目次
花埋み
解説(吉村昭)
花埋み
利根《とね》川《がわ》は関東一の大河である。
上信越の山並から流れ下ってきた雪解け水は、この北埼玉俵瀬《たわらせ》にきて豊かな水《みの》面《も》を見せていた。上流の岩を噛《か》む激しさはもうここにはない。悠々《ゆうゆう》と大河の風格を成して流れる川《かわ》面《も》に純白の帆を張った大舟がゆっくりと下っていく。目の届くかぎりの水面に帆だけ数えて十四はある。河岸に立ち目を止めると船も水も風景のすべてが柔らかい春の光の中で止っている。
「お―や、おーや」と船を漕《こ》ぐ船頭の声もこの岸からは聞えない。
川は岸に近く萱場《のば》になり、その先は盛土をした堤につながっていた。堤からは街道の松並木まで青く色づいた麦畑が一望の下に見渡せた。
俵瀬村の名《な》主《ぬし》、荻《おぎ》野《の》綾三郎の家はこの麦畑のほぼ中程にあった。正面に長屋門を持ち裏に白い蔵をもった豪壮な邸《やしき》は、欅《けやき》や棕《しゅ》櫚《ろ》の樹木に黒々とおおわれて、堤の上から見ると平地の中の城のような構えを見せていた。
この一帯は荻野姓が多い。いずれも総本家は足利《あしかが》氏の流れをくむくるま家《・・・・》で、家紋も足利家と同じ丸に二つ引きである。その中でも綾三郎の家は上《かみ》の荻野と呼ばれ、下の荻野と並んで最も由緒《ゆいしょ》正しく、農家であるのに古くから苗字《みょうじ》帯刀を許されていた。当主の綾三郎は今年五十二歳だが、三年前から頑《がん》固《こ》な関節痛に悩まされ、奥の部屋でほとんど寝たきりの生活を送っていた。長男の保坪《やすへい》は二十四歳で独り身な上に農業にはあまり関心がなかったので、実際に家を取りしきっているのは四十五歳になる老妻のかよであった。
かよは小《こ》柄《がら》で眼《め》元《もと》の涼しい賢妻であった。俵瀬一番屋敷という名に溺《おぼ》れず、堅実に家をとり仕切り、危なげなく荻野の家を守った。一日の仕事が終り風呂《ふろ》へ入る時でも、夫をいれ、二人の息子をいれ、使用人から下女の果てまでいれてから最後に入る。一家の主婦がすべてを見届けるのが当然の勤めだとかよは考えていた。子供は男の子は保坪と増平の二人だけで、あとの五人は女ばかりだった。五人ともすでに嫁いでいたが、かよの聡明《そうめい》さを受けてか、女の子はいずれも読み書きに優れ賢く美しかった。
「上の荻野を見習え」というのがこの辺りの人の口癖で、村人は荻野の家へ一様に畏《い》敬《けい》と親愛の情を抱《いだ》いていた。
だがこの一点の翳《かげ》りもないかにみえる上の荻野家に、近頃《ちかごろ》奇妙な噂《うわさ》が流れていた。
三年前、この八里先の川上村の豪農、稲村家の長子、貫一郎へ嫁いだばかりの五女のぎんが嫁ぎ先から戻《もど》ってきているというのである。それも軽い里帰りとか、お産のため、というのでもない。ただ一人で風呂《ふろ》敷包《しきづつ》み一つ持って帰ってきたというのである。しかもそのまま居続けてすでに半月近くになるという。
このことについて荻野の家の者はもちろん、使用人も何も言わない。だが利根川べりをぎんが実家に向って歩いているのをたしかに見たという者がいる。それも一人でなく三人もいる。
もともと利根の洪水《あらし》さえなければ十年一日のごとく、何の変りようもない田舎である。東京でこそ、御一新になり明治政府ができ、天皇さまが京都から東京へ移られた、と目まぐるしく動いていたが、その余波はこの北埼玉にまではまだ及んでいなかった。
村人は退屈で噂に渇《かつ》えていた。嫁取りでも葬儀でもいい、ま新しい話題が欲しかった。そんなときに堅実な家風で鳴った荻野の娘の里帰りは、彼等の渇えを癒《いや》すに充分な事件であった。
「婚家で何か問題でもあったのかな」
「一向に戻る様子もないそうです」
「五女のぎんさまといえば、美人揃《ぞろ》いの荻野様の家でも特別美しくて、賢いお方との評判だったが」
「十歳頃にはすでに『四《し》書五経《しょごきょう》』から『小学《しょうがく》』まであげられたということです」
「そんなお方が、不思議ですなあ」
「これはまた聞きですが、何か気《き》鬱《うつ》の病だとか、それで療養にお戻りになったとか」
「しかし川上からは誰方《どなた》もお見えにならんのでしょう」
「それです、それがおかしいですなあ」
「お姑《しゅうとめ》さんと折合いでも悪かったか、あるいは旦《だん》那《な》さまとでも」
「賢いお方ですからそんなこともないと思いますがね。でも川上の稲村様といえば以前は代官《だいかん》見《み》付《つけ》のお家ですからねえ、せい様とおっしゃるお姑さんも健在でなかなか厳しい家らしいですよ」
「まさか、このまま離縁になど……」
「滅相な、上の荻野ともあろうお家で、しかもお母さんのかよさまがついています。よもやそんな恥さらしなことはさせますまい」
「折角の名に傷がつきますなあ」
明治初年の保守的な農村で、嫁が実家に逃げ帰るなどということは考えられない。
人々はあちこちで荻野の家のことを話し始めた。今まで輝くばかりに一点の曇りもなかった名家だけに、この噂はたちまちみなの興味を煽《あお》った。だがかよも保坪もそんな噂をよそに一向に変った様子はなかった。道で人に会っても、家で出会う商人や小作人にも、いつもの、にこやかな顔で平然と応対した。家の中にもそんな暗い翳はどこにもなかった。
「もう川上へお帰りになったんではありませんか。誰《だれ》も家にいるのを見た人はいないのですから」
「いやいや、そんなことはありません。現に川上の婚家にはぎんさまはいらっしゃらないということですからね」
「ではどこか温泉地にでも出かけているのと違いますか」
「いや、たしかに荻野様の家にいるのです。もしお帰りになったら村の誰か一人くらいは見るはずです。奥にきっといるのですよ」
閉ざされた農村だけあって人々の目は鋭い。かよがどう振舞おうと、噂は一向に治まる気配はなかった。それどころか日とともに大きくなる。もちろんその噂をかよは知らぬわけはなかった。好奇心と同情の入り交った村人の眼をかよは感じていた。中には話のついでに探りを入れる者もいた。荻野に嫁いで三十年になるが、こんな立場に追い込まれたのは初めてであった。だがかよはなお黙り続けていた。俵瀬の一番屋敷として人々の範となっていた荻野の誇りを、かよはまだ捨て去る気にはなれなかった。
「それで、ぎんは今どこにいるのです?」
友子は久しぶりに訪れた挨拶《あいさつ》もそこそこにかよに尋ねた。友子はぎんのすぐ上の姉で年齢は四つ違いだった。五年前に熊谷《くまがや》の神官の家に後妻として嫁いでいたが、二日前、折入って相談したいというかよからの便りを受けて今朝早く熊谷を発《た》って俵瀬に来たのだった。相談というのはもちろんぎんのことであった。
「奥の縁側ぞいの八畳にいます」
「寝たきりなのですか」
「時々起きてはいるけど、まだ少し熱があるし……」
「お医者様には診て貰《もら》ったのですか」
「万年先生にね」
友子はうなずいた。万年翁《おう》は友子が嫁ぐ前からの俵瀬の実家に出入りしていた漢学者で、友子も兄の保坪に交って読み書きを教わったことがある。江戸の寺門静軒《てらかどせいけん》の門下で十年前から俵瀬へ来て娘の荻《おぎ》江《え》とともに村塾《そんじゅく》を開いていた。当時の漢学者の多くがそうであったように万年翁も漢方医の心得があって、この辺り一帯の医師も兼ねていた。
「で、何とおっしゃるのです」
「それが……」
かよはうかがうように周りを見《み》廻《まわ》した。板の間に続く茶の間にはかよと友子の他《ほか》は誰もいない。それを見定めてからかよが少し顔を近づけて言った。
「膿淋《のうりん》だとおっしゃるのです」
「のうりん?」
かよは眼でうなずいた。
膿淋とは漢方での言葉で、現在でいう淋疾《りんしつ》をさす。高熱とともに激しい局所の痛みと、排尿痛がある。梅毒と並び称される性病であることは言うまでもない。今でこそ淋疾はペニシリン、クロマイといった抗生物質が出来てさして怖い病気でなくなったが、サルファ剤さえなかった当時としては一生治りきれない業病《ごうびょう》であった。その業病に、嫁いで間もなくぎんが罹《かか》ったのだと言う。
「すると……向うで」
「…………」
「いつからです」
「ぎんの話ではもう二年にもなるというのです」
「じゃ嫁いですぐじゃないの」
友子にしてもまったく思いもかけない話であった。
「それで、治る目処《めど》はあるのですか」
「はっきりはおっしゃらぬが、万年先生の御様子ではなかなか難しいものらしいとか」
「膿淋にかかれば子が産めなくなると聞いたけど」
「そのこともあります」
かよは目を伏せた。事実、淋疾にかかった婦人の大半は不妊症になったが、それは今もあまり変りはない。
友子は一つ大きく息をついた。まったく寝耳に水であった。信じられなかったが、母がいう以上信じないわけにはいかなかった。
「向うでは何とおっしゃるのです?」
「どういうお心積りなのか、正式には何の連絡もありません。向うを発つ時、療養のためしばらく俵瀬に行ってくると、女中にだけ言ってきたというのです」
「で、ぎんは」
「一向に帰る気はないらしくて」
「そんなことを言っても……」
友子は膝《ひざ》をのり出した。
「じゃ、ぎんの方から勝手に出て来たのですか」
嫁の方から婚家をとび出してくるなどということは友子にはとうてい考えられない。しかも食うに困る水呑《みずのみ》百姓ならいざしらず、相手は北埼玉でも指折りの大《たい》家《け》である。
「何ということをしてくれたのです」
妹の不行跡はすぐ親戚《しんせき》縁者としての自分にも及んでくる。友子は他人《ひと》事《ごと》ではなかった。
「そうとまで知っているのに、何故《なぜ》家においておくのです」
末っ子だけに自由気《き》儘《まま》に育てすぎた故《せい》だと、友子は母を責めたい気持もあった。
「意見をして帰したらいいではありませんか」
「それはそうだけど、着いた日からひどい熱がでて、おまけに大変な腹痛なのです。この二、三日、ようやく熱は落ちついてきたけれど」
「それじゃ向うでも」
「冬からはほとんど寝たきりだったらしいのです。少し風邪気味だという便りはあったけれど、その程度のものだろうとあまり心配もしていませんでした。とやかく言っても向うさまにおあげした子ですからね、あまり様子を尋ねるのも悪いと思って」
母の気持も友子にはよくわかる。
「ぎんも告げるのが恥ずかしくて、必死にこらえていたようです」
「…………」
「二月に熱があるのに水を使って、眩暈《めまい》を起して倒れてからは、もう起きられなかったようです」
かよの話を聞いているとぎんが逃げ帰ってきたのも無理はないと思う。
「ほんに困りました」
話があった時、かよはいい縁談だととびついた。決定にぎんの気持はかけらほども入っていない。言われたとおり、つくられたとおりの結婚であったが、それで世間は通っていた。
「私が迂《う》闊《かつ》でした」
かよは軽く目をおさえた。ぎんだけを責めるわけにはいかない。縁を結んだということから言えばぎんより、かよや仲人《なこうど》の方にはるかに責任がある。しかしだからと言って、今の不幸を防ぐことができたかというと自信はない。
「不運だったのですよ」
友子が母を慰めるように言ったが、当のぎんにとってみれば不運だけで済ませられるものではなかった。友子はそこに気付いて慌《あわ》てて声をのんだ。
かよは思い直したように鉄瓶《てつびん》から湯をとって急須《きゅうす》に注《つ》いだ。この数日、悩み続けた故か、友子の眼には母が急に小さくなったように見えた。
「お父さんは何とおっしゃっているのですか」
「すぐ帰せと……」
「川上へですか」
一人で戻ってきたまま動こうとしないぎんもぎんだが、性病をうつした夫の許《もと》へすぐ帰れという父も父だと友子は思った。だが、といってどうしたらいいものか、このまま残るか、帰るかの二つに一つしかないこともたしかだった。
「お母さんは、どう考えているの」
友子には今すぐこれといった名案も浮ばない。
「このままではいろいろと世間様に取り沙汰《ざた》されるばかりですからね、出来たら早く帰った方がよいと思うけど……」
かよは少し言い淀《よど》んでから、
「ぎんにはぎんの考えもあるだろうから」
「もう治らないものでしたらね」
「あなたからぎんの本当の気持をよく聞いて貰いたいのだけど」
ぎんは友子の四つ下の妹である。ぎんは末っ子であっただけに、姉妹の中では最も年齢の近い友子と一番親しかった。ぎんが嫁に行く時も友子は前の日から来て一夜語り明かした。その時、ぎんは嫁に行くことに何の疑いも抱いていなかった。新しく開ける生活へ十六歳の娘は娘なりの期待をもっていた。その明るく聡明な妹が三年後にこんな姿で戻ってくるとは、友子自身思ってもいなかった。
「あちらさまへも、そろそろなにかのお便りをせねばなりません」
「そんなお方とも見えませんでしたがねえ」
友子は嫁入りの時に垣《かい》間見《まみ》たぎんの夫となった人の顔を思い浮べた。男には惜しいほどの白く優しい顔であった。それはぎんの小麦色に締った顔と好対照であった。
「殿《との》御《ご》は分りませんねえ」
それがいまの友子の偽らぬ気持であった。
父の居間と縁続きの奥の八畳間に友子が顔を出した時、ぎんは床に横になったまま本を読んでいた。
「あ、友子姉さん」
襖《ふすま》の開く音で振り返りざま、ぎんは本を枕《まくら》元《もと》において床の上に起き上った。
「いいわ、寝てていいのよ」
友子が言ったが、ぎんは寝着の前を合せ坐《すわ》り直した。
「どうなの」
嫁ぐ時、卵形で張りのあったぎんの顔は、逆三角形に顎《あご》が尖《とが》り、顔色は膿淋特有の蒼《あお》ざめた顔に変っていた。
「どうしてここへ」
「久し振りに弁財まで来る用事があったから、母さまがどうしているかと寄ってみたの。そしたらあなたが来ているというので、吃驚《びっくり》したわ」
出来るだけ平静を装ったが、ぎんは友子の現れ方の普通でないのをいち早く察したらしい。
「母さまに呼ばれたのね」
「…………」
「私のことで相談をうけたのですね」
二度尋ねられて友子はうなずいた。
「ちょっとだけ」
「私に何を言いたいのです」
ぎんはすでに身構えていた。熱で赤くうるんだ顔に勝気な眼が輝いている。こうなってはありのまま言うより仕方がない。
「あなたのことは母さまから聞きました。あんまり突然のことなので、吃驚しました」
「怒っているのですね」
「いいえ」
一廻り小さくなって、急に三つ四つ老《ふ》けてみえるぎんが友子には不《ふ》憫《びん》であった。
「ただこのままではどうにもならないことだけははっきりしています。療養なら療養らしく然《しか》るべき温泉にでも行くなり、お家で休むなり、なんとかはっきりさせねばなりません」
「それでお姉さんはどう考えるのですか」
ぎんが逆に尋ねた。
「どうって……それはあなたのことですから……」
「早く川上に戻れとおっしゃりたいのでしょう」
「決してそんなつもりじゃありません。ただあなたの本心を聞きたいと思ったのです」
「言っていいのですか」
「もちろんです。私はあなたの姉ですよ」
「じゃ言います」
ぎんは丸く大きな眼を真《ま》っ直《す》ぐ友子に向けた。
「私はもう川上へは戻りません」
「じゃ、あなたは……」
ぎんは一つ大きくうなずいてから言った。
「そのつもりで出てきたのです」
友子は呆気《あっけ》にとられてぎんを見ていた。ぎんの顔には少しの翳《かげ》りもなかった。むしろ重荷を降ろしたような安《あん》堵《ど》が浮んでいた。妹である筈《はず》のぎんが急に大人びた女にみえた。
「明日にでも、父さまと母さまに言おうと思っていたのです」
「ぎんさん」
気をとり直して友子が言った。何か言わねばならぬと思いながら考えは少しもまとまらない。
「それではあなたは離縁されたいと言うのですか」
「はい」
ぎんが答えると、後ろに束ねていた髪がかすかに揺らいだ。
「このまま離縁されたらもう二度と結婚できないかも知れないのですよ。一生一人でいることになるかも知れないのですよ」
「構いません」
言いきった気楽さでか、ぎんはさっぱりした表情で陽《ひ》が傾き樹木の影の長くなった庭を見ていた。
離縁という大きな転機を目前にしている女の顔とも思えない。その落ちつきぶりに友子は驚きと焦《いら》立《だ》たしさを覚えた。
「折角あれだけのことをしてお嫁にいって、惜しいとは思わないのですか」
「今更惜しいものなど、何もありません」
「あなたは勝手すぎます。我儘《わがまま》ですよ」
「私が我儘ですって?」
「そうです。そうじゃありませんか、婚家の許しもなく勝手にとび出してきて、実家に長々といて、それで嫁の道が立つと思うのですか」
言うまいと思ったことがつい口から出た。
「道など初めから立つとは思っていません」
「そんな勝手なことを言って世間が通りますか、人々が納得しますか」
「道にそむいたのは向うからです。あの人が夫の道にそむいたから、私も嫁の道にそむくのです」
「あなた……」
友子は改めてぎんを見た。小さい顔の中の大きな眼が燃えるように輝いている。幼い時から勝気な子ではあったが、これほどとは思わなかった。友子の知らぬぎんがそこに息づいていた。
「男性はもうこりごりです。お嫁になぞ一生いけなくてもかまいません。その方がどれだけせいせいするか分りません」
「誰方《どなた》でも間違いはあるものです。一時のちょっとした過ちで、そんな風に考えるものではありません」
「一時でも、ちょっとしたことでも、うつされたことは同じです」
「ぎん、あなたは女ですよ」
「女だから病気をうつされても、子供を産めない体にされても我慢せよというのですか。熱があっても起きてお姑《しゅうとめ》さんに仕え、夫の機《き》嫌《げん》をとれというのですか」
友子はつまった。そう言われては答えるすべはない。母より理解がある筈だったのが、いつのまにかぎんを古い女の道に閉じこめようとしている。そんなつもりで来たのではなかった。
「でも、世間体ということもあるし」
友子はみずからを落ちつけるように言った。
「残念です」
ぎんは庭の梔子《くちなし》の白い花を見ていた。その木は嫁ぐ前からあって、その時からみると大分大きくなっている。
「折角大家の御《ご》新《しん》造《ぞ》さまになれたのに」
友子の言うことはつい愚痴になる。五人の姉妹の中でぎんが一番裕福なところへ嫁いだ。嫁ぐときまった時は誰もが羨《うらや》んだ。それをたとえ淋疾をうつされたからといって出てくる手はない、しかも女から勝手に。こんなことは前代未《み》聞《もん》である。このことを村人達が知ったら何と言うか、考えるだけで友子は身が竦《すく》んだ。
「どうしても戻《もど》る気はないのですか」
しつこいと思いながら友子はもう一度きいてみた。
「いくら大家でも米櫃《こめびつ》の番などはしたくもありません」
「米櫃の番?」
ぎんはまた庭を見ていた。葵《あおい》の葉の照り返しがぎんの顔を一層蒼《あお》く見せていた。
「それが嫁の勤めではありませんか」
「私はいやです」
ぎんは顔を戻した。
「火を起し、部屋を掃除し、米を炊《た》く。本の一つを読む暇もありません」
「ぎん、あなたはあちらで本を読んでいたのですか」
「…………」
「何ということをするのです。本を読む農家の嫁がどこにいます」
「一日の仕事が終ったわずかな時間です。それさえ義母《おかあさん》の目を盗んで」
「当り前でしょう」
「私は当り前とは思いません」
「馬鹿《ばか》げたことを言うものではありません」
「病気になったのはかえってよかったのです。これで男の勝手と、結婚の馬鹿さ加減が分ったのですから」
「ぎん……」
「いいのです。放《ほ》っといて下さい」
突然ぎんは坐っていた布《ふ》団《とん》に顔をうずめた。それまで精一杯に張りつめていた気力が、急に抜けたようである。丸く小さな肩が小刻みに揺れる。揺れながら顔をうずめた布団の中でぎんは言い続ける。
「もういやです、もう何処《どこ》にもいきたくはありません……」
揺れ続ける妹の背に、友子は厳しい姑のいる大家の長男に嫁ぎ、裏切られた三年の労苦がのしかかっているのを見た。
「ぎんさん、元気をだすのです」
肩をさすりながら友子は、ぎんの悲しみが、次第に女としての自分の悲しみにまで拡《ひろ》がってくるのを感じていた。
終日、ぎんは奥の八畳間で過した。部屋では布団が敷きづめだったが、気分の良い時は床の上に起きて過した。部屋からは川上の家と同じように縁越しに庭が眺《なが》められた。灯籠《とうろう》があり、池があり、庭の境いには十数本の棕《しゅ》櫚《ろ》の樹木が並んでいた。庭のたたずまいは稲村の家とあまり変らなかったが、この庭は子供の時から見馴《みな》れていた。目を閉じても何処に何の木があり、何の草があるか、すべて言い当てることができた。
嫁いだ家なのに稲村の家の中のことはなにも思い出さない。思い出すのは庭の草木のたたずまいだけである。家の中より庭を見て過した時間の方が長かったのだとぎんは思った。
床に起き上った時、ぎんはたいてい本を読んだ。本は書斎へ行けばいくらでもあった。父が元気な頃《ころ》はよくここへ出入りしていたが、今は出入りする者はほとんどいない。誰《だれ》に気兼ねすることもなく本は自由に読めた。それなのに時々見付かりはしないかと怯《おび》えながら読んでいる時がある。それと気付くと、もうここには姑のせいはいないのだ、とぎんは自分に言いきかせてようやく安堵した。
松本万年は月のうち、五のつく日に、半里ほど離れた堀先から馬に乗ってやってきた。保坪《やすへい》と気の合った近所の二、三人が教わっている。素読する万年の声が風の具合で襖越しにぎんの部屋まで届いてくる。今は何を学んでいるのか、ぎんの知らぬ本のようであった。娘の頃は兄達の後ろで坐って聴いた。今度も聴いてみようか、ぎんは奥の間へ行ってみたかったが、万年には女として死ぬほど羞《は》ずかしいことを知られていた。そんなことを知られていまさら漢学を習うことはできないとぎんは自分に言いきかせた。
講義が終ると、今度は万年は医者としてぎんの部屋を訪れる。
「どうかな」
ぎんは会わなかった十日間の病状を言葉短かに答えた。万年はぎんの言う症状をきき終り、新しい薬の処方を告げてから床を見《み》廻《まわ》して言った。
「こんな面倒なのを読んで頭が疲れないかな」
万年は枕元でぎんが読みかけたままほうっておいた『素行往来』を取りあげた。
「退屈な時、少しずつです」
「そうか。今度、私が本を記した。それをそなたに進ぜよう」
「なんという御本でしようか」
「『文斉雑抄』という、田舎にいて、徒然《つれづれ》なる思い出を綴《つづ》ったものだ」
「読みとうございます」
話すうちにぎんは万年が医師であるのを忘れた。今が幼い時の続きとしか思えなかった。
「毎日、部屋に閉じこもらずに気分の良い時は少し歩いてみた方がよいのだが……」
「ありがとうございます」
だがぎんは外へ出る気にはなれなかった。邸《やしき》には女中や下男の使用人が十人近くいた。表には小作人や、近隣の人、江戸からの人が幾人も出入りしている。家族はもとより使用人も、ぎんには特別のことは言わなかった。彼等は、「病で静養に戻っている」とだけ、かよから聞かされていた。たまにぎんと会っても目礼を返すだけで、どこの病でどんな具合かとも尋ねなかった。もちろん稲村のことも尋ねない。
使用人達はひっそりと静かにぎんを見守っていてくれた。それは嫁いだ家を離れてきた女への思いやりのようでもある。彼等の好意を有難《ありがた》いと思いながらぎんは息苦しく思うことがある。だが使用人はまだいい。問題は隣近所の人の眼であった。自分では納得したことが彼等の間では解決していなかった。彼等は出戻り娘へのいたわりを表に、裏に好奇の眼をもって見ているに違いなかった。膿淋《のうりん》もちの石女《うまずめ》が実家で大きな顔をしていると知ったら彼等は何と言うであろうか、気の強いぎんも、そんな眼にさらされてまでも表へ出る気にはなれない。
「退屈であろう。でも世間の眼はうるさいものだ。当分出ない方がよいかも知れん」
万年はやさしさを込めた眼《まな》差《ざ》しを床の上でかしこまっているぎんに向けた。
「そなたのような秀《すぐ》れた女《おな》子《ご》を私も離しとうない」
「私なぞ……」
冗談にまぎらせたが、それは万年の本心でもあった。
「あまりふさぎ込んでいても毒だ、いずれまた学問でも始められるとよい」
「是非教わりとうございます」
今のぎんには学ぶことしか楽しみはなかった。
「そのうち病もおちつこう、したらお教え申そう」
容易ならぬ病であることは医師である万年が一番よく知っている筈だった。ただの慰めだと知りながら、ぎんは嬉しかった。
「今度、荻《おぎ》江《え》をここへ寄こそう」
「いえ、いずれ私の方から」
「相変らずきかん気でまだ一人でおるわ。そなたとなら話も合おう」
万年の娘、荻江に、ぎんは万年の塾《じゅく》で何度か会っていた。ぎんの八つ上だが万年が所用で不在の時は父に代って幡羅《はら》学舎の講義をしていた。父の手ほどきもあろうが、十歳で『素行往来』一通りを終え、十五歳にはすでに『論語』を読みつくしたという才女であった。
「あれも一人で、田舎では話し相手もなく退屈しておる」
たしかにそのように学のある才女は、畏《い》敬《けい》されこそすれ、裏では女だてらに変り者よと指差されるのが落ちだった。まして二十五歳を過ぎて嫁いでいないのだから当時としては尋常ではなかった。
「荻江もそなたのことはとても気にしておった」
「お会いしとうございます」
荻江はいつも堅い表情をしていたが、それは女学者としての仮の姿であるのかもしれなかった。
「今度、薬を持ちがてら、こちらへ来させよう」
「そんな、滅相もありません」
「いいのじゃ、そなたにとっても荻江にとっても一石二鳥じゃ」
万年はそういうと、もう決めたも同然に、そのことを綾三郎にも告げて荻野家を出ていった。
夏が訪れた。早鳴きのミンミン蝉《ぜみ》が青桐《あおぎり》に来て朝早くから鳴き始めた。人々の動く気配が聞える。
ぎんは今でも明け方、早く起きねばならないという焦《あせ》りで目が覚める。早く早くと床の中で一心に駈《か》けている。義母のせいの起きぬうちに身を整え、勝手口に行き、顔を洗わねばならない。早くと思いながら体が油の海につかったように重い。
目覚めて、ぎんは慌《あわ》てて顔を繞《めぐ》らす。雨戸を洩《も》れる朝の陽がぎんの肩越しに斜めに足元へ走っている。川上の家では洩れ陽はぎんの頭の先を横切っていた。
ここは俵瀬《たわらせ》なのだ。もう早く起きる必要はないのだ。そうと知ってぎんは初めて息をつくと、安《あん》堵《ど》が全身に拡がっていく。
実家へ戻ってぎんは少しずつ肥《ふと》ってきた。逆三角形に近かった顔がわずかに卵形に戻ってきた。特別病状が好転したわけでも食欲がでてきたわけでもないのに肥ったとすると、その原因は実家に戻って精神的にのんびりしたために違いなかった。
夕食のあと、女中のかねが縁へ金盥《かなだらい》に湯を満たして持ってきた。
「絞りましょうか」
「一人でできます」
ぎんは読みかけていた『素行往来』を床の端においた。薄暗くなった西の中空に白い半月が浮んでいる。
「とても元気そうになりましたね」
「そうかしら」
朝、鏡に向う時、ぎんもたしかにそう思う。黒く萎《しぼ》んでいた肌《はだ》が少しずつ張りを取り戻してきたようである。
「やはり俵瀬の水が合うのですね」
一時期、ぎんの乳母替りを勤めたかねはわが娘のようにぎんを見詰めた。
「もうずっとここにいなさって」
「えっ……」
「そうできればよろしいですね」
どれほどのことを知っているのか、かねは屈託なく笑った。
起き上ってぎんは手拭《てぬぐい》を盥の水につけて絞る。まだ微熱があるので風呂《ふろ》には入れなかったが、そのかわり気分のいい時を見計らって体を拭いた。
暑い時は一日に一度は体を拭かないと、汗ばんで気持が悪かった。布団も五日に一度は干した。五日も敷き放しにすると部屋中が熱気でむっとしてくる。屏風《びょうぶ》のかげでぎんは体を拭いた。手がすいたときは母がきて拭いてくれた。
「今日は私がしてあげましょう」
母の拭き方はいつも丹念で優しかった。川上で義母と一緒に風呂に入り背を流して貰《もら》ったことがあったが、同じ仕《し》種《ぐさ》でも受ける感じはまるで違った。
拭きながら時たま母の手が止る。母は何を考えているのだろうか、背を向けながらぎんは落ちつかなかった。
拭き終り、ぎんが床に入ると母は湯を捨てに行った。義母にはすぐ言えた「済みません」という言葉がかよには言えない。親と娘の間でそんなことを言うのは可笑《おか》しいとぎんは照れてしまう。すでに闇《やみ》が庭に立ち込め、虫の音《ね》が聞えていた。次第に明るみを増してくる月の光を見ていると、再びかよが入ってきた。行灯《あんどん》をつけ、ぎんの脱いだ下着を畳む。畳み終った時、かよは思い出したように言った。
「明日、母さんは川上へ行ってきます」
川上と聞いてぎんは弾《はじ》かれたように顔を上げた。それは二人の間では絶えず脳裏にありながら、禁忌となっていた言葉だった。
「お前は本当に戻る気はないのですね」
「…………」
「このまま放っておくわけにもいきません」
ぎんは下を向いていた。戻りたくないというのがぎんの本心であった。だが母はどう考えているのであろうか。母は戻ることを願っているに違いない。戻りたくない、と言おうと思いながらぎんは戸惑った。
「母さまは……」
母の気持をぎんはたしかめたかった。
「あなたの気持を聞いているのです。戻るのは母さんではありません。あなた自身なのですよ」
かよの視線にぎんは狼狽《うろた》えた。
「母さんはどちらでもいいのです。要はあなたの望む方でいいのです」
「でも……」
「そんなことは構いません。世間体も、人の噂《うわさ》も気にしているのではありません。お前の本心を聞いているのです」
「川上へは……」
言いかけてぎんは父の顔を思い出した。父は何と言うだろうか。
「お父さんや家のことは気にかけなくていいのです。あなたの本当に望むところでいいのです」
それはかよの偽らぬ気持でもあった。娘をこんなことにしてしまったことにかよは済まなさを感じている。それは言葉で言い表せるものではない。もちろんかよだけの責任ではなかった。責任は父の綾三郎にも仲人にもある。病んでいるから甘やかしている、というのではなかった。一度傷ついたものなら、この先もうこの娘の自由にさせてやりたい。この娘の思う通りのことをさせてやる。それしか今のかよに償う方法はなかった。
「どうなのです?」
かよはもう一度自分に鞭《むち》打《う》つように尋ねた。
「このまま……置いといて下さい」
「帰らないのですね」
「はい……」
ぎんはかよの眼《め》を見たままはっきりとうなずいた。
「三日後に瀬田さんと一緒に川上からの人が来ます。その時、離縁することにして貰っていいのですね」
「離縁……」
いままで馴染《なじ》みない遠い国の言葉のように思えたものが、自分のためにあるのだと知ってぎんは狼狽《ろうばい》した。
「こちらでそう言えば、向う様で異存を唱えることはないと思うのですが、それでいいのですね」
「…………」
「別れますね」
迷いではなくかすかな怯《おび》えがぎんをとらえていた。
「そうしますよ」
「はい」
ぎんは目を閉じてうなずいた。声に出すとそれはもう自分のことのようではなかった。
「お父さんに言ってきます」
そういうとかよは音もなく立ち去った。
一人になって、ぎんは初めて自分が離縁された女になるのだと知った。「出《で》戻《もど》り」「離縁」とぎんは口の中で呟《つぶや》いてみた。だが自分がそうなる今となっても実感としてぎんには迫ってこなかった。それはまるで他人《ひと》事《ごと》のようにしか思えない。
ぎんは改めて過ぎた月日を思い出した。この三年間、結婚と離婚という大きな波が自分をとりまいていった。言葉で言うとあまりに大きい。だが実際、それにぶつかってみると、さほどに大きなことには思えない。意外に呆《あっ》気《け》ない。その手《て》応《ごた》えのなさにぎんは呆《あき》れていた。
終日、ぎんは息をひそめたように暮していた。「離縁」という日が着実に近づいてくることをぎんは耳を澄まして聞いていた。いつその日が来てもいいと思いながら怖かった。いっそのこと早く決ってしまった方がいい、考えた末どうにでもなれという投げやりな気持になっていく。
「正式に離縁の手続きをとることになったよ」
かよが告げたのはそれから三日後の夕方だった。
その時も、ぎんは他人事のように聞いていた。障子に映る眩《まぶ》しいほどの夏の夕焼を見ながら、ぎんは今、自分の一生が目まぐるしく動いているのを知った。
それから十日後、乾ききった夏の日の午後にぎんの荷物が戻されてきた。表であわただしく人声が交錯し馬の嘶《いなな》きが聞えた。川上からは誰が来たのか、ぎんは戸障子越しに耳を澄ましたが、聞き覚えのある声はなかった。
「ひとまずここに置きますよ、不要なものはあとで隣の部屋へ移します」
かよの指図で二人の下男が荷物を運び込んだ。二人とも荻《おぎ》野《の》の家の者だった。台所向きの小道具を除いて、箪《たん》笥《す》、長持、鏡台といったぎんの身の廻りのものはすべて部屋へ持ち込まれた。
床の上に起き上ったまま、ぎんは目まぐるしく変えられていく自分の廻りを見詰めていた。
「衣類はあとでゆっくり整理しましよう」
かよはそれだけ言うとあわただしく出ていった。挨拶《あいさつ》する声が聞える。相手の声は聞えない。やはり川上から誰かが来ているのだろうか、この部屋に来るのか、とぎんは身構えた。だが訪れる気配も、かよが挨拶に出よと言いにも来ないうちに表は静かになった。川上から来たのは、せいでも貫一郎でもなかったようである。
改めて見廻すと部屋はすっかり様相を変え、周りが家具でうずまっていた。この堅固な城の中で自分は殻《から》をかぶったように一生閉じ込められて過すのであろうか、見詰めながらぎんは自分がもはや抜き差しならない状態に追い込まれているのを知った。
かよが終《しま》い湯から上って来た時はすでに九時を廻っていた。ぎんは衣類の整理を終りかけていた。
「冬物は隣の衣類箱にしまいなさい」
かよが別の整理箱を持ってきた。着物はぎんが一度も袖《そで》を通さないものもあった。持っていって持って帰った、俵瀬と川上を往復しただけのことであった。今度いつ使うことがあるのか、お召も一楽《いちらく》織《お》りも派手な柄《がら》ものは五、六年の寿命であった。その間にこんな晴れがましいものを着て出歩く機会があるとは思えなかった。その意味では着物も自分と同じに不遇だとぎんは思った。
「向うでも言っていたけど……」
長襦袢《ながじゅばん》を畳みながらかよが言った。ぎんは髪に手を当てたまま振り返った。
「表向きには体が弱くて子供が生れない、ということを離婚の理由にしたいと言っていたから、それはこちらでも納得しましたよ。一応そういうことでいいだろう」
良いも悪いもなかった。すでにそうしてしまったのでは、どう仕様もないことだった。
「向うさまでも体裁があるだろうし……」
それは、こちらでも体裁があるということのようでもあった。
「とにかく、それが一番良いようです」
病弱というのはたしかに当っていた。病気ばかりで満足に嫁の勤めらしいことも出来なかった。だがそれはぎんのもっていた病気ではない。向うから一方的にうつされた病気である。その限りでぎんは被害者である。病弱というだけではそのあたりのことはうやむやである。だが世間の人はぎんの痩《や》せ衰えた小柄な体を見ればそれで納得するかもしれなかった。うまい理由であった。
それにしても子供が生れない、という烙印《らくいん》はぎんには淋《さび》しかった。
「子無きは去る」と『女大学』に書かれているように、当時では石女《うまずめ》は立派な離縁の理由になりえた。だがそれは女の生理まで否定した屈辱的な理由でもある。あの女は不具だから、と言うのと変らない。本当に自分はもう子供は産めないのであろうか。『女大学』にも三年と期限まで書いてある。いかに下《しも》の病といっても、そんな風に一概に断定できるものだろうか。体を壊されたうえ、私はもう一人前の女ではなくなったのか、考えるうちにぎんの頭は憤《いきどお》りで熱くなった。
「向うさまでも、申し訳ないとおっしゃってました」
申し訳ないと言って男側は済む、だが女の私はどうなるのか、不運だと言って諦《あきら》めよ、と言うのだろうか。
「母さま」
思わず、ぎんは声を強めた。かよは畳んだ着物を脇《わき》へよけた。
「母さま、私は別に……」
「分っています。でもこうなってしまった以上は、お互いにそうでもするより仕方がないだろう」
またも体面かとぎんは母を睨《にら》んだ。
「男の方はそういうことは往々にしてあるのです。あの方もそれほど遊ぶお方ではないようです」
「だって……」
「あんな大家の長男だから熊谷《くまがや》へ遊びに行くぐらいのことはあったでしょう。悪気ではなく知らぬうちにうつされたのでしょう」
「でも、だからといって……」
夫である男から性病をうつされたのなら仕方がないというのだろうか、ぎんは貫一郎の体に他の女の匂《にお》いをかいだことがある。そんな男をまだぎんは許せない。
「お前には本当に悪いことをしました。母さんからも謝ります」
「母さん……」
母にそんな風に言われたくてぎんは不満をいいだしたのではなかった。
「悪い夢を見たと思って、早く忘れるのです」
十六歳の娘は娘なりに男への夢を抱いていた。三年前、利根《とね》を上った時はそれはたしかな具体性をもって拡《ひろ》がっていた。母と別れる淋しさとは別に新しい望みがあった。今考えるとその時の自分が可笑《おか》しい。馬鹿《ばか》げてさえみえる。お人《ひと》好《よ》しであった。なんという無知であったのか、考えるだけでぎんは腹立たしく、自分が情けなかった。
「さあ、もう休みなさい」
かよに促されてぎんは床に入り、掛布を目《ま》深《ぶか》にかぶった。
「忘れて眠るのです」
かよが去ってからぎんはしばらく泣き続けた。なにが悲しいというわけではない、ただとめどなく涙が出る。夏の夜の熱気が部屋に満ちていた。障子に仄白《ほのじろ》い夜の明るさがあった。
その朧《おぼろ》な明るさを見ながらぎんは、こんな女だけが苦しむ今の状態は間違っている、と思った。
荻《おぎ》江《え》はひっつめ髪に紺絣《こんがすり》、そして袴《はかま》という当時の農村では破格のモダーンなスタイルでぎんの許《もと》に現れた。肌《はだ》はぎんと同じく小麦色で浅黒かったが、背丈は五尺三寸でぎんより一寸五分は高く、やせぎすの体の上に細長い顔がのっていた。
荻江を知っている人々は荻江を無愛想な男勝りな女だと言っていたが、実際に会って話してみると、外から見る印象とは随分違っていた。荻江は漢文は勿論《もちろん》だが、茶も華道もさらに和裁までできた。しかもそれらはただの嫁入り前のたしなみといった程度を越え、おのおのに免許をもち、師としての資格さえ持っていた。愛想のない女と見られたのは、あまりにも出来すぎた女の一面だけを見た結果かもしれなかった。
「嫁に行き、子を産むことだけが女子の勤めではありません。女子でも学問をし、それで身を立てて悪いわけはありません」
初めて会った時から荻江はそんなことを堂々と言ってのけた。ぎんは半ば呆れ、半ば畏《い》敬《けい》の眼《まな》差《ざ》しで荻江を見詰めた。
「嫁に行き、姑《しゅうとめ》につかえ、夫につかえ、子に縛られて一体何になります」
荻江は細く鋭い眼をきっとぎんに向けた。獲《え》物《もの》を狙《ねら》う獣のような逞《たくま》しさと情熱があふれていた。
これまでぎんの周りに現れた人々は、みな一様にぎんを慰め、やさしくいたわるだけだった。過ぎたことは悪夢として忘れろというだけで、その先のことについては口を閉ざして言わなかった。不都合なことには触れないということは、ぎんの未来に対しては誰《だれ》もが絶望している証拠でもあった。当らずさわらず、その場かぎりの言葉を投げかけて去っていく。そうした言葉を聞き慣れたぎんにとって荻江の言葉は渇いた喉《のど》に水を得たように適切で新鮮だった。
「私は、もう二度とお嫁に行く気などありません」
「私は初めからそう考えていました」
荻江ははっきり言いきった。ぎんの八つ上の二十七歳で、当時としてはすでに婚期を逸していた。男衆より学問が好きで、そちらに気をとられているうちに婚期を逸したと万年は言った。だがそれだけとも言えない。田舎の家と嫁のあり方を見るうちに荻江には嫁ぐことの意味が分らなくなっていた。家に従い、周囲の風習に従うだけが価値があるとは思えなかった。嫁ぐことを忘れたというより嫁ぐことに疑問を抱いていた。それは当時の才気に勝った女のたどる当然の道ともいえた。
「病気で家に戻《もど》れたことは貴女《あなた》にとって幸いになるかもしれませんよ」
父の万年から聞いて、ぎんの病気を知っている荻江は平然とそんなことまで言った。
「幸いですか」
ぎんは驚いた。
「そうです。これで無意味な家とのつながりとか、制約はなくなったわけでしょう。貴女は思うとおり貴女の才能を伸ばせるのです」
「私の才能?」
ぎんは不思議な言葉を聞いたと思った。これまで自分の才能などということを考えたことはなかった。ましてや、それを伸ばそうなどと考えたことは一度もない。いままで勉学と言っても気の向くままに漠然《ばくぜん》としてきたに過ぎない。だが荻江は「才能を思い通りに伸ばせる」と言った。
「父も言っていました。貴女の年齢であれだけの本を読め、理解できる人はいない。男性でさえ、この幡羅《はら》在には数えるほどしかいませんよ。そんな立派な才能を男のご機《き》嫌《げん》とりで終らせる手はありません」
荻江の熱っぽい口調にぎんは圧倒された。
「こんな部屋にひっこんでいる必要はありません」
「でも……私は離縁されたのですよ」
「それがなんです」
荻江はそう言うと笑い出した。男のような磊落《らいらく》な笑いだった。
「離縁されたから貴女の能力が変ったとでもいうのですか。書を読み理解する力が失《な》くなったとでもいうのですか。貴女の知恵が落ちたとでもいうのですか」
荻江はぶつからんばかりに顔を近づけてきた。
「つまらないことです。離縁しようが結婚しようが、一人でいようが、その人の才能には何の違いもないでしょ」
「私もそう思います」
今迄《いままで》一人で漠然と考えていたことが荻江によって確かなものに変えられていく。それが正しいことか、間違っていることか、ぎんにはよくわからない。だがその中には確かな真実があるように思う。
「世間の眼など気にする必要はないのです」
「でも、世間様があっての自分でしょ」
「そう教えられたのですね」
荻江は半ば憐《あわ》れみ、半ば蔑《さげす》むようにぎんを見返した。
「今迄の教えが、全《すべ》て正しいというわけではないでしょう」
「間違っているのですか」
「時代はどんどん動いているのです」
「…………」
「御一新になりまったく新しい政府ができたのですよ、徳川さまは賊軍だということになったのですよ」
荻江は遠くを見るように眼を細めた。
「私は東京の動きを人様より少しは知っています。すべてが動いているのです。めまぐるしく、一時も止っていないのです」
利根の水が東京に通じていることをぎんは思った。その水《みの》面《も》を伝わっていけば、あるいは自分が新しく生きる道があるかもしれない。
「必ず時機が来ます。その時まで大切に才能をみがいておくのです」
「私がですか」
「そうです。貴女は私より若いのです。それだけ可能性があるのです」
ぎんは夢を見ているようであった。鳥の羽根に乗って宙に浮いているようであった。
「諦めないのです、分りますね」
ぎんは荻江の燃えるような眼を見ながらうなずいた。
万年はすでに五十歳を越え、五年前に母を失っていたので長女の荻江は家事から万年の身の廻《まわ》りまで、母の替りをつとめなければならなかった。さらに万年が往診や、個人教授に外出する時は、集まってくる子弟を相手に代講をする。こんな具合ではよしんば荻江が嫁ぐ気を起したとしてもなかなか行けるものではない。万年にとって荻江はなくてはならない存在であった。
こんな忙しさをぬって荻江は月に二、三度はぎんの許を訪れた。相変らず大島紬《おおしまつむぎ》に袴という男勝りな服装で、脇にはきまってぎんに見せる新しい本を抱えている。
「女先生は荻野さまの離縁された娘御のところへ行きなさるのじゃ」
「お互いに利発なうえに一人身だから話も合うんじゃろう」
口さがない村人達はそんな囁《ささや》きを洩《も》らしながら荻江を見送った。
「また来ましたよ」
荻野家へ来る時、荻江はきまって庭先から現れた。荻江が来ると、庭が一度に花開いたように明るくなる。打ち萎《しお》れていた花が水を得て一斉《いっせい》に生気を取り戻したように部屋が息づく。ぎんは荻江を待ちこがれていた。
それは荻江にとっても同じようであった。八つの違いがあるとはいえ、漢語や漢詩の条《くだ》りを引用し、交えて話して通じ合う女性はぎんしかいなかった。ぎん以外と話す時は、荻江は形を作って話さなければならない。万年の子であり、助教であり、女学者として、学問で知りあったとはいえ、男とでは、それなりのためらいがあった。それがぎんとでは何のへだてもなく話せる。
荻江が来るとぎんはまず一時間ほど新しい漢学を教わる。それが終ると新しい本や、江戸の情勢などを聞く。そして最後は女らしい縫い物や仕立ての話になる。
荻江がいる時は忍術にかかったように生き生きとするぎんが、荻江がいなくなると再び生気を失った。呪術《じゅじゅつ》にはまったように急に元気になり、また萎れる。今まで五体に活力が漲《みなぎ》り、自信が溢《あふ》れていたものが急に失われ、暗い思いにとり残される。
「業病持《ごうびょうも》ち」「石女《うまずめ》」「出戻り女」「居候《いそうろう》」さまざまな自虐《じぎゃく》の言葉が頭に浮んでくる。再び荻江が訪れる十日間くらいを、ぎんは暗い陰鬱《いんうつ》な気持で過す。
父母にも兄にも使用人にも誰にも気兼ねはいらない。好きな時に起き、好きな時に寝ればよい。黙っていても食事は与えられる。何不自由なく傍《はた》から見ると結構な身分だと思われる生活だが、ぎんは楽しめなかった。辛《つら》くても苦しくてもいい。今の平安より、ぎんは未来への希望が欲しかった。何かに向って進む、何かの目的が欲しかった。何の希望もなく易々と毎日を過すのが耐えがたかった。
荻江に会った時だけ、ぎんはかすかな光明を見《み》出《いだ》した。光はすぐにもぎんに迫ってくるかと思えた。だが荻江が去り、彼女の熱弁から覚めると、家も田舎のたたずまいも、ぎんの周りは少しも変っていなかった。東京の流れはまだここまでは来ない。いつになったら来るのか、来るのを待ちこがれながら自分はやせ衰え、老《ろう》婆《ば》になって消え失《う》せるのではないか、ぎんは焦《あせ》っていた。
夏が過ぎ、秋も終りに近づいていた。ぎんは相変らず月に二、三度は熱を出し、出すと四、五日は寝たままに過した。痛みと下《しも》の汚れも執拗《しつよう》にやってきた。
十月の末、ぎんは再び床についた。秋の陽気に誘われて三日間ほど床をあげ、自分で部屋の掃除をし、雑巾《ぞうきん》がけまでしたのが響いたのかもしれなかった。自分の弱さにぎんはほとほと呆《あき》れた。
私の体にはまだあの人からうつされた病毒が巣食っているのだ。熱っぽい頭の中で、ぎんはその病毒に自分の体が食いつくされ、無数の穴をもった黒い一本の柱になる夢を見た。
目覚めると戸外は風のようであった。丑《うし》の刻くらいか、邸《やしき》の中は寝静まっていた。風は雨を伴っているらしく、時々横なぐりに吹きつけるような風雨が雨戸を打つ。欅《けやき》や棕《しゅ》櫚《ろ》の木は風のまにまに頭をふり乱して揺れているに違いない。母は隣の部屋に寝ている。
「母さま」
小さく声を出してみたがすぐ風に吹き消された。夢の筋は思い出そうとしてもたしかでない。辻褄《つじつま》の合わぬ筋の中にその無気味さだけが残っていた。
母さまが死んだら私はどうなるのか……
闇《やみ》の中でぎんは行く末を思いながら明方軽い眠りに入った。
目覚めた時、夜はすでに明けていた。風雨はさらに強まったようである。人々の話し声や跫音《あしおと》がどことなく騒々しい。ぎんは起き上り障子を開けた。風を交えた豪雨であった。隙《すき》間《ま》からの雨で縁側の廊下も濡《ぬ》れている。庭土の部分は雨水に浸されてなにも見えない。
「起きられましたか」
廊下伝いに女中のかねが駈《か》けてきた。裾《すそ》をからげ素足である。
「ひどいあらし《・・・》ですよ」
村人達は暴風雨を「あらし」と呼んでいた。
「堤は大丈夫なのですか」
「いま奥さんと若旦那さんが道灌堀《どうかんぼり》を見にいきました」
ぎんは狂ったように揺れる樹々《きぎ》の茂りを見ていた。
「大野あたりは朝方に破れたらしいのです。この分では昼頃にはこの辺りも危ないから二階へ避難しておくようにと」
「分りました」
「私が布《ふ》団《とん》を運びます」
ぎんは肌《はだ》着《ぎ》を着替えた。まだ寒気がするがそんなことをいっていられない。
実家のある幡羅《はら》郡は北側は利根《とね》川《がわ》で対岸は群馬である。俵瀬《たわらせ》は利根川ぞいの東端の農村で、葛《くず》和田《わだ》、日向《ひなた》、弁財、大野、俵瀬などの小《こ》字《あざ》からなり、南は用水堀の福川を境いに北埼玉郡と境いしていた。これらの小字のうち、西から東に位置する大野、葛和田、俵瀬の三字が利根川ぞいの部落で、日向、俵瀬は福川にそっていたから、俵瀬は東を利根川に南を福川に囲まれた三角《さんかく》洲《す》に当っていた。なおこのほか福川の支流の道灌堀が葛和田と俵瀬のなかを流れて利根川に注いでいる。
江戸末期から明治の初年には利根川ぞいには上流から、大野、葛和田の西端までは堤が続いていた。一方南の福川の対岸には利根川の下流からの堤が西に向って続いていたが、これは福川の対岸の地域のためのもので、此《し》岸《がん》の俵瀬にとってはかえって洪水《こうずい》の被害を高める結果になっていた。このように葛和田、俵瀬の利根川ぞいには堤防と名のつくものはまったくなかった。大里郡の西部からの福川や支流の道灌堀の流れが、すべて俵瀬の東端の地点で利根川に注いでいたから、大正中期に築堤が完成するまではまったくの無防備で、利根川の氾濫《はんらん》のなすがままに放置されていた。このため隣村の人達は俵瀬一帯を俗に「水《みず》場《ば》」と呼んでいた。
昼になっても風雨は弱まる気配はなかった。二階の蚕室の窓からみると畑も街道《かいどう》もすべてが白い雨にぬりつぶされている。
人の通りのまったく途切れた街道を、時たま四、五人ずつ一団となって堤の方へ駈けていく。ある者は竿《さお》を持ちある者は土《ど》嚢《のう》を担ぎ、蓑《みの》をまとった姿はたちまちケシ粒のように遠のいていく。
「ぎん、寝ていなされ」
振り向くとかよが立っていた。髪の毛がまだ雨に濡れている。
「どうなのですか」
「夕方までは保《も》ちそうだがのう」
かよは暗い表情を窓へ向けた。邸の周りをとりまく畑はほとんど水の中に浮いている。
「このあたりで止《や》んでくれんと……」
ガラス窓の表を休むことなく雨粒が流れ続ける。まるで空が狂ったようである。
「さあ、早う寝て、また熱が出ますぞ」
「でも……」
「お前は心配しなくともよい。大丈夫です」
言われるとぎんは本当に大丈夫なのだと思った。
「薬は服《の》みましたね」
「さっき」
かよはぎんが寝た布団の端を軽く叩《たた》いて立ち上った。
「夕御飯はお握りだけになるかもしれません」
ぎんが眼《め》でうなずいたとき、慌《あわた》だしい跫音がして階下から呼んでいる声がする。
「御《ご》新《しん》造《ぞ》さん、御新造さん、あと二尺です」
作男《さくおとこ》の源助の声であった。
「長屋門にまだ土嚢があるでしょう。それから舟の用意をしておきなさい」
返事をした源助のあとを、かよが降りていく。
風雨の衰えぬまま夕闇は早々と訪れた。掘《ほり》割《わり》の先の寺の鐘も今日ばかりは聞えてこない。午後から炊《た》き出しをし、二日分の握り飯を作って夕方からは全員が二階へ上った。不断は蚕だけを置いてある二階の部屋は人々で溢《あふ》れた。
道灌堀の堤が決壊したのはその夜、五つを過ぎてからであった。白い濁流が邸の左右を街道に向けて渦《うず》巻《ま》いていくのが、夜目にもはっきりと見えた。
雨はなお翌日一日降り続き、その日の夕方になってようやく止んだ。だが利根から逆流した水は引く気配もなく、なお俵瀬一帯の畑地をうずめていた。三日ぶりに姿を見せた夕《ゆう》陽《ひ》が水田を赤く彩《いろど》った。
一面の海になった畑を、かよは見下ろしていた。目の前を下駄《げた》や唐黍《とうもろこし》がゆっくり流れていく。誰《だれ》もが両手を窓の桟《さん》につき一言も言わない。
「一年間、何をしたのか分りやせん」
保坪《やすへい》が吐き捨てるように言った。
「なんの因果でこんな土地に生れついたもんですかなあ」
源助が相槌《あいづち》をうった。
「水に流して貰《もら》うために作ったようなものだ。まったく馬鹿馬鹿《ばかばか》しい」
「なにを言うのです」
その時、かよが振り向いた。
「水場に育ったものが、今更なにを言うのです。水のおかげで私達は生きているのですぞ」
「…………」
かよの一言で二人は黙った。妙な言い方だがかよの言うことには一理あった。
利根は悪いことばかりするわけではない。当時の利根川は関東平野の中央を貫流する通運の大動脈として、群馬、茨城《いばらき》、埼玉、千葉などの諸県と東京とを結ぶ要路として重大な役目を果していた。利根川両岸の広大な地域の生産物は、多く舟で東京に運ばれた。この川のおかげで沿岸の要所要所には東京通いの大舟が碇泊《ていはく》し、往来する商人や客で宿場は賑《にぎ》わった。
さらにまた夏作は洪水でよくいためつけられたが、洪水のない年には夏作はもちろん、春作は上流から運ばれてきた肥《ひ》沃《よく》な土壌《どじょう》のため農作に恵まれた。俵瀬一帯は古くから全くの畑作地帯で雑穀、野菜、養蚕、藍草《あいぐさ》栽培などで生計を立てていたから稀《まれ》に襲う洪水ならすべて悪いと言いきることもできなかった。喜びも悲しみも水とともにあるのがこの土地に生れついた者の宿命だ、とかよは考えていた。
雨がおさまるとともに舟持ちは舟を出し、孤立した家々を巡っては食糧や鶏の餌《えさ》を渡して歩いた。洪水には慣れているとはいえ、飢えている者や、体の弱っている者、なかには産気づいている者までがいた。
その夜もぎんは二階で家族や使用人と一緒に過した。邸は軽い土盛りをしてあるので、水は床下までで済んだが階下に降りられる状態ではなかった。夜中、床に横たわっているのは父とぎんだけで、他の者は布団をかぶったまま荷や壁に寄りそって夜を過した。皆が起きている時に、老いた父と自分だけが横になっていることが、ぎんには済まなく情けなかった。
台風一過の言葉どおり、翌朝は見事な秋晴れであった。光の中で水は急速に引いていた。三日前まで青々と輝いていた畑地は泥土《どろつち》でおおわれ、土砂と石塊《いしくれ》がところかまわず散らばっていた。皆は声も立てず、それを眺《なが》めていた。
「さあ、畳を下ろしますぞ」
つっ立っている男衆にかよが勢いよく声をかけた。
昼過ぎ、下の掃除が出来たと聞いて、ぎんは自分の床を畳んだ。あらし《・・・》に驚いてか、熱は治まっているようであった。ぎんは布団を畳むことだけを自分ですると窓へ向った。
眼下に拡《ひろ》がる泥一色の畑には、ところどころ大きな水たまりが残り、その上に午後の陽が輝いている。
泥田の真ん中で絶えず伸び縮みし、動き続ける姿がある。かよであった。木綿のモンペをつけ、白いほおかぶりをしながら、かよはしゃがみ込み、押し流されてきた大石を抱え込んでいる。かよの姿は小さいが休むことがない。時々立ち止り指さして男達に命令する。
「母さま」
ぎんは一人部屋で呟《つぶや》いた。かよの姿にへこたれている様子はなかった。その背はむしろ生き生きとしている。
私は母さんの子だ。ぎんは自分が母と同じ水場に育った女であることを思い出した。
「東京へでも行って誰方《どなた》か、よいお医者さまにでもつけば、あるいは治るのではないでしょうか」
あらし《・・・》の騒ぎが納まった十一月の初めに、ぎんは自分の気持を母へ告げた。
「そのことなら私も考えていました。一度ゆっくりと万年先生に御相談してみましょう」
いま以上にうまい手段があるとは思えなかったが、かよは二日後に万年の許《もと》を訪れた。万年は快くかよの申し出を聞いた。
「ぎん殿からそれを言い出されたのか」
「なにか心当りでもございましょうか」
「ないわけではないが」
万年は坊《ぼう》主《ず》そっくりの丸顔で大きくうなずいた。
「前から考えておったのだが、一度順天堂の佐藤尚中《さとうしょうちゅう》先生に診ていただいたらよいと思うがのう」
「佐藤尚中先生……」
「そう、大典医大博士で現在の日本では、並ぶ者なき名医でな」
「そんなお偉いお方に」
「貴家さえその気であれば、私が仲介の労をとって差しあげてもよい。私が江戸で寺門静《てらかどせい》軒《けん》先生の門にいた時、一度お会いして何かと顔見知り願っている」
「そんな立派なお方に診ていただけるなら願ってもないことです。是非お願い致します」
折角芽生えたぎんの気力をかよはつぶしたくはなかった。
「ただ断わっておくが、佐藤先生の許へ行かれたからといって完全に治るとは断言できない。なにしおう難病ゆえ」
「その点は承知しております。たとえ治らなくとも、そういう日本一の先生に診ていただいてのことでしたら、諦《あきら》めのしようもございます」
「しからば早速、書状をしたためてみる。その依頼状に返事が来次第、出立《しゅったつ》することにしてはいかがです」
「でも、いまのあの様子では……」
「いや、いまの熱は潜んでいた火山が、頃合《ころあい》を見て再び爆発を起した類《たぐ》いのもの、もう十日もすれば再び治まる筈《はず》です。その時に行かれればいいでしょう」
「すべてお任せ致します」
今となっては万年だけが頼りであった。
「ぎん殿が不治のまま田舎に閉じ籠《こも》られるのは私としても忍びがたい。ぎん女は私にとっては可愛《かわい》い弟子に当るのですからな」
「ぎんがなんと喜びますことか」
「いくらか出費がかさむかしれませんがな」
「そんなことは体が治ることからみたら安いことです、覚悟はしております」
そうは言ったがどれくらいかかるものか、見当もつかなかった。しかし、俵瀬一番屋敷の荻野家にできぬ相談ではなかった。綾三郎に言っても反対するわけはなかった。
「先生から返事が来次第、おしらせしよう」
「きっとお願いいたします」
結果はともかく、東京まで行かせることで、ぎんへの済まなさから、いくらかでも逃れられればいいとかよは考えた。
ぎんがかよに附き添われ東京下《した》谷《や》の順天堂医院へ入院したのはその年、明治三年の暮もおし迫った十二月の半ばであった。本来なら年が明けてから行く方が何かと都合が良かったが、順天堂医院の病室が運良くちょうど一つ空いていたというので強引に出て来たのである。
病院長、佐藤尚中は当時関東一円に名のひびいた外科医であった。
この人は本姓を山口氏と言い、千葉小見《おみ》川《がわ》藩の侍医甫《ほ》僊《せん》の子であった。文政十年生れであるから、ぎんが診察を受けた頃は四十三歳ということになる。
十歳の時江戸に出て漢学を老儒、寺門静軒に、医術を医師、安藤文沢に学んだが、この時に松本万年と知りあったのである。このあと十六歳で江戸薬《や》研堀《げんぼり》佐藤泰然の門に入り、西洋医学を教わった。天保《てんぽう》十四年に佐藤泰然は自分の出身地である下総《しもうさ》佐《さ》倉《くら》に移り、病舎を建て、診療と子弟の教育の両方を始めた。これが佐倉順天堂医院の始まりである。
尚中はこの泰然に従い、佐倉へ移った。この間、泰然は尚中の抜きんでた学才を愛し、十七年後の安政七年に自分に五人の子供があるにもかかわらず尚中を後嗣として佐藤家に迎え入れたのである。
こうして泰然のあとを受け正式に家督を相続した尚中は文久四年に藩命を受け、長崎に行きポンペの弟子となり寝食を忘れて勉学に励んだ。ここでも尚中は、ポンペにその才を高く評価され、佐倉へ戻《もど》る時、ポンペは特に彼にだけ、ストロマイエルの医書を餞《はなむけ》として贈ったと言われている。
帰国すると彼は藩の医政を改革し、病院を建て、衛生館を設け、漢方を全国的に廃止して洋方を採用するという当時としては画期的な政策を断行した。そうこうするうち幕府は尚中の名声を聞き知り、出仕を命じたが佐倉藩では惜しんで手離さなかったと言われている。だが王政復古が成しとげられ、明治となってからは新政府は彼を大博士とし、翌年三月には正六位、十月には大典医に任じた。だが翌年、政府高官と意見の衝突を起しいさぎよく野《や》に下り、私力で下谷練塀《ねりべい》町に順天堂医院を建てた。
その後、この病院は手狭になり湯《ゆ》島《しま》に移ったが、ぎんが訪れたのはこの先の下谷にあった本郷《ほんごう》順天堂医院であった。
外科と産婦人科は今でこそ独立しているが、元来、同じ腹腔内《ふくこうない》の臓器を扱う関連性の近い科である。今ほど分科していなかった当時、外科医である尚中が婦人科を診るのはごく当り前のことであった。
入院して二日目にぎんは初めてこの佐藤尚中の診察を受けた。尚中は小《こ》柄《がら》だがひきしまった顔に眼光鋭く、髪のほとんどはすでに白髪になっていた。
尚中は万年の添書を読み、あらかじめ門下生の記した予診に目を通したあと改めてぎんを見詰めた。尚中の後ろには十人近くの若い塾生達が並び、尚中の診察を見学していた。ぎんはただ身を堅くし目を伏せていた。
「万年先生はお元気かな」
「はい」
ぎんは答えるだけで精一杯だった。
「それは良かった」
尚中はうなずき、カルテを塾生達に見えるように拡げるとぎんには分らぬ言葉を交えながら喋《しゃべ》りだした。ぎんは丸《まる》椅子《いす》にかけたまま、それが自分の症状について言っているのだと思った。
ほどなく尚中の説明は終った。そこで改めてぎんに向き直ると、
「では診せていただこうか」と言った。
どうしたものかと、ぎんが眼を上げた時、襷《たすき》がけの男が近づいて来て「こちらへ」と目で合図した。ぎんは立ち上り男に命じられるままに白い布で囲まれた部屋の片隅《かたすみ》へ入った。
「この台の上にあがって下さい」
瞬間、ぎんは息を呑《の》んだ。眼の前に木製の台があり、その上に黒い皮が敷かれている。
「先生がごらんになります」
男の声は低く抑揚がない。
「さあ」
二度言われてぎんはのろのろと台の上へあがった。そのままぎんは小さくうずくまっていた。尚中の跫音《あしおと》が近づいて止った。
「局所を診察させていただく」
「…………」
ぎんは眼を閉じ、血がでるほど唇《くちびる》を堅く噛《か》んでいた。こんな所で秘所を見られるくらいなら死んだ方がよかった。たとえ医師とは言え、恥ずかしいところを覗《のぞ》くなどということが許されるのであろうか。しかも相手は女ならまだしも男である。
「診せていただくだけでよい」
尚中は腕を組んで待った。あくまでぎんが自分の意志で秘所を開くことを待っていた。ぎんは救いを求めるように襷がけの男に眼を向けた。
「診ていただきなされ。そなた、病を治しに見えたのであろう」
ぎんの全身から急に力が抜けた。四肢《しし》が呪《じゅ》術《じゅつ》にでもかかったように静かに拡《ひら》かれた。膝《ひざ》が割れ、襦袢《じゅばん》の下から白い腿《もも》が現れた。
「もう少し」
だがぎんの肢《あし》はそこで痺《しび》れたように止っていた。
「ご免」
声とともに、ぎんの両の膝に冷たい男の掌が触れた。
思わずぎんは脚を閉じ上体を起そうとしたが、ぎんの四肢はすでに数人の屈強な男におさえられているらしく微動だもしない。
それからの数分のことをぎんは覚えていない。いやたしかにその時間があったことは覚えているが、羞恥《しゅうち》と驚きのあまり、何も考えない空白の時間があった。
「よろしい」
初めの男に足元を軽く叩《たた》かれてぎんはようやく正気づいた。だがしばらくぎんは眼を開けることさえできなかった。前を合せ、台から降り立った時、ぎんはふらついた。羞恥のあまり立っている気力もなかった。助手に抱きかかえられるようにして尚中の前の丸椅子に坐《すわ》ったぎんの顔は血を失ったように蒼《あお》ざめていた。
「いままで、よく我慢してこられた」
ついさっき、残酷な肢位を命じたとも思えない優しい声であった。
「とにかくゆっくり、あせらずに治療せねばならん」
そういうと尚中は後ろから取り囲んでいる医学生達に、またぎんには分らぬ言葉を交えて喋り始めた。尚中の言葉を聞き洩《も》らすまいとするように塾生達はぎんと尚中を交互に見詰めた。
尚中はともかく、自分と年齢のあまり違わぬ若い男性にまで、先程の姿態を覗き見られたのかと思うと、ぎんはその場に坐っていられなかった。診療も治療ももうどうでもよかった。一刻も早く診察室を出て、部屋へ戻りたかった。
「何故《なぜ》……」とぎんは熱くなった頭の中で問い返した。何故わたしはこんな罰を受けねばならないのか。なぜ、わたしだけがこんな苦しみを味わわねばならないのか。死にたい。いや死んだも同じことだとぎんは思った。
部屋へ戻り、かよの顔を見た途端、ぎんはその場に泣き伏した。
「どうしたのです。尚中《しょうちゅう》先生に診ていただいたのでしょう、先生は何とおっしゃられたのです」
かよは泣き続けるぎんに尋ねるが、ぎんは答えるどころか布《ふ》団《とん》を掻《か》き抱き一層激しく泣いた。
「診察中に不都合でもあったのですか、先生に叱《しか》られでもしたのですか」
いろいろ尋ねてもぎんは泣き続けるだけである。
「お騒がせして申し訳ありません」
隣には日本橋長谷川町の呉服商の内儀だという三十半ばの婦人が入院していた。
「初めて大きな病院へいらして、きっと驚かれたのですよ」
大きいと言っても当時の下谷順天堂医院は木造の平屋で入院患者が三十名というのだから今の規模で言えば開業医のやや大きめのものでしかなかった。それにしても当時としては、私立では東京一の病院であった。
「こんな立派なところへ入れていただいて、大博士の御診察まで受けられたというのに泣くことがあるものですか」
事情のわからぬかよは不機《ふき》嫌《げん》である。
「これは想像ですが、娘さんはきっと今程の診察をお受けになって辛《つら》くて泣き出したのかもしれませんよ。たとえ病気を治すためとは言っても、女の身であんな形に押えつけられて診察を受けるのは、そりゃ羞《は》ずかしいことです。私でさえここへ来た初めの二日間は食事も喉《のど》に通らなかったほどですからね」
産後の肥立ちが悪く、それ以来熱が切れずに入院した、という内儀はさすがに同じ病人だけに察しがよかった。
「そうでしたか?」
かよは改めて布団の中で啜《すす》り泣く娘を見下ろした。
「しばらくそっとしておあげなさい。これだけは他人が慰めたってどうにもならないことです。やがて慣れるでしょう」
この娘がお医者の前で恥ずかしい目にあったのかと、かよはぎんが一層不《ふ》憫《びん》であった。
「私が知っていた十軒店《じっけんだな》の人形屋の内儀などは、あそこから出血があるのに診察が辛いばかりに近所の漢方医にかかっているうちにどんどん痩《や》せちまって、ようやく決心して診ていただいた時には手遅れで、一月もせずに死んでしまいました」
熱がきれぬというが呉服屋の内儀は話し好きらしく、上体を起して喋り続ける。
「でも西洋医学はどこであれ病気の箇《か》所《しょ》をしっかり見届けるということが第一ですから、漢方のようなわけにはいきません」
東京の商人らしく内儀はなかなかの進歩派であった。
「それにしても、いくら診察とはいえ、若いお医者様に膝頭など抑えこまれて開かされたんじゃかないませんよね」
「そんなことをされるのですか」
「だってそうしなければ診られないじゃありませんか」
古い田舎の家に育ったかよには想像も出来ない光景である。
「まったく、どうにかならないものでしょうかねえ」
泣き続ける娘をみるうちに、かよはその西洋医学というものが、なにやら怪しげな魔術のように思えてきた。二人の会話も聞えぬげにぎんは泣き続けた。
夕方になるとさすがに泣き疲れて、ぎんはそろそろと顔をあげた。早い冬の夜がもう部屋に寄せていた。
「御飯を食べなさい」
「欲しくありません」
行灯《あんどん》の光でもぎんの両眼は泣きはらして赤く充血しているのが分った。
「いつまでくよくよしていても仕方がありません。立派な先生に治していただけるのだから羞ずかしさくらいはこらえねばなりません」
かよはぎんへというより自分へ教え込むように言った。
「お薬は食後だそうです、少しだけでも食べなさい」
先程、作った粥《かゆ》をかよは椀《わん》に盛った。ぎんは畳に寝て、かよは板の間に坐っている。ぎんの左手には先程の内儀が横たわり、その先には五十がらみの関節を病む婦人が寝ている。板の間を含め十畳の部屋が行灯のなかで丸く明るい。親娘《おやこ》二人、奇妙なところへ来たものだとかよは不思議な思いだった。
一杯を辛《かろ》うじて食べ終ったぎんは板戸にうつる母の影を見ていた。影は小山のように大きくうねるかと思うと、すぐ縮こまる。
「薬ですよ」
白い紙包みの中には灰色の粉があった。
「西洋の薬が入っているそうです」
粉はしっとりとして匂《にお》いはない。黒くきな臭い漢方薬を飲み慣れたぎんには馴染《なじ》みがなかった。
「さあ」
ぎんは一気に呑み込んだ。苦みが口一杯に拡《ひろ》がったが、それは瞬時のことで粉は水に交り合い苦もなく溶けていった。
「どうですか」
尋ねられてぎんは小首を傾《かし》げた。
口の中にはまだ軽い苦みが残っていた。見果てぬ南蛮の香りが体の中にしみ渡っていく。ぎんは今、自分の体が新しい西洋の流れに洗われているのだと思った。
ぎんが病院に落着くのを見届けた上で、かよは替りに雇人請宿《やといにんうけやど》から小女を頼んで十日目に俵瀬《たわらせ》へ戻《もど》った。十二月の二十五日で、年の暮はもうそこまで迫っていた。だが病人には暮も正月もなかった。佐藤尚中の名声を伝え聞き訪れる人で、順天堂医院は朝早くから患者で溢《あふ》れた。普通なら突然行っただけでは相当の重病でもないかぎり、入院はさせて貰《もら》えないのだった。ぎんがうまく入れたのは、万年の紹介状が効いたためのようであった。
尚中は午前中は外来患者を診るので、入院患者の診察は午後であった。
彼は一日に一度病室廻診《かいしん》をしたが、ぎんだけは病気が病気なので三日に一度くらいの割で別に診察室の木のベッドで診察を受けた。三日に一度のその診察日が近づくにつれぎんは口数が少なくなり食欲を失った。何を話し何を考えたところで男性の前であんな姿態をとるのでは人間ではないとぎんは思った。
回を重ねるにつれ、初めのように逆らったり、泣き伏すことだけはなくなったが、昼になり、診察の時間が近づくにつれ、気が滅入《めい》り、何も考えることができなくなった。
「ぎんさん、花《か》林糖《りんとう》売りが来ましたよ、買って来て一緒に食べましょう」
急に無口になったぎんを励ますように、隣の内儀が声をかける。
「そんなことをいつまでも気にしたって仕方のないことですよ。先生だって治療のためにやってるんですから、別に妙な気持で見てるわけじゃありませんよ」
そうは言われてもぎんには簡単に割切れない。
「何故、こんな目に会わなければならないのでしょう」
自分だけが羞恥地獄に放り込まれる。それはあまりに不合理ではないか。悲しみの果てにぎんは新しい憤《いきどお》りを覚える。
「あまり真剣に考えないことです」
「でも私はいやです、あんなことは絶対に許せません」
「本当にさ……」
内儀はぎんの気勢におされて相槌《あいづち》をうつ。だが、といって診て貰わないわけにもいかない。
「せめて女のお医者様ならねえ」
「女の……」
ぎんは顔をあげた。
「女の先生に診られるんならいいってことさ」
「女のお医者さん……」
ぎんはぼんやりと呟《つぶや》いた。きき慣れない奇妙な言葉であった。
男でなく女のお医者がいれば……
そうだ、とぎんは思った。男でなく女のお医者に診られるのならこんなに苦しまなくても済むし、喜んで治すことができる。
「でも女の西洋医なんていうのは、日本国中どこを探したっていないやね」
内儀は大口をあけて笑った。
だがぎんは宙の一点を見詰めていた。女医者がいれば私と同じように羞恥で苦しんでいる多くの女性が救われるのではないか。考えながらぎんに一つの思いが浮んだ。
私が女医になって、その人達を救ってやることはできないものか……
その思いは十九歳で結婚に破れたぎんの心の空白を埋めるように深く一《いち》途《ず》に滲《し》みこんでいった。
やがて新しい年が明けたが、正月もぎんは病院で過した。正月といっても大《おお》晦日《みそか》の夜食に担夫《かつぎ》に蕎麦《そば》を持ってきて貰い、元旦《がんたん》に雑煮《ぞうに》を祝っただけで、あとは格別の料理もなかった。だが二日目に俵瀬の母から深川の廻船問屋を通じてお節会《せち》料理が届けられた。蘿蔔《だいこん》、胡蘿《にんじん》、八《や》つ頭《がしら》、牛蒡《ごぼう》に加え青昆《あおこん》布《ぶ》、フ《ごまめ》などぎんには懐かしい食べものばかりだった。隣の内儀の家からは塩引の鮭《さけ》を差し入れされて、ぎんは淋《さび》しいが、食べる方は結構見劣りしない正月気分を味わった。
病院は元旦から三日間だけは休診であった。冬枯れの褐色《かっしょく》の庭の先の小《こう》路《じ》から手《て》鞠《まり》や追《おい》羽《は》子《ご》に興ずる女児の声が聞えてくる。ぎんにはもうそんな時は来ないが、その音を聞くだけで気持が和《なご》んだ。
正月の三が日が終ると病院は正常に戻った。再び診察が始まる。だが暮にぎんの心に芽生えた思いは、着実にその根を拡げていた。
女医者になりたい、という思いが、なるのだに変り、きっとなるという確かな覚悟にまで成長していく。このところ、一日中、ぎんは医者になることを考えていた。具体的な方法も分らず、成算もない。しかしやってやれぬわけはないと思う。一度は死んだも同然の体であった。
やれるだけやってみるのだ……
平凡な子女の幸せなぞ、望むべくもなくなって、ぎんの気持はかえって一筋にまとまった。
「肢《あし》を開いて」
冷えた医師の声がぎんの全身を貫く。ぎんは閉じた眼を一層堅くし、心の中を空《むな》しくするためひたすら別のことに気を向ける。
男の手がぎんの肢に触れる。機械のようにぎんの股《また》は開かれていく。
「母さま、母さま、早く終りますように、早く終りますように」
これを二十回から三十回くり返すうちに診察は終る。痛みもないのに眼は涙で濡《ぬ》れた。
だが今のぎんは違う。その時、医師の声は同じだが、ぎんはもう母の名を呼ばない。男の手が触れた瞬間からぎんは叫ぶ。
「女医になる。きっと女医者になってやる」
ぎんは頭の中で叫び続けている。カチカチと金属の触れ合う音がし、小さな音とともに洗滌液《せんじょうえき》がぎんの体を貫いていく。汚れたところが男の手で洗われていく。
「きっとなる。きっとなって見返してやる」
誰《だれ》にというわけでもない。病をうつした夫へでも、非情な医者へでも、冷やかに見る村人へでもない。強《し》いて言えば自分の中にある女という性に対してかもしれなかった。しかしそれはぎんがあとで考えたことで、その時、ぎんはただそう叫び続けるだけであった。
「お腹《なか》の力を抜いてえ」
医師の声が長く尾を引く。屈辱の中に身を投げ出しながら、ぎんの願いは確実にふくらんでいく。この時、頭以外のぎんの体は死んでいる。長いが実際は短い時間が過ぎる。
「よろしい」
言われると同時に、ばね仕掛けのように肢が閉じる。それで長かった祈りは終る。屈辱の代償のように、ぎんの中で今の願いが定着する。
ぎんは診察台を降りて身づくろいをする。前を合せ、帯を締めながら、その思いは胎児のように日を追って着実にぎんの中で育っていった。
一月の半ば、新しい年の縁起をかつぐように長男の保坪《やすへい》が結婚した。相手はかねて話のあった丹生在の豪農、高森家の次女、やいである。やいはぎんと同じ年の二十歳であった。結婚式にはもちろんぎんは出席できなかった。俵瀬《たわらせ》まで駕籠《かご》にしても行く自信はなかった。たとえ体が治っていてもぎんは行かなかったかもしれない。
長兄の結婚という晴れがましい場に、自分のような業病持《ごうびょうも》ちがいくのは適《ふさわ》しくない。
家を離れていたのがかえって良かったのだとぎんは自分に言いきかせた。だがぎんにとってそのことが悔まれる事件がすぐそのあとに起った。
結婚のお祝い気分も抜けぬ一月の末に、父の綾三郎が急死した。
報《しら》せは一日かかって、夜半、寝入りばなのぎんに届けられた。早文には卯《う》の刻《こく》心臓麻痺《まひ》にて急逝《きゅうせい》ということだけが手短かに記されていた。
綾三郎はこの二、三年来目にみえて弱っていた。代々続けてきた名《な》主《ぬし》の役目も明治改元を期に退いていた。寝たり起きたりの生活であったので長生きできるとは思えなかったが、こんなに早く死が訪れるとは思ってもいなかった。順天堂へ来る朝、座敷でかよと並んで挨拶《あいさつ》したのが最後になってしまった。物心ついてからこれまで父とはうちとけて話したことはなかったが、父は父なりにぎんのことを案じてくれていたようである。口数こそ少ないがそのことは父の言葉の端々で分った。
死に目にさえ会えなかった……
ぎんは、今更のように自分の親不孝な病気のことを思った。
東京の春は利根《とね》の春より一足早い。陽気になるとともにぎんは元気を取り戻《もど》した。四月に入ると熱は治まり排尿時の痛みもほとんど感じなくなった。ぎんの一番怖《おそ》れていた局所の洗滌と尿検査も五日に一度に減った。まだ外出は許されていなかったが陽気の好い日、ぎんは病院の前の通りを散策した。四月の半ばに隣の内儀は退院することになった。
「お大事にね。根気よく治すのですよ」
内儀は記念だといって黄楊木地《つげきじ》の簪《かんざし》を置いていった。
「もう泣きませんね」
「小母《おば》さん、私は女医者になることに決心しました」
「女医者?」
内儀は紐《ひも》を締めながらぎんを見詰めた。
「本当ですか」
「はい」
暫《しばら》く内儀はぎんを見ていたが、その真剣な表情に少し可笑《おか》しくなったらしく、
「もしなったらきっと教えて下さいよ。私があなたの患者の第一号にさせて貰いますからね」
そう言って笑った。
順天堂病院は病院といっても下《した》谷《や》練塀町《ねりべいちょう》の長屋を買い取り、それを縦に繋《つな》いで病院にしたにすぎなかった。それだけに通りをはさんですぐ町人達の家が並んでいた。日中からさまざまな物売りから辻《つじ》芸人、はては物貰いまで往来するので見ていて退屈しない。
「苗やい、苗やい、朝顔の苗やい、玉蜀黍《とうもろこし》の苗やい、胡瓜《きゅうり》の苗やい」と売り歩く声が聞えるかと思うと、病院の前とも知らず「胼《ひび》、凍《しも》傷《やけ》、赤ぎれの妙薬」と呼んで売りに来る。かと思うと蒲鉾《かまぼこ》売《う》りが来る。「お花ァー五厘《りん》、切りたて五厘」という声に誘われて三日に一度の割で花を買っては枕元《まくらもと》の花《か》瓶《びん》に飾る。朝の豆腐屋に始まり、富貴《ふき》豆《まめ》売《う》り、焼芋屋、羅《ら》宇《お》嵌替《すげかえ》、花屋、煮豆売りから夜《よ》鷹《たか》蕎麦《そば》屋までと、その呼び声を聞くだけで飽きない。病室の窓から顔を出すだけで、ぎんは目まぐるしく動いている東京の息吹《いぶ》きを知ることができた。
順天堂に入院して一年後の二月、ぎんは退院して俵瀬へ戻った。
この間、ぎんは特別、外科的治療を受けたわけではなかった。尿道から膀胱《ぼうこう》、卵管といったところまで炎症が拡がっていたとはいえ、外科的にそれらを手術で治すという方法は現在でもほとんど行われていない。
尚中は今迄《いままで》漢方医は触れなかった局所を積極的に洗滌するとともに在来の漢方処方より新しい調合をつくり、それを服《の》むことで炎症をおさめようとしたのである。今から考えるといかにも長い入院だが、抗生物質はもちろん、サルファ剤もなかった時代であるから、重症の淋疾《りんしつ》が治まるまでにこれくらいの期間を要したのは当然であった。
もっとも治まったとは言え、その実態は病気が本格的に慢性化したというだけにすぎない。
「またいつかぶりかえすかもしれぬ故、当分は薬を続けねばならぬ。疲れすぎや腰を冷やすことは断じて避けることじゃ」
尚中は正直に言った。だがこの二カ月熱は一度も出たこともなく、排尿時の痛みもほとんど消えていた。腰の辺りに重い感じだけがわずかに残っていたが、入院した頃《ころ》と較《くら》べたら随分とよくなっていた。
「身《み》籠《ごも》ることはできないでしょうか」
それだけをぎんはもう一度確かめておきたかった。
「残念ながら無理じゃ」
予測したとおりであった。だがぎんはもう狼狽《うろた》えなかった。
それはそれでいい。その空白を埋めるようにぎんの心にはすでに女医になるという目標が新しく、しかも確実に住みついていた。
わずか一年家を離れていただけであったが、実家《さと》の様子はすっかり変っていた。
寝込みがちながら奥の間にいつもいた父の姿はもう無かった。この数年、家に引きこもり、ほとんど仕事らしい仕事をしていなかった綾三郎だが、いざ死なれてみると家の中に大きな欠落が生じたようであった。
父の代りをほとんど一人で切り盛りしていたはずのかよも急に老《ふ》けこんで見えた。気難しい父に仕える分だけ気が楽になったのではないかと思ったが、それはぎんの思い違いのようであった。夫婦は対《つい》というとおり、一方が失われると急に心細く、老いるもののようであった。
仏壇には祖父母の位《い》牌《はい》を引き従えた形で、中央に真新しい父の位牌があった。その戒名は父に似つかわしく難解で入りくんでいた。
掌《て》を合せながらぎんは父のことを思った。「お父様は?」と問われても、いつも書斎か奥の間で軽い咳払《せきばら》いをしながら、何やらぎんには分らぬ書物を読んでいるか書き物をしていて、その前を歩く時には静かに跫音《あしおと》を忍ばせねばならぬという印象しかなかった。抱かれた記憶も、親しく話した覚えもなかった。
自分の上には母がいて、母の上には父がいるらしいことはわかっていたが、それ以上のものではなかった。同じ家にはいるが、自分とは遠く無縁なものだと思っていた。それだけに母が父に尽すことがぎんには何か不当で、憎いことに思えた。
身近でなかっただけに父の死の空白はぎんには、さほど感じなかったが、それが誤りであることをぎんはそのあとで、すぐ知らされた。
「お兄さまに御挨拶なさい、奥の間にいます」
お参りを終った時、かよが仏間に来て言った。
「保坪《やすへい》兄さんに?」
「いらっしゃい」
かよは先に立って案内しようとする。
今までは家へ戻ってくると父に真っ先に挨拶をした。それがしきたりになっていた。だが兄には改まって挨拶した記憶はない。婚家から戻った時も、茶の間で簡単な礼を交わしただけであった。
それが今度は真っ先にしかもかよが附いていくという。ぎんは初めて家長が父から保坪に移ったことに気付いた。考えてみると当り前のことが今のぎんには不思議だった。
保坪の嫁のやいは色白だが大柄《おおがら》でどっしりした人であった。代々荻《おぎ》野《の》の家は骨細の家系である。保坪もその例にもれず上背は十人並みだがやせて肩幅が狭かった。それに比して、やいはどっしりと骨盤も広い。その故《せい》か、同じ年齢のぎんより二つ三つ年かさに見えた。
「ただ今帰りました」
初め保坪に向って挨拶をした。五つも違う兄だけにぎんは深く話したことはなかった。跡とり息子として周りの扱いも、食べるものも違っていた。
保坪は軽くうなずき、目を外《そ》らした。照れているのか、女五人姉妹の間に生れただけに保坪には気の弱いところがあった。
「妹のぎんです、よろしゅう願います」
保坪への挨拶を終えたあと、ぎんはその横に並んでいるやいへ頭を垂れた。
「やいです、こちらこそよろしゅう」
やいのもの言いは体に似てゆったりとしていたが、瞬間、二人の間で火花が散ったのをぎんは感じていた。
この女性《おなご》がやがて荻野の嫁として母に替ってこの家を取りしきるのだ。それは確かな未来であったが、その情景を信じることはもちろん、想像する気さえ、ぎんには起きなかった。
「もう病気はいいのですか」
「はい、お蔭様《かげさま》で」
答えながらぎんは来たばかりのやいごときに頭を下げる理由はないのだと思った。
夜に入って、ぎんの戸惑いはまだ続いた。夕食の時、今までは父が上座で一人別膳《べつぜん》で食べていた。その下に長男の保坪と次男の増平が並び、かよや女達は続きの板の間で食べた。子供の頃からそういうしきたりに育った故かそれが不思議でなかった。だが今は違っていた。父の死後、いつからそうなったのか、保坪は一人、かつての父の座に上り、それも父が使っていた春慶塗《しゅんけいぬ》りの膳で食べていた。
土間に近い位置でそれを見ながら、ぎんはどこか別な家にいるような気がしていた。馴《な》染《じ》めない風景であった。だがそう思うのはぎんだけで、かよも使用人も誰一人、今の状態を疑っているものはいなかった。箸《はし》を取りながら、ぎんは改めて荻野の家が急速に変りつつあるのを知った。
東京へ行く前ぎんの病室に当てられていた奥の八畳間は保坪夫婦の居室になり、ぎんの病室は書斎の横の六畳に変えられていた。そこは以前は小《こ》納《なん》戸《ど》で夏の間、座布《ざぶ》団《とん》や箱《はこ》火《ひ》鉢《ばち》、櫓《やぐら》炬《ご》燵《たつ》などが置かれて物置替りになっていたものだが、家具を整えると結構小綺《こぎ》麗《れい》な部屋になった。場所は曲り廊下の端で厠《かわや》に近いが庭はやはり見渡せた。
新しい長兄夫婦ができた以上、出戻りの娘が大きな部屋を明け渡し、小部屋に移るのは当然と言えば当然である。それを納得した上で、少しずつ実家を変えていくやいの出現にぎんはかすかな憎しみを覚えた。
東京から戻ってからも、ぎんはこの奥の六畳間からほとんど出なかった。
自分の部屋の掃除をし、洗濯《せんたく》をするだけであとは部屋に籠って本を読み耽《ふけ》っていた。また気《き》鬱《うつ》が昂《こう》じたかとかよは案じたが、かよにぎんの決心が分るわけもなかった。
ぎんが帰ってきた一カ月後に荻《おぎ》江《え》が訪ねてきた。今度は庭からでなく表から現れた。荻江も荻野の新しい嫁に遠慮しているのだった。
「随分、元気そうになりましたね」
荻江はぎんの顔に以前とは見違えるように張りが出てきたのに驚いた。
「もう、大丈夫なのですね」
「病気はまだ体の中にひそんでいるのだそうです。無理をしたらまたいつ出るやも知れぬと言われました」
「本当ですか?」
ぎんは笑ってうなずいた。事実はそうであっても、冗談めかして言えるだけぎんの体は調子が良かった。
「こうして見ているとどこも悪そうには見えませんよ」
「東京で一つ決心したことがあるのです」
ぎんは荻江にだけは告げてみたかった。
「なんです?」
「笑わないで下さい」
そう言いながらぎんは壁の一角へ目を向けた。日めくりの上に、経書《けいしょ》、歴史、算《さん》数《す》、と学問の予定が書きこまれている。
「お医者になろうと思うのです」
「お医者って……誰が?」
「私がです」
「あなたが」
ぎんは大きくうなずいた。荻江は近視の眼《め》をさらに近づけてぎんを見詰めた。
「病院でいろいろ考えたのです。考えた末に私のような女性を救ってやろうと決心したのです」
「あなたのような……」
「そうです、羞《は》ずかしいところに病気のある人をです」
そんなことをぎんはもう平気で言えた。
「可笑しいですか」
暫く顔を見てから荻江は首を左右に振った。
「世の中には、私のような婦人病で悩んでいる女性がたくさんいます。しかしその女性達のすべてが医師の診察を受けているとは限りません。受けたくてもその病気を羞じ、隠して診察を受けない人が無数にいるのです。この人達を救ってあげたいのです」
「…………」
「今のままではあまりに女が可哀《かわい》相《そう》です。女に責任がないのに、一番苦しんでいるのは女です」
荻江はこんなに輝いているぎんの眼を見たのは初めてであった。父の万年が、「あの娘は眼千両だ」と言った、そのつぶらな眼が鷹《たか》のように輝いている。
「分っていただけますか」
「分ったわ」
「荻江さんは呆《あき》れているのですね」
「いいえ」
「いえ、そうです。眼にそう書いてあります」
見詰められて、荻江はたじろいだ。
「決してそんなことはありません」
「じゃ賛成してくれるのですね」
「勿論《もちろん》です」
言ってはみたが改めてぎんの言ったことを考えてみると容易なことではなかった。果して堅い意志と努力だけで女性が医者にまでなることができるのか、荻江はたちまち不安に襲われた。
「それでお母さんには?」
「言ってません、荻江さんに話したのが初めてです」
最初に言ってくれたのは嬉《うれ》しいが、大変なことを打明けられたものである。
「お母さんが許しますか」
「…………」
かよは賢婦ではあるが、古い女である。ぎんが学問好きなのをさえ恥じているのに、このうえ上京して、女にもあるまじき医者などになるといったら許すわけはない。許すどころか第一、信じもしまい。女は学問はおろか、職業など持つべきでないと思われていた時代である。その時に男さえ容易になれぬ医者になろうというのである。
「どうしたらいいでしょう」
決意だけはしたが、実際その進め方となると、ぎんにはまるで見当がつかなかった。
「お待ちなさい」
万一母の許可を得たからと言って、それでことは進むわけではない。
一体医者になるにはどうしたらよいものか、その第一歩からして荻江にも分らない。とにかく相当の学識がなければとうていなれぬことだけは確かであろう。
「女性が西洋医になる、などという方法はないのですよ」
「覚悟しています。とにかく、どうすればよいのか、万年先生におききしたいのです」
「帰ったら父に話してみます」
「お願いします。先生が御相談にのって下さるとおっしゃられるなら、すぐ参りますから」
荻江は呆れながら、ぎんの必死な眼を見るうちに、うなずいてしまった。
当時、医師になるにはきわめて限られた道しかなかった。とくに西洋医学の習得ということになるとその道は一層狭く、医学所が東京、長崎、千葉に一つずつあったにすぎない。
このうち長崎のは精得館と言い、官立の医学伝習所、兼病院であった。ここは和蘭《オランダ》教師がじきじきに教え、診療の他《ほか》に研究と実習も行われていた。
これに対し東京にあった大学東校は現在の東京大学医学部の前身で、当時は下谷和泉《いずみ》橋《ばし》通りにあった。ここは幕末までは幕府官立の医学所で西洋医学の学習所としては最も大きなものであった。もっとも大きいといっても当時はまだまだ漢方医学が勢力を張っていた時であり、漢方医学の中心である下谷新橋通りの医学館の歴史の古い堂々たる建物と較べるとかなり見劣りした。この医学所が徳川幕府の崩壊とともに、新たに医学所横の旧藤堂《とうどう》邸を附属病院として再発足したのが大学東校である。
これら二つの官立とは別に、下総《しもうさ》佐《さ》倉《くら》に佐藤泰然が開いた佐倉順天堂という私塾《しじゅく》があった。ここは純粋の医学塾でことに外科に於《おい》ては日本一と言われ、規則正しい医学教育と並んで、実験材料が多く、西の精得館と並んで医学研究の双璧《そうへき》であった。ここの二代目尚中《しょうちゅう》が大学東校に招かれ、のち野《や》に下って湯島順天堂を開き、ぎんの治療に当ったことは先に述べたとおりである。
他に大阪に緒《お》方洪庵《がたこうあん》の開いた塾があったが、ここは西洋医学というより蘭書《らんしょ》を読むことが専《もっぱ》らであったので、医学者でない福沢諭吉とか寺島宗則《てらじまむねのり》といった人々を生んだ。こうした塾は江戸にも川本幸民、坪井信道等の開いたものがいくつかあったが、これらの私塾が本格的に医学を教えるようになるのは、この数年あとからのことである。
こんな有様で、しかもその一つの学校の定員が、せいぜい二、三十名くらいのものである。そこへ全国から志を抱いて出てきた青年がつめかけてくるのである。しかも入学者はいずれも新政府の有力な口ききのある者ばかりで、おまけに入学許可を受け、卒業できたとしてもそのあとに、前期、後期、二度にわたる開業医試験が待ち構えていた。
問題はそれだけではない。そのどれよりも大きい障碍《しょうがい》は、官立の学校はもとより、私塾といえども女性の入学を許さなかったことである。学校が駄目《だめ》な以上、医師試験はもちろん、許されるはずもない。女性が医者になる道は十重二十重《とえはたえ》に閉ざされていた。
そんな状態で女医になりたい、などと言い出すのは、まさに狂気の沙汰《さた》であった。
荻江と話し合い、腹を決めて女医になることを母へ告げたのはその年の夏の終りだった。二人が思ったとおりかよは仰天した。
「正気かえ」
「嘘《うそ》などつきません、とにかく東京へ行かせて下さい」
両手をつきながら、ぎんの眼は豹《ひょう》のように輝いていた。このところ家にばかり閉じこもり気鬱の病にかかり、本当に気でも狂ったのかと、かよは気持悪げにぎんを見返した。
「馬鹿《ばか》なことをお言いでないよ」
「馬鹿なことじゃありません」
「世の中には出来ることと出来ないことがあるのです。そこをまずよく考えてみることです」
かよはぎんの言うことは狐《きつね》にでもとりつかれた一時の世迷《よま》いごとだと思っていた。時間さえかければおさまるものとたかをくくっていた。だがぎんは一向に怯《ひる》む様子がない。
「出来るも出来ないも、やってみなければわからぬではありませんか」
「いけませぬ」
女が学問することさえ異様なことと爪《つま》はじきされた時代である。稲村家で言ってきた離婚の理由の一つにも、ぎんの学問好きという一項があった。それを今言い出す気はないが、その理由は無理もないとかよは思っていた。それが性《しょう》こりもなく今度は女医者になりたいと言う。
「苦しんでいる人を助けるのにいけないという道理はないはずです」
「それにはきちんと男のお医者様がいるではありませぬか、手足を切ったり血を見ることは女子のすることではありません。女子には女子の守るべき道があります」
「家を守り、子を育てるということですか」
「それも一つです」
「私にはもうそんな望みはありません」
瞬間、かよは言葉につまった。ぎんは石女《うまずめ》であった。
「そうではありませんか」
「だからといって何をしてもいいというわけではありません。あなたは女子なのですよ」
「女子が学問をして悪いという法などはありません」
「そう、そのように学問をすると女子らしくもなく理屈ばかりを言うようになるのです。それでは殿方に愛されませんぞ」
「男などはもうこりごりです」
かよは改めてぎんを見据《みす》えた。
「そなたは一人で生きているのではありません。そなたの周りには家族があり世間様がいるのです。法はなくとも世間には世間の掟《おきて》というものがあります。そなたが東京へ出て学問をし、女医者になるのだ、などということが村の人々に聞えたら何と嗤《わら》われます。あの気狂い女がと皆に後ろ指をさされます。もう今度こそ誰《だれ》にも相手にされず村に二度と戻《もど》ることも出来なくなるのですよ。いいえ、そればかりではありません、お前の後に村に残る保坪《やすへい》や嫁たちはどうなるのです。荻野の家からは学問狂いの女が出たと皆様も陰で嗤われます。仏になったお父さんも、荻野の親戚《しんせき》縁者もみな嗤われます。それでもお前は人の道が立つと思うのですか」
ぎんは黙っていた。なるほど、母の言うことは一理ありそうである。あるいはそれが生きていく上での知恵なのかもしれなかった。だがそれはいかにも窮屈で苦しい。ぎんは病室からかいま見た東京の町の明るい賑《にぎ》わいを思った。あそこにはたしかに田舎とは違う世界があった。
「このことは保坪に言ってみても同じことです。女子は女子らしゅう定めを守ることです、そうすることで世の中は治まっているのです。変な考えを起さずにここにいることです」
「いやです」
「ぎん」
思わずかよは声を荒げた。だがその眼はすぐ哀願する眼《まな》差《ざ》しに変っていた。
「なあ、もうこれ以上母さまに心配かけないで下され」
言い切るとかよは眼を伏せた。老いて小さくなった肩がかすかに揺れているのが分った。母が悲しむのを見ているとぎんも悲しくなる。
「分って下され、なあ、分って下され」
そのままかよの声は嗚《お》咽《えつ》に変った。だがぎんはそんなことで諦《あきら》める気はない。
あの辱《はずか》しめを母は知らないのだ……
ぎんは勝ち誇ったように上体を起したまま、泣き続ける母を見下ろしていた。
一《いち》縷《る》の望みを託した兄の保坪も母と同じ意見であった。これといって才覚もなく大人しいだけが取《と》り柄《え》の保坪に解《わか》って貰《もら》おうなどと考えたこと自体が間違いであった。
本心を打明けてから、かよはぎんを監視し始めた。表面は素知らぬふりをしているが、ぎんの様子を探っているのがわかった。時には女中のかねにも様子を伺わせているらしい。監視されていると知りながらぎんは気付かぬふりを装った。二人の間は急に白けた関係になった。
これまでは母の言うことはすべて正しいと思い、素直に受け入れることができた。疑ったことは一度もなかったが、今は違う。
母と私とではまるで違う。
今まで同じと思ってきただけにこの発見はぎんにとって淋《さび》しいものだった。
母と二人で話しただけでは埒《らち》があかないと知ったぎんは秋の初めに万年の許《もと》を直接訪れた。
「母はどうしても許してくれないのです」
万年に会うなりぎんは母との話し合いのあらましを一気に告げた。告げながら口惜《くや》しくて涙がでた。
「かよ殿の言われることも無理はない」
万年もいささかぎんの熱情をもてあましていた。どう考えても突飛な申し出であった。
「私と一緒に母に会っていただけないでしょうか」
「この私がか」
「そうです。先生から言っていただければ母は納得してくれるかもしれません」
万年は呻《うめ》いた。何と答えたらいいものか、できるならぎんの望みをかなえてやりたい。これまでいろいろの人を教えてきたが、これほどの才気を備えた女性はいなかった。顔も凜々《りり》しく締って美しい。病も癒《い》えて二十歳を過ぎたばかりの若さが全身に溢《あふ》れていた。
「お願いです、ぎんの一生のお願いです」
万年は弱りきった。望みは高く美しく持てと教えて、ぎんをここまで引っぱってきたのは万年である。だがぎんの要求をきいてかよに対したら、かよは何というだろうか。「そんな馬鹿げたことを、先生がけしかけたのですか」と恨まれるのがおちである。
制度として禁じられている女医者になる、などとは、どう常識で考えても普通とは思えない。といってぎんの願いを無下《むげ》にことわるわけにもいかない。
「とにかく女医になるということは一旦《いったん》あきらめてはいかがかな」
「諦めるくらいなら死んだ方がましです。私は別に私利私欲で医者になろうとしているのではありません、自分が永らく病気に悩み、女医の必要を身をもって体験したからこそです。どうにかして医術を学び、自分の病気を癒《なお》した上で、自分と同じく、男医にかかるのを辛《つら》がっている婦人のために尽したいという願いからのことです。それだけでそれ以上でもそれ以下でもありません。それが何故《なぜ》いけないのですか」
ぎんは必死だった。万年にまで見放されては万事休してしまう。
「女が医者になることはこれまでに例がない。例がないというより許されておらぬのだ。それをあえて進むと言うのは禁制を犯すに等しい。母上が反対されるのも無理がない。そこで相談だが、今すぐ女医になると言っても、どの道、しかとした方途はない。東京へ出て、手づるを求めるといっても、すぐおいそれとはゆくまい」
言われてみるとそのとおりであった。東京に出たとしても差し当ってどうしてよいものかぎんにも見当はつかない。
「そこでじゃ、どのみち医者になるのであれば学問は大切じゃ、学問はいくらしてもしすぎたということはない。だから女医者になるなどとは言わずしばらくは東京で学問をさせてくれと願いでては如何《いかが》かな。それなら許してくれるかも知れぬ」
さすがに万年の考えは老獪《ろうかい》であった。どのみち狂気の沙汰ではあるが、女医者になるというより女学者になる、という方がまだ通りがいい。それなら現に荻江という例もある。
「とやかく言っても母上はそなたを離したくないのだ。病が一旦小康を得ているとはいえ、またいつぶり返さぬとも限らぬ。その細い体一つで東京へ行かせる気にはなれぬのも無理はない。女医者や、学者になるよりご自分の側《そば》におき、いずれ時をえてよい縁でも見付けてやろうとのお考えであろう」
「私はもう嫁になど行ける体ではありません。男性の許などいくら乞《こ》われても二度と参りません」
「貴女《あなた》の気持はよくわかる、その通りだろう。だが親は親なりに考え心配しているのだ。家にいて欲しいのだ」
「先生、私は遠からず荻野の家を出なければならないのです」
「なぜじゃ」
「家はもう兄、保坪の代です。保坪の代だと言うことはやがて嫁のおやいさんの代に移るということです。そんなになって小姑《こじゅうと》の私がどうしていつまでもいられますか」
「しかし、あれほどの大家だ」
「その大きなところが気に入りません」
「とにかくそれは分った。だから女医者になるなどと言わず、東京で学問をしたいとだけ言って許しを乞うのだ。あれで母上はそなたの才能を一番認め、そなたを愛《いと》しく思っているのだ。それは母者との話の端々で分る、そなたは末子だからな」
「母がなんと言われても私は家を出ます」
ともすれば母への恩愛に怯みがちになる心に自分で活を入れながらぎんは言った。
「そんなことを言うものではない。母者とは最後まで根気よく話すのだ。さもないと学資一つも貰えなくなるぞ」
そう言われるとぎんは弱い。物心ついてから今日まで、ぎんはまだ一銭たりとも自分の手で稼《かせ》いだことがなかった。
「そう願って、東京で女医者になる機会をうかがうのだ」
「女医が認められるような時が本当にくるでしょうか」
やや冷静さを取り戻すと、気がかりになっていたことがつい口から出た。
「一朝一夕になるとは私にも思えない。だがならぬともいえぬ。三百年続いた徳川様さえ崩れた世の中だ」
騒乱の中の東京をぎんは思った。不安と決意がぎんの心を揺さぶった。
「それでは、母にはいつ話して下さいますか」
「明日にでも」
「では、明日一緒にお伺いいたします」
「いや、儂《わし》の方から伺おう、しばらく母者にも会っていない。父上の一周忌からもう半年だ」
父が生きていたらどうであったろうか、とぎんは思った。反対か、いや、案外簡単に賛成してくれそうにも思う。
「ところで上京して、まずつく先生をお教え下さいますか」
「そうだな、何人かいたのだが御一新でかなり地方へ散ったらしい。新しく塾を開いたと聞いた人もいるが、それは行くと決ってからでいいであろう。まず母上の許可をうることだ」
たしかにぎんは慌《あわ》てすぎていた。
「御願いいたします」
今のぎんには万年が師であり父親の代りでもあった。
明治六年四月、ぎんはようやく母の許可をえて上京した。ぎん二十二歳の春である。
母のかよは、ぎんの一年余りにわたる粘りと万年の説得に押しきられた。だがぎんが強引に押しきっただけで、行く前日になっても納得したわけではなかった。泣いてまでも頼んだ母の意見を振りきっていく娘に、かよは怒りと驚きを感じていた。かよはぎんが自分の娘であって娘でなくなっているのを知った。
出立の日、ぎんは朝の八時に家を出た。保《やす》坪《へい》には奥の間で挨拶《あいさつ》をしたが、彼は目でうなずいただけで一言も言わなかった。女中のかねも含めて家中すべてが反対であった。
絣《かすり》の袷《あわせ》を着て、白足袋をはき、隣村にでも行くように一人嬉々《きき》としていたぎんも駕籠《かご》が着き、二つの柳行李《やなぎごうり》が持ち出される頃《ころ》になるとさすがに心細く落ちつかなかった。東京にはあしかけ二年、順天堂にいたが、それは病院だけのことで外のことはまったく知らない。ぎんは自分の大胆さに呆《あき》れ、かすかな悔いさえ覚えていた。
出立となって、門口にかねとやい、そして姉の友子が見送った。友子は東京へ行くと聞いて、熊谷《くまがや》からわざわざ泊りがけで見送りに来てくれたのだった。
「いよいよ行くのですね」
「姉さん、済みません」
今度の東京行に兄姉の中で友子だけが賛成してくれた。友子がかよを説得してくれたのでどうやら夜逃げでなく表から出ることだけは出来たのだった。
「体に気をつけて」
「母さんをよろしゅう……」
「分ってます」
うなずいてから友子は改めて旅姿のぎんを見上げた。
「あなたは幸せな人ですねえ」
「私が?」
「そう……とやかく言っても、あなたは自分の思った途《みち》を進んでいけるから」
強引に進んでいくぎんに、友子は一種の妬《ねた》ましさを覚えていた。
遅れて門口に母がでてきた。一通り挨拶したあと、ぎんはもう一度母に目を向けた。瞬間、かよは少しもの言いたげにしたがすぐ目をそらした。母の顔はいつもより白いとぎんは思ったが、彼女はすぐ振り切るように駕籠に乗った。
「さようなら、体に気をつけるのですよ」
最後に声を出し手を振ったのは友子と女中のかねであった。母の姿は人々の右端にあったが長屋門を出て右へ曲るとすぐ松の陰になって消えた。
街道《かいどう》に出てからぎんは懐《ふとこ》ろを探った。当座の生活費として三十円、保坪から渡された。荻《おぎ》野《の》の家からぎんが正式に受け取ったものである。東京でも贅沢《ぜいたく》をしなければ一年は暮していける金であった。
勘当同然の上京にともかくそれだけの金を出して呉《く》れたのはかよの差金《さしがね》に違いなかった。
友子、やい、そして万年、荻《おぎ》江《え》からの餞別《せんべつ》もあった。最後に何度も堅く折り重ねた包みがあった。朝出がけに母が黙って手渡して呉れたものである。餞別とも、かよとも書かれていない。ただ白い和紙の中に五円ある。
「こんなに……」
重みをたしかめるようにぎんはしばらく手の平に握っていた。怒り続けていたかよの白い顔が浮んだ。紙包みの底にもう一つの別の紙で包んだものがある。小さく堅い。ぎんは不審に思って開いた。中から紙折りが出てきた。金・銀の錦《きん》糸《し》に「俵瀬《たわらせ》神社」と書かれたお守り札である。
「母さま」
ぎんは駕籠に揺られながら、今朝方、母が言おうとしたのは何であったのかと思った。
本郷《ほんごう》金沢町に部屋を借りると、ぎんはただちにそこから麹町《こうじまち》三丁目の国学者、井上頼圀《いのうえよりくに》の私塾《しじゅく》に通った。当時、頼圀はまだ三十五歳の若さであったが、すでに東京で五指に入る国学者として盛名をはせていた。頼圀の家は二階建ての、木口のがっしりした、いかにも市《し》井《せい》のしもたやといった感じの家であった。
初めて訪れた時、ぎんは女中の案内で直接、二階の書斎にあげられた。
ぎんが入っていくと中央に大きな檜《ひのき》の机が控え、その前に座布《ざぶ》団《とん》が一つある。その他は書籍や紙片が雑然と散らばり、足の踏場もないありさまであった。だが女中は一向に気にかける様子もなく、手早く本を除《の》けてぎんの坐《すわ》れる空間だけを開けると、本の下になっていた座布団をとり出してぎんにすすめた。
「失礼いたします」
有難《ありがた》く座布団を頂戴《ちょうだい》してぎんは辺りを見《み》廻《まわ》した。階段の上り口の廊下に面する障子の面以外は、三方ともぎっしりと本に囲まれている。どれもうず高く壁の半ばまで積み上げられ、その一つ一つがぎんのいまだ手にしたことのない目新しいものばかりであった。
先生は下から上って来られるのかときょろきょろ書棚《しょだな》を眺めていると、突然、その奥で動く気配がして男が現れた。のっそりと入道浄海《じょうかい》を見るような太った大男である。
ぎんはこの人が井上先生かと半信半疑で見上げたが、大男はにこにこ笑いながら、どさりと机の前に坐った。頭髪はすでに薄いが、よくみると目は稚気愛すべき童顔である。ぎんは机の正面に坐ったところから頼圀と判じて、慌てて後退し、両手をついて頭を下げた。
「荻野ぎんでございます」
「分った分った、万年先生からのじゃな」
頼圀は万年先生からの添書も畳みもせず、机の傍《そば》に置いた。なんとも無造作な男である。
「万年先生は如何《いかが》でござる」
「はい、ますます御壮健で」
「それは良かった、もう随分お会いしていない」
言いながら頼圀は、ふくらんだ懐ろから本を取り出した。腹の辺りの着付けが崩れているのはその故《せい》もあるらしい。四冊の本を机に積み重ねて言う。
「ところで、そなた女の身で本当に学問が好きか」
「はい、先生に存分に御教えいただきたいのです」
「私にはわからないことが沢山ある。ありすぎて何から手をつけてよいか迷っているほどだ。学問はやればやるほど解《わか》らなくなるぞ、それでいいか」
「…………」
何と答えていいものか、万年のような穏健な学者とは大分趣きが違う。これが東京というところの広さなのかとぎんは呆《ぼ》んやり頼圀の大作りな顔を見ていた。
「私の門人に女子は初めてじゃ」
「是非、お弟子にお加え下さい」
ぎんはもう一度頭を垂れた。とやかく言っても東京で頼る人といえばこの人しかいない。
「そなたのように美人で学問好きというのは珍しい」
ぎんは顔を伏せたまま赤くなった。どこまで本気なのか、わからない。
「悔いはないか?」
「はあ?……」なんのことかとぎんは顔をあげた。
「お嫁に行かれた方がいいのではないか」
「いいえ、ゆきたくはありません」
「そうか、はっきりしとる」
頼圀は黄色い歯を出して笑った。笑い声をききながらぎんは自分が初婚に破れたことを告げたものかと迷った。だがそれは学問を教わるには無関係なことだと思った。
「分った。門に入る入らぬは別としてまず、この書物を読んできなされ」
にわかに振り向くと頼圀は背の書棚から一冊の本を取り出した。『日本外史』とある。
「とにもかくにも読むことだ。本はいろいろなことを教えてくれる。古人にも解らなかったことが沢山書いてある。それを生きているうちに一つでも解くのが我々のつとめだ。学問というのはそういうものだ」
腕組みをして頼圀は大声で言う。聞いていると襟元《えりもと》の着崩れも気にならない。つい先程のくだけた感じとはまったく別の毅《き》然《ぜん》とした態度がそこに現れていた。
それから十日後にぎんは正式に許されて頼圀の門人になった。
頼圀の門には常時訪れる者だけで三十名からの門人があった。旧徳川直参《じきさん》の武士から町人、書生、壮士風の者まで、年齢も五十歳近いものから十二、三歳とまちまちである。
この中でぎんの学才はたちまち目立ち始めた。もともと漢学の素養は万年父娘《おやこ》に充分うえつけられていた。あとは大海に出て磨《みが》かれればよいだけであった。幼時から撓《たわ》めていた才能が一気に花開いたようである。
これには頼圀の指導が適切であったということもある。ぎんはここへきて初めて学問というものが単に知るということでなく、疑うということから始まることを知った。一つの大きな壁が払われたようである。だが東京に来てぎんが伸びたのはそれだけのことではない。それは東京という広大な土地の包容力があずかっていることも否定できない。ここには田舎のような、人の目をはばかり世間体を気にしながら隠れて学問するというような気《き》鬱《うつ》な環境はまったくなかった。学問をしたければするで誰妨げる者なく自由自在であった。紺の飛白《かすり》に裾袴《すそばかま》という男書生顔負けの恰好《かっこう》をしても誰も指さす者はいない。思うこと信ずることを自由にできた。
離婚とか、出《で》戻《もど》りという言葉もここでは忘れることができた。誰もぎんを独身の若い娘だと思っている。それは聞くまでもないことだし、もちろん、こちらから説明するまでもないことである。すべての条件をこえて学問が優先する。学問だけに励み、それだけ考えていれば、それでことは済んだ。
もう一つ、この時期、ぎんの下の病が鳴りをひそめたように落ちついていたことである。尚中《しょうちゅう》の治療効果ももちろんあったが二十代の前半という体力の最も旺盛《おうせい》な時期にぶつかって、さしもの淋疾《りんしつ》もぎんの体の一隅で小さくなっていたのである。ぎんの一生を通じて病を忘れたのはただこの数年の間だけである。
すべての条件がぎんには幸いしていた。
初めのうち女塾生として、興味半分に見ていた仲間の者達も、机を並べるに従い、ぎんの学才に驚き、三カ月もするとみな一目おくようになった。
「女に惜しい逸材じゃ」
師の頼圀自身が手放しの賞《ほ》めようである。才能もあるがぎん自身も一生懸命だった。やれば出来るという自信が、体の回復と相伴って、すべてにいい方に廻っていた。
半年でぎんの学識はすべての儕輩《せいはい》を抜き、井上塾でも有数の弟子となった。しかも小麦色の肌《はだ》に知的で端麗な容貌《ようぼう》が何とも美しい。円く大きな眼《め》がよく動き、まるで小さな妖精《ようせい》のようだ。この愛らしい娘が井上塾第一の学才とは一緒に学んだことのある者以外にはとても思えない。半年も経ずして井上塾に荻野ぎんという才色兼備の女性がいることは、東京の国学者の間でも評判になり始めていた。
年が改まった明治七年の初め、ぎんは自宅に一人の女性の来訪を受けた。
二階から玄関口に降りていくとそこに結《ゆう》城《き》織《おり》の大胆な縞柄物《しまがらもの》の羽織を着た恰幅《かっぷく》のいい女性が立っていた。年齢は四十を二、三こしているように見える。婦人は立っているのがぎんであることを確かめてから、甲府在の内藤《ないとう》塾の塾頭、内藤満寿子であると告げた。ぎんもその女子教育者としての盛名を井上塾で聞いていた。
「直接お会いして世間の評判が嘘《うそ》でないのを知りました。お会いできて本当によかった」
満寿子は女性同士の気《き》易《やす》さから、初対面にもかかわらず旧知のような話し方をした。
「わざわざこんな仮り住いの部屋にお越しいただいて恐縮です」
ぎんは満寿子のような先達《せんだつ》に訪問されて、恐れいるばかりであった。
「実は他《ほか》でもありません、私の塾で最近助教をしていた人が家庭の事情で東京へ出ることになり後任探しに困っていたのです。そこにたまたま井上先生門下の方から貴女《あなた》のお話を聞き、是非とも来ていただきたいと考え、おさそいにあがったようなわけです」
四十を過ぎた年齢でありながら学問一筋に生きた女性らしく、満寿子は澄んだ鋭い眼をぎんに向けた。
「私のようなものが……」
ぎんは狼狽《ろうばい》した。東京へ出てまだ一年と経《た》っていない。多少学才があるとはいえ一年前までは埼玉の田舎でうずくまっていた存在である。それがいきなり塾の助教などになれるものであろうか。
「いえいえ、学識のほうは井上先生が太鼓判をおしていらっしゃいました。あの気難しい変り種の先生が保証するのだから間違いございません。それに貴女ほどの美しく気《き》稟《ひん》の高い方が先生として見えられたら、生徒達は何といって喜ぶか分りません」
「では井上先生にもそのことは……」
「いえいえ、先生にはそんなことはまだ一言も言っておりません。貴女がうんとおっしゃらないのに先生に言ったりしては、たちまち先生の反対にあって駄目《だめ》になってしまいます。井上先生は貴女が可愛《かわい》くて手《て》許《もと》から離したくないようですから」
満寿子はかすかに笑っていた。
「私は女性の地位を高めたいとその一念で今日までやってきました。その捨石となれば満足なのです。どうでしょうか、手助けしていただけませんか」
それを言われるとぎんの気持は揺らいだ。女性の社会的地位を高める、その必要性をぎんは身をもって感じていた。
「条件がありましたら遠慮なくおっしゃって下さい。私の今の考えでは出来ましたら貴女に生徒の寮の舎監を兼ねていただきたいと思うのです。そうしたら失礼ですが生活も楽ですし、万事好都合でしょう」
満寿子は部屋に入った時から、ぎんの生活の切りつめようを見抜いていたのだった。
「いかがです、御決心いただけないでしょうか」
自分のような女が、内藤満寿子ともあろう人からこんな言葉を与えられるとは勿体《もったい》ないことだとぎんは思った。賞められすぎである。すぐにも応諾したいと思う、だが心の奥底で呼び止めるものがある。
お前は女医になるために東京に出てきたのではないか。そのために母とまで争い、家を捨てて来たのではなかったか、あの屈辱を忘れたのか。女医になるためには東京にいて学問をしながら時機を待つのが最良である。これまでの苦心はすべて女医になるためではなかったか。
秘めた決心をぎんはまだ頼圀にも儕輩にも言っていない。それを言えばそう決心するに至った動機までも覗《のぞ》かれそうであった。その質問をはぐらかす努力もわずらわしかった。だから満寿子が知る由《わけ》もない。
「残念ながら、私はまだ若輩でとてもその任には耐えられませぬ」
「いいえ、大丈夫です。塾頭の私が言うのですからいいじゃありませんか」
「とても自信がないのです」
「それとも、なにか東京を離れられぬ理由でもあるのですか」
「別に……」
いまさら本当の理由を言い出すわけにもいかない。ぎんはひたすら頭だけ下げていた。半刻《はんとき》して満寿子はようやく諦《あきら》めた。
「では今回は一旦《いったん》帰ります。のちほどお便りを差し上げますからよく考えておいて下さい」
満寿子は残念そうに立ち上った。
井上頼圀《いのうえよりくに》は当時の国学者の例にもれず、漢方の心得もあった。このことはぎんの先の師、松本万年もそうであったように、江戸末期の学者は漢書とともに漢方の本も読んだことから、大なり小なり医道にも通じている人が多かったのである。
ところで明治改元以来、急速に起った西洋医学の隆盛に対し、皇漢医道復興運動という一種の反動が起った。というのも、表面華やかに、スムースに入ってきたようにみえる欧化思想の中で、一方では何かにつけても日本古来のものでなくてはならないという攘夷《じょうい》思想も根強く残っていた。皇漢医道復興もこの流れに沿ったもので、漢方から発達した日本古来の医道を復興し西洋医学を排斥する、という運動を始めたわけである。
こうしてこれら一派の人達はまず当時の大学(今の文部省)の大監(次官相当)秋月種《あきづきたね》樹《たつ》に持ちかけ、同時に宮中の大官にも働きかけて西洋医学の追放を画策した。この考えは新しい思想万能の世情を苦々しく思っていた人達の心を惹《ひ》き、たちまち進言はとり入れられ、大学に皇漢医御用掛というものが置かれることになった。
この最初の職員には、日本医道側から権田直助とともに井上頼圀が、漢方側から柳田真卿、屋台良作、今村亮、といった人達、二十八名が任命されたのである。
これに対し、徳川末期からさまざまな辛酸に耐えてようやく今日の隆盛を築いてきた西洋医学の流れをくむ人達は、当然のことだが激しく反撥《はんぱつ》した。特に岩佐純《いわさじゅん》、相良《さがら》知安《ともやす》といった医道改正御用掛の面々はただちに秋月大監と面会し、これに憤然と抗議し、大学内に皇漢医道の室を置くなら西洋医学の流れをくむ全員は職を退くとまで言いきった。
この見幕にさすがの大学側も慌《あわ》てて、皇漢医道の室を設けることは見合せたが、任命した人達はどうにもならず、大学本校に一室を設け、そこにただ通勤して貰《もら》うことで体面をつくろうという形で一旦落着いた。だがこれでもなお満足しない西洋医学派側は、用もない皇漢医を遊び半分に雇っておくのは不《ふ》埒《らち》だとばかり皇漢医全員をただちに解職して叩《たた》き出せという要望書をさし出すに至った。ここで議論百出の末、ようやく一部穏健派の提唱する、彼等も同じ医者なのだからその自覚を促すように仕向けるのが筋だという案がとおり、この際、むしろ我々西洋医学の講義を聴かせ、治療の実態を見せて納得させるのが良いということになった。
結局この半年後には皇漢医側も覚《さと》るところがあり、その国学、神学の知識を利して別の仕事を求めて解散し、辞めていった。
皇漢医学派は一時の反撥で盛り返してはみたものの所詮《しょせん》は西洋医学の優秀さと欧化という時勢の波には勝てなかったわけである。
ぎんの師、井上頼圀もこの時、皇漢医御用掛から宮内省へ転じているが、それは後のことで、ぎんが通っていた頃《ころ》は西洋医学の激しい波をいささか苦々しく思い、頼圀は不満分子に担《かつ》がれて皇漢医道復興運動を起そうとしていた矢先であった。
「この頃しきりに西欧思想にかぶれ、医学でもそれをうのみにして日新医学などと勝手な名前をつけて得意がっているが、あれは夷《い》狄《てき》のことである」
講義の最中に、頼圀は漫談に紛らせて私見を述べた。
「西洋医学の方が優れて理論的なのではないでしょうか」
ぎんはすかさず立って尋ねた。
「日本には日本の気候風土に即した医学がある」
「西洋では人体を解剖して細かく調べていると聞きました」
「解剖など野人のやること、日本では許されることではない」
国学の第一人者も西洋医学に関してはこの程度の知識しかなかった。もっともそれは当時の皇漢医の総帥《そうすい》としての頼圀の立場としては当然のことだし、一般的な考え方にそったまでで、あながち彼一人を責めるわけにはいかない。頼圀の偉さは非を覚った時の改め方にあった。だが当時の若く勝気なぎんには納得できぬ師の一面でもあった。
春になった。
ぎんは袷《あわせ》から単衣《ひとえ》にかえた。家を出る時は夏冬合せて四着の着物を持ってきたが、東京に出てからは新調していなかった。
着物どころか、この頃ぎんは食べるものもきりつめていた。今までは気苦労こそあったが、生家も嫁いだ家も大家であって、生活に困るという感覚とは縁遠かった。それが今は違う。朝食は昼をかねて味噌《みそ》汁《しる》と菜だけですませ、夜だけ干《ひ》物《もの》や煮物をつけたが、それさえもこの頃は途切れがちである。
家を出る時、持ってきた金は半分以上を使い果しもう三分の一も残っていなかった。家からはその後、一度も送ってこない。一年間は面倒を見ると保坪《やすへい》が言ってくれたのだから、そろそろ俵瀬《たわらせ》から送られてくる頃であった。だが、そうは言っても手にとってみるまでは不安である。
ともかく家中の反対をおしきって出てきたのだから万一、途絶えたとしても文句を言えた義理ではない。
切りつめたのは食物だけではなかった。夜遅くまで本を読むために灯油代の出費がまた馬鹿《ばか》にならない。普通の種油では高いので、ぎんは魚《ぎょ》油《ゆ》を買った。油屋で一合毎買うが、一合あれば二夜は保《も》った。
「毎夜遅くまで起きているのですね。針仕事でもしているのですか」
馴染《なじ》みの油屋の主人は人懐《なつ》っこい笑いを浮べながら尋ねた。二日毎に買いに来るところを見ると普通ではないと察したらしい。
「ええ……」
ぎんは曖昧《あいまい》な答え方をする。いかに東京とはいえ、女身一人で深夜遅くまで学問をしている、と言うのは気がひける。相手から異様な眼で見られるのが煩《わずら》わしい。
「毎日毎日大変でしょう、今度は少しおまけして差し上げましょう」
「済みません」
これまで買いものに情けをうけたことはなかった。だが今更そんなことを言って、呑《のん》気《き》に構えているわけにはいかない、今まで知らなかった人の情けがお嬢さま育ちのぎんにも分ってきた。
その日の講義は、暮の六つに終った。ぎんが風呂《ふろ》敷《しき》に写しを包み、帰り仕度をしていると、頼圀が近づいてきた。
「あとで話があるから少し残っていて欲しい」
ぎんは皆が帰ったあと袖《そで》をからげ、部屋を掃いていた。頼圀の妻は二年前に病死し、そのまま結婚せず、身の廻《まわ》りや二人いる子供の世話は通いの老《ろう》婆《ば》がやっていた。もっとも塾の方は住込みの書生が掃除をするが、時々はぎんも手伝う。塾一番の才媛《さいえん》といっても、女であれば仕方のない勤めであった。ぎんが掃き終った時、見計らったように頼圀が現れた。
「久しぶりに雁鍋《がんなべ》でも食いにいこう」
「よろしいのですか」
「なに、かまわん」
頼圀は懐《ふとこ》ろ手で先に家を出た。雁鍋屋は二丁先の角にある。去年の暮にぎんは頼圀に連れられ塾生十人程で食べに行ったことがある。今度は二度目だが二人である。
二人ということにぎんはこだわったが、頼圀は格別気にかける様子もなかった。
軒行灯《のきあんどん》にはすでに火が入り雁の絵の下に「なべ」の朱書きが赤く映えている。
「二階に座敷はあるのかね」
頼圀は馴染みの番頭に顎《あご》で示した。
「へい、どうぞ」
夕飯時の故《せい》もあって下は雑然と混《こ》んでいる。ぎんも人の多いところは苦手である。頼圀は常連らしく勝手知った階段をどんどん上っていく。衝立《ついたて》で仕切られた二階の一角で二人は向い合った。
最近あまりいいものを食べていないぎんには久し振りの馳《ち》走《そう》であった。いわれるまま遠慮せず食べたが、頼圀はゆっくりと酒を呑《の》んでいた。
「一杯どうだね」
「いえ、飲めません」
「まあ一杯くらいはいいだろう」
「全然、駄目なのです」
「そうかね」
頼圀は渋々盃《さかずき》を置いた。ぎんは飲めないから断わったのではない。どうしてもといわれれば一杯くらい飲めないわけではない。だがぎんは下《しも》の病のことを考えていた。病に酒はよくないと尚中《しょうちゅう》先生ははっきりと言った。
一人で二本の銚子《ちょうし》を空けた時、頼圀が急に改まったように襟元《えりもと》を合せた。普段から身装《みなり》に無頓着《むとんちゃく》な頼圀がそんな仕《し》種《ぐさ》をするのが、ぎんには可笑《おか》しかった。
「実はちょっと相談があるのだが」
「なんでしょうか」
一旦は膝《ひざ》においた手を頼圀は再び胸元で組んだ。
「これはただ聞き流して貰《もら》っていいのだが……」
「はあ?」
「真面目《まじめ》な話だが……」
いつもの豪放無頼に似合わず、頼圀はしどろもどろである。
「如何《いかが》いたしましたか」
「他でもない。儂《わし》の後添えのことだが」
「後添え?」
「後妻じゃ」
「はい」
「出来ればおった方がいいと思うてな」
無理もない、とぎんはうなずいた。
「そこで実はのう」
頼圀は腕組みをしたまま、一つ咳《せき》をすると横を向き、一人でうなずいて言った。
「そなたがよければ来て貰いたいのじゃ」
「えっ……」
「そなたを後添えにな」
「私が?」
「そうじゃ」
今度は大きな顔の中の小さな眼を思いきり開いて言った。
「儂の妻女になっていただけんかと思うてな」
あまりの突然のことに、ぎんはぼんやりと頼圀の顔を見ていた。
「そなたほどの才覚があれば、儂の家をうまくやってくれよう、どうじゃ、いやか」
「…………」
「出来れば、いま返事が欲しい」
「先生……」
これはもう大胆なプロポーズであった。町人のごく下の者ならともかく、ほとんどが見合結婚であった時代である。仕官せぬ身とは言え、江戸第一等の学者として名声のある男である。しかも分別盛りの中年に達した子持ちである。勇敢と言えば勇敢だし、突飛と言えばこんな突飛なことはない。
「どうかな」
ぎんにとっては、それこそ寝耳に水であった。どうかと言われても答えようがない。
「そなたと儂では一廻り以上も違う、違いすぎるという意見もあろうが、だからいかんという理由もないであろう」
肝腎《かんじん》の言葉を言いきった故か、頼圀は再び一人で酒を注《つ》いで飲み始めた。
「考えてみてくれるかな」
「私は……」
「そなたの思う通り言ってみてくれ」
お受けできませぬ、と言いかけてぎんは口を噤《つぐ》んだ。理由はともかく前にいるのは師である。師にそんな言葉を吐いてよいものであろうか。
「来てくれるか」
「…………」
「不自由はかけぬつもりだ」
「今は、まだ……」
「すぐには無理かもしれぬのう」
うなずくと頼圀は悠々《ゆうゆう》と顎を撫《な》ぜた。自信ありげな様子である。
「今はお許しを」
「そなたほどの女子だ、いろいろ話もあろうが」
「いいえ、そんなこと」
この人は何も知らないのだ、ぎんは急にいたたまれぬ気持にとらわれた。
「今日はこれにて」
「後でよい、返事を待っている」
ぎんはもう何も喉《のど》に通らなかった。逃げるように雁鍋屋を出ると一目散に家へ駈《か》け戻《もど》った。床の中に入っても一向に眠りは訪れない。一人になって考えてみると夢のような気がする。本気だったのだろうかと疑わしくもなる。だが話したときの眼を思い出すと信じないわけにはいかない。
頼圀を愛の対象として考えたことなどはなかった。それは頼圀だけでなく、どの男性に対しても同じであった。ただ師としてしか見たことはない。これまで師として見ていたものをすぐ愛情に切り替えよと言われても無理な話である。
今更、男の世話をやき、子供を育て、世間体をつくろう、そんな煩わしいことにかかずり合う気持にはとてもなれない。
男などはみんな我儘《わがまま》で横暴な者だ。そんな男の犠牲になるのはもうご免だ。
ひとしきり忘れていた男への憎《ぞう》悪《お》がぎんに甦《よみがえ》った。
私は女医者になるのだ。
ぎんの気持は決っていた。何と断わったものか、断わり方だけが問題だった。
迷いに迷った末、明方ぎんは手紙を書きあげた。
前略、昨晩はおもてなし戴《いただ》き、有難《ありがた》くお礼申し上げます。
その折りお申し越しのお話、私ごとき不覚者に身に余る光栄とは存じ候へども、何分とも突然のこととて思案する暇もなく、御無礼と知りつつ引き退《さが》り参らせ候。
家に戻り、つらつら考へれど私ごときもの、あまりの愚か者にて先生の御《み》許《もと》へ参ることまことに自信これなく、学問こそ女子にしては人より多少学べりといへども、他はまるで小児のごとき無知未経験にて候。この有様にてお申し出、お受けの節は只々《ただただ》先生に御迷惑かけるばかりか、先生の御名声にまでも傷をつけるやもしれぬと恐れ案じをり侯。
私の不安、自信のなきことお汲《く》み取りの上、先の話なかつたこととして、御容赦戴きたく心より念じをり候。
荻野ぎん
井上頼圀先生
御侍史
翌日、手紙を階下の子に託すると、ぎんは家に閉じこもっていた。
二日経《た》ち、三日経った。頼圀からは何も言って来ない。
六日目の昼、塾《じゅく》の下女が尋ねてきた。
「どこか、体でも悪かったのですか」
「ええ、ちょっと」
「お医者さまは」
「もういいのです、ところで先生は」
「このところ、ずっと御機《ごき》嫌《げん》が斜めで私達はみな閉口しています。何が原因なのか私達にはさっぱりわからないのです」
口ではそう言いながらぎんの様子を探りにきたことははっきりしていた。
「たとえ病気でも無断欠席は退学処分になります。とにかく謝りに見えてはいかがですか」
「明日伺います」
答えながら、ぎんはこんな嫌《いや》な思いを何故《なぜ》自分だけが味わわねばならないのかと腹立たしくなった。
当時の風習として、師が生徒へ愛を告白するということは例のないものであった。しかも場所は師弟の区別厳しい私塾である。これだけでさえ画期的なのに、求愛された女性側が婉曲《えんきょく》にせよ拒否するというのも尋常ではない。
出ようか出まいか、ぎんはなお迷いながら三日間、家で過した。だがそうしてばかりもいられない。十日目にぎんは意を決して塾へ出た。
ぎんの出てきたのを知って塾生達がもの珍しげに寄ってきた。ぎんはそれを振り切り真《ま》っ直《す》ぐ二階の書斎へ上った。頼圀は例によって本で埋れた机の前で壁に背をもたせて窓を見ていた。
「此度《このたび》は勝手に休みまして申し訳ございません、お許し下さい」
顔を見るなりぎんは頭を垂れた。頼圀は黙っていたがしばらくして一言ぽつんと言った。
「気にしておられたな」
「…………」
ぎんが顔を上げると頼圀はゆっくりとうなずいて、
「もうよい」と言った。
ぎんは頼圀の大きい顔の中の丸い眼《め》を見ているうちに、突然、泣き出したい衝動にかられた。怖いとも厳しいとも感じた男の眼が、今は誰のよりも馴染み深い親しいものに思えた。
ただ一度、愛の言葉を受けただけでこうも変るのであろうか、ぎんは自分の心の移ろいに戸惑った。
「あのことは私の無謀であった、無かったことだと思ってくれ」
「…………」
聞いているうちに、ぎんはなにか途方もなく大きなものを失ったような気持にとらわれた。今の今まで、頼圀に詫《わ》びることの煩わしさばかりが頭にあった。とんでもない災難だと思い腹立たしくもあった。男には憎しみしか覚えなかった。それが面と向い、頼圀から謝られると、途端に淋《さび》しさを感じている。
何とした身勝手さか……
ぎんは表の自分とは別に揺れているもう一人の自分を知った。
講義の間中、ぎんの心は揺らぎ続けていた。何事もなかったように教授する頼圀が男らしいとも思い、恨めしくも思われる。もし彼の申し出を受けていたらどうなったであろうか、門人達は何と言い、母は何と言ったであろうか。さまざまな考えが浮び消えていく。
この今、朗々と読んでいる師と自分の間にかすかな秘密があった。重荷であったそのことが、心地良い思いともなる。
塾にいる間、ぎんの心は学問から離れていた。
翌日も、翌々日もぎんの揺らぎは続いた。揺らぎの中でぎんは頼圀に近づくことを一層警戒した。今までは勝手に書庫に入り借りたい本を申し出た。書斎の掃除や子供達の簡単な繕いものも気楽にしてやれた。それが今はまるで出来ない。一つ一つが雁鍋屋の夜に繋《つな》がる。ぎんの動きはすべてが不自然でぎこちなくなった。
一カ月経って、ぎんはようやく、この間《かん》、自分の学問がほとんど進まず、停滞しているのを知った。そのことを知っているはずの頼圀もぎんを叱《しか》らなかった。
このままでは駄目になる。学問に男は不要だ……
ぎんは自分のなかに息づくもう一人の自分を叱った。だがそれも一時のことで塾に出ると、あらぬことを考えた。
師と弟《てい》は、互いに甘やかせるところがあってはいけない。ぎんはそう自分に言いきかせると頼圀の許を離れることを心に決めた。
雁鍋屋での一件から二カ月後の七月の末、ぎんは甲府の内藤満寿子の塾へ移った。半年前はあれほど辞退したところだが、今は自分から進んで行く……。
ぎんが甲府行を告げた時、頼圀は黙ってうなずいた。
「女子の教育に尽してみとうございます」
「行ってみるのもいいだろう」
理由はなんと言いつくろってみてもぎんの底意を頼圀は見抜いていた。だから黙っていたともいえる。
「勝手なことばかり言って、申し訳ございません」
「達者でな」
それだけ言うと頼圀は再び読みかけていた本へ目を戻した。
私が去るというのに師は少しも揺らいでいない。揺らがないのが師だというのか、ぎんはどっしりした頼圀の横顔を見ながら、そこに男の強さと傲慢《ごうまん》さを見た気持だった。
内藤塾は今でいう私立の女学校を小さくしたようなもので塾生は通いもいれると百人近くになる。ここは勉学を教えるだけでなく、和裁、活花《いけばな》、お茶、琴といった女性の一般教養も教えていた。
生徒は嫁入り前の十六、七歳までの者が多く、一部の主婦達を除いては、ほとんどが全寮制であった。ぎんは漢文と歴史を教えながら、そこの寮の舎監を兼ねた。
満寿子が目をつけたとおり、ぎんの清《せい》楚《そ》な美《び》貌《ぼう》と博識はたちまち生徒達の人気の的となり、一カ月もしないうちに「姫君」と綽名《あだな》がつけられた。
「姫君」は一方で生徒の人気を得たが、一方でその厳格さで寮生に怖《おそ》れられていた。
寮の門限は夜七時と決っていた。だが夏の七時はまだ明るい。
ぎんは点呼時に遅れてきた者は一分たりとも容赦しなかった。それらは罰として一週間外出を禁じ、その間、廊下と便所掃除を課した。これはたちまち効《き》き目《め》が現れ、半月で点呼に遅れるものはほとんどなくなった。それにしても、罰があまりに厳しすぎると生徒達は不満を訴えた。だがぎんはそれらの意見には耳をかそうともせず、超然と一人、深夜まで本を読み耽《ふけ》っていた。異様に潔癖な先生と陰口をたたきながら、その真《しん》摯《し》な姿を見ては生徒達も表立って不満を言いたてるわけにもいかなかった。
ぎんが舎監になって二カ月たった秋の初め、金沢あいという生徒が八時半すぎに塀《へい》を乗り越え、裏木戸から入り込んだ。たまたま、そこに見廻り中のぎんが通りかかった。
その生徒の袴《はかま》から背は泥《どろ》と藁《わら》にまみれていた。その姿を視野に納めた時からぎんは女の鋭い直感で全《すべ》てを見抜いていた。
「何をしているのです」
ぎんに見《み》咎《とが》められて、金沢あいはその場に貼《は》りついたように立ち止った。
「金沢さんですね」
まわりの部屋の生徒達は息をころしてことのなり行きに耳を澄ませている。ぎん先生ではどうみてもこのまま尋常にはおさまりそうもなかった。
「何処《どこ》へ行ってきたのです」
「…………」
あいの可《か》憐《れん》な唇《くちびる》が小刻みに震えていた。
「言えないのですね。言わないのなら言わなくてもよろしい、こちらへいらっしゃい」
ぎんはあいの袂《たもと》を引いて自室へ連れていくと、あいに正座を命じた。
「婦人は男性とは違うのです、どんなことがあっても身を堅く保たねばいけません。身を堅く保てぬほどの婦人は人ではありません」
ぎんの細く整った美貌が、あいには冷酷な刑吏のように見えた。
「覚悟はしていますね」
一週間前、あいは艶書《えんしょ》を貰ったと言って評判になった女であった。色白で子供じみた顔が男達の好き心をさそうようであった。
「正直に言えなければ、言うまでここにいて貰います」
そう言うと、ぎんは机に向って本を読み始めた。
一時間経ち、二時間経ったが、ぎんは膝を崩さず石油灯《ランプ》の前で本を読み続ける。同室の者達もあいの身を案じながら、つい眠気に負けた。
あいとぎんは一晩中、一睡もせず坐《すわ》り続けていた。徹夜の読書はぎんには慣れていることだが、あいには出来る芸当ではない。
「申し訳ありません」
暁方《あけがた》、あいが耐えきれぬように声をあげた。
「信玄堤《しんげんづつみ》へ行っておりました」
「何しに行ったのです」
「…………」
あいには自分の口から言えることではなかった。
「男に逢《あ
》いにいったのですね」
ほつれ毛を垂らしたまま、あいはうなずいた。
「やはり……」
ぎんの眼が獲《え》物《もの》を得た鷹《たか》のように輝いた。若い身空で外で男に逢い、夜遅く塀を乗り越えて帰ってくる。そんなにまでして男に逢いに行くとはなにごとか、それは男への屈伏であり女性全体の恥であるとぎんは思う。
「あなたは男に惑わされているのです、その男はあなたを弄《もてあそ》んでいるのです」
「…………」
「男はあなたの体だけを狙《ねら》い、甘言であなたを誘いだしているのですよ。男は我儘《わがまま》勝手で女を女とも思わない、理不尽なものです」
「いいえ」
あいは髪をふり乱したまま顔をあげた。
「あの人は違います、あの人はそんな人じゃありません、決して」
「お黙りなさい、あなたはまだ男を知らないのです。男がどんなに横暴で女を苦しめるものか、それにどれだけ多くの女性達が泣いているか」
「いいえ、違います、あの人は……」
「私は舎監ですよ、あなたの年上です。あなたよりはものごとを知っています」
「でも、でも、あの人は……」
そこまで言ってあいは泣き崩れた。顔に当てた袖口《そでぐち》が破けて腋《わき》がのぞいている。男との情事の匂《にお》いがそこに滲《にじ》んでいた。ぎんはその白い肌《はだ》へめくるめくような憎しみを覚えた。
「あなたは学生ですよ、修業中の身です。修業中の身で色恋沙汰《ざた》は許しません」
あいに言いながら、ぎんは自分に言いきかせていた。自分も揺らぎ、ふっと男を思う。あいと自分と二人に共通する女の性にぎんは腹をたてていた。
「あなたの生《いき》甲斐《がい》は男なのですか、男と不潔な行為をくり返す、それがあなたの生甲斐なのですか」
ぎんは下腹部に軽い痛みを覚えた。徹夜の疲れが再び下の病を覚めさせているのかもしれなかった。鈍い痛みがぎんの怒りをさらに誘った。
「学問でしょう、立派に学問を修めて、誰《だれ》からも後ろ指をさされない婦女子になることです。それが何です、舎監の目を盗んで、夜、男と醜い不潔な行為に走る。それが気品のある婦女子のやることですか、それが内藤塾の生徒ですか」
言いながらぎんも声がつまった。なにかしら泣きたい気持だった。何故こう叱らねばならないのか、叱りながら情けなくなる。何故自分はこんなところにいて、こんな小娘を叱っているのか、それを思うと無性に腹立たしく焦《いら》立《だ》たしい。だが走り始めた怒りはもはや止らなかった。
「さあ立って」
荒々しく声をかけた。いつもは明るく大きな眼が細くすわっている。ぎんに押されてあいは、よろけて立ち上った。
「あなたの心の卑《いや》しい部分を除くのです」
早い朝《あさ》陽《ひ》が東の窓から廊下にさしていた。ぎんは死刑の執行吏のように、あいを連れて歩いていた。廊下のつき当りに修養室がある。畳三十畳ほどの広間で正面に床の間があり、ふだんは修身の訓話をきいたり知名士の講演をきくのに使う部屋である。がらんとした部屋は明け始めた光の中で静まり返っている。
「今日一日中、ここで反省するのです」
執拗《しつよう》なまでのぎんの制裁にすでにあいは抗《さか》らう気力も残っていなかった。
「あなたの心の中の黒い影を払い落すまで許しません」
ドアをしめ鍵《かぎ》をかけた。
これであいはどこへも出られない。広い部屋で一人、生贄《いけにえ》のように坐っているあいの姿を見届けると、ぎんは下腹の痛みに耐えながら急いで厠《かわや》に向った。
また新しい年が明けた。明治八年である。離婚してすでに五年余の歳月が経ち、ぎんは二十四歳になっていた。
年が明けるとともに、姉の友子から便りがあった。ぎんは姉妹の中で、友子にだけは一目置いていた。もしあのまま勉学を続けていたら、友子の方が自分よりも優れた学才を身につけたのではないかと思えた。
友子は俵瀬《たわらせ》の実家は保坪《やすへい》の代になってから何か生気がないと訴え、保坪の暢《のん》気《き》さと、嫁やいの家をかえり見ない派手さに人々が離れていく気配があると書いていた。身内の者は良く見え、他人は悪く見えるのが通常だから、友子の言うのをそのまま鵜呑《うの》みにも出来ないが、保坪を非難しているところからみると、案外本当なのかもしれなかった。ぎんは来た時からどっしりと根を下ろした感じの保坪の妻の姿態を思い出した。長男の嫁が家を取りしきるのは当り前だと思いながらやはり他人《よそ》者《もの》に自分達の家が奪われるといった感じは拭《ぬぐ》えなかった。
それにしても私は稲村家を乗っ取るどころか、柱の端にとりつくことさえ出来なかった。
ぎんは自分の弱さに引きかえ、やいの逞《たくま》しさが不思議な気がした。
やはり私は家に棲《す》む女には向いていないのかもしれない。ぎんは自分が、女として肉体的にも精神的にも不具なのかもしれないという不安にとらわれた。
友子の手紙の中途には「貫一郎さんは、まだ一人です」と書かれていた。友子の家は神官であるところから地方の有力者との交際が広いが、そんなことからも稲村の家とは、いまでも行き来しているようだった。
流れるような友子の筆の中で「貫一郎」という字《じ》面《づら》だけ黒く浮き上って見える。だが、それがかつて夫であり、自分の処女を捧《ささ》げた男の名とは思えなかった。見知らぬ行きずりの男の字を見るような気持しかなかった。八年経ったのだとぎんは改めて過ぎた年月を思った。
〈しっかり勉強して、きっと女医者になって下さい。少額ですが金子、五円、お送りします。受け取って下さい〉
友子は、金にさして困らぬとは言え、楽というほどの家ではない。嫁の身でよく送ってくれる。親、兄姉、すべてが反対する中で友子だけは初めからぎんの意志を認め賛成してくれていた。友子とだけ、何故こんなに気が合うのか分らないが、あるいは嫁にいって遂げられなかった自分の望みを友子は妹のぎんに託しているのかもしれなかった。せめて保坪兄さんがその半分でも分ってくれたらと思う。だが、そうは言ってみたところで愚痴でしかない。
〈母さまはこの頃《ごろ》急に弱り、ほとんど外へも出ない様子です。正月に伺った折りは私を引きとめ、貴女《あなた》のことばかり案じていました。口には出さぬが母さまは今は貴女のことを許しています〉
そこまで読んでぎんは手紙から眼を離した。俵瀬を出る時、人々の後ろから見守っていたかよの顔が思い出された。
こんな親不孝までして何故、私は女医者になろうとしているのか。ぎんは固く決意したはずの自分の心にかすかな隙《すき》間《ま》風《かぜ》が吹くのを感じた。
再び輝くような初夏がやってきた。塾のまわりの欅《けやき》と銀杏《いちょう》は盛装をこらしたように葉を繁《しげ》らせ、陽を照り返している。
生徒達はまた袷《あわせ》から単衣《ひとえ》に衣装《ころも》替《が》えをした。緑の中を生徒達が駈《か》けて行く。この年齢《とし》頃《ごろ》で自分は求められて、稲村へ嫁にいった。芝生に坐りながらぎんは来し方を思い起した。思い出すのもいやだった過去が、今はさほど憎しみも覚えなく思い出せた。これも年月の故《せい》かとぎんは微風に澄んだ眼を細めた。
「先生、東京から御面会の方です」
女生徒が裏門の方から駈けてきた。
「東京から?」
「女性で背の高い方です。正面玄関の脇《わき》です」
甲府に来て東京からの来客というのは珍しい。秋に頼圀《よりくに》の門下生が五人程、葡《ぶ》萄《どう》狩《が》りに現れて以来である。ぎんは表門に廻った。
「荻《おぎ》江《え》さん……」
角の塀を曲った途端、ぎんは駈け出した。日《ひ》傘《がさ》を右手に、風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みを左手に、門の前に立っているのはまさしく松本荻江であった。
「ぎんさん」
二人は門の前で抱き合った。三年振りである。生徒達が例にないぎんの喜びようを珍しげに眺《なが》めている。
「御元気で。遠いところをわざわざいらして下さって」
ぎんは荻江を自分の部屋に案内した。
「落ちついたいいところね」
荻江は荷物をおき、手足を洗ってからようやく落ちついて辺りを見廻した。
「先生はお元気ですか」
「おかげさまで、貴女に宜《よろ》敷《し》くと言ってました」
万年の柔和な顔が思い出される。丸く大きな眼鏡も懐《なつ》かしい。しばらく俵瀬の話が続いてから、ぎんは思い出して尋ねた。
「ところで、貴女はまた何で、わざわざこんなところまで……」
肝腎《かんじん》のことをぎんは聞き忘れていた。
「貴女に会いにですよ」
荻江は悪戯《いたずら》っぽく笑っている。
「だって私に会うだけに俵瀬から……」
俵瀬からは女の足では三日はかかる。東京からでさえ二日の行程である。
「今、私は東京に住んでいるのです。父も一緒です」
「全然知りませんでした。どうして?」
「実は新しい学校のことで、内藤先生にもちょっとご相談があってやってきたのです」
なんのことか、ぎんにはさっぱり分らない。戸惑ったぎんを見て荻江は楽しそうに、
「今度、東京に女子師範ができるのご存じですか」
「ええ、内藤先生からお聞きしました」
「そこの教師になるのです」
「教師って……荻江さんが」
「そう」
荻江は照れたように笑った。ぎんは大きな目を一層大きくして荻江の上から下まで見直した。
「頼りない先生でしょう」
「いいえ、荻江さんなら立派な先生になれますわ」
田舎とはいえ自分でさえ、こんなところで生徒に教えている。俵瀬で万年に教わった学問が意外に高い程度のものであったことをぎんは東京に来て知った。それからいえば荻江ほどの学識があればどこに出しても恥ずかしくないはずである。
「開校はこの秋からです」
ぎんは改めて荻江を見つめた。髪は後ろで束ね、大島紬《おおしまつむぎ》に小《こ》倉《くら》の袴をはいている。普通の女性なら三十歳を越して老《ふ》け込む年齢だがそんな気配はまったくない。これといった飾りも、色彩もないのに若々しく見える。内に潜めた意欲が荻江を華やいで見せているのかもしれない。
「その学校は……」
「もう本郷《ほんごう》で校舎の建築にかかっています。この秋には開校です」
「それは官立の学校ですか」
「もちろん。ようやく女性にも教師になる道が開けるのですよ、女性も学校を卒《お》えて仕事をもてるのです」
「よく政府が建設に踏みきったものですね」
「噂《うわさ》によると文部省学監のデイビッド・マレーというアメリカ人が、文部少輔《しょうゆう》の田《た》中《なか》不二《ふじ》麿《まろ》先生を説得したのがきっかけだと言うことです。田中さんという方は欧米を視察してきた、とても進歩的な方ですからね。この方が太政大臣三条実美《だじょうだいじんさんじょうさねとみ》公に建白書を提出したのだと言われています」
ぎんは動いている東京を思った。すると急に心が焦《あせ》った。いつまでもこんなところにじっとしてはいられない。
「それであなたに話しに来たのです。女子師範にお入りなさい」
「私がですか……」
「決ってるじゃありませんか、九月に第一期の生徒を募集します。これからで間に合います」
ぎんは目を輝かせた。荻江はわざわざそのことを言いに来てくれたのである。荻江の好意が身にしみた。
「あなたの最後の目的は分っています、医学校も今にきっと女性に門戸を開いてくるに違いありません。でも当分は無理です。将来、入れるようになった時、官立の女子師範を出ていたら学問はもちろん学歴の面でもきっと有利なはずです。内藤先生には内緒ですが、こんな田舎で埋もれているのは惜しい。人を教える前にまず自分が伸びることです。こんなところに長くいてはいけません、東京に出て機会を待つのです」
荻江の一言一言が、ぎんの胸につきささった。頼圀とのことがあったとは言え、甲府に引っ込んだのは間違いであった。この頃それはよく分ってきていた。ぎんには東京へ出るきっかけが欲しかった。そのきっかけが向うから舞い込んできたのである。
「あなたならきっと入れます、女子師範に入ってさらに力を貯《たくわ》えるのです」
「荻江さん」と言いかけてぎんはあわてて口を噤《つぐ》んだ。
「分りました先生」
「いやよ、私とあなたの間はどんなになっても姉妹ですよ。俵瀬で約束したでしょう」
荻江は男っぽい仕《し》種《ぐさ》で滑らかなぎんの肩を叩《たた》いた。
明治八年十一月、東京女子師範は東京本郷お茶の水に開校した。この学校はのち東京女子高等師範と改められ、現在のお茶の水女子大学に至っている。
第一期生はぎんを含め七十四名であった。
開校式当日、昭憲《しょうけん》皇太后はみずから女子師範へ行かれ、
みがかずば、玉もかがみもなにかせん、
学びの道も、かくこそ、有けれ
との歌を寄せられた。
当時、女子の専門の教育機関としては竹橋町にあった東京女学校、唯《ただ》一つであった。これは明治政府が明治五年に全国に学制を施《し》いたのとほとんど同時にできたものである。
この時の教育令のなかに「小学校を除くの外、男女其《その》教場を同じくすることを得ず」(第七十章)というのがある。これは徳川時代の「男女七歳にして席を同じうすべからず」という男尊女卑の思想が明治新政府の教育基本方針におり込まれたものであり、戦後の新憲法実施まで、日本の女子教育の根本原理として存在したものである。
このように女子教育に無理解な時代の空気のなかで、女教師の出現などということは、予想だに出来ぬことであった。まさに画期的な事件であった。
ともかくこうして学校はスタートしたが、制服も校章も定まってはいない。学生達の多くは木綿か銘仙《めいせん》の着流しに風呂敷包みという恰好《かっこう》で学校へ通った。
ぎんを含めて、当時の女子師範に入った生徒達は学校へ進むことに、皆、大なり小なり家族や親戚《しんせき》から反対を受けた者ばかりであった。
文明開化とは言え、それは東京、横浜のごく一部の社会だけのことであり、日本の大半の土地にはまだ古い考えがどっしりと根を下ろしていた。
「学問好きの娘を生んだは家門の恥」とか「学校より奉公」といった考えが厳と残っていた時代である。おまけに女子師範は、女子が職業につくという、これまでには考えられなかった女性をつくる学校である。「女性は家にいるもの」という思想とはまるで反する。学校に行くようでは嫁に行くあてもなく、よほど容貌《ようぼう》が醜いのであろう、などとあらぬ疑いを抱く者さえいた。
こんな環境の中からある者は親の言うことをふりきり、ある者は親に勘当され、親兄弟の非難の中から出てきた女性達ばかりである。誰もが勝手で自尊心が強い。私達の考えていることは今日、明日のことではない、日本の将来の女子教育を背負って立つのだ、といった気概がみなぎっていた。一種の女壮士である。いわゆる、ひとくせもふたくせもある女の集団である。向うっ気が強くやる気充分である。ぎんももちろん、その中の一人であった。
この年、入校を機にぎんは自分の名を「吟子」と書くようにした。すなわち「荻野吟子」である。
ぎんは自分も含めて女達の名が犬でも呼ぶように簡単に扱われるのが前から不満であった。女の名は呼び易《やす》く、仕事を言いつけるに便利にしただけの符号にすぎない、といった考えが横行していた。
「女だって、男と同様に漢字で堂々と書かれるべきである」
甲府へ行ってさまざまな女学生の名を見て、ぎんは一層その思いを深くした。この娘達が一生「やい」とか「せい」と言葉短く呼ばれ続けるかと思うと情けない。これは延々と続いた、男尊女卑の現れの一つに違いなかった。それを思うとぎんは無性に腹立たしかった。
「ぎん」では新しい時代を切り拓《ひら》く女の名としてはいかにも迫力がない。考えた末、十日目からぎんは勝手に自分の名を吟子と書き出した。
「一体どちらが本当なのです」担任の教師が戸惑って尋ねた。
「戸籍はぎんです、でも私の現在の気持は吟子にぴったりなのです。心機一転して新しい女性として進みたいのです」
「成程、分りました」
そういうことには教師の方も滅法理解があった。ぎんはいわば公然と吟子になった。
だから戸籍では今まで通りぎんである。
明治五年にできた壬申《じんしん》戸籍には、
幡羅《はら》郡俵瀬《たわらせ》村第一屋敷家族として、
農業、父 荻野綾三郎(死亡)、戸主 荻野保坪《やすへい》、母 荻野嘉与《かよ》、妻 やい、長男 三蔵、妹 ぎん、弟 増平、となっている。
すなわち、離縁とともにぎんは戸主保坪の妹として荻野家に復籍しているわけである。
女子師範学校の修業課程は足かけ五カ年であり、その課程は十級に分れていたが、学科目は、読物地理、読物地理学、読物歴史、歴史、物理学、化学大意、修身学、雑書、習字、書取、作文、数学(算術、代数、幾何)、読物経済学、博物学、教育論、記簿法、養生書、手芸、唱歌、体操、授業法、実地授業と実に多岐に亙《わた》っている。生来の利発さに加え、人一倍の頑《がん》張《ば》り屋であった吟子は、ここでも群を抜き、たちまち首席となった。
こんなふうに科目が多かった故《せい》もあるが、とにかく当時の教育は暗記することが多かった。おまけに教師達はどれも勉強家で、教え込もうというファイトに燃えている。これでは教師はまだしも、教えを受ける生徒の負担は並大抵ではなかった。
代数の宿題だけでも多い時は二百題も与えられる。生徒達はそれに負けず、忍耐強くねばる。まさにスパルタ式の詰込み主義だが、ここから後年の「天下の女高師」の名声が生れたとも言える。
誰《だれ》もが一生懸命やってもやっても、まだ時間が足りなかった。吟子も例外ではない。
寄宿舎は一室に五人という多人数だった。両端に寝台があり、中央に互いに向い合う形で机が置かれている。だが灯《あか》りはガラスの行《あん》灯《どん》に菜種油と灯心を用いる。「ザン切頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という唄《うた》が流行《はや》った通り、女子師範生の生活はまさに和洋混淆《こんこう》、何とも奇妙なものであった。
同期生のトップにいた吟子は常に追われる立場にあった。向い合って勉学しているだけでは足りない。トップは誰にも譲りたくない。
寝台の頭側に三尺戸《と》棚《だな》の寝具入れがある。深夜、吟子はこっそりと起き出すとこの戸棚の中に忍び込んだ。明かりは灯心一本である。それを戸棚の床におき、その前にうずくまって本を読む。同室の友達は何も知らずに眠っている。小《こ》柄《がら》で眼だけぎらぎら光った吟子の姿が影絵になり、戸棚の壁に映る。
灯心一本で二時間はもつ。半月も経《た》つと吟子はそれが習慣になった。そのうち同室の友達もこれに気付いて同じことをし始めた。すると次第に見《み》倣《なら》う者が増え、他の部屋でも共犯者が現れた。
一カ月目に吟子は遂《つい》に舎監に呼び出された。
「貴女《あなた》が始めたのですね」
吟子が創始者であることは仲間うちで知れわたっていた。
「勉強することに文句はつけたくありませんが、夜は一応眠る時間になっているのです。それに、第一、あんな狭い戸棚の中へ灯心を持ち込んで、万一、居眠りでもして火事でも起したらどうするのです」
「申し訳ありません」
「気持は分るのですが、いろいろと差し障りもあるので止めるようにして下さい」
舎監は咎《とが》めるというより、頼むといった感じである。
「もう決していたしません」
吟子は謝りながら、自分が何気なくやり出した勉強法が、たちまち全生徒に拡《ひろ》がる、そのすさまじいまでの女達の競争心を思うと無気味さをとおりこして怖かった。
しばらく吟子は夜は何もせず、眠ることにした。しかし一旦《いったん》ついた習慣は中々抜けきれない。夜中に追われる夢を見てはっと目覚める。するともう眠れない。眠ろうとすればするほど眼が冴《さ》えてくる。吟子は一計を考えた。闇《やみ》の中で起き上り枕元《まくらもと》の本を持って便所へ向う。深夜の便所は静かなことでは申し分ない。便所の中央には吊《つる》しランプが灯《とも》っている。臭い話だが吟子はその下で立って本を読み、眠気の訪れるのを待った。
女子師範の生活にも慣れた明治九年の初め、吟子は年始の挨拶《あいさつ》と再び東京へ出てきた報告をかねて井上頼圀《いのうえよりくに》の許《もと》を訪れた。
頼圀とは喧《けん》嘩《か》別《わか》れでも、無断の退塾でもなかった。だが何か気の済まぬ気持があった。正月の十日で、人々の来訪も少なくなった頃《ころ》を見計らって、吟子は頼圀の好物である下《した》谷《や》栄泉堂の最《も》中《なか》をもって麹町《こうじまち》を訪れた。
冬の生垣《いけがき》は生彩を失っていたが、庭石も開き戸も二年前と変らなかった。
「御免下さい」
戸を開きながら吟子はある不安を抱いていた。二度声をかけて「はあい」というしわがれ声が返ってきた。
「まあ、荻野さん」出てきたのは以前と同じ老《ろう》婆《ば》であった。
「御無沙汰《ごぶさた》しました」
「甲府とかとききましたが」
「ええ、先生は」
「いらっしゃいますよ、今お伝えしてきますからね。あなたがお見えと知ったら喜びますよ」
老婆はあたふたと奥へ消えた。玄関はしんと静まり返っている。三和土《たたき》には幅広く大きな頼圀の下駄《げた》が一つだけある。女物や華やいだ感じのものは何一つない。
先生はまだお一人なのだ。辺りを見廻しながら、吟子はかすかな安《あん》堵《ど》を覚えた。
頼圀は相変らず丸々と太っていた。上質の紬《つむぎ》を着ているのに襟元《えりもと》をはだけているのは前と変らない。
「女子師範に入られたのであろう」
「御存じでしたか」
頼圀はうなずいた。
「学問の世界は広いようで狭い」
そう言って頼圀は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
吟子は赤面した。今は教わらぬとはいえ、かつての師である。もっと早く挨拶に訪れるべきであった。だが頼圀にはそんなことを気にしている気配はなかった。
「おい婆《ばあ》さん、荻野殿の好物の花《か》林糖《りんとう》があったろう」
「先生、そんな」
「いやいや、今朝方買ったばかりなのだ。儂《わし》は大して好きでもないのだが、あの声をきくとつい買ってしまう」
頼圀は屈託なく笑った。一度、何が好きかと聞かれた時、花林糖と答えたことがあった。そのことを頼圀は憶《おぼ》えていてくれたのである。それは吟子が栄泉堂の最中をもってきたのと同じだった。
「なかなか勉学が大変であろう」
「学科が多いものですから」
「だが、そなたなら大丈夫だ。ちょっと厠《かわや》へ行ってくる」
頼圀はゆっくりと巨体を浮せた。みしみしと階段を降りていく。家も人も少しも変っていなかった。
「さあ召し上って下さい」老婆が盆の小《こ》皿《ざら》に言われたとおり花林糖を入れて持ってきた。
「先生はまだお一人ですか」
察しはついたが、さらに吟子は確かめたかった。
「そうなのですよ」
「どなたか候補者は?」
「いろいろお話はあるらしいのですがね、気に食わないのか面倒くさいのか、一向にそんな気配はありません」
「そう……早くお貰《もら》いになればいいのに、あなたも大変でしょう」
心配した様子を見せながら吟子はむしろ頼圀が一人でいることに満足していた。
勉学が厳しいとは言え、学生は本にばかり齧《かじ》りついていたわけでもなかった。夕食のあとや宿題の少ない日曜日の午後などは、気の合う者同士が集まって、明治政府の政策や女性のあり方などについて論議が交わされた。若い女の話しそうな、おしゃれや異性のことについてはあまり話をしない。それが女子師範生の一つの気風でもあった。
吟子の同室に古市静子という小柄で色白の学生がいた。負けん気の多い学生の中で、静子だけは控え目で口数も少なかった。吟子は二十五歳で同期生の中では年長の方だったが、静子も二十三歳とかなり年齢をとっていることから、吟子は親しみを覚えていた。
時々吟子の方から話しかけるが、静子は必要なこと以外は答えない。いつも顔色は秀《すぐ》れず、伏目がちの顔には何かしら、大きな苦悩を抱いているような翳《かげ》りがあった。
日曜日の午後、吟子は荻江の許へ遊びに行き、最近評判の福沢諭吉の「学問ノスヽメ」第一編を借りて帰ってきた。同室の者は皆出払い、静子一人が机に向っていた。
「頑張るわね」
日曜日も勉強かと近づくと、静子は慌《あわ》てたように顔をあげた。眼の縁に薄いくまがあり泣いた跡がある。
「どうしたの」
留守の間に何かあったのかと、吟子は気になったが、静子は首を左右に振って窓に目を向けた。入学した時は窓一杯を圧していた欅《けやき》の繁《しげ》みも、冬の薄《うす》陽《び》をうけてすっかり小さくなっていた。
「気になるわ、教えて」
吟子は静子の細い首を見ているうちに、急に姉にでもなったような気持になった。
「私でできることなら何とか力になるわ」
「無理よ」
「そんな風にきめつけるもんじゃないわ」
断わられて吟子はかえって、この曰《いわ》くあり気な女性を助けてやりたいと思う。勉強一筋で進んできた吟子に忘れていた優しさでもあった。
吟子の熱意にほだされて静子は話しはじめた。
つい最近、アメリカ公使を辞めて帰朝したばかりの森有礼《もりありのり》は、長年外国にいただけに進歩的な人物で、つい最近、日本の旧習をみずから打破すると称し、広瀬つね子という婦人と夫婦契約書という変ったものを交わして結婚して、人々を驚かせた人物である。後に文部大臣となり、新しい教育改革を行なったが、当時は新進の政治家であった。
因《ちな》みにその婚姻契約というのは次のようなものであった。
現今十九年八ヶ月の齢《よはひ》に達したる静岡県士族、広《ひろ》瀬阿《せお》常《つね》、同二十七年八ヶ月鹿児島県士族森有礼、各々其《その》親の喜許を得て互に夫婦の約を為《な》し、今日即ち紀元二千五百三十五年三月六日即今東京府知事の職に在る大久保一翁の面前に於《おい》て結婚式を行ひ約を成し、双方の親戚朋友《しんせきほういう》も共に之《これ》を公認して、茲《ここ》に婚姻の約定を定むること左の如し
第一条、自今以後森有礼は広瀬阿常を其妻とし、広瀬阿常は森有礼を其夫と為す事
第二条、為約の双方存命にして此約定を廃棄せざる間は、共に余念なく相敬し相愛し、夫婦の道を守る事
第三条、有礼阿常夫妻の共有し又共有すべき品に就ては、双方同意の上に非ざれば他人と貸借或《あるい》は売買の約を為さざる事
右に掲ぐる所の約定を為し、一方犯すに於ては他の一方官に訴て相当の公裁を願ふことを得べし
紀元二千五百三十五年三月六日
東京に於て
森有礼
広瀬阿常
証人 福沢諭吉
といった内容である。現在の結婚式での誓いの言葉に近いものだが、それより一層いかめしく、証人を立て、それが福沢諭吉であるところがまた面白い。
この事件は、一年前の春のことであり吟子もよく知っていた。
日本の大方の破婚の例が男性側の不貞、横暴、我儘《わがまま》から起きるものであり、それで現実に青春を奪われた形の吟子にとって、この契約書には大いに同感するところがあった。それと同時に森有礼の勇気と清廉《せいれん》な態度には大いに感心させられた。
だがその話は実際とは随分違うらしい。
「あの方とは婚約をし、お羞《は》ずかしい話ですが体の関係まであったのです」
「そうだったのですか」
即座には信じられなかったが、静子がそんな大それたことを軽はずみに言うわけもなかった。世間の華やかな話題の陰で苦しみ悩み、捨てられたあと、一人で生きていくために女教師の道を選んだ女性がいるなどとは誰も知るわけもなかった。新しい時代の為政者として森有礼を尊敬していただけに吟子の受けたショックは大きかった。
「いかに政府の高官といっても、そんな勝手なことが許されるわけはありません。阿常という新夫人はあなたという人がいたことを知っているのですか」
「多分、御存知だと思うのですが……」
「その阿常という人も呆《あき》れた人です」
吟子は自分のことのように声を荒げた。俵瀬で離縁と決ったときはただ黙って耐えた。それしか方策がないし、耐えるのが女の勤めだと思った。だが今は違う。六年間の年月が吟子に勇気と自信を与えていた。
「行きましょう、私が一緒に行ってあげます」
「どこへ行くのですか」
「森さんのところです」
静子は呆気《あっけ》にとられていた。彼のところへ行ってどうするというのか、相手はすでに万人が認めた形で結婚している人ではないか。
「このまま黙って泣寝入りすることはありません」
生来の吟子のきかん気と実行力が、頭を擡《もた》げてきた。
「直接会って談判をするのです」
「でも……今更お会いしても」
「今はあの方は阿常という人に首ったけなのだから愛情を取り戻《もど》すわけにはいかないかもしれません。でも代りにそれなりの誠意を見せて貰うのです」
「誠意と言うと……」
「駄目《だめ》ならお金ででも解決して貰うのです。欧米諸国ではそれが当り前なのです」
「そんなこと……」
静子はまだ有礼にひかれていた。自分に冷たい仕打ちをした男なのになお憎みきれなかった。その点では吟子のようには割切れない。
「あなたが行けないのなら私に任せて下さい。決して悪いようにはしません」
妥協を許さぬ潔癖感が吟子を興奮させていた。そうと決めるともうじっとしていられない。
二度も官邸にむだ足を運んで、三度目に吟子はようやく森有礼に会えた。
女子師範の生徒で個人的な話でお会いしたい、と聞いて秘書官は初めのうちは適当にあしらっていたが、三度も続けてくるに及んで、仕方なく有礼に告げた。
「何かな、まあちょっと会おうか」
秘書官の言った、小柄な美人だと言うのが有礼が会う気になった理由である。
吟子は仕立下ろしの銘仙《めいせん》の着物に胸元高くエビ茶の袴《はかま》をはいて有礼の前に立った。女子師範に入ってから甲府での貯金をはたいて作った一張羅《いっちょうら》である。
「まあ坐《すわ》り給《たま》え」
紺の背広に蝶《ちょう》ネクタイをしめた有礼はなかなかの伊《だ》達男《ておとこ》であった。名を名乗ったあと、吟子は真《ま》っ直《す》ぐ有礼の顔を見て言った。
「私がここに参ったのは私自身のことではなく、私の同室の友人の件についてです」
「君の友達?」
有礼は西洋煙草《たばこ》をとり出しながら怪《け》訝《げん》そうに尋ねた。
「古市静子さんです」
「静子か……」
聞いた途端、有礼は苦虫を噛《か》みつぶしたような顔になった。
「今更、私などから申さなくとも、あの方とのことは閣下が一番良く御存知のことと思います」
「それがどうしたと言うのかね」
「あの方は今でも閣下のことを思って泣いています。あの方は女のすべてをあなたに捧《ささ》げて枯れてしまったのです。あの人は生涯《しょうがい》もう孤独なのです。あなたが強引に手折って枯らせてしまったのです」
言っている間、吟子は眼前の男が森有礼であることを忘れた。それは貫一郎のようでもあり並の男のようにも思えた。
「あの人は、もはや他の人にお嫁にゆく気なぞはありません。せめて女教師になって一人で生きて行くということしか考えていないのです。あなたはあの人の一生を踏みにじったのです。それに反してあなたは悠然《ゆうぜん》と別のお方と愛の巣を営んでいます。契約結婚などと偽りの仮面をかぶって」
有礼はこの火の塊のような熱弁をふるう女に呆然《ぼうぜん》としていた。怒鳴る余裕もなかった。
「あなたは恥ずべき偽善者です。女の敵です」
そこまで言いきって吟子はふっと息をついた。
有礼は興奮で一人頬《ほお》を赤らめている娘をむしろ惚《ほ》れ惚《ぼ》れと見ていた。きっぷのいい女である。顔だけ見ているとひき締った有礼好みの女である。裸になればさぞや、と妙なことまで考えさせられる。あれほどの罵《ば》倒《とう》を浴びせられたのに有礼は憎む気になれなかった。むしろその勇気と熱意に感心していた。男ならつまみ出して侮辱罪で牢《ろう》にでもぶちこむところである。美人は得である。
「それで君は僕にどうしろというのかね」
有礼は思い出したように言った。
「静子さんを助けてやって下さい」
「助けろというと」
「結婚は……」
「それは出来ない。それはあなたが御存知のとおりだ」
「それではいくらかのお金でも」
「成程、手切れ金かね」
静子との間は妾《めかけ》と旦《だん》那《な》の関係でも何でもない。ただ、婚約の口約束だけだからその必要はないと言えばいえた。
「せめてあの方が女子師範を卒業するまでの金銭の面倒は見てあげて下さい」
言うことは激しいが、いざとなると女だけあって求めることが小さい。もっとも当時、飛ぶ鳥落す勢いの森有礼に一介の女子学生が体当りしたのだから、その意気だけは買わなければならない。
「わかった、承知しよう」
さすが洋行帰りだけあって物分りはいいと吟子は改めて有礼を見詰めた。有礼はアメリカ仕込みの大《おお》袈裟《げさ》な仕《し》種《ぐさ》で肩をすくめると軽く笑って見せた。政府の高官と言っても二十九歳の若さである。しかつめらしい官吏の報告をきくより、たまにこんなきかん気の小鳥が舞い込んでもいいと、有礼は鼻毛を抜きながら考えていた。
「それでは失礼致します、暴言の段はお許し下さい」
話がまとまった以上、長居は無用である。吟子は立ち上って丁寧に頭を下げた。
この事件以来静子は吟子の妹分のような存在になった。
友達の学費の工面はなんとかついたが、当の吟子自身も経済的には逼迫《ひっぱく》していた。向う三年間の学費という要求が咄《とっ》嗟《さ》に出て来たのも実は吟子自身がそんな金が欲しいと思っていた矢先であったからである。
吟子は甲府の内藤塾に勤めてからはすべて自力で生活していた。甲府での給料は多くはなかったが、女一人で舎監を兼ねていたので月々二、三円程度の貯金をすることはできた。だが女子師範に入ってからは再び収入はなくなった。もっとも女子師範は当初から授業料は免除され、寄宿舎にいる分には月々、二円もあれば充分暮してはいけた。でもこれでは新しく衣服を買ったり、高い本を買う余裕はなかった。
甲府で貯《たくわ》えた小金は入学して銘仙の着物と海老《えび》茶《ちゃ》の袴を買い、本を買っただけで半ば消えた。吟子は何か内職をと考えたが、勉強に追われてする暇もなかった。そうするうち甲府での貯えは半年も経《た》つとほとんどなくなった。
俵瀬の実家に頼めば、月々三円や五円程度の金は送ってくれるに違いなかった。だが吟子は勘当同然で出てきた実家に今更、金の無心をする気にもなれなかった。母はともかく、保坪ややいが、それみたことかと嫌《いや》味《み》を言い、渋々出す金なら貰わない方がいい。勝気な吟子はきっぱりと実家に頼むことを諦《あきら》めた。が、といって他に名案もない。
考えあぐねた末、吟子は熊谷《くまがや》の姉、友子に毎月三円ずつ向う三年間の無心の便りを出した。月三円という金は熊谷の神官に嫁いだ友子にとってさしてつらい金ではない。
折返し友子からはすぐ承知した旨《むね》の手紙があり、金は野口家と取り引きのある深川、門《もん》前仲町《ぜんなかちょう》の木野家へ毎月末に取りにゆくようにと言ってきた。
最後に〈初心忘れぬよう努力して下さい〉という文字を見て吟子は胸が詰った。友子だけはいまなお見捨てずに見守ってくれているのだった。
女子師範の厳しい教育は毎年、十名前後の落《らく》伍《ご》者《しゃ》を出していった。生徒の中には当時の小学校を卒《お》え、家庭で父兄から漢文の補習を受けたといった程度の者が多かった。これらの中には初めから女教員になる気はなく、他に女が学問をする場所がないので入学したという者がかなりいた。こうした者達は家庭も裕福で、それだけに卒業して教師の免許をとるということにさはどの切実感がなかった。途中で落伍しても彼女等には大して響かない。むしろこれで素直に嫁にいってくれると、親に歓迎される者もいた。
吟子は女教員になるのが目的ではない。目的はあくまで女医である。それへの基礎教養をつけるというだけのことで、一部のいい加減な女性達とは違っていた。吟子には彼女等のように最後には嫁に行くという逃げ道はなかった。もはや戻ることは出来ない。前へ進むだけである。
明治十二年の二月、吟子は第一期生の首席を守り通して東京女子師範を卒業した。入学した時、七十四名いた生徒は、この時わずか十五名になっていた。女子師範の教育がいかに厳しかったかということが、このことからも想像できる。
十五名の生徒は卒業式の日、幹事の永井久一郎教授から、それぞれ卒業後の志望を尋ねられた。
「女医者になりたいのです」
頼圀《よりくに》の門にいた時は恥ずかしくて口に出せなかったことが、今は平気で言えた。吟子がそれだけ逞《たくま》しくなったこともあるが、時代はそんな言葉を吐いても気狂い扱いされぬだけには変っていた。
「そうか女医者か」永井教授は鼻髭《はなひげ》に手を当てて考えた。
「といってもこれからどうするつもりかな」
「なんとかして医学校に入りたいのです」
「なるほど」
すでに官立の昌平黌《しょうへいこう》(大学本校)は着々と整備されていたが、他に個人が開いた私立医学校がいくつかあった。だがこれらはいずれも女人禁制である。
「これまで勉強を続けてきたのもすべて女医者になるためです」
「しかし女が医者のような殺伐な仕事をしたいなどと言えば、親兄弟から見放されるであろう」
「すでに見放されました」
「そうか……」
「何とかいい方法はないものでしょうか」
吟子にとっては師範の卒業が学業の終りではない。これからが本番である。卒業できたといって他の者のように喜んでいるわけにはいかない。二十八歳という年齢が追いかけてきていた。
「これは国の制度の問題だから儂《わし》のような一介の学者ではどうにもならない。一人思い当る人がいる。その人に紹介する故、一度会ってみたらどうだ」
「御願いできますか」
「明日までに紹介状を書いておこう、役に立てるかどうか分らんがね」
「有難《ありがと》うございます。とにかく行ってみます」
「君ほどの頭であればきっと医者になれるのに。女であるばかりに惜しいことだ」
永井教授は吟子の聡明《そうめい》そうな顔を見ながら溜息《ためいき》をついた。
永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、石黒忠悳《いしぐろただのり》であった。この人は幕府の官立医学校であった医学所を卒《お》え、その後、新政府ができるとともに医学校(大学東校)に少助教として勤めたことがある。この時、医学校長であった佐《さ》藤尚中《とうしょうちゅう》大博士に仕え、また先の皇漢医道復興運動の折りには岩佐純、相良《さがら》知安《ともやす》らと結んで反対論の急先鋒《きゅうせんぽう》となった人物である。
彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十歳半ばの働きざかりで軍医監として兵部省《ひょうぶしょう》にいたが、同時に大学医学部綜《そう》理《り》心得として週に二日ほど文部省に出向していたのである。
女の身でいかめしい官庁へ出かけるのはさすがの吟子もためらわれた。しかも場所は軍人の出入りする兵部省である。吟子は石黒の私邸を尋ねることにした。一度むだ足を踏んで、二度目に牛込揚場町《うしごめあげばちょう》の石黒邸でどうやら会える機会を得た。
石黒は顎骨《あごぼね》の張った、いかつい感じの男だった。彼は吟子の持っていった永井久一郎からの添書を読むと「うん」と一度、大きくうなずいた。
「成程、君が荻野吟子君か」
維新を生きぬいてきた男らしく、石黒の声は周りに響くほど大きい。
「お初にお目にかかります」
吟子はこの無骨な感じの男にすっかり緊張していた。女子師範で接した教授達とはいささか勝手が違う。
「君の意見には儂も賛成だ。婦人は総じて内気なもので、ことさら婦人病等をあらわに診察されることを羞《は》じらって嫌《きら》うものだ。きちんと診なければ分るものも分らない。これには儂も往生した経験がある。これらに対して女医が処することは大いに有益である。医学で女では学ばれぬという程の学科もないから、女がなってもおかしくはない」
今更、何故《なぜ》やりたいか、などと決りきった質問はしない。さすが実際に西洋医学を学んできた人だけに分りがいい、と吟子はほっとした。
「ところで、何処《どこ》の学校をお望みかな」
「私のような者でも、いれて下さるところがあれば、選り好みは致しません」
「とにかく君も知っているように、今は何処も女人禁制だ。すぐと言われても困るが、どこか探してみよう」
「ありそうでしょうか」
「分らん。分らんからこれから探すのだ」
石黒は掛け値のない男である。言われてみれば当り前のことであった。吟子は恐縮して石黒の許《もと》を辞した。
吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは、その一週間後の三月の初めである。早速出向くと石黒は例の大声で、
「いろいろ当ってみたが女学生は断わると言うて応じて呉《く》れぬ」
「…………」
「ただ一つ、下谷の好寿院だけが、引き受けようと言うて呉れた」
「本当ですか」
吟子は椅子《いす》から立ち上った。
「坐《すわ》って聞いても話は同じじゃ、坐り給《たま》え」
吟子は慌《あわ》てて坐った。
「風紀のことをはじめ、女ではいろいろと不便なことがある故、初めは駄目だと言いおったが、儂の懇請なら仕方がないと遂《つい》には降参しおった」
「ありがとうございます」
自慢しても石黒の場合はいやみに聞えない。
「院長の高階《たかしな》経徳君は私もよく知っているなかなか優秀な男だ。ちょっとこうるさいがな」
いよいよ医者へ一歩近づいたのだ。吟子はめくるめく思いで石黒を見上げた。
「二、三日中に行ってみると良い」
「早速伺わせていただきます」吟子は深々と頭を下げた。
皮肉なことに吟子は、皇漢医道復興問題で相対した井上頼圀、石黒忠悳という二人の人物の知遇を得たことになったのである。
好寿院へ入ると決って吟子は再び頼圀の許を訪れた。好寿院の高階院長が宮内省侍医を兼ね、頼圀が宮内省御用掛であった以上、吟子の入学が頼圀に知れることは時間の問題であった。だが吟子が訪れたのは単なる挨拶《あいさつ》と報告だけからの理由ではない。それよりも頼圀の近況を探るのが吟子にとっては大きな目的であった。
「そうか、西洋医になられるか」
吟子の医学への志を初めて聞かされた頼圀は、沈痛な表情で腕を組んだ。
漢方医ならともかく、西洋医では頼圀の手の及ぶところではない。といって西洋医になるのを断念させる理由もなかった。たしかに西洋医は時流に適《かな》っている。その辺りのことは皇漢医である頼圀にも見通せた。
「長いのう」
「はあ?」
「いや、これからがじゃ」
女子師範さえ卒えたら再び吟子に求婚してみようかと頼圀は考えていた。叶《かな》わぬまでもしてみようと思っていた。だがそれは更に遠のいたようである。
「それは覚悟しております」
「うむ」頼圀の声は呻《うめ》きに似ていた。
頼圀がこんな困惑した顔を見せたのは初めてであった。
私の故《せい》で苦しんでいらっしゃる。
あからさまにこそ言わぬが、頼圀の中に吟子への愛着が残っていることは確かだった。中年の、名声も地位もある男が吟子一人のために翻弄《ほんろう》されていた。苦しげであった。
だがそれを見ながら吟子は済まなさとともにある喜びも感じていた。
好寿院は下《した》谷《や》練塀町《ねりべいちょう》にあり、その院長、高階経徳は宮内省侍医としても名のあった人である。この辺りは元の順天堂に近く、吟子には懐《なつ》かしい土地であった。
院長が許可したとはいえ、聴講を許すというだけのことで、特別、女子一人のために新しい設備を整えたり、規則を変えるというわけでもない。来たければ来いというだけのことである。初日から吟子には驚くことばかりが起きた。
当時の医学校でも大学東校(東大医学部の前身)のようなところは名ある士族の子弟か、しかるべき人の紹介による者に限られ、それだけに節度も保たれていたが、私学校は医学生といっても二十歳前から四十代までとまちまちで維新の名残りの荒くれ者がかなりいた。さすがに刀を持ち歩く者はいなかったが、肩を怒らせ袴に下駄穿《げたば》きという壮士風の男が屯《たむろ》していた。
初日、吟子は入学の手続きを終え、さてどうしたものかと辺りを見《み》廻《まわ》したが、誰《だれ》一人案内してくれる者も指図をしてくれる者もいない。どこへ行けばよいかと事務の者に尋ねると、「さあ、分りませんな」と一向に素《そっ》気《け》ない。女が来ては汚れるとでも言わんばかりの表情である。仕方なく吟子は一人で奥へ向った。学校と言っても白壁に瓦屋《かわらや》根《ね》の日本家屋で、教場や実験室が廊下伝いに五つほど並んでいるに過ぎない。その中の一つ、学生達が多人数、集まっている部屋を戸口から窺《うかが》った。
突然、「別嬪《べっぴん》」という声が吟子の耳をつんざいた。すると他の学生達が一斉《いっせい》に立ち上り、拍手をし、下駄で床を鳴らした。たちまち教場は騒然とし、髭《ひげ》むじゃや、薄汚ない恰好《かっこう》の男達十数人が吟子の周りを取り囲んだ。いずれも乱暴や悪戯《いたずら》ではひけをとらぬ猛者《もさ》共である。
驚いた吟子は教場からとび出したが、口笛を鳴らした塾生達が吟子のあとを追ってきた。
「男女七歳にして席を同じうせず」という教育を受けてきただけに、女性に対する免疫《めんえき》はまるでできていない。年頃《としごろ》の女の香りを身辺に嗅《か》がされては興奮し騒ぎ出すのも無理はない。そのあたりに関しては医学生も普通の男もさして変りはない。
「なかなかいい顔しとる」
「この顔で男の脈をとるんか」
「男の裸でも見るわい」
揶揄《やゆ》とも侮辱ともつかない言葉を次々と浴びせる。
吟子は油断なく身構えたまま廊下につっ立っていた。逃げ出すことは簡単だ。だが今逃げ帰ったのでは、これまでの努力が無駄《むだ》になってしまう。
吟子の脳裏に順天堂医院の明るい診察室が浮んだ。吟子の白い肢《し》体《たい》は若い二人の男で思いきり左右に割開かれている。途端に吟子の頭は火のように燃えた。だがその思いは一瞬のうちに通りすぎた。吟子は毅《き》然《ぜん》として顔をあげる。その時の屈辱を思えば今の屈辱はもののかずではない。
吟子は男共にかまわず教場の後ろ側の席に向った。吟子の移動につれて猛者共もしつこく従《つ》いてくる。まるで飢《き》狼《ろう》が一匹の小羊の後をつけ、飛びかかる時機を狙《ねら》っているようなものだ。
机と椅子といっても、好寿院の場合は一人毎独立したものではなく、台の上に長い板を渡しただけで同じ仕組みの椅子に四、五人の学生が一緒に坐《すわ》る。吟子が坐ると別の席に坐っていた学生がぞろぞろと移動してくる。突然、ざんばら髪の色の浅黒い大男が教壇に立ったかと思うと拳《こぶし》を振り上げて喋《しゃべ》り始めた。
「諸君、宮内省侍医、医学士高階経徳経営する、この光栄ある好寿院に、女性医学生何の何某《なにがし》を迎えたことはまことに慚《ざん》愧《き》にたえない。今や医学道は地におち、女、子供の職業の具と化しつつある。女、賢《さか》しゅうして家つぶし、今や医学をつぶさんとす、あに憂《うれ》えざるべけんや」
それと共に一斉に「わあ」という拍手が湧《わ》いた。耳をふさぎたくなるような大音声である。
続いてその横の大将髭の男が立った。
「諸君、我々は遂に今日ここに女学生を迎えるに至った。我々は婦女とともに医学を学ばねばならない。婦女と並んで講義を聞き、実験をするのである。すなわち、我々は婦女と同等に成り下った。この責を何とするか」
髭の男はそこで激しく卓を叩《たた》いた。
「そうだっ」
五十人近い学生が一斉に拳をあげて叫ぶ。吟子は膝《ひざ》に両手を重ね目を閉じて時の過ぎるのを待った。
翌日から吟子は、前の良い席をとるために朝の六時に本所《ほんじょ》の家を出た。服装は着流しを改め、海老《えび》茶《ちゃ》の袴《はかま》を着け素足に日和《ひより》下駄《げた》という男と変らぬ身装《みなり》にした。もちろん、白粉《おしろい》や紅は一切つけず襟元《えりもと》は極端にひっつめ、袖口《そでぐち》も思いきり狭くすぼめてしまった。できるだけ男達の恰好に近づけ、女らしい感じを消そうというわけである。
がこの恰好は必ずしも成功しなかった。吟子は色白でこそなかったが、小麦色で端正にひきしまった顔は年齢よりは三つ四つは若く見え、理知的な魅力に満ちていた。おまけに地味な袴に隙《すき》を見せまいとして横紐《よこひも》をきつく締めたために胴の括《くび》れは一層目立ち、小《こ》柄《がら》だが均整のとれた肢体は男達の眼にはかえって艶《なまめ》かしくうつった。
吟子が現れたと知るや学生達はすぐ机を叩き、床を鳴らして嫌《いや》がらせをする。遂には再び、「女、帰れ」の罵《ば》声《せい》をまき散らす。講義が始まると吟子の向っている机を揺らせたり、机と椅子との間を男達でも辛《かろ》うじて届くほどの距離に開くといった程度の悪戯は毎日のことであった。仕方なく吟子は膝の上に書物をおき、その上で筆記をした。教師は塾生達のようにあからさまに非難こそしなかったが、女が医者になることに必ずしも好感を抱いているわけではなかった。当時にあっては彼等はかなりの進歩的な意見の持主ではあったが、それでも医学は男だけがやるべきものという考えが大勢を占めていた。
吟子の入学は高階経徳が個人的に許したことにすぎない、我々のあずかり知らぬところである、という考えが露骨に現れていた。ただ一人の理解者である経徳も石黒忠悳の個人的な依頼でやむなく許したまでのことである。進んで許したわけではなく、出来れば他の生徒との摩擦をなくするためにも吟子がいないにこしたことはないと考えていた。小学校から男女を画然と分けて教育していた当時としては、大学相当の医学校で男女共学を許すというのはとてつもない冒険であった。すべての人がこの共学に冷たい眼を向けていた。
誰も助けてはくれない……
教場の端で吟子は孤独に耐えていた。孤独の因は吟子が女であるという一点につきる。吟子は今ほど自分が女であることを口惜《くや》しく感じたことはなかった。
女とは食事は板の間で男の後で食べ、歩く時は数歩後から従《つ》いてきて、男には万事敬語を使い「はい」という返事以外はほとんど口をきかず、家事と子供を育てるだけのものと考えられていた時代である。
その時に女人禁制の教場へ女性が現れてきたのである。しかも男しかふれてはならぬとされていた医学の分野に、女一人単身で乗り込んできたのである。女は男の数等下と教えられてきた塾生達が驚き怒るのも無理はなかった。
この頃、吟子の病状は一応おさまり、熱が出るようなことはなかったが、下腹の引きつる感じと尿の近い、いわゆる頻尿感《ひんにょうかん》は相変らず残っていた。
講義はほぼ一刻にわたって続けられるが、この休み毎に吟子は便所へ通った。ところが好寿院の便所は男子用だけで、女子用は一つしかない。それも女人禁制であったために、本来の女子用というわけではなく、男性の大便用であった。
男子の小便所とその大便用とは続いていた。塾生達は下が樋状《といじょう》になった男子用に雀《すずめ》のように何人も並び、呵々《かか》大笑しながら悠々《ゆうゆう》と小用を足している。休み時間は限られているからその時でも吟子は一つだけある大便用に入らなければならない。だがこの時が吟子にとっては一番辛《つら》い時間であった。吟子はできるだけ男達から目をそらし、目立たぬように後ろをすり抜ける。初めの頃は、塾生達も戸惑い、吟子が便所に現れると好奇の眼《まな》差《ざ》しでふり返るだけだったが、慣れるにしたがって悪どい悪戯をし始めた。
好寿院に入って一カ月経った五月の半ば、昼の講義が終ると、吟子は例によって便所へ急いだ。男子用にはすでに十人近い塾生が便所の後ろに立って順番を待ちながら大声で話し合っていた。吟子はその先の大便用に入ろうと彼等の後ろを足早に抜けかけた時、突然、並んで立っていた男の一人が吟子の方を振り向いた。なにかが動いたと思った瞬間、吟子の眼前に異様な一物がつき出された。
「あっ」
声をあげると、吟子は両手で眼をおおい、たちまちその場に蹲《うずくま》った。
「こら見よ、男子じゃ」
ドラ声とともに男達の下卑た笑いが便所を圧した。
「女学生殿は一物に当られたぞ」
そう言うと男はそれをさらに目を閉じている吟子の前で振って見せた。
なまじっか驚いてみせると彼等は一層かさ《・・》にかかって狂態を演じる。何事も吟子は平然と、驚かぬ素振りをしなければならない。そう決心すると、次の日から吟子は男達の間を平然と通り抜け奥の大便用に向うことにした。
だが戸を開けようとした時、その木戸に「荻野吟子殿」と墨の色もなまなましく大書されていた。吟子が戸惑うと男達はさらに喜ぶ。目をつむって入るより仕方がない。だが男達は吟子が小用を足して出てくるまで戸の外で腕を組んで待っている。出てくると一斉に拍手をして口笛を吹く。
なかには御丁寧に木戸に耳をおしつけて中の様子を窺っている者さえいる。非道《ひど》いのになると、吟子が来るのを知って用もないのに先に入って出て来ない奴《やつ》もいる。しかも、吟子が出たあと、すぐとび込み「吟子女史、只《ただ》今《いま》月経中」と板戸に貼《は》り紙《がみ》をする。
誰に文句を言うことも、誰に苦情を訴えるわけにもいかない。自分から好きでとび込んだ道である。ほとほと辛く、家に戻《もど》ると食事もとらず、机に頭をおしつけて泣き明かした。だがその試練はまだ序の口であった。
好寿院の裏はかつて火消屋敷があったところで、道に沿って長い石垣《いしがき》が続いていた。石《いし》塀《べい》の向いは荒れ果てた桑畑でかつて縊死《いし》人《にん》が出たほどで、夜中などは物騒で人の往き来も稀《まれ》であった。本所の下宿から好寿院へ通うのに、その桑畑を斜めに横切ると近道なので、吟子はよくその細い道を通り抜けた。
七月の初め、摘む人もない桑が身の丈を隠すほど繁《しげ》った中を吟子は、家路を急いでいた。時刻は暮六《む》つ半を廻ったところだった。桑畑の中程に大きな欅《けやき》の樹林がある。吟子がその繁みの直前までさしかかった時、突然行手を三人の男に閉ざされた。男達はいずれも髭《ひげ》を生やし肩を怒らした書生風の男である。
吟子は一瞬立ち止ったが、すぐ気付かぬふりをしてさらに前へ進もうとした。その時中央の男が両手を拡《ひろ》げて行手をふさいだ。
「誰です」
精一杯、気を強くして吟子は叫んだが、男達は薄笑いを浮べるだけで一言も言わない。中央の男は八の字髭で右手に仕《し》込杖《こみづえ》を持っている。どこかで見た顔である。夕闇は樹《こ》蔭《かげ》のせいで一層暗い。その薄い光の中で吟子は三人が好寿院の塾生であることを知った。
「何か用ですか」
弱味を見せてはまずいと吟子は正面の男を睨《にら》み据《す》えた。
「何の用だと思うかね」
髭の男は左手を懐《ふとこ》ろに入れたままからかうように吟子に言った。
「男が女に用があると言えば決っているだろう」
右端の大男が薄笑いを浮べながら言った。猫《ねこ》背《ぜ》の、異様に背の高い男で吟子はせいぜいその肩くらいまでしかない。三人は吟子がこの道を通るのを知って待ち伏せていたのである。
「分るだろう、女学生さん」
男達の荒い息が耳元に寄せてくる。
「どうだね」
「何をするんです」
同級生が今や暴漢と化そうとしていた。ここで泣いたら終りである。崩れそうになる気持を引き立てて吟子は必死に睨み返した。
「三人順にな、頼んだぜ」
ふり向くと右手にいた男は後ろに廻って道を閉ざしている。
「誰にも言わないから、いいだろう」
見通せる桑畑の細道に人影はなかった。
「脱げ」
髭の男が大声で叫んだ。眼はすでに興奮で血走っている。こんなところで吟子の肉体を盥廻《たらいまわ》しにしようというのである。
「さあ早う」
男が言った瞬間吟子は身をかがめると右へ行くと見せて左へさけ、正面の男の袖下を一気に潜《くぐ》り抜けた。
「助けてえ……」
吟子は教科書の入った風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みを小《こ》脇《わき》に走り出した。だが女の足では所詮《しょせん》、男にかなうわけはない。五、六間《けん》行ったところで吟子は後ろから襟元を掴《つか》まえられた。
「いやっ……」
悲鳴とともに吟子の首が後ろにのけぞった。
「この野郎」
男達はすでに獣になっていた。ばたばたと折り重なるように三人の男が、吟子の手足を抑えにかかった。
「待って、待って下さい」
突然、吟子の頭に啓示のようにひらめくものがあった。
「なんだ」
男達は吟子の声の厳しさに気圧《けお》されたのか一旦《いったん》手を放した。吟子は素早く乱れた前を合せ襟元を両手でおおった。
「逃げようたって逃がさないぜ」
「待って……」
呼吸を整えながら吟子は改めて三人の男達を見据えた。吟子の中である決心が次第に確かなものとなって膨んでいった。
「おい、なんでえ」
待ちきれぬように男が言った。
「あんたたち本当に私の体が欲しいの」
「当り前じゃねえか」
吟子は今一度呼吸を整えると、
「じゃ、自由にして下さい」
瞬間、男達は「おや」というように吟子を見直した。
「いい、度胸だ」
声とともに左端の男の手がぐいと伸びた。
「ただし……」
男は伸びた手をひっ込めた。
「私は膿淋《のうりん》病《や》みよ」
「何と言ったのだ」
中央の男が思い直したように尋ねた。
「私は夫に膿淋をうつされて離縁した女よ。その病気を治したくて医者になろうと思ったのよ」
「…………」
「まだ膿《うみ》がでる、こんな体で良ければあげるわ」
暮れなずんだ夜空に吐き捨てるように言うと吟子は目を閉じた。急速に塗り込めていく暗さの中で吟子の小さく白い顔が置物のように浮き上って見えた。
目を閉じながら吟子は何も考えていなかった。もはや逃げだす気も抗《さか》らう気もなかった。三人の男は白けた表情で互いの顔を見合せた。
「本当か」
やがて中央の主領格らしい男がきいた。
「間違いないな」
二度目に吟子はしっかりうなずいた。
男は周りの二人に軽く目配せした。
「今日は許してやる」
低くおし包むような声で男が言った。吟子はゆっくりと眼を開いた。男達は見知らぬ女を見るように吟子を見ていた。夜が周りから寄せ、桑の香りが満ちていた。
「お前は女郎と同じだ」
突然、中央の男はそう言うと唾《つば》を吐き捨て、くるりと向きを変えた。二人の男も同じ仕《し》種《ぐさ》で背を向けた。三人の姿が揺れながら桑畑の道を歩き始めた。
吟子は急に萎《な》えたようにその場に坐りこんだ。桑畑に入りがけ、西の端で白くおぼろだった月は黄色味を増し、欅の先まで達していた。信じられぬほどの静けさの中で、吟子は憎しみも怒りもなかった。そのくせぼろぼろと涙を流していた。女であることだけが今の吟子には無性に悲しく情けなかった。
このことを吟子は警察はもちろん、塾長にも言わなかった。言ったところで男生徒の中へ女子が入り込むのは初めから危険と思われていたことだし、夕暮時にそんなところを歩いた吟子自身にも落度がなかったとはいいきれない。女子は家にいるべきものであり、外の世界は万事が男に好都合に出来ていた。下《へ》手《た》に騒いで刑事事件にでもなれば下《げ》手人《しゅにん》とともに吟子自身の災難も表に出て、人々の噂《うわさ》の種になる。それだけではない。こんな不祥事が明るみに出れば折角許された女子の勉学の機会も閉ざされてしまうに違いない。
この吟子の危惧《きぐ》は当っていた。
明治二十年頃からは吟子のような手数を踏まなくても、各私立医学校では女子の聴講を許し始めたが、その頃でさえ入学者はせいぜい一、二名に過ぎなかった。医学校とはいっても殺伐な維新の名残りが尾をひき、明治版暴力教室といった雰《ふん》囲気《いき》があった。大方の女子は怖《おそ》れ戦《おのの》き、神経衰弱になったりして中途退学し、相当意志の強い者か、図太い神経の持主でないかぎり、女性で長続きすることは出来なかった。
こうして明治二十八年には当時、最も多く女性聴講生のいた済生学舎でさえ、相次ぐ風紀問題から終《しま》いには刑事問題にまで発展し、遂《つい》には女子学生全員に退学を強要する、といった結果まで招いたのである。
こうした女子医学生の苦しみは明治三十三年に吉岡《よしおか》弥生《やよい》が女性専門の東京女医学校を創設するまで続いたわけだが、その二十年前に、ただ一人で荒くれ男の中にとび込んだ吟子の苦しみが並大抵のものではなかったことがわかる。
二日間休んだあと吟子はようやく気を取り直して再び教場に出た。夜目と恐怖で男の顔はしかとは憶《おぼ》えていないが、いつも教場の右端に屯《たむろ》して休み時間になると新政府を非難罵《ば》倒《とう》する演説を始める壮士くずれの男達の一味とだけは見当がついた。
吟子が出かけていくと気の故《せい》か彼等は端から吟子の様子をうかがっているようである。机に坐る時に盗み見たが三人のうちでただ一人顔に憶えのある八の字髭の男はいないようであった。年々二、三割からの脱落者を出す医学校だけに、彼等の一部はすでに退学覚悟で吟子を襲ったのかもしれなかった。
吟子はことさらに平静を装っていた。その時のことを思うと屈辱で全身が火のように熱くなる。口惜しくやりきれない。だが吟子はそれを強引にねじ伏せていた。吟子が黙しているかぎり彼等が吹聴《ふいちょう》するとは思えなかった。それにしても吟子さえ毅《き》然《ぜん》としていたら他の者は自然に信じなくなるに違いない。
無視することだ。
吟子はあれは理由もなく襲った旋風《つむじかぜ》のようなものだと考えた。たしかにそれは吟子の精神と関《かか》わりのないことであった。貫一郎が病気を与えていったのもそうであった。一人の男が汚し傷《いた》めつけた体を別の男達が奪いにくる。自分では汚れて考えるのさえ忌《いま》わしい体に男達が寄ってくる。今の吟子には男が獣としか思えなかった。獣のすることをいちいち考えてやることはないのだ。隠し続けてきた傷を発《あば》かれたことに口惜しさはあったが羞《は》じらいはなかった。吐き捨てたくなるほどの男への嫌《けん》悪《お》だけが砂を噛《か》んだように吟子の心に残った。
あの時……
続き絵を見るように吟子の脳裏にゆっくりと順天堂医院での一時が甦《よみがえ》った。それは今迄《いままで》のどの光景よりも鮮やかで羞恥《しゅうち》に満ちていた。この光景の前では吟子には今迄のすべての事件がガラス玉のように軽く、色《いろ》褪《あ》せて平凡なものにしか思えなかった。
十日後、吟子は麹町《こうじまち》の頼圀《よりくに》の家を訪れた。暗い思いに閉ざされる時、頼圀の丸い柔和な顔が甦ってくる。頼圀だけは吟子を見捨てない。それどころか吟子の言いなりになる。今でも吟子から「結婚して欲しい」と言いだせばすぐ受けてくれるに違いなかった。
頼圀がどう思っていようと吟子には頼圀と結婚する気など毛ほどもない。師として、優しい父か兄のような気持しか持っていない。そのくせ、まさかの時に頼圀のところへ飛び込めばいいのだという甘えがある。そうする気はないがいざとなれば出来るということが吟子の心を和《なご》ませていた。頼圀は吟子にとって嵐《あらし》の時に避ける港であった。
勝手知った麹町三番町の坂を昇り、すぐの角を右へ曲ると、左手に頼圀の家の柴垣《しばがき》がみえる。近々に刈り込んだのか、垣の頭は角ばって綺《き》麗《れい》に揃《そろ》っている。
先生にはお珍しい。
吟子は庭木などにおよそ無頓着《むとんちゃく》な頼圀を思って可笑《おか》しくなった。庭石伝いに吟子は踊るように入っていく。港に戻る船の足どりである。
「ごめんください」
格《こう》子戸《しど》を開けひょいと首を出す。頼圀が出てきたらあっと驚き、たちまちその満月のような顔が喜びに崩れるだろう。
「誰方《どなた》か……」
言いかけて吟子は戸口で足を止めた。三和《たた》土《き》にいつもある頼圀の幅広い薩《さつ》摩下駄《まげた》の替りに、派手な赤緒の小町形が置かれている。
吟子は息をつめ、辺りを見廻した。下駄箱の上に夏水仙《なつずいせん》が活けられ、その横の傘《かさ》立《た》てに女物と一目で分る細目の蛇《じゃ》の目《め》が立てかけてある。
「はい、はい」
吟子が思いを巡らす間もなく奥から人の跫《あし》音《おと》がした。
「まあ、荻野さん、お久しゅう」
老《ろう》婆《ば》と知って吟子は引きかけた体を戻した。
「さあ、どうぞ、先生は今ちょっと宮内省までお出かけですがね、もうじきお戻りになります」
「いせさん」吟子は老婆の名を呼んだ。
「どなたか、お客さまでも」
「いえ、いえ」
吟子は小町形の下駄に目を落した。
「ああ、荻野さんは御存知ありませんでしたか、先生は後添えをお貰《もら》いになったのですよ」
「結婚したのですか」
「三カ月前に、十五も年下のお人形のようなお方です」
「…………」
「ちょうどいい、奥様だけにでも御《ご》挨拶《あいさつ》なさって下さい。今お呼びします」
「待って」吟子は戻りかけたいせを呼びとめた。
「いいのです」
「だって折角いらしたのに……」
「また出直して来ます」
「ちょっとお待ち……」
「結構よ」
戸惑っている老婆を尻《しり》目《め》に吟子は荒々しく戸を締めると逃げるように門を出た。
その足で吟子は真《ま》っ直《す》ぐ竹町の荻《おぎ》江《え》の家に行った。
「どうしたの、こんな昼間から」
それには答えもせず、吟子はただ国学者井上頼圀がいかに愚劣な俗人であるかということを、際限もなく喋《しゃべ》り続けた。
好寿院には最も大きな教場で五十人入るのが精一杯であったが、学生だけは百人近くいた。彼等は時々休んだり、二部に分れて講義を受けていたが、実地演習は数少なく貴重な機会なので、全員が一度に集まって行われた。
この実地演習では初め学生が当てられた患者について自分の検《しら》べた症状の概略を申し述べるきまりになっていた。
九月の末に吟子はこの当番に当った。吟子が受け持った患者は以前幕府代官の手《て》代《だい》をしていたという五十二歳の小《こ》柄《がら》な男であった。今は息子が小石川で小間物屋をやっているというが、右の上膊部《じょうはくぶ》に柘《ざく》榴《ろ》のように大きく開いた傷口があり、そこから毎日上にかぶせた三枚の綿布の上まで濡《ぬ》れるほどの膿汁《のうじゅう》が出る。その個所で骨も折れて腐ったままらしく、首から吊《つ》った包帯を外すと、腕の先がぐらぐらと揺れるという状態であった。
もう十五年にもなるというが、腕の表と裏と同じ高さに傷《きず》があるところを見ると、銃弾が貫通したものであることは歴然としていた。長州征伐の折りにでも受けた創《きず》かと思われたが、「屋根から落ちた」の一点張りで、一向に泥《どろ》を吐かない。今更幕軍であったことが分っても、特別咎《とが》めだてがあるわけでもないのに、頑《がん》としてきかない。一時小康を得て膿汁は減っていたのが最近また増えだしたという。今で言えば骨折のあとの骨髄炎《こつずいえん》といったところである。
吟子はその男のことは、あらかじめ助教の診察の時に見て知っていたので、演習の数日前から上膊のストロマイエルの解剖書とセルシウスの外科書を読み、一応の自信を得て前日の午後、その男の病室に行った。
「医学生の荻野吟子です。明日、学生実習に出ていただきますので、あらかじめ診させていただきます」
吟子は出来るだけ丁重に申し出たが、男は壁の方を向いたまま一言も言わない。
「今日中に診ておかねば明日の実習に間に合いません。お願い致します」
二度言った時、男が吐き捨てるように言った。
「女に用はない」
大部屋の患者たちもベッドの上や床の中から、うさんくさそうに吟子を睨《にら》みつけている。
「女と言われてもきちんと学問をしているつもりです。そんなことをおっしゃらずに診させて下さい」
改めて吟子は頭を下げたが男は一向にうなずく気配もない。こうなっては仕方がない、吟子は奥の手を出す。
「私が診るのは高階《たかしな》先生の御命令で診るのです。貴方《あなた》を診て調べてこいと先生が仰言《おっしゃ》ったのです」
吟子の声はよく透《とお》る涼しい声である。男は髷《まげ》のままの頭を振り返り、大きく舌打ちをすると、
「院長先生であろうが、何様であろうが、見せられぬものは見せられぬ」
「しかし貴方はこの病院に入院している患者さんなのですよ」
「こう見えても俺《おれ》は士族だ。女医者などに見られたとあっては先祖に顔が立たぬ。それでもたってと言うなら腹かき切るまでだ。診たければそれから見ればよい」
男は今にも床の下あたりに隠しているらしい短刀をとり出して、腹切らんばかりの意気込みである。吟子は溜息《ためいき》をついた。これでは処置なしである。一《いっ》層《そ》のこと院長へじきじき診察の困難を訴えようかとも思ったが、それではみずから女医の不適格なことを知らせるようなものである。そんなことがきっかけになって聴講禁止などの処分を受けては元も子もなくなる。興奮している時、強引におしても駄目だと考えて吟子はひとまず病室を出た。
部屋を出たがこれといった名案もない。どうしたものかと窓から外を見るうち吟子はふと男へ手土産を持っていくことを考えた。好寿院を出て東へ半丁下った所に菓子屋がある。そこで吟子は田舎饅頭《いなかまんじゅう》を買い求めると再び男の病室へ取って返した。
「もう一度お願いにあがりました。いろいろ御不満もあるでしょうが、私も一生懸命診察させていただきます。ですからどうか気を直して診察させて下さい」
吟子は丁重に頭を下げると、まだ温かい饅頭の包みを男に差し出した。これでは医者と患者の立場はまるで逆である。いかに未熟な学生と言ってもひどすぎる。だが吟子は恥も体裁もなかった。あの時の屈辱を思えば軽いことだ。頭を下げながら吟子は自分に言いきかせた。
「お願い致します。この通りです」
吟子が再び頭を垂れた時、男が叫んだ。
「いい加減にしやがれ、この阿女《あま》」
途端に吟子の足下に今買ってきたばかりの饅頭が叩《たた》きつけられた。
「見せぬといったら見せぬ。さっさと帰れ」
男の顔は怒りに蒼《あお》ざめていた。だが吟子の顔はそれ以上に蒼かった。床の上にあん《・・》がとびでた饅頭を横目に、口惜《くや》しさを辛《かろ》うじてこらえて吟子は部屋を出た。
夕方最後の講義が終ってから吟子は三度病室へ出向いた。男は自由の利《き》く方の手で配られた夕飯を食べかけていた。
「また参りました」
食事時であろうが、何であろうが、かまってはいられない。
学生実習は明日の午前である。朝来て準備をする猶《ゆう》予《よ》はない。吟子を見ると男はものも言わず背を向けた。
「お願いは同じです。どうか診させて下さい」
「…………」
「これは私一人のためにするのではありません、新しい医学の進歩のためでもあるのです。女といわず、どうか勉強させて下さい」
同室の者達もほとほと呆《あき》れたといった表情でことの成行きを見守っている。
「私もかつて大きな病をして順天堂医院に入院したことがあるのです。そこで患者の苦しみを知って医者になろうと決心したのです。決して私利私欲を求めてのことではありません。女は女なりに医者として働く分野がきっとあるはずです」
吟子はベッドに両手をつき布《ふ》団《とん》に頭をつけるばかりに伏した。
「診察するのは男でも女でも、医学の名で行う以上変りはありません。どうかお願い致します」
これで「うん」と言わなければ吟子はこのまま一晩でも患者の横に居坐るつもりだった。吟子は頭を下げ続けていた。男は背を向けたまま黙々と食べていた。他の者も何も言わない。長い時間が経《た》ったように思った。吟子の伏した視線の端で男の上体が動くのが見えた。
「お見せしよう」
ベッドの上に胡坐《あぐら》のまま男はまっすぐ吟子を見詰めていた。
「本当ですか……」
男はゆっくりとうなずいた。
「そなたの熱意には負けた」
「有難《ありがと》うございます」
「ただし……」男は胡坐をかき、眼《め》を天井に向けたまま言った。
「見せはするが創《きず》を女子のそなたには触れさせはせぬ、指図も受けぬ、それでよいな」
見るだけでは傷の深さや周囲の熱っぽさはもちろん、関節の動きも知ることができない。だがそこまでが武士であった男の最大の譲歩かもしれなかった。
「仕方ありませぬ」
男はにこりともせず、副《そえ》木《ぎ》とともに巻きこまれた包帯を自分で少しずつ解き始めた。
女であるための、さまざまな苦汁《くじゅう》を味わいながら、いつか、吟子は好寿院での生活に慣れ親しんできていた。
束髪に小倉の袴《はかま》、日和《ひより》下駄《げた》という姿で、男達にもまれているうちに、たださえ勝気な気性は一層男勝りになっていった。時々、こんなことでいいのかと自分のなかから女らしさが失われていくのに不安を覚える。
だが人と同じような生活や心を求めていては、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。私の求めているものは普通の女性が求めているのとは天と地ほどの違いがある。これでいいのだ。
そう言いきかせながらも、時に隙《すき》間《ま》風《かぜ》のように入り込んでくる淋《さび》しさはどうにも埋めようがなかった。
苦しみながら、ともかく一年が経《た》った。二年目から好寿院では内科、外科学といった臨床医学とともに人体解剖学が講ぜられた。だが解剖学といってもその大半は絵図による講義で、実際に人体そのものを解剖するということはなかった。
しかもこの解剖絵図も、ウエーベルやキュンストレーキといった名の通った絵図は、江戸医学所と長崎精得館に一冊ずつあるだけで、好寿院には青木俊郎という模写の天才が巧みに写したのが一冊、あるきりだった。
吟子は解剖絵図の赤・青・黄に彩色された皮膚の一枚下の内臓絵巻を見ながら人体の中を想像した。
「この鳩尾《みずおち》の辺りには胃が釣針《つりばり》状に垂れ下り、その先は軽く上向きに指十二本幅の十二指腸に続く。そこからは六メートルから十メートルもある小腸が幾重にもうねり、続いて太く大きな括《くび》れのある大腸が上行、横行、下行と走り、その先は直腸に達し肛門《こうもん》に開く」
絵図を見るだけなら無気味とも、面白《おもしろ》いとも思えるが、医学生である以上、それを逐一、憶《おぼ》えなければならない。吟子は深夜、ひそかに裸体のまま自分の体を鏡に映し、臓器の位置関係を確かめた。
「気管《トラヘア》から左右に分れて肋骨《リッペ》におおわれる部分に両の肺臓《ルンゲ》、左の肺の下に隠されるように拳《こぶし》大の心臓《ヘルツ》、右は傘形に肝臓《レバア》、横隔膜《フレニクス》を境いに腹部となり左に脾臓《ミルツ》、胃袋《マーゲン》の下部に膵臓《パンクレアス》、小腸《ダルム》がうねる後方に左右に卵大の腎臓《ニイレ》、そして女子は下腹部の中央に三味線のバチ型に子《ウテ》宮《ルス》、子宮から左右へ、吊りあげるように卵管《ツーヘン》が張りその先に卵巣《オバリウム》がある。子宮の前方は膀《ブラ》胱《ーゼ》、そこから尿道《ウレイテル》を経て外陰部へ」
その各々の位置と大きさを筆墨で自分の体に記していく。ほどなく洋灯《ランプ》の光の下で吟子の白く輝く裸像は墨だらけになる。知らぬ人が見たら狂気としか思えない。
「胃袋《マーゲン》、肝臓《レバア》、腎臓《ニイレ》」
口で唱えながら鏡の中の場所と大きさを確かめるうちに、昼間見た絵図が裸像の上に重なり、皮膚が剥《む》け、自分の内臓を覗《のぞ》いているような気持になる。
「子宮《ウテルス》、膀胱《ブラーゼ》、尿道《ウレイテル》」
そこまできて吟子の声は止る。
「その内側の粘膜は……」
吟子は息を潜めて黒く塗り込められた下腹をそっと見る。
「卵管《ツーベン》、そこは爛《ただ》れ、膿《うみ》が貯《たま》って塞《ふさ》いでしまって卵巣からの卵子が通れない。それで一生子供は産めない」
吟子の脳裏にたちまち、赤く爛れ、異様に波打ち、青い膿汁に塞がった粘膜の内側が映し出される。
「菌が蠢《うごめ》いている」
思わず吟子は右手に持った筆を振りあげると自分の下腹の一帯を黒々と塗り込めた。
「汚ない、汚ない、汚ない」
狂気のように首を左右へ振りながら、吟子は塗り潰《つぶ》す。墨で消し、出来ることなら皮を剥《は》ぎ、菌に汚れたすべての臓器を手《て》掴《づか》みに取り出したい。滴《したた》る血をふり切って投げ棄《す》てたい。
「嫌《いや》だ、嫌だ、嫌だ」
藻掻《もが》き、叫びながら、やがて力尽きたように吟子は鏡の前に坐り込む。ゆっくりと狂気が醒《さ》め落着きが甦《よみがえ》る。鏡の中に十六歳からの三年間男に触れた女体が黒い縞《しま》模《も》様《よう》となって映っていた。
絵図を想像するとき訪れる狂気とは別に、吟子は人体の実際の解剖を見たかった。だがそれは当時の官学の最たる大学東校でさえ年に一例あるかなしかで、その時は名のある医師達が大勢おしかけるといった有様だったから、私塾《しじゅく》の好寿院の学生風《ふ》情《ぜい》では容易に見ることは出来なかった。
「東京だけで毎日百人以上の人が死んでいくというのに、その一体の解剖さえ出来ないのですからね」
吟子は荻江を最近出来た上野広小《ひろこう》路《じ》のミルクホールに誘い出して、見られない焦《いら》立《だ》たしさを訴えた。西洋の香りのするミルクも好きだが、白い壁のハイカラな感じがとくに気に入っていた。
「江戸時代から人間は犬猫《いぬねこ》なみに粗末に扱われてきたのに、屍《し》体《たい》だけは妙に大事にされるのですからまったく妙な話ですよ」
「でもどんな悪人だって死んだら仏さまになるからでしょう」
「その考えが可笑《おか》しいのです。そんなに大切なものなら生きているうちに大切にしてあげればいいでしょう。それをしないで死んだらやれ仏様とか、神様とか、片手落ちもいいところです」
「そうは言っても自分が死んだあと、体がばらばらにされる、などと考えるのはどうしても気が進まないわ」
荻江は吟子の考えに必ずしも賛成できない。
「いいえ、首や手足をばらばらにするなどと言っているのではありません。胸の中やお腹《なか》の中を見せていただくだけでいいのです。見たあとは臓物だけ取り出してまたきちんと縫い直すのですから、外見などはちっとも変りません」
「じゃ、なかは空っぽね」
「そう、剥製《はくせい》と同じ理屈よ」
「人間の剥製なんて、やっぱり嫌だわ」
「でも、その方が屍体は長《なが》保《も》ちするのよ。それに二、三日も経てば結局焼いてお骨にして、我々が持ち帰るのはその骨片《かけら》だけよ。解剖されたからといって、そこは同じことでしょう」
たしかにその通りかもしれないが、荻江はそんな殺風景な考えに従《つ》いていけない。そしてそんなことを平気で言う吟子が別人のように思われる。
「屍体に指一本触れるのでさえお上《かみ》の許しが必要なのですよ。まして肉を切り刻む解剖なぞ出来るわけはないわ」
吟子はミルクカップを小指を撥《は》ね上げた気取った恰好《かっこう》で持ったまま気《き》焔《えん》を上げる。
「でもお医者様の解剖は禁じられてはいないのでしょう」
「そう、一応許されてはいるんです。けれどどんな無名の人の屍体でも家族と警察の許可がないかぎり出来ないのです」
「それは当然だと思うわ」
「だから駄目《だめ》なのよ。だって解剖していいなどと申し出る家族がいると思う?」
「さあ……いないでしょうね」
「そうでしょう、だから絶望的なのよ」
「諦《あきら》めることね」
そんなことは絶望的な方がいいと、医学に関係のない荻江は、吟子の人を人とも思わぬ冷酷な観《み》方《かた》にいささか反撥《はんぱつ》したくなる。だが吟子は飲み干したカップを端に除《の》け、
「冗談じゃないわ、漢方医学が西洋医学に敗れた最大の原因は、この人体解剖を認めるか認めないかにあったのよ。五《ご》臓六《ぞうろっ》腑《ぷ》などと古臭いことを本の上で憶えたって意味がないのよ、やはりきちんと切り開いて中を見ること、百聞は一見に如《し》かず、ここから西洋医学は科学として出発できたのよ」
吟子は熱した時のくせで手をふりかざし、最後にどしんとテーブルを叩いた。束髪に袴、一見して女学生と分る二人の議論に熱中する姿も、ミルクホールではさして奇妙にうつらない。だがその中身が解剖のことだとは誰《だれ》にも想像できない。
「でも死んだ人の中には引取人のない人もいるでしょう」
「そう、そこなのよ、私もそんな屍体がいいと思ったの。ところがこれが駄目、引取人がないということは家族の承諾が無いから駄目ということよ」
「成程、そういう理屈ね」
「お役人というのは本当に石頭よ」
「そうかしらねえ……」
石頭だと言うが、その辺りで野《の》垂《たれ》死《じ》にした時、引取人が見付からぬと言って解剖されたのではいささか侘《わび》しい。結婚をせず子供のない荻江は将来、自分がそんな身にならぬとも限らない。もっともそれは吟子だって同じことだが、この人なら死んだあとはどうなっても知ったことじゃないわ、と平然としていられるかもしれない。とにかく荻江は吟子との間に「死」のことについては随分と考え方に開きがあるように思う。
「だから頼みの綱は本人の生前の遺言《ゆいごん》だけというわけよ」
「解剖してくれと遺言するの?」
「そう、医学の進歩のために」
「そんな人がいる?」
分るような気がするが、何となく怖《おぞ》気《け》がふるう。
「いたのよ、でも一人」
「元は武士?」
「ううん、元お侍ってのは駄目よ、面子《メンツ》とか名前とか、理屈ばかり」
「じゃ何者」
「お女郎よ」
「女?」
「そう、小石川の療養所に入っていて肺病で死んだんだけど、死ぬ三日前に、生きている間、なんにも世の中のお役に立つこともしなかったから解剖して下さい、と言ったそうよ」
「可哀《かわい》相《そう》に」
荻江は何か身につまされた。
「こんな人はまったく例外よ」
「そうでしょうね」
荻江にもそんな勇気はまったくない。
「この調子では好寿院にいる間に、一度も見られないかも知れないわ」
「大学東校などで時たまあるというのは、どういうこと」
「あ、それは刑死者なの」
「死刑になった人?」
「そう、そのなかで身《み》許《もと》引受人のない人。その屍体を払い下げて貰《もら》うわけよ」
「払い下げる……」
言葉の一つ一つまで吟子の言うことは、いかにも即物的だ。好寿院に入るまではこうではなかった。医学を学ぶと一年でこうも変るものか、それとも以前から人を人とも思わぬ素質があったのか、荻江はただ吟子の変りようが怖《おそ》ろしく珍しい。
「本当はね、私、内緒でいま考えていることがあるのよ」
「なあに」
「絶対に他言しない?」
「しないわ」
吟子は少しおでこの額を荻江のにぶつかるばかりに近づけて言った。
「人骨が欲しいのよ」
吟子は辺りを素早く見廻してから、
「小《こ》塚原《づかっぱら》に行って盗《と》ってくるの」
「小塚原?」
「しいっ、声が大きい」
口に指を当てるが目は笑いながら、
「あの辺りは人の骨が土から露出しているそうよ。人骨は一般の人には醜怪でも私達にとっては金銀に勝る宝ですからね、あのまま放っとくのは勿体《もったい》ないわ」
荻江はものも言えず、ただ吟子の顔を見ていた。
「回《え》向院《こういん》に地下の人骨を分けて下さいとまともにかけ合ってみたけど、簡単に拒《ことわ》られたわ。それで今度はね……」
「本気……」
荻江は嗄《しわが》れ声でようやく、それだけ言う。
「本気よ、可笑《おか》しい」
千住《せんじゅ》小塚原は南の鈴ケ森と並んで、江戸時代から罪人の処刑場として世人に恐れられたところである。明治に入ってからは斬首刑《ざんしゅけい》は廃止され、ここで直接罪人を処刑することもなくなったが、地下には江戸以来処刑された者の骨が埋もれていた。
高い板塀《いたべい》を中に入ると正面に江戸時代の刑死者を回向するために建てられた首切地蔵があり、右手に回向院がある。住職がいて日々供《く》養《よう》しているが、辺りは草茫々《ぼうぼう》の荒地で、夜はもちろん、昼さえ近づく人はほとんどない。
荻江には冗談まじりに言ったが吟子は本気だった。荻江に話した一カ月後の十月の末、吟子は好寿院の同僚四人を仲間に誘って計画を練った。同僚と言ってももちろん四人とも男である。いずれも講義の時は吟子と同じく朝早く来て、最前列に席を占める勉強熱心な男達ばかりを選んだ。男達は初めは吟子の着想に驚き考え込んだが、やがて一人、二人と賛同してきた。
あまり多くなってはまとまらずかえってまずい。吟子は四人で締め切ると、講義のあと好寿院裏の草地で骨盗りの策を謀《はか》った。
「万一見付かったらどうなるかのう」
川越《かわごえ》の生れだという大柄《おおがら》な男が不安そうに尋ねた。
「まず住職を手なずけることよ。そうしておけば万一のことがあっても見逃してくれるでしょう」
吟子は男達を見廻しながら言った。
「明日昼のうちに一度お参りにいって、その折り、いくらかのお金を渡しておくのです」
「だが、小塚原などに縁もゆかりもない我々が行っては不審に思われないかな」
「そんなことは何とでも理由がつくでしょう。例えば、ここには先年我々のために解剖に付せられた人が埋められているから回向に参りました、とでも言って普通以上の回向料を差しあげればいいじゃありませんか」
「成程」
男達は一様にうなずいた。吟子が発起人だけに、万事吟子ペースで運ばれる。
「昼のうちに内をよく見ておくことよ」
「で、手《て》筈《はず》は?」
「出発は明日午後八時、竜泉寺《りゅうせんじ》のお酉《とり》さまの前に集まりましょう。骨を運ぶのは網袋の天《てん》秤担《びんかつ》ぎがいいでしょう。でもここまで持ち帰るのは大変だから今《いま》戸《ど》から猪《ちょ》牙《き》船《ぶね》を雇って下谷の和泉《いずみ》橋《ばし》へ乗りつけるのです」
吟子は持ってきた地図を拡《ひろ》げて道を示す。男達は少し蒼《あお》ざめた表情で吟子と地図を交互に見つめた。
「刑場の内に忍び込んだら一人は表門で見張って下さい。私は回向院の方を見張ります。あとの三人は一斉《いっせい》に掘り出すのです。誰かが来たらすぐ合図をします。どちらへ逃げても集まる場所は今戸の渡しですよ」
男達は互いに顔を見合せ、黙ってうなずく。これではまるで盗賊団の女団長である。
「もし見付かって捕まったらどうなろうか」
四人の中の一番大きな男が不安そうに尋ねた。若いと言っても生真面目《きまじめ》な男達だけに、こんなことには慣れていない。もっともそれは吟子とて同じだった。
「ただでは済まんな」
人骨泥棒がどんな罰を受けるのか、実際、そんな罰があるのかないのか、見当もつかない。まあ罰はともかく退学にでもなっては元も子もない。
「危ないな」
「捕まったら捕まったまでよ」
男達の気を奮い立たせるように吟子が言った。
「捕まったら正直に言うのよ、我々は医学生で勉強したいばかりにやったのだと。多少は叱《しか》られるでしょうが、まさか殺されるようなこともありますまい」
「そんな無茶な」大柄な男が慌《あわ》てて声をあげた。
「とにかく捕まるとしたら女の私が一番最初ですから、皆さんは安心していいわ」
それを聞き男達はようやく安《あん》堵《ど》したように息をつき、軽く笑った。
翌日、五人は揃《そろ》って回向院へ出かけた。
見るからに堅物《かたぶつ》そうな橋本という男を代表に住職に来た旨《むね》を告げると、住職は訝《いぶか》る気配もなく回向院裏の大石碑の前へ連れていった。
「引取人のない小者の骨はこの下に集めて埋めてあります」
刑死者といえどもピンからキリまである。殺された時は罪人でも時代の移り変りで評価の変った人もある。吉《よし》田《だ》寅《とら》次《じ》郎《ろう》、頼《らい》三樹《みき》三郎《さぶろう》、梅田源次郎といった人達もここで死んだ。大石碑の下に埋められているのは、これら憂国の志士などとはほど遠い強殺、放火、婦女暴行といった凶悪犯ばかりだが人骨としての価値は変らない。
思わぬ回向料に気をよくしたのか、住職は石碑の前で長々と経を読む。後ろに立って頭を垂れながら五人はぬかりなく辺りを見廻した。石碑は径三メートルはあろうという大石に「無《む》名塚《めいづか》」と刻まれているに過ぎない。石の周りは黒土に雑草が茂るにまかせ、雨で地盤でも緩んだのか、ところどころ落ち窪《くぼ》んでいる。掘り起せばすぐにも人骨が出てきそうな気配である。
一旦《いったん》自宅へ引き揚げてから八時に五人は再び鷲神社《おおとりじんじゃ》の前へ集まった。天秤の他《ほか》に鍬《くわ》、熊《くま》手《で》などをもって今戸へ向う。ちょっと見た目には農夫に見えるが五人の気持は討入り前の義士の心境である。ここまで来た以上、今更戻《もど》れない。五人は声もなく黙々と歩く。集まった頃《ころ》は厚い雲が空を覆《おお》っていたが、今戸に着いた頃は冷やかな秋風がでて、雲が流れ始め、小塚原に着いた頃は月の光が原っぱ一面を青白く照らし出していた。
五人は身を低くして生い茂る秋草の間を進んでいく。刑場の裏手は低い板囲いがあるが、それも大方は壊れ果て、その間から卒塔婆《そとば》が白い枯木のように立ち並び、その先に回向院の光が一つだけ、ぽつんと見える。柵《さく》が壊れていても今は死骨だけのここに忍び入る者などあるわけもない。野《の》分《わき》のような風が過ぎ、足下の葉がかすかな音を立てる。虫がしきりにすだき、遠く犬の呼び合う声が聞える。
五人は顔を見合せ、更にまた進む。誰もの顔が蒼く硬《こわ》ばっている。最初の男が柵を越え、吟子が続いて、更に三人の男が続く。そこからは刑場の敷地だが野原と同じ荒れ様である。
五人は更に進む。欅《けやき》の木は昼間見付けておいた目印で、その先を右に曲れば大石碑がある。低い木の間隠れに回向院の灯《ひ》が揺れている。五人は縦に一列に並んで細い道を進んだ。周囲は大小さまざまの卒塔婆が月の光に白々と浮き出ている。まさにこの世の果ての情景である。
先の男が欅の先まできた瞬間である。突然、呻《うめ》き声とともに「うわわん」という音が辺りを圧した。
「うわっ」
先頭の男は魂《たま》消《げ》た声を発すると、その場に尻《しり》もちをついた。
「犬だっ」
今までの静寂が嘘《うそ》のように辺りは急に犬の声で満ちた。それはまるで近づいてくる敵兵を待ち構えて射程距離に入ったところで一斉に火を吐いた銃に似ている。声は前後左右から烽火《のろし》をあげるように呼応した。
「逃げろっ」
言うまでもなく全員一目散に逃げる。どこをどう走ったのか吟子には分らない。ただ月の光の中で背丈の半ばほどもある巨大な犬が、疾風のように駈《か》けていく姿を影絵でもみるように見た記憶がある。
小塚原南の溜池《ためいけ》にたどりついた時、五人は口をきく気力もなかった。先頭と三番目にいた男は袴《はかま》を食い千切られ、四番目の男は股《また》の裏を噛みつかれていた。どうやら無傷だったのは吟子と越《えち》後《ご》の男だけである。それも股から下は夜露と土で汚れきっていた。
全員ほうほうの態《てい》で逃げ帰ったが、吟子の意気はなお旺《さか》んだった。もうあんな無気味で怖いことはこりごりだという男達も、女の吟子がまだやる気でいる以上、尻込みするわけにもいかない。
「魚肉をもっていってあの犬達を手なずけるのよ。あの調子では犬さえ吠《ほ》えなければ内には簡単に入れるし、回向院から人が出てくる気配もないわ」
折角目前にした人骨を、と吟子はなんとしても口惜《くや》しい。結局男達は吟子の熱意に引きずられて再度、骨盗りに挑《いど》むことになった。今度は見張り、発掘係の他に犬を手なずける係を新たに設け、その男は壺《つぼ》に犬の餌《えさ》を入れて乗り込んだ。
雨もよいの雲の低い夜であったが、今度は犬をうまく手なずけることに成功した。その間に必死に掘り起す。鍬を土へおし込む度に、ガリッという手《て》応《ごた》えがあり、その度に丸い頭《ず》蓋骨《がいこつ》や、細長い手足の骨が夜目にも白く現れた。こうして両の網袋に一杯の人骨を採取し、義士の討入り成功よろしく、今戸から和泉橋へ乗り付け、各自、家へ引きとったのはすでに空が白み始めた午前四時であった。
翌日、骨についた泥《どろ》を洗い落してみると折角の骨が腐蝕《ふしょく》して満足なものはあまりなかった。だがさすがに本物である。吟子は机の上で骨片を組み合せ、骨の内と外を丹念に見比べ、スケッチしながら人骨の形や堅さを初めて具体的に知った。
「医学をやるには医学だけ勉強すれば良いというわけにはいかないわ」
吟子はこの時のことを、少し自慢を含めて後年、そんなふうに言った。
人骨を得て吟子の向学心はますます旺んだったが、それとは別に、早急に対策を考えねばならない問題が一つあった。
それはいうまでもなく、金の問題である。好寿院は女子師範と違って格段に金がかかった。月々の授業料だけで女子師範の半年分もかかる。おまけに女子だから寄宿舎にも入れず、私学校だから授業料免除ということもない。さらに医学書は滅法高い。
当時、医学関係の書籍として最も声価の高かったのは、ハンデンブルグの理学書、ワグネルの化学書、ボックの解剖学及解剖図、コステルの生理学、ウーレ、ワグネル合著の病理学、ウンテルリヒの内科学、ストロマイエルの外科学、といったところで、多くは独逸《ドイツ》の原書を和蘭《オランダ》訳にしたものであった。その他ポムホクの英仏独蘭《らん》四国辞書や、カラーメルの術語辞書などはことのほか珍重された。
かつて佐藤尚中《さとうしょうちゅう》がいた下総《しもうさ》佐《さ》倉《くら》順天堂に、木村軍太郎という西洋学者がいたが、彼はたまたまこのカラーメルの術語辞書を持っていた。木村はなかなかの勉強家であったが安政の地震で家が潰《つぶ》れてしまった。他に金目の物のない彼はやむなくこの辞書を手放したが、その金でたちまち新しい家が建ったと言われているほど、辞書と医学書は高価なものであった。
そんなものを買う金は吟子にはもちろんない。学校にさえ、せいぜい一、二部しかないのだから順番を待って写本していくより方法はない。
女子師範は卒《お》えたが、吟子はなお姉の友子からの月三円という無心に甘んじていた。当初は女子師範にいる時だけという約束であったのだから違約である。だが友子は金のことについては苦情らしいことは一言も言ってこなかった。
それにしても頭だけ下げて安閑としているわけにはいかない。好寿院の月謝は前期が一円三十銭、後期が一円五十銭であったが、ほかに顕微鏡、屍《し》体《たい》実験料として月額五十銭を徴収された。これに下宿料三円から四円を加えると前期生で一カ月七、八円、後期生では約十円が必要であった。友子からの三円を貰い続けたとしてもすでに生活はやっていけない状態になっていた。
このままでは折角入った好寿院も中途退学の憂《うき》目《め》にあってしまう。考えあぐねた末、吟子は女子師範の荻《おぎ》江《え》を訪ね、家庭教師の口を探して貰うことにした。好寿院の学業と両立させることに不安はあったが、もはやそんなことは言っていられない。一カ月もせぬうちに荻江は三軒の内職先を見つけてくれた。
「どれも良家で、今の家庭教師の相場からいうとかなり良い方です」
荻江のいう通りで、三軒を週に二回ずつ廻ると何とかやっていける。
「この高島《たかしま》嘉《か》右衛《え》門《もん》という人は日本一の貿易商です。前田というお方は農商務省の書記官のお家で、荒川というお方は海軍兵学校の教官をされている方です」
「こんな立派な家に私のようなものが勤まるでしょうか」
名前をきくだけで吟子はおじ気づいた。
「貴女《あなた》は学問を教えるのです。お金を儲《もう》けたり、戦をするのではありません。学問では貴女は誰《だれ》にも負けないのですから自信を持つことです」
例によって荻江の言うことははっきりしていた。
「貴女が俵瀬《たわらせ》の一番屋敷の娘さんであることも幸いしました」
「どういうことです」
「家柄がよいから、頼む方も安心して頼めるのです」
「そんな……」
それは学問に関係ないことである。自分はその家が嫌《いや》で出奔《しゅっぽん》してきたのだ、と吟子は思う。
「とにかく世間はそういうものです。家柄がよいということは得にこそなれ、邪魔にはなりません。今はまだそういう時代です。貴女に備わったものだから利用するに越したことはありません」
言いきって荻江は平然としている。吟子としてもそんな我儘《わがまま》を言っていられる時ではない。
「これだけあれば助かります」
「でも学校通いと家庭まわりで体が続くでしょうか。一軒は本郷《ほんごう》だけど一軒は本所《ほんじょ》で、もう一つは麻《あざ》布《ぶ》ですよ」
「大丈夫です。私、町を歩くことは好きですから」
「どうみてもこれでは毎日、一里は歩かねばなりませんよ。暑い日盛りの日もあれば雨降りの日もあるのですよ」
「とにかくやらせていただきます」
生活の目処《めど》が立ったことで、吟子はすっかり気が落ちついた。
三軒の家庭教師のうち、高島嘉右衛門の家はさすがに豪商と言われるにふさわしく大きな邸《やしき》だった。嘉右衛門は当時はすでに多くの事業を手がけ、事業家として名が通っていたが、吟子が会った頃はすでに五十歳に近く、仕事を息子に譲り、呑象《どんしょう》と称して易学に精力を傾注しているときであった。
これらの家を吟子は着流しに下駄《げた》という姿で廻って歩いた。荻江にはきっとやる、と啖《たん》呵《か》をきったが、雨の日などはさすがに辛《つら》い。下駄で一里も歩くと足首の裏から腿《もも》までが硬張ったように堅くなった。
もちろん、車も電車もない時代である。
帰ってきて復習をする気力もなく、そのまま寝つく時もある。だが夜中にはきっと目覚めた。それは女子師範時代、戸《と》棚《だな》で勉強した時からの習慣であった。しかしさすがに二十五歳を過ぎると体の方は少しずつ弱り始めていた。二十歳の時のような頑《がん》張《ば》りはきかない。朝までと思っているのに、暁方《あけがた》前に机に突っ伏してしまうこともある。
医学書の写本のように返還日が決って絶対遅れることができない時は、頭を叩《たた》きながら写す。それでも眠くなる時は盥《たらい》と手拭《てぬぐい》を横へ置き、冷えた手拭で顔を浸してはまた本に向う。
家庭教師をして吟子のもう一つ困ったことは衣服を着替える場所であった。
吟子は好寿院に行く時は男生徒を刺激しないように、ことさらに束髪に素顔で、着物の上には紺の袴《はかま》という、ちょっとみると男かと見間違うような服装で通った。だが家庭教師にいく家はいずれも良家で、婦女子のそんな服装を好まない。これは当然のことで袴に下駄という姿は、当時の欧化思想にかぶれた、はね返り女学生の奇抜な服装で心ある人々の顰蹙《ひんしゅく》をかっていたスタイルである。これを子息を任せる家庭教師にやられたのでは苦い顔をするのも無理はなかった。
学校から家庭教師の家に直接まわる時、吟子はどこかで袴を脱がねばならない。学校では男達の好奇の眼が光っているし、まさか往来で袴を脱ぐわけにもいかない。往来に公衆便所でもあれば便利だが、そんなものはない。考えた末、吟子は湯島の聖堂裏の繁《しげ》みに駈け込むことにした。ここなら閑静で人目はない。学校からも近く、こちらを廻《まわ》ったところで、さして遠道ではない。鬱蒼《うっそう》とした樹木の蔭《かげ》にかけ込むと大急ぎで袴を脱ぎ捨て、手早く畳み、持ってきた風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みにつつむ。あわただしく身装《みなり》を整えると聖堂を抜け出る。それが吟子の日課の一つでもあった。
経済的に落ちつくのを見計らったように吟子に新しい不安が訪れてきた。好寿院に入った年の夏頃から吟子は時々下腹部に軽い痛みを覚えていたが、二年目に入ってから、それは一月に一、二度と回数を増し、痛みも強くなっていた。特に生理の前後にはひどく、二年目の夏からはその度に二、三日寝込むのが例となった。それにつれ帯下《こしけ》が増え、局所の重く気《け》怠《だる》い感じが強まった。
一旦《いったん》、静まっていた下《しも》の病が吟子の油断を見計らっていたように再び動き始めていたのである。
吟子は自分で尿をとり煮沸《しゃふつ》試験を試みた。尿は濁り蛋白体《たんぱくたい》が含まれていることは明らかだった。
体が弱ってきている。
それを知りながら、吟子はひそかに白檀油《びゃくだんゆ》とウバウルシの葉を調合した漢方薬を服みながら学校と家庭教師の家へ通った。
吟子が熱を出し倒れたのはこの年の秋であった。朝から寒気があったが強引に好寿院へ向った。これが直接の原因であったが、前々から体が疲れ、下腹部の鈍痛があったのだから出るべくして出たものでもあった。
吟子は三日三晩熱に魘《うな》されて眠り続けた。下腹の熱く引きつる感じも昔と同じだった。今は病状も、薬は何を服《の》めばよいかも、またそれだけでは完治しないことも知っていた。吟子は一人で床を敷いた。
俵瀬へ帰りたい……
利根の川べりで母に会った夢を見ながら冬の近い下宿の一室で吟子は眠り続けた。
三日目の朝、激しい汗で熱はようやく治まった。なお三日休んだあと吟子は好寿院に出かけた。六日間の熱で吟子の体重は十三貫から十二貫に減った。鏡を見ると肌《はだ》の張りが失われ急に年齢《とし》とったようである。この時から吟子は三軒の家庭教師のうち、麻布の方を辞退した。
好寿院の全課程は一応三年間で終る。私学校といっても塾《じゅく》をやや拡《ひろ》げたに過ぎない規模だから、三年という年限も学校毎《ごと》に勝手に決めたもので絶対的なものではない。生徒の中にも三年で修了となる者もいれば、四年、五年とかかる者もいた。
明治十五年、好寿院に入学して三年目に吟子はようやく卒業した。ようやくというのはもちろん、成績のことではない。ここでも吟子の成績は群を抜いていた。吟子が苦しんだのは学業ではなく経済問題と女人禁制の学校に入ったことによる困難であった。
このうち経済的な困窮は苦しみとはいっても、さほどのものではなかった。自分だけ我慢して切りつめればそれでよかった。
家庭教師の家はどこも吟子に好意的で親切であった。初めは取っつきにくく無愛想に見えた高島嘉右衛門も、途中からは吟子の医学への志を認め、励ましてくれた。
吟子が一番苦しんだのはやはり女だてらに、単身、男だけの学校に乗り込んだことにあった。いかに欧化思想がもてはやされた時代とは言え、それは庶民の生活に無関係な一部の階層だけのことであり、一般の人々の心にはなお徳川三百年の年月で培《つちか》われてきた保守的思想が根深く残っていた。何百年と受けつがれてきたものが一時の騒ぎや流行で変るわけもなかった。
この当時の女性の先覚者が受けたと同じ受難を、吟子はこの好寿院の三年間で徹底的に味わった。しかも吟子の場合は制度の壁とか、民衆の無理解といった抽象的なことではなく、現実に毎日、毎日の学問の場で受けた差別であったから一層厳しかった。それは差別とか圧迫といった生やさしいものではなく、もはや迫害そのものであった。
あの屈辱があったから私は耐えられたのだ……
修了証書をうけ、通いなれた練塀町《ねりべいちょう》の坂を下りながら、吟子は再び順天堂での気の遠くなるような羞恥《しゅうち》の瞬間を思い出していた。
それは日を経るにつれ一層鮮やかに吟子に甦《よみがえ》ってくる。その瞬間をいま吟子は憎んでいないが、といって忘れたわけでもない。事実は事実としてはっきりと心にとどめておこうと思う。その屈辱がいまとなっては、吟子の励みとなっていた。
よくもまあ通い了《おお》せたものだ。
三年間頑張り続けた自分が自分で愛《いとお》しく、思いきり賞《ほ》めてやりたかった。
だが吟子の戦いはこれで終ったのではなかった。戦いはいよいよこれからが本番であった。
一〇
好寿院を卒えた吟子は相変らず高島家らの家庭教師を続けながら、医術開業試験を受ける機会を虎視《こし》たんたんと窺《うかが》っていた。
ここで当時の医制について簡単にふれると、明治十六年十月二十三日太政官《だじょうかん》布《ふ》達《たつ》第三十五号、明治十七年一月一日より施行の「医師免許規則」によれば、開業資格は次のようになっている。
第一条、医師ハ医術開業試験ヲ受ケ内務卿ヨリ開業免状ヲ得タル者トス。但此《ただしこの》規則施行以前ニ於《おい》テ受ケタル医術開業ノ証ハ仍《な》ホ其《その》効アリトス。
第二条、略
第三条、官立及府県立医学校ノ卒業証書ヲ得タル者其証書ヲ以《もっ》テ開業免状ヲ得ンコトヲ願出《ねがひい》ツルトキハ内務卿ハ試験ヲ要セスシテ免状ヲ授与スルコトアルヘシ。
第四条、外国ノ大学医学部若《もし》クハ医学校ニ於テ卒業シタル者或《あるい》ハ外国ニ於テ医術開業免許ヲ得タル者其卒業証書又ハ開業証書開業免状ヲ得ンコトヲ願出ツルトキハ内務卿ハ其証書ヲ審査シ試験ヲ要セスシテ免状ヲ授与スルコトアルヘシ。
第五条、医師ニ乏《とぼし》キ地ニ於テハ府知事県令ノ具状《ぐじゃう》ニヨリ内務卿ハ医術開業試験ヲ経サル者ト雖《いへ》トモ其履歴ニヨリ仮開業免状ヲ授与スルコトアルヘシ。
とある。要するに今後新規の医師となるには政府の医術開業試験を受け、通った者に限るというわけである。但しここに例外として、官立及び府県立の医学校を卒業した者で正式に開業免状を出願した者とか、外国の医学校を卒業して同様に免状を願い出た者は、卒業証書の審査という書類審査だけで許可するというわけである。
この規則は、我が国の近代的医師制度確立の基礎をなしたもので、医術開業試験の実施場所を、東京、大阪、京都の三府と規定した明治七年制定の「医制」と、各府県に令し、地方の状況に応じ医術開業試験を実施せしめた明治九年の指示(この前年の明治八年に、衛生事務は文部省所管を離れ内務省に移り、はじめて衛生局が置かれている)、さらには、一定の履歴を有する者に限り試験を用いず、医師開業免許を与えることにした明治十年の内務省布令、各府県ごとに試験場を設けることを得るとした、明治十二年の医術開業試験規則改正等、さまざまな政法令はいずれもここに来るまでの一段階にすぎなかったわけである。
この「医師免許規則」によって、それまで府県令に於て下付してきた医術開業許可証の所持者に対して、改めて中央の内務省から免状を授与し、内務省に於てだけ医籍簿を編成するということになった。これは日本の医師にとって特筆すべきことで、これによっていままで地方により、ばらばらであった医制が中央でまとめられ、近代的、中央集権的医師制度が出発するに至ったわけである。
ついでに古来から続いていた漢方医の処遇について触れると、このあと明治二十八年頃に、東洋医術による試験も併行して行うべきだ、という運動が、漢方医側から激しく起ったが、この運動は時勢に合わず挫《ざ》折《せつ》した。
このあと明治三十九年には医師法により、今後八年間に限り医師免許規則を実施することとし、免許希望者はこの間に試験を受けて免状を得るべきだとし、これに洩《も》れたものは以後打切りとし、永久に医師になる機会は失われることになった。
それ以後は原則として医科大学又は医学専門学校卒業者に限ることとなり、限地開業医の新規免許は廃止ということになった。こうしてその後十年を経て、ようやく現在の医師制度が確立されたわけである。
ところで吟子の場合はこの明治三十九年の新たな医師法制定以前、すなわち明治十六年の太政官布達が効力を持っていた時代である。この時に医師になるには先にも述べたように、官公立の医学校を出るか、外国の医学校を出て免許を願い出る以外は、すべて医術開業試験を受けて合格するよりなかった。
吟子の卒《お》えた好寿院は私立医学校であるので、もちろん、開業試験を受けねばならない。だがこの試験を女子が受けることはまだ許されていない。許されていないし、女子でこれを受けようとした者もいなかった。まったく吟子が初めてであった。
医術開業試験は年に春、夏の二回行われる。良いか悪いか、とにかく吟子は願書を出してみた。
思ったとおり、一回目は素《そ》っ気《け》なく断わられた。
「婦女子に医師免許を与えた例はない」というのがその理由であった。
翌年、吟子は再び出願した。だがこれも却下された。
東京府では駄目《だめ》と知った吟子は、今度は出身地の埼玉県に提出した。
願 書
幡羅郡俵瀬村第一屋敷
平民 亡父綾三郎五女 荻野ぎん
右奉請願候《みぎこひねがひたてまつりさうらふ》私儀別紙履歴書ノ如《ごと》ク幼弱ヨリ数年意ヲ医学ニ注ギ本年六月廿九日書面ヲ以《もっ》テ医学試験ヲ東京府ヘ出願仕候処受理相成候《つかまつりさうらふところじゅりあひなりさうらふ》間《あひだ》早晩試問相成ル者ト喜ビ居候処豈科《をりさうらふうところあにはか》ラン去月十六日願書却下サレ数年ノ刻苦泡沫《はうまつ》ニ帰シ憂慮捨《お》ク所ナク恐レヲモ顧ミズ奉懇願候嘗《こんぐわんたてまつりさうらふかつ》テ聞ク五《ご》穀《こく》及諸凡ノ植物等種苗《しゅべう》精良ナルモ荒蕪《くわうぶ》地《ち》ニ蒔植《ししょくし》テハ培養力ヲ尽スモ到底充分ノ登稔《とうにん》及蕃殖《はんしょく》ヲ為《な》スコト難シト熟惟《じゅくゐ》スル植物ニダモ地ノ荒蕪ニ因《より》テ此ノ如シ況《いは》ンヤ人身ニ於テヲヤ婦女若《も》シ孕胎《ようたい》ノ際生殖器二疾ヲ患《わづらふ》ルトキハ出生スル所ノ児《こ》モ又無病健康ナル者少ナシ此レ衛生上ニ於テ最モ注意スベキノ点ナリ然《しか》リ而《しかうし》テ婦女ノ性コレ柔和軟弱物ニ怖《おそ》レ人ニ恥ヂルアリテ生殖器等ニ疾病萌発《しっぺいはうはつ》異常ヲ知覚スルモ恥ヂテ夫ニダモ告ゲ語ラズ為《た》メニ初メ軽易ノ疾病モ終《つひ》ニ進デ治シ易《やす》カラザルノ症ニ陥リ痛苦忍ブベカラザルノ期《ご》ニ至リ始メテ実ヲ良人ニ告グルモ医ヲ延《のべ》テ生殖器内詳細ノ検査ヲ受クルヲ恥ヂ言以テ症状ヲ語シ子宮鏡等ノ検査診断ヲ拒ム者ナシトセズ実ニ婦人生殖器病ノ診断豈《あに》容易ナラズ然《しか》ルト雖《いへど》モ診断詳悉《しゃうしつ》ヲ尽サザレバ治療施シ難ク其《その》詳悉ヲ尽ス至テ難シ私不肖ナレドモ意ヲ此《これ》ニ止《とど》メ医学ニ従事スルコト別紙履歴書ノ如シ願《ねがは》クハ受試問ノ上女医トナリ女同士コソ婦人生殖器病ヲ診断セバ患者モ又女同士ノ診断ヲ受クルコト幾分カ恥ル心モ少ク軽易ノ症モ速《すみやか》ニ検査ヲ受クルコト必セリ左《さ》スレバ生殖器病中孕胎《ようたい》シ或ハ分娩ニ難《くるし》ミ或ハ軽易ノ症ソノ重症ニ進マシムル等ノ憂《うれへ》ハ之《こ》レ有《ある》間《ま》敷《じく》ト存侯《ぞんじさうらふ》仰ギ願クハ卑意御《ひいご》洞察《どうさつ》医学御試問相成様《あひなるやう》御垂情伏《ふし》テ奉懇願候也
明治十六年九月
埼玉県令 吉田清英殿
右 荻野ぎん
だがこの結果も同じく却下された。試験の実施機関である府や県に働きかけるだけでは所詮《しょせん》は埒《らち》があかない。考えあぐねた末、吟子はその上級機関である内務省へ直接、請願書を出した。
この年、明治十六年一月二十三日付の『朝野新聞』には、「婦人は是迄《これまで》産婆の外、医師及び製薬の免許なかりしが、其術に熟達のものは、試験の上、男子同様許可せんと、目下其筋に於て協議中なりときく」という記事が見えている。
だがこの結果も同じだった。「却下」の二字が吟子には死の宣告のようにさえ見えた。
それにしてもあまりにもつれない内務省の返事であった。当時ようやく盛り上ってきた「女性も学問をすべきだ」という「女学熱」も、これでは表面だけのものに過ぎない。
元来ある種の風潮が話題になるのは、それがまだ地についていず、上べだけのことに過ぎないからである。本当に人々に消化され、地についたものになったら、そんなに取り立てて言われることはなくなるものである。当時の「女学熱」などは、そういう意味だけが先走った最たるものであった。
どう考えても吟子の気持はおさまらない。
こうなったら直接内務省に出向いて担当のお役人に聞いてみるよりない。
考えあぐねた末、吟子は出かけて行くことを決心した。だがいざ行くとなると容易なことではなかった。役人と言っても今でいう公務員とか公僕と言った感じとはまるで違う。江戸時代の武士が役人という呼び名に変った、という程度のことで、その権威と横柄《おうへい》さは一向に改められていなかった。それは幕府を倒した雄藩の士族が政界の中心を占めたことからも当然のことで、“肩で風切る官員さん”という言葉にもよく表されている。
おまけに内務省というところは、数ある官庁の中でも特別、羽振りのいい権威主義のところだから、やたらにいかめしいだけで一般の市民などが気軽に出入りする雰《ふん》囲気《いき》とはほど遠かった。だが吟子は出かけて行った。坐《ざ》して待つより動いて得るべきだと考えた。たしかにこのままでは兵糧攻《ひょうろうぜ》めの城中で落城する日を待っているようなものであった。
当時の内務省は麹町区《こうじまちく》の大手町にあった。内務卿は山県有朋《やまがたありとも》であったが、医師の直接担当者である衛生局長は長《なが》与《よ》専斎《せんさい》であった。
衛士に囲まれた内務省の正面玄関の前に立っただけで吟子は足が竦《すく》んだ。左手の石畳には高官が乗る馬車が何台も待機し、髭《ひげ》を生やした官員服の男が何やら忙しげに出入りしている。
吟子が官員らしい官員に会ったのは森有礼《もりありのり》と、女子師範の永井久一郎の紹介状を持って石黒忠悳《いしぐろただのり》に会ったのが初めてであった。このうち森有礼のは特別の事情があり吟子自身のことではなかった。石黒は医師から官界に入った人で本来の官僚とは言えない。しかも彼に初めて会ったのは自宅であったが今度は官庁で、相手は平民では普通では顔さえ見ることもできない局長である。怖《おじ》気《け》づくのも当然であるが、忠悳に会ったことがあるというのが吟子のただ一つの救いであった。
「衛生局長にお会いしたいのです」
「あんたがかね」
受付の男は無遠慮に吟子の上から下までを見つめた。当時の内務省に女が単身で、しかも有力者の紹介状も無しに直接局長に面会にくるなどということは絶無のことであった。
「何用かな」
「医術開業試験のことについて御願いに参りました」
「医術開業試験と?」
受付の男達は顔を見合せた。どこかで聞いたか見たような言葉だが、内容となるとさっぱり分らない。官員と言ってもピンからキリまでいた。受付の窓口にいるくらいの小者では分らないのは無理もない。どう見ても彼等の目には、可笑《おか》しな女としかうつらない。
「局長様に会いたいのならそのように、きちんと御約束してから来るものだ。ただちょっと用事というだけでは御忙しい局長様が女子に会っとる暇はなかろう。ここをどこだと考えとる」
威張られるのは業腹《ごうはら》だが、局長ほどの人物に会うのに紹介状の一つも持たず、約束もなしにやって来たことはたしかに強引かもしれなかった。だが吟子にしてみればこうするより方法がなかった。
「ちょっとお会いするだけでいいのです」
「冗談もほどほどにしたらどうじゃ」
これではまるで気狂い扱いである。中には「それとも局長殿のあれかな」と小指を出して意味ありげに笑っている者さえある。
「悪戯《ふざ》けた話じゃありません。真面目《まじめ》な話なのです」
「だからそれほど重大な話なら、あらかじめ約束をいただいてからやって来いと言っとるんじゃ」
「とにかく今、会っていただけるかどうかだけでも聞いて欲しいのです」
「駄目だ、帰れ、帰れ」
こうなっては吟子も簡単に引き退《さが》るわけにはいかない。
「あんた達はただの受付係でしょう。局長に面会に来た人を取り次げばそれでいいのです」
「なに、女のくせに言わせておけばいい気になりやがって」
ただの受付係だと言われて若い方の男は顔色を変えた。
「本官を侮辱すると、ただで済ませんぞ」
「待て待て、何をしとるんだ」
その時、吟子の後ろから太い声がした。振り返ると頬《ほお》から鼻下へ髭を連ねた大柄《おおがら》な男が立っている。まだ三十前のようだが背広を着たところはかなりの高官に違いない。吟子が思ったとおりその男を見ると守衛達は一斉《いっせい》に頭を下げた。
「女子一人を囲んで、どうしたというのじゃ」
「はっ、実はこの女子が、約束もなしに突然参って、長与局長殿にすぐ会わせろと強引に申し入れるものですから」
紺の官服に金モールを一本つけた年輩の男が説明する。
「何の用で参られた」
背広の男は吟子に声をかけた。
「実は医術開業試験を女子にも受けさせていただけるよう御取計らいいただきたいと存じまして」
この男なら分ってくれるかも知れぬと、吟子は丁重に頭を下げた。
「そなたが受けたいと言われるのか」
「はい」
「それでは女医者になると」
「さようでございます」
聞いた途端、背広の男は大口を開けて笑い出した。可笑しくてたまらぬというように頬《ほお》髯《ひげ》に手を当てて笑う。それにつれて守衛達も一斉に笑い出した。笑いの渦《うず》の中で吟子は男達を見返した。
「何が可笑しいのですか」
「そなたには可笑しくはないかな」
ようやく笑いをおさめて背広の男が言った。
「女が医者になるなどとは聞いたこともないわ。そんなことを聞いたら誰《だれ》でも笑い出す、そうであろう」
「…………」
「そなた、どこかの妻女か」
「違います」
「では一人身か」
背広の男は改めて吟子を見詰めた。
「見れば結構の年齢のようじゃ、妙なことを考えずお嫁に行かれるがよかろう。そなたほどの美《び》形《けい》なら行く先に苦労はないであろう」
「そんなことは聞きたくはありません。とにかく局長様に会わせて下さい」
吟子は唇《くちびる》を噛《か》んで背広の男を睨《にら》みつけた。
「医者になることなら局長殿に言ったところで無理な話だ、とにかく諦《あきら》められるがよい」
「何故《なぜ》です」
「考えてもみられよ、女子には妊娠という厄介なことがある。その度に患者を手放さねばならん。これでは不安で、とても患者を委《まか》せるわけにはいかん。それに毎月、きまって汚れる日もあろう」
背広の男の後ろの守衛達が淫《みだ》らな眼《め》を向けた。
「そうであろう」
男達にとり囲まれた中で体のことを言われては、さすがの吟子も答えようがない。
「それに開業試験は難しい。かなり優秀な男でも合格せぬ。たとえ許されたとしても女には無理じゃ、早めに諦めた方が身のためであろう」
「とにかく局長様に会わせて下さい」
何者か知らぬがこんな男を相手にしていたのでは埒《らち》があかない。
「局長殿は今日は不在じゃ」
「では明日は」
「そう性急に言われても、何とも答えられん。そなたが来たことだけは何かの折りに、儂《わし》から局長殿に伝えておこう。儂は内務省衛生局予防課長の平尾紀康だ」
これが課長かと吟子はもう一度、背広の男を見上げた。腹立ちまぎれに見る故《せい》か、堂々たる髭さえこけおどしに見える。
「言っとくが、さっさと諦めるんじゃ」
これ以上、ねばっていても男達の嬲《なぶ》りものになるだけである。ものも言わず背を向けると吟子は小走りに門へ向った。
家に戻《もど》るとすぐ、秋の短い日は暮れ始めたが、吟子は灯《ひ》もつけず、机の前に坐《すわ》り続けていた。帰る途《みち》すがら、男達の言ったことを思い出すと口惜《くや》しさで身が震えたが、今はもう怒る気力さえなかった。窓の下からは夕《ゆう》餉《げ》の支度をする女達の声が聞えてくる。下宿の小《こう》路《じ》にはまたいつもと同じ夜が訪れてきていた。
手紙は駄目、直接会うこともかなわずと知って、このあとどうしたらいいものか、吟子にはわからなかった。方法さえあればどんなに苦しくても耐えるが、その方法がないとあってはやりようがない。予期していたとはいえ、官の定めがこうまで堅い壁だとは思っていなかった。なんとかなる、とたかをくくっていたのが間違いであったらしい。
のちに吟子はその時の心境を『女学雑誌』三百五十四号に次のように記している。
〈……願書は再び呈して再び却下されたり。思ふに予は生《いき》てより斯《かく》の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時《とき》方《まさ》に孟秋《まうしう》の暮つかた、籬《り》落《らく》の菊花綾《あや》を布《し》き、万《ばん》朶《だ》の梢錦《こずゑにしき》をまとふの時、天寒く霜《さう》気《き》瓦《かはら》を圧すれども誰に向てか衣の薄きを訴へん。満月秋風独り悵然《ちゃうぜん》として高丘《かうきう》に上れば、烟《けむり》は都下幾万の家ににぎはへども、予が為《た》めに一飯を供するなし。小家を出《いで》てかぞふれば、早くも爰《ここ》に十有余年、流浪変転人世の苦辛既に味ひ尽せるの暁、世はいまだ予を容《い》れず、世容《い》れざるあやしむに足《たら》ず。親戚朋友嘲《しんせきほういうてう》罵《ば》は一度び予に向つて湧《わき》ぬ、進退是《こ》れ谷《きは》まり百術総《ひゃくじゅつすべ》て尽きぬ。肉惜《お》ち骨枯れて心神いよいよ激昂《げきかう》す。見ずや中流一岩の起《た》つあるは却て是れ怒《ど》濤盤《たうばん》渦《くわ》を捲《ま》かしむるのしろなるを……〉
ちなみにこの『女学雑誌』は明治十八年に巌本善治《いわもとよしはる》によって創刊された、当時の高級女流雑誌で、折りから燃え上った「女学熱」にのって多くの読者を得た雑誌である。
二日間、吟子はろくに食事も摂《と》らず、部屋に籠《こも》っていた。誰とも会いたくない。会って話をする気力もなかった。二日目の夜、荒々しく階段を上ってきて、襖《ふすま》を叩く音がした。
「荻野さん、荻野さん寝たのですか」
階下の大家の女房の声であった。また様子でも伺いに来たのかと、吟子は重い気持で顔だけを襖の方へ向けた。
「なんのご用でしょう」
「今、早便が届いたのですよ」
早便というのは今の電報である。
「入っていいですか」
吟子は慌《あわ》てて床を出ると着物をひっかけ、石油灯《ランプ》をつけた。
「俵瀬《たわらせ》からですよ」
吟子はいやな予感がした。
十二年前、父の死を知ったのもやはり夜であった。あの時も早飛脚《はやびきゃく》であった。早飛脚で報《しら》せなければならぬほどのことにいいことはない。
何事もありませぬように、祈る気持で封を開いた。
だが吟子の予感は当っていた。
〈ハハキトク、トモコ〉
吟子は続けて三度読み返したが、何度読んでも同じだった。
「どうしました」
大家の女房は、電文を持ったまま小刻みに震えている吟子を見上げている。
「母さまが、危《き》篤《とく》と……」
電文には帰れとは記していない。帰るか帰らぬかは吟子の意志に任せるという友子の気持に違いなかった。だが読んだときから吟子の気持は決っていた。
「この辺に人力車はありませんか」
「もう五つ半ですよ」
女房は旧式な言い方をするが五つ半は今の午後九時である。
「とにかく探して下さい。お金はいくらでも出します。私はすぐ準備をします」
「これから俵瀬まで行きなさる……」
「もちろん行きます」
「でもこれからでは、夜中走ることになりますよ」
街道筋《かいどうすじ》といっても夜道は危険である。まして女の身一つで、人力車といっても安心して乗っているわけにもいかない。女房は呆《あき》れ顔で吟子を見上げた。
「万一ってこともありますよ、明日の朝、早くになさい」
「いいんです、いいから頼んで……」
吟子の勢いに押されて女房はうなずいた。
「行ってくれるかどうか、ひとまず心当りを頼んでみましょう」
「すぐですよ、お願いしますよ」
女房は小さな跫音《あしおと》を残して降りていった。一人になって吟子はもう一度電文を読んだ。字句はやはり同じだった。
一刻後、吟子は車に乗った。これからでは人力車ではどう急いでも熊谷《くまがや》に着くのは朝になる。
母さまが死ぬ……
車に乗って吟子は初めてそのことを思った。
二カ月前の友子の手紙では最近体が弱って手足に軽いむくみが来ていた、と書いてあった。それは友子が俵瀬まで行って母に会った時のことだから、もう三カ月も前のことらしかった。その後むくみでも強くなったのであろうか。むくみだとしたら腎臓《じんぞう》か、心臓の病に違いない。腎臓だとすると腎性の昏睡《こんすい》にでもおち入ったのだろうか、急に悪くなったところをみると心臓なのかもしれない。
だが実際はずっと前から悪かったのかもしれない。
心臓病のむくみなら重量の関係で手よりも足にむくみが強い。手にも来ていたというところをみるとやはり腎臓であったのか、腎臓病の昏睡なら、一日や二日は保《も》つ、間に合うかもしれない。
揺られながら吟子はこれまで教わってきた医学の知識を巡らして考える。どれもがありそうで、違うようにも思える。
人力車はすでに荒川の大橋にかかっていた。道はこのあと浦和を通り鴻巣《こうのす》を抜け熊谷へ達してから東へ曲る。人通りはほとんどない。時たま行き交う人は町から田舎へ向けてとんでいく車を不思議そうにふり返っていく。
吟子の不安はなお続く。
医師は誰に診て貰《もら》っていたのであろうか、荻野家かかりつけの万年翁《おう》は荻江とともに出京していてすでに俵瀬にはいない。あとはあの近辺に名の通った医者はいない。残っているのは古風な漢方医にすぎない。
彼等で大丈夫だろうか、なまじっか医学を修めただけに吟子の不安はつきない。
「母さまが死ぬ」
吟子は小声で呟《つぶや》いた。だが声にまで出してみてもそれが実感となって帰って来ない。
数えてみるとかよは今年五十八歳であった。五十八歳の母に近々に死が訪れることはごく当り前のことであった。それは充分承知していることであった。
だが吟子にはそれが実感として感じられない。まだまだ遠い先のことだと思っていた。いつかは来るが今日明日ということではないと思っていた。まだ少し余裕がある。そこに安んじ、安心しきっていた。迂《う》闊《かつ》であった。母の死はやがて訪れると知りながら呑《のん》気《き》に構えていた。それは母への一種の甘えでもあった。
「本当に死ぬ」
吟子はもう一度、声に出して言った。「死ぬのだぞ」と自分に言ってきかせる。だがすぐまだ死んだわけではないと思う。
まだ生きているはずだ。ここまできても吟子はなお母に甘えていた。
幌《ほろ》の覗《のぞ》き窓から秋の月が見える。大宮辺りに入ったのか、辺りにはほとんど家の灯《あか》りはない。青松らしい樹影が黒く横に拡《ひろ》がっている。樹林の先は畑らしく広い平地が伸びている。月はほぼ天心に近い。
「はっはっ、はっはっ」と車夫は夜の怖さから駈《か》け抜けるように声をあげて駈け続ける。その声を責めるように道の両端から秋の虫が一斉にすだいている。
「母さま、生きていて」
車の中で吟子は手を合せ祈り続ける。
大宮を越えた時、夜は白んだ。窓から吟子は明けてゆく武州の野《の》面《づら》を見ていた。
車が熊谷を経て俵瀬に着いたのは午前八時を少し廻《まわ》ったところだった。
「その長屋門を右へ曲ったところ」
「はい」
答える車夫の声も喘《あえ》ぎきっていた。車は右へ曲りそのまま一気に白壁の門へ入った。
「あ、ここでいいわ」
人力車を降り立った途端、吟子は眼を疑った。広い玄関口は開かれその右端の戸板に、黄の簾《すだれ》が掛っている。
〈忌中〉
吟子はその字を目瞬《またた》きもせず見つめた。
「間に合わなかったのですか……」
車夫は額の汗をふきながら申し訳なさそうに言った。
「御気の毒なことで」
車夫の声を吟子は自分とはまるで無関係な言葉のように聞いていた。
やはり、と思いながら信じられなかった。ふわふわと雲の上でも歩くように彼女は玄関へ近づいた。
かよの死体は奥の八畳間に北枕《きたまくら》に安置されていた。顔にはすでに白い布がかけられ、頭の先には蝋燭《ろうそく》と線香がたかれている。かよの左右には保坪《やすへい》と友子が控えていた。
「ぎんさん」
戻ってきたのを知ると友子は、上体を浮せた。
「母さま」
吟子はまっすぐかよの横に崩れるように坐り込んだ。
白い布の下から蒼《あお》ざめたかよの顔が浮びあがった。少しむくんでいるが小造りの端正な顔が真《ま》っ直《す》ぐ上を向いている。
「母さま……」
声になったのはそこまでであとは嗚《お》咽《えつ》の中で吟子は叫び続けた。
「何故死んだの、こんなに急いで帰ってきたのに……」
両の手で肩を抱え込むようにして揺すると、それに合せてかよの堅く小さくなった体も一緒に揺れた。取りすがり何度呼びかけても同じである。吟子が諦めるのを待つように皆は黙り込んでいた。
泣き濡《ぬ》れた顔で吟子はもう一度、母の顔を見た。見ているとそれは死者の顔とは思えない。ちょっと仮眠《うたたね》をしてまたすぐ起き出してくるようにさえ見える。
吟子はもう一度呼びかけた。駄目《だめ》と知りながら納得できない。あるいは甦《よみがえ》るのではないかと思う。万一の奇《き》蹟《せき》をまだ捨てきれない。
「さあ、母さんを静かにしてあげましょう」
友子が膝《ひざ》を進め、吟子の手にある白布を取りあげると、かよの顔の上へかけた。
吟子は周りに保坪と友子、親戚《しんせき》の者が四、五人控えているのを改めて知った。人々は吟子の様子に興味をもっているようであった。その視線を感じながら、吟子はかよへ掌《て》を合せた。
「いつ亡《な》くなったのですか」
お参りして、吟子の気持はいくらか鎮《しず》まっていた。
「明方、寅《とら》の刻です」
友子が答えた。
寅の刻と言えば午前四時である。車が上《あげ》尾《お》を抜け、月の下に青く光る街道を見ていた頃《ころ》であった。
「何の病気だったのですか」
「お医者様の話では腎臓病だろうとか、そうでしたね」
友子が保坪に言った。保坪は懐《ふとこ》ろ手《で》をしたまま黙ってうなずいた。
やはりそうであったのか……
吟子は今程見た母の黝《あおぐろ》くむくんだ顔を思い出した。
「随分早く来られましたね」
友子が言った。保坪も親戚の者も無言のまま二人の話に聞き耳を立てていた。
「何故もっと早く教えてくれなかったのですか」
「昨日の明方から突然意識がなくなったのです。それまでは寝てはいたけどさほど悪くはなかったのです」
「でも寝たきりだったのでしょう」
「それは一と月くらい前からですね」
友子はもう一度、保坪にたしかめた。
「その頃にでも……」
こんなになるまで教えて貰えなかったことが吟子には恨めしかった。
「母がお前には報せるなと言ったのだ」
その時、保坪が低く沈んだ声で言った。
「ぎんは今が一番大事な時だから心配かけるなと言われたからだ」
一瞬吟子は保坪の顔を見返したが、すぐ耐えきれぬように眼をそらした。
「死ぬ間《ま》際《ぎわ》に譫言《うわごと》の中でお前の名前を呼んでいた」
唇《くちびる》を噛《か》みながら、吟子は眼の前がかすんだ。慌てて両手で顔を覆《おお》うともはやこらえようはなかった。
「おいおい」と、恥も外聞もない。身近な者だけとは言え、十数年ぶりに会った人達ばかりである。その真ん中で三十二歳の吟子はまるで子供のように泣き続けた。
「母さま、母さま」
吟子は心の中で叫び続けた。今一度生きている母に会って許しを乞《こ》いたかった。話せば今ならきっと分って呉《く》れたに違いなかった。母は心では吟子をとうに許していたのかも知れない。
「お前の顔は二度と見たくない」と言いながら、吟子が東京へ出立する朝、母は自分で貯《たくわ》えた小金とお守りを渡して呉れた。もしかするとあの時から母は言葉とはうらはらに吟子を許していたのかも知れなかった。
母とはいつでも会えると思っていた。遠く離れ話し合わぬままに過したがそれでも互いに分り合っているつもりだと思っていた。たとえ怒っていても会って話せば母とならいつでも分り合えると思っていた。そこに手抜かりがあった。
たかをくくっていたのだ……
悔いが一気に吟子をとらえ虐《さいな》んでくる。何故もっと生きているうちに優しくしてやれなかったのか。何故元気な時に一度帰ってきちんと許しを乞うておかなかったのか。
母は常に吟子のことを思っていたらしい。死ぬ間際まで吟子の名を呼んだという。吟子もそうであった。母の名を呼びながら夜道を駈けてきた。あの時、間違いなく二人の心は合していたのだ。
それにしても何故、と吟子は思った。それだけ呼び合っていたものを何故、生きているうちに会えなかったものか。東京と俵瀬はわずか一日の道のりである。吟子さえ帰る気になればいつでも会えたのだ。何故生きているうちに戻って優しい言葉の一つもかけておかなかったのか。
やる気になれば出来たことだけに、吟子の悔いは一層残った。そんな大切な仕事が残っているのに平然と過してきた自分が腹立たしかった。我儘《わがまま》勝手な許せないものに思えた。犬畜生にも劣ると思った。
「馬鹿《ばか》、馬鹿、馬鹿」
吟子は自分で自分を叱《しか》り続けていた。出来ることなら頭を抱え、くり返しくり返し堅い床に叩《たた》きつけたい。
「お客様が見えたから奥へ退《さが》りましょう」
亡骸《なきがら》の側《そば》でなお、こみあげるように泣き続ける吟子の肩に友子が手を当てた。
玄関口に続く茶の間には新しい弔問客が続々と詰めかけてきていた。綾三郎が病弱になってからの十数年間、俵瀬一の屋敷を切り盛りしてきただけに弔問客はひきもきらない。
「さあ、これで」
二人だけになって友子が新しい手拭《てぬぐい》を吟子に渡した。
「いつまで泣いていたって仕方がないでしょう」
眼をあげると母の部屋であった。母の品々が元のまま残っている。箪《たん》笥《す》も衣《い》桁《こう》も、鏡台も同じだった。衣桁にかかっている棒縞《ぼうじま》の銘《めい》仙《せん》にも見《み》憶《おぼ》えがある。それは川上から戻った半年の間、吟子が療養した部屋でもある。
母はいつも奥の襖《ふすま》を開けて現れた。娘の寝ている部屋に出入りするのにもかよは坐って襖を開けた。いくつになっても自分を崩さない人であった。
あの頃は母と随分いろいろなことを話したように思う。母は暇さえあれば吟子の横に附き添って呉れていた。針仕事までわざわざ横にもってきてやっていた。部屋に閉じこもったまま一人でいる吟子を淋《さび》しがらせないためであった。
村のこと、畠《はたけ》のこと、近所の人達のこと、なんでも話してくれた。母の話を聞くだけで、家にいる吟子には外の大抵のことは分った。さまざまなお喋《しゃべ》りをしながら、かよは稲村の家のことについては、ついぞ一言も触れなかった。
荷物が戻った時も、離縁と決ったときも、そう決ったと一言《ひとこと》言っただけだった。すべてが母の思いやりであった。病気に苦しんでいたのに、今となってはその頃が一番楽しかったように吟子には思われる。
「早便はいつ着いたのです」
「昨夜、遅くです」
「驚いたでしよう」
「ええ」
茶の間の方で子供達のはしゃぐ声がきこえる。死人の家も子供達にとっては大勢の人が集まる楽しい場なのかも知れなかった。
「迷惑だった?」
「えっ……どうして」
「あれは私が勝手に知らせたのよ」
電文の最後はたしかに〈トモコ〉となっていた。
「保坪兄さんは死んでから報せればいいと言ったけど。あなたは荻《おぎ》野《の》の家を勘当同然で出た人でしょう、母さんが死んだからと言って帰ってくるような女ではないと、兄さんは思っているのよ」
吟子は敷居の上に立って庭を見ていた。棕《しゅ》櫚《ろ》も南天も同じ場所にあるが、どれもが高みを増していた。
「あなたは女医になることしか頭にない、そのためにはどんなことでも平気でやってのける、自分勝手な女だと思っているらしいわ」
「兄さんがそんなことを」
友子は吟子の横に来て並んだ。友子の方が背は少し高い。南天《なんてん》の梢《こずえ》に雀《すずめ》が群れていた。
「兄さんだけでないわ、親戚の人はみなよ」
吟子は母の床の横に坐っていた保坪の冷やかな眼《まな》差《ざ》しを思い浮べた。四十に近い兄の顔には老いが現れていた。「勝手に出たい時、出ていって、ろくな看病一つせず、今になって泣いて何になる」
保坪の眼はそう言っているようであった。
「保坪兄さんはああいう人なのだから、気にすることはないわ」
棕櫚の木の先の空が拡がっている。空にはもう暑さがなかった。母が死んだのだと吟子は空を見ながら思った。
母が死んだのに、いつもと変らず、抜けるような明るさを見せている空が不思議だった。明るさの中にいると母の死んだことも保坪の眼も、すべてが平凡で些《さ》細《さい》なことに思われた。
「あなたは本当にお母さんに似てきたわね」
気付くと、友子が障子の端に背をもたせてつくづくと吟子を見ていた。
「お母さんの若い時にそっくりよ」
「そりゃ、娘ですもの」
「ううん、そのえ姉さんにも、まさ姉さんにも会ったけど、あなたほど似てないわ」
「そうかしら」
見詰められて吟子はたじろいだ。小さい時もよくそう言われた。だが自分ではどこが似ているのか分らなかった。
「母さんの愛情が全部あなたにいっちまったのよ」
「愛情が……」
「そう、あなたは末っ子だし、お母さんはあなたが一番可愛《かわい》かったんだわ」
「同じ子供なのに、そんなこと……」
「なんと言っても、あなたが一番心配かけたもの」
心配かける子供ほど可愛いとはよく聞く。その理屈から言えば友子の言うことは当っているのかもしれなかった。
「あれ、本当なの?」
「あれって?」
「さっき兄さんが言ったこと。母さんが死ぬ時私の名を……」
「本当よ、手を宙にもがいて低い声で呼んだわ」
「それで……」
「もうじき来るから頑《がん》張《ば》って、と私が言ったの。そしたら分ったのか分らないのか、二、三度くり返して静かになったわ」
「…………」
「息を引き取ったのは、それから二、三分も経《た》ってないわ」
自分から聞き出しておいて吟子は顔をそむけた。一度押しのけた悔いが再び潮のように吟子の胸に寄せてきた。
「やっぱり最後まで、あなたのことは気になっていたのよ」
吟子は青桐《あおぎり》の先を見ていた。梢の先に鵯《ひよどり》がきて鋭い鳴き声を立てていた。吟子はふと自分がその鵯の白い嘴《くちばし》に突つかれているような錯覚にとらわれた。
翌朝、母の枕元でもう一度お参りしてから吟子は実家を出た。
「やはり帰るの?」
奥の間で支度をしていると友子が七つになる男の子を連れてきて言った。
「いつもお世話になりっ放しで済みません」
「そんなことを言ってるんじゃありませんよ、とにかくもう一泊でもしていったら」
「でも母さんの死に顔も見られたから」
「せめて葬式にだけでも出たら」
今夜が正式の通夜《つや》で、明日午前の出棺《しゅっかん》であった。四人の姉や親戚達はまだ、四、五日は残る予定だった。
「どうせ喪服もないし」
「そんなこと、構わないじゃないの。危篤だと思って駈けつけて来たのだもの、ないのが当り前よ」
「でも……」
「向うで急ぐ用事でもあるの?」
「そうでもないけど」
三日前、三度目の願書が却下されたことを吟子は思い出した。
「じゃいいでしょう。またいつ来られるか分らないわよ」
「でも姉さんにも会えて、一晩ゆっくり話が出来たし、何も思い残すことはないわ」
吟子は古い調度に囲まれた部屋を見廻しながら、この家に来ることはもう二度とないかも知れないと思った。
「今発《た》てば、夜までには東京に入れるから」
友子の子供が庭に降りて、からたちばなの赤い実を千切っていた。
「母さんの鏡台を借りようかしら」
吟子は鏡に向って頭を整えた。死の床にモダーンな束髪で現れたのは吟子しかいなかった。誰《だれ》も何も言わなかったが興味あり気に見詰めているのは分った。
「あなた」
友子が振り向き、鏡の吟子に言った。
「兄さん達のことを気にしてるんじゃないの」
「ううん、別に」
吟子は思いきり陽気に顔を振った。
「口うるさい田舎の人達など気にすることはないのよ」
「分ってるわ」
落着いて答えたが友子にはすべて見透かされているようだった。
「とにかく帰るわ」
「一度言い出したら変えない人だから、もう止めないわ」
吟子は顔をあげた。鏡の中に友子の顔があった。鏡で見合ったまま二人はかすかに笑った。
吟子は裏木戸から隠れるように外へ出た。表は親戚や村人達で賑《にぎ》わっていた。彼等の中を、あれが女医者になるといって家を出た娘だ、と指さされるのが気重かった。畦道《あぜみち》を抜けて街道《かいどう》まで友子が送ってきた。
「これ……」
畦道のはずれで立ち止ると友子は吟子に紙包みを渡した。
「姉さん……」
「いいから、取っておいて」
友子はそれを素早く吟子の懐《ふとこ》ろにおし込んだ。
「元気でね」
「済みません」
「私が死ぬときは、きっとあなたがみとってね」
友子は陽気に笑うと「行きなさい」と言った。
陽《ひ》はまだ東の松並木の先にあった。七時を少し廻ったにすぎない。街道を右へ曲ったところで吟子はふと利根《とね》へ行ってみようかと思った。堤までは畑の近道を抜ければ十分とかからない。
麦畑がきれた先は緩やかな傾斜をもって堤になっている。洪水《こうずい》でもあったのか、堤への斜めの道はいくらか東へ寄り、上流から押し流されたらしい土砂が黒く取り残されていた。子供の頃、高いと思った堤も上までは数歩の距離であった。上りきった時、眼の前に利根川が展《ひら》けた。
堤の先の萱場《のば》も、萱場の先の空を映した利根の川《かわ》面《も》も、川の先の彼《ひ》岸《がん》のかすむ景色も、すべてが同じだった。川は周りのすべての風景をおさえて止っていた。
堤の先で吟子は蹲《しゃが》み込んだ。ここで水遊びをした。この堤を川上へ嫁いで行った日、一人で戻《もど》って来た日、洪水の日、さまざまな瞬間が吟子の脳裏に甦《よみがえ》った。すべての思い出が遠いことのようであり、また昨日、今日のことのようでもあった。
利根を最後に見たのは家を出て東京へ向う時であった。その時も、吟子は一人で川を見た。
あれからもう十年になる、この間、自分は何をしてきたのだろうか。父を失い、母を悲しませ、失った。そして私は何を得たのか、まっしぐらに脇《わき》目《め》もふらずに進んできた、一時も休まず歩いてきた、それだけは確かであった。
しかし、それで今、何を得たと言うのだろうか。そこまで問いつめた時、吟子は一つの声を聞いた。
「結局何もなかったのではないか」
吟子は辺りを見《み》廻《まわ》した。萱場には微風がそよぎ、川の上には蒼《あお》みを増した秋の空ばかりが拡《ひろ》がっている。ふと聞いた声を確かめるように、吟子は目を閉じた。
もしかして私は誤ったのではないか……
何気なく起きた疑念が、みるまに吟子の頭の中で輪を作り、拡がり、やがて渦《うず》のような大きなうねりとなって返ってくる。
何故《なぜ》、あんなことを……
渦の中で吟子は自分に問いかけた。自分の望んだことが、とてつもなく大きく抗《さか》らい難《がた》いものに思えた。そんなものに挑《いど》んだ自分が無気味なものに思われた。
(何故)といくら問いかけても吟子には分らない。不思議だった。不思議だが挑むにはそれだけの確とした理由があった筈《はず》である。それで間違いはなかったはずだ。
私は誤ってはいない。これで間違ってはいないのだ。
疑い、問いつめ、答えながら、突然、吟子の瞼《まぶた》に、白く艶《つや》やかな肢《し》体《たい》が浮びあがった。それはゆっくりと押し曲げられ、膝《ひざ》頭《がしら》がまさに腹へつこうとした途端、とてつもない力で左右へ開かれていく。
瞬間、吟子は両の膝に灼《や》けるような痛みを覚えた。ぴたりと焼きゴテを当てられたように、そこに手型が残されていく。
あの男達の……
そう思った時、雪崩《なだれ》のように吟子の頭に、十三年前の白く明るい診察室での記憶が甦った。全身が燃えている。羞恥《しゅうち》が赤い塊となり頭の中をぐるぐる走り廻っていく。
「あれは確かにあったことであった。間違いなく私の体が受けたのだ」
呟《つぶや》きながら吟子は眼《め》を開いた。眼の前に明るい陽を受けた利根が輝いている。
私の進んできた道はこれでいいのだ。間違っていないのだ。
もう一度自分に言いきかせると吟子は立ち上り、堤を南へ下り始めた。
一一
東京へ戻り十日もすると、医術開業試験を断わられた口惜《くや》しさが再び吟子の胸に甦った。母の死は悲しいことには違いないが、いつまでもそれに溺《おぼ》れているわけにもいかない。吟子は母の死を噛《か》みしめながら、医学への情熱をかきたてていた。母に報いるためにも早く女医になりたかった。
もう一度出願してみようか。
吟子は考えたが再び願い出たところで結果が同じことは目に見えている。
好寿院を一緒に卒《お》えた者の何人かは、すでに東京で前期、後期二つの試験を終え開業の準備をしていた。正直なところ、彼等の学才が吟子より優れていたとは思えない。成績だけならむしろ吟子の方が上であった。それが男というだけで堂々と開業を許されている。学識の差による結果なら諦《あきら》めもつくが、男と女という性の違いだけの差別だけに、吟子には口惜しく耐えられそうもなかった。
いつになったら女も男と同じに扱われる時代が来るのであろうか。
考えてみると、そんな時代が来るだろうという予測だけで、来るという確証も約束もなかった。果して本当に来るのか、それは自分の手前勝手な夢にすぎないのではないか、自分が生きているうちには来ないのではないか、考えれば考えるほど吟子は暗い気持に閉ざされた。
好寿院を卒えて一年半近い年月が経《た》っていた。うかうかしていると折角好寿院で習ったものまで忘れてしまう。それに、(三十二歳になった)と気付いて吟子は思わず顔をあげた。
今までも年齢を忘れていたわけではなかった。だが先の望みを失って気付いてみると、三十二歳という年齢が、重く取り返しのつかぬものに思えてきた。
なんであれ、もうぎりぎりのところまで来ていることは明白であった。半年とも一年とも言っていられない。
だが、そうだからといって、いざどうしたら良いのかという段になるとさっぱり分らない。考えれば考えるほど腹立たしく、焦《いら》立《だ》つだけで、これといった方法も見つからない。迷いあぐねた末、することといってもただ部屋の中をぐるぐる歩き廻ることしかなかった。
吟子が再び石黒忠悳《いしぐろただのり》の許《もと》を訪れたのは、母が死んで一カ月経った十月の末であった。台風のあとで東京の秋の空は見事に晴れあがっていた。
考えあぐねた末、結局最後に浮んだ策は石黒忠悳の助力を乞《こ》うことであった。これしかないと吟子は腹を決めた。思い立った次の日、揚場町の石黒家を訪ねたが忠悳は不在だった。秘書に頼むと三日後の日曜日の午後に来いという。
その日は高島家へ家庭教師に行く日だったが、吟子は高島家の方を断わって石黒家を訪れた。
忠悳は珍しくくつろいだ和服姿であった。吟子が忠悳に会うのはこれで三度目である。顔馴染《なじ》みというほどの間柄《あいだがら》ではないが、必要以上に緊張するというようなことはもうない。
吟子は女子師範卒業後の経緯を述べ、開業試験を受けられずに困っている、と告げた。
「そんなことを言ったのか」
忠悳は吟子から内務省での顛末《てんまつ》をきいてたちまち憤慨した。
「もう、私一人ではどうしようもありません。本当に進退窮《きわ》まってしまいました」
三度目の気《き》易《やす》さもあって、吟子はありのままを告げた。
「何故、女に生れたかと、そればかりが口惜しくて」
「無理もない……」
今度だけは忠悳といえども簡単にはいかない。相手は国の制度という強く堅い壁である。
「こうなったら一《いっ》層《そ》のこと外国の医学校にでも入ろうかとも思っているのです」
「外国へ行くと言われるのか」
忠悳は大きな眼を一層大きくして吟子を見詰めた。
「はい、医師免許規則の第四条には、外国の医学校を卒えた者には、願い出れば免状を渡すと明記してございます」
「だが、外国へ行って彼《かの》地《ち》の医学校を出るとなれば、巨額の金がかかる上に、語学から風俗習慣に慣れるまでと大変であろう」
それは内務省から追い返された夜に、思いついたことだが、あまりにも大きすぎる賭《かけ》で、何から始めていいか具体策一つ考えつくことも出来ない。
「でもそうでもしなければ、とうてい女医にはなれませぬ」
方法はともかく、吟子はそこまで追いつめられていた。
「君の気持はよく分るが、まだ諦めるのは早い。我が国だってものの分らぬ者ばかりではない」
「そう思ってこれまできたのですが……」
虚《むな》しさが全身をおおっていた。
「ともかく一度、長与局長に会ってみたまえ、儂《わし》が紹介状を書いてやろう」
「でも、あの方達のお話ではお会いできたところで、とても駄目《だめ》なようです」
「役人というのは前例を重んじるものなのだ、何ごとも前例通りにやっておるのが一番無難だからだ。官に入ると尻《しり》の穴が大きい奴《やつ》までがいつか小さくなってしまう」
「法というのは絶対なのでしょうか」
「法治国である以上法に従うのは致し方ない。だが女医者の場合は女の医者は困るというだけで、“女が医者になってはいけない”という条文はない。ない以上は受けさせて及第すれば開業させてやるのが筋だ。もし女がいけないのであるならば“女は医者になるべからず”という一項を書き入れておくべきだという理屈になろう」
純粋の官員とは異なり、医者の中途から官界に入っただけに、石黒の考え方には弾力性があった。その幅の広さだけが吟子の頼りである。
「前例などにこだわる必要はないのだ」
「おそれながら、女医という言葉でしたら以前に書物を読んでいた折り、見たことがございます」
「何という本かね」忠悳は大きな体をのりだした。
「たしか『令義《りょうのぎ》解《げ》』という書物でございます。それに“女医博士”という言葉がはっきりと記載されておりました」
「そうか、『令義解』にのっておったか」
忠悳は吟子の発見に驚いたが、同時に『令義解』まで読破している吟子の博識にも感心した。
「その本はいつ、どこで読まれたのか」
「もう十年も前になりますが、井上頼圀《いのうえよりくに》先生の塾《じゅく》でです」
「ほう、井上先生のところでか」
「先生、ご存知でしたか」
「いささか知っとる」
先にも触れたように二人は皇漢医道復興運動の時に相対した仲である。当時こそ対立したが今は氷解していた。それに頼圀はその名声から下の者にかつぎ出されたというのが実情で、漢方医としてよりも、国学者としての方が、はるかに有名な人である。
「頼圀先生のところで教わったのなら間違いはない。よいことを覚えておられた」
「その時から女医を志していましたので、偶然、心に残って書きおいたのです」
頼圀先生はどうしたであろうか、吟子は三《た》和土《たき》にあった赤い緒の小町形下駄《げた》を思い出した。
「よし、それで決った。その『令義解』は、そなたの手許にあるのか」
「いいえ、私は写しただけです。ご本は井上先生の書庫にある筈でございます」
「そなたその本を借りてこられるか」
「井上先生からですか?」
「そうじゃ」
吟子は戸惑った。見知らぬ女と同衾《どうきん》している頼圀のことはもう考えたくもなかった。
「果してあるでしょうか」
「ないかのう」
「それを何に使われるのですか」
「まず儂が長与君に会って女子の受験を頼んでみるが、その折りに見せてやるのじゃ」
「どうしてもなければいけませぬか」
「資料とともに井上先生の署名でもいただけるとその信憑性《しんぴょうせい》がさらに増す。旧の恩師であれば一筆くらい書いて下さるであろう」
何も知らぬ石黒は熱心にすすめる。
「明日にでもすぐ伺ってみてはどうだ」
石黒にそういわれては嫌《いや》とも言えない。吟子はかすかにうなずいた。
吟子が意を決し井上頼圀の許を訪れたのはその三日後の十一月の初めであった。折《おり》悪《あ》しく朝からの秋雨が降っていたが、運よく午後になって止《や》んだ。
吟子は好寿院を卒《お》えると同時にあつらえた藤鼠地《ふじねずみじ》に三《み》筋縞《すじじま》の一張羅《いっちょうら》を着流し、髪を銀杏《いちょう》髷《まげ》に結った。好寿院に学んだ間は束髪に袴《はかま》、日和《ひより》下駄《げた》といった恰好《かっこう》をしたが、そうした男と見間違う姿をしたのは医学を学ぶための手段でしかなかった。卒業と同時に吟子はそんな姿を捨て、呪《のろ》いきっていた女に自分から戻っていた。
「若くて、お人形のような女」
着物を着ながら頼圀の家の老《ろう》婆《ば》の言葉が思い出された。鏡の中に三十二歳の女の顔がある。若く輝いていたはずの肌《はだ》が、かさかさと乾き、毛穴の一つ一つが際《きわ》立《だ》って見える。鉛《おし》粉《ろい》で吟子はその一つ一つを丹念に塗りつぶした。塗り終ったところで臙脂《べに》をつける。濃すぎるかと思って拭《ふ》き取り、再び塗る。
塗り重ね、拭き取りながら、「何故?」と吟子は自分にきく。これまで頼圀に愛情を抱いたことはなかった。それは今も同じである。師として敬う以外には特別の感情はない。それなのに丹念に粧《よそお》っている。
「あんな女なぞに負けはしない」
かつて愛を告白された女の意地が、吟子の中で燃えはじめていた。化粧を終えると風に吹かれぬように人力車を呼んで幌《ほろ》を下ろし、敵地へ乗り込むような心意気で吟子は頼圀の家へ向った。
「まあまあ、よくいらっしゃいました。二階でお待ち下さい」
取次に出てきたのは老婆のいせだった。通されたところは前と同じ書斎である。
「先生は?」
かつて乱雑を極めた書斎は見事に片付けられ、煙草《たばこ》盆《ぼん》の底までいま拭きとったように灰の片《かけら》一つない。
「いまちょっと小石川の病院までお出かけです。もうおっつけお帰りになります」
「先生、どこかお悪いのですか」
「いえいえ、先生じゃありません、奥様がお目出度《めでた》なのです」
「先生のお子さんが?」
「もう五カ月ですが、少しむくみ《・・・》があるとかということでして」
「相当お悪いの」
「私なぞからみれば大したことはないと思うのですが、先生がとても御心配になりまして、大事をとって十日前から入院なさっています」
「それでは、今日も……」
「毎日、今時分一時間ほどお見舞に出かけるんですよ」
いせは可笑《おか》しそうに笑った。
吟子は辺りを見廻した。部屋は整頓《せいとん》し尽されいかにも森閑としている。だがこれはそぐわない。人が動いている部屋ではない。妻にかまけて頼圀先生は怠けているのではないか。
師ともあろうものが……、吟子は新妻への憎しみを頼圀への不信にきりかえた。
「それでは先生はお仕事にも手がつきませんね」
「今までずっとお一人でしたから、たまにこんなことがあっても宜《よろ》敷《し》いでしょう。あ、お茶も入れずに、ちょっとお待ち下さい」
老婆は思い出したように立ち上った。
馬鹿《ばか》なことを、学者ともあろうものが、そんなことでどうするのか。吟子は正面の尊大に構えた書棚《しょだな》を睨《にら》みつけながら、吐き捨てるように呟《つぶや》いた。
頼圀が戻ってきたのはそれから三十分あとだった。
「おう、よう見えられた」
頼圀は以前とはうって変って艶《あで》やかに粧った吟子を珍しそうに眺《なが》めた。
「お久しゅうございました。長らく御無沙汰《ごぶさた》致しておりました」
「そなたが女子師範を卒えられた時だから、もう四年になるかな。あ、何やら一度留守に見えられたとかきいたが」
「いいえ、私は参りませぬが」
「何かそんなことをいせから聞いたような憶《おぼ》えがあるが、まあいい、それにしても久し振りじゃ」
頼圀は懐《なつ》かしそうに笑い、膝《ひざ》を崩すが、吟子は堅い表情のまま、
「ちっとも気付かず失礼致しましたが、先生には奥様をお貰《もら》いになったとか」
「ああ、そのことか、いや別にな……」
不意の挨拶《あいさつ》に頼圀は照れたように手を首に当てる。
「しかもこの度はお目出度とか」
「誰《だれ》がそんなことを」
「今ほどいせさんから」
「困ったお喋《しゃべ》りだ」
言いながら頼圀に困った様子はない。丸く優しい顔は血色よく、ひと頃《ころ》より若がえってさえ見える。
「お幸せそうで結構ですわ」
「いやいや、一人身は不便でな、気はすすまなかったが下女代りに貰ったようなものだが、ところで今日は何か特別の用事でもおありかな」
頼圀は妻の話から逃げ出す。
腹立たしさをこらえて吟子はこれまでの経過を述べ、現在の難儀を告げた。
「石黒殿がそうおっしゃるのか」
「はい、是非先生の直筆をいただくようにと申されました」
「私の解釈でよければすぐ書いて進ぜよう」
「御願いできますか」
「そなたの言うとおり『令義解』に間違いはない」
頼圀は気易く筆をとった。吟子は久しぶりに師の見事な書を見ていた。
添書をしたため、封をして吟子に渡してから思い出したように頼圀が尋ねた。
「そなたはまだお一人か」
「はい」
「そうか」
低くうなずくと頼圀は眼を机の上に落し、
「きっといい女医者になりなさい」
「きっとなります」
吟子は顔を上げうそぶくように言いきった。
石黒の案は図星であった。それは吟子のように勉学一筋にきた者には思いもつかない、大人の知恵でもあった。
時の衛生局長、長《なが》与《よ》専斎《せんさい》は大村藩の蘭学者《らんがくしゃ》長与俊達の孫で、十五歳の時から大坂の緒《お》方《がた》洪庵《こうあん》塾で蘭学を学んだ人である。先に大学の御用掛となった相良《さがら》知安《ともやす》、岩佐純《いわさじゅん》といった明治政府の進歩派とともに医事行政の基礎を築き、当時世界で最も進んでいた独逸《ドイツ》医学を採用し、明治七年に布《ふ》達《たつ》した近代医制七十六条公布の中心となった人物だけに女子の教育にも好意的な観方をしていた人であった。
「Hygiene」という言葉を「衛生」と訳したのもこの人である。
石黒忠悳《ただのり》はこの長与専斎の許《もと》に三度に亙《わた》って足を運んだ。長与は初めは冗談かと思ったが、井上頼圀の添書を持ち、女が医者になって悪い理由はないと、長々と論じるのを聞いてようやく本気だと思い始めた。
「話をしただけだがなかなかしっかりした女子です。頭もよい。それが女子というだけで医者になれぬのはいかにも哀れです」
東京大学医学部綜《そう》理《り》心得の石黒は衛生局長の位階では長与の下ではあるが、これまで内務省、文部省、兵部省を通して医事関係の仕事で何度も長与と会い、話し合ってきた仲だけに遠慮するところはなかった。
「奈良時代の大宝律令《たいほうりつりょう》の注釈書ともいうべき『令義解』巻八の『医疾令』においては、わが国最古の医事法令を医薬、薬園、医学教育と規定していますが、この中に、立派に『女医』の文字がでております」
当代一の国学者、井上頼圀が太鼓判をおしてくれたことだから石黒も自信をもって言える。
「先進欧米諸国にはどこにも女医者がおります。それをいまさら旧幕時代以前のような寝言を言っておったら諸外国のもの笑いになりましょう」
「私は初めから許してもいいという考えなのだ。ただ許すということは法の改正ではないが、一つの慣例の変更につながる。慣例は法ではないが法に近い。だから世論がもり上り、許してさしつかえないという状態になれば一刻も早く許そうと思っておる」
「世論は盛り上っておるではありませぬか。現に優秀な何人かの女性がそれを望み、かつ私までがこうしてお願いに上っている」
石黒の見幕に長与はいささか呆《あき》れていた。
「それはそうなのですが、一般的にはまだなかなか偏見が多いのでな。女子は妊娠出産があるからいかん、などという意見を吐く者もいる」
「女子が年がら年中、妊娠出産しているわけではありますまい。たとえそんなことがあってもその時は休めばよいではありませぬか」
「するとその間、患者はどうなるか」
「西洋医学は漢方とは違います。診断治療の原則はすべて公開され討論され、定まっています。医者が替ったから治療が変るなどということはありませぬ」
医者が替ると困るという発想はまさしく医療を秘伝とする漢方医の考えから出ている。蘭学はおさめたが医者そのものでない長与にはこの点になお軽い不安があった。
「それに一般の者は女が医術をやることにまだ偏見を持っていよう」
「それを打破するのが貴方《あなた》のような進歩的な政府要人の仕事ではありませぬか」
「分った、分った」
長与も石黒の押しにはいささかお手上げであった。
女性の開業医受験を許す旨《むね》の布達が正式になされたのはこの長与と石黒の会談があってから半年経《た》った明治十七年の秋であった。これはまさに日本の女医史にとって特筆すべき事件であった。
そのことを吟子は朝の新聞で知った。活字を見ながら吟子はしばらく声も出なかった。気が静まり口に出してから喜びが次第に拡《ひろ》がってきた。
これで勉強だけすれば医者になれる。
吟子は部屋の箪《たん》笥《す》の上にある母の位牌《いはい》にそのことを告げ、友子に便りでしらせた。吟子の前にようやく一条の光が射《さ》し始めていた。
当時の医術開業試験は前期と後期の二つに分れていた。前期試験には、物理学、化学、解剖学、生理学があり、後期試験には外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、薬理衛生学、細菌学、臨床実験の八科目が含まれていた。
吟子の勉強が再び夜を徹して始められた。日中はこれまでの高島、前田家の家庭教師に加え、新たに副領事大田昇平宅を各戸週に二度の割合で順に廻《まわ》る。それを終えてから自分の勉強に入る。昼間遠く歩いた日には九時ともなると睡《ねむ》気《け》が訪れた。女子師範の頃には平気であった徹夜が一晩するだけでてきめんに次の日に応《こた》えた。眼の縁に隈《くま》が現れ肌が荒れる。廊下を歩きながら口ずさんだだけで憶えられた薬の名前をすぐ忘れる。化学の公式が頭に浮ばない。三十三歳という女の年齢が着実に吟子の記憶力と体力を衰えさせていた。
だが吟子は燃えていた。ゴールは目前であった。目的がはっきりしゴールが見える今の苦しみは、これまでのどれよりも軽く平易なものでしかなかった。
明治十七年九月三日、吟子は医術開業試験前期試験を受けた。この時吟子の他《ほか》に木村秀子、松浦さと子、岡田すみ子の三人の女性が同時に受けた。このうち初めの二人は海軍医学校の前身である成医会を卒《お》えた者であった。
結果はこの月の末、内務省の正面玄関の塀《へい》に貼《は》り出された。
吟子は見事合格した。しかも女性合格者は吟子一人であった。
もう一つ最大の難関である後期試験が六カ月後に控えていた。前期に合格して後期に落ちてはなんにもならない。吟子はまだ本気で喜べなかった。
だが前期にせよともかく受かったということは吟子にはいい結果をもたらした。
「初の女性合格者」として新聞が書きたて、さらに医事関係の印刷物がこれにならった。
前から吟子のよき後援者であった高島《たかしま》嘉《か》右衛《え》門《もん》があらたに愛嬢はな子の家庭教師を吟子に頼み、高島家からのお金だけで贅沢《ぜいたく》をしなければ一カ月はやっていけるだけの生活費を得られた。
また、かつて家庭教師に通っていた海軍兵学校教官荒川重平夫人は、夫と相談のうえ、吟子に一室を貸し与え勉強のために吟子が自由にそこを使うよう申し出た。さらに父綾三郎の従兄弟《いとこ》、大田文南の子昇平は外交官としてメキシコへ赴任する留守中、夫人の教養面の指導を吟子に依頼してきた。これらのお蔭《かげ》で吟子の生活は随分とゆとりができた。疲れ果てた時には車に乗ることもできるようになった。だが厚意を受けたことはそれだけ期待にそわなければならないということでもあった。吟子は万が一にも後期試験に落ちることは許されなくなった。
年が明けた。松の内にも吟子は勉学を続けた。暮も正月も吟子にはなかった。肉体的な疲労と精神的な緊張が徐々に吟子の体を虐《さいな》んできていた。一月の半ばに軽い発熱をみた吟子は二月に入ってまた二日ほど寝込んだ。後期試験を目前にして吟子は焦《あせ》った。熱とともに下腹に鈍い痛みが現れた。それは悪魔のように吟子に病気がなおっていないことを思い出させた。
三月五日の夜、吟子は再び寒気を覚えた。試験は二日後であった。吟子は階下の小女に頼み八丁堀仁成堂から解《げ》熱剤《ねつざい》を買ってきて貰い、服《の》むとすぐ布《ふ》団《とん》にくるまって寝た。ほどなく寒気はおさまったが下腹の疼《うず》きはまだ残っていた。横になりながら本を読み続けた。読みながら時々下腹を探る。疼きは吟子が探る度にふいと現れた。
翌日になっても状態は同じだった。治ろうと治るまいと明日は朝九時から試験であった。吟子は床の中にもぐり込んだまま本を読み続けた。
夕方、荻《おぎ》江《え》が現れた。昼になっても熱が下らないので小女に呼びにやったのである。
「かなりの熱ですよ」
荻江は吟子の額に手を当てて言った。
「体温計は?」
「ありません」
「お医者さんになるというのに」
荻江は呆れたが、熱のあることだけははっきりしている。
「氷は?」
「昨日一度買ってきて貰ったけど溶けちまったでしょう」
答えながら吟子は本から目を離さない。
「じゃ買ってきましょう。薬は……」
言いかけて荻江は驚いた。小机の上は薬包紙らしい赤や白の包みがあふれるほどに並び、枕元《まくらもと》の屑籠《くずかご》にはのんだあとの包み紙が数えきれぬほど捨てられている。
「こんなにのんで大丈夫」
「だってどれをのんでも効かないんですもの」
言いながら吟子は熱で赤くうるんだ顔をもたげた。
「あ、その右端にある薬をとってよ」
「薬ばかりのまないで少し休んだら」
医学は吟子の方が専門だが、これではのみすぎだということは素人《しろうと》の荻江にも分る。
「そんな呑《のん》気《き》なこと言って明日は試験よ」
「試験だって、体がよくならなければどうにもならないでしょう」
「いいから薬をちょうだい」
熱と試験のことで吟子の頭は普通でなくなっている。とにかく気をしずめてやるのが第一だと荻江はしぶしぶ薬を渡した。
「本当に、薬ってどうしてこんなに苦いんでしょう」
文句を言いながら吟子はきな臭い粉末を一気に呑《の》み干すと、荻江の差し出す水を横になったまま受け取る。
「絶対に治ってみせるわ」
荻江はもう何も言わず盥《たらい》を持って氷を買いに出た。
日が暮れたが吟子は食欲がないといって何も食べなかった。
「玉子酒でも作ってあげましょう、あれで温まって休めば治りますよ」
「眠くならないかしら」
「眠ったっていいでしょう」
「だめよ、まだ読む本があるのですから」
「そんな熱のある体でいくら読んでも、頭になんぞ入るわけがありませんよ」
「読まないよりはいいわ」
とにかく眠らせることだと荻江は玉子酒をつくると強引にのませた。
「これを飲めば熱は下るんでしょうね」
「下るわよ。私が風邪をひいた時、父はいつもこれをのませてくれたんですから」
これではどちらが医者か分らない。額の手《て》拭《ぬぐい》は十分おきに替えるが、それでも生温かくなっている。
「頭の後ろも冷やしましょうか」
荻江が言いかけた時、吟子が床の上に起き上った。
「ねえ、明日の試験が受けられないことにでもなったら、私口惜《くや》しくて死んでも死にきれないわ」
吟子の眼は憑《つ》かれたように宙の一点を見詰めている。
「絶対よ、絶対に受けますからね」
「分ったわ、分ったから……」
「いいえ、きっと治るわ、ねえ治るわよ」
「だから、早く休まなくちゃ」
荻江は吟子の肩口を支えて寝かせようとした。
「不運だわ」
呟《つぶや》くと一旦《いったん》寝かかった吟子は、もう一度立ち上ると、ふらふらしながら一つだけある箪笥の前へ行く。
「ぎんさん」
眩暈《めまい》がするらしく左手で顳┥《こめかみ》の辺りをおさえ、右手で一番上の抽斗《ひきだし》をしきりに探る。
「なにしてるの」
きくが吟子は答えず、小さな錦布を手にすると、そそくさと床のなかにもぐりこんだ。
「寒いわ」
「立ったりするからよ。ほら、きちんとかけて」
荻江は掛布の端をひき寄せてやる。
「なにをとってきたの」
吟子は握ったままの右手を差し出した。
開くと中に一寸ほどの錦織の小袋があり、中は白い紙で包まれ、開くと、「俵瀬《たわらせ》神社」と書いてある。お札だった。
「母さんに貰ったの、これを握って眠るわ」
「それがいいわ」
吟子は本をあきらめ仰向けになった。冷たい手拭の下に長い睫《まつ》毛《げ》が蓋《ふた》を閉じたように影を落していた。しばらくして目を閉じたまま吟子が言った。
「ねえ、私が眠ったら帰ってくれる」
「その方がいいの?」
「眠ったら一人になりたいの、一人で寝るのに慣れてきたから、一人の方が落ちつくの」
「そうするわ」
玉子酒が効いたのか、十分もせずに吟子は疲れ果てたように寝入った。荻江はそれを見届け、盥の氷水で新しい手拭を絞った。額の手拭をとり新しいのを替えた瞬間、吟子はかすかに眉《まゆ》を歪《ゆが》めた。
「母さま……」
吟子の小さな口から声が洩《も》れた。
荻江はその童女のような顔をしばらく覗《のぞ》き込み、それから静かに部屋を出た。
翌朝は、ぐっすりと眠った故《せい》か熱はいくぶん下ったようである。体の節々はまだ気《け》怠《だる》かったが、顔を洗い髪を整えた。七時に生玉子を二個と解熱剤をのむと、人力車を呼んで試験場へ向った。
午前九時、試験は外科学から始まった。昼休みをはさみ午後二時で筆記試験は終った。替って午後三時から臨床実験が行われた。
十分間、患者を診たあと、診察結果について試問を受ける。
「本日の患者は何病と診断しましたか」
三人の試験委員の中央にいた八の字髭《ひげ》の大《おお》柄《がら》な男が尋ねた。大学東校の医学士、印東玄《いんどうげん》得《とく》だと吟子はすぐ知った。
「心臓病だと思います」
「その根拠は」
「打診上、心臓が左右へ約一横《おう》指《し》肥大しているように思えるうえ、聴診上、大動脈僧帽弁《そうぼうべん》上に軽度の雑音が聴こえるように思います」
「脈はどうでしたか」
「言い忘れましたが、心臓病を思わせ、やや微弱で不整脈でした」
「どういう型の不整脈ですか」
右横の医学士浦島堅吉が尋ねる。
「収縮期性かと思います」
「浮《ふ》腫《しゅ》については如何《いかが》ですか」
医学士森永友健である。いずれも日本医学界にその人ありと知られた人物ばかりである。吟子は緊張で怯《おび》え、震えながら答えた。一人十分以内という時間が吟子には一時間にも及ぶ長い時間に思われた。
「どこか体でも悪いのですか」
質問が終りかけた時、印東玄得が尋ねた。
「いいえ」
「そう、少し熱っぽいように見えるが、体には気をつけた方がよい。帰ってよろしい」
吟子は逃げるように部屋を出た。これで試験のすべては終りだった。外に出て人力車を拾うと吟子は真《ま》っ直《す》ぐ下宿へ戻《もど》った。布団に入ると体に悪《お》寒《かん》が走った。額に手を当ててみる。大変な熱である。
とにかく終った。
結果への不安と、終ったという安心感で吟子は床につくとすぐ見境いのない眠りに落ちた。
三月二十日、後期試験の結果が発表になった。
「一三五番、荻野吟子」
吟子はその名をたしかに見た。初春の風にその字は小さな音をたてて揺れていた。見るうちにそれは次第に大きくなり、やがて二つになり霞《かす》んで見えなくなった。吟子は両手をしっかり握り目を閉じたまま泣いていた。
「母さま」人《ひと》混《ご》みの中で吟子は呟いた。合格と知ってとび上る者、大声をあげて叫び駈《か》け出す者がいる。「やったやった」と手を叩《たた》き「お医者」と歓声をあげる者がいる。
「母さま、見て、母さま」
人々の肩に埋もれながら吟子はその場で母の名を呼び続けた。人々が立ち去った後も吟子はそのまま立ちつくして見ていた。
この時、明治十八年三月、吟子三十四歳の春であった。
一二
かくして政府公許の女医第一号が生れた。
余談だが、巷間《こうかん》、女医第一号として楠本《くすもと》いね子をあげる人がいるが、これは間違いである。いね子は文政六年生れで吟子よりは二十八歳の年上であるが、西洋医術開業試験を受けて官で正式に許した医者ではなかった。
いね子は蘭《らん》医《い》シーボルトの娘で蘭学の素養があるところから父の門下生であった石井宗謙と結婚し、さらに産科、外科学を学んだが、いね子の頃《ころ》はまだ医術開業試験のなかった時代である。したがって医術の心得のある者なら誰でも医療にたずさわり、医師を名乗ることができたのである。明治三年二月いね子は東京に出て築地居留地の近くに産科を開業したが、この翌年の医者調べでは女医二名となっている。このことからも当時女医がいね子一人でなかったことが知れる。
いね子のように医術の心得あるところから医者であったと言うだけならば、彼女以前に京都の匹《ひき》田千《だち》益《ます》、播州《ばんしゅう》の松岡小けん、福岡の高場乱子などをあげねばならない。
また江戸時代から産科指南として活躍した女性には寛文《かんぶん》年間の渡会園《わたらいその》、文政の頃の森崎保佑、およびその門下生らをいくらでも挙げることができる。さらにさかのぼれば戦国時代直後、宿《すく》毛《も》に幽囚の四十年を送った野《の》中婉《なかえん》もそうであるし、奈良時代の「医疾令」以来女医の記載は決して少なくない。特に産《さん》婆《ば》から転じたと思われる産科医は多かった。
いね子が女医一号として誤り伝えられるのは、文明開化の東京で女性の身で初めて開業し、しかもそれが混血女であったというところから喧伝《けんでん》されたためと思われる。
いずれにせよ近代医学をおさめ、官で公認した女医の第一号が荻野吟子であったことは明白である。
合格と同時に吟子は当時の淑女の礼装である黒地に、胸と袖《そで》にモールが走り、襟元《えりもと》と袖口に白いフリルのついた服と、羽根のついた広い庇《ひさし》の帽子を買って、浅草田《た》原町《わらまち》の写真店で、写真を撮った。
丸《まる》椅子《いす》に坐《すわ》り帽子を手にもち、軽く右半身に胸をそった姿は、今も現存するが、いかにも吟子の誇りと気概を表してあまりある。
「女史の得意は思うべきで、実に日本女医史上に特筆すべき目出度《めでた》き事」と女子医大の創始者である吉岡《よしおか》弥《や》生《よい》は後年、『女医学会雑誌』に記している。
弥生はまた、別の号で「女医制度創設に当って、荻野女史が偉大な功績のあったことは東京女医学会誌其他でも論ずるところであり、また世上の新聞雑誌等においても述べられているところであるからここには一々申しません。ただ何事によれ一事一物の創設者の苦心は筆舌につくさるべきものでなく、口舌のよくするところでもありません」と述べ「女史が日本女医の先駆者として尊敬すべきであるのみならず、また日本婦人の社会的地位を向上するものとしての大先輩でありました」と賞讃《しょうさん》している。
弥生はまた、昭和十一年五月、東京上野精養軒で日本女医公認五十周年祭が行われたが、その前日、「女医誕生五十年に際して」と題してラジオ放送をし、そのなかで「いまわが国における女医数、三千四百人に達したことを同性のために誇りながら、これもひとえに荻野吟子女史の創造者としての努力があったからに他なりません」と述べている。
因《ちな》みに吟子が医師免許証を得る直前の明治十七年末における全国の医師の状態を見ると、医師総数は四○八八○人、このうち吟子のように開業医術試験に及第して医師になったもの三三一三名、大学東校(東大医学部)卒四九四名、府県医学校卒八六名、外国医学校卒七名という分布であり、他は奉職履歴一六四○名、従来開業三五三一九名、限地開業二一名ということになる。
新しい医制の過渡期で、正規の試験や大学、医学校を出ないで、これまで医術をやっていたというだけでそのまま医者として認められた者は、全体の実に九割を占めていたのである。
医師免許を得た吟子は「本邦最初の女医」として新聞、雑誌に大きく報道されたが、それらはどれも吟子の学才を称《たた》え、これまでの努力を賞讃するものばかりであった。
つい昨日迄《まで》は「変り者」とか「女の身を弁《わきま》えぬ者」と言われていただけに、吟子にはこうした世論の移ろいが空《むな》しく怖《おそ》ろしいものに思われた。
早速、見ず知らずの人から「家を貸そう」とか「土地を提供する」という話が持ち込まれたが、吟子はそれらを丁重に断わり以前から世話になっていた高島嘉右衛門に二十円を借りると、本郷三組町八十四番地に空いていた平家を借り受けた。
たとえ相手からの申し出とはいえ、しかるべき理由もない人から無償で家や土地を借りることは律《りち》義《ぎ》な吟子の気持が許さない。折角ここまで一人で頑《がん》張《ば》ってきた以上、これからも自分一人の力でやってみるのだ。筋の通らぬ金を受ける気など、吟子には初めからなかった。
こうして待望の産婦人科荻野医院が開業した。明治十八年の五月である。
家は仕舞屋《しもたや》風の小さな家で、玄関六畳を患者控室とし、次の八畳間を診察室とした。診察机と椅子、診察台、それに薬を入れる百味《ひゃくみ》箪《だん》笥《す》をおいてどうにか医者の家らしくなった。二間を診療に使うとあとは看護婦の休む小部屋と吟子の休む奥の間と台所しかない。医院としてはぎりぎりの大きさであった。
場所は御《お》成街道《なりかいどう》へ通じる通りから半町入った小《こう》路《じ》の先で、ちょっと人目につきにくい場所であったが、産婦人科医院としてはむしろこちらの方がよさそうであった。
待合室、診察室、薬局とすべて内装を終え、あとは明日からの開院を待つだけとなって吟子は改めて表から医院の正面を眺《なが》めた。
二間幅の玄関の真上に、「産科婦人科、荻野医院」と墨のあとも鮮やかに大きく横書きに書かれ、それを支えるように戸口の右手に、「女医、荻野吟子」と二尺はあろうかという表札が垂れ下っている。
それだけで平凡な家はたちまち医学の殿堂のような雰《ふん》囲気《いき》をかもし出す。大きくはないがしっかりした構えである。
遂《つい》にやった、こみあげてくる喜びをおさえながら吟子は見上げていた。
いくら見ても見飽きない。軒端から柱の一つ一つまで撫《な》ぜてやりたい衝動にかられる。
「これが私の城だ」
目を閉じては自分に言いきかせ、目を開いてはまた確かめる。閉じているうちに家がたち消えてしまうような不安にかられる。だが開くとたしかにそこには医院があり、自分がそこの院長である。もう夢でも願いでもなく現実のことであった。
母さまが見て呉《く》れたら何と言うだろう……
今の吟子には、母に見て貰《もら》えないことだけがただ一つの悲しみであった。
その夜、吟子は新橋の料亭《りょうてい》で、これまで世話になった人達を招いて開院祝賀会を開いた。
荻江、古市静子ら友人とともに、師であった松本万年、井上頼圀、永井久一郎、高階経徳らに交って石黒忠悳から高島嘉右衛門まで、吟子を教え、導いてくれた人達が一堂に会した。
「本当にありがとうございました。しっかりやります……」
それらの人達の前で、吟子はそれだけ言って声が詰った。まさに吟子前半生の頂点の瞬間であった。
物見高く初物好きは江戸っ子の特性である。翌日から早くも十二、三人の患者が現れた。開院したてとしては好調である。
だが開業して三日経《た》った日曜日の朝、玄関口を掃いていた看護婦の児《こ》玉《だま》もとが息を荒げて奥へ戻ってきた。
「先生、表の板塀《いたべい》に落書きがあります」
「何と書いてあるのです」
「あのう……」もとは口籠《くちごも》り玄関へ向った。まだ起きたばかりで床もあげず、髪を結っていた吟子は簡単な身仕度をしてもとのあとを追った。
〈この家の主、血を好む恐ろしき女也《なり》〉
板塀一杯に石筆で書きなぐられ、その横に吟子の似顔絵らしきものが描かれている。右手にメスを持ち、髪こそ長いが顔は夜《や》叉《しゃ》の形相である。
「消しなさい」もとに命じると吟子は家へ戻った。
消したがそれから二日目の朝に再び同じ様な落書きがあった。玄関の右手の塀には、〈女が脈とる末世かな〉とあり、左の塀には、〈医者は女のすべきものに非《あら》ず〉と書かれている。昨夜、表の戸締りをする時にはなかったのだから、それから朝のうちに書かれたものに違いない。
「邏《ら》卒《そつ》にでも訴えましょうか」
「放っておきなさい」
吟子はとりあわなかった。
「でも、夜に見知らぬ男が来て書いているかと思うと気味が悪くて……」
「書いてあったら消せばいいのです。下手に騒いではかえって相手の手に乗るようなものです。こういう偏見を改めさせるには根くらべしかないのです」
それは好寿院で辛酸《しんさん》の果てに身につけた迫害からの身の処しかたでもあった。
実際、塀の落書きくらいで吟子は怯《ひる》んでいられなかった。吟子が内務省の免許を得たと伝えられると吟子への賞讃の記事とは別に、「女は果して医者に向くか否《いな》か」という問題がたちまち新聞紙上で論議された。新聞社の論客を初め、多くの人がこの問題について投書したが、その大方は従来の古い道徳倫理観から「女は医者に適さず」という意見がなお多かった。
これに対し吟子は『女学雑誌』に、
〈医は女子に適せり、啻《ただ》に適すといふのみにあらず、寧《むし》ろ女子特有の天職なり、長袖《ちゃうしう》安居して、患者の気息を窺《うかが》ふが如《ごと》きは、堂々たる日本男児の深く恥《はづ》る所なり〉と男を煽《あお》ったうえで、〈列強が虎《こ》狼《ろう》のごとく日本をうかがふとき、日本男児の腕を振ふべき場所は戦場にこそあり。請《こ》ふ内地に於《お》ける万般の職業は、能《あた》ふ限りは女子をして之《これ》をとらしめ、不生産的に一生を消長すべき婦女子をして国家なる観念を大ならしめよ〉と主張した。
この意見には識者の多くが納得し、改めて吟子の考え方の新しさに感服した。
だがこれらの議論はあくまで新聞紙上での問題に過ぎない。女が医者に適そうが適すまいが、女が男の脈をとることが由々《ゆゆ》しき大事であろうとなかろうと、病人にはそんな理屈を言っている余裕はなかった。
吟子の開業した本郷一帯には他に開業医は二軒しかなく、それもかなり離れていたので、近くの人々は好むと好まざるとにかかわらず吟子の許《もと》へ来ざるを得なかった。町民が医者を選《え》り好みするほど、医者が多いわけではない。男尊女卑の風潮は下町よりむしろ山の手の住人に強かったのであるから「女医者反対論」がまかり通ったとしても病院経営の面ではさして問題ではなかった。
問題がないどころか、開業一カ月もすると荻野医院の待合室はたちまち患者で溢《あふ》れた。
開業をしてみて吟子は今更のように婦人に花柳病《かりゅうびょう》が多いのに驚いた。相手が女性だということで、今まで耐えていた女達が一斉《いっせい》に押し寄せた故《せい》もある。それにしてもこうまで多いとは思わなかった。
朝、診察室へ行くと、膿淋《のうりん》特有の顔が蒼《あお》ざめ、軽い股開《またびら》きでそろそろと歩く女性達が詰めかけている。
苦しさを知っているだけに吟子の診察は懇切丁寧であった。
お医者様といえば現在とは比較にならぬほど権威と社会的地位があった時代である。このころ、男医なら「していつから悪いのじゃ」と八の字髭《ひげ》をしごいて尋ねるところを「いつから悪いのですか」とやさしく尋ねる。しかも尋ねる先生が小柄な細身の女性である。これが男さえ容易にとれぬ開業医術試験という難関を突破した女とはとても思えない。近所の娘といった感じである。自然何を言うにも心易《こころやす》い。患者は病気以外に家庭のことまで綿々と述べ始める。それにうなずく吟子の姿は医者という偉く近寄りがたい先生という印象からはほど遠かった。
表には一応、産科婦人科と記してあったが、慣れるに従い近くの男達も、手足を打ったとか、切り傷ができたといってはやってきた。
「家の先生は専門は婦人科なのですよ」
受付で看護婦が言うと印半纏《しるしばんてん》をまとった声の大きな男は、
「面倒なこと言うもんじゃねえや。婦人科だろうと産科だろうと、お医者であることに変りはあるめえ。ほらこのとおり血が出てるんだぜえ」
と血染の指先をぐいと突き出す。
「診てあげられないわけでもありませんが、家は御覧のとおり女の患者さんが多いのですから大人しくしてくれなければ困りますよ」
「滅相もない、血が出てるのに騒ぐわけはねえだろう。とにかく女先生に頼んでみてくれよ」
傷を治して貰いたいのは勿論《もちろん》だが、ついでに評判の女先生を見ようという好奇心もある。
男であろうと吟子には臆《おく》するところはなかった。好寿院で野卑な男達にもまれたことがこんな時に役立つ。吟子お得意の着物の上に黒の被布《ひふ》をつけたスタイルは眼が醒《さ》めるほど凜々《りり》しく美しい。出てきた女医者の美しさに男は傷のことも忘れてしばらく見とれている。
「どうしました」
「鉈《なた》で切ったんでさあ」
「消毒して縫わなければいけませんよ」
吟子は素早く手を洗い、水を切るとその細い手で自分の倍ほどもある男の太い手首を捕える。
「少ししみますよ」言うやいなや、傷の真上にさっと濃アルコール液をふきつける。
「痛っ」
たちまち男は眉《まゆ》を顰《しか》め、首を反《そ》らせるが吟子は容赦しない。
「三針ですからね、すぐですから麻酔はしませんけど我慢するのですよ」
「えっ、そのままですかい」
「この方が少し痛いけど、あとがずっと楽ですよ」
当時の麻酔といえばほとんどがクロロフォルム吸入麻酔であった。クロロフォルムを嗅《か》がせて眠らせるのだが、眠らせるまでと、目醒めるまでに苦しむうえに胃に食物が残っていては窒息する危険があった。
「何卒《なにとぞ》お手やわらかに」
「分っています。こちらを見てはいけません」
思いがけない厳しい声に男は慌《あわ》てて目を閉じる。女医者などと侮《あなど》って来たのが運のつきである。女だろうと男だろうと、医者である以上やることに変りはない。被布の袖をたくし上げ、改めて消毒液で手を洗うと、右手に白く光る受針器をとりあげた。
「一つ、二つと、ゆっくり数えているのですよ。三十も数えないうちに終りますからね」
男がうなずくのを見定めて吟子は直径四センチほどの半弧を描いた縫合針を血の吹き出る指の皮膚へ突きさした。
「うあっ……」
「動いては駄目っ」
「ああっ……」
引き戻《もど》そうとする手を大柄《おおがら》なもとが引きとめる。
「痛ああっ」
指先は特別鋭敏な個所である。そこを麻酔もなしに糸のついた角針を通すのだからたまらない。針の通る度に男は夜鳥のように声をあげて身をよじる。流行のチャン刈りに捻《ねじ》り鉢《はち》巻《ま》きの男の顔は、たちまち蒼ざめ、顔には脂汗《あぶらあせ》が浮き出る。
「畜生、畜生」
ここが男の心意気である。涙を見せては江戸っ子の名がすたれるとばかり男は自分で自分を励ます。だが生理的な痛みには耐えようもない。堅く閉じた男の瞼《まぶた》の間からは知らず知らず涙が滲《にじ》む。
「駄目っ、動いては駄目と言ったでしょう」
「は、はいっ」
「我慢よ、我慢」
吟子の掛声と男の呻《うめ》きが待合室に待つ人々の耳にも重々しく伝わってくる。男の苦痛の声は女のように派手でないだけに聞いている者には一層切ない。男に附き添って来た二人の同僚も落着かぬ風《ふ》情《ぜい》で立って腕組みしたまま互いに顔を見合せる。
「もう一針」
吟子は受針器をかかげ、その針穴に悠々《ゆうゆう》と糸を通す。皮膚縫合用四号絹糸という太糸だ。男は再び来るべき痛みを思い身を小さくして待つ。
「もう一度、指を伸ばして」
吟子の動作には淀《よど》みがない。男が呻き、血を流すのを見ながら吟子はむしろ楽しげだ。
「もう少しよ、あと一回」
励まし力づけながらその声は妙に生き生きと時には艶《なま》めいてさえ聞える。眼は輝き、鼻がひくひく動いている。優しくいたわるというより冷酷で、むしろサディスティックな眼《まな》差《ざ》しだ。
もっとも外科医というのは大なり小なりそんなところがある。
他人の痛みをいちいち自分のものとして感じていたのでは仕事はやっていけない。どんな呻き声にも同情するより、まず冷やかに見詰める態度が要求される。それを繰り返しているうちに患者の苦痛に対しては鈍感になっていくものだ。
それは無関心というのではなく不感症に近いものである。だが吟子の場合は医者としての不感症というのとは少し違っていた。感じないというのではなく、むしろ感じているのだった。それもある種の快感として感じていた。眼の前の患者が呻き苦しむのを平然と見ている。見ていて嫌《いや》な気がしないのだ。心の奥底ではその光景を楽しんでいる。どんな風なのか、眺めてやろうという気持がある。それが苦しむ患者が男である時に一層強い。
大の男が吟子の眼前で脂汗をかいてのたうちまわる。吟子の顔色を窺《うかが》い、命ずるままに動く。男はそのとき吟子の掌中に入った一匹の虫けらにすぎない。恥も外聞もなく吟子の一挙手一投足に泣き叫び哀願する。そしてその瞬間、吟子は充実する。
しかしこの感覚は吟子の心の奥底でかすかに感じていることで、吟子自身が表立って意識していたわけではない。ただこの時は、女のくせに血をみても私は割合平気でいられる、と思ったに過ぎない。
やはり私は外科医に向いているのかもしれない……
自分で確かめながら、それがまた医師としての自信ともなった。
荻野医院に通ってくる患者の中に井村すえという患者がいた。カルテには仲《なか》御《お》徒町《かちまち》の井村幸吉の妻で二十三歳と書かれているが、白《おし》粉《ろい》気《け》のない蒼く萎《な》えた顔は三十近い年齢に見えた。初めの日、すえは病院に七、八歳になる男の子を連れてきた。
症状をきいただけで女の病気は膿淋と想像がついたが、吟子はさらに確かめるために局所を診察した。吟子が女の故《せい》か、すえは臆する気配もなく診察台に上った。
「今度が初めてじゃありませんね」
すえは垢《あか》で黒光りしている木綿の前を合せながらうなずいた。
「熱のある時にはやはり休まなければいけません」
すえは分ったのか分らないのか、黙って診察の間、部屋の端に立っていた少年を引き寄せた。
「無茶をすると病気がお腹《なか》の中まで拡《ひろ》がりますよ」
「前の時は十日くらいで治ったのです」
潜んでいた淋疾が再び現れただけなのに、女は前と今回とは各々《おのおの》の新しい病気だと思っているのだった。
「病気はやはり体を休めることが第一です。休めたうえで薬を服《の》むのでなければ、薬の効果はありません。帰ったら局所を氷水で冷やして休むことです」
もう一度念をおしたがすえは答えなかった。女と子供の身装《みなり》の様子ではのんびり休養する余裕はないのかもしれなかった。
「お薬を服むのですよ」
「いくらですか……」
薬と聞いて女は急に不安そうな眼差しを向けた。病気の故か、顔色は蒼ざめているが細《ほそ》面《おもて》で目鼻立ちは整っている。髪の毛はほつれたまま顔の肌《はだ》も乾いたように薄汚れているが、化粧したらなかなかの美人になることは間違いない。
「五日分で二十五銭になります」
吟子は女の表情を見て普通の半値の値段を言った。女は少し考えるように小首を傾けていたが、やがて決心したように、
「三日分だけ……」と言った。
「お金ならいつでもいいのです。ひとまず五日分持ってらっしゃい」
吟子はカルテの右上に「治療費免除」と書き足した。
「いいですか、局所はいつもきれいにしてできるだけ体を休めることですよ」
「済みません」
すえという女はもう一度頭を下げると、子供の手を引き逃げるように診察室を出た。
吟子にとって医院経営は決して楽なわけではなかった。高島嘉右衛門に借りた金の返済は勿論《もちろん》だが、長年苦労をかけた姉の友子にも一刻も早く恩返しをしたい。荻江や家庭教師に出向いていた荒川家等にもその時々に応じて無心した金もある。
誰《だれ》もが、何一つ督促がましいことは言わず、一種の「ある時払いの催促なし」みたいなものだから日々苦しむというようなことはないが、相手の好意が分るだけに、一層その厚意に報いたいと思う。
だが訪れてくる患者は必ずしも裕福な者ばかりとは限らない。
湯島界隈《かいわい》はちょうど下町と山の手の中間といったところで、両方の階級の人達が交り合って棲《す》んでいる。商家の内儀や、大店《おおだな》のお妾《めかけ》さんといった比較的裕福な階層に交って、下谷の一角には労働者や行商から辻芸人《つじげいにん》、物貰《ものもら》いといった細民の端くれまでが棲んでいた。
細民は初めから医者などにかからず、売薬か、伝え聞いた漢方で治す程度のものだが近くに医院ができたとなれば苦しい時にはお医者の手に触れて貰いたくなるのが人情である。しかもその先生が、女で優しくて、客の選り好みをしないとあればなおさらである。井村すえという若く貧しい人妻も、家のあり金をはたいてやってきたに違いなかった。
「医は仁術」とはまさにこの頃《ころ》の吟子のことであった。もっともこんな考えは今ではすでに通用しない。この点に関し、今の医者は儲《もう》け主義一筋で昔の医者のような人情味がない、という人もいるが、これは必ずしも当っていない。たしかに義侠心《ぎきょうしん》といったものは薄れてしまったが、それは世間一般の風潮であって、あながち医者だけ責めるわけにいかない。
事実、現在の最も儲け主義な開業医でさえ、明治時代の医師の経済状態からみるとはるかに低い。まさに雲泥《うんでい》の開きがある。当時は診察料がいくら、何の薬がいくら、などと細かい取りきめなどは何ひとつなかった。
「これは拙者《せっしゃ》特製の秘薬じゃ」などと言って麦粉に糊《のり》をまぶしたような丸薬でも、その気になれば莫大《ばくだい》な金銭をとれた。これと狙《ねら》った金持からはごっそりと頂戴《ちょうだい》しても、そこに何の規制も監視もなかった。金持もまたごっそり取られて、医師と親交があるということを自慢にしていた者もいる。こうしておいて一方では貧民に仁術を施す。
「払いは盆暮まで待つ」とか「水薬代はいらぬ」といったところで、医師にとってはまことに微々たるものである。それも限られた医師がごく稀《まれ》に行なったに過ぎない。
稀だからこそ大層な評判になるのである。
それでも時たまこういうことをしておけば「あの先生は仁術だ」ということでぱっと人気がでる。庶民は人づき合いが多いから彼等を宣伝の具に使うのは一番手っ取り早い。そんなところまで考える医師もいた。したがってこのあたりはかなり割引して考えなければならない。
もう一つ、医師としての自負心というか、自尊心も昔からみると随分と低下してしまった。現在では医者は医術提供者として、単なる技術者になり下ってしまった、という批判もある。
だがこうした傾向もあながち悪いとはいいきれない。このおかげで医者は随分と庶民的になった。とにかく明治時代の医者は今からでは想像もつかない尊大さであった。
かなりの高熱の者でも医師が着いたとなるとただちに裸になり、床に起き上って医師の来室を待った。姿が見えると眩暈《めまい》をおさえて丁重な挨拶《あいさつ》を交わす。脈を診て貰う最中でさえ頭を下げ続けている。医者と口をきくなどということはほとんどない。怖くて口もきけないのである。だから診察中はひたすら頭を下げ続け、「後ろ」、「右」、「もうよい」といった命令に操り人形のように従うだけである。症状の説明もその後の治療についても何も分らぬままに気付いたら医者がいなかった、などという笑えぬ話もあった。
この緊張は家族も同様で、ただただ粗相のないように全神経を集中したというのが実情である。とにかく往時のお医者というのは庶民にとっては雲の上の存在であった。
だが吟子は違った。もちろん人気取りや、一時の気《き》紛《まぐ》れで親切にしたわけではない。どんな病人を見ても、吟子には自分も病気で苦しんだという実感があった。
意識するとしないにかかわらず、吟子の心の中に自然に動き出すものがある。それは病む者同士の共通の心の繋《つな》がりでもあった。
町を歩いていても、患者に会うと吟子は自分から声をかけた。
「この頃はいかがですか」
五、六軒手前から道を除《よ》け、目礼して通り過ぎようとしていた患者は驚いて立ち止る。
「お薬は服んでいますか」
「はい、おかげさまで随分楽になりました」
「そうですか、まだ無理をしてはいけませんよ」
「ありがとうございます」
医者といえば往来は駕籠《かご》で歩くか、明治の半ばからは人力車というのが通り相場であった。従って道では滅多に医者の顔など見ることさえ出来ない。それが自分から買物にも出るし、向うから話しかけてもくれる。こんな医者は初めてだった。
吟子の評判はみるみる上った。外来から往診と朝の九時から夜の八時すぎまでほとんど休む暇もなかった。
三日分のお金だけ払い、五日分の薬を持って帰った井村すえは十日経《た》っても姿を現さなかった。
「やっぱり貸すといけませんね。私は一目見た時からあの人は返しに来ないと思いました」
一日の診察が終ったあとで、看護婦のもとがカルテを整理しながら言った。
「いろいろ忙しいのでしょう、そのうちまた落ちついたら来るでしょうよ」
そう言いながら吟子もすえが払いに現れるとは思わなかった。実際、払いに来たところですえから金をとる気は吟子にはなかった。
「未払いばかり増えてはどうにもなりません、これ全部がそうですよ」
もとは机の右に除けたカルテを示した。それだけで二十枚はある。このうち三カ月以上も経ってカルテの住所のところを尋ねても本人はおらず、ほとんど回収不能と思われるものが二割近くある。
江戸時代以来、医者にだけは不義理はしまい、というのが人々の考えであった。医者に不義理をしてはその地に居《い》辛《づら》くなるからである。もしかの時の備えのため、借金がなくても盆暮にはかかりつけの医者にだけは届け物をするのが当時の風習であった。それが「まさか」の時の心頼みでもあった。その医者に不義理をするのはよくよくのことがあるに違いなかった。貸した方より借りた方が辛いのははっきりしている。
「それよりも、あの女《ひと》は五日分ぐらいの薬で病気がおさまるとは思えないのですが、どうしたのでしょうか」
払えるなら来るであろうにと吟子は現れぬ若い妻が哀れだった。
「万年町の米屋の内儀の話だと、あの人は下の長屋に住んでいて、浅草辺りで男と読売りをやっているという話です」
「旦《だん》那《な》さんとですか」
「子供も連れて歩いているそうです」
当時、盛場所などの道の端に立ち、卑《いや》しげな数え歌などを謳《うた》い、その文句と節付の摺本《すりほん》を売っていた者を読売りと言った。井村すえは夫と、それをやっているというのだ。
「本当ですか」
「たしかに見た人がいるのですから、間違いありません。男が謳って、あの人は本を配って歩くそうです」
膿淋《のうりん》で病む女が夫と子供と三人で街頭に立っている姿は想像するだけで哀れだった。読売りではその日その日の生活に追われるのも無理はない。初回の時もってきた金は女にとって精一杯の金であったのかもしれなかった。
「そんなことなら代金なぞ、初めからいただくのではありませんでした」
「でも三日分だけは払うと向うから言い出したのですよ」
「払えるだけでいいと言ったからです」
「先生、そんなことを言っていては商売になりませんよ」
もとの言う通りかもしれなかったが、払えないと知っている者から金をとるのは辛い。名《な》主《ぬし》の家に育っただけにお嬢様商法的なところもあった。また、すえ一人から金を取ったところでどうなるわけでもない。
「あの人などは衣服を着、下駄《げた》を穿《は》いているのですからまだいい方ですよ。でもああいう人は貸すとくせになってますます横着になるものです」
小さい時から下町に住んでいたもとの人を見る目の方が正しいのかもしれなかった。しかしだからと言って払えそうもない者へ強引に請求する気にはとてもなれない。名主の家に育ち、苦学といいながらも有力な後見人がついていた吟子の商法は、まだまだお嬢さん的なところがあった。
ところがその日の夕方、二人の話を盗み聞きでもしたように、井村すえがやってきた。
「どうしたのかと心配していたのですよ」
早速吟子が声をかけると、すえはもじもじと下を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。相変らず乾ききった髪に蒼《あお》く冴《さ》えない顔が伏目に控えている。
「して、どうなのです」
「実は、この子が……」
すえは横にいる子を吟子の前におし出した。
「今朝、眼をあけると……」
「あら……」
顔を上げた男の子をみて吟子は思わず小さく声をあげた。
両の瞼《まぶた》が赤い玉を呑《の》み込んだように腫《は》れ上り、眼もあけられないほどの状態である。しかも眼《め》尻《じり》からは膿汁《のうじゅう》が垂れ下り、頬《ほお》まで達している。
「どうしたのですか」
「何もしないのに、昨夜から急に眼が痛いといい出して、一晩中、泣き通しだったのです」
すえの声は相変らず嗄《しわが》れて低い。
「貴女《あなた》がその手でこの子の眼に触りませんでしたか」
女は吟子を見上げたがすぐ思い出したように「昨日風で眼にごみが入ったというので眼を拭《ふ》いてやりました」と言った。
「昨日のいつです」
「昼間です」
吟子はもう一度、子供の眼を覗《のぞ》き込んだ。明るい方に向っただけで眼球が痛むのか、子供は顔をあげただけで怯《おび》えたように泣き始めた。
「少し我慢なさい」吟子は手を洗い子供の瞼に触れた。
「いいですか、洗眼しますからね、膝《ひざ》の上に抱きあげてしっかり掴《つか》んでいるのですよ」
洗眼液の冷たさで子供はさらに泣き出した。
「もとさん、後ろから掴まえて」
泣き声などに構ってはいられない。消毒された吟子の人差指と薬指が子供の瞼の裏をこする。その度に洗眼液に交って膿汁が頬を伝って流れおちる。瞼の裏は赤く充血し、化膿した粘膜が粒々に腫れ上り苺《いちご》の表面を思わせる。
「軟膏《なんこう》」
吟子は硝子《ガラス》棒《ぼう》の先に白い塗り薬をとると、それを瞼の中へ塗り込んだ。
「眼帯をしなければいけませんよ、それから、注射と薬」
「あのう……」
「駄目です。絶対しなければいけません」
子供はなお泣き続けるが痩《や》せこけた体から出る声は診察室にかすかに響くほどに弱く細い。眼帯をし終ってから女が遠慮がちに尋ねた。
「トラホームですか」
「違います、こんな急に激しくくるのは、風《ふう》眼《がん》にきまっています」
風眼とは今でいう淋菌性結膜炎である。こんな病気は抗生物質ができ、衛生環境が改善された現在ではまったく見られなくなったが、当時はまだまだあった。
「貴女の手からうつったのですよ。その手に黴菌《ばいきん》がついていたのです。だから手はいつも綺《き》麗《れい》にしておくように言ったでしょう」
すえは二十代とは思えぬ皺《しわ》の多い掌を拡げた。この掌にそんな怖《おそ》ろしい菌がついているのかと不思議そうに見詰めている。
「湿布薬をあげますから、家に戻《もど》ったら一生懸命冷やすのですよ」
「…………」
「それから薬は一日に四回、六時間おきに必ず忘れずに服ますのです。いいですか、きちんと守らなければ眼がつぶれますよ」
母親は怯えたように吟子を見上げた。
「これは怖ろしい病気なのです。決して脅《おど》かしているのではありません、これで眼がつぶれた人は何人もいるのです」
粘膜は淋菌に最も侵され易《やす》い個所である。当時下に触れた手で眼をこすって淋菌性の結膜炎になり、これが昂《こう》じて失明した人はかなりいた。
「分りましたね」
すえは軽く口を開けたままうなずいた。失明するかもしれない、と言われてすっかり動《どう》顛《てん》しているのだった。
「ところであなたはどうなのです」
「…………」
「あなたの体の具合です」
叱《しか》られた子供のようにすえは眼を伏せたまま答えない。貧相な顔に長い睫《まつげ》が翳《かげ》を落している。
「お小水はよく出ますか」
「…………」
「はっきり答えなければいけませんよ。まだ痛みはあるのですね」
すえはかすかにうなずいた。
「小水に膿《うみ》のようなものが交りますか」
今度は少し考えてから首を左右に振った。
「静かにしていなければいけません。ついでにそちらのお薬もあげますから、きちんと服んで下さい」
すえが怖る怖る眼を上げた。
「これだけ……」
すえは汚れで黒光りする襟元《えりもと》から十銭玉を二つとり出した。子供の眼が悪くならなければ来なかったに違いない。
「結構です。お金なぞ心配しないように、それよりきちんと来るのです。子供さんは明日も連れて来なければいけませんよ」
もう一度うなずいてから、すえは少年の手を引いてのろのろと診察室を出て行った。
もとが溜息《ためいき》をつき、それから気を取り直したように新しい患者を呼んだ。しかし吟子はその日一日中、すえ母子のことが頭にこびりつき、気は晴れなかった。
翌日、すえは昼近くに現れた。待っていただけに母子の顔を見て吟子は安《あん》堵《ど》した。眼の腫れは左の方はいくらか治まったようだが、右眼の瞼の間は再び膿でふさがっていた。
痛みの激しい化膿の進む時期が過ぎた故《せい》か、少年はいくらか大人しくなっていた。
「冷やしていますね?」
すえは眼をかすかに動かした。そうとも、そうでないともとれる返事だった。一日中、子供につききりでは、夫と二人組んでの読売りは出来ないことになる。あるいは子供だけ置いて町角に出かけているのか。子供の悪い時だけでも読売りはやめた方がいい、だがやめろという権利なぞ吟子にもなかった。「休まず冷やすのですよ」医師として言えるのはそれだけだった。
なにか虚《むな》しいと吟子は思った。
四日間、言われたとおりすえ母子は通ってきた。
だが五日目から二人はまた現れなくなった。初めに二十銭払ったきりで、その後は一銭も入れていない。前の未払分もそのままだ。
カルテの右横に児玉もとが二十五銭未納と書き込んでいる。
「この頃、井村さんは見えませんね」
すえが来なくなってから三日目に吟子はもとに何気なく尋ねた。
「四日間来たきりです」
自分のいない往診の間にでも現れたかと思ったが、そんな気配もなかった。
「あの子、どうしたでしょうね」もとが逆に尋ねた。
「来ないところをみると、きっと快《よ》くなったのでしょう」
何食わぬ顔でそう言ってはみたが吟子には自信がなかった。あのままでは子供は失明し、すえのお腹《なか》の中は淋菌の巣になってしまう。一度気にしだすとじっとしていられなかった。心配でたまらない。
翌日、吟子は往診へ出たついでに、カルテの所番地を頼りに仲御徒町のすえの家を訪れた。
すえの家は上野広小《ひろこう》路《じ》を西へ入り、徳大寺横の小路を北へ曲った突き当りの棟割《むねわり》長屋の東端にあった。細い露地は暮れ時で夕飯の仕度をする女子供達が井戸端に群がり、貧しげな小路は一層雑然としていた。水を汲《く》んでいた女に家を尋ねて吟子はようやくすえの家の前に立った。格《こう》子戸《しど》の障子はあらかた破れ、戸口には使い古した桶《おけ》と盥《たらい》が雑然と置かれている。
「ご免ください」
細目に格子戸を開けたが返事がない。もう一声かけて吟子は待った。
「だあれ」
中からの声はまさしくすえの声であった。睡《ねむ》たげな気のない声である。
「井村さんのお宅でしょうか」
「そうですが」
人影が近づき中から戸が開けられた。
「あっ」
瞬間、すえは小さく声をあげ身を退《ひ》いた。
「先生……」
すえは慌《あわ》てて襦袢《じゅばん》一枚の胸元を合せ目を伏せた。今起きたように髪は乱れ、項《うな》垂《だ》れた襟《えり》元《もと》には垢《あか》が滲《にじ》んでいる。
「そこまで往診に来たので、どうしているかと思って寄ってみたのですよ」
「…………」
「その後どうなのですか」
上りっぷちにすぐ水桶と流しがあり、その先は板の間になっている。板の間の先は障子が半ば開かれ、その間から敷かれたままの布《ふ》団《とん》の端がのぞかれる。
「子供さんはどうです」
「…………」
「眼は治りましたか」
何を聞いてもすえは答えずただ身を堅くしている。
「いま、いらっしゃらないのですか」
その時、奥から太い男の声が流れてきた。
「おい、何をしているだ」
ぴくっと打たれたようにすえは奥へ目を動かした。
「誰《だれ》だ、誰が来とるのか」
太い声は酔っているらしい。
「御主人ですか?」
すえは怯えたように吟子の顔を探ってからかすかにうなずいた。すえの襦袢姿と障子の間から見えた布団とで吟子には大方の察しがついた。
「まだ治っていないのですね」
「はい」
すえが聞えるか聞えないかの声で答えた時、また男の声が響いた。
「おい、早く寝ろ」
瞬間、吟子の頭に圧《お》さえようのない怒りがこみあげた。
他人の家へどう乗り込んだのか吟子には憶《おぼ》えがない。戸口に立っていたすえも、踏み込まれた男にもそれは同じだった。
「あなたはすえさんのご主人ですか」
「なんでえ、おめえは」
布団の上で褌《ふんどし》一枚で横になっていた男は、突然の闖入者《ちんにゅうしゃ》に慌てて床の上に起き上った。
「私は三組町の医師、荻野吟子です」
男は信じられぬというように口を開けたまま見上げていた。
「この人は私の患者さんです」
吟子は後ろの板の間に力が抜けたように坐《すわ》り込んでいるすえを見て言った。
「おめえ、呼んだのか」
夫に尋ねられて、すえは目だけ男に向けたまま首を振った。
「突然、お邪魔して申し訳ありませんが」
全裸に近い姿の男の前につっ立っている無法に吟子は初めて気付いた。
「なんですかい」
「この人は病人なのですよ、しかも膿淋《のうりん》という大変な病気なのですよ」
男はのろのろと坐ったまま浴衣《ゆかた》を着始めた。
「しかもあんたのお子さんは、その病気がうつって眼がつぶれそうなのですよ」
肩に着物をかけながら男が白けた顔で言った。
「で、なんだというのかね」
「奥さんと子供が病気だと言うのに、男のあなたは昼間っから何をしてるのです」
男は不機《ふき》嫌《げん》に黙り込んだ。
「働きもせず、酔って寝て、それでもあなたは父親ですか」
吟子が詰め寄った時、男が表を睨《にら》んで大声をあげた。
「見世物じゃねえ、帰ってくれ」
驚いて振り返ると半ば開けられた戸口の前に近所の者達が詰めかけている。吟子は急に羞《は》ずかしくなった。自分の無謀さが改めて身に沁《し》みた。
「少しは父親らしくしてあげて下さい」
顔を赤らめ、照れをかくしながら吟子は低い声で言った。弥次《やじ》馬《うま》達は顔を引いたが、男は不機嫌に黙り込み、すえは上り口に萎《しお》れたように首を垂れている。
「明日、必ず病院に来るのですよ」
言い捨てると吟子は逃げるように土間に戻った。表に出ると戸口の周りに立っていた者達が慌てて身を引いた。人々が目配せし、うなずき合うのが分った。その間を吟子は小走りに通りへ向った。
吟子のこの行為はその日のうちに下谷一帯に拡《ひろ》がった。
「なかなか立派な先生だ」「これですえの亭《てい》主《しゅ》も少しは考えるだろう」といった讃《さん》辞《じ》とともに、「気丈夫なお方だのう」という言葉から、「女だてらに……」という軽い批判の声まであった。
それらの声にことさら知らぬ気を装いながら吟子はもと達に、「女はつまらぬ亭主をもっては一生苦しみます」と言った。
「あの旦那さんは特別のぐうたら《・・・・》なんです」
「男にはよくよく注意しなければいけませんよ。いつどこで、どう変るか分らないのですから」
言いながら吟子は自分のことを言っているのに気付いて、口を噤《つぐ》んだ。
吟子が命じたとおりすえは翌日の夕方、患者が少なくなるのを見計らったように子供とともに病院へ現れた。
「昨日は御免なさい」
昨日のことは吟子が謝るべき筋合のものではなかったが、ひとまず言っておかねば心が落着かなかった。
すえは「いいえ」とだけ言ったが、それ以上言わなかったのは横柄《おうへい》なのではなく、何と答えていいのか言葉が見付からないためのようであった。
「さあ診ましょう」
吟子は屈託なくすえの右手にぶら下っている少年を引き寄せた。
「どうれ」
正面から見据《みす》えた瞬間、吟子は息を呑んだ。少年の右眼は以前よりは腫れがひき、眼の開きも大きくなっていたが、黒目も含めて眼全体にはすでに灰色の膜が張っていた。
「坊や、こっち」
一本の指を右眼の端に立てて呼ぶと、少年の顔は指を求めるようにゆっくりと回転し、斜め上を見上げた形でとどまった。右の瞳《ひとみ》はひとつも動いていない。
「こちら」
吟子は立てた指を左へ移動する。顔と左の眼だけが動き、右の眼が動かないのは同じだった。淋菌が結膜から角膜まで傷《いた》めたのは確かであった。
「見えないようですよ」
吟子は横に立っているすえに言った。
「坊やの右の眼が潰《つぶ》れましたよ」
二度言われてすえはようやくことの重大さに気付いたように、子供の顔を見下ろした。
「どうするのです」
吟子が聞いたが、それはむしろすえの聞くべきことであった。すえは不思議なものを見るように子供の顔を見詰め続けた。
「きちんと連れてこないからです」
すえに怒りをぶちつけてみたが、そうしたからといってどうなることでもなかった。といって黙っている気にはとてもなれない。
「あなた達親の責任です」
「もう駄目《だめ》ですか」
「当り前でしょう。こんなになってから慌てたって手遅れです」
吟子の厳しい声に子供は怯《おび》えたように振り向くとそのまますえの膝元に顔をうずめた。すえはその頭に両手をあて、項《うな》垂《だ》れていた。母と子が寄り添う、その姿を見ながら、吟子の怒りはさらにひろがった。
「この子はもう一生、眼は見えませんよ、不具ですよ。あんたが盲にしたんですよ」
吟子の顳┥《こめかみ》に青筋が走り、眼の縁が赤く潤《うる》んだ。
「あなたはそれでも親ですか、それでも母ですか、この子を産んだ母ですか、そんな……」
言葉が詰って吟子の細い首が小刻みに揺れた。
「先生……」
あまりの怒声にもとがたまりかねて声をかけた。
「とにかく……」
そのあと何を言うつもりだったか、自分で言葉を忘れた。
「先生のおっしゃることを守らないからですよ」
もとが二人の間を取りなすように言った。
吟子の頭から水が引くように怒りが消えていった。眼の前に嵐《あらし》を避けるように母と子がひしと抱き合っていた。それを見ながら吟子は腰から落ち込むように椅子《いす》に坐った。大海の中を一人で漂うような侘《わび》しさが、音もなく吟子の中に忍び込んできた。
「さあ治して貰《もら》いましょう」
もとはすえの膝元から少年の手を一本ずつとり放すと、少年の顔を再び吟子の方へ向けた。
潰れた眼をみると吟子の怒りは急速に消え、替って悔いが大きな翼のように拡がっていた。
大人げない、医者らしくもない。
吟子は自分で自分のしたことに呆《あき》れ戦《おのの》いていた。
少年と母親が寄り添ったのを見た瞬間、吟子の中に、もう一人の吟子が現れたようであった。その吟子が何を怒り、何を喋《しゃべ》ったのか、それさえ詳《つまび》らかでなかった。嵐が過ぎ、醒《さ》めてみるとその吟子は診察している吟子とはまるで無縁であった。
どうしたことかと吟子は祈るように目を閉じた。自分で自分が分らなかった。
「先生、お願いします」
もとに言われて吟子は目を開いた。少年は大人しく丸椅子に腰かけ、すえは額に手を当て頭を垂れていた。眼はまだ完全な失明とは断定できなかった。
「なんとか失明することだけは防げるかもしれません」
今程の怒りの償いのように言ったが、すえは答えなかった。
子供の処置を終えてから吟子はすえに向った。気持は完全にいつもの冷静さに戻っていた。
「あちらで診ましょう」
すえはのろのろと診察台に向い、そこで帯を解いて、台に上った。命じる前から自分で裾《すそ》をからげ膝《ひざ》を折った。
汚れ、部分的に膿がついた局所が眼の前にあった。病気は再び慢性化の道をたどり始めていた。
「しばらく交渉をもってはいけませんよ」
そう言いながら吟子は、すえの局所が布団の上で胡坐《あぐら》をかいていた男と繋《つな》がっていることを思った。
十日間すえは真面目《まじめ》に通ってきた。金もその都度払っていた。男はどうしているのか、尋ねたかったが聞くべきことでもなかった。
失明を危ぶまれた少年の眼は連日の洗滌《せんじょう》で、かすかながら視力を残して治まりそうであった。すえの病状も日とともに落ちつき、膿が出ることはほとんどなくなった。
梅雨が明け、開業して初めての夏が訪れた。
「汗をかいたら下着はなるたけ早めにとりかえるようにして、下はいつも綺《き》麗《れい》にしておくのですよ。それから交渉は七月一杯はいけませんよ」
すえは素直にうなずいた。
吟子は安心し、思い出すと赤面するような、すえの家への乗り込みも、我を忘れて叱《しか》ったことも、それはそれなりに意味があったと思い直していた。
だが七月の半ばになってすえは三日ほど通院を休んだ。働きにでも出始めたのか、暑さで来る気にならないのか、理由は分らなかったが、すえの病状はほとんど落ちつきかけていた。三日や四日休んだからといって清潔にさえしておけば今更ぶり返すわけもないのだと吟子はのんびりと構えていた。
四日後にすえは現れた。
「変りありませんね」
吟子が尋ねると、すえはそっと目を外らし、それからかすかにうなずいた。
「何かあったのですか」
「いいえ」
「じゃ、診ましょう」
吟子は診察台の方を目で示した。すえは少し戸惑った風に立ち止っていたが、吟子にうながされて台に上った。
慣れている故《せい》か、医者が同性の故か、すえは台に上ることに躊躇《ちゅうちょ》するところがなかったが、その日にかぎって彼女の動作は緩慢としていた。
「さあ、膝を曲げて」
吟子は命じた。初めの頃《ころ》はそう命じることに抵抗を覚えたが、今はそんなこともなかった。
「もう少し開いてごらんなさい」
すえの両の白い腿《もも》が戸惑い、震えながら開いていく。
「そう、もう少し……」
言いかけて吟子は目を止めた。目前に思いがけない変化があった。三日前まで乾ききっていた局所は赤く爛《ただ》れ、その下に青い膿汁《のうじゅう》が附いている。
「どうしたのです」
聞いた途端、すえは慌てて脚を閉じた。
「すえさん」
吟子は自分の声をおさえるように言った。
「すっかり悪くなっていますよ」
「…………」
「これでは前に逆戻りですよ」
下から顔を覗《のぞ》き込むと、すえは荒い息をくり返しながら目を閉じていた。とりあえず洗滌し、新しい薬を塗り込む。
「困ったことになりました」
吟子は手を洗い、診察机に戻った。すえは相変らずのろのろと着物を合せ、吟子の顔を伺うように丸椅子に坐った。
〈発赤、一部糜《び》爛《らん》、内壁に膿汁を認む〉
カルテに記載して吟子は顔をあげた。
「どうしたのです」
急に悪化した理由は何なのか、不潔にして新しい感染を起したのか、体の抵抗力自体が弱ったのか、あるいは……、吟子はすえを見据えた。
「約束を破りましたね」
ぴくっとすえは眼を浮せ、すぐ伏せた。
「正直におっしゃい」
「一昨日《おととい》……」
「今月一杯、関係をもってはいけないと言ったでしょう」
すえは瞬間、顔を上げ、もの言いたげにかすかに口だけ動かした。
「なんです?」
「夫が……」
すえの声は聞きとれぬほど低かった。
「御主人がどうしたのです」
「どうしてもって」
「あなたに無理じいしたのですか」
すえはのろのろとうなずいた。
「何故《なぜ》断わらないのです。あなたは病気なのですよ、普通の体ではないのですよ、一体何度言えば分るのです」
「でも……」
すえが珍しく言い返した。
「でも何です、他《ほか》に理由があるのですか」
「一カ月もしていないから」
「それがどうだと言うのです」
その時、すえはひどく悲しげな眼を見せた。年齢に似合わぬ長い睫《まつ》毛《げ》が黒々とすえの眼をおおっていた。
「それくらいがどうして守れないのです、どうして待てないのです」
吟子は歯《は》痒《がゆ》かった。こんな女がいるということが情けなかった。
「あなたは女でしょう、女がそんなことにどうして耐えられないのです」
言いかけて吟子はすえの眼が自分に向けられているのを知った。ほつれた髪の下の切れ長の眼は伏目ながら確かに吟子を見詰めていた。叱られ、打ちのめされながらその眼はなおたじろぐことなく吟子に向けられている。
「断わらなかったのですね、あなた自身がそれを待っていたのですね、あなたはそんな女なのですね」
「…………」
「もう私は知りません、勝手になさい」
言いながら吟子は、すえの中にふてぶてしく、揺るぎようもないもう一つの顔が潜んでいるのを知った。
荻《おぎ》野《の》医院が産科婦人科専門である以上、患者の中には大店《おおだな》の内儀もいれば、芸《げい》妓《ぎ》や妾《めかけ》もいた。上野元黒門町《もとくろもんちょう》に小《こ》粋《いき》な家をもつ中川かつは湯島の芸妓だったが深川佐賀町の廻船《かいせん》問屋の品田五十郎にひかされて妾になった女である。年齢は三十二歳だというが肌白《はだじろ》の小《こ》柄《がら》な体は二十四、五にしか見えない。
ちょっと見た目には楚々《そそ》として気弱そうに見えるが、色街にいただけあって伝法肌《でんぽうはだ》のきかん気の女である。
「例の痛みが出ました。恐れいりますが往診して下さい」
かつの許《もと》にいる小女が紙片に伝言を書いたのを持ってきた。吟子は午前中は外来を専門にやるので往診は午後になる。それも外来が混《こ》む時には午後四時、五時になる。簡単な昼食を終えると息つく暇もなく四時頃から往診に出かける。近いところは徒歩で行くが遠いところは車で行く。
吟子の医院を訪れる女性の半分は膿淋か消《しょう》乾《かち》(淋菌性でない膀胱炎《ぼうこうえん》)といった下《しも》の病気であったが、かつも御多分に洩《も》れない。
「また出たのですよ。この前治りきらないうちに向島《むこうじま》まで出歩いて雨に当てられた故《せい》かもしれません」
十年前、一本になると同時に膿淋になったというかつは、さして驚いた様子もない。
「半年に一度、定期便のようにぶり返してくるのです」
診るまでもなく女の局所は赤みを帯び爛《ただ》れている。患部を洗滌して白檀油《びゃくだんゆ》とウバウルシの調剤を与える。調合をし終った時、かつは思い出したように言った。
「月の終りまでには痛みは治まりますね」
七月二十五日で月末までには、あと六日しかない。慢性化した膿淋の再発だから大したこともないが、といって六日で小康を得るのは無理な相談だった。
「なんとかなりませんか」
「旅にでも出かけるのですか」
「いえ、そうではありませんが……」
かつは横目で軽く吟子を睨《にら》んだ。艶っぽい眼《まな》差《ざ》しである。
「お分りでしょう」
男のことだと吟子はすぐ察しがついた。
「大阪から戻《もど》って一カ月ぶりのお出《い》でなのですよ」
「月末はまだ無理ですよ」
「でもそれじゃ困ります」
「困るといったって、病気だと言えばいいでしょう」
「それがこうと思ったらきっとやり遂げる人なのです。私が瘧《おこり》で呻《うめ》いている時でさえ要求したのですからね」
「そんな……」
「とにかく普通じゃないのですよ、来た以上しなければおさまらないのですから」
「それではまるで苦しめに来るようなものじゃありませんか」
「そうなのですよ」答えながらかつの眼は笑っている。
「あなたが断われないのなら私からその旦《だん》那《な》様に言ってあげます」
「いいのです。この頃は月に一、二度のお出でですから、それぐらいのことは我慢しなければなりません」
かつは当り前のことのように言う。
「しかしそれじゃ一層悪くなりますよ」
「旦那さまはそれをお目当てにいらっしゃるのですから仕方がありません」
言われてみるとその通りである。たしかに女の生活の資本《もとで》はその性で購《あがな》っているのだ。だがこれでは男の性の玩具《おもちゃ》でしかない。たとえ男に世話になっているとは言え、あまりに情けない。
「でも、この病気は貴女《あなた》がもって生れてきたのではなく、結局は殿方からうつされたのですよ」
「そうです、二人目の男に十八の時でした」
「それ以来ずっと苦しめられているのでしょう。その苦しみは全部男が与えていったものですよ」
吟子はこの悪気のない三十女に男への憎しみをかりたてようと思った。だがかつはひどく明るい声で言った。
「消乾と分った時、痛みと熱で私は泣いたのです。そしたら今は千住に帰った、玉本という姐《ねえ》さんがきて『これでよかった』と言われました」
「よかった?……何故です」
「今は少し辛《つら》くてもこれで落ちつけば子供を産めない体になれるからって」
「それが、どうして?」
「一カ月してお客がとれるようになった時、女将《かあ》さんがお祝いだと言って赤飯を炊《た》いてくれました。たしかにそれ以来妊娠の心配なぞしたことはありません」
吟子は答えるすべもなくかつの童女のような眼を見ていた。黒い瞳は何人もの男と寝てきた娼婦《しょうふ》の眼とも思えぬほどあどけない。
「今度だけ許して下さい」
「許さなくてもあなたはするでしょう」
「だって先生、あんな快いことを止《よ》せというのは酷な話ですよ、ねえ、そう思いませんか」
かつの目に淫《みだ》らな笑いが浮んだ。
吟子は手を洗い薬味箱を引き寄せた。
「先生だって分らぬわけではないでしょう」追いうちをかけるようにかつの笑い声が続いた。
ものも言わず立ち上ると、吟子は玄関に向った。
「あ、先生がお帰りよ」
小女が慌《あわ》てて見送りに現れて頭を下げた。
吟子はいかにも妾の家らしい黒塗りの塀《へい》を抜けると狭い小路へ出た。もはや憐《あわ》れみも憤《いきどお》りもない。どうしようもない空《むな》しさだけが吟子をおし包んでいた。
七月の末、吟子は頼圀《よりくに》の家を訪れた。
開業して三カ月近い月日が経ってようやく心のゆとりができてきた。だがそれは開業に慣れたというだけで気持の上で安定しているということではなかった。それより気持だけのことから言えば、開業してからの方が、かえって何かと波立つことの方が多かった。
頼圀の家を訪れる気になったのも、表向きは開業祝いに来てくれたことへの御礼のつもりだったが、その裏には開業して感じたことを頼圀に訴えてみたい気持があったからでもある。
暑い日で吟子は三組町から人力車に乗った。富士見町の坂を登り、一番町へ近づくにつれ、吟子は頼圀が若い妻を得、新しい子供を得たことを改めて思い出した。
この前、『令義《りょうのぎ》解《げ》』の中の女医博士の文献を貰いに訪れた時には、その妻は妊娠中だと聞かされた。あの時は一時間もかかって念入りに化粧をし、着物をどれにしようかと随分と迷った。頼圀にこれという感情もないのに若いという新妻に負けたくない一心であった。
だが吟子はいま黒地の絽《ろ》縮緬《ちりめん》を着流し、鉛《おし》粉《ろい》も皺《しわ》の目立ってきた目の縁と頬《ほお》に軽く叩《たた》いたにすぎない。
とやかく言っても私は女医者なのだ。容色や若さを越えてなお大きな自負が今の吟子にはあった。
突然の吟子の来訪に、頼圀は驚いて玄関まで迎えに現れた。
「よくお出で下された。さあおあがり下され」
頼圀は自分から奥の座敷に招き入れた。言葉使いから物腰まですべてが前回と違う。前の時は一介の女医学士にすぎなかったが、今はれっきとした医師であった。弟子であったとは言え、頼圀の中で自《おの》ずと扱い分ける気持が働いたのは無理もなかった。
一通りの挨拶《あいさつ》を終えた時、障子が開き女が現れた。
「御紹介する。家内じゃ」
言われてから吟子はおもむろに顔を向けた。
「初めてお目にかかります。千代でございます」
頼圀の妻は三つ指をつき丁重に頭を下げた。
「荻野吟子でございます。宜《よろ》敷《し》くお見知りおき下さい」
頭を下げながら吟子は素早く女の容姿を見極めた。細面《ほそおもて》の小柄な女である。年齢は三十一、二と思われるが目の張った利発そうな感じだった。薄小豆地の明石縮《あかしちぢみ》を着、髪は大きな髷《まげ》に結って、すべてが若造りである。
「前にもお話しした、日本最初の女のお医者さまだ」
吟子は鷹揚《おうよう》に頭を下げた。悪い気ではなかった。
「はい、お名前は主人からよく承っておりました」
「主人」と吟子は口の中で呟《つぶや》いた。この男が主人か、すると自分が頼圀の申し出を受けたら今頃はこの男を「主人」と呼んでいたのだ、この蛸入道《たこにゅうどう》のような男を。吟子は急に可笑《おか》しくなった。
「いかがなされたか」
「いえ、お美しい奥さまで」
「いや、なに、どうということもない。おい荻野様に水菓子でも」
「はい」
千代が立ち上りかけた時、開けたままの障子からよちよち歩きの赤児が顔を出した。
「あ、坊」
「おう、よしよし、儂《わし》が抱いとこう」
頼圀は自分から敷居の処《ところ》へ行って子供を抱き上げると、胡坐《あぐら》の中にすっぽりと埋めた。
「お子様で」
「そうじゃ、このごろ一人歩きができるようになったので危なくて見ておれん」
「先生にそっくりで」
「皆そういうてくれる」
頼圀は相好《そうごう》を崩した。四十歳を越えての子だけに可愛《かわい》さは一入《ひとしお》なのかもしれなかった。そこには塾《じゅく》での厳しい師の面影《おもかげ》はなかった。吟子は微笑《ほほえ》ましいと思いながら何かはぐらかされた気持を捨てきれなかった。
冷たい麦湯と夏《なつ》蜜《み》柑《かん》をもってきて、そのあと頼圀の妻は現れなかった。だが頼圀は相変らず子を抱き続けていた。
「なかなか繁昌《はんじょう》の様子だが」
「お蔭様《かげさま》で」
「お医者はよい、こんなことを申して何だが、お医者は人に感謝される上にお金が儲《もう》かる。こんな恵まれた商売はない」
「そんなこともありませぬ」
「いやいや、なんと言っても人の命を扱う世の中で一番尊い仕事じゃ」
「お言葉を返すようですが、近頃そのことにいささか疑問を感じているのです」
「ほう、どんなことでかのう」
頼圀は麦湯の入った茶碗《ちゃわん》の端を子供の口につけた。子供は大人しく一口呑《の》んで顔をぴくっと震わせた。
「この頃、医者であることが何か急につまらなく思えてきました」
「それはまた、不思議じゃ」
「医者が患者にしてやれることは本当に微々たるものだと思うのです」
「そんなことはあるまい。まさかの時、人々は皆お医者様が頼りだ。医者のおかげで一命をとりとめた人は数えきれないほどいるではないか」
「それは医者が助けたのではありません、その人の体力と環境が病気に打勝ったのです。医者はそれをただ側面から手助けしたにすぎません」
「側面からでも何でも、それで患者が救われるのであれば良いではないか」
「そのわずかな手助けさえ、してやれないことがあります」
「君は一生懸命やっている」
「いいえ、私がいくら尽しても限界があるのです」
「そりゃ、君一人ではのう」
「医者が足りないとか、体が続かないということを言っているのではありません。まず私がいくらしてやりたくても患者さんが来てくれなければどうにもなりません。たとえ来たとしても、こちらの言うことを守ってくれるのでなければなりません。また患者が守ろうとしても周りの人が協力してくれるのでなければどうにもなりません」
「成程……」
「何の変りもない平凡な病気の陰に、人それぞれの事情が絡《から》んでいます。それによって治る病気も治らないし、死ななくてもいい人も死ぬことがあります」
「しかし、そういうことを言ってはきりがなかろう」
「いいえ、現実には医療を与えるより、その人の周りの環境を改めた方がはるかにいいといった場合が沢山あります。その方がずっと手っ取り早いのです」
膝《ひざ》の中の子供が眠りだした。頼圀はその小さな腕をかすかに握っていた。
「要するに医療以上のもっと大きな問題、貧困とか社会制度とか、慣習とか、そういつたことを取り除き改めることが先決ではないか、それらを改めないで医術だけ先走りしたところでどうなるわけでもない、そんな風に思えるのです」
言いきって吟子は思い出したように麦湯を啜《すす》った。
「しかし、それは医学の責任ではないだろう」
「もちろん違います。医学以前のもっと基礎的な根本的な問題です」
「それをどうするというのかね」
「だからその問題を……」
言いかけた時、頼圀が眠っている子供の尻《しり》に手を当てた。軽く動かしその手を鼻に近づける。
「あれ? 臭いかな」
頼圀は改めて持ち上げた子供の尻に鼻を近づけた。
「おい、おい」
奥から走ってくる足音《あしおと》が聞えて千代が現れた。
「臭いぞ、やったらしい」
「そうですか、戴《いただ》きます」
千代は手をさし伸ばし頼圀の膝元から子供を受け取った。途端に子供は泣き出した。
「おうよし、よしよし」
泣いている子の手をとって頼圀があやした。
「失礼しました」
千代は子供を抱いたまま、一礼して去った。
「子供って奴《やつ》は場所も相手もお構いなしですからなあ」
吟子は思いがけぬ絵巻でもみるように頼圀の仕《し》種《ぐさ》を見ていた。
「で、なんでしたかな」
中断されたことで吟子は話す気力を失った。
「その社会問題をどうするかということでしたな」
「はい」
「あなたはお医者様なのだから、そこまで考える必要はないと思うがいかがかな」
吟子は茶を飲みながら、頼圀がすでに自分が師として仰ぐだけの気概も見識もないのではないかと思った。
一三
吟子がキリスト教に関心をもち本郷《ほんごう》教会に通い出したのは、こうした医者という職業の限界を感じたのが直接の動機であった。このことは後年、本郷教会の牧師であった海老名《えびな》弾正《だんじょう》へ入信のきっかけとして吟子が告白したことからも明らかである。
だが吟子はこの時に突然、キリスト教に活路を見出したわけではない。
吟子はこの前年、明治十七年の十月に京橋の新富《しんとみ》座《ざ》で行われたキリスト教演説会を聞きに行っている。それまで吟子はキリスト教については異国からもたらされたなにやら無気味で物珍しい宗教と言った程度の知識と興味しかなかった。
女高師時代には学友に何人かの耶蘇《やそ》教徒もいたが、彼女等はあの人達がそうだと同僚の間で指差され、別の人種のように見られていたほど珍しい存在で、吟子は彼女等のグループに近付いたことはなかった。実際この頃《ころ》はいい成績を収め、女医になる方向へ一歩でも近づこうという気持しか吟子にはなかった。
新富座での大演説会はちょうど医術開業試験の前期試験に合格した半月あとであり、半年後の後期試験を控え、希望に溢《あふ》れながらもわずかに心の余裕が生れた時であった。
吟子が新富座でキリスト教に接した初回の印象はすべてが新鮮で度《ど》肝《ぎも》を抜くものであった。
定刻の午後一時にまだ三十分の間があったが、この日本一の大劇場は開会を待つ人達でうずまっていた。やがて奏楽が始まり、洋琴(オルゴン)に合せて、聞き慣れぬが尊厳な調子の歌が流れてくる。続いて日本人の耶蘇教徒が演壇に立ち教義の説明とその偉大さを語るが、それは現在の日本の社会制度への痛烈な批判ともなっていた。次々と弁じたあとに青い眼《め》の外人が立った。しかもその男が日本語で喋《しゃべ》り始めた。
これまで異人として怖《おそ》れ避けていた人が自分にも分る言葉を吐くということがまず吟子を驚かせた。しかもその言っていることがいちいち納得される。特にすべて人間は神の御子で男女、職業の貴《き》賤《せん》にかかわらず皆、平等だとする考えは吟子の心を大きく揺さぶった。ただ一度の演説会で教義のすべてを知ったわけではないが、演者の清廉潔白《せいれんけっぱく》な感じと会場の崇厳な雰《ふん》囲気《いき》に吟子は酔っていた。
「女性の地位を認めているのは耶蘇教だけです。耶蘇教を拡《ひろ》めることは女性の地位を高めることになるはずです」
帰り途《みち》、吟子を誘った古市静子は少し興奮した口調で言った。吟子はまだ何やら夢見ている気持だった。
「あの教えはこれからの日本を新しく作りかえていく土台になるはずです」
静子の言うのをききながら吟子は会場で貰《もら》った小さな聖書を握りしめた。厚く黒い表紙の下に何か新しい英知と勇気が潜んでいるように思えた。
目を開かれたとは言え、吟子の前には五カ月後の後期試験という難関が控えていた。吟子は再び試験準備に熱中し、合格するとすぐ開業準備から開業へと休む暇もなかった。だが時折、演説会での興奮を思い出しては聖書を読んだ。聖書の字は小さい。そのうち吟子は目を悪くしないためと、聖書の一字一句まで憶《おぼ》えるため、筆で写し始めた。
夏が過ぎ医院が順調に進み、わずかな余裕ができた時、聖書の写しが終っていた。
本郷教会は、この当時湯島四丁目にあり、正しくは教会と言わず講義所と呼ばれていた。ここは吟子の医院のある湯島三組町からは歩いて十分とかからない距離であった。
この明治十八年という年は、日本組合基督《キリスト》教会が結成され、全国に積極的に伝道活動を起すため、牧師伝道師の勤務地を大幅に変えて内部体制の一新をはかったときであった。
この時組合派に属していた教会数は三十一、牧師四十名、所属信徒三四六五名という勢力であった。
この活動地変更の結果、東京伝道の新たな拠点として本郷の講義所を受け持ったのが、上州伝道に異常な成功をおさめ、安中《あんなか》から前橋に転じて間もなかった海老名弾正であった。
この明治十年代の日本のプロテスタントグループには、人物系譜的に見て三つの流れがみられる。
その一は横浜宣教師塾の出身者によるもので、いわゆる横浜バンドと呼ばれたグループである。彼等は正統的神学に立ち、植村正久《うえむらまさひさ》、奥《おく》野《の》昌綱《まさつな》、本《ほん》多《だ》庸一《よういち》、押川方義《おしかわまさよし》らによって代表される。
その二は熊本《くまもと》洋学校から同志社の系統で連なる熊本バンドの一団で、国学主義的傾向をもち、新島襄《にいじまじょう》、小崎弘道、宮川経輝らを生んだ。
第三は札幌《さっぽろ》農学校出身者により形成された札幌バンドのグループで、個人主義的傾向が強く、のちには内村鑑三《うちむらかんぞう》の無教会主義にまで発展した。この中には佐藤昌介、新渡戸《にとべ》稲造《いなぞう》、宮《みや》部《べ》金《きん》吾《ご》らがいる。
これらプロテスタントで初期に入信し、しかもキリスト教のために生涯《しょうがい》を捧《ささ》げた日本の代表的キリスト教人物には不思議に共通した点があった。それはまず彼等がいずれも士族の家に生れ、立派な「サムライ」の精神を骨格とし、これにキリスト教を肉付けして、いわゆる東西融合のキリスト教を形成したことである。そして彼等はいずれも、自分の周囲から多くの人材を輩出させた。
海老名弾正はこの第二の熊本バンドが生んだ第一級の人物で、洋学校から同志社に学び、のち同志社の総長になった。だが本郷の講義所に来た時、海老名はまだ三十歳の若さであった。
講義所の前を通る度に吟子は讃《さん》美歌《びか》とオルゴンの音を聞いた。それはなにやら異国の魔術のように怪しく神秘的であった。吟子は一年前の秋の新富座での興奮を思い出した。
入口の十字の木《き》枠《わく》の下には、〈誰方《どなた》でも今すぐ自由にお入り下さい〉と書いてある。
入ってみようか。
吟子は戸惑いながら通り過ぎた。
次の日、往診の帰りに少し遠回りをして再び講義所の前を通って見る。信徒らしい人が柔和な笑いを見せながら出てくる。近寄ってみたい気持と気《き》後《おく》れとを覚えながら再び通りすぎる。
次の日は講義所はひっそりとしている。もう歌は終ったのかもしれない。吟子は中の様子をさまざまに想像しながら通りすぎた。
次の日曜日の朝、吟子は散歩がてら講義所の前へ来た。二人、三人と話し合いながら中へ入っていく。入口のドアは半ば開かれている。立ち止り中を窺《うかが》うと、横に長い椅子《いす》に坐《すわ》っている人々の背が見えた。
「お入りになりませんか」
突然背後から声をかけられて吟子は振り向いた。仰ぎ見るほど大きな男が立っている。背丈に見合って顔は長く、鼻から顎《あご》へ髭《ひげ》を連ね白い縁の丸く大きな眼鏡をかけている。
「これから礼拝ですよ、行きましょう」
男はもう吟子の背に軽く手を当てている。押されるままに吟子は前へ進んだ。
講義所といっても民家と変りはない。違うところと言えば玄関の戸から三和土《たたき》の戸まで開け放たれたところと、中が板の間になっているのだけである。
「さあどうぞ、みんなが喜んでお迎えしますよ」
吟子は吸い込まれるように中へ入った。戸惑いと不安とは別に自分にも分らぬ大きな力が吟子を引きずっていた。下駄《げた》をぬぎ板の間に上る。十畳ほどの部屋を二つぶち抜いた板の間にベンチのような椅子が幾つも並んでいる。正面に演壇があり、その後ろの壁にある十字架像がキリストという救世主の像であること、左手に黒い背を見せているのが異様な音色を奏《かな》でるオルゴンであることも吟子は知っていた。
「さあお坐りなさい」
男は大きな体とはおよそ不似合いな静かな声で吟子に言った。
ほどなくオルゴンがなり、吟子を誘った男は最前列に移っていった。そこで吟子はようやくその男が、表の看板にかかげられている講義所の牧師、海老名弾正だと知った。
当時の弾正は、口ではワシントン、リンカン、パウロ、ヨハネ、キリストと、いかにも西洋臭いことを言っていたが、その実、洋服を着ず、靴《くつ》もはかず、着物、袴《はかま》に下駄という和風スタイルであった。しかも髭を伸ばし目を光らせ、異人と見間違うほどの長い脚で疾風のように歩いていく。九州育ちの野性と、学生あがりの気概が弾正の風貌《ふうぼう》にあふれていた。
「初代には十人並みの人物はクリスチャンにはなり得ない。抜きん出て秀《すぐ》れた人物か、抜きん出た凡人か、あるいは抜きん出た変物でなければ万難を排し、周囲の批判も顧みないでクリスチャンとはなりえない」
当時のことを記した弾正の一文である。弾正らしくかなりの自信とはったりをきかせてはいるが、一応の真実であったに違いない。のんびりと教会に閉じこもり、司服をまとい説教だけしていればいいという時代ではなかった。海老名は信仰一筋の実直な牧師というよりは、娑《しゃ》婆《ば》っ気《け》ももった行動派で、基督教を単なる教えというより、実学的な面からとらえていた。
彼は日本古来の忠君愛国思想も父子有情の関係も、すべてキリスト教の中に摂取包括されると考えていた。こんなことから山《やま》路《じ》愛山《あいざん》に「君の心は流動せる蝋《ろう》の如《ごと》し、余りに強く一定の説に固執せず。故に君は今日に於《おい》ても君の最も善しと感じたる方向に向って常に其《その》説を変化す……海老名君は調子の良き人なり……」などと非難されることになる。
だがこのような融通性に富んだ現実的な考え方は布教活動の面では大きな効果があった。耶蘇教も海老名の手にかかると異人のもたらした異教という感じはなくなった。
地の利とは言え吟子がキリスト教に興味をもちはじめた時、近くに海老名がいたということは彼女の後半生に決定的な影響を与えることとなった。
一カ月もすると吟子はもう信者と同じような熱っぽさで講義所に通い、そのために日曜は休診とすることにした。
近くに住む女医者ということで吟子の存在はたちまち信者達の関心の的になった。信者の一人一人に差はないが、土地の有力者を入信させることはそれだけ影響力が大きい。海老名は格別執拗《しつよう》な勧誘もせず吟子を見守っていた。黙っていても入信を申し込んでくるのは時間の問題だと考えていたのである。
十一月の初め、吟子は日曜日の礼拝のあと、海老名とゆっくりと話す機会を得た。海老名は吟子の五つ下だったが、二人で相対すると吟子は自分がはるかに下のような気がした。
吟子は女医となるまでに受けた差別迫害を述べ、自分一人だけが受難の道に放り込まれているのだと思っていたと告げる。
「しかしそうではないことをこの頃ようやく知りました。この世の中にはまだまだ苦しみ悩んでいる人が沢山います。しかもいわれもなく、ただその人がそういう星の下に生れたというだけの理由で苦しめられているのです。その人達は自分の苦境に気付いても仕方のないことだと諦《あきら》めているのです。この人達を救っていくには医術だけではどうにもなりませぬ、もっともっと大きな壁があるのです」
海老名は眼鏡の奥の細い眼で大きくうなずいた。黙っているのは思いきり吟子の心情を吐かせようという魂胆である。
「今まで、私は私自身のことしか眼中にありませんでした。一日も早く一刻も早く、女医者になる。そして女なるが故に受けた屈辱を見返してやる。表では女の患者の屈辱を救ってやろうと願いながら、心の底では見返してやろうという復讐心《ふくしゅうしん》でした。辱《はずか》しめを与えた男へは勿論《もちろん》、私を除《の》け者にした家族や親戚《しんせき》、郷里、友達、そして自分自身に対してもです。復讐するまでは頑《がん》張《ば》ろうと思いました。でも誰《だれ》にも負けまいというのは裏を返せば自分だけ抜きん出ようという功名心でした。自分だけ磨《みが》き、自分だけ秀《すぐ》れた知識を得たいと思いました。女医者になり社会的地位さえ得られればすべては解決するのだと思っていました。自分一人の実に小さなものに私はかかずり合っていたのです」
「それは私も同じです。入信する直前、私は観兵式の威風堂々とした将校の姿にすっかり魅せられてしまいました。軍人になろうか、神の道を選ぶべきかと迷いました。入信してからも神に専心仕えるため一切を捨てた世捨人になろうと決心しました。しかしそうすればするほど、武士の子として培《つちか》われた功名心、政治的野心、知識欲といったものが心の中をかけめぐり、それを圧《お》さえるうちにすっかり痩《や》せ細ってしまいました。誰もがここで悩み戸惑うのです」
海老名の後ろにはキリストの像が見下ろしている。海老名に見詰められることはキリストに見詰められていることだと吟子は思った。
「私のように自己中心に生きてきた者が信者になりきれるでしょうか、途中で行き倒れてしまうのではないでしょうか」
「深く考えないことです。気軽に自分を神へ託すことです。神の赤子になることです」
「赤子?」
「そうです。以前、私は神の忠臣になろうとして奮闘したのです。しかしこれは無謀で一人よがりの考えでした。それでは苦しくなるばかりです。せいぜい赤子でいいのです。私は十年かかってようやくこの考えに到達しました。すると気持が急に楽になりました。これはごく単純なことで、哲学でも議論でもない。しかし哲学、神学の根拠はここに根をもっているはずです」
連日の街頭伝道で嗄《しわが》れ気味の海老名の声はそれだけにかえって重々しかった。海老名の前でなら吟子はすべてを正直に言えた。
「目的を達するまではただ自分のことしか考えず、一旦《いったん》、目的に達すると、今度は他人の欠点ばかりが目につきます。一人の女の不幸の裏には一人の男の横暴がある、というように考え、その男を憎みます。そういう形でしか私は他人を見られませんでした」
これは会話ではなかった。懺《ざん》悔《げ》であり、救いを求める祈り、そのものであった。
「人間は部分的にはともかく、全人格的には神に反逆したものではありません。罪の中に沈みながらも神と結びつく、こうした弱い人間の存在を認める。そしてそこから神を慕い求めるとき、神は恩愛にあふれた人格的神となり、人間は神と親子の関係に入ることができるのです」
人間は誤り多い弱い存在だが、その時点からでも神に結びつくことができる。しかもこの結びつきは神と臣という関係でなく、神と子というような関係で成り立つのだというのが海老名の考えであった。この考えをおしすすめると、キリストは彼の主ではなく兄弟だ、ということになる。
信仰も生活の飛躍や転換を意味するものではなく、人間であるためにもつ固有な宗教的意識の自覚であり、発展にすぎないとするのである。この考えにはキリストの贖罪《しょくざい》はなく、キリストの十字架の愛に啓発され感化され、自らも罪に死ぬが、それが結果的に永生に生きる行為に繋《つな》がるということでもあった。
「神と父子の関係になれば、それはやがて神と一体化した神秘的境地に到達できるはずです」
海老名の思想はすべて体験にうらづけられていた。このような彼の見解はまぎれもなく自由主義的キリスト教そのものであった。結局、海老名は福音による人間の根本的な改革を求めたのではなく現実における忠君愛国の思想や、親子の関係といったものを認めた上で、それらがすべてキリスト教のより深い境地に繋がり融合していけると考えたのである。
この考えには、対決とか転換といった大《おお》袈《げ》裟《さ》な倫理はなに一つなく、ただ摂取包括の考えだけが働いている。彼が時代の潮流や他人の論理をたくみに処理した「調子のよさ」はそこから生れてきたのである。
ともかく頑固者の多かった初期のプロテスタント・キリスト教信者の中で、海老名の評価はどうであれ、吟子が海老名の口説によって、入信の決意を固めたのは間違いのない事実であった。
明治十八年十一月、吟子は海老名弾正により洗礼を受けた。この時、吟子と同時に洗礼を受けた人々には、民間経済評論家で政治家としても著名な田《た》口《ぐち》卯《う》吉《きち》夫妻、松本亦《まつもとまた》太《た》郎《ろう》夫妻、村上直次郎、麻生正蔵、明治初期の哲学者として有名な大西祝《おおにしはじめ》博士ら、有力な人の名前がみられる。またこれと同時に湯島の講義所が狭くなったことから本郷西片町《にしかたまち》に一民家を借りて移ったが、これもすぐ手狭になり翌年の三月には湯島金助町に更に大きな講義所をもうけるほどの発展ぶりであった。まことに海老名の伝道の手腕は目を見張るものがあった。
この本郷講義所の発展と期を合せるように荻野医院も待合室が手狭になり、十九年の秋に湯島三組町から下谷西黒門町に前より一回り大きい家を借りて移ることになった。今度の家は上りの間を入れて十畳ほどの待合室がとれた。診療室も六畳と八畳間の板の間を通し、その一角に更衣室をとることができた。薬局兼受付の他《ほか》に更に二つの八畳間と六畳間があった。二階にも四つの部屋がある。今度も吟子は下の奥の間に住み、上の部屋は入院患者が出たときに供することにした。
それとともに関口とみ子という看護婦と専門の車夫を新たに採用した。これで荻野医院は医者一人に看護婦二名、下働きの男一人に女中一人、そして車夫と、医院として見劣りしない態勢になった。
医院は相変らず混《こ》んでいた。外来は勿論《もちろん》だが朝早くや、夜遅く往診の依頼があっても吟子は嫌《いや》な顔一つせず気軽に出かけていったので患者は増える一方であった。
だがこの頃《ころ》から吟子の興味は医者としての仕事よりも、キリスト教信者としての社会運動に向けられていった。
往診のあと夕食を終え風呂《ふろ》に入ると九時になる。それから吟子は自室に閉じこもって本を読む。樫《かし》の木の坐り机の前にはキリスト像と十字架が飾られ、机上には常に聖書があった。吟子はこれを辞書を片手に英文で読み始めた。眠るのは毎夜、二時か三時である。元来吟子の宵《よい》っぱりの朝寝坊の癖は女子師範時代に作られたものだが、この癖は四十歳に近づいた今も変らなかった。バイブルに読み疲れると最近出た日本の本に目を移す。書棚《しょだな》に並んだ本を見れば彼女の考えていることがほぼ分る。
土居光華の『近世女大学』、ミル著深間内基訳の『男女同権論』、スペンサー著井上勤訳『女権真論』、湯目補隆著『欧米女権』、福沢諭吉の『日本婦人論』『男女交際論』といった本がずらりと並んでいる。いずれも明治初年から二十年までに出されて、女権拡張運動に大きな影響を与えた本ばかりである。
もう灯油代や本代に頭を悩ます必要もなかった。一時二時から時には夜が白み始める頃まで読み続ける。試験への焦《あせ》りも、明日の生活への不安もなかった。すべて吟子の一存でやりたいだけ自由に勉強することができる。読むほどに面白《おもしろ》いことが知られる。それと合せるように医者という立場の利点で、さまざまな世間から人の表裏まで見られる。吟子の生活は徐々に豊かさを加えそれにつれてキリスト教への心酔は一層強まった。入信して半年もするとすでに吟子は本郷教会の有力な信者の一人になっていた。
一方、医者としての吟子の評判が高まるにつれ、女医志願者は日を追って増えていた。中には吟子の名声をきいて地方から上京し、何の紹介もなしに直接吟子の家へとび込み、書生よろしく寄食するという勇ましい女医学生まで現れた。来るものはこばまず、吟子は彼女等を自由に二階の空部屋へ住まわせた。
こうして吟子のあと、明治十九年十一月には生沢くのが後期試験に及第して女医第二号となり、次いで二十年三月には高橋瑞子が、さらに二十一年には本多鈴子が開業試験に合格した。
一四
明治十九年の秋、基督《キリスト》教婦人矯風会《きょうふうかい》が組織された。これは日本の婦人達による社会運動の最初の烽《ほう》火《か》であった。この会を率先主唱し統率したのが矢《や》島楫《じまかじ》子《こ》である。この人は肥後《ひご》の出身で、明治十四年に自分からテュルー夫人と共に麹町《こうじまち》に基督教主義の女子学校を創立し、のちに同校校長になった婦人教育界の大《だい》先達《せんだつ》である。
この矯風会と同じ系統の団体はすでに一八七二年(明治五年)にアメリカ・オハイオ州で起り、その後ウイルラード女史が会頭になり、一八八四年(明治十七年)には広く国際組織にまで発展し、これが日本の婦人運動にも大きな影響を与えた。
矯風会結成の翌年の明治二十年に、ウイルラード女史が来日し、この運動は一層世間の注目をひいたが、日本の矯風会は必ずしも外部からの要請でできたのではなく、その信念と実行への熱情は矢島会頭の内部からの自発的なものであることに変りはない。
発会と同時に吟子は進んでこの会に参加し風俗部長の要職についた。
発会した矯風会の最初の仕事は、具体的にどの問題をとりあげ、それをどのようにおし進めるかということであった。
「まず争いのない平和な社会を築く、これを運動の根本に致しましょう」
矢島会頭が立ち上って言った。それには誰も異存はなかった。
「そこで差し当り平和な社会を乱す最大の原因であるお酒、これを禁止する運動を起したいと思います」
日清戦争はこの八年後に起きているが、当時は外国との戦争の危機感はまだなかった。
社会が乱れ、女性が難儀する最大の原因は男性の酒であった。
「禁酒と申しましても、どの程度のことでしょうか。たとえば一滴のお酒もいけないとか」
会員の一人が尋ねた。
「もちろん、理想的には誰もが一滴のお酒も飲まないことです。しかしそうは言ってもすぐには無理でしょうからさし当りは未成年者、婦人と酒乱者の飲酒を禁ずることです」
この提唱は女性達の願うところであった。反対はなかった。
「では平和と禁酒を婦人矯風会の第一の目的に掲げてその運動の進め方を検討しましょう」
「もう一つ、是非進めたい運動がございます」
その時、テーブルの右端から小《こ》柄《がら》な女が立ち上った。吟子であった。
「私は現在の社会悪の根源は、廓《くるわ》と娼婦《しょうふ》の存在にあると思います。女性が男性の性の慰みものとなり、自由を束縛されているということは同じ人間として許されるべきことではありません。廓の存在で幾人の婦人が嘆き苦しんでいるか分りません、それは廓に棲《す》む女も、それに通う男の妻も同じです。文明国としてこれほど羞《は》ずべきことはありません」
五尺一寸の小柄な体から出たとは思えぬよく透《とお》る涼しい声であった。
「しかも娼婦は怖《おそ》るべき花柳病《かりゅうびょう》の源泉です。そこから病気は拡《ひろ》がり何も知らぬ婦女子まで侵すことになります。それで苦しんでいる婦女子は無数におります。悪病の巣と知りながらこれを放置しておく手はないと思います。廃娼運動こそ婦人矯風会として手がけるべき第一の問題だと思います」
吟子は頬《ほお》を軽く染め、胸を張って言いきった。居並ぶ会員達の間で吟子の若さは際《きわ》だっていた。
「基本運動の一つに加えていただけますか」
医者の言うことだけに実感があった。それだけでなく吟子の体験からの発言でもあったが、そこまでは会員の誰《だれ》も気づかなかった。皆はうなずき、この運動方針は満場一致で採択された。かくして、「平和、禁酒、廃娼」の三つが矯風会の当初の運動方針となった。
会員を増やし、基礎を固めるとともに矯風会はこの線に沿って各地で婦人演説会を催した。場所は初めは教会であったが、やがて救世軍とともに街頭へも進出した。診療のわずかな暇を見つけては吟子は教会や狭い路地裏まで進出しこの三つの運動の必要性を説いてまわった。
会が発足して一年経《た》った二十年の十月に、一人の女が本郷の教会へ駈《か》け込んできた。潰《つぶ》し島《しま》田《だ》の髪も乱れ、紅《もみ》うらの派手な地色の着物の前も崩れている。一見して素人女《しろうとおんな》ではないと分るが年齢はまだ十六、七歳と思われる。
「ここへ来れば助けてくれる方達がいるときいて逃げて参りました」
女は教会の中を不安そうに見渡しながら言った。川越の産で、一年前に深川の廓に売られたが、勤めが辛《つら》くて逃げてきたのだという。吟子は早速、矢島会頭以下全会員に告げ善後策について相談した。
廓を無断で逃げてきた以上、女も命がけであった。これが江戸時代なら見付けられ次第、廓に戻《もど》され、生かすも殺すも雇主の自由であった。かくまった方も相当の仕返しをうける。文明開化の明治ともなればそれほどのこともなかったが、前以上の苦業が娘に課せられることは目に見えていた。
「どんなことがあってもこの娘は守らねばなりません。この娘を守りきれないようでは矯風会の存在価値はありません。なんだあれは口先だけかと笑われます」
吟子は興奮した時の癖で頭を小刻みに振りながら言った。楫子をはじめ会員はもちろん吟子の意見に異存はなかった。だがこのことは口先や一時の興奮でできることではなかった。
「といって教会においておくわけにもゆきますまい」
女はまさに着のみ着のままであった。一つの風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みさえ持っていない。
「差し当り何処《どこ》かにかくまわねば危険です」
「警察はいかがですか」
「それでは罪人と同じ扱いになります。はっきりした身《み》許《もと》引受人がいればいいのです」
「娘を売った親が引受人になるのは可笑《おか》しいでしょう」
会員達の議論は長びいた。
「私が引受人になりましょう」
その時、黙っていた吟子が言った。
「私のところなら部屋もありますし、医院の仕事を覚えるということも出来ましょう」
「しかし、それでは……」
「当分の間、ほとぼりが冷めるまでのことです、なんとか隠しとおせましょう」
吟子は平然と言った。だが危惧《きぐ》していたことはすぐ現実となった。
五日後、吟子の医院へ三人の遊び人風の男がやってきた。着流しだが眼光鋭く、頬の傷《きず》痕《あと》や荒っぽい口のききかたから、廓の用心棒であることは一目で分った。
「変な真似をするとためにならねえぜ」
真ん中のひときわ大きな男が袖《そで》をまくり、腕の竜《りゅう》の入れ墨を見せながら言った。彼等は逃げた女の経路を追ううちに吟子の許へ逃げ込んだことを聞きつけ、おしかけてきたのである。
「何処に隠しやがったんだ、さっさと出しやがれ」
男は荒々しく土間を踏み鳴らした。夕方時で待合室には四、五人の患者しかいなかったが、怖れをなして奥の診察室に逃げこみ、玄関口には吟子一人が対していた。看護婦や使用人も次の間で成行きをただ見守っているだけである。
「矯風会の会長ってのはお前か」
「違います、私は風俗部長です」
「そうか、いい度胸だ、おまえらが酒を飲むなとか、女を逃がせだのとくだらねえことを言って歩いてるのだな。だが、かくまった以上は覚悟はできてるんだろうな」
男は上り口に片足をかけて凄《すご》んだ。
「出せねえというなら勝手に上って捜しちまうぞ」
「ここは私の家です。無断で一歩でも上ったらただでは済みませんよ」
吟子は上り口で坐《すわ》ったまま三人を睨《にら》みつける。気荒い男には慣れている。大きく目を見開いたまま一歩も退《ひ》かない。好寿院での経験がこんなところで役立つとは皮肉である。だが相手は命知らずのヤクザ者である。強気の様子こそしているがその実、吟子は生きた心地がしない。
「貴様は俺《おれ》達の商売を邪魔する気だな」
「勿論《もちろん》です」
「なにいっ、あの女は俺達が買いとってきた女だ。それを勝手にかくまいやがって、それで大きい面《つら》をしようってのか」
「貴方《あなた》達の商売というのが初めから間違っているのです。女を買うなどという商売があるわけはありません」
「俺達の商売は江戸の昔からちゃんと認められた商売だ」
「人身売買は寛政にすでに禁止されています」
「あの女にはちゃんとした証文があるんだ」
「廓での女性の売買は、明治五年の芸娼妓《げいしょうぎ》契約無効令により廃止されております」
議論なら吟子は負けていない。土台、頭の程度が違うのだから勝負にならない。
「どうしても渡せねえというなら家もろともぶっ壊すぞ」
「出来たらどうぞ」
今は吟子も捨身だった。腕組みし男から眼《め》を離さない。奥にいた患者は診察どころではないと知って裏からこそこそと逃げていく。表の塀《へい》の周りには噂《うわさ》を聞いて駈けつけてきた近所の人達が取り囲んでいる。騒ぎが大きくなっては男達には具合が悪い。
「やいやい、やい、出せっ」
声ばかり大きいが男達は手だしを出来ない。相手はれっきとした医者で、乱暴でも働いて警察沙汰《ざた》にでもなれば只《ただ》では済まない。慣習はともかく理屈の上では非は男達の方にある。脅すだけで手まで出すなと廓の主人に言い含められてきたらしく、声だけ荒げるが吟子には一向に利《き》き目がないのだ。
「さあ、どうだ、どうだ」
男達は焦《じ》れてきたらしい。
「手足をへし折るぞ」
端の男が片足をあげようとした時、吟子が静かに言った。
「手足を切るなら私の方が上手でしょう」
言われて男達は愕然《がくぜん》としたらしく、互いに顔を見合せた。女医者というのはどうも相手が悪い。外の人だかりも大きくなる一方だ。これ以上長居するのは不利と男達は知ったらしい。
「この次は只じゃ済まねえぞ」
最後に一声叫んで腹《はら》癒《い》せに唾《つば》を吐き捨てると後ろを見せ一気に駈け出した。
一応の危機は去ったがこれ以上、女をかくまっておくのは危険だった。吟子は矢島楫子らと相談した結果、女の身柄を警察に預け、そこから郷里へ送り返して貰《もら》うことにした。
吟子にとっては災難だったが、この事件で矯風会の存在はさらに大きく認められた。
「なるほど新しい時代に適《ふさわ》しい勇気ある行為だ」
今まで会の掲げる目的があまりに道徳的で辟易《へきえき》していた男性の識者達も、このことは大いに賞《ほ》めたたえた。形勢悪いと知ってか男達はその後一度嫌《いや》がらせに玄関口に泥《どろ》の詰った一《いっ》斗《と》樽《だる》を置いていっただけで、二度と現れなくなった。
廃娼運動が全国的に注目を浴びたのは、この翌年、吉原が大火に見舞われて、その大半を焼失した時からである。この時吟子は天を焦《こ》がす火を見ながら「これで廃娼運動はやりやすくなる」と楽しそうに笑っていた。
予言どおりこのあと吉原遊廓《ゆうかく》の再建は矯風会初め各婦人団体、有識者等の反対にあい、廃娼運動はさらにその手を拡めていった。
矯風会の活動が活溌《かっぱつ》になるにつれ、吟子の日常は多忙をきわめた。診察、往診に追われるなかで、吟子はこの会の集まりにだけはどんなに忙しくてもきっと出席した。忙しさに吟子は一言も文句を言わなかった。忙しいことがかえって体に張りをもたせた。
この忙しさに輪をかけるように吟子は大日本婦人衛生会の幹事に推された。
「もっと誰方《どなた》か適任の方がいらっしゃる筈《はず》です」
吟子は言ったが、実際問題として婦人で衛生知識に富んだ、しかるべき年輩ということでは吟子以上の適任者はいなかった。口では断わるようなことを言ったが、吟子は初めから受けるつもりだった。忙しいのは勿論だが、こうした仕事は自分以外に出来る者はいない、という自負心があった。
この種の役職はまだあった。翌二十二年には開業の余暇に明治女学校の教師として、生理、衛生を教えるよう懇望され、同時にこの学校の校医になることを頼まれた。たしかに女学生に生理、衛生を科学的に教えることは目前の急務であった。さらに女学校の校医ともなれば、女医者が望ましいことは分りきったことである。今度も吟子は忙しさが一層つのることを知りながら受けた。
好むと好まざるとにかかわらず、すでに吟子は社会の第一線に立ち、脚光を浴びながら働かざるを得ない立場に追いこまれていた。
この年の二月、国民待望の帝国憲法が発布された。
これにより形式だけは国民の参加による民選議員が生れ、立憲国家が成立することになった。現在から見れば随分と欠陥があった憲法だったが、ともかくも国家の正常な姿を確認しえたことを国民達は素直に喜んだ。また政府はこの発布の「盛典」になぞらえて大赦を行い、大《おお》井《い》憲《けん》太《た》郎《ろう》、小林樟《こばやしくす》雄《お》、景山英《かげやまひで》子《こ》といった自由民権運動の捕縛者や、保安条例により東京より三里以外に退去を命じられていた尾《お》崎行《ざきゆき》雄《お》、竹内綱、山田泰造らを釈放した。もっともこれは恩赦に名をかりた国民の人気取り政策の一種でもあった。
この日『東京日日新聞』はその日の盛況を大人から学童まで小旗を打振り、笛を鳴らし山車《だし》を連ねて皇居前広場へ押しかけ、押し合いへし合いしながら万歳万歳を叫んだ、というように記している。
ともかくこの憲法で明治政府の近代国家としての支配体制が確立し、翌二十三年十一月、最初の帝国議会が開かれるのであるが、その内容は依然として藩閥官僚支配と変らず、立憲政治は名のみであった。しかもこの中の「衆議院議員選挙法」では、女子の選挙権は認められず、女子の政治的発言は一切許されないという大きな片手落ちがあった。
だがこの当時、多くの人々はそれを当然のことだと考えていた。実際、自由民権運動に活躍していた人達でさえ、これには大きな異論を唱えず、新しく目覚めた女子の一部が密《ひそ》かに不満を述べる、といった程度のものでしかなかった。
こうして二十三年十一月に国民待望の国会が開かれる段取りとなった。ところが新しく制定された「集会政社法」に婦人の議会傍聴が禁止された条項があることが明らかになった。憲法発布の時から女性に選挙権を与えないことに不満をもっていた吟子はただちに自分から法務省へ出かけて行って、その項目の正式の解釈を質《ただ》した。
法務省に再度質してみたが、女性の傍聴禁止は誤りのない事実であった。
吟子は早速、矢島楫子に働きかけ婦人矯風会の重立った幹部を招集し、この差別に対する不満をぶちまけた。
「男性であれば教師生徒は勿論、馬追いの子供も、行商の老《ろう》爺《や》も、田舎の作男も議場へすべて自由に入場できるのです。禁止されているのは酩酊《めいてい》した者と、兇《きょう》器《き》を持った者だけです。それにもかかわらず女性は女性であるだけの理由でいかんと言うのです。これでは女性はすべて酩酊者や兇器持ちと同じだという理屈になるではありませぬか」
吟子は居並ぶ矯風会の幹部の前で、例の低いが透る声で言い続けた。
「選挙権はともかく、傍聴まで禁じられては、政治に関して女性は発言の場はもとより、知る場さえ奪われることになります。これでは女性がいくら学問に励み知識を重ねても、まったく無意味です。以後女性は政治に盲同然となります」
吟子にしても選挙権を与えられなかったことは止《や》むを得ないという気持はあった。それは女性であるためにかえって同性の知的レベルの貧困さを身をもって知っていた故《せい》もある。だが傍聴まで許されないというのは軽視にもほどがある。これでは折角盛り上った「女学熱」も空転してしまう。
「それで矯風会としては、この問題に何等かの対策を講ずべきだと思うのです」
風俗部長の吟子はこの種の問題は直接の担当ではないが、女子の受けている差別ということではそこに集まっている誰よりも強く味わっていた。
「政府に直接陳情してみたらどうでしょう」
大勢はその意見に定まり、早速自由党の大成会にその撤回を陳情することになり、本文は吟子らの言うところをとり会長の矢島楫子がみずから筆をとった。少し長いが当時の女権の貧弱さと政府の尊大さがよく分るのでここに全文を引用する。
謹みて大成会各賢台にまうす、衆議院規則第百六十五条に、婦人は傍聴を許されずとの文あり、妹《いも》ら之《これ》を読みて日夜憂《うれ》ひにた得ず、如何《いか》なる事訳《ことわけ》のあるありて斯《かか》る規則の定まらんとするやと、世の大方に伺ひ申すに、今日に至る迄未《までいま》だ之と云ふ解釈を承はるを得ず益《ます》々歎《ますなげ》かはしき事に思ひて、扨《さて》は貴会の高き教を請ひ、妹らが切なる疑を散せんと欲するに至り侍《はべ》る、妹ら密《ひそか》に思ふやう、天皇民の趨言《すうげん》を聞《きこ》し召《め》し万機を公論に処せんとて、其《その》御大権の多分を割《さ》かせ、戦国古来にためしなき国会を初めて開かせ玉《たま》はんとするは、一方《ひとかた》ならぬ御恵にして、万民聖徳を感謝賛美せずと云ふことなし。
斯る時には輿《よ》望《ぼう》にかなひ民に選ばれて議員たる方々が夙夜《しゅくや》この大御心《おほみこころ》を体し、率先叡慮《えいりょ》のある所に力を尽し玉はんとするは亦《また》尋常ならじ、是《こ》れ素《もと》陛下に忠なるがための御勤務とは云へ、四千万同胞の負へる所莫大《ばくだい》にして、妹ら感謝を寄するの辞なきことと存じ侍る、妹ら何事も為《な》し得ずといへども、此際《このさい》一層心して能《よ》く身を修め、家政を理し、国家経済の為《た》めに幾分の余裕を造り、諸兄が内顧の憂を慰め奉《たてまつ》らんも、即妹ら女性が天の命職を覚悟し、同志相励まして常にその心得を学び居《を》り侯処《さうらふところ》に侍る、左《さ》れど切《せ》めては時々国会に於《お》ける諸賢御尽力の御模様を影ながらにしても拝し、以《もっ》ていよいよ妹らが務《つとめ》を深く感じ申《まうす》べくと存じ、予《かね》てより当日の光栄を想像いたし居《をり》侯《さうら》ひつるに、今将《はた》かかる無《む》惨《ざん》なる規則の設けられて、女性はその女性なるが為に、一切入場傍聴の栄を得かたしと相成《あひなり》候はば終生の遺憾此《この》上なきことと涙にむせび為《な》す所を知らざる程に侯。
政治上の集会には軍人警察官教師生徒なども臨席し難しとあれば、女性も亦之に望みかたしと云ふにつきては尚《なほ》幾分の理由あるやうに伺ひ候へど、衆議院の傍聴には兇器を持てるものと酩酊したる人を禁ずるの外、学業の教師生徒は云ふまでもなく馬追ふ童《わらべ》も飴《あめ》売る翁も田舎の田作り男も得て自由に入場致候《いたしさうらふ》ものを、女性は其女性なるを以て一切其《その》許を得かたしと云ふは不思議此上なき定めのやうに思はれ疑ひはれ難く候、そも斯る規則の設けられんとするは如何《いか》なる理由ある故に候や高き教を蒙《かうむ》り妹ら無限の憂を散し初めては止むを得ざるの地位に安《やすん》じ、以《もっ》て心慰め申《まうす》べくと覚悟いたし侍る。
あはれ狭の(註・狭き?)胸を察し雄々しきますら男《を》の義心振起《ふるひおこ》し玉ひてこの痛めるもの等の為に同情を賜はらんことを祈る、而《しかう》して若《も》し、諸賢亦規則案を宜《よろ》しからずと思召《おぼしめし》、之を取除くことの正当なるを認め玉ふに於ては願はくは妹らが為に冤《ゑん》を伸し、二千万人の婦人の為にその将《まさ》に奪はれんとする権利を挽《ばん》回《くわい》し玉はらんことを請ひ申すに南《なん》。
情ありて辞足らず礼なき文をゆるして心のある所を推《すい》し玉はんことを祈る、可《か》祝《しく》
明治二十三年十月
有志惣代《そうだい》、三浦みさを、島田まさ、竹越竹代、金森小寿、湯浅はつ、徳富ひさ、徳富しづ、海老名里無、粟津ひさ、荻野ぎん、浅井さく、潮田千勢、佐々木豊寿、清水とよ、岩本かく、横井たま、工藤さの、小島きよ、元良よね、中村かつ、矢島かぢ
有志惣代はいずれも当時の矯風会《きょうふうかい》の中心的人物だが、この中にもちろん荻野吟子の名がみえる。だが、「ぎん」と本名で書いてあるところが面白い。公《おおやけ》に出す名はやはり戸籍の名でなければいけなかったようである。
この陳情運動は矯風会が政治的な面で動いた初めての運動であった。
文書は陳情という言葉そのままに、お上《かみ》に平身低頭してお願いするという感じである。今なら声を大にして堂々と要求するところである。矯風会の人達は女権拡張や自由民権運動に並々ならぬ関心を寄せてはいたが社会主義者ではなかった。あくまで基督《キリスト》教の教《きょう》是《ぜ》にのっとって足りないところを要求したにすぎない。戦うということより修正を求めていった。矯風会の運動が多くの支持を得ながら、明治大正期の社会運動の大きな力になり得なかったのはこの辺りに原因があったと思われる。
それはともかく、この運動によって婦人の議会傍聴は許され吟子達の目的は達せられた。これは婦人団体の政治運動が成功した日本で初めての出来事として注目されねばならない。
日本の最初の女医として、また熱心なクリスチャンとして吟子の名は知識階級の間で次第に高まっていった。
しかしこの頃《ころ》荻野医院は必ずしも繁昌《はんじょう》を極めたわけではなかった。開業二年を経ず、三組町から西黒門町へ移った頃は、この先どうなるかと思われるほどの伸びようであったが、そのあとは患者の数はほとんど頭打ちであった。
「女のお医者では心細くて、などと分らずなことを言っているのです。呆《あき》れて口も利《き》けませんでした」
もとは買物がてら耳にした吟子の評判を正直に告げた。
「馬鹿《ばか》な人達です」
もとはしきりに腹を立てていたが、吟子は本に目を落したまま静かに笑っていった。
「患者の一人や二人、近い方の病院に去ったからといっていいではありませんか」
といった調子で悠々《ゆうゆう》と聖書を読んでいる。
「困った先生だ」
もとは呟《つぶや》くが、吟子は負け惜しみでなくそう思っていた。正直なところ患者の一人二人のとり合いや医院の目先の盛業などは吟子にとってはすでに興味がなくなっていた。吟子が考えていたのはもっと大きな世界のことであった。
西黒門町に移ってからは吟子の家には絶えず二、三人の女医学生が寄食して勉強のかたわら医院を手伝っていた。訪れてくる彼女等を吟子は拒まなかった。吟子の不在の時は彼女等が代診する。病状をカルテに記し投薬をする。後で吟子が帰ってきてから彼女等のやったことをカルテを手にとって再検する。じっと見詰めてから、やがて毛筆をとり横文字のスペルの誤りや、投薬の疑問点を全《すべ》てチェックする。
「風疹《ふうしん》とした理由は?」
「熱がでて鼻水と眼《め》脂《やに》が多かったのです」
「口の内の粘膜は?」
「…………」
「診なかったのですね。それでは風疹と断定できません、一番肝腎《かんじん》な個所を見逃しています」
吟子は容赦はしない、その個所を無残に墨でぬり潰《つぶ》す。
「明日来たらすぐ私の方に」
一言いうと書斎に引き籠《こも》る。駄目《だめ》だとも勉強せよとも言わない。冷たく突き放すだけである。女医学生はとりつくしまもなく黒くぬりつぶされたカルテを見ている。
「先生は誰にもああなのですよ」
もとは慰めるように言うが腹の中では吟子に不満である。一《いっ》層《そ》のこと怒るか、「もう少し頑《がん》張《ば》りなさい」と声をかけてやった方がいいと思う。
だが吟子には別の考えがあった。
「学問は人に甘えたり励まされたりしてするものではありません。自分から自分を正して行うものです」
実際吟子はそのようにやってきた。何事も人一倍出来ただけに吟子は他人のやることが歯がゆくて見ていられなかった。なぜこう出来ないのかと腹立たしくなる。才人が往々にしてもつ癇《かん》気《き》を吟子は持っていた。それ以上話し合っていると相手の分らなさに焦《いら》立《だ》ってくるばかりである。
それは学問ばかりでなかった。夜に暇をみて看護婦や女中達に裁縫やお華を教えたが、吟子からみると彼女等は随分とのみ込みが悪かった。嫁ぐ前、俵瀬《たわらせ》で一カ月もせずに覚えたことが、彼女等には倍の二カ月はゆうにかかった。
「そこはこの前説明したはずです」
重ねて間違われると教えている吟子の方で怒りだす。覚えが悪いうえに、膝《ひざ》を崩したりしているのを見せつけられると一層腹立たしくなる。
「足っ」
物差しが看護婦の足にとぶ。控え目で物静かなふだんの吟子とは想像もつかない厳しさである。打たれたことで女達は一層萎縮《いしゅく》し、間違いを犯す。だが二度目から吟子はもう何も言わない。
「止《や》めます」
一言言ったきり後も見ず、書斎へ消えていく。
「先生はなんでも出来すぎるのです。あれだけ学問に身を入れていながら和歌や裁縫は勿《もち》論《ろん》、お茶からお華、小《こ》唄《うた》まで立派になさるのです。だから私達のような凡人を相手にすると焦立ち、やりきれなくなるのです。あれで精一杯耐えて私達につき合って下さっているのです」
もとは叱《しか》られて悄《しょ》気《げ》かえっている女達の気持をなんとかひきたてようとする。
「きちんとした家のお生れで、厳しくしつけられた方だから、私達にも厳しいのです。でも本当の心根はやさしい方です。あれだけ忙しくお疲れなのに、少しの時間を見付けては私達に裁縫まで教えて下さろうとされるのですから。普通の人ではとても出来ることではありませんよ」
もとの言うことは女達にもよく分る。だが彼女等には吟子はやはり自分達にははるかに手の届かない別種の人に思えるのだった。
吟子の厳しさは診察や手習いといった学ぶ面だけのことではなかった。
身装《みなり》から、話し事、外出まで誤ったことをする者がいたらいちいち厳しく注意した。
医院の従業員は、外出の時はどんな非番の時でも吟子のいる時はすべて「どこへ行って、何をしてきて、何時に帰る」と申し出て、許可を得てから出ていくしきたりになっていた。吟子が外出していない時にはあらかじめ申し出ておくことになっている。もとは以前これを怠って、吟子が先に戻《もど》っているのを知らず夜八時すぎに帰ってきてひどく叱られたことがある。
「何を今頃まで町中をほっつき歩いているのです」
怒ると吟子の声はいくらか伝法肌《でんぽうはだ》になる。
「さあ、行き先と何をしていたかを言ってごらんなさい」
吟子の姿勢は十分経《た》っても二十分経っても崩れない。幼時から鍛《きた》えてきただけにそうした点では若いもとでさえ吟子にはかなわない。
「両国《りょうごく》の回《え》向院《こういん》ヘ……」
根負けした形で、もとはぼそぼそと喋《しゃべ》り始める。
「灌仏《かんぶつ》会《え》ですね」
四月八日は釈尊の誕生日で一向宗《いっこうしゅう》を除く諸寺では灌仏会を開く。中でも両国回向院、弥《み》勒《ろく》寺、茅場町《かやばちょう》の薬師堂、蔵前《くらまえ》の閻《えん》魔《ま》堂《どう》などは特に盛んに行われる。
「誰と行ったのです」
「さわさんと」
もとは医院の斜向《はすむか》いの洋傘《ようがさ》屋《や》の女店員の名を言った。
「それで何をしたのです」
「甜茶水《あまちゃ》をかけたり、お祈りしたり……」
その他《ほか》に出店をぶらぶら歩き、水飴《みずあめ》を買ったり、猿回《さるまわ》しを見たりして歩いたのだが、怒られそうなことは言わない。だが吟子はすべてお見通しである。
「街頭で女の子がぶらぶらと辻芸人《つじげいにん》を覗《のぞ》き見たり、物などを買って歩くものではありません。そんなことをしているから与《くみ》しやすしとみて男達から後をつけられたりすることになるのです」
半年前、湯屋の帰り男につけられたことを吟子は忘れず持ち出してくる。
「しかもこんな夜遅く、生娘《きむすめ》の身で万一間違いがあったらどうするのです。あなたの母上になんと言いわけをするのです」
開けたとはいえ両国橋の手前や柳原土手の辺りはまだまだ物騒であった。
「私の言いつけを守れないのなら、すぐお帰りなさい」
「もう決して致しませぬ、お許し下さい」
女達が謝る時、吟子は両手を膝の上にきちんと並べ、薄く目を閉じている。
「お願いします」
だが吟子は容易に許す、とは言わない。叱りながら吟子は何故《なぜ》このように叱らねばならないのかと気が重くなってくる。他人の子で万一誤りがあったとしても本人が悪いのだからどうということもない、そう考えた方が楽だし、使用人達にも評判が良くなるのだろうが律《りち》義《ぎ》な吟子の性格はそう簡単に割り切れない。何事もきちんとしておかねば落ちつかない。損な性分だと思うが、もって生れてきた性分だから仕方がない。生来の吟子の癇の強さは開業し、一家の主になってからさらに際《きわ》立《だ》ってきたらしい。それは吟子自身もうすうす感じているし、自分自身でもいやなことだと思う。この気性の強さがかつては男に敗《ま》けぬ学問にかりたてたのだが今は他人に向けられている。年齢《とし》もとり、それなりの地位を得て吟子はその強さを自分でいささかもてあましていた。
許しが出ないで頭を下げ続けていたもとが窺《うかが》うように言う。
「あの、これを買って参りました」
もとは袂《たもと》の裏から小さな青竹の手《て》桶《おけ》をとり出した。中には甜茶水があり、この水を硯《すずり》に流して虫という字を書いて、その紙を厠《かわや》に貼《は》れば蛆《うじ》が生じないという縁起ものである。
「硯を用意します」もとは殊勝げに言うが、
「そんなことで、許しませぬ」
吟子にはもとの考えている程度のことはすぐ見抜ける。機《き》嫌《げん》をとるために可愛《かわい》い女だと思ってやれば、それでいいのだが、吟子はそうはとれない、小細工を弄《ろう》するずるい女としかとれない。
「甜茶水など捨てなさい」
そんな迷信を信じる吟子ではなかった。
湯島神社の二十五の賽《さい》の日に新しく入った看護婦の関口とみ子が外出の許可を貰《もら》いにいった時、吟子は机に向って部厚い本を写していた。
「誰とですか」
「おたよちゃんとです」
とみ子は最近新しく入った下働きの女中の名を言った。
「明るいうちに戻るのですよ」
そう言って振り返った時、吟子の眼《め》が急に険しくなった。
「それではいけません」吟子の鋭い声が立ち上りかけたとみ子の腰を引き降ろした。とみ子は吟子の急に怒った理由がまるで分らず、ぼんやりと顔を見上げていた。
「なんです、その髪は」
「髪を……」
とみ子は思わず花簪《はなかんざし》に手を当てた。
「分らないのですか、島《しま》田《だ》潰《つぶ》しは普通の子女のするものではありません。もと宿場の飯盛《めしもり》女《おんな》とか、遊女が好んでしたものです。そんな髪形をしていて別の女と見間違われてもいいのですか」
「でも……」
髪はつい今しがた、一時間近くの時間をかけてようやく結い上げたものである。この頃、下町の娘達の間で流行《はや》り出したものでとみ子達も見た目に粋《いき》なところが気にいってしただけのことである。
「そんな卑《いや》しいもの、すぐ壊しなさい。そのままでは外出は許しません」
このあたりが吟子の考えの面白《おもしろ》いところで、廃娼《はいしょう》運動の先頭に立ち、芸《げい》妓《ぎ》や廓《くるわ》の女も同じ人間だと訴えながら、彼女等の身装《みなり》や所作事は軽蔑《けいべつ》しきっていた。これは彼女等の人権を認めているが、生活のありようは認めないということにもなろうが、その奥には色街の女というものへの憎しみと蔑視があった。吟子が彼女等の解放を叫ぶのは彼女等が哀れで一段下った女であるからでもある。初めから対等には見ていない。それは良家に育った吟子の宿命的なものの観方であり、離縁されたことにより一層強まった考え方でもあった。
「早くお直しなさい」
一度言い出したら意見を変える人でないことはとみ子もよく知っていた。隙《すき》のなく整った吟子の容姿が、とみ子には怖《おそ》ろしく冷やかなものにしかうつらなかった。
表はどうあれ、裏では吟子は使用人のことを親身に思っていた。ただそのことを言葉や仕《し》種《ぐさ》で直接現すことはなかった。はっきり言うことに照れがある。それは吟子の中にある良家の子女としての慎《つつ》ましやかさのためでもあった。
この性格を呑《の》み込むまで、もとは一年かかった。ましてや昨日、今日来たばかりの看護婦や、女医学生に理解せよ、と言っても無理な話であった。
下々の評判はともかく、明治になってうまれた新しい知識階級の間で、吟子の名は少しずつ知られ、それとともに吟子は上流知識人との交際が拡《ひろ》がっていった。それは吟子が格別意識的に求めたわけでも、望んだわけでもなかったが、水が低きに流れるように自然になったことであった。
元来が埼玉の名《な》主《ぬし》の娘という名のとおった家に生れ、容姿端麗な上に当代一流の学識を備え、医者という第一級の社会的地位を得ていたのだから、世間が注目するのも無理はなかった。
女医になり、女性の患者の屈辱を救ってやる、という所期の目的そのものはすでに達成された。それだけではなく今や女権そのものの獲得運動を指導する立場にいた。吟子は華やかな光を浴び、輝かしい未来だけが約束されていると思えた。事実、このまま進めば吟子は明治の女性史のみならず、明治史そのものにも偉大な先達者として名を残したに違いなかった。だが運命はどこでどう変るとも限らない。
明治二十年の暮、吟子は基督教日本組合教会の関東地区例会で、大宮教会の牧師、大久保真次郎夫妻を知った。この年の七月、海老《えび》名《な》弾正《だんじょう》は家庭内の不幸で転勤できなくなった親友横井時雄の替りに熊本へ転勤することになり、本郷教会を去っていた。
大久保真次郎とはクリスチャンとして知り合っただけの関係であったが、その夫人とは女権拡張へ同じ意志をもっていたところから吟子と夫人は急速に近づいた。東京へ出て来ると夫人は必ず吟子の所に立ち寄り、一夜語り明かしていく。この夫人は徳富《とくとみ》蘇《そ》峰《ほう》の実妹で、久布《くぶ》白落《しろおち》実《み》の母でもあり、当時の知識階級の名流夫人として高名な人でもあった。
開業し、生活が安定してから、吟子は地色は黒味がかった、柄《がら》は小さな縞《しま》模《も》様《よう》の地味なものを着ていたが、生地《きじ》は縮緬《ちりめん》、お召、紋《もん》羽《は》二《ぶた》重《え》といった上等のものしか着なかった。夏には黒《くろ》絽《ろ》の紋付羽織を着る、というように流行もとり入れた。
本来、吟子は撫《な》で肩のうえに、小柄で細身である。和服の似合う体型であった。引き締った顔に渋い地色の上等の着物を着たところはいかにも落ちついた名門の夫人に見えた。外見だけを見ていると人一倍気性激しく男達の間を生き抜き、血や膿《うみ》を見ても平然と対処する医者とは思えなかった。だが気品のある知的な静けさのなかに、燃えるような情熱が秘められていると思わせるのが四十歳に近づいた吟子の新しい魅力でもあった。
二十三年の春、夫について上京してきた大久保夫人は例によって吟子の許《もと》を訪れた。夫人も吟子のように細身だが丈は一、二寸高い。
二人の話は教会のことから社会問題へ拡がり、やがて当然のように新しく公布された憲法のことへと話題は移っていった。先に書いたように婦人矯風会の陳情書に夫人は名を連ねなかったが、それは東京にいなかったからで夫人の考えは吟子らと変らなかった。
夜更《ふ》けて大久保夫人は吟子の家へ泊ることになった。夫人が一人で来た時はたいてい泊っていくので、二階の客間に女中はすでに床をとってあった。
「そろそろ寝ましょうか」
立ち上りかけた時、夫人はふと思い出したように言った。
「夏休みにお宅に一人、男性を泊めていただけません」
「男性?」
吟子は聞き返した。部屋が余っているのだから来客や女医学生はよく泊めた。素姓や親をよく知らなくても紹介者さえはっきりしていれば、格別うるさく身元を調べたようなことはない。それで無事であった。しかし男性を泊めたことはまだなかった。荻野医院に男性と言えば勝手口の女中のきよの夫と、下廻《したまわ》りの老《ろう》爺《や》と車夫だけである。
「男性と言っても変な人じゃないのです。同志社の学生さんで、もちろん、組合派の熱心な基督《キリスト》教徒です」
「同志社の方ですか」
学生で基督教徒としたらさして不祥事もなかろう、吟子は許す気になった。
「私の家にはもう三度も泊っていっているのですが、とても伝道に熱心な方で、今度も主人の伝道について秩《ちち》父《ぶ》方面を一緒に廻ることになっているのです。まだ二十六歳で独身なのですよ」
夫人は言ってから、急に可笑《おか》しそうに笑うと、
「体は大きいのですが、その故《せい》か何かぼうっとした感じで、娘の落実にあんな男性はどう、と冗談半分に言ったら、ヌーボー式の鈍重な感じで嫌《いや》だと言うのですよ」
そんな男なら若い看護婦達ともとやかく問題も起きまい、吟子は安心した。
「秩父の帰りちょっと東京に寄ってみたいというものですから、何処《どこ》か無料で泊れるところをお世話してあげなければと思っていたのですが、先生の所にお願いできればこんないいことはありません」
「こんなところで宜《よろ》敷《し》かったらどうぞ」
「熊本《くまもと》の人なのですよ」
「じゃ、海老名先生とご一緒で」
「そうそう、海老名先生もよく御存じです」
吟子はますます安心した。
「ずっと京都住まいだから東京が珍しくて仕方がないのですよ、それに先生の信奉者ですから」
「御冗談を」
「いえ本当です。二年まえ見えた時、先生のお話をしたら新聞で知っていて、是非お会いしてお話を伺いたい、と大変な熱のあげようでした」
「まさか、私なんかに」
打消しながら吟子はなんとなく若やいだ気持になった。
「大学の夏休みを利用して来るのですが、今度は東海道線も開通したから随分楽でしょうね」
「十五時間とかで来ると聞きました」
「今度一度乗ってみましょうか」
「それで、その学生さんのお名前は」
「ああ忘れていました。ちょっと奇妙な名前ですが、志《し》方《かた》、志願の志に方角の方、志方之善というのです」
吟子は一度口の中で言ってから少し憶《おぼ》え難《にく》い名前だと思った。だが翌日にはその話はもう忘れていた。
熊谷《くまがや》から姉の友子が上京して来たのは、六月の半ばであった。
吟子より四つ上の友子は田舎に住んでいる故か年老いて、吟子より十近く上にみえたが細身の体つきや目元の晴れやかさは誰《だれ》の目にも吟子と姉妹であることが分った。
「噂《うわさ》には聞いていたけど大層な繁昌《はんじょう》で、本当に驚きました」
嫁いで一年後、江戸と呼んでいた東京へ夫とともに一度来たことしかない友子は、二十数年ぶりに見る東京の変り様に口もきけぬ有様だった。
「熊谷しか知らぬ田舎者になってしまいました」
友子の夫はすでに十年前に死んでいた。夫に死別してから友子は土蔵を利用して質屋を経営しながら遺児四人を立派に育てあげていた。三人の娘はそれぞれに嫁ぎ、ただ一人の男の子は嫁を貰《もら》い孫も生れ、ようやく友子は家庭から解放されていた。
「長い間、本当にお世話になりました」
上京してから開業するまで、途中の断絶はあるが、友子から受けた援助は積り積って随分の額になる。開業してからの二年間で吟子はできるだけの金を返したから今となっては大した額ではなかったが、苦しかった時に、友子に頼みさえすれば何とかなると思った、その心の支えは大きかった。特に母がいなくなってからは最後の心のよりどころは友子であった。その友子が今は急に老《ふ》け込み、なにか力無げにさえ見える。
「膳さんはお変りないのですか」
吟子は友子の長男のことを尋ねた。
「お蔭様《かげさま》で……」
一言答えただけで、友子は口を噤《つぐ》んだ。家のことはあまり言いたくないといった様子である。育てたとは言え、先妻の子である長男夫婦と一緒にいる友子の姑《しゅうとめ》の座が居心地のいいわけはない。友子は賢いからそんな愚痴めいたことはこれっぽっちも言わないが、心の中は吟子にも分るような気がした。
「俵瀬《たわらせ》はどうなのですか」
吟子は沈んだ空気を追い払うように話をかえた。
「もう昔の面影《おもかげ》はありません。裏の畑も桑の権利も人手に渡って、残っているのは邸《やしき》と用水堀までの土地ぐらいのものですよ。本当にひどい変り様です」
友子は嘆息とも諦《あきら》めともつかぬ調子で言うと茶を啜《すす》った。
「保坪《やすへい》兄さんは何か道楽でもしているのですか」
「それゃ、たまには熊谷に遊びにくらいは来るでしょうけど、そんな所で遊んだといったってしれています。実家《いえ》はやはり、やいさんが潰《つぶ》したのです。あの人の金費《かねづか》いの荒さといったらあの辺りで有名ですからね。着物や装飾品は全部東京の鼈甲屋《べっこうや》からわざわざ取り寄せるのですからね。おまけに仕事嫌いときています、一家を守る妻があれでは家が傾くのは当り前ですよ」
吟子は床を背にしっかりと坐《すわ》っていた、やいの骨ばった上体を思い出した。その女が今はそこに生れ育ったように実家《いえ》に根を下ろしている、しかも実家を食い散らしているのだという。
「おやいさんはそうでも、保坪兄さんがしっかりと手《た》綱《づな》を引き締めればいいじゃありませんか」
「保坪兄さんはそんなことを出来る人じゃありません。大人しいだけが取《と》り柄《え》で、人を治めていくというようなことにはおよそ向かない人です」
吟子も保坪には初めから多くは期待していなかった。親から譲りうけた土地屋敷を守ってくれさえしたらいいと思った。利根《とね》の土手まで見渡すかぎり、荻《おぎ》野《の》の家の土地だと言われたのが、今は邸と掘割《ほりわり》までの土地しか残っていないという。
「傾きだすと早いものです」
明治維新以来、没落した家を吟子は東京であきるほど見てきている。かつて高名な旗本の息子の内儀がどこそこの料亭《りょうてい》に下働きで出ているとか、何家の土地が売りに出されているといった話は珍しくもない。すべてが変っていく時に荻野の家が変るのも、また止《や》むを得ないことなのかもしれなかった。東京という現実の金と力だけによって人間関係が支配される都会に住んでいる故か、吟子は自家の没落もある程度素直にうけとめることができた。
だが田舎に、しかも実家《いえ》に近く住んでいる友子には耐えられないことのようであった。
「父さまと母さまが見たら、なんと歎《なげ》きますことか」
それは吟子も同じ思いだった。名実ともに北埼玉第一等の名主として「上《かみ》の荻野に見習え」と近在の人から賞《ほ》めそやされた荻野の家は母が死んだ時で終ったようであった。家の傾きはともかく、父や母の霊《みたま》のことを思うと吟子はやりきれない気持にとらわれた。
「仕方のないことです」
二人は互いにうなずき合ったが気持にはへだたりがあった。静かな夜の中を火の用心の声が行く。
「この前、貫一郎さんが見えました」
暗い話題から逃げるように突然友子が言った。
不意の名に吟子は顔を上げた。
吟子が離縁《わかれ》てからも友子だけは稲村家と往き来しているのを吟子は知っていた。
「川上のお家は相変らず繁昌のようで、今度貫一郎さんは銀行を創《つく》るそうです」
遠い彼方《かなた》に忘れてきた人の姿が大儀そうに吟子の脳裏に甦《よみがえ》ってきた。
「あの方は初代の頭取におなりになるそうですよ」
友子は吟子へ含むところがあって言っているのではなかった。土地の自分と吟子に共通している話題を言っているに過ぎなかった。そのことを聞いたからといって今の吟子の立場が動揺するわけもなかった。それを互いに知った上での会話であった。
「あなたが開業したことも、いろいろと活躍していることもみなよく御存じで、我がことのように御喜びでしたよ」
不思議なことに別れて二十年余り経《た》った今の方が男の姿ははっきりと思い出される。それも単に男の姿形というものではなく、考えていたことからやろうとしていたことまであからさまになってくる。
たしかに頭もよく学問もある人だった。あの頃《ころ》貫一郎は誰かに誘われて何気なく色街にいったのかもしれなかった。病気になったことも、稲村という家の重さも、せいという姑の息苦しさも、必ずしも貫一郎一人の責任というわけではなかった。貫一郎という男そのものは悪い人ではなかったのかもしれない。
(しかしだからといって)
それとあれとは違うと吟子は思った。悪かったのはただ一点だからと言って、許せるというわけではない。すべてよく尽してくれたとしても、ある一点で致命的な屈辱を与えられたとしたらそれらは帳消しになる。今の吟子があのような状態におかれたのなら許せたかもしれない。しかしあの時は違う。十六歳の何も知らない娘であった。すべてを夫に委《ゆだ》ねるより方法はなかった。
「時々、東京にお見えになっているようですよ」
友子はことさらに吟子の心を無視するように言った。単なる報告というに過ぎない。
「あの方、一時は貴女《あなた》に戻《もど》ってきて欲しいと思ったこともあるようです、でももう二十年も経ちました。今はただ貴女の成功だけを祈っているようです」
私だって何とも思っていない、と吟子は思った。貫一郎のことなぞ、この十数年、ついぞ一度だって積極的に思い出したことはない。この間に向うが何と言い出そうと戻る気なぞはまったくなかった。
「帰ったらあなたが宜敷く言っていたと伝えましょう」
「いいえ、止《よ》して下さい」
吟子は勝気な眼《め》を上げた。この二十年間、男からの謝りも、愛《いと》しい仕掛けも、平凡な仲直りも望んでいたわけではなかった。貫一郎のことは完全に記憶の埒外《らちがい》にあった。今もなお私に呆《あき》れ果てていてくれて、それでいい。それの方がいくらすっきりしているかしれない。二十年という年月はすべてのことを平たくしてしまった。しかしその平たさに甘える気は吟子には毛頭なかった。
「余計なことは言わないで下さい」
「私はただ……」
「私をだしにするのだけは止して下さい」
「ぎんさん……」
友子の頭髪の半ばは白くなっていた。孤独な老境を迎えて吟子という妹がいることが今の友子にとっては自慢で、それしか誇るところはなくなっているのかもしれない。荷の重いことだと吟子は思った。だが眼の前でおし黙っている老いた姉を見ていると哀れさがつのった。
「御免なさい」
吟子の中に新しい疑問が現れたのはその時であった。
しかし本当に私はあの人とは無関係なのだろうか。
一度浮んだ疑いは風をはらんだ雲のようにみるみる拡がっていった。
今の私は、貫一郎とのことがあったから存在しているのだ。それは疑いようもない事実であった。
あの悲しみと屈辱がなかったら女医にもならず、基督教徒にもならなかったかもしれない。少なくとも女医にならなかったことだけははっきりしている。発端の原因がそこにある以上、どう考えてもその影響を見捨てることはできない。しかもそれは決意だけではない。吟子の体の中には貫一郎から受けた傷が今も確かに残っている。それは大方は眠りながら時々思い出したように眼を覚ます。どうもがこうと捨てきることはできない。
頭では忘れたことが、体では生きている。
そのことが吟子には耐えられぬほど口惜《くや》しい。口惜しいが否定できない。
吟子は自分が男から受ける側の女という性であることを今改めて知った。
友子は三日泊って四日目に風呂《ふろ》敷包《しきづつ》み二つに一杯の土産物を持って帰っていった。そのすべては吟子が買い与えてやったものである。やがて高崎線の汽車にのる友子を吟子は上野のプラットホームに送った。
「ありがとう、本当に世話になったわ」
友子は風呂敷包みを網棚《あみだな》にあげてからもう一度頭を下げた。
「元気でね」
見送りながら吟子はいつのまにか自分が友子から恵みを受ける立場から、与える立場に変っているのに気づいた。それは長年の間、吟子が待ち望んだ情景であったが、いざとなってみると、何やら寒々として虚《うつ》ろな淋《さび》しさでしかなかった。
一五
梅雨明《つゆあ》けは遅かったが、遅いだけに明けた時の陽《ひ》の強さはひとしおであった。店では簾《すだれ》をかかげ、昨日まで濡《ぬ》れていた店先に打水をした。
「氷っ、氷、函館《はこだて》名物、氷でござい」
急に訪れた暑さに力を得たように氷売りが切り裂くような声を張りあげて表を過ぎていく。
その日の夕方、吟子が往診を終えて戻ってくると出迎えたもとが顔を近づけて言った。
「なにか男のお客さんがお見えです」
「どなた……」
吟子は玄関口を探った。
上り台の中央に女物の二倍近くある朴《ほお》歯《ば》の下駄《げた》が並んでいる。黒ずんだ下駄に丸く足形が残り、歯の減り方が後ろの方が激しいせいか、後ろに傾いている。
「志《し》方《かた》とか言ってますが」
「しかた?……」
「京都の学生さんだとか」
「ああ……同志社のね」
三カ月前に大久保夫人から言われたことを吟子は思い出した。
「御存知でしたか」
「まだお会いしたことはないのですが大久保夫人からの御紹介の方です」
吟子が勝手口に廻って手足を洗うのに、もとは従《つ》いてきて尋ねた。
「その志方という方、こんな大きな人で、ちょっとばかり異様なにおいが致します」
「におい?」
「ええ」
「なんのにおいです?」
「分りません」
「ともかく二階の八畳間を掃除して下さい。今晩お泊りになるのですから」
「この家にですか、まだお茶も出していないのですけど」
「いままで、なにをしていたのです」
「そのう……何か物売りかとも思ったものですから」
「で、どこに」
「待合室に待たせています」
「馬鹿《ばか》ねえ、すぐ奥の間へお通ししなさい」
吟子はそのまま勝手口へ廻ると外出で埃《ほこり》をかぶった顔を洗った。
診察室へは寄らず真《ま》っ直《す》ぐ奥の間へ向ったが、行きがけに思い出したように鏡台に向って軽く鉛粉《おしろい》を叩《たた》いた。
吟子は滅多に化粧をしないが、この頃は朝軽く鉛粉をつけていた。この数年肌《はだ》の張りが急に失われ眼から鼻にかけて雀斑《そばかす》が目立ってきていた。吟子のように細面《ほそおもて》の小造りの顔は老けだすと早い。自分に会うため遠くからわざわざ訪ねてきた基督《キリスト》教徒に見苦しい形を見せるのは吟子とても気が進まない。
しばらくして吟子が奥の間の襖《ふすま》を開けて入った時、志方はテーブルの前で両手を膝《ひざ》におき、かしこまった姿勢で坐っていた。入っていった吟子にはその後ろ姿が、大きな岩のように見えた。
「お待たせしました、荻《おぎ》野《の》です」
「はっ」
志方は振り返りざまとび上るように二、三寸引き下ると慌《あわ》てて頭を下げた。その時、鈍い音がして志方の顔がテーブルに当った。
「あら」
吟子は額を気遣ったが志方は構わず、
「志方之善でございます」
軍人のような調子で言った。
「この度は無理なお願いをして、恐縮致しております」
「いえいえ、どうせ部屋が空《あ》いているのですから一向に構わないのですよ」
「ありがとうございます」
志方は深々と頭を下げた。
陽灼《ひや》けした顔に大造りな口と鼻とがどっしりと構えている。前を三寸、後ろを短く刈りあげた髪は最近理髪店に行った様子だが、鼻下から顎《あご》にはすでに堅そうな髭《ひげ》が生えている。だが見上げた顔は意外に童顔である。
「さあ、どうぞお楽になさって」
「はあ……」
うなずくが志方は膝を崩さない。相当堅くなっているのか、余程躾《しつけ》の厳しい家に育ったのか、どうやら前者らしい。
これが物売りと見誤られた顔かと吟子は可《お》笑《か》しくなったが、よく見ると額が赤くなっている。挨拶《あいさつ》の時、テーブルの端にかなり強くぶつけたのに、手も触れず痛みに耐えているらしい。
「あの、そこが……」
吟子が済まなそうに額を眼で示すと、
「いえ、痛くはありません」
どこまでも角張った男である。事実大造りな顔の下の両肩は翼のように張り、それに合せるように両肘《りょうひじ》を外へ菱形《ひしがた》につき出し手を膝に揃《そろ》えている。
「申し訳ありません」
吟子が謝られる理由はないが、それにしても変った男である。もとが茶をもってきた。
「先程は失礼致しました」
「いえ、こちらこそ」
もとはテーブルの上に茶卓と茶碗《ちゃわん》を並べ終ると一礼し、退《さが》りながら志方の脇《わき》にある風呂敷包みを吟子に目配せした。
なるほど臭い、それもなにか生きもののようなにおいである。
吟子が視線を向けたのに気付いたのか、志方の大きな手が包みの紐《ひも》に伸びた。去りかけたもとは、何事かと敷居の手前でつっ立っている。
もぞもぞと中の衣類を右左へ動かしたあと、底から厚い紙に何重にも包んだものをとり出した。
「これをお土産にもって参りました」
「なんです」
両手に抱えるほどの大きさだが、何やらやわらかそうだ。
「鮎《あゆ》です。今朝出がけに多摩川で釣って来たのです。いや釣ったというわけではありません、掴《つか》めるほどごっそりいるのです」
吟子ともとは顔を見合せた。臭い張本人は間違いなくこれであった。吟子は可笑しくなったが、志方の真面目《まじめ》くさった表情を見ると笑うわけにもいかない。そのまま礼をいって受け取る。
志方に貸した部屋は二階の一番奥の部屋だった。一つおいて手前に、もとと関口とみ子が一緒に寝泊りしている。以前は女子医学生が泊っていたところで小綺《こぎ》麗《れい》な部屋である。一通り挨拶が終ると志方はもとに案内されて風呂敷包みを脇に、そこへ昇っていった。
待っていた患者の処置を終り、カルテを整理すると七時半だった。東京の民家としてはかなり遅い夕食である。これで吟子は医院のことからようやく解放される。風呂と夕食は志方だけ先に終えていた。
「お客さまによろしかったら階下に来てお話でもしませんかと招《よ》んできて下さい」
夕食を終えてから吟子はもとにいった。
だがもとは戻ってくると、お腹《なか》をおさえて笑い出した。
「あの方といったら、お呼びに行ったら褌《ふんどし》一枚で……」
「裸で?」
「声を出して聖書をお読みになっていたのです」
吟子も女達も一斉《いっせい》に笑った。荻野医院にこんな陽気な笑い声が起きたのは久し振りである。
入浴を終え浴衣《ゆかた》に着替えてから吟子は奥の間で志方と向い合った。昼と同じ木綿の袴《はかま》をつけていたが、それは長旅の故《せい》で汗と埃にまみれ、まだ少しばかり魚のにおいが残っていた。
「よろしかったら、その袴、洗って差しあげましょうか」
「いえ、そんなことは……」
「家は医院ですから洗い物は多いのです。着替えをお持ちですか」
「はあ、あの、寝着なら一着」
「じゃそれを着ていらっしたら」
「申し訳ありません」
一礼すると志方は仁《に》王《おう》のように立ち上り、階段をきしませて二階へ上った。
再び降りて来た時、志方は浴衣地の寝着を着てきたが、肘と膝が着物の端から突き出ている。巨体だけにその恰好《かっこう》は可笑しく異様だった。
志方は相変らず四角張っていたが、吟子に重ねて「楽にせよ」といわれてようやく胡坐《あぐら》をかいた。
座敷の庭に面した戸は開いているが夜に入っても暑さは一向に治まりそうもない。外は風はなく、月も星もない空がぬり込めたようにおおっていた。梅雨は上ったが湿気はそのまま置き去りにしていったようである。
吟子は丸いテーブルを挟んで志方と向い合っていた。二人のほぼ中程に洋灯《ランプ》があり、それが志方の顔の左半分と吟子の右半分を赤く照らし出していた。隣は茶の間で、女中達は食事の後始末や明日の準備のためまだ働いている。
「私の生れは熊本県山《やま》鹿《が》郡小鹿町というところで、父は之裕、母は梅原氏で三姉一妹の第四子です」
志方は聞きもしないことを自分から喋《しゃべ》り始めた。
「父は熊本藩の士族でしたが、私が十三の時、亡《な》くなりました。ちょうど西南《せいなん》戦争の最中です。あの頃は毎夜のように空が焼け、砲の音を間近に聞きました」
西南の役の時は吟子はすでに女子師範に入っていた。その頃、志方はまだ十三歳前後の悪童であったというのだ。吟子はそれほど年齢の差のあるものが、自分の話し相手になっていることが不思議であった。
「私は本当は陸軍軍人になろうと思ったのです。それで十四歳の時、熊本を発《た》って義兄のいた神戸に行き、英語を学んだのです」
志方は邏《ら》卒《そつ》の尋問にでも答えるように言い続けた。
「そのあと一旦《いったん》は大阪の陸軍教導団に入ったのですが胃弱のため二年で除隊を命じられました。それで止《や》むなく親戚《しんせき》の鈴木陸軍大佐の紹介で新島襄《にいじまじょう》先生の設立した京都同志社普通校に入りました」
「入信されたのはいつですか?」
「明治十九年の秋です。親友に誘われたのがきっかけで、この年の秋に新島襄先生に洗礼を受けました」
「それでは私とほぼ同じ頃でしたね」
「先生はどなたに洗礼を受けられたのですか」
志方は自分よりも年上のためか、医師の故か、吟子を先生と呼ぶ。
「海老名《えびな》先生です」
「あああの先生なら私もよく存じております。同じ熊本出身で、今は熊本教会にいらっしゃいます」
「軍人になるつもりが教会に捧《ささ》げる身になったところなど海老名先生と同じですね」
「そうです。私があのまま軍隊にいっていたら今頃は軍服を着けて軍刀を下げていたかもしれません。いや、辞めたとしてもあのあと鈴木氏や新島先生を知らなければ別の道を歩んでいたに違いありません。まったく人間の運命なぞどこでどう変るものか分らないものです」
それは吟子も同じである。なぜ、なぜ、と元をたどっていけばきりがない。
だがこの時もなお更に大きな偶然の運命が、吟子を支配しかけていようとは吟子自身さえ気がついていなかった。
暗く厚い雲におおわれた空は動かず、時に思い出したように風鈴だけが鳴る。勝手の後始末は終ったらしく静かになり、女中は水菓子を二人の間において二階へ上ったようである。
「私は先生の勇気には真底、感心しております。誰もなりえなかった女医の道を切り拓《ひら》かれた。更に、矯風会《きょうふうかい》で立派な活動をなされている」
志方の言うことは単なる世辞でなかった。見るから一本気なこの男に、女への世辞など言えるとは思えない。熊本まで名の響いている天下の才女に会え、同席しているというだけで頭が熱くなっているらしい。
「先生には前々から一度でいいから会ってお話ししたいと願っていました」
吟子は自分を一方的に賞《ほ》めたたえる青年の熱っぽい言い方が可笑しかった。歯のうくような世辞でないだけに気持がいい。だがそれを聞いているうちに吟子はこの実直な青年をからかってみたい衝動にかられた。
「矯風会の運動を貴方《あなた》はどうお思いですか」
「全面的に賛成です。廃娼《はいしょう》運動などはもっともっと早くやるべきでした」
「でも公娼がなくなっては貴方達男性が困るのではありませんか」
「滅相もない。主上は一夫一婦を教えられています。日本の男女関係は武家社会の家を守ることのみに主眼をおき、人間の尊厳を無視した卑劣な制度です。女性だと言って男性と区別されるべき理由はどこにもありませぬ」
「政府は女子の選挙権どころか、国会傍聴さえ禁じようとしているのですよ」
「陳情運動のことは私も聞きました。呆れ果てたことです。まったく時代錯誤も甚《はなは》だしい。私は知識に秀《すぐ》れた人がいれば女性でもどしどし政府の要人として採り入れるべきだと思います。諸外国には女性でも国の主宰者となった人が沢山います。ゼービア、エリザベス、カザリン、マリア・テレサ、ビクトリア、支《し》那《な》には西太后《せいたいこう》がおります。経済学者としてはマルチノー、ホーゼット、哲学者としてはマダーム・ド・ステル、詩人のブローニング、小説家のショアンナ、ベイリンと数えあげたらまだまだきりがありません。もちろんこの数は男子には較《くら》べようもありませんが、面白いことには西欧でも十七世紀以前の腕力横行の時代にはほとんどいなかったのが、十七世紀以降の学術が盛んになるに従い、次第にその数を増してきたことです。この傾向からみれば今後学術の益々《ますます》盛んになるにつれ賢明なる女性が輩出することは火を見るより明らかです」
どうやらこの男、あらかじめ勉強をしてきたらしい。元来は熱血漢だがこんなにすらすらと喋れる男ではないと吟子はにらんでいる。
「日本もようやくこれからです。その第一が先生です」
喋りながら志方はしきりに手を振りあげる。その度に袖口《そでぐち》のほころびから太い上腕が見通せた。
「でも女性には妊娠から出産という男にはない繁雑なことがありましょう」
吟子は心にもないことを意地悪く尋ねる。
「ええ、そうなのです。女子が何故《なぜ》そのような重大な義務を負担するようになったか、そこは私にもよくは解《わか》りません。イスラエル種族の旧教に、イブが神の食うことを禁じた知識の菓子を食べたことにより、神はイブの罪を以《もっ》て万世の後までも女子の身に継ぎこらしめ、女子に子女を産む義務を負担させたとあります。しかしイブが神の禁を犯す以前に已《すで》に男女の体が異なっていたことは明らかです。だから出産は神から課せられた罰だとするのは古代の蒙昧《もうまい》なイスラエル種族の捏造《ねつぞう》したことにすぎません。もしそうでなければ獣も虫も魚も草木まで今日女性に属するものは女性のイブと同じく神の禁を犯したという奇妙なことになります、こんなことはとても信じられません。だから私は太古に遡《さかのぼ》って女子が不幸な義務を負担するに至った原因などを探ることは無意味だと思います。そんなことより女子の特異性はそれとして認めた上で、女子がこの不幸な義務を負担するというだけで位階や権利が劣るという考えは誤っていることを知らせるべきです」
「結論は貴方の意見に賛成ですが、妊娠出産という負担は女子にとって必ずしも不幸な義務とは言えないと思うのですが」
「そうです、勿論《もちろん》です。もし女子が子女を繁殖させる義務を負担しなければ今日の社会はなかったし、これからの未来もありません。この負担は男子に代りうることのできない崇高な役目です。それなのに女子がその義務を負担していることをいいことに、女子の等位を凌《しの》ぎ、権利をないがしろにし、男子だけ高い座にいて女子に屈従を強《し》いるのは社会がまだ野蛮な証拠です。書物の知識や科学が頗《すこぶ》る進歩した割合に男女の関係が正しく行われないことの多いのは、男子が己れの体力の強いのだけに頼んで女子を凌侮《りょうぶ》した野蛮時代の遺習が、なお人心を支配しているからです。いやしくも十九世紀の男子として文明の何物たるかを知ったものはただちにその非を悟り、過ちを改めて徳に帰するべきです」
喋りながら青年の顔は紅潮し、額に薄く汗が滲《にじ》んでいる。志方の言うことは吟子の考えとほとんど変らない。意見が合うということもあるが、青年の熱心なものの言いようが吟子には好ましい。
「近代の社会では能力で差別されるのはある程度止むをえませんが、男女の差で差別される理由はありません」
「それでは女子といえども、必ずしも家庭に入り子女を育てることなく社会に出て職業をもってもいいということですか」
「勿論です、女子は職業をもってこそ独立した婦人としてその人独自の考えをもつことができます。実際この社会には男子より女子に向いたと思われる職業が沢山あります」
「ほう、何でしょうか」
「まず第一に教師です。女教師は堪忍《かんにん》、熟慮、温和の性に富み、最も適切な職業だと思います。すでに西欧では女教師の方が男教師より圧倒的に多くなっていると聞きます。それに医業も女子に適切な職業だと思います」
自分のことを言われて吟子は少し照れた。
「女子の感覚は甚だ鋭敏な上、人を一見して衣服から穿《は》いているものまですべてを見抜きその詳細を記憶する能力に優れています。このように女子は細かい事に敏であるから狭い専門分野でさまざまに病気の原因を類推するのは大変に向いた職業と言えます。特に先生のように女性だけの特殊な科は最も適していると思います」
志方は「婦人科」という言葉さえ露《あら》わに言えないのだった。
「まだありますか」
「電信技手もそうです。さらにスカンジナビア諸国では女子を銀行保険会社に於《おい》て優等の役員に用いているということです」
どうやら吟子に会うというので、志方は女権や女子職業についてまで勉強してきた形跡がある。そんな一生懸命な態度が吟子には好ましく愛らしい。
だが相手が得々《とくとく》と喋《しゃべ》れば喋るほど吟子は困らせてやりたくなる。
「でもそんな職業のある婦人と結婚するのは大変でしょうね」
「そんなことはありません。結婚というのは互いに相手の人を知り尽し、意気相投合し、愛し合って行うべきものです。相手の能力を知り、相手の立場を認め、それを互いに犯さないのが原則です。今日、日本に行われている婚姻のように男女互いに知らないのに、中間に立ったもの一人で媒介をしたり、男女がまだ幼いのに双方の父母の約束で成立するといった類《たぐ》いのものはまことに時代遅れのやり方です。こうしたものは古来の名門名族の間で特に多いようですがこれは笑いに堪えません」
そこになると吟子は耳が痛い。
「いやしくも婚姻というものは、ある男女の間を結び付け、双方苦楽を共にして互いの生《しょう》涯《がい》を送る大切な関係を生み出す手続きです。ですから双方がよく相手を熟知するのが先決です。これのない婚姻は物の売買と同じです」
随分きついことを言うと吟子は驚いた。
学生の常として志方の言い方はいささか廻《まわ》りくどいが、言おうとしていることはよくわかる。同志社の理論好きな朋輩《ほうばい》にもまれた故《せい》か、志方の意見は外見に似ずスマートである。今でこそこんな理論は珍しくもないが、当時としては一般の人が聞いたら、本気かと疑うほどの画期的な意見であった。
「それで貴方はそのお考えどおり実行するおつもりなのですか」
「勿論です。人に言った以上、守るのは当り前です」
青年は厚い胸を心もち張りながら言った。
「じゃ貴方の理想の女性は……」
「私の至らぬことは別としてですが」
「結構よ」
「頭脳秀《すぐ》れて、自分できちんと仕事をもち、心が美しく、容姿の優美な人です」
「やはり容姿が気になるでしょう」
「ならないと言えば嘘《うそ》になります。女子は男子より優れた容姿を備えているものです、なぜそうかと言えば、それは女子固有の性質によるのではなく、男子がその美しい女子を選択することから生じた進化作用の結果です」
志方に言わせるとすべてが難しくなる。
「おやおや、それじゃ私のようなのは進化が遅れているということになりますね」
「いえ、冗談じゃありません」
志方はむきになって否定してから、
「先生は最も進化の進んだ方です」
人の容姿を賞めるのにそんな賞め方があるのかと、吟子は吹き出したくなったが、志方は少年のように頬《ほお》を染めてうつむいている。
まさか、若さに溢《あふ》れこれからという青年が、十三も年上のお婆《ばあ》さんに妙な感情を抱くわけはない。馬鹿《ばか》なことを考える。吟子は瞬間に浮んだ思いを打消すように外へ目を向けた。
風がいくらか出てきたらしく、軒端の風鈴が涼しい音をたてる。部屋の横には半間幅《はんげんはば》の縁が走り、その先は小さな庭になっている。庭の奥は繁《しげ》みになり、その外側は板塀《いたべい》で御《お》成《なり》街道《かいどう》へ通じる小《こう》路《じ》と境いしている。夜分、塀の外の狭い小路を往き来する人はほとんどいない。いても小路の先の二、三軒ある家に出入りする人だけである。だが板塀の間から覗《のぞ》く気になれば覗けないわけではない。外の暗さにひきかえ、座敷の中は明るく光の中に浮び上っている。
そこに二人の男女が向い合っている。近所の人達は吟子の男っ気のない生活に感心しながら、いささか退屈しているらしいから、こんな光景を見たら口さがない下町っ子は何を言い出すか分らない。
顔を戻《もど》すと、志方も庭を見ていた。向い合って男の顔をこんなに近くに見るのは初めてだった。
吟子は団扇《うちわ》を使った。小さな風が起きて男のにおいが流れたように思ったが、それは汗のにおいかもしれなかった。遠くで夜《よ》鷹《たか》そばの声が聞えた。
「お腹《なか》は空きませんか」
「いえ、結構です」
声をかけられて、志方は振り返るとテーブルの上の水を、一気に呑《の》み干した。
「大学を卒《お》えたら教会に入るのですか」
「そのつもりです。これから教会は面倒な時期を迎えるかもしれません」
「そうですね」
それは吟子も感じていることであった。この二、三年、帝国憲法、教育勅語等の発布をきっかけにして、これまでの急激な欧化政策の反動と国粋主義的国家思想が勢いをもり返し、基督《キリスト》教への圧迫が再び起り始めていた。現にその兆《きざ》しはこの二、三年一層激しくなってきていた。
「政府も勝手です。利用できる時だけは基督教の啓蒙的な性格を利用し、『文明開化』政策が一段落したと見るや今度は手の平を返したように冷淡になる」
「それだけとも言えないでしょう、プロテスタンティズムの発展を支えるはずだった中上層の農民が現状に安定しきったことも大きな原因ではありませんか」
「たしかに農村での伝道は少しずつ難しくなってきています」
「地主的土地所有制度が安定してきたのが一番の問題だと思うのですが」
「そうかも知れません」
「関西も同じですか」
「異教一掃を唱える人さえ出始めています」
「とにかく基督教に偏見を持っている人が多すぎます」
「僕《ぼく》は学校を出たら是非やりたいと思っていることが一つだけあるのです」
志方は明るい洋灯《ランプ》を見ながら言った。
「なんです」
「こんな狭苦しい土地を離れるのです」
「離れる?」
「離れてどこか、うんとでっかい土地へ行ってそこに信者だけの理想郷を作るのです。大自然の中に信者の楽園を造るのです。こせこせした成上り者の官僚なぞとは無関係に、信者だけで自給自足の生活をするのです。清教徒がメイラワー号でアメリカへ渡ったように」
志方は腕を拡《ひろ》げ、夢見るように上体を軽く前後に揺らした。
「じゃどこかへ行くのですか」
「そうです、広く大きな土地へ。でもまだどこか分りません、土地も方法もこれから考えます。しかし何処《どこ》かにあるはずです。信者が集まってその気になればきっと出来るはずです。そこは僕達の楽園です、そこで教義をそのままに実生活で実践するのです。できると思いませんか」
吟子はそんな大それた計画ができるとは思えなかったが、大きな夢を抱く青年の向うみずな意欲が、羨《うらや》ましく妬《ねた》ましくもあった。
「僕はきっとやります。基督教徒の理想の世界というものをこの世に現してやります」
興奮で志方の眼は赤く潤《うる》んでみえた。黒く大きな瞳《ひとみ》である。その眼の中に吟子の顔が映っている。見るうちに吟子は引き込まれるような気がした。
柱時計が十時を打った。家は静まり返り起きているのはこの部屋だけであった。
ふと、吟子は低い鐘のような音を聞いた。
四つだろうか。
近くで鐘を撞《つ》くのは上野寛永《かんえい》寺《じ》だけだが、それも明けの六つだけだった。
いま頃《ごろ》、なんだろうか。
志方も音を聞いたのか急に黙った。洋灯の光が部屋を丸く照らし出し、障子に動かない二つの影がうつっている。たしかに鐘の音である。低くしかし短い間隔で鳴り続いている。
吟子が目を動かした時、志方が言った。
「火事ではありませんか」
「ええ……」
二人は同時に立ち上った。
そのまま縁に出る。音は間違いなく庭の方角だが火の手は見えない。
「二階からなら見えるでしょう」
志方は廊下へ向った。そのあとから急ぎ足で吟子は階段を上った。
「この部屋から見ましょう」
志方は自分の部屋の障子を開けた。暗がりの中に宵《よい》のうちに女中が敷いた布《ふ》団《とん》の枕元《まくらもと》に風呂《ふろ》敷包《しきづつ》みがある。
「やはりこの方角です」
開け放たれた戸障子の間から外が見える。暗くぬり込められた雲の下を伝って鐘の音が流れ、視線の高さの雲の一角が薄赤く色づいていた。
「あちらは?」
「西の方角です、牛込《うしごめ》か小《こ》石川《いしかわ》の辺り」
「三《み》つ半《ばん》ですね」
鐘の音は三つ続けてうって一つ休む、火元が近く急を報せる時には「すり半《ばん》」といって連続して休みなくうち続ける。近火は「二つ半」で隔たっているのは「三つ半」で、更に遠のくと「一つ半」となる。
二階の窓からは火事と知って現場へ急ぐ人達の跫音《あしおと》が時々聞える。
物見高いのは江戸っ子の常だが、その人達の声にも牛込とか小石川といった言葉がきかれる。
吟子はしばらく赤く映る空を見ていたがやがて思い出したように戸口へ向った。
「何処へ行かれるのですか」
「皆を起してきます」
「そう大きな火事でもないでしょう」
使用人達は寝入りばならしく、誰《だれ》も起きてくる気配はない。もう、二、三十分遅かったら吟子達も気付かなかったかもしれない。
「拡がらなければいいけれど」
吟子はまだ焼け出されたことはないが火事の怖さは東京に来て知った。田舎の火事は一軒が燃えるとそれだけで済むことが多いが、下町のように家がぎっしりと詰った所では火は軒伝いにみるまに拡がっていく。
十四年の神田鍛《か》冶町《じちょう》、十七年の松枝《まつえだ》町、小柳町の火事とそれぞれの大火を眼《め》の前に見ていた。特に松枝町のは、一万余戸を焼いたという大火である。牛込か小石川の辺りならまず心配はないが、本郷か真《ま》砂《さご》町だとするとこう安閑と見物してもいられない。
それにしても空の赤さは一向におさまる様子もない。
「もう少し様子を見たらいかがです」
「大丈夫でしょうか」
吟子は眼の前の志方を仰ぎ見た。
「風向きが逆ですからね」
宵の口、まったく風のなかった外に軽く風がでてきている。赤く映った空も動いているのが分る。
「こちらには来ないでしょう」
「そう願いたいわ」
「いざという時、持ち出すものは揃《そろ》えてありますね」
「本と、診察道具だけは」
「僕が持ち出してあげます、心配はいりませんよ」
吟子の顔の上で志方が言った。
この人がいれば大丈夫だ。
そう思うと吟子の心から張りつめた気持が消えていく。吟子は安《あん》堵《ど》し、もう一度空を見上げた。
「こんな夏になにが原因で火が出たのでしょうか」
梅雨に入ってからは火番の見廻りも来なくなっていたが、たしかに夏火事は珍しい。
「つけ火かな」
志方が言った。
二人で語り合っている間に東京の街の何処かでは、火をつけようと狙《ねら》っていた人がいたのかもしれない。吟子は無気味だった。
戸外で話す人達の声は聞えるが駈《か》けていく人はいない。荷物を出し始める気配もない。
そのまま二人は窓際《まどぎわ》に並んで西の空を見ていた。十分もすると志方の言ったとおり空の赤みは弱まり、鐘の音が間遠な「一つ半」になった。吟子は息をつき窓の下の軒端を見た。甍《いらか》に夜露が黒く光っている。
「もう大丈夫ですよ」
「よかったわ」
吟子はうなずき振り返った。すぐ眼の前に志方の厚く広い胸があった。顔はまだずっと上にある。
吟子は上から志方に見詰められているのを知った。すると急に息苦しさに襲われ、逃れようと思うが、四肢《しし》が硬《こわ》張《ば》ったように動かない。体が自分のもので自分のようでない。身動き一つせず吟子は志方の胸を見ていた。
「先生」
低く志方が呟《つぶや》いた。
「え?」
眼の前に志方の顔があった。闇《やみ》の中で青年の眼が燃えているのが分った。窓際に置いた吟子の右手の端が志方の左手に触れていた。それはほんの一部だがそこから青年の血が流れてくるのが分った。
本当だろうか、と吟子は思った。だがすぐまさか、と打消す。体の中を渦《うず》が駈け巡っている。今が現実かどうか吟子には分らなくなった。
「僕は……」
志方が苦しげに呻《うめ》いた。吟子は辛《かろ》うじて自分を支えて顔をそらす。
「じゃ、おやすみなさい」
「先生……」
両手で襟元《えりもと》を合せたまま吟子は、逃げるように階段をかけ降りた。
廊下を小走りに座敷へ駈け込む。戸を閉めたところで一つ息をつく。それと分る大きな鼓動が胸の中で鳴り続けている。吟子は髪に手を当て軽く圧《お》しつけてから開いたままの縁から外を見た。空の赤みはほとんど消えていた。
寝室へ戻りながら吟子は体が揺らいでいるように思った。眠ろうと眼を閉じたが眠りは訪れそうもなかった。
努めれば努めるほど眼は冴《さ》えてくる。寝返りをうち体を縮める。布団の柔らかさまでもが眠りを遮《さえぎ》っているように思える。二日前に届いた『女学雑誌』を手にとってみるが読む気にもなれない。字《じ》面《づら》だけは追っているが内容は素通りであった。
「夜火事を見た故《せい》だろうか」
吟子は天井を見ながら考えた。それは当っているようで違うようである。もっと別のことだ、違うと思いながら吟子は本当の理由は考えまいと堅く目を閉じていた。
翌朝、吟子は七時に起きた。夏の朝とはいえ、宵っぱりで朝寝坊の吟子には異例なことだった。
「お早うございます」
一時間以上も早い眼覚めに使用人達は戸惑った表情で挨拶《あいさつ》を交わした。吟子は顔を洗い、自室へ戻って簡単な化粧をした。
朝方軽く眠っただけだが思いがけず肌《はだ》は張りをもったようであった。
鉛粉《おしろい》を粧《よそお》いながら吟子は臙脂《べに》をつけたものかどうかと迷った。迷いながら吟子は軽く塗ってみた。細く薄い唇《くちびる》が急に息づいた。
だが顔全体を見ると何か落ちつかぬ。永らく塗りつけない故もあったが、それだけでもなかった。
もう臙脂を塗る年齢ではないのだ。
吟子は一時の華やいだ気持を鎮《しず》めるように再び臙脂を落した。
立ち上り、手を叩《たた》いて女中のきよを呼んだ。
「お客様の部屋に入って昨日着ていらした着物を持ってきて下さい。まだお休みですからそっと、お起ししないようにね」
きよはうなずくと二階へ上っていった。吟子は針箱と針さしを取り出した。すぐきよが戻ってきた。
「気付かれませんでしたか」
「ええ、布団から両足を出してまだお休み中でした」
吟子はことさらに無表情にうなずいた。
昨夜破けて見えた袖口《そでぐち》は木の枝にでもひっかけたものらしく鉤型《かぎがた》に裂けていた。両端を内側に軽くつまみ、寄せ合せる。縫いながら吟子は笑いがこみあげてきた。両足を出して寝ている志方の姿が想像できた。とやかく言っても志方は疲れていたに違いなかった。
それにしても昨夜の夜火事は本当にあったことなのか、夜火事のことも、二人が夜の空を見詰めたことも、昼の陽光《ひかり》の下では、すべてが夢のように思われる。だがあれはたしかにあったことであった。その証拠に今、私は志方の着物を繕っている。そう思うと自分を尻《しり》目《め》に陽《ひ》の高い今も悠々《ゆうゆう》と眠っている志方が憎くなる。吟子は前歯で糸を切った。
「もう一度そっと置いてきて下さい」
「はい」
女中は小さく笑った。志方のことを思い出してか、男の着物をつくろった吟子をか、どちらともとれた。
志方が降りてきたのは十時を少し過ぎていた。階段を降りてくる跫音を吟子は部屋で聞いた。焦《あせ》る心をおさえながら吟子は新聞を読み続けた。
やがて戸が開き、鴨《かも》居《い》に届くばかりの志方が現れた。
「お早うございます」
二人は互いに頭を下げ、顔を見合せた。互いの眼が昨夜のことを確かめあっていた。
「よく眠れましたか」
「おかげさまで」
志方はこの家に現れた時と同じ他人行儀な挨拶をした。
「今日の予定はどうなさるのですか」
「昼に霊南坂《れいなんざか》教会へ行って小崎弘道先生にお会いする約束になっています。そのあと午後三時の汽車で高崎へ帰ります」
吟子は頷《うなず》いた。うなずきながら、もう一日お泊りなさい、と言えば泊っていくだろうかと思った。
「着物が繕ってありました」
「下手ですが、あれではお困りかと思って」
「お手数をかけました」
志方は袖口を見ると、もう一度頭を下げた。
「高崎は大久保先生のところですか」
「そうです。あちらに一泊して今度は長野の方を廻《まわ》って帰ります」
「すると東京へは」
「もう戻りません」
志方はそう言ってから、
「お便りを差し上げても宜《よろ》敷《し》いでしょうか」ときいた。
「どうぞ」
「京都へ戻ったら出させていただきます」
一夜明けて二人は正常の男女に戻っていた。
昨夜のことはやはり夢であった。議論と夜火事の故で二人は少しばかり可怪《おか》しくなっていたのだ。そう考えながら吟子はそれでいいのだと自分に言いきかせた。
「火事はたいしたことはなかったようですね」
もとが思い出したように口をはさんだ。
火事は思ったとおり牛込水道町が火元で、改代町《かいたいまち》、山吹町と東へ燃え拡がったが、その先の田圃《たんぼ》でおさまったらしい。山手は空地や、広大な邸《やしき》が多いから火はさほど拡がらない。被災家屋が百軒以下で済んだのだから江戸以来の通念で言えば小火だった。
「結構なことでした」
もとの話にうなずきながら吟子は志方のことを考えていた。
一六
京都へ戻《もど》ったら手紙を出すと言ったが、志方は途中の高崎と長野の二カ所から手紙を寄越した。
初めのは礼状で、最後に〈御厚意は一生忘れませぬ〉とあった。
二度目のはいくらか長く、道中の風物を書き添えながら、〈伝道の合間にも先生のことを思い出し、自分の至らなさに呆《あき》れおり候《そうろう》〉とある。
〈先生〉とは吟子のことである。して、〈思い出す〉とはどういうことであろうか、自分の一体何を思い出すというのであろうか、普通であればこれは愛の告白である。〈伝道の合間にも吟子のことを思い出す〉ということである。
だが吟子はそれを愛の言葉と素直に受けとる気にはなれない。
十三歳も年下の青年が自分を愛するなどということは信じられない。そんなことはあり得べきことではない。あっていいはずはない。何か一時の間違いではないか、何か夢でもみているのではないか、私が醒《さ》めたというのに男の志方がまだ夢みているのだろうか、吟子には志方の真意が解せなかった。
本当の愛なのか、あるいは一時の気《き》紛《まぐ》れな愛なのか、いやそれ以前に、この手紙は果して愛を訴えているのであろうか。
〈先生のことを思い出し〉とは、言葉どおりただ思い出しているということだけの意味ではないか、その裏に愛の意味を含んでいるとみるのは早計ではないのか。志方は正直な男だから、ただ単に自分と話し合った一夜の楽しさを思い出しているのを、深い意味も考えず、そう記してきたのではないか。
吟子の迷いは続く。
もし志方の言うことが本当に愛の告白だとして、それなら自分はどうなのか。
志方のかしこまった巨体が思い出される。話に熱中しだすと赤くうるんでくる眼、小刻みに振られる右手、そして触れるほど近くにみた幅広い胸、どれもが吟子の記憶に鮮やかである。夜火事を見ているのに吟子の心は和《なご》んでいた。火を少しも怖《おそ》れていなかった。赤い空を見ながら吟子は安心しきっていた。志方がいたからだが、そんな自分が吟子は不思議な気がする。
今まで男と対し、争うことはあっても男に頼ったことはなかった。男へ気を抜き休めることはなかった。すべて自分一人が頼りなのだと考えていた。自分が動かねばと思っていた。誰にも身構えたところがあった。隙《すき》を見せては駄目《だめ》なのだと思っていた。
だがあの夜はゆったりとして、心地よかった。それは外からみれば隙だらけであったのではないか。志方は男の本能としてそれを感じたのではないか。私の何かが志方を誘ったのであろうか。
あの人をどう思うか。
吟子はもう一度確かめるように自分に問うた。
別に、ただ一夜話し合った行きずりの人だ、そう答えながら同時に別の言葉もきく。
もしかして好きなのかもしれぬ……
吟子は自分が心身とも疲れきっていて、馬《ば》鹿《か》げたことを考えるのかもしれないと思った。
八月に入った。医院の前は打水をしてもすぐ乾く。塀《へい》越《ご》しに、揺れながら動く色模様の日《ひ》傘《がさ》がいかにも気《け》怠《だる》げに見える。
これで半月、志方からは便りがこない。
いつの間にか吟子は志方からの便りを待っていた。診察の途中や、人に会っている時にはそれを忘れるが、患者が途切れた時や往診の行き帰りに何気なく思い出す。それはいつからいつ、ということなく暇を見ては吟子の頭の中にそっと入りこむ。
ときには「先生、先生」と、看護婦に二、三度呼ばれてようやく気付くこともある。声で驚いて辺りを見廻す。
「なにか……」
「松富町まで往診をお願いしたいそうです」
「行きましょう」
そんな時、吟子の答えはいつもと違って間延びしていた。答えてしまってから吟子は自分でそのことに気付く。看護婦は探るように吟子を見直す。
看護婦達は感付いているのであろうか。彼女等が感じるとしたら、一夜男客と遅くまで話し合っていたということと、翌朝、着物の袖口を繕ってやったことくらいである。それぐらいで志方との間を疑うだろうか。
家の先生にかぎってと使用人達は思っているようである。
男を論破することはあっても隙をみせたり、弱くなることはない。まして愛を感じるなどということはありえない。たしかに色恋沙汰《ざた》は卒《お》えたつもりだった。久しぶりの男客を歓待したがそれは教会のお友達というだけでそれ以上のものではなかった。
だが自分でははっきり気付いていないが、この頃《ごろ》吟子は優しくなっていた。以前なら患者がたてこんできて、消毒した綿布や綿球が足りなくなったりすると、使っていたピンセットやゾンデを膿盆《のうぼん》に投げ捨てて怒った。
投薬など間違おうものなら、「そんなことで看護婦が勤まるか」と、乳棒で調剤係の手を打った。
何事もゆるがせにしない、万事に眼の行き届く吟子だったが、この一、二カ月、荒い言葉はほとんど吐かなくなっていた。といってルーズだというわけでもない。万事きちんとしながら怒ることだけはなくなった。
「お年齢《とし》のせいかしら」もと達は陰で話し合った。
志方への女らしい情感が、吟子をふくよかに柔《やさ》しくさせているのだとは、使用人はもとより、吟子自身も気付いていなかった。
九月に入り新しい学期が始まった筈《はず》だが、相変らず志方からは何の便りもなかった。
やはりあれは青年の一時の気紛れであったのか。
夜、自室に引き籠《こも》ってから吟子は知らぬうちに志方のことを考えていた。気紛れだとしても怒る気はなかった。
志方が何か悪いことをしたというわけではない。考えてみると、ただ一時、気持よい議論をし、熱い眼《まな》差《ざ》しを注いだだけである。それを愛のごとく感じたのは吟子の勝手であった。
二十六歳の青年が四十のお婆さんを相手にするわけはない。
鏡台の中に小さく萎《な》えた顔があった。上瞼《うわまぶた》が陥《お》ちこみ、眼尻に幾重もの皺《しわ》が寄っている。鼻から両頬へ雀斑《そばかす》が拡《ひろ》がる。目鼻立ちが整っているだけに老いの表れは一層目立つ。
「年《とし》甲斐《がい》もなく浮かれて」
呟《つぶや》くと吟子は鏡から目を離した。その顔はいつもと変らぬ女医荻野吟子の厳しく研ぎすました表情に戻っていた。
九月に入っても暑さは変らなかった。暦の上では峠を越したと思うだけに残暑は一層応《こた》える。吟子は痩《や》せぎすで汗をかかない体質だが肌《はだ》着《ぎ》は毎日着替える。汚れていなくても着替えなければ気が済まない。それは病気になってからの癖でもあった。
暑さが続くと子供の腹痛みが続く。腐ったものを食べる故である。小児科も兼ねている荻野医院は子供等の泣き声で喧騒《けんそう》をきわめた。
医師以外の仕事でも吟子は多忙をきわめた。
その日、上野での婦人衛生会の幹事会のあと、吟子は久し振りに涼みがてら不忍《しのばず》の池《いけ》へ行ってみた。
三つ橋を渡り上野の坂を登ると下の賑《にぎ》わいはもうなかった。池の畔《ほと》りのベンチには子供連れの老《ろう》婆《ば》や学生がのんびりと坐《すわ》っている。好寿院に通っていた頃は時たま来たことがあったが、開業してからは今が初めてだった。この数年はそれだけ追われた生活だったということにはなるのだが、すると同じ生活の今、池へ来る気になったのはどういうわけかと吟子は妙な気持だった。
池の東に弁天様へ通じる橋がある。その手前のベンチに吟子は腰を下ろした。小石川の先に傾いた陽が島と池面を金色に照らし出していた。
光の中を涼み客が弁天様から戻ってくる。商店の内儀らしいのが来て老《ろう》爺《や》がくる。そのあとに大柄《おおがら》な男と子を背負った女房らしいのが並んでくる。池を指差し何事か話しながらゆっくりと来る。男は丸く大きな体である。
もう一度目を凝《こ》らした時、吟子はそれが井《いの》上頼圀《うえよりくに》だと知った。見直すと横に並んでいるのは間違いもなく妻の千代であった。
先生と奥さまと……
渡り橋の中程で二人は立ち止り池の中程を見て笑い合っている。
御円満なのだ。
小さな妻をかばうように立っている頼圀が歩き出したのを見届けると、吟子はベンチを起《た》ち、急ぎ足で上野の山を降りた。
また半月が経《た》った。忙しさが、吟子から志方への思いを薄めていた。九月の半ば、夕食を終え自室に戻って本を読んでいる時、もとが慌《あわただ》しく入ってきた。
「あのう、志《し》方《かた》さまが」
「志方様がどうしたというのです」
別れて二カ月、ようやく忘れかけていた名前だった。
「玄関にお見えです」
吟子は立ち上るとそのまま玄関へ向った。姿を自分の眼《め》で見届けるまでは信じられなかった。
玄関に立っているのは間違いなく志方であった。鴨居に届くばかりの巨体も、薄く髭《ひげ》の生えた童顔も、張った肩も二カ月前と変らない。
「突然お伺いして申し訳ありません」
小《こ》倉《くら》の袴《はかま》をやや股開《またびら》きにつっ立ったまま、志方は頭を下げた。
「まず、おあがりなさい」
そうとしか言いようがなかった。
吟子は志方を自分の書斎に入れた。この前の時は奥の座敷であったが、そこに招くにはためらう気持があった。前と同じ気持になり同じ結果になることを吟子は怖れていた。
書斎に入れられて志方は珍しそうに辺りを見廻した。窓の近くに坐り机があり、その横と後ろを書棚《しょだな》が囲っている。開業してからしきりに買い集めただけにかなりの数である。いつか頼圀の書斎のように豊富な本を揃《そろ》えたいと思って集めたものである。
「今度はまた教会のご用ですか」
「いいえ違います」
「では大学の」
「いいえ」
頭を振る志方の顔は硬《こわ》張《ば》り、少し蒼《あお》ざめてさえ見える。
「じゃ、どうしたのですか」
もとが入ってきて冷えた麦茶と、藤村《ふじむら》の煉《ねり》羊羹《ようかん》を置いていった。襖《ふすま》を閉め出ていくのを待ったように志方が言った。
「今晩、泊めていただけますか」
「構いませんけど、大学の方は」
「やめました」
二ヶ月前より志方は頬の肉が落ちて痩《や》せてみえた。
「何故《なぜ》です」
「…………」
志方は目を閉じ、唇《くちびる》を噛《か》んだ。志方のこんな表情を見るのは初めてだった。
「なぜ、突然……」
「先生っ」
突然、志方が両手をついた。
「僕と……結婚して下さい」
「けっこん?」
「そうです、結婚です」
志方は怒鳴るように言った。
聞いたこともない言葉を吟子はきいていた。遠い異国の言葉のようにそれは馴染《なじ》みがなかった。
言ったあと、志方は力尽きたように畳の上に両手をついて伏せている。
あまりに突然の申し出で何と答えていいのか吟子には分らない。答えどころか、これが現実のことか夢のことかさえ分らない。
「お願いします」
「…………」
「私は結婚を申し込むためにここへ来たのです」
「しかし……」
「断わられても戻るところはありません。学校も下宿も皆引き払って出てきたのです。お願いです」
何とも無茶な男である。無謀というか勝手というか「押しかけ女房《にょうぼう》」というのがあるが、これでは「押しかけ亭主《ていしゅ》」である。無茶も度が過ぎる。
「ともかく……」
そうは言ったがさすがの吟子もとりあえずどうしたらよいものか、二カ月前、ふと頭の一隅を通り抜けた甘美な想像が突然、これだと突き出されたのである。しかも待ったなしである。
いかに冷静な吟子でもすぐには答えられない。
「このお話はまたあとで、いまはお疲れでしょうから」
とにかく吟子は一人になって気持を落ちつけたかった。
「さあ、二階で休んで下さい」
「じゃ結婚を承諾してくれるのですね」
「…………」
「高崎から長野を経て京都へ、帰りの旅の間、片時も先生のことは忘れませんでした。考えれば考えるほど先生が大きく映ってくるのです。このままでは学問も、伝道のことも身が入らぬと頭を叩《たた》き、外を駈《か》け、飲めぬ酒を飲んで先生を忘れようとしました。一心に聖書も読んでみました。でも駄目でした。これは二カ月、考えに考えた末、決心したことなのです」
熟慮した末のことだと言うが、吟子からみると短慮としか思えない。
「もう少し冷静になるのです」
「冷静です、冷静に考えた結果がこうなのです」
「でも私のどこが……」
四十女のどこにひかれたというのか、吟子にはそれが分らない。
「私は先生の高邁《こうまい》な知識と姿の上品さにひかれたのです。先生のように知的な女性と一緒になるのが私の長年の夢でした。私はいまようやく理想の人を見付けたのです」
熊本時代から志方は知的な女性に弱かった。郷里の学塾にいた十二歳の時、そこの女教師に激しい恋心を抱いたことがある。この傾向は志方が知的というより情熱的な男であることに無関係ではない。
「私はあなたより十三歳も年上なのですよ」
「愛することは、年齢などには関係ありません」
「でも皆さんは、何と思うか」
吟子の脳裏をさまざまな親戚《しんせき》知己《ちき》の顔が走り過ぎる。十三歳年下の学生と結婚すると言えば彼等は何と言うだろうか、それを思うと吟子は身が竦《すく》んだ。
「結婚は二人の合意の下で行われるべきではありませんか、二人が納得し了解する、それが最大で、すべてではありませんか」
それはまさに正論であった。筋としては彼の言うことの方が当っている。
合意の上でなされるべきだというのは、互いに議論し納得し合ったはずであった。今更、現実のこととなったからといって、たじろぐのでは卑怯《ひきょう》ではないか、志方の眼はそう責めているようである。
「先生は私を好きですか」
志方が真《ま》っ直《す》ぐ吟子を見据《みす》えた。太い眉《まゆ》の下にある眼《め》が潤んでいる。
この眼だ、と吟子は思った。その眼の迷わぬ輝きに吟子は揺さぶられたのだ。それが今再び吟子をとらえようとしている。
「僕《ぼく》を愛してはいただけませんか」
大胆不敵な台詞《せりふ》である。だがそれが根本問題であることは疑いようもなかった。
「それは……」
もちろん嫌《きら》いではないと吟子は言いたかった。
「考えさせて下さい」
「じゃ私は二階で御返事を待っています」
志方はいま一度吟子へ熱い視線を投げかけて部屋を出た。
怒《ど》濤《とう》に洗われたような一瞬であった。一人になっても吟子はまだよくわからなかった。
吟子は志方との初めてのことから思い出した。志方との出逢《であ》いは大久保夫人からの依頼であった。七月に訪れ互いに夜遅くまで話し合い夜火事を見た。気持のいい好ましい青年だと思った。女権運動についても、結婚についても、愛についても、基督《キリスト》教の将来に対しても、すべてに意見が合った。志方といると安らぎがあった。心が和《なご》んだ。去ったあと、思いもしない淋《さび》しさが訪れた。手紙を待つ日が続いた。
それにしても今考えてみると、志方からの手紙を待ちこがれ、願っていたのは、ただの愛の手紙だと思ったからのようであった。
手紙をやりとりし、愛らしきことを互いに書き綴《つづ》る。そうした関係にまでなら吟子の心は受け入れることができた。その範囲でならスムーズに、格別の抵抗もなく入ってゆけた。だがそれから先のことはまるで準備ができていない。吟子が観念の世界に遊んでいた間に、男は現実の世界まで突き進んでいたようである。
まったくこんな強引なプロポーズは迷惑であった。何の報《しら》せもなく裸同然でとび込んできて好きかどうかと決断を迫られても、答えられる筈がなかった。女心を無視した身勝手なやり方である。いい気なものである。
だから断わればいいのだ。
頭ではそう思いながら、吟子の中でそれを圧《お》さえる気持があった。
あの人は真剣なのだ。
その向うみずな一《いち》途《ず》なところが憎めない。自分をそれほどまで思い詰めてくれたということがたまらなく嬉《うれ》しかった。それだけ正面からぶちつけてくる男が惜しい。愛《いと》しくて離したくないのだ。吟子の中に二つの吟子が揺れている。これまで表に出ていた吟子と、奥に潜んでいた吟子とがぶつかり合っている。
断わるべきか……
どうみても無理な話である。世間のもの笑いになるだけだ。しかしだからといって断わるのは卑怯ではないか。卑怯以上に自分の心に嘘《うそ》になる。
再び二つの思いが吟子の頭の中で犇《ひし》めき合う。
たしかに自分は志方を待ち望んでいたのだ。もう一度逢いたいと思っていた。志方からそう言ってくるのを待っていた。今、望んでいたとおりのことが実現したのだ。志方が自分からとびこんで来たのだ。それを現実となったからといって怖くて逃げ出すのは身勝手すぎはしないか。
志方の行動には一点の曇りもない。小細工も恋の手《て》管《くだ》もない。それはいかにも志方らしい。志方ならやりそうなことだ。その男が今二階で返事を待っている。
あの大きな体が私に向ってつき進んでくる。あの巨体が私をとらえる。志方が手の届くところにいるという怯《おび》えと喜びが渦《うず》になって、吟子の全身を錐《きり》のように貫いていた。
「お客様は今日お泊りになるのですか」
きよが襖《ふすま》を開けてきく。
「そう、お食事を用意して下さい」
きよは吟子から何か命じられるかと、なおしばらく敷居の端で待っていたが何も言わぬと知って出ていった。
それにしても、と吟子はきよの跫音《あしおと》が遠ざかるのを聞きながら思う。
結婚するとなると、志方は私を求めるのだろうか。
瞬間、吟子は忘れていた不安にとらわれた。
今の今まで吟子はそれを考えていなかった。どうすればいいのか、何という迂《う》闊《かつ》なことか、それは結婚する男が女に求める当然のことであった。
志方は私の体の秘密を知らない。膿淋《のうりん》持ちの女だとは夢想だにしていない。女医で、敬《けい》虔《けん》な基督教徒で、矯風会《きょうふうかい》の風俗部長が花柳病である。そんなことは吟子が直接言ったところで志方が信じるわけはない。今は治まっているが、いつ動き出すとも限らない。動き出せば志方にもうつる。
それも告げるべきか。
愛し合っていれば正直に告げるのが本当かもしれぬ。
しかし告げるのが果して意味のあることなのか、それで何か得ることがあるのか、告げたところで悲しく気まずくなるだけではないのか。黙っていた方がいいのではないのか、いや絶対に黙っているのだ。吟子は重ねて自分に尋ねる。尋ねながら思いがけぬ時に甦《よみがえ》る病の思いがやりきれない。
「やはり、あの人とは一緒になれないのだ」
吟子は未練がましい自分を払い捨てるようにつぶやいた。
吟子が志方との結婚を決意したのは、それから三日後であった。その間志方はずっと吟子の家にいた。上と下、二つに分れて二人は息を潜めながら相手の出方を見守っていた。
「貴方《あなた》と一緒に神の道を進みます」
吟子は受ける気持をそのような言葉で表した。そこには熟慮の果ての堅い決心と小さな羞《は》じらいがあった。
「本当ですか」
志方は太く濃い眉を上げた。眼が灼《や》けていた。
吸い込まれるように吟子は志方の腕の中に抱え込まれた。吟子の小さな体が志方の体の中に埋もれた。眼の前に広く大きな志方の胸がある。それは少し汗っぽく塩っ辛い。大きな手が後ろから髪と背を支えている。
暗い輪の中で吟子はかぎりなく安らかで静かだった。全身が和み柔らかくなっていくのが分った。それは二十数年間、吟子が置き忘れてきた感触であった。
この安らぎを私は求めていたのだ。吟子はいまは素直に思うことができた。
結婚すると決った以上、躊躇《ちゅうちょ》する理由はなかった。三日後、吟子は使用人と教会の人達へ告げた。
だがきいた人はみな志方との結婚に反対した。
使用人達まで信じられぬように目を見張ったまま、うなずこうとはしない。
〈もとより反対なれど、貴女《あなた》様が堅き信念で進められる以上、留めるすべもなく……〉
姉の友子も反対だった。だが一度こうと決めたら揺るがない吟子の性格を人一倍知っているだけに、友子の手紙は初めから諦《あきら》めた文面であった。
長兄の保坪《やすへい》も、嫁のやいも、長姉そのえも、羽生《はにゅう》に嫁いだまさも親戚はもちろん、さまざまな友人から松本荻《おぎ》江《え》さえも口裏を合せたように反対した。
兄達の反対理由は「四十歳になって十三歳も年下の素姓《すじょう》も定かならぬ学生風《ふ》情《ぜい》と」ということであったが、荻江達のは「吟子と志方ではあまりに釣合《つりあい》がとれぬ、吟子が惜しい」という理由からであった。
だが保坪を初め、三人の姉とは俵瀬《たわらせ》を出てからほとんど没交渉であった。血の繋《つな》がりはともかく、表では勘当同然の家出であったから、とやかく言われる義理はなかった。非難を覚悟でそれを無視すれば問題はなかった。
志方にはすでに両親はなかったが、姉や義兄が熊本や神戸にいた。これらの兄姉も吟子へとちょうど逆の「年齢が上すぎて、女の地位が高すぎる」という理由で反対した。しかし燃えついた二人の恋情はそんなことで止《や》むわけもない。むしろ周囲の反対で一層、二人の気持は強まっていく。
「仲人《なこうど》は大久保先生御夫妻にお願いしましょう」
二人の馴《な》れ初《そ》めの経過から見て、それが一番適切だと思えた。吟子の言うことに志方は異存はない。すでに婦唱夫随である。
だが意外にも大久保夫妻からは仲人は引き受けかねる、という返事がきた。
〈志方はよく存じ候えどもいまだ学生にして世間を知らず、思慮も浅く、理想のみ高けれど人の一生、一時の情熱のみにて生きて行けるとも思われず、志方には貴殿は過ぎたるもの、年の逆差も長き眼でみれば将来の幸せを過《あやま》つものと愚考しおり候、この役、引き受けがたく候〉
あるいはと思ったがこれほどはっきりと断わられるとは思っていなかった。
「皆、先生の才能を惜しんでいるのだ」
婚約者となっても志方は吟子を先生と呼んでいた。実際それ以外に適切な呼び方はなかった。
「皆、私と貴方の地位だけをとりあげてとやかく言っているのです。気にすることはありませんよ」
吟子は若い志方をかばう。学生とは言え自分にとっては夫になる人である。その人を認めて貰《もら》えないのは吟子を軽視することでもある。
「私のような者と一緒になることに、先生は後悔していませんか」
「どうして後悔するのです、変なことを言うもんじゃありません」
志方は恋人であり、時には子供になる。
「私は人に何と言われようと先生と一緒になれればいいのです」
志方の一途さが吟子にはたまらなく愛《いと》しい。男性とは横暴で身勝手、獣のようなものと思ってきた吟子にとって、志方はまったく別の存在であった。大きくて優しくて従順である。長い間一人で生きてきた吟子の自尊心と淋しさを志方は満たしてくれる。
「でも、相手が私であるばかりに、仲人をしてくれないのでしょう」
「別に名のある人になっていただかねばならないという理由もありません、要は私達が神の前で結ばれればいいのです」
吟子は霊南坂教会の小崎弘道や植村正久達を考えてみた。だが吟子と志方の結婚に反対していることは皆同じだった。
「できたら私は熊本でしたいのです」
志方が吟子の気持を窺《うかが》うように言った。
「そう、そうでした」
吟子はすぐうなずいた。
志方の生家は熊本に近い小鹿町にある。熊本は彼が生れ育ち入信した地である。両親はいないが親戚は多い。結婚ということが男の姓に入る以上、男にとって最も因縁の深い地でやるのが当然である。たとえ反対されていても結婚する以上、夫の親戚兄弟に挨拶《あいさつ》にいくのも嫁として当り前の勤めである。
考えてみれば東京は志方にとってまだ何の関《かか》わりもないところであった。志方をかばいながら、その根本的なところで志方の立場を無視していたことを吟子は恥じた。
「熊本でしましょう」
「行ってくれますか」
「もちろん行きます。あそこなら海老名《えびな》弾正《だんじょう》先生もいらっしゃる」
「済みません」
志方は大きな体を縮めた。これではいわゆる亭主の貫禄《かんろく》はない。
しかしそれも無理はない。戸籍はともかく、現実には志方は荻野家の居候《いそうろう》だし、熊本に行く旅費も結婚費用もすべては吟子持ちでなければ出来る相談ではなかった。
二人は早速、海老名牧師に媒酌《ばいしゃく》を引き受けてくれるよう手紙で頼んだ。
しかし大丈夫と思っていた海老名弾正からの返事も、大久保と同じであった。
〈折角の結婚に賛同できぬこと残念に存じおり候〉
踊るような海老名の字は達筆なだけに一層恨めしい。
「口ではどうこういっても日本人の結婚観は変っていないんだ」
志方は自棄《やけ》ぎみに手紙をテーブルに叩きつけた。
「みんな俺《おれ》を馬鹿《ばか》にしている」
「私が年をとりすぎているからですよ」
「違う、皆、先生を俺にやりたくないのだ。俺のような無能な奴《やつ》に」
志方はテーブルの両の拳《こぶし》を指先が蒼《あお》くなるほど握りしめた。結婚をすると決って初めてみる志方の怒りであった。
「そんなことはありませんよ、私達のことを思って、ただ忠告してくれているだけなのですよ」
「忠告ではない妨害だ」この場合は志方の言うことの方が当っていた。
「他人のことなぞいいじゃありませんか」
「でもこのままじゃ」
「外人の牧師の方に頼みましょう。外人の方ならそんな変なことはいいません。基督《キリスト》教は外人がもたらしたものですから、外人牧師の方にしていただくのが一番いいではありませんか」
吟子は諭すように言った。この時、志方は吟子にとって赤子であった。
明治二十三年十一月二十五日、吟子は之善と、熊本県小鹿町の志方の生家で、O・H・ギューギ師司式のもとに結婚式をあげた。吟子三十九歳、之善二十六歳であった。
一七
新しい年が明けた。明治二十四年である。
吟子と志《し》方《かた》は、上野西黒門町の荻《おぎ》野《の》医院で結婚後、初めての新年を迎えた。
吟子は相変らず診療と矯風会《きょうふうかい》、衛生会等の仕事に追われ、志方は大久保真次郎の紹介で本郷教会に牧師として勤めた。結婚はしたが吟子は依然として皆に荻野先生と呼ばれ、医院名も荻野医院のままであった。
一方、志方は志方さんと呼ばれていた。そのことに志方は特別気にかけている気配もなかったが吟子は使用人にだけは注意をした。
「これからは志方さんではなく旦《だん》那《な》さまとお呼びしなさい」
もとは黙ってうなずいたが、次の日から使用人達はしめし合せたように「お呼びになっています」とか「これを見て下さいとのことです」というように「志方さんが」という主語を外して言うようになった。
それで大方のことは通じるが、たまに、
「どなたが?」と吟子が尋ねる。
「あのう……」言いかけて彼女等は視線を上に向ける。
志方の部屋が二階にあるところから、そうすることで志方であることを示そうとする。彼等は志方という人物自体は好いていながら、吟子の夫としては認めたくないのであった。
「志方さん」と言わない以上、吟子は怒るわけにもゆかない。
それでもなんとか慣らそうとして吟子は用事の度に、「これを旦那さまに」とか「旦那さまに聞いてきて」というように「旦那さま」という言葉を連発した。
「診察台を革製のに替えてみようかしら」
志方に相談したところでどうにもならぬことまで吟子は意見をきいた。
「したらいいだろう」
志方は医学に関してはまるで素人《しろうと》だった。
「じゃそうするわ」
革にすることは初めから決っていた。志方に告げたのはただの手続きにすぎない。
「旦那さまに相談してみましょう」
使用人が休暇が欲しいといってきたことまで志方を表にたてた。若く軽んぜられている夫を盛り上げるために吟子は細かく気を使ったが、多くは吟子の一人相撲に終った。
だが何よりも吟子が気になったのは、業病《ごうびょう》にも似た「下《しも》の病」のことであった。
吟子が志方に体を初めて許したのは熊本での式を終えた翌日であった。
それまで一カ月余の間、志方は吟子の家に住んでいたが二人は何の関係もなかった。時たま志方は燃えるような眼《まな》差《ざ》しを吟子に向けたが、それ以上腕ずくでも求めるというようなことはしなかった。
求めてきたとしても吟子は許す気はなかった。基督教徒として、矯風会風俗部長としての体面もあったが、使用人への戒めでもあった。そういうところのけじめだけははっきりとつけておきたかった。
開業以来吟子の病気はずっと落ちついていた。時に軽く下腹が疼《うず》くこともあったが、それも二、三日でおさまった。病気は完全に潜んでいたが、いつ動き出すとも限らないし、動き出した時に関係をもつことは志方へうつすことになる。
実直なだけに、志方が局所の異状を訴えたらそれは吟子がうつしたことは明らかである。
「女子師範の頃《ころ》からですが、時たま熱が出たりお腹《なか》が痛くなることがあるのです。その時は許して下さい」
初夜の翌日、吟子は志方の胸の中で呟《つぶや》いた。若く疲れを知らぬ夫だけに、それだけは言っておかなければならなかった。
「きっと守るよ」
何も知らない志方は、それを新妻の羞《は》じらいととったのか、それだけ言うと吟子を強く抱きしめた。
子供を産んだことのない吟子の体は小さく引き締っていた。
志方の愛《あい》撫《ぶ》はぎこちない。ただ猛進するだけだったが、その点では一度結婚しているとはいえ吟子も同じだった。貫一郎とは性の悦《よろこ》びを知らぬ前に別れていた。性に関してだけは二人はほぼ同じ地点からスタートした。
二十数年間、男の感触を忘れていた体は初めは苦しげに、しかしゆっくりと目覚めていった。
だが行為の前に吟子はきまって病気の不安を感じた。自分が悪事を働く罪人のように思えた。志方に身をゆだね目を閉じてすべてを忘れようとする。志方が入ってきて吟子の不安はようやく薄れる。わずかに昇りつめていく感覚がある。だがそのあと吟子の酔いは急速に醒《さ》めていく。
大丈夫だろうか……
瞬間の悦びから戻《もど》りながら吟子は罪を重ねた黒い思いに閉ざされる。
二カ月経《た》ったが志方に異常が現れた兆《きざ》しはなかった。志方の素振りを見、下の物を洗濯《せんたく》していればそのことはすぐ気付く。
いまのところは大丈夫らしい。
吟子は妻でなく、医師の眼《め》で夫を確かめたあとで自分に言いきかせるが、夫を欺《あざむ》いた気持は拭《ぬぐ》えなかった。
二月の末、志方は教会から戻ってくるとすぐ吟子を二階の部屋に呼んだ。吟子は診療を終りカルテを整理していたが、それをもとに任せて二階へ上った。
志方は坐《すわ》り机の前に膝《ひざ》をきちんと折り両の袖《そで》に手をつっ込んで坐っていた。そんなかしこまった姿で志方と対するのは、結婚の申込みを受けた時以来である。吟子は軽い胸騒ぎを覚えた。
「実は、北海道へ行こうと思うのだが」
最近、志方はようやく夫らしい言葉遣いをし始めていた。
「北海道……」
「そうだ」
志方は顔を動かさず言った。
「どうして、また」
志方の突飛な申し出には慣れていたがこれはあまりにも突飛すぎた。
当時の北海道は名前こそ北海道と改められたが、内地の人達はまだ「蝦夷《えぞ》」と呼んでいた。北海道について内地の者が知っていることと言えば、南の海岸で大量の鰊《にしん》が獲《と》れる、ということぐらいで、あとは雪と寒さに閉ざされた不毛の土地という印象しかなかった。出《で》稼《かせ》ぎの漁民以外は、維新で政府の追及を受けた幕軍方の武士や、罪人が細々と生きているだけで、あとは狼《おおかみ》と熊《くま》とアイヌだけが棲《す》む未開の土地と思われていた。
事実、当時、人の棲んでいる町らしい町があったのは函館《はこだて》(松前《まつまえ》)一帯と札幌《さっぽろ》、それに南西海岸沿いの鰊漁のあるところだけであった。いずれにせよまともな人間の棲むところではない。その土地へ夫が行こうと言うのである。
「北海道になら新しい土地が貰えそうなのだ」
「それでどうなさるのです」
「決っているではないか」
志方は人懐《ひとなつ》っこい眼に笑いを浮べていった。
「基督教徒の理想郷を作るのだ」
「まさか……」
「いや本当だ。同志社の丸山達と一月前から相談していたのだが、どうやらうまくいきそうなのだ」
「土地が手に入るというわけですか」
「犬養《いぬかい》先生が北海道に広大な土地を持っている」
「その土地を?」
「同志社の先輩の田中建堂さんが犬養さんにかけあってくれた。すると急に我々に引き渡してもいいということになったのだ」
「無償でですか」
「もちろんだ。しかも開墾すればするだけ俺達の土地になる」
志方は得意そうに胸を張った。
明治初年の北海道開拓の上で最も有効な施策となったのは屯田兵《とんでんへい》制と、土地払下規則による未所有処女地の大面積経営者に対する無制限払下げの二つであった。このうち後者は明治十九年に施行されたもので、一人につき三十三町歩以上を貸付け、開墾に成功した時は町歩当り、三分で払い下げるという内容の民主農地造成策であった。
この施策により、明治二十四年三月に犬養《いぬかい》毅《つよし》等八名は組合を組織し、北海道の南西岸の山沿いである瀬《せ》棚《たな》郡利別《としべつ》原野に二○三五万坪というとてつもない貸付地を得ていた。犬養らは早速米国から農機具を輪入し瀬棚港に陸揚げし、ここへ大農組織による農場を経営しようとしていた。もっともこれは表向きの理由で、その真意はそこから政治資金の調達を得ようと企《たくら》んだのである。ところがこの一帯は想像以上の密林地帯であり、おまけに管理人に不正があったことが祟《たた》り、この大計画は挫《ざ》折《せつ》したまま放置されていた。志方が貰い受けようとしたのはまさにこの土地であった。
「こんな広い土地は内地ではとても探し求めることは出来ない。我々が開拓し、我々が畑を造れば、それはそのまま自分達のものになるのだ。我々が働きさえすればいいのだ」
あまりの突然のことに吟子は声も出なかった。
「内地では基督教は欧化政策の反動で圧迫されるばかりだ。無知な政府の鼻息を窺《うかが》って細々と生きていくより北海道という大地で思いきり生きた方がいい。あそこなら、拘束する者も圧迫する者もいない。土地も水もすべて我々の意のままだ。いま北海道の土地が与えられたことは神のお加護かもしれない。そう思わないか」
興奮した時の癖で志方の眼は赤く潤《うる》んでいた。
「どうだ、素晴らしい計画だろう」
「で……私達はどうなるのです」
吟子は辛《かろ》うじてそれだけ言った。
「まず俺が行く。現地へ入り耕した上、棲めるようになったら呼ぶ。なに棲めるようになるまでなら一年とかからぬ」
「では病院は?」
志方はうなずき、それから眼をそらして言った。
「それはあなたの考えもあろうから……」
「…………」
「来てくれるにこしたことはないが」
「じゃ病院を止《や》めろということですね」
はっきり言えばそういうことになるが、志方はそれまでは言えなかった。
志方が前から理想郷建設の夢をもっていることは知っていた。吟子はそのこと自体に反対する気はなかった。だがあまりに急激な情勢の変り様であった。突然で考えがまとまらない。何から考えていいのか、それがいいことなのか悪いことなのか、前へ進んでいるのか後ろへ退《さが》っているのかさえ分らない。
「気が進まないと思うが……」
虚脱したような吟子の表情を見て志方が言った。
「このままここにいてもどうにもならない」
志方の言うことも一理あった。東京では志方は同志社を中退のまま、本郷教会の牧師の下働きをしているに過ぎない。吟子の家にあっても旦那さんと呼ばれてはいても、庭の草むしりとか板塀《いたべい》の損《いた》んだ個所を治すといった下男のような仕事しかなかった。向うみずなまでの吟子への愛があったとしても、いつまでもそれに甘んじているのはさすがに志方の自尊心が許さなかった。
「思いきりやってみたいのです」
現実に追い込まれていたのはむしろ志方自身であった。
「病院のことは後でゆっくり考えていてくれていいのです。とにかく私一人だけでも行く」
志方は低いがはっきりとした声で言った。吟子は慌《あわ》てて志方を見詰めたが、志方の眼は吟子を外れて憑《つ》かれたように暗い空を見詰めていた。
なんといっても、この人は行ってしまう。
近いと思っていた夫が急に遠く離れてみえた。自分の掌中にあると思った男がするすると掌の中を抜けてゆく。自分の届かぬところへ行ってしまう。胸を張り闇《やみ》を見《み》据《す》えている夫に吟子は初めて自分とは違う男を見《み》出《いだ》していた。
一八
明治二十四年五月、志《し》方《かた》は同志社の同期生であった丸山伝太郎の弟要次郎とわずか二人で北海道へ渡った。
五月の十日、夏を思わせる初夏の一日、吟子は横浜港へ志方を見送った。
志方は新しく吟子が仕立てた太織銘仙《ふとおりめいせん》の着物に仙台平《せんだいひら》の袴《はかま》を穿《は》き、麻裏の草履をはいて岸壁に立った。持物は志方が二度目に京都から押しかけてきた時にもってきた大風呂敷包みと柳行李《やなぎこうり》一個であった。
荷物には毛のシャツと股引《ももひき》の下着一揃《そろ》えに木綿の二揃え、冬物の着替え二着、二重廻《にじゅうまわ》しに足袋、長靴《ながぐつ》、志方の好物の開化饅頭《まんじゅう》と京橋の磯焼《いそやき》、それに吐き気止め、腹痛止め、解《げ》熱《ねつ》剤《ざい》、化《か》膿《のう》止め、血止め、と各々記した紙包みと包帯、綿花まで一部は行李に、一部は手持ちの風呂敷包みに聖書とともにおし込んだ。
「じゃ行ってくる」
乗客へ最後の乗船を促すドラの音を聞いて志方は吟子に声をかけた。
「気をつけて」
「大丈夫だ」
志方の顔は晴ればれとしていた。妻と離れ未開の土地へ行くという不安な翳《かげ》りはどこにもなかった。吟子は遠ざかっていく夫の背を見ていた。広い背はかすかに揺れながら岸壁と船の間に渡された板を昇っていく。
甲板で志方はもう一度振り返り大きく手を振った。
「元気でな」
吟子が言うべきことを志方が何度も叫んだ。吟子はショールを寄せたまま眼だけで夫を追っていた。
ドラが鳴り船がゆっくりと岸を離れた。
「体に気をつけろよ」
志方の太い声がもう一度風に乗って吟子に届いた。
船は大きく左へ向きをかえ港の出口へ進路をとった。甲板に身を乗り出していた志方の姿は小さくなり、やがて初夏の光の中の一つの黒い点となった。
夫のいない東京に一人でいる妻は何だろうか。
水平線に消えていく船影を見ながら吟子はそのことを考え続けていた。
志方等の乗った汽船は房総から東北の東海岸をかすめ、下北《しもきた》半島を迂《う》回《かい》して函館に入った。一日休んだ後、今度は北海道の西海岸沿いに、熊石《くまいし》、太田を経て瀬《せ》棚《たな》港に上陸した。横浜を出て、ちょうど十日目であった。この間、下北半島の先端と熊石沖と二度にわたって時化《しけ》に会い、二度目は後尾に浸水をみて難破寸前の危険にさらされた。
瀬棚は江《え》差《さし》、熊石、余《よ》市《いち》と繋《つな》がる北海道西岸の鰊漁場の一つで、その瀬田内場所は文禄《ぶんろく》二年、松前第五代当主慶広《よしひろ》が豊臣秀吉より蝦《え》夷《ぞ》管轄《かんかつ》の制書を賜わったことにはじまっている。当時は定住する者といえばアイヌだけであったが、江戸寛政の頃から鰊漁場として次第にさかえ、鰊漁期には松前、東北からの出稼ぎ漁夫で賑《にぎ》わった。しかしこの地から一歩内陸に入った利別《としべつ》原野は人跡を見ない未開の土地で十里奥の東瀬棚でさえ、和人で定住したのは明治十七年に徳島県人大東伊太郎が入植したのが初めてであった。このあと十九年、二十年に福井県人、二十四年に徳島県人というように移住者が相次いだが、志方の入植した明治二十四年には、彼等を含めて八十二戸、百数十名の者が、広大な利別川流域の鬱蒼《うっそう》たる樹林の間にまばらに定住しているに過ぎなかった。
瀬棚(セタナ)はアイヌ語の「セタナイ」(犬の沢)というところから出たもので、街の中央を流れている馬場川の上流から犬が泳いで来たのを見て「セタルペシ・ペ・ナイ」(犬路の川)と呼んだのが略されて「セタナ」となったものだが、アイヌ人が犬と見たのは狼の群れであったのであろう。
この上陸地点の瀬棚で一日休息をとりながら、志方と要次郎は先に入植していた徳島県人らに利別川上流の様子を尋ねた。
「この先は誰も棲んでおらん。一年前に徳島の者が五人程入ったが大木と密林で昼でも暗くてよう歩けんという話じゃ、十日もせずに皆逃げ帰って来た」
「土地はどうかね」
「地味《ちみ》は悪くはなさそうだと言っとった」
土地さえよければなんとかできよう。志方は溶雪で水を増した河の面《おもて》を見てうなずいた。
「本当に行きなさるか」
「中焼野まで」
「止《よ》した方がいいと思うがのう」
先住者達は川を遡《さかのぼ》るという志方等を見ておし止《とど》めた。だがここまで来て止るわけにはいかない。苦しさは覚悟の上であった。
「道案内人同道利別川ヲ三艘《さう》ノ小舟ニテノボリ、当日ハ中途ニテ野宿ス、翌一日利別川ヲ舟ニテ午後三時頃漸《やうや》ク利別原野開墾地、中焼野ニ着ス。瀬棚ヨリ此処《ここ》迄《まで》、河ヲノボルコト二日路ナレドモ道路ユケバ三里トナル。此河ニ居《を》ル魚ハ鮭《さけ》、鱒《ます》、ヴコヒ、アメノ魚、八目《やつめ》鰻《うなぎ》、ヤモメ等ナリ、然《しか》シテ河ハ上古神代ノ頃ヨリ入ル人ナケレバ大木河ニ横タハリ充満シタリ、木ヲ伐《き》リ下ヲクグリ或《あるい》ハ舟ニテ通シヌ木ヲ越エルナド実ニ容易デナカリシ、然レドモ此河中ニハ烏貝《からすがひ》ノ如《ごと》キ大ナル貝水底ニ充《み》チテ、陸地モ神代ノ頃ヨリ入ル人ナケレバ大木繁茂シテ人通行スルコト能《あた》ハズ、草原モ林モ野モ草木充満シ、如何《いか》ナル草モ肥大タリ」
瀬棚から中焼野まで利別川を遡ること二日の行程を志方はこのように記している。こうしてどうやら着くだけは着いたが、鋸《のこぎり》と鉈《なた》だけの二人にとって大木と熊笹《くまざさ》の密生する原生林の開墾は更に大きな難事であった。巨木一本を倒し、地上に張り出した根を除き、空地を作るだけに一日費やすこともあった。魚こそ川に行けば手《て》掴《づか》み同然にとれて不自由はしなかったが、米はたちまち欠乏し、塩、味噌《みそ》も少なくなった。
昼は切り倒した天窓のような樹木の間から陽《ひ》が洩《も》れるだけで、陽が傾くとすぐ夜になり、密林の中の掘立《ほったて》小屋の周辺は暗黒の闇に塗り潰《つぶ》された。マッチもローソクも灯油もすべて片道二日行程の瀬棚まで行かねば補充できない。夜、本を読むなどということはもちろんできない。朝、遅い光の中で仕事前のわずかな間、聖書を読む。それが唯一《ゆいいつ》の読書である。夜ともなると聞き慣れない夜鳥の声に交って野犬の遠《とお》吠《ぼ》えが聞える。何千年も前の原始の生活に戻されたも同然であった。
だが、といって手を拱《こまね》いているわけにもいかない。二人は慣れぬ手つきで鋸を立て、鋤《すき》を起して、のろい歩みの第一歩を踏み出した。
夏が来た。道南の盛夏は夜こそ涼しいが日中の気温は東京と変らない。暑さとともに一《いっ》斉《せい》に藪《やぶ》蚊《か》が発生した。内地では見たこともない黒く大きなのが異様な羽音をたてて追ってくる。
一度払っても二、三分も経《た》たぬうちに顔は蚊の群れで真っ黒になってしまう。初めて嗅《か》いだ人間の血の匂《にお》いに狂喜しているようである。
たまりかねた志方は藪蚊除《よ》けの新しいスタイルを考えた。腰に水に浸した藁束《わらたば》を下げ、それに火を煙《けぶ》すのである。体の周りからは絶えず煙が出ているので、煙を探せば志方のいるところはすぐ分る。
さすがの藪蚊も敬遠したが煙の中にいる志方の眼はいつも赤く腫《は》れていた。
「私も真似《まね》させて貰います」
二日後には要次郎も志方式蚊除けを採用した。
煙を吐いている二人が野の中にいた。巨木を動かす時には二人は近より、切る時には再び離れる。
鋸や鉈を振うたびに「それっ、それっ、それっ」と小声を発するのが志方の癖であった。
時々立ち上り腰を伸ばして汗を拭《ふ》く。拭きながら微《かす》かに笑う時がある。
「どうしたのですか」
要次郎が目《め》敏《ざと》く見付けて言う。
「うん……いや」
「奥さんのことでも考えたんでしょう」
「いや、違う、違うぞ」
図星をさされて志方は狼狽《ろうばい》した。吟子のことを考えるうちに樹《き》の周りのほとんどを切り尽し、慌てたこともあった。
ここでは暮れるということが、即《すなわ》ち夜であった。二人は顔から足まですっかり寝袋に入り、身を縮めて藪蚊から逃れた。
一日が終ったという安らぎの中で志方は吟子のことを思った。吟子のことを思う時、体が軽くうずく。
逢《あ》いたかった。逢って思いきり抱きしめ触れたかった。そんな時、吟子の娘を思わせる小さく締った裸像を頭に描きながら、志方は自らの手で果てた。
同じくり返しの中で、二人は一日も休まず巨木に挑《いど》み、根を片付け熊笹を払った。だが夏が終った九月迄に二人が切り拓《ひら》いた土地は半町四方にも及ばず、それも樹木がなくなったというだけの荒地で、作物をつくる状態にはほど遠かった。
「このままでは飢えるだけだ」
九月の末、志方は要次郎に言った。開拓地にはすでに秋風が立ち朝夕は肌寒かった。これからでは何を植えたところで収穫は期待できない。
「雪がくれば下とも往来はできませんね」
要次郎は高みを増した秋の空を見上げながら言った。
「お互いひどい恰好《かっこう》になったな」
要次郎の姿を見て志方が言ったが、それは志方とて同じことだった。二人とも頬《ほお》はこけ、髭《ひげ》だらけの顔に眼だけが光っていた。今の恰好を東京で見られたら浮浪者か物貰《ものもら》いとしか思えない。
「雪はいつごろからくるんだろう」
「十一月と聞いたが、それから四月一杯までは消えぬそうだ」
「どれくらい積るものか」
「背丈くらいときいたが、それでも北海道では少ない方らしい」
要次郎は黙った。天と地と眼の届くかぎりの大地に人と名のつくものは二人しかいなかった。その二人さえこの頃は話すことがなくなっていた。
「遠いなあ」
「え……」
「いや」志方は瞬間の思いを振り払うように高みを増した空へ眼を向けた。
吟子はどうしているのか。
月に一度、瀬棚に下る度に手紙は出していたがそのうち何通届いているのか、五月に出した手紙を読んだという吟子の返信を、八月の初めに受け取ったのが最も新しい便りであった。
「どうするのですか」
「うん……」
しかとは言わないが、志方には要次郎の尋ねていることは分った。
「冬を越すには無理であろう」
「では戻《もど》るのですか」
「来年また出直してこよう」
一年目で何とか自活の目処《めど》をつけ、二年目からは二、三十名の信者を同行しようという初めの目標からみると大きな後退であった。
「十月中には戻らねば海は時化《しけ》て危ない」
穏やかな五月の海でさえ身の危険を感じた海路であった。
「あと一カ月だ」
「私はここに残ります」
突然、要次郎が言った。
「長い旅路をして往来するのも大変です。どれほどの雪か知りませぬが下の人達が生きてこられたのですから何とかやっていけるでしょう。志方さんが戻られる時に一緒に下まで降りて一冬の食糧を買いこんで貯《たくわ》えておきます」
「しかし一人では……」
「彫りものでもやっています。木だけは豊富ですから」
要次郎は京都で高村光雲《たかむらこううん》の門下で彫刻の修業をしていた男である。たまたま同志社の兄伝太郎のところを訪れた時に志方等の計画をきき賛同した男である。開墾の暇をみて彫ったものはすでに一度、瀬棚で売って金に替えていた。
「では俺《おれ》も残る」
「いえ、貴方《あなた》は帰って下さい。向うで待っている人達に会って北海道とはどんなところで、何を準備してくればよいのか貴方からじかに説明してやって下さい。それに……」要次郎は少し間をおいて言った。
「奥さんがお待ちです」
「でも、一人で万一のことがあったらどうするのだ」
「いえ、それは同じです。雪か寒さで死ぬのなら一人も二人も同じです。それに一人の方が食べものは食いつなぐこともできます。ここにじっとしてさえいれば、まさか死ぬようなことはないでしょう。本当に心配しないで下さい。それより海路を行く志方さんの方が私は心配です」
「…………」
「一冬あれば随分と彫ることができましょう」
要次郎は初めてかすかに笑った。だがそれが強がりの笑いであることは明らかだった。
十月の末、志方は要次郎を残し往路と同じ海路を経て横浜へ戻った。吟子は医院を休診にして横浜桟橋《さんばし》へ迎えに出た。
五月から半年ぶりの再会であったが、吟子には数年ぶりに逢うような気がした。
下船する客の中でひときわ大きい志方が大《おお》股《また》に近づいてくる。吟子もかけていく。
「先生」
「おかえりなさい」
そのまま声が詰った。改めて見廻すと志方の手が肩にのっていた。
「御無事で」
吟子は夫の黒く陽灼《ひや》けした顔を珍しいもののように見上げた。骨格は以前のままがっしりしているが、肩から背の肉はそげたように落ちていた。一年前、理想ばかりを追う一《いち》途《ず》な青年とみえた志方が、今は風雪に耐えた猛《たけ》々《だけ》しく鋭利な男の風貌《ふうぼう》に変っていた。
西黒門町の吟子の家に志方は一旦《いったん》落ちついたが、一週間もすると再び動き始めた。
まず各教会を廻り、挨拶《あいさつ》をかね援助を依頼したあと、年が明けるとすぐ京都へ向った。要次郎の兄の伝太郎はじめ、来春渡道する予定の同志に会うためであった。
「よく戻った」
伝太郎の家に集まった三十人近い同志は一年ぶりに会う志方の精悍《せいかん》な顔を、もの珍しそうに眺《なが》めた。
「して、現地はどんな様子か」
「うん、まあなんとか生きてはいける」
「具体的にどんな状況なのですか」
「具体的と言われても、なかなか一口では言えませんなあ」
実際、言うべきことが多すぎて何から言っていいのか見当がつきかねた。
「気候は」
「日中はこちらと大して変らぬ。だが夜は急に涼しくなる。やはり夏ははるかに凌《しの》ぎやすい」
「まわりには水や食物はあるのですか」
「勿論《もちろん》だ、半里も行かぬうちに利別川という川に行き当る。清く澄んで冷たい水だ。鮎《あゆ》ややまべがいっぱいおって、秋には鮭《さけ》があがってくる。棒で叩《たた》けばすぐ手《て》掴《づか》みで面白《おもしろ》いほど獲れる。蕗《ふき》やうどは歩きもせずにいくらでもとれる。よもぎ、ぜんまいから名も知らぬものまで野草には不自由はしません」
「棲《す》む家は」
「樹《き》と草はあり余るほどある。開墾で倒した木を連ねれば小屋くらいはすぐできる」
「動物は」
「熊《くま》や鹿《しか》がいるらしいが、熊は足跡を一度見ただけでまだ会っとりません。鹿は一度駈《か》けているのを見た。時たま野兎《のうさぎ》がとび込んでくる。これは兎汁《じる》にするとうまい」
志方の話だけを聞いていると開墾地での生活は野趣にあふれたのんびりした生活のようである。だがそれは聞かれたことに答えたにすぎない。実際にはそれとうらはらに未開地の苦しさが潜んでいるが志方はそれを言う気にはなれない。
「何に一番難儀しましたか」
「藪蚊だ。これには往生しました。なにせ人間を初めて見た奴《やつ》ですからね。気でも狂ったようにやってくる」
「それが一番ですか」
「そうだ」
人々は気合抜けしたように顔を見合せた。未開の土地へ乗り込んで一番困ったのが蚊だという。そんな程度ならたかが知れていると思う。だがそこが現地に行かぬものの勝手な推測と言うものである。
「それで、半年でどれくらい拓《ひら》けましたか」
「そう、大体一町四方くらいでしょうか」
志方は倍近くサバをよんだ。いくらなんでも半年で半町以下とは言いかねた。
「じゃそこはもう畑に」
「馬鈴薯《ばれいしょ》を少々……」
これも嘘《うそ》である。志方は口籠《くちごも》ったが、
「とにかく広い土地だ」とつけ加えた。
「十万町歩ですからなあ」
「そうです」
人々は見渡すかぎり茫々《ぼうぼう》と拡《ひろ》がった原野を想像していた。だが開墾地に見晴らしなぞはなにもなかった。右を向いても左を向いても、あるものは鬱蒼《うっそう》たる樹林だけで、抜け穴のように空が見えるだけである。
「で、持って行くべきものは」
四月に夫婦づれで出立と決っている山崎が尋ねた。
「そうですなあ」
志方は顎《あご》に手を当てて考えた。できるだけ多くの衣類と布《ふ》団《とん》、鍬《くわ》に鋸《のこぎり》、道具、それに薬、米、飲料水、算《かぞ》え出したらきりがない。
「やはり金が第一です」金さえあれば下の瀬棚には何でも売っていた。
「それで本当に大丈夫なのですか」
「いや、実を言うとなにもいらない」
「え……」
「新しい土地を拓こうという精神と体、神の下僕《しもべ》となって働こうという気持さえあれば、それでいいのです」
「…………」
「私の手は鋸と鍬でこんなになりました」
志方は人々の前に右《みぎ》掌《て》をつき出した。指のつけ根に一様に白く硬い指ダコが並んでいた。
「四月にはできるだけ多くの人が参加して彼《か》の清冽《せいれつ》な新天地へ行きましょう」
志方は最後に演説の終りのような抑揚をつけた。
話し合いが終ってから伝太郎が近づいてきて言った。
「志方さん、今日あんたが言ったことには嘘があるね」
「嘘?」
伝太郎は志方の眼《め》を見たままうなずいた。
「要次郎の言ってきていることとは少し違う」
「それはそうかもしれんが、しかしだからと言ってありのままを言っては……」
「そうだが、変な夢をもたせすぎるのはまずい」
「夢ではない。現実にそうなるのだ、なりつつあるのだ」
「そうかな」
伝太郎は黙ったが志方も気持は晴れなかった。
京都のあと、志方は渡道を希望している姉のしめとその夫を連れに熊本まで行った。そこから東京へ戻ってくると田中建堂らに会って助力を頼み、開拓使東京支所、兵部省、内務省などを廻《まわ》って来年の開拓道具、食糧の配分方を依頼する。
そんなことをしているうちに二月になった。再度の渡道予定の四月は目前に迫っていた。
「私も一緒にいっても宜《よろ》敷《し》いのですよ」
二月の末、久しぶりに家に寛《くつろ》いでいる志方に吟子が言った。それは志方が再び渡道する前にいつかは言わねばならないことだったが、吟子は一日延ばしに延ばしていた。
志方が出歩いてゆっくり話す暇がなかったからでもあるが、吟子の本心は揺れながら、まだそれを言い出すことをためらっていた。もちろん医院を閉じ北海道へ渡る決心はつかないが、志方は吟子の言葉どおりに受けとっていた。
「あなたはここにいて下さい」
「貴方のお姉さままで行くのに、妻である私が行かないという理由はありません」
「姉は熊本にいても、何もすることのない女です。あなたとは違います」
「私は東京を離れ医者をやめることに未練はないのです。貴方が来いとおっしゃればいつでもいくのです。私も信者なのですから」
吟子は心とはまるで別のことを言っていた。言いながらそんなことを平気で言える自分に呆《あき》れていた。
「その気持はよく分ります。でも今はまだいいのです。もう少ししてあなたが棲めるようになればきっと招《よ》びます」
「私も開墾に従っていいのです。鍬や鉈をふるいます」
「今のままではとても無理です。体を壊しに行くようなものです」
「でも、貴方は行くじゃありませんか」
「私は男です。それを計画した張本人です。体もあなたとは較《くら》べものになりません」
志方の優しさが分った。分るだけに吟子は一層嘘をついてやりたかった。それはいつ行くにしてもまだ早急に迫っていないというゆとりの故《せい》でもあった。
「そんなにひどい所なのですか」
「瀬棚ならともかく、開拓地はいけません」
「でも皆さんには熱心にすすめているじゃあありませんか」
「仕方がありません」
吟子は雪と巨木の開拓地を想像してみたが、広大な自然を思うだけでそれ以上のはっきりした姿は思い浮ばなかった。
「正直なところ行ってみて私自身が驚いたのです。皆に言ってはいないが今でも前途に絶対的な自信はないのです、もしかするとかなりの人が脱落するかもしれません。でもやりかけた以上やめるわけにはいきません」
「頑《がん》張《ば》って下さい」
言いながらあきらめることを吟子は願っていた。
「今やめたのでは去年一年間の努力が無駄《むだ》になります。要次郎が一人で頑張っているのを見捨てることになります。ここで止《や》めたのでは元も子もなくなる。神の理想郷を造るのだから、苦しいのは当り前です」
「そうですよ」
「あなたにはいずれきて貰いたい。あと一年か二年の間に、それまでここで頑張って下さい」
「頑張るって、こんな楽な生活をしているのですよ」
志方は少しためらったが、すぐ意を決したように言った。
「出来ればお金を貯《た》めておいて欲しいのです」
「私が?」
「ええ、お金さえもう少しあれば開拓はもっと楽に進めることができます。鍬や鋸ももっといいものを買えます。米も食べられます。夜、火を灯《とも》すこともできます」
「じゃ米も火もないことが……」
「そうです」
吟子は改めて夫の顔を見上げた。一年で夫の顔は急に老いたように思った。
「開拓使で貸してくれる道具や食糧だけでは足りないのです。資力さえあれば早く拓け、早く収穫をあげられることははっきりしているのです」
「私でできることでしたらいくらでも」
「迷惑をかけます」
「いいえ」
夫婦になった以上、それは定められていたことである。いま夫を助けられるのは自分だけである。そう思いながら吟子は、二日前、矢島会長のあとを受け、矯風会《きょうふうかい》の会長になることをすすめられたことを思い出していた。
明治二十五年四月、雪溶けを待って、志方は再び北海道へ向った。今度は志方の姉夫婦をはじめ新たに五人の同志が加わった。前年の秋、東京―青森間の鉄道が開通したので、今度は汽車を利用した。青森からは船で函館《はこだて》へ渡り、そこからは新たに陸路を中焼野に向った。この陸路の旅程は志方の記した地理案内書によると次のようになる。
第一日旅程、函館より森迄《まで》十一里間、
即ち函館より大野迄五里、大野より森迄六里、雪上馬車有、乗車せず一人前一円、森の宿料三十一銭。
第二日旅程、森より黒岩まで十一里間、
森よりヤマコシナイ迄六里、ヤマコシナイよりユーラップ(尾張開墾)まで二里、ユーラップより黒岩まで三里、宿料三十銭。
第三日旅程、黒岩より虎橋まで七里間、
黒岩より国縫《くんぬい》まで二里、それより新道村無地、国縫より利別川大橋(虎橋)まで五里、宿屋無ければ虎橋の小屋に宿すべし。されば国縫より米を用意すべし、米一升十銭。
第四日旅程、虎橋よりイムマヌエルまで五里、
虎橋より一里半にしてハカイマップと称す。土人小屋あり。アカヒゲと称すアイヌ居住す。ハカイマップより一里半にして子《ね》ップと称す、土人あり、子ップより一里半にして目名《めな》と称す。イムマヌエル村の表あり、それより高丘の際を伝《つと》うて右に行く四町程にして吾等の小屋あり、其辺《そのへん》に来たりて大声を発すべし、されども都合によれば国縫より案内者を雇うべし、八十銭にて来る。
とある。
四日の後、志方等は要次郎の待つ中焼野に着いた。
要次郎は生きていた。しかも半年に近い孤独と窮乏の中で、大黒天など二十余の像を彫りあげていた。
「彫る楽しみでもなければ発狂して死んでいたかもしれません」
元気そうに言ったがさすがに要次郎の頬《ほお》はこけ、別れる時真っ黒だった顔は半年の越冬で漂白されたように蒼《あお》ざめていた。
「やはり食べものには一番困りました。秋には蕗の塩煮ばかり四十日間も食べ続けました。年が明けてからは米一合を水にのばして二週間食いつなぎました」
要次郎は志方等が持ってきた東京からの干《ひ》菓子《がし》をむさぼるように食べながら言った。
これで総勢は七名になった。ここで再び開墾が始まった。
志方の再入植とほとんど時を同じくして徳島県人七十戸が瀬棚と中焼野の中間である長《おさ》淵《ぶち》(現在の東瀬棚駅近く)に入植し、続いて二十五年五月にはそのすぐ上流に福島県人丹羽五郎ほか十二戸が入植した。
利別川流域は樹木がうっそうと生い茂っていただけに地味は肥《ひ》沃《よく》で、農作業の心得のない志方等が思いつくままに土を起し、種を播《ま》くというだけのやり方でも、裸麦や馬鈴薯ができた。米はまだとれないが、ともかく飢えは覚えずに信徒等七人はこの地で越冬することができた。
明けて二十六年、春には志方の同志、高林庸吉、島津熊三郎、丸山伝太郎も到着し、三カ月後にそれぞれの家族を呼んだ。
この年の六月、埼玉県熊谷聖公会の信徒天沼恒三郎が、基督《キリスト》教徒の一団を率いて北海道に移住しようとして調査のため来道した。
天沼はたまたま土地払下げの件で北海道に来ていた犬養毅に会い事情を述べたことから、志方等が入植していることを知り、同じ基督教団で、利別原野を開墾する計画に合流したいと申し込んできた。
志方等としても一人でも開拓者が多く欲しかった時である。志方はすぐこのことを皆にはかった。
「彼等は、戸数は十数戸だそうだ。聖公会に所属しているが、いかがしたものか」
志方等の所属する組合教会と天沼らの聖公会とは同じキリスト教ではあるが、その教義や司式のあり方は異なる。だが人淋《ひとさび》しい開拓地にいる者達はそんな贅沢《ぜいたく》を言っている余裕はなかった。
「組合教会と聖公会といってもキリスト教徒であることに変りはない。それに両者とも開拓という目的で一致するならいいではないか」
丸山の意見はすぐ皆に承認された。誰もが一人でも多くの仲間が欲しかった。かくしてこの年の六月伊達《だて》紋別《もんべつ》に仮居していた天沼等の一団、十四戸が移住することになった。
一方志方等組合教会派の同志も少しずつ増えていた。この年の八月には組合教会員の兵庫県人川本徳松、伊藤藤助等が、次いで二十七年には瀬棚から折野宇之吉、阿部久治ら、続いて兵庫県人山崎徳三郎等が入植し、この年の暮には中焼野一帯も五十戸を数える一部落を成すに至った。
またこの年の夏、瀬棚―国縫間の道路は荷馬車一台通れるだけの貧弱な道路ながら、ともかく開通し、函館からの内陸行路はようやく道に迷う危険がなくなった。
戸数が五十戸を越えてみると中焼野という地名はいかにも当座しのぎで殺伐としていた。そこで志方らは天沼ら聖公会の人達と相談し、この地を新約聖書中の「神偕《かみとも》に在《いま》す」の意味から「イムマヌエル」と呼ぶことに決めた。同時にイムマヌエル部落の主義綱領を次のように定めた。
一、基督教主義ニ賛成シテ移住スル者ハ、何人ヲ問ハズ、定域内ニ於《お》イテ原野地一万五千坪ヲ托《たく》シ、成功ノ上十分ノ一ヲ教会費トナスコト。
一、移住者ハ禁酒ハ勿論《もちろん》、凡《すべ》テ風教ニ妨害トナルコトヲナスベカラズ。若《も》シ犯セシモノハ契約ヲ解除スルコトアルベシ。
一、大祭日、毎日曜日ヲ休業シ、博愛主義ヲ採リ連苦互ニ相助ケ、猥《みだ》リニ貸借ヲ禁ズ。
一、移住者ハ自由自活ヲ重ンジ、各自独立ヲ図ルコト。
こうして新しい理想郷の建設は志方の思惑どおり順調に進んでいくかに見えた。
志方が再び東京を離れてから二年の月日が経《た》った。
この間、吟子の許《もと》には月に一度の割で志方から便りが届いた。それだけに吟子は志方や開拓地の状況は大体分った。志方の便りは最後には必ず、開拓は順調に進んでいますと記されていた。だが吟子はその内容を文面通りには受け取っていなかった。吟子に心配させまいとする志方の配慮と、志方の天性的な理想主義の面を知っていたからである。吟子のこの観《み》方《かた》はほぼ当っていた。
志方一人を離しておくことはなんとも危なっかしかった。
〈無理をなさらず、焦《あせ》らず努力下されたく念じおり候《そうろう》〉
便りの最後に吟子は必ずそう書き加えた。
二年の間には吟子の周辺にもいくつかの変化があった。
二十六、二十七年と年を重ねるにつれ日本と清国との緊張は増し国内は騒然としてきた。二十七年六月二日には閣議で朝鮮に一混成旅団の派遣が決定され、七日には日清両国は相互に朝鮮出兵を通告、二十一日、清国は日本の東学党討伐、韓国内政の共同改革提議に拒絶通告、と日本と清国間は戦争必至の雲行きであった。
この国家の威信をかけた戦争を目前にしては基督教伝道もいささか色褪《あ》せてしまった。この点では志方の予感は当っていた。
この間二十六年の末に、俵瀬《たわらせ》の実家の兄、保坪《やすへい》が四十七歳で死んだ。死因は脳出血であった。
吟子は迷ったが友子のすすめもあって俵瀬へ行った。保坪の死もさることながら久しぶりに父母の墓参りもしたかった。その底にはもし北海道へ渡ればほぼ永久に帰ってこられないかもしれぬ、という気持もあった。
十年前、人力車で走った道を今は汽車が走っていた。母が死んだ時の悲しみと、その時の人々の眼の冷たさが改めて思い出された。俵瀬に近づくにつれ吟子は気が重くなった。
だが故郷の様子は汽車の中で想像していたのとは違っていた。人々の態度からは十年前吟子に対したような冷たさは消え、畏《い》敬《けい》と好奇心の交じり合った眼《まな》差《ざ》しに変っていた。
通夜《つや》の席にさまざまな人が挨拶《あいさつ》に現れ、話しかけてくる。縁戚《えんせき》で顔見知りの人もいるが、忘れてしまった人もいる。未亡人となったやいまでもが吟子に近づいてくる。
「皆があなたに注目しているのよ」
友子が寄ってきて囁《ささや》いた。
「何故《なぜ》です」
「あれが女医者で、有名な基督教信者だということでしょう」
「いやだわ」
「尊敬しているのよ、もっとも多少の好奇心もあるでしょうけどね」
「馬鹿にしてるわ」
「大した変りようじゃない、お母さんが死んだ時には、皆はあんたを変人扱いにしていたからね。死んだ保坪兄さんもそうだったわ」
吟子はその時の白けた光景を思い出した。誰《だれ》もが親不孝の勘当娘という眼で見ていた。
「名ができ、お金ができたら世間の眼は変るものなのよ」
「まさか」
わずらわしいと思ったが、友子の言うことは一面の真理のようでもあった。八時を過ぎると通夜の客は大方帰り荻《おぎ》野《の》家には残った家族と親戚、それに近所の手伝いの人達だけになった。
「志方さんはまだ北海道へ行ったきりなの?」
広くなった座敷の一隅で友子が尋ねた。
「あの人も、変ったことが好きで」
「で、あなたも行くの?」
「いずれそうなると思うわ」
「およしなさい」
思いがけず強い声で友子が言った。
「そんなところに行ってなにになるの」
「なにになるって……」
「北海道なぞに行くのは内地で食いつめたか、何かの事情で内地に居られなくなった人達ばかりよ。あんな所へ行く人はよくよくの人よ、いくら信者といったってあなたが行かねばならない理由はないわ。あなたは東京でお医者さまとして立派にやっていける人じゃないの」
「…………」
「あなたが何も荒くれた男達に交って木を伐《き》り倒したり、掘立《ほったて》小屋に住む必要はないでしょう。あんな寒い所に行っては命を縮めるだけよ」
「でも、私は志方の……」
「妻だというのでしょう。じゃ夫である志方さんはあなたに何をして呉《く》れたというの、結婚費用から生活費まで出させて、居候して、挙《あげ》句《く》の果てに北海道へ行くなどと自分勝手なことを言い出して、ついにはあなたまで引っぱり出そうというのでしょう」
「彼の目的はただ基督教の理想郷を作りたいだけよ」
「理想郷などと言っても態《てい》のいい開拓じゃないの、馬鹿げた話よ」
「理想郷の建設は結婚する前からの志方の望みだったのよ、それが今、ようやく実現しかかっているのよ」
「だから自分から言い出した志方さんが行くのはいいわ、でも折角苦労して女医者までになったあなたが行く必要はないでしょう」
友子はいまだに志方を吟子の夫として認めたくはないのだった。
「ともかくそれは私達夫婦の問題だわ」
冷やかにつっぱねながら、友子が黙ったことで吟子は急に不安を覚えた。
保坪の跡は息子の三蔵がつぐことになっていた。だが跡といっても目星《めぼ》しい家作や土地はすでにない。
保坪の葬儀も荻野家の当主としては随分と淋しいものであった。家を傾けた者の自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》と言えばそれまでだが、保坪自身は気が弱かっただけで悪い人ではなかった、と吟子は今になって少し優しい気持で考えてやれた。
「母さんが生きていたらこんなことにならなかったわ」
父の綾三郎が死んだ時からみると格段に貧しい祭壇を見上げて友子が言った。
「荻野の家もこれで終りかもしれないわ」
喪主の三蔵は二十三歳になっていたが小さい時から病弱で農業にはまったく関心がなさそうだった。
「別にこの土地に執着する必要もないでしょう」
仮通夜の夜、東京に出て勤め人になりたいと洩《も》らしていた三蔵の言葉を吟子は思い出した。
「本家を継いだものはそれなりに家を守る義務があるわ。そうでなければ死んだ御先祖が可《か》哀相《わいそう》だわ」
友子の考えは間違ってはいない。だが吟子はそんなことを若い三蔵に強制する気にはなれなかった。二人の姉妹の考えは年を経るに従って大きく離れていくようであった。
「で、あなたは会った?」
友子が思い出したように言った。
「会ったって、誰に?」
「知らなかったの、貫一郎さんが見えてたわ」
吟子は友子を見詰めた。長く忘れていた名が再び吟子の脳裏に甦《よみがえ》った。
「私に挨拶して行ったので、あなたもてっきり会ったのだと思ったわ」
吟子こそ離縁《わかれ》はしたが、荻野の家も稲村の家も北埼玉一帯の豪農同士として、形式的な交際は続いていた。傾いたとはいえ荻野家の当主の葬儀に十里と離れていない、かつては、縁戚であった貫一郎がお参りに来るのは当然かもしれなかった。
「じゃ、あの方、あなたに声をかけないでいったのね」
「全然気付かなかったわ」
「でもあなたの姿は見ていったと思うわ」
通夜の折り、家族に続く親戚の席の端の方にいたので、吟子は気付かなかったのかもしれない。あるいは貫一郎が焼香したのを見たのかもしれぬが後ろ姿で気付かなかったのか、そうとすれば二十五年前に体を許した男の後ろ姿は吟子の記憶ではすでに不確かなものになっていたのかもしれなかった。
「あの方、今は銀行の頭取におなりになったのですよ」
無口な色白な青年が銀行の頭取になったと言われても吟子には想像することもできない。
「あなたが十三歳も年下の学生と結婚したことを教えたら驚いてたわ」
「姉さん、もうそんな話は止《や》めて」
吟子は立ち上った。男達のいる部屋からは相変らず賑《にぎ》やかな声がきこえる。未亡人になったやいが近付いてきて言った。
「少しお酒でもいかがですか、あなたのお話をお聞きしたいという人が沢山いるのですよ、あなたは荻野の家の誇りですから」
「ちょっと行ってみましょう」
やいに合せて友子が誘った。
「折角ですけど明日早いものですから」
田舎のわずらわしさは変っていない、と吟子は重い気持のまま奥の寝所へ向った。
一九
北海道へ行くことは志《し》方《かた》が二度目に渡道した時から覚悟はしていたし、いつかは行くのだと決めていた。志方から「いつ来い」と言われても行ける心の準備はできているつもりだった。この春か、この夏か、と吟子は志方から言ってくるのを待っていた。
だが志方は一向に言ってこない。
志方からの手紙は相変らず月に一度ずつ来た。どの手紙も、元気で開墾も少しずつ捗《はかど》っていると書いてあるが、吟子に来て欲しいとは書いていなかった。
二度目には姉のしめを連れていき、翌年には同志の高林、丸山らが妻を呼び寄せているのに、志方は吟子を呼ぼうとはしない。「元気だ」とおうむ返しに言ってくるだけである。招《よ》ばないのは吟子を未開の荒地に住まわせては、と気遣っているからに違いなかった。
私は我儘《わがまま》すぎはしないか。
自分が信徒で志方の意見に賛成ならば、来いと言ってこようがこまいが行くべきではないのか、しかも自分は志方の妻である。それを知りながら行かないのは、志方が来いといってこないのをいいことに甘えていたのではないか、現に高林の妻も丸山の妻も行ったではないか、女が行って行けぬわけはない。自分は医師であり、名士で社会的に重要な立場にいる。他の女達とは違うと思っていたのではないか。そんなことは考えるわけはないと思いながら、その実、心の底ではそう思っていたのではないか、だから悠々《ゆうゆう》としていられたのだ。
鼻もちならぬいやな女だ。
一度思うとその気持は一層つのった。自分で自分を許せなかった。自分だけ特権をふり廻《まわ》しているのは卑怯《ひきょう》だ。自分も神の前では皆と同じ一介の信徒なのだ。自分だけ楽をしていいわけはない。
考えだすと吟子は眠れなかった。風が雨戸を叩《たた》く。この夜、志方はどうしているかと思い、体が燃える。
まどたたく夜半《よは》のあらしにねざめしてとしべつ原の寒さいかにと
雲はらぶ風につけてもこの頃はとしべつ原の朝夕の空
歌を詠《よ》んだあと吟子は志方の夢を見た。白い雪原で志方は一人で立っていた。雪原には切り倒された裸木だけが見える。志方は鍬《くわ》を持って立ったまま何も言わない、ただじっとこちらを向いている。
「来て欲しいのですね」
吟子が二度聞いて志方はかすかにうなずいた。それから例の人懐《ひとなつ》っこい笑いを浮べた。眼覚めると夜半の風は止んでいた。明るい大東京の朝であった。
「行こう」
その朝、吟子ははっきりと心に決めた。
夫なら夫らしく来いと命じればよいではないか。
心が決ってみれば志方の自分への気のつかいようがむしろ腹立たしく口惜《くや》しかった。
明治二十七年六月、吟子は単身夫の待つ北海道へ向った。
医院は処分し、家財道具のすべてはもと、関口等使用人に分け与えた。
「やはり行かれるのですか」
上野駅のプラットホームまで来ても、もとは吟子が本当に東京を離れ、北海道へ行くとはまだ信じられなかった。
「勿論《もちろん》ですよ」
「だって……」
そのままもとは目を伏せた。
厳しい先生であった。もうこんなところに勤めるのは嫌《いや》だと何度か思った。逃げ出そうかと思ったこともあった。だが今考えてみるとその一つ一つがかえって懐かしい。随分あれこれと教えて貰《もら》った。
厳しかったのはそれだけ親身であったのだと今になってはっきりと知った。
「御元気で」
見送りの人達が順に近づき、頭を下げ手を握った。矯風会の矢島楫子も、大宮の大久保夫妻も、本郷霊南坂の牧師も、東京市の医師会長も、高橋等女医の後輩も、新聞記者言論出版関係から松本荻江、古市静子までそれぞれに名の通った人達が並んでいる。さらに世話になった患者達も多数顔を見せている。志方の壮行とは較べものにならぬ華やかさである。
「惜しいわ」
見送りの人垣《ひとがき》の中で大久保夫人は夫の真次郎に囁いた。基督教徒として吟子がこれからしようとしていることは何一つ問題のない立派なことであった。教徒の妻としても賞讃《しょうさん》されるべきである。一点の非難すべきところもない。それなのに惜しいと思うのはどういうわけか。
このまま東京にいれば医師としてはもとより、社会運動家として名をはせ、大をなすことは眼《め》に見えていた。大久保夫人が惜しいと思うのはその未来を失うことであった。だが信徒として信じる道へ進むのに同じ信徒が惜しがるのは可笑《おか》しい。むしろ喜んでやるべきだ。前途を祝ってやるべきである。そう分っていながらそれができない。志方の時のように素直に送ってやれない。どう考えてもやはり「惜しい」と思うのはどういうわけか。
あの結婚が間違っていたのだ。
この感情は大久保夫人だけでなく、ホームに集まった人、全員が口には出さぬが同様に感じていた気持だった。
時間が迫って吟子は汽車に乗った。吟子の小さく整った顔が窓から覗《のぞ》く。顔はしっかりと前を向いているが眼は伏せている。
「痛ましい」
と大久保夫人がもう一度呟《つぶや》いたとき、ベルが鳴った。
「さようなら」
「お元気で」
見送りの人の声が一つの声となってまき起った。吟子はじっと頭を下げていた。なまじっか顔を上げると誰かを見なければならない。誰か一人に視線を合せることは他の人に失礼になる。
人々もただ黙って眼だけで送っていた。
「万歳」とも「しっかり」という声もない妙に静かな光景であった。
「先生……」
突然、見送り人の中から異様な金切り声が起った。もとの声であった。汽車に沿ってもとはホームを駈《か》け出した。追いかけてホームの端で、もとはもう一度「先生」と呼んだが吟子には聞えなかった。
荒川を渡り、川口を過ぎて吟子はようやく、自分が今、一人で北海道へ向っているのを知った。
二〇
覚悟はしていたが、開拓地での生活は吟子にとっても想像以上のものであった。
志《し》方《かた》と吟子、二人で住む小屋は土間に六畳ほどの板の間が二つあるだけで、井戸はもちろん、板囲いをしただけの共同便所もみな外にあった。
「驚いたでしょう」
「いいえ、思っていたとおりです」
吟子はことさらに平気を装っていたが、内心はさすがにうろたえていた。
東京でそれなりの生活をしてきた吟子にはここの生活は天と地ほどの違いがあった。志方が一年延ばしに吟子を呼ぶ時期を延ばしていたのも無理はなかった。
板の間に藁《わら》を敷き、その上の布《ふ》団《とん》に横になって吟子は二年ぶりに夫に抱かれた。床の感触も、寝てみる四周の情景もすべてが違っていた。技巧も何もない猛《たけ》り狂ったような夫の愛《あい》撫《ぶ》だけが周囲への驚きを癒《い》やしてくれるかと思ったが、それも一瞬のことで、行為が果てると再び言いようもない不安が押し寄せた。
「もう二、三年の辛抱です」
終えたあと志方は吟子を腕の中に入れたまま言った。志方の胸は土と野草の匂《にお》いがした。三年間の開拓地の生活で夫の体にしみついたもののようである。
私の体にもこの匂いがしみつくかもしれない。
吟子は眼を閉じたまま、ただ夫と一緒にいる幸せにとけこもうと自分で自分を追いやった。
部落は完全に基督《キリスト》教徒だけの集団であった。先に記した部落の憲法を守り、聖安息日を厳守し、教会建設のための献金などが部落民全員に課せられた務めであった。
それにしても開墾地の労働はききしにまさるものであった。毎日の激しい労働で同志のほとんどは一度は病気にかかり、飲料水の関係の故《せい》か、おこりにかかる者もいた。それにも増して彼等を苦しめたのは藪《やぶ》蚊《か》の大群であった。志方式の藁束を腰にしても皮膚の弱い者達は始終顔を腫《は》らしていた。
こんな中で皆は一心に働いていた。誰もが農業に経験のないにわか百姓であったが、地味が豊かなのが幸いして一年後にはなんとか反当り百俵くらいの馬《ば》鈴薯《れいしょ》を収穫し、裸麦、黍《きび》なども予想以上の出来栄《できば》えであった。
「よしこれでいいのだ」
移住者は自信を持ち、部落の前途にかすかな光明を見《み》出《いだ》した。だがそれは部落全体をとおして見た状況で、個々の実態は必ずしも順調には進んでいなかった。
問題の一つは聖公会派と組合派の意見の違いであった。
志方等の組合派と天沼等の聖公会派とは同じイムマヌエルに住んでいたが、住む小屋は前者は東側の小さな丘に近い一角に、後者は西の林に近い一角にというように分れて住んでいた。木を伐採し、土を起すといった作業は部落全体の仕事として共同でやることになっていたが、休憩時間などに、一旦《いったん》話が宗教や思想の問題に及ぶと、たちまち鍬《くわ》を尻《しり》にしいたまま議論に熱中し、時には対立して、日が暮れるまで双方とも立ち上らないということさえあった。その度にただでさえ遅れていた開墾の計画はさらに遅れていく。
イムマヌエルでの吟子の生活は医者とはまったく無縁のものであった。朝七時に起き、衣食を整え、八時には志方等の作った計画に基づき開墾と耕作のグループに分れて仕事につく。女達は洗濯《せんたく》、炊事といった家事につく。十二時に昼食を終え、一時間の休みをとってから四時まで午後の作業を続ける。四時仕事の終了とともに全員が集まり感謝の祈りを捧《ささ》げる。
日曜日はこれらの作業をやめ、午前十時に東の丘に集まり、午後は各自、家の補修や、休息に当てる。
俵瀬《たわらせ》の家を出てから二十数年間、苦しいながらも自分一人のペースでやり通してきた吟子にとって、この集団生活は必ずしも快適なものではなかった。
「あなたは女なのだから朝の集まりに出てこなくてもいい」
宵《よい》っぱりで朝寝坊の吟子のくせを知っている志方はそんなふうに言って吟子を安心させようとした。
「でも皆さんが外で働いている時寝ているわけにもいかないでしょう」
「毎朝集まっているのは聖公会と我々との間にヒビが入らぬように団結し通そうという意味だけからのものなのだから」
「では少し遅くまで休ませて貰いますよ」
「構いません、それから灯油は下から買ってきたのが充分あるから安心して使いなさい」
志方は土間を指さした。流し場のおけ甕《がめ》の横に灯油のビンがある。吟子はこの地に来ても英文の聖書を読み続けていた。本好きな宵っぱりの吟子のために、志方が正規の配給分以外に下からとり寄せたものである。志方の気の使いようが嬉《うれ》しく切なかった。申し訳ないと思いながら、こう荒れ果てた土地では書物でも読まないことには淋《さび》しく、気が狂いそうであった。
吟子がイムマヌエルに着いた一カ月後に組合派の山崎という男の妻が、夫が開墾に出かけている留守中に突然赤子を捨て、家をとび出し、女達が集まっている井戸端へきて仰向けに倒れた。
呼び出されて吟子はすぐその場にかけつけた。
「あっ、ああっ、あっ」
女は裾《すそ》から太腿《ふともも》まで露《あら》わにして、呻《うめ》くたびに胸元を掻《か》きむしる。
「おこりか」
「眼が吊《つ》りあがっておるわ」
「口から泡《あわ》がでとる」
「助かりますかな」
急を知ってかけつけてきた部落民達の不安な眼《まな》差《ざ》しの中で、吟子だけが黙って苦しむ内儀を見詰めていた。
「先生、なんとか楽にしてやって下さい」
山崎が駈けつけてきて言った。
部落には吟子という専門の医師がいることが唯一《ゆいいつ》の自慢であった。この点ではいかな下の瀬《せ》棚《たな》と言えどもかなわない。それが彼等がこの地で耐えていく一つの力でもあった。
「どうすればいいのですか」
「貴方《あなた》が抱いて家につれていってやりなさい」
「何か薬でも……」
「家で砂糖湯でも呑《の》ませてあげなさい。そして今日は一日中横にいて面倒をみてあげるのです」
「それで大丈夫ですか」
「心配はいりません。皆さん手伝ってあげて下さい」
人々は怪《け》訝《げん》な表情のまま山崎の内儀を担《かつ》ぎあげた。
「あれでいいのか」
家へ戻《もど》りかけた吟子に志方が後ろから声をかけた。
「あの女《ひと》は信者ではないのですね」
「山崎はそうだが、あの内儀は違う」
「あの女《ひと》は主人が神の命による遠大な偉業のためこの地の開墾にたずさわっているということがどうしても理解できないのです。あるいは山崎さんがよく説明しなかったのかもしれません。とにかく頼りない無人の土地の寂《さび》しさに耐えきれなくなったに違いありません」
「それで狂ったのか」
「淋しさが亢《こう》じてヒステリーになったのです。人々の前でこれ見よがしに倒れ、胸をかき抱き、しかも倒れながらも身の安全を考えて柔らかい場所に倒れる、そんなところは典型的なヒステリーの症状です」
「そういえばこの頃家事を放りなげて、子供もみず、ふさぎ込んでいるので山崎が子供のオムツ替えから、洗濯までするのだと嘆いていました」
「淋しさのあまりああして泣き喚《わめ》き、狂態を演じて帰国を迫っているのです」
内儀に水でも飲ませているのか、山崎の家からは女の喚き声に替って赤子の泣き声が洩《も》れてきた。
「信者でなければ、こんな所で開墾に従うのは無理なのかもしれません」
「そうかもしれない」
畑地の先を焼き払っている野火をみながら志方がうなずいた。
「信者の妻というだけでは、やはり駄目《だめ》なのでしょう」
正直なところ渡道して一カ月にしかならぬ吟子に人を批判する権利などはなかった。吟子自身でさえ、いつ山崎の内儀のようにならないとは言えないのだった。
気が狂うほどのホームシックにかかったのは山崎の妻だけではなかった。
部落民は半年もすると持ってきた金を費《つか》い果した。味噌《みそ》、醤油《しょうゆ》はもとより、塩まで欠乏するありさまであった。こんな時、要次郎は木彫を彫って瀬棚で売り、その代金で味噌を求めてきたが、その三里の行程さえ丸木舟で二日かかって下り、さらに舟の通わぬ谷地《やち》は膝《ひざ》まで水に浸りながら担いで歩かねばならない。こうして味噌が手に入っても蔬《そ》菜《さい》がなく、名も知れぬ野草で代用する日が続いた。確《かっ》乎《こ》とした信仰と覚悟をもった男性達でさえこの苦境に耐えるのは容易なことではなかった。
夏の終りには、「この地での開墾はキリスト教徒にとっては必ずしも絶対的な使命ではない」と言い出す者まで現れた。苦しく不安な状態では安易な考えはたちまち火の手をあげて拡《ひろ》がる。
「貴公らは同志社で神《しん》旨《し》に基づいて誓約したのを忘れたのか、二十四年の志方、丸山の瀕《ひん》死《し》の死闘を何と心得るのか、福島中佐は単騎シベリアを乗り切ったではないか、郡《ぐん》司《じ》大尉は無人の千《ち》島《しま》の守護神となったではないか、この程度の苦難に意気消沈する腑甲斐《ふがい》なさは男子の恥辱ではないか」
高林は朝夕、仕事の余暇を見出しては、動揺する同志を励まし続けたが、そう言っている高林自身が、このまますべてを捨てて逃げだしたいと思う時がある。その弱気を打消すために人々を説得しているとも言えた。
こうなると日曜日の集会だけが心のよりどころであった。この日は各戸輪番に集合し、礼拝して互いに激励し合い協力することを誓い合う。
「神の御名《みな》の下《もと》」というのが彼等をつなぐわずかな鎖であった。
吟子は医師を捨て志方の妻として開墾に従った。巨木を倒し、根を除くといった力仕事は無理だが、その後の地ならしなら鍬をもってやることができた。
それでも時々、開墾中に指を切ったとか、足、腰を痛めたという怪我《けが》人《にん》があとを絶たず、医師としての仕事から完全に離れるわけにもいかなかった。吟子が簡単な外科の知識があったことがこの場合好都合でもあった。
こうして部落民の大半は何とか頑《がん》張《ば》っていたが、秋を待たずにヒステリーの内儀に悩まされ続けた山崎を初め、病人が出たり、気力を失った者達五戸十二人がイムマヌエルを去った。二年間増え続けてきた部落に初めて現れた脱落者であった。
十二人が去った一カ月後の十月の初め、日本海側を襲った颱風《たいふう》はそのまま北上し道南を一気に呑み込んだ。いつもはおだやかな様相を呈して流れていた利別《としべつ》川は一度に豹変《ひょうへん》し、濁流が利別原野を洗い流した。
信者が一年間汗水垂らして作りあげてきた作物は石と泥《どろ》の中に埋もれたが、この惨状に、更に追いうちをかけるように十日後に強霜が開拓地一帯を襲った。
ようやく前途にわずかな希望を見出しかけた時だっただけに、この打撃はただでさえぐらついていた信者達の動揺を一層強めた。
「俵瀬ではこんなことは毎度のことです。川は溢《あふ》れれば溢れるほど地味は豊かになるものです」
吟子は俵瀬での洪水《こうずい》の経験を説明し、部落民を励ましたが、根からの農民でない信者達には吟子の説得といえども聞く余裕はなくなっていた。互いに計画のわずかな手違いを責め合いながら反目しあった。
冬は目前に迫っていた。
再び暗く長い冬がやってくる。今年は洪水で貯《たくわ》えもほとんどない。役場から与えられるわずかな食糧で冬を越せるか、それさえ目処《めど》が立たない。もはや神のみを信じて留《とど》まっているわけにもいかない。
雪虫が飛び交い冬の近づきを思わせる十月の末、新たに団員の半数、二十一戸、三十八名がイムマヌエルを去った。
「神の与え給《たも》うた試練だ。今二、三年さえ耐えれば必ずよい時が来る」
志方達はなお説得に努めたが、帰ると決めた団員達は笹《ささ》小屋《ごや》に集まり聖書を読み、神へ許しを乞《こ》うべく最後に祈ると、無言のままイムマヌエルの丘を去っていった。
それ以上志方達に止める方法はなかった。実際、無理に彼等を留めたところでわずかに残った食糧で団員全《すべ》てが冬を越す難儀は目に見えていた。
「何故《なぜ》我々はこんな苦しみに耐えるのか」
利別川ぞいに次第に小さくなっていく信徒の後ろ姿を見ながら志方は傍に立ち尽す吟子へ呟いた。志方のふくらみのあった童顔は開拓地へ来た三年の間に角張り、三十半ばの顔に老いていた。
「初めて逢《あ》った時、貴方は私の前ではっきりと誓ったでしょう。その目的に向って貴方は進んでいるのですよ、成否はともかく、これだけ進んだではありませぬか」
開墾に疲れ、ともすれば投げ出しかねない志方を逆に励ます立場に知らぬうちに吟子は立っていた。
原野も川も白一色に塗り潰《つぶ》される冬が来た。この寒さの中で志方と一緒に来た姉のしめが子供を産んだ。女の児《こ》であった。子供はなんとか元気だったが、しめは長い間の労働と粗食で体力を消耗していた上の難産で、産後の肥立ちが悪かった。そこに急な寒波が襲い、肺炎を引き起した。吟子と志方は一週間寝ずに看病したが、目星《めぼ》しい薬もないまま二カ月後にしめは夫と子供を残したまま死亡した。
これが開拓地での初めての死亡者であった。瀬棚で火葬を終え、イムマヌエルの東北の一角に墓標を建てた。死ぬためにしめは北海道へ来たのではないかと、吟子はその白い墓標を見詰めながら思った。
「あの子を我々が貰《もら》ってやってはどうだろう」
志方が吟子の顔色を窺《うかが》うように言い出したのは、しめが死んで一カ月経《た》ってからであった。
「こんな所で開墾のかたわら男手一つで育てるのは無理だ」
しめの夫は三十一歳だが部落で乳の出る女の許《もと》へ毎日乳を貰いにいっていた。
「私達が子供を……」
突然のことに吟子は志方の真意をはかりかねた。
「そうだ、俺《おれ》たちの養子にしてやるのだ」
「あの人が離しますか」
「五日前に会って話したのだが、育ててくれるなら呉《く》れてもいいと言っていた」
志方はかなり前からこのことを考えていたらしかった。
「どうだ」
何と答えていいのか吟子には分らない。
吟子は元来あまり子供は好きな方とは言えなかった。近くで遊んでいる子供を見ても自分から話しかけたり、物を与えたりすることはなかった。
子供は外見は可愛《かわい》いがその実、大人に媚《こ》びてずるいところがある。吟子はそのことが鼻について耐えられないのだとかつて荻《おぎ》江《え》に言ったことがある。荻江は子供のそうした性格は意識的なものでなく本能的なものだから許してやるべきだと言った。吟子もそのことはよく分っていた。
だが、そうだといって自分から欲しいと思ったことはなかった。それが今突然子供を育てることになるという。
「俺も面倒をみるが、余裕ができたらそのうち子守りでも頼もう」
「…………」
嫌《きら》いではない、ただあまり好きではない。
子供がいては医師になることも、社会的な仕事をすることもできなかったに違いない。だから好きではなかった。そう思ったが考えてみるとそれだけの理由でもなさそうだった。
もっと別の理由があったのではないか。
吟子はそう思いながらその直前で立ち止っていた。今一歩問いつめるとその理由はヴェールを剥《は》ぐように現れてくる。子を産めない女だから子供のことは考えまいとしてきた。その態度がいつか慣《なら》いとなって子供への無関心になり、馴染《なじ》みを失ってしまったようである。追いつめればそこへたどりつきそうであったが、そこまで考えつめるのが怖かった。
「あの子と血が繋《つな》がっているのはここには私しかいないのだ」
志方の言うことは無理もないと吟子は思った。
「どうせ俺達は子供は生れそうもないからね」
「えっ……」
瞬間吟子は声をあげると眩暈《めまい》を覚えた。鋭い針が光のように吟子の背を貫いていった。
「そうだろう」
吟子はうなずいた。志方の眼《め》は哀願するように優しく弱々しげであったが、吟子にはもはや夫に抗《さか》らう気は失《う》せていた。
大量の脱落者を出したが、春とともに新しい移住者がやってきて、イムマヌエルは再び生気をとり戻した。
残ったのは信仰厚い強固な意志の者だけに仕事はかえってやりやすくなったともいえた。
団員の心の動揺を防ぐ意味からも教会堂建設が何よりも必要だと志方は考えた。
早速団員にはかり、夏から部落の中心地に十五坪の草葺《くさぶき》の礼拝堂を建て、毎日曜日ここに集まることを決めた。
さらにこの年の十二月二十五日には志方の家でクリスマス祝会をはじめて行い、以後毎年行うことを約束した。
一方、この年の秋、部落民有志の寄付金と労働により教育場が建設された。藁《わら》ぶきの粗末なものであったが、ここに付近の子弟を収容し、開墾作業には無理な老人を教師として、読書、算術を教えることにした。
人跡もなかった密林はこうして少しずつ人里らしくなってきた。
ところでこの頃瀬棚郡役所から「イムマヌエル」という仮名書き名は好ましからず、という申し出があった。
当時、北海道開拓使は、道内の地名のほとんどを占めていたアイヌ語の仮名呼びを、漢字に書きかえる方針に切りかえていたが、その波に「イムマヌエル」なる地名もひっかかったのである。
「この名はアイヌ語でなく、聖書から導いて和人である我等が名付けた名である」と信者達はつっぱねたが、
「耶蘇《やそ》名なら一層許せぬ、ただちに日本漢字名にするか、さもなくば変更せよ」
開拓使の属吏にはアイヌも耶蘇も同じ他国者とうつったのである。
「我等の信仰の意気の表徴として名を改めることは受け入れがたい」
志方は血の気の多い青年達と役所の申し入れに激しく反撥《はんぱつ》した。だがどう反撥したところで相手は強大で無知な役人である。
「名前などは表向きのことではありませんか、表だけ変えて、その実、私達はイムマヌエルと呼んでおればいいでしょう。形式だけそれらしければ彼等は満足するのですから」
猛《たけ》る志方を吟子は静かにたしなめた。言われてみるとたしかにそれは一つの案であった。かくして「イムマヌエル」の語源、「神偕《かみとも》に在《いま》す」からこの地を「神ヶ丘」と呼ぶことに同志の意見は一致した。
役人はそれで納得し以後公的にはこの地一帯を神ヶ丘と呼ぶことになる。だが志方等が執着したとおり「イムマヌエル」の呼び名は現在もなおこの地の人達に懐《なつ》かしく呼び伝えられている。
この頃、瀬棚郡内陸の開拓はイムマヌエルの開発と歩を合せて着々と進められていた。いまその土地名と開拓者の主なものを記すと次のようになる。
種川、明治二十六年埼玉県人加藤政之助等の経営にはじまる。
住吉《すみよし》、明治三十年鈴木甚八ら入植。
美利加《ぴりが》、明治十三年瀬棚より大島勘左衛門ら、メノウ、マンガン採取のため入地。
花石《はないし》、明治二十七年珍古辺駅逓所《えきていしょ》設置。
八《や》束《つか》、明治二十九年千葉県人鈴木義守入地し農場をはじめる。
白石《しらいし》、明治三十年白石農場開設にはじまる。
今金《いまかね》、明治二十六年今村藤次郎、金森拓郎ら移民を率いて愛媛県より移住。
鈴岡《すずおか》、静岡県人金原明善により明治二十九年より開拓。
青木農場、明治三十二年瀬棚村医青木三奎により開拓。
兜野、明治十七年、徳島県人大東伊太郎ら移住。
豊岡《とよおか》、明治十九年福井県人入地。
東瀬棚《ひがしせたな》(長淵)、明治二十四年徳島県人七十戸入地。
丹羽《にわ》、明治二十五年福島県人丹羽五郎ら移住。
松岡《まつおか》、明治三十一年徳島県人三十三戸入地。
徳島《とくしま》、明治二十四年徳島県人久前長吉ら入地。
愛《あい》知《ち》、明治二十六年愛知県人水野治左衛門ら十戸入地。
背負越、明治二十年福井県人河上治左衛門ら入地。
野田府、明治二十三年石川県人宮腰清助ら入地。
中里《なかさと》、明治三十二年越後人吉田庄五郎ら入地。
瀬棚内陸の開拓のあり方は北海道全土の開拓の縮図である。これに見るように開拓者の出身県は多種多様で全国に及び、その地名は出身県か統率者の名前、またはアイヌ語から転《てん》訛《か》したものなどがほとんどである。彼等の多くは明治維新により体制側から離れた不遇なグループか、農家の二、三男で生地にいては先の見通しがないところからの一旗組といった者が大半で、志方らのように純粋な宗教的動機から入植したのは稀《まれ》であった。
開道百年を経て、これらの人達を北海道開拓に情熱をもって挑《いど》んだ先人として、それぞれの町村で崇《あが》め祀《まつ》っているが、開拓の実態はすべて恰好《かっこう》のいいものばかりであったとは言えない。
渡道してきた者の多くは内地で食いつめてきたもので、残った者は帰るにも帰れず、止《や》むなく残ったというのが大半であった。それが結果的に開拓の礎《いしずえ》になったにすぎない。このような考え方は、だからといって開拓者をけなすことにはならない。開拓の実態とその功績とはおのずから違うのである。
明治二十八年四月、日清講和条約が結ばれ、東京は戦勝気分に沸いた。しかし北海道の開拓地は相も変らぬ自然との戦いであった。だがこの地にも新しい変化が起き始めていた。
明治二十九年十二月、政府は国会に「北海道国有未開地処分法案」なる新しい法案を上程した。これは明治十九年制定の「北海道土地払下規則」を大幅に改正するものであった。
この結果、政府は犬養等への貸地全部の返還を命じ、その土地を新たに開拓応募者に国が直接貸し与えるということになった。このためイムマヌエル団体も、すでに開拓した土地以外はすべて国に返さなければならなくなった。このことはイムマヌエル周辺に「無信者」が入居することを意味し、志方等の掲げた基督《キリスト》教徒だけによる部落建設という計画は根底からくつがえされることになった。
悪いことは重なる。この頃、志方らの属する組合派と天沼ら聖公会派との対立が次第に表面化してきていた。
元来このイムマヌエルへ初めに乗り込んできたのはすでに述べたとおり志方、丸山、高林らを中心とする組合教会派で、天沼等を中心とする聖公会派がこれに合したのはほぼ二年後であった。部落の規約や運営はこの両派の合議の上で決めてはいたが、合同のいきさつからも、両派のメンバーの構成からも、その主導権は大体において組合教会派が握っていた。
だが洪水のあとの大量脱落者をみたため、この関係は逆転し、団員の数では聖公会派が圧倒的に多くなってしまった。この結果、天沼等の発言が次第に大きな比重を占めてくるに至った。
ともかく雪で動けぬ冬の間はどうやら収まっていたが、雪が溶け、新しい開墾が始まるにつれこの両派の対立は急に目立ってきた。おまけに同じ基督教徒ということがこの対立を更に厳しいものとした。
立場が逆転し、追い込まれては、猪突《ちょとつ》猛進型の志方が天沼等と衝突するのは自然の成行きであった。
聖公会のグループが志方の家に近い利別《としべつ》教会に集まることを忌避したことから対立は急速に拡がり、二派は完全に反目しあうことになった。一度表に出ると今まで両者とも抑えに抑えてきただけに膿《うみ》が一度に吹き出した。
負けると知りながら志方は争い、思ったとおり敗れた。多数決なら志方の意見はもはや通らない。天沼等を受け入れたことが失敗であったが、今更そんなことを言ってもどうにもならない。
熱し易《やす》いだけに志方は冷め方も早かった。
二十九年の夏、敗れて弾《はじ》き出された志方はイムマヌエルを離れ十二里奥のクンヌイ(国縫)に行く決心をした。
「あそこにはマンガン鉱がある。前々から一度やってみたいと思っていた」
志方はクンヌイから来た山師にそそのかされていた。山にずぶの素人《しろうと》が簡単に成功する筈《はず》もなかったが、志方はすでに新しい事業に意欲を燃やしていた。
「それは信仰の道とはまるで無縁ではありませんか」
「この地にいても無縁なことは無縁だ」
北海道へ行く時は、基督教徒の理想郷を造るという大きな、人々を感動させるだけの理由があった。信者である吟子もその目標にはそれなりに納得できた。だが今度はさらに開け始めたばかりの鉱山に手を出そうというのである。
「二年もすれば資金はすぐ取り返せるはずだ」
その金も、もとはといえば吟子が東京からもってきた金の残りであった。
「この地が駄目《だめ》なら内地へ引き揚げたら如何《いかが》です」
「このままでは帰るわけにはいかない」
志方にも男の意地があった。
「今度こそきっと成功してみせる。成功してあのあたり一帯を買いきって新しい村をつくる」
「あなたは夢を追いすぎるのです。急ぎすぎるのです、落ちついてじっくり考えてみて下さい」
「もう充分に考えた。考えて考えた末にやろうと決心したのだ」
「情熱や意欲だけではできないのですよ」
かつて医者になるという向うみずな野心を抱いた吟子が、今は志方の無謀さを訓《さと》している。この変りようが吟子には可笑《おか》しく不思議だった。
「分っているが、といってこのままではどうしようもないではないか」
「私が何処《どこ》かで開業してもいいのですよ」
「いや、それはいかん、私はどうしてもクンヌイへ行く」
自分は男だというように志方は目を見張った。
「今一度、俺《おれ》の思うとおりにやらせて欲しい。頼む」
言うなり志方は両手をつき頭を下げた。
吟子は六年前、志方が自分に求婚した時のことを思い出した。志方の姿はその時と寸分違わなかった。
私に求婚したことも、と吟子は思った。すべて志方のその向うみずな性格から出てきている。
志方を知るすべての人が反対した理由が今になってはっきりと分ってきた。たしかに他人から見れば無理もない当然の忠告であった。しかし今、吟子は別に悔いてはいなかった。あの時はあの時で幸せであった。そして志方が必要であった。それに誤りはない。そして今もやはり志方は必要である。志方も私を必要としている。
知らぬ間に男と女が年輪を経て離れがたくなってきていることを、吟子は理屈でなく感覚で知っていた。
志方は二歳になるトミを背負い、馬に乗り、そのあとにやはり馬にのった吟子が続いた。馬の脇腹《わきばら》には振り分け荷物を下げ生活に最低必要な炊事道具だけがのっていた。
八雲峠《やくもとうげ》で熊《くま》に会い、鍋《なべ》の底を叩きながら、今金《いまかね》からユーラップの上流へ抜ける馬上十二里の道を親子三人は縦に並んでクンヌイへ向った。峠の茂みを大きな志方と小さな吟子の背が馬上に揺れていく。そこにはかつて東京で女流第一級の知識人、と称された荻野吟子の面影《おもかげ》はなかった。
夕方三人は無事クンヌイに着いた。
クンヌイのマンガン鉱採掘は明治二十年代にはじまり、周辺には美利加《ぴりが》、メップ、湯の沢、八《や》雲《くも》、初音といった諸山が連なっていた。このうち美利加鉱山はすでに二十一年に英人経営のハウル社が特許を得て採鉱していた。
志方はここに経験も知識もないまま、ただやれそうだという意気込みだけでとび込んでいった。ここで成功し大きな金を得たら自分の思う通りのキリスト教徒の理想郷を作ろうという気持であった。
だが結果は吟子が予測したとおりの失敗に終った。
二一
明治三十年、郡役所は廃止され、瀬《せ》棚《たな》は檜《ひ》山《やま》、爾志《にし》、久《く》遠《どお》、太《ふと》櫓《ろ》の各郡とともに檜山支庁の管轄《かんかつ》となり庁舎は瀬棚におかれることになった。またイムマヌエルのあった利別村は瀬棚村から分村した。
この年、春になるとともに志方と吟子はクンヌイに見切りをつけ再び山越えで利別を通り過ぎ瀬棚に戻《もど》った。
一年前、一家三人で下って行った峠道を、今は三人で上っていく。まことにめまぐるしい一年であった。
峠の上の少し低くなった熊笹《くまざさ》の傍で三人は昼食をとった。
「疲れたろう」
握り飯を頬《ほお》張《ば》りながら志方が吟子に声をかけた。
「もう難儀なところはない」
気の遠くなるような樹海の先に青い海が輝いている。一年ぶりに見る日本海であった。樹林の間を見え隠れしながら白く蜒《うね》る川がある。利別川である。それが海に注ぐ辺りの小さな平地が瀬棚であった。
「食べないのか」
吟子は半分の握り飯を残していた。お腹《なか》は空いていたはずだが、いざ食べてみると食欲がなかった。馬に揺られると吟子はいつもそうだった。
「水をやろうか」
志方は自分の竹筒から水をとって吟子にさし出した。志方の気遣いが吟子には痛いほど分った。イムマヌエル村建設に失敗し、いままたマンガン鉱開発に失敗した。
若い時、内地で失敗したというのならともかく、さいはての地に来て妻と子のある身では理想に生きるというだけで許されるわけもなかった。志方はいま、ようやくそのことに気付き始めたようである。
「家は舟着場に近く、賑《にぎ》やかなところだというから心配はないよ」
志方は吟子の気持を引き立てるように瀬棚で新しく借りる家のことを言った。隣の呉服屋が家主の二十坪ほどの小さな家だが、月々一円の借家住いであった。それは医院を営むにぎりぎりの大きさであったが、三年前吟子が渡道する時に貯《たくわ》えてきた金は使い果していた。
今となっては贅沢《ぜいたく》も言えない。
「看護婦や女中はどうしようか」
「いりません」
診察机や台、薬箪笥《くすりだんす》さえ揃《そろ》っていないのに、人を雇うどころではなかった。
「私でよかったら手伝う」
「あなたは伝道の仕事があるでしょう」
吟子は自信を失っている志方をかばっていた。新しく瀬棚で伝道を始め、一日も早く教会を建て、日曜学校を作るのが今の志方に残された唯《ただ》一つの道だった。
「伝道の合間にも暇はいくらも見《み》出《いだ》せる。私が手伝う」
志方は今年で数え三つになる養女のトミを膝《ひざ》に抱き、飯粒を与えながら屈託ない表情で言った。
当時の瀬棚は常住漁業戸数九○五、出《で》稼《かせ》ぎの漁夫二九七五人と、西海岸では江《え》差《さし》と並ぶ有数の漁場で町は活気にあふれていた。
だがこの年を頂点として檜山中南部の鰊《にしん》漁は漸《ぜん》次《じ》衰退に向っていく。
吟子はこの市街地の中心地である会津町の一角の家を借り、婦人科、小児科医院を開業した。
瀬棚には吟子の医院の他《ほか》にすでに二軒の開業医があったが、人口の多い瀬棚ならやっていけそうだった。
だが東京で開業した時のようなわけにはいかなかった。
吟子が女医第一号という栄誉ある医師であることも、社会運動家として名高いことも、このさいはての地で知っている人はなかった。女医で社会運動家という、東京で人気の原因になったものが、この気の荒い新興町では、頼りなく小煩《こうるさ》い女医者ということにしかならなかった。
だが吟子は他人の評判など一切気にせず診察に当った。実際、そんなことを考えているほどの経済的な余裕はなかった。初めの一カ月は貯えもなく、米を買うにも一升ずつしか買えなかった。医者である吟子がそれを買いにいくのではいかにも辛《つら》い。といって志方にゆかせるわけにもいかない。やむなく吟子はようやく外で遊び始めたトミに紙片を持たせて買いに行かせた。
知人というほどの人は誰《だれ》もいない。馴染《なじ》みの患者もない。何から何まですべてが初めからやり直しであった。
往診を頼まれれば、どんな遠い地にも出て行った。少しでも瀬棚を離れると辺りはたちまち樹林と熊笹の細い道となる。時には熊や鹿が出没する。
吟子はここでもお気に入りの黒地の被布《ひふ》をつけ、馬に跨《また》がり、その轡《くつわ》を髭《ひげ》を生やしワラのフカツマをはいた志方がとった。目的地に着くと吟子は馬を降り志方はその家の前で木株に坐《すわ》って吟子の出てくるのを待った。戻ってくると再び志方が鞍《くら》の上にのせてやる。
誰もが初めは志方を吟子の夫とは思わなかった。
明治三十年の年も暮れた。
開業して半年経《た》ち、吟子達はようやく瀬棚の町に馴染んできた。少しずつだが患者も増え生活も安定した。町の有力者や知識人の中には吟子の博識に驚き、何かと相談に現れる人が増えてきた。町自体も単なる鰊漁の町から檜山一帯の中心都市としての落ちつきを備えてきていた。
この年の春、吟子は瀬棚に新しく淑徳婦人会という婦人団体を結成し、みずからその会長となった。ようやく安住の地を得て吟子の中に再び婦人啓蒙《けいもう》の意欲が湧《わ》いてきたのである。
この会には村長夫人、警察署長夫人、金刀《こと》比羅《ひら》神社宮司夫人、住職夫人といった人から小間物店夫人、呉服店夫人、といったいわゆる田舎の名士の婦人がほとんど集まった。この会は矯風会《きょうふうかい》から考えついたものだが、その目的は矯風会のように、女権拡張とか、社会悪の改善といった社会的な問題をとりあげるのではなく、会員の親睦《しんぼく》と教養を高めるのが目的であった。
この会で吟子は、裁縫、お華といった習い物とともに、婦人の生理衛生の講義から、女性のあり方、果ては繃帯《ほうたい》の巻き方まで、現代の婦女子として必要な知識のすべてを教えた。なかでも力を入れたのが「淑女」の意義と「純潔」の尊さであった。
明治の初期、内地を逃げるように出てきた男達と同道した女性達が多いだけに、婦女達の中には随分と無知な者もいた。だがそれだけに彼女等の多くは知識欲にもえ、真剣に吟子について学ぼうとした。
「淑女とは?」吟子が尋ねる。
「高潔なる心情を有するものは即《すなわ》ち淑女なり。決して貴《き》賤《せん》上下の区別より名付くるものに非《あら》ず」
「貴婦人とは?」
「心事の美麗なる婦人を指して貴婦人というなり、決して美服盛装の婦人を指すものに非ず」
会員は教えられた通り吟子の問いに声を合せて答える。家の女房《にょうぼう》はこの頃、奇妙なことを覚え始めたと思いながら、夫達は吟子へ畏《い》敬《けい》の念を抱いていた。
講演会や技術指導と、会の仕事が忙しくなるにつれて吟子は家をあけることが多くなった。それも昼は診療があるので夜が多い。吟子が遠くへ出る時は志方も連れ添う。そんな時、トミは一人で留守番をさせられた。
初めは淋《さび》しさで泣いたが、吟子はだからといって甘やかすことはなかった。
「叔母さんは大切な仕事をしているのです、あなた一人のために家にいるわけにはいきません」
トミがなんと頼もうと吟子はそう言って戸を閉め鍵《かぎ》をかけて出ていった。
トミは叔母のやっている仕事というものが子供心に何と怖いことかと思った。
片仮名から平仮名まで小学校へ行くまえに、トミはすべて全部読めた。二ケタの足し算も簡単な引き算も出来た。すべて吟子が毎日遊びたがるトミを叱《しか》り、時には叩《たた》きつけて教えたことであった。
吟子が婦人会や講演会に出ている間、志方は早めに帰ってきてトミと遊んでやった。志方はよくトミの手を引いて港や三本杉《すぎ》を見に行った。時にはトミの馬になったり猫《ねこ》の声を真似《まね》たりした。吟子がいないのは平気だったが、志方が不在の時、トミは一番淋しかった。
この瀬棚の地に蒼《あお》い眼《め》の外人が現れたのは明治二十七年、函館《はこだて》にいた聖公会の宣教師アンデレス神父が訪れたのが初めてであった。アンデレスはイムマヌエルを訪ね、布教をするとともに教会堂建設を促した。
一方、組合教会派側はこれに三年遅れたが、宣教師ローランドがこの地方を巡回した。このあと三十一年にはミッションの援助の下に宇田川竹熊が宣教師としてイムマヌエルを訪れ、志方なきあと残った組合教会員を励まして笹小屋の教会堂を建て、これをイムマヌエル教会と名づけた。ここでイムマヌエルの基督教徒達は聖公会と日本組合教会派との二つに完全に分裂した。
ローランドは三年後の三十三年にも再び瀬棚を訪ねて、この地で基督教演説会を開いた。この時、会場の準備から入場者の整理まで、すべては吟子と淑徳婦人会が中心になって動いた。小学校入学を翌年にひかえたトミも演説会のビラを板塀《いたべい》に貼《は》って歩いた。
演説会のあと、ローランドは吟子の家で休息しながら言った。
「貴女《あなた》は折角英語の読み書きができるのですから、本格的に英会話でも習ってはいかがです。英語さえ出来れば外国へも行けます。新しい知識もどんどん取り入れられます。この田舎で埋もれてしまうのには貴女は惜しい」
ローランドは横に夫の志方がいるにもかかわらず、熱心にすすめた。
「どうせ北海道で開業するなら札幌でしては如何《いかが》です。あそこなら農学校もあり、話し相手になる人もいましょう。それに私の知っている宣教師も御紹介しますよ。こんなところにいては与えるばかりで得るところはありませんよ」
聞いているうちに吟子の胸にしまいこんでいた東京での華やかな日々が甦《よみがえ》ってきた。あの当時は吟子の言うこと、やることの一つ一つが世間の注目を浴び、新聞や雑誌の記事になった。それを読み、伝え聞いて手紙や投書が毎日のように舞い込んだ。
すべてが東京という日本の中心地の故であった。
「吉岡《よしおか》弥生《やよい》さんという方が東京女子医学校を創《つく》りました。来年には日本女子大学ができます」
「大学がですか」
「時代はどんどん動いています。こんなところで眠っているのは無意味です」
三年前には木下尚《きのしたなお》江《え》、河《こう》野《の》広中《ひろなか》らが東京に普通選挙同盟会を結成し、この年、津田《つだ》梅《うめ》子《こ》が女子英語塾をつくった。女子だけの医学校もでき、更には女子大学まで出来るという。昔を思うと夢としか思えなかった。
吟子は大きく動いている東京を思った。それは吟子さえその気になれば今も手の届くところにあった。
「考えてみて下さい。私でできることでしたらいくらでもお手伝い致します」
ローランドはその夜、瀬棚へ一泊し、翌朝早く、イムマヌエルへ行き、陸路函館へ向った。
「札幌に行ってみてはどうだ」
その夜遅く床についてから志方が言った。吟子は床から志方の表情を探ったが、闇《やみ》の中でそれはよく見届けられなかった。
「ローランドさんの言うとおりにした方がいいと思うが」
「私はここでちっとも不満だなどとは思っていないのですよ」
何故《なぜ》か分らぬが吟子は嘘《うそ》をついた。
「行った方がいい」
志方は今度ははっきりと言った。
「でも折角開業して落ちついたのに」
「ここはこのままにして、ともかく一年でも行ってみてはどうか」
「その間貴方《あなた》はどうするのです」
志方を下男のように連れていくのも可笑《おか》しいが、さりとてここに一人で置いておくのもあまりに身勝手すぎた。
「その間、俺も大学に戻ってみようかと思う」
「大学?」
「そう、同志社へ……あそこは中退のままだ」
「今から戻れるのですか」
「分らぬが頼めばどうにかなるだろう」
志方が吟子を求めて京都をとび出してから、十年の歳月が経っていた。
十年前、若く一《いち》途《ず》に愛に燃えた青年は、今は四十に近い中年に達していた。黒く溢《あふ》れていた頭髪はところどころ白いものが交り、額には年輪の皺《しわ》が滲《にじ》んでいた。
「貴方がどうしてもと言うなら……」
「すべてが中途半端だった」
志方は呻《うめ》くように呟《つぶや》いた。
瀬棚の医院は借りたまま「一時休業」として吟子はトミを連れて札幌へ移った。明治三十六年の初夏である。同時に志方は京都の同志社へ移った。
初夏の札幌は駅前のアカシアが咲き乱れ、白い花が下を行く吟子とトミの肩に散った。吟子は農学校裏のリンゴ園の外れに三間の小さな家を借り、そこから北一条の教会へ通った。そこで宣教師へ日本語を教え、宣教師からは英語を教わる。吟子の胸には再び医師免許を得た時のような若やいだ希望が溢れていた。
札幌にはかつて吟子が好寿院に学んだとき内科学の助教師をしていた撫養太《むやた》郎《ろう》が区立病院長として来ていた。
札幌へ来て一週間経《た》ってから吟子は撫養を区立病院に訪ねた。撫養はすでに吟子が瀬棚にいること、近々に札幌へ出てくるらしいことまで人《ひと》伝《づ》てに聞いて知っていた。二人は好寿院時代のことを久しぶりに話し合った。苦痛だけの好寿院での三年間が、二十年経った今は懐《なつ》かしい思い出に変っていた。
二カ月経った八月の初め、吟子はかねて考えていた通り「札幌で開業したい」旨《むね》を撫養に告げた。もちろん賛成してくれるものと思ったが、撫養は小首を傾《かし》げて考え込み、それから少し言いにくそうに言った。
「なかなか札幌は大変だと思いますよ」
「覚悟はしていますが」
「いまの瀬棚ではいけませぬかな」
「それが……」瀬棚では中央にあまりに遠く、置き去りにされた気持になるのだと吟子は言った。
撫養はうなずき、それから、「遠慮なく言わせて貰《もら》うが」と前置きをして言い始めた。
「正直言って貴女の学んだ医術は二十年前のものだと思います。もっとも東京を離れてからは十年間でしょうが、この間医術は想像もできぬほど進んでしまいました。私自身好寿院で教えたことが恥ずかしくなるくらい変ってしまいました。年々優秀な新進医家が医科大学を卒《お》えてやってきますがあの頃《ころ》の医術はもはや通用しません。私でさえ彼等に遅れまいと新しい知識を得るのに精一杯といった状態です。失礼だが貴女はこの十年間、開拓、転住と心労多く大変だったろうが、いかんながら医術の新しい知識はほとんど得ていないと思います。田舎ならともかくそのような状態で札幌で開業してやっていくにはなかなか大変だと思うのです」
「…………」
吟子は答えるすべもなく下を向いていた。そんなことは今まで思ってもいなかった。だが撫養は見事に吟子の盲点を探り当てていた。
迂《う》闊《かつ》であった。気をつけているつもりで、いつか一人よがりになっていたのだった。
「残念ながら二十年前、優秀な医学生であったというだけでは足りないのです」
かつて吟子を教えた撫養だから歯に衣《きぬ》を着せずに言える言葉だった。
「私の考え方が安易でした」
吟子はただ恐縮するばかりだった。
「いえいえ、決して開業していかぬというわけではありません。現に札幌にも古い方法でやっている人もいます。でもそういうところはやはり自然に敬遠されるようです。それに貴女の場合は女性だという不利な点があります。この頃は女性もだんだん大胆になってきたのか、割り切ってきたというのか、医者が男性であることなど気に留めない人が多くなってきました。既婚者であれば男の医師だからといって産婦人科の診察を拒む人などは、まずいません。それだけ医術も科学的になってきたのでしょうが、女医である利点は少なくなったようです」
吟子が開拓地と瀬棚を往き来している間に時代は確かに移り変っていたのだった。
「よく分りました」
「私が言ったのは開業に当っての一つの参考意見にすぎません。もちろん貴女が開業なさる以上、私でできる範囲の援助はさせていただきますよ」
「いろいろと親身な御意見ありがとうございました」
吟子は逃げるように撫養の家を出た。外にでてもなお、自分の厚かましさに赤面した。
知らぬ間に、私は井の中の蛙《かわず》になっていたらしい。
秋風の吹き始めた札幌の街を歩きながら、吟子は自分が五十をこえた老境に達していることを改めて知った。
九月の末、吟子は札幌の仮住いを払い、瀬棚へ戻《もど》った。在札、わずかに三カ月であった。英会話の方はまだ半ばだったが、それも中途で捨てた。吟子の札幌へ出た目的が第一に札幌開業の可能性を探ることであり、第二に英会話の学習であったが、第一の目的が好ましくないと知った今となっては札幌に長居する理由はなくなっていた。
身の程も弁《わきま》えず、愚かなことを考えたものだ。
吟子は車窓から暮れていく秋の野《の》面《づら》を眺《なが》めていた。
住む家もなくもちろん人影もない。どこまで走っても野が続く。小《お》樽《たる》で買い与えた弁当を食べてトミはすでに寝入っていた。
(札幌に出なければ、撫養に会わなければ、私はまだまだ自分を過信していたに違いない)
たまさかにせよ人のすすめに乗り、自分に甘え、驕《おご》った自分が自分で許せなかった。
「もう私の出る時代は終ったのかも知れない」
野の果ての黒い樹林を見ながら吟子は低く呟いた。
瀬棚に戻り、吟子は再び医院を始めた。医術がどうであろうと、時代がどう移り変ろうと、現実には医師をするより生きていく方法はなかった。それは生きていくための避けようもない生活の手段であった。吟子はしばらく札幌のことも東京のことも忘れた。
一年が過ぎた。明治三十七年の春、志方は同志社を卒え、正式に牧師となり再び北海道へ戻ってきた。だが瀬棚には十日間いただけですぐ浦河《うらかわ》教会へ牧師として単身赴任した。
牧師となった以上、この別れ別れの生活は止《や》むを得ない宿命であったが同じ北海道ということがせめてもの救いだった。
再び瀬棚での吟子とトミの地味だが落ちついた生活が続いた。志方から相変らず月に一度ずつ手紙が来た。吟子もほとんど同じ比率で手紙を書いた。
この年、明治三十七年二月には日露戦争が始まり国内は再び戦争一色に塗りつぶされた。だが吟子の日常はほとんど変らなかった。診療を続け、その余暇には聖書を読み、英語の学習をする。淑徳婦人会の活動も以前と同じだった。
三十八年七月、志方は浦河教会を辞め、瀬棚に戻ってきた。瀬棚を中心とした檜《ひ》山《やま》一帯へ自給伝道の道を開くのが目的であった。
瀬棚へ戻って一カ月経った八月末から志方は一人で檜山一円を巡り小さな奥地の部落まで分け入って演説をし、聖書を配り歩いた。
九月の半ば、十日に及ぶ北檜山からの旅を終えて帰った志方は、家へ戻るとすぐ寒気がすると言って横になった。結婚して十数年になるが志方が床につくのを見たのはクンヌイで冬に一度、風邪をひいた時だけだった。
体温を測ると三十八度だった。吟子は早速風邪薬を調合し氷枕《こおりまくら》を用意して志方を休ませた。二日目の朝、熱はいくらか下ったが頭はなお重かった。だがこの日は正午からイムマヌエルの組合教会派の集会があった。
「休んだ方がいいですよ」
吟子は枕元で言ったが、志方は起き出した。
「皆が待っているのだ」
「悪くなったらどうするのです」
「今までこれくらいで休んだことはない」
体に自信のある志方は笑いながら出ていった。
だが夕方、要次郎に伴われて馬で帰ってきた志方の顔は赤味を帯び眼は潤《うる》んでいた。一目見ただけでかなりの熱だと分った。
すぐ床を敷いて寝かせると横になったきり志方は疲れ果てたように眼《め》を閉じた。体温は三十九度で脈は一分間に百を越す。解《げ》熱剤《ねつざい》と痛み止めをうったが熱は一向におさまらない。呼吸が早く小刻みでいかにも苦しげである。吟子が聴診すると肺に水泡音《すいほうおん》がきこえる。肺炎のようだが吟子には自信がない。専門が産科の故《せい》もあるが、自信がないのは志方があまりに身内の故でもあった。
要次郎が小学校前の野村医師を招《よ》んできてくれた。野村の診断もやはり急性肺炎であった。新たに注射と薬を与えた。吟子はつききりで部屋に湯を沸かし、熱湯をしませたタオルで志方の胸を温めた。
肺炎と言っても抗生物質のある現在は老人の場合以外はほとんど生命の危険はない。だが当時は一つ間違うと死に至る病であった。治療法も薬以外には頻繁《ひんぱん》にくり返す唐《から》子《し》泥《でい》か、熱湯の湿布しかなかった。
吟子は寝ずに枕元についたまま一時間おきに湿布をとり替えた。志方は眼を閉じ、そのうち眠った。眠りながら呼吸だけ早く小さくくり返した。
翌日、朝方はいくらか熱が治まったが、午後からまた三十九度を越す熱が現れた。状況は夜に入っても同じだった。二日間の高熱で志方は急に衰えた。眼は窪《くぼ》み頬《ほお》は落ち、気の故か頭髪の白さが一層増した。時たま吐き出す痰《たん》には赤い血栓《けっせん》が交っていた。無理に無理を重ねた体の疲れが一度に志方に襲いかかってきたようであった。湿布をし、薬を服《の》ませながら吟子はただ神に祈り続けた。
志方が意識を失ったのは四日目の夕方であった。
「苦しい」と一言呟《つぶや》いたきり、志方は宙をさぐるように手をうかした。それから思い出したように闇《やみ》の中で、「先生」と言った。
「なんとかなりませぬか」吟子は野村医師に迫った。
が、医師は志方の顔を見たまま首を傾けるばかりであった。
「なんとか助けてやって下さい」吟子は自分が医師であることを忘れていた。
志方が死んだのはこの日、明治三十八年九月二十三日の夜八時過ぎであった。巨象が倒れるようにゆっくりと、しかし静かに息を引き取った。
「あなた、あなた」
呼吸が途絶えて急に静かになった志方を吟子は揺さぶった。だが志方はもはや何も言わず黒く大きな骸《むくろ》となって眠り続けていた。この時、志方、四十一歳であった。
死後、吟子は志方をイムマヌエルの北の小高い丘陵に葬《ほうむ》った。そこからは志方が辛苦に耐えて切り拓《ひら》いた神ヶ丘と白く光る利別川が一望の下に見渡せた。
二二
志方の死後、ただでさえ口数少ない吟子は一層寡《か》黙《もく》となった。婦人会にもあまり顔を出さず診療が終ると、ほとんど家に籠って聖書と祈りの生活を送った。
吟子はもう瀬棚から動く気はなかった。志方が埋もれた地に自分も一緒に骨になるつもりだった。
トミと二人でひっそりと暮しながら吟子は志方を思った。結婚してからも志方と一緒にいないことは随分あった。志方が先に北海道へ渡った時、同志社へ再入学した時、浦河の教会に勤めた時、とその半ば近くは離れ離れであった。志方がいないことには慣れているつもりだったが、死んでもう二度と戻ることがないという実感は、今までのそれとは較べようもなく大きく、深かった。
しかし吟子はその淋《さび》しさを他人には告げなかった。告げたところでどうなるわけでもなかった。老いて一人になっても他人に甘える気は吟子にはなかった。
姉の友子から東京へ戻って来い、という便りが来たのは志方の死後三カ月経《た》ってからだった。一年前から友子は熊谷《くまがや》の家を出て東京に小さな家を借り、一人で住んでいた。小金こそあったが、実子でないことから長男夫婦と折合いが悪く別れる破目になったのだった。老境に入ってからの孤独ということで二人の姉妹は似た環境に入っていた。
俵瀬《たわらせ》の実家の跡を継いだ三蔵は東京へ出て大森郵便局に勤め、それとともに保坪《やすへい》の未亡人となったやいも上京してきた。
〈親戚《しんせき》皆で東京に住みたい〉と友子は言ってきた。
しかし吟子はいまさら東京へ戻る気はなかった。他人がどう言おうと瀬棚は瀬棚なりに今は吟子にとって安住の地であった。
吟子は戻らぬ旨の返事を書いた。だが友子は諦《あきら》める気配もなく折りをみては帰京をすすめる手紙をよこした。
〈私が帰ったのでは志方が淋しがります〉
ともすれば帰ろうと揺らぐ気持を叱《しか》るように吟子は友子に返事を書いた。
志方が死んですぐ、吟子は軽い風邪に見舞われた。三十七度を少し越えた程度の微熱であったが、熱とともに下腹に鈍い痛みを覚えた。尿をみると軽く濁っていた。診療を休み、吟子は一人で床をのべ横になった。
風邪とともに下《しも》の病が出たのだった。四十年近い年月を経て、なおくすぶり続ける病気に吟子は改めてうすら寒い思いにとらわれた。
床についている間、十一歳になったトミが炊事から掃除まですべての仕事を受け持った。患者が来た時には吟子の指示に従って薬まで調合した。今となってはトミが唯一《ゆいいつ》の頼りでもあった。
風邪は大したこともなく一週間で床を上げたが、それだけで吟子は急に衰えたようであった。二時間も椅子《いす》に坐《すわ》っていると背が疲れ、午後は町中の往診さえ行く気になれなかった。
一雨毎《ごと》に秋が深まるように吟子の体は弱っていくようであった。
新しい年が明けた。日露戦争は前年に終り、九月にはポーツマス条約が結ばれ、その戦勝気分はこの北の果ての小村にも満ちていた。だがこれとは別に瀬棚の町には気重い空気が満ちていた。
瀬棚沿岸は雪は少なく、三月にはほとんど消える。春告魚《はるつげうお》である鰊《にしん》はさらに減り今年は近年にない不漁だと伝えられた。鰊で拓《ひら》けた町だけに鰊がこなくては町の活気は失われる。
当時鰊がとれなくなったのは、瀬棚だけでなく北海道の西海岸全体の傾向であった。乱獲の故とも、海流の変化のためとも言われたが、有効な対策もないまま、「いまに来る」という期待だけにずるずると年を重ねていた。
周囲の動きはあったが、吟子の生活は変りがなかった。日曜日は教会へ礼拝に行き、他の日は診療に明けくれる。余暇には婦人会に顔を出し、深夜遅くまで英語の勉強をする。宵《よい》っぱりの朝寝坊は相変らずで夜は毎夜十二時近くまで起きていたが、就寝の前には必ず英語で日記を記した。
梅雨のない初夏が訪れ夏が過ぎた。
海からはすでに初秋の風が流れ、入江の中程に杉木のように並ぶ三つの島は秋空の下で黒い影を海面に落していた。
志方が死んで二度目の冬が近づいていた。
淋しさには慣れてきたが今でもまだ志方が汗と埃《ほこり》にまみれて伝道先から帰ってくるような錯覚に時たま吟子はとらわれた。それを感じたように「おじさんの夢を見た」とトミが告げることがあった。
寒さの訪れとともに吟子は足腰の痛みを覚えた。この数年冬の入りにはきまって軽い痛みを覚えたが、今年はそれが格別ひどかった。
ただでさえ朝寝坊の吟子は寒い朝はなかなか起き出せない。トミが先に起きてストーブに火をつけ御飯を炊《た》いて学校へ行く、そのあとから吟子はのこのこと起き出してくる。口をすすぎ顔を洗って鏡に向う。櫛《くし》を梳《す》く度に髪の毛が束になって抜けた。
鏡の中に小さく萎《な》えた顔がある。皺《しわ》が寄り肌《はだ》は浅黒く眼は落ち窪《くぼ》んでいる。整った顔立ちだけに老いは一層あらわだった。
通いの看護婦が来て一日が始まる。患者に対して一時だけ吟子は老いを忘れた。
その年の十二月の初め、吟子は診療を終えたあと午後からの雪の中を本町の町役場に行った。二階の広間で町の若い女性に“結婚について”という題で講演するためであった。
二十畳敷きの部屋の中央には大きなダルマストーブが置かれ、三十人ほどの人が集まっていた。
「結婚はあくまで男女両性の合意の上で、身心ともに健康な男女が結ばれなければなりません」
老いても吟子の細く透《とお》る声は変らなかった。講演の終りに近く吟子は軽い眩暈《めまい》を覚えた。頭が石で固められたように重かったが、予定の一時間を話し終えて壇を降りた。
「お顔色が悪いようですが」
「少し疲れたせいだと思います」
吏員に応《こた》えると応接室での茶の接待も断わって吟子はすぐ役場を出た。家までは歩いて十分かかる。
冷えこむ故か雪は小さく乾いていた。更《ふ》けた夜道に雪《せっ》駄《た》の雪にくいこむ音だけが吟子と一緒だった。
《やま》に二の字の印提灯《しるしぢょうちん》の出ている角を曲り、半町いったところで吟子は立ち止った。小さく息を吐き肩を休める。全身が鉛をのみ込んだように重く気《け》怠《だる》かった。吟子は二度ほど息をつき頭を上げた。傾いた軒端の先に利別《としべつ》の山並が獣の背のように黒く連なっていた。
あの先に志方が眠っている。
そう思った時、吟子は背中から胸へ鋭い鞭《むち》で打たれたような衝撃を受けた。次の瞬間、吟子の被布《ひふ》に包んだ小《こ》柄《がら》な体が、ゆっくりと白い雪の中に崩れ落ちた。
立たねばならないと思うのは一瞬で、地につくとともに吟子の体は雪の上に長々と投げ出された。吟子の背の下には雪があり、顔の上にも雪があった。
雪にはさまれた吟子のかすかな意識の中で東京が現れ、イムマヌエルが横切り、俵瀬が浮んだ。
明るい見事な陽光の中で菜の花が輝き、その先に利根《とね》が流れていた。江戸通いの白い帆船が音もなく浮いていた。声を聞き振り返ると堤の先をかけてくる人影がある。手を振って招いているのは母のかよであった。母はじっとこちらを見ている。笑っているようでもあり、泣いているようでもある。吟子は駈《か》け出そうとして思い出したように後ろを振り返った。後ろに志方の大きな戸惑った顔があった。
「いいの?」吟子はかよに尋ねたがかよは何も答えず吟子だけを見詰めていた。かよの後ろに友子がおり、保坪がいて嫁のやいがいた。よく見ると荻《おぎ》江《え》も、その横には頼圀《よりくに》もいた。利根の川べりに皆が一緒にいるのはおかしいと吟子は思った。思いながら吟子の中で母の姿が薄れ、志方の顔が消えた。
すべてが薄く暗く消えていく中で吟子は自分が今、川の流れのように見果てぬ涯《はて》へ、遠く緩くただよっていくのだと思った。
雪の上で昏倒《こんとう》していた吟子が通行人に見出され近くの病院に運び込まれたのは、この三十分後であった。原因は心臓発作であったが奇《き》蹟《せき》的に命だけはとりとめた。だが恢復《かいふく》したあとも往診はできぬ体になっていた。
体力に自信を失った吟子は、この年の暮、東京へ戻ったが、七年後の大正二年五月二十三日、本所小《こ》梅《うめ》町の仮棲《かりずま》いでトミ一人に看取《みと》られて死んだ。享年《きょうねん》六十二であった。
後記
本書を書くにあたり文献資科として『荻野吟子』(北海道医師会篇・代表松本剛太郎)『日本女医史』(日本女医会篇)『今金町史』『東瀬棚町史』などを参照させていただいた。
他に荻野吟子の養女竹ノ谷トミ氏、遠戚にあたる常見育男氏らの口述資料から得るところ大であった。付記して御礼申し上げる。
解説
吉村昭
私が初めて作家としての渡辺淳一氏の存在を知ったのは、『死化粧』という短篇によってである。それは、昭和四十年に「新潮」十二月号の同人雑誌推薦作として発表されたもので、同人雑誌賞を受賞、芥川賞候補作品にも推された。
私は、この作品に感心したが、この度あらためて読み返し、その折の印象と同質のものを感じた。そして、この秀《すぐ》れた短篇が、その後旺盛《おうせい》な創作活動をつづけている渡辺氏の強《きょう》靱《じん》な核になっていることを知った。
氏が札幌医大の外科医であったことは広く知られているが、『死化粧』は私小説という形をとった作品で、脳腫瘍《のうしゅよう》の母の手術に助手として参加する「私」から見た母の死が描かれている。この短篇は、「私」の勤務する病院に交通事故に遭《あ》った二人の子供が救急車で運びこまれてくるところからはじまる。その子供たちは兄弟で、「私」が治療を引受けた弟の方の三歳の子供が死亡する。その後に、こんな文章がつづく。
私が子供の死を確認して病室を出ようとすると、母親が「どうしても助からなかったのか」と涙声で尋ねた。呼吸中枢がやられては死は時間の問題だった。酸素吸入や補液は一応やるだけやってみたという事にすぎないのだ。最初診た時から助かりっこはなかったのだ。私はそう云いたかったのだが、暫く母親の愚痴を聞くふりをしながら黙って病室を出た。
母親の愚痴を聞くふりをしながら……という表現に、『死化粧』の「私」の像が鮮明に浮き彫りされている。それは、外科医としての姿勢であり、その根底には、「一応やるだけやってみた」以上はどうにもならぬというきわめて事務的な思考がひそむ。
手術台上の患者は、麻酔薬によって昏睡《こんすい》状態にあり、外科医は、少しの反応もみせぬ肉体を観察し、メスを食いこませる。患者の肉体は、外科医にとって一種の物体に似たものであり、『死化粧』の「私」も母をそのようにながめている節がある。わずかに、肉親が母に死化粧をほどこすのを眼にして、母に加えられるその行為に「恐怖」を感じ動揺するが、病者でありその後死者になった母の肉体を「私」が物体視していることに変りはない。
『死化粧』の世界は意外なほどのひろがりをみせて、突然のように『花埋み』という形で私の眼前にあらわれた。と言っても、渡辺氏が『花埋み』を書くという予感がなかったわけではない。
七、八年前、北海道へ旅した折に、北海道出身の作家である木野《きの》工《たくみ》氏から渡辺氏が荻《おぎ》野《の》吟子の資料蒐集《しゅうしゅう》につとめているという話を耳にした。その作業は数年来のことであり、渡辺氏は吟子を主人公とした小説を書く準備に全力を傾けている由であった。つまり私は、氏が、吟子を小説として書くことを知っていたが、『花埋み』のような作品になるとは予想もしていなかったのである。
『死化粧』が白黒の写真であるとすれば、『花埋み』は天然色の写真である。私が、一瞬同じ作者の手になる作品と思えなかったのは、その色彩の有無による錯覚であった。『死化粧』を読み返した私は、『死化粧』の世界が、そのまま『花埋み』のそれであることに気づいた。
吟子は、利根《とね》川《がわ》の近くの旧家に生れた。結婚したが、夫に淋疾《りんしつ》をうつされ、実家へもどる。東京に出て治療を受け、その間、男の医師によって局所の診察をうけることに羞恥《しゅうち》を感じ、同性にそのような哀《かな》しみをあたえぬために女医を志す。その道は容易に開けぬが、ようやく医師としての資格を得、社会運動にも参画するようになる。やがてキリスト教を通じて十三歳年下の男と結婚し、未開の地であった北海道に渡る。しかし、伝道に従事した夫は病死し、吟子は孤独の身になる。彼女の修得した医術はすでに時代おくれのものになっていて、失意のまま帰京し、死亡する……
波乱に富んだ生涯《しょうがい》であり、渡辺氏は、豊富な資料を十分に咀嚼《そしゃく》、駆使して、吟子の生きる姿を克明に追っている。北海道生れの医師である渡辺氏が吟子に関心をいだくのは当然であり、氏が彼女を描く必然性は十分にある。
渡辺氏の吟子における眼は、『死化粧』の「私」の患者に対する眼と共通している。氏は、吟子を手術台に横たわった患者のようにながめている。『死化粧』では、交通事故死する幼児も母も物体のように扱われているが、『花埋み』では、それほど直截《ちょくせつ》的ではなくても、作者の姿勢に変りはない。
渡辺氏は、吟子に自分の感情を移入させることを意識的に避けている。吟子は、多情多感な女であり、それに密着しすぎると、彼女の本質とはかけはなれた夾雑物《きょうざつぶつ》が音高い不協和音となって全篇をおおってしまうおそれがある。また、吟子は日本初の女医であり社会運動家であったが、そうした先駆者的立場を重視しすぎると、彼女の像はぼやけてしまう。
吟子が開業すると、女医の出現を珍しがって医院は繁昌《はんじょう》するが、新聞紙上では多くの人々が「女は果して医者に適するか否《いな》か」について論議を交わし、古い道徳倫理観から「女は医者に適さず」という意見が支配的になる。
これに対し吟子は「女学雑誌」に、
〈列強が虎狼のごとく日本をうかがふとき、日本男児の腕を振ふべき場所は戦場にこそあり。請ふ内地に於ける万般の職業は、能《あた》ふ限りは女子をして之《これ》をとらしめ、不生産的に一生を消長すべき婦女子をして国家なる観念を大ならしめよ〉と主張した。
この意見には識者の多くが納得し、改めて吟子の考え方の新しさに感服した。
現在の考え方からみれば、吟子の意見は幼稚であり、滑稽《こっけい》ですらある。しかし、渡辺氏は、識者の多くがそれを納得し、吟子の考え方を新しいと評したと記している。私見をはさまず、吟子の発言に正面から向い合うことを避けている。
滑稽な吟子の意見も、明治という時代の投影として解さねばならない。吟子も、ほとんどの人間がそうであるように時代という海の浮《ふ》游物《ゆうぶつ》的性格からのがれられなかった人物である。作者が、インテリ女性であった吟子の幼稚な思考を卑《いや》しむこともせず、深くふれまいとしたことは賢明である。多情多感な吟子、時代の先駆者的立場に身を置いていた吟子に密着することが危険であることを、渡辺氏は十分に心得、そうした配慮が『花埋み』を成功作とした要因だと思う。
『死化粧』を白黒写真だと言ったが、その短篇の末尾は、光彩にみちている。母の遺体から摘出した脳を見る場面の描写は的確であり、美しい。
土曜日の地下の研究室はもう誰も残っていなかった。半地下の研究室には欄《らん》間《ま》を通して弱い陽がかげっていた。部屋を離れようとして私は何気なく標本棚に目をやった。埃《ほこり》だらけの棚の一隅に無理におし込められた真新しい標本ビンがあった。
小脳橋角腫瘍・64歳・女・38年8月19日採取。フォルマリンに満ちた標本ビンは奥まった棚の中で静かに佇《たたず》んでいた。うすい緑色の液体に浮んで白い母の脳があった。脳は中央から二分され、その後部に黄色い腫瘍の割面が露《あらわ》になっていた。
抑制のきいた筆致によって、静寂な小世界がひらけている。それは決して陰湿なものではなく、きらびやかな光があふれているのを感じる。白い母の脳。それを標本ビンの中にみる「私」の眼に、深刻さはない。母に対する感傷はあっても、その眼は、冷やかに物をみる眼だ。
母の脳の描写に感じられる光彩が、拡大されて『花埋み』に移行している。華やかで、それが決して軽いものになっていないのは、小説家としての渡辺氏の眼のたしかさに起因しているが、同時に渡辺氏が医師であったことにもよるのである。
若い夫の志方之善の死の描写――
志方が意識を失ったのは四日目の夕方であった。
「苦しい」と一言呟《つぶや》いたきり、志方は宙をさぐるように手をうかした。それから思い出したように闇《やみ》の中で、「先生」と言った。
「なんとかなりませぬか」吟子は野村医師に迫った。
が、医師は志方の顔を見たまま首を傾けるばかりであった。
「なんとか助けてやって下さい」吟子は自分が医師であることを忘れていた。
吟子は自分が医師であることを忘れていた……という文章に、医師であった渡辺氏の顔がのぞいている。
志方が死んですぐ、吟子は軽い風邪に見舞われた。三十七度を少し越えた程度の微熱であったが、熱とともに下腹に鈍い痛みを覚えた。尿をみると軽く濁っていた。診療を休み、吟子は一人で床をのべ横になった。
このようなさりげない文章にも、作者が医師であることを強く感じさせる。
『花埋み』の吟子は、手術台上で麻酔をかけられ横たわっている患者であり、作者はそれを冷静に観察し、メスをとった。吟子は作者と同じ医学の徒であり、その内部構造は熟知している。標本ビンの中の母の白い脳をのぞきこむ「私」のように、『花埋み』にも解体された吟子の内部をのぞく作者の眼を感じる。母の脳の描写にみられる彩《いろど》り豊かな光を、渡辺氏は、今後さらに確実なものにしてゆくだろう。
(昭和五十年四月、作家)