さらば愛しき大久保町
原作・脚本・監督 田中哲弥/イラスト 此路あゆみ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大久保《おおくぼ》町
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蔵人|頭《がしら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ]田中哲弥
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親善のため世界各国を外遊中のカナコ王女は、バッキンガム宮殿での舞踏会、アムステルダムでの豪華客船プリンセス・カナコ号の進水式、パリでの対西ヨーロッパ諸国貿易に関する会議、ローマでの散髪というスケジュールを順調に消化し、日本の迎賓館での晩餐会を終えた翌日の午後遅く、どうでもいい田舎町兵庫県明石市大久保町に到着した。
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Chapter
03:20 PM
03:35 PM
04:25 PM
04:40 PM
04:58 PM
05:05 PM
05:12 PM
05:45 PM
06:20 PM
06:28 PM
06:34 PM
06:46 PM
06:52 PM
06:52 PM
07:16 PM
07:16 PM
07:33 PM
07:35 PM
09:12 PM
10:00 PM
10:05 PM
10:25 PM
10:30 PM
10:25 PM
10:53 PM
00:20 AM
04:35 AM
新作ストーリー「07:37 PM 観光ホテル西島旅館別館 大広間」
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Special
Cast & Staff
登場人物一覧
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映画『さらば愛しき大久保町』
主演キャスト&スタッフ紹介
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Producer Interview
映画プロデューサー・武田康廣インタビュー
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「大久保町シリーズはいかにして出来たか」
武田康廣氏による
大久保町三部作の誕生秘話を収録!
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Original Commentary
田中哲弥によるオリジナル解説
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原作本のオリジナル解説を収録!
大久保町に暮らす人々の生活が明らかに
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Trailer
オリジナル予告篇
[#ここから3字下げ]
原作本の旧担当者・SUE鈴木氏による
『さらば愛しき大久保町』の紹介文を再録
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Cast & Staff
●出演
松岡芳裕…………大久保町に住む大学生
カナコ王女………大久保町にやってきた王女
シゲさん…………双子のおっさん。水族館の館長と副館長
トシさん…………双子のおっさん。水族館の館長と副館長
牧村真紀…………自称・芳裕の彼女
寺尾俊介…………王女を狙う謎の集団の戦闘員
神田茉莉子………王女を狙う謎の集団の美女
山口達之助………侍従長
河合茂平…………侍従次長
西畑五郎…………侍従
篠原 元…………王室の蔵人頭、騎士団の団長
毛利新蔵…………腕利きの傭兵
●原作・脚本・監督
田中哲弥
●プロデューサー
武田康廣
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午後三時二〇分 明石原人出土地
明石《あかし》原人の化石が発見された場所というのが大久保《おおくぼ》町の海辺にある。
「明石原人出土地」という。
なんのひねりもないが、まあこの手のものはそういうものだ。
なんのひねりもないではないかなどと指摘したりすると、田舎の役所は絶対「原人トピア」と言い出す。どうでもよい公園なんかを作って個人的な金儲けに走るのでこれはこのまま放っておく方がいい。
行ってみるとわかるが、ここだったんだよ、ということが『明石原人出土地』という看板によってわかるだけのただの空き地である。
空き地の奥が赤土の露出した高い崖にぶつかっていて、ぼこぼこと直径十センチほどの穴がところどころに穿たれている。
この穴を見て、ああ原人の骨はこのようにしてこつこつと地道な作業によって発掘されていったのだなあと、太古の原人への壮大なロマンに思いを馳せたりしてはいけない。
この穴は原人発掘とは実はなんの関係もなく、近所の子供たちが爆竹で遊んだ跡である。
一本や二本の爆竹ではこれほどの穴はできないので爆竹二十本分くらいをほぐして集めた火薬に火を点けるのだ。こうすると胸にどんとくる爆発音とともにこういう穴をあけることができる。特におもしろくてしかたがないというほどの遊びではないし、危ないので絶対にやってはいけない。
火薬を集める段階で、自然発火して爆発することがあるらしい。
大変危ないので、絶対にやってはいけない。
と、くりかえしくりかえし先生に言われつづけていると、なぜか子供は必死になってやるのだった。
やってはいけないと別に言われなくとも、まずまちがいなくやってはいけないだろうなあと予測のできることも子供は喜んでやってしまうので、結果「明石原人出土地」の看板も石をぶつけられてあちこちが欠け、裏にはちゃんと「アホ」「しね」「うんこ」の定番をはじめとする子供の落書きが書かれている。
そんなことはどうでもよかった。
この「明石原人出土地」から崖の上の方を見上げると、なにが見えるかというとこれが崖と空以外は見えないのだが、実はその崖の上には旅館があるのである。
そうそう。
問題はこの旅館である。
実際に原人がそこにいるとかんちがいしたらしい王女の一行は「原人見物」のあと、この旅館に宿泊する予定だった。
こんな、海の家に毛が生えたようなぼろい宿に、国賓《こくひん》をお泊めしてもよいのかという声は当然あったのだが、幸い王女はこの旅館に足を踏み入れることはなかった。
宿の手前で、ささっと誘拐された。
目の前で王女が誘拐されたそのあとも、残された人々は起こったことが誘拐だとわからず、なんと一時間近くもぼんやりその場で王女を待ちつづけていたほど、誘拐犯の手際はよかった。
と、関係者は語ったが、ただぼさっと立っていただけの人々の方にも絶対問題はある。
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午後三時三五分 鎮守の森バス停
海と森の匂いを含んだ初夏の風がバス停の前の雑草を揺らしていく。
梅雨が明け、そこらじゅうが一気に夏になってしまったが、まだ風は爽《さわ》やかだ。
まだ青い稲穂が、風に揺れるさわさわという音。
遠くで烏の鳴く声。
かすかに気の早い蝉《せみ》の声も聞こえる。
のどかである。
バスは全然来ない。バスどころか、車も人もまったく通らない。
家からバス停まで必死で走ったのだが無駄だった。落ちついて考えればわかることであった。
芳裕《よしひろ》がにこにこしながら座っている、このトタンで作った祠《ほこら》のようなバス停に時刻表などというものはない。
「バスはおおよそ一時間に一本ぐらい」
というのが町の常識になっていて、一時間以上待たされたときは、
「バスが遅れた」ということになり、一時間以内で乗れたときは、
「時間どおり来た」とみんな満足するのである。
だからバスが見えているのならともかく、急いでバス停に走っていくということぐらい無意味なことはないのだった。
だいたい、この狭い道をバスが走ってくるのを見るだけでもよそから来た人は驚いて逃げ場を探す。
狭いうえに、舗装されていないのでめちゃくちゃにでこぼこで雨が降ればあちこちに水が溜まる。梅雨が明けたばかりの今はゴム長が全部浸かってしまうほど深い水たまりもあって、車の轍《わだち》から外れた水たまりにはアメンボがいるし、木陰の水たまりにはたいてい細長い寒天みたいな蛙の卵が沈んでいる。
トタンのバス停を出てその前に立てば、鎮守《ちんじゅ》の森から抜け出た細い道が、微妙にくねくねと曲がりながら緑と白の綺麗《きれい》なストライプを描いて小さな丘の向こう、海の方へと下っていくのが見える。道の両側にはどうしようもなく広い田畑が、遠く低くなだらかな山を背景に広がっていて、美しいと言えなくもないが若者向きでは絶対にない。ぼくって本当に田舎者なんだねという再認識を強いる景色である。
東京から来た芳裕の友人は、空が低い空が大きい昼間に月が見えると大騒ぎした後この緑と白のストライプの道を見て言ったものだ。
「これわざと?」
わざとこんなことするほど、大久保町の人々は暇ではないのだ。
原因は農家のトラックにある。
道は放っておくと全面雑草に覆《おお》われるはずなのだが、車のタイヤが踏む部分は少し掘れていて雑草が育たず、白い地面が露出する。雑草は、踏まれない両端の部分と、それから轍と轍の間に密生し、その結果、道の真ん中に二本のレールを敷いたように盛り上がる。
つまりどういうことかというと轍は三本ついているのである。
オート三輪という、後ろタイヤがふたつ、前は真ん中にひとつだけの、とてつもなく古い車がここではまだ嬉しそうにたくさん走りまわっていた。必要以上にびっくりしたような顔をしたこの車が道に三本線をつけまくり、どうも知っていてわざとやっているらしいのだが、牛の糞《ふん》をいたるところに落としまくる。
たいていの農家は乳牛を飼っており、大量に発生するその糞を畑に運ぶのである。肥料として牛の糞がどうしても必要だというわけではなく、臭くてどろどろした糞が牛の膝《ひざ》あたりまで溜まると、乳の先が糞に浸かりそうになるのでなんとかしなくてはならんというのが一番の理由であり、したがって糞がその場からなくなりさえすればそれでいいわけで、トラックの荷台にぎりぎりまで溜められたゾル状の牛糞は、車の揺れと坂道の勾配によって道に適当にばらまかれ、畑に着いたときには半分ほどに減るのだった。
かくして作業は楽になり、町は臭くなる。
農家の必需品オート三輪には大きいのと小さいのとがあって、小さい方のやつなんか丸いハンドルではなくてオートバイみたいな横棒ハンドルがついているのがときどきある。これはもう自動車というよりもオートバイの後ろタイヤをふたつにして屋根とドアを取りつけ、どうにか自動車のふりをさせていると言う方が正しい。そしてこいつらはときどきカーブでこけた。こけたときはどうするかというと、ああこけちゃったと言いながら運転していた人が起こすのである。
大きいのもたまにこけることがあるが、そういうときはひとりでは起こせないのでみんなで手伝う。芳裕も何度か起こすのを手伝ったことがあった。大人の男ふたりいれば、大きいオート三輪がこけてもなんとか起こせる。というのも町の常識のひとつだった。
かすかに車のエンジン音がまた聞こえた気がして、芳裕はずっと歌っていた鼻歌をやめた。
遠くてくぐもっているが、多分バスだろう。バスとオート三輪以外の車を大久保町で見ることは珍しい。どの程度の珍しさかというと、ちょうど銀座でばったりマイケル・ジャクソンに会うぐらいの珍しさである。大阪で美人を見かけるよりは、ちょっとまし。
しかしエンジン音が聞こえたからといって、まもなくバスが来るというわけではない。
まずあと十分はバスには乗れない。なにしろ十キロ離れた岸壁に打ち寄せる波の音が聞こえているのだ。まだまだバスは遠いはずだ。
ふたたびんーんんーと鼻歌をはじめたが、自分ではまるで意識していなかった。家族や友人に指摘されたり、バスの中や駅など人の多い場所で近くにいる人がぎくっとしたように自分を見たりときには逃げたりということが頻繁《ひんぱん》にあって、そうなって初めてああまた歌ってしまったみたいだなあと気づくのだった。
別に今、楽しくてしかたがないというわけではない。
どちらかというとつらい。
芳裕は今日|牧村《まきむら》真紀《まき》ちゃんに会う約束をしていた。デートではなく、真紀ちゃんのアパートへ行ってビデオの配線をしてあげることになっていた。
これはなにも特別なことではなく、芳裕は真紀ちゃんにしょっちゅういろいろ頼まれている。今日はビデオの配線だが、ときには部屋の模様替えであったり自転車のパンク修理であったりする。
女の子にねえと頼まれて、いいよやってあげるよと嬉しそうに男が助けるのは別におかしなことではない。一般には微笑ましいとされている。ごめんねえ、いいんだよう、なんてこういう自分たちだけで完結する類《たぐい》の幸せを不特定の第三者の面前《めんぜん》で恥ずかしげもなく演じることが人として許されるかどうかというようなひねくれた意見はともかく、まあよくある話である。いちゃいちゃしやがって。
しかし「うちのビデオ君がぁ修理から帰ってきたんだけどぉ、つないでやってくれないかなあ。うふ?」なにがうふじゃ、ではなくて真紀ちゃんの場合「ビデオ帰ってくるの明日よ。わかってる?」
ただちにつなげという、これは命令である。
どうも女の子たちは、機械に弱いことが可愛い女の子の条件であるかのように錯覚しているようなところがあるがそれは違う。全然違う。可愛い女の子が困るから男は親切になるだけであって、可愛くない不細工が機械のことあたしなんにもわかんなーいなんて言ってみても、そうかやっぱり馬鹿なんだなと思うだけだ。
真紀ちゃんがみんなのあこがれとなるような美しいお姉さんで、命令されても男はいそいそとそれに従うといったタイプの女性だったなら、おまえここに来てさっさとビデオをつなげと命令するのも絵になっただろうが、まあどうまちがっても真紀ちゃんにあこがれるような人間はいない。なにしろ顔がいきなり牛なのである。
なのに芳裕はバスを待っている。
バスはかなり近くまで来ているようだ。
つらくなってきてため息をついた。
「ねえあたしのこと好き?」大久保駅のホームで芳裕のことを勝手に気に入った真紀ちゃんが、その巨大な鬼のような顔で詰め寄ってきたときのことを、芳裕は重苦しい気分とともに思い出す。
ほとんど初対面で好きもなにもあったものではなかったが、気の弱い人間は強引な人間に流される。
「え、あ、まあ」と、寝言のようないびきのようなあいまいな声を出した。
あれがいけなかった。
今でも思うのだが、どうしてあれが、
「会ったとたん芳裕もあたしのこと好きだと言ってくれた」ことになるのだろうか。
以来ひきずられっぱなしである。
といって、特になんとかしなくてはいけないというほど悩んでいるわけでもない。それは別にいいのだ。ビデオの配線や自転車の修理くらいはいくらだってやってあげようと思うし、そんなことなら全然知らない他人にだってしてあげる。
困るのは、他の友達との約束があったりするときだ。
今日は前期試験のための講義ノートを、同じゼミの高田に貸してやることになっていた。だから、ちょっと友達のところへ寄ってから行く、と電話がかかってきたとき一応断ったのだ。本当はノートを渡した後も高田の家でゆっくりして、それから飯でも食おうという予定だったのだが、それはあきらめてすぐに真紀ちゃんのところへ行ってあげるつもりだったのである。
まちがったことはしていないと思うのだが、真紀ちゃんはそれが我慢できなかったらしい。意地悪な声で、
「あたしと高田君とどっちが大事なの」
「えっ、えっ、真紀ちゃんも、高田も、どっちも大事だけど、その」と、理不尽な詰問によせばいいのに芳裕は真面目に答え、結局そのどっちつかずの態度に腹を立てた真紀ちゃんは恐ろしいことを口にした。
「もうあんたの顔なんて二度と見たくないわ」
電話は切れた。
真紀ちゃんの「二度と顔も見たくない」は、今回「高田などという男の所へ寄っている暇があったら少しでも早く来い」という命令として使われているのだが、芳裕はそんな言葉の裏を読んで行動しているわけでは決してない。相手が誰であろうと二度と顔も見たくないほど嫌われてはたまらないという恐怖のために、自分の意思に関係なくそうしてしまうのだ。
実際芳裕は真紀ちゃんに、二度と顔も見たくないというのを週に一回程度は言われているが、それでも毎回言うことをきいてしまうのだ。
高田に悪いなあと思ってつらかった。
あいつはぼくに対しては怒らないけど、とにかくすぐ腹を立てるからなあ。
高田によると真紀ちゃんは、
「百年腐らせたドブの底のヘドロより醜《みにく》いイボイノシシ顔の黒デブ」だったり「いつもケツで這っているようにしか見えない太い短足の蝦蟇《がま》ウンコ蛙」だったりする。
さっき電話をしたときは、
「あの脳味噌ゲロの油ぎとぎとくそったれ豚牛女め」
いいかげんあんなのは放っておけと、いつもと同じように言われた。
真紀ちゃんのことはたしかにそんなに好きではないが、それでもあんなにボロクソに言われるとちょっとつらい。うまいこと言うなとは思うけど。
いろいろつらくなって、ねばねばした痛みがおなかに溜まった。
それでもまだ鼻歌を歌っている。
歌いながら、ズボンの後ろのポケットから、尻のカーブに沿って歪《ゆが》んだ茶色い革の財布を取り出すと、両掌《りょうてのひら》で大事そうに挟《はさ》んで目を閉じた。
気味の悪い宗教に入っているのかとときどき友人に訊かれるのだが、これは小さいときからの癖だった。
鼻歌といい財布を拝む癖といい、馬鹿一歩手前というほどの素直さと恵まれた容姿がなければ、その不気味な言動だけでみんなから毛嫌いされていたかもしれないのだが、本人は自分の性格や見た目で人が安心しているとは思わず、自分のまわりにはいつも親切な人が多くて助かるなあと喜んでいるだけである。
いいやつには違いない。けれど、その自信のなさと気の弱さに、まわりの人々は常にいらいらさせられるのである。
そして、自分にいらいらしている人を見て、ああやっぱりぼくは駄目だなあと落ち込んで、よけいに人をいらいらさせる。
やっとバスが来たようだった。
芳裕は立ち上がり財布を尻のポケットに押し込むと、ため息とともにゆっくりと日差しの中へ出た。
バスではなかった。
水たまりの泥水を巻き上げて、ばたんばたんと飛び跳ねながら走ってくるのは普通の車だ。
珍しいなとは思ったが、それよりもバスではなかったことになんとなくほっとした。
ほっとして初めて、自分が真紀ちゃんのところへ行きたがっていないことに気づいた。
なぜかははっきりしないが、悲しくなった。
鼻歌をやめ、芳裕は遠くに見えるその黒い車をぼんやり眺めた。
なんだか急いでいるみたいだなあ、と気づいたときには目前に迫っていた。
いつも見ているバスやオート三輪の十倍くらい速かった。光速に近い。そんなわけないのだがとにかく速かった。
普段なら、近くにエンジンの音が聞こえてからバス停を出れば、ちょうどいい距離なのだ。運転手さんがこっちに気づいて、それからしばらくして前に停まってくれる。
なんでこんなに速いんだ。
そのスピードが理解できなかった。
ぼーっとしていたので、立ち上がるのが遅かったことも災いした。
これは危ない。やっと気づいたが、もうよけられない距離だった。
ああこれは絶対によけられない。まちがいない。
声もでなかった。
芳裕は立ちすくんだ。
いや驚いたのは車を運転していた方も同じである。
狭いが見通しのいいなんにもない道だ。まさか人が飛びだしてくるとは思わない。
道端にみすぼらしい小屋みたいなのがあるなあと思っても、これがバス停だということは地元の人でないとわからないし、たとえ中に人がいるかもしれないということまでは想像できたとしてもまさか、その人物がわざわざ車が通るちょうどそのときに道にひょっこり出てくるほどの間抜けだとは普通考えないものだ。
「わっ」と、小さく叫びながらドライバーはブレーキを強く踏み込んだ。たとえ、こんな馬鹿な人はそのまま轢《ひ》いてもいいんではないかと頭の隅でちらりと思ったとしても、やはり踏んでしまうのが車を運転する者の条件反射である。ここでアクセルの方を踏むのは明らかに殺意がある場合か、免許を取るのに百万円かかったおばさんだけだ。
急ブレーキによってロックしたタイヤは、アスファルトの上を走ることを前提として作られていたためもあってでこぼこした土の上で簡単にグリップを失った。
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_025.jpg)入る]
スピードはほとんど落ちず、えぐれた轍の中をタイヤが滑る。
このままでは轢いてしまう。
ドライバーは、本能的にステアリングを切った。
轍を外れたタイヤが盛り上がった雑草の畝《うね》に乗り、瞬間的に強力なグリップが発生した。
車が横転した。
王女に拳銃を突きつけていた男は天井で頭を打ちつけ、その衝撃にたまらず引鉄を引き絞った。
なにかが弾けるようなパンという音がしたあと、重い車体がひしゃげる金属音とガラスの割れる音がしばらく続いた。
やがて車が動きを止め、あたり一面が重苦しい静寂に包まれる。
風が稲穂を揺するさらさらという音と、遠くの蝉の声だけが残った元ののどかな田園風景の中、芳裕は蝋《ろう》人形のように硬直していた。
道の真ん中で、両手を前に突き出し口を開いて歯を剥《む》きだし、片方の膝だけ中途半端に曲げている。目は固く閉じていた。
謎の円盤からの謎の光線を浴びて焼け死ぬ寸前のアイダホの農夫、という感じである。
音がしなくなったので、芳裕はおそるおそる目を開けた。
姿勢はそのまま。
目の前にあるはずの車はなかった。見慣れた田舎の景色があるだけである。
あれ。という顔をして両手を下ろしかけたとたん頭上で、
「がーっ」と烏が鳴いた。
「わーっ」と芳裕は叫んで、下ろしかけていた両手で顔の前の空間をめちゃくちゃにかきまわすようなことをしたが、そうしながらすぐにそれが烏だということはわかったので恥ずかしくなり、あわててまわりを見まわす。
田圃《たんぼ》に車が横になって落ちていた。
大変だ。
稲穂がむちゃくちゃだ。
車は流線型をしたミニヴァンで、大久保町の田圃で横倒しになっている姿は実際謎の円盤みたいに見える。
ぐらり、と車が揺れた。
そこでやっと芳裕は中になにかがいるということに思い当たった。たぶん人だ。
なにをどうしようという明確な意志のないまま、ふらふらと田圃の方へ足を踏み出す。水が溜まっているので靴が汚れてしまうなあ、とふと思ったがもうそのときは片足は宙に浮いていた。
稲穂に隠れてよく見えなかったのだが田圃の底は思っていたよりずいぶん低いところにあった。
無言でゆっくり芳裕は顔面から田圃へと落ちていく。
がさがさびったーん、とそのとおり書いた文字が見えそうなほど見事な音をたてて全身を泥の中に落とした。靴が汚れるどころの問題ではなかったが、車のことが気になる芳裕は泥まみれになったことに気づいていない。いや気づいてはいるのだが、それがどういうことかを把握するところまで気がまわらない。
私はこういう落ち方をわざと狙ってしたのです、というような顔で悠然と起きあがる。
Tシャツもその上に羽織っていたコットンのシャツも、もちろんジーンズもどろどろのびしゃびしゃになって体にはりついたがおかまいなしだった。
常日頃から服が泥だらけになっても全然気にならない大まかな性格だというのでは決してなく、ひとつ気になることができるとそれ以外感知できなくなるのである。
まわりの人々は芳裕のそういう状態のことを「入る」と呼ぶ。芳裕が「入って」しまっている間ずっと、そばにいる事情を知った友人たちが耳の横で「帰ってこいよー帰ってこーい」と連呼しており、はっと気づくと「ああ帰ってきた。今からどこ行く?」というようなことが日に二三度あった。
集中力がある、と言うとなにかできそうな気がするが、こういう集中の仕方はたいていの場合、普段簡単にできるはずのことを失敗する。
本を読んでいて電車を乗り過ごすのはあたりまえで、ひどいときは|三ノ宮《さんのみや》と梅田《うめだ》の間を三往復しても気づかなかったし、一度友達にウォークマンを借りて学生食堂で聴いていたら、曲に没頭してしまってふと顔をあげるとまわりの学生たちがおびえた目で自分のわけのわからない歌と踊りを眺めていたということもある。
あれ以来二度とウォークマンには近づいていない。
車がまた揺れた。
中からなにかが出ようともがいているらしい。
すぐ助けに駆け寄ればいいのだが、はっきり言ってこれは恐い。
どんなものが出てくるかわからない。
どうしたものかとどきどきしながらただ眺めていると、割れた窓から白いものがにゅっと出た。
続いてもうひとつ。
手だ。それも女の人の。
「よっこらしょっと」
軽やかに響く可愛らしい声で不似合いなことを言いつつ窓から顔を出したのは、髪の長い女の子だった。
「あ」と芳裕は嬉しそうな声をあげた。知っている子だと思ったのである。
女の子が芳裕に気づいて、にっこりと笑った。いや、そうではなくてにっこり笑っているような顔なのだった。子供や犬が、珍しいものを見つけたときみたいな表情でじっと芳裕を見る。
「やあ」と近寄りながら名前を思い出そうとして、初めて見る子だと気がついた。「こんにちは」ひっくり返った車から出てきた人に普通こういう挨拶はしない。
「はい、こんにちは」口が開いたとたん、微笑み寸前の顔は本当の笑顔に変わった。その口調にはどこか、子供を相手にしているような響きがある。
車の窓枠に腰をかけて、女の子は車の中を覗き込んだ。
唇を真一文字に結んで小刻みにうんうんと頷《うなず》く。それから安心したようにきょろきょろとあたりを見まわした。
みるみるうちに困ったなあという顔になる。
「これ、水が溜まってるんだねえ」と、田圃から全身泥だらけの芳裕へと視線を移し「それでこけるとそうなるのね」
「え」と自分の体を見下ろして「ああ。そう。こけた」
「そうかあ」うんうんと考え込んで「靴を脱いでいけばいいかな。大丈夫かな。いいか。いけるか」ひとりで問答をしたのち、両脚を窓の外へと出して白いハイヒールを脱ぎはじめた。
女の子は上下共真っ白のスーツを着ていて、スカートの方はというとタイトのミニだった。肩までの長い髪を風になびかせながら窮屈そうに靴を脱ぐ仕草は、びっくりするほど大胆で、女の子なら普通もう少し人の目を意識した方がいいのではないかと、見ている芳裕が心配になるほどだった。三つや四つの幼い女の子でももうちょっと女を意識して生きているような気がする。
けれどもどういうわけかその大胆さには不思議な女らしさがあって、芳裕は目の前の女の子のことをとても綺麗だと感じていた。恥じらいがないとか品がないとかいうような印象はまるでない。
たいへん可愛らしい。
芳裕はずぼずぼと音をたてて稲穂の間を進み女の子の前に立つと、その手を取って車から降りるのを手伝った。
ふたりは手をつないだまま、道路までの数メートルを無言で歩いた。
手の中に感じる細い手が素直に自分を頼っているのを感じながら、芳裕は感動していた。
頬についた泥が乾きはじめたのか痒くなってきたが、そんなことはどうでもいい。
我慢できずにちらりと後ろを振り返ってみると、楽しそうに「なに?」と問い返してくる丸い瞳があった。
芳裕は嬉しくてたまらなかった。
ふたりが歩き去ってから、一瞬車がぐらぐらと揺れた。
そして、それからまた動かなくなった。
車の中には、男が三人いた。
運転席と助手席の男はまだ気絶したままでじっと動かない。
助手席の後ろで逆さまになっている男も気を失ったようにぐったりしているのだが、この大きな男だけは思い出したようにじたばた動くというのを周期的に繰り返した。
頭が下になっているため、車に浸入してきた田圃の水に顔の半分が沈み、溺れそうになっているのである。
しばらくの間、馬糞を水に溶かしてバケツほどの大きさのお椀で食べていると馬が気を利かしてどんどんおかわりをついでくれるという不気味な夢にうなされつづけたが、十二回目にじたばたしたときゃっと目が覚め、自分の置かれた状況を思い出した。
あわてて体の向きを変え、そこで右手に拳銃を握りしめていることに気づいた。そういえば一発撃ってしまった覚えがある。
王女は殺さないという計画だ。しくじったか。セイフティをかけておくべきだった。
旅館の番頭が着る法被《はっぴ》の、左胸のあたりが小さく焦げていた。旅館の番頭のくせに拳銃を持っているというのではなくて、旅館の番頭に化けているだけである。
車が横転した衝撃で手首が捻れ、自分の方へ向けて引鉄を引いてしまったらしい。もうちょっとで自分を殺すところだった。
ベレッタのセイフティレバーを降ろしながら、そこでまたはっと気づいた。
王女がいない。
横倒しの車の中で一瞬パニックに襲われた。
リーダーになんと言えばいいのだ。
そのとき、人の声が聞こえた。男の声だ。王女ではない。
「四つタイヤの新型やがな」通りがかったふたりの農夫だった。「こんなんでもけっきょくこけよるねんな」
「あーあー、稲わやや。ガーさん怒りよるでえ」ガーさんというのは人の名前である。
「ガ」の部分ではなく「ー」のところを強く発音する。
「わざわざ稲の上へこけいでもええのにのおほんま」
ぶつくさ言いながら、結局車を起こしにやってくる。
「おい、大丈夫か」見知らぬ農夫に覗き込まれ、車の中の男は拳銃を隠して身をこわばらせたが、覗き込んだ方はまったく無頓着《むとんちゃく》だった。「出られへんのんかいな。まあええわ」
「お、シゲやんそっちかかえて」これも「ゲ」がアクセントである。
車がこけていたらみんなで起こす、というのがもうほとんど習性となっている。起こさずにはいられないのだった。
「おおらあ。やっぱり新しいのんは重たいの」などと言いながらふたりは慣れた手つきであっさりと車を起こしてしまった。
車が起きると、もうあとはどうでもいいらしく、
「お、ほな行こか」
「よ」と、田圃を突っ切って行ってしまう。この「よ」というのは大久保町に住むじいさん連中の間で肯定にも否定にも使われる不思議な感動詞で、肯定か否定かの区別はわかる人にはわかるらしい。微妙に違うのだそうだ。
家を訪ねて出てきたじいさんに、
「よねこさんいらっしゃいますか」と訊くと、
「よ」
「あ、今いらっしゃらないんですか」
「よ」
ぜんぜんわからない。
そんなことはとりあえずどうでもいいのだが、車の中の男はなんとなく恐かったのかしばらくじっと動かずに待っていた。
農夫たちが振り返りもせずに畦道を遠ざかっていくのを割れた窓越しに眺め、それから首を巡らせて遙か向こうの小さな森の手前に、王女の白い服が陽炎《かげろう》に揺れるのを発見した。
運転席で、どういうわけかにやにやしながら気を失っている色の白い男の頬を軽く叩く。
「おい、しっかりしろ」車で追えばすぐに追いつく距離だ。
「あ」と運転手は目を開いた。「ああ。寺尾《てらお》君か」
「作戦中は名前を呼ぶな」
「ああ、ごめんごめん」さほど悪いと思っているようすもなくあやまると運転手はああそうだと思い出して「今の男の子、怪我しなかった?」
「知るか。跳ねとばして突っ走ればよかったんだ」
「そんな無茶な」
「いいから早く動かせ。王女が逃げた」
「はいはい。おっと、えらいぬかるみだな」
運転手がキーをひねると、簡単にエンジンはかかった。
「どうだ、出られそうか」
「むずかしいな」と、運転手はオートマチックのセレクトレバーを小刻みに入れ替え、車を前後に揺らすようにした。泥に沈んだタイヤをそのまま回転させては、地面が深く掘れるばかりで身動きがとれなくなる。「一応4WDなんだけどな、これ」
じわり、と少しだけ車が高い位置に上った感触を逃さずそのまま前進を始めた。
ゆっくりずぶずぶと慎重に車を進ませ、田圃から道への段差に片方の前輪が当たると同時に一気にアクセルを開いた。
車は泥を跳ね上げながらも難なく段差をクリアし、元の道路へと這いあがる。
「よし、行こう」
「はいよ」運転手は自分の運転技術を誇るでもなく、あたりまえのように頷くと、勢いよく車を発進させた。
砂利を蹴たてて車は加速していく。
助手席にシートベルトで縛りつけられていた男は、その音で目を覚ました。
「おっと」どうなってるんだ。と長髪の乱れた頭を軽く振り、それから他のふたりのどちらにともなく「さっきの子、怪我しなかった?」
運転手はおかしそうな顔で後ろをちらりと振り返ったがなにも言わない。
寺尾と呼ばれた大男は、まったくこいつらは、とでも言いたげに鼻から勢いよくため息を吐いた。
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午後四時二五分 観光ホテル西島旅館別館 牛の間
「まったく、えらいことになりましたなあ」
まるで緊迫感のない声で侍従次長《じじゅうじちょう》が言った。旅館の浴衣をなんの抵抗もなく着ている。頬に大きな傷跡があり、一見恐ろしげにも見えるのだが、その表情に鋭さとか威圧感とかいったものはなんにもなくてぼやんとしている。海の見える窓辺に胡座《あぐら》をかいて座り、安物の湯飲みでお茶を飲む姿はまるっきり社員旅行のおっさんそのものである。王女の側近という風にはとても見えない。
「河合《かわい》さんっ」完全に裏返った気持ち悪い声で侍従長が眼を剥いた。この人も律儀に旅館の浴衣を着ている。侍従次長と違うのは、この人は正座をしていて、しかも浴衣と体の間に隙間が少しでもあるとエボラウイルスが入り込むのだというほどきちんとぴったり着ているところである。ものすごく窮屈そうだ。「あなたでしょうがあなたでしょうが。えっ? そうですあなたです」自分で答えて「日本に行くなら明石市だと最初に言ったのはあなたです」おろおろしている。
「そうでしたな」と、侍従次長の河合はじんわり思い出して「うん、そりゃそうですよ。だって日本の時間の標準になっていて、しかも人類のルーツの原人がうじゃうじゃ生きていると聞けば誰だってそこが日本の中心だと考えます」
「そうだよねえ」侍従長はため息をついて脱力した。まちがえた場所に来てしまったとは思っていないらしい。「来たところまではよかったのにねえ。静かないい場所だしねえ。でも原人はいなかったねえ」ちゃんと調べてから来ればよかったのに、ずいぶんいいかげんな国だ。
「ロマンに彩られた夢は、見果てぬものであるからこそ美しいのかもしれませんね」部屋の隅にいた口髭の男がぽつりと言った。一番奥の窓に寄り掛かるようにして座り、その目は海の向こうを遠く眺めている。
「いやまったくですなあ」と河合が言った。深く感心しているがちっともわかっていない証拠に「うん、あれは綺麗」
「お茶の新しいのん、ここに置いときますな」いきなり障子《しょうじ》が開いてばあさんが顔を出した。ちゃんと正座をしたまま、急須《きゅうす》と湯飲みを載せた小さなお盆を入口近くの畳に置く。
この無防備さが王女の身を危険にさらしたのである。ノックすらされない。
さらに言うなら、立地条件もどうしようもなかった。
民家の密集する中にあり、建物へのアプローチは入り組んだ細い道が多数。七つある出入口のすべては扉がなく夜間は雨戸を閉めるがそれ以外は常時開けっ放しで、しかも各部屋の入口は廊下に面した障子戸だけ。
だいたい、客がいるだけでも珍しいようなこんな小さなすかすかの旅館に国賓が宿泊させられるというのはこれはもう誰が考えても異常事態であるはずなのに、王女の国の人々は誰ひとりとして文句も言わず、いやな顔もしなかった。
原人を見ることができなくて残念でしたなどと旅館のばあさんと和気あいあいで、けっこう喜んでいたのである。
王女がさらわれた後でさえ。
「ああ、どうもすみませんねえ」と侍従次長。宿の貧弱さは全然気にならないらしい。
本気で生きた原人が存在すると思っていた王女の一行は「原人見物」にこの地を訪れ、穴だらけのただの空き地を眺めて怒ったかというと怒りもせず、なにがおもしろかったのか非常に楽しかったと喜んだ。それから自分たちが泊まる旅館の佇まいを見て王女共々「すてきな宿ね」と信じがたい感想を洩らし、さあいらっしゃいませと旅館の女将《おかみ》が出迎えたところで、あっと言う間もなく王女が連れ去られたのだった。
警備の警官も多数いたのだが、すぐ側に付いていた河合によると、
「宿の法被を着た男がふたりにこにことやってきて、どうぞどうぞと王女を車に乗せたわけですからなあ。あれでは誰だって誘拐だとは気づきません」たいていの人なら気づくと思うがなあというところを、ついさっきまでどうしたのだろうとただひたすら待っていたのである。
ばあさんは河合の間抜け顔を見つけると、満足げに微笑んだ。正座のままずるずると部屋の中へ入ってきて、おもむろに顔中の皺《しわ》をぐいっと眉の間に集めた。心配そうな顔を作ったのだ。
「王女さん、はよ見つかったらよろしいのになあ」たしかに心配していることは心配しているのだが、このばあさんは実際のところなんでもいいから誰かと話をしたいのである。特に河合とは気が合うと思っているふしがある。「こんなこと、ここらではほんまに珍しいことですわ」
あたりまえだ。なにを指して「こんなこと」と言っているのか知らないが、王女様などという存在が大久保町に来るというのも初めてなら、そんな人が誘拐されるというのも初めてに決まっているではないか。珍しいどころではない。初めてなのだ。
『明石原人出土地』にしても、地元の人がわざわざ訪れることがないのはもちろん、よそからの観光客もまず来ることのない場所である。
そもそも好んで明石市、それも大久保町などに観光に来ようかという人がいるわけもなく、ときどき来ているような気がするのは、あれは神戸観光に来た人が四国方面や姫路方面へ行こうとして通過しているだけのことだ。
こんなところに旅館を建てようかという、その発想からしてまちがっている。
体育大学の図書館と同じで、なんとなく必要な気がしたというのもわからなくはないが、使う人などいないのである。
原人出土地を見下ろすように崖っぷちに建っている、この古い木造二階建ての建物には『観光ホテル西島旅館別館』と、白地に黒く謎のようなことを書いた看板が海に向かって掲げられている。原人出土地の前は細い道が一本あるだけで、そのすぐ南側はテトラポッドが積み上げられた海になっているためこの看板は海からしか見えない。原人出土地からよほど無理をして見上げたとしても旅館そのものが見えないのだ。海を行く地元の漁師たちがこの看板を見て「ああ泊まりたい」と思うはずがないので、ホテルそのものと同様この看板もなんのためにあるのかわからないものだった。
しかし、なにしろ「観光ホテル」なのに「西島旅館」である。本館はどこにもなくここ一軒しか「西島旅館」はこの世に存在しないというのにここは「別館」なのである。
「そやけんどまあ、誘拐されはったとは思いませんでしたなあ」自分のところの従業員でないことは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だったはずなのに、なぜおかしいと思わないのだ。お茶を持ってきただけのはずがなぜ居座ってしまうのだ。
「まあその」と、侍従長が説明を始めた。「誘拐犯の車は多数の人間が目撃しております。すでに日本の警察の方々に捜索を依頼しておりますし、要請がありしだい自衛隊および在日米軍の出動もあり得るとの回答をいただいております。我が国の軍隊、これは騎士団と呼ばれるものですが、これは近海にて待機中だった一個小隊のみではありますものの現在こちらへ向かっております」公式発表でしゃべるのと同じような調子になってしまっているが、実際の公式発表でしゃべるのは実はこの人ではない。「しかしなにぶん、日本の警察は優秀だということを伺っておりますので」
「そらあんた」とばあさんは胸を張った。「日本の警察は日本一ですわ」
「ははあ」日本一ですか、と侍従次長の河合が感心した。
警察も小一時間、ぼさっといっしょに突っ立っていたのである。
「しかしあれでございますよ」そうそうこれが言いたかったのだと侍従長は勢い込んで「なにしろ騎士団の篠原《しのはら》団長はなにを隠しましょう、聞いて驚きますこの人こそこれがあなた」
もってまわってなかなか言わない。さあここで言いましょうぞというときに、人のことには無頓着なばあさんが、
「そやけどこんなときにあんたらのんびりしとってええんですか」と唐突に、けれどももっともな質問をしてその言葉を遮《さえぎ》ってしまった。
「え」と、痛いところをつかれた侍従長は言葉を失い、それからごもごもと小さな声で「はあまあ我々侍従職というのは王女の身の回りの世話をするのが仕事でありまして」ねえ、と助けを求めるように河合を見たが反応はなく、ぐったり肩を落として「王女がさらわれてしまっている今は、なんにもすることがないのです」
本当は探せばすることぐらい必ずあるはずなのだが、別になんにもしなくていいよとみんなから言われていたのである。
そもそも王女の訪問先に明石市などを候補として挙げたのが侍従次長の河合だったし、この旅館を手配したのも河合だったので、なんとなく王女がさらわれたのは侍従職のせいだという雰囲気ができあがってしまっていた。
特に騎士団の中には侍従たちを目の敵のようにしている者が多く、とりわけ篠原団長と、いつもその側に付いていてあの人ホモではないかと囁《ささや》かれている大森《おおもり》団長補佐は厳しかった。
なにかにつけちくちくといじめられるのだが、その理由はよくわからなかった。カナコ王女が赤ん坊のときからずっと世話をしているので、彼ら侍従は三人とも王女とは家族のように仲よくしており、どうもそれが気に入らないのではないかということに一応はなっているが、よくわからなかった。
王女の身の回りの世話と言えば女性でなければつとまらないことも多く、反対に侍従の男三人がしていることは女性でもできることばかりだったので、無駄飯喰らいと陰口を叩かれるのも無理はないのだが、どういうわけか騎士団とは特に折り合いが悪い。
ホモではないかと囁かれている大森団長補佐などは、はっきりと今回の誘拐事件の全責任は侍従職にあると言い切っている。
実際河合さえいなければ、やっかいなことにはなっていなかったとも言える。これを機会にどうでもいい侍従職なんか全員|馘首《くび》にしてしまえと、ホモではないかと囁かれている大森団長補佐は言った。
今回のことに限らず、彼らの国では侍従職というのがもうかなりの昔から特に必要な役職ではなくなってしまっていたのも事実である。
実際の王室の雑務には少納言《しょうなごん》と呼ばれる官が充《あ》てられており、それ以外の重要な仕事は蔵人所《くろうどどころ》という部署に任されていた。一種の軍隊である『騎士団』を統括するのもここで、蔵人の長《おさ》、蔵人|頭《がしら》は騎士団の団長を兼務する。今侍従長が言いかけた篠原団長というのがこれで、今回の日本訪問に同行していた。
侍従職はほとんど儀式用の存在と化し、特別にしなくてはならないことというのはいつだってなんにもなかったのである。
だから侍従長がおろおろしているのは仕事上の責任を感じてということではほとんどなく、本当に王女の身を案じてのことだった。それでなくてもこの人はいつもだいたいおろおろしている。そういう性格なのだ。
「あっ」と部屋の隅で大きな声があがった。ぼんやり海を眺めていた口髭の男が、窓から身を乗り出して「原人がいる」
え、と他の三人は驚いて窓へ駆けより、同じように首を出すと下の細い道路を見た。
たしかにそれらしいものが歩いていたが、すかさずばあさんが、
「あー、あれは榊のくだもん屋のおっさんですわ。なんやもわもわしとうさかい(なにやら毛深いさまであるので)うおっほっほ」と突然高らかに笑い「原人や言うとってやわ。ほっほっほっほっ」
その猿の雄叫びみたいな笑い声が聞こえたのか、下を歩いていた原人が旅館の窓の方を見上げた。
猿が仲間を呼んだ、としか見えなかった。
「おーっ。なんや」ものすごい濁声《だみごえ》で、榊のおっさんは叫んだ。
「なんもないなんもない」ばあさんはまだ笑っている。「あんたのこと原人や言うとってん」
「あーそうかー」わっはっはあ、と嬉しそうに榊のおっさんはまた歩き始めた。
行ってしまうのかと思っていたら急に立ち止まった。くるりと振り返って窓の方を見上げ、
「誰が原人じゃあ」と怒った。「わしそれ言われるん一番いやなんじゃ」しょっちゅう言われるらしい。
言うだけ言うと気がすんだのか、今度は何事もなかったかのように行ってしまった。
「くだもん屋というのは、くだもの屋さんのことですか」原人を発見した口|髭《ひげ》の男がばあさんに訊ねた。
「そうですわ。バナナとかパイナップルとかパパイヤーとか売る」似合わないものばかり並べる。りんごとみかんでいいのに。別にいいがパパイヤーと、最後が伸びるあたりがいかにも年寄りくさい。
「ははあ」と河合が人の話を聞かずにぬぼっとした声で言った。「あれがクダモンヤ原人」はあはあやっと一匹見ましたな、と落ちついている。
ばあさんは、特に反論もせず、
「はあはあ、もうちょっと暑なったら出てきますねんけどなあ原人」出てくるものか。むちゃくちゃを言う。「けどまあやっぱり外国の人ですな。言うことがなんか違う」
「いや河合さんは、我々の国の中でもかなりへんな方の人です」侍従長が、いっしょにされては困ると言いたげに口を出した。
「そらまあそうかもしれませんなあ」ばあさんはなぜか大きく納得し「顔も言葉も名前もみーんなわたしらとおんなじですもんなあ。とても外国の人とは思えませんわ。そんな国、このたび初めて知りましたわ」しつこく感心する。「そんな国があったんですなあ。知りませなんだなあ」もういいのに。
「はい、我が国と日本との関係に関しましては、これはまだはっきりとした説明がつかない状態でして、なぜ説明がつかないかと申しますとなんと申しますかその、申しますか?」
「申すんちゃいますか」ばあさんはまじめに答える。
「はあその、まあなんといいますか。別に気になさらなくとも」なんにも困らないことだ。気にするな。
「はあさあまあなんなんだんかなあ(それはまあなんと言っていいのでしょうかねえ)」ちょっとあわてたようにわけのわからない相槌をばあさんは打ち「まあよろし」それでいいのである。
「他になにかわからないことなどございましたらご質問ください」ああよかった、という顔をぱっとして「不肖《ふしょう》私山口が僭越《せんえつ》ながらご説明いたします」
「あんた山口さんいうんでっか。っほーん」ばあさんは山口という名が特別驚くべきものであるかのような返事をした。山口さんのもってまわった丁寧な話し方とは両極に位置するぞんざいさであった。「あっちの方はおとなしい人ですな」と、さっき原人を発見した口髭の男を無遠慮に指さす。
「彼は侍従の西畑君です」不肖私山口さんが紹介した。「一応詩人です」
「へえ死人」ばあさんはひどく驚いた。
「いやいや」と河合が無表情に口を出す。「詩人詩人」
「あー」とばあさんも無表情に「そんな感じですなあ」わかっとるのだろうか。
「これはどうも」と、口髭は会釈《えしゃく》した。「すべて生きとし生けるものの故郷たる大海のほとりに人類の遠祖《えんそ》明石原人発見の地を見ることが、いかに僥倖《ぎょうこう》であるかということを噛みしめていたのです」
侍従長、侍従次長などとたいそうな肩書がついているが、侍従職は全部でこの三人だけだった。つまり山口さんが侍従長で河合が侍従次長。ただの侍従というのはこの西畑ひとりだけなのである。
ばあさんは、はあはあと軽く頷きながら西畑を凝視した。
「今のん外国語でっか」
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午後四時四〇分 鎮守の森
ぺたぺた、がっぽがっぽとおかしな音をたてて、ふたりは鎮守の森を抜ける道を急ぎ足で歩いた。ときどき振り返ってみたが、車の連中が追ってくるようすはまだない。
見れば見るほど綺麗な女の子だったが、話す内容はものすごくて、
「あのね、誘拐されるところだったの」と、簡単に言った。それから「あたしね、王女なの」というのも簡単に言った。
「王女かあ」へえー、と芳裕はさほど驚きもせずに真剣に話を聞いた。「それで?」
王女だというその女の子の話を、ふんふんと聞きながら芳裕はなにひとつ疑わなかった。
頭から全部信じて、全部本当のことだと信じ切って聞きながら、特に驚かなかったのである。
普通、人は王女だと名乗る人に会えば驚く。相手が王女だと思って驚くのではなく、あたし王女よなどといい大人が言い出すことに対して驚く。
「つまり」王女の話が一段落したので、芳裕は自分に言い聞かせるように話を要約することにした。「君はその国の王女で」
「うん」
「原人を見にここまでやってきて」
「それがねえ、いなかったのよちょうど」原人は。と、残念そうだが勢いよく王女は言った。そしてまったく調子を変えないまま「背、高いね」
「原人?」
「ううん。ほら」と、片手を芳裕の頭の高さまで上げてみせた。「二メートルくらいある?」
「ああぼく? そんなにないよ。一八〇くらい」本当は一八六センチあったが、人にはいつも一八〇くらいと言ってしまうのだった。
「あたしは一五九・五センチ」こっちは妙に正確だ。
「ああそう。だいたい一六〇だね」なんの話をしてるんだろうかと混乱してきた。
「ちがうちがう。一五九・五センチ。一六〇はないのよ」なんだかむきになるので、一六〇より低い方が嬉しいのだろうと思っていると「もうちょっとで一六〇センチなのにねえ」
「うん」混乱した。
「あ」と、王女が立ち止まったのでなにか困ったことでも思い出したのかとどきどきしていると「靴が脱げた」
「それでその」芳裕はあわてて靴を履《は》きなおしている王女の白い脚をしげしげと眺めながら、王女の話の要約を続けることにした。「ホテルに到着したとたん何者かに誘拐されて、それで乗せられた車がひっくり返ったんだよね」自分が飛び出したからだということは忘れている。それよりも、貸してやった自分のスニーカーから出ている白い足首の、その細さに感動していた。
踝《くるぶし》だけとでも結婚したいくらいだ。
田圃から道へと上がったとき、泥で汚れた足を綺麗な靴に入れたものかどうか王女が悩んでいるのを見て、どうせすでに泥だらけだからと芳裕は自分のスニーカーを貸してあげたのだった。
しばらく迷った後、王女は芳裕の泥だらけの巨大なスニーカーに小さな足を入れ、自分の華奢なデザインの白い靴は両手に片方ずつ持つことにした。そして芳裕は裸足でぺたぺたと歩くことになった。
「あ」と、また王女は急になにか思い出したように立ち止まった。今度こそなにか大変なことを思い出したのかと芳裕は身構えたが「車にスカーフ置いてきた」ということだった。
「スカーフ」なんだそんなことか、とは芳裕は思わなかった。いったいスカーフがどういう重大なこととつながっていくのかとまだ身構えたままである。ところが、
「あ、どうでもいい話だったね。ごめんなさい」やはりどうでもいい話だった。
「いや。いやいや」そんな。あやまらなくても。とどぎまぎする。「それでえと、車の連中が気を失っていたので、外へ出て」ぼくと会ったんだね、と言うのがどういうわけか恥ずかしくて口に出せず「うんぬぬぬ」
「えーと」王女は芳裕の話を吟味するように少し考えてから、かくんと頷いた。「うん。そう。そうなの」
「へえー」やはり特に驚くでもない。それからのんびりと「もしかして毎日テレビで言ってるカナコ王女って君のこと?」
「そうそう」
「ああーあ」ここでやっとちょっと驚いた。「それで最初に見たとき知ってる人だと思ったのか」
人の言うことを微塵《みじん》も疑わない素直な性格はともかく、王女と聞けばまず最初に日本を訪問中でマスコミが大騒ぎしている王女のことを思い出すのが普通である。普通は思い出す。
相手が「あの今有名な」王女だと知っても芳裕の態度はまったく変わらなかった。
なんだか嬉しくなっただけ。
すでに気持ちはお友達になっているのだった。
外国の人でしかも王女ともなると、なかよくなってもそうしょっちゅういっしょに遊ぶというわけにはいかないなあなどと考えていた。
そういう芳裕に対して、王女の方もそれを特に珍しい反応とも思わなかったらしい。
にこにこと、ふたり並んでしばらく歩いた。
「靴、ごめんね」と、しばらくして王女が言った。
「ううん」あわてて芳裕は首を横に振る。「いいいい」
ときどき小石や木切れを踏んで痛いと感じることもあったが、たいしたことはない。
「ぼく、足の裏固いんだ」自慢なのかなんなのかわからないことを言って「それに、交番もうすぐだから」
すぐ先の交番に、とりあえず行こうとしているのである。すぐ先といっても、まだ三キロ以上はある。それならバスに乗って次の停留所で降りればいいと思うところだが、次の停留所となると交番を通り越してやっぱり三キロほど戻らないといけないというぐらい離れているのだった。
田舎の人はとにかくよく歩く。
突然、車が砂利を飛ばす音が聞こえた。
ふたりが振り返ると、さっきのミニヴァンがすさまじい勢いで走ってくるのが見えた。
芳裕は全身の汗が一度に冷たく変わるような思いで息を詰まらせたが、王女の方はまず頭に浮かんだことを口にした。
「あたしのスカーフ持ってきてくれるのかな」いやそれは違うと思う、と芳裕が言う前に自分で自分に「ちがうよね。ちがうよね。どうしよう」それなりに恐がってはいるらしい。
車は瞬く間に目の前までやってきて、まだ完全に停止する前に銃を手にした大男が飛び降りた。こいつは本当に二メートルあるかもしれない。
拳銃を腰の横でかまえ、こめかみから血を流している大男が旅館の青い法被を羽織っているのはとても変だった。法被には白抜きで、
「いらっしゃいませ」と書いてある。
車が横転したときに怪我をしたみたいだが、そのせいなのか元々そういう歩き方なのか、どことなくふらふらとした足どりでゆっくりと芳裕たちの方へ近づいてきた。
男の背後には、車の運転席でハンドルを抱くようにした色の白い男が、つまらなさそうに煙草を吸っているのが見える。助手席にいるもうひとりの髪の長い男は両手を頭の後ろで組み、あくびをしていた。
「車に乗っていただきたい」思いがけず、穏やかで丁寧な言葉が大男の口から洩れる。
はあ、と特に返事もせずに芳裕はさっさと車の方へ歩み寄ろうとした。
「おまえじゃない。王女だけだ」急にぞんざいになった。そのままふらりふらりとさらに近づいてくる。
「いや」王女は芳裕の腕にすがり、その背中に隠れた。「助けて」
「あのちょっと」大男の接近を阻止しようと、芳裕は片手を前に出して掌を大男に向けた。
訝しげな表情で芳裕をちらりと見て、大男はふと立ち止まった。芳裕がなにを言い出すのかとりあえず耳を貸してやろうという態度である。
「なんだ」
「やめてください」もうちょっと気の利いたことは言えんものだろうか。「あの」と、少し考えてやっぱり「やめてください」
期待したわりにはつまらなかったなと、はっきりそうわかる顔をして大男は王女に手を伸ばした。銃口は芳裕の腹に向けられている。
拳銃を握るその手を芳裕は上から無造作に掴んだ。
はっと大男が反応するより先に芳裕がその腕を外側へねじっていた。無理な方向へ腱が伸ばされる激痛に、拳銃が落ちる。体のバランスは大きく崩れ、たまらず大男は片方の膝を曲げた。
ごん、と芳裕は無防備になった男の眉間《みけん》を拳骨で殴った。かなり乱暴で、強引な一撃だった。
大男はあえなく昏倒した。
運転席の男の唇から煙草が落ちた。数秒そのままで放心していたが、太股が燃え始めたのに気づき、ぎゃっと叫んで火を消した。それから助手席の仲間に、
「おい見たか」
「ああ」
「寺尾が」
「やられたなあ」寺尾を倒した少年は、きょとんとした顔でこっちを見ているではないか。
「どうする。逃げるか? え?」と、運転席の男が隣を見ると助手席にはすでに誰もおらず、割れた窓の向こうにすたこら逃げていく仲間の髪の長い後ろ姿があった。
すーっと息を吸い込んで、それからあわてて車を飛び出した。後先見ずに仲間の後を追いかける。
青い法被を着たのっぽとデブの男がふたり、元来た方向へ全速力でどたばたと走り去るのを見届けてから、王女は心配そうな顔で倒れた大男を覗き込んだ。
「死んだの?」大男本人に訊ねたわけではなく、これは芳裕に訊いているのである。
「大丈夫だよ」どういうわけか目に涙を溜めている芳裕は、こくこくと小刻みに頷きながら答えた。「しばらくすれば気がつくと思う」
「大きいくせに弱いのね、この人」芳裕が強かった、とは全然思わないらしい。
「うん」ああそうか、と芳裕も思った。「なるほどなあ」
「名前訊いてなかったね」と、王女は唐突に言った。
「ああ」と、まだぼんやりとしている芳裕は虚ろな声を出し、大男の背中を見下ろしたまま「なんて名前だろうねえ」
王女が訊きたかったのは芳裕の名前である。しかし王女はすぐには否定せず、
「なんていう人かしらねえ」と、考えたところでわかるはずもないのだがいっしょになって考え、それからやっと「ちがうの。あなたの名前を訊いてなかったなと思って」
「ああ、なんだ」そこで芳裕はにっこり笑い「松岡《まつおか》芳裕です」
すると王女は姿勢を正して一歩下がったかと思うと、片足を後ろに引きながら両腕を軽く広げ、見事に優雅なおじぎをしてみせた。
「カナコと申します」
その一瞬、風に花の香りが混ざった。
柔らかな光が少女の姿を包む。
大きすぎる泥だらけのスニーカーを履き、両手には片方ずつの靴を持っているのが妙だったが芳裕にはまるで気にならなかった。
ああ、本当に王女様なんだと、頬を赤くして感激した。なんて綺麗なんだろう。
挨拶を終えたカナコ王女は、微笑んだまま靴を持った両手を腰にあて、
「あの車使いましょ」と言うが早いか、車のところへがっぽがっぽと歩いていった。「あたしが運転していいかしら」
「うん」優雅な王女に感動したままの芳裕は、そのざっくばらんな言動ににわかにはついていけず、生返事を返す。
開いたままになっているドアからぽんぽんと靴を投げ込み、普通の車よりは高い位置にあるミニヴァンの運転席へよじ登ろうと、両手と片足をひっかけた。タイトスカートがひっぱられて破れそうだし、太股のほとんどが見えてしまう。
いやそれでもどこか優雅な趣がある、と惚けたようにそれを見ている芳裕にはかまわず、王女は勢いをつけて、
「せーの」
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_057.jpg)入る]
体を引き上げた。
「よっこらしょっと」
だーん、と力強くドアを閉め、
「ほら。早く乗ってのって」はしゃいでいる。後部座席にスカーフがあるのを見つけ「あったあった」と、それを取って膝の上に置く。
芳裕はぶるぶるっと震《ふる》えた。
胸の奥でなにかが起こっているのだが、それがなんなのかわからない。
車に乗り込みながら芳裕は、この可愛い人のためになんでもしてやろうとはっきり考えて、その自分の気持ちが嬉しくてたまらなかった。
感動のあまり胸がしめつけられる想いの芳裕がドアを閉めるか閉めないかのところで王女はいきなりアクセルを蹴るように踏んで車をバックさせた。
「げ」ロマンチックな気分に浸っていた芳裕はダッシュボードで顔を打ちそうになったが、車はぶつかったのかと思うほどのフルブレーキングの後、今度はタイヤを激しく空転させつつ前へダッシュしたので、芳裕の体は一瞬宙に浮いてからシートに押しつけられた。
わざわざバックしなくても、道の端に倒れている大男の体をよけるのはできたと思うが、それはそれとして王女の運転は正確だった。
「あたしね、車が大好きなの」と、芳裕の方を見て心から嬉しそうに微笑み、視線を前方に戻すとおもむろにシートベルトをした。そして、アクセルを踏み込みながらさらりと言った。
「何キロくらい出るのかしらこれ」
大急ぎで、芳裕もシートベルトをした。
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午後四時五八分 明石警察大久保動物病院前派出所
派出所、というのは言いにくい。
みんな、ちゃんと言っているようでよく聞くと「はしちゅじょ」とか「はっちゅちょ」と発音しているものである。それで交番という言い方でも呼ばれるようになったのではないか。どうでもいいのだが。
もっとどうでもいいが「生活の必需品」と言うとき「必需品」も言いにくいので「しつじゅしん」などと言ってしまうのではないかという恐れから、普段ならなんということもない「生活」という単語までおかしくなって「しぇいかちゅのしつずちん」とかになってしまうのは笑える。
わっはっはそれより交番である。
芳裕と王女が車に乗り込んだ薄暗い鎮守の森を北東へ抜け、ふたたび田圃の中の一本道を少し行くと、国道二号線が見えてくるあたりからいきなり民家や商店が密集しはじめる。
空いた土地がうんざりするほどあるのだから、もう少し余裕を持って家をかまえればよさそうなものなのに、どういうわけかほとんど都会の住宅地と同じぐらいの密度で家が建っているところもあるのだ。
そして、その手前に古い木造の交番があった。
一見、京都の公衆便所みたいなのだが昔からあるれっきとした交番である。
この交番には年老いた巡査がひとりいるだけで、年中誰とも交代することはない。それで「交番」はおかしかろう、という意見があったかどうかわからないが町の人々の多くはここを「駐在所」と呼んだ。
そして、そこにいる老巡査のことは「駐在さん」と呼ぶのである。
厳密には駐在所と派出所は違うのだろうが、ここ大久保町でそんな細かいことを気にするものはいない。なんにしろ、ここの老巡査は「駐在さん」と呼ばれている。
ところが、この駐在さんは自分のいる場所のことをかたくなに「派出所」と言いつづけ、これがちゃんと言えないのだった。
電話が鳴った。
背筋をぴんと伸ばして椅子に腰掛けた老巡査は、手にしていた文庫本を机に置くと、ゆっくりと確実な動作で受話器を取り上げた。
哲学者を思わせる眉目端正《びもくたんせい》な顔を思慮深げに曇らせ、落ちついた低い声で、
「はい、はちゅちょれす」やっぱり言えなかった。それだけならまだしも、また言えなかったと落胆し本部からの電話である気を引き締めねばならんと緊張しているところへ非常事態なのでくれぐれもよろしくというようなことを言われたものでさらに舌はこわばり「はあ、ひっかりとわかっておりましゅ」
電話が切れる直前、大丈夫かなあという声がかすかに聞こえた。
ぼけたと思われたかもしれない。
もともと頼りにされていないのだが。
実際、この派出所に勤務するようになってから十数年になるが、事件らしい事件もなく、その間にあった一番の事件といえば秋の祭りで山車に踏まれた子供がひとり怪我をしたことぐらいで、あとはたまに、こけたオート三輪を起こしたり逃げた乳牛を追いかけたりするだけの毎日である。たいていは一日なんにもないまま日が暮れる。
王女誘拐などと聞くと、そのあまりのスケールのでかさにかえってなんにも感じないほどだった。なにしろ「王女」というのと「誘拐」というのと、ふたつもすごいのがつながっているのだ。もうなんのことやらわからないのである。
明石天文科学館の天文台で巨大な望遠鏡を覗かせてもらい、あの星までの距離は八万光年だから今あなたの見ているあの星の光は八万年前の光なんですよと言われてもよくわからなかったような、そういう気分だった。
光年、という言葉だけは気に入ってときどき酒に酔って冗談をとばすときに、
「あああれはごっつい昔のことや、七万光年ぐらい昔や」みたいなことをよく言うのだったが、これは根本的にまちがっていた。光年というのは時間ではなく距離の単位である。
まあしかし、王女が誘拐されたとはいっても特になにかしなければならないということではなく、軽く咳払いなどした老巡査は背筋を伸ばしたままふたたび机の上の文庫本を手に取った。
そこへ、王女誘拐犯の車がやってきたのだった。
派出所の前に車が停まったのに気づき顔を上げたが老眼鏡をかけたままだったので、それはただ黒い塊にしか見えず、なにかいなと眼鏡を下げて見たところ、じわーっと焦点が合いはじめた。
それは見たこともない種類の車で、すぐに王女誘拐犯の車だということがわかった。
これはあれやないか。と思った。さっきフワックスで出てきよった車や。ファックスのことである。
運転席に王女がいるのが見えた。これは新聞でも見たからまちがいない。
どないしよ、と焦った老巡査の目に王女の隣にいる誘拐犯の姿が見えた。
「や」
なんと、誘拐犯は近所の男の子やないか。顔に色を塗ってごまかしとうけど、あの子は知っとう。見たことあるがな。どこの子か知っとうがな。あれやがな。
落ちついて考えれば、なぜわざわざ派出所の前で停まったのかというところへ考えがおよんだであろうに、それより恐怖がまさってしまった。
誘拐犯人に対する恐怖というよりは、自分では処理しようのない恐るべき事態に対しての恐怖、恐慌であった。
芳裕の顔に乾いた泥がへばりついていたのも災いした。なにもないときでも顔に泥をつけたままで平気な人というのはなんとなく恐い。
逃げなあかん。にげなあかん。
年老いた駐在さんは派出所の奥の扉から這うようにして外へ飛び出ると、そこの壁に立てかけてあった自転車にまたがって田圃の畦道をひたすら逃げた。
えらいことや、誘拐犯はわしの知っとる子供やないか。
秋の祭りの山車に踏まれるようなどんくさい子が、王女さん誘拐するやなんて。
人は見かけによらん。
とりあえず駐在さんは自分の家へ帰ってしまった。
すぐそこなのだった。
開けっ放しの縁側からひっくり返るようにして家に飛び込むと、駐在さんはなにごとかとびっくりしている奥さんに小声で鋭く怒鳴った。
「警察や。警察に電話せえ」
交番は無人だった。
「ああやっぱり」と芳裕は言った。必要なとき、交番はたいてい無人である。
「誰もいないわね」思いがけず、すぐそばでカナコ王女の声がしたので、芳裕はほのかに熱いものを胸の奥に感じてどぎまぎした。綺麗な髪の毛だなあさてこれからどうしたものかなあなどとぼんやりしていると王女はいきなり芳裕を見上げて「どうするの?」
「えっ」どうしよう、と言いかけていた芳裕は絶句した。そんなに頼られては困るのに。
けれどカナコ王女の方はもう芳裕にすべてをまかせておけば大丈夫とばかり、黒く大きな瞳を輝かせ、にこにこと芳裕を見上げている。
兄を頼る妹というか父を頼る娘というか、そういう眼で見つめられて「どうしたらいいのかわからない」などとはなかなか言えないものである。
なんの考えもなかったが、なにわたしにまかせておけばよろしいという顔をにわかにつくって、
「そうだなあ、ここはひとつうーむ」などとごまかしかけたとたん王女が、
「電話借りようか」とさらりと言ってとっとと電話のところへ行ってしまった。
「うん」ほっとして嬉しくなった芳裕は力強く頷いて「それがいいそれがいい」
王女は芳裕の賛同を得られたことが、ことのほか嬉しかったのか、こぼれんばかりの笑顔を芳裕に向けてふーんと笑い、それから無頓着に古い黒電話の受話器を取り上げると、えーとと呟《つぶや》きながらダイヤルに指をかけ、ふたたび芳裕に、今度はきょとんとした顔を向けた。
「何番だったっけ」訊けば当然わかるという口調である。
「えどこが」もしかして自分は知っているのだろうかと、芳裕はあわてた。
「あたしが泊まるはずだったところ」答えを待っている。
「え、え、なんていうところ?」どんどん焦る。
「え、あのね」王女は芳裕が焦っているようすなのを見て、つられて焦った。「海の近くでね、ええっと、あのね、なんだかややこしい名前の」
「ホテル?」大久保町に旅館みたいなものがあるというようなことは、町内の者でもほとんど知らないのである。たまにその存在を耳にしても冗談だと思うのだ。「西明石にホテルがあったと思うけど、あれは海の近くじゃないなあ」
「そうそうあのねえ」と、芳裕を見つめたままで凝固したので一所懸命考えているのかと思ったら「あー」とわかったような声を出し、芳裕が身を乗り出して期待しているというのに「だめだ、思い出せない」あっさりあきらめた。
「じゃ、どうしたらいいかな?」芳裕は不安げに訊ねた。ぼくにまかしておきなさい、という気分はとっくに消え去っていたのだが芳裕はそのことに気づいてさえいなかった。
「まあいいわ」うん、とカナコ王女は意外にも明るく言って可愛い胸をそらせた。「場所はだいたいわかるから、あの車運転して自分で帰る」
「ああそう」なんだか気が抜けた。まあでも、自分で帰ると言ってるんだから。ほわー、と芳裕は口を開けて「じゃあ。そういうことで」
なにが楽しいのかそれまでずっと微笑んでいたカナコ王女は、芳裕が突っ立ったまま、ついてこようとしないのを見て、まったく唐突に泣き出しそうな顔になった。
「え、いっしょに来ないの?」声はもう泣いている。
「あ」こみあげる嬉しさは喉を圧迫して息を詰まらせた。なんでもいいからいっしょにいられるだけいっしょにいよう。「はい、行きます」
「ああよかった」スイッチを切り替えたように、ふたたび王女は笑顔に戻って「行きましょ」
交番を出る王女の後ろ姿に見とれながら、今すぐ牧村真紀ちゃんに電話した方がいいのではないかという考えがちらりと頭をかすめたが、なんでもいいからすぐに来いと言われるのはわかりきっていたし、そう言われれば行かずにおれないこともわかっていたのでしないことにした。
ここで電話をしておけば、芳裕を襲った一連の事件はもう少し規模の小さいものですんだのかもしれない。同じことだったかもしれないが、しかしここを境に芳裕は、生涯最大のトラブルに頭から呑み込まれていったのである。
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午後五時五分 御狐山
頂上付近に小さな稲荷があるせいで、その山は「おきつね山」と呼ばれていた。正式な名称が別にあったが、そっちの名を言っても誰にも通じないためたいていの地図には「御狐山」と記載されている。
稲荷の奥を少し登ったところが山頂で、その南側は簡単な展望台になっており、大久保町のほぼ全域を見渡すことができる。
展望台の反対側には祭りで使う御輿《みこし》を納めた土蔵があった。
漆喰はところどころ剥がれ落ち、観音開きの大きな鉄の扉はこれ以上|錆《さ》びようがないほど錆びてしまっている。樹齢数百年はあろうかという巨大な杉の木がすぐそばにそびえたっているせいで年中日当たりが悪く、土蔵は全体にどことなく湿っていた。
あの土蔵にはなにかがとりついていると昔から気味悪がられているのも、この場所に立てば納得がいく。
銀色に輝くダッジヴァンは、この古くさくて湿っぽい土蔵の裏手に停められていた。
アメリカを象徴するかのようなクロームメッキの目立つ車体と、暗い山中で朽ち果てつつある土蔵というふたつの対比は、あまりにもかけはなれたイメージのぶつかりあいがかえって新鮮で、不思議に美しかった。
けれどもここにダッジを停めた人物はその対比を楽しむためにここを選んだわけではもちろんなく、人目につかず電波の状態がいい場所を求めた結果がここだったというだけのことである。
ダッジヴァンの後部に窓はない。
内部は暗く、発光ダイオードとコンピュータのディスプレイがもたらすおぼろな光に照らされ、さながら深海のようだった。
ノイズの中で聞き取りにくい甲高い音が、断続的にスピーカから洩れる。警察の無線も含まれていた。
「どこのくそ野郎だ」しわがれた低い声が言った。
「せかさないで」鋭く短い女の声。「名前と住所がわかれば、もうたいていのことはわかっちゃうんだから」女の細い指がキーボードの上をせわしなく這いまわる。
「松岡芳裕」ざらついた皮膚に刻まれたナイフの刺し傷のような目が、闇の中からディスプレイを凝視していた。「聞き覚えのない名前だが」
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午後五時一二分 明石警察大久保動物病院前派出所
夕方とはいえまだ強い初夏の陽射しの中へ足を踏み出したとたん、王女はなにかを思い出したみたいに急に立ち止まった。唇を堅く結んだ顔をくるりと芳裕の方へ向けると、とことこっと歩いて芳裕の背後にまわり、まるでそうすればこの世のあらゆる問題はすべて解決するのだとでもいうように、芳裕の腕を掴んで芳裕を見上げた。
王女の華奢な体の感触や優しくて切なくなるようなその香りは、ある種の刺激として芳裕の脳を直撃した。
二の腕に押しつけられた繊細な髪の感触だけでも充分すぎるほどだった。
冗談ではなくその瞬間芳裕の頭に浮かんだのはこういうことだった。
結婚するならこの子だ。
芳裕は生まれる前からずっとこの人を待ち続けていたのだという確信のようなものを感じた。
ちょっと腕に抱きつかれただけなのに。
馬鹿とちがうか。などと思ってはいけないのである。こういうことは誰だって人を好きになるたび多かれ少なかれ感じるものだ。うまくいけば、ああやっぱりこの人だったと喜んでおけばいいし、だめだったらああやっぱりかんちがいだったと納得して、次を待てばいい。
必ず次はある。
それはまちがいないが必ず次があるというのと、必ずいつかいい人と巡り会える、というのは違うのでまちがえないように。一生独りぼっちという人もたくさんいる。
別に平気です。
そんなことより、なぜカナコ王女が急に立ち止まったりしたのかということである。
芳裕は喜んでいる場合ではなかった。
喜んでいる場合ではなかったのだがどうしても大喜びの芳裕はさっきの青い法被の大男が、自分たちに向かって非人間的なスピードで突進してくる猛牛のような姿を見つけても、これはえらいことだなあと認識しながらうっとりとしたため息を洩らしただけだった。
うっとりしている場合ではなかった。
今や大男は法被に書かれた「いらっしゃいませ」の文字が読みとれるまでに近づいてきている。
さっき殴ったときには近くで見ていたせいかあまり気づかなかったが、この大男はただ大きいだけではなく、いかにも強そうだった。
体に比べてかなり小さく細長い印象の頭部は、短く刈り込んだ髪のせいもあってか頭というよりなにか肩から突き出しているだけという感じである。耳から肩にかけての首の境目がはっきりしないのは盛り上がった筋肉のためなのだろうが、どうも差し込んであったはずの頭がはずれてしまったあとのように見えた。
本来ならたっぷりと余裕を持って羽織るはずの法被が、肩と胸のあたりでぴちぴちにはりきっている。普通は法被の前というのは開けたままにしておくだろうに、この人は法被の着方を知らないのか性格が真面目なのか、なんらかの方法でその前をきちんととめている。
ちょっと変な人だ。
しかも悪いことに、ずいぶんと怒っているようだった。
きっとさっき殴り倒したからだな。
蝉やバッタにでもわかりそうなあたりまえのことを思いつつ、芳裕はぼーっと立ちつくしていた。
鎮守の森からここまで一所懸命に走ってきたのだろう。ごーっ、ごーっと、宇宙の帝王を思わせるような荒い息が土を蹴る音に混じって聞こえてきた。
今逃げても、また何十キロでも何百キロでもずっと走って追いかけてくるに違いない。
体が焼けてしまっても金属製の骨だけになってがしゃがしゃ追いかけてくるだろうし、工場のプレス機で押しつぶしても上半身だけでぎーぎーと這って追いかけてくるだろうし、トイレに逃げ込んだらひとつずつドアを開けながら「ここでもないここでもない」と近づいてきて、あれ音がしなくなったなと安心した頃ふと見上げると上からじっと覗いていたりするのである。
ホラー大将、などと勝手に名付けて恐がっている芳裕に向かって、大男はものすごい勢いで突進してきた。
有無を言わせぬ圧倒的な動きだった。
芳裕はそこで初めて恐怖を感じたが、もうどうしていいかわからない。ただこれは恐いぞと思いつつ突っ立っているだけ。
そのときカナコ王女が小さな悲鳴を上げて芳裕の腕にさらに強くしがみついてきた。
逃げないといけない。
そう判断したときにはもう遅く、大男はその全体重とスピードを載せた右拳を芳裕の顔面めがけて放とうとしているところだった。走る勢いはまったく衰えていない。一直線だった。
ぶん、と空気の裂ける音がして芳裕の鼻先数ミリのところを男の拳が通り過ぎ、汗の臭いをかすかに含んだ風が芳裕の顔の両側を叩くように流れる。
芳裕を一撃で倒すことしか考えていなかったのか大男は、目標が忽然《こつぜん》と消えたのに対処できず、
「うわっ」
と、そのまま一気にすぐそばにあった黒いヴァンの後部に、牛でももう少し加減するぞと言いたくなるほどのすさまじい勢いで頭からぶつかった。
ぼぐ、という鈍い音とともに車を一メートルほども動かし、頭を車の後部にめり込ませたままの格好で固まる。
芳裕とカナコ王女はお互い真顔のまま、ゆっくりと顔を見合わせた。
それから芳裕は視線を大男の尻に戻し、死んだのではないかと少し心配になったので、「だいじょうぶかなあ」と言いかけたのだが、そこで大男の肩がもぞもぞ動いたのを見て語尾を変えた。「車」
「あー」緊張したあとのあまりにも間抜けな結果に、カナコ王女はどう反応していいのか迷っているようだった。
必殺頭突き男、と芳裕が名付けて眺めていると、男はうーと声をあげて頭を車から取り出した。さすがに意識は朦朧としているようだった。
眉間に血がにじんでいる。だらーっと流れるのではなく、またまったくの無傷というのでもなく、にじんでいる、というあたりが異様に不気味である。
けれど血を見たカナコ王女はそれを不気味とは思わなかったようで、はっと小さく息を呑んで、あろうことか大男の方へ行こうとするようすを見せた。
ぎょっとして芳裕がその腕を掴んでやめさせると、すぐに納得して立ち止まったが、驚いたことに、
「大丈夫? 血が出てるけど」
なにを言い出すんだと、芳裕がカナコ王女にこわばった顔を向けたとき、こんどは必殺頭突き男の方が自分の眉間に触れてみて、
「あ、ほんとだ」とカナコ王女に微笑みを向け「でも、たいしたことはないです。体は頑丈ですから」と照れたように言った。
そりゃあんた頑丈でしょう。あの勢いで車に頭から突っ込んで笑ってるんだから。
「よかった」とカナコ王女。それから芳裕に同意を求めて「ね」
「あ、はい」よかったような気になった。
「わたくし、寺尾と申します」ぺこりと頭を下げる。自己紹介されてしまった。
「カナコと申します」王女は条件反射のように片足を後ろに引いておじぎをしたが、これはちょっとまずかったようだ。
カナコという名の響きに刺激を受けたように、寺尾と名乗った大男は動きを止める。
芳裕はそれには気づかず、意外な展開に戸惑《とまど》っていた。
急になかよくなってしまったが、安心していていいんだろうか。
もしなかよくなれるんなら、それはそれでとてもいいことなんだがなあ。などととぼけたことで悩んでいると、カナコ王女は必殺寺尾に今度は軽くおじぎをして、
「ではごきげんよう。お大事に」上品な声で挨拶をした。つられた寺尾が、ああこれはどうもまたお会いしましょうとのどかなことを言っている間に、王女は下を向いたまま小声で芳裕に「早く逃げましょう」
「えっ」
見れば寺尾は、えーとオレハナニシテタンダッケナーとでもいうように人差し指を自分の小さなちいさな頭に突きつけ、考え込んでいる。
ぼけているうちに逃げようにげよう。
「じゃ。さよなら」一応芳裕も挨拶をしてから、おそるおそる、それでも早足に車の前へとまわった。ふたりして助手席側へ来てしまったので、そのまま先に乗ってしまうわけにも行かず、
「ぼくが運転しようか?」と成りゆきで言った。
「はい」急に幼くなってしまったかのようなあどけない、それでいて妙にたおやかなカナコ王女の返事に、芳裕はなにもかも忘れて一瞬カナコ王女の小さな肩を抱きしめたくなった。ぼくと結婚して、そう言いそうになる。
「えーっと」という間延びした寺尾の声で我に返った。寺尾は難しい顔をいろんな方向へゆっくり向けていたが、最後には心細そうに芳裕の方を見た。わたしはこれからどうしたらいいんでしょう、と訊ねそうな気配である。
そんなこと訊かれても困る。
けれどなにを言っても言うとおりにしそうな気もするのでおすわり、と命令してみたいのをかろうじて我慢する。
急いで芳裕は王女のために助手席のドアを開けた。
シートへ苦労しながらよじ登る王女の手を取って支えると、白いスカートがほとんど上へずりあがってしまうのが目の前に見え、それどころか薄桃色の肌に青く透ける血管まで見えてしまって、そのあまりにも女性を感じさせる光景に、心臓付近で発生した怒濤が頭のてっぺんで砕ける。
耳が心臓の鼓動に合わせ、どくどく大きくなったり小さくなったりした。
見てはいけない、そんな気持ちでこの人を見てはいけないと思うのだが、それはしかし今まで見たこともないほど美しい脚で、超人的な努力でもってなんとか視線をそらしはしたものの、意識は完全にそこに残ったままだった。
芳裕の苦悩にはまったく無頓着に、王女はありがとうと、はきはき言ってにっこりする。
なんだか悪いことを見つかったような気になりながら、閉めるよと小さく言ってそっとドアを閉めた。
あたふたと運転席にまわり震える手でエンジンをかける。
ちらりとまた王女の太股を盗み見て、ああああとのけぞった。短いスカートは座るとこんなになってしまうのか。スカートはいてなくてもおんなじなんじゃないかなあ。
いかんいかん、もう見ちゃいかん。
自分を戒めて気持ちを落ちつけようと外の方へ顔を向けたとたん、そこに眉間から血を垂らした寺尾の顔が浮かんでいた。
「うわっ」
瞬間的な恐怖に、思わずその顔面に拳を叩き込みそうになる。
すぐに思いとどまったので左手はほんの少し、ぴくりと動いただけだった。
しかし格闘技に精通した人間にとって、芳裕のその動きは防御のための反応を引き出すのには充分すぎた。
すかさず顔面をガードするため、寺尾の両手が動いた。
にこやかにじゃあまたとでも言いにきたらしい寺尾の顔が、その両手の間で鋭く引き締まったのがわかった。
「おまえ……」思い出した。
「じゃ」
言うが早いか芳裕はアクセルを踏んだ。
車が走り出したとたん、寺尾の手が窓枠をがっちりと掴む。
とっさに、窓を閉めようと思ったが窓はすでに閉まっていた。壊れてガラスがなくなっているのだ。
なんとか振り落として逃げないといけないのはわかるのだが、さっきあんなに仲がよかったのにと思うと、あまりひどいことはしたくない。
本当はいい人なのではないかという気持ちになっている。
さてどうしたものか。
運よく道の両脇になんの脈絡もなく松や櫟《くぬぎ》の木が林立している場所にさしかかった。木々の根が道の真ん中で盛り上がっている。
そのため車が大きく揺れる、というよりはどーんと跳ねた。
これで落ちてくれるんではないか。
寺尾の体は浮きあがり、というよりはどーんと跳ねて窓枠にその小さな固い頭がずごんと当たった。それだけ。落ちない。
ところで漫画の効果音には「ずごん」などと平気で書いてあるが、普通人間の頭はずごんなんて音をたてるものではない。
でも、寺尾の頭はずごんと鳴った。
そういうこともある。
木の根っこはしばらく続き、
ずごん、ずごん、ずごん、ずごん。痛くないのか平気な顔をしている。
木が密集してきて、
ずごっずごっずごっずごっ。ちょっと痛かったかリズムに合わせてうっうっうっうっという声がする。
ひときわ大きな根っこを越え、さらに密集した場所をアクセル全開で突き抜けると。
ずっごーん、ごごごごごごごご。
「うっうーっ。うううううううう」
頭の位置を変えてみるとか、なにかやってみればいいのに寺尾はすべての衝撃をまともに受けとめていた。
根っこ地帯は終わり、寺尾はふーっと息をついてそれで特に問題はなかったみたいだ。
こういう人なら肘や拳骨で殴ったぐらいでは落ちてくれないと思う。
でこぼこと揺れはするものの車の挙動が落ちついたので、寺尾は車の中へぐいっと頭を突っ込んできた。
入ってくる気らしい。
「きゃっ」とカナコ王女の声がした。「なに」
どこかずれている。
「ねえまさかとは思うんだけど」前方を見据えたまま芳裕は訊いてみた。「今気がついたの?」
「うん」
石頭の大男も信じがたい存在だが、この人もたいがいだな。
そのとき寺尾の片手が芳裕の首を鷲掴《わしづか》みにした。
めちゃくちゃ大きな手だ。絞《し》める力も相当なものだが、絞《し》めながら顎をねじ上げ、さらに芳裕の体をシートに押しつけてくる力がまたすごい。
動けないし、前が見えない。
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_081.jpg)入る]
「ねえ」芳裕は虚空に視線をさまよわせたままカナコ王女に訊ねた。「シートベルトしてる?」
「うん」
「えらいえらいげれ」最後のげれは苦しいからだ。
芳裕は両手をハンドルに突っ張ると、両足を使って床までブレーキペダルを踏み込んだ。
前方へ投げ出された寺尾は肩と後頭部で窓枠にぶちあたり、自動車の衝突実験に使うダミー人形みたいな格好でがくがくといろんなところを触って、それからやっと落ちた。
やった。
一息つく間もなく。
窓の下から寺尾の顔がすっと立ち上がってきた。
「わ」まだ動くか。
アクセルを踏む。
寺尾の手がふたたび窓枠を掴もうとした。
もうなんにも深い考えはなかったが、芳裕はなにか抵抗しようととっさに叫んだ。
「だめっ」
驚いたことに寺尾は、
「え」と低くくぐもった声で言いながら、さっと手を引っ込めた。
やっぱり素直でいい人なのかもしれない。
きょとんとしている寺尾を残し、芳裕はミニヴァンをその性能ぎりぎりまで加速させた。
バックミラーに映る寺尾の巨体がどんどん小さくなっていく。じっと佇《たたず》んだままちを凝視しているその姿は、これで終わりではないぞと言っているようだった。
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午後五時四五分 金ヶ崎六地蔵付近
とりあえず危機は去ったが、その余韻はまだ充分に残っている。
カナコ王女は手の震えが止まらず、激しい動悸のために満足に息を吸うことができなかった。
「んーんんんー」
しかし突然芳裕が鼻歌を歌い始めたので、カナコ王女は驚いて芳裕の横顔を凝視した。
なんと頼もしい図太い神経の持ち主かと、感心したわけでも呆れたわけでもなく、そもそもカナコ王女はその鼻歌を鼻歌とは思わなかったらしい。
「どこか具合が悪いの?」
「え」返事はしたものの芳裕はカナコ王女の言葉をちゃんと聞いていない。なにか言ったなと思って反応しているだけである。
「どこか痛いの?」
「え」聞いてない。けれど、その間もんーんんーと鼻歌は続いている。決して機嫌がいいわけではない。
なにかに集中すると知らないうちに鼻歌を歌うという、気持ちの悪い癖のひとつが出たのである。
歌うというかなんというかこの場合は、
「なにがそんなに苦しいの?」と、訊きたくなる類のものだが。
「え」聞いてない。
いつも苦しげに歌うわけではなかった。苦手なことに集中したときでなければ、それはごく普通の鼻歌に聞こえる。とはいえごく普通の鼻歌でも静寂の中で唐突に始まれば、まわりの友人や他人をぎくりとさせるだけの迫力は充分にあって、気持ち悪いのは同じである。
とにかく芳裕は車の運転が苦手だった。
集中すると他がどうでもよくなるタイプの人間は、自動車という乗り物を日常の足として使うのに向いていない。
運転中に他のことに気を取られたが最後、そればっかりになって運転を忘れるからである。そんなことになったら危ない、ということは自分でもわかるので、とにかく必要以上に運転に集中しなければと怯《おび》えるのだ。
それなら車の運転に集中すれば、なんの問題もないではないかと思うところだが、それができれば苦労はない。好きなことには簡単に集中してしまうが、そうでないことには必死になってもなかなか集中できないから、二流の大学におさまってしまったのである。
だからただ車をまっすぐ走らせるだけでも、スケートボードで階段の手すりをグラインドするほどの緊張感が必要になるのだった。歩いた方がよほど楽だ。
寺尾に対する恐怖も忘れてはいなかったが、それよりもとにかく逃げるためには車を運転しなくてはならず、今はもう車の運転以外のことを考える余裕はなかった。
「ねえだいじょうぶ?」
「ん」聞いていない。「なに」ハンドル折りたいのかと思うほど握りしめ、顔中だらだらと汗をかいている芳裕は、真正面に顔を向けたまま口を動かさずに聞き返した。あまり口を動かすと、運転するのを忘れそうで恐い。
なにより運転中に話しかけられるだけでもパニックを起こしそうになる。カーステレオをかけるのも絶対だめ。
しかも今は裸足である。靴を履かずに車の運転をするのは初めてだった。些細なことでも、そういうことがいちいち緊張の種になるのだ。
ちゃんと返事をしないといけないとは思うのだが、思えば思うほど緊張感は高まるばかり。
「車。へた」長く続けてしゃべると恐いので、途切れとぎれに言う。「ぼく運転。話す。だめ」
この狭い一本道でもし前方から車が来たらと思うと、不安で死にそうになる。
所々にそのための待避所が設けてあるし、民家が多少立ち並んではいても見通しは馬鹿馬鹿しいほどいい。それでも車を脇に寄せて、また動かして、という一連の動作に自信がないのだ。この道で他の車と出くわすことなど、年に一度もあるかどうかという程度のことだったが、それでも恐いものは恐い。
王女がまたなにか言ったなと思いえ、と聞き返すためにハンドルを握りしめなおして身構えたところ、いきなり柔らかい暖かいものが額にあたった。
ぎょっとして跳び上がりそうになる。
「あー。ちょっと熱いかなあ」カナコ王女の掌だった。
自分の額にももう一方の手をあてて、王女は小首をかしげている。
がちがちにこわばっていた芳裕の体から力が抜けた。
王女の手になんらかのパワーがあったとかそういうことではなくて、ついにやらかしてしまったのである。そっちに気を取られて車を運転することをすっかり忘れたのだ。
ハンドルに手をかけてはいるものの、力は全然入っていない。揺れるがまま。
まじまじと王女の顔を見ていると、王女も芳裕の目をじっと覗き込んできて、
「だいじょうぶ? 気分が悪い? どこか痛い? 車停めて休む?」車が勝手に走っていることは王女もなぜか気にならないらしく、小さな子供にでも言うような優しい口調でたてつづけに質問しながら、どこからかハンカチを出してきて芳裕の額の汗を拭いてくれる。顔にはまだかなり泥がついていたので王女はそれも拭いてくれ、白いハンカチは見事に汚くなった。
けれど汗や泥を拭いてもらったことよりも、汗に濡れた額にためらいなく手をあててくれたことが芳裕にはまず驚きだった。
「大丈夫。なんともない」こんなこと、誰にもしてもらった記憶がない。「ありがとう」
王女は小さく首を横に振りながら、
「ほんとになんともない?」と、そこまで心配しなくてもいいのにと思うほど心配してくれる。そのくせ芳裕が、
「うん、暑いだけ」と答えたとたん、
「そう?」と、ぱっと顔を輝かせて「よかった」ずいぶんあっさりと安心した。
ところがそれからまた急に心配になったらしくそわそわして、また子供に言うみたいに、
「気分が悪くなったら、すぐに言うのよ」その仕草にはひどく落ちつきがなかった。「わかった?」と、念を押す。「わかったの?」
「はい」驚いてまじめに素直に返事をした。
「はい」よくできました、というように微笑んで頷いてくれた。
なんだ今のは。
思わず芳裕の口から笑いが洩れた。
「えっ」カナコ王女はぎくっと真顔になった。びっくりしたように「なにがおかしいの」
「いや、なんとなく」そんなに過敏に反応することないのに。反対に驚いてしまう。
「なに?」気になってしかたがないらしい。「なにがおかしいのよ」
「別におかしくないよ」
「うそ。じゃあどうして笑うの? なんで?」とてつもない失敗をやらかしてしまったらしいのだが、それがなんなのか全然わからない、という焦り方でどんどん自分を追い込んでいく。「なにかついてるの?」とあわただしく自分の顔を触りまくり、なにか思い当たることでもあったのか「あっ」と大声で叫んだかと思うと「ああ、ちがったか」
おもしろかった。
「ころころ表情が変わるねえ」つい正直に言ってしまってから、怒るかなと思ってちょっと後悔したが、
「あー」それか、と突然納得した王女は背もたれに体をどすんと倒して「落ちつきないでしょう、あたし」うんうん、と頷いて「だめよねえ」
「いや」だめなんてとんでもない、すっごくいいよと言おうとしたとき、不安を掻《か》き立てるかのように突如として車のエンジン音がうるさくなった。
なにがやかましいのかわからないでいると、すぐに体が浮き上がるような鈍い衝撃に襲われた。
どうもなにかにぶつかったらしい。
ふたりともすっかり忘れていたが車は走っていたのだった。
深い轍のおかげでタイヤが道から落ちなかったのであるが、芳裕はそんなことを考えて運転をほったらかしにしていたわけではない。ただ忘れていただけだ。
人でも轢いてしまったのかとあわててバックミラーを見たその瞬間、またしても衝撃があった。
後方から農家の三輪トラックが、猛然とぶつかってきていた。やかましいエンジン音は、こいつの音だったのか。
ゆっくり走っていると、速く行けとばかり車の鼻先をぎりぎりまでくっつけていやがらせをする気持ちの狭い人はときどきいるが、実際にぶつけてしまうとなると気持ちが狭いとか根性が臭いというような話ではなくなる。
いったいどういうつもりかと、運転している人間をミラー越しに見て、芳裕の背筋にぞっとする震えが走った。
頭突きの寺尾が、特になにを主張するでもない無表情な顔のままこっちを見ていた。
ミラーの中で、オート三輪はふたたびぐーっと大きく迫ってくる。
どすん、と音がして車がふたたび跳ねた。
「また来たの?」王女は怯えの混ざった声で、ひとりごとのようにつぶやいた。
停まれという警告なのかもしれないが、道からはじき出されそうで恐かった。このあたりまで来ると道の両側には民家がかなり建ち並んでいる。民家に突っ込ませようとしているのだろうか。
相手の容赦のない攻撃に殺意を感じた芳裕は震えあがり、アクセルを床までいっぱい踏み込んだ。
今、普通に車屋さんで買える車で、オート三輪より遅い車など存在しないのである。
あっというまにミラーの中のオート三輪は小さくなった。
「はっはっは」どんなもんだ。
「すごいすごい」カナコ王女は全然安心していないのだが、芳裕が喜んでいるので口先だけで感心してみせた。目は前方に釘付けである。
運転技術はなくともアクセルを踏めば車は加速する。
まっすぐすっ飛ばすだけなら、猿にだってできる。
ところが道は曲がっていた。
それほど急なカーブではなかったもののアクセルを目一杯踏んだままただハンドルだけを左に切ったところ左側の前後輪は簡単に浮いた。
「わー」こけるこける。ふたりでただ大騒ぎしていたらミニヴァンは微妙なバランスを保って右側の車輪だけでカーブを曲がっていく。
カーブを曲がりきったあたりにちょうど、こちらに背を向けて歩いていく農夫がふたりいた。
「わー」ぶつかるぶつかる。
道の狭さと車の速さからして到底よけられるタイミングではない。
ところがそのときふたりの農夫はほぼ同時に、地べたになにかを見つけたらしく、
「よ?」と、下を向いて立ち止まった。
「うーわー」
農夫の頭上を、ほとんど喜んでいるような叫び声を残してミニヴァンの左前後輪がかすめて通り過ぎていったが、ほんの数センチのことで死なずにすんだ本人たちはなんにも気づいていない。他にもなにか地べたに見つけたかほらあれあれと足許《あしもと》を見ながら体を巡らし、逆を向いてしまった。おかげで芳裕とカナコ王女がおおーおおうなどと騒ぎながら無事元の体勢に戻ってそのまま去っていったのを最後まで知らずにすんだ。
そこへオート三輪がやってきた。ばばばという古臭くてやかましいエンジン音に気づいたふたりは顔を上げたものの野良犬を見つけたほどにも顔色を変えず、
「こけよるなあれ」
「よ」
はたしてカーブにさしかかったオート三輪は、どういうわけかまったくの無表情がかえってあわてているように見える寺尾の必死のリカバリーもむなしく、まるで私はこけるのが本当に好きで好きでたまらないのよというようすで、やっほーとひっくり返って田圃に落ちた。民家に突っ込まなかったのは幸いだった。
「あーあー、稲わやや」
「わざわざ稲の上へこけいでもええのにのおほんま」大久保町内の道はどこも狭くて、そこらじゅうほとんど田圃なのだから車がこける場合の大半は稲の上にこけて当然なのであるが、なんとなくいつもみんなそういうことをいうのが決まりみたいになっているのだ。
さっきミニヴァンを起こした農夫と同じようなことを言っているが、これはまた別のふたりである。
そしてこのふたりも、ぶつくさ言いながら結局車を起こすのだった。
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午後六時二〇分 おいぼれ山
寺尾のしつこさからすると、このままあきらめてしまうとは思えない。
けれど、また来るんだろうなあと想像して恐がったり、だったらどうすればいいのかということを今は考えてはいけない。
なにしろ車を運転しなくてはいけない。
恐いなあどうすればいいのかなあ、などと思ったとたんハンドルから手を離して腕組みしてしまうのはまずまちがいないのである。
運転以外のことは考えてはいけないひたすら運転に集中するのだ、寺尾のことはこのさいおいといて、と思ったとたん不安といやな記憶のみどっとあふれて寺尾→しつこい→恐い→でかい→獣→牛→真紀ちゃん→つらい→真紀ちゃん→しつこい牛→でかい糞→真紀ちゃん→牛→真紀ちゃん→牛。
最悪の泥沼に入り込んだ。
「これからどうするの?」
「え」静かな時間が続いたあとの突然の声に芳裕は跳び上がった。「なんだって?」これは質問の内容を訊き返したのではなく、驚いたのである。
自分でもどこに入り込んでいたのかわからなかった意識が、一気にこっちの世界に帰ってきた。そうだった。牛ではなく綺麗な女の子といっしょだったのだ。眠っていたわけではないのに、なぜか牛の夢を見ていたような気がする。
ダッシュボードのデジタル表示を見て、十数分の間「入っていた」ことがわかった。
車の両側はいつのまにか鬱蒼《うっそう》とした森に囲まれている。
「どこか連れてってくれるの?」言いながら自分の言葉に興奮したらしく、カナコ王女は丸い瞳をきらきら輝かせて「おもしろいところ?」
なんだって?
どこへ行くつもりだったのか思い出そうとして、そこで芳裕は大変なことに気づいた。
なんにも考えていなかった。
どこをどう通ったかさえ覚えていないのである。
「あー」とりあえず芳裕は車を停めることにした。今は考えなくてはならない。
走ってきたそのまま、ただ停める。
車一台やっと通れるほどの狭い山道だから路肩に寄せたところでほとんど違いはないとか、こんなところ他の車が来ることもまずないだろうと考えてのことでは全然なかった。どのように停めるかというような細かいところまでは気がまわらなかっただけである。
そこまでしなくていいようなものだが、芳裕はエンジンも止めた。
ふっつりと消えた機械音の代わりに、森のあちこちで鳴く蝉の声と土の薫る風が壊れた窓から流れ込んできた。
あと二週間もすると蝉の声は狂ったような大合唱で山を覆ってしまい、もうなにがなんだかわからなくなるのだが、今はまだなんとかこれを風流と思えるぎりぎりのところでおさまっている。
木々の間を斜めに射し込んでくる陽の光は、青々と茂る何重もの葉に濾過ぎれるのか、まぶしくも暑くもない。森の中のしっとりとした空気はその光のせいで透明度を増しているようだった。
やっぱり森の中は気持ちがいい。などと落ちついている場合ではないのである。
さて。
どうするか。
なんにも考えずに走ってきたとは言えない。
言えまい。
だいたい、ここはどこなのだ。
「うぬー」と耳慣れない発音でうなりながら、まわりの景色を観察する。
山だ。
右も左も見えるのは木と草ばかり。
でもだいじょうぶ。
芳裕は木の形、生えている草の種類、地面の盛り上がり方からすぐに自分のいる場所を把握することができた。
あそこの大きな櫟の木の根のところを掘ればクワガタ虫がいるし、その向こうにはソファの形をした岩があって、もっと行くと広場に出るということも知っている。
広場の近くには古い洗濯機とアヒルの顔のついたオマルが捨てられていることも、その位置関係までもが正確に頭に浮かぶ。
家の裏だ。裏とはいっても数キロ離れているが、芳裕にとってこの森は子供の頃からの遊び場なのである。山全体を完全に知っている。
知ってるとこでよかった。
「よしよし」まず思ったのは、どうやって車を方向転換させようかということだった。このまま山頂までしばらく狭い一本道だ。
「ここ? ここになにかあるの?」これからきっと大変楽しいことが待っているに違いないと確信しているカナコ王女は、期待に満ちた笑顔でそう訊いた。
「うん、ここはね、ぼくよく知ってるんだ」あたりまえだ。地元の人間なんだから。「子供の時、よく遊んだし、今でもけっこう来るんだけどね」
不思議なことが起こった。
これから始まる楽しいことってなにかななにかな、と期待していることがはっきりとわかる顔で微笑んでいたカナコ王女が、どういうわけかひどくうろたえたようにぎくしゃくとしはじめたのである。
「そう。そうなの」へえええ、と小さく何度も頷きながら捜し物でもしているみたいに、視線をあちこちにさまよわせる。
頬も、目の回りも赤くなっていた。長い髪に隠れて見えないが、きっと耳も首筋も赤く染まっていることだろう。
「どしたの? なにか落としたの?」
「ううん」と首を振るが、芳裕の方は見ない。「ありがとう」
「え? なにが?」
「えっ」反対にカナコ王女の方が驚いて「だから……つまり、ここはその、子供の頃の遊び場なんでしょ」
「うん」だからどうしたというのか。「そうだよ」
「ありがとう」
「はあ、いえ」
よくわからなかったが、それどういうことなのと詳しく訊くのは失礼な気がして芳裕はそっとしておくことにした。
ついさっきの溌剌《はつらつ》としたようすはどこかへ消えてしまい、王女は人見知りの激しい子供のように、もじもじと自分の掌を眺めている。
さっぱりわからない。
じっと見ていると、視線が気になるのかちらちらと芳裕の方を見てはまた下を向く。
「なに」息の音だけでカナコ王女は言った。
「いやそのここには古い」特に言うべきことも見つからなかったが、間が持たないので口を開いたところ、カナコ王女は芳裕の一言一句を聞き逃しては大変とばかり、はっと息を呑む音をさせながら顔をあげ、芳裕を凝視した。
たちまち芳裕も息を呑んで凝固した。
助手席の窓から射す陽の光を背に受け金色に輝く王女の輪郭に、赤く染まった頬の形に、どこまでも黒く透き通った瞳に浮かぶ虹彩《こうさい》に、それらすべての美しさに圧倒されて芳裕は文字どおり絶句した。
夕暮れ時の雲や星の煌《きら》めきなどもひっくるめて、芳裕がそれまでの人生で目にした一番美しいものが今その目の前にあった。
なんて綺麗なんだろうと見とれながら、どんどん顔を近づけたくなる欲求に逆らいがたくなる。
それはとても自然な成りゆきで、そのままいけばなにも障害はなかったのである。しかしあまりにも自然すぎたがゆえに、二十歳をすぎてもその経験のなかった芳裕の脳に、キスする瞬間がこんなにもあたりまえに訪れるはずがないという恐怖に似た確信が渦巻くこととなり、その結果、芳裕は身の内に発生した穏やかな恐慌に自分を見失っていった。
こんなはずはないこんなことをしては絶対にいけないのだと無理矢理考えさせられた芳裕の脳は混乱し、その自然な行動を阻止するために恐慌直前の記憶を呼び覚ました。
つまりまあ簡単に言うと、わけがわからなくなった芳裕は、王女に見つめられてうろたえる直前に言いかけていたことを、ここで言ってしまったのである。
「縄文式土器」
落ちついた声で、どういうわけかとても嬉しそうだった。
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午後六時二八分 大久保中央公民館
動物病院前派出所の駐在さんによって、松岡芳裕の名は大久保町内を駆けめぐることとなった。
とはいうものの警察が松岡芳裕という大学生を王女誘拐の重要参考人として早くも指名手配したというようなことはなく、したがってマスコミに松岡芳裕の名前が流れるということもなかった。
やはりあのじいさんちょっとぼけとるのではないかという噂が警察内部には以前からあったようである。だいたい巡査が勤務中自宅から一一〇番通報するというのがまともではない。そもそもなんであれほどの老齢の巡査が存在するのかが謎であった。誰も詳しい理由は知らず、その話題はいつも「大久保町だからなあ」で終わっていた。
それでも一応は調べてみようということにはなったので、芳裕が警察に注目されてしまったことは事実である。だがそれはあくまでも警察内部だけのことで、関係者以外には知らされていない。
ならばなぜ芳裕の名が町内を駆けめぐったかというと、実際に駐在さん自身が芳裕の名を叫びながら駆けまわったというわけでは、いや実はそれも少しあったのだがそれよりも噂の伝達に大きく影響したのは町内放送であった。
大久保町町内会にはふたつの連絡システムが存在する。
ひとつは回覧板で、もうひとつが町内放送である。
回覧板というのはこれはもう悲しくなるほど効率の悪いやり方で、特に大久保町のような田舎においては連絡事項がきちんと伝わるために奇跡と言っていいほどの幸運の積み重ねが必要となる。
おおよそ二十軒にひとつの回覧板がまわされるが、まず各家庭それぞれに紛失の可能性がある。
紛失の理由にはいろいろあるが、一般的なものとしては、みかんの皮を包んで捨てた、風で飛んでいった、猫がじゃれて引き裂いた、子供が紙飛行機にして山から飛ばした、おばあちゃんが食べた、おじいちゃんが食べた、山羊《やぎ》が食べた、山羊の鳴き声がやかましいと腹を立てた隣人が飼い主ともども食べたなど。
こうした紛失の危機を二十回近くもクリアするということは、誰が考えてもこれはまず不可能で実際回覧板が起点である回覧板当番の家へと戻ったことはほとんどない。戦争前には何度かあったと噂される程度で、戦後には一度だけ大久保町はもとより日本ですらない遙か遠くはサモア島に住む少年が、小瓶に入った大久保町の回覧板を家の近くの浜辺で見つけ、手紙といっしょに送り返してくれたことがあったのみである。なんで大久保町の回覧板が小瓶に入って海に流されたのかは、当然のことながら誰にもわからなかった。
でも今回はまわらなかったので回覧板はどうでもいい。
町内放送である。
回覧板に比べると町内放送はいたって簡単、迅速な伝達方法だと言える。
放送といってもラジオやテレビは関係ない。
中央公民館の屋上に設置してある巨大スピーカから町民に向けて怒鳴るという原始的なものである。
このスピーカの威力はすさまじく、大久保町内はもとより明石市全域に響きわたる。
明け方や夜中など静かなときには、東は芦屋、西は岡山にまで聞こえることがあるという。
とにかくやかましい。
それがあんた日曜日の朝五時ごろから、
「農家のみなさまに農薬についてご連絡いたします」などと、大音響を轟かせることがしばしばあるのだ。おかげで農家以外の人間も、ああなるほど大根の苗には「茶色の袋」の「にこにこ三号」と「黄色いビニールの袋」の「ヤンパパンA」を「三対一の案配で」混ぜるのだなと知ることができるのだが殴りにいこうかと思う。
「案配をまちがえますと」とたいてい放送はゆっくり続き、混ぜ方をまちがえるとどうなるかと細かくこまかくくどくどと三十分以上も伝えたのち「以上のことをよろしくおねがいします」と締めくくるので、やっと終わったもう少し寝ようと安心したとたん、放送はふたたびのんびりと、
「くりかえします」すな。
どういうわけか大久保町の町内会役員の人たちはこの放送をなにかというとやりたがり、たとえば唯一の連絡事項であったはずの、それも農家以外にはなんの関係もない「農薬についての諸注意」みたいなものがくりかえされたのちも、すぐに終わってはもったいないとでも思うのか、やれ交通事故にはくれぐれも気をつけろとか、山下《やました》さんの家のおじいさんが市の菊の展覧会で銀賞を取ったとか、本当にどうでもいいことを明け方に怒鳴るのである。ひどいときには詩吟をうなるじじいもいる。なぜ明け方が多いかというと農家の人が早起きだということももちろんあるが、本当の理由はたぶんその方が町が静かなぶん遠くまで響くからである。
お願いだからやめてほしい。
自宅へ逃げ帰った駐在さんは警察に電話したのち、あちこち走りまわってえらいこっちゃと言いふらしたのち自らの判断で町内放送を敢行《かんこう》すべく大久保町中央公民館へと赴《おもむ》いた。
「大久保町のみなさまに言います」お伝えしますとか申し上げますとか言えんものか。
駐在さんはかなり興奮していたにもかかわらず、農薬について語る農家のおっさんと同様のんびりした口調で放送を始めた。この放送のときは、こういう口調でという暗黙の決まりのようなものがいつのまにかできてしまっているのである。
「今から町内のみなさまに王女様誘拐の犯人が誰であるかということの」とまで言って駐在さんは言葉につまった。「あー」と、考えて「ものすごい、大変なことをお知らせいたします」
こんなすごいことを放送するのだからと、駐在さんは思い切ってヴォリュームを最大に上げた。
この町内放送用の機械は外国製なのかスイッチやダイヤルなどについた文字がすべて英語だったため“VOLUME”の上には「声の大きさ」と筆で書かれた紙が貼り付けられている。同様に“MAX”には「声が大きい」“MIN”には「聞けにくい」と付いていた。「聞きにくい」のではなく「聞けにくい」のである。まあどうでもいいのだが参考までに言っておくと“POWER”は「電気のスイッチ」となっている。
とにかく最大ヴォリュームである。
「えーと」数軒の窓ガラスが割れた。
びりびりと大地を揺るがすような音量を得た駐在さんは有頂天になって続けた。
「大変なことです。山の上の松岡さんのところの芳裕君が、王女さんを誘拐しました。王女さんを誘拐したのは山の上の松岡さんの芳裕君です」山の上の、と断るのは山の下にも松岡さんという家があるからだった。「今、逃げています。さっき見ました。警察にはもう連絡しましたのでご安心ください」自分が警察の一員であるという意識は非常に薄いらしい。
警察にはもう知らせたというのなら、こんなことを放送してそれでどうするのかというようなことはどうでもいいのだった。放送できればそれでいいのだ。
まだ日が沈むまでには時間があり、この時間ではあまり遠くまで聞こえないかなあなどと思いながらも、駐在さんは少しでも長く放送をしていたかったので、町内放送をする人なら誰でもが必ず言うことを言った。
「念のため、今一度くりかえして言います」
それから同じことを、もう二回くりかえした。
この町内放送の最大の欠点は、音は大きいもののスピーカの質が悪いので、なにを言っているのか聞き取りにくいという点だった。小さくても「聞けにくい」が大きくてもまた「聞けにくい」のである。
通常の音量でさえ聞けにくかったから、最大レベルにした駐在さんの放送は「なにやらうるさい」ということなら六甲山頂にまで迷惑をかけたものの、その内容を理解することができたのは町内の中でもごく一部の人々だけだった。
しかし王女誘拐の犯人について話すという部分まではかなりたくさんの人が聞いていたので、町内を噂が駆けめぐるにはそれで充分だったのである。
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午後六時三四分 おいぼれ山必殺洞窟
「ここ」と、芳裕は王女を振り向いて微笑んだ。まだ裸足だが、まるで平気である。
「へえ」と王女も、常に微笑んでいるようなその顔を、さらにほころばせて芳裕を見上げた。「洞穴ね」
木や草でトンネルのようになっている獣道をわずかにそれ、刺のある木やどろんと不気味な名前のわからない虫が、うじゃうじゃたかった下草を器用にかきわけて進んだその先、山の斜面から一段高く盛り上がった台地の奥にその洞穴はあった。
台地といってもテニスコート半分程度の広さで、そのまわりは密生する背の高い木々に囲まれている。ほぼ半円形をしたこの台地の直線部分は切り立った崖に面していて、その中央に高さ一・五メートルほどの洞窟の入口がある。
「ひとりで作ったの?」
「ちがうちがう」冗談で言っているのかと思ったが、王女の目は真剣だった。「たぶん大昔の誰かが作ったんだと思う」
ひとりの人間が簡単に作れるようなものではなかったが、自然にできるものでもなかった。台地の形にしても、雨や風が削ったと考えるにはあまりにも正確な半円形である。あちこち崩れてはいるものの、むしろそのせいで昔はもっと正確で幾何学的な形をしていたのではないかという印象を与える。
縄文式土器、と芳裕が言ったのは、縄文式土器を隠してある秘密の洞窟があるのだと言おうとしてのことだった。
実際この洞窟は秘密も秘密、大人も子供もひっくるめた地元の人間でも、この場所を知っているものはほとんどいない。
「小学校四年の夏休みに」と芳裕は、すでに頭を洞窟の中に突っ込んでいる王女に言った。「偶然見つかったんだ」
「へえー」と感心してはみせるものの、洞窟の中がどうなっているのか早く見たくてしかたがないとカナコ王女は上の空である。
芳裕は知らないうちにへらへら笑っていた。なんだか嬉しい。
ここまでの道のり、車を停めた場所からほんの数十メートルのことではあったが、ああいう草だらけのぐちゃぐちゃをたいていの女の子は嫌うはずで、実際一度だけだったが、芳裕はここへ女の子を連れてこようとして失敗したことがあった。
これは誰が考えてもわかることだと思うが、大間抜けもいいところだった。
第一山の中に連れて行かれるだけでも女の子にとっては恐い。街の女の子ならなおさらである。
それがこんな草木かきわけ薄暗い獣道を通り、行く先を問えば「洞窟」だというのだ。
なにか尋常ではないなにごとかをされると思う方が正しい。
よほど親しい、つまりその、なんというか、そう、それ、そのなんでもありの恋人同士のデートでも、ちょっと待ってよといいたくなるほどのシチュエーションである。
結果その女の子は洞窟どころか森の中を数メートル入ったところでおなかが痛くなったと言いはじめ、その日以来いつ電話してもいなかったり風呂に入っていたり「ちょっと出かけていたり」してばっかりになった。
芳裕は素直というかなんというか、おなかが痛いと言ったのも電話が取り次いでもらえないのも、すべて頭からその言葉どおり信じていたのであったが、その女の子の家にはおばあさんがひとりいて、たまたまそのおばあさんが電話に出たとき向こうでこう言うのが聞こえた。
「ゆかり、松岡さんいうたら、おまはんおらんことにする人かいなあ」
そこでやっと避けられているのだと気づいたのである。
やっぱり洞窟がよくなかったのだな、とここまでくれば馬鹿でもわかる。
それがこのカナコ王女ときたら、山道に入ったとたんあたりまえのように芳裕の手を握ってきたかと思うとタマムシを見つけて「なにこれきれいな虫」はしゃぎ、櫟の幹にクワガタ虫を発見しては「クワガタ虫ほらほらほら」大声を出し、縄文式土器があるとしか言わなかった芳裕に「ドイツのなにかってどういうもの?」わけのわからない質問を投げかけ「ジャーマン」ではなく縄文で、大昔のものだと言うと「わかった」と叫んで「そうか原人に会わせてくれるんだ」大喜びし、違うと言うと今度は勝手にじゃあきっとこの先にあるのは「お猿の村」にちがいない、そうでないならそれはきっとすばらしく美しい湖で「そこには恐竜もいる?」などとどんどん期待を膨らませるのだった。
お猿の村?
しかしまあこれだけ期待が膨らんでしまうと、少々のことでは喜ばないだろうと芳裕はあきらめかけていたのだが、意外なことに洞窟の入口を見ただけで王女は嬉しそうにはしゃいでいる。
「入っていいの?」
もしかして、自分を喜ばせるために嬉しいふりをしているのでは、と芳裕はほんの少し思ったりもしたのだが、
「ねえ入っていい?」もうほとんど入っている。
本当に楽しいのだとしか見えない。
芳裕も楽しくなって、寺尾に追われたこともカナコ王女が王女であることもほとんど忘れ、なんだかすごく幸せだなあとにこにこしていた。
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午後六時四六分 観光ホテル西島旅館別館 大浴場
いっときの幸せは、かえって不幸を招くこともある。
平穏な日常に付加された幸福は、去りゆくときただひっそりと去っていってくれるわけではなく、安らかだった魂の大半を引きちぎる。
と無表情に言ったのは侍従で詩人の西畑|五郎《ごろう》である。
侍従長の山口さんと侍従の西畑、河合《かわい》の三人は観光ホテル西島旅館別館の大浴場にいた。
浴場の入口には「温泉」と書いてあるが、実際は単に大きい風呂にすぎない。でかい風呂のことを「温泉」と呼ぶ人は実はけっこういる。少なくともこの旅館の人々はそうだった。だからだまそうというつもりはまったくないのである。
他に客のいるはずもなく、三人だけでのんびりと風呂に浸かっていた。
「いやあ極楽ごくらく。幸せしあわせ」という、金輪際《こんりんざい》悩みのない男河合茂平のつぶやきに対して詩人西畑が返したのが、いっときの幸せは云々というくだりだった。
「残されるのは大きくえぐれた胸の傷と、悔恨のみ」
風呂入って気持ちがいい程度の幸せで、いちいち胸をえぐられていたのではたまらない。
「あー」と気持ちがいいのか納得したのかわからない声を出してから河合は言った。
「まったくですなあ」まったくわかっていない証拠に「二日酔いはつらい」
「こんなことをしている場合ではないんですけどねえ」と心配そうな声を出したのは侍従長だが、それを聞いた河合は珍しくさっと反応して、
「そうそう、早く出ましょう」と言って本当に湯から上がった。タオルを絞りながら「鴨鍋の用意ができてるはずです」
ふと西畑が天井を見上げた。
不思議そうに山口さんも天井を見て、ああと気づいた顔をした。
ヘリコプターの飛行音が低く響いてくる。何機かの編隊らしい。
「あー」河合も天井を見た。「うんうん」なにがうんうんなのかはあとのふたりはもちろん河合本人にもわかっていないのは確実だ。
西畑が指摘したとおり、芳裕に訪れたささやかな幸福は非常に危ういものであった。
結ばれようのない相手と恋に落ちるというのはたしかに悲劇であるが、それくらいは我慢すればよろしい。胸をえぐられ絶望に打ちのめされようと死ぬことはない。死ぬときもあるが、あれは死のうと思うから死ぬのであって死なないでいようとさえ思えば死なずにすむ。
世の中には死なないでいようとがんばっても死んでしまうことがたくさんあり、そして芳裕が突き落とされようとしているのは、まさに下手をすると確実に死ぬだろうという状況だったのである。
どう楽観的に見ても最悪だった。
駐在さんのおかげで、いまや芳裕は町内の人気者だった。
一応の事情聴取ということでしかなかったが、警官がふたり芳裕の家の近所で聞き込み捜査を始めたことにより噂の信憑性《しんぴょうせい》は高まり、本当にあの芳裕君が犯人なのだろうかという噂は、すぐさまあの芳裕君がどうして王女誘拐などしたのだろうというものへと変化した。
恐ろしいものでそういう噂が出ると「実はそれはね」と、答えてしまう人があっというまに出現し「あの子はね、昔からカナコ王女の熱烈なファンだったらしいよ」ということになる。そしてこの噂もすさまじい速さで町中を席巻《せっけん》していき「私の友達の友達が、芳裕君のおばさんとなかよしでね、直接そう聞いたんだからこれ絶対ほんと」
ありがちなパターンである。
ではその友達の友達は誰かというとこれが誰も知らないのだ。
車より速く走る四つん這いの老婆に追いかけられたり、海で転んだせいで膝のお皿の裏にびっしりフジツボが生えてしまったり、ピアスの穴から出てきた白い糸を抜いたとたん目が見えなくなってしまったりした人の話を、実際に体験したかあるいは当事者と会ったはずのその人物は存在しない。
ありもしない法螺《ほら》話を本当だと言って人をだますなど、そんなことをしてなにがおもしろいのか人間性を疑ってしまうが、そうやって噂は駆けめぐる。
それはともかく芳裕の自宅のまわりには、駐在さんが放送をするずっと前から野次馬が集まり、さながら「春の祭りみたいやなあ」という様相を呈していた。
そもそも噂をもっともらしくする原因となった警察までもが噂に流され、本当にその学生が犯人かもしれないという立場から芳裕の経歴や身辺を詳しく洗いはじめた。
疑いの目で調べれば、たいていの人間はどこか怪しいのが普通で、そうこうするうち警察内部までもが王女を誘拐したのはあの大学生に違いあるまいなあ、という空気に支配されてしまったのだった。
しかし警察はそれほどの脅威ではなかった。
噂を耳にして怒り狂った牧村真紀ちゃんも芳裕にとっては侮《あなど》れない脅威だったが、けれどもっと恐いのは王女救出に急行した「騎士団」であった。王を守るのがその仕事というこの集団は、名前こそ優雅だったがその実かなりの戦闘力を誇るれっきとした軍隊で、したがって日本警察とは違い人間に向けて発砲するのを躊躇《ちゅうちょ》したりはしない。
形式的な警護という名目で近海に待機していた一個小隊とは、三個分隊の歩兵と一個分隊の参謀本部からなる特殊部隊であり、人数にして約五十人。これが戦闘ヘリAH‐1Wスーパーコブラ八機と兵員輸送用武装ヘリUH‐60Aブラックホーク四機およびハリアー戦闘機四機その他いろいろをどかどか搭載したワスプ級|汎用《はんよう》強襲《きょうしゅう》揚陸艦《ようりくかん》という、いったい王女をどんな化け物から守るのかと思うほどのものものしい装備を伴っていることが公式に発表されていた。
実際にはその二倍の兵力が投入されているという噂もあったほどである。
王女を守るためには「いかなる犠牲も惜しまない」と公言する彼らにとって、日本の一大学生の命など取るに足らないものでしかないのは当然のことであり、さらに芳裕にとって不幸だったのは、彼らが王女誘拐事件についての主な情報を日本警察から得ていたということだった。まだ犯人と決まったわけではないというのに、
では、その松岡なんとかという者を「排除」すればよいのですな。
それは簡単なことだ、と騎士団の団長を務める篠原元蔵人頭はこともなげに言ったという。以前蔵人頭であったが今は違うという意味ではなく名前が「元」と書いて「はじめ」と読む人なのである。
芳裕にとって絵に描いたように最悪なのはこの篠原という人物だった。
彼はカナコ王女の婚約者だった。
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午後六時五二分 おいぼれ山登山道
悪いことは重なる。
芳裕は車を停めたときサイドブレーキをきちんとかけていなかった。
それほど急勾配ではない坂ではあったが車はじりじりと下がりはじめ、さらに数メートルほど下がったところの急勾配で勢いがついた。あとはどんどん加速する。
他人の、それも自分たちを襲った連中の車だから壊れたのを知ったとしてももったいないと思うことは全然ないのだろうが、この先どこへ行くにしろとりあえずは徒歩ということになってしまうのは確実であるし、そのうえ、たいしたことではないのかもしれないが車の中には王女の靴が置いたままだった。
足も乾いたようなので靴を履きかえようと王女は言ってくれたのに、ここからは道が悪いからそのままの方がいいと芳裕は裸足のまま洞窟までを歩いたのである。
足の裏の皮がいくら厚いといっても限界はある。
さらに、またしても寺尾が迫ってきていた。
どこで調達したのか鮮やかな黄緑色をしたカワサキ製のオフロードバイクにまたがった寺尾は、車のタイヤ跡を手がかりに芳裕たちのすぐ近くにまでやってきていた。
梅雨明け直後の道路は、ほとんどがぬかるんだ状態で、最新型のミニヴァンのつける轍は見失いようがなかったのである。芳裕は一度も曲がらずに突っ走ってきたからなおさらわかりやすかった。
追跡する立場として、ここまではっきりとわかってしまうと普通は少し疑ってみるものである。これは罠ではないのか。他に逃げたのをカムフラージュするためのなんらかのトリックがあるのではないか。
ところが、こういう寺尾みたいな真面目一本槍、努力と根性さえあれば戦争にも勝てると思っているような人物は、決して頭が悪いわけではないのだが、その性格ゆえにいつでもなんでも思いこんだら試練の道だろうと針の山であろうと突き進む。とにかく予想、変更、中断、といったことは法に触れるとでもいうのかやりかけたら最後、実際に結果が出るまで徹底的に邁進《まいしん》する。そうやって失敗しておいて、精一杯やったので悔いはありませんなどとまわりの顰蹙《ひんしゅく》にも無頓着に言ってわっはっはと笑うのである。
やっぱり頭、悪いのではないか。
というわけで、轍を追って山へ入っていったときもなんの悩みもなく、ただひたすらフルスロットルで、泥を巻き上げ邁進していった。
この時期、山の中には小バエが大量発生する。
一見煙に見えるほど固まって発生するのである。
ヘルメットもかぶらずゴーグルもサングラスもかけずにバイクでこの虫の煙の中を通過すると、目鼻口はもちろん、耳の穴、髪の毛の間、胸のポケット、パンツのゴムに沿った部分(ズボンがゆるい場合)パンツの中(パンツもゆるい場合)にまで小バエが入り込んでくる。
猪突猛進《ちょとつもうしん》を絵に描いたような素直さでなんの躊躇もなく小バエの大群に突入した寺尾は、両方の眼球にびっしりと小バエを張り付け、そこで驚いてうわと口を開けてから後悔した。
目がほとんど見えないうえ、猛烈に咳き込んで息も苦しい。
それでも停まるとか、スピードを緩めるという気にはならなかったらしい。フルスロットルで目をしょぼしょぼさせながらげほげほ悶《もだ》える。
そういう状況のところへ、追っているはずのミニヴァンが前方から力強く突進してきた。
おぼろげにしか見えなくても一度思いきり頭を突っ込んでいるので、ケツを向けて落ちてきたなと、すぐわかった。
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午後六時五二分 おいぼれ山必殺洞窟
迫りくる恐怖のひとつとして知らず、芳裕は蝋燭《ろうそく》の明かりに照らされた王女の横顔にうっとりと見惚れていた。
洞窟の奥はドーム状に広くなっていて、一番高いところは二メートルほどの高さがある。
入口からつきあたりまでほんの数メートルしかないので、蝋燭がなくても暗くて困るということはないが、ここに来たときは蝋燭をつけるのが一種の決まり事のようになっていた。
かつてこの洞窟を「必殺洞窟基地」と称して遊んでいた仲間も、今ではもうまったくこの洞窟へ来ることはない。必殺、といっても特に誰が死ぬというわけではなく、子供は必殺とかウルトラとかいった類の言葉が好きなのである。
他にもう誰も来なくても、芳裕はたまにここへ来るとやはり蝋燭を灯す。
思い出を大切にしているのではなく、蝋燭を灯さないとみんなに怒られてしまう、という子供のときの恐れがいまだに抜けないからだった。
それに今でもときどきここに来るというのも、つらいときや悲しいとき、自分を見つめなおそうと思うとき一番好きなこの場所に、などといった脳味噌に花が咲いたような理由ではなく、このあたりをランニングのコースにしているからときどきここで休むだけのことである。
蝋燭に火を点けた芳裕は、椅子とテーブル代わりに置いてある林檎《りんご》の木箱に積もった埃を払い、王女に座るよう勧めた。
自分は座らず、
「まだあるかなあ」もう何年も見てないからなあと、ぶつぶつ言いながら地面近くの壁に埋まった岩のひとつを引き抜こうとして隅の方にうずくまる。
「あれも昔の人が作ったもの?」王女は壁を掘って作ってある四角い穴を見て言った。
「うん、たぶんそうだと思う」ここに蝋燭を立てればちょうどいいのではないかということになって「蝋燭立ては、最初蝋燭といっしょにおきつね山のお稲荷さんの灯籠《とうろう》から、山下君がもらってきたんだ」自分ではとうていできないことだったので、こういうことを人に話すときはなぜか自慢げになる。
それからも山下君は何度も、蝋燭以外にもいろいろこまごまと盗んできたよと自慢したくなったが、人の自慢をしているときではないなと思いなおした。
芳裕は昔よく「山下君はカマキリを殺せるんだよ」と他人に他人の自慢をしていたものだった。
王女は、
「ああそう」よかったわねえ、と子供を相手にしているような相槌《あいづち》を打って微笑んでくれた。山下君っていったい誰か、おきつね山とはどこか、というようなことは特に気にならないようだった。
ごろり、とビーチボールほどの岩がはずれた。
「あったあった。これこれ」と、岩が蓋《ふた》をしていた穴の奥から薄汚れた木の箱を取り出して見せ「縄文式土器」
「あら、木でできてるのね」
「いやいや、この中」
「ああそうなの」ずれたことを言っても、へこたれるようすもなく常に楽しそうである。
「そんなにたいしたもんじゃないんだけどね」と、歪んだ林檎箱を引き寄せて座る。
元は上等の鍋でも入っていたのか、立方体に近いその箱にぎっしり詰まっているものはどう見てもたいしたものであるはずがないようにしか見えないものだった。
つまり早い話ゴミに見えた。
そのがらくたを芳裕はひとつひとつゆっくりと、ことりと音を立てたら最後、それで負けだとでもいうように丁寧に取り出していく。
「なんだか土のかけらみたい」
それはそのとおりだった。
「うん、そうなんだけどね」全部で十個ほどの土のかけらを林檎箱の上に並べおえた。一番大きいもので瓦半分程度の大きさである。「これは縄文時代の土器なんだって」
小学校の先生にそのうちのひとつを見せたところ、大学でも調べてもらったがどうやら縄文時代のものらしい、ということだった。どこで見つけたかしつこく訊ねられ、知らないおじさんにもらったなどと苦しい嘘をついたのだが、どこで見つけたにしろ二度と掘りにいってはいけないとくどくど説教をされた。
そんなわけで、他のみんながむきになって掘りまくったのである。芳裕は先生の言うことをきいて、掘るのをやめるつもりだったのだが。
「便所を作ろうとしてて」と、芳裕は言った。「この近くの岩の間を掘ったら出てきたんだ」結局便所は別のところに掘った。
かなり大量に出てきたが、残っているのはこの洞窟に隠した十数点の「大物」だけで、仲間が家に持ち帰った分は、ほとんどなくなってしまっていた。
発見した最初の頃は興奮していたし、学校で禁止されたことで情熱が沸騰《ふっとう》したが、あまり大量に出てきたのですぐにどうでもよくなってしまったのである。たしかに縄文式土器だろうと教えてくれた先生に、けれども特に珍しいものではない、と言われてしまったせいもあった。
あっというまに飽きていた。
この洞窟以外では、当時の仲間だった友人の家の玄関前に残っているだけである。飾ってあるのではなく玄関前に敷いてある砂利の中に混じっていた。数年前の正月、芳裕が発見したのだった。
「玄関の前に縄文式土器を敷くと、どうなるの?」と、王女は訊いた。
「うーん」なんと答えたものか。
「これも土器?」人の話を聞いているのかいないのか、王女の関心は玄関前の縄文式土器ではなく目の前の石の方に移ったようだった。
王女が恐る恐る指さしたのは、ビリヤードの球を少し平たく押しつぶしたような大きさの石で、深く透明感のある緑色をしていた。
「ああ、それは土器じゃないと思う」綺麗だからとっておいただけだった。
「きれいね」触ってはいけないと思うのか両手を胸の前で握りしめたまま、首だけを伸ばして眺めているので、
「はい」と芳裕は緑色の石を手にとって王女に差し出した。
「いいの?」小さな両手で、うやうやしく受け取って「翡翠《ひすい》みたい」両手に載せてもらった石を、そのままじっと眺める。「縄文時代の人が磨いて作ったのかしら」
「それは土器とは違うところに埋まってたんだ」なぜその場所を掘ったのかは思い出せなかった。でも「それは便所じゃなかった」
「ありがとう」石を載せてもらったときのまま、そのままの両手を芳裕の方に、はいと突き出す。
芳裕は笑った。
「そんなに大事にしなくてもいいよ」
「でも」両手を前に突き出しているその仕草は妙に幼く見え、芳裕はどういうわけか無性になつかしい想いにとらわれた。子供の頃遊んだ洞窟にいるせいなのももちろんあるだろうが、それとはまた違うなにかがあるような気がした。
「それ」なにが気になるのか自分でもわからないまま芳裕は言った。「気に入ったのならあげるよ」
「え」
「ただの石だけど」ただの石、と自分で言ったとたん王女の手にある石がどうしようもなくつまらない物に見えてきた。「いらないかな、そんなの」と、照れたように笑う。
王女は黙って石を見つめていた。しばらく唇を噛んでいたが、
「だめ」石を見つめたまま小さな声で言った。「もらえない」と、また芳裕の方にその手を差し出す。
「いいんだよ」遠慮しなくて、と言いかけたが遠慮しているのではなく、なにか深いわけでもありそうな気がしたので、とりあえず石を受け取った。
「だってね、あたしは王女でしょ……だからね」
「王女だと、どうして?」他人に石をもらうと一生眠りつづけるとか。
「だって」と言いかけて王女は、あっと小さな驚きの声をあげた。「ああそうか。外国の人なんだ。知らないんだ」
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「ぼく?」わかっていなかった。「違うよ。日本人だよ」
「私から見れば外国の人よ」王女の全身から緊張が抜けたのがわかった。なにかとても安心したらしい。
「ああそうか」と芳裕は一度簡単に納得しておいてから、そうかそうかと何度も頷いているうちにその事実が突然とても気に入ったらしく、でかい声で嬉しそうに「そうかあ外国人かあ」と怒鳴った。はっははー。「ほんとだあ」
「ああびっくりした」とカナコ王女は両手をぽんと自分の膝の上に置いた。
「ほんとほんと」びっくりした。と言ってまだにこにこと笑っていたが、笑った顔のまま瞬きをして「なにが?」
「あのね。私の国ではね、男の子が」芳裕の笑顔につられて同じように笑っていた王女は、そこまで言うとさっと言葉を引っ込めた。
「ん?」芳裕はへらー、と笑ったまま続きを待っている。
「あらあ」ぽっと音が出そうな勢いで顔を赤くした王女は自分の膝に視線を落とし「やめとく」
「なにを?」
「いいじゃないの、もう」よくわからないが楽しそうだった。
「なにが?」
「だから。ね。ほら。もういいじゃない」
「はあ」
なにかかんちがいがあったらしいがそもそも洞窟へ行こうと言い出したときからちょっとへんだったもんなあと考え込んだだけだったのだが、芳裕のその顔を見た王女はとたんにおろおろし、
「わかったから怒らないで。言う。言うから。ね」必死になってとりつくろう。
「な、なに。怒ってないよ」反対に芳裕の方があわてた。「ぜんぜん」
「ほんと?」
「うん」深く頷いて「ぼくあんまり怒ったりしないんだよ。ふだんから」
本当にそんな感じだ。
「よかった。私ね、誰かが怒るとそれが自分に関係なくてもものすごく困るのよ」もうすっかり安心したようだった。
「うんうんわかるわかる」芳裕も大きく頷いた。「ぼくも困る」
「あのね。私の国では、子供の頃の遊び場が、その人にとってものすごく神聖なものだっていう考え方があってね」
「うん。ああつまり、その人の性格とかがそこでできあがるからとか、そういう意味があるのかな」
「え?」口をはさまれるとは思っていなかったらしい。「うん。あー。うんそうそう。性格とかまあいろいろ」
「なるほどなあ。そうかもしれないな」
「うんうん。そうでしょ。でね」なぜか早く次を話そうとせかせかしているのである。「だからね、男の人が女の人に子供の頃の遊び場を見せるとか実際には見せなくても見せたいと相手に言ったりするのはつまり」
「はあはあ」王女の声がだんだんと小さくなっていったので、芳裕は助け船のつもりで声を出した。
「なに」芳裕の声に過敏に反応して、王女は口を閉ざす。
とろい芳裕でも、どういうことかなんとなくわかった。ここまで恥ずかしそうにもじもじされれば、だいたいの想像はつくものだ。
「結婚してくれってこと?」
「いやややや。それはそのあと」王女はぎょっとしたように早口で言った。「石がそう」
「石?」
「だからね」悲しげでは全然ないのだが、泣きそうになっている。「ねえ、全部言うまでなんにも訊かないでいてくれない?」
「どうして?」いきなり訊いている。
「恥ずかしいからよ」ちょっと怒った。「さっと簡単に言おうとしてるのに、途中でいろいろ訊かれると、どんどんわざわざ恥ずかしいからつらいの。ね。いい?」
「はい」よくわからなかった。
「はい、いいお返事」ほとんど子供あつかいだったが、えらいわねえと優しく微笑んでもらった芳裕は、それだけでえへへえと犬のように喜んだ。「だからね、遊び場を見せるのが、好きだっていうことで、そのときプレゼントを渡すとプロポーズになるの。そういうことなの。実際にそうする人なんか今ではもうほとんどいないけどね。だから普通はプロポーズ用のおもちゃをわざわざ買ってきたりするのよ。そういうの専門のお店もあるの。そういうことなの」また口をはさまれては困ると思ってか、一気にまくしたてた。
「はー」そういうことかあ。すごい偶然だなあ。と感心しながら黙っていると、
「はい、もうこの話はおしまい」
「はい」返事はしたものの、だからといって、どうして王女だとそれが困ることになるのだろうと考え込んでしまったので、このあたりから王女の言うことは耳に入らなくなった。
芳裕が突然ぼんやりしたようになってしまったのに気づいた王女は心配そうに、しかし冗談半分にこう訊ねた。
「もしかして、知ってた?」
「うん」とはっきり頷いたが、芳裕は王女の言葉を聞いてはいない。王女がぎくっと体を震わせたのにも気づかなかった。「ひとつよくわからないんだけどさっきさあ」と言いかけて王女を見た芳裕はぎくっと固まった。
王女はこれ以上大きく開くと目玉が落ちる、というほど目を大きく見開いて芳裕を見つめていた。
「ほんと?」
「なにが?」
「ほんとに知ってたの?」
「なにを?」
王女はどっと泣きだした。
「なになに、なに。なんで泣くの。きえーっ」恐ろしくなって悲鳴をあげた。「ねえどうしましたのですか」どうしよう。ちょっとちょっととまわりに「だれかたすけ」いるはずもない助けを求め、誰もいないのであきらめて王女の顔を覗き込む。「あうやあ」困惑の極みに言葉もない。
「うー」と王女は力を込めてさらにぐっと泣いてしまった。顔がくしゃくしゃだ。
そのとき洞窟の外で爆発音があがった。
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午後七時一六分 おいぼれ山登山道
飛び散った車の破片や土砂を背中に浴びた寺尾は、大木の根本で岩のように丸まったまま五感をフルに働かせていた。
ヘリコプターは三機。
一機が支援、あとの二機が攻撃用だろう。攻撃対象は小さい。支援機は変わった音のする機体だった。オスプレイか。
車にロケット弾を撃ち込んだあと、二機の攻撃ヘリは飛び去ったが支援ヘリはまだ近くにいる。歩兵を降ろす場所を探しているのだ。
小バエに往生していて上から落ちてきたミニヴァンにふたたび頭からぶち当たり、前とまったく同じ場所を打ったのだった。前回は停まっている車に自分から走ってぶち当たったのだが、今回は向こうは坂道を転げ落ちてくるわこっちはバイクでフルスロットルだわ頭のおんなじ場所をまた打ったわで、しかも念の入ったことに跳ねとばされてそのあと大木にもう一度同じ場所で頭突きしたので、さすがの寺尾も今度は気絶した。
三十分ほど気を失っていた。普通の人なら二度と目を覚まさないところである。
朦朧とした意識の中でヘリコプターの音に気づいたとき、身を起こす暇もなくすぐそばの木に当たって停まっていたミニヴァンが爆発炎上するのを見たのだった。
倒れていたことが幸いした。
上半身を木の幹にもたせかけると、左の上腕三頭筋に食い込んでいる四角い鉄片を無造作に抜き取った。
「いろいろある日だ」呟きながら上空を睨《にら》む。青い法被に血がにじみ、深い紫の染みが広がった。エンジンの一部だったものらしいその鉄片をろくに見もせずに放り投げた。
全身のあちこちに負った傷をひとつひとつ正確に把握していったが、一番深い傷で腕のその傷だった。たいしたことはない。
何者だ。
王女を救出にきた連中だろうと最初は思った。王女の国が軍を連れてきているのは知っている。
しかし、いきなりヴァンにロケット弾というのはいったいどういうことか。
我々の手元から王女が逃げたということをすでに知っているとしても、あのトヨタのヴァンに王女が乗っている可能性はなくなったわけではないし、しかもずっと追跡していたわけでもないのに、なぜあのヴァンが王女誘拐に使ったものだと断定できたのだ。
ぐずぐずしている暇はなかった。
なんにしろ味方であるはずはないのだ。
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午後七時一六分 おいぼれ山必殺洞窟
爆発音に続いて、ヘリコプターの音が聞こえてきた。
その前から聞こえていたような気もするが、爆発をきっかけに始まったように思えた。
爆発はそんなにすぐそばではなかったようだが、ヘリコプターの音はどんどん近づいてくる。
日常耳にするヘリコプターの音とはあきらかに違っていた。異質な音であるばかりでなく、胸に苦しく響く大きく低い音だ。そして、近づいてくるスピードがとんでもなく速く感じられる、その圧力とも言うべき加速感。
「なんだろう」弱々しい声で芳裕は呟いた。平和な、幸せな気分は一気に吹っ飛んでしまった。王女を助けにきたのだろうか。それならば、出ていってここにいると言わなければならないが、それならさっきの爆発はなんだったのか。「君のこと、探してるのかな」
王女は泣きながら、わからない、と首を振った。
ひょっとすると自分たちにはまったく関係のないことかもしれない。もしかするとそうかもしれない。関係ないと考えるのが一番楽しい。それにしよう。
けれど、いくら関係ないと考えようとしても、喉の奥で膨らんでいく恐怖感は本物だった。
ヘリコプターの音だけならもう少し冷静に、いろいろ考えることもできたと思う。爆発に驚いた直後、不気味に始まったというのがよくなかった。
誰もいないはずの公園で女の子といちゃいちゃしているとき、人の気配にぎくっと振り返ったらその子の父親がいた、というようなものである。あれは驚きが持続して体に悪い。
心臓が、強く速く脈を打ち、ごっごっと鳴るその音はシャツをめくってみれば皮膚の下で動いているのが見えるのではないかと思うほどの迫力だ。
一国の王女といっしょにいるということを、初めて重大なことと認識した。
今ぼくは、ものすごく恐い状況に置かれているのではないか。関係ないのに。
ここまでのことを、一瞬だけ、心底後悔した。
なんでこんなことに関わったのか。
ごめんとあやまって、逃げ出したくなる。
ぼくは関係ないんです。
カナコ王女はまだ、くん、くん、と子犬のような声を出しつつ掌で大胆に顔の涙を拭っていていたが、その顔はどちらかというと無表情で、状況を把握していないのかあまり恐がっているようには見えない。
どうするの、と王女の目は芳裕を頼っていた。
この人と、関係なくなってしまいたくないと芳裕は思った。
女のことで家庭や人生をわやくちゃにしてしまう人の気持ちが、生まれて初めて少しわかった気がした。
ヘリコプターの音はますます大きくなってくる。
洞窟の中にいるので、音がどの方向から近づいているのかはまったくわからなかった。すぐそばまでやってきているなと感じてからも、その音は際限なく大きくなって、いまや空気が震えるのを肌で感じられるくらいだ。
でも、このままここにいればヘリコプターから見える心配はない。
そう考えると、気持ちはかなり楽になった。
たぶん、なんの関係もないヘリコプターだ。さっきの爆発はオート三輪のエンジンがノックでも起こしたのだ。しょっちゅうあることだ。
とにかく、隠れていればいいのだ。
突然のことで驚いてしまったけど、たいしたことではなかった。
よかったよかった。
どんどん無理矢理安心する。
田舎者の芳裕にはヘリコプターとは人が乗って動かしているものなのだという実感がなかった。ましてやヘリコプターから人が降りてくるとは想像もしなかったのである。
芳裕とカナコ王女は、無言のままヘリコプターが行きすぎるのを待った。
一年中で一番目の長い季節ではあったが、ちょうどこのとき大久保町は日の入り時刻を迎えた。つまり地平線に太陽が沈みきったのである。
山の東側ではとっくに太陽が稜線《りょうせん》の陰に入っていた。
鮮やかなオレンジ色の夕焼けを別にすれば、空の大部分はもう空色ではなく、濃い透明感のある紺色に近づいているところである。
もうそんなに明るくなかった。
高空から眺めると、青と黒に染まりつつある景色の中にぽつりぽつりと民家の明かりが暖かく灯りはじめたのがわかる。
木々の生い茂った山腹はとりわけ暗く、黒く見える。
他に明かりのないその場所にぼんやりと浮かぶ小さな光は、小さく弱々しいことで余計に目を引いた。まるで見る者をそこへ呼び寄せようとしているかのような違和感がある。
洞窟から洩れる蝋燭の光。
視界から消えていった攻撃ヘリは二機ともAH‐64アパッチだったが、樹林の上空を低速で飛ぶ支援機は寺尾の知らない機体だった。
寺尾が知らないということはすなわち、地球上のどの軍隊も制式採用していないばかりか、プロトタイプさえ公表されていない、まったくの秘密兵器ということになる。
寺尾は木々の間に見え隠れする謎の機体を追った。
航空機とヘリコプターの中間のようなその機体には、通常対戦車用として使用される火器類を装備しているのが見てとれるが、もちろん民間機を改造したものではない。
一見、翼の短い航空機のように見える機体だった。ふたつのプロペラが両翼の端にひとつずつあるが、これが航空機としては並外れて大きく、ヘリコプターのローターブレードと同じ働きをするようになっている。
つまりローターの回転面を前後左右に傾けることで前進後退などの動きを制御し、普通のヘリコプターと同様、垂直方向への離着陸が可能なばかりでなく、飛行時はローターブレードの推力と翼の揚力によって航空機のように高速に、かつ低燃費で飛ぶことができるのである。そこまでは、最初に寺尾が想像したオスプレイと変わりはない。オスプレイは、そういう発想で米軍が開発した輸送機だった。
しかし、寺尾が目にしている謎の機体はオスプレイに比べるとずっと身軽そうに見える。その大きさや胴体の形態からすると、ある程度の輸送能力はあるようだったが、輸送を主目的とした機体とは思えない。戦闘機のような三角形に近い翼と、ステルス性を高めるためであろう細身でなめらかな胴体は卓越した機動性を予感させた。
通常のヘリコプターはローターブレードの下で振り子のように揺れる。重い鉄の固まりがなんとか宙に浮いている姿である。ところがこの機体にはそういう挙動が見られない。
そんなはずは絶対にないのだが、まるで紙か木でできているような軽い動きをするのだ。それでいて風に煽《あお》られてふわふわすることもなく、異様な安定感を保っているのである。
単に航空機とヘリコプターの利点を合体させただけではなく、まったく別のものに仕上がっているのを寺尾は感じた。
得体の知れない敵の出現に、興奮が寺尾の背筋を駆けのぼっていった。
謎の機体は小さく開けた草原にたどり着くと、地上数メートルの空間に静止した。
寺尾は一地点で静止しないよう気を付けつつ謎のヘリコプターを観察し続けた。
ヘリコプターのホヴァリングとは異質の安定感で浮く機体から、迷彩戦闘服を着込んだ兵士たちがふわりと地表へ飛び降りてくる。轟音に他の音が消されているせいもあって、兵士たちの統制のとれた無駄のない動きにも、まるで重力が感じられなかった。
まちがいなくプロの軍人たちだが、どこの国の軍服とも違う。手にしている小銃はM16か。
十一人。
全員が降り立つと、すぐに二手に分かれた。アメリカ陸軍の動きに少し似ていると、寺尾は思った。
謎のヘリコプターはゆっくりと上空へ浮かび上がっていく。オリーブドラブに塗られた機体が、夕映えに赤く光るのをちらりと見た寺尾は、兵士たちの方へ視線を戻し、それからぎくりと身をこわばらせた。
ヘリコプターの音が消えた。
視線を上げると、確かにまだ上空数十メートルに浮かんでいる。
耳がおかしくなったわけではなかった。自分の靴が土と擦れる音ははっきりと聞こえているのだ。
あいつは飛行中に回転翼の音を消すことができるのか。
まったくの無音というわけではない。普通乗用車の走行音よりは充分やかましい。
それでもヘリコプターをトラックほどの騒音もたてずに宙に浮かべるというのは奇跡に近い。どう考えても、できるはずがないのだ。
それを可能にするほどのとてつもない技術力を持つ組織とは、いったいなんなのか。
今の今まで轟音をあげていたくせに、突然音を消した理由もわからない。
湿った落ち葉を踏むかすかな気配を寺尾の肌が感じとった。
息をひそめ、大木の陰へ潜り込む。
ゆっくりと、しかし確実に囲まれつつあった。
いつのまにか足を止めてじっとしていたことに気づく。今日、何度目かの失敗だった。駄目な日はとことん駄目だ。
どうやら狩りの標的は俺のようだが。しかし、ここにいることがなぜわかる。見られていない自信はあった。
ハンターたちは充分に気配を殺しているつもりなのだろうが、徹底してはいない。おそらく相手をただの民間人と想定しての行動なのだろう。
望む望まないにかかわらず、すでに戦いは始まっていた。スタートの合図もなく。
これはスポーツではない。殺し合いだ。
戦闘員としての寺尾の頭脳がフル回転した。軽い緊張感とともに全身が戦いに備えて微妙に変化していく。
短く刈ったうなじの毛が逆立ち、目の虹彩が縮んで顔つきが険《けわ》しくなった。獲物を狙う猫科の野獣のように上半身は柔軟に湾曲し、すべての筋肉と関節がしなやかなバネとなっていった。
敵はこっちの素性を知らない。多少なりとも知っていたなら、ここまでにぎやかな捜索はしないはずだ。その油断を突く。
寺尾は旅館の法被をゆっくりと脱ぎ捨てた。
脇の下に吊ったホルスターからベレッタM92FSを抜き、セイフティを解除したのちふたたびホルスターに収める。
戦闘マシーンが移動を開始した。
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午後七時三三分 御狐山
「気にはなるけど、関係のない学生が偶然巻き込まれたとしか思えませんね」
決して狭くはないダッジヴァンの車内も、四方の壁と天井をびっしり電子機器に囲まれてしまうと、四人の人間が自由に動きまわるというわけにはいかなかった。
「普通の学生が、あの寺尾を殴り倒せると思うか」しわがれた耳障りな声が言った。
「あいつも、油断したんでしょうよ」気のない声で、長髪の男が言った。寺尾が倒されるのを見ていきなり逃げたのはこの男である。まだ若いのだろうが、見てくれも態度もだらーとしていて年寄りじみている。
「じゃあなんで王女はここにいなくて、おまえがここにいるんだ」
鮫を思わせる冷たい視線に射すくめられ、長髪は口元の笑いを消した。
「そう。やつはただもんじゃない」眉間に皺を寄せて真剣な顔になったが、わざとらしいだけである。
「なにが、そう、だ」
「いやまあ、寺尾ならひとりでやれるでしょう。うんうん」すすん、と鼻を鳴らして「だいじょうぶ」すぐにおまえも行け、と言われるのがいやなだけだった。「自分で言ったんでしょ。ひとりでやるって」
「おまえらが行っても、邪魔なだけだ」
「そうそう」嬉しそうに。
「松岡芳裕の名前から集められるデータは一応それで全部よ。両親が小さいときに亡くなっていることを除けば、特に気になることもない子だわ。顔は可愛いけど」ディスプレイの前にいる女が早口に言った。三十代半ばくらいで、充分美人の部類に入る顔立ちをしているのだが、表情にどことなく落ちつかないものがあった。どこを見ているのかわからない少々うつろな目をしている。「ああ疲れた」長く口を開いているのがいやだとでもいうような早口である。息を吸いながら話すみたいなしゃべり方だった。「早いとこトンズラかまして大酒ぶっこきたいわね」
「すました顔で、そういうこと言うんじゃないよ」長髪の男が言った。「せっかく美人なんだからさあ」
「なにが?」煙草に火を点けながら女は上目遣いに長髪を見た。
「その、トンズラとか、酒ぶっこくとか」
「なんか変だった?」びっくりした顔でそう言いながら、すらりとした脚を無造作に組みかえたので、長髪はタイトスカートの奥を覗き込んで顔を赤くした。
「ヘリが二機、近づいてくる。まだ距離はかなりあるけど」今まで黙っていた色の白い男が、スイッチ類が複雑に並ぶパネルに顔を向けたままで言った。寺尾といっしょにミニヴァンを運転していた男である。かなり太っていて、そのせいか普通にしていても息がふうふうと苦しげだ。「アパッチだ」
「こっちへ向かってくるのか?」リーダーのしわがれた声に、動揺の色はまったくなかった。
色白の顔がほんの少し傾いた。シンプルなデザインのヘッドセットを軽く手で押さえ、パネルのボタンのいくつかに触れてから、落ちついた声で言った。
「たぶん標的は俺たちだ」
「アパッチか。米軍じゃ、ないわな」
「在日米軍が動いたという情報はないけど」
「じゃあなんだ?」長髪が、どうでもよさそうに言った。
「とにかく隠れにゃならん」鮫のような顔のリーダーが心持ち身を乗り出した。「いったん全部のスイッチを切れ。電波で位置を知られる」
「カムフラージュしなきゃ」と長髪があわてて外へ飛び出していく。すぐに色白の男もヘッドセットを置いてあとを追った。
少しもあわてることなく、ゆったりと動いたリーダーが電源のメインスイッチのひとつに指をかけると、
「ちょっとお。スイッチ切るの待って」自分があちこちのコンピュータに侵入して調べまくったデータの、プリントアウトを見るともなく眺めていた女が、気怠《けだる》い声をあげた。「これ気になる名前じゃないの?」
古傷と皺に覆われた手が、プリントアウトを受け取った。薄いA4サイズの用紙にはここ数カ月間、芳裕の家からかけられた電話の、相手の名前がずらりと並んでいる。
女が指し示したのは、たった一度、一年近くも前に、ほんの数分間だけかけられた電話の相手だった。
毛利新蔵《もうりしんぞう》。
「なんてこった」初老のリーダーの声に、初めて感情が混ざった。「これをもっと詳しく調べられるか」
その台詞が終わらないうちに女の指はキーボードの上を這いまわっていた。
ほどなく、ディスプレイに新たなデータがスクロールしはじめた。リーダーは細い目をさらに細めて、それを見つめつづける。
「こいつはただの学生なんかじゃない」
「ふうーう」くわえ煙草で女が淡々と驚いた。「ぶったまげ」
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午後七時三五分 おいぼれ山必殺洞窟
やがては遠ざかっていくはずのヘリコプターの音が、やかましいままだった。
投げたボールが空中で浮いたままになったような非現実感がある。
ものすごく気持ち悪い。
乗ったことはもちろん、近くでヘリコプターなど見たこともない芳裕にとって、ヘリコプターというのは空の高いところを勝手に飛んできて、そのままどこかへ行ってしまうものでしかない。自分の生活に直接関わらないという点ではほとんど雲や虹に似た存在だった。
それが今、勝手に飛んできたのはいいがそのままどこかへ行ってしまわずに、どうやら低いところまで降りてきて、しかもすぐそばにまでやってきていて、どういうわけかじっとそこにいるらしいのである。
見にいきたい。
という気持ちになって、自分で驚いた。
恐いのはものすごく恐くて気分が悪いほどなのに、やっぱり見てみたいのだった。
この洞窟に隠れていれば安全だろうと言うと、カナコ王女は黙って頷いたが、王女はやっぱりそれほど恐がっているようすではなかった。
まだ泣いている。
いや、もう泣きやんでいるのかもしれない。目のまわりはびしょびしょで、しきりに鼻をぐずぐず鳴らしているが目そのものは大きく見開いていて、ずっと芳裕のことを見ていた。
なんで泣いてるんだったか。
なんの話をしていたのか思い出せないぞ。石をもらったらどうとかそういうことだったはず。けっこう大事なことのような気がするのに思い出せない。そこまで思い出しているのだがなあ。
と、考えに耽《ふけ》り込んだので鼻歌が始まった。
今回のはさほど苦しげではなく、餌の欲しい犬が甘えているような声だった。
「ペニーレイン?」泣き顔のままカナコ王女が言った。
びっくりして芳裕の鼻歌が止まった。
息も止まっている。
芳裕は自分が鼻歌を歌う癖があるというのは知っていた。みんなに注意される。しかし、自分ではいつどのように歌っているかわからないのである。
というわけで、このとき芳裕は恐怖に近いような驚きを覚えていたのだった。
たしかに今ぼくの頭の中には「ペニーレイン」のメロディが聞こえていたが、どうしてこの人にはそれがわかったのだろうか。
声に出して歌っていたからである。
ああそうか。と、わかるまでに数秒かかった。
「当たり」と、芳裕は言った。ほらまた歌ってるよと注意されたときに曲名を指摘されたことは何度かあるが「当たった人は初めてだ」
クィーンの「バイシクル・レース」が頭の中に聞こえているとき、つまり歌ってしまっているとき「おーい中村君」だね、と言われたことがあった。これはなんとなくわかる気もしたのだったが、ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が「おーい中村君」だったり、T・レックスの「ゲット・イット・オン」が「おーい中村君」だったり、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」が「おーい中村君」だったりしたのでなんとなく似ていたのは単なる偶然だったのがわかった。曲名を指摘したことがあるのはトシさんだけである。たいていの人は歌だとさえ思わない。
「よくわかったねえ」感心していた。
「私も好きなの」
「え、鼻歌歌っちゃうの」やっほう同類だあ、と大喜びしたが違っていた。当然である。
「ううん。ビートルズ」機嫌よく会話しているように聞こえるが、王女はやはりぐずぐずとまだ泣いているのだった。
「ああ、なんだ」哀れなくらいがっかりする。ふざけてうなだれてみせているのかと思うほどであるが、これは真剣にがっかりしている。
「ペニーレインが好きなの?」泣きながら訊いた。その顔を見て、なんだかペニーレインが好きだと王女がつらい思いをするのではないかと芳裕は心配になった。「ペニーレイン」はけっこう好きな曲だったがそうは言わず、
「いや、今友達のバンドで練習してて」
「歌うの?」歌う、と答えたら号泣してしまいそうな訊き方だった。
「いや、キーボードなんだけど」ヴォーカルでなくてよかった。
そのとき、継続して聞こえていたヘリコプターの音が、ふっと消えた。
遠ざかるにしても、着陸してエンジンを止めたにしても多少は少しずつ小さくなっていくものである。ラジカセのスイッチを切るみたいにぶつりと消えるのはおかしい。
「ヘリコプターが消えた」消えたのは音であってヘリコプターそのものが消えたわけではなかったが、芳裕は空中に浮いたヘリコプターがばっと消えるのを想像して、それ以外には考えられなくなってしまっていた。「そういやずっと前にジェット機を消した手品師がいた」あれとおんなじだな。「マイケル・ジャクソンのビデオにもちょろっと出てた」
不安なくせにどうでもいいことを言っている。その言葉が突然途切れた。
土を踏みしめて走ってくる靴音が、洞窟に響いたからである。
見れば外はもう暗い。
蝋燭の明かりが外に洩れているということに気づいた。
遅かった。
洞窟の入口にヘルメットをかぶった人間の頭部が両側からふたつ覗いた。
脇の下に抱えられたM16A2アサルトライフルが自分の脚を狙っているのに気づいた芳裕は、銃口のかすかな動きに戦慄《せんりつ》した。
警告なしに発砲するつもりだ。
しかももうひとつの銃口は明らかに王女を狙っている。
射撃に備えて敵が呼吸を止める瞬間を測り、残された時間を確認する。射撃手の姿勢と銃口の位置から、だいたいの着弾点を把握しつつ芳裕の体は軽く沈み込んでいた。
芳裕の掌が地面の湿った土を擦るように軽く動いた。
掌に弾かれた土は散弾のごとく細い扇形を描いて一直線に飛び、壁の蝋燭を粉砕した。
ふたつの自動小銃がほとんど同時に火を噴いた。
芳裕の急な動きに驚き、焦って発砲したのが明らかだった。
蝋燭一本の明かりとはいえ唯一の光源を失った洞窟内は闇に閉ざされた。わずかながら外からの光と、M16のマズルフラッシュがあったが、蝋燭の方向に顔を向けていた侵入者たちにはこの瞬間、真の闇以上の深い闇しか見えていないはずだった。
芳裕は王女を入口からの死角に押し込み、その細い体を覆うようにして身を隠していた。
「そのまま」鋭く息だけで囁く。
土を投げる直前からここまで、目を閉じたまま動いている。
小銃の連射音はきっかり二秒で止んだ。
かっと開いた目に、王女の濡れた頬が外の光をかすかに反射させるのがかろうじて見える。
芳裕の動きは、ふわりとした軽いものだった。
入口のいびつな円形の中、侵入者の姿は嬉しくなるほどくっきりとしたシルエットになって見えている。
頭を低くした芳裕の体が、弾かれたような勢いで洞窟内を突き抜けていった。
蝋燭の火を失ってからの二秒間、それぞれ約二十発の弾丸を見えない標的に向けて掃射した侵入者たちの目も、トリガーにかけた指を緩めたときにはすでに闇に慣れていた。
見えていたのである。
薄闇の中に動くものがあるのは見えていたのだ。しかしそのスピードに反応できなかった。
ざ、という小さな擦過《さっか》音が彼らの耳に届いたとき、とっくに死んでいるはずの標的は信じがたい速度で眼前に迫っていた。
標的は彼らの方だった。
最初から寺尾は、敵の動きがひどく不自然なことに気づいていた。
どう動いても、どこに身をひそめても確実に自分を追って方向を変える。まるでなんの遮蔽《しゃへい》物もない平地で逃げているようなものだ。
頭上で木の枝がざわざわと音をたてている。
さっきのヘリコプターが上空にいるのだ。密生した葉の間から、ときおり鈍い色をした機体の一部が覗く。
ヘリから直接攻撃せず歩兵を降ろした理由は、生きたまま捕獲したいか確実に死んだことを確認したいかのどちらかだが、たぶんあとの方だろう。生かしておくつもりがあれば最初にロケット弾を撃ったりはするまい。
おそらく彼らの目的はカナコ王女を殺すことだ。俺は巻き添えを食ったのだ。
これ以上暗くなれば、上空のヘリを肉眼で確認することは難しくなる。あいつが音を消す瞬間を見ていなければ、その存在に最初から気づかなかったかもしれない。
なるほど音を消したのはこのためか。
寺尾は狩られる側にいることも忘れ、その画期的な装備の機動力に思いを巡らせた。
うまく使えば、これはとてつもない脅威となる可能性を持っている。
理想としてはまったく音をたてずに飛びたいところだろうが、そこまではいくらなんでも無理だ。そこでそのかわりエンジン音をヘリのものとは異なる音質に変え、ローターブレードの風切り音にそれを重ねることで相殺させているのだ。なにか低く唸るような音がするとは気づいても、上空にヘリコプターが浮かんでいるとは誰も思わない。
こっそり上空からなんらかのセンサーで標的の位置を探り、逐一地上の歩兵にその情報を伝える。標的はどこに逃げてもたちまちその位置を知られてしまうというシステムである。
しかし今の場合、せっかくの新兵器もその存在を知られてしまってからではあまり意味がないではないか。だんどりの悪いやつらだ。
自分にとっては有利な展開であるにもかかわらず、有効な武器を無駄に使う相手に対して寺尾はいらだちのようなものを感じていた。免許を取ったばかりの娘がフェラーリを運転しているのを見れば誰でもこういう気分になるが、寺尾の場合は自分ならもっとうまく使えるという確信があるだけよけいにいらいらさせられた。
しかしそのいらだちも、最初のトラップが効果を発揮したのを確認すると同時に消え、寺尾は戦闘の中にいる自分を取り戻した。
ヘリのセンサーは熱感知式だろうと寺尾は推測していた。
サーモセンサーは生物の位置をはっきりと示してくれるが、それに頼っていると熱のない物質に対して無防備になることがある。
思ったとおり、敵は単純なトラップに正面から次々と引っかかってくれた。最初のトラップはブラッフであり、それを発見し避けたところで次の本命が待ち受ける予定だったのだが、驚いたことに連中は、しかけたトラップすべてにきっちりとかかった。
アホすぎる。と寺尾はやはりいらいらした。
短時間のうちに道具もない状況では、枝を跳ね上げたり岩を落下させるといった簡単なトラップしかできなかった。そういったものでもコーディネイトしだいでかなりの効果をあげることができる。とはいえ、こうまで見事に引っかかっていってくれると、哀れというかなんというか。滑稽にさえ見えてくる。
高度に訓練されてはいるようだが、彼らに実戦の経験はないのではないか。
追ってきた五人のチームのうち、三人がすでに消えていた。たぶん死んではいない。致命的な殺傷能力のあるトラップを作るほどの暇はなかった。
散開して行動していた彼らにしてみれば、知らないうちに仲間が消えていったことでの恐怖心が芽生えているはずだった。戦場での恐怖心は、冷静な判断力を確実に失わせる。
寺尾はそうと悟られぬよう用心しながら、残りのふたりを誘うように動いていった。
自分の動きが敵に知られていることを積極的に利用するのだ。
敵のふたりが両側から挟み撃ちを狙ってくるよう、わざとゆっくりとした動きに変えた。余裕を持って絶好の待機場所を見つけると、息を殺してタイミングを待つ。
電子機器による情報は正確だろうが、あくまでも補助なのだ。それだけでは勝てない。
敵の緊張感が、はっきりと感じられる。寺尾はさらに待った。
ふたりの兵士と兵士をつなぐ直線が、ゆっくりと位置を変えていく。
身を隠した茂みのすぐ横、二メートル程の小ぶりの松の木にその直線が触れた瞬間、寺尾は茂みから跳び出した。
松の枝を手で払い、ばさりと音をたてる。
そのまま走りきってあらかじめ見つけておいた岩の陰に飛び込んだ。
突然の動きにたじろいだ兵士たちに、走り去った寺尾の姿は見えていなかった。音の聞こえた方向には揺れる松の枝。恐怖に駆られた兵士は、それを撃った。
松の木を挟んだ場所に立ちすくんだふたりの兵士が互いの銃弾を浴びるのを寺尾は確認した。
これで五人。終わりのはずだ。
そのとき、別の場所で自動小銃がフルオートマチックで弾倉を空にするまで撃ちきる音がした。
俺を狙っているのではない。寺尾は動きつづけた。
倒れた兵士のうち近い方に駆け寄った寺尾は自動小銃と弾倉、無線機などを奪いながらあたりの気配をさぐる。
上空にあの不気味なヘリの音は聞こえない。
追ってくる人間はもういなかった。少なくとも今のところは。
倒れた兵士が呻《うめ》いた。野戦服の胸の部分には数発の弾痕があるが、出血はない。防弾チョッキを着ているらしかった。
無造作に兵士の顔を鷲掴みにした寺尾は、そのまま固い地面にその後頭部を叩きつけた。もうしばらくは動かれたくない。
洞窟の入口にいたふたりの兵士には芳裕の両腕が妙な方向へふわりとしなったのが見えただけだった。
それぞれ、掌と肘で眉間を強打されていたが、そうと知る前に意識を失っていた。
あと三人いた。
一番手近にいたひとりに軽くフェイントをかけ、背後に回り込んでこめかみを肘で打った。
倒れる相手の腕からセレクタがフルオートの位置になっているM16を取ると、軽く弾くようにしてトリガーを二度引いた。
正確に、それぞれ一度の動作で弾丸が三発ずつ発射された感触があった。
残ったふたりは呻き声をあげることもなく、誰かに突き飛ばされたかのように後ろへ弾けて倒れる。
コンタクトした三人は全員防弾チョッキを着用していた。
あとのふたりも当然身につけているだろうと判断の上、万一生身でも致命傷にならない場所を狙ったのである。
けれど、一応心配だったので確認にいく。
よかった、死んでない。
熱を帯びたM16を捨てると、芳裕は洞窟へ戻った。
王女は芳裕に言われたときのまま、暗い中で土の壁に背中をつけてじっとしていた。
入ってきたのが芳裕だとわかると、可哀想なくらい安心した息を吐き、芳裕に身をあずけてきた。支えていないと倒れてしまいそうだ。
「だいじょうぶ。みんなやっつけたから」王女の小さな頭を胸の前で抱き、芳裕は自分の声がめちゃくちゃに震えているのに気がついた。「ああ恐かった」正直に言う。
「やっつけたの? ひとりで?」王女は芳裕の胸に言った。暖かい息を、肌に感じた。
「うん。思ったよりうまくできた」実際、自分でも驚いていたのだ。
「どうやって?」
「父さんの知り合いに、変なおじさんがいるんだ」会話になっておらん。が、王女はそのまま続きを待ってくれた。「小さいとき父さんと母さんは死んでしまって、父さんの友達だったそのおじさんといっしょに暮らしてたんだ」だからどうなのかということはやはり語られないのだった。別にわざと隠しているわけではないのだが、効率よく話をすることができないのである。
「ご両親が」当然よくわからないようだったが、詳しいことはもういい、とカナコ王女の口調は伝えていた。
「うん。実戦は生まれて初めてで、恐かった」
「心臓が、ものすごくどきどき言ってるよ」
「うん。恐かった」
「恐かったね」
王女の腕に力が込められた。
実戦も初めてだったが、女の子を抱きしめたのもこれが生まれて初めてだった。
寺尾は銃声のした方へ移動していった。
敵が二手に分かれたとすれば、もう一方のチームが追っているのはまちがいなく王女とあの若い男だろう。
男の方はどうでもいいが、カナコ王女が殺されるのは、なんとしても阻止しなければならなかった。
今回の任務は殺さず誘拐することだ。すでに予定どおりに進んでいるとは言いがたい展開になってしまっているが、誘拐するはずの王女が死ぬなどということだけは絶対に避けなければならない。
王女に対してはなんの感情もないが、これはプロとしてのプライドの問題である。
今の銃声が王女に向けられたものであった可能性は高い。
寺尾は口の中に苦いものが広がるのを感じながら、もしも王女が殺されたのなら、殺した人間を生かしておかないことを自分に誓った。どんなことをしてでも我々の邪魔をした理由をしゃべらせ、なぜ自分が死ぬことになるのかというその理由をきっちりと知らせてから必ず殺す。
王女に対してはなんの感情もないが。
なぜ同じことを何度も考えるのかと戸惑う部分が多少あったが、それは珍しく大きな失敗をしてしまったからだろうと思うことにした。
森の中に激しい動きはすでになくなっているが、例のヘリコプターの異音が、まだ上空に小さく聞こえる。
今の自分の位置を知られていることも考えて、寺尾は上空からの攻撃に備え遮蔽物となりそうな岩や大木の近くを選んで進んでいった。
しかし謎のヘリコプターは寺尾を追ってはいなかった。
音を立てずに茂みをかきわけ細い獣道に出たとき、寺尾は前方に古代の遺跡を思わせるような奇妙な形をした台地と、その上に浮かぶヘリコプターを発見した。
夕闇は夜の闇に取って代わられようとしていたが、澄んだ藍色の空を背景にしたどす黒い機体はくっきりとしたシルエットとなってその姿を現している。
半円形の台地の奥には洞窟があり、そのまわりには寺尾を追いつめようとしていた連中と同じ迷彩服を来た兵士が数人倒れているのがかろうじて見えた。
いったいなにが起こったのか。さっきの銃声からまだ五分とたっていない。
ヘリは洞窟を正面から見おろすようにホヴァリングしており、かすかに高度を下げつつあった。まだ明るさが充分だったとき、短い翼部分にTOW対戦車ミサイルが吊り下げられていたのを寺尾は思い出した。
あれを洞窟に撃ち込むつもりか。
寺尾がそう思う間もなく、黒い森と藍色の空の間に白い閃光が一直線に走った。
大気が歪んだ。
洞窟の内部から光の塊があふれ、それから一瞬遅れて爆発音が続いた。
地面に伏せて爆風をやり過ごした寺尾が起きあがり、無惨に破壊された洞窟の跡に目を向けたときには、ヘリコプターの姿はすでに消えていた。近くにいたとしても、爆音でやられた耳にあの音を聞き分けるのは無理だ。目で確認するにはもう暗すぎる。
倒れたまま土を被った兵士のひとりが苦しげに呻く声が聞こえる。
やつは味方が近くにいることを承知でミサイルを撃ったのか。
負傷兵を救出するためにヘリが着陸するのを、寺尾は待った。
じりじりとする数分を、息をひそめ闇に目を凝らして待った。
やがて耳が元に戻り、虫の脚が落ち葉をこするかさかさという音が聞こえるようになったがヘリの音は聞こえない。
ヘリはもういなかった。
あいつは仲間を捨てて飛び去ったのだ。
いったい彼らは何者なのか。
寺尾は重苦しい怒りが腹の底に溜まってくるのを感じながら、呻いている兵士へと近づいていった。
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午後九時一二分 明石水族館
明石水族館の最大の特色は「蛸《たこ》の釣り堀」があることだったが、十数年前、今の館長と副館長とが就任して以来「蛸の釣り堀」は「釣り堀」であるにもかかわらず「蛸釣り禁止」になってしまっていた。
禁止の理由を館長は、
「見ていて痛々しいから」とコメントした。
蛸を釣る、と言っても蛸の釣り堀での釣りは普通の魚釣りとは違って餌で釣り上げるわけではなく、大きな針を使って引っかけ上げるので、たしかにこれは見ていて痛々しかった。
引っかけ損ねて脚がちぎれるなどというのは日常茶飯事で、見事釣り上げた蛸の脚が五本しかなかったり、中に巨大なオタマジャクシもいると子供が騒ぐのでよく見たら脚が一本しかない蛸だったりした。ごくまれに九本脚や十本脚の蛸もいたが、これは釣り堀の底に溜まっていたちぎれた脚が腐って他の蛸に癒着しているためだった。
見た目に恐ろしげな蛸ばかりになったおかげで釣り上げた蛸を持って帰らずに釣り堀に戻す人が多くなった。たまに持って帰る人がいても食べれば食あたりを起こさないわけがなく、あたったという苦情もなかったので、おそらくは誰も食べなかったと思われた。
食べないのに釣るのはいかん。と館長と副館長は職員会議の席上言った。
遊びで生き物を傷つけたり殺すなど、どう考えても許されるわけがないではないか。
その意見には他の職員も納得したため、蛸の釣り堀は蛸釣り禁止になった。
なぜ「蛸の釣り堀撤廃」ではなく「蛸釣り禁止」だったのかは誰にもわからないのだが、ただ釣ることだけを禁止したものだから蛸は増えに増えた。
繁殖したのではなく、出入りの魚屋が毎週定期的に蛸を釣り堀に放り込むからである。
もう入れなくていいと言うのに、先代から続いているこの仕事を、自分の代で終わらせるわけにはいかないのだと魚屋の親爺はかたくなだった。
やがて蛸は釣り堀にぎっしりという状態になり、そのうち溢れだした。そして釣り堀のある半地下室の床一面には蛸が二重三重に折り重なってぐねぐねと蠢くようになり、釣り堀そのものも蛸に覆われて見えなくなってしまった。
不細工なことに釣り堀の部屋はこの階のほぼ真ん中に位置しており、建物の構造上奥にある事務室、会議室、職員休憩室、シャワー室などへ行くためにはここを通らないわけにはいかないのだった。
蛸が隣の展示室へ漏れないよう下半分がベニヤ板でふさがれた入口まで来ると、一般客は気持ち悪がって引き返していくが、職員は入口横に吊ってある胸までのゴム長を履いて今や腰の高さまでに達する蛸の中へ踏み込んで行かねばならない。
一度短大を出てすぐの女子職員がこの部屋の途中でこけるという途方もなく恐ろしい事故に遭ったことがある。この女子職員は翌日退職したものの、今もなおげらげら笑いつづけているという。
会議や電話のたびに蛸の中を通ることを義務づけられた職員たちは、なんとか奥の部屋へ行く用事をつくらないよう苦心する日々を過ごし、会議では必ず会議室やらその他蛸の部屋より奥にある施設は別の場所に移せないかという話題になるのだったが、それよりももっと根本的解決につながるはずの蛸の部屋をなんとかしようという話は、不思議なことに一度も出なかった。
生き物を扱っているわけであるから、建物内がまったくの無人になることはなく、常時ふたり以上の職員が泊まり込むことになっているのだが、本来宿直の人間が寝泊まりするはずの部屋は館長と副館長の部屋ということになってしまっており、どういうわけかこのふたりは水族館に住みついていた。住民票の住所も明石水族館にしてある。
職員たちが蛸の中を通るときだけしかたなく胸までのゴム長を履くのとは違い、館長と副館長は自分専用のゴム長を所有していてそれを一日中身につけていた。
双子の兄弟である彼らふたりだけは、蛸の中を通ることになんの躊躇もなかったのである。
このふたりは蛸が床一面腰の高さまでぐにゃぐにゃと蠢く異状を、まるで異状とは思っていないらしかった。
蛸の増殖の一部始終を知っていることに加え館長たちの無頓着さの影響を多少は受けた他の職員たちが、やっかいだなあとは思いながらもそれがどれだけ異様なことかと改めて考えることがなかったのもわからないではない。
しかし、水族館を訪れるのはそういった免疫のないごく普通の一般市民たちである。
一度でも恐怖の蛸ぐにゃぐにゃ室を目にした人は一生その光景を忘れられなくなるのが当然で、中には二度と蛸を口にできなくなったり夜毎うなされるようになる人もいた。
たったひとりだけだったが蛸を食用にする習慣のないアメリカの老人がどういうはずみかこの部屋を見てしまい、その瞬間から突然上機嫌になったとそばにいたみんなは思ったのだったが実は狂ってしまっていたということもあった。この老人は今もなおげらげら笑いつづけているという。
明石市民の間でこの水族館の話題が出るときは必ず「あの不気味な」という表現がついてまわるのはしかし、すべて蛸だけのせいでもなかった。
まず木造の水族館というのが初めから恐い。これはぴかぴかの新築であったとしても見る人はなんとなく落ちつかない気分にさせられたはずである。それが今や壁は剥げ落ち柱は腐りそこここを船虫が這いまわり、常に湿気を帯びた独特の臭いを発散させつつ近くを通ると中からびちゃびちゃと水の跳ねる音が聞こえ、しかも裏庭へまわれば植木や庭石の陰に蛸やら海鼠《なまこ》がへばりついており、さらに床下には鱗《うろこ》の生えた猫の群も生息している。気持ち悪いことこのうえない。
そして決定的に気持ち悪いのは、この建物が海辺にぽつりとあるのではなく、比較的民家の密集した一画の中にあるということである。
薄暗い路地を抜け、格子戸や土塀などを後目《しりめ》に歩いていくと他の民家と同じような建物に大きく「明石水族館」という文字が書かれているのが見える。すぐ横にはそれとほぼ同じ大きさの文字で「東芝テレビ」とも書いてある。しかし、どちらも古びて剥がれかかっているため、よく見ないとわからない。それと知らずにぼんやり歩いていると、ちょっと立派な家があるなと思う程度で、それが水族館だなどとはまず誰も気づかないのである。
したがって、ここに水族館があるということを偶然通りがかりに知るというようなことはほとんど不可能であり、宣伝活動もまったく行っていないこの水族館の存在を、ほとんどの市民が知っているのは奇跡に近いことだった。
そして、ここまで不気味だとかえって興味を持つ人も多くなるのか、驚くべきことに明石水族館には一日平均数十人程度の入館者があった。
中には毎日のように通ってくる人や、朝から晩までずっといるような熱狂的なファンもいて、閉館時間を過ぎてもなかなか帰ろうとしない人がけっこういる。
この日も最後の客が帰ったのは、九時をまわってからのことだった。
「帰った?」蛸の部屋でどっぷり蛸に浸かった館長が言った。ちゃんとした名前はあるのだろうが、みんなこの人のことをシゲさんと呼んでいる。背が低いので蛸は胸まで達しているが、蛸に浸かってなにをしているわけでもなく、ただこうしているのが好きなのである。
「うん。帰った」ずぶずぶと蛸の中に入ってきた副館長は蛸の嵩《かさ》が増えているのに気づいた。この人はトシさんと呼ばれている。「あ、今日は太田じいさんの来る日だったのか」双子だが、一応トシさんの方が弟である。
「そうそう。気分がいいとかで、いつもよりたくさん入れてってくれた」
「あ、また髪型変えたんだ、あの人」魚《うお》の棚《たな》の魚屋、魚禿の太田じいさんは髪型を変えると蛸をたくさん入れるのだった。魚の棚というのは明石にある魚屋だらけの商店街のことである。太田じいさんの店は「魚禿」と書いて「うおひで」と読む。「うおはげ」とは読まないのだがたいていの人はそう呼んだし、事実その方が通りがよかった。実際「禿」は「はげ」もしくは「トク」であり、どうがんばっても「ひで」とは読めない。太田じいさんの祖父にあたる人は「魚秀」のつもりだったらしいが看板屋がまちがえ、そのまちがいに長い間誰も気づかなかったらしい。以来そのままということである。
「そうそう。それで気分がいいんだって」シゲさんは胸から首筋へと這いあがってくる蛸をぬるりと剥がし「今度の髪型はすごかったよ。あれはなんていうのかなあ、ピエロみたいな感じで頭のてっぺんだけつるつるで、まわりもじゃもじゃで。まったくよくあんな髪型で表歩けるよなああのじいさん」
「ははあ、でもって真っ赤に染めてたりして」ははは、とトシさんは冗談で言ったのだが、
「いーや、紫だった」
うーむ、とふたりはしばらく黙り込んでしまった。お互いに顔を見合わせてじっとしていると、蛸が肩やら首筋を這いまわったがどちらも気にしていない。
「よく考えてみると」先に口を開いたのはシゲさんだった。
「うん」
「わしらの髪型と、よく似とるんじゃないかなあ」
「わしもそう思う」
ふたりともピエロのような髪型だった。染めてはおらず、ほとんど白髪だという点を除けば、太田じいさんの新しい髪型とものすごくよく似ていた。つまり、耳のまわりと後頭部だけに毛があってそれがもじゃもじゃ。
シゲさんが、
「わしとおまえで、赤と緑にそれぞれ染めるというのはどうかなあ」と言うのと、トシさんが、
「ふたりで青と黄色に染め分けたらおもしろいぞ」と言うのが同時だった。
それから赤だ黄色だいっそシマシマや水玉にすればと、口論が始まった。
蛸の中での議論が白熱し、胸までのゴム長の中にもぞもぞ蛸が侵入してきた頃、裏口の呼び出しベルが鳴った。
「もしかして、あいつかな」
あわてて裏口へ向かったふたりがはいはいちょっとお待ちなどと言いながらドアを開けると、若い男女が立っていて、女の子の方は全身蛸まみれのふたりを見るなり気絶した。
「お、びっくりしたか」
シゲさんとトシさんは嬉しそうに笑って、ため息をついている芳裕を見た。
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午後一〇時〇〇分 おおくぼTV第二スタジオ
「コマーシャル入ります」インカムのマイクを手で支えてディレクターが言った。
おおくぼTVのスタジオは第一スタジオと第二スタジオのふたつがあり、ここは第二スタジオである。「第二スタジオで収録」とディレクターが言ったので、そういうことになる。第一スタジオと第二スタジオは八畳間をふたつつなげた和室で、一応床の間のある方が第一なのだが、番組収録のときは必ず二部屋をぶち抜いて使うので、どっちが第一で第二かなどどうでもよくなってしまっているのである。
テレビ局のスタジオと言っても、ここは民家の二階、正確には一階が青果店の店舗で、店舗の奥と二階で生活する青果店一家の、普段は使わない奥の部屋だった。
畳の上に置かれた数台のモニタに、おおくぼTVのほとんどの番組のスポンサーである『榊青果店』の文字。動きはまったくなく、明らかに素人が撮ったと思われる店先の写真を背景に、無骨なゴシック体で店名が大きく書かれているだけである。デザインセンスもなにもあったものではない。
ばちっというノイズを伴って、どうにも不似合いな「エーゲ海の真珠」が流れる。
棒読みの垢抜けない野太い濁声《だみごえ》が葬式のアナウンスさながらに、
「バナナにパイナップルにパパイヤー」そこで言葉につまってしばらく黙り、やがて思い出したように「パパイヤー」
しばらくまた「エーゲ海の真珠」だけが流れる。
そしてまた唐突に抑揚のない低い声で、
「果物は榊青果店にどうぞおまかせくださ」
ばち、とノイズが入って音声は途切れる。映像はそのまま「エーゲ海の真珠」が強引に大きくなってゆく。ばちっ、と途切れて榊青果店のコマーシャルが終わる。それに重ねるように、
「はい、タイトル」ディレクターの声がインカムに入り、スタジオに軽快なタイトル曲が流れる。画面では男女アナウンサーふたりのツーショットに重なって『OKニュース』のタイトルロゴ。
タイトル終わり。
「こんばんは」と、ふたりのアナウンサーが話しはじめると画面の下に『ゾウガメじいさん』と『ウシ姉さん』のテロップ。
「おい、テロップがちゃうぞ」ディレクターがインカムに怒鳴った。「これ子供番組のやつやん」
テロップは揺れるようにして消え、代わりに、
『必殺! スッポンビームだ!!』
すぐにこれは消え、やっと落ちついて出たのが、
『やられたー』
「もえもえ(もういいもういい)」ディレクターも落ちついてしまった。「今日もテロップあきらめよ」
「まず、王女誘拐のニュースからです」と、女性アナウンサーが言っているのに、その後ろのタイトルは『新興住宅地でも春祭りに獅子舞!?』
「え」と、アナウンサーもとまどって「獅子舞からやるの?」と、カメラの方に向かって訊く。「ねえ、お兄ちゃん」
「本番中に俺に直接訊くな」と、ディレクター。兄と妹らしい。
獅子舞のニュースは男性アナウンサーの受け持ちらしく、その瞬間から画面は男性アナウンサーに切り替わっていた。みんな勝手に自分の判断で仕事をしているのである。なんのためにディレクターがいるのかわからない。
男の方のアナウンサーは、最初のニュースは自分に関係ないと安心しきっていた。まさか映っているとは思わない。あくびまじりに軽く背伸びをすると、ズボンに手を突っ込んで股間をぼりぼり掻いた。
「本番中にああいうとこ掻くか普通」ディレクターももうどうでもよくなってきたのだが、アナウンサーを映していたカメラがつられるようにして股間の方へ下がったのには驚いた。
「こらこらっ。わざわざ映すなわざわざっ」
普段、腰から下は映らないため、このアナウンサーは上半身はぱりっとしたスーツなのにズボンの方はというと膝の破れたジーパンだった。しかも畳の上だから当然裸足である。
全部映ってしまう。
そしてミキサーの人たちもいいかげんな仕事をしていたので、ディレクターや他のスタッフがインカムを通して話すすべての音声はきちんと放送に入っていた。
「あいつきんたまむちゃくちゃでかいねんで」
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午後一〇時〇五分 明石水族館
仮眠室のテレビの前でシゲさんとトシさんはげらげら笑っていた。
「やっぱりここのニュースが一番おもしろいなあ」
仮眠室のテレビ、というと古くさい小さなテレビを想像してしまいそうだが、ここにあるのは32インチのワイドテレビがステレオコンポーネントに組み込まれているという本格的なものである。
元々は「仮眠室」だが、シゲさんとトシさんはもう何年もここに住んでいて、自分たちの好きなように内装を大きく変えてしまっている。さほど広くはないが、コンクリート剥きだしの床を除けば水族館の中の一室というよりは豪華な子供部屋のようだった。
至る所に遊び道具が散らばっている。ベッドの下からはスケートボードやローラースケートがはみ出しているし、壁にはモデルガンがどっさり飾られ、木の箱に入ったダーツの的もある。部屋の隅にはピンボールの台まであった。仕事用の机にはタワー型のマッキントッシュがちゃんとふたり分、二台あって、フライトシミュレーション用のジョイスティックと、机の下にはフットペダルもある。
芳裕が入り浸りになるのも無理はなかった。
ふたりとも胸までのゴム長はもう履いておらず、今はお揃いのオーバーオールのジーンズに綿のシャツを着てくつろいでいる。
ドアが開き、芳裕が入ってきた。
「ニュース、なんだって?」ほとんど自分の家にいるような気安さで双子のいるテーブルに座り、勝手にお茶を入れる。
「なんか変だよ」と、シゲさん。まったくおんなじに見えるシゲさんとトシさんだが、芳裕は小さい頃からふたりの区別ができる。どこが違うのかははっきりしないのだが、なぜかわかるのだった。「王女さん出てきたら、あとでおまえもお風呂入れば? ものすごく汚いよ」
「いいのいいの。あの子の迎えが来たら、ぼくはすぐ帰るから」明日は朝が早いんだ。と、わざわざとってつけたように言った。なんで、と訊いて欲しくてたまらないのがはっきりとわかる。
「あのね」と言ったのは、トシさん。「そんなに簡単にはいかないと思うよ」
「なんで? あの子ホテルに電話してちゃんと説明してくれたんでしょ」驚いたことにシゲさんとトシさんは西島旅館の人と古い知り合いだとかでよく知っていたので、カナコ王女は電話をかけることができたのだった。「じじいに」
「侍従ね」
「ああなんかそうそう。うん。だったらもう安心じゃないの」明日は朝が早いんだ、とまた言った。
実は明日、カナコ王女と遊ぶ約束をしたのだ。と、それが言いたくてたまらない。
王女をデートに誘うなどとんでもないことだと思うところだが、どういうわけか芳裕は相手が王女だということに対してはそれほど気にしていない。それに明日のことを言い出したのは王女の方だった。それを思い出して「えへへー」嬉しくてしょうがないのである。
実際のところ王女は、
「明日また、会えるかしら」と独り言のように呟いただけである。そのことはシゲさんもトシさんもすでに知っている。自分の息子のように思っている芳裕が、ひとりで有頂天になっているのを見て、シゲさんはどんどん心配になる。相手は一国の王女なのだ。友達づきあいができるはずがない。
「だから、なんとなくおかしいんだって」いらいらしそうになるのを我慢してシゲさんは言った。「聞いてるかあ?」自分の考えに「入りそう」になっている芳裕に呼びかける。
「あっ。はあはあ。聞いてる」芳裕はテーブルに肘をついた行儀の悪いかっこうでお茶をすすった。「どうおかしいの?」
「おまえと王女さんはね」
「うん」
「死んだらしいよ」
「どこで?」
「おいぼれ山で」
「おまえが王女さん殺して、おまえは王女さんの国の軍隊に殺されたんだって」トシさんが口を挟んだ。
「おかしいなあ。ここにいるのに」たいして気にしていない。
「ね、おかしいだろ」とシゲさん。
「もう一回ここまでの話、詳しくしてみてよ」トシさんが言った。
来てすぐに芳裕は一気にまくしたてたので一応は聞いていたのだが、あんまり必死に話すものでなにを言っているのかよくわからないところが多かったのである。
「そうだ。待ち合わせの場所とか決めないと」そのことしか頭にないのか。
「うんうん」シゲさんはいらいらしてきて大きな声を出しそうになったがなんとかこらえた。「で、一応、今日のことをもう一度詳しく聞かせてくれるかな」
「はあ。だからね、家で犬と遊んでたら真紀ちゃんから電話かかってきて。ぼくは本当は夕方高田のところに行く約束があったんだけどビデオが壊れたから来てくれって言われて。あっ、高田にも電話しないといけないなあ。あー、それから真紀ちゃんにもしないとなあどうしようかなあ怒ってるだろうなあ」話がちっとも本題に入らないばかりか別のところへ脱線しそうになったのでシゲさんとトシさんは身を乗り出して口を挟みそうになったのだが、芳裕はそのまま勢いよく「そうそう、真紀ちゃんのビデオってのは去年の夏いっしょに買い物につきあわされてぼくが選んだもんで、責任があるって言われて。まあそう言われると責任はないこともないから行かないといけないかと思って。故障って言ってもたぶん裏の配線の接触不良だと思うんだよ。それならすぐに」
「あーあーあの」シゲさんとトシさんは結局同時に声を出した。「その、えーと詳しくなくていいわ」シゲさんが言った。「誘拐された王女さんが車でひっくり返って、誘拐犯のでかい奴に追いかけられて交番行って、山に行って洞窟に入ったらヘリコプターが来たんだね」
「うん、そうそう」芳裕は感心したように頷いた。「シゲさん話うまいねえ」
「普通ふつう」聞き流して「そこから簡単に話してくれる?」簡単に、というところをシゲさんは強調した。
「はあ」あまり気にせずずずっとお茶を飲む。「そうそう、あの洞窟なくなっちゃったんだ」はあーっと見るも無惨にがっくりと肩を落とす。「どうしよう」
「どうしようもないよそんなもん」なにが本題なのか聞いている方も忘れそうになる。
「そうだなあ」さらにがくーっと落ち込む。「はあーあ」
シゲさんは芳裕の話がわかりにくいのを今さらながらに思い知らされて、いっしょにため息をついた。
「はいはいそれで」疲れてしまったシゲさんに代わってトシさんが口を挟む。「話してくれる」
「あーそうそう」すっと立ち直った。
変な形をした静かなヘリコプターが何をしたのか、洞窟のあったあたりはめちゃくちゃに破壊されてしまった。
あのときもし洞窟の中にいたら、死体さえ残らなかったはずである。
襲ってきた兵隊みたいな連中を殴り倒してから、王女を連れに洞窟の奥へ戻ったのだが、そのとき入ってきた入口の方から出ずにさらに奥へと進んだのは深い考えがあってのことではない。
逃げなければいけないという思いが、なんとなく薄暗く小さな穴へもぐりこみたい欲求を発生させたのかもしれなかった。
直径一メートルあるかないかのその穴を這うようにして進むと、洞窟の入口がある場所より何メートルか上の斜面に出ることができるようになっていた。元はもっと細い穴だったのだが小学生のとき芳裕たちが大きく広げたのだった。
「もっと広いと思ったんだけど、けっこう狭かったなあ」と、芳裕は回想した。そしてもっと回想した。「そうそうあれを掘ってたときに山下君が上からおしっこしたんだ。あー思い出した。洞窟の中まで流れてきて好田《こうだ》君の手についたって言うんで、好田君はすねて帰っちゃって」
「うんうん」とシゲさんとトシさんが同時に止めた。「好田君の話はまた今度にしようね」
「あー」そうかそうか。と芳裕はあわてて頷いた。「でも好田君はね、こないだまで教育テレビに出てたんだよ」
「うんうん、そうかそうか」知ってるしってる、何度も聞いた。と双子で聞き流す。
教育テレビの好田君はともかく、ヘリコプターの攻撃で洞窟が爆発したとき、泥だらけになった芳裕とカナコ王女はすでに地上に出てかなりの距離を逃げていたのである。
それでも爆発の瞬間には立っていられないほどの衝撃を受けた。
怪我はなかったのだが、それからしばらく王女とふたりでへたりこんでいたら、今度立ち上がってさあ歩こうというときになるとふたりとも極度の緊張が続いたせいかびっくりするくらい疲れてしまっていた。
「ああいうのが腰が抜けるっていうのかなあ」
「さあ。ちょっと違うんじゃないかなあ」それでどうした、とシゲさんが話を促そうとする前に芳裕はせきこんだように、
「腰が抜けると、全然動けないのかなあ。ぼくはちょっとぐらい動けたんだけど、本当の『腰が抜ける』は動けないのかなあ」どうなんだろう、と考え込んで黙ってしまった。
「それはまあ」と初老の双子は互いに顔を見合わせながら、根気強く聞こうね、と目と目で語り合った。「また今度考えるとしてだな。うんうん鼻歌はいいから。洞窟が爆発してからはどうだったのかな?」
「あっ」と芳裕は気づいて「そうそうその話だった」
自分で歩けるという王女をおんぶして、なんとか自分の家までたどりついたところが家のまわりはすさまじい人だかりで、いったいなにごとですかと野次馬のひとりに訊ねたところよくわからないがおもしろそうだからと言われ、しばらくいっしょに待っていたのだがなにも起こらず、さて家に帰ろうと思っても人でいっぱいで家にはまったく近づけなかったのである。
自分が王女誘拐の犯人にされているとは知らなかった。シゲさんとトシさんにそう聞かされて、
「え、まいったなあ」という程度にしか気にしなかったが。
それで結局、シゲさんとトシさんを頼ってこの水族館まで来たのだった。
おいぼれ山の麓にある自分の家から水族館までは歩いて一時間近くかかるのだが、他へ行くことは頭になかった。親戚でもなんでもないのに、芳裕はこの双子のことを身内としか考えていないのである。突然行ったら迷惑するかなあなどとは一瞬たりとも思わなかった。そして実際シゲさんもトシさんも芳裕のことを迷惑に思うことは芳裕がこの世に誕生して以来、一瞬たりともなかった。
「だいたいわかった」と、シゲさんは頷いた。詳しく聞いてもあまり意味はなかったなあと思いつつも、そんなことは口にしない。芳裕が傷つきやすい性格なのはシゲさんもトシさんもわかりすぎるくらいわかっていた。
「しかしあれだなあ」トシさんが感心したように言った。「本物の軍隊とやって、よく死ななかったなあ」
「そうなんだよ」と芳裕。「けっこう体が勝手に動いてくれるんだ」
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午後一〇時二五分 ダッジヴァン
決して身軽ではない巨大なヴァンが空に浮いた。
倒れるかと思うほど傾きながら着地し、両側を挟んで続く土塀にぶつかりそうになるがドライバーは的確なハンドル操作で体勢を立てなおした。
ダッジヴァンは猛烈なスピードで石畳の古い道を駆け抜けていく。
運転しているのは色の白い小太りの男である。
運転席と助手席の間、男の斜め後ろあたりの壁がぽっかりと開き、そこに長髪ののんびりした顔が現れた。
「急ぐのはいいんだけど、後ろで天井に頭をぶつける人たちのことも考えろよ」
「うん、わかってるよ」と色白の男はヴァンのノーズを狭い路地に突っ込んだ。
車体は大きく傾き、タイヤが四本揃って滑る。
後部室との間の窓から長髪の顔が消えた。
しばらくして、車の挙動が落ちつくとふたたび現れた。
「楽しんでる?」と、痛そうに額を手で押さえながら言った。
「ちょっと」運転手は前を向いたまま。
「そりゃよかった」
車の後部室では窮屈そうに体を曲げた寺尾が、データのプリントアウトに目を通していた。
「どう思う」陰の中からしわがれた声が言った。
「毛利新蔵が関与している可能性は五分五分といったところじゃないですか」寺尾は顔を上げずに言った。「毛利は引退したと聞いています」
「本人はな。しかし、その若造は現役かもしれん。ほとんど毛利のキャンプで暮らしていたような奴だ」
「顔はとっても可愛いわ」コンピュータの前に座っている美人が芳裕の顔写真のプリントアウトを眺めていた。「これもらってもいいでしょ?」と陰の中にいるリーダーの顔の前でそれをひらひらさせる。
「好きにせい」
「毛利新蔵って誰なんです?」長髪の男が、さほど興味もなさそうに訊ねた。
「腕利きの傭兵だ。職業軍人ならこの地球上で彼を知らない人間はいない」寺尾が答えた。「この十年ほどは西側の精鋭部隊の、特殊訓練を主にやっていた」
「さっきの男の子が、その人と関係があったと?」
「今もあるんだ」
寺尾の足許で、猪のようなものがかすかに動いた。
「これ捨てようよ」足がそれに触れないよう、寺尾は体をずらした。
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午後一〇時三〇分 明石水族館
「で、なにが心配なの?」同じ格好で腕組みしているシゲさんとトシさんに芳裕が訊ねた。
おまえの全部が心配じゃ、とシゲさんは言いそうになったがこらえた。
「その軍隊というのは、王女の国の騎士団とかいうのとは違うんだな」
「うん、違うって言ってた」もしそうなら、王女を助けにきた人たちを殴って逃げたことになってしまうところだった。「いきなり撃ってきたしなあ。あの子もいたのに」
「死体が出た、というのもよくわからんよなあ」とトシさん。「王女さんが旅館に電話してからまだそんなにたってないし、まだテレビ局なんかに情報が入ってないのはしょうがないとしても、変だろ」
「でもさあ、ここにふたりとも生きてるんだし」簡単なことじゃないかなあ、と軽い調子で芳裕が口を挟んだ。「ぼくが誘拐したんじゃないって、あの子言ってくれたんでしょ。もうすぐ来るジュリアスなんとかって人に」
「侍従」
「うんそれそれ、なんかそんな人」頓着しない。「その人にちゃんと言ったんだったら」と、嬉しそうに微笑んで「ほら。それでいいじゃないの」ちょっと不安に思いはじめると、そこまで心配しなくてもとまわりが心配するほど気にするくせに、調子に乗せるとびっくりするくらい楽天的になるのは、本人はともかくまわりはけっこう迷惑するものである。
「だからさあ」シゲさんも芳裕の楽観につられたのか、どこか気の抜けた感じになってしまって「なんとなくその、死体を見つけたと発表したのが誰かってのがね」
「気になるじゃない」と、トシさんは芳裕に同意を求めたのだが、
「別に。まちがえてるんだろ」軽かった。
「うーん」シゲさんトシさんは同じ格好で唸り、やがてシゲさんの方が「そんな気がしてきてしまった」
「よかったよかった」と芳裕。
「しかしなあおまえ、相手は王女様だぞ」シゲさんはまだ心配そうだった。
「うん、そうなんだってねえ。やっぱりなんか違うよね。品があって」
「そうそう」とトシさん。「可愛いなあ」
「ちがうちがう」とシゲさん。「そういうことではなくてだな、王女様なんか本気で好きになったっておまえ」
「結婚できないかな」
「できるわけないだろうが」
「うーん」芳裕にはなんとなく、できそうな気がするのだが。
若い情熱は、その瞬間の恋心を人生唯一最大のものと錯覚させる。芳裕の頭の中は、カナコ王女が好きだと思う気持ちでいっぱいで、人の言うことをまともに聞く余裕がなくなっていた。
「おまえ知らないのか、カナコ王女にはもう」
「ん?」
そのときドアが開いて、カナコ王女が入ってきた。
「あっ」意味もなく声を出して、芳裕は幸せになった。椅子をがたがたいわせて立ち上がる。
王女はジーンズとTシャツに着替えていた。
「あれ、そんなのどうしたの」芳裕の顔が、へらへらである。本人の意志に関係なく顔の筋肉が笑ってしまう病気なのではないかとシゲさんは心配になってトシさんを見た。
トシさんは、これはもうどうしようもないなという呆れ顔で、
「春に入社した女の子がね、荷物置いたままやめちゃったんで」蛸の中へ顔からこけた人である。「一応、置いといたの」
「へえー」芳裕はほとんど聞いていない。ぼけーっと王女を眺めている。
さっきまで着ていた、ああいうきちんとした格好も綺麗だったが、こういうそのへんにいる女の子が誰でも着ているような格好になると、本当にどれだけ綺麗か際立ってわかってしまうものなのだなあと、どきどきした。
「ありがとうございます」カナコ王女は優雅に頭を下げた。いつのまにか、シゲさんとトシさんも立っている。飾り気のない服装をしていても、王女にはどこか特別な気品のようなものが感じられた。「洗ってお返ししますので」
「別にいいんじゃないのかなあ。いらない服なんだからあはあはあ」と、へらへらしながら芳裕が言うと、意外なことにシゲさんが、
「いや、必ず返してください。あなたが、明日返しにきてください」と、真剣な表情で言った。
「どうして? なにかそういう決まりでもあるの?」
いいからいいから、とトシさんが芳裕の袖をこっそり引いた。
シゲさんケチだなあ、などと呟いているとカナコ王女の方は、はっと気づいたようにシゲさんを見つめて微笑むと、また、軽く頭を下げた。
全然わけがわからない芳裕の耳元でトシさんが、
「返してもらうことにすれば、明日必ず会えるじゃないか」
「ああ」と気づいたとたん嬉しくなってまた体中で笑い「なるほどなあシゲさんやるう」納得したようなことを言ってはいるが、実のところ、別にそんなややこしいことしなくても会えるのにと考えていた。馬鹿だから気づかない、というわけではなく、調子に乗っているので自分にとっていやなことやつらいことの可能性が考えられないようになっているのだった。
それで失敗をやらかしたことが、これまで何百回とあったのに、またやっている。
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_189.jpg)入る]
自分が調子に乗っているな、ということはなんとなくわかっているし、なんでもかんでもそううまくいくはずがないとも薄々は感じているのだが、そういった自分に不利な条件についてはとりあえず考えられなくなるのである。考えないようにするのではなく考えられなくなる、というのが実に困ったところだった。
「明日は、まだ日本にいますから」王女も風呂上がりのせいかいくぶん赤味を帯びた頬を緩ませて笑った。「わけを話せば、来られると思います」
いっしょにいたときの子供っぽい話し方とは全然違い、ちゃんとした大人みたいに話している王女を見て芳裕はなんとはなしに取り残されたような心細さを覚えた。
「いつまで日本に?」シゲさんは王女に椅子をすすめ、王女が座るのに合わせて椅子を添えて動かした。
「明日までの予定です」
「えっ」ずっといるような気がしていた。「そうかあ」そりゃそうだなあ。
「ごめんね」
「いやいや」謝られてどぎまぎする。うきうきと嬉しいだけだった芳裕の中に、認めたくない事実がどっと広がっていった。そうだった、相手は近所の女の子ではない。外国の人で、しかも王女なのだ。王女、ということは、たとえ近所に住んでいたとしても毎日デートするのは難しい。無理だ、と思わずに難しい、と思ってしまうあたりがすでにちょっと狂っているがそれはまあいいとしよう。「あんまり会えないなあ」芳裕だけ、まだ立ったままだった。
「あんまりどころか」とトシさん。
「まあ、座りなさい」ね、とシゲさんが言ったのも聞かず芳裕はがっくりと肩を落とした。
「もしかして」がくーっと体が小さくなっていく。わざとやっているのかと思うほど芝居がかった落ち込みようだ。「もう会えないの?」
「また来られると思うわ」カナコ王女は芳裕のようすを見てなんとかしなければと焦ったらしく、一所懸命に「そうだ。私の国にもご招待するし」
「そうそう」と、芳裕の背中はいつのまにかまたまっすぐ起きていた。泣き出すのではないかとみんなは思っていたのだが、芳裕は思案顔はしているもののさほどつらそうでもなく「それそれ」なんだか嬉しそうである。たぶん落ち込んでいく途中で思いついたのだろう。「ぼくもいっしょに連れてかえってくれないかなあ」
「どういう意味だよ」シゲさんとトシさんは同時に同じことを言った。
「だから。ぼくもあっちで暮らすんだ」やあこれはいいことを思いついたなあと顔を輝かせ「うん、そうすれば毎日会えるぞ」
「会えねえよ」また双子は声を揃えた。
「うん、毎日は無理か」ぶつぶつと自分の考えに没頭していく。「でも、近くにはいられるなあ」
「もうちょっと落ちつきなさい」とシゲさんは半分怒ったように言った。父親のような口調で「いくら子供のときのお姫さまに会えたからって、ちょっとはしゃぎすぎだ」
「うん」と、芳裕は深く頷いたが、気持ちは上の空で目はどこを見ているのかわからず、シゲさんの問いに対してちゃんと答えたのか適当に答えたのかは、よくわからない。
「子供のときの?」と穏やかに疑問を口にしたのはカナコ王女である。
「まあ、誘拐の話を聞いたときは、本当に芳裕があなたのことを誘拐したんじゃないかとも思ったぐらいで」とトシさん。シゲさんもうんうんと頷き返してカナコ王女に微笑みかける。
「こいつが小学生の二年か三年の頃だったかなあ」シゲさんはゆっくりしゃべった。「私が読んでた雑誌にあなたの国のことが紹介されてたんですよ。それでそのとき、まだ小さかったあなたの写真を見たこいつが」
なあ、とトシさんを見ると、今度はトシさんが、
「びっくりするくらい気に入って」
「うん。こいつ、のめり込むとしつこいから」
「え?」と、驚いたのは芳裕である。「なにそれ」
「なにそれってことはないだろう。おまえ今でもあの写真持ってるじゃないか」
「え」イマナニイッタカ。と、芳裕は固まった。ゆっくり動いてズボンの尻ポケットから反り返った財布を取り出すと、それを開く。「これ?」
「え。知らないで、いっしょにいたの?」トシさんは口を開けたまま芳裕の顔を覗き込んだ。
「はあ」芳裕も口を開けたままカナコ王女と写真を見比べる。
十数年の間に財布はいくつも変わったが、この写真だけはずっと持っていた。
外国の雑誌の切り抜きだ。シゲさんがくれたのを覚えている。色は褪《あ》せ、あちこち折れ曲がった跡が白い筋になってしまっているが、薄い水色のドレスを着た少女が唇に浮かべた笑みは今も変わっていない。
いつのまにか、お守りのようになっていた。
どんなときでも、この写真を見ると楽しい気分になった。手の中に、この写真があると思うだけで、この世にこういう綺麗な女の子がいると思うだけで幸せになれたのだ。
「この人だったのか」
「ほんとに知らなかったのか?」シゲさんが訊いた。「カナコ王女が来るよって、何度も」なあ、とトシさんに同意を求めて「言ってやっただろうが」
「なんで何度も言うのかなって思ってた」芳裕はだらしなく口を開けたままの間抜けな表情でじっとカナコ王女を見つめ「この人だったのか」と、また呟いた。
王女はなにも言わず、ただまっすぐに芳裕を見ている。
みんなどうしていいかわからない。
シゲさんとトシさんもなにを言っていいやらわからず、衣擦《きぬず》れの音にさえ気を付けるようにじっと黙って成りゆきを見守る。常にそうだが、芳裕の反応は予測がつかないからである。
王女も睫《まつげ》一本動かさない。叱られている子供みたいな顔をしていた。
芳裕はカナコ王女に対しての感情がはっきりと形を持つのを自覚した。
離ればなれになっていた兄弟の片割れに、生まれて初めて会ったような気持ちになった。それはひどく嬉しいとか、感動的だとかいうような特別な感情ではなく、いつかくるはずだと知っていたものが、やっと来たなという安心感のようなものだった。
生まれてからずっとついていた鼻の横の疣《いぼ》が、今やっとぽろりととれてすっきりしたみたいな気分だ。と芳裕は思った。いやちょっと違うかな。かなり違うな。
なんにしろ芳裕を包み込んでいたのは圧倒的な安らぎだった。
「ありがとう」と、王女に軽く頭を下げた。芳裕のふわっとした微笑みは、部屋に満ちていた緊張感をいくぶんやわらげた。
「どうして?」カナコ王女はシゲさんたちと話していたさっきまでのしとやかな雰囲気をなくし、幼い子供に戻ってしまったかのように見えた。じっと座っているだけでも、全身の動きがぎこちないのがわかる。
理由を訊かれるとはまったく予想していなかったので芳裕はちょっとたじろいだが、素直に自分のありがとうの意味をきちんと伝えようとしてはたと困った。
「えーと」なんと言えばいいのか全然わからない。とにかくとてもありがたいことだなと思って、と言いそうになったが、馬鹿みたいなのでやめた。お礼の言葉もありません、という言い方を思いついたがそれもまたちょっと違う。そもそもなにがぼくは嬉しいのかと考え、そうかそうかと思いついて言った。「いるから」
「はあ?」演歌のこぶしのような声を思わず出してしまったのはシゲさんである。期待して聞いていたのに、わけがわからなかったのでものすごく気になったのだ。「なにそれ」
「えーと、だから」どんどん困る。
「会えてよかった、ってことか?」シゲさんもせっかちな方ではないのだが、芳裕の相手をしているとちょっといらいらするのである。ちょっとですむだけ、これは相当忍耐強いのである。
「そうじゃなくて」聞き流しかけて、すっと顔を上げ「シゲさんそれぜーんぜん違うよ」
「はいはい」とシゲさん。そんな言い方しなくても、とむくれた。
「だからね、いてくれてありがとうってことですよ」どういうわけか語尾が突然丁寧になった。「いてくれたから嬉しいわけで、ずっと写真見るだけで嬉しかったわけで、こんな人がこの世にいるんだと思うだけでなんか安心で、つまりその、この世にこの人がいてくれて、ああほんとよかったなあ」ほんとによかったように言って目を閉じた。誰に言っておるのかわからない。「うん。よかった」うん実に嬉しい、とひとりで頷いている。
「はあはあ」とシゲさんとトシさん。なんとなくわかるような気もする。といった程度の頷きようだった。「ま、心からの本当の言葉は、たいていみっともないものだと言うからな」
「だから」芳裕はうんそうそう、と力強く頷いた。それからカナコ王女をきっと見て「かっかっかっかっ」笑ったのではなくて、カナコ王女の名前を呼ぼうとしてなんと言ったものか悩んだのである。「かっカナコちゃん」と呼ぶことにしたらしい。
「はい」気圧されたのかカナコ王女は泣きそうな声を出した。
芳裕は宣言した。
「ぼくはカナコちゃんのためならなんだってできる限りのことをする。命がけでやる。一生がんばる」
なんでそういうことになるの、と双子はがくがくっとなって、肩を丸めたまま、
「あーあ、思い込んじゃった」とトシさんがため息混じりに言った。
「あー、出たか」とシゲさん。
いつもはそんなのできないよ、と逃げ腰にしかならない芳裕が、どうしても欲しい、どうしてもやりたい、と思い込んでしまったときだけは信じがたいような集中力を見せるのをシゲさんとトシさんもよく知っていた。
オスカー・ピーターソンのピアノに感動したとき、ああかっこいいよしこれをやってみよう、と言ったところから芳裕の生活はジャズピアノとなった。家にピアノがなかったので、まずは貯金して安物のキーボードを買ったのだが、キーボードが手に入るまでは学校や友達の家のピアノにしがみつき、それができないときは紙に書いた鍵盤を叩いていた。結局弾けるようになったのだが、そこまで一直線だった。
ついでに言っておくと、特にオスカー・ピーターソンが気に入ったわけではなく、最初に聴いたジャズピアノがたまたまそうだっただけのことである。
ピアノが弾けるようになる、というのはまだ人に自慢できるかもしれないが、芳裕がのめり込んで多少なりとも役に立ちそうなのは唯一ピアノくらいのものだった。
たいていがそんなことできたからってどうなんだと言われそうなことばかりなのである。
自転車でガードレールを跳び越えるとか、スケートボードで階段の手すりを滑り降りるとか、みかん五個でお手玉するとか(これは七個までできるようになった)マイケルジャクソンのスリラーの踊りを全部踊るとか(ビート・イットとBADもやった)飛ばした輪ゴムを転がして手元に戻すとか、ペンを手の中でくるくるまわすとか、押しピンを投げて壁に刺すとか、唾でシャボン玉みたいな小さな風船を作って飛ばすとか、垂らしたロープを手を使わずに結ぶとか、もっともっとくだらないこといろいろ。
一日でできてしまうものもあれば、何カ月もかかったものもある。ピアノなど何年もかかりそうだが、芳裕の中にはどうしてもやりたい部分というのが限定されて存在するらしく、気に入ったフレーズをかっこよく弾くことができれば、とりあえずは満足して落ちつくのだった。
努力というのとはちょっと違っている。
頻繁に芳裕を訪れるこうした状態をシゲさんとトシさんは、
「芳裕の中毒」と呼んでいたが、実際それは中毒としか言いようがないものであった。
他のことがいっさい徹底しておろそかになる。他のことというのは文字どおり他のことで、学校の勉強や人付き合いは言うに及ばず、風呂に入る、ご飯を食べる、そして寝る、ということさえどうでもよくなってしまうのだ。
本人はいいが、まわりはめちゃくちゃ迷惑する。
性格が素直だから、ご飯を食べなさい、と言われるとそうだったそうだったと食べるし、ピアノの練習は宿題をちゃんとしてからにしなさいと言われれば、大あわてで宿題を片づけようとはする。しかし、ずっとついていてやらないと、ひとりにしたが最後ピアノばっかりなのだ。放っておくと冗談抜きで死ぬのではないかと思われるようなことがしょっちゅうあった。
どれだけまわりが気を使ったことか。
「またジャンキーの世話かあ」さほどいやがっているようにも見えなかったが、シゲさんとトシさんは大きくため息をついて、中毒の原因となったカナコ王女を見た。
王女はずっと、下を向いて赤くなってもじもじそわそわと、口の中でぷちぷちお粥が炊けるような声でいやそんななんでわたしなんかそんなそんなこと言われるとなんか恥ずかしいですどうしようなんで急にそういうこと言うのかなあどうしようかなあぷちぷちぷち。
シゲさんとトシさんは、怪訝《けげん》な表情で互いに顔を見合わせた。
普通王女様と聞いて連想するイメージとはだいぶ違うなあ。さっきまでは落ちついてらしたのに。
それからゆっくりと、今度は芳裕を見る。
芳裕は決意に燃えていた。
どうすれば王女と結婚できるか。とにかく、少しでもいっしょにいるためにはどうすればいいか。
「まずは明日のデートだな」よし、と拳を握りしめる。「あまり時間はないから、天文科学館に行こう。あそこはおもしろい。うん。あと亀《かめ》の水と人丸《ひとまる》神社《じんじゃ》にも行こう」
「今度ばかりは、ちょっと無理なんじゃないのかなあ」どうするのかなあ、とシゲさんは誰に言うともなく言って小さく首を振った。
「王女さんのお迎え、遅いねえ」と比較的冷静なトシさんが言った。
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午後一〇時二五分 国道二五〇号明姫幹線路上
カナコ王女を迎えにいくメルセデス・ベンツのリムジンは、制限速度を大幅に越えたスピードで東に向かっていた。
田舎にこんな道路が必要なのかと思うほど広い、片側四車線の道である。一応舗装はされているが、ただそれだけだった。
両側には田畑かただの雑草の生い茂った空き地ばかりが広がり、屋根のない小さなガソリンスタンドとバスのような形をした食堂がぽつりとあったのを除けば、光はヘッドライトと月明かりだけだった。
運転しているのは侍従次長の河合である。普段は運転手がいるのだが、急いで出ようとしたとたん腹が痛いと言い出した。
河合が自分で運転すると申し出たのである。一度この長細い車運転したかったんですわ。
三人とも旅館の浴衣を、グレーのスーツに着替えている。
「河合さん、急ぐ気持ちはわかるけど、こんなスピード出して大丈夫なんですか」山口侍従長が広々とした後部座席で心細い声を出した。
「あー」と言いながら河合が自分の足許を覗き込む。「スピード出すつもりはないんですけどねえ」
「事故でも起こしたら、どうするんです」
「まったくですなあ」人ごとのように言うだけで、スピードは変わらない。
「でも、今日に限ってどうして私たちなんでしょう。それも三人揃ってというのは」助手席で腕組みをした西畑がぼつりと言った。「いつも、ひっこんでろとしか言われないのに」
「やっぱりあれなんじゃないですか」と山口さん。
「ああ、やっぱりそうでしょうなあ」と河合。
「いや、まだ言ってないんですよ。河合さん。ね」ゆっくり説明するように我慢強く。
「はあはあ」前方を走る車のテールランプの赤い光が見る見るうちに近づいてきたので、ひとつ右の車線に変更し、また左に戻る。他に車は見あたらない。スピードはどんどん上がっており、それだけのハンドル操作でも車は大きく傾いた。「なかなかのスリルですな」
「スピード落とせばいいじゃないですか」山口さんはしっかり締めたシートベルトの肩のあたりを両手で握りしめている。
「そりゃそうなんですが」河合はそのまま突っ走る。
「うん、ぼくも急いだ方がいいと思う」冷静な声で西畑が言った。「ちょっと気になる」
「なにがです」山口さんがぎょっとしたように言った。「なにが気になるんです?」この世のどんな些細なことでも、誰かが「気になる」とひとこと言っただけで気になってしまう人である。ただでさえ王女の件と河合の運転で胸の鼓動が激しいときにそんなことを言われると、もうひっくり返ってしまいそうになるのだ。
「王女を殺害した犯人を騎士団が射殺した、ということですよね。テレビのニュースでもそう流れましたが」あれがどうも、と西畑は言った。
「篠原さん自身は、その場にいらっしゃらなかったそうですけど」
「わっはっは」突然河合が笑った。
「ど、どうしたんです」山口さんは猛スピードで運転する河合が、実はすでに狂っているのではないかと息苦しくなるほど心配になった。
「いや、あのテレビのニュースは笑えましたなあ」
「あああれですか」山口さんはちょっと安心して「カナコ王女からの電話のあとでよかったですよ。無事なのがわかっていてもびっくりしましたからねえ」
「そこなんですよ。おかしいと思いませんか」西畑が口髭をひくひくさせて思わせぶりなことを言った。
「え」詩人は言い方が大げさだからと、わかっていながら山口さんがなんとなく落ちつかない気分にさせられた瞬間、車がぽん、と跳ねた。「どあーっ」大声を出した。
「跳ねた」河合がちょっとおもしろかったな、という調子で呟く。
「つまりですね」と、西畑はなんにも気にしておらず、平然と続けたのだが山口さんにはそれを聞いている余裕がまるでなかった。蔵人頭についてなにか言ったなとだけ認識して、適当に返事をする。
「ま、あの方はよくわかりませんからねえ」実際わからないのだった。自分は真面目にこつこつと小さな不正もせずにきちんと仕事をこなしているのに、みんなからは尊敬されることもない。侍従は三人とも馬鹿にされているが、特に自分はひどいような気がする。王女が山口さん山口さんとなついてくれることだけが救いで、王女といられればそれで別に不満はなんにもないのだけれど、あの篠原蔵人頭ときたら、特に秀でたところがあるわけではないのに、ここぞというときにはおいしいところをぽんぽんと持っていく。
ひがみではなく、どうしてみんなあんな人間に騙《だま》されるのかと不思議でならないのだ。
なんであんな人がカナコ王女の婚約者に選ばれるのだろうか。
たしかに、どんな男が相手でも気に入らなかったとは思うが。なんでよりによってあんな。
あの人には、王女に対しての愛情も、あるのかないのかわからない。政治的に勝手に決められる結婚とはいえ、あの心優しいカナコ王女のいいところを、あの人はまったく理解できていないような気がする。
「おわっ」と、河合が悲鳴とも歓声ともつかない声を出したので、山口さんは心臓に鋭い痛みを感じるほどぎくりとした。ところが河合はまたのんびりとした声に戻り「おー、無事だった」
「かっ。かかかかかか」山口さんが驚きのあまり河合の名が呼べずにいると西畑がさらりと、
「河合さん、今信号赤でしたよ」
「そうそう」
「そうそうじゃなーい」山口さんが爆発した。「どういうつもりなんですかあなたはっ!」
「いやあ」よく見ると河合はいつもの河合と少し違っていた。知らない人が見れば寝る直前のようにリラックスしているとしか見えなかっただろうが、いつもの寝ているような河合をよく知っている西畑にはその緊張がわかった。かすかに口元が引き締まっている。本当にかすか、千分の何ミクロンというようなレベルで。
「どうかしたんですか。河合さん」
「そうそう」またよくわからない返事をしてから、河合は恐いことを言った。「乗ってからずっとブレーキが」
「ぶっ。ぶぶぶぶぶぶぶ」山口さんが恐怖のあまりブレーキと言えないでいるとまた西畑がさらりと、
「ブレーキが調子悪いんですか」
「いや」と、河合が言ったので山口さんははーっと体の力を抜いたのだが「まったく利かないんですわ」
「てってーん」山口さんが変な声を出した。
「それにほら」と、河合はアクセルをぱこぱこと音をさせて床まで何度か踏んでから、浮かせた右足をひらひらさせてみせた。「アクセル踏まなくても走る」
「大変だ」さすがに西畑の声にも焦りが混ざった。
「そうそう」河合はこれでも焦っているのである。「もうすぐ左に曲がらないといけないんですけどねえ」そういう問題か。
「こんなスピードでどうやって曲がるってんですか」西畑の落ちつきも、すでにどこかへ消し飛んでしまっていた。
「あーっと、今通り越しました。あっというまでしたな」ちらりとスピードメーターに目をやって「二四〇キロも出てる」
「あーあー」どうしたらいいんだと、西畑には珍しくうろたえ、もうどうしようもなくなって「なんで最初に言わなかったんです」今さら言っても無駄なことを訊いた。
「左に曲がること?」
「ちがうちがう。ブレーキとアクセルのことですよ」
「あー」これか、と河合はちょっと下を見る。「ベンツだから、なんでも自動だなあと」これがほんとの自動車。と言いそうになったが、なんとかこらえた。
「うー」今やヘッドライトに照らされる路面はなんの動きもないようになめらかに見える。そのなめらかさとは対照的な、悲鳴のようなエンジン音と車が空気を引き裂くごうごうという音が西畑の恐怖を掻き立てた。
「その。まだありましてね」と、河合。それなりに恐がってはいるらしく、視線は前方に釘付けである。
「まだある?」西畑の声は完全に裏返った。
「はあ。ハンドルがまたこれ」くるりくるりとなんの抵抗もなくハンドルを右に左に切ってみせる。「まったく利きません。これはさっきまでちゃんと動いておったんですが」
今走っている明姫《めいき》幹線道路というのは姫路から西明石駅付近までほぼ一直線に通っているらしい。しかしどんな道路も永遠に一直線ということはあり得ない。どこかで必ず曲がっているのである。
いったいどうしたら、と西畑は藁にもすがる思いで後部座席を振り返ったが山口さんは藁以下だった。失神してしまっていたのである。
西畑の動きを目の端で見てからバックミラーにちらりと目をやった河合が、
「どうもその。私が二四〇キロと言うのを聞いたときに、失神なさったようですな」
「河合さん、ハンドブレーキは?」
「あー」それですか、と河合は気のない返事をした。「だいぶ前にやってみましたが、ばきっと言ったきりすかすかで」
「バックギアに入れる」
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_207.jpg)入る]
「ああなるほど」それはやってなかったと、河合は躊躇なくオートマチックミッションのセレクタをリバースに入れた。
車が加速した。
「またか」河合が軽く舌打ちする。
「またかって?」西畑の顔から汗が噴き出していた。
「いや、よかれと思ってなにかやるたびに、必ず加速しおるんです」
西畑がスピードメーターを覗き込むと、針は二五〇の表示をゆっくりと越えていくところだった。
「どうするんですか」そんなことを、河合に訊いたところでどうなるものでもないのに西畑は訊いてしまった。
「うーん」と河合は考え込みながら、ハンドルを勢いよく弾みをつけて回した。ルーレットのように回る。「ガソリンが無くなれば停まるんじゃないでしょうか」
「そうか」西畑の顔が輝いた。「ガソリン少ないんですか」
「いや、ほとんど満タンですなあ」
「もうだめだ」へなへなと西畑は座席に沈んだ。
前方に黄色い光が見えた。
道路が緩やかに左へカーブしているため、そこにだけガードレールが設置されている。直進してきた車が突っ込んでしまわないよう左向きの矢印が反射鏡によって示されているのだった。
西畑がそれを確認できたときには、車はすでにガードレールに激突していた。
硬い金属の塊がひしゃげるような鈍い衝撃音とともに、シートベルトが肩に食い込んだ。
ほんの一瞬だけ静かな、音のない瞬間があり、それに続いてずしんと重い衝撃があった。
まだ意識のある自分に西畑は驚いたが、長い間気を失っていて今覚醒したのか、ずっと意識があったのかはっきりしない。
視界は闇に閉ざされている。
ヘッドライトが壊れたらしいと気づくまでの一瞬、目がどうかしたのかと恐怖に駆られた。
車の挙動は安定しているようだが依然としてエンジンの唸る音は続いており、車は揺れていた。
その事実を認識したとたん、西畑は息ができなくなった。
車は、なにも見えない闇の中を二五〇キロのスピードで走っている。
今、この瞬間にもなにかにぶつかるかもしれない。
詰まった喉の奥で悲鳴をあげそうになり、拳を噛んだ。
運転席の河合が動く気配に横を向くと、闇の中でかすかに河合の輪郭が見えた。
そして驚くべきことに、河合は運転席のドアを、
「よっと」勢いをつけて開くと、車から出たのだった。
河合がそういう行動をとったことについては、特に意外だとも思わなかった。それはまあいいのである。河合の言動にまともに反応していたら疲れ切って死ぬ。
しかし、車の外をゆっくり歩いていくとなると、これは、ああ河合さんがまたやらかした、ではすまない。
車はまだ走っている。いや走行音はまだ聞こえているというべきなのか。
脳が痺れたような歯痒い感覚の中、西畑は窓ガラスに顔を押しつけて外を見た。
そこにいきなり懐中電灯の光が出現した。
ぎょっとして、頭をのけぞらせた。
「いやあ、救急車もいいんですが、どうしても明石水族館というところに行かんといかんのですわ」と、河合の声が外に聞こえる。必死に吠える犬の声もするなと思ったら、けーっ、と鶏が鳴いた。
窓を開けるスイッチを押してみたが、反応がない。
しかたなくドアを開けた。
車は停まっていた。
水田の泥と水の中に完全に埋まった後輪は、まだ激しく回転しているらしかったが、車そのものは停まっているのだ。ノーズを民家の下の土手に押しつけるように、いくぶん埋もれさせて停まっている。
田圃に車輪を取られたおかげで、助かったのか。
「おいおい、これ、えらいことやがな」と、シャツに股引《ももひき》に腹巻き姿で足にはビニールのサンダルという、実におっさんらしいおっさんが大きな声を出した。「稲わやや」あわてて出てきたのでこういう格好というわけではなく、日常こういう姿で過ごしているのである。
するとその横にいたパジャマ姿の、明らかにそのおっさんの女房と見えるおばさんが、
「あんた」と低い声でおっさんを叱責した。「事故で困っとう人に稲のことなんか言いな」
「あっ。そやなそやな」とおっさんはいったん納得したものの「そやけどおまえ、あれ見てみい、稲がわやや」
死の恐怖冷めやらぬ西畑は、鶏のいる民家を背に車を見おろす人々の、牧歌的な反応になかなか対応できないでいた。
ごそごそと、後部座席で音がしたので振り返ると、妙にすがすがしい顔をした山口さんが口元に笑みさえ浮かべ、
「着いたんですか」完全にいやなことは忘れているらしかった。
「いやまあ」適当に返事をしておいて、とりあえず河合のところへ行こうと車を降り、膝の下まで泥に浸かってしまう。
土手を上がろうとしたら、何本も手が伸びてきて、やすやすと上に引き上げられた。
「水族館というのは、この近くでしょうか」河合が訊いていた。
見れば、どこから来たのか数十人の人々が、懐中電灯や団扇《うちわ》、蚊取線香に茣蓙《ござ》などを持って集まっている。たこ焼きとリンゴ飴の屋台も来ていた。屋台がふたつ来ているのではなくひとつの屋台で両方売っているのである。
事故を起こした人たちが、水族館に急いでいかないといけないらしい、という話はまたたくまにそれらの人々の間に伝わり、俺が車で送ってやろういやわしが、と取り合うように案内を買って出る人が相次いだ。
「ありがとうございますそれでは」と、河合。「抽選で決めましょう」
「なにを馬鹿なことを」と、西畑が止めようとすると、今まで稲がわやだとかなんとかぐちぐちと文句を言っていたおっさんが、大きな声で、
「阿弥陀籤《あみだくじ》しようか。わし、紙と鉛筆持ってきたるわ」と言って、家の中へ駆け込んでいった。
どうもご親切に、と間の抜けたことを言いつつ西畑が困っていると、河合がとことことやってきて、
「西畑さん、私、ちょっとしたことを忘れておりました」と、言った。
西畑の心臓がきくっと音をたてて縮みあがった。人が驚くようなことでも河合は平気でやらかす。それがわざわざ「忘れていたことがある」などと断るからには、とてつもないことに違いないのである。
「な、なんです」身構える。
「カナコ王女のお話では、いっしょにいる松岡君というのは誘拐犯から助けてくれた人だということで、今王女は無事に保護されているので安心していいと、そういうことでしたが」
「はい」まだ身構えている。
「それを言うのを忘れておりました」
「え。誰に言い忘れたんです」
「篠原団長に」
「どういうことです」
「こういうことです」と河合は心持ち胸を張り「篠原団長が、私の言うことをろくすっぽ聞かずに、ひとりで勝手に納得しちまったんです」だから厳密には私は悪くないのですが、と言うのを西畑は遮《さえぎ》って、
「どういうふうに納得したんですか」いらいらした。
「王女が犯人に強制されて連絡してきたんだな、犯人が我が国に要求をつきつけてきやがったんだな、と」
「ということは?」
「つまり、私らが表向き取引の交渉に行くと見せかけて、騎士団がばばっと襲って犯人をやっつけるという手筈《てはず》になっておるんです」
「じゃあ、騎士団も水族館に向かってるんですか?」
「たぶん」
「そりゃ、えらいことじゃないですか」
「そうそう」
傍らでは、阿弥陀籤に当たったおっさんが、当たったあたったわしの車で送っていったろ、とはしゃいでいた。
さっき、稲についてぶちぶち文句を言っていたおっさんだった。
「車って、あれですか?」急がなければと焦る西畑は、不安を感じておっさんに訊ねた。
「おう。あれや」おっさんは心から嬉しそうである。
おっさんの車というのは斜めに傾いた三輪トラックだった。
それも小さい方の。
「えーと」運転席は非常に狭いが「乗れるんですか」三人も。
「よ」おかしなことを訊く、という風におっさんは目を丸くし「いっつも五人ぐらい乗せて田圃行くがな」
「あー」西畑は深く納得した。「荷台ですか」
「そうそう」
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午後一〇時五三分 明石水族館
迎えがなかなか来ないので、魚でも見ますかということになった。
芳裕は自分ひとりでカナコ王女を案内すると言ったのだが、シゲさんもトシさんもついてきた。
そんなにたくさんの種類が揃っているわけではなく、さほど珍しいものもいなかった。
ほとんど魚屋に頼っているので、鰯《いわし》、鯖《さば》、鮪《まぐろ》、鰤《ぶり》、秋刀魚《さんま》、鱚《きす》、穴子《あなご》、鰻《うなぎ》、コノシロ、海老《えび》蟹《かに》烏賊《いか》に大量の蛸など、普通の食卓に並ぶものばかりいた。水族館というよりは料亭の生《い》け簀《す》の大きなやつという感じである。実際に職員たちはときどきすくって食べていた。
それでも魚は見ているとけっこうおもしろい。
特に鰯はでかい口を開けるのがおもしろくて、芳裕は好きである。
しかし鰯と釣り禁止の蛸の釣り堀がメインでは、あまりにも情けない。だからというわけではないが、たまたま閉鎖するよその水族館からただ同然で譲ってもらったイルカとアシカがいた。
いろいろと芸ができるという話だったが、なんにもさせずに好きなように泳がせている。放っておいても勝手に空中一回転くらいはするので、それで充分だった。
他の水槽が並ぶ薄暗い通路とは違い、イルカとアシカにはそれぞれ専用の広いプールがある。
大きな天窓のおかげで日中は明るく、プールサイドにはテーブルや椅子が適当に置かれていてのんびりするのにちょうどいい。隅には、けっこうおいしいホットドッグやコーヒーを出す売店もあり、ここに一日座っているのがなにより楽しみという人も少なからずいた。イルカとお話しするのが好きなの、などとメルヘンなことを言う気持ち悪い主婦やOLもときどき来たが、こういうのはどこにでもぞろぞろといるもので、まああなたって本当に純粋な方なんですねとおだてておけば、おとなしく家で七宝《しっぽう》焼でも焼いている。まちがってもイルカのことを「しょせん畜生」などと言ってはいけないのである。「心ない人の心ない一言」みたいな題で新聞の投書欄に書かれてしまう。書かれたからどうということもないのだけど、なんでああいうアホみたいなもん載せるのかなあ。
まあ、それはともかくどちらかというとせせこましい雰囲気の生け簀コーナーを抜け、突如開けたイルカのプールの前まで来ると、双子はそわそわしはじめた。
「このイルカは二頭ともヨシツネなんですよ」やっとここへ来たかとシゲさんが嬉しそうに言った。
「あんまりおもしろくないよ。この話」芳裕が王女の耳元でこっそり、でもシゲさんとトシさんにも聞こえるように言った。
「黙ってなさい」と、シゲさん。
王女はシゲさんの口調に楽しいものを感じとったようで、もう笑う寸前の顔になっている。
「雄ヨシツネと雌ヨシツネと、呼んでいます」トシさんが言った。「イルカはヨシツネで、あっちにいるアシカがタカウジ」
「へえ」王女がにっこりと笑うと、二頭のイルカはプールサイドに顔を突き出してきーきーと鳴いた。「なんて言ってるのかなあ。やっほー」と、王女はイルカに手を振った。
きーきー。
アシカが、タカウジ、とトシさんはもう一度小さな声で繰り返したのだが、カナコ王女は、やさしく微笑んだまま特に反応を示さない。イルカが気になってしょうがないのだ。
受けなかったので、シゲさんとトシさんはがっくりとうなだれた。
「もともとそんなにおもしろくないと思うんだよそれ」芳裕が言った。
「なんで」とシゲさんが鼻白んだ。「おもしろいよなあ」トシさんと顔を見合わせて頷きあう。うん。「むちゃくちゃおもしろい」
ところがカナコ王女の方は、なんだか楽しそうだけどなんなのかしらと微笑んでいるだけである。なに? と芳裕に目で訊ねる。
「え」わかってないのかな。「だから、アシカが、タカウジ」
「アシカも雄タカウジと雌タカウジ?」やっぱりわかってなかった。おもしろいわねえ、とずれたところで納得しそうになる。
「いやあの。足利尊氏という、その。歴史上のアシカガ」
するとイルカのヨシツネたちがカナコ王女に向かって、きーきーとひときわ大きな声で鳴いた。
「なあに?」王女は芳裕をほったらかしにすると、顔を輝かせてイルカに答えた。すっかりイルカと友達である。「きーきー」ごきげんだ。
「ずっといっしょにいたいって」芳裕が適当なことを言った。
「えっ」風呂上がりで、まだ少し湿り気を帯びた髪の毛を、ふわりと浮かせて王女は芳裕に顔を向けた。「わかるの?」
「いや」基本的に嘘をつくのが下手な性格である。「わかりません」イルカの言葉がわかるのかと訊き返す方もどうかしているのだが、それについての感想はなかった。
「ん? じゃあどうして」怒っているわけではなく、単に疑問を口にしているだけなのだが、嘘はよくないと教えられて育った芳裕はうちひしがれて、
「あの、たぶんイルカも君と、ずっといっしょにいたいんだろうなあという気がしたのです」言葉も丁寧になる。
王女は、はっとしたように何度か大きな目をばしばしと瞬きさせ、あわてて芳裕から目をそらすと下を向いた。
「イルカも」と小さく呟く。頬が赤くなっていた。
「はい。ええと、あの。そう。イルカも。というのは実はぼくも」わざわざ言わなくてもわかるというのに。額からぼたぼたと汗が滴《したた》った。むちゃくちゃ暑いな今日は。
そばで聞いている方はたまらない。
なんとなくその場にいるのが気まずくなって、とシゲさんとトシさんは、そっとふたりから離れていった。
けれど気にはなるので、一応太い柱の陰に入ってこっそりと盗み見ることにした。プールのある部屋は広いが、全体によく音が響くので声もよく聞こえる。
「キスすると思うか」シゲさんがひそひそ言った。
「しない方に八億円」トシさんは大きく出た。
「そりゃそうだな」
ところが芳裕とカナコ王女は互いに見つめ合ったまま動かない。シゲさんとトシさんが離れたことも、そもそもさっきまでそばにいたことさえも気がついていないように見えた。
「あれ、もしかすると」
「ちょっとちょっと」
シゲさんとトシさんの方がそわそわしはじめた。
「どうする?」シゲさんは心配そうな顔をトシさんに向ける。
「する方に千円」信念というものはないのか。
「うーむ」
「なにやってるのあんたたち」きーきー。
イルカが言った。
かなり顔の近づいていた芳裕とカナコ王女は、ぱちんと電気でも感じたかのように弾けて離れた。
見ればイルカの雄ヨシツネと雌ヨシツネがプールサイドに顔を出してこっちを見ている。
「え。いや。え」芳裕はしどろもどろになってイルカ二頭に弁解しようとしたのだが、
「どこ見てるのよ」と、別のところから叱られた。
高い天井にきんきんと響くその声に、芳裕は聞き覚えがあった。
「で」芳裕は内臓がつぶれたような声を出したかと思うと完全に固まった。「真紀ちゃん」
芳裕たちが入ってきたのとは別の入口付近に、ひらひらのいっぱいついたピンクの服を着た牧村真紀ちゃんがいた。
それだけでももう充分に最悪の事態と言えたのだが、もっと悪いことに真紀ちゃんの他にもまだ何人かいて、
「会いたかったぜ」と、別に会いたくもなさそうにそびえ立っているのはあの寺尾だった。
「こら、じっとしろ」芳裕の方へ行こうとする真紀ちゃんを押し止めた髪の長い男と、その横に立つ色の白い太った男にも見覚えがあった。ミニヴァンに乗っていたふたりだ。ふたりともまだ「いらっしゃいませ」と書かれた法被を着ている。
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そしてもうひとり、白いブラウスに紺のタイトスカートのすらりとした美人がいた。
「まあ、写真よりも可愛いわねえ」と芳裕を見てにっこり笑ったかと思うと「ひひひひひ」と魔女のような声を出して白目を剥いた。
笑ったのではなかった。首の後ろを蛸が這ったからである。
女は両手を首の後ろにまわすと、自分の頭と同じほどの大きさの蛸をぬるりと取り出した。
「また蛸だわ」ぶちゃ、と無造作に床に捨てると「蛸屋敷かここは」あまり口を開けずに投げやりなしゃべり方をする。
みんなで蛸の部屋を通ってきたらしい。
よく見ると、特に背の低い太った色白の男は、全身に蛸がうじゃうじゃとひっついている。この人はそれをあまり気にしていないようだった。
「こういうやり方は気が進まないんだけどね」長身長髪の男が口を開いた。「まあ成りゆきというか」真紀ちゃんの首筋に拳銃をあてている。あてている、というよりは柔らかい顎なのか首なのか胸なのか境目のはっきりしないぶよぶよした脂肪の中に銃口をねじ込んでいるという方が正確だったが。「君はどこまで知ってる」
なにを、と芳裕が口を開こうかと迷ったとき、
「ひひひひひ」美人がまたのけぞった。白く細い太股の間を蛸が這いあがっている。「あんた食うよ」と、蛸に恐い顔をして言ってから捨てる。
「こちらの人質と王女を」と、長髪が言いかけると、
「ひひひひひ」
「ちょっと神田《かんだ》さん」黙っててよと振り返ると、歯を剥き出して体をくねらせているのは寺尾だった。
「ごめんごめん」寺尾はポケットだらけのズボンに手を突っ込んで蛸を取り出した。
「なんて声だすのよ男のくせに」神田さんと呼ばれた美人は腕組みをして寺尾を見上げたが、すぐにまたへなへなと体をくねらせて「ひいー」
後ろにいた色の白いデブが、自分の体についた蛸を神田さんの首筋やら太股やら肌の露出した部分にせっせと貼り付けているのだった。
「ちょっとあんたさっきからなにしてんのようもう」と神田さんはさほど怒ったようすもなくそう言うと手にした蛸を両手で弄《もてあそ》び、美しい顎をくいと動かして無表情に「あとにして」
「あとに?」なにをあとにするんだ、と色白の男は憮然とした。
「竹田《たけだ》」と長髪が言った。「頼むからじっとしててくれ」芳裕に向きなおり「時間がないから、細かいことは捨てる。とりあえずカナコ王女とこの女性を交換したい。君の恋人なんだろう?」
「え」恋人? 芳裕はたじろいだ。カナコ王女が自分の横顔に強い視線を向けているのがわかったが、そっちを見る勇気がない。
「そうよ。恋人よ」と言ったのは真紀ちゃんだ。「誰がなんと言っても恋人よ」
「うん。いろんな人が、いろんなこと言うだろうと思うなあ。これは」竹田がぽそっと言った。
芳裕とカナコ王女は、怯えたような困ったような、ふたりよく似た表情を彼らに向け、互いに手を取り合っている。
「ちょっと、あたしの芳裕にくっつくんじゃないわよ」真紀ちゃんが歯を剥いた。上下の歯茎《はぐき》がほとんど全部唇からはみ出るので、真紀ちゃんが怒るとものすごい顔になる。
王女は身をこわばらせて芳裕から離れようとしたのだが、芳裕が手に力を入れて引き止めた。
それを見て真紀ちゃんはつかつかと芳裕の方へ行こうとした。
「こらこら」長髪があわててそれをひっぱり戻す。銃を突きつけている意味がない。「じっとしててね。銃で脅してるんだから」
「だから早いとこ捨ててしまえばよかったんだ」寺尾が言った。かなりいらついていることだけはたしかである。
「なんで真紀ちゃんが?」芳裕は、やっと気になっていたことを言うことができた。
「いやあ、寺尾君が君と王女はたぶん死んでないって言うんで、君の家から一番電話の多かったこの」と真紀ちゃんを見ながらなんと言ったものかと思案し「えー、この、これのところに、来ているかもしれないということで、行ってみたらさあ」ちょっと聞いてくれよという顔になる。「そりゃあもうぎゃあぎゃあ騒いで大変で。しょうがないから車に乗せたんだよ」よほど大変だったらしく、しなくてもいい説明を詳しくしてくれた。
「どこかに捨てればよかったんだ」と寺尾がまた言った。
長髪はまったくなあ、と頷いた。
「王女から旅館への電話が入ったとき」ちゃんと盗聴していたのである。「せっかくだからカナコ王女と君の恋人とを交換しようではないかと、けっこういやらしい作戦を思いついたんだが」長髪はそう言ってから、真紀ちゃんの方をじっと見た。それから今度はカナコ王女を見る。何度か交互に見比べる。カナコ王女と真紀ちゃん。美人と不細工。優しいのと根性悪。すらりとぶくぶく。人と牛。
「交換、しないよね」
「なによそれえ」ねばついた声で真紀ちゃんが抗議した。誰も聞いていない。
「するわけないんじゃないの」と竹田。
「だよなあ」と長髪の男はぽかんと口を開けた。「捨てとけばよかったなあ」
しかし芳裕は悩んでいた。自分にとって一番大事なのがカナコ王女であることに疑問はないのだが、だからと言って真紀ちゃんがどうでもいいということではない。
「迷ってる」と竹田。
「馬鹿だ」と長髪。
「なにを迷うのよ」と真紀ちゃん。
「ほんとに。なにを迷うんだろ」竹田はまじまじと真紀ちゃんを見た。
「もういい岸本《きしもと》」と、寺尾が進み出た。長髪は岸本という名前らしい。「俺にやらせろ。まどろっこしい」
「あの」芳裕が口を開いた。「ぼくが真紀ちゃんの代わりに人質になるのはどうかな」
「それでどうするんだよ」今までどちらかというと穏やかで丁寧だった長髪の口調がいきなりくだけた。
「いや、よくわからないけど」よくわからないのでどぎまぎする。「カナコちゃんと真紀ちゃんは連れていかないというような感じで」
「カナコちゃんってあのね。こっちが必要なのはカナコ王女だけなの。別にこの」とまた真紀ちゃんを見て「この」言いにくそうに「女性も必要ないし、君に来てもらってもしょうがないの。ね」
「はい」すごすごと引き下がる。
「俺がやる」と、また寺尾が進み出た。「今度は手を抜かん」そして芳裕との間合いを詰め「おまえ毛利新蔵の仲間なんだってな」
「毛利?」芳裕はほんの一瞬考えて「ああ、ジープのおっちゃんね」
「なんだそれ」寺尾の肩から少し力が抜けた。
「昔ジープに乗ってたんで、それからずっとジープのおっちゃんって言ってる。そのジープは今はシゲさんとトシさんが」
「このことに毛利は関係してるのか」
「このことって?」
「王女の誘拐計画の妨害だ」
「えーと妨害? ああたまたまだけど」わからないのだが、ちゃんと答えないといけないと思って困ってしまう。「関係してるというかその去年からおじさんどっか行っててぼくとおじさんはまあ関係なくもないんだけど」なんと言えばいいのかやっぱりわからなかった。
寺尾は芳裕の言うことをしまいまで聞かず、
「よくわからんが、まあいい」寺尾もやっぱりわからなかった。「毛利の仲間なら上等だ」掌を顔の前に構えた。「来い」
芳裕は寺尾をはじめ、目の前にいる他の連中に悪意や敵意があるとはあまり思っていないようだった。すこーんとかんちがいした。
「ああ」と芳裕は大きく目を見開いて、なんだ「やっぱり、ぼくが代わりでいいんですか」そうか、と言いつつとことこと歩いて寺尾の横を通ると、真紀ちゃんと岸本のところへ行った。
あまりのことに誰も否定しない。
寺尾は格闘に備えた構えのまま、首だけを巡らして芳裕の動きを追っていた。
顔はものすごく困っているようだったが、なにも言わない。
芳裕は寺尾の斜め後ろに突っ立ったが、寺尾のことはもうまるで見ていなかった。真紀ちゃんに拳銃を押しつけている岸本に、さあ、来たから真紀ちゃんを放してやって、という顔を向けるだけである。
その場の雰囲気を全然理解していなかった。
寺尾はやはりなんにも言わないで、まだ両手を前に構えたまま。
笑うにも笑えず、怒るタイミングも外してしまっていた。ずれた行動をとったのは芳裕の方なのだが、真面目な寺尾にしてみれば相手がかんちがいするような言い方をした自分にも非があったと反省する部分もあり、いややっぱり俺は悪くないなと気を取りなおしたときにはもうごまかしようがなくなっていたのである。
「あらあ」寺尾の困惑に無頓着な声を出したのは神田さんだった。「近くで見ると、本当に可愛いわあ」と芳裕に顔を近づけてしげしげと眺める。「この子連れていこう」
「こいつ連れていったって、仕事にならないよ」岸本が言った。
「この子も王女も、いっしょに連れていけばいいじゃない」神田さんは簡単なことだと、さらりと言ってのけた。
「あーそれがいい」芳裕も言った。「うん。それが一番いい。絶対。そうすれば、関係ない真紀ちゃんは放してもらえるし」
「ああそれはとてもいいな」岸本の顔が輝いた。「とりあえず、君はもういい」なんかしらんがとっても嬉しい、と真紀ちゃんを突き放すと芳裕に銃を向けた。「王女、こちらに来ていただけますね」
「はい」とカナコ王女はいそいそと芳裕の元へ飛んできた。
「これでみんな幸せだ」よかったよかったと神田さんは喜んで、わっはっはあと奥歯まで見せて笑った。美人なのに。
ところが真紀ちゃんが、
「あたしも行くわ」と、ただでさえ横に広い鼻の穴を大きく広げて言い出した。
「ええーえ」岸本と竹田が露骨にいやな顔をした。「なんで?」
「当然じゃないの」とにかく強引で、あつかましいのである。
「うーん」しかたないなあ、と真紀ちゃんの勢いに負けて岸本はいっとき納得しそうになったのだが、自分が銃を手にしていることに思い当たり、そうだ我々は犯罪組織なのだから暴力を行使していいのだと気づいた。「だめだ、来るんじゃない」脅すように言った。
「いやよ」真紀ちゃんはもっと強かった。「行くわ。芳裕はあたしの恋人なのよ。よその女にちょっかいは出させない」
「あのー」と、柱の陰からシゲさんとトシさんも顔を出した。「心配なんで、わしらもいっしょに行きたいんだけど」
「あんたたち誰」岸本は困りきった顔をした。
「ここの館長と副館長なんだけど」えーと、と首をかしげたのはシゲさんの方だった。「今週はおまえが館長でわしが副館長だったな」
「いーや、先週わしがホッケーゲームで勝ったから、今週もおまえが館長やる約束だ」
「ああそうだった」やられたなあ、と言ってシゲさんは岸本に「わしが館長で、こいつが副館長」
「どっちでもいいよ」それはそうである。「ここの館長と副館長が、なんでついてこなきゃいけないの」
「まあ、わしらは芳裕の、父親代わりみたいなもんだからなあ」うんうん、とふたり頷き合って「心配で」
「それに」トシさんが言った。「わしらも毛利さんの仲間だよ」
「しょっちゅういっしょに遊んどる」とシゲさん。
「え?」寺尾が動いた。きっかけがなかったので、ずっと固まったままだったのである。やっと戦いの構えを解いた。やれやれ。
「きーきー」とイルカのヨシツネたちが甲高い声を上げた。ようすが変だった。
「なんだ?」シゲさんとトシさんの顔が引き締まる。
ずん、と鈍い音がしてコンクリートの床が揺れた。
硬い靴音と、重い金属の触れ合う音が、館内のあちこちから同時に響いてくる。
「なんです」岸本は訊けばわかるとばかり「市の衛生局かなにか?」もしかするとそういうものの抜き打ち検査でもあるのかと、双子の水族館館長副館長を見た。
「えっ衛生局?」とトシさん。
「なんで衛生局が来るの?」シゲさんは逆に岸本に訊ねた。
「知らないよう」
「なんで衛生局の人が今頃来るんだろ」
「なあ」シゲさんとトシさんは不思議そうな顔を見合わせた。
「いやたぶん衛生局じゃないんじゃないかなあ」岸本は、なあ、とまわりの仲間に同意を求めたが、竹田と神田さんは蛸で遊んでいた。
寺尾だけが冷静だった。
「逃げた方がいい」目を細め、耳に神経を集中している。その動きは野生の動物を連想させた。
「うん、逃げよう。軍隊だ」と、芳裕も言った。「二個分隊が、四方に分かれて包囲してきてる」
「やるじゃないか」寺尾が芳裕を見て唇の端をめくりあげた。笑っているらしい。「俺もそう思う。だいたい二十人程度だろう」
真紀ちゃんがびっくりしたような顔を芳裕に向けた。無表情でもすごい顔だが、なんらかの感情が混ざると見ている人がたじろぐほどのすさまじいものになる。
軍隊よりも真紀ちゃんの顔で、竹田はすでに数メートル逃げていた。
「いったん地下へ降りてから、向こうへ出る道がある」芳裕が寺尾の肩越しに指をさした。「売店の奥のドア。あそこからなら逃げられると思う」
いつ動いたのか寺尾の手の中にはベレッタが出現していた。芳裕に密着していたはずのカナコ王女の細い首に巨大な腕を巻き付け、そのこめかみに銃口を押しつける。
カナコ王女の目は芳裕だけを見ていた。必ず助けてもらえると信じているように、その瞳に恐怖の色はなかった。
「おまえがよくわからん」王女を捕らえた寺尾はじりじりと芳裕から離れる。「この状況で軍隊が来るとしたら、王女を助けに来たと考えるのが普通だろう」それとも、と寺尾の目が探るように芳裕を凝視した。「何か知ってるのか?」
「ああ。え? どういうこと?」なんとなくわかる気もするのだが、なぜ王女に銃を向けるのかがわからない。いい人たちのような気が、なぜかしていたのに。
「わからんのか。王女のための軍隊なら、おまえたちが逃げる必要がどこにあるんだ」
「でも、さっきいっしょに行くと約束したからなあ」
「もう来なくていい」そう言うや、寺尾は王女を小脇に抱えて駆け出していた。
「あ」引き離されていく、と思った瞬間芳裕とカナコ王女は同時に手を出していた。
届かない。
芳裕の目には王女の姿しか映っておらず、ただ王女との距離を少しでも縮めておこうと芳裕は駆け出した。
いっしょにいなければ、助けなければという気持ちはほとんど狂気に近いものであったが、絶対に追いつく自信があった。そんなに焦らなくてもついていける。
はずだった。
走りはじめて数歩もいかないうちに、芳裕は足をもつれさせてもんどりうって倒れた。
鎖骨とこめかみからコンクリートの床に叩きつけられる。
前後左右の感覚がぐちゃぐちゃになった。目の端には蛍光灯の明かりがにじんで見えた。そして一瞬、もっと端の方にふわりと揺れる王女の髪の毛が。
「待って」体が動かない。
首をねじるようにして肩越しに自分の脚を見てぎょっとした。膝のあたりに黒い大きな物体がねっとりと絡むように付着しているではないか。
真紀ちゃんだった。
真紀ちゃんが芳裕の両脚を強く抱いてタックルし、行かせまいとしているのだ。
「行っちゃだめよ」と真紀ちゃんの巨大な顔が芳裕を見上げた。わかってるでしょ、とばかり真紀ちゃんの顔にはかすかな笑みが浮かんでいる。が、その笑みはすぐさまわざとらしい悲しげな表情に変わり「行かないで、おねがいだから」
芳裕の体から力が抜けた。
しかたない。と、さらに脱力する。
「わかった」
「なにやってるんだ」頭上で声がした。シゲさんだった。「いいのかそれで」
芳裕は黙って横たわったまま、動かなかった。
誰かのために自分のしたいことや欲しいものをあきらめるのは、いつものことだった。
自分を押し通して、そのために自分以外の誰かがつらい思いをするのだと思うと、その方が苦しいのだ。だから、自分が我慢する。その方が楽だからいつもそうするのだ。
それをまわりの人々は、優しい性格だと言ってはくれる。けれど自分では常に楽な方を選んで逃げているような気もしているのだった。
どうすることもできない。
王女を助けたいというのは、結局は自分のしたいことだった。
「ホットドッグ」と書かれた小さな吊り看板の陰に、王女の頭が隠れ、やがて奥へ消えた。
見えなくなる寸前まで、王女はずっと芳裕を見ていた。
突然じっとしていられなくなるほどの後悔の念が、芳裕を襲った。
やっぱりあきらめるべきではない。
「だめ」芳裕の微妙な動きを制して、また真紀ちゃんが言った。「行かせない」
ふたたび芳裕の体から力が抜けた。目の前に真紀ちゃんがいると、どうしても逆らえないのだ。
頭の先から足の先まで全身黒ずくめの男たちが、ぞっとするような機敏な動きでプールサイドに散開していった。
またたくまに芳裕たちには無数の小銃が向けられる。黒い目出し帽に包まれた顔に、人間は感じられなかった。
シゲさんが、
「王女がたった今」連れ去られた、と言おうとしたとたん、黒い男たちのうちの誰かが躊躇のない低い声で、
「撃て」
シゲさんとトシさん、そして芳裕はその直前に身の危険を察知していた。とっさに頭を低くしたシゲさんトシさんは、太り気味の体からは想像もつかない軽い身のこなしで、ふたりほぼ同時に同じアーチを描いてイルカのプールへ飛び込んだ。
それを見たイルカのヨシツネたちは、かつて仕込まれた芸の感覚が突然によみがえり、シゲさんトシさんが作った波紋の中心から、二頭揃ってジャンプする。
そこへ銃弾が雨霰と降り注いだ。
幸運にも無事着水し、本能的に深く潜行したイルカを、銃弾の白い軌跡がかすめていった。
問答無用でいきなり皆殺しにするつもりらしい。
硝煙《しょうえん》の匂いがたちどころにあたりを支配し、震える空気の中であらゆるものが砕け散っていく。すさまじい銃撃音に鼓膜が痺れ、方向感覚までがあやふやになりそうだった。
「ぎやー、ぎやー」
芳裕はシゲさんたちよりも速く反応していたのだが、プールに飛び込もうにも脚に真紀ちゃんが絡まっていて動けない。
「ぎやー、ぎやー」
すでに地面に伏せていたので、真紀ちゃんをくっつけたそのままの姿勢を保ったまま一番近くの柱の陰へと這い進んだ。
「ぎやー、ぎやー」
体をねじって起こし、背中を柱に密着させた。次の行動を考える。真紀ちゃんは依然脚から取れない。早くしないと、連中にこっちの側へまわられたらそれまでだ。
「ぎやー、ぎやー」
そこで初めて、このぎやーぎやーというのが真紀ちゃんの悲鳴だと芳裕は気づいた。なにかの警報かと思っていた。うるさいだけでなく耳障りな音だ。よくこんな音が出せるな。
「ぎやー、ぎやー」
わざわざ、ここにいますよー、と伝えているようなものである。しかしまあ、見事に機械的な悲鳴だった。人間の声とはとても思えない。
「落ちついて」とりあえず静かにさせようと、真紀ちゃんの口に手を当てたところ「いてっ」いきなり噛まれた。
瞬間的に狂犬病の心配をした。
その間に敵は、柱を回り込んできた。
真紀ちゃんが邪魔で動けない。
「ぎやー、うああ、ぎよー、づあー」噛んだあと、ちょっとの間だけ悲鳴がやんだと思ったら、よけいうるさくなった。
右前方で、数人がニーリング・ポジションを取るのが見えた。全員膝をついた側の足の、爪先を外に向ける綺麗なフォームだがそんなことを観察している余裕があってはいけないのである。銃口はきちんとこっちに向けられている。
なんとか真紀ちゃんを引き剥がす努力を続けながらも、歯を食いしばって身をすくめた。撃たれるのはもう時間の問題だ。
真紀ちゃんはまとわりついて取れない。
「ぎいやあうげよおうわいぐわいぐわいぐわい」どうやら「恐い」と言っているようだったが、もうそれどころではなかった。
芳裕は撃たれる恐怖に耐えきれず目を閉じた。
顔のすぐ横に、いきなり人の気配が発生した。
振り向こうとする前にそいつは、真紀ちゃんの頭を小銃のショルダー・バットで強打して、悲鳴を止めてくれた。
もしかしたら死んだ。
よしよし。
いや、たとえどれほど迷惑な存在であっても、真紀ちゃんに限らず誰かが死んでもいいなどと考えるようなことは芳裕にはないのだが、あんまりやかましかったから悲鳴が止まったことがものすごくありがたくて、死んだかもしれないと思ってもあまりそれについての感情は湧いてこなかったのである。
芳裕の目の前には、寺尾の顔があった。
「行くぞ」
黒ずくめの男が三人倒れていた。今、芳裕に狙いをつけていた連中だ。
なぜ寺尾がここにいるのか、ということはとりあえずどうでもよかった。まだ銃撃は続いているのだ。
寺尾が手にしたM16アサルトライフルを天井に向けて乱射した。弾倉を空にするまで撃ちきったと同時に弾倉がリリースされる。外れた弾倉が地面のコンクリートに落ちて弾むときには新しい弾倉がセットされていた。
「すごい」芳裕も弾倉の交換には自信があった。でも、こんなに早くはできない。
プールを照らしていた照明が砕けて消えた。天窓のガラスが割れ、あたり一面に降り注ぐ。天井や壁の建材も粉々になって飛散し、埃が煙幕となって広がった。
手品のように手の中に現れた手榴弾《しゅりゅうだん》を床を滑らせるように投げると、寺尾は芳裕が動かないよう首の下に太い腕で押しつけて爆発を待つ。
明かりの消えた建物内にオレンジ色の光が炸裂した。
見事な効果があった。敵の射撃が明らかに弱まった。
寺尾の手にあるM16の銃身にはグレネードランチャーが装着されていた。それを、今度は敵兵の包囲が薄い背後の壁に向けて発射した。
ふたたび鮮やかなオレンジ色をした炎の塊が膨れ上がった。爆風に、体が煽られそうになる。
寺尾は意識のない真紀ちゃんの上半身を起こし、上半身を起こしてもほとんど高さが変わらないのにちょっと驚きながら、
「これも連れていくのか?」と訊いた。
芳裕は普通に頷いた。
ふん、と鼻で軽く笑った寺尾は、まるまると太った真紀ちゃんの体を肩に担ぎ上げ、口の中で小さく、しょうがないなと呟いた。
空気の流れで、壁に開いた穴の方向がかろうじてわかる。暗く、煙と埃のたちこめる中では自分の足も見えない。
「行け」
言われるまま、芳裕は走った。
弱まっていた銃撃がしだいに勢いを取り戻しつつある。芳裕たちの動きはまだ察知されていないはずだ。視界のきかない中で、なにを狙って発砲しているのやらわからなかった。跳弾《ちょうだん》と砕けたコンクリートとがたてる騒音に、パニックを起こしそうになる。
やみくもに飛びかう弾に当たらず、無事脱出できる可能性は少ないように思えた。
頬になにかがかすった。全身の筋肉が瞬間に固くこわばり、脚がもつれそうになった。なんとか倒れずにすんだのは単なる偶然だった。
そのとき、後ろから寺尾の巨体が走ってくるのを感じた。
壁を背負っているような安心感に、気管を狭くしていた緊張が取れ息が楽になる。
逃げられる、と確信した芳裕の脚は地面の感触を取り戻した。壁の穴を走り抜け、新鮮な外の空気に一瞬解放感を味わったのだがそれは本当に一瞬だけのことだった。
敵は外にもいた。
完全に建物を包囲しているわけではないようだが、表玄関の方には装甲車が一台と兵員輸送用の黒いバスが一台、民家の間の狭い道に停められているのが見える。
「こっちだ」芳裕に続いて出てきた寺尾は真紀ちゃんを担いだまま、無造作にM16を捨て、壁沿いに走った。追手の気配はまだなかった。
「なんの騒ぎ?」水族館の裏は駅前までずっと民家が密集している。寺尾がグレネードランチャーで突き破った壁のまわりは低い生け垣で囲まれているが、その向こう側は狭い生活道路を挟んで民家が立ち並んでいた。水族館のものとよく似た生け垣の上に恐る恐る顔を出し、こっちを覗き込んでいるのは芳裕の顔見知りのおばさんだった。「こんな夜中にまた戦争ごっこ?」
「こんばんは」なんとも日常的な挨拶を芳裕はした。「危ないですよ」
「今日のんはなんか本格的やねえ」自分の知った顔を見つけたので、おばさんはかなり安心してしまったようだった。「ほんまに爆発したみたいな音したがな」
「はあ」ほんまに爆発したんですがな、とは言わずに一応頭を軽く下げて「じゃあまた」
「がんばってね」おばさんは言ってくれた。きちんと笑顔で挨拶する青年というのは、それ以外の生活がどうであれ近所のおばさんにとっては「とってもいい子」なのである。
「王女を助けにきたわけではないらしい」芳裕が追いつくと、寺尾が言った。「出たとたん、王女を見るなり撃ってきやがった。山で襲ってきた連中だろう」
「カナコちゃんは大丈夫?」裏返った声で芳裕は小さく叫んでいた。
「は」寺尾は笑ったらしい。「お互いにおんなじようなこと言わないでくれよ」
「どういうこと」
「なんで俺がおまえを助けにきたと思ってるんだ」
わからない。
「親切で」かな?
ほんの一瞬寺尾の膝からがくーと力が抜けた。
「王女がおまえを心配して」なんでこんな説明しなきゃならんのだ、と気づき「一種のビジネスだ」
「はあ」わからない。「で、カナコちゃんは?」
「安心しろ。俺たちだって素人じゃないんだ」
「ああ」よかった、と芳裕は小さく頷いて「ありがとう」
寺尾は驚いたようすでちらりと横目で芳裕を見ると、ほんの少しだけ唇の端を歪めて笑った。
裏庭に出ると、大量の船虫が驚いて動くがざがざっという音がした。
「気持ち悪いとこだ」寺尾が呟く。
「船虫だよ」そう聞けば安心するとでも言いたげに芳裕が言った。
「気持ち悪いじゃないか」
「けっこう可愛いよ。触ると見た目よりずっと柔らかいんだ」よけい気持ち悪いではないか。
「どういう感覚しとるんだ」まったく。
「あ」芳裕が声をあげた。「だいじょうぶ?」
低い生け垣越しにカナコ王女の顔があった。笑顔で、大きく首を縦に振る。
「怪我はない?」と王女も、ほっとしたようにそう訊ねた。
うんうんうん、と芳裕は嬉しそうに何度も頷き、王女のところへ駆け寄ろうとした。
寺尾がそれを押し止めた。
「満足されましたか」王女にそう訊ねた寺尾は、王女が、はいと小さく答えるのを聞くと芳裕に向きなおった。「悪いがここまでだ。あとはおまえが自分でやれ。おまえを助けたらおとなしくついてくると約束していただいた」
真紀ちゃんをどさっと捨てるように落とした。
「え」ああそういうことか、とちょっと納得した。
生け垣の、ほんの少し開いた隙間から寺尾は出ていこうとする。わざわざ通路として設けられたわけではなく、偶然木と木の間が広がっていた部分をいろんな人が頻繁に出入りするうち通り道のようになってしまった狭い場所で、昼でもよく見ないとわからない。
ちょっと無理をすればどこからでも跨《また》いで出られるだろうに、こんなときにこんな大男が、生け垣の木を折らないように気をつけているのかと、芳裕はどうでもいいことが気になった。
「ちょっと待ってよ」言いかけた芳裕に、寺尾が軽く手を振った。
とたんに寺尾と芳裕の間に鉄の扉が割り込み、王女の姿も消える。
生け垣に接するようにして大きなヴァンが停まっていたのだと芳裕が気づいたときには、ヴァンは狭い路地を遠ざかり、ほんの一瞬電柱のそばを通るとき、その銀色の車体を裸電球の光に輝かせたかと思うと、スピードをほとんど落とさないまま角を曲がって行ってしまった。
なんとか追いかけよう、と焦る芳裕の背後では、裏庭の隅にある小さな池から、頭のふたつある突然変異の魚人間が頭を出していた。
ざぶうっと池からあがると、全身から水を滴らせつつどっすどっすとやってくる。
シゲさんとトシさんだった。イルカのプールは裏庭の池につながっているらしい。へんな水族館である。
「どうなった」シゲさんが言った。
「カナコちゃんが連れていかれた」芳裕は体を上下に揺すっている。どうにかして王女についていく方法はないかと居ても立ってもいられないのだ。
「助けにきた軍隊に?」
「ううんちがちがちが」せわしない。違うと言いたいのである。「さっきのさっきの人たちに」芳裕は寺尾の言ったことを思い出して、じっくり考えなければと少し落ちついた。「あの軍隊はカナコちゃんを助けにきたんじゃないらしい」
「じゃあなんなんだ」
「わからないけど、絶対に味方じゃない」カナコ王女に向けて発砲したということを聞いて、芳裕はそれを許せなかった。王女が死んだら、と想像することだけでも耐えられなかった。両親の死のイメージとそれは密接につながってしまう。
「うわっ」トシさんが小さく叫んで、跳びあがった。「動いた」
トシさんの濡れたズボンの裾を真紀ちゃんのぷくぷくした手が掴んでいる。
「まだいたのか」とトシさんが言ったとたん、真紀ちゃんはすうっと音を立てて息を吸い込むと、
「ぎいいうえええー」すさまじい声で叫び始めた。「たすけてー」
とたんにがちゃがちゃと、大量の足音が近づいてくる気配がした。
「こいつ、あっちの味方なんじゃないのかなあ」トシさんは言いながら、なんとか真紀ちゃんの手を振りほどこうと足を動かすのだが、取れないのである。
「真紀ちゃん」低い声にトシさんが顔をあげると、それは芳裕だった。いつもの落ちつきのないうわずった声と全然違っている。「おとなしくするんだ」
真紀ちゃんは、ひっ、とさらにあげかけていた悲鳴を噛み殺した。
芳裕の顔には、真紀ちゃんの見たことのない険しい表情が浮かんでいた。真紀ちゃんのわがままでとろい頭にも、びくっとくるものがあったのだろう。小さい目を開けるだけ開いて固まってしまった。
そこへ銃声が轟いた。
真紀ちゃんの足許の地面が弾丸にえぐられ、土が跳ね上がる。
「ぎやああ」ふたたびとてつもない声で叫びをあげた真紀ちゃんは、いきなり目の前の芳裕を体当たりで突き飛ばし、そのまま生け垣に踏み込んでばきばき音をたてながら、道路へ出ると、そのままひとりで勝手に逃げていった。
「撃つなうつな」シゲさんとトシさんが両手を挙げて叫んだ。「わしらは年寄りだ」
追手も用心していたため、建物の陰から顔を出したのはひとりだけで、残りはその背後についている。
両手を挙げている人間を撃つのは、さすがにためらわられるのかそいつは引鉄にかけた指を緩めた。
その自動小銃が、掴み取られた。
声をあげる間もなく、くるりと百八十度回転したその小銃の銃口が黒いヘルメットを押し上げるようにして自分の頭に押しつけられる。
シゲさんとトシさんにも、芳裕がいつ動いたのかわからなかった。
膝をついた黒ずくめの男の頭に小銃を突きつけているのは、しかしどう見ても芳裕である。
芳裕ももしかすると自分たちと同じように双子で、もうひとりの芳裕はまだ自分のそばにいるんではないか、とシゲさんもトシさんも両手を頭の上に挙げたまま自分たちの後ろを探してみたのだが、やっぱりいなかった。
いつもと違う落ちついた芳裕が、シゲさんとトシさんに逃げるよう目で合図した。
「下がって」芳裕がやはり落ちついた低い声で黒ずくめの男にそう言うのを聞きながら、シゲさんとトシさんは生け垣の隙間から外へ出た。
自分の銃を頭に突きつけられた男は、壁に押しつけた顔半分だけを裏庭の方へ突き出す格好で、いつ撃たれるかと恐怖しながら後続の仲間にそのことを伝えた。
「いったん全員下がれ」首に巻き付けた高性能マイクが、喉の震動を拾うようになっている。小型のイヤホンと組み合わされるこのセットは、ほとんど聞き取れないような小声での会話を可能にする。
背後の仲間が後退していくのを耳で確認しながらそのまま待った。
裏庭の方に動きはない。
さらに待ってからゆっくりと後ろへ下がり、相手の出方を見た。
こめかみから銃口が離れる。
なにかおかしい。
恐々と角から顔を突き出してみた。
半地下室の明かり取りの窓だろう。ちょうど膝をついた目の高さあたりに、小さな庇《ひさし》のようになった部分がある。
奪い取られた自分の銃はそこに置いてあるだけだった。
裏庭に、人の姿はなかった。
シゲさんとトシさんが十数メートルも逃げないうちに、芳裕は追いついた。
「ぼくは、カナコちゃんを追いかけるから」
そのまま追い越していこうとする。シゲさんがあわてて、
「ちょっとちょっと」
「ぎえー」すぐ近くで真紀ちゃんの声がした。
「またか」トシさんが、ため息とともに吐き出した。
車が急ブレーキを踏む音とともに、男の声も聞こえる。
崩れかかった古い土塀を回り込んだところに真紀ちゃんが倒れていた。
三輪トラックに撥ねられたらしい。
「当たってへんあたってへん。あたってへんで。あたってへんがなちゃんと停まった。あたってへんはずや。あたってへんねんけどなあ」大きな声で呪文のようなことを言いながらシャツにパッチに腹巻き姿の、絵に描いたようなおっさんが降りてきた。
荷台にも人が乗っている。
「おう。芳裕やん」と驚いた顔をして「なんやシゲさんとトシさんもいっしょか」それから真紀ちゃんの上にかがみ込んで「あたってへんねんで。急に飛び出してき」
がぶっ、と手を噛まれた。
「わっ。噛んだ。みんな逃げえっ」びっくりしたおっさんは血相を変えてトラックの後ろまで逃げた。
「真紀ちゃん。怪我はない?」芳裕がそう言うのを聞いて、おっさんは恐る恐る出てくる。
「芳裕それ知っとん?」
「うん」
「噛んだで今」
真紀ちゃんはいろんなショックが重なったせいかぶるぶると震えていた。フリルのたくさんついたピンクのワンピースも全然似合っていないのはともかくあちこちに泥がついてとてつもなく汚く見える。
真紀ちゃんの手が芳裕の腕を掴んだ。
「あぶないっ」トラックの陰からおっさんが叫んだ。「芳裕噛まれるかまれる」
震える真紀ちゃんを見下ろしたとたん、本当に弱々しい真紀ちゃんの視線に捕まった。
早く王女を追っていきたくてじっとしていられないくらいだったが、芳裕は真紀ちゃんのそばに膝をついたまま動かなかった。
「怪我してへんな」おっさんは真紀ちゃんが心配なのではなく、へんなものに関わるのがいやなのだった。「うん、だいじょうぶ怪我はない」勝手に断言し「なんせあたってへんねんからな。わしちゃんと停まったからな」そこでさっさと真紀ちゃんから離れて、車に乗って逃げようとする。そこでそうそう、と思い出した。「そうそう、なんや水族館まで連れていってくれいうて、この人ら乗せてきたってんけど」あんたら、この人ら水族館の館長さんと副館長さんやで、と連れの人たちに言う。
「えっ、これ王女さんのお迎え」小汚いオート三輪をあらためて眺めたシゲさんとトシさんは絶句した。
「はああの途中で事故に這いまして」と、助手席から出てきたのは「不肖私、侍従長の山口と申します」
あっちは河合君と西畑君です御親切にこの方が、などと話し始めたのを芳裕が制した。
「カナコちゃんを追いかけないと」
カナコちゃん? と山口さんが妙な声で言うのも聞かず、芳裕はいくぶん落ちついたようすの真紀ちゃんの体を支えて立ち上がらせると、
「ガーさん、トラック貸して」「ー」のところにアクセントのある「ガーさん」である。
「ええけど、どないすんねん」ガーさんはやっと真紀ちゃんが普通の人間だと気づいたようだった。まだ恐がってはいるが。
「シゲさん、真紀ちゃんを頼む」
「いや、行ったらいや」真紀ちゃんが芳裕の腕をさらに強く掴んだ。
ぎくっ、とガーさんがその動きに後ずさった。
「ごめん真紀ちゃん。ぼくどうしても」
入り組んだ路地の向こう、水族館の方で、なにかが爆発した。
紅蓮《ぐれん》の炎が夜空に吹き上がり、熱い爆風とともに町全体が明るくなった。
「蛸だいじょうぶかなあ」シゲさんが伸び上がって炎を眺める。
「ここも危ないぞ」トシさんが言った。
「なんか知らんけど、急ぐんやな。追いかけるんやな」ガーさんの顔が心持ち引き締まったように見えた。「芳裕おまえ運転まだへたくそやろ」田舎ではなにひとつ隠し事はできないのである。ガーさんはふん、と笑うと顎をしゃくった。「俺が追いかけたる。乗れ」
うん。それは大変ありがたい。芳裕は顔を輝かせて喜んだ。
「ありがとう」
喜んで芳裕が助手席に乗ろうとすると、真紀ちゃんもついてくる。いったいどうするつもりかと不思議に思い、シゲさんとトシさんに真紀ちゃんを頼むと言おうとしたら、シゲさんとトシさんはもう荷台にあがって、トラックが発車するのを楽しそうに待っていた。
「えっえっ」なになにみんな来るの。逃げないの。と芳裕がおたおたしていると、
「こないしたらええねん」ガーさんは、触ると噛まれるとでも言うようにびくびくしながらも、それでも断固とした態度で真紀ちゃんを助手席に押し込むと、自分は運転席にまわった。「行くで」
「え」芳裕がまだどうしていいかわからないでいるうち、すべては決まってしまった。田舎のおっさんの行動力には並々ならぬものがある。
結局芳裕はシゲさんとトシさん、三人の侍従たちといっしょに荷台に乗っていた。よくわからないうちに。
「あれやな」運転席から首を突き出したガーさんは、勝手に追う相手を見つけると難しい顔でその光を目で追った。作戦を考えているらしい。
田舎の夜は実際本当に暗い。それぞれの家にはたいてい広い庭がついていたから、民家と民家の間を走り抜けていく車のヘッドライトは、かなり離れていてもなんとか見えるのだった。
壁や塀がぼんやり照らされていくようすが、車の荷台の高さからだとよく見えた。
「あれあれっ」芳裕もそれを見つけてはしゃいだ。じっとしていられず、ぴょんぴょん跳ねながら「きっとあれだ。早く」
「まかさんかい」ガーさんは、ぎぎっと音をたててギアを入れた。「落ちるなよ」
三輪トラックは、信じられないような加速をした。
角を曲がるたびに後輪の片側は高々と宙に浮くのだが、運転しているこのおっさんはそれを速く走るためにわざとやらかしているようなところがあった。こけそうでこけない、というぎりぎりのところを知りつくしているのだろう、大変に見事なものであった。
見事なものではあったのだが、荷台に乗っている人々にとっては、いやあお見事などと喜んでいる余裕はない。
カーブを曲がるたびに右に左にと大きく傾く荷台から落とされないよう気をつける、というのはその場にいないものの言葉であって、実際の現場の者は、進行方向を回転軸とした百八十度の反転をくりかえしつつ高速で移動する突起物のない最大時垂直状態にまで達する摩擦係数の低い壁に素手でひっついておく、という感覚で耐えねばならず、一度でも角を曲がったが最後落ちていない方が不思議なのだった。読み返してまで理解しようとする必要はないけど。
それでもまあ、なんとか誰も落ちずにがんばった。
六人全員、完全に空にふわりと浮いたことも数回あったが、そのつど無事荷台に着地できた。
しかし、まだ道だけを走っているうちはよかったのである。
何回目かの急カーブをまわったとき、はっきりとヴァンの姿が見えた。のだと思う。荷台にいた芳裕たちにそれを確認する余裕はまるでなかったのだが、とにかくガーさんは、
「おった」とかなんとか大声を出して喜び、あろうことか民家の生け垣を踏み越えて庭を横切り、田圃に入ったかと思うと荷台からはどう見ても車の幅の半分程度しかないようにしか見えない畦道を猛スピードで疾走し、ふたたび民家の庭、ため池の土手、肥溜めの蓋、公園、小学校の運動場を突っ切って木造校舎に飛び込み、その廊下を抜けて学校裏から山へと続く川の土手横をしばらく走った。ついに追いつめたすぐそこ対岸にヴァンがいるではないかと、もう他のものはなんにも見えなくなったかあんた正気ですかちょっとやめなさいよ危ないあぶないという山口さんの声もむなしくそのまま勢いをつけて測道から土手へと駆け登った三輪トラックは、幅十メートルはあろうかという川の上空を飛んで、
「とりゃあ」
ヴァンの背後についたのだった。
「飛びましたなあ」河合が嬉しそうに言ってから、嬉しそうな顔のまま前方を指差して「しかし、あそこに橋があります」
「ほんとだ」ヘッドライトの光の中に、中央が高くなった山なりの石橋が見える。危ないことをしただけ無駄だった。
でもすごかったなあ、と芳裕がその橋から前を行くヴァンに目を移しかけたとき、橋の向こうから巨大な黒い塊が音もなく浮き上がるのが見えた。
「あっ」洞窟で、芳裕たちを襲った音のないヘリコプターだった。
「あああれは」
神経質そうに首をすくめて山口さんが言いかけたのと同時に、白い閃光が放たれた。
前を走るダッジヴァンの下へ一直線の光が潜り込んだかと思うと、膨張する光に乗って車のシルエットがふわりと浮いた。
光は炸裂し、あらゆるものが白く照らされる。
傾いたヴァンに追突しそうになった三輪トラックが車輪をロックさせて土手の上を滑った。
「カナコちゃんっ」叫ぶ前に芳裕は、まだ動いているトラックから飛び降りていた。
シゲさんトシさんや侍従たちも次々と飛び降り、ヴァンに駆け寄る。
ダッジヴァンは車体の下三分の一ほどがなくなっていた。地面のあちこちには飛び散った火がちろちろと燃えはじめているが、一際大きな炎は土手から少し離れた川岸に近い場所にあり、ヴァンを直撃したように見えたヘリコプターからの攻撃は、実際にはかなり外れていた。
ヴァンの後部扉がきしみながら開き、胸にカナコ王女をかばうように抱えた寺尾が這い出してきた。
「あぶないっ」芳裕が空を見上げた。
星空を背景に、音もなくヘリコプターが迫る。
凶悪な、昆虫を思わせる顔をしたヘリコプターが、その機首を突きつけてきた。
寺尾の目が、芳裕の目の動きを追った。
片手で王女を支えたまま、寺尾は脇に吊ったホルスターからベレッタを取り出しざま振り向きもせずに肩越しに弾倉を空にするまで速射した。
「逃げろ」寺尾がカナコ王女を芳裕の方へ押してよこした。
王女は迷わず芳裕の胸に飛び込んでくる。
まるでダメージはないかに見えたヘリコプターは、それでもいったん攻撃をあきらめた。目を疑う身軽さで、跳ね上がるように上昇していったと安心する間もなく、すぐさま次の攻撃を仕掛けようとふたたび高度を下げてくる。
どこか安全な場所に王女を連れていかなければ、と芳裕が後ろを振り返ったとき、三輪トラックが猛然とダッシュした。
ダッジヴァンがやや斜めにふさいでしまっている土手の上の狭い道を、減速することなく突進し、石橋の手前でタイヤを激しく空転させながらトラックはその鼻先を橋へと向ける。
ヘリコプターは、まるで獲物を楽しみながら狩ろうとするごとく、ゆっくりとなめらかな動きで狙いを定めてきつつあった。
土を巻き上げながら回転するトラックの車輪が、がっというギアの入る音とともにグリップを得た。
前輪が浮き、エンジン音が甲高いものに変化した。
橋は中央を頂点として盛り上がっている。その勾配を瞬時に駆け抜けたトラックは、その勢いで空へと舞い上がる。
「きえーっ」
丸い目を見開き、舌をべろりと出したようなユーモラスな表情をした三輪トラックが奇声を発しながら宙を飛んでいる、と下で見ている誰もが思ったが、奇声を発しているのはトラックではなく助手席に乗せられたままの真紀ちゃんのものだった。
ヘリコプターのパイロットとガンナーは、低空に突如出現した光に戸惑い、接近してくるその光がおんぼろ三輪トラックのヘッドライトであることを認めて驚愕に目を見開いた。
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_257.jpg)入る]
「どや」と満面に笑みをたたえてガーさんは叫び、三輪トラックは音のしない最新鋭戦闘ヘリコプターの右ローターブレードの上に、どすんとのしかかる。
半ば航空機の形を持った異形のヘリコプターは大きく傾き、トラックの車体と接触したローターブレードが砕けて散った。
バランスが、完全に失われた。
狂った機体がめちゃくちゃな回転を始める。
振り落とされそうになった三輪トラックは、まるでトラック自体が意志を持つかのようにヘリコプターを踏み台にしてさらに飛んだ。
「いーはーっ」運転席のガーさんは野太い声で奇態な雄叫びをあげ、トラックは土手の向こう側、鶏がずらりと並んだ鶏舎の屋根を突き破って落ちていく。
「ケーッ」鶏は大騒ぎである。
その上空を、いったいどのように回っているのかまったく把握できない回転をしながら、謎のヘリコプターは際限なく上昇し、星空に吸い込まれた。
「見ているだけで乗り物酔いしそうな飛び方ですな」河合が言った。
「う」と口を押さえたのは山口さんだった。見ているだけで酔ったのではなくて、実はここまでの間トラックの荷台で大きく揺さぶられたせいで気分が悪かったのを、河合の言葉で今頃思い出したのである。
鶏舎を出た三輪トラックが、鶏と鶏の羽にまみれて戻ってきた。多少、がたがたと変な揺れ方をしているが、ちゃんと走るのがすごい。簡単に土手を上がってくると、みんなのいるところで停まった。
助手席のドアが開いて溢れ出る鶏といっしょにふらふらと真紀ちゃんが降り、ガーさんはどうするのかというと窓から首だけ出して無表情に、
「水族館、戻るのん?」戻るんやったら乗せてったるけど。
どうしたらいいのやら誰もわからず、誰もなにも言わずにただ迷っていると、ガーさんは勝手にそれを判断して、
「ほな、わし帰って寝るわ」
ヴァンには追いついたからもういいでしょ、という感じである。
「ありがとう」芳裕が言うとガーさんは、芳裕の腕の中にいる王女をちらりと見ると、目を細めてにやりと笑い、
「おう。またな」
たったかたあ、と走り去ってしまった。
ヘッドライトの光が遠ざかると、他に明かりらしい明かりはなくなった。さっきまであちこちで燃えていた火も、ほとんど消えかかっている。
月と星の青く透き通った光の中で、芳裕の目に映るのは王女だけになった。
「怪我はない? だいじょうぶ?」芳裕は自分の胸に頬を押しつけている王女の肩を優しく叩きながら訊ねた。こくりと頷く王女の動きが、直接胸に伝わってくる。
自分にすがりつく、その小さな頭からかすかな汗の匂いを感じた芳裕は、あまりのいじらしさに思わず王女の体に腕をまわして力いっぱい抱きしめそうになった。
「お怪我はありませんか」いきなり耳元で声がした。
「な、なにっ」芳裕は悪いことをしているのを見つかったかのようにぎくっと体をこわばらせた。
王女の顔が胸から離れる。
ハンカチで口を押さえた神経質そうな男が、王女の顔を覗き込んでいた。
「山口さん」その人の顔を見て、王女の体から緊張が抜けた。それから、自分の腕が芳裕の背中にまわっているのに気づき、はっとして芳裕の顔を見上げた。「ごめんなさい」早口に言って、二歩ほど芳裕から遠のく。
あとふたりの侍従も王女を囲むようにやってきて、いやあよかったよかったなどと言いはじめ、芳裕はひとり取り残された。
なんとなく淋しい気分を味わいながらも、なんだか照れくさくてまいったなあとへらへら笑っていて突然あることに気づき、背骨に五寸釘を打ち込まれたみたいにがくっ、とのけぞった。
そうだった。忘れていた。
恐る恐る振り返ると、闇を透かして赤く爛々《らんらん》と光る目があった。
真紀ちゃんが、芳裕を憤怒の形相で睨みつけている。
なにも言わず、遠くでじっと見ているというのがたまらなく不気味だった。普段は、まず行動する人なのである。考える前に反応してしまう動物的な人なのである。
なんで、こっちへ来ないのか。
「松岡様」
「わっ」息がかかるほど耳元の声に、またしても芳裕は跳び上がった。
王女が山口さんと呼んでいた人が、芳裕の目の前にいた。人の耳元で囁くのが癖なのだろうかこの人は。
芳裕の視線の先に真紀ちゃんがいるのを見て、山口さんはこともなげに言った。
「気を失っていらっしゃるようで」
「え?」よく見ると、真紀ちゃんは地面に座り込んで血走った白目を剥いているのだった。「ほんとだ」脚が短くてお尻には犀《さい》のように脂肪がたっぷりぶら下がっているので、立っていても座っていても高さがあまり変わらないのだった。
ああ、よかった。
「このたびは私たちの王女を救っていただき、まことにありがとうございます」よどみなく、スーパーマーケットみたいなことを言う。
「いえあのぼくは」たまたま。
「本当に感謝の言葉もございません」人の言うことに耳を貸しては自分の台詞を忘れるとでもいうのか、山口さんは芳裕の胸のあたりをじっと見つめたまま一本調子に続けた。「私どもの手違いで、松岡様が我が国の軍隊でありますところの騎士団に襲撃されるという事態を引き起こしたことにつきましてはまことに遺憾に存じます。王女を救ってくださった恩人に対しての非道お詫びのしようもございませんが」
「それが違うのよ」と、横から口を挟んだのはカナコ王女である。王女が側近に事実を伝えるというよりは、井戸端会議の主婦が噂話をしているみたいな口調だった。「あれはねえ、おんなじ制服を着てる人もいたんだけど、騎士団の人たちじゃなかったの」
「いや、あのヘリがうちの国以外のものであるはずがないのですが」山口さんは意外なことを口にした。「あれは先日完成したばかりの我が国の新兵器です」
「でも」王女は信じなかった。「だってあたし、寺尾さんがいなかったらあの人たちに殺されてたのよ」
「寺尾さん」山口さんは、はっきりした二重瞼《ふたえまぶた》をぱちぱちと小刻みに瞬きさせ「というのはどなたでしょうか」
「あたしを誘拐した人」
「はあ」よくわからない。
「あの人」と、カナコ王女は小さな掌で、闇の奥を指し示した。
芳裕もすっかり忘れてしまっていたが、そういえば寺尾はまだそこにいたのだった。
水族館のイルカのプールのところで会った他の人たちもいっしょに固まって立っている。
「やっぱりあれば、あんたたちのところの騎士団とかいう軍隊だと思うぜ」しわがれてはいるが、よく通る低い声が響いた。「たしかに王女を狙ってたがな」
寺尾よりは小さいものの、かなり大柄な人物が傾いたヴァンの方からゆっくりと近づいてくる。
二十代後半から三十代半ばあたりに見える他の連中とは違い、かなり年嵩の男である。
「どうもそのようですな」山口さんが、誰に言うともなく呟いた。
「こっちもいろいろと訊きたいことがある」
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午前〇時二〇分 明石市立山足小学校
「『猿の剥製《はくせい》』というのを知っているか」チェックのネルシャツに焦げ茶の綿のパンツという、どうということもないのにけっこう洒落た格好をした誘拐犯のリーダーは、山口さんたち侍従にそう訊ねた。
リーダーは、自分のことは楠《くすのき》と呼んでくれと言った。実際にそういう名前なのか、便宜上適当に名乗ったのか、どちらとも取れる言い方だった。
「はあはあ」それならよく知っていますと答えたのは河合である。「あれはなんですなあ、最初と最後とがうまくつながって猿がしゃべる」
「河合さん、猿の『惑星』じゃなくて」西畑が言った。
「しかしえーと」河合がなにか思い出そうと、眉間に指を当てた。
「どうしたんです」
「あの、楠さん似てますなあ」河合は楠の顔を不躾《ぶしつけ》にもじろじろと見つめた。
「それ以上は言わんでいいぞ」楠はとたんに顔を歪めた。「言いたいことはわかる」
岸本と竹田がまあまあとそれをなだめた。岸本は河合に、
「リーダー、それ言われるのいやがりますから」
「え?」と言いながら河合は、それが誰だったか思い出せない。「誰でしたっけ。昔の西部劇によく出てた」
「そうそう」岸本はいっしょに困りながら、なんとかやめさせようと「それです。もういいでしょ」
「そうだ」思い出した。「リバティ・バランスだ」
「ジャック・パランスだっ」楠が怒鳴った。
「ああそうそう」と河合。
「リーダー自分で言ってどうするんですか」岸本が呆れた。
「リバティ・バランスはウォード・ボンドだった」河合が言うと、
「リー・マービンですよ」岸本が訂正した。「あなた中途半端に詳しいですね」
知らない人にはさっぱりわからない会話だった。
「『猿の剥製』ですけど」山口さんは、河合を無視するのにある程度慣れているのでひとりで進む。
「……あんたたちの国の、左翼団体だと聞いたが」やれやれと楠も元の話題に戻った。
「聞いたことはあります。自然保護よりも土地開発の方を好む連中のひとつだと記憶しておりますが」と答えた山口さんの前には変わった形をしたプラスチックのコップがあって、お茶が湯気をたてている。
河合が魔法瓶を持っていたのである。
さっき三輪トラックが突き抜けた小学校の教室に、誘拐犯グループと王女の関係者、その他合わせて総勢十三名が適当に椅子を並べて座っているのだが、その全員にお茶をふるまい、それでもまだお茶とコップが余るというような巨大な魔法瓶を、河合がどこにどのようにして携帯していたのか誰にもわからなかった。
適当に座ったと言っても、侍従たちが王女をこれ以上ないというほど丁寧に扱ったため、自然と王女を中心とした形となり、その一方に誘拐犯たちがリーダーの楠を中心にして向かい合うことになった。寺尾と岸本竹田の三人は、最初のうち寺尾の指示でなにやらごそごそと出たり入ったりしていたのだが、やがて用事はすんだらしく教室に落ちついて河合のお茶を飲みはじめた。動かないヴァンをどこかに隠したり、当座必要なものを運び込んだりしていたようである。何に使うのかと思うほどの武器も持ち込んでいる。
芳裕は落ちつかなげに、もぞもぞ尻を動かした。
夜の教室というのはなぜかしら不気味で、木の床に染み込んだ油の匂いのせいもあって、あまり居心地がよくない。
しかも大人が座るには小学校の椅子と机というのは、びっくりするくらい小さいのだった。
小柄なカナコ王女が座っても、不自然な座り方しかできないのである。
意識のない真紀ちゃんを椅子に寝かせようとしたところ、三分の二以上の肉がこぼれるので、机を集めて寝かせることになった。気を失っているのは好都合だから土手の上にこの女捨てていこうと、シゲさんや岸本たちも言ったのだが、そうもできず芳裕がここまで運んできたのである。みんな迷惑そうだった。
そしてその芳裕はというと、神田さんにつきまとわれて話に参加できないでいた。
ぴったりと椅子を隣にくっつけた神田さんは芳裕の顔をじろじろと眺め、ときどき耳や髪に触るのである。
「あなたひとりで暮らしてるんでしょう?」
「はあ。はい」神田さんは耳に息を吹きかけるように話すので、芳裕はそのたびに全身に鳥肌が立った。ぞっとしてそうなるのではなく、気が遠くなるような不思議な感覚だった。いい匂いのする綺麗な女の人の体温をこれほど近くで感じたことは初めてで、もしも王女と会う前にこんな風にして誘惑されていたら、そのまま結婚したかもしれなかった。
王女の視線を気にしていながらも、それでもときおり神田さんの顔と体に呆然と見とれることが何度かあったほどである。
膝から下の長さよりも椅子が低いと、短いスカートだと太股の下側がほとんど見えるので、それも気になる。
王女はジーンズをはいているので見えないのだが、それに脚を斜めにしてきちんと座っているのでその前に着ていたタイトスカートでもやっぱり見えなかっただろうなあ、いや見ようとわざわざしたわけではなく、それはまあ期待するところはかなりあったし、ジーンズだったことを思い出したときにはちょっと落ち込んだりしたものの見えなくてほっとしたというのが正直な気持ちで、まあそれはいいとして神田さんはその低い椅子に脚を組んで座るので、わざとやっているのではないかと思うほど、丸見えなのである。
ブラウスの胸も、下の方まで開いたデザインで、中が見えそうで、いや本当はちょっと見えるのだが、どきどきする。
王女のそばにいたかったが、意識がないとはいえ真紀ちゃんが隅に転がっている手前それもできず、といって真紀ちゃんのそばに行くのも恐かったので、神田さんがいっしょにいてくれるのは、身体的接触の有無はともかくありがたかった。
「ご飯作ってくれる人いるの?」また耳を触られた。
「はい」ものすごく素直に頷く。「あの、自分でもできるんですけど、なんか近所のおばさんたちがみんな親切で」
「わかるわあ。あんた見てると、ほっとけないもの」
「はあそうですか」それはよく言われることだった。「あの」
「なあに?」芳裕に質問されることがよほど嬉しかったのか、神田さん長い睫を震わせて芳裕にぐいっと顔を近づけた。
「こんなところにいて、大丈夫なのかなあ。あのその、さっきの軍隊が」
「ああ」なんだそんなことか、と神田さんは唇を尖《とが》らせた。意外なことに神田さんの顔に化粧はほとんどない。芳裕にはわからないだけかも知れなかったが。「なんかしばらくは大丈夫そうよ。連中の車とかぶっ壊しちゃったらしいし」
「ああ、そうなんですか」ガーさんのトラックに乗るとき、水族館の方で起こった爆発を芳裕は思い出した。
「わあ可愛い」なにに感動したのかよくわからないが神田さんはんんーなどとセクシーな声を発しつつ両手を胸の前で組んで笑った。
「あはは」口先だけで、いっしょに笑っておく。
「さっき寺尾君と話してるの聞いたんだけど」神田さんはちょっと声を落とした。「あなた毛利新蔵といっしょに戦ってたわけじゃないのね」
「はい。実戦は知らないです」しゃっちょこばって答える。「戦争ごっこは、ずっと、やってたんですけど」その仲間であるシゲさんとトシさんは、芳裕が美人にかまわれているのを、心配そうにうらやましそうにちらちらと見ながら、侍従たちの横でお茶を飲んでいる。
「あちこち行ったんでしょ」
「はい。小さいときはずっとその、毛利のおじさんと暮らしてましたから」
「強いんだってねえあんた」と言いつつ芳裕の腕を両手で掴んだ。
「そんなでもないんですけど。おじさんに教えてもらいました」毛利新蔵の教え方がうまかったのもあるが、夢中になった芳裕は格闘技にも「中毒」して、必死に練習を重ねた結果だった。
「あんたっていつもそんなに一所懸命しゃべるわけ?」
「いえ、そんなことありません」一所懸命言った。
「わっはっは」唐突にびっくりするような大笑いをして「そんなこと、あるじゃないのよ」くすくす笑いながら芳裕の頬をつねるふりをした。「ほんとに可愛いわあ」
寺尾と侍従たちの話を交互に聞いていた楠がなにかを言い、その場の人々がいっせいに王女を見た。
「あの、ほらあの」と芳裕は注意を促して「話がなにか新しい方向へ」
「だいじょうぶ。あたしちゃんと聞いてるから」ほんとだろうか。
「誘拐されたときの車に、靴とスカーフを残していたのですね」と言ったのは山口さんだった。「なるほど」
「はい」と、両手で包むように持っていた変な形のコップを机の上に置き、王女は顔を上げた。
ああ、色っぽい神田さんにもぞくぞくさせられるが、やっぱりカナコ王女は美しい。芳裕は口を開けてその顔に見とれた。
「靴だな」と寺尾が言った。
「王女の靴に発信機のようなものが取り付けられていたというわけですか」山口さんがまだよくわからないといった顔でそう言った。神田さんに弄ばれていた芳裕にはなんの話かさっぱりわからない。
「あの靴は」王女はなにかを思い出し、明らかに動揺していた。「ローマで篠原さんが買ってくださったんです。すぐに履いてみせてくれって」その表情が青ざめて見えるのは、死にかけた蛍光灯のせいばかりでもないようだった。
「王女が死んだ場合」と楠は言った。「誰が得をする?」
「王室を継ぐことになるのは木山《きやま》家の御長男ですが」と山口さんは言いにくそうに、二重瞼の小さな目を何度も瞬きした。「この方は篠原団長と幼なじみです。しかもその、あまり聡明な方ではございませんので、なんでも篠原団長の言いなりといった感じで」まあ篠原さんも聡明とは決して言えませんが、と口の中でもぐもぐ言う。
「まちがいなかろう」楠がきっぱりと言った。「黒幕は王女の婚約者だ。万一他に張本人がいるとしても、そいつが大きく関わっているのは絶対だ」
「王の妻である王妃は王と同等の権利を有するのですが、王女の夫は王としての権限がないのです」山口さんは慣れた口調で説明した。「つまり王女の婚約者でありますところの篠原さんは王女と結婚しても今以上の権力を持つことがないわけです」
「とりあえず、そいつはほっとくわけにいかんな」
「婚約者?」裏返った声を出したのは芳裕である。「婚約者?」
「そうよ、婚約者のくせして王女を殺そうとしてたみたい」神田さんはふんっと鼻息を荒くした。「驚くわよね」
「婚約者がいたなんて」ローマで靴を買ってもらっただって?「そんな仲のいい人がいたのか」
「そういう問題じゃないんじゃないの?」と神田さん。「今は」
なにか言いたそうに王女が腰を浮かせたが、それよりも先に寺尾が、
「おまえ相当ずれてるなあ」
「知らなかった」
「なんで知らないんだよ。王女に婚約者がいて今回同行してるなんてこと、週刊誌やワイドショーでもばんばん言ってるじゃないか」
「ニュースとか、気にして見たことないから」
「結ばれない恋は、それはそれで美しいものです」と西畑がどこか嬉しそうに言った。
「結ばれない?」芳裕は、わからない顔をした。「そうかなあ」
芳裕と王女を除く全員の体から、一瞬力が抜けた。
悲しそうにうなだれていた王女だけは、芳裕の不屈の態度に望みを見いだしたのか、わくわくした顔を上げて芳裕を凝視していた。
その顔に、芳裕は勇気づけられたのだが、
「やっぱりだめなんじゃないの?」神田さんが芳裕の顔を覗き込んで言った。「なんなら、あたしが結ばれてあげてもいいわよ」
え、とシゲさんトシさん岸本竹田、それから一番反応が大きかったのが寺尾だが、みんなどきっとして芳裕の反応を見た。
「うーん」聞いてなかったかさほど驚いたようすもなく、それでもにっこり笑って「ありがとう」
他のみんなが驚いたことに、神田さんはぽっと頬を赤らめて下を向いた。
「ねえ」と、それには無頓着に芳裕が楠を見た。「黒幕ってなんのこと?」
鋭い眼差しでじっと芳裕を見据えたまま、楠は勢いのいいため息をふっとつき、
「誰か説明してやれ。どっと疲れた」
あれだけ芳裕にちょっかいをかけていたにもかかわらず、神田さんはここまで出た話を本当に全部聞いていて、順を追って説明してくれた。
その間他の人々は河合が新たに出してきた魔法瓶から、健康になるお茶というのをもらって飲んでいた。なんの変哲もないスーツの中の、いったいどこにどうやってそんなに魔法瓶を持っているのか。
それはそうと神田さんの話である。
楠たちのグループは、大企業やときには国家の機密保持をチェックするというような仕事を請け負うエキスパート集団ということに表向きはなっているが、裏の世界では名の知れたなんでも屋だということだった。よくわからない芳裕に神田さんは「『スパイ大作戦』みたいなものよ」と言って胸を張ったのだが、薄いブラウスに下着が透けて見えどぎまぎしただけで、詳しいことははっきりしないままだった。
とにかく、今回依頼されたのはカナコ王女の誘拐である。
仕事の依頼はプロバイダーと呼ばれる人物を通して行われる。今回依頼してきたのは『猿の剥製』と名乗るテロ集団のメンバーだという話だった。テロリストが自分で実行せず、楠のグループのような専門家に依頼することは、さほど珍しいことではない。劇的効果を狙うために、脅しをかけてから殺害するという方法を取りたい場合、いったん誘拐あるいは拉致する必要があり、単なる暗殺に比べて誘拐や拉致というのは数倍困難な作業となる。一からすべて計画するよりも、慣れた専門家を金で雇うほうが結局は安くつくのである。
王女の国の自然を複数の多国籍企業に売ろうとする動きはかなり昔からあって、そうした左翼団体は、特に裕福でなくてもいいからのんびり暮らせればいいとする王家の考えに真っ向から反発していた。
王家の方針をよしとしない一部の国民の中でも、特に過激な集団が『猿の剥製』なのである。
「それで、王女を殺すことにしたらしいわ」
「殺してどうするの?」
「王家が方針を変えるまで殺し続けるんじゃないの?」神田さんは肩をすくめた。「テロなんて、そんなもんでしょ」
大久保町は特に警備が手薄になる、という情報とともに、王女誘拐の依頼は楠たちに伝達された。
訪問先の候補に大久保町という地名が出たとき、いつもなら文句ばかりいう騎士団の団長たちが、なにも言わなかったのは今思えば不自然だった、とその話が出たとき西畑は言った。
「あああれは不自然でした」と河合は適当な相槌を打った。「変な声でした」
芳裕は、少し離れたところで侍従たちに囲まれている王女をちらりと見て、殺されなくてよかったと安心すると同時に、危険が完全になくなったわけではないということにも気づいて不安になった。
じっと王女を見つめる芳裕を、神田さんが優しい笑顔で見つめていた。
「話、続けてもいい?」
楠たちの仕事は王女を『猿の剥製』に引き渡すことだった。
ここからは、寺尾や山口さんの話に基づいた推理になるが、騎士団の団長が悪党であることだけはまちがいなさそうだった。これだけ揃えば誰だって想像がつく。
暗殺ではなく誘拐を依頼し、その実行犯ともども王女を殺すことによって、報酬の残り半分を払わずにすまそうという細かい計算もあったかもしれないが、最大の狙いは、今回の事件を営利目的の誘拐と見せかけ、自分が疑われることを避けたかったのだろう。
最初から楠たちのグループを裏切るつもりだったのだ。
そこでさっきの靴の話である。
王女がどこに連れ去られてもわかるようにしておかなければ、この計画は成り立たない。靴に発信機が仕掛けられていたと考えると、いろんなつじつまが合う。
洞窟にいたとき芳裕がびびった爆発音は、ミニヴァンがロケット弾にやられた音だった。靴からの信号を追ってきたヘリコプターの仕業だ。そのあとのことは芳裕は自分で処理したところもあって、ある程度知っている。
寺尾はあのとき、芳裕にやられた兵士を調べたのだが、結局敵の正体は掴めなかったらしい。
洞窟で王女と芳裕を殺したと確信した敵は、水族館から侍従への電話によって王女がまだ生きていることを知った。
王女が殺されるのを見たと言ってしまった騎士団の団長にとって、王女が生きているのは大変まずい。すぐにも王女のところへ行きたいという侍従たちの気持ちを利用し、侍従以外にその情報が広がるのを防ぐため細工をしたベンツを使って侍従たちも殺そうとした。
「てっきり河合君のせいだと思っておりましたが」と山口さんは言った。
そして水族館を襲い、すべての口を封じるつもりだったのである。
「わかった?」神田さんは、芳裕の頭を撫でながらそう言った。「いい子ね」
「それで、これからどうなるの?」まだ気になることがたくさん残っていると言いたげな顔を上げ、芳裕は神田さんにというよりも、その場にいる全員に訊ねた。真紀ちゃんはまだ寝ていた。
「俺たちはやるべきことをやる」低く、落ちつき払った声で楠が答えた。「おまえたちは元の生活に戻ればいい」
「どういうこと?」芳裕はあっさりと訊き返した。
「え」どことなく芝居がかった態度で格好をつけていたのに、返ってきたのが日常会話そのままのリズムだったので楠は少したじろいだ。咳払いをしてから「俺たちは、金さえもらえば人だって殺す。だがな、やっちゃいけないこともあるんだ」
「ああ」と芳裕は思い当たることがあったので大きな声を出した。「生け垣を踏まないとか」寺尾がそっと隙間から出たのを思い出したのである。
「はあ?」楠の顔には恐怖に近いものがあった。「なんのことだ」わからなくて当然である。
「いや、寺尾さんがさっき」まだ言う。
「いいから人の話を聞け。な」楠も芳裕の態度につられたか、どことなく落ちつきのない話し方になってしまった。「とにかく、その篠原とかいう野郎は俺たちをだました上に、殺そうとまでしやがったわけだ」
「ふんふん」芳裕の返事はやっぱり軽い。
「王女と侍従たちの証言があれば、野郎もただではすまないだろうが、これは俺たちがきっちり片をつける」
「殺すの?」
「ああ」どうだ、と言わんばかりに凄んでみせる。
ところが芳裕はうーんなどと軽く唸って態度がでかい。
「死んだ方がいい人なんてこの世にはいないんだからさ。殺すのはよくないんじゃないかなあ」
「甘いな」楠の切り傷のような目が、さらに細くなった。「死んだ方がいいやつなんぞ、そこらじゅうにうじゃうじゃいるぞ」
「うじゃうじゃ」と、その言葉が気に入ったのか芳裕は繰り返し「船虫みたいに?」
「うえ、やめろよお」寺尾が怒った。船虫は嫌いらしい。
「まあなんにしろ」と芳裕は腕組みをして立ち上がった。「殺すなんて、別にそこまでしなくてもいいんだよ」うんうん。
「どういうことだ」完全に、芳裕のペースに巻き込まれている。
「結局、その篠原って人はカナコちゃんを殺そうとしたんだから」考え考え芳裕は話しはじめた。「婚約ってのはなくなるんじゃないの?」ねえ、と侍従たちに訊く。
「はあ、それはそうです。婚約者でなくなるどころか、刑務所行きでしょう」山口さんが答えてくれた。
「ほら」と芳裕は嬉しそうだ。「ね」
「なにがほらだ」
「婚約者がいなくなれば、結婚できる」
「おまえ自分のことしか考えてないのか」楠は芳裕の顔をまじまじと見た。
「いや、そういうわけじゃないけど」そうかもしれんなあ、とちょっと反省した。なにしろ頭の中はカナコ王女のことしかないのだ。
ね、と王女を見ると王女は芳裕と視線が合ったとたん、ぼ、という爆発的な顔の赤らめ方をした。
芳裕に対して抗議の声を上げようとしていた山口さんは、王女のそのようすに驚き、言いかけていた言葉を呑み込んでしまった。
「そんな簡単にいくわけないじゃないか」横から口を出したのはシゲさんだった。「いいかげんあきらめろよ」あとになって芳裕が傷つくのを、シゲさんは恐れているのだ。
「あきらめちゃだめなんだ」と芳裕は眉を引き締めてシゲさんを振り返った。ふざけているのか真剣なのかわかりにくい。たぶん真剣なのだろう。「どんなことでも、できるかもしれない、と思うところから始まるんだよ」
「知ってるよそんなこと」トシさんだった。「新蔵さんの口癖じゃないか」
「そうそう」わかってるねえ、とひとり突っ立っている芳裕は偉そうに頷いた。
「あのなあ」シゲさんはやっぱり心配そうだ。
「だいたい王女さんはどうなのよ」低い机に頬杖をついて神田さんが言った。「この子のことどう思ってるわけ?」
「あの、あたし」カナコ王女は泣きそうな、か細い声をかろうじて出した。
「これ、失礼ですよ」珍しく、山口さんが怒ったような顔をした。
「好きなの?」神田さんは全然気にしない。「好きなの?」椅子をがたがた引きずって王女に数歩近づき、王女の顎がかすかに動くのを見逃さず「好きなのね。ね。そうなのね」
「えっ。あの」王女の意外な反応に山口さんがおたおたした。神田さんに向かって「こらこら」
「王女もあんたのこと、好きだって」神田さんは勝手に断言すると、目をまん丸に見開いて嬉しそうにしている芳裕にそう言った。「よかったわねえ。あたしもあんた好きよ」
「今日会ったばっかりですしなあ」河合が珍しくまともなことを言った。
「そう」山口さんは大きく賛成して「そうです」
「関係ないわ」神田さんはやっぱり気にしない。
「うん。それはそうなんだけど」芳裕も大きく頷いた。「でも、ぼくは幼稚園のときからカナコちゃんのことをずっと知ってたよ。父さんと母さんが死んでしまって、いろんな人に親切にされて生きてきたけど、どういうわけかカナコちゃんの写真を初めてみたとき家族がそこにいるような気がしたんだよ。それは本当なんだ。今まで好きな女の子ができても、なんか違うなあって気がずっとしてたのは、それはカナコちゃんじゃなかったからだと思う」
「だからって、結婚できるわけではありません」芳裕の勢いに押され、山口さんは心細げに呟いた。
「そうなんだけど」芳裕はめげない。「子供の頃からずっと好きだったということはこれから先死ぬまで、カナコちゃんより好きになれる人がいるはずはないということなんだ。それは絶対だ。おんなじくらい好きな人ができたって思い出の量は絶対に越えられっこないんだから」
「だからって」王女と結婚できるかというような話には、まるでなるわけではないのだが、気圧された山口さんは口答えできなくなってしまった。
「つまりピラミッドの底面は、絶対に最大であるということですな」河合が言った。
驚いたのは西畑である。
「河合さん」
「は」
「今の、すごくよかったですよ」
「え」西畑にほめられ、河合はめちゃくちゃ嬉しそうになった。「よかった?」
「うん。よかった」
「そこまで好きならなんとかしてあげたいわよねえ」詩でも書いてみますかなあいやあ読んでみたいなあ河合さんの詩『ピラミッドの底面』というタイトルはどうでしょうそのまんまじゃないですかなどと変なことで盛り上がっているふたりの侍従をよそに、神田さんは芳裕をじろじろ見ながらそう言った。
「でも、やはり無理ではないかと思われます」山口さんが説明口調で言った。「王女の婚約者は、王女が十二歳になると決められることになっておるのですが、これは議会の決定です。今回のように、途中で婚約者に問題が発生したり死去したりした場合には、その時点で候補を決めることになります。これから決まることです」
「じゃあ望みはある」芳裕が喜んだ。
「ありません」にべもなく山口さんは言った。「なぜなら、王女のお相手は、我が国の国籍を持つ男性でなくてはならないからです」
「じゃ移籍する」
「移籍ではなくて、帰化です」
「うんそれそれ。そうする」
「帰化するには我が国で最低五年以上暮らすことが必要なのです」
「いいよ。五年くらい」実に軽やかな答えである。
「そこです」山口さんはちょっとつらそうな顔をした。「五年たって松岡さんが我が国の国民として認められたとしても、そのときにはもう遅いのです」
「遅い」
「はい。カナコ王女は今十八歳でいらっしゃいます。今年の九月には十九になられます」そこで山口さんは芳裕の顔を正面から見た。「王女は二十歳になる前に結婚する決まりなのです」
「うーん」これは難問だ。芳裕は頭を抱えた。どうしたもんかなあと王女を見ると、王女は芳裕を信じ切った目で期待している。なにか方法はあるはずだ。「他になんかこう、てっとり早い方法はないのかなあ。合宿で二十日間とか」運転免許じゃないんだから。
「ありません」
「じゃあ、特別にカナコちゃんだけは急いで結婚しないでいてもらう」
「できません」
「うーん。じゃあ。いったん誰かと結婚したことにしといて、ぼくが帰化したら離婚してもらう」
「あなた相当自分勝手な性格ですな」
「そうかな」
「疑問の余地はないと思います」
「で、それにするの?」
「はあ?」
「だから、いったん適当な結婚しといてあとで離婚するというやつ」
期待に満ちた目をして、芳裕は楽しそうだ。
山口さんは無表情にじっと芳裕を見つめて、ずっと黙っている。と思ったら実は低い声で唸っているのだった。
「おまえさあ」と楠が言った。芳裕のせいで、口調はもう砕け散っている。「おまえの頭の中って、楽しいことしか入ってないのか」
「はあ」と芳裕は首をかしげた。「なんでかなあ、それ、よく言われるんだ」
「うんうん」楠は真剣な顔で頷いた。「そうだろうとも」
「なんかねえ、ぼくは絶対カナコちゃんと結婚するような気がするんだなあ」
「そんな勝手な」と山口さん。
「気がすると言うより」芳裕は自分の言いたいことだけしゃべる。「そうなるって、わかるんだよ」
「五年待たずに、国民と認められる方法がひとつだけありますよ」口髭を撫でながら、西畑が言った。
「それにする」聞く前から迷わず、西畑を指さして芳裕は言った。
「我が国のために働いている外国の方が亡くなられた場合、その貢献度にもよりますが、名誉国民として国籍が与えられることがあります」
死んでしまっては結婚できない。期待させておいて意地悪なことを言うなあと、芳裕はがっかりした。
「前に一度、我が国の依頼で地質調査をしていた学者が落盤事故で亡くなり、名誉国民として国籍が与えられたということがありました」
「ああ」と、山口さんもなにか思い出したらしい。「ありましたねえそんなこと」
「その方は実は死んでなかったのです」そこでいったん西畑は芳裕の反応を見るように言葉を切った。「奇跡的に息を吹き返したその方は、その時点から我が国の国籍を持つこととなりました」
「ふんふん」芳裕は考え込んだ。「いったん死んで、それから生き返るのか」なるほどなあ。ぱっと顔を上げて「どうやって?」
「どうしたものですかねえ」西畑が山口さんに相談を持ちかけるように言った。
「適当に嘘つけばいいのよ」神田さんが立ち上がった。「そうしてあげなさいよへるもんじゃなし」
「そうはさせないわ」部屋の隅でどろりとした声が言った。真紀ちゃんだった。いつから聞いていたのか、机に伏せたままずいぶん怒っている。「芳裕」
「は、はい」調子に乗っていたのに、いきなり冷たい水をかけられたみたいなものだった。いっぺんに気持ちが冷える。今まで楽しそうにしていたことすべてが、なにかとてもよくないことだったようにさえ思えてしまう。
「あなた最低ね」と言いながら、真紀ちゃんは机からおりて仁王立ちした。机に寝ていたときより頭の位置が低くなる。
「え」
と芳裕がくぐもった声を発したとたん、突然真紀ちゃんの背後のガラス窓に人影が出現した。
他のみんなの視線が自分の背後に注がれたのに気づき、なにげなく窓を振り向いた真紀ちゃんの目の前に、ヘルメット姿の兵士が立っていた。
真紀ちゃんの顔に兵士も驚いたが、真紀ちゃんの方も驚いた。ひっと叫んで、どういうはずみか仰向けにひっくり返る。倒れる途中、ごんと音をたてて机の角に頭をぶつけ、うまい具合にふたたび気絶した。倒れてしまってもあまり高さが変わらなかったが、そんなことを気にしている場合ではないのである。
窓の外に三人。反対側の、廊下に面した磨りガラスの向こうにも人影があった。教室の後ろの扉が、外からもたれかかった人の重みで軋む。扉の上部に開いた小さな窓に、黒いヘルメットの端が見えた。廊下の側には四五人いるようだった。
自動小銃の銃口が磨りガラスを割り、教室内部の人間に狙いを定めて動きを止めた。
「うごくな」教室の前の扉の向こうから、子供のような舌足らずな声が聞こえた。
扉ががらがらと開き、きらびやかな正装をした軍人が現れた。端整な顔立ちのその青年は、王女を見つけると知性のあまり感じられない軽薄な薄笑いを浮かべ、拳銃を前に教室の中に入ってくる。
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「篠原団長」山口さんが思わず、という感じで呟いた。
さっきまでの話題の人篠原元蔵人頭、その人だった。
篠原団長は山口さんの声に反応して、軍人とは思えないようなのろくさい仕草で山口さんを見たのだが、特になにも言わず、ふたたび王女に視線を戻して、
「カナコ王女、助けにきました」と、嬉しそうに言った。たしかに王女に言っているのだが、目に落ちつきがなく、どこを見ているのかよくわからない。
言われた王女はなにがどうなっているのかわからず、両手を握りしめて小さな椅子に座ったまま、頼りない目で芳裕を探した。
芳裕はただその目を見返しただけだったが、王女の体から緊張が少し抜けるのがわかった。
そうした、こっそりやっているようでけっこうあからさまな愛情の交換に、篠原団長はまったく気づかないようで、
「水族館に行ったら、誰もいなくて困ったんだけど、ここだって聞いたから来てみたんだ」と、自分の言いたいことだけ話し、それからまた山口さんを見て、河合、西畑、と不思議そうに眺め、その他の顔もゆっくり眺めまわし、そこでなにか気づいたらしく首をかしげてあれ、というような顔をした。「なんで山口侍従長がいるんだ」ぎくりとして「ま。まさか」驚愕の表情でよろめく。「まさか誘拐犯があんたたちだったとは」
こんな人が王女の婚約者だったとは、と芳裕はなんとも言えない気分に襲われた。
「ど、どうしよう」と篠原は後ろを振り返って外にいる誰かに相談した。「おいこういうときはどうしたらいいんだ?」
「拳銃をこちらへ」ねっとりと甲高い声だった。
「はいこれ」
言われるままに篠原はその人物に拳銃を手渡した。弾倉が抜かれ拳銃が床に捨てられるのを眺めながら、不自然だとか変だとか、まったく思っていないようだった。
「で、どうするんだ」態度は偉そうなのだが、いちいち訊ねてみっともない。
「あなたには死んでいただきます」
篠原団長は突き飛ばされて、転がった。
扉のところに現れたのは、ホモではないかと噂されている、
「大森君」だった。転がされた篠原団長はわけがわからず「なにをするんだ」
それにはとりあわず大森は、教室の中を眠たそうな目で眺め、満足げに微笑んで、
「全員揃ってくれて、大変助かる」その手にはM16が握られていた。
「大森さん?」最初に口を開いたのは西畑だった。山口さんと河合といっしょに、王女をかばうように立っている。「あんたが黒幕か」なるほど、と呟いた。ホモかもしれない大森さんなら、騎士団も操れるし団長が用意した王女の靴に細工するのも簡単だ。
「そういうことだね」くっくっ、と大森は笑った。「訊きたいことがあるような顔だね」
「ホモなんですか?」河合が言った。
「ちがーうー」大森はくねくねと肩を揺すった。「なんでここがわかったか訊きたいでしょうが」
「あー」ちがうと言ったのが、ホモではないという意味なのか、そういうことを言っているのではないという意味なのか判然としなかったので河合は悩んだ。
「田舎者のおかげでね」と大森は得意げにふんぞり返る。「私は田舎は大嫌いですがね。山口さん、ベンツのスピードはどうでした」くっくっ、と笑う。話が飛んで、なにが言いたいのかわからない。落ちつきのないへんな人だ、と芳裕は自分のことを棚に上げてホモかもしれない人を見ていた。ホモの人にもよく言い寄られるのだが、芳裕はホモに対しての偏見や嫌悪感は持っていない。でも、この人はちょっと気持ち悪い。
「つまりね」もともとそういう顔なのだろうが大森の目は眠そうに半分閉じており、ぼってりした瞼の下に覗く細い目は狂気を帯びているようにも見える。「あんたがたがベンツで田圃に突っ込んだのを警察に通報した人がいたわけですよ。わかります? ここの警察の無線は全部こっちに筒抜けですからね。あんたたちが死なずにいることがわかった。水族館ではやられましたがね、あんたたちを水族館まで乗せたという人に訊ねると、嬉しそうにこの小学校の近くまで送ったと教えてくれましたよ」
「あんたが王女を殺して、なんの得があるんだ」西畑が訊いた。
「たいした得はないんですがね」大森はふんと鼻で笑った。「ま、一国の王となれるだけのことですか」
「どういうことです」西畑は山口さんを見たが、山口さんもわけがわからないというように首をかしげただけだった。
「木山の長男は馬鹿だから、アメリカに連れていって一カ月ほど遊ばせたら、簡単にアメリカ国籍になっちまいましたよ。一応、私も王家の遠い親戚ということで、王女が死んだら次の順番は私」そう言って大森は、侍従たちに守られている王女に向かって似合わないウインクをすると小刻みに頷いた。
寺尾が、教室の後ろに置いたバッグをちらりと見た。
「おっと。じっとしててくださいよ」大森は寺尾に自動小銃を向けて牽制《けんせい》する。「この学校は騎士団が包囲しています。私の息のかかった連中を、特別に二個小隊ばかり引き連れてきましたんで。一声かければ」と喉に巻き付けた高性能マイクをとんとんと叩く。「ね。どのみちあんたがたの助かる道はありません。面倒なことはやめて、ここで綺麗に死んでくださいな」
「わかったぞ」と篠原団長が眉根を寄せて大森を見据えた。「君は、ぼくを殺すつもりなんだな」そんなことは最初から言うとるではないか。そこで篠原団長はぐーっと大きく首をかしげ「でもなぜ?」
「最後まで馬鹿だな」大森は笑いもしない。「装備満載の揚陸艦一隻に二個小隊もの兵隊を、わざわざ私個人の都合で連れてきたんだ。本来の任務につく艦とは別にもう一隻だ。あとで理由が問題になったとき、その責任は死んだ人間に被ってもらわないと困る」
「わかったぞ」篠原団長はまた言った。「それがぼくなんだな」だからそれを今説明したんだって。
「汚いが、まあよく考えてある」口元を皮肉な笑いに歪めた楠が、じっと大森を睨んで言った。「しかしまあ、実に汚い」
「犯罪を仕事にしているような人に言われたくないですな」
「まあな」楠は鼻で笑ったもののそれ以上はなにも言わなかった。
「ぼくを殺したりしたら、ぼくの部下が黙っていないぞ」篠原団長はずっと考え込んでいたのだが、やっと事情が呑み込めてきたようだった。「おいおまえたち」と、自分に向けて小銃を構えている兵士に「銃を下ろせ」
大森は初めて声をあげて笑った。
「あんたの部下なんて、どこにもいませんよ。私の息のかかった兵隊ばかり連れてきたと言ったでしょうが」
「それ、どういうことだ」と篠原団長は訊いた。
「そういうことですよ」
「わからん。さっきも言ってたけど息のかかった、というのはどういう意味だ」言葉の意味がわからなかったのか。
「それに、王女を殺そうと計画したというのは充分銃殺の理由になります」もう放っておくことにしたようだった。
「え」篠原団長はたじろいで王女を見た。「誰がそんな計画を」
「おもしろい人ね」おもしろくなさそうに神田さんが言った。
「そろそろお別れいたしましょう」大森はM16を構えなおした。「王女を誘拐して殺した悪人を騎士団が成敗し、ことのついでに王女を殺そうとしていた団長は私の手で射殺という筋書きなんで」そしてあくびでもするように簡単に、撃てと言った。
室温が一気に上昇していくような緊迫した瞬間が教室内を支配する。
兵士たちの、引鉄にかけた指に力が入ろうかというそのとき、轟音もろとも天井が割れた。
天井を突き破って大森と芳裕たちの間に落ちてきたのは、三輪トラックにやられて彼方へ飛んでいったはずの音のないヘリコプターだった。短い翼の部分が、うまい具合に入口付近にいた大森の目の前に壁のごとく立ちはだかる。
天井は崩れ落ち、蛍光灯のほとんどが消えた。
侍従三人が王女を囲んで床に伏せると同時に銃声が数発続けざまに轟いた。
すかさずヘリコプターに背を向けた寺尾が、膝を少し曲げ両手を前に突き出す教科書通りのフォームでベレッタを連射したのである。窓の外にいた兵士たちの手から、次々と自動小銃が弾かれていった。
岸本が黒いバッグに跳びついていた。武器弾薬がぎっしりとつまったそのバッグの中からポンプアクションのショットガンを取り出すと、体を回転させつつ残った天井の部分を撃つ。反動で岸本の体は数メートル床を滑っていった。
ずーん、という重い音に続いて教室の半分が屋根といっしょにめりめりと崩れる。瓦礫となった二階教室のほとんどが、窓の下に呆然と立っていた兵士たちを直撃した。
銃の威力に一番驚いた顔をしているのは、撃った岸本本人である。
「貸せ」寺尾の声に、岸本は尻餅をついたままヘリコプター越しにショットガンを投げ渡す。
「突入しろっ」無線のマイクに叫ぶ、焦りにひきつった大森の声が廊下に響いた。大森が逃げ去る足音が床を伝わってくる。
寺尾は大森の足音の方向へ数発撃ったが、裏庭に面した廊下の壁のほとんどが吹き飛んだだけで大森には届かなかった。
右側を下にした形で屋根に突き刺さっていたヘリコプターが支えを失い、ゆっくりと傾いていく。
窓の近くにいた竹田は、寺尾の速射と岸本のショットガンに圧倒され、軽いショック状態にあったが、自分の背後にあったはずの窓やら壁やらが消失したことに驚いて我に返り、我に返ったとたんでかいヘリコプターが自分めがけて倒れてくるのを見て、
「わ」
大急ぎで仲間の方へ逃げた。
地響きをたててヘリコプターは倒れ、教室の後ろの黒板と物入れの棚を壊しながらひっくり返り、教室のほぼ中央で逆さまになってしばらく揺れた。下になったコクピットの中に敵の兵士がふたり、座席にくくりつけられたまま逆さにぶら下がっているのがガラス越しに見えたが、ショットガンを持った寺尾を見るなりきゅっと死んだふりをした。
戦意はないと判断したか、寺尾は彼らを無視して撃ちつくしたショットガンを捨てるとヘリコプターの腹の上をどすどすと乗り越えていき、木の床の上にだらしなく広がった大きなバッグにとりついて中をかきまわした。
芳裕を振り返ってM16を一挺投げて寄こす。
自分もM16を手にした寺尾は教室後ろの扉まで進むと、膝をついて廊下をうかがった。
威嚇のためにフルオートで掃射したが、いったん下がったのかすでに敵兵の姿はなかったらしく、寺尾は自分に続くよう他の人間に手で示した。
埃とショットガンの硝煙がたちこめる中、スナイパー・ライフルの赤外線スコープが数本外から射し込んだ。
窓のあった側は下を一メートルほど残してなにもない状態になっており、教室は芝居のセットのように中が丸見えである。赤いビームは教室の内部をまっすぐ横切り、標的を探してゆっくりと動く。
反射的に頭を低くして机の下に隠れたが、まだそれより低くするよう誰かの手が頭に載せられた。
「あぶないわよ」神田さんだった。今気づいたが、ずっとそばにいてくれたようだった。ずっといい匂いがしていた記憶がある。「はぐれないようにね」
「うん」と素直に頷いたのだが、このとんでもない騒ぎのさなか、芳裕にとってはもっととんでもないことが起こった。
どさくさに紛れ、あろうことか神田さんは芳裕の唇に自分の唇を押しつけたのだ。
目を大きく開いて固まった芳裕の後頭部に手を当てて強く抱き寄せる。すっと唇を離し、愛情いっぱいに微笑むと、神田さんはなにも言わずに寺尾たちのあとについてヘリコプターの裏へまわった。
芳裕はしばらくそのまま固まっていた。
ぴったりとスカートが張り付いた神田さんのお尻が前方で揺れている。ちょっと見とれる。
お母さんはあんな人だったなと、なぜかちょっとそんな気がした。数少ない母親の写真は神田さんとはまるで似ていなかったし、今の自分の母親にしては神田さんはいくらなんでも若すぎるのだが、それでも今お母さんが生きていたら、あんな感じなんだろうという気がした。
スキンシップに慣れていないだけのことかもしれないが。
はっと王女のことが気になって探したところ、王女も三人の侍従も、ちゃんと頭を低くして神田さんとは逆に、机と机の間を教室の前の方からヘリコプターの陰に入っていくところだった。神田さんにキスされて嬉しい気持ちになったことで今度は後ろめたくなり、なぜとはなしに王女の近くへ行こうとしてさっきまでは窓があったあたりに真紀ちゃんが倒れているのに気づいた。完全に忘れていた。
真紀ちゃんを運ぶのは、芳裕以外にはいないのである。
廊下側に避難した王女が芳裕を見て、悲しそうな笑顔を浮かべていた。特に意味もなく芳裕は王女に頷き返し、王女の顔がかすかに明るくなるのを見て、神田さんとのことは見られてなかったようだと無理矢理安心した。すぐそばに、頭のネジの緩んだような婚約者がいるのは気になったが、そういうことを考えるのはあとにしよう。
かなり強く頭を打ったらしく真紀ちゃんは完全に気を失っている。
自力で歩いてもらうのと黙っていてもらうのと、どっちがいいかと考えるまでもなく、起こさないことにした。
体を低くしたままぶよぶよした真紀ちゃんの両手を持って、ずるずる引きずる。赤いビームが、いつ自分の体をマークするかと思って胃がひっくり返りそうになる。心細くて顔を上げると、侍従に囲まれた王女がヘリコプターの陰から心配そうにこっちを見てくれているのが見えて、気分ほかなりましになった。
「ほっといたら?」シゲさんがそばに来た。
「ほんと、牛みたいだなあ」トシさんも来て、ふたりともぶつぶつ言いながらいっしょに真紀ちゃんを引きずってくれた。
その動きが見えたのか、銃弾がばらばらと数発撃ち込まれ、すぐそばにあった机のほとんどが消えてなくなる。
「しーっしーっ。起きる起きる」芳裕があわてた。弾に当たることより、真紀ちゃんが起きることの方がとりあえず恐かった。
なんとかヘリコプターをくぐり、廊下側へ到達する。途中コクピットを覗いたら、中のふたりが真紀ちゃんを見てなんとも言えない顔をしていた。過激な三輪トラックにやられる瞬間、助手席に真紀ちゃんがいたのを思い出しているのだろう。たぶん一生牛にうなされる。
手榴弾の爆発する音がかなり近くに響いた。
突入してきたらしい。
全員がひとかたまりになったのを確認すると、寺尾はバッグの中からさらにショルダーバッグを取り出した。
芳裕はそのショルダーバッグがなんであるか知っていた。通常はクレイモア対人地雷のセットを収納するバッグである。
しかし寺尾がその中から手に取ったのは、芳裕の見たことのない機械だった。
CDのウォークマンくらいの大きさで、やたらとボタンがついている。寺尾がスイッチを入れると緑色の発光ダイオードがずらりと並んで光った。
とたんにそのうちのふたつが赤く変化する。
寺尾が、そのふたつの下にあるボタンを太い親指で押し込むと同時に、ばーん、という乾いた爆発音が廊下の端と端から聞こえてきた。
やはりクレイモアのようだ。
赤く変化するたびボタンを押し込んでいく。学校全部吹っ飛ぶのではないかというような爆発が立て続けに起こり、煙と火薬の匂いが芳裕たちのところにまで漂ってきた。
残りふたつとなったとき、じゃまくさくなったのか寺尾は緑色のままのボタンも押し込んで、すべてを爆発させた。
寺尾の非情さに、芳裕は背筋が寒くなった。いい人かも知れないと思ったのは大まちがいだった。たしかに敵はこっちを殺そうとしているかもしれない。しかし、今の爆発で、一瞬にして数十人が死んだはずなのだ。
平然とこんなことができるのは人間ではない。
「明日は学校お休みね」なんとなく恐い雰囲気になったのを嫌ったのか、神田さんがおどけた調子でそう言ったが、誰も笑わなかった。
芳裕の視線と、寺尾の視線が絡んだ。
ばらばらと、壁や天井が崩れる音だけが聞こえ、人の気配は、今は感じられない。外からのビームも消えている。
「俺が作った特製クレイモア地雷なんだ」寺尾は芳裕の視線から目をそらすと、そう言いながらリモコンをバッグに放り込んだ。「まさか使うとは思わなかったんでな、試作品なんだ。本当なら鋼鉄の球をつめるんだが、梅|仁丹《じんたん》で間に合わせたもんで、致命傷を負わすことができない」そこがちょっとつらいとこだ、などといいわけがましいことをくどくどと言う。なにか探すようにバッグをかきまわしているが、見つからないようだった。
寺尾はふと顔を上げ、いたずらっぽく笑っている芳裕に気づいた。
「なにがおかしい」
「いえべつに」この人はやっぱり人を殺したくないのだ。「戦闘能力のきわめて高い軍人は、誤って人を殺すことがない」と、毛利のおじさんは言ったものだ。
「なんだそれ」寺尾はちょっと狼狽して「今のうちに、脱出しましょう」さりげない風を装って楠に言った。少し声がかすれた。
ぼろぼろになった廊下に足を取られないよう気をつけながら裏庭に出ると、あちこちからうめき声が聞こえた。
寺尾の梅仁丹地雷にやられた連中だろう。いくら梅仁丹でも、大量に勢いよくぶちまけられたら、怪我ぐらいはするのである。
鯉のいる池の横を通るとき、覗き込んだら鯉が梅仁丹を食っていた。
しかし、世話になったのは六年生の一年間だけだったとはいえ、母校である小学校が無惨な姿になっているのをみると芳裕の胸は痛んだ。小学生の頃はほとんど毛利のおじさんに連れられて、じっとしていることがなかったから、ちゃんと通った記憶があるのはこの学校ぐらいしかない。
あの頃みたいに、気っ風のいいじいさんとかっこいい黒人という変な親子の大工さんが直してくれるんだろうか。
肩にかついだ真紀ちゃんの重みで、肩も痛んだ。ショックを与えて、意識を取り戻されたくないので、そおっと歩かなくてはならず、よけい重く感じるのである。普通女の子というのは太っているようで男に比べると軽いものだが、真紀ちゃんは本当に重かった。
カナコ王女は侍従たちのそばにいるが、ときおり芳裕のことを振り返ってくれる。気になることはいろいろとあったが、王女がそこにいるというだけで芳裕はけっこう幸せで、しかも他の人も、特に婚約者という人がそこにいるのにずっと自分のことを気にかけていてくれるというのはものすごいことだなあ、などと満足している。
これであとは、この騒ぎが無事収まって、真紀ちゃんがきちんと理解してくれて、王女と婚約者が婚約解消になって、ぼくが王女の国の人間になれて、王女がぼくと結婚したいと言ってくれて、まわりが賛成してくれればそれだけでいいのである。
なにがそれだけか。むちゃくちゃ大変ではないかと普通は思うところだが芳裕は思わないのだった。
とりあえず今一番気になるのは婚約者だな。と着実に考えていく。
さっきの話だと、婚約者というのが王女を殺そうとしていたから婚約解消になるだろうということだったが、あの人が王女を殺そうとしていたわけではなかった。
これはちょっとした問題だ。
婚約者がいるのはまずい。結婚しにくい。
王女の婚約者である当の本人は、いつ襲われるかと恐くて仕方がないらしく、侍従長の山口さんのスーツの後ろをぎゅっと握ってへっぴり腰で歩いていた。どうせ頼るなら寺尾さんか楠さんにすればいいのに、と思う。あれで本当に騎士団の団長なんかやってるんだろうか。
婚約やめてくれないかなあ。
駄目かもしれないが、一応あとで直接頼んでみよう。
他のことは、まあなんとかなるだろう。
だいじょうぶだいじょうぶ。
恐ろしいほどの楽観主義である。
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を越える。芳裕のこの学校に通っていた頃は簡単な木の屋根があるだけだったが、今はその下の地面にコンクリートが流し込まれている。屋根はやはり木のままだったが、ちゃんとところどころ真新しい板に変わっているし、おそらく夏休みになれば防腐処理のためにタールが塗られるのだろう。芳裕はあの匂いが好きだった。
校舎の角をまわれば、むやみに広い運動場がある。寺尾は先頭に立って他のメンバーの足を止め、ひとり頭を角から突き出した。
がく、と寺尾の膝が折れる。
なにごとか、とみんな色めき立ったが、別にたいしたことではなかったらしい。寺尾はすぐに立ち直り、
「なんだあれは」と呆れたように呟いた。
「あらあああ」寺尾を押しのけて顔を出した神田さんが間延びした声を出した。
運動場には、騎士団の戦闘ヘリコプター、アパッチ二機をはじめ、スーパーコブラとブラックホークが二機ずつ、それに装甲車、ジープ、ドイツのレオパルド戦車、よく見ると向こうの端にあるのは、
「ハリアーだ」シゲさんがちょっと嬉しそうに言った。「なんか、あるもの全部持ってきましたって感じだなあ」
しかしみんなが呆れているのはそれら物々しい兵器にではなかった。
最初芳裕は、なんで運動場の方だけあんなに明るいのかなと不思議に思ったのだったが、ああなるほどと納得して喜んだ。
町の人々が見物に集まっているのだ。
人が集まれば、当然夜店の屋台も出る。
人出が多いので、屋台のバリエーションも豊富で、リンゴ飴、カステラ焼き、たこ焼きといったメジャーなものから、飴細工、カルメラ、芋ケンピ、ウナギ釣りまである。
たいていの人は兵器独特の威圧感に圧倒され、遠巻きに眺めているだけなのだが、田舎にはどこの誰でも来た人みんな友達みたいに思っている人も少なくはなく、こわごわヘリコプターに手を触れたりしている老婆がいるかと思えば、戦車の砲塔にぶら下がって、丈夫なもんだと感心しているおっさんもいて、兵士たちの中にも煙草を吸いながら町の人と世間話をしているようなのがけっこうな数いた。
記念撮影も行われていて、これはただぱちぱちと簡単なカメラで写している人ももちろんいるのだが、運動場の南端にある体育倉庫と登り棒の間に、団体旅行のときなどによくある本格的な雛壇と書き換えのできる看板を用意した写真屋の記念撮影セットが持ち込まれていて、ハリアー戦闘機をバックに前の人もすこししゃがんでもらえるかなあ、などとやっている。
しかし実は数分前まで、運動場にいる人々の間には重苦しい沈黙が降りていた。
銃声が轟いたこともたしかに原因のひとつではあったのだが、それだけなら普通はどよめき、騒がしくなるところである。
寺尾の梅仁丹地雷が作動した直後、それよりもっと恐ろしいことが持ち上がったのだった。
小学校の裏、といっても二キロほどは離れているのだが、田圃ばかりの中では小学校のすぐ隣ということになっている場所に、大きな建物があった。
病院なのだが、病気や怪我の人が自分から行くことはまずないという町民すべてに恐れられている国連病院である。
こんな田舎にどうして国連の病院があるのかは謎なのだが、とにかくここの評判は最低だった。
金になると思えば腎臓が悪いと言って透析を始め、じゃまくさくなると治ったと言ってやめる。
治る見込みの少ない老人の世話をするのが面倒だからと、看護婦はわざとじいさんの総入れ歯を捨ててしまい、満足に動けない老人の食生活を破壊することによって死期を早める。
本当のことです。
注射針が錆びて詰まると、電球を割って中のフィラメントを取り出し、それを突っ込んで掃除する。
入院するとき相部屋でもいいかと訊かれたのでいいと言ったら、ひとつのベッドが山羊と共用だった。
入院している子供がときどき姿を消すが、あれは香港のサーカスに売っている。いやフィリピンの臓器バンクに売る。いや看護婦が気に入った子供の声帯を切り取って寮でペットにしている。いや、看護婦が子供をバーベキューにして食っている。だって見たんだもの。
食事には、水族館の蛸が出る。
中には、看護婦は美人が揃っていていじめられると嬉しいなどという、倒錯《とうさく》した人もときどきいることはいたが、それはともかくろくな噂がなかった。
特に看護婦は恐れられ、大久保町では子供を叱るとき看護婦さんが来るよと脅すのが昔からの伝統となっているし、実際に幼い子供は白い服を来た女の人を見ただけで泣く。
したがって、何度も言うが自分からこの病院へ行くのはいじめられたり痛くされるのが嬉しい変な人か、引っ越してきたばかりでなにも知らないよそ者だけなのである。
そんな病院が成り立つはずがないと、よその人は思うのだが、町民がこの病院をつぶすための署名運動までしてもなくならないのが国連病院の恐いところで、どういうわけかここの看護婦たちは怪我人や病人を見逃さないのだった。
たとえば道でこけるとする。腕をねじってものすごく痛い。折れたかもしれないから医者に見せた方がいいかなあ。みたいなことをうっかり言っていると、そのときにはもう後ろに二三人どこから現れたか国連病院の看護婦が立っているのだ。
いや別にもうなんともだいじょうぶです、と悲鳴をあげる怪我人を看護婦たちは殴る蹴るしておとなしくさせ連れ去っていく。
少々の怪我でも、病院に着く頃にはちゃんとした本格的な怪我になっているのだった。
町民のほとんどがくりだしているのではないかという今のこの騒ぎのさなか、寺尾の梅仁丹地雷でやられた兵士たちを、国連病院の看護婦たちが見逃すはずがなかったのである。
やってきた、というよりもそれは本当に「出現した」という感じであった。
気がつけば、運動場のあちこち、学校のあちらこちらに白衣の女たちがいた。
みな一様に背が高いせいで白衣はつんつるてん、筋肉の張りつめた太股をこれ見よがしにさらけ出した看護婦たちが、獣じみた速さで怪我をした兵士をかっさらっていく。
その乱暴な扱いに屈強な兵士も助けてくれと悲鳴を上げるのだが、もちろんそれを助けられる人間などこの世にはいない。
町の人々は息をひそめ、嵐が過ぎ去るのをただひたすら待つのみであった。
ここで咳のひとつでもしたが最後、
「風邪か」と看護婦が飛んできてさらわれる。
数分で、怪我人は消えた。
看護婦の姿が見えなくなっても、しばらく誰も口を開く人はいなかった。
もう帰ってこないだろうか、と誰かが恐る恐る呟き、仙人のようなじいさんがそれだけはまちがいないと答えたのをきっかけに、しだいに雰囲気が明るくなっていった。
あかんあかんこのじいさんなに訊いても「それだけはまちがいない」しか言いよらんのや、という声が聞こえ、当のじいさんが「それだけはまちがいない」と胸を張ったときには、和気あいあいお祭り気分が復活した。
七分かかった。
「お祭りのような軍隊ですな」河合が言った。
「いやそうじゃなくて」さすがに西畑も、河合に説明するのが面倒なようだった。
気が抜けたので、芳裕は真紀ちゃんを担いでいるのがつらくなった。
真紀ちゃんを座らせるのに適当な場所を探し、校舎の方へ少し戻る。
芳裕は真紀ちゃんを起こさないよう、まず反対の肩にかけていた自動小銃を校舎の壁にたてかけ、それから真紀ちゃんをゆっくりゆっくり用心して降ろすと、同じように壁にもたれさせた。
他のみんなは、校舎の陰から運動場を眺め、さてどうするかというようなことを言っているようだった。
王女が芳裕を見ていた。
ずっと気にしていてくれる。嬉しくなった芳裕は王女に微笑みを返し、そばへ行こうとした。
そのとき、渡り廊下の向こう端、冬には暖房用の石炭が外にまで溢れる小さな小屋の陰で、なにかが動いた。
マズルフラッシュが芳裕の目を射た。連続した銃声が裏庭に響きわたる。
M16などの自動小銃ではない。もっとずっとでかい。M249ミニミ軽機関銃だ。
「あぶないっ」叫んだが遅かった。
ほとんど全員が背を向けていた。
そこを狙って大森が、マシンガンをフルオートで掃射しながら走り出てきたのだ。
王女の体がふたつに折れ、吹き飛ばされるように倒れるのを芳裕は見た。
血が、軟体動物の触手のように王女の体から伸びて飛んだ。
寺尾も背中から黒い血を噴き出させ、のけぞって楠にぶつかった。
山口さんと西畑が、王女の体に覆い被さって倒れる。
他に誰が怪我をしたのかわからない。
風に、濃密な血の匂いが混ざった。
ぐったりと力をなくした王女の頭が揺れている。
「うああ」芳裕の目の奥で、血が弾けた。
大森に向かって突進した。
銃口が芳裕へと動く。遅い。完全に銃の反動に負けている。そんな撃ち方でなにを撃とうというのか。
耳の横を通る弾丸の音が次々と近くなるが芳裕の目は弾道を正確に読んでいた。
銃口が完全に丸くこちらを向く直前、芳裕は大森めがけて跳んだ。
どうと倒れ込む瞬間、頭を大森のみぞおちに深くめり込ませた。
大森の体から息が抜け、筋肉から力がなくなる。
気絶など、簡単にされてたまるものか。
その腕からずっしりと重いミニミを奪い取ると、熱い銃身も気にせず、そのショルダーストックで大森の鼻を殴った。骨のつぶれる感触に、芳裕は一瞬我に返ったが、ふと振り返って王女を見た。
王女は倒れているのだ。
逆上した。
死んだ方がいい人間というのは、確かに存在するかもしれない。
機関銃を投げ捨てると、芳裕は大森の胸ぐらを掴んで立たせた。
鼻血を流して虚ろな目をしている大森の腹を膝で蹴った。
蹴った。
すでにつぶれた鼻に、頭を叩き込む。
芳裕は、自分が素手で人を殺せることを知っていた。それを恐れてもいた。訓練を重ねてあらゆることに上達していけば、もしものとき誤って人を殺さずにすむと教えられた。
[#挿絵(img-dengeki/FarewellOkubo_311.jpg)入る]
けど、こいつは殺してやりたい。
二度三度と大森の顔を殴りつけ、それから思いつめたように拳を握りしめた。
迷いはあったが、止められなかった。
「やめなさい」
鋭い声とともに、横面を平手で張り飛ばされた。
神田さんが、芳裕の腕を掴んでいた。
「あんたのためよ。殺さないで」
それが誰なのか、芳裕にはわからなかった。
「おねがい」その人は言った。
胸の中が暖かいもので満たされていくのを感じ、
さっきキスしてくれた。
芳裕の拳が解けた。
助かったと、そのとき思った。
「そう。それでいい」と神田さんは微笑んで、芳裕の手を両手で包み込んでくれた。「王女は大丈夫よ。腕をかすっただけ」
「神田さんは?」
芳裕は思ったままを口にしただけだったが、神田さんは目を閉じ、嬉しそうに笑うと、
「あんた、ちょっとしゃがんでごらん」
「え」わけがわからない。
「いいからさ」芳裕が言われたとおりにすると、神田さんは芳裕の頭を胸に抱きしめ「あんた、ほんとにいい子だね」
他人の体臭を、こんなに心地いいと感じたことはなかった。
お母さん、と言いそうになるのを、芳裕は必死でこらえていた。
今の騒ぎで真紀ちゃんが目を覚ましていた。
恐怖と痛みの連続は、普段から努力や忍耐力といったこととは無縁の性格を、ことさら非人間的なものにしていた。つまり動物である。
怯えた犬のごとく、体を縮こまらせてあたりをうかがう。
自分がどこにいるのか、なにが起こっているのか、まるで理解できていなかった。
壁を伝って後ずさるようにして動きはじめたとき、その手がなにかに触れた。
複雑な形をしたその感触は彼女の記憶にないものだった。
そのささいなショックが、限界ぎりぎりに張りつめていた神経の糸をぷっつりと断ち切った。
「ぎいええええ」
この世のものとも思えぬ悲鳴を上げて、真紀ちゃんは手の中のものを振り払おうと暴れた。
芳裕が壁にたてかけておいたM16の、トリガー部分に真紀ちゃんの指が引っかかっていた。
つらいことを我慢できず、欲しいものをあきらめられず、食べたいとき食べたいものだけを食べたいだけ食べ続けた真紀ちゃんの指は長さと太さがほとんど変わらない。
抜けなかった。
恐慌をきたした真紀ちゃんの全身に力がこもり、M16A2アサルトライフルからは毎秒十発の弾丸が吐き出された。
二十発弾倉が空になるまで二秒間を要した。
怪我をした王女を中心に固まっていたグループはあわてて伏せたが、妙な握り方のせいで弾のほとんどは地面に埋もれていった。
二十発を撃ちきる、最後の数発が問題だった。
フルオートで撃つと大の男がまともにかまえていても、銃口は跳ね上がる。
真紀ちゃんの腕では抑えの利くはずもなかった。
暴れた銃口は不気味に安定した軌道を描き、芳裕を抱いた神田さんの、首筋めがけて跳ね上がった。
なにが起こっているのかを把握する余裕は誰にもなかった。芳裕にもなかった。
しゃがんでいた芳裕の体は、銃声に反応してすかさず伸び上がったが、芳裕が考えたのは、母を死なせてはならないというただそれだけだったのである。
優しい温もりを持った華奢な体を庇い、芳裕はその前に立ちはだかった。
芳裕の胸を、銃弾の列が斜めに横切った。
静寂が、星の降る夜を包み込んだ。
真紀ちゃんを除いた全員が芳裕に駆け寄っていた。真紀ちゃんはひとり取り残され、聞く者のいない言い訳を呟きつづけている。私は悪くないの。私は悪くないの。
「だめよ。ねえ、おねがいだから」神田さんの目からぽろぽろこぼれた涙が、芳裕の顔に降り注いだ。「こんなのないわよ」
へたりこんだ神田さんに上半身を支えられた芳裕の胸には、ぞっとするような勢いで血の染みが広がっていく。
青ざめた王女が芳裕の横に膝をつき、その手を取ったがすでに力はなく、
「待って、待って」神田さんが芳裕を揺さぶったが、
芳裕の胸は息をするのをやめた。
神田さんが、絶望に脱力した。
あまりにもあっけなかった。
誰もなにも言わなかった。
自分たちが息を止めれば、代わりに芳裕の息が戻るとでもいうように、みんなは息さえ殺して立ち尽くす。
「嘘だ」と、小さい声で言ったのはカナコ王女だった。腕に巻かれたハンカチが赤く染まっているが、芳裕の出血の前では、ほんのかすり傷にしか見えない。「芳裕君、あたしと結婚するのがわかるって言ってたでしょ」驚いたことに、王女の顔には微笑みが浮かんでいる。「あたしにもわかるもの。今死ぬはずないわ」
さあ、もういいから目を覚まして、と王女は微笑んだまま芳裕を見下ろし、じっと待った。
「一度死んだことにして、それから生き返るって言ったじゃない」
もしかすると、とみんな思った。人の心は耐え難い苦痛に見舞われたとき、あり得ない想像にもすがりつく。みんな、芳裕がすっと目を開けるのではないかと、その瞬間を待った。
「死ぬはずないもの」
なにも起こらなかった。
やがて、微笑みをたたえた王女の目からも、ぼとぼとと大量の涙が溢れ出た。
王女の涙が芳裕の頬ではじけ、芳裕の短い前髪が風にそよいだが他に動きはない。
張りつめたような期待感も一瞬のことだった。一陣のそよ風が吹いただけで、簡単に消え去ってしまう。
ついに王女の唇が悲しみに歪んだ。嗚咽に震えるその息が、はっとするほど鮮明に聞く者の胸を突いた。
「生き返るって言ったじゃないの」
微笑みを消したカナコ王女はそれ以上はなにも言わず、声を出さずに、芳裕の血だらけの胸にその顔を埋め、震えて泣いた。
救いようのない虚脱感が、そこにいる全員にのしかかっていた。
シゲさんとトシさんは悲しむことすらできず、寺尾は地雷について言い訳した自分を思い出し、笑おうとして涙を流した。
神田さんはただもうおいおい泣いた。
教室での明るい能天気な時間を共有してしまった人々にとっては、芳裕のような存在を知った喜びが大きかっただけに、その直後の死による喪失感もまた大きかった。
王女がそっと顔を上げた。
涙と血で濡れた顔には壮絶な美しさがあったが、その目の光は失われている。
王女は芳裕のシャツに手を這わせ、血にまみれたポケットに平たい石が入っているのを見つけた。
洞窟で、くれると言ったのにもらえなかった。
綺麗な緑色のはずの石が、今は真っ赤だ。
いとおしそうにその石を握りしめた王女は、ふとその手を止めた。
暖かい血でぬるぬるするその石の表面を、指でなぞった。
誰かを探すようにその目が動いた。
「弾の当たったあとがある」
楠が、横から手を伸ばして、芳裕のシャツを引きちぎるように開いた。
手を当てて、傷を確認する。
「腕と肩に貫通したあとがある」楠の顔が、一縷の望みに輝いた。「肋骨が折れているが、弾は心臓には達していない」
「どけ」唐突に恐ろしい声がした。
ざっ、とみんなが振り返るとそこに魔物のような表情をした看護婦がひとり、腰に手をあてて立っていた。
「誰も呼んでないのに」国連病院の看護婦はこの怪我人も見逃してはくれなかった。「獲物」は逃さないのだ。
「どけと言ったらどけ」女のくせに、荒々しい。看護婦は芳裕を人間とは思っていないのか、普通訓練用の人形でももうすこし丁寧に扱うのになあと思うほどの手荒さで、芳裕の胸をぐいっと押した。
肋骨がすでに折れているため、芳裕の胸は異様にへこんだ。
「殺す気か」と、思わず寺尾が言った。
「もう死んでるんだよ」けっ、と看護婦は芳裕の鼻をつまんで、自分の唇を芳裕の口に被せた。セクシーとか、エロチックとか、そういう雰囲気は微塵もなかった。まったくもって「作業」である。
「かふっ」
と、芳裕は言った。
とたんに看護婦は芳裕の体をぼいっと地べたに捨て、
「死んでなかったか」
「わーっ」全員びっくりして叫んだ。「生き返った」
わけがわかっているのか、篠原団長までもが大喜びしている。
王女が真っ先に芳裕の首に抱きついた。
「やあ」と、芳裕は自分の耳の横にある王女の顔に笑いかけ、それから腕組みして自分を見下ろしている鬼を見つけた。「ありがとう」
血の着いた白衣のよく似合う、鬼の看護婦は驚いたようすで、
「入院したかったらあとで来な」にやっと笑って踵を返した。
シゲさんとトシさんが、びっくりして顔を見合わせた。
そのまま行くのかと思ったら、そこで真紀ちゃんを見つけた。
「わ、私は悪くないの」馬鹿のひとつ覚えのように言い訳をくりかえしたが、看護婦はそんなことを聞いてはいなかった。
「おまえ」と真紀ちゃんの短躯《たんく》を見おろし「肝臓が悪そうだな」
当たっていた。
「それに、それだけ太ってたら腰も悪いだろ」
それも当たっていた。
「来い」看護婦は命令した。
「いや」はっきりした否定に、看護婦の目は吊り上がった。
ぱしっ、と真紀ちゃんのぶよっとした頬を手の甲で張り飛ばし、
「逆らうな」
真紀ちゃんの耳を摘《つま》んで、そのまますたすたと歩き始める。
「助けてっ」真紀ちゃんは叫んだが、誰も動かない。
「だまれ」
真紀ちゃんは黙った。
そのまま容赦なく、看護婦は真紀ちゃんをひきずっていってしまった。
完全に見えなくなっても少しの間、恐かったのでみんな黙ってその後ろ姿を眺めていたのだが、もういいかな、というところでシゲさんが小声で感心したように、
「やっぱりおっかないな」
「でもいい人ね」神田さんが言った。涙でぐしゃぐしゃの顔が、子供のように笑っている。喜怒哀楽の激しい人である。
「いやほんと、あそこの看護婦でも、笑うことあるんだな」初めて見た、とトシさんが胸を撫で下ろす。
王女と芳裕には関係なかった。
「それ、あげるよ」芳裕は王女の持っている血だらけの石を見て言った。「ぼくの子供の頃の宝物なんだけど」かふっ、と弱々しい咳をする。「もらってくれるかな?」
「はい」と、王女は頷いた。
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午前四時三五分 国連病院
廊下の向こうから、野獣の咆哮を想わせる壮絶な悲鳴が轟いてきた。
病室にいるすべての患者は首をすくめ息をひそめ、自分のところへ看護婦が来ないことをそれぞれの神に祈った。
さらに悲鳴は続き、やがてすすり泣きのように変わる。
診察室のドアが開き、憔悴《しょうすい》した顔の寺尾が出てきた。
後ろをちらちらと振り返り、看護婦が追ってこないかを確認しながら、こそこそと廊下を小走りに走る。
何度目かに後ろを振り返ったとき、すぐそばにあった病室のドアが突然開き、ぬっと看護婦が顔を突き出した。
「ひっ」と情けない声を出して寺尾が立ち止まると、看護婦はゆっくり頷いて、
「よし」行け、というように顎をしゃくった。「走るなよ」
「はい」しゃっちょこばって寺尾は歩きはじめた。
病室の前まで来ると看護婦が追ってこないのを確認し、さっと中に入る。できるだけ音をたてないように軋むドアを閉め、ふーっとため息をついた。これで一安心。
「大変だったみたいね」神田さんがにやにや笑いながら、声をかけた。
「な、なにが」
「ぐーえー、やめてえー」寺尾の悲鳴の真似をする。
「な、なんだそれ」寺尾がうろたえた。
「病院中に響きわたってたわよ」
「まだ、眠ってるのか」話題を変えた。
「うん」と、神田さんはベッドに横たわった芳裕の額に浮いた汗にタオルをそっと押しつけた。
「診察室に入る前、牛が血相変えて走ってたけど」真紀ちゃんのことである。「あいつも痛めつけられたのかな」
「あたしもさっき廊下で会ったの」神田さんはものすごく嬉しそうな顔をした。
「なんでそういう魔女みたいな笑い方するの?」看護婦にいじめられたせいか、寺尾はいつになく気弱である。
「どうってことないのよ。これ以上芳裕につきまとったら、尻から口まで串刺しにして焼いて犬に食わせるよって言ってほっぺたつねり上げただけ」えらくびびってやんの、と楽しそう。
「あんた、ここの看護婦とあんまり変わらんのとちがうか」
「はっはっは」神田さんは軽やかに笑った。
んん、と芳裕が目を開いた。
「あらごめん、起こしちゃったね」
ベッドの反対側に上半身を寝かせ、気持ちよさそうに眠っていたシゲさんとトシさんも顔を上げた。
「起きたか?」シゲさんとトシさんが寝ぼけた顔のまま、同時に言った。
「うん。ちょっと体がぼんやりしてるけど」
「麻酔のせいね。そのうち痛くなるよ」
「右脚もしびれてる」
「それはたぶん」と神田さんはシゲさんとトシさんを見て「おふたりがあんたの脚の上で寝てたからだと思うわ」
おお悪いわるい、とよだれを拭き拭き言うシゲさんトシさんといっしょに笑ってから、
「他のみんなは?」
「リーダーと岸本と竹田は、ヴァンを回収しにいってる。あとでここに来ると思う」寺尾が説明した。「王女たちは、別の病室だ。たいしたことはないらしいんだが、なにしろ王女様だからな」
ちょうどそのとき、ノックの音がした。
「どうぞ」神田さんが嬉しそうに。
寺尾が開けるとぎしぎしと音をたてたドアが、今は音もなくなめらかに開いた。
ドアを開けたのは西畑だった。
カナコ王女が、山口さんと河合を従えて入ってきた。
ベージュのノースリーブのワンピースに着替えている。
両手を軽く広げ、妖精が踊るようにふわりと片足を引きながら優雅におじぎをした。
消毒薬の匂いが立ちこめる殺風景な病室に、花の香りが舞った。王女の全身は見事なバランスを保ち、女神がいるとすればこの人だろうと寺尾さえもが思った。
腕の包帯までが美しく輝いて見える。
「まあ素敵」神田さんが感心した。「さすがねえ」
「これ」と山口さんが叱って、微笑んだ。
王女は芳裕だけを見ていた。見つめ合って、互いに微笑む。
山口さんが咳払いをした。
「さて、いろいろとご報告がございます」
神田さんがベッドの下でごそごそすると、ベッドの半分ほどが斜めに持ち上がり、芳裕は上半身を起こしたような格好になった。
「おもしろいねえ、これ」神田さんはひとしきり感心してから山口さんに体の正面を向け、勢いよく「はいどうぞ」
「どうも」と、一応山口さんもちょっと頭を下げた。「まず、大森団長補佐は我が国の警察機構によって逮捕され身柄を拘束されました」よかったよかった、と河合が合いの手を入れたので、いったん口を閉じる。「それから篠原団長ですが、わけがわからなかったとはいえ一応王女の暗殺計画の一端を担っていたことの責任はあるとして、やはり逮捕されました。同時に王女との婚約は破棄されました」山口さんはメモも見ないで、すらすらと話した。
「やったあ」芳裕が喜んだ。王女が、いいでしょう、というように大きな目をさらに開いておどけてみせた。
「やりましたなあ」はっはっは、と河合はごきげんである。
「松岡様の帰化の件なのですが」そこで山口さんはちょっと言葉を切った。「認められませんでした」
「え。せっかく一回死んだのに」
「手続きをする間もなく生き返られましたので。駄目だそうです」というわりには、山口さんも王女もまるで残念そうではない。
「河合さんのアイデアで」と、山口さんが話しはじめたのだが、芳裕は他の方法はないかと、もうそっちにばかり頭がいって、人の話にあまり身が入らない。
じゃあこういうのはどうかなあ、と新たに思いついた方法を言おうとした矢先、
「私が申し上げてもよろしいでしょうか」と河合が言った。
「どうぞ」山口さんは河合のために一歩後ろへ下がる。
「つまりですな」やたらと河合は楽しそうだった。「松岡さんを、我が国に帰化させるのには五年かかってしまうわけですが、これでは遅い、ということで」ふんぞりかえった。「この大久保町を我が国の領土としてしまえばいいんではないですかなあと、思いついたわけです」
だあーっと芳裕は脱力した。
「そりゃだめだよお。いくらなんでもそんな無茶な」
「認められました」山口さんが誇らしげに宣言した。
「えーっ」
「さきほど我が国王から日本政府へ申し入れたところ、あっさりと」
「うそお」芳裕はまだ半信半疑だ。ほんと? という風に王女を見ると、王女は大きく何度も頷いて、
「ほんとっ」と高い声で叫んで、ちょっと跳び上がった。
「あっらー」おばさんくさい声を出したのは神田さんである。「よかったじゃないのよお」
うんうんっ、と王女が髪の毛をぶんぶん跳ね上げて頷く。
「たしかに、今日すぐに、というわけにはいかないのですが」そりゃそうよねえ、と神田さんがでかい声で納得したのだったが、えー、と山口さんはもったいをつけて「明日から」
「すぐじゃないのそれ」いいのかなあ。「大久保町は、日本じゃなくなるの?」
「さようでございます」
「なんか、困らないのかなあ」
たしかにむちゃくちゃな話だ。
「いいじゃない」と神田さん。「別に困らないわよそんなもん」
「なあ」とシゲさんもトシさんも「いい話じゃないか」
「というわけで、王女の婚約者選びになるのですが、調べましたところ、今回のような場合、王女自身の希望が最優先するらしいのです」
「王女の胸の奥には、すでに勇敢で美しい、悩むことを知らない王子が住み着いていらっしゃるようですが」と、西畑が言って、芳裕にウインクした。
「どなたでしょうかな」と、河合。この人はもしかすると本当にわかっていないのかもしれない。
窓のブラインドから、朝日がすっと射し込んできた。
「ないしょ」
カナコ王女は、大久保町が日本の町として迎える最後の日の出に顔を輝かせ、芳裕を見つめている。
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新作ストーリー
午後七時三十七分 観光ホテル西島旅館別館 大広間
07:37 PM NISHIJIMA INN ANNEX Banquet hall
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夕食の鴨鍋はびっくりするほどおいしかった。
鴨肉も野菜もすべて食べ尽《つ》くしもうこれ以上は食べられないと思いながら、雑炊《ぞうすい》を二度もおかわりしたあげく最後の一口までその味覚に酔いしれた山口《やまぐち》さんは後ろめたくてしようがない。
日頃から食が細くほんのちょっとした面倒事を抱えただけでなにも食べられなくなるのはもちろん水も飲めなくなってしまうのが常であったから、これはもちろん王女のことを忘れているわけではなくむしろ王女の身を案じることによる精神的ストレスがあまりに強すぎるからこその異常な貪欲であることは経験上理解できるのだが、カナコ王女がつらい目に遭っているかもしれないというときに大量の食物をがつがつ摂取するのみならずあまつさえ快感を覚えるなど犬以下ではないかという気がするのだった。
「という気がするのです」私は犬以下でしょうか最低なのではないでしょうかと鍋の底にこびりついた雑炊の最後の最後の数粒の飯粒をこそいでまでして食べつつ山口さんは悲しそうに言った。「もうないのか」
「たしかに普段の山口さんからしますと」ふくれあがったお腹をさすりながら西畑《にしはた》が言った。「今の鍋だけで二カ月分くらいの量を食べてますよね」
「犬を?」河合《かわい》が驚いた。
「え。うんそうそう」西畑は適当に相槌《あいづち》を打った。お腹いっぱいでめんどくさかったのである。なげやりに「犬いぬ」食ったくった。
「へー」河合は目を丸くして「全然気がつかなかった」きっとおとなしい犬ばかりだったんですねとちゃんと納得した。まともに相手しようが適当にあしらおうが河合の反応にたいした違いはないのだった。
「これが最後の食事になるかもしれませんし」誰に言うともなく山口さんは呟《つぶや》いた。
「え」と西畑がぎょっとした顔をした。
「そりゃそうでしょう」河合は当然ですよなに言うとるんですかと食い散らかした目の前の鍋や食器を見ながら「今日はもう無理」
と、そこへ旅館のばあさんがのしのし畳を踏んでやってきた。六十八畳もある大広間にたった三人しかいないため、お邪魔しますと入ってきてから相当長い距離を歩くことになる。
「梨《なし》、食べてですか」
「お、いいですね」河合が喜んだ。
今日はもう無理と言ったくせにと西畑は呆《あき》れたが、ほな皮|剥《む》きますわと座り込んだばあさんが切り分けてくれた梨の実は果汁したたり見るからにうまそう、たまらず口に入れるとこれが想像を絶するうまさであったため結局|侍従《じじゅう》三人ともむしゃむしゃじゅるじゅると音をたてて十数個はあった梨の実すべて食べてしまった。
十個ほども飲むようにして食べた山口さんは、すでに満腹であるとか食べ過ぎといった日常的状態を遥かに超えていたがそれでもなおまだ食べたいと思い、そう思う自分をどうしようもなく情けなく思った。
ストレスによる摂食異常だろうと医者が言っていた。
前に似たような状態に陥《おちい》ったときのことだ。
十二年前、王とともに赴《おもむ》いたある国で幼いカナコ王女がテロリストの標的となり、危うく命を落としかけたことがある。
ショッキングな事件だったから、帰国後いつになく無口になった山口さんが狂ったように怒濤《どとう》の暴飲暴食|鯨飲馬食《げいいんばしょく》をくりかえしても誰もさほど不思議には思わなかったのだが、本当の理由を知る者はいなかった。
あのときの、あの国の空気を山口さんは今でもときどき鮮明に思い出す。そしてそのたび、あの強烈な光の下で微笑んでいる優しい人のことを思い、悲しみとともに少し幸せな気持ちになるのだった。
蒸し暑く、騒々《そうぞう》しい国だった。生暖かい風には必ず独特の香辛料の匂いが混ざり、車やオートバイの排気ガスと土埃を含んだ空気は濃くねっとりと体にまとわりついた。
だが山口さんはそれを不快とは思わない。最初からあの空気を好ましいと感じていたのか、ノイとの思い出に繋《つな》がっているから今ではすべてが愛おしいのか、それはよくわからない。
「ノイて誰だす」ばあさんが言った。
「は?」
ふと夢から覚《さ》めたように我に返ると、旅館のばあさん始め河合も西畑も期待に満ちた目で山口さんをじっと見つめているのだった。
「ノイというのは」山口さんが言いかけると三人|揃《そろ》ってぐっと身を乗り出した。「えと、時計売ってたんですよね」
「あんた昔時計屋さんでしたんか」
「いやそうじゃなくて」言いながら眩暈《めまい》がした。酒は口にしていないが食べ過ぎのせいで酔ったりするのだろうか、頭の奥が痺《しび》れたようになっているのを感じ山口さんはふらりと立ち上がった。「顔、洗ってきます」
大広間の畳の上をふらふらと進みながら王女は無事だろうかと考えたとたんまた激しい食欲を覚えた。もう会えないのではないか。
王女の身になにかあったら、自分は生きていけないだろうと思う。自ら命を絶つようなことをするつもりはないが、人生に意味がなくなれば自然とその命は終わるような気がするのだった。
ふと腕の時計を見たが、時間が知りたいわけではなかった。この時計は数年前から壊れてまともに動かない。たまに針が動いていることがあるがたいていは止まっていて、見るたび違う時間を指すのである。
今は九時三十八分を指しているが、まだそんな時間ではないはずだった。
この気まぐれな時計の動きに、山口さんはいつもなんらかの意志を感じる。生きているような気がするのだ。
「トケイ、盗《と》られたナ」
初めてノイに声をかけられたときは驚いた。
商店や屋台が雑然と並ぶ通りを歩いていたら突然現地の少年がぶつかってきた、その直後のことだ。
「え?」と見れば手首に巻いていた腕時計がなくなっていた。慌《あわ》てて少年の後ろ姿を探したが、ごったがえす観光客やバックパッカーに紛れてあっというまに見えなくなった。
特に高価なものではなかったが、インスタントコーヒーのラベルに付いているポイントをこつこつと貯め、つい先月やっと手に入れたものだったので山口さんは肩を落とした。
「ダイジかなのトケイだったか?」
盗られたのは大事な時計であったのかと訊《たず》ねているらしかった。
「いや、そうでもないのですが」道路脇で小さな露店を開いている、その若い女を見て山口さんは立ちすくんだ。「鈴子《すずこ》か?」
「スズコカ?」女は一瞬きょとんとしてから首を振った。「ソレハナイ」
当然だ。鈴子は十歳の時死んだ。ここにいるはずがない。
しかしただ似ているというだけではなく、人が困っていると自分も困ったようになってなぜか少し怒ってしまうその表情が鈴子と同じだった。こんな表情をするのは鈴子だけのはずであった。
褐色《かっしょく》の肌も、いつも外を走り回って真っ黒に日焼けしていた鈴子とそっくりに見える。
「ニーさんほらほら」兄さんと呼ばれて山口さんはどきりとした。鈴子が生きていればちょうどこれくらいの年齢だろう。「一個、モッテケ」
「は?」
「どれでもヨカローヨ」小さなワゴンにずらりと並べられているのは腕時計ばかりだった。なるほど時計を買えというわけか。まさか今の少年とグルなのではあるまいなと思いつつ色も形も様々な時計を眺《なが》めていると「これはヨカロ?」とひとつ選んで差し出してきた。
「うん」一目見て気に入った。「それがいい」値段はどれも同じであるらしい。山口さんの国の感覚だと、コーヒー一杯分ほどの安さだった。
財布を出そうとすると手首を握られた。
「イーノイーノ」鈴子はそう言って山口さんの手に時計をはめてくれた。「これあげるから」
兄さんのこと好きだからこれあげる。
「鈴子」ほんとにおまえは優しいなと言おうとして喉に涙がつまったようになった。
「スズコ? ちがう、ワタシ、ノイ」なんで泣くか? ニーさんどうしたか?
「ほんでそれがその時計だっか」ばあさんが言った。
「はあ?」我に返って顔を上げるとまだ大広間である。河合はお膳の前で横になって寝息を立てている。西畑の姿はなかった。「あれ?」さっき顔を洗いに大広間を出たように思うのだが。
腕時計を見たが九時三十八分を指したまま止まっており実際の時間はわからなかった。
「妹さんはかわいそうなことでしたんですなあ」
このばあさんに鈴子のことをなにか話しただろうか。山口さんにそんな記憶はなかったが、なぜかばあさんは知っているようだった。話しただろうか。
十歳の誕生日に、自転車が欲しいと鈴子が言うので、山口さんは自分の古い自転車を分解掃除し、フレームを赤く塗って鈴子にプレゼントした。
そんなボロでも大喜びした鈴子は、転んでも転んでも自転車楽しいねと目を輝かせて一生懸命練習した。鈴子の練習につきあうのは山口さんにとっても楽しいことだった。
そしてなんとか乗れるようになって間もない雨の日、下り坂で止まらなくなった自転車は鈴子の小さな体を猛スピードで電柱に激突させた。
首がおかしな方向に曲がっていたと人から聞かされただけなのに、無惨《むざん》な鈴子の姿のみならず激突の瞬間の生々しい音や死の直前鈴子の顔に貼りついた恐怖の表情まですべて克明《こくめい》に覚えているような気がする。
父母はおまえのせいではないからとしつこいくらいに慰めてくれたが山口さんの心には決して癒えることのない深い傷が残った。
鈴子とそっくりのノイが鈴子と同じことを言いながら同じ笑顔を作るのを見たとき、どうにもたまらず山口さんはぼろぼろと涙をこぼした。
「ごめんよ」
突然見知らぬ外国人それも大の男に店先で泣かれ、ノイはさぞかし面食らったにちがいないのだが、直立したまま泣き続ける山口さんの頬に手を当てると親指でそっとその涙を拭《ぬぐ》い、鈴子の顔で微笑んだ。
「ニーさんのせいじゃないヨ」
泣き崩れそうになり、必死で嗚咽《おえつ》をこらえようとした。
「兄さんのせいじゃないよ」と言って微笑む鈴子の姿を山口さんは今でもはっきり思い出せるが、それが本当に鈴子なのかそれともあのときのノイなのか、弱い自分の心が作り出した偽《にせ》の記憶なのかよくわからない。
「みなほんまのことですわ」ばあさんが言った。
そうだった顔を洗おうと思ったのだ。旅館のぎしぎし音の鳴る廊下を歩いていたはずなのだが、気づけばノイのアパートの暗い廊下にいる。
「日本の警察は日本一ですからな」いっしょに歩きながらばあさんが言った。
「それは、昼間に聞きましたな」
「姉さんは日本にいるのヨ」ノイが言った。「日本のケーサツ、日本一ネ」ノイはそんなこと言わないと思う。
ノイの暮らしは貧しく、恐ろしいまでに過酷なものだったがノイ自身はそれを不幸とは思っていないようだった。
狭い一部屋を友人と共同で使っており、ナーという名のその友人も明るく親切な女性だったはずだがどういうわけか今は日本の旅館のばあさんがいるのが気になった。
「ナーてそれ人の名前だっか」けったいな名前やなー、とばあさんは無遠慮《ぶえんりょ》に言った。ナーて。
「ニーさん、名前なんとイウカナ」
「達之助《たつのすけ》」
「たつねそけ」真顔でノイはうんわかったと頷《うなず》いた。「たつねそけ」
「あー、ニーでいいよ」この国の人々は皆自分で決めた適当な名前を通り名にしているのだそうだ。ナーがいるならニーがいてもよかろう。
「ニーさんナ」
「そう。ニーさんはニーさんだよ」
数日後には王の一行とともにこの国を発《た》つことになっていたが山口さんは休暇を取ってすぐにまた戻ってくるつもりだった。そのままノイと暮らしてもいいとさえ思っていた。自分にできることならなんでもしてやろうと思った。
「それはまたかわいそうにな」ばあさんが言った。
王女がさらわれたのだという今の不安が胸の内にどっとよみがえって一瞬頭にかかった靄《もや》が晴れた。かわいそうなこととはいったいなんだ。王女の身になにかあったのかと恐れたが、あいかわらずばあさんは大広間のお膳の横にちょこんと正座したまま、今は茶をすすっている。
河合も西畑もいない。
「あの、なにか連絡は?」一瞬眠っていたようだと思った。ノイの夢を見ていた。
「なんもおませんわ」ずずずっとばあさんは茶をすすり、ごくっと飲み込み、っはあーと鋭い溜息をついた。ずずっ、ごくっ、っはあーというパターンが二度三度くりかえされる。
腕時計を見るがやはり九時三十八分のままである。
「つまりノイさんの形見なんですなあ。その時計」うんうんと頷いてばあさんは前掛けの端で目頭を押さえた。泣いているようだったが、ノイのことをなぜ旅館のばあさんが知っているのか、山口さんは混乱した。
王の一行は帰国の前日、オペラを鑑賞する予定になっていた。
一度でいいからワタシもオペラ見たいネとノイが冗談交じりに言ったので、じゃあおいでよということになった。
観劇の際の席については山口さんが責任者として劇場支配人と打ち合わせていたので、ノイひとりを紛れ込ませるのは造作《ぞうさ》もないことだった。
とはいえ王室といっしょに入場させるわけにもいかないので、少し早めに着席しておくようにとノイには告げておいた。一般席からは見えないバルコニー席で、あとから山口さんもノイの隣に座り、こっそりいっしょにオペラを観るつもりだったのである。ノイはめちゃくちゃ嬉しそうにしていたが、その時間を楽しみにしていたのはむしろ山口さんのほうだったかもしれない。
鈴子の面影に惹《ひ》かれた出会いの瞬間から数日経っていた。
話をするたび、ノイの笑顔を見るたびノイに対する自分の愛情が別のものへと変化していくのを山口さんは複雑な思いで受け入れた。
ノイは鈴子ではない。また別の温もりだ。
オペラ座へ向かう直前、ノイの席を頼んだ劇場関係者に確認の電話を入れてみたら、お連れ様は先ほど到着されましたと浮かれた声が返ってきた。お美しい方ですね。
黙って送り届けさせたドレスをノイは気に入ってくれただろうか。
オペラ座のアプローチへと入ったリムジンの中で王の一行は知らせを聞いた。
王女暗殺を謀《はか》るテロリスト数名が逮捕され、どうやら市内の何カ所かに爆弾を仕掛けたと白状したらしい。
その瞬間、以降の予定はすべてキャンセルされた。
警護の警察車両がけたたましいサイレンを鳴らしはじめ熱く淀《よど》んだ空気が張りつめる中、リムジンはオペラ座を離れ急遽《きゅうきょ》警察署へ避難することとなった。
オペラ座へもすぐさま避難するよう警告が発せられたのだが、誰がなにをする間もなく大爆発は起こった。
リムジンの窓から、オペラ座の爆発炎上を山口さんは見た。声も出なかった。涙も出なかった。
「あんたもつらい人ですな」ばあさんが言った。ずず。ごく。っはー。
つらいのかどうかもわからなかった。
あのあと努めて平静を装って公務に打ち込んだのは、少しでも気を緩めたら最後、自分という人間そのものが跡形もなく崩れ散ってしまいそうだったからだ。
死ぬのはかまわなかった。とっくに心は死んでいた。ただ取り乱したくなかったのである。みっともない姿をノイに、鈴子に見せたくはない。静かに、堂々と、己の命が消えるのを見届けてやろうと思ったのだった。
しかしひとりだけ、山口さんの変化に気づいた人物がいた。
まだ幼かったカナコ王女がある日、なにげなく口にした。
「山口さん、なにがそんなに悲しいの?」
そして王女は、自分も困ったような怒ったような複雑な笑みを浮かべて山口さんの目を覗《のぞ》き込んできたのだった。
人間は逃れようのない悲しみの底に突き落とされると、いとも簡単に押し潰され壊れてしまうものだが、誰かの、ほんの些細《ささい》な思いやりひとつでなんとか強く生きられるのもまた事実である。
王女だけは、どんなことがあろうと命をかけてお守りしようと思った。
堂々と消えるのではなく堂々と生きて役目を果たしてみせようと、山口さんはそのとき鈴子とノイに誓ったのだった。
ふたりには、すべてやり終えてから、それからあやまりに行こうと思った。
「あやまることなんか、なんにもありませんがな」ばあさんが言った。
「にいさんだいすきだからね」
「え?」
今のもばあさんが言ったのかと山口さんは顔を上げた。
ずず。ごくっ。っあー。
大広間にいるのは山口さんとばあさんのふたりだけだ。
「今、何時でしょうか」
「ええと」ばあさんは首を巡らせてヨガのポーズみたいなことをした。「あそこに時計が、ええええと」
蛍光灯の光がほとんど届いていない仄暗《ほのぐら》い隅の方に掛け時計があった。
「九時半ですわ」ばあさんが言った。
よく見れば半より少し過ぎている。九時三十八分だった。
「王女さんは、大丈夫だっせ」ばあさんは妙にはっきりとそう言って、少し怒ったような顔で微笑んだ。
ふと腕時計に目を落とすと、針が動き出していた。
河合と西畑が、王女から電話があったとどたどた報告にやってくるのはこの直後のことである。
王女を迎えに行くリムジンの中で、山口さんはそっと自分の財布を取り出して開くと、カナコ王女の写真を取りだして眺める。
王女を救ってくれた日本の青年が同じ雑誌の切り抜きを後生大事にしていることを山口さんが知るのはもっとずっとあとになるのだが、山口さんがこの写真を気に入っている理由は王女が愛らしく写っているからではない。
この写真が撮られた記者会見のとき山口さんの隣にはノイがいて、写真の端に小さく写っているのだった。
王女の背景としてぼけてしまってはいるが、その顔が幸せそうに微笑んでいることを山口さんは知っている。
あの蒸し暑くねっとりした風と、太陽の強烈な光を受けて輝く優しい笑顔を思い、深い悲しみとともに少し幸せな気持ちになった。
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Producer Interview
大久保町シリーズはいかにして出来たか
[#地付き]プロデューサー 武田康廣
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今回、三部作として完結した大久保町シリーズの誕生秘話をプロデューサーである武田康廣氏にインタビユーした。
[#ここで字下げ終わり]
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―― まず何故、大久保町を舞台にした作品が生まれたのでしょう?
武田 まあ、よお聞いてくれた。あの男はビールばっかり飲んで人の話は聞かんわ、自分の言うた事覚えてないわで仕事をさっぱりしやがらんねん。
―― あの男って田中監督のことですか。
武田 阿呆か。田中以外にそんなエエ加減な監督がおるかい。それでもワシは心優しいさかいに、監督、一応顔立てて監督言うとくけどな、その監督にそろそろ次の作品やらひんかと聞いたわけや。そしたらすごい企画を考えてる言うわけや。で、話を聞いたら世界中を舞台にした冒険ロマンアクション言うやないか。しゃあけど、さすがにそんなに金あれへんがな。無理や言うたら、大丈夫や言いよる。ただ取材だけは、海外に行く。それも一人やから金もかからん、学生の夏休み旅行ぐらいの予算やし、まあエエかということになったんや。
―― 海外取材ですか? 大久保町シリーズには特に海外は関係無いように思えますが。
武田 海外取材に構想ウン年いうたらエエ宣伝文句になるがな、それにいざとなったら取材のネタだけでも本一冊ぐらいかけるやろ。それにワシは太っ腹やしな。
―― 取材の成果はいかがでしたか?
武田 そうそうそれや。アノ男、いや監督言うとくけどな。監督は、ワシの予想をいつも超えよるねん。監督は、なんと紛争中のボスニアに潜入しよったんや。おまけに国連軍の保護下を抜け出して、そもそもなんでボスニアに入国できたんかもわからんし、国連軍のキャンプに入れたんかもわからんねんけどな、で、抜け出してどうも現地の戦闘集団に紛れ込んだらしいねんな。
―― すごいですね。確かにそれだけでもルポ本がかけますね。
武田 ところが紛れ込んだわエエねんけど即戦闘に巻き込まれて怪我して結局国連軍に拾われて強制帰国や。とはいえそこまでしたんやからちょっとはエエ脚本かけるんちゃうかと思ったら、怪我の療養で半年もゴロゴロしてやがんねんで。
―― それにしても何故ボスニアが大久保町になったのですか?
武田 ようやく書けた脚本を読んだら舞台は大久保町や。一歩も出えへん。何でやいうて問い詰めたらゲロしよったんよ。要するにボスニアまで行ったら、行くだけでもエライけどな、速攻で国連軍につかまりそうになって、逃げたらボスニア軍の攻撃に巻き込まれて、持っていた自転車、なんで自転車やねんと思うけど折りたたみの自転車をもって行ったらしい、その自転車で逃げたら転んで手怪我してそのまま国連軍にアホか言うて捕まって送り返されてん。で、怪我治る間まあ怪我いうても手やからな、町の中は歩けんねんな、歩き回っているうちにな、ボスニアの戦場も大久保の町もおんなじ町やココを舞台にしてもおんなじ志を持った作品は出来る思たんやて。
―― しかし、大久保町には何もないでしょうに。
武田 ワシもそう言うたんやけど、大丈夫や僕の頭の中の大久保町にはすべてある言うねんな。で、西部劇や。これお前OK牧場の駄洒落やないかと。その次が要塞や。駄洒落にもなっとらん。最後がゴッチャ混ぜや。殺したろかと思たんやけど、いや待てよここまでぶっ飛んどったら逆に受けるんとちゃうか、まかり間違うて名作になるかもしれん。何よりもロケ代が安いし、大久保町には何にも無いさかいにちょっとぐらい車が暴走したり爆発特効したり撃ち合いしても誰も文句言えへんやろうと考えたわけや。
―― 結局思惑通りになりましたか?
武田 そこはあんた、蛇の道は蛇いうやろ。かなりヘビーやったけどな(笑)そやけど最後の蛸だけは大変やったわ。あいつらホンマに気持ち悪かってん。
―― どうもありがとうございました。
武田 蛸や、あの蛸がアカンかったな。蛸のシーンがもうちょっとうまいこといっとったらなあ。蛸がなぁ。
[#地付き]【END】
[#ここで字下げ終わり]
蛇でヘビーかあ相変わらずですなあ。武田さんがときどき思い出したように発する駄洒落の中では「なんか前にもおんなじように太ってたような気がするなあ。そらデブジャー」というのもけっこう好きですが、以前ホテルのラウンジでなんの脈絡もなく突然叫んだ「股間人形マタドール!」というのが今のところ武田駄洒落の最高傑作だと思います。
編註:「Producer Interview」は、田中哲弥氏の推薦により、プロデューサー・武田康廣氏に構成・執筆をお願いしました。武田氏は現在、株式会社ガイナックスにて取締役統括本部長をされています。
[#改丁]
Original Commentary
解説
ついに大久保町シリーズ完結である。
とはいえ三作ともそれぞれ独立した話であるし、今回登場人物全員死に絶えたというわけでもないので、なにがあろうと金輪際二度と書くまいという鉄の意志を秘めた完結ではない。
なぜかは知らないがこの世において物語というものは、三つあたりでいったん完結するらしいのである。なんといっても三部作というくらいのもので二部作とか八千九部作などというのはあまり聞かない。三部作のあとに四作目があったりすると、これはそこでいきなり四部作になるかというとならず、どういうわけかそこから『新三部作』となるのである。そうなると無理にでもさらにもうふたつ書かねばならんのだ。
へんな決まりだ。
それはともかく今回も完成までにずいぶんと期間を要した。もちろんすべて、綿密かつ徹底した調査と危険極まりない決死の取材に必要な時間であったことは言うまでもない。怪我をしてしばらく腕が胸より上に上がらなくなったこともあったが、あれは激戦下のボスニアで地下組織への潜入取材を敢行中、空爆の巻き添えを食って負傷したものであり、決して自転車でこけたのではなかった。
嘘ではないというのに。
前二作にしても本書にしても、これだけ本当だ本当だと嘘臭くなるほど書いているにもかかわらず、やっぱり嘘だと思っている人が多いようで困る。状況設定のほんの微妙な違いを指して矛盾しているなどとなんとも了見の狭いことである。二作目に登場したスイス行きの船だって実際に存在する。著者は明石からスイスまで乗った。
頭からなんでも嘘だと決めてかかるのはよくない。全部本当のことだと認めてくれる人だってちゃんといるのである。
ある人など「『大久保町のなんとか』という本」に自分のことが書いてあるが自分はあのようなことを言った覚えがないと苦情を言ってきた。「もしかすると似たようなことを言ったかもしれないが、勝手に書かれては困る」のだそうだ。
ご迷惑をおかけした。お詫び申し上げる。
真実を追究していくと、実に様々な困難に遭遇するものである。
驚いたか。
ぼくは驚いた。
[#地から3字上げ]田中哲弥
そうそう。自転車でこけたわけではなかったのだがあのときはかなり痛かったのを今でも覚えている。本当はボスニアで負傷したのだが、自転車でジャンプして着地に失敗し顔から落ちたような怪我であった。幸い骨は折れてはいなかったものの、しかし少し深めに息を吸うだけで激痛が走り左胸全体が紫色に腫れ上がった。団地の階段を自転車で下りようとして転がり落ち、左半身全部擦り傷になったのもこの頃である。大久保駅のホームで傷だらけのぼくの顔や腕を見た子供がなまはげ見たように泣き出したのはおもしろかった。
[#改丁]
Trailer[#地付き]FAREWELL, OKUBO-CHO
兵庫県明石市大久保町に外遊中の王女様がやって来た。信じ難いが、本当だ。訪問の理由が“標準時の町であり、人類のルーツ明石原人がうじゃうじゃいると言えばそこはもう日本の中心地”という侍従
の勘違いなのだから仕方あるまい。
ところが王女様は、町に到着するなりささっと手際よく誘拐されてしまった。この王女を偶然救い出したのが、生粋の大久保町民・松岡芳裕。意味不明の鼻歌と財布を拝むのが癖という一風変わった青年である。果たして彼は謎の誘拐組織から王女を守ることが出来るのか……?
というわけで大久保町シリーズ、これにて完結!! のはずだ!!
『決闘』『燃えているか』の前二作の紹介文はぼくが書いたのだが、この文章はぼくが書いたのではない。当時の担当編集者であるSUE鈴木氏が書いてくれたのだろうと思い、電話して訊いてみたら「うーんどうだったかな書いたような気もするけどなあ」ということだった。
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底本:「さらば愛しき大久保町」ハヤカワ文庫JA、早川書房
2007(平成19)年9月10日印刷
2007(平成19)年9月15日発行
入力:
校正:
2008年5月16日作成