松山着18時15分の死者
津村秀介 著
目次
序章 ブルゾンの男
1章 美貌の過去
2章 宇和島の罠
3章 土讃本線経由の帰京
4章 広島宇品港からのルート
5章 大阪府守口市のマンション
6章 三年前の札幌
7章 遮断のアリバイ
8章 新幹線ひかり162号
9章 終着駅高松
終章 土佐の夕凪
序章 ブルゾンの男
伊予灘《いよなだ》をのぞむ松山《まつやま》港は、松山市の北西に位置している。
港周辺が、一日中活気を呈しているのは、瀬戸内臨海工業地帯を控えているせいだろう。
三津浜《みつはま》港を中核とする松山港は、五万トン級タンカーを横付けにできる規模を誇っているのである。
阪神、別府《べつぷ》、柳井《やない》、呉《くれ》、そして広島市の宇品《うじな》港などとを結ぶフェリーや、高速船の出入りも多い。
活気のある港は、文字どおり松山の玄関の一つであり、近くには、警察署も設置されている。
路線バスや、路面電車も運行されている。港から、松山城とか子規堂《しきどう》のある市の中心部、さらには道後《どうご》温泉へと通じているのが、市内電車の伊予鉄《いよてつ》だ。
市の中心部まで、時間にして三十分足らず、というところだろうか。
*
夕方になって、港には霧のような雨が降り始めていた。
夏の終わりにしては珍しい、しっとりとした降り方の雨である。
霧雨に濡れて、二人の若いOLが、松山港に近い工場街を歩いていた。
舗道はまだ明るいが、すでに、午後六時を過ぎている。OLは、急な残業で、退社が遅くなっての帰り道だった。
二人とも、松山市内を流れる石手《いして》川沿いに住んでいるので、通勤の往復には、港に近い三津《みつ》駅を利用している。
工場街の県道は、車の往来こそ絶えないものの、人影は少ない。大工場が、敷地を広く取っている地域だった。
重信《しげのぶ》川河口の右岸から、松山港へかけては、化学工業、石油製品工業、機械工業などが中心になっており、海岸沿いに、丸善石油、大阪曹達、帝人化成その他、大規模な近代工場が、ずらっと並んでいる。
その工場街の舗道を、重信川の方向から、スピードを上げて、一台の乗用車が走ってきた。ダークブルーのセドリックだ。
セドリックは二人のOLを追い抜くと、十字路を左折して、急ブレーキをかけた。
十字路を左へ曲がったところは、工場の高いブロック塀がつづいており、まったく人気がなかった。ダークブルーの車は、ブロック塀にぶつかるようにしてとまった。
ハンドルを握っているのは、背中までもある長い髪の女だった。そして、助手席にはブルゾンの男がいる。
二人のOLは、急停車した乗用車に何気なく目を向けて、十字路を渡りかけたが、どちらからともなく、道路に足を吸い込まれるようにして、立ちどまっていた。
(まさか!)
二人は申し合わせたように、目を凝《こ》らした。
見間違いではなかった。
ブルゾンの男が、いきなり運転席の女に襲いかかったのである。
それは、愛情表現として、女性を抱き寄せるのとは、明らかに違っていた。
そう、男はベルトらしきものを手にして、それを女の首に巻き付けようとしているのだった。
「どうしよう!」
「早く、早くだれかに知らせなければ!」
二人は乾いた声で口走ったが、実際には何もできなかった。
咄嗟《とつさ》のことではあるし、初めて見る、信じられないような恐しい光景に、我を失っていた。
こうした状態を、金縛《かなしば》りに遇《あ》ったというのかもしれない。
二人は身動きもとれず、かと言って、視線を、車からそらすこともできなくなっていた。
乗用車内の争いは、しかし、一瞬だった。
ふいを衝《つ》かれた女は、車を運転してきたこともあって、体勢を変えることができず、男の力を避けることができなかった。
男は、女の首に巻き付けたベルトの、両端を引っ張った。
「ぎゃあ!」
車のドア越しに、女の悲鳴が聞こえてくるような気がしたが、それが実際に耳にした絶叫であったのかどうか、二人のOLには分からない。
分かるのは、お互いの全身が硬直していることだけだった。
二人のOLの凝固した視野の中で、事態は正確に急変した。
女は、長い髪を乱し、崩れるようにしてハンドルに寄りかかった。
全身の力が抜けた感じだった。
一瞬の犯行は完了したのである。
ブルゾンの男は、女の首にベルトを巻き付けたまま、霧雨の道路に出てきた。ショルダーバッグと、大きい紙袋を手にした中背の男だった。
男は乗用車のドアを締めるとき、十字路に佇《たたず》む二人に気付いた。
双方の距離は十メートルほどしかなかっただろう。
「うん?」
男は、当然びっくりしたような顔をした。
だが、二人のOLは、その男の表情の変化もまた、しかとは捕らえていなかった。
恐怖が先に立っている。
相手は、たったいま女性の首を締め上げた殺人者なのだ。
二人のOLは路傍で、思わず掌を握り合っていた。二人の掌には、かつて経験したこともない、冷たい汗がにじんでいる。
だから、後で、捜査本部から男の似顔絵作成協力を求められても、二人は、ほとんど役に立てなかった。
証言できたのは、男が茶色っぽいブルゾンを着ていたこと、ショルダーバッグと大きい紙袋を手にしていたこと、背丈が、男性にしては高くなかった、というていどに過ぎない。
もちろん、男の年齢も、定かには見極めていなかった。
OLの一人は、
「四十歳ぐらいではなかったでしょうか」
と、言い、もう一人は、
「三十前後だったと思います」
と、こたえた。
霧雨の中へ出てきた男は、そこにいる二人に気付いて、ぎょっとしたような目をしたが、しかし、手は出さなかった。
男は顔を伏せ、二人の横を通り過ぎると、中背の後ろ姿を見せて、全速力で、海岸通りを三津浜港の方角へ駆け去って行ったのである。現場から港まで、走れば五分とかからない。
二人のOLがようやく我に返り、近くの工場の守衛室に飛び込んだのは、それからどのくらいが経ってからであろうか。実際には三分と過ぎていなかったはずだが、男の後ろ姿が、完全に視野から消えた後だったことだけは、間違いない。
八月三十日、水曜日。
愛媛県警通信指令室へ、一一〇番通報が入ったのは、午後六時三十四分である。ただちに所轄松山南署の出動となった。
三台のパトカーと、一台のジープが出た。
先頭車には署長と刑事課長ら幹部が顔をそろえ、二台目のパトカーの助手席には、ベテランの矢島《やじま》部長刑事が乗り込んでいた。
鑑識《かんしき》係も含めて、総勢二十三名。
これだけの捜査員を投入したのは、犯人が、まだそれほど遠くへは逃亡していないという、状況ゆえだった。
1章 美貌の過去
霧のような雨は降りつづいている。
刑事たちが、逃亡した男を追って霧雨の中へ散って行くと、型どおりに行政検視が進められ、その一方で、鑑識係による遺留品収集が始まった。
髪の長い女は、体温は残していたものの、すでに、完全に息絶えていた。
「いくら人通りが少なくとも、まだ明るい時間だぞ。何で、このような場所で殺人《ころし》をしなければならないんだ」
署長は、女の絶命が確認されると、何とも渋い顔をした。
乗用車が急停車した現場こそ人気がないとはいえ、十メートル先は車が往来する県道なのである。
この事件は、別の面でも異例だった。
普通は行政検視と、遺留品の収集から捜査は着手されるのだが、本件の場合は、一般的な初動捜査と同時に、最初から、犯人追跡が付加されたのである。
二人のOLにはショックだったが、不測の目撃≠ヘ、捜査側にとって、絶対的に有利な条件となる。
OLたちがいかに怯《おび》えていたとはいえ、ポイントは記憶されているのである。
犯行時間=八月三十日(水)午後六時二十六〜三十一分頃
容疑者=中背の男性 年齢三十歳前後ないし四十歳前後
服装=茶色っぽいブルゾン
持ち物=大きい紙袋とショルダーバッグ
この四点だけでも、貴重な目撃だ。
二人の証言で一致しないのは、男の年齢だが、これとて、まったくあいまいというわけではない。男が学生のような若い世代でもなければ、老人でもないということをはっきりさせているのである。
犯人像は、事件発生の時点で、あるていど特定されたと言える。
これは大きい。
松山南署が、犯行現場からそれほど離れていないせいもあって、通報を受けてから出動までに、ほとんど時間もかかっていない。
しかし、この有利な条件も、残念ながら、犯人の緊急逮捕に、ストレートにはつながらなかったのである。
海岸通りを三津浜港方向へ走り去ったということで、真っ先に手配されたのは連絡船だ。松山観光港からは、十九時発広島行きの、旅客フェリーの乗船が始まっている。
捜査員は波止場に張り込み、何人かがフェリーに乗り込んだが、目撃者が言うところの不審者は発見できなかった。
もっとも、港の方角へ逃亡したからと言って、必ずしも、海路を取ったとは限らない。
男は、勤め帰りの人々の中に、紛れ込んだのかもしれない。人目を避けて、松山の中心地へ向かった、ということもあるだろう。
三津まで行けば、路線バスもあれば、伊予鉄も走っている。犯行現場から三津駅まで歩いて十五分で行ける。
タクシーを拾うのも容易だ。
何台ものタクシーが、港でも、三津駅前でも客待ちをしている。
あるいは、犯人の男が、どこか目立たない場所に自分の車を止め置いた、ということも考えられるかもしれない。
自分で車を運転して逃げたとなれば、足取りを簡単に絞《しぼ》り出すことはできない。
隣接署に応援を頼み、伊予鉄の大手町駅と松山市駅、そして、JR松山駅にも非常線が張られたが、やはり、不審者は抽出《ちゆうしゆつ》できなかった。
捜査は原点に戻った。
*
が、一方では、これまた幸いなことに、被害者の身元はその場で判明した。
乗用車を運転していた女は、運転免許証を所持していたからである。
凶行後、犯人には、免許証を持ち去る余裕がなかったのだろうか。それとも、女の身元を隠蔽《いんぺい》する必要がなかった、ということか。
免許証は、最近再交付されたものだった。
高橋美津枝《たかはしみつえ》 二十八歳 横浜市保土ケ谷区上星川町九七三八『井田マンション』21号
本籍は、高知県|香美《かみ》郡|土佐山田《とさやまだ》町五七、と記されているが、結婚しているのか、職業を持っている女性なのか、免許証だけでは分からない。
一目で確認できたのは、高橋美津枝という被害者が、相当な美人であることだった。色白な肌だった。
鼻筋が通っている。
身長は一メートル六十二。やせ型で、プロポーションも素晴らしかったが、服装のセンスがよかった。白い麻のワンピースを、サハリっぽく着こなしているのである。
サハリっぽく感じられるのは、幅広の革メッシュのベルトと、スカーフのせいだった。
「やっぱ、都会へ出た女性は違うね」
と、つぶやいたのは、矢島部長刑事だ。四十九歳になる今日まで、私服一筋に生きてきた、ごっつい顔のベテランは、これまでにも、何度も、女性のホトケさんにお目にかかっている。
だが、高橋美津枝は、ちょっと異なるようだ。息絶えてもなお、生前の美しさを、そのまま保っているのである。
城下町松山は人口四十三万。四国第一の都市だが、人口三百十万を超える大都市横浜との相違を、死者の美貌と服装のセンスのよさに託して、
「本籍は四国でも、都会暮らしが長かった女性なのだろうな」
と、矢島は繰り返した。
美津枝が旅行中であることは分かったが、所持品はポシェットと、それほど大きくもないショルダーバッグだけで、着替えなどは見当たらない。
長い旅程ではなかったのか。
他に、乗用車の中から押収されたのは、次の三点だった。
凶器である、男物の革ベルト一本
真新しい、愛媛県の分県地図一冊
なぜか、将棋の王将駒一枚
犯行に関係があると思われる真新しい指紋は、助手席のドアその他から、数点が検出された。
そして、犯行に用いられたこのダークブルーのセドリックは、レンタカーだった。美津枝のポシェットの中に残っていたレシートから、JR松山駅の南側、竹原町の営業所で借りたものと分かった。
矢島部長刑事は、長い塀を一回りして、工場の守衛室へ飛んで行った。
守衛室の電話でレンタカーの営業所へ問い合わせると、貸し出したのは、犯行寸前、今日の午後六時であり、
「二十四時間の約束でした。セドリックの車種はDですので、免責補償料と搭乗者傷害補償料込みで、二万二千六百円が前払いされています」
と、先方はこたえた。
「車を借りたとき、男が同行していませんでしたか。茶系統のブルゾンを着た、中背の男ですが」
「いいえ。見えられたのは、きれいなご婦人が、お一人だけでしたよ。あの、何か事故でも起こしたのですか」
「後程、もう一度連絡します」
矢島は手短かに電話を切った。
守衛室を出て霧雨の舗道へ戻ると、遺体は、搬送車に移されるところだった。
現場での行政検視は終了し、これから、警察医立ち合いの司法検視、そして、司法解剖という段取りになる。
*
捜査員たちは、殺人現場から、本署へ引き上げた。
愛媛県警捜査一課の応援で、松山南署に捜査本部が設置されることになった。
本格的な捜査は翌日からになるけれど、初動捜査の布石は、てきぱきと打たれていった。
まず、ベルトだが、それほど高級品ではなかった。あるいは、最初から凶器≠ニして購入したのか。ベルトに関しては、販売ルート確認の班が構成された。
次に指紋は被害者のそれを除くと、弓状紋と変体紋の二つが、重要対象として、浮上した。
弓状紋は、レンタカーの座席の下に落ちていた、の分県地図と、の王将駒から出てきたものであり、変体紋は、助手席のドアから検出された指紋だった。
この疑わしい二種類の指紋は、県警本部を経て東京の警察庁指紋センターにオンラインで送られた。もちろん、前科、前歴の有無を照会するためだ。
ところで、もっとも重視されるべきの凶器からは、一点の指紋も採取できなかった。
ベルトの指紋は、きれいにふき取られていたのである。
犯人は美津枝を絞殺後、瞬時に逃亡したのだから、指紋を消していく余裕はない。凶行に際しては、当然、手袋を使用した、ということになろう。
「夏に手袋か」
署長は、鑑識からの報告を受けて、吐き捨てた。
八月に手袋を用意するとは、それが突発的な犯行ではなかったことを、意味していよう。指紋を採取される心配がないからこそ、犯人は凶器を放置していったともいえようか。
計画的な殺人なら、あの犯行現場の設定も犯人のもくろみのままであり、
「被害者《がいしや》にレンタカーを借り出させて、あそこまで連れてきたことも、犯人《ほし》の計算どおりってことになるのか」
署長は、工場街へ急行したときの疑問を繰り返した。
県道沿いともいえる場所だが、十字路をちょっと左折しただけのあの路傍が、相当な死角になっていたのは事実だ。二人のOLの通行がなければ、発見は遅れていただろう。
事前に死角≠承知していたとすれば、犯人は土地|鑑《かん》あり、ということになる。
一方、被害者高橋美津枝の自室マンションにも探りが入れられた。
だが、これは、電話一本で、直接先方に当たるというわけにはいかなかった。横浜の一〇四番へ問い合わせたところ、高橋美津枝名義の電話は加入されていなかった。
美津枝が主婦であるなら、電話は夫の名前で申し込むのが普通だ。そこで刑事は、緊急の事情を打ち明け、『井田マンション』21号室に、電話が取り付けられているかどうかの確認を求めた。
電話はあった。引かれてはいたが、名字が違う。『井田マンション』21号室の電話は、「小出五郎」という名前だった。
部屋が同じなのだから、殺された美津枝と電話所有者の「小出」は、内縁関係にでもあるのか。そう考えるのが自然だろう。
しかし、何度かけ直しても、横浜の『井田マンション』21号室の電話は通じなかったのである。
呼び出し音はつづいても、だれも出てこない。
「まさか、この小出って男が、茶色っぽいブルゾンじゃないでしょうね」
刑事は、署長に報告したあとで、私見を言い添えた。
この点の解明も、翌日に持ち越される。
今夜のうちに、神奈川県警に捜査協力を要請することになるが、松山南署としても、横浜へ捜査員派遣の方針を固めた。
*
翌八月三十一日、木曜日。
松山南署三階大会議室のドアに、長い張り紙が下がった。
「レンタカー女性絞殺事件捜査本部」
署長を本部長とする第一回目の捜査会議は、午前九時から開始された。県警捜査一課からも、課長以下五人のベテランが、参加した。
昨夕の霧雨は上がり、松山南署の三階から見える三津浜港には、夏の終わりの日差しが戻っている。しかし、気温は高くなかったし、青空に浮かぶ雲の形は、すでに秋のそれだった。
会議は、司法解剖の報告から始まった。
死因は頸部《けいぶ》圧迫による窒息死。死亡推定時刻は、目撃者の証言どおり、八月三十日午後六時三十分頃という結論だった。
つづいて、刑事課長が黒板の前へ進み出て、昨夕の張り込みの経緯を説明した。
松山港周辺、伊予鉄|大手町《おおてまち》駅、松山市駅、JR松山駅などの手配は迅速だったが、
「残念ながら、それらしき男は網に引っ掛かってきませんでした」
と、刑事課長がつづけたとき、東京から電話が入った。
警察庁指紋センターの、コンピューターによる照合結果は、弓状紋も変体紋も「前科、前歴なし」だった。
署長によって電話の内容が紹介されると、ふっと、吐息に似たものが、会議室全体を覆った。凶器に指紋を残さないという行為は、犯人《ほし》に前科《まえ》があることを意味する。だれもが、そう思っていたためだ。前科《まえ》に期待していたためである。
「駄目か」
正面席の捜査一課長が、一同を代表するように、憮然とした面持ちでつぶやいた。
そう、前科がないのなら、指紋からの直截的《ちよくせつてき》な氏名割り出しは不可能となる。
だが、そうは言っても、犯行現場に遺留された指紋が、大きい価値を示していることは変わりがない。
異なる二種類の指紋は、いかなる意味を持つのか。
殺人《ころし》の実行犯が、一人だったことは間違いない。
変体紋と弓状紋。どっちが実行犯の指紋か。
どちらも、その可能性を秘めている。
助手席のドアに残る変体紋を犯人と決めつける場合は、レンタカーに乗り込むときの男は素手だったのではないか、という見方だ。手袋は、犯行に及ぶ際、(恐らくは大きな紙袋に忍ばせてきたのであろう)ベルトを取り出すときに、初めて着用したということだ。
「うん、何しろ八月だからね、一般の人間が夏に手袋などしていれば変に思われる」
と、変体紋犯人説に耳を傾けたのは、署長だ。
留意はしていても、乗車のときに手袋をしていなければ、うっかり指紋を残すこともあろう、というわけである。
しかし、それはどうか。殺人に際して手袋を着用するほど慎重な犯人が、車内のどこかへ不注意に、素手で触れたりするだろうか、と、反対意見を述べる刑事もいた。
だが、そのような犯人にしても、分県地図と王将駒は別だった。これは、犯行に熱中するあまり、落としたのに気付かなかったのであり、落とす気持ちなど毛頭なかったので、指紋を消す必要がなかったのだろう、と、その刑事は言った。
そう、地図と駒から検出された弓状紋を犯人に擬する場合は、そうした解釈となる。この意見も捨て難い。
その分県地図には、もう一つの発見があった。
紙ケースの中には、多色刷りの地図の他に、愛媛県を紹介する二十ページほどのパンフレットが同封されている。そのパンフレットの表紙裏に、ボールペンの小さい記名があった。
物証を説明する時点で、
「週刊広場・浦上《うらがみ》と読めます」
鑑識係は透明なビニールの袋に入れた証拠品のパンフレットを提示し、
「このパンフレットの、ページのあちこちからも、同一の弓状紋が検出されました」
と、報告した。
「週刊広場・浦上」の文字は、所有者の名前と考えていいようである。
すると、弓状紋の男は、「浦上」ということになるのか。いずれにしても、ブルゾンの男と、まったく無関係ということはないだろう。
これは重要な手がかりだ。
「週刊広場なら、一流誌ですよ」
と、矢島部長刑事が言った。
とりあえずの突破口は、高橋美津枝という死者本人と、『週刊広場』の浦上ということになろうか。
「よし、それからいこう」
署長はその場で、「浦上」の調査を矢島に命じた。
矢島は一人会議の席を離れると、港を見下ろす窓際で、電話を取った。
東京の一〇四番に問い合わせると、『週刊広場』の電話番号はすぐに分かった。そして、浦上が『週刊広場』の関係者であることも判明したけれど、編集部には、まだ主だった社員が出勤していなかった。
「はい、編集長の出社は、午前十一時頃になります」
と、女子社員がこたえた。夜が遅い編集者は、一般のサラリーマンとは違うのである。
「実はですな」
矢島部長刑事が、差し障りのないていどに電話をかけた目的を告げると、
「あ、それでしたら、編集長よりも、副編集長のほうが詳しく承知していると思います」
女子社員はそうこたえて、青木《あおき》という副編集長の、自宅電話番号を教えてくれた。
その、千葉の自宅へかけ直すと、
「松山南署ですか。おかしいな、今回の浦上君の取材は、警察には関係ないはずですが」
青木は自分自身に話しかけるようにつぶやいてから、矢島の質問にこたえた。
その最初の説明を耳にしたとき、
「何ですって?」
ごっつい顔の部長刑事は、ベテランらしくない甲高い声を発していた。会議をつづける捜査員たちが、一斉に、窓際に目を向けたほどである。
「ふん、ふん、それで?」
と、メモを取りながらの電話はつづいた。
「分かりました。ホテル松山ですな」
矢島は、最後にそう念を押して、受話器を戻した。
署長への報告は、もう一本、地元の『ホテル松山』へ電話を入れてからになった。『ホテル松山』は一流シティーホテルだ。こっちは、短い通話で終わった。
「大変なことになりました」
矢島は興奮したまなざしで、会議の自分の席に戻った。
「浦上という男、いま、松山にいます」
矢島は走り書きのメモを長机の上に広げ、立ったまま話し始めた。
「浦上|伸介《しんすけ》、独身の三十二歳。正社員ではありませんが、週刊広場へ常時寄稿している、フリーのルポライターです」
「ずばり、浮上してきたのか」
と、署長が尋ねると、
「ずばりなんてものではありません」
ベテランの声が、また高くなった。
「浦上は中背の男です。もちろん、冬物と夏物の違いはあるでしょうが、四季を通じて、茶系統のブルゾンを愛用しているそうです。そして、取材に出かけるときは、必ずショルダーバッグだそうです」
「外観は、犯人《ほし》と同じ、ということになるな」
「その上、学生時代からの、唯一の趣味が将棋です。現在でも、仕事が入っていないときは、東京都内の新宿とか渋谷の将棋センターに通い詰めており、アマチュアの四段という話です」
「なるほど。普通の人間は、将棋駒など持ち歩かないだろうが、アマチュアでも四段クラスとなると、現場に駒が落ちていたことの説明もつくか」
「それだけではありません。この浦上という男、副編集長の話によると、昨日の犯行時刻、松山港にいたはずだというのです」
「何だと?」
署長の声も高くなり、全員の視線が、改めて、矢島部長刑事に集中した。
「浦上は、一昨日の午後は週刊広場の企画会議に出席。昨日四国へ渡ってきたそうです」
矢島は、自分の走り書きに目を落としてつづける。
「週刊広場では、バカンス追跡をテーマに、夏の終わりの城下町という企画を立てましてね、東北、九州など、手分けして取材中です」
「浦上というルポライターの分担が、四国か」
「四国へは、瀬戸大橋から入ってくるルートが、一般的でしょう。しかし、特色を出そうと浦上が主張して、言うなれば逆コースを採用したのだそうです」
「浦上の主張?」
「ええ。浦上は、松山、宇和島《うわじま》、高知、高松《たかまつ》の順で取材を進め、瀬戸大橋を渡って帰るシーンを、レポートの締め括《くく》りにする腹案とか」
「ルポライターのアイデアを、編集部が認めたのだね」
「浦上はウデのいいライターなので、編集部でも、あるていど一任することが多いそうです」
「浦上の提案が、昨日の殺人《ころし》を含みにしていたってことも、有り得るだろうな」
と、一課長がつぶやき、
「で、昨日が、松山市内の取材日ということになっていたのかね」
と、署長が訊いた。
矢島は手にしたメモを見ようともせずに、
「松山の取材は今日です。浦上は昨日の朝、新幹線で東京を出発。広島の宇品港から、夕方のフェリーで瀬戸内海を渡ってきました」
と、こたえた。
留意すべきは、浦上が松山港へ到着した時間だ。事前に浦上が予約したのは、三津浜港へ十八時に接岸する石崎汽船だったのである。
「十八時? 午後六時か」
署長の口調が一段と厳しくなった。
まさに、ぴったりではないか。高橋美津枝の運転するレンタカーが、犯行現場で停車したのは、午後六時二十六分頃だ。
六時に下船して松山の地を踏《ふ》んだ浦上は、どこで、レンタカーに乗り込んだのか。美津枝が、JR松山駅近くの営業所からダークブルーのセドリックを借り出したのは午後六時だから、浦上の到着に合わせてのものだった、と考えるのは容易だろう。
美津枝は絞殺されるとも知らず、浦上との約束の場所へ車を回す。
助手席に乗り込んだ浦上は、(事前に下見しておいたであろう)人気のない工場街で車をとめさせる。そして、一瞬の凶行を完了して、逃亡する。
「そのとおりだとすれば、この男は、およそ時間を無駄なく使って、ホテルに向かっています」
と、矢島は、自らの推理も交じえて、言った。
あるいは、大きい紙袋の中には、ブレザーとかネクタイが、用意されていたのかもしれない。逃亡の途中でブルゾンを脱ぎ、ネクタイを締めてブレザーに着替えれば、印象は一変する。
浦上は簡単な変装で、追跡の目をはぐらかしたということになろうか。変装して、三津浜港か三津駅前でタクシーでも拾ったか。
もちろん、タクシーをホテルに横付けするようなことはしまい。すべてが、計画的に実施され、変装の上、ホテルとは異なる場所で降りたのなら、タクシーの聞き込みも難しいだろう。
浦上が東京から予約してあった『ホテル松山』は、松山城の先の一番町だ。
「いま、電話で確認を取りました。浦上は今朝八時五十分にチェックアウトしていますが、昨日のチェックインは、午後七時五分ということです」
「六時に船を下りて、七時少し過ぎのチェックインなら、時間的に、何ら不自然ではないね」
「そうです。三津からは伊予鉄かバスを利用して、市内へ入ってからは、堀端をぶらぶら歩いてきたとでも説明すれば、ちょうどそのぐらいな時間になります」
「その間に殺人タイムが含まれているなんて、ちょっと想像もできないか」
「事実浦上が真犯人《ほんぼし》なら、いずれアリバイ主張に役立たせるつもりの、時間配分でしょうね。ともかく、時間の使い方に、無駄がありません」
と、ベテランは強調する。
狙撃手が標的を意のままに動かしていたのなら、計画犯行もやすやすと成立させることができる。
しかし、自由に操れるとなると、浦上と美津枝は、相当に親しい関係にあったことになろう。ならば、その線から洗うという方法がある。
次に矢島は、『週刊広場』の青木副編集長が掌握している、浦上伸介の取材日程について報告した。
それによると、昨日八月三十日は松山泊まり、以後、宇和島、高知、高松とそれぞれ一泊ずつして、九月三日、日曜日の夜、浦上は二十時三十二分発の寝台特急瀬戸≠ナ高松を出発。翌九月四日、月曜日の朝七時九分に東京へ帰ることになっていた。
「今日の、松山市内の取材先は決まっているのかね」
「そこまでは、分からないそうです」
「松山駅に張り込むか」
浦上が犯行と無関係ならば、逃げ隠れする必要はない。予定どおりに松山のスケジュールをこなして、次の目的地である宇和島へ向かうだろう。
そしてまた、実際に美津枝を襲った真犯人《ほんぼし》であったとしたら、巧妙な時間配分からいっても、(無実を主張するために)当初の予定に沿って、行動するはずだ。
「駅よりも確実な張り込み先は、宇和島のホテルです」
と、矢島はメモを持ち直した。
二泊目の予約は、宇和島城に近い中央町の、『ニュー宇和島ホテル』となっているが、松山駅を何時に出発するか、それは決まっていなかった。
それに、浦上が三十二歳で中背の男であることは分かっても、捜査本部にとって、顔形ははっきりしていないのである。
浦上の移動が間違いないところなら、すなわち、逃亡の心配がないのなら、矢島が言うように、宇和島のホテルを張り込むほうが適確だろう。
「そうだね」
署長もすぐに同意した。
「いずれにしても、いまは、この男のシロクロをはっきりさせるのが先決だ」
署長は改めて、矢島の顔を見た。
宇和島出張は、行き掛り上、矢島が分担することに決まった。
*
すでに、神奈川県警には、愛媛県警からの、正式な捜査協力要請が入っている。
神奈川県警では、捜査一課の課長補佐|淡路《あわじ》警部が窓口になった。
淡路警部は、これまでにも数多く、他府県との捜査共助の仕事をしているので、担当は不思議でも何でもないが、奇妙なめぐりあわせとなったのは、本件の容疑者として、浦上伸介が浮上していることだった。
淡路警部は、職掌上、数多くの取材記者と顔見知りだが、浦上とは浅からぬ交流を持っていたのである。
淡路警部が日頃|昵懇《じつこん》にしている記者の一人に、神奈川県警記者クラブ『毎朝日報』のキャップ、谷田実憲《たにだじつけん》がいる。
その谷田が、浦上の大学時代の親しい先輩だった。
警部は『毎朝日報』キャップの紹介で、『週刊広場』を主たる仕事先とするルポライターを知った。
浦上は、今回こそ、「夏の終わりの城下町」などという、バカンス追跡特集の取材をしているが、本来は、事件物を得意とするルポライターなのである。
派手さはないが、浦上の有能な手腕を、淡路警部は買っていた。警部は、横浜が絡《から》んだ殺人事件の、アリバイ崩《くず》しの発見を、何回となく浦上から提供されたことがある。
警部のほうからも、オフレコ・ネタの提供というお返しをすることがある、と、そういうつきあいだった。
しかし、浦上伸介の名前は、まだ表面化していない。淡路警部は捜査本部によって、浦上伸介がマークされたなんて、夢想もしなかった。
昨夜のうちに届いた松山南署からの要請は、捜査員派遣に対する協力と、被害者高橋美津枝の洗い出し、その二点だけだったからである。
美津枝は保土ケ谷区上星川町の『井田マンション』21号室で、「小出五郎」という男と同棲しているらしい。
何度電話をかけても応答のない「小出」が、美津枝と一緒に四国へ渡っている情報でも出てくれば、浦上とは別個な形で、捜査対象となる。
「小出」の聞き込みを、松山南署の捜査本部では重視しており、
「一刻も速く、高橋美津枝の日常を調査していただきたい」
と、言ってきた。
淡路警部は、一課の刑事二人を、『井田マンション』に向かわせた。
*
覆面パトカーが、横浜市内を縦断する国道16号線を北上し、相鉄上星川駅近くの『井田マンション』に到着したのは、午前九時過ぎである。
夏の強い日差しを浴びる白いマンションは六階建てだが、それほど大きくはなかった。1LDKが主体の、全室賃貸のマンションだった。
この辺りの国道沿いには、最近、次々と新しいマンションができている。しゃれた外観のビルと、周辺に残る昔からの古い家並との対照がアンバランスだった。
上星川では、期待する回答が得られなかった。
共稼ぎの若い夫婦とか、独身者が多いマンションである。ウィークデーのこの時間帯では、ほとんどが勤めに出ていて、留守だった。
管理人も常駐していない。
管理をしているのは、神奈川区鶴屋町の不動産会社と聞いて、二人の刑事は覆面パトカーを戻した。
鶴屋町は、横浜駅西口の近くだ。
「小出五郎さんは、21号室の前住者です」
不動産会社の担当者は、『井田マンション』入居者のファイルを確認して言った。
前住者というだけなら、美津枝とは関係ないのか。
「はい。電話は、名義変更の請求が済んでいないのだと思います。こうしたケースは、他にもよくあります」
と、担当者はつづけた。
高橋美津枝が借りた21号室は1DKで、美津枝は間違いなく独り暮らしだったという。賃貸契約は今年の五月三十日。入居して、三ヵ月しか経っていないわけだ。
それでは、電話がそのままということも有り得るか。
刑事はうなずいた。「小出五郎」の名前はどうやらリストから消えそうである。
「高橋さんの前の住所ですか? 前住所は、大阪のマンションですね」
と、担当者は刑事の質問にこたえて、言った。
大阪府|守口《もりぐち》市寺内町七五『パレス17』505号。
所定の欄に、そう記入されており、横浜の『井田マンション』入居に際しての保証人は、高知県に住む実兄、高橋一夫となっている。
実兄の住所は、すでに、松山南署の捜査本部が、美津枝の運転免許証から明らかにしている本籍地と同じものだった。
都会暮らしが何世代かつづくと、本籍地との関係が、希薄になってくる例が少なくないけれど、美津枝の場合は、本籍地に実兄が住んでいるということだろう。
保証人の印を押した実兄は四十二歳で、職業は食堂経営と記されている。
実兄は美津枝と同じ高橋姓だから、美津枝は未婚と見ていいのか。
三ヵ月前に大阪から転居してきた女性で、独身の一人暮らし、と、刑事は警察手帳に書きとめて、美津枝の職業を尋ねた。
「会社員です。でも、会社がどこであるのか、詳しいことは、このファイルでは分かりません」
と、不動産会社の担当者はこたえた。
*
松山南署の捜査本部では、横浜の聞き込み結果を得て、土佐山田の高橋一夫に緊急連絡を取った。
中継したのは、同じ四国の、高知県警である。
悲報を伝えると、
「何ですって? 美津枝が、美津枝が松山で殺されたですって?」
兄の一夫は、心底信じられないという顔をした。
突然、店へ訪ねてきた高知県警の刑事に向かって、
「美津枝が四国へ帰っていたなんて、家族はだれも聞いていません。美津枝は四国へ戻っていたのに実家《うち》へ電話一本入れず、松山で絞め殺されたというのですか!」
一夫は声を震わせた。長身、端正な顔立ちで、純朴そうな食堂経営者だった。
高知県警では、この、高橋一夫に面接した経緯を、松山南署の捜査本部へ、電話で知らせてきた。
「高橋氏は、とるものもとりあえず、土佐山田発十一時二十一分のL特急南風6号≠ナ、そちらへ向かいました。多度津から予讃本線に乗り換えて、松山到着は十六時八分です。何とか夕方までに、妹さんの遺体と対面できるでしょう」
高知の刑事は最初に要点を報告し、それから、美津枝の実家の環境に触れた。
『高橋食堂』は、みやげもの屋を兼ねているという。
店を開いている場所は、南国の秘境と呼ばれる龍河洞《りゆうがどう》だった。
土佐山田町の龍河洞は、岩手県の龍泉《りゆうせん》洞、大分県の風連洞《ふうれんどう》、山口県の秋芳洞《しゆうほうどう》と並ぶ大鍾乳洞として、観光の名所になっている。高知空港に近い野市《のいち》町とを結ぶ、全長九・三キロの龍河洞スカイラインも完成しているが、土讃本線を利用すれば、土佐山田駅前からタクシーで二十分あまりだ。
登り口には、大型の観光バスが何台も入れる、広い駐車場が二ヵ所できている。駐車場から鍾乳洞の探勝口へかけては、細い坂道の両側に、びっしりと、食堂とかみやげもの店が並んでいる。
『高橋食堂』は、二つの駐車場の中間に建つ、古い二階家だった。一階がみやげもの売り場、二階が食堂になっている。
「一夫さんと美津枝さんは、仲のいい二人きょうだいです」
と、高知の刑事は、電話での説明をつづける。
「きょうだいの両親は健在で、いまも食堂を手伝っていますが、四年前に、正式に、一夫さん夫婦が高橋食堂を継ぎました。三代目になるそうです」
「なるほど」
松山南署の捜査本部では、刑事課長が電話を受けていた。
「美津枝さんが横浜へ転居したのは、最近です。それまでの、大阪での生活は長かったのですか」
刑事課長がそう質問すると、高橋家の遠縁が大阪の吹田《すいた》市に住んでいる、と、高知の刑事はこたえた。
「美津枝さんは、中学時代から、都会志向が強かったと言います。地元の高校を卒業すると、両親を説得して、吹田市の遠縁を頼ったとか。ええ、入学したのは、武庫川《むこがわ》の女子短大です」
「積極的な性格だったのですね」
「そうです。前向きで、明るい女性だったそうです。短大を終えると、そのまま、大阪市内の会社に、就職しています」
「じゃ、都会暮らしは短くありませんね」
「ええ、故郷の土佐山田へ帰る気持ちはなかったみたいですよ」
「大阪で結婚するつもりだった、ということですか」
刑事課長が、あれだけの美貌なら言い寄る男性も少なくなかったでしょう、と、受話器を持ち直すと、
「それは、ボーイフレンドは多かったかもしれませんが、美津枝さんが両親や兄夫婦に対して、結婚を匂わせるようになったのは、二年前ぐらいからだそうです」
と、高知の刑事は言った。
二年前と言えば、美津枝は二十六歳だ。二十代後半を迎え、初めて、心を許せる男性にめぐり会った、ということだろうか。
だが、美津枝は、好きな人ができたとは言ったが、相手がどういう立場の男性であるのか、なぜか、その点は打ち明けなかったという。
「それらのことは、一夫さんが松山へ着いて、遺体確認が終えたら、そちらで、直接お尋ねになってください」
と、高知の刑事はつづけた。
高知県警としては、一刻も早く、実兄の一夫を松山へ向かわせなければならない。事情聴取に、時間はかけられなかった。
最後の質問は、一夫を土佐山田駅へ送るパトカーの中で、続行されたほどである。特急の本数が少ないので、一列車乗り遅れると、松山到着は大幅に遅れてしまう。
いずれにしても、離れて暮らしている妹の交際相手を、実兄が知悉《ちしつ》していないのは事実のようだった。
美津枝は三ヵ月前に突然転職して、横浜へ出て行ったのであるが、転職の原因も、転居の理由も、一夫は、一切聞かされていなかった。
「今回も、やはり結婚を口にしていたし、美津枝さんももう子供ではないということで、一夫さんは、美津枝さんの横浜転居に関して、特に反対しなかったそうです」
と、高知の刑事は報告した。
三ヵ月前の転居とか転職が、昨日の殺人事件の背景となっているのだろうか。
美津枝の新しい住居は横浜だが、しかし、再就職先は、神奈川県下ではなかった。
「東京都大田区蒲田本町にある、伊東建設という会社です」
と、高知の刑事は、電話の向こうでメモを読み上げた。
*
被害者の実兄高橋一夫は、高知県警からの通告どおり、十六時八分着のL特急いしづち11号≠ナ松山へやってきた。
一夫はタクシーを飛ばして、港に近い松山南署へ入った。
何はともあれ、遺体の確認が、すべてに優先する。
見るからにまじめそうな一夫は、固い表情で、霊安室へ向かった。
案内した刑事が、死者の顔から白布を外すと、
「だれが、だれがこんなむごいことをしたのですか!」
一夫は、変わり果てた妹を見詰めて、棒立ちになった。
一夫は刑事の肩を借りるようにして、重い足取りで、三階の捜査本部に行った。
事情聴取は慎重に進められた。
しかし、新しい発見はなかった。
結局は、高知県警が連絡してきた内容を、敷衍《ふえん》したのに過ぎない。
「美津枝は、一体、いつから四国へ戻っていたのでしょうか」
一夫は、逆に質問してくる始末だった。
もちろん、『週刊広場』も、浦上伸介なるルポライターにも、一夫は、一切心当たりがなかった。
二人きりのきょうだいで、年齢の離れた妹をいかにかわいがっていようとも、一夫は、都会で生活する美津枝の日常を、知らな過ぎた。
一夫は遺体を引き取ると、とんぼ返りで高知へ戻るために、搬送車をチャーターした。
2章 宇和島の罠
実兄に付き添われた高橋美津枝の遺体が、生まれ故郷の土佐山田へ向かって松山を出発する頃、茶色のブルゾンを着た中背の男は、海沿いを走る急行うわじま5号≠フ空いた車内で、キャスターをくゆらしていた。
大きい紙袋こそないが、焦げ茶色のショルダーバッグが、隣の座席に置かれてあった。
『週刊広場』特派記者の名刺を持つ、浦上伸介三十二歳である。
浦上は、昨日の夕方、松山港近くで発生した殺人事件を、承知していなかった。松山南署の正式記者発表が今朝になってからなので、各紙とも、朝刊に間に合うわけがない。
もちろん浦上は、重要参考人として、自分の名前が上がっていることなど、夢にも考えはしない。
浦上は松平十五万石の城下町松山の取材を終え、次の城下町、伊達家十万石の宇和島へ行くために、松山始発十六時二十二分の、急行に乗ったのだ。
うわじま5号≠ヘ、内子《うちこ》、伊予大洲《いよおおず》、八幡浜《やわたはま》と過ぎて、卯之町《うのまち》を発車したところだ。列車は、みかん畑越しに、リアス式湾入の宇和海を、右下に見て走っている。八幡浜からは、ずっと急勾配がつづいている。
あと、三十分足らずで、終着駅宇和島となる。
松山―宇和島間を二時間七分で結ぶうわじま5号≠ヘ、急行とはいえ、わずか三両連結の気動車に過ぎない。だが、それが、かえって素朴な旅情を運んでくるのか、浦上はいつになく、風景に浸《ひた》る余裕を持った。
心にゆとりがあるのは、取材の内容と日程が、いつもと違っていたせいもあるだろう。
浦上は、夕刊紙の社会部記者を経て、フリーのルポライターとなった男だ。仕事の大半は、事件物だ。
取材先も、警察と犯行現場が主体であり、加害者と被害者の周辺を掘り下げるといった作業がつづく。
どこへ行っても、取材拒否に遇《あ》うことのほうが多かった。すんなりとコメントが取れるのは珍しい。
そうした苦労に比べれば、今回の取材は楽なものだ。スケジュールも、ゆったりしている。
「ほう、きみがねえ。きみが、トラベルガイドみたいな取材をするのか」
と、真顔で笑ったのは、都内の私大に通っていた頃からの親しい先輩、谷田実憲だ。
「アリバイ崩しを得意とするきみに、レジャー欄の取材を命じるとは、週刊広場ってのは、確かにユニークな雑誌だ」
谷田は、浦上とは逆に、明るい性格の男だった。
谷田は浦上より三つ年上の三十五歳。浦上と違って大柄で、声も大きい。
すべての面で対照的な先輩と後輩であったが、共通点は、二人とも酒が強く、無類の将棋好きであることだった。お互い、町のクラブでは四段で指す棋力だから、アマとしては強いほうだ。
浦上と谷田の生活にとって、毎夜のアルコールが欠かせないように、将棋もまた切り離すことができない。
「バカンス追跡なんかの、城下町の取材じゃ、今回、間違っても、オレにお呼びはかからないね」
と、谷田は繰り返した。
旅立ち前夜の一昨日。横浜・菊名《きくな》の住宅団地に住む谷田の自宅で、谷田の妻の手料理で一杯やりながら、五寸盤を囲んでいたときの会話である。
谷田は神奈川県警記者クラブで、『毎朝日報』のキャップをしているのだから、横浜絡みの事件ともなれば、浦上にとって、何とも頼もしい助っ人となる。
だが、今度の仕事ばかりは、どう転んでも、谷田には関係がない。
(先輩には、四国の地酒でも買って帰るかな)
浦上は車窓でそんなつぶやきを漏らし、突き出た半島とか、いくつもの小島を浮かべる宇和海を見詰めつづける。
見飽きない眺めだった。
いつの間にか、夏の日は西に傾いている。いや、夏というよりも秋を感じさせる海だった。
夕景の美しさに、こんなふうにして接するのは、何年ぶりだろうか。
これも、余裕のある旅程のお陰だ。
静かな海を遠望しながら、鉄路のほうは、急勾配で峠を越える難コースがつづいている。
速度も落ちたままだ。
そして、法華津《ほけづ》トンネルを抜けると、単線鉄道の急勾配は下りに変わる。短いトンネルがいくつもあり、トンネルとトンネルの間に、半島の入り組む海があった。
ぐんぐん下って行くと、宇和島湾の漁港が見えてくる。漁港は入江にできているので、車窓から見下ろすと、大きい川のようだった。夕日に映える漁港には、小さい漁船がずらっと繋留《けいりゆう》されているが、人影は少ない。
間もなく、瓦屋根の密集する家並が、目の前に迫ってきた。古い瓦屋根は目地の白いしっくいに特徴があり、そこにも夕日が当たっている。
三両連結の気動急行は、予定どおり、十八時二十九分、宇和島駅1番線ホームに到着した。
ホームは行き止まりだった。いかにも終着駅という感じである。終着駅は、四角い感じの白い二階建てだった。
駅舎の正面屋上に、駅名よりも大きい『田中のかまぼこ』の看板が立っている。
そして、タクシー駐車場の近くに一本、高い棕櫚《しゆろ》の木があった。
静かな駅前広場である。ベンチで話し合う男女高校生がいた。
浦上はタクシーに乗った。
駅前の大通りが、まっすぐ、新内《しんうち》港の盛運桟橋《せいうんさんばし》へつづいており、広い通りの両側が、食堂などの並ぶ商店街になっている。
人口七万の城下町は、三方を高い山に囲まれていた。
東南には鬼《おに》ケ城《じよう》山を主峰とする山並が連なり、宇和島街道がある北側は、いま、浦上が気動車で経験したように、九十九《つづら》折の峠道がつづく。
リアス式の宇和島湾が開けているのは、西側だけだ。島の多い海だった。
浦上は、タクシーで新内港などを一周してもらってから、ホテルへ入った。寄り道をしても、二十分とかからなかった。
市の中心部で、濃い緑の目立っているのが城山である。浦上が東京から予約した『ニュー宇和島ホテル』は、宇和島城東側の繁華街にあり、斜め前がバスセンターだった。
(夕食は外でとろう)
浦上はタクシーを降りるときに思った。外で食事をするというのは、そのまま、取材につながる。
宇和島を終えると、明日は予土《よど》線で高知へ向かうわけだ。
予土線は、全線の半分ほどが、四万十川《しまんとがわ》の渓流を縫って走っている。
四万十川は、日本に残された最後の清流と言われている。
険しい山間の鉄路を、岩が多い渓流に沿って進むコースは、風光明媚《ふうこうめいび》なんてものではないだろう。
浦上は以前からこのローカル線にあこがれていたけれど、訪れるチャンスがなかった。得手でもない今度の取材を引き受けたのも、季節によってはトロッコ列車が運行されるという、予土線への夢が広がっていたためだ。
しかし、予土線は本数も少ないし、急行がないので時間もかかる。
宇和島始発の予土線の終点が窪川《くぼかわ》。窪川から土讃《どさん》本線に乗り換えて、高知へ出るのだが、明るいうちに四万十川沿いの風景を満喫し、夕食時までに高知市内のホテルにチェックインするには、宇和島を、十三時三十六分に出発しなければならない。
明日の持ち時間が半日あまりしかないとすれば、夕食を兼ねて、今夜のうちから取材を開始するのは当然だろう。
宇和島城主と言えば、仙台の伊達政宗《だてまさむね》の血を引くわけである。そして、闘牛。
(さて、どんな若者がいるのかな)
浦上はショルダーバッグを持ち直して、ホテルのドアを押した。
松山のシティーホテルと違って、こちらはビジネスホテルふうだった。小さいフロントには、女性従業員が一人いるだけだ。
浦上はひっそりしたホテルのフロントに立った。
そこに異変があった。
今回は一切無関係なはずの、先輩の谷田を、嫌でも頼りとしなければならない相手が、『ニュー宇和島ホテル』で、浦上を待っていたのである。
チェックインする浦上を見て、フロント前のベンチから腰を上げる二人の男がいた。
年かさのほうは、ごっつい顔をしている。松山南署の、矢島部長刑事だった。
「週刊広場の浦上伸介さんですな」
矢島部長刑事は、浦上の身元を確かめてから黒い警察手帳を示して、自分を名乗った。
「殺人《ころし》の捜査本部?」
浦上は、思わず、先方の二人を見比べていた。
刑事に張り込まれたなんて初めての経験である。
*
狭いロビーでは、込み入った話もできない。
フロントの左手が喫茶室になっていたので、三人はコーヒーを注文して、片隅のテーブルで向かい合った。
「横浜に住む高橋美津枝さんとは、どういうご関係ですかな」
矢島部長刑事は、いきなり、そう切り出してきた。
「高橋美津枝さん?」
「なかなか、きれいな女性ではないですか。恋人ですか」
「恋人?」
浦上には、何のことか、さっぱり訳が分からない。
浦上には、親しくしている女性など一人もいない。異性嫌いというわけではないが、毎日の生活が不規則で、余暇が将棋と酒という日常では、女性に近付くチャンスはない。
こうして、いつともなく、仕事場と住居を兼ねた東京・中目黒《なかめぐろ》の1DKのマンションで、シングルライフを楽しむようになった浦上である。
「その美人が、どうかしたのですか」
釈然としないままに問いかけると、矢島は、しげしげと浦上を見た。
半袖にまくった茶のブルゾン、黒いタンクトップ、焦げ茶のショルダーバッグ。そうした浦上を一わたり眺め回し、
(なるほど。そっくりだ)
というように、矢島は傍《かたわ》らの若い刑事を振り返った。
若い刑事のほうも、
(確かにそうですね)
と、目でうなずいている。
浦上は肚《はら》が立ってきた。
「失敬じゃありませんか。どこのだれとも知らない女性の名前を持ち出したり、じろじろとぼくを見詰めたり、何の真似ですか」
「大きい紙袋は、お持ちではないのですか」
「用件をはっきりと言ってください」
「昨日の夕方、松山港の近くで、高橋美津枝さんが絞殺されました」
「殺人《ころし》の捜査本部というのは、そのことですか」
「凶行は、レンタカーの中でした」
矢島はそう言って、いかにも刑事《でか》らしい視線を浴びせてきた。説明されなくとも、犯行現場も、殺人手段も、先刻承知だろう、と、そういった、決め付けてくるようなまなざしである。
(あれ?)
浦上は自分の中でつぶやいていた。こと、ここに至って、浦上も気付かざるを得ない。知らない間に自分を巻き込んだ判然としない渦が、意外に大きいということをだ。
「あんたは、ウデの立つルポライターで、警察取材なども慣れているそうですな」
矢島は、浦上の変化を見抜いたかのように、少し口調を改めた。
取材慣れしているのなら、職務質問についての細かい説明は不要だろう、という含みと同時に、
「いろいろ、犯行手口にも詳しいのではないか」
と、そんな疑惑の目で見られているのを、浦上は感じた。
こうした形で、刑事に接近されるなんて、気持ちのいいものではない。
「浦上さん、あんたは昨日、午後六時に到着するフェリーで、松山港へ下りたそうですな」
「なぜそうした質問にこたえなければいけないのか、それを言ってください」
「船を下りてから、ホテル松山にチェックインするまでの足取りを、説明してくれませんか」
「そういうことですか」
浦上はキャスターに火をつけた。
よく分からないが、取材日程は『週刊広場』へ問い合わせて、入手したのだろう。それでいまもこうして、『ニュー宇和島ホテル』へ、先回りしていたわけか、と、浦上は考えた。
ならば、それがこたえになるではないか。
「ぼくは、いまのところ、スケジュールどおりに行動しています」
浦上は質問に応じたつもりで、そう言ったが、矢島は納得しなかった。
矢島はじっと浦上を見詰めている。
「一体、何だっていうのですか!」
浦上はいらだたし気に、火をつけたばかりのたばこをもみ消した。
だが、結局は、ベテラン部長刑事のペースから逃れることはできなかった。
浦上は、事実をありのままにこたえた。
「昨夕《ゆうべ》六時に松山港で下船したぼくは、アーケードの商店街を三津駅まで歩いて、電車に乗りました」
「伊予鉄経由でしたか」
「市街地へ入り、松山城が見えてきたところで、電車を降りました。大手町駅だったと思います」
「それから、どうしました」
矢島は畳み込んできた。不愉快だが、つづけざるを得ない。
「ぼくの今回の目的は、城下町の取材ですからね。城の写真は欠かせません。で、松山城を撮影しながら、ホテルへ向かいました」
「昨日の夕方は、霧雨が降っていたでしょう。霧雨の中で、シャッターを切ったのですか」
矢島は、さらに疑わし気な顔をしている。
「強い雨の中だって、必要があれば、カメラは構えます」
浦上が怒りをにじませて口走ると、
「ホテル松山のチェックインが、午後七時五分ですね。堀端で時間をつぶしてホテルに入るというのは、捜査会議で、検討したとおりなのですな。いまあんたが言ったように、そう説明されれば、時間の配分に不自然さはない」
矢島は独り言のようにつぶやき、
「本当に、フェリーを下りた足で、真っ直ぐ三津駅へ向かったのですか」
と、殺人現場に落ちていた王将駒と、愛媛県の分県地図に、初めて触れた。
「あんたは、しょっちゅうクラブへ出入りするほどの、将棋好きだそうですね」
「そんなことまで、調べたのですか」
「将棋駒もそうですが、問題は、分県地図です。地図に同封されていたパンフレットに、週刊広場・浦上と記名されてありましてな」
職務質問は、ようやく本題に入った。
「あなたの地図が、なぜ凶行現場に落ちていたのか、説明していただきたい」
「知りませんよ。第一、ぼく、愛媛の分県地図など持ったことはありません」
浦上は即座に否定した。うそでも何でもなく、それはそのとおりなのだ。
今回、浦上が参考資料としてショルダーバッグに入れてきたのは、四国全県を一冊にまとめた、大雑把《おおざつぱ》なガイドブックだけだ。
浦上がその点を強調し、
「落ちていた分県地図に、ぼくの名前がついていたことで、ぼくが疑われているってわけですか」
と、つづけると、
「浦上さん、あんたは犯行時間に、犯行現場に立つことができたわけですよ」
部長刑事は、ことばに力を込めた。
「私たちとして留意したいのは、松山市が、あんたの生活圏ではないってことです。生活範囲で発生した事件なら、犯行時間に犯行現場を通りかかるという偶然もあるでしょうが」
「なるほど。昨夕の事件の場合は、偶然にしては、出来過ぎているって解釈ですか」
「地図の記名を、ぜひとも、あんたに説明してもらいたい」
「いきなりそう言われても、どうしてそうなったのか、ぼくに分かるわけがないでしょう」
「ともあれ、こうして名前の浮かんだ浦上さんがあいまいなままでは、捜査は進展しない。捜査本部としては、あんたのシロをはっきりさせたいのですよ」
ベテラン部長刑事は、一応そうした言い方をしたが、最終目的は崩さなかった。すなわち、任意同行である。
口先では、
「浦上さんも、一流週刊誌のルポライターでしょう。一つ協力してください」
矢島は任意≠繰り返したが、浦上が拒否すれば、強制連行もいとわない、と、そうした態度が見え見えだった。
三人とも、コーヒーを飲み残したまま、喫茶室を出た。
*
任意で同行された先は、宇和島西署だった。『ニュー宇和島ホテル』から、徒歩にして五分とかからない場所だった。
次長席背後の壁に掛かっている大時計は、午後七時二十分を指している。
当直警部と、三、四人の制服巡査の姿が見えるだけの署内はがらんとしている。
当然、事前の打ち合わせは済んでいたのだろう、
「ご面倒をかけます」
矢島部長刑事は、警部に声をかけて、若い刑事ともども、浦上を二階へ同行した。
二階の刑事課も、人影が少ない。
しかし、宿直の刑事の他に、鑑識《かんしき》係が待機していた。浦上の筆跡と、浦上の指紋入手が目的なのは明白である。
「協力しますよ。何よりもすっきりしたいのは、このぼく自身ですからね」
浦上は苦笑し、言われるままに「週刊広場・浦上」の文字を書き、黒いスタンプインキでの指紋採取に応じた。
奇妙で、複雑な気持ちだった。
そうすることによって、(何ともばかばかしい)無実は証明されるわけだが、四国の西の果ての、ひっそりした夜の警察署で、こんな目に遇っている光景を谷田先輩に目撃されたら、また、真顔で笑われるだろう。
浦上は、そうしたことを考えながら、作業を終えた。
鑑識係はその場で、浦上の目の前で、筆跡と指紋を、松山南署から持参したコピーと突き合わせた。
操作に、時間はかからなかった。
鑑識係が矢島部長刑事を見て、
(違いますね)
というように顔を横に振ったのは、筆跡を照合したときだった。
浦上自身ものぞき込んだが、それは、(当然なことに)浦上のものではなかった。浦上はゴシック調のきちょうめんな文字だが、コピーのそれは、まったく違った。頼りなく書き流したような、影の薄い筆致なのである。
指紋のチェックが終えたら、急いでホテルへ引き返したい。シャワーを浴びて、一刻も早く、夜の町へ出たい。
東京や横浜と違って、こうした地方都市は夜が早い。ゆっくりしてはいられない。
いや、その前に、このごっつい顔の部長刑事に、最敬礼させねばなるまい。
(待てよ。謝罪を要求する代わりに、情報《ねた》を提供させるってのはどうか)
浦上はそんなことも考えた。こうして、刑事課で時間を過ごしているうちに頭をもたげてきた、職業意識である。
殺されたのが美人なら、使えるかもしれない。しかも、旅先のレンタカーで絞殺された美女が横浜在住者で、浦上がこうした妙な形で参加させられたとあっては、谷田もやる気を出すだろうし、『週刊広場』の細波《ほそなみ》編集長も乗ってくるに違いない。
(よし、おまけだ。昨夕の殺人事件も、一緒に取材して帰るか)
浦上はキャスターをくわえた。
気乗り薄な城下町の取材とは異なり、事件物というと、顔の輝きからして違ってくるから現金なものだ。
しかし、浦上は、ゆっくりとたばこをくゆらすことを許されなかった。
鑑識係の横顔が、次第と、厳しさを増してきたためである。
鑑識係は口元を引き締め、念のためにルーペまで持ち出したが、ルーペをのぞくまでもなかった。
鑑識係は、指紋に目を落としたままの姿勢で言った。
「矢島さん、殺人現場の遺留指紋は、この人のものです」
緊張を隠すためか、無理に抑揚を欠いた話し方になっている。
「確認してください。ぴたり、同じ弓状紋です」
「何ですって?」
浦上がたばこを消すのと、
「困ったことになりましたな」
矢島が、浦上の顔を見詰めたのが同時だった。
鑑識係は、浦上と二人の刑事の前に、改めて指紋を置いた。
間違いなかった。
コピーと、そしていま採取したばかりの指紋が、寸分違わないものであることは、浦上にも分かった。
こんなことがあろうか。いや、これはどういうことなんだ?
「はっきりしたものとして、王将駒から検出されたのは二点だけですが、地図のほうは、これは数え切れないほどの、弓状紋が付着していましたよ」
と、説明する矢島の声は、勝者のそれだった。
「これだけたくさんの指紋が採取されたということは、分県地図が、あんたの所有物であることの証明ではありませんかな。何せ、パンフレットの、ページの中からも出てきたのですよ」
「知りません。ぼくは、本当に、そうした地図など持ったことはありません」
浦上は繰り返した。
それは、うそ偽りなんかではない、事実なのだ。
しかし、百万言を弄《ろう》そうとも、当事者の弁では、説得力を欠くのが当然である。
「あんたもルポライターなら、物証ということばを、ご存じですな」
と、つづける部長刑事の表情には、余裕が出ている。
「浦上さん、どうやら、泊まっていただくことになりますね」
「何を言うのですか!」
浦上は口走った。頭に血が上ってくるのを知った。
瞬時に整理しろと言われても無理だ。
なぜ自分の指紋が、見たことも触れたこともない、他人の分県地図に、大量に付着していたのか。
その説明が付かない限り、自分は被疑者として留置されてしまうのか。
しかも、この場合は、見たことも所持したこともない、と、事実を強調したことがまた、不利な結果を招いてしまったのである。
矢島の口調が険しくなった。
「浦上さん、それがあんたの所有物であったというのなら、他の場所で落としたか盗まれた地図が、犯人《ほし》によって現場へ運ばれたということを、考えてもいいでしょう。だが、そうじゃない。あんたが言うように、いままで手を触れたこともない地図なら、事前にあんたの指紋が付着するわけはない」
「地図もそうですが、将棋駒だって、ぼくのものではありませんよ。ぼくには、駒を持ち歩く習慣などありません」
と、これも事実をそのまま伝えたが、刑事は聞く耳を持たなかった。
「おかしいじゃないですか。あなたの駒でないのに、なぜ、あなたの指紋が出てきたのですか」
と、これは、それまで黙っていた若い刑事の発言である。
「何が何だか分かりませんが」
と、浦上は言いかけて、口籠《くちご》もった。主張したかったのは、それが、レンタカーのハンドルとかドアから検出された指紋ではない、ということだった。
すなわち、王将駒も分県地図も、簡単に移動できる物証なのである。実行犯が持参して、意図的に遺留していくことが可能だ。
浦上がそれを訴えかけてやめたのは、(物証移動の解釈はもちろん成立するけれど)なぜ、自分の指紋が駒や分県地図に残っていたのか、その見当が、まったくつかなかったためである。
しかも、地図のほうは、大量の指紋というではないか。
「泊まっていけって、逮捕令状が用意されているのですか」
浦上が苦し気につぶやくと、
「あんたが、そんなこと知らないわけはないでしょう。緊急逮捕の場合は、逮捕直後に裁判官に令状を求めれば、事足りることになっています」
矢島は事務的な、冷たい言い方をした。
浦上は、頭に血が上ったままだ。こんな不合理に見舞われたのは、三十二年の人生で、もちろん初めてである。
かっかした脳裏に浮かんでくるのは、先輩谷田の顔だった。
不条理ではあるが、いずれ、弁護士などを頼むような事態になるかもしれない。しかし、どのようなことになろうと、ここは一番、先輩に泣きつくしかあるまい。
「横浜へ、電話をかけさせてくれませんか」
「あんたは東京の人だよね。週刊広場も、無論東京だ。横浜へ電話するというのは、殺された高橋美津枝さんの、関係者にでも連絡を取るつもりかね」
「まだそんなこと言ってるのですか!」
浦上は思わず両掌を握り締めたが、いきり立つ自分を、懸命に制した。
昨夕、松山港へ到着したのが、犯行にぴったりのタイミングであり、その上、指紋という物証≠ワで突きつけられては、正面切って、声を荒立てられる立場ではなかった。
その代わり、浦上の口を衝《つ》いて出たのは、神奈川県警捜査一課淡路警部の名前だった。そう、泣きつくのなら、新聞記者よりも、一課の課長補佐のほうが、有利に決まっている。
浦上は、矢島の硬化した態度を見て、考えを変えた。
「神奈川県警の淡路警部?」
矢島の表情が動いた。
矢島は当然なことに、本件の捜査協力の、神奈川サイドの責任者が、淡路警部であることを承知している。
「あんたは、淡路警部の知り合いかね」
「最初は取材で、お近付きになったのですが、以来、長いことおつきあいしてもらっています。いまでは、一課の課長補佐と週刊誌の記者を越える、深い交流を持っています」
浦上は、あえて「深い交流」に力を入れて言った。
「淡路警部に問い合わせてください。そうすれば、ぼくが犯罪を起こすような人間かどうか、分かってもらえると思います」
浦上は必死だった。
こんな釈然としない状況で、臭いメシを食わされては堪《たま》らない。
「淡路警部ねえ」
矢島部長刑事は、ちらっと若い刑事と視線を交わし、
「当たってみよう」
そう言い残して、刑事課を出て行った。捜査本部長である松山南署の、署長の指示を仰ぐためだった。
こうした相談は、浦上当人の前でするわけにはいかない。
そこで、矢島は一階に下り、警務課の電話で、松山南署を呼び出した。
*
待たされる時間は長かった。
浦上の内面に、判然としない黒雲だけが広がっていく。
午後七時半を回ったこの時間では、淡路警部は、県警本部を帰った後かもしれない。警部に連絡がとれなければ、いかに理不尽であろうとも、今夜は、四国最西端の警察署に留置されることになるのか。
それにしても、だれが、何のために仕掛けた指紋工作なのか。
浦上の内面の黒雲が、さらに厚みを増したとき、矢島部長刑事が、がらんとした刑事課へ戻ってきた。
浦上には長い時間と感じられたが、矢島が実際に席を外していたのは、十五分足らずだったろうか。
「浦上さん、ついていましたね。月末ということもあって、淡路警部はこの時間なのに、捜査一課で会議をしていました」
矢島は、松山南署を経由して、神奈川県警に連絡がとれたことを言った。
「ついていた」はないだろうが、ごっつい顔に、さっきとは別の表情が浮かんでいるのを見て、浦上は、話がうまく運ばれたことを察した。
矢島は、結論から先に言った。
「浦上さん、ニュー宇和島ホテルへ引き上げても結構です。私たちも最終の急行で、今夜は松山へ帰ります」
「淡路警部が、ぼくの身元を引き受けてくれたのですね」
浦上はほっとしたようにキャスターをくわえ、ゆっくりと火をつけた。
「じゃ、私はこれで」
と、鑑識係は立ち上がった。
矢島はその鑑識係に礼を言って見送ってから、改めて、浦上と向かい合った。
「率直に言っておきます。淡路警部の口添えがあったからといって、指紋の説明がつかない限り、あんたにかけられた疑惑が、すべて解消したわけではありません」
「真犯人の意図やトリックが何であるのかは分かりませんが、ぼくが罠《わな》にかけられたのは事実でしょう」
浦上が目の前の二人を交互に見て、
「ルポライターとして、ぼくもやります」
と、決意を語ると、
「あんたの主張を、鵜呑《うの》みにすれば、確かに罠ということにもなりますかな」
矢島は、奥歯に物のはさまった言い方ながら、明らかに、さっきまでとは態度を変えていた。
矢島が若い刑事を同行して宇和島へ出張していた間に、松山の捜査に、一つの進展があったのだ。
松山南署長が、浦上の釈放≠矢島に指示したのは、(淡路警部の身元保証もさることながら)その進展≠艪ヲだった。
午後の聞き込み捜査で、凶器の、ベルトの販売元が、早くも割れたのである。それは、松山中央郵便局に近い千舟町の、大手スーパーストアだった。
ベルトが特定できたのは、疵物《きずもの》の特価品だったせいである。
ベルトは、バックルの飾りが微妙に剥《は》げ落ちており、その疵の特徴を、スーパーの店員ははっきりと覚えていた。
「はい、当店で扱った商品に間違いありません。このベルトは、一昨日の午後、お買い上げいただいたものです」
店員は自信を持ってこたえた。販売後二日しか経っていないので、記憶もはっきりしている。
一昨日といえば、八月二十九日。殺人の前日だ。
特価品売り場の、レジを照合した結果もそのとおりだった。千五百円の男物のベルトは、二十九日の十三時三十二分に売られていることが確定された。
しかも店員は、買い上げて行った客の風貌を、しかと覚えていたのである。店員は刑事の質問にこたえて言った。
「年齢は三十代半ば、いえ、四十歳ぐらいだったでしょうか。ええ、背は高くなかったですよ。中背の男性でした」
だが、この男は、茶のブルゾンではなかった。
八月だというのに、きちんとネクタイを結び、見るからに仕立てのいいスーツを着た紳士だったという。
その高級なスーツに、特価品のベルトが不釣合だったことも、店員に客を記憶させる遠因となった。
この男が真犯人《ほんぼし》なら、(すでに捜査会議でも話に出たように)安物のベルトは、飽くまでも凶器として、購入されたことになろうか。
この聞き込みは、貴重だった。単に、販売元発見以上の、大きい意味を持っている。
その一つは、中背の男が、殺人を急報した二人のOL以外の人間によっても目撃されているということである。
そして、肝心なのは、それが、目下のところの第一容疑者、浦上伸介とは別人であるということだった。
すなわち、高級スーツの男が、千舟町にある大手スーパーの特価品売り場へやってきた時間(二十九日午後一時三十二分)、浦上は、まだ松山へは到着していなかったからである。
一昨日の午後、浦上が『週刊広場』の企画会議に出席していたことは、今朝方、青木副編集長にかけた電話で、他でもない矢島部長刑事自身が確認している。
スーパーストアに現われた男は、浦上ではない。それが、署長が浦上の釈放≠指示した最大の要因であるが、しかし、件《くだん》の男が真犯人《ほんぼし》であるなら、浦上と、何らかのかかわりを持つ可能性はあるだろう。浦上の名前と指紋を、現場に残していったのだから。
「明朝にでも、もっと詳しいことを伺《うかが》いたいのですが、予定どおり、高知へ向かうつもりですか」
「とんでもない」
浦上は言下に否定した。
「いまも言ったでしょう。刑事さんの前ですが、ぼくなりに、事件を追及しないわけにはいきません。この宇和島もそうですが、高知と高松の取材は、だれかに代わってもらいます」
浦上は、自分自身に言い聞かせるような口調になっていた。
万一、細波編集長の反対に遇ったとしても、明日は松山へ引き返してやる。浦上はそう思った。
そして、それは、矢島部長刑事にとっても都合のいいことだった。
こうして、奇妙な被疑者≠ニ刑事は、この場はいったん別れた。
*
浦上は宇和島西署を出ると、小走りに、『ニュー宇和島ホテル』へ戻った。
一刻も早く、淡路警部にお礼の電話をかけ、そして『週刊広場』へ、異常事態の報告をしなければならない。
浦上はホテルの狭いロビーを通った。
フロントに立って、キーを求めると、
「あ、ちょうどいま、お電話が入っています」
と、女性の従業員が言った。
電話は横浜からだった。宇和島西署へかけ、浦上がホテルへ引き返したと知ってかけ直してきたのは、親しい先輩、谷田実憲だった。
受話器を取ると、
「おい、何が起こった?」
いきなり、持ち前の大きい声が飛び込んできた。
記者クラブを、そろそろ引き上げようとしているところへ、淡路警部からの連絡が入ったのだという。
「留置されかけたとは、穏《おだ》やかじゃない」
「淡路警部のお陰で、助かりましたよ」
「昨夕のレンタカーの殺人《ころし》は、警部から聞いた。被害者《がいしや》が横浜のマンションに住んでいたとあっては、オレも指をくわえているわけにはいかない」
「警部にお礼を言わなければなりません。警部、今夜はまだ本部にいるそうですね」
「会議は長引くらしい。電話は、明朝のほうがいいんじゃないかな」
と、谷田は言い、淡路警部の伝言を仲介してくれた。
「きみの件で松山南署から電話を受けた淡路警部は、この事件に本腰を入れて取り組むと言ってたぞ。もちろん、オレもそのつもりだ」
谷田の口調はいつものように乱暴だが、言外に、先輩としての思いやりがにじんでいるのを浦上は感じた。
「先輩、ご心配をかけました」
浦上は心からの感謝を述べた。受話器に向かって、思わず頭を下げていたほどである。
そして、明朝、松山南署の捜査本部へ出向くことを伝えると、
「作戦を立てるのは、警察《さつ》の動向を、しっかり把握してからだね」
と、谷田は言い、
「それにしても、序盤の駒組みも何もあったものではないな」
と、二人の共通の趣味である将棋用語を、口にした。
浦上と谷田の間では、何かというと将棋用語の飛び交うことが多い。聞き込みとか取材が順調なときもそうだし、逆に、推理が行き詰まったときもそうだ。
いまの場合は、もちろん、後者ということになる。
「先後《せんご》を決める振り駒もなしで、いつともなく、対局が始まっていたってことだな」
と、谷田はつづけた。
そう、確かに、気がついたら序盤を過ぎて中盤戦に突入という、不可思議な一局を戦わされていたわけである。
だが、嫌でも盤に向かわされてしまった以上、見えない罠を仕掛けてきた相手を、投了に追い込まなければならない。
「ベールの向こう側で息を潜めているそいつは、一体だれなんだろう」
「何の目的かは分かりませんが、物証として王将駒まで用意してあるとは、ぼくの一面を、少しは知っている人間でしょうね」
「少しなんてものではないかもしれないぞ。ともかく明日、オレはできるだけ早く、記者クラブへ出ている。連絡を待ってるぞ」
谷田はそう言って、電話を切った。
*
浦上はいったん部屋へ入った。シングルルームは四階だった。
今日は木曜日だ。『週刊広場』は毎週木曜が校了日なので、編集部は夜が遅い。
電話を急ぐ必要はなかった。浦上はシャワーを浴び、頭を冷やしてから、ゼロ発信で、東京の神田へかけた。
今頃、細波編集長は、ゲラに赤字を入れながら、例の甲高い声で、あれこれ、編集者たちに檄《げき》を飛ばしている最中だろう。
(かっかしていないと、いいんだがな)
浦上はそう念じながら、編集長を呼んでもらった。
編集長は、待っていたように、電話口に出た。
「浦上ちゃん、困るよ。連絡が遅かったじゃないか。校正が一段落したら、ぼくのほうから、ニュー宇和島ホテルへ、電話を入れようと考えていたところだ」
甲高い声は相変わらずだが、編集長の機嫌は悪くなかった。
編集長は、今朝方青木副編集長の自宅へ問い合わせてきた、松山南署の電話を自分のほうから口にし、
「どうなっているのかね」
と、畳みかけてきた。
浦上がこれまでの経緯を説明し、
「ぼく自身、宇和島へ到着するまでは、刑事に張り込まれているなんて、夢にも思いませんでしたよ」
と、いまだに未整理な状態であることを告げると、
「何だか知らないが、浦上ちゃんが殺人《ころし》の第一容疑者とは面白い」
編集長は勝手な笑声を立てた。
浦上の立場を、谷田と同じように思いやってくれてはいるのだろうが、職業意識というべきか、誌面構成のほうが明らかに先行しているのである。細波編集長は、そういう人間だった。
「浦上ちゃん、こいつは、夜の事件レポートにぴったりじゃないか。どうだい、主人公は殺された美女と同時に、レポーターの浦上伸介でいこう。レポーターが主人公というのが、ユニークだ。一人称で、私小説ふうにまとめたら、間違いなく、ヒットすると思うよ」
と、甲高い声が早口になった。
「夜の事件レポート」は『週刊広場』の人気シリーズの一つで、元々が、事件小説的なタッチで仕上げるところに特徴があった。
「浦上ちゃん、きみは、やっぱ事件物の取材が似合っているってことだよ。そうだろ、せっかく城下町の取材で出かけたのに、事件が向こうから飛び込んできたのだからね」
と、つづける編集長は、とうに、取材記者の交替を即断していたようである。
浦上が、それでも念を押そうとするのを、編集長は制した。
「言うまでもないことさ。バカンス追跡のほうは、青木君と相談してピンチヒッターを送る。浦上ちゃんは、松山南署の捜査本部に食らいつくんだな」
「ありがとうございます」
「今度の夜の事件レポートは、浦上伸介のでっかい署名入りでいこう。それこそ逆立ちしたって、他誌には決して真似《まね》のできないレポートだ」
編集長は、転がり込んできた企画に、すっかりご機嫌になっている。
いい気なものだった。
さらに、細かい二、三の指示があって、電話は終わった。
*
松山南署の矢島部長刑事と、同行の若い刑事を乗せた最終の上り急行は、宇和島の町を出外れ、険しくカーブする上り勾配に差しかかっていた。
みかんの段々畑が、暗い影となって、夜の底に沈んでいる。切り立った、崖のような段々畑もあった。
宇和島発二十時三十一分、松山着二十二時三十八分のうわじま8号=B
まだ午後九時前なのであるが、峠を越えて行く沿線は、夜の底という形容がぴったりだ。人家の灯はすぐ遠くなり、ただ、影のような段々畑だけがつづく。
「主任、疲れたでしょう」
若い刑事が、空いた車内で話しかけると、
「確かに、こういう訳の分からない事件《やま》は、しんどいね」
ベテランはごっつい顔に苦笑いを浮かべ、
「しかし、千舟町のスーパーでベルトを買った男が、別人と判明しても、それだけで、浦上なるルポライターの容疑が、きれいに晴れるってものではない」
と、話を戻した。
「凶器を準備した男と、殺人《ころし》を実行した男が別人というケースは、これまでにもなかったわけじゃないぞ」
矢島は自分に言い聞かせるような口調になり、
「あの美人のホトケさんと、浦上という男の間に、本当に接点はないのかね」
と、つぶやいていた。
それは、ベテランが、本能的に抱く疑問だった。
接点が水面下のものであるなら、当の浦上伸介自身が、それと気付かないままに、殺された高橋美津枝に関連してくるということもあるだろう。
「そうですね。それも考えられますね」
若い刑事も同意した。
そうした疑問に、あるいは解決の糸口を与えるかもしれない報告が、松山南署の捜査本部に入ったのは、急行うわじま8号≠ェ、最初の停車駅|伊予吉田《いよよしだ》に到着する頃だった。
*
電話は、一日の捜査結果を総括する会議が、間もなく終わろうとするところへかかってきた。横浜へ出張した捜査員からだった。
今朝、松山発十時三十分のL特急しおかぜ8号≠ナ横浜へ向かった二人の刑事は、岡山から新幹線ひかり6号≠ノ乗り、新大阪でひかり348号≠ノ乗り換えて、新横浜駅へは十七時三十四分に着いた。
その足で、神奈川県警捜査一課に淡路警部を訪ねると、高知県警の入手した情報が先着していた。高橋美津枝の実兄一夫から聞き出した、美津枝の勤務先である。
二人の刑事は、早速、東京都大田区|蒲田《かまた》本町にある『伊東建設』へ向かった。
横浜からの報告電話は、その『伊東建設』の、聞き込み結果を伝えるものだった。
二人の刑事が、JR蒲田駅近くの『伊東建設』に立ち寄ったのは、午後七時過ぎであったが、これも月末≠ェ幸いした。
『伊東建設』は、社員七十名足らずの中小企業だった。中小企業の月末は多忙だ。『伊東建設』は、普通なら午後五時半終業なのに、今夜は、ほとんど全社員が、残業に追われていたのである。
「報告が遅れたのは、関係者の手がすくのを待っていたためです」
と、刑事は最初に言った。
捜査本部では、刑事課長が電話を受けていた。
「分かった。本題に入ってくれ」
刑事課長はメモ用紙を広げ、ボールペンを持ち直した。
「伊東建設というのは、空港や道路などの地盤を作る大手建設会社の下請けです」
と、刑事は報告をつづけた。
「高橋美津枝さんが配属されていたのは、総務課です。ええ、就職情報誌による応募だったそうです」
入社に際しての保証人は、土佐山田に住む兄の一夫だから、『井田マンション』の場合と同じだった。
と、いうのは、美津枝は、大阪暮らしは長かったが、横浜、あるいは東京周辺に、親しい知人はいなかったということだろうか。
「問題はそこなんです。紹介者もなく、いわば飛び込みで入社して、まだ三ヵ月しか経っていません」
だから、机を並べている同僚にしても、詳しいことは分かっていない、と、刑事はこたえた。
「美津枝さんは、美人だけど身の上を語ることの少ない、暗い性格だったようです」
「そうかな。明るくて、人なつこく、前向きな女性だったという聞き込みもあるのだけどね」
と、刑事課長は、夕方美津枝の遺体を引き取って行った、長兄一夫の話を口にした。
実兄が、妹の人柄について、うそをついているとは思えない。一方、同僚にしても、事実と異なったことを、刑事にこたえる必要はないだろう。
と、すると、美津枝は、高知から大阪≠経て横浜≠ヨくる間に、人間が変わってしまったことになる。
「殺人《ころし》の背景が、その辺りにあるのは間違いないね。陰にいるであろう男の、動きを知りたい」
と、刑事課長が言うと、
「入社以来、いつも沈み勝ちだった美津枝さんなのに、今回総務課長に休暇を申し出たときは、別人かと思えるほどに、明るい微笑を見せていたという話です」
と、刑事は報告をつづけた。
休暇願いは、八月二十九、三十、三十一日の三日間である。土佐山田の実家へ帰るというのが、表向きの理由だった。
だが、美津枝は、実家には一切連絡を取っていない。
同じ四国でも、土佐山田とは方向違いの松山で、レンタカーを借りているのである。
美津枝が、総務課長に示した明るさが本物なら、彼女は松山で落ち合うことになっていた男≠ノ、希《のぞ》みを託していたということだろう。
美津枝が、実兄の一夫たちに、結婚を匂わせたのは、二年前だ。松山で落ち合った男がその相手であり、二年ぶりでの夢の実現≠ェ、美津枝が誘い出された口実であったのかもしれない。
男が黒い網を張っているとも知らず、美津枝は口実を信じてしまったのだろう。だからこそ、総務課長に休暇を申し出るときの表情が、思わず知らず和んでいたのに違いない。
「その相手ですが、伊東建設で、一人だけ男が浮かんできました」
電話を伝わってくる刑事の口調が、緊張したものに変わった。それこそが、第一日目の報告の、ポイントだったのである。
「いまも言いましたように、美津枝さんは二十九日の火曜日から、会社を休んでいるわけですが、その二十九日の午前、美津枝さんあてに一本、男性から私用の電話が入りました」
「男性? しかし彼女が休んでいるのに会社へ電話をかけてきたというのでは、違うんじゃないか。松山で網を張っていた男なら、彼女の旅程を承知していなければならない」
「電話を受けた同僚の話では、男は、美津枝さんが午前中は出勤し、午後から三十一日まで休暇を取ることは知っている、と、そんな口振りだったと言います」
「電話をかけてきた目的は何だ」
「どうも、話の印象では、待ち合わせ場所を打ち合わせるための電話だったとか」
「四国で落ち合う場所のことかね。きみ、それが、松山へ現われた男だというのか」
「電話を受けた同僚は、美津枝さんが絞殺されたことを知ったとき、瞬間的にその男を思い出したと言っています」
「男の名前は、控えてあるのかね」
「高橋美津枝さんが、朝から休暇を取っているのなら結構です。男は最初はそう言い、自分を名乗ることを渋って電話を切ろうとしたそうですが」
「結局は、こたえたというのかね」
「小声で、ウラガミ、と告げたそうです」
「浦上?」
「どちらの浦上さんですか、と、尋ねると、電話は高橋さんの自宅マンションへかけ直すから結構ですと言ったとか。それでもなお、その女子社員が繰り返し質問すると、週刊誌の浦上と言えば分かるとこたえたそうです」
「週刊広場とは言わなかったのかね」
「あるいは、その同僚が聞き漏らしたのかもしれませんが、週刊誌ということばははっきり耳にしています。高橋さんはジャーナリストに知人がいるのか、と、その同僚はびっくりしたと言っています」
「二十九日の午前中と言えば、浦上はまだ東京にいたわけだな」
刑事課長は、横浜からの報告電話が終えたとき、そんなつぶやきを口にしていた。浦上が都内からかけた電話なら、問い合わせの内容から言っても、話の筋は通ってこよう。
「その電話の男が、本当に浦上なら、話はまたこんがらがってくる」
と、捜査一課長が腕を組むと、
「浦上が真犯人《ほんぼし》なら、一昨日のその時点で、すでに松山を犯行場所とする殺人《ころし》を意図していたわけだろ。いくら繰り返し尋ねられたからといって、本名を名乗ったりするかね」
と、署長が疑問を呈し、別の刑事が、こうつぶやいた。
「電話なら、姿を見られませんし、証拠も残りません。で、うっかり口走ってしまうってことも、あるのではないでしょうか」
*
いずれにしても、急行うわじま8号℃ヤ中での矢島部長刑事と若い刑事の対話も、新情報を踏まえての捜査本部の分析も、浦上伸介本人とは掛け離れた場所での追跡に過ぎない。
浦上は松山の捜査本部から、JRの営業距離にして九六・九キロ離れた宇和島のホテルにいる。
いまさら、夜の町へ出る気にもなれず、浦上は、独り、ルームサービスの水割りを飲んでいる。
釈然としない状況で飲むウイスキーは、一向に酔いを運んでこなかった。
3章 土讃本線経由の帰京
翌九月一日、金曜日。
浦上伸介は、早起きして『ニュー宇和島ホテル』をチェックアウト。朝食は宇和島駅で買った六百二十円の闘牛弁当で済ませ、九時二十六分着のL特急いしづち6号≠ナ、松山へ引き返してきた。
松山も宇和島同様よく晴れていたが、日差しはすでに秋のものだった。しのぎ易いのは、風が出ているせいでもあろうか。
浦上はタクシーを飛ばして、松山港に近い南署へ入った。
設置された直後の捜査本部への出入りなんてものは、記者クラブ所属の新聞記者でなければ、まず、絶対に不可能だが、いまは立場が違う。
一階の受付に『週刊広場』特派記者の名刺を差し出すと、三階の捜査本部に直通電話がかけられ、すぐに、矢島部長刑事のごっつい顔が、小走りに、左手奥の階段を下りてきた。
三階の大会議室では、朝の捜査会議が終わったところだった。
浦上はいったん、その捜査本部に通されたが、
「ここでは落ち着かないだろう」
という署長の指示で、一階の署長室へ移った。
署長室へは刑事課長が同行し、矢島部長刑事と、矢島とコンビを組む若い刑事も後につづいた。
部屋の正面に、瀬戸内海の大きい風景写真が飾られてあった。
四人は中央の応接セットに、腰を下ろした。低いテーブルを挟んで、浦上の前のソファには刑事課長と矢島が座り、若い刑事は浦上の横で、記録を取るための、ボールペンを持った。
殺風景な取調室でこそないが、調書を取られているのと同じことだった。浦上は嫌な気がしたけれど、仕様がない。
女子職員がお茶を運んできたところで、矢島部長刑事が質問の口火を切った。
「最初にもう一度尋ねるが、あんたは本当に、高橋美津枝さんという被害者を知らないのかね」
昨日とは違って、物腰が柔らかくなっているのは、淡路警部が仲に立ってくれたせいだろう。
矢島は横浜へ出張した捜査員の、『伊東建設』での昨夜の聞き込み結果を、先に言った。
「何ですって? ぼくはそんな建設会社など電話をかけたこともなければ、聞いたこともありません」
浦上は強く否定して、一点を見た。本当にその電話の男は「浦上」と名乗り、週刊誌と言ったのか。
「電話を受けた女子社員が、うそをついているとは思えません」
と、矢島はつづけた。
「まったく関係のない同僚が、そんなことでうそをつく必要もないでしょう」
「すると、男の声で電話があったのも事実で、男が浦上とこたえたのも事実ですか」
浦上は顔を上げた。
男は、一度渋ってから「浦上」の名前を口に出したというが、言い渋ったのは、計算してのことだったろう。
素直にこたえるよりも、一度言いよどむほうが印象付けられるし、「浦上」にリアリティーを与えることにもなる。
もう間違いない。
「昨日、突然指紋など採られたときは、まだしも、一方にまさかという気持ちがありました。しかし、これは明らかに罠ですね。だれかが、意図的に、ぼくを殺人犯に仕立てようとしているのに違いありません」
と、浦上が語気を強めると、
「昨夜、宇和島でも言いましたが、それはあんたを信用すればの話です」
矢島はそう言いかけてことばを切り、
「あんたを信用するためには、犯人を指摘してもらわなければならないでしょうな」
と、浦上を見た。
「そう、これほど手が込んだことをする相手なら、必ず、心当たりがあるはずです」
と、刑事課長もことばを重ねた。
浦上にしたって、事態を客観視すれば、そいつがだれなのか、見当がつかなければおかしいと考える。だが、どうしても、思い浮かばないのだ。
浦上は、またある一点を見詰めた。
人間、三十二年も生きていれば、自分ではそれと気付かないままに、人の恨みを買っていることもあるだろう。
しかし、だったら直接仕返ししてきたらどうなのか。
刑事課長の言ではないが、なぜ、これほど手が込んだことをするのか。浦上は、自分の中でそうつぶやきかけて、ふと気付いた。
(これは、こっちの取材スケジュールに犯行を合わせることだけが、目的だったのかもしれないぞ)
浦上の、脳裏をかすめたのが、それだった。ともあれ別人が実行犯として逮捕されてしまえば、真犯人《ほんぼし》は安泰である。
真犯人《ほんぼし》の意図がそこにあり、怨恨とか復讐などの線が皆無だったとしたら、これは、浦上に心当たりがないのは当然だ。
そして、事実がそのとおりなら、動機などの面で確たるつながりを持たない一人のXを抽出するのは、容易なことではないだろう。
ルポライターという職業上、浦上は数多くの人間に接している。交換した名刺だって、千枚ではきかないはずだ。
浦上がその思い付きを口にし、
「もしかしたら、ぼくは交通事故に遇ったようなものかもしれません」
と、刑事課長と矢島に目を向けると、
「浦上さん、あんた、松山にお知り合いはいませんか」
と、矢島が口調を改めた。
矢島が遠回しに触れたのは、千舟町のスーパーで、凶器となる特価品のベルトを買った男のことだった。
「ぼくと同じくらいの背格好で、四十前後。高級なスーツを着ている男ですか」
浦上は矢島の質問をオウム返しにつぶやいて、首をひねった。
そんな男に心当たりなどないし、第一、松山に知人は一人もいない。
「その高級スーツの男を、捜査本部でマークしているのですか」
「いまのところは、何とも言えません。いずれ、淡路警部には連絡することになるでしょう。その折、警部から聞いていただきましょうか」
と、これは刑事課長がこたえた。
そして、
「飽くまでも任意ですがね」
と、断わられた上ではあるが、浦上は身上を調査された。
これまた、拒否するわけにはいかなかった。浦上は、一つ一つ質問にこたえた。
「ほう、すると浦上さん、あんたは結婚もしていなければ、親兄弟もいない。失礼だが、天涯孤独、ということですか」
刑事課長は、若い刑事が書き出したメモを確認して、声を低くした。
質疑はさらにつづき、浦上も取材帳を手にして質問をぶつけてみたが、目下のところ、ポイントは、二人のOLによって目撃されたブルゾンの男に尽きるようである。
(ぼくの質疑にこれだけ時間をかけるようでは、捜査は進展していないな)
それが、浦上のルポライターとしての実感だった。
「浦上さん、これからどうします? 城下町の取材は中止されたそうですから、いったん東京へ帰りますか」
「そうなるでしょうね」
「分かりました。では、いつでも連絡がつくよう、所在をはっきりさせておいてください」
刑事課長は、その点を強く注意した。それが、浦上を拘束しない条件でもあった。
*
浦上がJR松山駅へ戻ったのは、午前十一時である。タクシーで犯行現場を一回りして、駅へ引き返した。
浦上は次の上り、岡山行きのL特急発車まで三十分あるのを確かめ、一息入れることにした。
浦上はスタンドでアメリカンコーヒーを求め、その紙コップ持参で、待合室右手の電話コーナーへ行った。
電話は、すぐに横浜へつながった。
谷田実憲は、昨夜の宣言どおり、すでに、県警記者クラブに出ていた。
「さっき捜査一課へ行って、淡路警部に改めて、礼を言っといたよ」
先輩は後輩を思いやり、
「警部へのあいさつは、こっちへ戻ってからでもいいだろう」
とも言い添えてくれた。
「で、いつ帰ってくるんだ」
「ええ、これ以上、松山に逗留《とうりゆう》する意味はなさそうです」
浦上は松山南署でのやりとりを報告し、刑事課長や、矢島部長刑事から得た感触を言った。
取材先は、短期間とはいえ、被害者高橋美津枝が暮らしていた横浜。そして、浦上自身の生活圏であり、美津枝の勤務先があった東京から着手することになろう。
真犯人《ほんぼし》は東京周辺に潜んでいる。それが、矢島部長刑事たちと話し合っているときに得た浦上の直観だった。
「そうだねえ」
谷田も同意した。
「旅行者のきみを犯人に仕立てようとしたり、レンタカーを借りているところから見ても、松山は、単に、犯行現場に過ぎない感じだね」
「十一時三十分発の、岡山《おかやま》行きのL特急しおかぜ10号≠ニいうのがあります。これを利用すれば、岡山から新幹線に乗り換えて、午後七時前に新横浜《しんよこはま》へ着くはずです」
「じゃ、今夜は横浜で一杯やれるな。淡路警部にも連絡をつけておこうか」
谷田はそう言いかけて、
「いや、せっかく四国にいるのなら、土佐山田へ寄ってくるべきだね」
と、口調を改めた。
谷田の指摘は、殺された美津枝の、生家取材だった。
「オレは、オレなりに整理してみたのだが、これは両面作戦でいくしかあるまい」
と、谷田は言った。
「無論、一つはきみの周辺だ。いわば浦上サイドの人間で、だれなら、この罠を仕掛けられるか、ということだな」
「何度も言いますが、それがさっぱり見当つかないのですよ」
「いずれにしても、犯人《ほし》がきみの周囲にいる人間であることは間違いない」
「いまも松山南署で話し合ったのですが、ぼく、これほどのことをされる怨恨の線は、どうしても思い浮かんできません」
「トリックが何であるのか知らんが、きみの指紋を入手して、殺人現場へ残してきた男だぞ。犯行時、きみとそっくりな、茶のブルゾンを着ていたというのも、気に入らないね」
「犯人《ほし》は、それだけぼくを観察していたってことですか」
「ともかく、きみの取材スケジュールを正確に把握しているのだから、犯人《ほし》は、それほど隔たった場所にいる人間じゃない」
「そう言われてもですね」
浦上は紙コップのコーヒーを飲んだ。
一瞬の沈黙の後で、谷田がつづけた。
「両面作戦のもう一方は、当然ながら、被害者《がいしや》の追及だ。高橋美津枝という美女を絞り込んで、殺されるような何があったのか、彼女の生活を、徹底的に洗い出すんだな」
「彼女の実家は、龍河洞で、みやげもの屋を兼ねた食堂を開いています」
浦上はコーヒーを飲み干すと、取材帳の走り書きを確認して言った。
都会暮らしが長かった女性であるなら、生まれ故郷は、今回の事件でそれほどの重さを持っていないかもしれない。
男が絡んでいるのは、明白だ。事件の発端は、美津枝の都会生活の中にあると見るのが、常識だろう。
しかし、生家を訪ねれば、何かのヒントは得られるかもしれない。
確かに、谷田が言うように、「せっかく四国にいる」のだから、素通りという手はなさそうだ。
それに、浦上の立場は、刑事とは違うのである。刑事の最終目的は犯人検挙だが、浦上はルポライターだ。浦上は、「夜の事件レポート」をまとめなければならない。
原稿にふくらみを持たせるためにも、家族に会うのは意味のないことではないだろう。
「そうですね。では、帰路を変更して、土讃本線に乗ってきます」
と、浦上がうなずくと、
「土讃本線は、吉野川《よしのがわ》上流の、名勝を通るのだろ。オレも行ってみたいよ」
谷田は、例によって羨《うらやま》しそうな声を出したが、すぐに言い直した。
「だが、今回のきみは、いつもとは立場が違うな。のんびり景観に浸っているわけにもいかないか」
「そうです。何せぼくは、殺人《ころし》の容疑者ですからね」
浦上は冗談ともつかずに言って、電話を切った。
*
浦上は、何とも複雑な気持ちで、松山を離れた。
五両連結のL特急は、それほど込んでいなかった。
瀬戸内海に沿って走る予讃本線は、JR四国の基幹路線だ。四国の中心都市である松山市と高松市を、L特急いしづち≠ェ、二時間四十七分で結んでいる。
しかし、いま、浦上を乗せたL特急しおかぜ10号≠ヘ岡山行きなので、高松へは行かない。宇多津から方向を変え、瀬戸大橋を渡ることになる。
気動車は今治《いまばり》、伊予西条《いよさいじよう》、新居浜《にいはま》と過ぎて、車窓左手に瀬戸内海がつづく。晴れ渡った空と同じような蒼い海に、点々と小島が浮かんでいる。
伊予三島へ来ると、海側に広大な敷地を取る大工場があった。『大王製紙』だ。
巨大な製紙工場が車窓から消えると、風景はまた海になった。
いつもは湖のように静かな内海だが、わずかに白い波が見えるのは、朝から風が出ているせいだろう。
宇和島の海とは違うが、内海も、見飽きることのない眺めだった。
沖を行き交う小舟に目を向けて、ぼんやりたばこをくゆらしていると、列車は豊浜を過ぎて、しばらく内海が遠くなった。
そして、ふたたび蒼い海が見えてくると、乗り換え駅の多度津だった。
四分の待ち合わせで、十三時四十四分発の高知行き、南風5号≠ェ、低いホームに入ってきた。
土讃本線のL特急も五両連結である。やはり、空いた車内だった。
四国山脈を越えて土佐に至る土讃本線は、内海を見て走った予讃本線とは対照的に、山地を縫《ぬ》って行く単線鉄道だ。
多度津―琴平《ことひら》間は電化されているものの、讃岐平野を過ぎて、一度山間に入ると、厳しい自然と戦っているかのような険路の連続となる。
地形が険しいから、風景が人々を惹きつけるのである。浦上は脚を組み、じっと車窓に目を向けた。
山が迫り、沿線両側の木の枝が、車体に触れそうなカーブがつづく。そして、猪《い》ノ鼻《はな》峠の勾配を過ぎると列車は下り始め、前方に、吉野川の上流が見えてくる。
当初の予定では、宇和島から高知を経由して戻ってくるはずだったルートを、浦上は逆に進行しているわけだ。
鉄橋が近付くと、眼下の吉野川沿いに、別の鉄道が見えた。徳島―阿波池田間七十四キロを結ぶ徳島本線だ。
もう、何年前になるか、浦上は、やはり殺人事件の取材で、一度だけ、二両連結の、徳島本線の普通車に乗ったことがある。本線と言っても、支線があるわけではなかった。
全線が、吉野川の流域を、東西にまっすぐ走っているのである。川の沿岸をたどるのだから、途中に峠などあるわけもなく、始点から終点まで片勾配という、全国でも珍しい路線だったのを覚えている。
土讃本線が、その徳島本線と合流するのが佃《つくだ》であり、佃の次がL特急の停車駅で、吉野川上流の中心、阿波池田となる。野球の池田高校などで知られる池田は、人口二万を数え、沿線ではもっとも大きな町である。
山峡をやってきただけに、ふいに大都会が出現したような、そんな印象を与える町だった。
その阿波池田駅を過ぎると、土讃本線も吉野川も左に折れ、上流に向かうに連れて、吉野川の川幅が狭くなる。
吉野川を挟んで鉄路と平行しているのが、国道32号線だ。
吉野川の深い渓谷に沿って、カーブしながらいくつものトンネルを抜けて行く勾配は、列車にしても、自動車にとっても、相当な難コースと言える。
やがて、浦上を乗せた南風5号≠ヘ、小歩危《こぼけ》駅を通過し、渓谷にかかる高い鉄橋を渡って、大歩危《おおぼけ》駅に着いた。
ホーム越しに大歩危を見下ろす山峡の駅は、まるで、斜面に張り付くような場所に建っていた。
南風5号≠ヘ、数人の客を降ろしただけで、小さなホームを離れた。
進行方向右下に、ずっと渓流が見え隠れしている。
四国山地をえぐる峡谷の奇観は、結晶岩石の水蝕によってできたものであり、眺めは、やはり抜群だった。
コバルトブルーの水面と、白い岩肌の見事な対比を見下ろしていると、ひんやりとした冷気が気動車内にも感じられてくるほどだった。山の緑も、さわやかだ。
谷田はさっきの電話で、
「いつもとは立場が違うな。のんびり景観に浸っているわけにもいかないか」
と、言ったが、浦上は、思わず我を忘れて身を乗り出していた。
線路から谷底までの距離はそれほどでもないが、周囲を取り巻く山々が壮観だ。山脈《やまなみ》を見上げると、それこそ首が痛くなるほどである。頂上は、天まで届くのではないかと思われるほどだった。
驚くのは、そうした高い山の中腹にも、時折人家が見えることだった。
L特急は、大歩危を発車すると、途中、大杉に停車しただけで、土佐山田に着いた。予定どおりの進行で、十五時三十八分の到着だった。
土佐山田も小さい駅である。小さいが、駅舎や、駅周辺が明るく感じられるのは、山地を抜けてきたせいだろう。
駅前に、今朝出発してきた宇和島駅と同じような高い棕櫚《しゆろ》の木があり、棕櫚の木の下に、いかにも人待ち顔のタクシーがとまっていた。
土佐山田には、えびす街などの、にぎやかな商店街があった。浦上を乗せたタクシーは、大きい家具店とか消防署のある通りを走って、畑の中へ抜けた。
タクシーが、龍河洞ふもとの広い駐車場に着いたのは、四時近かった。
平日の夕方とあって、鍾乳洞見物の団体客を乗せた大型観光バスが、次々と、駐車場から帰って行く時間だった。
駐車場から鍾乳洞探勝口にかけて、びっしりと立ち並ぶ食堂とかみやげもの店の客足も、少なくなっている。
サンゴ専門店、土佐打刃物店などの看板も見え、赤くカラー舗装された二百メートルほどの上り坂は、一部アーケードになっていた。
駐車場に近い『高橋食堂』は、すぐに分かった。
一階のみやげもの売り場は店を閉め、二階の食堂が来客のための設営を進めていたけれど、『高橋食堂』だけが、隣接する他の店とは、人の動きが違っていた。
訪れる人の大半が、弔問客だったためである。
突然の、整理のつかない哀しみの中で、遺族は仮通夜の準備に追われていた。
*
「何で、あなたが、ここへお見えになったのですか」
高橋美津枝の実兄一夫は、『週刊広場』特派記者浦上伸介の名刺を受け取ると、思わず、浦上の顔を見返していた。
「あなたのお名前は、昨日、松山の捜査本部で聞きました。ここへは、松山から回ってきたのですか」
一夫は一方的に言った。
一夫は土地の人間らしい純朴な感じだが、背は高く、顔立ちが整っている。殺された美津枝の、美貌を連想させる顔だった。
しかし、その顔に、不審が広がっているのを、浦上は見た。
それも当然だろう、一夫は松山南署の捜査本部で、「浦上伸介」の名前を、容疑者の一人として聞かされたのだ。
「浦上さん、あなたは美津枝とどういう関係だったのですか。いつからの、おつきあいですか」
一夫のほうから問いかけてきた。
浦上がその実兄を納得させるには、少なからぬ時間が必要だった。
「ぼくは、妹さんにお会いしたこともなければ、名前も存じ上げません。実は、ぼくも被害者です」
浦上は取材帳を開き、順序を立てて自分の立場を話した。
一夫の表情が、話を聞いているうちに少しずつ変わってきた。
それまでは外階段の、踊り場での立ち話だったのだが、
「ま、お上がりになって、お茶でも飲んでください」
と、一夫が折れたのは、浦上の釈明というか説明と、浦上の人柄からくる誠意を、それなりに汲み取ってのことのようだった。
浦上は、大勢の人々が出入りする二階へ上がった。
古い食堂は畳敷きだった。三十畳ほどの広さだろうか。
正面に祭壇ができており、美津枝の顔写真が飾られてあった。笑みを浮かべた、長い髪の写真である。
なるほど、美人だった。
浦上は松山を離れたときと同じような、何とも複雑な思いで、祭壇に向かって両掌を合わせた。浦上がいま、南国の秘境と呼ばれる龍河洞のふもとで、こうして弔いの場を訪れたのも、すべて、訳の分からない罠のせいである。
美津枝は一昨日の夕方まで、浦上とはまったく関係がなかった女性だ。
このような奇妙なめぐりあわせがなければ、浦上は、あるいは一生、土佐山田という土地へ来ることもなかったであろう。
「刑事さんにも申し上げましたが、妹がどのような男性と交際していたのか、私はまったく知りません」
一夫がそう語ったのは、浦上の焼香が終えてからだった。
窓際に置かれた長テーブルで、浦上は改めて純朴な兄と向かい合ったが、美津枝の交際相手を全然知らないというのでは、質疑は、すでに終えたも同じだった。
それでも浦上は、松山南署で入手したわずかなデータを敷衍《ふえん》する形で、食い下がってみた。
「美津枝さんが、ご家族に向かって、初めて結婚を口にされたのは、二年前と聞きましたが」
「それは、そのとおりです。しかし、結納《ゆいのう》を交わすとか、どなたかに仲へ立っていただくというような話ではありませんでした」
相手がどこのだれと具体的な名前が上がったわけではない、と、一夫は言った。
「すると、結婚願望を、話したということですか」
「いずれ詳《くわ》しいことを報告できる、と言っておりましたので、単なる願望とは違うと思うのですが」
「好きな男性が現われれば、隠していても、美津枝さんのどこかに変化が生じたと思います。お兄さんの印象としては、どうでしたか」
「何せ、大阪へ出てからは、すっかり都会人になってしまいましてね、正直言って、美津枝の考え方が、田舎《いなか》暮らしの私らには、理解のできないところもありました」
「今回の横浜転居も、結婚が前提であることを、お兄さんたちに漏らしていたと聞きましたが」
「子供の頃から、都会生活への憧れが強かった妹でしてね。前向きというのでしょうか。しっかりした性格なので、私ら、妹を信じておりました」
一夫は、美津枝が大阪から横浜へ移ったことに関しても、正確な理由を聞いていなかった。
「美津枝も二十八歳でした。都会で独立して長いし、もう子供ではありません」
と、一夫は繰り返した。
最後に、浦上は、美津枝が三ヵ月前まで働いていた、大阪の会社の名を尋ねた。
輸入合板などを扱う、『不二通商』大阪支社だった。
聞いたような社名だが、確かな記憶がないのは、東証一部上場の商社ではないせいだろう。
結局、実家からは、男≠フ名前どころか、匂いさえ嗅ぐことができなかったわけである。
それが、消極的な意味では、実家を訪ねた収穫≠ニいうことになろうか。すなわち、美津枝のふるさとからは直接的な資料が得られなかったので、取材先が、都会に集中したということである。
横浜と東京、そして何よりの焦点が、大阪だ。
間もなく僧侶が姿を見せたので、浦上は立ち上がった。階段まで一夫に見送られて、『高橋食堂』を出た。
生家での実りが少なかったせいもあって、浦上は一刻も早く東京へ帰りたくなっていた。ここからなら、最も早い空路は高知だろう。高知空港からの飛行機に間に合うかどうか、浦上がバス停まできて、ショルダーバッグから時刻表を取り出すと、
「失礼ですが」
若い女性が話しかけてきた。
微《かす》かに、記憶があった。いま『高橋食堂』の二階で、浦上のすぐ近くにいた弔問客の一人だ。
若い女性は、美津枝の高校時代のクラスメートであると、自己紹介をした。すると二十八歳前後か。
菊池澄子《きくちすみこ》という名前だった。
美津枝のような際立った美貌とは違うが、さわやかな印象を与える、感じのいい女性だった。
ワンピースは黒地に白色のストライプで、襟《えり》を少し立てた着こなしが、都会ふうだった。そう、澄子も、大阪に就職しているのだと言った。
「取材の参考になるかどうか分かりませんが、美津枝に、深く愛し合う男の人がいたことは間違いありません」
と、澄子は浦上の顔を見た。瞳の大きな女性だった。
澄子は、浦上と一夫のやりとりを、ずっと小耳に挟《はさ》んでいたのだろう。それで、わざわざ追いかけてきてくれたのかと思ったが、それだけではなかった。
事件解決のため、取材に協力してくれる意味もあったけれど、澄子も、高知空港から大阪へ帰るところだという。
「あたし、事情があって、どうしても今夜大阪へ戻らなければならないので、お通夜もお葬式も失礼して、お焼香にだけ参りましたの」
と、澄子は言った。
行き先が同じ高知空港と分かって、地理不案内な浦上は、美津枝の取材を兼ねて、澄子に同行することにした。
「空港へは、土佐山田駅からJRで高知駅へ出て行くわけですね」
と、浦上が尋ねると、
「そんな遠回りしなくて、土佐山田駅からタクシーに乗ればいいのですけど、ここからバスが利用できますよ」
と、澄子はこたえた。
龍河洞からは、高知市内はりまや橋行きの路線バスが走っていた。バスは、高知空港を経由して行くルートもあるが、それは十六時十分発で終わっていた。
澄子と浦上は、龍河洞からバスで十五分ほどの野市まで出、野市乗り換えで高知空港へ向かうことにした。
龍河洞発十七時十分の最終バスだった。ついていなかった取材の最後に、ようやく光が差してきたという格好である。
しかし最終バスも、野市から乗り換えたバスも込んでおり、車内では、思うように話ができなかった。
*
その代わり、空港で待ち時間があった。
大阪へ引き返す澄子は、高知発十九時、大阪着十九時五十五分のANK424便≠フ予約を取ってあったが、東京へ帰る浦上のほうは、まだ搭乗券も買っていないわけだ。結局、十八時発の大阪経由便が駄目で、次の、十九時四十五分発のANA572便≠ワで待たなければならなかった。
澄子が利用する大阪行きの、搭乗案内の始まるまでが、話し合いの時となった。
浦上と澄子は、空港ロビーの二階にある小さいレストランに寄った。浦上はコーヒー、澄子はレモンティーを注文して、本題に入った。
澄子と、殺された美津枝は、ともに都会志向派だったので、高校時代から気が合っていたという。お互い、大阪に就職してからも、交流は保たれていた、と、澄子は言った。
「あたしとしては、確証がないので、美津枝のお兄さんに打ち明けるわけにはいきません。でも、美津枝の恋愛には、問題があったと思います」
澄子はそんな言い方をした。問題があるとは、不倫を意味するようだった。
「美津枝さんの愛人は、妻子ある男性だったってことですか」
「そうだったと思います。あたしがいくら尋ねても、美津枝は一度も違うとは言いませんでしたから」
「美津枝さんが家族に向かって、いわば結婚の意思表示をしたのが、二年前と聞いています。その妻子ある人と結婚するつもりだったのでしょうか」
「それが、よく分からないんです。彼女、肝心な点になると、ぼかしてしまうというか、気を持たせた言い方をするんです。高校時代からそうでした」
澄子は、レモンティーに口をつけた。
澄子は美津枝の相手の男性の、名前も年齢も、社会的な地位も聞かされてはいなかった。
浦上もコーヒーカップに手を伸ばし、
「菊池さん、あなたは、その男性が美津枝さん殺しに関係していると思いますか」
と、澄子をのぞき込むと、
「あたしよりも、浦上さんがそう考えていらっしゃるのではないですか」
と、澄子はこたえた。こたえてから、澄子は一瞬遠くを見るようにした。
そして、意外なことを言った。
「美津枝がつきあっていた男性は、もしかすると複数かもしれません」
「複数の男性? 美津枝さんが美人であることは承知しています。横浜へ移ってからは沈み勝ちだったようですが、本来は明るくて、社交的なタイプだったわけでしょう」
「そうですわ。高校時代から、男性にはもてもてでした」
「すると、あなたは、美津枝さんが交際していたであろう複数男性の中に、美津枝さんを殺した犯人がいると、お考えですか」
「浦上さん、あたしにも手伝わせてください。あたしなんかでは、お役に立てないかもしれませんが」
と、澄子は言った。
相手が刑事なら、澄子は、自分のほうから積極的に協力する姿勢は打ち出さなかったかもしれない。
しかし、一夫に対する浦上の態度を見ているうちに、単なる週刊誌記者とは違う信頼感を、抱いたようでもあった。
そう、澄子自身、浦上を追って『高橋食堂』の二階から下りてきた時点では、整理がついていなかったに違いないが、一緒にバスに乗り、こうして話し合っているうちに、親しみが定着したようだった。これが、相手が警察官では、いくら人柄の良さそうな刑事だったとしても、こうはいかないだろう。
「大阪へ帰って、あたし、できるだけのことをしてみます。何があったのか知りませんが、こんな殺され方をした美津枝がかわいそうでなりません」
「複数の男性がベールの陰にいるとしたら、三角関係の可能性もありってことですか」
「でも、どうして、美津枝が殺されなければならないのですか」
「ぼく、今夜はいったん東京へ帰りますが、すぐに出直して、大阪へ行きます」
浦上はそうつづけてから、美津枝が大阪の生活を切り上げた理由を知っているかどうか、澄子に尋ねた。
「不二通商を退社して、横浜にマンションを借りる話は、久し振りに道頓堀《どうとんぼり》で食事をしたときに、聞きました」
と、澄子はこたえた。
だが例によって、肝心なこととなると、美津枝は笑いに紛《まぎ》らすだけだったという。
「でも、横浜へ移って、今度こそちゃんとした結婚をする、と、そういう感じにあたしには見えました」
と、澄子は、道頓堀で食事をした三ヵ月前を思い起こすようにした。
横浜で結婚するというのは、美津枝が、土佐山田の家族にも、含みとして伝えていることだった。すると、美津枝の結婚相手は、最近、大阪から横浜へ移ったのだろうか。
美津枝は、あるいは、結婚までの腰掛けのつもりで、就職情報誌によって、蒲田の『伊東建設』に勤めたことになろうか。
浦上がそれを言うと、
「うん、そうかもしれないけど、新しく横浜の男性と愛し合うようになったのかもしれませんわ」
と、澄子はこたえた。
美津枝との長い交際で、澄子はそれなりの情報を掌握してはいたが、要点をぼかして話す美津枝の性癖ゆえに、データは一つのつながりを持たなかった。
それでもなお、浦上と澄子が検討をつづけようとしたとき、大阪行き搭乗案内のアナウンスが流れてきた。
澄子は立ち上がって、レモンティーの代金をテーブルに置こうとした。
「ぼくはもう少し、ここにいますから」
浦上はそんな言い方で、代金を引込ませた。
「では、ご馳走《ちそう》になります」
澄子はぴょこんと頭を下げた。素直な性格のようだった。
浦上と澄子は大阪での再会を約束し、改めて名刺交換をした。
お互い、名刺に自宅住所と電話番号を書き加えた。澄子の勤務先は天王寺《てんのうじ》区の製薬会社であり、住居は浪速《なにわ》区のマンションだった。
*
澄子より四十五分遅れて搭乗したのは、東京行きの最終便だった。
浦上を乗せたANA572便≠ヘ、予定どおり、午後九時に羽田空港へ着いた。
旅慣れている浦上も、さすがに疲れていた。
横浜の谷田の自宅と、『週刊広場』編集部へは羽田から簡単な報告電話を入れて、浦上はまっすぐ、中目黒《なかめぐろ》の自宅マンションへ帰った。
空港から蒲田駅までタクシーを使ったが、中目黒駅に着いたのは、午後十時前である。
浦上は、つくづく空路の便利さを思った。四国最西端の都市宇和島を起点として、これだけ四国の中を歩き回って、午後十時にならないうちに都心に入っている。
東横線中目黒駅に近い『セントラルマンション』。
九階建ての三階にある1DK、307号室が、シングルライフを楽しむ三十二歳の住居であり、仕事場だ。
全壁面を占める本棚、そして、ベッドとスチール製の大きい仕事机で、部屋はいっぱいだった。机の上にはファックス、ワープロなどが載っている。
浦上はファックスと留守番電話をチェックしたが、何も入っていなかった。
ブルゾンを脱ぎ、ショルダーバッグを壁に掛けると、冷蔵庫を開けて、カマンベールチーズを口にしながら、何はともあれ、ウイスキーの水割りを作った。
机に脚を投げ出して水割りを飲むと、ようやく一息入れることができた。
浦上は狭い室内を、何となく見回した。
随分《ずいぶん》長いこと旅行していたような気がするけれど、実際に外泊したのは、昨日と一昨日の二晩だけだ。
長く感じられるのは、もちろん、旅先での、何とも信じ難いアクシデントのせいである。
(犯人《ほし》はどこに潜んでいるんだ)
浦上はだれかに話しかけるようにつぶやき、一杯目は軽く飲み干して、二杯目の水割りを作った。
(複数の男性関係か)
そうつづけてグラスを見詰めると、水割りの向こう側に、高知空港で別れた澄子が見えてくる。
瞳の大きい澄子は、浦上の内面に、さわやかな印象を残している。澄子は、間違っても、複数の男性と同じ比重でつきあったりはしないだろう、と、浦上は考える。
美津枝と澄子は、どこで、道を違《たが》えてしまったのか。
高校時代は仲が良かったクラスメート。同じ土佐山田で育ち、同じように都会にあこがれて、大阪へ出た二人。
いつともなく別々な道を歩み始めた一方に、黒い、大きな穴が開いていたということになるのか。
澄子はさっき、美津枝のことを、
「新しく横浜の男性と愛し合うようになったのかもしれません」
と、言った。
無論、澄子が、あてずっぽうを口にするはずはない。そう言うからには、多少とも心当たりがあるのだろう。
それが、真実、新しい相手であるなら、同じように家族に結婚を匂わせても、二年前の話と、三ヵ月前の話は、まったくの別人を対象としていたことになる。
澄子が漏らした「問題があった」相手は、どちらなのか。あるいは、両方とも妻子持ちなのか。
そして、その二人が、すなわち二年前の男と、今回の男が、美津枝を頂点に据《す》えて三角関係を構成し、そこに殺意が醸成されたということも、十二分に考えられるだろう。
「すると、二年前のAか、今回のBか。A、B、どっちの男が、ぼくにかかわってくるんだ?」
浦上は水割りのグラスを握り締めて、見えない犯人に向かってつぶやく。
昨夜の、宇和島のホテルと同じことだった。いくらアルコールを入れても、今夜も酔えそうになかった。
一日中四国を歩き回って、体は疲れているのに、頭は冴え渡っている。
4章 広島宇品港からのルート
翌九月二日、土曜日。
浦上伸介は、地方取材のときと同じように早起きして、横浜へ行った。
谷田実憲も、早目に県警記者クラブへ出ていてくれた。
浦上が、谷田の後について捜査一課に寄ったのは、午前十時を回る頃だった。
朝の一課は、関係者の出入りが慌ただしい。淡路警部は、自分の机で、書類に目を通していた。
課長補佐席は大部屋の右手奥である。
浦上が机の前に直立して、
「このたびは、いろいろありがとうございました」
最敬礼すると、
「松山南署の署長から緊急電話が入ったときは、私もびっくりしたよ。まあ、掛けてください」
浅黒い顔の警部は、特徴のあるギョロリとした目で浦上と谷田を見、傍らのいすを二人に勧めた。そして、目を通していた書類を机の引出しに片付け、回転いすを回して、浦上と谷田に向かい合った。
警部は、これまでの経緯は、すべて承知していた。捜査過程は松山南署の捜査本部から連絡が届いていたし、浦上の立場と浦上の主張は、谷田から逐一報告が入っていたためである。
「浦上さん、提示されたデータをそのまま承認するなら、確かにあんたは、殺人犯としての立派な有資格者だ」
警部は、角張ったいかつい顔に笑みを浮かべ、さらに冗談めかして、こうつづけた。
「これだけ条件がそろっているのだから、後は動機だね。浦上さんと、絞殺された高橋美津枝さんの隠れた関係が明るみに出、動機の説明が付いてくれば、これはもう、動かしようがない。私だって、あんたを逮捕する」
「やめてくださいよ、警部」
浦上が苦り切った面持ちで抗議すると、
「仕掛けられた罠は、それほど完璧だってことなのでね」
警部は真顔に戻って、禁煙パイプをもてあそんだ。禁煙に踏み切った警部は、目下、悪戦苦闘中なのである。
警部は禁煙パイプをくわえ、しばらく考えるようにしてから、
「私としては、どうしても、物証を重視する」
重い口調になった。
「谷田さんと話し合うまでもなく、分県地図も王将駒も、楽に移動できる物証であることは分かっている。しかし、指紋をどうしますかな」
指紋の説明がつかない限り、疑惑は解消しない、と、宇和島西署の刑事《でか》部屋で繰り返したのは矢島部長刑事であったが、いま、淡路警部もまた、
「浦上さんが触れたこともない王将駒や分県地図に、浦上さんの指紋が付着しているのはなぜか。このトリックを解明することが、浦上さんがシロであることの証明となり、真犯人《ほんぼし》に肉薄する第一歩となるわけです」
と、強調するのである。
警部は、もちろん、打つべき手は打っていた。
松山からファックスで送られてきた浦上の指紋を、県警科学捜査研究所へ届けたのは昨日の午後である。
「専門家も、どういう仕掛けがあるのか思い浮かばないと言ってるのですな」
と、警部はつづけた。
もちろん、ゼラチン紙に転写するなどの方法はあるけれど、地図(紙)、駒(木)への再転写は、このように鮮明にはいかないという。
「松山南署も、当然、その点の追及を怠ってはいません。警察庁指紋センターの協力を得たそうです。しかし、結論は同じでした。当人が直接触れる以外、指紋がこのように付着することは、有り得ないというのですな」
「トリックが考えつかないのなら、浦上が、問題の地図と駒を直接手にしているってことでしょう」
それまで黙っていた谷田が口を挟んだが、谷田は、何かを言いかけてやめた。
「浦上さん、あんたは前に、殺人犯の、アリバイ証人に仕立てられそうになったことがありましたね」
と、警部がことばを重ねてきたためである。警部が思い出したのは、何年か前の事件(講談社文庫『寝台特急18時間56分の死角』)で、ブルートレインさくら≠舞台にしたものだった。
それは酒好きの浦上が、酔い過ぎた上での失敗が、遠因となっている。
今回は、寝台特急さくら≠フ場合とは事情が違うけれど、
「最近、前後不覚に泥酔したことはありませんかな」
と、警部は尋ねてきた。
「私には、それしか思い付かないんだな」
「前後不覚に酔いどれた浦上に工作者が接近し、用意してきた地図と駒に指紋を付着させたというわけですか」
谷田は両腕を組んだ。
なるほど、それも一つの考え方ではあるだろう。
しかし、学生時代とか、夕刊紙の社会部に在籍していた頃を別にして、浦上がアルコールを飲んで自分を見失ったのは、犯人によって意図的に誘眠剤を混入された、寝台特急さくら≠フ一件だけだ。
「絶対に、そんなことはありません」
浦上は否定した。
「いくら飲んだからといって、他人の自由になったり、言いなりにされるほど酔ったことはありません」
「うん、そうだな。おまえは飲んでも、飲まれるタイプじゃない」
谷田もうなずいた。
結局、淡路警部の発見≠ヘ、この場は平行線で終わった。警部にしてみれば、他にトリックが思い浮かばなかったわけであるが、浦上にすれば、それこそ絶対に、「前後不覚の泥酔」は経験していないのである。
「それにしても浦上さん、何とも奇妙な事件に巻き込まれたものだ」
警部は、禁煙パイプを机の上に置き、その後の捜査に進展がないことを、小声で打ち明けてくれた。
「昨日、松山から出張してきている捜査員に協力して、被害者《がいしや》が勤めていた伊東建設の事務机とかロッカー、それに井田マンションの家宅捜索《がさいれ》をしたのだがね、めぼしいものは何も出てこなかった」
と、警部は言った。
そのとき、他社の警察《さつ》回り記者が、捜査一課へ入ってきた。
谷田と浦上はさり気なく腰を上げ、課長補佐の机から離れた。
*
谷田は記者クラブへ戻らなかった。そのまま浦上と連れ立って、県警本部を出た。
何か言い足りないことがある感じだった。しかし、実際には、しばし無言で、日本大通りの、いちょう並木の下を歩いた。
昨日の四国と同じように、空はよく晴れているが、いちょう並木越しに見る雲の動きは、完全に秋の気配だった。
谷田と浦上は、横浜スタジアム裏手の喫茶店に寄った。
広い店内だが、午前中のせいか、客の姿は少ない。
奥のテーブルについてコーヒーを注文すると、浦上は電話をかけに行った。カード電話のプッシュボタンを押した先は、松山南署の捜査本部である。
浦上は、連絡電話を入れることを、半ば義務付けられているわけだ。が、義務≠謔閧焉A取材が主目的であるのは、言うまでもない。
通話は簡単に終わった。
電話を済ませて、谷田が待つテーブルに戻ってくると、
「何しろぼくは重要参考人ですからね、所在を明確にしておくことで、自由が保証されているってわけです」
浦上は、冗談とも本音ともつかない話し方で言った。
「四国に動きがあったか」
「進展はない感じですね。ただ、ぼくを留置しようとした矢島って部長刑事《でかちよう》さんが、大阪へ向かったとか」
「やっぱり、事件《やま》の中心は大阪だな。きみはいつ出かけるつもりだ?」
と、言いかけて、
「その前に、ばかげたトリックの解明が先だな」
谷田は口調を改めた。
解明に、自信がありそうな、目の色だった。淡路警部の前で、谷田らしくもなく口籠《くちごも》っていたのは、自信のある解明を、スクープに直結させようとしていたためなのか。
恐らくそうだろう。それで、警部の前では公表をはばかったのに違いない、と、浦上は思った。
浦上と谷田の交際は、長く深いのである。谷田が何を意図しているのか、口に出されなくとも、浦上には察しがつくというものだ。
「先輩、聞かせてもらいましょうか」
「ポイントのところは、警部が指摘した前後不覚≠ノ共通している」
谷田はそう前置きして、
「いいか。しっかり思い出してくれよ」
と、浦上の顔を見た。
ウェイトレスが、コーヒーを運んできた。
谷田は、コーヒーを一口飲んで話をつづけた。
「警部が言ったように、きみが直接触れなければ、地図にも駒にも、きみの指紋は残らない」
「ぼくが、どこかで、レンタカーに置かれた物証≠手にしているというのですか」
浦上は首をひねった。
宇和島で矢島部長刑事から追及されて以来、何度も考えてきたことである。いくら首をひねっても、何も浮かんでこない。
谷田は、しかし、
「こいつは、何とも子供|騙《だま》しみたいな、ばかげたトリックだ」
と、浦上の顔を見詰めて、しっかり思い出せ、と繰り返すのである。谷田は何に気付いたのか。
浦上はコーヒーを飲み、キャスターに火をつけて、遠くへ視線を投げた。
分からない。
「先輩、結局は、これまで説明してきたとおりです」
たばこを半分ほど吸って、困ったようにもみ消すと、
「ヒントを出そう」
谷田の声が、重々しいものに変わった。
「まず分県地図だ。きみが、問題の地図を手にできる場所はどこだ?」
「場所?」
「きみは今回の取材が決定したとき、どこかで、愛媛、高知、徳島、香川など、取材先の地図を見ているはずだ」
「それはそうですが」
浦上の脳裏で、何かが目まぐるしく交錯する。
「今回、きみがショルダーバッグに入れていったのは、四国全県を一冊にまとめたガイドブックだけだったな」
他に下調べはしていかなかったのか、と、谷田は言い、
「問題の分県地図がきみの書架になかったのなら、手にした場所は、どこかの図書館か、週刊広場の資料室ということになるだろう」
と、具体的に場所≠挙げた。
「先輩!」
浦上の声が、ふいに高くなった。
浦上は自分の顔色が変わるのを、知った。脳裏で、目まぐるしく交錯していたものが、ぴたっととまった。
浦上の声は、一転して低くなった。
「先輩、思いがけないことなので、つい失念していましたが、ぼくは確かに、分県地図を手に取ったことがあります」
「そりゃそうだ」
谷田は当然という顔をしている。
「オレが、ばかげたトリックと感じたのは、そういう意味だ。言ってみれば、思考の死角だな」
「夏の終わりの城下町の、取材分担が最終的に決定したとき、細波編集長や青木副編集長たちと神保町《じんぼうちよう》の赤ちょうちんで一杯やりました」
浦上は十日ほど前を、慎重に思い起こして、言った。
正確には、八月二十三日、水曜日の夕方だ。
神保町の焼き鳥屋で小一時間を過ごすと、編集長たちとは別れ、東北担当と九州担当の取材記者《データマン》と三人で、御茶《おちや》ノ水《みず》駅近くの居酒屋へ寄った。
「そこでは二時間近く飲んだでしょうか」
「かなり、メートルが回ったってことか」
「前後不覚ではありませんが、ま、結構酔っていましたね」
浦上は、二人の取材記者と別れると、ふらっと、閉店間際の書店に足を向けたのである。その記憶が浦上の内面でまったく欠落していたのは、泥酔状態でなかったとはいえ、深酔いのせいだろう。
「ポイントのところは、警部が指摘した前後不覚≠ノ共通している」
と、谷田が口にしたようにだ。
「きみが地図売り場の棚の前に立ったのは、その夜、閉店間際の、御茶ノ水の書店でだな」
「最初から、地図を見る目的で書店に入ったわけではありません」
浦上は小声でつづけた。
地図を買うのが眼目でなかったこともまた、失念≠フ遠因と言えよう。浦上は定期購読している旅の月刊誌を買うために、書店に立ち寄ったのである。
分県地図に手を伸ばしたのは、ほんのついでだった。
求める意思はなかったが、旅の雑誌を買い、ついでに近くの棚から愛媛の分県地図を引き抜き、地図に同封されたパンフレットの、県の地形とか気候、産業とか歴史を紹介するページをぱらぱらとめくって、拾い読みしたのだった。
「それだな」
谷田の声に力が込もった。推理が適中した谷田は、機嫌のいい表情で、
「こういう日常的なトリックが、やっぱり盲点になるんだね」
と、ピース・ライトをくわえた。
「ぼくが棚に戻した愛媛の分県地図を、犯人《ほし》が、自分の指紋を付着させないよう注意して取り出し、買い求めたってわけですか」
「おい、一緒に飲んだという二人の取材記者《データマン》は大丈夫なのか。その場合、きみのもっとも近くにいたのは、その二人だぞ」
「あの二人ではありません」
浦上は即座に否定した。
居酒屋を出ると、二人は浦上の目の前で流しのタクシーをとめて、青山へと走り去ったのである。浦上がそれを言うと、
「それじゃ、尾行者だ」
谷田はうなずいた。
「いまさら悔んでも詮無《せんな》いが、浦上サンよう、おまえさん何も気付かなかったのかい。その夜、明らかに、だれかがきみを尾行《つけ》ていたはずだ」
「ぼくの指紋を採るための、尾行者ですか」
「王将駒も、同じ伝だな」
谷田は、うまそうにたばこをくゆらした。
「きみを尾行すれば、駒の一枚ぐらい手に入れるのは造作もない」
「将棋クラブですか」
「小さいクラブでは難しいだろうが、大きいセンターなら、一枚失敬するのは容易《たやす》いし、犯人が、席主や従業員に、顔を記憶される危険も少ない」
「新宿か」
浦上は一点を見詰めた。
浦上がホームグラウンドとしている将棋クラブは「渋谷」と「新宿」だ。「渋谷」は畳敷きでアットホームな、こぢんまりとしたものだが、「新宿」のほうは、将棋盤が五十面を越える規模だった。
「土曜日だから、もう開席していますね」
浦上は、腕時計を見、谷田から言われるまでもなく立ち上がっていた。
電話は、すぐに新宿の将棋クラブに通じた。なじみの、席主の声が電話を伝わってくる。
「へえ、浦上さんが仕事で電話かけてきたなんて、初めてですね」
席主はそう言ってから、こちらの推理を肯定した。
「ほんのたまにですが、駒の紛失は後を絶ちません」
「そこで、その王将駒ですが」
「一週間ぐらい前でしたかね、確かに王将が一枚失くなっています。プラスチック駒ならともかく、黄楊《つげ》の彫り駒でしょう。困ったものです」
「妙なことを伺いますが、彫り駒が盗まれたのは、ぼくがおじゃました日ですか」
「王将駒の紛失が、週刊広場の取材とどういう関係があるのですか」
席主はそう反問して、いったん受話器を置いた。
手合係の従業員に対する席主の問いかけが、机の上に置かれた受話器越しに聞こえてくる。
そして、間もなく、席主の声が戻ってきた。
席主は言った。
「王将駒が失くなったのは、先週の金曜日です。八月二十五日ですね。手合カードを調べさせたところ、この日、浦上さんはお見えになって、三局指していますよ」
*
「将棋駒のほうも、それで決まったな。きみと対局者が一局終えて席を立つのを待って、尾行者は、きみが指していた王将駒をそっと失敬したのに違いない」
「ということは、尾行者は、ぼくの対局の、少なくとも終盤を観戦していたことになりますね」
浦上は谷田に向かって、そう問いかけたが、盤側にどんな顔の男がいたか、浮かんでくるはずもなかった。対局中は読みにのみ熱中する。よほどのことがない限り、周囲を意識したりしないものだ。
そして、恐らくその男は、新宿のクラブの常連客ではないだろう。あるいは、将棋など、ろくに知らない男かもしれぬ。
常連客で、顔見知りの男が盤側に来れば、浦上の記憶に残る危険がある。
「そうだな。きみの指紋を手に入れることだけが目的の、その日が最初にして、最後の客だったのだろうな」
と、谷田もうなずく。
「だが、何できみがターゲットにされたのかな。これは、きみを犯人に陥れようとする、先方の動機≠ェ分かれば、ストレートに陰の人間が割れるって図式だろ」
「いえ、そうではないかもしれませんよ」
浦上の脳裏の片隅には、昨日、松山南署の署長室で感じたことが、そのまま残っている。
それは無関係な第三者を殺人犯に仕立てることだけが目的であり、仕立てられた浦上と、罠を仕掛けた真犯人《ほんぼし》との間に、主たる関係はないという見方だ。
すなわち、犯人Xと浦上との間に、怨恨≠ニか復讐≠ニいった動機が存在しないのではないか、ということだ。
「Xは、自分の安泰確保だけが目的か。関連がないとすると、Xを割り出すのは極めて困難だな。しかし、どうしてもきみに思い当たることがなければ、そうなるか」
「でも物証≠ヘ解決しました。次に着手すべきは、昨日、先輩が電話で言っていたように、今回のぼくの取材スケジュールを正確に把握していたのはだれか、ということになります」
「そう、きみをぴたっと殺人現場に立たせるタイミングが、一連の計画の大前提だ」
「それが、考えてみるに、一人しかいないのですよ」
「一人?」
谷田はテーブルの上に身を乗り出してきた。
「しかし先輩、だからと言ってXが絞られたことにはなりません」
浦上は、わずかに残っていたコーヒーを飲み干した。
浦上が言う「一人」とは、副編集長の青木だった。
「副編集長?」
「ぼくが四国を取材することは、編集部の人間なら、だれもが知っています。でも、ぼくが八月三十日朝の新幹線で東京を出発し、広島の宇品港からはフェリーで、午後六時に松山港へ到着するといった詳細を承知しているのは、青木副編集長だけです」
それは、『週刊広場』の決まりだった。出張記者は、新聞社のデスクに当たる副編集長に、利用列車とか、宿泊先ホテルとか、決定している予約は、細かく届けるよう義務付けられている。
「なるほど。だが、なぜ、Xが絞られたことにならないんだ?」
「青木さんは、殺人をするような人間ではありません」
「何を言ってるんだ。それはきみの主観に過ぎないじゃないか。きみらしくもない、ばかなことを言うものじゃない」
「青木さんは物静かで、誠実な人です」
「誠実だから、人を殺さないということにはならない。この事件《やま》は、初手から定跡を逸脱した駒組みなんだぞ。王手を掛けるのだって、手筋どおりにはいかないさ」
「でも、あの人は、ぼくと体形が似ていませんよ。細波編集長と同じような長身です。レンタカーから逃亡したブルゾンの男とは違います。第一、副編集長は、ずっと神田の編集部にいたはずですよ」
「だったら、共犯を使えばいいじゃないか」
谷田はそんなことは常識だとばかりに、つぶやきかけて、
「いや、主犯は別にいて、きみのスケジュールを掌握する、その副編のほうが共犯かもしれないぞ」
と、言い直した。
「ぼくの旅程を、主犯に流したのが、副編集長だと考えるのですか。あの青木さんがまさか」
と、浦上が再度否定すると、
「事件の設定そのものが、まさかなんだぞ。副編から、ひそかに探ってみろ」
谷田は語気を強めた。
*
浦上は京浜東北線で、東京へ引き返した。
『週刊広場』は、大手総合出版社の発行だった。本社ビルは、皇居・平川門に近い一ツ橋だが、週刊誌のほうは、神田錦町の分室に入っている。
七階建て、細長い雑居ビルの三階が編集室になっている。
JRを利用する場合は、御茶ノ水駅、神田駅、どちらで下車しても、徒歩にして十分ほどだ。
横浜から引き返した浦上は、神田駅で降りた。
浦上は電車の中でも渋い顔をしていたが、電車を降りて街路樹の下を歩きながらも、じっと考えるまなざしだった。週休二日のオフィスが多いせいで、土曜日の昼過ぎは舗道も空いている。
(まさか、あの副編集長がねえ)
浦上は、谷田にぶっつけた疑問を繰り返しながらNTTの前を歩き、美土代町の交差点を渡った。
青木は三十七歳。『週刊広場』へ配属される前は、本社で国語辞典の編集に携わっていた男だ。そうした経歴ゆえでもあるまいが、地味で堅実な人柄だった。
どう考えても、青木副編集長が殺人にかかわってくるとは思えない。
青木と浦上との交際も、公私ともに、うまくいっている。トラブルが生じたことなどは、一度もない。
青木は的確に、仕事を処理していくタイプだ。浦上はそうした副編集長を、ある面で尊敬していたし、青木のほうでも、浦上に目をかけてくれている。
そのようなこれまでの人間関係を考えると、(百歩譲って、青木を殺人《ころし》の共犯と仮定しても)卑劣な罠を仕掛けてくるとは考えられないのである。
「副編から、ひそかに探ってみろ」
谷田は怒鳴りつけんばかりにして、そう言ったが、青木を掘り下げたところで、何かが出てくるとは思えない。
だが、しかし、谷田のことばを引用すれば、青木をかばうのは浦上の主観ということになろう。浦上サイドの突破口は、目下のところ、青木しかいないのだ。
(いや、そうじゃないぞ)
考え詰めてきた浦上は、街路樹の下で足をとめた。
(だれかが、副編集長の手帳を盗み見たらどうなるか)
浦上の脳裏を過《よぎ》ったのが、それだった。飽くまでも青木を信じるとすれば、考えられるのは、それしかない。
青木の手帳を盗み見て、浦上の旅程、すなわちフェリーの松山港着の時間をチェックしていったのはだれか。
青木の手帳を盗み見るのは、青木の周辺にいる人間でなければ難しいだろう。
(副編集長の身辺にいる人間となると)
殺人《ころし》の共犯はやはり『週刊広場』の関係者か、とつぶやきかけて、浦上は顔を上げた。手帳を盗み見るという仮説が、あまり意味のないことに気付いたのだ。
発想としては使えるが、大体が、手帳をそこらへ置いておくような人間はいない。増して青木は、きちょうめんな性格ではないか。
浦上は、青木が手帳を取り出すのが、常にブレザーの内ポケットであることを思い出した。あの手帳の中味を、盗み見るのは、無理だ。
ということで、浦上の思い付きは、一瞬の中に消えていた。
問題は原点に戻った。
結局、青木の手帳をチェックできるのは、青木しかいないのである。
青木はクロか。しかし、どう探りを入れればいいのだろう?
浦上はふたたび考えながら歩き、『週刊広場』編集部が入っている雑居ビルの前にきていた。
(ん?)
浦上の表情が変わったのは、エレベーターから降りてくる事務服姿の若い女性を見たときだった。
青木副編集長の無実にこだわる浦上に、その顔見知りの若い女性が光を運んできた。
「おや、だれかのクーポン券を届けにきたのですか」
と、浦上が話しかけると、
「いいえ。今日は集金に伺いましたの」
事務服姿の女性は、そうこたえて擦れ違って行った。
女性は、『週刊広場』に長年出入りしている旅行代理店の社員だった。
その後ろ姿を見送って、
「スケジュールの詳細を、入手する先があるじゃないか」
浦上は、だれかに話しかけるように声を出していた。
『週刊広場』の出張の手配を、一手に引き受けているのが、神保町の『石田旅行社』だった。浦上も今回、東京駅発の新幹線の指定券とか、四国島内フリーパス券とか、『ホテル松山』『ニュー宇和島ホテル』、そして高知、高松のホテルの予約とか、帰路の寝台特急瀬戸≠フ予約など、すべてを『石田旅行社』に一任している。
『石田旅行社』は、浦上の出発から帰着までを、正確に把握しているのである。
副編集長がシロなら、情報ルート入手は旅行代理店しかない。
浦上はエレベーターに乗ろうとして、やめた。
事務服姿の若い女性を追いかけるようにして、神保町へ行った。
『石田旅行社』は交差点の近くだった。
浦上が入って行くと、
「あれ? 浦上さん、今日は高松泊まりじゃなかったですか。帰りは、月曜の朝東京駅へ着く瀬戸≠フはずですよ」
主任格の男性社員が、カウンターの中から話しかけてきた。先方が浦上のスケジュールを詳しく承知しているのも道理だった。今回の四国取材に関しては、ホテルなど、すべて、この社員が手配してくれたのである。
「急な企画変更でね、選手交替で呼び戻されました」
浦上はカウンターに寄りかかり、他の社員とか客に悟られないような小声で、要点に触れた。
「ああ、そういえば、そんなことがありました」
先方はあっさりと、浦上の疑問解消のこたえを言った。
確かに、浦上の出張スケジュールに関する問い合わせ電話が、入っていたというのである。
「間違いありませんね」
浦上は取材帳を取り出していた。
「電話は、いつかかってきたのですか。かけてきたのは男でしたか、女でしたか」
と、浦上が性急に詰めよったので、
「何か不都合がありましたか」
旅行代理店の社員は、戸惑ったような声を出した。
「問い合わせは二回ありました。二度とも週刊広場の編集部からでしたよ。ええ、男性の声でした」
「編集部の、だれがかけてきたのですか」
「お名前は伺いませんでした。そういえば、聞き覚えのない声でしたね。電話は私が受けたのですが、かけてきたのは同じ男性だったと思います」
問い合わせは一方的なもので、
「こちらは週刊広場ですが、浦上のクーポン券はできていますか」
と、二回とも同一な内容だったという。
一度目は一ヵ月ほど前であり、このとき、浦上名義の予約は『石田旅行社』に入っていなかった。
次に『週刊広場』と名乗る男から電話がかかったのは、半月前だ。
今回の四国取材の、第一回目の企画会議が開かれた直後だった。『石田旅行社』では、『週刊広場』の注文を受けて、東北、九州、そして四国のホテルなどの予約を済ませたところだった。
で、その旨を告げると、
「念のために」
と、電話をかけてきた男は、松山から高松への旅程を確かめたという。
得意先の会社から、そうした再確認というか問い合わせが入るのは珍しいことではないので、社員は特別な不審も抱かなかった。
「あの電話、編集部の人ではなかったのですか」
「いえ、そういうわけではないのですが」
浦上はことばを濁した。知りたいのは、男≠フ身元だ。
しかし、これは、男≠『週刊広場』の編集者と信じて話していたので、半月も経ってからでは、ヒントとなる何かを思い出しようもなかった。旅行代理店の社員が繰り返すのは、
「そうですね、あの人は広島の宇品《うじな》港から松山の三津浜《みつはま》港へのフェリーの時間を、何度も気にしていましたよ」
というものだった。
浦上は『石田旅行社』を出た。
物証入手の方法に次いで、どうやらもう一つの壁も見えてきたようである。
浦上はすずらん通りを『週刊広場』へ引き返しながら、遠くに目を向けた。壁の高さも厚さも、いまはまだ判然としないが、壁が見えてきたことだけは間違いない。
松山の殺人へ向けて、明らかに、だれかの意志が潜行していたのだ。留意すべきは、問い合わせが、二回入っていたことだろう。
電話をかけてきたXは、『週刊広場』が『石田旅行社』を利用していることは承知していても、浦上がいつどこを取材するか、その具体的なことまでは知らなかったことになる。
知っていれば、一ヵ月前に入ったという一度目の電話は必要なかったはずだ。あのとき、浦上には出張の予定がなかったからである。
Xは、言ってみれば当て推量で探りを入れていたのに違いない。
そして、八月三十日の十八時に松山港へ着くフェリーに遭遇した。
(それが、ぼくを罠にかけた殺人計画の出発点だな)
と、浦上は自分に言い聞かせた。
Xによる『石田旅行社』への二度目の電話は、半月前である。谷田が指摘したところの尾行は、当然、浦上の四国取材をキャッチしてから開始されたのであろう。
それで、筋道も一貫してくる。
二度目の電話がXから『石田旅行社』にかかってきたのが、八月十七日前後。
細波編集長、青木副編集長、そして二人の取材記者《データマン》と飲んだのが八月二十三日。新宿の将棋クラブへ寄ったのが八月二十五日。
この尾行と、当て推量でかけてきた問い合わせ電話から抽出されるのは、Xが『週刊広場』サイドの男ではないということだ。
社員でなかったとしても、編集部に出入りしている人間であれば、物証の入手にしても、旅程の確認にしても、もっと容易に、別な方法が採られていただろう。
しかし、Xは、『週刊広場』が『石田旅行社』を利用していることを、承知している。Xは、旅行代理店サイドの男だろうか。
*
「いや、それはどうかな」
と、疑問を挟んだのは、細波編集長だった。編集長は、一通り浦上の説明を聞いたあとで、言った。
「だってそうだろ。石田旅行社に関係ある男なら、電話を受けた社員が、何か気付いて然《しか》るべきではないか」
「そうですね、あの主任格の社員は、電話をかけてきた男の声に聞き覚えはないと言っていました」
浦上が首をひねると、
「しかし、青木副編集長に探りを入れろとは、いかにも谷田さんらしいね」
細波はそう言って、愛用のパイプたばこに火をつけた。
「このぼくが、最初に疑われたか」
当の青木は、ただ苦笑するだけだった。
編集長の机は三階大部屋奥の窓際にあり、机の横に、小さい応接セットがあった。細波と青木は、ソファに並んで腰を下ろして、浦上の報告を聞いた。
「石田旅行社への問い合わせ電話が表面化したのだから、いまさら断わるまでもないけれど」
と、青木が、苦笑を浮かべたままつづけた。
「ぼくは、浦上ちゃんのスケジュールをだれかに漏らしたこともなければ、手帳を盗み見られたこともない、と断言しておきます。もちろん、犯人に手を貸してなどいない。毎朝の谷田さんに、よく言っておいて欲しいね」
「ま、その話は、そのくらいでいいだろう」
細波は、問題を前へ進めた。
「Xは、どうやら我社《うち》の編集部へ出入りしている人間ではなさそうだ。これは、浦上ちゃんの考えどおりだと思うね」
「で、旅行社サイドでもないとすると」
「それだよ。Xは、どこで、週刊広場と石田旅行社のつながりを知ったんだ?」
細波はパイプをテーブルに置いた。
Xは、『週刊広場』が『石田旅行社』へクーポン券などを発注していることを、偶然どこかで耳にしたのだろうか。もちろん、その可能性もあるだろうが、
「しかし、極めて計画的な罠の仕掛け方から推し量るに、偶然を出発点とするような犯人とは考えられないねえ」
と、細波は長い脚を組んだ。
「偶然でないとすると、その辺りを衝くことで、Xに近付く道が拓《ひら》けてくるか」
と、青木がつぶやき、
「それはそうでしょうが、どうやって、その辺りを追及するのですか」
浦上は二人の顔を見た。編集長も副編集長も長身なので、中背の浦上は、ソファで二人に挟まれた格好になっている。
しばらく短い沈黙があり、沈黙を破って、青木が顔を上げた。
「一番単純な方法は、Xが我社《うち》の編集部へ問い合わせてくることですね」
「だが、それこそ怪しまれるんじゃないか」
細波は乗ってこなかったが、青木は立ち上がっていた。
「そのままで、ちょっと聞いてもらいたい」
青木は声を大きくして、編集室にいる全員に話しかけた。
編集室には、浦上のような契約ライターも含めて、十人余りが居合わせた。
その中から、すぐに反応があった。名乗り出たのは、編集室の受付係も兼ねる、編集総務の女子社員だった。
女子社員は、窓際のソファまでやってきて、
「問い合わせの電話を受けたことがあります」
と、全国主要都市に支店を置く、大手旅行社の名前を出した。電話は、その旅行社の有楽町支店と言ってかかってきた。丁寧な口調の男性だったという。
「週刊広場の取引先を教えろ、と言ってきたのかい」
「違います。最初は、セールスの電話でした」
「売り込みか。で、責任者を出せとは言わなかったのかね」
「それは言いませんでした」
有楽町支店を名乗る男は、取材記者が出張する場合、列車とか飛行機、ホテルなどの予約は旅行社を通しているのか、と質問してきたのだった。
緊急の出張でないときは、必ず代理店に頼んでいる、と、女子社員が事実をそのままこたえると、
「いかがなものでしょう、その発注を、手前どもに回していただけないでしょうか」
と、先方は言った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
青木が口を挟んだ。
「男は、責任者に電話を回してくれとも言わず、きみに売り込んできたのかい」
「そうです」
女子社員はうなずいた。
不自然ではないか。そんなことが、受付係の一存にいかないことは自明の理だ。
実際、女子社員は、
「何でしたら副編集長に電話をおつなぎしましょうか」
と、こたえている。すると、先方はやや早口になり、
「おたくと取り引きのある旅行社は、どちらですか」
と、尋ねてきたという。
「そこできみは、我社《うち》の発注先が、神保町の石田旅行社であることを、その男にこたえたわけだね」
「はい。いけなかったのでしょうか」
「いや、いいんだよ。で、その電話はいつ頃かかってきたのかね」
「一ヵ月ほど前だったと思います」
「ご苦労さん」
青木は女子社員を引き下がらせ、浦上と細波は、
「タイミングもぴったりだ。その問い合わせの直後に、第一回目の電話が、石田旅行社へ入ったか」
というように顔を見合わせた。
これはもう、男が言っていた有楽町支店へ出向いて確認するまでもあるまい。
有楽町支店に、そんな社員はいないに決まっている。セールスは口実だ。
「もう一つはっきりしましたね」
浦上はキャスターに火をつけ、二人の長身を交互に見て言った。
「どうやらXは、石田旅行社は無論のこと、週刊広場とも距離を置く男のようですね」
「そのXが、何ゆえ、浦上ちゃんをターゲットにしたのだろう? これは、やはり、浦上ちゃんの個人的な問題じゃないのか」
と、青木がつぶやき、
「うん、胸に手を当てて、過去に何があったのか、もう一度、じっくり反省する必要がありそうだね」
細波は意外と真剣な表情で浦上を見た。
浦上にはこたえようがない。口に出すとすれば、
「いくら考えたって、何も思い当たることはありません」
と、繰り返すことになるが、それではこたえにならない。
浦上は黙って、たばこを吹かした。すると紫煙の向こう側に、高知空港で別れた菊池澄子の、つぶらな瞳が見えてきた。
「大阪へ行く前に、蒲田《かまた》の伊東建設を当たってみます」
と、浦上は言った。それが、細波編集長に対するこたえになった。
浦上は大部屋の入口近くにある、ルポライターたちの、共有の机に戻った。
5章 大阪府守口市のマンション
『伊東建設』の取材は、しかし、浦上伸介の都合のいいようには運ばなかった。
何時に訪ねれば総務課長が面会に応じてくれるか、それを確かめるために、『週刊広場』の編集部から電話を入れると、
「土、日は休日となっております。誠に恐れ入りますが、ご連絡は、月曜日の午前八時半以降にお願いいたします」
というテープのメッセージが返ってきた。社員七十名足らずの中小企業も、最近では週休二日制を採用しているのである。
「まともに働いているのは、週刊広場ぐらいなもんですか」
浦上は、反対側の机にいる若手編集者に何となく話しかけ、キャスターを一本灰にしてから、神奈川県警記者クラブへかけ直した。土曜日の午後でも働く人間が、そこにも詰めている。
谷田実憲は他の電話を受けているということで、少し待たされた。
やがて電話口に出た谷田は、
「そういうことなら、副編にはあらぬ疑いをかけて、悪いことをした」
と、浦上の説明を聞いて素直なことばを返してきた。持ち前の大声でわびを言うところが、いかにも谷田らしかった。
「いずれにしても、浦上サイドからXを炙《あぶ》り出すのは、ますますもって不可能ということになるか」
「大阪ですね。大阪を掘り下げてから、横浜へ転進するのが、常識的な線でしょう」
「その横浜だがね、淡路警部が言っていた、松山の捜査員による家宅捜索《がさいれ》と同じだ。井田マンションを聞き込んでも、何も出てこない」
と、谷田は言った。
さっき浦上と別れたあとで、谷田は遊軍記者を『井田マンション』へ急行させたらしい。
「土曜日の午後が幸いして、何人か住人を取材することができた。が、いかんせん、高橋美津枝さんが住んでいたのは、たった三ヵ月だろ」
「ひそかに訪ねてきた男が目撃された、なんて事実はないわけですか」
「それがないんだな。本当に結婚を前提としての横浜転居だったのかどうか疑わしい、と、これはマンションを取材した遊軍記者の意見だがね、オレもそう思う」
「刑事《でか》さんの話では、伊東建設も同じことでしょう」
「ああ、きみが今日、実際に伊東建設の総務課長とか、同僚に会うことができたとしても、新発見はなかった、と、そんな気がするね」
「美津枝さんは、いったい何の目的で横浜へ移ってきたのでしょう」
「殺されるためじゃないのかい」
谷田は、普通の口調でそう言った。
「結婚というのは、住み慣れた大阪から美津枝さんを引き離すための、男の工作だったのかもしれない」
「殺害は、知人の少ない町を舞台にするのが安全ですか」
「違うかね。実行は、きみの旅程に合わせた松山が選ばれたわけだが、犯人《ほし》はそのお膳立てとして、知人のいない横浜へ、美津枝さんを移した」
「どんな男なのだろう?」
浦上は受話器を持ち直した。
美津枝の旧友である菊池澄子の推定によれば、美津枝の周辺には複数の男性がおり、親しくしていた相手は妻子持ち、すなわち不倫の関係にあったらしい。
妻や子に対する背信が平気な中年男なら、殺人計画も、冷静に、事務的に立てられるということだろうか。
谷田が指摘するように、美津枝の横浜転居が「殺されるため」のものなら、男が表面に出てこないのは当然だ。
しかし、美津枝を呼び寄せた以上、男が横浜周辺にいるのは、間違いないだろう。
「いや、そう決め付けられるものでもないね」
と、谷田は言った。谷田は、浦上の見込みを、そのまま肯定しなかった。新幹線を利用すれば、新大阪―新横浜間は、二時間四十二分の距離に過ぎない。
「完全殺人という目的を秘めて、男が大阪から通ってくるのも不可能じゃないぞ」
横浜は、後の捜査に備えて、男が自分を隠すためのカムフラージュだったのかもしれない。
「万事、計画的な男だからな」
と、谷田はつづけた。
「男が伊東建設へ電話をかけてきたり、週刊広場や石田旅行社に電話をかけてきたからといって、東京周辺に在住しているとは限らんよ」
「電話は、大阪からでも、かけられるってわけですか」
「しかしだ、真犯人《ほんぼし》が浦上サイドの人間でないことは、ほぼ間違いないという事態になってきたが、まったく無関係な人間に罠をかけるということはあるまい」
「お手上げですよ。ぼくがどういう関係に置かれているのか、それは犯人が逮捕されたとき、犯人の口から語ってもらうしかないですね」
浦上の口調は、その点になると重くなった。いくら不快でも、相手が絞り切れないのだから、苛立《いらだ》ちを叩きつけることもできない。
*
浦上は谷田との長い電話を終えると、編集長席へ目を向けて、ゆっくりとキャスターを吹かし、もう一度受話器を引き寄せた。
考えながらダイヤルした先は、大阪だった。菊池澄子が住む、浪速区のマンションである。
澄子が勤めているのは一流製薬会社だから、当然土曜日は休みだろうと見当をつけたが、そのとおりだった。
すぐに、聞き覚えのある澄子の声が出た。はきはきした話し方ながら、どこかに甘さを感じさせる声だ。
「あら、浦上さんですか。早速にすみません」
と、澄子は言った。
そのことばの意味が一瞬分からなかったが、連絡を取ろうとしたのは、澄子のほうが先だったのである。澄子は、ついさっき、浦上の自宅マンションへ電話を入れた。浦上がいなかったので、留守番電話に用件を伝えた、と、澄子は言った。
「そうでしたか。それはどうも。ぼくはいま週刊広場の編集部にいます」
浦上は、物証入手の方法と、スケジュール確認の手段が解明されたことを伝えようと思ったが、先に電話をくれたのが澄子のほうであるなら、澄子の話から聞くのが順序、と思い直した。
「浦上さん、明日、大阪へ来ることはできませんか」
澄子はそう切り出してきた。
澄子は、週刊誌記者顔負けの行動派だった。土曜休日を利用して、三ヵ月前まで美津枝が勤めていた『不二通商』大阪支社を訪ねたのだという。
「こんなことをする気になったのも、昨日、浦上さんにお会いして、高知空港でいろいろお話をしたからですわ」
澄子はそんな言い方をした。
『不二通商』も土曜は休みだったが、守衛室に寄って、美津枝が三ヵ月前まで机を並べていた塚本《つかもと》るり子という同僚の名前を聞き出したという。
「これは恐れ入りました」
浦上が素直に脱帽すると、
「あたしが土佐山田以来の美津枝の親友であることを強く言ったので、それで、守衛さんも社員名簿を当たってくれたのだと思います」
と、澄子は笑声を返してきた。そうした点は、事件記者の正面切った質問より、同性の友人のほうが有利ということになろうか。
「で、菊池さん、あなたは、その塚本るり子さんという元同僚に会ってきたわけですか」
「お電話で話すことはできましたが、お目にかかってはいません」
澄子は連絡を付けた経緯を説明した。
塚本るり子は、今日はどうしても都合が悪いけれど、明日、日曜日の午後ならいつでも構わないという。
「なるほど、それでぼくに声をかけてくれたわけですか」
それは何があってもご一緒したい、と、浦上がことばを重ねると、浦上の同席は、るり子の希望でもある、と、澄子は言った。
「ちゃんとした記者さんなら、是非話を聞いていただきたい、と、彼女のほうが積極的なのです」
「何かつかんでいるのかな」
「犯人に心当たりがある、と、はっきりそう言ってました」
「何ですって?」
受話器を持つ浦上の手に力が込もった。るり子という元同僚は、犯人に心当たりがありながら、なぜ、それを警察に通報しないのか。
「あたし、電話でちょっと話しただけなので詳しいことは分かりません。でも、ちゃんとした記者さんなら、という言う方をしているので、改めて、そのことをご相談したいのではないでしょうか」
「クロいやつはいるけど、確証がないってことですかね」
松山南署の捜査本部からは、矢島部長刑事らが大阪へ向かっているのだ。
あの部長刑事《でかちよう》に先を越されたくない。そう考えると、余計、澄子の迅速な行動が価値を持ってくる。
「ありがとうございました」
浦上はもう一度礼を言い、明日の、大阪での再会場所を打ち合わせて、電話を切った。
細波編集長の席へ行って、その旨を報告すると、
「美人と大阪でデートか。結構じゃないか」
細波は機嫌のいい表情で、出張旅費の仮払い伝票に判を押した。
*
翌九月三日、日曜日。
浦上伸介が、地下鉄を西中島南方《にしなかじまみなみかた》駅で降りたのは、正午少し前だった。
西中島南方は、新大阪から一つ目の駅である。この辺りでは、地下鉄が町を見下ろして、高架線上を走っている。
新しいビルが多い町だった。関西地方も、秋の訪れを感じさせる、心地よい快晴である。
浦上は階段を下りて、小さい改札口を出ると、勝手知ったように、阪急|南方《みなみかた》駅のほうへ折れた。
大阪は関西以西の取材の拠点なので、年間、少なくとも十回は梅田のホテルに泊まっている浦上である。浦上は、東京や横浜同様、大阪の地理に詳しい。
菊池澄子との約束時間の、ぴたり五分前に、浦上は指定された『ホテル・レキシントン』の一階ロビーに入っていた。
ロビーはそれほど広くなかった。回転ドアを背にして右手がフロント、左奥にエレベーターが二基並んでおり、その手前にソファがあった。
ソファには数人の男女がいたけれど、浦上の姿を見て、クリーム色のスーツの女性が、さっと立ち上がって、軽く頭を下げた。
澄子だった。澄子も、約束の時間よりは早く来る、きちょうめんな性格らしい。
二日目の再会だが、高知以来だけになつかしい気がした。
「昨夜、美津枝のお兄さんから電話がありました。美津枝のお葬式は、昨日無事に終わったそうです」
澄子は最初にそれを言った。初対面だった土佐山田では詳しい説明をしなかったが、澄子は会社で組合関係の役員をしていた。その役員会議が、一昨夜と昨日の午前中と、二日つづけてあったため、旧友の葬儀を欠礼したのだった。
しかし、澄子は欠礼の代わりに、事件の真相追及に乗り出した。これこそ、友情以外の何ものでもないだろう。
組合活動をしていると聞かされて、
(なるほど)
と、浦上は、澄子の積極的な行動力を納得した。
そして、約束の十二時を二、三分過ぎたとき、エメラルドグリーンの七分そでのジャケットに、黒いタイトスカートの、小太りな女性が回転ドアを入ってきた。
殺された美津枝の三ヵ月前までの同僚、塚本るり子だ。るり子は三十代半ばだった。一目、ハイミスという感じである。
るり子は、浦上はもちろん澄子とも初めて顔を合わせたのであるが、ソファの前で立ち話をする二人を見て、まっすぐに歩いてきた。
「お待たせしました」
と、一礼するるり子は色白で、小太りの割りにはどこかに険のある表情だった。
「三階にレストランラウンジがありますの。お肉がおいしいんですのよ」
と、るり子は言った。検討は昼食をしながら、と、勝手に決めてきたようである。
このホテルを待ち合わせ場所に指定したのも、無論るり子だ。ホテルが、『不二通商』大阪支社に近いこともあったが、るり子は、一方的に物事を進めて行くタイプのようだった。
るり子の先導で、三人はエレベーターで三階に上がった。
ランチタイムとあって、広いレストランは八分通りの込み方だった。
三人はボーイに案内されて、壁際のテーブルについた。
るり子が推奨するサーロインステーキを、るり子と同じように浦上と澄子も注文して、改めて、初対面のあいさつをした。
「昨日、菊池さんからお電話いただいた後で、刑事さんがあたしの家に見えましたわ」
と、るり子は切り出した。
東淀川区のるり子の家にやってきたのは、松山南署の矢島部長刑事と、矢島とコンビを組む若手刑事だった。二人の刑事は、澄子と同じように『不二通商』大阪支社を訪ね、土曜休日だったので、関係社員の自宅聞き込みに回ったらしい。
「刑事さんには、どういうことを話されたのですか」
浦上がその点を気にすると、
「何も言いませんでした」
るり子はきっぱりとこたえた。
「しかし塚本さん、あなたは、高橋美津枝さんを殺した犯人に、心当たりがあるのではないですか」
「犯人は分かっています。でも、証拠がありません。証拠もないのに、うかつなことを警察の人に言うわけにはいきませんわ」
そうした話し方にも、るり子の一徹な気性が窺《うかが》えるようだった。それはハイミスに特有なものかもしれないが、
(こいつは、話を割り引いて聞く必要がありそうだな)
と、浦上はこれまでの取材経験で感じ取っていた。
こうした相手は、うまくペースに乗せてしまえば、いくらでも話を引き出すことができる。だが、主観が強いので、コメントを、そのまま記事にすることはできない。
浦上は、あえて取材帳を取り出さなかった。
「あなたの家を訪れた刑事さんは、どういう質問をしてきたのですか」
「うん、高橋さんの交際相手ね。特に、親しくしていた男性はだれか、その点をしつこく、繰り返し尋ねていたわ」
しかし、るり子は、何も知らないで押し通したという。
黙っていた理由は、その交際相手こそが、るり子が犯人視する男だったからである。証拠がないという、その男はだれか。
「故人には失礼かもしれませんが、高橋さんは何人か、複数の男性と交際していたのではありませんか」
浦上はちらっと澄子の顔を見、一昨日の澄子の発言を踏まえての質問をした。
するとるり子は、にこりともせずにこたえた。
「それは、高橋さんはおきれいでしたから、言い寄る男性社員も多かったですよ。でも、結婚を意識してつきあっていたのは、課長一人だけでした」
「課長?」
話が具体的になってきた。
いつもの浦上ならば、ここで取材帳を手にし、ボールペンを握り締めるところだが、今回は、せっかちな追及はやめた。るり子がその気になっているのだから、飽くまでも彼女のペースでいこう、と、自分に言い聞かせた。
「あたし、週刊広場は昔から読んでいます。愛読者と言っていいと思います」
るり子は、少し話題を変えた。
「刑事さんにうっかりしたこと話すと、いつまでも厳しく事情を訊かれたりするのではありません? それなら、信用できる記者さんにご相談するほうがいいと思いましたの」
と、るり子は言った。
それが、本題に入るための前提であったが、確かに、刑事に対して距離を置く人間が少なくないのは事実だ。捜査に協力する意志はあっても、もう一つ確証がはっきりしなければ、なおのこと、そういう態度を取る結果になる。
るり子に限らず、それは澄子にも指摘できることだろう。浦上は、龍河洞《りゆうがどう》のバス停で声をかけてきたときの、澄子の、ややためらいの感じられた表情を思い返した。
「分かりました。不明な部分は、週刊広場の取材力で補いましょう」
浦上はるり子を誘導するように言った。
「がっちり取材して、その課長さんの容疑が濃くなれば、捜査本部へ連絡しますし、無実と分かれば、これから伺う話は、一切聞かなかったことにします」
「会社の中でも、あたししか知らないことだと思います」
るり子は、一語ずつ区切るような言い方をした。いかにも重要なことを切り出すという口調であり、自分だけが承知している秘密をだれかに打ち明けないではいられない姿勢がありありと感じられた。
それを見て澄子も、
「美津枝は、だれとでも積極的に交際するタイプでしたけど」
と、るり子を促した。澄子が、高知空港で浦上に打ち明けたように、要点をぼかして話す美津枝の性癖を言うと、
「そう、だから、すべてがうわさの域を出ないのよ。でも、あたしは別。高橋さんとは何年も机を並べてきた同僚でしたから」
と、るり子はこたえた。
たとえば、プライベートにかかってきた課長からの電話を、美津枝が仕事の電話と言い繕《つくろ》っても、
「あたしにはぴんときました。何しろ、高橋さんとは一緒にいた時間が長かったですからね」
と、るり子は、澄子と浦上の顔を見た。
長年の同僚ということもあろうが、るり子は、隣人の秘密に、人一倍の関心を寄せる性格のようだ。美貌の後輩が、妻子持ちの上司と怪しいとなれば、関心もエスカレートするに決まっている。
そして、それが事実ならば、不倫の関係という澄子の見込みどおりになる。
「美津枝さんは、土佐山田のご家族に対して、二年前と今年と、二回結婚を匂わせているのですが、あなたが言う課長さんは、今回の相手、ということになりますか」
「いいえ、高橋さんのお相手は、ずっと一人だったはずですわ」
「すると、二年前から、その課長さんとの関係がつづいていたというのですか」
「殺人は見たわけではありませんが、課長と高橋さんの、男と女の関係なら、あたし、確信を持って証言することができます」
「その課長さんが大阪から転出し、高橋さんが後を追って横浜へ移った、とそういうことになりますか」
「違います。課長は大阪支社ではありません。昔から、東京本社の営業です」
「東京の人間でしたか」
「営業部の課長ですから、地方出張が多いのですよ。特に大阪支社へは頻繁《ひんぱん》に来てましたわ」
「そういう経緯で始まった、職場恋愛ですか」
「おことばですが、恋愛と言えますか。高校時代からの親しいお友達の前で何ですが、課長には常務の姪《めい》ごさんという、ちゃんとした奥さんがいるのですよ。あれはまともな恋愛ではなく、不倫なオフィスラブではありませんか」
険しい表情を反映するような、辛辣《しんらつ》な言い方だった。異性に縁のなさそうなこのハイミスには当然、嫉妬心もあっただろう。
「あなた、守口《もりぐち》市のマンションへ遊びに行ったことあります?」
と、るり子は澄子に問いかけた。
横浜に転居するまでの美津枝の住居が、守口市寺内町の『パレス17』というマンションであったことは、浦上も聞いている。
守口市は大阪市に隣接する京都寄りで、新大阪駅からもそれほど遠くない。
住所は承知しているが、マンションへ遊びに行ったことはない、と、澄子がこたえると、
「そうでしょう、高橋さんがあのマンションを借りたのは二年前だけど、彼女、だれも寄せつけないのよ。どうしてだか、分かって?」
るり子は口元に皮肉な笑みを浮かべて、言った。
「だれかに来てもらっては困るわけよ。彼女、守口のマンションで課長と同棲していたのだもの」
「そこまで、あなたは知っているのですか」
「同棲とは少し違うかな。課長は東京の品川区に家があるのだし、大阪へ出張したときだけ利用していたのだから、半同棲と言ったほうが正確かしら」
たまたまある日、『パレス17』の前を通りかかったるり子は、課長と美津枝が連れ立って入って行く場を目撃したというのだが、偶然ではないだろう。るり子のことだ、どうやら美津枝を尾行して、半同棲≠確認したという感じである。
殺人は推測だが、
「課長と高橋さんの、男と女の関係なら、あたし、確信を持って証言することができます」
と、るり子が語ったのは、その目撃が基礎になっている。
大阪へ出張中の矢島部長刑事たちは、当然『パレス17』を聞き込んでいるはずなので、美津枝の部屋に男性が出入りしていたのが事実なら、捜査も一歩前進しているだろう。しかし、相手の男が、『不二通商』東京本社営業部の課長であることまで割れたかどうか。
「他に親しくしていた男性がいないとしたら、美津枝さんが結婚したかった相手は、その課長さんということになりますか」
「彼女、欺《だま》されていたのですよ」
当時、課長は妻子と別居中だったという。子供は、現在四つになる男の子が一人。
別居はしていたが、課長に妻と別れる気持ちはなかった、と、るり子は断言する。
「だって、いまも言ったように、奥さんは常務の姪ごさんでしょ。課長が出世コースに乗っているのも、奥さんがいればこそで、これは、社員ならだれもが知っていることです」
「そんな大事な奥さんと、どうして別居したりしたのですか」
「課長の弟さんが、女の人を殺したためです」
「人殺し?」
話が、穏やかでなくなってきた。
「その課長さんの弟が、殺人者だというのですか」
「それも、会社の中では、皆が知っていることですわ」
実弟が殺人犯として逮捕されたので、世間体を取り繕う妻は、子供を連れて同じ東京都内の実家へ帰ってしまったのだという。
「そうした状況で妻子と別居中に、部下のOLに手を出すとはね」
「そんな男ですもの、じゃまになったら、高橋さんを殺すことぐらい、やりかねないと思います」
「二年間も関係がつづいてきたのに、美津枝さんがじゃまになるような、何が起こったのですか」
「別居中だった奥さんとの、縒《よ》りが戻ったのよ。一時の遊び相手など、じゃまになるのが当たり前でしょう」
課長の復縁が半年前であり、美津枝が『不二通商』を辞めて横浜へ転居したのが、三ヵ月前。
「やはり、美津枝さんは、恋する人を追って大阪を出て行ったことになりますか」
「それ以外に考えられます?」
と、るり子は断定的な言い方をし、
「そうねえ、美津枝って、一度思い込んだら決して姿勢を変えない積極派だったから」
澄子もるり子の意見を肯定した。
それで筋は通ってくる。
半同棲≠フ二年間は、
「妻と正式に離婚するまでは」
と、美津枝との結婚を一日延ばしにしてきたのであろうが、課長が尽力していたのは、離婚ではなく復縁だった。妻子が品川区の家に戻ったことで、課長の真意が分かってみれば、美津枝が怒り出すのは当然だ。
一方、課長にとって、美津枝が大阪を飛び出してきたということは、家庭の平和と出世コース、双方の破壊につながるわけである。
動機は保身。
保身のために殺意が醸成された、と解釈すれば、よくあるケースだが、論理は一貫してくる。
問題は、るり子の発言がどこまで信用できるか、裏付け取材にかかってこよう。そして、その課長氏が真犯人《ほんぼし》であったとして、浦上とどうかかわってくるか、ということも焦点の一つになろう。
そのとき、サーロインステーキがテーブルに載ったので、会話は、しばし中断された。
*
「あたし、高橋さんを殺した犯人は、課長に間違いないと思います。ほかのだれが、計画的に高橋さんを殺したりしますか」
るり子は、食事をしながら、ナイフとフォークを手にしたままで言った。
「高橋さんは、課長にうまいこと言われて、四国へ誘い出されたに決まっています」
「美津枝さんと課長さんの関係が、ご指摘のとおりなら、そういうことになりますね」
浦上は同意した。
だれが犯人であれ、美津枝が「うまい話」に誘われて、瀬戸内海を渡ったことは事実だ。それは『伊東建設』に休暇を申し出たときの明るい表情からも、察することができる。
休暇を願い出た理由は、土佐山田の実家へ帰るということだったが、それもうそではなかったのかもしれない。
「結婚しよう。正式に、きみのご家族にごあいさつしたい」
犯人は美津枝を連れ出す口実として、そうささやいたかもしれないではないか。
その上で、何かの理由をつけて、松山でレンタカーを借りさせた、ということになろうか。
いずれにしても犯人は、慎重に犯行現場の下見をしたことだろう。浦上の旅程に合わせての、犯行リハーサルのようなことも、怠らなかったに違いない。
そう、一応の土地鑑がなければ、あのスピーディーな犯行は成立しない。
浦上の考えがそこにいったとき、それを裏付ける発言を、るり子がつづけた。課長は、よく松山へ出掛けているというのである。
「よく出掛けるって、課長さんも四国の出身ですか」
「さあ、それは知りませんが、松山には我社《うち》の事業所があります。課長は大阪支社へ来るのと同じように、松山事業所へもよく出張しています」
事業所は、他に酒田《さかた》、鹿児島にも開設されているという話だった。『不二通商』は輸入合板を主力商品としているので、それで港湾都市に事業所を設置しているようだった。
その松山事業所へよく出張していたというのなら、課長氏は、リハーサルなしで、三津浜港周辺を熟知していたことになろう。
これは、二年間の情事≠ノも匹敵する有力な証言だ。
(このハイミス一人で、事件を解決してくれるというのか)
浦上は複雑な感情に見舞われながら、食事の手を休め、今度こそ、取材帳を取り出していた。
「あなたがそこまで分かっているのに、他に、美津枝さんと課長さんの関係に気付いている社員はいないのですか」
「何人かが気付けば、うわさが出るでしょう。そんなうわさ、一度も耳にしたことはありません」
「半同棲までしながら、二人はよほどうまくやっていたのですね」
「二人とも、肝心な点は巧みにカムフラージュする性格ですし、職場が大阪と東京と離れていたことも、都合がよかったのではありませんか」
風聞が立たなかったというのは、るり子が沈黙を守っていたということだろう。
もしかしたら、るり子は、そうした他人の潜行した情事のせんさくを、ひそかに楽しんでいたのかもしれない。それが、異性との縁が薄いハイミスというものかもしれないが、いまの浦上に、るり子を責める資格はない。
社内でうわさにもならないほど、うまく隠し通してきたOLと上司の関係。それを、るり子が嗅ぎ付けていなかったとしたら、こんな具合に推理は進展しない。
いずれはそこへ辿《たど》り着くとしても、美津枝の半同棲≠フ相手を割り出すまでに、まだまだ時間がかかっただろう。
問題は裏付けだが、これは、いうなれば、帰納法でいけばいいわけだ。焦点は、課長氏一人に絞られる。この点も楽だ。
浦上は取材帳をテーブルに広げ、ボールペンを持ち直した。
「課長さんの名前を、教えていただきましょうか」
「教えるのは構いませんが」
取材帳を見て、急にるり子のトーンが落ちた。何だか、妙に慌てた顔になっている。まさか、これまでの話が、すべて推測というわけではあるまい。
「シロかクロかの判定は、週刊広場に任せてください。シロと判明すれば、最初に申し上げたように、この話は、一切耳にしなかったことにします。課長さんと美津枝さんがどのような男女関係を持っていたにしろ、犯行に無関係と分かれば、課長さんの名前は忘れます」
と、浦上が肉薄すると、
「何があっても、あたしのことは伏せてくれますね」
るり子は、さっきまでとは別人のような口調で念を押してきた。
浦上はちょっぴり嫌な気がした。ここまで課長氏非難の推理を展開しながら、最後に至っての逡巡《しゆんじゆん》はなぜか。
(時間を持て余しているハイミスの、ホラ話なんてのは困るよ)
浦上の内面を小さい危惧が過《よぎ》ったとき、るり子はコップの水を飲み、
「東京本社営業部の第三営業課長です」
と、口を開いた。
「何ですって?」
浦上の顔色が、同席する澄子もびっくりするほどに変わったのは、
「課長の名前は、堀井隆生《ほりいたかお》です」
と、るり子がつづけたときだった。
ふいに、浦上の声が乾いていた。
乾いた声で、浦上は畳み掛けた。
「おたくの本社は、東京駅近くの、八重洲《やえす》でしたね」
「はい、駅からビルが見えます」
「堀井さんの年齢は、四十ぐらいではありませんか」
「そうですね、三十八、九だと思います」
「第三営業課長と言いましたが、三年ほど前は、生産管理部で副課長をしていたのではないですか」
「記者さん、堀井課長をご存じですか」
るり子は目を見開くようにした。
澄子も意外という顔で、浦上とるり子の顔を見守っている。
が、だれよりもショックを受けたのが、当の浦上だった。
一昨日、龍河洞で、美津枝の実兄の一夫から美津枝の勤務先を聞き出したとき、どこかで耳にしたような社名だと思ったが、実は、三年前、浦上は『不二通商』東京本社を訪ねていたのである。
面会した相手が、生産管理部の堀井副課長だった。
浦上は、なおも早口でつづけた。
「さっき、課長の実弟が人殺しだとおっしゃいましたが、殺人は三年前の秋。事件が起きたのは、北海道の札幌ですね」
「ええ、そうでした。弟さんが逮捕されたとき、新聞に大きく報道されていたのを、覚えています」
「そうでしたか」
浦上は食べかけのステーキを片付け、キャスターをくわえていた。
ゆっくりとたばこの煙を吐きながら、
(真犯人《ほんぼし》は堀井隆生か。あの男か)
と、自分の中でつぶやいていた。
堀井が殺人犯であることを立証するためには、さらに、いくつかの手順を踏まなければならないだろう。
しかし、本来無関係な二つの点を一つに結び付けたことで、堀井の犯行は証明された、と、言っていい。浦上はそう思った。
関係のない二つの点の一つは、レンタカーの運転席で絞殺された高橋美津枝であり、一つは、第一容疑者に擬せられた浦上伸介にほかならない。
二つの点の中心に、堀井がいる。
(そうだったのか。あれが、人の恨《うら》みを買うってことか)
浦上は自分に向かって繰り返し、たばこの火を消した。
るり子も澄子も、きょとんとした目をしたままだ。
その二人の顔を交互に見て、
「犯人逮捕は時間の問題です。まったく、お二人のお陰です」
と、浦上は言った。
しかし、決着の背景は説明しなかった。瞬時には整理ができなかったからである。
ただ、確実に、終局の近付いていることだけが分かった。
奇妙な駒組で始まった一戦は、投了の場面も、これまでにない、変わったものになりそうである。
そう、物証提示以前の問題だった。無関係な二点を結ぶ中心が見えてきたという、その一事が、犯人像をくっきりと浮き彫りにしたわけだ。
*
浦上と澄子は、るり子と別れて、一足先に『ホテル・レキシントン』を出た。支払いは、もちろん浦上が済ませた。
午後の舗道に足を向けたとき、
「案内がてら、写真撮影につきあってくれませんか」
と、浦上は澄子に頼んだ。「夜の事件レポート」に使用するために、『不二通商』大阪支社と守口市の『パレス17』の写真が必要だ。撮影は、当然一人でできるわけだが、何となく、澄子と別れ難い感情があった。
澄子の目を通しての、美津枝という女性を、もっと聞き込んで置きたいとも思った。
澄子にも、異存のあるはずはなかった。
「不二通商は崇禅寺《そうぜんじ》ですから、阪急で、南方の次の駅ですわ」
と、澄子は言った。
『不二通商』大阪支社は、それほど大きいビルではなかった。真四角な感じの、四階建てである。
日曜日なので、正門は閉まっている。
ひっそりしたビルの撮影を終わったとき、
「教えてください。浦上さんが、犯人逮捕は時間の問題と見抜いたのはなぜですか」
澄子が遠慮勝ちに訊いた。
浦上はしばしの沈黙の後で、自分の中のものを整理するようにして、言った。
「記憶の彼方《かなた》に消えていた人間が、思いもかけない形で、姿を見せたということです」
「それが、堀井課長ですか」
「何度も言いましたように、ぼくと美津枝さんとの間には、何のつながりもありません。それなのに、ぼくは容疑者として罠にかけられた」
「犯人が一石二鳥を狙ったことは、あたしにもよく分かります」
澄子は、浦上と並んで崇禅寺駅へ引き返しながら、うなずいた。
「美津枝を殺す動機を持っていて、同時に浦上さんを陥れる可能性がある人、それが堀井課長ですか」
「ぼくを殺人犯に擬した、おかしな工作が、逆に、解決を早めたと言えるでしょうね」
「でも、変ですわ」
澄子は、崇禅寺駅の小さいホームに立ったとき、つぶらな瞳で浦上を見た。
「そうしたひどいことをする相手を、浦上さんみたいな方が、三日間も思い出さなかったなんて、どうしてですか」
「そう言われると困るけど、何ていうかな、記憶を整理する棚が、全然違っていたのですよ」
「プライベートに交際した相手ではなかった、ということですか」
「いえ、仕事上の、取材関係先も、当然考えてみました。だが、堀井隆生の場合は、ワンクッション置かれていたのですよ」
「浦上さんが取材なさったのは、札幌で人殺しをした弟のほうだったのですね」
と、澄子が、当然のようにそれを察したとき、焦げ茶色の阪急電車が、小さいホームに入ってきた。
澄子と浦上は阪急を乗り継ぎ、天神橋筋六丁目《てんじんばしすじろくちようめ》から地下鉄で守口市へ向かった。
『パレス17』がある寺内町は、地下鉄の駅からは少し離れた、京阪電鉄沿いだった。
混雑する商店街をいくつか横切っていくと、工事中のデパートがあり、目指す賃貸マンションは、保育所の裏手に建っていた。高級ではないが、窓の作りがしゃれていた。白壁の七階建てである。
浦上と澄子は、一階の管理人室に寄った。
「知りませんでしたよ。高橋さんが殺されたのですってね。昨日、刑事さんが見えました」
小柄な管理人は、最初からびっくりしたような顔の男だった。
浦上は型どおりに、取材の質問を進めた。
焦点は、美津枝が借りていた505号室に出入りしていた男だ。
「そうですね、亡くなられてしまったのだから、隠しておくこともないでしょうが」
と、管理人は、それでも少し言い渋ってから、浦上と澄子の顔を見た。二年前の入居当初から、男は人目を避けるようにして、美津枝の部屋に泊っていったという。
塚本るり子の証言は、簡単に裏付けられたわけだ。
管理人は、びっくりしたような顔でつづけた。
「監視していたわけではないので、詳しいことは分かりませんが、あの男性、月のうち、十日はやってきてたんじゃないですか」
「愛人という印象ですね」
「まあね。そそくさと、隠れるようにして、高橋さんの部屋に出入りしていたのですからね」
当然なことに、マンション内での美津枝の評判は、よくなかったという。
「人は見かけによらないというのですかね。高橋さんは飛び切りの美人だったし、人当たりもいい、はきはきした感じのいい女性でしたのに、男女の仲だけは別なのでしょうか」
「彼女が不二通商のOLだったことは、ご存じですね」
「もちろんです。入居のときの賃貸契約書にちゃんと記入してもらっています」
しかし、相手の男がどこの何者なのか、氏名も職業も一切分からない、と、小柄な管理人は言った。
「昨日来た刑事も、男のことを尋ねたでしょう」
「それはもう、しつこいったらなかったですよ」
管理人が、二年間定期的に505号室へ通っていた男の存在を告げると、年かさのほうの刑事は、根掘り葉掘り突っ込んで尋問してきたという。
浦上は、宇和島でにじり寄ってきたときの、矢島部長刑事の執拗さを思った。あのごっつい顔のベテランは、ここでも粘りを発揮したのか。
「で、どうしました?」
「いくら問い詰められたって、知らないことはこたえようがありませんや」
結局、矢島部長刑事たちの聞き込みは、男の容貌をメモするにとどまったようである。
浦上の見込みどおりになってきた。少なくとも現時点では、男の身元を割り出しているこっちのほうが、松山南署の捜査本部より一歩、先をいっている。これも、るり子という癖の強いハイミスのお陰だ。
最後に浦上は、男の、問題の容貌に触れ、自信を持って、こう尋ねた。
「どうでしょう、その男は、ぼくと体形が似ていませんでしたか」
三年前に一度だけ面会した堀井の記憶を思い返し、四日前に、松山港の方角へ逃亡したブルゾンの男の後ろ姿を重ねての質問であったが、これは、予想を裏切らないこたえが返ってきた。
管理人は言った。
「そう言われてみれば、中背で、記者さんによく似ていますよ。いや、そっくりだ」
それで、取材は終わった。
浦上と澄子は、『パレス17』を出た。管理人の前では終始沈黙を守っていた澄子が、重い口を開いたのは、京阪守口市駅の出札口に来たときだった。
「どう考えたって、不倫な関係ですわね。美津枝は、そんな堀井課長との結婚を、真剣に考えていたのでしょうか」
「欺されていたという、塚本るり子さんの指摘が正確でしょうね」
「信じられません。美津枝は、親友のあたしが言うのも変ですが、聡明な女性でしたよ」
「いまの管理人も漏らしていたではないですか。ぼくも、男女関係だけは別だと思います。いままでにも、この種の事件の取材で経験していますが、恋に夢中になって周囲が見えなくなるというのは、決して死語ではありません」
と、浦上は言った。それは浦上の体験的な実感であり、なぜか、美貌な女性ほど、その被害を受ける率が高いようである。
「美津枝も、何も見えない状態を、二年もつづけたというのですか」
澄子は口元を引き締めた。
「酷な言い方ですが、破局が訪れなければ、背景が見えてこないわけです。そして、それまでの関係が深ければ、深いほど、破局も悲劇的な結末を迎えます。美津枝さんの場合がそういうことになるでしょうね」
「土佐山田の、美津枝のお兄さんには、いつ、どういうふうにして知らせたらいいのでしょうか」
「ぼくもそれを考えました。すべてのベールが剥《は》がされるのは、堀井隆生に手錠がかけられるときでしょうね」
殺人容疑で、堀井は明日にでも逮捕されるだろう。それが、このときの浦上の読みだった。
「事件が解決したら、改めて龍河洞へ行くかな」
と、浦上がつぶやくと、
「そのときは、あたしもご一緒します」
澄子はぴょこんと頭を下げた。
浦上はほとんどとんぼ返りで、新幹線の上りに乗った。新横浜駅着十八時十分の、ひかり222号=B
浦上は東上する新幹線車中から、谷田の自宅へ電話を入れた。
6章 三年前の札幌
谷田実憲が指定したのは、新横浜駅構内に新しくできたコーナー、アスティだった。
新横浜駅は、谷田が住む菊名《きくな》の住宅団地に近い。休日の谷田は、白いポロシャツにスニーカーというラフな服装だった。
谷田はアスティの中の焼鳥レストラン『焼島倶楽部』で、ビールを飲みながら、大阪から引き返してくる浦上伸介の到着を待った。
日曜日の夕方だが、広いレストランはあまり込んでいない。
茶色いブルゾンを着た浦上が、ショルダーバッグをずり上げながら入ってきたのは、六時十五分になろうとする頃だった。
「せっかくの美人とのデートを、二、三時間で切り上げざるを得ないとは、残念だったな」
と、谷田が冷やかすと、
「真犯人《ほんぼし》が逮捕されたら、彼女と一緒に龍河洞見物の約束です」
浦上はにこりともせずにこたえた。
その浦上の注文したビールがテーブルに載ったところで、
「勝負は明日ですね」
浦上は、大阪の発見を改めて谷田に報告した。
「捜査本部の二人の刑事《でか》さんは、松山へ帰って行ったが、また出直してくることになるか」
谷田は、浦上取材の要点をメモし、
「今夜のうちに藤沢の自宅へ電話をかけて、淡路警部の耳に入れておこう」
と、自らに言い聞かせるようにした。
浦上は一息にビールを飲み干して、本題に入った。
「ちょうど三年前の事件《やま》は、北海道で発生した殺人《ころし》だし、登場人物は神奈川県とは無関係なので、先輩の記憶は薄いと思いますが」
「三年前の北海道の殺人が、三年後の四国の殺人にどのように関連してくるのかね」
「ぼくのせいですね。いえ、正確には、堀井という男が、三年の時間を超えて、札幌と松山を結んだことになりますが、ルポライターと加害者《かがいしや》の家族という関係が、こんな最悪な形で表面化してくるなんて、夢にも思いませんでしたよ」
「高橋美津枝さん殺しの動機は分かった。裏付けは、松山南署の捜査本部が取るわけだが、大筋は、塚本るり子さんが指摘したとおりだろう」
「問題は、ぼくのほうです」
「取材記者に対する、加害者の家族の怨恨か。しかし、取材するたびに恨まれていたのでは、オレたち、事件記者なんか、やっていられない」
「ぼくも、まさかと思っていたので失念していたわけですが、堀井の場合は、ちょっとケースが違うんです」
「週刊広場が抜いた事件《やま》か」
「最後は、堀井隆生の実弟|弘樹《ひろき》の、アリバイのないことが決め手となったのですが、殺人犯として、弘樹を割り出す、きっかけとなったのが、このぼくでした」
浦上は新しいビールを追加し、
「札幌、すすきののラブホテルで、クラブのホステスが絞殺された事件です」
と、三年前の秋を反すうして、つづけた。
「夜の都会でたまに発生する、行きずりの殺人《ころし》でした。アルコールが回って意気投合した男と、ホステスがラブホテルに投宿。そこで、男が変態的行為を要求したので、ホステスが拒否したのが発端です」
「この間、東京の池袋でもあったな。ばかにするなとホテトル嬢に冷笑されて、かっとなった男が、ホテトル嬢の首にベルトを巻き付けた殺人が」
「そう、そのケースです。堀井の実弟の弘樹は、当時三十二歳だったかな。妻と、二人の子供を東京に残して、札幌に単身赴任中でした。ええ、エレベーター関係の会社の、札幌支社に勤務していたのですが」
と、浦上がそこまで説明すると、
「思い出したよ。やはり、夜の事件レポートでまとめたやつだな」
と、谷田は言った。
「きみのほうこそ、忘れたか。掲載誌が出たとき、きみの自慢話を酒菜《さかな》に、横浜駅西口で一杯やったじゃないか」
「そうでしたかね」
浦上は首をひねった。
取材絡みで、谷田とはしょっちゅう飲んでいるから、いちいち覚えていない。
しかし、堀井弘樹が逮捕された殺人事件は、確かに、祝杯の価値を持っていた。
札幌北署の捜査本部が、迷宮《おみや》入りを観念して人員を縮小した矢先に、浦上がそれを突きとめたのだった。
特ダネは、多分に偶然に支えられていた。
そのとき、浦上が札幌にいたのは、ホステス殺人《ごろし》のためではなかった。取材の目的は、小樽で発生した火災保険金詐欺だった。
小樽の取材を完了し、札幌まで戻って、駅前のホテルにチェックインした浦上は、夜、大通公園のほうへ飲みに出た。
何軒かハシゴして、最後に立ち寄ったのが、狸《たぬき》小路《こうじ》の郷土料理屋だった。
タラバガニを注文し、地酒を重ねているときに、思いも寄らないチャンスが訪れた。大きい囲炉裏《いろり》の周辺が、客席となっている店だった。その変型のカウンターで、浦上と同席したのが、浦上と同じ年格好のサラリーマンである。
男は相当に酔っていた。後で知ったところによると、この男も、堀井弘樹同様、東京からの単身赴任組の一人だった。
酔いどれたこの男が、一向に解決を見ないホステス殺しを話題にしてきたのだ。
何となく雑談しているうちに、浦上を東京からきたルポライターと知って、
「ぼく、いまのあんたと同じように、あの夜、あの二人と同席したのです」
男は意外と真剣な口調になった。
男が言うのは、ラブホテルで殺人事件が発生した当夜であり、同席したのは、すすきののラーメン横丁の一軒だった。
そのとき、先方の男女も酔っていたし、同席した男も相当に酔っていた。
「でも、あのホステスのことははっきり覚えていますよ。ええ、水玉もようのワンピースでした。小柄で色白。ぼくの好みのタイプだったのですよ。後で、事件を報道する新聞を見ると、体型とか服装が、ぴったり同じではありませんか。ラーメン屋で会った女に、間違いないと思いましたね」
単にそれだけの話しかけであるなら、酒席のことではあるし、浦上も特別留意しなかっただろう。
ところが、男は決め手を持っていたのだ。絞殺されたホステスは、右人差し指に特徴があった。屈伸がスムーズにいかないのである。男は、それをきちんと目にしていたのだった。
「ラーメンを食べるときの箸を持つ指先がぎこちなかったので、覚えているのですがね」
と、男は言った。
男は、しかし、それを警察へ届けなかった。被害者である女性の身元は、すでにはっきりしているわけだし、犯人と思われる同席した男に関しては、まったく記憶がなかったからである。
「ほんと。連れの男が二十代だったのか、五十代だったのか、そのていどのことも覚えていないのですよ。ぼくも結構酔っていたし、好みのタイプの彼女にばかり目がいっていたもので」
容疑者の手がかりとなるものが何もないのだから、警察へ届けても意味がない。それが、男の解釈だった。
では、当のラーメン屋はどうか。ラーメン屋の従業員たちは、その二人の男女を、やはり記憶していないのか。
「そりゃ覚えていないでしょ。三十人ぐらい入れる店ですが、あのときは満席で、路地に立って待っている客がいたほどの混雑でしたから」
と、男は言った。
なるほど、これでは男が警察へ電話しても、大して参考にはならないと考えたのも当たり前か。
浦上はそう思ったが、ま、旅先で独りぽつんと飲むよりはいいだろうと考え直して、タラバガニを食べ、地酒を酌みながらの、男との雑談をつづけた。
取材記者としての幸運は、その、どうでもいいはずの余談の中にあった。
男は、脈絡を欠いていながらも、実は、女と連れとが交わした二、三の会話を耳にしていたのだった。
「一度、お店へ飲みにきてちょうだい」
と、女が話しかけていたこととか、しきりに相手の職業を尋ねていたことを、男は耳にしていた。
「で、女の相手は、何とこたえていたのですか」
「うん、いわゆる札チョン族さ、と、つぶやき、エレベーター関係の会社に勤めているようなことを言ってたと思いますよ」
浦上が取材帳を取り出したのが、そのときだった。
男の聞き違いでなければ、これは有力なデータといえる。
女の話しかけから察するに、相手は女のクラブへは一度も行っていないことが分かる。すなわち、行きずりの男だ。
そして、単身赴任中の、エレベーター関係の会社の社員。
ここから、浦上の活動が始まった。浦上は『週刊広場』編集長に経緯を報告して帰京を延ばし、翌朝、一番で、札幌北署へ行った。
的を絞っての捜査は、結論を出すのに時間をかけなかった。
札幌に支社とか営業所を置く、エレベーター関係の会社は六社だった。六社とも支社とか営業所の規模はそれほど大きくなかった。
その中から単身赴任の男子社員を抽出し、犯行当夜のアリバイを確かめる。
リストアップされた男子社員は、六社合わせて十二名であり、このうち半数は東京本社などへ出張して北海道を離れていたので、浦上の通報から数時間と経たないうちに、重要参考人が浮かび上がってきた。
任意同行を求められた堀井弘樹が、殺人容疑で逮捕されたのは、その日の夕刻である。
浦上が『不二通商』東京本社を訪ね、当時の生産管理部副課長堀井隆生に会ったのが、このときだ。正確には、弘樹の身柄が送検されてから二日後に、浦上は、『不二通商』に近い八重洲の喫茶店で、弘樹にとって唯一の実兄である、隆生の話を聞いた。
行きずり、変態的色情を出発点とする殺人なので、原稿をまとめる前に肉親に会って、一歩でも深く弘樹の人間像に接近したかった。
その、正確を期すための取材であったが、あれがいけなかったのか。
*
「いい悪いの問題じゃない」
谷田は二本のビールを追加注文して、ピース・ライトに火をつけた。
「たった二人の兄弟なのに、弟は変態殺人で服役中。兄貴は不倫の後始末で、OL殺しか。この兄弟には、よほど汚れた血が流れているのだろうな」
「その上、行き掛けの駄賃じゃあるまいし、ぼくを罠に掛けるなんて」
浦上は釈然としない面持ちで、三年前に一度だけ会った、堀井隆生を思った。確かに、外観が似ているのである。顔付きは全然違うが体型が同じだ。
三年前のあのときは考えもしなかったけれど、遠目に見れば、堀井と浦上は、同一人と錯覚を与えるほどに背格好が似ている。意識的に同じ服装で現われれば、見間違える可能性十分だ。
その一事から推しても、霧雨の松山港に消えたブルゾンの男は、堀井に相違ない。
堀井本人が、直接手を下した、美津枝殺しだ。
「これだけ血が汚れた兄弟ならば、きみを恨んでくるのも、当然だろうな」
「ぼくが狸小路の郷土料理屋で、余計なことを聞き込まなければ、弟は殺人者として逮捕されることもなかったし、妻が、子供を連れて実家へ帰ってしまうという事態も生じなかった、と、それを恨んだわけですか」
「堀井というのは、女房の血縁で出世コースに乗っていた男だろ」
「自暴自棄になった挙げ句が、大阪支社出張を利用しての、美人OLとのオフィスラブですか」
「無責任というか、こんないい加減な男が、結構いるんだろうな」
「何もなければ、汚れた血が表面に出ることもなく、堀井だって、課長から部長へと、まっとうに出世コースを歩んでいたのでしょうね」
「そういうことだよ。三年前の秋、単身赴任中の実弟が、夜の札幌で、そのホステスと擦れ違わなかったら、殺人は発生しなかっただろうし、堀井の仮面が剥《は》がされることもなかった」
「世間にも、家族にも歪《ゆが》んだ実体を晒《さら》すことなく、一生を終えるってことですか」
「オレたちだって、でかい口はたたけないが」
堀井みたいな男が、結構紳士面して通っているんだろうな、と、谷田は繰り返した。
「堀井は、きみと体型が似ていなかったとしても、美津枝さん殺しを決意したとき、容疑者としての罠を、きみに仕掛けることを考えたに違いないと思うよ」
と、谷田はつづけた。谷田の指摘は、堀井の完全なる逆恨み、ということにほかならなかった。
自分勝手なオフィスラブで、部下のOLを弄《もてあそ》び、別居中だった妻との縒《よ》りが戻ると、一方的に愛人関係を絶った男。
諦め切れない美津枝が大阪を飛び出してくると、冷めたく、殺害を決意した男。
堀井は、自分中心にしか、ものを見れない男、ということになろう。
「それにしても、ぼくを嵌《は》めるために、いろいろ考えてくれたものだし、また、堀井は実行力もあるってことですね」
「そういう人間なんだろ。だが、こうなってみると堀井は、浦上伸介の名前が浮上しないことを、不思議に思っていやしないか」
「あるいは報道されないだけのことで、ぼくが捜査本部に連行されるのは時間の問題、と、推移を見守っているのかもしれませんよ」
「どっちにしても、堀井は、守口市のマンションを背景とする情事の隠蔽には自信を持っているわけだ」
「そういうことですね。美津枝さんサイドには手掛かりなし。伊東建設の私用ロッカーとか、井田マンションの家宅捜索《が さ い れ》でも、堀井を匂わすものは何も出てこなかったのですから」
「犯行手口を見ても分かるが、堀井は相当に計算高い男だな」
「そりゃそうです。単なる遊び相手なら東京本社にもいるでしょうに、大阪支社勤務のOLに手を出したのも、計算ずくでしょう」
「計算外が、美津枝さんと机を並べていた、塚本るり子さんか」
「ああしたハイミスには、やたらに口が軽いのと、そうでないタイプの二通りがあるんですね」
「るり子さんの口が軽ければ、二人のうわさは社内に広まり、この男女関係の結末は、全然別な様相を呈していたか」
「彼女にしてみれば、二人の関係を察知していて沈黙していた結果が殺人にエスカレート。それで、ぼくに打ち明ける気持ちになったのでしょうか」
「そういうことかもしれないね」
「先輩、殺人現場には、もう一つ物証があるわけですね」
浦上は話を進めた。
美津枝を絞殺したレンタカーの助手席のドアからは、変体紋が採取されているのである。これは、浦上の指紋を残す分県地図とか王将駒と違って、移動不可能な指紋だ。変体紋の当人が、そこへ行かない限り、指紋を遺留してくることはできない。
「うん、その真新しい変体紋が、堀井の犯行を不動なものとして、裏付けてくれるだろう」
谷田は大きくうなずいて、二本目のたばこに火をつけた。
前科、前歴のない変体紋なので、指紋から犯人を割り出すことはできなかったが、堀井という男を突きとめたいま、堀井の犯行を特定するには、大いに役立ってくる。
しかし、物証に関係なく、終わったな、と、浦上は考える。物証は、堀井を逮捕、送検し、裁判を維持するために不可欠であるが、浦上にとっては、堀井が、本来無関係な二つの点を結んだだけで、十分だった。
明日、月曜日の逮捕なら、木曜日の校了にゆっくりと間に合う。
(さて、どう書き出してやるか)
浦上がビールを飲み干して、一点を見詰めると、
「淡路警部の自宅へ電話してくる」
谷田はくわえたばこのまま、立ち上がっていた。
*
翌九月四日、月曜日。
神奈川県警捜査一課の二人の刑事が、湘南電車を終着の東京駅で下車、八重洲中央口の改札を出たのは、午前十一時を過ぎる頃だった。
刑事は『不二通商』東京本社へ電話をかけて、駅からの道順を聞いた。
改札口から数分とかからない場所だった。
八重洲地下街を行き、指示されたとおりに右手の階段を上がると、目の前に、細長い八階建てのビルがあった。
「内偵は、堀井本人に気付かれないようにやってくれ」
それが、淡路警部の指示だった。
堀井隆生に対しての直接尋問は、松山南署の捜査員が担当する手筈《てはず》になっている。これは、今朝の打ち合わせでの決定であり、松山からは、間もなく二人の捜査員が、空路東京へ来ることになっている。
協力態勢にある神奈川県警の目的は、堀井の指紋入手と、犯行日(八月三十日午後六時三十分頃)のアリバイ確認だった。
この種の聞き込みは、こうして、二人の刑事が一組になって行なわれるのが普通だが、先方にそれと悟られてはまずいので、一人は、地下街を上がったところで待つことにした。実際に本社ビルに入って行くほうの刑事にしても、できるだけ身分は隠すことにした。
だが、身分を伏せて、どうやって堀井に接近するか。受付係にだけは警察手帳を示すべきか。
刑事はためらいながら、ドアを押したが、すべては杞憂《きゆう》に終わった。
受付に立って、
「第三営業課長は在社されていますか」
と、問いかけると、
「もう出掛けました」
若い女子社員は、こちらの身分も確かめずに、既定事実のようなこたえ方をした。
出掛けたというのは、一人堀井のみのことではなく、営業部の部長以下、幹部全員を指していたのである。
女子社員は、受付に現われた刑事もまた、同一目的で来社したと思い込んでしまったらしい。
一瞬、刑事がことばに窮していると、
「和平興産社長の葬儀は、青山斎場で、正午からということになっております」
と、女子社員はつづけた。
その葬儀に列席するため、営業部の幹部は、全員が斎場へ赴《おもむ》いているということだろう。
「あ、そうでしたか」
刑事は一礼して、『不二通商』を出た。
「何があったのか知らんが、ごたごたした葬儀の場なら、かえって都合がいいじゃないか」
と、街路樹の下で待っていたほうの刑事が言った。
二人とも、平服だが、いまの場合はやむを得ない。実際に焼香するわけではないのだから、人込みに紛れ込んでしまえば、何とかなるだろう。
二人の刑事は地下鉄の駅へ急いだ。
地下鉄の乃木坂《のぎざか》で降りた二人の刑事は、陽当たりのいい道を青山斎場へ急いだ
告別式は正午から午後一時までなので、十分、時間に間に合った。
花輪がずらっと並んでおり、相当に、規模の大きい葬儀だった。
そして、見込みどおり、斎場は、聞き込みに適していた。列席者たちはお互いに、未知の人が多く、それが逆に無警戒な空気を醸し出していた。人間関係に、ある種の間隙があった。
『和平興産』の社長が、急性心不全で他界したのは、八月三十日の午前だという。他界してから五日後に本葬が営まれたのは、それだけ準備に手間がかかったということであり、故人の交際の広さを物語っていよう。
そして、『和平興産』が二部上場の商事会社で、『不二通商』の主要取引先であることを聞き込んだ刑事は、的を、堀井課長一人に絞った。
「堀井課長ですか、ええと、あ、あそこにいます」
と、問いかけた二人を刑事とも気付かずにこたえたのは、『和平興産』の社員だった。
社員が視線を向けた先には受付用の天幕が張られており、天幕の横に何人もの男が立っていた。右端に、中背、中年の男がいる。
フォーマルスーツの堀井は、いかにも幹部社員らしい物腰で、同じ年配の数人の男性とことばを交わしている。落ち着いた表情だった。
「殺人《ころし》の犯人《ほし》には見えないね」
と、刑事の一人がつぶやいたとき、『和平興産』の女子社員が、紙コップに入れたジュースを、盆に載せて運んできた。
数人の女子社員たちは、大勢の列席者一人一人にジュースを勧めている。天幕の横にいる堀井たちも、紙コップのジュースを受け取った。
「いいタイミングだ。堀井が手にしたあの紙コップを頂戴しよう」
「よし。堀井の指紋入手のほうは、ぼくが責任を持つ」
刑事の一人は、そんなつぶやきを残して、さり気なく天幕に近付いて行った。
もう一つの目的は、八月三十日のアリバイの確認だ。堀井本人に気付かれないよう聞き出すには、どうすればいいか。
こればかりは、よその会社、たとえば『和平興産』の社員に尋ねてもはっきりしないだろう。矛先を『不二通商』営業部に向ければ、堀井に発覚するのは時間の問題となってしまう。
そこに一人残った刑事は、しばらく逡巡《しゆんじゆん》していたが、やがて、ポイントは話の持っていき方だと思い直した。
少なくともいま、『不二通商』営業部に幹部社員は一人もいないのである。さっきの受付係と同じことで、案ずるより産むは易しかもしれない。
刑事は自分にそう言い聞かせて、控え室の電話コーナーに行った。
営業部の女子社員が、先方の電話口に出たとき、刑事は自分を名乗る代わりに、
「斎場からですが」
と、口にしていた。
「恐れ入りますが、堀井課長さんは、もうお出掛けになられましたか」
それが、瞬間的に、刑事の思い付いた話の導入だった。
電話を受けた女子社員は、もちろん、課長はとっくに会社を出た、とこたえてくる。
問題はその後だ。
「いろいろお世話になりまして」
と、刑事がことばをつづけたのは、最初の「斎場からですが」を、受けてのものだった。刑事は無意識のうちに、『和平興産』の社員を装っていた。
その上で、言った。
「このたびは、何から何まで、すっかり堀井課長さんにご迷惑をおかけしました」
これも、もう一つの導入のつもりだった。しかし、ここで、思いもかけない反応があった。
女子社員は、こっちの話を折るようにして言った。
「社長様がご危篤《きとく》と伺って、信濃町《しなのまち》の病院へ駆け付けたのは堀井課長ではありません」
同じ営業部だが、最初に見舞ったのは、吉村課長と、伊藤課長、それに吉田課長の三人だったというのである。
「あ、そうでしたかね」
刑事が、苦し紛れのことばを返すと、
「堀井課長は、社長様がお亡くなりになったあの日、出張中で、東京にはいませんでした」
と、女子社員はこたえた。
「そうそう、堀井課長さんは、大阪支社へ行ってらしたのでしたね」
これまた必死に話を合わせると、
「いいえ。堀井課長は八月二十九日から松山事業所へ出張していました」
女子社員の事務的な説明が返ってきた。
「松山?」
刑事の声が高くなった。
「堀井課長は、四国で社長様のご逝去を知って、予定を切り上げて帰ってきたのです」
とつづける女子社員の声が、刑事の中で遠くなった。
予定を変更して帰京した堀井は、三十一日に出社してきたという。
いとも簡単に、足取りの点からも、堀井は犯行を立証されてしまった、と言えようか。
あるいは犯行日(八月三十日)の松山不在を、堀井なりに工作していたのかもしれないが、主要取引先である『和平興産』社長の死が、黒い企みを、根底から崩してしまったのである。
浦上伸介を犯人に擬して、完全犯罪を意図した堀井にとって、『和平興産』社長の他界は、何と強烈なアクシデントだったろう。
松山不在≠主張するために考えられる工作は、おそらく、東京に帰っていたということであろうが、東京にいたのであれば、堀井は営業部の他の課長、吉村や伊藤や吉田の後を追って信濃町の病院、あるいは田園調布の社長宅に出向いていなければなるまい。
『和平興産』社長の臨終に立ち会えなかったことで、堀井は三十一日の出社を(犯行日に東京にいなかったことを)明示してしまったわけである。
これで、紙コップに付着した堀井の指紋が、レンタカーの遺留指紋と一致すれば、松山からの捜査員の到着を待って、逮捕令状の請求という段取りになる。
だが、最後の瞬間まで、ことは慎重に運ばなければならない。
刑事は電話を切るとき、
「あ、堀井課長さんはここにお出でした」
と、いかにも、いま気付いたというような言い方をした。
アリバイ確認のこの電話を、堀井に悟らせないための努力だった。
斎場から電話をかけた当人が、この場で課長に出会ったというのであれば、後で女子社員が、電話があったことをわざわざ堀井に告げることもあるまい。そう考えての、刑事の工作だった。
「おじゃましました。後は堀井課長さんと直接お話します」
刑事は、最後まで『和平興産』の社員を装って、受話器を戻した。
もう一人の刑事は、堀井がジュースを飲み干したあとの紙コップを、すんなりと手に入れてきた。こっちは、いろいろ工作した電話聞き込みよりも、ずっと簡単だった。
二人の刑事が、地下鉄、東横線と乗り継いで、神奈川県警本部捜査一課に戻ったのは、壁の大時計が、午後一時半を指す頃だった。
紙コップから採取された指紋は、変体紋だった。殺人現場に残された真新しい指紋とぴたり一致した。
しかし、鑑識からの報告を受けたとき、淡路警部も、青山斎場から帰った二人の刑事も、特別な反応は示さなかった。鑑識結果が不一致とでも出れば、慌てたであろうが、すべて見込みどおりなのだ。
淡路警部は、問題の指紋用紙に二人の刑事が、指紋採取時立会人の署名をするのを待って、庁内電話を取った。
電話をかけた先は、記者クラブ『毎朝日報』のコーナーだった。
谷田を呼び出すと、
「浦上さんは自力で、あらぬ疑いを完全に晴らしましたよ」
と、指紋の一致と、堀井が松山事業所へ出張していた事実を告げ、声を低くして、こう言い添えた。
「谷田さん、かわいい後輩のお陰で、またスクープをものにしたね」
*
松山からのANA588便≠ェ、羽田空港へ到着したのは、それから間もなくだった。犯人逮捕は必至という見込みなので、今回、松山南署が送り込んできたのは、ベテランの矢島部長刑事だった。
矢島とともに、当初浦上伸介をマークした若手刑事が一緒に東京へきた。二人は、大阪に引きつづいての、連日出張である。
それでなくとも、ごっつい顔のベテランは、眉間にしわを寄せるようにして、到着ロビーを出た。
矢島が渋い顔をしているのは、守口市の『パレス17』505号室に出入りしていた男の存在を聞き込みながら、堀井隆生を割り出せなかったためである。
「浦上ってルポライター、やっぱりウデは確からしいな」
矢島は吐き捨てるようなつぶやきを、漏らしていた。初めて東京の土を踏んだことで、ルポライターに後《おく》れをとった悔しさが、改めて、部長刑事の胸を過《よぎ》ったようだ。
しかも、浦上は、ただのルポライターではない。最初は、殺人の容疑者として浮上してきた男ではないか。
矢島は横浜駅東口行きのバス乗り場を確認してから、神奈川県警へ電話を入れた。
淡路警部との電話は、長いものになった。
長い電話の結果、行き先は『不二通商』東京本社営業部第三営業課と決まった。
「東京駅へ出るには、モノレールが便利だそうだ」
矢島部長刑事は、神奈川県警がキャッチした新情報と、淡路警部から受けたアドバイスを若手刑事に伝え、もう一度カード電話を取った。
ダイヤルをプッシュした先は、松山南署の捜査本部だ。
「神奈川県警が、スピーディーに動いてくれました」
矢島は捜査本部長である署長に向かって、最後の追い込みである旨を報告し、
「これから堀井に会いますが、アリバイがあいまいなら、引っ張ってもいいでしょうか」
と、許可を求めた。
「任意同行か」
「とりあえずは、最寄りの署へ連れて行くことになりますね」
「分かった。警視庁捜査共助課へは、すぐに要請電話を入れておく。後の判断は、部長刑事《ちようさん》に任せる」
電話を伝わってくる署長の声も、次第次第に高ぶっていた。
「ところで部長刑事《ちようさん》、堀井が八月二十九日から松山に来ていたのであれば、千舟町のスーパーで、特価品のベルトを買ったのも、堀井本人だったことになるね」
「凶器の調達から、殺人《ころし》の実行まで、すべて、堀井が独りでやった、私もそう思いますよ」
「浦上さんを犯人に陥れるための準備工作も、もちろん共犯なしか」
「単独犯行なら、秘密漏洩の危険も少ないですからね」
「部長刑事《ちようさん》、言うまでもないが、尋問は慎重の上にも慎重に頼むよ。こういう被疑者だ、できるだけ完璧な形で、引っ張りたい」
と、署長は念を押すようにして、言った。
早急な自供に追い込むと、裁判の段階で、有能な弁護士が現われて、ひっくりかえされたりする。狡知な計画犯罪を実行した男だけに、最後の最後まで、手は抜けない。
署長はそれを気にかけたわけだが、思いは、矢島とて同じだった。
遠来の二人の刑事は、モノレールで浜松町《はままつちよう》へ出、JRに乗り換えた。
若いほうの刑事もまた、東京は初めてに等しかった。高校時代の修学旅行で、一度来たことがあるだけだった。
新橋を過ぎ、林立する近代的なビルと高速道路が見えてくると、
「やっぱ、大都会ですね」
若い刑事は、食い入るように、車窓に目を向けていた。
東京駅の構内から『不二通商』東京本社に電話を入れると、青山斎場に出向いていた社員は、全員帰社していることが分かった。
もちろん、第三営業課長の堀井隆生も、机に戻っていた。
「指紋は最後の切り札だ。きみ、うっかり口に出すんじゃないぞ」
矢島は若い刑事に注意して、『不二通商』へ向かった。
矢島は、緊張感が足元から這《は》い上がってくるのを感じていた。東京が未知な都市ということもあろうが、こうした計画犯罪の被疑者と対決するのもまた、長い刑事生活の中で初めてなのである。
*
葬儀の場から職場へ戻った堀井課長は、普通のダーク・スーツに着替えていた。
「刑事さんが、何の用事ですか」
エレベーターで一階まで下りてきた堀井は、受付の前に立つ二人を見て、来訪の意味が見当つかないという顔をした。
どこにも、慌てた素振りは感じられない。なるほど、これが完全犯罪を立案実行した男か。
矢島部長刑事は、そんな目で、初対面の堀井を見た。
背格好は、確かに浦上伸介にそっくりだ。しかし、印象は、全然別なものだった。
服装にあまり気を遣わないルポライターと違って、営業課長は純白なワイシャツで、柄物のしゃれたネクタイが似合っている。
髪もきれいに七三に分けているし、左の薬指には、金色に光る指輪があった。接客態度も、口の利き方も、飽くまでも丁重である。
殺人者の影など、どこにもちらついていない、と言っていい。ともかく、堀井は落ち着いている。
「受付で、立ち話というわけにもいかないのですが」
と、口調を改める部長刑事のほうに、緊張が尾を引いている。
「私はここでも構いません。用件をおっしゃってください」
堀井は二人の刑事を見て、さっきまで葬儀に列席していたことを言い、そのしわ寄せで仕事がたまっているのだと言った。
どうしても時間がとれないというのなら、仕方がない。
矢島部長刑事は、遠回しな説明は避けた。
「ここで、高橋美津枝さんのことを伺うわけにはいかないでしょう」
「高橋美津枝さん?」
堀井は表情を変えなかったが、こんな問答で時間を食ってはかなわない。
「一昨日、守口市のマンション、パレス17へ行ってきました」
矢島がその一言に力を込めると、初めて、かすかではあるが、堀井の目に、動きが生じた。
「ちょっとお待ちください」
堀井は受付の電話を取ると、営業第三課へかけ、受付の女子社員の視線を気にするようにして、短いことばを交わしていたが、すぐに受話器を戻した。
「近くに、静かな喫茶店があります」
堀井はそう言い、二人の刑事を先導して、『不二通商』ビルを出た。
堀井は街路樹の下の舗道を歩いて、三軒先のビルに入って行った。二階に、落ち着いたムードの喫茶店があった。
広い店内は空いていた。一番奥のボックスに腰を下ろすと、車の往来が激しい道路越しに東京駅が見える。
「隠し立てしても、仕様がないようですな」
堀井は、注文したコーヒーが三つ、テーブルに載ったところで、金のダンヒルでラークに火をつけた。たばこを挟む指先は、女性のように白くてしなやかだった。
「美津枝も」
と、呼び捨てで言いかけて、
「高橋さんも、とんだことになったものですね」
堀井は、改めて、二人の刑事の顔を見た。それは、(美津枝のことは承知しているが)事件そのものは自分には関係ない、と、言外に匂わせる話しかけだった。
守口市の『パレス17』を、いきなり突き付けられたので、美津枝との関係だけは認めざるを得ないと観念したようである。しかし、松山の犯行については、しらを切るつもりなのか。
そう、堀井の態度は、無実で一貫していた。
堀井は言った。
「刑事さん、高橋さんのことで話を聞きたいとおっしゃいましたね」
「相当、深い関係にあったようですな」
「深いか、浅いか。それは、人、それぞれの見方によっても異なるでしょうが、私にとっては、もう過去のことです。家庭の平和を乱すような形で、過去を表面に出して欲しくありません」
「あなたは、親しくしていた女性が殺されたというのに、そんな自分勝手な言い方しかできないのですか」
「私は、新聞報道以上のことを知るわけもありませんが、各新聞とも、殺人の背景は男女関係の縺《もつ》れにあるらしいと、報道していたと思いますが」
「われわれもそう見ています」
「だったら、高橋さんには、現在親しく交際する男性がいたということでしょう。過去の相手であった私などの、出る幕ではありません」
「高橋美津枝さんと、あなたの交際は二年前からだそうですな」
「こうして、会社へ訪ねてこられたのは、私のことを、十分にお調べになった結果でしょう。でしたら、くどく説明することはありませんが、私と高橋さんは、半年前にきれいに別れました」
「長いこと親しくされていたのに、別れた理由は何ですか」
矢島部長刑事は、承知している事実を、あえて尋ねてみた。
堀井は隠さなかった。
「私は、ある事情で妻や子供と別居していました。高橋さんと間違いを起こしたのは、その間のことでした」
「高橋さんとの間で、結婚を話し合ったことはなかったのですか」
「刑事さん、何か誤解なさっているのではありませんか。私と高橋さんは、将来を誓い合うような、そんな関係ではありません」
「遊びだったというのですか」
「高橋さんも、そのつもりだったと思いますよ。妻子と別居中とはいえ、これはある事情があってのもので、私は離婚していたわけではありません」
「だから、奥さんと子供さんが家に戻ってきたので、高橋さんとの関係は清算された、と、こういうのですな」
「家内が戻ってきたのに、他の女性との関係をつづけるなんて、それこそ背信行為じゃありませんか。そんなことはできません」
堀井はたばこを消した。
勝手な理屈だった。が、ともあれ半年前に手を切って以後は、一度も、美津枝には会っていない。それが堀井の、平然とした主張だった。
「高橋美津枝さんが、その後会社を辞めた理由も、ご存じないとおっしゃるのですか」
「理由も何も、私は、彼女が退社したこと自体、今度の事件が起こるまで、知りませんでしたよ」
「高橋さんが、三ヵ月前に横浜のマンションへ転居されたことも、本当に聞いていないというのですか」
「それも新聞報道で知ったのですが、彼女が東京へ転職していたなんて、それこそ寝耳に水でした。横浜に住み、東京で働いていたのに、私に電話一本寄越さなかったということは、お互いの関係が、完全に過去のものとなった証明ではないでしょうか」
堀井の態度は一定している。
美津枝にとって、自分は過去の人間だ。新聞が報道するように、殺人の動機が男女関係の縺《もつ》れにあるならば、犯人は過去≠フ自分ではなくて、転居、転職した美津枝の、現在≠フ生活の中にひそんでいるのではないか。
堀井ははっきりとそう言い、
「横浜のマンションへ移って以来の、彼女の男性関係はどうなっているのですか」
と、反問してくる始末だった。
矢島部長刑事は、苦り切った表情で、コーヒーに口をつけた。コーヒーも苦い。
(こいつ、こんな言い分で通せると思っているのか)
ちらっと若い刑事を振り返ったベテランの目が、そう語っている。
しかし、若い刑事にも注意したように、指紋を叩き付けるのは、まだ早い。その前に、踏まなければならない手順がある。
矢島は、気を鎮めるように、ゆっくりとコーヒーを飲んでから言った。
「ところで堀井さん、あなたは、八月二十九日から、四国へ、それも松山事業所へ出張されていたそうですな」
「そんなことまで、調べがついているのですか」
堀井は参ったなあ、と、苦笑したが、しかし、顔色を変えるわけでもなく、
「話がこうなった以上、松山出張のことは、誤解を避けるためにも、私のほうから申し上げておくべきでしょうね」
と、また新しいラークに火をつけた。
矢島もセブンスターをくわえ、
(どんな言い訳を考えたんだ)
というような視線を、堀井に向けたままライターを取り出した。堀井のようなダンヒルではなく、こっちは安物の百円ライターだった。
完全犯罪を意図した堀井に読み違いがあったとしたら、大事な取引先である『和平興産』社長の、急死というアクシデントだ。
「こればっかりは、計算外でしょう。他の営業課長と違って、堀井が和平興産へ行ったのは、三十一日になってからです。三十日には、見せたくても、顔を見せることができなかった。いやでも、犯行日に松山にいたことを証明する結果になるのではないですか」
と、淡路警部はさっきの電話で言った。矢島部長刑事も同感だ。
堀井は、この予想もしなかったであろう事態を、口先で、いかに補填《ほてん》するつもりなのか。
「どういう因縁でしょうか。彼女が殺されたあの日、私は確かに松山にいました」
堀井はたばこの煙を吐き、矢島部長刑事の目を、まっすぐに見て話し始めた。口調も、態度も正常だった。いささかの乱れも、感じられない。
7章 遮断のアリバイ
「松山出張に際しての、私の常宿は、道後温泉の菊水本館です」
と、堀井隆生は言った。
八月二十九日は、午前中松山市に到着、夜まで『不二通商』松山事業所で仕事をし、午後九時頃、事業所の車で、道後温泉へ送ってもらったという。
松山事業所は、伊予鉄三津駅の近くだった。
「事業所へ入ってからは、夕方まで、一歩も外へ出なかったのですか」
と、矢島部長刑事が尋ねたのは、千舟町のスーパーストアで売られた、凶器のベルトとの関連からだった。
ベルトを買いにきたのは、いまや、堀井以外には考えられない。堀井は少なくとも一度、事業所から外出していなければならない。
「はい、どこへも出ませんでしたよ。それが何か?」
堀井はそう言いかけて、
「そうそう、用事ではありませんが、昼食のために、小一時間外へ出ました」
と、言い直した。
三津駅前には、三津浜港近くまでつづく、高いアーケードの商店街がある。堀井はその商店街の中の大衆食堂でオムライスを食べたというのだが、外出した時間を確かめると、
「ああ、あの日はちょうど昼休みに、東京本社からファックスで地盤改良材QCBのデータが送信されてくることになっておりましたので、午後一時を過ぎてから、出かけました」
ということだった。
ぴったりではないか。三津駅周辺から松山市の中心部までは、車でも、伊予鉄、あるいはバスでも、三十分前後だ。
千舟町のスーパーのレジは、問題のベルトが売られた日時を、八月二十九日の十三時三十二分と記録しているのである。
(まず、一つはウラが取れたな)
矢島部長刑事は、火をつけたばかりのたばこを消した。
「考えてみれば、おたくの会社の松山事業所と、高橋美津枝さんが絞殺された現場は、それほど離れてはいませんな」
「ぼくも、新聞で知ってびっくりしました」
「本当に、松山で美津枝さんと会ってはいないのですか」
「やはり、私を疑っていらっしゃるのですね」
「ま、美津枝さんと、あなたが、お互い松山にいたのは偶然、といえば、それまででしょうが」
「同じ日に、同じ松山にいたというだけで疑われるなんて、心外です。第一、私には、彼女を殺さなければならない理由がありません」
「半年前に手を切られたとおっしゃるが、別れの形に、問題はなかったのですか」
「刑事さん、勘違いなさらないでください。たとえば、長年連れ添った夫婦が離縁する、というようなケースとは違うんです」
「軽くつきあって、軽く別れた、ということですか」
「彼女の転居、転職が何よりの証明ではありませんか。私と美津枝、いえ高橋さんは、いまや完全に別々な道を歩んでいるのですよ。半年前ならまだしも、どうして、いまになって、私とあの人が争ったりしなければならないのですか」
「堀井さん、あなたは、今回に限らず、よく大阪や松山に出張されるようですが」
矢島部長刑事は話題を変えた。欠かせない確認は、『不二通商』では、出張の日程を、どのようにして決めるかということだった。
堀井が真犯人《ほんぼし》であるなら、犯行日の八月三十日を中心点に据える、二十九日からの松山出張のスケジュールは、堀井自身が決定したものでなければならない。
犯人に擬した浦上伸介の旅程は、もちろん堀井の自由にはならない。堀井のほうで、『週刊広場』の取材日程に合わせるしかないわけだ。
「なぜそんなことを訊かれるのか分かりませんが」
と、堀井ははっきり不機嫌を顔に出した。
「出張は、重役とか部長、上司の命令によることが多いですね。課長会議の案件を、私のほうから申告する場合もあります」
「いつ出発して、いつ帰るかということも、上から言ってくるのですか」
「それは、仕事の内容により、ケースバイケースですね」
「今回の松山出張はどうでしょう?」
「刑事さん、何としても、私の疑いは晴れないようですな。残念ながら、八月二十九日に松山事業所へ行くスケジュールは、部長命令ではありません。私自身が、松山事業所長や下請け業者と打ち合わせて決めました」
堀井は、日程の決定に、自らの意思が動いていたことを認めた。これは重大なポイントなので、できるなら伏せておきたかったであろうが、
(隠すのは無理だな)
と、矢島部長刑事は感じ取っていた。もちろん、この場を言い繕《つくろ》うことは、容易だろう。
だが、調べれば、すぐに分かることだ。後で発覚すれば、かえって容疑が濃くなる。
(出張日程も、意のままか)
状況証拠ではあるが、もう一つ、裏付けが出てきたな、と、ベテランは自分の中でつぶやいていた。
その矢島部長刑事が、堀井の表情の向こう側に、微妙な動きがあることに気付いたのは、それから間もなくだった。
堀井は、再度、ラークに火をつけたのである。いくらヘビースモーカーだったとしても、吸い過ぎではないか。
初対面なので、堀井が、普段どのような顔をしているのかは知らない。しかし、これだけたばこを吹かすのは、落ち着いているように見えながら、実は、平常心を欠いているためではないのか。
矢島は、ベテランのキャリアでそう捕らえていた。
松山出張の日程をだれが決めたのか。この質問は、こっちの予想以上に、堀井に打撃を与えたのかもしれない。
矢島はそんなふうにも考えてみたが、しかし、微妙な動きは、別な意味を持っていたのだった。
堀井はたばこを吹かしながら、言った。
「私がこうした取調べを受けるのは、他に容疑者がいないからですか」
「ちょっと待ってください。これは取調べではありません。参考までに、お話を伺っているのに過ぎません」
「いまも申し上げたように、彼女にとって、私は過去≠フ男です。現在≠フ男はマークされていないのですか」
「現在≠フ男?」
「彼女には、一緒に旅行をするほど親しい交際相手がいたって、ことでしょう」
横浜に移ってからの美津枝は、どういう男性とつきあっていたのか、と、堀井は、大きくたばこの煙を、吐いた。
ようやく、堀井の言わんとする要点が分かってきた。
(そうか。浦上伸介の名前が一行も報道されないので、堀井のやつ、探りを入れてきたか)
矢島のみでなく、矢島の横でメモを取る若い刑事にもぴんときた。
あれだけデータをそろえておいたのに、捜査陣が容疑者浦上伸介≠無視するのはなぜか。
それが、堀井には何としても、釈然としないのであろう。浦上に容疑がかけられることで、最終仕上がりを見せるはずの、完全犯罪計画なのである。
しかし、堀井のほうから「浦上」とか、『週刊広場』を口に出すわけにはいかない。
(こいつ、焦《じ》れてるな)
矢島は、胸の奥でほくそ笑んだ。この焦燥心を、うまく自供に結び付けることはできないか。
ベテラン部長刑事の脳裏を占めるのは、任意同行≠セけだ。
矢島は、堀井がたばこを吸い終えるのを、じっと待った。
堀井は、再度、次の一本に火をつけるか。それとも、そこで変化が生じるか。
*
確かに、たばこをもみ消したときに、動きが出た。
だが、それは、刑事の期待とは、まったく相反するものだった。
「浦上伸介」の代わりに、堀井が持ち出してきたのは、もっと直截的な内容だった。すなわち、犯行時の、松山不在の証明である。
堀井は、浦上を犯人に仕立てることによって、身の安全を策してきた。それが、これまでの推理だった。
完全犯罪の中心に据えられているのは、身代わり犯人を突き出す工作とばかり思われてきたのだが、
「刑事さん、高橋さんが殺されたあの日、私は松山にいました。でも、それは午前中までのことでしてね」
と、堀井は言った。
「身に覚えのない潔白な人間が、何でも彼でも、いちいち刑事さんに申し上げる必要はないと思いましたが、こんなふうに犯人扱いされたのでは、はっきりさせておくべきでしょうな」
憮然とした表情であり、自信に満ちた口の利き方だった。
堀井は、その不在≠説明する前に、もう一本、ラークに火をつけた。堀井が深々と煙を吐き出すまで、ほんの少時ではあったが、重苦しい沈黙が、今度は二人の刑事を見舞った。
(アリバイがあるのなら、なぜ、最初からそれを打ち出してこなかったのか)
矢島はそんな目で、堀井を見た。
いや、アリバイは二次工作であり、眼目はやはり一石二鳥。飽くまでも浦上を犯人に陥れることによって、自らの安全を図ろうとしたのだ。
(うん、それが一連の計画の骨子だな)
と、矢島は自分の中で繰り返していた。
そう、もくろみどおり浦上が殺人犯として逮捕されてしまえば、アリバイ工作などは不要だ。いつばれるか知れない偽装アリバイなど、表に出さないほうがいいに決まっている。
しかし、問題の「浦上」は潜行したままだし、守口市の『パレス17』に出入りしていた事実を割り出されたとあっては、堀井が疑心暗鬼となるのは当たり前だろう。
そこで持ち出してきた、不在証明か。
(それにしても、アリバイまで準備しているとはな)
と、矢島が内面のつぶやきをつづけたとき、
「三十日の朝、私が道後温泉の菊水本館で目覚めたのは事実です」
と、堀井は要点に触れた。
旅館での朝食を終えると、タクシーを呼んでもらって、JR松山駅へ直行。九時三十分発のL特急いしづち6号≠ナ松山を離れたというのである。
「と、いうことは、松山出張は、実質的には、二十九日の一日だけだったのですか」
「当初は三十一日までの予定でした。しかし、仕事が予想以上に、順調にはかどりましてね」
堀井はたばこを消して、口元に笑みを浮かべた。
「こうなってみると、お陰で私は救われたということでしょうかね。出張が予定どおりなら、私は犯行日の三十日、犯行現場に近い松山事業所に詰めていたわけだから、ますますもって疑われてしまう」
「予定が早く切り上がる、こうした例はよくあるのですか」
「少ないですね」
堀井は、さらに、皮肉な笑みを見せた。
「仕事が延びることは多いが、早まることは滅多にない。だから、私はついていたのですよ」
「ついていた?」
ベテラン部長刑事は、思わず、テーブルの下で両掌を握り締めた。二年間愛人関係にあった美津枝の他界を前にして、この男は平気で、「ついていた」というような言い方ができる男なのか。
しかも、単なる死亡ではない。貴様が、その手で絞め殺したのではないか。
血気盛んな、若い頃の矢島であったら、相手の胸倉をつかんでいたかもしれない。
矢島はじっと自分を押さえ、
「部長刑事《ちようさん》、言うまでもないが、尋問は慎重の上にも慎重に頼むよ。こういう被疑者だ、できるだけ完璧な形で、引っ張りたい」
と強調した署長の電話を思った。
矢島は一呼吸置いてから、尋ねた。
「ですが、あなたが松山出張から戻って出社されたのは、三十一日と聞いていますが」
「警察ってのは気味が悪いですな。そんなことまで、もう調べがついているのですか」
「何ですか、和平興産の社長が急死されたので、予定を切り上げて、東京へ戻ったと伺いましたが」
「社長が亡くなられたので、予定を切り上げたのは事実です。しかし、これは、仕事の予定ではありませんよ。仕事は、いま言ったように、一日で片付いてしまったのですから」
堀井は、仕事がスピーディーに完了したので、旅先で年休を取ったのだという。
「年休?」
「こんなチャンスは滅多《めつた》にありませんからね、前からの希望だった観光を、思い立ちました」
「年休を取って、四国観光ですか」
「そのつもりが、和平興産社長のご逝去で、予定を切り上げたわけです」
「だが、問題の三十日は、どっちみち、四国にいられたのですな」
「道後温泉で朝食をとったのですから、四国にいたと言えば、いたことになります。しかし、夜は東京に戻っていましたよ」
「間違いありませんか。あなたが東京本社へ出社したのは、三十一日と聞いていますし、和平興産に出向かれたのも、三十一日になってからではないですか」
「それは、東京駅に着いたのが、遅かったからです。でも、私は間違いなく、三十日は品川区内の、戸越の自宅で寝みました」
「三十日の帰京を、証明することができますか。もちろん、ご家族以外の方に、証明していただきたいのですが」
「何度でも言いますが、私は潔白です。こうなったら、刑事さんの納得がいくまで、いかようにもおこたえします」
「九時三十分発のL特急で、松山駅を出発したと言いましたね」
「朝の出発時から、証人が必要ですか」
堀井はまたラークに火をつけた。
証人は用意されていた。ご丁寧なことに、これは『菊水本館』の朝食時から同一行動をとる、製材工場の社長だった。
「断わっておきますが、私の行動を先方に問い合わせるときは、話をうまく持っていってくださいよ。殺人事件で警察の尋問を受けたなんて、私の信用問題です」
と、堀井が渋い顔で打ち明けた一人目の証人は、阿波池田に住む、直良《すぐら》という男だった。直良は『不二通商』松山事業所に出入りする下請け業者の一人で、製材工場も徳島県|三好《みよし》郡|池田《いけだ》町にあった。
(下請けか。下請けの証言では、鵜呑《うの》みにはできないぞ)
矢島は、ちらっと若手刑事を振り返り、警戒しながら、堀井の説明を聞いた。
*
製材工場を営む直良と堀井が、道後温泉の『菊水本館』で同宿したのは、偶然ではなかった。
堀井と同じように、直良もまた、阿波池田から松山へ出てきたときは、『菊水本館』を常宿にしていたのである。しかも今回の仕事は、堀井の出張に合わせてのものだから、なおのこと、同じ旅館に泊まるほうが便利だった。
「打ち合わせは、新製品の防腐木材に関してでしたが、この技術提携がすんなりいきましてね、仕事が一日で片付いたってわけです」
堀井は東京本社へ電話を入れて年休を取り、直良も予定切り上げで、一泊で阿波池田へ引き返すことになった。
「四国観光に大歩危《おおぼけ》を落とすことはできない、と、直良さんに強く勧められましてね、工場へ帰る直良さんと、阿波池田までご一緒したのですよ」
と、堀井は言った。
池田では、ついでだからと直良の製材工場を見学し、一列車遅らせて、大歩危へ向かったという。
(それだけのことなら、下請け業者の証言でも、差し引いて聞くこともないか。大歩危までは、どうって問題もない)
と、矢島部長刑事は考えた。
問題はその夜の、予定宿泊先≠セった。土讃本線に乗り換えての四国観光だから、高知へ抜けて、桂浜《かつらはま》か室戸《むろと》岬へでも行くのかと思ったら、そうではなかった。
朝、道後温泉の『菊水本館』に頼んで予約してもらったのは、高松市中央町の、『高松アストリアホテル』だった。
「と、いうことは、大歩危峡を観光しただけで、また瀬戸内海へUターンの予定だったのですか」
「そうです。最初からそのつもりでした。土讃本線に乗ったのは、大歩危だけが目的でした」
と、堀井は言った。
人気《ひとけ》のない駅を出ると、大歩危橋を渡って国道を歩き、レストハウスの駐車場沿いに、峡谷の船乗り場まで下りた、と、堀井はつづけた。
「観光船に乗っていたのは、三、四十分だったでしょうか。船は、観光バスできた団体客で結構込んでいましたよ」
「帰りも列車でしたか」
「大歩危駅で、三十分ばかり待たされました。高松行きのL特急に乗りました。しまんと♂ス号だったかな」
そうそう、大歩危駅の小さい待合室には、大きい囲炉裏《いろり》がありましたよ、と、堀井は、いかにも五日前を思い起こすようにして、こたえた。
山峡もいいが、栗林《りつりん》公園や屋島《やしま》を歩き、オリーブライン≠フ高速艇で小豆島《しようどしま》へも行ってみたい。
そう考えて、港と駅に近い『高松アストリアホテル』を足場にしたのだ、と堀井は言った。
高松泊まりに、隠された意図はなかったのか。
「高松には何時に着いたのですか」
「時刻表を見なければ、正確なことは分かりませんが、夕方の五時頃だったと思います」
「それも、予定どおりですか」
「いえ、高松駅に何時に着くということまでは決めてありませんでした。屋島などの観光は翌日からなので、あの日は、夜までにホテルに入ればよかったのですから」
と、堀井は一定の口調でつづけた。
そのことばの裏に潜むものを、矢島は見逃さなかった。
夜までに『高松アストリアホテル』にチェックインするというのは、大歩危観光∴ネ降はフリーということではないか。この自由な時間に殺人を仕込むのは、それほど困難ではあるまい。
松山―高松間は、L特急を利用すれば、三時間とかからない距離ではないか。
松山港付近での十八時三十分頃の凶行後、人目を避けて上りのL特急に乗り、その夜のうちに高松のホテルにチェックインすることは、不可能ではない。
堀井は、夕方までに、もう一度松山へ引き返したか。
この仮説が事実なら、阿波池田―高松間の堀井の存在を証明する人間は、だれもいないことになろう。
「直良さんとは、製材工場を見学したところで別れたのですね」
「別れたのは工場ではありません。車で駅まで送ってもらいました」
直良はホームまで入ってきて、阿波池田始発の、下りの発車を見送ってくれたという。
「その後は高松へ着くまで、知人とは会われなかったわけですね」
これが、新しい質問の隠れたポイントだ。
「知人には会いませんでしたが」
と、堀井は考えるようにして、こたえた。下りホームで、たまたま直良の知人に会い、紹介されたという。
「その男性とは、途中駅まで一緒でした」
「土地の人ですか」
「ええ、大王製紙の社員で、四国本社の総務部にお勤めの、岩川《いわかわ》さんという人です」
岩川は私用で、阿波川口の本家へ行くところだった。阿波川口駅は急行が停車しないので、岩川は阿波池田駅で普通列車に乗り換え、堀井と一緒になったわけである。
池田から川口まで、いくらの時間でもなかったが、二人はことばを交わしながら、同行したという。
「岩川さんは前に、小田原の関連会社に出向していたことがあるとかで、神奈川や東京の話を、なつかしそうにしていましたね」
その岩川が下車した阿波川口は、大歩危の二つ手前の駅だ。
少なくとも、そこまでは、確かな証人がいたことになる。
と、すると、問題は、大歩危峡観光の後だ。
「刑事さん、旅先ですよ。そうそう知っている人間に会ったりしますか」
堀井は、また口元に皮肉な笑みを浮かべたが、それから以降は、矢島部長刑事の見込みどおり、ブランクだった。
証人なしの空白ではあるが、しかし堀井の説明は一貫しており、その説明に因《よ》る限り、殺人タイムを組み込むのは不可能だった。
堀井の完全計画≠ノ亀裂を生じさせたかと思ったアクシデント、『和平興産』社長の急死が、逆に、崩れそうなアリバイの、防護壁の役を成してきたのだ。
それは、事後工作として、社長の他界を利用したのに違いないと思われた。が、いくら工作が見え見えであったとしても、平然と堀井が口にする説明を、この場で突き破ることはできなかったのである。
堀井は、またラークに火をつけた。
「和平興産の社長が他界されたことを知ったのは、高松駅のホームでした。ええ、大歩危から引き返して、夕方高松に着いた私は、ホームで買った夕刊で、社長さんが亡くなられたことを、知りました」
びっくりした堀井は、思わず、夕刊各紙を買い求めたという。地元紙には出ていなかったが、全国紙の夕刊は、いずれも、単なる死亡記事以上の扱いをしていた。
「のんきに観光などしているわけには、いきません。私は、すぐに東京へ帰ることにしました」
堀井は、その場で『高松アストリアホテル』にキャンセルの電話をかけ、『不二通商』東京本社へも、今夜のうちに帰京する旨の電話を入れた。
そして、岡山行きの快速マリンライナー≠ノ飛び乗り、岡山からは新幹線に乗り換えて、東京へ戻ったという。
「なるほど、高松駅ホームで夕刊を見てから、東京へ帰るのに都合のいい列車があったわけですか」
しかし、と、矢島はここでことばに力を込めた。
都合のいい列車があったからといって、それが、すなわち、堀井が東京へ帰ったことの証明にはなるまい。『高松アストリアホテル』と『不二通商』東京本社への電話は、(高松駅ホームではなく)松山市内からだってかけられるのである。
十八時三十分に松山港付近にいたのであれば、絶対に、その夜のうちに東京へ帰る新幹線には乗れない。
だが、堀井は、
「東京へ帰ったときの証人ならいますよ」
あっさりと、部長刑事の不審を、撥《は》ね除けた。
東京駅新幹線ホームへは、『不二通商』宿直員が出迎えたというのである。
「これは家族ではありませんよ。新幹線ホームまできてくれたのは、三好《みよし》という若い社員でした。どうぞ当たってみてください」
堀井は吸いかけのたばこを消した。
相手を小莫迦《こばか》にしたような笑みが、さらに色濃く、堀井の顔中に広がっているのを、二人の刑事は感じた。
それが事実であれば、堀井のアリバイは完璧だ。
『大王製紙』の岩川と別れた阿波川口駅以降にどのような空欄があろうと、堀井を、犯行時刻に、犯行現場へ立たせることはできない。
矢島部長刑事は冷めたコーヒーに、手を伸ばした。
さらに、いくつかの質問を重ねたが、刑事の声は、低く不安定なものに変わっていた。
*
浦上伸介が横浜へ向かったのは、午後六時を過ぎる頃だった。
谷田実憲はそっと記者クラブを抜け出し、淡路警部から入手したデータを携えて、やってきた。
二人が落ち合ったのは、東宝会館裏手の、小さい縄暖簾《なわのれん》だった。構えは小さいが、座敷はそれぞれが衝立障子《ついたてしようじ》で仕切られており、落ち着いた雰囲気の店だった。
こうした店であるだけに、今夜は日本酒にした。
秋田産の辛口で乾杯し、
「これが、堀井隆生の、謂《い》うところのアリバイだ」
谷田は何枚かのコピーを円卓に載せ、その中の一枚を、浦上に示した。
「これらを書き出したのは、宇和島できみを待ち伏せていた、例の部長刑事《でかちよう》さんだ。堀井の発言を元にして正確なダイヤをチェックしたわけだが、初めて時刻表と取っ組んで、それこそ七転八倒したらしい」
「七転八倒しても、堀井の身柄はそのまんまですか」
「いちいちウラが取れていないとあっては、手錠をかけるわけにもいかないさ」
谷田は猪口《ちよく》を手にしたまま、顔を振った。
松山発 九時三十分 L特急いしづち6号
(阿波池田まで、製材工場社長の直良が同行)
多度津着 十一時四十六分
多度津発 十一時五十三分 L特急しまんと3号
阿波池田着 十二時三十八分
(直良製材工場見学)
(大王製紙社員岩川を紹介される)
阿波池田発 十三時十一分 普通
阿波川口着 十三時二十八分
(岩川下車)
大歩危着 十三時四十八分
(大歩危峡観光)
大歩危発 十五時三十四分 L特急しまんと6号
高松着 十七時十分
(ホームのキヨスクで求めた夕刊で、和平興産社長の他界を知る)
(ホームから高松アストリアホテルに電話をかけ、キャンセルを通告)
(ホームから不二通商東京本社へ電話を入れ、今夜のうちに帰京することを伝える)
高松発 十七時二十七分 快速マリンライナー44号
岡山着 十八時二十三分
岡山発 十八時四十八分ひかり162号
新大阪着 十九時五十八分
(二分停車を利用してホームから不二通商東京本社へ電話をかけ、宿直の若手社員三好に東京駅新幹線ホームまで来るよう言いつける)
新大阪発 二十時 ひかり162号
東京着 二十三時四分
(到着ホーム19番線で、三好の出迎えを受ける)
それが、すなわち、堀井隆生の不在証明だった。
「へえ、あの矢島って部長刑事《でかちよう》さん、よくこれだけの数字を書き出したものですね」
浦上が、本音とも揶揄《やゆ》ともつかずにつぶやくと、
「事件が発生したとき、マジにきみを追っかけたのは、勇み足だったが、あのベテランは行動派だ」
と、谷田は、すでに矢島部長刑事によって、証人の裏付けが取れていることを言った。
証人とは、次の五名だ。
松山から阿波池田まで同行した、製材工場を営む直良。
阿波池田から阿波川口まで同行した、『大王製紙』社員岩川。
キャンセルの電話を受けた、『高松アストリアホテル』のフロント係。(受信十七時十五分)
帰京の連絡電話を受けた、『不二通商』東京本社の第三営業課主任。(受信十七時十八分)
東京駅まで出迎えるよう命令の電話を受けた、宿直社員の三好。(受信十九時五十九分)なお、三好は、指示どおり19番線ホームに出向いている。
捜査陣は、この五人の証言を、いずれも事実と断定した。
電話を受けた時間が細かく提示されているのは、『高松アストリアホテル』も、『不二通商』も、外線はすべて、簡単な内容と、受信時間をメモするよう義務付けられていたためである。
通話は、車内電話のように不安定なものではなかった。ホームと覚しき騒音も聞こえていたし、電話は間違いなく車外からかけられたものだった、と、三人は異口同音にこたえたという。
「三本の電話は、堀井の言うとおりの時間にかけられているし、やつが利用した列車の証明にもなっているわけだ」
と、谷田が説明をつづけると、
「高松駅からの電話はそのとおりに受けとめるとして、ケチをつけるとすれば、新大阪駅か」
浦上はショルダーバッグから時刻表を取り出して、ページをめくった。
「確かに二分停車ですが、これは何か裏があるんじゃないですかね。こんな慌ただしい停車時間にホームへ降りなくたって、新幹線には電話がついていますよ」
「刑事《でか》さんたちも、その点は確認している。きみのほうが詳しいだろうが、山陽新幹線はトンネルが多いのだろ。トンネルに入ると相互に電話が聞きにくいので、新大阪駅からかけたというんだな」
「だったら、新大阪駅を過ぎてからかければいいでしょう」
浦上はこだわった。
「新大阪―京都間なら、トンネルはありませんよ」
「堀井の説明によると、新大阪到着時、車内電話は使用中だったとか。それでホームでかけたんだ」
慌てた理由は、タイムリミットのためだった。
「何ですか、タイムリミットって?」
「不二通商の夜間受付は、午後八時までなんだ。八時を過ぎると、宿直員に対する電話呼び出しがスムーズにいかなくなる場合がある。それで、急いだというわけさ」
「なるほど。新大阪着が十九時五十八分の列車だから、タイムリミットの午後八時ぎりぎりか。でも、何かひっかかりますね」
浦上は口元をとがらした。
不審を覚えるのは、取材記者としての本能だった。
それほど欠かせない用事であったのなら、高松駅か、岡山駅での乗り換え時に、電話をかければよかったではないか。
「いや、宿直は、午後七時に出社してくるんだそうだ。ひかり162号≠フ岡山発車は十八時四十八分。すなわち、午後七時前だろ、電話を入れたところで、宿直員はまだ来ていない」
「そりゃ、そのとおりかもしれませんが、こいつは、一皮|剥《む》くと、意外な何かが出てくるのかもしれませんよ」
浦上はまだ釈然としない。
犯人は堀井以外にいないのである。岡山発十八時四十八分の列車に、堀井が乗れるわけはないのだ。
と、すれば、一本の電話にも、細かい計算が成されていなければならない。
「先輩、指紋が一致しているのだから、ともかく堀井を引っ張ってきて締め上げたらいいじゃないですか。あの部長刑事《でかちよう》、ぼくに対しては、やたらしつこかったのに、今度は何ゆえの弱気ですか」
「皮肉なことだが、きみの例もあるしね」
「あれを教訓にしての慎重ですか」
「指紋は目下のところ、唯一の物証だ。最後の切り札にする、と、松山南署の捜査本部では言っているそうだ」
「最後って、ここまで追い詰めた現状が、最後ではないのですか」
「このコピーの主張がそのとおりなら、堀井をレンタカーに乗せることはできない」
「このとおりであるわけがないでしょう」
「しかし、指紋が残っていたのは、被害者《がいしや》専用の自家用車じゃない」
「レンタカーであるから、別のだれかが借り出したときに、堀井が同乗するか、ドアに触れた可能性があるとでもいうのですか。仮に、堀井がそんなことを主張したとしても、ここへきて、そうしたこじつけに耳を貸す刑事《でか》さんたちですか」
「松山には松山の、やり方ってものがあるだろう。ともかくいまは、このコピーの主張を崩すのが先決、としているようだ」
「ところで、新大阪駅の慌ただしい停車時間に、堀井が宿直員を呼び出した大事な用件ってのは何ですか」
「淡路警部も首をひねっていたけど、企業秘密だとよ」
「企業秘密?」
「矢島部長刑事たちは、当夜の宿直だった三好という若い社員に当たった」
と、谷田は淡路警部経由の情報を言った。夜間受付が閉まる寸前、十九時五十九分に三好が受けた電話には、確かに、駅のホームと思われる騒音が聞こえていたという。
「すまないが、私のロッカーの中にあるアタッシュケースを、東京駅まで届けて欲しい」
それが、堀井が電話で命令してきた主旨だった。
列車は東京着二十三時四分のひかり162号≠ナあり、自由席の3号車に乗っているので、3号車の前まで持って来てくれというものだった。
「ロッカーのキーは、私の机の、右側の一番下の引き出しに入っている。じゃ、頼んだよ」
堀井は一方的に用件だけを言って、慌ただしく電話を切った。
三好は、ロッカーからアタッシュケースを取り出して、指示されたとおりに東京駅19番線ホームに行った。
二、三分待ったところで、定刻どおりに、ひかり162号≠ェ入ってきた。
そして、三好の目の前で、堀井が3号車から降りてきたという。
「宿直の社員に届けさせたアタッシュケースは何ですか」
「それが、企業秘密というんだな。中味とか、届けさせた目的までこたえる必要はないでしょう、と、堀井は口をつぐんでしまったそうだ」
「和平興産社長の他界に、関係があるのでしょうか」
「社長の急死で、予定を切り上げたという説明を鵜呑みにすれば、そういうことになる。だが、どうかね。高松駅のホームで夕刊を見るまでは、年休取って、瀬戸内海を観光する、ということになっていたのだろ」
「不二通商の本社は八重洲だから、歩いて十分も見れば、新幹線ホームまで行けるでしょう。でも、これは、新大阪駅ホームから電話をかけたのにも増して、わざとらしくありませんか」
「宿直の若い社員は、作為的に、ひかり162号♂コ車の目撃者に仕立てられた、と、浦上サンは、こうおっしゃりたいのですな」
谷田は話がそこへいきつくと、同感というように、初めて茶化した言い方をし、笑顔で徳利を差し出してきた。
いつの間にか、小さい酒場は満席になっている。ほとんどの客が、関内《かんない》周辺に勤める、中年以降のサラリーマンだった。店が込んできても、酔って声を荒立てるような客ではなかった。
谷田は仲居を呼んで、お銚子を追加し、海草サラダと二人前の焼き魚を頼んだ。
追加のお燗《かん》が二本、円卓に載ったところで、検討は元へ戻った。
*
「作為的ってのはどういうことでしょう」
「当該列車に乗っていなかった人間を、乗っていたと思わせる。それが作為ってものだろう」
「でも、三好という社員は、ひかり162号%梺の二、三分前から、19番線ホームへ行っていた。その目の前に停車した新幹線から、堀井が降りてきた。この事実は、動かせませんね」
「問題はアタッシュケースを届けさせた意味だな。これが、然るべき理由あり、なんてことになると、作為≠ヘ考え過ぎということにもなる」
「それにしても、高松から急遽帰京したのが不在証明となるなら、和平興産社長の死は、堀井にとって、何とも都合のいいアクシデントだったことになりますね」
「きみらしくもないね。社長の急死は偶然だろ。これは、偶然に乗っかるような犯罪計画じゃない」
回転の速い堀井のことだ、アクシデントを逆手に取ったのに違いない、と谷田は言った。
「オレは、実際は別の理由が用意されてあったのだと思うね」
「たまたま、夕刊で死亡記事を見たので、事前に用意してきた理由は引っ込めて、説得力のあるほうを持ち出してきたというのですか」
「違うかね」
「というのは、どっちみち、このコピーのルートを主張し、こんなふうに宿直の社員を東京駅へ呼び出しての帰京が、前提にあったということですか」
「これがアリバイ工作なら、そういうことになる」
「アリバイ工作に決まっているじゃありませんか」
浦上は矢島部長刑事の手に成るコピーを引き寄せ、もう一度時刻表のあちこちをめくった。
浦上なりの、ダイヤ再点検である。
これが偽装アリバイの基幹なら、どこかに裂け目があるはずだ。
浦上は手慣れた感じで、発着の時間を指でたどる。
スムーズに動いていた指先がとまったのは、マリンライナー44号≠乗り継いで、岡山まできたときだった。
「どうした?」
「堀井はなぜ、後続のほうのひかり≠ノ乗ったのかな」
浦上はコピーと時刻表を見比べ、自分自身へ問いかけるようにつぶやいてから、谷田の顔を見た。
「堀井が高松から利用したという快速マリンライナー44号≠フ岡山着が十八時二十三分。岡山で乗り継いだというひかり162号#ュ車が十八時四十八分。しかし、この前にひかり28号≠ニいうのがあります。どうして、早いほうの新幹線に乗らなかったのでしょう」
「先行のひかり≠ノも間に合うのか」
「ええ、ひかり28号≠フ岡山発は十八時四十三分ですから、ゆっくり乗り換えることができます」
「四十三分発と四十八分発では、わずか五分違いじゃないか。問題にすることもあるまい」
「発車は五分違いですが、終着の東京では三十二分の差がついています」
「どれ、見せてみろ」
谷田は徳利をどかして、テーブル越しに上半身を伸してきたが、すぐに納得という顔になった。
谷田の指摘は、先行のひかり28号≠ヘ博多始発、後続のひかり162号≠ェ岡山始発という点にあった。
「当然、岡山始発のほうが空いているだろう。堀井は3号車の自由席で帰ってきたのだから、楽に座れるほうを選ぶのが自然じゃないか」
きみだってこの場合は、岡山始発を採るだろう、と、谷田は言った。
「緊急な用事でもあれば別だが、こんな遅い時間の到着では、午後十時半も十一時も、大して変わらんだろう」
「それはそうかもしれませんが」
浦上は口籠もった。
何がどうとはっきり指し示すことは不可能だが、浦上は、岡山始発の空席≠、谷田ほどには得心できなかった。もちろん、そうした例は多いだろう。
浦上自身、谷田に言われるまでもなく、空席を狙って後続車を利用したことも少なくはない。
「しかし、そうかなあ」
浦上は時刻表に目を向けたまま、独り言のようなつぶやきを繰り返した。
谷田は徳利を引き寄せた。
「どこが、浦上サンのお気に召さないのですかな」
「不審は、これだけです。堀井が主張する帰京ルートにアヤをつけるとすれば、この一点しかありません」
浦上は赤いボールペンを取り出し、時刻表の二本のひかり≠フ上に、大きい丸印をつけた。
8章 新幹線ひかり162号
仲居が海草サラダと、二人前の焼き魚を運んできた。
谷田実憲は、お銚子をさらに二本追加し、
「肝心なのは、帰りよりも行きのルートだ」
と、他のコピーを、浦上伸介に示した。
谷田が言う「行きのルート」とは、殺人現場へ向かう足取りのことだった。
「淡路警部も吐息していたが、これがまた、どうにもならないんだな」
「意味がよく分かりません。どういうことですか」
「阿波池田を十三時十一分に発車する土讃本線の下りに乗っていたのでは、犯行時刻までに、犯行現場へ到着することが、不可能ということらしい」
高橋美津枝の運転するレンタカーが、二人のOLによって目撃されたのは、午後六時二十六分頃だ。
「堀井隆生が主張する大歩危峡観光を、省略したとしても、犯行時刻までに松山へ引き返すことができないんだな」
「そんなばかな話はないでしょう。真犯人《ほんぼし》は、堀井以外にいないのですよ」
浦上が思わず激昂《げきこう》すると、
「オレも淡路警部と同じことで、コピーのどっちから検討すべきか迷ったのだがね」
谷田は浦上をなだめ、
「少なくとも、ここに提示された範囲では、堀井は松山へ行くことができないし、東京へは不自然でなく帰ってくることができるってわけさ」
と、猪口《ちよく》をあけた。
下り列車に乗っていたのでは、犯行時間に間に合わない。それが事実なら、堀井は、その列車に乗らなかったということだろう。
「偽証ですかね」
すぐにぴんとくるのは、そのことだった。(矢島部長刑事も一時気にかけたが)松山から阿波池田まで堀井に同行した直良は、『不二通商』の下請け会社の経営者だ。
「下請けなら、親会社の課長の頼みに対して、首を横に振るわけにはいかないでしょう」
「さっきも言ったように、捜査本部では、五人の証言をいずれも事実と断定している。直良さんという製材工場主は池田の素封家《そほうか》の出でね、そんなことに加担する人柄ではないそうだ」
「分かるもんですか。宇和島西署へ、無実のぼくを留置しようとした、刑事《でか》さんたちの捜査でしょ」
「堀井が、高知行きの下りに乗ったことを証明する人間は、もう一人いるぞ。この人だ」
谷田は最初のコピーを差し出した。
もう一人は、たまたま阿波池田駅で紹介された直良の知人、『大王製紙』の社員岩川だった。
「これは四国を代表する一流企業の社員だぞ」
「うん、伊予三島《いよみしま》に大きい工場がありましたね。あれか」
浦上は予讃本線に乗って瀬戸内海沿いを走った、三日前を思い出した。
「大企業の社員だから、信用するというのではない」
谷田は前言を訂正した。
「この岩川さんという人は、それまで堀井とは一面識もなく、何の関係もなかったわけだろ」
「偶然の出遇いという点からいえば、和平興産社長の急死と同じようなものですか」
「これまたアリバイ工作であるなら、直良一人で済ませようと思っていた矢先に、堀井にとっては強力な証人が出現したことになるね」
「ともあれ、それが出発点なら、出発点の証人に当たらなければなりませんね」
「きみを逮捕しようとした捜査本部の調査では、信用できないか」
「電話一本で済むことです。一応確かめてきます」
浦上は腕時計を見ながら、立ち上がり、レジの横の電話を借りた。
午後七時を回っている。
退社時間は過ぎているが、浦上は愛媛県伊予三島局の一〇四番に問い合わせ、『大王製紙』四国本社へかけた。
宿直に事情を説明して、総務部に勤務する岩川の、自宅の電話番号を教えてもらった。
岩川は、本社近くの社宅に入っていた。
「さっきは松山南署からお電話がありましたけど、あの方に何かあったのですか」
と、浦上の質問に対して、逆に問いかけてくる岩川は、いかにも誠実そうな、口の利き方だった。
岩川は、堀井が矢島部長刑事に説明した経緯をそのとおりだと肯定し、
「私は本家へ行くため、阿波川口で下車しましたが、あの方はそのまま下りに乗って行かれました」
と、はっきりした声でこたえた。
その岩川に、うそをついている感じはまったくなかったし、偽証をしなければならない立場でもなかった。
*
「先輩、正確には、岩川さんが下車した阿波川口駅が、出発点ということになりますね」
浦上は谷田が待つテーブルに引き返すと、手酌で一杯飲んでから言った。
「堀井は、阿波川口発十三時二十八分の高知行き、下り列車に乗って行った。これだけは不動ですね」
「だからさ、それが出発点じゃどうにもならないんだよ」
谷田は話を元へ戻した。
土讃本線を起点とするコピーは、四枚だった。
堀井の主張によると、峡谷観光のため、大歩危で、一時間四十六分が費やされたことになっている。
松山南署捜査本部の分析は、この「一時間四十六分」を、完全に無視する仮説《もの》だった。すなわち、「大歩危峡観光」は堀井の口実という見方だ。
大歩危発が十五時三十四分では、絶対に、堀井を犯行時間に犯行現場へ連れて行くことができないからである。
「賛成ですね。やつが高知行きの普通列車に乗って行ったのは、事実なのだから、時間を短縮するとしたら、観光を省略するしかないでしょう」
浦上がうなずくと、
「実際には時間がかかり過ぎるが、高知まで直行し、きみが憧れていた予土線で、宇和島を経由するコースがある」
と、谷田は、参考データとして、コピーの一枚を指差した。
阿波川口発 十三時二十八分 土讃本線 普通
高知着 十五時三十三分 終点
高知発 十六時十六分 急行あしずり5号
窪川着 十七時四十六分
窪川発 十八時 予土線 普通
宇和島着 二十時十六分 終点
これは、こういうルートもあるという、文字どおりの参考資料に過ぎない。松山どころか、宇和島到着の時点で、殺人完了後、一時間半以上も経っているのだから。
「先輩、四枚のコピーは、松山の捜査本部が打ち出してきたものだと言いましたね」
「ああ、十二分に、四国に土地鑑を持つ刑事《でか》さんたちの検討だ。見落としはないと言っていい」
「しかし、空路が入っていませんよ」
「残念ながら、チャーター機でもなければ、飛行機は使えない。高松、徳島、高知、松山と、飛行場自体は各県に一つずつある。だが、四国の中では相互を結んでいないので、時間短縮の役には立たない」
「最近では、不定期路線なんて空路もあるようですが」
「それも、四国に限っては、一本も飛行していないそうだ。その代わり、四国はバスルートが発達しているんだってな」
「これですか」
浦上は次のコピーを手に取った。
国道33号線を経由して、松山と高知を結ぶ、JR四国バスご自慢の、松山高知急行線≠ナある。
だが、これも駄目だった。
高知着 十五時三十三分
高知駅発 十六時 JRバスなんごく20号
松山駅着 十九時十二分
宇和島経由よりはずっと早いが、それでも犯行後四十分以上も過ぎてからの松山入りである。
次に考えられるのは、四国山地の横断ではなく、即Uターンという手段だ。
これは、最後の目撃者『大王製紙』の岩川が下車した後なら、いつでも着手することが可能だ。
しかし、列車の本数が少ないので、岩川が降りた阿波川口の隣駅小歩危でも、その次の大歩危から引き返しても、結局は同じ気動車に乗ることになる。と、いうことで、捜査本部は、(堀井が下車したと主張する)大歩危を基点として、ダイヤを書き出してあった。
大歩危着 十三時四十八分
大歩危発 十五時十六分 土讃本線 上り普通
阿波池田着 十五時四十五分 終点
阿波池田発 十六時 L特急しまんと6号
多度津着 十六時四十分
多度津発 十六時四十五分 L特急いしづち13号
松山着 十九時十五分
「オレも、このルートがもっともスタンダードだと思ったのだけど、これで見ると、やはり無理だね」
と、谷田は、やや酔いの回ってきた口調で言った。
そう、松山着が、松山高知急行バスなんごく20号≠ニほとんど同じ時間ではないか。
一体どうなっているのか。
Uターンが、もっとも可能性が高い。それは、谷田が口にするまでもなく、(こうしていくつかのルートを提示されてみれば)だれもが考えることだろう。
浦上は、次のコピーを引き寄せる前に、じっとUターンルートの数字を見詰めた。
いくら列車の本数が少ないとはいえ、
(待ち時間が多過ぎる)
ぴんときたのは、そのことだった。十三時四十八分の下りで着いて、十五時十六分の上りに乗る。
一分でも時間が欲しい緊急時に、無為に一時間二十八分も費やす人間がいるだろうか。しかも、このルートは、堀井の主張と途中から重複する結果となるのだ。すなわち、阿波池田から乗り継ぐことになるL特急しまんと6号≠ェそれである。
しまんと6号≠ェ犯行時刻に間に合わないことは、最初から分かっている。そのL特急にしか乗ることができないのであれば、結局は、堀井が主張するところの「大歩危峡観光」が、浮上してくることになろう。
堀井は、渓流下りの観光船に乗った後で、(時間的に間に合わない松山ではなく)L特急しまんと6号≠フ終着駅高松で下車する。
そして、高松駅ホームで死亡記事を見たという主張が、自然な説明になってくる。
だが、そんなことがあろうか。
堀井は必ず、この一時間二十八分を有効に使っているはずだ。活用しないわけがない。
第一、堀井が「大きい囲炉裏がある小さい待合室」で三十分も待っていたのなら、駅員の記憶に残っているだろう。その辺りの捜査はどうなっているのか。
浦上は、三日前に南風5号≠ナ通過した際の、ほとんど乗降客のいなかった山峡の大歩危駅を思った。あんなに人気のない駅なら、嫌でも駅員が覚えているはずだ。
「うん、それは捜査の基本だ。その点に関しては、徳島県警が協力しているわけだが、はっきりしないそうだ」
「それらしき男が、上り列車を待っていたというのですか」
「観光船の従業員も、大歩危駅の駅員も、サラリーマンふうな中年男性が存在したことは認めている」
しかし、これは、国道32号線沿いのレストハウスの証言も含めて、中年男性は数人が一緒だったというものであり、堀井隆生を特定することはできなかった。
すなわち、数人の男性たちは、最初から連れ立ってきたようでもあり、レストハウス手前を下った乗船場でたまたま一緒になった感じでもあった、というのである。
観光客もそれほど多くはないし、列車の数も少ない。と、なれば、同じ観光をすれば、別々に訪れた人間も同一な行動を取ることになろう。
「どこから観光にきたのか知らないが、これらの中年男性を探し出すのは簡単にはいかない。聞き込みに協力した徳島県警では、お手上げというのが現状らしい」
「お手上げでも、スピーディーにそこまで聞き込んでいるとは、さすがですね」
浦上はうなずいてから、ふと、こう感じた。
「堀井は観光船にも乗っていなければ、大歩危駅で三十分も待ってはいなかったのではないですか」
浦上が瞬時に感じた根拠は、もし、堀井がその数人の中に混じっていたのであれば、そのことを、はっきりと矢島部長刑事に伝えたはずではないか、ということだった。「小さい待合室には、大きい囲炉裏《いろり》があった」と、もっともらしく情景を説明しながら、堀井が、サラリーマンふうな男たちのことを口にしなかったのはなぜか。
堀井は、準備工作として、事前に山峡の駅を訪ねてはいただろう。だが、あの日のあの時間、堀井は大歩危にはいなかった。
いなかったから、貴重な裏付けとなるはずの、数人の中年男性の存在を、矢島部長刑事に告げることができなかったのだ、と、そういうことになろう。
「徳島県警の聞き込みは、お手上げなんてものじゃない。立派なアリバイ崩しになっているのではありませんか」
浦上はそうつづけ、この場の思いつきを口に出した。
「列車が駄目なら、レンタカーでUターンてのはどうですか」
殺人にもレンタカーが用いられていたわけだし、一時間二十八分を活用するのに、車は有効な手段だ。
「ルートがどうしても発見できないので、もちろん、その点も念を入れたそうだ」
と、谷田はこたえた。
しかし、堀井は車の運転ができなかったし、大歩危駅とか、駅を上がった大歩危橋周辺に、不審車が駐車されていた形跡はまったくなかったという。
「L特急が停車する駅の周辺といっても、大歩危は人影が少なく、ひっそりとしているそうじゃないか」
「そうでした。お店が二、三軒かな。確かにあれでは、何時間も車を放置しておけば、目につきます」
浦上は、車窓越しに見た大歩危駅前を思い返して言った。
「でも、乗用車に注意が向けられたことは無駄ではなかった」
谷田は、浦上に対して、次なるコピーのチェックを促した。
一時間二十八分の活用は、バスルートだった。
「バスを使うとなると、大歩危駅で、わずか四分の待ち合わせなんだよ。オレは、もちろん松山南署の検討に参加していたわけではないが、バス利用のUターンルートを見つけたとき、刑事《で か》さんたち、顔色を変えたのじゃないかな」
と、谷田は言った。
Uターンといっても、バスルートは、多度津へ引き返すのではなかった。L特急の停車駅にして、多度津より三つ松山寄りの川之江へ抜け、川之江から予讃本線を利用するコースだった。
松山寄りの駅からL特急に乗り込むのであれば、時間も短縮できる道理だ。
大歩危着 十三時四十八分
大歩危駅発 十三時五十二分 四国交通バス
阿波池田駅着 十四時三十五分
阿波池田駅発 十四時五十六分 JRバス
川之江駅着 十五時五十二分
川之江発 十六時二十五分 L特急しおかぜ9号
松山着 十八時十四分
L特急にして三十分余りだが、川之江のほうが、多度津より松山に近い。
「十八時十四分着ですか」
浦上はぐいっと猪口をあけた。
「先輩、持って回ったデータの示し方でしたが、結局、これで決まりですね」
「うん、四国の地理を知悉《ちしつ》する刑事《でか》さんたちからも、これで駄目なら、堀井の線はないという声が出ているそうだ」
「たった四分の待ち合わせで、大歩危からUターン。このダイヤの組み合わせが、すべて計算ずくの、堀井らしいところだと思いますね」
「オレもそう考える。が、このままでは駄目なんだ」
「四国交通バスは、それらしき男を乗せなかったというのですか」
「問題は、松山駅へ到着する時間だ」
「十八時十四分では、具合が悪いのですか。高橋美津枝さんは、十八時に、竹原町でレンタカーを借り出したわけでしょう。堀井の言いなりであっただろう美津枝さんが、駅前にレンタカーをとめていれば、タクシーを利用するのとは違って、乗り換えの待ち時間なしですよ」
「松山駅前から三津浜港近くの犯行現場まで、深夜に車を飛ばしても、十五分はかかるそうだ。夕方のあの時間帯では、うまくいっても二十二、三分は見なければならないらしい」
谷田は吐息して、ピース・ライトに火をつけた。
地元刑事の測定なら、万に一つの計算違いもないだろう。
二人のOLによって目撃されたレンタカーが、工場裏手のブロック塀脇に停車したのは、十八時二十六分だ。
すると堀井は、少なくとも十八時四分には、松山駅改札口を出ていなければならない。
「ぎりぎりだが、このバスルート、十分足らないってことですか」
「これが、目下のところの最短コースだ。しかし、十分を短縮するトリックを究明できなければ、この川之江経由も、結局は役立たずさ」
「松山の手前で、運転停車でもあれば、うまくいくんですがね」
浦上は時刻表を引き寄せた。
今治、伊予北条と過ぎた松山行きは、ずっと港寄りを走ってくるのだ。
「運転停車がなければ、疾走中のL特急から飛び降りるしかないか」
浦上はぶつぶつつぶやきながら、時刻表を見詰めていたが、
「あれ?」
突然、甲高い声を発していた。
運転停止も、飛び降りるなんて実現不可能なつぶやきも関係ない。しおかぜ9号≠フ松山の前の停車駅は、三津浜となっているではないか!
到着が十八時十分だ。
しかも、一瞥《いちべつ》したところ、三津浜駅に停車する下りL特急は、一日のダイヤの中で、朝のいしづち1号≠ニ夕方のしおかぜ9号=Aこの二本だけなのだ。後の十四本は、すべて、今治、あるいは伊予北条発車後はノンストップで、松山へ向かっている。
大歩危での四分の乗り換えと、一日わずか二本しか停車しないL特急の利用。
(崩れたな)
浦上の横顔に、やっと安堵の表情が浮かんできた。
「先輩、堀井は、終点の松山まで行く必要がないじゃありませんか」
三津浜駅なら、松山駅よりも犯行現場に近いはずだ。
浦上が、ショルダーバッグから松山の市内地図を取り出そうとすると、
「それも、うまくいかないんだ」
谷田は委細承知という顔で、口元を引き締めた。
「三津浜駅で降りたのでは、問題のレンタカーが用意できない」
それが、谷田の指摘だった。
浦上の発言は、瞬時に否定された。
美津枝がレンタカーを借り出したのは、十八時だ。レンタカーの営業所がある竹原町は、松山駅を挟んで、三津浜駅とは反対側になる。竹原町の営業所から三津浜駅まで、夕方の混雑する時間帯では、やはり、三十分前後を見なければならないというのである。
六時三十分では、レンタカーが三津浜駅に到着した時点で、殺人は完了してしまっている。
その上、レンタカーは、三津浜駅とは逆方向、言うなれば松山駅の方角から現場へ走ってきたことを、二人のOLによって目撃されているのである。
「刑事《でか》さんたちの間でも、当然しおかぜ9号≠フ三津浜停車を注目する意見が出た。しかし、レンタカーを借り出した時間との対比で、三津浜駅≠ヘ立ち消えになったそうだ」
と、谷田は言い、
「結論としては、堀井を、十八時四分までに、松山駅へ下車させなければならないって、ことなんだな」
苦り切った顔になった。
十八時四分ならば、竹原町で十八時に借りたレンタカーを回すことができるし、ぎりぎりとはいえ、三津浜港近くの殺人現場へ到着することが可能となる。
「タイムリミットは、松山駅で十八時四分ですか」
浦上はふたたび、時刻表のあちこちをめくった。
松山駅到着時間のみを考えると、都合のいいのは、三本だった。
予讃本線下り=松山着 十七時六分 L特急しおかぜ7号
予讃本線上り=松山着 十八時二分 急行うわじま6号
松山高知急行線バス上り=松山駅前着 十七時三十二分 なんごく16号
乗車時間は、次のようになる。
=多度津発 十四時四十九分
(川之江発 十五時二十五分)
=宇和島発 十六時六分
=高知駅前発 十四時
「どうしようもないですね」
浦上は時刻表を投げ出した。
一応、三本を書き出してはみたものの、どれも「大歩危着十三時四十八分」の下り普通列車と、かみ合うわけがなかった。もっとも速いルートが、(十分足りない)L特急しおかぜ9号≠セったからである。
「先輩、足取りが割れないのでは、堀井の指紋は、宙に浮いたままですか」
「まあ飲め」
ことばが見つからない谷田は、返事の代わりにそう言って、徳利を差し出してきた。
浦上は杯を受けてから、五枚のコピーを一枚ずつ別々に、円卓脇の、畳の上に並べた。
焦点はしおかぜ9号≠セ。このL特急に、トリックを仕掛けることが可能かどうか。問題は、わずか十分の短縮なのである。
「十分を速めるトリックを見つけ出せば、しおかぜ9号≠ェ生きてくる」
浦上は自らに言い聞かせたが、やがて、
「それにしても、堀井のやつ、よくもこれだけのアリバイ計画を立てたものですね」
と、改めて吐息したのは、電話の時間を、チェック仕直したときだった。
十七時十五分(高松アストリアホテルのフロント)
十七時十八分(不二通商東京本社第三営業課)
十九時五十九分(不二通商東京本社宿直室)
宿直の三好を呼び出したの電話は、犯行後のことなので、別に考えるとしても、ととは、大歩危から松山へ引き返す途中で、かけられているわけである。
しかも、それらは、三本とも車内電話ではなかった。堀井は、車外(駅のホーム)からかけているのだ。
電話の面からも、しおかぜ9号≠ェ使えなくなってくる。
しおかぜ9号≠利用したのでは、この電話がかけられないのだ。しおかぜ9号≠ヘ、十七時十四分に壬生《にゆう》川《がわ》を発車すると、次は十七時三十二分着の今治まで、ノンストップだからである。
堀井の電話を受けた三人は、それが、いずれも車内からのものではなかった、と明言しているが、(可能性がしおかぜ9号≠オか残っていないのであれば)駅のホームからかけたことを装って、実は車内電話使用のトリックも、念頭に入れて置くべきかもしれない。
浦上は一応そう考えてみたものの、地図を確かめて、車内電話はなさそうだ、と思い直した。
「先輩、壬生川駅を出た辺りは、いくつかトンネルがありますね」
浦上は谷田の顔を見た。
トンネルに入れば、通話は乱れる。車外からかけたことを装うのは、難しいだろう。それに三人とも、電話には、駅のホームと覚しき騒音が聞こえていた、と、口をそろえていうのである。
「そうか、しおかぜ9号≠ノ乗っていたのでは、あの電話はかけられないのか」
と、谷田が、猪口を戻して、時刻表と地図をのぞき込むと、
「第一、しおかぜ9号≠ノ、電話室があるのかどうか」
と、浦上はつぶやいていた。四国を走る列車で、電話を備えた車両がそれほど多くはないことを、浦上は知っている。
との電話がかけられた時間、堀井が、すでに松山に入っていたのであれば、問題はない。だが、十七時十五分に、松山市内に引き返しているなんてことは、それこそ、絶対に有り得ないのである。
しおかぜ9号≠謔闡ャいルートがないことは、土地鑑のある地元の捜査本部が立証済みだ。
では、堀井はどこから電話をかけたのか。電話の一事から言っても、堀井のアリバイは裏付けられてしまうのか。
「結局、堀井の主張どおり、高松駅ホームからの電話、ということになるのかい」
谷田が吐き捨てると、
「待ってくださいよ」
浦上は再度、五枚のコピー用紙に目を向け、
「堀井が、どこから三本の電話をかけたのか、そっちの目撃証人はいないわけですよね」
と、小声で繰り返し、
「このアリバイを支える確実な目撃者は、とどのつまり二人だけですか」
と、(堀井を尋問したときの)矢島部長刑事に共通するつぶやきを発していた。午後、東京駅が見える八重洲の喫茶店で堀井を追及したときの矢島部長刑事は、
(大歩危以降の堀井はフリー)
という見方だった。その自由な時間に殺人を仕込むのは、それほど困難ではあるまいと矢島は考えた。
堀井は、そうした部長刑事の想定を、一つ一つ覆してきたわけであるが、
「堀井のアリバイの基盤となっているのは、三本の電話と、わずか二人の証人のみですね」
と、浦上はもう一度、同じ意味のことばを、言った。
二人の証人とは、『大王製紙』四国本社総務部の岩川と、『不二通商』東京本社の宿直員三好だ。
阿波川口駅 十三時二十八分(岩川)
東京駅 二十三時四分(三好)
正確に裏付けが取れている場所と時間は、これだけではないか。
高松駅ホームからの電話も、快速マリンライナー44号≠ノ乗車したことも、岡山駅でひかり162号≠ノ乗り継いだことも、そしてまた、新大阪駅ホームから電話をかけたことも、すべて、堀井の口先の説明のみではないか。(堀井が矢島部長刑事にこたえたように)旅先で、そうそう知った人間に会うものではあるまい。
だが、証人が、知人である必要はない。キヨスクの従業員でもいいし、堀井が利用したと主張する列車の車掌でもいいわけだ。
「堀井のことです、本当にこのとおりのルートで高松から東京へ帰ったのなら、必ず、何らかの形で、存在証明を残してきたと思うのですよ」
「それが、三本の電話じゃないのか」
「電話は姿が見えません。日本中のどこからだってかけることができます」
高松駅にも、岡山駅にも、新大阪駅にも存在証明≠ェないというのは、堀井はその通過点を、通過していないということではないのか。
「堀井が、それを現時点で打ち出してこないのは、阿波川口駅―東京駅間は、三本の電話だけが支えってことでしょ。このトリックを破れば、一歩前進ということになりますね」
「そうなるかね」
谷田は、うなずき返してはこなかった。
「一歩前進というのは、一般的には真犯人《ほんぼし》の特定を指すわけだろ。今回の事件《や ま》は、計画を立てたのも、殺人《ころし》を実行したのも、堀井で動かない。この場合の一歩前進とは、高知行きの普通列車に乗って行った堀井を、十八時二十六分までに、三津浜港付近の凶行現場へ連れてくることではないのか」
「岩川さんと三好さん、二人の証言の間には、九時間三十六分という時間があるわけですよ。これは、堀井が、まったく自由に使える時間です」
「きみの着眼点は正確だと思うよ。しかし、堀井を犯行現場へ連れて行くことができないのでは、どうにもならないじゃないか」
谷田は帰京ルートのコピーを引き寄せ、
「さらに言えばだよ」
と、ひかり162号≠指差した。
「堀井は東京駅着二十三時四分の新幹線から降りてきたわけだ。レンタカーの中で美津枝さんを絞殺した堀井が、海岸通りを松山港の方角に駆け去ったのは十八時三十分頃だよ。ひかり162号≠フ岡山発は十八時四十八分だ。十八分で、どうやって、松山港と岡山駅の間を埋めるのかね」
二つの確かな証言の間に、自由に使える持ち時間がどれほどあろうと、これでは問題にならない。
「こういうのを、二重のアリバイ工作っていうのかね」
と、谷田は焼き魚に箸をつけ、猪口を口に運んだ。
この壁が崩されない限り、堀井は安泰だ。
現状では、何としても、堀井をレンタカーに乗せることができない。
そして、吉野川の上流から松山港へ連れて行くトリックを、仮に発見できたとしても、今度は、(谷田が強調するまでもなく)松山港と岡山駅の間を、わずか十八分で埋めなければならないという、それこそ崖のように高い壁が屹立《きつりつ》しているのである。
現場からJR松山駅までタクシーを飛ばして、二十二、三分。松山―岡山間は、時間帯によって多少異なるが、L特急しおかぜ≠ナ三時間十五分ほどが必要だ。
待ち時間なしの単純計算でも三時間半を超える空間を、十八分で埋めるなんてことができるわけもない。
「先輩、何を見落としているのでしょうか」
「最初の問題は、吉野川の上流を走って、高知へ向かう普通列車が、どんなキーを隠しているか、ということだろうな」
谷田はそう言って遠くに目を向けたが、浦上には何も見えなかった。
列車の本数も少ない山越えの単線に、何が仕掛けられるというのか。
*
「きみ、土佐山田で知り合った美女と、鍾乳洞へ行くと言ってたな」
「龍河洞を見物するのは、堀井に手錠をかけてからです。こんな壁にぶち当たった状態で故人のお兄さんに会うわけにはいきません」
「同じ土讃本線に乗るにしても、三日前とは状況が違うぞ」
「先輩は本気で、阿波池田始発、高知終着の普通列車が、解決のキーを隠していると考えるのですか」
行き違い列車との待ち合わせで、特急のほうに臨時停車というような機会があったとしても、大歩危駅以降では何の役にも立つまい。浦上がそれを言うと、
「我社《うち》の若手に、四国出身の記者がいるんだが、土讃本線には、スイッチバック式の駅が二つもあるんだってな。しかし特急は直行で、スイッチバックするのは普通だけだと言ってたぞ」
谷田はまったく新しい話題を口にした。谷田が思い付いたキーとはそのことなのか。とんでもないヒントが、思いもかけないところに潜んでいる例は、これまでにもあった。
行き詰まった状態であるだけに、何でも彼でも足がかりにしたいのは、浦上とて同じだ。
スイッチバックが、ストレートに突破口になるとは思えないが、
「そんな駅があるとは、知りませんでしたね」
浦上は時刻表を引き寄せ、カラーで印刷された索引地図を開いた。地図を見ただけでは、どれがスイッチバック式の駅か分からないし、スイッチバックするのが普通車だけというのでは、三日前を思い返しても無駄だった。
三日前に松山から土佐山田へ向かったときの浦上は、予讃本線も、土讃本線も、L特急を利用したのだから。
「言われてみれば、きみも少しは引っ掛かるだろう。よし、確かめてみよう。あいつ、もう帰ったかな」
谷田は、つぶやきながら腰を上げていた。
横浜支局への電話は、簡単に終えた。若手記者はまだ支局に残っていた。
テーブルに戻ってきた谷田は、徳利の横へ「坪尻《つぼじり》」「新改《しんがい》」と走り書きしたメモ用紙を置いた。
浦上はすぐに時刻表を指先でたどった。残念ながら、思い付きの域を出なかった。
坪尻は阿波池田よりも高松寄りなので、阿波池田始発の下り列車は走らないコースだし、新改のほうはずっと下って、土佐山田の一つ手前の駅なのである。当該列車の新改到着時刻は十四時五十五分。
そんな時間に、山の中の小駅で下車したところで、前途が拓《ひら》けてくるわけのものでもあるまい。
「スイッチバックは、着想としては面白いけど、今回は関係ないですね」
浦上が時刻表を閉じると、
「スイッチバックが意味を持ってくるかどうか、地元の美女に案内してもらって、もう一度吉野川の流れを見てくるんだね」
と、谷田は繰り返した。
確かに、これ以上の検討は机上では無理だった。
二人は、しばし無言で、酒を酌み交わした。
*
矢島部長刑事と、同行の若手刑事が、淡路警部と別れてビジネスホテルに引き上げたのが、その頃だった。
ビジネスホテルは、関内《かんない》駅を挟んで、浦上と谷田が円卓を囲む酒場の反対側にあった。
矢島と若手刑事は、神奈川県警本部から、夜の舗道を歩いて、ホテルに帰った。
二人とも疲れ切っていた。
東京や横浜のような大都会に不慣れのせいもあるけれど、午後、羽田空港に着いて以来、それこそ一秒の休みもなく、事件の解明に終始してきたのである。
夕食をとるときも、堀井の足取り追及がつづいた。
その結果、少しでも裂け目が生じてきたというのであれば救われるが、立ちはだかる壁は、逆に、厚みを増してくるだけではないか。
「主任、犯人《ほし》は本当に堀井なのでしょうか」
若手刑事は、四階のツインルームに入ったとき、フロントの自動販売機で買ってきた缶ビールをテーブルの上に置いて言った。
思い詰めたような口調だった。
「大歩危にいた堀井は松山港へ行くことができないし、松山で殺人を実行したのでは、ひかり162号≠ナ東京へ帰ってくることができない」
と、繰り返すつぶやきは、さっきまで神奈川県警の捜査一課で、淡路警部とつづけてきた検討の域を越えなかった。浦上や谷田の吐息と、まったく同質なものだった。
前提となるデータが同一なのだから、抽出される結論は、事件記者も、ベテラン刑事も変わらない。
「動機は確かだし、指紋も一致した。しかし、アシがないんではなあ」
矢島はどっかとソファに腰を落とし、缶ビールに手を伸ばした。
松山南署の捜査本部は、この二人の刑事に対して、次の動きが出るまで、横浜に滞在するよう指示してきた。指示は、もちろん堀井逮捕を含みとしたものだが、時間をかけたからといって、堀井を連行することができるのか、どうか。
「堀井を割り出してきた、ウデのいいルポライターはどういう判断かな」
意見を聞いてみたいね、と、矢島は言ったが、ベテラン部長刑事としては、これ以上、先を越されたくないのに決まっている。缶ビールを飲む矢島のごっつい横顔に、複雑な表情が浮かんでいるのを、若手刑事は見た。矢島は、宇和島西署で浦上を尋問したことを思い返しているようだった。
若手刑事も缶ビールに口をつけた。
しばらく、二人は足を投げ出して、黙って缶ビールを飲んでいたが、やがて若手は、何枚かのコピーを、四角いショルダーバッグから取り出した。
淡路警部の慫慂《しようよう》もあったが、松山南署が分析し、矢島部長刑事が書き出した列車ダイヤを、谷田を通じて浦上に提示したのは、堀井隆生を掘り起こしてきた功績に対する、いわば、お返しだった。
若手刑事は、浦上や谷田と同じようにしおかぜ9号≠ナ松山へ向かうルートと、ひかり162号≠ナ東京へ到着するルート、二枚を引き抜いてテーブルの上に置いた。
「ルポライターは、この壁をどうやって崩すのかな」
部長刑事のつぶやきは自嘲的なものに変わり、
「やはり、実行犯は別にいるのではないでしょうか。共犯がいなければ、殺人《ころし》は成立しませんよ」
と、若手刑事は口元を引き締めた。
矢島は、しかし、共犯説には乗ってこなかった。
その点は、浦上や谷田の考え方と同じだった。高橋美津枝との、隠れた関係の形から推しても、堀井は、共犯を置くような人間ではない。
(犯行《やま》は、すべて、堀井が単独で立案、実行したことだ)
矢島は、長い捜査体験の上に立って、それを確信している。矢島はさっき、八重洲の喫茶店で、実際に堀井を尋問したことで、余計、その確信を強めた。
「事件《やま》は殺人《ころし》だぞ。堀井は何があろうと、第三者の力を借りたりはしないよ。あいつはそういう男だ」
矢島は、手にしたビールの缶を見詰めた。
「主任、堀井がそうした人間であるのは、自分にも見当がつきます。しかし、人を殺すような大事に際して共犯を拒否する完全主義者だとしたら、真犯人《ほんぼし》は、やはり堀井とは違うのではないですか」
若手刑事のほうは、テーブルに置いた二枚のコピーから目を離さなかった。
「確かに、堀井は、犯人《ほし》としての条件を、すべて備えています。でも、その向こう側に、堀井とは無関係な、もう一人の見えない犯人がいるのではないでしょうか」
「あのルポライターと同じ体型の男がもう一人いると考えるのかね」
「浦上さんの取材日程を聞き出した男の顔は、だれも見ていませんよ」
「そんなことを言えば、彼を尾行して、彼の指紋が付着した分県地図を買ったり、王将駒を失敬した人間も、特定されているわけではない」
「被害者《がいしや》は、あれだけの美人です。何度も話が出たように、親しい男性が、他にいてもおかしくありません」
「土壇場へきて、ひっくりかえるっていうのか」
矢島は、缶ビールをテーブルに戻した。
堀井という男が、どんなことがあっても共犯を用意する性格ではなく、なおかつ、殺人現場へ立つことができないとあっては、そういう結論になろう。
堀井と同じように、美津枝と深い関係を持ち、堀井同様、浦上に恨みを抱く男。しかも、体型まで共通した男が、もう一人登場するなどという偶然は考えにくい。
だが、何としても堀井のアリバイが崩れないのなら、推理は、そうした移行になろうか。
レンタカーから採取された堀井の指紋は、一時棚上げ、ということにならざるを得まい。
二人の刑事の話し合いが、そんな具合に行き詰まった頃、浦上と谷田も、複雑な酔いを深めていた。
酒場に腰を据える浦上と谷田も、結局は、矢島部長刑事たちと同じような迷路に迷い込んでいたのである。
浦上は、やがて酒場を出るとき、
「複数の男性関係か」
と、高知空港で澄子が漏らしていたつぶやきを思った。
9章 終着駅高松
翌九月五日、火曜日。
松山南署の捜査本部では、改めて、堀井隆生の関係者に接触する方針を打ち出した。
堀井の妻の伯父に当たる、『不二通商』の常務、同僚である同じ営業課長の吉村《よしむら》、伊藤《いとう》、吉田《よしだ》の三人。
そして、高橋美津枝が三ヵ月前まで働いていた大阪支社の関係者。
内偵には、もちろん神奈川県警も協力することになっており、『毎朝日報』横浜支局も、他社に嗅ぎ付けられないよう、飽くまでも潜行した取材態勢で、臨むことになった。
一方、浦上伸介は、大阪の菊池澄子に連絡を取り、東京発十二時のひかり25号≠ナ四国へ向かった。
岡山からは、快速マリンライナー39号≠ノ乗り継いだ。
結局、浦上が瀬戸大橋を渡るのは、この日が最初、ということになる。
内海は秋晴れで、波もなく静かだった。
先頭のグリーン車は空いていた。浦上は、二人掛けの座席を窓側に回した。
瀬戸大橋からの風景は大きい。無数の島を見下ろす内海の眺望を満喫して、坂出に到着したのが、十六時五十分。東京駅から四時間五十分である。四国は近くなった。
坂出から十数分で高松だった。
高松は宇和島と同じように、行き止まりの櫛形《くしがた》ホームだ。浦上は五日前の夕方、宇和島で感じたように、
(まさに、終着駅だな)
と、つぶやいていたが、いま、旅情に浸る余裕はなかった。
浦上は、堀井が主張する足取りを、そのとおり踏襲するために、再度四国へ渡ってきたのである。
終着駅で下車した乗客は、全員が一方に向かって、ホームを歩いて行く。改札口は、高松港側である。
改札口周辺には、ずらっと、何軒もの飲食店とか売店が並んでいる。
人込みの向こう側、改札口を出たところに、澄子が立っていた。澄子は紫系統の、細かい柄物のブラウス・スーツだった。
澄子のほうが先に、浦上を見つけた。澄子は人なつこそうに、小さく手を振った。
高松での待ち合わせを提案したのは、澄子だった。叔父夫婦が、高松市内の東浜町に住んでいるのである。
昨夜遅く、浦上が浪速区のマンションへ電話を入れると、
「あたしも、ご一緒させてください」
と、澄子は言った。
高知空港とか、大阪の守口で別れる際に交わした約束の、実現である。澄子は、勤め先は年休をとり、高松の叔父の家を足場にして、浦上への協力を決めた。
そうして、一足先に、大阪から高松入りしていたのである。
「浦上さんの今夜のお泊まりは、ご希望どおり、高松アストリアホテルの、シングルを予約しておきました」
澄子は浦上を迎えると、最初にそれを告げた。いかにも、行動派の澄子らしい手速さだった。
いかなる意図が秘められているのか、堀井が利用しようとして、宿泊しなかったホテル。
「アストリアホテルは、玉藻公園の手前ですから、駅から歩いても二、三分ですわ」
と、澄子は先に立って、駅の構内を出た。打ち合わせは『高松アストリアホテル』のロビーで、と、最初から決めていたようである。
澄子の、そのてきぱきとした進行は、初対面以来、浦上に好印象を与えている。
ターミナル駅は、勤め帰りの人たちで込み始める時間だった。
澄子と浦上は、駅前広場の花時計を半周して、十字路に向かった。
路傍に何人もの靴みがきがおり、
「大将、サービスしますよ」
と、声をかけてくる。
最近、東京や横浜では滅多にお目にかかることのない、路傍の靴みがきだった。
浦上は、信号待ちで、十字路で足をとめたとき、昨夜来解消されない疑問を、澄子に伝えた。
「美津枝さんを絞殺した男は、堀井以外に考えられません。しかし、昨夜も電話で言ったように、どうしても、二重のアリバイが崩れないのです」
ひょっとして、本当の犯人は別にいるのではないか。刑事たちの間でもそうした意見が出ていることを浦上は言い、
「実はぼくも、堀井は犯人ではないのではないかと疑心暗鬼になっているところです」
と、遠くに目を向けた。不本意ながら、本音だった。
東京からの車中、ただ一点のみを凝視してきたのに、一向に、なぞは解けない。判然としない渦は、次第に、浦上の内面で大きくなってくるばかりだ。
「思い出してください。美津枝さんが、堀井以外のどんな男性と交際していたのか、小さいヒントでもいい、思い浮かぶことはありませんか」
「高知空港で言いましたように、美津枝が、何人かの男性とおつきあいしていたのは事実だと思います。でも、会社で机を並べていた塚本るり子さんの話が、正確なのではないでしょうか」
「関係が深かった男性は、堀井一人、と修正しますか」
「美津枝が社会人になってからは、同僚の塚本るり子さんのほうが、ずっと身近にいたわけです。あたしよりも、塚本さんのほうが詳しく美津枝を観察していたのは、浦上さんが取材されたとおりですわ」
「そうですね」
浦上もうなずいた。
観察≠ェハイミスの好奇心に発したものであるにしろ、二年間、るり子が、美津枝の行動をじっと注意していたのは事実だ。
「あ、ちょっと」
浦上は信号が青に変わったとき、十字路を渡ろうとする澄子を、慌てて、引きとめていた。
大歩危駅を中心とする、もっとも重要な追跡調査は、明日の午後からの開始となるが、堀井の主張を、同時間帯で追及することが、今回のテーマなのだ。
と、すれば、いまこの場で済まして置くことも可能な事項があるのに、浦上は気付いた。
これは、本来なら、大歩危からL特急しまんと6号≠ナ到着後にチェックするのが、堀井の主張に沿った順序であるけれど、取材順序を逆にしても差し支えあるまい。浦上が、ふと気付いたのが、そのことだった。
そう、取材先では、いついかなる変化が出来しないとも限らない。着手ができるものは、さっさと片付けて置くのが、ルポライターの基本姿勢となる。
浦上は思い付きを、早速実行に移すことにし、
「一応当たって置きましょう」
信号機の下で踵《きびす》を返した。
あの日、しまんと6号≠ナ高松駅へ到着した堀井は、降りたホームで夕刊各紙を買い、『高松アストリアホテル』と『不二通商』東京本社へ、ホームから電話をかけたことになっている。
「しまんと6号≠フ高松着は十七時十分だから、ちょうどいまホームに入ったところでしょう。順序は逆だが、取材を始めてみます」
浦上は澄子を促した。
駅へ戻って、浦上が二枚の入場券を買うと、澄子は、
(週刊誌の取材って、こんなにまでするのですか)
といった顔で、切符を受け取った。
改札を通ると、四両連結のしまんと6号≠ヘすでに到着しており、乗客は全員が下車した後だった。
浦上は、到着ホーム5番線のキヨスクへ行った。そこに、予想もしない突破口があった。
浦上が夕刊を求めると、
「右端のがそうです。自分でお取りください」
と、中年の売り子がこたえた。
新聞入れに差してあるのは、岡山で発行している山陽新聞だけだった。
全国紙は売れ残った朝刊が、そのまま並んでいる。この時間、全国紙の夕刊は、まだ高松へ届いていないのか。
堀井が大歩危から乗車してきたと主張するしまんと6号≠ヘ、何分か前にホームに入っている。
それなのに、全国紙の夕刊は、まだ一紙も売られていない。あの日も、販売されるのが遅かったとしたら、問題が生じてこよう。堀井は十七時十五分と十八分に二本の電話をかけ、十七時二十七分にマリンライナー44号≠ナ高松を離れた、ということになっているのだから。
そう、堀井は、その主張どおり、しまんと6号≠降りたその場で夕刊を買い、『和平興産』社長の死を知ったのでなければ、十七時十五分に『高松アストリアホテル』へのキャンセル電話がかけられない。
しかも、社長の死を報じたのは全国紙のみで、地元紙が一行の記事にもしていないことは、『毎朝日報』横浜支局が確認済みだ。すなわち堀井は、堀井自身が述べているとおり、全国紙の夕刊を手にしない限り、『和平興産』社長の死を知ることはできないのである。
浦上はホームの時計を見た。十七時十九分だった。
堀井が電話をかけたという時間は過ぎている。
それなのに、キヨスクに夕刊はない。
「お尋ねしますが」
と、浦上が、中央各紙の夕刊が届く時間を確かめると、売り子は怪訝《けげん》な顔をした。
「お聞きしたいのは、全国紙の夕刊は、いつもこの時間には、まだ配付されていないのかどうか、ということですが」
浦上は先方のこたえがないので、急《せ》き込んだように、質問を重ねた。
「具体的には、六日前のことを知りたいのですよ。八月三十日の水曜日です。あの日は、しまんと6号≠ェ到着したとき、もう夕刊は売られていましたか」
「お客さん、何を言っているのですか。うちで売っている夕刊は、そこにある山陽新聞だけですよ」
「あ、これは失礼。すると、各紙をそろえているのは、改札のほうの売店ですか」
浦上は向こうの大きいキヨスクに、視線を投げた。
ターミナル駅とはいえ、地方都市なので、売り場も限定されるのだろう。浦上はそう考えたが、キヨスクの売り子は、質問の意味が解せないといった面持ちで、こたえた。
「お客さん、香川の四国新聞は夕刊がないので、高松で売っているのは山陽新聞だけですよ。全国紙は、朝刊しか入っていません」
「何ですって?」
浦上は、思わず背後の澄子を振り返っていた。澄子も、
(そう、四国に全国紙の夕刊は配達されていません)
というようにうなずき、
(それがどうしたのですか)
と、不審な顔をしている。
堀井がホームで夕刊を買ったという主張は、言ってみれば、瑣末事《さまつじ》だ。澄子には説明していなかった。
だが、この些細《ささい》なことが、重要な意味を持ってきた。
浦上はキヨスクを離れると、タウンページで調べて、『毎朝日報』高松支局へ電話で問い合わせた。
「ええ、そうですよ。全国紙の夕刊は、四国四県のどこにも入っていません」
支局の返事は明快だった。
「それはどうも」
と、礼を言って受話器を戻したとき、浦上の内面に広がっていた判然としない渦、
(堀井は犯人ではないのではないか)
という疑心暗鬼は、きれいに拭い去られていた。
「堀井のアリバイは偽物です。間違いなくあいつが、美津枝さんを絞殺した、真犯人です!」
浦上の声には、無意識のうちに力が籠もっていた。
堀井は高松駅のどこで、(四国では販売されていない)夕刊を見たというのか。高松にいたのでは、全国紙の夕刊を手にすることができない。
そこで示されるこたえは一つだ。
「あの男、あの日の夕方、高松にはいなかったってことでしょう。そう、しまんと6号≠ノなど乗ってはいなかったことになります」
浦上は澄子を見詰めて口走ると、もう一度、構内のカード電話の前に立った。
あの夕刊の記事は、旅の予定変更≠周囲に納得させる力を備えている。そこで堀井は、事前に用意していたであろう理由≠ノ代えて、『和平興産』社長の死を、利用したのに違いない。
それは、矢島部長刑事も考えたことであるし、昨夜、浦上と谷田実憲が問題にした点でもあった。
高松駅ホームからのUターンは、(不二通商の宿直員を東京駅ホームまで呼び付けたことと同様)いかに工作の匂いが強かろうとも、堀井が主張するアリバイの、重要な基点となっていたのである。
その基点が、取材第一歩にして、早くも崩れたのだ。
浦上が、興奮を隠そうともせずにプッシュしたダイヤルは、神奈川県警記者クラブ『毎朝日報』の直通ナンバーだった。
「先輩、八月三十日付山陽新聞の夕刊記事を確認しながら、四国に、全国紙の夕刊が配付されていない事実を気付かなかったのですか」
興奮は、そんな第一声となった。
だが、そのこと自体は、営業畑でもない社会部記者を責めるのは酷だった。おまけに、四国は、横浜支局が属する東京本社ではなく、大阪本社の管轄なのである。
「夕刊の配達されない市町村が、日本各地にあることは、無論承知している。でも、四国の玄関口高松がそうだったとはねえ」
記者歴十年余の谷田も、意外そうな口調だったが、見落とし≠ノ悪びれた気配はなかった。
谷田にとってもまた、浦上同様、疑心暗鬼のきれいに拭い去られたことのほうが大きかったのである。
「堀井らしく、気が利いたつもりの、予定変更≠フ口実が、結局壁に罅《ひび》を入れたか」
谷田も早口となり、
「高松に夕刊がなかったことは、やつの主張するアリバイが偽物であることの決定的な証明となった。それはそのとおりだろうが、じゃ、あいつはどこで夕刊を見たんだ?」
と、畳みかけてきた。
浦上も、それを考えたところだった。全国紙の夕刊を買ったのが、松山であるなら、おぼろげながら、輪郭が見えてきたと言えよう。
しかし、肝心の松山も、高松同様、夕刊が入っていないというのでは、今度は、『和平興産』社長の急死を夕刊で知ったことが、現場不在の証明になってくるかもしれない。
高松に、全国紙の夕刊が配付されていないことを知らなかったのは、堀井の、うかつな読み違いであろうが、
「アリバイ二重工作は、別な形で生きてくることになるな」
と、谷田は言い、
「それにしても、こうした発見に出遭うとは、スタートラインから幸先がいいじゃないか。当然、地元の美女を同行しての取材なんだろうね」
と、高い笑声を返してきた。
現地に立つ浦上よりも、谷田の語感のほうにゆとりが感じられるのは、これは、性格の違いというものだろう。
浦上は横浜への電話を終えると、澄子の案内で、改めて、『高松アストリアホテル』へ向かった。
駅を背にして、駅前広場の左手が高松港である。
十字路で踵を返したときから、それほど時間が経ったわけではないのに、さっきとは違って、内海は完全な夕景に変わっている。
夕日に彩られる波止場に、JR高速艇が、白い船体を見せていた。
*
翌九月六日、水曜日。
浦上伸介は『高松アストリアホテル』のシングルルームでゆっくりと朝寝をし、快適に目覚めた。
二重アリバイの壁は残っているけれど、堀井隆生が間違いなく真犯人《ほんぼし》であることは特定されたのである。
「吉野川上流を走って、高知へ向かう普通列車が、どんなキーを隠しているか、ということだな」
と、谷田実憲が漏らしたルートを追跡することで、最後の戦いは始まる。
二階のレストランで、時間をかけて和朝食を食べ、一階のロビーに下りたのが、午前十時半だった。
約束は十一時少し前ということであったが、例によって、菊池澄子は、もう姿を見せていた。
「叔父の家からこのホテルまで、徒歩で十五分とかかりませんの」
と、澄子は言った。
澄子は昨日と同じ、細かい柄物のブラウス・スーツだった。
浦上と澄子は、広い舗道を歩いて、高松駅へ向かった。
瀬戸内海は、今日も快晴だった。蒼い空に、いわし雲が浮かんでいる。
浦上と澄子が乗車したのは、高松始発十一時二十四分のしまんと3号≠ナある。これは、ちょうど一週間前の犯行日、池田で製材工場を経営する直良とともに松山を発った堀井が、多度津から乗り込んできた、土讃本線高知行きのL特急だ。
四両連結の気動車は、八分通りの込み方だった。浦上と澄子は、海側のシートに並んで腰を下ろした。
列車はすぐに高松の市街地を抜け、稲田の中を走った。
浦上は例のコピー用紙を取り出して、改めて澄子に見せた。
しおかぜ9号≠利用して松山へ引き返すルートと、ひかり162号≠ナ東京へ帰るルートの二枚だった。
「美津枝が愛した男性は、こんなに細かい計画を立てる人ですか」
「すべてに、冷たい計算ずくの男です」
二人はコピーを手にして、そうした会話を交わしたが、後は無言だった。
多度津で、自由席はほぼ満席となった。
浦上は、高橋美津枝の生家へ向かった五日前を思い返した。あのとき、堀井隆生の名前はまだ霧の中だったし、もちろん、堀井がしまんと3号≠ノ乗っていた事実など、知りようもなかったわけである。
浦上は五日前とは違う目で、山間の風景を見た。
いくつかトンネルを抜け、渓流にかかる鉄橋を渡ると、右下の林の中に、小さい駅舎が現われた。
「坪尻ですわ」
と、澄子が説明した。
五日前に通過したときは、左側に座っていたせいもあって気付かなかったが、それが、普通車がスイッチバックする駅だった。まったく人影がない古い駅舎は、すぐに視野から消えた。
阿波池田には、予定どおり十二時三十八分に着いた。
堀井は池田町で、直良の製材工場を見学して、三十三分を過ごしている。
「こっちは、その時間を利用して、昼食《ひる》を済ませますか」
浦上が列車を降り、跨線橋を渡るときにつぶやくと、
「池田は祖谷《いや》そばが名物です。ええ、駅の構内にも立ち食いのお店があります」
と、澄子は言った。
実際に降り立った駅前は、先日車窓越しに見たのより、ずっとにぎやかだった。正面にアーケードの商店街があり、大きいパチンコ店が営業を始めている。
(ここなら、楽にタクシーに乗れるか)
澄子と並んで駅前を見回していた浦上の視線が、観光案内所の前でとまった。案内所の前がタクシー乗り場になっており、客待ちの空車が、何台もずらりと並んでいる。
浦上は、川之江ルートのコピーを取り出した。
松山南署のチェックでは、ここで、四国交通バスを、JRバスに乗り換えることになっている。
バス乗り継ぎより、タクシー利用のほうが時間を短縮できるのは、自明の理だ。バスの場合は乗り換えに二十一分の待ち時間があるけれど、まず、それが省略できる。
(これかな)
浦上の目が輝いてきた。
タクシーを飛ばせば、川之江で、しおかぜ9号≠謔闡≠「L特急に乗れるのではないか。
一本早いL特急を利用できれば、文句なく、犯行時刻に間に合う。
(とりあえず、壁の一つは消えるか)
浦上はそんなつぶやきをかみ殺して、タクシー乗り場へ行った。
運転手が三人、タクシーを降りて、たばこをくゆらしながら雑談をしていた。
三人は、口々にこうこたえた。
「川之江の町ではなくて、駅までかい?」
「所要時間は、バスもタクシーも、そう変わらないよ」
「馬路川沿いの国道192号を行くんだけどね、山道なので、そうそうぶっ飛ばすわけにはいきませんや」
いくら急いでも、五十分は見なければならない。それが運転手の、話し合いの結論だった。
阿波池田、川之江、二つの駅での乗り換えに、三、四分は必要だろう。すると、うまくいって五十四分。
川之江発が、十五時二十九分以降の列車でなければ乗ることができない。しかも、これは、飽くまでも順調に運んでの場合だ。
山間の国道で、ちょっとしたトラブルでもあれば、計画は大幅に乱れてしまう。完全犯罪を狙う慎重派が採用するルートではない。
だが、この際だ。他に手段がないのなら、堀井は山越えのタクシーに賭けるしかないか。
浦上はそう考えながら待合室へ戻ると、澄子の目の前で時刻表を開いた。
駄目だった。
わずかだが及ばない。結局は、バスの乗り継ぎと同じことで、利用できるL特急は、しおかぜ9号≠ニいうことになってしまう。
しおかぜ9号≠フ前に一本、十六時九分発という松山行きがあるけれども、これは普通なので、松山着が十九時四十四分。問題外もいいところだ。
重大新発見かと思ったのに、期待は、それこそ一瞬のうちに遠のいてしまったわけである。
(そういうことですか。タクシーが可能なら、地元の刑事《でか》さんたちが、見落とすわけもありませんか)
内面のつぶやきが、自棄《やけ》気味なものに変わっていた。
浦上はそうした自分を押し隠すようにして、
「焦点は大歩危です」
と、澄子に向かって言った。
祖谷そばの屋台店は、駅構内の右手奥にあった。
いかにも素朴な味わいのかけそばを食べ終わると、いくらも待たずに、高知行きの発車時間となった。阿波池田始発の普通車は、二両連結だった。
車内は、がらがらに空いている。
『大王製紙』の岩川が下車した三つ目の駅、阿波川口まで十七分。
それから後は、目撃証人なしの、空白の時間帯となる。
*
十三時四十八分、普通車は大歩危駅に着いた。
下車したのは、浦上と澄子のほかには、一目で土地の人間と分かる、小柄な中年女性一人だけだ。中年女性は、駅員と親しそうにことばを交わして、改札口を出て行った。
なるほど、小さい待合室の中央に、なぜか大きい囲炉裏《いろり》ができている。
待合室は無人だった。駅前もひっそりしており、何軒かある商店にも、人影は見えない。
駅前は、右にカーブするだらだら坂になっている。
三、四分歩いて、坂を上り切ったところが、大歩危橋だ。
橋のたもとに、路線バスが一台とまっていた。ここを折り返し点とする阿波池田行きの四国交通バスは、時間調整のために停車しているのであろうが、駅の待合室と同じことで、客の姿は一人も見えない。
浦上と澄子は、高い橋を渡った。
橋の下に土讃本線があり、そのはるか下に、池田方向へ流れて行く渓流が見下ろせる。
「浦上さん、四万十川《しまんとがわ》へ行ったことがありますか」
澄子が、大歩危橋を渡りながら、話しかけてきた。
「今回、長年の夢が実現するはずでしたが、この事件に巻き込まれて、残念ながら宇和島どまりでした」
と、浦上がこたえると、澄子は四国を代表する二つの川の違いを口にした。
清流四万十川は、上流から中村の河口まで、ずっと険しい山地を、S字形に激しく蛇行しているのであるが、吉野川は、池田町で流れが右にカーブするだけで、四国山脈の上流から徳島の河口まで、ほとんど直線的に流れているというのである。
すなわち、池田までの上流は南北に流れ、池田からは東西に流れて、紀伊水道へと至るわけだ。
「あたし、四万十川も好きですが、吉野川上流の、この辺りの眺めが素晴らしいと思います」
澄子は、長い橋を渡り、国道32号線へ出たところで、足をとめた。吉野川沿いに南下して、南国高知へとつづく崖下の国道である。トラックはよく走ってくるが、やはり人影は少ない。
ドライブインは、この国道を北上し、池田方向へ十五分ほど歩いた崖っ縁にあった。ドライブインの手前を下りると、堀井が乗船したと主張する、観光船の発着場となる。
浦上も足をとめ、キャスターをくわえて、周囲の高い山脈《やまなみ》を見回した。五日前、車窓越しに圧倒された風景だが、こうして、渓谷沿いの国道に立って見上げる高い山々は、五日前にも増して、壮観だった。
この緑多い自然が、大阪という大都会を発端とする、不倫なオフィスラブと殺人に、どうかかわってくるというのか。
浦上は、ゆっくりと、一本のたばこを吹かした。
「さっき坪尻を通ったけど、新改もあのような駅なのかな」
浦上が山頂を見上げたまま、つぶやくと、
「はい、似た感じですわ」
と、澄子はこたえ、回転が速いだけに、すぐ、ぴんときたようだ。
澄子は言った。
「スイッチバックの駅が、このアリバイに関係してくるのですか」
「何かのヒントにでもなれば、と、毎朝日報にいる先輩は言ってるのですけどね」
浦上はたばこを足元へ捨て、靴先で踏みつぶした。
その、足元へ向けられた視線がそのままずれて、はるか眼下の渓流を改めて見やったとき、
「そうか、スイッチバックねえ」
浦上は自分に向かってつぶやき、ふいに顔を上げると、今度は、高知方向へと下って行く国道に目を向けた。
トラックが二台、通り過ぎて行った。走り去って行く大型トラックを追いかけるようにして、浦上は澄子に話しかけた。
「変だと思ったことはありませんか」
「は?」
澄子はびっくりしたように、浦上を見た。話し方が唐突だったし、伏線とか予備知識抜きで、いきなり変ではないかと言われても、何のことか分からない。
「川の流れを見てください」
浦上は眼下を指差した。懸命に、思考を整理する顔だった。
「いいですか。ようく確かめてください」
浦上は、今度は国道を振り返った。
「国道は、高知へ抜けるまで、こうして下り坂がつづくわけでしょう」
「はい。池田からは列車も国道も、ずっと下って行くだけです」
「変じゃないですか。吉野川は、逆に、上手《かみて》である池田のほうへ流れている」
「そう言えばそうですね。でも、そんなふうに吉野川を見たこともなければ、そんなこと、考えたりしませんでしたわ」
と、澄子はこたえたが、浦上はそれを聞いていなかった。返事を求める問いかけではなかったからである。
浦上の関心は地形にあるわけではなかった。そのこと自体は、どうでもいい。
(思いもよらない、スイッチバックかもしれないぞ)
平行しながら逆方向に下って行く、国道と川の流れの対比を目にして、浦上の感じたのが、そのことだった。
国道と土讃本線は、いわば吉野川を溯《さかのぼ》りながら、南へ下っているわけだ。浦上の着眼がそれだった。
浦上はショルダーバッグから、例の何枚かのコピーを取り出し、
「ここにはないルート、もう一枚、全然発想の異なるルートが隠されているってことですよ」
と、口元を引き締めた。
澄子は笑みを浮かべた。
「浦上さんて、川の流れを見て、そんなことを思い付く人ですか」
「いえ、こんな例は初めてです。ともかく、あそこで冷たいものでも飲みましょう」
浦上は、駐車場の先にあるレストハウスに向かって、歩き出した。
*
シーズンオフのウィークデーとあって、レストハウスも空いていた。広い店内だった。
澄子はオレンジジュース、浦上はビールを注文した。
大歩危からUターンしてくるルートがないとしたら、Uターンは、四国山脈を突っ切った先に拓けてくることになるか。
高知経由にルートはない。それが松山南署の結論だった。予土線と松山高知急行線バスは、参考データとして、コピーされているのに過ぎない。
どうひっくりかえしても不可能だという、警察の判断を是認しているようでは、水平思考とは言えない。
ジュースとビールがきた。
浦上はビールを飲みながら、窓ガラス越しに、再度、渓流を見下ろした。
吉野川の流れも、池田から徳島の河口までは自然だ。川沿いの国道192号線も、徳島本線も、池田からスムーズに下って行くのだから。
問題は、ここから見下ろす流れだ。
池田から高知へかけての国道32号線は、ずっと下っているのに、その坂に沿った吉野川は、逆に、池田へ向かって流れている。
(堀井のアリバイトリックも、これだろうか)
もやもやしたものを整理できないまま、そう考えたとき、
「ヘリコプターをチャーターするのは、難しいでしょうか」
澄子がつぶらな瞳を向けてきた。澄子なりに思いをめぐらしたのであろうが、ヘリコプターは買えない。
いかにも、素人ふうな発想だ。見慣れないヘリコプターなど飛んでくれば、人々の注意を引くだろうし、第一、操縦士という共犯≠ェ必要になってくる。
(だが、待てよ)
浦上はビールのコップを置いた。うん、これが水平思考かもしれない、と、浦上は自分の中でつぶやいていた。
「ヘリコプターですか」
浦上は、川の流れから視線を戻した。
一番速い交通手段は、もちろん空路だ。四国四県は、それぞれが空港を備えている。
しかし、相互を結ぶ航空ダイヤはない。
盲点はこれか。
ダイヤがないというのは、ストレートな接点がないということだ。眼下の逆行≠フ流れのように、地図の上では見えないルートが隠されているのか。
高知行き鈍行が阿波川口を発車したとき、堀井が列車に乗っていたのは間違いない。だが、阿波川口以降の堀井は、東京駅到着まで、目撃証人を持たないのである。
何度も検討してきたことだが、その間に何が工作できるのか。
堀井を空港へ連れて行くには、どこが一番近いか。
堀井を乗せた普通列車は高知へ向かって、南下している。消去法から言って、反対方向の高松と徳島は消え、高知空港が浮かび上がってくる。
高知空港へ出て、何ができるのか。ショルダーバッグから時刻表を取り出す、浦上の手が震えてきた。
土讃本線のダイヤをチェックするのは、何度目になるだろう?
高知空港へ行くには、土佐山田駅からタクシーに乗ればいい。龍河洞で初めて会ったとき、澄子はそう言った。
浦上が確認を求めると、
「タクシーで、十五分見れば十分ですわ」
と、澄子はこたえた。澄子は、年に一、二度利用しているという。
すると、次のようになる。
阿波川口発 十三時二十八分 普通
大歩危着 十三時四十八分
(下車しないで直行)
土佐山田着 十五時四分
(タクシー約十五分)
高知空港着 十五時二十分頃
高知との間に定期路線が開設されているのは、五つの空港だ。東京、名古屋、大阪、福岡、宮崎。
松山に近いのは福岡だが、高知からの福岡行きは、八時五十分発と、十八時五十五分発のJAS≠ェ、二便飛んでいるだけだった。
と、なると、便も多く、四国に近い飛行先は、大阪ということになる。
高知空港発 十五時五十分 ANK418便
大阪空港着 十六時四十五分
これなら、無理なく搭乗することができよう。
「いったん四国(高知)を出て、すぐに四国(松山)へ引き返してくるのですか」
澄子は浦上が書き出した数字を見詰め、白い横顔をこわばらせた。こうした作業を見るのは初めてだけに、澄子が緊張するのも当然だろう。
浦上はそうした澄子を無視し、電話をかけるために席を立った。
赤電話は、透明ガラスのドアを出たところにあった。
浦上がかけた先は、松山南署の捜査本部である。確認は、松山空港と殺人現場、そして三津浜港との、時間的な位置関係である。
「空港ですって? 浦上さん何を発見したのですか」
先方は、刑事課長が出た。
「まだ、仮定以前の段階です」
浦上はそう告げて、要点のみを聞き出した。
さすが、お膝元だけに、打てば響くこたえが返ってきた。車を利用しての所要時間は、松山空港から犯行現場まで六、七分。三津浜港から松山空港まで十一、二分。
夕方のあの時間帯でも、そんなものです、と刑事課長は言った。
意外な近さではないか。中心に据えられているのが松山空港ならば、帰京のアシも、空路絡みということになってこよう。
ついでに、美津枝がレンタカーを借りた竹原町の営業所から、空港までの所要時間も質した。これは、空港通りを直進して、十四、五分という返事だった。
浦上は電話を切ったとき、今度こそ最後だと思った。
浦上は澄子が待つテーブルに戻り、時刻表の上に取材帳を広げた。
犯行現場へレンタカーが走ってきたのは、十八時二十六分。逆算すると松山空港が、十八時二十分。
いや、到着ロビーを抜けて、美津枝が待つレンタカーに乗り込むまでの時間を見ると、ぎりぎりでも、十八時十七分頃までには、松山空港へ着陸する便でなければなるまい。
大阪―松山間を飛んでいるのは、ANA≠セけだ。
浦上の指先が、航空ダイヤを追い、澄子が息を詰めて見守る。
しかし、そこにも光はなかった。期待が、重い吐息に変わったのは、瞬時の後である。
「どうなっているのだろう?」
浦上は時刻表を投げ出していた。
大阪空港で、乗り継ぎ可能なのは、最終便だけだったのである。
大阪空港発 十七時四十分 ANA455便
松山空港着 十八時二十五分
到着後、凶行までの持ち時間が一分しかないではないか。(その一本前の松山行きは、大阪発が十五時十分だから、堀井はまだ、土佐山田駅から高知空港へ向かうタクシーの中だ)
空港と犯行現場の間が予想外に近かったとはいえ、着陸後、わずか一分で、あの工場裏手のブロック塀まで行けるわけがない。
「どうしようもありませんね」
浦上はまずそうに、ビールを飲んだ。
窓外に見下ろす渓流も、高い山々の大自然の緑も、次第に、浦上から遠くなった。
*
それでも浦上は、土佐山田経由で、高知空港へ行ってみることにした。
堀井が主張するコースを追跡するより、まだしも、空路のほうが可能性ありと直観したためである。
次の大歩危発の下りは、十四時五十分のL特急南風5号≠ェあった。
土佐山田着は、十五時三十八分。
浦上と澄子は、何はともあれ、高知空港へ向かった。
五日ぶりの空港である。
あの日と同じ、ロビー二階のレストランに立ち寄ろうとして、浦上の足がとまった。チケットカウンターの前だった。
『九月一日からは、夏期航空ダイヤ(七月二十二日―八月三十一日)ではありません。乗り継ぎなどのご搭乗時間に、ご注意ください』
浦上の視線は、カウンター近くに張り出された注意書《メツセージ》を捉えていた。
鉄道ダイヤは月々変更されるわけではないが、季節列車や臨時列車の運転があるので、浦上は毎月新しい時刻表に買い換えている。今回ショルダーバッグに入れてきたのも、無論九月からの新しい時刻表だ。
九月の時刻表で、八月の航空ダイヤをチェックするなんて、
(こいつは、初歩的なミスもいいところだ)
浦上は舌打ちをし、唇をかみ締めてチケットカウンターに行った。
だが、問題の出発便は、さっきのチェックと変わらなかったのである。
福岡行きは九月も八月も同じダイヤなので、松山への時間短縮ルートはないし、大阪行きANK418便≠フ発着も、今月号の時刻表から書き出したとおりだった。
「じゃ、あれはどういうことですか」
浦上は思わず声を荒立てて、張り紙を指差した。
「それは、同じダイヤで運航されている便も多いですよ。お客様がお問い合わせの便は、変更なしということです」
と、カウンターの中の係員はこたえた。一部ダイヤが変わったと言っても、これでは進展がない。これも駄目か。
浦上がさらに渋い表情になると、
「お客様は、どちらへ行かれるのですか」
制服の係員は浦上の顔をのぞき込んだ。
「実は、ある事件の取材をしているのですが」
浦上は、大歩危峡のレストハウスで書き出したメモを、カウンターに載せた。
そのとき、若い女性客が現われた。会話は一時中断された。
終章 土佐の夕凪《ゆうなぎ》
カウンターの中の係員は、女性客への対応を済ませると、横の小引き出しの中から、六日前まで使用していた、夏期航空ダイヤを探し出してくれた。
浦上はANA#ェ月の時刻表をもらうと、澄子を促して、空港ロビー二階のレストランに入った。澄子はレモンティー、浦上は、またビールを注文した。
先日と同じ、壁際の席だった。空港レストランは、客の出入りが多い。
浦上は待ち切れないように、ANA≠フ小さい時刻表を開いた。
そして、レモンティーとビールがテーブルに載ったとき、
「喜んでください。大歩危―松山間の時間の壁は、どうやら崩れました」
浦上は、山峡のレストハウスにいたときとは別人のような明るい顔になっていた。
浦上は取材帳の数字を訂正し、澄子が見ている前で、慌ただしく書き込みをした。
大阪空港発 十七時三十分 ANA455便
松山空港着 十八時十五分
同じ便だが、夏期ダイヤのほうが九月より十分早く発着するのである。この際の十分は、何物にも代えられないほど貴重だ。
これなら、十八時二十六分までに、殺人現場へ到着することが可能だ。
美津枝が借り出したレンタカーの営業所は竹原町の、空港通りに面している。空港通りを走って、営業所から松山空港まで十四、五分。
ダークブルーのセドリックは、十八時に借り出されているのだから、これまた計算された時間内の行動に違いない。すべて、堀井の指示どおりであっただろう。
「美津枝は、甘い話をちらつかされて、本当に、何も見えなくなっていたのでしょうか」
「一度失いかけた愛を取り戻そうと、そこにだけ、目が向いていたのでしょうね」
「かわいそうに。実際は、最初から愛情でも何でもなかったのに!」
「しかし、もう一つの難関、どうやって、堀井をひかり162号≠ノ乗せるかという、問題を解かなければ、全面勝利とはなりません」
浦上はビールに手を伸ばした。澄子も、それを待っていたように、レモンティーに口をつけた。
浦上はビールを飲み、ショルダーバッグから時刻表を取り出そうとして、やめた。鉄道ダイヤは、八月も九月もほとんど変化がないとはいえ、正確を期すなら前月号でなければ駄目だ、と、思い直したためである。
それに、手元には、JAL≠ニかJAS≠フ夏期ダイヤもないわけだ。
「週刊広場へ問い合わせてもいいけれど、ここは空港です。ここで何とかなるでしょう」
浦上は気軽く腰を上げて、レストランを出た。
そして、すぐに戻ってきた浦上は、八月号の時刻表を手にしていた。
「よかった。一階のインフォメーションに残っていましたよ。借りたいと言ったら、どうぞお持ちくださいとプレゼントされました」
浦上はほっとしたような笑顔で、薄汚れた大判の時刻表をテーブルの上に置いた。
松山空港には、東京、名古屋、大阪、福岡などの定期路線のほかに、広島と大分へ飛ぶ不定期路線があった。
犯行後、利用できそうなのは、二便だけだった。
十八時四十五分発 東京行きANA598便
十八時五十五分発 大阪行きANA456便
「でも、東京行きは無理ですね」
浦上は首を振った。
松山での、堀井の足取りは次のようになろう。
着陸後ロビーまで、小走りで=二、三分。
空港から現場まで、美津枝が運転するレンタカーで=六、七分。
犯行=四、五分。
現場から三津浜港まで、駆け足で=三、四分。
三津浜港から空港まで、タクシーで=十一、二分。
これだけで、ざっと三十分を必要とする。これに帰路の搭乗手続きを加えると、東京行きには間に合わない。
ぎりぎりで浮上してくるのが、十八時五十五分発の大阪行きだ。
この空路を、すでに東上しているひかり162号≠ノ直結させれば、今度こそ、本当の最後だ。
飛行機は大阪行きだから、最後の仕掛けは、大阪以降ということになる。
「冗談じゃないぞ」
浦上は、しかし、すぐに吐き捨てていた。ANA456便≠フ大阪空港着は、十九時四十五分。一方、ひかり162号≠フ新大阪駅発は、二十時だ。
「うまくいかないのですか」
澄子は、浦上の表情がふたたび沈んできたので、心配そうだった。
「十五分しかありません」
と、浦上はこたえた。自分自身に話しかけるような言い方だった。
大阪空港―新大阪駅間はタクシーで二十五分、と、ANA℃檮助\に記されている。これに、空港と駅での乗り換え時間をプラスするのだから、まず、絶対に、ひかり162号≠ノ追い付くことはできない。新大阪駅26番線ホームに駆け込むのが、早くて、二十時二十分前後となろう。
ひかり162号≠ヘ新大阪どころか京都も発車して、次の停車駅名古屋へ向けて疾走中だ。
*
だが、大阪空港が発見されたことで、もう一つの壁にも裂け目は生じていたのである。
澄子が、浦上のメモをのぞき込み、はばかるような小声で言った。
「大阪では駄目なのですか」
「ええ、大阪ではどうにもなりません」
浦上はおうむ返しにこたえ、はっとしたように顔を上げていた。
(大阪では駄目)
それがヒントになった。
松山から飛来してきたANA456便≠ヘ大阪どまりだが、空路は、大阪で終わりというわけではない。
浦上は力を込めて、もう一度、薄汚れた時刻表を引き寄せた。
新しい角度での再検討には時間がかかった。
時間は要したが、いくつもの新しい数字を書き出したとき、
「こういうことになっているのか」
浦上の声が高くなってきた。
「堀井が夕刊を買ったのも、三本の電話をかけたのも、大阪空港に間違いありません。堀井の電話を受けた三人は、電話越しに駅ホームの騒音が聞こえたと言ってるけど、あれは駅ではなく、空港|待合室《ロビー》の音だったのですね」
浦上はそんな言い方で、アリバイが崩れたことを澄子に告げた。
本当に、屹立する岩壁は崩壊したのか。
「今度は逆行≠ナはなく、先行≠ナす」
と、浦上は言った。完全に、余裕の表情を取り戻していた。
高知空港発 十五時五十分 ANK418便
大阪空港着 十六時四十五分
(空港ロビーで夕刊を購入。その後、乗り換えの待ち時間を利用し、高松駅ホームにいることを装って、十七時十五分に高松アストリアホテルへ電話。十七時十八分に不二通商東京本社へ電話)
大阪空港発 十七時三十分 ANA455便
松山空港着 十八時十五分
(殺人を四十分以内で完了)
松山空港発 十八時五十五分 ANA456便
大阪空港着 十九時四十五分
(十九時五十九分を待って、ひかり162号≠フ停車時間を利用する新大阪駅26番線ホームからの電話と偽って、不二通商の宿直員に東京駅19番線ホームまでアタッシュケースを持ってくるよう命じる)
「これからが問題です」
浦上はビールを飲んで、一息入れた。
大阪空港からタクシーをとばして新大阪駅へ着いたとき、すでに京都駅を発車しているひかり162号=Bこの時点で、この新幹線を捕らえるには、その次の停車駅しかない。
しかし、大阪―名古屋間に空路はないし、仮にうまい便があったとしても、名古屋空港―名古屋駅間は、タクシーで三十五分を要するのだから、乗り移ることなどできはしない。
「先行というのは東京、羽田空港への空路を選ぶことですか」
澄子の顔も険しくなっている。
「でも、浦上さん、ひかり162号≠ェ終点の東京駅19番線ホームへ到着したとき、堀井は、ちゃんと列車に乗っていたはずですわ」
「留意すべきはそこです」
浦上は、東海道新幹線のダイヤを示した。
「このひかり162号≠ヘ、名古屋―東京間に二つ停車駅を持っているのです。小田原と、もう一つは新横浜です」
「小田原にも、横浜にも、空港はないでしょう」
土佐山田出身で、大阪暮らしの澄子は、東京周辺に詳しくなかった。
浦上はこたえた。
「新横浜駅なら、羽田空港で、間に合うのです」
大阪空港着 十九時四十五分 ANA456便
大阪空港発 二十時四十分 JAL130便
東京空港着 二十一時四十分
(タクシー正味三十分プラス乗り換え待ち時間十四分)
東神奈川発 二十二時二十四分 JR横浜線 普通
新横浜着 二十二時三十二分
新横浜発 二十二時四十六分 ひかり162号
東京着 二十三時四分
堀井が主張する帰京ルートを、谷田から見せられたときの不審も、これで解消する。
最初にコピーを手にしたとき、
「堀井が高松から利用したという快速マリンライナー44号≠フ岡山着が十八時二十三分。岡山で乗り継いだというひかり162号#ュ車が十八時四十八分。しかし、この前に、十八時四十三分発の、ひかり28号≠ニいうのがあります。どうして、早いほうの新幹線に乗らなかったのでしょう」
と、浦上は、直観的にこだわったのであるが、名古屋―東京間がノンストップでは、堀井は、ひかり28号≠利用できなかったわけだ。
新横浜に停車するひかり162号≠ナなければ、このトリックは成立しない。
そしてまた、堀井が、『不二通商』東京本社の宿直員を呼び出すのに、新幹線の車内電話を使用できなかった意味も、これではっきりする。堀井は何の彼のと理由付けしているが、電話をかけたその時間(十九時五十九分)、堀井はJAL130便≠ヨの乗り継ぎのため、大阪空港の出発ロビーにいたのだから。
「横浜へ連絡してきます」
浦上はビールを飲みかけのまま、再度立ち上がっていた。
*
いつもなら、真っ先にダイヤルするのは、神奈川県警記者クラブの『毎朝日報』なのであるが、今回の報告相手は、谷田ではなかった。
不愉快な渦から救出してくれた淡路警部に何をおいても礼を言わなければならない。
淡路警部は、捜査一課の自分の席にいた。警部は、松山南署から出張中の、矢島部長刑事と打ち合わせをしているところだった。
電話での説明は長いものになった。
「さすがは浦上さんだ、アリバイ崩しがお得意とはいえ、今回の場合は、まさに執念ですな」
淡路警部は、最後にそう言って浦上の解明を評価し、
「ところで、松山の部長刑事《でかちよう》さんは、堀井を送検したら、改めて、週刊広場へおわびに行くそうです」
と、そこに同席している矢島の伝言を仲介してきた。矢島としても、咄嗟《とつさ》には電話に出にくいのだろう。
浦上は黙って受話器を戻した。すると、人気《ひとけ》のない、がらんとした夜の警察署が見えてきた。無理やり連行≠ウれた宇和島西署だが、こうした終局を迎えてみると、一入《ひとしお》の感慨がないでもなかった。
浦上は淡路警部への報告を終えると、記者クラブの谷田と、『週刊広場』の細波編集長へ電話を入れて、テーブルに戻った。
澄子は、浦上を待っていたように言った。
「あたしも、このことを、一刻も早く、美津枝のお兄さんに電話します」
「電話ではなく、これからお焼香に行きましょう」
と、浦上は提案した。
そう、事件が解決したら、一緒に龍河洞を訪れるのは、大阪での約束ではないか。
浦上と澄子は空港からタクシーに乗って、野市《のいち》町へ抜けた。
野市と龍河洞の間には、全長九キロほどのスカイラインが完成している。
浦上と澄子を乗せたタクシーが、三宝山の稜線を走る有料道路へ上がると、右下に、雄大な風景が広がってきた。土佐湾が、一望の下だった。
太平洋は、瀬戸内海とはまったく異質な魅力を備えているわけだが、事件解決を反映してか、いま、波は静かだった。そして、昨夕の高松港と同じように、西空は、日が大きく傾く時刻だった。
ようやくアリバイを崩した浦上と、亡き親友を偲《しの》ぶ澄子。二人は、それぞれの思いで、夕日に映える、広大な外海を見た。
タクシーが龍河洞へ下って行くまで、浦上も澄子も、ことばを奪われたままだった。
*
堀井隆生が逮捕されたのは、翌九月七日、木曜日の午後である。
捜査陣が全力投球した結果、(浦上が指摘する)高知―大阪、大阪―松山。そして、松山―大阪、大阪―東京の便を予約した男が浮かんだ。横浜と川崎、二つの旅行社に分けての購入だが、氏名が同一だった。
男は堀井と同じ三十八歳で、連絡先の電話は東京の番号となっている。しかし、電話は他人のものだった。航空券を購入した氏名の男は実在しなかった。
その搭乗申込書に残した筆跡と指紋が堀井と一致。これが、最後の決め手となった。
(注 本文中の列車、航空機などの時刻は一九八九年八、九月現在のダイヤによる)
本書は一九九〇年一月、小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九三年一月、講談社文庫に収録されたものです。