これが備前焼の色合いと名手の画法があいまって、偶然にもすばらしい効果をあげ、世にも稀なる国宝級の逸品となったのであります。そののち、当〈河童屋〉の先代主人が屋号にちなんで譲り受け、秘蔵しておりましたが、これほどの名品を独り占めするのは芸術に対する悪徳と、年に一度だけご開帳の期間を設け、あまねく皆様がたにお見せして、目の保養をともにすることとしたものでございます」
一気にしゃべると、女中はうっとりした顔つきで壺を見やると、客たちに斜めに視線を向け、おまえらにこの価値がわかるか、という表情を隠さなかった。正直言って、比夏留にはどこがよいのかさっぱりわからなかった。古ぼけた壺に落書きみたいに河童がたくさん描いてあるだけだ。先輩たちの顔を盗み見ると、腕組みをして、感に堪《た》えないような声で唸っている。やはり、すごい芸術なのだろうか。カルヴィーノとお嬢さんは後ろのほうで冷静な目を壺に向けている。
約三分ほどで「ご開帳」は終了した。女中は皆を廊下に追いだし、部屋に鍵をかけた。
(思っていた以上につまんなかった……)
がっかりして部屋に戻ろうとした比夏留が、ふと人の視線を感じて振り向くと、廊下の反対側の端から暗い目がこちらを見つめていた。それは……いのりという女のものだった。
7
皆で大浴場に行った。犬塚はさすがに、
「夜中に誰もいなくなったときに一人で入るから」
と言って、部屋に残ったが、いつものことのようで、誰も気にしていない様子だった。
比夏留が湯船に身を沈めていると、伊豆宮が近づいてきて、「あれだけ食べてるくせに、全然太らないのね。うらやましい」
と言いながら、胸を触った。
「太らないんじゃなくて、太れないんです」
「たしかに胸はないわね」
「ほっといてくださいよ」
伊豆宮は、おなかから尻、太股に指を這わせ、
「おなかにもお尻にも太股にも贅肉《ぜいにく》なんて全然ないし……どんなダイエットしてるの」
「なーんにもしてないですよ」
「嘘。嘘をつくような子はこうして……」
伊豆宮は比夏留の太股の内側をきゅっとひねった。比夏留はびっくりして立ちあがった。
「冗談よ」
伊豆宮はにこりと笑ったが、比夏留は貞操の危機を感じて、身体を洗うのもそこそこに風呂を出た。
せっかくきれいになったのに、部屋に戻ると、途端に身体が汚れるような気がする。すでに、白壁と浦飯は帰っていて、犬塚と三人でトランプをしていた。テレビもないし、ほかに遊び道具もないので、皆はだらだらとトランプを続けた。途中から、伊豆宮の提案でブラックジャックがはじまり、少額だが賭け金を張ることになった。すると、伊豆宮が異常なまでの博才を発揮して全員の所持金を巻きあげてしまい、比夏留はたちまちすっからかんになった。
「わあ、どうしよう。これじゃお菓子も買えないよお」
泣き声をあげる比夏留に、伊豆宮は優しく言った。
「だいじょうぶよ、諸星さん。賭け金は貸してあげる。博打《ばくち》っていうのはね、取られたらその倍を賭けていかなきゃ取り戻せないようにできてるの。さあ、いくらでも貸すから負けを取り返して」
「ありがとうございます、部長」
「ただし、借用書は書いてね」
甘い誘いに乗ったのが大馬鹿で、比夏留の借金は雪だるま式に膨《ふく》らみ、みるみるうちに夏休み中バイトしても支払いきれないほどの額になった。呆然とする比夏留に、
「民研辞めたら、とか、高校辞めたらとか、思わないでね。こっちには借用書があるんだから」
伊豆宮は微笑んだ。まさに同じことを考えていた比夏留が崩れ落ちたとき、白壁が耳打ちした。
「伊豆宮竜胆、またの名を『かっぱぎの竜胆』っていってな、おいらたちも、合宿のたびにこういう目にあってんだよな」
「どーしてそれを早く言ってくれなかったんです!」
「言ったらやめてるだろ。これでおめえもかっぱがれ仲間だ」
「うー、かっぱがれるより河童の壺のほうがまだましですよ。それに、かっぱがれるのがわかってるのに、なんで先輩たちも性懲りもなく参加するんですか」
「それだよ。もしかしたら今回こそは勝つんじゃねえか……って思うんだよな、毎度毎度」
「私って一生、伊豆宮先輩の奴隷になって働かなきゃならないのかなあ」
「心配いらねえよ。いい攻略方法があるんだ」
「えっ、どんな方法です。教えてください教えてください」
「またあとでな。ひひひ」
ブラックジャックも終わり、所持金も底をつき、降り続く雨のせいで外にも出られず、いよいよすることのなくなった一同は、
「明日は朝早くから〈黒洞〉に行くから、それに備えてそろそろ寝ましょう」
の一言で就眠態勢に入った。テーブルを片づけ、押し入れから、あちこちに染みのある、湿った布団を引っぱり出し、部屋全体に敷き詰めても、五人がゆったり寝るには狭い。しかし、
「男女七歳にして席を同じゅうせずって言うからな」
白壁が言いだし、むりやり布団を二ヵ所にわけ、女子は廊下側、男子は押し入れ側に寝ることになった。犬塚はもちろん女子の組である。
「諸星さん、ここおいで」
伊豆宮に呼ばれたが、比夏留はかぶりを振り、
「遠慮いたします」
と言って、犬塚の横に場所をキープした。なぜか、伊豆宮より犬塚の隣のほうが安全な気がしたのだ。
「それじゃ、電気消しますよ。一、二の三」
浦飯が明かりを落とすと、窓のない部屋は真の暗闇になり、急に黴の臭いが強く感じられた。二秒後に、ぐあらららら、ぐあららららら、という瓦礫《がれき》を袋に入れて引っ張り回しているような騒音が聞こえてきたので、また落雷かと身構えると、信じがたいことに、それは白壁のいびきだった。〈独楽〉の弟子たちも相当ないびきマンがそろっているので、幼い頃からいびきの嵐のなかで眠るのには慣れていたつもりの比夏留だったが、これでは工事現場にベッドを置いたようなものだ。絶対に眠れないと思っていたが、昼の疲れからか比夏留はいつのまにか……。
8
ふも……ふもおおお……そとむ……
そとむ……そとむ……
呪文のような言葉が空間を鬼火のように飛び交っている。
るるか……たるるか……
いみ……いみ……いみ……
はおせ……は……おせ……
何かが……蘇ろうとしている。長い年月を、冷たい土のなかで過ごした忌まわしいものが、今また、多くの封印を突き破り、結界を引きちぎり、鎮魂の祈祷《きとう》を嘲笑《あざわら》って、何十度目かの復活を試みている……。いけない……たいへんなことになる……いけない……なんとかとめなければ……いけない…………。
ふも……お……そとむ……
はあ……にへ……
るるか……
…………。
……。
がばっ、と起きあがった比夏留は全身に大汗をかいていた。
何だかよくわからないけど、悪夢を見ていたようだ。
(いやな夢だったなあ……中身は忘れたけど……)
比夏留は真っ暗ななかを目を凝《こ》らしてみたが、先輩たちは皆、白河夜船《しらかわよふね》のようだ。白壁のいびきはまだ続いており、比夏留はその口に座布団を詰め込みたいという衝動をかろうじて抑えた。もう一度寝ようとしたが、いびきが耳についてしまい、眠れない。
(しかたない……)
比夏留は布団のうえに座ると、手探りでリュックのなかから食べ物を出そうとした。といっても、せんべいでは音がするし、缶詰をこの闇のなかであけるのは至難のわざだし、カップ麺やレトルト食品にはお湯が必要だ。
(こういうときに適切な食べ物は、と……)
比夏留が選んだのは、丸いスポンジケーキのなかにカスタードクリームが入っているお菓子だった。これなら、音もしない。一つめを食べようと、大口をあけたとき。
「ひぐあっ……」
くぐもった叫びのようなもの。
雨音に混じってはいたが、たしかに聴いた。
どうしようかと一瞬迷った。誰かが寝ぼけたのかもしれないし、猫か何かが騒いだだけかもしれない。しかし、比夏留はお菓子を嚥下すると立ちあがり、パジャマのまま廊下に出ようとした。
「私も行くわ」
後ろから声がかかった。犬塚だ。
「先輩も起きてたんですか」
「今の悲鳴でね」
やはり、悲鳴なのか。
「他の人も起こしましょうか」
腕時計を見ると、午前三時である。
「うーん……いいんじゃない? 何でもないかもしれないから」
犬塚がジーパンとTシャツに着替えたので、比夏留もそうした。二人は薄暗い廊下を進んだ。明かりが漏れていたので、何気なしにひょいと覗き込むと、オシラサマが祀ってある部屋だった。
むわあ……に……たるる……いみや……
おせ……むわあ……わあ……はかき……
突然、部屋全体がぐにゃりとねじ曲がり、黒い哄笑《こうしょう》のようなものが、蝙蝠の大群みたいに渦《うず》を巻いて飛び出してきた。おびただしい悪意……汚らわしい何かが奔流《ほんりゅう》となって比夏留を包み込み……。
「う、うわあっ」
比夏留は目をつむり、耳を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「どしたの、比夏留ちゃん!」
犬塚があわてて比夏留に駆け寄ったが、比夏留は弱々しく首を横に振り、
「だいじょぶ……みたいです。ちょっと……貧血かも……」
「じゃあ、いいけど……これ見て」
犬塚が指差したところを見ると、驚いたことに、床にオシラサマの箱が落ちていて、なかに入っていたはずの二体のオシラサマが畳に転がっていた。しかも、どちらも、首が折られている。
「どういうことかしら」
犬塚がそう言ったが、もちろん比夏留に答えられるはずもない。ただ、折れたオシラサマの首は、稚拙なだけに、本物の人間のものよりも生々しく感じられた。
オシラサマの首を見ているうちに、目眩《めまい》がしてきた。その口が動いて、何かをしゃべっているように思えたのだ。
……が……蘇るぞ……防がねば……ならぬ……大事になるぞ……
天災地変……もろもろの禍事……みな起こるぞ……
この世は……地獄になると……申したであろうが……
汝も……唱えよ……逆しらに唱うれば……
ふもお……もてれ……たるる……るる……いみや……
ふもお……もてれ……たる……る……
頭を、ぶん、と一振りすると、その妄想のようなものはかき消えた。心配そうな顔つきの犬塚を安心させるために、わざと明るい口調で、
「まさか、さっきの悲鳴って、このオシラサマがあげたんじゃないですよね」
だが、言いながら、比夏留は怖くなってしまった。ほんとにこのオシラサマが叫んだのだとしたら……首を折らないで……首を……。
「あれ? あそこの部屋からも明かりが漏れてるわね」
遠くのほうで、もう一ヵ所、明かりが廊下を浸している。二人はそちらに向かって進んだ。
「あそこって、河童の壺の部屋のすぐ隣じゃない?」
犬塚が言ったとき、どたどたどたどたという音とともに、何かが暗がりから飛び出してきて、犬塚にぶつかった。きゃっ、といって尻餅をつく犬塚を助け起こそうとした比夏留にも、何かが衝突した。もちろん、比夏留は根が生えたように動かず、相手のほうが転倒した。それは、あのカルヴィーノというイタリア人だった。
「ソーリー、急いでますっ」
彼は叫ぶように言うと、玄関のほうに向かって駆けていった。
「何考えてるのよ、ほんとにっ」
比夏留がふくれっ面でカルヴィーノがぶつかった箇所をさすっていると、一足先に部屋のまえまで行っていた犬塚が、室内に視線を向けたまま、比夏留を手招きした。
「比夏留ちゃん……ちょ、ちょっと……」
「はい……?」
「死んでるわ」
9
十畳ほどの部屋の右端に敷かれた布団のうえに、仰向けに横たわっているのは、女中の多田路子だった。顔はどす黒く鬱血《うっけつ》し、苦悶の表情が貼りついていた。両目は大きく見開かれ、鼻から鼻汁が垂れ、口が半開きになり、硬直した舌がナイフのように突き出ていた。
何度となく地面が揺れるほどの凄まじい落雷がごく近くであり、そのたびに死体の顔に醜い陰影がつく。
「死体の喉に、黒い縄みたいな痕がついてるから、絞殺だと思うけど、指の痕はないわね」
犬塚は冷静に観察しているが、比夏留は悪夢の続きを見ているような思いでぼんやりと死体を見おろしていた。途端、犬塚に背中を叩かれた。
「ぼーっとしてちゃだめ。殺人よ」
そのとおりだ。比夏留は室内を見回した。ここは、住み込みで働いていた多田路子の私室のようだ。小さな冷蔵庫、テレビ、箪笥《たんす》などが置いてある。箪笥の横に落ちているものが、比夏留の目をひいた。
「先輩、あれ……」
「うん。変だよね」
それは、数珠だった。伸ばせば一メートル以上ありそうな長い数珠が、畳のうえに毒蛇のようにとぐろを巻いていた。
「私、みんなに知らせてくるわ。比夏留ちゃんはここを動かないでね」
犬塚が行ってしまい、ひとりで生々しい死体をまえにして、比夏留はあらためて、殺人事件の現場にいるんだと感じた。生まれてはじめての経験だ。今日はじめて会った相手ではあるが、ついさっきまで、生きて、動いて、河童壺の解説などを得々としゃべっていた人間が、冷たくなっている。ショックだった。犬塚がいなかったら、おろおろしていただろう。脚ががくがくしているのがわかる。
(こんなことじゃいけない)
日本だけでも、一日に何千人と人は死んでいく。人間が死ぬのは当たり前のことである。それに間近に接したというだけで、震えが来るなどとは、武道家の娘として恥以外のなにものでもないではないか。
とはいうものの……やっぱりショックはショックだ。
「おお……おごおおおっ」
獣が吠えるような声が耳もとでした。振り向くと、顔を涙でぐちゃぐちゃにした女将が、ネグリジェ姿で立っていた。頭には毛糸のナイトキャップをかぶっている。そのすぐ後ろには、伊豆宮たち民研メンバーが控えている。犬塚が呼んできたのだろう。
「多田さん……どうして……どうして……おおおおっ」
両手を振り回して、部屋に飛び込もうとするのを、パジャマのままの白壁が後ろからはがいじめにした。
「何するだっ、放せっ」
「殺人現場にうかつに入り込んじゃいけねえよ。警察が来るまで、このままにしとくんだ」
殺人、という言葉を聞いて、女将の身体から力が抜けた。そして、白壁の太い腕のなかで、おいおいと号泣しはじめた。
「誰が……誰がこんなことを……ひどい。ひどすぎる」
何を言っても泣いてばかりでとりつくしまがない。気持ちはわかるが、女将がこれでは事態の収拾がつかない、と比夏留が思っていると、伊豆宮が言った。
「とにかく警察に電話しましょう。犬塚さん、お願いね」
犬塚は「ラジャー」と応えて吹っ飛んでいった。
伊豆宮は集まっている顔触れを見渡して、
「女将さんの息子の板前さんと娘さん、それから、あとの泊まり客、えーと……あのイタリア人とお嬢さまもいないわね」
「私は……ここにいます……」
比夏留のすぐ後ろから声がした。ぎくりとしてそちらを見ると、いのりという娘がいた。いつからいたのか、比夏留はまるで気づかなかった。
「いのりさん、この家にはほかに住んでる人はいないの?」
伊豆宮の問いに、
「住み込みの女中は多田さんだけで、あとは女中も板前も皆、通いなんです」
「じゃあ、白壁くんは息子さんを、諸星さんはイタリア人とお嬢さまを呼んできて」
「カルヴィーノさんなら、さっき、この部屋のまえで見かけたんですけど、ものすごい勢いで私に体当たりして、そのままどこかに行っちゃいました」
比夏留が言うと、今まで、両手で顔を覆って嗚咽《おえつ》していた女将が、きっと顔をあげ、
「あの外国人だ。やつが多田さんをこんな目にあわせたにちがいねえべ!」
「女将さん、そうと決めつけるのは早いんじゃないでしょうか」
伊豆宮が言った。
「なしてだ。こんたら時間に、こんな場所にいたことも変だが、なにより、あんたを突き飛ばして逃げたのが何よりの証拠だ!」
突き飛ばされてはおらず、向こうがひっくり返ったという点はともかく、その意見はもっともだ、と比夏留は思った。彼女も、カルヴィーノを疑っていた。悲鳴を聞いて、すぐに駆けつけた比夏留たちより先に現場にいたし、あんなにあわてふためいて逃げたのもおかしい。
「まちがいねえ。あの外国人が犯人だ!」
興奮して言い募《つの》る女将に、なぜかいのりは悲しげに目を伏せた。
そのとき、
「ノン! それはちがいますですよ」
玄関のほうから荒い息づかいの声がして、一同の注視を集めた。カルヴィーノがそこにいた。頭髪はぐしゃぐしゃだし、衣服もずぶぬれだったが、風雨のせいだけではなく、大汗をかいているようだ。
「私、この女性を殺していません」
「嘘言うな!」
大声で叫ぶ女将をもてあますように、
「嘘ありません。私、この部屋のまえを通りかかると、扉があいていたので、何気なくのぞくと、この女中さんが倒れているのが見えました。驚いて、助け起こすために部屋に入ろうとしたとき、やつが飛び出してきたね」
「やつ?」
伊豆宮の目が光った。
「あまりに突然だったし、廊下は真っ暗だったので、男性か女性か年寄りか子供かもわからなかったです。私、そいつが女中さんを殺した犯人と思い、必死であとを追おうとした。そこに……」
カルヴィーノは比夏留を見て、
「あなたがたが来た、というわけですね」
「嘘だ。あんたは嘘つきだ」
「私、嘘つきではない。神に誓います。どう言えばわかっていただけるのか……」
悲しげに髪の毛をもてあそぶ。
「それからどうしたんですか」
伊豆宮の問いに、カルヴィーノは「おお、そうでした」と大仰にうなずき、
「やつが玄関から外に逃げ出したので、私も追いかけました。もちろん、靴を履いているひまがないので、裸足です。豪雨のなかを追跡したのですが、すごい雷が目の前に落ちて、木が真っ二つになり、私、焼き餅を焼きました」
「へ?」
「あ、ちがいます。尻餅をつきました、でした。大きな木が黒焦げになって、しゅうしゅういってます。落雷の位置が少しずれたら、私がこうなってた、と思うと、生きた心地もしませんでした。ようやく立ちあがったときにはもう、やつの姿、どこにもありませんでした。あそこで雷さえ落ちなければ、女中さん殺しの犯人を捕まえることができたのに……残念です」
「自分で殺しといて、いけしゃあしゃあと……二枚舌め」
女将はあくまでイタリア人が犯人だと決めつけてかかる。
「私、二枚も舌、ありません。一枚舌です」
「ふん、あんたの言ってることには証拠も証人もねえべよ。犯人を追いかけたというのも、あんたが自分で言ってるだけだ。それとも、証人でもいるっていうんだが?」
「いえ……それは……」
「そうらみろ。あんたが殺《や》ったんだ」
見かねて、比夏留は口を出した。
「女将さん、証人がいないからって、カルヴィーノさんが犯人と断定するのは無茶ですよ」
「あんたは黙ってれ!」
「はいっ」
比夏留は首をすくめた。女将はカルヴィーノに向き直ると、
「じゃあ、あんた、どこで犯人を見失ったか、言ってみろ」
カルヴィーノは腕組みをして、じっと考え込んだ。
「見るがええ。どこだか言えねえべ。やっぱり嘘なんだ」
「そうじゃありません。えーと……えーと……思いだしました。あの……この近くに、キダというイタリア料理店がございますですね。その広告のまえでした」
女将は勝ち誇ったような顔で、
「あっはははは。語るに落ちただな。このあたりに、キダなんちゅう店はねえだ」
「ない? そ、そんなはずはないんですが……。では、フランス料理店は?」
「ねえな」
「どんな商売でもいいのですが、キダというお店はないのですか」
「ねえな」
「でも……私がキダというイタリア料理店の広告を見たのはまちがいないです」
カルヴィーノは譲らなかった。
「今はともかく、以前はそういう店があったんじゃありませんか? 店が潰れて、広告だけが貼ってあるとか……」
比夏留は助け船を出したが、女将は鼻で笑うと、
「おらはこの村に生まれてから何十年と住んでるばっで、そんな店は聞いたこともねえ。だいいちこの村に、イタリア料理店なんちゅうハイカラなものがあるかどうか考えたらわかるこった」
「でも、カルヴィーノさんが犯人なら、わざわざ帰ってくるのはおかしいですよ」
比夏留のその言葉を聞いて、カルヴィーノの顔が輝いた。
「そ、そうですよ。私は……」
そこへ、犬塚が戻ってきた。表情が暗い。
10
「たーいへん。橋が復旧しないから、今夜は警察は来られないんですって。もともと天気予報では晴れのち曇りだったから、誰も警戒してなくて、こんな暴風雨になるとは思ってなかったらしいの。それが、番狂わせの雷雨で、堤防が決壊したり、土砂崩れがあったりで、人身事故があちこちで起きてて、向こうはてんてこまいになってるみたい。明日の昼頃には橋がなんとか直るから、それまでくれぐれも現場を保存しろって言ってたわ。あと、旅館の従業員と宿泊客は、ここを勝手に出ないように、だって」
「警察が来ねえんじゃ、そのすきにこいつが逃げちまうだよ!」
女将が言うと、カルヴィーノは落ち着いた口調で、
「女将さん、私、どこへも行きませんよ。それはお約束します」
犬塚は、比夏留から、カルヴィーノが犯人を追って外へ出た話を聞き、
「そういえば……あのとき、最初に私に誰かがぶつかったけど、あれはもしかしたらカルヴィーノさんじゃなかったような気がしてきた。どう思う、比夏留ちゃん?」
そう言われても、比夏留には返事のしようがなかった。比夏留にぶつかったのはカルヴィーノにまちがいないが、そのまえに別の誰かが犬塚にぶつかったかなんて、暗かったし、突然だったので、いまさらわかろうはずもない。
「そいつです。そいつこそ犯人ですよ」
カルヴィーノは犬塚を抱擁せんばかりに両手をひろげ、女将はそっぽを向いた。
「警察が来られないんじゃ、私たちだけで犯人をつきとめる必要がありますね」
と犬塚が言った。
「素人《しろうと》がこざかしいまねをするより、警察に任せりゃええだ」
女将が言うと、犬塚はにこりと笑って、
「女将さんは、カルヴィーノさんが嘘をついているとお考えなんですね」
「そうだ」
「カルヴィーノさん自身が犯人でないとしたら、カルヴィーノさんは犯人をかばって、あんなことを言ったのかもしれません。だとしたら、犯人はまだこの旅館のなかにいるかもしれませんよ」
犬塚の言っている意味は、女将にもわかったようだ。犯人はこの家のなかにいて、第二の犠牲者が出る可能性もあるということだ。
「わ、わかっただ。少し……しゃんとしねばならねな」
顔をパンパンと叩いて気合いを入れる女将に、犬塚が言った。
「ここに落ちている数珠は多田さんのものでしょうか」
「いや、わしの知る限りでは、こんなもんは持ってなかった……と思う」
「ということは、犯人の遺留品である可能性が高いことになりますが、イタコはこういった長い数珠を使ってカミオロシをすると聞いています。もしかしたら、犯人はイタコなどの巫女ではないでしょうか」
「じゃあ、この数珠で多田さんを絞め殺したんですね」
比夏留が勢い込んで言うと、犬塚はかぶりを振り、
「私も最初はそう思ったけど、ちがうみたい。断言はできないけど、喉の痕跡を見る限りそうじゃないと思うわ。もし、数珠で絞め殺したんなら、珠の痕がぎざぎざに残るはずよ」
それもそうだ。しばらく黙っていよう。
「この家の人のなかにイタコはいないんですか」
「いるわけねえべな。あんた、イタコがどういうものか知ってっか? 幼い頃からつらい修行をして、いろいろな占いなんぞを習得せねばならねんだ。わしやいのり、信二なんぞがイタコであるわけがねえべや」
「じゃあ、もちろんお客さんのなかにもそういう人はいませんよね。――カルヴィーノさん、あなたが見失ったという犯人はどんな服を着ていたか覚えていませんか。巫女が着るような衣装を着ていたとか」
カルヴィーノはじっと考え込んでいたが、
「暗かったし、雨も降っていたから……。でも、そう言われてみると、ひらひらした衣装がちらっと見えたような気も……」
「てててててえへんだあっ」
どすどすどすどすという足音がして、白壁が駆けてきた。取り組み直後のインタビューを受ける関取のように荒い息をつきながら、
「えれえことになりゃあがったぜ。信二さんが……殺されてる」
11
一同は、比夏留たちがあてがわれている布団部屋のまえにいた。女将の徳子は、変わり果てた息子の死体を抱いて、絶叫している。
「誰が……誰がおまえをこんな目に……おおう……おう……おおおう……」
犬塚が、警察が来るまで部屋に入ったり、死体に触ったりしないほうがいいと言ったのだが、聞かなかったのだ。徳子の気持ちもわかるので、それ以上とめようとする者はいなかった。
「信二さんの部屋をノックしても、誰も出てこねえんで、おかしいと思って中に入ったんだが、もぬけの殻なんだ。あちこち探したんだが……まさかおいらたちの部屋にいるとは気がつかなかったぜ……」
信二の死骸には、多田路子と同じく、首に線条痕が深くついており、絞殺されたものと思われた。部屋のなかは火をつけたら爆発しそうな気がするぐらいアルコールの匂いが充満しており、信二の鼻や口から安酒が吐瀉物《としゃぶつ》とともに大量に噴き出し、衣服や布団をぐしょぐしょにしている。苦痛のせいか顔つきが変貌しており、鬼面をかぶったような醜さだ。
一晩に二つも死体を見て、比夏留は吐きそうになったので、廊下の隅で壁に手をついて気持ちを鎮めていると、伊豆宮がすぐ隣に来て、まっ青な顔で座り込んでしまった。それを見て、比夏留は、自分が武道の宗家の娘であることを思いだし、臍下丹田《せいかたんでん》に力を入れ、呼吸法を行った。吐き気を押さえ込むためだ。
いのりは兄の死を直視できなかったらしく、ふらふらとクラゲのように廊下を歩いている。目の焦点があっていない。カルヴィーノが肩に手をかけ、なぐさめようとしているが、その言葉も耳に入っていないようだ。
「いのりから手をはなさんかあっ」
いきなり女将がカルヴィーノにむしゃぶりついた。
「何すんだ、お母ちゃん」
押しとどめようとするいのりを突き飛ばし、女将はカルヴィーノの胸ぐらを掴み、
「やっぱり、嘘をついてたな。犯人が出ていったなら、なして信二は殺されたんだ。おまえが……おまえが殺したんだ。この外道めっ」
「やめねえか、こらあっ」
白壁が丸太のように太い腕を差し入れて、難なく女将を引き剥がした。
「息子さんが亡くなって、おろついてるのはわかるが、考えてもみねえな。犯人は、女中さんを殺すまえに、息子さんを先に殺してたのかもしれねえだろ」
「学生に、子供を殺された親の気持ちがわかろうか!」
「だからといって、誰彼かまわず犯人扱いしていいってことにゃあならねえぜ」
「う、うるさいっ」
女将は白壁を恨みがましい目でにらみつけていたが、急に後ろを向くと、そのまま廊下を走り去った。
「ほっといていいかしら」
伊豆宮が言ったが、白壁は肩をすくめ、
「しゃあねえだろ。そのうち、落ち着くさ」
「そうじゃなくて、今、この旅館のなかではひとりにしておかないほうがいいってこと」
「あ……」
白壁は、どすどすと女将のあとを追った。
入れ替わりに、浦飯が戻ってきた。ただでさえ顔色が悪いのに、憔悴しきって幽霊のようになっている。
「あのお嬢さま、やっと見つけたっす。大浴場の脱衣場で裸で倒れてました。女湯なんで、調べるのがいちばんあとになって……」
皆は声にならない呻きを発した。
「第三の犠牲者ですね」
カルヴィーノが言うと、浦飯は首を横に振り、
「いやいや、お嬢さまは生きてますよ。気を失ってるだけっす。湯あたりで貧血を起こした可能性もあるけど、やっぱり同じ犯人に襲われたと考えるのが妥当じゃないですかね」
「あ、あんた……それがわかっていながら、お嬢さまをそのままにしてきたの?」
伊豆宮が指を浦飯に突きつけた。
「いえ、ちゃんとタオルを掛けてきましたけど……だって、俺が服を着せるわけにいかないでしょ」
「そうじゃないのよ。殺人犯がうろついてるのよ。気を失ってる人をひとりで放置しとくなんて、あんた、馬鹿?」
「い、いや……でも、皆さんにいちはやくご報告をと思って……」
「とっとと風呂場へ戻りなさい! あ……いえ、私が行くわ。あんたはここにいて。諸星さん、おいで」
比夏留は伊豆宮とともに、大浴場に向かった。
12
女湯の脱衣場の床に、お嬢さまはタオル一枚で横たわっていた。身体から石鹸《せっけん》の香が匂うが、肌は濡れていないので、風呂から上がって、身体を拭いたあと、襲われたのではないか、と伊豆宮が言った。
伊豆宮がいくら介抱しても、お嬢さまは意識を取り戻さない。目をかたくつむった、端正なその横顔を眺めているうちに、比夏留の耳にまたあのフレーズが聴こえてきた。
ふも……ふもおおお……そとむ……
そとむ……そとむ……
耳を塞いでも、脳髄に直接、錐のようにねじ込まれてくる。
るるか……たるるか……
いみ……いみ……いみ……いみ……いみ……
「どうしたの、諸星さん!」
殺せ。
殺さねばならぬ。
はあ……に……へ……
わの……るる……るる……るるるるる……
「しっかりしてよ、諸星さん! 諸星!」
さあ、今ならできる。
手を伸ばせ。
首を……絞めて……。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
「やめなさいっ。ちょ、ちょっとどうしたの。諸星さんってば!」
びしっ、と伊豆宮の平手打ちが比夏留の頬に炸裂したが、比夏留は条件反射的にその手首を掴み、右膝で相手の鳩尾《みぞおち》を蹴りあげ、その反動を利用して、大きく腕を回転させた。伊豆宮と比夏留は、ひとつの独楽のように三度旋回した。回転が頂点に達した最高の瞬間を狙って比夏留が手を放そうとしたとき、何かが目の前に突きつけられた。
それは、オシラサマの首だった。
比夏留は我に返った。
回転をゆっくりと弱め、伊豆宮をそっと床におろした。
「ご、ごめんなさいっ」
床板に頭をすりつけて謝る。
ふらふらの伊豆宮は、しばらくぼうっとした顔で佇んでいたが、突然、その場に嘔吐《おうと》した。比夏留はあわてて先輩の背中をさすった。
「すいませんっ。私……私、どうして……何をしたんだか……すいませんっ」
夕食の未消化部分を吐ききってしまった伊豆宮は、大きく深呼吸をしたあと、
「何よ……いったい何だったのよ……」
「わからないんです。この人の顔を見ていると、急に、首を……絞めたくなって……。そこへ先輩の手が来たもんで、無意識のうちに〈独楽〉の型が出ちゃって……。ほんっとにごめんなさい」
「たぶん、何かが諸星さんに取り憑いたんだと思う。でも、憑き物は去ったみたいね。どうして急に離れたのかしら」
「それは……」
比夏留はオシラサマの首のことを伊豆宮に話し、あたりを見回してみたが、そんなものはどこにもなかった。
「とにかく、ほんっとにほんっとにごめんなさい」
「もういいわよ。あのぐるぐる回すのは二度とごめんだけどね。古武道の家柄って聞いてたけど、さすがといやさすがだわ」
「ほんっとにほんっとに……」
「しつこいわね。とりあえず、私のゲロの始末はしといてよね」
「はいっ」
比夏留は言わなかったが、あのとき、手を放していたら、伊豆宮の身体は宙を飛んで、羽目板に激突し、打ちどころが悪ければ、頸骨骨折で死んでいる可能性もあるのだ。比夏留はぞっとした。ぞっとしながら、湯気のたつ嘔吐物の後始末をした。
13
そろそろ長い夜が明けようとしていた。雨はまだ電気掃除機のような音をたてて降りしきっている。雷鳴もひっきりなしに轟いている。
メンバーたちは、近所の家(といっても、かなり離れているのだが)に助けを求めようと、何度も旅館を出ていこうと試みたのだが、そのたびにその人物を狙い澄ましたかのような落雷があり、数メートルと進むことができないのだ。まるで、誰かが彼らをこの旅館に閉じこめようとしているみたいに。
最初は通じていた電話も、度重なる落雷のせいか、いつのまにか不通になっていた。もちろん、携帯電話はまるで使いものにならない。だから、信二の死はいまだ警察に報告できないでいた。
しかたなく、皆は朝まで旅館のなかでねばることにした。朝になれば……風雨と雷がやめば……橋が直れば……。
自分たちの部屋には信二の死骸があるので、民研のメンバーは大広間に陣どっていた。広間の隅には、座布団を並べてそのうえに、まだ気のつかないお嬢さまを寝かせてある。カルヴィーノはその反対側の壁際で黙ってお茶を飲んでいるが、女将は自分の部屋に引きこもって、いくら大勢でいたほうが安全だと説得しても出てこようとしない。娘のいのりが付き添おうとしても、部屋に入れようとしないので、いのりはやむなくすぐ隣にある自分の部屋で待機している。
風呂場でのできごとのあと、比夏留は自分の正気に自信がもてなくなっており、膝を強く抱きしめながら皆からちょっと離れたところに座っていた。
「そう落ち込まないで、こっちにおいでよ」
と伊豆宮たちに何回も言われたのだが、自分の身につけた武術が、下手をすると他人の命を奪いかねない、とはじめてわかり、自分で自分をコントロールできなくなる怖さをはじめて感じた比夏留は、ひとりで鯨の大和煮と鮭缶、ツナ缶、それに乾パンを黙々と食べていた。さっきみたいなことになったのは、もしかしたら空腹が原因かもしれない、と思ったからだ。
「今までにわかっていることをおさらいしてみましょう」
犬塚がしゃべっているのが聞こえてくる。
「女中の多田路子が絞殺された。殺害現場には、数珠が落ちていた。だから、犯人はイタコのような巫女ではないかと考えられる。カルヴィーノさんが犯人らしき人影を追いかけたけど、キダというイタリア料理店のところで見失ってしまった。事件と関係あるかどうかわからないけど、オシラサマが壊されていた。そのあとか前かはわからないけど、藤原《ふじわら》信二が私たちの部屋で、同じく首を絞められて殺されていた。それから、名前がまだわからないお嬢さまが大浴場の脱衣場で気を失っていた……とここまではいいわよね」
皆がうなずいている。
「事件の謎は、もちろん誰が二人を殺したかってことだけど、それ以外にもあります。たとえば……どうしてカルヴィーノさんはあんな時間に多田さんの部屋のまえにいたのか。カルヴィーノさんは本当にイタリア料理店の広告を見たのか。なぜ信二さんは私たちの部屋で死んでいたのか。お嬢さまはどうしてあんな時間に脱衣場にいたのか」
「比夏留に取り憑いた霊のこともあるぜ」
と白壁が言うと、犬塚は軽蔑したような目を向け、
「霊現象なんて存在しません。比夏留ちゃんは精神的な疲労から一時的に錯乱してしまっただけです」
「そうとは思えなかったけど……」
と伊豆宮は小声で言ったが、犬塚は聞こえないふりをして、
「もうひとつ、わからないことがあります。それは……」
犬塚は壁際で寝息をたてているお嬢さまに目をやり、
「あの人がいったいどこの誰なのかということ」
「それなら、少しはわかったっすよ」
浦飯が言った。
「フロントで宿泊者台帳を見てきたんだけど、名前は妃桜貴美子《ひざくらきみこ》、歳は十八歳。出身は四国の坂出《さかいで》で、家事手伝い。もっともこれは自己申告だからあてにならないかもしれないけど」
「妃桜貴美子……?」
伊豆宮が首を傾げた。
「知ってるの、伊豆せん?」
犬塚がきいても、伊豆宮はしばらく考え込んだままだったが、やがて、ほっとため息をもらし、
「わからない。どこかで聞いたことあるような気がしたんだけど……」
「でも、名前と出身だけじゃなんのことかわかんないから、俺、ちょっと部屋に入って、バッグを調べてみたんすよね」
浦飯の言葉に犬塚が目を剥いた。
「あ、あんた、人の持ち物を勝手にあけるなんて、それじゃ泥棒じゃないの。いくらなんでもやっていいことと悪いことがあるわよ」
「そりゃ悪うござんした。でも、人が二人殺されてるんだ。非常事態ってことで勘弁してほしいね」
犬塚がなおも何か言いかけるのに覆い被せるように白壁が言った。
「で、何か見つかったのかい」
「こんなノートが」
白壁は浦飯の差し出した紙を受け取った。犬塚は何か言いたそうだったが、黙っていた。
「ふーん……こいつは旅行計画表だぜ。妃桜さんはどうやら旅行好きみてえだな。沖縄から薩南諸島、九州をぐるっと回って、富山、信州、佐渡島、北関東……それからここに来たわけか。給油の予定……? おい、もしかしたらあのお嬢さま、自動車旅行なのか」
「車じゃなくて、バイクみたいっすよ。部屋にメットがありましたから」
「バイク……? 人は見かけによらねえっていうが、本当だな」
聞いていた比夏留は、旅館のまえの駐車場にとめてあった大型バイクのことを思い出した。
「バイク……バイクねえ……。妃桜貴美子……バイク……」
伊豆宮がまた考え込んだが、
「ああ、やっぱりわかんないわ」
ノートを読み進んでいた白壁が、
「おや……?」
目を細めると、
「こいつはおめえの領域だ」
と言って、そのノートを犬塚に渡した。ややあって、犬塚の顔色が変わってきた。
14
犬塚はノートをひっくり返して、皆に示した。
沖縄……ユタ、カンカカリヤ、ムヌス、ニガイピトゥ
南九州……メシジョウ、ネーシ、ガラス
北九州……ホウニン、イチジョウ
土佐……イツ、ミョウブ
瀬戸内……コンガラサマ
近畿・中国……タタキミコ、アルキミコ、ミコ、ナオシ、トリデ
北関東……オオユミ、ササハタキ、モリコ、ワカ、アズサ
信州……ノノウ、マンチ、モリ、ヨセミコ、イズナ
佐渡……アリマサ
越後……マンチ
東北……イタコ、ゴミソ、カミサマ、イチコ、ミコ、ワカ、オガミン
「あの人……」
犬塚は、妃桜貴美子のほうを気味悪そうに見やると、
「日本中の巫女をたずねてまわってるみたい。私よりヘヴィな宗教マニアなのか、それとも……」
突如、爆弾が落ちたような大音響が響きわたり、旅館全体がぐわらと揺れた。天井の梁《はり》が、みちっ、と軋み、柱が小刻みに震えている。雷が直撃したのだろう。
ふと見ると、大広間の入り口に、女将の徳子が立っていた。着衣は乱れ、髪はざんばらになり、鬼のような形相《ぎょうそう》である。右手に何か紙切れを持ち、それを高く掲げている。
「これを見れ!」
女将は叫んだ。
「おらの部屋の扉の下から差し入れてあった。『イタリア嘘』と書いてある。イタリア人が嘘ついていたいうことだ。誰かが、そこのイタリア人が嘘つきだ、ということを知らせてくれたにちげえねえべよ」
女将がその紙をカルヴィーノに突きつけても、彼は顔色ひとつ変えなかった。
「何度も申しましたように、私は嘘つきではありませんし、この紙は私が嘘つきだという意味ではありません。なぜなら……」
カルヴィーノはその紙を手にとり、
「これは私が書いたのです」
紙に書かれた文字は、比夏留の位置からもよく見えた。稚拙《ちせつ》だが、ていねいに一字一字書いてある。それは、「イタリア嘘」ではなく「イタリアウソ」と全部カタカナで書いてあるのだった。
「で、でたらめ言うでねえっ」
「本当です。私が書きました……いのりさんに」
「二枚舌め。どうしておめえがいのりに手紙なんぞ書くんだ」
「お母ちゃん……」
廊下で声がして、女将が振り向くと、いのりが悄然と立っていた。
「カルヴィーノさんは本当のこと言ってるだよ。その手紙は、カルヴィーノさんが私にくれたもんだ」
女将はいのりとカルヴィーノ、そして、比夏留たちを睨《ね》め回すと、
「お、おめえたち、みんなぐるだな。みんなして、おらを殺そうちゅうんだな。そうはさせるかや!」
身を翻すと、女将は廊下を駆け去った。
「お母ちゃん、待って」
いのりがあとを追い、カルヴィーノも続いた。伊豆宮たちもどやどやと彼らを追いかけた。しかし、女将は自室に入り込んでしまい、いくら説得しても、出てこようとしなかった。
「これじゃ、まるで天の岩屋戸だぜ」
白壁が言い、比夏留は「彼」のことを思いだした。
「誰か、まえでストリップでも踊れば出てくるんじゃねえのか」
軽口に誰も反応しない。
結局、一同はぞろぞろと広間に戻った。いのりも一緒だった。円座になり、伊豆宮が手紙を取りあげて、カルヴィーノに言った。
「これって、あなたがいのりさんにあげた手紙だそうですけど、どういう意味なんですか」
カルヴィーノは顔をしかめ、
「私、まちがえたね」
「え?」
「日本語むずかしい。縦書きのときは右から左へ読みますが、横書きのときは左から右へ読みます。私、いつもまちがえる」
「じゃあ、これは……」
「ソウアリタイ、と書いたつもりでした」
その言葉を聞いた瞬間、何かが比夏留の脳をずきゅんと撃ち抜いた。頭のなかに真っ白な光が満ち、その先に「真実」が見えた……ような気がした。しかし、一瞬ののち、その光は消え失せ、真実は再び手の届かないところに去ってしまった。
(わかった、と思ったのに。何かが……)
こういうときに、「彼」にいてほしい、と比夏留は切実に思った。謎解きをしてくれなくてもいい。側に……すぐ側にいてほしいのに……。
「ソウアリタイ、だけじゃわからねえ。何が、『そうありたい』んでえ」
白壁がたずねたが、
「それは……プライベートなことですから」
「プライベートか……。じゃあ、しゃあねえな」
白壁は憮然とした。
「あ、いえ、気を悪くなさらないでください。それにしても、日本語というのはおもしろいです。右から読んだら、つまらない内容なのに、左から読んだら、イタリア人が嘘をついたという意味になる。そして、そう読まれたことによって、その言葉は、現実に力を持つのです。これって……何と言いましたか。その……」
「言霊《ことだま》」
伊豆宮が言うと、カルヴィーノは大きくうなずき、
「そう、言霊です。ただの読み間違い、書き間違いも、言葉としての体をなした瞬間から、特別の意味合いを帯びるようになるのですね」
「思い出したっ」
伊豆宮が爆風のように叫んだ。
15
「妃桜貴美子っていう名前、やっと思い出したわ。香川県に本社のある大手家電メーカーの社長の娘なんだけど、親が立派すぎたみたいで、ぐれて中学中退して、自暴自棄になって、何度もリストカットをして病院にかつぎ込まれたらしいわ。そのうち、地元のレディースで一番えげつない『華魔阿牙雨曇』というのに入ったのね。毎晩、暴走行為を繰り返して、警察のごやっかいになるたびに、両親が裏から手を回して、釈放させてたわけ。本人はそれも気に入らなかったみたいで、ますます暴走にのめり込んでいった。そこの頭《ヘツド》が、えーと……たしか嶋満智子《しままちこ》という女で、半端《はんぱ》な暴走族がちょっかい出したら、まちがいなく半殺しにされるという、四国の〈|最悪の女王《ワースト・クイーン》〉って呼ばれた、とんでもないおねえちゃんで、妃桜さんはこの人に可愛がられたわけ。妃桜さんも、実のお姉さんのように嶋満智子を慕《した》って、一緒に住んでたのね」
「恋人同士だったのかしら」
と犬塚。
「たぶんね。妃桜さんは誰の言うことにも耳を貸さないけれど、嶋満智子の言葉にだけは従順だった。〈|最悪の女王《ワースト・クイーン》〉のほうも、妃桜さんを何とか更生させようとして、いろいろ考えたあげく、とうとう四国屈指のレディース『華魔阿牙雨曇』を解散することにしたのよね。妃桜さんも、お姉さんの言うことなら、と真面目になるつもりになったわけ」
「ふーん、いい話じゃねえか」
「ここまではね。解散の決まった『華魔阿牙雨曇』は最後の走りをすることになったんだけど、香川県警はどうしても嶋満智子を逮捕したかったみたいで、事前情報を入手して網を張ったの。警察の狙いは嶋満智子ひとり。ほかの雑魚はどうでもいいって感じだったようで、たいへんな数の白バイ、パトカーを投入して、嶋満智子のバイクを押し包んだ。まるで凶悪殺人犯扱い。嶋満智子のほうも、最後をきれいにしめたいから、必死で振り切ろうとする。結局、嶋満智子のバイクは海に転落して、岩礁に激突。即死だったみたい。やりすぎじゃないかという意見もマスコミからちらほらあがったけど、暴走族はやっぱり嫌われもので、みんな、口には出さないけど、ざまあみろと思ってるのね、事件はうやむやで揉み消されてしまった……というわけ。姉と慕う人も亡くなり、レディースも解散し、居場所のなくなった妃桜貴美子はむりやり家に連れ戻されたそうよ」
一気にしゃべって、伊豆宮は、ふーっと大きな息をつき、
「あー、すっきりした。宿便がいっぺんに出たみたい」
「あのお嬢さまが元レディースねえ……。でも、どうしておめえがそんなことに詳しいんだ?」
白壁がきくと、
「私の友だちが『華魔阿牙雨曇』の元メンバーだったの。今は『鎖濡鬼雨曇』っていうチームの頭《ヘツド》やってるんだけど、その子に聞いたのよ。嶋満智子が死んだあと、妃桜さんは半狂乱になって、警察官を無差別に皆殺しにしてやるとか世の中をめちゃくちゃにしてやるとか叫んで、暴れまわって、たいへんだったらしいわ」
「ふーん……」
白壁が見るともなしにお嬢さまのほうに目をやって、「うぐ」と呻いた。
「い、いねえ。いねえぞ。どこへ行きゃあがったんだ」
白壁が立ちあがったとき。
冷え冷えとした空気を引き裂くような絶叫が伝わってきた。
「お母ちゃん……」
さすがにすぐに誰の声かわかったらしく、いのりが大広間を飛び出した。カルヴィーノがすぐに続いた。皆は、顔を見合わせると、どたどたとあとを追った。
16
ひどい死にざまだった。右腕を障子《しょうじ》の桟《さん》に突っ込み、背筋を海老のようにそらし、顔をどす黒く鬱血させて、女将は息絶えていた。目と耳から黒血を垂らし、鼻から青洟《あおばな》を棒のように垂らし、口からは血と涎《よだれ》と胃液の混じった褐色の泡を垂らしている。無念の思いと、どうして死ななければならないのかという疑問が入り混じった形相で、乱杭歯《らんぐいば》を剥き出したそのさまは、比夏留には、人間というより何か別の動物のように見えた。喉をよほど強く引き絞られたらしく、首がウインナソーセージのようにくびれている。
いのりは涙をこぼすこともなく、ただじっと母親の側に立ちつくしていた。カルヴィーノがその肩に手を置いて、首を横に振っている。
おまえのせいだ……。
声が聞こえた。
さっき、殺しておけば、防げたものを……。
おまえのせいで、またひとり、人が死んでしまった……。
さっき……。
殺しておけば……。
比夏留は目を閉じ、頭を両の拳でがんがん叩いた。
「どうしたの、比夏留ちゃん」
犬塚が心配そうにきく。
「また……聞こえてくるんです。声が……」
「気を確かにもちなさい。それは幻聴よ。金縛りみたいなもの。疲れてるときとか、つらいときとかに、心のなかから聞こえてくるの。あなたがあなたに向かって話しかけているだけなのよ」
「わ、私のせいで、女将さんが死んだって……」
「罪の意識がそう聞き取るの。しっかりしなさい」
ふも……お……とむ……
へす……
はかき……るる……みや……
「もういやあっ」
叫ぶと、比夏留は自分の耳を掴んで引きちぎろうとした。
「やめなさいっ、比夏留ちゃん、みんな手伝ってよ」
「ああ……私に話しかけないで……ああああ……」
「こら、比夏留、やめねえか、この野郎」
「ああああ……ああああああ……もが」
何かが比夏留の口のなかに押しこまれた。反射的に、比夏留はそれをもしゃもしゃと噛み、ごくんと飲みくだした瞬間、頭のなかが明瞭になった。
「これって……かっぱえびせん……」
「比夏留ちゃんには何より食べ物だもんね」
そう言って笑う犬塚にうなずくと、比夏留は残りのかっぱえびせんを食べ続けた。
「ここを出ましょう」
伊豆宮が言った。
「このままじゃみんな殺されるわ。きっと犯人には狙いなんてない。私たちを皆殺しにしたいだけなのよ」
「『かまいたちの夜』じゃあるまいし、そんなことってあるんすかね」
浦飯が言うと、
「暴風雨だろうが、落雷があろうが、ここでじっとしていて殺されるよりましでしょ。思い切って、旅館を飛び出して、思いっきり走るのよ」
「でも、橋が……」
「そんなものどうだっていいじゃない。とにかく逃げられるところまで逃げましょう。そろそろ夜が明けるし、明るくなったら、相手だって手を出しにくいと思うわ」
衆議は一致し、カルヴィーノといのりも誘おうと、伊豆宮がそちらを向いたとき。
電気が消えた。
廊下の電気だけではなく、旅館全体のブレーカーを落としたような感じだ。廊下や部屋の明かりはもとより、電化製品の小さなランプも全て一度に消えてしまった。
「お、おい、どうなっちまったんだ。みんな、どこにいるんだよう」
白壁の声だ。
「白壁くんね。私はここにいるわ」
伊豆宮の声だ。
「俺はここっす。廊下の……えーと、たぶん壁に背中をつけてて……あっ、誰かいる!」
浦飯の声がして、比夏留は身体の一部をぎゅうっと掴まれた。思わず、身体が旋回するのをぐっとこらえ、
「先輩……浦飯先輩……」
「ああ、諸星か。これって君かい」
「そーなんです。早くはなしてくれませんか」
「俺、どこ掴んでるの?」
「私の……お尻の肉です」
手ははなれた。
「あとは犬塚さんね。犬塚さんは……」
「ここでーす。以上、田中喜八学園高等学校民俗学研究会総勢五名、まちがいありませ……」
そこで言葉が途切れた。
「やめ……やめてっ。誰……? きゃああっ」
犬塚の悲鳴だ。
「犬せん、どうしたんですかっ」
比夏留は叫びながら、手探りで悲鳴が聞こえたほうに寄っていったが、漆黒《しっこく》のゼリーを掻き分けているようで、まるで手応えがない。
「こいつっ、私を……この……うう……ぎゃあっ……」
どたんばたんという激しい物音と、廊下の板が軋む音、壁に何かがぶつかる音、荒い息づかい……そういったものが、前後左右から飛びかかってくる。
「犬塚、どこなんだ!」
「襲われてるのか! この野郎、おいらが相手になってやらあ」
どすん……と何かが比夏留の腕のなかに飛び込んできた。
「犬せん……?」
そっと両手で触ると、腕をからめてきた。
「私です。比夏留です。先輩、私の後ろに……」
そのとき、
「何言ってるの、比夏留ちゃん、私はこっちよ!」
少し前方から声がした。その瞬間、腕のなかの柔らかいものがびくっと硬直した。
17
首に何だかわからないすべすべしたものがからみついてきた。それはあっという間に幾重にも巻きつき、ぐいと引き絞られた。いきなり、喉が半分ほどの太さになったのがわかった。息ができない。顔がぱんぱんに充血し、眼球が飛び出しそうだ。耳が、トンネルに入ったときみたいにつーんと鳴り、鼻の奥が火傷《やけど》をしたみたいに痛い。ぎりぎり……ぎりぎり……と紐のようなものが喉に食い込んでいく。
乱れよ……なにもかも……
乱れよ……麻のごとくに
乱れよ……無価値な世界は……
滅びよ……なにもかも……
滅びよ……塵芥《じんかい》のごとくに……
滅びよ……腐った世界は……
空間をねじ曲げてしまいそうなほどのおびただしい憎悪がそこに溢《あふ》れていた。狂った理性によって冷徹に制御された底なしの怨恨が津浪《つなみ》のように比夏留を押し包んだ。
権力と財握りたるものが思うがままに振る舞い正統を踏みにじりて省みぬような世界に何の価値があろうか。潰れるべし、壊れるべし、滅ぶべし。我、おのれにもはかりかねたる大いなる恨みを抱きて、鬱々と地中に籠もりたること一千年、今、ここなるものの身体を借りて現世《うつしよ》に蘇りしうえからは、かねてからの宿願を果たさん。人の福をみては転じて禍となし、世の治まるをみては乱れを発してやろうぞ。
哄笑が闇の底から湧き起こった。さっきまで廊下だった場所が裂け、地の底深くまで見通せる。その下のもっと下に、異形《いぎょう》の姿をした一団がいた。よく見えないが、鳥のような獣のような人間のような連中だ。皆、僧形で、鼻がいびつに高く、脇のしたから羽根が生え、不吉な笑みを浮かべてこちらを見つめている。邪悪な笑い声が渦を巻き、それが無数の蛇となり、廊下から壁をつたって天井へ、そこから屋根に噴きあがるのが、比夏留にははっきりと見えた。意識が朦朧《もうろう》としてきた。もう……だめだ……。長いあいだ、血を吐くような修行をした〈独楽〉の技は、何の役にもたたなかった……。私……ここで……死ぬの……。
そのとき。
「邪魔だてするなあああああああっ」
鳥のような悲鳴が暗闇《くらやみ》にほとばしり出た。見えるはずがないのに、なぜかそれが見えた。オシラサマの首が二つ、天井に浮かんでいる。一瞬でそれが掻き消えたとき、比夏留の喉にかかった力がほんの少し軽くなった。
今だ。
比夏留は両腕をでたらめに伸ばし、指先に触ったものを鷲掴みにすると、全身を倒して自分のほうにたぐり寄せ、無理な姿勢のまま一回転、二回転……三回転……しっかりと握りしめることができていないので、汗で滑りそうになるのを、必死にはなすまいと指に力を込めながら、四回転半したとき、ふっと腕にかかっていた重みが消えた。何かが何かにぶつかる音、悲鳴、怒号が一度におこり、パニックになった比夏留は、なにがなんだかわからないまま、玄関の方向に走った。壁に何度もぶつかり、転倒しつつ、やっと玄関に着いたとき、轟音とともに目の前が白く輝いた。雷が近くに落ちたらしい。その光に沸きたつように、伊豆宮、白壁、浦飯、犬塚の顔が見えた。皆、玄関まではたどりついていたのだ。
「これで全員そろったわね。さあ、逃げるわよ」
伊豆宮が言った。
「に、逃げるって、どこへ」
[#挿絵(img/01_233.png)入る]
「とにかく外へよ」
白壁が玄関の戸をあけた。どおっと雨と風が吹き込んできて、あたりはたちまちびしょびしょになった。まだ、風雨の勢いは衰えていないようだ。外へ出ると、そろそろ東の空が白みかけている。白壁が先陣きって、一歩踏み出した途端、鼓膜が破れそうなほどの音をたてて、駐車場の立て看板が火を吹いた。雷が命中したのだ。
「来やあがったぜ」
白壁はそう言うと、その場に唾を吐き捨て、うおおおおおと雄叫《おたけ》びをあげながら、雨中を突進した。足もとには川のように水が流れており、足をおろすたびに高く水しぶきがあがる。今度は、走る白壁のすぐ右横に落雷した。白壁はわけのわからないことを絶叫しながら、ジグザグに走る。
「私たちも行きましょ。絶対、はぐれないこと。死ぬときは一緒よ」
そう叫んで伊豆宮が駆けだした。続いて、浦飯、犬塚……。比夏留は振り返って旅館の廊下の奥をのぞきこんだ。その暗闇のなかから、怪物が現れそうな気がしてきて、あわてて洪水のような豪雨のなかに飛び出した。直後、たった今まで比夏留が立っていたところを雷が直撃した。木の焦げる臭いに追い立てられ、比夏留は走った。五人は走った。口々におめき声をあげ、こけつまろびつ、泥まみれになりながら。雷は爆雷のように次々と比夏留たちを襲うが、間一髪でなんとか避けおおせている。どこをどう走っているのかもわからない。山道のようなところを、濁流のように押し寄せてくる泥をかきわけながら、のぼっていく。時々、右側の崖から土砂が崩れてきて、それを頭からかぶるが、手で払いのけて進む。天が光る。稲妻が縦横に空を裂く。そのうちに、自分たちがいったい何のために走っているのか、何から逃げているのか、いや、何かを追いかけているのか……それさえもわからなくなっていたが、とにかく休むことなく五人は駆けた。
気がついたとき、比夏留たちは、ひとかたまりになって、雨風をしのげる場所に立っていた。頭のてっぺんから爪先まで真っ黒になっており、伊豆宮の長い髪はほどけて地面を引きずっていたし、白壁の髷も元結が切れてざんばらになっていた。
何もかもが夢だったような気がする。旅館の暗がりで比夏留が見たこと、聞いたこと、したこと……あれは本当のできごとなのか……。
比夏留は何かを握りしめていることに気づき、右手をそっとあけてみた。
「ひゃあああああっ!」
皆がのぞき込み、一様に絶句した。それは、根もとからちぎりとられた、一本の指だった。
18
比夏留が真っ暗のなかで掴んだのは、この指だったのだ。はなすまじと必死だったのに、とうとうすっぽ抜けてしまった……と思っていたのだが、そうではなかった。切断面はぎざぎざで、どうやら相手が、自分の指を噛みちぎったようだ。きれいに緑色のマニキュアが施されたその指を比夏留は地面に捨てると、
「ここ……」
どこ、と言おうとしたが、言わずともわかった。洞窟のなかだ。彼らは、山中の洞窟に入り込んでいるのだ。
「たぶん……ここが、〈黒洞〉だぜ。おいらたちは、期せずして、目的地にたどりついちまったってわけだ。ラッキー」
白壁が言うと、絶対にラッキーとは思っていない表情で低い天井を見回していた浦飯が、
「キクガシラコウモリの巣があるっすね。うーん……こりゃ、三百匹はいるなあ」
比夏留は、コウモリのつけ焼きはうまいよ、と、以前、父親が言っていたのを思いだし、舌なめずりをした。
伊豆宮は、洞窟の床にところせましとぶちまけられた壊れたテレビ、冷蔵庫、オーディオセットなどの電化製品、青く黴びたベッド、腐った戸棚、鳩時計、人形や古いゲーム機などのおもちゃ……といったゴミを見ながら、
「この村のゴミ捨て場になってるわけね、ここは」
粗大ゴミばかりでなく、いつ捨てられたのかわからない生ゴミも散らばっており、そこから饐《す》えたような臭いが立ちのぼっている。伊豆宮は、ゴミの合間に犬の糞が点々と落ちているのを足先で蹴飛ばし、
「野犬の棲処《すみか》だってのはほんとかもね」
「でも、吠え声とか聞こえねえぜ」
「まだまだ奥があるみたいじゃない。そこにいるのかも」
「嫌なこと言うなよ、べらんめえ」
皆は、ゴミを適当に押しのけてスペースをつくり、そこに座った。
「で、これからどうするね」
白壁が伊豆宮に言った。
「やつも、ここまでは追ってこないでしょう。もうすぐ夜明けよ。雨もいつまでも降ってないはず。小降りになったらここを出て、橋のところまで行くの。そうすれば、橋の修理の人に助けてもらえるかも……」
語尾が震えて、消えた。洞窟の入り口に誰かが立っているのに気づいたのだ。
それは、妃桜貴美子だった。水に飛び込んだみたいにずぶ濡れになっている。口もとには穏やかな笑みがたたえられ、足を引きずるようにして、ずるり、ずるりとこちらに近づいてくる。その全身から放散されるおぞましい気に、比夏留はえずきそうになった。
「あ、あなた……いつのまに……」
伊豆宮が話しかけようとしたが、お嬢さまは彼女を見ていなかった。妃桜の視線の先にあるのは……犬塚だった。そうとわかった犬塚は身をかたくしながらも、気丈に言い放った。
「あなたは、元『華魔阿牙雨曇』の妃桜貴美子さんね」
妃桜の足はとまらない。
「あなたのノート、見せてもらったわ。日本全国の口寄せ巫女のところを旅してるわね。何か理由があるの?」
妃桜の足はとまらない。
「誰かをこの世に呼び寄せようとしているのかしら」
妃桜の足はとまらない。
「もしかしたら……嶋満智子さん……?」
妃桜の足がとまった。
「やっぱりそうだったのね。でも、それは無駄な努力よ。魂なんてものはない。人間は死んだら無になるだけ。あの世からその人を呼び起こすなんてありえないのよ」
「はたして、そうかな」
妃桜の声は、外見に似合わない、低く、しゃがれたものだった。彼女は一歩、また犬塚に近づいた。犬塚は一歩後ずさりし、白壁と浦飯が自然と犬塚をかばうように前に出た。
妃桜は、少し屈《かが》むと、パンティ・ストッキングを脱ぎはじめた。
「な、なにしやがるんでえ」
白壁が顔を赤くして叫んだが、犬塚は冷静だった。
「わかった……ストッキングで首を絞めて殺したのね。多田路子さんも藤原信二さんも女将さんも……」
比夏留にもようやくわかった。喉についていた紐状の痕は、ストッキングのものだったのだ。殺したあと、何食わぬ顔でそれを再びはいていたのだろう。妃桜は、何も応えず、脱いだストッキングを両手で握ると、左右に引っ張って数度ねじり、ロープのようにしながら、じりじりと犬塚に迫っていく。
「殺す……殺してやる……我が望みを邪魔するものは……」
「私が何をしたというの」
激烈な雷鳴が頭上に炸裂する。その轟音を伴奏にして、ゆっくりと妃桜は口を開いた。
「モリヒトシンノウよ……汝に座を奪われ、讃岐の凍てつく地下《じげ》に鬱勃《うつぼつ》たる怨恨を抱きて千年の歳月《としつき》経たるのち、ここに蘇りて、我が望み果たさんとするに、またしても朕の邪魔をいたすかや。そうはさせじ。殺す……殺す……殺してやる」
モリヒトシンノウ……? 比夏留は、犬塚が宿泊者台帳に書いた森広志乃という名前を思い出した。モリヒトシンノウ……モリヒロシノ……似てるといえば似てるけど……。
「私はモリヒトシンノウなんかじゃないわ。犬塚志乃よ!」
だが、妃桜は聞いていなかった。厳かな声音がその口から吐息のように漏れる。
「汝と汝が父によりて、朕は再び天皇となる夢を砕かれ、遠き讃岐に配流され、それより九年、辛苦呻吟《しんくしんぎん》の終生を流謫《るたく》の地にて過ごし、都に戻りたしとの最後の願い込めたる五部の大乗経も、藤原|信西《しんぜい》入道とやらに妨げられ、以後は髪もくしけずらず爪も切らず、悲憤慷慨《ひふんこうがい》のうちに命をたちたり」
その顔は、光線の加減か、老人のように見えた。目は落ちくぼんで爛々《らんらん》と輝き、唇はひび割れて、その合間から毒々しいまでに真っ赤な舌が二枚のぞいている。しかも、その舌の先端は、ひきちぎったように断たれている。目の錯覚かもしれない。しかし、比夏留にはそう見えたのだ。
「何言ってるのかさっぱりわからないわ。しっかりしてよ、妃桜さん!」
伊豆宮が叫んだが、妃桜はそれを耳に入れた様子はなかった。
「朕は深き罪におこなわれ、愁鬱《しゅううつ》浅からず。速《すみ》やかにこの効力《くりき》をもってかの科《とが》を救わんとおもう莫大《ばくだい》の行業を、しかしながら地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪逆に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇《すめらぎ》を取って民となし、民を皇となさんとて、我と我が舌先を噛み破りて、流れる血潮をもって大乗経の裏面に呪詛《じゅそ》の誓文を書きて、海中に沈めたり」
「お、おい……何言ってんだ、あんた……」
白壁が名前どおり真っ白の顔になった。
「以来、千年。たびたび復活を試みたれど、良機なく、いたずらに時を過ごせど、このたび、ここなる妃桜貴美子、深き怨恨の念によりて朕を呼び起こしたるによって、その求めに応じてその身体を借り、再びこの世の人となりたり。妃桜貴美子の願いは、世に大乱騒擾を導き、平和を踏みにじり、不安と動揺を生むことなり。これ、畢竟《ひっきょう》、朕の望みと同一なるべし」
妃桜は今や、犬塚の一メートルまえまで接近していた。その細い右手が動くと、浦飯はなんの抵抗もなく吹っ飛び、白壁は得意の突っ張りを試みたが、左手一本で軽々とあしらわれ、これも洞窟の壁に叩きつけられた。
「しかるに、さても……さてもさても恨めしきことかな。蘇りたる朕にまたしても汝をはじめとするかつての仇敵《きゅうてき》の邪魔立てあるとは、これが輪廻《りんね》なるかや業なるかや……」
妃桜は、ストッキングをぴんと張ると、ぐいと犬塚の喉に押しつけ、そのまま体重をかけて押し倒していった。
「死ぬがよい、モリヒトシンノウ」
「待ちなさい!」
比夏留が前に出た。
19
「比夏留ちゃん、危ないわ」
犬塚がそう言ったが、比夏留は微笑んだ。
「あなたに怪我させるのは私の本意じゃないけど、しかたないね。あなたをとめないと、どんどん犠牲が増えるみたいだから……だから、ごめんなさい」
両手を腰に構えると、
「づりゃあっ!」
と叫んで、まず右側の壁に向かって跳んだ。そこをキックして、反動で飛びあがると、天井を正拳で突き、左側の壁目がけて落下。そこも蹴り飛ばし、反動でジャンプ。それを繰り返しはじめた。右の壁、天井、左の壁、右の壁、天井、左の壁……次第次第に速度が増し、比夏留の姿は残像となった。その残像が、きれいな正円を描いている。風が唸り、叫び、そして……。
「ひ……ふ……み……よ……い……む……な……や……きえええええっ!」
凄まじい大音声が響き、棒状のものが円の中心から妃桜に向かって槍のように伸びた。次の瞬間、妃桜の姿が消えた。いや……消えたのではない。比夏留とともに円を描いて旋回しているのだ。その速さはどんどん増していき、空気が熱く膨張しだし、洞窟全体が揺れはじめた。
「火……風……魅……夜……異……無……那……耶……ぎええええええええっ!」
二度目の気合いがほとばしり、何かが円から放り出されて天井に激突した。洞窟が大きく震撼《しんかん》し、がつうううんという音が奥に反響した。その何かは、天井にぶつかったあと、自由落下して床にぶつかり、ぴょんぴょんと数度跳ねたあと、動かなくなった。
比夏留はそれを確認したあと、その場にうずくまった。ずっと壁にぶつかっていたため、衣服はちぎれ、皮膚も擦《す》り切《き》れて、あちこちから大出血している。顔は蒼白で、口の端から牛のようにだらだら涎を垂らしている。
「比夏留ちゃん!」
「諸星!」
皆が駆け寄り、犬塚が比夏留の肩に触れ、
「熱っ!」
と叫んで手を引っ込めた。比夏留の身体は、空気との摩擦によって、火のように熱くなっていたのだ。
「だい……じょうぶ……です……いつも……こうなる……んです……」
白壁が感心したように、
「さすがだぜ。おいらも相撲部屋の跡取りだが、素直にシャッポを脱ぐぜ。いや、おみそれしやした」
伊豆宮が、比夏留が蹴っていた箇所が崩落しかかっていることに気づき、笑いながら、
「まじですごい破壊力ね。あんた、ほんとは体重百キロぐらいあるんじゃないの」
比夏留は複雑な笑いを浮かべた。
「まさか、死んだんじゃないでしょうね」
犬塚がそう言いながら妃桜のうえにかがみ込み、左胸に手をのせ、
「気絶しただけみたい」
比夏留はほっとした。
「動機とかはわからないけど、このお嬢さまが一連の殺しの犯人であることはまちがいないわね。こうなったら何としても警察に連絡をつけなくちゃ……」
伊豆宮がそう言うと、皆はうなずいた。
「白壁くんは犬塚さんと一緒に旅館に戻って、妃桜さんと比夏留ちゃんの手当てのための薬箱を取ってきて。近所の家に寄れたら、電話を借りて、うまく通じたら、警察に通報するの。浦飯くんは私と川のところまで来て。そろそろ修理が始まってるかもしれないし、それがまだでも、川を越す方法を思いつくかもしれないから」
「諸星はどうすんでえ。この女と一緒にここに置いとくのかよ」
「これだけやっつけられたら、医者が来るまで再起不能よ。とりあえず、こうやって……」
伊豆宮は、ストッキングで妃桜の両手を背中にまわして、縛りあげた。
「これでいいでしょ。比夏留ちゃんは悪いけど、ちょっとのあいだ留守番しててね。すぐに戻ってくるから」
四人は、急に小降りになった雨のなかを、二手にわかれて出ていった。
荒い呼吸もようやく鎮まり、比夏留は手足を少しずつ動かして、体力の回復を待った。
ばさ。
衣《きぬ》擦れのような音。
どきりとして見あげると、天井に巣くうコウモリたちだ。
「脅かさないでよ。あー、それにしてもおなかすいたなあ」
ごそ。
今度の音は、洞窟の奥のほうからだ。
ごそ……ごそ……ごそ……。
「だ、誰かいるの……?」
返事はない。
身体を起こして、そちらを向いた瞬間。
20
いきなり、背後から、気管が押し潰れるほどの力が喉にかかった。妃桜だ。両腕をクロスさせて比夏留の首に巻きつけ、絞めあげてくる。
(嘘……)
比夏留には信じられなかった。普通、あれだけの打撃を受けていたら、打ちどころが悪かったら死んでいてもおかしくない。肋骨五、六本は折れているのではないだろうか。立ちあがることはおろか、手足を動かすことすら困難のはずなのに……。
「うりゃああっ」
身体の底にかすかに残っていた最後の力を振り絞って、比夏留は妃桜を投げ飛ばした。妃桜の身体は軽々と飛んで、五メートルほど先に墜落した。だが、まばたきするほどの合間もおかず、妃桜は、パイ生地が発酵《はっこう》して膨れあがるように、むくりと起きあがったのだ。
喉を押さえて、けほけほとえずきながら、比夏留は呆然とした。妃桜貴美子はなにごともなかったかのように比夏留に向かって歩んでくる。顔はところどころ皮膚がずる剥けになり、肉が生々しく露出している。腕は両方とも折れているようだが、人形師に操られる人形のように、その腕を曲がらないはずの方向に曲げたり、伸ばしたりしている。脚の運びもぎくしゃくしており、右脚と右腕、左脚と左腕が同時に出ている。
「どうして……完璧にきまったはずなのに……」
比夏留は、さっきといい今といい、最高のタイミングで放った技がまるで通用しなかったことで、激しいショックを受けていた。
「どうして……どうしてなの……」
「朕を……甘くみるでない。朕は……」
突然、妃桜の顔の輪郭がぼやけたかと思うと、その鼻が、すりこぎのように伸びた……ように見えた。それはまるでパソコンソフトで画像を加工したみたいに滑稽《こっけい》だった。鼻梁《びりょう》だけでなく、鼻の穴までもが伸長したからだろう。
「朕は……大天狗なり」
妃桜の口が、アニメーションのように耳もとまで裂けた……ように見えた。裂け目全体に歯が並び、奥歯だけでも百本はある。身体と同じぐらいのサイズに膨張した口が、比夏留の頭部を飲み込もうとした、まさにそのとき。
何かが洞窟の奥から飛来した。それは、ぺしゃっという情けない音をたてて、妃桜の顔にぶつかった。妃桜は、首を傾げてそれを手に取り……。
「うぎゃあああっ」
右手からしゅうしゅうと白い煙があがっている。
「ぬぬ……き、貴様……またしても……またしても朕を……」
妃桜貴美子は右手首を左手で掴み、吠えるように言った。
「弟よ……平安京の昔のみならず、蘇った今もまた、朕を苦しめんとするか。うう……ううう……」
(今だ……!)
練習によって会得したものではない。咄嗟《とっさ》に技が出た。身体を、雑巾を絞るようにねじる。内臓や骨がぱきぱきみちみちと悲鳴をあげるまで徹底的にねじる。それがほぐれるときの瞬発力を利用して、身体を回転させながら、妃桜の胸もと目がけてジャンプした。いつもの独楽のような回転ではなく、もっと細かい、たとえていうなら錐《きり》のような回転だ。比夏留の指先があやまたず妃桜の胸を強打し、妃桜はゴムまりのようにぶっ飛んで、洞窟の壁と天井と床にピンボールみたいに何度も何度もぶつかり、そのうち、「ぐえ」と短く叫んで失神した。
がさがさがさがさがさがさ。
がさがさがさがさがさがさ。
安眠を破られた洞窟中のコウモリが一斉に舞い、騒ぎだした。黒い礫《つぶて》のようにひとかたまりになった無数のコウモリたちは、比夏留の頭上すれすれを通過すると、出口から飛び出していった。
比夏留は妃桜に駆け寄ると、たしかに失神していることを確かめたあと、さっき洞窟の奥から投げつけられたものに目をやった。
それは、一体のオシラサマだった。いつ作られたものともわからない、古ぼけた木の人形だが、首もちゃんとついている。オセンダク(衣服)も、薄汚れて色あせてはいるが、高価な織物を使っていることは比夏留にもわかった。
(これ……いったい誰が……)
ごそ。
洞窟の奥からまた音がした。
「誰っ」
うわずった声が出る。何かが、暗がりから魔法のように這い出してきた。
「やあ、こんちは」
心臓がどきんと跳ねた。保志野春信《ほしのはるのぶ》だった。
「ど、ど、どーしてほほほほ保志野くんがこんなとことことこに」
舌がもつれてうまくしゃべれない。
「うちの婆ちゃの言いつけなんです。東北のA県黄頭村で忌まわしいものの蘇りがあるから、おまえはそれを防ぎにいくのじゃ、とか言われてさ……」
「えっ、保志野くんのお婆さんって霊能者なの」
「いえ、ただの占い好き」
がくっ。
「もともと頑固なうえに、最近かなりぼけてきちゃって、言うこときかないと暴れるから、家族に因果を含められて、一応来てみたら、大雨にあっちゃいまして……ここで雨宿りしてるうちに奥へ奥へと入り込んじゃって、おかげでいろいろ面白いものを見つけましたよ。この洞窟は今でこそゴミ捨て場になっているけど、かなり貴重な文化遺産ですね。たとえば、親鸞上人の壊れた木像がありました。あれはクロボトケといって、東北地方に広まっていたけれど、江戸時代に厳しく弾圧された〈隠し念仏〉で使われたものですが、かつてこの洞窟で〈隠し念仏〉の秘密集会が行われていたことはまちがいありませんね」
比夏留は、そういえば伊豆宮がそんなことを言っていたと思い出した。
「それに、この古いオシラサマ……。黒と白が対になってるのが興味深いでしょう? そうこうしてるうちに、いつのまにか眠っちゃったんです。なんだか騒がしくて起きてみたら、諸星さんたちがいて……。咄嗟に手に持っていたオシラサマを投げつけたってわけです」
「じゃあ、一部始終を……」
「うん、だいたい見ていました。なかなか面白いですね」
「人がたくさん死んだのよ。面白がってる場合じゃないわ」
「ごめんなさい。面白いといったのは、そういう意味じゃないんです。旅館でどういうことが起きたのか、もう少し詳しくききたいんですけど」
比夏留は、自分の知っている限りのことを保志野に話した。できるだけ主観をまじえずに話そうと努力したが、目に見えぬものの声を聞いたり、身体が自分の意志に反して動いたことなどは、どうしても主観的な話し方になってしまう。
「なるほど……なるほどなるほど」
最初こそ質問を挟んでいたが、そのうちに保志野は相槌を打つばかりになり、途中からは黙って比夏留の話に聞き入っていた。だが、その目が微妙な光を帯びてきているので、比夏留は彼が興奮しているとわかった。保志野は、民俗学の話に夢中になると、人格が豹変するのだ。
「ちょっと待ってください。さっき、パンティ・ストッキングで絞め殺したと言いましたね」
「ええ……それが何か」
「パンティ・ストッキング……ストッキング……スト……」
保志野は、両手で洞窟の床を叩いた。ゴミと土が舞いあがった。
「わかったああああっ!」
来たな、と比夏留は思った。
「わかったぜ、何もかも。そうか、そういうことだったのか」
「どういうこと?」
「教えてやろうか、比夏留」
「ええ」
「この洞窟の〈黒洞〉という名称は、ある人物の名前からとられたんだ」
「――もしかして、黒洞チアリ?」
「ちがうっ」
「あ、わかった。cave 真っ黒洞」
「ちがうっ。全てはこの……」
保志野はかたわらでくずおれているお嬢さまを見ると、
「妃桜貴美子という女が引き起こしたことなんだ。彼女は、姉のように慕っていた、世界でただ一人心を許せる相手だった嶋満智子のおかげで、やっと立ち直ることができかけていたのに、その嶋満智子が国家権力によって殺されたことで、再び絶望の淵に沈んでしまった。もう、誰も信じられない。妃桜貴美子は、世界を呪った。何もかも滅びてしまえ、とね。それと同時に、彼女はもう一度、嶋満智子に会いたいという欲望を抑えることができなかった。それから、全国の名高い口寄せ巫女のところを回って修行し、嶋満智子の霊をおろそうと試みたわけだ」
そう言えば、犬塚もそんなことを言っていた、と比夏留は思い出した。
「だが、どれもうまくいかなかったんだろうな。最後の望みを託してたどりついたのが、ここA県黄頭村のイタコだ。イタコのカミオロシは昔から定評がある。妃桜は、しばらく前からこのあたりに滞在して、イタコとしての修行をはじめていたんだろうよ。最初の殺人のときにイタコ用の数珠が落ちていたのもそれでわかる」
「でも、イタコって、生半可《なまはんか》な修行でなれるもんじゃないんでしょ」
「もともと素質もあったんだろうが、妃桜は、嶋満智子を蘇らせたいという狂った一念で凝り固まり、一種の鬼になっていた。常人の何十倍もの集中力を発揮したんだろうな。――とにかく妃桜は、イタコとしての能力を身につけ、カミオロシを行った。ところが……」
保志野は言葉を切ると、妃桜の横顔に目をやって、にやりと笑った。
「彼女はとんでもないものをオロシてしまったんだ」
「とんでもない……もの……?」
保志野は思い入れたっぷりに言った。
「――日本の大魔縁、崇徳《すとく》上皇」
21
「誰、それ?」
保志野はずるっとこけた。
「知らないのか! 崇徳院っていう名前なら聞いたことあるか?」
「うーん……やっぱり知らない」
「百人一首にあるだろう。『瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、割れても末に会わむとぞ思う』っていう和歌が」
比夏留は、その和歌には何となく聞き覚えたものを感じたが、
「知らない」
「落語にもあるぞ。若旦那が恋わずらいをして……」
「知らない」
「じゃあ……説明しよう」
保志野は、やれやれと肩をすくめ、リュックからパソコンを取り出してキーを叩いた。
「崇徳上皇は、一一一九年、鳥羽《とば》天皇の長男として生まれたが、彼の本当の父親は鳥羽天皇じゃなかったんだ。鳥羽天皇の祖父にあたる白河《しらかわ》法皇が崇徳上皇の母親と密通して生ませた子なんだ。そのことを、父である鳥羽天皇もちゃんと知っていて、彼のことを『叔父子《おじこ》』と呼んでいたらしい」
「ひどい話」
「崇徳は、鳥羽天皇の命令で、五歳で天皇の位に就いた。当時はそんなことは珍しくないんだ。彼は五歳から二十三歳まで在位したが、実質的な権力者は父の鳥羽上皇であって、天皇といっても彼は傀儡《かいらい》にすぎなかった。なにしろ、自分の子供でないことがわかっているのだから、そりゃあ態度も待遇も冷たかっただろうよ。そして、二十三歳のとき、鳥羽上皇の寵妃《ちょうひ》、美福門院《びふくもんいん》こと藤原|得子《とくし》が男子を生んだ。美福門院は我が子を天皇にしようと考え、鳥羽上皇にねだって、崇徳に譲位させ、かわってまだ三歳の我が子を天皇の位につけた。これが近衛《このえ》天皇だ。崇徳がどれだけ悔しい思いをしたかは想像するにあまりあるけど、鳥羽上皇の権力は絶大だったから言うことをきかざるをえなかった」
「その美福門院ってすごい悪女って感じね」
「たいへんな美人で、玉藻前《たまものまえ》のモデルだともいわれているよ」
比夏留は、玉藻前がなんだかわからなかったが、黙っていた。
「崇徳が三十七歳のとき、近衛天皇が十七歳で急逝《きゅうせい》した。待ってましたってやつだ。これで、やっと自分の時代が来た。思う存分権力を振るうことができる。彼は、自分の重祚《ちょうそ》か、もしくは自分の皇子の即位を望んだ。ところが、またしても美福門院がでしゃばって、政治《まつりごと》を動かした。近衛天皇の兄を即位させ、皇太子にはその子でのちに二条天皇となる守仁《もりひと》親王を立てたんだ。この近衛天皇の兄が、のちのち崇徳と激しく対立することになる後白河《ごしらかわ》天皇さ。これで、崇徳とその一族が権力の座につく望みは完全に断たれたわけだ」
何もかもはじめて聞く話ばかりである。
「一一五六年に鳥羽法皇が亡くなったけど、その前の年、熊野詣でをした法皇にイタという巫女が、おまえの命は来年までとご託宣を与えたと『保元《ほうげん》物語』にあるよ。イタ、すなわちイタコさ。崇徳とイタコの関係が見えてきただろ」
比夏留はうなずいた。
「鳥羽法皇の死で、崇徳上皇と後白河天皇の争いが、藤原家の争いを巻き込んだかたちで浮きあがり、内乱が勃発する。これが、保元の乱さ」
「藤原家の争いって?」
「藤原|忠通《ただみち》が美福門院と結託して、父の忠実と弟の頼長《よりなが》を失脚させたんだ。忠実と頼長は、崇徳側について旗を揚げた。皇室と摂関家を二分した大乱だけど、勝敗はすぐに決まった。崇徳上皇側の敗北で終わったんだ。味方は皆、処刑され、崇徳は捕らえられ、讃岐の地に流された」
「讃岐……香川県ってことね」
「崇徳上皇は、望郷の思い甚《はなは》だしく、大乗経というお経を三年かけて五部写経して、仁和寺《にんなじ》の宮を通じて、それらを高野山に納めたいと後白河天皇に申し出た。要するに、写経してお詫びをしたから、都に帰らせてほしいということだ。平城《へいぜい》上皇が嵯峨《さが》天皇に対して乱を起こして敗北したときに、嵯峨天皇は、平城上皇を出家させるだけの寛大な処置をとり、流刑《るけい》になどしなかった。保元の乱については、後白河天皇側の挑発に崇徳側が乗ってしまったようなところもあり、ましてや、後白河天皇は、一時、崇徳の邸内に住んでいたこともある。崇徳上皇は、後白河天皇が許してくれると思ったんだろうな。でも、そうはことは運ばなかった。後白河天皇の側近、少納言藤原信西入道が、この五部経を受け入れることを拒んで、崇徳に突っ返したんだ」
「あちゃー」
「崇徳上皇は怒った。われ、生きても無益《むやく》なり、と言って、その後は、髪の毛も爪も伸ばし放題にして、『生きながら天狗の姿にならせ給うぞ浅ましき』というおぞましい姿になった。『われ深き罪におこなわれ、愁鬱浅からず。速やかにこの功力《くりき》をもって、かの科を救わんと思う莫大の行業を、しかしながら三悪道になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん』と叫んで、自分の舌先を噛みちぎって、あふれる血潮で、送り返されてきた大乗経の裏に誓文を書いて、海の底に沈めたそうだよ」
「むちゃくちゃね」
「それだけ凄まじい怒りだったということさ。九年間の配所生活のすえに亡くなり、白峰山というところに葬られた。そのとき、一天にわかにかき曇り、ものすごい雷雨になった」
「――ちょうど、今みたいにね」
「そう。今みたいにね。崇徳上皇を入れた棺《ひつぎ》を石のうえに置いて、風雨がおさまるのを待っていたところ、棺のなかから血流が溢れだして、あたりを真っ赤に染めたそうだよ。その場所は今でも『血の宮』という神社がたっている」
「血の宮……すごい名前」
「こうして崇徳上皇は死んだ。都では疫病が流行し、反崇徳側の人々の死が相次いだ。平治の乱が起きたのも、藤原信西の死も、美福門院の死もみな、崇徳のしわざだと怖れられた。後白河上皇も病に倒れた。人々は、崇徳上皇の怨霊の祟りだと噂しあった。こういった怨霊の特徴ってわかるか?」
「さ、さあ……」
「激しい雷を伴うことだ。菅原道真もそうだけど、恨みをのんで死んだ権力者が祟りをなすときは、雷になることが多いんだ」
「――ちょうど、今みたいにね」
「そう。今みたいにね。後白河天皇は、もともと讃岐院と呼ばれていた崇徳上皇に『崇徳院』の号を贈り、頓証寺という寺を建立して崇徳の鎮魂をはかったけど、うまくいかなかった。後白河上皇側について活躍した平清盛の狂死も、崇徳院の祟りだという噂がたった」
「…………」
「崇徳院は、死んでのちも恨みを忘れることなく、三メートルもの翼を持つ、巨大な金色の鳶《とび》の姿となって、淳仁《じゅんにん》天皇、後醍醐《ごだいご》天皇、後鳥羽《ごとば》上皇、頼豪《らいごう》といった他の大勢の謀反人《むほんにん》を従えて、愛宕山《あたごやま》の山中で、世の中に擾乱《じょうらん》を起こすための密議を行っている、と『太平記』をはじめ、いろんな書物に書かれているよ。これを天狗|評定《ひょうじょう》というんだけど、世の中に天変地異や大乱が起きるたびに、これは崇徳院の祟りだと言い出す人が今でもいる」
「まさか」
「ほんとさ。江戸時代も終わりの一八六三年には崇徳院の七百回忌が行われたけど、これは尊皇攘夷《そんのうじょうい》で日本がぐちゃぐちゃになっていることに、崇徳の影を感じたからだろう。明治元年には、明治天皇の勅使《ちょくし》が讃岐の白峰陵に赴いて儀式を行い、崇徳の霊を京都の白峰神宮に招いて神に祀りあげた。明治維新がはじまった年ですら、そんな状態だったんだ」
「ふーん……なるほど……」
比夏留は腕組みして唸った。世の中には自分が知らないことが多すぎる。
「崇徳院がどんな人かはわかったけど、どうして妃桜さんがその霊をオロシてしまったってわかったの?」
「ストッキングで殺したからさ」
「は?」
「崇徳院……ストクイン……ストックイン……ストッキング……似てるだろ」
22
「まじめな話だと思って真剣に聞いてたのに!」
「真面目な話だよ。人間の行動は、その名前に支配されるんだ。たとえば、何の色にも染まっていない赤ん坊に『悪魔』という名前をつけたら、その子は悪魔的な資質を持つようになる。自分が『悪魔』だと認識するからだ」
「よくわからないけど、崇徳院という名前だから、ストッキングを使って殺したってこと?」
「そのとおり」
「でも、どうして妃桜さんは嶋満智子をオロスつもりだったのに、崇徳院の霊を呼び起こしてしまったんだろ」
「おそらく、彼女は『|最悪の女王《ワースト・クイーン》』を蘇らせるつもりで祈ったのさ」
「へ?」
「わかんねーかな。最悪の女王……ワースト・クイーン……スト・クイーン……」
「そんな馬鹿なこと」
「そうとしか考えられないだろ。もちろん、本当は霊だの祟りだの憑依だのといったものはないんだ、という考え方もできるぜ。妃桜貴美子は香川の出身だ。小さい頃から、地元で憤死した悲運の天皇のことを聞かされていたんだろう。『恨み』というキーワードが、彼女の心の奥深く眠る『崇徳院』という名前と結びついたのかもしれない。それと、嶋満智子を失った妃桜は、世界がめちゃめちゃになってしまえばいい、と望んでいたはずだ。この想いは、崇徳院と共通する。そんなことから、妃桜貴美子の怨念は、地下深く眠る崇徳院とシンクロしてしまい、稀代の大魔王をこの世に蘇らせてしまうことになったわけさ」
「――妃桜さんはなぜあの三人を殺したの? 誰でもよかったわけ?」
「ちがうよ。それにもちゃんと意味があるんだ。最初に殺されたのは女中の多田路子。美福門院と結託して、保元の乱の原因を作ったのは……藤原忠通」
「嘘」
「それをカルヴィーノさんに見つかって、雨のなかを逃走したので、戻ってきたときには泥だらけになっていた。風呂場で倒れていたのは、その泥を洗ったあとだったからだろう。気絶していたのは、崇徳院の霊がいったん離れたからだと思う。イタコはみんな、カミオロシをしたあとは失神するみたいだからね」
「…………」
「次に殺されたのは、板前の藤原信二。崇徳院が贈った五部の大乗経を受け入れなかったのは……藤原信西。彼が比夏留たちの部屋で死んでいたのは、酔っぱらって、君たちのうちの誰かを襲うつもりだったんじゃないかな」
そう言えば、彼は女癖が悪いと女将が言っていたっけ……。
「そして、女将の藤原徳子も殺された。美福門院の本名は……藤原得子」
「そんな、語呂合わせみたいなことで、人が三人も殺されたっていうの? むちゃくちゃよ! そんなことあるはずない……」
と言いかけて、比夏留はふと思い出した。犬塚も、妃桜に襲われたわけだが、犬塚が宿泊者台帳に書いていた名前は、たしか……森広志乃……。
「守仁親王……」
「え? 何だって?」
「ううん、何でもないの。じゃあ……じゃあ、私に憑いた霊は何なの? なぜ、崇徳院の霊は、オシラサマを嫌がるの?」
「それも、比夏留が、神経がまいっちまってたからそうなったって可能性もある。でも、もうひとつの可能性を探ってみよう」
「もう一つの可能性?」
「オシラサマというのは、東北地方全域で祀られてる神さまで、養蚕と関係があるとか、馬と関係があるとかいわれてるけど、ほんとのところはわかんねーし、オシラという名前の由来も明らかじゃない。もともとオシラサマもしくはオシラガミという神さまの信仰があって、あとから馬娘婚姻譚とか養蚕起源説なんかが習合したという説のほうが信憑性があるんだ」
そのへんのことは犬塚に聞かされて比夏留も知っていた。
「現時点で確認できるのは、オシラサマとイタコの関係だけだが、オシラサマの起源には、別系統のものがあるんだ」
「ああ、キシュリューリタンとかいうやつね」
それも犬塚に聞いたのだ。
「よく知ってるな。どういう意味かわかる?」
「もちろん知りません」
「貴種流離譚というのは、高貴な家柄の英雄が何かの理由で放浪の旅に出て、いろいろな困難にあうというタイプの話で、素戔嗚尊《すさのおのみこと》、大国主命《おおくにぬしのみこと》、光源氏《ひかるげんじ》、在原業平《ありわらのなりひら》なんかが代表だけど、オシラサマの場合は、中国からウツボ舟で日本に渡ってきた貴族の娘の死体にカイコが発生したというんだ。この話自体はよくあるパターンで、べつに珍しいものじゃないけど、問題は、オシラサマの起源のひとつに貴種流離譚がある、という事実だ。俺は、オシラサマは、ある高貴な人物がこの地に逃げのびてきて、それを人々が神と崇めたのが最初なんじゃないかと思うんだ」
「ある高貴な人物?」
「いくら高貴でも、ただの貴族だったら、神として祀られることはめったにないだろう。人間であり神でもある存在は、日本では現人神《あらひとがみ》、つまり、天皇しかありえない。崇徳院の最大の敵といったら誰かな。保元の乱で真っ向から対立し、自分を讃岐に流した人物……後白河[#「後白河」に傍点]上皇だ。後白河さまがなまって、オシラサマになったとしても不思議はないだろう」
「で、でも、それは無理よ。後白河上皇がこんなところまで落ちのびてきたなんて考えられないもの」
「俺も、本人が来たとは言ってないよ。後白河上皇は、保元の乱で崇徳側に勝利したけど、武門の頭領だった平家一族が台頭してきて、上皇と平家は次第に対立するようになり、平清盛は、後白河上皇を鳥羽殿に幽閉した。源氏と平家の争いが起こると、上皇は源氏方にくみし、ことに頼朝《よりとも》・義経《よしつね》兄弟をかわいがった。源義経のことは知ってるよね」
「知って……るかも」
「幼名は牛若丸《うしわかまる》、そののち、九郎判官《くろうはんがん》と名乗る。鞍馬山《くらまやま》で天狗から剣術を学んだという言い伝えがある。この義経の活躍で、平家が壇ノ浦で滅びたあと、上皇は頼朝・義経が大きな勢力になることを懸念して、ことさら義経をひきたてたんだ。義経にとって、後白河上皇は神にも勝る後ろ盾だっただろうね。ところが、義経は兄頼朝の不興をかって、追放され、奥州に逃れて、藤原|秀衡《ひでひら》に助けを求めたが、頼朝の命を受けたその息子|泰衡《やすひら》の襲撃を受け、衣川《ころもがわ》で自害した……というのが、義経の半生だ。けど、実は、義経は衣川では死んでいなかった、とする伝説は星の数ほどある。鞍馬の大天狗に助けられて僧侶となった、とか、その後も逃亡を続けて、蝦夷地《えぞち》に渡り、オキクルミ大王になった、とか、大陸にいってジンギスカンになったとか……。東北から北海道のあたりには、義経神社というのがいっぱいあるんだ。たとえば、青森県東津軽郡の三厩《みんまや》村には、ここから義経が北海道に渡ったという言い伝えがある。義経こそは、日本の貴種流離譚の代表的人物だろうな」
「ふーん……。で、それとさっきの話とどうつながるの」
「奥州衣川の戦いで破れた義経が、自決せず、ここまで流れてきて、この洞窟に隠れ潜んでいたとしたら?」
「ここに……?」
比夏留はあたりを見回した。こんなゴミだらけの汚い洞窟に……?
「家来の弁慶《べんけい》や常陸坊海尊《ひたちぼうかいそん》らを失い、ひとりぼっちになった義経はこの洞窟に棲み、追っ手の影に脅えながら過ごしていた。おそらく、彼に同情した地元の民が、食べ物なんかを差し入れていたんだろうな。かつての栄光の日々を思いだし、涙したこともあったかもしれない。そんな逃亡生活の心の拠り所として、彼が、木片を削って、尊敬する後白河上皇の人形《ひとがた》とし、この苦境から救ってくれるよう、日々、拝んでいたとしても不思議はない。それが、地元の人々の目に触れ、後白河さま……オシラサマとして伝わったんじゃないかな。そう考えれば、オシラサマの起源に、貴種流離譚があるのも、納得できる」
「かなり牽強付会《けんきょうふかい》じゃない?」
「そうかな。この洞窟の名前、覚えてるかい」
「えーと……〈黒洞〉だったっけ……。あっ!」
「そう、九郎判官の棲んでいた洞窟、九郎洞が〈黒洞〉になったのさ。ちゃんちゃん」
「それじゃ、クロボトケのクロというのも……」
「九郎から来てるのかもね。そもそも義経が自害したと伝えられている奥州には、安達《あだち》ケ原《はら》の鬼婆が籠っていたという黒塚《くろづか》の伝説が有名だけど、あれも義経の隠れ場所の一つで、もともと九郎塚と呼ばれていたんじゃないか、と俺は思ってるんだ」
なんだか、ほんとにそうかもしれない、という気になってきた。
「後白河上皇は、源頼朝から『日本国第一の大天狗』と呼ばれているほどの人物だし、崇徳院にとっては最も憎むべき、そして、最も嫌な相手だったはずだ。だから、殺人をする前に、旅館の中のオシラサマを壊したんだろう」
「でも、この古いオシラサマには、逆にやられちゃったみたい」
「これは、源義経が自ら作ったオリジナルかもしれない。だとしたらこのオシラサマを崇徳院の霊が怖れたとしてもおかしくないだろ」
「…………」
「牛若丸に剣術を教えたのは、鞍馬山の大天狗。崇徳院は恨みのために生きながら天狗の姿になった。後白河上皇は日本国第一の大天狗。一連の話には、必ず天狗が出てくるんだ。おもしろいだろ」
比夏留にはあまり面白いとは思えなかった。それより、気になることがある。
「それじゃ、私に取り憑いた霊は、後白河上皇だったの?」
「そういう解釈もできる。でも……俺は、人違いだったんじゃないか、と思うんだ」
「ひ、人違い?」
「今回のできごとには、どこかに巫女の影があるように思う。それも、すごく力の強い巫女のね」
「妃桜さんじゃないの」
「ちがうね。彼女は、自ら望んでイタコになり、嶋満智子の霊をオロそうとした。それ以外に、とても霊力の強い巫女的存在がいて、その人物が、妃桜貴美子や、崇徳上皇の霊や、後白河上皇の霊を、この場所に無意識のうちに呼び寄せたんじゃないかと思う。だから、後白河上皇の霊は、比夏留じゃなくて、その人物におりる予定だったのが、その人物に拒絶されて、しかたなく比夏留に憑いたのさ」
「どうして拒絶したのかな」
「その人物は、自分が巫女的体質であることが嫌で嫌でたまらないんじゃないかな。何もかもわかったうえで、知らないふりをして、じっとことの成り行きを見守っているんだ」
「そ、それって誰?」
「当ててみろよ」
「そんなこと言ったって……あ、わかった。カルヴィーノさんだ」
「なぜ、そう思う?」
「カルヴィーノさんって、きっと、名前はイタロっていうのよ。イタロ・カルヴィーノ」
「だから?」
「イタコのイタロっていうでしょ」
「残念だけど、それはちがう。巫女見違《みこみちが》いってやつだ」
「じゃあ、誰?」
「それは……ご本人の口からおききしよう」
そう言って、保志野は洞窟の入り口のほうを見た。
23
雨はすでにやんでおり、いのりとカルヴィーノがそこにいた。カルヴィーノは、何か大きな荷物を両手で抱えている。
「いのりさん、あなたが巫女なんですね」
いのりはうなだれている。その肩をカルヴィーノが優しくさすっている。しばらくして、カルヴィーノが口を開いた。
「私は、ある目的をもって、あの旅館に来ましたでした。ところが、私は、いのりさんを一目で好きになりました。いのりさんも私に好意をもってくれました。しかし、私は自分の目的をいのりさんに打ち明けることができませんでした。嫌われるのではないか、と怖れたからです。嘘をつくこともつらいですが、真実を話すことも地獄のようにつらいです。日本でなんといいましたか。えーと……イタコ、一枚舌は地獄、ですか。私は、いのりさんから手紙をもらいました。そこには、私を愛しているという告白とともに、隠しごとをせず、何もかも包み隠さず打ち明けあう関係になりたい、と書かれていました。私は、いのりさんにだけは正直であらねばならないと決意し、『そうありたい』と書いた手紙をいのりさんの部屋の扉の下から差し込みました。ところが……そうしたつもりが、私はまちがって、女将さんの部屋に手紙を入れてしまったのです。逆さまに書いてしまって、女将さんには誤解を受けましたが……」
保志野が言った。
「この事件では、『人の名前』が鍵になっている。たとえば、『いのり』という名前をローマ字で書き、逆さから読むとironiとなるけど、ironyというのは皮肉という意味のほかに、もうひとつ、哲学用語としての意味がある。ソクラテスの問答方法で、自分は無知を装いながら、相手の無知を暴くというもんだ。いのりさん、あなたは最初から何もかも知っていたんだ。犯人も、その動機も。だけど、見て見ぬふりをして、じっと耐えていたんだよね」
「私は……怖いんだ」
いのりが言った。
「イタコの修行なんかしたことねえのに、勝手に霊がおりてきて、知らなくてもいいことをむりやり教えられるんだ。どんなに拒んでも拒みきれね。今度のことも、お母ちゃんや兄ちゃんが殺されることも、誰が殺ったかもわかってたけんど、口にするのが怖くて……」
いのりは泣きだした。
「いのりさんは、肉親を亡くして一人になってしまったです。私と同じですね。でも、これからは、私がついています。いのりさんを支えて一緒に生きていくつもりです」
カルヴィーノは力強く言い切った。
「いのりさん、もし、あなたに巫女としての能力《ちから》があるのなら、妃桜貴美子さんに憑いた霊を祓ってもらえませんか」
比夏留が言うと、いのりは涙を拭き、少しの間考えていたが、
「わかり……ました。やったことはありませんが、聞き覚えで……」
いのりは、オシラサマを両手で捧げ持つと、ゆっくりと文言を唱えはじめた。
「きみょうちょうらいこかげさん……きみょうちょうらいこかげさん……今日《こんにち》はオシラサマ、オシラサマ、オシラ法皇さま、ありがたや、願いのとおり、ここなる女、妃桜貴美子に取り憑きたる悪霊、邪霊、犬霊、猫霊、蛇霊、その他いっさいの雑霊のたぐいを、とらせたまえ、おとさせたまえ、はらいたまえ、きよめたまえ、かえすがえす、お願い申す、願いのとおり、願い申す。一心かけて今日願いのとおり、邪霊、悪霊祓えますように、かえすがえすお願い申す、一心かけてお願い申す……」
血を塗ったみたいに顔を赤くして、オシラサマを最初は小さく、次第に大きく打ち振っていたが、そのうち、空中をぐるぐると円を描くようにして、何度も何度も回転させた。やがて、ぴたりとその動きがとまり、
「崇徳さまの霊は……すでにここにはいらっしゃいません。讃岐に……お戻りに……なられたそうでございます」
そう言って、カルヴィーノの腕のなかに崩れ落ちた。
その姿勢のまま、二人は寄り添ったまま、洞窟を出ていった。
「あの二人……お似合いね」
少しうらやましげに比夏留は言った。
「そうですね」
とくにうらやましそうでもなく、保志野が言った。
「ところで、さっきの技、凄かったな。何ていう名前だ?」
「名前はとくにないけど……」
「じゃあ、俺がつけてやろう。衝撃で、洞窟中のコウモリががさがさ飛び立っていったから、秘技〈コウモリがさ〉っていうのはどうかな」
「そんなことどうでもいいんだけど、結局、カルヴィーノさんの目的って何だったのかなあ……」
「わかりませんか?」
普通モードに戻ったらしい保志野が言った。
「わからない」
「あっさり言わないでよ。考えてみて」
「うーん……うーん……うーん……もしかしたら……」
比夏留は自信なげに、
「あの備前焼の壺?」
「ピンポーン! すごいです。どうしてわかったんですか?」
「だって、カルヴィーノさん、大きな荷物を持ってたでしょ。あれってちょうど、あの壺と同じぐらいの大きさだったから」
「それだけ?」
「もうひとつ……昔から言うでしょ。カルヴィーノ・河童絵・備前って」
「何だって? 聞こえませんでした」
「カルヴィーノ・河童絵・備前って」
「まだ聞こえませんよ。もう一度」
「カルヴィーノ……あーっ、もう嫌。何度も言わせないでよ、恥ずかしいんだから」
「でも、それ、正解ですよ。きっとあの壺は、カルヴィーノさんのお父さんの宝ものだったんじゃないでしょうか。それを〈河童屋〉の先代が、借金のかたにふんだくって……。今さら、実証はできないけど、だまして奪い取ったのかもしれません。カルヴィーノさんは、本来お父さんのものであるあの壺を取り返しに来たんです。夜中に、壺の置いてある部屋のところにいた理由もわかったでしょ?」
それは、ただの推測に過ぎなかったが、比夏留には腑に落ちる話だった。彼女は大きく伸びをし、
「これで、何もかも解決ね。ほんとに霊のしわざなのか、それとも全部自然現象だったのかはわからないままだけど、でも……こんな駄洒落《だじゃれ》ばっかりで事件が解決していいのかな」
「駄洒落じゃないですよ。言霊です」
保志野は少し怒ったように言った。
「なんだかしらないけど、とにかく……」
比夏留は叫んだ。
「おなかすいたああああ!」
その声は洞窟中に響きわたり、残っていたコウモリが数匹、がさがさと飛び出した。
エピローグ1
今朝までの雷雨が嘘のような晴天だった。警察の微に入り細にわたった徹底的な事情聴取を受けたあと、比夏留たちが解放されたのは、もう昼過ぎだった。妃桜貴美子は容疑者として逮捕された。今度のことも、彼女の親が揉み消すことができるかどうかはさだかではない。カルヴィーノといのりは、参考人として警察が探しているようだったが、比夏留は、彼らの行き先については知らなかったし、知っていたとしても、何も言うつもりはなかった。ただ、二人が無事に逃げおおせることを祈っていた。
皆は、どうにかこうにか修繕なった橋のたもとに立ち、旅館〈河童屋〉を振り返っていた。
「ひでえ事件だったよな」
と白壁。
「私、もう死体は一生分見たわ」
と伊豆宮。
「早く帰りたいっす……」
と浦飯。
「〈黒洞〉の謎が解けたからいいじゃない。やっぱ、比夏留ちゃんはさすがよね。〈黒洞〉が九郎判官からきているだなんて、センスあるう」
と犬塚。比夏留は、泣き笑いのような顔で何も応えなかった。黒洞チアリだと思っていたことは内緒だ。
「オシラサマが後白河上皇から来ているってのも、ナイスじゃねえか。おいらが思いつけなかったのは、残念|閔子騫《びんしけん》だぜ。それがほんとかどうかは、誰にもわからねえけどな」
「ほんとよね。今回も、比夏留ちゃんに完敗。実は民俗学のこと知らないっていうの、嘘だったりして」
犬塚が悪戯っぽい目つきで比夏留を見、比夏留は下を向く。保志野は、自分が来たことと、謎を解き明かしたことは、絶対に誰にも言うなと釘を刺して、先に帰ってしまったのだ。
「でもさ、いくらなんでも、どれもこれも駄洒落ばっかりじゃない?」
伊豆宮が笑いながら言うと、比夏留はきっとした顔で、
「駄洒落じゃありません。言霊ですっ」
白壁が、旅館に背を向けると、
「さ、行こか」
皆は、ぞろぞろと橋を渡った。一番最後に橋に足をかけた比夏留は、何気なく側の電柱を見た。レトルトカレーの錆びた広告の横に、村岡某とかいう演歌歌手のレコードの宣伝用ポスターが貼られている。
「おーい、比夏留ちゃん、早くっ」
橋の向こうで犬塚が手を振り、比夏留は「はーい!」と応えて、「A面:だきしめたい・B面:青森の渡り鳥」と大書されたそのポスターを横目に駆けだした。
エピローグ2
ブラックジャックで膨大な金額の借金ができた比夏留は、後日、白壁の入れ知恵により、二十六億三千九百万円を賭けたじゃんけん一発勝負を伊豆宮に申し入れた。拒否する伊豆宮に、勝ち逃げはずるい、と言い立てて、むりやり承諾させ、その勝負に勝って、借金は帳消しになった。白壁の話によると、伊豆宮はじゃんけんだけは滅法弱いのだそうだ。
[#改ページ]
本作品の執筆にあたって、石戸谷郁生さんに貴重なご助言を賜りました。この場を借りて御礼申しあげます。
本作中の引用は、
○「絵本百物語――桃山人夜話――」竹原春泉画・桃山人文・霧嶋渡訳・多田克己編(国書刊行会)
○「日本書紀 巻第一神代・〔上〕〜巻第十応神天皇」小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳(小学館「新編日本古典文学全集2」)
○「英草紙 西山物語 雨月物語 春雨物語」中村幸彦・高田衛・中村博保校注・訳(小学館「日本古典文学全集48」)
によるものです。
また資料として、
○「日本妖怪異聞録」小松和彦著(小学館)
○「魔の系譜」谷川健一著(講談社学術文庫)
を参考にさせていただき、一部を引用させていただきました。
著者、校注者、訳者、編者ならびに出版元に心より御礼申しあげます。
なお、本作品はフィクションであり、登場する地名、人名、団体名、宗教名その他はすべて架空のものであり、実在の事物には一切関わりありません。万一、類似が見られた場合は、偶然の結果であることをお断りしておきます。
[#地付き]著者
[#改ページ]
底本
講談社 KODANSHA NOVELS
蓬莱洞《ほうらいどう》の研究《けんきゅう》
著 者――田中啓文《たなかひろふみ》
二〇〇二年十月五日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社 講談社
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
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底本のまま
・出世法螺《しゅつせぼら》
・出世螺《しゅっせぼら》
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6
|※《め》 ※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53