津村 秀介
寝台急行銀河の殺意
目 次
序章 殺人の部屋
1章 紅葉の京都
2章 死者の犯罪
3章 二回の電話
4章 幻影の美女
5章 横手と新潟
6章 不在の証明
7章 作為の逃亡
8章 銀河と津軽
9章 最後の列車
終章 殺人の接点
序章 殺人《ころし》の部屋
時折、列車の轟音《ごうおん》が、聞こえてくる部屋だった。
男の部屋へ影が訪れてきたのは、男が、食後の時間を、独《ひと》り無為に過ごしていたときである。
窓ガラス越しに見える空は、冷たく晴れ渡っており、中天の月が、黒い山脈《やまなみ》の上に出ている。
日、一日と、紅葉が過ぎて行く季節だった。
「刑務所暮らしなど、ぼくにできるわけはないだろう。厚い塀の中に閉じ込められるくらいなら、死んだほうが増しだ」
男は、訪問者に対して、やせた背中を見せて、言った。弱気な横顔であり、安定感を欠く口調だった。
ばかな。会社の金を短期間流用したぐらいで、死ぬことはない、と、いった意味のことを、影の訪問者は早口で繰り返した。
現金は必ず取り戻せる、と、訪問者が男に向かって何度強調しても、男は聞く耳を持たなかった。
「決済は終えてしまったのだよ。今更犯罪を隠すことはできない」
と、つぶやく男には、暗いものだけが見えていたようだ。
「いまのぼくには、とてもではないが、紅葉《もみじ》狩りを楽しむ余裕なんかないね。二度と、横浜へは帰れない」
男は戸外の月に視線を投げた。まさに、絶望的な声だった。
でもねえ、と、影の訪問者は、混乱した男を更になだめようとしたものの、これでは仕様がないな、という表情に変わってきた。
影は、男を自分のほうに向かせると、紙袋からスコッチのボトルを取り出した。
「これはどうも」
男は言った。ウイスキーは男の好物だった。
「ぼくはもう駄目だ。何もかも終わりさ」
気弱なつぶやきをつづける男は、ボトルを両手で受け取り、栓を外した。
アルコール中毒患者を思わせる目の色であり、手の動きだった。
男の目が真っ赤に充血しているのは、絶望感に見舞われての寝不足が、重なっていたためもあるかもしれない。
男はラッパ飲みで、スコッチに口をつけた。
「げえっ!」
男が異様な声を発し、スコッチのボトルが床の上に落ちたのは、瞬時の後だった。と、同時に、男のやせた体も、軽い音を立てて、影の前に頽《くずお》れた。
ウイスキーを口にしてから男が息絶えるまで、五分とはかからなかっただろう。
影の訪問者は、覚めた目でそうした光景を眺め、終わった、と、低いつぶやきを漏らした。
影は、月が見える部屋の中で、たばこに火をつけた。
一本のたばこをゆっくりと吹かしたのは、気を鎮《しず》めるためだった。
やがてたばこを吸い終えると、影は、一度室内の電灯を消したが、またつけ直して、男の絶命を確かめた。
それから、慎重に、自分が手を触れた個所を、白いハンカチでぬぐい、吸い殻を片付けた。
そして、影は、訪ねてきたときと同じように足音を忍ばせて、殺人《ころし》の部屋を出た。
指紋は消したが、スコッチのボトルはそのままだった。
床に転がったボトルからは、ウイスキーが半分ほど、流れ出ていた。
男の死は、何日か、だれにも気付かれなかった。
秋が深まった。
1章 紅葉の京都
久し振りの東海道新幹線は、快適だった。新横浜発十一時二十一分。
二時間二十七分の所要時間で、谷田実憲《たにだじつけん》夫婦を乗せたひかり201号≠フ京都着は、予定どおり、十三時四十八分だった。
十一月二十五日。
土曜日の午後。それも雲一つない秋晴れとあって、京都駅構内も観光デパートも、相当な人込みだった。
谷田夫婦と同じように、一目で観光客と分かる男女も多い。
しかし、京都の紅葉は遅れているようだった。秋の冷え込みが、少なかったためだろう。
十一月中旬を過ぎても、紅葉はいつもほどの彩りを見せていないという、観光案内所の説明だった。
「オレみたいな男が、柄にもなく、紅葉《もみじ》狩りなど思い立ったせいかな」
谷田は烏丸《からすま》口のタクシー乗り場で、妻の郁恵《いくえ》に話しかけた。タクシー乗り場には、二十人ほどの列ができていた。
二泊の予約は、五条堀川《ごじようほりかわ》通りの『京都東急ホテル』だった。
今日は谷田が夜勤明けということもあって、ホテルでのんびり過ごし、紅葉見物は明日の予定になっている。
「紅葉が遅れているといっても、寺社めぐりは素晴らしいと思うわ」
郁恵は楽しそうだった。
谷田は背が高く、肩幅の広い男だが、郁恵は小柄だった。何かというと、大声でしゃべる夫に比べて、妻は、静かな笑《え》みを絶やさない、控え目なタイプだ。
そんな夫婦が、誘い合って新幹線に乗ったのは何年振りだろう。
横浜の住宅団地に住む三十五歳の夫と、三十三歳の妻。夫婦の間には、子供がいない。
二人暮らしなのだから、一、二泊の旅行ぐらい、いつでも簡単にできそうなものだが、第一線の社会部記者ともなると、事前の計画が、容易に立てられなかった。
『毎朝日報』横浜支局に配属されて数年。現在は神奈川県警記者クラブに、キャップとして詰めているだけに、事件発生ともなれば、日曜日でも呼び出されるのである。昨夜のような当直も、月に一度は、こなさなければならない。
さっき、記者クラブでのバトンタッチのとき、
『たっぷり奥さん孝行してきてくださいよ。京都ではポケットベルも役立たずですからね』
にやにや笑いながら話しかけてきたのは、サブキャップだ。
『分かりましたよ』
谷田も笑顔でこたえたものだ。
『京都の地酒に酔っ払っても、連絡電話だけは忘れないようにしましょ』
谷田は横浜支局から新横浜駅へ直行し、下りホームで郁恵と待ち合わせた。
そして、京都に二泊するとはいえ、二十七日の月曜日は、午後一時までに、記者クラブへ入る手筈《てはず》になっているのである。これまた旅先からの直行であり、(谷田の性格にもよろうが)年休をまとめてとるなんてことは、皆無に近かった。
郁恵は、そうした夫を、
「仕様がないわよね、好きでなった社会部記者だから」
親しい相手にのみ示す笑顔で、是認《ぜにん》している。
でも、今回だけは、ポケットベルを忘れた二日間でありたかった。
タクシー待ちの行列はできているけれど、車の流れはスムーズだった。初老の誘導員が、手際よく、乗車を指示していく。
間もなく、谷田夫婦の乗車順がきた。
そのときだった、夫婦の前へ、唐突に女が現われた。
谷田と郁恵がタクシーに乗ろうとして、車道へ出たとき、髪の長い女が、ふいに、タクシー待ちの列の中へ、割り込んできたのである。
三十過ぎの、ほっそりした美人だった。カーキ色のジャケットに、黒革《くろかわ》のミニスカートが似合うプロポーションだった。
スカートと同じ感じの、黒革のショルダーバッグを肩にした女は、化粧も派手ではないし、目元が涼しかった。
割り込みをするような、非常識な人間には見えない。谷田がそう感じたとき、
「あ、ごめんなさい」
色白の美女ははっと自分の行為に気付いたのか、谷田夫婦と誘導員に向かって頭を下げていた。
「前後の見境もないほど慌《あわ》てていたのかしら」
「よっぽど急ぎの用事でもあるのか」
谷田と郁恵はタクシーのシートに腰を下ろし、窓ガラス越しに女を見た。
「それとも彼女、我を忘れるほどのアクシデントに見舞われたのかな」
と、つづける谷田の感想は、新聞記者のものだった。
髪の長い女は、タクシー待ちの一人一人に頭を下げるようにして、列の一番後ろへ並んだ。
『京都東急ホテル』は、自動ドアを入ると下りのエスカレーターがあり、地下一階がフロントだった。
ロビーを挟《はさ》んで、フロントの反対側が人工池になっている。
いったん七階のツインルームに案内された谷田と郁恵は、一息入れてからエレベーターでロビーフロアーに下りた。
久し振りの旅なので、明日は観光タクシーを奮発することにした。その打ち合わせのため、ベルボーイに会った。
行く先の希望が特にないことを告げると、
「例年ほどでないとはいえ、高尾《たかお》の紅葉ならご満足いただけると思います。嵯峨野《さがの》の散策もよろしいでしょう」
ベルボーイは、洛西《らくせい》を勧めた。
「そうですわね。細かい点は、タクシーに乗ってから、運転手さんに相談してみますわ」
郁恵がうなずいた。
ボーイはその場で、タクシーの手配をしてくれた。
小型車なので、八時間乗って二万三千円。タクシーは翌朝八時に、ホテルへ迎えにきてくれることになった。
そうした手配を終えて、ベルボーイのコーナーを離れようとすると、いつの間にか、背後に女が立っていた。
それが、タクシー乗り場で、前後の見境もなく列に割り込もうとした、あの女だ。
「あら?」
女のほうでも、谷田夫婦に気付いた。
彼女も、ここのホテルに、予約をとってあったのか。
「先ほどは、大変失礼いたしました」
女は一礼し、きまりが悪そうな顔をした。
そして女は、谷田夫婦と入れ代わって、ベルボーイの前に立った。彼女の目的も、観光タクシーの相談だった。
谷田と郁恵は、噴水のある池を一回りして、同じフロアーのティーラウンジに寄った。
やがて、髪の長い女の、すらりとした後ろ姿が、エスカレーターを上がって行くのが見えた。
「あの人、これから市内観光をするのかしら」
「だれかとデートの約束でもあって、あんなに慌てていたのかな」
ティーラウンジの谷田と郁恵は、女の後ろ姿に目を向けて、そんなことを話し合った。
翌十一月二十六日、日曜日。
古都は、前日につづいての快晴だった。
道路の混雑を予想して、出発を午前八時と約束したのは正解だった。
三条通りから二条城の横を走り、西大路《にしおおじ》通りへと向かうにつれて、道は込み始めた。
行き先は、運転手に一任することにした。
「では、観光バスの行かない所へ寄りましょうか」
と、いうことで、最初にタクシーが向かったのは、北野《きたの》の等持院《とうじいん》だった。
時間が早いせいもあってか、足利《あしかが》氏歴代将軍の木像を安置する霊光殿《れいこうでん》にも、芙蓉池《ふよういけ》の庭にも、観光客は一人もいなかった。
運転手も、
「例年なら、こんなものではありませんが」
と、言ったが、郁恵は茶室から見る紅葉を目にして、
「きれい!」
思わず歓声を発していた。
駐車場へ戻ると、いつの間にかもう一台、タクシーがとまっていた。
等持院の観光を終えたのが、午前九時だった。タクシーは国道162号線を北上して、まっすぐ高尾に向かった。
北山《きたやま》が近づくにつれて、秋が深くなった。
北山杉の林をフロントガラス越しに見やって、谷田がふと口にしたのは、浦上伸介《うらがみしんすけ》のことだった。
「あいつ、しょっちゅう取材旅行をしているが、こんなふうにして京都を歩いたことは一度もないだろうな」
「浦上さんも、早くいい人を探せばいいのに」
郁恵が笑顔を返すと、無駄だね、というように、谷田は顔を振った。
「あいつ、女嫌いというわけではないが、いまのシングルライフに満足し切っているんだ」
『週刊広場』を主にして、フリーのルポライターをしている浦上は、谷田より三つ年下の三十二歳。
谷田が、大学の後輩に当たる浦上と、実の兄弟のように親しくしているのは、事件ものの取材という仕事が共通しているせいだけではなかった。
谷田も浦上も酒が強く、そして、将棋を唯一の趣味としているのである。お互い、学生時代は将棋部に属しており、町のクラブでは四段で指す棋力だった。アマとしては強いほうだ。
谷田に比べて、浦上は内向的な性格であり、そのような対照も、逆に二人の結び付きを強めてきたと言えるかもしれない。
ともかく、四、五日電話がないと相手のことが気になるという、そうした先輩と後輩であった。
旅先で、谷田が浦上を思うのは、ある種の必然だった。
郁恵も委細承知で、
「あなた、浦上さんに、地酒のおみやげを忘れないようにね」
新しい笑みを見せた。
タクシーは坂を上り切り、パークウェイを通って高尾に入った。
まだ十時前だというのに、駐車場には何台もの大型観光バスが入っており、日曜日の高尾は相当な人出だった。
タクシーは途中で左に折れた。
狭い坂道には売店が立ち並び、観光客でごった返している。タクシーは人波を縫《ぬ》うようにして高尾橋を渡り、清滝川《きよたきがわ》の渓谷に沿って走り、もみじ橋を過ぎたところで、とまった。
ここから後は徒歩で、石積みの階段を、神護寺《じんごじ》の山門へと上がるのである。
上り下りとも、観光客の行列だった。
山岳寺院神護寺は、真言宗《しんごんしゆう》の古刹《こさつ》だ。仁王門を過ぎると、松、楓《かえで》、桜などの古木を背景にして、鐘楼《しようろう》、五大堂、多宝塔などが立っている。
「いいわ。やっぱり京都ね」
郁恵は、地蔵院《じぞういん》近くの紅葉の下で、足をとめた。
そして、広い境内を一周して高尾橋へ引き返したとき、
「あなた、あの人よ」
郁恵が、ぞろぞろと歩く観光客のほうを指差した。
胸に同じリボンをつけた団体客の向こう側に、あの髪の長い女が立っている。
女は、昨日と同じ服装だった。黒革のミニスカートで、カーキ色のジャケットはウエストをゆるくベルトでとめている。
橋のたもとにある、旅館の前だった。女は、半天姿の旅館の従業員に、何か尋ねている。
「あの人、お連れはいないようね」
「うん、昨日からずっと一人だな」
女のほうでは、谷田夫婦に気付かなかったようである。
夫婦はタクシーに戻った。
タクシーは、嵐山《あらしやま》―高尾パークウェイを走って嵯峨野に抜けた。
十一時を少し回ったところだが、『清風《きよかぜ》』という湯どうふの店で昼食にした。
小一時間かけて食事を終えると、タクシーは奥嵯峨の祇王寺《ぎおうじ》へ向かった。
『祇園精舎《ぎおんしようじや》の鐘の声、諸行無常の響あり』
と、平家物語は書き出されているが、平清盛《たいらのきよもり》の愛妾《あいしよう》だった祇王、祇女《ぎじよ》の姉妹が、その地位を仏御前に奪われて、母とともに侘《わび》住まいしたのが、この尼寺《あまでら》である。
ここはまた、苔《こけ》庭に散った紅葉が美しいことでも知られている。
竹林に囲まれるこぢんまりした苔庭を一回りして外へ出ると、ここにも、あの女がいた。ここでも女は、寺院の受付で何かを尋ねている。
昨日、『京都東急ホテル』で再会したときは、品のいい人妻という感じだったが、竹林を背景にして見る彼女は、家庭の主婦とは異質な、色気を備えているようでもあった。
谷田が、そんな目で女を見たのは、関心を持ち始めた証拠だった。
しかし、祇王寺でも、女のほうでは谷田夫婦に気付かないようだった。
次に女と出会ったのは、嵐山である。
タクシーを駐車場に置いて、中《なか》の島《しま》をぶらぶらと歩いているときだった。
女は食堂の店先に立っていた。女は、やはり何かを質問している。店員に向かって、何枚かの写真を、提示したりもしている。
「間違いないな、あれは人捜しだ」
谷田は先方に目を向けたままつぶやくと、女が立ち去るのを待って、その食堂へ寄った。
「はい、男の人をお捜しでした」
食堂の女店員は、谷田の質問にこたえて、言った。
女が捜していたのは、三十代半ばの男性だった。
『一昨日か、昨日、こういう人を見かけなかったでしょうか』
それが、男性の写真を示しての、女の問いかけだった。
「で、心当たりがあったのですか」
「いいえ。この人出でしょう。よほどのことがなければ、いちいち覚えていませんわ」
と、女店員はこたえた。
渡月橋《とげつきよう》も、一杯の人波だった。修学旅行の中学生も多い。
「意味ありげな女だな」
「新聞記者《ぶんや》さんの神経に、ぴんと響きますか」
郁恵は茶化した言い方で、谷田の顔を見上げた。
「それにしても、行く先々で、よく出会うわね」
「彼女も、観光タクシーを使っているってことだな」
「うん、昨日ホテルで、相談していたじゃないの。観光は、結局、同じような所を回ることになるのね」
「と、なれば、こうして出会うのも、偶然ではないか」
渡月橋を渡ってしばらくしたとき、また女とすれちがった。
保津川《ほづがわ》下りの、船着き場の近くだった。
この川端は、観光客が少ないせいもあってか、
「あら?」
髪の長い女も、谷田夫婦に気付いた。
「失礼ですが」
谷田は話しかけていた。隠そうとしても、社会部記者の顔になっている。
「失礼ですが、どなたかをお捜しですか」
「は?」
女は、昨日と同じように、きまりの悪そうな顔をした。
「今日も、どこかでお目にかかりまして?」
女はそんな言い方で、観光タクシーで洛西を回ってきた、とこたえた。
「どうやら、ほとんど同じコースを歩いたようですね」
谷田が、そう言って質問をつづけると、女は人捜しの事実は認めたものの、詳細には触れなかった。
それは、それが当然だろう。たまたま旅先で出会ったというだけの人間に、プライバシーを口にするほうがおかしい。
だが、谷田の関心≠ヘ、このまま引き下がることを許さなかった。谷田が、『毎朝日報』の記者であることを告げ、横浜支局にいることを言うと、
「奇縁ですわね。あたしも横浜ですの」
女は、谷田と郁恵の顔を交互に見た。しかし、自分は名乗らなかった。
谷田は両腕を組んだ。いくら関心を寄せたからといって、これ以上、女を問い質《ただ》せる立場ではなかった。
「同じ横浜に住んでいるのも、何かのご縁でしょう」
谷田は、ことばを探すようにしながら、名刺を取り出した。
「余計なことですが、何かお困りのことがありましたら、電話でもください。お力になりますよ」
「恐れ入ります」
女は丁重に名刺を受け取ったが、最後まで、自分の名前は口にしなかった。
女は一礼して、渡月橋の人込みへ戻って行った。
髪の長い美女は、だれを捜しているのだろう? 恋人か。それとも夫がいなくなってしまったのだろうか。
それにしても、紅葉《もみじ》狩りで人捜しとは、妙な女性と出会ったものだ。
谷田夫婦は更に市内観光をつづけ、夕方、堀川通りへ戻ったが、ホテルに女の姿はなかった。
女は、今日のうちに横浜へ帰ったのか。あるいは、行方不明の男を追って、京都以外の、別のどこかへ移動したか。
もう一泊した谷田と郁恵は、予定どおり、月曜日朝の新幹線で、古都を離れた。
浦上へのみやげは、地酒のほかに、すぐきの樽《たる》詰めを買った。
樽詰めのほうは、二つ買った。日頃、昵懇《じつこん》にしている神奈川県警捜査一課の課長補佐、淡路《あわじ》警部に対するみやげだった。
列車が京都駅のホームを出ると、
「あなた、ありがと。いい旅だったわ」
郁恵は名残《なご》り惜しそうに、鴨川《かもがわ》と、遠去かっていく町並に目を向けた。
郁恵は、髪の長い女との出会いを、それほど気にとめていなかった。
一つの殺人事件が明るみに出たのは、それから三日後の夜である。
十一月三十日、木曜日。
横浜を中心点とすれば、京都とは逆方向の秋田県|横手《よこて》市で、男の毒殺死体が、発見された。
雪のかまくらで有名な横手市は人口四万五千。奥羽《おうう》本線と北上《きたかみ》線の接点に当たる、古い城下町だ。
町は横手盆地の中心にあり、広い水田を有する横手盆地は、秋田県下第一の穀倉地帯として知られている。
そして、また、横手は、山と川のある町でもあった。戦前、横手で教員生活を送った石坂洋次郎《いしざかようじろう》が、戦後『朝日新聞』に連載した小説『山と川のある町』は、横手が舞台となっている。
雄物《おもの》川の支流、横手川によって二分される町だった。
この、静かな北の城下町を震撼《しんかん》させる事件は、『藤森《ふじもり》アパート』の家主にかかってきた一本の電話から始まった。
貸家式の『藤森アパート』は、古い平屋だった。横手駅から、線路沿いに、北へ徒歩で十五分。奥羽本線と横手川に挟まれた、田圃《たんぼ》の中のアパートである。
六畳一間に、台所、便所、風呂付きの部屋が川を背にして四つ並んでいるけれど、あまりにも朽《く》ちているので、間借人は一人しかいなかった。
一番奥の部屋に入っている、その唯一の間借人は、千葉和郎《ちばかずお》という名前だった。
「すみませんが、千葉さんを呼んでくれませんか」
男の声の電話が、家主の家にかかってきたのは、夜、七時近くである。
家主夫婦は、ともに七十過ぎの老人だった。夫婦はアパートから二、三分の所に立つ、これまた相当古い一軒家に住んでいた。
電話を受けた家主は、暗い畦道《あぜみち》を歩いて、アパートへ行った。
「千葉さん、電話ですよ」
家主はドア越しに声をかけた。
部屋の明かりはついているのに、応答がなかった。
「千葉さん、留守ですか」
家主はノブに手をかけた。ドアにはかぎがかかっていない。
古いドアは、ぎしぎしと音を立てて、外側に開いた。
「あれ?」
家主は、一歩、三和土《たたき》へ入ったところで、足をとめた。千葉が窓際に倒れている。
その千葉に向かって、
「どうしなすった?」
声をかけたが、異常事態が発生していることは、本能的に分かった。
千葉は微動だにしないのである。しかも、部屋の中に充満しているこの異臭は何か。
(死んでる?)
老人の口元が震えた。
田圃の向こうから、列車の轟音が聞こえてきた。秋田行きのL特急つばさ13号≠ェ通過する時間だった。
家主は、列車の音が遠のくのを待ってドアを締めたが、どのようにしてその場を離れたのか、確かな記憶を持たなかった。
「婆さん、えらいこった!」
家主は家に引き返すと、ともかく受話器を取った。
「もしもし!」
千葉さんが、と、言いかけて、家主は受話器を置いていた。呼び出しを頼んできた男の電話は、いつの間にか切れていたのである。
なぜか分からないが、こっちの異変を察して、それで電話が切られていたような、そんな感じでもあった。
老人は気を取り直し、改めて一一○番のダイヤルを回した。
通報を受けた横手北署では、刑事課長以下十人の捜査員を出動させた。
二台のパトカーと、一台のジープが、枯れ田の中の国道13号線を突っ走って、『藤森アパート』に到着したのは、午後七時半頃である。
パトカーを川の近くにとめ、畦道を通って古いアパートに一歩足を踏み入れたとき、
「何だ、これは」
刑事課長が思わず吐き捨てたのは、室内が、アパートの外観にも増して、殺風景だったせいである。
生活の匂いといったものが、まったく感じられない部屋だった。食べ残しの納豆などが載っている折り畳み式の小さい食卓と、マイクロテレビがあるのみで、家財道具は何一つ見当たらない。
壁にかかっている濃紺のスーツは新品で、一応の仕立てだが、ネームの縫い取りはなかった。
押し入れの寝具も一組だけで、ろくな着替えもなければ、身元を証明するようなものは、何も出てこない。
「所持金は、二十八万九千二百円です」
と、報告したのは、押し入れから発見されたアタッシュケースをチェックしていた刑事である。アタッシュケースの中には、その現金と、半月前の週刊誌が一冊入っていただけだ。
「このホトケさん、どういう人間なんだ?」
刑事課長は、もう一度首をひねった。
だが、何もない部屋であるだけに、現場検証は、てきぱきと進んだ。
そして、床に転がっていたスコッチのボトルから、青酸反応が出た。
死因は、シアン化合物による服毒死。遺体は一部腐敗しており、死後数日を経過していると見られたが、詳しい死亡推定時刻は、司法解剖の結果を待たなければならなかった。
しかし、事件《やま》が殺人《ころし》であることは、この場で断定された。
殺人と断定した根拠は、スコッチのボトルとか、電灯のスイッチなどの指紋が、きれいにふき取られていたためである。
たとえば、これが自殺であったとしたら、青酸化合物が混入されたスコッチの、ボトルに、千葉の指紋が遺留されていなければ不自然だ。
指紋が消されている事実は、千葉の死後、第三者が室内に存在したことを意味している。その影の人物、イコール犯人が、自分の指紋と同時に、千葉の指紋も消して行った、ということになろう。
嘱託医と鑑識課員が、現場で慌ただしい動きを見せている頃、家主は、アパートから離れた自宅で、刑事の事情聴取に応じていた。
細かい経緯を家主に尋ねたのは、ベテランと若手、二人の刑事だった。
ベテランは横手北署刑事課捜査係主任の山岡《やまおか》部長刑事、四十七歳であり、山岡とコンビを組む原《はら》は二十九歳、今年四月の異動で私服になったばかりの、文字どおりの新人だ。
いかにも苦労人ふうな山岡が、気さくに話を聞き出し、横に控える原が、警察手帳に要点を書きとめるという、いつもながらの態勢だが、しかし、家主は、ただ一人の間借人について、詳しいことを承知していなかった。
千葉は、十一月二十一日の入居だったのである。まだ十日しか経っていない。
しかも、賃貸契約は、一ヵ月の約束だったという。
室内が、殺風景にがらんとしていたのは、短期入居のためか。
「千葉さんは、秋田の人間ですか」
「いいえ。東京の人ですよ」
「東京の人間が、何の目的で、一ヵ月だけ部屋を借りたのですかな」
「さあ、そんなことまでは聞いていません」
家主の返答は要領を得なかった。千葉の職業とか年齢もはっきりしなかったし、賃貸契約書を見せて欲しいと頼むと、
「すべて、松葉《まつば》不動産にお任せしてあるでな」
契約書は手元にない、と、家主は言った。家主が一任しているのは、バスターミナルの裏手にある、一間間口の小さな不動産屋だった。
山岡部長刑事は質問を変えた。
「千葉さんは、二十一日に越してきたと言いましたね。大家さんが、千葉さんを、最後に見たのはいつでしたか」
「最後も何も、会ったのは、入居のとき一度だけです」
「じゃ、呼び出し電話がかかってきたのも、今夜が初めてですか」
「ああ、かかってきたこともなければ、千葉さんが借りにきたこともない」
「しかし、アパートにじっと閉じ込もっていたわけではないでしょう」
「田圃《たんぼ》の向こうに下りて、川端から町へ出て行くと、こっちからはよく見えんでなあ」
家主は困ったような顔をした。
千葉の部屋以外はすべて空室だから、(家主がこんな状態では)目撃者の線から千葉の生存日をチェックするのは難しい。指紋を消していった訪問者も、簡単には浮かんでこないだろう。
「でも、夜は、毎晩帰っていたはずですよ」
と、家主は言った。
裏付けは、アパートの部屋に明かりがついていたことだった。
しかし、それは、千葉の生存を意味しない。現に今夜だって、(千葉は何日か前に他界しているのに)部屋の電灯はついていたではないか。
千葉の死後、電灯は夜も昼もつけっ放しだったのに違いない。
家主に対する事情聴取は、そこまでだった。
山岡部長刑事と原刑事は、一足先に現場を離れ、バスターミナル裏の『松葉不動産』へ向かった。
「この男、何の目的で、横手にアパートを借りたのだろう? どうもよく分からんホトケだな」
ベテラン部長刑事は、刑事課長と同じようなつぶやきを漏らしていた。
「ええ、紹介者なしの、飛び込みのお客さんでした。光熱費込みで、三万五千円の約束でした」
「それは、前払いだったのですか」
「そうです。前金だし、一ヵ月だけの約束なので、敷金も礼金もなし。手数料は、これは家主さんのほうからもらいました」
「賃貸契約書はどうなっていますか」
「いやあ、それですがね。一ヵ月だけのことでしょ。正式な文書は作っていないのですよ」
文字どおり個人経営の、小さい不動産屋は頭をかいた。
「自分で扱った物件なのに、何ですが、藤森さんとこは、どうしようもなく古いアパートでしょ。いくら田舎《いなか》だって、いまどきあんなアパートを借りてくれる人はいません」
「借り手がついただけで、御《おん》の字ってわけかね」
「夜分に刑事さんが見えるなんて、何かトラブルでもあったのですか」
「あの男、殺されたよ」
「殺された?」
「あの男が、横手へやってきたのはなぜか、目的を聞いていると、ありがたいのですがな」
「何せ、部屋を借りてもらう折衝だけで精一杯でして、込み入った話はしていません」
と、『松葉不動産』の主人は、山岡部長刑事と原刑事にこたえたが、千葉に関して、家主よりは、少しばかり詳しかった。
主人は机の引き出しからノートを取り出して、二人の刑事の前に置いた。
千葉和郎 三十五歳 東京都|足立《あだち》区|西新井《にしあらい》六ノ七八
「はっきり聞いたわけではありませんが、千葉さんはスーパーの店員で、マーケティングリサーチのために秋田へ派遣されてきた、というようなことを口にしていたと思います」
「リサーチですか」
若い原刑事はうなずいて、住所と一緒にその目的≠メモしたが、
「違うな」
ベテラン部長刑事のほうは、はっきり声に出して顔を振った。どのていどの規模のスーパーかは知らないが、電話もないぼろアパートを借りてのマーケティングリサーチもないだろう。
横手グランドホテル、横手ステーションホテル、横手セントラルホテル、よこてプラザホテルなど、横手にも二十軒を越えるホテル、旅館がある。
一ヵ月ていどの滞在なら、旅館かホテルと契約するのが自然だろう。それに、死者は名刺一枚持っていなかったのだ。
「アパートのほうが安上がりには違いないが、どうも腑《ふ》に落ちないね」
山岡が両腕を組むと、
「そう言えば、千葉さんは陰気でしたね。妙におどおどしたところのある、暗い感じの人でした」
不動産屋の主人は、十日前の入居を思い起こして言った。
横手北署は、市の西のはずれ、国道107号線に面している。
山岡、原両刑事が本署へ帰るとすぐに東京へ電話がかけられ、警視庁捜査共助課へ、千葉和郎の身元確認が要請された。
秋田県警捜査一課の応援で、署長を本部長とする捜査本部が設置されたのは、それから間もなくである。設置と同時に、千葉の前科をチェックするため、県警本部を経由して、千葉の指紋が警察庁の指紋センターへオンラインで送られた。
そして、三階大講堂の入口には、『藤森アパート男性毒殺事件捜査本部』と大書された張り紙が下がったけれど、この夜は、簡単な打ち合わせだけで切り上げた。
本格的な捜査が開始されたのは、翌日になってからである。
翌日は、もう師走《しわす》だった。
十二月一日、金曜日。
師走と聞いただけで、市役所近くの朝市などの動きも何となく慌ただしい感じになり、横手盆地を吹いてくる北風も、急に寒さを増したようだ。快晴だけに、盆地の冷え込みも厳しい。
県警捜査一課の応援が、秋田市から到着するのを待って、第一回捜査会議が開かれたのは、午前十時である。
最初に、遺体の発見された『藤森アパート』が凶行現場である旨の状況説明があり、次いで、司法解剖の結果が報告された。
死因は、行政検視どおり、シアン化合物による服毒死だった。一般に青酸と呼ばれているのが、シアン化合物である。
青酸の致死量は、もちろん個人差があるけれど、青酸カリは○・一〜○・三グラム、青酸ソーダは○・○五グラム。死亡までの時間は五分以内とされている。
ところで、問題の死亡推定時刻には、幅があった。死後、数日を経過しているためだった。
十一月二十五日(土)午前〜十一月二十六日(日)午前
刑事課長は、太い文字を黒板に書き出した。
一方、胃に残っていた米飯、納豆などは食後一、二時間の経過と判明し、部屋の食卓には、食べかけの納豆と、インスタントみそ汁が置かれていたわけである。
「食事の内容から推して、朝食後一〜二時間の間に殺害されたものと考えられます」
刑事課長は説明をつづけ、
「しかし、朝食後にしては、部屋の電灯のついていたことが解《げ》せません」
自らのことばに疑問を投げたが、
「電灯は犯人《ほし》の工作じゃないでしょうか」
と、意見を述べたのは、県警から来た警部補だった。
夜、部屋の明かりがついていれば、間借人は部屋に帰っていると思われるだろう。『藤森アパート』の、家主が惑《まど》わされたようにである。
周囲に不審を抱《いだ》かれなければ、死体発見は遅れる道理だ。発覚までに日が経てば、それだけ、死亡推定時刻はあいまいになってしまう。
昨夜の男の呼び出し電話がなければ、遺体発見は、まだまだ先へ延びていたはずである。
「電話の男も問題だね。男は千葉を呼んでおきながら、なぜ、家主の返事を待たずに電話を切ったのだろう?」
正面にどっかと腰を下ろした小太りの署長がつぶやいたとき、東京から電話が入った。
警視庁捜査共助課は、朝一番で、千葉和郎の身元確認に着手してくれたのである。
電話は、署長が自ら受けた。
「これはどうも。早くから恐れ入ります」
気負い込んで電話を取った署長の横顔が、次第に曇《くも》ってくるのを、そこにいる捜査員全員が凝視《ぎようし》した。
署長は受話器を握り締め、
「そうですか。なるほど。お手数をかけました」
いちいちうなずいていたが、やがて礼を言って電話を切り、
「こいつは面倒なことになった」
全員に視線を返した。
東京・足立の該当住所に、「千葉和郎」は実在しなかったのである。
「こうなると、一縷《いちる》の望みは、ホトケの指紋ですか」
「指紋センターが、何と言ってくるか」
捜査の出発は、死者の身元確認に始まる。
それが、最初の段階で崩れたとあっては、会議場が重い空気に包まれるのも、当然だろう。
しかし、「千葉」と関係ある人間が、少なくとも一人浮かんでいることは事実だ。すなわち、呼び出し電話をかけてきた男だ。途中で電話を切ってしまった男は、もう一度連絡してくるだろうか。
「千葉」は身長一メートル六十七。推定体重は五十五キロだから、やせ型だ。
体に手術跡などの特徴はないが、歯に治療痕があった。上歯の左右きゅう歯に金合金がかぶせてあったほか、前歯の右上側切歯が欠けており、これを前歯三本で支える四本ブリッジにし、欠損部が義歯になっていたのである。
「そいつは立派な手がかりだ。でも、どこの町の歯医者を聞き込めばいいんだい?」
山岡部長刑事は、刑事課長の説明を聞いて、ぼそっと原刑事に話しかけた。「千葉」は、どうやら横手との関連は薄そうだ。
その上、不動産屋に告げた東京の住所に存在しないとあっては、歯の治療痕だけでは雲をつかむような話となってこよう。
「日本中の歯科医院を一軒ずつ回るってわけにはいかないぜ」
と、山岡はつづけたが、ベテラン部長刑事の危惧《きぐ》は、間もなく現実のものとなった。
捜査会議は次の段階へ進み、刑事たちの聞き込み分担などが検討されているとき、東京の警察庁指紋センターから回答が届いた。結果は、死者の指紋に「前科、前歴なし」だった。
借り手もいない朽ちたアパートを一ヵ月だけ借りて、出入りも気付かれないよう、人目を避けて暮らしていた男。
入居以来、わずか十日間とはいえ、自分を隠した日常であるなら、背後に犯罪の影を見るのは、刑事としては当然のことだろう。
そして、事実犯罪の影を背負っているのなら、「千葉」が前科《まえ》持ちである可能性も強くなってこよう。
しかし、「千葉」に前科はなかった。
「この男は、何の目的で、横手へ来たんだ?」
捜査本部長である署長が、捜査員のだれもが抱いている疑問を繰り返した。
「まさか、殺されるために、人目に立たないアパートに身を潜《ひそ》めていたわけではあるまい」
入居が十一月二十一日で、毒殺されたのが十一月二十五日ないし二十六日。「千葉」は、少なくとも四、五日間、横手で生存していたわけである。
その四、五日間、「千葉」は横手川に二分される、人口四万五千の城下町でどのような行動をとっていたのか。あるいは、何の動きも見せていなかったのか。
「突破口はこれだね。これを重点聞き込みとする」
小太りの署長は立ち上がった。それが、(届けが出ている家出人捜査願いのチェックとともに)最初の捜査会議における主要課題となった。しかし、突破口は、当然なことに、もう一つあった。問題の歯の治療痕である。
署長は刑事課長と簡単な打ち合わせをして、山岡を呼んだ。
要《い》らぬことをつぶやいたせいでもあるまいが、嫌なお鉢が、山岡、原コンビに回ってきた。
刑事課長から治療痕のデータと歯形を手渡されたとき、
「どこから手をつけるかな」
山岡が、思わず渋い顔になると、
「必要とあらば、部長刑事《ちようさん》が直接東京へでも、どこへでも行ってくれ。家出人捜索願いのチェックと違って、これは他府県警に要請するわけにもいくまい」
と、署長が口を添えた。
東京へでも、どこへでも行ってくれ。その一言がヒントになった。
その夜、山岡部長刑事は、原刑事を伴って横手を出発した。
横手市内をいくら聞き込んでも、「千葉」と覚《おぼ》しき男は浮かんでこなかったし、届けが出ている家出人捜索願いも該当者なしと判明したことでの決断である。
「東京へ行かせてください。足立区の西新井というところに、千葉が居住していなかったとしても、千葉を割り出す何かがあるはずです」
山岡は刑事課長に申し出た。
(咄嗟《とつさ》の当て推量《ずいりよう》で、偽《にせ》住所を告げる人間も少ないだろう)
それが、「東京へでも」と口にした署長の一言から得たヒントだった。
死者の顔写真と、死体の指紋コピーが用意された。
こうして、山岡と原が乗車したのは、横手発二十時四十五分、福島経由の急行津軽《つがる》≠セった。
遠く、青森を始発駅とする津軽≠ヘ、寝台急行ではなかった。
週末ではあるし、急なせいもあって、寝台特急は取れなかった。五十近いベテランにはこたえる夜汽車だが、観光ではないのだから、ぜいたくは言えない。
途中駅の湯沢《ゆざわ》、新庄《しんじよう》辺りまでは空席もあったが、山形まで来ると津軽≠ヘ満席になった。山形発は二十三時三十九分。
以後、上《かみ》ノ山《やま》、赤湯《あかゆ》、米沢《よねざわ》、福島《ふくしま》、郡山《こおりやま》と深夜の駅に停車しながら、夜行列車は東京へ向かった。
若い原は、ポケットウイスキーを飲んで軽い寝息を立て始めたが、隣席の山岡は、黒磯《くろいそ》、宇都宮《うつのみや》、小山《おやま》、大宮《おおみや》などの停車駅を、浅い眠りの中で捕らえていた。
2章 死者の犯罪
翌十二月二日、土曜日。
山岡部長刑事と原刑事を乗せた急行津軽≠ヘ、朝五時五十四分、上野《うえの》駅14番線ホームに滑り込んだ。
ようやく夜が明けて、大都会は活動を始めたところだった。
東京の空も、東北同様によく晴れており、寒い朝だった。寒く感じるのは、寝不足なせいもあるだろう。
「主任、腹が減りました」
若い原は、ぐっすり眠ってきただけに、ベテランと違って元気だった。
遠来の刑事は、ぶらりとコンコースを出てみた。上野駅も、駅周辺も、すでに人の動きが相当に目立ち始めている。
東北の小都市、横手とは違う、首都の朝が、そこにあった。
山岡も原も、東京には詳しくない。
ぶらぶら歩いて行くと、アメ横近くのガード下に、店を開けている大衆食堂があった。店内では、タクシー運転手など、何人もの客が食事をとっている。
二人はのれんをくぐって定食を注文し、改めて、東京都の区分地図帳を広げた。
焦点は、『松葉不動産』にメモされていた住所だ。そこから輪を広げて、一軒ずつ歯科医院を当たる。
山岡は署長の一言をヒントにして、
(当てずっぽうに、うその住所を口にできるものではない)
と、考えたが、いざ、こうして東京の土を踏んでみると、漠然とした不安を感じないでもなかった。
「千葉和郎」は偽名でも、殺された男が実際に足立区西新井に住んでいたのであれば、かかっていた歯科医院が、西新井周辺の可能性は十分考えられる。
だが、これが、(当て推量でないにしても)知人の住所などを咄嗟に流用したのだとしたら、そこから歯科医院は浮かんでこない。
朝の定食は、すぐに、テーブルに届いた。焼き魚と焼きのりの他に、納豆とみそ汁がついているのを見て、『藤森アパート』に食べ残されてあった食事が山岡の胸にきた。
若手は食欲|旺盛《おうせい》だった。
「主任、めしはやはり秋田のほうがうまいですね」
そんなことを言いながらも、どんぶりをお代わりしている。
寝不足なベテランは、半分食べたところで、はしを置いた。
二人の刑事はJRで北千住《きたせんじゆ》へ出、地図を頼りに東武|伊勢崎《いせさき》線に乗り換えて、西新井駅で降りた。
通勤ラッシュの始まる時間だが、都心へ向かうのとは逆行なので、電車はそれほど込んでいなかった。
医院はまだ開いていないが、当たりだけはつけておくことにした。
西新井駅の近くに、下町を管轄する足立署があった。
山岡と原は、短い石段を上がって足立署に立ち寄ると、身分と目的を告げて、歯科医の所在地を尋ねた。
「千葉」が口にした住所の周辺には、四軒の歯科医院のあることが分かった。
山岡と原は、朝の町へ戻った。
いかにも下町ふうな、入り組んだ路地が多い一角だった。秋田の穀倉地帯からきた二人にとっては、通りを歩いているだけで、疲れてくる。
人の往来も多ければ、車の流れも次第に激しくなってくる。
昔ながらの家並みの中に、新しいマンションがあり、モルタル二階建ての古いアパートの隣に、町工場があったりした。
問題の住所は環七通りの傍《そば》だった。プレハブ建設会社の倉庫があった。割りに広く敷地をとっている倉庫の向かい側に、足立署で聞いてきた四軒の中の一軒があった。
この歯科医院は、看板は新しいが建物は古かった。
「ここから聞き込むのが順序だな」
山岡は、原を振り返った。
診療時間は、午前九時よりと記されている。
二人の刑事は、近くの小学校の前にたたずんで、十五分あまりをつぶすと、九時きっかりに、歯科医院のドアを開けた。
「今日でなければいけませんか」
歯科医は迷惑そうだった。
たまたま、土曜日であるのがいけなかった。診療は、十一時半までなのである。
「カルテとレントゲン写真を照合するのには時間がかかります。明日の日曜日なら、ご協力します。恐縮ですが、月曜日の昼休みにでも、出直していただけませんか」
歯科医は受付のカウンター越しに言った。六十歳ぐらいの、小柄な歯科医だった。
歯科医が言うのも、もっともだ。
そうしている間にも、何人かの患者が入ってきて、診療券を受付に置いた。
診療を中断させるわけにはいかないが、ことは殺人事件なのである。ベテラン部長刑事は夜汽車で駆けつけたことを訴え、
「せめて、持参した歯形だけでも見ていただけないでしょうか」
と、粘った。
「先生が治療された歯形なら、あるていど見当がつくのではありませんか」
「そうはいきません。患者の数も多いですし、カルテと照合しなければ、正確なおこたえはできません。歯形は、人間の顔とは違いますからね。一目で、だれのものか決めつけることはできません」
「顔ならあります」
原刑事が、横から口を挟んだ。原は口走ると同時に、背広の内ポケットからそれを取り出していた。
死者の顔写真だ。
毒殺後何日かが経過しており、両目を閉じているので、生前とは、多少印象が違うだろう。しかし、「千葉」がここに通院していたのなら、医師には分かるはずだ。
原が、祈るような気持ちで、死者の顔写真を差し出すと、
「これは」
歯科医のまなざしが変わり、声が大きくなった。
刑事の粘り勝ちというか、案ずるより産むは易《やす》しだった。夜行で上京した努力は、最初の歯科医院で報われたのである。
幸いなのは、歯科医は、両目を閉じている顔を見慣れていることだった。そう、治療を受けるときの患者は、例外なく目を瞑《つぶ》っているものだ。
「この方が、秋田で殺されたのですか」
歯科医は、一瞬の中に、死者を特定していた。歯科医は背後の引き出しから、カルテを抜き出した。
白井保雄《しらいやすお》 三十五歳 神奈川県|大和《やまと》市|深見《ふかみ》二十七『和泉《いずみ》マンション』四十五号
神奈川県の人間が、なぜ、このような東京の外《はず》れの歯科医院に通っていたのか。
「白井さんは、ホクエツの社員なのですよ」
「ホクエツ、と言いますと?」
「道路の向こう側に、大きい倉庫があるでしょう。あれが、ホクエツの東京営業所です」
初老の歯科医は事務的な口調で言い、カルテを引き出しへ戻した。
山岡部長刑事と原刑事は、礼を言って歯科医を出ると、舗道《ほどう》を横切った。
大きい倉庫の横にある小さい二階建てが、株式会社『ホクエツ』東京営業所の事務所だった。
二人の刑事は、所長に面会を求めた。
その結果、「千葉和郎」と名乗って横手へ現われた男の身元が、改めて確認された。
「白井君は殺されたのですか。どうして、秋田県のアパートなど借りていたのでしょう?」
所長は、事態のすべてが信じられないという顔をした。
所長は白井保雄の行動に詳しくなかった。白井は東京営業所の人間ではなかった。
二人の刑事は、三十分ほどで聞き込みを切り上げ、『ホクエツ』東京営業所を出た。
横手北署の捜査本部に、山岡部長刑事からの報告電話が入ったのは、午前十時だった。
「ご苦労さん、部長刑事《ちようさん》の見込みに狂いはなかったわけだね」
受話器を持つ刑事課長の声は、電話をかけてきた山岡にも増して弾《はず》んでいた。
身元は割れたが、白井が「千葉」と名乗って横手に潜《ひそ》んでいた背景が何であるのか、詳しい経緯は、東京営業所では分からない。
「ホクエツは、仮設ハウスの販売とリースを主にしているプレハブ建設の会社で、業界では大手だそうです」
山岡は、順序を立てての説明に入った。
「営業所は首都圏の他に関西、九州などで十六を数えるそうですが、東北にはまだ進出していません」
株式会社『ホクエツ』の本社は横浜だった。白井保雄は横浜本社の経理課で、主任のポストを与えられている。
経理課には、課長の下に四人の主任がおり、白井の担当は首都圏だった。
白井は、年度替わりのときなど、一日置きに、東京営業所勤務のつづくことがあった。その東京勤務を利用して、営業所と目と鼻の先の歯科医院に通った、ということらしい。
「東京まで来ているのですから、電話尋問ではなく、直接、ホクエツの横浜本社へ行ってきます」
山岡は横浜出張の許可を求めてきた。もちろん、刑事課長にも異存はなかった。
一通りの報告が終わったところで、電話は署長に代わった。署長も、山岡のスピーディーな捜査を評価し、
「込み入ったことになるかもしれないな。ここは一つ、神奈川県警に協力を要請しよう」
自分自身に言い聞かせるように、つぶやいた。
込み入った捜査になるかもしれないと考えたのは、事件が、秋田、東京、神奈川と跨《またが》ってきたためだった。それに、もしも、『ホクエツ』というプレハブ建設会社が絡んだ殺人であるなら、『ホクエツ』の営業所が置かれている関西や、九州地方にも波及してくるかもしれない。
「神奈川県警には、すぐに連絡をとる。横浜へ着いたら、またこっちへ電話を入れてくれ」
署長はそう命じて、受話器を置いた。
神奈川県警が、秋田県警からの要請を受けたのは、間もなく午前十一時になろうとする頃だった。
神奈川サイドでは、捜査一課の課長補佐、淡路《あわじ》警部が窓口になった。
淡路警部は、このところ他府県警との捜査共助の仕事がつづいているので、まずは適任といえる。
「秋田の殺人事件《ころし》が、神奈川へ飛び火だ」
淡路は、一課長からの指示を受けて机に戻ると、要点を部下に説明した。
「間もなく、横手の部長刑事《でかちよう》さんたちが、横浜へ到着する。その前に、ホクエツに電話だけでもかけておいてもらおうか」
と、簡単な打ち合わせをしているところへ、独特な臭覚を利《き》かせたか、ぶらっと捜査一課に入ってきたのが、『毎朝日報』の谷田実憲だった。
淡路と谷田は、捜査一課の課長補佐と、記者クラブのキャップの域を越える、親しい交際を持っている。いわば「つうかあ」の仲だ。
淡路は、記者会見では未発表の情報を、谷田に対してオフレコで口にしたことが少なくないし、谷田のほうからは、横浜が絡んだ殺人事件の、アリバイ崩しの発見を、後輩のルポライター浦上伸介とともに何度も提供している、と、そういう昵懇《じつこん》の間柄だった。
五日前の谷田の京都旅行の折も、警部は、みやげの、すぐきの樽詰めをもらっている。
しかし、たとえオフレコにしろ、どう発展するか知れない他県の事件《やま》を、いま、口外するわけにはいかない。
「警部、何か変ですね。匂《にお》いますよ」
谷田は、慌ててメモを片付ける淡路に向かって、微笑《ほほえ》みかけてきた。
すると、警部は特徴のあるギョロリとした目を向けて、
「それよか、奥さんと蜜月旅行の京都の話を、じっくり伺わなければなりませんな」
話題を変えた。
「紅葉《もみじ》狩りで出会ったという美女の話も詳しく伺いたいし、そのうち、一杯やりますか」
「古女房とハネムーンもないでしょう。警部は、おとぼけがお上手《じようず》ではありませんね」
谷田は見逃さないぞ、というように、メモを片付けた引き出しに目を向けた。
だが、この場は、当然なことに、それまでだった。
淡路警部配下の刑事が、『ホクエツ』本社を訪れたのは、それから間もなくだった。
電話で問い合わせたところ、土曜日なので、執務は正午までと分かった。そこで横手の刑事の到着を待たずに、地元の刑事が出かけたわけである。
『ホクエツ』本社は、横浜市内の中区|真砂《まさご》町、JR関内《かんない》駅から徒歩数分の場所だった。
オフィス街ではあるが、一ブロック過ぎると、高級クラブが並んでいるといったような、通りだ。
生命保険会社とか、大手旅行社などが入っている雑居ビルの、二階と三階が『ホクエツ』の本社になっていた。
刑事がエレベーターで三階に上がると、白井保雄の、直接の上司に当たる経理課長が出迎えた。
「白井君が殺された話は、やはり本当なのですね」
課長は眼鏡《めがね》をかけていた。神経質そうな横顔が、緊張している。
「東京営業所から、秋田の刑事さんが立ち寄られたという連絡が入りましたので、常務が、横手の捜査本部へ電話をかけたところです」
課長は刑事を応接間に案内し、何とも信じられないことだ、と、繰り返した。
刑事は、白井の経歴から尋ねた。
白井は滋賀県の出身。実家は大津《おおつ》市|秋葉台《あきばだい》で酒店を経営しており、白井は次男だった。
京都の私大の経済学部に学び、卒業と同時に『ホクエツ』に入社、京都営業所に配属されたが、二年後に、本人の希望もあって、横浜本社へ転勤。以後、ずっと経理課に所属し、主任に登用されたのが四年前、という話だった。
四年前から居住する大和市のマンションは賃貸であり、白井は独《ひと》り暮らし。
「結婚願望は強かったようですが、どういうわけか縁がなくて、三十五歳まで独身でした」
と、課長は言った。
「横手の捜査本部のお話では、白井君が田圃《たんぼ》の中の古いアパートを借りたのは、先月の二十一日ということですね」
「ええ、一ヵ月の契約と聞いています」
「白井君は、やはり逃げたのですね」
「逃げた?」
「しかし、なぜ殺されなければならなかったのか、その辺りが、さっぱり見当つきません」
経理課長が口|籠《ご》もったとき、ドアが軽くノックされて、でっぷりと太った五十代の男が入ってきた。
横手北署の捜査本部へ電話をかけたという、常務だった。
常務は丁重に一礼して、ソファに腰を下ろした。
「白井のことで、実は私のほうから、警察へご相談に上がろうと、考えていたところでした」
「家出人の捜索願いですか」
「いいえ、業務上横領の疑いです」
「会社の金を持ち逃げしたというのですか」
「このことは、社内でも一部の人間しか承知していません。私ども幹部は手分けして白井の行方を追ってきました。対外的な信用問題もありますので、できるなら、内々に解決したかったのですが」
失跡以来十二日が過ぎても、何の手がかりもなし。社内捜査≠ェ行き詰まった矢先に、秋田から届いた意外な結末だった。
「白井君は、いまも言いましたように、大津生まれで、京都の大学を出た男です。東北には何の関係もないはずです。それも、横手の目立たないアパートで、六日か七日前に、毒殺されていたというのでしょう」
経理課長の緊張は、常務が同席したことで、更に高まっていた。経理主任の横領は、当然、経理課長の責任問題となってこよう。
「アパートからは、三十万円足らずの現金が発見されています」
刑事が警察手帳を確認すると、
「本当に、それしか見つからなかったのですか」
経理課長は両掌を握り締めた。
「経理に入金されるはずで入らなかった売上げは一億四千万円ですよ」
「一億四千万?」
大金だ。
東北の殺人《ころし》は、一億四千万円をめぐって、ということになるのか。
「会社の信用問題もあるでしょうが、すぐに届けてくるべきでしたね」
刑事は、不快感を表に出した。
「会社の人が、白井さん、いえ白井の姿を最後に見たのは、何日ですか」
「十一月十八日です。土曜日でしたので、今日と同じように、勤務は昼まででした」
「その退社時間を最後として、白井は、社員の前から姿を消してしまったというのですね」
「マンションの管理人は、十八日から帰っていないようだと言ってました」
社内捜査≠フ結果でも、『和泉マンション』四十五号室の新聞は、十八日の夕刊以降がそのまま置き去りになっていたという。
「和泉マンションへ出向いたのは、いつですか」
「二十日、月曜日の午後です。白井は無断欠勤をしましたので、自宅へ電話をかけたが返事がない。そこで、私が直接訪ねました」
白井が住んでいた大和は、横浜駅から、相鉄《そうてつ》で三十分足らずの距離である。『和泉マンション』は、大和駅から徒歩にして五分ほどだという。
「こちらの会社では、社員が一日無断欠勤しただけで、幹部がその自宅を訪ねるのですか」
「毎月二十日は、経理課員にとって、もっとも重要な決済日です」
経理課長がこたえ、常務がつづけた。
「白井は主任として、首都圏にある三つの営業所を統轄《とうかつ》していました」
二十日までに入金されているはずの、首都圏三つの営業所の売上げ金が、一億四千万円だった。
一億四千万円が未納で、担当の白井は電話をかけても応答なし。
「そういうことですか」
刑事はうなずいた。
こうした事情なら、経理課長が顔色を変えて大和へ飛んで行ったのも当然だ。
「白井は、一億四千万円とともに、蒸発していたってわけです」
この十二日間、大津の実家、学生時代を過ごした京都など、八方手を尽くしたが、白井の行方は杳《よう》として知れなかった。
「それも道理です。東北の小都市に、千葉と名乗って隠れていたなんて、夢にも思いませんでした」
経理課長は繰り返した。
「共犯者に、思い当たる人間はいませんか」
「私どもなりにチェックしてみましたが、社内とか、取引き先などからは、だれも浮かんできません」
「すると、影の共犯者は、プライベートな交遊関係の中に、潜んでいることになりますか」
「それが、さっぱりです。大津の実家とか、高校時代のクラスメートなども口をそろえてこたえているのですが、白井は、少年の頃から、友人が少なかったそうです」
常務はつぶやき、
「白井は内向的な性格でしてね、会社の中でも、個人的に深く交際している社員は一人もいません」
経理課長が付け足した。
影の人物が浮かんでこなければ、本当の動機といったものも、もう一つはっきりしてこないだろう。
「酒屋さんをしているという、大津の実家は、それなりの暮らしをしているのでしょう?」
「いまは長兄の代になっていますが、それなりどころか、相当に手広くやっています。資産なども、結構あるようです。こう言っては何ですが、少し無理をすれば、一億四千万円の肩代わりも、不可能ではないと思います」
「なるほど」
そうした含みがあればこそ、『ホクエツ』では内々に処理すべく、社内捜査≠進めてきたのであろう。
「白井の横領は、無論、これが初めてでしょうね」
「それが、そうではなかったのですよ」
経理課長は、苦り切った顔をした。犯行は、今度で四度目だという。
「分かりませんね。こちらの会社では、そうした前歴のある人間を、そのまま、経理主任のポストに据え置いたのですか」
「監督不行き届きと指摘されれば、そのとおりですが、一時流用の場合は、発見が困難です」
「一時流用?」
「各営業ブロック毎の商品と預金残高は、毎月二十日に帳合されることになっています。これは、常務と私とでチェックするのですが、このとき、いわゆる帳尻が合っていれば、一時流用の不正は、容易に発覚しません」
「どういうことですか」
「たとえばですね、当該月の集金を、十八日まで不正流用していたとしても、十九日にきちんと入金され、預金通帳残高が合っていれば、二十日のチェックはパスします。それ以上、突っ込んだりはしません」
時間的にもそれ以上のチェックは無理だ、と、経理課長は言った。
白井は、一種の浮き貸しでもしていたのだろうか。
「恐らく、そうだと思います。短期間の融資とは言え、額が大きければ、闇《やみ》の金利もばかになりません」
「交遊関係が少なくても、白井には、そういう影の相手がいたわけですね」
「しかし、その相手も、私どもには、まったく見当がつかないのですよ」
常務は経理課長を促し、課長は封筒から一通のコピーを取り出した。
(1)一千万円=昨年七月
(2)二千万円=昨年九月
(3)五千万円=昨年十一月
(4)一億四千万円=今年十一月
それが、今回のチェックで明るみに出た事実だった。
(1)(2)(3)は、当該月の二十日までに、入金されているので、何事もなかった。
だが、回を追って、流用金額はエスカレートしているのに、(3)と(4)の間には、一年のブランクがある。
これはどういう意味か。
(1)(2)(3)は、いわばリハーサル的なステップで、まとまった売上げが集金されてくる機会を窺《うかが》っていた、ということだろうか。
「そうですね。目的は浮き貸しによる裏金利ではなくて、一億円を越える大金を、そっくり横領することだったのかもしれません」
経理課長の眼鏡《めがね》をかけた顔は、さらに、沈んだものになっている。
問題の一億四千万円は、首都圏の得意先二十一社からの売上げで、十月下旬から十一月上旬にかけて、集金されたものだったという。
質疑は、そこでいったん中断された。
刑事はその場で電話を借りて、県警捜査一課へ、意外な経緯を報告した。
「分かった」
淡路警部はこたえた。
警部は一呼吸置いてから、告訴を指示してきた。
「事情聴取が重複しても、時間の無駄だ。それ以上詳しい内容は、所轄で話してもらうんだな」
「そうします」
刑事は受話器を戻した。
常務と経理課長は、刑事に同行して、所轄の関内署へ行くことになった。
死者を告訴することにしたのは、もちろん、一億四千万円の所在が不明なためである。
大金を、実際に手にしたのが白井以外の人間であるなら、その影の人物を炙《あぶ》り出すことが、同時に、殺人事件解決の端緒《たんしよ》となるわけだ。
横手北署の山岡部長刑事と原刑事が、JR関内駅で下車したのは、『ホクエツ』の常務と経理課長が、関内署の刑事課に入る頃だった。
山岡部長刑事が関内駅構内のカード電話で、横浜到着を横手の捜査本部に報告すると、敏速に、淡路警部からの最初の連絡が横手に届いていた。
「と、いう次第だ。部長刑事《ちようさん》たちも、関内署の事情聴取に立ち会ってもらいたい」
と、捜査本部長である署長は命じた。
山岡と原は、先行の三人を追って、何はともあれ、関内署へ向かった。
3章 二回の電話
秋田県横手市の毒殺事件が、各紙社会面で、改めて大きい記事となったのは、翌十二月三日、日曜日である。
浦上伸介は、朝が遅い。
東京都|目黒《めぐろ》区、東横線中目黒駅に近い『セントラルマンション』。九階建ての三階にある1DK、307号室が、シングルライフを楽しむ三十二歳の住居であり、仕事場だ。
浦上が眠い目をこすりながらベッドから這《は》いだし、朝刊を取ってきたのは、間もなく、午前十一時になろうとする頃だった。事件物を得意とするルポライターの一日は、朝刊三紙の社会面に目を通すことから始まる。
全壁面を占める本棚、そして、ベッドとスチール製の大きい仕事机で、部屋はいっぱいだ。机の上にはファックス、ワープロなどが載っている。
浦上は親しい先輩谷田実憲同様、夜はアルコール抜きでは一日だって過ごせないくせに、朝はコーヒーを欠かせない体質だった。
浦上はコーヒーメーカーで好みのキリマンジャロを淹《い》れ、キャスターをくゆらしながら、朝刊を広げたが、
「おいおい、冗談じゃないですよ」
だれかに話しかけるようにつぶやき、慌てて他の二紙も開いていた。
ルポライターの全神経は、本能的に、横手の殺人事件に吸い寄せられていく。
一億四千万円の蒸発と、人目を逃れた、東北のぼろアパートでの毒殺。
「こんな面白い情報《ねた》があるのに、何の連絡もないとは、先輩も冷たいもんですね」
つぶやきは、そんなふうに変わってきた。すると、タイミングを合わせるかのように、電話が鳴った。
「先輩、水臭いですよ」
浦上は受話器を取るなり、口走っていた。しかし、
「ご機嫌斜めだね」
電話を伝わってきたのは、谷田ではなかった。
「どうも、浦上ちゃんは寝覚めが悪いようですな。大事な先輩と何があったのかね」
毎度おなじみの甲高い声は、『週刊広場』の細波《ほそなみ》編集長だった。休日とあって、編集長は、杉並《すぎなみ》の自宅からかけていた。
「浦上ちゃん、日曜日は、いつものように将棋|三昧《ざんまい》かい」
「分かってますよ。今日は将棋センターへ行くなってことでしょ」
「へえ、この時間に、もう朝刊に目を通しているとは知りませんでしたよ」
「気に要《い》らないのは、谷田先輩です。これだけの事件を、週刊広場が飛び付かないわけはないでしょう」
「それじゃ横浜へ行って、大事な先輩にイチャモンつけてくるんですな」
編集長はおどけた言い方をしたが、しばしの間を置いてから、一転、決断を下すときの、甲高い声に戻った。
「浦上ちゃん、この殺人《ころし》はいけるよ。取材費は惜しまない。休日返上で、早速着手してもらおうか」
特集の企画は、本来なら編集会議を通すのが順序だが、細波編集長は速戦即決、ワンマン的要素が強かった。
そして、その強引な決断がヒットするのも、長年週刊誌に携わってきたキャリアゆえだろう。
『週刊広場』には、他にも何人かの契約ライターがいる。しかし、横浜絡みの犯罪なので、編集長の念頭に、浦上以外はないようだった。
浦上には、谷田という絶好のバックアップがいる。
「浦上ちゃん、谷田さんに会って捜査の進展具合をつかんだら、自宅《うち》へ電話をくれないか。捜査状況を見た上で、どう料理するか決めよう」
甲高い声は、一方的にそう言って、電話を切った。
日曜日なので、記者クラブのキャップも今日は休みだ。
横浜の谷田の自宅へ電話を入れると、
「おう、お目覚めか。もう少ししたら、こっちからかけようと思っていたんだ」
谷田のいつもの明るい声が、直接電話口に出た。細波編集長の甲高いのとは質が違うけれど、谷田の声も大きい。
「先輩、先日は京都みやげの地酒と樽詰めをありがとうございました。奥さんによろしく言ってください」
それにしても、と、浦上が口先をとがらせると、
「おい、電話が遅れたからって、そうかっかしなさんな。こっちにも、都合ってものがある」
谷田は悪びれたふうもなく、一応の弁解を言った。
「秋田の横手から、部長刑事《でかちよう》と若手の刑事が横浜へ来ているんだ。昨夜《ゆうべ》は、このお二人をぴったりマークしていたのでね、電話をかけたくたって、かけられやしなかった」
マークした結果、(新聞には報道されていない)何かをつかんだのか。
「今日辺り、きみと一局指したいと思っていたんだ。だが、そうもいかない。淡路警部が日曜出勤なのでね、オレも、午後、支局へ上がる」
ということで、二人はその前に、桜木町《さくらぎちよう》の喫茶店で落ち合うことにした。
浦上はスクランブルエッグを作り、トーストを一枚だけ食べると、『セントラルマンション』を出た。
浦上は、谷田のような大柄ではなく、中肉中背の目立たない男だ。
立てえりの茶のブルゾンに、取材用カメラなどの入ったショルダーバッグ。浦上は、東京都内を取材するときも、地方へ出張するときも、ほとんど同じ格好だった。
東横線の急行で、中目黒から終点の桜木町まで正味三十三分。
浦上が、大岡《おおおか》川沿いの指定された喫茶店に入ったのは、午後一時を少し回った頃である。谷田は、すでに大柄な姿を見せていた。
窓際のテーブルだった。
「殺人《ころし》は、一億四千万円をめぐっての、仲間割れが原因ですか」
「しかし、突発的なものじゃないな。白井が好きだったという、スコッチを用いての毒殺。この手口は計画的だ」
「白井という男は、大津の実家も悪くないし、金には困っていなかったのでしょ。何で、こんな大金が必要だったのですか」
「確かに、昨年来三回を数えた一時流用≠焉Aどこか腑《ふ》に落ちない」
「これまでの三回は、やはり、まとまった大金横領への伏線だったのでしょうか」
「問題はそこだ。陰にだれかいるのは間違いないが、簡単には、公金横領の共犯が浮かんでこないんだな」
「白井は、黒い交遊関係を持つもう一つの顔を、完全に隠していたってことですか」
「そりゃそうだ。自分が管轄する売上げ金とともに、姿を消したのだから」
「すると、気が弱い小心者というイメージは、周囲を欺《あざむ》く仮面だったことになります」
「結果的にはそうだが、大津の小、中学校時代のクラスメートも、白井が内向的だったと証言しているそうだ。だから、共犯者が、白井の内気な性格を利用したとも考えられる」
「脅迫ですか」
「だが、そうだとしたら、脅されるべきどのような弱味を、握られていたのか」
「それにしても、一つ職場が長かったのに、同僚たちがだれ一人として、不審に気付かなかったのですかね」
浦上がそう言って、コーヒーを飲み干すと、
「横手の部長刑事《でかちよう》の話では、藤森アパートってのは、借り手もつかない老朽家屋だそうだ。白井は、なぜそんなぼろアパートに潜んでいたのだろう」
谷田は首をひねった。
「人目を避けるのに絶好、と、考えたからでしょう」
「現在はどこにあるのか知らないが、一億四千万円の現金を手にして消えた男だよ。人目を避ける方法は他にいくらだってある」
「そうですね、ぼろ家でインスタントみそ汁ってのは、侘《わび》し過ぎます」
浦上が同意すると、谷田は低い声で言った。
「ちょっとした変装をして、鄙《ひな》びた温泉宿でも泊まり歩く。逃亡者としては、そのほうが自然だと思うけどな」
「一方通行で、共犯者からの連絡を待っていたことは、考えられますね」
「死体発見のきっかけとなった、例の男の電話か」
「共犯者でなければ、白井の偽名とか潜伏先を知らないはずですよ」
「でも、妙なんだな。電話の男が共犯ならば、その男が、白井を毒殺した犯人って構図だろ」
「そうですね、白井が死んでいるのを承知していて、電話の呼び出しを頼むのは不自然ですね」
「どっちにしろ、一ヵ月契約で藤森アパートを借りたのは、影の人物の指し図に従ったのだと思うよ」
「そう、白井は、東北に土地鑑がないわけですからね」
「人が寄りつかないぼろアパートで、賃貸契約した一ヵ月の間に白井を始末する。それが、共犯者である影の、最初からの構想だったのではないかな」
「犯行日は十一月二十五日の午前から、二十六日午前の間ですか」
浦上が取り出した朝刊に目を向けると、
「こんな殺人《ころし》が、秋田で起こっているなんて、知らなかったね。まさにその頃、オレは京都にいた」
谷田は珍しく複雑な顔をした。
「こっちは久し振りの女房孝行で、洛西の紅葉《もみじ》狩りだったが、東北の紅葉は、もう終わっていただろうな」
「そうか、先輩が京都を歩いてから、今日でちょうど一週間になるんですね」
「今度はきみの出番だ。横手へはいつ出かける? 他の週刊誌も押しかけるんじゃないかな」
「その点では早いほうがいいし、編集長の意向次第ですが、ぼくとしては、もう少し、横浜《こつち》の動きを見てからにしたいですね」
浦上は考えながらこたえた。
谷田のポケットベルの鳴ったのが、それから間もなくだった。ここからなら、電話をかけるより、直接、支局へ上がったほうが早い。
それを機に、谷田と浦上は、大岡川沿いの喫茶店を出た。
その頃、横手北署の山岡部長刑事と原刑事は、大和市にいた。
横浜の衛星都市ともいうべき大和からは、遠く、相模《さがみ》平野の彼方《かなた》に大山《おおやま》が見える。
淡路警部の紹介で、桜木町のビジネスホテルに一泊した遠来の刑事は、もちろん、日曜返上だ。
二人は、重点聞き込みということで、白井が四年前から借りていた『和泉マンション』へ来た。
捜査令状は用意されていなかったが、
「万一の責任は私が取る」
ベテラン部長刑事の決断で、管理人を同行、マスターキーで四十五号室へ入った。
「主任、これが白井の部屋ですか」
「ほう」
二人の刑事が思わず顔を見合わせたのは、その1LKが、『藤森アパート』とは、あまりに対照的だったせいである。
田圃《たんぼ》の中の、朽ち果てたアパートは、逃亡者の部屋だった。しかし、窓ガラス越しに大山を望む『和泉マンション』四十五号室には、言うなればエリートサラリーマンの、充実が感じられるのである。
『藤森アパート』のマイクロテレビと違って、ここには、1LKには似つかわしくない大型テレビと、コンポがあった。ビデオテープや、CDの入ったケースも並んでいる。
洋服ダンスとかキッチンユニット、下駄箱などは作り付けだが、冷蔵庫も新しいものだった。
「この部屋に足りないのは、嫁さんだけか」
「これほどの生活をしていた男が、よく、あんなアパート暮らしに堪えられましたね」
二人の刑事は、そうした会話を交わしながら、管理人立ち会いの下《もと》に、徹底的な家宅捜索《がさいれ》に踏み切った。だが、時間をかけても、手がかりは何一つ出てこなかった。
「信じられませんねえ。白井さんは、今時珍しいくらい堅実な人だったのですよ。実家も裕福と聞いています」
立ち会いの管理人は、何回も、一つことを繰り返した。
管理人は、山岡部長刑事同様、五十歳前後という感じだった。やせて小柄な男だった。
この管理人が、白井のことを誠実な人間と受けとめたのは、事実だろう。室内も、きちんと片付いている。
管理人によると、この部屋の来客は少なかったらしい。
人数は少なくとも、しかし、たまにはだれかが訪ねてきたということか。
「ホクエツの経理課長さんにもこたえましたが、どういう人が見えていたか、そこまでは分かりません」
「男女の別くらいは、覚えているでしょう」
「女性は一人もいませんでした」
管理人は断言した。根拠は結婚願望だった。この管理人も、白井の結婚願望を承知しており、それだけに、女性客には注意していたらしい。
「あんないい人が、どうして女性と親しくなれなかったのでしょうかね」
管理人は言った。
白井は、ある種の人間にはよく映っても、要するに、異性にもてないタイプだったのだろう。
(うじうじした内気な男か)
ベテランはそう考えながら、四十五号室の捜索を打ち切った。
管理人を下に帰し、一部屋ずつ、四階全部の住人を当たることにした。
独身のサラリーマンの多い賃貸マンションだが、幸いなことに、今日は日曜日だ。
四階十二室の住人たちは、ほとんどが部屋にいた。
刑事は定跡《じようせき》どおり、両隣から聞き込みを始めた。
左隣、四十四号室では何も得られなかったが、右隣の四十六号室から反応が出た。白井よりは年下の感じの、サラリーマンだった。
「ぼくが知っているのは、一度だけですが、ええ、来客は男性でした」
隣人は刑事の質問にこたえた。
それは、一年ぐらい前のことだった。出会ったのは、マンションのエレベーターの中だ。
夜ふけて、この隣人がマンションへ帰ると、アルコール臭い息を撒《ま》き散らした白井が、男の客と連れ立って、エレベーターに乗り込んできたという。
「するとあなたは、その男性の顔を見ているのですね」
「眼鏡《めがね》をかけていました。白井さんとは違って、明るい感じの男性でした」
「酔って、はしゃいでいたのですか」
「何かしゃべるたびに、必ず声を立てて笑っていました。笑顔が目立ったのは、こう言っては悪いけど、出っ歯だったせいでもあるようです」
その男は、白井と同年代で、やはりサラリーマンふうな、濃紺のスーツだったという。
「エレベーターの中での、二人の会話を覚えていますか」
「はい、しきりに競馬の話をしていましたのでね、おや? と、考えたのを、記憶しています」
「競馬の話が珍しいのですか。馬券を買うサラリーマンは少なくないでしょう」
「ぼくも、たまには買いますがね。白井さんはギャンブルとは無関係なタイプに見えたので、印象的だったのだと思います」
と、隣人はこたえた。
しかし、尋問はそこまでだった。エレベーターが四階に着くと、双方は会釈してそれぞれの部屋に入ってしまったし、隣人は、その後、四十五号室の来客に気付いていなかったからである。
山岡部長刑事と原刑事は、さらに『和泉マンション』での聞き込みをつづけたが、結局、それ以上のものは出なかった。
三十代半ば、サラリーマンふう、明るい笑顔でよくしゃべる男。
「この男が、今度の事件に、関係してくるのかね」
山岡が、大和駅へ戻る途中の商店街でつぶやくと、
「主任、白井が競馬などのギャンブルに打ち込んでいたとしたら、これは立派に、もう一つの顔ということになります」
原は遠くに目を向けた。
「隣人が、よく笑う男を見かけたのは、一年前と言いましたね。一年前と言えば」
「私も、それを考えた」
山岡はうなずいた。
関連があるのか、どうか、これだけの聞き込みでは早計だが、それは、昨年七月以降、(1)(2)(3)と一時流用された売上げ金の、(3)の時期に当たるのである。
一年前の、その五千万円を最後として、今回の一億四千万円まで、犯行が中断されている。
それは、眼鏡《めがね》の男の来訪と関係があるのだろうか。あるかもしれない。事件を報道するニュースを知らないはずはあるまいに、男は何とも言ってこないのだから。
いずれにしても、この男は外観に特徴を持っている。
『ホクエツ』周辺にいるのなら、捜査線上に浮かび上がってくるのは、時間の問題だろう。それらしき男が絞り込まれたら、四十六号室の隣人に面通しさせればいい。
「主任、横手へ帰る前に、その陽気な男に会っておきたいですね」
原はそう言って視線を戻したが、このよく笑う男が浮上したのは、それから間もなくだった。
正確な住所とか勤務先までは不明だが、名字だけは分かった。
名字を控えたのが、他でもない、横手北署の捜査本部だった。
その男を名指したのは、毒殺された白井保雄の実兄、白井|久志《ひさし》である。
父親の跡を継ぎ、大津市で手広く酒店を経営する久志は、いかにも近江《おうみ》商人らしい、腰の低い人間だった。殺された弟とは五つ違いの、四十歳。
久志が、死者と対面するために、遠く滋賀県から秋田県へ駆けつけてきたのは、山岡部長刑事と原刑事が『和泉マンション』の聞き込みを終え、相鉄線で横浜市内へ引き返した頃である。
早朝、大津を出発し、東海道新幹線、東北新幹線、そして奥羽本線のL特急つばさ9号≠ニ乗り継いできた久志が横手駅に降りたのは、十五時三十四分だった。
久志は駅前からタクシーに乗り、まっすぐ横手北署へ入った。
「お手数をかけましたが、どうしてこんなことになってしまったのか、訳が分かりません」
それが、遠く離れた北国の霊安室で、変わり果てた実弟を確認したときの兄のつぶやきだった。
それだけに、兄は涙も見せず茫然《ぼうぜん》としていた。
その久志から事情を訊《き》き出すには時間が必要だった。
尋問は、刑事課長が自ら担当することになった。刑事課長は、新聞記者を避けるために、(三階の捜査本部ではなく)一階署長室のソファへ久志を案内し、お茶を出した。
署長も、同じテーブルを囲んで、ソファに腰を下ろした。
横の机では、若い刑事が、メモを取るための用紙を広げた。
問題の、眼鏡《めがね》の男の話が出たのは、
「弟さんが、最近大津の実家へ帰ったのはいつですか」
と、それを質問の導入にしたときである。
「このごろは、滅多に顔を見せませんでした。もう一年半近くも戻らないのではないでしょうか」
久志は指を折って数え、
「去年の七月に来たのが最後です」
と、こたえた。
そのとき、友人と称する男が同行してきて、実家に二泊していったというのだ。
「眼鏡をかけた人です。明るく、人なつこくて、よく笑う人でした」
というこの男の印象が、山岡部長刑事が『和泉マンション』で聞き込んだのと同じものだった。
「弟より、二つ三つ年上でしたでしょうか。モトジマさんと言ってました」
「ホクエツの同僚ですか」
「いいえ、同僚ではありませんが、会社がホクエツの近くで、確かワインの輸入会社にお勤めと聞きました」
「弟さんが、友人を実家に泊めることは前にもあったのですか」
「後にも先にも、モトジマさんが、初めてでした」
白井は友人が少なかった。親しい友人が皆無だったことは、実兄によっても裏付けられた。
すると、二泊もしていった「モトジマ」の存在を無視することはできまい。
しかも、照合してみると、昨年七月というのは、白井が、売上げ金に最初に手をつけた月ではないか。そう、(1)の一千万円を流用したのが、昨年七月だ。
「きみ」
刑事課長は、横の机でボールペンを走らせる若い刑事を見た。
(至急、神奈川県警の淡路警部に、モトジマのことを電話したまえ)
課長の目がそう語っている。
若い刑事は一礼して立ち上がると、署長室を出て行った。
刑事課長は質問を戻した。
「弟さんが失踪《しつそう》したことと、一億四千万円の横領を知ったのはいつですか」
「十一月二十日の夕方、ホクエツの常務さんから、お電話を頂戴《ちようだい》しました」
「弟さんからの連絡は、最後まで、一切なかったのですね」
「弟は何とも言ってきませんでしたが、その後、女の人からの電話がありました」
「女?」
「弟が殺されたのは、十一月二十五日か二十六日と言われましたね」
「その日に電話が入ったのですか」
「はい。二十五日朝と、二十六日夕方の二回でした」
久志にはまったく心当たりのない女だったが、先方は自分を名乗らなかった。
『保雄さんは帰っていますか』
女は二回とも、手短に尋ねてきただけだった。
久志が戻っていないとこたえると、女は、こっちの質問は一切無視して、がちゃんと電話を切ったという。
「保雄が女性と交際していたなんて、聞いていなかったので、あの電話は、ホクエツの社員が、実家の様子を窺《うかが》ってきたのだろう、と勝手に受けとめていました。しかし、いま、考えてみると、あれは保雄が殺されたと推定される日なのですね」
その点に、久志は改めて意味を感じているようだった。
刑事課長は質問する。
「どのような感じの女性でしたか」
「若い声だったと思います。ですが、話し方は落ち着いていました」
「ことばに、土地の訛《なまり》がありましたか」
「訛は、少し感じられましたが、関西弁ではなかったですね」
「弟さんは、一年半近く、大津に帰っていなかったと言いましたね。その間に親しくなった女性かもしれませんな」
刑事課長はそう言って、同意を求めるように、同席の署長に目を向けた。
そのとき、神奈川県警捜査一課の淡路警部へ連絡の電話をかけに行った若い刑事が、戻ってきた。
「課長、横浜の電話を代わってください」
若い刑事は言った。
神奈川県警捜査一課には、『和泉マンション』の聞き込みから帰った山岡、原両刑事が居合わせており、
「取り急ぎ報告事項があるそうです」
若い刑事は山岡の意向を伝えた。
「失礼します」
刑事課長は、久志に断わってソファから立ち上がり、署長室を出た。
横浜との電話は、同じ一階の、警務課につながっていた。
「もしもし」
先方の声は、市内電話のように、はっきりと聞こえる。
山岡部長刑事は、手短に大和の聞き込み結果を報告し、
「とりあえずの焦点は、酒を飲んで白井の部屋に同行してきたという、この男ですね」
と、言った。
「日曜日なので、オフィスは閉まっているでしょうが、大津の実家に二泊したという、モトジマの勤めるワイン輸入会社を探し出して、一刻も早く、どんな笑い声か聞いてきます」
ベテランは、気負い込んだ口調だった。
「部長刑事《ちようさん》、その男のほかに、女も出てきたよ」
刑事課長は、話の最後に、大津の実家へ二回電話をかけてきたという、身元不明の女のことを伝えた。
「確かに、殺人推定日の電話というのが気に入《い》らないですね」
山岡も、当然なことに、電話の女に強いこだわりを示した。
問題のワイン輸入販売会社は、簡単に割れた。淡路警部の指示で、神奈川県警捜査一課の刑事が、関係方面に電話を入れた結果だが、所在地と業種が特定されているのだから、割り出しが時間の問題なのは、当然でもあった。
『ホクエツ』本社に近いワイン輸入会社というと、一社しかなかった。
横浜市中区|住吉《すみよし》町五二三 株式会社『三友《みつとも》商事』
淡路警部は、走り書きを山岡部長刑事に手渡し、
「聞き込みには、当方の刑事をつけましょう」
と、言ってくれた。
横浜の地理に不案内な山岡と原は、好意にあまえることにした。
それは横浜スタジアムの近くで、YMCAの裏側に位置していた。
独立した、六階建ての、窓の多いビルだった。
三人の刑事が『三友商事』の守衛室に立ち寄ったのは、間もなく、午後五時になろうとする頃である。
十二月の街路はすでに暗くなっており、日曜日のオフィス街はほとんど人影もなく、ひっそりしている。
山岡は守衛室で、差し障《さわ》りのない程度に事情を話して、社員名簿の提示を求めた。
「社員名簿を外部に見せる場合は、総務部の許可が必要です。すみませんが、明日、出直していただけませんか」
守衛はそう口にしたものの、目の前に立ちふさがる三人の刑事に気圧《けお》されたか、一瞬の逡巡《しゆんじゆん》の後で、横の小引出き出しに手をかけた。
守衛が机に載せた名簿は、横|綴《と》じで、薄っぺらなものだった。
「モトジマ」はいた。
本島高義《もとじまたかよし》、三十七歳。『三友商事』では営業部に属し、係長のポストについていた。住所は、市内南区|浦舟《うらふね》町のマンション、『ハイツ芝台《しばだい》』二十一号となっている。
「市立大病院の傍《そば》ですね。ここから、車で十五分ほどです」
地元の刑事が、山岡と原に説明した。
「本島さんがどこの出身か、ご存じありませんか」
山岡が守衛に尋ねた。
「ええと、確か」
守衛は考える目をして、東京の私大の名を口にしかけたが、自信はなさそうだった。
「大学ではなく、出身地です。京都方面、関西ではありませんか」
山岡が質問を絞ると、これははっきりしたこたえが返ってきた。
「本島さんは秋田の出身です」
「秋田?」
「横手です。雪のかまくらの話を何度か聞いたことがあります」
「本島さんは、横手の人間ですか」
刑事三人の顔色が変わっていた。
三人は『三友商事』の本社ビルを出ると、タクシーを拾って、浦舟町へ急行した。
横手は横手川に二分される盆地の町だが、人口三百七十万の大都市横浜は、運河によっていくつにも区切られている。
浦舟町にも中村川が流れている。
堀割りに沿って、市立大病院と並ぶ場所に、八階建てのマンションは立っていた。『ハイツ芝台』は三分の二が分譲であり、本島が入居しているのは、賃貸のほうだった。
本島は三十七歳になるのに、白井同様独身だった。
独《ひと》り暮らしの本島は、ドアチャイムを鳴らしても、応答がなかった。そこで、隣室を訪ねると、
「本島さんなら、三時頃出掛けましたよ。雀荘へ行くと言ってました」
隣室の男はこたえた。隣人は、本島が出入りするマージャンクラブを知っていた。
三人の刑事はマンションを出ると、隣人から教えられたとおりに、横浜橋通りの商店街を抜けた。
マージャンクラブは、商店街のアーケードが切れた先にあった。
本島は、オープンシャツにセーターというラフな服装だった。
なるほど、大和で聞き込んだように、明るい声で、調子よく笑う男だった。
(東北の人間には珍しいな)
同じ横手の人間である山岡と原は思った。
「ちょっと抜けるわけにはいかないんだが、ま、仕様がないでしょう」
本島はそう言うと雀荘の主人に代わってもらい、近くの喫茶店へ出てきた。
「あなたはホクエツの白井さんと親しくされていたそうですな」
白井が毒殺されたニュースは承知しているだろうに、なぜ、警察へ電話一本かけてこなかったのか。
コーヒーがテーブルに載ったとき、山岡部長刑事が当然の疑問を口にすると、
「だれかが事件に巻き込まれた場合、その知人は、いちいち警察へ連絡しなければいけないのですか」
本島は眼鏡《めがね》のフレームに指をやり、笑顔で言った。
「そりゃ、通報の義務はありません。でも、あなたは、白井さんの大津の実家へ泊まるほど、仲がよかったわけでしょう」
山岡は、横手出身≠ヘ後に回し、白井と本島の交遊関係から、質問を始めた。
「関係ですか。会社には、おおっぴらにしたくないのですが、刑事さんに隠すのは、かえってよくないでしょうね」
本島はショートホープに火をつけた。大きく、たばこの煙を吐いてから本島はこたえた。
「はっきり言えば、ぼくと彼はギャンブル仲間です」
「ギャンブル?」
すると、大和の『和泉マンション』の隣人が、エレベーターの中で耳にした競馬の話もそのとおりだったのか。
(エリートサラリーマンの、もう一つの顔か)
山岡部長刑事はそんな目で、原刑事を見た。
この本島にしても、いまは脚《あし》を組んでたばこをくゆらしているが、明日、会社へ出れば、営業部の係長として、まったく別な顔に変身するのだろう。
この、もう一つの顔が、何を隠しているのか。
「白井さんとのおつきあいは、いつからですか」
「三年か、三年半ぐらいになるでしょうか」
双方の会社が近いので、昼食をとるレストランが共通している。何度か同じテーブルで昼食をするうちに、相互の趣味が分かって、それで、いつともなく親しくなったのだという。
「お互い、家へ帰っても、女房もいない独《ひと》り暮らしでしょ。ついつい、酒かギャンブルということになりますね」
本島は、それが持ち前の性格なのか、ぺらぺらとしゃべったが、ふと、何かに気付いたようにたばこを消した。
「しかし刑事さん、ギャンブルと言っても、マージャンとパチンコのほかは、たまに競艇か競馬をやるくらいなもので、生活を乱すようなことはしていません」
「昨年、白井さんの大津の自宅へ行かれたのは、どういう目的でしたか」
「目的と言いましても」
本島はちょっと口|籠《ご》もってから、あれが唯一のギャンブル旅行でした、と、言った。
「実は、彼と共同で買った大井《おおい》の馬券で、ちょっとまとまったキャッシュを手にしましてね。二人共有の収益なので、どこかへ旅行でもして、今度は競艇をやってみようということになったのです」
お互い年休をとって出掛けた先が、浜名湖《はまなこ》と、大阪の住之江《すみのえ》だった。大津へ二泊したのは、そのときだったという。
山岡部長刑事は、そこで質問の口調を改めた。
「ニュースでご承知のように、毒殺された白井保雄は、公金一億四千万円を拐帯《かいたい》した容疑者です。親しくおつきあいをしていた立場として、何か思い当たることはありませんか」
「業務上横領についてですか」
「たとえば、ギャンブルでの借金が重なって、返済に困っていた、というようなことはなかったですか」
「刑事さん、ことばのはずみで、ぼくと彼はギャンブル仲間だなんて申しましたが、いまも言い直したように、それほど大げさなことをしていたわけではありません」
「しかし、会社の年休をとって、大阪まで競艇しに行ったわけでしょう」
「ですから、それは、たった一度だけです」
「一億四千万円もの大金に手をつけた動機が、どうもよく分からんのですよ。白井が本当にギャンブル狂であったなら、ギャンブルの借金返済ということで、それなりに説明がついてくる」
「知りませんよ。ぼく、彼とプライベートなつきあいはまったくなかったので、それで、刑事さんに交遊関係の内容を質問されて、ギャンブル仲間、と申し上げたわけです。ほかに、こたえようもありません」
「大金横領の動機は、見当がつかないというのですな」
「知るわけないでしょう。彼が、会社の売上げ金を持ち逃げする人間だなんて、考えもしませんでした」
「白井が殺された場所については、どう思いますか」
「質問の意味がよく分かりませんが」
「土地鑑のない横手で殺害されたのはなぜか、ということです」
ベテラン部長刑事は、知らず知らずのうちに詰問調になっている。
「本島さん、あなた、われわれと同じ横手の人間ですってね」
「ぼくを疑っているのですか」
さすがに、本島の顔から笑みが消えた。
「彼がなぜ横手に隠れていたのか、ぼくは知りません」
「あなた、藤森アパートの、家主の電話番号をご存じですか」
「やめてくださいよ、刑事さん。ぼくはこんなふうにかかわりたくないから、彼が殺されたことについて、横を向いていたのです」
「せっかくだから、協力してください」
山岡は、口調を少し和《やわ》らげた。
「十一月二十五日の土曜日と、二十六日の日曜日、あなたはどこにいましたか」
「彼が、毒殺された日ですね」
打てば響くような、返事だった。事件の報道には、人一倍の関心を寄せていたことが窺《うかが》われる。
本島はまたショートホープをくわえたが、火はつけなかった。
「実は、ぼくはあの日、横手に帰郷していました」
「二十五、二十六の両日ですか!」
思わず勢い込んだのは、若手の原刑事だ。
「なぜ、それを先に言ってくれなかったのですか」
「そんなことを口に出せば、もっと強く疑われるでしょう」
「帰郷の目的は何ですか」
「それが」
本島は一瞬言い澱《よど》み、目の前の三人の刑事を、交互に見た。
「横手へ帰った目的は二つありましたが、一つは白井君に会うことでした」
「何だって?」
三人の刑事は、三人とも、腰を浮かせかけた。
喫茶店での尋問は、それから、一時間近くにわたってつづけられた。
4章 幻影の美女
翌十二月四日、月曜日。
浦上伸介は、出勤途中の谷田実憲と、菊名《きくな》駅前で待ち合わせた。
JR横浜線と、東急東横線が交差している菊名は、谷田夫婦が入居している住宅団地に近い。
朝早く、電話で起こされた浦上は、約束の九時より早目に、指定されたハンバーガー店に寄った。狭い道路沿いにある角店《かどみせ》だった。
間もなく谷田が、大柄な姿を見せた。
谷田が昨夜遅く、淡路警部からオフレコで入手した情報《ねた》は、ワイン輸入販売会社『三友商事』の営業部係長、本島高義を中心とするものだった。
谷田はトマトジュース、朝食前の浦上は、アメリカンコーヒーにハンバーガーを頼んだ。
セルフサービスで、奥のテーブルにつくと、谷田はさっきの電話を敷衍《ふえん》し、雑談的に切り出した。
「このごろは、こういう男が、結構いるんだよな」
「結婚の意志はあるのに、女性に縁のない三十代ですか」
「おいおい、変な顔するなよ。浦上サンのことを言ったわけじゃない」
「ぼくが将棋指すのは、結婚問題とは無関係です」
「承知しておりますよ。だが、この二人、白井保雄と本島高義の場合は、ギャンブルを、もう一つ満たされない日常の吐け口としていたんだな」
「そうした例は、少なくないと思いますね」
「しかし、本島も言っているが、ギャンブルにそれほど深入りしていたわけではないらしい」
「二人とも、それぞれの会社で、主任と係長。中堅社員として、ちゃんと仕事していたわけでしょ」
「オレは、それが彼らの本当の顔だと思うね」
だから、一億四千万円横領の動機が分からない、と、谷田は本題に入った。
焦点は、本島が横手に実家を持つことと、白井の死亡推定日に、奥羽本線で横手へ帰っていたことだ。
「白井に会うための帰郷、ってのは、どういう意味ですか」
浦上が、さっきの電話でちらっと聞いた内容を問い質《ただ》すと、
「仲介者は女だ」
正確には、女からかかってきた電話だ、と、谷田は取材帳を取り出し、走り書きを確認してこたえた。
「この女が、白井の大津の実家へ、二回電話してきたのと同一人である証明はない。だが、同じ女と考えるのが自然じゃないか」
「そうですね。あの時点では、白井の失踪は表立っていなかったわけですからね。でも、女性に縁が薄いはずの白井の周辺に、最後のときになって、女が登場するのはどういうことでしょう」
「ただ、この話は、飽くまでも、本島を信じた場合でね。昨夜、横手北署の部長刑事《でかちよう》さんは、マージャンクラブから呼び出した本島を執拗《しつよう》に追及したそうだが、本島の説明は、見方を変えれば、すんなり受け入れられない面もある」
女からの電話は、十一月二十四日、金曜日の昼前、本島の勤務先へかかってきたのだという。
女は、一切自分を名乗らなかった。手短かに用件だけを伝えてきた。
『白井さんが、どうしてもお願いしたいことがあると言っています』
という一方的な内容だった。
『どなたにも気付かれないよう、横手へ来ていただきたいのですって』
『横手って、秋田の横手ですか』
本島が念を押すと、
『横手は、本島さんの故郷《ふるさと》でしょう』
電話の女は言った。白井を通じて、委細承知という感じだった。
「本島が言うには、白井がなぜ自分の故郷で待っているのか、まったく釈然としなかったそうだ。しかし、その数日白井を見かけなかったし、大和の和泉マンションへ電話を入れても応答がないので、気にしていた矢先だったというんだな」
と、谷田はつづける。
本島が横手へ帰ることを承知したのは、電話の女の声が切羽詰まっている感じだったのと、たまたま本島自身、故郷《くに》へ帰る必要があったためだ。これが、昨夜、本島が山岡部長刑事にこたえた、もう一つの帰郷目的である。
大曲《おおまがり》へ嫁いでいる妹が出産したので、その祝いを届けなければならなかったのだ。
「本島は二日間の週休を利用して、一泊で秋田へ行ってきたそうだ」
十一月二十五日、土曜日の朝早く横浜を発《た》って、二十六日、日曜の夜遅く帰浜というスケジュールだ。
電話の女が指定してきた白井との面会場所は、『よこてプラザホテル』のレストランである。
『よこてプラザホテル』は横手駅前にあり、レストランは、駅前広場に面した一階だった。
待ち合わせ時間は、二十五日午後七時。
「だが、白井は現われなかった。本島は一人夕食を済ませ、九時まで水割りを飲んでいたが、連絡の電話一本、入らなかったそうだ」
「先輩は、本島の主張を、どのていど信じますか」
「大曲へ嫁いだ妹さんが十月に出産しているのは本当だし、微妙なところだね」
「淡路警部の意見はどうですか」
「感触として、一億四千万円と本島のかかわりは薄いと見ているようだ。が、それではなぜ、白井が、本島の故郷である横手の、古いアパートに潜んでいたのか。当然、警部は、その辺に引っ掛かりを残してはいる」
十一月二十五日午後七時、『よこてプラザホテル』。
指定してきた時間に、白井が現われなかったというのは、すでにそのとき、白井の生命が絶たれていたことを、意味しようか。と、すれば、死亡推定時刻は、二十五日の午前から同日の夕方まで、といった具合に、ぐっと短縮されてくる。
「しかし、先輩、白井はどうして、自分で本島に電話をかけてこなかったのでしょう? 大事な用件なら、直接、自分で電話すべきではありませんか」
「本島の説明は、ワンクッション置いて聞くとしても、白井の実兄の証言は信じていいのではないかな」
「二回、電話をかけてきた女ですね」
「陰で女が動いているのは間違いない」
「でも、同じ女だとすると、矛盾してきませんか。実兄には白井が帰っていないかと、いわば所在を尋ね、本島には白井との面会場所を指定しているのでしょ」
「女は、白井の兄に対しても、本島に対しても、一切自分を名乗っていない。その点は同じだな」
「話を戻せば、本島もおかしいですね。事件がこれだけ大きく報道されているのに、黙っていたのは解《げ》せない。常識人なら、最寄りの警察へ通報してくるべきです」
「同感だね。妙な疑いをかけられたくなかったという、本島の言い分は、そのとおりかもしれないが」
「ま、女からの伝言電話があったことは肯定するとしてもですよ、本島は、遠方へ出向いて行くほど白井と親しかったのですかね。本島の故郷とはいえ、横浜からはほど遠い、東北の秋田県ですよ」
「だからさ、本島の説明の上では、一日延ばしになっていた、妹さんの出産祝いが、前提にあったわけだろ」
「勘繰れば、出産祝いにかこつけた、裏の目的が、殺人《ころし》だったということも、あるでしょう」
「そのとおりだとすれば、殺された白井にとって土地鑑のない横手は、身元|湮滅《いんめつ》のために選ばれた、遠隔の殺人現場ということになるか」
「二十五日と二十六日、横手での、本島の足取りを洗う必要がありますね」
「ああ。横手の部長刑事《でかちよう》さんも、本島を徹底的にマークすると張り切っているそうだ」
谷田はトマトジュースを飲み干して、ピース・ライトに火をつけた。
「いまは何の裏付けもないが、電話の向こうにいる女は、なぜか美人の予感がするね」
谷田はゆっくりと、たばこの煙を吐いた。
「先輩、犯罪の陰にいる女は、大体が美人です。でも、美女が、白井の周辺にいたと思いますか」
「問題は、女と白井とのかかわり方だな」
白井は結婚願望が強かった。これは『ホクエツ』の上司や、『和泉マンション』の管理人などが、口をそろえて指摘していることだ。
「親しい女性ができたら、ついうれしくなって、周囲に口を滑らすのではないですか」
「それなんだよな。確かに、恋人なりガールフレンドができたのなら隠す必要はない。逆に、吹聴《ふいちよう》して然《しか》るべきだ。しかし、刑事《でか》さんたちの聞き込みに、女は浮かんでこない」
「聞き込みが片寄っているのかな」
「ルポライターの目で、やり直してみますか」
「どっちにしろ、簡単に浮かんでこないのが変ですよね。電話の美女が実在するなら、白井は交際の公表を口どめされていたわけですか」
「そんな、口どめをする恋人がいるかい」
「相手が人妻のような立場なら、そういうことにもなるでしょう」
「なるほどね。女には、白井との交際を表|沙汰《ざた》にできない、何らかの理由があるってことか」
しかし、白井が、横手に逃亡していたのは、動かしようもない事実だ。横手は、女が本島に電話で伝えてきた町だ。
女が、白井の行方をそれほど詳しく承知していたのなら、当然、一億四千万円絡みということになろう。
そして、また、どうしても線上に浮かんでこないのなら、電話は本島の一人芝居ということで、改めて、本島の容疑が、濃くなってくる。
「何度でも繰り返さざるを得ませんが、大津の実家へ白井の所在を問い合わせてきた女と、本島に、よこてプラザホテルを指示してきた女との関連は、どうなるのでしょうかね」
浦上も、たばこに火をつけた。
本島が真犯人《ほんぼし》なら、女の電話に呼び出されたなんて小細工は不要だろう。浦上はそう考えてみたのだ。
殺人を実行したのが本島であるなら、犯行日の帰郷は一切伏せるべきではないか。
「そうじゃないね。本島が真犯人《ほんぼし》なら、女の電話は、事後工作ということになるかもしれんぞ」
谷田は、たばこを消した。
横手は、本島が生まれ育った町である。顔見知りも多いことだろう。
大きい町ではなし、本島のほうでは避けていても、どこかで、知人と出会ってしまったのかもしれない。
それは、十分考えられる事態だ。
「その、再会した知人から帰郷が発覚する場合に備えての、事後工作ですか」
「このことは、一応念頭に置いておくべきだろうな」
谷田は、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
ともあれ、本島は、凶行日と推定される十一月二十五日と二十六日、殺人可能な場所にいたわけである。
ここで留意すべきは、事件発覚の端緒《たんしよ》となった電話だ。
十一月三十日の夜、『藤森アパート』の老家主に、「千葉」と名乗っていた白井の呼び出しを依頼してきた電話は、男の声だった。
本島が口にするところの電話の女≠ヘ、存在があいまいでも、電話の男≠ヘ間違いなく実在する。白井が、偽名で『藤森アパート』に潜伏していたことを、承知していた男。
「電話の男が本島なら、筋は通ってくる。だが、本島が真犯人《ほんぼし》なら、毒殺した人間を、数日経って呼び出そうとした意味が、分からない」
谷田は昨日の疑問を繰り返した。
「先輩、横手へ行くときが、きたようです」
浦上はたばこを消して、紙コップのコーヒーを飲み干した。
浦上はハンバーガー店を出て、谷田と別れると、東京・杉並の、細波編集長の自宅へ報告電話を入れた。
「浦上ちゃん、ご苦労さん。朝は弱いのに随分早くから動いていたんだね」
編集長は機嫌がよかった。キャッチした情報《ねた》が新鮮なら、編集長の声も甲高くなってくる。
「他の週刊誌もやってくるだろう。そこまでつかんだのなら、横手取材は、早いほうがいい」
「そのつもりです。これから上野へ直行します」
と、浦上はこたえた。
取材慣れのしている浦上は、いつでも、出張の用意ができている。
「浦上ちゃん、取材費のほうは大丈夫かい。上野へ行く前に、社へ寄っていくか」
「持ち合わせで、何とかなるでしょう。向こうに着いて、宿が決まったら、編集部へ電話を入れます」
浦上は受話器を戻すと、一眼レフのカメラなどが入ったショルダーバッグを手にして、菊名駅の改札口を通って上野へ向かった。
浦上が駆け込みで乗車した東北新幹線は、上野発十時二十分の、やまびこ105号≠セった。列車は、それほど込んでいなかった。
福島で奥羽本線に乗り換え、横手着は十五時三十四分となる。
快晴の冬空だった。
浦上を乗せた東北新幹線は、師走《しわす》の町を見下ろして走ったが、最初の停車駅大宮を発車し、蓮田《はすだ》辺りを通過すると、車窓は、急にローカルな景色に変わる。
疾《と》うに刈り入れを終えた枯れ田とか、何の人影も見えない畑地。そして、すっかり葉を落としている枯れ木の林などが、冬の到来を実感させる。
平地の彼方《かなた》に見える黒い山脈《やまなみ》も、はるかに遠いもののようだった。
およそ半月前、白井も、この畑や林を目にして、未知の東北へ向かったのか。
浦上はキャスターに火をつけ、じっと、寂しい風景を見詰めた。
半月前のあのとき、白井は、一人で北へ行く列車に乗ったのだろうか。それとも、同じ列車には、もう一人のXが同行していたか。
Xとは、一億四千万円の横領に深くかかわり、そして、恐らくは、白井を毒殺した張本人のことだ。
白井は、青酸ソーダ混入のスコッチが行く手に待っているとも気付かず、先が何も見えないままに、移り変わる窓外の風景を目にしていたのだろうか。
浦上は一本のたばこを灰にすると、改めて事件関係の切り抜きを取り出し、谷田経由で入手した淡路警部のオフレコと照合しながら、要点を整理した。
そうこうしている間に、東北新幹線は福島に着いた。浦上は予定どおり、十二時五分発の大曲行きL特急つばさ9号≠ノ乗り換えた。
これは昨日、白井保雄の実兄久志が乗ったのと同じ列車である。奥羽本線の長距離は本数が少ないので、利用列車も限定されてくる。
このL特急は、最後部の車両が簡単なドアで区切られており、ドアの後ろの三分の一だけがグリーン車になっていた。
福島の市街地はすぐに車窓から消えて、六両連結のL特急は山間部へと入って行く。
だれもいない畦道《あぜみち》に、葉を落として、赤い実だけを残した柿の木があった。
列車は、枯れ木の林を縫うようにして、北上する。
枯れ田の中に、「米沢米《よねざわまい》」の大きい野立て看板が立っていたりした。
その頃、山岡部長刑事と原刑事は、神奈川県警捜査一課の、昨日の刑事に同行してもらって、『ホクエツ』本社にいた。
白井の机、ロッカーなどは、『ホクエツ』側によって、すでに点検済みだが、捜査本部としての対応が必要だった。
捜索には、経理課長が立ち会った。
「机もロッカーも、チェック後、元どおりに戻しておきましたが、手帳とか住所録といった手がかりとなるものは、何一つ発見されませんでした」
と、経理課長は言った。
机の引き出しも、ロッカーの中も、きちんと片付いている。『和泉マンション』の自室と同じことだった。
白井は、きちょうめんな性格だったのだろう。
そして、それは、逃亡が覚悟のものであったことを、感じさせるのである。
三人の刑事は応接室を借りて、ロッカーと机の中味を、すべて、テーブルの上に並べた。
原刑事が、それらの一つ一つを列記したが、捜査を前進させる資料は見つからない。
最後に、文庫本が三冊残った。三冊とも相当に読み込んだ感じの古さで、邪馬台国《やまたいこく》関係の書名だった。
「へえ、白井は神話の世界に関心を持っていたのかい」
山岡は白い手袋のまま、ぺらぺらとページをめくった。
すると、それぞれの文庫本から、一枚ずつのレシートが出てきた。
どうやら、レシートは、栞《しおり》代わりに用いられていたようである。
「レストランのレシートですね。主任、三枚とも同じ店ですよ」
原が、横から手を出した。
店名は『ニューバレル』と記されており、所在地は町田《まちだ》市となっている。
「町田市は東京都下ですが、神奈川県の相模原市に隣接しています」
神奈川県警の刑事が説明した。関内駅から町田駅まで、JRで三十分ほどの距離であることも、神奈川県警の刑事は、言い添えた。
しかも町田は、白井がマンションを借りている大和からも、交通の便がよかった。大和には相鉄のほかに小田急も通っているのだが、
「小田急|江ノ島《えのしま》線で、十五分とかからないはずですよ」
ということだった。
そんなに近くても、東京都に属するだけに、町田という市は、神奈川の人間にとって一種の盲点かな。山岡がそう考えたとき、
「主任、この三枚は、多分に共通点がありますよ」
原がレシートを、テーブルに置いた。
順番に並べると、十月二十九日、十一月五日、十一月十二日となる。いずれも日曜日だった。
日曜日の夕方である。
しかも、それらは、逃亡寸前の日曜日に当たる。三枚目のレシートの次の日曜日は十一月十九日であり、白井は、十九日には、もう横浜にはいなかったはずなのだ。
嫌でも、何かが匂《にお》ってくるレシートだ。
三枚の共通点は、他にもあった。客数が「二名」であることと、飲食物は「ウイスキー」と「ステーキ」が主であることだった。
「ステーキ」に代わって、「ビーフシチュー」などの文字も見えるが、「ウイスキー」は必ず、ダブルで「十」以上が記されている。「二名」は、相当なアルコール好きと見ていい。
「安いレストランじゃないね」
山岡はステーキ三千六百円という数字を見て、つぶやいた。
白井は、十一月十八日、土曜日の退社時間である正午を最後に、『ホクエツ』社員の前から姿を消した。
その直前の三週間、日曜日ごとに「二名」はウイスキーを飲み、高級な食事をとっている。近いとはいえ、一歩横浜から出た東京都下の町は、人目を避けるのに格好な場所であったのかもしれない。
「二名」は日曜日のたびに、人に隠れて何を語らっていたのか。
(この相手が本島か)
山岡と原がそう感じたのは、当然でもあっただろう。
実際に「二名」の一人が本島だったとしたら、相談内容は、「横手への逃亡」であったか。
刑事は、人事課から白井の顔写真を借りて、『ホクエツ』本社を出た。
ここからは、二人で捜査を続行することにし、関内駅近くまで戻ったところで、
「いろいろ、ありがとうございました」
深く礼を言って、神奈川県警の刑事には引き取ってもらった。
「何かありましたら、いつでも、お電話ください」
神奈川県警の刑事は、そう声をかけて、引き返して行った。
山岡部長刑事と、原刑事が町田駅に降りたのは、午後二時過ぎである。
JR横浜線と小田急線が入っている町田は、にぎやかで活気のある町だった。
駅の周辺にはデパートなどの大きいビルが立ち並び、大都会のようなムードを形成している。
「どこへ行っても、横手とは違いますね」
原が人通りの多い商店街を見回すと、
「町田のレストランで本島が割れれば、でっかいみやげを持って、横手へ帰ることになるぞ」
山岡は勢い込んだ。
「主任、本島の顔写真も、手に入れてくるべきでしたかね」
「いや、あの男なら、口で説明しただけで通じるよ」
山岡はタイル張りの駅前広場を横切り、派出所に寄った。
『ニューバレル』は、すぐに分かった。
駅の傍《そば》に久美堂《ひさみどう》という大きい書店があり、『ニューバレル』はその裏側だった。
こぢんまりとしているが、北欧ふうなインテリアの、高級レストランである。カウベルを模《も》したドアチャイムが下がっていた。
ランチタイムと、ディナータイムの中間なので、レストランは空《す》いている。聞き込みには都合のいい時間帯だった。
レジにいるマスターは、四十前後だろうか。蝶《ちよう》ネクタイが似合う、長身だった。
山岡部長刑事と原刑事は警察手帳を示し、白井の顔写真を、レジのカウンターに載せた。
すると、レシートの内容を告げるまでもなく、
「はい、よくお見えいただいております」
反応があった。
「お名前までは存じませんが」
白井は『ニューバレル』の常連客だったのである。
「お肉がお好きでしてね。当店のステーキを、とても気に入ってくださっています」
いつもウイスキーの水割りを飲みながら、ステーキを食べていたという。レシートのとおりだ。
「彼が、こちらのお店へ来るようになったのは、いつ頃からですか」
「そうですね、確か、昨年の七月だったと思います」
「昨年の七月?」
それも、引っかかるではないか。白井が、最初に一千万円を流用したのが、昨年の七月だ。
「よほど、こちらのお店が、好みだったようですな」
「ありがとうございます。ですが、お見えになるのは、月に一度ぐらいでした」
「レシートを見ると、毎週日曜日に立ち寄っている感じですが」
「ご利用いただくのは、いつも日曜日の午後から夕方にかけてでした」
しかし、毎週現われたのは、文庫に挟まれていたレシートのように、十月下旬から十一月へかけてだという。
「最後に寄ったのは、十一月十二日ですね」
「いいえ、十九日の日曜日にも、お見えになっていますよ」
マスターは、半月前を思い起こすようにして、こたえた。
十九日のレシートは、文庫本にはなかったが、それも当然だ。白井は十八日、土曜日正午の退社時間を最後として、『ホクエツ』には出社していないのだから。
「主任、白井は、少なくとも十九日まではこっちにいたことになりますね」
「藤森アパートに入居したのは二十一日だから、二、三日、どこかで、何かをしていたか」
二人が、質問の途中で、検討の会話を挟むと、
「そう言えば、このところ毎週見えていたのに、先々週も、昨日の日曜日もお見えにならなかった。あのお客さん、どうかされたのですか」
マスターの表情が変わってきた。
業務上横領を伝える新聞報道には白井の顔写真も掲載されているが、マスターは見落としたのだろう。
山岡は、マスターの問いかけにはこたえず、次の質問に移った。
「彼はいつも二人で来たようですが、当然、同じ相手だったのでしょうね」
「ええ、そうですよ」
こたえはストレートに返ってきた。
「その相手ですがね」
と、つづける山岡の横顔が、ベテランらしくなく緊張しているのを、原は見た。
山岡はカウンターに置いた白井の顔写真を引き寄せながら、
「同行者は、眼鏡《めがね》をかけて、陽気に笑う男性ではありませんか」
本島の特徴を並べた。
「はあ?」
マスターの表情が、もう一度変わった。
「刑事さん、何をお調べか知りませんが、お連れ様は男性ではありません。三十前後でしたかね、女の方ですよ」
「女?」
若い原が、一歩前へ出た。びっくりした声になっている。
では、毎回これだけの水割りを白井が一人で飲んだのか、と、言いかけて、
「そりゃ、女の人だってウイスキーを飲みますよね」
原はマスターの顔を見た。マスターはうなずいてこたえた。
「ほっそりして、とても、おきれいな方です」
「この男が、そんな美人と交際していたのですか」
山岡は思わず、白井の顔写真をかざしていた。
「ご夫婦という感じではありませんが、親密なお二人でした」
と、マスターは言った。
マスターの観察が細かいのは、職業意識もあろうが、どうやら、その女性が、相当に色っぽい美人であったためらしい。
「ひょっとして、クラブのホステスさんのようなことをしている方かもしれません。と、したら、高級なクラブではないでしょうか」
マスターは口籠《ご》もりながらも、そんなふうにつづけた。
マスターが「高級」と言ったのは、女性の品の良さを意味していた。
(やはり、女はいたのか)
ベテランも、信じられない顔になっている。
(白井が美人と親しくしていたなんて、本当の話でしょうか)
原の目は複雑に揺れている。
しかし、第三者であるレストランのマスターが、うそを口にするわけもあるまい。
品が良くて色っぽい美人と、白井は、少なくとも昨年の七月頃からつきあっていたというのか。
その交際を、だれにも知られずにいたのはなぜか。
さっき山岡が考えたように、デート場所である町田が、距離は近くとも、県境を越えた町であることが、一種の隠れ蓑《みの》になっていたのかもしれない。
それにしても、『ニューバレル』でこれほど会っているのに、白井が美貌《びぼう》の女を完璧《かんぺき》に隠し切っていたのは、いかなる理由によるのか。
結婚願望が強かった白井だけに、やっと知り合った美女の、言いなりになった、と、いうのだろうか。
(うん、白井は女の意のままに、コントロールされていたのかもしれないね)
(主任、公金流用もこの女が設計図を引いたのでしょうか)
(犯罪の陰に女ありか)
さっと視線を交わした刑事の目と目が、そう語り合っている。
いずれにしても、電話の女は、幻影ではなかった、ということか。
だが、大津の白井の実家に問い合わせてきた電話と、本島に横手帰郷を指示してきた電話では目的が違う。
この色っぽい美女は、どっちの電話の主《ぬし》なのだろう?
山岡が、思いもかけない新発見に興奮しながら、
「これは極めて重要なことですが」
質問を絞ると、マスターは、すんなりうなずいて、こたえた。
「あの女性は、新潟の人ではないでしょうか」
「心当たりがあるのですか」
原の声が、また高くなった。
「少なくとも、新潟に関係のある方だと思いますよ」
マスターは、レジのカウンターに置かれたアイボリーの電話機に目を向け、
「最後にお見えになったとき、あの女の方は一○○番申し込みで、新潟市へお電話なさっていました」
と、言った。
入口のドアを出たところに赤電話はあるが、『ニューバレル』にカード電話は設置されていない。
女は、遠距離通話なので、レジの電話を借りて一○○番申し込みをしたらしい。電話機がマスターの前に置かれてあったのは、刑事にとって幸いだった。
その電話先を、マスターが記憶しているのは、女の美貌《びぼう》に関心を寄せたのが遠因だろうが、
「おかけになっていたのは新潟ですが、お店の名前が、そこの喫茶店と同じでしてね、それで覚えているのですよ」
マスターはつづけた。
レストランの斜め前にある喫茶店は、『シャルム』という名前だった。
女は一○○番で新潟を申し込み、先方が出ると、
『シャルム新潟ですね』
二、三度聞き直してから、マネージャーを呼び出していたという。
『シャルム新潟』とは、クラブかキャバレーだろうか。だが、新潟の店に電話をかけたからといって、女が新潟の人間とは限るまい。
「それがですね。私、決して、聞き耳を立てていたわけではございませんが」
マスターは蝶《ちよう》ネクタイに手をやった。
聞こうとしなくとも、目の前の電話だ、嫌でも会話が飛び込んでくる。
『シャルム新潟』のマネージャーを呼び出した女は、
『結婚前に、あたし、一度新潟へ帰るわ』
そんなことを口にしていたという。
「なるほど。それが、帰郷という感じだったのですね」
「はい」
「他には、何か思い出しませんか」
「刑事さん、いまも申し上げましたように、私、お客様の話を、盗み聞きしていたわけではございませんので」
マスターは、会話の一部を耳にとめただけでも、恐縮したような顔をした。
山岡部長刑事には、このマスターを責める資格も意思もなかった。
きっかけは三枚のレシートだったとはいえ、これは、レシートを大きく上回る、重要な聞き込みではないか。
ついに、幻影の美女が、ベールの向こうに姿を見せたのだ。
山岡部長刑事と原刑事は、『ニューバレル』を出た。
「女が実在するなら、本島の供述は事実ってことになる」
山岡は雑踏の中で、原を振り返った。
『シャルム新潟』へ電話をかけたのは、町田駅の、混雑する構内でだった。電話コーナーは、コインロッカーの並びだった。
原刑事が一○四番で電話番号を問い合わせ、先方のダイヤルをプッシュしたところで、テレホンカードを何枚か用意した山岡部長刑事が代わった。
先方がクラブなら、午後三時というこの時間では、従業員はだれもいないかと思ったが、呼び出し音が二回と鳴らないうちに、女性の声が出た。
「警察ですが」
山岡は言った。
「妙なことを伺いますが、そちらはクラブですか」
「いいえ、柾谷小路《まさやこうじ》近くの、会員制ビジネスホテルでございます」
はきはきした声が返ってきた。
ビジネスホテルとは、意外だった。山岡は質問を重ねる。
「マネージャーにつないでいただきたいのですが、マネージャーさんは、何というお名前ですか」
「千葉と申しますが」
「千葉さん?」
受話器を握り締める部長刑事の横顔を、緊張が走った。
何でもないときなら、偶然で済まされるだろう。しかしいま、これを偶然と言えるか。
毒殺された白井保雄が、『藤森アパート』を借りたときの偽名が、「千葉」ではないか。しかも、女が新潟へ電話をかけたのは、白井が生活圏から姿を消そうとする寸前である。
言ってみれば、逃亡前夜だ。
女は、『シャルム新潟』の千葉マネージャーと、白井を蒸発させるための、打ち合わせをしたのかもしれない。
隣り合ってこそいないが、新潟は、秋田と同じ日本海側の県である。日本海側という共通点に隠されたものはないのか。
山岡は、千葉というマネージャーが電話口に出てくるまで、一分を一時間の長さに感じる、重圧に見舞われた。
「お待たせしました」
渋い声が伝わってきた。
会員制ビジネスホテルのマネージャーは、しかし、電話で話す限り紳士的だった。『ニューバレル』のマスターにも増して、口の利《き》き方が丁寧だ。
山岡の質問に対しても、澱《よど》みのないこたえを返してくる。
『シャルム』の本社は大阪だが、大阪の天王寺《てんのうじ》の他に、日本海側の都市、秋田、新潟、金沢《かなざわ》、下関《しものせき》などに、五つのホテルをオープンしているという説明だった。
『シャルム新潟』のマネージャーである千葉は三十四歳。国彦《くにひこ》という名前だった。
だが、千葉の口調が滑らかなのは、そこまでだった。
「警察の方が、一体何のご用でしょうか」
と、反問してきたので、
「先月十九日の日曜日、東京都下の町田市から、一○○番申し込みで、女性の電話が入ったでしょう」
山岡が問題を絞ると、先方の声が低くなった。
山岡は、あえて、秋田県警を名乗らなかった。もちろん、横手北署の殺人事件捜査本部も口にするわけがない。
あるいはこの男が、事件発覚のきっかけとなった電話を、『藤森アパート』の家主にかけてきたのかもしれないのである。
そう、場合によったら、横手へ帰る前に、新潟へ回る必要が生じるかもしれない。ここで、先方に、余分な警戒を与えるわけにはいかない。
いま、この場で確認しなければならないのは、ようやくベールに浮かんできた、女の身元だ。
幻影の美女を、完全に、ベールのこちら側へ引きずり出さなければならない。
「彼女が、警察のお調べを受けるようなことをしたのですか」
千葉はさらに低い声で、十一月十九日の、女の電話を認めた。
「その女性に、直接関係したことではありません。ただ、少しばかり、お話を聞きたいのです」
部長刑事は、ことばを選んだ。
「あの女性は、近く結婚なさるそうですな」
「結婚? 私は聞いていません」
「結婚前に、一度新潟へ帰る、というようなことを伺いましたが」
「ああ、それは彼女のことではありません。私の再婚です。私の再婚話を知って、彼女が一度帰郷すると言ってきたのです。それが、あの日の電話でした」
その限りにおいて、電話の内容は、『ニューバレル』のマスターが小耳に挟んだのと一致している。
千葉は、事実をそのまま、こたえているのか。
「あなたの結婚のために、帰郷されるとは相当にお親しい間柄ですな」
「私と彼女は、五年前まで、新潟市内で、所帯を持っていました」
「別れた奥さんですか」
これは驚きだった。
「電話はよくかかってくるのですか」
「たまにですね。いまはまったく別々な生活をしていますが、私と彼女は高校時代のクラスメートだったのです。ですから、離婚した元夫婦といっても、他の人たちの場合とは、ちょっとケースが違うかもしれません」
二ヵ月か三ヵ月に一度ぐらいだが、電話で近況を話し合う関係が、別居後五年経ったいまも持続されているという。
どうやら、二人は、けんか別れではないらしい。
その、他の離婚者とは異なるケースというのが、(男女間の愛情とは無関係に)一億四千万円の横取りで結ばれた、ということはないのか。
「十九日の電話は、ただ、それだけの用件だったのですか」
「何ですか、しばらく旅行がつづくかもしれないので、それで電話をしてきた、というようなことを、彼女は言ってましたね」
千葉の説明は、その限りにおいては、不審を挟む余地はなさそうだ。
しかし、電話の声だけで、表情が見えないので、シロかクロか、ベテランの山岡にしても、もう一つ確証が得られなかった。
ま、この男の、灰色だけは、ぬぐえない。すべては、当の女性に会ってから、ということになろうか。
「彼女、いまは横浜に住んでいます」
千葉は低い声でこたえた。
やはりそうだったのか。山岡は納得という顔でボールペンを持ち、備え付けのメモ用紙に、女が入居しているという横浜市|旭《あさひ》区の賃貸マンションと、女の氏名を控えた。
高校時代のクラスメートなので、女も千葉と同じ三十四歳だった。
山岡は一応の礼を言って、長い電話を終えると、新しいテレホンカードを取り出した。
その場でかけ直した先は、横手北署の捜査本部と、神奈川県警捜査一課の淡路警部だった。
「ご苦労だが、急いだほうがいい。すぐ女を当たってくれ」
と、横手北署の署長は指示し、
「応援を出しましょう」
淡路警部はそう言ってくれた。
町田から、小田急で、白井のマンションがある大和へ抜け、大和で横浜行きの相鉄に乗り換えて、四つ目の駅が二俣川《ふたまたがわ》である。
「女のマンションは、県道沿いです。二俣川署の近くですね」
淡路警部は、山岡が読み上げる女の住所を聞いて、言った。
デート場所は人目を避けた町田だが、双方のマンションは、私鉄の駅にして、四つしか離れていなかったことになる。
淡路配下の刑事とは、二俣川駅の改札口で待ち合わせることにした。
山岡部長刑事と原刑事は、昨日、白井のマンションを聞き込むために、横浜―大和間を相鉄電車で往復しているわけだが、途中の二俣川という駅名には、記憶がなかった。
二人は小田急町田駅の改札を通り、ホームへの階段を上がった。
5章 横手と新潟
浦上伸介を乗せたつばさ9号≠ェ、湯沢、十文字《じゆうもんじ》と停車して、横手に到着したのは、山岡部長刑事と原刑事が、大和で相鉄に乗り換える頃だった。
山間を抜けて、広い枯れ田の中を走ってきたL特急は、盆地の駅で浦上を降ろすと、すぐに、次の停車駅であり終着駅である大曲へ向けて、走り去った。
ホームには、普通車を待つ、男女高校生の姿が多かった。
浦上は跨線橋《こせんきよう》を渡った。
改札口前のホームには、二両連結の気動車がとまっている。
浦上は小さい駅を出た。
秋田県には何回か取材に来ているけれど、横手で下車するのは初めてである。
まだ四時前だというのに、東北の空は、たそがれが近いことを感じさせるように重かった。歳末大売り出しの駅前も、人通りはそれほど多くない。
浦上はタクシー乗り場に行った。
「横手北署」
と、言いかけて、
「いえ、バスターミナルの裏手へ行ってくれませんか。松葉という不動産屋があるはずですが」
行き先を訂正すると、
「バスターミナルは、すぐそこです。タクシーに乗ることはありません」
と、タクシー運転手は言い、
「松葉さんなら、平鹿《ひらか》綜合病院の先を右に折れて行くのが、分かりいいですよ」
道順を教えてくれた。土地の運転手は親切だった。
浦上は言われたとおりに歩いて、『松葉不動産』へ向かった。
駅前広場を半周して行くと、『よこてプラザホテル』があった。本島高義が、白井保雄との面会場所として、電話の女≠ノ指定されたというホテルだ。
確かに、一階がレストランだった。大きい窓ガラス越しに、道路から内部《なか》が見える。
レストランは空《す》いている。
浦上は一べつして、人通りの少ない舗道《ほどう》を横切った。
『松葉不動産』は小さい店だった。
べたべたと物件広告が張り出されているガラス戸を開けると、古い応接セットがあり、その向こうに、机が一つだけ置かれてあった。
「いらっしゃい」
机から腰を上げた主人は、五十近いだろうか。小太りで、酒やけした顔だった。
浦上は『週刊広場』特派記者の名刺を手渡した。
「ま、どうぞ」
主人は目をぱちぱちさせながら、ソファを勧めた。
「どうも、寝覚めが悪い事件が起こったものです」
不動産屋の主人は、浦上の取材目的を知ると、吐息して、吸いかけのたばこを消した。
浦上にしてみれば、「千葉」と名乗った白井の、入居のいきさつから聞くのが順序だった。
入居契約を交わしたのが、いつか、それを確かめることで、逃亡の計画性が、どのていどのものであったかが分かる。
一億四千万円を横領する前に、潜伏先を確保する。それは間違いないところだろう。
問題は、その日日《ひにち》だ。
「アパートを借りたいとお申し越しがあったのは、十一月十九日、日曜日の夜でした」
「そうじゃないんですよ。アパートを借りるからには、当然、下見をしているわけでしょう。それが、いつであったか、ということですが」
「下見はしていません」
「彼は、ぶっつけで、アパートを借りたいと言ってきたのですか」
「店頭の物件広告を見たというのですよ」
主人は入口のガラス戸に目を向けた。
浦上も、いったん背後を振り返ってから、質問を重ねる。
「すると彼は、この張り紙広告を見て、お店に入ってきたわけですね。それからご主人が、アパートへ案内されたのですか」
「いいえ、私は案内していません。案内しようもありません。申し込みは、電話でしたから」
「電話? 一本の電話だけで、契約したのですか」
「刑事さんにも言いましたが、長いこと入居者がいなかった老朽アパートですので、借り手がついただけで御の字です。詳しい身元も確かめずに、オーケーしました」
「一ヵ月契約というのも、電話で言ってきたのですか」
「それは十一月二十一日に、直接お見えになったとき、口頭で約束しました」
それにしても、物件を確かめず、広告だけで申し込んでくる客がいるだろうか。
こんな例は初めてだ、と、不動産屋の主人もこたえた。
「店頭広告を見て、彼が一人で藤森アパートへ下見に行ったのでしょうか」
「そんなことはありません。そこをご覧になれば分かりますが、間取りと家賃と、駅から徒歩十五分ということは、書いてあるものの、広告にアパート名とか詳しい所在地は記入してありません」
客が勝手に物件を見に行くのは無理だ、と、不動産屋の主人は言った。
では、人の出入りが目立たず、死体が何日も発見されない、恰好《かつこう》な殺人《ころし》の部屋を白井が選んだのは、偶然なのか。
そんなことはあるまい。
偶然でないならば、動いているのは、影の犯人の意思ということになろう。白井はあの貸家式アパートを選ばされたのだ。
浦上は、自分の中の推理を、口に出した。
「彼自身は案内してもらっていないとしても、藤森アパートを見に行った男が、他にいるのではありませんか」
「十月中頃でしたか、アパートを借りたいと問い合わせてきた人がいます」
「やはり、そうでしたか」
浦上が身を乗り出すと、
「ええと、前郷《まえごう》のアパートなど、三、四ヵ所案内しました」
その中に『藤森アパート』があった、と、主人は思い出したように、つづけた。
「結局、話はまとまりませんでした。でも、その下見をしたのは、男性ではありませんよ」
「男でなければ、女ですか」
「湯沢の人だと言ってました。都会ふうなきれいな女性でした」
「それだな」
浦上はつぶやきをかみ殺していた。
浦上は電話の女≠フ実在を、山岡部長刑事たちとは別の形で、聞き込んだことになる。三十過ぎで、ほっそりした美人ということも、町田市のレストラン『ニューバレル』で白井と食事をしていた相手に共通している。
「この辺りでは珍らしい、ベレー帽をかぶっていましたね」
主人は、浦上の質問にこたえて、言った。「都会ふう」と感じたのは、ベレー帽のせいでもあるらしい。
女はサングラスをかけていたというが、それは顔を隠すためのものであっただろう。
「その人を見れば、いまでも分かりますか」
「あんな美人は、ちょっとやそこらでは、忘れませんや」
下見だけで終わったので、不動産屋は、女が口にした湯沢の住所も、氏名も、控えなかったという。
浦上は『藤森アパート』への道順を聞いて、小さい不動産屋を出た。
女が、すべてのお膳立てをして、白井を横手へ逃亡させた。
これは、もう間違いあるまい。
すると、十一月十九日の夜、白井が電話で入居を申し込んできたときも、その電話の傍《そば》には、女がいたことになろう。
そして、白井が『藤森アパート』に入居してからも、女と白井は、絶えず連絡を取り合っていたはずだ。
浦上は急ぎ足で、田圃《たんぼ》の中の道を歩いた。
『藤森アパート』の取材では、特に新しい発見はなかった。
横浜のワイン輸入会社に就職している本島のことを尋ねてみたが、老家主は、
「さあ、知りませんな。聞いたこともありません」
と、こたえるだけだった。
浦上は夕暮れが近づく中で、貸家式アパートの全景を慌てて撮影し、家主に頼んで、殺人《ころし》の部屋をカメラに収めた。
それから駅前まで引き返し、今度はタクシーで国道M号線を走って、横手北署へ向かった。
三階建ての警察署がある十字路周辺も、ずっと枯れ田が広がっている。
「お話しすることは、何もありません」
副署長の返事は事務的だった。現時点では、それが当然なのであろうが、
「目下、捜査は継続中です。解決したら、何でもお話しします。犯人が逮捕されてから出直してください」
副署長は、そう繰り返すのみだった。
『毎朝日報』の谷田というバックアップがある、神奈川県下を取材する場合とは違うのである。
(ひょんなところで、先輩の有難味を知ったか)
浦上は自分の中でつぶやきを漏らすと、一階の副署長席を離れて、三階へ行った。
スポークスマンである副署長に断わられたので、もちろん、捜査本部に入ることはできない。
浦上は、『藤森アパート男性毒殺事件捜査本部』と、入口に下がった大きい張り紙を撮影し、夕方で人の出入りが多い警察署を後にした。
戸外は、野づらを吹く風が冷たくなっている。
帰りはバスで、横手駅へ戻った。
横手に泊まるなら、『よこてプラザホテル』がいいだろう。実際には、本島と白井は出会っていないのだから、取材対象ではないけれど、匂《にお》いを嗅《か》いでおくのも、無駄ではあるまい。
浦上はぶらりと、小さいホテルに入った。しかし、宿泊の予約よりも、横浜への一報が先だった。
フロント横にカード電話を見つけて、浦上は神奈川県警本部の、記者クラブへかけた。
「おお、連絡を待っていたんだ」
キャップの谷田実憲が、のっけから電話口に出てきた。
浦上が『松葉不動産』での取材結果を報告すると、
「どうやら同じ女だな」
谷田は呻《うめ》くようにつぶやいてから、言った。
「こっちにも、女が浮かんできたのだよ。しかも、この女の背後には男がいる。千葉って男だ」
「千葉?」
「そう、白井の偽名と同じ名字だ」
谷田はぴったり淡路警部をマークし、これまたオフレコながら、捜査の進展を正確にキャッチしていた。
谷田は詳細を説明し、
「淡路警部から取材差し止めを食らっているので、我社《うち》はまだ動くわけにはいかない。だが、刑事《でか》さんたちは、いま、女に会いに行っている」
と、つづけた。
「さすがは、ベテラン部長刑事《でかちよう》ですね。失礼ながら、田舎の刑事が、こんなに早く女を割り出すとは驚きです」
浦上が感じたままこたえると、
「何、多分に、付きにも恵まれていたようだがね」
谷田はそんな言い方をし、
「男はビジネスホテルのマネージャーだ。女は何者か知らんが、二人が元夫婦ってのが気に入《い》らない。おい、次なる取材先は決まったな」
会員制ビジネスホテル『シャルム新潟』の所在地と電話番号を伝えてきた。
次の取材先が新潟となれば、横手に泊まる意味はなかった。
新潟へ行くには羽越本線を利用するわけだから、今夜のうちに、秋田市へ出ておいたほうがいい。
しかし、次の秋田行きは、十七時三十八分発の普通列車まで待たなければならなかった。
ともかく、列車の本数が少ないのである。列車を待つうちに、十二月の盆地は、とっぷり暮れてきた。
そして、宵闇《よいやみ》の彼方《かなた》から、ゆっくり、列車の明かりが近付いてきた。
普通列車で、横手―秋田間は、およそ一時間三十分。
院内《いんない》始発の普通列車は空《す》いていた。
見知らぬ人たちと乗り合わせ、夜の底へ向かって突き進むローカル線は、嫌でも旅情をかき立ててくる。
浦上は、しばし、事件のことは忘れた。
列車は何も見えない夜の中を走りつづけ、やがて前方に、町の灯が広がってきた。県都、人口三十万の秋田である。
秋田駅のホームを上がって、跨線橋《こせんきよう》を歩いて行くと、そのまま、ステーションデパートの二階に通じていた。
浦上はできるだけ秋田駅に近いホテルを探し、予約を済ますと、東京の『週刊広場』編集部へ報告電話を入れ、夕食は、ホテルへチェックインする前に、外でとることにした。
駅前の信号を横断し、イトーヨーカ堂に近い中央通りの、郷土料理の店を浦上は選んだ。
黒光りのする板の間に円座《えんざ》が置いてある、大きい酒場だった。
浦上はほとんど満席のテーブルを縫って、奥の、テレビの近くに陣取った。
さすがに疲れていた。早起きして谷田に会い、そのまま上野へ直行。列車に揺られて、東北へやってきたのである。
浦上は、きりたんぽ鍋を注文し、地酒を頼んだ。地酒は、秋田|生※[#「酉」+「元」]《きもと》というのが出た。
こくのある酒だった。浦上はぼんやりテレビを見ながら、手酌を重ねた。
鍋を追加し、酔いが回ってくる頃、テレビはニュースの時間になった。
ニュースは、やがてローカル放送に移った。交通事故の報道に引っ掛けて、日本国内で成人一人当たりの飲酒量がもっとも多いのは秋田であり、秋田は酔っ払い運転も多い、というようなことを伝えていた。
翌十二月五日、火曜日。
浦上伸介の寝覚めは、快調だった。地酒に酔ってぐっすり眠ったことで、昨日の疲労はきれいに消えている。
浦上は、レストランラウンジで、コーヒーを一杯だけ飲んで、ホテルをチェックアウトした。
秋田駅の構内で、朝刊と一緒に、わっぱ舞茸《まいたけ》弁当と、二本の缶ビールを買った。
乗車したのは、秋田発八時二十二分の特急白鳥《はくちよう》≠ナある。早朝の青森を出発して、夕方大阪へ着く九両連結の白鳥≠ヘ、ほぼ満席だった。
浦上の目的地、新潟到着は十二時八分となる。
最初の停車駅、羽後本荘《うごほんじよう》を発車したところで、浦上は缶ビールを開け、舞茸弁当を食べた。秋田の米がうまい。
奥羽本線と同様、田圃《たんぼ》の多い沿線だった。広い枯れ田の向こうに、海が見えてきた。
西目《にしめ》を過ぎると、車窓右手にずっと日本海がつづき、海は鉄路に接近してくる。
海岸沿いは国道7号線となっているが、往来する自動車の数は少なかった。
飽くまでも、静かな風景だった。空が穏やかに晴れているせいか、冬の海も荒れてはいない。しかし、荒波は見えないが、どこかに暗さを感じさせる沖合だった。
浦上は朝食を終えて、朝刊を広げたが、めぼしい記事はなかった。
浦上は日本海に目を向けて、キャスターをくゆらし、それから取材帳を取り出した。
乱暴な筆致ながら、しっかりと書きとめてあるのが、会員制ビジネスホテル『シャルム新潟』であり、三十四歳のマネージャー、千葉国彦の名前だった。
『元夫婦ってのが気に入《い》らない』
谷田実憲の、昨夕の電話の声が、よみがえってくる。
浦上も同感だ。
アリバイがあいまいならば、この千葉という男が、一気に浮上してくるかもしれない。
谷田は昨夕の電話で、
『刑事《でか》さんたちは、いま、女に会いに行っている』
と、言ったが、横手北署の山岡部長刑事たちは、昨夜のうちに、女から何かを引き出しただろうか。
谷田は今朝、当然早目に記者クラブへ出て、他社に気付かれないよう、淡路警部にアタックしているはずだ。
白鳥≠フ新潟到着が十二時八分。昼休みに入った時間なので、浦上は新潟駅へ降りた時点で、横浜へ連絡電話を入れる心づもりだった。
しかし、刑事たちが女を当たった結果がどう出ようとも、
「別れた夫婦が陰で手を組んでの、一億四千万円乗っ取りのドラマか」
浦上は、隣席の乗客に気付かれないていどの小声でつぶやいていた。
女が、結婚願望の強い真面目《まじめ》サラリーマンを色気で誘い、大金を確保したところで、影の男が決着をつける。
自然に考えられる図式が、それだ。
昨年七月の一千万円に始まる、昨年十一月まで三回の一時流用は、確かに、その後の大金に的を絞ってのトレーニング的なものだっただろう。
浦上と谷田の趣味である将棋に例をとれば、それは、捌《さば》きに入る前の、序盤戦の駒組みということになろうか。
中盤戦は、すなわち一億四千万円の奪取であり、終盤戦の白井殺害で、黒い一局は収束を迎えたわけである。
女が、自由に白井を操った口実の一つは、裏金利か。
法定限度利息は一日当たり○・一五パーセントだが、女はそれをはるかに上回る、日歩四〜五パーセント辺りを、提示したかもしれない。
架空の浮き貸し相手は、いくらでも、でっち上げられるだろう。
当時、首都圏では、地上げが過熱していたときだ。身内が不動産屋をしている。十日間だけ融資してくれないか、と、女は白井に持ちかけたかもしれない。
ギャンブル好きな白井だけに、高金利も、確かに誘いの水となったであろうが、女の依頼なので、首を横に振れなかったのではないか。
白井は、異性との交際がなかった男だ。ある日目の前に現われた三十代の色っぽい美女によって、白井は物を見る目を奪われてしまったのに違いない。
「最初は、恐る恐る、会社の口座から一千万円を流用したが、約束どおり、七月十九日までに返金されたので、白井は女を信用し、次第に深間へはまっていったか」
浦上は自分に問いかけるようにつぶやく。
『今度は、どうしても、一億円以上のまとまった現金が必要なの。何とかならないかしら』
女は、あるいは町田の『ニューバレル』で、食事をしながら、粘ったことだろう。
そして、まとまった大金を、流用できるときがきた。
「そこで、殺意が表面化する」
分かってきたぞ、と、浦上は思った。
分かってきたのは、白井の潜伏場所として、横手の人目に立たないアパートが設定されたことであり、殺人後、何日かが過ぎてから、『藤森アパート』の家主へ、
『すみませんが、千葉さんを呼んでくれませんか』
と、男の電話が入ったことの意味だ。
白井が「千葉」の偽名で入居していたことを知っていた男。家主に呼び出しを頼んでおいて電話を切ってしまった男は、もちろん、白井の死を承知していたはずだ。
死者に呼び出しの電話をかけてきた真意は何か。
それは、毒殺された白井保雄のギャンブル仲間、本島高義を犯人と擬していた時点で、谷田とも話し合った疑問だが、
「簡単なことじゃないか」
浦上は二本目の缶ビールを開けた。
いつの間にか、羽越本線は海沿いを離れ、山形県に入っていた。
特急列車は、遊佐《ゆざ》、酒田《さかた》と停車していく。
浦上は、もはや沿線の風景をとらえてはいなかった。
十一月三十日、午後七時近く、『藤森アパート』の家主にかかってきた男の電話が、事件発覚の端緒になったのだ。
浦上は改めて、それを考え、
「あれは、死体が、一ヵ月契約の部屋に転がっていることの通知だったのだな」
と、思った。
では、なぜ、(殺害翌日ではなく)凶行後数日を経過してからの電話であったのか。
分かってきたぞ、と、浦上が確信を抱く眼目がそれだった。
真犯人《ほんぼし》がだれであるにしろ、毒殺事件発生を伝えてきたに違いないあの電話は、十二分な計算の上に立ってのものだ。浦上の新発見の一つが、死亡推定時刻≠セった。
殺人直後の司法解剖、なんてことになれば、ほとんど正確な死亡時刻が出てしまう。と、いって、いつまでも死体が発見されないのでは、死亡推定時刻に、大きな幅が生じる。
現段階でも、十一月二十五日午前〜二十六日午前、と、二十四時間の開きが現われているではないか。
ほとんど正確な死亡時刻が打ち出されるのを嫌ったのは、真犯人《ほんぼし》のアリバイ工作のためだろう。
そう、死亡時刻が完全に特定されてくると、せっかくの現場不在証明が、消えてしまうのに違いない。
そして、また、死亡推定時刻に大きな誤差があっても困るのは、ある人間を、被疑者に当て嵌《は》めるためであっただろう。死亡時刻が、あまり曖昧《あいまい》だと、犯人に設定した人間が、容疑圏から遠のいてしまう。
すると、二十四時間の幅を持つ死亡推定時刻は、微妙で、かつ大きな意味を持ってくることになる。
「嵌《は》められた人間が、横手出身の本島か」
女がすべてのお膳《ぜん》立てをしたのであれば、白井を通して、本島のことは十分に調べ上げてあるだろう、と、そっと声に出す浦上のつぶやきが、さっきよりも、ずっと引き締まったものになっている。仮説の構築に、手応えを感じてきた証拠だった。
特急は最上《もがみ》川の鉄橋を渡り、余目《あまるめ》、鶴岡《つるおか》と過ぎた。
浦上は、車中での発見を、取材帳に書きとめる。
本島は、女から電話で請《こ》われたとおりに、十一月二十五、二十六の両日、故郷の横手へ帰った。
その本島の足取りが確認されて、黒い計画は具体化したが、本島の帰郷がなければ、白井の毒殺死体は、自然に発見されるまで放置するつもりだったのだろうか。
その場合は、白井が身元不明者として埋葬されることを、祈るしかないわけだ。いや、身元不明≠ナ処理されることが、犯人サイドの、当初のもくろみであっただろう。
「千葉」と名乗って『藤森アパート』に入居した白井が、身分を明かすものを何一つ所持していなかったことからも、それは窺え《うかが》る。しかし、犯人にとって、白井の身元を隠しおおせることは大きな賭《か》けだった。
事実、捜査陣は、死者の歯形から、白井を割り出しているのである。
完全を期すためには、実行犯のアリバイを確立し、なおかつ、擬装犯人を用意しておくことだ。
「犯人《ほし》は、随分と周到な性格だな」
浦上はつぶやき、
「別れた夫婦の、どっちが立案者なんだ?」
缶ビールを飲み干した。新発田《しばた》だった。
そうして、ふっと顔を上げると、沿線は人家が目立つようになっていた。
新発田駅のホームには、自由席に乗る人たちの行列ができている。
新発田を発車すると、特急白鳥≠ヘ、二十一分で新潟に着いた。
浦上は小走りに列車を降り、構内のカード電話で、横浜へかけた。
「へえ。朝まるで駄目な男が、朝っぱらから、よく頭が回転しましたな」
谷田は軽い口調で、浦上の推理を評価した。
「藤森アパートの家主にかかってきた、男の電話には、それだけの背景があったという見方か。なるほどね」
「これだけの工作をしている以上、この事件《やま》は、犯人が特定されても、アリバイ崩しに手をやく予感がします」
浦上が思ったままに言うと、
「ほう、きみにぴったりの展開になってきたか」
谷田は笑い声を返してきた。
「間もなく浦上の出番だと、淡路警部に伝えておこう」
谷田は、そこで口調を変えた。
「しかし、残念ながら、刑事《でか》さんたちは、まだ女に会っていない」
「どういうことですか」
「女はね、喫茶店を経営していることが分かった」
「別れた夫はビジネスホテル、別れた女房は喫茶店ですか」
「それはいいんだが、喫茶店は、ここのところ、臨時休業中でね。店を開けなくなったのが、十一月二十五日からだというんだ」
「何ですって? 白井が殺されたのは、十一月二十五日の朝から、二十六日にかけてですよ」
「言われなくても分かっている」
谷田の声が高ぶった。
「彼女、マンションにも帰っていないらしい」
「一億四千万円とともに蒸発、なんてのは、ご免ですよ」
「横手の部長刑事《でかちよう》さんたちは、今日、出直しで、もう一度二俣川へ向かった」
「女が行方不明でないことを、祈りたいですね」
「新潟取材が、ますます重要になってきたぞ」
谷田は、新潟県警も捜査に協力していることを言い、改めて、女の名前と住所を読み上げた。
篠田美穂子《しのだみほこ》 三十四歳 横浜市旭区|本村《ほんむら》町二○七○『コーポ羽沢《うざわ》』三十二号室
浦上が、それを取材帳に走り書きすると、
「彼女が経営する喫茶店はルアンダ。相鉄二俣川駅前にある、小さい三階建て共同ビルの、二階だそうだ。一人で切り盛りしているというから店も小さいだろうが、夜はアルコールを提供するって話だ」
谷田は説明をつづけた。
「先輩、記者クラブで待機していてくださいよ。別れた亭主に会ったら、もう一度、電話を入れます」
浦上はそう言って受話器を置くと、次に『週刊広場』編集部へかけた。
細波編集長はまだ出社していなかったので、事件欄担当の青木|副編集長《デスク》に、これまでの経緯を簡単に報告して、新潟駅を出た。
浦上はタクシーに乗った。
駅から万代橋《ばんだいばし》に通じる東《ひがし》大通りは、高いビルが立ち並ぶ、文字どおりのオフィス街だ。
オフィス街は一種冷たい感じを与えるが、間もなく眺望が開けてくると、万代橋だった。六つのアーチを連ねる万代橋は、新潟市のシンボルと言っていいだろう。
橋は全長三百七メートル。長い橋の下を流れる信濃《しなの》川は、水量も多く、雄大だ。
右手|彼方《かなた》の河口が新潟西港で、佐渡へ渡るカーフェリーの波止場が、万代橋の上から見える。
人口四十万の都市を背景として、望見する日本海は、車窓で接した眺めとは、印象が違った。
タクシーは万代橋を渡り、柾谷小路を走って、市役所手前の十字路を左に折れた。
会員制ビジネスホテル『シャルム新潟』は、新潟三越の近くにあった。六階建ての細長いビルだった。
ロビーもそれほど広くはなかった。フロントには、若い女子従業員が、一人いるだけだ。
ホテルは、全体にひっそりしている。昼過ぎのせいだろう。客の少ない時間帯だった。
浦上は『週刊広場』特派記者の名刺を出して、マネージャーへの面会を求めた。
二分と待たせずに、黒いタキシードで長身の男性が現われた。
彫りの深いハンサムだった。声も渋いが、気のせいか落ち着きがなかった。
「美穂子のことでしょうか」
千葉国彦は、一礼して言った。
浦上がうなずくと、
「あちらへどうぞ」
千葉は、窓際のソファへ浦上を案内した。
向かい合って腰を下ろすと、千葉のほうから切り出してきた。
「昨日は町田市から、刑事さんの問い合わせの電話があり、今朝は新潟県警の刑事さんが、ここへやってきました」
美穂子が犯罪に巻き込まれているのか、と、千葉は質問してきた。
これが、おとぼけなら相当なものだが、どうも、うそをついている顔ではなかった。別れた亭主は、犯罪とは無関係なのか。
浦上の内面に混乱が生じた。
千葉はつづける。
「美穂子は先月十九日に電話を寄越したとき、しばらく旅行がつづくかもしれないと言ってましたが、気になるので、さっき刑事さんが帰った後で、こっちから横浜へ電話をかけてみました」
『コーポ羽沢』三十二号室も、喫茶店『ルアンダ』も一切応答なし。
「何があったのですか。週刊誌まで取材にくるなんて」
千葉は、実際に、心配そうなまなざしだった。どこか、おどおどしているのは、(千葉自身が犯行にかかわっているためではなく)一度は結婚した相手に対する、思い遣《や》りのせいだろうか。
そして、それが、偽りの表情でないらしいことは、すぐに分かった。
少なくとも白井殺害に関しての、千葉のアリバイは、疑義を抱かせる余地がなかった。
「さっき、刑事さんにも尋ねられましたが、私が、アリバイ調べみたいなことをされるのは、美穂子の、何に関係があるのですか」
千葉はそう前置きして、ちょうどその時期、海外旅行に出かけていた、と、こたえた。
正確には十一月二十四日の朝、大阪《おおさか》国際空港を出発。二十八日の夕方、同じ大阪空港へ帰ってきたというもので、行き先は香港《ホンコン》。同行者十六人の団体《パツク》旅行だった。
浦上は、さらに三十分ほど粘った質問をして、『シャルム新潟』を出た。
谷田実憲が、新潟にいる浦上伸介からの電話を受けたのは、午後一時過ぎである。谷田は記者クラブで、出前のかつ丼を食べていた。
さっきの勢いはどこへやら、
「千葉国彦のアリバイは、完璧です」
浦上の声は元気がなかった。
谷田は食べかけのかつ丼を、脇にどけた。
「香港旅行だと? どこへ行こうと構わないが、千葉は、何でその時期に日本を離れていたんだ?」
「裏に何かある。ぼくだって、そう直感しましたよ」
電話を伝わってくる声は、やはり低かった。
旅行日と犯行日の重複は、本当に偶然なのか。
いったんは香港へ行ったものの、翌朝日本へ引き返し、横手での犯行を完了して、再度香港へ渡る。
そして、団体旅行に合流して、二十八日の夕方、大阪空港へ帰ってくるという、アリバイ工作が成立するのではないか。
谷田が、一瞬の思い付きを言うと、
「千葉は出発から帰国まで、ずっと十六人の同行者と一緒でした」
浦上はこたえた。
「ツアーを主催した旅行社が、市役所の近くと聞いて、ぼくはシャルム新潟を出ると、直接訪ねました。同行したツアーコンダクターにも会いました」
「旅行中の五日間、千葉が十六人と同一行動をとっていたというのは、ツアコンが証人かね」
「念のためにもう一人、ツアーの参加者にも当たりました。添乗員に紹介してもらったのは、新潟市役所の職員です」
「ルポライター浦上伸介の目で見て、偽証の可能性なしか」
「九十九パーセント、偽証はないと思います。千葉は、旅行社が地元新聞に掲載した広告を見て、申し込んできたということです。旅行社にとっては、それまで面識のない、初めての客だったそうです。また、市役所の職員は来春停年という人で、夫婦での参加でした。どちらも、裏で、千葉とつながっている感じはありません」
「こと、殺人《ころし》に関しては、千葉は真っシロってわけか」
「新潟県警の刑事《でか》さんも、この点は確認済みだと思いますよ」
「離婚の理由を聞いたか」
「千葉は被疑者じゃありません。刑事《でか》さんにしても、突っ込んだ質問は無理だったでしょうが、美穂子は、女にしては珍しく事業欲が強かったとか」
「事業欲? それが離婚の遠因か」
「美穂子は高校生時代から、大都会志向が強かったそうですから、日本海側の新潟という町に、飽き足らなかったのではありませんか」
「どういう育ち方をした女なんだ?」
「ごく一般的な、会社員の一人娘です。家計は、それほど豊かではありません。両親はずっと社宅暮らしだったそうですから」
「それがまた、どうして?」
「詳しいことは聞けませんでしたが、気が強くて、行動力を持つ女性であることは間違いありません」
「自分の思いどおりに生きるタイプか」
「故郷を離れた表向きのきっかけは、両親との死別ですが、千葉から得た感触では、どうも、裏に別の理由があるようです」
美穂子の両親が、相次いで病死したのが五年前。
社宅住まいの両親だったので、遺産といったほどのものはないが、退職金やら何やらで、それなりにまとまった金額が、美穂子の手に入った。
「美穂子は、それを機に、独立したいと千葉に離婚を申し出てきたそうです」
「一ヵ所に安住する人間ではないわけか。いるんだよな、このごろは、こういう女が」
「無論、千葉は反対したそうですが」
美穂子は聞く耳を持たなかったという。
「裏に別の理由があるって感じるのは、千葉の説明がすっきりしないせいか」
「ぼくの思い過ごしならいいのですが、出奔《しゆつぽん》の理由が他にあったとしたら、それが、今回の一連の犯行の、遠因となっているのかもしれません」
浦上は口|籠《ご》もるような言い方をした。
美穂子は当初、東京・西日暮里《にしにつぽり》に嫁いだ、竹下正代《たけしたまさよ》という高校時代のクラスメートを頼って上京し、正代がパートとして出ている神田のスナックで働いたが、短期間のうちに、いくつかの店を転々として、横浜に『ルアンダ』を開いたのが二年前、と、浦上は電話の向こうで取材メモを読み上げた。
「しかし、こういう女ですから、小さい喫茶店経営で、満足するわけがありません。いずれは横浜の中心地へ進出するもくろみらしいですよ」
「殺された白井のイメージとは、釣り合わないね」
「白井に接近した目的は、現金《キヤツシユ》だけだったのではないですか」
「相当に、悪質な事業欲だな。美人だそうだが、そんなあくどい女か」
「かっとなると、周囲の一切を、黙殺する性格です。千葉は、突然離婚を切り出されたときに、それを知ったそうです」
「そんな女が、自分の勝手で別れた亭主に、時折電話をかけているのは、どういうことかね」
「東京や横浜へ出てからの五年間、心から打ち解ける相手を、得られなかったからではありませんか」
「男よりも商売か」
「美穂子は、心底から相手を信用することがないタイプだそうです。従って男女を問わず親しい友人はいない、と、千葉は断言しています」
「だから、心に間隙《かんげき》が生じると、別れた亭主と電話でおしゃべりか。寂しい女だね」
「でも、電話だけで、それ以上のものはなかった、と、千葉は言っています」
「美穂子が新潟へ帰郷したとき、めしぐらい食っているだろう」
「離婚以来、顔を合わせていないそうです。第一美穂子は、両親の他界で新潟に縁続きがいなくなったせいもあってか、五年間、一度も、新潟へは帰っていないようです」
「千葉は、再婚するという話だったね」
「実は、先月の香港行きは、一種の婚前旅行でした」
「何だ、再婚相手が一緒だったのか」
「間もなく女房になる女では、アリバイ証言を取っても始まらないでしょう。ぼくは無視しましたが、千葉は、年末に予定される再婚を、手紙で美穂子に知らせているんです」
手紙を投函《とうかん》したのが、先月の中旬過ぎだったというから、十一月十九日に、美穂子が町田の『ニューバレル』から『シャルム新潟』へ電話をかけてきたのは、千葉の通知≠手にした直後であっただろう。
美穂子が、別れた夫の再婚をどのように受けとめていたのかは分からないが、
「何も、白井とデートしているレストランから電話しなくても、よさそうなものなのにな」
谷田が、ことのついでで口走ると、浦上は、すでに、その点の整理もつけていた。
「ぼくが考えるにはですね」
浦上は言った。
「美穂子は町田のニューバレルで、いつもの日曜日のように白井と落ち合い、そのまま、横手まで、白井を送り届けたのではないでしょうか」
美穂子は、しばらく旅行がつづくかもしれないと、千葉に告げているのである。
犯罪絡みの旅先では、落ち着いて電話もできないだろう。で、出発前にかけた。
「違いますか」
浦上は畳み込んできた。
美穂子のような人間にも、前夫の再婚を聞かされて、微妙に揺れる何かがなかったとは言えまい。
千葉が新しい生活を持てば、これまでみたいな電話のおしゃべりも制限される。
「それで、横手へ向かう直前に、町田のレストランからの電話になったのではないでしょうか」
と、浦上はつづけた。
それは、千葉がシロであることを前提とする分析だった。
「そういうことになるかね」
受話器を戻すとき、谷田も、うなずき返していた。
だが、千葉国彦が犯行に無関係だったとすると、事件発覚の端緒となる電話を、『藤森アパート』の家主にかけてきた男はだれだろう?
毒殺された白井保雄のギャンブル仲間である陽気な男、ワイン輸入会社『三友商事』の営業部係長本島高義が、別な形で浮上してくるのか。
その頃、横手から出張してきて四日目になる山岡部長刑事と原刑事は、『二俣《ふたまた》製作所』という町工場を訪ねていた。
金曜日の夜行列車で横手を出発して、今日は火曜日だ。
不慣れな大都会での聞き込みが、目に見えないストレスを、二人の刑事に運んでいる。捜査は順調に進んできた。しかし、肝心の篠田美穂子の行方が分からない。
美穂子に接近できないことが、刑事の疲労を深めている。
美穂子は、どこへ行ったのか。
『コーポ羽沢』三十二号室は、今日も応答がなかった。
隣室を聞き込んでも、まったく要領を得なかった。美穂子は、住人たちのだれとも、つきあっていなかったのである。
横手北署の捜査本部へ、報告電話を入れると、
『夕方まで待っても、現われなかったら、管理人を同行して、マスターキーで室内《なか》へ入れ』
そういう指示が返ってきた。
『白井みたいに、部屋の中で、ひっそり毒殺されているってわけじゃないでしょうね』
原刑事は言った。
山岡部長刑事も、それを危惧してはいたが、口には出さなかった。
マンションの張り込みを中断して、二俣川駅前へ戻ったのは、『ルアンダ』などが入っている三階建て共同ビルの所有者が、ビルの裏手に住んでいる、と、『コーポ羽沢』の管理人から聞き出したためだった。
ビルの所有者は、ビルと同じ敷地内で、古くから町工場を経営していた。周辺が発展してきたので、空《あ》いている土地に小さい貸しビルを建てた、といういきさつのようだった。
『二俣製作所』という立派な社名だが、働いている工員は、工場主も含めてわずか三人。文字どおりの町工場だった。
『ルアンダ』は日曜日が定休だが、美穂子は以前から、臨時休業することがあったという。
「一人で切り回しているせいでしょうな。用事ができれば、店を閉めなければならない」
初老の工場主は、刑事の質問にこたえて言った。
小さい工場内には、資材などが、堆《うずたか》く積まれてあった。その雑然とした町工場の、片隅での立ち話である。
「でも刑事さん、店を休んでいるのはともかくとして、篠田さん、マンションにもいないのですか」
工場主は眉間《みけん》にしわを寄せた。工場主は、この間の事情に関しては、何も承知していなかった。
「五日ほど前でしたか、夜、ふらっと寄っていかれましたが、そう言えばその後見かけないですね」
工場主は言った。
聞き込みは、公金横領や、殺人事件とは距離を置いたものになった。
「そりゃ、一人で店をやっているのだから、しっかりした女性ですよ」
工場主はこたえる。
『ルアンダ』は、午後四時から五時までが休憩時間で、美穂子は、よくこの工場へ話し込みにきていたという。
激しい気性を秘めていても、上辺《うわべ》は親しみやすい女性だったらしい。
「あの人の夢は、男の私ら顔負けでしたよ。関内か伊勢佐木町《いせざきちよう》にスナックを持ちたい。それが口癖でしたからね」
と、工場主はつづけた。
その夢≠ヘ、浦上が『シャルム新潟』で、前夫の千葉国彦から聞き出している。行動力のある美穂子は、不言実行ならぬ、多言実行#hだったのかもしれない。
「あの人のことだから、着々と進出計画を進めている感じでしたよ」
「スポンサーでもついたわけですか」
「スポンサーって、美人に言い寄る、金持ちのことですかい」
「喫茶店の経営だけで、スナック開業資金を稼ぎ出せるとは思えませんが」
「資金繰りは知りませんが、あの人は、男とだらしなくつきあうタイプではありませんよ」
工場主は断定するように言った。
だらしのない交流はなくとも、人目を隠れての交際は有り得るか。山岡部長刑事は、そんな目で原刑事を振り返った。
原が質問を代わった。
「この人に記憶はありませんか」
原は、殺された白井の顔写真を示した。
「ルアンダのお客さんですか」
工場主はちらっと写真を見たが、顔を横に振った。
「美人のママさんだから、男性客は多いですよ。特に、夜、アルコールを出す時間になると、結構はやっていました。ですが、店のお客のことまでは知りませんな」
「篠田美穂子さんが、かつて結婚していたことは聞いていますか」
「知ってますよ。別れたご亭主は、新潟のホテルにお勤めでしょ」
その点に関してのこたえは、すらすらと返ってきた。
マンション内での美穂子は、住人たちとまったく没交渉だったが、『二俣製作所』では違う。
午後の休憩時間のほかにも立ち寄ることがあったし、他の二人の工員たちとも、よくおしゃべりをしていたようだ。工場主同様、従業員はいずれも年配者なので、気が許せたのかもしれない。
だが、それでもなお、町田のレストラン『ニューバレル』で、白井と飲食していたことは、これっぽっちも、気付かれてはいないのである。
それが、問題だ。
単なる男女関係ならば、それほど神経質に隠す必要はあるまい。
美穂子は、人妻のような拘束があるわけではない。だれとでも、フリーにつきあえる立場ではないか。
やはり、伏線は、大金横領だろう。一億四千万円が前提にあったからこそ、白井との交際は、だれにも知られてはいけなかったのだ。
「主任、そういうことでしょう」
原刑事が繰り返したのは、小さい町工場での聞き込みを終えて、県道に戻ったときである。
一車線の県道は、トラックなど、自動車の往来が激しい。
二人の刑事は厳しい表情で県道を歩き、『コーポ羽沢』へ引き返した。
6章 不在の証明
山岡部長刑事と原刑事は、『コーポ羽沢』の管理人室に張り込んだ。
タイムリミットを、午後五時と決めた。五時まで待っても篠田美穂子が帰ってこなければ、マスターキーで、三十二号室の扉を開けることにした。
しかし、それほど苛立《いらだ》つ必要はなかった。
「刑事さん、篠田さんですよ」
管理人が緊張した声を発したのは、壁の時計が、午後二時を指したときである。
どこへ出掛けていたのか、篠田美穂子は旅装ではなかった。
美穂子はグリーンと黒の、千鳥格子のスーツだった。ほっそりした体型に、ロングヘアが似合っている。
「なるほど。色っぽい美人だ」
ベテラン部長刑事は、丸いすから腰を上げた。
ようやくにして、待ち人が、姿を見せたのである。
「お尋ねしたいことがあります」
二人の刑事が背後から声をかけたのは、エレベーターの前だった。
「警察の方?」
美穂子は、原が提示する黒い手帳を見て、ポシェットを持ち換えた。
心なしか、美貌《びぼう》に疲労の翳《かげ》があった。
山岡が白井保雄の名前を出すと、美穂子の視線が揺れた。
(どうして、あたしのことが分かったのかしら)
そういう目の動きだった。
が、それは一瞬のことで、
「立ち話というわけにもいきませんわね。あたしの部屋へどうぞ」
美穂子はエレベーターのボタンを押した。
美穂子が住む三十二号室は、白井が大和に借りていた『和泉マンション』と同じ、1LKの間取りだった。
しかし、白井の部屋と違って、こちらは乱雑だった。床の上に、吸い殻で一杯の灰皿が置かれてあった。
このところの美穂子は、心身ともに、部屋を整頓《せいとん》する余裕がなかったのか。二人の刑事はそう思った。
質疑は、リビングルームの食卓で行なわれた。
美穂子はインスタントコーヒーをいれようとしたが、
「どうぞ、お構いなく」
山岡は、早速質問に移った。
美穂子は、刑事の前では、白井との交流を隠さなかった。
「白井さん、とんでもないことをしたのですね」
美穂子は、テレビと新聞の報道で、一億四千万円の拐帯を知った、という言い方をした。
「お二人の交際はいつからですか」
「ルアンダを開店して間もなくですから、二年近くになりますわ」
美穂子の前に白井が現われたのは、『ルアンダ』の客としてだった。
二俣川は、白井にとって、通勤の帰り道に当たる。横浜を始発駅とする相鉄下り急行の、最初の停車駅が、二俣川である。また、普通電車で帰ってきた場合は、乗り換え駅ともなるわけで、白井は、二俣川まで戻ってきて飲むことが多かったらしい。
「単なる客ではなく、相当に親しかったわけですな」
「親しくおつきあいするようになったのは、去年の春頃からです」
美穂子はすんなりとこたえ、なおかつ、こんなふうにつづけた。
「まだ、どなたにも打ち明けていませんが、白井さんとは、結婚してもいいと思っていました」
「ほう」
ベテラン部長刑事は、一応うなずいたものの、鵜呑《うの》みにはできないぞ、という横顔だった。
横浜の中心地でのスナック開業にしても、
「はい、何とか実現したいと考えていますの」
美穂子は、妙な隠し立てをしたりはしなかった。
なまじ弁解などすると、話の辻褄《つじつま》が合わなくなる。美穂子のことだ、咄嗟《とつさ》のうちに、それを計算したのかもしれない。
「失礼だが、伊勢佐木町辺りにお店を持つとなると、資金が、相当に必要ではないですか」
「もちろん、あたしの蓄えでは、足りるわけがありませんわ」
不足分は、白井の実家から融資を受けることになっていたという。
「大津の実家へ頼もうと言い出したのは、白井さんのほうからでした」
「しかし、白井が勤めていたホクエツの上司にしてもそうですが、大津のお兄さんも、白井に縁談があったなんて、一言も口にしていませんよ」
ベテラン部長刑事は、やんわりと切り込んだ。
美穂子は、たじろがなかった。
「はい。結婚の話は、実家からの融資がはっきりするまで、伏せておくことになっていました。それも、白井さんが言い出したことです」
「お話の主旨が、どうも、よく分かりませんな。なぜ、結婚を伏せなければならなかったのですか」
交際を隠すのは、美穂子にとってこそ、必要だったのではないか。
刑事のそうした疑惑をよそに、美穂子は、すらすらと説明をつづける。
「白井さんは、あたしに離婚歴があることを気にしていたのですわ」
「白井だって、いい年齢《とし》だったではないですか」
「白井さん自身が気にしたのではなく、田舎《いなか》の親戚が反対するのではないか、と、それを心配していたようです」
だから、融資の話は、飽くまでも白井自身の独立ということで進め、計画が軌道に乗ったところで、結婚を公表する段取りだったという。
「それも、白井が言い出したことですか」
山岡は美穂子の顔を見た。
一昨日、遺体引き取りのため、横手北署を訪れた白井の実兄久志は、捜査本部で細かい事情を聞かれているが、融資の件は、(縁談と同じことで)まったく話題に出ていない。
調べればすぐに分かる事実を、しかし、美穂子はこんな具合に言い繕《つくろ》った。
「あたしも、今度のことが新聞に報道されて気付いたのですが、実家に援助を頼むというのは白井さんの作り話で、資金捻出《ねんしゆつ》は、公金横領だったのですね」
でも、白井が、自分から進んで売上げ金に手をつけるとは思えない、と、美穂子はつづけた。
「白井さんは、よくない仲間に脅されて、お金を取られて殺されたのでしょうか」
「よくない仲間に、心当たりがありますか」
「あたしと結婚することになって、白井さんはきっぱりやめると言っていましたが、ああ見えて、ギャンブル好きでした」
美穂子は、暗に、本島高義を匂《にお》わせる言い方をした。
「なるほど」
回転の速い女だ、というように、山岡部長刑事は原刑事を振り返った。
確かに、それは筋が通った説明であるし、白井が息絶えてしまったいま、この場で、これ以上の追及は無理だった。
山岡は話題を変えた。
「白井は、言ってみれば、あなたの婚約者だ。婚約者が殺されたのに、あなたはなぜ、あなたのほうから警察へ名乗りを上げてこなかったのですか」
「心の整理が、つかなかったからですわ」
美穂子は初めて顔を伏せた。白い額に、後《おく》れ毛が垂れた。
「結婚の約束をしたと言っても、いまも申し上げましたように、当人同士だけのことです。大津の実家の方々とは、面識もありません」
焼香に行ったものかどうか、迷っている矢先だ、と美穂子は言い、そうしたあいまいな段階で、
「警察へ何を連絡したらよろしいのですか」
顔を伏せたままでつづけた。
「それにあたし、事件そのものについては、捜査のご参考になるようなことを、何も承知しておりません。白井さんが大金を横領したことも、秋田県の横手などという知らない土地で殺されたことも、何が何だか、さっぱり事情が分かりません」
「あなたと白井の交際のことで、もう少しお話を伺いたいのですが」
山岡が再度口調を改めると、
「すみません。今日はこのくらいにしてください」
美穂子はそっと顔を上げた。
「心の整理がついて、お焼香を済ますことができましたら、あたしのほうからご連絡します」
美穂子は、確かに疲れていた。美貌ににじみ出る疲労の翳《かげ》は、刑事の訪問を受けたことで、さらに倍加されたようでもあった。
二人の刑事は、席を立たざるを得なかった。
部屋を出るとき、
「念のためにお伺いしたい。先月の二十五日と二十六日、あなたは、どちらにおいででしたか」
山岡はさり気なく言ったつもりだが、
「あたしが、疑われているのですか」
美穂子は、突然、口元を引き締めていた。
「キャップ、美人から電話ですよ」
若手記者が、受話器を谷田実憲の前に突き出したのは、午後三時を少し過ぎたときである。
「へえ、おまえさん、声だけで美人かどうか分かるのかい」
谷田が受話器を受け取ると、
「お安くないですね。ばっちり、毎朝日報の谷田キャップとご指名なのに、美人のほうでは名前を言わないのですから」
若手記者は笑みを浮かべた。
「もしもし」
受話器を耳に当てると、女性の澄んだ声が聞こえてきた。なるほど、艶《つや》のある声だが、聞き覚えはなかった。
しかし、聞き覚えがないと感じたのは一瞬で、谷田はすぐに、その女性を思い出していた。思い出させられた、と、述べたほうがいいだろう。
京都で出会った女性だった。
「あの節は失礼いたしました」
女は、詫《わ》びを言ってから、初めて自分を名乗った。
「篠田美穂子さん? あなたが篠田さんですか」
谷田は、思わず受話器を持ち直していた。
刑事たちがマークし、追いかけている女が、先方から連絡してきたのか。
『京都東急ホテル』が、浮かんだ。あれから、もう十日になる。
すらりとした後ろ姿を見せて、エスカレーターを上がって行った髪の長い女を、谷田は思い返した。
あの美女が、刑事たちが捜している篠田美穂子だったとは。
そしてまた、その彼女が、何ゆえ電話を寄越したのだろう?
『お困りのことがありましたら、お力になりますよ』
そう言って、嵐山で名刺を手渡しておいたことが、役に立ったというべきか。
「おことばにあまえて、お電話しましたの」
美穂子は、山岡部長刑事と原刑事が、マンションに訪ねてきたことを言った。
「で、どうしました?」
谷田の声が高くなった。刑事と美穂子の、面会の内容を知ろうとする焦りが、声に反映されている。
「刑事さんは、あたしを疑っているらしいんですの」
美穂子はそうつづけたが、谷田とは違って口調は一定している。
美穂子は、横手で毒殺された白井保雄との関係を、自分のほうから切り出し、
「突然で失礼ですが、いまお時間をいただくわけにはいきませんか」
懇願してきた。
もちろん、谷田に異存があるはずはない。特ダネが、向こうのほうから転がり込んできたのにも等しい。
目下のところ、美穂子は、文句なしの第一容疑者なのだ。
「分かりました。どこでお会いしましょうか」
「横浜駅まで、出てきました。いま、相鉄の改札口近くにいます」
「それでは」
横浜駅西口まで出向きましょうか、と、言いかけて、谷田は再度受話器を持ち換えていた。ふと、ある考えが胸にきた。
浦上伸介が昨日、横手の『松葉不動産』で聞き出した女、ベレー帽でサングラスの美人が、美穂子であるかどうか、一発で確認できるチャンスではないか。
すなわち、隠し撮りだ。隠し撮りした美穂子の写真を、『松葉不動産』の主人に提示すれば、シロクロがはっきりする。
谷田は瞬間的に、隠し撮りに最適な場所を考えていた。横浜駅西口の雑踏とか、地下街では困難だ。
「どうでしょう、桜木町までご足労願えませんか」
谷田が指定したのは、『毎朝日報』横浜支局前の舗道《ほどう》だった。
「どこか静かな喫茶店でお話を伺いますが、とりあえず、ぼくは支局の前で、お待ちしましょう。支局なら、桜木町駅から近いし、迷うこともないと思います」
「よろしく、お願いします」
美穂子は、自分のほうから電話を切った。
谷田は立ち上がると、美穂子の電話を取り次いだ若手記者に命じた。
「おい、カメラ持参で、桜木町までつきあってくれ。望遠レンズを忘れないようにな」
それから『毎朝日報』横手通信部へ電話を入れて、丁寧《ていねい》に頼んだ。
「間もなく、ある女の写真をファックスで送ります。この女が、十月中頃、藤森アパートを下見した人間かどうか、松葉不動産に当たってもらいたいのですが」
「承知しました。こっちは特別な動きも見えませんが、横浜へ出張している山岡|部長刑事《でかちよう》たちは、着実に前進しているようですな」
東北|訛《なまり》のある声が返ってきた。横手通信部の記者は、年配な感じだった。
谷田は、若手記者を伴って、記者クラブを出た。
県警本部から桜木町駅前まで、徒歩にして十五分足らずの距離だが、美穂子を待たせるわけにはいかないので、タクシーを拾った。
支局の前は、桜木町駅へつづく歩道橋となっている。
「キャップ、あの歩道橋から狙えば、ばっちりですよ」
「写真は、手筈《てはず》どおり、すぐに焼き付けて、横手へ送信してくれ」
谷田は、歩道橋の手前でタクシーを降り、若手記者と別れた。
グリーンと黒の千鳥格子のスーツを着た美穂子が、長い髪をなびかせて歩道橋を渡ってきたのは、それから五分と経たないうちだった。
「やあ、お久し振りです」
谷田は美穂子を迎えると、しばし舗道で立ち話をした。
そして、若手記者による、隠し撮りの完了を認めると、近くの喫茶店へ美穂子を誘った。
広い店内は空《す》いていた。二人は奥のボックスを選び、コーヒーを注文した。
「刑事さんは、マンションに張り込んでいただけではなく、ルアンダの大家さんである二俣製作所でも、あたしのことを、いろいろ聞き出していったそうです」
「あなたは白井と親しかった。刑事がマークするのは当然でしょうね」
「でも、これほど執拗《しつよう》な目に遇《あ》うのは、あたしが、疑われているからでしょう。アリバイ調べみたいな、質問までされましたわ」
「関係者だから、多少の不愉快はやむを得ないとしても、潔白なら、恐れることはないではありませんか」
「端《はな》から色|眼鏡《めがね》で見ているような警察の人には、打ち解けて話す気にはなりませんわ」
美穂子は繰り返した。
それが、谷田に連絡してきた理由付けとなっている。
それにしても、美穂子は、山岡部長刑事と原刑事が引き上げると、その後を追うようにして『コーポ羽沢』を飛び出してきたわけである。
刑事の張り込みが、美穂子に相当なショックを与えたのに違いない。
「結果的に、白井さんとの交際を周囲に伏せてしまったことが、誤解を招くのでしょうか」
美穂子は、コーヒーがテーブルに載ったところで脚を組み、ジャストに火をつけた。
たばこをくゆらすせいか、十日前の京都とは印象が違った。いや、たばこのためだけではなかった。
美穂子は、もっとも白井(犯行)に近い場所にいたのである。この事実は動かない。
美穂子に対する谷田の態度が、フィルター越しになるのは当然だろう。
刑事の来訪で受けた衝撃も、(理由もなく疑われたせいではなく)的確に、自分に焦点が絞られてきたことを畏怖《いふ》したためではないのか。
美穂子は、谷田のそうした疑念をどこまで察しているのか、
「京都で、谷田さんご夫妻とお会いしたのは、不思議なご縁でしたが、新聞記者の方と、お知り合いになれたのは、こうなってみると、ついていましたわ」
吸いかけのたばこを消して、本題に入った。
「もちろん、谷田さんはお気付きでしたが、二日間、あたしは京都で人捜しをしていました」
「白井の行方を追っていたのですか」
「十一月十九日の日曜日、町田のニューバレルで食事を一緒にしたのが最後でした。あの日を境にして、白井さんは、あたしの前から姿を消してしまったのです」
「白井は、先月の二十一日から、横手の例のアパートに潜伏していたのですよ。なぜ、秋田ではなく、京都を捜していたのですか」
「電話があったからですわ」
「白井から連絡がきたのですか」
谷田はうなずいた。
美穂子の訴えが事実であるにしろ、何かの準備、あるいは事後工作であるにしろ、ここは、黙って聞くのが正解だと考えた。
虚偽か真実かの判断は、他のデータと突き合わせて分析すればいい。
「電話があったのは、二十四日でした。夜の九時頃だったかしら、お店のほうへかかってきましたの」
切羽詰まった声で、突然、
『ぼくは殺される! もうどうにもならない。殺されるくらいなら、自分で死んだほうが増しだ!』
白井は、狂人のように口走っていたという。
「今になってみれば、会社の大金を横領したことが背景にあったわけですが、電話をもらったときは、さっぱり事情が飲み込めませんでした」
「白井は何も説明せずに、殺されるとか、死ぬとか叫んだというのですか」
「こう言っては何ですが、白井さんは気が弱くて、被害妄想的なところがありました」
「他人の、ちょっとした言動に気を使うタイプですか」
「そう、そのとおりですわ。ですからそのときは、会社で小さいトラブルでも起こして、それで身を隠していたのかな、と思いました。裏で、一億四千万円もの大金が動いていたなんて、想像もしませんでしたわ」
「前にも、似たようなことがありましたか」
「蒸発まではしませんが、くよくよと悩んでいたことは知っています」
「白井が、気が小さいことは聞いていましたがね」
谷田はコーヒーに口をつけた。浦上の新潟からの電話に対しても言ったことだが、不釣り合いではないかと思った。美穂子のような女が、白井みたいな男と愛し合うはずがない。
谷田は胸の奥でそうつぶやき、その一事から推しても、公金横領を陰でコントロールしていたのは美穂子で動くまい、と考えた。
だが、いまは、美穂子の説明が多少|辻褄《つじつま》合わなくとも、耳を傾けるべきだった。
「白井は、そのときの電話で、京都にいることをあなたに告げたというのですか」
「白井さんは京都の大学を卒業したせいもあって、古都を愛していました。特に紅葉の季節、秋が好きでした」
昨年、美穂子も、洛西の紅葉《もみじ》狩りを白井に強く勧められたという。しかし、どうしても店を休むことができず、同行はできなかった。
先月二十四日夜の電話で、白井は、
『去年と同じように、今年も京都の紅葉は、きれいだよ。ぼくはもう駄目だ。最後の紅葉《もみじ》狩りだ』
と、つづけたという。
「京都の、どこにいるとは言わなかったのですね」
「それはこたえてくれませんでした。でも、電話を伝わってくる雰囲気で、去年の秋と同じコースを辿《たど》っていると、察しはつきました」
そこで美穂子は、『京都東急ホテル』に宿泊し、高尾から嵐山へかけての洛西を、探し回ったのだという。
「あなたは、その電話一本だけで、本当に白井が殺されるとか、自殺すると思ったのですか」
「さすがに、殺されるとは考えませんでした。でも、動機は分かりませんが、自殺の可能性は、十分に感じられましたわ」
白井は、突然怒鳴るような大声を張り上げたかと思うと、一転、放心した口調に変わったりして、精神状態の不安定であることが、はっきり伝わってきたというのである。
その電話が、『ルアンダ』にかかったことを、証言できる人間はいるのか。谷田は、こちらの真意を気付かれないように、尋ねてみた。
「二十四日は金曜日でしたから、午後九時頃といえば、お店は込んでいたでしょうね」
「いいえ。それが、たまたま客足が途絶えたときの電話でしたの」
美穂子は、客がいなかったのを幸いに、すぐに『ルアンダ』を閉めて、明かりを消したという。
(証人なしか。ここまでは、美穂子の口先だけの説明だ)
谷田は自分の中でつぶやいた。
「電話の後でお店を閉めたのは、客の相手などできない心境だったからですか」
「当然でしょう。白井さんは、あの電話を最後に自殺するかもしれない。そういう状況ですよ」
「そりゃそうですね」
谷田は、表向きはもう一度うなずいたが、
(電話がかかってきたことを証言する人間がいないのでは、なおのこと説得力がないね)
自分に向かって、つぶやいていた。
しかし、そこまでの美穂子の説明が、いかに説得性を欠いていようとも、それから後の足取りは明解だった。すなわち、殺人時刻(十一月二十五日午前〜十一月二十六日午前)の、美穂子のアリバイは完璧だった。
「一方的に切られた受話器を握り締めていると、とても、翌朝まで待つ気にはなれませんでした」
美穂子は言った。
「待てないと言っても、電話を受けたのが夜の九時頃では、もう京都へ行く新幹線はないでしょう」
「新幹線でなくても、京都へ行くことはできますわ。ともかく、あたしじっとしていることができず、そのまま、お店を飛び出しましたの」
美穂子は二俣川駅まで行って、時刻表を借りた。
その時間で間に合う直通の在来線は、一本しかなかった。大阪行き寝台急行銀河《ぎんが》=B
「時間はそれほどなかったでしょう。うまい具合に寝台券が取れたのですか」
「あたしも、焦りましたわ」
二俣川は私鉄の小さい駅だから、もちろんJRの指定券を買えるわけがない。しかし、発車時間は切迫している。購入を急がなければならない。
横浜駅で寝台券入手の保証があれば、銀河≠ノは横浜から乗り込めばいいわけだが、二俣川から横浜へ行くまでの間に、切符が売り切れてしまうということもあろう。
そこで、ふと思い付いたのが、東京・西日暮里に住む旧友だ。新潟の高校時代のクラスメートで、千葉と離婚後の美穂子が、上京に際して最初に世話になった、竹下正代という女性だ。
正代には会社員の夫がいるけれど、週末だけ、神田《かんだ》駅ガード下のスナックにパートに出ている。美穂子も、五年前の上京直後に働いたことがあるそのスナックへ電話をかけて、拝み倒すと、
『仕様がないわね。銀河≠フ寝台券を買って、東京駅のホームへ届ければいいのね』
正代は、ともかく応じてくれた。
銀河≠フ東京駅発は、二十二時五十五分。二俣川駅から東京駅までは、横浜駅での乗り換え時間を含めて一時間ほどだから、切符さえ確保されていれば、東京駅乗車でも間に合うわけだ。
美穂子が、この足で東京駅へ向かうことを告げると、
『分かったわ。神田から一駅だから、寝台券が買えても買えなくても、東京駅まで行って上げるわよ』
正代は友情を発揮してくれた。
「結果的に、寝台券は手に入ったわけですか」
「はい。正代は、あたしの電話を受けると、その場で神田駅まで駆けて行って、買ってくれました」
そして、正代は電話での打ち合わせどおり、寝台急行銀河#ュ車ホーム(9番線)まで、その寝台券を届けてくれたという。
「運よく、寝台券が手に入ったからよかったものの、もし買えなかったら、どうするつもりでしたか」
谷田がその辺に探りを入れると、
「時刻表には、大垣《おおがき》行きという普通列車が載っています。ええ、東京発が午後十一時半頃で、大垣には、朝七時前に到着する列車です」
どうしても寝台券が求められなかったら、普通車のグリーンで、せめて大垣、いや、名古屋まで行くつもりだった、と、美穂子は言った。
名古屋まで行けば、京都は、新幹線で五十分の距離である。婚約者の身の上を案じるという脚本を、踏襲するとすれば、
『寝台券が入手できないからと言って、マンションへ帰っても眠れるわけがない。一歩でも、京都に近いところまで行きたい』
ということになろうか。
そうした主張を、感情的に受け入れられないとしても、留意すべきは、美穂子が東京駅9番線ホームで、旧友の見送りを受け、寝台急行銀河≠ナ京都へ向かった事実だ。
この寝台急行の京都着は、六時四十八分である。問題の十一月二十五日の朝、美穂子は、(横手駅ではなく)京都駅で列車を降り白井の行方を追った。
そして、具体的には、その日の午後二時前、烏丸口のタクシー乗り場で谷田夫婦と出会ったわけである。以後、少なくとも翌二十六日の午後まで、美穂子が京都にいたことは間違いない。谷田が嵐山で名刺を手渡したのは、二十六日の午後三時半頃だ。
美穂子は、犯行の立案、遠隔操作は可能でも、殺人《ころし》に関しては、毒殺の周辺に出没していなかったことになる。
(やっぱり、壁の向こうに、もう一人男が潜んでいるのか)
『藤森アパート』の家主に電話をかけてきた男はだれだろう?
(電話の男を洗い出さない限り、美穂子には辿《たど》り着けないって図式か)
谷田は、念のために、と、竹下正代の住所と電話番号を聞き出し、コーヒーを飲み干すと、ピース・ライトに火をつけた。
「あたし、京都で銀河≠降りてから、一応、白井さんの大津の実家へ電話を入れてみました」
と、美穂子は言った。
前夜『ルアンダ』で、白井の緊迫した電話を受けたときは気が動転して思い到らなかったが、ひょっとして、実家に何かの連絡が入っているかもしれないと思いまして、と、美穂子はつづけた。
「名前を言わなかった女性の電話は、やはりあなたでしたか」
「自分を名乗りようもありませんわ。表立った婚約者ではなかったのですから、先方では、あたしの名前など知らないでしょう」
「翌日、二十六日の夕方にも、あなたは大津の実家へ電話をかけていますね」
「まる二日間、紅葉の下を捜し歩いたのに、まったく手がかりがつかめなかったからですわ」
この二本の電話も、美穂子のほうから説明されてみると、筋道が通っていると言えよう。
どうしても白井の行方が分からないのなら、実家に尋ねてみるのは当然であり、問い合わせないほうが、むしろ不自然だ。
(どこをどう突っついても、ぼろを出さない女か)
谷田はたばこを消した。
一呼吸置いてから、尋ねた。
「実際には、白井は京都とは方角違いもいいところ、横手に潜伏していたわけですね。白井が目にしていたのは、京都ではなく、東北の紅葉ではありませんか」
「いえ、あたしに電話を寄越した二十四日の夜、白井さんが京都にいたのは間違いないと思います」
「根拠は何ですか」
「少なくとも翌日、二十五日の午後、白井さんは京都市内にいましたから」
「ほう、目撃者を見つけ出したのですか。目撃者の、身元は確かですか」
谷田は、半ば無意識のうちに、
(目撃者を仕立てて、京都からの電話≠ノリアリティーを持たせるつもりか)
という表情になっていた。
だが、美穂子が提示したのは、目撃者ではなかった。
「実は、あたしが京都から戻ってくると、これが届いていました」
美穂子はポシェットから、一枚の絵はがきを取り出し、
「どうぞ、ご覧になってください」
テーブル越しに、谷田に手渡した。
大原女《おはらめ》の絵はがきだった。絵はがきなので、文面は短い。
こんなことをつづけていて、いいのだろうか。先が見えなくなってきた。京都の紅葉も、今年は、やけに遠いものに感じられる。(京都にて、白井保雄)
京都からの電話≠ェうそではないと裏付けるような、絶望的な文章だ。
ここまで取材を進めてきた谷田の立場からみれば、「こんなことをつづけていて、いいのだろうか」とは、『ホクエツ』の売上げ金流用を指すのだろう。
そして、それが、美穂子あてであることを考えると、この文章は、公金横領の陰に美穂子が存在することの、立派な証明と言えるのではないか。
また、「先が見えなくなってきた」とは、現金を預金通帳に戻さなければならない十一月十九日を過ぎても、一億四千万円が回収できなかったことを意味しよう。
好きなように美穂子に操られた白井は、小心なだけに抵抗も敵《かな》わず死の淵に追い詰められ、「京都の紅葉も、今年は、やけに遠いものに感じられる」ということになったか。
谷田は、自分の推理を確認するために、もう一度、短い文章を読んだ。
美穂子は、しかし、谷田の推理など関係ないかのように、
「ここを見てください」
絵はがきの消し印を指差した。
二十円切手が二枚と一円切手が一枚貼られてあり、消し印には、「京都中央」「89・11・25」「12〜18」「KYOTO」などの文字が見える。
すなわち、この絵はがきは、今年の十一月二十五日、十二時から十八時の間に、京都中央郵便局管内で投函されたものであることを示している。
これが、美穂子が指摘するところの、白井が十一月二十五日に、京都にいたことの証明だった。
「そうですか。こんなものが届いたのですか」
谷田は絵はがきをテーブルに置いた。
絵はがきの左下には、記念スタンプが押してあった。三千院《さんぜんいん》近くの、『高天《たかま》』という茶屋のスタンプだ。
すると白井は、洛西ではなく、洛北《らくほく》の紅葉の下にいたのか。
「あたしは、高尾から嵯峨野、嵐山のコースばかり考えていました」
美穂子は言った。
「あのときはそうでしょうが、この絵はがきを受け取ってから、大原へ行きましたか」
谷田が尋ねると、もちろん、と、美穂子はこたえ、そのために『ルアンダ』を休み、マンションを留守にしたりしていたのだが、
「手がかりは、まったくありませんでしたわ」
顔を振った。
そうこうするうちに、十二月三日の朝刊で、白井が横手で毒殺されていたことと、一億四千万円の横領を知ったという美穂子の説明だった。
「テレビや新聞で報道されてから、今日でまだ二日目でしょう。刑事さんには、いろいろ言われましたが、簡単に、心の整理などつくわけがありませんわ」
美穂子は小声になった。
(この女は、すべて、百も承知のくせに、この顔で押し通すつもりなのか)
谷田は、自分の中でつぶやいてから、質問を重ねた。
「この絵はがきは、白井の筆跡に、間違いありませんか」
「間違いないと思いますが、あたし以外に確認が必要なら、ホクエツの同僚に見ていただいたらどうかしら」
「しばらく、預らせてくれますか」
「よろしく、お願いします」
美穂子は白い指先で、テーブルの上の絵はがきを、谷田のほうへ押し出してきた。
「あたし、刑事さんというと、取っ付きにくくて、思うように話ができないのです」
「だれでも、そうですよ」
「これからも、何かありましたら、相談に乗ってください。お願いします」
美穂子は一礼して席を立った。
二人は、喫茶店を出たところで、右と左に別れた。
「彼女、結局は、殺人日のアリバイを告げに来たのか」
谷田が思わず声に出してつぶやいたのは、馬車道の交差点を渡るときだった。
谷田はそのまま混雑する舗道を歩いて、『ホクエツ』本社に行った。
「間違いありません。これは確かに白井の筆跡です」
問題の絵はがきを一目見るなり断定したのは、白井の直接の上司に当たる経理課長であり、居合わせた同僚社員三人も、筆跡が、白井のものであることを認めた。
「白井は、いったん京都へ逃げたということですか。一億四千万円は、京都のどこかにあるのでしょうか」
経理課長の横顔が、神経質に震えた。
「この絵はがきは、ぼくのほうから捜査一課へ届けておきます。新しい事実が判明したら、警察から連絡があるでしょう」
谷田はそう言い残して、『ホクエツ』を後にした。
師走の町は夕暮れが早い。
谷田は、葉を落とした街路樹の下を大またで歩きながら、白井の京都行きの目的を考え、
「白井が二十五日の昼過ぎまで、京都で生存していたとなると、死亡推定時刻は狭められてくるか」
だれかに話しかけるようにつぶやいていた。話しかける対象は、浦上だったかもしれない。浦上はいま、上越新幹線で、上野へ帰ってくる途中だ。
それにしても、妙なことになってきた。白井は京都で絵はがきを投函し、それから真っすぐ横手へ戻ったというわけか。何のための、慌ただしい京都行きだったのか。
ともあれ、同じ二十五日、美穂子もまた京都入りしているのである。『ホクエツ』の経理課長が口にしかけたように、京都に、一億四千万円の接点があるのだろうか。
谷田は、日本《にほん》大通りのいちょう並木の下を急いで、県警本部へ帰った。
夕方の記者クラブは、各社とも忙し気な動きを見せている。
だが、大きい事件《やま》が生じている気配はなかった。
谷田は各社のコーナーにさり気なく目を向けながら、『毎朝日報』のコーナーに、入った。
サブキャップと、美穂子を隠し撮りした若手記者が、谷田を待ち兼ねていた。
「キャップ、横手から返事が届いています」
サブキャップが、通信部から電話が入ったことを、他社に気付かれないような小声で、伝えた。
横浜支局には、自動現像機と自動プリント機が配備されているので、未現像のフィルムが、数分間で写真に仕上がってしまう。
隠し撮りした美穂子の写真は、谷田が美穂子と喫茶店で話し合っている間に、ファックスで横手通信部へ送信された。
通信部の記者は、すぐに行動を起こしてくれた。
その結果、十月中旬に、『藤森アパート』を下見した湯沢の美女は、篠田美穂子であるという証言が返ってきた。
「キャップ、松葉不動産の主人も、アパートの持ち主である老夫婦も、確かに、この写真の女性に間違いないと、口をそろえて肯定しているそうです」
報告するサブキャップは、興奮を隠せなかった。『毎朝日報』のみの、スクープなのである。
「よし、慎重にいこう」
谷田は大きくうなずき、浦上がまだ帰宅していないのを承知で、東京・中目黒の『セントラルマンション』へ電話をかけた。
谷田は、留守番電話に向かって、低音で言った。
「おい、篠田美穂子が現われたぞ。彼女が、十月中旬、松葉不動産へ立ち寄ったベレー帽サングラスの美女である証言《うら》も取った。新潟から戻り次第、電話をくれ」
谷田は、それから問題の絵はがきを手にして、そっと記者クラブを抜けた。捜査一課に、淡路警部を訪ねるためだった。
7章 作為の逃亡
翌十二月六日、水曜日。
浦上伸介は、午前九時過ぎには横浜駅へ来ていた。
新潟から帰った矢先であり、連日の早起きだが、取材が順調に回転しているだけに、気合が入っている。
昨夜、留守番電話にこたえて、谷田実憲に連絡をとると、
『オレんところは、淡路警部との約束で、相変わらず表立った取材は制限されている。しかし週刊誌は別だ。増してきみは、ベレー帽サングラスの女を割り出してきた功労者だからな』
親しい先輩は、勝手なロジックで、浦上を焚《た》きつけた。
もちろん、谷田の慫慂《しようよう》がなくても、一番に二俣川を訪れる手筈の浦上であった。
『捜査本部の方針もあるだろうから、篠田美穂子本人に会うわけにはいくまいが、他誌に出し抜かれないために、外堀は埋めておく必要がある』
と、指示してきたのは、『週刊広場』の細波編集長だ。
浦上は、相鉄横浜駅構内のスタンドで、朝食代わりの天ぷらうどんを食べて、急行に乗った。
二俣川で下車したのが、午前十時前である。
自動車運転免許試験場や、県立がんセンターのある北口へ出て、歩道橋を渡ると、三階建ての小さい共同ビルは、目の先にあった。
一階の和菓子屋が、店を開けるところだった。
二階の『ルアンダ』へ行くには、和菓子屋横の、細くて急な階段を上がらなければならない。
浦上は、シャッターが下りている『ルアンダ』の入口を階段下から撮影し、共同ビルの全景をカメラに収めて、裏通りへ回った。
細い路地を挟んで、小さい商店が点在していた。
美穂子がよく出入りしていたという『二俣製作所』は、雑貨屋の並びだった。雑貨屋との間に、わずかな空地があり、緑色のカード電話があった。
町工場は、午前十時の休憩に入るところだった。
共同ビルの所有者である工場主は、二人の従業員とともに、工場前の縁台に腰を下ろしていた。三人ともグレーの作業着で、黒いそでカバーをつけたままだ。
陽当たりのいい縁台にはお茶が用意されており、盆の上に、せんべいが出ている。
たまたまお茶の時間で、機械がとまっていたのは、取材記者にとって都合がよかった。
「へえ、週刊誌の記者さんかい」
いずれも初老の三人は、交互に浦上の名刺をのぞき込んだが、
「篠田さんなら、マンションに帰っていますよ。じかに、コーポ羽沢へ行ったらどうですか」
三人を代表して、工場主が言った。
三人の表情に、一抹の警戒と同時に、興味が浮き出ているのを、浦上は見た。昨日は、山岡部長刑事と原刑事が、訪ねているのである。
刑事につづいて週刊誌記者がやってきたとあっては、関心が高まるのは当然だ。
果たして、工員の一人が問いかけてきた。
「新聞には何も出ていないけれど、篠田さん、何をしたのかね」
「いいえ、彼女に直接かかわりがあるわけではありません」
浦上は、こうした際の常套語《じようとうご》を言った。
「するってえと、別れたご主人のことかい」
もう一人の工員が、先回りをしてきた。
「え、まあ」
浦上がことばを濁すと、
「篠田さんは、ああいう商売をしているけど、身持ちは固い。彼氏はいないんだよな」
工場主が、お茶をすすりながら、口を添えた。
「離婚してだいぶ経つのに、いまだに、別れたご主人と電話で話しているなんて、おかしな関係だね。それというのも、親しい人が、他にいないからだろ」
「彼女、おたくで愚痴をこぼしたり、何てことはなかったのですか」
「よくおしゃべりに立ち寄るといっても、私ら、そういう間柄ではありませんや」
工場主は苦笑し、
「第一、あの人は、泣き言を並べるような、めそめそした性格ではありませんよ」
と、工員が言った。
浦上は、なおも雑談的な質問をつづけてみたが、すべてが、谷田経由で承知しているデータのとおりだった。
美穂子は、上辺《うわべ》は親しみやすい美人だが、最終的には、だれにも心の中を見せないタイプのようである。白井保雄との交流も、完璧なまでに、周囲に隠し切っている。
ということは、大金横領のコントロールから、白井毒殺まで、すべて美穂子の単独犯行という結論になろうか。
そう、白井のギャンブル仲間である本島高義に電話をかけて、殺人日の横手へ呼び寄せたのも、もちろん美穂子だ。美穂子は擬装犯人を仕立て上げた上で、自らのアリバイを京都に用意する完全計画を立てたのだろうか。
(いや、違う)
浦上は唇をかんだ。
『藤森アパート』の家主に、電話をかけてきた男がいるではないか。
どのていどの比重を占めるのかは分からないが、電話の男≠ヘ、間違いなく、共犯者だ。
(しかし、藤森アパートの下見も自分でこなしている、美穂子のようなタイプが、共犯者を準備するだろうか)
浦上の内面に、もう一つのつぶやきが生じてくる。
昨日、谷田は、桜木町の喫茶店で、美穂子の一方的な訴えを聞いたとき、
(電話の男を洗い出さない限り、美穂子に辿り着けない図式か)
と、考えたわけだが、浦上もまた、共犯者を否定する一方で、電話の男≠ェ、重要な壁であるのを感じる。
白井との交際を周囲に隠し切ったように、美穂子にはもう一人、だれにも気付かれずに関係を持つ男、Xがいるのだろうか。
だが、白井と違って、もう一人のXの存在は、考えにくい気もする。完全犯罪を実現するためには、白井同様、そのXの生命をも絶たねばなるまい。
いくら美穂子でも、たった一本の電話をかけさせるだけの役目で、男の生命を奪うようなことをするだろうか。いや、その場合は、白井|殺人《ころし》の実行もXの分担ということになるかもしれないが、どっちにしても共犯者がいるのなら、共犯者を始末しない限り、完全犯罪は完成しない。
すると、一連の犯行の延長線上には、もう一つの策略が隠されていることになろう。
美穂子が、仮にもう一つの殺人計画を立てているとしたら、そこにも擬装犯人を用意し、もう一つのアリバイ工作を準備しなければならなくなる。
そうした堂々巡りみたいな真似を、合理主義者の美穂子が採用するだろうか。
(やはり、単独の犯行か)
浦上の推理も、当然なことに谷田と同じだった。
一億四千万円を巻き上げ、白井を毒殺した時点で、美穂子にとっての一局は、完了している。浦上はそう考えた。
浦上はキャスターをくわえて、質問を戻した。
「篠田さんは、こちらで、離婚した前夫のことを、よく話題にしていたのですか」
「そういうわけじゃないけど、電話を頼まれたことがあるんでね」
それで、別れた亭主が新潟のホテルに勤めていることを承知しているのだ、と、工員の一人が言った。
「電話では、別れたご主人も、まじめな感じだったけどな」
あの人が、一体何をしたのかね、と、工員は問いかけてきた。
「伝言を頼まれたことが、あるわけですか。失礼ですが、何を言付かったのですか」
浦上が誘導すると、
「言付かったのではなくて、呼び出したのだよ」
二人の工員は、異口同音にこたえた。
「呼び出した、と、言いますと?」
「勤め先のホテルとか、入居している社員寮へかけるのだから、篠田さん、自分では電話しにくかったみたいですよ」
「彼女の代わりに、あなた方がダイヤルして、別れた旦那を呼び出して上げた、というのですか」
「いや、ダイヤルボタンを押すのは、篠田さんですよ。ほら、そこの電話でね」
工員は、隣の雑貨屋との間に設置されている、緑色のカード電話を指差した。
「別れたご主人は、千葉さんというんでしょ」
美穂子がダイヤルしたところで受話器を受け取り、先方が出ると、
『千葉さんをお願いします』
そう呼び出して、ふたたび、受話器を美穂子に手渡した、というのである。
「何ですって?」
浦上の内面で、判然としない渦が、目まぐるしく回り始めた。
かけた先は、ホテルであることもあり、社員寮のこともあって、電話を受ける人もまちまちだった。直接、千葉本人が出てくることもあった。
「まじめな感じだった」
と、工員が言うのは、そうしたときのやりとりを指してのことだった。
「ダイヤルは彼女がプッシュし、あなた方は頼まれて、ただ、千葉さんを呼び出して上げただけですね」
浦上は、自分の声が震えを帯びてくるのを知った。予想もしなかった発見がもたらす、震えである。
白井が美穂子の前夫と同じ名字「千葉」と名乗って、いや、名乗らされて、『藤森アパート』に潜伏していたなぞが、これで解けてきたと思った。
浦上は確認を求めて、つづける。
「最近も、呼び出しを頼まれたのではないですか」
「うん。ルアンダが休み始めてからだから、いつだったかな」
二人の工員が口をそろえると、
「いつもは、ルアンダの休憩時間の、午後四時から五時の間に来るんだけど、店を休んでいたせいか、あのときは遅かったじゃないか」
工場主が言った。
美穂子はふらっと入ってきて、
『悪いけど、また新潟へ電話をかけたいの』
と、呼び出しを頼んできたという。
この工場主は、昨日、山岡部長刑事と原刑事に対して、夜、美穂子が工場へ姿を見せたことはこたえているが、立ち寄った目的までは告げていない。
この工場での聞き込みは、浦上のほうが、捜査陣よりも先を行くことになる。
「いつものように、彼女がダイヤルした受話器を受け取り、先方に通じると、千葉さんの呼び出しを頼んだわけですね」
浦上は質問を重ねる。
浦上の緊張は、電話に出た相手を確かめたことで、弥《いや》が上にも高まってきた。そのときの相手は、いつもの女性でもなければ、千葉本人でもなかったというのである。
「あれは、ホテルではなくて、社員寮のほうへかけたのかな」
工員は、ちょっと口|籠《ご》もってから言った。
「年配の感じだったよ。うん、男の声でね。そう言えば、東北|訛《なまり》があったような気がする」
もう間違いない。それまでの呼び出しは、この一本のための伏線であり、この夜の電話のために、横手では「千葉」の偽名が必要だったのだ。
「電話をかけた日と、時間を、記憶していますか」
浦上の声は、縁台の三人がびっくりするほどに高ぶっている。
「さあてね」
三人は、その浦上に気圧《けお》されたように一瞬首を傾《かし》げたが、
「給料をもらっていたときじゃないか」
工員の一人が顔を上げた。
『二俣製作所』の支払いは月末だった。十一月の場合は三十日。
月給は一日の作業を終えてから手渡されるのが仕来たりだから、
「夜、七時ちょっと前だったかな」
工員はこたえた。
この工員が、数日前、正確には十一月三十日の午後七時前に、
『すみませんが、千葉さんを呼んでくれませんか』
と、電話の相手に申し込んでいるのだった。
「間違いありませんね」
浦上の声が、さらに大きくなった。
その電話は、これまでと違って、新潟の市外局番○二五などプッシュされてはいない。電話は○一八二と押され、新潟とは少し方向違い、横手の盆地に住む老夫婦を呼び出していたのである。
(美穂子のやつ、工作のし過ぎで、かえってぼろを出したか)
浦上は両掌を握り締めていた。男の電話≠ヘ、本島を犯人視させる工作の、一環でもあっただろう。
「休憩時間中に、どうもおじゃましました」
浦上は、ぴょこんと頭を下げると、その場を離れた。
歩道橋を走って、二俣川駅へ戻った。
浦上は、構内の電話に飛び付き、物|凄《すご》い勢いで、県警記者クラブへかけた。
「そうか。例の電話をかけてきたのは、別れた亭主の千葉でもなければ、殺された白井のギャンブル仲間、本島でもなかったってわけか」
谷田の、受話器を伝わってくる声が弾んでいる。
谷田は今日も早出だった。
「真犯人《ほんぼし》は美穂子で動かない。こうなってみると、それは決定的だろう。しかし、電話だけでは弱いな」
「状況証拠に過ぎないというのですか」
「美穂子のマンションを家宅捜査《がさいれ》して、一億四千万円が出てくれば文句なしだが、あれだけ気の回る女が、すぐに発見される場所へ、札束を隠しておくわけもあるまい」
谷田がスクープを前にして、慎重になるのは当然だろうが、
「共犯なし。美穂子の単独犯行説には、オレも両手《もろて》を上げて賛成だ」
その点は浦上に同意した。
「考えてみれば、刺殺や絞殺じゃない。犯行は毒殺だからね。女でも、十分に実行できる」
「待ってくださいよ」
浦上がはっとして受話器を持ち直したのは、谷田の、その一言を耳にしてからである。
浦上は、そこが駅ビル『グリーン・グリーン』につづく人込みであるのも無視して、口走っていた。
「先輩、物証が出るかもしれませんよ。いえ、必ず見つかると思います!」
「どうした?」
「美穂子が、町工場へしげしげと出入りしていた目的は、工作電話の他に、もう一つあったはずです。いや、本当の眼目は、こっちだったのかもしれません!」
縁台の三人に問いかけたときは、工場の休憩時間中に美穂子の日常を聞き出そうと、その一点にのみ、浦上の神経は集中していた。その結果として、電話工作という大きい収穫が抽出されたわけであるが、その一方で、一つの見落としがあった。
いや、これは見損じとは違うかもしれない。こちらの姿勢が、それを捕らえるだけの順序を踏んでいなかった、というのが正確だろう。
町工場は、業務内容を隠していたわけではないのだから。
「読み筋に入っていなかっただけのことですが、ヨセの構図が浮かべば、当然見えてくる攻め手順です」
得意の将棋用語で出た。
「いらいらさせるな。攻めの手筋は何だ!」
谷田の声が大きくなった。
「先輩、二俣製作所は、メッキ工場です」
「何だと?」
「メッキ工場に、青酸ソーダは不可欠です」
「白井に飲ませた青酸ソーダを、美穂子は二俣製作所で入手したというのか」
「他に考えられますか」
浦上の声に自信が籠もった。
浦上は、これまでにも何度か取材しているので、承知している。小さい町工場などでは、劇薬の管理が意外に杜撰《ずさん》なのである。
慣れが招く、無警戒ともいえようか。浦上が取材した範囲では、特に作業中、保管ケースの施錠されていない工場がほとんどだった。
浦上は、もう一度、受話器を持ち換えた。
「青酸ソーダを調達した先が、二俣製作所であるなら、保管ケースのどこかに、美穂子の指紋が残っているはずです」
「それが、きみの言う物証か」
「工場で働く三人の目を盗んで、持ち出すわけでしょう。何気なくおしゃべりに立ち寄ったとき、手袋などしていれば怪しまれます」
「致死量は○・○五グラムだったな」
「保管ケースに接近さえすれば、盗み出すのは造作もありません」
「きみ、これからどうする?」
「鑑識の到着を、二俣川でお待ちしましょう」
浦上の口調が、ようやく平常に戻った。
「分かった。淡路警部に会ってくる」
電話は、谷田のほうから切った。
鑑識課の大型ワゴン車は、捜査一課の刑事の他に、横手北署から出張中の、山岡、原両刑事を同乗して、二俣川へ急行してきた。
当然、浦上も『二俣製作所』へ戻った。検証に取材記者の立ち会いは異例だが、いまの浦上の場合はやむを得ない。
山岡と原は、昨日『二俣製作所』を聞き込んでいるだけに、
(週刊誌に出し抜かれた)
という面持ちを隠せなかった。
それにしても、びっくりしたのは、町工場だ。
「うちの青酸ソーダが、何かの犯罪に流用されたなんて、そうしたことは絶対にありません」
工場主は顔色を変え、
「おまえさんが、勝手な想像を警察へ通報したのか」
浦上を見た。
山岡部長刑事は、その工場側の疑問を無視して、命令するように言った。
「今朝、この週刊誌の記者さんが取材したことも、われわれが検証にきたことも、しばらく、篠田美穂子さんには、ご内分に願います」
工場側としては、刑事の説明不足が釈然としなくとも、協力せざるを得ない。
初老の三人は、渋々ながらではあるが、指紋提供にも応じてくれた。
鑑識作業は、三十分とかけずに終了した。
その結果、保管ケースと青酸ソーダのびんから、一点、三人の工員たちとは合致しない渦状紋が出てきた、浦上の見込みどおりだった。
しかも、それは、昨日谷田が美穂子から預った絵はがきに付着する真新しい渦状紋、すなわち美穂子の指紋とぴたり一致したのである。
局面は一気に終盤、大詰めを迎えた。
浦上は『週刊広場』編集部に報告電話を入れ、横浜で、捜査の推移を見守ることに決めた。
そして、その待ち時間を利用して、美穂子が入居する『コーポ羽沢』、白井が住んでいた大和市の『和泉マンション』、美穂子と白井がデートに利用していた町田市のレストラン『ニューバレル』などの撮影と取材を終えた。
町田から横浜線で関内駅へ戻り、頃合を計って、記者クラブの谷田に電話を入れたのが、午後五時過ぎである。
「先輩、朝刊のスクープは決定しましたか」
祝杯を前提に尋ねてみたが、
「とんでもない。美穂子は留置もされずに、マンションへ帰ったよ」
谷田の声は、さっきと違って、抑揚《よくよう》を欠いている。
篠田美穂子は最寄りの二俣川署へ呼ばれ、改めて、時間をかけて事情を聞かれたものの、即、逮捕状の請求とはいかなかった。
捜査陣と美穂子の間を大きく遮《さえぎ》ったのが、時間という名の壁だった。浦上が昨日、秋田から新潟へ向かう特急白鳥≠フ車中で予感した、アリバイの壁である。
浦上は、だれが真犯人《ほんぼし》であるにしろ、
『この事件《やま》は、アリバイ崩しに手をやく予感がします』
と、新潟からの昨日の電話で、谷田に伝えている。
だが、真犯人《ほんぼし》が美穂子と特定されると、現場不在の証明も、複雑になってくる。京都の証人が、ほかでもない谷田夫婦なのである。
谷田は力の抜けた声で言った。
「オレ、今日はもう記者クラブを出るよ」
「どこで飲みますか」
「本当は、淡路警部を引っ張り出したいんだが、そうもいかんだろうな」
ともかく、もう一度捜査一課を覗《のぞ》いてくる、と谷田はつづけ、伊勢佐木町裏のバーを指定してきた。
浦上も、かつて一度だけ同行したことがある『さち』という店だった。
浦上は関内駅を出ると、マリナード地下街を通って、伊勢佐木町へ抜けた。
師走の街は、急に夜になっている。
しかし、ハマの中心地、イセザキモールは、昼間と変わらないほどに、人出が多い。
電話ボックスを初めとして、通りの飾り付けがエキゾチックなのは、港町ヨコハマの伝統が生きているせいだろう。
浦上は若者の姿が目出つ舗道をぶらぶらと歩き、Laox横浜の先を右に折れた。
『さち』が入っている雑居ビルは、福富町だった。エイトセンタービルの二階である。
四十過ぎと思われる美人のママのほかに、女の子が二人。カウンター主体で、ボックス席が二つという、こぢんまりとした酒場だ。
少し時間が早いかとも考えたが、階段を上がって行くと、すでにカウンターで、学校の教師といった感じの中年男性が三人、水割りを飲んでいた。
常連客が多い店だった。
「いらっしゃい、浦上さんですね」
カウンターの中のママが、親しげな笑みを浮かべた。ずっと前に一度寄っただけなのに、顔と名前を覚えていてくれたのかな、と、浦上は恐縮したが、そうではなかった。
「いま、谷田さんから電話がありましたわ。三十分ほど遅れますって」
ママはそう言って、谷田のボトルをカウンターに載せた。
古い客たちから「さっちゃん」と呼ばれている彼女は、色白で、アットホームな雰囲気のママだった。
「週刊誌のお仕事って、新聞記者とは別なご苦労があるのでしょ」
ママはお愛想を言って、水割りを出してくれた。
結局、谷田は小一時間ほど遅れた。カウンターが常連客で埋まる頃になって、谷田はようやく大柄な姿を見せた。
「今夜は、浦上と密談があるんでね」
谷田はママに断わって、奥のボックス席に腰を下ろした。
谷田が遅れてきたのは、もちろん、淡路警部に食い下がっていたためである。
「警部を引っ張り出すどころではなかった。これから、横手北署の捜査本部と、フルに警察電話を使っての、捜査会議だってよ」
谷田は浦上と向かい合うと、オードブルを持ってきた女の子を遠ざけ、自ら水割りを作った。
浦上も、自分の手で水割りを追加する。
「先輩、問題は美穂子のアリバイですか」
「ああ、電話で言ったとおりだ」
「アリバイは、後で崩せばいいでしょう。指紋が一致したのに、どうして、横手の捜査本部では、美穂子の逮捕をためらっているのですか」
「指紋だけでは、公判を維持するのが難しい。そういう判断だな」
「さっき、二俣製作所の検証のとき、横手の部長刑事《でかちよう》さん、渋い顔をしてぼくを見ていましたが、まさか、ルポライターに出し抜かれたことを、こだわっているのではないでしょうね」
「感情的には、焦燥が尾を引いているかもしれない。だが、ことは殺人事件だぜ。メンツに捕らわれている場合じゃあるまい」
「じゃ、なぜ、刑事《でか》さんたちは、指紋の一致を決め手にしないのですか」
「美穂子って女が一筋縄でいかないのは、オレたちの想像以上らしい」
谷田は、最初の一杯は軽く飲み干し、ウイスキーのボトルに手を伸ばした。
「彼女、指紋を突き付けられても、顔色一つ変えなかったそうだ」
「ぴくりともせずに、否定したのですか」
「否定できるわけはないだろう。二俣製作所で採取してきた渦状紋を、白井の絵はがきから検出した渦状紋と、二点そろえて、叩き付けてやったのだからな」
否定する代わりに、美穂子は、
『あたし、工場の方に内緒で、あの保管ケースを開けたことがあります』
平然と言ってのけたというのである。
「口実は、劇薬に対しての、単なる興味というのだがね。美穂子は保管ケースを開けて、青酸ソーダのびんを、明かりにかざしてみたというんだ」
「かざしただけ? そんな言い逃れを通したのですか」
「残念ながら、あの町工場、毎回の使用量や残量チェックがいい加減でね、はっきりしないんだよ」
「青酸ソーダを持ち出した確証が、得られないわけですか」
「美穂子自身が、青酸ソーダのびんに触れたことをはっきり認めている。だから、保管ケースから彼女の指紋が出てくるのは当たり前ということになるし、工場側の残量チェックがあいまいでは、いかに限りなくクロっぽくても、美穂子が盗み出した証明《うら》が取れない」
「だったら、工作電話≠抱き合わせたらいいでしょう。二俣製作所の工員さんの証言で、逮捕に漕《こ》ぎ着けることができると思いますけどね」
「あれは、オレも指摘したように、状況証拠だ。指紋以上に、言い逃れが可能だろう」
「やけに慎重なんですね」
「もちろん、きみの発見が無視されるはずはない。淡路警部は、あの工作電話≠、傍証の切り札にしたい考えのようだ」
とどのつまり、クローズアップされてくるのが、紅葉の京都を舞台とするアリバイ、ということになる。
あのアリバイがあればこそ、興味本位で青酸ソーダのびんに触れたという、子供|騙《だま》しみたいな弁明も通ってくるし、工作電話≠フ追及も、逡巡される結果となる。
「また、厄介なアリバイ崩しだ。淡路警部は、浦上さんによろしくと、真顔で言ってたぞ」
「真顔なら、データは全部提供してくれたのでしょうね」
「オレが、警部以上のデータを持っている」
「そりゃそうだ。先輩は渦の中心にいるアリバイ証人ですからね」
「それだけじゃない。オレは、あの美人の相談相手だ」
相談相手≠ヘ、親切心を全面に押し出して、昨日につづいての、美穂子の取材を終えていた。美穂子が二俣川署から帰宅したことを知ると、谷田は直ちに、『コーポ羽沢』三十二号室へ長い電話を入れているのである。
「オレも妙なことになったよ。話を聞けば聞くほど、オレは美穂子の力になってしまう立場だ」
「だって先輩は、お力になりますよ、とそう言って、嵐山で彼女に名刺を渡したのでしょ」
「冗談言ってる場合じゃないぞ」
谷田は、こんなの初めてだと吐息して、取材帳をテーブルに広げた。
「きみはこの間、四国で犯人にされかかったが(『松山着18時15分の死者』講談社文庫所収)、滅多に旅行などしないオレが、こんな目に遇うとは泣けてくる」
「でも、飽くまでも偶然でしょ。偶然の出会いでこういう結果になった」
「そりゃ、そうだ。オレとワイフが、あの時間に、京都駅前のタクシー乗り場にいなければ、別のだれかが、美女割り込みの、目撃証人にされていただろう」
「派手な演出ですね」
浦上は、水割りのグラスを戻した。
自分を強く印象付けるために、タクシー待ちという大勢の行列の前で演じてみせた、割り込み乗車"。
タクシー乗り場には誘導員もいたことだし、複数の乗客という目撃者が用意されれば、後の捜査で、ばっちり、美穂子の存在は証明される。
その上、割り込み≠フ際の当事者ともいうべき、谷田夫婦と、宿泊先のホテルまで一緒とあっては、美穂子が、文句なしに、谷田夫婦を次の存在証明≠ノ利用してくるのは当然だろう。
「そうだな。京都東急ホテルでは、彼女のほうから先に、オレたち夫婦を見つけたのだからな」
谷田は二、三度うなずき、ベルボーイと観光タクシーの相談をしていたとき、すぐ背後に、美穂子が立っていたことを言った。
「それですね。彼女が先輩たちと同じルートで洛西の紅葉《もみじ》狩りをしたのは、これは、今度は偶然じゃない」
「意図的に、紅葉の下でオレたち夫婦の前に見え隠れして、人捜しのふりをしたか」
「嵐山で、先輩が声をかけなければ、最終的に、先方からアタックしてきたに違いありません」
「しかし、なぜ京都なんだ?」
「それは分かりませんが、先輩夫婦と出会う偶然がなければ、今頃、別のだれかが美穂子のアリバイ証人として、捜査本部の尋問に応じていたでしょうね」
美穂子は、どうして、そんなにまでして、アリバイ証人を必要とするのか。
「前に、別の事件《やま》でも経験していますが、それはすなわち、当人にアリバイがないってことですね」
「それこそ状況証拠だが、この一点から推しても、美穂子が真犯人《ほんぼし》ということになってくるか」
「でも先輩、美穂子の作為がいかに見え見えでも、先輩の目撃自体は、何かのトリックに乗せられているわけではないですよね」
浦上は、テーブルに置かれた谷田の取材帳に目を向けた。
かつて浦上が、寝台特急さくら≠ナアリバイ証人に仕立てられたときは(『寝台特急R時間・分の死角』講談社文庫所収)、前提に一応の工作があった。犯人が弄《ろう》したのは、ちょっとした盲点を衝《つ》くトリックだった。
だが、今回の谷田の場合は違う。(美穂子の接近の仕方が意図的であったとはいえ)谷田の証言自体には、何の仕掛けも施されてはいない。
終始、妻の郁恵も一緒だった。言うまでもなく、郁恵もまた立派な証人だ。
「偽アリバイは結構だが、共犯なしで、どうすれば、横手の殺人《ころし》が可能なんだ?」
谷田はぶつぶつつぶやきながら、記憶を整理する。ポイントとなるのは、四点だった。
(1) 十一月二十五日(土)午後二時頃 京都駅烏丸口タクシー乗り場
(2) 同日午後四時頃 『京都東急ホテル』地下一階ロビー
(3) 十一月二十六日(日)午前十時頃 清滝川渓谷高尾橋付近
(4) 同日午後三時半頃 嵐山保津川下り船着き場付近
谷田は(1)で美穂子と出会い、(4)で美穂子と別れたわけである。
「仕掛けがあるとすれば、(2)と(3)の間かな」
浦上は、書き出されたメモを見て、考えた。
(1)と(2)の間、(3)と(4)の間での京都脱出は不可能だろうが、(2)と(3)の間では、ざっと十八時間が自由になる。
『京都東急ホテル』での宿泊偽装工作に成功すれば、この十八時間を、利用できるのではないか。浦上の考えたのが、それだった。
もっとも、(3)の目撃現場は高尾の山中だから、京都市内から清滝川渓谷までの所要時間を差し引かなければならない。
余裕を見て、(2)と(3)の間で自由にできるのは、十七時間ということになろうか。
「殺人時間の、特定が先決ですね」
浦上は、二杯の新しい水割りを作ってから言った。
司法解剖の結果は、十一月二十五日午前〜十一月二十六日午前となっているが、白井の筆跡に間違いない絵はがきが出てきたことで、死亡推定時刻は、ぐっと短縮されてきた。
「これだね」
谷田は、淡路警部から取り戻してきた問題の絵はがきを、取材帳に並べて置き、消し印を指差した。二十円切手二枚と一円切手にかかる消し印が、白井がいつまで存在していたかを証明している。
三千院近くの茶屋、『高天《たかま》』の記念スタンプを押した絵はがきが、京都中央郵便局管内で投函されたのは、十一月二十五日の十二時から十八時までの間だ。
「千葉」と名乗って、十一月二十一日に横手の『藤森アパート』に入居した白井が、なぜ二十五日に京都にいたのか。
美穂子が、前夜の最終寝台急行銀河≠ナ京都へ向かったことと同様、現状では、なぞもいいところだ。
美穂子のほうは、白井から電話をもらったことで横浜を出発した、と、言い繕《つくろ》っているわけだが、白井の絶望電話≠ニいうのが、単なる口実であるのか。それとも、一億四千万円を巡る背景《うら》があるのかどうか、いまはまったく分からない。
ともあれ、提示された時間≠整理するのが、先だった。
白井の、ぎりぎりまでの生存時間が認定されて、初めて、容疑者のアリバイ崩し、となる。
「おい、時刻表を出さんかい」
谷田はピース・ライトに火をつけた。
白井の足取りを書き出す上で、留意すべきは、あらゆる状況から判断して、死体の発見された『藤森アパート』が、凶行現場に間違いないという、鑑識結果だ。
横手以外の土地で殺害しての死体移動、なんて事態になれば、時間#z分も乱れてくる。
だが、白井は死体ではなく、生きている状態で、京都から秋田へと移動しているのである。これは、司法検視の段階で、横手北署の捜査本部が明確にしている事実だ。
では、白井は、横手へ何時に到着したのか。
絵はがきの消し印からいけば、京都出発は、もっとも早くても、十二時少し過ぎということになろう。
浦上はショルダーバッグから、秋田の分県地図、取材帳、時刻表の順に取り出した。
取材用カメラなどとともに、必ずバッグに入れてあるのが、詰め将棋のポケットブックと時刻表だ。時刻表もまた、浦上の愛読書と言っていい。ただし、いまの場合の時刻表は、無論犯行時、先月のものである。
浦上は慣れた仕ぐさで、時刻表のページを繰っていく。
京都発 十二時二十一分 ひかり266号
東京着 十五時八分
(乗り換え=四十五分)
上野発 十六時 やまびこ51号
福島着 十七時三十七分
(乗り換え=九分)
福島発 十八時三十三分 L特急つばさ17号
横手着 二十二時五分
さっと取材帳に書き出した数字《ダイヤ》が、それだった。
列車ルートは一般的だが、秋田は空港を持っている。
「大阪―秋田間は、上り下りとも一日に二便ずつしか飛んでおりません。しかし、京都駅―大阪空港間はタクシーで五十分前後ですから、京都発が十二時少し過ぎなら、十分に、飛行機を利用できますね」
問題は秋田空港から横手までの足か、と、浦上は独《ひと》りごち、
「秋田空港に近い駅はこれかな」
秋田の分県地図を指先で辿り、別の数字《ダイヤ》を書き出した。
京都市内出発 十四時過ぎ
大阪空港発 十六時 JAS785便
秋田空港着 十七時二十分
(乗り換え=タクシーで有料道路を経て十五分前後)
和田《わだ》発 十八時二十二分 奥羽本線上り普通
横手着 十九時二十七分
秋田空港から和田駅までは、有料道路が通っている。タクシー十五分前後というのは、分県地図の距離から測定した机上の計算≠セ。
計算に誤差があったとしても、JAS785便≠ナ到着して利用できる奥羽本線は、浦上が書き出した列車しかないのだから、多少の計算違いは問題となるまい。浦上がそうした意味の説明を加えると、
「和田という駅での待ち時間がそんなにあるなら、空港から、そのまま横手までタクシーを飛ばしたらどうなんだ」
谷田はたばこを消した。
だが、列車利用なら、この計算でいいだろうが、地図の上で、秋田空港―横手間をタクシーがどのくらいな時間で走行するのか、正確な所要時間を算出することはできない。
「簡単だよ。通信部へ聞いてみる」
谷田は気軽く腰を上げた。
谷田はカウンターのほうへ歩いて行き、酒場の電話で、『毎朝日報』横手通信部へかけた。
「あ、昨日はどうも。松葉不動産の件ではお世話になりました」
谷田は大声であいさつし、二、三分で、浦上が待つボックス席へ戻ってきた。
「秋田空港―横手駅間は、国道13号を通って、一時間半みれば、いいそうだ」
谷田は言った。
このルートだと、和田駅での列車乗り換えより三十分ほど早く、横手市に入ることができる。
白井の横手帰着から割り出される凶行時刻は、(横手駅から藤森アパートまでの徒歩十五分を加算して)概ね次のようになる。
京都駅から新幹線利用の場合=十一月二十五日(土)二十二時二十分〜十一月二十六日(日)午前
大阪空港から空路利用の場合=十一月二十五日(土)十九時十五分〜十一月二十六日(日)午前
司法解剖の結果を、絵はがきが訂正したわけである。白井の生存が、捜査本部の断定よりざっと十二時間延長され、それだけ犯行時間が短縮される。
もちろん捜査陣も、新しいデータによって新しい死亡推定時刻を書き出しているであろうが、
「ここまできたら」
谷田はいつものせりふを言い、
「刑事《でか》さんたちより一分でも早くアリバイを崩し、美穂子のシロクロをはっきりさせたいね。浦上サン、頼りにしていますよ」
改めて時刻表を突き出してきた。
そう、このように分析してみると、美穂子が二十五日の午後京都にいたことは、アリバイの意味を持たないことになる。問題は二十五日夜の行動だ。
「先輩、解剖では、ホトケの胃に残っていた米飯とか納豆は食後一、二時間という話でしたね。食卓には、食べかけのインスタントみそ汁も置かれていたとか」
「納豆とみそ汁を食うのが朝食に限られているのなら、殺人《ころし》は朝食後、すなわち二十六日の午前と特定されてくる。だがね、白井は独《ひと》りで、潜伏生活をしていたんだぞ」
「晩めしに納豆食べるケースもあるわけですか」
「朝っぱらから焼肉にしようと、夜、納豆を食おうと、カラスの勝手だろ」
食べ物は大して参考にならない、と、谷田は言った。
焦点は、飽くまでも、時間の配分だ。
十一日前のあの日、『京都東急ホテル』で、観光タクシーの打ち合わせを終えた谷田夫婦は、地下一階のティーラウンジに寄った。
すると間もなく、美穂子が、一階出口へつづくエスカレーターを上がって行った。
谷田と郁恵が、コーヒーを飲みながら、美穂子のすらりとした後ろ姿を見送ったのが、午後四時頃だ。それが、谷田が取材帳にメモした(2)である。
以後、高尾の清滝川渓谷で出会う(3)まで、谷田夫婦は美穂子を見ていない。
「美穂子が自由に使えるのは、十七時間」
浦上がつぶやくと、
「白井は列車で十時間、飛行機なら五時間ていどで、京都から横手へ到着しているわけだな」
谷田は、浦上が書き出した数字《ダイヤ》を見た。
その点でのみ言えば、十七時間の持ち時間で、京都―横手間の往復は可能だ。
鉄道と空路を組み合わせて、往復ざっと十五時間とすれば、少なくとも二時間を殺人《ころし》に用いることができる、と単純計算ではそういうことになる。
「でも、秋田行きの便は、ここにメモった大阪発十六時のJAS785便≠ェ、最終ですよ」
五条堀川通りのホテルを出たのが午後四時、すなわち十六時頃では、最終便には絶対に搭乗できない。
浦上が顔を振ると、
「だからさ、行きは列車。帰りを飛行機という組み合わせでどうかね」
谷田は食い下がった。
しかし、不可能であることが、すぐに分かった。
仮に、十時間かけて横手入りする乗り継ぎ列車が見つかったとしても、帰ってくることができない。秋田発大阪行きは、第一便の大阪空港着が、十四時四十分だったからである。
「どこを、どうひっくりかえしたって無理ですよ」
浦上は時刻表を投げ出した。
「先輩、本当に美穂子が、殺人《ころし》の実行犯なのでしょうかね」
浦上は、手にした水割りのグラスを見詰めた。
それにしても、手が込んだアリバイ工作ではないか。
二十五日午後の京都存在≠ヘ意味ないものとなっても、今度は、被害者の、生存時間の延長が、逆に、容疑者のアリバイを不動にしているのである。
生存時間を明示する辺りに、何かが隠されているのか。
「そうかもしれないぞ」
谷田も、今度はそれを問題とした。
「オレ自身がアリバイ証人になっていて、面目無いが、仕掛けがあるとしたら、やはり京都かな」
「いつものように、現地踏査しかありませんかね」
浦上は、すでにその気になっている。
「オレも同行したいが、捜査の主体が秋田県警では出張許可は、まず下りないね」
「ま、先輩には、十一月二十五日と、二十六日の京都を、じっくり思い出しておいてもらいましょう」
「こいつは渡しておく」
谷田はテーブルの上の取材帳を片付け、白井の絵はがきを差し出してきた。
浦上は、絵はがきとは別に、白井と美穂子の複写写真も預った。そして、しばらく、会話の途絶えた状態がつづき、
「残念ながら、今夜はこれまでだな。ほどほどに引き上げるとするか」
谷田は、キープのボトルが空《あ》いたところで、
「ママ、お会計だ」
カウンターに向かって、手を上げた。
8章 銀河と津軽
翌十二月七日、木曜日。
師走の空は、前日同様、関東も関西もよく晴れていた。
浦上伸介を乗せたひかり201号≠ヘ、予定どおり、十三時四十八分に、京都駅に着いた。十二日前、谷田実憲夫婦が乗ってきたのと同じ新幹線だ。浦上は、もちろん、意識的に同じ列車を選んだのである。
浦上は、西跨線橋を歩いて、烏丸中央の改札口を出ると、十二日前の谷田や郁恵と同じように、観光案内所で二、三分を費やしてから、駅前のタクシー乗り場へ行った。
十四時一分だった。
浦上には、しかし、タクシー待ちの行列に並ぶ前に片付けておく仕事があった。
京都中央郵便局は、タクシー乗り場から徒歩にして、一、二分の場所である。
浦上は駅前広場を横切って、中央郵便局の集配課へ寄った。
これは、いわば念押しの取材だった。浦上は、若い局員に、白井保雄の絵はがきを提示した。
「消し印ですか。はい、本局のものに間違いありません」
局員は、問題の絵はがきが、先月二十五日の十二時から十八時の間に取集されたものであることを、はっきりと確認した。消し印に、工作はなかったわけである。
浦上はタクシー乗り場へ戻った。
初老の誘導員がいる。
十二日前を尋ねると、
「そうそう、そんなことがありました」
誘導員はうなずき、
「髪の長い、きれいな女の人でしたよ」
と、言った。
浦上はタクシーに乗り、
「三千院」
行き先を告げた。
冬の古都は久し振りである。
タクシーは河原町《かわらまち》通りから今出川《いまでがわ》通りへ抜け、高野川《たかのがわ》沿いの川端通りを、洛北へ向かって走った。
北へ進むにつれて、風景が寂しくなる。
大原は、高野川の上流に沿った、京の山里である。比叡《ひえい》の山脈《やまなみ》を挟んで、琵琶湖《びわこ》の西側に当たる地形だった。
国道367号線は、高野川の清流と何回も交差して、山間へ入って行く。故意か偶然か、京都も横手と同じ盆地だ。
花尻《はなじり》の森が近付くと山裾《すそ》にわら葺《ぶ》き屋根の農家が点在し、冬枯れの畑地がつづく。
「あれは赤じその畑です」
運転手が説明してくれた。
なるほど、しばらく進むと、赤じそを原料とする『土井志ば漬』の本店があった。白い土蔵造りの工場の前に、大きい漬け物樽がずらりと並んでいる。
そして、花尻橋を渡り、テニスクラブの横を過ぎると、山里にひっそりとたたずむ、数々の寺院が見えてくる。
タクシーは右に折れた。
三千院参道脇の駐車場に入ると、急に、人影が増えた。
師走のウィークデーだというのに、杉木立ちの下に何台もの観光バスと観光タクシーが駐車しており、石柱や灯籠《とうろう》が立ち並ぶ参道を、観光客が歩いている。
人足《ひとあし》は多いが、他の観光地と違って騒がしくないのは、山間の静謐《せいひつ》な雰囲気に同化してしまったせいでもあろうか。
浦上は、タクシーに待っていてもらって、坂道を上がった。
三千院は、まるで武家屋敷のように、石垣をめぐらしていた。
三千院の石段と石垣を見上げる場所に、何軒もの土産《みやげ》物《もの》店が並んでいる。
浦上は観光客に交ざって『水車茶屋』、『芹生《せりお》茶屋』などの看板を見て歩いた。
目的の『高天《たかま》茶屋』は、呂《ろ》川のほとりだった。
軒先の縁台で、数人の観光客が串団子を食べている。
浦上はショルダーバッグの中から、白井保雄と篠田美穂子の複写写真を取り出して、『高天茶屋』に入った。
店内はそれほど込んでいなかった。長テーブルが並ぶ三和土《たたき》の右手が、帳場だった。
中年の女主人が、伝票を整理している。
「ちょっとお尋ねします」
浦上は丁重に頭を下げて、レジの前に立った。
「先月の二十四日か、二十五日のことですが」
浦上は白井の顔写真を、女主人に見せた。
「さあ」
女主人は首をひねり、奥にいる二人の女子従業員を呼んだ。
二人の反応も、女主人と同じだった。
「覚えていませんわ」
若い女店員は、口をそろえて言った。
「十一月中旬から下旬にかけては、紅葉見物のお客さんが多かったので、お店も込んでいました」
「では、この人はどうでしょう」
浦上は美穂子の写真を示した。
白井は、特に目立たない、平凡なサラリーマンタイプだが、美穂子は相当な美人だ。同性だけに、若い女店員たちは、かえって意識したかもしれない。
「カーキ色のジャケットで、黒革のミニスカートだったと思うのですが」
浦上は、谷田から聞いている美穂子の当日の服装を言った。
二人の女店員は、交互に写真をのぞき込み、女主人にも見せた。
「覚えていませんわ」
三人は異口同音にこたえた。
記憶にないというのは、肯定でもなければ、否定でもないということである。
しかし、三千院での手がかりがないのでは、白井の追跡は、いったんあきらめざるを得まい。
次は、『京都東急ホテル』だ。十一月二十五日から二十六日にかけて、夜、美穂子が実際に宿泊していたか、どうかのチェック。
これも難しそうだ。宿泊客がルームキーを返さずに外出してしまえば、在室の有無は、正確には、分からない。
せめて、脱出≠フ可能性さえつかめれば、よしとすべきだろう。
これが、夜ふけにルームサービスを頼んでいたなんて存在証明≠ェ出てきたりしたら、推理は根底から覆されてしまう。
浦上が、いま、この場で、瞬間的にそうしたことを考えたのも、京都取材の出端《でばな》を挫《くじ》かれたためである。
「お忙しいところを、ありがとうございました」
浦上は二枚の写真をショルダーバッグにしまい、白井の絵はがきを出した。
「この記念スタンプは、おたくのものですよね」
と、左下を指差した。
大原女《おはらめ》の後ろ姿が図案化され、下に、小さく、『高天茶屋』と記されている。
「はい。そうですわ」
若い二人は、今度ははっきりとうなずき、
「記念スタンプは、どなたでも自由に押せるよう、いつも、そこに置いてあります」
と、これは女主人が言い、軒先の小さい机に目を向けた。
客が勝手に押していくのだから、店が込んでいたりすれば、なおのこと、店員たちの記憶には残らない。
そのときだった。
「あら?」
女店員の肩越しに、絵はがきを見た女主人が、
「お客さん」
ふいに口調を変えた。
「この絵はがき、いつ受け取ったのですか」
「どこかおかしい点がありますか」
浦上も、思わず知らず、気負い込んだ。
「これは、確かに当店《うち》のスタンプですが、いまは使っていません」
女主人は言った。
「このスタンプ、大原女が、後ろ姿でしょう」
後ろ姿は昨年までで、今年の一月からは、ほとんど同じ図柄だが、前向きのものに代わっているという。
「失礼」
浦上は軒先まで行って、取材帳に記念スタンプを押した。
確かに、絵柄は同じだが、大原女の向きが違う。
浦上は慌てて、レジの前へ戻った。
「古い記念スタンプは、どうしたのですか。新しいものに代えてからも、一緒に使っているのではありませんか」
「いいえ」
女主人は顔を振った。
「いまも言いましたように、一月からは新しいスタンプしか置いていません」
去年までの古いものは、磨り減ってもいたので、焼き捨てた、と、女主人ははっきりと言った。
では、これはどういうことなのか。白井は、どこでこのスタンプを押したのか。
浦上は杉木立ちの下を歩いて、タクシーに引き返した。
次の行き先を、『京都東急ホテル』と告げただけで、タクシーに乗ってからはしばし無言だった。
高野川が賀茂《かも》川と合流する市街地へ戻るまで、浦上は絵はがきを見詰めつづけた。
今年一月からは使用されていない記念スタンプであるなら、これが押されたのは、昨年の十二月までだ。
(トリック解明のキーは、これか?)
本能的にそう感じるものの、その先が分からない。
いずれにしても、絵はがきは、昨年末までに入手されていたことになる。
白井は、なぜ、古い絵はがきを流用したのか。
「去年の絵はがきを、今年投函する」
無意識のうちにそうしたつぶやきが漏れて、その自分のつぶやきを、第三者のもののように聞いたとき、
「運転手さん、ホテルはやめて、京都駅へ戻してください」
浦上は行き先の変更を告げていた。
(これか?)
浦上が、自分自身に投げかけたのは、(記念スタンプは昨年のものでも)間違いなく今年の取集であることを示す、京都中央郵便局の消し印を再確認したときである。
消し印と同時に、三枚の切手に、浦上の注意が向けられていた。二枚の二十円切手と、一枚の一円切手。
封書とか普通の私製はがきならともかく、下半分が通信欄で、あて名を書くスペースが少ない絵はがきに、三枚の切手は多過ぎやしないか。
ふと、それを思ったとき、切手の向こうに潜むものが、浦上に見えてきた。
タクシーが京都駅に着くと、浦上は地下街『PORTA』へ駆け下り、喫茶店に、飛び込んだ。
「コーヒー」
と、注文したが、コーヒーを飲みたいわけではなかった。
目的は、ウェイトレスが運んできた、コップの水である。
浦上は絵はがきをテーブルに置き、コップの水の中へ指を突っ込んだ。
緊張した表情で、水で濡らした指先を、三枚の切手の上へ持って行った。
何度も単調な作業を繰り返し、切手が湿り気を帯びてきたところで、浦上はキャスターをくわえた。
三枚の切手を剥《は》がしにかかったのは、一本のたばこを、ゆっくりと灰にしてからである。
神奈川県警記者クラブに、上り東海道新幹線ひかり224号≠ゥら電話が入ったのは、間もなく午後五時になろうとするときだった。
谷田が電話を受け継ぐと、
「先輩、ぼく、京都へ泊まる必要がなくなりました。七時過ぎには横浜へ帰ります」
浦上の、何とも軽快な声が、飛び込んできた。
「美穂子が真犯人《ほんぼし》であることの証明が、また一つ出てきました。あの夜、美穂子は、横手へ行く必要はなかったことになります。彼女はあのまま、先輩たちと同じホテルにのんびり泊まっていたはずです」
「何だと?」
谷田は、浦上の説明を聞いて顔色を変えた。
「きみ、よくそんなことに気付いたな」
「記念スタンプが昨年までのものであることと、切手が三枚も貼られていたお陰です」
「絵はがきに、三枚の切手は多過ぎるか。きみらしい見方だ」
「無神経な人間なら別です。経理課主任の白井はそんな男じゃないと思います」
「多過ぎる切手が、何かを隠していると睨《にら》んだか」
「工作があるとすれば、一つしか考えられないでしょう」
「しかし、それを見抜くとは、さすが名探偵の浦上サンだ」
「ともかく、この三枚の切手は、もう一つの消し印を隠すために、必要だったわけです」
浦上は最初の説明を繰り返した。
三枚の切手の裏側というか、下に隠されていたのは「左京」「88・11・16」「8〜12」「SAKYO」などの文字だった。
「もちろん、去年の切手は剥がされていますし、砂ゴムを使った形跡はありますが、元のスタンプは、完全に消えていません」
「彼女、やってくれるな。昨年十一月の京都の左京郵便局管内で投函された絵はがきを、一年経って、もう一度ポストに入れたか」
「左京局なら、大原に近いですよ」
「去年の十一月といえば、白井が五千万円を流用した月だな」
谷田は受話器を持ち直した。
絵はがきの文面も、改めて納得ができるというものだ。
昨年七月の一千万円に始まり、九月の二千万円、そして十一月の五千万円と、次第にエスカレートする美穂子の請求。
「気の弱い白井は、美穂子のコントロールに悩み切っていたか」
「でも、昨年十一月の五千万円は、ホクエツの幹部に気付かれないうちに、会社の預金口座へ戻されているので、結果的に、問題はなかったわけです」
「うん、文面の解釈次第だが、一年前の時点では、自殺までは考えていなかっただろうな」
「その文章を、今回、うまい具合に応用したのが、美穂子の小細工です」
「嫌になるね。またオレが、お手伝いしたことになる」
「この絵はがきトリックは、二俣製作所の工員さんを使っての電話工作よりも、はるかに具体的、説得力を持つ、真犯人の証明です」
「主眼は、十一月二十五日の夜まで、白井が生きていたと強調することか」
谷田と浦上の、昨夜のダイヤ分析では、白井の横手帰着は、十一月二十五日の十九時十五分〜二十二時二十分という線が出ている。
そこで、殺人《ころし》はそれ以降の時間に実行したと判断されてきたのであるが、
「この小細工を裏返せば、二十五日の夜までに白井は殺害されていたことになります」
浦上は言った。
追及されるべき美穂子の、横手におけるアリバイは、二十五日の十九時十五分以後≠ナはなく、以前≠ニいうことになる。
「彼女、二十五日の夜は、ゆっくりと京都に宿泊していたはずです」
浦上は、もう一度繰り返した。
絵はがきの、今年の消し印がものを言っている限り、二十五日の夜京都にいたことが、美穂子を守るアリバイとなるわけだ。
「なるほどな。それじゃ、念押しの存在証明≠焉A京都にばっちり、ばら蒔《ま》いてあるって寸法か」
「冗談じゃないですよ。そんなものをいちいち聞き込んで、振り回されるわけにはいきません」
「頭が痛くなることを言わないでくれ」
谷田は苦笑する。
美穂子が京都へ出掛けた意味は、これではっきりしたと言っていい。
美穂子の目的は、偽アリバイ作りだ。
そして、白井の京都行き≠ェないのなら、京都≠ェ一億四千万円の所在を隠しているのではないかという疑問も、消えるだろう。
いよいよ、本格的なアリバイ崩し、ということになる。
「先輩、今夜はどこで会いますか」
「そのひかり号の、新横浜到着は」
「正確には、十九時十分です」
「名探偵を、お迎えに上がるのが、エチケットかな」
谷田は、新横浜駅構内の『アスティ』を指定して、受話器を置いた。
浦上は新横浜駅で下車すると、混雑する構内を歩いて、『アスティ』の中の焼鳥レストラン『焼鳥倶楽部』へ行った。
谷田は一足先に来ており、奥のテーブルでビールを飲んでいた。二人は、前にもこの店で、取材結果を検討している。
店はほぼ満席だった。勤め帰りのサラリーマンの他に、場所柄から言って、旅行者の姿も見える。
「十一月二十五日十九時十五分以後≠フ仮説は、一日で全面訂正か。しかし、これは結構なことだ」
谷田は笑顔で、浦上を迎えた。
「先輩、以後≠ナはなく、以前≠フ殺人《ころし》だったとすると、問題の納豆やみそ汁は、普通に、朝食用だったことになるかもしれませんね」
浦上がそう言って腰を下ろすと、
「うん、毒殺は、二十五日の朝で決まりだな」
谷田はうなずいた。
殺人《ころし》の部屋に電灯がついていたのは、捜査本部が言うように、異変発見を遅らせるためと、犯行が二十五日の夜であると強調するためのものであっただろう。
「ご苦労さん」
とりあえず、ビールのコップを合わせての乾杯となった。
だが、一歩前進とはいえ、まだ、ビールを気持ちよく飲める段階ではなかった。
「おい、消し印から推して、絵はがきの投函者も美穂子で動かないな」
こうなってみると、投函可能な時間に京都にいたことも、美穂子にとっては墓穴となったわけだ、と、谷田は勢い込んだが、今度はそれが、新しい壁になった。
十一月二十五日の十二時から十八時という消し印の時間内に、美穂子が京都にいたことは間違いない。谷田がメモしたところの目撃タイム、(1)と(2)がそれである。
二十五日十九時十五分以後≠ェ消えたいま、問題となるのは、(1)だ。すなわち、京都駅烏丸口タクシー乗り場、午後二時。
横手での犯行が二十五日の朝であったとしたら、美穂子は、どのようなルートを辿《たど》って、同じ日の午後二時までに京都へやってきたのか。
そして、それより先に解決しなければならない大前提が、犯行現場横手への、交通《あし》の割り出しということになる。
殺人前夜、美穂子が横浜を後にして旅に出たのは事実だ。
しかし、美穂子が乗車したのは、横手へ行く列車ではない。美穂子は東京駅から寝台急行銀河≠ノ乗り込んで、横手とはまったく逆方向の、京都へと向かったのである。
途中のどこかで、銀河≠降りたとしても、飛行機も飛んでいない深夜、秋田県下の小都市へ行ったり、一転、京都へ向かったりすることができるのだろうか。
「銀河≠フ東京駅発は、何時だったかね」
谷田が問いかけると、
「二十二時五十五分です」
浦上は即座にこたえた。これは、時刻表を持ち出すまでもなく、諳《そらん》じている。
「発車は、ほとんど午後十一時か」
「この時間では、新幹線はもちろん走っていませんし、夜行列車も、大半が出払う頃です」
「東京駅9番ホームで、美穂子の出発を見送ったのは、新潟の高校時代のクラスメートだろ。証人が、一人だけだとしたら、弱くないか」
「竹下正代という女性の、偽証ですか」
「これだけ、いろいろ工作してくれた美穂子のことだ。旧友を抱き込むなんて、それこそ朝めし前じゃないのか」
「それは、どうですかね」
浦上は同意しなかった。偽証なんてことになれば、正代は、明らかに、共犯者になるではないか。
それは、美穂子の、一連の犯行センスから、ずれてしまう。
絵はがきトリックは無論のこと、『二俣製作所』を舞台とする電話工作にしても、(工員たちにそれと気付かせない意味において)美穂子の単独犯行なのである。
がっちり構築されてきた一連の計画の中で、東京駅9番線ホームにのみ、例外的に偽証を用意したりするだろうか。
しかも、この銀河¥謗ヤは、言ってみれば最重要な出発点なのである。
「正代さんという旧友もまた、自分では何も知らないままに、利用されたのではないでしょうか」
「美穂子が、銀河≠ノ乗って京都へ向かったのは、動かないというのかい」
「乗ることは乗ったでしょう。考えられるのは、次の停車駅で、降りてしまうことですね」
浦上は、今度はショルダーバッグから時刻表を取り出した。
寝台急行銀河≠フ最初の停車駅は東京都内の品川《しながわ》。二十三時二分となっている。
浦上は品川駅の時間を書き出してから、時刻表のあちこちをめくった。
慎重なチェックに十分余りもかけただろうか。
「美穂子は、横手へ行くことができませんね」
浦上の表情が、一種、虚脱したものに変わってきた。
「品川から上野まで、待ち時間なしでも十八分かかります。品川が二十三時二分では、東北新幹線はもちろんありませんし、北へ向かう遠距離列車は、すべて、上野駅を出発した後です」
「相当な女だね」
谷田は口元を引き締めた。
しばらく、重い沈黙が、谷田と浦上の間を遮《さえぎ》った。
ビールをぐいっと飲み干して、沈黙を破ったのは、浦上である。
「偽証は考えられないが、正代さんという旧友に会ってみるしかありませんね」
「竹下正代さんは、神田のスナックへ、パートで出ているんだ。しかし、働いているのは週末のみという話だから、今夜は駄目だな」
谷田はそう言って、美穂子から聞き出してある正代の住所と電話番号を、浦上に示した。
これから、西日暮里まで行くのでは、午後十時近くになってしまう。
そんな遅い時間の訪問は失礼でもあるし、相手に余計な警戒を抱かせる結果ともなろう。最後の最後まで、取材の真意を悟られてはいけないのである。
「淡路警部への連絡も、明日の結果を待って、ということにしよう」
「横手の部長刑事《でかちよう》さんたちは、横浜に腰を据えているのですか」
「うん、前線本部の形をとっているらしいが、その後の動きは知らない」
「とりあえず、これは返しておきます」
浦上は、切手を剥《は》がした絵はがきを、テーブルに載せた。
翌十二月八日、金曜日。
浦上伸介が、竹下正代の自宅へ電話を入れたのは、午前十一時過ぎだった。浦上は、白井保雄の一億四千万円横領事件を、取材の口実とした。
すると、正代は、
「午後三時半に、神田駅の周辺でどうでしょうか」
はきはきした声を返してきた。
谷田実憲が、篠田美穂子から聞き出していたように、週末、金、土の二日間、正代は神田駅ガード下のスナックで、バイトをしているのである。出勤前なら、時間をあけられる、と、正代はこたえた。
神田駅は、浦上にとっても都合がいい。『週刊広場』編集部から、徒歩十分ほどだ。
「では、三時半に小鍛冶《こかじ》でお待ちします」
浦上が指定したのは、神田駅近くで、古くから栄えている洋菓子店だった。
浦上は、午後、いったん編集部へ顔を出し、早目に『小鍛冶』へ行った。
浦上は、葉を落とした街路樹が見える、舗道際のテーブルに腰を下ろした。そうして、レモンティーを注文したところへ、ショートカットで、パンツスーツの女性が入ってきた。
視線が合って、双方で軽く会釈を交わした。竹下正代だった。
浦上は、篠田美穂子に関しては、写真でしか知らないが、正代も、三十四歳という年齢よりは若く見える。
浦上と同じようにレモンティーを注文すると、
「美穂子、警察に調べられたって、電話をかけてきましたわ」
正代のほうから、切り出した。
正代と美穂子は、寝台急行銀河≠フ慌ただしい一件以来、顔を合わせていない。が、電話のやりとりで、正代は、高校時代のクラスメートが置かれた立場を、承知していた。
「美穂子は、横手で殺された白井さんという男の人と結婚するつもりだったと言ってたけれど、その人、どうして、こんな犯罪に巻き込まれたのかしら」
正代は、浦上の取材目的を、白井保雄の横領事件と思い込んでいる。正代は、大罪を犯した男と婚約していたという美穂子に、同情した口の利き方をする。
「美穂子、もう結婚には懲《こ》りていたはずなのに」
正代は、白井事件の周辺にいる美穂子を、ある種の被害者と見なしていた。もちろん、それは、旧友をかばう、感情的なものでもあっただろう。
だが、正代のことばの裏にあるものが、浦上にひっかかった。
結婚に懲りたとは、何を指すのか?
やはり、美穂子の離婚には、隠れた事情があったのだろうか。新潟で前夫の千葉国彦を取材したとき、浦上が瞬間的に感じたようにである。
「こんなこと、しゃべってもいいのかしら」
正代は浦上に促され、
「でも、美穂子が悪いわけではないわ」
と、つぶやいてから言った。
新潟取材を補足する内容は、離婚の原因が前夫側にある、というものだった。
「一言で言えば、ご主人の浮気性ね。千葉さんて、もてもてのタイプでしょう。結婚後も、ずっと複数の女性とつきあっていたんだわ」
「しかし篠田さんは、別れてからも、新潟へ電話を入れているではありませんか」
「それはそれ、女心の未練ってものでしょ。千葉さんの女癖の悪さは許せなくても、美穂子は元元、千葉さんが好きで好きで仕様がなかったのだから」
「離婚は、篠田さんのご両親の亡くなったことが、遠因と伺っていますが」
「原因じゃないわ。美穂子は、お父さんとお母さんの死をきっかけにして、踏ん切りをつけたのよ」
そして、それを機に、美穂子の生き方ががらり変わった、と、旧友は証言する。
「少女時代から、気が強くて、機転が利くほうでしたが、五年前に新潟を出て以来というもの、目の色変えて、お金を稼ぐようになったんだわ」
まるで、破れた結婚に対する報復みたいな凄《すさ》まじさだったという。
夫の背信を引き金とする離婚が、美穂子の内面に、歪《ゆが》みを刻んだのか。あるいは、先天的に秘めていた欲望が、表面に引きずり出されたのか。
「横浜の中心地で、スナックを開くのが、夢だそうですね」
「だから、今度の再婚話が、あたしには信じられないのよ。殺された男の人、普通のサラリーマンだったのでしょ」
いまさら、美穂子が男に惑わされるとは思えないし、
「本当に、その男の人と一緒になるつもりだったのかなあ」
正代は、最後は独り言のようにつぶやいた。
そう、美穂子に、結婚の意思などありはしなかったのだ。美穂子の内面で醸成《じようせい》されていたのは、白井を踊らせての、大金奪取計画だけだ。
浦上は改めてそれを考え、こんな具合に説明をつづける正代が、共犯者では有り得ないことを、実感的に受けとめていた。
同じ水商売に関係するといっても、正代は、美穂子とは根本的に違うと思った。というよりも、非人間的に、冷酷な計算を立てる美穂子だけが例外に決まっている。
では、美穂子は、新潟以来の旧友を、どのように活用したのか。
「篠田さんが、寝台急行銀河≠ナ、京都へ向かった夜のことですが」
浦上は、さり気ない口調で核心に移った。
「はい。あの場では、特に打ち明けてくれませんでしたが、美穂子は、あの白井さんて人の行方を追っていたのですね」
正代の説明は、谷田が美穂子から聞かされたとおりだった。
「あたしは、神田駅で買った切符を、東京駅のホームまで届けに行きました」
と、正代はつづけた。待ち合わせ場所は、9番線ホームの中ほどであり、美穂子のほうが先に姿を見せていたという。
銀河≠ヘ、まだ入線していなかった。
正代が階段を上がって行ったのは、同じホームの反対側、10番線から、平塚行き湘南ライナー7号≠ェ、発車するときだった。
平塚行きが出払って、ホームの混雑が和《やわ》らいだとき、
『正代、悪かったわね』
美穂子が、正代を見つけて、小走りに近寄ってきた。
『花金《はなきん》で、お店が忙しい時間に、いい迷惑だわ』
正代は親しさをそんなふうに言い表わして、寝台券などを手渡した。
寝台車は、たまたま二人が落ち合った場所に近い6号車だった。B寝台を利用して、京都まで急行券込みで、一万五千二百五十円。
『ありがと』
美穂子は実際の料金よりも多い二万円を差し出し、釣りは受け取らなかった。
十二両連結の銀河≠ェ、9番線に入ってきたのが、そのときである。
『正代には申し訳なかったけど、本当に助かった。この借りは近いうちに必ず返すわ』
美穂子は正代に背中を見せて、6号車に乗り込んだ。美穂子の寝台は、15番の下段。
正代がホームにたたずんでいると、美穂子は15番寝台に入り、窓のカーテンを開けて、手を振ってきた。正代も手を振り、窓ガラス越しなので、車内に通じないかとも思ったが、
『気をつけて行ってくるのよ』
声をかけたという。
どこに仕掛けがあるのか。
すべては、美穂子が谷田に打ち明け、二俣川署での事情聴取に際して、横手の部長刑事たちにこたえたとおりではないか。
美穂子のアリバイが完璧だとすると、(これまでの分析結果には矛盾するけれども)改めて、共犯者の割り出しに、着手するしかないか。
浦上は、冷えたレモンティーを口にした。
「こんな話で、記者さんの参考になりまして?」
正代は、腰を上げようとした。
壁に、裂《さ》け目の生じたのが、その直後である。
「お忙しいところを、お呼び立てしてすみませんでした」
浦上も席を立った。
そうして洋菓子店を出て、神田駅前で別れるとき、浦上は尋ねた。
「あなたと篠田さんは、列車が動き出すまで、お互いに、ずっと手を振っていたわけですか」
意味がある質問ではなかった。ただ、こうして、せっかく証人≠ニ会ったのに、何の収穫も得られない焦燥が、形にならない食い下がりとなった。
光の差したのが、そのときだ。
「発車までではありませんわ」
正代はこたえた。
花金で、スナックは込んでいる時間帯だ。ママに無理を言って店を抜け出してきた正代は、一刻も早く、神田へ戻らなければならない立場だった。
「あたし、美穂子が乗り込んだのを見届けて、すぐに、ホームの階段を下りました」
それが正代の、最後にして最初の、決定的な証言だった。
浦上の頬が引きつった。
「するとあなたは、銀河≠ェ東京駅ホームから出て行くのを、見送ったわけではないのですか!」
浦上は自分の口調の高まりを、自分自身で感じていた。
浦上は正代と別れると、神奈川県警記者クラブ、『週刊広場』の順に電話をかけた。
それから一時間後の午後五時過ぎ、浦上は、『毎朝日報』横浜支局で谷田と会っていた。
二階編集室の、大部屋の一隅である。
夕方の支局は、新聞記者の出入りが慌ただしい。
浦上が顔見知りの支局長に簡単なあいさつをすると、
「週刊広場、というよりも、浦上さんとのご縁がまた一つ、深まりましたな」
小太りの支局長は、よろしく、というように一礼した。
捜査陣に新しい動きがないだけに、先行を自覚する支局長は、特ダネ確保の緊張を隠せなかった。
谷田もまた、
「明日の朝刊はもらった」
声に出し、顔に出していた。
谷田は、神田からの電話を受けた直後、淡路警部に対しては、
『浦上が何か嗅《か》ぎ付けてきたようです』
そうした言い方で、後で決定的な連絡を入れることを、ほのめかしておいたし、記者クラブでは、すでに、サブキャップが予定原稿を書き始めている。
スクープのお膳立ては、着々と進行中なのである。
浦上との検討の場を横浜支局としたのも、他社に気付かれないためと、関係方面との連絡を、密にするためであった。
小太りの支局長は、奥の支局長席で、一応静観の姿勢をとってはいるが、全神経は浦上と谷田に向けられている。
篠田美穂子のアリバイを崩し、他社に悟られないよう淡路警部に電話を入れ、横手北署の捜査本部が殺人容疑の逮捕令状を請求した時点で、横浜支局長のゴーサインが出ることになっている。
浦上のほうは、日刊紙と違って一刻を争うわけではないが、実際に横浜支局の編集室に身を置くと、スクープを前にした新聞記者《ぶんや》の緊張感が、嫌でも、ひしひしと伝わってくる。
浦上と谷田は、大部屋の一隅にあるソファで、最後の分析に入った。
「まず、これを見てもらいましょうか」
浦上は、のっけから時刻表を開いた。
もちろん犯行時、先月(十一月)号の時刻表であり、神田駅から桜木町駅へ来るまでの間、何度も見返してきたのは、東海道本線の下りページだ。
正代がホームへ上がって行ったのは、10番線から湘南《しようなん》ライナー7号≠ェ発車するときだから、二十二時三十分。それから間もなく、銀河≠ェ9番線に入ってくる。
「留意すべきは、ここです」
浦上は銀河≠フ入線時刻を指差した。銀河≠フ発車は二十二時五十五分だが、入線は二十二時三十三分となっている。
「先輩、アリバイ崩しの出発点が、東京駅9番線ホームであることは間違いありませんが、時間は二十二時五十五分ではなく、二十二時三十五分頃、ということになります」
浦上は、正代が寝台急行の発車≠見送ったのではなく、美穂子の乗車≠見届けたのに過ぎないことを、声を大にして繰り返した。
「錯覚を与える、微妙なトリックが、それか」
「正代さんがホームから引き返すのを待って、美穂子は、すぐに列車を降りた。東京のほうが、品川よりもずっと上野に近いですよ」
浦上は笑みを浮かべる。
「それから後の足取りチェックは、先輩と共有の楽しみに、とっておきました」
浦上は時刻表と並べて、テーブルの上に取材帳を置いた。自信のある、まなざしだった。
昨夜の検討のように、品川駅二十三時二分を出発点とすると、(品川|上野間所要十八分・運転間隔も最長の七分・乗り換えを二分と計算して)上野着が、実際には「二十三時二十九分頃」になってしまう。
これが、東京駅二十二時三十五分を出発点とすれば、(東京―上野間は正味七分だから、運転間隔と乗り換え時間を足しても)上野着が「二十二時五十一分頃」と短縮される。
「先輩、この微妙な違いが、ものを言ってくるでしょう」
浦上はことばに力を込めた。ここまで追い詰めてみれば、これで相手は投了、と、浦上が感じるのは当然でもあろう。
「もはや、敵玉を詰ますヨセ手順の、間違いようもないか」
谷田は、同意しながらも先を急いだ。
浦上は時刻表を引き寄せる。標準的なのは、四日前、浦上自身が出向いたときのように、東北新幹線から奥羽本線と乗り継いで行くルートだ。
しかし、東北新幹線は、上野発二十一時十六分のやまびこ129号≠ェ最終だから、使えない。
いや、その後に一本、臨時が走っている。これは、たまたま十一月二十四日運転のやまびこ199号≠セが、二十一時五十一分に上野を出てしまっているから、やはり駄目だ。
在来線というと、奥羽本線経由、すなわち直行の青森行き、急行津軽≠ェあるけれど、この列車も二十二時三十七分発だから、
「乗車不可能か」
浦上はつぶやく。
周辺から固めていくのは、最後の一本を絞り出すための、いつもどおりの作業だった。寄り筋を読むときの将棋と同じだ。
しかし、谷田は、出稿のタイムリミットを控えているだけに、長手順は待ち切れない。
「貸してみろ」
時刻表に手を伸ばして一べつし、
「いまは結論を急ごう。これだな。この寝台特急は、上越本線を走る弘前行きだぞ」
乱暴な筆致で書き出した。
上野発 (十一月二十四日)二十三時 寝台特急あけぼの81号
横手着 (十一月二十五日)六時二十六分
「ぴったりじゃないか。美穂子はこの交通《あし》を消すために、白井の生存時間を伸ばす、切手トリックを考案したのに違いない」
谷田は淡路警部に連絡をつけるため、すぐにも受話器を取ろうとしたが、
「待ってください。この寝台特急は走っていませんよ」
浦上が、谷田のメモにクレームをつけた。
「走っていない? 運転していない列車を、時刻表に載せるのか」
「こいつを見落としては困ります」
浦上は、時刻表の列車名の下に出ている記号、を指差した。このは、臨時列車を意味する。
谷田は旅慣れていないので、見逃しもやむを得ないが、その運転日を確認したとき、
「これも、計算してのことかな」
浦上は思わず舌打ちをしていた。あけぼの81号≠フ運転日注意欄は、次のように記されているのである。
上野発11月21日までの毎日と 12月27日→1月10日運転
「嫌になっちゃうな。問題の十一月二十四日の、わずか三日前までは、毎日走っていた列車ですよ」
「三日前までか」
谷田も、おうむ返しにつぶやく。
三日前十一月二十二日までの殺人《ころし》でなければ、あけぼの81号≠ヘ利用できない。
この辺りから、ダイヤチェックの雲行きが怪しくなってきた。
「あれ?」
浦上の横顔を不審がよぎったのは、それから間もなくである。
あけぼの81号∴ネ降にも、東北本線のページには、秋田や盛岡行きなどの遠距離列車が五本、列記されている。当然、そのどれかを使えばいいと思ったのだが、五本は、いずれも◆マークの臨時列車だったのである。
あけぼの81号≠含めて、六本全部が、十一月二十四日には運転されていないことが分かった。いや一本だけ金曜日(二十四日)に運転されている新特急がある。しかしなすの81号≠ヘ福島よりずっと手前の宇都宮が終点だから奥羽本線にはつながらない。
「おい! 新幹線も走っていなければ、在来線にも乗れないっていうのか!」
谷田はもう一度、自分の目で、時刻表を確かめた。
「これじゃ、クラスメートを押し立てての、東京駅9番線ホームの小細工など、必要ないじゃないか」
谷田は、いまいましそうに吐き捨てていた。
どうなっているのだろう? 見当たらないのだ。どう見たって、北へ行く列車がない。
十一月二十四日は、上野発二十二時三十七分の急行津軽≠ェ、横手へ行くための最終なのである。
二十二時三十七分といえば、東京駅9番線ホームに停車中の銀河≠ゥら脱出して、わずか二分しか経っていない。
上野は、東京から四つ目の駅である。美穂子はそれこそ絶対に、銀河≠ゥら津軽≠ヨと乗り移ることができない。
9章 最後の列車
取材に出ていた記者たちが次々と支局に上がってきて、編集室の慌ただしさは倍加されている。
谷田実憲と浦上伸介が額を寄せるソファと、支局長席は、大部屋の両端に離れているが、小太りの支局長は、一向に谷田の報告がこないことを気にしてか、東京本社へ送る原稿のチェックを中断して、こっちを見ている。
谷田は支局長席を無視。一息入れるようにして大部屋を出ると、エレベーター前の自動販売機で、ウーロン茶を二本買ってきた。
「飛行機は飛んでいないし、夜行列車もないとあっては、残る交通手段は自動車か」
谷田は、ウーロン茶の一本を浦上に勧めて、つぶやく。
「このごろは、帰省バスが、はやっているじゃないか」
「東京や横浜を、夜出発して、朝、現地に着くバスですね」
「それだよ。それしかあるまい」
谷田はウーロン茶を飲み干して、ピース・ライトに火をつけた。
浦上もキャスターをくわえ、ちらっと奥の窓際へ目を向けた。小太りの支局長は、いつまでも何をしているのか、といった顔をしている。
「バスもその時刻表に載っているのだろ」
「ええ、この場で確認できます」
浦上は長距離バス(夜行便)のページを開いた。
意外に多くの路線があった。しかし、結果から先に言えば、これも浮上してはこなかった。
この時間帯、東北方面行きの長距離バスは、ほとんどが、渋谷、池袋、新宿、そして浜松町バスターミナルを出発した後だったのである。
唯一乗車可能なのは、東京駅八重洲南口発二十三時十分のバスだが、これは、岩手県の盛岡バスセンター行きだった。一口に東北と言っても、秋田県の横手とは方向違いだ。それに深夜、東北自動車道を走るバスから、横手へ乗り換えて行く手段があるとも思えない。
「夜行便バスも消えたとなると、レンタカーですか」
「美穂子が車を運転する話は聞いていないぞ」
谷田はたばこをもみ消し、
「仮に運転免許証を持っていたとしても、ペーパードライバーでは、高速道路を走って横手までの遠乗りは、難しいのではないかね」
と、浦上を見た。
浦上も同感だ。
美穂子は、一体いかなる方法で、東京―横手の空間を埋めたのだろう?
やはり、隠れた共犯者がいるのか。この場合の共犯とは、(殺人《ころし》の加担者ではなく)レンタカーを運転する人間のことだ。
(それも考えられないな)
浦上は首をひねりながら二本目のたばこに火をつけ、二、三服吹かしただけで、消していた。
浦上は名残り惜しそうに、あるいは所在ないままに、大判の時刻表をめくる。
上野駅での発見がないのなら、横手から逆に辿《たど》ることで、何か出てこないか。一方にはそうした思いも潜在したが、大した希望はなかった。
期待もないまま、ページのあちこちを繰っているうちに、
「何だ、これは?」
浦上は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を発していた。
唐突に、一本の寝台特急が、時刻表の中へ出現してきたのである。
東北本線下りの時刻表は、「上野―仙台」間、「仙台―青森」間と分載されているわけであるが、「上野―仙台」間には記されていないブルートレインが、「仙台―青森」間のページに載っている。
上野発 二十三時三分 寝台特急ゆうづる3号
上野駅が二十三時三分ならば、美穂子は、余裕を持って、この寝台特急に乗車できるではないか。
「どうした?」
「それが」
訳が分からないと言いかけたが、事情はすぐに飲み込めた。
単純な見落としだった。
上野駅から東北へ向かうのは、東北本線だけではなかった。仙台へ抜けるまで太平洋岸を行く、常磐線があるわけだ。
ゆうづる3号≠ヘ海沿いを走り、仙台から、本来の東北本線に合流する。
そのため、東北本線の「上野―仙台」間には、列車名が登載されていなかったのであるが、ゆうづる3号≠フ出発は、常磐線のほうに明記されている。
「ほう、浦上サンにしても、やむを得ない見損じか」
谷田の表情に、生色がよみがえってきた。
浦上も同様だ。今度こそ最後だろう。美穂子はゆうづる3号≠利用したのに間違いない。
だが、よくよくチェックすると、この寝台特急は、奥羽本線への乗り継ぎ駅福島とは無関係な海側を走っているわけだし、一時三十四分に平駅を発車すると、東北本線との合流点であるターミナル駅仙台もノンストップで、四時四十分着の一ノ関駅まで、どこにも停車しないのである。
こうした東北本線の特急に乗っていて、朝までに奥羽本線の横手へ行くことができるのだろうか。
新しい疑問が、瞬間的に浦上をよぎった。
浦上は、時刻表の小さい数字と、駅名を追うのに疲れてきた。
一つ伸びをして、カラー印刷の、索引地図を開いた。
位置関係は、当然、こっちのほうがぴんとくる。
瞬間的な疑問は、索引地図が解消してくれた。
「そういうことですか」
浦上は自分に向かってつぶやき、再度、細かい数字が羅列されるページを開いた。ふうっと、大きな吐息が漏れていた。
「先輩、ゆうづる3号≠ヘ、早朝五時十一分に、北上へ到着します。やっと、美穂子を横手へ連れて行くことができます」
勝利の快感は、複雑な疲労とともに、やってきた。
北上着 五時十一分 寝台特急ゆうづる3号
北上発 五時十三分 北上線下り(始発)
横手着 六時五十五分
ダイヤを書き出す浦上の脳裏に、四日前の横手駅が浮かんでくる。あの日つばさ9号≠降りて跨線橋を渡ると、改札口前のホームに、二両連結の気動車がとまっていたけれど、確か、あれが北上行きだった。
「なるほどね。北上線か。確かつい先日、トンネル事故があったローカル線だな」
谷田は何度もうなずく。
「これで、藤森アパートには、朝のうちに入ることができる」
「これなら、納豆とみそ汁へのこだわりも消えます」
「今度こそ、殺人《ころし》は、十一月二十五日の朝で動かないな」
「次は、犯行後の足取りですね」
普通なら、横手到着≠ナ解決。裏付けは捜査陣に一任、ということになるのだが、今回は違う。
凶行後の美穂子を京都へ連れてこなければ、完全なる収束とは言えない。
「藤森アパートで、少なくとも、一時間は見る必要があるでしょうね」
「そうだな。毒入りスコッチを飲ませるにも、怪しまれないためには、話を持っていく一定の順序ってものがある」
「列車の乗り降りと、駅と藤森アパートの往復で、およそ四十分」
「ああ、どんなに急いでも、横手で一時間四十分ぐらいは、確保しておくべきだろうな」
ということで、二人の意見は一致する。
すると、十一月二十五日の時間配分は、次のような形になる。
横手駅発 八時三十五分頃
京都駅着 十四時頃
「京都」は谷田夫婦の目撃で不動。余裕を持たせるとすれば「横手」のほうだが、これも、十分や十五分短縮できたとしても、大して意味のないことが分かった。奥羽本線と北上線が交差しているとはいえ、発着列車が少ない、地方駅なのである。
北上線で行ったのだから、北上線から検討するのが、常識だろう。
六時五十五分の横手到着後、最初の上りは七時四十一分発だから無理。
次は、湯沢始発でやってくる気動車だった。幸いなことに、これは快速である。
しかも、終点北上では、六分の待ち時間で上り新幹線に連結している。
「帰りは、往路みたいに骨を折らなくとも済みそうだな」
谷田は期待の籠もったまなざしで、浦上のチェックを見守ったが、
「こりゃ、話にならないですよ」
浦上は東北新幹線のページを開いたところで、ボールペンを投げ出していた。
横手発 八時五十六分 北上線上り快速きたかみ
北上着 十時二十一分
北上発 十時二十七分 やまびこ38号
上野着 十三時二十四分
確かに、問題にならない。美穂子が、京都駅烏丸口タクシー乗り場の行列に、割り込もうとしたのは、これでいくと、上野に到着してから、わずか三十分後ではないか。
北上駅での乗り換え時間に、いかにロスがなくとも、これでは駄目だ。
が、試行錯誤を繰り返したとはいえ、東京駅と横手駅を、線で結ぶことはできたのである。
美穂子の京都到着は、必ず、横手(毒殺)経由でなければならない。新しい壁が出現したとはいえ、横手へ行くルートを割り出しただけに、さっきのような暗さは、浦上にも、谷田にも感じられない。
「オレたちが、現在利用できるもっとも速い交通は飛行機だな」
谷田は、思考の形を整理するような口の利き方をしたが、しかし、秋田―大阪間に限って、空路はうまくいかないのである。これは、美穂子の京都―横手往復≠重視していた時点でチェック済みだ。
秋田空港発 十二時二十五分 JAS782便
大阪空港着 十四時四十分
大阪へ飛行する最初の便がこれでは、直行は捨てざるを得ない。
では、直行はあきらめ、いったん他の空港へ飛んで、乗り換えるというルートはないか。すぐに思い付くのは、それだ。
横手から秋田空港までは、車で一時間半だから、横手駅前を八時三十五分頃の出発とすれば、十時過ぎの便なら、搭乗可能ということになる。
大阪に近いのは、名古屋だ。しかし、秋田―名古屋間は、偶数日のみの運航だった。十一月二十五日は飛んでいない。
と、なると、期待できるのは東京乗り換えだが、これも、うまくいかなかった。
秋田空港発 八時五十分 ANA872便
東京空港着 九時五十五分
秋田空港発 十二時十五分 ANA874便
東京空港着 十三時二十分
「始発便に乗れれば文句なしですが、利用できるのが二本目の便では、これまた論外ですね」
「羽田で、十三時二十分では、手の打ちようもないか。いや、逆行してからという手が残っているぞ」
谷田は浦上を急《せ》かした。
確かに、逆行はある。札幌行きだ。
秋田空港発 十一時四十五分 JAS84便
千歳空港着 十二時三十五分
だが、これも無理だった。札幌から折り返す大阪行きの接続便は、一時間三十五分待たなければならないからである。
千歳空港発 十四時十分 JAL574便
大阪空港着 十六時五分
こうなると、秋田空港出発のこだわりは、放棄しなければなるまい。
結局、最後のルートは鉄道、奥羽本線の上り、ということになろう。
浦上は、時刻表のページを戻した。
始発は、六時三十七分に横手を出るL特急つばさ8号=Bもちろん、これは使えない。
美穂子は、青酸ソーダ入りのスコッチを白井に勧めるどころか、この時間ではまだ、横手にも到着していない。美穂子を乗せた北上線下り普通車は、横手より四つ手前の、小松川《こまつがわ》に着いた矢先だ。
犯行後の美穂子が利用できるのは、二本目のL特急ということになる。
横手発 九時二十八分 L特急つばさ12号
福島着 十三時七分
「何だと?」
谷田は、浦上が辿る指先を、浦上と同じように目で追いかけて、怒鳴った。
「これが二本目の特急か。これしかないのか!」
声に新しい焦燥がにじんだ。
「福島―京都間を、どうすれば一時間以内で埋められるというんだ。横手へ行くことは行けても、京都へ連れてこれないのでは、話にならん」
まさに、そのとおりだ。
(1)白井の死亡時間に錯覚を与える、絵はがきトリック
(2)旧友の正代を使っての、銀河′ゥ送り工作。
そして、(3)常磐線から北上線を経由する横手行きのルートは解明されたが、
「先輩、これは四重アリバイ工作ですか」
浦上はキャスターに火をつけた。
そのとき、支局長が席を立った。支局長は堪《たま》り兼《か》ねたか、がやがやした大部屋を横切って、ソファが置かれたコーナーへ、やってきた。
(ゆっくりしていると、朝刊に間に合わなくなるぞ)
小太りの支局長は、そんな表情だった。
三人寄れば文殊の知恵、でもなかろうが、その支局長が、別な手がかりを持ってきた。
「どうも、うまくいきません」
谷田が、これまでに書き出したメモを示すと、
「場所《しよば》を変えて、コーヒーでも飲んでくるかね」
支局長は、思考の切り替えを求めるよう、そう言いかけたが、そこで口調を改め、浦上と谷田の視線の、固定化を問題にしたのだった。新しい思考の切り替えを提案したことが、支局長自身に、一つのヒントを運んできたのである。
「鉄道が駄目なら、空路に戻るしかありませんな」
支局長は浦上を見、谷田を見た。
「秋田空港へのこだわりが、不発に終わったせいで、お二人とも、鉄道しか目に入らなくなったのですかな」
支局長はそうした言い方で、奥羽本線にもう一つ空港があることを指摘した。しかも、これは、秋田よりも西に位置する空港だ。
浦上はたばこを消した。
「山形ですか。そうだ、山形空港がある!」
思わず臍《ほぞ》をかむと、
「このローカル空港から、大阪へ直行便が飛んでいれば、文句なしですな」
支局長は谷田と並んで、ソファにどっかと腰を下ろした。
浦上は最後の期待を込めて、再度、航空ダイヤのページを開いた。
直行便はあった。
「山形空港―大阪空港」間は、一日に三便のJAS≠ェ運航されており、(日によって多少異なるが)十一月二十五日の始発は、次のようなダイヤだった。
山形空港発 十一時十分 JAS692便
大阪空港着 十二時三十五分
浦上は、数字を書き出す指先に、震えが走るのを感じた。
大阪空港から京都駅までは、すでにチェック済みのように、タクシーで五十分前後。美穂子は、これなら十三時三十分には、京都駅へやってくることができる。
烏丸口タクシー乗り場で、美穂子が行列に割り込もうとしたのは、十四時頃だ。山形空港からJAS692便≠ノ搭乗すれば、ゆうゆうと間に合うではないか。
「これが本命ですね」
浦上が口元を引き締めると、
「さすがは支局長だ、亀の甲より年の功の実践ですか」
谷田は見落としを恥じてか、減らず口をたたき、
「この便の搭乗者リストをチェックすれば、必ず、偽名の女性客が一人現われるって寸法だな」
もう一度、浦上が書き出した数字を、見詰めた。
浦上は時刻表を、改めて指で辿った。
横手を九時二十八分に発車したL特急つばさ12号≠ヘ、十文字、湯沢、新庄と停車して行く。
山形空港の最寄り駅は、横手から向かうと山形より手前の天童《てんどう》だ。横手寄りである点も、乗り換えの時間短縮に有利と言えよう。
行きは常磐線、帰りは山形空港経由。解決してみれば、
(なるほどね)
といったルートかもしれないが、美穂子はすべて単独で、一連の偽装計画を立てたのだろうか。
浦上はそう考えながら、指先で沿線の駅を追っていたが、
「ちょ、ちょっと待ってください」
ふいに、暗いつぶやきを発した。楯岡《たておか》、天童と移動した指先が、紙面に吸い付けられたように、とまった。
「これを見てください」
時刻表を見詰める浦上の声が、何とも重いものに変わっている。
天童着 十一時二十九分
JAS692便≠フ山形空港出発より十九分も遅れての、天童到着ではないか。
「本当に駄目かな」
谷田は手を上げて編集総務の給仕《こどもさん》を呼び、資料室へ行って、山形の分県地図を持ってくるよう命じた。
すぐに届いた分県地図を広げると、谷田は言った。
「山形空港は、天童よりも北だぞ、最寄り駅は天童でも、一つ手前の駅で降りて、タクシーを飛ばす手があるんじゃないか」
「そうだね。詳しいことを、山形支局へ問い合わせてみるか」
支局長も身を乗り出した。何が何でも、JAS692便≠ノ、美穂子を乗せなければならないのである。
だが、山形支局に電話をかけるまでもなかった。
天童の一つ手前といえば楯岡であるが、つばさ12号≠フ楯岡着は、十一時十七分だったからである。
「楯岡でも、離陸後七分経《た》ってからの到着か」
「その次の便では、駄目でしょうな」
支局長の声が、力ないものに、変わってきた。
次の便は、大阪空港着が十五時四十分だから、問題外もいいところだった。
「どうしても、山形空港を十一時十分に出発しなければ駄目か」
「最有力のルートだけど、あきらめざるを得ませんね」
「福島には、空港がないか」
「仮にあったとしても、福島駅に着くのが十三時七分では、うまくいきっこありません」
「結局、山形以後大阪までの間に、残る空港と言えば、東京と名古屋だけだな」
谷田が両腕を組むと、
「福島が駄目なら、なおのこと無理だろうが、福島から仙台へ戻れば、空港が、あることはあるね」
支局長が、話の接ぎ穂のように言った。
もちろん、福島から仙台まで、北へ逆行するというのでは、期待など持てるはずもない。だが、基本となる出発点は、横手なのである。
「そう、その手が残っているかもしれませんよ」
浦上は時刻表を引き寄せ、
「それが正解なら、迷路に踏み込んでしまった、こっちが悪い」
ぶつぶつつぶやきながら開いたのは、東北新幹線のページだった。
「仙台空港―大阪空港」間が利用できるのであれば、最初のメモが生きてくる。すなわち、北上線で引き返すコースだ。
さっきの検討では、北上から上野まで、新幹線で直行してしまったので、枠外となったが、あのやまびこ38号≠ヘ、北上を発車すると、水沢江刺《みずさわえさし》、|一ノ関《いちのせき》、古川《ふるかわ》と停車して、仙台に到着する。
仙台着は十一時十九分だ。
さて、これで都合よく運ばれるのかどうか。
ここにも、幸いなことに直行便はあった。仙台と大阪の間は、一日四便のANA≠ェ結んでいる。
だが、ダイヤを書き出そうとして、
「どうにもなりませんよ!」
浦上は時刻表を叩き付けていた。
仙台空港発 九時四十分 ANA732便
大阪空港着 十一時五分
それが、始発便だった。
次の便は、十二時発だから、ぎりぎりで搭乗可能かもしれないが、大阪空港着が十三時二十五分。
大阪空港からざっと五十分を必要とする京都駅へ、十四時頃までに到着することはできない。新大阪へ出て、新幹線を利用するルートもあるけれど、これも駄目だった。待ち時間と乗り換え時間抜きで計算しても、(大阪空港―新大阪駅二十五分、新大阪―京都十七分)四十二分を要するのである。
「そういうことか」
支局長はしばし無言の後で、
「明日のスクープは消えたね」
ぽつんとつぶやいて、ソファから重い腰を上げた。
支局長席へ戻って行く、その小太りな後ろ姿に目を向けて、
「真犯人《ほんぼし》が美穂子で動かないのなら、もう一度、横手へ行ってみるしかないだろうな」
谷田はたばこに火をつけた。
毒殺現場である『藤森アパート』へ到着するルートは、これまでの検討で間違いないはずだ。同じ列車を乗り継いで行けば、時刻表では割り出せなかった、帰りのコースが見えてくるか。
「やってみましょう」
浦上も、机上分析の限界を感じ始めている。
どうせなら、早いほうがいい。
上野発二十三時三分なら、これから神田の『週刊広場』へ立ち寄っても、十分に間に合う。
「ゆうづる3号≠フ寝台券が取れるのなら、今夜出発します」
浦上も立ち上がっていた。
翌十二月九日、土曜日。
浦上伸介を乗せた寝台特急ゆうづる3号≠ヘ、予定どおり四時四十分に一ノ関に着いた。
一時三十四分に平を出て以来、最初の停車駅である。
その一ノ関を発車したところで、専務車掌が浦上を起こしにきた。
前夜検札の際に、声をかけてくれるよう頼んでおいたのだが、沿線はまだ暗い。通路へ出て、窓のカーテンを開けると、凍《い》てつくように晴れ渡った冬空に月が出ている。
左下が欠けた月である。
にぶい月光の中で、遠い山の稜線が黒く沈んでいる。
美穂子は、ゆうづる3号≠フ車窓から、どんな表情で東北の早朝を眺めたのか。犯行は十四日前だから、美穂子が目にしたのは、(いまとは違って)右下が欠けた月であっただろう。
浦上はそうしたことを考えながら、たばこを一本くゆらして、着換えにかかった。
間もなく、北から南へ、ゆったりと流れる大きい川が見えてきた。北上川だ。
北上の流れを挟んで、在来線と、東北新幹線の高架が、しばらく平行してつづき、やがて、双方が一緒になると北上駅だった。
ゆうづる3号≠フ北上着は、五時十一分。浦上と同じ列車で降りたのは、十人ほどだった。
十二月の空はまだ明けていない。北上川と和賀川《わががわ》が合流する人口四万五千の北上市は、夜の静けさを、そのまま保っている。
駅もひっそりしており、寝台車の暖房が利いていただけに、川を渡ってくる北風が、身を切るように冷たく感じられる。
しかし、そんなことは言っていられない。乗り換え時間は、わずか二分だ。
浦上は北上線ホームへ急ごうとして、
「ばかめ!」
思わず足をとめていた。がくん、と、音を立てるような、強い衝撃を伴う停止の仕方だった。
「ばかめ!」
と、叫んだのは、自分自身に対してであった。
「ここまで来なければ、それに気付かなかったなんて、これはどうしようもない読み損ないだぜ」
自嘲《じちよう》のぶやきは、そんなふうにつづいた。足をとめた浦上が捕らえているのは、乗り換え案内の掲示板だった。
「本当に、これでいいのか」
「これしかあるまい」
浦上は案内板を見詰めて自問自答すると、ショルダーバッグから十一月の時刻表を取り出していた。
そして、さらに細かいダイヤとルートを質《ただ》すために、改札口の駅員のところへ飛んで行った。
終章 殺人《ころし》の接点
谷田実憲が、文字どおり早朝の電話で起こされたのは、五時三十分にならないうちだった。
横浜も、まだ暗い。
「あなた、北上にいる浦上さんからよ。どうしたのかしら。いつもの浦上さんでないみたいにかっかしているわ」
電話を受けた郁恵は、緊張した声で谷田を呼びにきた。
谷田は寝床から這《は》い出し、パジャマ姿のまま受話器をとった。
「先輩、銀河≠ノ始まって銀河に終わったようです」
いきなり飛び込んできた声が、それだった。前置きなしにそう言われても、何が何だか分からない。
「おい、美穂子が、もう一度銀河≠ノ乗ったってわけじゃないだろうな」
「もちろん、違います。こっちは、銀河鉄道です」
「朝っぱらから人を叩き起こして、何を言ってるんだ」
「先輩、銀河鉄道の夜は読んでいますよね」
「銀河を旅する少年の話か。宮沢賢治《みやざわけんじ》だろ。賢治がどうした?」
「賢治は岩手《いわて》県|花巻《はなまき》の出身です」
「何を言ってるんだ。きみは殺人《ころし》ではなく、童話の取材にでも行ったのか」
「花巻は北上に隣接しています。それを盲点と言えるなら、花巻が、北上より北に位置していることが、盲点でした」
「何を言いたいんだ」
「ぼくはいま北上駅前からかけているのですが、ここからバスが出ています。岩手県交通の石鳥谷《いしどりや》線です」
「そのバスが、賢治の詩碑か記念館にでも通じているのか」
「これは、北上駅を出発すると、花巻駅、花巻空港を経て、終点の石鳥谷上町に至る路線バスです」
「花巻空港だと?」
「東北新幹線の開通で、東京空港行きは廃止となりましたが、昔は、一日に一、二本花巻から東京直行便が出ていたそうです」
「盲点は、そのローカル空港か」
「これが、北上より西にあれば、文句なく、チェック対象になっていたでしょう」
「弁解は後だ。で、使えるのか」
「出発便は、一日に五本という小さい空港です。いずれもJAS≠ナ、札幌行きが二本、名古屋行きが一本」
そして、大阪行きが二便、と、つづける浦上の声が、複雑な高まりを見せている。
「北上から花巻へ行くには、このバスもあるし、新幹線も利用できます。しかし、横手での犯行後、北上線の上り快速きたかみ≠ナ引き返してくると、在来線接続がもっとも速いルートになります」
浦上は、そうした説明の仕方で、京都への交通《あし》が、完璧に割れたことを伝えてきた。
横手発 八時五十六分 北上線上り快速きたかみ
北上着 十時二十一分
北上発 十時三十七分 東北本線下り普通
花巻着 十時四十九分
(タクシー=十分前後)
花巻空港発 十一時二十五分 JAS632便
大阪空港着 十三時
(タクシー=五十分前後)
京都駅着 十四時頃
「美穂子が、考案実行したアリバイ工作が、それかね」
「今度こそ、間違いないでしょう。花巻空港発十一時二十五分のJAS632便≠ヘ、必ず、偽名の女性客を乗せていたはずです」
新幹線のダイヤに合わせれば、新大阪―京都間はひかり@用で、京都到着時間に余裕を持たせることが可能かもしれない、と、浦上は順序を立てて伝えてきたが、口調が、やはり、どこか不安定だった。銀河鉄道の空港≠、机上チェックで見落としたことが、何ともいたたまれないのである。
「おい、気にすることはないぞ。スクープが一日延びただけだ」
谷田は浦上を励まして、朝の長電話を終えた。
浦上は、快速きたかみ≠フ到着を、ホームの寒いベンチで待った。
後は淡路警部に一任して、早々と新幹線で帰京してもいいのだが、問題の気動車だけは自分の目で見届け、雑誌掲載用の写真を、ばっちりカメラに収めておきたかった。
そして、予定時刻に、二両連結の気動車がホームに入ってきた。
乗客たちが、ぞろぞろと降り始めたとき、浦上は、その人込みの中に、カーキ色のジャケットで、黒革のミニスカートが似合う、ほっそりした美女の姿を見たと思った。
そう、そこに、長い髪で顔を隠す、十四日前の美穂子がいた。
幻影の確認は、勝利の到来を意味する。
浦上は、ようやく余裕を取り戻した表情で、快速きたかみ≠ノ向けて、シャッターを切った。
朝がきて、明るくなった空に、月が残っている。夜の輝きを奪われた白い月。
白井が毒殺された朝も、白い月が、明るくなった空の一角にあったのかな、と、そう思いながら浦上はホームを歩き、遠くの山脈《やまなみ》に目を向けた。
横手北署の捜査本部によって、JAS632便≠フ偽名搭乗客が洗い出され、浦上の発見が裏付けられたのは、それから三時間と経たないうちだった。
上野着十四時二十四分のやまびこ40号≠ナ引き返してきた浦上が、上野駅から『毎朝日報』横浜支局へ電話を入れると、
「美穂子は、さっき二俣川署へ連行されたよ。横手へは、今日中に押送される」
谷田の明るい声が返ってきた。
一億四千万円はアタッシュケースに入れられ、ほとんど手つかずの状態で、小田急線町田駅のロッカーから出てきたという。
『コーポ羽沢』三十二号室を家宅捜索《がさいれ》したところ、
「美穂子のポシェットの中から、キーが見つかった」
と、谷田は言った。
追及した結果、それが、町田駅構内にあるロッカーのキーと分かった。町田は、美穂子が、白井とひそかなデートを重ねていた町である。
美穂子は、一日置きに出し入れを繰り返しながら、大金を生活圏から離れた市外のロッカーに保管していたのだった。
「きみ、今夜横浜へ来るのだろうな。『さち』で飲み直そう。スクープの乾杯を、先へ伸ばすわけにはいかないぞ」
谷田の声が、がんがんと響いてくるほどに、高くなった。
東北線の発着駅上野は今日も込んでいる。
浦上は、受話器を握り締めたまま、上野駅コンコースの人波に目を向けた。
殺人《ころし》から、ちょうど二週間目の収束であった。
(注 本文中の列車、航空機、バスなどの時刻は、一九八九年十一月、十二月現在のダイヤによる)
本書は、一九九○年三月、立風ノベルスとして刊行され、一九九三年一一月、講談社文庫に収録されました。