人類は衰退しました
[#地付き]田中ロミオ
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)衝撃《しようげき》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)内職|癖《へき》
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CONTENTS
妖精さんたちの、ちきゅう
妖精さんの、あけぼの
四月期報告
あとがき
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ひどい揺れでした。
何十年、あるいは何百年か昔までは舗装《ほそう》されていた道も、今は見る影もなく荒れ道になっており、左右から押し寄せる雑草や浮き出た血管のような根っこによって、いよいよ混沌《こんとん》の様相を呈しつつありました。
そんな道ではなくなろうとしている道を、トレーラーは無頓着《むとんちゃく》に踏《ふ》みつぶして進んでいきます。
乗り心地は最悪の一言でした。
障害物を踏みしめるたびに、わずかな衝撃《しようげき》は増幅され荷台に……ひいてはそこに木箱と一緒に収まっているわたしにまで伝わってきます。
荷台での旅は優雅《ゆうが》なものと決めてかかった自分の愚《おろ》かさが恨めしい。
せっかく花が咲き乱れる街道を旅しているというのに、お尻《しり》の痛みがひどくては楽しむどころではありません。
気分的にはドナドナに近く。
「素直に助手席に座っていれば……いや」
眩《つぶや》いて、すぐに却下します。助手席に座るということは、運転席に座っているキャラバン隊長さんとの否応《いやおう》もない会話にさらされることを意味します。人見知りで焦《あせ》ると空回りするわたしにとって、それは神経を削る時間になるはずです。
心とお尻、削れて嬉《うれ》しいのは後者でしょう。
とはいえ、さすがにたまりかねるものがあり、運転席に向かって声をかけます。
深呼吸ひとつを挟んで、
「……あとどのくらいでちゅきますか?」
どもってしまったのですが、相手も気付かなかったようなので特に言い直さずにおきます。
知らない人と話すのはやっぱり苦手。
「三、四時間かね。お天道様《てんとうさま》が隠れちまわなけりゃね」
巌《いわお》のような隊長さんは、振り向きもせずに答えます。
短くお礼を口にして、幌《ほろ》の上に傘のように張り出した無骨《ぶこつ》な太陽電池モジュ―ルに思いを馳《よ》せます。
このトレーラーは燃料電池や太陽光などを併用する、今や稼働《かどう》しているだけでも貴重なハイブリッド・カーだと思われますが、常用しているエネルギー源は一種類だけなのかもです。
途端に不安になってきました。
無料で同席させてもらっている以上、文旬など言える筋合いではないのですが。
時速八キロほどの速度で、巨体はのろのろと進んでいきます。
「あと四時問……」
運転席から鼻歌が聞こえはじめます。
うららかな日射《ひざ》しを浴びながら運転するのは気持ちよさそうです。
こちらはとうとうお尻《しり》の痛みに我慢《がまん》できなくなり、腰を持ち上げるのですが、
「立たない方がいい。それで落ちたヤツもいるから。ちなみにそいつタイヤに巻きこまれてゆっくり死んだけども」
即、元の位置に座ります。
せめて気を紛らわせようと、路肩の向こうに自生している花々を眺めます。
視界の大半を占める黄色は莱の花。
油の材料になったり、漬け物になったりと便利な植物です。でも近くに寄るとアブラムシがびっしりついてたりして、昔のようにあの中に飛びこみたいとは思いません。乙女心《おとめごころ》は劣化するのです。ちょうど今、荷台の旅に辟易《へきえき》しているのと同様に。
臀部《でんぶ》の疹痛《とうつう》を棚上げするように、ぼんやりと風景を眺めていると、花畑からぴょこんと頭を出したものたちがいました。
「………」
目があいました。
一秒くらいでしょうか?
逃げるように頭を引っこめてしまいます。
「……まあ」
彼ら≠見たのは、子供の頃《ころ》以来になります。
あまりにも唐突で、一瞬の出来事でしたが、見間違えるはずもありません。
ひと目見たら忘れられない姿をしています。
しくしくと持続するお尻の痛みも忘れ、わたしは笑っていました。
「こんなところにも住んでるんだ」
生息可能なありとあらゆる地域に住んでいると目されながらも、滅多《めった》に人前には姿を見せない彼らです。その不意の遭遇《そうぐう》は、わたしの目に幸運の兆《きざ》しのように映りました。
彼らとは友好的につきあっていかねばなりません。
それは「学舎《がくしゃ》」最後の卒業生として、わたしが負うべき義務のようなものでした。
荷台のへりによりかかり、頬《ほお》にゆるい風を受けながら、噛《か》みしめるように思い返してみます。
卒業式は三日前のこと。
会場は老朽化《ろうきゆうか》した講堂。
そんな危険な場所で式を執《と》り行うなんて、と思われるでしょうが、ご安心を。
老朽化が進みすぎて、崩落するような天井《てんじよう》も、倒壊《とうかい》するような石壁もほとんど残っておりませんから。
式場に入ると、砂礫《されき》ひとつぶ見逃さず磨《みが》き上げられた床の上、一二の椅子《いす》がぽつんと寄り添う光景に出くわし、わたしたちはしばし立ち尽くしました。
胸元にさした生花から立ちのぼるひんやりとした香りのせいで、鼻の奥がジンと痺《しび》れてきます。この生花が萎《しお》れるまで。それがわたしたちに与えられた、学生としての最後の時間だと意識させられます。
卒業して故郷に帰るだけ。
そのことをわたしはごく軽く、淡々と受け止めていたつもりでした。ところが講堂に入るや否《いな》や、わたしの風景は突然に霞《かすみ》がかったものへと変貌《へんぼう》してしまったのです。
それは身を貫く予感でした。ことがそれだけではすまないことを告げる。
式には教授陣の他《ほか》に、多数の列席者が見られました。
しかしその中に、卒業生の親族はほとんど見られません。わたしたちは学舎《がくしや》に通うために、遠い故郷をあとにして寮生活《りようせいかつ》をしていたのです。
列席者は学舎ゆかりの教育関係者がほとんどでした。
教授と列席者のどちらもが、卒業生の数より多いのです。
前後からのプレッシャーに挟まれつつ、式典ははじまりました。
式の前、わたしたち全員は「泣かない」宣言を発しました。
大勢の来賓《らいひん》の前で泣くのは、いよいよ大人になろうというわたしたちには恥ずかしい行為に思われたのです。
卒業生は一二名しかいないのですから、式はすぐにすみそうなものでした。
ところが、教授陣は壇上《だんじよう》にずらりと横並びに整列し、ひとりひとり卒業生を壇上に立たせ、ことさらゆったりとした態度でコメントを交えながら、ごくていねいに、生演奏されるショパンの別れの曲に乗り、卒業証書の授与を行いました。
全員が泣かされました。ありえない。
コメントの概要《がいよう》はシンプルだったんです。
教授陣のレジュメがあったとするなら「その生徒との思い出を語って聞かせる」の一言でこと足りるくらい。
それ以外が、技巧の極《きわ》みと言えました。
語彙《ごい》の選択が適度に卑怯《ひきよう》で、多彩な修辞がさんざめき、表現の倒置は効果的に認識を揺さぶり、冷徹《れいてつ》に写実したかと思えば、擬人化《ぎじんか》した花鳥風月《かちようふうげつ》にあらゆる叙情《じよじよう》を演じさせ、センテンスの切れ目に浮かぶ静寂《せいじやく》が饒舌《じょうぜつ》に伝えるのも束《つか》の間《ま》、木訥《ぼくとつ》さをもって畳《たた》みかける祝辞の輪唱は気付けば韻文学《いんあんがく》の余情をたたえ……それらは壇上に立つ卒業生の双眼が必要以上に潤《うる》むところで区切りよく軽やかに収斂《しゆうれん》していくのです。
どう考えても狙《ねら》っています。
わたしは一分|保《も》たずに撃沈《げきちん》させられましたが、他の卒業生も似たり寄ったりでした。
人前で感情を見せることを極端に嫌《いや》がる友人Yでさえ、壇上から戻ってきた時には眼鏡《めがね》の奥で涙ぐんでいたほどです。
考えるに、さんざ苦労させられた生徒たちに対する、教授陣のひそかな仕返しでもあったのではないでしょうか。充分、ありえる線だとわたしには思えます。
かような公的いじめが終わると、わたしたち全員の手に染《し》みひとつない白く輝《かがや》く卒業証書が収まっていました。
一〇年以上の時間をそこで過ごし、様々なことを学び、いろいろなことを体験したのは、この一枚の紙切れをもらうためでした。しかし証書の羽のような軽さと似て、なんとも呆気《あつけ》なく終わってしまったという印象です。
わたしたちは萎《しお》れた生花を記念品としてもらった写真集に挟んで押し花にしました。写真も今では庶民のものではなくなっています。ぱらぱらとめくれば当時をいくらでも呼び起こせるというのに、この時、早くも思い出は儚《はかな》さを帯びはじめています。
物寂《ものさび》しさは、そのまま講堂で開催されたお別れ会で、弾《はじ》けました。
語りきれないからこそ混沌《こんとん》なのであり、そのことに逆らう気もない記録者といたしましては、構成要素のみの記載にとどめさせていただきたいと思います。
それは主に、以下のようなもので成り立っていました。
運びこまれる見たこともないごちそう・床を転がる色とりどりのフルーツ・誰《だれ》かのお手製らしき連装クラッカー・弾け飛ぶシャンパンのコルク・即興のピアノ演奏・声を張り上げて叫ぶ卒業生・泣く卒業生・笑う卒業生・空回りしすぎてキャラが上滑りしてしまった恥ずかしい卒業生(わたしです)・一〇分ほどしてトイレから戻ってきた友人Yの赤く腫《は》れた目尻《めじり》・酒を酌《く》み交わす年配のゲスト・左右から酒をつがれ休まず飲まされる男子卒業生・ジャズトランペットの掠《かす》れる音色《ねいろ》・泣きながらわたしの手を取ってくる見知らぬおばあさま・不揃《ふぞろ》いの合唱・老人たちも卒業生もいっしょくたに流す涙・深夜一二時を告げて重なる長針と短針――
学舎《がくしや》とは、人類最後の教育機関でした。
かつての大学、かつての文化協会、かつての民間団体……それらの統合機関として学舎が生まれたのは、もう百年以上も昔の話だそうです。
そういった教育機関の併合は、人口の加速度的な減少にともない、世界各地で見られた光景でした。
人口が減れば子供も減ります。
生徒数が不足するようになりました。
そこで他の教育機関と併合し、学区や分野を拡大する……という流れが多発するようになりました。
あとは坂道です。
五〇年前の段階ですでに、学校のある街に世界中から子供が集まって、寄宿舎暮らしをしながら教育を受けるのは当たり前の光景となっていました。
わたしたち一二名の卒業をもって、人類最後の教育機関と言われた学舎《がくしや》も閉校を迎えました。
これから教育とは、親から子に受け継がれるものに回帰していくのでしょう。
そして今、わたしは故郷への道程をお尻《しり》を痛めながら辿《たど》っています。
行く手に大きな影が立ちふさがりました。
クスノキの大木。この木には幼心にも焼きついていて、見覚えがありました。
「里」と外界を分けている、目印のような木なのです。
繁茂《はんも》する野草の中に、思い出したように民家の廃墟《はいきよ》が点在するばかりのこの一帯では、ひときわ目立つ存在です。
里からクスノキまで、子供の足で約三時間の道程。里の子供たちは皆、遠出の目標としてこの木を目指したのです。
このトレーラーなら、うまくすればあと二時間といったところでしょうか。
荷物に背を預け、体から力を抜きました。
里では新しい暮らしが待っています。
座業と同時に里での就職を決めたわたしは、自ら進んでその過酷《かこく》な道に身を投じることを決意しました。
学舎で一〇年間以上学び続けることで得た、文化人類学をはじめとする様々な知識と技術を活用すべき時が来たのです。ひとりの学究の徒としてはまだまだ未熟なわたしです。その困難な道程は若い力を否応《いやおう》もなく必要とするのであり、妥協《だきよう》も譲歩《じようほ》も諦念《ていねん》も怠惰《たいだ》も許さず、潔癖《けっぺき》なまでの探求心がなければとうてい頂きに手をかけることは望めないはずなのです。しかしわたしには、若き研究者としての自らをまっとうしたいという野望があります。若さもあります。
実現するためのチャンスも手にしています。もはや邁進《まいしん》することだけが、わたしが選択する唯一の道だとさえ思えます。
でも楽に野望を実現できるに越したことはないんですけど。
横道に入った途端、伝わってくる振動がぴたりと止まります。
クスノキの里に入ったのでしょう。 さすがに人の住んでいる土地は、地面がならされています。
「う〜ん〜」
濡《ぬ》れタオルで目を覆《おお》い、木箱の隙間《すきま》に無理やり寝ていたわたしは、揺れの程度だけでそれを悟りました。
かえって体力を浪費してしまったようで、身を起こす気力も目を開く余力も湧《わ》いてきません。
手探りで荷台のへりを探し、腕の力を使って上体を起こします。
「う〜〜ん〜〜」
尺取り虫のようにくねりながら、ようやくへりにすがりつく姿勢になると、そこで喘ぐように息を吐き出します。すでに揺れすぎて胃がひっくり返っており、酸《す》っぱいものが常に喉元までせり上がってきております。
懸垂《けんすい》の要領で顔を持ち上げ、あごだけをへりに乗せて、ようやく目を開きました。
トレーラーはちょうど民家の合間を縫《ぬ》うようにして進んでいるところでした。
手を伸ばせば届く距離《きより》にもう民家の柵《さく》が見えます。里の住宅街を貫くメインストリートも、この巨体が通るにはいささか狭いようです。
ああ、いよいよ恋しい地面と再会する時が近づいている。
いくぶん気力を回復させ、視線を巡らせて周辺を確かめました。
状態の良い民家が寄り添うようにして建っていて、後付けされたブリキの煙突のいくつかが、もうもうと煙を吐き出しています。調理中なのでしょう。
人の入っている家は、だいたいペンキで色鮮やかなパステル調に塗られているのですぐにわかります。いくら状態が良いとはいえ、築数百年という老朽《ろうきゆう》物件も多く。塗装なしではとてもではありませんが、酸性雨に侵蝕《しんしよく》された外壁は見られたものではないのです。
こうしたパステル・ハウスは今の時代、人々にとって原風景とも言うべき文化になっています。
眼前に広がる風景が、連鎖的《れんさてき》に蘇生《そせい》していく幼少の記憶《きおく》と、面白《おもしろ》いように一致していきます。
里で唯一、ピンク色に塗りたくられた民家。
絵本やゲーム目当てに通い詰めていた公民館。
ふんわりとした乳白色の家は、お菓子づくりが趣味《しゆみ》のおばあさんが住んでいて、子供が材料を持って訪ねていくといろいろと作ってくれるのです。
ていねいな運転で進むトレーラーが向かう先は、広場です。
広場は建物のいくつかを潰《つぶ》して作った円形の更地《さらち》です。そちらに目線を転じると、大勢の人がすでに待機しているのが見えました。
「わあ」
途端に恥ずかしくなり、首を引っこめます。
昔の知り合いと再会することに、異様な差恥《しゆうち》を感じていました。ただでさえ、大勢の前で話すのは大の苦手です。個別に、できたら個別にご挨拶《あいさつ》をすませたい……。しかしキャラバンは人々の注目を浴び続け、里の広場まで巨体を進めて停車してしまいます。
荷下ろしをするであろう後部ステップから見えない場所を求め、木箱と側面へりが作るスペースに身を滑らせます。この場所はグッド。体育座りをして頭を低めれば、わたしの姿は隠れるはず。ほとぼりが冷めるまで、ここにいることに決定です。
しかし世の中それほど甘くないようで。キュコキュコというクランクを回す金属音とともに、思わせぶりに側面へりが下がっていったのです。ちょうど視線を遮《さえざ》るために潜《ひそ》んでいた部分。物資を受け取るため集まっていた民衆の視線は、体育座りで登場したわたしにいっせいに突き刺さりました。
最前列で待っていたオジサンの口から、パイプがぽろりと落下します。
このトレーラーは後方だけではなく側面も開くタイプのものだったようです。
見覚えがある顔の中年女性が、誇《おか》しげに捻《うな》ります。こちらが向こうを記憶《きおく》しているように、向こうがこちらを――
「あんた確か?」
わたしは膝頭《ひざがしら》に、静かに顔を伏せました。
広場で思うがままに恥をかいたわたしは、摩耗《まもう》しきった身心を引きずるようにして自宅のドアに手をかけました。
「ただいま戻りました……おじいさん?」
薄暗《うすぐら》い家の奥から、記憶と変わりない白衣姿の祖父が猟銃《りようじゆう》を手に出てきました。 ずかずかと歩いてくる様子に老いは感じられず、内心ほっと安堵《あんど》です。
「おお、やっと戻ったのか」
老人にしては大柄な祖父は、女としてはかなり高い位置にあるわたしの頭に手を置きました。
「ふむ、縦方向に育っとる」
「……年月が経ちましたから」
ちなみにこの数年で、背丈はつくしのように伸びました。もうこれ以上はちょっと困るくらいに……。
「血色も良し。人参《にんじん》は?」
「……嫌いなままです」
祖父はふんと鼻を鳴らし、
「なんだ、中身は成長はしとらんのか?」
「してると思います………たぶん」
「ま、入りなさい。ちょうど食事にしようと思っていてな」
「え? これから狩りを?」
手にした猟銃を見て尋ねます。
「こんな遅くから行くわけがなかろう。これはちょっと改造して攻撃力《こうげきりよく》を上げていただけだ」
祖父は銃が好きです。
「キャラバンに同乗して来たのかね?」
「はい」
トラブルについては語らずにおきます。
「ああ、それとおじいさん。聞いていると思いますけど、わたしもおじいさんと同じ調停官《ちようていかん》をすることになってですね……」
「うまいクレソンがあるぞ。フライにもパンにもよく合う」
成長を訴えるわたしの声は、祖父の耳を無慈悲《むじひ》に通過していきました。
野菜と干し肉のスープ、揚げ魚・野莱・ピクルスといった各種の具材、それらを挟むための切れ目入り丸パンを入れたバスケットが、食卓に並んでいます。
すべて祖父が用意したものです。
祖父は長年ひとり暮らしをしているので、料理は達者なのです。
丸焼きだとか薫製肉《くんせいにく》とかの大味な料理を好むのですが、ときおり、繊細《せんさい》な味わいのスープを作ってくれます。ン年ぶりの懐《なつ》かしい匂《にお》い。
ピクルス多めの、自分好みのサンドイッチをせっせと組み立てながら、対面《トイメン》に座った祖父と話します。
「そうか、学校制度もとうとう終わりか」
「ええ、お別れ会に関係者の方がたくさん来てくれて……びっくりしました」
「そんなもんだ。うちのところも畳《たた》む時は関係各位が集まって……なんだ、店を開く癖《くせ》はなおらずじまいか?」
わたしの前に組み立てたサンドイッチが五っ並んでいます。
「食べながら作るのは落ち着かないので……いけませんか?」
「いや、構わないがね」
こういうのを作りだすと、つい夢中になってしまうのです。
友入は内職|癖《へき》、家族は開店癖、と呼ぶ、わたしの手癖です。
「そんな食えるのかね?」
「いえ、無理です。さすがに」
悪びれずに言います。
「アホ」
祖父の手がふたつを強奪していきます。
「丈は伸びたが、相変わらず弱々しい生きもののままだな」
「文明人と言ってください」
「元だ、元。文明なんてもうほとんど残っとらん」
「そういえば太陽光発電のトレーラーってはじめて乗りました」
「あれな。速度も馬力もないし、壊《こわ》れたらもう直せんだろうな」
「幸い、止まらずに戻ってこれました」
「キャラバンの連中はいい玩具《おもちゃ》をたくさん持つてる。おまえもあつちに就職したら良かつたんだ。楽しそうだ」
「あ、いえ……肉体労働は無理ですし」
祖父は思い出したように表情を改めます。
「本当にうちで働くのかね? べつに無理に継がなくてもいい仕事だが」
「そのつもりです。せっかく学位まで取ったわけですし、事務所だつて維持してるじゃないですか。そういう、公式に認められた居場所があるのはいいと思うんですよ」
「物好きなやつだな。よりによつて調停官《ちようていかん》とは」
「わたし向きの仕事だと思うんですよ」
「ほう、理由は?」
「……畑仕事より楽かなーと」
久方ぶりの団らんに、ついつい本音が炸裂《さくれつ》しました。
「そんな理由でか……?」
さすがに祖父が呆《あき》れた声で言います。
きりりとした目線を向けて朗々と告げてやります。
「わたしの身体が弱いことはおじいさんもご存じでしょう?」
「いや、おまえは今楽をしたいからと言ったぞ」
……言いましたっけ?
「いや、こんな時代ですから、農学や畜産の実習が基礎教育課程に含まれるわけですが……あれはたいへん辛《つろ》うございました。そこに行くと、調停官《ちようていかん》は老人にもまっとうできる仕事なわけですから肉体的にはなんら問題なかろうと」
肉親相手だとまったく緊張《きんちよう》しないで話せます。
「……孫娘が変な性格になって戻ってきた」
「んま」
「だいたいおまえは身体が弱いのではなく、単に気力に乏しいだけだ」
「はあ」
「楽ばかりしてると、歳《とし》を取ってからふんばりがきかなくなるぞ」
「はあ」
「……まあ一月も過ぎてそう思っていられるなら大物だな」
「きつい仕事なんでしょうか?」
もちろん調停官の資格を取る際、わたしはこれらの仕事について下調べを行いました。結果として、自活するための農作業その他の労働に比べ、とても楽な内容であることを突きとめたのですが……実態は違ったりするのでしょうか?
そんな疑問に、祖父は一言で応じます。
「人による」
首をかしげます。はて、そんな過酷《かこく》な労働項目があったでしょうか?
「まあ一度彼≠迺に振り回されてみるんだな、だめ孫よ」
「ひどいおっしゃりよう」
「まあとりあえずだ。明日は事務所まで来なさい。おまえのための場所を作らんとな」
そういうことになりました。
十ン年ぶりの朝を迎えると、すでに八時。
「いけない……!」
惰眠《だみん》もいいところです。旅の疲れが蓄積していたに違いありません。というか、疲れないはずがないのです、ええい。
慌てて部屋を飛び出し、キッチンの様子をうかがいます。
祖父が朝食を採《と》っていました。
「なんだ、騒々《そうぞう》しい」
「あ……おはよう、ございます……」
「うむ、おはよう」
と食事を続けます。平然と。
これはおかしい。異なことでした。わたしは言葉を失い、何かの間違いが発見されるのではないかといった不安とともに、しばし立ち尽くしました。
「……何しとる」
「え、だって……」
早くに両親を亡くしたわたしは、幼い頃《ころ》から祖父と暮らしてきました。祖父の教育方針はスパルタ式。寝坊して朝食に遅れようものなら、いっも脳天に拳固《げんこ》が落ちてきたものです。それがないとは、どういうことでしょうか? 忘れてしまったのでしょうか? 午後六時という門限を破っても、言いつけられた家事をひとつ忘れても、欠かさず拳《こぶし》をもらいました。忘れるだなんてことが、あるのかどうか………。
「私はそろそろ出るぞ。おまえはどうするんだ? 今日は事務所に顔出しをするのではなかったのか?」
「あ、はい………そのつもりです」
わたしの席には、すでに食事が用意されていました。この風景も久方ぶりです。ありがたくいただくことにします。
「で、どうするね? 一緒《いっしよ》に出るのか。それとも今日は休むか?」
「や、休んでしまっても良いのでしょうか?」
それはスパルタでは許されないことなのでは?
当然といった顔で、こう返されます。
「別に昨日の今日で慌てて働かずとも良いだろう。意思が弱いことは昨夜聞いたしな。顔色も良くない。まあ荷台に座って長時間揺られてくれば、体調が崩れるのも当然だ。聞けばおまえは三角に座ったまままるで荷物のように微動だにしなかったそうだが――」
いやーん、と叫びたくなります。
さすがは交易ルートのはじっこに位置するド田舎《いなか》、クスノキの里。個人が気軽に使える通信器機もない時代だというのに、情報はアナログ方式(風の噂《うわさ》)の分際で一瞬で伝播《でんぱ》してしまったのです。
「たたた体調はへへへ平気なんですが……」ここで動揺を鎮圧《ちんあつ》し「病弱なんですよ、深窓《しんそう》で薄幸《はつこう》で失意の令嬢《れいじよう》なんです。だから今日は重役出勤をします」
言い切ってやりましたよ。
「……」
いけない、可哀想《かわいそう》な人を見る目で見られている。
「……な、何か問題でも?」
「いや。シンソウでハッコウのゴレイジョウのために、窓際《まどぎわ》で落葉《おちば》でも数える仕事があるといいんだがな」
「ありませんか」
「探しておこう」
「でも、サナトリウム文学みたいでいいでしょう?」
「確かに外見《がいけん》だけなら、そんな感じがないこともないな」
わたしはまさに、そういう外見をしております。
人見知りする性格がさらなる拍車を掛け、わたしという存在は寡黙《かもく》で清楚《せいそ》なご令嬢《れいじよう》≠ネるニッチを完全で埋めてしまったほどです。今どきの子供はわりとたくましいですから、わたしが得た生態的地位は不動のものでした。
もっとも親しくなるとさすがに本性はばれてしまうようで、辛辣《しんらつ》な友人Yなどは臆面《おくおん》もなく「歩く詐欺《さぎ》」という評価をわたしに下したものです。
「まあ構わないがな」茶を飲み干しながら祖父が言います。「私はもう出る。おまえはあとから、来ることができそうだったらきなさい」
「はい、じゃあそうします」
「場所はまだ覚えているな?」
「ええと、あのホットケーキのような形の建物ですよね……?」
「そうだ。今日は昼まではそこにいるから、来る気があるのならそれまでに来るといい。食器は水につけておいてくれ」
さっと白衣をひっかけ、さっさと出て行ってしまいます。
取り残されたようなわたしは、ぽかんと呆気《あっけ》に取られてしまいました。
結局、寝坊の体罰《たいばつ》はありませんでした。
幼少期、無賞必罰《むしようひっばつ》(功績は一切|誉《ほ》めず、罪悪は必ず罰する悪《あ》しき教育方針)の精神で飼育されてきたわたしとしては、なんとも落ち着かないものがあります。
実に容赦《ようしゃ》のない祖父でした。
それがどうでしょう、このゆるさと来たら!
決して体罰を受けたいわけではないのですが……。
なんともスッキリしない気分のまま、朝食を終えます。
「さて、どうしましょうか」
慌てて出所するのも躊躇《ためら》われます。胸元のもやもやを呑《の》みこんでしまえるまで、なんとなくワンクッションを置きたい気分。
とりあえず張った水に食器をつけて、狭い家の中を探検してみることにしました。
懐《なつ》かしい我が家。
同じなようでいて、壁の染《し》みや装飾など、細かく記憶《きおく》と違ってきている我が家。
過去と現在を照らしあわせる、楽しいひととき。
あぜ道をぬって歩くこと一五分。
この円形|闘技場《とうぎじよう》めいた形をした大きな建物は、クスノキ総合文化センターです。
国連調停理事会という組織に所属する祖父は、このホットケーキを何枚も重ねたように見える建物で、趣味《しゅみ》や趣味や趣味や執務に取り組んでいます。三・三・三・一くらいの分配で。
遠い異国にあるコロセウム同様、上部が一部|倒壊《とうかい》して欠けておりますが、お気になさらず。
これでも傷《いた》みの少ないということで手頃《てごろ》に再利用されている、レアな大型建築物なのです。
文化センターというのは建物に元からあった正式名称ですね。
きっと地域住民に対し、文化を啓蒙《けいもう》する目的で使用されていたに違いなく。
その広さと部屋数の多さから、今では事務所棟として利用されております。大学のラボやら研究施設やら事業所やら宗教法人やら倉庫やらなんやらかんやら。実に様々な用途に利用されて参りました。と申しましても、すし詰めになっていたのも五〇年以上前のことだそうですが。
現在はほとんどが空き部屋か、代表者がいなくなってそのまま放置された状態で、このあたりの子供にとつて良い遊び場所となっていました。
「お邪魔《じやま》しまぁす」
ガラスもとうになくなり、すでに貧しげな板張りとなっているドアを開けて中に入ります。薄暗《うすぐら》いホールには全体的に乾いた汚れが張りついているばかりか、なぜか靴が片方だけ転がっていて、いかにも閑散とした印象を受けます。
当然、受付も無人ですね。
竹とんぼの残像のような螺旋《らせん》階段をのぼり、祖父のいる三階事務所を目指します。
国連とは申しますが、わたしが来るまで地域職員となると祖父ひとりだけでした。
もし祖父に何かあれば、国連の担当官は不在になってしまうところだったのです。昨今そんな経緯で閉鎖《へいさ》される施設は後を絶ちません。
さすが衰退期。
なかなか細かいところまで手が回らず、いい加減です。
「あ、ここ…………」
「国連調停理事会」と札のかかった部屋を見つけてノックしました。
…反応がありません。
「ごめんくださーい」
もう一度だけノックをしてみますが、応答もなく。
どうやら人の気配そのものがないようです。
ため息をつき、そっとノブ回しました。悪いことをしているわけではないのに、少しドキドキします。
「……おじいさん? って、うわあ……」
入ってみてビックリ。
壁の一面に、様々な銃が飾られていました。
あからさまに私物です。
それに気のせいか、火薬の臭《にお》いが部屋全体に染《し》みついているような気がします。さすがに、まさかそこまでは、ねえ……? どうなんでしょうか?
その豪気に物騒《ぶつそう》な備品群をのぞけば、とりあえずはまっとうな事務室です。
リノリウムが剥《は》がれた濃い灰色の床、適当に配置された事務机三つ、片隅にあるパーティションで区切られた小さなスペースには応接用のソファセット一式。
使用感のある机はひとつだけで、これは恐らく祖父が用いているものでしょう。書類が堆《うずたか》く積まれ、カップやらペン立てやらメモやらがカオスな具合に散らばっているのでわかります。
もうひとつの机もよく見たら使用感があります。こちらは妙にこざっぱりとしていて、卓上には数冊の文庫本とペンくらいしかなく、誰《だれ》かが使ってはいるのでしょうけどまともに仕事をしている様子はなさそうでした。あるいは祖父が、このふたつをひとりで独占しているのかもしれません。
残るひとつはまっさら。使用した痕跡《こんせき》のない机。
まあ、わたしの領土なのでしょう。
「すごいホコリ…………」
初日の仕事は机の掃除になりそうです。
それでも農作業に比べればずっと楽な仕事なのですから、文句など何ひとつございませんです、ハイ。
ちなみに応接スペースのソファセットは、夜間の主要な光源であるオイルランプ置き場となっており、あからさまに来客のなさを示しております。
とりあえず椅子《いす》に腰掛けて、途方に暮れてみたりします。
「さ、どうしようかな、ふうむ」
よく見ると事務所の奥に、隣接《りんせつ》する部屋へのドアがあります。気付いた瞬間《しゆんかん》、ドアが開いて祖父が出てきました。
「お、来たか」
「どうも」
「今座ってるそれ、おまえの席な」
と予想通りにあごで示します。
「はい、いただきます」
「任官おめでとう」
にっと笑って、祖父は言いました。
「は、ありがとうございます」
「茶でも滝れてやろう。ああ、ここの水道は使える時があるが、屋上の雨水プールからのもので飲めないからな。自分の飲む分だけ真水《まみず》持参がここのルールだ」
「ルールといってもおじいさんひとりだけですよね」
「おまえを入れたら三人だ」
と言い残し、元いた部屋に戻ります。どうやら向こうが給湯室の模様。
「ほれ」
「いただきます」戻ってきた祖父から茶を受け取り、「ふたり、では?」
「ん? 奥月《おくづき》からは知らされていないのか?」
奥月さんというのは、国連の職員さんです。
学舎《がくしゃ》のOGで、わたしの進路相談に乗ってくれた方です。残念ながら手紙でのやりとりがあるだけで、面識はありません。
「何をです?」
「助手だ」
「え、わたし新任なのにいきなり助手がつくのですか?」
「アホか。私の助手だ」
「あー」
わりと衝撃的《しようげきてき》なご発言。
「いましたかー、第三者」
計画の狂いとしては、最大限の部類でした。
「知っているものだとばかり思ってたが、おまえまだあれか、あがり症持ちか?」
「あがり症というわけではないんですが……ええと、お尋ねします。その助手の方は年配のご婦人とかですよね?」
「いや、若い男だ」
「あー……」
憂欝《ゆううつ》の原液をどばどばと注がれて、声のトーンが落ちていきます。
「学舎は共学だったろうが。何をそんなに怯《おび》える」
「……この超少子化社会ですよ。その最後の学級だったんですから。歳《とし》が近い異性などおりませんでした。―番近くて四つ下……まあその子たちとも馴染《なじ》むのに数年かけましたけど」
「安心しろ。寡黙《かもく》で人畜無害なヤツだ」
「いや、そういう心配ともいささかベクトルが違っておりましてね?」
「どうしても難しいなら別室を使うかね?」
とあちら側を指さします。
「手狭だが、ひとり過ごすくらいのスペースはあるが」
「……いや、そこまで特別扱いされるのも、ちょっと………」
「気難しい孫だな。そこまで苦手か?」
「やーそのー、苦手というわけではないんですが、ちょっと不得手で」はあ、と体内の空気を入れ換え、頬《ほお》を軽く叩《たた》いてみました。「わかりました、これも気楽な事務|稼業《かぎよう》の代価《たいか》ということで、職場でも深窓のご令嬢《れいじよう》戦略を維持していきます」
「その戦略にはどういう意味があるんだね?」
「無口な入として認識されるので、あまり話しかけられなくなります」
「つまらん人生だ……」
「ほっといてください。で、その方、今はいらっしゃらないようですが?」
「ああ、キャラバンと一緒《いっしよ》に医者が来てただろう。検査に行っている」
「お体が悪くていらっしゃる?」
「そうだな。あれこそ本当の病弱というものだ。病院に火を入れる関係で、しばらくこのあたりは節電だぞ」
今や電気は諸方に平等に行き渡るものではないのです。
「検査入院という形になるそうだから、しばらく戻ってはこない。今のうちに巣作りをすませて、精神的な安息の地でも作っておくんだな」
「人を小動物か鳥類のように……」
「ほう。なら机の位置はそこでいいのか? おまえと彼の机は向かいあっているから、そのままだと毎日対面することになるぞ」
ノー。慌てて居心地の良い机の位置を模索しはじめます。
理想は誰からの視線も届かず、こちらから一方的に監視できるポジションです。学舎では背の高さからいつだって最後列で気が楽だったのですが。
ああ、あそこ、いいなあ……。
応接スペ〜スを見ながらしみじみ思います。
「おじいさん、あの仕切りの内側……」
「そこはダメだ。応接室だ。たまに客が来たりもするんだ」
「だってランプ置き場になってるじゃないですか」
「客が来たらランプをどかせばいい。とにかく応接室はいかん。さびれた事務所には、ああいった立て板で仕切られた狭い応接室がある方が雰囲気《ふんいき》が出るんだ」
「また変な理屈を………」
祖父は趣味《しゆみ》の人です。
「そうだな。書類やら何やらは、私から引き継ぐまでおまえにやってもらうことはないからな。今日はゆっくり巣作り場所について考えるといい」
「………はい」
「もしその気があるのだったら、今のうちに彼ら≠ノ新任の挨拶《あいさう》に行ってみるか?」
「あ、それはしないといけないのですよね?」
「いや、せんでもいい」
わたしは目を丸くします。
「なぜです?」
「そのあたりは担当者の裁量次第だからな。必要ないとおまえが判断するのなら、それでいい。自由だ」
自由ー
でもそれって、職務的に問題ありなのでは?
そんな疑問を察知したのか予測していたのか、淀《よど》みなく祖父は言葉を継ぎます。
「この仕事はやろうと思えばいろいろと動けないこともないが、原則としては単なる書類の管理人でしかないのだ」
「それでは調停のおしごとはどうするんです……?」
「彼ら≠フことは彼ら≠フことなのだ。こちらでしなければならないことなど、実際はほとんどない。この部署ができた頃《ころ》はまだいろいろと問題もあったらしいが、今では調停官《ちようていかん》などお飾りみたいなものだ」
「はあ」
炭酸の抜けたソーダのような言葉を、わたしはぼんやりと受け止めます,
「良かったな。おまえの好きな楽な仕事で」
「なんだか誤解があるようですが、わたしは自らの体力を考慮《こうりよ》して、適切なジョブをチョイスしたいだけなのです。農作業は力仕事もあったり日射にさらされたり虫が苦手だったりしていろいうとイヤなので避《さ》けたいだけです」
「どう聞いてもぐうたら者の言葉だ。まあ、確かに農作業が退屈なのは同感だ」
「そうでしょうそうでしょう?」
祖父は道楽の入ですから。
「食料はハントするに限る」
狩猟《しゆりよう》採集民族でもあります。
「わたしはただの消費者が良いです……」
「お前のような者が文明を食いつぶした」
非難されました。
「他に食べる術がなかったら、さすがにわたしでも種くらい蒔きますよ。でもこういう有り難い仕事がまだ残っているわけですから」
「その通りではあるが……ふむ」祖父は不精ヒゲをしわしわと楽しげに無でます。「前言撤回だ。やはり少し苦労した方が良かろう若者よ。新任の挨拶に行きなさい。所長命令」
「そうですね、挨拶《あいさつ》は必要なことでしょうから」
第三者がいることも判明した今となつては、事務所はそれなりに緊迫感《きんぱくかん》ある場所です。多少のフィールドワークも辞さないモチベーションになっていました。
「それで、彼ら≠フ里はどのあたりにあるんでしょう?」
「ああ、そこだ」
壁にこのあたりの地図が張り付けられていました。
近寄って、細かく地形を指でなぞります。里の位置が赤枠で囲われていて、危険地帯が明示されていて、そして三角帽子マークのシールが一箇所にだけ貼《は》られています。
「あれ、これって…………?」
「そこが彼ら≠フ里ということになつているが」
よく確認します。
「これ、場所が間違つていませんか? 里に戻る途中、街道沿いでひとり目撃《もくげさ》しましたけど……このシールとは、ずいぶん違う位置だったような」
そう言うと、祖父はうーんと喩《うな》ります。
「どう説明していいのかわからんな。とりあえず、行ってみたらどうだ? ここからだと三〇分くらいだ。少し坂が続くからいい運動になる」
「わかりました、行ってみます」
「ほれ、弁当」
祖父のおやつでしょうか。白衣のポケットからじかに取り出した、いくつかの丸パンを渡されます。せめて包んで欲しかった。
「持っていく書類とかは……挨拶に必要な、その調印書とか?」
「いらんだろう、そんなもの。調印書って、何する気だ? ちょっと行つてみて、もし会えたら挨拶のひとつもしてくればいい」
「もし会えたら?」
「個体数はそれなりにいるはずだからな。うまくすれば接触できるはずだ」
「なんだかわかりませんけど、チャレンジしてみます」
「ほれ、水」
瓶《びん》に入った飲み水を渡されます。
「挨拶の礼儀とか、注意しないといけないこととかはないんでしょうか?…」
「ないぞ。センスで乗り切れ」
「……すでにこの段階で、在学中に下調べした業務内容とだいぶ異なってます」
「おまえのあたった資料は察するところ発足当時の状況下で作られた対応マニュアルの類だな。当時は難しい時期もあったからデリケートな判断が求められたが、今となってはすべてが過去の遺物だ。まあ行つてみろ。何事もEXP(経験値)だ」
「なんですかその胡乱《うろん》な単語は……」
小高い丘へ続く勾配《こうばい》を歩いていって辿《たど》り着いたのが、三角帽子マークで示された彼ら≠フ里。
里になる前、そのもっと昔には、資源回収業者が集積地として用いていた土地だったりします。
その回収資源……つまり粗大ゴミは、業者がいなくなった後もここに置き去りにされたままになっています。独特の偉容を誇る超巨大オブジェとなって。
「………高い」
扉のない冷蔵庫・真ん中あたりで見事にかち割れた洗濯機・破れたスピーカー・ツマミがあらいざらい引っこ抜かれたアンプ・爆ぜたタイヤ・弦の切れたギター・電子レンジのぎとぎと油和《あ》え・きっちり折り畳《たた》まれた折り畳み式じゃない自転車……。
そんなものが、わたしの数倍ほどの高さまで積み上げられております。
今となっては再利用する術《すべ》もないものばかりですし、錆《さび》や劣化や技術の衰退で資源としての再利用もできないため、長らく放置されているのです。
そのゴミ山を囲むフェンスはまだ倒れずに残っており、敷地内《しきちない》への扉はチェーンで固定されていました。
先に進むには扉を開かねばなりませんが、当然鍵《かぎ》などは所持しておりません。
当然、わたしは鉄鎖《てっさ》を引きちぎるような超常的な力とは無縁のうら若き乙女《おとめ》ですから、今日はこのまま引き返すしかないのですが……、
「えい」
引っ張ったらわりと簡単に引きちぎれました。
念のために補足しておきますが、鎖《くさり》が錆《さ》びていたのです。
ということで、フィールドワーク続行です。
どうせ管理者もおりませんから、無断で施設に入ったり破壊《はかい》したりすることには、問題はないのです。完全に打ち捨てられた場所です。
まず気になるゴミ山に、少しだけ接近してみます。
崩れる危険性があるので近くには行きません。巻きこまれたらまず助からないでしょう。しかしそれでも彼ら≠ェ好むのは、こういう場所なのです。何かしら童心を刺激するものがあるのかもしれません。いたずら好きな男の子がいかにも好みそうなスポット。
あてもなく周辺を歩き回ってみます。
管理ビルがあった場所を見つけました。年月と雨風によるものか、すでに建物は土台だけとなっている状態です。
「もしもーし?」
あたりをつけて声をかけてみますが、反応はありません。
三角帽子によって示されていた場所で間違いないはずなのですが、彼ら≠ェ隠れている気配さえ感じられません。
もしかすると平べったい石の下に潜《ひそ》んでいるかもしれません。持ち上げて確かめてみても、球形に変形したりハサミを装備していたりする虫たちがいるだけです。
「……失敬」
そっと石を元に戻します。
その後、大回りにぐるりとゴミ山を一周してみましたが、新たな発見はなし。
「誰《だれ》かいませんかー?」
反応もなし。どうやら完全に無人のようです。新任の挨拶《あいさつ》に来たものの、調停対象がいないのですから、どうしようもありません。
今のわたしにできること、それは。
「……いただきます」
おもむろにポケットから取り出した丸パンをくわえることだけでした。
事務所に戻り、窓辺の席から遠方の民家を銃で狙《ねら》う遊びに興じていた祖父に報告を行います。
「無人のゴミ山があったので、そこでパンを食べて水を飲んできました」
「うまかったかね?」
「いたって普通にパンと水の味でした」
「まあそうだろうな」
「まったく何の経験にもなりませんでしたよ」
「のんびり散歩を楽しんだと思えばいい」
「おじいさん、あそこが無人だということをご存じでしたね?」
「ああ。あのゴミ山には何もない」
ため息をつきます。
「徒労もいいところでした」
「根性のない孫に運動をさせてやろうという祖父の計らいがわからんのか」
「運動は嫌いです」
祖父が片手で目を覆《おお》います。呆《あき》れているようです。これは一発くるかなと思いきや、
「……………もういい」
あっさりスルー。
内心拍子抜けしながら、わたしの出した結論を確認してみます。
「要するに、あの三角帽子シールが貼《は》ってあった場所には何もない、ただの嘘《うそ》だと?」
「というわけでもない。彼ら≠ヘ人の息吹《いぶき》が残る場所を好む。潜在的《せんざいてき》にはこの土地には相当数の彼ら≠ェ暮らしているはずだ」
むむむと喩《うな》ります。
「おじいさん、調停官《ちようていかん》の仕事には彼ら≠フ状況を把握《はあく》して記録するという項目があるんですが……」
「うむ、あるな」
「一箇所に集まってくれないのでは、把握も記録もありませんよ?」
「そこは皆、苦労してきたところだろうな」とコーヒーを畷《すす》る祖父。「私もいろいろと工夫を強《し》いられた」
「なら、そのノウハウを教えてください」
「無理だな」
「……職場いじめですか?」
彼ら≠ヘ生来、隠遁《いんとん》に長じた存在です。
ですから単独で暮らしている野生化した彼ら≠、風向きを読むことも気配を殺すこともできない人間が観察するのはとても難しいのです。
「自分で創意工夫を重ねなければ、いつになっても仕事は引き継げんだろう? おまえにやる気があるのなら、いい訓練だと思うが」
「やる気はぼちぼちありますけど、先人の知恵があるのなら利用したいんですが」
「それを考えるのも仕事だ」
…なんだかちょっと腹が立ってきました。意地でも何か聞き出したい。
「しかしながらわたしは新人なわけですし、おじいさんが手本を示してください」
「いや、私には私でやることがある。助手もそのために雇ったのだ」
「上司が仕事多いのは当然でしょう。この分野ではわたしはまだ未熟者なんですから、技術と経験を効率良く吸収して、さっさと知の高速道路に乗って一人前になりたいですし、さっさと知の高速道路に乗って一人前になりたいんです」
「二度言っている……同じことを……」
祖父は少し狼狽《うろた》えていました。ちょっぴり勝った気分。
「無駄《むだ》が嫌いと言いますか」
「わかった、おまえの意見はもう。疲れる……」
さすがに年の功なのか、祖父はすぐに立ち直ります。
「簡単に言えば教えるようなことは何もない。私はこの仕事を最初からやっていたわけではないんでな。おまえが欲しがるようなノウハウなどはほとんどないし、目立った活動にも関《かか》わっていないんだ」
「天下《あまくだ》りましたか」
「……そうだ」
悪びれもせずに認めてしまいます。
「天下りといっても、私の場合、研究所が閉鎖《へいさ》された結果だ。どうせこの土地に留《とど》まるのなら、肩書き上だけでも調停官《ちようていかん》を引き受けてくれと言われて、それでだ。調停活動における目立った功績などもない」
「肩書きだけ………」
「そう肩肘《かたひじ》張る必要もない仕事だ。これからのおまえに言うべきことではないんだろうが……彼ら≠ノ我々からの指導など必要ないと私は思ってる」
「でも、いざという時に……」
「何をもっていざとするかだな。こちらから干渉しなければ、彼ら≠ヘ滅多《めつた》に姿を見せない。接触がなければ摩擦《まもう》もない。とんちか哲学のようだが、何もしないことが最善の調停活動ということになりはしないかと」
「それって、調停官という仕事の存在意義が………」
「見当たらんのだよなあ」
「うう………」
椅子《いす》に座ったまま後方に卒倒してしまいたいくらいの衝撃《しようげき》。
それは確かに楽で知的な仕事を望んではおりました。しかし無意味な仕事がしたかったのかと問われれば答えはまったくもってNOであり、要するにわたしは効率良く人生の充実が欲しかったのです。
「調停官は要職だと思っていたのに………」
[一〇〇年とか二〇〇年前だったらそうだろうな」
「ぐ………」
「だいたい通貨制度が崩壊《ほうかい》し現物支給となっているご時世に、要職も何もなかろう。こんなものはあれだ、お手伝い感覚というか、歴史的に重要だったセクションだから希望者がいるなら名ばかりでも職員を置こうという、そんな惰性《だせい》によるもので…ほれ、おまえの初任給、配給札がもう私の手元には届いてるぞ」
薄《うす》い封筒をぺらりと卓上に放り出します。
「げ、月末なのでは?…」
「月末だと配給場所であるはずのキャラバンが戻ってしまうだろう。先渡しだ」
「な、なんかありがたみがないですよね………?」
「最初からない、そんなもの」
心にダメージを受けて、わたしは言葉を失いました。そんな傷心の孫に対する祖父の夢も希望もない言葉が、さらなる精神的虐待《ぎやくたい》となって襲《おそ》いかかります。
「調停官《ちようていかん》としての仕事はだから、全部おまえに引き渡すぞ。やり方はわからんが、まあ適当にやれ。あれだ。勤労意欲があるなら、たまに報告書とか提出するといいんじゃないのか?」
事実上の引退宣言を含む、無責任な発言の合わせ技に思えました。
「ちょっとおじいさん、さすがにそれはないでしょう。上司なんですからせめて……って、話の最中に銃をいじるのやめてくれませんか?」
「来週は待ちに待った狩りだ」
磨《みが》き上げられたライフルの筒先を窓の外に突きだし、スコープをのぞきこみます。
「……天下《あまくだ》りの弊害《へいがい》が…………」
「これが楽しみで生きているんだ。老人のほの暗い楽しみにケチをつけるような無粋《ぶすい》はやめてほしいもんだな」
「ほの暗いって自分で言いますか」
祖父の決意は固いようです。
「あの……でしたら一刻も早く引き継げるよう、コツくらいは伝授してほしいんですけど」
「と言ってもだな。私はごくわずかな期間しか真面目《まじめ》には活動していなかったので………ふむぅ、そうだな………いや、待て」
立ち上がり、事務所に置いてあるキャビネットのひとつに腕を突っこむと、片っ端からファイルを確かめていきます。
騒々《そうぞう》しく書類をあさり、一冊の分厚いファイルをついに見つけ出しました。
「あったぞ、このあたりから見ていけ。先任者の記録だ。わたしの前任者だった人のものだが。ちょうど三〇年くらい前のものか?」
「まあ、そんなヒントブックが?」
「ヒントになるといいがな」
受け取り、ぱらぱらと中身に目を通します。
報告書にまとめる前段階と思われる、日報形式の記録でした。
そこに記されていたのは、彼ら≠ニ良好な関係を築かんとする若き調停官の奮闘《ふんとう》の記録に他《ほか》ならないに違いないのです(願望まじり)。
必要に応じてイラストをまじえ、彼ら≠ニの日々が綴《つづ》られています。
「これは参考になりそうですねえ……ちなみにその方は?」
「なんか、死んだ」
万物は生滅流転《しようめつるてん》していきます。
「なんだったかな……影の薄《うす》い人だったからな。死因が確か………思い出せん」
しばらく悩んでいたようでしたが、やがて「ちょっと出かけてくる」と言い残し、白衣のまま外に行ってしまいます。
ひとりになったわたしは、とりあえず手元のファイルに目を落としました。
〇月×日
今日から私も調停官《ちようていかん》だ。
いまや形骸化《けいがいか》したこの役職だが、若い力でできることはまだあるはず。
頑張りたい。
里への挨拶《あいさつ》もすませた。
それなりに苦労はしたが、前任者からコツを聞いていたおかげでうまくやれたと思う。
良い関係を築いていけたら良いのだが。
〇月×日
何日か通い詰め、だいぶ受け入れてもらえたようだ。
早くも彼らの技術を目にする機会を得られた。
噂《うわさ》には聞いていたが、これほどとは………。
この職務がいかに大切なものか、よく理解できる。なぜ組織がここまで縮小されているのか理解できない。
カメラでもあれば良かったのだが……。
かわりにスケッチを残しておく。
(該当箇所欠落)
〇月×日
今日は宴《うたげ》を設けてもらった。
素晴らしい歓待。
極上のごちそう。
酒に肉、そして魚。山海の珍味。木の実を使った多彩な料理。
実に満ち足りた時を過ごすことができた。
〇月×日
今日も凄《すご》い歓迎を受けた。
ごちそうには何を材料としているのかわからないものも多い。
そもそも、魚はともかく肉をどうやって調達しているのだろう?
彼らが狩猟《しゆりよう》をしているという話は聞いたことがない。
要調査項目としたい。
〇月×日
顔を見せるたびに熱烈な歓迎を受ける。
これでは調査が進まない、というのは嬉《うれ》しい悲鳴だろうか。
内政干渉は避《さ》けるべきだが、しかるべき資料は残したい。
〇月×日
調査はかどらず。
変わらず。今日もごちそうだ。
〇月×日
ああ、素材不明のごちそうが今目も。
どれも我々の食文化を再現した料理ばかりだ。
ビフテキというものをはじめて食した。
今では滅多《めつた》に口にできるものではない。
肉の果実とも言うべき、忘れられぬ味。
〇月×日
今日は特に豪勢だった!
次から次へと珍味が出てきた。
溺《おぼ》れるような料理だ。
確か中国の古い宮廷料理だったはず。
調査も進めたいが……なに、時間だけはたっぷりある。焦《あせ》ることはない。
〇月×日
愛されている自分を感じる。
彼らが出してくれるスペシャルコースに舌鼓《したつづみ》を打つばかり。
それ以外に何が必要だというのだろう?
かつて世界には豊潤な味が溢《あふ》れていたのだと実感する。
酒も種々様々なものが出される。毎日が利《き》き酒だ。
〇月×日
本日は寿司《すし》。
これも数えるほどしか口にしたことはないが、実に旨《うま》い。
そしてカニ汁は最強だ。
〇月×日
今日はトルコ料理だ。
豆とナスは苦手だったが、こんなにも旨いものだったとは。
揚げ物をつまみながら飲む、ラクという乳白色の地酒がこれまた。
〇月×日
パンがなければケーキを食べればいいのだ。
〇月×日
今日もビフテキに継ぐビフテキ。
酒に継ぐ酒。
ビフテキ、酒、ビフテキ、酒、ビフテキ、酒……
〇月×日
ビフ……酒…
無言でファイルを閉じます。
いい塩梅《あんばい》に窓が全開なので、そこから大空に向かってぽーんと投げ捨ててやれば、さぞや心地良いことでしょうね。
貴重な資料? これが?
これは立派に醜聞《しゆうぶん》の範疇《はんちゆう》です。
「どうだったね?」
祖父が戻ってきました。
「ビフ酒でした」
「そうだ。いいぞ。その認識であってる」
あってるというか。
最後の方など、単なる「突撃《とつげき》わたしの晩ご飯」でしかない。
「……正直、まったく参考にはならないと思います、これは」
「仕事はこのくらいでいいのだという意味で、参考にはなったはずだ」
「あの、気になったんですが前任者の方の死因って………?」
「思い出した。肝硬変《かんこうへん》だった」
そうですか。やっぱりですか。
「贅沢《ぜいたく》な死に方をしましたね、こんな時代に」
「おかげで暴飲暴食には注意する気持ちになれたろう」
「わたしはもともと小食ですから」
頭を抱えたくなります。
「で、ファイルはこれしかないんですか?」
「まあその引き出しにあるものを一通り当たってみたらどうだ? 中には使えるものがあるかもしれん……」
「ああ、この膨大《ぼうだい》な……これを……」
キャビネットは業務用の大型で。それが壁の一面をほぼ埋め尽くしています。全部に資料が詰まっているのだとしたら、読破するのにどれだけの時間がかかることやら。
ここでふと考えこんでしまいました。
真面目《まじめ》に職務を果たそうとすれば無尽蔵《むじんぞう》に苦労だけが増し、のらりくらりとサボっていればどこまでも楽になる……という構図が浮かんできます。楽をしたい。それは事実。しかし何もしたくないわけではないのです。
自分の中にある、仕事もしたい楽もしたいという矛盾した欲求を感じます。
「……ちなみに、おじいさんのファイルはないのでしょうか?」
「ない。つけてないからな」
だとは思ったんですが……。
「本当に、文字通り、何もしていない………?」
「あくまで形だけの責任者でな」
「ろくなアドバイスをいただけない理由がわかりました」
「失敬な……だが知恵はあるぞ。そうだな……おまえは、調停官《ちようていかん》の主な業務であるところの、彼ら≠ニ折衝《せっしよう》をしたり記録したりするための下地が欲しいわけだな? そのために彼ら≠ノは一箇所に集まっていて欲しいと」
「まー、そうです」
不本意そうな顔から一転、祖父は思考にふける真摯《しんし》な様子を見せました。やがて面《おもて》を上げてこう言います。
「甘味はどうだ?」
「甘味? 砂糖とかですか?」
「いや、甘いものだ。いろいろあるだろう。菓子の類《たぐい》が。連中はそういうものが好きだからな」
「お菓子で釣るわけですか」
「そうだ……これは古い手なんだが、容器を土に埋めて、そこに蜂蜜を注いで一晩待つという作戦があって、効果は絶大だったそうだ」
「カブトムシを採《と》るのではないのですが……」
「甘い蜜に寄ってくるところは同じだ。彼ら≠ヘ本能には逆らわん」
「言いたいことはいろいろあるんですが横に置くとして……何よりその戦法は、えてしてお目当て以外の虫たちを大量に引きつけてしまうおそれがありはしませんか?」
「そんなものは手で取りわければよかろう」
「トラウマものですな」
「そんなことを言ってたらフィールドワークなんてできんぞ」
「まあ、そうなんでしょうけど……わかりました、やってみます。ありがとうございます、おじいさん」
わたしは配給札の入った封筒をつかみ取り、事務所を後にします。
広場に駐留しているキャラバンに寄り、嗜好品《しこうひん》に交換できる配給札を一枚渡し、選択できる品目から瓶詰《びんづ》めのソレが残っているのを見つけて受け取り、自宅に戻ろうという時にはすでに六時直前という頃合《ころあ》いでした。
「ただいま戻りました…」
「ああ、おかえり」
時計を見ると、残念ながら六時を一分ほど過ぎていたようです。急いで帰ってきたつもりですが、今度こそ門限破り。諦《あきら》めるほかなさそうです。
「では」
祖父に詫《わ》びるように頭《こうベ》を垂れます。叩《たた》きやすいように。
「……何をしとる」
「おや、お咎《とが》めなしですか?」
「何のお咎めだね?」
あれれおやや?
違和感が膨《ふく》れあがります。
でも藪《やぶ》をつついて蛇を出す愚は避《さ》け、そそくさと自室に引き下がることにしました。幸運の原因を突きとめようとして幸を逃すことはないのです。
翌朝、わたしは祖父に一言断り、自宅から直接現場に向かいました。
ゴミ山は相変わらずシンと静まりかえっており、何者かが潜《ひそ》んでいる気配はありません。
場所に目星をつけて、持参してきたシャベルで穴を掘ります。一〇センチほどの穴ですから作業は一瞬《いっしゆん》で終わりました。そこに空き缶を埋めます。虫対策として切り口が地面より少し高い位置になるように固定。
作業はものの数分で終了。
この仕掛けに蜂蜜《はちみつ》を注いで一晩待てば、翌朝様子を見に来たわたしは見事インセクト系のショック映像に出くわすことが可能なのです。
なので考えました。
液体はまずかろう、と。
固形であれば摂取できる種もいくぶん減じるのではないかと、まあ素人《しろうと》考えではありますが、思ったのです。
そうして調達してきたのがこの瓶詰めの――金平糖《こんぺいとう》
底が隠れる程度まで注いで、あとは待つばかり。
「あとは、場の楽しい度だな」
「楽しい度」
胡乱《うろん》な言葉その二。
事務所に帰還し、再度の助言を請うことで得られた言葉がこれでした。
「楽しい度が低いと、彼ら≠フ活動性は低下していくのだ。特に個体数が少ないうちは外部的な要因がないとなかなか定着はしないな」
「楽しい……それはお祭りですとか?」
「だけじゃないそ。遊戯《ゆうぎ》、菓子、踊り………………楽しいと感じることはいくらでもある」
「また漢然としたアドバイスですね」
「例の仕掛けは試してみたのか? どうだった? カブトは採《と》れたか?」
「六時間置いて見に行きましたけど、アリがベルトコンベアを作っていただけでした。カブトはいませんでしたよ」
祖父はちょっぴり残念そうでした。
「それは楽しさが足らんのだ。もっと場を彩《いろど》らなければいかん」
「どうすれば楽しい度は上がるんでしょう?」
「いろいろあると思うが。たとえば、子供用のランチプレートでライスに立てる旗あるだろう、ミニチュアの旗」
「あまり印象にないんですが」
恐らく祖父は外食産業に見られた普遍的なメニューの約束事を示しているのでしょうが、わたしの世代にはいまいち認識にないものだったりします。
「たとえのたとえになるが……あれだ。子供が喜ぶように、野菜を星形にカットするような」
「ああ、そういった手管《てくだ》ですか。何度か学舎生活でくらいましたけど」
「くらった? 変な言い方だな」
「負けませんでしたから」
と、寮での戦いのような食事の日々を回顧《かいこ》します。
なんとしても子供らに人参《にんじん》を食べさせねばならないという非現実的な妄執《もうそう》に取りつかれた寮母《りようぼ》。対して、胸が吐き気で満ちるような甘みを断じて嚥下《えんか》すまいと決意している我が肉体。
しかも悪いことに、人参を残していたのはわたしだけではなかったのです。
わたしと同期の生徒らが、揃《そろ》ってあのせり科の越年草を嫌悪《けんお》していたのは単なる偶然でしたが、皆がアレを公然と残しはじめたのは意図的な行動の一致でした。
その闘争史《とうそうし》の進歩と変移は、現実のそれとひどく似ています。
最初はごく原始的なやりとりであったのです。相互の無防備さは、閉鎖《へいさ》環境で天敵もなく進化してきた(今は絶滅した)大型|哺乳《ほにゆう》動物にたとえられます。たとえばそれは丸焼きですとか、サラダスティックですとか、輪切りにしてバターで焼くか茄《ゆ》でるかしたものですとか………そういう何ら出自を隠さない、ありのままの姿が、食卓にはしばしば見られたものです。
やがて寮母は気付きました。いろいろなことにです。
まず、出せども出せども手つかずで戻ってくる人参の存在に。気付かないはずもないのですが。寮母はもちろん文句をつけました。しかしがんとして拒絶を続けるわたしたちと彼女との間に、やがて効果を期待しての言葉はなくなっていきました。聡明なことに説得の無意味さにも、彼女は気付いたのです。
威嚇《いかく》の言葉がなくなると、あとは技術の進歩があるばかりでした、
星形にくりぬくという調理術などは、その初歩の初歩たるものと言えます。
不毛な争いはやがて野莱ジュースに少量混入するという、極めて高度な水準にまで達したのですが、それ以上に顕著になったのが水面下での諜報戦《ちようほうせん》でした。曰《いわ》く「今日は仕入れの者がアレのカゴをぶらさげてきた」だの「調理場の片隅に箱に詰まったアレが発見された」だのといった言葉が飛び交うようになったのです。
調理場にアレが置かれているということは、その日の料理は警戒すべきものということを意味します。
寮母もこの愚行にはすぐに気付いたのか、口八丁を効かせて子供たちを牽制《けんせい》するのですが、ついうっかり「あんたたち喜びなよ今日は人参はナシだよ」などと言おうものなら、たちまち年少組の実行部隊が厨房《ちゆうぼう》に忍びこんでないはずの人参をすべて盗みだすといった身も蓋《ふた》もない政治色を呈しはじめたのです。
…………というような話をしていたのですが、途中で祖父は疲弊《ひへい》した顔になって手を振りました。話は中断されます。
「……人見知りをするくせに図太い性格になるわけだな」
成長したと言って欲しいところです。
「話を戻すと、おもちゃの旗のひとつでも立てれば、楽しい度が上がるという理解で良いんでしょうか?」
「上がらないはずがない」
「なるほど。………試してみます」
旗。そんなものは簡単に用意できます。
夕食後、適当な棒と布きれで作りました。
旗の絵柄……つまり国の選択には悩みました。
国旗と申しましても、手描きできるものとできないものがあります。
祖父から事典を借り、国旗のデザインを調べたところ、インドネシアやリビアは簡単そうでした。リビア国旗などは手描き以前に単色ですし。
対して、サンマリノなど複雑な模様が描かれたものは、少し再現できそうにありません。
楽しげなデザインであることも重要そうです。
スリランカみたいに動物が描かれていて良いのかとも思いましたが、悩んだ末、旧世紀で最も娯楽度の高い国旗は……セーシェルに決定しました。
なんかこう、広がる感じですね。ワイドに。
翌日、完成した旗を持ってゴミ山に設置に向かいました。
アリの労働力とは凄《すご》いもので、昨日の金平糖はひとつぶ残らず持ち去られていました。この罠《わな》は完全に不発となったのです。
さて、同じ仕掛けを再利用して客寄せをやり直すわけですが、社会性昆虫のアリが餌場《えさば》を記憶しないということがありえるでしょうか?
わたしは穴の場所を変更し、再度容器を埋め直します。横に旗をさして完成。
さて。
一度戻るのもしんどいので、今日はこのまま観察してみようかと思います。そのための準備も怠《おこた》りなく揃《そろ》えてあります。
ある程度の距離《きより》を置き、ピクニックシートを敷《ひ》きます。
その他の持参物。弁当・水筒・茶菓子に貸本、帽子鉛筆にスケッチブック、年代物の双眼鏡。双眼鏡だけは祖父のものを借りました。
うららかな春の陽気《ようき》のもと、充実のフィールドワークに励むのも悪くはないでしょう。一冊のスケッチブックと小説本があるのですから、半日だって粘れます。
頬《ほお》をぴしゃりと両手で叩《たた》き主気合いも充分。
「いざ」
腹這《はらば》いになって両肘《りようひじ》をつき、双眼鏡を構えます。
目覚めは快適でした。
薄雲《うすぐも》でぼやけた陽光を背中に浴び、いっしかわたしは眠りこけていたのです」
「しまった………」
フィールドワークときどきピクニックの予定が、いきなり崩れてしまった。
すでに数時間ほどが過ぎてしまったようです。時の流れはいつだって穏《おだ》やかに残酷《ざんこく》なのでしょう。幸い太陽はまだ輝《かがや》いてくれておりゆますが、昼をまたいでからやってきたため、空が夕日で焦《こ》げるまでそう猶予《ゆうよ》はないはずです。
そして双眼鏡がありません。これには少々どころではなく慌てます。身の回りを手探りで、蜘蛛《くも》が旋回するように探し、ようやく足首の横に発見してほっと安堵《あんど》の息をっきます。こういった複雑な機械は、今では貴重品となっていて、なくしてしまったら同じものが手に入ることはほとんどないのです。
さて、罠《わな》の具合はどうなっているでしょう?
軽い気持ちで双眼鏡をのぞくと、仕掛けの周辺で群れて談笑している大勢の彼ら≠フ姿をもろに見ることになりました。
「………」
一度目頭《めがしら》を指でほぐして、錯覚《さっかく》である可能性を打ち消します。
改めて、双眼鏡。
間違いようもありません。確かに彼ら≠ヘそこにいました。
皆、手にした金平糖《こんぺいとう》に一心不乱にかじりついています。
「なんとも、あっさりと、まあ」
ことが簡単すぎて、どうしたら良いのかわかりません。
挨拶《あいさつ》をしなければならないのですが、このまま出て行っていっせいに逃げられたりはしないでしょうか?
どう声を掛ければ良いのでしょうか?
掛けなければなりません。わたしは調停官《ちようていかん》で、彼ら≠ニ接触しないことには仕事にもなりません。わたしは仕掛けを作り弁当持参で野に出てきましたが、ファーストコンタクトの問題をどう解決するかについてはまったく失念しておりました。
いや、それよりもまずは…
混濁《こんだく》する思考の中から、とりあえず計測という選択肢を抽出することに成功します。
……。
…………。
………………。
計測終了。なんと全部で七一人。
今また砂糖菓子の魔力に招かれ、ひとりがふらふらと寄ってきました。七二人。
全員が似たような姿をしています。
極端に低い頭身、人間用のボタンをひとつだけつけた厚手の外套《がいとう》。
三角帽子を乗せた大きな頭。
ちんまい手袋とブーツ。
異国の民族衣装のようにも見える装《よそお》いです。
格好は似ていても色とりどり。
赤、青、緑に黄色、オレンジ、,パープル、ビリジアン。
アクセサリーは多彩。
ひんまがった王冠、ペンのキャップ、折り紙のカブト、卵のカラ……………いろいろなものをひとりがひとつずつ身につけています。どこか誇らしげに。
全貝がやんちゃな男の子のような印象。
平均身長一〇センチ。
彼ら≠ェ何者なのかって?
そう――
あのちんまい方たちこそ――
地球人類だったりしますね、このごろは。
妖精さんの姿がはじめて確認された時期は、実は定かではありません。
二一世紀の中盤ごろにはすでに多数の目撃例《もくげきれい》が報告されていたそうですが、それ以前の細かな状況は、残念ながら古い電子情報網とともに形而上的《けいじじようてき》空間へと沈みゆきました。いや、別に残念ではないのです。電子情報時代の情報ほど確実性に乏しいものもありません。一時は盛んにサルベージされていたようですが、あまりにも不毛な作業だったため今では誰《だれ》も見向きもしていない分野です。なんせ嘘《うそ》だらけ。情報言語学には手を出すな。
むしろ電子情報がない時代の記録。こちらが重要です。
図版や伝承といった形で、妖精さんの存在が仄《ほの》めかされているからです。
ああ素晴らしき紙媒体《かみばいたい》。洒落《しやれ》がわかるし誠実だし気が利《き》いてるしがっついてないし何より知的だし言うことなし、でも干年経《た》っても劣化しない紙だったらなお良かったのに……とこれは恐らく人類最後の研究者の道を選んだ、友人Yのお言葉。
とにかく、妖精さんがぼちぼち目撃されるようになって、そして……いろいろなことが起こって、それらは記録に残ることもなく、ただ結果だけを今生きているわたしたちに突きつけています。
即《すなわ》ち、わたしたち人は地球人類の座を自ら引退しており、彼ら妖精さん≠ノ地位を明け渡しているのだと。
国連調停理事会とは、引退した人類と彼ら妖精さんとの軋轢《あつれき》を解消する目的で設立され、現時点ではほぼその役目を終えた組織です。
よって人類と表記される場合、それは妖精さんを示すものとなります。
わたしたちのことは……「旧人類」とか単に「人」と呼べばいいでしょう。「ホモ・サピエンス」でも構いませんよ。
妖精さんは、生物学的分類の範疇《はんちゆう》からは外れていますから(そもそも生物か否《いな》かもわからないくらいです)、これらの呼称が重複して同じものを指すことはありません。
特に「人類」という単語のみが特別枠に移動し、妖精さんを示唆《しさ》するものとなった……このことだけをご理解いただければ不都合はないでしょう。
すでに人は種としては衰退期。
ここ数百年だかを通じてゆっくりと人口を減じ、今にも消え去ろうとしています。
科学技術も失われました。
都市は放棄《ほうき》され、生活圏も縮小しました。
そして地球は妖精さんにお任せなのです。
彼らは荒れ果てた大地でも、自由に生きる力を持っています。ただその方法を、わたしたちは詳しくは知りません。言葉は通じるというのに、対話することは滅多《めつた》にない。もしかすると、昔あった何かが、わたしたち両種族の距離《きより》を生んだのかも知れません。今となっては知る術《すべ》もない真実という形で。
さて。
わたしは調停官《ちようていかん》として、彼らと馴染《なじ》みになる必要があります。
妖精さんと人の問題に対処するため、間に入るのが調停官というものです。
日頃《びごろ》から地域住民との密な対話が求められています。
そういった事前の準備が、将来の仕事をスムーズなものにします。いけてる女というものは、皆そうやって上手にエレガントに仕事をこなすものです。
最小の手間で最大の効果を。実現できた瞬間《しゆんかん》、それは有能さの証左となり、自らの衿持《きようじ》となり……これはつまり、そういう類《たぐい》の行為なわけです。
なんとしても、わたしはあの超メルヘン生命体と親睦《しんぼく》を深める必要がありました。
タイミングをはかり、わたしは身を低めて小走りに接近していきました。
その時はじめて自覚したのですが。
緊張《きんちよう》のあまり四肢がぎくしゃくしています、わたし。
正座した直後に無理して走りだすような……自分をコントロールできない時に訪れる、あの言いようのない不信感。案の定、つんのめってしまいます。あらあらどんどん地面が近づいてうふふ。いつもお世話になってますわたしの体。本当に毎度毎度ここぞという局面で恥をかかせていただいて………。
急速に地面が接近してきました。
衝撃《しようげき》。
背丈が無駄《むだ》に高いので、転倒も派手なのです。
「いたた……」
一日も早く粗忽《そこつ》なところのないアダルトな女にならなければならない、と転ぶたびに強く思う次第です。
それより妖精さんです。鼻を押さえながら顔を上げます。すると案の定、全員が銀杏《ぎんなん》のような形に見開いた瞳《ひとみ》で、わたしを注視しているじゃありませんか。
「あ、あの、その………」
うまく言葉が出てきません。
焦《あせ》りは誤判断を招きます。
あろうことか、すっくと立ち上がるわたし。
数年前に女としての大台を突破し今や恐るべき高みに置かれているはずの頭部は、身の丈わずか一〇センチの世界からは、ずももと隆起した津波のように見えたことでしょう。
彼らは、いっせいに、
『ぴ――――――――――――――――――――っ!!??』
ガラスが割れそうな、悲鳴の大合唱でした。
蜘蛛《くも》の子を散らすとはこのことでしょう。
四方八方に逃げ出していきました。
ああ、実に素早い。
空こそ飛ばない妖精さんは、神話伝承の区分におけるフェアリーよりもコロボックルに近い存在ですが、とりもなおさず敏捷性は人を大きく凌駕してます。
「あのー ちょっとー 待って……お願い……」
声をかけながらも自分でわかっています。待ちはしません。こういう局面で、普通は。
わたしも彼らの立場だったら、絶対に待たないと思いますしね。
「………」
伸ばしかけた手を、ぱったりと落とします。
瞬時《しゆんじ》に一〇も老《ふ》けたような気分です。
「なんてこと、最初からこれでは先が思いやられる……せっかくの仕掛けも場所を変えて張り直ししなければ、」
老女のように仕掛けに歩み寄り、罠《わな》の容器をのぞきこみました。
「……まあ」
隠れていました。
三人ほど。
魔《ま》が差したのです。
差してしまったのです。ぶっすりと。
気がつけば、自室の机の上に三人の妖精さん。
全員、なぜか正座です。
そして恐怖に震《ふる》えています。
無理もありません。
見つけた瞬間、容器の口を手で押さえ、逃げ帰ってしまいましたから。
はい、魔が差したというか、完全な拉致《らち》なんですけれども。
これ深刻な異種間問題になったりするんでしょうか?
原則として、調停官は妖精さん社会には不干渉が常とされております。
なんとか事態の隠蔽《いんぺい》……ではなく解決を図りたいところです。
「あの、皆さん………?」
話しかけると、三人の妖精さんは死刑の順番を告げられたみたいにビクリと身を震わせました。
完全に恐怖に支配されています。可哀想《かわいそう》。
……いや、モロにわたしのせいなんですけどね。
しかしどうしたらいいのやら。
このまま軟禁しているわけにも行きません。
「ごめんなさい、こんなつもりではなかったんですけど、こんなことになってしまって」
三人は涙目でわたしを見上げてきます。
鳴呼《ああ》、いたいけな瞳《ひとみ》。
スイッチがオンになっちゃいそうです。
「ええと、何か召し上がりますか? それとも―」エスプリの効いた冗談で場を和《なご》ませようと試みます。「あなたたちのことをわたしがおいしく食べてしまいましょうか?」
『――――ッッッ!?』
連鎖的《れんさてき》に失禁する三人。
「……ごめんなさい。一瞬《いつしゆん》自分でも不謹慎《ふきんしん》かなと思ったんですが……ごめんなさい。ですからごめんなさいってば。食べませんから。もし」
絶望に縮こまる三人をなんとかなだめます。
ちなみに妖精さんはほぼ真水を排泄《はいせつ》なさるそうです。
だからといって飲もうとは思いませんが。
気を取り直して、別のアプローチとして餌付《えづ》けを試しました。
しかも妖精さんたちが好む砂糖菓子。
最初からこうしていれば良かったんです。
「残り物ですけど、いかが?」
金平糖《こんぺいとう》を指に乗せて差し出しました。
三人はべそをかきかき顔を見合わせ、うち代表ひとりが立ち上がり、仰向けた指先に近寄ってきます。
ニ〇センチほどの距離《きより》で立ち止まり、じっとこちらの様子を見て、敵意がないことを見るとようやく受け取ってくれました。
やった。
このひとつぶは小さなひとつぶですが、新旧両人類にとっての偉大なひとつぶになると良いなあ。
「さ、どうぞ」
怯《おび》え怯え、口につけます。
意識のほとんどでこちらを警戒していて、最初は味などわからない風でしたが、次第においしいゲージの割合が増加していったようで。
ひとつぶ食べ終わる頃《ころ》には、警戒心も消滅し、なんだかまったりした様子になっていました。
「…もの凄《すご》く餌付けが簡単な種族なんですね、あなたたちって」
その様子を見て、後ろの二人もひそひそ話し合っていたので、彼らにもひとつぶずつ転がしてあげました。
たちまちたいらげられてしまいました。
三人はどこかそわそわした様子で、こちらをうかがっています。
どこか物欲しげに輝《かがや》く瞳《ひとみ》で。
意味するところはすぐに理解できました。
「………いいでしょう」
今日は大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いです。
瓶《びん》を机の上でさかさまにして、残りをぶちまけました。
「さあ、好きなだけ召し上がれ」
三人は喜色満面、菓子山に飛びこみます。
狂乱の宴《うたげ》のはじまりでした。
一〇分後――
きゃいきゃい♪
楽しげにじゃれあってます。
無心に遊んでいます。
満腹になったら遊び心が出てきたご様子。
空瓶に飛びこんだり飛び出たり詰まったりと無邪気なものです。子猫のよう。
わたしは椅子《いす》に腰掛けて、無言で彼らの様子をスケッチしています。
残ったらひとつふたつ頂こうと思っていた砂糖菓子はすっかりなくなってしまいましたが、なに、賄賂《わいろ》だと思えば安いものです。
「新任そうそう贈賄《ぞうわい》を駆使《くし》してしまった……」
敏腕|調停官《ちようていかん》の所業です。
それにしても動き回る四人の妖精さんをスケッチするのはなかなかに大変な作業で。せめて三人くらいだったらと、
…………。
「……増えてませんか?」
妖精さんたちはぴたりと動きを止めてわたしを見つめます。
一、二、三、四……確かに四人。
でも連れてきた時は三人だったはずなのですが。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せているわたしに、ひとりの妖精さんが歩み出ました。
「あの」か細い草笛のような声で「にんげんさんは、かみさまです? です?」
「…神様?」
「かみさま」
はて。
神になった記憶《きおく》はなかったりしますが。
旧人類たるわたしたちは、彼ら妖精さんにとって神にも等しい存在なのでしょうか?
「神様、ではないはずですけど」
すると四人は円陣を組んで相談を開始。代表ひとりが前に出て、
「しかしとても……おおきいです?」
「あなたたちから見れば、そうですね。でも神様ではないです」
「にんげんさんは、にんげんさんは……」何かを伝えようと言葉を探しているようです。しかし見つからない。もどかしい。気持ちが動きに表れて「ああ――」
すごく可愛《かわい》いですね、この小型人類。
「こう考えると良いと思います。あなたたち妖精さんは、今の人類」次に自分を指さし「そしてわたしたち人間は、昔の人類」
「むかしのじんるい……」
「もう引退してます。ご隠居《いんきよ》です。昔は小粋《こいき》に戦争などもしておりましたが、今ではもうまったくおだやかなものですよ」
円陣。囁《ささや》き。かまわずその上から話しかけます。
「ですからわたしのことは、そう怖がらないでもいいんですよ」
ひそひそひそひそ。
「どうでしょう、わかってもらえましたか?」
ひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそ。
「…あの、もし?…」
「にんげんさんー」
円陣が解け、ひとりが前に出て挙手します。
「何ですか?」
代表者さんは無言で指先を突き出しました。
そのままの姿勢で、ぎゅっと目を閉じています。
まるで何かを待っているかのように。
「?」
さっぱり意味がわかりません。
が、とりあえず、こちらも指先を伸ばしてつんと触れあわせてみました。
古い映画にそんなシーンがあったことを思い出したのです。
その結果どうなったかというと主
「わー」「おー」「んー」「あー」
感心されましたね。
彼らなりの握手みたいなものなんでしょうか? そうだといいんですけど。
「さて、顔見知りになったところで、ゴミ山に帰りたいですよね? 無理やり連れてきてしまいましたものね?」
「ごみやま?」
「あなたたちのいたところですよ」
「ごみやま、かえるです?」
「ええ。あなたたちの、住んでいるところなんでしょう?」
四人は同じ角度とタイミングで首をかしげます。ぴたりと重なるお返事が、
『さー?』
「自分の生まれた場所、わからないんですか!?」
「うま、れた……?」
変なスイッチを押した気配がしました。
四人はまた円陣を組みます。
「にんげんさん、ここでまたこしつもんです」
「は、はいどうぞ」
「ぼく、いつうまれました?」
「知りません」
「なんと」
「なぜそれをわたしに聞きますか………?」
「さー?」
追及しない方が良さそうです。
「それより、皆さんのお名前を教えていただけますか?」
『………』
四人分の沈黙《ちんもく》と視線を受けました。
「名前ですよ、名前。自己紹介してくれると嬉しいんですが」
「な………まえ……?」「ねーむだ、ねーむ」「ねーむとはなまえのことだ」「ぺんねーむでいい?」
「いいですよ」
「……」しばし考えこむ発言者。「………よくおもったらなかったです」
「でしょうね」
ちょっと慣れてきました。
「なるほどぼくら、なまえ、ありませなんだ」
「不便なのでは?」
「かもしれないです」
「普段《ふだん》、仲間うちではどうしてるんです?」
四人はぼけらーっと口半開きで考えます。出た結論が。
『……にゅあんすで』
「そうですかー」
平和地球|万歳《ばんざい》。
「でも、わたしから見て名無しさんばかりだと、ちょっと不便ですよ」
「さようですか」「すいませんなさい」「ちんしゃします?」「おいしくたべられます?」
「食べませんよ」
「なんだよ」「いのちびろい?」「かくごしなくてもよかった?」「にんげんさんのちにくになります?」
「……食べませんってば」
またも円陣を組む妖精さんを見て、ひとつ思い出したことがありました。
せっかくお近づきになったのですから、個体として認識する術《すべ》が必要です。観察対象の野生動物をナンバリングするような、何か。
相手は対等の(あるいは上位の)知的生命ですから、一方的なことはできません。名札をつけるとかの被験対象には取れないのです。
だから方法は実質ひとつしかありません。
「皆さん、ご注目」視線を集めて「わたしは、これから妖精さんたちと仲良くしたいと思っています。なので皆さんに名前を進呈させてください」
妖精さんたち取り乱します。
「ばかな」「そんなことが?」「かちぐみやんけ」「いっそたべて」
「じゃあ食べます」
『――――っ!?』
ひとりが失禁すると他の三人ももらい失禁ですからね、この種族。
見えないところで精神でもくっついてるんでしょうか?…
「嘘《うそ》です」
「うそだた」「だたね」「よかた」「にんげんさんにほんろうされるです」
「可愛いですね、あなたたち」
さっそく命名してあげることにしました。
妖精さんは外見《がいけん》の差は少ないのですが、格好にはそれぞれ微妙に違いがあります。
「そうですね……じゃあ一番目のあなた」
ぴっと指さして、
「ねがいます」
「えーと……なんとなくリーダーっぽいので、きゃっぷさん」
「きゃぷー」
「帽子にこだわりを持ってくださいね」
「ときめくごていあんですな」
「で、あなた」
次は二番目の妖精さん。
「はい」
「なんとなく日系な印象なので、なかたさん」
「そーきたかー」
「スーツとメガネとカメラ装備で二四時間戦ってください」
「かんたんのはんたい」
「さて三番目さんは……」
三番目さんは途中で手を挙げて言葉を断ち切りました。
「……にんげんさん、ごていあんです」
おや?
「なんでしょう?」
「じぶんでなまえ、きめたいです?」
「おや、自分で名乗りたい名前でもあるんですか?」
こくこくとうなずく妖精さんです。
「もちろんいいですとも。どんなお名前になさいます?」
「さー・くりすとふあー・まくふあーれん」
「…………サーの称号まで」
「おきに、おきにー」
お気に入りですか。そうですか。
「だめ?」
「いいえ。構いませんよ。素敵《すてき》なお名前です」
「がんばるますー」
「ぼ、ぼくなのでは? そろそろ、ぼくなのでは?」
四番目の妖精さんが、待ちきれない様子で両手を挙げます。
「ではあなたは………」
「じぶんでおなまえつけてみては?」
「あなたもですか。いいですよ。どのような名前に?」
「ちくわ」
「食べられたいんですね……」
「まちがいです?」
「ある意味」
「ならばー」
ちくわ(仮名)氏は、まくふあーれん氏をチラ見します。
「さー・ちくわ」
「食べ物は貴族にはなれませんね」
「なんとー」
本当はなれるんですけど。
ここでサーロインを持ち出しても話が複雑になっちゃいますから、ちくわさんで決定とします。
これで、四人の妖精さんと親交を結びました。
彼らに窓口となってもらえれば、他の妖精さんとも接触しやすくなるはずです。
調停官《ちようていかん》としての滑り出し、まずまずなのでは?
「さあ、そろそろ山に帰りましょうか」
「はい」「うい」「もい」「かえるのです」
「で、なぜそんないきなり切羽詰《せつぱつ》まっているのだおまえは?」
夜、自宅、食卓。
祖父の蔵書・世界人名辞典を片手に、スケッチブックにペンを走らせながら、祖父に答えます。
「知り合った四人の妖精さんに名前をつけてあげて、仲良くなったのはいいんですが……」
「察するところ、他の仲間の名前もつけてくれと頼まれたわけか」
スケッチに列挙された名前を一瞥《いちべつ》しただけで、正解に辿《たど》り着きました。
「……はい。なんだか、思っていたよりずっとフレンドリーな種族ですよね」
「彼らはもともと人間が大好きなのだ」
「身をもつて知りました」
「そのあたりはいろいろ複雑なのだがな……まああのあたりの資料にあるはずだから、自分で確かめてみるといい」
とキャビネットを指さします。
「わたしも子供の頃は、彼らと普通に接していたように記憶してますけど……こういうつきあいはありませんでしたから」
「子供もまた妖精だからな。記憶は成長するに従って、曖昧《あいまい》なものとなっていく。薄膜《うすまく》がかかるようにな。そしてそのヴェールの向こう側には、時として魔術《まじゆつ》めいた世界が隠されていることがあるのだ。浪漫《ロマン》だな」
「……えー、確かー、おじいさんは元学者大先生|閣下《かっか》なんでしたよねー?」
「なんだ、馬鹿《ばか》にしてるのか? オカルトもまた一面の真実だぞ? 歴史においても幾度となく学問として復権している。そもそも妖精が実在するという一点において、我々は真実を知らないのだからして……」
「一瞬《いつしゆん》、老人ボケかと思いましたよ」
「私はおまえより長生きするぞ」
「……まあ長生きしてくださるのはいいことなんですが、ほどほどにしてくださいね」
「死ねと言われているような気がするが」
「ああ、やっと五〇人分」
名前もちゃんと考え出すと難しい。
「しかしあっさり仲良くなるとは、うまくやったもんだな」
「そ、そうですね」
拉致《らち》疑惑については伏せてあります。
「ということは、彼らはまたあのゴミ山近辺に集まりだしているわけだな」
「そのようですよ。明日また様子を見に行くつもりですけど」
「うむ。なら……覚悟しておけ」
ペンを止めます。
「……と言いますと?」
「妖精という存在について、我々が知っていることは意外と少ない」
祖父の語りは真理をまさぐる者特有の誠実な含みを帯びます。
「彼らがどこから生まれ、どういう生態なのか……ほとんど知られてはいない。わかってることといえば、数が多いこと、高度な知性と技術を有していること、生きるための食事を必要としないこと、そして既存のいかなる生物とも異なる種であること、くらいだ」
祖父の言葉は、わたしが学舎で選択した人類新学の講義の記憶《おおく》に、特急便で接続されました。人類新学とは、人類学の妖精部門のことです。噛《か》み砕けば、妖精さんについてのお話。
確かに妖精さんには数多くの謎があります、
しかしその謎は、一度たりとも解かれたことはなかったんでしょうか?
答えはNOだと言われています。
少なくともわたしたちは、一度は彼らの謎をある程度まで解いたのではないか?
まだ地上の大半が旧人類の世界だった頃、科学と叡智《えいち》が都市に校舎に書籍に電子情報網に満ちていた頃、絶頂の頃であれば、決して不可能ではなかったはずなのです。
情報は失われます。
わたしたち旧人類は、その歴史の中で情報的な断絶を幾度か挟んでいるのです。
たとえばわたしたちは、人類が引退を決意した決定的な理由を知りません。ただ遠い昔、そういう決断があったとだけ伝えられています。
どこかに情報は眠っているのかもしれません。
でもそれを取り出して改め、真相を明らかにしようという情熱を、もう我々は有していません。
衰退しちゃってるんです。
妖精さんがどうやって繁殖《はんしよく》するのか?
なぜ食物を必要としないのか?
わたしたちと同じ言語を扱うことができる理由は?
高い技術力の根底にあるものとは?
真実は時の流れに埋没しており、それは物事を記録する習慣を持っていない妖精さんたちでさえ知り得ないことでした。
わたしたちはただ生きています。
それで充分だと言わんばかりに。
祖父の話も、そのあたりをより専門的になぞる形で進みました。
「……といった点から、ごく端的には妖精は正しく魔術的な存在だと主張する向きもあったようだな。単に浪漫《ロマン》と換言してもいいが」
「調べるのに疲れてしまったみたいな結論ですね」
「仕方あるまい。分裂して増えているかもしれない知的生命体に、どうやって科学のメスを入れたらいいのか、誰もわからなかつたのだ」
「分裂……」思い当たることがもろにありました。
「生きるのに食料を必要としない、という説もあるぞ」
「でもお菓子は食べてましたよ?」
「嗜好品《しこうひん》としてな。だが彼らが農耕や狩猟によって社会を支えている、という事実はいまだ確認されたことはない。伝承に曰く、妖精は物質のエッセンスだけで生きることができるのだそうだ」
「エッセンス……」
「説明はつくそ。妖精が繁殖《はんしよく》のための段階であると考えればどうだ? カゲロウの成虫は成虫に脱皮した後、食事を行わないのと同じように」
「ああ、それならありえますね」
「生きるために特別の労力を必要としないのなら、あの膨大《ぼうだい》な知性と活力にも説明がつけられるだろう。生殖についてもそうだが、まるで生物としてのくびきから解放されたかのような存在だ。どれだけ文明を進歩させても、最後まで生物でしかなかった人類とは根本的にそこが違う。振り分けられるリソースの差が、すなわち可能性の差となって現れた結果、今の世代交代があるのかもしれんな」
「けっこう考えてらっしゃるんですね」
「こんなもの考えのうちには入らんよ。探求というのはもつと深遠なものだ」
「………」
知識の面では、祖父には敵《かな》いません。
学歴を持つ身としては懐《いだ》かざるを得ない軽い嫉妬《しっと》を、肩をすくめてみせることで散らし、再びリスト作成に戻るわたしです。
「しかしおまえは眉《まゆ》が太いな」
ペン先がスケッチブックに突き刺さりました。
「……看取《みと》りませんよ?」
「おまえより長生きすると言っただろう」
キッチンに戻ろうとした祖父ですが、一度振り返って言います。
「ああ、そう,ひとつ言い忘れていたが」
「はい」
「妖精は個体と接している時と、集団でいる時とでは、まったく別物だと思った方がいい。群れた彼らは巨大な文化と科学の溶鉱炉だ。それはちょっとしたはずみで昇華《しようか》するし、新文化は一瞬《いつしゆん》で伝播《でんば》する。人には決して制御できない勢いで」
わたしは手を止め、顔を持ち上げました。祖父の言葉は続きます。
「単純に言えば、妖精はたくさん集まると面白《おもしろ》いことをおっぱじめる、ということだ。人間以上の知性とリソースと効率と情熱を総動員してな」
「具体的には何が起こるんです?」
「わからん。どんなことでも起こり得る。彼らの間で何が流行しているのかは私にはわからん。調停官として、おまえがひとつ飛びこんでみてはどうだ?」
「……おじいさん、前任者なんですから……その無責任な指導は……」
わたしの文句を無視して、祖父は言い切ります。
「おお、そうだ。もし行くというなら、その辞典ごと持っていくといい」
「とても重いんですけど?」
「持っていった方がいいと思うがね、私は」
含むような口調で祖父は笑いました。
「はい?」
翌日。またゴミ山を訪れます。
「え………?」
そこはゴミ山ではなくなっていました。
メトロポリスでした。
しかもSF未来予想図風。
ただしミニチュア・サイズ。
都市のミニチェアですからそれなりの大きさです。
以前ここにあった、見上げんばかりのゴミ山は、同じような輪郭を保ったままミニチュア摩天楼《まてんろう》へと置き換えられています。
高層建築物は皆レトロな未来派デザイン。
ビル間を無数の透明チューブが繋《つな》ぎ、中を未来カーが行き交っていたりします。
舗装《ほそう》された歩道を、大勢の妖精さんが忙しそうに動き回っています。
都市の中央にはセントラルタワーと呼ぶべき建物がそそり建っており、てっぺんには金平糖の仕掛けで用いた手作りの旗がひるがえっていました。
祖父の言うとおりです。
妖精さんは数が揃《そろ》うと、すごいことをしちゃうんです。
にしてもですよ。
「……行きすぎです」
高度に発達した科学は魔法《まほう》と見分けがつかないそうですが、冗談とも区別がつかないことに気付きましたよ。
極小サイズの巨大都市に接近してみますと、これはずしんずしんと足音を響《ひび》かせて都市に攻め入る怪獣の視点ではないですか。
たちまち妖精さんたちはわたしの存在を察知しました。
警報がわーにんわーにん鳴り響きます。
「あら?」
都市中の妖精さんたちの動きが、一気に慌ただしくなります。
怯《おび》えているのか単に慌てているのか区別がつきませんけど。
わたしは適当な広場まで進んで、そこで立ち止まりました。
「さてと……」
頭上五〇センチほどの高度を複葉機《ふくようき》が飛んでいます。
実際の複葉機とは異なる、どことなく玩具のようなシルエット。原色をべたべたと塗りたくった小児的カラーリング。特に攻撃《こうげき》するでもなく、ひたすら旋回《せんかい》を続けていました。土地のパニックを演出するかのように。
立ち尽くすわたしを、大勢の妖精さんが遠巻きに取り囲みはじめました。
どこか怯えがあるのか、一定の距離には寄ってきません。結果、わたしの周囲には円形の隙間ができあがり、何もないはずのそこには独特の緊張が流れこんできたのです。
小さくてもこれだけ視線が集まると、少し緊張します。
妖精さんというのは、大変忘れっぽい気質で知られています。
たとえば彼らは、自分たちが万物の支配者であることを自覚していない節《ふし》があります。だから人目を避《さ》けて暮らす生活様式を変えることもなく、たまに接触する人間に対しては恐れ敬《うやま》いあるいは懐《なつ》くといった、主従の従にあたるふるまいを見せるのです。
「あのー……こんにちは」
ざわざわざわ。
反応はありましたが、明確な言葉ではありませんでした。
「えーと、じゃあ昨日、わたしが送り届けた四人の妖精さんは、いませんか?」
今度は先ほどよりやや大きな反応。しかし対話は成立しません。
ざわざわざわざわ。
どうにもぎこちない空気がぬぐえません。やはり彼らとつきあうには、個体レベルの親交がどうしても必要になってきます。
「あのー………」
その時です。
左方にあるビルのひとつが、真ん中から割れて左右にスライドしていったのです。ビルの内部に待機していたのはロボットでした。
「???」
子供向けのアニメに出てくるようなデザインです。
ファイティングポーズを取っているところから、都市の防備なのでしょうか。
そんなものと、対峙《たいじ》してしまったわたしです。
よく見ると、頭部にある半透明ドームの内側に、妖精さんがひとり搭乗しています。パイロット?
装備されている拡声器からこんな声だか音だかが、
『ぜあっ!』
「……」
内心|唖然《あぜん》としていたので、うまく反応できませんでした。
反応がなかったことに臆《おく》したのか、少し弱気なイントネーションで。
『ぜあ?』
「質問?…」
『………さー?』
不思議な生きものです。
『ところで、ぼくらのしてい、はいかがです?』
そのパイロット氏が、いきなりフレンドリーな態度で話しかけてきました。
「とても素晴《すば》らしいシティですね」
「みんなあつまってきたから、なにかしようとおもったです』
で、都市が完成したと。
「でもそうですね、ひとつ言うとしたら……発展しすぎ?」
『え………?』
「昨日の今日ですから。もっと地道に進歩されても良かったような……くらい?」
『あ……………』
コックピット内で、妖精さんがねうーんと項垂《うなだ》れています。
「いえ、別に良いのですけどね、このままでも。でもこういう都市ごっこじゃなくて、普通に居住として作った方が良かったかなと」
『…』
あ、落ちこんでる。
「と、ところでそれ、素敵《すてき》でスーパーなロボットですね」
くい、と持ち上げた面《おもて》は、もう喜びで紅潮《こうちよう》していました。
『みなさんのまごころでうごいてます』
「でもそれ、戦うためのものなんですか?」
『……あなたは、てきです? もしてきだと、こまりますけど』
「違いますよ」
『それだとへいわなままです』
コクピットの上部にプロペラが展開しました。
ローターの回転にともない、搭乗部分だけが頭部から外れ、ゆつくり浮上していきます。どうやら独立した小型ヘリコプターになっているようです。
「そ、それは?」
『とんでいけるはずです』
答えにならない答えを返し、ふよふよと飛んでいくのです。
『さよならです』
「さようなら……」
ヘリは飛んでいき、ビルは閉じました。
何事もなかったように。
「……ええと……」
困つていると、群衆が割れ、奥からひとりの妖精さんが歩み出ました。
「おや、なかたさん?」
昨日名付けた日系(?)妖精さん。
どこからイメージを引っ張ってきたのか、今日は灰色のスーツを着用し、首からカメラを下げてメガネをつけています。
「こんにちは。他《ほか》のお三方はどうされてますか?」
「みをまかせてるです」
「………何に?」
「さー?」
野放図な生き方なんですね。
なかた氏とわたしの会話を目《ま》のあたりにして、民衆にどよめきが広がります。
「にんげんさんとはなしてる?」「やすやすとはなしてる?」「はなしすぎてる?」「とーくだ、とーく」「どないやっちゅうねん」
「あのー、それで、名前の件ですけど……」
なかた氏は首を傾《かたむ》けます。
「なまえって?」
「………忘れちゃってましたか」
せっかく七五人分までリストアップしたのに。
「ほら昨日、あなたたちを送った時、みんなにも名前が欲しいっておっしゃったでしょう? その仲間のお名前を考えてきたんですけど……覚えていません?」
「あったようななかったような」
「ありました」
「なかったようなあったような」
「ありましたってば」
「あったようなあったような」
「あなたたちはメモすることを覚えるべきですね」
「きおくのはざまでゆらゆらゆれるです」
揺れないで欲しい。
「わかりました。もういいです。とにかく皆さんに名前をつけますから、今から一列に並んで……」
と、そこで気付きます。
よく見ると、民衆は広場を道路を埋め尽くしているのですが……これがどう考えても数千人以上いるのです。
「………おや?」
増えてる。
用意してきたリストはたったの七五人分。
「そうか………地域中の妖精さんが集まってしまって……」
「まぜてー」「なにしてるのー?」「していごっこだー」「にんげんさんいるー!」「どしたのー?」「なにはじまる?」「なまえだー」「なまえかー」
そして今もなお、小刻みに増えていっている模様。
「ちょ、ストップ! 並ばないでください! 中止中止!」
とてもわたしひとりで賄《まかな》える人数じゃありません。
手をぶんぶん振って行列を散らそうとしますが、時すでに遅し。長大な、それはもう長大な行列が、広場を起点としてはるか遠くまで伸びてしまっていました。さらに「すたっふ」腕章をつけた妖精さんがもうあちらこちらに立っており、列を誘導《ゆうどう》したり、整理券を配ったり、座らせたり、あるいは立たせたりと、見事な人員整理を行っているのを見るに至って、もう引き返せない領域に踏《ふ》みこんでいることを悟りました。
「……あれあれあれー?」
おかしい。どこかおかしい。何かおかしい。
ひと瓶《びん》の金平糖《こんぺいいとう》からはじまったちょっとした試みが、とんでもない事態に発展してしまいました。
大勢を巻きこむトラブルの当事者が味わうであろう、胃が縮み上がるような感覚に、わたしはかいたこともない汗をかきます。ああ、軽率な約束などするべきではないのです。もしここで逃げ出せば、妖精さんとの友好的な関係を築くことは到底望めないでしょう。もしかしたら彼らはすべて忘却してくれるかもしれませんが、数千人を一時でもいちどきに裏切るという選択は、想像以上の胆力を要するのです。
ひと瓶《びん》の金平糖《こんぺいとう》。ひとにぎりの怠惰《たいだ》。ひとにぎりの野心。
ただそれだけの代価《たいか》で、わたしは彼らに途方もないエネルギーと技術の浪費を促すことになりました。一晩でこれなら、明日にはどうなっているんでしょう? この波がもし世界中に広がって、妖精さん社会に大きな爪痕《つめあと》を残すようなことになったら?
……まずい。
だらだらと売るほど脂汗《あぶらあせ》を流しながら、わたしは混乱のあまり脳内のお花畑(とても居心地が良いと噂《うわさ》の)に逃げこもうとする理性を、渾身《こんしん》の意思で引き戻すのです。
「こんなことはじめてー」「なまえかー」「つけてもらえる?」「そういえば、なまえってあるとよいです」「ベんりです」「どうしていままでなかったです?」「さー」「わからないね」「おもいつかなかた」「もうてんだた」
民衆は盛り上がっています。
なかた氏がわたしの肩によじのぼり、話しかけてきました。
「おなまえ、みんなに、つけるです?」
「………………」
長い沈黙《ちんもく》の後、わたしはひとつの決断をしました。
「つけるですー?」
「……ええ、そうですね、そのつもりです」
心の中で懺悔《ざんげ》だけすませておきます。たぶん足りないと思いますので、なんだったら分割でも構いませんよ、本物の神様?
わたしはスタッフ妖精さんをひとり手招きし、列をできるだけ遠くにやらず、広場に押しこむようにお願いします。
「あいさー」
快《こころよ》く引き受けてくれました。
実に野放図《のほうず》に見える妖精さんですが、その気になれば一糸乱れず集団行動をすることができるようです。列がうずまき状に巻き去られ、広場に圧縮されるまで、三分もかかりませんでした。
すべての妖精さんが、わたしの目の届く範囲に集結しています。
今がチャンスでした。唯一無二の。ありとあらゆる不具合をうやむやにしてしまうための。そう、謎《なぞ》に包まれた妖精さんとはいえ、いくつかはわかっていることもあるのです。わたしにはそれなりの知識欲があり、学舎にはそれを満たしてなお余りある蔵書と生徒より数の多いおせっかいな教授陣がいました。人間関係が不得手なわたしは、持てる時間の多くを渉猟《しようりよう》にあてましたし、教授陣はひとり残らず「病的教えたがり」でした。この頭の中には一〇年以上をかけて積み上げられた無駄《むだ》で雑多な知識が、尖塔《せんとう》のごとくそびえ立っていたりするのです。
たとえばそのひとつに、彼らが破裂音に弱いという情報があります。
わたしは両手を大きく広げ、勢いよく閉じました。
ばちん。
広場に絶対の静寂が訪れました。
ざわめきの元になっていた妖精さんたちは、ひとり残らずいなくなっていました。逃げたのか? いいえ、違います。彼らは一歩も移動してはいません。そして渦巻き状の行列があった場所には、かわりに、数千個のカラフル球体が転がつていました。
たいへんシュールな光景です。
わたしの肩からも、灰色の球体がひとつ転げ落ちていきました。
これは丸まり≠ニいう妖精さん独特の習性です。
びっくりすると身を守るため丸くなるのです。膝《ひざ》を抱えているだけではなく、ちゃんとしたボール状。ダンゴムシと同じです。
本当に危険な生物から身を守れるのかは疑問ですが、とりもなおさず危機は去りました。
「ごめんなさい皆さん。約束は反故《ほご》です」
今のうちに逃げるしか。
持参してきたバッグを手に取ります。ずっしりと重いそれを。
重い?
そうでした。祖父に言われ、人名辞典を持ってきたのでした。異様に分厚く重く、鈍器のようなそれを。
「………」
祖父の意図が、今ようやく理解という形をともなって浮かび上がってきました。
わたしは震える手で、辞典を両手で掲げます。天高く持ち上げられた辞典は、神々しく輝いているようでした。
丸まり状態からほどけた妖精さんたちが、広場のあちこちでぼんやり座りこんでいました。
睡眠も兼ねているようで、目をこすって欠伸《あくび》をしている方もいます。
おそらく命名に関する騒《さわ》ぎは、何も記憶《きおく》していないことでしょう。
なかた氏がよたよた歩いてきます。
「それなんですー?」
「これが、贈り物です」
「ほー?」
なかた氏の黒々とした瞳《ひとみ》には、辞典を掲げるわたしの姿がくつきりと映りこんでいました。
「この人名辞典から、あなたたちは好きな名前を選ぶのです」
丸まりから復帰して集まってきた妖精さんたちに厳《おごそ》かに告げ、辞典を置きます。
「はー……」
わたしを見つめる妖精さんたちの目は、無垢《むく》な感動に潤《うる》んでいました。どこか宗教的にも受け取れる悦惚《こうこつ》を含んで。
「にんげんさんは、かみさまです」
なかた氏が震える声で眩《つぶや》きました。
「で、例の件はどうだったね?」
食卓を挟んで、祖父が問いかけてきました。
「辞典をプレゼントしてしまったんですが…………」
この回答は予想していたのか、祖父は「そうか」とうなずくだけで、特別答《とが》める様子もありません。
「すごい都市化が進んでましたよ。たった一晩で」
「人口が増えると相乗作用でな。そうなると場の楽しい度は増し、妖精はさらに増え、発展はさらに加速し……そのあとは雪だるま式だ」
スープ皿に浮かぶじゃがいもを、口に運ぶでもなく弄《もてあそ》びます。
「今日のスープはお気に召さないか?」
「いえ、ちょっと気になっていることがあって」
「というと?」
「……心に引っかかっているだけで、具体的にどうとはわからないんですけど」
なんでしょうね、この不安は。
不安の正体は、メトロポリスを訪れた時に判明しました。
昨日と変わりないように見えて、一箇所だけ異なっていた点があったのです。
「んなー!」
とうてい看過できない変化でした。
あのロポットが収納されていたビルが撤去《てつきよ》されて、かわりに、彫像が飾られていたのです。
いえ、彫像というよりは……女神像。
そう、これは女神像。
わたしの顔をした。
「ちょっとー!1」
民族の象徴にされてしまったのです。
「問題になりますからー!」
女神のわたしは、両手で辞典を掲げていました。
「あー、かみさまー」
なかた氏が出てくると、連鎖的《れんさてき》にお仲間も姿を見せ始めます。
「かみさまかみさま」「かみさまー、おっはー」「きょうもかみさまきたー」「わーい」
神扱い。
「そうか、不安はこれですか………」
熱しやすく懐《なつ》きやすい妖精さん。
わたしのした何気ない行為はある意味創造的であり、結果として彼らの社会に崇拝の概念《がいねん》を生み出してしまったようです。
もしこの流れが、雪だるま式に、世界中の妖精さんに伝わってしまったら?
妖精さんの歴史において、わたしが神として君臨することになってしまいます。
「……・むう」
はっきり言って問題です。
世が世なら大問題だったでしょうね。
わたしは足下で両手をぶんぶん振っているなかた氏を見下ろします。おもむろに手を伸ばし、ぴと、とつるつるしたおでこに指を当てます。
「………うん?」
「はいタッチ。次はあなたが神様」
「えっ?」
ががーんと、なかた氏は驚愕《きようがく》の面持《おもも》ち。
「えー? ぼく、かみさまですー?」
「そうですよ。だってタッチしたんですもの」
「なんとー」
「わたしは神様いち抜け」
「いちぬけ……?」
なかた氏のメガネが曇《くも》りました。
よろめき、わたしの爪先《つまさを》にぺとり手を置きます。
「どない?」とでも言うような表惰で、上目遣いに様子をうかがいます。
「残念。同じ人はもう神様にはなれないですよ。だからわたしにタッチしかえしても無駄《むだ》なのです」
「ままならぬですね?」
「いやまったく。さあ皆さん、早く逃げないと本当に神様にされちゃいますよ」
周辺の妖精さんたちが、ビクリと身を震《ふる》わせました。
「なかたさんもどうします? このままだと神様ですよ?」
「え、あ、えー……」周囲を見渡して、「かみさまやーだ―――っ!」
仲間のもとに駆け出しました。
神の概念《がいねん》は一転して悪鬼のそれとなったのです。
このあたり、人間の神話の歴史とも「致していて、なかなか民族史的には面白いかもですね。
「わーー」「かみさまきたー!」「かみさまがくるー、くるです!」「にげにげするですー」「かみがうつるー」「たいへんだー」「ぴ――――っ!!」
散り散りになって逃げていく妖精さんたち。
「まーたーれーよー!」
追いかけるなかた氏。
鬼ごっこの様相を帯び、神権のなすりつけあいがはじまりました。
「さすが素早い」
本気になるとリス並に駆け回れる妖精さんです。
鬼(神?)ごっこはとても目まぐるしく、目では追い切れないほどのスピードで展開しました。
空こそ飛ばないものの、ミニチュア建築物に登り、穴があれば潜《もぐ》り、立体的に逃げ回るのですから大変です。
神が、忌まれるというのもおかしな話ですが、似たようなことは人間もやつてきているのですしね。
いえ、まったく問題がないとは申しませんが………。
でもこれで、宗教概念《がいんねん》の中核にわたしが据えられることは回避《かいひ》できるはずです。
「ぴ―――っ!ー」「うぴ―っ!」「ふあ――っ!」「かみーっ!」「ごっど―っ!」「いまはだれがかみーっ!?」「た―っち、た――――っち!」「きゃい――っ」「あなー、あなどこー!?」
すべての妖精さんがいなくなるまで、一〇分かかりませんでした。
ここに、都市国家は瓦解《がかい》して果てたのです。
同時にそれは、調停官《ちようていかん》としての職務にもリセットがかかったことを意味します。
「……まあ……悪名を残すよりはましですよね……」
改めて女神像を観察してやります。
「ほう、こうなったか」
「お、おじいさん?」
突然背中を叩《たた》かれ、わたしは喉元《のどもと》からくぐもった声を発しました。
祖父はにやにやした笑みを浮かべて、背後に立っていました。
「様子を見に来たのだが……どうやらもう彼らはひとりもいないらしいな」
「今さっきまでいたんですけどね……」
隣に並んだ祖父の視線が、女神像を無遠慮《ぶえんりよ》に眺めます。
「十戒《じっかい》のイメージに似てるな」
「聖書の?」
「うむ。石版を割るモーゼのシーンか。あるいは神から石版を授《さず》かったシーンかも知れないが」
「………つくづく宗教づいてたんですね」
「よほど好かれたようだな、おまえは」
わたしは両手を広げ、皮肉げに告げます。
「皆いなくなってしまいましたけどね」
「いや、放っておいてもどのみちこうなっただろう」
「……え?」
「彼ら妖精には、集合離散《しゆうごうりさん》の性質があってな。集まればこのように一夜で都市のひとつもこしらえるが、すぐに飽きて散り散りになってしまう」
「これだけのものを作っておいて?」
「彼らにしてみたら、小手先の工作のようなものだろうな。このくらいのものは」
祖父はかんらかんらと笑います。
「これが今の人類のスタイルというわけだ」
「なんだか、楽しそうですね……」
「毒にも薬にもならんと思っていた孫が、それなりに面白くなって戻ってきたせいかもしれんな。数日でこれだけやらかすとは、見直した」
「………」
嬉《うれ》しくない誉め方ってあるんですね。
「第一、覚悟しとけと言ったろうに」
「言われましたけどね………」
「こういう相手とつきあっていくには、それ相応の緩《ゆる》さが必要だということだ」
また背中を叩《たた》かれ、わたしはつんのめって女神像に縋《すが》りつきます。
像はゆっくりと倒れ、いともたやすく砕け散ってしまいました。
それを見て、また祖父は大笑い。
この老人、超嬉しそうなんですけど。
膝から力が抜けていきそうでした。
ああ、こんなことなら。
「……最後まで女神様として君臨しておけばよかった」
これが、わたしの調停官としてのはじめての仕事と、その顛末《てんまつ》でした。
妖精さんメモ【集合離散(しゅうごうりさん)】
妖精さんは普段《ふだん》はばらばらに生活していますが、一度群を作ると、爆はつ的に増えていきますよ。
でも、かい散するときは一瞬《いつしゆん》です。
これを集合離散の性質といいます。
人類がゆるやかな衰退を迎えて、はや数世紀。
すでに地球は妖精さん≠フものだったりします。
平均身長一〇センチ。
三頭身。
高い知能。
無邪気な性格。
失禁|癖《へき》あり。
極めて敏捷《びんしよう》。
現在、人類と言えば妖精さんのことを指します。
わたしたち旧人類はただの人です。
妖精さんの人口は正確な調査によるものではありませんが、一〇〇〜二〇〇億くらいはゆうにいるのだそうです。
まだ人類新学という妖精さんに関する学問が比較的盛んだった頃《二凸》の予測値ですから、今はもっと増えているかもしれません。
一方、わたしたち旧人類ですが、すでに億はいません。もう長くないですね。
国家は崩壊《ほうかい》していますし、文明レベルも下がりに下がってますしね。
妖精さんの生態・出自・文化は謎《なぞ》に包まれています。
様々な伝承・民話・お伽噺《とぎばなし》などに、その存在を垣間見《かいまみ》ることはできます。まだわたしたち人が幅をきかせていた時代から。
しかし妖精さんが何をきっかけとして地に満ちたのかは謎です。
もちろん彼ら自身も知りません。
記録にも残っていません。
彼らはその気になれば高度に文字を扱えますが、書き残すという習慣がまったくありません。
妖精さんは、のんべんだらりと地球中に生きています。
そしてわたしはクスノキの里《さと》担当の国連調停官《ちようていかん》。
調停官というのは国際公務員ですね。
国連調停理事会に属し、妖精さんと人間との間に起こる様々なトラブルを調整するのがお仕事でした。
はい、過去形です。
今はもう調停の必要なトラブルなどは、ほとんど起こることはありません。
わたしたち人からは、もう強い感情が失われているのです。
人口が少なくなったこともあり、人々は豊かな大地を故郷とし、そこでひっそりと暮らしております。
ガリガリガリガリ。
ガリ版用の鉄筆が原紙を切る音が、延々と事務所に響《ひび》いていたのも数日のことでした。
前回の騒《さわ》ぎの後、わたしが明け暮れたのは、報告書の原稿作りでした。
報告といっても格式ばったものではなく、事務所に残されていた資料にならって書き上げたほとんど日記と大差ないようなもので、まるで仕事をした気分はなく。
さしたる苦労もなく脱稿してしまったあとの、イラスト描きの方にかえって時間が取られたくらいです。
送付用と保存用に印刷し、早くもやることがなくなっていました。
「おじいさん、仕事ください」
珍しく事務所のデスクでうつらうつらしている上司に詰め寄ります。
「うむ、ない」
「ないことはないでしょう」
「だが、ないのだ」
「閑職だとは聞いておりましたけど」
「なら掃除でもしてくれるか」
「昨日しました」
ちなみにおとといもしました。
「そのわりには、今朝がた私が来たとき、ゴミが落ちていたがね」
「姑《しゆうとめ》さんみたいなこと言わないでください。楽でクリエイティブな仕事ください」
「小癪《こしやく》な若造《わかぞ う》発言を…………」
困ったように祖父は腕を組みます。
「フィールドワークで手を打つか」
「実質、自由行動じゃないですか、それ」
「我が事務所は自主性を重んじている」
「王体性なき指導ですね」
「そういうのは自給自足で頼みたいがね。さて、私は午睡《ごすい》業務にとりかかるか」
猛烈に仕事じゃありません。
「あの、おじいさんは最初、どのように仕事してらしたんです?」
「私のいた頃《ころ》は事情が多少違ったからな。まあやることはあったんだ。それでも妖精関連は今とそう変わりはなかったぞ。彼らと定期的に接触を取っていくのは難しいからな」
前回の労苦と顛末《てんまつ》を思い返し、わたしはため息をつきます。
「……そうですね」
祖父は何事かを思いついたようで手を打ちます。
「なら、ちょっと使いに行ってもらえるかね?」
「え、それは……仕事なので?」
「仕事だろう。知り合いというのが私の助手だ」
「ああ」
思い出します。
祖父にはすでに助手がいるのです。
つまりわたしの先輩にあたる方なのですが。
「獣《けもの》のようなむくつけき男性でしたっけ?」
「理想的な若者像だな」
「やあ、思いだしました。今日は野に出ます。妖精さんの文化研究をしなければならないのでした」
「逃げるな」
「知らない人は苦手です」
「気難しい………誰《だれ》に似た?」
「行って参ります。本日は直帰するかもしれませんので、おいしいご飯をお願いしますよ」
「なんという孫。おまえだって菓子ばかり作ってないで、料理くらいできるようにならんと私が死んだ後どうするつもりだ?」
お説教を無視してバッグを手にした時、事務所のゴミ箱に奇妙なものが捨てられているのを目にします。
「……これ、何でしょうか?」
わたしは捨てた覚えのないものです。
拾いあげて祖父に見せます。
「ああ、だから落ちてたゴミがそれだ。大きいだろう。実にゴミ。まったくもってゴミではないか?」
孫の手落ちを皮肉で間接的に責める肉親は実在します。皆さんも気をつけて。
「紙の模型ですか、これ?」
「わからん。子供が作ったものが風か何かでまぎれこんだのだろうが」
「くしゃくしゃです」
「丸めて捨てたからな」
「これ、一枚の紙を折ってできてるんですかね? だとしたらちょっとしたものですよ? ああ、折り紙かもですね。何枚か使って作る複雑な……おじいさん?」
祖父は背もたれに寄りかかって寝息を立てていました。
「もう……」
年寄りは一瞬《いつしゆん》で寝ます。
ゴミが気になるわたしは、ひとりでしばらくいじくりまわしていました。
握りつぶされているので破損している部分もありますが、元の状態はかなり複雑な造形だったようです。
これを紙で折るには、かなり器用さが求められるはず。
すると一箇所、小さな穴があいているのを発見。
紙風船の要領で、息をぷっと吹きこんでみました。すると一瞬《いつしゆん》で小さな紙細工は膨《ふく》れて、潰される前のかたちを取り戻し、無数の節足をわしゃわしゃと蠢かせて……、
「きゃわっ」
驚《おどり》いて、ゴミを放り出してしまいます。
偶然ゴミ箱に落ちていったソレは………虫の形をしていました。
しかも、ものすごく本物っぽい。
紙くずという認識でいたため、膨らませるまでまつたく気付きませんでした。
……明らかに悪意を感じる流れです。
「……わ、わかって調べさせましたね、おじいさん?」
「ぐう」
タヌキ寝入りでしょうか。
わたしを驚かせるため、折り紙で精巧な虫を作って仕掛けていたに違いアリマセン。
不覚にも本気の悲鳴を発してしまいました。
単体だったりシンプルだったり甲羅《こうら》があったりする虫は比較的我慢《がまん》できますが、ある種の芸術系幼虫(色とりどり突起にょきにょき)や集団生活系幼虫はもう本当に人をおかしくします。
今の折り紙は、まさに芸術家肌。不意打ちはどうか勘弁していただきたい。特に空気を入れるため口をつけさせるところが陰湿であり、見事な計算でした。
祖父も寝たフリをしつつ、内心ほくそ笑んでいることでしょうとも。
ゴミ箱をのぞき、そのえげつないデザインを確かめます。
「リアルすぎる……」
よくよく見ると、節足動物の特徴でした。
ムカデやヤスデほどスマートではありません。
言うなれば草履《ぞうり》みたいな形。
こんな生物をどこかで見た記憶《きおく》があります。
「ダンゴムシ……?」
ちょっと違うような。
けれど平べったくしたら、ちょうどこの形です。
無数の足まで完全再現。
実に、実に手間暇《てまひま》のかかったいたずら。
「ぐう」
憮然《ぶぜん》とした視線を叩《たた》きつけますが、起きる気配はないようです。
「……行って参ります」
数日ぶりのゴミ山。慣れた道のりとはいえ、さすがに勾配《こうばい》をしばらく歩かされるため軽く汗ばみます。
大味なようでいて細かく作りこまれた妖精都市はそのまま残っていますが、数日前ここで饗宴《きようえん》が繰り広げられたのが嘘《うそ》のような、閑散とした雰囲気《ふんいき》が漂っています。人の気配もなく、ここがすでに集《つど》って楽しい場所ではないことは、わたしにもありありと感じられます。
妖精さんは陽気《ようき》の概念にとても敏感な種族なのだと思います。
楽しさというものは、同じ状況を作ったからといって完全に再現されるものではないのです。目には見えないうねりが最高潮に達したとき、はじめて立ち現れる刹那《せつな》の楽しさ。彼ら妖精種が好むのはそうした貴重な一滴なのでしょう。
そもそも彼らは定住をしません。
遊ぶために大勢が集うことはあっても、大規模な社会を形成することはありません。これは生きるための食料を生産する必要がないためと言われていますが、真実のほどは定かではありません。普段《ふだん》はそれぞれが思い思いの場所でふらついているようなのです。人はときおり、単独もしくは少数で行動している妖精さんと出くわすことがあります。わたしも帰省《きせい》の途中、一度は偶然に目にしました。彼らはそうやって、楽しいことを探しているのかもしれません。
ゴミ山メトロポリスというイベントは、大いに盛り上がりました。
妖精さんに集落化を導くことでわたしの仕事もしやすくなる……そう考えたゆえの行動でしたが、あの結果を見るに、実に認識が甘かったと結論する他《ほか》ありません。わたしがしたことは、単にひとときの娯楽イベントを立ち上げただけ。貴重なスケッチをいくつか残せはしましたが、それだけです。恒常的な調停活動に向けて、強固な関係構築には至りませんでした。
まだ都市の名残を残すゴミ山周辺をぐるりと回って、向こう側に抜けてみます。ひとりくらい残って遊んでいないかと視線を巡《めぐ》らせますが、誰《だれ》もいません。
「ふう」
まだまだ荒い呼吸を整えるため、横倒しになったミニチュア・ビルに腰掛けます。バッグのポケットから、手製のミルクキャンディをひとつ取り出し、口に含みました。祖父も言っていたように、お菓子を作るのが料理より得意だったりします。学舎《がくしや》にも調理実習のカリキュラムはありませんでしたし。わたしはいつも、配給される水あめやチョコレートを材料にしてお菓子作りに励んでいたのです。
そうですね……ザリガニを煮こむくらいの料理はできるんですが(ギャグです)。
今日のおやつは、クリームと水あめで手軽に作ったミルクキャンデイ。清潔で柄の違う紙片でひとつぶずつていねいに包んであります、
ぼんやりと陽光に当たりながらキャンディを舐《な》めていると、いろいろなことを自在に忘れていくことができます。一次関数とか。
「……もうひとつぶ」
太らない体質なので、糖分を取ることに対する抑止力は存在しません。
口中に広がる淡い甘み。クリームと水あめだけで煮つめた素朴《そぼく》なキャンディを、シュガーパウダーで包むことで、甘みの濃淡がついたやめられない止まらない一品に仕上がります。
「もういっこだけ……」
至福の時が続きます。
視線を感じたのは五つ目を舌で転がしている時でした。
横っ面《つら》からちくりと刺さるかすかなそれは、見ている人間のサイズ自体が小さいことを意味しています。
「と言いますか……ちくわさん、なのでは?」
草むらからひょっこり突き出ているうかつな小顔に、そう声を飛ばします。
ビクッと痙攣《けいれん》するちくわ氏。
「あ、あ、あ……」
「どうしました? そんなところで?」
なんだか怯《おび》えられているような……。
顔見知りなのになぜ?
「もしもーし?」
「ぴー!」
逃げ出す素振《そぶ》り。咄嵯《とつさ》に手を叩《たた》き、大きな破裂音を発します。
草むらに近寄って掻《か》きわけますと、哀れ転がっていたのはカラフル球体。音に驚《おどろ》き、丸まってしまったちくわ氏でした。
手にとって見ると、
「あ、濡れてる………」
失禁してしまったご様子。
ほっといても数分ほどで活動を再開するのですけど、片手で球体を固定し、もう片方の五本の指先を表面にくっつけて素早くツボをおさえた動きで、
「こしょこしょこしょこしょ」
「……っ…………ッ………あーっ!」
たまらず球体はぱっくりと割れ、内側に畳《たた》まれていた四肢《しし》と頭が飛び出してきました。じたばたと暴れますが、固定されているため逃げることはできません。
「ごぶさたしております、ちくわさん。こしょこしょこしょこしょ」
なにげに続行。
「はわわーんっ」哀れなほどに身をくねらせますが、くすぐりからは逃れることはできません。
「お、おじひーっ、じひーっ!」
ほどよいところで解放してあげます。
「わたしのこと、覚えてます?」
「え?」ちくわ氏は至近距離《しきんきより》からわたしの顔を見つめます。
「ほら、つい数日前に」
「あ!」思い出してくれたのでしょうか。「たべないでー」
「食べませんよ……」
こんなやりとりを以前もしたことがあるような。
「ぼく、たべたらだめですよ? おなかこわしますよ?」
命乞いする態度は、あからさまに見知らぬ者に対するそれでした。
ははあ。これは、もしかすると――
「ぼくら、きいろいちごうとかてんかされてますゆえー」
黄色一号って。
「でも…………どうしても……たべるとおっさるのであれば…………あれば…………」
「ちくわさん。まさかあなた、わたしのこと忘却していませんか?」
ぽかんとされてしまいます。
「………はい?」
「名前をつけてあげた時のことを思い出してください」
「なまえ?」
「そうです。あなたはいつちくわさんになりましたか?」
「さて?」
「ついこの間のことでしょう?」
「…………」
考えこむこと一五秒。
「ああー」
怯《おび》えが混じりこんでいた表情が、ふと和《やわ》らぎます。
「思い出してくれたみたいですね」
「あー! これはこれは、おひがらもよく、いいてんきです?」
「そうですね。青天で好天ですよ」
「そうでしたかー」
「改めて、こんにちはですね」
「こぶのさたです」
片手でつり下げられたまま、ぺこりと首を垂れます。
「でも忘れちゃうのはひどいですね。そんなに日数は経過していないのに」
「はー、めんもくないー」
ぼんやりと首をかしげられました。
「減点一です」
「やーん」
「あなたがたにとって、一日というのはとても長い時間なのかもですね」
「いちじつせんしゅうのおもいですよ?」
「あら、なるほど」
クスリと笑みを漏《も》らしてしまいました。
「ところでさっきから気になっていたのですけど」
「するとよいです」
「心なしか、日焼けしていませんか?」
「あー、そのあんけんですかー」
ちくわ氏は全体的に浅黒くなっていました。
「どうしてパンツしか履いていないんですか? 裸だから日焼けしちゃったんでしょう?」
しかも毛皮めいた腰巻きは、そこはかとなくジャングルの王者風を吹かしているではないですか。
「ぱん・つー・まる・みえー」
「何言ってるんですか」
妖精さんはしたり顔で言いました。
「はだかいっかん、いきてます」
「まあそれはいいことなんですけれども」
「にんげんさんもはだくとよいです」
「食べますよ」
「ぴ―――っ!?」
「冗談です」
「にんげんさんのじょうだんが、はーとにびんびんきくです」
被虐《ひぎやく》体質なのかしら?
「乙女《おとめ》は開《はだ》けません」
「そおですかい」
「よくよく見ると、その腰巻きはちくわ柄ですね」
「それほどでもー」
照れてます。
「ちくわ大好物なんですよわたし」
「わっぱ―――っ!?」
「冗談ですってば……まあ、お似合いではありますけどね」地面におろしてやります。「はいどうぞ。お目当てのもの」
ミルクキャンディをひとつ、ちくわ氏の鼻先にちらつかせました。
「あー、あー!」
取り乱し、ピョンピョンと跳ねてキャンディに両手でしがみつくちくわ氏。釣り成功。五〇センチばかし持ち上げてみても、空中でぶらぶら揺れるに任せっぱなし。
「やーん、くださいー」
指を離《はな》すと、バランスを崩して背中からぽてんと落ちます。胸元にいとおしげに抱いたキャンディは離しませんでした。
「それ、わたしの手作りなんですよ。どうぞ召し上がれ」
「たべるのもったいつけます」
「ならもうひとつあげましょうか?」
「なんたる!」
ビックリした顔で、わたしを見上げます。
その腕の中に、ふたつめのキャンディを押しこみます。ちくわ氏は「この展開はありえない」とばかりにプルプルと身震いしていました。
正座し、ふたつのミルクキャンディを両脇《りようわき》に抱えたまま、
「いっそけっこん、しますか?」
「しません」
「そおかー」
落胆した様子もなく。
「ところでお仲間はどうされました?」
「あっちでげんきにげんしです?」
わけがわかりません。
「……げんしって?」
「さー?」
原子?
「じゃあ質問を変えて、どこに集落を作ったんです? お姉さんに教えてくれませんか?」
「は、がんばるます」
ちくわ氏は歩き出しました。ぴたり止まって、わたしに目線を投げてきます。ついてこい、ということでしょう。
歩きながらちくわ氏が言いました。
「……うしろからたべるつもりです?」
「どうしようかなあ」
「ああ〜」
ちくわ氏は背筋の震《ふる》えに操られるように、くねくね身もだえしました。構いやしません。どうせ本人も期待しているのです。
「……こ、こぼねもおおめですが?」
「カルシウムが豊富そうでいいじゃないですか」
「きゃ―――!」
「ここが……そうなんですか?」
「そうなるです」
案内された場所。
そこは広大なサバンナでした。
といってもアフリカ大陸ではありません。
わたしの知っていた廃墟《はいきよ》の一角が、サバンナにされていたのです。
途方もない規模で行使された、何らかの手段で!
遠くに目をやれば、古い建物とそこに絡《から》む木々の輪郭が凹凸の地平をなしているのが見えます。そちらならば、わたしのよく知る世界だったのです。
何らかの方法で一帯にあった廃墟と森を伐採《ばつさい》し尽くし、その開拓地に低木や草を植えつけ、大草原へと変えたのです。たぶん、驚《おどろ》くほどの短期間で。
「……前回も驚きましたけど、今回もまた盛大にやりましたねー」
「ひろいのがぐっどです」
「そうなんでしょうが」
野生の王国を再現、と目星をつけました。
この環境で集落というと、だいたいのイメージがつきます。
さらにしばし歩くこと数分。
はたしてそこにあったのは、想像通りの原始的な村でした。
「もどたー」
ちくわ氏が声をかけると、そこらに無秩序に建っている草ぶきの小屋群から、妖精さんたちが雨後《うご》の筍《たけのこ》のごとく姿を現しました。
彼らはすぐにわたしを見つけ、ただでさえ丸い瞳を銀杏の形に見開きます。
「にんげんさんだー」「うおー」「まじなのです」「ちかよってもへーき?」「おこられない?」
「これからどーなってしまうのかー?」「あやー」「おおきいですー」「ごぽてんすきです?」「ひえー、ひえー」「のっけてください!」
全員、腰巻き姿。
「みなのものー、きちょーなおかし、げっとしたです」
飴玉《あめだま》ふたつを高々と掲げるちくわ氏です。
群衆から喝釆《かつさい》があがります。
「みるくきゃんでーだー」「あめちゃんー」「おおー」「いいにおいだねー」「つつみがみほしいー」「これ、てづくり?」「どこにみのってたです?」
ちくわ氏は答えます。
「にんげんさんにもらたー」
「にんげんさんがー?」「おおきいだけじゃないのです」「あめくれるです?」「そんな」「まさか」「できすぎたはなし、かと」
「まだたくさんありますけど、いります?」
そう提案すると、どっと村が沸き立ちました。
「くださいー!」「あー!」「うわーん、ほしいー!」「あなうー!」「そのときれきしはうこいたです?」「きょうはまつるです」「ぎゃわ!」
暴動になりそうな勢いでした。
急いでバッグをあさって、ミルクキャンディをすべて差し出します。
草原に山をなす飴玉。
それを囲むたくさんの妖精さんたち。
「さすがにひとりいっこはないので、砕いたりしてみんなでわけてくださいね」
「だってー」「どーやってくだく?」
「このあいてむつかうしか」
ちくわ氏が持ってきたもの、それは石器です。
石を打ち欠き鋭利にして作る初歩的な利器《りき》。
超科学を持つ妖精さんにしては、ずいぶんと原始的な代物です。
しかも非力な妖精さんのことです。 石器に用いた石は、
「軽石でしょう、それ?」
「さようです」
やっぱり。
「でもおもいので、のちにあつがみでつくりなおします」
厚紙って……。
「使い物にならないんじゃ?」
「そこは、きあいで?」
なるほど。
「では、わるですー」
飴玉を並べて石器を正眼《せいがん》に構えると、村はシンとした緊張に包まれました。
「たあ」
石器は地面に当たります。
「たあ、たあ、たあ」
地面、地面、地面でした。
やり遂げた者の顔がわたしを見上げました。
「さすがにちきゅうはわれぬですなー」
「目的違ってるじゃないですか」
「なんと」
「道具使うの下手《へた》なんですね」
「……こういうのは、むずです」
運動神経はいいのに。超種族の意外な欠点。
「やってあげましょう」
わたしの手には小さすぎる石器は用いず、直径一〇センチほどの石を拾いました。
それで飴玉を叩《たた》きます。
角度が悪かったのか、飴玉はものすごい勢いで弾《はじ》かれ、固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた妖精さんたちの間で激烈にピンボールしました。
それはおそらくゲーム上でなら高得点を叩きだしたのですぅぅぅつ(一瞬パニック)。
重軽傷者多数を出す大惨事でした(すぐ冷静に)。
『ぴ―――――――――――――っ!?』
たちまち村は恐怖と混乱に支配されます。
「はじまったーー」「じえのさいっ……じ、えのさいっ!」「たまつきじこだーっ!」「ひええっー」「ぼくらのらいせにごきたいくださいーっ」「たまりませぬよー」「にょ―――っ!?」
「いえ………すいません……わざとではなく……あの……ごめんなさい、本当に………悪気はないのです悪気は……あの…泣かないで……」
慰謝には三〇分を要しました。
もちろん全員失禁してますからね、きつちり……。
なんとかなだめて飴割りに戻れた時には、村の人口は半分になっていました。
どこかに逃げていってしまったのです。
「かそりましたです」
「…………ごめんなさい……」
過疎化を加速してしまいました。
今度はそっと、石の重量を利用して押しつけるくらいの力で飴《あめ》を叩《たた》きます。
それぞれの住居に隠れてしまった妖精さんたちから、微妙な恐怖の波動を向けられながら、粛々と作業は進みました。
「………こんなところでしょうか」
等分かどうかはともかく、飴玉はすべて細かい破片にできました。
妖精さんたちが目を輝《かがや》かせて寄ってきます。
「わー」「あめだー」「あまーう」「いっぱい、あるです」「みるきー」「しあわせですな!」「まいう!」「まったりとしてそれでいてまろやか」「こんねんどさいだいのわだいさく」「みたされちゅうです」「すごいおいしー」「いきててよかったなー」「けっこうな、あじでは?」
わいのわいのと、飴パーティーは盛り上がりました。
一緒にペタ座りして参加しちゃいます。
「ところでちくわさん」
「はいー?」
「この前はすごい未来都市だったのに、どうして原始時代?」
「あえて、たいかです?」
メリットが感じられないんですが。
「あ……にんげんさんに、ごそうだんです」とびっしり手を挙げます。
「どんと来てください」
「そういえば、なんか、じゅんばんにしんかしてみようとしたです」
「え? 順番に進化?」
「なんか、そゆことしたくなったですよ?」
んーと唇を指先でなぞりながら考えるわたし。
そういう主旨の発言を、前の時にしたような、しなかったような。
わたしのことを神扱いしようとした彼らの記憶《きおく》に、言葉だけがインプリントされてーって、いやいやいや、困りますよそういうのは?
「……内政干渉になってしまう、のでは?」
「はい?」
「いいえ、独《ひと》り言《ごと》です。ええと、順番に進化して、それで?」
「それでですな一」
誤魔化しちゃいました。
「もーずっとはじめにんげんやってるですよ。けどなかなか、つぎのじだいにしんかできぬです」
「進化ねえ………」
そういうのは彼ら自身の意志で制御できるような気がするんですが。自分たちで定めたルールがあるのかも。
「うまく、しんか、したいのです」
「とおっしゃられても………」
「にんげんさんは、このあと、どうしました?」
「あ、歴史の問題ですか。それはいけない」
「ほよ?」
顔を近づけて告げちゃいます。
「資料がないですから」
「ないのですか」
「失われたのです」
「たのですかー」
ショックを受けた様子もなく、けろりとしています。
「なにかたりぬです?」
「足りないものですか」
「にんげんさんにあって、ぼくらにないもの」
「………うーん、闘争《とうそう》、ですかねー」
「とうそう……?」
言葉を吟味《ぎんみ》するように、ちくわ氏は繰り返しました。
わたしの背筋をひやりとしたものがおりていきます。
「あ、ちょっと待ってください。今のなし」
「あな?」
「間違えました。闘争ではなく、狩猟《しゆりよう》でした」
「ほう」
「狩猟、つまり狩りですね」
「かり……」
「生きるために、狩猟採集生活をします。その中から、人は生きる活力と技術を発展させていったのです。……確か」
「なるほどなー」
「ただ、このあたりに狩猟するような大型の動物っていないと思いますけどね。そもそもあなた方は食べ物を必要としないんでしょうし」
「うーん……かりなー」
この時は、それで終わったのですがね。
彼らはいかにしてそれを身につけたのか?
一夜にしてゴミ捨て場を未来都市に、廃墟をサバンナへと変える技術力を。
「妖精には闘争《とうそう》の概念《がいねんん》はない」
という祖父の言葉に、わたしも異論はありません。しかし、であるとするなら、彼らはいかなる経緯によってあの高度でデタラメでおそらくは旧人類のそれよりずっと発達した科学技術を持つようになったのかという疑問はそのまま残ります。
先のサバンナの件………廃墟と森を伐採し、そこに改めて別の環境を植え付けるという離《はな》れ業《わざ》は、科学を通り越して一種の冗談に近いものがあります。高度に発達した科学は冗談と見分けがつかないのです。
彼らはいかにしてそれを身につけたのか?
「それらの質問に答える前に、まずおまえの意見を聞こうか」
「わからないからお尋ねしたんですが……」
「おまえはいちおう優等学士様ではないのかね? 優等だぞ、優等? 辞書で引いてみろ。一般より成績・知識が優れているという意味だ。学舎《がくしや》最後の卒業生で他《ほか》に何人、優等を取った?」
「……ふたり」
折れ曲がりがちのVサイン。ひとりはわたし。ちなみにもうひとりは友人Y。
「でもおじいさんの時代よりカリキュラムは減ってるんですよ。担当教授が亡くなって教えられる者がいなくなった分野なんかは、他の暇《ひま》な教授たちが集まって残された資料を首っ引きにしながら授業を進めてたくらいでしたし。同じ学位でも昔と今とでは密度が変わってるんです。でもわたしはそんな牧歌的な教育の中から人間性を回復させ、豊かなイマジネーションとフレキシビリティーを得ることに成功したゆとり世代なんです」
「ゆとり世代だと? 妙な言葉を作り出しおって……豊かなイマジネーションがあるならそれで想像してみたらどうだ」
「豊かすぎて、知らないことを考えてると妄想ばかりが膨《ふく》らんでしまうんですよ。だからわからないことは調べずに即質問する」
「ゆとりの弊害《へいがい》だ!」
「だって」
「わかった……もういい。該博《がいはく》な知識を披露してくれとは言わん。とにかく自分なりに推測してみるんだ」
とまで言われては、脳をサボらせているわけにもいきませんね。
今、わかる限りにおいての旧人類の科学に至る歴史。それは――
「土地や資源の奪い合い?」
「三〇点もやれないぞ」
「……異民族間での略奪によって技術進歩が促された?」
「おまえの専攻は文化人類学だったと記憶《きおく》しているんだが………本気でそんなことを考えているのか?…」
「知の巨人による一方的で大人げない打擲《ちようちやく》を受け、わたしのかよわい精神ははやくも悲鳴をあげはじめました」
「口に出すな」
「ちょっと待ってください。今、詰めこんだだけの知識を連結してみますから」
「ヒントだ。生態系などの生物学的側面には踏みこまないでいい。環境に対して影響力の少ない黎明期《れいめいき》人類の暮らしも除外していい」
焦《あせ》っている時に限って、頭の中が真っ白になります。
「ええと、つまり……狩猟《しゆりよう》採集生活は………血なまぐさくて生きることにギラギラしていていつも飢えていた………だから武器が発達した」
「そんなようなことをホップズという昔の有名な政治思想家も言っていたなあ」
「じゃあ当たりですか?」
「おまえの学位、剥奪《はくだつ》な」
「今言ったのは冗談です」
学会ではそれなりの地位にいた祖父ですから、もしかしたら本気で剥奪する権利を持っているかもしれず、わたしは大いに焦ります。
「あ、思い出しました。狩猟採集生活はわりと豊かな暮らしぶりだったんですよね」
「……そうだ」
ようやくわかったか、という具合で祖父がため息を落とします。
「彼らが生きるために費やす時間は、ごくわずかだったと言われている。確かに子供を間引くなどの人口を抑制する文化も見られたが、我々が想像するようないつも食物に飢えているような生活ではなかった。人口さえ増やしてしまわなければ、地域から採集できる食料はいくらでもあったのだからな」
「戦争もなかった?」
「あったろう。だがそういった他部族との接触が高度に武具を発達させたわけではない。狩猟採集生活をしながら人類はゆっくりと世界中に広がっていった。そして生活の中で、次第に原始的な農耕技術も発達していったのだ。ここで質問だが、農耕によって人が得るものとは何だと思うね?」
「食料です」
「落第だ」
「………冗談です」
「本当か?」
「もちろんです。ええと、本当は…………農耕によって人は…………生活の安定……を得た、はず」
「うむ、まあそうだ…………」
ほっと安堵《あんど》。
「つけ加えるなら、食料供給の安定によって、養える人口が多くなったということだ」
「人口が増えると労働の分化が起こるんですよね?」
「その通り。王や司祭など、特別な力やカリスマを持った者が、生きるための労働から解放されるのだ。そうやって誕生した専門職の中に、戦士たちもいたのだ」
「専門職化は技術の進歩も促《うなが》すはずでしたよね?」
「そうだ。つまり妖精たちが言う進化とは、狩猟《しゆりよう》採集から農耕に切り替わるに際し、旧人類が辿《たど》った技術の発展のことを指しているのだろう。さて、どうだ孫よ、彼らが狩猟採集ごっこから先に進まないポイントが見えてきたかね?」
「……はい。最大の理由は、彼らが生きるために食料を必要としない点にあるんだと思います」
「ようやく六〇点といったところか」祖父は椰楡《やゆ》するように笑みをこぼしました。「そう、妖精たちは生命維持についての切迫感を持たない。だから農耕をする必要がない。よって彼らが必要とする技術というものは、実際のところほとんどないのだ」
「…………けれど、お菓子は食べてるんですよね」
「彼らすべての腹を満たすほどの菓子は、地球上にはなかろう。あれは嗜好物《しこうぶつ》と見るべきだ。旧人類にとっての酒のようなものか」
「………狩猟採集の方が野蛮《やばん》な印象ですけどね」
「それは狩りだからだろう。狩りはいい。雄大でいい」
祖父の指が、くいくいと空中で見えない何かを引き絞りました。
その見えない筒先がこっちを向いているのが、妙にわたしの不安をあおります。
「ということは、妖精さんたちの原始時代ごっこは、事実上、狩猟採集生活でゴールしてしまっていることになりますね」
「ごっことしての致命的な欠陥だな、それは」
「…………では、彼らはそもそもどうやって技術を発達させたんでしょうね?」
「それを調べることができたら、私が個人的におまえにノーベル賞をやってもいい」
「パチものじゃないですか……」
「目下《もつか》最大の謎《なぞ》だからな」
「おじいさんの意見はどうです?」
「純粋に楽しみを追求するために発達した、と見るしかないな。彼らの文化で、科学技術がはたしている役割などというものは存在しない」
「……うーん。でもあの技術力は、片手間に発達するものなんでしょうかね? どうにも身近で見てると、デタラメ加減に解《げ》せないものがあるんですが……」
「興味があるならおまえが研究してみたらいい。レポートの採点くらいはしてやろう」
「……せっかくのチャンスなんですから、ちょっと刺激してみたい気分なんですよね。もしかすると、今回のことで彼らの発達の経緯が再現されるかもですし」
「うまくいくといいがな……そら、これでいいのか?」
祖父は繕《つくろ》いものを終え、白いワンピースをわたしにさしだします。ほつれた箇所はしっかと繕われていました。
「ありがとうございます、良い仕上がりです。これ、気に入っていたので」
「裁縫《さいほう》くらい覚えたらどうかね」
「人には得手不得手というものがありましてね」
「得手はなんだ?」
「学問ですかね」
「……」
得手……祖父を絶句させること。
とりあえず、表層的なところで仕事に生きることにしたわたしは、昼過ぎになってからおでかけバッグを手に原始村へと足を延ばすことにしました。すっかりフィールドワーカーです。予定とは大違い。
することのない事務所で泥のように流れる時間に辛抱がきかなくなったというのはあるのですが、異種族と接触することは思ったよりずっと刺激的でした。
これはこれで、悪くはないと思えてきました。
里から廃墟《はいきよ》地帯に入り、かつて幹線道路だった大通りを西に向かって進みます。
左右に不揃《ふぞろ》いの壁としてそそり立っのは、かつてのビル群。
蔦草《つたくさ》などにくまなく覆《おお》われたビルたちは、その内側までも大自然に食い荒らされ、今や幽鬼の様相でそそり立っています。
森といってもまだ人里の近くにある土地ですから、危険な獣《けもの》が俳徊《はいかい》していることはありません。危ないのは野犬くらいのものですが、それも定期的な犬狩りによってほとんど姿を見ることはありません。念のため護身グッズは身につけていますが、できたらこれを使うような事態に陥《おちい》ることだけは避《さ》けたいところです。
スケッチしておいた地図を確認します。
いくつかのビル、傾《かたむ》いた信号機、錆《さ》びた自動車。
そんなものを目印に、わが愛すべき妖精郷への秘められた入口を見つけ出します。
「確か……このあたりで…………」
茂みをかきわけて身を押しやることには少し抵抗がありましたが、五〇センチも進むとあっさりと体は向こう側に抜けました。茂みはそこで伐採されて消滅して、まったいらな草原になってしまっているのです。
神話と伝承の時代から伝統的に人目を避《さ》けて作られる、妖精さんの隠れ里です。
この不条理をどういった方法で実現したのかは謎《なぞ》ですが。
「……本当に魔法《まほう》で作られているのかも」
自分の発言に、自分でため息が出ます。
麦わら帽子をかぶりなおし、再び歩き出します。地面の起伏がなく歩みは軽くなりましたが、かわりに日射《ひざ》しを遮《さえぎ》るものがなくなっています。ときおり、水筒に口をつけながら、村を目指します。
と、そのとき。
獰猛《どうもう》な気配が、突如として背後に立ち上がりました。
「………!?」
経験豊富で物怖《ものお》じしない敏腕アダルト美女を目指すところのわたしは、冷静にその事実を受け止めながらしかし肉体は腰を抜かしているのであり護身用に持ってきた武器を取り出すこともできずただ肉体と精神を隔《へだ》てる絶対的な断裂をまざまざと自覚させられもはやこれまでと覚悟を決めようとしながらも若い生への欲求と恐怖は抑えがたいほどに渦巻きいやなんというか食べられるのはいやですよー。
かろうじて振り返ることはできましたが、同時に腰が抜けてすとんとしゃがみこんでしまいます。その状態で、凶暴な捕食者の姿を眼前に見ることになったのです。
肺腑《はいふ》が一瞬で竦《すく》みあがりました。
殺意を整列させたような牙《きば》、闘《たたか》う意思を注入したような四肢の筋、見る者に生理的な恐怖を喚起する生々しいまだら模様の皮膚《ひふ》。立ち上がり頭部を掲げたその魔物をわたしは知識でだけなら知っていました。
最大級の肉食恐竜とされる、白亜紀《はくあき》の魔獣《まじゆう》ティラノサウルスレックス!
のペーパークラフト(体長一五〇センチ)。
「………おや?」
しっぽまでの長さが体長なので、背伸びでもしない限り、高さ自体は六〇〜七〇センチほどしかありません。
「あの………有人?」
ペーパーザウルスは声帯を持たないようで、牙をむきだしにしてしきりに吼《ほ》えているようでしたが、無音でした。
不思議なのは、自分で動いていることです。
普通、ペーパークラフトは動きません。
見れば、非常によくできた工作です。箱を重ねたような構造をしていて、ひらいた部分もなしに上手く肉体を表現しています。これはかなりのハイグレードモデルでしょう。目は丸く割りぬかれているだけですが、体はちゃんと彩色されていました。
原色で乱雑に塗りたくっただけのようで、なかなかどうしてすっきりしたデザインにまとまっています。絵の達者な人間が手がけたクレヨン彩色という印象。
ペーパーレックスはわたしの足首にがじがじと噛《か》みつきますが、痛くもかゆくもありません。
驚愕《きょうがく》より好奇心がまさり、わたしはじかに触れてみます。
「まあ、まあまあ」
ちゃんと関節も動くように作られています。
試しに持ち上げてみますと、ひとかかえするほどのサイズなだけに、紙工作とは思えないずっしりとした重さがあります。でも子供が入っているほどの重量ではないようです。
「じゃあ、動力は?」
目の穴から中をのぞきこんでみます。
紙音を立ててペーパーザウルスが暴れ出しました。
「あ、輪ゴムだ」
見られまいと必死に身をよじっています。
恥ずかしいのですか。そうですか。
大事な大事なゴムを見られることを恥とする文化を持っているのですか。
ぐいぐいと身を押しつけてきた(たぶん体当たり攻撃《こうげき》)ので「えいやっ」と押し倒してやります。
倒れたまま、数秒間微動だにしません。
「死んだ……?」
むっくりと起きあがり、肩を落として悄然《しようぜん》と歩み去っていきました。
落ちこんでしまったんですね。
「???」
いったいあれは、なんだったんでしょう?
疑問を胸にしばらく進むと、さらに驚《おどろ》きの光景に出くわしました。
なんとサバンナ中に、様々な生きものが稠密《ちようみつ》にひしめいていたのです。ただし……すべてペーパークラフトではありましたが。
「この展開はいささか予想外でしたね……」
疑う余地もなく、妖精さんの仕事でしょう。
見渡す限りの草原と、そこを闊歩《かつぽ》する紙工作の恐竜群。
旧人類が昔楽しんでいたという、サファリパークのようなコンセプトなのでしょうか。
ヒレが見事なステゴサウルスがいます。
角が立派なトリケラトプスがいます。
頭上を滑空しているのは翼竜《よくりゆう》でしょうか。
バラエティ豊かな恐竜王国に仕上がっています。
実際のサイズが一〇メートルくらいのものは、だいたい一メートルほどになっているようです。一〇分の一スケールということになります。
遠目に見ていると、遠近感が狂ってすごく遠くに恐竜たちがいるように錯覚《さつかく》させられます。
ふと掻痒感《そうようかん》が生じて目線を落とすと、体長三〇センチほどの小型恐竜(みんな小型なんですけどね)が、人のふくらはぎに噛《か》みついているじゃありませんか。
ニワトリかと思いきや、ちゃんと恐竜です。
確かデイノニクスとかいう種類。実際の彼らは三メートル前後の肉食恐竜で、群れをなして自分たちより巨大な恐竜にも襲《おそ》いかかっていたそうです。
あと、典型的な羽毛恐竜ですね。短冊状に切れこみを入れたケープが、それを再現していますね。
「ううん……よくできてます。九〇点」
甘噛みのようなものとはいえ、いつまでも食べられているわけにもいかず軽く蹴飛ばしてやると泡をくって逃げていきました。かわいい。
ペーパーザウルスたちを見物しながら、村を目指すことにします。
見ていて気付いたのですが、恐竜同士は互いに攻撃《こうげき》することがなく、これは捕食の必要がないからだと思われます。
餓《う》えることがなければ闘争《とうそう》は必要なくなるということでしょう。
見かける恐竜たちは、どれもみょうにリラックスした様子でした。
わたしに噛みついてきた一部のものも、きっとじゃれついてきただけなのでしょう。
前回は振り回されるばかりの展開でしたが、今回の催しは良いです。
妖精さんたちをねぎらってあげましょう。
なにしろ今日は手みやげが……、
「……あら?」
取り落としたおでかけバッグが、荒らされていました。
中身を調べてみます。
スケッチブック、あり。
筆記具、あり。
非常食、あり。水筒、あり。
ハンカチ、あり。
なくなっている荷物はひとつだけでした。
「な、なぜ? 誰《だれ》が?」
あたりに視線を飛ばしますが、下手人《げしゆにん》の姿はなく。
「……え、ええ?」
一〇分ほどあたりを探してみましたが、残念ながら盗まれたものは回収できませんでした。
「まさか、妖精さん?」
彼らならあの騒《さわ》ぎに乗じて素早く持ち去ることはできるはずですが、そんなことをする種族ではないはずです。
「わからない………」
貴重品というわけでもないので、迷宮入りということにしておきましょう。
気を取り直して歩き出し、じきに村に到着しました。
「こんにちは、ごきげんいかがですか?」
「………じごくみたいなものです」
「ちくわさん、やつれましたね……一日で」
ひとりだけの問題ではないようです。
村全体が澱《よど》んだ空気に包まれていました。
「いったいこれは?」
住人も落ちこんでいます。
人口もだいぶ減ってしまっているようです。
「……………せいぞんきょうそうに、まけたです?」
「負けたんですか?」
「かほう、うばわれまくりですよ?」
「家宝なんて持ってたんですか?」
「あったんですなこれが」
「とおっしゃいますと?」
「ぼくら、おかし、てばささぬです」
「おやつのことですか?」
妖精さんはうなずきます。
「おやつだいじですな」
「妖精さんはいつもおやつを隠し持っていて、それを………奪われた?」
「いーかーにーもー」
泣き出しました。
「まあまあ」
指先で頭を撫《な》でつけてあげると、立ったまますやすや寝息をたてはじめました。
「起きるのです」
「ぐむむ〜」
指先で頭を押しこんでみたり。
「しんちょう、ちぢむです?」
「話の途中で寝てはいけません」
「ねらないです」
「寝てましたよ」
「うーんー」
中身のない会話が続きます。
「話を進めましょう。それで誰《だれ》にお菓子を奪われたと?」
「あー、そのけんー。じつはですな――」
ちくわ氏の話もそこまででした。
『ぴ―――――っ!?』
広場から悲鳴が聞こえてきました。
「何事です?」
「き、きたですー、あくまーがー」
「……悪魔《あくま》?」
無数の天幕をまたぐようにやってきたのは……、
「あ、ギガノトサウルスですか」
かのティラノサウルスレックスより一回り大きな体躯《たいく》を持つとされる獣脚類《じゆうきやくるい》最大の恐竜ではないですか。
「おくわしいのです?」
「……けっして、自分より大きな動物のことを調べて安心したいわけではないのですよ」
「はー」
ペーパーギガノトサウルスは、全長だけならざっと二〇〇センチはありそうでした。まさにメガロ。
単純な高さにしてみても、八〇〜九〇センチはありそうです。
紙工作とはいえ、このサイズだと脅威を感じます。
一〇センチ足らずの妖精さんからしてみれば、まさに悪魔でしょう。
村に遠慮なく踏みこんできたギガノト氏は、逃げ遅れた妖精さんのひとりに目ざとく襲いかかりました。
「はーん!?」
犠牲者《ぎせいしや》さんは咄嵯《とっさ》に丸まりました。妖精さん式防御術。
恐らくダンゴムシの生態からパクっています。
妖精さんボールにギガノト氏は容赦《ようしや》なく牙《きば》を立てます。
しかしさすがは、さすがは防御の形。
そう簡単には牙も立ちません。
するとギガノト氏は獲物を口にくわえて頭上に放り投げ、またそれを口でキャッチしてと、完全に弄《もてあそ》ぶ構え。
ばかりか、様々なボールテクニックまで披露《ひろう》するではありませんか。
「あ、ヘディング」
「うまいなー」
ギガノト氏、球の扱いにかけては一日の長があるご様子。
「おお、ドリブル」
「どりー」
足技もなかなか。
「しっぽで捕球することはなんていうんでしょう?」
「やったことないのでー」
そりゃそうでしょうとも。
犠牲者《ぎせいしや》さんもついに音《ね》を上げ、防御モードを解除してしまいました。
こうなればもう、助かる術《すべ》はありません。
逃げようとしますが、ずっと揺さぶられて三半規管《さんはんきかん》がダメージを受けているのか、Uターンしてギガノト氏の脛《すね》に激突してしまいます。カートゥーン並のジエンドっぷりでした。
いただきます。ギガノト氏は妖精さんの頭にかじりつき、もしゃもしゃと咀嚼《そしやく》を開始します。これはむごい。
「弱肉強食が世の定めとは申しますが、えぐいですよねー」
「ねむがえぐられますー」
やがて、ぺっ、と犠牲者さんは天幕に吐き捨てられました。
「やはり消化はしませんですか」
ギガノト氏、目当てのものだけを口内で器用に奪い取ったようです。
誇示するように翳《かざ》す巨大なあごの間で、小さく輝《かがや》くそれは……銀紙で包まれたキャラメルでした。
「あれは国連が配給してるひとつぶ三〇〇メートル世界キャラメルじゃないですか」
子供の頃《ころ》、好きでしたね。
銀紙でわからないけれど、いろいろな味があって。
「らすときゃらめるとられたです」
戦利品を飲みこむと、ギガノト氏は満足げな足取りで村を出て行きました。
危難は去りました。
逃げたり隠れたりしていた妖精さんたちが、放心した顔でぽつぽつと広場に戻ってきます。
この襲撃によって、またもや村の人口は激減してしまったようです。
今、この村の楽しい度≠ヘ限りなく低く。
「なるほど、あの恐竜さんたちはお菓子を主食としているんですね」
「むらのおかし、なくなた………」
これが落胆の原因であったようです。
「ちくわさん、ご質問なのですが」
「はいよ」
「あれ作ったのあなたたちでしょう?」
「そーね」
「自分たちで生み出したものに絶滅に追いこまれてどうするんですか」
「あーそれー、いうとおもったわー」
「嘘《うそ》おっしゃい」
軽口を叩《たた》いている最中に、わたしは気付きました。
バッグの中身を盗み出した犯人。
デイノニクスは、確か集団で狩りをするのです。
彼らは恐竜としてはかなり知能が高いと言われています。
一頭を囮《おとり》にすることで仕事を成功させる、くらいには。
「………なるほど、だから襲《おそ》われたんですね」
「え?」
「実は今日も差し入れを作ってきたんですよ。お菓子を。それを来る途中、あなたたちの被造物に強奪されたんです」
「………まじです?」
「マジですよ」
「それは………わらいばなしではすまないです?」
「わたしはべつにいいんですけどね、お菓子くらいちょっと盗《と》られても」
ちくわ氏は信じられないと言わんばかりに、わたしを凝視《ぎようし》しました。
「じゃあ、いまおかしは……」
「今頃、恐竜さんたちのお腹《なか》の中でしょう」
「がーんがーんがーん」
「あんなものを作るからですよ」
「このままではぼくらほろびるですー、おたのしみにうえてほろびるですー」
「自業自得《じごうじとく》じゃないですか。しかも輪ゴム動力に滅ぼされるんですよ?」
「わごむすきなんですなー」
まるで危機感がありません。
「きゃぷー!」
わたしたちの会話を周囲で聞いていた妖精さんたちの中から、ひとりが叫びながらすっくと立ち上がりました。
その妖精さんは、尖頭器《せんとうき》と呼ばれるタイプの石器を取り付けた原始的な槍《やり》と、バッファローの頭蓋骨《ずがいこつ》で作った兜《かぶと》を身につけていました。 ちなみに石器も頭蓋骨も紙製(語義矛盾)。
「あなたは……きゃっぷさんじゃないですか」
「はい、ぼくのべんねーむです」
ペンネームだったんだ。
「お久しぶりです。あなたもだいぶ日焼けされましたね」
「こまったものですよ?」
「それで、どうされましたか?…」
氏はずずいと前に出て、落胆している仲間たちに向かってこう呼びかけました。
「しゆりょーだー!」
民はいっせいに顔をあげます。
「しゅりょー?」「かり……?」「してみるとぼくら、しゅりょーさいしゅーみん?」「いきてるってすてきです?…」「いきるためにかるです」
狩猟《しゆりよう》。
冷えこみ、砂糖の甘みが失《う》せて久しい原始村で、そのひとことは民の心を揺さぶりました。
ああ、ついに妖精さんたちの文化史に、闘争《とうそう》が植え付けられる時が来てしまったのでしょうか。
もしそうなら、わたしは事実を受け入れねばならないでしょう。
事実そのものは隠蔽《いんぺい》した方がわたしの身のためっぽいですが。
「これをみるー」得物《えもの》を掲げます。「やりー」
『おー』
民衆は鼓舞されます。
「やりでー」きゃっぷ氏は勇ましく槍《やり》を振り回して「たー! たやー!」鋭く連続突きの妙技を披露《ひろう》し「いやあーと!」最後は頭上で回転させながら天高く飛翔《ひしよう》して「てんく――――っ」頭から地面に突き刺さりました。
「…………………」(安らかに気絶)
一瞬《いつしゆん》だけ、場は静まりかえりますが……、
「ぴー!」「いのちとまったー!」「いちだいじだー」「すいっちきれたー」「そのなまなましさはないわー」
大騒《おおさわ》ぎに。
「………しぬかとおもたですが」
頭を押さえながらきゃっぷ氏が身を起こします。
「途中までは良かったんですけどね」
「おおっ」
気をよくしたきゃっぷ氏、再度槍を手に村人たちの前に進み出ます。
「じぶんを、たおした!」
『お――』
ああ、その誤魔化《ごまか》しはアリなんですね、この種族は。
「やりで?」「おかしを?」「とりもどす?」「できる?」「できねば」「あるいは」「つつくをやりで? とりもどすです?」「これこそ、おかしかくめいでは…」「やりをたくさんつくるべしなのでは?」「そーだそーだ」「じゃ、おりがむ?」「おりがむべき」「おりがむには……」
人々の囁《ささや》きはひとつの結論へと束ねられていき、
『おりがみだー!』
だーっと大きな天幕に向かって走っていきました。
「あそこ、かみこうさくどうぐあるです」とちくわ氏。
「あなたは行かないので?」
「ほろびうけいれるのもたまにはいいです」
被虐的《ひぎやくてき》ー。
「どえむさんですね、あなたは」
つん、と指でつついちゃいます。
「あー、もっとー、もっとーもてあそぶですー」
この子好きです、わたし。
面白《おもしろ》そうなので、引き続き調査を続行したいと思います。
狩りに際しては、まず儀式が執《と》り行われました。
祭壇《さいだん》と火柱を取り囲んで、大勢の妖精さんが祈薦《きとう》に没頭しています。
呪術師《じゆじゆつし》の格好をしたきゃっぷ氏が、中央で踊り狂っています。
全員トランス状態です。とても楽しそうです。
今や全員が紙槍《かみやり》を手にしています。
竹ひごにロール状に紙を巻きつけた、パラソルチョコみたいな槍を。
村をあげて、大難に立ち向かおうというのですから立派なものです。
「蹴散《けち》らされて村滅亡にゼリービーンズ三〇個」
わたしは無慈悲《むじひ》に予言しました。
彼らに聞こえないよう、小さく。
やがて儀式が終わると、きゃっぷ氏はわたしに宣言しました。
「にんげんさん、ではいってくるです」
「わたしも見に行きますよ」
「あらまー」
ここまで来たら、結末を見届けないと。
「じゃーしゅっぱつだ!」『おー』
原始村恐竜討伐隊は、手に手に槍《やり》を掲げ、ぞろぞろだらだら村を出発しました。
わたしも後ろをゆっくりとついていくことにします。
ペーパークラフトはサバンナのあちらこちらに生息しています。
討伐隊はすぐに、最初の獲物と遭遇することになりました。
「いたぞー」「あれかー」「おおきいです」「つよそうでは?」
強そうに見えるのもむべなるかな。
装甲のような皮膚《ひふ》に覆《おお》われた背中と、尾の尖端《せんたん》に鈍器のような骨こぶを持つアンキロサウルスは、白亜紀《はくあき》の戦車と呼ばれています。
ペーパークラフト版のアンキロサウルスの全長は八〇センチほど。
四肢をぺたっと地面につけ、じっとうずくまっています。
「どうする?」「どうすれば」「やる?」「やるです?」「やらねば」「やるならやらねば」「やるです」「ぼく、やるです」「やろうやろう」
討伐隊はこの難敵を最初の獲物と決めたようです。
のっけから強烈な相手に挑むものです。
戦車とは呼ばれますが、アンキロサウルスは草食恐竜でした。だから装甲もしっぽも、あくまで身を守るためのものだと言われています。実際、骨の塊のようなしっぽで打ちすえられれば、ティラノサウルスといえども骨折は免れなかったでしょう。
しかし発見された化石からは、また別の解釈も出てきており、さらなる研究が待たれたのですが、人類も息切れしはじめたことで真相は闇の中に放置されたままなのです。
「えいえいおー!』
鈍重な体を重武装で守つた強敵に、討伐隊はいさましく飛びかかっていきました。
たくさんの妖精さんが、槍を背中に突き立てていきますが……分厚い装甲に阻《はば》まれて刃が通りません。
途端に、アンキロ氏は上体を跳ね上げます。
長いしっぽが、ピンと後方に伸びました。
後ろ二足で立ち上がり、前足をこころもち浮かした前屈姿勢。
しっぽでバランスを取りながら、鈍そうな外見《がいけん》からは想像もつかないような速度で、ダッシュしていきました。
「…………その説を採用してるモデルだったんですね」
アンキロサウルスのしっぽを、武器ではなく歩くためのおもりとする説もあったそうなのです。
背中に槍を突き立てていた何人かもろとも、アンキロ氏は去っていきました。
残された妖精さんたちは、
「…………にげた?」「にげにげ」「かった?」「かったの?」「そうみたい」「じゃあ、かちだ」「かった!」「しょーり!」
いや、倒すのが目的だったはずなのでは…………?
「このちょーしでどんどんいくです」
士気は向上したようなので、結果オーライですかね。
またしばらく進むと、次なるターゲットと遭遇しました。
精桿《せいかん》な恐竜でした。
ほっそりとした輪郭に獰猛《どうもう》な破壊力《はかいりよく》を秘めたあご、凶暴なかぎ爪を備えた両脚が目立ちます。鮮やかな青の羽毛で覆《おお》われたシルエットは、ハ虫類よりも鳥類をより強くイメージさせます。
間違いなく、素早く冷酷《れいこく》なハンターだとわかります。
その体長はゆうに……一五センチはありそうでした。
「……小さ」
ヴェロキラプトル。
小型の肉食恐竜です。
しかも体長一五センチというのもしっぽまでの長さです。
背丈で言えば妖精さんより低いのです。
人間と大型犬くらいの比です。
「やつは、ちいさいです」「ちびです」「かてる?」「かてそうな」「らくしょうなのでは?」「しかも、いっぴき」「かみさまがかてといってるです?」
楽勝ムードもやむなしといったところですか。
あんのじょう、彼らは槍を前方にそろえて突き出します。戦う気です。
「とつげきー」
棒立ちのラプトル氏に、きゃっぷ氏の一番槍があっさり突き刺さります。
でもぼんやりとしたままのラプトル氏。死んでいません。
「あらー?」
困惑するきゃっぷ氏に、アドバイスを投げかけます。
「ゴムを切るんですよー」
「あー、それなー」
ぷすぷすと幾度か刺すうち、穂先《ほさき》がゴムを断ったようです。
カササと断末魔《だんまつま》の物音を立て、ラプトル氏はへたってしまいます。
「わー、かれたー」「かれたかれたー」「ぼくら、かれたです」「きっすいはんたー、なのではー?」
いいえ、あなたたちはほのぼの遺伝子を持つコミカル生命体です。
とはいえ、勝利は勝利です。
意外と頑張れてしまうのかも……と思いかけましたが、左手の窪地《くぼち》からやってきたものを見て取り消しました。
その光景を迫力ある筆致で描写することは可能です。
しかしここはあえて、事実をごくシンプルに記述してみましょう。
窪地から現れたもの。
それは、
ヴェロキラプトルx一六七
でした(ちゃんと数えました)。
『ぴぎ――――――――――――――っ!?』
討伐隊が恐怖に支配されます。
ラプトルたちはいじめっこオーラを放つ、実にガラの悪そうな集団です。
ああ、これはもうダメでしょう。
「みんなー、たたかうー!」
きゃっぷ氏の号令に皆、戸惑いながらも武器を構えます。
対して、ラプトル団もいっせいに威嚇《いかく》を開始します。
こちらに向けて大きく開かれた口は、縁取るように牙《きば》がびっしりと生えそろっていました。
「……」
きゃっぷ氏の手から、槍が滑り落ちます。
戦意を失った妖精さんたちに、不良恐竜軍団が襲《おそ》いかかりました。
「いーやー!」「のー!」「へるぷみー」「やめろ!」「あーいや!」「はーんっ!」「おやつかんかくでたべられる!?」
食べませんって。
そもそもペーパーザウルスはあなたたちが生み出したのでしょうに。
お菓子を持っていなくとも、ラプトルさんは獲物を執拗《しつよう》に弄《もてあそ》びます。
妖精さんは四〇人足らずしかいなかったので、数の上では太刀打《たちう》ちはできません。押し倒され踏《ふ》みつけにされ引っ張りまわされてと、フルコースでイジめられます。
「あー、かみさま―――――んっ!」
「……世話の焼ける人たち」
できるだけ内政干渉はしたくないのですが、ほっとくと原始時代ごっこが終わってしまいそうなので、少しだけ手助けすることにしましょう。
わたしが取り出したのは、護身用に持ち歩いている道具。
これならベーパーザウルスにも効果があるはずです。
まずは火打ち石で導線に着火します。
「いきますよー」
争乱のただ中に向かって投擲《とうてき》された道具は、数秒後、猛烈な音とともに炸裂しはじめました。
爆竹です。
一〇秒近く火薬は爆《は》ぜ続け、すべて燃えつきたころ、草原は無数の丸まった妖精さんと気絶したヴェロキラプトルで埋め尽くされました。
「ひとり勝ちです」
うふふ。
妖精さんたちが目をさましはじめました。
例によって、なぜ気を失ったのか記憶《きおく》していないようで。
全滅した恐竜を見て、わたしがやっつけたのだと説明すると、疑うこともなくそれを信じました。
尊敬のまなざしを一身に集めてしまいます。
「やっぱし、にんげんさんは、かみさまです?」
「神様は困りますよ」
「これをー」
きゃっぷ氏が、自分が被《かぶ》っていた折り紙カブトを、恭《うやうや》しく差し出してきます。
小さくて被れませんけど。
「ありがとう……でもあなたのトレードマークがなくなってしまいますね」
「ぼくら、あいでんててー、さほどじゅうしせぬです」
「したほうがいいですよ……」
「かわりの、つくるです?」
と、積み上げられたラプトルの骸《むくろ》(?)を指さします。
なるほど。狩った獲物の頭蓋骨《ずがいこつ》を装飾品として身につけるのですか。
類感魔術《るいかんまじゆつ》とか模倣《むほう》魔術とか、そういった呪術的《じゆじゆつてき》な概念《 がいねん》がいよいよ発達してきたわけですね。
妖精さんが黒くなっていきます。
「みなのものー、かかれー」
ちくわ氏は狩った獲物の解体を指揮しています。
「ちくわさん、解体というのは、どうするんですか?」
「こんなです?」
妖精さんたちがいっせいにラプトルにとりつき、のりづけ≠ウれた部分を石器ではがしていきます。ただの紙と輪ゴムの状態に戻してしまう作戦のようです。
みるみるうちにペーパークラフトは解体されていきます。
驚《おどろ》くべきことに、それはたった一枚の紙と輪ゴムだけで作られていました。
開かれた体内には、縦横無尽に輪ゴムが張り巡らされていて、まるで筋繊維《きんせんい》のように束ねられていました。これが四肢を動かし、精密な動作を実現していたのです。ゴム動力も緻密《ちみつ》に作ると長時間の自律運動ができるものなんですね……。
「こっちからですー」「こっちもー」「からでーす」「はずれ!」「こっち、はずれだ」「はずれですが、いいはずれでした」「なかなかの、はずれでした」「はずれははずれで、よしです」「あー、はずれだなー」「やっぱ、はずれます」「あえて、はずしました」「はずればっかりやがなー」
解体する妖精さんたちの会話に「はずれ」という単語が飛び交っています。
はずれがあるなら、あたりもあるということになりますが………はて?
「あったー!」
見守っていると、やがてひとりがそう叫び、ペーパークラフトの体内に収まっていたあるものを取り出しました。集まる妖精さんにまざって、わたしものぞきこみます。
「あ、これは……!」
銀紙に包まれたその立方体は……世界キャラメルでした。
世界キャラメル。それは国連が世界各地の子供たちに優先的に配給するために作っている、定番の応援食のことです。子供に糖分を摂取させることが目的なので、地元で申請さえしておけば配給札がなくても、キャラバンが来るたびに受け取ることができます。
世界キャラメルの最大の特徴……それは大きさです。
なんと一辺が三センチもあるのです。
国連の本気がうかがい知れます。
しかし定番のおやつであるがゆえ、飽きられやすいお菓子でもあります。そうしてあぶれたキャラメルが、どういう経緯かはともかくベーパークラフトに食べられてしまった、と。
「やつら、おかしうばってからだにかくすです」ときゃっぷ氏。
「食べてるわけじゃなかったんですね。隠すだけなんですか?」
「はい、いつかどこかでだれかがとられます」
発見者の妖精さんは、キャラメルを頭上に掲げながら、スキップをしていきます。
「はずれー」「はずしたです」「うーう、はずれだなー」「あたりだー」
またべつのあたり。
「だめだーたー」「からっぽです」「む、です」「はずされました」「あー、あったー」「こっちもあめさんげとです」
あたりの―フプトルは、ポツポツといたようです。
回収されたお菓子はこんもりと積み上げられていきました。
キャラメル、飴玉《あめだま》、鈴カステラ、もなか、プチドーナツ、ふ菓子……。
「たいりょうだー」「たしかなまんぞく」「どはくりょくでは?」「かりってすてきかも」「かりですませる、かりすまになるです」
妖精さんたちもご満悦。
「あとのこりはー?」
「これ、さいごー」
解体も最後一頭を残すのみとなりました。
「それじゃー、みんなはからばこ、たたむです」ときゃっぷ氏。
『おー』
解体したラプトルを、折り線にそってたたんでいきます。
小型恐竜を象《かたど》っていた複雑怪奇な紙パーツ群は、折りたたみかたを変えただけで、紙箱となりました。驚《おどろ》き桃の木、煙草《たばこ》の箱サイズ。
「ごむとかはー?」「はこのなかにいれてー」「そのうえにー」「おかしいれてー」「できあがるー」「いえー」
デザイン時から考慮《こうりよ》してあったのか、外箱は商品パッケージ風になっていました。
上部に誇示するような文字がこう……
『よいこアニマルおやつ(ペーパークラフト一ヶ入)〜第三期・恐竜編〜』
「ごめんなさい、それは嘘《うそ》くさいです」
「ほい?」
「なんで箱の形になってるんですか、あの複雑な代物《しろもの》があっさりと」
デタラメにもほどがあります。
「さー?」
「いったい何のための販売パッケージ形態なんですか!」
商品流通は崩壊《ほうかい》しています。
「あ、あの……でもでも………ほんとはかみこーさくがめいんなのに、おやつってひょーきしないと、こんびにおけないです」
「こんびにって何です?」
「………なんでしたかね?」
「知らないんですってば」
頭痛がしてきました。
「しかしこれはこれで、流通が生きていたらすごく売れそうなアイテムですね……」
「でそでそー」(誇らしげ)
「外箱をキットの一部にすることで、パーツ数を稼《かせ》ぐって意味もあるんですね。グッドデザイン賞|狙《ねら》いですか。えげつないですねー」
「………おこられてる?」
「ある意味、感心しているんです」
「うほほー」
気がつくと、全ラプトルがすでにパッケージ形態に戻されていました。
ただひとつ問題があるようです。
「りーだーりーだ!、はこにいれるおかしたりぬです」「しかたなーい」「でもきになるです?」「おかしいっぱいげとしたいです」
で、気付いたのですが。
「あなたたち、これだけすごい技術を持っているのに、お菓子作れないんですか?」
ぴた、とすべての妖精さんたちの動きが止まりました。
「な、なんです……?」
ちくわ氏が泣きそうな顔で答えました。
「…………ぼくら、さいのーなしです」
「才能?」
「なんか、うまくつくれぬですよ」「おまずいです」「つくりたいきもち、あるです」「けど、しっぱいばかりするです」「なんでだうね?」「さー」「おかしのりねんがわからん」
変な種族です。
「おかしは、にんげんさんにかぎるです」
「もらったお菓子を家宝にして大事に隠し持つわけですね」
貴重品なのです。
「……ちなみに第一期と第二期はいつ出てたんですか?」
「でてないです」
「いきなり第三期スタート?」
「ではなくー」「うーん」「どーせつめーしたらよい?」「さいしょって、どんなだた?」
「さー?」「わすれたなー、それー」「ぼく、おぼろげになら……」「いつてみー」「たしかー、さいしょはー、せかいじゅのねもとでごろごろこしててー、そんでー―――」
その妖精さんは、とんでもない言葉を口にします。
「こーごーせーせーげんかくせーぶつ、つくたんだた」
「はい?」
光合成性原核生物………と聞こえたような?
「おりがみでつくれるかなーておもて、つくたら、できたです」
普通はできないはずなんですが。
でもできるのかも……。妖精さんだし。
にわかに混乱してきました。
「でー、さんそはすでにいぱいあるのでー、べつにしんかまつことないなーとかんがえよったわ」「うん、そんなだ」「たしか、しんか,すぴーだっぷさせたね」「とちゅーで」「させたさせた」「しんかくせーぶつ、から、たさいほーせーぶつ」「こーちょー、かいめん、かんけー」「そのあたりで、あとはおまかせもーど」「よくおぼえてたねー」「ふつーわすれる」「いつだけ?」「なんにちもまえだー」「へたしたらぼくらうまれてないわ」「それわすれるなー」「とゆかー、にんげんさんことば、うまくつたえにくーい」「じょーほーこめにくいよねー」「でもすてきやん?」「すてきだ、すてき」「きてき、びふてき、しゃてきにきてき」
「こーちょー、かいめん、かんけー……?」
腔腸動物・海綿動物・環形動物。
多細胞生物の初期ラインナップとして、かなり適した並びであるように思われます。
え、つまり…………紙工作|擬似《ぎじ》生命体で進化を再現したと……?
「そのあとは、すぐな」「はやいよー、すぐだよー」「おもしろたいけんでしたな」
進化ってそんな簡単に再現できるのかな、折り紙で……。
深く考えることはやめました。
「あ――――――!?」
そのとき、最後のラプトルを解体していた妖精さんが、悲鳴を上げました。
「なにごとー?」「じけんかー?」「なんだなんだ」「やじやじうまうま」
「これ、みよ―――っ!!」
妖精さんが天高く掲げていたもの。
それは――
「あ、金キャラです。すごい」
世界キャラメルにごくまれに封入される、アタリのキャラメル。
それが金のキャラメル。
ああ、包み紙が神々《こうごう》しいほど金色に輝《かがや》いています。まぶしい。
『おおおおおおっ!』
妖精さんたちはいうめきだちます。
「この包み紙を国連に送ると、お菓子の缶詰が送られてきますよ。こーんなでっかいのが」
『はああああぁあぁあああんっ!』
妖精さんたちは悶《もだ》えはじめます。
「わたしもはじめて見ますねー。金のキャラメル」
ちなみに送る包み紙が銀色でも、五枚まとめて送ればお菓子の缶詰はもらえます。
ただし金とは違い抽選になってしまいますが。
どっちみち、届くのは数か月後でしょうけど……。
でもこういうのは、待ってる間が楽しいものですからね。
野暮《やぼ》はやめておきます。
「送っておいてあげましょうか? それ?」
「おねがいします」
包み紙を受け取ります。
どんなカンヅメなんでしょうね。ちょっと興味ありです。
「みんなー、このちょーしだー!」
きゃっぷ氏、大奮起《だいふんき》。
「おーし」「やるぞ!」「きあいだー」「しゅりょーだー」
こうして妖精社会に、狩猟《しゆりよう》文化の神話的ジンクスが形成されたのです。
お菓子を集める性質を持つペーパーザウルスは、貴重な食料源です。
これを狩らない手はないと、彼らも気付いてしまったのです。
村人は石器を手に、ハンティングに明け暮れるようになりました。
次々と新しい石器が考案され、より効率の良い狩猟術が編み出されました。
狩りに出ない者も、野いちごやグミの実など天然おやつを集めるようになり、甘味の供給量が激増しました。
そうです。
妖精さんは今や立派な狩猟採集民です。
過疎化《かそか》が進んでいた村も、再び劇的な人口増加が見られるようになりました。
金のキャラメルは神話化しました。
包み紙を送付する関係で、そのまま取っておくことはできませんでしたが、妖精さんたちは像を彫ってこれを崇拝しました。
勇者が金のキャラメルを掲げている像です。
信仰は集落の帰属意識を高めます。
村はますます発展し、やがては都市化も確実だろうと思われました。
「しゅりょーたい、しゅっぱーっ」
妖精さんは様々な強敵を打ち倒していきました。
そして数多くのお菓子を、ゲットしていくのです。
ステゴサウルス(草食)――
「ましゅまろ、にゅーしゅー!」
アロサウルス――
「あろえきゃんでいー!」
イグアノドン――
「てづくりぽてとちっぷー!」
エパンテリアス――
「かりんとうー!」
まさに快進撃《かいしんげき》でした。
ついには、恐竜界の獰猛《どうもう》なるプリンスとも相まみえることになりました。
「いまだー、かかれー!」
『おー』
落とし穴に足を取られたティラノサウルスレックスに、大勢で槍を投げつけます。
獲物が弱るまで、ずっと続けられます。
罠《わな》と投擲《とうてき》による狩りの成功率は、大勢で飛びかかるより飛躍的に高くなります。
強力な捕食者であるTレックスも、これにはたまりません。
あえぐように震《ふる》えると、身を横たえ、二度と起きあがることはありませんでした。
残酷《ざんこく》な、でもこれこそが、大自然の掟《おきて》というものです。紙ですが。
きゃっぷ氏が巨体に飛びつき、生賢《いけにえ》の心臓を取り出す手つきで、体内に秘められていたものを引っ張り出しました。たいそう重そうなそれは――
「え………これ……おおき………?」
出ました。
現れ出ました。
板チョコです。
無論のこと、ただの板チョコではないのです。
……異常な板チョコなのです。
日本漢字で貯古齢糖≠ニ表記するのがふさわしいと思えるほど、強烈な第一印象を発散しています。しかし、そんな字が描かれたTシャツを人は自然体の笑顔で着用することができるでしょうか? とても無理でしょう。つまりはそういうことなのです。
わたしも軽く混乱させられています。
本記録における登場人物説明よりもあからさまに多くの行数で、このチョコレートについて描写してみましょう。
まず巨大です。
一般的な板チョコなるものは、物質文明の終焉《しゆうえん》とともに市場から消えました。
しかし古いお菓子作りの本などで、写真を見ることはできます。
あれがだいたい七〇〜一二〇グラムほどでしょうか。
対してこの血汚冷屠(ノリで字は変わります)、重さ実に五〇〇グラム。
殴《なぐ》っても簡単には割れない、装甲板みたいな代物《しろもの》です。
いっそ装甲チョコとでも命名すればいいのに、茶の包み紙にある白い抜き文字は「CHOCOLATE」と素っ気ないものです。
裏を返せば、そこにはお馴染み国連マーク。
国連主導で生産されているのですね。
エネルギーたっぷりで消化しやすいこのお菓子は、いざという時にけっこう人の命を救うみたいです。
つまり支援物資用なんです。
装甲板のようなチョコは、飢餓《きが》という見えない銃弾から人を守っているわけです。
今わたしはかなり良いことを言ったわけですけれども。
まあそのようなものですから、食料事情が悪化している地域に優先的に回されるもので、生活水準安定地域ではなかなか手に入りません。
余ったものだけがたまに配給札で交換できます。
一枚板ではなく割って小分けにしたバラ売りで………。寂しいことです。
大作りで分厚く、手にしただけで喜びがこみ上げてくるような、実に子供殺しのアイテムなだけに。板バージョン。はっきり言ってレアものです。
彼らもはじめて見るのでしょう。
妖精さんたちは開いた口を閉じることを忘れていました,
「ばかな!」「ありえない」「ほーりーしっと」「ゆめかー?」「わなかー?」「まぼろしかー?」「まぼろされたかー?」「あるいは、まぼろすか?」「おおきすぎると、とまどうです」
「ばけものなのでは?」「れーせーにかんがえるとこうふんするです」「れーせーといえば、ひとことでいうとこれって…」「これって………」「これって………」
妖精さんたちの戸惑いは波紋となって広がり、そしていっせいに歓喜の爆発を引き起こしました。
『でかちょこだ―――――――――!!』
熱狂の時代を決定づける、象徴的な光景でした。
持ち帰られたでかチョコは、たちまち村中のうわさになりました。
妖精さんが八人がかりで運んできた怪物的菓子を前にして、民衆の期待はいやがうえにも高まります。
保存など考えられない。そんな心の余裕はない。食べるしかないのです。
唯一、気にする部分があるとするなら、どう食べるかの一点につきるでしょう。
例によって、妖精さん会議がはじまります。
「わる?」「わるの?」「わるです?」「みんなにいきわたる」「このまま、ずっとみてたいかも………」「うー、たべたーい」「しょーみ、どうしていいかわからんわ」「むね、くるしいのです」
「なんぎだなー」
なかなか決まりません。
「にんげんさん、いいたべかた、ありませぬか?」
ちくわ氏が振ってきました。
「このままかち割って食べるのも一興でしょうけど、そうですね……これだけまとまった量があるといろいろな種類のチョコ菓子が作れるかも知れません」
「はー」ちくわ氏は体育座りでしばし考えこみます。「たくさんのしゅるい……って」
とんでもないことに気付いたような顔でわたしを見上げると、
「……おかし、ふえるんじゃ?」
「確かに種類は増えるんですけどね。………ああ、でもよくよく考えると、アーモンドとか他の材料も使いますから、なんだかんだ言って確実に増量ですね」
「それ、まほう?」「でかちょこ、ふえたら、しあわせですよ?」「けどなー、ぎじゅつてきにはふかのう」「きせきです?」「きせきはおこすものです?」「じゃーおきるね」「じぶんが、おさえられぬです」「かちわってたべるのもいいです」「いろんなおかし、いーなー」「とーしだ、とーし」「にんげんさん、にんげんさん」
「なんでしょう?」
『はい!』
みんなして、板チョコをわたしに差し出してきました。
「……はいはい、作ればいいんですね?」
というわけで、一時帰宅の途。
お菓子作りにはそれなりに時間がかかるものです。
ぐずぐずしていたら、あっという間に日が暮れます。
一日をまたいでしまえば、原始時代が過ぎ去ってしまうこともありえます。
なんとか今日のうちに戻りたいところ。
「………十一時半ですか」
急げばなんとか、といったところ。
自然、足も速まるのですが、
「おや?」
途中、奇妙なものを発見してしまいました。
ガサゴソと茂みを蠢《うごめ》くそれを、茂みをかきわけて確かめてみますと。
「くけ」
なんかいました。
鳥っぽいのが。
五センチくらいのサイズ。
「うーん、このサイズでこのディティールなら、九五点」
よくできていました。
鳥かと問われると、少し悩みます。半分くらい恐竜っぽいのです。
でもまっすぐな羽根とピンと後方に伸ばされた尾が特徴的で、既視感《きしかん》があります。
「くけ?」
しかも声が出ます。フルボイス仕様です。
ペーパーザウルスにはなかった機能ですね、これは。
「ということは、新作……?」
設計担当の妖精さんが、どこかでせっせと開発しているのだと思われます。
「くけ、け」
そう言い残し(?)、怪鳥氏は茂みの中に駆けていってしまいました。
飛ぶ能力はそんなに高くないのかも。
五センチということは、実際は五〇センチくらいのサイズがあった古生物、ということになります。
翼竜《よくりゆう》の末裔《まつえい》なのかもしれません。
どこか引っかかるものがあるんですが、うまく言語化できませんでした。
「………いけない、時間」
お菓子を作らなくてはいけないのでした。
わたしは慌てて、自宅への道程を急ぎます。
チョコクランチバー、蒸しチョコケーキ、チョコビッツ、ローストアーモンドのチョコ絡《がら》め、チョコドーナツ……etc
結局、ラインナップの充実には丸一日を要しました。
できた品々を詰めると、バスケットは満杯になりました。
持ち上げると、ちょっとした重量物です。
翌日、その重いバスケットを手に、村に向かいました。
一日という時間は、妖精さんにとっての一月にも一年にもなりうる期間です。
生きる速度が違うせいでしょうか。
翌日には集落が崩壊《ほうかい》していた、というのはまったく不思議なことではないのです。
彼らにとっては、退屈な一日は耐え難《がた》い空白です。
だから、今日も村に行ってみたら、文明が行くところまで進んで崩壊している……といった可能性もあります。仕事はエレガントにこなしたいところですが、目が離《はな》せません。
どうか解散していませんように。
願いながら歩いていると、草原の切れ目に動くものがありました。
「……また新作」
二〇センチほどの鳥でした。ダチョウが筋肉をつけていかつくなったような姿です。
巨大なクチバシに、どこで入手したものか、チョコバーをくわえていました。サイズから推測するに業務用ではなく配給品だと思われます。
メニューは地域によって異なるので、恐らく隣接《りんせつ》エリアで配られたものを妖精さんが入手し、それが奪われた結果ここにあるのでしょう。
素っ気ない包装紙で覆《おお》われています。
スケールで考えると、実物は体長ニメートル前後でしょうか。
ダチョウではないようです。
どのみち、古い時代を生きた生物のモデルなのでしょう。
クチバシで放り投げる仕草でチョコバーを飲みこむと、悠然と歩み去っていきます。ゴム動力とは思えぬ、堂々たる王者の風格です。
「そんな無防備だと恐竜さんに襲《 モ》われてしまいますよー」
「げらうえい」
しゃっくりのような変な鳴き声でした。
あっちいけと言われたような気分になります。
「げら、げらっ、うえいっ」
呟《つぶや》きながら草の海に消えていきました。
「自分であっち行ってるじゃないですか…………」
さすがは不条理生命体。
しかしこの間の小鳥といい、鳥類が増えてきているのはなぜなんでしょう?
「……って、ああそう……なるほど、第四期なんですかね」
つまり、
『よいこアニマルおやつ(ペーパークラフト一ヶ入)〜第四期・鳥類編〜』
ということなのではないかと。
獣《けもの》を生み出す妖精もいれば、それを駆り立てる妖精さんもおり。
いやはや、因果なものです。
しかし今日は、新作が出た反動なのか、ペーパーザウルスの姿が一向に見られません。
お菓子を所持していますから、万が一にも奪われたら困るので良いのですけど。
穏《おだ》やかな日です。
「こんにちは」
「あー、にんげんさんー、きたるー」
幸い、村はまだ存続していました。
すぐ足下にたくさんの妖精さんが集まってきます。
「お元気そうですね」
「おげんくです」「むだにげんきです?」「いきいきいきてますが」「ちりあくたみたいなぼくらです」「なぜかいきてます」「ふしぎだ…」「いきてるってふしぎです」「じつは、いきてないのかもです」「せかいはもしかするとじぶんひとりのまぼろしかもです」「きのうあたりからいきてるです」「そういえば、いきてます」
「あはは………」
いろいろな価値観があるようです。
あまり触れたくない意見も多々ありでしたが………。
「まあ、元気そうで良かったです。ところで」バスケットを前に置いて「これ、なにかわかります?」
「なんだろう?」「なにです?」「ばすけっとでは?」「まー、ばすけっとですな」「じつはばすけっとではない?」
「バスケットであってますよ。中身はなんだと思いますか?」
「くいずか!」「しけんかも」「わからんですな!」「なんもんなのでは?」
「……難問かなあ」
昨日あなたたちから依頼されたんですけどね。
「いいにおいするです」「たまらないかんじ」「かきたてられます」「あけてい?」
「いいですよ」
妖精さんたちがバスケットを開けました。
「おわー」「ちょこれーとだ!」「たくさんあるな!」「あまくせつないよかん」「みたことないのいっぱいなのですが」「たべてはいけぬのでしょうか?」
「どうぞ。ご依頼の品ですよ」
「いいのですか………」
妖精さんたちは意外そうな顔をしていました。
チョコレートの宴《うたげ》がはじまりました。
すぐに村中の妖精さんが「なんだなんだ」と集まってきます。
「うあー』「ちょこだー」「たくさんあるです」「もらっていーい?」
たちまち広場は、妖精さんで埋まりました。
もうわたしのことを怯《おび》えている妖精さんはいないようです。
はからずも餌付《えづ》け大成功ですね。
「しかし、人口が増えたのに、村の文化レベルは変わりないんですね」
「……そうですかい?」
「村がまだ残っているのはいいとしても、逆に進化が停滞している気がするんですよね……」
前は一瞬で行き着くところまで行ったので、少し拍子抜けかもです。
これはこれでどうなんでしょうか?
安定してくれるぶんには、記録もつけやすくなりますし、楽は楽なんですが。
この有様は、妖精さんらしいのでしょうか?
わたしの仕事は、仕事として成立しているのでしょうか?
判断の難しいところです。
「ところで妖精さんがた」
「……あい?」「なんです?」「ごしつもんですか?」「こたえ、こたえるです」
「第四期のシリーズはなかなかデキが良いですね。造形も洗練されてきていますし、紙とは思えないリアルさが出てきています」
ぽかーんとした顔を向けられてしまいました。
「………だいよんき」「だいよんきって?」「なんだけ?」「あったけ?」「なかったような」
「また忘れてるんじゃないですか? わたし、二度ほど見ましたよ、鳥さんのぺーパークラフト」
「えーと」「つくたかなー」「だれかしってる?」「しらーん」「きおくにないです?」「ひしょがやったのかも?」「そうじしょくものだなー」
「見事に忘却されてますね」
しかも秘書とかどうでもいいですし。まあいいんですけど……。
やがて宴《うたげ》も終わって。
「にんげんさんのおかし、おいしすぎました」
「いいえ」
「おいしすぎたので、どうしたらよいです?」
「は?」
どうしたら良いかと言われても困りますが。
「とりあえず、狩りに精を出されてはいかがでしょう?」
「なるほど」「ごもっともです」「かればかるほどうまいのです」「なー」「じゃーいきますかー?」「いくいくー」「かりだかりだ」「せいこうすると、いいのです」
狩りに対する妖精さんの欲求は強いようです。
なんだかイキイキとしています。
「ふふ」
微笑《ほほえ》ましい気分になってきます。
「うまくかりできたら、にんげんさんに、おかしのしかえしできるかもです」
「お返しと言いなさい」
「はー」
ぞろぞろと狩りの一団が草原を行きます。
かわりない草原が、今日も広がっています。
まったく変化がないということではなく、地平線を隠すようにそそり立っていた廃墟《はいきよ》の輪郭がなくなっていること。
ただなくなったわけではなく、目を凝《こ》らせば、ずっと向こう側にかすかな凹凸を確認することができます。
どうも一日一日、草原は領土を遠方に広げていったようです。
彼らの超常的なテクノロジーを、人間は理解できません。
話していると、彼ら自身も理解できていないような節がありますが、時折見せる知識の片鱗《へんりん》は深遠なところに潜《ひそ》む巨大な知力を予感させたりもします。
実に不思議な種族なのです。
残念ながら、数が集まらないとその知性は発揮されません。
集まっても、ふとしたはずみですぐに散り散りになってしまいます。刹那《せつな》の奇跡。
彼らの世界が大きく進展するとしたら、集合離散の性質の狭間《はざま》に浮島のように現れる、わずかなチャンスの集積によってのことでしょう。
彼らとともに草原を歩いている今、理解できたことがひとつあります。
原始村の発展を、わたしが導くなんてことは必要ない。
調停官の仕事は支配でも管理でもなく、いざというときに取り持つことなのです。
いざというときに取り持てるよう、良い関係を築いて、理解を得て、もし問題があればすみやかに行動する。
そして今や人間と妖精さんとの間に、目を覆《おお》うような悲劇は見られません。昔にはあったのかも知れませんけど……今は有名無実化している。
わたしは仕事を、はじめる前から失っていたようなものです。何もしないでいい。彼らのなすがままを見ていればいい。進化ゲームの本戦を敗退した傍観者として。
「……」
妖精さんが広く発見されはじめた頃《ころ》。すなわち国連調停理事会|発足《ほつそく》当初は、極めて冷静かつ慎重な判断が求められるとして、その服務規程は―二六条まであったそうです。
それが百年、二百年と経《た》つうちに、ほとんどの項目が失効――規程から除外されていました。
今では数項目しか残っていません。
すでに罰則《ばつそく》や処分の制度もありません、
名ばかりの閑職です。
しかし今でもたったひとつだけ、例外の項目があります。
第三条 調停官《ちようていかん》は、所属長の監督下で、次の各号に示す職務に従事するものとする。
(1)担当地域における異種族との円滑な関係構築を試みる
(2)種族災害発生時に監督者にその旨《むね》を通報すると同時に、必要な措置をとる
(3)異種族社会に同種間凶悪行為・大量|虐殺《ぎゃくさつ》・戦争等の悪弊《あくへい》及びその徴候が見られた場合、監督者にその旨を通報すると同時に、直《ただ》ちに諸問題に関する原因・発端の究明にあたる。なお理事会の支援が得られない状況であった場合、調停官の臨機の判断によって可能な限り事態の平和的解決を試みる
第三条第三項。
これだけは、今においても生きている@B一の服務規程であると言われています。
近代都市化の引き金を引いたり、狩猟行為を提案したり、わたしはけっこう危ない橋を渡っている気がしないでもありません。
だから今、妖精さんたちの文化水準が低く一定しているのは、決して悪いことではないはずなのです。
そうなのです。停滞ではなく、安定です。安定|万歳《ばんざい》。
妖精さんに今の水準を維持してもらう。正解はこれなのです。
記録だってしやすくなりますしね。
「えものはっけん!」
妖精さんのひとりが声をあげました。
その示す先に、ペーパークラフトのマンモスが一頭、ぼんやりとひなたぼっこをしていました。
「へー、マンモスですか。第五期といったところでしょうかね。うふふ。恐竜さんと戦ったらどっちが強いんですかねー」
わたしは子供みたいな疑問を口にしました。
妖精さんもまたさらっと答えましたよ。
「さうるす、みんなほろびましたさ」
一晩でほ乳類の時代になってマンモス!(メチャ動転しています)
見えないところで歴史は動いていました。しかも数千万年分。
それにしても二次関数って二乗に比例する関数ですよね(冷静なことを言っているようですが混乱中ですから)。
「早すぎる……時代の流れが早すぎる……」
あの奇妙な鳥類たちの台頭を見て、察するべきでした。
まったく最近の人類ったら油断ならない。
「そんじゃかりだー」「かりーかりー」「あっちのわなにおいこむです」「ごーごーごーごー」
攻撃《こうげき》がはじまります。
ぴゅんぴゅんと槍が飛び、マンモスにぶすぶす突き刺さりました。
とたんにマンモスは「ぱおん」と鳴き、向こう側へと逃げていきます。
そして落とし穴にあっさり落ちました。
あとはいつも通りの展開です。
息絶えるまで攻撃は続き、バッファローの頭蓋骨っぽい折り紙帽子をかぶったきゃっぷ氏が、とどめをさしました。
妖精さんたちが期待をこめて、マンモスを解体していきます。
体内から出てきたのは…
「どこかで見たような……」
手作りワッフルを、保存のため通気性の低い包装紙で密閉したものでした。
表面には見たことのある、といいますか、描いた覚えのあるかわいい妖精さんのイラストが賑々《にぎにぎ》しく……
「……………完全にわたしの作ったお菓子ですやん」
出来レースに全財産むしられたような気持ちになりました。
なんかこの世界、せまい。
「どーしました? たいりょーですが?」
「いえ……問題ありませんけど……ちょっと疲れて」
デイノニクス軍団に奪われたものですが、察するところ、食物連鎖《れんさ》で継承されていき、しまいにはマンモスの体内におさまったんでしょう。
「どーぞー、おれーです? おれーです?」
「どーもー……」
自分の作ったワッフルを贈り物として受け取るのは、とてもむなしいものですね。
紙を破って、かぶりつきます。
人前ではできない食べ方です。
多少へたっていますが、世界で一番おいしい格子模様が口内でばらっと砕け、局地的な幸せが生じました。こんなものに誤魔化されるのが女の子というものです。
「……紅茶欲しいなぁ…」
今ならがぶ飲みできそう。
「さー、たたむよー」「おー」「たためたためー」「これくしょん、ふえるね」「はこにもどして、おかしいれると、なんかしあわせです?」「もっとかるぞー」「ぼくら、かりだいすきっぽいね?」
妖精さん、変な方向に進化しないといいんですが。
『あーさひーたーだーさーしーきらめーくまーんもーすー♪』
凱歌《がいか》も高らかに、帰路につく途中のことでした。
それを目撃《もくげき》したのは、またしても茂みの隙間《すきま》でした。
わたしはどうも、変なものを発見するのがうまいようです。
「………………」
ああ、今の心境をどう記録したものか。
名状しがたい感情です。
悪い予感がします。
だって、茂みの合間に見つけたもの。
たまたま目があってしまった存在。
それは、
いわゆる、
なんというか、
簡単な衣服を身につけ、
道具らしきものを手にした……。
「あ、あ、あ」
頭の中で、いろいろなものが連結される気配を帯びます。
事務所で見た奇妙な生物系紙風船。
恐竜たち。
五センチの怪鳥。
二〇センチの恐鳥。
マンモス。
そして今さっき見た――
「そうです……見なかったことにしましょう」
「はーい?」
「いえ、こっちの話です。おきになさらず」
「?」
くに、と首をかしげる妖精さんには悪いのですが、わたしにはこの件の結末が見えてきました。
茂みの間にいたのは、まあ恐らく、いえ間違いなく……ペーパー原始人だったのですから。
自宅に戻ると、律儀《りちぎ》にもおいしい夕食が用意されていました。
フレンチフライとこんがりと揚げた白身魚にキャベツのサラダ。
よく歩いた一日なので、とてもおいしかった。
自分の欲求が満たされた後、祖父にわたしの見たものについて打ち明けました。
「おまえというやつは……」
祖父は額を手で支えてため息をつきます。
「内政干渉どころの騒《さわ》ぎじゃないな」
「すみません。でもお話しできてよかった。ひとりで抱えているのは不安すぎました」
「食う前に話せ、食う前に」
「はあ」
「まったく。……だが恐竜を見た時点で、予測すべきだったな。彼らは旧人類が辿《たど》った再現を好むのだと、おまえ自身前回のことで知っていたはずだろうに」
「ごもっともであり、返す言葉もございません」
「気になるか、彼らの手にしていた道具が」
「はい………あれは…………初歩的な作りではありましたけど……あれは……間違いなく……」
わたし自身が、日頃《ひごろ》からよく使っている道具の名を出します。
「ホイッパー(泡立て器)でした」
朝早くから、村の方に顔を出すことにしました。
草原にさしかかると、早くも胸騒ぎがしてきます。
「……いない」
ペーパークラフトの気配が、まるで感じられないのです。
シンとして、できたての頃《ころ》の草原に戻っている気がしました。
不自然です。
不安の糸に引っ張られるように、わたしは村を目指します。
「まだあった………………よかった」
いつもと変わらぬ様子で、村はそこにありました。
妖精さんたちもちゃんといて。
「はろー」「にんげんさーん」「おこんちです?」「きょうもひまです?」
「どーもどーも」
きやっぷ氏もいました。
「こんにちは、きやっぷさん」
「……え、ぼく?」
折り紙カブトを頭に載せた妖精さんが、小首ではなく全身で傾《かたむ》きました。
「ぼく、きゃっぷさんじゃありませんですが?」
「……え、だって?」
顔つき、は……まあみなさん同じ感じなので。
風変わりな帽子をかぶってるのは、彼だけだと思うのですけど。
「あら、あなた……日焼けしてたのに、妙に白いお肌に戻ってませんか?」
「けっぱくなのでー」
誉《ほ》められたと思ったのか、嬉《うれ》しそうです。
「日焼けって回復したりするのかしら……でもあなたたちですもんね」
「ぼくら、ぼくらです」
「なるほど」
「ちなみに、ぼくはかぶとです」
「お名前、変えられたんですか」
「じんせい、にゅあんすですゆえ」
「攻めの人生ですね」
「せめせめですー」
「攻めの姿勢はいいんですけど、狩りはできそうにないですよ、もう。動物さんがいなくなりました」
「あー」よく理解していないようでした。「なぜだー?」
「絶滅したっぽいんです」
「ぜつめつされるとこまります」
「狩猟しすぎたんじゃないですか?」
「そんなにかって、ないですが?」
「いや、きっとわたしの見てないところで狩りまくってます。記憶《きおく》してないだけです」
「ほー?」
相変わらずの、のんき反応。
「第六期は狩れないですよね、さすがに」
「だいろっきとは?」
「原人とか猿人とか、霊長目《れい ちようもく》シリーズがそのあたりじゃないんですか?」茂みで見たものを説明します。「身長は一〇センチ前後、おまけに人間タイプですからね」
紙ですけど。
「道具を使っていたということは、知能が高いということですから……ペーパークラフトといえども抵抗がありますよね」
「なんだかわからんですけど」
「うーん」
「わっふる、まだまだいっぱいあるです。おかしもいっぱい、あります。だからかりは、いまのとこ、いいのです」
まるで明日を見ていませんね。
「とゆーことで、きょうもうたげ。にんげんさんもどーぞ」
「おかしでーす」「うたげー」「にんげんさんー」「らーららー」
たくさんのお菓子が運ばれてきます。
中には、見たこともない種類もありました。
少々興味を引かれます。
「仕方ないですね」
スイーツな時が過ぎていきます。
次はティーセットを持参しよう、と決意します。スイーツにはティーだと遺伝子が叫んでいるわけで、この素晴らしい文化を彼らにも伝えない手はありません。
「ちなみに、こういうの飽食の時代って言うんですよ」
「ほー」
ダメですね、この人たち。
「油断してると、台頭してくる新種族に攻め滅ぼされてしまいますからね」
「まさかー」
オロローン!
台頭してきた新種族が攻めてきました。
「ぴ――っ、てきしゅ――――っ!?」
誰《だれ》かが叫びました。
慌てふためく村人たち。右往左往。
チームワークはゼロです。
対策ひとつ講じることもできず、敵の突入を許しました。
たちまち村は阿鼻叫喚《あびきようかん》の巷《ちまた》と化します。
「わー」「ひー」「うぴー」「てきですー」「はいってきたー」「にげれー!」
攻めてきたのはペーパー原始人でした。
昨日、目撃《もくげき》した彼らです。
いや、もう原始人と言うのもためらわれる、高度に統制された軍勢です。
生身ではありません。武装しています。
紙の鏃《やじり》と竹ひごで作った槍《やり》、紙の兜《かぶと》、紙の鎧《よろい》。
石器ならぬ紙器(しき)文明のようです。
「しかもあれ…馬………?」
ペーパークラフトの馬を家畜化し、騎馬《きば》にしているのです。
騎馬というものは、わたしたちが想像するより遙かに戦闘《せんとう》に寄与します。
武具にも差がありました。見たところ妖精さんは初歩的な槍しか持っておりません。
彼らのスタイルが、それ以上の技術を必要としなかったためです。
対してペーパー原始人は、全身を高度な武具で覆《おお》っています。
しかもただの紙ではありません。
そう………ダンボールです。
ダンボール、それは最強の紙。
強度があり、どのような重量物でも梱包《こんぽう》することが可能です。
その用途は広く、旧人類最盛期には寝具や住居にも利用されたと伝わっています。
住居というのは、ちょっと想像つかないんですが。
「強度の面で、ぺらぺらの紙とは雲泥の差があるはずです」
「ほほー」
「……落ち着いてますね、こんな時でも」
「たいがんのかじ、だから?」
超クール。
「でも明日は我が身ですよ」
広場では遅まきながら防衛線が張られています。
ですが戦う術を知らずろくな武器を持たない妖精さんは、あっという間に騎兵に蹴散らされてしまいました。
「あー!」「つよいー」「かたいですー」「なんてことー」「かなわぬですー」「にげろー」
「ぴ―――っ」「のー!」
妖精さんはそのまま散り散りになっていきます。あーあーあーあー。
騎兵はこっちにもやってきました。
「ほら来た」
「あら!?」
「あなたも逃げた方がいいですよ。いじめられますよ」
「そーしますか? にんげんさんと、またあいますか?一」
「次のお祭りがあれば」
「なるほどなー」
喜怒哀楽からまんなか二文字を抜いたようなのんき顔で、うんうんとうなずきます。
「またいずれ」
ぴゅんと吹きすさぶ風の速度で、姿を消してしまいました。
騎兵《きへい》は人間には興味がないようで、わたしのことは無視して駆け回り、村全体をくまなく荒らし回りました。
ひとりが、マンモスのツノ部分をそのまま槍に加工しているのを見て、わたしも納得しました。
マンモスを狩っていたのは、妖精さんだけではなかったのです。
わたしの見ていないところで、もっといろいろな大型動物がいたんでしょうね、草原には。
同じ地域に住む二種族がこぞって狩りを行ったものだから、狩猟圧《しゆりようあつ》が高まって一気に絶滅してしまったのでしょう。
残されたのは、草原の二部族だけ。
闘争《とうそう》は必定だったと言えましょう。
そして今、最後の淘汰《とうた》が終わろうとしています。
妖精さんは次々と柵《さく》を越え、草原へと追い立てられていきました。
天幕が倒され、柵は破壊《はかい》され、貯蓄していたわずかなお菓子も奪われ、広場に積み上げられていきました。
文明の終焉《しゆうえん》の光景とは、こういうものです。
「無情だなー」
こうして、ひとつの時代が終わりを告げました。
逃げゆく小さな友に向けて、胸の前で小さく手を振ります。
「みなさんお達者でー」
「おい、孫娘」
書き物を中断させられると、奥ゆかしい乙女《おとめ》であるわたしですが、ついつい「うー」となってしまいます。
「……なんですか」
「ひどい顔だ」
不機嫌がもろに顔に出るタチですから。
でもせめて優雅に憂《うれ》い≠ニ言ってほしかった。
「ほっといてください。何です?」
「あのな、廃嘘《はいきよ》で奇妙なものを目撃《もくげき》したという噂《うわさ》が里で広がっているんだが………」
「奇妙なもの、というと?」
祖父はわたしに疑いの視線を向けてきました。
「紙でできたゾウやらトラやらが、うろついているそうだ」
「………」
わたしと祖父の目線が、まっすぐにぶつかりました。
「おまえ、今日は彼らの様子を見に行ったか?」
「いえ、だってこれ書いてて……それにおかしいです。妖精さんたちは散り散りになったんですよ? もう誰《だれ》もペーパークラフトを作ってないはずです」
「知っているが、本当に解散したのか? 聞いた話では、そういう哺乳《ほにゆう》動物群はまだリリースされていなかったはずだが」
「散ってますよ。わたしの目の前で。紙人間たちに侵略を受けて」
「うむ、では確認できなかったが、そういう動物群が投入されていたということか?」
「だと思いますよ。そもそもわたし、妖精さんがペーパークラフト作ってるところを見たことがなくて」
「間違いなく、彼らが作ったものだろうが」
「それはそうなんですけど……どうも、腑に落ちない部分もあって」
「というと?」
「いえ、おととい見た紙人間さんなんですが、原始的なホイッパーを持ってたんですよ」
「うむ」
「で、昨日は同じ種が一気に騎馬《きば》文明になっていたんですけど。これって、自然なことですよね?」
「そうだな。家畜にクワをひかせるくらいになると、人口許容量は一気に跳ね上がる」
「たくさんの食料が手に入るからですね」
「そうだ。農耕における土地あたりの食料供給量は、狩猟《しゆりよう》採集民とは比べものにならない。ゆえに農耕民は王や神官などの専門職を養うゆとりが出てくるのだ。結果として、狩りに慣れた狩猟採集民よりも戦闘的《せんとうてき》な気質を持つようになる。農耕文明の方が、より野蛮《やばん》で凶悪なのだ。また農耕に伴って道具も発達するし、それは鉄器や青銅器の誕生に繋《つな》がる。家畜化によって馬を戦場に乗り入れるための乗り物とするようになれば、周辺のより弱い文明を侵略するようになる。一連の再現性は驚《おどろ》くほど高い。必然といってもいいな。対して狩猟採集民は、民族の性質として平等で誰かひとりが絶対的な権力を持たない。なぜなら食料の貯蓄が難しく、富の集中が起こらないからだ。この一例としては、」
「まあ、そういう話でしたよねー」
長くなりそうな祖父のトークを、強引に区切ります。
演説を途中でカットされた祖父は「うー」という顔をします。ああ、遺伝ですかこれ。
「……で、引っかかる部分というのは?」
「紙人間にとって、食料ってのはお菓子なわけじゃないですか」
ペーパーザウルスは、妖精さんの気まぐれ設計思想により、お菓子を体内におさめることに執着していました。
あのシリーズは皆そうなのです。
当然、ペーパー霊長類《れいちようるい》も同じでしょう。
このあたりは祖父も理解しているはずで、わたしは結論から述べることにしました。
「妖精さんはお菓子を作れません。恐竜たちも。でも、もし彼ら紙人問が自らお菓子を作れるのだとしたら?」
祖父の顔に、たちまち理解の光がさしました。
「…………ホイッパー……そうか!」
「これって、まるで農耕ではないでしょうか?」
「うむ、む………」
農耕によって食欲が満たされた紙人間たちは、専門職を養う余裕が出て、それは結果として専門の兵士を生むことになります。
紙器のホイッパーは、さぞかし不便な使い心地だったことでしょう。
やがて耐水紙が生み出され、紙の技術が上がり、ダンボールへと到達し……技術の転用で武具までも発達していったとすれば?
「うーむ、なんとも因果な話だな」
「あれだけ紙工作ができることが、あだとなりましたね。正直、間が抜けている感もありますけど………」
「だからいいのかもしれん。そこが人間とは違うところだな」
祖父は物思いにふける顔で、窓際《まどぎわ》に腰を乗せます。
わたしも隣《となり》に立ち、清々《すがすが》しいほどの青空に顔を向けました。
「妖精たちがいなくなったのなら、ペーパークラフト騒動もじきに収まるだろう」
「そうですね」
三階の事務所からは、里の様子が一望できました。
「……ん? 誰か来るな」
「お客さんですか?」
建物への道を、建物への道を、ひょろっとした人影がのんびり歩いてきます。
少しぎこちない歩き方で。
その人物は、三階の窓から身を乗り出すわたしたちを見つけ、手を振ってきます。
「あのー、失礼します。国連の調停事務所を訪ねてきた者ですが」
「ここがそうですよ」
祖父が階下に声を投げ返します。
うん、お任せしてしまいましょう。
さっと頭を引っこめて自分のデスクに戻ります。
祖父はしばらく、旅の人と言葉を交わしていたのですが、
「……おい、おまえに用事があるそうだ。来るぞ」
「え? わたしに?」
「心当たりはあるか?」
ぶんぶんと首を左右に振ります。里の知り合いなんてほとんどいません。
やがて事務所のドアがノックされます。
「わからんが、相手してやれ」
「わ、わ、わ。あ、あ、あ」
祖父の無茶な要求にわたしの頭はまっしろになります。じたばたと手を振って無力をアピールしますが、空気をいくら掩搾《かくはん》しても状況はいっかな変化したりはしませんでした。
とりあえずドアを開けて出迎えるしかありません。
震える手でドアを開けます。
「……は、はい……調停官ですけど………」
出た瞬間、軽く仰《の》け反りました。
帽子の下に仮面をつけていたのです。
太字で大雑把《おおざつぱ》に書いた人の顔。どことなくエスニックな印象です。
衣服も足首まであるポンチョみたいですし。
「な、な、な」
「ああ、これですか、失礼。これは我々のアイデンティティーでして。まあよそ行きの衣装とでも思ってください」
と仮面の下からくぐもった声で言います。
「は、はあ」
リアクションできません。
「ほうほう、南米の守護神ですかな、それは」
祖父が好奇心全開で話しかけます。
「ええ、仮面を作るときに用いた資料が南米の古代文明のもので」
「ふむ、空中庭園で発見されたものを参考にしたようだ」
「よくご存じですね、引退なさった種族とは思えない」
「なに、手慰みですよ」
祖父がお客さんを室内に手招きします。「さ、お入りなさい。汚くてすまないが」
「いえいえ。では失礼しますよ」
「おい、ランプどかしてくれるかね」
「あ、はいっ」
ああ、ひそかにマイブースにしようと狙《ねら》つていたわたし好みの暗くて狭い小空間が、本来の用途で用いられてしまう……。
わたしと祖父が並んで座り、対面に仮面氏を迎えます。
「で、どこの里から?」
「ああ、そこの山のふもとで……最近越してきたばかりですがね」
「近いな。片道数時間といったところか」
「いずれまた里の皆さんには改めてご挨拶を」
「ここの者たちはのんびりしていてね。その時は気楽に来てくれて構わんよ」
「ありがたい。皆さんとはよくやっていきたいものです」
「おい、お茶か何か持ってきなさいよ」
祖父がわたしに命じますが、即座に仮面氏が手を差し出して制止しました。
「あ、いや、我々は……その、戒律がありまして。訪ねた先での飲食には厳しい制限があるのですよ」
「変わった習慣ですな。どこかの少数民族の血筋であられるのかね?」
「まあそのようなものです。口にできるものが限られておりましてな」
「ほほう、あとで詳しくうかがいたいね。そういう話が好きでね」
「ええ、是非《ぜひ》」
「あの、それで……わたしに用……………って……?」
消え入りそうな声で尋ねます。
仮面越しに発せられるこの人ちょっとヘンですぅ<vレッシャーが凄《すご》いのです。
「ええ、あなたがたいへんご高名なパティシエール(お菓子職人)だとうかがいましたもので」
「え、ええっ?」
パティシエールって!
「我々はそれに目がないものでして、是非《ぜひ》一度、その……振る舞っていただけないものかと、ずうずうしくもお願いにうかがったしだいで」
「そ、そんな、その、パティ……じゃない、です……」
両手を腿《もも》の間にはさんで、わたしは軽くうなずきます。
「今はそういう、資格みたいなものはありませんからな。まあ孫は多少、菓子作りをたしなむようですが」
「しかし我々の里には、うわさが届いてますよ。とてもおいしいお菓子を作られると」
「いえ………そんな……です……」
もっと俯《うつむ》いてしまいます。
このまま床に沈んでいきたい気分……。
「素材になるようなものをいくつか持参したのですが、差し支えなければ、これを用いて何か……それで、もしよろしければ、今後交易など……」
「おい、今日は菓子は持ってきておらんのか? 今朝方、何か作っていたじゃないか」
祖父が思い出したように言います。
「……フルーツケーキをちょっと………」
「フルーツケーキ!? 素晴らしい……そういう生ものは、なかなか口にできませんな」
「わけてあげたらどうかね」
「あ、えと……じゃあ……」
小走りでバスケットを持ち帰り、包装紙で包んだケーキを三つとも出して、そのままずずいと押しやりました。
季節のフルーツタルト。
野いちごを中心に、フリーズドライの果実数種を用いて仕上げた、パウンドケーキ。挟んであるクリームはほんのりバナナ風味。果実の鮮度に劣るぶん、野いちごはふんだんに用いています。
「さしあげ……さしあげ…………」
「なんと!」
「たいしたものではないので……ごにょ」
「感激です。ああ、素晴らしい色艶《いろつや》だ。ううむ、もう我慢《がまん》できませんな。さっそく」
仮面氏はマスクを少しずらして、指先でむしり取ったケーキを口内に押しこみました。
「お、おお……うまい、これはうまい―」
「……ども」
「私はそういう菓子はあまり食べないのでわからんが、君たちの種族は甘いものを好むのかな?」
「それはもう― 菓子こそ我らの生きる原動力といっても良いでしょう。ああ、もう少し、少しだけ………」
仮面氏はたちまちふたつのケーキをたいらげてしまいました。
「ああ、最後のひとつもいただいてしまいたいが、これは皆にも味わってもらわねば」
「生ものですから…………おはやめに召し上がって………くださ……」
通気性のない長期保存用の紙で包んでいますが、さすがにケーキは何日も保《も》ちません。
「そうですな。ううむ、もっといろいろなお話をうかがいたいのだが……早く持ち帰らねば。それでもしよければ……先ほどの話だけでも今ご検討いただけませんかな?」
「……え?」
横から祖父が肘《ひじ》で突いてきます。
「おまえと交易をしたいそうだ」
「交易………………」
「是非《ぜひ》。我々は独自の技術を持っています。特に今では入手しにくい素材のいくつかを技術復元しておりますので」
「お菓子の材料を?」
「ええ。そうです」
変わった里もあったものです。
今はどこも、自給自足の態勢確立を第一にしている関係で、なかなか娯楽品までは手が回らない時代なんですが。
「……材料がいろいろあると、その………助かりますし……えと、その……いいです」
「お引き受けいただけると?」
「は」
「素晴らしい……」仮面氏は勢いよく立ち上がり、わなわなと震《ふる》えます。歓喜の身震いでした。
「すぐ里に戻り、このことを皆に伝えねば…………!」
「お帰りかね」
「はい! お名残惜《なごりお》しいのですが、今日のところはこれで失礼しなければ。この宝が硬くなってしまう前に」
大事そうにケーキを抱えました。
「次はもっとゆっくりしていきなさいよ」
「はい― それでは調停官《ちようていかん》殿! またの機会に!」
仮面氏は突風の慌ただしさで、事務所をあとにしました。
「はー……」
わたしはプレッシャーから解放されて。ほっと一息。
「人見知り、本当に全然治ってないのだな」
「そんなことより……おじいさん、気付きましたか?…仮面をずらした時……」
「………ん、ああ、あれな」
顔を見合わせ、同時に口を開きます。
「紙っぽかったな」「紙っぽかったです」
まさかとは思います。
思うのですが、否定しきれないのも確かです。
わたしは、ペーパーザウルスやペーパーアニマルが、逐一《ちくいち》シリーズごとに作られているものだと思いこんでいました。
普通はそう考えますよね。
けど……ひとつの重大な可能性を失念していたようです。
あまりによくできた紙生物。
彼らはゴム動力という信じがたいほど単純な力で、驚《おどろ》くほど緻密《ちみつ》に、かつ長時間活動することができるのです。
なら、より高度な仕組みを発達させていても何ら不思議ではないはず。
たとえば……繁殖《はんしよく》とか、進化という仕組みを――
「思えば、事務所でおじいさんが拾ったゴミ…」
「よせよせ、考えるだけ野暮《やぼ》だ」
「これ、ほっといてもいいんですかね?」
「平和的に交易を望んでいるんだから、いいんじゃないかね? おまえだって、今後心おきなく菓子作りができるのだから」
「そうなんですけど……あの、もしかすると……廃墟《はいきよ》で目撃《もくげき》されたペーパーアニマルって…生態系に適応して………それってつまり………」
祖父は能面のような顔で言います。
「なるようにしかならん。諦《あきら》めろ」
「……あははははー」
わたしはゆっくりとソファに沈みこみます。
仮面氏の退室により、扉が開け放たれたままの事務所を、妙に紙っぽい蝶《ちよう》がひらひらと優雅に横切っていきました。
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妖精さんメモ【丸まり】
妖精さんはてきにおそわれたり大きな音などにおどろいたりすると、体を丸めてボ一ル状になり、身を守ります。これを丸まりといいます。
とてもすばやい妖精さんですが、ボ―ルになっているときなら簡単にゲットできますよ。
丸まっているときは意識もなく、冬眠に近い状たいになっています。
数分ほどでもとに戻り、活どうを再開します。ただそのときには、自分がどうして丸まったのか、きおくを失っていることが多いようです。とってもふしぎ!
『四月期報告』
1.前半期
クスノキの里自治行政区では、新規職員の増員にともない、妖精人類(以下、妖精)とヒト人類との交流を試みた。
当初、広域に生活圏を持ち定住しない妖精との対話は、困難を極めることが予想された。
そこで職員考案による新規採集法を実施。結果として四人の妖精との接触に成功した。
この際、接触は極めて平和的かつ合法的に行われ、まったく問題はなかった。
妖精四人にはそれぞれ身体的特徴が認められたものの、多数の個体に混ざつた場合、必ずしも決定的な判別材料とはならない。
そこで職員は四人それぞれの命名を提案した。この提案は、個体名を持つ習慣がなく、種族的好奇心に富む彼らに快《こころよ》く受け入れられた。
四人は「キヤップ」「なかた」「ちくわ」「さー・くりすとふぁー・まくふぁーれん」と命名され、対話を円滑に進めることが可能となった(図版T参照)。
その後、離散期《りさんき》にあった妖精の活動状態が集合期へと移行した。
近隣域《きんりんいき》に暮らしていた妖精の大半が集まったものと見られ、人口は稠密牝《ちゆうみつか》した。個体数の集合により、文化ならびに科学水準の異常活性が認められるようになった。
この時には、一晩で都市型の巨大遊具が作られるなど、かなり大規模な集合であることがうかがえる。
これらの変化を職員は注意深く、節度をもって観察した。
時には妖精との遊戯《ゆうぎ》に誘《さそ》われることもあり、地域交流は考え得る限り最大限順調に行われていて、まったく問題はなかった。
既存の研究報告が示している通り、集合期は比較的短い期間(五〜七日)で離散期へ移り変わる。これは妖精という種族特有の、自らの創造物に対する持続的関心の少なさに起因する数字である。平均一週間という数字は、当クスノキの里《さと》の過去記録と一致するものであり、おおむね信頼に足るデータだと思われる。
しかし今回は、前例にない期間での移行が起こり、おおよそ三日で妖精は離散していくことになってしまった。この原因については目下《もつか》調査中ではあるが、解決の見通しは立っていない。職員の対応に不備があった可能性は否定できないが、我々がいまだ知らない原因によるものかもしれず、早計は避《さ》けるべきであろう。
集合期は文化水準が著《いらじる》しく上昇しているため、ヒト社会からの過度の影響《えいきよう》が起こらないように留意しなければならない。特に重犯罪などに代表されるヒト人類特有の悪弊《あくへい》は、より高次の技術体系を持つ妖精社会にとっては極めて有害であるとされる。過度の干渉は調停理事会の理念に反するばかりか、調停業務自体の遂行《すいこう》を困難にするものである。
そのような観点から考察しても、担当職員の認識に不備があったという事実はなく、妖精たちにとって影響力が強すぎると予測される宗教概念などの伝播《でんば》もなく、実にまったく本当に問題はなかった。
2.後半期
前半期に引き続き、後半期にも集合離散の転変が確認された。
クスノキの里から発する交易道七号線四キロの地点にある、高層都市遺跡を切り開く形で作られた人工的なサバンナが発見された。
職員による調査の結果、多数の妖精がここで擬似的《ぎじてき》原始生活を営《いとな》んでいることが判明。またこの集団には「なかた」「ちくわ」両氏の姿も見られた。
その生活様式は「人類のあけぼの」を模しているように見え、妖精特有の行動である「ヒト模倣《もほう》」であると推測できる。
またサバンナには、恐竜(人類と恐竜が同時期に存在したという事実はないが、これは妖精的な譜謔《かいぎやく》の類《たぐい》と見るべきである)を模倣したペーパークラフト(図版U参照)が多数配置されていた。ゴム動力によつて自発運動するこれらのペーパークラフトは、単純なようでいて極めて複雑な構造をしており、妖精たちの持つ技術がいかに並はずれているかを再確認させるに足るものだつた。
これらは、友好物資(菓子類)の贈与に赴《おもむ》いた職員自らが目撃《もくげき》した。なおこの接触によつて妖精に危害が及ぶなどのアクシデントは一切なく、まつたく間題はなかった。
その後、ペーパークラフトには貴重な菓子類を体内に隠す性質があることが判明し、妖精たちに狩猟《しゆりよう》の概念《がいねん》が生じるようになった。ペーパ―クラフトは自律的に活動しているため、これを停止させて菓子を入手するには、物理的に破壊《はかい》するしかなかったのである。職員によつて狩猟という暴力的な風習が教唆《きようさ》されたわけでは断じてなく、まつたく全然これつぽっちも問題はなかった。
またその後の狩猟生活もごっこ遊びの域を出ることはなく、この点で特に憂慮すべき部分はないと思われる。離散期《りさんき》への移行を見届け、視察を終えた。
なおペーパークラフトは相当数がサバンナに解き放されていたようで、それらの一部は狩猟圧の高まりを生き延びていまだ生存している。
一部|廃墟《はいきよ》を越えて活動域を広げた個体もあったはずだが、危険性は一切なく、紙であることも考えれば遠からず機能は停止すると思われる。
だがもしかするとペーパークラフトは、活動性を維持するための機能を備えているかも知れず、そのため長期にわたって目撃されたり淘汰《とうた》されたり自然選択されたり変異したり多様化したりするようなろくでもないことが今後さらにあるかも知れないが、まったく問題なく収束することを内政非干渉の見地に立つ本件とは直接的には無関係な一調停官としては切に祈りたい。
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あとがき
はじめまして、田中ロミオです。
ご存じない方も多いかと思います。
あなたのすごやかなる明日のため、このペンネームをインターネットで検索しないようにしてください。特に平成生まれの方が私のペンネームを検索することは法律で今にも禁じられそうです。ご注意ください。
簡単に自己紹介をするなら、私は「ウィンドウズ用アプリケーションソフトに使用されるテキスト・データの作成」を生業《なりわい》とする者ということになります。
いわゆる貿易商です。
それでいいじゃないですか。よろしくお願いしますよ。
・この小説について
とあるご縁でお会いしたガガガ編集部の面々は、たいへん濃い方々でした。
彼らが求める小説は、きっととんがった内容ばかりになるじゃろう。
と広島弁で予測した私は、あえてひとりだけキレイな作風でダークホースしようとして……軽く失敗して横道スピンしてできたのがこの小説です。
この作法をスピンアウトと言います(嘘《うそ》です)。
当初の予定では、児童文学っぽいタッチで描かれる、短編連作形式の、やろうと思えば金太郎飴的ストーリーで何巻でも書けてしまう、張り巡らされた伏線とか緻密な構成とか魅力溢れる登場人物とか冴《さ》え渡る推理とか一切必要ない、実にリラックスしたノベルとなり、「みんなー、ぼくの感想文書いてねー」とばかりに小学校の図書室なんかに並べられる予定でした。
もしそのようなものとして完成したなら、私はダークホース行為によって実力以上に印税様になることだってできた気がします。あの世界的|魔法《まほう》学園小説の作者のように。
残念ながら非印税様の線が濃厚となってきている今日この頃《ごろ》ですが、裏を返せば、私はどこまでも自由だということです。
だからまあ、これはこれでいいんじゃないかなと思うのです。
・タイトルについて
「さおだけ屋ってなんで潰《つぶ》れないんですかね? メソッド」に基づく、内容とはそんな関係ないんだけど売れそうなタイトルづくりを目指しました。
・カリスマについて
ガガガ文庫のウェブサイトなどでは、カリスマという惹句《じやつく》が用いられていることを発見しました。いかにも私はとんだカリスマ野郎です。
それは呼吸をするように人や無人機械から借りてすませるがゆえのカリスマであり、知人が私に対し「ユーって本当にカリスマだよね」と告げるとき、表情がこの上なく苦々しいところからも明らかです。人生思い返せば、確かに借りすぎたきらいはあるかもしれません。いろいろなものを借りてまいりました。借りて借りて借りまくりました。そして時には返しました。どうしても返せない時には、別のところから借りて返しました。あの画期的な擬似《ぎじ》永久機関(バイシクル機関)の導きに従って。そのカリスマっぷりには親の目にも涙が浮かぶほどですが、しかしまあ、生々しいお金の話はこのくらいにしておきますね。
平成生まれの諸君は、こんな人生にならないよう気をつけていただきたい。
・小学館様について
自分がかの小学館様と仕事をしているという事実に愕然《がくぜん》とします。
小学館様といえば、コロコロ、小学一〜六年生、小一教育技術……まばゆい配本が冴《さ》え渡るブックメーカーのオーソリティーです。
大手も大手、超大手であり、長いものに巻かれるぞー、というポジティブな気分にさせてくれます。この本だってもしかすると、小中学生…いや、小中学生様に読まれたりすることもあるのでは?
それを考えると挙動不審になりそうです。
小学生様にも読まれる物書きは、光の王国に住んでいると考えます。
できるものなら私だってビー玉やベーゴマやミニカーレースで巨悪を倒す少年の話が書きたい。若い頃《ころ》に懐《いだ》いていた、そんなピュアな気持ちを思い出してしまう今日この頃です。
・今後について
最近、本業のスケジュールがダイナミックにムーブしていろいろ大変だったんです。
今回たまたまピンポイントで時間が空いたのですが、突然舞い降りた自由時間の天使が私に「せっかくの休み、口半開きでぼんやりするくらいなら、小説でも書いてゆっくりしたらどうなのサ?」とツンデレ気味に囁《ささや》くので、頑張って書いてみました。そうしたら普通に全時間仕事をすることになりました。だまされたぜ。
一応、この本には続きがあります。正確には、続けられます。いくらでも。だから伏線のいくつかも胸を張って未回収なんですよー(書かずにおけば波風立たない裏事情)。
機会があれば、またお会いできるかも知れません。
そのときは小学校図書室目指して頑張りたいと思いますので、好意的なコメントを書きつづったアンケートハガキをいただけますようよろしくお願い申しあげます。
もちろん手厳しい批判意見もテレパシーにてお受けいたしております。それでは。