大久保町の決闘
原作・脚本・監督 田中哲弥/イラスト 此路あゆみ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大久保町《おおくぼちょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)普通電車|播州《ばんしゅう》赤穂《あこう》行き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#丸1、1-13-1]
○:伏せ字
(例)○○さん
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大久保町は東経百三十五度の子午線上、日本標準時の都市として知られる兵庫県明石市の西部に位置する町で、実際に存在する。
町のありよう、住民の生活などもだいたいこの本に書かれているとおりである。そこに住む人々は、いったいなにによって生計を立てているのかよくわからないような暮らしをしており、男たちのほとんどは常に拳銃を携帯している。
もちろん大久保町においても殺人は重罪であり、犯罪者は陪審員制の裁判にかけられ縛り首となることもある。しかし今なお『決闘』は認められている。正々堂々、決闘によって相手を殺した場合は罪に問われることはない。これは今も昔も変わりはない。
とはいえ日常的に発生する冗談とも本気ともつかない殴り合いや、むやみに物を壊すという大久保町住民特有の不可解な行為などは別としても、こと決闘に関しては開拓時代に見られたほど頻繁には行われなくなってきているのも事実である。
二十一世紀を前にして、そうそう野蛮なこともしていられないということであろう。最近ではまる一日決闘のない日があったりする。
現在大久保町を守っているのは毛利新蔵保安官である。すでに伝説とさえいえる彼の早撃ちは、そのあまりの早さのために動作がまったく見えず、かつて一度に六人の相手をしたときも銃声は大きな一発しか聞こえなかったという。
信じがたい話であるが、事実である。この本に嘘はない。
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Chapter
一日目
二日目
三日目
四日目
五日目
新作ストーリー「三人の名付け親」
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Special
Cast & Staff 登場人物一覧
Audio Commentary オーディオコメンタリー
Origianl Commentary 田中哲弥によるオリジナル解説
Original Trailer 田中哲弥によるオリジナル予告篇
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Cast & Staff
●出演
笠置光則…………大久保町にやってきた高校三年生
杉野紅葉…………光則のおばあちゃんに琴を習っている少女
杉野清美…………紅葉の兄。黒人のガンマン
宮本丸雄…………流れ者の酔っぱらい
太田彦右衛門……大久保町の保安官助手
おばあちゃん……光則のおばあちゃん
村安秀聡…………村安一家の主
村安太郎…………村安一家の長男
村安明……………村安一家の次男
村安末男…………村安一家の三男
村安終……………村安一家の四男
河合茂平…………村安秀聡の部下
ゴーマ神父………大久保町で教会と酒場を営む神父
シゲさん…………双子のおっさん
トシさん…………双子のおっさん
杉野伝六…………清美と紅葉の父
笠置詠……………光則の父
毛利新蔵…………大久保町の保安官
●原作・脚本・監督
田中哲弥
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一日目
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1
電車は西明石《にしあかし》駅に着いた。大久保駅は次である。
新快速電車は西明石を過ぎると、大久保、魚住《うおずみ》、土山《つちやま》、東加古川《ひがしかこがわ》を通り過ぎ、いきなり加古川まで行ってしまうらしい。ここで普通電車に乗り換えるのだ。
|三ノ宮《さんのみや》、神戸《こうべ》、明石《あかし》と来て、明石駅を出たあたりから、ちょっと田舎臭くなってきたかなあという感じはしたものの、プラットホームから見まわしたところ、西明石駅周辺もごく普通の日本の街だった。駅の造りも、決して田舎という感じではない。普通の駅である。
あたりまえだ。
大久保町《おおくぼちょう》はガンマンの町だ。と、父は言った。だから命がけで行けと。
あほらしい。
だいたいまあ、光則《みつのり》の家族というのはふざけてばかりいる。特に父はひどい。母も妹もよくふざけるが、父はすごい。よくよく考えてゆっくり思い出してみれば、ふざけていないときも、たまにはあるかなあどうかなあというくらい、のべつふざけている。
そういう血筋なのだそうだ。
だからしかたないよ。と言う。
しかし。
血筋で片づけてしまっていいものと悪いものがこの世の中にはありましょう、うっかりコップを落として割ってしまって、
「いやあうっかり屋の血筋だから」これくらいは許されるかもしれないが、人を殺して、
「遺伝遺伝」
絶対許してもらえない。
「普通電車|播州《ばんしゅう》赤穂《あこう》行きは、六番線からの発車です」と、アナウンスがあった。
バンシュウアコウ。
ものすごい響きだ。
バンシュウアコウ。
モモチサンダユウ、というのに似ている。
あと、水戸《みと》黄門《こうもん》漫遊記《まんゆうき》、長七郎《ちょうしちろう》天下御免《てんかごめん》、江戸《えど》南町《みなみまち》奉行《ぶぎょう》大岡《おおおか》越前守《えちぜんのかみ》忠相《ただすけ》にもちょっと似ているな、と光則は思った。全然ちがうか。
「大久保、魚住、東加古川へお越しのお客様は、橋をわたって六番線へおまわりください」ていねいなアナウンスである。西明石駅には新幹線も停まる。けっこう大きな駅なのだ。ホームとホームをつなぐ橋だって、鉄筋の立派なものである。
なにが「ちょっと信じられないような土地」だ。まったく普通じゃないか。光則は父の言葉を思い出して、軽く溜め息をついた。
高架橋の階段を光則が上がりかけたとき、上からキャラキャラとした声が聞こえてきた。
「でねでね山本先生にねミツコがねそおーんなわけないでしょおみたいなうそー」
声に反応してふとその方を見てしまった光則の、胸のあたりがぐきっとうねった。
階段を下りてくる白く長い脚。全部で六本あったが四本は形が気に入らないからどうでもいい。ほとんど見ていない。一組だけ。短い半ズボンのようなスカートのような、それはキュロットというのだが光則はそんなことは知らない。ただ、脚にどきどきする。
あからさまに見てはいけないと思うので、いやぼくは別にそんな脚ほんとまったくどうでもいいんだよ、という顔を無理矢理つくってよそを見るが、すれちがいざままた我慢できずに見てしまう。
顔を見ようとしたのである。
どーんときた。
「脚」の女の子の上半身は真っ白の、ぶかぶかのスクール水着の上だけみたいな、それはタンクトップというのだがそんなことも光則は知らず、二の腕の白さと胸の膨らみに、頭の芯が爆《は》ぜる。
「ばっくし」くしゃみが出た。光則は性的興奮をするとくしゃみが出る。だから、くしゃみが出そうで出ない、というときなど、ちょっとやらしいことを考えてみると、簡単にくしゃみが出る。これはちょっと便利なので、一度試してみてください。
三人の女の子は、光則のことなど全然見ないで階段を下りていった。たぶん、プールか海にでも行くのだろう。実に開放的な姿であった。水着と変わらないぞあれば。
あ、顔見なかった。
でも、特にどうということもない女の子でも、すらりと脚を見せられただけで結婚のことなども考えてしまったりするものである。普通はどうだか光則にはわからないが、光則はそうである。
これでは、家にいるのと変わりがないぞ。せっかくこんなバンシュウアコウなところまで来た意味がない。
受験勉強に集中するために、やってきたのに。
高校三年生の夏休み。勉強しなきゃいかん、という気はある。気が狂いそうになる。
しかし家にいると、漫画はある、テレビはある、ゲームはある、猫は机でうんこする、玄関の前の道を女の子は歩いていく、妹はおにいちゃんお兄ちゃんとなついてくれるのはうれしいがやかましいし、最近は脚も綺麗になってしまって自分の妹なのにそんなこと気になって俺変態じゃないかなあと本当に気が散ってしょうがない。なんにもできない。気がつくと一日が終わっていて、今日一日なにをやったかと考えてみたときになんでか『アキラ』を初めからまた全部読んでしまったとか、なんでこんなことを今頃しているのだろうと思いつつも、五年くらいほっておいた窓のブラインドの掃除をしたりしているのである。受験前に、埃をかぶって灰色の毛が生えたみたいになっていたブラインドが、ぴかぴかの真っ白になったからといって、どこの大学に行けるというのか。情けない。自分が。
ばあちゃんから手紙が来たのは、夏休みに入って一週間も経った頃だったろうか。一度みんなで遊びに来いと書いてあった。
「みんなでっ。あそびにっ」それを読んで光則の母は叫んだ。「行けるわけないでしょあんなところ。奈美《なみ》だっているのに」奈美というのが妹で、脚の綺麗な中学三年生であるが、母がなぜ「叫ぶ」のかよくわからなかった。昔なにかあったのかと思っていると、少し考えていた父が、「行ってみるか、光則」と言った。そしてつけたした。「ちょっと信じられないような土地だけど」
「そんなに田舎なの?」
「まあな」
ど田舎なら勉強しやすいかもなあ、と光則は言った。
やられた。
ガンマンの町だから死ぬかもしんないよ、などと言うのが、いつものおふざけだとはいくらなんでもわかったが、田舎ですらないとは。
まったくはじめっから全部ふざけていただけだったのだ。
母など、
「行かないほうがいいよ、やめといたほうがいいよ」と、泣いてさえいた。
うそ泣きだったのだ。
なんて親だ。
なにがガンマンの町だ。
可愛い女の子が綺麗な白い脚すらりと見せて、きゃあきゃあ歩いているじゃないか。嬉しかったけど。
ここは嬉しくてはいかんのだ。
受験なのに。
電車が来た。
降りる人も乗る人もあまりいない。光則が乗り込んだ車両には、もう誰もいなかった。平日のお昼とはいえ、この人の少なさはやはり田舎かもしれない。電車のたてる機械音だけがしゅうしゅうと聞こえ、変に静かだった。さっき階段ですれちがった女の子たちの声が、ふたつ向こうのホームから聞こえてくる。光則はあわててそっちを見てみたが、見えなかった。もう一度あの脚が見たかったけど、しかたがない。しかたがない、と思いながらも、今頃になってどんな顔をしていたのかものすごく気になる。髪の毛はあんなに長いのよりどっちかというと短い方が好きだけどひょっとしたら長い髪がよく似合っていてそれはそれでめちゃくちゃ可愛かったかもしれんしなあ見たかったなあ。というわけでドアが閉まり電車が走りだすと、窓から見えないかと不自然に首をねじるようなことまでして見てみる。やっぱり見えなかった。
あーあと。
けどもまあ、どうしてこう落ちつかないのかな、と光則は近くの座席に座る。
脚くらいでどきどきして、ひょこっとそれで結婚してしまったりしたら、やっぱりのちのち不幸になるのだろうな、と思う。そらそうだろうな。脚がやさしくしてくれるわけじゃなし。元気づけてくれるわけでもなし。いや。
それはあるかもしれないな。うん。あるかもしれない。元気は出るかもしれないな。
ぼく変なのかなあ、と綺麗な脚と暮らす幸せを想像してふわふわと、ふと窓の外を見て驚いた。
景色が激変している。
なにこれ。
あわてて光則は今出たばかりの西明石駅の方を、窓ガラスに顔を押しつけて振り返って見た。もう駅は見えない。ただ、駅周辺の、ファミリーレストランとビデオショップの看板が遠ざかっていくのだけが見えた。
遠ざかっていく。
看板が見えなくなると、光則はいきなり女子高の体育の授業に放り込まれたような心細さを覚えた。心の奥底では嬉しくてわくわくするのに、同時にものすごく困るのである。
都市の匂いがみごとに消えた。
光則は、自分では全然気がついていないが口を開け、眉間に皺を寄せて首をゆっくり、大きく左右に動かしていた。見える景色にびっくりしていた。
「おおお」声がもれるほど、びっくりだ。
窓の外には、広大な荒野が果てしなく広がっていた。地平線に乗っかったような淡色の山脈が遠くに霞《かす》み、見渡すかぎり連なっている。
ほんとうに、なにもなかった。
反対側の窓からも、似たような風景が見えた。こっちの方は、どっと開けた平野の向こうに、青くきらめく海がある。陸と海の境目ははっきりしない。大地の、うすぼんやりとした茶色と、海の青と、空の青と、雲の白。平野のところどころに見える緑。だれかがそばにいたら、抱きついてキスしたいくらいに美しい。こんな景色は、写真でも見たことがなかった。馬鹿馬鹿しいほど広い大地の中を、電車が走っている。光則は、今まで感じたことのない種類の感銘を受けていた。地面が広く、なんにもないと、空も広い。
なんだか嬉しくてたまらない。
電車が速度を落としはじめた。
「大久保おーくぼー」車内アナウンスが間のびしたへんなアクセントで言った。「おおくぼだす」だすはないだろうとちょっと思ったが、もう大久保町だった。
2
大久保駅のホームは、地面とほとんど変わらない高さだったので、ドアが開いて下りるとき、一メートルほど飛び下りなければならなかった。
ホームは木でできている。黒っぽい重い板が、土台の上に並べてあるのだった。ちょっと立派な海の家のベランダで、光則はこういうのを見たことがあった。どう考えたってこれはちゃんとした駅ではない。いくらバンシュウアコウ方面だとしても許されはしないはずだ。
ホームの中央あたりに、駅名を書いた看板が立っていた。白いペンキに塗られた鉄製の看板である。ペンキは剥げ、ところどころ錆が浮いている。
「おおくぼ」と書いてあった。その下にローマ字で「OKUBO」と書いてあったようだが、半分ほどペンキが剥がれてしまって「OK」とだけしか読めない。右は「にしあかし」左は「うおずみ」で、まあそれはいいんだけど、一番上に「JR西日本」と書いてあって「国鉄山陽本線」とかなんとかいうの消してその上に書いたようなあれば、ほんとにそんなこと書いちゃってもいいんですかJRという気がする。ホームには、というかこれがホームか、え? 屋根すらないじゃないか。
電車が行ってしまうと、ホームに立っているのは光則だけだった。他には誰も降りなかった。
来た方向を眺めると、西明石の町並みは、大きな岩に隠れて少ししか見えない。色彩を失ってぼんやりとしたその姿は、蜃気楼のようだ。次の駅である魚住の方を見ると、見えるのは無限に続くかのようなまっすぐな線路と、それに沿って並んでいる電柱だけだ。こっちの方は実にシンプルな景色である。
古い造りの小屋がホームの横に、ちょこんと建っていて、どうやらそれが改札口らしかった。お寺の拝観料を払うところに似ている。
しかしまあ、実に間抜けなやり方だと光則は思った。
だってほら、その小屋の前を通らなくっても、ホームのまわりぐるりはただの原っぱで、とくに柵がしてあるわけでもない。だから、そのままスタスタ行ってしまえば、それでおしまいなのだ。ほんと簡単にちょろまかせる、なんの問題もない。
でも、ひょっとすると監視されてるかもしれない。と思う。だから用心して一応その改札を通ることにする。それに切符はちゃんと買ってあるんだからな。
覗き込んでみる。思ったとおり、誰もいないぞ。
なにが思ったとおりなのかよくわからない。
窓口にはガラスの引きちがい戸がついていた。光則はその戸を開け、そこに切符を置いていこうとしたのだがそのとき、ざざっ、と蜘蛛かなにかが這うような感じで毛むくじゃらの生き物が窓口から飛び出てきたかと思う間もなく、そいつは光則の持った切符をパクッとくわえて、出てきたと同じスピードで奥にひっこんだ。
「わっ」あまりのことに、光則は大声を上げた。
どくっどくっと心臓が跳ねる。
なんだ今のは。
恐るおそる奥を覗くと、
にゅっ、とまた出てきた。
「わあっ」また声を上げ、たじろいで窓口から二三歩飛び退《の》いた。
すると、小さい窓の中に人なつっこそうなおっさんの顔が現れた。窓より顔がでかい。ぎょろっとした大きな目で、髪の毛はちりちりだ。にたにた笑っている。
「びっくりした?」と、なんだかものすごく嬉しそうである。
うんうん、と光則が顔で答えると、
「そうかそうか」満足したのか、二三度小さく頷いて、奥へ消えた。
ま、世の中にはいろんな人がいるからな、と光則がなんとか自分を落ちつかせようとがんばっていると、おっさんが小屋の向こう側からとことこと出てきた。
背が低く、小太りで、黒いズボンに縞のシャツ、ズボン吊りをしている。コメディアンみたいなおっさんだ、と光則は思う。
「タクシーに乗るだろ?」と言った。
その顔を見て、これは絶対になにかあると思ったが、それより光則はおっさんが手にしている異様な物が気になって絶句してしまっていた。
車の埃を払う大きなブラシに、なにで作ったのかいやに生々しい色彩の眼やら手やら爪やらがくっついている。ぼくはこんな馬鹿馬鹿しいものにびっくりしたのか。しかし、いい大人がこんなもん。やっぱりこのおっさんが作ったんだろうなあ。そうだろうなあ。
「乗るだろ?」とおっさんはまた言った。
「え。あ。タクシー?」
歩いていけるよなあ、と思う。だって道がないのだ。だらーっと広い荒れ地があって、遥か彼方の方に嘘みたいな町がかすかに見えるだけである。海の向こうに島が見えるのと同じだ。方向音痴の世界チャンピオンでも絶対に迷わない。
「タクシー乗ろうよ」自分も乗るかのような言い方をする。「ね」
「はあ」そんなに言うのなら。「じゃあ」
「よしよし」とおっさんは喜んで「もう来る。呼んどいたから」
「ははは」笑うしかなかった。
「わしは、トシさん」と自己紹介をして、にこにこ光則を見つめる。
「あ、どうも、笠置《かさぎ》です」と言う間もなく、
「はくしょーん」とトシさんというそのおっさんはくしゃみをして、その勢いで二メートルほど宙に浮いた。
「お」と光則が声を上げると、トシさんは、
「びっくりした?」と訊いた。
こくこくこく、と光則がうなずくと、
「そうかそうか」と、すごく満足げに納得した。「びっくりしたか」
「はははは」手持ち無沙汰なもので、光則は口だけで笑った。けっこう気を使う。
「すぐ来るから」トシさんはもうワシ待ちきれんのよ、とでも言いたそうなくらいにわくわくしている。
「はあ」ありがとうございます。と光則はもごもご言う。もっとはっきり言ったほうがいいとはわかっているが、なぜかいつもこういうとき、もごもごとなってしまうのだ。
「超能力を見せてやろう」トシさんは光則のもごもごを気にせず歌うようにそう言って、片手に化け物のおもちゃを持ったまま、とことこと小屋の中へ入っていった。
土煙をあげるタクシーが遠くに見えてから近くに来るまで、たっぷり十五分かかった。
タクシーはジープタイプの車だった。光則には自衛隊の車のように見えた。屋根もドアもない。ガラスが真夏のぎらぎらした太陽を反射して、運転手の姿は目の前に停まるまではっきり見えなかったが、なんとなくいやな予感がした。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_025.jpg)入る]
目の前に止まったジープから、小屋の中に入ったはずのトシさんが降りてきたのである。
「ほら、テレポート」と、言った。「瞬間移動だよ。どう」
光則は驚いて黙っていた。いったいいつ乗ったんだろう。ずっと見てたのに。
「ははははは」後ろで笑う声が聞こえた。
振り返るともうひとりトシさんがいた。
「びっくりした?」と、言った。
うんうんうん、と光則が唾を飲み込みながら頷くと、おんなじおっさんふたりは嬉しそうに笑った。
「そうかあー。びっくりしたかあ」ふたりで喜んだ。
3
ヒマラヤ杉公園、というのが大久保町にはある。
ただの空き地だったところに、滑り台とブランコを持ってきただけの公園で、もちろんヒマラヤ杉などどこを探してもあるはずはなく、いったい誰が、なにを考えてこんな名前をつけたのかわからない。別にベニテングダケ公園でもビシャモンテンエゾツツジ公園でもよかったわけである。あと、ヌケサクスベリモドキ公園でも別に。
公園には誰もいない。都会の公園なんかだと、不良の高校生とかがシンナーを吸ったり、猫の尻に辛子を塗ったり(ロケットみたいに走る)しているのをよく見るが、ここにはそういうのもない。
しかしその公園は、とりあえず今は関係ない。最後まで関係ないかもしれない。でも、間抜けな名前である。
公園の隣に、こぢんまりとした酒場がある。大久保町にはやたらと酒場があって、人口対酒場の比率で言えば、普通の日本の町がどうなのかは知らないが、ここでは人間ひとりに対して酒場が四つくらいある。その比率でいくと、町の住民が赤ん坊も含めて全員酒場を経営して、しかもひとりで三つも四つも経営しないといけないことになるので、たぶんそんなにはないと思うが、それくらいあるのだ。
酒場もたくさんあると、おのずとランクのようなものがつくられていく。ヒマラヤ杉公園の隣にあるこの酒場は、大久保町の酒場のランクでいうと、どんぞこの下。つまりあんまり上品ではない。
薄暗くて汚い。狭くはないが、三つ四つあるテーブルは埃だらけで誰も座っていない。
カウンターはあるが、スツールはない。壁は落書きでいっぱい。バーテンは汗臭い。
東京や大阪などでは、こういう薄汚いだけの、場末のまずいラーメン屋などに、キザな大学生とかOLが、いい店知ってんのよとかなんとか言いつつ喜んで不潔な食事をするために行列をするのだが、ここではみんなきちんと評価するので、それなりの人間しか来ない。
というわけで今も、どこから見ても質《たち》のよくない連中が、下品な話をしながら酒を飲んでいた。大久保町で質の悪い連中と言えば、これはもう村安《むらやす》一家の人間しかいないのであった。
「村安の兄弟」という響きは、大久保町においては「うんこ」というに等しい。
裏口の戸が、ゆっくりと開いた。
見すばらしい男が顔をのぞかせ、野良犬のような目で、中のようすをうかがう。のろのろとした動作で、不精髭の浮いた顔をずるりと撫でると、中に入ってきた。
ぼさぼさの頭と不精髭のせいで老けて見えるが実際は、若者とは言えないまでも、まだそんな歳ではない。目鼻立ちがはっきりしていて、その横顔はラテン系を思わせる。
酔いのまわった目はどんよりと視点が定まっていない。
カウンターへは向かわずに、ふらふらと壁際を進んでいった。酒は欲しいが、金がないのである。かなり酔っているようだった。
カウンターで飲んでいた兄弟のひとりが、酔っぱらいに気がついた。
他の兄弟たちに目配せをする。
退屈していたのである。
なんでもよかったのだ。誰かをいじめて、楽しみたかった。見かけないこの酔っぱらいは、流れ者にちがいない。町の人間ではないのなら、なにをしたってやっかいなことにはならないだろう。それに酔っぱらいは銃を持っていない。自分たちは持っている。
こんなに楽しいことはない。
最初に酔っぱらいに気がついた黒い帽子の男が、ポケットから五百円玉を取り出し見せびらかした。
もらえる、と思った酔っぱらいは、すまんな、という顔をしてカウンターに近づこうとした。
「踊ってみせてくれたら、やるよ」へらへらと、兄弟が笑った。バーテンだけは困ったようすで、それでも四人の兄弟たちが恐いのか、卑屈な笑顔をつくろうとがんばっている。
兄弟たちは、緩慢な動きで銃を抜いた。
酔っぱらいの足元を撃ち、怖がらせて楽しもうという腹である。
この卑怯で貪欲で傲慢で残忍で冷酷で性悪で下品で鈍感で、もうないかな、あああと、やたらと金に細かくて女にだらしないうえに自分の見てくればかり気にするアホで間抜けな馬鹿兄弟は、自分たちがどういう人間をからかっているのか全然知らなかった。
酔っぱらいの、とろんと下がった瞼《まぶた》の陰で、昏《くら》い瞳が動いた。
酔っぱらいは、名を宮本《みやもと》丸雄《まるお》といった。
4
改札のおっさんとタクシーのおっさんはトシさんとシゲさんという双子で「超能力」という「遊び」を「発明」したのはトシさんだそうだ。シゲさんはトシさんからの連絡を受けると、同じ服を来て口裏を合わせ、人を騙してその驚く様を見て楽しむらしい。とにかく人を驚かすのが「趣味」だということだった。
「なかなかいい趣味だと思うんだよね」
思わん。
光則は、嬉しくてたまらないシゲさんからそのことを聞き、そんなことで、いい歳こいたおっさんがふたりも喜んでくれるのなら、それでいいやと思って腹も立たなかった。どちらかというと呆れ果てていた。
「怒った?」シゲさんは運転しながら訊いた。これで三回目である。
「いいえ。全然。おもしろかったです」
「ほっほほう」体を揺らして大喜び。これも三回目。
車は、ほとんどなにもない大地を突っ走っていった。あるものといったら、松の葉みたいな草がゴミバケツくらいの大きさに固まったやつとか、公園のベンチみたいに転がった大木の切れ端とか、豪邸一軒分ほどの岩とか、あと、ちゃんと生えている木と草と、それから小川くらいで、車は適当にそういうものをよけて走っていった。ただ、なんにもないところでもぐいっとカーブを切るので、道は一応あるらしい。どこがどう道になっているのか、光則には皆目わからないが、カーブを切られると正直光則は恐かった。屋根のない車というのはときどきあるが、ドアもないのだ。シートベルトをしないと落ちるよ、と言われたが、してても落ちそうだ。
シゲさんは「超能力」の説明のあと、車の自慢ばかりしていた。このジープはウイリスMBと言うのだそうだが、機械の細かい話をいろいろされても、車に興味のない光則にはなんのことやらさっぱりわからなかった。へー、とか、はーとか言うとシゲさんがあんまり嬉しそうにするので、一度「そりゃすごい」と言ってみたら、いやすごくないんだすごいのはなんとかかんとか、と別のことをえんえんしゃべられたので、それからはへーとはーだけに決めた。へーとはーに決めて十五分ほどで、車は町に入った。
町は突然始まっていた。
町の入口はまず馬小屋で、その前からずっと大通りがまっすぐに走っている。馬小屋の向かい側には建物はなく、シゲさんは車を馬小屋にぶっつけるのではないかと光則がびびってしまうほどの勢いで突っ込み、そのままぐいっと曲がって通りに入った。
ずばーっと土煙があがる。
アクセルを踏み込み
「どうだこの加速」
「はい」すごいすごい。なにがしたいんだあんたは。
少し入り込むと、両側に建物が並びはじめた。通りの広さはだいたい十五メートルくらいだろうか。普通の町の道で言うと、往復二車線ずつくらいの広さはあった。けっこう広い。でも、舗装はしていない。ただの土。
「ここが、町の中心だ」と、シゲさんは言った。「どこ行くんだ?」
そういえば、まだ行き先を言ってなかった。
「あの、おばあちゃんの家」馬鹿か、子供じゃないんだぞ。
「どこ?」訊くのも無理はない。
「あ、あの、大久保町|西脇《にしわき》」
「西脇のおばあちゃん?」と、シゲさんがおや、というような声で訊いた。
「はあ」なにかまずいことでも。
シゲさんは車を走らせながらまったく前を見ないで、ちょっとの間光則の顔をじろじろと見ていた。
「あと、十分くらいだな」と、また前を向いた。よくわからない反応だった。
車は町の中を、走りつづける。思ったより広い町だ。
しかし、駅前にはなんにもなく、車で三十分も走ったところに突如として町が始まるというのもわけがわからない。意味がない。
「駅から遠いんですね」と、光則は言ってみた。
「うん」で、黙る。
話終わり。
通りの両側には家が建ち並んでいる。予想に反して、どの家もまあまあ普通の家である。どれも庭は広い。
塀や垣根は、あったりなかったりまちまちだったが、民家とおぼしき家にはたいていちゃんと門みたいなもんがあって、そこから玄関までたっぷり十メートルは、どの家も持っていた。光則の家なんか、門から玄関まで、ひとっ跳びに庭を跳び越せてしまう。それでも庭があるだけ近所では珍しいのだから悲しい。
大久保町の住民は裕福なのか、どの家もなかなか立派だった。ポーチというのかなんというのか、ベランダみたいな縁側みたいなものがくっついている家も多い。
でもなんとなく変な町だ。
家が並んでいるなあと思っているといきなり酒場があって、また家が並んで、で、またいきなり散髪屋があったり八百屋があったりホテルと書いた看板があったりする。どうもそのへんが、めちゃくちゃである。
古い家もときどきある。土蔵なんかもある。
そのせいなのか、めちゃくちゃなくせになぜか、町全体が懐かしくなるような雰囲気に包まれていた。
がくん、と車が止まった。
シゲさんが「ありゃりゃ」と言ってエンジンを止める。
光則は前方に顔を向けた。
通りの真ん中で数人の男が、ひとりの男の人を取り囲み、拳銃を撃ちまくっているのが見えた。
「逃げて逃げて」シゲさんは、とっとと車を置いて行ってしまった。
拳銃を撃っている男たちはみんなスーツを着ているので、光則にはみんなサラリーマンのように見える。
この暑いのに、よくスーツなんか着ていられるもんだよなあ、と光則はぼんやりと思った。
囲まれている方の男は、薄汚れているのでどんな服装なのかはっきりとはわからない。スーツでないことは確かだった。男は銃を持っていない。丸腰のまま、スーツの男たちに足元を撃たれ続けているが、酔っているのか、ふらふらしている。いい大人が拳銃なんか持って、なにを遊んでいるのだろうか。そうか。こういう変わったお祭りがあるのでガンマンの町と呼ばれているのだ。うん、きっとそうだ。まず、まちがいはあるまい。
ではなぜシゲさんが逃げたのかということは、考えないことにした。
スーツのうちのひとりが車に乗ったままの光則に気がついた。黒いカウボーイハットをかぶっている。
まだいやがったのか、というような顔をして光則の方をちらっと見ると、妙に恰好をつけてこれ見よがしに銃をくるくると回してみせた。この男だけは、腰の両側に拳銃を吊っていた。二丁拳銃である。
いるいるこういうやつ。どこにでもいるなあ。たいしたことないくせに恰好つけたがるんだ。口を開けば自慢話ばっかりで。
パン、とそいつが適当に一発撃った。
へっ、と光則は鼻を歪めた。なんだか知らないがやなやつだと思った。へんな帽子かぶりやがってスーツだって見るからにブランドものかなんかしらないけどてかてか派手なサーカスの団長さんかおまえは。ちっとも似合ってないのに自分ではかっこいいと思い込んでいるのがありありとわかる。顔つきもけっこう彫りが深いけど、卑しい表情のせいでどう見ても半分猿。でも自分では男前だと思っているのだまちがいあるまい。よくもまあそんなかんちがいができたもんだぞ半分猿のくせに。
光則はオシャレな男がきらいなのだ。
もう一発撃った。今度はなにかを狙ったようだった。
わかったわかった、もういいからやめ
男たちの頭上で、街灯がグシャーンと音をたてて割れた。
光則の目が大きく開く。
いやなおしゃれスーツ男はさらにもう一発撃つ。
別の街灯がグシャーン。
撃ってる。ほんとに。
日本なのに拳銃撃ってるぞ。
逃げなきゃ。
全身からドドっと汗が出る。試験が終わってから、解答欄を全部まちがえて書いてしまったことに気がついたみたいな気分だ。
よく見ると、撃たれている方の見すばらしい男の表情は固く、どうやら事態は光則がなんとなく考えていたような生易しいものではないようだった。いや実はうすうす勘づいてはいたんだけど。
なんだかよくわからないが、恐いことだけは確かだ。
このままここにいたらいいかな。とも思う。困ったときに、とりあえずなんにもせずにいてみましょう、と思うのはいつも思うがよくない癖だ。なおそうなおそう。だいたいここにぼくがいることは知られてしまったし、もしあいつらがあの男の人を殺したりしたら、やっぱりあれだよなあ。見られたからにはしかたがねえ、あんさんにも消えていただくしかおまへんのことよなあ。
なんかことばむちゃくちゃだけど、逃げないと「消される」
膝の上に置いていたボストンバッグを胸に抱えると、そーっと、足を外に出そうとしてシートベルトに首を締められた。そんなものを締めているなんてすっかり忘れていた。静かにベルトを外してからふたたび足を外に出す。
ジープなんて乗ったことがないから、降り方だってよくわからない。飛び下りればよさそうだけど、激しい動きは、あっちの注意を引きそうで恐いし。ゆっくり足を地面につけようとすると思ったより地面は下の方にあって、片足はまだ車の中でひっかかっちゃったぞ、ああこれは下手するとこける、と光則が思う間もなくきっちりすべった。
「だあ」光則は大声を出して、ひっくり返った。「ててて」打ったお尻の痛みに光則は一瞬暴漢によるリンチの恐怖も忘れ「ちくしょうコノヤロー」と言いながらゆっくり立ち上がり、ジープのタイヤを蹴っ飛ばして「あー、いて」とお尻をさする。
地面に転がっているボストンバッグを拾いあげると、土のついたところをパンパンとはたく。
は、と気がつくとスーツの男たちがみんな自分を見ていた。さっき光則がやなやつだと思ったやなやつだけは、にやにやと笑っていた。やっぱりやなやつだ。げ。
けけけけけ拳銃がこっちを向いている。どさりとボストンバッグを足元に落とした。
光則は、自分の睾丸《こうがん》がくくくく、と体の中に吸い込まれていくのを感じた。キンタマガチヂミアガル、と恐いときの比喩にあるけど、アレハ、ホントーダ。
ぱし。おしゃれ男の拳銃が火を噴いたのと同時に、左耳の横で空気が爆せた。
誰かが野球のバットを耳の横ぎりぎりで素振りしたような音だった。
ぱし。
今度は右耳。さっきより音は大きく、少し熱かった。
撃たれている、という恐怖は想像を絶していた。死ぬかもしれないという考えが頭に浮かぶと、光則の体は完全に麻痺してしまった。ただ、麻痺する寸前まで、光則の頭の中にはお尻の痛みのことしかなく、おしゃれ男のにやにやに気がついた瞬間には、けっこういろんなことに腹が立っていたので、麻痺した光則の顔はふてぶてしかった。
おしゃれの権化《ごんげ》のような、サーカスの団長のような黒帽子のこの男は、明《あきら》といった。四人兄弟の二番目である。趣味が悪いので老けて見えるが実はまだ二十三歳だった。たよりなさそうな若いやつが、車から落ちたので、酔っぱらいをからかうついでに撃ってみたところが、相手がちっとも恐がらないので、驚いてしまっていた。
なんだなんだ、と光則を見る。
どう見ても、全然恐がってない。
ちょっと顔を下向きに、眉をひそめて上目づかいに明のことを睨んでいる光則は、実際不気味だった。
「野郎、何者な」虚勢を張って明は言った。何者だ、と言いたかったのだけど、ちょっとびびってるものだから、舌がからまって「なにものな」となったのである。みんな気がついたかな? と気にしながらも無理して言葉を続ける。「けっこう骨がありそうじゃねえか」
ちがう違う。金縛りかなしばり。
光則はじっと睨んだまま。
頭の中は完全にめちゃくちゃだった。
なんにも、わからない。
なんとかしようという焦りはあるが、体が全然動かない。でも、動かそうという努力は続けている。でも全然動かない。
他の兄弟たちも、宮本をからかうのはとりあえずおあずけにし、光則の方に注目した。この酔っぱらいは酔っているからか馬鹿なのか、足元を撃たれても全然恐がらないので楽しくないのだ。
顎髭を生やした長男が膝で宮本の腹を蹴った。
宮本が、腹を押さえて倒れる。
こうなると兄弟の手前、おしゃれな明はこのまま引き下がるわけにはいかない。光則の方を睨みつけながら、ゆっくりと近づいていった。光則がいったいなにを考えているのかまったくわからないので、恐るおそる、一歩一歩ゆっくりと。けっこう小心者である。恐がってはいるものの、光則が銃を持っていないので、そのぶんだけは安心していた。
こっちへ来る。光則の背筋に恐怖がまた走った。どうしようどうしよう。逃げようにも体が動かない。声も出ない。
必死で手足に意識を集中させたが、動かない。それでも必死になって、やっと動いたと思ったら妙に安心したせいか、当座なにをしていいのやらさっぱりわからなくなり、ジーンズのポケットにガムがあったことなどが唐突に気になる。ポケットに手を突っ込み、ガムを取り出した。
ゆっくりと光則に近づいていた明は、あまりのことに息を呑んで立ちすくんだ。
明の額から、大量の汗が吹き出した。
光則は痺れたような脳の命じるままにガムを一枚取り、とろとろとした動作で紙を取り、銀紙を取り、中身を二つに折ると口に入れる。まちがったことをしているという意識はあった。でもどうしようもない。ガムはなんの味もしない。
恐怖のどん底に落ちたのは明である。耳の横を二発撃たれてもびくとも動かなかった若い男が、武器も持たずに最初っから自分のことを睨んでいたかと思うと、拳銃を持って近づく自分を見ながらガムを食ったのだ。よっぽどなにか、自信があるにちがいないと思ったのも無理はない。ナイフ使いかもしれないきっとそうだと勝手に確信した。
ちがうのに。
「おまえ、誰なんだ」明は息を荒らげて訊いた。膝がわなないていた。
光則は、素直に答えようと思った。怒らせて、あちこち切られてから沈められてはたまらない。
「笠置光則」です。です、は声にならなかった。
それを聞いた全員が驚いた。倒れている宮本でさえ、ぴくりと動いたほどである。
「笠置|詠《えい》の息子か」さっき宮本を蹴り倒した髭の長男が、呟くように言った。
なんで父さんの名前がこんなところで出てくるのだろうか。と、ぼさーっと考える。でも質問にははい、ときちんと答えないといけないぞ、と思うのだけどどういうわけかガムを噛むのに必死で、口が止まらずただうなずく。それがなかなか貫禄にも見えるのだから世の中不思議なことは多い。
明は完全に戦意を喪失した。銃を持つ手は下がり、目つきも急におどおどする。でも、恐がってなどいないとみんなには思わせたいのですぐには下がれず、なんとか笑おうとするのだが顔は引《ひ》き攣《つ》ってへんになるばかり。いろいろ複雑なのである。
銃口がよそを向いて、光則がほっとする間もなく、髭の長男が明の前に歩み出てきた。他の者より頭一つ分背が高い。首が太く肩幅が広く胸が厚く足が太い。右手に持った銃も、他の連中のものより明らかに大きい。なにもかもごつい男だった。
明は泣きそうな顔をして顔をゆるめた。ああよかった、死なずにすんだと安心したのが、ありありとわかる。
「若いな」と髭は光則を見て「銃は持ってないのか」と訊く。
はい。持ってません。
しゃべろうとすると、ガムを噛んでしまう。
「そうか」と髭。宮本と自分の兄弟の方へ顎をしゃくり「こいつはあんたには関係のないことだ。邪魔せんでもらおう」光則を見つめる。
どこかへ行けということだな。
やれやれ助かったと思うが、体が痺れて動かない。ウゴカナイゾ。
大男の目が、髭の奥で細くなった。
「どうしても、やりたいようだな」
というわけで、光則は決闘しなくてはならなくなった。
「俺たちを村安の兄弟だと知って喧嘩売ってるのかい?」長男が言った。
光則は全然わからない。
「まあいい。俺は長男の村安|太郎《たろう》だ」
ああそう。
「明」村安太郎が、弟に顔を向けた。
自分のやるべきことがわかって少し余裕の出てきたらしい明が、ガンベルトを外しながら、光則に近づいてきた。ガンベルトは右と左で別になっているらしく、左側のをはずしても、右側の拳銃は残った。実は明は右手でしか拳銃を扱えない。この左の銃は単に見栄で吊っているだけなのである。
「ほらよ」
光則から数メートル離れたところで、にやにや笑いながら明はガンベルトを投げた。銃を持ってない男を撃ち殺すことは、法律で禁じられている。だから光則が銃を手にすると同時に撃ち殺すつもりなのだった。そういうことは、村安の兄弟にとってはあたりまえのやり方なのだが、もちろん光則はなんにもわかってはいない。
ざん、と音をたててボストンバッグの横に銃が落ちた。
光則は動けない。
明が行ってしまうと、光則と太郎が向かい合う形になった。他の連中も、光則の動きを待っている。太郎は、右手に持った銃をくるり、と鮮やかに回転させると腰のホルスターにすとんと入れた。
光則はあまりにも現実からかけ離れた恐怖にさらされたためか、不思議に平和な気持ちで父親の本棚で見つけたゲームブックのことなどを思い出していた。こういうのあったよな。
拳銃を持った大男が決闘を申し込んできた。さて君は、
※[#丸1、1-13-1]銃を取って決闘に応じる。(13ページへ)
※[#丸2、1-13-2]路地に飛び込んで逃げる。(22ページへ)
※[#丸3、1-13-3]しゃがんで泣く。(33ページへ)
ここで※[#丸1、1-13-1]を選ぶと、13ページには、
やつの銃は思ったより早かった。君の心臓を弾丸が貫く。君は任務に失敗したのだ。
※[#丸2、1-13-2]を選ぶと、22ページには、
路地に飛び込むとそこには、ババリンの魔法で巨大化されたさそり軍団が待ち構えていた。君は剣を抜き戦うが、さそり軍団は強い。さそりの毒に侵された君の体は麻痺し、軍団が君を切り刻むのを止めることができない。君の意識は闇に閉ざされていく。君は任務に失敗したのだ。
※[#丸3、1-13-3]を選ぶと、33ページには、
いいからとにかく死になさい。
どれを選んでも終わってしまうから、戻ってやりなおすけどやっぱり死ぬ。初めっからやりなおしだあ。
と、やりなおせんわなあ、今の場合。
逃げるしかないか。と思う。だって拳銃なんか目の前で見たのは生まれて初めてなのだ。撃ち方もわからないのに、いったいどうやったら決闘なんてできるというのか。
素手の戦いならまだなんとかなるかもしれないが、相手の髭の男はでかいからなあ。なんともならんだろうなあ。恐いなあ。死にたくないなあ。
逃げるのはしかし、いやだった。臆病なくせにそういうプライドだけはある。
でも死にたくない。
悩みながらなぜか、光則はガンベルトを拾い上げていた。
太郎は髭の中で、にやにやと笑っている。銃把を握ったら、撃ち殺そうと思っているのである。
光則はガンベルトを持ったまま突っ立った。腰につける方法が、よくわからない。こんなに重いとは思わなかった。まるで鉄のかたまりだ。と思う。ああそうか、鉄のかたまりなんだ、と思う。
太郎の後ろで、酔っぱらいが動くのが見えた。気がついたらしい。頭を振って、立ち上がろうと膝をつく。
兄弟たちは光則と太郎の勝負に注目しているので、まだ宮本の動きには気づかない。
宮本丸雄が立ち上がった。
三男の末男《まつお》がそれに気がついた。色白で小太りで目が小さくて眼鏡という、あまりかっこよくない男である。親は末っ子のつもりだったのだろう。でももうひとり、できているのだなあ。おいおいおまえはじっとしてろよ、となめたようすで手を出そうとしたとき、宮本が腰をひねった。その動きのあまりの速さのため、一本の棒のようになった宮本の拳骨が、末男の顔を貫いた。
殴られた末男のたるんだ体は、ご、という音といっしょに数メートル飛び、どさりと落ちてから、その勢いで地面の上をしばらくすべっていった。
土煙があがる。
太郎が銃を抜いて音の方を向くと、宮本の足元の地面を撃った。末男は頭をふりながらなんとか上半身を起こし、銃に手をかけた。
宮本丸雄は動かなかった。目つきがしっかりとしたようだ。酒が少し抜けたらしい。きちんと立つと、かなり大きな男である。太郎と変わらない。
馬鹿にしていた酔っぱらいに殴られたことがよほど頭に来たらしく、末男は銃口を宮本の腹に向けた。
「このやろう」と、言いながら撃鉄を親指で起こす。
かちり、という機械音が光則の耳にも届いた。
殺人の予感に光則はくらくらした。ああ、人が死ぬ。
乾いた銃声が一発、にごりのない空に響きわたった。
「わ」
驚いた光則は万歳をするようにして手にしたガンベルトを放り出した。
空中に舞い上がったガンベルトと拳銃が、ゆっくりと離れていく。あわわ、とうろたえた光則はみっともない恰好で、それでもなぜか落ちてくる拳銃を落とすまいとひとりでばたばた。
末男が、右手を押さえて膝をついた。拳銃がなくなっている。
兄弟たちの間に緊張が走った。誰かが、末男の拳銃を、拳銃だけを狙い撃ったのだ。
まず、光則を見た。
全員がはっとしたことに、光則は右手に持った拳銃をまっすぐかまえていたのである。
みんな、光則が撃ったのだと思った
5
ああ驚いた。
落ちてくる拳銃をあたふたと両手で受け止め、あーうまいこと落とさずにすんだと、光則がふと我に返ると、末男が膝をついたまま呆然としており、宮本はさっきのまま立っている。
よかった、誰も怪我してないぞ。
誰かが、あの白いデブの拳銃だけを撃ったんだな。へえー。
兄弟四人と宮本は、驚きに満ちた表情で光則を見ている。
おや、そういえばなんだか、ぴたっとかまえてるなあぼくこれ、鉄砲。
えっ。
ひょっとしてぼくが。と思う。まさか。すごい。
「丸腰の男を撃つとは、最低だな」
光則の左手の方から声がした。全員がいっせいにそっちを向く。
古い土蔵と、都会でもよく見るタイプの欧風家屋とが並んで建っており、その間にある細い路地から、ひとりの男が現れた。火薬の煙がまとわりついた銃を腰の横にかまえている。
ああ、あの人が撃ったんだな。と光則は納得した。ぼくじゃなかったんだ。
そりゃそうだよなあ。
「ははは」思わず笑ってしまった。
末男が、ぎらりと光則を見た。
ものすごく怒っているらしいので、光則はうろたえた。あー、あんたのこと笑ったわけではないんだよ。でも今のは腹が立ったようだな、そうだろうな。参ったなあ。めちゃくちゃ怒ってるなあ。
末男は怒っている。根に持つタイプである。まちがいない。
とりあえず自分の危機は去ったと安心したので、光則には多少余裕が出てきた。しかし、自分が銃をかまえた恰好のまま硬直しているのには、まだ気がついていない。
「邪魔をするな」太郎が言った。
「邪魔だったかな」影の中から出てくると、男は銃を腰のホルスターに収めた。
黒人だった。ジーンズにダンガリーシャツを着ている。一見細いが、ホルスターが留められた太股は、ジーンズの生地が弾けんばかりに張りつめているし、捲り上げた袖の下から突き出た黒い腕は、筋肉がぎちぎちと固まって、まるで大きなにんにくのようだった。
まだ銃をかまえているやつがいるのに、さっさと拳銃をしまってしまうなんて、どういうことなんだろう。と、光則はどきどきした。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_049.jpg)入る]
四人の兄弟も、やはりどうしたものかと考えているようだった。
髭の長男が一番しっかりしているようだが、それでも黒人の落ちつきにくらべるとどこか人間的に欠けるものがあるように思える。表情が野卑なせいだろう。
あとの連中は話にならない。
末男は膝をついてぎりぎり怒っているだけ。おしゃれな明は、一応銃をかまえてはいるものの、これは見栄でそうしているだけで、きっとあとで「まあ俺は最後まであきらめなかったがな」とかなんとか言うつもりなのである。
末っ子の終《おわり》は、ただぼーっと突っ立っていた。小太りで、ちょうど末男の肌の色を黒くしたようなやつだ。体型はほぼ同じだが、顔は似ていない。末男の方は魚の河豚《ふぐ》に似た顔だが、こいつはもうはっきりとゴリラ。この顔を見てゴリラを想像しないでいるのは、便所でカレーを食うぐらい難しい。このゴリラが「終」などというやけっぱちな名前をつけられたのはつまり、末男で終わるつもりが終わらなかったので、今度こそという希望を込めてつけられた、あまりといえばあまりの理由あってのことである。銃を持っていることは持っているが、ぶらんと下げた恰好でぼーっと突っ立っている。太郎と光則が決闘をしそうになったときからずっとこの恰好である。恐くて動けないのだ。
みっともないやつだ。と光則は思う。ぼくは少なくとも。
あっと気がつく。まださっきの恰好のまま、銃をかまえたままだ。あわてて降ろすのは恥ずかしいので、ゆっくりと降ろす。ホルスターのついたガンベルトはボストンバッグとともに地面に落ちている。仕方がないので、ぶらーんと拳銃を持ったまま。重いが、他にやり場がない。ぶらーんと手持ち無沙汰なので、ちょっと揺らしたり。
太郎が銃をくるりと回転させ、ホルスターに戻した。ここで銃を収めておかないと、黒人と対等に話せないと思ったようだ。しかし両手は体の両脇にぶらりとさせている。
いつでも抜けるスタイルだ。
「その酔っぱらいがなにをしたんだい?」黒人はにっこり笑った。たしかに明は間抜けみたいにしか見えないけど、それでも銃を自分に向けているやつがいるのだ。よく笑えるものだ。光則は突然現れた黒人のあまりのかっこよさに、しびれていた。弟子入りしようかとさえ思う。
「別に」太郎が言った。「酒が欲しいってんで、泣くからよ、くれてやろうと思ってな。その前に、踊ってもらおうと思っただけさ」
「退屈しのぎに、からかってたのか。丸腰の男を銃で」あいかわらず笑顔だが、どこか恐い顔になった。「あんまりいいこととは思えんな」
「たったっ」明が叫んだ。どもっている。どもってしまったことを妙に意識して、ああかっこ悪いと恥じているのがわかる。それがよけいにかっこ悪い。「ただの酔っぱらいじゃねえか」だから、からかってもいいんだと言いたいらしい。
「おまえだって、ただのオカマじゃねえか」と黒人は、だから馬鹿は困るとでも言いたそうな口調で吐き捨てた。
「な、なんだと」明は真っ赤になった。
「毛利《もうり》の弟子だからって、いきがるなよ」太郎が言った。「保安官助手でもないくせに」
「俺は、髭で顔をごまかすやつとか」兄弟を順に見ていく。「オカマ、白豚、ゴリラ、みんなきらい」
言いたいことをはっきり言う人のようだった。
ちょっとややこしいかもしれないのでここでおさらいしておく。
村安の兄弟の構成は、長男太郎(髭面)以下明(おしゃれ)末男(白豚)終(黒ゴリラ)である。四人のうち半分のふたりが末っ子みたいな名前である。「終」の次にもうひとりできたりしたら、いったいどういう名になるのかけっこう気になるところであるが、彼らの母親はずいぶん前に亡くなっているので、当分その心配はない。
「野郎、殺してやる」明は銃を両手で握ると、ほんの少し身震いした。足の位置を小刻みに変える。どうにも逆上してしまい、自分を抑えることができなくなっていた。
「俺は抜いてないぜ」黒人は低く言った。「一度しまってからやりあう度胸はないのか」
終があわてて銃をしまった。おまえじゃない。いいんだおまえはどうでも。
明はごくりと唾を飲み込んだ。兄の太郎をちらりと見る。太郎の表情は厳しい。後悔と恐怖が明の顔を覆った。
しかし明はその濁った目線を何度か虚空に這わせたのち、思い切って拳銃をホルスターにしまった。
いや、しまうかに見せかけたのだ。なんともまあ、卑怯なやつだ。右手に持った銃をホルスターの位置までゆっくり降ろしたかと思うと、いきなり素早い動きで、相手を出し抜こうとしたのである。
光則ははっとして、黒人を見た。黒人の全身が、流れるようにつかのま動いた。黒人の銃はすでに、明の胸を狙った位置でぴたりと止まっていた。
明は、銃をホルスターから数センチも離すことなく凝固した。黒人の方が、圧倒的に早かったのである。
信じられないという顔で震えはじめた明に向かって、黒人は銃を軽く横に振った。
明は、ゆっくりと銃を捨てた。ああ、殺されずにすんだ。
黒人が、ストンと銃をホルスターに戻す。そのとき一瞬隙ができた。
太郎が、その隙をついて銃を抜こうとした。その動きは完全に黒人の虚を突いていた。
あ。と光則は驚いた。
黒人もぎくりとした。あわてて銃をかまえようとするが、間に合わない。
太郎の動きが止まった。光則の方を向いて悔しそうに顔を歪める。
そんな気は全然なかったのに、光則はたまたま銃をかまえていた。撃つ撃たないはともかく、重いものを手にしているというただそれだけの感覚があって、なんとなくそれを前に突き出しただけだったのだが、それがたまたま拳銃で、髭が勝手にかんちがいしたのだ。
この場で一番驚いているのは、光則自身だった。
太郎は光則から目をそらさずに、ゆっくりと銃をしまった。明がしたように土の上に捨てなかったのは、光則のような若造にしてやられたことに対する、せめてもの反抗だったのかもしれない。
黒人は途中まで抜いた銃をホルスターに落とし、ふうーっと頬を膨らませて息を吹いた。光則を見て、ウインクする。
「ちっ」太郎が舌打ちした。「行くぞ」背を向けると、歩きだした。明と末男はめらめらと怒りを込めて光則と黒人を睨み、もう本当に俺たちゃめっちゃくちゃ怒ってるんだからな、というような顔をしてから太郎のあとを歩いていった。ゴリラ顔の終はなにやら真剣な顔でしばらく虚空を眺めていたが、三人の兄がかなり離れたのに気づいたとたん
「あぱ」と不思議な声を出して、あわててそのあとを追った。
6
「怪我はないか」スーツの兄弟が路地に消えると、黒人が宮本に訊ねた。
通りに面した家々から、窓を開ける音や人の声が聞こえだした。みんな事が治まるまで家の中で息を殺してじっとしていたらしい。
光則を指さして感心したようになにか家の者に言っている婆さんもいる。
「なああんた」宮本がでかい声で黒人に言った。
「あん?」黒人は温かい笑顔を宮本に向ける。
「酒持ってないか」ほとんど怒鳴っていた。
「はっはっは」と笑って「悪いが持ってない」
宮本はつまらなさそうな顔をすると、そのままふらふらと歩きはじめた。
「まあ待てよ」と黒人。
「なんか用か?」とめんどくさそうに振り返って、宮本が言った。
「いや、用ってわけじゃないが」きょとんとして口ごもる。
宮本は、すでに背を向けていた。
「あいその悪いやつだなあ」そう言いながらも、さほど怒っているようすはなかった。
黒人は突っ立っている光則に、来いよ、という仕種《しぐさ》をした。
「あ、はい」今になって、光則の心臓はめちゃくちゃに踊っていた。息が苦しくてはあはあ言ってしまう。全身に震えが来ていた。拳銃をぶらぶらさせながら、黒人の方へ歩いていくが、脚ががくがくする。
「あれ、あんたの鞄じゃないのか」黒人が顎をしゃくる。地面に転がったボストンバッグのことを言ってくれているらしい。
忘れていた。
「あ、ぼくのです」あわてて取りに戻る。手にした拳銃を深く考えもせずにボストンバッグの中に放り込むと、黒人のところへ、ぎくぎくと歩いていった。
そばによると、光則は黒人の大きさに圧倒された。光則は百七十センチとちょっとだが、どうも黒人は二メートルくらいあるのではないか。さっきの酔っぱらいも、髭の男もけっこう大きかったが、この人には負ける。
上の方から光則に笑いかけている。太陽の光が頭の後ろにあって眩しい。
ざっざっざっという駆け足の音が近づいてきたので、黒人と光則は、はっとして動きをとめた。
散髪屋の、赤白青が回転している陰から、はあはあ息を切らしてシゲさんが走り出てきた。
光則たちと自分のジープを見つけて、きょとんと立ち止まる。餌をついばむ小鳥が外敵の恐怖に怯えているような動作であたりをきっきっと見回した。
「あれ?」はあ、はあ、はあ。元の場所に戻っているな。
「やあ、シゲさん」黒人が親しげなようすで声をかけた。「どうしたんだ?」
「ああ、いや」おかしいな、とシゲさんはもう一度まわりを見渡して「あれ?」
「走ってたのか」と、黒人。
「ああ、いや」息が苦しそうだ。「ただ走ってたわけじゃないんだ」ただ走ってただけだけど、はあはあはあ「保安官を探しに」
保安官。保安官だなんてこの人は言っている。光則にはまだよくわからない。けれど父さんの言った「ガンマンの町」というのはどうやら本当だったみたいだなあ。
「新蔵《しんぞう》さんなら、だいぶ前からいないぜ。知らなかったのか?」
「え」一瞬動きが止まる。
「みんな心配してるじゃないか」
「そうか」目が、あちこち動く。かなり動揺しているのがわかる。
「大丈夫かい?」黒人はずっとにこにこしていたが、シゲさんが動揺しているのに気づくと、体をかがめて顔の位置を低くした。「なにかあったのか?」と心配そうに訊いた。
「いや、村安の連中が、汚い人をいじめてたんでな」口をとんがらがせているが、自分ではそれに気づいていないのである。それにしても「汚い人」はなかろうに。それから思い出したように「誰も死ななかった?」
「ああ」と黒人。
「ああそう」と、ほっとして「清美《きよみ》ちゃんが村安の息子たちを追っ払ったのか?」
「ああ、俺と、その子と」黒人が答えた。
シゲさんは光則も関わっていることに、ちょっと驚いたようだったが。
「あの汚い人、どっかで見たことあるような気がするなあ」シゲさんはちょっと考え込んだが、思い出せないようだった。
しかし。
キヨミチャン。黒人の大男がキヨミチャンってなにそれ。光則はあんまりおかしくて、おかしすぎて笑うこともできずに目を見開いただけだった。この顔でこのでかさでキヨミチャンって呼ぶ方も呼ばれた本人もよく笑わずがんばるものだと思う。
「あ、そだ」と、シゲさんはジープの方へ駆けだしていった。大きく車のまわりを一周して点検したあと、顔をボンネットに近づけたり、下を覗き込んだりしては異状がないかどうか見ている。ときどき、ちょっと離れて眺めてみたりした。特に、問題はないようだったが、なかなか点検は終わらない。
「俺は、杉野《すぎの》清美だ」と、黒人が高いところから光則に手を差し出した。
「あ」ひえー真顔でキヨミ言わんといてーとぶるぶる震えながら「笠置光則です」と、握手をする。キヨミチャンの手はごつごつと長い。でかいというより長い。
光則の名を聞くと、眉間に皺を寄せ「笠置詠の子か?」と、握った手に力がこもった。
「いっててててて、はい、たたたた」
「あ、すまんすまん」手を放してくれる。
「そうかそれで。いや、よそものにしては、銃の扱いが見事だと思った」
え?
シゲさんがジープに乗り込みながら、
「西脇のおばあちゃんのとこへ行くよ」と、光則に言った。
「あ、はい」西脇のおばあちゃん、と口にするシゲさんは、親戚のおじさんみたいな気がした。光則は親戚の人というのをほとんど知らなかったので不思議な感じだった。
「あの」清美ちゃんに、挨拶をしようと思うがなんと言っていいのかわからない。「えと」
「おう、またな」軽く挨拶をして、行ってしまった。
怒ったのだろうか、と気になる。
よっこらしょと、慣れないジープに乗り込む。車が走りだしたとき、光則はいつのまにかガムを飲み込んでしまっているのに気がついた。
7
おばあちゃんの家というのは、光則の母が育った家で、つまり光則にとっては田舎の家ということになるのであるが、光則は一度も行ったことがなかった。もちろんおばあちゃんには何度も会ったことがある。光則の家の方へおばあちゃんがちょいちょい来たからである。おじいちゃんは知らない。光則が生まれる前に死んでしまっていたようだ。父親の方のおじいちゃんおばあちゃんというのはもっと知らない。謎である。
おばあちゃんに最後に会ったのは中学に入る前だったから、もう六年くらい会っていないのか。こんな田舎で、ばあさんがひとりで生きていけるなんて、すごいことだなと光則は思う。ひとりで生きているばあちゃんもすごいが、年寄りを田舎にひとりでほったらかしにして、都会できげんよく暮らしている光則の両親もすごい。
「死んでたってわからんわなあ」と言って父は笑っていた。
母は「そうねえ」とすましていた。
大丈夫か。本当にわからないぞ。こんなとこに住んでたら。まったく本当にすさまじいところとしか言いようがない。なんにもない。
行って、もう死んでたらどうしよう。
呼んでも出てこなくって、風呂場でどろどろになって浮いて腐ってたら。
で、それがむくむく起き上がって歯を剥いて抱きついてきて、
「わはははははは」
と笑うのだ。でもって、目玉がどろりと落ちてぶら下がって、臭い息を耳元で吐きながら「待ってたんだよおおおおおおお」ごめんなさいごめんなさい。
ああ恐い。めちゃくちゃ恐くなった。
「ここだよ」と、シゲさんが車を停めた。
「ええっ」想像に怯えていたので、でかい声が出てしまった。
「うわあ」シゲさんが驚いて手をばたばたさせた。
しばらくふたり、黙っていた。シゲさんは、びっくりさせられたので、かなり悔しかったようだ。
「ばあさんの家はここだよ」と、シゲさん。
車は、狭い上り坂の途中に停まっていた。家は道より高いところにあるらしく、石の階段がかなり上の方まで続いていた。
サイコの家みたいだな。と光則は一瞬思った。また恐いことを考えてしまった。
見れば、階段の横に「浅田《あさだ》」と表札があがっている。母さんの旧姓だ。本当にまわりには家が全然ない。
「あ、たぶんここです」ありがとうございました、と頭をさげて、車を降りる。降りてから、料金のことなど気になった。「あの」お金、どうしたらいいのかな。これって本当にタクシーなのかなあ。「この車、かっこいいですね」ふと、口に出して言った。
明日動物園に連れていってあげると言われた子供のような顔を、シゲさんはした。いいかげん歳をとった人がこんな顔をするなど、光則には信じられなかったが本当にそれくらい嬉しそうな顔だった。
「またね」シゲさんはにこにこしたまま、車を発進させて、行ってしまった。ジープは後ろ姿も、なかなかかっこよかった。大学に入ったら免許を取って、ああいう車を手に入れよう。
高いのかな。
おばあちゃん、死んでないだろうね。
石の階段を上がっていく。まだ四時前で陽は高いのに、まわりの木々のせいか階段は薄暗い。階段の両側は赤土の壁だ。
上がりきると、玄関があった。
家庭菜園の畑や、物干しや、白いテーブルと椅子なんかもある、けっこうおしゃれな庭が見える。
呼び鈴を押す。
音がしない。
ドアに手をかけようとすると、光則の手が触れる前にドアが開いた。
化け物屋敷だ。
「お、おばあちゃん、こんにちは」小さな声で呟く。これでは、中に誰がいたって、絶対に聞こえない。「ごめんください」もっと小さい声で。言う意味がない。
奥の方で、物音がした。
からんからん。
お風呂場の音である。お風呂場で、物と物が当たったりすると、響いてこういう音がする。
死んで腐って動いている。ははは、そんなはずはないのである。今、光則は勝ち誇ったように思い出していた。家を出る前、母親が電話でおばあちゃんと話をしていたではないか。
「光則が行くからよろしく」そう言ってたのだ。死んでない死んでない。
靴を脱ぎ、ずんずん入っていくことにした。自分の家みたいなもんなんだ。かまうことはない。
家を出てから、初めてほっと落ちついたせいか、光則はひどく疲れてしまっているのを実感した。いきなりいろいろあったからなあ。それにこのところ、生活不規則だったし。
今日は早く寝さしてもらおう。明日から勉強しよ。
「おばあちゃーん、ぼく。光則。来たよ」
廊下を歩いて、順番に部屋を覗いていくが、誰もいない。どの部屋もきちんと片づいている。年寄りは暇だから掃除ばっかりしてるんだろうなあ。途中にお風呂場らしい部屋があったので、見ると、人の気配があった。
磨《す》りガラスの入った引き戸越しに、脱衣場か洗面所があって、そこにおばあちゃんがいた。その向こうが、お風呂場になっているようだった。
おばあちゃんが、今頃風呂に入るとも思えないので、光則はがらがらと引き戸を開けた。
長いスカートを、濡れないように上の方でくくって留め、白い脚をすらりと出したおばあちゃんがいた。パンツが見えるか見えないかぐらいのところまで、見えている。
「いらっしゃい」おばあちゃんはそう言って、前髪を両手でかきあげた。腕も脇の下も、可愛い。顔だって見たこともないほど可愛くて、どう見たって光則と同じくらいの歳にしか見えない。それに、なんとこの、脚の綺麗なことだろう。
「おばあちゃん?」おばあちゃんなはずないのである。どう見たって二十歳にもなってない。この町に来てから興奮の連続で、疲れているとはいえ、やっぱり光則はどこか抜けたところがある。
「え?」おばあちゃん、こんなに可愛い人だったっけか。
だから、ちがうんだって。
あ、くしゃみが出そうだ。
「あほか」光則の背後で声がした。
しわしわのばばあがいた。
「あ、おばあちゃんだ」くしゃみが出なくなった。
「あんた今、その子とおばあちゃんとまちがえたん?」しわばばが言った。
「ははは」まちがえたというか、おかしいとは思った。
「あほとちがうか」それからおばあちゃんは、光則の後ろの人物に向かって「紅葉《もみじ》ちゃんも脚しまい」
脚をしまいなさい、と言っているのである。
「あっ」と叫んで女の子が、あわててスカートを下ろした。青い、ひらひらとした薄いスカートに、ふくらはぎの真ん中くらいまで隠れてしまう。でも、紅葉と呼ばれた女の子は、耳まで真っ赤になって下を向いてしまった。
光則もなぜか真っ赤になってもじもじ。
ものすごく幸せな気分が膨らんできて「光則。みちゅのり?」おばあちゃんの光則を呼ぶ声がへんなところから聞こえ、真っ赤になった女の子の首筋がたまらなく可愛くて、もみじ、だから赤くなってるのかななどとぼんやり考え、今はもう見えない脚の白さを思い出し。
光則は、気を失った。
8
光則が、興奮の連続を幸せにも性的興奮による失神でしめくくった夜、笠置詠の息子現るの噂は、たちまちのうちに大久保町内を駆けめぐった。
たったひとりで、しかも丸腰で、村安の兄弟をやっつけてしまった。
信じられないような早撃ちらしい。
若いときの笠置詠にそっくりだった。
雲をつくような大男らしい。
腕っぷしも強く、大岩をかついで十里を半時に駆けることができる。
鬼のような顔つきで、気の弱い者なら睨まれただけで死ぬ。
性格は温厚だ。
いや冷酷無比だ。
怒ると火を吹く。
鉄を食う。
英語がしゃべれる。
宝くじで百万円当てたことがあるらしい。
様々な噂が流れ飛んだ。こういう噂がたつと、ちょっと昔なら大変なことだった。腕がたつと噂されることは、すなわち、腕に自信のある他の男たちの標的にされるということでもあったのである。早撃ちで有名な人間を決闘で破れば、名声を得ることができるからだ。名声を得て、だからどうなるのかということはよくわからない。仕事が増えるわけでもなし、誰かの役に立つということもない。ただ、名声を得たいだけである。そのために命を賭けて戦うのだ。まったくもってよくわからないのであるが、それで幸せならいいのだきっと。
しかし、そういうことに命を賭ける男たちというのは今ではごく少数で、たとえば早撃ちで有名な人が散髪屋で髭を剃ってもらうときなんかに、毛が服につかないようにする布の下で銃を握っていないと散髪屋に殺されるかもしれないとか、銭湯でのんびりしているとき、すぐとなりで湯につかっていたおっさんがいきなり銃を突きつけてきたりしても大丈夫なように陰嚢《いんのう》の裏に小型の銃を隠し持っておかないといけないんではないかなあとか、そういう心配はもうほとんどない。
銃の腕がたつ男が、町の人々から尊敬されるのは昔と変わりないが、誰が早撃ちか、誰の射撃が正確かを決めるのに、わざわざ殺しあうのは馬鹿らしいということに、やっと最近大久保町の人たちも気がついたのである。それにもはや生活に銃がそんなに必要でなくなったということもある。毛利新蔵が保安官になってからは、大きなもめごとはほとんど起こっていなかった。
銃がだめでも機械に強いとか、いい歌を創るとか、自転車に乗るのがやたらとうまいとか、そういったことでも町の人は必要以上に感心したりするので、特にガンマンが偉いという時代はとっくに終わってしまっているのだった。
ただしばらく平和すぎたので、笠置詠の息子の噂はちょっとした衝撃をもたらした。
特に実力もないのに小ずるいやり方で金持ちになってしまった村安|秀聡《ひでさと》のような人物は、どこでもそうだが大久保町でもあまり好かれていない。だまし取られるようにして土地を奪われた人も多いので、なおさらである。
そこへ笠置詠の息子が現れ、村安の兄弟をやっつけてしまったのだ。あくどいことならなんでもやる、卑劣なあの兄弟。こそこそと罠をしかけるようなことばかりするために「ワナ・ブラザース」との異名を持つ村安の兄弟を簡単にやっつけた。毛利の弟子としては最後のひとりと言われる杉野清美を助けることさえしたというのであるから、すごいではないか。
ひょっとすると悪の権化村安一家を、颯爽《さっそう》と現れた若者、なんとあの笠置詠の息子がばんばんばんとやっつけてしまうのではないか。そういう希望が町中にあふれようとしていた。
町の人々の、大いなる期待が笠置光則に集まりつつあった。
噂は当然、村安秀聡の耳にも入っていた。
村安秀聡はこの夜、一睡もできなかった。
光則はよく寝ていた。
[#改丁]
二日目
[#改丁]
1
どこかで、琴の音がしていた。
ものすごいノイズが重なっている。ラジオのチューニングが合っていないのか、それとも古い録音のテープなのか。
体を動かすと、むき出しの腕が木綿のシーツの上をすべり、ひんやりと心地よい。
ものすごく恐かったような、嬉しかったような、とにかく波瀾万丈な経験をしたような気がするがあれは夢だったのか。
木の天井が見える。染みがある。木目と染みが、顔になったり女の子の体に見えたりする。枕が固い。首が少し痛い。布団は夏の匂いがする。
日の光を吸収した畳の、野原のような匂いもする。
ノイズは蝉の声だ。痛い、とか、苦しい、とかそういう感情を持たずによくもまあこんなに絶叫し続けられるものだと光則は感心した。すさまじいばかりの音量である。
きっと何千種類にもおよぶ(そんなにはおよばないと思うけど)何千万という蝉が(たぶんそんなにはいないが、いるかもしれない)わーっと言っている情景を光則は想像し、ちょっとぞっとした。
ばあちゃんが、琴を弾くという話を聞いたことがある。なるほどばばあが琴を弾いているらしいぞ。
記憶が戻ってきて、光則はぎょろりと目を開けた。
ここは大久保町のおばあちゃんの家だ。
腹がへった。
縁側から入ってくる陽の光から判断して、もうお昼前らしい。ゆっくりと記憶が戻ってくる。
そうそう。昨日来たんだ。
とんでもない目に遭《あ》って、それからそうだ、綺麗な女の子がいた。
で、それからどうなったんだっけか。どうやって寝たのか覚えていない。
あそうそう、気を失ったのだ。気を失う、なんて実際に体験できるとは思わなかったよなあ。女の子の脚見て気絶した、なんて学校では言えないなあ絶対。
まあ、いきなりいろいろあったから。
おばあちゃんの家とはいえ知らないところで寝ているというのは、変な感覚だった。
まだ意識がまともに返ってきていないようで、どこかぼんやりしている。
気絶直前の綺麗な脚を思い出すと、耳が熱くなった。
紅葉、という名前を思い出して、さらにどきどきする。
あんな可愛い女の子、初めて見た。胸の中心をぎゅっとしぼられるような、甘美な苦しさが光則を襲う。
とはいえ、これが一目惚れであるとか、光則の生涯を左右する大きな出会いの直感であったとか、そういうことではまったくない。なにしろ光則という男は、ああこの子こそぼくの理想を絵に描いたような女の子だ、と思うことが日に二度か三度あるのである。そのたびにときめいて、嬉しいらしい。
女好き、とか、変態、とかいうのでもなく、ただ本当に、人を好きになりやすいところがあるのだった。
ちょっと馬鹿かもしれない。そういうとこは。
光則は布団の上で丸まったまま、自分は紅葉に好かれているだろうかそれとも好かれてないだろうか考えて悩んだ。まだ口をきいたこともないのに、である。
歳はいくつだろう。きっとぼくと同い年くらいだろうけど。
恋人はいるだろうか。
飯食うのがめちゃくちゃ早かったらどうしよう。
お箸を綺麗に使うだろうか。
子供に好かれるだろうか。
楽しく笑うだろうか。
勝手にいろいろこだわっている。
だいたい、あの子はなんでこの家にいるんだろう。今もまだいるんだろうか。今夜泊まるんだろうか。ずっといるんだろうか。
長いスカートをはいてたけど、ミニスカートをはくことはあるだろうか。
「ば、しば、しば」ミニスカートの紅葉の脚。という言葉を思っただけで、三連発のくしゃみが出た。ヴィジュアルを連想したわけではなかったのに。
琴の音がやんだ。
となりの部屋だ。となりとの壁の、天井のすぐ下のところは、花とかいろいろに彫った木の細工がしてあって穴が開いたようになっていて、それは欄間《らんま》というのだが光則はまったく知らず、とにかくそれのせいでとなりのようすがまる聞こえで、見えなくてもよくわかるのだった。
ばあちゃんの立ち上がる気配。
首だけを起こすと、狭い廊下が見える。
廊下と部屋の間は襖《ふすま》で仕切られるようになっていて、夏のことであるので、それらは全部開け放たれている。縁側の大きなガラス戸も開いていて、クーラーがなくても涼しくすごせるようになっているのだ。古い家はそれなりによくできている。
「ばあちゃーん、お水ちょうだーい」廊下に向かって叫ぶ。自分で勝手に飲めと言われるかもしれないが、なにしろ気絶なんかしてしまったのである。言わば病人なのだ。少々のわがままはきいてもらえるはずだと図に乗っていた。「おーい、おーい」
「やかましよお、ほんまに」と、おばあちゃんのしゅぼしゅぼと呟く声。なにやら小さくひとりごとを言っている。
「おーいっ、みずー」調子に乗って光則は歌うように「水がなくては人は死ぬのよーおーお」ほれえー。
廊下の板を踏む音が聞こえて、光則がまた首だけを起こして見てみると、ショートカットの小さな顔が見えた。
紅葉だった。
コップに水を入れて持ってきてくれたのだ。なんでいるんだ。へんなうた歌ってこれはまったくかっこのわるい。
紅葉はちょっと緊張した面持《おもも》ちで光則の枕元に膝をつき「はい」と水を差し出してくれた。
「あー」言葉がでない。むくむくと起き上がってコップを受け取り、とりあえず飲んだ。口のなかがねばつく。息が臭かったらどうしよう。手が震えてとまらない。飲み干して、コップを返して「ありがと」きっと息が臭い、と思うから息を吐かないよう下を向いたままちょっとずつしゃべる。
ちらと顔をあげると丸い黒い瞳が光則を見ていた。
「大丈夫?」優しい笑顔だった。
「なにがっ?」心が動揺しているので、どうということのない質問に対してもぴりぴり反応してしまうのだった。
「え」困っている。
「あ」倒れたことか、と気がついて「うん」
「よかった」ほ、と笑って立ち上がり、行ってしまった。簡単に行ってしまった。
「風邪か?」ばあちゃんが廊下に立って光則を見ていた。
「あー、おばあちゃん」ぼそーっとした顔を光則はおばあちゃんに向けた。おばあちゃん相手なら、いくら口が臭くっても平気。どんどんはきはき「おはよう」
「もう夕方やで」ばあちゃんは乾いた声で言う。
「ああそう」一日近く寝てたんだなあ、と思うが今はそんなことどうでもいいの。
「気分は」
「うん、だいじょうぶ」夢見るように答える。
コップを受け取るときと、返すとき、紅葉の手が光則の手に触れたのだ。
二回もだっ。
ほんの少ししか触れなかったのに、熱くて柔らかい指の感触が、せつなくなるほど胸に迫ってきた。
「うふふふふふ」鼻からの息ですかすかと笑ってしまう。
おばあちゃんはぎくっと音をたてて、一歩退いた。
「けったいな孫が来た」と、ばばあは言った。
2
ばあちゃんの話によると、紅葉は琴を習いに来ているのだという。夏休みの間は毎日来るのだそうだ。別に頼むわけではないのに、いつも風呂の掃除をしたり洗濯をしたり、その他雑用をしていってくれるということだった。この家は町から離れているので、ばあちゃんはめったに町へ出ることがない。だから紅葉がいないと、町で戦争が起こってもわからないくらいで、ほんとうにいろいろよくしてくれるいい娘さんなのだとばあちゃんは自慢げにふんぞり返った。
「ふーん」そんなこと、ぜーんぜん俺興味ないんだよ、という顔を光則はした。「毎日来るの」やったーやったー。あーきっと勉強できないぞ。
「先生、洗濯物、全部入れときましたから」紅葉が部屋の前まで来て言った。
「はい、おおきに」
光則はしっかりと紅葉を見た。
幼稚園の子供が初めてサーカスに連れてこられたときのような感動に満ち満ちた視線で見つめられ、紅葉はちょっとたじろいだものの、その瞳には微笑みが含まれている。
脚が綺麗なのはもう知っているけど、それを差し引いても美しい子だ、と光則は息づかいが荒くさえなってくる。なにがどう綺麗だというのではなく、とにかくバランスが良い。丸い腰の上にちょこんと上半身がのっかっているのも可愛いし、肩が小さいのもいい。白いブラウスに包まれた胸が立体的というか。
「ばしし」
「それくしゃみ?」と、ばあちゃん。
胸の形がいいな、と思ってしまった光則は、そういういやらしいことを目の前の紅葉に対して考えたことについて深く深く反省した。その方面のことは、この子に関しては絶対に考えてはいけないのだ、と決めたのである。
夕焼け空の、淡い紫色を見るときと同じような感動が、紅葉を見ていると胸を刺す。
こういうのは汚しちゃいけないんだ。
紅葉が光則を見ていた。
小さい顔が、少しいたずらっぽく微笑む。
嬉しくなった光則はにっこり笑いながら鼻を触った。くしゃみをしたあと、少しくすぐったかったので。
おや、と思って手を前に出す。
お。これは。
鼻の先から右手まで約三十五センチ。糸を引いた洟汁《はなじる》が伸びたラーメンのようになってたらーんと繋がっていた。
「ややっ」すごく長いぞ。
紅葉は、だっ、と音をたてて行ってしまった。
「汚なっ」と、ばばあが喜んだ。「布団汚さんといてや」
いつもの光則なら喜んでいたはずだ。ほらほら、とか言いながらぶらぶらと揺すったり、どこまで伸びるか試してみようと手に付いた方の洟の端を壁にひっつけて、後ろへ下がってどんどん伸ばすというようなことまでもしたにちがいない。大声で人を呼んで測ってもらい、できることなら写真に撮ってもらったかもしれない。いやまちがいなくする。
でも目の前にほとんど初対面の、それもその姿を見ているだけで幸せになってにこにこ笑ってしまうくらい可愛い女の子がいるときに、洟汁びろーんでは喜べない。
さっきぼくを見て微笑んでいたのは、漢が垂れてたのでそれで笑ってたんだ。と、気がついた。
ものすごくショックだった。
しかし、近くにティッシュペーパーもなく、ばばあはどんどん伸びよるがなえらいもんやと面白がって見ているだけで、今や中心の重みによってどんどん下へ下へと垂れ下がっていく洟汁をどうすることもできないのである。くそっ。こんな洟汁で、馬鹿にして逃げちまうような女、いくら綺麗でもやなやつだ。と無理矢理強がろうとするもののますます洟はだらーん。
たたた、と紅葉が戻ってきた。
「あ」自分でもこれはないんじゃないかと呆れるほど情けない声が出た。
紅葉は手に、ティッシュペーパーの箱を持っていた。
光則の横に膝をつくと「ほらっほらっ」と急《せ》かすように箱を揺すった。にっこりと、さっきの楽しそうな笑みをまだ浮かべている。
「あ」またとぼけた声を出して、あたふたと無理な姿勢で洟汁と右手の隙間からティッシュを二枚取り、なんとか他にひっかけず無事に洟を処理することに成功した。
恥ずかしいので、もじもじと丸めたティッシュを手の中に隠す。
「はい、ごみ」捨ててきてあげる、と紅葉は上に向けた掌を光則の方へ出した。光則が驚いて、いやいや汚いからいいよと言う前に「うちのお兄ちゃんが、このあいだ両方の鼻からやったんだあ、そういうの」と、少し恥じらいながら言った。
「え?」
「それ思い出して、笑っちゃった」あはは、と笑った。
光則は丸めたティッシュを紅葉に渡した。
紅葉は、それをポンと取って、また行ってしまった。
光則はなんだかすごく感動していた。
「ええ子やろ」なぜかものすごく真剣な顔で、ばばあが言った。
「うん」
電話が鳴った。
今では珍しい旧式のベルの音。やたらとでかい音がするが、ピロピロという電子音に慣れてしまった耳には、けっこういいものである。
紅葉が出たようだ。そんなことまでしてくれるのかと、光則は自分の世話をしてもらっているわけでもないのに嬉しい。
電話に話す紅葉の声が、固くなった。なにを言っているのかは聞き取れないが、なにかあったらしいということはわかった。
電話を切ると紅葉は走って戻ってきた。
「急いで帰ります」さっきまでの柔らかな表情はなくなっていた。
「どないしたん。なにがあったん?」おばあちゃんが訊いた。
紅葉は、口に出して言うことによって不幸が確定してしまうのを恐れるかのように一瞬形のよい唇を固く結んだが、顔をあげると静かに言った。
「お兄ちゃんが、背中から撃たれたんです」
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_082.jpg)入る]
3
教会のとなりに酒場があった。前にも書いたように大久保町は、そこらへん全部酒場である。ちょっと大袈裟《おおげさ》な言い方をすれば、酒場ばっかりの中にぽつりぽつりと、民家だとか八百屋だとか駄菓子屋とか蛸の釣り堀とか、いろんな建物が混ざっているのである。蛸の釣り堀というのはお金を払って蛸を釣るところのことである。わざわざ説明するほどのことではないけど。
しかしそんなに酒場ばっかりあったら商売にならずに、共倒れしてしまうはずだと思うだろう。だから、そんなことは絶対にあるはずがない。いくらなんでも嘘に決まっていると。
みんなそう思う。
でもそうなのだからしかたがないのである。もうこの話はやめよう。
ちょうど光則がおばあちゃんの家で寝ていた頃、清美はこの教会のとなりの酒場へと向かっていた。
この酒場を経営しているのは、となりの教会の神父さんである。
ゴーマ神父というこの神父はフランス人で、体も気持ちも大きい好人物だった。町の人間のうち、カトリック教徒はほとんどいなかったが、この年老いた神父さんは誰からも好かれていた。
清美は二十数年前の冬、この酒場の前に捨てられていた。教会の前ではなく酒場の前だったのは、雪が積もっていたこともあるし、捨てたやつはたぶんまちがえたんだろうなあ、とは清美の育ての父、大工の伝六《でんろく》の弁である。どちらにしても、見つけるのは神父さんだったであろうから、同じことだ。
村安の兄弟を怒らせることができたので、嬉しくなった杉野清美はだれかにそのことをしゃべりたくて、あっちこっちでしゃべりまくった。神父さんに言おうかどうしようかと少し迷っていたのだが、やっぱり我慢できなくなって酒場へ行くことにした。ゴーマ神父はともかく、顔見知りの常連客たちに笠置詠の息子の話をするのはきっと楽しいだろうと考えたのである。村安の連中がどんなに怒っていたか、それを話せばみんな喜ぶにちがいない。
清美はもう二十をいくつか越えるような年齢であったが、子供っぽいところが全然抜けていなかった。卑劣で強欲な村安一家の人間を彼は憎んでいたが、それほどろどろとした憎悪ではなく、単純にこの世の悪を憎んでいるというだけのことなのだった。だからもし、村安の誰であれ、改心しましたわたしが悪《わる》うございましたと頭を垂れれば、そうかそうかと笑ってすんでしまうにちがいないのである。これだけ聞くとものすごい人格者のようにも思えるところだが、なんでも笑ってすませてしまう性格は、すぐに怒る単純さも持っている。つまり子供と同じなのだった。
「丸腰の男を撃つとは最低だな」なんて、なかなか良かったな。と歩きながら自分の言葉を思い出してにっこりする。清美はとても機嫌がよかった。
「邪魔をつるにゃ」と、清美は太郎のセリフをわざと舌っ足らずにかっこ悪く真似してから、声を低く落とし顔つきまできりりとつくり「邪魔だったかな」
うん、なかなか良かった。と、悦に入っている。
教会の前まで来ると清美は片膝を着いて胸の前で十字を切った。彼は大久保町では珍しいカトリック教徒のひとりである。正確に言うと、神父さんをのぞけば、彼だけがカトリック教徒なのであった。それでも教会は成り立つのであるそういうものである。
意気揚々と酒場のスイングドアを両側に弾き、颯爽《さっそう》と入っていこうとした清美はそこに宮本丸雄がいるのを発見して、きょとんと立ち止まった。「あれ?」勢いよく開けられたスイングドアが、立ち止まった清美の胸にばーんと返ってくる。「ぐわっ」
「ほっ、清美」と神父さん。今はバーテンである。
「この人、なんでここにいるんだ?」ちょっとよろめいて中に入った清美に、スイングドアが今度は背後から返ってきた。「でえ」
ちくしょうこのドアはまったくいつもいつもまあ、と怒った清美は、スイングドアに体ごと掴みかかると、おうおう吠えながら二枚ともちぎって捨ててしまった。
酒場にいる人間は毎度のことなので誰も驚かなかった。怒りがおさまれば、あとで自分で修理するからそれでいいのだ。みんな、清美が勝手に体操しているくらいにしか思っていない。
「この人、なんでここにいるの」なんでなんでなんでなんで。早く知りたくてたまらない清美は逃げる餌を追いかけ突進する犬の速度でカウンターに向かった。
「ほっ、清美、丸雄のことは、もう知っていますね」
「知ってるってことは、ないんです」宮本のとなりに座ると、神父さんの真向かいだったので、知らず言葉が礼儀正しくなる。「昨日、少し、ありましたものですから」
両手は膝の上。「ゴーマ神父さまは、この人をご存じでありまするか」無理をしているので、ときどき変にもなる。
「ほっ。知ってる。古い友達」神父さんは清美の前にグラスを置き、酒を注いだ。「宮本丸雄」
「えっ。宮本丸雄。あの」毛利新蔵、笠置詠、宮本丸雄。伝説の三人のうちのひとりだと驚いた。「ほんと?」信じられん。「死んだって聞いてた」
「ほんと」神父さんはにこにこ。
「わたしは、あなたと同じく毛利新蔵の弟子で杉野清美と申します。昨日は失礼いたしました」
宮本は、毛利新蔵の名を聞いて、ちょっと驚いたような顔をしたが「まったく、おせっかいな野郎だ」と、また下を向いて言った。
「なんだとー」豹変して清美は立ち上がり、宮本に食ってかかる。
「まあまあ」神父さんが少しもあわてることなく清美をなだめた。
「はい」と、座って「でも、私がいなかったら、この人は村安の連中に殺されていたかもしれず」
「よかったんだよ、殺されても」と、宮本。
「なんだとこの」神父さんの視線に気づいて浮かしかけた腰をきちんと下ろし「自殺はいけませんよ」と、清美。ま、いろいろと事情があるんだろうけど。
「知ってるよ」宮本は、つらそうに笑った。
「丸雄もカトリックね」神父さんが言った。
「あ、ほんと」清美の顔が明るくなった。「俺もなんだよ」町には俺だけだから、あんたが来てくれてこれでふたりになるなあ。
「へえ」宮本はそれがどうしたんだとばかり、グラスの酒を一気に飲み干した。
「あ」宮本がグラスといっしょに上を向いたとき、清美はその胸元に銀の十字架がぶら下がっているのを見つけた。「それ、いいね」ちょっと見せてよと、手を伸ばす。
「よせ」宮本の目に怒りがこもった。清美はどんな人間に睨まれても動じることのない男だったが、その目には一瞬たじろいだ。
「なんだ?」なんで怒られたのかわからないので、すがるように神父さんの方を見る。すると神父さんはそうだよ、と言うようにゆっくり大きく頷いた。
ははあ。全然わからない。もう一度、恐るおそる宮本を見るとそこにもう恐い目はなく、これもまた清美が今まで見たことがないような、深い悲しみに満ちた男の顔があった。
清美は、その顔を見て胸が苦しくなり、どえらい失敗をしてしまった小学生みたいな表情をした。
「なにか、悲しいことを思い出させたみたいだね」清美は体ごと宮本の方を向いた。「ごめんなさい」頭を下げる。
「あんたのせいじゃないさ」宮本は酒をあおった。
酒の力を借りても忘れられない苦しみが、宮本にはあった。酒に逃げる自分の弱さを情けなくなるほどよく知っていたが、他の方法を宮本は知らなかったのだ。
つかのま忘れていた十字架の重みが、二日酔いの悪寒のように胸の内にぶり返してくる。十字架を自分の首からはずし、首にかけてくれる女の匂いがよみがえる。鎖とともに首筋に当たる細い指先の暖かさ。頬をくすぐる長い髪。柔らかな唇。それらすべての幸福感が、まざまざと思い出された。そのときの幸せが、今となっては苦しい。あれは全部嘘だったのか。「もう会えないとしても」そう言いながら泣いていた女の顔。あのときはまだ信じていた。「あたしの人生の中で、あなたが一番好きよ。今までも、これからも」
なら、どうしてお見合いして結婚したりしてしまったんだあ。それもよりによって太った公務員なんかとっ。
宮本にはわからなかった。
人の心とはそんなに変わってしまうものなのか。十字架を捨てようと思わない日はない。捨てられないのは、まだどこかにあのときの愛情が残っているのではないかという、かすかな望みを捨てきれないからだ。
真剣な顔をして黙り込んだ宮本を、清美は自分がとてつもなくひどいことをしてしまったのではないかという恐怖に満ちた目で見つめていた。
「あの、宮本さん?」清美が宮本に声をかけた。
「あ?」つらい回想を断ち切られ、宮本は救われたような、それでいて腹立たしいような妙な気分で清美を見た。
清美の顔は壮絶だった。
両手で思いっきり引っ張った頬と口。両側にむにゅうと広がった顔はなんと恐ろしいことに普段の三倍くらいまで伸び、その作業に参加していない両方の中指は鼻の穴に突っ込まれ、裂けよとばかりに上へ突っ張っている。鼻の薄い部分が限界まで伸びきり、驚いたことに下から突き上げる指の形が皮膚を通して見えるのである。二本の人さし指が目尻を押し上げ、小学校の女教師みたいにいやらしくつり上がった瞼《まぶた》の奥で、眼玉はひっくり返って白目を剥いている。清美は息を止めて気張ることで、この白目の血管を浮き上がらせられることに自信を持っていた。真剣にやっているのだ。
宮本丸雄は、思いがけず眼前に出現したこの特殊な表情と、わざわざ人に声をかけてまで、こういうことをしてみせる黒人青年の意図がよくわからなかった。まあ、しかし、見れば見るほどものすごい顔である。この顔を維持するのは苦しいのではないかなあ、と宮本が心配しはじめたとき、清美の目から、ほろりと涙がこぼれた。
やっぱりつらいんだ。そらそうだろうなあ。
宮本は自分の頬が緩みはじめたのを感じていた。
確認のため、清美は黒目を戻して宮本を見た。
宮本の顔が緩んでいるのでほっとしたらしく、顔から両手を離した。
するとおもしろいことに、伸びきっていた頬、口、鼻の皮、目尻などが、にゅるにゅるとゆっくり戻りはじめた。すすっと戻るのではなくて、このじわーっと戻るようすがこの世のものとも思われず、宮本の表情はみるみるほころんでいった。
清美がぶるるっと顔を震わせると、八割がた戻っていたのが一息に復元した。その瞬間の真顔がすっとぼけていて、一番おかしかった。
宮本の鼻から笑う息が漏れ、白い歯がこぼれる。
「あ、笑った」うんうんと清美は頷いて、ほっとしたようだった。「よかったよかった」これだけのことで完全に安心してしまった清美の目は、化け物顔の名残で涙に濡れている。ばしばしと瞬きをくりかえす。
「特撮映画みたいなやつだな」宮本は呆れ顔である。
「つらいときは笑うのが一番てっとり早いからな」自分に言うように「ひとりのときでも、夜中でも、無理矢理笑ってみると、なんとか楽にはなるんだよなあ」
「あんたいくつだい?」
「二十三だよ」
俺と一回り以上も違うのか、と宮本は少したじろいだ。年齢のわかりにくい男だが、三十過ぎくらいかと思っていたのだ。言われてみればその肉体や身のこなしはたしかに若々しい。しかしある程度の年月を過ごしたものだけが持つ存在感が彼には備わっていた。肌の色ゆえに苦労した結果が、この無邪気な落ちつきなのだろうか。
「俺はすぐ、人を怒らせちまうんだよ。よくないよなあ」清美は本当にそれは反省しているのである。でも「でも、人を怒らせるのはおもしろいなあ」
なんだそれは、と宮本はほんの少しがくっとなった。
「清美は、すぐに怒る」いつのまにか目の前に来ていたゴーマ神父さんが言った。「怒ってドアを壊す」
「でも、あれは俺が作ったドアなんだぜ」あ、いや「ドアなんでございますよ」
「でも、怒るのはだめよのことよ」神父さんも日本語はちょっとおかしい。「腹が立ちそうなときは、ゆっくり数をかぞえるのがいい。すると、だんだん怒りは消える」
「わかってます。いつもやってます。でも、だめなんでございまする」もうめちゃくちゃじゃ。
宮本は、久しぶりに心が休まっている自分に驚いていた。神父さんの大きな優しさと、清美という黒人青年の素直な性格の交流が、そばで見ていて楽しいのだ。前に楽しいと思ったのは、いつのことだっただろうか。
「わかっていますよ。人を怒らせるのがよくないってことはね。そのうちきっと、大きな天罰が下ると思う、思います」
「天罰なんて、ないのです」神父さんは穏やかである。「神様は、人を罰したりしません」
「いやあ、きっと俺は、やられておしまいになりはるような気がするであります」敬語はまったく苦手なようだった。
鋭い痛みを感じたかのように、宮本の動きが止まった。
「いかん」
同時に銃声がして、清美の体が前方へ跳ねた。カウンターにどっとぶつかり、なんだろうというようにゆっくり手を動かして背中を触る。ダンガリーシャツの背中に赤い染みが浮き、すさまじい勢いで広がっていった。血に染まった手を顔の前にかざし、清美はきょとんとした顔で宮本を見た。
「な」言ったとおりだろ。と、清美は言おうとしたようだったが、喉はごぼごぼと鳴りつづけ、血の塊が顎をつたってこぼれ出た。
清美は椅子から落ち、全身を痙攣させはじめた。
4
祈りながら宮本は走っていた。あの黒人が死にませんように。犯人に追いつけますように。怒りに支配された今の自分の行為を、神が助けてくれるとは思えなかったが、できることといえば、走ることと、あとは祈ることしかないのだ。
教会の裏の通りから、お稲荷《いなり》さんの方へ犯人は逃げていく。犯人の姿は一度も目にしていないが、宮本は正確にその跡を追っていった。なにかに対して情熱を持って動くのは、実に久しぶりだ。なんだろう。俺はなにに必死になっているのだ。
お好み焼き屋の角を曲がり、民家と民家の間の隙間を抜け、お稲荷さんの赤い鳥居をくぐって貸本屋の角を曲がり、豆腐屋、漬物屋、炭屋、牛小屋、鶏小屋、犬小屋、蛸の釣り堀、鰻の釣り堀、眼鏡のミキ、タイヤのブランコ、ジャングルジム、登り棒、ビッグサンダーマウンテンなどの角を次々に曲がっていく。
あの黒人を死なせないでください。犯人を捕まえさせてください。
そうした祈りの間に、女の顔が浮かんでは消えた。
酒の抜けない体が走るのを拒む。だが苦しみに耐え、ここでなんとか踏ん張ることができたら、そして犯人を捕まえることができたなら、清美というあの優しい黒人は命をとりとめ、俺は立ち直ることができるのだ。
なんの根拠もない、弱い心が作りだした幻想だ。わかってはいたが宮本は、そのわびしい希望にしがみついた。
心臓が、肺が、筋肉が、もう動けないと叫んでいた。酒に浸った数か月が、思っていたより体を弱らせてしまっている。
走れ。
一度は捨てた人生の、残りすべてのパワーをふりしぼり、宮本は犯人の足音を追った。追跡の勘だけは、まだ忘れてはいないようだ。宮本はこの瞬間に賭けた。これをしくじったら、俺は本当の負け犬だ。
酒に溺れつづけた日々を思い返す。なにが、今自分を駆り立てているのか。
村安の兄弟たちに、なめきった目で囲まれたとき、落ちるところまで落ちた自分を意識した。これでいいと思った。死に場所を求めてこの大久保町へ戻ったのだ。死に方を選ぶ気もなかった。むしろ、みじめで情けない死に方を望んでいたのかもしれなかった。だが、どこかにそれを許せないと思う自分がいたのも確かだ。それは男としての意地のようなものだ。それをなくすのが恐いのかもしれない。
村安の兄弟たちに抱いた怒り。
あの黒人。
笠置詠の名と、その息子だという少年。
活き活きとした、彼らの姿に刺激されたのも確かだ。
特にあの少年にはなにかを感じる。詠といっしょに戦った日々を思い出す。
まだ死なんぞ。と思う。
理解できない歓喜と怒りが宮本の血をたぎらせた。
宮本丸雄は吠えた。
犯人の足音が、土の上から石を敷きつめた道へと変わった。近い。追いつめた。
暑い。あちこちの酒場の裏口から雑然とした空気が裏路地に流れだしている。
犯人の足音が鈍った。向こうも疲れているのだ。
怒声と嬌声《きょうせい》と蝉の声の中から、宮本の耳は犯人の足音を確実に聞き取っていく。
やつは駄菓子屋の横を右に入ってすぐに左に曲がり、神社の前の道に入った。
駄菓子屋を曲がると、裏通りにこもっていたたまらない蒸し暑さが消えた。白い石塀の向こうに、神社の鳥居が見える。足音が止まっている。
待ち伏せて撃ってくるつもりだ。瞬間的な緊張が、苦痛に痺れた感覚に檄《げき》を入れた。ここで足を止めてはこっちが待ち伏せに気づいたことを知らせてしまう。宮本は走る足音を変えないようにスピードを落とした。もう石の塀が終わる。猶予はない。考えろ。やつの足が止まったのは神社の鳥居の数メートル先だ。まちがいなくそこから撃ってくる。
いいだろう撃たせてやる。神社は無人だ、流れ弾が通行人に当たる心配もない。宮本は、頬が歪むのを感じた。そうか、今俺は笑っているのか。
塀が切れる。どこで撃ってくるだろう。頭が見えた瞬間か、それとも全身が見えてからか。塀の陰から飛びだし、全身を敵にさらした。
撃鉄がゆっくりと引き起こされる、かちりという金属音が、蝉の声の中からはっきりと聞こえた。
宮本の目が銃口を探す。
あった。鳥居の下。低い位置だ。
そのまま走りつづけた。
まだだ、まだだ。なぜまだだとわかるのかは、いつもわからない。懐かしいこの感覚。まだ撃たない。まだ……。
撃つ。
瞬間、宮本は全力を集中した右足で、左方向にステップした。
膝の力が足りない。宮本の背中から汗が吹き出した。
かわしきれないっ。
炸裂音が轟き、シャツの右肩の部分が弾け飛んだ。布と皮膚の焦げる匂いが鼻をかすめる。ぎりぎりだった。
気をつけなければいけない。昔ほど動けない。心臓は数えられないほどの速さで鼓動している。喉が腫れて息ができない。
撃鉄が起こされる音。
宮本は音の方へ加速し、引鉄の絞られる気配を待ちながら弾道を予測した。
炸裂音と同時に腰から上を捻る。左胸に衝撃があったが当たってはいない。またぎりぎりだ。すぐに次が来るのを感じる。やや緩慢な動きで上半身が沈み、次の弾丸が発射される直前、沈んだ上半身は真横に跳ねた。今度のは、数十センチの余裕を持ってかわした。今の一発は撃鉄を起こさずに引鉄が引かれたようだ。相手は焦っている。もう少しだ。
再び走りだす音が聞こえた。
待て。宮本は絶望感に襲われた。
犯人の足取りは、思ったより数倍も速い。
追いつけない。宮本は気力が崩れるのを感じた。もう走れないと思った。再度の急激なステップが、ぼろぼろの体から力を搾り取ってしまっていた。精神力や根性では克服できないところまで来てしまったのだ。
鳥居に手をつき、体をふたつ折りにして喘《あえ》いだ。だめだ。止まってしまうと、二度と走れない。しかし、止まってしまった。気力の壁を失うと、あらゆる痛みと苦しさが大挙して押し寄せてきた。焼けただれたような喉から、熱い息が絶え間なく吐きだされる。手足の感覚さえなくなったようだ。
白く濁った視界の中で、動くものがあった。犯人が逃げていく。足音が必死の逃げ足から、のんびりとしたものへと変わったことに宮本は気づいた。安心したらしい。このありさまでは、なめられるのも仕方がない。俺はもう、本当にだめなのかもしれない。まだやれると思ったのは一瞬の錯覚だった。
完全に逃げられてしまった。顔を見ることすらできなかった。体が崩れ落ちそうだ。虫けらのように地を這えと、どこかで自分の声がする。そうすれば楽になると。両膝が地面に落ちる。いやだ、這うのはいやだ。
うずまく苦痛の波がほんの少し引いたとき、犯人の足音がまた聞こえた。近づいてきている。
鉄のように重くなった頭をなんとか起こし、目を凝らした。
見覚えのある顔が、そこで笑っていた。
村安兄弟の三番目、末男だった。
俺は、こんなぶよぶよに太ったやつを相手に走って負けたのか。追いつけなかったのか。
「こんな、白くてぶよぶよの」声に出してしまっていたが、意識が朦朧《もうろう》としていて自分では気がついていなかった。
「このやろう」末男は真っ赤になって怒った。肩が上下に動いているのは、怒りのせいではなく、走ったための息切れがまだ治まっていないからだった。「殺してやる」
末男は初めて見たときから宮本の眼が恐かったのである。
今もまた、宮本に追われたことでとてつもない恐怖を味わっていた。恐いと思う自分が許せず、恐怖をもたらす宮本が許せなかった。自分の弱さを自覚しながら認めようとはせず、それを克服するためのちょっとした努力さえできず、まわりの人間を貶《おとし》め排除することでしか生きられない愚か者は実は世の中けっこう多い。そのせいでますます嫌われ馬鹿にされるのだが、末男はそういう駄目人間の悪循環にどっぷり頭の先まで浸かっているのだった。
こっそり背中からなら杉野清美だって殺せる。
宮本が弱って動けなくなっている今なら撃ち殺すことができる。
末男のような男にとっては、正々堂々というような振る舞いにはなんの意味もなく、同時に卑怯であるとか狡猾《こうかつ》であるといった概念はまったく存在しないも同然であった。なんであれ、勝ちさえすればいいのである。
撃鉄を起こしながら末男が近づいてくるのを、宮本は苦痛に喘ぎながらもかろうじて見ていた。まだ撃たない。よけられるだろうか。体はへとへとだ。まだ撃たない。まだだ。
末男は目に涙を溜めていた。銃を持つその手は震えており、息切れはまだ治まっていない。しかし宮本の状態はそれ以上にひどく、膝をついたまま鳥居にすがり、顔を上げているのが精一杯だった。なんとか弾道を予測しダメージを最小限に。
怯えながらもにたにたと近づいてきた末男は、リボルバーの銃口を宮本のこめかみにくっつけた。
くっつけられるとよけられないのである。
やはりだめだったか。
宮本はあまりの情けなさに、大声で笑いたい気分だった。
一度人生をあきらめた人間は、そこで終わりなのだ。あらゆる望みを奪われた結果、情けない死に様をさらすのだ。しかしまあ、よりによって「こんな白くてぶよぶよのでぶに」殺されるとはなあ。声に出たことに、やはり宮本は気がついていなかったが、こめかみに押しつけられた銃口に力がこもり、震えが大きくなったのはわかった。やられるのか。いや、まだ撃たない。人が人を撃つ直前の、あの独特のショックが来ない。
だめだった。なにもかもがめちゃくちゃになったあげく、こんな「性根の腐ったぶよぶよの白豚野郎が」この俺を殺すのだ。馬鹿馬鹿しくてもう笑うしかない。
宮本は自虐的に、しかし心からおかしそうに笑った。
「こっこっ、この野郎」末男の表情が引《ひ》き攣《つ》った。得体のしれないものと遭遇した恐怖に末男の体はがくがくと震えた。「ひいいいい」引鉄にかけた指先が緊張し、血の気を失って白くなる。
撃つ気だ。
銃口が宮本の汗でずるりとすべる。
宮本は渾身の力を集中して弾けるように頭をのけぞらせた。鼻をかすめた弾丸の衝撃波で、聴覚がなくなる。すぐさま次が発射されるのを感じた。よける暇はもうない。末男は撃鉄を起こさず、引鉄だけで撃とうとしている。宮本は銃を持つ末男の右手を掴みそのまま押せるだけ押した。
二発目が地面で跳ね、土煙を上げるのが視界の端に見えた。あと一発だ。知らず宮本の本能は弾数を数えていた。この銃にはあと一発しか残っていない。
末男の腕を掴んだ手に力をこめる。柔らかい脂肪ごと骨と腱を握った。折ってやる。切ってやる。握りつぶしてやる。
撃つ。
痛みから逃れようと放たれた弾丸は、宮本の膝から数センチの地面にめり込んだ。
がちん。がちんと二度。撃鉄が、装弾されていない弾倉を叩く振動が、末男の腕を通して宮本の手に伝わった。耳はまだ聞こえない。
握った手に、さらに力を込めると、みしりと骨が軋《きし》んだ。末男の手が開き、銃が落ちる。
その手を内側にねじりながら宮本は立ち上がり、末男の首を左手で掴んだ。顎と首の境のはっきりしない柔らかな肉に指をめり込ませていく。
末男がなにか叫んでいるのが、掴んだ喉首から伝わってくる。やったぞ。捕まえた。
勝った。
絶頂期のスピードからは程遠かったが、それでも復活の兆しは見えたような気がした。なにも聞こえなかった耳に耳鳴りが始まっていた。しばらくすれば聞こえるようになるだろう。耳鳴りの音に、蝉の声が少し混ざる。
末男の喉が手の中で震えた。なにを言っているんだこいつはと、宮本は末男の顔を上に向けた。
「おまえを逮捕する」自分の声がほとんど聞こえない。
「なんなんだおまえ」末男の苦しげな声の調子と、唇の動きでそう言っているのがわかった。教えてやろう。
「俺は」遥か遠くから懐かしい声が、低く聞こえてきた。「俺は保安官助手の宮本丸雄だ」
5
夏の夜というのは人恋しくて、嬉しいような悲しいような、不思議に気持ちがいいものだ。
光則は夜の風を肌に感じながら、しみじみと深呼吸したりしているが、実はこういうことは光則の場合、夜になればいつでも感じているわけで季節にはまったく関係がない。もののみごとに関係ない。しいていえば、なんとなく夏には夏の、冬には冬の微妙な差があるのかもしれないが。光則は春夏秋冬でどれが一番好きかと訊かれると、必ずその時の季節を言ってしまう男である。つまり夏になれば夏が、春になれば春が一番好きなのである。それを自分では不自然ともなんとも思っていない。気がついてさえいない。
おばあちゃんの家には、大きな縁側がついている。光則が寝かされていた部屋の、庭に面した部分は縁側になっていて、光則はそこに座ってぼさーとしていた。夕飯を終え風呂にも入り、今日も一日なんにもせんかったけどまあまだ来たばっかりだしまあいいか。
紅葉のことを考える。
可愛い女の子と知り合いになるといつも、あああの子好きだなあ、とそれだけで嬉しくなってしまうけど、紅葉に関してはちょっとちがうような気がした。
じかに触れてはいけないような、どこか神聖なものを感じる。えらいと思う。洟をだらーんとさせたぼくの気持ちを察して、気をつかってくれた。ああいうことはぼくにはできないな。人の気持ちよりも先に目先の面白さに夢中になってしまって、「うっへーきったねーすっげー洟、こっちにくるんじゃねえよおひゃあひゃあ」というのが、確実に予測される。
ちょっと情けないからしっかりしよう、と思う。「しっかりしなさい」と母さんに言われ「もう、しっかりしてよお兄ちゃん」と妹に言われ「お互い、しっかりしないとな」と父さんに言われる。
しっかりしなくてはいかんのだけど、それってどうやるんだろうかなあ。
聞けば紅葉は、まだ高校二年生だというではないか。ひとつ年下なんだ。こんなすごい町に住んでいるから、それなりにすごくなっちゃったのかもしれないけど、落ちついてるとかそういうのではなくて、あの衝撃的とも言える三十五センチ洟汁を目前にして、たじろぐこともなく、ぼくの気持ちを気づかってくれたという、そういうことのできる心の広さがすごいと思う。ひたすら尊敬してしまう。惚れてしまう。
「お兄ちゃんが背中から撃たれたんです」
そう言ったときの紅葉は、幼い子供のようだった。あのときの紅葉を思うと、ちょっとはしっかりできそうな気がする。なにをしてやれるというわけではないが、なんとなく役に立てそうな気がする。でも、あの子を守ってやれる男というのは相当にすごいやつなんだろうなあ。かなわないよなあ。大丈夫なんだろうか今、あの子は。背中から撃たれたというお兄ちゃんは、どうなったんだろうか。現実離れした話で実感がわかなかった。背中から撃たれるって、いったいどういうことなんだ。やっぱり、背中を撃たれちゃうんだろうなあ。あたりまえだよなあ。ばかなこと考えてるなあ。ぼくってやっぱりちょっと馬鹿なのかなあ。
よくわからない焦燥感で、光則の頭は混乱した。わかっているのは、紅葉という女の子に対して、あらゆる部分で自分は無力なのだということだけだった。あまりにも無力だった。しかしよく考えてみるとあの子のことなんてほとんどなんにも知らないのだ。昨日会ったばっかり。それに向こうもこっちのことなんて、ほとんど気にもしていないかもしれない。だから、もう全部ほっぽりだして、あんな子好きでもなんでもないんだよということにしてしまえばずいぶんと楽になるよなあ、と無責任なことも考える。だいたいもともと責任なんてなんにもないのである。
でも、そうするのはひどく情けない気がして、そんなことを考える自分の根性に、またなにか焦るものを感じるのだった。
その焦りと苦しさは、受験のことを考えるとやってくる重苦しさによく似ていた。
なにかしないといけないはずなのに、なにをしていいのかわからないのだ。なにか、することはないんだろうか。
おばあちゃんが、廊下を通った。紅葉の家族とおばあちゃんは親しくしているらしく、撃たれたという紅葉の兄のことが気になって、ばあちゃんも落ちつかないようだった。
ぼけーと振り返る光則の間抜け面。
それを見ておばあちゃんは、なにか思いついたように立ち止まった。「ひまなん」
「そうなんだよ」まったく。することが欲しいんだ。「なにかすることないかなあ」
ばあちゃんは眉間に皺をよせて、それはつまり、つるんとした額に皺がよるのではなくて、たくさんある皺皺を眉間の中央に凝縮させたということであるが、そうして、その皺の中で意外なほど大きな目を二三度ぱちぱちとまたたいた。
「勉強は?」
「あ」そうだった。
「あ」ばあちゃんは光則の口調を真似した。「やないがな。なにしに来たんや、あんたは」
「ええーと」どう言ってごまかそう。
「まあええけど」ばあちゃんは首を振り振りああ呆れちゃった、という顔で台所の方へ行こうとした。ふと思い出して口を開こうとすると、
「はあ、わかってるよ」と、先に光則が言った。
「なにが」ばあちゃんが水をかけられたような顔をして訊き返す。
「あ? 蚊とり線香だろ。気をつけるよ」
病人を診《み》る医者のような目つきで光則をしばらく見つめ、ばあちゃんはうんうんうん、と小さく頷いた。
「やっぱり親子やな。よお似とう」
「え?」
「いーや」行ってしまった。
そうだったんだよなあ。と光則。勉強しに来たんだった。思い出したら急に心配になってきた。でも眠いから、今日はとりあえず寝よう。起きたのが夕方だったから、今日は一日、紅葉の前で洟を垂らして、飯食って風呂入っただけだよなあ。なんで眠いんだろうなあ。
こんなことではいけない、しっかりしないといけない。そう思うのなら眠いのを振り切って勉強すればいいんだけど、寝るのである。
もっとがんばらないといけない。明日からがんばろう。明日は思いっきり朝早く起きてばりばりやろう。と思う。
そう思って寝て、翌日早く起きたことなど生まれてこのかた一度もなかった。
6
心臓の動きがどんどん弱くなっていく。心臓のパルスと同調した電子音とともに、心電図のモニターに跳ねる緑色の光点は、さきほどまでのリズムを失い、ゼンマイの切れかかったオルゴールのような、けだるい動きに変わっていく。
縫合のすんだ背中の傷をかばうようにして、清美の体は仰向けにされた。
「ボスミン」執刀医が清美の体から顔を上げずに言った。若い看護婦がやや緊張した動きで、清美の手首に通された輸液ルートから、血圧を上げるための強心剤を注入する。執刀医が清美の胸から直接心臓に強心剤の注射を施すと、心臓の動きは一瞬、元のリズムを取り戻したかのように見えたが、集中治療室内の全員が希望を持つ間もなく、再び絶望的に衰えていった。
「心臓マッサージ」
声と同時に清美の背中の下に心臓マッサージ用の板が入れられる。
執刀医が清美の胸に両手を当て、体重をかけるようにして強く押した。
|EKG《エーカーゲー》モニターからは、弱まりゆくリズムが淡々と。
もう一度押す。
波をうっていた光の筋が、一直線になる。モニターからピッ、ピッ、と聞こえていた電子音が、すべての終わりを告げるかのようにピーという継続音に変わった。
「カウンターショック!」執刀医が叫ぶより早く、看護婦の一人が除細動器を用意していた。心臓に電気ショックを与えるのだ。
カウンターショック、という声を清美は聞いた。
脳をこねられるような苦痛の中から抜け出したかと思うと、かつて経験したことがないほどのすがすがしさに包まれ、清美の意識は手術台の上に浮いた。仰向けに横たえられた自分の姿と、そのまわりで動く医者と看護婦が見える。
弾丸は、脾臓で止まっていた。摘出がすんで、縫合も終わるというところで体力がつきたのだ。死なせてたまるか、という医者の思いが清美の意識をかきまわす。
でも俺、もう死んでんだよなあ。
看護婦から小さな弁当箱みたいなものをふたつ、医者が受け取った。把手のついたその弁当箱を、医者は清美の胸に当てる。
ははあ、電気ショックか。
自分を助けようと動きまわる医者や看護婦の意識を感じて、清美は感激した。こんな俺でも、こんなに必死に助けてくれようとする人が。
「よし」と医者が言ったとたん、のほほんとしていた清美の意識は一気に元の体に引き寄せられた。ぐわああなんだなんだ。耐えがたい痛みと苦しみが全身を駆けめぐり、体が跳ねた。
一瞬、EKGモニターにパルスが戻るが、すぐに直線に。
清美はあわてて飛びだした。痛みと苦しみが嘘のように消える。
ああ苦しかった。死ぬかと思った。
「よし」医者が言った。
ぐわあ。電気ショックに、また引き戻される。なんてことをしやがる。
急いで、抜け出す。
モニターを見る医者の目。パルスは戻らない。
「よし」
ぐわあ。やめろってば。すぐに出る。
「だめか」医者があんまりがっかりしたので、戻ってやろうかな、という気にもなるが、もう痛いのとか苦しいのはいやだったので、逃げよう、と思った。
紅葉が泣いていた。母親が目を泣きはらして父親に肩を抱かれていた。
病院の待合室のようだ。いきなりだった。なぜここにいるのかはわからないが、家族のところへ来てしまった。
三人とも、死なないでくれと必死で祈っていた。三人の意識が、自分のもののように感じとれる。清美は血のつながらない三人の家族が大好きだった。自分が死ねば悲しむだろうとは考えていたが、今、三人のあまりにも大きな悲しみに触れ、その気持ちの深さに驚いた。
ゴーマ神父が祈っている。清美は教会にいた。
保安官事務所にいた。
宮本丸雄が、保安官助手の太田《おおた》のじいさんとしゃべっている。そうか、俺を撃ったのは末男か。別に腹も立たなかった。もうそんなことはどうでもよかった。
シゲさんとトシさんが同じパジャマを着て、ふたつ並んだベッドで寝ていた。
みんなが清美のことを心配し、悲しんでいるのだった。
死なないでほしいと願っていた。
笠置光則が風呂に入って鼻歌を歌っていた。
全然悲しんでいない。紅葉のことを考えている。
紅葉の兄が撃たれたことは心配しているが、それが清美だとはわかっていない。大丈夫かな紅葉が悲しい思いをするのはいやだなと思い、そのままの続きでアメリカのコメディ映画のワンシーンをなんの脈絡もなく思い出し、
「わっはっは」と笑った。
「なんや?」と風呂の外で、浅田のばあさんが叫ぶ。
「ああ? べつに」
「風呂でひとりで笑いな」
「ははは」
ばあさんも、心の隅で清美の安否を気遣っていた。
清美の意識はぼんやりと形を失いはじめ、白く暖かい光に包まれていった。親しいみんなのところから離れていく。もう会えなくなる。そう思っても不思議に悲しくはなかった。ただもう少しみんなに親切にすればよかったと残念で、やっぱり死にたくないなと思ったものの光はどんどん強くなり、清美は夜空へと舞い上がる。
地上に引き留めておこうとする力を感じながらも、さらに強い力に鷲掴みにされ、清美の意識は天上へと加速していった。
風呂に浸かった光則が、昨日の村安兄弟との決闘騒ぎを思い出した。
清美の登場した瞬間を思い出し、あれはかっこよかったもう一度あの黒人に会いたいなと考える。
清美の両親、紅葉、ゴーマ神父、宮本、太田のじいさん、シゲさんトシさん光則のばあさん、そのほかいろいろと清美に生きてほしいと願う人々の意識の上に光則の意識が加わった瞬間、どことも知れぬ空間を今や猛スピードで移動していた清美の意識は、小さな爆発音をともなって病院に横たえられた体に飛び込んだ。
清美の瞳孔を調べていた執刀医が、ゆっくりと首を横に振る。
執刀医とふたりの助手、四人の看護婦が沈鬱な面持ちで礼を交わし、家族に会わせるための準備を始めようとしたとき、清美の体がどくんと動きEKGモニターにパルスが戻った。
弱々しいが、規則正しいパルス音が室内を満たす。再び瞳孔を検査する執刀医の、マスクと手術帽の間に覗く瞳が笑い、全員の顔が輝いた。
「連敗は二十四でストップだ」執刀医の山本は本当に嬉しそうだった。もうひとり殺せばここ国連病院の新記録を作ってしまうところだったのだ。なんとか歴代一位タイ、というところですんだ。「よかった」
[#改丁]
三日目
[#改丁]
1
「祭りでもあるのか?」じりじりと焼けつくような太陽に照らされた保安官事務所のポーチで、宮本が呟いた。「なんだか、みんなそわそわしてるみたいだ」
大通りを、やたらと人が通る。あちこちの窓には保安官事務所の方をちらちらと見る顔があった。宮本が無邪気な顔を向けると、好奇心と不安とが同居するそれらの顔はあわてて建物の中に消えていくのである。
ぶあつい木のドアに開けられた小さな窓に、太田じいさんのしわしわ顔がぴょこんと現れ、「誰のせいだと思ってるんだ」と、しわしわの声で言った。
「俺のせいだって言うのか」
「そうだ」甲高い、ニワトリのような声だ。
「どういうことだよ」事務所の中に入りながら、宮本は言った。事務所の匂いが懐かしかった。煉瓦と木と、そこにしみ込んだ火薬の匂い。日に照らされた通りを眺めていたので、目が慣れない。かすかに眩暈《めまい》さえ感じる。昨夜は眠れなかった。末男を捕まえてから酒は一滴も口にしていなかった。気合を入れておかないと、指先が震えだす。
「どうした?」太田じいさんは、わずかによろめいた宮本に気づいた。
「なんでもねえ」ぶっきらぼうに答える。「俺がなにをしたってんだ?」
「だから、おまえのとっつかまえたあの白いデブな。あいつ村安の息子なんだぜ」
「知ってるよ」宮本は椅子に腰をおろし、足をテーブルの端にのせた。椅子もテーブルも木製の重厚なものばかりである。昔のままだ。気分がかなりましになった。
事務所の奥の牢屋のひとつから、末男がわざとらしいにやにや笑いを浮かべて、ふたりの会話を聞いていたが、宮本も太田じいさんもまるで知らん顔でいる。
「知ってたらおまえ、だいたいわかるだろう」
「全然」
「昔とはちょっとばかり事情が違うんだ。村安のやつ、土地やらなにやら汚え手を広げて、今はけっこうな大金持ちでよ」そう言いながら太田じいさんは、テーブルの上のコーヒーカップを手に取り、ゆらゆらと揺すった。たっぷりまだ入っているのを確認しつつ、牢屋が並ぶ奥の方へ歩いていく。あいかわらずいやな笑いを浮かべている末男の前まで来ると「コーヒーいるか? あ?」と訊いた。
「くそじじい」末男が言った。
太田じいさんは、やさしくにっこり笑うと、いきなり中身をぶちまけた。
「うわっ」頭からコーヒーを浴びた末男があわてて跳びすさる。「なにをする」
「おかわりは?」
「ちくしょうめ」末男が生白い顔を引《ひ》き攣《つ》らせて唸った。
「んでその」宮本はなにごともなかったかのようにじいさんに話しかけた。「どうなるってんだ? 村安が金持ちだと」
「おまえらはもう終わりだってことだ」末男が言った。
「はあ?」宮本は初めて末男の存在に気がついた顔で、牢屋の方を見た。
「すぐにパパが俺を出してくれる。おまえらは皆殺しだ」
「パパ」大量に息を吐きながら宮本は末男の口調を真似した。「パパって言葉はおまえの顔には似合わんなあ。別にいいけど」
何台ものバイクの排気音が近づき、事務所の前に集まった。車のブレーキの音もする。
「来やがったのか。あいつら」じいさんが目を細めた。「新蔵がいねえと思ってなめてやがるな」ちょこちょこと急ぎ足で事務所のライフルカウンターまで歩き、いかついショットガンを取った。
「フランキSPAS12とかいうんだ。かっこいいだろ」
「すげえ鉄砲だな」
太田じいさんがフランキの折り畳み式ショルダーストックを伸ばしたとき、事務所のドアが開けられた。開けたのは、頬に傷のある痩せた男だった。村安秀聡がゆっくりとポーチに上がってくる。
「いらっしゃいませ」宮本がテーブルから脚を下ろしながら言った。
「パパ」奥から末男が情けない声をだす。「早く出して」
「パパはやめよう」宮本は顔をしかめて「聞いてて恥ずかしい」
秀聡をガードするように、頬に傷の男の他、ふたりの大男が後に続く。あと何人か、バイクとともに外で待機しているらしい。
「新蔵はいねえよ」じいさんが珍しく低い声で言った。
「わかってる」村安秀聡はてらてらと光る顔をゆっくりと巡らせた。「この町のことは俺が一番よく知っているんだ」宮本に顔を向け「十何年前とはまるで別人だがこの男が保安官助手の宮本丸雄だということも、早撃ちだった男が今はよれよれのアル中だってことも、どうして落ちぶれたのかも、なにもかも知ってるぜ」
「なんだもう知ってたのか」宮本はわざとらしく顔をしかめた。「こっそり落ちぶれたのになあ」
「ずいぶんひどい女に泣かされたようだな」
「世間話するんならケーキでも買ってこようか?」
「末男をどうする気だ」宮本の軽口には取り合わず、秀聡は太田じいさんのショットガンを睨んだ。
「新蔵さんが帰ってきたら裁判をするからね」宮本は馬鹿にものを言うみたいなしゃべり方で「それまで町の人に袋叩きにされないように守ってあげてるんだよ」
「あれは決闘だったんだ」秀聡は言った。「末男に罪はない」
「酒場で飲んでる人間を背中から撃つような決闘がどこにあるよ」じいさんが笑った。
「目撃者もいるしな」宮本が自分の胸を親指でさした。
秀聡の目が、ちらりと宮本を見た。
「保釈金を用意してある」秀聡がかすかに顎を動かすと、頬に傷の男が、手にしていたアタッシェケースをテーブルに載せ、機械的に中身を見せた。
「すごい」宮本が嬉しそうな声をあげた。「あいつ、えらく値の張る豚なんだな。いい肉なの?」
「口うるさい新蔵はいない。どうだ」秀聡はじいさんに向かってそう言うと、事務所に現れて初めて笑った。口の歪んだ、いびつな笑顔だった。
「おめえは、俺をなめてんのか?」君は本物の馬鹿なのかねという口調でじいさんは目を細めた。
「十年前これだけありゃ、奥さんも死なずにすんだろうにな」秀聡は意味もなく、右手をひらひらと振ってみせた。
じいさんの顔つきが変わった。「帰れ」
「そんなにつっぱっていいのか?」じいさんの怒りに、ほんの少したじろいだ秀聡は虚勢をはった。「俺の友人たちはちょっとばかり荒っぽいぞ」
「おまえに友人なんかいるもんか。金で雇えるのは友人とは言わん」じいさんの口調には、怒りよりも哀れみが含まれていた。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_119.jpg)入る]
秀聡の顔色がどす黒く変わっていた。じいさんの言葉が、よほど身にしみたらしい。
「アル中とじじいのふたりで、なにができるというんだ」
「いろいろ」と言ってから宮本が親しげに「村安さん、まだここにいる?」両足はいつのまにか、またテーブルの上に載せられていた。
「なに?」秀聡の眉間に皺が寄る。
「いやあ俺さあ、昔からあんたのことあんまり知らなかったんだけど、なんであんたがみんなから嫌われるのかわかった気がするよ」
「なにが言いたい」秀聡は宮本の前に立った。
「あんたは本当に、いやなやつだってことさ」
「酒臭い息のアル中にしては、えらく元気がいいな」
「帰れよ。腰抜け」
村安秀聡は宮本の胸ぐらを掴んだ。それは怒りが爆発したというより、手下のいる前で馬鹿にされたままでは面目がたたないから、やむなくそうしたという感じだった。怒って見せてはいるが、どこか恐がって腰がひけている。
宮本は、椅子に座って足を組んだ姿勢のまま秀聡の手首を掴んでねじった。決して小柄ではない秀聡の体が飛び、木の床に叩きつけられた。
頬に傷のある男があたふたと銃を抜く。少し遅れてボディガードのふたりが宮本に掴みかかった。
「助けてくれ」離れたところから末男が悲鳴を上げた。
太田じいさんのショットガンが末男の喉首に突きつけられ、柔らかい肉にめり込んでいた。
「この銃は強烈だからな。こいつの頭なんか、あっという間になくなっちまうぜ」
「そう」動きの止まった大男ふたりの間で、宮本がにこっと笑った。
仕立てのいいスーツの埃を払いながら、秀聡が立ち上がる。
けけ、とじいさんが笑った。
「もし力ずくでこいつを連れていこうとか、そういうこと思ってるんなら、わしのこのショットガンを思い出したほうがいいぞ」
「このじいさん血に飢えてるからな」宮本が歯を剥きだしてみせた。
「行くぞ」血走った目をした秀聡がそう言うと、頬に傷の男は急いでアタッシェケースを閉じ、秀聡の前にまわってドアを開けた。
「便利な男だね」宮本は嬉しそうに感心して、傷の男を指さした。「お手っ」と命令する。傷の男が、ふと手を出しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「後悔するぞ」ドアの前で秀聡が言った。
「勝手にすれば?」
村安秀聡は最後に宮本を睨みつけてからゆっくりと出ていった。
車のドアが開閉する音が聞こえ、バイクのエンジン音と車のそれとが、いっせいに遠ざかっていく。
「やつら、これからどうする気かな」太田じいさんが牢屋の方から出てきた。
「さあな。とにかく、しばらく用心した方がいいな」
「新蔵の野郎はいつ帰ってくるのかなあ」
宮本は答えなかった。下を向き、黙っていたかと思うと椅子から落ちた。膝をつき、苦しそうに体を丸める。
「ど、どうした」じいさんが驚いて駆け寄ったが、宮本は応えなかった。
宮本の全身がおののいていた。アルコールの禁断症状に襲われはじめていた。
2
清美が意識を回復したのは、ちょうどその頃。国連病院特有の暴力的な看護婦が、きんきん怒りながら病室を出ていってしばらくしてからだった。
ここ、国連病院は誤診や手術の失敗が異様に多い上、わざと集めたとしか思えないほど根性の悪い看護婦でいっぱいだった。ここの看護婦は、なぜか全員常に怒っているのだ。
「恐い看護婦さんね」清美の母、杉野|春子《はるこ》が言った。
「うん、恐かった」父が頷く。大工の杉野伝六である。
「あたしやっぱり『つぶす署名』のほうにする」
「そうだな」と伝六。「おい、泣かなくてもいいだろう」恐怖のあまりしくしく泣きだした春子を見て、伝六は驚いた。
「だって、恐かったんだもん」と春子。もうすぐ五十歳だが、話し方は可愛い。
『つぶす署名』というのは、国連病院をつぶすために集められている署名のことで、これとは別に『残す署名』というのもある。
そもそもの始まりは、国連病院の老朽化に際して、ほかにも設備のしっかりした病院があちこちにできたことでもあるし、ここはひとつ、こんな古くて汚い病院なくしてしまおうじゃないか、と国連が言いだしたことにある。
なんで大久保町に「国連」の病院があるのか、それは謎である。しかし、小さくて汚くて設備が整ってなくて看護婦の根性が悪くても一応国連病院。病気や怪我をまったくしたことがないか、あるいはしたことがあってもこの病院には関わったことのない人々が、せっかく自分たちの町に国連病院があるんだから、どちらかならつぶさないでほしいと思ったのも無理はない。根性の悪い病院関係者が、つぶさないよう署名をお願いします、と署名運動を始めると、それに賛同する動きがあった。これが『残す署名』。
すると一度でも、なんらかの形で国連病院に関わったことのある人々が驚いた。せっかくなくしてくれようとするものを、なんでわざわざ残すんだ。馬鹿も休み休みにしてくれ。もし事故かなんかに遭《あ》って、救急車で運ばれた病院があそこだったりしたらどうするんだ。あそこの看護婦はすごく恐いんだぞ。あそこに入れられるくらいなら、遠くの病院に運ばれる途中で死んでしまうほうがまだましと言うものだ。署名だ署名だ。つぶせつぶせ今すぐにでもつぶすよう、署名お願いします。これが『つぶす署名』である。
だいたい町なかでどうでもいいような署名お願いしますこのままでは犬が死にますみたいなこと叫んでいるのは、友達の少ない学生か見栄っぱりのおばはんに決まっている。大久保町には「学生」などという生やさしい存在はあまりいないので、署名運動の主たる兵隊は両陣営とも、暇をもてあまして太ったおばはんばかりだった。ものごとがわかっていないのは『残す』ほうも『つぶす』ほうも同じようなものだが、署名お願いしますというくらいのおばはんであるからどちらも気がきつい。『つぶす』ほうがどちらかというと道理にかなっているので強いかというと、無理を通そうとする『残す』派も、こっちはなんといっても史上最強根性ひねくれ妖怪いけず看護婦連合がついているので大変強い。
骨肉の争いが、展開されているのである。しかしこの戦いで死亡した者はまだいなかった。
「ああ痛かった」突然清美が言った。
「お兄ちゃん」紅葉が驚いて立ち上がった。続いて両親もベッドに駆け寄る。
「笠置詠の息子を呼んでくで」身体中が痛い。清美は顔をしかめた。麻酔がまだ残っているのか、舌が動きにくい。「呼んでくで」言いなおすが、やっぱりだめだ。
「だれ?」紅葉が訊いた。町の噂で、笠置詠の息子のことは耳にしていた紅葉であるが、それがまさか光則のことだとは思っていなかった。ばあさんの家は、光則の母親の実家だから苗字は浅田である。だから光則の苗字も浅田だと思っていた。町で噂の凄腕「笠置詠の息子」と、洟を垂らしていた可愛い表情の「浅田光則」とが同一人物かもしれないなどと思うはずがなかったのだ。
清美は、自分が死にかけたことを覚えていた。見たことや感じたことは、おぼろげな記憶としてしか残っていなかったが、ところどころは鮮明に覚えている。でもまだ頭がちょっとはっきりしない。でも深く考えずにしゃべる。
「だからな、電気がばばっとなって痛かったんだ」
「なに?」いつのまにか、ほろほろと泣きだしていた紅葉が訊き返す。「なんて言ったの?」
「電気びりびり」
さっぱりわからない。
「だから逃げたんだよな。痛くて。で、みんなが俺のこと死なないほうがいいなと思ってシゲさんトシさんが同じパジャマで寝てたら笠置詠の息子が風呂に入って、なんしゃましましとかへんな歌うたって笑ってばあさんに怒られたんだ」
「おい、なにを言ってるんだこいつは」恐くなった父親の伝六が、たまりかねて口を出した。母親の春子は、清美が目を覚ましたのでただ興奮していた。
「ですから」春子は必死で説明した。「笑ってばあさんに怒られたのよね」にっこり笑って清美に頷きかける。
「いや、それは聞こえたんだがな」伝六が言った。
「で、俺は死にたくなくなったんだけど、でもどんどん死んでいった」清美は家族の混乱をよそにどんどん勝手にしゃべりまくる。「そだへ飛んでったんだ。そだ」うまく言えん。「そら。空。だけど、あいつが引き留めるもんで死なずにすんだんだ。みんなで止めてくれても死にそうだったのに、あいつがこっちに引き戻してくれたんだよ」
「あいつってだれだ」伝六が訊く。
「だから、笠置詠の息子」
そう言って清美はまた眠り込んでしまった。
3
光則は目が覚めた。電話が鳴ったような気がしたが、はっきりしなかった。朝方からずっと半分起きたような寝ているような怠惰《たいだ》な眠りを貪《むさぼ》っていたのである。もう真昼だということは、蒸し暑さと縁側の明るさでわかった。
あいかわらず蝉は、ものすごい声でがなっている。これだけの騒音の中で、よく寝ていられたものだと自分のことながら感心した。すごいすごい。
へんな夢ばかり見たと思うのだが、どういう夢を見たかは思い出せない。
なんとなくいい夢だったなと思うのは、紅葉とつながっているような気がするせいなのだが、よくわからなかった。
酒場のドアをなおさないといけない。
なおさないとなあ、と思いながら、それが夢でのことだったのか現実のことなのか、まだはっきりしなかった。
耳がごそごそするので、指を突っ込んでみると汗が溜まっていた。これだけ暑い思いをしながらよく寝ていたものだ。すごいすごい。
4
ゴーマ神父の酒場は、お昼に一番客が多い。夜はいろいろと教会のほうですることがあるらしく、神父さんがあまりいないからである。それでも夜来る者はいて、勝手に酒を飲んで金を置いて帰ったりする。神父さんがいなくても、酒だけは飲める。金がないとき、飲むだけただで飲んで、金が入ったらごっそり返しにくる者もたくさんいる。誰も、神父さんの店で悪事を働こうとは思わないので、飲み逃げはほとんどなかった。人々がみな信心深いから、というわけではなかったけれど。
今は蝶番《ちょうつがい》しかないが入口のスイングドアから、板張りの床、丸テーブルとシンプルな構造でがっしりと組まれた椅子、深い艶のあるカウンターまで、すべて木でできている。そして古い。本当に古い。酒場のあらゆるものが、永年にわたって使われてきたことを示す、凹みや傷を持っていた。高い天井の汚れだけを見ても、何十年という年月の流れが感じられた。
明らかに西洋文化の産物であるはずのテーブルやカウンターというものが、どこから見ても日本的なたたずまいを見せているのは不思議だった。薄暗い片隅においてあるピアノですら、日本の、それも江戸時代くらいの雰囲気を持っている。外国の文化を真似して作ったものではなく、自然発生的にできたものがたまたま似ていたという、そんな感じだった。
昼食をとる人々で適当に混んだ店の中を、どたどたと忙しくゴーマ神父が動き回っていると、ドアのない入り口をとんとんと跳ねるようにして、酒場にはちょっと不似合いな華奢《きゃしゃ》な女の子が入ってきた。
「ほっ、紅葉」ゴーマ神父がハッシュドビーフライスを三つ抱えた姿で声を上げる。「清美は?」
紅葉は答えようとしたが、声が出なかった。なんと言っていいのか一瞬わからなくなったのだが、その笑顔を見て神父さんはすべてわかったようだった。
「助かったね」
紅葉は小さく二三度頷いた。
「よかった」
清美が助かったというニュースが、ざわざわとあふれた。明るい雰囲気が店内を走る。
がんがんがん、と乱暴にハッシュドビーフの皿を男たちの前に置いて神父さんは大声で叫んだ。
「今日は全部半額っ」
とたんに男たちはうおっと叫んで食べるスピードを上げはじめ、おかわりおかわりと、口をもぐもぐさせながら皿を掲げた。ほとんどの男が、半分の金を節約するより二倍食べるほうを選ぶようだった。
「大変ですね」紅葉は神父さんの柔らかい瞳の輝きを目にすると、いつもあたたかい気持ちになれるのだった。「お兄ちゃんの着替えとか、身の回りの物を取りに帰ろうと思って。それで途中で寄ったんです。神父様忙しそうだから、また後で来ます」
ゴーマ神父は紅葉の三倍はあろうかという巨体をどしんとかまえ、うんうんと頷きながら紅葉を見おろしていた。優しい瞳が、紅葉を見つめている。
そうだ。と、紅葉は自分の気持ちを思い出してはっとした。この気持ちは、昨日浅田先生の家の、光則君を見ていて感じた気持ちとよく似ている。あのときは、お兄ちゃんと同じようなくしゃみの仕方をしたから、なんとなくお兄ちゃんに感じるようなあたたかさだと思ったけど、でも神父様と同じなにかだ。
神父様には大きな包み込むようなやさしさがあって、それがあたたかい瞳に現れているんだと思う。あの子は、全然そんなことはないよね。子供だし、あたしが守ってあげないといけないような。
なんでこんなこと考えてるんだろう。
我に返ると、神父様はまだにこにこと紅葉を見ていた。そう、やっぱり似ている。
入口にふたつの丸い影が現れた。トシさんとシゲさんがふたりそろってやって来たのである。
「あっ、紅葉ちゃんだ」ふたりそろって紅葉を見つけた。「清美ちゃんは」
「清美は大丈夫」神父さんが言った。
「やったあ」ふたりは互いの両手を掴むと踊りだした。やったーやったーと歌いながら紅葉を両手で作った輪の中に入れ、まわりをぐるぐる回る。ふたりとも、ずっと清美のことが心配だったのだ。
「昨日、清美の夢を見たよ」シゲさんが言った。
「わしも見た」トシさんが言った。
ぴょんぴょん跳ねる。太っているくせに、意外に身軽である。
手を離して、トシさんはその場で踊りだし、シゲさんはタップを踏むようにしてテーブルの間をねり歩くと、ピアノの前に座った。奇妙な動きで体を揺すりながら、なんだか聴いたこともない、それでも底抜けに楽しい曲をガンガン弾きはじめた。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_131.jpg)入る]
「いいぞ」誰かが飯を飛ばして声援を送る。
トシさんは紅葉の手を取り、無理矢理踊りに巻き込んだ。神父さんはピアノに合わせて腰を振り振り厨房へ戻る。他の客も何人かがぱらぱらと立ち上がり、シゲさんのピアノにあわせて踊りだした。飯を食うのに必死の客は、もぐもぐ食いながら体を揺すり、おかわりの欲しい客はオカワリオカワリなどと歌いながら皿を振り回す。
紅葉はトシさんから離れ、にこやかな髭に包まれた太った男と手を取った。
「よかったなあ」その男が言った。
「ありがとう」紅葉はにっこり笑って、次々と踊っていった。誰もが嬉しそうで、みんなに好かれる兄を紅葉は誇らしく思った。
清美の捨てられていたこの場所で、清美の命が助かったことをみんなが喜んでいる。神様は、ちゃんと見ていてくださるのだと紅葉は思った。
ドアの近くでパートナーを変わると、今までになく乱暴に手を掴まれた。顔を上げた紅葉の息が止まった。
「弟が悪いことをしたな」村安明だった。見ればドアの向こうに終もいる。「踊ろうぜ」オーデコロンの匂いを強烈に匂わせて、明の手が紅葉の腰にまわされた。
「いやっ」
紅葉の叫び声が、店の音を消した。全員が踊りをやめて入口に注目する。
明るくやさしかった酒場が、一転して邪悪な色合いを帯びた。
村安の人間が、なぜこの店に来たんだ。みんな、そういう顔をしていた。
町の人間から快く思われていないことはわかっているつもりだったが、怒りに満ちた視線に晒されて明はたじろいだ。
「お、おい、ピアノやめるなよ」
とん、と軽い音をたててシゲさんはピアノの蓋を閉めた。両手を開いて、おしまい、という仕種《しぐさ》をする。
紅葉が、明を軽く突き飛ばして逃げた。
酒場の客全員に睨まれていることよりも、紅葉の顔に浮かんだ嫌悪感のほうが明にはショックだった。なんて顔で俺を見るんだ。あの黒人が助かったことで、こんなにたくさんの人間が喜んでいる。そして俺たちといえば、こうして顔を見せただけでいやがられているんだ。俺がなにをしたってんだ。
無性に腹が立った。
「黒んぼが助かったのが、そんなにめでたいのかよ」
紅葉は、横面を殴られたかのように身を強張《こわば》らせた。トシさんが顔を真っ赤にして、ぶるっと震えた。いつの間にか後ろに来ていたゴーマ神父の大きな右手が、トシさんの腕を包む。神父さんもトシさんもシゲさんも、銃を持っていない。
「あんなやつ、死んだってどうってことはないだろう。あんな黒いの、この町には他にはひとりもいないんだぜ。捨ててあったんだろ」
「このやろう」小さく呟いた神父さんの声に、トシさんは驚いて顔を上げた。神父さんが怒っている。
「ふん、腰抜けども」村安の息子と知っている男たちは、秀聡に雇われたガンマンたちの仕返しを恐れて明と目を合わせることを避けた。それをいいことに明は、調子にのっていた。「おまえら、俺がここでなにをしようと手も足も出せないんだ。どうせ俺たちが恐いんだろう?」
紅葉は両手で自分の体を抱き、後ずさった。だが、目は怯えてはいない。こんな男に負けるものかと、その目は言っていた。
「こいよ」明が紅葉に言った。「可愛がってやるよ。黒いやつとやるよりいいぜ」
へらへらと笑いかけた明の頬が突然引き攣った。
ゴーマ神父が、自分を見ているのに気がついたのだ。普段温和な神父の、その表情に現れている怒りのものすごさに、明は小便を漏らしそうになった。
あまりの迫力に圧倒された明が、恐怖から思わず腰の銃に手をかけようとしたとき。
ふたつのことが同時に起こった。
下を向いていた男たち、今まで昼飯を食いながら踊っていた男たち全員が、いっせいに銃を抜いたのである。
そしてゴーマ神父はずかずかと明に近づいていくと、朝食のパンでも取るようなのんびりした動きで明の首を掴んだ。
「あ、あ」ゴーマ神父の鉄のような手が明の細い首に食い込んでいた。
「今のおまえはだめだ」低く、威厳に満ちた声だった。
ぐいっと掴んだ首をそのまま持ち上げる。足をじたばたさせる明を片手に高々とさしあげ、神父さんは店の外へ出た。明はもうほとんど意識を失いかけている。口の端から、たらりと涎《よだれ》が落ちた。
「紅葉が好きなら、堂々とその気持ちを守れ」こっそり耳元で囁いた。
投げた。
明の体は、滑稽な悲鳴とともに大通りの中ほどまで飛び、どう、と土煙をあげて落ちた。
終はどうしていいかわからず、しばらくドアのそばに突っ立っていたが、はっと気づくやあわあわ言いながら明の落ちたところまで走っていった。大変たいへん。
「痛かった? ねえ兄ちゃん、痛かった?」気を失っている明に、必死で訊ねる。「どんな感じ?」
酒場の方ではゴーマ神父さんが、やんやの喝采を受けていた。
手を叩きながら男たちは、ここで飲み逃げとかするのだけはやめようと、肝に銘じるのであった。
5
太田じいさんは、どうしたものかと思案していた。
一日中ぶるぶると震えて、わけのわからないことを言いつづけていた宮本は、多少落ちついたものの手の震えをどうすることもできず、とても銃など手にできる状態ではなかったし、毛利新蔵からは、あいかわらずなんの連絡もなかった。
末男の裁判まであと何日待てばいいのか。それまでに村安秀聡は絶対なにか仕掛けてくる。
「清美もやられちまったしよー」しかしじいさんはしみじみと、不安を楽しんでいるかのよう。
太田じいさんは秀聡がいつどんな方法で襲ってくるかと身構えながらも、心のどこかが安心していた。それがどうしてなのかわからず、ひょっとするとひとりで戦わなくてはならないはずなのに、なぜこんな余裕があるのだろうと考えていた。
「俺はもう大丈夫だ」テーブルに置いた両手を見ながら宮本が呟く。あいかわらず指先の震えはひどい。
「そんな手で、なにができるってんだ。いいから飲めよ。飲んだら楽になるんだろうが」
宮本は、酒への渇望と戦いながら混乱していた。
「だめだ。ここで飲んだらなんにもならねえ」そう言いながら、なぜこんなにがんばらなくてはいけないのか。と思った。死のうとさえ思っていた俺が、なぜ今立ち直ろうとがんばっているのか。もう、あの女はいないんだ。冷静に考えてみれば、どこをどうひっくりかえしても、戻ってくる可能性などない。それははっきりしている。
宮本は、なぜ自分がここにいるのか考え直していた。再び保安官助手のバッジを胸につけることになるとは思わなかった。この町へ帰ってきた理由が思い出せない。末男を捕らえようと必死になったのは、あの黒人がいいやつだったからだ。あの黒人が撃たれたのは、あの兄弟を怒らせたからだ。そのきっかけになったのは、俺が酒に狂った頭でふらふらと酒場を歩いていたからだ。なぜ俺は、立ち直ろうとしているのだろうか。
「そうだ」じいさんと宮本は同時に同じことを口にした。
「詠の息子だ」
「え?」とまた同時に驚いて、また同時に「なにが」
宮本の手の震えが止まっていた。
「ひっひっひ」じいさんが笑った。
6
杉野清美が再び目覚めた。
「紅葉。無事だったか」
枕元の椅子に座って本を読んでいた紅葉が顔を上げる。
死にそうな怪我をした人間に、いきなり無事だったかと言われても困る。清美の顔が、いつもと少し違っているような気がしたが、薄暗い蛍光灯の光で本を読んでいたせいでそう見えるのかなと紅葉は思った。
「お兄ちゃんこそ大丈夫なの? なんか、うなされてたけど」
「はあ」紅葉に顔を近づけられ、清美はどぎまぎした。子供っぽいところを残しながらも紅葉は近頃驚くほど美しくなっていた。「へんな夢を見た」
「どんな?」
「おまえが」いや、と言って清美は黙り込んでしまった。「蝉が多くて」
「せみ?」なにそれ。と紅葉は訝《いぶか》しげな顔をした。「蝉がどうしたって?」
それには答えず清美は、なにかに呼ばれたようにぐるりと首を巡らせ、紅葉の横のテーブルを見た。
「そのパズルを貸してみろ」
「はあ」なんかへんな感じ、と思いながら、紅葉は言われたパズルを取った。それは伝六が扱う木材の切れ端を削って、清美が作ったパズルだった。見た目に似合わず清美は手先が器用だったので、ときどきこういうものを作った。小さいときから、紅葉は清美の作るものが好きだった。
今、清美が言ったパズルは、うずらの卵くらいの球で、うまくねじると綺麗にふたつに分かれるというものだった。ふたつのパーツはまったく同じ形で、見る角度によって紅葉の葉っぱに見えるのだった。ひとつひとつはペンダントとして使えるようにも細工してあり、ふたつ合わせると合わせ目が見えなくなって木目の綺麗なただの木の球になるのである。趣味とはいえ、ここまでやられると普通の人は感心すると同時にちょっと恐がる。
「これ、はずすのむずかしいよ」
清美はちょっと見ただけで、それをふたつのパーツに分けた。ひとつを紅葉に渡して言った。
「ここの穴に紐を通して、首から下げてろ」
「なんで?」目の前で、その木片をいろんな角度に変えて見ながら紅葉は訊ねた。
「お守りだ」清美は突然真面目な表情で紅葉を見つめ「よくない予感がするんだ」
「へー」よくわからないな、という目で清美を見てから「ありがとう」と笑う。
「腹がへった」清美は照れたのか、ぶっきらぼうにそんなことを言った。
「看護婦さんがいいって言ったら、なにか食べられると思うけど」
看護婦、と聞いて清美は目を剥いた。「さっきのあの看護婦か?」
「さっきって、ずいぶん前だけどね。そう、ずっとつきっきりだったのよ」起き上がろうとする清美を、紅葉がやさしく押し止めた。紅葉は声も手もやさしい。看護婦は見た目も恐いし声も手もごつい。
「つきっきり」考えたくもない、と清美は顔をしかめた。
杉野清美が集中治療室から病室に移されて以来つきっきりだった若い看護婦は、この病院の他の看護婦の例に洩れず、ずっと怒っていた。目が覚めたとき清美は、殺されるかと思ったほどである。その処置はあまりにも大胆で、包帯を替えるときにも優しさというものがまったくなく、どうすれば痛いか苦しいか知りつくした上でわざとやっているとしか思えなかった。一度目覚めてから、また眠っていたのに叩き起こされ、拷問のような処置を施された。そのときの痛みに耐えかねて今まで気を失っていたのだ。そうだ思い出した。あれは今まで生きてきた中で一番痛かった。
「気分はどうなの?」紅葉が訊いた。
あんまりよくない、と思いながらも、おだやかな紅葉の顔を見ていると、なんとなく元気にもなってくるから不思議だった。しかし、そういうことを口に出して言うほど清美は器用ではない。
「そうだな」と口ごもりながら、ふと紅葉と同じように無邪気な顔を思い出した。「ああそうだ、笠置詠の息子だ」思い出すと、清美の中でくすぶっていた不安感がなにか形のあるものになった気がした。しかしはっきりと認識する前にその感覚はぼやけてしまう。「どうしたの? 痛いの?」
「いや」なんだというのだろう。夢であいつを見た気がする。なにか大変なことになろうとしているのに、それがなんなのか思い出せない。この焦りは夢の中で感じたものだったのか、今実際に感じているのか。「あいつに会わないといけない。呼んでくれないか」
紅葉は遠慮がちに笑って、
「夢の中で助けてくれたお礼を言うの?」と、言った。
「いやあ、ありゃ夢じゃない」死にかけてて夢なんか見るものか。
「そうなの?」うそだあ、などと頭から疑ってしまわない紅葉のこういうところが清美は好きだった。「でも、呼ぶったってあたし、どこにいるのかわかんない」
「おまえの琴の先生の家じゃないのか?」
「え?」リスのような目をして動きが止まる。「どうして?」
「だって」自分がまちがえているのかなと、清美はちょっとたじろいだ。「孫だろ?」
「孫って?」
「あー」なんと言えばいいのか「つまり、孫というのは、子供の子供」
「それくらい知ってるよう」紅葉は、笑っていいのか怒っていいのか迷っているような顔をした。
「そうだな、それくらいは知ってる」うんうんと頷いて「あー。浅田のばあさんは笠置詠の、奥さんの、親だから、そういうのは孫というんじゃないのか?」ちがったかな、という不安が多少ある。
「え、そうなの?」
「そうなんだよ。そういうのは孫というんだ」
「いや、そうじゃなくて、先生が笠置詠の奥さんのお母さんだってこと」
「えっ、そんなことも知らなかったのか?」
「知らなかった」
普通に暮らしていたら当然知っているような、町の常識と言ってもいいようなことを、どうしてこいつは知らないんだろうと清美はしばらく考え込んでしまった。
「ひょっとして」と、紅葉。「光則って子?」ちがうよねえ、と言ってちょっと笑う。
「ああ、そんな名前だったよ。言わなかったか?」
「言わない」紅葉はショックを受けたようすで清美の顔を凝視した。そんなはずないよとぶるんと首を振り「お兄ちゃんが酔っぱらいの人を助けたとき、いっしょにいてお兄ちゃんの危ないところを助けてくれた人でしょ」
「そうそう」
「お兄ちゃんと同じくらいの早撃ちで」
「ま、そうだな」
「で、夢でも命を救ってくれたんだよねえ」
「そうそう、夢じゃないけどな」
「あ、そうね夢じゃないけどね」
紅葉は少し混乱したのか、黙ってしまった。
眉間に皺を寄せて考えていた紅葉は、やがて不服そうに頬を膨らませると、くいーっと顔を沈めた。なにか考え込んでいるのだ。
「可愛い感じがよかったんだけどなあ」紅葉はどういうことよと唇を尖らせて「なんだ、強いのか」
「あ?」どうも、このごろは紅葉の反応にとまどうことの多い清美だった。
「会ってどうするの?」
「え? どうするって」そう言われると特になんにもない。「いや、ただ会いたいんだよ。うん」会えばなにか思いつくかもしれない。
「ふーん。へんなの。じゃ、明日会えたら来てもらうね」今日はもう夜だから、と言ってからしばらくぼーっとした。神父さんの酒場で明に掴まれた二の腕の部分に掌をそっと当ててうんうんと頷く。「そうか、強いのか」
「なんだ?」清美は恐いものを見たように顔色を変えた。「急に魔女みたいな笑い方しやがって」
「なによ」と紅葉は清美を睨む。
「ははは」なにがなんだかまったくわからない清美は口先だけで笑うばかりだった。
「じゃ、とりあえず看護婦さん呼んできてあげるね。あと、父さんと母さんも呼ばなきゃね」
なにやら嬉しそうに紅葉は椅子から立ち上がった。
「かんごふ」いまわしい呪文を口にするように清美は呟いた。「呼ぶのかあ」恐怖のあまり頭がくらくらする。
「呼んでくる」紅葉は手にしていた文庫本を清美のベッドの上に置いて、出ていこうとした。
「なに読んでるんだ?」本にはきれいな紙でカバーがかけられている。
「お兄ちゃんの本だよ。スティーヴン・キング」
「なんだ?」清美が首だけ起こし、不自由な動きで表紙をめくった。
『ミザリー』だった。
7
教会の仕事を一旦終え、ゴーマ神父が酒場の方を覗いてみると、いつになく店は混んでいた。スポーツのビッグゲーム前、たとえばオリンピックやアメフトのスーパーボウルの前のような盛り上がり方で、村安と保安官事務所どっちが勝つか、という話題でもちきりなのである。
もし村安一家が力ずくで末男を取り戻し、保安官事務所の負けということになった場合、ひょっとすると秀聡が保安官、などということもありうるわけで、しかも評判は保安官事務所圧倒的不利。なのに不思議なことに、暗い雰囲気はどこにもなかった。
へんな町である。神父さんがいないと、みんな勝手に酒を注ぎ、適当に金をレジスターに放り込んでいく。中には、金だけとって店を出ていく者もいるが、後で必ず返しにくるだろうと誰もが安心してそれを見ているのである。
ちょうどゴーマ神父が厨房の方からカウンターの中へ入っていったとき、ひとりの男がレジから札を数枚とっていくところだった。
神父さんが入ってきたのを見て、色の黒いその男は恥ずかしそうな顔で言った。
「すいません、ちょっと財布忘れました」
それが嘘であることは神父さんにはわかっていたし、そう言っている当人も、嘘がばれていることは承知の上だった。ポーカーで負けたのである。
「よく忘れるね」神父さんは笑って、ソーダとジンを補給した。
「また団体で来てたぜ」カウンターにもたれて酒を飲んでいる男が、誰にともなく言った。
「団体? なにが」となりで飲んでいた男が訊く。
「村安に雇われた、ガンマンたちだよ」
「どんなやつらだい?」テーブルの客が話に入る。
「そうだなあ、暗くてよくわかんなかったが、山で狂犬にかこまれたらあんな感じだろうなあ」
「保安官事務所の方に助けはないのかい」
「わざわざ災難に顔を突っ込みたがるやつはいねえだろ」
「どういうことだ?」
「なんならためしに、保安官助手になりたいって大声で言ってみな。五分とたたないうちに、どっかから弾が飛んでくるぜ」
村安秀聡の企《たくら》みが、着々と町を覆いはじめていた。おのれの力を誇示するために「友人」と称して金で雇えるガンマンをどんどん呼び寄せていた。保安官事務所のまわりにも目つきの悪い男たちを立たせ、事務所に味方するやつは容赦しないと、無言で町の人々を脅しているのだった。
「事務所の方は、じいさんと酔っぱらいだけだしなあ」
「でもあの酔っぱらい、昔、新蔵さんの弟子だった宮本丸雄らしいじゃないか」
「どうだかなあ。もしそうでも今はべろべろみたいだな。雑貨屋のおっさんが言ってたが、昼間っからベッドでがたがた震えてたそうだ」
「もうだめだな。新蔵さんは帰って来ねえし」
だめだとか頼りにならないとか言いながらも、男たちはみな保安官事務所に期待しているのである。村安を応援する者などひとりもいなかった。阪神タイガースのファンが、だめだとか馬鹿だとか言いながらも、しつこく勝つことを祈りつづけているのに似ている。
「笠置詠の息子はどうなんだろ。保安官助手にはならないのかな」
「そうだなあ。なるんじゃないかなあ」
笠置詠の息子、という言葉があちこちで囁かれた。
酒場の雰囲気が、なんとなく明るくなった。笠置詠の息子は、みんなの希望なのである。
さっきの背の低い男が、レジのところへやってくると、また札を数枚取った。
「また財布忘れたんです」ゴーマ神父さんに向かって肩をすくめて笑う。
ところが神父さんは、なにか気になることを思い出したのか真剣な顔で考え事をしており、男に気づかなかった。
8
笠置詠の息子に対する町の人々の期待を、村安秀聡は知っていた。
すでに三台のモーターバイクが、ばあさんの家を目指していた。
彼ら三人は、町のみんなの希望、笠置光則を殺しにいくところである。
9
みんなの希望は風呂につかっていた。
今日は早く起きて、ばりばり勉強するつもりだったのに、結局なんにもできなかったなあ、と光則は情けない気持ちで一日を振り返った。
昨日早く寝たにもかかわらず今日も昼まで寝てしまったし、汗だくで目が覚めて水風呂に入り、ちょっとだけと思いつつ蝉を百匹ほど捕まえては飛ばして遊んでいるうちにもうお風呂がわいたよとばあちゃんが言うのでお風呂に入り、晩飯を食って、気がつくともう夜だ。暗くなってしまった。けどまだ八時前だ。なんで眠いんだろうなあ。
目を覚まそうとまた風呂に入ったがやっぱり眠い。
いったいぼくはなにをしてるのでしょうか。
今日も早く寝ようかな、という考えが頭をよぎる。テレビで言ってたけど、十二時より遅く起きてるとかえって体に悪いそうだ。だから早く寝て、早く起きるのがいいんだ。今日これから遅くまでがんばっても、明日早く起きて勉強しても、使える時間はおんなじなんだから、体にいいほうをしなくちゃあなあ。
安心して、気だるい眠さに身をまかせつつ風呂から上がり、パンツ一枚の裸で着替えをごそごそやっているとき、ボストンバッグの中にすっかり忘れていた拳銃を見つけたのであった。
ばっちり目が覚めた。
ボストンバッグに詰め込まれた問題集と着替えの奥からかすかに硝煙の匂いがする。少しためらってから、光則は手を突っ込んだ。黒く光る拳銃を探りだし、ゆっくりと握る。
掌の中で、まるで体の一部のようになじんでしまう銃把の曲線が、光則に力を押しつけてくる。右腕の、そして全身の筋肉が強く固くなったような錯覚さえ起こる。これは人を殺すことのためだけに作られた道具なんだ。決してこれで家を建てたり苗を植えたりはしない。殺すんだ。人でなくても、とにかくなにかを殺すんだ。この世に殺したいものなんて、なんにもないのにどうしてかこんなにどきどきする。すごく興奮する。
撃鉄を引き起こしたいという誘惑があるが、度胸がない。
ばあちゃんがやってくる足音がした。
いかんいかん。と大急ぎで拳銃をバッグに押し込む。いや、隠さなくてもいいんじゃないかな。と思うが隠してしまった。
ばあちゃんは布巾で手を拭きながら光則のいる部屋の畳に上がってきて、
「今日の昼前、紅葉ちゃんから電話があってん」と光則のパンツ一丁姿にも動じない。
紅葉ちゃん、という名前だけで光則の胸はどくどくと高鳴った。
「ぼ、ぼくに?」なんだかすごいぞ。「どうして言ってくれなかったのさ」
「あんた機嫌よお寝とったがな。そやし、べつにあんたに電話してきたわけとちがうねん。お琴の稽古のこと」あ、やっぱり。「それで清美ちゃんな、なんとか助かったんやと」
「清美ちゃん? え? ちょっと待てちょっと待て」どういうことかな。
「待ててあんた誰にえらそうに」ばばあが、むっとして。
「紅葉ちゃんがあ、いるとしてえ。お兄ちゃんがあ、撃たれてえ」ゆーっくりしゃべって考える。ばあちゃんはどうもそれにいらいらしたらしい。いきなり大きめの声で、
「紅葉ちゃんのお兄ちゃんが清美ちゃんやがな。そないして考えることかいなほんまに」と早口にまくしたてた。
「なに怒ってんの?」と、一瞬ばあちゃんの相手をしてから「えーっ」と驚く。「清美ちゃんって、でっかい黒いかっこいい人?」
「知っとったん」
「清美ちゃんって外人だろ? 紅葉ちゃんのお父さんかお母さん、黒人なの?」
「いやあ、ふたりとも日本人やで」ばあちゃんは、ちょっと声を小さくして「実はな、清美ちゃんは紅葉ちゃんの家族と、血いつながってへんねん。町の人は知らんねんけどな」
「いや、そんなはずはない。だれだってわかる」
「そやろか。あっ、鍋が噴いとう」ばあちゃんが、台所の方へ急いで駆けていってしまったので、よくわからないまま光則は取り残された。
いやあ、紅葉ちゃんの兄さんが、あのかっこいい黒人だというのは驚きだ。いったいどういう関係の兄弟なのだろう。なんとなく不安な気持ちにもなる。あんなすごい人が兄さんだったら、ぼくなんてまるで馬鹿にしか見えないだろうとも思うし、それに血がつながってないのも恐いよな。よくあるよな。兄弟として育てられて、あたしたち結婚できるのよお兄ちゃん。なんてさあ。
そんなことに頭を支配されながら、深く意識しないまま、光則はバッグの中から拳銃を取り出して引鉄に指をかけたりしていた。
突然、廊下で電話のベルが鳴り響き、驚いて引鉄を引いてしまいそうになった光則は、その自分の反応にさらに驚き、こりゃいかん大変だ、とばかり左手で銃口を覆う。あっ、左手に穴が開いてしまうじゃないか、痛い痛いこれはきっと痛いぞ、と思ったあたりで心臓が締めつけられるように痛くなって死にそう。
「おーおー」知らないうちに声が出ていた。「こわー」
弾は出なかった。引鉄がけっこう重かったので助かった。安全装置というようなのが、あるのだろうか。
ああ驚いた。ああ恐かった。と、しばらく拳銃を持ったまま放心していた。
ふと気がつくと、廊下にばあちゃんが立っていて、光則の握っている拳銃を、不吉な顔で眺めていた。
「あ」見られた。「これはね」あわてて正直に言おうと思う。
「保安官事務所からあんたに電話やで」目は拳銃から離さない。
「保安官」
一昨日の決闘のことだろうか、この拳銃のことだろうか、なにがいけなかったんだろう。まさか小学校四年のとき、近所のお稲荷《いなり》さんのおさい銭盗ったのが今になってばれて。
「人手がいる言うとうわ」ばあちゃんの視線が光則の顔へと移る。その目は、いったいどういうことなんだと問いかけている。
「はー」どういうことかな?
「あんたを保安官助手に任命するんやて」
「え、なんで」
「さあ」
恐るおそる電話に出た光則が聞いたのは、妖怪の声だった。
「もしもし、笠置光則ですけど」
その妖怪はなんにも言わずに、ひっひっひっ、と笑った。
「もしもし」
「いたいた。みつのり。えひっ」えひっというのはしゃっくりかなあ。
「保安官ですか?」こんな人が保安官で、いろいろ困ることはないのだろうか。
「おれあー保安官なもんか。ひっひっ」やっぱりしゃっくりかなあ。「明日来てくれ、午前中に。じゃな」
切れた。
「切れた」よくわからない。ばあちゃんが、そばで心配そうに見ている。「よくわからない電話だった」
「わかれんやろ」ばあちゃんは、珍しく光則の目を見ずに、下を向いたまましゃべった。
「今のが保安官なの?」おれあーほあんかなもんか、と言ってたけど保安官だという意味なのか違うという意味なのか、判断しにくかった。
「あれはじじい」
「じじいって?」
「男の年寄りや」そりゃそうだが。ばあちゃんは顔を上げない。
「じじいの保安官?」
「保安官助手のじじいやがな」
よかった。やっぱり保安官じゃなかった。
「明日来いって」ばあちゃんが、光則の手元をじっと見ているのだった。光則の右手の銃を。
「あ、これ」どう説明すれば。「拾ったんだ。うん」
「拾た」
「うん、まあ」
「撃ったことあるのん?」
「ないよ」
「どこでそんなもん拾てん」
「あー」それはまあ、と光則は一昨日大久保町へ来るなり巻き込まれたことのあらましを、ばあちゃんにしゃべった。
話の途中あたりでおばあちゃんは、ほっと体の力を抜いたように見えた。安心したのか、がっかりしたのか、わからなかったが、とりあえず光則は全部しゃべってさっぱりしてしまった。「どうしよう」今日の夜食になにを食おうか、というくらい軽い口調で光則は言った。
「なにが」
「保安官助手」保安官助手になるということが、いったいどういうことなのか、はっきりと把握はしていないのだった。田舎の青年団の消防訓練に行くくらいにしか考えていないのである。
無事すんだとはいえ、一度死にそうな目に遭っているのに、この余裕はなんなのだろうか。
「あんたなあ」ばあさんはさすがにちょっと呆れたようだった。
「明日から拳銃の練習しようか」
「せんでええ」きっぱりとばばあは言った。
「でも、保安官助手にって、電話」
「そやさかいさっきも言うたやろ。勝手にまわりがかんちがいしとうねんから。そんなもんほいほいひきうけてどないすんねんな。あの人ら、みんなあんたの父さんの昔なじみやさかいにな。銃は撃たれへんから、いうて先に言うといたら、だあれも素人に無理に銃持たせたりせえへんわ。ちゃんと言うんねんで。できませんて。わかっとんか? なんやったら電話しておばあちゃんが言うたろか?」
素人。どうも腹が立つ。しかしなにを言ってもますますばばあは人のことを馬鹿にするに決まっているから、黙っておくのだ。うんうん。こっそり練習してやる。遊園地の射的で満点出したことだってあるんだからなちくしょうめ。父親のことを訊こうと今一瞬思ったのだが、腹が立ったついでに訊くのを忘れてしまっていた。
「保安官事務所ってどこ」口を尖らせて光則が訊いた。
「なに拗《す》ねとんの」光則の顔をまじまじと見る。
「遠いの?」ぷいっと横を向く。
「すーぐ拗ねる」しょうがないなあ。「あんたの父さんのバイクがあるよってに、それ乗っていき」
「親父のバイク?」父さんバイクなんか乗らないのに。
「乗れるやろ?」ひょっとしてだめなのか、という馬鹿にしたような顔をする。
「学校で禁止されてるし、免許持ってないし」だから……「乗ったことない」
「ちょっとおいで」ばあちゃんは、怒ったように背中を向けると、すたすた裏の方へ歩いていった。
光則はなんだか、自分がひ弱でどうしようもなく情けない男だと思い知らされた気がした。いろいろと、けっこう自信あったんだけどなあ。
ばばあの後についてパンツ一丁のまま裏から外へ出る。
右手にはまだ銃を持ったままだった。
「くそっ」と、腹立ちまぎれに山の方へ銃を向け、引鉄を絞った。
さっき弾が出なかったので、安全装置かなんかで撃てない仕掛けになっているとばかり思っていたのだが、ちゃんと撃ててしまった。
光則の撃った弾は、裏からばあさんの家に近づこうとしていた殺し屋を倒した。
一番前にいたこの男は、用心深いからというわけではなく持っているのでなんとなく使いたかったという子供みたいな理由で防弾チョッキを着ていたので死ななかったのだが、ショックで気絶した。
あとのふたりは驚いた。なにもしないうちからひとり殺されてしまった。やられたのは一番強そうだった男である。どこがどう強そうだったかというと、顔に火傷の跡があって恐そうだというそれだけのことだったのだが。
とにかく、ひとり殺されたのに相手は見えない。ばあさんの家から撃ってきたようだが、暗くて遠くてよくわからない。向こうは森の中にいるこちらのことが、なぜわかったのだろう。
すぐ近くに潜んでいるのではなかろうか。残ったふたりは互いの恐怖を感じ、さらに恐怖した。
「こらーっ」ばあさんの声が遠くで怒鳴った。なにやら小さな声でぶつぶつと言ったあと、また怒鳴った。「二度としなさんなっ!」
「はい」と、ふたりは小声で答えてぶっとんで逃げた。
倒れていたひとりが、むくむくっと起き上がったので、その物音にさらに驚いて加速する。気絶していた男はなにがどうなっているのかわからないまま、仲間が逃げるのを見て、自分の背後に敵が迫っているとかんちがいし、これもあわてて逃げだした。
村安の放った刺客三人が、笠置詠の息子にやられて逃げたという噂は、すぐさま町中に広がった。事件後一時間もかからなかった。誰かが見ていたわけでもなく、やられた人間が自らすすんでそんなこと言いまわるはずもないのに、いったいどういう経路でそんなに早く噂が伝わるのかという疑問ももっともなところであるが、大久保町とはそういうところなのでしょうがない。
村安秀聡は怒った。
10
とにかく笠置の息子だけは、きちんと殺さなければならない。村安秀聡は、自慢の日本間に座って怒っていた。
畳の上にスーツを着て胡座《あぐら》をかいている。手には畳んだ扇子。自宅にいるときも秀聡はスーツだった。外出用と普段着とは区別してあったが、見た目は大差ない。外から帰ってくると別のスーツに着替えてくつろぐのである。洋間でベッドに入るときはなぜか羽織袴《はおりはかま》だった。とりあえずスーツを着ておれば安心という日本のおっさんは多いが、秀聡のところは息子たちもなぜかいつもスーツを着ている。別に秀聡がそうしろと言っているわけではないのに、着ているのである。まあなんにしろ畳の上にスーツ姿というのは、秀聡に限らず似合わない。どうして日本なんかに生まれてきちゃったんだろうなあ損したなあという気がする。
「河合《かわい》です」廊下で声がした。
「入れ」秀聡は自分の膝から顔を上げずに言った。
やはりダークスーツを着込んだ秘書の河合は、膝で立って部屋へ入ってくると静かに襖《ふすま》を閉めた。
秀聡の向かいに無表情で正座をする。頬の傷には迫力があって、一見恐ろしい感じを受ける男なのだが、よく見ると気の抜けた阿呆面である。
秀聡は、河合を見もせずに自分の膝のあたりに目を落としてじっとしている。
河合は、そこになにかあるのだろうかと不思議に思って秀聡の膝を覗き込んだがなんにもなかったのでがっかりした。
高級料亭の一室を真似てつくられたこの部屋は中庭に面していて、秀聡はここを書斎と呼ぶ。
あらゆる調度品に、最高級のものが取りそろえられていた。今、向かい合って座っている秀聡と河合の間にある書机も、その例に漏れずたいそうなものなのになぜか真ん中に取り外しのできる部分があり、机の下からは水色のガス管が出ていて壁のガス栓にまで届いている。鍋や鉄板焼ができるようになっているのだ。料亭の真似をしてくれと大工に言ったら、こういうことになってしまったのである。使ったことはなかった。
「どうなってる」秀聡が言った。
「は」河合は秀聡の膝を見ながら「胡座のように見えますが」
「ちがうちがう」いつものことなので大してとりあわず「失敗したやつらはどうした」
「失敗」と河合は朗々とくりかえし「と、言いますと」
「笠置の息子だ」
「さあ笠置の息子です」まだ理解できてなかったがとりあえず話にくっついていこうとトンチンカンなことを言う。「あいつは失敗ばっかりだ」
「ちがうちがう。笠置の息子を殺しそこねただろうが」
「あっ。あーあーはいはいはいはい」と嬉しそうに気づいて「三人がかりでばあさんの家を襲ったやつ」やっとわかったぞ。「あれは失敗でしたー。ははは」
「なにが嬉しいんだおまえ」
「いえ」と笑いを消して「ちっとも嬉しくない」
「三人がかりでやられるとは」
「四人にしとけばよかったですかなあ」実に残念、と腕を組んで首を振る。
「失敗した連中は、ちゃんと処分したんだろうな」
「はあはあ、それでしたらご安心ください。勝手に逃げました」
「逃げた?」秀聡は、腕利きと評判の高かったガンマンたちの顔を思い浮かべた。
「ちょっと涼しくなりましたな」河合が虚空を眺めて言った。「夜ともなると」
「そうだな」と、いったん秀聡も同意してから、急に思い出したように「そんなことはどうでもいいんだ。その逃げたやつだ。三人ともか」
「はあ。ひどく恐がってました」
「あの三人がか」なんということだ。
「はい。リーダーはケンちゃんっていうんですけどね」河合はにっこり笑って二三度細かく頷いた。どう反応していいやらわからない秀聡を無視して河合は一ほら、あいつも頬に火傷の痕があったでしょう。わたしもほら、こうですから、なんとなく気が合いましてね。傷のついたいきさつや、傷で損したり得したりしたことやなんかを、話したりなんかしましてね」友達ができると、誰だって嬉しいものだ。
「なんの話だ」いいかげんにしろと言った秀聡の言葉を河合は綺麗にかんちがいした。
「ええ、ですから傷の話ですね主にね。なんでも、中学のときにですね、古いガスオーブンでパウンドケーキというんですかね、そういうケーキがあるんですか? カップケーキみたいなやつらしいですけど、それを焼いてて、こう、顔を入れたときに、ばっと火が出て。それで火傷しちゃったらしいんですよ。もう大騒ぎで、一時は目が見えなくなるんじゃないかと近所の人も」
「誰がそんなことを訊いた」
「え。わたしが」
ふたりで、しばらく黙っていた。
「とにかく」と、気を取り直して秀聡は言った。「笠置の息子は保安官助手になるそうだ。殺しておかなくては示しがつかん。末男を助けるまで宮本とじじいには手が出せんが、事務所の連中と関わりのありそうなやつは、適当に殺しておけ。うちに逆らうとどうなるか、町の連中に思い知らせるんだ」
「わかっております」
「できるだけ、いろんな方法で殺すんだぞ。できれば全部違うやり方で殺せ」
「なんでまた」
「俺の趣味だ」
へんな趣味。
秀聡は、表向きにはホルンが趣味ということになっているが、本当は「ホルン」が趣味なのではなくて、「ホルンが趣味なのだなと人に思われること」が趣味なのだった。登山の男とか、乗馬の女とかによくいるが、本当にそれが好きというよりも、それを趣味とする自分の姿が好きというのか、人に「山はいいぜ」とか「馬が大好き」とかちょっと毛色の変わったこと言って感心してもらうのが嬉しいという複雑な人というのはけっこういる。別にそれはいいんだけど、あのラクロスとかいう竹竿《たけざお》の先に小さな網がついたラケットを使うスポーツね。あれなにかケースにでも入れて運べよなあ。そんなにラケット見せたいか不細工な女どもめ。
と、つまりはまあ秀聡も同じで「ホルン」というとちょっと芸術的な香りもするし、人に訊かれたときに「趣味はホルンです」なんてなかなか渋いと思い、それに友達の少ない歪《いびつ》な人間にとってオーケストラというのはとりあえずの知り合いをつくるにはちょうどよい集まりなのである。似た者が集まるし。そのへんのオーケストラなんてみんなだいたいそんなもんです学生オーケストラなんかもうほんとすごいよ。
ということで一応秀聡の趣味はホルンなのだが、でも実はそれほど好きでもないのだった。実際、彼の趣味といえるのは「生き物を殺すこと」これにつきる。
ただ、生き物といってもいろいろあるし、血の出るものや人間はあとあとの始末が大変なので、普段は主にゴキブリを殺してがまんしているのである。女の子に人気のない青年が、人生あきらめてアニメ見るようなものだ。
「ゴキブリを殺す」方法には大きくわけて三つある。叩く。焼く。毒殺。この三つである。例外として「洗剤をかける」「弾丸を抜いた空気銃で撃つ」などがあるが、秀聡はあまりこういう方法は好きではなかった。洗剤の場合はすぐに死ぬけど気持ち悪いし、空気銃の場合は、死体が粉々になりすぎて事後処理が大変だというのがそれぞれの理由である。空気銃を初めて試したときなど、殺した翌日にくしゃみをすると、鼻からゴキブリの毛深い足が一本と体液をはみ出させた頭部の一部が飛びだしたりした。
秀聡は「殺す方法」として、約千七百八十のやり方を試したが、やはり単純に「焼く」か「毒殺」するのが楽しいという結論に達した。中でも一番のお気に入りは毒殺と焼くのとをミックスさせた「殺虫剤火炎放射機」である。
「焼く」方法に最も適した用具は「チャッカマン」と呼ばれる長いガスライターで、本来の目的はガスコンロの火を点けるためのものである。これの炎を最大にし、ゴキブリを焼くのだ。スイッチを半分だけ押すと、まずガスだけが噴出するので、それを標的であるゴキブリに向ける。ガスを浴びたゴキブリの動きが一瞬止まり、そのうちはっと気づいて逃げだそうとするのだが、その直前に点火すると、ゴキブリの全身を覆うガスが軽く爆発し、一気にゴキブリは炎上するのだ。この、ガスだけで待つ時間の取り方が微妙でむずかしい。一方「毒殺」の楽しみは、なかなか死なないゴキブリの悶《もだ》え苦しむようすである。だからまず殺虫剤によって苦しませておき、その後で焼くというのはもうこたえられない。そのうえ、この噴出する殺虫剤にチャッカマンの炎を当てると、あたかも火炎放射機のような豪快な炎が出現し、これでフィニッシュを決めるというのは迫力があってもうたまらんのだそうだ。よくわからんけどな。
殺虫剤は、毒殺のみに用いるものとチャッカマン併用タイプとは区別すべきだというのが、秀聡のゴキブリ殺し理論である。火炎放射機に最も適した殺虫剤はキンチョールなのらしい。
スーパーで買えば簡単に手に入るものを、秀聡はいつも小さな目立たない店でわざわざ注文して取り寄せていた。やはりどこかうしろめたいものを感じるのだろう。ドッグフードの匂いを嗅ぐことによってのみ強烈な性的快感を得ることができるという倒錯した性的嗜好をもった人が、普通の顔をしてスーパーへドッグフードを買いに行きにくいのと同じである。そんな人いないけどな。
ところがまあ、平気な顔をしてスーパーで買ってればいいものを、こそこそ買うからよけいに目立ってしまい、秀聡本人はこっそりやっているつもりが実は町中の人が、秀聡の殺虫剤好きを知っていた。ゴキブリを殺すのが趣味で、殺すためにわざわざゴキブリを養殖してさえいるのだということも、なぜか知られていた。本人だけが知られていることに気づいていないのであった。こっそりカツラをつけている制作部長が、本当はまわりの人間みんな知っているのに、誰も知らないはずだがどうもひょっとするとバレてんのかなあ、とびくびく威張っているのと、よく似ている。この人は本当にいるよ。
まあとにかく秀聡は、久しぶりに人間を殺すので興奮していた。
自分で手を下さず、人に殺させても、それはそれで興奮するのだった。
[#改丁]
四日目
[#改丁]
1
クラッチレバーを握り、ギアをローに入れる。クラッチを繋ぐと前輪が浮いた。
「うわっとっと」あわててブレーキを踏んだので、今度は前につんのめる。光則の乗ったバイクは、がっこんがっこんと踊ってから、再び太い排気音を吐きだしはじめた。
胸がどきどきと高鳴っている。初めてバイクに乗ったせいだ。手にも肩にも力が入りすぎているのがわかる。けど力を抜くと、手がわなないて止まらない。
もうはや高いところでぎらぎらしている太陽に照らされ、暑いのは暑いのだが、それとは違う汗もいっぱい流れていた。でも、走っているとそれなりに涼しい。
ギアチェンジがまだスムーズにできないけど、思っていたより簡単だった。車も人もほとんど通ってない馬鹿っぴろい道を走るのだから簡単であたりまえなのかもしれないけど、いやいやけっこうぼくってバイクに向いてるのかもなあ、光則はいい気分だった。
しかし、でかいバイクだ。おばあちゃんは千二百cc[#「cc」は縦中横]だと言ってたが「やっぱり千二百cc[#「cc」は縦中横]も入るとなるとタンクがでっかいねえ」と、光則は言って、またしてもばばあに馬鹿にされたのだった。
「タンクに千二百? そんなんなんぼも走られへんやん。あほちゃうか」
排気量、と言ってたが、それはよくわからなかった。エンジンをかけるのもまた一苦労だった。ボタンを押せばくくくくくっとかかる便利なものではなく、体重をかけて蹴り下ろさないといけないのだ。いくらやってもだめだった。それをばあちゃんは、光則の半分以下の体重しかないというのに一発で成功させ、光則の立場をまったく能無しの大とんま、というところまで落ち込ませた。まったくやりきれない。
保安官事務所までの道筋を、おばあちゃんは馬鹿ていねいに教えてくれようとするので、それ以上馬鹿にされたくなかった光則は、なあんだ簡単だなあ、とろくすっぽ聞かなかったのだが、これは失敗だった。実際簡単そうに聞こえたので、大丈夫だいじょうぶと出てきたものの、坂道を下って左、というところで早々と迷った。バイクの操作に必死だったのもあるが、もともと方向感覚とか空間認識力とかがどさっと欠如しているので、そんな簡単な説明で大丈夫なわけないのだった。自分でもわかっているくせに、なんとなく行けそうな気がしてしまうのでいつも困るのだ。
すぐに止まって考えなおせばいいものを、止まると死ぬかのごとく突き進むので、どんどんわからなくなる。まあそれでも、なんとかなるだろうと進んでみたところ、とりあえずまわりはだんだんと建物が多くなって、いつものようにまったく逆の方向へ行ってしまったなあ、ということではないようでよかったよかった。
メインストリートに入ればあとは簡単らしい。メインストリートというのは、どうやら来たとき決闘に巻き込まれたあの通りみたいだった。ここを曲がればきっとメインストリートだ、などと別に根拠もなく自信を持って曲がるのであるが、全然ちがう。五回ほどあちこち曲がったが、まったく近づく気配がなかった。近いところまでは来ているはずなんだけどなあ。と、さらに二回曲がったところ、見渡すかぎりの平原に出てしまい、さすがの光則もこれは絶対違うとわかったので、すぐにまた曲がる。戻ればよかったのだが、どんどん曲がったところ畑の間の一本道みたいなところに入り込んでしまった。もう曲がれない。
しかたがないから、誰かに訊こうと思う。ところが、全然人がいない。
まあいいか。とすぐにあきらめた。
道はときどきゆるやかに曲がったり、かすかな上りになったり下りになったり、両側は田んぼや畑が続くかと思うと、樹々に覆われてトンネルのようになっていたりした。
聞こえるのは蝉の声と、あちこちで囀《さえず》る鳥の声ばかり。これでもか、というほどの緑色をした若い稲が、風になぶられて波のようにうねっている。まだ穂はついていなかったので、光則にはそれがなんなのかよくわからなかった。麦かなあ、とちらりと考えただけ。
道がまた樹々のトンネルに入った。少し湿った土と葉の匂いが、ひんやりと心地よい。ああ、夏の匂いだなあ、と、ここらあたりで光則は完全に事務所へ行くという用事を忘れた。
坂を登りきったところで樹のトンネルが終わると、目に飛び込んできたのは巨大な入道雲だった。一面の緑色の上空に、濃いブルーを背負った真っ白な塊が立っていた。
生まれてから今まで、こんなに大きな雲は見たことがなかった。あんまり大きかったので光則は大笑いしそうになった。なんでかはよくわからないがおかしくて楽しくて、こらえきれずにちょっと笑った。
入道雲の足元には海が見えた。呆れかえるほど夏の景色だった。
ぽつ、とひとつ、目印のような白い点が緑の中にあった。地図の中で目的地が「ココ」と書いてあってそこだけ別の色になっていたりするが、ちょうどそんな感じだ。
雲がほんの少し、そこに落ちているのだと、光則は本気で思った。田舎ではいろんなことがあるなあと感心する。
まっすぐに下っていく長い坂道の途中にその白い点はある。熱せられた土の上で、空気といっしょにゆらゆらとぼやけている。
ああ、どきどきするほど綺麗だ。
やがてそれが、白い服を着た人なのだと認識したと同時に光則の心臓はとくんと震えた。
ああ紅葉だと思った。まだ、人間の形にすら見えないくらい遠いのに。
髪が見え、肩の形が見えてきた。やっぱりそうだ。紅葉だ。白いワンピースだ。
嬉しい。
うれしいがこまったぞ。どうしようどうしよう。どんどん近づく。
バイクの音に振り返った紅葉が光則に気づいて、あら、という顔をした。
その好意的な笑顔を見て、光則はもうどうにもこうにも嬉しくてうれしくてたまらなくなり、頬がゆるゆる笑ってしまうのをどうしても止められない。だめだだめだもっとしっかりした顔をしないと、と思うが顔は勝手にぐしゃぐしゃに笑う。
紅葉の前でかっこよくバイクを止めようと意識したものの、ブレーキをかけるとぐいっとばかり思いのほかよく効いたもので、紅葉までまだ数メートルあるというのに止まってしまいそうになる。そこであわててクラッチレバーをはなしてしまい、バイクはカバがしゃっくりしたようなみっともない動きで止まった。止まり方はかっこわるかったが、そこからがまた輪をかけてかっこわるい。エンジンまで止まってしまったので、もう動かない。両足をかわりばんこに蹴って、ずりずりと紅葉の立っている場所まで進んだ。なんとか、エンストしたんじゃなくて自分の意思で止めたと思わせたいけど、まあ無理だろうな。
「大きなバイクね」にこ、と笑うが、どこかぎこちない。さっ、と光則は不安になった。
「バイクに乗るのは、今日が初めてなんだ」正直に言う。「お兄さんは?」
「うん、重傷だけど、もう大丈夫みたい」
「そう、よかったねえ」本当によかった、と思った。紅葉のような女の子が、悲しむようなことは起こらないほうがいい。
紅葉は光則の、その思いやりに満ちた笑顔をじっと見つめながら、ほっと小さく息を吐いて頷いた。「うん」
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_173.jpg)入る]
その微笑みにはもうさっきのぎこちなさはなく、うわあなんて可愛いんだろうなあと光則が紅葉の顔をにこにこ眺めていると、光則を見つめる紅葉の目からぽろぽろと大きな涙がこぼれはじめた。
「なにっ、どうしたのっ」不安になったもので、声がでかくなる。ぼく、なにかいけないことを言っただろうか。
紅葉は涙に濡れた顔で微笑んだまま、首を何度か横に振るだけ。
ひょっとして清美ちゃん、本当は死にそうだとか。
「あ、う」困ったぞ。「お」
「ごめんね」ああっ、また涙がぽろりと。「あたし……」
「お兄さん、あのぼく、知ってるんだよ」外人、と言いそうになってやめる。「その、ちょっと。ねえ、どこか痛いの?」
「ううん」首を振ると髪がふわりと揺れ、頬から涙が飛んだ。「わかんない」
ぼくもわからんわ。と思う。
「ありがとう」
「なにが?」可愛い声で礼を言われ、さっぱりわからないながらとりあえず光則の頬はゆるむ。
その顔を、紅葉は泣き笑いのような顔でまたじっと見つめていた。
「ごめんなさい」手の指で、涙を押さえる。光則はハンカチを渡そうかどうしようかと迷いながら、ジーンズのポケットを探ってみたらハンカチなんかなくて、ポケットに入れたまま洗濯したためにパルプと化したちり紙のかたまりがぽろぽろと出てきたのでびっくりして元に戻した。
「大丈夫?」なんで泣いたんだろうかな。
「うん」
「ねえ」光則はちょっと考えることがあって、言ってみることにした。「どこ行くの?」
「うちへ帰って、お兄ちゃんの着替えとか取ってきたの」手にした紙袋を見せる。涙はもう止まったようだ。「今から病院へ行くところ」
「ああそう」次が言えずに黙ってしまった。いったいここはどこなんだろうか。一度途切れるとやりにくくなってしまうのに。つまり、後ろに乗せてってあげようかと、そう言いたかったのだけど。
「これ、お兄ちゃんが作ったんだよ」唐突に、紅葉はそう言ってワンピースの胸元からペンダントを引きずり出した。紅葉自身はまったく気づいてないのだろうが、こういう仕種《しぐさ》はけっこうどきどきさせられる。
「はー」いきなりそんな木切れ見せられたって。
「きれいでしょ」さっき泣いたのが嘘のように明るく楽しそうである。
「はあ」
「あ、わかってないなあ。これはね、ふたつが合わさってひとつになってわからなくなっちゃって、ひとつずつだと紅葉の葉っぱに見えるんだよ」ほらほら、と木切れを光則の鼻先で、あっち向けたりこっち向けたり。
「ははあ。ほんとだ」ほんと一瞬紅葉の葉っぱに見えた。けど、紅葉の言ったことはあんまりよくわからなかった。光則は木切れより、目の前で動く紅葉の細い手や指ばかり見ていた。
紅葉はワンピースの胸元に指を引っかけると、布地と肌の間にペンダントを落とした。また光則はどきどきした。
「光則君はどこ行くの?」話の飛ぶ子だなあ。
「あーそうだ。保安官事務所ってどこ?」それを訊いておかないとな。
光則くんだって?
「町の方だよ」
「えーと」それはわかってるんだがなあ。「町はどっち?」
「どっちって……。光則君もしかして浅田先生のところから来たの? どこにも寄らずに?」
「そうだよ」
紅葉は光則の背後に伸びる道をちらっと見てから、なにか嬉しいことを思い出したのに、それを顔に出さないよう努力しているような顔をした。
「あっちが」と、光則の背後を指さして「北、だよね?」
「はあ」そういうことはよくわからないのだいつも。「そうなるのかなあ」
くーっ、とへんな音をたてて紅葉は下を向いてしまった。笑っているのだった。
「ずいぶん走りまわったでしょ」
「なにが」
「南」あはははは。と今度は上を向いて大笑いした。
「え?」光則はぎょっとして一瞬逃げようかと身がまえた。
「あっちは南だよう。光則君方向音痴なんだあ」けらけら笑った。「ごめんね」ふー、と、笑うのをやめる。で、光則の顔を見てまたちょっとはははと笑い「なんだか光則君見てると楽しい」
ほっといてくれ。と思ったが黙っていた。腹立たしさや厭《いや》な感じはまったくなかったけど、自分は紅葉のことを考えるだけで胸が締めつけられるというのに「見て楽しい」というのはちょっと釣り合わない感情のように思える。それがなんとなく不安だった。
「ごめんね」と、また紅葉は言った。急にまじめな顔をされたので光則は面食らった。
あ、あ、と口を開いたまま首を横に振る。よく表情の変わる子だなあと思った。
「保安官事務所になにか用事?」紅葉はもうまったくなんの悩みもないような無邪気な顔に戻っている。こういう人は毎日大変だろうなあ顔が疲れたり。
「うん、昨日の夜電話があって。助手になれって」
「なるの?」
「ならないよお。なんかさー、みんなでかんちがいしてるみたいなんだよなあ」
「かんちがい?」汗の吹き出てきた額を、紅葉はハンカチで押さえた。短い半袖の奥に、紅葉の肌がちらりと見えて光則は狼狽《ろうばい》した。なんでいちいちなんでもかんでもこんなに可愛いんだ。反則だ反則。
「そう。ここに来てすぐ、君の兄さんに危ないとこタツけてもらったんだよ」舌がもつれた。「そ、それをなんか事務所の人はかんちがいしてるんだと思う」
「でも、お兄ちゃんは、光則君にタツケテもらったって言ってたよ」悪党顔でにやりと笑う。
お、おもしろい子だ。
「え、へんだなあ」君の兄さんって外人だよねえと確認しそうになってまたやめる。
「でも、お父さんは笠置詠なんでしょ?」
「あー」光則はこれはいい機会だとばかり紅葉の顔をあらためて見つめ「それなんだけどねえ。ぼくの父さんっていったいこの町で昔なにしたんだい?」と訊いた。
紅葉は黙ってしまった。
光則は心配になった。どうもまずいことを訊いたようだ。せっかく好意的に接してくれていたのに。ここからはとりあえず話を合わせて、ごまかしてでも嘘ついてでもなんなら人のもの盗んででも気に入ってもらえるよう努力しよう。絶対そうしよう。
「本当に知らないの?」
「うん」知らないよなあ。思い当たるようなこともないし。「知らない」
「拳銃持たないんだね」光則の腰のあたりを見ながら紅葉が訊ねた。
「え? ああ、撃てないからね、どうせ」と、馬鹿正直に即答してから、あっしまった百発百中目にも止まらぬ早撃ちですよとでも言えばよかったと後悔したがあとのまつり。
「撃てないの?」
「え、うん。まあ」ちょこっとくらいは撃てるんだと、言っておこうかなあやっぱり。
「ふーんそうなの。撃てないの。そう」けれど別に馬鹿にされているのでもなさそうなので、光則はほっとして紅葉を見つめていた。つくづく可愛いなあと思う。
紅葉はなにを考えているのか眉間にものすごい皺をつくっていたが、ゆっくりとじわじわと湧き出るような笑みを浮かべた。ものすごく嬉しそうに見えた。
なんだなんだ。このこへんだぞ。でも可愛いからもうなんでもいい。なんだか知らないけどもうめちゃくちゃ嬉しい。
「保安官事務所には、じゃあそれを説明しに行くんだ」なかなか頭の回転もはやい。
「そうそう」
「じゃ、すぐすむよね。用事」
「うんたぶん」
「じゃあたしもいっしょに行くから乗せてって? 道教えたげる。それからいっしょに昼御飯を神父さんのところで食べて、それからいっしょに病院へ行くの。どう? それでいい?」
可愛い声でまくしたてられて「いい」と、なにも考える前に頷いてしまっていた。
「いっしょに」という言葉を紅葉が言うとそのたびに胸がときめいた。それからちょっと気になって「病院?」
「そう。お兄ちゃんが会いたいんだって」
「はあ」会ってどうするのかわからなかったが、紅葉の顔に見とれて続けて質問する余裕がない。「ああそう」
光則は紅葉が後ろに乗ってくるのを待ったが、紅葉はじっとしたまま。
どうして乗らないのかな。
「エンジンかけなくていいの?」
「あ」そうだった。しまった。かかるかな。考えてみれば、まだ一回だってかかったことないわけで、まいったな。
ええとどうだったかなとかもぐもぐ呟きながら、まずそうそうギアをニュートラルにと、がちがち。ここでいいんだろうか。よいしょっとバイクを今度は左に少し傾け、キックスターターを外側へ倒す。どうぞ神様エンジンがかかりますように。ここで一発でかかったらもうエッチなことは二度と考えませんと祈りながら跳び上がり、体の落下とともに一気にスターターを蹴り下ろした。
ズオン。かかった。神様っているかもしれない。ズオンズオン、とアクセルを吹かす。けっこう、かっこよかったかもなあ。えへへ。
紅葉が光則の肩に手をかけた。
「あ」光則はびっくりして思わず声を出した。「スカートじゃ、乗れないんじゃ……」もぐもぐとごまかす。いろいろ想像してぞくぞくしているのです。
「大丈夫、慣れてるから」紅葉は後ろのシートに横向きに座ると、背もたれを抱くようにして体を固定し「いいわよ」と言った。
体に手をまわされたらやっぱり胸が背中にあたっちゃうよなあと、今祈った約束を早早と反故《ほご》にしつつぶるぶる震えるほど期待していた光則はちょっと拍子抜けしたが、それでも紅葉の匂いがほのかに香り、すごく幸せだった。
慣れてる? バイクの後ろに乗るのが? 誰に乗せてもらうんだろう。と、突如気になりだしたが、この際いやなことは考えないことにした。
「これハーレーよね」さあ行こ、と紅葉は子供みたいに両脚をぶらぶらさせた。
「知らない」それどころではないのである。今からバイクを運転するのだ。
光則は慎重に慎重にギアを入れ、クラッチをつないだ。よし、動きだしたぞ。よしよし、さあ次がむずかしい。セカンドに入れないと。
紅葉の髪が光則の首筋を撫でた。
「あっ」
がっこん、とバイクが揺れて、背中全体に紅葉が当たる。保安官事務所まで、三日くらいかかればいいのに。いやもう一生このままでもいい。
なんとか無事に走りだした。
ぼく臭くないだろうか。
蝉しぐれの中を、光則と紅葉は抜けていった。
夏の風と、ときおり背中に当たる紅葉の肩を感じながら、さっき見た風景を光則は思い出していた。
これから先、きっと夏の匂いを感じるたびに思い出すだろうと思った。絶対忘れられない景色になる。
馬鹿みたいに大きな入道雲と、一面の緑に囲まれて陽炎《かげろう》に揺れていた紅葉の白いワンピース。
「はいっ、ここ」突然紅葉が耳元で怒鳴った。
「えっ」と、ブレーキを踏むと、バイクはがくーんと急に止まってまたしてもエンストしてしまったが、その勢いで紅葉の顔が光則の頬に当たった。耳が熱くなる。
後ろの紅葉ばかり気にしていたので、まわりの景色なんか全然目に入ってなかったが、保安官事務所はたしかにそこにあった。
「もうついちゃったのかあ」無意識に、半ば独り言のように呟いて紅葉を見ると、その白い頬がみるみる赤くなっていくのがわかった。急に子供になったようにおどおどしていた。「あっ。いやへんな意味じゃなくて」じゃ、どんな意味だろう。
「ありがと」優しい笑顔で紅葉が呟いた。なんだかすごくうまくいってるみたいだ。すごいすごい。
自分と同じように紅葉もどきどきしているのがわかって、光則はさらにどきどきし、なんで紅葉はさっき泣いたんだろうかとか、どうやってバイクから降りようかとか、紅葉もいっしょに事務所に入るのかなあ、とかいろいろなことを考えながらもじもじと地面を見ていた。
そのとき突然、光則の中でなにかが熱くなった。紅葉と見つめ合っていることで胸が高鳴っているのは確かだが、それとは違うなにか。恐い、と思った。
地面の、光則が見つめているその一点が小さく爆発し、長さ二十センチほどの楕円形に土がえぐれた。
田舎というのを四次元の一種みたいに思っている光則は、大久保町のような田舎にはそういう過激な行動をするモグラかなにか、土の中に生きる生き物がいるのだな、と考えた。地雷モグラ。とかいうのかもしれない。
次は耳元だった。
こないだ、いきなり撃たれたときと同じ衝撃だった。撃たれているのだ。珍しい生き物じゃない。
危ない、と思う前に体は反応した。その瞬間、ほんとに一瞬だったが紅葉に抱きついても許されるぞ、とやらしい打算が働いたものの、やはり恐怖がまさり、あとは無意識に体が動いていた。
すくんでしまっている紅葉の体を抱きかかえ、保安官事務所のポーチへ続く階段を駆け上がる。ポーチをまわって建物の向こうへ隠れるのだ。銃声がするたびに、叫びだしたいような恐怖が襲う。わあとか言いそうになったとたん、紅葉が光則の体にしがみついてきた。生まれて初めて女の子とこんなにひっついた。すると突然、大丈夫、ぼくがついてるからね、といった気分になってしまう自分に対して馬鹿馬鹿しくって言葉もない。本当はぼくの方が誰かに抱きついて助けてくれえと泣きたいくらいなのに。恐いのに恐がっていられないのだ。こわいのに。
保安官事務所のレンガの壁が炸裂音とともに弾け跳ぶ。レンガのかけらが光則の首にあたった。いたい。恐い。
事務所のドアが勢いよく開き、宮本丸雄が、続いて太田じいさんが走りだしてきた。
ドアの上部、続いてポーチの柱と不気味に正確な間隔をおいて煙があがる。ふたりはほんの少し首をすくめたものの慣れたようすで銃声のする方に目を向けると、宮本はリボルバーを太田じいさんはライフルを、落ちついた動作で狙い定め、続けざまに発射しはじめた。
連射される乾いた銃声が響いたあと、耳に圧迫感のある静寂がやってきた。
「山の方からだな」宮本の声が、光則には遠くで鳴っているよその家のテレビみたいに聞こえた。まるで現実味がなかった。
壁を背にして座り込んだ光則の腕の中で、紅葉が震えている。驚くほど細いのに、柔らかく温かい。この温もりはたしかに現実だ。
なんとか助かったのだなと少し安心したとたん、女の子とひっついていることが急に気恥ずかしく思われてきて、どぎまぎしながら紅葉の体にまわした腕をゆるめようとすると、紅葉はあわてて光則の体をぎゅっと抱いた。
光則の心の底で、ぐらりと動くものがあった。腕の中の紅葉に対する感情が、大きく揺れているのはまちがいない。けれど不思議なことに、くしゃみは出なかった。出そうな気配すらないのだった。
2
「また会ったな」と、光則を見下ろすように宮本が言った。宮本がでかいせいか、事務所の中はなんだか狭苦しい感じがする。
光則と紅葉を、宮本はなにか言いたげなようすでじろじろと見つめた。
その顔を見上げながら光則は、いったい誰なのかさっぱりわからなかった。だれだこの人。光則は、まだ銃撃を受けたショックから立ち直っていない。ただ、紅葉の手前平気な顔をしているだけである。もうちょっとで死ぬところだったのだと思うと全身に震えが走りそうになる。ちょっとでも震えだしたら、止まらなくなるのがわかったので、おなかに思いっきり力をこめていた。
大久保町に来てから会った人なんて何人もいないんだから、ちょっと考えればすぐにわかることなのだが、震えを止めるのに苦労しているのでなかなか考えられない。それでもいろいろ考えて、やっと気がついた。あの、兄弟にばんばん撃たれてた酔っぱらいだ。そうそう。
「あー」なんと言っていいか。口を開くと歯ががちがち鳴って、そのまま一気に崩れてしまいそうになったので歯を食いしばって耐えた。しゃべりにくい。
「酔ってないときは、けっこういい男だろ」と、宮本は静かに笑った。大きな声ではないのによく響く。低い太い声だ。
「はい」ほんとにそう思う。着ているものが違うというせいもあるだろうけどそれだけじゃない。たしかにあのときは浮浪者のような薄汚れた服で、今は貧乏学生みたいな薄汚れた服という違いはある。作業ズボンか軍服のズボンかはよくわからないけど、とにかく今はズボンと綿のシャツなんだと判断できる。前のは、あれ、服着てるのかお笑いコントの犬の着ぐるみ着てるのかわからなかったものな。でもおんなじ人間が、こうも変わるものなんだろうか。
「狙いはおまえだろうな」宮本は立ったまま光則に向かってそう言った。太田じいさんはなにか探しているらしく、部屋の隅をごそごそとやっている。なにがなにやらさっぱりわからない光則が、意味もなく少し体を動かすと、すぐ後ろに立っていた紅葉にぶつかった。
こんなに近くに立っているなんて。なんだか嬉しいが、まだいろいろ動揺していて紅葉の方を見ることができない。
「三〇八。NATO弾だ」宮本は、入口の柱に食い込んでいた弾丸をひとつ、取ってきていた。それを目の前にかざす。弾丸を摘《つま》んだ指が少し震えている。けれど、光則と目が合ったとたん指の震えが止まった。宮本はそのまましばらく光則から目を離さず、かすかに笑うと、目を弾丸に戻した。「発射の間隔から考えて、たぶんボルトアクションだろう。下手なスナイパーで助かったな」にやりと笑って、また光則を見た。
光則はただ目を見開いただけだった。
「連中に殺されなきゃならないようなこと、なにかしたのかい?」ちょっとした冗談のつもりだったらしく宮本はそう言ってからがががと大笑いしたが、光則の顔がしらっとしたままナニガオモロイネンと言っていたので、急に笑うのをやめた。ちょっと傷ついたように見えた。
光則は、宮本の淡々と話す内容に震え上がり固まってしまっていたのである。顔から背中から汗がどっと出た。殺されそうになった殺されそうになったコロサレソウニ。
ライフルがずらりと並んだ棚の向こうに、木でできたごついクロゼットがあって、その中に首をつっこんだまま、太田じいさんがきゃあきゃあと笑った。
「あったあった」のそのそと後ろ向きに出てくると、手に持った本のようなものをふうっと吹いた。煙のように埃が舞う。「聖書なんか、めったに使わねえからなあ。ひひっ」
「汚いなあ」宮本が感心した。
光則の後ろで、紅葉が少し笑うのがわかった。息が首筋に当たるような気さえする。思い切って振り返った光則の目の前に、はっとするほど美しい紅葉の微笑みがあった。紅葉と視線が合った瞬間、光則の体から恐怖の余韻がふと消えた気がした。けれどそのかわり、さっき腕の中にあった紅葉の体温を体が思い出し、今度はその興奮のせいで胸が詰まり息をするのが苦しい。紅葉の方はといえば、まったくもうなんともないように見える。宮本のこともじいさんのことも、紅葉はよく知っているようだった。光則はとたんに心細くなった。
太田じいさんは、光則の方に聖書を差し出すと甲高い声で言った。「この上に左手を置いて」
わけがわからなかったが、言われたとおり光則は埃まみれの古い聖書の上に手を置いた。
「右手をあげて」じいさんは自分も肘を直角に曲げて、右手をあげた。光則は、なんじゃこれはと思いながらも同じように右手をあげる。
「えーと」じいさんはそこで急に黙り込み、宮本の顔を見て、紅葉を見て、光則を見て、天井を見て床を見た。顔をぐしゃぐしゃにして苦しそうに唸りつつ顔をあげ「どうやるんだっけな」と、宮本に訊ねた。
「忘れた」
「わしも。うーん、とにかく誓うか? 誓いますと言え」じいさんはじゃまくさくなったらしい。
「誓います」気圧《けお》された光則がそう言うと、じいさんはさっさと聖書を片づけ、星の形のバッジを光則に放った。
「これで、おまえは保安官助手だ。おまえみたいなのがひとりいてくれるだけで、ものすごく心強い」
あーいかんいかん。と光則は思った。狙撃されたことによる動揺で、まだ頭が正常に動いていなかったが、それでもこのままではなし崩しに保安官助手にされてしまうということぐらいはわかった。このまま助手になって帰ったのでは、ばあちゃんに面目が立たない。あまりにも立たない。
「あ、あのぼく保安官助手なんか無理ですよ」と大慌てで言った。
太田じいさんと、宮本が一瞬止まって互いに顔を見合わせた。
「忙しいのかい?」と、太田じいさん。いやそういうことじゃなくて。
「銃を撃ったことなんかないんです」
「全然?」じいさんは大目玉ひん剥いた。
わかってくれたと思って、光則はにっこり笑い「ええ、全然まったく」と、小刻みに頷く。
「あっははは」じいさんと宮本が、合わせたようにいっしょになって大笑いした。
しばらく笑って、それで終わり。完全に冗談だと思われたみたいだった。じいさんはぶつぶつなにか呟きながら聖書を片づけはじめ、宮本はどさりと椅子に腰をおろして新聞を開いた。
紅葉を見ると、どうしましょうというように光則の方を見てくれる。それが光則には妙に心強かったけど、しかしここは心強いだけではいけないのだ。なんとかしなければ。
「丸雄とおまえさんがいれば、心強いよな」じいさんがひとりごとのように呟いた。
「あー」どうしたもんだろ。
「詠は元気かい?」じいさんが涙のたまったような目を細めて訊いた。
「はあ」
「あいつは、本当にもう、ここへは帰らないつもりなのか?」
「え?」いやそんなこと知らないけど。
帰ってこねえだろうなあ、と呟いてじいさんは懐かしそうな顔を宮本に向けた。
「詠と新蔵と丸雄と、あのときはすごかったなあ」
「昔のことさ」宮本は言った
いったい、うちの父さんは昔なにをしたんだろう。どうもこの町の人は、父さんのことを誤解しているような気がする。普通のおっさんなんだ。あいつは。
そのとき、紅葉の手が、光則の腕をそっと掴んだ。
「えっ」驚いた光則が紅葉の方を見ると、紅葉は心配そうに、困ったねという目で光則を見上げていた。優しい、温かい目に吸い寄せられそうになり、光則の喉はくきんと音をたてた。
「どうした?」太田じいさんが、物陰から名を呼ばれた犬のような仕種で光則と紅葉の方を見た。
「あ。あ」困ったこまった。「あっ、そうだ」これはいいことを思いついてしまったぞと光則は喜んだ。「あー、助手になる、そのー、テストとか、そういうのはないんですか?」それで落っこちたら、助手にはならなくていい。絶対合格しないんだから。撃ったことないんだから。よしよし。
「テストか」じいさんがひょこっと宮本を見た。「そんなもんいらねえなあ」
「そうだなあ。でも、どんなもんか見てみたい気もするよな」そう言うと、宮本は新聞を置いてゆっくりと立ち上がり、光則の前まで来た。そして両手を突き出すと朝礼のときの「小さく前へならえ」のような恰好をした。
じいさんが興味深げにそれを見ている。
「俺が手を叩く」宮本が言った。君は足踏みをしろ、とでも言うのかと勝手に光則は思ったがそんなのではなくて「ここにおまえの手を挟め」
これはつまり、宮本が手を叩くその瞬間を狙って手を入れるという反射神経を試すテストだったのだが、光則は手を入れろと言われたのを素直にかんちがいし、まず手を入れてそれからなんらかのテストが行われるのだろうと思ったのだった。だからなんにも考えずに、はいよとばかり手を上げた。宮本が手を叩いたのはまさにその瞬間で、見事光則の手は宮本のぶあつい両手に挟まれた。
宮本は眉を上げ、嬉しそうな笑顔をつくった。光則を見下ろし、それからじいさんに目をやる。
「見事なもんだ」じいさんは喜んでいる。
「合格だ」宮本が言った。
「えっ」合格。なにが。「ちがうちがう」まちがえただけ。
どうしよう、と悲しい顔で紅葉を振り返る。紅葉は光則の反射神経がすぐれていたのだとは一瞬たりとも考えなかったらしく、光則に向かって心配ないわという風に頷いた。宮本とじいさんに自分が説明しようと決意してくれたらしかった。
心細いときに、紅葉のその行動力はひどくありがたかった。年下の女の子だとは思えない。優しいお姉さんみたいな感じだ。抱かれてよしよしなんてされるのも悪くないなと思ったとき、宮本がなにか言ったような気がしたのでくるりと顔を向け、
「え?」と訊いた。
宮本は笑いかけていた顔をぎくりと強張《こわば》らせた。じいさんと紅葉はわけがわからないようすできょとんとしている。
「なんですか?」と、光則。
「まだ言ってないぜ」驚いた宮本の顔の中にじんわりと笑顔が広がる。なんとなく不気味な感じがしたので、光則はたじろいで一歩宮本から離れた。
光則の二の腕が、横にいた紅葉の胸にあたった。やわらかい。
これは本当にいやらしい感覚ではなく、なんだか本当に幸せな感触だった。その胸の中で眠れたら、さぞ落ちつくだろうなと、さっきの想像の続きで光則は思った。ほのぼのとした感情で胸がいっぱいになったが、ほのぼのしている場合ではなかった。
突然宮本が銃を光則に向けた。
急速に、光則は額のあたりに痛みを感じた。痛いのか熱いのかはっきりしない感覚だった。このままではその苦痛は耐えられなくなる。そう思った。
宮本は無造作に光則を撃った。
額の痛みを押し退《の》けようと、光則は頭を振った。壁が小さく煙をあげた。じっとしていたら、頭を銃弾が貫通していただろうなあと感心してしまうような場所に穴が開いている。
また殺されそうになった。なんだなんだ。なんだったんだ今のは。
紅葉は今やぎゅうぎゅうと光則の腕を抱いている。悪くない。でも、喜ぶ余裕なんかまったくなかった。ショックのあまり脳味噌が痺れている。
「やっぱりな」宮本が言った。「思ったとおりだ」
「こりゃたまげた。さすが親子だ」じいさんは、一オクターブ高い声できいきい叫ぶ。
「なんなんなん」おじさんあんたぼくのこと殺そうとしたんだねえいま。口がきけない。
「四人目だな」と宮本は、これでなにもかもよくわかった、という顔で納得し何度も大きく頷いた。
「毛利新蔵、笠置詠」じいさんが宮本を見た。「宮本丸雄。それから笠置……なんだった?」
「光則」ぼーっとしたまま反射的に答えていた。
「光則みつのり。四人目だ」
紅葉の小さな顎が、自分の肩に強く押しつけられているのを感じる。それがなかったら、また失神していたと思う。なにが四人目だ。麻雀にでも誘われるんだろうか。
四人目だ。と、けっこう大仰《おおぎょう》に驚いたくせに宮本もじいさんもあっという間に平常に戻ってしまった。
宮本は部屋の隅に置いてある簡易ベッドなのかソファなのかもしかするとリヤカーの残骸に布をかぶせたものなのかよくわからないものの上に寝ころんでしまい、じいさんはじいさんで末男の牢屋の方へ行くと、その前で胸を張って仁王立ちになり意味もなく彼を罵倒する。
「ばーか。でーぶ」
はあはあと肩で息をしながら紅葉と光則は互いの顔を見つめたまま立っていた。紅葉は光則の腕に抱きついているのでふたりの体は密着している。光則は自分の胸の鼓動と、腕に伝わってくる紅葉の胸の鼓動を同時に感じながら、見ようによってはぼくたちふたり、今すごくなかよしに見えるだろうなと考えていた。
「今」と、紅葉が言った。目の前で動く紅葉の唇がなまめかしい。キスなんか誰ともしたことはなかったが、どういう感触かということはけっこう簡単に想像がついた。ちょっと顔を下げるだけで、紅葉の唇と。
「今なにしたの?」
「まだしてない」
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_195.jpg)入る]
「え?」
「えっ」あ、いやいや。「そう。死ぬかと思った」
「思ったね」と、紅葉は自分のしていることがわかっているのかどうなのか、光則の腕をいっそう力を込めて抱いた。
いくぶん勢いを失いかけていた光則の心臓が、自分の家が燃えているのを発見した半鐘《はんしょう》係みたいに、再びがんがんと胸板を叩きはじめる。
撃たれたショックと、紅葉と接触している幸福感とで、だらしなく笑ったまま天井を眺めている光則をよそに、じいさんはいったん末男を罵倒するのをやめて奥へ行き、しばらくしてからまた戻ってきた。牢屋の前を通るときにはひらひらと手を振って舌を出し「生きてるかーでぶー」とまるでそれが義務であるかのようにおざなりに末男をからかう。
「ほれ」と、太田じいさんはしなやかな革製のガンベルトに納められた銃を光則にくれた。借りていた漫画を返すみたいに気軽な調子だったので光則もはいよと受け取ってしまう。「コルト・パイソンだよ。おまえの親父の銃だ」
「最初は新蔵さんのだったんだよな」宮本は、ベッドに寝ころんだままそう言った。
「ああそうだ。こいつはライフリングが左廻りでな。左手で使うにはいいが、右だとちょっとずれるんだそうだ。まあ、ずれるったって、百メートル離れて五センチとかそんなだけどな。新蔵の癖なんだ。で、今度はS&Wのモデルなんとかに換えたんだ。そいつは右廻りなんだ。ライフリングが。二挺とも、それに換えたんだ。うん。そうすっと今度は左がずれる」じいさんはちょっと黙って考えた。そのままじっと固まってしまう。ゼンマイが切れたんだな、と光則が心配しはじめたらまた動きだした。「そこでだ」年寄りは話が長い。
「右にS&W左にパイソンってことになったんだよ」宮本は、少し怒ったように話をついだ。「S&Wの片割れは俺がもらったんだがな」ごろりと転がって、壁の方を向いてしまった。「酒のために、売っちまったんだよ」
「ものごとには順序があるんだ」じいさんが落ちついた声で言った。「あとで出してやるからがっつくんじゃねえ」
「なんだって?」がばっと起きる。
「買い戻して、置いといたんだよ」
宮本の嬉しそうな顔といったらなかった。
ライフリングとかそういうのはなんのことやら全然わからない光則だったが、手にしたガンベルトの着け方はわかった。かっこいいなあと思いながら、黙々と身につけてしまっていた。銃を抜いて見てみると、明に渡されたものと大きさはほとんど同じくらいだった。でもこっちのほうが断然かっこいい。
「気に入ったかい?」太田じいさんが光則に訊いた。
「うん」と、思わずにっこり頷いてしまってから「あ、いやでもぼく」もごもごといいわけをしはじめたのだがじいさんはそれにはかまわず、光則にくっついた紅葉の方を見ながら、皺の多い口を横一文字に伸ばして両の眉を大きく上げた。
「ふーっ、いいねえまったく」と、わざとらしいウインクをしてみせてから、裏の小屋へ宮本の銃を取りにいった。
あわてて紅葉が光則から離れた。今まで自分のしていたことが、急に恥ずかしくなったようだった。耳を赤くしてうつむいた紅葉を光則はぼさっとした顔で見た。今まで紅葉がひっついていた腕が、妙に涼しい。当然あるべき温もりが、じいさんの言葉によって引き剥がされてしまったような気がした。
手には銃の重み。
まったくもって馬鹿としか言いようがないのだが、光則はおどおどしている紅葉を見ながら、この子はぼくが守るんだと固く決心していた。そんなことできるはずもないのに、銃の感触がまちがった気を起こさせていた。できるような気がした。
「紅葉ちゃんは、わしらに、なにか用があったのかい?」じいさんが戻ってきた。光則の目つきが変わったことにも気づかず、紅葉の動揺にもまったく無頓着である。
「あ、あ、あの」紅葉も動揺しているのである。目の下が赤い。「あー。お兄ちゃんは、大丈夫です。もう完全に復活してます。それをあの、知らせようと」咄嗟《とっさ》に用事を考えた。
「知ってるよ」軽くじいさんは言った。
「え?」
「昨日電話で聞いた」
「だれに?」
「春子ちゃん」意外な話の展開の上に、自分の母親をちゃんづけで呼ばれて、紅葉はちょっと面食らったようすだった。
「ああそう」紅葉は目をぱちぱちと二三度大きく瞬き、それからまったく無意味に「ははは」と笑った。
「はは」じいさんもよくわからないまま、無意味につきあった。
「お兄ちゃんが、光則さんに会いたいって言ってますので」口調が幼稚園児のようにたどたどしい。
「へえ、じゃ清美によろしくな」と、じいさんは唐突に紅葉との会話に興味を失って、くるりと背を向けた。
宮本は簡易ベッドの上に膝を崩して座り、満面に笑みをたたえている。じいさんに渡されたばかりの拳銃に息を吹きかけては、汚いシャツの裾でそれをごしごしと拭いていた。
「子供か」口の中で小さく紅葉は呟いた。
男という生き物は、おもちゃに夢中になる子供と同じで概して道具に弱いところがある。宮本の無邪気な笑顔に呆れながら、不思議な優越感とともに紅葉はかろうじて自分を取り戻したのだった。
で、どうするのよと光則を振り返って紅葉はちょっとのけぞった。
ガンベルトをきちんと着け、両手をだらりと下げた光則は、まさにヒーローになりきったアホの子供そのものだったのだ。保安官のバッジまで、きちんと胸につけているではないか。バッジがけっこう重いらしく、Tシャツがだらりと伸びて首の部分が広がり、とってもみっともないのに気にならないらしい。へんな目つきで紅葉を見ていた。
宮本と太田じいさんに、保安官助手なんて無理だということをちゃんと説明しなくちゃいけないのになにやってんのまったくこの子は。
紅葉が光則にちょっと恐い顔を向けた。
光則は目を細め、口の端でにやりと笑った。
へんなかお。紅葉はちょっと反応に困った。光則は光則なりになりきっているのだけれども紅葉にはわからない。
「よし」と光則は言った。「行こうぜ」無理をした低い声。
「でも……」言いかける紅葉の言葉を、右手をあげておしとどめ、光則は肩ごしに振り返った。
「Follow me.」
「ああ」と紅葉は寛容に頷いた。「外国映画なのね。今」
3
父親の銃、ということがどういうことなのかも深くは考えず、ただそれを身に着けたというだけでできたぺらぺらの自信を胸に、光則は体を前に少し傾け、だらだらとポーチを降りた。バイクまでの数メートルを、もたもたと歩いた。光則の頭の中には、昔見た西部劇の保安官があったのである。体の大きなその保安官は、両手を肘のところで直角に曲げ、ちょっと前のめりに足を擦るようにして歩いていたのだ。
はたから見ると疲れているみたいにしか見えない。
光則がハーレーにまたがって、エンジンのかけ方を思い出そうとするうち、紅葉は光則のことを見もせずにすたすたと歩いていった。
すぐ近くに『国連病院』という看板が見える。他の建物よりもほんの少し背が高いが、屋根は灰色の瓦ぶきで、本当にあれが病院だろうか。けどあそこに行くんだとしたら、えらく近いぞ。ぐずぐずしていては、紅葉が病院に着いてしまう。後ろに乗せて、もういっかいひっついてもらうんだと企《たくら》んでいた光則は、焦った。
重いバイクをなんとか起こし、キックスターターを蹴るが、エンジンはかからない。二度三度とがんばってみたが全然かからない。
紅葉はなにかわざと知らん顔をしているかのようにどんどん行ってしまう。光則の不安に同調したかのように、急にあたりが暗くなった。異様に立体感のある真っ白な雲が、太陽を隠したのだ。
バイクはやめだ。そうそう。歩いて行くんだ。
病院は近いんだから。けど、紅葉はなにか怒っているようだなあ。と、のんびり考える。
慣れないバイクのサイドスタンドを立て、あわてて紅葉の後を追いはじめた。走って追いかけるのもなあ、と思って早足で追いかけた。
紅葉が加速した。
あっ。これは本当に怒っているみたいだ。光則は背筋に寒いものが駆け上がるのを感じた。平和な授業中に、なにが原因か突然先生が怒りだし、誰のせいだと叫んだとたん日直の女が「笠置君です」と言ったときみたいに。
湿気を多く含んだ風が、背筋の寒さをあおる。脇の下の汗が、急に気になった。暑さとはまったく無縁のような、さらりとした雰囲気の紅葉は、光則からどんどん離れていこうとしている。
なんでだろう。さっきまでけっこう気に入ってくれてるみたいだったのに。いや、あれは勝手なかんちがいで、実はべたべたひっついたのを怒っているのかも。わざとひっついたと思われてるんじゃないだろうか。それともぼくがすごく汗臭かったからいやだったのかも。
光則は駆けだした。紅葉に追いつき、肩に手をかける。
「待ってよ」どうして先に行っちゃうんだ。と不安だけれども努めて明るく言いかけたら紅葉は立ち止まり、くるりと振り返った。その振り返り方からして怒っていた。肩をぐいいっと回して、まるで光則の手を振り払うように。
光則はひどく傷ついた。胸の真ん中が拳骨で殴られたように痛んだ。
驚いたのは紅葉の方だ。
ふくれっ面で振り向いたところが、そこに見たのは打ちひしがれ今にも泣き出しそうな悲痛きわまりない光則の姿である。なんて顔するんだろうとかわいそうになり、優しくしてしまいそうになるのは紅葉の性格上無理のないことだった。
「どうするの」それでも紅葉は、優しい顔を見せないよう強く短く言った。
「えっ」なにを叱られているのかわからなくて、光則は呆然と下を向いた。この状況だと、腰から吊るした拳銃というのはすごく間抜けな気がした。いくら拳銃を持っていても、この年下の女の子に叱られてしまっていては。
「保安官助手。なんできちんと断らないのよ」
「あっ」そうか。
「あ、じゃないでしょうしっかりしてよほんとに」
光則はあちゃーという顔をした。この子にまで言われるかしかし。妹に言われたのでもたいがいもう最後かと思ったけど、ここでまで言われるか。この子も年下で、女の子だ。言われるかあ。
ショックは隠しようもない。
ぼくはそんなにしっかりしてないのかあ。
言いすぎた。と、光則の衝撃に満ちた顔を見て紅葉は心から後悔し、とうとう怒った顔を維持できなくなったのだが光則はそんなことにはまったく気づかず、ショックのあまりいろいろうじうじ考えていた。
言いたいことは山ほどあった。言葉にできないだけだ。たしかに、事務所でうやむやのうちに助手になるのを断りきれなかったのは馬鹿だった。なんとなく撃てそうな気がしたのだが、それも今思うと本当に馬鹿だったと思う。
でも馬鹿は馬鹿なりに、紅葉を守るのだという使命のようなものを感じて。
しかしだ。どう考えたって。
「そうだよなあ。しっかりしてないなあ」人ごとのようにしみじみ確認した。「守ってやれないなあ」誰も。
ふと顔をあげると、紅葉の顔が優しく微笑んでいた。
「ありがとう」と、紅葉は言った。「あたしね。光則くんが、みんなが噂してる笠置詠の息子だってわかったとき、あんな優しい顔して強いんだなあって思うと嬉しかったんだ。でもね、銃を撃てないって聞いたときのほうが、あたしずっと嬉しかったよ」
なんで。と思うが声にはならない。それに、なにがありがとうなのか。
「ゴーマ神父さんっていう神父さんがいるの。あたしはカトリックじゃないけど、その神父さんね、神様の力を持ってるって、あたしいつも感じるの」
話がとんだなあ。可愛いなあなどと思う。神父さんのことは、父さんが昔ごはんを食べながら話していたような気がする。よく覚えてないけど。
「さっき、お兄ちゃんが助かってよかったねって言ってくれたとき、なんだかものすごくあったかい感じがして、嬉しかったんだ。もう心配しなくていいんだなって思ったし、お兄ちゃんが夢で光則君に助けてもらったっていうのも、なんかわかる気がした」
またとんだなあ。なんのこと言ってるのか全然わからないし。
「光則くんは、神父さんに似てるよ」紅葉が光則を見た。漆喰《しっくい》の塀の前で、紅葉は立ち止まる。「きっと、いるだけで人を幸せにできる人だと思うな」
ほんまかいなそんな。でも光則は驚いた。やっぱりこの子はすごいなあと感心する。うちのクラスの女子なんて、絶対こんなこと言わないもんなあ。昨日さあオミツと歩いてたらさあとか、コーラのコマーシャルあれおもしろいねえとかそんなことしか言わない。たまにそれらしいこと言ったって、テレビドラマか漫画のセリフそのままだったりするんだよなあ。この子はすごい。ほんとに。いるだけで人を幸せにできる人って、それって君のことなんじゃないの。そんな気障《きざ》なことを言いたい。
「そういう人は、戦わないよ」そう言う紅葉はなんだか悲しげに見えた。「他にすることがあるのよ」
雨が降りはじめた。
大粒の雨が首筋や髪にぽつぽつと当たっても、紅葉は気がついていないかのようにまっすぐ光則を見つめて立っている。
濡れたワンピースの生地が肌に貼りつくので光則はそれが気になるが、真剣な紅葉の手前、気にならない風を装った。でもぴったり貼りついて肌が透ける。
「なにをすればいいんだろう」受験勉強でないことはたしかだな。紅葉の言うことは、おぼろげに納得できた。でも「でも、その考え方は、女の子の考え方だと思う」
「どういうこと?」あっ、怒った。いかんいかん。紅葉は小さな唇をほんの少し尖らせ、光則を睨んでいる。
「あー、だからさ」口から出まかせでいいからなんでも言ってこの場をとりつくろうのだ。「うん。別に誰かを倒すとか誰かに勝つとかそういうのじゃなくて、例えば大事なものを守るためだとか、悪いことをよいことに変えるためにだとか、やっぱり戦うということは必要なんだと思うよ」すごい。立派なことを言うことができた。
「人を殺してでも?」
「えっ。いや。そうだな。殺すのはいやだよな」ほとんどひとりごと。「よくわからないな」
「お兄ちゃんが撃たれて」また歩きだした紅葉は顎をちょっと突き出すようにして上を向いた。それは涙をこらえているようにも見えた。「すごく恐かった。死ぬかもしれないと思ってすごく恐かった。あんな思いはもうしたくないの」
光則には言うことがなかった。常に半分ふざけたようにしかものを考えない光則にとって、身近に人の生死を語る紅葉の言葉は重かった。それに、清美ちゃんは紅葉とは血がつながっていないとか、そういった複雑なことまでも考えてしまう。なんとも自分が軽薄に思えて、みじめな思いがした。
「死なないでね」紅葉は唐突に、そう言った。
「あ。はい」バチカンの天井。と、脈絡のない光則の頭脳がへんなことを思い出した。そうだ、バチカンだ。バチカンの寺院の天井に、ミケランジェロか誰か昔の偉い画家の描いた絵があって、そこの天使だったかなんだったかの顔と今の紅葉の笑ったような顔はよく似ている。テレビで見た。
「なに考えてるの?」
「死なない方法」まさかバチカンの天井とは言えまい。
紅葉は、あはは、と軽やかに笑って「戻ろうか」と言った。
「戻る?」気がつくと、病院を通り過ぎてずいぶん歩いてしまっているのだった。
雨も強くなってきた。
稲妻が空を不気味な明るさに照らしたとき、光則は視界の隅でなにかが動いたような気がした。
雷鳴が轟くと同時に、目の前に銃口が現れた。目の焦点をずらすと、その銃口の向こうには髭面があった。見覚えのある黒いスーツ。
太郎とかいうやつだ。横の路地から跳びだしてきたのだ。光則と紅葉が歩いてくるのを見つけ待ち伏せしていたのだろう。後ろには他の兄弟もいる。
ぞく、と光則の全身の毛が逆立った。逃げ場がない。
「笠置光則」と言いながら、太郎の目が光則の腰に拳銃があるのを確認したのがわかった。「決闘だ」
目の前の銃が火を噴いた。
続いて、二発、三発。
頭に、殴られたような衝撃を受けた。手と脇腹を冷たく鈍い痛みが襲う。意思と関係なく体が跳ねたように動いたと思うまもなく、背中に地面がぶつかってきた。
自分が倒れたと気づくまで数秒かかった。
立ち上がらなくてはと、歪み回転する地面を掴み必死にもがいたが体を動かすことができない。
怯えた顔で逃げていくおしゃれな明の顔と、なにかを叫ぶ紅葉の顔が、雨に溶けるように消える。
4
銃声はメインストリートに響きわたっていた。
雷鳴と重なってはいたが、保安官事務所にもその乾いた音は届いた。
すぐさまライフルを手にした宮本が大通りへと駆け出した。
ちょうどそのとき太田じいさんは、食料の買い出しと称して乾物屋のおやじと馬鹿話をしているところだった。ふたりとも耳が少し遠いので大声で叫ぶ。
「うちのかかあが手芸の教室を始めてなあ」と乾物屋のおやじが怒鳴って、
「おー、そらしゅげー」とじいさんが叫び、
ががーん、と雷。
そのへんにいた暇な主婦やらおっさんやらみんなで、
「わはははは」と馬鹿笑いをしたときちょうど銃声が三つ鳴った。誰も聞いてなかった。
宮本が飛びだしたあと誰もいなくなった保安官事務所では、牢屋の中の末男がそわそわと動きはじめた。牢屋の扉を両手で掴み、前後に揺する。がちゃんがちゃんとすさまじい音をたてるばかりで、開くようすはなかった。夏みかんほどもあろうかというような巨大な南京錠が掛けられているのだ。鍵はライフルカウンターの横の釘に引っ掛かっている。
末男のいる牢屋の三方はコンクリートの壁であり、通路側の面は天井から床へ直径三センチほどの鉄棒が延びている。それがほぼ十センチ間隔で並んでいるのだ。背後の壁の高いところに、小さな窓があるが、やはりそこにも太い鉄棒がはまっている。
なんとか方法はないものか、と全身で通路側の鉄棒にもたれかかったところ、ゆっくりと鉄棒が枠ごと動いたので末男は驚いて跳びすさった。
どこ。とまぬけな音がして、ゆっくりと傾いた鉄枠は、向かいの壁に当たったところで斜めになって止まった。鉄枠全体が、ただ牢屋の前面にはめ込んであっただけらしい。
隣の牢屋との仕切りになっている横の壁と傾いた鉄枠の端が、鋭角を下に向けた細い三角形の隙間を作っている。
にやあ、と末男は笑って、その隙間から半身を出そうと蟹のように横歩きになり、片足を突っ込んだ。下腹に脂肪がついているので、腹が通るのに充分な隙間まで体を持ち上げると脚の長さが足りなくなった。ぎりぎり爪先立った恰好で、下っ腹を無理矢理押し出そうとしたとたん、足首の力が絶えた。
音もなく末男の体は数センチ沈んだが、これがなかなか地獄の数センチだった。
挟まってしまった。
両足はなんとかぎりぎり床につくのだが、股間を中心とした下腹部が壁の端と鉄枠とに挟まれていて、足首の力だけでは到底抜けそうにない。
手は両方とも自由だったが背後には掴むところがないし、鉄棒を掴んでみたところで太った体を引き上げるほどの腕力もないのである。
行くにも戻るにも身動きがとれない。じたばたともがくばかり。どんどん体は挟まってしまい、どんどんきんたまが痛い。
あまりの痛さに失神しそうだったが、自分がどういう姿かということはよくわかったので、泣きそうな反面、笑いをこらえるのも一苦労だった。
誰も見てなくて本当によかった。
5
光則が撃たれた現場には人だかりができていた。
ぬかるんだ泥が背中に跳ね上がるのもかまわず、片手にライフルを持った宮本は銃声のした方へ駆けた。
大久保町の道は、どこもすべて緩やかなカーブを描くようになっているので、遠くまで見通すことができない。最近の住宅地ではこういうことはないが、江戸時代から残っているというような古い日本の町並みはだいたいこういうつくりになっている。なんのためかはよくわからない。
病院の白い塀をまわり込んだところに人が集まっているのが見えたとき、宮本は身内の不幸を予感するような、いやな胸騒ぎを覚えた。
「なにがあった」群衆に向かって、宮本は叫んだ。
宮本の胸に保安官のバッジを見つけ、みんないっとき口を閉じる。
それから。
あのね、とキンキンしたおばはん声が聞こえたとたん、そのあとは蝉の声を低くしたような騒音と化した。みんなしゃべりたくてしょうがないらしい。口々に叫ぶのでなにを言ってるのかさっぱりだった。
辛抱強く注意していると、切れぎれに単語が聞き取れるが、それらがなかなかつながらない。
なんとか宮本が聞き取った話をまとめると、次のようになった。
村安の兄弟らしい三人から五六十人までの人数のあやふやなグループが、笠置光則らしい少年と杉野紅葉と、この場所で出会い、または待ち伏せしていて、グループの中のひとり、たぶん太郎か、あるいは全員で笠置光則に、もしくは杉野紅葉に、ひょっとするとふたりに決闘を申し込んだかあるいは突然斧を振りかざして襲いかかったか、たぶん見まちがいだとは思うが連れていた獰猛《どうもう》な熊か水牛かもしかすると超巨大な猫を放った。笠置光則と思われる方は何十発もの銃弾を浴びて死んだか、斧で切り刻まれて持ち去られたか、熊かなんかに食われてとにかく死んだ。紅葉は無事だったが連れ去られた。悪いやつらはオートバイで逃げた。熊は山へ帰った。
めちゃくちゃだ。とにかく、気になるところはふたつだけだった。
「笠置光則は殺されたのか」宮本は大声で群衆に訊いた。
それだけはまちがいない、と仙人のような老人がみんなを代表して答えた。死んだあと走りだしたという者もいた。
「死体がないじゃないか」宮本は舌の奥から苦い塊がせりあがってくるのを感じた。
だから死んでから走りだしたんだよ。熊が食ったんだよ。と、後ろの方でいろいろ言う。
光則が死んだ。宮本の全身に冷たい汗が吹き出しはじめていた。
「もうひとつ」口々に話しはじめた人々を制して、宮本は声をはりあげた。「杉野紅葉は、村安に連れ去られたんだな」
それだけはまちがいない、とまた老人は答えた。
大変なことになった。
宮本はすぐさま事務所へ取って返そうとしたが、さきほどから気になっていた体の異変が、突然に強まるのを感じて棒立ちになった。すべての音が耳鳴りに掻き消され、視界は不気味な黒い光に覆われた。馬鹿な、もう大丈夫だと思っていたのに。ゆっくりと歩くのさえ苦しい。気を抜くと倒れてしまいそうになる。この人たちの前で倒れるわけにはいかない。気力を振り絞りなんとか宮本は歩きはじめた。ちくしょう。こんなときに。
だめだよこのじいさん、ぼけてておんなじことしか言わないんだから。
と誰かが言ったが宮本の耳には届いていなかった。
「それだけはまちがいない」老人は力強く言った。
6
太田じいさんはまだ乾物屋にいて、まだ笑っていた。
7
「よくやった。これで事務所の連中を引きずりだすことができる」
部屋に入ってきた秀聡が大声で笑ったので、紅葉は少し反応した。
「こいつを餌に、事務所の連中を皆殺しにする」秀聡はそう言いながら、柱に縛りつけた紅葉の体をじろじろと眺め回した。紅葉はぼんやりと虚《うつ》ろな目で部屋の隅を見つめるだけで、真っ白な顔に表情はない。
「大丈夫か? この娘」秀聡は紅葉の顎に手をかけ、目を覗き込んだ。
この村安家の地下室に連れ込まれてから、紅葉は初めて自分の脳が動くのを意識した。目の前で光則が撃たれるのを見た瞬間、頭の中のブレーカーがぱちんと音をたてて切れてしまったのだ。
光則君が死んでしまった。
手が痛い。
体が動かない。
縛りつけられている。
柱の後ろで、手首と手首が縛られている。脚は自由だ。薄汚れたコンクリートの床の上で、スカートがちゃんと膝を隠しているので、少しほっとした。
ちっと舌打ちをして、秀聡が紅葉から離れた。
半分夢を見ているような中で、紅葉は村安親子が話し合うのを聞いていた。言葉の内容はよくわからなかった。
とにかく秀聡と太郎はなんでもいいから殺したがっているようだった。自分の気に入らない人間は全部殺そうとしているらしい。
明と終は黙っていたので、紅葉にとってはほとんど存在しないに等しかった。ただ明がときおり自分に向ける熱っぽい視線には気がついた。いつ明がそばへやってきて、どんなことをするかと思うと吐き気がした。
考えないことにした。
「あの」と、終が口を出した。
なんだ、と他の三人は無言で終の方を見た。どうせまたこのゴリラがアホなことを言うのだろうというくらいにしか思っていないのである。
「か、笠置。んみ、んみん光則はどどどどどうするのかなあかかなあ」なにが言いたいのかよくわからない。
光則、という名を耳にして紅葉はふたたび霧に包まれていく意識に身をまかせた。もうなにも聞かない。なにも見ない。
「ばかやろう、やつは俺がさっき殺しただろうが」髭を生やした大きな人がなにか言っている。この人、大嫌いだ。
「でもでも。当たってないよ」
部屋の空気が緊張した。
紅葉の目が急速に焦点を結んだ。
8
誰もいない。
すぐに太郎たちを追ったものの連中の姿はどこにも見えず、とにかく一度事務所に帰って相談しようと思ったところが、誰もいないとは。
宮本も太田じいさんも、牢屋の中の末男さえいない。
牢屋の鉄枠が外れて傾いている。いったいなにがあったのだろう。もしかして、みんな村安の連中にやられてしまったのだろうかと、光則は途方に暮れた。
便所を見て裏の小屋も見て、仮眠室や台所も捜してみたが誰もいない。地下の倉庫はごつい南京錠が掛かっていて、少なくとも一週間以上は人の手が触れた形跡がないようだった。
よく光則の母はどこかへ出かけたりしたときに「光則、奈美へ。ちょっと美容院へ行ってきます。帰りは五時頃です。冷蔵庫にプリンがあります」というようなメモを残していったりするので、なんとなく光則はテーブルや書き物机の上に、そういうものを探したがやっぱりなかった。プリンもない。今頃じいさんや宮本さんが美容院へ行くはずないもんなあ、と見当外れなことを思いながら、なんにもすることがなくなってしまった。なにをしていいのかさっぱりわからなくなった。
部屋の真ん中でぼさっと突っ立ったまま。
警察に言おう。と一瞬考えたが、そもそもこの町では不本意ながら自分がその警察みたいなものの一員なのだ。どうにもならん。
ひとりで救出に行くというようなかっこいい恐い考えも浮かんだが、紅葉がどこにいるのか、村安の家がどこなのか、全然なんにも知らないのだ。だからしかたがないよなあとなんとなく安心したりなんとかならないものかと焦ったり、きっと気が狂った人の狂うきっかけというのはこういうしんどい気持ちがどんどん高まって手が震えてきたりして気が狂うんだろうなあ恐いなあと見ると手が震えていたので、どうしようかと思った。
ふと、電話が鳴ると思った。今電話が鳴ったらきっと驚くだろうなあ、などと考えていると本当に鳴って、突然やられるより数倍驚くことがある。光則にはそういうことがよくあった。今も、ちょうど真後ろの柱に取り付けられている電話のことが急に気になり、首筋の後ろのあたりが、ちりちりとした妙な感覚に襲われたとたん。
電話が鳴った。
声も出なかった。大口を開けられるだけ開けているのに顔の他の部分はまったく無表情というへんな顔をがくんと天井に向けたまま、光則はしばらく凝固していた。
あーびっくりした。
なんとか立ち直って電話に出る。きっと宮本さんか太田じいさんだろうと思ったのだけれど。
違った。
「保安官事務所か」いやな声だ。特に実力もないのに、なにかの巡り合わせで偉そうにすることにだけ慣れてしまった声だ。学校の先生とか、特に小学校の女の先生とか、職業安定所の女の係員とか、大学の事務所の女の係員とか。なぜ高校生の光則が、職業安定所や大学の事務所のことを知っているのかはちょっと気になるところだが、とにかく光則は急激に不愉快になった。
「はいそうです」不愉快なんだから丁寧に応対しなくてもいいと思うし、実際ぶっきらぼうに話したいと思うのだが、どうしてもぞんざいな口調になれない。親しい友人の家に電話して、友達が出たとわかっていてもなお、笠置と言いますが五郎君はいらっしゃいますでしょうかなどと言ってしまうのである。
「おまえ、宮本か?」声は言った。
「いえ。笠置です」
どかか。と音がした。なにやらぼそぼそと言い争っているような声も聞こえる。
みつのりくんっ。と紅葉の声が聞こえたような気もした。
「受話器を落とした」とおっさんは言った。しばらく沈黙して、それからとってつけたように咳払いをした。なんというか、この世のおっさんというのはみんな、よく咳払いをする。「生きてたのか」
たしかに撃たれたと思ったのだが、当たらなかったらしい。太郎が撃ったとき、頭の横と胸と横っ腹に、なんとなく冷たいような熱いような痛みを感じて体が跳ねたのはまちがいない。実際痛かったので気を失ったようだったが、ほんの一瞬だけだったみたいだ。倒れたとき頭の後ろを地面にぶつけたらしくて、今はそこが一番痛い。痛くて、体中泥だらけで腹が立つ。
「おい、聞いてるのか」
むかっとした。ちくしょうおまえ誰なんだ。
「あの、失礼ですが」光則は言った。「どちらさまでしょうか」
「おっと。うっかりしてたな」煙草を吸っているようだった。ふうーっと吐く息の音が聞こえる。その息が震えている。笑っているのだとは思ったが、恐がっているようにも聞こえた。
「俺は村安秀聡だ」
「はあ、それで」
「おい、あまり俺を怒らせないほうがいいぞ」そんな気は全然なかったが、村安は自分の名前に対する光則の反応が気に入らないらしかった。どうしろというのだ。「いいか、こちらには、可愛い女の子がいる。紅葉ちゃんだ。おまえの恋人だろ」
光則の視界がぐにゃりと歪んだ。眩暈《めまい》にも似たこの感覚は以前にも何度か経験している。殴り合いの喧嘩になる直前には、いつもこの感覚がやってくる。二回しかなかったけど。
「そっちには、うちの息子がいる。末男がいる」
いないぞ。
「そこで、こうなる。おまえたちは末男を連れてやってくる。人質の交換だ。断れば、この可愛い女の子がみじめで恥ずかしい思いをしながら死ぬことになるから、おまえらは断ることができない。女の子と末男を交換して、取り引きが成立する。わかったか?」
「あー、だいたい」息が苦しくなるほど、腹が立っていた。
「よし、では今から一時間後。三時だ。末男を連れて神社の横の空き地へ来い。蔵の並んだところだ」
「あー、ちょっと」秀聡が電話を切りそうだったので、光則は思わず声を出していた。
「なんだ」
なんだと言われても、なにも思いつかない。紅葉のことが心配で、息ができなくなりそうだった。どうしようもないくらいに人が大切にしているものを奪って、返してほしければ言うとおりしろという、その汚いやり口に心底腹が立った。テレビや映画でそういうシチュエーションはよく見るが、いざ自分がその場に置かれると、腹が立つというのでは言い足りないくらいに卑怯で汚いやり方だと思った。なにか言うべきだとは思った。言いたかった。でも頭はくらくらしてなにも思いつかない。
そこで、普段の光則がめったにしないことをした。
「その神社までの道順を、ゆっくり説明してください」
メモをとりながら何度も訊き返したので、納得するまでに十五分かかった。
電話を終えると、光則はたまらず近くにあった椅子に腰を落とした。心臓はがたがたとへんな動きをしているし、息はまだ苦しい。おまけに両手が震えている。
外は、さっきの雨がなにかのまちがいだったかのように、ぎらぎらに晴れている。暑そうだ。
まあしかし、とにかく行くしかない。暑いからまたにしようというわけにはいかない。行かなくていいような方法、例えば風邪をひいたみたいで体がだるくてちょっと熱もあるみたいな気もするんですと言ってみるとか、今から法事があるから家族全員で行かないといけないんです法事なんて別に行きたくないんですけどねえとか、台風が来て朝の七時の時点で警報が出ているから休んでいいとか、そういうようなことをいろいろと検討してみたが、どうにも逃げ場はなかった。ここまで追いつめられたことは生まれて初めてだ。
壁の時計を見る。三時まであと三十七分。ここからだと歩いてだいたい二十分くらいだと言っていたから、途中で一二度迷うとして、もうそろそろ行かないと間に合わない。
末男がいないというのはいったいどういうことなんだろうか。いないと、人質の交換にならないので困る。宮本さんと太田じいさんが末男をどこかへ連れていったんだろうか。だとしたらどこへ行ったんだろう今頃。
のんびり待っているわけにもいかないし、かといって捜しにいく時間もない。でも、もうちょっとだけ待ってみようとも思う。誰かに助けてほしかった。
ばあちゃんに電話してみようか、それとも父さんの会社に電話してみようか。でもすぐに来いと言われたのはぼくだ。そして捕まっているのは紅葉なのだ。
ぼくは行かなくちゃならない。
それには弾がいる。光則はゆっくりと立ち上がった。
今持ってる拳銃は六発ずつ入るやつだ。昔は一発ずつ手で入れてたけど今は、なんか一度に六発入る道具があるんだ。テレビの刑事もので見たことがある。
ああいうやつとか、予備の弾はどこにあるんだろう。
行くぞと決意したのはよかったがいろいろ心配になって、とりあえず腰の拳銃を確認しておこうと、銃に手をかけたとたん背後で声がした。
「動くな」がちゃり、とライフルに弾が装填される音。「両手をあげろ」
言われなくても思わずあげていた。
「ゆっくり銃を捨てろ」光則は言われたとおりに動いた。他にはなんにも考えなかった。
「そのまま、立ってゆっくりとこっちを向け」
ライフルカウンターの前に立っているのは末男だった。
一瞬、末男が見つかってよかったと喜んだのだが、ライフルをかまえているのを見て、喜んでいる場合ではないと思い知る。
銃を突きつけられるというのは、まったく実際にそうされてみるまではその恐ろしさが理解できないものだとつくづく思った。最初この町に来たときもそうだったが、これは恐い。末男の場合がくがくと震えながら、しかも不安定な持ち方でかまえているため末男の意思に関係なく弾が発射されてしまいそうで、よけいに恐かった。
ぎくしゃく首を巡らせて、光則ははずれた牢屋の鉄枠を見た。
「あれ、壊したの?」あんまり不思議だったので、つい光則は口にしていた。
「ああ」と少しどぎまぎしたように末男は頷いた。挟まったことと、光則が戻ってくる足音を聞いて、挟まった姿を見られる恥ずかしさから玉もちぎれよともがいた結果なんとか逃げだせたなどとは口が裂けても言うつもりはなかった。
「怪力」光則は感心した。よくあんな重そうなもの動かしたものだ。鉄枠丸ごとぶち壊して外に出て、それからどういうわけかあの埃っぽいクロゼットの中に隠れていたらしい。
「お、おい。あんまり俺をなめるんじゃないぞ」末男の全身は、小刻みに震えていた。生きた時限爆弾。そういう感じがした。
「あーいや」別になめてるわけでは。どうしよう。「まあまあ。落ちついて」ふざけているわけではなかったが元来そういう人間なので咄嗟にしてしまったことは、両方のてのひらを末男に向けて「どうどう」
どーん、と銃声がして、なにかが勢いよくこわれた。びっくりして光則は実際に四十センチくらい跳び上がった。
「ひやあ」
「へんな気を起こすんじゃないぞ」末男が言った。「またふざけやがって」光則が跳び上がったのを、ふざけてやったと思ったようだった。
「へんな気?」恐かったもので、歯を噛みしめたまま光則は言った。接着したみたいに、上下の歯がくっついて取れない。
「お、俺に近づくな」
「はい」歯を閉じたままでもけっこう喋れるものだ。「あ」
「ん」
一部分を残して、電話があらかたなくなっていた。今のが当たったのだ。
「電話が」光則は言った。
「電話がなんだ」
「こわれた」歯が離れた。
「ふ、ふざけやがって」
光則は、末男がひどく汗をかいていることに気がついた。まあたしかに今日も暑い。濡れた道が日に照らされてむしむししている。でも、そこまで汗をかかなくてもいいんじゃないかと思う。よれよれになって汚れているカッターシャツは、びしょ濡れで全身にぴったりと貼りついてしまっているし、顎からはぽたぽたとしずくになった汗が垂れているのだ。
病気なんじゃないだろうか。眩暈でも起こしてライフル撃たれたんじゃたまらない。
「ねえ、大丈夫?」光則はあげていた両手を思わず少し下ろして「その汗」
「うわあっ、ちくしょう」末男は光則が反撃に出てくるものとかんちがいし、恐慌状態におちいった。
「うわー」っと叫びながら光則に向けたライフルの引鉄を引いた。
光則も、
「うわー」っと叫んでただわなわなしていたら、運のいいことに末男の手にはあまり力が入っていなかったのか汗ですべったのか、発射の反動でライフルが跳ね、弾はまったく見当外れの方へ飛んで天井の板を割った。
「うわー」っと末男はさらに声をあげ、続けてライフルの引鉄を引いたがもう弾はなく、気が狂ったように何度も何度も引鉄を引きながら「よけた。弾をよけた」と、うわごとのように呟いている。よけるもなにもあんなめちゃくちゃな方向に飛んだ弾じっとしていたって当たるわけがないのに、宮本が光則にした「テスト」を末男も見ていたものだからもう勝手にどんどん恐がっているのだった。
末男はライフルを捨て、光則が捨てた銃に突進したが手が震えて拾うことができず、ただびっくりして突っ立っているだけの光則の方を見るや恐怖に引《ひ》き攣《つ》った顔でひえいと叫んで脱兎《だっと》のごとく駆け出した。そのまま一気に外へ飛び出そうと入口の戸に肩からぶつかったところがけっこう扉が頑丈だったもので頭と肩をしたたかに打ち、あまりの痛さにしばらくうーんと呻《うめ》いてうずくまり、呻きながら両手で扉のノブを不器用にまわして外へ転がり出るとこめかみから血を垂らしたまま、それでもかなりの速さで走り去った。
末男が出ていってしばらくしても、光則の体から恐怖は抜けなかった。一応目の前の危険は去ったようだったのでよかったなあとは思いながらも、喉を圧迫する不気味なかたまりは依然として呼吸を妨げている。
そのうち多少は息ができるようになったものの、そうなると今度はライフルの銃口と直面していたときにはそれほどでもなかった全身の震えが、大きく激しくなって止まらなくなった。
落ちつけ落ちつけと自分に言って聞かせるうち、なんとか震えもおさまり体も動かせるようになってきた。あー恐かったよく助かったものだ。
深呼吸をしてちょっと潤んでしまった目をぱちぱちと瞬きしながら、さあこれで一安心などと腰掛けて一服しそうになったが、壁の時計を見て思い出した。
二時四十二分。
あと十八分しかない。急がないと。
それもそうだが、末男が逃げた。
あいつが家に帰ってしまうと、人質の交換ができない。紅葉が危ない。
大変だ。
床に落ちていた父親のコルト・パイソンをホルスターに入れ、ライフルカウンターから一挺取ると、光則は一目散に外へと走り出た。
事務所の前に止めてあるハーレーが目に入り、乗っていこうかとちょっと思ったが、エンジンをかけたりギアチェンジをしたり、その他いろんな面倒な作業を考えるとあまりにもじゃまくさくなって、走っていくことにした。
予備の弾丸を持っていないが、探す暇はない。とりあえず行く先だけでもばあちゃんに伝えておけばよかったと思ったが、今となってはそれも無理だ。
でも光則はまだ気がついていないのだけどもっと大事なことを忘れている。
神社までの道筋を書いたメモを、持っていない。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_227.jpg)入る]
9
事務所から左に行って最初の四つ辻を右、というところまでは覚えていたので、そこまでは簡単だった。それからしばらく、一本道を光則はどんどん走った。胸につけたバッジは、走るとぴょこぴょこ跳ねて胸やら顎に当たるので、走りだしてすぐに外してズボンのポケットに入れてしまった。さっき書いたメモは、そこにあるものと思っていた。
走ることに専念しようとすると、腰の拳銃や手にしたライフルも重くてかなり邪魔なので、十メートルおきくらいに捨てたくなるのだが、なんとかこらえてまだ捨ててない。
まったくジーンズというのは走るのに向いてないと思った。汗で太股やらふくらはぎにくっついてものすごくつらいのだ。脚の曲げ伸ばしにつれてどんどんずり落ちてくる。ときどきひっぱりあげないと、お尻の割れはじめのところまでずりそうになる。
息が苦しくてたまらなくなったとき、ちょうど三叉路にぶつかったので、メモを見ようと立ち止まった。たちまち、猛烈な熱気に全身が包まれる。煮られているようだ。
メモがないと気づいてもっと熱くなった。そうだった。書いただけで持ってこなかった。うん、それははっきりと思い出した。思い出してもしょうがないことは、きっちりと思い出せるのだが、道順はさっぱり思い出せない。
覚えておくつもりで聞いていれば、もう少し覚えていたと思う。なまじメモなんか取ったから、へんに安心して全然覚えてない。右か? 左か?
顎から汗がぼたぼた落ちた。
メモを取りに戻ったりしていたら到底時間に間に合わない。迷ったらもっと間に合わない。
もうやめようかなあ、と一瞬だけ思ったがすぐに気を取りなおす。やめてどうする。
けれど、気力がどんどん低下していくのはどうしようもなかった。だーれも助けてくれないんだもんなあ。なんでぼくだけが。こんなめに。
じっとしているとよけいに暑い。なんとなく、左を選んで歩きはじめた。右に曲がると戻ってしまうような気がしたのだ。根拠はない。
光則みたいな方向感覚の欠如した人は、道は角を曲がらないかぎりずっとまっすぐだと信じているようなところがある。それと気づかないほどのゆるやかなカーブというのが、こういう人間には理解できないのだ。最初が北向きだったら一生北に向かっていると思う。いつのまにか東を向くようなことがあるとはまったく考えないので、ずんずん違った方向へ曲がる。気がついてみると完全に反対に向かっていたりするのだった。
大久保町のように、ほとんどすべての道がゆるやかに曲がっているところにこういう人を放り込んだらどういうことになるか、これから光則が実践します。
でもまあとりあえず、今左へ曲がったのは当たっていた。
だが、問題は道だけではなかったのである。
漆喰の塀に両側を挟まれた狭い路地をしばらく歩いたところで、人の声が聞こえた。
ただでさえ道幅のないところに、突き出るようにしてお地蔵さんの祠《ほこら》が建てられている、とりわけ見通しの悪い場所だった。声はその向こうから聞こえてくる。大声ではなく、ひそひそとなにかを相談するような声だった。
光則の足音が聞こえたのか、黒い顔がひとつ、祠の向こうから覗いたかと思うと、ちょうどよかった道を訊こうとにこにこ近づいた光則の前に、人相の悪い男たちが立ちふさがった。
全部で四人。全員、銃を持っている。どの顔もよく日に焼けていて年齢はよくわからなかった。そんなに若くはない。
恐い顔だなあ、と思ったが、光則はこのとき道筋のことしか頭になかったので、前方に出現したガンマンたちが村安に雇われたガンマンだなどとはちっとも考えなかった。
「あのー」と、まぬけな表情で光則が無警戒に歩み寄っていくと、相手の男たちの全身から漂っていた緊張感のようなものが、ふ、と消えた。「神社へ行くには、こっちでいいんでしょうか」
「なんだと?」
「えーとねえ」なんという神社なのか、はっきり聞いてないことに気づいた。道順さえわかれば、神社の名前なんかどうでもよかったのだ。「神社。なんですけど……」
「神社?」一番色の黒いガンマンが、光則の方へ一歩近づいた。「神社ったっておまえ、いろいろあるからなあ」なあ? と他の連中に同意を求める。他の連中は口々に、自分たちはよそものなので悪いけどよく知らないのだと言った。光則と同じように、男たちも全身汗でびっしょりだ。男っぽい体臭がぷんぷんと臭ってくる。きっと何日も同じ服を着たままなのだろう。太陽にさらされているせいか、それほど不快ではなかった。
「いろいろある? 神社が?」
「なんだかなあ、あっちこっちにあるぜ。そんなようなもんが」へんな町だ。
「蔵が建ってて、広場がある神社なんですけど」
「うーむ、俺もよそから来たばかりでよく知らんのだなあ」と、男はすまなさそうに言った。「まあ、こっちに行けば、ひとつあるこたあるけどよお」そこで色の黒い男は目を細め「けど、こっちはやめといたほうがいいぞ、ちょっと今危ないから」ガンマンたちが待ち伏せしてるからな、とは言わなかった。
「はあ、そうですか」じゃあ、そっちはやめとこう、と素直に思う。そっちに行かなければ話にならんのに。「どうもありがとうございました」と、もごもご言いながら光則は頭を下げ、口がはっきり動かないのを補うために、にっこりと笑った。
「いやいや」男は、驚いて首を振った。「すまんな、役に立たなくて」
「いえ、どうも」もういちど軽く頭を下げて、光則は歩きはじめた。他の三人が、あわてて道をあけてくれた。
どうしたもんかなあと少し歩いたとき、光則は背後で男たちがごそごそとなにやら話すのを聞いた。
馬鹿な、子供じゃないか。ひとりだし。しかしライフルにパイソン。そんなはずは。
「おい」と、声がかけられた。
光則が振り向くと、さっきの色の黒いガンマンがさっと動いた。なにかが飛んでくる。
反射的にそれを片手で受け止めた。
冷えた缶コーラだった。
「ありがとう」思わず大きな声で、光則は礼を言っていた。
男たちは笑顔でそれに答え、仕事に戻った。
保安官事務所の人間が神社に到着するまでに末男を奪還し、事務所の連中を殺すか連れてくるかしろというのが、彼らの受けた命令だった。
四人とも、事務所の人間とは会ったことがない。
顔も知らずにどうやって事務所の人間と判断するのかという点については、なぜかひとりも気にする者がいなかったのである。
10
さて光則は、一気にごくごく飲みたいのを我慢して、ちびちびとコーラを飲みながら走った。少しでも長持ちさせようとしているのである。若いくせにせせこましい。
ゲップで息苦しくてたまらなかったがコーラがこんなにうまいとは思わなかったなあ、と感激していた。こんなにうまいものは生まれて初めてだ、とか、こんなに嬉しいのは生まれて初めてだ、というようなことを光則は本当にしょっちゅう思うが、今回のこれは、ちょっと特別なような気がした。ああいういかつい労働者タイプのおっちゃんと話をしたのは初めてだったし、なんとなく恐い気がしたのに親切だったしで、よくわからないがなんだかとても嬉しい。萎《な》えかけていた気力が、かなり復活したと思った。
軽くなった足取りで、どっちを向いているのかわからないまま、適当に角を曲がっていった。たぶんこっちだろう、という感覚に身を任せている。
驚くべきことに、ここまでのところ、神社までの最短距離を進んでいるのだった。
さっき色の黒い男が「行かないほうがいい」と言った方角へ、行かないように行かないようにと曲がった結果である。引き寄せられるように、神社へ向かっていた。
選んだわけではなかったが、漆喰の塀に挟まれた狭い道ばかりが続いた。塀はそれほど高くなく、小さな瓦屋根のようなものが上に載っている。いったいなんだってこんなに塀ばかりあるんだろう、と思ったころ、やっと視界が開けた。
迷路を抜け出したように、眼前に草原が広がっていた。樹木の匂いを含んだ風が光則の体を包んで流れる。涼しくて気持ちいいが、草原を横切って伸びる道は少し先で、大きな樹々が鬱蒼と茂る山の中へと消えていた。
山に入ると空気がひんやりと心地よかったが、かなり急勾配の登りが続き、進むスピードは半分に落ち汗の量は倍に増えた。
あまりにつらかったので、止まって休みたいと何度も思ったが、そのたび紅葉のことを想った。
ときおり吹く風の匂いに、今日、バイクから紅葉を見つけたときの光景が目に浮かんだ。紅葉の体温が背中によみがえって切なくなる。今までいろんな人を好きになってきたが、やっぱりちょっと違う。いつもいつも、今回はちょっと違うと感じてきたが、今回のちょっと違うはいつものちょっと違うとちょっと違う。いやいやすごく違う。
もしかして紅葉がぼくのことを好きでなくても、それでも嬉しい、というところがちょっと違う。
などと考えている場合ではないようだ。これはたぶん、まちがったところへ来てしまったのではないかなあずいぶん必死で登ってきちゃったけど。
とりあえず平坦で開けた場所に出たが山道はその先もまだまだ続いている。このまま進んでも、蔵とか神社とかいうものはどう見てもありそうにない。やっぱり迷った。
そこで光則は自分が時計を持っていないことに気がついた。もしかすると約束の時間はとっくに過ぎているのではないか。
まだ半分ほど残ったコーラの缶を振ってみる。よし、これを一気に飲んで、それからどうするか決めよう。缶を口にあて、ぐいっと顔を仰向けた瞬間、コーラの缶が爆発した。
田舎だからコーラを爆発させる虫がいるのだろうかとは、もう思わなかった。今度は撃たれているのだとすぐ気がついた。犬でも何度か殴られるうちに座ることを覚える。光則はあわてて体を低くした。
あっちこっちで、がさがさと草を踏む音がする。
いっぱいいる。
銃声が、あちこちでぱんぱんと響いた。
囲まれている。
光則は目の前が真っ暗になった。
体の関節という関節がぐにゃぐにゃになった。あわあわとくらげのような自分の肉体を、なんとか大木の陰に隠す。動いたとたん、頭の上をひゅんひゅんと弾が飛び交った。頭上で木の幹が抉《えぐ》られ焦げる。
体を丸めがたがたと震えるしか光則にはできなかった。
いくらなんでもこれは無理。勝てるわけがない。絶対殺される。
逃げるか。両手を挙げて降参すると叫んだら許してもらえるだろうか。
紅葉を助けるとかそういう問題ではない。こんなにたくさんの敵に囲まれて、もうただ恐ろしくてたまらない。
根源的な恐怖が他のすべての感情を麻痺させてしまいそうだった。
ここで死ぬんだろうか。
死んだら、部屋に隠してあるエッチなビデオは母さんに見つかるだろうか。見つかるだろうなあ。三倍で三本あるから、十八時間分きっちり入ってるのだしかも内容はあんなんとかあんなんだし自分の息子が変態だと知ったら母さんも父さんもいやだろうなあ。奈美なんか発狂するかもなあ。
まずい。これは断じてここで死ぬわけにはいかないぞ。
がさっ。ごそっ。
人の気配がどんどん近づいてくる。
逃げるにも、逃げ場がない。
視界の右端に、ちらりと動くものがあった。ぎくりというようななまやさしいものではなくてどっがー、というくらいに心臓がびっくりしてそっちを向いたとたん銃口と人の顔が見えた。向こうも驚いたらしいがそんなこと気にする余裕はない。とにかく鉄砲の弾に当たらないようにするのだと思った光則はまたしても馬鹿なことをした。自分に向けられている銃の銃口を、手で押さえたのだ。
これはぜったい痛い。想像した痛みがあまりにものすごかったので、本能的にその手を横に払った。
「わーっ」と叫んだのは敵のガンマンだった。腰を抜かしそうな恰好で逃げだした。
そのガンマンが踏んできた草が倒れ道のようになっている。逃げることしか考えてない光則は迷わずそっちへ頭を突っ込んだ。下草の高さは屈み込んでなんとか頭が隠れる程度しかない。いくら体を低くしても、どこかから狙われているのではないかという恐怖で、こめかみのあたりがちりちりした。
そのまま突き進むと運良く密生した樹と大きな岩とに囲まれた場所があった。岩は光則の家にある古いソファーによく似た形をしていた。二年のときおんなじクラスだった伊藤さゆりがミニスカートで座ってパンツが見えたあのソファーだ。けっこう可愛い子だったのに、なんでなんにもしないうちに会わなくなっちゃったんだろう。こんなときにぼくはなにを思い出してるんだろうか。光則は岩に背中をつけるようにして座り込んだ。樹の葉が重なって太陽の光を遮《さえぎ》ってくれているが、風があまりないせいで全然涼しくない。地面は少し湿っていて、カブトムシの匂いがした。いや、誰がなんと言おうとこれはカブトムシの匂いだと思う。
恐くて頭が平和なほうへ平和なほうへと、勝手に考える。
がさがさと人の動く音は、あいかわらずあちこちから聞こえ、そのたびに光則の頭脳は学校から家へ帰るときの、あのあたりまえの解放感やら気の合った連中とマクドナルドで半日騒いでいたことや、朝起きろ起きろと蹴とばしにくる奈美の笑顔やらを懐かしく思い出そうとした。昨日まで、わざわざ思い出したこともなかったようなことばっかりだ。
今度は、かなり近くで物音がした。
なんとかしなくては。集中して考えろかんがえろ考えろ。
右手にはライフル、左手には黒い拳銃。なんだこれ。と思って、さっきの男から奪い取ってしまったのだということに思い当たった。そして、腰には父さんが使っていたというなんだったっけか名前忘れた。
どれも全然使い方がわからんのである。
昨日は、なんだかはっきりしないまま一発撃ってしまったが、ああいう具合に撃つのは大変よくないとばばあが怒っていたから、別のやり方があるにちがいないとは思う。しかし、ああする以外にどんな方法があるというのか。どうもよくわからないので不安になる。ばばあめあのときちゃんと教えてくれとけば、こんなに焦らなくてもよかったものを。
がさがさばきばき、と人の歩く音がした。
足音をたてないようにという気遣いのまるでない、がさつな足音だった。
首の後ろで血管がどくどく脈打つのを感じながら、光則はゆっくりと岩から顔を出した。
あいつなにやってるんだ。
行く手をさえぎる枝をうっとうしそうに払いながら、ばさばさ元気よく歩いていくのは、末男だった。ちょうど今光則が逃げてきた、その方向へのしのし嬉しそうに歩いていく。不思議なことをするやつだ。
山の斜面を横切り、さっきの開けた場所へ出ていこうとしているのである。
ガンマンの衣服らしい人工色が、末男の向こうで動いた。
「あぶないっ」思わず光則は叫んでいた。末男が敵側の人間だということはわかっていたが、向こうにいるガンマンが末男を撃とうとしていることもなぜかよくわかったのだ。
驚いて声の方を振り返った末男は、光則を見て立ちすくみ、光則に撃たれまいと思って地面に伏せた。
たちまちあっちこっちから銃弾の嵐。
混乱した末男はものすごい勢いで地面を這い、樹々の間へ隠れた。毎日二時間くらい這う練習をしているのです、と言われたら信じそうなくらいものすごかった。
今、まわりを取り囲んでいる連中というのはいったいなんなんだろう。村安とかいうあのおっさんが仕組んだことなら、なんで息子のあいつを撃つんだ。光則は混乱した。
連中は村安とは関係なくて、ただの追い剥ぎだとか。山だから山賊かも。
なんだかわからないけど、とにかく今は狙われている者同士なかよくしたほうが得なのではなかろうか。
光則は、迷いながらも、ひとりでいる心細さよりも相談できる仲間が欲しくて末男の方へ寄っていこうとした。
「撃つなあーっ。うつなーっ」突然末男の声が響いた。「俺は村安の……」
ばばばば、とまたあちこちから銃声が起こり、末男の声をかき消した。
「やめろ、俺は丸腰だー」声が裏返ってしまっている。
銃撃がおさまった。
末男はゆっくりと顔をあげ、両手をあげた姿で立ち上がる。
武装した男たちが、木の陰や木の上、盛り上がった落ち葉の下などから姿をがさがさと現した。
「笠置だっ」突然末男は光則の方を指さして叫んだ。突風が樹々を揺らしてざあと吹き抜けた。「あそこに笠置がいる。敵はあっちだっ」
くっそー、一瞬でも仲間のように思った自分が情けない。光則は心底びびって腰が抜けそうになってしまった。
ガンマンたちが警戒しながら近づいてくる。みんなかなりうまく隠れていたようで、姿を現したガンマンの数は、光則が思っていたよりもずっと多かった。二十人以上いる。
銃を捨て、降伏しよう。でないと撃たれてしまう。もうそれしかない。
末男を囲むように近づいてきたガンマンの、リーダー格らしいひとりがいきなり末男にライフルをつきつけた。
「おめえが笠置か」
「え」末男の顔が引き攣った。
「丸腰で名乗りを上げるとはいい度胸だ」
「ち、ちがうちがうあっちあっち」
光則は迷うことなく逃げた。
しばらく間をおいて、数発の銃声が追ってきたのでさらに必死で逃げた。
ひとり逃げたぞっ、とどこかで声が聞こえる。
大きな蜘蛛の巣が顔に張りついたが、おかまいなしに走った。道のない斜面を転がり落ちるように走りつづけた。
適当な間隔で並ぶ樹と樹の間を駆け抜ける。大きな樹ばかりならもっと走りやすいのだが、腰くらいの高さに刺《とげ》のある気持ちの悪い蔓草《つるくさ》のようなものが生えていたり、岩があったり、子供のオマルや古い洗濯機が捨ててあったりするので大変だ。こんなとこにゴミ捨てるんじゃないっ。
なんどかひっくり返り木にぶつかりしているうち追手の気配がなくなったような気もしたが、恐いのでまだ止まる勇気はなかった。走れるだけ走った。紅葉を助けなければいけないのだという気持ちは、今の時点で光則の存在そのものと言ってもいいほど大きなものだったが、それでもやはり撃たれて死ぬとか血が出て痛いとかいったことはもっと本能的なところで恐かったのである。
しかしそれにしてもあの野郎、助けてやろうとしたのになんていやなやつなんだ。光則は末男に対して無性に腹が立った。
腹立ちまぎれに、背後に向かってなんでもいいから一発撃ってやろうとさっき奪い取った右手の拳銃を握り直したところがそれは犬のうんこみたいな形の石で、びっくりして投げ出してライフルを見たらこっちはどういうわけかライフルそっくりな太さの枝に変わっていたのでこれも驚いて捨てた。
「……」
身軽になって走りやすくなったが、今までなんのためにじゃまくさい思いしてたのかと情けない。紅葉を助けるどころか逃げるので精一杯なのも情けない。
どんどん腹が立った。
これ以上走ると首の後ろの血管がぶちんぶちんと音をたてて破裂する、というところまで走って、やっと光則は走る速度を緩めた。それでも完全に足を止める度胸はなく、ふらふらと走りつづける。
唐突に樹海が途切れていた。
このまま進むとなんだか広いところに出るようだ。そんなところへ出ていきたくはない。もっと薄暗くてじめっとしていたほうが安心する。なんだかナメクジみたいなことを思いながら光則は進路を曲げた。
しばらく広場を横に見ながら進むと今度は目の前に、突如大きな倉庫が出現した。
それはどこから見ても倉庫だったのだが、光則はなぜかそうは思わず、学校だなと思ってそれ以上ちっとも疑わなかった。窓の形が昔通っていた小学校のものと似ていたせいでするっとかんちがいしたのだったが、なんにしろ光則が探しているのは倉庫でも学校でもなく「神社」と「蔵」だった。
建物の裏は深い森で、今光則が転げ落ちてきたのとはまた別の山の頂上へと向かう急な斜面へとつながっているようだった。もう山を登るのはこりごりだったし、だいたいあんな不気味な山に入れば迷ってしまうと思った。今も充分迷っているけど、きっともっと迷う。とにかく上へ行くのはやめておこう。
追手の気配はない。少なくとも今のところ。
どうしたものかと立ち止まったとき、学校の(ちがうんだが)向こう側に茂る樹々の間に、赤いものが見えたような気がした。お稲荷《いなり》さんの鳥居だろうか。
明るいところに出るのは不安だけど、そっちに行くしかないなと思った。
光則は学校の校舎(ちがうんだが)の正面にそって歩いていくことにした。
恐くてたまらなかったが、それでも紅葉に会いたかった。
11
ちょうどその頃、宮本丸雄ものっぴきならない状況におちいっていた。
前後不覚の状態のまま国連病院の裏の道を通ったのがよくなかった。宮本のようすがおかしいことは普通の人でもわかるほどになっていたから、それを見逃す国連病院の看護婦ではなかった。宮本をひとりが見かけたとたん、どういう連絡方法を取っているのかまたたく間に五六人の看護婦が音もなく出現したかと思うといったいどうしたの、というような気遣いもまったくないまま、ひき逃げの現行犯を連行する婦人警官でもここまではしないというほどの威圧的な態度で宮本を院内に連れ込み、たちまちのうちに監禁してしまった。思うように動けない宮本は、ベッドの上でがたがたと震えるばかりだった。
同じ頃、ゴーマ神父の酒場で騒ぎが起こっていた。
事務所の連中と仲がよかった神父さんとシゲさんトシさんが襲われたということだった。血相を変えて走り回る町の人々の姿に、乾物屋で笑っていた太田じいさんもやっとのこと気がつき、話を聞いてあわてて酒場へ走った。
草原で光則が撃たれているとき、その銃声は町の人にも聞こえていたが町の中心からは遠かったし、それくらいの銃声は日常茶飯事だったので誰も特に気にとめなかった。
ただ杉野清美だけは朝からずっと、遠くのかすかな銃声にもいちいち反応していた。最初は怪我のせいで神経が参っているのだろうと思っていた伝六も、紅葉がなかなか来ないのでだんだんと心配になってきた。しかし、春子ひとりを残して病院から出ようとすると泣いてすがるのでそれもできず、電話をかけるには看護婦詰め所のを借りないといけないしで、恐くてそれもできないさてどうしたものかと思案していたとき、外の騒ぎに気がついた。ゴーマ神父がどうかしたらしいということを、病院の廊下を走る人の声で知った。
なにごとかと伝六が病室を出ようとしたとき、春子が小さく悲鳴を上げた。
「父ちゃん、俺の銃はどこだ」清美がベッドの横に立っていた。「紅葉が危ない」
「お、おめえ……」伝六が驚くより先に、病室のドアが開いていた。看護婦だった。
「こら」有無を言わさぬ口調で命令した。「ベッドに戻れ」
12
「遅いな」顎から汗を滴《したた》らせながら、秀聡が呟いた。
秀聡が指定した神社は町の人々に「山のお稲荷さん」と呼ばれているところで、神社と言ってもそれ自体はそんなにたいしたものではない。大通りの北側にある小さな山を少し登ったあたりに空き地があり、そこをもう少し上に行くと赤い鳥居がいくつか並んでいる。その奥のほんの小さなスペースに御神体が祀《まつ》られているだけのものだ。神社の下の空き地と、空き地の近くに立ち並んでいる倉庫のあたり全体を指して、町の人は神社と呼ぶのである。なんで「お稲荷さん」が「神社」なのだ、と思うかもしれないが、大久保町の人がここを「お稲荷さん」と呼んだり「神社」と呼んだりしているんだからまちがいではない。そういうものです。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_245.jpg)入る]
それから、宮本丸雄が清美を撃った末男を追いつめるとき、途中通ったのはこことは別のお稲荷さんだ。覚えていないならなんの問題もないんだけど、まあ大久保町にはお稲荷さんが少なくともふたつ以上はあります。そういうものです。
空き地を見下ろすようにひときわ大きな倉庫が建っていて、村安一家はここにいた。まわりに林立する古い土蔵などと違って、ここは港や工場などによくあるような、きちんとした今風の倉庫である。この倉庫の、すぐ西側の裏に村安の家が建っていた。むずかしい「商談」をまとめるとき、相手に脅しをかける場所として秀聡はこの倉庫をよく使った。ふたりで話したいなどと呼び出しておき、武装した男をまわりに並べてそれとなく脅すのだった。抽選でものすごいプレゼントが当たったとか言って呼び出しておいて、英会話の教材五十万円契約しないと家に帰れないよ、という商売と同じやり方だ。
「どうなってるんだ」空き地の方を眺めていた太郎が言った。首筋を汗が流れている。東側の小さな窓が開けられ、天井近くにある大きな換気扇が回っているものの、南側の窓は三つとも閉めてあり、あまり風は入ってこない。倉庫にしてはかなり大きなガラス窓だったので、日の光は充分すぎるくらい入ってきて、死ぬほど暑かった。
三時二十分。
秀聡はいらだつ太郎を見ながら、殺しの予感に興奮していた。うまくすれば、この手で何人か殺せるかもしれない。うまくいけば、大久保町をなにからなにまで自分の思いどおりにできる。
末男と紅葉を交換するというのは、もはやほんの名目にすぎない。末男がどうなろうと、大した問題ではなかった。
人数にものを言わせ、ここへ来るまでに末男を奪い返すとはいうものの、とにかく歯向かう人間は全部殺せというのが、秀聡の「作戦」だ。
うまく生け捕りにできたら「処刑する」のだ。ひとりずつ、違った方法で。
「無線は通じてるんだろうな」秀聡が倉庫の奥の河合に確認した。なにかあれば、すぐにここへ無線連絡するよう、各チームのリーダーに言ってある。
「はあ。だいじょうぶです」もごもごした声が返ってきた。見れば河合はセメント袋の上に座ってカップラーメンを食べているのだった。倉庫の荷物はほとんどがセメント袋か段ボール箱だったが、河合は勝手にそれらを動かして、居心地のいい空間を作り上げていた。しかも無線機の蓋を閉じ、テーブル代わりにしているのだ。全員配置についたという最初の報告があってから、もうしばらくは無線機の使用はないと判断したようだった。なぜそう判断したのかは、河合自身にもよくわからないのだった。
「なんだそれは」秀聡は眉をつり上げて河合を睨みつけた。
「あーと」河合はスープをこぼさぬように注意しながらカップの文字を読み「コンソメチキン味。新発売のやつです」
全部で五十人のガンマンを雇い、三人逃げたので残り四十七人のガンマンが残っているはずだった。今回のガンマンたちの割り振りは河合がやったのだが、なにかおそろしいチョンボをやらかしているのではないかと秀聡は心配になった。
「その……」ううーむと秀聡は言葉をなくして「お湯とかどうしたんだ?」こんな暑い場所で馬鹿かこいつは。
「持ってきました」と、嬉しそうに大きな魔法瓶を見せる。あまり見かけないデザインの魔法瓶だった。「七リットル入ります。旧西ドイツ製でして、二十四時間で温度変化はプラスマイナス二度シー以内。耐衝撃システムになっておりまして、十二メートルの高さから満タンのまま落としてもこわれません」
「すごい」と、好奇心に満ちた目をして聞いていた終が感心した。
「あーどうも」と河合は喜んで「今度、わたしの魔法瓶のコレクションをお見せしましょう。もっとすごいのがいっぱいありますよ」
カップラーメンぼくも欲しいと言った終に、河合がにこにこと、これがコンソメチキン、他にはカレー味やチリソースもありますよと楽しそうに次々カップラーメンを取り出していくのを、秀聡は複雑な顔で眺めるだけだった。
河合と終が、積まれたセメント袋を背になかよくラーメンを食べはじめた。
その横に、紅葉がいた。
手足をロープで縛られ、やはりセメント袋の上に座らされている。
地下室で、兄弟は紅葉の体をもてあそぶつもりだったようだ。ところが、光則が電話に出たものだから驚いてしまい、しばらく紅葉どころではなくなったのだ。
少し離れたところから、明が自分を見ているのに紅葉は気がついていた。決してじろじろとは見ない。ときどき、ちらちらと紅葉のようすをうかがうだけだ。
太郎と秀聡が、なにやら相談を始め、河合が終に魔法瓶の歴史を話しはじめた。
明が紅葉に近づいてきた。
紅葉に向かって微笑みかけようとしたのか、ぎごちなく顔を歪めた。紅葉と目が合ってあわてて視線をそらす。
すぐ隣に座った。
ゴーマ神父さんの酒場で会ったときと同じ、きついオーデコロンの匂いが鼻をついた。
あのときの嫌悪感がよみがえってきた。この人たちのパターンはだいたいわかった。と紅葉は思った。ものすごくいやなことばっかりするくせに、突然なかよくしましょうみたいなことを言って、こっちがなかよくしたくないと思うと、それに腹を立てて急にまたいやなことばっかりするのだ。
やだなあ。
どうするつもりだろう。紅葉は、手足を縛られていることが急に不安になった。明は紅葉の方はまったく見ずに、曲げた両足の間で組み合わせた自分の両手ばかり見ている。
逃げるにも逃げられない。なんとかロープが解けたとして、逃げるなら東側の大きな搬入口か西側のドアかどちらかだが、あちこちにガンマンが立っていて、たちまち捕まってしまうのは目に見えている。
柄にもなくもじもじしていた明は、へへへと生臭い笑い方をしながら紅葉の肩に手をかけると、もう一方の手で紅葉の脇腹を撫ではじめた。
はっ、と一瞬息を吸い込んだ紅葉の体が強張った。
ゆっくりと紅葉は頭を下げた。
「そんなに嬉しいのか?」ひっひ、と脇腹からお尻の方へと手を這わせながらにやにや笑っていた明の顔面に、紅葉の頭が跳ね上がってきた。
紅葉の小さな頭に鼻っ面を強打された明は、声をあげることもできずに目を白黒させた。痛みのために両眼からはぼろぼろと涙が流れている。
「頭突き」と、紅葉は技を解説した。
「こ、この野郎」明は痛くていたくてなかなか立ち直れず、怒りだけをくすぶらせながら鼻を押さえることしかできない。
「誰が野郎よ」女の子なのに。紅葉はきっと明を見た。
「くそっ」明は片手で顔を押さえたまま、紅葉の髪の毛を掴んだ。「馬鹿にしやがって」
「おい、後にしろ。なにやってやがる」太郎だった。「おめえは終とラーメンでも食ってろ。まったく情けねえやつだ」後で好きなようにさせてやる、と言って太郎は唾を吐いた。
明は憎悪に満ちた目で、太郎と紅葉を交互に睨んでいたが、太郎に逆らう勇気はないようだった。ぎりぎりと歯を食いしばりながら紅葉の髪を放すと、鼻を押さえて河合と終のいる方へよろめきながら歩いていった。
そのとき窓の外を光則が通った。
紅葉は思わずあっと叫びそうになって、必死で声を飲み込んだ。
助けに来てくれたんだ。
顔が笑うのを抑えられない。
南の窓の外で、小首をかしげてはあはあと荒い息をつきながら歩いているのはたしかに光則だった。
倉庫の中を見ようともしない。倉庫の前は崖のような斜面だったが、窓の下には人がひとり通れるほどの幅があって、光則はそこを歩いているのだ。
あんまりのどかな顔をしているので、紅葉は光則によく似た雇われガンマンが倉庫のまわりを歩いているのではないかとちょっと思ったりしたが、あのベビーフェイスはまちがえようがない。
やっぱり生きていた。電話に出たのは知っていたけど、やっぱり嬉しくて涙がこぼれた。助けに来てくれたことより、あのぼやっとした顔をまた見ることができて、それが嬉しかった。
いや、でもちょっとようすが変だ。
光則は自分がどこにいるのか、まったくわかっていないようなのだ。座っている紅葉の位置からは、窓の下の壁にさえぎられて空き地の半分近くが見えなかったが、右側に森があることは見てとれた。光則がそこから出てきたのはまずまちがいない。
倉庫の壁にそって歩いていく光則の腰から下は見えない。まるで映画のワンシーンのように、ぼーっとした顔の光則が右から左へと移動していき、窓と窓の間の壁に消えた。そのままそこに止まっていてと願う紅葉の祈りもむなしく、次の窓に現れた。太郎のすぐ後ろだ。
あの顔はきっと道に迷ったんだ。でもどうして。ひとりで来たんだろうか。
太郎がゆっくりと顔を動かした。ああ見つかってしまう、と紅葉が首をすくめたとき、河合の前の無線機が鳴った。太郎の目が、すかさずそちらへ動く。光則には気づかなかった。
倉庫内の注意が無線機に集中した。
河合はしばらく無線機を眺めていたが、おもむろに蓋の隅に手をやったので、鳴っている無線機に応答するのかと思えばそうではなく、そこについていた泥を落としただけだった。それからしばらく、また無線機をじいっと眺め、ちょっとだけ右にずらした。
向きが気に入らなかったらしい。
光則は窓の前で立ち止まっている。
「鳴ってるぞ」秀聡は、いらいらして言った。
「はあ、しかしせっかくきれいに片づけたのにまた開けるというのも」惜しい、と言って腕組みをしてしまった。
光則は両手を腰にあてた恰好で窓に背を向け、きょろきょろとあたりを見回しはじめた。なにをやってるの、と呆れて紅葉がなおも見ていると、いきなりなにかにつまずいて、前につんのめってこけた。物音をたてると思った紅葉はつい「あ」と声をあげてしまった。
「ん?」倉庫内に緊張が走り、河合と終の平和コンビを含む全員がいっせいに紅葉を見た。
痛くなかったのか、きょとんとしたままの光則の横顔がゆっくりと窓の外を昇ってくる。
男たちは紅葉が泣いているのを見て、しょうがないなあ女はという顔をしただけですぐに紅葉に興味を失った。明だけがしばらく執念深い顔で見ていたが、紅葉が顔をそむけたので、なんだかおかしいと思ったらしく窓の方を見てしまった。
がくっ、と明の体が凝固した。まだだれもそれに気づいていない。もちろん光則も気づいていない。
「いいから出ろっ」秀聡が河合に怒鳴った。無線機は呼び出し音に続いて、何かを言っているようなのだが、蓋が閉まっているので聞き取れないのである。
そこでやっと明の表情がへんなことに、太郎が気づいた。
弟の視線が自分に向けられているのではないと知り、背後の窓を振り返る。
あっ、と紅葉が思った瞬間、窓の外の光則がしゅっとしゃがんだので、太郎が見たときそこにはなんにもなかった。なんだ? というように秀聡も窓の方を振り返ったが、森と、空き地が見えるだけ。
明はまだ固まったままで、声も出せないでいる。
太郎と秀聡がこちらに向きなおるのを知っていたかのように、ひょこっと光則が窓に現れた。靴の紐でも結びなおしたのだろう。のんびりしているように見えたが、光則は光則なりに焦っているみたいだ、と紅葉は気がついた。
こっちを見て。
助けて。
すると、声が聞こえたとしか思えないほど敏感な反応で、光則はくるりと紅葉の方を見た。
あの見ているものを幸せにする、たまらないほど嬉しそうな顔で光則は微笑んだ。そんな場合じゃないでしょう、と思いながらも紅葉はやっぱり微笑んでしまった。
ところが。
「わっ」今度は、もう黙っていられなかった。大変だ。笑ってられない。
「マドノソト」明もやっと口を開いた。それから森の方を見て「あ」
「笠置を捕まえました。今から空き地に入ります」
無線が言った。
「光則君、うしろうしろっ!」紅葉は大声で叫んでいた。
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紅葉に言われまるで警戒せずにひょこっと後ろを振り返った光則の顔は、しばらく紅葉を見つけたときの微笑みのままだった。
なにが起こっているのかわかっているくせに、体がまだ反応しないのだ。
絶対にこれをしなくてはいけない、というような強いプレッシャーを感じるととりあえずのんびりするというか、関係ないことをやってしまう、というこれはもう光則の持って生まれた性格というか習性というか。こういうのはなおさないといけないなあ、と真剣に考えた。そんなことよりまず今の切迫した事態をなんとかしないといけないのに。
森の中から恐い顔をした十数人のガンマンが、光則めがけてわあわあ走ってくるのが見えたのである。
たくさんのおっさん。
たくさんの銃。
おもしろい。なにがおもしろいんだ。
こっちを狙って鉄砲持ったおっさんが団体で走ってくるというのに。ちょっとずつ事態を認識しながら、あまりのことに声も出なかった。かえってじっとしてしまった。
彼らは、光則のように明るいところを避けたりはせずそのまま空き地へ走り出て、そこで倉庫の前にいる光則を発見したらしかった。
見れば、そのガンマンたちとは別のところからも、ガンマンの集団が空き地へと走り出てくるではないか。千人くらいいる。いやそんなにはいないのだけど光則にはそれくらいに見えた。本当は両方で三四十人というところか。よく見てみればこっちの集団というのは、別に光則を追っているわけではなく、しかも走ってさえおらず、末男を捕まえたことで仕事はすんだと和気あいあいだったのであるが、びっくりした光則は全部が自分を狙う殺人集団だと思ってしまった。
光則の立っているところは、空き地より三メートルくらい高い。舞台に立っているようなもので空き地からは丸見えである。足元は空き地に向かって崖のように急斜面が落ち込んでいて、この細い道からちょっと足を滑らせたら一気に下の空き地まで落ちるなあと思い、紅葉のいる倉庫の中へ逃げたいとも思ったのだが、窓を開けるために空き地に背を向けるというのはとてつもなく恐い気がしてやりたくない。けれど、動くのも恐い。ぱっと消えたりできたらすごくいいんだけどそんなことできないし。
光則を追ってきた方のガンマンたちがいっせいに発砲した。
土が跳ね、岩が砕け、木が倒れた。
倉庫の南側の窓という窓が爆発したように砕け散った。
倉庫内では秀聡があわてふためいて叫んでいた。
「やつらが来たぞっ」ガラスの破片が、床に伏せた秀聡の背に降りかかる。今倉庫を撃っている連中が、自分の雇ったガンマンだとは思わなかったらしい。まあ普通は思わない。「どういうことだ。待ち伏せは全部失敗したのか」
「応戦しろ!」太郎が倉庫内にいたガンマンたちに声をかけ、自分もライフルを手にした。窓の下まで這いながら河合の方を向く。「笠置を捕まえたと、無線が言わなかったか?」
「なんだかそんなこと、言ってましたねえ」河合は、すでに東側の窓の下にいた。すぐ横は搬入口である。すでにどうやって逃げるかということしか考えていないのは明らかだった。窓から顔を出し、空き地の方に逃げ道を探していたが、突然「あれー?」と訝《いぶか》しげな声をあげた。
「どうした」太郎が訊いた。反撃の意志表示のため、ライフルの銃口だけを窓の外に出し、ただ適当に撃っている。他のガンマンもそれにならった。
「あれは、末男さんじゃないでしょうか」いやーぜったいそうだと言いつつ河合はなんとも平和な口調で「それにあいつら、うちで雇った連中ですよ」
「なに?」太郎と秀聡が、同時に驚いた。空き地の端の方で、突然の銃撃に立ちすくんでいる一団が見えた。彼らが連れているのはたしかに末男だ。
「ほんとだ」終はぼんやり突っ立っていた。銃撃の前は座ってラーメンを食っていたのに、みんなが伏せたときこいつだけはわざわざ立ち上がったのだった。自分のすぐ横でセメント袋が破裂したのを見て、ようやく事態が呑み込めたらしくてあわててしゃがんだ。
敵も味方もわからん混乱しきったガンマンたちは倉庫から敵が反撃してきたと思い、木の陰に身を隠してばんばん撃ちまくった。
「指揮系統に問題があるようですなあ」河合がぼーっと言った。
「おまえが問題なんだあっ」窓の下で、秀聡が怒鳴った。
この銃撃はちょっとすごかったので、町の人々もはっとした。
保安官事務所の関係者に起こった一連の噂は、たいていの人が知っていたから、嵐のような銃撃音は町の男たちに行動を起こさせるには充分すぎるきっかけだった。村安一家への日頃の恨み憎しみが爆発した。
そこで彼らはかき集めた武器を手に、一団となって村安の家を目指すこととなったのである。しかしこの集団は、決して正義に燃えて立ち上がったわけではなかった。それが証拠に、行軍の道々、目についた建物やら車やらを、めったやたらに撃って穴だらけにしたり、村安に雇われたガンマンかそうでないかの区別なく、見たことのない顔の男を見つけるなり殴る蹴るの暴行を加えたりした。
なんでもいいからとにかく暴れたい、というのが実際のところだった。
中にはまともな人も何人かいて、興奮した男たちを止めようと努力したのだが、この人たちはおまえら村安の味方をするつもりかと、結局ぼろぼろに殴られただけだった。
保安官事務所への電話は通じず、太田じいさんも宮本丸雄も事務所にはいなかった。
国連病院で一騒ぎあったが、毎度のことで誰も気にしなかった。
動くものを見たら撃ちまくってやろう殴ろう蹴ろうとしか考えていない集団は、いろんなものを破壊しつつ進軍を始めた。
国連病院の騒ぎというのは、およそ次のようなものだった。
死にかけの怪我人であるはずの杉野清美が、看護婦の命令を聞かずに病院から抜け出そうとするので、病院側はドアというドアを施錠し、病院を外界と完全に遮断してしまった。ときどきここはこういうことをする。外からの侵入を防ぐのではなく、中から出さないようにするためである。
清美が、両親を連れて病院の廊下をうろうろしているとき、病院の別の所では宮本丸雄が病室から抜け出したところだった。実験実験と歌いながら鋸《のこぎり》と電気ドリルを持った医者が嬉しそうにやってきたのであわてて逃げたのであるが、まだ体調は万全でなく、ふらふらと看護婦の足音に怯えながら廊下をさまよっていた。出口はなかった。
それから、ゴーマ神父さんとシゲさんトシさんも、うまい具合にというかなんというかこの病院にいた。
ゴーマ神父を襲った三人組を、神父が簡単に殴り倒してしまったので、いたずらっけの多い双子が、こいつら怪我をしてるし国連病院に連れていってやったらどうかなあと言いだしたためである。
連れてきたのはいいが、ではよろしくと言って帰ろうと思ったところが、どのドアも開かないので困っていた。
あちこちで、出せ出せと怒鳴る声が聞こえたが、ひときわ大きな甲高い声にどうも聞き覚えがあった神父さんたち三人が声の方へ行ってみると、ドアを力まかせに蹴っているのは太田じいさんだった。この声は病院中に響きわたっていた。
「あー。神父さんたち無事だったかね」太田じいさんは言った。「こっちへ来たって聞いたもんだから、探しに来たんだけどよ」
出られないのだった。
結局、空き地での虚しい銃撃戦は十分ほど続いた。
十分間で、実に村安側は用意した弾薬の九割以上を消費してしまった。雇われたガンマンたちというのは、それぞれにプロの殺し屋だとかなんとか名乗ってはいたものの本当のところは、いい金儲けがあると適当に誘われてきただけの普通の男たちがほとんどだったので、史上まれに見るすさまじい戦闘と銃弾の嵐、とその場のみんなが思ったものの実は間抜けなドンパチに、誰もが興奮してしまい収拾がつかなくなったのだ。
村安が雇ったガンマンのほぼ全員、町の近くで待ち伏せをしていた数人を除いた全員がこの銃撃戦に参加してしまい、手持ちの銃弾のほとんどを使い果たしたのである。
本部からの無線などに耳を貸す余裕もなくし、ただもうひたすら撃っていただけ。銃撃がおさまったのは、状況を把握したからではなくたんに弾がなくなったからである。撃つ弾がなくなって銃撃戦が終わり、それからしばらくしてやっとみんな同士討ちをしていたことに気づいたのだった。
普通、もう誰でもいいからどんどん殺したいというような人はあまりいない。弾に当たりたいというような人はもっといない。だから、この戦闘がなにより馬鹿馬鹿しかったのは、みんなが確実な遮蔽物の陰に隠れた上で、でたらめに空やら地面やらを撃っていたという事実である。逃げる光則を狙った最初の銃撃からして単なる威嚇に過ぎず、呆れたことに初めっから終わりまで人を狙って撃った弾は一発もなかった。殺意の権化《ごんげ》、村安秀聡さえ銃撃のあまりの激しさに窓から顔を出すことができず、ずっとなんにも狙わずにただ適当に撃っていただけだった。つまり、ばんばんと音をたてていただけで、まるっきりなんにも考えずに撃ちまくっていたわけである。みんなで。いい大人が。
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光則は銃撃の続いたこの十分間、ほとんど放心状態だった。なにしろ全部の銃撃が自分を狙っているのだと思ったものだから、その嵐のような銃声の連続に、怯えきってしまったのも無理はない。
草むらに倒れ込んだまま、ぴょこぴょこ震えていた。ぶるぶる、がたがた、という段階はとっくに超えていたのである。ちょっと見ると、震えているのか寝たまま踊ろうと努力しているのか判断するのに困る動きだった。
ひたすら本能の命じるまま逃げたのだったが、こういうとき行ってはいけない方へいけない方へと行ってしまうのが光則のすごいところで、倉庫から離れたところまではよかったのに、山の中に入ったと思うとわざわざ銃撃戦をやっている人たちの間を縫って走り抜けていった。つまり、めちゃくちゃな銃撃が行われている最前線のみ選んで走り回っていたことになる。
そのうちなにかにぶつかるか、なにかに足を取られるかしてひっくり返りそのまま震えていたのだった。途中からなんにも覚えていない。
銃撃がおさまったが、自分がどこにいて、なにをしているのかということがなかなか思い出せないほどにショックを受けていた。なんだか知らないがでかい音だったなあ、早く帰って勉強しよう、とちょっと思ったりしていた。
どうしてあんなに震えていたのか、それさえ忘れたためちょっと落ちついた。震えはぶるぶる程度に治まった。
草と土の匂いがして、なんとなく薄暗い。そうか、森の中だなここは。
まわりにも自分と似たような境遇の人がいるのを、ぼんやりと感じた。
すぐ近くで、テレビかラジオが鳴っていると思ったら、いきなりそいつが「笠置光則」と言ったので、突然目が覚めたように思って「はい」と大声で答えてしまった。その瞬間自分の置かれた状況にハタと気がついた。
敵のまっただなかだ。
これはよくないな。
倉庫裏の山の方へ向かって逃げたつもりだったので、空き地よりもかなり高い位置で倒れたはずなのに。頭を抱えてうろたえているうちにどうやらおっさんたちのど真ん中めがけて突っ込んだらしい。なんでそんなことしたんだろうなあ。
それはたぶん、この世の誰にもわからない。
突然大声で返事をした光則を、なんだ? という顔をして見ている男たちは、ついさっき光則を追ってここまで来た連中だった。
誰だったかなという顔でしばらくの間、みんなできょとんと光則を見ていた。
「とにかく笠置光則はそのへんにいる。探せっ」言っているのは、ほうけた顔で光則を見ている男の、首からぶら下がっているトランシーバーだった。
「あっ」と、ひとりの男が声をあげ、ほぼ同時に他の連中も、今寝ぼけた顔で返事をした少年が、さっき自分たちの追っていた人間であることに気がついた。
「おまえが、笠置光則か?」誰かが言った。光則には誰が言ったかわからなかった。六人いる。いや七人いる。
なんとかごまかせ。嘘だ嘘をつけ。あーあー。えーと。
「ワタシインドジン。ニホンゴ、ワカラナイ」
「うそつけ」と、ひとりが言うのと「まいったなあ外人かあ」と言うのとが重なった。
信じる人もいたのである。
どっと三人が、光則に向かってタックルをしてきた。
草の上に寝ころんだままだった光則は、とっさに動けず「うーわー」と叫んで大口を開けただけ。
かかってきた三人のうちひとりが木の根っこにつまずいて倒れ、もうひとりはそいつの体をよけようとして跳びあがり、頭よりちょっと高いところに張り出していた大きな枝に自分から顔面ぶちかまし力いっぱい激突して仰向けに落ちた。仰向けに落ちながら、直前にいた残りもうひとりの背中に両足で飛び蹴りをかましたので、かまされた方はいやあ人間がここまで反《そ》っくりかえれるものなんですなあと驚くほど腹を突き出して膝をつき、それでもあきらめずに光則の足を掴んできた。
人の手が足首を掴む感触にぞっとした光則は、ひいっと叫んで立ち上がった。まだちょっとふにゃふにゃする脚を動かして走る。
一直線に空き地へ出た。
銃撃の跡も生々しい、穴だらけでぼろぼろの倉庫が見えた。
さっきいたのはたしかあの前だなあ学校じゃなかったんだなあと、思ったとたん紅葉がそこにいることに思い当たり、脚がしっかりした。
すっかり忘れていたが実は紅葉を助けに来たのだ。ぐいっと加速する。
倉庫の中で動くものがあった。髭の顔だった。三つある窓の、左側の窓の中だ。
向こうも光則に気づいて、はっとした。
あいつだ。今日、ぼくを殺そうとしたあの男だ。紅葉をさらっていったあの男だ。
逃げているのか、向かっていってるのかわからなくなった。けれど、いったん乗ってしまった勢いというのはとまらない。
よーし。あそこまで走っていってぶん殴ってやろう。
「笠置だっ。撃てー。撃てえーっ」太郎が叫んだ。
応援団かおまえは、というようなよく通る声だった。こういう声は絶対ぼくには出せないなと、感心しながらもその手があったかと体がすくむ。殴るとかなんとかではなく、あいつは「鉄砲で」こっちを「殺す」気なんだ。
こんななんにもない空き地に走り出たのは失敗だったなあと後悔しつつも、走るのをやめられない。よくわからないが笑いそうになってくるので気持ち悪いなと考えながら無意識にひゃはは。と笑ってしまってどきっとした。気が狂いかけてるんじゃなかろうか。
誰も発砲しなかった。
弾がなかったからである。
ガンマンたちはなにをしていたのかというと、ただ見ていた。光則の走り方はあんまりかっこいいものではなかったが、その必死の形相にガンマンたちはみんな、ちょっと圧倒されていた。どうするつもりだろう、と完全に見物客と化していた。
太郎は他からの発砲がないので歯ぎしりしながら光則に向けて拳銃の引鉄を引いた。
当たる当たらないは関係なくとにかく撃った。至近距離から撃ったのに死ななかった「あの笠置光則」が走って突進してくるのに恐怖したのだ。
ところが太郎の銃にも弾が入ってなかった。そうだったのだ弾がなかったのだと思い出して「だれか装弾した銃を貸せっ」と倉庫内に怒鳴ったが、おのれの身内はもとより雇ったガンマンもいやいやわたくしはというように首を横に振る。「ちくしょう、弾はどこだっ」
河合が、はいはいはいこれで最後ですよと奥から予備弾の箱を持ってきて太郎に手渡した。
空き地をまっすぐすっとんできた光則は、倉庫前でジャンプし、斜面にへばりついた。とんとんと駆け上がるつもりが、思ったより垂直に近かったので、足場を求めてじたばたする。
そういえばさっき上にいたときは、垂直の崖にさえ見えたのだ。一面に繁る雑草を掴んだりもするが、あんまり根性のないやつらでちょっと体重をかけるとすぽすぽ抜けやがるのだちくしょうめっ。
太郎は大急ぎで装弾しようとしたが、焦って震えてばらばらかんかんと何発も床にこぼしてしまう。それでも四つにひとつくらいの割で装弾していった。光則がよじ登ってくるのを見て全身総毛立つような恐怖に捕らわれ、できるだけ光則から離れようと窓際をじりじり移動していた。自分ではまるで意識していなかった。
光則が倉庫前の小道に頭を突き出したとき、六発の装弾を終えた。
ろくに狙わず続けざまに二発撃った。
「ぷあっ」と目の前の泥が弾けて光則はせっかく登った急斜面をずるりと半分ほど落ちてしまう。撃ってきたなあと思いながらも、なぜかあんまり恐くはなかった。さっきのあの銃撃の嵐に比べたら、今のなんかそよ風みたいなもんだ。
ふたたび斜面を登る。今度は初めてのときよりもずっとうまく登れた。
首を突き出した瞬間、弾が来るのがわかったので、すっと首を傾けてそれをよけた。おや、と思う気持ちはあったが、深く考えている暇はなかった。
斜面を上がりきったところでガラスのない窓枠の中から突き出されている銃が見えた。向こうの窓まで、逃げたんだな。ぼくが恐くて逃げたんだな。
銃口が日の光を反射してきらりと光る。光ったときは点に見えたのに、残像はちゃんと小さな円になっていた。三つも四つも並んで残る。
倉庫の中は暗くて、ぎらぎらした太陽の光に慣れた目には深緑色の穴にしか見えないのに、光る銃口だけはよく見えた。
「こんのやろー」まだ撃つかあっ、と頭を低くして光則は太郎との距離を一気につめた。足元を熱い衝撃が襲うのを鮮明に感じた。弾が来ると思った。「じゃあんぷーっ」と叫んでそれを跳び越え、すぐさま左肩に襲いかかる衝撃をおっとっとと言いつつ身を翻してやり過ごし、右腕に飛んできたやつは、ひょいと手を上げてよけた。
かちんかちんと、空撃ちの音が聞こえる。
よーし弾切れだなあ。
銃口がすっと引っ込んだ窓枠から倉庫内に飛び込むと、暗さに慣れない視界の中に、ぼんやりと浮かぶ鼻と白目を見つけた。
こいつだ。髭だ。くらえっ。
「キーック」
光則の拳骨は、太郎の顎を下から斜め上に向かって見事に打ち抜いた。がくん、と大きく頭を揺らした太郎は、突然あらゆる力を失ったように、膝から崩れてガラスの破片の上に倒れ込んだ。がしゃっと非常に痛そうな音がした。
やったあ。奈美の言ったとおりになった。なにを隠そう奈美は空手二段です。
「いやいや」と河合が言いかけて口をつぐんだ。殴るときは「パンチ」であって「キック」は蹴る方でしょうがな。と、言いたかったのだが、秀聡の手前なんとかこらえたのだった。
それまでずっと成り行きを見守っていた秀聡は、おもむろに紅葉の首に腕をまきつけた。細くて小さな肩が、はっと緊張するのを感じる。
「おとなしくしろ」と紅葉の耳元で囁いた。ロリコンなのではなく、人質にしたのである。
「笠置、それまでだ」紅葉の首筋に銃を突きつけ、相手が状況を把握するのを待ってから撃鉄を起こした。「残っているのはおまえだけか?」
「はあ」よくわからなかったが、光則は適当に答えた。
拳骨があんまり痛かったので、腹で巻くようにして手を押さえてあいたたたたなどと小さく呻いていた光則は、のんびり声の方を振り返って目を細めたりしばたたいたりした。まだよく見えないのだった。
「あ」紅葉。ぱっと顔を明るくして駆け寄りそうになり、あわてて立ち止まった。おっさんが紅葉を抱いている。一瞬やきもちをやきそうになったが、紅葉の足首が縛られているのを見て、そういうことかと納得した。後ろにまわした手も縛られているにちがいない。
紅葉にそんなことをするなんて、とそれだけで光則は猛烈に腹が立った。なんで大事にしないんだと憤慨した。
「おい、言うとおりにしないと、この子が死ぬぞ」光則の顔に浮かんだ怒りの表情を見て秀聡は少したじろいだ。「銃を捨てろ」
なにを言っとるんだこいつは。光則は憮然とした。銃なんかどこにあるというのだ。
見れば腰にある。
そうだった。持っていたんだ。すっかり忘れてた。
銃を抜いて捨てようとすると、秀聡はあわてふためいて大声で叫んだ。
「ゆっくりとだっ、ゆっくり。ベルトごと外せ」
光則は言われたとおりにした。
やっと暗さに慣れた光則の目に、倉庫内のようすが見えてきた。秀聡の他に、おしゃれなやつやゴリラがいる。あと、何人かぼんやり突っ立っているのは雇われたガンマンだろう。
「おまえに恨みはないがな」息が苦しいのか、言いにくそうに秀聡は言った。「俺はおまえみたいな男がきらいだ」
好きだ、と言われても困るところであるが、どっちにしても嬉しくはない。
「どこをつっついても善人ですというような顔しやがって。見てるとむかむかするんだ。だからおまえのものすごくいやがることをしてやろう」と言ってにたりと笑った。
なんだろう。
秀聡は、紅葉をとんと突き飛ばした。光則と、秀聡の間に紅葉が倒れる。足首が縛られているので転がることしかできず、横倒しになって悲鳴を上げる紅葉に、秀聡は拳銃を向けた。
「まずは脚だ」引鉄に力を込めた。
なにか叫んで止めさせようと、光則の肺が勝手に大きく息を吸った。
「やめろーっ」と先に叫んだのは光則ではなくて、明だった。秀聡に向けて銃をかまえている。
吸い込んだ息の使い道がなくなって光則はほあーっと息を吐いた。どうなってるのかなこれは。
「明……」秀聡は意外そうな目で明を見た。「父親に銃を向けるのか」
紅葉も、首だけを起こした恰好で明を凝視していた。
「だめだ」明は小刻みに何度も首を横に振りながら、ふらふらと体を揺らした。「その子を殺すのはだめだ」
秀聡の表情が冷たくなった。太郎ならまだしも、この軟弱な明が俺に歯向かおうとするのかと、その顔は言っていた。
「頼むから、その子を殺さないでくれ」
「おまえになにができる。引っ込んでろ」秀聡はふたたび紅葉に銃を向けると、あっと思う間もなく無造作に引鉄を引いた。
「う」声にならない声が、光則の喉の奥で弾けた。
かちん。
紅葉は、力をなくしてぐにゃりと床に横たわった。
秀聡の銃にも弾が入ってなかったのだとほっとする前に、うおうと声をあげて明が秀聡に跳びかかった。
ふたりが取っ組み合いになったのを見て光則は紅葉を助けようと前に出た。
「そうはいくかっ」秀聡は明をあっさり組み伏せて殴りつけ、明の銃を奪い取った。明が見栄だけで腰に巻いている左の銃だった。当然まだ弾は入ったままだ。
引鉄にかけた秀聡の指先がみるみる白くなる。
光則は紅葉に向かって跳んだ。自分の体で紅葉を守ろうとしたのではなく、紅葉に弾が当たる前に、こっちへ引き寄せて当たらないようにしようという、恐ろしく無謀な試みだったのだが。
炸裂音が響き、弾丸は倉庫の壁を撃ち抜いた。
明が秀聡の手首を掴んでいた。お手柄のようだが、そもそもこいつが跳びかからなければ秀聡は装弾された銃を手にすることはなかったのである。少なくとももう少し光則は時間が稼げたのに。
「やめんかあっ」怒った秀聡が腕を大きく払うと明は吹っ飛んで、後ろに積まれていたセメント袋にぶち当たって動かなくなった。勝てとは言わぬがせめてもうちょっと役に立たんものか、弱すぎる。
「なるほどそれもいいだろう」秀聡は、紅葉の体を包むように転がる光則を見下ろした。「そこなら弾をよけるわけにはいくまい。ま、よけてもいいがな。よけたら女が先、よけなかったらおまえが先に死ぬだけだ」こりゃあ愉快、という風に秀聡は笑った。
よけるのなんのというのは、いったいなんのことだ。と、思ったとき光則は背中の真ん中に熱いような圧迫感のある点を感じた。なるほどそこのところが狙われているのか。依然として自分がなにを感じ取っているのかは理解できなかったものの、撃たれるのだという感覚が、予想ではなく恐ろしい事実として背中にあった。
もうだめだ。
死の恐怖が脳天を突き抜けると、不思議と心は落ちついた。
これは全部夢なのかもしれない。
腕の中で、紅葉が身じろぎした。
目の前には紅葉の頬がある。唇がある。そして涙に潤んだ目が光則を見ていた。
紅葉は悲しげに微笑んで、目を閉じた。心持ち顎が上がったように見えた。
[#挿絵(img-dengeki/GFatOkubo_273.jpg)入る]
キスして目が覚めるか撃たれて目が覚めるか。
紅葉の額に、汗の粒が浮いている。細い髪が汗に濡れ、こめかみにはりついている。苦しげに、ふ、と洩れた息が光則の鼻にかかる。女の子なのだなと、あらためてそう感じた光則は、突然たまらないほど紅葉をいとおしいと思う気持ちに胸をふさがれた。息苦しくてじたばたしたいほどの激情に襲われ、紅葉の華奢《きゃしゃ》な体をつぶそうとするかのように力を込めて抱いた。
死にたくないと思った。
背中を撃たれる、という感覚が触って確かめられそうなほど強烈なものになったとき。
遠い雷鳴のような音が、かすかに大地を震わせた。
背中を狙う銃から殺意が消えた。
光則が顔を上げたとき、どおんという爆発音にも似たエンジン音が噴き上がり突風が起こった。
窓の外に、巨大な影がふわりと浮き上がった。
ハーレー・ダビッドソンが飛んでいた。その影は窓枠よりもずっと大きい。到底くぐり抜けることなどできそうになかったが、ライダーは体とバイクとを「く」の字になるよう傾けると、驚くほど小さくなって窓枠をくぐり抜け、爆音とともにさらに飛んだ。
自分に向かってバイクが飛んでくると思った秀聡が、あわてて下がろうとして尻もちをつく。河合が嬉しそうに、うほうと叫んだ。
床に光則と紅葉が転がっているのを知っていたのかどうなのか、バイクはふたりをよけるように空中で九十度回転し、空いたスペースにどすんと着地した。タイヤがコンクリートの上で横滑りを起こし、バイクは倒れたが、宮本丸雄は倒れるバイクをそのまま流して優雅に降り立った。
すでに秀聡に銃を向けていた。
「よう」と、光則に向かって軽く手を振った。「生きてたな」
「きさまらを逮捕する」西側のドアから、きんきんした声で嬉しそうに怒鳴ったのは、太田じいさんだった。例のごついショットガンを持っている。「手を上げろ」
倉庫の東の隅でそっと太郎が動いた。足下にこぼれていた銃弾を、いつのまにか装填していた。
村安に雇われたガンマンのひとりが、宮本の背中を狙う不意打ちに気づいて声をあげた。
「あぶないっ」
しかしすでに太郎のリボルバーは宮本の背中に向けて火を噴いていた。
宮本は振り返らなかった。
背後を襲う弾道が見えているかのように、勢いよく上半身を捻《ひね》り背中を軽く反らせただけだった。
首からぶら下がっていた銀の十字架が動きに取り残され、その場に一瞬浮いた。
宮本の胸の前を弾丸が通過し、十字架は弾けて消えた。
「じっとしろってば」二発目を撃とうとした太郎の頬にライフルを押しつけたのは、包帯ぐるぐるの杉野清美だった。
「俺たちは、いらんかったな」窓の外には、シゲさんトシさん、それから紅葉の父伝六とゴーマ神父さんがいた。
ふうー、と息の抜けた光則は、紅葉と並んでコンクリートに身を任せた。助かったみたいだ。
腕の中に紅葉の顔がある。光則は無意識に、もう大丈夫と紅葉の髪をそっと撫でた。
頬に泥がついても、紅葉は綺麗だった。
紅葉が無事で本当によかった。光則の頭の中にはそれしかなかった。
「なに見てるの?」恥ずかしそうに紅葉が言った。
「バチカンの天井」
15
紅葉はじっと、光則を見つめたままで微笑んでいる。
今、このままキスしてもいいのではないかと光則はちょっと思ったがそんな勇気はもちろんないので、バチカンの天井について説明しておこうとしたとたんいきなり銃声がした。
窓から数メートル奥まったところに立っていたガンマンが、腕から血を噴き出させて倒れた。太郎が宮本を撃ったとき、宮本に危険を知らせようとした男だった。
続いて、ゴーマ神父が、なにかに押されたように背をのけぞらせ、窓から倉庫の中へ倒れ込んだ。
「神父さんっ」誰かが叫ぶのが光則の耳に聞こえた。伝六やシゲさんトシさんは、撃たれる前に窓の下へ隠れることができたようだった。
空き地の方からの銃撃だった。
体を低くした伝六が光則と紅葉のところへやってきた。紅葉を抱きしめている光則を見て、目を丸くした。
「こら。離れんか」
「お父さん」紅葉が言った。
えっお父さん?
「あ、すいません」光則は謝って、大急ぎで正座した。
銃撃は殺意に満ちていた。そこのところが、さっきの馬鹿馬鹿しいやつとちょっと違うところだった。
村安に雇われたガンマンたちは、空き地から逃げた連中も、町で待ち伏せをしていた連中も、おおかたがこの怒りの集団に捕らえられてしまっていた。その中には末男の姿もあった。町の男たちに縛られ、小突かれ、蹴飛ばされつづけている。
「なんだあれは」宮本は窓の下に駆け寄り、空き地を見下ろした。そうする間にも空き地からの銃撃は、すでにぼろぼろになっている倉庫の壁に容赦ない攻撃を加えつづける。
「なんだかものすごく怒ってるみたいですなあ」太田じいさんに手錠を掛けられたにもかかわらず、ちっとも普段と変わらない口調で河合が言った。
なんだおまえ。と宮本が不思議そうに見ると、河合は「裏から逃げましょうか」と珍しく真剣な提案をした。しかし続けて「裏から出られないんですけどねえ、残念ながら。これが」
「撃つんじゃねえ、ばかやろー」河合はほっとくことにした宮本が怒鳴ったが、絶え間ない銃声に掻き消されてしまう。「味方だよ、みかたーっ」
「戦争はんたーいっ」河合がそう叫んで倉庫の奥の方へと逃げた。さっきの銃撃戦のとき作られた、セメント袋の塹壕もどきにもぐり込む。恐がっているのだろうが、どうも楽しんでいるように見える男である。
知らないうちに全員手錠を掛けられてしまっている村安側の人間は、太田じいさんに引っ立てられて奥に座らされた。じいさんはどこか浮き浮きして見えた。
伝六が紅葉を抱きかかえてセメント袋の後ろへとよろよろ進む、その後ろを光則は手持ちぶさたについていった。伝六の迫力が手伝わなくていいと言っていた。紅葉の腕を縛っているロープを伝六が解きはじめたが、ではぼくは脚の方をと言う根性は光則にはなくただ見ていた。ただもう紅葉のお父さん、というだけでひれ伏しそうになる。
紅葉の顔から微笑みが消えていた。
その視線の先にはゴーマ神父と清美がいた。床に横たえられたゴーマ神父は動かない。清美も、元気とは言いがたい。
神父さんを介抱しているのはシゲさんとトシさんだったが、このふたりがしょっちゅう紅葉のことを気にしているのに光則は気づいた。よっぽど紅葉のことが好きなのだろう。その気持ちはよくわかった。
「光則」窓の下で宮本が言った。「ちょっとこっちへ来てくれ」
「はあ」と、なんの危機感もない顔で返事した光則に宮本が厳しい顔を向けた。
「弾は残ってるか?」
「たま?」と言ってから、ああ拳銃の弾かと気がついた。弾どころか拳銃もない。「いえ」
「まあいい、来い」ぼさっと立ち上がりかけた光則に、頭を低くしろと宮本は言った。
言われたとおり、姿勢を低くして窓の方へと行こうとしたら、シャツの裾がなにかに引っ掛かった。見れば、紅葉が光則の薄汚れたTシャツを摘んでひっぱっているのだった。
「だいじょうぶ?」紅葉の顔は不安に青ざめている。
「ど、どうかなあ」我ながら情けない台詞だなあと思ったものの、それしか言えなかった。小さく紅葉に頷いてみせてから、光則はみっともないへっぴり腰で宮本のところへ這っていった。
銃撃は弱まるどころか、どんどん勢いを増していた。
「いいか」光則が窓の下にたどりつくと、宮本は光則の方を見ずに言った。「あいつらと戦うわけにはいかん。興奮して見境がなくなってるだけだ。反撃はできない。といって逃げ道もない」
「はあ」
光則の返事があんまり間抜けな声だったので、宮本は確かめるように一度光則の方を見た。
「のんびりしている場合じゃないぞ、今使えるのはおまえしかいないんだからな。見てみろ。青いベストの男がいるだろう」
青いベストを着た太った男を中心に、数人の男が木の箱をごそごそとやっているのが広場の向こうに見えた。
りんごかな、と光則は思った。
「ダイナマイトだ」宮本が言った。「こっちに投げ込むつもりらしい。あれを使われたらおしまいだ」
「あー」と言いながらあんまりわかっていない。
「今から俺があそこまで走っていくから、おまえは俺を狙うやつの銃を適当に撃ち落としてくれ。全部じゃなくてもいい。いくらなんでも、一度に来られたんじゃよけきれんからな。少々怪我をさせるのはしかたがないと思え」弾はこれだけしかない、と言いながら宮本はズボンのポケットから小さな紙の箱を取り出し床に投げた。
「はあ」
「いいな」いいわけなかった。
「いやいや」さらっと無茶なこと言いましたねと、光則は無表情に宮本を眺めた。
「さあ、これを使え」と、宮本は光則の手に自分の銃を押しつけると、窓の枠に手をかけた。
「いえ、いいです」と、光則は小刻みに首を横に振った。どう考えてもそれは無理。
「なんだと?」光則を見る宮本の目が細くなった。「急がないと、みんな死ぬことになるんだぞ」
そう言っているうちにも、ダイナマイトの箱が開けられている。蓋が外され、リレーで使うバトンほどの物が何本か取り出されるのが見えた。
「恐いのか」
光則は宮本の視線をまともに受けた。
恐いのはあたりまえだった。けれど光則は、今自分がやるべきことを知っていた。
「ぼくが走る」光則は言った。「そのほうがいい」
宮本は驚いた顔をして、それから自分の手を見た。震えていない。
「よし。行け」
黒いS&Wがくるりと宮本の手の中に入った。
光則は小さく頷き、窓枠を跳び越えた。
たちまち、全身に弾丸の気配が突き刺さってきた。三つ。いや四つ。とてもよけられないと思い、恐慌をきたしそうになったが、すぐに体の中心に近いところからふたつが消えた。宮本が援護してくれているのだ。
左肩を圧迫する弾道を身をかがめてよけると同時に、右足を振ってもうひとつをよけた。
すさまじい緊張感のせいで息苦しいが、思ったほど難しくはなかった。斜面を落ちるようにして駆け降りると、ダイナマイトの箱めがけて必死で走った。
宮本の射撃は正確だった。光則が一番よけにくいと思う弾道から先に、うまく処理してくれている。
なんとかなりそうだ。
楽観したとたんに、なにかに足を取られた。
頬と肘で地面に激突した。
急いで立とうとしたが、一瞬方向がわからなくなる。
銃声の合間に、オイルライターの点火される音が聞こえた。
全身に弾道が集中してくる。
宮本の銃は六発を撃ち尽くした直後だ。通常では考えられないほどの早さで宮本は次の六発を装弾していったが、それでも数秒間、撃てない時間がある。
地面に転がり体を折り脚を曲げ、なんとか何発かはよけた。
しかし次の瞬間、同時に体の両側から襲いかかる弾を感じて、悲鳴を上げそうになった。どちらに逃げる。どう逃げても当たる。
「うわっ」と叫んで、光則は四つん這いの格好で尻を高々と持ち上げた。お腹の下を右と左から弾が通り抜けていった。かっこ悪いが助かった。
前方にライターの火が見え光則は目を見開いた。早くしないと。
飛び起きざまに左の一発をよけ、いっせいにやってきた数発を首をすくめて回避した。
宮本の援護が復活していた。
ダイナマイトまではあと少しだ。
銃弾の嵐の中突進してくる光則に驚いた数人が、めちゃくちゃに乱射しはじめた。
光則の肩が、髪の毛が、脇腹が、足首が、弾けた。どれもかろうじてよけたが体にはかすっている。
心臓の鼓動で耳が聞こえなくなりそうだった。あと少しなのに、息が苦しくて倒れそうだ。
真正面からの弾道を感じ、左にステップしようと体が反応したとき、左腕に新たな弾道が出現した。動きかけた体は止まらない。
左へと跳んだ光則の、胸の真ん中に弾丸が突き刺さると思った。完全に撃ち抜かれるのを感じた。
しかし脚はまだ動いている。
光則は文字通り死にものぐるいで小さな火に突進していった。
「ひやあ」
ひとりが叫んで逃げると、ダイナマイトの近くで銃撃していた男たちのほとんどはてんでに逃げ出した。銃弾の嵐の中、撃たれても撃たれても走りつづける人間がいたら恐くて当然なのだが、光則は自分が恐れられているとはまったく思わなかった。
ダイナマイトの一本に火を点けようとしていた男も恐れおののき、逃げる仲間を追いかけようとして、なにを思ったかダイナマイトを目の前に投げ出した。
導火線が、煙を上げていた。
光則は立ちすくんだ。
離れたところで、ひとりの男が殴られて倒れるのが見えた。土煙の中で、立ち上がりながらにやりと笑う顔に光則は見覚えがあった。
コーラをくれた、あの色の黒い男だった。
光則を狙った男に体当たりをして、反対に殴られたのだ。両手を縛られているので反撃ができず、そのまま地面に転がって光則を見ていた。
それでさっき撃たれずにすんだのか。
でももう間に合わない。
せっかくここまで来たのに。
火が、ダイナマイトの中へ入っていく。
だいたい、ダイナマイトのところまで行くのだ、と必死で走ってきたが、たどり着いたのちなにをしたらいいのか光則は聞いてなかった。今になって気がついた。
あと数歩前に出ればダイナマイトに手が届く。
なんとかしなければとは思うがなんにもできず、光則はじっとその場で凝固しただけだった。爆発するダイナマイトなんか見たくない。でも、目が、そこから離れないのだ。
全身に力を入れすぎて痛いくらいになったとき。
火の点いたダイナマイトはすっと浮き上がった。
ただひとり逃げなかった青いベストのおっさんが拾い上げたのだった。無造作に、導火線を抜いた。
そんなんでいいのか、と拍子抜けするほどあっけなかった。
「おまえさんには負けたよ」ベストのおっさんは呆れたようにそう言うと、光則を見てにやりと笑った。
光則は膝ががくがくと震えだしたので立っていられなくなり、その場にへたりこんだ。
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五日目
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蝉の声がやかましいなと思いながらも、だらだら惰眠《だみん》を貪《むさぼ》っていた光則は、ぽんぽんと続けざまの銃声を遠くに聞いてあわてて飛び起きた。
またしても銃撃かとしばらく心臓がどきどきしたが、目に入るものすべて平和極まりないおばあちゃんの家だったので、ああそうだったと思い出した。
ああ恐かった、どえらい目に遭ったとは思うもののまだ少し寝ぼけている。
廊下の板を踏む音がしたので、紅葉が来たのかと身構えたが来たのはおばあちゃんだった。
「なんだおばあちゃんか」気が抜けて欠伸《あくび》が出た。「おはよう」
「もう昼過ぎやで」ほんまによう寝る子やなと感心してから「紅葉ちゃん、来たけど」
「えっ」と驚いて、そのあたりでやっと昨日起こったことのほぼすべてを思い出した。明日いっしょに行こ。そう言った紅葉の笑顔は、あれは夢じゃなかったんだ。
「お祭り、行くんやろ」
そうなのだ。遠くでぽんぽん鳴っているあれは銃声ではなく打ち上げ花火の音だ。なんだか知らないが今日はお祭りだそうだ。
光則にはよくわからなかったが、ここ大久保町では特に理由がなくてもふと誰かが「明日あたりお祭りやらへんかー」と提案し「そうやなあ」と賛同者がある程度いれば、それだけでお祭りが開催されるのだとかなんかそんなことだった。
ついにあの村安一家が退治されたのだから、これはもう誰が提案するまでもなく問答無用のお祭り決定である。
町のあちこちでいろんな催しがあるらしく、紅葉が案内してくれることになったのだった。
大あわてで着替え顔を洗い歯を磨き、ご飯は食べていかんのかほなパン持っていくかハンカチは持ったかとつきまとうばばあを振り切って光則は玄関へ走った。
うわあミニスカートだ。
「おはよう」紅葉のあまりの美しさに圧倒され、ぼけーっとそう言うと紅葉は下を向いてくくーっと笑った。
「すごい寝癖」
「へ?」と頭に手をやると、もうなにがどうなっているのかわからないくらい髪の毛が無茶苦茶に跳ねていた。「ほんとだ」まあいいや。
「昨日、あれからけっこう大変だったんだよ」石の階段を下りながら紅葉が言った。「看護婦さんたち、なかなか勘弁してくれなくて」
ダイナマイト騒ぎが収まったあと、さっそく祭りの相談が始まったところへ国連病院の看護婦たちが大挙して押し寄せ、その場の人々を恐怖のどん底に陥れたのだった。
看護婦たちの怒りの矛先が、勝手に病院を抜け出した清美とその両親、とりわけ扉を破壊した伝六に向いているとわかった時点で他の者たちは胸を撫で下ろしそそくさと逃げ出したのだが、少しでも怪我をしている者は情け容赦なくたちどころに引っ捕らえられた。
そもそも病院の建物を建てたのは自分なのだから、それを自分で壊してなにが悪いどうせ直すのは俺じゃと伝六は反論したが、そんな無茶な理屈が受け入れられようはずもなく、さらに入院が必要な清美ともどもなぜかシゲさんトシさんをも含めた杉野家一同長時間病院で叱られたということだった。
「ゴーマ神父さんが取りなしてくれなかったら、一生閉じこめられてたかも」神父さんも連行されていたのだが、幸いたいした怪我ではなかったらしい。
「へー」光則は気のない返事をして小さく何度か頷く。
「ああそうだ。宮本さんと太田のおじいさんが、いつでもいいから保安官事務所に寄るよう言ってたよ」
「へー」風になびく紅葉の髪が綺麗だなあと思って、それ以外のことはどうでもよかった。
「あ。あ、そうそう」馬鹿顔した光則の熱い凝視にたじろいだ紅葉が、ぎくしゃくと首から清美の作ったペンダントを外した。「これ、お兄ちゃんが光則君にあげるって」
「ああ、昨日見せてくれたやつ」木切れだ。
「うん。おんなじやつ」あたしのはこれ、と紅葉はブラウスの胸元から自分のペンダントを引っ張り出すと揺らせてみせた。「ふたつセットなの」
「あー」なんかそんなこと言ってたなあ、けどお揃いのペンダントなんてなんか恥ずかしいよなあと思いつつ手を出して受け取ろうとしたら、紅葉はあたりまえのようにそれを光則の首にかけてくれたのだった。
いい匂いがした。
どきっとして光則は立ち止まってしまい道の真ん中でふたり、顔と顔を見合わせてしばらく固まる。
「お」と言って紅葉はみるみる赤くなった。
町へと続く長い下り坂の途中、道は狭く両側は樹々に覆われ人目もない。
ごくっと光則の喉が大きな音をたて、紅葉は息を呑んだが、風がそよそよ吹くだけで特になにも起こらなかった。
どのような状況下であっても、基本的に光則は根性無しなのである。
「ははは」まったく意味もなく光則は笑った。
「はは」紅葉も虚《うつ》ろに笑って、それから少し恐い顔になった。「行きましょ」とすたすたどんどん早足で歩きはじめる。
なにかまた怒ってるみたいだなあと光則は思ったが、なんだかとても楽しかった。
紅葉を追いかけて小走りに駆けると空が開けた。
蝉の大合唱を押しのけるように町の方から祭り囃子《ばやし》が聞こえてくる。花火も上がる。
高く青く澄んだ空を見上げると、なんでもできそうな気がした。受験勉強もがんばれそうな気がする。まあ、鉄砲の弾よけられるんだから、たいていのことはどうにかなるんじゃないかなあ。
天を仰ぐ光則の、そのあまりに無防備な寝癖ぼさぼさの間抜け面を眺めて紅葉は溜息をついた。
「あのね」ちょっとこっち来なさい、と紅葉はやはり怒ったような顔で言った。「全然わかってないでしょ。このペンダントはね、ふたつ合わせると、こうやってひとつになってね」と、自分のと光則のとを合わせてきゅっと捻《ひね》った。「ほら」
たしかに、まったく継ぎ目のない一個の球になった。互いのペンダントが繋がまったので、肩寄せ合ってしか歩けなくなる。
「ほんとだ」よくできてる。「で」
「なに」
「これどうやってはずすの」
「知らない」
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新作ストーリー
三人の名付け親
3 BABIES' GODPARENTS
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保安官|毛利《もうり》新蔵《しんぞう》が不在のときに限って面倒事が起こる。
急いでいるときに限ってバイクのエンジンがかからない、というようなのとは違ってこれはつまり俺が、町の連中になめられてるんだろうなあと笠置《かさぎ》詠《えい》は思った。
太田《おおた》じいさんに訊いてみると、ストーブに薪《まき》を放り込みながらじいさんはあたりまえの顔で頷いた。
「うん。そういうこったろうな」
「やっぱりな」なめられてるんだ。
詠は今年二十二歳になるが、見た目はそれよりずっと若い。幼いといってもいいくらいである。
「まあどっちかっちゅうと、新蔵が信頼されすぎてるんだろうけどよ」
「まあいいや」じゃ、行ってくるわと詠はコート掛けからムートンの襤褸《ぼろ》ジャケットを取ると、保安官事務所を出た。
「ショットガン、持ってくか?」
一瞬立ち止まったが詠は首を振った。「いや、いらない」
ヒマラヤ杉公園横の酒場で、酔っぱらった男たちが銃を撃ちまくって暴れていると通報があったのである。酒場での乱闘騒ぎや少々のドンパチにいちいちかまっていたらきりがないし、放っておいてもいずれ治まるので日常ほとんど保安官助手の出番はないのだが、昼の日中から暴れ近隣の民家にまで銃弾が飛んできたとなると見過ごすわけにはいかなかった。
たしかに東の方から銃声が聞こえている。
雪のちらつく中、轟音一発ハーレーを発進させると詠は大通りを突き抜けていった。加速しながら腰のコルト・パイソンを抜き、弾倉を確かめる。
使わずにすめばいいけど。
ゴーマ神父の店の前にさしかかると、何人かの顔見知りがポーチに出てきているのが見えた。騒ぎを聞いて、みんな詠の身を案じてくれているのだった。量子《りょうこ》の姿もある。
「あとで寄るよ」減速することなく大声で叫ぶと、量子がさらに大きな声で応えた。
「馬鹿っ」
またなにか怒っているみたいだなと思ったが、深く考えることなく詠は軽く手を振ってヒマラヤ杉公園へと向かった。
なにしろまだ昼飯を食ってないのだ。ゴーマ神父の店、今日の定食がハンバーグだと嬉しいんだけどなああーそれかビーフシチューか。コロッケも捨てがたいが。
と、ぼんやりしていたら知らない間に町外れまで来ていた。
あわててバイクを大きくバンクさせ、角を曲がったところで詠は少し先に見える公園横の酒場が尋常でないことになっているのに気づいて思わずバイクを停めた。「ありゃあ」
入口のスイングドアが壊されるのはよく見るが、今はドアどころか窓もない。なんにもない。
店の入口があった側の壁がほぼすべてなくなってしまっているのだった。
「へえー」どうやったらあんなことができるんだろう。「すごいなあ」
ちょっとあの人保安官助手でしょ、というひそひそ声が聞こえた。見れば詠がバイクを停めたすぐ横は小さな保育園で、その庭で若い保母さんがふたり遊具の陰に隠れて詠を見ているのだった。
「すごいなあだって」
「なにが嬉しいんでしょうね」
明らかに詠に対して不信感を抱いている。
これはいけない。ふたりともまあまあ美人だし。いや待て眼鏡の人は相当可愛いぞ。
詠は小さく咳払いをしてから、わざとらしいまでに堂々とした低い声で言った。
「あ、大丈夫ですよ」なかなか渋い声が出たのはよかったが、寒い中バイク走らせたせいで全身冷え切っており口はうまく動かなかった。「危ないので下がっていてくだたい」
「くだたいだって」
「言いましたねー」くだたいって。
完全に信頼を失ったようだった。
とりあえず美人の保母さんたちにはそのまま隠れていてもらうことにして詠はバイクを降りた。
「たすけてー」トイレから店の主人が叫んだ。トイレのドアもなくなっているので中は丸見えである。比較的大きく頑丈な便器の横にうずくまって銃撃を避けている主人はしかし、恐がっているというよりどこかおもしろがっているようにも見えた。だってそのままトイレの裏の方へ逃げれば、公園へ続く道に出られるのだ。簡単に逃げられるのに、なんで便器の陰にずっといるのか。
手を振る主人に軽く頷いてみせてから、詠はゆっくりと店の方へ近づいていった。
どうやら中心となって暴れているのは大工の信夫《のぶお》のようだ。他に若いのが三人。詠は少しほっとした。
信夫とは幼なじみで、今でもときどきいっしょに飲む仲である。ちょっと大きな仕事のひとつも片付き、羽目を外しているといったところだろう、前にも似たようなことはあった。
銃を乱射しているが、適当にあちこち撃って楽しんでいるだけで、なにかを攻撃しているわけではない。もちろん流れ弾に当たれば死ぬか怪我はするので、遊びだろうが本気の戦いであろうがまわりの人間が迷惑するのは同じことなのだが、殺伐としてないだけ詠にとってはやりやすい。
「おーい」店の正面とある程度の距離を保ったところで立ち止まり、詠は軽く両手を挙げて叫んだ。「のぶおー」あそぼー、と続きそうなくらいのんびりした声だった。
「ぬわあ?」上半身をほとんどカウンターに寝かせた格好の信夫が、とろんとした目を詠に向けた。「誰だおまえ」とあたりまえのように手にした銃を詠に向ける。
「あぶない危ない」撃つつもりがないことが詠にはわかったが、それでも銃口を向けられるのは気持ちのいいものではない。「おれだよおれ」
「ああー」と大口開いて上を向いたのでわかってくれたと思ったのだが「かわいか」
「違うちがう」よりによってあんなのと間違えるなよと思う。「詠だよ。笠置詠」
「おー」と信夫は喜んで目を見開いた。「もしかして、おまえ詠じゃねえか」
「だからそう言っとるんだ」
「来い来い。いっしょに飲もうぜ」
よかったあっさり片付きそうだと詠は安心し、もはや入口がどこだったかもわからなくなっている店へと足を踏み入れた。
誰か来たというので、適当に銃を撃ったり椅子やテーブルを壊したりしていた連中も詠に注目して破壊行為を中断した。全員めちゃくちゃに酔っていた。
さあ飲め飲めと首をぐらぐらさせながら信夫は、カウンターにあったコショウの小瓶を詠の前に置くと、その上からバーボンを勢いよくかけはじめる。視線がまるで定まっていなかった。
「それ、グラスじゃないよ」
「わかってるって」あはははと信夫は笑って詠の肩をぽんぽんと叩き「俺とおまえの仲じゃねえかよ」
「うん、まあいいや」どうせ仕事中だし。
「さあ、飲め」とバーボンでびしょびしょのコショウ瓶を差して信夫は嬉しそうに言った。「ほれ」
「ほれ、言われても」コショウだしこれ。
よくわからなかったが信夫は突然怒った。本物の酔っぱらいにまともな理屈はない。
「なんだてめーおれろらけがろめもれうらららららあー」呂律《ろれつ》が回らないにもほどがある。俺の酒が飲めないのかと言いたいのだろうけど。
「まあまあ」なだめようとした詠に、信夫はいきなり殴りかかってきた。
「てええーい」立っていることもできないほどに酔っていたため、特によけずとも信夫の拳はゆっくりと詠の顔の前を通り過ぎただけだったが、カウンターの支えを失い膝から崩れた信夫は倒れまいと詠の上半身にしがみついた。
「うわ」
自分よりひとまわり体の大きな信夫に引き倒されそうになり、詠は信夫に抱きつかれたままたたらを踏んだ。
ふたりそろって数歩とっとっとっと移動し、唯一まだ壊されていなかったテーブルに頭から突っ込み見事にそれを破壊する。
どっすんがらがらという大音量に、しばらく静かだった他の三人が反応した。うちふたりは詠と信夫のやりとりを見ながら床に座り込み半分眠ってしまっていたので音の方に顔を向けただけだったが、カウンターの端にいたひとりは違った。
よくわからないが自分たちの先輩である信夫が知らないやつに殴られ、組み伏せられているではないか。
頭を丸刈りにした若い大工の、酒で濁った目にはそう見えた。
助けなくては、とまったく無意識のまま詠の背中へと銃を向けた。
撃たれる。
詠はそれをはっきりと感じきくりと体を震わせた。本能的に弾道から逃れようと体が勝手に動いたのだったが、しかしただよけるだけでは自分の真下で寝ころんでいる信夫が撃たれてしまう。
迷うことなく詠は動いた。
今なお怪力でしがみついている信夫の腕を引き離すため、そのこめかみに肘を叩き込む。う、と呻《うめ》いて信夫の力が抜けたその瞬間すかさず身を起こすと、割れたテーブルの天板を胸の前へと突き出し最初の銃撃を受けた。
板は煙を上げて弾けたがなんとか銃弾を止めることに成功した。やれやれ分厚いテーブルで助かったとほっとしたのも束の間、丸刈りの男はすぐまた次を撃とうとしている。
膝をついた姿勢から詠は一気に男までの距離を跳んだ。
銃弾が発射されるのを感じながら、膝を抱えるようにして小さくなった詠は相手の顔の高さに飛んでいき、銃を構えるその腕を左足で踏みつけるように蹴りおろす。
発射された弾丸が床に穴を空けたときすでに詠の右膝は男の顔面を強打していた。
「で、その顔はどうしたの」
ゴーマ神父の店で、ひとり遅い昼食を取っている詠を量子が遠慮のない口調で問い詰めた。なにか怒っているようだった。
ランチタイムはとっくに過ぎており詠の他に客はいない。食材の買い出しでゴーマ神父も出かけてしまい、店にいるのは詠と量子のふたりきりだった。
「ああ、まあ」オムライスを頬張りながら詠はもぐもぐ言った。「ハンバーグ定食、食べたかったなあ」
「しょうがないでしょうが売り切れちゃったんだから」量子の声が裏返った。「いやなら食べなくていいわよ」
「あ、いえ。いただきます。おいしいです」実際ぶつくさ言いながらも量子が作ってくれたオムライスはおいしかった。ウェイトレスとして働きはじめた量子だったが、今ではこの店の料理の大半は量子が作っているのである。
「で?」
「え?」
「顔」どうしたのよそれ。
「あーなんかさー」丸刈りの男が昏倒して、それで一件落着かと思っていたら肘で殴ったのが気に入らなかったらしくどりゃあとか言いつつ信夫が襲いかかってきて、すると半分寝ていたふたりも暴れだし、そのうち丸刈りのやつまで起き上がってきて敵も味方もない大乱闘に突入したのだった。
結局、信夫たちのボスである大工の棟梁がやってきて彼らをどやしつけるまで殴り殴られは四十分ほど続いた。
「馬鹿じゃないの」量子が吐き捨てた。「あんたなにしに行ったのよ」
「壊した店は信夫たちがちゃんと直すって。伝六《でんろく》さんに約束させられてた」
「そんなことどうでもいいわよ」
「ねえ」オムライスを平らげ、食い足りないなあと未練がましく空の皿を見つめたまま詠は首を傾《かし》げた。「なに怒ってんの?」
「べつに」
「俺なにかしたのかなあ」まるで身に覚えがなかったが、覚えがないというそのことが問題なのではないかと思ってどきどきしたりする。量子の方が詠よりふたつ年下なのに、子供のときからしっかり者だった量子に対して頭が上がらないところが詠にはあるのだった。
「ちょっと血が出てるじゃない」詠のこめかみを流れる血に気づき、ちょっと待ってて薬持ってくるからと言う量子の表情は優しげで、詠はよくわからないながらほっとしたのだがそのときスイングドアが開いたかと思うと黄色い声が店中に響いた。
「きゃあ、いたいた」
「ほんとだー」
さっき会った保母さんふたりだった。
実は乱闘のあとバイクに乗ろうとしたらまた会ったので、調子よく声をかけてしまったのだった。お怪我はありませんでしたかいやなにこれくらいの傷はなんということもはっはっはとりあえず今からゴーマ神父さんのとこでやっと昼飯ですよはははよかったらいっしょにどうですか、とか。詠は美人が大好きなのである。
「いらっしゃいませ」と明るく言ってから量子は冷たい目を詠に向けた。
「保安官さんに誘われちゃって」眼鏡をかけた方の保母さんが首をすくめてそう言ったので、量子は笑顔で頷いてまた詠の方を見た。目が全然笑っていない。
「いや、ぼくはべつに」ほんとに来るとは思わなかった。
ふんと鼻を鳴らすと量子は足音高く厨房の方へ行ってしまった。
「ここいいですかー」さっきは大変でしたよねーとか言いつつ保母さんたちは詠のいるテーブルについてしまう。コーヒーとあとなに頼もうかなと眼鏡の保母さんがメニューを手にすると、もうひとりは詠の顔を覗き込んでいたずらっぽく笑った。「もしかしてあの綺麗な人、保安官さんの恋人?」
詠が照れて頷くより先にカウンターの向こうから量子が鋭く言い放った。「ちがいます」
「いや」その。保母さんがこんなに行動力のある人たちだとは知らなかったなあ。
「それに保安官じゃなくて、その男はただの助手です」ただの助手、というところを量子は特に強調しゆっくりはっきり発音した。
やっぱり怒ってるなあと詠は思った。なんで怒っているのか、今のはよくわかった。
それから量子は詠に会ってくれなくなり、ゴーマ神父の店で声をかけてもまったく口をきいてくれなかった。
冷え込みがさらに厳しくなり、雪が降り積もった。雪のため交通の便が悪くなったことを除けば大久保町なりの平和な日々が続いていたと言えよう。
しかし珍しく訪れたこの一時的な平穏は、ここのところ不運続きの詠にとってはむしろ不運のひとつと言えた。
危険にさらされ仕事に追われていれば量子が無愛想になろうが別の男と楽しげに話をしていようがまるで気にならず、心穏やかに過ごせたに違いないのである。元々気楽な性格なので量子が怒っていることだって一晩寝れば忘れてしまったはずなのだ。ところが暇だと顔を合わせる機会も多くなる。そのたびああそうだったと思い出さなくてはならない。
最近量子が村安《むらやす》の家に行っているらしいと信夫に聞かされたのも気になった。
「嫁さん入院してて、今|秀聡《ひでさと》さん独り身みたいなもんだしなあ」信夫も量子に告白して振られた歴史を持つので他人事ではないようだった。
とにかく先日の信夫との一件以来、詠はまったく運に見放されている。
突然バイクの調子が悪くなってここ数日なかなかエンジンがかからないし、オイル漏れもしているみたいだし、保安官事務所の前の凍った水たまりを踏んでひっくり返り目の奥に光が走ったし尻の右側は今もじんじんと痛いし青黒いし信夫たちとの乱闘でできた傷も治らないのに髭を剃ればカミソリで鼻の下を切るしちょっと膿《う》んだし目の横にできものができるしだんだん腫《は》れてくるし大事にしていたナイフはなくすし飯を食えば舌を噛むしなんにもしてないのにでかい犬が跳びかかってくるし道でうんこ踏むし、そして今夜もゴーマ神父の店で飲みながら量子に話しかけようと思うのになんでかあれ以来気に入られちゃったみたいで美人の保母さんふたりがずっと横にいるし。
詠を両側から挟むようにして、ふたりともかなり密着してくるのである。
「じゃあ今度、保安官事務所になにかおいしいもの差し入れしますよ」眼鏡の保母さんが言った。千秋《ちあき》ちゃんというのだそうだ。詠と目が合うたび少し恥ずかしそうにする仕草や、酒のせいかほんのり赤くなった頬などそのまま抱きしめたくなるくらい可愛いのだが、カウンターの向こうには量子がいるので喜べずあいまいに頷くしかない。
「あたしのおうちに来てもらってもいいんだけどな」と、もうひとりの保母さん、幸代《さちよ》さんというお姉さんは大胆にも詠の左腕をぎゅっと抱くのだった。千秋ちゃんの方がかなり好みだけど、こういうことをされるとそれなりに気持ちは動く。化粧が若干濃くて香水の匂いがきついけど胸は大きくてなんかぐいぐい腕に当たって柔らかいし。
でれーとしかけてはっと気づき、顔を上げると案の定量子の視線が突き刺さってきた。スパゲティの茹で加減を見ながらもきっちり詠の方を見ている。
ところがその目が怒っておらず、どこか淋しそうで詠はぎくりとした。
なんというかこれは、見捨てられたのか、愛想を尽かされたのか。
これはいかん、なりふりかまっている場合ではないすぐにも量子ちゃんにすがりつきあやまりお願いしまくって許してもらうしかないもうそれしかありませんと決意し保母さんから離れ量子の方へ行こうとしたとき背後から声をかけられた。
「笠置詠はおまえか」
「うん、そうだけどちょっと今」相手してる暇なくてと厨房へ行くことにしたのにそうはいかないようだった。
声の主は言った。「死ね」
「え?」
振り返ろうとした詠の顔の横を冷たく尖ったなにかがとんでもないスピードで通り過ぎた。
かちり、と小さな金属音がして刀が鞘《さや》に収められる。
店内の空気が一瞬にして張りつめた。
ひょろりと背の高い男だった。
歳は詠とそう変わらないだろう。変わっているのはその姿格好で、短めの着物に半纏《はんてん》を羽織った和服姿のくせに下にはジーンズを穿《は》いている。
ちょっと見、温泉客のようにも見えた。
しかし腰には一口《ひとふり》の日本刀を差し、怒りに満ちた鋭い眼光でもって詠を睨《にら》んでいる。平和な人ではなさそうだった。
現に今、ただならぬ気配に思わず身をかわしたからよかったようなもののあのままぼさっと立っていたら詠の首はなくなっていたかもしれないのである。
「あのー」自分に向けられた怒りの意味がわからないので、詠はどう対処したものかと悩んだ。
「覚悟」男は低く短く唸るようにそう言いながら刀の鯉口《こいぐち》を切るとふたたび詠に斬りかかってきた。いつ刀を抜いたのかわからなかった。
刀の動きも見えなかったが殺気を孕《はら》んだ太刀筋だけはかろうじて読める。
風の切り裂かれる音を耳のそばで二度ほど聞いた。
かちり、とまた刀が鞘へと収められる。
なんでいちいちしまうんだろうと思いつつ詠は数歩退いた。詠の動きにともなって、他の客たちがテーブルや椅子ごとどたばたと動く。とばっちりを受けないよう逃げているのだが、銃での戦いではなく刀というのが珍しいし、刀なら少し離れるだけで安全だろうというので店から逃げ出す人間はほとんどいなかった。
「なんでその、怒ってるわけ?」
「問答無用」男は摺《す》り足でずいと詠に近づくとまたしても刀を抜いた。
「わっ。待てまて問答しようもんどうしよう」二度三度と体を反《そ》らし横へステップして逃げ回る。
「おまえ」男はまた刀を収めた。詠を見る表情が変わった。「できるな」
「あんただれ」
「必殺の太刀をすべてかわすとは、女たらしにしては見事。冥土のみやげに教えてやろう。俺は清水《しみず》康之助《こうのすけ》。山向こうの村の者だ」
「はあ」
「お房《ふさ》の兄だ」どうだ、それさえ言えば万事わかっただろう、という顔をする。
「はあ」いやあなんのことやら。
「まさかおまえ」そうかなるほどと呟くや清水康之助はくわっと目を見開いた。「このやろうあっちこっちで女を騙してるもんで、いちいち覚えてないんだな」
ええーっさいてー、とどこかで声がしたがあれはふたりの保母さんだなあ。
「そんなことしてませんけど」と言いつつ、あっちこっちで美人に愛想振りまいてるのは事実なのでどきどきする。なにかやったんだろうかなあ俺。
「お房はおまえの子供を産んだぞ」
「ええっ」驚いたが、これで濡れ衣ということがはっきりした。詠はやや安心してほっと息をついた。「誰かとまちがえてるんだよ」ああびっくりした。
「妹は、早撃ちで有名な笠置詠との子だと言っている。おまえが笠置詠なんだろ。ちがうのか」刀に手をかける。
「わあまあまあまあまあやめろやめろ落ちつけおちつけ」ぴょんぴょん飛び跳ねる。おまえがおちつけ。「なんかわかんないけど俺はなんにもしてないって」
「俺の妹をたぶらかし、生まれてくる子供のために必要だとかなんとかうまいこと言って叔父の金を盗み出させ、その罪をすべて妹に押しつけ妹の貯金まで持って逃げたのはおまえじゃないというのか」
「よくそんな悪いこと思いついたなあ」そんなの全然知らないよと言っているのに店のあちこちから、ひどいことするなあとかそりゃ斬り殺されてもしょうがないといった囁きが聞こえてくる。あいつそんなやつだったんだ。「いや。だから」俺じゃないって。
「言い訳無用」康之助は軽く腰を落とすと刀の鯉口を切った。
「いいかげんにしろっ」と怒鳴ったのは量子だった。手に包丁握りしめたままずかずかと進み出ると康之助の前に仁王立ちとなった。「他のお客さんだっているのに店の中でそんなもん振り回すんじゃないっ」と、自分は包丁を振り回す。
「うむ。それもそうだ」と康之助は素直に頷いた。「笠置、表に出ろ」顎をしゃくると、先に立って出口の方へ歩いていく。
「そうして」と量子は力強く頷いた。
「ちょっと量子ちゃん」助けてくれるのかと思ったのに。
「それから言っとくけど」詠の方は見ないまま量子は、康之助の背中に向かって言った。「あなたの妹さん騙したの、この子じゃないよ」
「なに?」康之助が立ち止まった。
「たしかに美人見たら誰にでもでれでれほにゃほにゃ馬鹿みたいに尻尾振るし、なにやらせてもどんくさいし要領悪いし年中ぼーっとしてるし」
「いや」なにもそこまで。詠は抗議の声をあげようとしたがものの見事に無視された。
「でも、人の気持ちを踏みにじるようなことだけは絶対にしない」
「なんでそう言い切れるんだ」康之助は量子に向きなおると、じっとその目を覗き込んだ。
「え」きょとんとして量子は動きを止めた。あまり深い考えはなかったらしい。「だってさー」と言って虚空眺めつつ少し考えた。なんていうか。「だって、そうなんだもん」
なんじゃそらという脱力感が店中を襲ったが、清水康之助ひとりはまっすぐ量子を見つめなにかを考えているようだった。
「たしかに」康之助は量子から詠へと視線を移すと真面目な顔で頷き「そんなに知恵の働きそうな顔ではない」
「ほっとけ」
「その妹さん連れてくればいいのよ」
「そうだそうだ」ほんとだ、と詠はものすごく感心した。「量子ちゃん頭いいなあ」
「ふつう」
「あ、いや」康之助の全身から怒りが消えていた。「実は、妹はまだ自分が騙されたとは思っていないようで」
「どういうこと?」量子はスイッチでも入ったかのように心配そうな顔になった。「いいから。ちょっとお姉さんに話してみ」
どう見たってこの中の最年少はおまえだろうがと、やはり店中の客がおいおい言いそうになったが康之助だけはううむと唸り「なにから話せばいいんでしょうか」
「妹さんは、今どこにいるの?」
「お兄ちゃんっ」入り口に赤ん坊を抱いた女がいた。まだ少女と言ってもいいほどに若い。詠のまったく見たこともない女の子だった。
「あ、あそこに」康之助はたいそう驚いていた。「お房、なんでここが」
「叔父さんが話してるの聞いて。お兄ちゃんが刀持って詠さんのこと追いかけて町へ行ったって」
「よく出られたな」
「必死で逃げてきた」山の中を駆けてきたのか、乱れた髪には雪と枯葉がついている。自分は薄い上着しか着ていなかったが、赤ん坊はいかにも温かそうな産着《うぶぎ》とアフガンなどで完璧に包まれていた。
「それで……」と量子が口を開きかけたが目に涙を溜めたお房は量子も詠もほったらかしで康之助に詰め寄った。
「詠さんをどうしたの。どこにいるの?」
「どこにって、その、笠置詠なら、ほれ」と詠を指差す。
ああどうも、と詠が頭を下げるとお房も初めて詠に気づいたように会釈をした。「はじめまして」
「っほーらごらん」量子が店の外まで響きわたる汽笛みたいな大声で勝ち誇った。
「お、お房」出現したときの威圧感はなんだったのかと呆れるほど康之助はおどおどしはじめた。
「お房って呼ぶのやめてよ」そう言ってお房が顔をしかめたので康之助はさらに小さくなる。「あの、清水《しみず》房子《ふさこ》です」詠と量子にまた頭を下げた。
「お前のその、子供の父親は」康之助は顔を赤くしてしどろもどろになり「ここにいる、この人じゃないんだな」
「へ?」
「あ、いや、いいんだいいんだ」あははははと無理矢理笑うと康之助は真顔に戻って姿勢を正し、詠に向かって深々と頭を下げた。「どうやら、人違いだったようだ。それでは、ごめん」ささいこ、とまるで事情の呑み込めていない房子を促し出ていこうとする。
「待たんか」詠は後ろから康之助の帯を掴んで引き戻した。「ごめんですむかー」あともうちょっとで首ちょん切れてましたよワタクシハ。
「いや、すまん」
「すまんでもすまんっ」
「ほんとだよ」量子も憤慨した。「話途中でさあ」そっちか。
聞けばなんとも哀れな話だった。
康之助と房子の両親はふたりがまだ幼いころに亡くなってしまい、村で金貸しをやっている叔父夫婦に養ってもらうしかなかった。ところがこの夫婦というのが金を貯め込むこと以外はどうでもいいという考え方の人間で、転がり込んできたふたりに金がかかるのが我慢ならなかった。その分は稼いで返してもらうからねというのが夫婦揃っての口癖で、小さなころから康之助も房子もあれこれとこき使われ、稼ぎが悪いと折檻《せっかん》される毎日だった。友達を作ることさえ禁じられた。
「ひどいね」量子が鼻息荒く言った。
「店の仕事はいいの?」店の者は今量子ひとりしかいないのに、詠たちといっしょにテーブルについてしまっているのである。
「大丈夫だいじょうぶ」適当にやるから。適当に勝手にやるのは量子ではなく客たちの方なのである。「で、それで?」
「二十歳を前に俺は家を飛び出して、あちこちを旅してきた」
数年ぶりに故郷に帰ると妹のお腹の中には子供ができており、笠置詠と名乗る相手は消え、叔父の店の金庫の金がごっそりなくなっていた。
「まさか全部持っていくとは思わなかったんだけど」房子の腕の中で赤ん坊は気持ちよさそうに眠っている。「なにか考えがあるんだろうと思って」
しかしまわりはそうは思わない。金庫の鍵を持ち出し男に渡したのは房子である。罪人扱いされ、常に見張りがつけられた。しかし房子は、詠が迎えに来てくれると信じて待ち、ひとりで子を産んだのだった。
「俺が聞いたところによるとお房の、いや房子の相手の男は最初から叔父の金目当てで房子に近づいたのだろうということだ」
「ちがう」康之助の言葉に、房子は下を向いて小さく呟いて首を振った。「ちがう」
愛情に飢えた孤独な少女にとって優しい言葉と笑顔は、たとえそれがどれほど空々しくとも、家族と過ごす暖炉の部屋のように温かく感じられたことだろう。
金とともに消えた「笠置詠」を町外れの宿で見かけたと行商に出ていた鍛冶屋が言うのを聞き、怒りに燃えた康之助がそれを追ってやってきたというわけだった。
「もうちょっとで関係ない人を殺すところだった。危なかった」
「危なかったのはこっちだ」
「ほんと勘弁してほしいわよ」量子が身震いした。「いっつもいっつも」
「いっつもって?」量子を見て詠はぎょっとした。血の気の引いた顔は真っ青で震えており、目頭には涙が浮いている。「ど、どうしたの?」量子は子供のころからとにかく泣かない女として有名なのである。これはただごとではない。
「べつに」怒ったようにそう言うと量子は、そんなことよりと顔を上げ「その、自称笠置詠はどこにいるんだろうね」
「うん、鍛冶屋の親父が見たというのはまちがいないだろうから、おそらくこのあたりにいるのではないかと思うが」
そのときゴーマ神父が外から戻ってきた。
「ほっ」と詠の姿を見つけると目を見開いた。「詠、大丈夫だったかね」
「まあなんとか」刀で斬りつけられたことがもう噂になっているのかと思ったのだったが、違っていた。
「山の下のホテルで騒いでる連中が、笠置詠をやっつけて身ぐるみ剥いだとか自慢してたから、なにかあったのかなと思って」
詠と康之助は顔を見合わせた。
黙ってふたり立ち上がると、康之助は腰の刀の位置をぐいと調節し、詠はパイソンの弾倉を確認した。
椅子の背にかけていたムートンのジャケットを取ろうとしたとき、量子がそれを引っ張った。
「なに」
「なんであんたも行くの」下を向いて座ったままでそう言った。
「なんでって?」
しばらく量子は黙っていたが、意を決したように顔を上げると、怒った顔を泣きそうに歪めた。「あんたが帰ってくるまで、待つのがいや」
「どういうこと?」よくわからず詠は混乱した。面食らっていた。
「わからないならいい」上着から手を離した。
「本物の笠置詠という人はまことに鈍感なのですなあ」康之助がへんな感心をした。
「どういうこと?」それしか言えんのか。
「量子さんは心配なんだよ。あんたが死んだらどうしようって」ついさっきおまえは殺そうとしたけどな。
「あー」そういうことか。なんとなく詠にもわかったような気がした。そういえば危険な仕事のあと決まって量子は不機嫌だったのではないか。「そうか」
「そうよ」
「大丈夫、気をつけるから」詠には珍しく神妙な口調でそう言った。「でも、誰かがやらないといけないんだ」
「わかってるよ」
ゴーマ神父の言ったホテルは大久保町の中では比較的高級な施設で、酒場と宿を兼ねているものである。
賑やかに騒ぐ声が外の通りにも漏れ聞こえてきていた。
ちょっとしたロビーを通って酒場の方へ進むと、女たちを侍《はべ》らせ派手な飲み方をしている四人組がいやでも目についた。革張りのソファに囲まれ品のない冗談にげらげら笑っているのは、どれも見たことのない顔ばかりだった。
詠の保安官バッジと康之助の日本刀を見て男たちは一瞬|怯《ひる》んだようすを見せたが、相手はふたりだけ、しかも若造だというのですぐに馬鹿笑いを取り戻した。
声をかけようとした詠を康之助が押しとどめ、ひとり男たちのすぐそばまで歩いていった。
「ちょっとお訊ねしたいのですが」
「なんだねお侍さん」リーダーらしい太った男がそう言って笑うと、他の三人も大声で笑った。
「笠置詠という男をご存じですか。捜しておるのですが」
「知ってるぜー」これはまたおもしろくてしょうがないという風に四人は顔つきあわせて笑う。「今頃、宮山の沼んとこで凍えてるんじゃねえかなあ」
「宮山の沼」康之助が、わかるかというように詠を見た。
「そこに笠置詠がいるんですね」
「噂じゃけっこうやるとか聞いてたけどな、実際は情けない野郎だったぜまったく」前歯の抜けた男が吐き捨てた。
康之助がむっとしたようになにか言おうとしたので詠はそれをまあまあと抑え、にこやかな声で男たちに言った。
「その笠置詠という男はかなりの大金を持っていたと思うんですが」
「ん?」太った男が、ふと足下のボストンバッグに目をやった。
場の雰囲気が変化したのを察して、女たちが離れていく。
「そのお金は盗まれたものなんで、返してください」
「知らんねそんなもん」と太った男が言うのと同時に、別のひとりが「いやだと言ったらどうするつもりだね」と腰の拳銃を抜こうと動いた。
康之助の刀が一閃し、男の手が拳銃に届く前にかちりと鞘に戻った。
男の吸っていた紙巻煙草が、はらりと落ちた。
唇にくわえている部分を残して落ちながら、細い煙草はさらに細く綺麗に四等分に分かれた。
「じゃ、持っていきますよ」太った男の足下からバッグを引き抜くと詠は中身を見ようとチャックを開けた。
詠の動きはまったく無防備に見えたので、男たちは合図でもあったかのようにいっせいに銃を抜いた。
一番動きの速かったのはさすがリーダーと言うべきか太った男であったが、それでも銃口はホルスターを離れていなかった。
詠がいつどうやって動いたのかは誰にもまったく見えなかったが、なぜか詠のパイソンは太った男の目と目の間を正確に狙った位置でぴたりと止まっていた。
そして康之助の刀の切っ先は、歯抜けの顎の下にわずかに食い込んでいる。
「泥棒から盗んでも泥棒ですよ」詠はこの場にはそぐわないのんびりした口調で言った。「でも、泥棒が盗んだものを取り返して元の持ち主に渡すのは、これは罪にはなりません。褒められます」
「おまえ、何者だ」
「なに、ただの助手ですよ」
そして詠は銃を軽く回転させてホルスターに戻した。太った男は安心してぴくりと動いただけだったのだが、ほっと息を吐くまもなく眼前にはふたたびパイソンが出現していたので完全に凝固した。息も止めていた。
「どっちにします」
「返す」
宮山の沼と呼ばれる寂しい場所で縛られ吊されていた「笠置詠」を助け康之助と詠とでなんとか保安官事務所へ連行したのは、夜も遅くなってからだった。
量子には房子を連れてきてもらっていた。
凍えて動けない「詠」に、房子は熱いコーヒーを飲ませてやったり、手の指をさすってやったりして甲斐甲斐しく働いたが、男が房子に対して愛情がないばかりか、実は妻も子供もいるのだと知らされてからはずっと泣いていた。
笠置詠の名を騙《かた》り、盗んだ金を盗まれた間抜けな男は憔悴《しょうすい》しており多くを語らず、太田じいさんに牢屋へと引っ立てられるまで、ただひたすら謝り命乞いをするばかりだった。
「斬る価値もない」康之助が溜息をついた。「あいつ、自分の子の顔を見ようともしなかった」
「こんなに可愛いのにねえ」と量子が赤ん坊をあやしながら言った。「るりちゃん」うーれうれうれうれえとかも言う。
「へえーその子、るりっていうのか」取り戻した札束を数えながら詠が言った。
「まだ決めてなかったんだけど」驚いた顔で房子が我が子を見ていた。「あの人が戻ったらいっしょに考えるつもりで」
「じゃあなんでるりなの?」詠が量子に訊いた。
「んー、なんとなく」どういう感覚で生きとるのか。
「でもいい名前ね。るり。ひらがなで、るり、ね」房子は量子から子供を受け取るとようやく微笑んだ。
「決まり?」嬉しそうに量子も赤ん坊の顔を覗き込む。
「うん」房子が頷いた。
「いやいや」いくらなんでも。「いいのかなあ、そんないいかげんな」
「いいのよそういうもんだよ。こないだなんか村安さんのとこの赤ちゃんにも、あたし名前付けたんだから」
「村安?」そうだ信夫がそんなこと言ってたなと詠は思い出した。なぜ量子が村安の家の手伝いなどするのかよくわからなかったが、量子が楽しそうに話をしているのだからそれはそれでいいように思った。「なんて名前にしたの」
「太郎《たろう》」
「またずいぶん安直な」
「太郎ーって感じだったんだよこれが」
「ああわかる」房子が言った。ほんとかよ、と康之助が言った。
「さてと」詠は札束をいくつか机に残し、大半をボストンバッグに戻した。「取り戻したお金なんだけど、明日にでも俺が山向こうまで返しに行くとして、こっちは君たちに返しとく」
「どういうことだ」札の詰まったボストンバッグを渡され、康之助は訝しげな顔をした。
「だって」詠はにやりと笑った。「盗まれた金は正しい持ち主に返さなきゃ」
ちょうどその頃、店じまいを終えたゴーマ神父は店の前に赤ん坊が置かれているのに気がついた。
数日後、詠と量子は肌の色の黒いこの男の子に、女の子みたいな名前を付けることになる。そしてそのことを発端に、ちょっとした騒動が起こって大久保町がどたばたするのだが、それはまた別の話である。
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Audio Commentary
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司会 本日は『大久保町の決闘』ゆかりの方々にお集まりいただき、当時のことをあれこれお聞かせ願おうという企画なのですが、あの……。おふたりだけでしょうか。
河合 えっ。三人いますよね。
司会 え、ああいや私は別でして。その、河合さんと、太田さんの他は。
太田 みんないろいろ忙しいみたいだよ。
司会 はあ、そうですか。では、とりあえず、あのときはこうだったなあといった思い出話などなにかありましたら。
太田 いやあ最近じゃよー、ついさっきのことさえ覚えてねえんだこれが。歳のせいかなあ。
河合 いやいや。私なんか子供のころからそうですよ。右向いて左向いたら、もうさっきのことみんな忘れてる、みたいな。
太田 そりゃ大変そうだなあ。
河合 なんてことありませんよ。
司会 ……。あ、でもなにかひとつくらいなら、印象に残っている出来事とかないでしょうか。
太田 なんの話だったっけ。
河合 物忘れについてです。
太田 ああそうだった。
司会 ちがいます。昔の思い出などを……。
太田 はあはあ。昔なあ。ああそういや昔、新蔵と丸雄と三人、山の中で敵に追い詰められて。
司会 そうっ。そうそうそうですそういう話です。
太田 えっ? あー、なんだっけ。あんたがでかい声出すから全部忘れちまったじゃねえか。
河合 なんでも、三人で山の猿に問い詰められたとか。
太田 さる?
河合 三人の猿、だったかな。
司会 猿は関係ありませんっ。なんだ猿って。山の中で、敵に追い詰められたというお話です。
太田 ああそうそう。あのとき追い詰められてなあ、なんか食べたんだ山で。そうそうなに食べたっけなあ。ええと。なんか焼いたんだなんだっけなーうーんー思い出せん。
司会 あの、あの食べたものとか、どうでもいいので。
河合 山で食べるとなんでもおいしかったりしますよね。
太田 そうなんだよ。
河合 そうだ、今度バーベキューやりましょうよみんな集めて。
太田 あーいいねえ。いつやろう。
司会 バーベキューの相談はまたあとでしていただくとして、そのあと山の中でどうなったんでしょうか。
河合 バーベキューのあとですか。
司会 ちがいます。山で追われた話です。
太田 えーと。なんの話だっけ。
河合 猿を焼いた話です。
司会 猿は関係ないっ。
太田 あ、そーか物忘れの。
司会 ちがいますっ。
河合 バーベキュー。
司会 ちがうっ。
河合 どうしたんですか、なんか息苦しそうですけど。
太田 病気なんじゃねえか。横になるか?
司会 おまえらなー。あ、いやいや。その。えーと。もうやめにします? これ。
太田 なにを?
河合 バーベキュー?
司会 本日はありがとうございましたではさようなら。
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Original Commentary
解説
本書は95年新春公開予定の20世紀フォックス映画『RIO BANANA』の原作である。邦人の作品が、それもこのようなコメディ小説がハリウッド映画の原作になることは極めて稀で、別の映画のPRで来日していたプロデューサーのJ・カザック氏がこのことを発表したときは、ちょっとした騒ぎだった。当初カザック氏は次回作にマシュー・ブロデリック主演のコメディを考えているとだけ話したのであるが、しつこく食い下がる日本の記者団に根負けしたのか、監督はジョン・ミリアスかジョン・バダムで交渉中、そして原作は日本の新人作家のものになるだろうと漏らしてしまったのだ。
それがこの『大久保町の決闘』である。
映画では、アメリカの片田舎に日系人たちの町があり、今でも開拓時代みたいな暮らしをしているその町にマシューが迷い込んでしまって、というような話になるらしい。
というような実にリアルな夢を見た。もし本当だったら大変なことだなあと思う。
なんだ嘘か。などと怒ってはいけない。嘘ではない。夢だったのだ。そんな夢を見たなんていうのも嘘だろう、などと勘繰るのもよくない。ぼくは生まれてこのかた嘘をついたことなんか一度もない。それがだいたい嘘じゃないのいつだってそうなんだから嘘ばっかりついてそんなだから女の子と長続きしないのよもうやってられないわ、さよなら、みたいなこと言う人がとても多いのだが誤解である。みんな、帰ってきてくれ。
映画化かあ、へえ、それじゃ買ってみようかな、と単純に買ってしまった人がいるかもしれない。しめしめ。帰ってから今このあたりを読んでいたりすると、ちくしょう騙されたと怒っているのだろうけどはっきり言ってあなたが悪い。こんなケツのところ先に読む方がどうかしているぞ。それに文章の最初ちょこっとだけ読んで、勝手に思い込んだのも悪い。映画化というだけで買ってしまうのも馬鹿である。
ぼくは全然悪くない。悪くはないのだが、なんとなく民衆の怒りを感じるので話を変えよう。
解説、とタイトルをつけてしまった以上、解説をしなくてはいけない。賢明なる読者諸氏はこの文章を書いているのが著者自身であることに、すでにお気づきのことと思う。気づかなかったからといって賢明さのまったくないただの大馬鹿者だと決定したわけではないので、そう落ち込まないように。普通よりちょっとどうかなあ、というあたりである。まだだいじょうぶ。
この小説は実際に兵庫県明石市大久保町で書いた。
わざわざ出かけていって取材したわけではなく、そこに住んでいるのである。
どういう町かというとこれはもう小説そのままの町で、ぼくもいつも拳銃を持ち歩いていて、あ、ほら、今も外で銃声がした。
どうしてそう嘘ばっかりつくの、と目に涙をためられても困る。本当なんだから。
まあ大久保町はともかく明石市というのも妙なところで、駅前にでっかい鯛焼きの像を作ったかと思うと、今度は突然わけのわからない博物館を建てたりしてしまう。やたらと道を掘っくり返したりもする。いろいろ建設やら工事やらをすると、市会議員がどっと儲かるんだそうだがぼくが言ったんじゃないぼくが言ったんじゃない。近所のおっさんが言っていた。○○さんだ。ぼくは知らない。
最近は金色(市民はびっくりしました)だった鯛焼きの像はどういうわけか今では赤く着色されていて、その不細工さ加減は京都タワーといい勝負である。博物館の方は、くだらんもんに金をかけやがってと議論を呼んでいたようだが、そんなことより中身がすごい。なんにもない。行った友人が「必見のしょうもなさ」だと言うので、あわてて行ったのだが、本当につまらなくて感心した。どれもすごかったが特別展示だとかで「魚住城跡」というタイトルの、でっかいパネル写真が展示されていたのには唸った。写っているのはその辺の普通の道なのである。たしかに「跡」かもしれないが、こんなもん見せられても。
明石観光の際は避けて通ることをおすすめする。
[#地から6字上げ]田中哲弥
その後駅前の鯛焼きの像は風の強い日に落ちてつぶれてしまい、今は多少ましなものに替わっている。博物館は開館当時一度訪れて以来二度と足を運んでいないので現在どのような状態なのか知らない。調べようとも思わなかった。それから電撃文庫版解説で「近所のおっさん」としてなんの考えもなく適当に名前を松山さんと書いたところ、どこの誰とも知らない人から「わしはそんなこと言ってないぞ」とどうやって調べたのか直接電話がかかってきたりして困ったので、今回はやむなく伏せ字にした。ご了承いただきたい。
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Trailer[#地付き]GUNFIGHT AT OKUBO-CHO
兵庫県明石市大久保町はガンマンの町である。ここでは男はみんな拳銃を携帯しているし、決闘で人を殺しても罪にはならない。そんな馬鹿なと言われても本当のことである。この本に嘘はない。
受験をひかえた高校三年生の光則は、勉強に専念しようと母の田舎である大久保町へやってきた。異様な景色に驚く間もなくいきなり決闘に巻き込まれたり、あたふたするうち凄腕のガンマンとかんちがいされたり、もうどんどんいろいろ巻き込まれる光則の夏休みはすごい。
衝撃のノンストップギャグアクションコメディロマンスウェスタン!
脚の綺麗な美少女も出演します。
いい娘ですよ。
普通こういうものは担当編集者が書くのだろうけど、この作品の執筆当時ぼくはまだコピーライターだったので、自分で書く? はーほな書きますわというような流れでぼくが書いた。この分の原稿料はなかったと思う。
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底本:「大久保町の決闘」ハヤカワ文庫JA、早川書房
2007(平成19)年3月20日印刷
2007(平成19)年3月31日発行
入力:
校正:
2008年5月16日作成