津村秀介
瀬戸内を渡る死者
もくじ
プロローグ
藤の花の散る時
離婚の背景
過去≠フ男
殺人未遂の前科
四日間のアリバイ
半同棲の女
三分間の乗り換え
死者の足音
エピローグ
プロローグ
五月八日午前十時半。
ゴールデンウィーク直後の火曜日である。東京駅コンコースは、連休時の混雑とは違って乗降客の流れもゆるやかだった。
岸本義昭が、待ち合わせ場所として滝田夫婦から指定されたのは、八重洲北口の喫茶店だった。
岸本を呼び出した夫婦、滝田幹夫と陽子は約束の時間に遅れた。
(やっぱりな)
と、岸本がつぶやいたのは、夫婦の離反を身近に承知していたためだ。離婚が決定的な滝田と陽子は、半月前から別居状態を続けている。
昨夜も、第三者には窺《うかが》い知ることのできない諍《いさか》いがあったのかもしれない。岸本は滝田夫婦の間に生じた暗い亀裂を思いながらケントをくわえた。
東京駅構内の二階。エスカレーターを上がってすぐ右手にある、窓の多い喫茶店はすいていた。
細長い店内の奥のボックスで脚を組むと、窓ガラス越しにコンコースの人の動きが見下ろせる。
岸本は黒っぽいチェックのブレザーを着ていた。シャツもズボンも黒を基調としており、一目で水商売の人間を思わせる身のこなし方だった。クラブのマネージャーを経て、今は上野でマージャン荘を経営しているのである。三十二歳という年齢より若く感じられるのは、派手な服装のせいだろう。
夫婦は別々にやってきた。岸本のたばこが一本灰になったとき、滝田の長身がコンコースに現れた。滝田は人込みの中でも目立つ長身だった。岸本にも増してヤクザっぽい身なりで、崩れた印象を与えるまなざしだった。
滝田は白いジャンパーに赤いオープンシャツ。シャツをはだけた胸に金色のペンダントが光っている。しかし、コンコースを横切り、花屋の前を歩いてくる長身は、いつもの気取った歩調とは違って前かがみだった。
(あいつ、だいぶ疲れてるな)
岸本は窓の下に目を向けたまま、レモンティーに手を伸ばした。それでなくとも血色のよくない滝田のやせた横顔が、一層蒼白な感じなのである。
滝田は岸本のバーテン時代の仲間だった。岸本と同じ三十二歳。陽子と結婚して市川市のマンションに住み、上野に『リヤド』という小さいスナックを持ったのが二年前だ。
二年目で、三十二歳の夫と二十九歳の妻に破局がやってきた。せっかく開いた『リヤド』も閉店ということになるだろう。
陽子も水商売の出だった。滝田と岸本がよく飲みに出かけた上野広小路のバーでホステスをしていたのである。美人だが笑顔にはどこか 翳《かげ》があり、藤色のスーツが好きな女だった。
陽子は、この日も藤色のスーツで喫茶店に入ってきた。ベージュのコートを左手に持ち、右手にハンドバッグと小さいスーツケースを提げていた。
陽子は、滝田が岸本と向かい合って着席すると、ふっと、どこからともなく影のように姿を見せた。幹夫が現れるのを待っていたようなタイミングだった。
陽子はすらりとした均整のとれたプロポーションで、かたちのいい唇と大きい瞳に特徴があった。しかし今、その白い貌には化粧がなかったし、ブローチもネックレスも身につけてはいなかった。
岸本は、そんなところにも、壁に突き当たった夫婦のやり切れなさを見る思いがした。陽子と滝田は並んで腰を下ろしたものの、視線を合わせようとはしない。
「新幹線は何時だっけ?」
岸本が仲に入るように話しかけると、
「十一時発の博多行きひかり7号≠ナすわ」
と、陽子はこたえた。テーブルに目を落とし、聞きとれないほどの小声だった。
滝田と陽子のコーヒーが運ばれてきた。
「岡山まで四時間ちょっとだったかな」
「午後五時には高松に着く予定です」
「田舎に帰るのは七年振りだと言ったね」
製材所で共働きをしていた両親が交通事故で死亡して以来、ということを岸本は聞いている。陽子の高松での血縁といえば、老人ホームで暮らす年老いた伯母が一人いるだけだ。
「東京や大阪と違って、高松は七年前とそれほど変わっていないのじゃないかな」
「うちは郊外ですから、かんがい用の溜池も、山も畑もそのままだと思いますわ」
陽子は、日頃親しくしている岸本に対しても、他人行儀な口の利き方をした。離婚を目前にして、心身ともに硬化している感じだった。
岸本の話しかけにこたえているとはいうものの、それは会話の体をなしていない。会話≠ヘ持続されず、すぐに沈黙が戻ってくる。
重苦しい沈黙を破って、滝田が一通の書類をテーブルに置いた。緑のインクで印刷された、離婚届である。
「電話で頼んだように、証人欄に署名して押印してくれないか」
滝田は事務的な口調だった。普段は女性的なしゃべり方で口数も多いのに、今は違う。
「嫌な役割だ」
岸本は苦笑して、ボールペンを持った。
二年前に滝田と陽子が結婚したとき、婚姻届の証人欄に署名したのが、やはり岸本である。もう一人の証人は、高松の老人ホームにいる陽子の伯母笹本トメだった。
二年目の破局を伯母に伝え、離婚届に二人目の署名をもらうことが、陽子の帰郷目的の一つとなっている。
陽子が高松から戻ってきて離婚届を提出すれば、夫婦は正式に赤の他人となる。
「本当に署名させるのかい」
岸本はそれを口にしようとしてやめた。離婚に至る経緯は、だれよりも詳しく知っていたからだ。
岸本は友人として、忠告すべきことは言ったつもりだ。もはや、せきを切った水を止めることなどできはしない。
新幹線の発車まで時間もなかった。岸本は証人欄に署名し、ブレザーの内ポケットから印鑑を取り出した。
「これでいいね」
というように滝田と陽子を上目使いに見、捺印した離婚届を陽子の方に返した。
陽子は一礼して、薄い書類をハンドバッグにしまった。やはり、滝田には目を向けなかった。
「二人ともそういらいらするなよ」
岸本が、ことばが見つからないままにつぶやくと、
「昨夜はろくに眠っていない」
と、滝田は言った。抑揚を欠いた、低い声だった。顔が荒れている。
陽子は無言、下を向いたままだ。
滝田も陽子もコーヒーに口をつけなかった。
「朝から呼び出して悪かったな」
滝田は岸本に礼を言い、
「じゃ、行こうか」
と、腰を上げた。ひかり7号≠フ発車時刻が近付いているせいもあったが、すぐに沈黙が戻ってくる重い雰囲気が耐え難い感じでもあった。
それでも滝田が新幹線の改札口まで陽子を見送ったのは、せめてもの思いやりであったかもしれない。岸本もその滝田につきあった。こんな状態では先に帰るわけにもいかない。
八重洲口の待ち合わせ場所である銀の鈴℃辺は、旅に出る人と見送る人でごった返していた。彼らは滝田夫婦とは違って、だれもが和やかな談笑を交わしている。
滝田の長身が人込みを分け、売店の前で止まった。ふと思いついたといった感じで、滝田はズボンのポケットからむき出しの千円札を取り出した。幕の内弁当とお茶を買った。
滝田は何も言わずに、弁当とお茶を陽子に突き出した。
陽子もまた、一言も口を利こうとはせずにそれを受け取った。
その一瞬、微妙な表情が夫と妻の間で交差されるのを岸本は見た。
(夫婦の最後の交流だな)
岸本は思った。
陽子は岸本に対してだけ軽く頭を下げ、改札口を通って行った。急ぎ足の乗客が数人、陽子のあとに続いた。
「彼女、いつ四国から戻ってくるのかね」
「聞いていない。両親が残したアバラ屋を処分してくるそうだから、一週間ぐらい先になるかもしれない」
滝田の横顔は一層硬化していた。
新幹線17番線ホームへ向かう陽子は、二度と背後を振り返らなかった。細い後ろ姿で、スーツが藤色であることが、余計に淋しい印象を与えるようでもあった。その淡い彩りが、(柄にもなく)岸本の脳裏にやきついた。
岸本は、あとで刑事の質問に答えて、
「それが陽子さんを見た最後です。沈んでいたけれど、まさかあんなことになるなんて夢想もしませんでした」
と、述べている。
陽子のすらりとした後ろ姿は、間もなく岸本と滝田の視野から消えた。
「おい、今日これからどうする? オレのところで気晴らしにマージャンでもするか」
「まだヤボ用が残っているんだ。夜、飲みに行くよ」
滝田は疲れ切った表情で答えた。
岸本は銀の鈴≠フ前で滝田と別れた。
これが十時五十五分頃である。
その頃、北川真弓は17番線ホームで、菅生和彦の見送りを受けていた。
「今度のような長い出張は久し振りだね」
「うん、北海道を一周して以来かしら」
真弓も菅生も週刊レディーの編集者だった。ともに独身であり、同期入社の二人は、年齢も同じ二十九歳。現在、真弓は旅行欄を担当し、菅生は事件ものの特集班に配属されている。
職業を反映してか、二人とも言動の一つ一つが機敏な印象を与える。
菅生は中背の筋肉質で、いかにも男性的な毛深い男であり、真弓は、小柄だが紺のスーツが似合う、引き締まった白い肌の持ち主だった。スーツの襟元から健康的な肌がのぞいている。
真弓は小さいボストンバッグにセカンドバッグ一つという軽装だった。
取材は六日間のスケジュールになっていた。目的は松山城、高知城、丸亀城、高松城(玉藻城趾)など、四国の城めぐり。
菅生が早起きして東京駅まで出向いたのは、事件特集で使用する吉野川上流 大歩危《おおぼけ》の写真撮影を真弓に依頼したためである。これは名古屋で発生した保険金目当ての放火犯人の、逃亡潜伏先の写真だが、仕事の打ち合わせは、昨日の編集会議のときに済んでいる。
わざわざ駅頭まで見送り、
「これは撮影の謝礼だよ」
と、缶ジュースとサンドイッチ弁当を差し入れたのは、同僚の域を越える、男女の感情が芽生えているせいだった。
「ありがと。お土産、何買ってこようかしら」
「そうだな、屋島の 磬石《けいせき》がいいかな」
「何? それ?」
「たたくときれいな音《ね》の出る石だよ。友人の家でお目にかかったことがある。屋島でしか売っていないらしい。小さい石でいいから頼むよ」
「子供みたいな物を欲しがるのね」
真弓は白い歯を見せて笑った。しゃべるときには必ず笑みを浮かべるタイプだった。
しかし、こうして親しい談笑を交わす二人だが、感情≠ヘ、もう一つ具体的な進捗を見せていない。菅生に、離婚歴があるためだった。
大学時代の先輩に勧められた結婚は二年前である。新生活が、三ヵ月足らずで暗い結末を迎えたのは妻の側に問題があったのだが、菅生には離婚の過去が重荷となっている。いつも明るい微笑を絶やさない開放的な真弓に比べて、菅生の方がやや内向的といえるかもしれない。
発車時刻がきた。博多行きひかり7号≠フ自由席は、半分ぐらいしか座席が埋まっていない。
「帰りは十四日のひかり96号≠セったね。お土産を受け取りがてら迎えにこよう」
菅生は、深い意味を込めてそれを言った。
真弓は笑顔を見せただけで無言だった。ことばを返す代わりに、そっと小さい右掌を差し出した。
「気をつけてな」
菅生の握手には力が入った。
真弓はもう一度、新しい笑みを浮かべた。菅生の掌のぬくもりを、しっかりと受け止めている自分を知った。
藤色のスーツが階段を上がってきたのは、そのときである。
藤色のスーツを着た陽子は、真弓と菅生の傍を小走りに歩き、真弓とは別の車両に向かった。
このとき、真弓は、陽子を特に意識したりはしなかった。たまたま同じ新幹線に乗り合わせるだけのことだ。
この時点での陽子は、真弓にとって見も知らぬ他人に過ぎなかった。
ひかり7号≠ヘ定時に東京駅を出た。
藤の花の散る時
真弓は、取材旅行中も何度か菅生のことを思った。旅先でいつになく浮き浮きしているのが自分でも分かった。
城めぐりは順調に進んだ。
天候にも恵まれた。高知では真夏日に近い強烈な陽差しの中を歩き回ったが、雨に降りこめられるよりは増しだ。
高知から土讃本線で大歩危《おおぼけ》に出た。四国山脈を横断する吉野川の上流は、空気がひんやりと冷たかった。
新緑の渓流は、まさに清洌という形容がぴったりだ。山は、一年のうちでもっとも美しい季節であるのかもしれなかった。深い谷に沿って、高知と高松を結ぶ国道32号線が走っている。
都会風な新しいホテルがあり、大きい土産物店とか食堂があった。食堂の横手は、大型観光バスが何台も駐車できるようになっているが、今は人影もまばらだった。
真弓は次の上り列車がくるまでの五十一分を利用して、事件欄用の撮影を済ませた。
谷底も深かったが、山の頂に至る段々畑は、見上げると首が痛くなるほどの高い場所まで続いている。途中、点々と見える赤や白の彩りはつつじであろうか。
旅行ガイドブックに使用したくなるようなこの風景の中に、名古屋から逃亡してきた犯人が潜んでいたのだった。保険金目当ての放火犯人である。
(放火犯には似合わない風景だわ)
真弓は、シャッターを押しながら菅生のことを考えた。静かな山峡にたたずむ、自分と菅生の姿を想像した。現実味を欠く想像ではなかった。一人、旅先にいることで、表面ににじみ出てくる淡い感情があった。
次の上りは十五時十五分発の各駅停車だった。
阿波池田で特急南風4号≠ノ乗り換え、十七時十九分に高松に着いた。
高松では三泊することになっていた。高松を足場にして丸亀城と、高松城趾である玉藻公園を取材する予定だった。高松を最後に、一連の仕事は完了する。
高松駅を出ると広場に花時計があった。真弓は花時計の前からタクシーに乗った。
昨夜、高知から予約をとったのは屋島のホテルだった。駅から屋島山上のホテルまで、タクシーで二十分の距離があった。慌ただしい取材のときは駅の近くに投宿するが、今回は時間に余裕があったし、菅生のために屋島の磬石《けいせき》を買う目的もあった。
市内を歩くのは明日にして、真っすぐホテルに入った。
案内されたのは三階の和室だった。瀬戸内はまだ暮れていない。正面に内海の島々を望み、はるか左手に高松の市街地を見下ろす部屋だった。
真弓は夕食の前に散歩に出た。ホテルの周辺には土産物店が並んでおり、団体客がぶらぶらと歩いていた。
何はともあれ磬石を買った。吊糸《てんぐす》でぶら下げられた細長い自然石は、木づちでたたくと金属的な高い音《ね》を響かせた。
(これを何に使うつもりかしら)
真弓は菅生を思って含み笑いをした。
二千円の磬石を包んでもらって部屋に戻った。
事件が明るみに出たのは、翌五月十二日の午前である。
翌朝も瀬戸内海の空はよく晴れていた。海を渡ってくる五月の風がさわやかだった。
高松駅へ直行するにはドライブウェイ経由のバス、あるいはタクシーがあるし、琴電利用ならばケーブルがある。真弓が、琴電屋島駅まで、遊歩道を歩いて下りる気になったのは、気持ちのよい潮風に誘われた結果、ともいえようか。
真弓は朝食後ホテルで道順を確かめ、カメラを肩にして取材に出た。今日は丸亀城。玉藻城(高松城)は明日取材の予定を立てた。
土産物店が並ぶ一画を過ぎ、松林を二分する舗装道路を行くと、南嶺の中央に屋島寺の朱塗りの本堂が見えてくる。四国霊場八十四番札所には、朝早くから何人ものお遍路さんの姿があった。初老の女性が多い。
山門の前を右に下ると、細い石畳の坂道が松林の中に伸びている。琴電屋島駅まで三十分という話だった。
松林の中へくると、視界が閉ざされた。行き交う人もなく、風の音も消えて、一瞬気が遠くなるような静寂が曲がりくねった細い道を占めた。
小柄な真弓は無意識のうちに早足になっていた。ほんのわずかな間とはいえ、このような静寂を経験するのは初めてだった。
松林が切れ、右手の崖下に人家が見えてきたときには、思わず、ほっとしたように、肩で大きく息をしていたほどだ。崖下の小さい家は一見廃屋といった感じで、だれかが住んでいる気配はなかった。屋根のトタン板ははがれ、狭い庭には子供の背丈ほどもある雑草が密生している。
しかし、廃屋の先には畑があり、畑の向こうには何軒かの農家があった。農家の庭先で立ち働く、モンペ姿の主婦が見える。
道は更に曲がりくねって、急な下りになった。
崖下へと続く枝道があった。枝道の先に小さい製材所があった。そして屋島小学校が見えてくると、崖下には一軒、二軒と民家も増えた。
遊歩道は仲池、新池という、かんがい用の二つの溜池の間に差しかかる。池を過ぎるとすぐに県道だった。県道は通勤通学の自転車が列をなしているが、池の手前の遊歩道はひっそりした雰囲気を保っており、藤の花の咲き乱れる場所があった。紫色のほかに白花、あるいは淡紅花といった野生の藤である。
東京周辺とは違って、屋島の藤は盛りを過ぎていた。色とりどりの小さい花片が、朝の弱い風に舞っている。
真弓がはっとしたように足を止めたのは、中でもひときわ大きい藤の前を通りかかったときである。真弓は、紫色の藤の花の下に、信じ難いものを見た。
(まさか)
乾いたつぶやきが口を衝いてきた。さらさらと花を散らす老木の根元に、こんもりと盛り上がるようにして、紫色の花弁が吹き寄せられている。
真弓の視線が注がれたのは、花片の向こう側にある、もう一つの、紫の彩りだった。
一、二歩近付き、根元をのぞき込んだ真弓は、
「あ!」
反射的に小柄な上半身をのけぞらせていた。風が吹いても動かないそれは、花片ではなかった。
太い根元に隠れるようにして、女性が横たわっている。藤色のスーツを着た女が、身動きもせずに倒れていたのである。
花弁に埋もれているので顔は確かめられないが、白い、かたちのいい脚が、青草の上にだらりと伸びている。ハイヒールが脱げかかっていた。
死んでいるのか?
(そう、死んでいるんだわ!)
真弓は、思わず握り締めた両掌に冷たい汗を感じた。
どのようにしてその場を離れたのか覚えていない。
二つの池の間を通り抜け、小走りに県道に向かった。荒物屋を見つけて一一〇番を頼んだのも上の空だった。
高松北署のパトカーが二台、現場へ急行したのは、一一〇番が入って二十分と経たないうちだった。午前九時半を少し回った頃である。
一台には小太りの署長と、長身の刑事担当次長が乗っていた。
二台のパトカーは、二つの池を渡った所で急ブレーキを踏んだ。それから先の遊歩道は狭くて、車が入らない。
坂の下に、発見者である真弓と、一一〇番通報をした荒物屋の主人が立っていた。年配の刑事が改めて真弓に質問をし、十数人の捜査員たちは小走りに急な坂を上がった。野生の藤が咲き乱れる場所まで、五分足らずだった。
花弁を払い、死体を一目見るなり、
「絞殺だな」
刑事担当次長は吐き捨てた。
行政検視、鑑識などの初期捜査は手早に進められていった。被害者のものと思われるハンドバッグは、死体からやや離れた草むらに転がっていた。
事件は殺人と断定された。死体は司法解剖に付されることになった。
高松北署に捜査本部が設置されたのは、それから、更に二時間の後である。
県警捜査一課からも応援がきた。
県警本部から派遣される捜査員の中には殺人班の主任森安警部補の名前もあったが、姿がなかった。森安警部補は妻の実家の法事で徳島へ出かけていた。
森安は四十七歳。どもりがちな口調で背も低いし、風采は上がらないけれど、数多くの殺人《ころし》を解決してきたベテランであり、こうした捜査には欠かせない一人だ。すぐに、妻の実家に連絡がとられた。
「分かりました。休暇は返上して高松へ帰ります」
森安は一課長からの緊急電話に対して、夜までには捜査本部入りするとこたえた。森安は職務一筋の人柄であり世代であった。
徳島発十六時四十一分の急行阿波16号≠ヘ森安警部補を乗せて高松に向かった。急行といっても、古いディーゼルカーは二両連結に過ぎない。車内は始発の徳島駅から汚れている感じだった。ほぼ満席の車中で、たばこをくゆらす乗客が何人もいた。
高松着は十九時二十六分となる。妻の実家は高知に隣接する阿波海南なので、これでも精一杯に急いだつもりだ。徳島へ出るまで(列車の本数も少ないし)、二時間二十分もかかるのである。
「せっかく年休をとったのに」
妻は、休暇先から駆り出される夫に対して不満を隠さなかった。子供のいない夫婦は、法事を機に土佐を一周する予定だった。
「すまんな、事件《やま》が解決したら必ず出直すよ」
森安は、実家に残る妻に向かってぺこりと頭を下げた。
しかし、列車が高松に入り、高架線に差しかかって市街地が見えてくると、いつの間にかベテラン刑事の顔に戻っていた。
町がようやく暮れようとする頃、森安は高松駅0番線ホームに降りた。
駅から北署まで、中央通りを歩いて五分ほどの距離だった。近代的な高いビルが立ち並ぶメインストリート。
歩道の街路樹は柳だが、道路中央には楠が植えられている。港から栗林《りつりん》公園まで続く楠の並木は、高松ならではのものだ。枝振りのいい楠と、近代的なビルが、ほどよく調和している。
不釣合いなのは森安の方だ。小柄で肩幅の広いベテラン警部補は年代物のチャコールグレイの背広で、ノーネクタイ。ワイシャツの襟を、背広の外へ出しているのである。
何年も前からこのスタイルであり、それが自分のものとなったときから、万年警部補≠フ座も定着したようだ。
森安はせかせかと宵の雑踏を歩いた。近道をして、裁判所の中庭を横切った。
高松北署は四階建ての新しいビルだった。
ヨーロッパの中世の城のような印象を与えるのは、厚みを感じさせる外壁と、地下室の明かり取りが堀のようにビルの二方を囲んでいるためだ。その明かり取りにかかる階段を上がると、一階の受付という設計になっている。
「やあ」
森安は受付の制服に片手を上げ、勝手知ったように二階の捜査本部へ急いだ。
二階の広間には三十人近い捜査係の、全員が姿を見せていた。午後七時半からの捜査会議が始まったところである。
顔見知りの新聞記者が数人、『屋島殺人事件捜査本部』と張り紙されたドアの前にたたずんでいた。
新聞記者たちは待っていたように顔見知りのベテラン警部補を取り囲んだが、
「お、おい、わしゃ徳島の休暇先から駈けつけたんだ。事件《やま》のことは、まだ何も知らんよ」
森安は手を振って新聞記者を避けた。
森安は低い背をさらに低くするようにして捜査本部に入り、後ろ手にドアを締めた。
会議の中心に、捜査本部長である小太りの署長がいた。署長と並んで県警捜査一課長が座っている。
初動捜査は順調に進んだ。総括の責任者は長身の刑事担当次長である。次長は正面の大きい黒板の前に立ち、黒板に要点を書き込みながらこれまで明るみに出た事実を報告している。てきぱきとした、聞き取りやすい口調だった。
「被害者の現住所は千葉県、出身は香川です。高松生まれで、高校卒業まで高松で過ごしています。七年前に両親が死亡。以後、被害者の生家は無人の廃屋となっていますが、死体発見現場近くの屋島西町。遊歩道崖下の一軒家です」
と、次長は総括を続けた。
藤の花弁の下で、藤色のスーツを着て息絶えていた女性は、滝田陽子、二十九歳と断定された。住所は千葉県市川市八幡、『コープ小池』302号室。
死者の身元が判明したのは、ハンドバッグの中の所持品からだった。陽子名義の京成八幡―京成上野間の私鉄定期券。証人欄に岸本義昭が署名捺印した離婚届。そして、高松市内の老人ホームから『コープ小池』の陽子にあてた一通のはがき。
はがきの差出人は、特別養護老人ホームで暮らす笹本トメとなっていた。
「年老いたトメは視力が弱っているので、はがきは老人ホーム職員の代筆でしたが、文面から見て被害者の伯母と判明しました。連絡をとったところ、七十九歳になるトメは被害者の亡父の実姉で、現在、陽子の唯一の親類でした」
笹本トメによる遺体の確認は、老人ホームの職員同行の上でのことになった。
午後、パトカーで番町の監察医務院に案内された小柄なトメは、解剖室に安置されためいの前で立ちすくんだ。白く濁った両の目を懸命に見開き、変わり果てた陽子を見つめていたが、
「四、五日したら訪ねてくると電話してきたばかりなのに」
しわだらけの小さい顔を一層しわくちゃにして、付き添いの職員に倒れかかった。
「トメの話によると、陽子は電話で、無人となっている生家を処分し、いくつかの雑用を済ませてからホームに遊びに行く、と、しゃべっていたそうです。陽子は離婚が決定的なわけですが、滝田幹夫という夫と正式に別れたら、高松で暮らしたいとも言っていたそうです。トメはたった一人のめいの帰郷を心頼みにしていたようです。それだけに、あの子はどうしてこう不幸なのだろう、と、がっくりしていました」
紫雲山に近い峰山町の老人ホームに陽子からの電話が入ったのは、五月八日、火曜日の午後五時過ぎである。
電話は高松駅構内二階にある観光デパートの食堂からだった。老人ホームの呼び出しに時間がかかることを承知している陽子は、いったん電話を切り、改めて食堂へかけ直してもらったという。
トメを部屋から連れてきて、指定されたダイアルを回したのは、老人ホームの職員だった。
「めいごさんは、連絡船を降りたところだと言ってました。高松に着いてすぐ食堂に入り、電話をしてきたようです」
と、事務員は刑事にこたえている。
その時間の宇高連絡船というと、十六時五十四分着の19便がある。
これは一つのポイントだった。電話をかけてきた日時が問題となるのは、死亡推定時間との関連からだった。司法解剖の結果、死後四日ないし五日の線が出ていたのである。
八日の夕方、陽子が電話をかけてきたのであれば、死後五日の線は消える。陽子が絞殺されたのは、老人ホームに電話が入ったその日、八日ということになる。
「夫の滝田幹夫にも早速電話連絡をとりました。滝田は、陽子が八日の東京発十一時のひかり7号≠ナ高松へ向かったと証言しています。滝田は離婚届に署名がある友人の岸本と一緒に陽子を見送ったとこたえています。陽子の出発は夫の申し立て通りでしょう。ひかり7号≠利用すると宇高連絡船19便に乗船することができるし、観光デパートの食堂も、藤色のスーツを着た女性の、八日夕方の行動を裏付ける証言をしています」
「殺人《ころし》は、滝田夫婦の離婚≠ニ関連があるのかな」
署長が一息入れるようにつぶやくと、
「少なくとも物取りではありません。ハンドバッグには十五万円近い現金が入っていました。夫の滝田は明日、東京からこちらへ来ることになっています。直接滝田に当たれば何か出てくるかもしれません」
と、次長はこたえた。
次いで鑑識技官が報告に立った。眼鏡をかけた鑑識技官は鑑定書を手にして死因が絞死であると伝えてから、遺体がすでに死後硬直状態を過ぎ、絞殺後四日ないし五日を過ぎている経緯を説明した。
情交の痕跡は認められなかった。犯人の目的は、婦女暴行でもなかった、ということになろうか。
「解剖の結果、未消化のロース、タン、レバー、モヤシなどが検出されました。被害者は、死の直前に焼き肉店へ立ち寄ったと思われます」
と、鑑識技官は鑑定書の要点を読み上げた。さらに死者の身長、体重、外傷の有無についてなどの報告が続き、今度は刑事課長が黒板の前に進み出た。
所轄署の刑事課長は陽やけした、眉毛の濃い警部だった。
「まず、藤の花が咲き乱れていた死体発見現場ですが、人通りが少ない遊歩道とはいえ、四日間も人目にふれない場所ではありません。現に昨日も、高松市内の小学生が百人余り、遠足であの道を通っています。花片の吹きだまりを調べるまでもなく、第一現場が他にあることは明確です。死体の移動が昨十一日の夜から、北川真弓という女性週刊誌の記者によって発見された、今朝九時頃までの間であることも確実です」
刑事課長は黒板に、現場周辺の略図を書いた。死体発見現場から屋島寺南面山に通じる坂道を中心に置き、枝道の先にある製材所を記し、崖下の廃屋を書いた。
「崖下の一軒家が被害者の生家であり、そこから百メートルほど下の製材所が、被害者の両親が七年前まで共働きをしていた職場です。両親は狭い田畑を耕す傍ら、この製材所で雑役をしていたのですが、七年前の秋、資材運搬中の軽トラックに同乗していて、交通事故で即死しています。事故の詳しい事情は分かりませんが、国道11号線で夫婦の同乗した小型トラックがダンプカーと衝突、軽トラックは大型ダンプの下敷きになったそうです。今回の被害者である一人娘の陽子は、当時大阪に就職していました。以来、崖下の一軒家は人が住まず、現在に至っているわけです」
その荒れ果てた生家を当たったところ、廃屋が殺人の第一現場と判明したのだった。絞殺に使用した、縄跳び用のロープも発見された。
クモの巣と埃だらけの六畳間には死体を引きずった形跡があるし、何日か死体が置き去りにされていた事実は、畳に残る腐敗の黒い染み跡からも歴然としている。さらに、陽子の持ち物であるスーツケースとベージュのコートも出てきた。
「スーツケースとコートは、明日高松に来る夫の滝田氏に直接確認してもらいますが、電話で問い合わせたところ、八日の旅立ちのときのものに間違いなさそうです」
と、刑事課長は言った。
別の刑事は、製材所のリヤカーが一台、昨夜盗難にあった事実を聞き込んできた。付近一帯を洗ったところ、リヤカーは仲池北側の窪地から発見された。これが死体運搬に利用されたことは確実だ。廃屋裏手の雑草にはタイヤで踏みつけられた跡があり、雑草に続く崖下の農道、そして、死体発見現場である藤の花が咲き乱れる遊歩道に残っていたタイヤ跡が、問題のリヤカーと一致したのである。
「ああいう場所なので目撃者はいません。あるいは深夜の作業だったのかもしれません」
刑事課長はそう続けたが、表情は暗くなかった。
影の犯人は、タイヤ跡のほかにもいくつかの手がかりを残していたのである。一つは凶器である縄跳び用のロープ。刑事課長がかざすもう一つの透明ビニール袋の中には、ショートホープの空き箱とたばこの吸い殻が入っていた。二本の吸い殻は廃屋の土間、空き箱は藤の花の近くから収集された。
「吸い殻もショートホープなので、どちらも犯人の遺留品と断定できると思います」
吸い殻の唾液からは血液型も分析された。A型だった。しかし、指紋はどこからも発見されなかった。
「犯人《ほし》は手袋を使用していた。この一点から推しても、極めて計画的な犯行と思われます」
以上の報告が、初動捜査の要点のすべてだった。
森安警部補は所轄署の若手吉井刑事と組むことになった。二人は、前にもコンビで捜査に当たったことがある。一年前、香東川の上流でOLが殺された事件だ。そのときはスピード解決となったが、今回は一年前の事件《やま》とは違って、単純ではなさそうだ。
捜査会議が終えて北署を出ると、
「久し振りに一杯やるかね。そろそろ生ビールがうまいのじゃないか」
森安は吉井を誘った。
森安は慌てて徳島から戻った矢先だ。まだ現場を踏んでいないし、ホトケの顔も拝んではいない。それだけに、一日中聞き込みに回った吉井から、捜査会議では話題に出なかった匂いをかいでおきたい意味もあった。
一目で刑事《でか》と分かる森安とは対照的に、吉井はセンスのいい独身青年だった。茶のブレザーが似合う長身は、(刑事というよりも)商社マンといった印象すら与える。口の利き方もおとなしい。
「主任の行きつけは栗林《りつりん》のお好み焼き屋でしたね。タクシーにしますか」
「今夜は逆方向だ。どうせなら、被害者《がいしや》が立ち寄った焼き肉屋がいい」
コンビの本格的な活動は、もちろん翌朝からになるが、森安の意識は、すでに捜査の渦中に置かれている。こうなると、一杯飲むのでも、時間を有効に使うのがベテランのやり口だ。
二人は柳並木の舗道を歩いて、高松駅前へ出た。
駅周辺の飲食街、西の丸町に焼き肉屋は一軒しかなかった。それが、関東地方とは異なる点だった。さぬきうどんを看板にする店とか、お好み焼き屋は多いが、焼き肉店とかラーメン屋は数えるほどしかない飲食街であった。
その一軒の焼き肉屋も、
「八日と九日は、従業員慰安旅行で店は締めていましたよ」
という返事だった。これでは取り付く島もない。陽子は高松市内のどこで、ロースとかタンとかレバーを食べたのか?
「よし、それじゃ駅の観光デパートだ。デパートの食堂で飲もう」
小柄な森安は長身の吉井の先に立って舗道を渡り、駅ビルの二階へ急いだ。
階段を上がって右側の土産物売り場は閉店時間だが、左手の細長いレストランは込んでいた。旅行者よりも、地元の人間が多かった。土曜の夜のせいか若い二人連れの男女が目立った。
生ビールとポテトチップのチケットを買い、レジで八日夕方の陽子のことを尋ねると、
「藤色のスーツを着た方でしょ。とてもきれいな人でしたわ」
レジの女店員は、そんな言い方で、四日前の陽子の行動を裏付けた。老人ホームから、折返しかかってきた呼び出し電話を取り次いだのも、この女店員だった。
森安と吉井は、窓際のテーブルに腰を据えた。
大ジョッキがきた。
「生家が廃屋というのは、陽子は両親の死後、実家に寄りつかなかったということかね」
森安は一口飲んでから言った。
「ええ、若い女性が一人で住むには寂し過ぎる場所です。それに、陽子は大都会にあこがれて高松を出た立場です」
「峰山の老人ホームにいる伯母さんとも会っていなかったのかな」
「高松に帰ったのは、両親の葬式を出して以来だそうです」
「捜査会議の総括では、二年前の結婚のとき、伯母さんが婚姻届の証人欄に署名押印していると言ってたが」
「あれは郵送です。電話はたまにかけていたようですが、陽子は七年間、瀬戸内を渡っていません」
「離婚を控えた今回は別ということか。彼女、廃屋とあの土地を処分すると言ってたな。当然、不動産屋が仲に入っているわけだろ」
「仲介者がだれなのか、皆目見当つかないのですよ。遺留品の中にも、ヒントを与えてくれるような名刺とか書類などは見当たりません。伯母さんも知らないと言っていますし、陽子はこの七年間、高松とは全く接触がなかったようです」
「明日から、市内の不動産屋をシラミつぶしに当たってみよう。それと焼き肉屋の洗い出しだ。いくら肉好きな人間でも、さぬきうどんとは違って、焼き肉屋に女性が一人で立ち寄る例は少ないだろう」
「焼き肉を食べたとき、彼女は一人ではなかった、ということですか」
「相手がいたと思うよ。それが不動産屋、あるいは不動産屋を仲介する人間ということは十分考えられる」
「そいつが犯人《ほし》ということになりますか」
「分からないのは死体の移動だな。死体を、なぜ四日経ってから人目にさらしたのか。第一現場は七年間も放っておかれたアバラ屋だ。そのままにしておけば発見は遅れていただろう。日にちが経てば、それだけ捜査が困難になるのは自明の理ではないか。どうして、犯人の方から死体を明るみに出したのかね」
森安はぐいっと生ビールを飲み、首をひねった。
八日の夕方、伯母を電話に呼び出した陽子は、四、五日したら老人ホームを訪ねると伝えている。死体が表面化したのは、電話を入れてから四日の後だ。この日時の一致は偶然だろうか。
「四、五日したら訪ねる」
と、伝えた背後には何が隠されているのだろう? 四、五日。陽子は七年振りの高松で何をするつもりだったのか。両親が残した土地の処分と、離婚届にトメの署名をもらうこと。それが現在判明している陽子の帰郷目的だが、ほかにも対処しなければならない問題があったのかもしれない。
「はっきりしているのは、犯人《ほし》が陽子の身元を隠そうとはしなかったことだな。むしろその逆だ。犯人《ほし》は死体と一緒にハンドバッグを藤の花の下へ運んでいる」
陽子の行方が不明ということになれば、(四、五日経っても老人ホームにトメを訪ねなかったとしたら)いずれ崖下の廃屋が調査されるのは必然だ。
しかし犯人は、自分の方から事件を明るみに出した。
「今はすべてが霧の中だが、ここが問題だな」
「主任、ふと思いついたのですが、殺人《ころし》の犯人《ほし》と死体を移動した人間は別、ということはないでしょうか」
「殺人を承知している第三者が、本|犯人《ぼし》を陥れるために事件を表面に出した。うん、それも一考の余地ありだな」
その場合は殺人の実行者と、死体をリヤカーで運んだ人間との間に、何らかの利害関係が生じていたことになろうか。
離婚の背景
翌五月十三日、滝田幹夫は東京発六時四十八分の岡山行きひかり17号≠ノ乗った。岡山、宇野と乗り換えて、連絡船の高松到着は十二時五十四分。
真っすぐ高松北署の捜査本部に入った。
寝不足なのか、長身が疲れ切っている感じだった。
滝田は丸めた週刊誌を一冊手にしただけの軽装である。赤いオープンシャツに白いジャンパー。シャツをはだけた胸に金色のペンダントが光っているのは陽子を東京駅に見送った五日前と同じだが、ほおが、あの朝にも増してげっそりしている。
捜査本部で待っていたのは、森安警部補と吉井刑事だった。森安は滝田を一目見るなり渋い顔付きになった。
(キザな男だな)
滝田に対する第一印象がそれだった。女性的なしゃべり方も好みに合わないが、気取ったしぐさのくわえたばこが鼻持ちならない。
離婚直前の、崩壊した夫婦関係だったとはいえ、これが、妻の死に対面する夫の態度といえるだろうか。派手な服装も無神経過ぎるのではないか。
もっとも、夜の東京でスナックを経営する滝田にしてみれば、ワイシャツの襟を背広の外に出した地方刑事のやぼったさが、気になっていたかもしれない。背広の型は古いし、ワイシャツには糊も利いていないのである。要するに、すべてが対照的な二人だった。
「早朝の新幹線ではお疲れでしたでしょう。職業柄、朝は弱いのと違いますか」
森安が自分を殺して話しかけると、
「高松は静かな町ですね。陽子から聞かされていた通りです」
滝田も、ワンクッション置くようなこたえ方をした。
遺体確認が先決だった。北署から番町の監察医務院まで、歩いても十分足らずだ。
「滝田さん、高松は初めてですか」
「僕は群馬県の出身です。東京から西へ旅したことはありません。瀬戸内海の潮風に吹かれたのも、今回が最初です」
これは滝田を監察医務院に案内し、霊安室に向かって、冷え冷えとした廊下を歩きながらの会話であった。
「四国が初めてというと、老人ホームにいる伯母さんとも会ったことはないのですな」
「今度はごあいさつしていくつもりです」
その二人の後ろに、黙って吉井が続いた。
長い廊下を右に折れ、一番奥のドアを開けると、遺体を前にして係員が待っていた。
薄暗い部屋で、天井が高い。
「どうぞ」
白衣の係員は事務的な口調で滝田を促し、死者の白布を外した。
「陽子!」
遺体をのぞき込むやせた横顔に、微妙な震えがよぎるのを森安は見た。
「奥さんに間違いありませんな」
「だれが、一体だれがこんな目に遇わせたのですか」
振り返った滝田の表情はさすがに複雑だった。こうしたアクシデントがなければ、今頃は離婚届が出されていた夫婦なのだ。
陽子の死は、離婚に一線を画した。死者と離婚することはできない。陽子は、滝田の妻として他界したのである。
「刑事さん、陽子は本当に殺されたのですか」
滝田が半ば独り言のようにつぶやいたのは、離婚の不成立が念頭をかすめたためだろう。陽子が、自らの死をもって離婚を拒否した、と、そう感じたせいかもしれない。
だが、陽子の死は絶対に自殺ではない。廃屋となった生家で絞殺され、藤の花の下へ捨てられたのだ。
「詳しい事情は本部に帰って伺いましょう」
森安は吉井に目配せして、先に霊安室を出た。
午後の捜査本部はがらんとしている。全員が聞き込みに回っており、署長も刑事担当次長も自席に戻っている。連絡係の若い刑事が一人、電話番をしているだけだ。
森安は殺風景な大部屋の一隅で改めて滝田と向かい合った。吉井が番茶を入れてきた。
「最初に確認しておきます。滝田さん、あなたは八日の午前、東京駅で奥さんを見送った。それから死体が発見された昨日、十二日の午後、捜査本部から市川のマンションへ電話が入るまで、どこにいましたか」
「どこ、と、言いますと?」
「ずっと東京周辺にいたわけですか」
「え、ええ、そうですよ」
滝田は早口になった。
「岸本が経営する上野のジャン荘で、よくマージャンをしていました。夜は連日上野のスナックで深酒をしていましたよ」
「行きつけの店ですか」
「そうです。酒を飲むときは、いつも岸本やマージャン仲間と一緒でした」
うそを言っている感じではなかった。マージャン荘やスナックにいたというのでは、証人も多いだろう。
森安がいかにこの男に不快感を抱こうと、不快感と不審感は別だ。
滝田が四日間、東京周辺にいたのが事実なら、陽子殺しの犯人とは成り得ない。離婚を目前にした妻を、殺す動機もなさそうだ。
「離婚の原因を聞かせてもらいたいですな」
そこに手がかりがあるかもしれないと考えた。
滝田は、一瞬遠くへ目を向けてからこたえた。
「性格の不一致、と、申し上げておきましょうか」
「結婚生活は二年間でしたな。二年経ってから性格の不一致ですか」
「陽子が殺されたことと、僕たちが離婚しようとしていたことが関係あるのですか」
「ないかもしれませんし、あるかもしれません」
森安は番茶をすすり、セブンスターに火をつけた。ゆっくりと煙を吐いてから、一般的な質問に移った。
滝田は、犯人については全く見当がつかない、と、顔を振った。
「陽子も水商売で生きてきた人間です。僕が知らない過去もあるでしょう。でも、殺されるほどの事態が起こっていたとしたら、一緒に暮らしていた僕が気付かなかったはずはないと思います。だれかに狙われているような、そんな気配は見えなかったですよ」
「家の売却はだれに頼んでいたのか、ご存じありませんか」
「老人ホームに入所している伯母さんの仲介じゃないですか」
高松でほかにつきあっていた人間はいないと思う、と、滝田は言った。
「どっちにしろ、ひどいアバラ屋だというから建物に価値はないし、土地だって狭いし、辺ぴな郊外だというではありませんか。処分するといっても、それほど大げさなことではないでしょう」
「笹本トメさんは何も聞いていないそうです。いくら評価が低くても、土地を売買するなら不動産屋が介在するのではないですか」
「陽子が土地の処分を決めたのは、離婚が具体化してからです。だから、僕には何も話を持ちかけてきませんでした」
「夕方の連絡船で高松へ着いた奥さんは、焼き肉屋で食事をしているのですよ」
「そんなことまで分かっているのですか」
「だれかと一緒だったと考えられます。この相手に、本当に心当たりはありませんか」
「焼き肉屋では、その相手のことを何と言ってるのですか」
滝田の方が反問してきた。真剣なまなざしに変わっていたのは、破局を迎えたとはいえ、二年間生活をともにしてきた陽子への心情的な何かが動いたためであろうか。
「相手がだれなのか、もう一つはっきりせんのですわ」
森安はことばを濁した。
実際には、八日の夜陽子が立ち寄った焼き肉店は、まだ確かめられてはいなかったのである。捜査員は朝から手分けして当たったが、藤色のスーツを着た女性は浮かんでこなかった。
滝田に対する質問は、さらに時間をかけて続けられた。
滝田から得るものは少なかった。滝田は捜査に協力的なのか、そうでないのか、捕らえがたい一面があった。四十七歳の森安から見ると、一種無責任な世代なのかもしれない。
「別れるはずの陽子の葬式を出すことになるなんて、妙な気持ちですね」
滝田はたばこを吹かし、そんなふうにことばを挟んだりもした。
滝田、あるいは陽子の東京での生活が犯行に無関係であったとすれば、七年振りで帰ってきた故郷の、七年間の空白の中に、犯行動機は潜んでいることになろうか。
事件は、婦女暴行などを目的とする、変質者による通り魔的殺人ではなかった。遺体に情交の跡はないし、着衣も乱れてはいなかった。また、ハンドバッグの現金には手をつけていなかったのだから、物取りの犯行でもない。この点は昨夜の捜査会議でも確認されていることだ。
そこで、スーツケースなどの遺留品を滝田に当たらせたが、
「正確には分かりませんが、何も奪われてはいないと思います」
と、滝田は言った。スーツケースの中はきちんとしていた。ハンドバッグと同じことで、だれかが引っかき回した形跡は感じられない。
と、なると、殺人《ころし》の目的は何だろう? 七年間の空白の向こう側に、だれが隠れているのか。
その頃、北川真弓は、玉藻公園での最後の取材を終えた。
天正十六年(一五八八年)、黒田如水の設計で生駒親正の開いたのが玉藻城だ。以来、明治維新に至るまで、一度も戦場とならなかった運勢の強い城である。
真弓は、月見櫓を撮影して公園を出た。高松北署はつい目と鼻の先だ。真弓は一眼レフのカメラを手にして、北署の捜査本部へ向かった。
これは菅生和彦の指示だった。
真弓は昨夕、屋島のホテルに戻ってから東京の週刊レディー編集部に電話を入れた。取材が予定通り運ばれていることを旅行欄のデスクに報告し、それから菅生に代わってもらった。
菅生に対しては、大歩危《おおぼけ》の写真撮影完了と、お土産の磬石を買ったことを伝え、死体発見者の立場に置かれた経緯を話題にした。
「こんなの、生まれて初めての経験だわ」
「藤色のスーツの女が、咲き乱れる藤の花の下で死んでいたのか。ロマンチックじゃないか」
「現場を見ていないから、そんなことが言えるのよ。あたし、冷や汗が出た」
と、真弓が人気のない遊歩道の状況と、被害者の境遇を説明すると、
「ほう、離婚間近な二十代の人妻か。しかも上野のスナック経営者が屋島で殺されたのか」
菅生はつぶやくように言い、
「待ってくれよ」
いったん受話器から離れた。
すぐに戻ってきた声は弾んでいた。
「城めぐりの取材が終えたら、明日、捜査本部へ寄ってきてくれないか。僕の方で使えるネタかもしれない」
それが、事件欄のデスクと相談した結果の、菅生の指示だった。
紺のスーツが似合う真弓は、いつも活動的な歩き方をする。一眼レフのカメラを手にした今もそうだ。
真弓は早足で中央通りの雑踏を歩き、北署の石段を上がる。
事件特集の取材をしたことはないが、インタビューは慣れている。受付で名刺を通すと、二階の捜査本部へ案内された。この時点での取材は、夕方の署長会見に限定されており、それも記者クラブに所属する新聞社以外はお断わりという段階であったが、真弓は立場が違う。
「そうですか。あなたが第一発見者でしたか」
森安警部補は、笑顔で真弓を迎え入れてくれた。
滝田が帰ろうとするところだった。滝田は陽子の遺体を荼毘《だび》に付すための打ち合わせをして、真弓と入れ違いに席を立った。小柄な真弓からすると、見上げるような長身である。
「ちょうどいい、ご紹介しておきましょう」
森安は、真弓に向かって自己紹介してから滝田を引き合わせた。
「週刊誌の記者さんでしたか。すると東京の方ですね」
滝田は軽く長身を折った。
「屋島で殺されて、東京の人に発見されるなんて」
と、口ごもり、たばこをくわえた。ライターで火をつけるしぐさに崩れた感じがあった。投げやりともとれるその滝田は、真弓にもいい印象を与えなかった。
滝田は峰山の老人ホームへの道順を尋ね、くわえたばこのまま、がらんとした捜査本部を出て行った。
「東京で水商売をしている人間って、ああしたタイプが多いのでしょうか」
若い吉井は、滝田を送り出してからつぶやいた。真弓の手前遠慮勝ちだが、生真面目な顔だった。
「いくら離婚寸前だったとはいえ、死んでしまえばホトケじゃないですか」
「あの男にとっては、葬式を出すなど面倒以外の何物でもない。そういう感じだね」
森安も苦笑で肯定し、それから真弓にいすをすすめた。
真弓は、同席の吉井にも小型の名刺を渡した。
森安と吉井の応対は親切だが、しかし、要点に関してはほとんどメモすることがなかった。捜査上の秘密、というよりも、八方に飛んだ刑事たちの聞き込み結果が本格的に絞られるのは、今夜の捜査会議を待たなければならなかったからである。
質問の口数は、真弓よりも森安の方が多かった。森安は、真弓の四国取材の内容と日程を確認し、
「これは蛇足ですが」
と、前置きして、真弓と陽子の関係≠ノついて尋ねた。一般的にいえば、第一発見者がマークされるのは常識だ。
真弓の場合は(昨夜の捜査会議でも問題にされなかったが)、完全なる第三者であった。森安にしても、その点に特別な期待はなかったが、発見者と被害者の間には、見えない、一本の糸が介在していたのだった。
「本当ですか。妙な偶然ですわ」
真弓が顔を上げたのは、陽子の足取りを聞かされたときである。しゃべるときはいつも笑顔を絶やさない真弓だが、その一瞬、白いほおから笑みが消えていた。
八日、火曜日。東京発十一時の博多行きひかり7号=B
真弓の脳裏に、五日前の東京駅17番線ホームが浮かんだ。菅生の見送りを受けて四国に旅立つあのとき、発車直前のホームへ小走りにやってきた藤色のスーツが、記憶の片隅に残っている。
(あの人だったのかしら)
真弓は、定かでない記憶を追いかけるまなざしになった。
「はっきりとは言えませんが、あたし、五日前にその人とすれちがっているようですわ」
「同じ新幹線とは、確かに、これは珍しい偶然ですな。で、岡山での乗り換え、あるいは連絡船ではどうでした? 一緒になりませんでしたか」
「覚えていませんわ」
真弓は遠くに目を向けたままこたえた。懸命に五日前をたどったが、宇野線とか連絡船で藤色のスーツを見かけた記憶はない。
東京駅頭で目にした藤色のスーツにしても、もちろん、陽子と断定できる立場ではなかった。すれちがった女性が別人であったとしても、少なくとも殺された陽子が、同じひかり7号≠ナ西下したことだけは間違いない。陽子が五日前の同じ新幹線に揺られていたのかと考えると、真弓は複雑な気持ちになった。
真弓は三十分余りで、高松北署を出た。
捜査員たちは夕方、足を棒にして帰ってきた。二日目の聞き込みに、さしたる成果はなかった。
高松に到着してからの陽子の足取りは、観光デパートの食堂を最後に、ぷっつり途切れたままだ。陽子は、市内の焼き肉店にも不動産屋にも現れていない。こうなったら、高松市周辺にも捜査の手を伸ばす必要がありそうだ。
「畜生! 凶器の縄跳び用ロープから指紋でも検出されればなあ」
と、つぶやく刑事がいた。
捜査会議は重い空気に覆われ、刑事たちは最初の壁にぶち当たった。
翌十四日も、瀬戸内海はよく晴れていた。殺人事件に遭遇したことを別にすれば、最初から最後まで、天候には恵まれた六日間の取材旅行であった。
北川真弓は、十四時二十五分発の連絡船で高松を離れた。点々と小島が見える内海は、湖のように穏やかだった。
しかし、船の往還は激しい。連絡船が何艘もの小型漁船を追い抜くと、ふいに、大型貨物船が、白波を立ててすぐ前を横切って行ったりする。
真弓は満席の船室を抜けて、甲板に出た。デッキにも大勢の船客がおり、さぬきうどん≠フ売店に長い行列ができていた。
後部のベンチに腰を下ろすと、彼方に、遠去かって行く屋島が見える。
弱い風の中で花を散らせていた、藤の彩りがよみがえってくる。殺された陽子は、真弓と同じ二十九歳だった。もちろん、真弓が陽子の人生を知るはずはないけれども、殺されて捨てられた、同年齢の女性の不幸を思った。真弓と同じ新幹線で東京を発った陽子は、何もなければ、やはりこの同じ連絡船で、東京へ戻ることになっていたかもしれないのである。
潮風に吹かれて、しばらく経ったとき、
「やはりあなたでしたか」
背後から声をかけられた。
いつの間にかベンチの横にたたずんでいた長身は、滝田幹夫だった。滝田は、真弓とは違って、屋島に目を向けてはいなかった。相変わらず気になる派手な服装だった。赤いオープンシャツに白のジャンパー。昨日の吉井刑事の言いぐさではないが、妻の死に立ち会う夫の服装ではなかった。
「失礼しますよ」
と、滝田が隣のベンチに座ったとき、真弓が警戒的な姿勢をとっていたのは、女性の本能であったかもしれない。相手が女なら無遠慮に接近してくるタイプ。そうした感じがありありと見てとれるのだ。
滝田は、四角い大きな包みを手にしていた。荼毘に付された陽子の遺骨であることはすぐに分かった。
滝田は、しかし無造作に、包みを片側に置くのである。無論、哀しみといったものなど欠けらも感じられない。
滝田は長い脚を組んでたばこをくわえ、
「これも何かのご縁ですね」
女性的なソフトな口調で語りかけてくるのだった。
「週刊誌の記者さんといえば花形の職業ですね。僕もあこがれたことがあります。でも、女性の記者さんでは、今回の殺人事件のような取材はなさらないのでしょ。失礼ですが、週刊レディーのどういう欄を担当していらっしゃるのですか」
腹が立つほど慣れ慣れしい態度だった。長いこと水商売を続けてきたため、というよりも、先天的な性格なのだろう。どこから見ても女たらしといった感じだ。うぬぼれの強いこうした男は、真弓のもっとも嫌いなタイプに属する。
嫌だが、狭い船内では逃げるわけにもいかない。
真弓は、東京駅に出迎えてくれる菅生和彦を考えた。菅生は筋肉質で、今横にいる滝田とは対照的に、男性的な毛深い男だ。真弓は菅生を思い浮かべながら、ベンチに置かれた遺骨に目を向けた。
「こんなことになってみると、陽子がかわいそうな気もします」
と、滝田も話題を変えた。亡妻をしのぶ感じではなかった。むしろ、こちらの機嫌を伺う話し方であり、それも真弓の神経にさわった。
だが、こんな風にして口の軽い滝田がしゃべったことばの一つは、メモをとる必要がありそうな内容だった。
滝田はたばこをもみ消しながら言った。
「藤色のスーツを好んでいた陽子は、暗い過去を持った女です。もしかしたら、陽子は過去≠ノ殺されたのかもしれません」
それは、森安警部補に対してはこたえていない事柄である。
しかし、真弓は暗い過去≠問い質さなかった。嫌悪感が、さらに高まっていたためだ。こちらから何かを問いかけると、プレイボーイのペースに巻き込まれそうだった。このような男と、新幹線に乗り換えてからも同席することになってはかなわない。
真弓は宇野に着くまでの小一時間をじっと堪え、連絡船が桟橋に横付けされると、黙って滝田から離れた。
ひかり96号≠ヘ岡山を十六時二十三分に発車し、予定通り、二十時四十四分に東京駅17番線ホームにすべり込んだ。
たった六日間なのに、随分長いこと東京の灯を見ていない気がした。
真弓は、ボストンバッグから屋島の磬石《けいせき》を取り出して手に持った。
列車を降りると、菅生の方が先に真弓を見つけた。
「大変な目に遇ったね」
降車客でごった返す人込みの中から、菅生の笑顔が近付いてきた。真弓は、なぜかほっとするものを感じた。菅生に対する感情が、新しい動きを見せているのが自分に分かった。
真弓は、そうした自分をそのまま面に出して、笑みを返した。
「はい、お土産」
「ありがとう。お茶でも飲もう。明日でいいんだが、仕事の話もある」
「やっぱり、屋島の殺人事件を扱うの?」
「今日の編集会議で決まったんだ。『我が愛の悩み』でやることになった。行き掛かり上僕が担当し、君に応援してもらうことになった」
二人は肩を並べて、降車客と一緒に階段を下りた。
四角い骨箱を抱える長身が、早足で通りかかった。
「いろいろお世話になりました」
滝田は真弓に向かって親しそうな笑みを見せ、菅生の方は無視して行き過ぎた。
真弓が滝田のことを説明すると、
「あの男か。被害者の夫という感じじゃないね」
菅生は、真弓や森安警部補たちの印象と同じつぶやきをもらし、人込みにまぎれて行く白いジャンパーの後ろ姿に、視線を投げた。
真弓と菅生は新宿に出た。
真弓が両親と暮らす家は小田急線の経堂、菅生の一人住まいのアパートは西武新宿線の武蔵関なので、新宿は二人の接点ということになる。
駅構内の、小さい喫茶店に寄った。時間は遅いが、喫茶店は若い男女で込んでいた。
週刊レディーの『我が愛の悩み』というシリーズは、事件物としては変型の企画だった。実際に起こった犯罪を特集の形式でまとめ、渦中の、若い女性の一人に焦点を絞る。対象となる女性は被害者が多いけれども、被疑者の場合もあった。彼女たちの、犯罪に巻き込まれる過程が、すなわち我が愛の悩み≠ナあり、この悩み≠ノついて、私大の若手教授が細かいアドバイスをする。それがシリーズの特色だった。
読者の評判もよかった。モニターの集計でも、常に週刊レディーの上位を占める人気特集だった。好評なために徐々にスペースが増え、素材によっては十ページを越えることもあった。
今回がそうだ。
「屋島の殺人は、正に『我が愛の悩み』のために、生じたような事件だね。被害者の、離婚への過程を追うだけでも読者に受けると思うよ」
コーヒーとオレンジジュースがテーブルに乗ったとき、菅生は背広の内ポケットから取材帳を取り出した。メモ帳には、何枚もの切り抜きが挟んである。一番大きいのは、やはり地元紙のものだ。
菅生は、コーヒーに口をつけてから、地元紙の切り抜きを広げた。
「第一発見者が我が社の編集者である点を強調して、君の署名入りでいこうか、と、そんなプランも、さっきの編集会議で出た」
「あたしの署名原稿?」
「僕も、その方が読者へのアピールは強いと思う。もちろん、取材だけでなく、原稿執筆も僕たち二人の協力ということになるがね」
菅生は、二人の協同作業という点に力を込めた。真弓は、そんな菅生に笑みを返しながらオレンジジュースを飲んだ。のどが乾いているので冷たいジュースがおいしい。
「でも、捜査は難航しているわ。犯行の動機がはっきりしないらしいの」
「勝手なことを言えば、スピード解決でない方がいいんだ」
菅生は事件記者の顔に戻っていた。
殺人《ころし》の解決が、掲載誌発売と同時、ということになれば理想的だ。それは、事件欄担当者ならば、だれもが抱く願望だが、一般の事件では、まず絶対的に不可能なことだった。被疑者送検の捜査本部発表があって、はじめて、取材結果はデータマン(取材者)からアンカー(完全原稿作成者)の手に渡るのである。
『我が愛の悩み』は別だ。
滝田陽子という被害者を完璧に掘り下げることによって、原稿をまとめることができる。(取材パターンが違うのだから)事件の解決とうまくタイミングが合えば、(週刊誌が)新聞報道を追い抜くことも夢ではなくなる。
真弓が死体の第一発見者であり、だれよりも早く、夫の滝田幹夫に接触している立場は絶対の利点だ。
「藤色のスーツを好んでいた陽子は、暗い過去を持った女です。もしかしたら、陽子は過去≠ノ殺されたのかもしれません」
宇高連絡船の甲板で耳にした、キザな男のつぶやきを、真弓は思い返していた。
菅生と真弓の本格的な取材活動は、それから三日後になった。
翌十五日と翌々十六日、真弓は四国城めぐりの原稿執筆と写真整理に追われ、菅生の方は真弓に依頼した大歩危の写真を使用して、名古屋の放火犯人非行の半生を、実話ストーリーにまとめた。原稿の最後に、保険金詐欺事件の主なデータを並べた。放火事件では東京都青梅市の紡織会社社長による二億三千九百万円(昭和五十七年)が最高であり、生命保険殺人事件では、愛知県下の運送会社を舞台とした六億一千万円(昭和五十三年)がワースト一位。九州一のワルと呼ばれた別府市の荒木虎美、三億一千万円(昭和四十九年)がこれに続いている。
放火と殺人、それぞれの十位までを表組としたが、詐欺の手口、犯人、被害者などの分類に、予想以上の時間をとられ、『我が愛の悩み』の最終打ち合わせは、十七日、木曜日の午前になった。
責任者である笠倉デスクは、
「四国城めぐりの原稿が上がって、本当なら代休をとるところだが、よろしく頼むよ」
と、真弓の肩に手を掛けた。
打ち合わせのあとで、真弓が高松北署の捜査本部に電話を入れた。
幸い、森安警部補は電話の近くにいた。
「おお、あんたでしたか」
森安は真弓に対してなつかしそうに言った。
雑談は和やかだが、しかし、話題が事件に移行すると、森安の声は強張《こわば》った。捜査は壁に当たった状態が続き、思うような進展を見せていなかったのである。
「八日夜、観光デパートを出てからの被害者の足取りが、さっぱりつかめんのですよ」
と、ぼくとつな声はこたえた。
「あたくし、近いうちに、またおじゃまさせてもらうことになりそうです」
「四国出張が続きますな」
「今度は屋島殺人事件の取材で寄せていただきます」
「女性記者のあんたがやるのですか」
「奇妙な縁でそういうことになりました。そのときはよろしくお願いします」
真弓は一応の話を通して受話器を戻し、菅生と一緒に編集部を出た。
週刊レディーの発行元は女性公論社。八階建ての細長いビルは京橋にあった。
真弓と菅生は昼前の舗道を歩いて、東京駅に向かった。都心も、四国に劣らず日差しが強くなっている。
二人は同期入社だが、コンビを組むのは初めてだ。当然といえば当然かもしれないが、山手線に乗るとき、真弓の心は弾んでいた。
上野から別行動をとった。
真弓は京成電車に乗り換えて、滝田夫婦が二年間生活をともにした市川市の賃貸マンション『コープ小池』に向かい、菅生は滝田夫婦が経営するスナック『リヤド』周辺の聞き込みに回った。
『リヤド』は、上野駅から徒歩で五分足らずの場所だった。京成デパートの裏手で、小さい飲食店が目立つ横町である。上野六丁目。質流れ品を主とする古物店があり、古物店の斜め前に四階建ての雑居ビルがあった。
四階は仙台に本社を置く物産会社の東京支社、三階は囲碁クラブ。そして二階と一階には四軒の飲食店が入っている貸しビルだった。
一階はラーメン屋と焼き肉店で、焼き肉屋の店頭にはランチサービスのサンプルが出ていた。
二階が大衆酒場とスナック『リヤド』になっている。菅生は、外の看板を確認して急な階段を上がった。
『リヤド』が店を閉めているのは当たり前だが、大衆酒場も、まだ開店前の時間だった。菅生はひっそりした中廊下で、『リヤド』に向けてカメラを構え、シャッターを切った。木彫のしゃれたドアだが、『リヤド』は間口が狭かった。内部も、隣の酒場の四分の一という感じだ。無論カウンター形式であろうが、止まり木も多くはなさそうだ。
菅生は一階に戻った。ラーメン屋には客足があったけれど、ランチタイムに間がある焼き肉店は、まだがらんとしている。
「滝田さんの奥さんも、とんだ災難だったな」
店主は、菅生の来意を知ると興味をむき出しにした。
『リヤド』同様、夫婦で切り盛りしている店だった。腹が出るほどによく肥えた店主は五十近いが、赤いセーターを着た女房の方はぐっと若く、二十代という感じだ。女房も、菅生が週刊誌の記者と知って調理場から出てきた。
「まあかけなよ」
店主は目の前のいすを菅生に示し、やせぎすな女房は手をふきながら店主の横に立った。
化粧の濃い女だった。
焼き肉屋の女房というより、クラブのホステスという感じである。果たして、彼女には水商売の過去があった。しかも一時期、陽子と同じ上野広小路のバーで働いており、お互いのアパートに泊まり合ったりするほど親しく交流していたのだった。滝田と陽子が雑居ビルの二階にスナックを開いたのも、この店主夫婦の口利きだという。
菅生は、陽子が死の直前に、高松市内のどこかで焼き肉を食べていることを思い出した。陽子はこの焼き肉店にもよく立ち寄っていたに違いない。
菅生は質問の要点に移った。
「離婚の原因は滝田さんの女遊びじゃないの?」
と、女房がこたえると、店主もうなずいた。
「あの男の女好きは有名だよ。乱交パーティーなんかにも参加してたって、もっぱらの噂だぜ」
「いつも複数の女にツバかけているって、そういう感じね」
「奥さん以外の女と飲み歩いているのを見かけたのも、二度や三度じゃない」
現に二ヵ月ほど前にも、滝田の女関係のいざこざが原因で、ヤクザが『リヤド』に怒鳴り込んできたこともあるという。
「あの人は陽子みたいなタイプが好みなのよ。ほっそりした色白で、どこか翳《かげ》のあるホステスに、よく手を出していたらしいわ」
夫婦が、滝田と陽子の二年間を詳しく知っているのは取材記者にとって有り難い。しかし、女房と陽子の関係からいって、証言が陽子に好意的になるのは、やむを得ないことだった。
「わたしは、滝田さんが臭いと思うわ」
赤いセーターの女房はマイルドセブンに火をつけ、くわえたばこでいすを引きながら、そんなことを言い出す始末だった。
「高松まで陽子を追いかけて行って殺したんじゃないの。滝田さんって、冷たい計算をする人なのよ」
「離婚の原因が、夫の浮気であるにしろ何にしろ、二人は正式に別れることになっていたのでしょ。なぜ、別れる妻を殺す必要がありますか」
「別れて困るのは滝田さんの方だもの」
「浮気夫は去っていく妻に未練があった、ということですか」
「お金よ。きれいごとを並べて女性を口説いても、滝田さんは結局そこへいきつくのよ。陽子と結ばれたのだってそうだわ。そりゃ二年間も一緒に暮らしたのだから、それなりの愛情はあったでしょうよ。でも、陽子に貯金がなかったとしたら、滝田さんが結婚に踏み切ったかどうか、怪しいものだわ」
「スナックの開店資金は、陽子さんから出ていたのですか」
「信じられるものはお金しかない。それが陽子の口癖だったわ。せっせと貯め込んでいたのよ。お金だけを信じていればよかったのに、滝田さんみたいなプレイボーイに夢を託したから、こんなことになってしまったんだわ」
正式離婚となれば、店の権利を譲渡してでも、陽子は出資金を引き上げるだろう。『リヤド』は固定客もつき、経営は軌道に乗っているという。出資金の回収が不可能ならば、『リヤド』には陽子が居座り、逆に滝田が放り出されるといった事態も生じてこよう。それを阻止するための殺人ではないか、と、焼き肉店の女房は強調するのである。
なるほど、それは立派な動機となる。
しかし、その四日間、滝田は瀬戸内海を渡ってはいない。滝田は八日の午前、友人の岸本と一緒に陽子を東京駅に見送り、十二日の午後、高松の捜査本部からの電話が市川のマンションに入るまで、東京周辺を一歩も離れてはいなかった、と、高松北署の捜査本部で述べている。
それが事実なら、殺人《ころし》の実行行為者は他に用意されていなければならない。
(一応、高松へ連絡する必要はあるな)
菅生もマイルドセブンに火をつけた。
菅生の内面で、滝田という男と、陽子という女のイメージが、徐々に彩りを濃くしてくる。もちろん、この夫婦からの取材のみでは片手落ちだ。滝田のバーテン時代以来の友人である岸本は、こうした不審についてどのように感じているのだろうか。
いずれにしても、陽子の半生は、『我が愛の悩み』の企画にぴったりといえそうだ。
「二階の『リヤド』はそれほど広くないようですが、上野で店を借りてスナックを始めるとなると、どのくらいかかるものですか」
「あのていどの店でも、権利金や室内装飾や、何やかやで千五百万円は見なければならないだろうよ」
と、これは店主がこたえた。
「千五百万? それを全額、陽子さんが用立てたのですか」
「陽子はわたしなんかとは違って、しっかりしてたもの」
「陽子さんは、ずっと上野かいわいでホステスをしていたのですか」
知りたいのは、滝田が口をすべらせた陽子の暗い過去≠セ。
だが、過去≠ヘ上野にはなかった。陽子が広小路のバーを職場としたのは四年前であり、それから二年後、すなわち今から二年前に、滝田と結婚して『リヤド』を開いたのである。
「広小路のバーに勤めていた頃、特に問題はなかったと思うわ。第一、陽子は、お店を一歩出たら、男を寄せつけなかったもの」
「水商売は、上野が初めてというわけではないでしょう」
「大阪で夜の仕事を覚えたと言ってたわね。わたし、今度の事件を新聞で読むまで、陽子が高松出身なんて知らなかったわ。陽子は都内に一人の知人もいなかったし、ことばに関西なまりがあったので、大阪の人間とばかり思っていたわ」
「アパートに泊まったりするほど親しかったあなたにも、出身地を打ち明けなかったのですか」
「問い質《ただ》せば答えたかもしれないけど、わたしたちって、相手の昔にはあまりこだわらないのよ。お互い、触れられたくない問題もあるしね」
菅生は黙ってうなずいた。その辺りに暗い何かが秘められているのかもしれない、と、考えながらたばこを消した。
サラリーマンらしい若い男が三人、連れ立って入ってきた。
レジの横の時計は十一時を回っている。ランチサービスの客で、店が立て込む時間になっていた。
菅生は腰を上げた。
「開店前の忙しいところをおじゃましました。また寄せていただくかもしれません」
礼を言って外に出た。
菅生は御徒町駅の方向に歩き、歩道にまで段ボールを積み上げてある梱包《こんぽう》屋の前を右に折れた。
取材帳には滝田幹夫の実家の住所と、岸本義昭が経営するマージャンクラブ『いれぶん』の所在地が控えてある。滝田の実家は群馬県高崎市。『いれぶん』は、ぶらぶら歩いても十分とはかからない、アメ横の裏手。
やはり雑居ビルの二階だった。
菅生はアメ横の人込みを横切って、小さいビルの前まできた。しかし、路地に面した二階の、窓ガラスに大書されたマージャンクラブ『いれぶん』の文字を確認しただけで、岸本に会うことはやめた。取材の第一段階は、滝田夫婦の外堀りを埋めることに主眼が置かれていたからである。
さっきの笠倉デスクとの打ち合わせでは、岸本も、滝田夫婦の外側にいる一人だった。岸本にも面会するつもりだった。
だが、焼き肉店の女房の証言をうのみにすれば、滝田は妻殺しの動機を備えていることになるし、殺意の醸成されていたのが事実なら、親友の岸本が気付いていないわけはなかろう。岸本に接近することは、滝田に余計な警戒を与える結果となる。
いや、一方的に勘繰れば、岸本が、影で一枚かんでいる可能性だってないとはいえないだろう。
(ここは慎重に構えるべきだ)
菅生はそう考え直したのだ。
菅生は混雑する路傍から二階の『いれぶん』を一通り見回して、上野駅に戻った。
上野から、滝田の実家がある高崎まで、L特急利用で、わずか一時間十六分に過ぎない。もちろん上越新幹線もあるわけだが、大宮で乗り換えるのは面倒だし、高崎なら所要時間もそれほど変わらない。
菅生はホームでサンドイッチと缶コーヒーを買って、十二時発のL特急あさま13号≠ノ乗った。
真弓の取材結果は、菅生とは微妙に違っていた。
「新聞には離婚することになっていたと出ていたけど、本当ですか。あっしらには、実に仲の良いご夫婦と見えましたがねえ」
と、こたえたのは『コープ小池』の初老の管理人だ。
滝田には内密で話を聞きたい、と、それを前提としての質問であったが、管理人は、こだわりもなくすらすらとこたえてくれた。真弓の人なつこい笑顔が好感を与えたせいもあろうが、返事の内容が、陰口的な色彩を帯びないためでもあろうか。
「しかし」
と、管理人は首をひねった。
「滝田さんは五月一杯で、このマンションを出て行くことになっているのですよ。今考えてみると、離婚のための転居でしょうか。でも、あのご夫婦が別れるなんて、あっしらには信じられません」
市川市の中央を、国道14号線が東西に走っている。国道を挟む位置に京成八幡駅と国電の本八幡駅があり、『コープ小池』は、京成電鉄沿いにある市川市役所の近くだった。古い住宅地の真ん中に立つ新しい五階建てで、三十六戸のうち、およそ三分の二が分譲、三分の一が賃貸となっている。
管理人室には小窓があり、小窓から顔を突っ込む形での立ち話だった。
「滝田さんは月末にマンションを出て、どこへ移ると言ってましたか」
「詳しくは知りませんがね、横浜に引っ越す、と聞いたような気はします。無論二人ご一緒とばかり思っていましたが、こうなってみると横浜に住むのは旦那さんの方で、奥さんは高松へ帰ることになっていたのでしょうか」
「ご主人、あるいは奥さんの外泊はどうでした?」
「お仕事柄、帰りは夜遅かったですね。でも外泊はどうかな。午後、上野のお店へ出るときはいつも二人ご一緒で、あっしにも声をかけていくことが多かったですよ。奥さんより、旦那さんの方が、人づきあいはよかったですね。旦那さんとのあいさつは、ほとんど毎日でした。毎日のように口を利いていたのだから、外泊は少なかったのじゃないですか」
「最近も、二人は同じようにそろって出かけていましたか」
「けんかでもしたような、険悪な感じはなかったですよ。本当に離婚するなら、どっかおかしな点が見えるんじゃないですか」
滝田夫婦は、二年間暮らしたこのマンションでは、精一杯平静を装っていたことになろうか。夫婦のどちらかが異性を連れ込んだり、異性が訪ねてきたり、なんてこともなかったようだ。
「先週はどうでした? やはり毎日顔を合わせていましたか」
陽子が高松へ旅立ったのが八日だから、これは滝田を対象としての問いかけである。
「滝田さんが疑われているのですか。あの人は確かにマンションにいたと思いますよ」
『コープ小池』の管理人は高松北署での滝田の証言を裏付け、なおかつ(女性に限らず滝田の部屋への)第三者の出入りはなかったはずだ、と、力を込めて言った。
「実はおとつい、あんたと同じことを尋ねて、東京から警視庁の刑事さんが見えましてね」
と、管理人は打ち明けた。
管理人が自信を持って真弓にこたえるのは、一昨日の刑事はマンション住人にも当たって、滝田証言の真偽を確かめていたためである。管理人は刑事を案内し、聞き込みに立ち会った。
三階の、滝田の部屋の両隣の主婦たちは、問題の四日間、
「滝田さんをお見かけしましたわ。滝田さんは旅行などしていません」
と、口をそろえたという。
その四日間、滝田が、『コープ小池』を根城として、東京周辺にいたことは裏付けられた。
やはり警察だ、的確に手は打っているのだわ、と、真弓は思った。
滝田夫婦を知る主婦たちも、この二年間の滝田と陽子のむつまじさを肯定し、
「最近だって、変わった気配は見えませんでしたわ。夫婦の間柄って、外からでは分からないものですね」
と、そんなふうにことばを添えたという。
少なくともこのマンションに、陽子の過去≠ヘ影を落としていないようである。真弓は下唇をかんだ。一瞬、沈黙が真弓を見舞うと、
「京成駅前の『雨宮寿司』へ行けば、別の何かが分かるかもしれませんよ」
と、管理人は教えてくれた。滝田夫婦行きつけのすし屋だった。
「おとついの刑事さんも、そのおすし屋さんを訪ねているのですか」
「特に訊かれなかったので、『雨宮寿司』のことは言いませんでした」
高松の捜査本部からの依頼で動いている警視庁の刑事は、滝田のアリバイ確認の方を重視したのであろう。事件を追及する点は共通していても、その辺りが、『我が愛の悩み』担当記者との違いといえようか。
真弓は親切な管理人に礼を言って『コープ小池』をあとにした。
京成八幡駅付近は狭い路地が錯綜しており、ごみごみとした、下町的な商店が多い。改装開店のパチンコ屋の前に、長い列ができていた。
『雨宮寿司』は大手スーパーの裏手にあった。広くはないが、小ぎれいな店である。真弓がのれんをくぐると、昼間からカウンターで酒を飲む、職人ふうの二人連れがいた。
真弓はレジに近いテーブルを選んだ。レジには一目でおかみと分かる、小太りの中年女が座っている。
真弓は散らしの並を注文してから、
「実は、お聞きしたいことがあるのですが」
社名入りの名刺をおかみに出した。
反応は、『コープ小池』の場合と同じだった。
小太りなおかみも、陽子が絞殺された事実はもちろんのこと、ニュースが報じる滝田夫婦の離婚≠、どうにも信じ難いと否定するのだ。
「別れる夫婦が連れ立って外食したり、時間をかけてお酒を飲んだりしますかね」
「ああ、離婚する夫婦のようには見えなかったな」
亭主も散らしずしを作りながらうなずき、
「あの夜だって、話は弾んでいたのじゃないかね」
と、おかみに同意する。
それは、滝田夫婦が最後に立ち寄ったときのことだ。日曜日は上野の『リヤド』は休みなので、夫婦は一緒にやってくることが多かったというが、店主が指摘するのは六日の日曜日である。
六日といえば、陽子が高松へ旅立つ二日前ではないか。
「話が弾んだといっても、笑顔でしゃべり合っていたわけではないでしょう」
「日曜の夜は店が立て込むんですよ。あの夜も常連客で満員でした。滝田さんは一番奥のテーブルだったので、細かいことまでは覚えていないけどさ、でもね、おちょうしも十本以上あけたし、ご夫婦はいつもと変わらなかったと思いますよ」
「お二人とも、随分おすしがお好きなようですね」
「特に奥さんがお好きでしたね。お刺身が好物なのは、瀬戸内海で育ったせいでしょうか。あの夜も、けっこう召し上がったと思いますよ」
そんなことがあるだろうか。夫婦は、特に陽子は、食欲もなく陰うつな空気に覆われていたはずではないのか。
日曜の夜、店は満席だったというから、滝田と陽子の会話が弾んでいたと感じたのは、あるいは店主夫婦の錯覚かもしれない。これまでの滝田と陽子のイメージが重なって、勝手にそう思い込んだだけのことかもしれぬ。
注文の散らしずしができた。おかみが散らしをテーブルに乗せたとき、
(そうだわ、錯覚に違いないわ)
真弓は自分の中でつぶやいていた。
あるいは、陽子にも、滝田に共通する見栄があったのだろうか。二年間の生活の場であったマンションとか、行きつけのすし屋に対しては、破局を見せたくなかった、というような計算も働いたかもしれない。
真弓は散らしを食べながら、市川での取材結果をそのように整理していた。
そして、それは、夜、週刊レディーの編集部で、菅生とそれぞれの聞き込みを検討したとき、動かし難い確信となった。
「滝田ってのは、実に嫌な男だな。彼が本|犯人《ぼし》かどうかはともかくとして、陽子さんの不幸の遠因が滝田にあったことは間違いない」
菅生は怒りを隠そうともせずに言った。離婚歴を持つ菅生だけに、真弓には理解のできない感情が動いているようでもあった。菅生が足を伸ばした高崎でも、滝田の無責任な性格だけが浮き彫りにされたのである。
週刊誌の編集部は夜が遅い。
慌ただしい大部屋の一隅に応接セットがあった。笠倉デスクを中心にしての話し合いである。
真弓、菅生の順に報告は続いた。
「実家は裕福ですがね」
菅生は一息入れてから言った。
高崎市内の生家は手広く畳店を営んでいた。今は長兄の代になっているが、他の兄たちもそれぞれ独立して、きちんとした生活を送っている。
滝田は五人きょうだいの末っ子だった。両親が年とってからの子供で、長兄とは親子に近いほど年齢が隔たっていた。
一家は、年の離れた末っ子を盲愛したらしい。甘やかされ、我がまま一杯に育ったことが、滝田の奔放な人柄を決定付けたようだ。
「滝田ははったり屋の目立ちたがり屋で、気取りが多かった。男っ振りがいいので、女の子にはもてたようです」
菅生は取材帳をめくった。取材先は生家周辺と、滝田の高校時代の旧友たちである。
「滝田のことをよく言う人間は一人もいなかった。一人も、ですよ。これが問題だと思います。市川の場合だけ違うのは、周囲の人間の、滝田夫婦に対する接触が浅かったからではないでしょうか」
「僕もそう感じるね」
笠倉デスクもうなずいた。笠倉は度の強い眼鏡をかけており、ぼそぼそとしたしゃべり方をする男だった。
「で、滝田の長兄たちは、今度の事件をどう見ているのかね」
「生家には直接当たりませんでした。近所の人の話によると、長兄たちは、あれはもう他人だから、と、そんな言い方で無視する態度をとっているようです」
「滝田は勘当されてるのか」
「高校を中退した滝田は、家族の猛反対を押し切って高崎市内のパブでバイトするようになったのですよ。バイトと言っても、ろくな仕事もせず、ガールハントが主だった、と、もっぱらのうわさです。金使いは荒いし、年上の女性なんかも相手にする乱脈な異性関係に家族は手を焼いたようです。長兄たちが注意すると、家庭内で暴れることも再々だったと言います」
滝田は追われるようにして東京へ流れた。夜の東京で暮らすようになってからも、金銭をせびるなど、実家への迷惑は続いた。
「長兄からはっきり引導を渡されたのは、五年前です。滝田は、以来一歩も故郷へ足を向けていません。もちろん高崎の家族は、滝田が陽子さんと一緒になった事情も詳しくは知っていないはずです」
菅生の説明を真弓は黙って聞いていた。要点をメモしながら、三日前の瀬戸内海を思った。宇高連絡船の後部甲板で、慣れ慣れしく接近してきた滝田の長身を考えた。
荼毘《だび》に付した亡妻の遺骨を手にしていたのに、哀しみといったものとは全く無縁な言動を見せていた男。陽子は、なぜそのような男に惹かれたのか?
陽子は過去≠ノ殺されたのかもしれない、と、潮風の中で滝田は言った。
あれは、滝田が、自分への疑惑を他にそらすための準備工作であったのだろうか。それとも、陽子の過去≠ヘ、実際に生命を狙われるほどの暗いものを秘めていたのか。真弓がそれを考えたとき、
「明日から、本格的に陽子の半生の洗い出しだ。四国へ飛んでもらうよ」
笠倉デスクが先回りをするように言った。
過去≠フ男
真弓は翌日午後の新幹線で出発した。
その夜は高松駅前のホテルに一泊し、十九日、土曜日の朝、歩いて高松北署の捜査本部に入った。藤の花の下の死体を発見してから、ちょうど、一週間が過ぎている。あの日と同じように、楠の並木を吹く風がさわやかだった。
森安警部補と吉井刑事が、真弓を迎えてくれた。
朝の捜査本部は慌ただしい。大声で打ち合わせをする捜査員もいるし、怒ったような口調で電話をかける刑事もいる。
森安と吉井は、騒々しい本部を避けて別室の刑事課に真弓を案内した。
同じ二階だが、こっちは書類の整理をする私服が一人いるだけで、大部屋とは別世界のようにひっそりしている。鉄格子のはまった窓の向こうに、裁判所の中庭が見える。
真弓は窓際のいすに腰を下ろすと、週刊レディーのバックナンバーを机に乗せた。『我が愛の悩み』のページを開いて編集方針を説明し、
「我社《うち》としては真犯人の追及はもちろんですが、陽子さんに焦点を絞りたいのです」
と、取材目的を告げた。
そして、一昨日の取材結果を伝えると、
「ほう」
森安は広い肩幅の上半身を乗り出してきた。
その顔色から察するに、菅生が上野の焼き肉店で聞き込んだ情報は、森安にとって初耳であるらしい。高松からの依頼で動いた東京の警視庁捜査共助課は、やはり滝田のアリバイ確認を主眼としていたのであろう。裏の人間関係は突いていない感じだった。
と、同時に、
「あの男の名前はリストに残して置く必要がありそうだな」
と、つぶやく森安の真剣なまなざしは、一週間の捜査に進展がないことを示していた。
「ほかでもない、あんただから打ち明けますがね、全く行き詰まった状態なんですわ」
森安は吐息してセブンスターに火をつけた。
「これほど騒がれた事件なので、今までの例だと必ずタレ込みがあるものです。それが、目下、それらしい情報は一本も寄せられていません」
高松駅の観光デパート食堂で、老人ホームの伯母と電話で話し合った陽子は、それからどのような経由で屋島崖下の廃屋に連れ込まれたのか、足取りは皆目つかめていなかった。高松市内とその周辺の、焼き肉を出す店を、刑事たちは足を棒にしてシラミつぶしに当たった。陽子と覚しい女は浮かんでこなかった。
「こうなってみると、彼女は食堂ではなく、どこかの家庭で、ロースとかレバーを食べたのかもしれませんな」
「不動産屋さんも見当がつかないのですか」
「全く手がかりなしです。不動産業者は横の連絡があるわけですが、どの店も、屋島西町の土地売却を耳にしていないのですわ」
昔の交遊関係を当たっても、反応は皆無だった。事件が報道されるまで、伯母の笹本トメを例外として、陽子の七年振りの帰郷を、だれ一人として知ってはいなかったのである。
高松で陽子を待っていたのは一体だれなのか?
死体移動の、真の目的は何であったのか。(吉井が思いつきで森安に語ったように)殺人《ころし》の犯人とは別の、(死体を藤の花の下へ運んだ)もう一人の影の人間がいるのだろうか。
もう一人の影が存在するとすれば、ショートホープの空き箱とか吸い殻は、(第一現場の廃屋と同時に、第二現場の藤の花の下からも発見されているので)死体運搬人≠フ遺留品ということになる。殺人者≠フ方は、何一つ痕跡を残さない用意周到な人間、ということになろうか。
「ま、そういったことも、考えられないわけではないのですな」
「やはり、彼女の過去≠ェ問題となってきますか」
真弓は、宇高連絡船での滝田のつぶやきを森安に打ち明けた。
「陽子さんは過去≠ノ殺された?」
森安がおうむ返しに言うと、若い吉井が二人の間に割って入った。
「あの男、そんなことは一言もしゃべってはいなかったじゃありませんか」
むしろ、その逆だ。遺体引き取りに現れた六日前、滝田は捜査本部で、森安の質問に対して、
「陽子も水商売で生きてきた人間です。僕が知らない過去もあるでしょう。でも、殺されるほどの事態が起こっていたとしたら、一緒に暮らしていた僕が気付かなかったはずはないと思います。だれかに狙われているような、そんな気配は見えなかったですよ」
と、こたえているのだ。
「滝田は何の目的で、北川さんにそうしたことをささやいたのでしょう」
「滝田という人間は、その場限りの無責任な出まかせを、平気で口にできる男だ。連絡船の上では北川さんの気を惹こうとして、妻の哀しい過去≠仕立てたのかもしれない」
「滝田が、女性に接近するテクニックを先天的に備えていることは分かります」
「被害者の過去≠ノ不審があるのなら、過去≠われわれに示した方が彼の立場は有利になる。捜査本部で口にしなかったのは、実は、裏付けがあっての発言とは違うのではないかね」
「滝田は嫌な男ですが、やはり、殺人とは無関係ではないでしょうか。無実であるなら、立場を有利にする必要もないわけです。滝田は何も彼も承知していて、われわれに対しては口をつぐんだのではないでしょうか」
「どういうことかね」
「余計な面倒に巻き込まれるのを嫌った、とは考えられませんか」
「あの男にとって、妻殺しの犯人逮捕は二の次だというのか」
「上野の焼き肉店夫婦の証言が事実なら、滝田は立派に動機を持っているわけです。犯人追及よりも、妻が死んだという事実が、すべてに優先したのではないでしょうか。何せ、あんな派手な格好で妻の死に対面した男ですよ」
「なまじ過去≠告げて、捜査本部に足止めを食ったりする煩雑を避けたというのか。確かに、背信的というか、そういう身勝手なタイプではあるね」
いずれにしても、と、そこで森安は真弓に視線を戻し、
「動機がどうあろうとアリバイ完備の滝田がシロで、被害者の高松時代に手がかりがないとしたら、高松と東京の中間、大阪時代の過去≠ェ問題となってきますな」
と、言った。
滝田の発言の有無は別にして、陽子の過去≠ェ、やはり重要なポイントだ。殺人《ころし》に直接手を下した犯人と、(陰にいるかもしれない)死体を移動したもう一人の人間も、陽子の大阪時代の生活に関係してくることになろうか。
「高松は殺人現場に利用されただけのことかもしれません」
森安は力を込めて続けた。
真弓は森安の自信のある顔を見て、捜査本部が、過去≠ノ向かって、すでに動いていることを察した。それは捜査の常道だ。一週間の追及は、陽子の過去をどこまで浮き彫りにしたのだろうか。
しかし、肝心な点になると、(第一発見者である真弓には好意的な森安も)口が重くなった。
真弓が質問を重ねると、
「高校時代の陽子さんと親しかったクラスメートが坂出に嫁いでいますよ」
森安はクラスメートの住所を走り書きし、さらに、こんなふうにことばを添えてくれた。
「今度の事件《やま》では、あんたとは特別な縁があるわけですから、新しい発見があれば、すぐに編集部へ連絡しましょう。担当は、ええと、菅生さんと言いましたな」
「菅生が不在の場合は、笠倉というデスクがおります。よろしくお願いします」
真弓は、一時間足らずで高松駅へ戻った。
坂出は、高松始発の急行の、最初の停車駅である。高松から二十分。
予讃本線は瀬戸内海に沿って走っているのに、坂出を過ぎるまで海は見えない。窓外をよぎる田園風景は単調そのものだった。
坂出は、急行が停車するとはいえ、小さな駅だった。真弓は先週の城めぐりの取材のとき何回か通過しているわけだが、印象は薄かった。
降車客も数人しかいない。真弓は跨線橋《こせんきよう》を渡り、一番最後に改札口を出た。アーケードの商店街は駅からやや離れており、駅前広場は殺風景だった。あまり人のいないバスターミナルの先に古い宿屋があり、自転車預かり所があった。
森安警部補がメモしてくれた住所は、綾川近くの県営住宅だった。綾川は市のほぼ中央を流れて坂出港に注いでいる。
電話をかけると、鉄骨四階建ての団地なのですぐに分かるという返事だった。真弓は十分余りの道を、海の方角に歩いて行った。
陽子の高校時代のクラスメートは、平凡なサラリーマンの主婦に収まっていた。就学前の、二人の幼い女の子がいた。
旧友は団地入口の広場で、幼い子供たちを遊ばせながら真弓を待っていてくれた。陽子とは対照的に地味なタイプだった。
二人の子供を砂場で遊ばせ、砂場の前のベンチに腰を下ろしての対話となった。大きいヒマラヤ杉が、砂場とベンチに日陰を作っている。
「陽子は、やはり幸せを手にすることができなかったのですね」
旧友は真弓の質問にこたえて言った。
「陽子は中学時代から、多くの男の子に騒がれるほどの美人でした。でも、本当に親しくしたボーイフレンドはいなかったわ。彼女って、翳《かげ》のある性格なのよね。言い寄ってくる男の子たちが最後のところで離れていくのは、陽子の暗い性格に原因があったと思います」
「どうしてそんなに暗かったのでしょう? 家庭が冷たかったのですか」
「とんでもない。ご両親は一人っ子の陽子をとてもかわいがっていましたわ。わたし、中学のときから一緒でしたが、今老人ホームに入っている伯母さんも陽子を実の娘のように面倒みて、あちこち連れ歩いていたのを知っています。わたしなんかきょうだいが多かったので、一人っ子の陽子がとてもうらやましかったものです」
「暗かったのは先天的な性格、ということになりますか」
「いいえ。中学生の頃は名前の通りで、人一倍明るかったわ。あのようにきれいな顔立ちでしょ。だれからも好かれる存在でしたわ」
その陽子が一転、翳のある性格となったのは、美人であるだけに、異性関係で悲しい間違いでもあったのだろうか。真弓がそう考えるのは、週刊レディー編集者としての、これまでの取材体験からだった。
確かに、アクシデントはあった。
「陽子は、人に言えない不幸を負っていたのよ」
旧友は枝振りのいいヒマラヤ杉に目を向けた。
「亡くなってしまったのだから、もう隠しておく必要もありませんわね」
と、ことばを次いだのは、一呼吸入れてからだった。
「彼女、実は捨て子だったのです」
旧友は感情を抑えて言ったが、捨て子、の一言には残酷な響きがあった。森安警部補も、その点は当然確認済みのはずだ。自分の口から真弓に伝えなかったのは、出生の秘密は、事件と直接のかかわりを持たなかったためであろうか。森安の気の好さそうな人柄からいっても、犯罪と無関係な過去は説明しにくかったのかもしれない。
真弓はそう思ったが、しかし『我が愛の悩み』担当者としては、重要な取材内容だ。
「陽子は高校入学の前後に戸籍謄本を見て、自分の暗い出生を知ってしまったのね」
「捨て子ということまで、謄本で分かるわけではないでしょう」
「他人を中傷するのが好きな口の軽い人って必ずいるものですわ」
屋島西町の生家近くには、陽子が養護施設からもらわれてきた頃のいきさつを知るうわさ好きな主婦が何人かいた。いずれ、秘密≠ェ表沙汰になるのは時間の問題であったかもしれない。
生後間もない陽子が捨てられていたのは、高松港の乗船待合所。瀬戸内海は厚い黒雲に覆われ、うっとうしい雨が降り続く季節だったという。生みの親を知る手がかりは何一つ残されていなかった。
「両親や伯母さんからあれほどかわいがられていたのに、高校に入って陽子は全く人間が変わってしまいました。中学以来の親友だったわたしには何も彼も話してくれたけれど、もう中学校時代の陽子ではありませんでした」
高卒後、陽子が故郷を捨てた原因は、出生の秘密にあったわけである。高校の先輩が結婚して大阪にいた。陽子はその先輩を頼って、瀬戸内海を渡って行った。
「大阪へ出てからは、わたしとも疎遠になってしまいました。彼女、クラスメートのだれともつきあいたくなかったのじゃないかしら。薄々想像はしていましたが、大阪から東京へ移ってスナックを経営していたなんて、意外でしたわ」
真弓は、瞬時にして暗転した陽子の青春を考えた。十代の少女にとって、自分が両親の実の子でないと知ったときの衝撃はどれほどであっただろう。しかも、単なるもらい子ではなく、捨て子なのだ。
「陽子さんを受け入れてくれた高校の先輩は、今も大阪にいらっしゃるのですか」
「結婚して浅田さんという姓に変わっています。浅田みな子さんです」
高校の同窓会名簿で浅田みな子の大阪の住所を確かめてもらい、真弓は坂出市をあとにした。
「あの子はどうして、こう不幸なのだろう」
伯母のトメは、陽子の死に接したときそうつぶやいている。真弓は、それを森安警部補から聞かされても、深くを考えなかった。しかし、トメのつぶやきには、実はこうした背景があったのだ。
高松へ戻る普通列車は、行商人で込んでいた。ディーゼルカーの中で、真弓の感情は複雑に揺れ動いた。
大阪へ足を向けたのは翌二十日、日曜日の午前だった。
真弓は梅田から地下鉄を利用して、天王寺で降りた。
陽子の先輩は所帯を持つのが早かった。高松の高校を卒業して大阪へくると間もなく結婚。夫に協力して喫茶店を開いた。
そのみな子を頼って陽子が大阪へきたのは、喫茶店を始めていくらも経たない頃である。陽子は、当初喫茶店を手伝ったという話だ。
真弓は天王寺駅前の歩道橋を渡り、近鉄百貨店からみな子に電話を入れた。
明るい、気さくな声が返ってきた。
「十年前のことを聞きたいのですか。陽子がなぜあんな殺され方をしたのかあたしも知りたいのよ」
みな子はそう言った。喫茶店への道順をていねいに教えてくれた。
店は天王寺駅から近いが、繁華街ではなかった。阿倍野区松崎町。軒の低い長屋が並ぶ入り組んだ路地を抜けると、十字路があった。みな子が夫と切り盛りする喫茶店は、薬局、八百屋、食堂などが向かい合う四つ角に位置していた。一階が店で、二階は住居となっている。
日曜日の昼前なのに、小さい喫茶店は込んでいた。場所柄からいって、ほとんどが常連客のようである。スポーツ新聞を広げる、サンダル履きの若い男性が多かった。
みな子は色白で、よく太った女だった。年齢は若いはずだが、愛想のいい小母さんといった感じである。
みな子はカウンター内の夫に声をかけ、真弓を二階の自室へ通してくれた。食卓も散らかったままの、乱雑な八畳間だった。
「陽子のこと、面白おかしく書くのではないでしょうね」
みな子は座布団をすすめ、最初にそれを言った。
「故人を悪く扱うなんて、そんなことは決してありませんわ」
真弓が週刊レディーのバックナンバーを取り出して、『我が愛の悩み』の主旨を説明すると、
「そうね、あなたなら変な記事にはしそうもないわね」
みな子は無遠慮に高い声で笑った。ものにこだわらない性格のようだった。
「陽子がうちに住み込んでいたのは三年足らずだったわ。最初はまじめに働いてくれたのですけどね」
と、質問にこたえてしゃべり始めた。
陽子が高松に背を向けた原因を、無論みな子も知っていた。承知していればこそ、後輩に手を差し延べたのだという。
「暗く、沈み勝ちだったのはやむを得ないとしても、自暴自棄に走るようなところはなかったわね。そりゃ、出生の秘密を知ったときはショックだったでしょうが、考えてみれば、物質的に豊かでなかったとはいえ、屋島の両親も、伯母さんも、陽子のことは心からかわいがっていたのだもの、陽子だってその点は分かっていたはずだわ。あたしの目から見ても陽子が変わったな、と、感じられたのは、交通事故でご両親を同時に失ってからだったわね」
「七年前になりますか」
「そんなになるかしらね。あの子、金銭に対して急に執着を示すようになったのよ。前からそうした気《け》がなかったわけじゃないけど、両親のお葬式を終えて高松から帰ったとき、自分もいずれは喫茶店かスナックを開きたい、なんて言い出してね」
大阪でも、陽子に言い寄る男性は多かった。陽子がそうした男性客の一人に反応を示すようになったのも両親が他界してからだった。(高松に背を向けたとはいえ)かわいがってくれた両親の存在は、陽子の心の支えになっていたはずだ。その両親の突然の死が、もう一つの転機を運んだ、ということになろうか。
陽子は男に誘われてみな子の店をやめた。十三《じゆうそう》に移り、その男と同棲するようになった。
「同棲ですって?」
真弓はショルダーバッグからメモ帳を出した。目の色が変わってきた。
「結婚するつもりだったのですか」
「所帯を持つような相手ではなかったわ」
男は遊び人だった、と、みな子は首を振った。
その男が、陽子の過去≠フ影を形成する一人なのか。
「一見おとなしくてまじめそうだけど、れっきとした組の人間だったのよ。典型的なスケコマシというところね」
「陽子さんは男性の実体を知らなかったのですか。少なくともママさんなりご主人は、その男の隠された一面に気付いていたわけでしょ。どうして注意されなかったのですか」
「それなのよ」
みな子は口元を引き締めて、ショートホープをくわえた。
「実はね」
と、声を低くしたのは、たばこに火をつけ、大きく煙を吐いてからだった。
「死んだ陽子を悪く言いたくはないけれど、あの子、店のレジに手をつけたのよ」
「売上金を盗んだのですか」
「どうもおかしいなと思うようになったのは、やはり、屋島のご両親が亡くなってからだわね」
「男にそそのかされたのでしょうか」
「それだけじゃないわね。だって陽子、盗んだ売上金を二十万円近くも、スーツケースの底に隠していたのよ」
信じられるものは金銭しかないという陽子の人格は、すでに、この頃から形を持っていたのかもしれない。と、すれば、盗みの発覚と、ヤクザな男との交流の深まりは、必ずしも軌を一にしていたわけではないだろう。しかし、陽子は男について天王寺から十三へ転居した。これは掘り下げる必要がある。
「その男性、今どこに住んでいるか分かりますか。名前は何というのですか」
真弓はメモ帳を開き、ボールペンを持った。
「坂ちゃんと呼ばれていたわ。本名はだれも知らないのじゃないかしら。今はどうしているのかナ。陽子とはすぐに切れたって聞いてるわ」
みな子はたばこを消した。知っていることは何でも気安くしゃべるタイプ、と思えたのに、口が重くなっていた。みな子にとって陽子は、一時期、妹のように世話した後輩だ。赤の他人のうわさ話をするような具合にはいかないのかもしれぬ。
(その男だろうか)
七年振りで高松へ帰った陽子を待っていたのが、坂ちゃんと呼ばれた、その男だろうか。真弓がボールペンを持ち直すと、
「その頃の詳しいことは、杉田京子さんに訊けば分かるわ」
みな子は視線を遠くへ向けて言った。
「このあいだ、警察からも問い合わせの電話があったのよ。あたし、陽子が十三に越してからのことはこたえようもないので、杉田さんのお店を教えてあげたわ」
と、みな子が口にする杉田京子は、十三時代の陽子と親しかった。同じ仕事についていたこともあるという。
みな子が京子を知っているのは、十三へ移って間もなくの陽子が、盲腸炎で入院したためだった。坂ちゃんなる男は、病院にかつぎ込まれた陽子の面倒をろくにみなかった。
そこで、陽子はみな子に泣きついた。後足で砂をかけたのにも等しい先輩に対して、今更そんなことのできる立場ではないが、仲に入ったのが京子だった。
「放っておくわけにもいかないので、退院まで世話してやりましたよ。それが最後だったわね。あの子も敷居が高いのか、退院後一度お礼にきただけで、今日まで何の音沙汰もなかったわ。あの子が名古屋へ流れたことは杉田さんから聞いていました。でも、東京で結婚していたなんて、今度の事件が起こるまで、風の便りにも耳にしていなかったわ」
「陽子さんと杉田さんは、バーとかクラブのようなところで一緒に働いていたのですか」
「それも、直接杉田さんに尋ねた方がいいと思うわ」
みな子は含みのあるこたえ方をした。十三へ移ってからの、陽子の暗い日常を暗示する口振りだった。
杉田京子は東淀川区の西中島町で、やはり喫茶店を開いていた。西中島町は十三と新大阪駅の中間地点である。
真弓は地下鉄を乗りついで、西中島南方で降りた。地下鉄といっても、この辺りでは電車は地上に出て、ガードの上を走っている。地下鉄に阪急京都線が交差しており、阪急の南方駅近くに、杉田京子の経営する喫茶店があった。
ステンドグラスをまねた、いかにも安っぽい窓ガラスの店だった。
みな子の店とは違って、客は一人もいなかった。夜は酒場に衣替えするのか、カウンター横の棚に、キープのウイスキーボトルが並んでいる。
真弓が入っていくと、その棚に寄りかかり、くわえたばこで週刊誌を読んでいるのが京子だった。
店も暗かったが、
「いらっしゃい」
無愛想に顔を上げた京子も、みな子とは対照的に、不健康に沈んでいるまなざしだった。鳥のようにやせた女で、声にもつやがなかった。
真弓が訪問の目的を告げると、
「殺人事件を、女の記者さんが取材するんか」
京子は珍しそうに言った。しかし、崩れた外観とは異なり、取っ付きが悪いわけではなかった。
「かけてよ」
と、目の前のいすをすすめ、何日か前に刑事が訪ねてきたことを自分の方から言った。聞き込みにきたのは東京の場合と同じことで、香川からの依頼による大阪府警本部の捜査員だった。真弓は、当然とはいえ、高松北署の捜査本部が着実に動いていることを知った。
だが、それでもなお森安警部補は、
「全く行き詰まった状態なんですわ」
と、吐息まじりに語っているわけだ。それだけ、陽子の過去≠ェ複雑ということなのか。何人の男が陽子を通り抜けていったのだろう?
「多分、刑事さんと同じ内容をお尋ねすることになりますが」
と、真弓は切り出した。
とりあえずの眼目は、坂ちゃんなる男の所在だ。十三ではどんなアパートに入っていたのか。同棲生活の実態もメモしなければならない。
「昨日のことみたいやけど、七年になるんやね」
京子はたばこを消した。真弓と向かい合って座ると、細い脚を組んだ。
「一緒に暮らしたいうても、坂ちゃんとは一ヵ月足らずと違うか」
盲腸炎の手術を終えて陽子が退院したとき、十三西之町のアパートには別の男が入り込んでいたという。
「陽子さんは男性にだらしのないタイプですか」
取材が進むにつれて、陽子のイメージは影を帯びてくる。お定まりの転落コースというのだろうか。
しかし、同棲相手が代わったのは陽子の意思ではなかった、と、京子は繰り返すのである。
新しい男は種岡五郎といった。陽子より一回り年上で、殺人未遂、傷害などの前科七犯を数える極道だった。
「種岡は肩で風切る恐いお兄イさんや。同じヤーさんでも、坂ちゃんとは全然格が違う」
「こんな言い方したくないのですが、種岡という幹部が配下の女を横取りしたことになりますか」
「最初からそういう筋書きだったさかいにな」
「筋書き?」
「ハンサムボーイの坂ちゃんは、女の子たちを欺して連れてくるスカウト係だったいうわけや」
みな子の口にしていたスケコマシの意味がそれだったのか。真弓はうなずいた。背後で牙を研《と》いで待っていたのが前科七犯の幹部。種岡五郎という男は、坂ちゃん以上にマークする必要があろう。この暴力団幹部を、森安警部補はどのように分析しているのか。
真弓はメモ帳を手にした。
出生の秘密の発見。
家出。
両親の事故死。
盗みの発覚。
坂ちゃんとの同棲。
入院。
種岡五郎の牙。
要点だけをチェックすると、(もちろん一般の女性が体験することではないけれども)黒い渦に巻き込まれていく過程は、ある意味ではありきたりだった。
問題は、陽子がどのような形で種岡の罠を逃れたかということだ。陽子は、その五年後には滝田と結婚して、スナック『リヤド』を経営するのである。
暴力団の幹部が、無条件にカモを手放したとは考えられない。種岡にも殺人の動機があるのではないだろうか。ベールを一枚ずつはいでいけば、動機に光を当てることができるかもしれない。
「陽子さんはクラブとかキャバレーで働かされていたわけですか」
恐らく、京子も同じような境遇だったのだろう。真弓がそう考えながら質問を続けると、
「ホステスの稼ぎなんか高が知れとるわ」
京子はかすれた声でこたえた。投げやりな口調に変わっていた。
「十三西之町へ行くと、ラブホテルやトルコがぎょうさん並んどるわ」
「トルコへ出ていたのですか」
陽子は体を売るようになっていたのか。
「あんたら顔色変えるけど、そないじめじめした仕事やないで」
京子は新しいたばこに火をつけた。
「肝心なのは見切り時やな、わたしみたいに体を壊して追い出されるんじゃ最低や」
京子はそんな言い方で、陽子と同じようにトルコに身を沈めていたことを打ち明けた。心身ともに崩れているが、実際には、それほどの年齢ではないのかもしれぬ。
京子は、足を洗った陽子をうらやんでいるようにも見えた。彼女もまた、過去≠知られていない町へ移り、平凡な結婚を手にすることにあこがれた時期があったのに違いない。
「種岡って幹部は今も大阪にいるのでしょ。陽子さんはどう話をつけて、十三を出たのですか」
「ある面で陽子は運がよかったんやわ。種岡は組の内部でいざこざを起こしてね、対立する幹部を日本刀で斬りつけ、大けが負わせたのよ」
非は種岡にあったらしい。仲間を傷つけた種岡は組にいられなくなった。種岡は陽子を連れて九州へ逃れようとした。
「でも、高飛びの寸前、サツにパクられちゃったのよ。和歌山の刑務所で服役したと聞いてるわ」
当然、種岡に代わる新しいヒモが出現してくる。しかし陽子は、種岡が拘束された間隙を縫って、夜の十三をあとにしたのだった。
「陽子は決断が速いし、実行力もあるのよね。その点、わたしなんかどうもならんわ」
京子は惰性のようにたばこの煙を吐いた。蟻地獄。そんなことばが、真弓をかすめた。夜は酒を出す場所に変わるこの喫茶店にも、暴力団の息はかかっているのかもしれないと思った。陽子の場合の種岡のような男が、京子にもいなかったとは言えまい。
「種岡という幹部は、現在も和歌山で服役しているのでしょうか」
この点は東京の菅生に電話を入れれば、すぐに調べはつくだろう。しかし、この場で確認がとれるなら、それに越したことはない。
「今度の別荘暮らしは、長いのと違う? 傷害ではなく、殺人未遂で送られたんや。何せ、同じような前科《まえ》が七つもあるのよ。それにさ、仮に釈放されたとしても、もう大阪には現れんやろ。今でも種岡を恨んでいる連中は多いさかい、それこそ半殺しになるのは目に見えているわ」
坂ちゃんなる色男も、兄貴分の逮捕に前後して十三から姿を消した。行方を知る人間はだれもいないようだ。もっとも、坂ちゃんの方は種岡ほどの大物ではないので、うわさもすぐに立たなくなったという。
「どうせ、どっかでぐれているんやろが、陽子だって、今更相手にはしないでしょうよ」
と、すると、坂ちゃんと種岡は、陽子の過去≠ノ翳を刻んだ男であったとしても、現在は無関係、ということになろうか。
「大阪を出た陽子さんは、名古屋へ移ったと聞きましたが」
「名古屋の中村に『朱里』というトルコがあるわ。『朱里』に、十三から移った光代という三重出身の仲間がいてね、陽子はとりあえず光代を頼っていったのよ」
「名古屋でも、トルコで働いたのですか」
真弓は、東京駅の新幹線ホームで、ちらっと視野をかすめた藤色のスーツを思った。六年前の陽子も、やはり、あの寂しい色を好んでいたのだろうか。人目を避けて、大阪から名古屋へ行く列車に揺られる悄然《しようぜん》とした後ろ姿が、見えてくるような気がした。
だが、惰性でたばこを吹かす京子に、真弓のような感傷はなかった。
京子は言った。
「体売るしかしようがない生活もあるんよ。手っ取り早くお金を稼ぐにはそれしかないやろ。陽子は着のみ着のまま、文字通り裸一つで大阪を逃げ出したんやで」
「陽子さんが中村の『朱里』で働いたことを知っている人は、ほかにいますか」
これも一つのポイントだ。十三時代のだれかが、陽子の消息を聞いて名古屋へ追いかけて行ったとすれば、探りを入れておかなければならない。
だれにも知られていないはずだ、と、京子はこたえた。陽子の先輩に当たる天王寺のみな子には口を滑らせたが、それだって、『朱里』の店名まではもらしていないという。
「トルコで働くような女は、皆、人には言えないいきさつがあるもんや。でも、陽子は、ずるずると落ち込んでいく連中とはどこか違っていたものね。何とか立ち直ってもらいたいと考えるのは、人情やないか」
陽子は、そっと京子に別れを告げにきたとき、
「お金貯めたら、知らない町で小さなスナックでも持ちたいわ」
と、言い残している。
共通したことはみな子に対しても語っているわけだが、天王寺当時の陽子とは背景が違う。
「種岡たち、大阪の連中に見つけ出されたら、元の木阿弥や。わたしかて、陽子をそない目には遇《あ》わせたくないもの。今だって、陽子がどこかで生きているとしたら、たとえ親切に面倒見てくださったみな子さんにだって、わたし、名古屋の『朱里』は口外しないつもりだったわ。わたしみたいな女でも、そのくらいな神経は持ち合わせとるわ」
京子は、自分の果たせない夢を、陽子に見ているのかもしれなかった。会話が進むにつれて、京子の口調は、(からっとはしているが)切実な彩りを濃くしてくる。京子の沈んだまなざしに、殺された陽子の短い一生が投影されてくるようで、真弓は息苦しくなってきた。
「あの子はどうして、こう不幸なのだろう」
高松の老人ホームに住む笹本トメのつぶやきが、もう一度、真弓に聞こえてきた。
真弓はガードの上を走る地下鉄、御堂筋線を利用して、新大阪駅へ出た。
日曜日の午後とあって新大阪駅は込んでいた。真弓は二階のレストランに寄った。広い店内も旅行客で満員だった。二階だが、新幹線ホールの下にあるせいか地下街のような感じで、窓のないレストランだった。
真弓は片隅のテーブルで老夫婦と相席し、ポタージュのスープとサンドイッチで遅い昼食を済ませた。
人一倍健康な二十九歳とはいえ、せわしなく瀬戸内海を往復した疲労は隠せない。が、このまま名古屋へ向かう気持ちになっていた。疲労よりも、同じ二十九歳で他界した陽子の薄幸な過去≠追及しようとする感情の方が高まっている。
四年前、上野広小路のバーに移ってからの陽子については、一応の取材を終えているのである。残されているのは、大阪と東京の中間地点である名古屋だ。
名古屋では、どのような男が陽子を通り抜けていったのか。大阪から陽子を追ってきた影はいなかったのだろうか。
新幹線ひかり号で新大阪駅から一時間七分。名古屋駅西口へ降りたのは午後三時過ぎである。
電話帳で調べると『朱里』はすぐに分かった。
真弓は西案内所で道順を確かめた。ゆっくり歩いても十五分とはかからない距離であった。真弓は駅を出たところで足を止めた。取材慣れしているとはいえ、トルコ風呂へ足を向けるのは初めてだ。女性が、一人で訪ねていくことに抵抗を覚えるのは当然だろう。
名古屋駅の、裏手に当たる西口駅前には大小の新しいビルが林立し、学習塾とか予備校の大きい看板が目立った。真弓は乾いた風景に視線を投げて少考し、レンタカー案内所前の電話ボックスに入った。
電話はすぐにつながった。
不愛想な女の声が出た。
「もしもし」
真弓は、(実際にのぞいたことはないけれども)個室が並ぶ中廊下を想像しながら、光代の名前を言った。
「五、六年前、そちらで働いていた方です。ご存じありませんか」
「あんただれ?」
不愛想な声は低くなった。警戒していることが真弓に分かった。やはり、名古屋には何かがありそうだ。
みな子や京子を聞き込んだときとは手ごたえが違う。
先方が慎重になっているという最初の反応が、真弓に緊張を運んだ。
「光代さんにお会いして、陽子さんの話を伺いたいのです」
「陽子? 陽子は高松で殺されたのでしょ」
「陽子さんのこと、ご存じなのですね」
「あんた、どこから電話してるの?」
「名古屋の駅前ですわ」
「名古屋の人じゃないわね。だれに頼まれて名古屋へきたの? 頼んだのはだれよ? 殺されてしまった人間に、今更何の用があるっていうの」
低い声は早口だった。こっちの質問を拒否するための早口だった。
その相手の応対に変化が生じたのは、真弓が改めて自分を名乗り、大阪の杉田京子に紹介されたことを伝えてからである。
「京子ですって? 本当に京子から聞いてきたのでしょうね」
と、念は押したものの、口調が、はっきりと感じられるほどに柔らいできた。
電話に出ているのが、当の光代であった。あとで聞いたことだが、光代はすでに接客サービスをやめていた。(京子と同じように)体を壊したせいもあるが、年齢もとり過ぎていたようだ。
最近の光代はマネージャーの手伝いとして、フロントに座っていたのである。
「こっちへ来てもらってもいいけど、女の人では寄りにくいでしょう」
ちょっと待って、と、光代はいったん受話器から離れた。初めは突慳貪《つつけんどん》だったが、実は細かく神経の働く人柄であるらしい。
傍らのマネージャーに相談する光代の声が、かすかに受話器を伝わってくる。その遠い声に混じって、バックグラウンドミュージックの流れているのが聞こえた。
光代の声が戻ってきた。
「わたし、二十分ぐらいなら出られるわ」
と、光代は言った。
指定したのは、中村公園前の喫茶店である。西口から中村町へ通じる鳥居通りをくれば、公園はすぐに分かる、と、光代は説明した。
「陽子は金銭にはがめつかったわね。でも、わたしみたいな、こんな先輩でも立ててくれる、気立てのいい子だったわ」
と、光代は言った。
光代は京子と同じようにやせた女で、京子にも増して肌が荒れていた。真弓は、暗い影を持つ女の共通性を、まざまざと見る思いがした。陽子は美貌を保ったまま二十九歳の生命を絶たれたが、見えないどこかで、やはり、京子や光代と軌を一にする歪みを引きずっていたのだろうか。
そうした共通点を秘めているがゆえに、京子も、この光代も、陽子をかばっているのかもしれない。真弓はそう考えながら、コーヒーに手をつけた。
小さい喫茶店はすいていた。カセットテープも、テレビも、かかってはいない。飾り気のない、乾いた店だった。真弓たちのテーブルとは反対側の片隅に、一目で突っ張りと分かる一組の男女がいた。金色に髪を染めた男女は、スロットマシンに興じている。そんな若者たちの出入りにも、違和感を抱かせない土地柄であった。
十三の京子の店と同じように、夜は酒場に変身するようだ。小さいカウンターの後ろに、キープのボトルが並んでいる。
しばらく、雑談が続いた。十三とか京子が経営する喫茶店など、大阪を話題にしているうちに、光代の警戒心も解けたようである。
接客サービスをやめたとはいえ、いまだにトルコで働く女は、真弓が説明する『我が愛の悩み』をどう受け止めたのか。
「陽子の一生は間違いなく小説になるわね」
と、そんな言い方でマイルドセブンに火をつけた。男のようにたばこの煙を吐くと、いきなり核心に入ってきた。
「小説の最後には犯人を出すのでしょ。陽子を殺した犯人は種岡に決まっているわ」
「種岡?」
真弓は慌ててコーヒーカップを戻した。
真弓は、光代の発言の根拠を確認するために、口調を改めた。
「『我が愛の悩み』は小説ではありません。特集は実名を出して、事実に即してまとめます。臆測で犯人を断定するわけにはいきませんわ」
「ほかにだれがいるというの。あんたの取材で浮かんできた人間がいる? 犯人は種岡以外に考えられないわ。あの男なら、人を殺すなんて、何でもないことよ」
語気が鋭くなっていた。怒りさえにじんでいる。
しかし、真弓が知りたいのは、感情≠ナはなくて事実≠セ。
「東京へ行ってからの陽子とは四年間一度も会っていないけど、彼女、わたしには何かと電話をくれたわ。わたしの方からかけたこともあるし、陽子の四年間はよく承知しているつもりよ」
光代が種岡五郎の名前を挙げるのは、元暴力団員に対する悪感情もさることながら、一種の消去法からだった。
陽子は、(名古屋の『朱里』時代にしてもそうだが)一歩仕事を離れると、特定の男性は一切寄せつけなかったはずだ、と、光代は強調する。
その点は(菅生も上野の焼き肉店で同じ内容を聞き込んでおり)、それなりの説得力を持っていると言える。
十三を出て以来、陽子の周辺で存在を示す男性と言えば、結婚相手の滝田幹夫だけだ。夫の滝田が、東京駅で陽子を見送って以来、東京周辺を離れていないことはすでに調査済みである。しかも、屋島の犯行が行きずりのものでないとしたら、かつてのヒモが浮かんでくるのは必然だろう。
「陽子をあんな目に遇《あ》わせる人間と言えば、種岡しか考えられないじゃないの。あいつは殺人未遂の前科持ちよ。わたしも絡まれたことあるけど、あの男の執念深さといったらないんだから」
光代の発言は次第にエスカレートする。それはいい。要点は、当の種岡が和歌山で服役している事実だ。
「何言ってるのよ」
光代はたばこをもみ消した。
「種岡が出てきたから、問題にしているんじゃないの」
「出所したのですか!」
真弓は上半身を乗り出した。
「あいつ、六年の刑期を終えると、どこをどう嗅ぎ当てたのか、『朱里』に現れたのよ」
名古屋に姿を見せたのが、二ヵ月前、三月中旬だったという。
「びっくりしたわ。種岡は、十三時代よりももっと歪んだ顔をしていたわ。陽子を隠すとお前の生命は保証しないぞ。フロントで、いきなりそう怒鳴り散らすんだもの」
取材帳を取り出す真弓の指先に、新しい緊張が広がった。
殺人未遂の前科
真弓は取材帳にボールペンを走らせながら、高松北署の捜査本部を思った。行き詰った状態だ、と、繰り返していた森安警部補は、殺人未遂男の出所をマークしなかったのか。
そんなことはあるまい。警察のことだ、電話一本で、種岡五郎の現状≠ヘ分かるはずではないか。
「サツ? うん、来たわよ」
光代は真弓の疑問にすんなりとこたえた。光代は、しかし、種岡が血相変えて怒鳴り込んできたことを、刑事には打ち明けなかったという。と、いうよりも、種岡が陽子を追ってきた事実を、意識的に隠したのだった。
「デカにこたえる必要がある? サツが、わたしたちに何をしてくれるっていうのよ」
と、吐き捨てる光代は、種岡に対する以上の悪感情を警察に抱いていた。
こうした世界に身を沈めているのだから、警察の厄介になったことも少なくないであろうし、
(ひょっとして、彼女にも何かの前科があるのかもしれない)
と、真弓は思った。逆恨み、というようなことだってあるだろう。
「わたし、陽子のことも知らないと突っぱねてやったわ。もちろん、お店の連中だって口裏合わせてくれたわよ」
と、光代は言うのだ。『朱里』へ移ってからの陽子が本名を出さず、谷村ひろみと名乗っていたことも幸いしたようだ。四年も過ぎているので、ひろみを陽子と、知らない従業員もいた。
「何もこたえる必要はないのよ。サツの捜査なんか、相手によってはいい加減なものでしょ。陽子は十三《じゆうそう》のトルコで働いていた過去がばれてしまったのだから、なおのこと、ご都合主義で結着《けり》をつけられるのと違う? デカはわたしたちのことなど人並みに思っちゃいないんだから」
光代は警察に対する生理的な反発を隠さなかった。真弓は、日陰の日常が染みついてしまった人間の一面をそこに見た。
だが、いずれにしても、香川県警からの依頼で動いた愛知県警の聞き込みが、その時点で打ち切られているのなら、週刊レディーの取材が先行したことになる。
(残る問題は、陽子と種岡の六年後の接点だわ)
真弓の胸の奥を、そうしたつぶやきがかすめた。
陽子の不幸な一生に対する同情もさることながら、特ダネ意識が真弓の念頭を占める。
「で、種岡というヤクザは、陽子さんを追いかけたのですか」
「口が裂けたって、あんな男に陽子の行方を教えるものですか。でも、あいつは動物的な嗅覚を持ってるのよ。『朱里』にやってきたのだってそうだわ。あいつは執念深く、わたしの居場所を捜したってわけ。だれを締め上げるのが近道なのか、ちゃんと承知しているのね」
それが、光代が言うところのサツの捜査≠ニは違う点だった。
「あの男、今更十三へは戻れないし、東京へ出たといううわさを聞いたわ」
「それも、刑事さんには言わなかったのですね」
「もちろんよ。サツはどうでもいいけど、わたし、種岡が東京へ行ったのは偶然じゃないと思うの。あいつ、水商売のことなら裏の裏まで知りつくしているのよ。裏に手を回して、陽子がどこにいるか、見当をつけたのじゃないかしら」
真弓も、有り得ないことではないと思った。陽子は金の成る木にも等しいわけである。それなりに男女の感情も尾を引いていたかもしれないが、主眼は、やはり金銭だろう。組を追われ、出所後の暮らしもままならない種岡にとって、現金を稼ぎ出してくる女は不可欠だ。
まして陽子は、種岡の服役を機に大阪を逃げ出した立場ではないか。種岡には陽子を引き戻すための大義名分がある。それがいかに理不尽であろうと、
(陽子はオレの女だ)
前科七犯の男は、そう思い込んでいたに決まっている。
真弓は、犯行現場から発見されたという、ショートホープの空き箱と吸い殻を思った。
「種岡という人、たばこは何を吸っていたか覚えていませんか」
「たばこ? たばこがどうかしたの?」
現場に吸い殻が遺留されていたことは、新聞発表では伏せてある。光代は何も知らないままに、しかし確かな口調で答えた。
「種岡は昔からショートホープよ」
「本当ですか!」
「ショートホープを必ず二箱、気取ったように、むき出しで手に持っているのが癖だったわ」
真弓は取材帳を閉じた。
週刊レディー編集部に連絡を入れたのは、名古屋駅へ戻ってからだった。
日曜日の女性公論社は全社が休みだが、取材の変動に備えて、午後から菅生が待機することになっていた。真弓は南口コンコースの食堂で電話を借りた。古い店だった。だだっ広くて、天井の高い食堂である。
編集部直通ダイアルを回すと、
「やあ、ご苦労さん」
菅生の待ち兼ねた声が返ってきた。
真弓は一瞬ことばに詰まった。わけもなくなつかしかった。東京を離れたのはたった二日に過ぎないのに、前回の四国出張にも増して、真弓の内面で、長い時間が経過したように感じられるのは、陽子の過去の歪みゆえであろう。
「電話、こっちからかけ直そう」
菅生は最初にそれを言った。遠距離通話の場合は、いつもそういう取り決めになっている。
かけ直してもらったことで、(百円玉の残りを気にすることもなく)レジの横での立ち話は長いものになった。
「なるほどね、陽子の前身はトルコ嬢か。トルコで体を売らされていたのか。それと、六年振りで出所してきた昔のヒモ。事件の発端は厚いベールに包まれていたけれど、こうなってみると、それほどの奥行きはないかもしれないね」
菅生は、真弓の長い報告が終えたときに言った。
真弓も同感だった。陽子の青春には複雑な影が錯綜していても、犯行の図式自体は、案外単純な気がしてきた。
「高松の捜査本部へは、僕の方から連絡しておこう」
菅生はそう言って電話を切った。
真弓は一休みして、夕方の上りひかり号に乗った。
最後部の禁煙車はがらがらにすいていた。がらんとした車両の震動の中で、陽子の二十九年の人生を繰り返し考えた。
浜名湖に差しかかる頃、夜の帷《とばり》がおりた。静かな湖の中に漁《いさ》り火が静止している。車窓をよぎる夜の湖と、遠い灯が、虚しいものを真弓に運んだ。
陽子が出生の秘密を知らされなかったとしたらどうだろう。いや、いずれは気付くことであったとしても、蹉跌《さてつ》を越える環境が用意されていたならば、藤の花の下の殺人事件は起こらなかったはずだ。
陽子は明るい美しい娘として育ち、瀬戸内に面した町で、坂出に住む旧友と同じように平凡な幸せをつかんでいただろう。
思春期の反抗が、その後の人生の角度を大きく変えてしまったわけである。
(彼女はいつから藤色のスーツを好むようになったのかしら)
真弓は、市川の『コープ小池』とか『雨宮寿司』での聞き込みを考えた。
前科こそないが、滝田幹夫もまた癖の強い男だ。真弓には決して好きになれないタイプだ。しかし、その一点にいつまでもこだわっているわけにはいかないと思い返した。
人間の個性は十人十色だし、好みもそれぞれに異なることを改めて考えた。
市川のマンションで所帯を持っていた二年間、陽子の日常は、少なくとも表面的には平穏だったようである。陽子がささやかな幸福をつかみかけたのは間違いあるまい。灰色の過去から脱出し、滝田という男に賭けた新しい人生。
(影を落としているのは、やはり、ヤクザの種岡だ)
真弓は、夜の湖と遠い灯が車窓の後ろへ流れたとき、声に出してつぶやいていた。和歌山の刑務所を出所した種岡が東京にやってきたことで、陽子の不幸は新しい進展を見せたのだ。
取材結果を整理する真弓は、すぐにも『我が愛の悩み』が書けそうな気がしてきた。
種岡五郎の追及は警察の仕事だ。殺人の動機とか、種岡が高松で陽子を待っていたことの背景は、森安警部補たちが解明してくれるだろう。それは、新聞発表の時点で書き加えれば事足りる。
捜査本部が種岡を連行する前に、陽子の転落の軌跡を書き上げておけば、グッドタイミングということになる。
上りひかり号は浜松の市街地を過ぎて、夜の中でスピードを上げていた。
星空だが、月の細い夜だった。夜の底に、もう一つの濃い闇が行方を遮っていることを真弓は知らなかった。
翌二十一日、月曜日、経堂の自宅に電話がかかってきたのは、朝の九時前である。
真弓はまだベッドの中にいた。
「菅生さんからよ」
母親はとんとんと階段を上がってきて、二階の真弓の部屋のドアをノックした。
真弓は髪を乱したネグリジェ姿のまま、リビングルームに降りた。
会社員の父親はすでに出勤しており、家の中はひっそりしている。リビングルームの先は、狭いが手入れの行き届いた芝生の庭だった。緑の芝生に注ぐ、五月の朝日がまぶしい。
「起こしちゃったかな。疲れてるところをごめん」
菅生の、いつものように遠慮勝ちな声が受話器を伝わってきた。武蔵関のアパートからの電話だった。
「それに昨日は悪いことをした。慌てて電話を切ったが、東京駅まで出迎えに行くべきだった」
「どうもありがと。それでわざわざかけてきてくれたの?」
菅生の気持ちがうれしかった。しかし真弓自身も、名古屋駅構内の食堂から電話を入れたときには、取材の整理で精一杯だったのである。全神経がプライベートな面から離れていた。
真弓もそうした自分の立場を述べると、
「実は」
菅生は口調を変えた。
早い電話の目的は、昨日の手違いをわびることではなかった。それだけのことなら、あとで、編集部で顔を合わせたときでも話は済むわけだ。
「実は笠倉デスクの指示で、僕、これから市川の『コープ小池』へ回るんだ」
滝田夫婦と、種岡五郎の折衝≠洗い出すことが目的だった。
「うまく滝田が捕まればいいが、へたに時間を食うと、出社は夕方になってしまうかもしれない。その前に、君に連絡しておきたいと思ってね」
菅生は、森安警部補との昨夜の電話の内容を口にした。
高松北署の捜査本部は、種岡五郎の出所をキャッチしていた。種岡が東京へ流れたうわさもつかんでいた。
「当たり前と言えば当たり前だが、さすがだね」
と、菅生は言った。
「だが、種岡を重点的にマークしているわけではないらしい」
「十三時代の詳しいいきさつと、出所後の種岡が名古屋の『朱里』へ怒鳴り込んできた事実を知らないためかしら」
それとも週刊レディーの取材が先行したので、捜査一課の主任としてのメンツゆえに、菅生が中継した疑惑を聞き流したのだろうか。しかし、森安は、そんなメンツにこだわる人柄ではないはずだと思う。真弓は、風采の上がらない、ひょうひょうとした警部補を思い返した。
殺人事件《ころし》のベテランである高松の警部補は何をつかんだのだろう?
「いずれにしても、滝田に会うのが先決だ。陽子と種岡の六年後の接点を浮き彫りにできれば、六年前のヒモの容疑は一段と濃くなる。その上でもう一度高松へ電話を入れて、森安警部補の意見を聞こうじゃないか」
これから市川のマンションに出かける菅生は勢い込んでいた。
菅生は、それから一時間半後には市川市にいた。新宿経由の菅生は、総武線を利用して本八幡駅で降りた。菅生にとっては初めての土地だが、国電駅前は京成駅前より広かった。駅前に花屋がある、明るい町だった。
菅生はあえて電話を入れなかった。直接、『コープ小池』302号室を訪ねた。
ドアチャイムを押すと、相当待たされてから、
「どなたですか」
不機嫌な声がドアホン越しに返ってきた。上野のスナック『リヤド』は休業中でも、滝田の夜は遅い。まだ眠っていたらしい。
菅生が自分を名乗ると、
「週刊レディー? ああ、北川真弓さんがいる出版社ね」
と、当の菅生は無視し、真弓の名前を親しそうに口に出した。
「今日は北川さんの取材ではないのですか」
滝田はそんなつぶやきをもらしながらドアを開けた。派手な、チェックのナイトガウンを羽織っていた。
菅生が、このキザな長身に接するのはちょうど一週間振りだ。真弓が四国城めぐりの取材を終えて帰京した十四日の夜、東京駅17番線ホームで、この長身とすれちがっている。
そのときも滝田は、真弓には声をかけても、菅生には一べつもくれなかったのである。今もそうだ。滝田は、真弓を東京駅に出迎えた菅生を思い出したに違いないのに、一週間前の出会いなどは一言も口にしなかった。
(こういう男なんだな)
菅生は胸の奥でかっかする感情を押さえた。
「部屋の中は散らかっているし、他人にのぞかれるのも趣味じゃないね」
滝田は菅生から名刺を受け取ると、全く名刺を見ようともせずに、
「出ましょう。京成の駅の近くに落ち着いた喫茶店があります」
と、一方的に言った。
「週刊誌がどうしてそんなことを調べるのですか。陽子は被害者ですよ」
滝田は甲高い声を出した。相手が若い女性なら誰彼の区別無く相好を崩すのに、男性に対するときの滝田は警戒的だった。警戒の根拠が何であるかは分からない。
(しかし、こいつは何かを隠している)
菅生は本能的に思った。
ゆったりしたソファの喫茶店だった。四日前、真弓が聞き込みにきた『雨宮寿司』の近くで、路地に面したレジはたばこ店を兼ねている。午前中の喫茶店は客足もまばらだった。
菅生と滝田が奥の中二階のボックスで向かい合ったとき、二人連れの中年男が入ってきた。
二人連れはまばらな店内を見回した。そして、さりげなく、しかし鋭い視線を中二階へ向けてきたのだが、滝田も菅生も、あとからきた二人に意を止めなかった。二人連れは階段脇のボックスを選んだ。中二階からは死角となっている場所だった。
滝田はトーストにハムエッグ付きのモーニングサービスのコーヒーを注文し、菅生も同じものを頼んだ。
モーニングサービスが届き、中二階のコーナーで二人きりになると、
「なぜ、死んだ人間の過去を追いかけ回すのですか。警察が犯人追及のためにするのなら分かります。週刊誌が何ですか」
と、滝田は続けた。気のせいか、一層警戒を強めているようにも感じられる。
「何の権利があって死者の過去を暴くのですか。やめてもらいたいですね」
「ですから、さっき申し上げた『我が愛の悩み』という特集で、広く一般的な問題として捕らえたいのです」
「ばかなことを言われては困ります。それが何ですか! どうして被害者である陽子のプライバシーを白日にさらさなければならないのですか。被害者でなく、犯人を暴いたらどうですか」
滝田はつまんだトーストをほうり出した。
「一体だれが、何の目的で陽子を殺したのですか。あなたは、犯人をどう見当つけているのですか。犯人も分からないのに陽子の過去を追いかけるなんて、商業主義の弱い者いじめじゃありませんか」
滝田はいらだたしげにジャンパーのポケットを探った。たばこを探しているのが分かった。たばこは持ってくるのを忘れたようだ。
「マイルドセブンでよかったらどうぞ」
「けっこうです」
更に甲高い声になった。滝田は甲高い声でウェートレスを手招きした。
千円札を出して頼んだのがショートホープだった。
(この男もショートホープか?)
一瞬、菅生の目の色が変わった。
「いつもホープをお吸いになるのですか」
「それがどうかしましたか。そのときの気分で何でも吸いますよ」
滝田は本当に怒った顔になっていた。菅生は、しかしそれを話題転換のきっかけにした。
「奥さんの事件でマークしている一人が、やはりショートホープの愛用者です」
「マーク? だれをマークしているのですか。高松の捜査本部からは何とも言ってきません。重要容疑者が浮かんだのですか」
「捜査本部の動きは知りません。しかし、少なくとも我社《うち》の編集部では、殺人未遂の前科を持つ男に的を絞っています」
菅生はそういう言い方で、種岡五郎の名前を出した。
「種岡ですって?」
傍目にも分かるほどに、滝田の表情が変わってきた。
滝田は、ウェートレスが持ってきたショートホープをくわえたものの、火をつけるのを忘れた。
「種岡のことまで知っているのですか」
一転、声が低くなっていた。
「実はオレも、あの種岡が犯人ではないかと考えてきました」
「奥さんは過去に殺されたのかもしれない、というのは、そういうことですね。なぜ捜査本部で言わなかったのですか」
「確証もないのに、うっかりしたことは話せません。種岡は、人殺しを何とも思わない暴力団の元幹部ですよ。警察が調べて、もし黒でなかったとしたら、どんな仕返しをされるか分かったものじゃない」
滝田は、(菅生の方から種岡五郎を指摘してくれたことで)ほっとした、というような口調になっていた。図太さと、小心が同居している性格なのかもしれない。
(滝田の警戒≠フ中には、こうした要因もあったのか)
菅生は改めて滝田を見た。マイルドセブンに火をつけ、火をつけたライターを、
「どうぞ」
滝田に差し出した。
滝田は、今度は素直に応じた。はっきりと態度が変わっていた。
菅生は、午後一時過ぎに、京橋の週刊レディー編集部に戻ってきた。
真弓が元気な姿を見せていた。笠倉デスクも待ち兼ねていた。
「食事、まだだろ。昼めし食いながら話を聞こう」
度の強い眼鏡をかけたデスクは、菅生と真弓をうながした。
女性公論社の近くに、なじみのうなぎ屋があった。のれんの古い店だが、数年前に新しいビルに建て替えられている。
ランチサービスの時間が過ぎたところで、店はすいていた。
二階の座敷に陣取ると、
「今日は特上の蒲焼きをごちそうしよう」
デスクは例のぼそぼそとした口調でメニューも見ないで注文し、ビールを二本つけた。
菅生はビールを乾杯してから、聞き込みの要点に移った。
「種岡は、やはり滝田夫婦の前に現れています。ええ、二ヵ月前です」
と、取材帳のメモを確認して言った。
「すると、名古屋の『朱里』へやってきたすぐあとになるわね。種岡が今でも裏の世界の情報に詳しいというのは本当だったのね」
「すごい見幕で、上野の『リヤド』へ乗り込んできたそうです。配下を一人連れていたというから、十三時代の、坂ちゃんなる弟分かもしれません」
「なるほど、それが例のスケコマシなら、死体移動の謎はともかくとして、話は合ってくる。これは我社《うち》のいただきだ」
「恐くなった滝田はマージャンクラブ『いれぶん』に電話を入れて、友人の岸本に来てもらったそうです」
「警察ではなく、岸本を呼んだのか」
「何とか内分に話をつけたかったそうです」
「金か」
「しかし、岸本がいかに水商売が長く、こうした折衝に慣れているとはいえ、筋金入りのヤクザとは格が違います。どうにも収拾がつかなくなってきたようです」
「煮詰まってきたな」
「滝田の証言をうのみにすれば、種岡の出現が滝田夫婦の、離婚の直接の原因となったわけです」
「どういうことかしら」
真弓がことばを挟んだ。
「種岡が、夫婦別れをするように、二人を脅迫したというの?」
「もちろん、それもある」
菅生は、滝田のさっきのことばを、そのまま真弓とデスクに伝えた。
滝田はこう言ったのだ。
「オレ、陽子がトルコで体を売っていたなんて、全く知らなかったのですよ。単に、過去に異性関係があったという、それだけのことなら、オレだって威張れたものじゃない。オレも陽子も長いこと水商売に身を置いていたのだし、過去に何もなかったという方がおかしい。だから、昔の男の一人や二人が発覚したからって、そんなことでオレは陽子を責めやしない。責める資格もない。だが何年もの間、トルコで不特定な男に体を売っていたとなると、話は別だ。オレと知り合ったとき、上野広小路のバーで働いていた頃の陽子は、だれに聞いたって、身持ちの固いホステスだったのですよ。高松の故郷を捨て、大阪から流れてきたのだから、無論、過去に影があるとは思ってたよ。だが、トルコで暮らしていた何年かを、陽子は完全に隠していたんだ。今になって思えば、体を売っていたからこそ、陽子は小金を貯めることもできたのだろうけどね」
と、滝田は吐息まじりに語ったものだ。
離婚を決定的にしたもう一つの要因は、種岡が、市川のマンションにまで押しかけてきた事実だ。
「スナックの一つや二つ、いつだってたたきつぶしてやるぞ! 黙ってオレの女を返せ! 種岡はそう言って凄みをきかせるんですよ。あいつら暴力団に粘られたら、せっかくなじみになってくれた常連客だって、恐がって寄りつきやしません。オレはほとほと嫌気が差しちまってね」
その滝田の説明は一応筋が通っている、と、菅生は言った。
「滝田の身勝手と片付ければそれまでですが、種岡が現れるまで、妻に売春の過去があった事実を知らなかったとしたら、ショックは、やはり小さくなかったと思いますよ」
陽子にしてみれば、こんなとき妻をかばってくれようともしない夫に対して、逆に愛想を尽かした、というような事情もあるらしい。こうして離婚へと向かって行った二人。女と男の結び付きは、いかに脆弱《ぜいじやく》な基盤の上に築かれたものであるのか。
真弓も、菅生も、笠倉も、別々な面持ちで、滝田夫婦の二年間を考えた。笠倉が言った。
「菅生君が四日前に取材したとき、陽子のホステス時代の仲間が経営しているという同じビルの焼き肉店で、種岡の名前は一言も出なかったね。これはどういうことだ? 『リヤド』にヤクザが怒鳴り込んできたとは言ったが、それは滝田の女関係のいざこざが原因だと証言したはずだな」
「滝田、というよりも陽子が、種岡の存在を極力隠したようです。トルコで働いていたなんてことは、親しい友人にだって表沙汰にしたくなかったでしょうよ」
「複雑になってきたな。すると焼き肉店の夫婦が四日前にこたえた滝田の女遊び≠ニか金銭欲≠ニかって話も、一考を要することになる」
女遊び≠熈金銭欲≠焉A周囲があとから理由付けた動機≠ニいうことになってしまう。
「やはり、滝田という男の印象の悪さに惑わされてはいけないのかもしれないね。問題は種岡の所在だ。種岡は東京で何をしてるんだ?」
「新宿のパチンコ屋で働いているようです」
「パチンコ屋を確認できなかったのかい?」
「交渉には岸本が仲に入っていました。滝田はパチンコ屋の店名も承知していません。もちろん、僕はマージャンクラブ『いれぶん』に電話を入れました。岸本は外出中でした。夜まで帰らないそうです」
「種岡は刑期を終えて出てきたのだったね。仮出所でなければ、保護観察を受ける義務はないわけか」
仮出所の場合は一定の住居に住み、正業に従事しなければならないし、一ヵ月に二回は保護司と面接し、生活状況を報告しなければならない。
その必要がないとすれば、所在もあいまいなことになる。
「いえ、連絡は今でもとれるようです」
「岸本に対して、所在をはっきりさせているのか。種岡が本|犯人《ぼし》なら、完全犯罪に自信を持っていることになるか」
「分からないわ」
真弓が首をひねった。
「離婚の理由はそれなりに納得できるけど、どうして種岡が陽子さんを殺さなければならないの?」
新しく浮かんできたのがその点だった。昨夜、東京へ帰る新幹線の車中から浜名湖の漁り火を眺めていたときには、種岡を犯人と決めつけることに異存がなかった。
だが、菅生の取材結果を耳にし、種岡の素顔といったものが新しく見えてくるに連れて、別の疑問が生じた。
(陽子を殺すことで、種岡には何のメリットがあるのかしら)
真弓を見舞った不審がそれだった。
真弓は、笠倉と菅生の顔を交互に見た。
「陽子さんを働かせてこそ、種岡は甘い汁を吸えるわけでしょ。六年前と同じ甘い汁を求めて、種岡は陽子さんを追いかけてきたのでしょ。陽子さんが拒否するのは当然だわ。そこに種岡の殺意が生じた、と、あたしも考えてきたけど、種岡って、そんな単純な男と違うのではないかしら」
「なるほど。北川君らしい考え方だ」
笠倉はうなずき、菅生がことばを次いだ。
「滝田でも種岡でもない、全く別の犯人が登場してくるというのかい」
「種岡はこれだけしつこいヤクザだもの、もっと計算高いはずだわ。一時の感情で、大事な金づるを殺したりするかしら。そんなことないと思うわ。種岡と陽子さんの交流は、普通の恋愛関係とは全然違うのよ。おどしたり、すかしたりして女を働かせるのが、ヒモってものじゃないの?」
真弓は一気にしゃべった。
口調が、次第に湿めりがちになっていた。疑問を口にしているうちに、陽子の不幸が実感として胸にきたのだ。
滝田の人柄がどうあろうと、陽子は、滝田という男によって世間並みの幸せをつかみかけたのではなかったか。二年間の結婚生活。陽子と滝田の、(今となっては意外ともいえる)むつまじさを、真弓は市川で聞き込んでいる。
その幸福を真向からつぶしにやってきた昔のヒモ。
「でも、種岡が殺人《ころし》の犯人でなかったとしても、実体は殺人犯と変わりないわね」
真弓の低いつぶやきはそんな風に続いた。
事態が、思いもかけない進捗を見せたのはその頃である。
三人が、女性公論社近くのうなぎ屋で取材結果を検討しているとき、高松北署の捜査本部から、週刊レディー編集部に電話が入った。
電話は、種岡五郎とは別な男に容疑がかかったことを伝えた。
別の男。それがほかでもない滝田幹夫であった。
「もしもし、何があったのですか」
真弓は編集部へ戻ると慌てて市外電話をかけた。
森安警部補は待っていてくれた。すぐに、聞き覚えのある声が電話口に出た。
「動機の点で、滝田を無視できなくなってきたのですよ」
と、ちょっとどもりがちな声は言った。
新情報は、まだ新聞発表の段階ではなかった。だから、外部にもらされては困る。
「しかし、あんたの耳には入れておこうと思いましてな」
森安はそんな言い方で、(菅生を経由した昨夜の電話での)真弓の報告に感謝を言った。
「北川さん、あんたが取材した種岡というヤクザも、もちろんリストから消すわけにはいきません。しかし、滝田の方が、動機の点で、より具体性があるんですわ」
「やはり女性関係とお金ですか」
「弱ったことに、目下流行の犯罪です」
森安は声に力を込めた。
「保険金殺人の疑いが出てきたのですよ」
「保険金殺人?」
真弓の声が高くなった。殺人ではないが、保険金がらみの犯罪を、菅生が実話ストーリーにまとめた矢先である。記事に使用した大歩危《おおぼけ》の写真を撮ったのが、ほかでもない真弓自身だ。
東京の警視庁から高松へ至急連絡が入ったのは、昨日の夕方だという。大阪に本社を置く大手の生命保険相互会社の、東京支社から警視庁へ問い合わせがきたのだ。
昨夜、菅生が電話をかけたとき、森安がそれを打ち明けなかったのは、捜査会議の直前で、捜査本部としての方針が決定していなかったためである。
滝田夫婦が、それぞれにお互いを受取人として四千万円の生命保険に加入したのは結婚直後だった。一昨年の八月。
「保障額が五千万円を越えると、加入に際して生命保険会社の調査を必要としますが、四千万円なら無条件で加入できます」
「四千万円で、陽子さんを殺したと判断するのですか」
「四千万だって少ない額じゃない。だが、これは、事故死の場合は三倍保障の特約付きです」
「すると一億二千万円!」
「警視庁の内偵では、滝田は陽子さんの葬式を出していないそうですな。こうした事情だし、葬式を出していないことは一まず置くとしても、滝田は高松から帰った翌日、十五日には、早くも都内の保険会社に出向いて、保険金の支払いを請求しているのですよ。滝田は『リヤド』も休業して、毎日ぶらぶらしているそうですが、やるべき手続きはちゃんと終えているのです」
金額が大き過ぎるし、滝田は、一言もそうした事実を口外していない。
「われわれに対して積極的に伝える義務はないかもしれません。だが、ことは殺人事件ですよ。しかも、夫婦は離婚寸前だった。意識的に隠していたととられても仕様がないでしょう」
と、森安は言った。
ベテラン警部補ならずとも、不審を抱くのは当然だろう。隠蔽が意識的なものであるなら、いやでも殺人の動機≠ェ浮かび上がってくるわけだ。
真弓は受話器を握り直した。森安が種岡の方の容疑にワンクッション置いたのはこのためだったのか、と、自分の中でつぶやいていた。真弓は、笠倉や菅生と検討した取材結果を森安に伝えた。
ヒモの立場に対しての、自分の感想も付け足した。
「同感ですな。われわれもその点で、種岡の動機には、二重丸を付けることに逡巡を覚えるのですわ」
と、森安は肯定し、保険金殺人の疑惑に話題を戻した。
「滝田夫婦が、二人そろって加入したいきさつは、今後の捜査を俟《ま》つしかないわけですが、二年前は意図的でなかったとしても、破局が決定的となって、滝田は改めて、災害時三倍保障を活用したのかもしれませんな」
真弓もうなずいていた。
滝田夫婦は、まだ正式には別れていない。離婚届を所持していたとはいえ、陽子は、滝田の妻として息絶えたのである。
その陽子の死は、少なくとも三つのメリットを滝田に与えたはずだ。一つは陽子の他界によって種岡の執拗な脅迫から逃れられることであり、一つはスナック『リヤド』の経営権を自由に掌握できるということだ。三つ目は、もちろん、一億二千万円という巨額の独占。
いったんは打ち消した焼き肉店夫婦の証言が、形を変えて暗い彩りを濃くしてくるのを真弓は感じた。滝田は、やはり底知れないほどの冷徹な男なのだろう。そう思った。
動機がすべてその通りなら、いやでも焦点は絞られてくる。
問題は、陽子を東京駅で見送ってから、真弓によって陽子の死が藤の花の下で発見されるまで、滝田が東京周辺を一歩も離れていない事実だ。
「それですよ。これが東京と熱海ぐらいの近距離ならいくらだって工作できるでしょう。東京と屋島では遠過ぎます」
森安の口調も、そこへくると、またどもりがちになった。
森安は、しかし、もう一つの発見を低い声で付け加えた。
「これもまた極秘ですがね、犯人のものかもしれない指紋が検出されました」
「指紋? 指紋が今になって出てきたのですか」
真弓は受話器を握り締めたまま、体の向きを変えた。
軍手と呼ばれる、太い白もめんで編んだ作業用手袋が見つかったというのである。
なぜ、今になっての発見か? 見落としではなかった。初動捜査の手が回らなかったのは、そこが、犯行現場から離れていたためである。
「屋島遊歩道を出た所に、二つの溜池があったのを覚えているでしょう。あのかんがい用の、新池南側の草むらの中から、その軍手は出てきたのですよ。県道のすぐ下ですが、子供を隠してしまうほどに雑草が生い茂っている地点です」
右手の片方だけだが、新しい手袋だった。
「犬を散歩させていた老人が見つけたのです。ええ、犬が草むらの中からくわえてきたわけです」
老人は手袋と殺人≠ニの関連に思いがいかなかったけれど、息子夫婦にしゃべったところ、一応警察へ届けたらどうか、ということになった。
刑事たちはすぐに新池周辺の草むらを捜索したが、もう片方の手袋は出てこなかった。
軍手が、犯人が過って落として行ったのかもしれないと推定するのは、高松周辺で売られたものではなかったからである。それはスニーカーシューズなどを製造している、埼玉の『T』という中堅メーカーの製品で、主たる販売先は関東一円だった。
しかも、農道もないが、手袋が発見された草むらは、犯行現場から県道へ抜けるときの最短コースに当たっていたのである。
「幸いなことに、軍手の内側から何点か、指紋が採取できました。変体紋と言いましてな、上下に流れる隆線でできている指紋です」
直ちに、指紋は警察庁指紋センターに送られた。
指紋には前科・前歴がなかった。
「滝田にも前科はありませんよ」
森安は電話を切るとき、そんな言い方をした。
警視庁捜査共助課は、高松からの依頼で新しい動きを見せていた。
当人には気付かれないよう、滝田の周辺に網を張っていた。
菅生が滝田を訪ねたこの日も、二人の刑事は朝から『コープ小池』付近に張り込んでいたのだった。
滝田も菅生も気付いてはいなかったけれど、さっき、滝田と菅生が京成八幡駅近くの喫茶店の中二階で向かい合ったとき、一階の片隅に入ってきた二人連れが、ほかでもない警視庁の刑事だった。
二人の刑事は、滝田の吹かしていたのがショートホープであったことを確認しているし、滝田と菅生が喫茶店を出たあとで、滝田が使用したコップとたばこの吸い殻を押収している。コップを借り出したのは、無論指紋採取が目的だ。
二人の刑事はそれから上野に回った。聞き込んだのは、かつて滝田が働いていたクラブとかバー。これは滝田の写真入手が目的だった。マージャンクラブ『いれぶん』の岸本などに頼めば、手に入れるのは容易であろう。だが、滝田に警戒を抱かせないためにも、滝田の現在の交遊範囲は避けなければならなかった。
水商売は人の出入りが激しい。当時の仲間の一人が大宮市内のパブに住み込んでいることを突き止めたのは、数人の人間に当たったあとである。
市外電話をかけると、
「滝田の写真ですか。あの頃何度か従業員旅行をしているし、旅先では皆で写真を撮りました。残っていると思うけど、見つかるかな。捜してはみましょう」
と、昔のバーテン仲間は協力を約束してくれた。
パブの開店直前を狙って京浜東北線で大宮まで出向き、滝田が写っている写真を受け取ったのは夕刻である。従業員旅行で栃木県の鬼怒川温泉に一泊したときのもので、キャビネのカラー写真だった。
鬼怒川沿いに立ち並ぶホテルを背景とした構図だった。七人の男女が写っている。いずれも一目で水商売と分かる服装だが、一番目立つのが、やはり長身の滝田だった。赤いオープンシャツの胸をはだけた滝田はくわえたばこ。気取ったように、隣の女性の肩に手をかけている。
「右端に立っているのが岸本だよ」
と、元同僚は、刑事が岸本を話題にしたことに対してこたえた。
元同僚は興味を表に出した。
「滝田の奥さんが殺されたのはニュースで知ってたけどよ、滝田か岸本が疑われているのですか」
「そういうわけではありません。だが、今日われわれが伺ったことは、滝田さんや岸本さんにはご内分に願います」
二人の刑事はカラー写真を借りて東京へ戻った。
四日間のアリバイ
翌朝、森安警部補は早目に家を出た。警視庁からの連絡に備えるためだ。
事件が発覚してからちょうど十日間が過ぎている。五月も下旬に入り、瀬戸内海に注ぐ日差しも、あの頃よりは強くなったように感じられる。
香西本町に住む森安は、高松バスを利用して高松北署の捜査本部に通っている。バスの窓越しに、静かな朝の内海を見やり、
(この分だと、女房《あいつ》との約束を延ばしている土佐一周旅行も、もうすぐ実現できるかもしれないな)
と、考えたりした。
そうしたときの森安は、捜査一課の主任とは思えない素朴な顔をしている。しかし、
(動機が明確になったとしても、アリバイが絶対では、あのキザな男を落とすことはできない)
と、それを考え直すと、ひょうひょうとした素朴な横顔に新しい翳《かげ》が差してくる。
通勤バスとはいえ、この路線はいつもそれほど込んではいない。本津川、香東川と二つの川を渡ると左手に高松漁港があり、鮮魚市場が見えてくる。
市場周辺は小型トラックの出入りが激しく、活気に満ちている。殺人事件などとは無縁な、平和そのものの活気だった。
漁港を過ぎるとすぐに高松駅前だ。
この日は、コンビの吉井刑事も、いつもより早く捜査本部に出ていた。
東京の警視庁から電話が入ったのは九時過ぎだった。捜査員の顔がそろい、一日の打ち合わせが始まったときである。
朝一番の連絡である点に、この情報の重みがあった。
「お手数をかけます」
と、すぐに電話を代わったのは、捜査本部長である、小太りな高松北署長だった。
ぴんと張り詰めた空気が大部屋を占めた。森安は、思わず本部長席近くへ立って行った。署長の表情の一変するのが、森安に分かった。
署長は大きい文字で乱暴にメモをとりながら、
「本当ですか! そうした決定的な物証が出たなんて!」
といったことばを返している。電話の声が次第に大きくなってくる。
最後に署長はこう言った。
「データとか、滝田の顔写真の電送はけっこうです。こちらの捜査員を東京へ向かわせます。はい、森安という警部補と、吉井という刑事を、今日中に出発させます」
小太りな署長は、警視庁に礼を言って受話器を置くと立ち上がっていた。
「滝田はうそをついているぞ。やつは高松に足を踏み入れている。遺体を引き取りにきた五月十三日。滝田は、あの日初めて瀬戸内を渡ったと主張しているが、あれはうそだ!」
署長は、捜査員全員の視線を浴びて言った。
「指紋が一致した! 例の軍手から採取した変体紋が、ぴたり、滝田の指紋と一致したそうだ。しかも警視庁が尾行したとき、滝田の吹かしていたのがショートホープだ。これまた遺留品と同じだ。警視庁は当然滝田の吸い殻を持ち帰っている。唾液から分析した血液型も、遺留品と同じA型と断定された」
署長は一気にしゃべった。
「要するに、滝田のアリバイは偽造されたもの、ということになる。少なくとも滝田が、殺人《ころし》に密接なかかわりを持っていることは間違いない。保険金殺人は決定的と見ていいだろう」
署長は要点を、てきぱきと全員に伝えた。そして、こう言い足した。
「今の電話でお聞きの通りだ。ご苦労だが、森安主任と吉井君に東京へ行ってもらう」
朝の打ち合わせは、新情報の検討に変わった。
森安と吉井は、十三時二十五分の連絡船で高松を出発した。
迅速に準備したつもりだが、東京での捜査手順の確認を初め、警視庁捜査共助課へ改めて協力依頼の電話を入れたり、週刊レディー編集部への連絡。そして細かいことだが、東京でのビジネスホテルの予約、留守宅への連絡などに半日を要した。
連絡船の宇野着が十四時二十二分。十四時三十一分発の快速電車に乗り換えて、岡山に到着したのが十五時六分だった。
何とも気ぜわしい出張である。
上り新幹線ひかり164号≠ヘ十五時二十八分発なので、岡山では二十二分の待ち合わせ時間があった。
岡山駅二階の新幹線ホールで、森安と吉井は、初めてほっと一息入れることができた。同じ快速電車を降りた乗り換え客は、下り新幹線は接続連絡があるのでエスカレーターで三階ホームへ急ぎ、残る人たちは大半が土産物店コーナーに散って、ホールのベンチに腰を下ろす人影は少なかった。
森安と吉井は自動販売機で買い求めた缶コーヒーを飲みながら、改札口前のベンチでたばこをくゆらした。
「東京着は夜の八時近くだったね」
「十九時五十六分です」
「交通便利になったといっても、東京は遠いね。大阪出張は何度かあったが、東京は初めてだ」
「僕も東京へ行くのは警察学校以来だから、五年振りになりましょうか」
と、そんなことを話し合っていると、急にホールが騒がしくなった。
十五時十分の博多行き下り新幹線ひかり7号≠ェ到着したのである。
スーツケースとか、土産物用の大きい紙袋を抱え、物すごい勢いで連絡改札口を駈け抜けて行く何人かの若い男がいた。
新幹線特急券はこの改札口で手渡すことになっている。特急券をほうり投げるようにして、宇野行きの快速は何番線か、と、尋ねる男もいた。
森安たちを乗せてきた快速電車の折り返しが、十五時十三分発。わずか三分で乗り換えようというのだから慌ただしい。しかも10番線ホームは連絡跨線橋を走り抜け、もう一段下へ降りなければならないのである。新幹線の車内アナウンスでは、ひかり7号≠ノ連絡する宇野線は次発の十五時二十八分となっている。
「次の電車にすればいいのに、日本人はせっかちが多いね」
森安は、自分たちのせわしない旅立ちは棚に上げて、そんなことを言った。
そうした降車客たちの慌ただしい流れが遠のき、ホールがふたたび閑散としたとき、二人は三階のホームへ行くためにベンチを立った。
「おや?」
森安が、ふと気付いたのは、改札横の時刻表を目にしたときだった。
「どうもどこかで聞いたと思ったが、ひかり7号≠ニいえば、被害者の陽子を乗せてきた新幹線じゃないか」
「そうか、そうでしたね。二週間前、藤色のスーツを着た陽子も、ここでひかり7号≠降りたわけですね」
吉井も思い出した。
たまたま同じ時間帯に、同じ場所に立ち会ったのは偶然だろうか。森安はこれといった意味もなくそうしたつぶやきを続けたが、しかし、半月前の降車客たちの動きが、今、森安や吉井に見えてくるはずもなかった。
岡山始発のひかり164号≠ヘ、予定の時間に3番線ホームに入ってきた。
自由席は半分も埋まらなかった。
森安と吉井はがらがらにすいた車内で、さらに他の乗客たちとは離れた座席を選んだ。滝田幹夫に対する怒りが表面に出てきたのは、列車が岡山の市街地を抜け、次第にスピードを上げてきたときだった。
人を食ったような、あの平然とした性格に対するいらだちが、森安と吉井の内面で激しい渦となった。
森安は前の座席の背もたれを倒し、靴を脱いで脚を伸ばした。
「うそで塗り固めた男。滝田のようなやつをそういうのだろうな」
森安は、森安らしからぬ強い語調で言った。
「あいつのことだ、女を欺すような軽い気持ちで殺人計画を立てたのかもしれないぞ」
滝田の容疑が濃厚になった時点では、
「嘱託殺人ではないか」
捜査員のだれもがそれを考え、それを口にした。しかし、指紋という動かぬ物証が出て、視点は百八十度転換された。ショートホープの吸い殻だけなら、第三者による操作も可能であろうが、軍手から検出された指紋に工作の余地はない。
指紋だけは、当人を連れてこない限り、絶対に遺留することはできない。
滝田は森安の質問に対して、
「僕は群馬県の出身です。東京から西へ旅したことはありません。瀬戸内海の潮風に吹かれたのも、今回が最初です」
と、いけしゃあしゃあと答えていたものだ。およそうそとは感じさせなかった、あの気取った顔を思い出すだけで腹が立ってくる。
「だが、ああいう性格だ。最後に、とんでもない陥穽《かんせい》が用意されているかもしれないぞ」
「指紋が滝田と判明しても、必ずしも殺人《ころし》の本|犯人《ぼし》とは限らないということですか」
「それだよ。実際行動での滝田の分担は、死体運搬の方だけ、ということも有り得る。第一、あの軍手がいつ落とされたものか、それはまだつかんでいないのだからな」
「死体移動の真意を突き止めることが先決になりますか」
「殺人は五月八日火曜日。死体移動は十一日金曜日。八日のアリバイが完璧で、十一日のアリバイがあいまいなら、そういうことになるね」
警視庁に依頼したアリバイ確認は、犯行日である八日の方を重視した。あの時点ではそれが当然だった。だから間隙ありとすれば十一日だ。
しかし、それにしても、わざわざ東京からやってきて、死体を動かしたことの目的は何だろう?
「最初は犯罪を隠しておくために崖下の廃屋を選んだ。が、どうしても事件を明るみに出す必要が生じた、ということだよね。それだけは分かる」
「主任、そういう言い方をすれば、ベールは一枚はがれるのではないですか」
「週刊レディーの北川さんが来たとき話したことだが、影の人物はやはり二人いて、二人の仲間割れということかい」
「いえ、滝田は、殺人《ころし》に関しては間接的にも手を汚していないのかもしれません」
「どういうことかね」
「滝田は最初|殺人《ころし》の外側にいた。陽子が殺されたことを何らかの情報で知って、保険金の請求に考えがいった、という見方はどうでしょう?」
「なるほど。一種タナボタの一億二千万円を手にするためには、被保険者の死を表沙汰にしなければならないわけだ」
と、すると、軍手は十一日に落とされたことになる。
しかし、そうなると、捜査本部が想定した滝田の動機≠ヘ、根本から崩れてしまう。滝田は保険金目当てで陽子を殺害したのではなく、陽子が殺されたことを知って、いわば、犯行に便乗した形になる。逮捕令状を請求する場合も、殺人容疑ではなくて、死体遺棄だ。
本当の殺人犯と殺人動機の追及は、一からやり直しということになる。
まだ表舞台には登場していない、全く新しい人物が現れることになるのか?
「陽子の過去を洗った結果から推しても、それは考えにくいね」
「動機の点ではもう一つ納得できないけど、種岡というヤクザに、逆行することになりますか」
「そうだな。殺人未遂の前科を持つ種岡ってのはどんな男なのだろう」
新幹線は相生、姫路と過ぎた。
岡山始発のひかり号は、新大阪まで各駅停車だが、途中停車も意識に上らないほど、二人は情報の分析に熱中した。
新神戸が近付く頃、吉井も靴を脱いだ。森安とは対照的に長い脚を前のシートに乗せると、マイルドセブンをくわえて言った。
「悪知恵が働く滝田にしては、解《げ》せないことがあります。現場の遺留品です。アリバイ工作をするような男が、簡単に物証を残していくでしょうか」
「あいつ回転は速そうだが、行動がいい加減なのは女性関係に限らないのじゃないかね。いくらでもうそがつけるああいうタイプは、緻密な行動が苦手のはずだよ」
「分かりませんね、女たらしの性格って」
「明日から徹底的に洗い出してやるさ」
森安はいらだちをたたきつけるようにした。
一般の被疑者に対するのとは、初めから態度が違っていた。ともかく滝田という男は印象が悪過ぎるのである。
フィルター越しに被疑者を見るのは、いけないことかもしれない。しかし、刑事だって人の子だ。
事態がこのように進展してみれば、
「あの野郎!」
と、吐き捨てたくなるのも当然だろう。
翌五月二十三日水曜日、森安警部補と吉井刑事は、上野のビジネスホテルで東京の朝を迎え
た。上野に予約をとったのは、もちろん、ここが事件の出発点であるためだ。
高松で生まれ育った二人にとって、大都会の朝はさわやかではなかった。風は朝から生暖かかった。
ツインルームは三階で、窓を開けると飲食店とか雑居ビルがぎっしり立ち並ぶ小路となっている。夜の汚れが、そのまま残っている感じだった。
「瀬戸内とは違うね」
森安はワイシャツに腕を通しながら言った。森安も吉井も寝不足気味だった。飲食街のにぎわいが、夜遅くまで続いていたためだろう。
二人は上野駅まで歩き、構内の食堂で朝食を済ませた。
上野駅の混雑も、当然なことに高松の比ではなかった。
山手線を利用して警視庁に向かったのが九時前である。
長身の吉井は薄茶のスーツが決まっていたけれど、森安の方は例によってワイシャツの襟を背広から出していた。チャコールグレイの背広は古いし、背も低い。堀端を歩いて行く後ろ姿は田舎刑事そのままの印象だ。
しかし、地上十八階、地下四階建ての、堂々たる新庁舎の前に立っても、臆することなく、ひょうひょうとしているのが森安の人柄だった。
捜査共助課では、たっぷり昼までの時間を過ごした。
最後に、新幹線の中で話し合った、昨日の疑問を出してみた。
すなわち、
「滝田以外に殺人《ころし》の本|犯人《ぼし》がいるかどうか」
ということだが、聞き込みに当たってくれた本庁の捜査員も、
「あえて言えば、元丸暴の種岡ですかな。陽子の周辺に、それらしき動機を持った人間はいませんよ」
新しい容疑者の登場≠ノは懐疑的だった。
森安と吉井は、何度も礼を言って席を立った。
「捜査員をつけましょうか」
という親切な申し出は、丁重に断った。これから先は、気心が知れたコンビの方がやりやすい。
それに、何といっても、せっかく確認してもらった滝田のアリバイを、改めて攻めようとする立場なのだ。
森安と吉井は、担当者がきちんとそろえてくれた報告書と鬼怒川の写真≠受け取って、警視庁をあとにした。
京橋の女性公論社まで、タクシーで十分ほどだった。
週刊レディー編集部では、北川真弓、菅生和彦、笠倉デスクの三人が待っていた。真弓が菅生とデスクを森安たちに紹介し、名刺の交換が済むと、隣の応接室に案内された。
ゆったりとしたソファだった。棕櫚竹《しゆろちく》の大きい鉢植えがあり、奥の飾り棚には自社の新刊書がきれいに並んでいる。
「立派なビルですね。一流出版社とは承知していましたが、正直、こんなに大きい社とは思いませんでしたよ」
森安は高い天井とシャンデリアに目を向けて、感じた通りのことを言った。
真弓がお茶をいれてきた。
「滝田はいつ逮捕するのですか。陽子という女性の薄幸な二十九年に焦点を絞り、北川君は原稿を書き始めました」
と、笠倉は言った。
保険金殺人という明確な動機が表沙汰となって、『我が愛の悩み』担当の編集者は、三人とも気負い込んでいた。
「今回、週刊レディーさんとは全く不思議なご縁でした」
森安はそんな言い方で、警視庁がもたらした指紋の一致≠口にした。
「本当ですか」
真弓の目が輝いた。
「もう間違いありませんね。これまでの取材を踏まえて、原稿をまとめてよろしいのですね」
森安の方はもう一つすっきりしない面持ちだ。
「先日、北川さんにもお話したようにですな、これで、滝田を殺人《ころし》の犯人《ほし》と断定するわけにはいかないのですよ」
「ほかに容疑者がいるのですか」
真弓と菅生が、異口同音に訊いた。
「いえ、滝田以外にそれらしき人物は浮かんでいません」
森安は素直にこたえた。
「だが、滝田は、東京を一歩も離れてはいないのですよ。少なくとも殺人発生の八日火曜日、これは付け入る隙がありませんな。十時五十五分頃陽子を東京駅で見送り、夜は上野のなじみのカラオケスナックで時間をつぶしていたことが、警視庁によって確認されています」
「でも、ほかに容疑者がいないのなら、消去法からいっても、滝田が真犯人ということになるのではありませんか」
真弓は身を乗り出し、菅生がことばを次いだ。
「動機にしても、これほど確かなものはないでしょう」
菅生は、すっきりしない森安に対していらだたしげだった。
だが、焦りを感じている点では、森安と吉井の方が上を行っている。
(表舞台には登場していない影の人物)
滝田とは異質な動機を備えた男。殺人《ころし》の真犯人は本当にいるのか、いないのか。
その一点に的を絞って、二人の刑事と三人の編集者の話し合いは続いた。森安は大阪府警、愛知県警から届いた捜査内容も隠さず俎上に乗せた。
真弓や菅生の取材は、警察とは別の立場から突込んでいるために、検討は予想以上のふくらみを持った。警察の捜査は、もちろん犯人追及に終始しているわけだが、週刊レディーの取材は、陽子の人生を浮き彫りにすることが主眼となっている。
しかし、談合がふくらみを持っても、新しい人物が散らついてくる素地はなかった。
殺人に発展するほどの交流相手が、陽子にはいなかった。
「陽子は過去≠ノ殺されたのかもしれません」
滝田は連絡船の中で、真弓に向かってそう言ったが、あれは、やはり滝田自身の行動をカムフラージュするためのつぶやきではなかったのだろうか。
こうなってみると、そう解釈するのが一番妥当のようだ、と、菅生は繰り返した。
「過去≠ヘ滝田以外に考えられません。犯人《ほし》は滝田の線で間違いないのではないですか」
「僕も同感です」
度の強い眼鏡をかけた笠倉デスクが、慎重にことばを挟んだ。
「ヤクザの種岡五郎とマージャンクラブ『いれぶん』の岸本義昭。事件発生時、陽子の周辺にいたのは、夫の滝田を含めて三人ということになりますか」
無論、種岡と岸本には直接当たってみるつもりの森安と吉井であったが、
「そうか、岸本がいましたな」
森安は警視庁から受け取ってきた報告書をぱらぱらとめくった。特に何かを意図したわけではなかった。
しかし、一種所在なげに目を通したそこに、単純だが、無視のできない発見があった。
「ん?」
森安の表情が厳しいものに変わってきた。報告書の内容は改めて読み返すまでもなく承知している。
その知悉《ちしつ》している記述に、一つの裂け目があった。
「岸本義昭は、カギを握る人物かもしれません」
森安は同席の四人を見回した。
発見は、ストレートに、岸本に容疑がかかることを意味するわけではなかった。だが、報告書は、避けて通ることのできない事実≠明示していたのである。
森安は自分に言い聞かせるようにして、新しい発見を口にした。
「滝田のアリバイを立証しているのが、岸本ですな。東京駅で滝田と陽子を見送ったことを肯定しているのも岸本だし、その夜、上野のカラオケスナックで飲んでいたという滝田の主張を裏付けているのも岸本です」
「岸本が陰の共犯者だというのですか。岸本と滝田は口裏を合わせている、と、見るのですか」
「可能性がないとは言えんでしょう。滝田と岸本の密着度がどのていどのものかは分かりません。でも、一億二千万円の保険金の、何パーセントかを与える、と、話を持ちかけたらどうですかな」
「そうですわ。岸本が、滝田のアリバイ工作に一役買うのは、考えられないことではありませんわ」
「滝田のアリバイは、岸本の証言の上に成立している。これは動かせない事実です。この基盤が崩れたら、そのときこそ、指紋≠ェ物を言ってくることになりますな」
森安は報告書を握り締めた。自らの発見が森安に緊張を運んでいた。
刑事と編集者は、これまでの線で、それぞれの捜査・取材を深めることにして、最初の談合を終えた。
このような形での、民間の協力≠ヘ異例だが、今回の事件に限って言えば、森安としても、捜査本部の立場を一方的に通すわけにはいかなかった。
森安、吉井のコンビにとっては、当然滝田のアリバイ崩しが主眼となり、真弓と菅生は、もう一度滝田の日常(特に女性関係)を掘り下げることになった。
森安と吉井は、一時間ほどで女性公論社をあとにした。
東京駅まで歩き、八重洲口の地下街で遅い昼食をとった。狭いカウンターの、牛どん屋だった。
「ここまできたら、遠回しに岸本に当たってもしゃあないだろう」
先に食べ終えた森安は、ようじを使いながら言った。岸本に探りを入れることは、影の人物の有無を確認することにもつながってこよう。
「そうそう、陽子がひかり7号≠ナ東京駅を出発した八日、岸本は、滝田夫婦と八重洲北口の喫茶店で待ち合わせているわけだな。岸本を訪ねる前に、一応その喫茶店をのぞいておこうか」
「主任、すべてが岸本の偽証の上に成り立つアリバイだとしたら、極めて幼稚なトリックということになりますね」
吉井が口ごもりながら言ったのは、東京駅構内の二階に足を向けたときだ。エスカレーターを上がり、滝田夫婦と岸本が落ち合ったという細長い喫茶店の前に立ったとき、吉井は首をひねっていた。
(そんな単純なトリックを弄する連中だろうか)
それが吉井の脳裏を占めた。
森安の発見は貴重だし、改めて、しかと確認をとる必要はある。しかし、滝田と岸本が組んでの犯行が決定的だったとしても、裏工作は別の形をとっているのではないか。
「これだけの事件が、こんなトリックで構成されているなんて、何か、ばかにされているような気もします」
「君らしい言い方ではあるがね、それが現実ってものではないかね」
ベテラン警部補は、理屈よりも体験を重視するタイプだった。
森安と吉井は、窓の多い喫茶店を一通り眺めて、一階のコンコースへ下りた。
山手線に乗って上野へ戻った。
午後の上野は新しい活気を呈している。
駅から電話をかけた。岸本はまだ『いれぶん』に出ていなかった。
森安と吉井は、岸本のマンションへ行くために、駅前の派出所で道順を確かめた。
映画館前の、混雑する舗道を歩いた。
「主任、岸本が滝田のためにうそをついていたとすると、半月前の犯行日、滝田は、陽子と同じひかり7号≠ナ、東京駅を出発したことになりますか」
「そうだろうね。一緒に行くのが、もっとも間違いのない方法だ」
滝田は(いったん東京駅改札口で見送ってから)陽子に気付かれないよう、同じ新幹線で西下した。同じ連絡船で高松に着き、陽子が高松駅構内にある観光デパートの食堂から老人ホームの伯母に電話するのを待って、接近する。
「どうきっかけを作ったのか知りませんが、焼き肉を一緒に食べたのも、滝田ということになりますね。一体、どこで食べたのでしょう」
「滝田にこたえてもらうしかないね」
森安は苦笑した。
「それにしても分からないのは、なぜ、殺人現場を屋島に選んだのか、ということだな。アリバイ偽装が目的なら、わざわざ瀬戸内を渡らなくとも手段はあるだろう」
「そうです。これだけの単純トリックなら、ほかにいくらだって工作できると思います」
二人は一つの話題を深めながら、午後の舗道を歩いた。
岸本が住むマンションは池之端だった。マージャンクラブ『いれぶん』がある雑居ビルから、
徒歩で十分足らずの場所だ。不忍池に面した十階建ての、大きいしゃれたマンションだが、岸本が借りているのは陽の当たらない北西の、2DKだった。
七階に上がると、エレベーターのすぐ前のドアに、表札代わりに、『いれぶん』の店名入りの名刺が挟んであった。
「刑事さん?」
チェーンをかけた半開きのドアから顔をのぞかせた岸本は、目の動きに落ち着きのない男だった。
黒いズボンに、黒を基調とする横じまのオープンシャツを着ていた。滝田とは質が違うけれども、やはり崩れた印象を与える男だ。
「出ましょう」
岸本は二人の刑事の来意も確かめずに言った。
2DKの室内には人の気配があった。岸本は、家人に行き先を告げるわけでもなかった。すっと出てきて、後ろ手にドアを締めるのである。いかにも、内部《なか》はのぞかせないぞ、といった素振りで、そんなところにも判然としない影を感じさせる雰囲気を伴っていた。
滝田ほどではないが、岸本も背は高い方だ。やや、ヤクザっぽい歩調で先導したのは、不忍通りの喫茶店だった。岸本は勝手知ったように、高松からきた二人の刑事を窓際のテーブルに案内した。
池に面した小さい喫茶店は、客足もまばらだった。
池の中に弁財天があり、その向こうに水族館へ続くモノレールが見える。平日とあって、池のほとりも、上野動物園の人波もゆるやかだ。
岸本はトマトジュースを注文し、森安と吉井はホットコーヒーをつきあった。
「滝田が疑われているのですか」
岸本は長い脚を組んだ。目の動きは不安定だが、はっきりとした、物の言い方をする男だった。
「滝田が犯人であるわけはないよ」
岸本は明快な口調で否定した。
「奥さんが殺されたあの夜、滝田は、オレと上野で飲んでいたのですよ。その滝田が、どうやって、高松なんぞで事件を起こすことができるんだい?」
岸本はすらすらと言ったが、刑事の質問に備えて、ことばを用意していた感じではなかった。
森安の横顔を、失望がかすめた。
(こいつ、うそをついてはいないのか)
森安は改めて、このヤクザっぽい男を見た。突破口であるはずの岸本証言≠セが、
(この男は滝田とは違うな。滝田のように、調子よく口から出まかせを並べるタイプではないぞ)
森安は自分の中でつぶやいていた。一目でそれを察したのは、ベテラン警部補の勘だった。
滝田は高松の捜査本部で、上野で飲むときは岸本のほかにマージャン仲間が一緒だった、と、述べている。その仲間というのも、こうなってみれば、どうせ滝田や岸本とつるんで偽証してくるのだろうと考えた森安であったが、
(こりゃ、訂正する必要がある)
と、自分の中のつぶやきを続けた。
「第一滝田が、どうして別れる女房を殺さなければいけないのだい?」
岸本の疑問は、捜査本部の初期段階と同じものになった。
(すると、この男、一億二千万円の保険金も知ってはいないんだな)
森安は一瞬迷った。保険金殺人≠たたきつけてみるべきかどうか。岸本の反応を見たかったけれど、結局は思いとどまった。今の応答が岸本の演技なら相当なものだが、そうではないと見抜いた森安は、
(滝田に知られるのはまずい)
と、そのことの方を重視した。
森安の質問は、間違いなく滝田に伝わるだろう。滝田に先回りされ、新しく事後工作などをされては、糸が一層こんがらがってしまう。
コーヒーがきた。
「どうして滝田を疑っているのですか」
岸本が反問した。
森安はこうした際の決まり文句を言った。
「特定なだれかを疑うわけではありません。関係者の一人一人に当たって、報告書をまとめなければならんのですよ」
「種岡はどうですか」
岸本は上半身を乗り出してきた。
「旦那方は当然マークしているのでしょうが、オレはあの暴力団が臭いと思うね。『リヤド』に乗り込んできたときなんざ、まるで半狂乱だった。オレが仲に入ったわけだけどよ、その場で刃傷沙汰に及びそうだった。あの男なら、かっとすれば殺人《ころし》でも何でもやりかねないと思いますよ」
「念のために、あなた方がよく飲みに行く店を伺っておきましょうか」
「今ボトルを入れているのは三軒だな」
岸本は、『キセン』、『岸まさ』、『小浜』という店の名を言った。いずれも、上野広小路周辺の酒場だった。
「陽子さんが殺された八日ですが、あの夜は、何時頃から滝田さんと一緒になったのですか」
「十一時だね、あの夜飲んだカラオケスナックは『小浜』です」
「十一時という時間に間違いないでしょうね。断言できますか」
「『いれぶん』を締めるのが十時五十分です。十一時五分前には明かりを消すようにしています。ずっとそうしてきたし、最近店でトラブルもなかったから、十一時には『小浜』に立ち寄っていたはずです。ずれても、五分とは違っていないと思いますよ」
納得いくよう『小浜』で尋ねたらいいでしょう、と、続ける岸本は、やはり、滝田をかばって偽りの証言をしている感じではなかった。
むしろ、事実をそのまま強調しているのに、
「まだ質問事項があるのか」
と、岸本はそんな顔をしている。
これでは駄目だ。報告書からの発見≠ヘ、瞬時にして、価値のないものに変わってしまったわけである。
「オレが『小浜』へ入って行くと、滝田はカウンターの奥で、ボトルを置いて飲んでいましたよ」
「滝田さんが先にきていたのですね」
「うちの店の常連で、滝田のマージャン仲間も三、四人いましたよ」
「滝田さんは酔っていましたか」
「水割りはけっこうあけてたようだけど、酔える状況じゃなかったね。歌好きな彼が、あの夜はマイクを持とうともしなかった。日頃のプレイボーイも別人といった感じでした。奥さんと別れる事情が事情でしたからね」
「奥さんの過去、トルコで体を売っていた過去を知らされたときの滝田さんのショックは、あなたの立場からも相当なものに見えましたか」
「種岡みたいな、殺人未遂のヒモまで現れたのですよ。愛し合っていた女房だけに、滝田のいらだちも大きかったと思うな」
「愛し合っていた?」
質問者は若い吉井に代わった。
「種岡が、陽子さんの十三《じゆうそう》時代を暴露するまで夫婦は平穏だった、と、あなたも思いますか」
「刑事さん、どうして、あの暴力団をパクらないのですか」
「滝田さんには、とかく、女性関係のうわさがあると聞きました」
「やつはもてるからね。でも、浮気と本気は違うよ。刑事さんが言うのは真知のことでしょ」
「真知?」
初めて聞く名前だ。警視庁の報告書にも、滝田が女性関係にだらしないとは記入されているが、真知という特定の名前までは控えられていない。
「その女もホステスですか」
「市川の安いクラブで働いていたんだ。京成の駅の近くにある『ルレーブ』というクラブでね、オレも何度か、市川まで飲みに行ったことがある。滝田が自慢して紹介したが、オレにはちょっと分からないところもあるね。滝田の浮気相手は、いつも奥さんと似た女なんだよ。真知も、陽子さんと同じようにすらっとした色白で、どこかに翳のある女だった。オレなら、浮気相手には、女房とは別のタイプを選ぶよ」
そういうもんでしょ、と、岸本は言った。
「だが、真知とはもう切れたはずだよ。あの女は大阪へ帰ったと聞いた」
「大阪? 真知という女性は大阪の出身ですか」
「いや、京都だったかな。いずれにしても、真知は東京にいないわけだし、今、真知の話など関係ないでしょう」
「その後の女性というとだれになりますか」
「そう畳み掛けられても困るね。滝田のことだ、ほかの女と深い仲になっているかもしれないけどよ、離婚問題のごたごたが続いていたし、今度は奥さんが殺された。さすがの滝田も、このところ女の話は口にしていないようだ」
「分かりました」
吉井は、話を滝田のアリバイに戻した。
「で、十一日はどうでしょう? 滝田さんとは夜ふけまでご一緒でしたか」
「十一日? 金曜日ですね」
わずか十二日前のことに過ぎないが、岸本は慎重に指を折って考えた。
「一晩だけ、一緒に飲まなかった。それが金曜日になるかなあ」
「滝田さんが、上野に姿を見せなかったのですか」
「うん、そうだ、陽子さんの遺体が発見された前の日だから、十一日です」
「間違いありませんね」
吉井の声が思わず知らず高ぶっていた。十一日、滝田は東京にいなかった! 吉井は森安の顔を見た。
(滝田が上野へ現れるわけはない。滝田は陽子の死体を移動させるために、高松へ行っていたのだ!)
森安の目もそう語っている。
滝田のアリバイ工作に協力しているのではないか、と、疑いをかけられた岸本が、逆に、アリバイ破りに一役買う結果となった。
森安が質問を引き継いだ。
「滝田さんが夜の上野へやってこなかったのは十一日だけですか」
「今も言ったように一日だけですよ。もちろん、遺体を引き取りに高松へ出かけたときは別ですがね、ほとんど毎晩、滝田とは一緒に飲んでますよ。彼、一段と酒量が上がってしまってね」
「種岡はその後やってきませんか」
「くるわけないでしょう。滝田もオレも、あんな男とは関係ありませんや。それに、オレは種岡が陽子さんを殺《や》ったような気がして仕様がないのですよ。だとしたら、ますます上野には足が遠のくでしょう。あの乱暴な男、かっとして、大事なドル箱を殺してしまったのではありませんか」
「坂ちゃんというチンピラが、種岡のお供をしていなかったかね」
「『リヤド』へ暴れ込んできたとき、若い男が一緒でした。だが、オレが見るに、あれはヤー公じゃないね。種岡が働いている新宿のパチンコ屋の店員ですよ。種岡が滝田夫婦にドスを利かせると、野郎の方が蒼くなってがたがたしていたものね」
「いろいろありがとうございました」
森安は礼を言って、腰を上げた。
当初の期待は満たされなかったが、新しい発見が大きかった。少なくとも、死体移動日の滝田のアリバイは崩れ始めたのである。
吉井は新しく名前が出てきた女性、真知が働いていた市川市内のクラブ『ルレーブ』を警察手帳に控えた。二人の刑事は不忍通りの喫茶店を出た。
真知は、名字を河原といった。河原真知については、菅生和彦が当たっていた。
週刊レディー編集部へ、市川に出張した菅生から市外電話が入ったのは、午後五時を回る頃だった。真弓が電話を受けると、
「真知は大阪の出身だ。陽子の過去≠ニも関連があるかもしれない。大阪出身≠ェ引っ掛かるじゃないか」
と、菅生は言った。
同じ疑問を吉井刑事も抱いたわけだ。こうなってみると、疑わしきものはすべてチェックするのが、取材の常識となる。
「もう一つ気になるのは、真知がクラブ『ルレーブ』をやめた日にちなんだよ」
と、菅生は続けた。
「クラブの店長を聞き込んだところ、それが五月五日の土曜日だという」
「殺人の三日前じゃない?」
真弓は受話器を握り直した。滝田と関係があった女性だけに、市川から消えたタイミングが、(菅生が気にしたのと同様に)偶然とは思えなくなってくる。
「新しく登場してきたこのホステスが、事件に一枚かんでいる可能性はあるわね」
真弓も、ことばに力を込めた。
殺人発生と符節を合わせるようにしてクラブをやめた河原真知は、故郷へは帰らなかった。大阪を通り越して瀬戸内海を渡ったのではないだろうか。
と、そう考えると、ベールの向こう側の影が、新しい動きを見せてくるような気がした。
「河原真知って、どんな女性なの?」
「それがよく分からないんだよ。ホステス仲間との交流も浅かったし、もしかしたら『ルレーブ』で名乗っていた真知というのは、本名ではないかもしれない」
「陽子さんと同じように、他人に知られたくない過去を持っていたのかしら」
「大阪出身といっても、店長とか同僚が確かめたわけではないんだ。話の様子では、彼女|係累《けいるい》がないらしいけど、大阪の住所も本籍も、はっきりしないんだよ。僕はすぐ市川の市役所へ駈け込んだ。河原真知の住民登録はされていなかった。もちろん、彼女が住んでいたという、市川市内の鬼越のアパートへも行ったよ。アパートでは、彼女が大阪の出身だなんて、小耳にも挟んでいなかった」
「うそをついていたのかしら」
「二年近く住んでいたが、手紙は一通もこなかったというし、訪ねてきた知人もいない。やはり、過去に何かあったのだろうね。美人だが、明るく笑うことは少なかったそうだ」
「暗いものを引きずってる人って、少なくないのね」
と、真弓はこたえた。無論、陽子の半生を踏まえた上での発言だった。
それにしても、滝田幹夫という男をどう捕らえればいいのだろう?
浮気と本気の違いはあっても、滝田は、同じ時期に、容貌も生い立ちも似たような二人の女性と関係を持っていたことになる。一人は屋島で殺され、一人は二年近く続いていた生活の場を捨てた。
真知が市川から消えたのは、滝田の意思が働いた結果かもしれない。恐らく、その可能性が強いのではないか。
真弓はそう考え、宇高連絡船で、滝田から初めて声をかけられた九日前を思った。滝田の意図した企みが背後に動いていたとしたら、それは、浮気≠ニ本気≠ェ入れ代わった、ということにはならないか? 妻を追い出すことに決めた滝田だが、女性がいなければ一日だって生きていけないタイプだ。滝田は、とりあえずの妻の代役を、それまでの浮気相手に求めたのかもしれない。
「僕もそれは考えているんだ。詳しいことは社に戻ってから話すけど、真知が犯行に手を貸したのは、十分考えられると思うよ」
菅生も同意した。
しかし、手を貸すといっても、真知は、例えば滝田のアリバイ工作に協力した、というような立場ではないのだ。種岡のようなヤクザ者とは違う一個の女性が、殺人、あるいは死体遺棄を、どう手伝ったというのか。
電話を切ったとき、新しい疑問が真弓に生じていた。
森安警部補と吉井刑事は新宿へ回った。種岡五郎が働くパチンコ店は、コマ劇場の近くだった。
新宿に不案内な二人は宵の雑踏を歩き、歌舞伎町の派出所で道順を尋ねた。
「話には聞いていましたが、派手な若者の多い町ですね」
「うちの女房なんか連れてきたらびっくりするだろうな」
と、つぶやく森安は、妻との約束を延ばしている土佐一周旅行が、脳裏の一隅にこびりついていた。
問題のパチンコ屋は、雑居ビルの一階にあった。店頭にはずらりと花輪が並んでいる。照明がきらびやかで、大きい店だった。
パチンコ店は、一日の中でもっとも混雑する時間帯のようだった。景気付けの音楽はボリュームを一杯に上げているし、店内の喧噪は高松市内のパチンコ店からは想像もできないほどに激しい。
「こんなところでよく遊べるもんだな。わしなんか、一時間もいたら頭がおかしくなってしまう」
森安は、種岡を呼び出してくるよう、吉井に命じた。
五分と待たせずに、種岡が出てきた。カーリーヘアで胸が厚く、首の太い男だった。濃げ茶のオープンシャツの胸をはだけ、素足にサンダルを突っかけている。
種岡は呼び出しに行った若い吉井を無視するようにして、森安の前に立った。背は高くないのに大きく感じられるのは、暴力団元幹部の貫禄のせいだろう。
「こんな忙しい時間に困るね」
と、たばこに火をつける種岡は、パチンコ店で店長代理の地位についていた。最初は単なる住み込み店員であったが、こうした世界では、かつての実績がものを言うのに違いない。たばこを持った左手の、小指を詰めていた。
表面上は更生したといっても、殺人未遂の前科を持つ男には、(滝田や岸本などとは違って)自然ににじみ出てくる威圧感があった。
「立ち話も何ですから、ちょっと冷たいものでもつきあってくれませんか」
森安は下手に出た。ベテラン警部補はこうした男の扱いに慣れている。
近くに大衆食堂があった。森安は先に立って、古いのれんをくぐった。コーラのチケットを三枚買った。
広い店内は夕食をとる家族連れで込んでいた。場違いな三人は窓際に陣取った。
「陽子のことだね」
種岡は、四角いテーブルで向かい合うと先回りして言った。
「オレのことは一応の調べがついてるんだろ。それだけだよ。それ以上話すことは何もありませんや」
半ば予想していたことではあるが、暴力団の元幹部は一本気な性格だった。ことばを溜めることができないタイプだ。
こういう相手に対しては、こっちが逆に質問を手控える。森安は、それが効果的であることを体験的に知っている。
果たして、種岡の方が焦燥を表に出して口走った。
「このオレが、何で陽子を殺さなければならないんだ」
「あなたが犯人だとは言っていません」
「オレ、テレビを見るまで、陽子があんなことになっていたなんて、全く知らなかったんだよ。うそじゃないぜ。陽子が高松へ帰ったことも、オレは聞いちゃいない。陽子の帰郷も知らないオレに、陽子を殺せるわけがないじゃないか」
「しかし、『リヤド』へはよく顔を出していたそうじゃないですか」
「話の通じない連中だ。オレは他人の女房になった女と、ヨリを戻そうとしたわけじゃない。それほど落ち込んじゃいない」
「そうですかな。陽子さんを連れ戻しにきた、という証言を耳にしていますがね」
「オレが怒鳴り込んだものだから、勝手にそう思ってるのと違うか。陽子はオレの別荘暮らしが決まったとき、一言のあいさつもなく十三を飛び出した女だぜ」
コーラが運ばれてきた。種岡は音を立ててコーラを飲んだ。
「陽子は名古屋から東京へと逃げてきた女だ。オレはただ、そのオトシマエをつけてもらいたかっただけだよ。旦那方の前ですが、それが筋ってものじゃないですか」
「筋かどうかは知らんが、立派な脅迫《かつあげ》じゃないか。滝田夫婦からいくら絞り取った?」
「一文ももらっちゃいねえよ。滝田って男、助平たらしい顔してるくせに、わりと度胸が座ってるぜ。岸本ってマージャン屋の仲間《だち》とつるんで、オレなんざに払う金は一円もないと抜かしやがった」
「滝田は、店をつぶされるのではないかと怯えていたようだが」
「あの野郎がかい? あいつがそんなタマか。陽子が昔トルコで働いていたと暴露されても、顔色一つ変えなかった男だよ」
そんなことはあるまい。それが、陽子の過去≠フ表沙汰となったことが、事件の隠れた発端ではなかったのか。その点は岸本も強調していたではないか。
妻の暗い過去を打ち明けられたとき、滝田が表情を変えなかったのは、滝田一流の、精一杯の虚飾であったかもしれない。あるいは種岡の方で、一方的に、滝田が動じなかったと解釈しただけのことかもしれぬ。
森安が念を入れてその点を糺すと、
「とんでもない」
種岡は即座に否定した。
「オレはね、いくらか巻き上げるつもりで、陽子にはオレというヒモがいた、と、最初はほんの匂わすていどだったんだ。ところが、滝田の方から切り出してきたんだぜ」
そのとき滝田は、
「陽子がトルコで体を売っていたことも知っています。オレたちは何もかも承知の上で一緒になったんだ。今更そんなことを暴露して金にしようたって無理ですよ」
はっきり首を振ったという。
「それで、オレは頭にきて、市川のマンションにまで押しかけたってわけさ。だが一文にもならなかった。あの野郎の方が役者が一枚上だよ」
「滝田は、本当に陽子さんの過去を知っていたのですか」
「知っていなかったとしたら、いくら何でも、もっとうろたえるんじゃないのか。それによ、今も言ったように、トルコを口にしたのは、オレよりあいつの方が先なんだぜ」
森安は信じられない面持ちになった。
妻の過去の歪みを知らされたことが、夫婦破局の遠因だったはずである。少なくとも、今までの捜査結果はそれを指向している。
(その点でも、滝田はうそをついていたのか)
森安は目の前の種岡をみつめながら、うそをついているのはこのヤクザ者ではない、滝田の方だ、と、改めて思った。
それが破局の真因でないとすると、滝田は、種岡の出現に便乗したことになる。
「昔の男の一人や二人が発覚したからって、そんなことでオレは陽子を責めやしない。だが何年もの間、トルコで不特定な男に体を売っていたとなると話は別だ」
と、滝田は、妻の過去を知ったときのショックを菅生に告げている。
それは、原因ではなかったが、周囲を納得させるためのきっかけになった、ということか。
(やはり、殺人《ころし》の本|犯人《ぼし》は滝田だな)
新しい実感は、熱い流れとなって森安の背筋を這い上がってくる。
「最後にお尋ねします。あなた、八日の夜はどこにいましたか」
「アリバイってやつかい」
種岡は慣れた風な口の利き方をした。脚を組み、背もたれに両ひじをかけた。何度も警察の取り調べを受けている前科者は、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「オレは関係ないと言ってるだろ。残念ながらオレのアリバイは鉄壁だよ」
夜、パチンコ店内で客同士のけんかがあった。双方とも地回りで、対立する暴力団の組員だった。けんかは傷害事件へと発展した。このとき騒ぎを収めたのが店長代理の種岡であり、これが八日だった。
「オレも参考人として、新宿署までパトカーで同行したってわけ。サツではえらく時間がかかってね、オレが店へ帰ったのは十時過ぎだったと思いますよ」
大衆食堂を出て、森安と吉井は種岡と別れた。
夜の人波に押されて新宿駅までくると、森安は、念のために新宿署へ電話を入れるよう、吉井に命じた。
電話は簡単に終わった。
種岡の主張に誤りはなかった。屋島で殺人が行われた夜、種岡五郎は間違いなく東京にいたのである。新宿署の副署長が証言するのだから、これ以上確かなアリバイはないだろう。
種岡が、陽子の過去≠ノ、いかに悪質な歪みを刻んでいようとも、道義的な事柄は、今、二次的な問題に過ぎない。
「種岡の名前を、リストから消しますか」
「そういうことになるね」
森安は駅の大時計を見上げた。七時半を回るところだった。
「滝田一人に絞られてきたな」
森安は繰り返した。
滝田は夜の町に生活の主体を置いている。日は暮れて、滝田の日常が回転を始める時間だった。
「滝田を探るのには絶好の時間だな」
「上野へ戻りますか」
「早いとこ晩めしを食おう。手分けして、カラオケスナックとか『いれぶん』の、滝田の顔見知りを探ってみようじゃないか」
滝田のアリバイを間接的に立証しているのは、マージャン友達とか飲み仲間たちだ。岸本に当たった今となっては、この連中の偽証ということも考えられないと思った。一人や二人なら別だが、数人が口裏を合わせるのは難しい。
しかし、滝田の犯行が事実なら、証言の向こう側に隠されているものがあるはずだ。裏に潜んでいるものに光を当てることが急務となる。
彼らと直接ことばを交わすことで、微妙な何かが発見できるかもしれない。
新宿駅構内は、歌舞伎町の道路と同じように混雑していた。森安と吉井は、地下一階の改札口を通った。
不案内な大都会を一日歩き回ったことで、二人とも相当に疲れている。だが、二十八歳の吉井刑事は無論のこと、四十七歳の森安警部補も、これからの夜の聞き込みにファイトを燃やしていた。解決≠ェ、すぐそこに迫っていることを、刑事としての本能が察知していたためである。
高松の捜査本部に電話を入れたのは、上野駅に戻ってからだった。
「そういうわけで、今夜の聞き込み結果は明朝報告します」
森安はそう言って電話を切った。コインの残りを気にしながらの、青電話からの連絡なので、せわしない、早口の報告だった。
遅い夕食は、上野駅構内の朝と同じ食堂でとった。朝と違って、ビールや酒をテーブルに乗せている客が多い。
森安と吉井は、ジョッキを傾けてゆっくり談笑する客たちを横目で見ながら、慌ただしい食事を終えた。
駅を出て横断歩道を渡ると、京成デパートの前で、いったん二手に分かれた。
聞き込みは順調に運ばれた。
二人が、前後してビジネスホテルに帰ったのは十時過ぎだった。
「ビールでも飲みに出よう」
森安は大判の時刻表を手にしていた。一足先に帰っていた森安は、ホテルのフロントでその時刻表を借りた。
(主任はきっかけをつかんだな)
吉井は時刻表を見て思った。
半同棲の女
森安警部補と吉井刑事は、ビジネスホテルの裏側に足を向けた。飲食店が並ぶ小路に、赤ちょうちんの焼きとり屋があった。
十時を回っているのに、カウンター形式の小さい酒場は込んでいた。店主夫婦と客との会話から察するに、常連はサラリーマンが多いようだ。
森安と吉井は、いすを詰めてもらって、隅の壁際に腰を下ろした。十人近い常連客たちは、皆それぞれに声高にしゃべり合っているので、周囲にそれほど神経を使う必要はなかった。
塩焼きの盛り合わせを注文し、ビールを飲みながら早速本題に入った。滝田のマージャン仲間とか、飲み友達の証言は、正確に、岸本のそれを敷衍《ふえん》する結果となった。
「まず、死体を移動した十一日ですが、確かに、この日は、だれも滝田を見かけていません」
「少なくとも上野ではアリバイがない、ということだよね」
「滝田は、屋島で死体を藤の花の下に遺棄し、その夜、あるいは翌朝、市川のマンションへ帰ったのに違いありません」
「翌十二日、捜査本部から市川の『コープ小池』へ電話を入れたときには、滝田が直接電話口へ出たわけだね」
「そうです。午後一時頃でした」
無論、空路利用だろう。とりあえず問題となるのは、帰路、高松―東京間のダイヤだ。
「崖下の第一現場から藤の花の下までリヤカーを引いて二十分。遊歩道から県道まで十分。すぐにタクシーを拾えれば、空港まで、夜なら二十分かな。確認してもらおうか」
森安は大判の時刻表を差し出した。
航空ダイヤは最終ページとなっている。高松空港に入っているのは、全日空《ANA》と東亜国内航空《TDA》だけだ。
「主任、五月八日頃の屋島の日没は七時近くでしたね」
吉井は指先で発着時間をたどり、つぶやくように言った。
いくら人気のない遊歩道とはいえ、死体を移動するとなると、日暮れを待たなければなるまい。早くとも午後七時半過ぎとなろう。七時半に製材所のリヤカーを盗み出し、崖下の廃屋に忍び込んだと仮定して、森安の簡単な計算によると、遺棄作業完了から高松空港まで、ざっと五十分。
「滝田が東京へ戻ったのは翌日ですね」
「最終便には間に合わんのか」
「TDAの東京行き最終便は十八時十五分、全日空は十八時五十分。最終の東京行きが午後六時五十分ですよ。瀬戸内海にはまだ残照があるでしょう。死体を運び出すなんてことは、とてもできません」
「滝田は高松で一泊せざるを得なかったわけか」
十一日の夜、滝田は上野へ現れていないのだから、そういうことになろう。当日の帰京が可能なら、滝田は、アリバイを強調するために上野へ飲みにきたはずだ。滝田は飲みにくることができなかった。
これで、十一日の高松行きは確定≠ニいうことになろう。
「朝の便は全日空がありますね。ANA572便≠ェ、八時に高松を出発して、九時五十分に東京へ到着します。これなら市川のマンションで、捜査本部からの電話をゆうゆうと受けることができます」
「五月十二日のANA572便≠ノ、三十歳前後の偽名が一人搭乗していたことになるね。これは捜査本部で洗い出してもらおう」
森安は自信をもってビールをあけた。
大皿に盛られた焼きとりが、カウンターに乗った。
森安はビールの追加を注文し、レバ塩に手を伸ばした。
「問題は、殺人《ころし》があった八日だな」
口元が引き締まっていた。
岸本が断言したように、その日は、午後十一時前から、滝田は『小浜』に姿を見せていたのである。裏付ける証言も多い。
しかし、東京駅で、
「まだヤボ用が残っているんだ。夜、飲みに行くよ」
と、岸本と別れて以後の滝田の足取りは鮮明ではなかった。だれも、滝田の昼間の所在を知らない。
「その空白の時間、やつは瀬戸内を渡っていたんだ。これが突破口だぞ」
森安は新しいビールを、自分と吉井、二つのコップに勢いよく注いだ。
滝田はあの日、陽子と同じひかり7号≠ナ高松へ向かった。宇野線、連絡船と乗り継いで、高松着が十六時五十四分。すなわち、午後四時五十四分だ。
陽子が、高松駅構内にある観光デパートから電話で峰山町の老人ホームに連絡をとったのが五時過ぎ。滝田は、この連絡を待って陽子に接近した、という順序になる。
どのような口実が用意されていたのか。ともあれ滝田は、どこかで陽子と一緒に焼き肉を食べ、それから、屋島崖下の廃屋へ陽子を連れ込む。
「殺人《ころし》の目的を達した滝田を、何としてでも最終便へ乗せなければならないぞ」
森安は、小声だが厳しい口調で言った。十八時五十分発の最終ANA578便≠フ東京着は二十時四十分、すなわち午後八時四十分だから、楽々と十一時前に上野の『小浜』へ入ることができる。
「しかし主任、こんな慌ただしい時間に、何で焼き肉を食べる必要があるのでしょう?」
「それも滝田に聞くしかないね」
森安は苦笑した。このときだけいつものひょうひょうとした表情を見せたが、それはすぐに消えた。
「陽子に不審感を抱かせないための、ムード作りの意味合いもあったかもしれないね」
「持ち時間はぎりぎりですよ。高松駅からタクシーと徒歩で、屋島の崖下まで三十分。取って返して空港まで、やはりタクシー利用で三十分とすると、焼き肉を食べるのと凶行に残された時間は、四十分ぐらいしかありません」
「ほかに、東京へ帰る便は本当にないのかね」
森安は時刻表を引き寄せた。
ページから顔を離して見るのは、(森安自身はそう思われることを嫌っているが)老眼が始まっているためだ。
森安は読みにくそうに細かい数字を追っていたが、
「あるじゃないか。大阪行きがある」
怒ったように顔を上げた。ページの一点を指差して、時刻表を吉井に戻した。
森安の発見によると、さらに四十五分の時間を滝田に与えることができた。この場合の四十五分は貴重だ。
「見落としでした」
吉井は頭を下げた。決して、吉井がいい加減な性格というわけではないが、森安のように、角度を変えて、もう一つ念を入れる世代ではなかった。
吉井はメモをとりながら、小声で読み上げた。
「十九時三十五分発のANA480便≠ヘ、大阪到着が二十時十五分。二十五分の待ち合わせで、東京行きのANA130便≠ノ接続していますね。東京着は二十一時四十分です」
「羽田が九時四十分なら、この便でも十一時前に上野へ来ることができるね」
しかし問題は残る、と、吉井は思った。四十五分の余裕が生じたといっても、大阪行きの最終便に搭乗するためには、七時前後に屋島を出発しなければならない。さらに逆算すれば、陽子を伴った滝田は、陽があるうちに崖下の廃屋へ立ち寄ったことになる。
吉井がその疑問を口にすると、
「この時点での陽子は生きているわけだ」
森安はそう言って、自らうなずくようにした。
「死体と違って、生きている人間ならば、犯人《ほし》に協力することも可能じゃないかね」
「被害者《がいしや》が犯人《ほし》に協力する? 陽子は、滝田に、うまく言いくるめられたということですか」
「あの男のことだ、二年間も一緒に暮らした女を丸め込むなんて、それこそ朝めし前だろう」
滝田と陽子は遊歩道を散策するアベックを装って、崖下へ近付く。
そして、人目がないのを見定め、雑草を踏み分けて廃屋へ入ったのじゃないかね、と、森安は続ける。
「滝田がどう丸め込んだかは知らんが、ああした場所へ行くには、夜よりも陽のあるうちの方が、陽子に抵抗を与えなかったとも思うよ」
「それはそうですね。真っ暗になってからあんな崖下へ行ったら、いくら昔の自分の家でも、陽子は不審感を抱いたかもしれませんね」
吉井が肯定すると、森安はセブンスターに火をつけた。
「時間的には、これで滝田の犯行は可能になってきたわけだ。八日のANA480便=Aこの飛行機にも、一人の偽名が搭乗していたことになる」
残る問題は、『コープ小池』の住人たちの証言だった。滝田夫婦の両隣の主婦たちは、警視庁の聞き込みに際して、その四日間、滝田をマンションで見かけたと口をそろえている。
「が、四六時中一緒だったわけではない。見かけた時間が問題だ。そこにも必ず間隙があるはずだ」
森安は、これまた自信を持って繰り返した。
「明日は一番で市川へ行こう。捜査本部へ報告電話を入れるのは、滝田を締め上げてからだ」
「うまくいけば、明日中に逮捕令状を請求できますね」
二人の刑事は、収束の時が近付いてくるのを感じていた。
しかし、滝田は、簡単に両手を上げる男ではなかった。
翌朝、森安と吉井は、ちょうど十時に、『コープ小池』302号室のドアチャイムを鳴らした。
「まだオレを疑っているのですか。こんなに早くから迷惑ですよ」
それが、滝田の第一声だった。
滝田はパジャマ姿だった。常識的には早い時間ではないが、夜の遅いプレイボーイは別だった。滝田は実際に眠そうであり、不機嫌なまなざしだった。
森安と吉井は、しかし、無神経にドアチャイムを押したわけではなかった。京成八幡駅には九時前に到着していたのである。二人は、夜の遅い滝田を思って、十時まで、マンションの外で時間をつぶした。
(この野郎、一体何時まで寝ているつもりだ!)
若い吉井は、早くもいらいらするものを覚えた。それなりに配慮をしての訪問であるだけに、吉井は、滝田の機嫌の悪い顔に不合理をさえ感じた。
「立ち話というわけにはいきません。おじゃましますよ」
吉井は強引に中へ入った。森安がその吉井に続いた。
「用件は何ですか」
滝田は口元をとがらしたものの、制止はしなかった。二人の刑事からにじみ出てくる緊迫感に、圧倒された感じでもあった。
2DKの賃貸マンションは、ドアを入ったところがダイニングルームとなっている。二人の刑事と滝田は、四角いテーブルに向かい合って座った。
室内は家具も少なく、さっぱりしていた。小奇麗に、というよりも殺風景なほどに片付いている。転居は、やはり事実なのか。
「滝田さんは五月一杯で、このマンションを出て行くことになっているのですよ。今考えてみると、離婚のための転居でしょうか」
と、管理人は、北川真弓の取材に対してこたえている。
森安が転居≠会話のきっかけにすると、
「ええ、そうですよ。離婚をチャンスに引っ越すことにしていました」
滝田はこだわりも見せずにこたえたが、
「転居先は横浜ですか」
と、森安が続けると、
「嫌だなあ。警察って、根掘り葉掘り、何でも聞き出すんだから」
滝田は再び不機嫌をあらわにして、たばこをくわえた。くわえたたばこはショートホープだった。
森安は質問の核心に入った。
「アリバイですか? 高松でおこたえしたはずですよ」
滝田は怒ったように言った。
「そんなことで、わざわざこんな時間にやってきたのですか。昨日は、岸本にも会ったそうですね」
と、先回りする滝田は、森安たちが訪れることを、予想していたに違いない。滝田は続ける。
「岸本の言うことが信用できないのなら、カラオケスナックでも何でも洗ってくださいよ」
「岸本さんの証言は信ぴょう性が高いと思います」
「それでも、オレに不審を抱くのですか」
「もう一度、あなたの口から直接伺いたいのですわ」
森安は、吉井同様に、この野郎! と思いながらも下手に出た。一億二千万円の保険金についても、あえて触れないことにした。今は、アリバイを崩すことが、すべてに優先する。
(滝田は陽子と同じひかり7号≠ナ高松へ向かっているんだ。必ずしっぽをつかんでやる!)
森安は、上辺は平静を装いながらも、心中は若い吉井に劣らずかっかしていた。
屋島での凶行後、滝田が上野へ戻ったコースは、昨夜吉井と話し合った通りだろう。大阪経由に間違いあるまい。
しかし、ANA480便≠フ搭乗者に三十前後の偽名が一人いたことを突きとめたとしても、それは(森安と吉井の推理を裏付けても)、それだけでは決め手とはならない。滝田が、陽子と同じひかり7号≠ノ乗車していたことの、動かぬ証拠が欲しい。
その上で、その四日間、マンションの住人が滝田を見かけたという時間帯を突き合わせれば、滝田の空白の部分は一層明瞭になる。
だが、両隣の主婦に当たる必要はなかった。滝田は、そうしたものを越える不在証明を用意していたのである。
あの日、ひかり7号≠ノは同乗していなかったという証明だ。
「生活を乱されたくなかったので、それで、親しい岸本にもまだ打ち明けてはいないのですが」
と、滝田はそうした言い方で切り出した。
(生活を乱されるだと? そんなことが言える立場か)
吉井はまたもいきり立ったが、森安が目で制した。
森安は吉井を押しとどめるようにして言った。
「どういうことですかな。詳しく聞かせていただきましょう」
「正面切ってアリバイを尋ねられたのでは、こたえないわけにはいかないでしょう。これで最後にしてもらいますよ」
滝田の態度は、森安とは対照的にふてぶてしくなっていた。
「ひかり7号≠ノ乗車する陽子を東京駅で見送ってから、オレ、横浜へ出かけたのですよ」
「横浜?」
「六月から移住することにしたマンションへ行きました」
「横浜のどこかね」
吉井が警察手帳を開き、ボールペンを持つと、
「オレのことをいろいろお調べのようですが、横浜のマンションはご存じなかったですか」
滝田は皮肉まじりの笑みを浮かべた。すぐにいきり立ち、それを表に出す吉井を、滝田の方でも快く思っていなかったようだ。
「ちゃんとメモってくださいよ」
と、余分な一言を挟んで、滝田はマンションの所在地を言った。横浜市の西区で、『エクセレンス長山』というマンションだった。
「横浜駅から相模鉄道という私鉄が出ています。二つ目の西横浜駅です。河を挟んで、西横浜駅のホームからもマンションは見えますよ」
「あの日、夜は上野の『小浜』で飲んだのですね」
「上野へ行くまで、オレはずっと横浜にいましたよ」
うそだ。そんなはずはない。この野郎は高松へ渡っていたのだ。吉井は自分の中でそうしたつぶやきを繰り返しながら、言った。
「横浜にいたことを証明してくれる人間がいますか」
「これから一緒に暮らすつもりの女性ではいけませんか」
「一緒に暮らす女性?」
吉井の声が更に高くなった。森安が、再び二人の仲に入るようにした。
「その女性は、ひょっとして河原真知さんじゃないですか」
「気持ちが悪いなあ。真知のことまで調べてあるのですか。一体、オレが何をしたっていうのですか」
「真知さんは大阪へ帰ったと聞きましたが、市川のクラブをやめて、実は横浜にいたのですか」
「真知じゃありません。彼女とはそれほど深い仲ではありませんでした」
「ほう、今度はまた別の女性ですか」
「はっきり言いましょう、岡田芙美という女です」
「やはり、クラブで働いていた方ですか」
「そこまで答える必要があるのですか。何度でも繰り返しますが、オレはあの日、四国へは出かけていません。ずっと横浜と上野にいました」
何を言うか! 吉井は両掌を握り締めた。指紋はどうなる? この野郎、陽子にかけた一億二千万の保険金を捜査本部がキャッチしていないとでも思っているのか。大金を手にして、新しいマンションで、新しい女との生活を始めるというのか!
そんな女の証言を、どうしてうのみにできよう。吉井は、むらむらと燃え上がってくる感情を懸命に押さえた。
質問は森安が継承した。
「岡田芙美さん以外に、あなたが横浜にいたことを証明してくれる人はいませんか」
「芙美では信用できないのですか」
「芙美さんという女性、今はどちらに住んでいるのですか」
「彼女は一ヵ月半前からそのマンションに入っています。『エクセレンス長山』の205号室です」
「一ヵ月半前の入居時から、あなたと一緒になる約束だったのですか」
「もちろん、それが前提で借りたマンションです。何というのかな、半同棲と言えばいいのかな。一ヵ月半前から、オレは時折横浜に通っていました。泊ってくることは少なかったですけどね」
一ヵ月半前といえば、種岡が『リヤド』へ怒鳴り込んできたあとだ。
離婚≠ェ現実問題として動き出したその時点で、滝田はもう次の生活の準備をしている。滝田があまり語りたがらない岡田芙美という女は、どういう素姓の人間なのだろう?
陽子殺しに関係があるのか、ないのか。
「大阪出身の二十八歳の女、ということだけは申し上げておきましょうか」
「大阪? 河原真知さんも大阪の出身と聞きました」
「今も言ったように、真知はほんの浮気相手に過ぎません。芙美とは違います。同棲するなんて気は毛頭ありませんでしたね」
「陽子さんの過去≠ナ問題となるのも大阪ですな」
「刑事さんって、何でも彼でも関連を持たせて考えるのですね。偶然だと思いますよ。芙美は怪しい女じゃありません。横浜市の西区役所を当たってもらえば分かります。いずれオレと正式に結婚する芙美は、ちゃんと住民登録もしています」
「陽子さんとの離婚手続きと同時に、芙美さんとの再婚の準備を整えていた、と、こういうわけですか」
「お調べになるのはそちらの勝手、とはいうものの、芙美を嗅ぎ回るのはやめてください。芙美はオレの離婚とか、陽子が殺されたこととは全く無関係ですから」
「だったらなおのこと、芙美さんに代わる証人が欲しいですな」
「そう言われても」
滝田は気取ったように長い指を額に当てたが、すぐに顔を上げた。
「そうだ、マンションの管理人に会っていますよ」
六月から二人そろって定住するので、そのあいさつのために管理人室へ立ち寄ったという。芙美も一緒だった。
離婚届を高松へ旅立つ陽子に持たせたことで、早速次の生活設計に着手したというわけだ。東京駅で岸本と別れるとき口にした「ヤボ用」がこれだったのだ。
「正午頃から小一時間ほど、管理人室で話し込みましたよ」
と、滝田は言った。
十二時から一時間。そんなことがあろうか。午後一時といえば、陽子を乗せたひかり7号≠ヘ名古屋に到着する頃だ。同じ新幹線に滝田も乗っていたはずではなかったか。
しかし滝田は、森安の思惑をはじき飛ばすようにして、
「思い出しましたよ」
と、新しいショートホープに火をつけるのだ。
「オレと芙美が管理人室から引き上げるとき、奥さん連中が十人ほど、入れ違いにやってきましたよ」
十人前後の主婦は、いずれも『エクセレンス長山』の住人だった。マンション内での住民組織を発足させるための打ち合わせで、主婦たちは管理人室にやってきたのだった。
滝田や芙美と顔見知りの主婦もおり、二人はあいさつを交わしたという。
これでは駄目だ。今更、滝田がすぐに底の割れるうそをつくとは考えられないし、十人もの証人がいたのでは、滝田の主張は手数をかけることもなく裏付けられるだろう。少なくとも、ひかり7号≠ェ名古屋に到着する頃まで、滝田は、間違いなく横浜にいたことになる。
森安は、溜め息をもらした。引っ越し準備が終わり、小奇麗に片付けられた室内を見回した。
(それにしても)
と、森安は胸の奥で思った。
一方では沈んだ雰囲気の中で離婚届を陽子に渡した滝田は、それから一時間後には、恐らくは別人のように明るい表情で、『エクセレンス長山』の管理人と談笑したのに違いない。
常に、異性との複合関係を持っている男。対象は水商売が多いとはいえ、滝田の何が、女性を惹きつけるのだろうか。
「ところで、十一日はどうですかな」
「十一日のアリバイも必要ですか」
「報告書を作製するために、ついでに伺っておきたいと思いましてな」
「いきなりそう言われても困ります。やはり、横浜か上野にいたと思いますよ」
「滝田さん、この夜、あなたは上野では飲んでいないらしいのですよ。十一日の夜に限って、だれも、あなたを見かけていない」
「じゃ、芙美の部屋へ泊まったのかな」
「たった十三日前のことですよ。思い出してください」
「最近のオレは、市川のここのマンションと横浜の『エクセレンス長山』、それに夜の上野、この三ヵ所以外ほとんど足を向けていません」
森安は、この男どこまでとぼけるつもりなのか、と、胸の中で舌打ちしながら丁寧に尋ねた。
「十一日は、奥さんの遺体が発見された前日です」
それで思い出した、というように滝田はこたえた。
「あの前の日なら、やはり横浜へ行ってました」
これまた証人がいるというのか。メモをとる吉井はボールペンを持ち直した。そう、死体移動日の十一日も、それなりの証人は用意されていたのである。
滝田は例の皮肉まじりの微笑で、吉井の手帳をのぞき込むようにして言った。
「横浜駅西口に、『葦名』というすし屋があります。ええ、高島屋の近くです。午後、芙美と二人で、このすし屋にいました。軽くビールを飲み、カウンターでつまんでいたのですが、芙美が、急に気分が悪くなりましてね、奥の座敷で一時間ほど休ませてもらいました」
そんなアクシデントがあったのでは、『葦名』というすし店でも、滝田たちのことを覚えているだろう。
「そのすし屋さんにいたのは、何時頃ですか」
「はっきり記憶していませんが、一休みした芙美を連れてタクシーで『エクセレンス長山』へ戻ったのは夕方です。そうそう、芙美がそんな状態だったので、それで、あの夜は、上野へ行かなかったのですよ」
「なるほど」
話の筋は通ってくる。
「翌日、高松の捜査本部から電話を入れたとき、あなたはこのマンションにいましたな。横浜からはいつ帰ったのですか」
「夜になって、芙美の気分の悪さも一応収まったので、遅い横須賀線で戻りました」
「泊まらなかったのですか」
「正式に離婚するまでは、あまり派手にはしたくなかったのですよ」
滝田は勝手気ままな日常を送っているくせに、そんな言い方をした。
いずれにしても、それが事実なら、滝田は死体を移動することも不可能になる。問題の軍手はいつ、どのようにして新池の草むらに落とされたのか?
森安警部補は、本八幡駅構内の黄色い電話機から高松の捜査本部へ報告を入れた。
「これから横浜へ行って、ウラを取ります。長年の勘からいって、滝田の主張はその通りだろうと思います」
と、感じたままを言った。しかし、動かぬ物証がある以上、何人の証人がいようとも、これは偽造されたアリバイだ。
「必ず、裏工作があるはずです。そこで、八日と十二日の、全日空の偽名の搭乗者を、本部で洗い出して欲しいんですわ」
そう付け加えて電話を切った。
森安と吉井は総武線に乗り、次の市川駅で逗子行きの横須賀線に乗り換えた。
市川駅から横浜駅まで、直通電車で一時間の距離だった。
電車は東京の下町を走り、東京駅が近付くと地下に潜った。
東京、新橋と過ぎて地上へ出ると、やがて多摩川の鉄橋だった。
「あの野郎、見かけよりもずっとち密な男、ということになりますかね」
「わしもあれほどとは思わなかった。滝田はすべてをきちんと用意している」
「アリバイは、野郎の偽装工作に決まっています。で、どうすればひかり7号≠ノ同乗させることができるのですか」
「新幹線は無理だろう。滝田の今の主張は、恐らく崩せないのじゃないか」
「と、すると」
「そう、残るのは飛行機だね」
こうした場合、空路利用を考えるのは常識だ。しかし、森安にも一抹の不安はあった。列車と違って飛行機は便が少ない。まして高松はローカル空港だ。往復にぴったりのダイヤがあるかどうか。
横須賀線は川崎、横浜の郊外を走った。変哲もなかった車窓の風景が、急に派手な彩りを持つと横浜駅だった。
東口と西口に、近代的な新しいビルを持つ横浜駅は活気に満ちていた。上野や新宿とはまた異質な活気であり、やはり高松の比ではなかった。
「ウィークデーの午前というのに、本当に人間が多いですね」
半地下の改札口を出てエスカレーターに乗るとき、吉井は右、左と見回した。
エスカレーターを昇り切った先に、何軒か売店があった。森安は大判の時刻表を買ってくるよう、吉井に命じた。
偽造アリバイの間隙を衝くのに、時刻表は不可欠だ。
時刻表を手にした吉井と森安は、混雑する人波に流されるようにして、商店街を歩いた。アーケードの商店街は、きれいなタイル張りの通路だった。
すし屋を見つけて顔を突っ込むと、同業の『葦名』はすぐに分かった。
駅ビルと向かい合った場所に位置する、大きい店だった。店先に、黒鯛の泳ぐ水槽があった。
『葦名』は、看板はすし屋だが、小料理屋のような感じだった。広いスペースのいす席があり、奥は衝立で仕切られた和室となっている。従業員の数も多い。
しかし、開店直後の客席は、まだそれほど込んでいなかった。
「はい、確かにそういうことがありました」
マネージャー格の男子従業員が、森安の質問にこたえた。純白のワイシャツにネクタイを結び、その上から店名入りの半天を着ている従業員は四十前後だった。
従業員は大学ノートを繰りながら言った。
「そうですね、一休みしてお帰りになったのは、午後四時過ぎだったと思います」
「十一日に間違いありませんな」
「当店ではこうして、欠かさず営業日誌をつけております。ちょっとしたトラブルも控えるようにしています」
従業員は手にしたノートを示した。
森安ものぞき込んだ。十一日の項を確認してから、一葉の写真を示した。警視庁が手に入れてくれた鬼怒川の写真だ。七人の男女が写っている。
「この中に、十一日の二人連れがいますか」
「ご婦人はいません。男の方は、あ、隣の女性の肩に手をかけているこの人です」
従業員が迷わず指差したのは、間違いなく滝田だった。
森安と吉井は相鉄電車に乗った。
小さい私鉄だった。横浜駅のホームから、次の平沼橋駅が見えている。
平沼橋の次が西横浜駅。
電車を降りると、滝田が言ったように、『エクセレンス長山』は、西横浜駅のホームから見える場所にあった。濃いれんが造りの十階建てである。
改札口は階段の上だった。小さい駅を出て右に下りると、流れの感じられない濁った河があった。河に平行する形で、大きいマンションが建っている。
「十一日の滝田は、少なくとも午後四時過ぎまで横浜にいた。それ以降の滝田の所在を証明する人間が出てくるかどうか」
森安の独り言だった。胸の中の考えが無意識のうちに声になっていた。その独り言に吉井が答えた。
「主任、何が用意されていようと、あの野郎は八日と十一日、瀬戸内海を渡っているんです。あんなやつの小細工に負けやしません」
河縁の道は、人も車の動きも少なかった。
二人の刑事は『エクセレンス長山』へ入った。
新しいマンションは清潔だった。きれいな中廊下を歩いて、直接二階へ行った。
205号室は、しかし、ドアホンを押しても応答がなかった。
滝田から芙美に電話が入ったのだろう。瞬時に、森安も吉井もそう思った。
「彼女はわれわれを避けて部屋を留守にしたということですか」
「芙美がボロを出す危険もある。滝田は自分が同席していない場では、芙美とわれわれを会わせたくなかったのに違いない」
「でも、それならそれで、偽装工作は一層明確になってくるわけですね」
小声でしゃべりながら、一階へ戻った。
岡田芙美という女は、一連の動きの中でどのような場に立たされているのか。滝田が、刑事と芙美との面接を拒否しているのが事実なら、(芙美自身は無関係であったとしても)何かの分担を負わされ、犯行に利用されているのは確かだろう。
二人は管理人室に寄った。
管理人は頭が丸く禿げた初老の男だった。
「あの人たち、何をしたのですか」
人の好さそうな管理人は、自身が取り調べを受けているかのように、慌てたこたえ方をした。
管理人の証言もまた、正確に、滝田の発言を裏付けるだけだった。あの日、住民組織を発足させるための主婦が十人ほど管理人室に集合したのが午後一時であり、その寸前まで滝田と芙美が話し込んでいたというのも、その通りだった。
「滝田さんは、六月から定住するための、あいさつに見えたということですが」
「はい、正式に結婚されるとお話していました」
「岡田芙美さんという女性は、どちらかにお勤めですか」
「越してきて日が浅いので、詳しいことは知りません」
「日が浅いといっても、一ヵ月半もこちらに住んでいるわけでしょう」
「確かに契約は四月からです。しかし、カーテンはほとんど締まっていました。掃除に見えても、泊っていかないことが多かったですよ。奥さんが転居されたのは、今刑事さんがおっしゃった八日からです。それであの日、お二人そろって、わざわざ立ち寄られたのですよ」
話が違うではないか。滝田は、芙美は一ヵ月半前から『エクセレンス長山』205号室に入居しているとこたえたはずだ。管理人室に出向いたのは、六月から滝田も一緒に暮らすので、そのあいさつのためだと述べているのである。
滝田はなぜそんなうそをついたのだろう? うっかりした発言とは思えない。
「すると、八日まで、岡田芙美さんはここに住んでいなかったのですね」
「たまに見えていましたよ。ほんのたまにですが、部屋に明かりがついているときはご主人も一緒だったようです」
賃貸マンションを密会場所に利用する男女がいる。滝田と芙美もそうした関係ではないか、と、非難する住民がいたらしい。
「もしもそうなら、風紀の点からいって何とかしなければいけないのではないかと奥さん方から突き上げられて、大弱りでした。あの205号室以外は皆さん普通の家族ですから、特に目立ちましたね」
「八日からは、ずっとこちらにお住まいですか」
「そうです。家財道具も運び込まれました。六月には結婚されるというし、これで一安心ですよ。変な問題を起こされてはかないません」
「二人がそろってあいさつに来たという八日ですがね、滝田さんが何時頃までマンションにいたか分かりませんか」
「夜の九時過ぎまでいたのではないですか」
「九時?」
そんなはずはない。それでは午後五時に、高松駅構内で陽子に接近することなど絶対に不可能だ。
「管理人さんは、九時過ぎに滝田さんを見かけたのですか」
「ご主人には会っていません。でも奥さんとは口を利きました」
管理人は、最初から最後まで、滝田と芙美のことを夫婦≠ニして口にしていた。管理人もマンションの住人たちも、屋島の殺人事件に滝田が関連あることを気付いていないらしい。森安もあえて打ち明けなかった。
その夜、管理人は一日の仕事を終えて、一杯飲みに町へ出た。洪福寺に、行きつけの赤ちょうちんがある。マンションから徒歩で十分ほどの場所だ。
九時を回ってマンションを出た管理人は、西横浜駅の近くで芙美と出会った。
「遅いですね」
と、声をかけると、
「今、彼を駅まで送ってきたところですわ」
と、芙美はこたえたという。
正確には九時半頃であるらしい。
だが、管理人は、滝田の姿を、その目では見ていないわけだ。したがってそのときの芙美の語りかけは、偽装工作の可能性も秘めているといえよう。
そして、もしも工作が事実なら、新しく登場してきた岡田芙美なる女も、立派に、犯行に一枚加わっていることになる。
「芙美が滝田の意のままに動かされているとしたら、直接当たるのは逆効果だな」
森安は西横浜駅まで戻ったとき、『エクセレンス長山』に目を向けて言った。
岡田芙美という女、というよりも、芙美と滝田との関係≠洗うことが、重要課題になってくる。滝田が、親友である岸本義昭にさえ隠してきた女。
滝田のようなプレイボーイは、新しい女ができれば仲間に自慢するのが普通ではないだろうか。河原真知の場合がそうだ。滝田は、市川のクラブまで岸本を案内している。
芙美という女を、周囲のだれにも気付かせなかった事実は、この女がキーポイントを握っていることを示唆してはいないか。
それと、もう一つ引っ掛かるのは、芙美の実際の定住が、八日からだったという新しい聞き込みである。これは陽子が殺された当日だ。
「偶然かもしれない。だが、偶然とは思いたくないね」
森安は怒ったような口調になっていた。
二人はその足で西区役所に回った。西横浜駅から、歩いても十五分とはかからない場所だった。
岡田芙美は、住民登録だけではなく、本籍も、大阪から横浜へ移していた。この一点から察しても、滝田と芙美の結婚≠ヘ本物と見ていいのかもしれない。
「女房を殺害し、大枚の保険金で、新しい女と新しい生活か。殺された陽子はどうなるんだ!」
森安のつぶやきには、さらに新しい怒りがにじんでいた。
区役所の地下食堂でとった遅い昼定食は、味もそっけもなかった。
森安と吉井は都内へ引き返した。
聞き込みの整理と検討を、週刊レディー編集部でやろうと言い出したのは森安だった。もちろん、これまでのいきさつもあるけれど、岡田芙美を周辺から洗い出すためには、刑事が直接出て行くよりも、雑誌記者の方が、相手に与える警戒も少ないのではないか。
その辺りを勘案しての、森安の提言だった。森安と吉井が京橋に着いたのは、午後三時近くだった。
二人の刑事は昨日と同じ応接室に通された。昨日と同じように真弓がお茶をいれ、笠倉デスクと菅生が顔をそろえた。
週刊レディーサイドは、河原真知以外に新しいニュースを持たなかった。
河原真知が働いていた市川のクラブ『ルレーブ』とか、真知が二年近く暮らしていた鬼越のアパートを取材したのは菅生だ。
その菅生が、森安警部補が本題を切り出すのを制するようにして言った。
「岡田芙美という女は、やはり河原真知じゃないでしょうか」
菅生は、吉井が差し出した戸籍謄本を確認した上で、一同を見回した。
岡田芙美には係累《けいるい》がなかった。両親は十年あまり前に他界しているし、残る唯一の肉親である弟も、病死ということで三年前に戸籍を抹消されている。
「僕の取材でも、河原真知は天涯孤独です。本籍は大阪という話でした。岡田芙美の二十八歳という年齢も、河原真知に共通しています。しかも、どこを当たっても、現在、真知以外に滝田の相手≠ヘ浮かんできません」
「なるほど」
森安はうなずいた。
「滝田は否定しているが、河原真知が岡田芙美なら、話の辻褄は合ってきますな」
岡田芙美が、今まで滝田周辺のだれにも気付かれていなかったのは不自然だし、何といっても焦点となるのは、真知がクラブ『ルレーブ』をやめて、行方を断った日にちだ。これが、五月五日ではないか。
岡田芙美が横浜の『エクセレンス長山』へ定住するようになったのは、五月八日からである。六日、七日の二日間は、転居のための準備期間であったかもしれない。
真知と芙美が、同時に市川と横浜に居住していたのなら別だが、真知が市川から消えたそのあとで、芙美は横浜で暮らすようになったわけである。
「二人の存在は重複していませんね」
菅生は自分の発見に力を込めた。
岡田芙美が河原真知の本名であったとすると、当然、有力共犯者としてマークしなければならない。
どのような形で犯行に加担したのか。それは分からない。しかし、真知と芙美が同一人であるかどうかの、確認をとることは容易だ。真知をよく知る人間、たとえば鬼越のアパートの居住者とか、クラブ『ルレーブ』の同僚たちに面通しをさせれば、一も二もなく身元は割れる。
「岡田芙美が河原真知であり、共犯者としての立場が動かせないとなると、滝田の空白の時間も狭められてくるでしょうな」
「クラブ『ルレーブ』の同僚とか、鬼越のアパートの住人を横浜へ連れて行きますか」
「ほかに手段はありませんかな」
森安は慎重だった。真知の実体が芙美であることを突き止めたとしても、それが、そのまま、滝田逮捕につながるものではなかったからである。
第一容疑者のガードをこれ以上固めさせてはいけない。それが、一貫した捜査方針となっている。
「あたしにやらせてください」
真弓がことばを挟んだ。写真による面通しなら、滝田に気付かれる心配もないのではないか。真弓の提案は、岡田芙美の隠し撮りだった。
「ほう、それは名案だ」
森安は待っていたというように、身を乗り出した。森安も薄々意図したことであり、実は、こっちから切り出そうか、と、考えかけていた矢先でもあった。
「一つご協力願いましょう」
すぐに話に乗ったのは当然だ。
岡田芙美の確認はそれで決まった。
検討は本題に戻った。
菅生と真弓は、笠倉デスクの指示で原稿用紙をテーブルに広げた。何枚もの原稿用紙をつなぎ合わせる形で並べたのは、滝田の行動を分かりやすく表にするためだった。
最初に滝田の主張を記入し、裏付けのとれていない部分を消した。たとえば、岡田芙美が『エクセレンス長山』の管理人にこたえたという、
「今、彼を駅まで送ったところですわ」
といった八日午後九時半頃≠フ証言などはカットしたわけである。
作業は三十分あまりで終わった。
捜査本部と週刊レディーがつかんだ資料を総合すると、滝田の足取りはこんな具合になる。
五月八日火曜日
十時三十分 東京駅八重洲北口の喫茶店で岸本、陽子と落ち合う。
十時五十分 ひかり7号≠ノ乗車する陽子を改札口に見送り、その直後岸本と別れる。
十二時―十三時 横浜のマンション『エクセレンス長山』で,芙美に同行して管理人と雑談。
二十三時 上野のカラオケスナック『小浜』で、岸本やマージャン仲間と飲酒。
五月十一日金曜日
午後 横浜駅西口のすし屋『葦名』で、芙美と食事。
十六時 芙美と一緒に『葦名』を出る。
五月十二日土曜日
十三時 市川のマンション『コープ小池』で、高松の捜査本部からの電話を受ける。
この表から抽出できる、滝田の空白の時間帯は次の通りだ。
五月八日 十三時―二十三時
五月十一日 十六時以降
五月十二日 十三時以前
「八日も十一日も、犯行可能じゃないですか」
菅生と吉井が異口同音に言い、吉井が大判の時刻表を開いた。
航空ダイヤをたどる吉井の指先を、菅生がのぞき込んだ。
一瞬の沈黙が応接室を占め、すぐに沈黙は破れた。
「ありましたよ!」
「滝田は高松へ行くことができます!」
吉井も菅生も、声に一段と力がこもってきた。
「十四時東京発のANA575便≠ェあります。高松着は十六時ちょうどです」
「空港から高松駅まで、タクシーで二十分みればいいな」
森安は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。待ち時間に余裕をみても、十六時五十四分着の連絡船より早く、滝田は高松駅に立つことができる。
連絡船から降りてくる陽子を、ゆっくり待ち伏せることが可能となる。
「で、十三時まで『エクセレンス長山』にいた滝田を、その飛行機に乗せることはできるのだろうね」
「大丈夫です。西横浜からなら、高速道路利用で、三十分あれば羽田空港へ行けるはずです」
と、これは菅生がこたえた。
高松での殺害順序は、昨夜、森安と吉井が煮詰めた通りに違いない。帰途も、大阪で乗り換える最終便、高松発十九時三十五分のANA480便≠ニみて間違いないだろう。
次は十一日だ。
この死体移動%は、長時間の空白があるので、帰路は問題ない。
十六時まで横浜にいた滝田を、高松へ連れて行く手段さえ発見すればいい。翌朝の飛行機で東京へ引き返したとすれば、夜は何時になってもかまわない。夜のうちに屋島崖下の廃屋へ滝田を忍び込ませることができればそれでいい。
「ANA35便≠ニいうのがありますね。これは東京発十七時、大阪経由で高松着は十九時四十五分となります」
「その日の帰りの便はないね。翌日はどうなってる?」
「ええと、高松発八時のANA572便≠ェありますね。東京着は九時五十分です。これまた、余裕を持って市川のマンションへ帰ることができます。ゆうゆうと高松の捜査本部からの電話を待つことができます」
「よし、該当便を重点的に洗ってもらおう」
偽名搭乗者のチェックを、改めて、高松北署の捜査本部へ連絡することにした。吉井が、その場で電話を借りた。
報告は時間がかかった。本部を通して、再度、東京の警視庁にも協力を要請することになる。吉井は警察手帳を見ながら、検討結果を詳しく報告した。
三分間の乗り換え
吉井刑事が電話をかけている間を利用して、
「表の欄外に陽子の足取りも記入しておくといいね」
と、笠倉デスクが真弓に命じた。
関係者を一覧表にしておいた方が、原稿が書きやすい。そのための指示であったが、そこに奇妙な発見があった。
犯行とどういうかかわりあいを持つのか、今はよく分からないが、
「あら?」
なぜ今まで気がつかなかったのかしら、と、真弓が低い声でつぶやいたのは、列車や連絡船の発着時刻を書き写したときである。
「どうしました?」
森安が顔を上げた。
「あの日、あたし、陽子さんと同じひかり7号≠ノ乗っていたわけですが、あたしが高松へ着いたのは十六時五十四分ではありませんわ」
「どういうことですかな」
「今まで到着時間は意識していませんでした。でも、これでは、宇野線でも連絡船でも、あたしが藤色のスーツを着た彼女を見かけなかったのは当然ですわ。見てください」
真弓は記帳を終えた表の一点に目を向けた。念を押すように指差したのは、岡山の乗り換え時間だった。
ひかり7号≠フ岡山着が十五時十分。宇野線の岡山発が十五時十三分。
「たった三分で乗り換えるなんてことができますか。あたし、岡山でも宇野でも、乗り換えに待ち時間があったことを覚えています。でも、十六時五十四分に高松へ着くには、十五時十三分発に乗車しなければなりません。岡山での乗り換えを、三分で実行しなければなりません。新幹線から宇野線のホームまでは遠いですよ」
「主任、あの駈け足の連中がそうですね」
吉井が、高松への報告電話を終えて会話に加わった。
森安も、無論忘れてはいない。東京へ出張してくるとき、連絡改札口を脱兎のように走り去って行く何人かの若い男を目にしている。あれが、ほかでもないひかり7号≠フ乗客だった。
「藤色のスーツを着た陽子も、ここでひかり7号≠降りたわけですね」
あのとき、吉井も、同じ新幹線と分かってそう口にしたものだ。
「若い男性でさえ息切らしていたのに、陽子もあんな風に連絡跨線橋を駈け抜けたのでしょうか」
あの勢いで走らなければ、十五時十三分発に乗車することはできない。スーツでハイヒールの陽子が、どうしてそんなに急いだのか?
次の宇野線にすると、高松着はちょうど一時間あとの十七時五十四分になってしまう。それが真弓、というよりも、ひかり7号≠フ一般乗客が利用した連絡船だ。
「陽子は十六時五十四分着で高松へ行かなければならない事情があったのでしょうか」
「何のためだ? だったら、その前の、一本早い新幹線を利用すればいいじゃないか。途中で何か出来《しゆつたい》したのかな」
「これでは滝田に殺されるために、滝田の犯行時間に合わせての慌ただしい乗り換え、ということになります」
「そんなばかな話があるか。それにしても、これはどういう意味を持つのだろう」
森安は首をひねった。陽子の高松行きには、もう一つの隠された目的があったのか? 犯人は陽子の秘められた目的を承知していたのだろうか。
その辺りも、滝田の自供を俟つ以外にないのか。
「全日空の偽名搭乗者が割れるのは、早くても明日の夕方だな」
森安は話を戻した。
「はい、捜査本部では、捜査員全員を投入するそうです」
吉井は、電話連絡の結果を森安に伝えた。
翌二十五日、北川真弓は朝八時前に起きた。普段の出社時間は十二時だが、早目に経堂の家を出た。渋谷から東横線を利用して横浜へ向かった。
小さいポシェットと、望遠レンズ付きのカメラを肩にしただけの軽装である。細かい花柄のブラウスに、紺のパンタロン姿。
相鉄の西横浜駅へ来たのが十時前だった。
真弓は『エクセレンス長山』205号室を確認すると、大きいマンションの前をゆっくりと歩いた。
陸橋があった。この辺りは相鉄と国鉄が平行して走っているのだが、広い鉄路の上に掛かっているのは、国道16号線の陸橋だった。
真弓は、『エクセレンス長山』と陸橋の位置を見比べた。
全く人影のない、急な階段を上がって、橋の上に出た。国道16号線は車の動きだけが激しい。
真弓は自動車の往来に背を向けて、道路端に立った。下から見ると陸橋だが、上に来ると一般道路と何も変わらない。
真弓は『エクセレンス長山』へ目を向けた。思った通りだった。橋の上は絶好の撮影場所≠ニいえそうである。
しかし、たたずんでいる分にはかまわないのだけど、人の行き来がない路傍だけに、(喫茶店などで粘るのと違って)別の注意を必要とする。
目指す205号室は、カーテンも締められてはいないし、ベランダのガラス戸も少し開いている。岡田芙美は部屋にいるに違いない。外出しているとしても、遠出ではないだろう。
(早く顔をのぞかせてくれないか)
真弓は望遠レンズの試し撮りをして、祈るような気持ちで待った。
滝田の好みのタイプが、殺された陽子と同じように、やせぎすな色白で、どこかに翳《かげ》のある美人、ということは嫌になるほど取材帳に記されている。岡田芙美も同じだろう。岡田芙美が河原真知であるならば、すらりとした、均整のとれたプロポーションでなければならない。
真弓は電柱の陰に隠れるようにして、待った。
昨日の森安警部補たちとの検討で、滝田のアリバイは崩れた。少なくとも、空路利用で、滝田は陽子を殺害することも、陽子の遺体を移動することも可能となった。
破れてみると、意外にあっけない偽装アリバイだった。
「滝田は、鉄壁の備えを芙美によって構築しようとしたのかもしれませんな。だが、現実はそう甘くありません」
昨日、森安はそんな風に締めくくった。
「八日の夜、芙美が『エクセレンス長山』の管理人に出会ったことにしても、管理人が夜九時過ぎに酒を飲みに出かける習慣を知っていれば、偶然の出会いを装って、あのような工作ができる。あの夜に限って管理人の外出がなかったとしたら、芙美の方から管理人室をのぞいて、今滝田を見送ってきた≠ニ強調してもいいわけです。聞き込みを一つ間違えれば、芙美の証言≠ェとんでもない重みを持ったかもしれない。横浜駅西口のすし屋『葦名』で、芙美の体調がおかしくなったのもそうです。何か匂ってくるんですな。やつらの工作は、こうなってみると成功しなかったわけですが、あれも、何かを計算した上で、奥座敷に休ませてもらったのではないですかな」
森安は続けた。
「前にも考えたことですが、滝田は、女を手玉にとることはできても、犯罪のプロじゃない。素人の計画なんて、結局はこのていどのことで崩れていくものですよ」
捜査陣の仕上げとして大事なのは、該当飛行機偽名搭乗者の割り出しであり、岡田芙美の正体の確認だ。
芙美が、滝田のアリバイ工作に一役買って動いていたとなると、それもまた、滝田を逮捕するための重要な決め手になる。
航空ダイヤを確認したことで、アリバイがこのように破れてみると、滝田を中心とする人間関係の、渦の実体を知りたい。『我が愛の悩み』担当者とすれば、それが当然だ。岡田芙美とはだれか? 芙美が河原真知であったとすれば、(滝田と陽子の結婚生活に並行していた)滝田と真知の浮気≠フ過程にも肉薄しなければなるまい。
真弓は電柱の陰から、『エクセレンス長山』205号室を見詰め続ける。
芙美が真知でなかったとしても、この近代的なマンションで、男と女の新しい生活が始まろうとしていることだけは事実だ。
陽子の死の上に築かれる、滝田と芙美の新しい生活。雨の高松港に捨てられていた陽子。ヤクザに欺され、トルコを転々としたりした陽子の一生は、結局、他人に利用されるためのものでしかなかったのか。
「許せないわ!」
思わず強いつぶやきをもらすと、屋島遊歩道でひっそり花を散らしていた藤が、真弓に見えてくる。
陽子の不幸な半生を追って、あれからずいぶん長い日数が経ったような気もするが、実際には、まだ二週間と過ぎていない。真弓は、この不仕合わせな事件を、菅生と一緒に取材しているめぐり合わせを思った。好意を寄せ合う男女記者が、共同で追及するにはふさわしくない犯罪だ。
掘り下げれば掘り下げるほど、男の身勝手と、女の不幸が浮き彫りにされてくる。
芙美という女は、(犯行に加担しているかどうかはともかくとして)今、幸福の絶頂にいるだろう。二年前の陽子もまた、同じような充実感をかみしめて、市川のマンション『コープ小池』に入居したのではなかったか。
今回の芙美の仕合わせも、永続される保証はない。いや、いつの日か、滝田によって、陽子と同じ軌跡をたどらされる、ということだって、十分考えられるのではないか。
あてもなく待たされる時間は長かった。だが、現実には一時間と経たないうちに、相手≠ヘ205号室のベランダに姿を現したのだった。
洗濯物をロープに掛ける女は、目立たない、地味なワンピースを着ていた。普通の若い主婦といった印象であるが、そのすらりとした背格好を目にして、
(間違いない。彼女だわ!)
真弓は望遠レンズをかまえていた。ポシェットが肩からずれたけれど、そんなことは意識になかった。
真弓の全神経は一点に集中される。一眼レフは真弓の怒りを反映するような音を立てて、連続してシャッターが切られていった。
真弓は宙を行くようにして女性公論社へ戻った。
カメラはすぐに写真部へ回された。
無我夢中で切ったシャッターは八枚だった。八枚のモノクロ写真が手札に焼き付けられてきたのは、およそ一時間のあとである。
笠倉デスクと菅生も、待ち兼ねたように一枚一枚を手にとった。芙美の顔を、真正面からばっちり捕らえたカットが三枚あった。
「よく撮れている。隠し撮りにしてはぶれもない。大したもんだよ」
「これが問題の岡田芙美かね。なかなかの美人じゃないか」
笠倉は度の強い眼鏡越しに八枚の写真を見詰め、芙美の確認を、菅生と真弓に命じた。行きがかり上、河原真知が勤めていた市川のクラブ『ルレーブ』は菅生の分担。
「北川クンは、ご苦労だがもう一度横浜へ引き返してくれないか。横浜駅西口の『葦名』というすし屋に行って、十一日の午後、滝田に同行した女性がこの写真と同一人かどうか、念を入れて欲しいんだ」
いつもと違って、ぼそぼそした口調ではなかった。
菅生と真弓は、笠倉デスクに追い立てられるようにして、編集部を飛び出して行った。
その頃、森安警部補と吉井刑事は、警視庁捜査共助課に出向いていた。高松北署の捜査本部から、二人の宿泊先である上野のビジネスホテルに電話が入ったのは、朝八時前である。
「警視庁は積極的に動いてくれているぞ。君たち、朝一番で本庁へ行ってくれ」
と、電話をかけてきた捜査一課長は言った。
警視庁では東京発高松行き該当便の搭乗者申し込みカードを昨夜のうちにチェックしてくれたのだ。二十代から四十代までと、念のために年齢層を広げて、八日と十一日の男性搭乗者名と、連絡先電話番号を書き出してくれた。
「二人で手分けして、片っ端から確認の電話をとってもらいたい。少しでもはっきりしない人物が現れたら、無論、直接当たってくるんだ」
それが高松からの指示だった。高松の捜査本部でも、今日中に、八日の最終便高松発十九時三十五分大阪行きANA480便≠フ搭乗者をはっきりさせるという。
「こっちがもたもたしていたのでは、てきぱきと動いてくれた警視庁に申し訳が立たないよ。十二日の高松発八時の東京行き直行便も、きちっと洗い出して置く」
捜査一課長はそう言って電話を切った。
森安と吉井が警視庁に飛び込んだのは、九時ちょうどだった。
捜査共助課の一隅に陣取った二人は昼食もとらずに電話をかけ続けた。
書き出された名前は七十四人だった。八日十四時発のANA575便≠ェ三十九人。十一日十七時発のANA35便≠ェ三十五人。単純に言えば七十四本の電話をかければ済むわけだが、それが、そうはいかない。全く応答のない電話もあったし、かけた先が職場で、当人が外出中のために、連絡をとり直さなければならない相手もいた。
出先を追って、二本、三本とかけ直す場合もある。
聞き込みに回るのにも増して、地道な捜査だった。電話器を握り締めて、声だけを頼りに同じ質問を繰り返していると、何とも言えない、けだるい疲労に見舞われる。
進展があれば別だ。
一人、また一人と名前を消したり、連絡がとれない場合の「?」を記入するといった作業を続けていると、粘りには定評があるベテラン警部補も、さすがにうんざりした顔付きになった。
搭乗者申し込みカードが本人の記入であるなら、指紋採取とか、場合によっては筆跡照合も不可能ではないであろう。だが、記帳は営業所の事務員によるものだった。搭乗者は、カードには直接触れていない。
新しい発見がないままに午後の時間は過ぎていき、残るのは五人となった。
八日
サカモト キヨシ
ヤマナカ テルイチ
ムロイ トヨヒコ
十一日
ハナガタ ノリオ
ヒラノ ミチユキ
サカモトとヒラノは東京、ヤマナカは浦和、ムロイは川崎。ハナガタだけが遠く離れて秋田市内の電話番号となっている。
「五人の中の、どいつが滝田だ?」
「八日と十一日では、別の偽名を使用していたことになりますか」
「そのていどの配慮はしてるだろうよ。無論帰りの便も別名だろう」
森安と吉井は一息入れた。
たばこをくゆらしながら、残された五人の名前を見詰めた。穴のあくほど見詰めても、カタカナで記された氏名は何も語ってはくれない。せめて漢字ならば、それなりに相手を想像することもできよう。
指紋も筆跡も伴わない、カタカナで控えられた名前は、文字通りの記号に過ぎなかった。
北川真弓は『葦名』の従業員に会った。昨日、森安と吉井の質問にこたえた、マネージャー格の従業員である。
彼は一目写真を見るなり、はっきりした口調で言った。
「十一日午後のお客様に間違いありません。この奥さんが、一時間ほど休んでいかれたのですよ」
『葦名』の場合は、いわば念押しの確認に過ぎなかったわけであり、予想通りといえよう。
問題は市川に出かけた菅生の方だ。菅生は大きく読みを外されていた。
時間が早かったので、クラブ『ルレーブ』はまだ開店していない。
菅生は駅前の酒屋に寄った。『ルレーブ』の女子従業員寮が近くにあると教えられた。
葛飾八幡宮横の路地裏だった。寮といっても、木造の小さいアパートをそっくり借りたもので、夜の巷のはなやかさとは無縁な、古い二階建てだった。
玄関も、女性が住む家とは思えないほど乱雑に散らかっている。
ドアを開けて訪問の目的を告げると、
「真知は大阪へ帰ったんじゃないの」
中廊下で立ち話をしていた三人が、玄関先へ出てきた。三人とも、黒いランジェリーだった。
彼女たちは、下着姿での応待に恥じらいを見せたりはしない。化粧のない顔は申し合わせたように荒れている。
寮を出てアパートを借りていた真知は、この同僚たちよりは暮らし向きがよかった、ということだろうか。確かに、真弓が隠し撮りしてきた写真の容貌は、三人のホステスたちより一段も二段も上のようである。
「だれよ、この人」
ホステスの一人は、写真を手にしても反応を示さなかった。
「真知さんだと思ってきたのですがね。五日にクラブをやめた真知さんじゃありませんか」
「この人がどうかしたの」
「これは真知じゃないわよ」
「そうね、ほっそりしてるところは似てるけど、顔は違うわ」
「真知はこんな美人じゃないわよ」
三人は口々に言った。
もちろん、口裏を合わせてうそをついている感じではなかった。うそをつく必要もなさそうだ。
菅生は、滝田の名前を出してみた。
「滝田さん? 知ってるわよ。上野でスナックを経営してる色男でしょ。この間、屋島で奥さんが殺されたのでしょ」
「滝田さんは真知さんをひいきにしていたと聞きましたが」
「あんた刑事? ひいきにしていると言っても、そんなにちょくちょく来ていたわけじゃないわ」
「この写真は、本当に真知さんではないのですね」
「あたしたちが信用できないのなら、アパートでもどこへでも行って聞いたらどうなのよ」
もちろん、菅生はそのつもりだ。
「真知さんではないとして、この写真の女性に見覚えはありませんか」
「知らないわ」
一人が、ほかの二人に同意を求めると、
「見たこともない人だわ」
二人とも異口同音に否定した。
菅生は鬼越のアパートへ回った。アパートの聞き込みも、女子寮と全く同じものだった。真知が二年近く住んでいたアパートの管理人も、岡田芙美が河原真知でないことを証言したし、
「知りませんね。こんな女の人、見かけたこともありません」
と、繰り返すだけだった。
滝田は、岡田芙美について、うそをついていなかったことになるのか? では、岡田芙美はどのような経緯で滝田と結びついた女なのか。
菅生は、釈然としない面持ちで週刊レディー編集部へ帰るための電車に乗った。
森安と吉井は、警視庁捜査共助課で粘っていた。電話による捜査は、丸一日を費やして、ようやく最後の詰めに入っていた。
最後の段階というのは、リストアップされた七十四人の名前が次々と消されていくということであり、重要容疑者がマークできたことを意味するわけではなかった。最後に残された五人の名前も、連絡がとれるたびに、一人、また一人と消されていった。
電話器にしがみつく森安と吉井の疲労が、ますます色濃いものになってくる。
(一人でいい)
それらしき男が一人浮かんでくれば、こんな疲労など一遍に吹き飛んでしまうだろう。その一人が現れないのだ。
――はい、確かに私は全日空で高松へ行きました。会社の出張です。営業部長と一緒でした。
――法事がありましてね。それで高松の実家へ帰ったのですよ。
――旅行の目的まで言わなければいかんのですか。高松では二泊しています。二日とも玉藻城近くのグランドホテルです。
――家内同伴の観光旅行ですよ。同じ便に家内の名前があることを、どうして確かめてくれなかったのですか。
留守とか外出で確認に手間取った何人かがいたとはいえ、架空電話番号はなかった。いずれも、身元に疑わしい点はなかった。応答の一つ一つが説得力を持っている。
最後の最後に残ったのが、秋田のハナガタノリオである。これは何度市外電話をかけても留守だった。呼び出し音は鳴っているのに、だれも出てこない。
七十三人の確認がとれた以上、残る一人、ハナガタノリオが滝田ということになろうか。しかし、ハナガタが搭乗していたのは、死体移動日の十一日だ。
殺人《ころし》が発生した八日、滝田は飛行機に乗っていないのか。そんなことはない。
滝田が十三時まで横浜にいた事実は動かせない。十三時過ぎに横浜を出発した滝田が、ひかり7号≠ノ追い付くには空路以外ないではないか。
と、すると、確認の仕方に疎漏《そろう》があったことになる。
「別の方法でやり直しますか」
「電話聞き込みの限界かな」
森安の吐息も重いものに変わった。
高松北署の捜査本部から、警視庁にいる二人に電話が入ったのは、間もなく五時になろうとする頃だった。
捜査本部長である、高松北署長直々の電話だった。
「こっちは終わったよ」
本部長はそんな言い方で、八日の十九時三十五分発ANA480便≠ニ、十二日の八時発ANA572便≠フチェックが完了したことを伝えてきた。
「念には念を入れて、八日の場合は十八時五十分発の直行便も当たってみた」
署長の声は低かった。
めぼしい成果は得られなかったのか。成果がなかったからこそ、該当便以外も洗ったということだろう。
「うん、八日は、東京乗り換えの便も、東京直行便も、偽名搭乗者は一人もいなかったよ」
と、署長は言った。
そんなことがあろうか。十七時過ぎに高松駅構内で陽子に接近し、屋島での殺人を完了した滝田は、二十三時には東京・上野のカラオケスナック『小浜』で酒を飲んでいたのだ。空路以外、どうやって往復できるのか。
しかし、森安も強いことは言えない。こっちもまた、八日の高松行きの便から、不審な男を抽出することはできなかったのだから。
「結局、確認がとれない男は一人だ」
「一人? 東京もそうです。一人だけ、電話の呼び出し音は鳴っているのに、だれも出てきません。夜、ホテルへ帰ってから、もう一度かけてみるつもりです」
「だが、これは十二日の便なんだよね。今も言ったように、殺人《ころし》があった八日、東京へ帰った偽名者はいない」
「署長、こっちもそうですよ。この連絡のとれない男は、死体移動日の搭乗客です」
「東京の人間かね」
「いえ、秋田の電話番号です」
「秋田?」
先方の声が急に高くなった。
「秋田のハナガタノリオというのではないかね」
「何ですって!」
森安の語調も早くなった。
「高松にもハナガタの名前が出ているのですか! ちょっと待ってください、電話番号は〇一八八、三二の二五……」
と、森安がメモを読み上げると、署長は制するようにして言った。
「その男だ。しかし、この電話の持ち主はハナガタじゃない」
捜査本部では、すでに調査済みだった。電話は『リビエラ』という喫茶店のものだった。経営者は山口博光。
「秋田県警本部に調査を依頼したところ、『リビエラ』は経営不振で、半月前から休業中だそうだ。いくら呼び出したところで、だれも出ないわけだよ。そこで、経営者の自宅に連絡をとった。山口氏はハナガタノリオを知らなかった。名前を聞いたことさえないと言うんだな」
「喫茶店の電話番号を勝手に利用した、ということでしょうか」
行きと帰りとでは別の偽名を使用するのではないか、と、考えた森安だったが、とっさには別名が思い浮かばなかった、ということもあるかもしれない。
いずれにしても、ハナガタノリオは、往復ともに該当便に搭乗しているのだ。
(こいつが滝田に間違いあるまい)
森安の本能が、そうささやいてくる。
だが、殺人の実行日はどうなる? 肝腎な八日は、往復便とも、偽名者は一人もいなかった!
森安と吉井は、電話聞き込みに疎漏があったのではないか、と、話し合ったわけだが、捜査本部長は否定した。
「考えられないね。少なくとも高松からの乗客に不審者は一人もいない」
捜査員全員が、全力投球しての確認であるだけに、署長の説明には強い自信がこもっていた。
では、殺人を実行した八日、滝田はどうやって東京へ戻ったのだろう?
週刊レディーに連絡をとったのは吉井刑事だった。吉井は警視庁を出る前に、編集部の笠倉デスクに電話を入れた。
電話はすぐに終えた。
もたらされた情報は、真弓による隠し撮りの成功と、真弓と菅生の取材結果だった。
「岡田芙美という女は、やはり別個に存在しているようですね」
吉井は、芙美と真知が別人であることの発見を、そんな風に森安に伝えた。
森安と吉井は、捜査共助課の担当者に何度も礼を言って、席を立った。四階から一階まで、広い階段をゆっくりと下りた。
エレベーターを使わなかったのは、一日の整理をしたいと思ったためだ。しかし、何も整理できないままに一階に下り、吹き抜けの大ホールにきていた。
「君、悪いが一人で週刊レディーへ行ってくれないか」
目的は隠し撮りした芙美の写真を借りることと、市川での取材内容を、さらに詳しく、菅生から直接聞いてくることだ。
「主任はどうします? 先に上野のホテルへ帰りますか」
「あてはないが、ぼんやりと東京を歩いてみたくなった」
森安はふと考えついたことを、そのまま言った。見知らぬ人波の中を漂いながら、これまでの捜査過程を、一人、振り返ってみたいと思った。
「主任、リストアップした七十四人に、別の角度から迫るというのではないでしょうね」
「やるとしたら明日だね。いくら何でも、今日は疲れたよ。人としゃべるのもおっくうになってきた」
森安と吉井は堀端を行き、日比谷公園前の十字路で右と左に別れた。
森安は人込みを歩いた。サラリーマンたちの退社時間を迎えて、オフィス街の人の流れは、せわしないものとなっている。
その雑踏の中を、森安は十三日前に向かって歩いた。北川真弓によって屋島の変死が発見され、捜査本部が設置された十三日前の五月十二日、森安は休暇をとって出かけていた徳島から呼び出されたのである。土佐を一周するための、妻が一緒だった。同行の妻に頭を下げて、一人高松へ急行したのが十三日前の、今と同じ夕方だ。
十三日を過ぎて、犯人を捕らえるための網は用意された。用意はされたが、しかし、この網を、滝田幹夫に投げつけることができない。
(実在の人物が、滝田に名前を貸したのだろうか)
それしか考えられないと思った。
だが、森安と吉井が分担した羽田発≠フ便には工作の可能性があるとしても、高松発≠フ全日空の方は、二便とも完璧に捜査されたのである。
「不審者は一人もいない」
と、署長は断言した。偽名が一つもなく、チェックされた全員が間違いなく搭乗していたとなると、滝田の入り込む余地はない。
(高松へ行くことが可能だったとしても、東京へ帰ってくることはできない)
森安の思考もそこへ戻った。
気がつくと有楽町駅へ来ていた。
森安は、しばらく出札口付近にたたずんだ。行き先の目的を持たない、一人の時間である。仕事を抱えた現職の刑事でなければ、旅先の自由を味わうところだろう。
今は、好きなビールを飲みたいとも思わない。
(そうか、羽田空港へ行ってみるか)
自分に命ずるようにつぶやいたのは、十分ほどが過ぎてからだった。解明できない謎の中心が空港にあるのなら、森安の意識が羽田へ向けられるのは必然だ。
森安は四十七歳になる今日まで、飛行機に乗ったことがない。公金横領犯人を逮捕するために高松空港へ張り込んだ経験はあるけれど、大阪や東京のような大きい空港は知らない。
森安は山手線で浜松町へ行き、モノレールに乗り換えた。旅行者であろう、車内は大きいスーツケース持参の客が多かった。
市街地を抜けると、埋立て地の先に夕日に映える東京湾が見えてくる。
モノレールから見下ろす東京の海には、瀬戸内海のような蒼さがなかった。
東京へ出張してまだ三日にしかならないのに、故郷の海がなつかしかった。波の色の違いを感じたせいもあろうが、日暮れていく海面が、年甲斐もない感傷を森安に運んだのかもしれなかった。
夕日の海に消えていく、藤色スーツの後ろ姿が見えてくる。不合理な力によって、夕日の向こう側に在る夜の世界へ引きずり込まれていく陽子。
その陽子に重なって、まだ顔を合わせてはいない芙美の姿が浮かんでくる。芙美が市川のクラブで働いていた真知でないとすると、彼女はどこからやってきた女なのだろう?
八日の夜、『エクセレンス長山』の管理人に向かって、
「今、彼を駅まで送ってきたところですわ」
と、こたえた芙美は、滝田のアリバイ工作に協力している。森安はそう信じてきた。夜の九時過ぎといえば、屋島での殺人を終えた滝田は、全日空機で、羽田空港に近付いている頃だ。
飛行機に搭乗していたはずの男が、西横浜駅で女の見送りを受けていた。そんな芙美の偽証が通れば、管理人に錯覚を与えたその時点で、滝田のアリバイは成立してしまう。
芙美という女は、殺人そのものと直截的なかかわりを持っているのかどうか。陽子の死によって入ってくる一億二千万円という巨額の保険金について、芙美はどのていど承知しているのか。
(しかし)
森安はモノレールの車内から夕日を眺め続ける。
アリバイ工作に加担したと推定することで、芙美を協力者と決めつけても、肝腎の滝田を、高松から東京へ運んでくることができないのでは、どうにもなりはしない。
あの夜、高松発東京行きの便は、(大阪乗り換えも含めて)滝田を乗せていない。
昨日、週刊レディー編集部で航空ダイヤを確認したとき、
(ちゃちな偽装アリバイじゃないか)
森安は胸の中でつぶやいたものだ。
「素人の計画なんて、結局はこのていどのことで崩れていくものですよ」
と、真弓たちに向かって口にも出した。事実、あのときはそれが実感だった。
しかし、滝田幹夫は、そのように甘い男ではないらしい。
(やつの憎々しいほどの余裕は、これに支えられていたんだな)
森安は下唇をかんだ。これとは、もちろん、高松から東京へ戻ってくる手段が皆無ということだ。
いや、それだけではない。あの日、東京から高松へ行ったことの足取りも、正確にはまだつかんでいないのだ。
電話聞き込みに疎漏があったのではないか、と、吉井と反省した疑問は、強いこだわりとして残っている。だが、それを突破できたとしても、午後十一時までに滝田を上野へ連れてくることはできない。
厚い壁だった。
この壁は何によって構築されているのか。
モノレールは高架線上の小さい駅に止まった。乗降客はほとんどなかった。電車が音もなく、ゆっくり走り出すと、彼方に羽田空港が見えてくる。
空港ターミナルが近付くと、モノレールは地下に潜った。空港駅は地下にできているのである。
壁を乗り越える手段が発見できないとしたら、周辺の、いくつかの疑問を検討するしかあるまい。そこに、壁の裂け目に至る手がかりがあるかもしれない。
森安はそのことに考えがいったが、これまた、アリバイを崩す以上の難題だった。滝田のアリバイが破れた、と確信した昨日の時点では、滝田の自供でそれらの不審は一挙に解明されると軽く考えた。
しかし、殺人《ころし》≠フ周辺に点在する疑惑は、目下のところ、およそ相互のつながりを感じさせないのだ。
森安の警察手帳には、要点が整理してメモされている。
次のような具合だ。
@ なぜ、あの慌ただしい犯行時間に、滝田は陽子と焼き肉を食べたのか。焼き肉を食べた店(あるいは家)はどこか。
A 陽子は崖下の家や土地の売却をだれに依頼していたのか。仲介人がいたとしたら、事件を知って名乗り出てくるのが当然だろう。陽子はいかなる手段で、だれに、遺産を売り渡そうとしていたのか。
B 陽子が老人ホームの笹本トメに電話した、「四、五日したら訪ねる」ことの背景には何があったのか。その「四、五日」、陽子は高松で何をするつもりだったのか。どのような行動をしようとしていたのか分からないが、トメと電話でしゃべり合った「四日後」に、陽子は死体となって発見されたのだ。
C 陽子の死体を、(滝田が)四日後に発見させるよう工作したのは何のためか。滝田が直接手を下した殺人《ころし》の犯人《ほし》であり、一億二千万円の保険金が目的なら、最初から死体を隠す意味はなかったはずだ。(指紋などの物証を残したのは滝田のミスだが)殺人実行日≠フアリバイは、それこそ完璧ではないか。なぜ、もう一つのアリバイ工作をしてまで、死体移動日≠必要としたのだろう?
Dひかり7号≠ナ高松へ向かった陽子の、岡山駅でのせわしない乗り換えの真因は何か。陽子は、どうしてそんなに急いで宇野線に飛び乗ったのか。十六時五十四分までに高松へ到着しなければならない緊急事が、ひかり7号℃ヤ内で出来《しゆつたい》したとしたら、それは何だろう? そのことと殺人≠ヘ関連を持つのか。
E 犯行直前の五日に、河原真知が市川のクラブ『ルレーブ』をやめたのは偶然か。偶然でないとしたら、真知もまた、何らかの形で犯行に関係していたことになるのだろうか。
ここまでは、昨夜整理した要点だ。吉井同様に森安も、河原真知と岡田芙美を一人の女として重ね合わせようとしていた。
しかし、菅生の取材で、芙美が真知とは別人と判明してみると、(滝田の親友である岸本さえ知らなかった)大阪出身の芙美の素姓を追及することが、重要な課題となってこようか。
『エクセレンス長山』の管理人とのやりとり、そして(これまたアリバイ工作の匂いがする)『葦名』の一件から推しても、芙美が一役買っていることは間違いないのだ。
滝田は、親しくしていた周囲のだれにも、芙美の存在を打ち明けていない。滝田が横浜で新しい結婚生活に入ることを、だれも聞いてはいない。
それが問題だ。そこにこそ、滝田と芙美の他人に知られざる交流にこそ、鉄壁な犯行計画の、重要なキーポイントが隠されているのではないか。
「この女から崩してみるか」
森安がそうつぶやいたとき、電車は空港駅に滑り込んでいた。
森安は物珍しそうに周囲を見回しながら、階段を上がった。大勢の旅行客にまざって空港ターミナルに足を向けた。
手ぶらで、年代物の背広を着た森安は、なおのことその野暮ったさが目についたけれども、ベテラン警部補は、どのようにはなやいだ場所へ出ても、気遅れしたりはしない。
森安は疑惑の要点を一つ一つ反すうしながら、到着ロビーに足を向け、出発ロビー周辺を歩いた。
派手な旅装の若者が多い。明日の土曜日と明後日の日曜日を時間一杯使うために、今日の会社勤めが終えたその足で、空港へやってきた男女もいるようだ。
(田舎刑事のわしなんかとは、休みの楽しみ方が違うな)
森安はそんな目で若人たちを眺め、高い天井のロビーを歩く。
解明できない謎の中心が空港にあるとはいえ、十三日が過ぎた今、慌ただしい人の動きの中から、あの日の滝田をよみがえらせることは不可能だった。
が、敗北感はなかった。もう一つ、何かが見えないだけなのだと思った。今は判然としないその一つの影に光が当たれば、点在する疑惑は一個に凝縮し、そして、一気に氷解してくれるだろう。
(あんな野郎を野放しにしておくものか)
森安の背筋を、新しい怒りが這い上がってくる。
森安はチケットロビーを歩き、全日空カウンター前にきていた。
すでに午後六時半を回る時刻だった。(十一日にハナガタノリオを乗せた)ANA35便≠ヘ、一時間半も前に羽田を飛び立っている。
今は仙台行きの搭乗手続きが締め切られるところだった。
「お手持ちの航空券のままでは搭乗できません。お早く搭乗手続きをお済ませください」
といったアナウンスが繰り返されている。
森安を押し分けるようにして、カウンターに駈け込んできた若い女性がいる。彼女が搭乗手続きを終えるとき、一目で父親と分かる顔立ちの似た老人が、土産物の大きい紙袋を手にして、息急き切ってやってきた。
「よかったわ。窓際の座席が残っていたわ。気をつけて帰ってよ。はい、それじゃこれね」
彼女は搭乗券を父親に手渡した。老父と娘は一緒に空港へ着いたが、時間に遅れたので、娘さんの方がチケットロビーを小走りにやってきた、という事情であるらしい。
娘さんに見送られる老父は、搭乗券を手にして、出発ロビーへ急いだ。
「待てよ」
森安の目の色の変わったのがそのときだ。偽名搭乗者は、男性とは限らないのではないか!
一条の光が、森安の内面を貫いた。
「隠れミノは女だ!」
森安は叫んだ。傍にいるだれかに話しかけるような口調だった。
今の目撃は、父親の航空券を娘が代わって搭乗手続きしたわけだが、これを意図的に実行したらどうなるか。すなわち、女性名義の航空券の活用だ。
女性が搭乗手続きを済ませた搭乗券を、男(滝田)が手にして飛行機に乗り込む。
(できるぞ。きっとできる)
森安は人込みの中を遠ざかって行く娘と老父を視線で追っていたが、やがて背後を振り返った。
森安はカウンター内の制服を着た女子係員に向かって、
「つかぬことを伺いますが」
と、背広の内ポケットから警察手帳を取り出そうとして、やめた。
「いや、失礼しました」
次の一瞬、森安はカウンターを離れていた。質問を思いとどまったのは、搭乗客のすり替えを正面切って尋ねても、否定されるような気がしたからである。少なくとも航空会社としては、すり替えなんて操作のないことが建て前だろう。
建て前を強調されては、こっちの推理のペースが乱される。
実験はいつだってできる、と、森安は思い、いや、たった今実験済みだ、と、考え直した。若い娘は老父名義の航空券をカウンターに差し出した。年齢も性別も違う相手に対して、係員は黙って搭乗券を手渡したではないか。
今の場合は、娘が老父の代理であると察しての、搭乗手続きであったかもしれない。だが、女名前での航空券購入から搭乗手続きまでを女性が分担し、搭乗券を手にしたところで男性(滝田)とすり替わることも可能ではないのか。
航空券にはカタカナの氏名と連絡先電話番号が記入されているけれども、搭乗券には何も書き込まれていない。そこに男女の性別はない!
森安は繰り返し考えているうちに、この方法に自信を持った。
「こんな仕掛けだったのか」
気迫のこもったつぶやきが口を衝いて出た。
十四時のANA575便%結梍ュの場合は、岡田芙美の操作と見て間違いないだろう。問題は十九時三十五分のANA480便″oシ発の方の協力者だ。
高松で搭乗手続きをした女性を発見することができれば、森安の推理は一層の現実感を持ってくる。
(もしかしたら、高松で協力したのは、犯行直前の五日に姿を消した河原真知ではないだろうか)
滝田周辺にいる女の一人として、真知も、何らかの計算にいれていいような気がする。森安はある一点に目を向けて、混雑するロビーを歩いた。
青電話の前で足を止めた。力を入れてダイアルを回した。
(吉井はもう引き上げただろう)
そう思いながらも、電話をかけた先が週刊レディー編集部だった。
吉井も、笠倉デスクたちもいなかった。吉井は笠倉に誘われて、菅生や真弓と一緒に、夕食をとりに近くのレストランへ行ったという。
森安の電話を受けた編集者は、四人が出かけたレストランの電話番号を言った。
森安はレストランへかけ直した。
しばらく待たされて吉井が出ると、
「おい、壁が崩れたぞ!」
森安はかみつくような大声になっていた。
待ち合わせ場所は、東京駅構内の喫茶店にした。東京に不案内の森安が唯一知っているところといえば、八重洲北口の、エスカレーターを上がってすぐ右手にある喫茶店だった。八日の午前、滝田と陽子と岸本が待ち合わせた店である。森安は一昨日、吉井と連れ立って、東京駅構内の二階にあるその喫茶店をのぞいている。
いわば、事件の出発点ともいうべきこの喫茶店は夜になっても込んでいた。
森安警部補が入って行くと、吉井刑事と笠倉デスク、菅生、真弓の四人は先に姿を見せていた。四人はレジに近いボックスでコーヒーを飲んでいた。森安の発見≠話し合っていた。
「主任、やりましたね!」
吉井は立ち上がって森安を迎え、三月の出雲取材で飛行機を利用している真弓が、
「警部補さんがおっしゃるすり替えは、十分可能だと思いますわ」
と、搭乗した二ヵ月前の記憶をたどるようにして言った。
まだ夕食をとっていない森安は、トマトジュースにトーストを頼んだ。
トーストをほお張りながら、森安は道々考えてきたことを言った。
「わしとしては、実地に験してみたい。たとえば、北川さんに岡田芙美の役割を受け持ってもらい、わし自身がその搭乗券で、該当便に乗り込んでみたいのですよ。これがすんなり実現したら、そのときこそ逮捕令状の請求です」
「主任、検証するまでもないでしょう」
吉井は、すべては終わったという顔をしている。
森安の方は慎重だった。
「事実がわしの推理通りだったとしたら、滝田に協力した女性を解明しなければならない」
「岡田芙美に決まってるでしょう。そうそう、これが芙美です」
と、吉井は、週刊レディーから借りた矢先の、真弓が隠し撮りしたモノクロ写真をテーブルに乗せた。
「ほう美人だね」
森安は笠倉たちと同じ感想を口にし、真弓の方に向きを変えて、これまた菅生たちと同じことを言った。
「隠し撮りにしてはよく写ってますな」
「地味な服装だったので意外でしたわ。撮影の時点では、岡田芙美イコール河原真知と思い込んでいただけになおさらでした」
「結局、真知は無関係ということになりますか」
と、ことばを挟む菅生を、森安は遮った。高松の協力者こそ真知ではないか、と、森安は空港での思い付きを言った。
「ポイントは、どうやって真知の五日以降の足取りを浮き彫りにするか、ということだ」
「滝田の周辺を、角度を変えてもう一度洗い直せば、真知の所在を探るきっかけがつかめるんじゃないですか」
「僕は、その点疑問があります」
それまで黙っていた笠倉が言った。度の強い眼鏡をかけた笠倉は、例の通りのぼそぼそした口調だった。
「すり替えのトリックは、森安警部補が解明された通りだと思います。犯行に力を貸したのが岡田芙美であることも、もはや動かないところでしょう。だが、河原真知は協力者ではないと考えます」
「高松空港で搭乗手続きをしたのは、また、別の女だというのですか。いくら滝田が女に手が早いといっても、そう次々と用意できるものですかな」
「滝田というのは、僕らが当初考えていた以上に慎重な男です。犯行計画にしても、これほど綿密に立てられているではありませんか。発覚を防ぐためには、協力者は一人でも少ない方がいいのではないでしょうか」
「うん。それは犯罪の基本ですな」
「滝田は、徹底的に、芙美を人目から隠しています。現在の滝田の生活範囲の人間は、だれ一人として、芙美の存在に気付いていないわけです。離婚届に押印するほどの、親しい岸本さえ打ち明けられていない。これは犯行の完璧を期するためではないでしょうか。滝田は、万事がうまく運ばれ、一億二千万円という大金を手にしたら、市川はもちろん、上野からも姿を消してしまう肚ではないでしょうか」
その場合は、当然スナック『リヤド』の権利も、いったん滝田名義とした上で譲渡、換金することになろう。
「こうした滝田の、本当の狙いを承知しているのは、恐らく芙美一人だと思います。芙美はこれから、滝田と新生活を共有する人間です。だが、真知は違うでしょう。真知は滝田の浮気相手に過ぎません。そんな女を、これだけ周到な計画を立てた滝田が、協力者に仕立てるでしょうか」
ぼそぼそとした口調であることが、逆に説得力を持った。
「そうですな。犯行日直前に市川のクラブをやめたことで、真知にこだわり過ぎたかもしれません」
森安が笠倉の意見を素直に肯定すると、吉井、菅生、真弓の三人も、同感だというようにうなずいた。
では、八日の夜、高松空港に潜んでいた女はだれか? 岡田芙美以外にいない。笠倉は眼鏡に指を当てて言った。
「八日の午後一時まで横浜にいた滝田が高松へ行けるのなら、芙美だって瀬戸内を越えられるわけでしょう」
芙美は、少なくとも羽田空港までは滝田に同行しているはずだ。そうでなければ、搭乗手続き≠フトリックが成立しない。
さらに笠倉の仮説を追うと、芙美は同じ高松行きの便に滝田と同乗していたことになる。そして、滝田と同じ便で羽田へ戻ってきたのだ。
しかも、この仮説にはもう一つの説得力があった。二人一緒の方が、搭乗手続きも安全に済ませられるということだ。女性名義二枚の航空券を、女性の芙美が搭乗券に換える分には、万に一つも怪しまれないだろう。
「八日の往復の便に、偽名の女が、それぞれ二人ずつ乗っていたことになりますか」
「早速本部へ電話を入れましょう」
吉井は立ち上がっていた。
「明日、女に的を絞って、もう一度やり直しましょう」
「その前に、もう一つだけチェックしなければならないことがある」
森安はトマトジュースを飲み干して、セブンスターをくわえた。
「笠倉デスクの推理に間違いはないと思います。しかし芙美はあの夜、九時半に、『エクセレンス長山』の管理人と西横浜駅近くですれちがい、滝田のためのアリバイ工作をしているわけです」
九時半までに、芙美を横浜へ戻すことができるか? それが不可能なら、今度は管理人との出会いが、芙美自身の現場不在証明となってしまう。
高松発東京行きの直行便と、大阪経由便の羽田到着時間は、同席の五人、各自の脳裏に刻み込まれている。
「芙美は参加できます」
吉井が整理した。
「大阪乗り換えの480便≠ナは絶対無理です。羽田に着くのが九時四十分ですからね。だが、直行の578便≠ネら間に合います」
「羽田着が二十時四十分。すなわち八時四十分です。待ち時間を入れても、十分、九時半までに西横浜へ帰ってくることができます」
と、これは菅生がこたえた。
凶行時間は短縮される。その点に新しい問題が派生するかもしれない。しかし、芙美の東京―高松間往復が可能となれば、推理はさらに一歩前進して肉付けされるわけだ。
「よし、本部へ連絡だ。578便≠フ女性搭乗者を徹底的にチェックしてもらおう」
森安は吉井に命じた。
今度こそ追い詰めたと思った。解明されない部分は数多く残されている。が、明日こそ最後の一日≠ノなる。
森安は確かな手ごたえの中で芙美の写真を見詰め、ゆっくりとセブンスターを吹かした。
複雑な感情に見舞われていたのが真弓だ。
真弓は、連絡船のデッキで声をかけてきた滝田を思った。亡妻の遺骨を脇に置き、平然と笑顔で話しかけてきた滝田の印象は、(この先何本もの『我が愛の悩み』の取材を重ねても)忘れることがないだろう。
滝田は、陽子の首を締めたときも、あのような顔をしていたのだろうか。
これほどまでに冷酷な犯罪計画を立てた男。妻の死によって手にする一億二千万円という大金で、新しい女性との新しい生活を、何食わぬ顔で設計している男。
種岡五郎というヤクザの出現がなかったとしても、いずれ陽子は、こうなる運命《さだめ》だったのかもしれぬ。
そんな男にしか望みを託すことのできなかった陽子の不幸が、真弓に沈黙を運んでいた。屋島での遺体発見者となった偶然は、真弓自身のこれからの人生にも、微妙な影を落としそうだ。
藤色の影である。
事件がきれいに解決しても、殺された陽子の、二十九年の人生を覆う影を、もはや、だれも取り除いてやることはできないのだ。
真弓は短い沈黙の中で、人気のない遊歩道で花を散らしていた藤を思った。藤の影は、真弓の内面で複雑に揺れ動いて厚くなる。
その藤の影の向こう側に、もう一つの壁が屹立《きつりつ》していることを、もちろん、このときの真弓が知るはずはなかった。
いや、搭乗手続き≠フトリックを発見した森安にしても、滝田の犯罪手口を分析した笠倉にしても、夢想さえしない壁だった。その屹立する壁こそ、今までの捜査と推理を根底から覆す、滝田幹夫磐石の現場不在証明にほかならなかったのである。
死者の足音
森安警部補と吉井刑事は、上野のビジネスホテルへ戻った。
シャワーを浴びて、ふらっと外へ出たのが九時頃だった。
一昨日の焼きとり屋へ寄った。カウンター形式の小さい店は、一昨夜同様に、常連客が顔をそろえていた。
「主任、乾杯といきますか」
「東京最後の夜か」
見えない壁に気付いていない二人は、久し振りにビールを味わって飲むことができた。軽く酔いが回ったとき、どちらが言い出したともなく、『リヤド』をのぞいてみようか、ということになった。事件以来『リヤド』が休業中とはいえ、森安と吉井は、まだ足を向けていなかった。
二人は飲食店が並ぶ小路を歩き、雑居ビルの前に来た。
一階の焼き肉店は客足もまばらだった。十時を回っている。酒場と違って、そろそろ閉店の時間なのかもしれない。
その客足もまばらな店から出てくる長身がいた。白いジャンパーで、気取ったような、くわえたばこの男だ。
ぎくっとしたように吉井が足を止めた。
「滝田じゃないですか」
「何で、やつがここにいるんだ」
森安も思わずそうこたえていたが、滝田が現れても不自然な場所ではなかった。滝田と陽子は、『リヤド』開店に際して、焼き肉店の店主夫婦には何かと世話になっているのである。
その上、最近の滝田は、ほとんど連日、深夜まで上野を飲み歩いている。
「どうしますか」
「ちょうどいい。こっちから出かける手間がはぶけたってものだ」
そんなことを話し合う二人に、滝田の方でも気付いたらしい。
滝田はくわえたばこを路傍に投げ捨てようとして、ひょいと顔を上げた。
「二人おそろいで、こんな遅くまでお仕事ですか」
こばかにしたような口調で話しかけてきた。森安が前に出た。
「これから、カラオケスナックですかな」
「今夜は横浜へ行きます」
口元に薄ら笑いを浮かべての返事だった。死んだ陽子のことよりも、芙美との新しい生活の方が大事、と、そういう態度を滝田は隠さなかった。森安たちの神経を逆なでするために、わざとそうした言動をとっているようでもあった。
「刑事さん、おそろいでこんな場所を歩いているところをみると、オレの疑いはまだ晴れていないのかな」
「われわれの宿がこの近くです」
「冗談じゃないですよ。オレは女房を殺された被害者だ。いつまでもオレなんかを追いかけてないで、さっさと本当の犯人を挙げてくださいよ」
「今、ちょっと時間をとれませんか」
「犯人逮捕の目鼻がついたとでもいうのですか」
「そういうことです」
「だれですか。種岡ですか。それとも、ほかの男が浮かんできたのですか」
滝田は切迫したような甲高い声になった。深い意識もないままに、とっさに演技のできる性格なのだ。
(ふざけるな! お前のほかに、どこに本|犯人《ぼし》がいるっていうんだ! お前が新池の草むらへ落とした軍手は、捜査本部で大事に保管しているんだぞ!)
吉井は両掌を握り締めた。
滝田は、(森安と吉井の真の目的をどこまで気付いているのか)自分自身の演技にのめり込んだようにして続ける。
「そういうことでしたら、警察へでもどこへでも行きますよ。電話してくれればよかったのに」
「明日、ご足労願うつもりでした」
森安は、例のひょうひょうとした口調だが、重大な決意を秘めて言った。ご足労願うとは、すなわち滝田逮捕を意味している。
横浜へ行くという滝田を送る形で、御徒町駅へ向かって歩きながらの会話となった。
ガード沿いの道路に出た。アメ横の裏側に当たる舗道だ。
ゴルフ用品店などが並んでいるけれど、どの店もシャッターを下ろしている。人通りもぐっと少なくなっている。時折、酒に酔った男とすれちがった。
(滝田の空白の時間を、しかと確かめたい)
それが、森安たちに残されている最後の課題だ。
今となってみれば、岡田芙美の証言は論外だ。新しい証人が用意されていなければ、女性の偽名搭乗者を割出すことが、そのまま滝田逮捕につながる。
空白の時間帯確認は、捜査に万全を期すための、いわば念押しの作業だった。
問題は八日だ。八日の午後から夜にかけての滝田の所在が焦点だ。
(何とでも、好きなように言いのがれるがいい)
森安は自分の中でつぶやき、余裕を持って核心に迫った。
「あの日、『エクセレンス長山』の管理人室を出てからの行動を、お聞かせ願いたいのです」
「ずっと205号室にいましたよ」
うそだ。そんなはずはない。
「205号室にいたことを、証明してくれる人間がいますか」
「芙美が一緒でした。彼女に聞いてください」
「そして夜九時半頃、西横浜駅まで芙美さんに見送られて、上野へ向かったというのですな」
「分かっているのに、なぜこんなことを尋ねるのですか。愚問じゃありませんか」
「芙美さん以外に、それを証言してくれる人がいるか、と、うかがっているのですよ」
「うん、オレを見送ったあとで、芙美はマンションの管理人と会っています。オレのことを話したそうです」
何を言うか。そんなちゃちなアリバイ工作など、最初から黙殺しているんだ! 自分の中でそうつぶやく森安は、勝利の足音を聞いた。
今夜は帰してやる。だが、女性偽名搭乗者を浮き彫りにして、明日こそ、その両手に手錠《わつぱ》をかけてやる!
御徒町駅に来ていた。
滝田は自動販売機で切符を買おうとして、一瞬ためらいを見せた。
逡巡の感じられる長身が、二人の刑事を振り返った。
「そうそう、思い出しましたよ」
滝田は切符を買うのをやめて、たばこをくわえた。ショートホープだった。細長い、金色のライターで火をつけてから、滝田は言った。
「ずっと夜まで、マンションに閉じこもっていたわけではありません。一度、外へ出ました」
さっきまでとは違って、気のせいか横顔も強張っているようだ。
芙美と一緒の外出だったという。
それはそうだろう。滝田と芙美は管理人室を出たその足で、羽田空港へタクシーを飛ばしたのである。二人は慌ただしく、東京―高松間を往復しているのだ。夜、暗くなってからでなければ、東京へも、横浜へも帰ってくることはできない。
「芙美さんと一緒に、どこへお出かけでしたかな」
「思い出してよかったですよ」
滝田は、やはり緊張の感じられる表情でたばこの煙を吐いた。舗道を歩いていたときとは口調も違っている。
「オレが横浜にいたことを、はっきり証明してくれる人間がいます。五、六人はいるはずです」
何だと?
「オレの身内でもなければ、友達《だち》でもない。こうした赤の他人の証言なら、刑事さんたちも信じてくれるのでしょ」
と、滝田はことばを選ぶようにして言った。本当にそのような証人がいるのなら、なぜ最初に打ち明けなかったのか。これだけの計画を練った男が、そんな大事なことを忘れているはずはないだろう。
滝田は事後の手当てをしたのかもしれない。惑わされんぞ。
「横浜のどこを訪ねれば、その人たちに会えるのですかな」
「東神奈川です。東京から行くと、横浜の一つ手前になりますね。東神奈川駅の近くに、間坂という引っ越しセンターがあります」
「そこへ立ち寄ったのですか」
「市川から横浜への引っ越しを頼んだのですよ。『エクセレンス長山』の管理人の紹介でした」
間坂引っ越しセンターに入って行くと、事務所には数人の従業員が詰めていたという。
「その従業員たちを聞き込めば、一発で分かるのじゃないですか」
「午後の何時頃でしたか」
「はっきり覚えていないけど、四時過ぎじゃなかったかな」
「四時?」
そんなことがあろうか。午後四時といえば、(滝田と芙美を乗せた)ANA575便≠ヘ高松空港へ到着する時間ではないか。
「引っ越しセンターへ出かけたのは、八日に間違いありませんか」
「オレの言うことなど、どうせ信じないのでしょ。直接、間坂引っ越しセンターを当たってください」
「そうさせていただきましょう」
「あの日、オレはその場で所定の料金を払いましたよ。オレのところにも領収証はあるけれど、刑事さんたちにすれば、引っ越しセンターの控えの方が信用できるのじゃないかな。申し込み書も書きましたよ。オレの筆跡が残っているはずです。いずれにしても、八日の午後四時頃に間違いありませんよ。陽子を東京駅に見送った、その日の午後でしたから」
滝田はそれだけ言うと、吸いかけのたばこを足元に捨てた。
翌二十六日、森安と吉井は早起きして、横浜へ向かった。
上野から東神奈川まで、京浜東北線で直通四十五分ほどである。朝が早いせいか、それとも土曜日のためか、電車はすいていた。
東神奈川駅は、改札口を出たところが歩道橋になっている。
国鉄の線路と、国道1号線にかかる歩道橋を西側に降りると、間坂引っ越しセンターはすぐに分かった。
国道に近い場所だった。大型トラックが何台か出発準備をしており、駐車場の一隅にプレハブ二階建ての事務所があった。
森安と吉井が訪ねたのは八時前だが、引っ越しセンターは朝が早かった。土、日は特に忙しいのだろう、運転手たちが慌ただしく、大声で仕事の打ち合わせをしている。
大型トラックが出払うまで、二十分ほど待たされた。事務所入口のすぐ脇に、簡素な応接セットがあった。
応待に当たってくれた所長は、六十近い白髪の男だった。所長は黒い厚表紙の帳簿を手にして、二人の前に座った。
老眼鏡をかけ、帳簿の細かい文字を指先でたどっていたが、
「そう、八日に間違いありませんね」
あっさりと滝田の主張を裏付けた。
「料金は前払いで、全額ちょうだいしています。荷物の運び出しは、五月三十一日のお約束です」
「午後四時頃、こちらへ立ち寄ったと言っているのですが、その点はどうでしょうか」
「ええ、夕方でした。トラックが次々と帰着する時間で、事務所が立て込んでいましたから、よく覚えています。四時か五時頃だったと思いますよ」
滝田が、すぐに底の割れるうそをつくとは思わなかった。
必ず何らかの工作があるはずだ。森安と吉井は、いわば、偽装工作を見破るためにやってきたのである。昨夜の主張が偽装と判明すれば、滝田の容疑は、もはや絶対的だ。
「所長さんは、滝田氏の顔をはっきり覚えていますか」
「どういうことでしょう」
「町ですれちがっても、滝田氏が分かるか、ということですが」
「背の高い人でしたよ。こう言っては何ですが、ちょっと崩れた印象でしたね」
滝田は、代人を引っ越しセンターへ向けたわけではないらしい。と、いうことは偽装工作ではないのか。
吉井が二枚の写真を取り出した。
まず、鬼怒川の方をテーブルに置いた。七人の男女が写っているカラー写真だ。
所長は迷わず滝田を指差した。
「この人ですよ。隣の女性の肩に手をかけているこの人が、滝田さんです」
居合わせた三人の事務員にも写真を回したが、こたえは同じだった。三人とも、長身でヤクザっぽい滝田を明確に記憶していたのである。
八日の夕方、滝田が、所長の目の前で記入した申し込み書も、ファイルされているという。
(そんなばかな話があるか)
森安の上半身が思わず前のめりになった。
高松駅構内で、陽子に接近していたはずのその時刻、滝田は本当に横浜にいたのだろうか。滝田は、屋島の殺人現場にはいなかったというのか。
「八日の夕方に間違いありません」
所長は何度でも繰り返した。それこそが、藤の影の向こう側に屹立《きつりつ》する巨大な壁にほかならなかったのである。
昨夜、滝田と並んで歩きながら耳にした勝利の足音が、矢のような速さで森安から遠のいていった。
吉井はもう一枚のモノクロ写真を、所長に示した。真弓が隠し撮りした、岡田芙美の写真。
「滝田氏と一緒にきたのは、この女性ですね」
「女性? 女の人なんか見えませんでしたよ」
「彼は一人でやってきたのですか」
「お連れさんはいませんでした」
所長は写真を見ようともしなかった。
滝田と芙美は、『エクセレンス長山』は一緒に出たものの、別行動をとったのか。しかし、芙美の動きは、この際どうでもいい。滝田がこの引っ越しセンターにいたのでは、東京―高松間往復の時間を芙美が持ったとしても、もはや、そのことには何の価値もないからである。
森安はセブンスターに火をつけたが、すぐにもみ消していた。
森安と吉井は間坂引っ越しセンターを出た。二人とも、やってきたときとは別人のような、重い足取りになっている。高松の捜査本部へ、何と言って報告電話を入れればいいのか。
こうなってみれば、女性偽名搭乗者の洗い出しは、全く意味を持たなくなっている。八日、滝田は高松へは出かけていないのだから。
「主任、滝田が直接手を下したのは、十一日の死体遺棄だけ、ということになりますね。例の軍手は十一日に落としたことになりますか」
「じゃ、だれが陽子を絞殺したんだ? 滝田以外にいないじゃないか」
森安は怒ったように言った。論理よりも感情が先立つのは、やむを得なかったかもしれない。だが、論理でも感情でも越えることのできない、最後の最後の壁が姿を現してきたのである。
鉄壁のアリバイだった。
感情的には何とでも言うことができる。しかし、引っ越しセンターの所長以下四人の証言は絶対だ。滝田が殺人犯とは成り得ないことを、屹立する壁が示している。
「それにしても妙だな」
森安はゆっくりと歩道橋を上がりながら言った。
「やつはなぜ、こんな決定的な証拠を今まで黙っていたのだろう?」
昨夜も考えたことだった。攻撃路を見い出すとしたら、その辺りだろうか。
「滝田は間坂引っ越しセンターを、できるなら表面に出したくなかった、ということですね」
「追い詰められた、と、やつなりに感じるところがあったからこそ、昨夜、別れ際になって持ち出してきたんだ。それは分かる」
「芙美は同行していなかった。その辺に、知られたくない背景があるのでしょうか」
「確かに、やつのゆうべの口振りからいうと、最初から最後まで芙美は一緒だった。少なくとも、そうした印象を、われわれに与えてはいたね」
「意図的にそう感じさせたとしたら、やはり、芙美が同行しなかったことが、問題となりましょうか」
国道1号線を走る自動車を、歩道橋から見下ろしながらの検討だった。
ほかに思い当たることはなかった。その一点を除外すれば、すべて、滝田の主張を裏付けるデータだけが提示されたのだ。
では、滝田と別行動をとっていた芙美は、どこで、何をしたというのだろう?
事実、滝田が懸命に隠蔽《いんぺい》を図ったのであるなら、芙美の別行動≠ェ、重要なカギを持っていることになる。しかし、滝田にこれだけ確かなアリバイがある以上、今更、偽アリバイ作りに協力したとは思えない。その必要もない。
「分からんね」
森安は首を振った。
別行動≠ノ手がかりがあるらしいと推定しても、滝田を屋島へ連れて行くことができないのでは、仮説の立てようもないではないか。
すべては新しい霧に包まれている。霧の中には不動の壁が、そびえ立っている。
「やり直すとしても、どこから手をつければいいんだ」
森安の口調は、傍目にも分かるほど弱々しいものに変わっていた。
「負けた」
と、口にこそ出さないが、はっきり敗北を意識しているまなざしだった。森安の脳裏で、新しい霧は灰色の渦となった。灰色の渦はめまぐるしく錯綜する。
駅へ来ていた。
「ともかく高松へ電話を入れよう。捜査本部の連中に、むだ骨折りさせるわけにはいかない」
森安は百円玉をたっぷり用意して赤電話の前に立った。
ダイアルを回す指先にも力がなかった。
「もしもし」
高松北署の本部が出た。電話は、本部長である署長に代わった。
「偽名搭乗者の洗い出しを始めたところだ。早速、一人出てきたよ」
署長は一方的にしゃべった。
「スズキイクコという女で二十九歳。連絡先電話は高松市内となっているが、該当者は居住していない。今日は幸先がいいぞ。もう一人の偽名搭乗者も、案外早く見つかるかもしれない」
署長が勢い込んでいるのは当然だろう。それだけに、森安はことばに詰まった。
「署長、申し訳ありません」
森安はやっと切り出した。
要点だけを説明するはずだったのに、つい電話は長いものになった。回りくどい話し方に森安の苦悩が反映されている。
赤電話の前に並べたコインは、次々となくなっていく。百円玉を補充するために、吉井はキオスクへ両替に走った。
「ご苦労だった。とりあえず死体遺棄の容疑で、令状を請求しよう」
「署長」
殺人《ころし》の本|犯人《ぼし》は滝田ですよ、と、続けるつもりが声にならなかった。ここまで追い込んでおきながら、死体遺棄だけの容疑だなんて!
「滝田を連行すれば、新しい道も開けるだろう」
署長は森安の内心を見抜いたように言った。
「君たちは高松へ帰ってくれ。もう一度作戦を練り直そうじゃないか」
「分かりました。これから上野へ引き返して、ホテルはチェックアウトします」
送受器を戻した森安は、しばらく、憮然とした表情で立ちすくんでいた。
それから一時間後、森安と吉井は上野のビジネスホテルを出た。
その足で新幹線に飛び乗る気はしなかった。昨夜、(滝田と出会ったために)果たせなかった『リヤド』ものぞいておきたいし、週刊レディー編集部とも最後の話し合いをしたかった。
京橋へ電話を入れると、真弓と菅生の二人が上野へくることになった。二人がいつもより早く、午前中から出社していたのは、事件の収束に備えたためであるが、
「本当ですか!」
真弓は、吉井からの電話を受けて、一つことばのみを繰り返した。
その真弓が待ち合わせ場所として指定してきたのは、上野駅広小路口の、旅行センター前だった。
森安と吉井は、公園下などをぶらぶらと歩いた。複雑な事件とは無関係のような穏やかな日差しが、午前の雑踏を覆っている。
二人は、早目に旅行センター前に立った。相変わらず、人出の激しい駅である。一目で東北人と分かる、初老の男女を中心とする団体旅行客もいた。
「滝田が東京を離れていなかったとすると、滝田の意を汲む、第三の男が登場してくることになりますか」
「君までそんなことを言い出すのかね。滝田という人間を考えて見たまえ。第三の男が存在すると思うか」
「僕も心情的にはいないと考えます。でも、今度の壁は崩せませんよ。これは偽アリバイではありません」
「本|犯人《ぼし》はあの野郎以外にいない。あいつが自分の手で、直接陽子の首を絞めたんだ。われわれはとんでもない迷路に引きずり込まれたのかもしれんな」
森安は最後のファイトを見せるように言った。一方では敗北を意識しながらも、
(敗北宣言などするものか)
そういった横顔だった。それが迷路であるなら、迷路を脱出することによって、別の角度から疑惑に光を注ぐことができる。
「そうだろう、疑問はまだこんなに残っているんだぞ」
と、森安は、警察手帳に要点を抜き書きした@からEまでのメモを吉井に示した。そう、六つの疑点は、まだ、どれ一つとして解明されてはいない。
「滝田と芙美の半同棲≠フ過程も分かっていない。このままで、ただアリバイが確実だという、それだけのことで、滝田を殺人容疑で逮捕できないなんて、どうしても納得がいかないね」
森安の声が次第に高ぶってくる。意地、といえばいいのか。殺人事件《ころし》担当のベテラン刑事としての意地が、高ぶった声に反映されている。
だが、意地≠熈激情≠焉A事実を越えることはできない。
屋島で殺人が実行された五月八日、滝田は少なくとも午後四時過ぎまで、東神奈川の間坂引っ越しセンターにいたのだ。高松空港から東京へ引き返す時間を逆算すると、凶行時間は午後六時半頃から午後七時頃までだ。四時過ぎまで横浜にいた人間を、どうして、七時までに屋島へ連れていくことができようか。
滝田を犯行現場に立たせることは絶対に不可能だった。
菅生と真弓が並んで歩いてきた。上野駅構内の人込みの中をやってくる二人は、同僚というよりも婚約者同士の感じだった。心を寄せ合う男女の交流は、自然と表面ににじみ出てくるものかもしれない。
しかし、東神奈川での聞き込み結果を吉井の電話で知らされた直後だけに、菅生と真弓の表情には微妙な固さがあった。
「こんな形で高松へ帰るなんて、夢想もしませんでしたな」
森安は話しかけた。無理に作った笑顔だった。
「昼めしをご一緒しましょう。せめて、めしでも食って別れましょう」
「ご苦労様でした」
菅生と真弓は小声でこたえた。
四人はほとんど黙ったまま、混雑する横断歩道を渡った。京成デパートの裏手を歩き、四階建ての雑居ビルに向かった。
菅生にとっては九日振りである。九日前と同じ時間帯だった。一階のラーメン屋と焼き肉店はのれんを出したところで、焼き肉屋の店頭にはランチサービスのサンプルが並べられている。
菅生が案内する格好で、四人はラーメン屋横の急な階段を上がった。
『リヤド』は無論のこと、隣の大衆酒場もまだ店を開けてはいない。
(ここから事件が始まったのか)
森安はそんな目で、木彫のしゃれたドアを見詰めた。ドアにいくら視線を注いだところで、隠されたものが見えてくるわけではなかった。
四人は沈黙を守ったまま、一階へ戻った。
焼き肉屋の前で森安の足が止まった。昨夜の滝田との出会いは、ある意味では偶然だが、森安の胸元に突きつけられた結末は偶然ではなかった。東神奈川の引っ越しセンターが滝田の用意していたものであるなら、それが提示されるのは時間の問題だったからである。
昨夜の出会いがなければ、今日、滝田は鉄壁のアリバイを表面に出してきただろう。
森安は高松市西の丸町の焼き肉屋を思った。今回の捜査での、最初の聞き込み先である。西の丸町の飲食街に、焼き肉屋は一軒しかなかった。高松駅のすぐ近くなので、滝田と陽子がもっとも寄りやすい店と思ったが、
「八日と九日は、従業員慰安旅行で店は締めていました」
というのが店主の返事だった。
以来、捜査員が手分けして聞き込んでも、滝田と陽子が立ち寄ったと思われる焼き肉店は浮かんでこなかったのである。
「ここで昼めしにしましょうか」
森安は店先に飾られたランチサービスのサンプルに目を向けて、言った。今度の捜査は焼き肉屋に始まり、焼き肉屋で終わるのか。苦笑しながら、そんなことを思った。
九日前と同じように、店にはまだ客足がなかった。
店主夫婦は菅生を覚えていた。今日は四人連れ。しかも、一目で刑事と分かる森安が一緒なので、夫婦は九日前にも増して興味をむき出しにした。
「犯人、滝田さんではないのですか」
赤いセーターで化粧の濃い女房は、この前と同じことを繰り返した。尋ねもしないのに、昨夜滝田が立ち寄ったことと、その目的を言った。
「滝田さんは、やはり『リヤド』を手放すのよ。そのための下相談にやってきたのだわ」
「『リヤド』を整理したら、しばらく上野を離れて暮らすと言ってましたよ」
と、これは、やせぎすな女房とは対照的に、よく肥えた店主の発言だった。
四人はランチサービスを注文し、菅生がビールを四本頼んだ。
「ビールは笠倉デスクの差し入れです。乾杯だけはしましょう」
「北川さんが死体を発見したのは十二日。今日は二十六日。長かったような、短かったような二週間でしたな」
森安がビールに口をつけてつぶやくと、
「あたしもそう感じますわ」
真弓もうなずいた。
「原稿は来週号に掲載ですか」
「被害者の不幸な二十九年をテーマにします。犯人の方ははっきりした線が出るまで、含みを持たせて書くことにしました」
週刊レディーとしては、それで結着をつけることができる。真弓が取材した陽子の人生は、『我が愛の悩み』の読者にアピールするだろう。
だが、刑事は、これから迷路を脱出しなければならないのだ。文字通り、一からやり直すのである。
森安はぐいっとビールをあけた。
サービスの定食が四つ、テーブルに乗った。
「滝田さんは焼き肉が好きだったようですな」
森安は定食を運んできた女房に話しかけた。口の軽そうな女房は、待っていたというようにこたえた。
「滝田さんは好きでしたね。『リヤド』を開ける前に、毎日のように食べに見えましたよ」
「あの人はロースとレバーが特に好きだったね」
と、カウンターの中の店主も口を添えた。
「奥さんの陽子さんはどうでしょう? 夫婦の好みは同じでしたか」
「陽子?」
女房は手を振った。一時期、陽子と同じ上野広小路のバーで働いていたことがある彼女は、陽子の食べ物の好みなどもよく承知していた。彼女は言った。
「陽子、肉には全然弱いのよ。滝田さんと一緒にくることはきても、ジュースを飲んでいるだけ。ビビンバさえ食べたことはなかったわ。今にして思えば、瀬戸内海で育ったせいかしら、魚料理とかおすしには目がなかったわね。おすしなら朝、昼、晩と三度続いたっていいのよ」
市川で、陽子が滝田と連れ立ってよく立ち寄っていたのも、すし屋だった。森安はそのことを思い起こしながら、質問を続けた。
「陽子さんは肉が嫌いだった、ということですか」
「嫌いなんてものではなかったわ。肉を食べるとジンマシンが出るんだもの」
「本当ですか!」
森安は、がくん、と音を立てるようにしてビールのコップを置いた。
「滝田さんに聞いてごらんなさいな。ホステス時代に、お客さんに無理に誘われて、ビフテキを食べたことがあったのよ。そのときの陽子の苦しみようってなかったわ。わたし、陽子が死ぬのではないかと思ったもの」
そんなことがあるか。陽子の遺体からは、未消化のロース、タン、レバー、モヤシなどが検出されているのである。
あの日、高松で、どのような経緯があったのかは分からない。だが、ジンマシンが出るほど嫌いなものを食べたりするだろうか。
増して陽子は、離婚に追い込まれた矢先だ。心身ともに不安定な状態で、死ぬほど嫌いな肉を口にするだろうか。
たとえばアルコール類なら、自由を奪われて、無理に注ぎ込まれることも不可能ではない。しかし、肉類を強引に口に突っ込まれるなんて、まず考えられないことだ。
にもかかわらず、司法解剖された陽子の遺体からは未消化のロースやレバーなどが検出された。これは何を意味するか。
「主任!」
吉井は席を立ちかけ、真弓と菅生も全身を硬直させた。
発見をことばにするには時間がかかった。
四人が四人とも、相手の発言を待つ形だった。奇妙な沈黙には、どうしようもない緊張が重なった。
「陽子さんの肉嫌いは、間違いないでしょうな」
森安は念を押した。
「それがどうかしたのですか。陽子の友達なら、だれだって知ってることだわ。そうそう、マージャンクラブ『いれぶん』の岸本さんも、陽子の肉嫌いにはあきれていたわよ」
司法解剖の結果は、外部には一切伏せてある。質問の意味が分からない店主夫婦は、それこそキツネにつままれたような、きょとんとした顔をしている。
四人の思考は激しく交差する。
(陽子は肉を食べない)
(焼き肉を食べた女はだれか)
(陽子じゃないぞ)
(ロースとかレバーを食べて殺されていたのは、陽子とは別の女だ)
(別人が殺されたとなると、陽子は生きているのか!)
推理は交錯しても、指向する一点は同じだ。
(陽子は生きている!)
四人を支えていたものが、ぐらぐらと揺れた。揺れて、大きく音を立てて根底から崩れた。
思いもかけなかった解決の糸口が、そこに拓《ひら》けた。
「主任、死体は身代わりですね!」
吉井が、ついに口を切った。第三者である店主夫婦がいることを、忘れたかのような口調だった。
森安も制止しなかった。
では、身代わりはだれか。だれが陽子の代わりに殺されていたのか?
即座に浮かんでくるのは河原真知だ。事件直前に市川のクラブをやめて、行方を絶ったホステス。滝田好みで、陽子に共通したプロポーションの女。
「遺体を確認したのは、老人ホームの伯母と滝田の二人だな」
森安の声も高くなった。
七十九歳の笹本トメは、視力が極端に弱くなっている。陽子という前提で遺体と対面しただけに、七年振りのめいを誤認することは十分考えられる。
「目の悪い伯母を、百パーセント活用したということか」
屋島で死んでいたのが別人だったとなると、陽子はどこへ潜ったのか。消去法から言っても、答えは簡単だ。
滝田と一緒に、これから新生活を営む予定の岡田芙美。彼女こそ、陽子でなければなるまい。
「見事に一杯食わされたな」
「夫婦の不仲も離婚≠焉A完全犯罪のための偽装ですか」
そう、裏切られ、捨てられた不幸な女のイメージは、捜査陣の目を晦ますための虚構だったに違いない。虚構の裏側で、滝田と陽子は、がっちりスクラム組んでいたことになる。何て夫婦だろう! 一億二千万円の保険金を手にするために、身代わり死体を立てて打った大芝居。
「芙美の写真を、確認してもらいなさい」
森安は吉井に命じた。
真弓が隠し撮りした芙美の写真を、吉井が震える指先で取り出した。
「この女性をご存じですな」
森安が中継して、モノクロ写真を店主夫婦に見せた。
返事は期待を裏切らなかった。店主夫婦は異口同音に言った。
「陽子じゃない?」
「うん、滝田さんの奥さんだね」
「陽子、こんなヘアスタイルをしてたことがあるかしら。随分地味なワンピースね。これ、いつの写真ですか」
今度こそ勝利の足音が森安に聞こえてきた。瀬戸内海を渡って行った死者の足音が、はっきりと聞こえてきた。
殺人、並びに死体遺棄容疑、そして共犯として、滝田幹夫と陽子が逮捕されたのは、その日の夕方である。
滝田と陽子は、横浜の『エクセレンス長山』205号室で手錠をかけられた。最後の最後、土壇場での逮捕だった。
翌二十七日、日曜日、二人の身柄は高松北署の捜査本部へ移され、日曜日から月曜日一杯をかけての取り調べで、犯行の輪郭はすべて明るみに出た。
滝田全面自供の知らせを受けた真弓は、火曜日の一便で高松へ飛んだ。
エピローグ
あの日と同じように、瀬戸内海の空はよく晴れていた。海を渡ってくる風もさわやかだった。
屋島は、高松港の東海上に突き出た火山台地だが、屋根型の丘陵に特色があった。観光客のために、丘陵を一周できる舗装道路が完備している。
ショルダーバッグを肩にかけ、紺のスーツが似合う小柄な北川真弓と、広い肩幅の森安警部補が、松林を二分する舗装道路を歩いている。
「屋島でお話しましょう」
と、誘ったのは森安だった。真弓にも異存はなかった。
休日なら、貸し自転車でサイクリングを楽しむ若者も多いが、シーズンオフの、ウィークデーの午前とあって、人影はほとんど見えない。
しばらく歩いて松林が切れると、眼下に屋島ドライブウェイが走っており、その向こうに源平の古戦場があった。
「掛けませんか」
森安は檀の浦を望む崖縁のベンチで足を止めた。死体が発見された遊歩道とは反対側の崖だった。ベンチの前には小さな茶店が三軒並んでいるけれど、三軒とも雨戸は締められていて、この辺りも人気は少ない。
森安はベンチに腰を下ろして、セブンスターに火をつけた。滝田を向こうに回しての、二日間に渡る取り調べは重労働であっただろう。しかし、事件を全面解決した警部補の横顔に疲労はなかった。
「この事件《やま》は、本|犯人《ぼし》の滝田よりも、偽装被害者である陽子の動きが焦点でした」
森安は晴れた空に向かって、うまそうにたばこの煙を吐いて語り始めた。
「陽子は、陽子自身と岡田芙美の二役を見事に演じ切った。それが、われわれにとっての迷路≠ナした」
「岡田芙美は架空の人間ですか」
真弓もベンチに腰掛けた。
「いえ、架空ということはありませんわよね。ちゃんと、大阪から横浜へ移した戸籍があるのですものね」
「岡田芙美は、最初に感じた通り、真知の本名でした。真知に係累《けいるい》がいないと分かって、身代わり被害者≠ノ選ばれたわけです」
「警部補は迷路とおっしゃるけれど、本当の迷路は、滝田夫婦が偽装した不仲と離婚≠ナすわね」
「あの二人、親友の岸本とか、上野の焼き肉店店主夫婦の前では、破局が決定的であるかのように振る舞った。だが、思い返してみると、装う必要がない別の場所では、結構仲のいいところを見せているのですな」
「あたしにも、思い当たるところがありますわ」
真弓もうなずいた。
『コープ小池』の管理人は、真弓の質問に対してこたえている。
「新聞には離婚することになっていたと出ていたけど、本当ですか。あっしらには、実に仲の良いご夫婦と見えましたがねえ」
管理人は、夫婦の間に険悪な感じはなかった、と、言った。滝田と陽子がよく立ち寄っていた『雨宮寿司』の証言も同じだった。小太りなおかみも、滝田夫婦の離婚説を否定したものだ。
あのときは、管理人やおかみの錯覚ではないか、と、取材結果を整理した真弓であったが、それが実像で、親しい知人に示していた行動こそ、虚像ということになる。
「自分たちの不仲を印象付けることから、犯行は開始されたわけですが、二年前の結婚直後に生命保険に加入した、そのときから、一億二千万円の保険金詐欺は意図されていたようです」
そのための、河原真知への接近だった。滝田の好みの女性は陽子によく似たタイプ、ということは、いろいろな場所で聞き込んだけれども、よく似たタイプ≠フ背後には、すり替え死体の深慮遠謀が潜んでいたのだ。
しかも、種岡五郎という大阪時代のヒモが出現したことで、夫婦の破局は、より強い現実感を周囲に与えた。殺人未遂の前科を持つ元暴力団幹部の出現が迷路≠複雑にしたが、もちろん滝田は、種岡の出現以前から、陽子がトルコ風呂で体を売っていた過去は承知していたのである。
種岡は、タイミングよく利用されただけだ。
「こうして、陽子は自分を殺して、戸籍を抹消した。北川さん、あなたによって死体が発見されたあの瞬間から、陽子は岡田芙美に生まれ変わったのです。一億二千万円を手にしたら、岡田芙美として、改めて滝田幹夫と結婚し、滝田の籍に入る予定だった」
「それが陽子の実体ですね!」
真弓の口元が震えた。初めて、陽子の名前を呼び捨てにする横顔に、怒りがにじんでいた。
真弓は事件とのかかわりを持って以来、ずっと陽子に同情し、陽子をかばってきた。
こんな裏切られ方があるだろうか。本当に同情されるのは、遠く屋島まで誘い出された真知ではないか。
エサは、もちろん結婚だった。滝田はにせの離婚届を見せて真知を信用させた。
「真知は婚前旅行の名目で、滝田と一緒に高松へやってきたのですな。ホテルは屋島に予約してあるというのが、滝田の口実でした。滝田は琴電を利用して、真知を遊歩道へ連れ込んだ。もちろん真知は、滝田からプレゼントされた、陽子とそっくり同じ藤色のスーツを着せられていたわけです」
犯罪の目的は分かった。焦点は、どのようにして鉄壁のアリバイが組み立てられたのか、ということだ。
少なくとも、陽子だけはあの日、東京―高松間を往復していなければならない。夕方五時過ぎに、高松駅構内から峰山町の老人ホームへ電話を入れたのは、決して代理人じゃない。
伯母の笹本トメは、視力は弱くとも、耳は確かだ。電話で長い会話も交わしたことだし、めいと別人を間違えるわけがない。いや間違えられては困るのだ。
高松にいる自分を伯母に確認させた上で、陽子は高松を離れた。その夜九時過ぎには、岡田芙美として、西横浜駅近くで、『エクセレンス長山』の管理人とすれちがっているのである。
陽子は夕方五時過ぎには高松におり、夜九時過ぎには横浜にいた。
「陽子の場合は特に時間に問題ありません」
森安は警察手帳を確認して、スズキイクコの名前を挙げた。捜査本部がいち早く割り出した、ANA578便≠フ偽名搭乗者だ。
「東京から高松へ向かったときは、キシヤスヨの偽名を使用した、と陽子は自供しています」
裏付けもとれている、と、森安は言った。
あの日、十一時前、東京駅改札口で滝田や岸本と別れた陽子は、いったん新幹線17番線ホームへ向かった。真弓が、菅生の見送りを受けていたときである。
だが陽子は、もちろんひかり7号≠ノは乗車していない。『エクセレンス長山』へ直行したのである。湘南電車に相模鉄道を乗り継いで、四十五分足らずの距離だ。
十三時頃管理人室を出て、タクシーで羽田空港へ。十四時東京発ANA575便≠ノ、キシヤスヨ名で搭乗。(これは滝田のアリバイを崩そうとした段階で、森安が想定した手段と同じだ)
十六時、高松空港着。
十六時三十分までには楽々と国鉄高松駅まで行くことができるけれど、十六時五十四分着の、連絡船の接岸を待って、峰山町の老人ホームに電話を入れる。三十分余りの時間を待ったのは、無論、ひかり7号@用を強調するためだ。
電話を、老人ホームから高松駅構内にある観光デパートの食堂へかけ直してもらうことで、八日午後五時過ぎ、高松にいたことの動かぬ証明を得た陽子は、十八時五十分高松発ANA578便≠ノ、スズキイクコ名で搭乗する。東京着は二十時四十分だから、(これまた、森安が滝田のアリバイを破ろうとしたときのように)午後九時半前に、西横浜まで戻ってくることができるのだ。
「陽子は岡山駅で、三分間の乗り換えなどはしていなかった、ということですわね」
「絶対に、とは言いませんが、ハイヒールを履いた女性では、三分の乗り換えは、まず物理的に無理ですな」
「あたしが、東京駅を出てから藤色のスーツを見かけなかったのは、当然だったわけですね」
これだけ綿密な計画を立てた滝田と陽子だが、三分間の乗り換え≠ヘ、時刻表の数字をつなぎ合わせるときに生じた、小ミスといえようか。
「問題は、陽子がそんなに慌ただしい往復をしてまで、どうして、八日の夕方、高松にいたことの証明を必要としたか、ということです」
森安は新しいたばこに火をつけた。
森安の視線の先に、はるか眼下に、今は使用されていない檀の浦の古い塩田があった。
「陽子は、八日まで生きていなければならなかったのですよ。陽子が八日の夕方まで生きていれば、すなわち八日に殺されたのであれば、東京周辺を離れていなかった滝田のアリバイが、絶対の重みを持ってきます」
では、滝田が最後の最後まで、間坂引っ越しセンターの鉄壁のアリバイを伏せていたのはなぜか? 真弓も、東神奈川のアリバイを滝田から突きつけられたときの森安と同じ疑問を抱いた。
「完全犯罪は、芙美という女と、陽子が、全くの別人であってこそ、初めて成立するのです」
歩きましょうか、と、森安はたばこを消して立ち上がった。
ケーブルカーでやってきた、数人の初老のグループが通りかかった。初老の団体客はてんでに何かしゃべりながら、屋島洞穴の方角へ向かって行った。
「陽子が高松にいた時刻、芙美が横浜に存在すれば、この犯罪は万全です。だが、それこそできない相談です。一人二役ですからな。一人の人間を、同時に高松と横浜に立たせることはできません。そこで滝田は、陽子を乗せた(はずの)ひかり7号≠ェ静岡―名古屋間を走っている時間を選んで、芙美≠ニ連れ立ってマンションの管理人に定住のあいさつに行ったわけだし、間坂引っ越しセンターへも、彼女と一緒に行ったことを周囲に匂わせているのです」
「すると、午後九時過ぎに、芙美、いえ陽子が、『エクセレンス長山』の管理人とすれちがったのは、陽子自身のアリバイ工作だったのですか」
「そうです。陽子は、横浜から一歩も離れていないことを、すなわち高松には不在であったことを強調したかったのです。夕方滝田と連れ立って間坂引っ越しセンターへ行き料金を支払ってきた、というようなことも、その折管理人に伝えているのですからな。管理人にしても、まさかその短時間に、彼女が東京―高松間を往復したなんて、夢にも思わなかったでしょう」
二人はゆっくりと歩いた。
また松林があり、人気のない道を十分ほど歩いて松林が切れると南嶺だった。頂上はドライブウェイの終点で、大駐車場ができている。観光シーズンには大型バスなどで一杯になるのだろうが、今は数台のタクシーと乗用車が駐車しているだけだ。
駐車場を囲んで、何軒もの食堂や、木彫りのだるまを飾った土産物店などが並んでいる。ちらほらと観光客の姿があった。
駐車場を背にして立つと、静かな内海に点在する小島が、はるか彼方に見下ろせる。右手に浮かぶ大きいのが小豆島だ。
「滝田は、できるなら東神奈川のアリバイは表沙汰にしたくなかったわけですよ。夜の御徒町駅で、われわれに間坂引っ越しセンターを持ち出してきたのは、早く結着をつけたいと焦ったからでしょう。しかし、焼き肉店夫婦の証言がなければ、引っ越しセンターを出さなくとも、滝田のアリバイは崩れなかった。八日の滝田は、実際に、東京周辺から外へ出ていなかったのですからね」
森安は十六日間に渡った捜査過程を、一つ一つ思い起こして言った。
「だが、死者が陽子でないと判明してみれば、八日のアリバイなどこれっぽっちの価値もありません」
総括は核心に入った。
「十一日の夜、死体を藤の花の下へ移動したのは、もちろん滝田です。問題の軍手を新池の草むらに落としたのもそのときです。滝田は陽子のスーツケースとベージュのコート、それに離婚届が入った陽子のハンドバッグなどを持参して高松へ潜入。被害者の所持品とすり替えた上で、死体を運び出したわけですな。このときの滝田の東京―高松往復は、あなたや菅生さんたちと検討した通りです。身元の割れなかったハナガタノリオが、滝田の偽名でした。連絡先として、秋田市内の喫茶店『リビエラ』の電話番号を使ったのは、かつて『リヤド』へ立ち寄った旅行客が『リビエラ』のマッチを置いていったので、それを利用したというだけのことです。深い意味はありません」
深い意味を持つのは死体の移動だ。
陽子は伯母に向かって、四、五日したら老人ホームを訪ねると電話で伝えた。これは、伯母に不審を与えないで、四日ないし五日の時間を稼ぐための方便だった。そして四日後に、藤の花の下で死体が発見された。
四日後の死体発見。それこそが、一連の犯行の骨子にほかならない。
滝田のアリバイを完璧にするための四日間だった。
「司法解剖の結果は、死後四日ないし五日を示しています。陽子が八日まで生きていたとなると、死後五日の線は自動的に消えてしまいます」
「滝田は解剖の知識を持っているのですか」
「特別な知識はなさそうです。しかし、いずれにしても、陽子を八日まで生かしておけば、その前日、七日の犯行は、壁の陰に隠れてしまうわけですな。そうです、滝田が屋島崖下へ被害者《がいしや》を誘い込んだのは八日ではありません、前日の七日でした」
滝田が、河原真知こと本当の岡田芙美と連れ立って七日に高松へきていたことの証明は、何とも皮肉なことに、焼き肉屋の店主がしてくれたのだった。森安と吉井が最初に聞き込んだ、西の丸町の焼き肉店である。
八日と九日は従業員慰安旅行のために店を締めていたという焼き肉屋だが、滝田の自供に基づいて、改めて滝田の写真を見せると、
「覚えていますよ。土地の人間ではないし、ヤクザっぽいハンサムなので印象も強かったですね。ええ、慰安旅行の前日だから七日でした」
と、店主はこたえた。
同行の女性が藤色のスーツを着ていたことの裏付けは、二人の女店員からとることができた。藤色が珍しいので、二人の女店員ははっきりと記憶にとどめていた。
「これはわれわれの反省点ですが、新聞もテレビニュースも、被害者のスーツが藤色であったことは、強調していなかったのですな。藤色のスーツがもっと表面に出ていれば、滝田の自供以前に、女店員たちの通報を得られていたかもしれません」
と、森安は言った。
殺人を完了した滝田は、その夜は高松市内のビジネスホテルに投宿。翌八日は(死体を移動したときと同じように)一便で東京へ戻り、羽田空港から、岸本や陽子との待ち合わせ場所である東京駅八重洲北口の喫茶店へ直行した。
「あの朝の滝田は顔面蒼白で、疲れ切っていたと岸本は証言しています。疲労は、離婚≠ゥらくる精神的なもの、と、岸本が感じたのは当然ですが、実体は違う。疲労の原因は、慌ただしい殺人旅行≠ノあったわけです」
森安と真弓は、またゆっくりと歩き始めていた。
丘陵を一回りする格好で、獅子の霊巌と呼ばれる断崖の辺りにくると、旅館とか土産物店が軒を接しており、急に人影が増えた。ぶらぶらと歩く観光客にまじって、団体のお遍路さんの姿があった。
遠くに、高松の市街地が見えてきた。あの日、真弓が投宿したホテルがあり、菅生のために磬石《けいせき》を買った土産物屋があった。
さらに舗装道路を十分ほど行くと、屋島寺だ。
朱塗の本堂を背にして、山門の前を右に下ると、藤の花が咲いていた遊歩道へ続く石畳となる。
「男女って、いろいろな結ばれ方があるのですね」
真弓は足を止めて、独り言のようにつぶやいた。土産物店の磬石を見たことで東京にいる菅生の顔が浮かんできたけれど、菅生のことはあえて考えまいとした。
「どうですかな、琴電の駅まで、遊歩道を歩いてみますか」
「逮捕された陽子は何と言ってるのですか」
こたえを求めるための質問ではなかった。
真弓はショルダーバッグから、書きかけの原稿を取り出した。陽子の不幸な人生をテーマとして執筆中だった『我が愛の悩み』の原稿を、真弓は森安の目の前で四つに裂き、八つに破った。
平然と、岡田芙美として生まれ変わろうとした陽子は、滝田以上の冷血だったのかもしれない。それが陽子自身の不幸な二十九年に原因していたとしても、許せるはずはなかった。
森安はことばを挟まなかった。表情も変えずに、強い力で引き裂かれた、真弓の手の中の原稿に目を向けていた。
(注 本文中の列車、航空機の時刻は昭和五十九年五月のダイヤによる)
本電子文庫版は、本作品講談社文庫版(一九八八年七月刊)を底本としました。