津村秀介
大阪経由17時10分の死者
目 次
序章 長髪の男女
1章 外人墓地
2章 信貴山の夜桜
3章 三つのルート
4章 関西本線王寺駅
5章 密葬に参列した男
6章 全裸殺人
7章 新潟のアリバイ
8章 イミテーションの桜
終章 完全≠フ構図
序章 長髪の男女
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときがきた。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
梶井基次郎《かじいもとじろう》『桜の樹の下には』(新潮文庫)
*
男は、女の顔に桜の花片を振り撒《ま》いていた。
きれいな花片は、しかし、実物ではなかった。
本物そっくりにできた、造花《イミテーシヨン》だった。
男は造花をちぎって、女の顔に振り撒いている。
男は、そうした無言の作業をつづけながらも、冷めた目で、女の白い顔を見詰めている。
男も女も、髪が長かった。男は耳の下辺りまでだが、女の方は、優に背中を覆うロングヘアだった。
女を、ダブルベッドの中で全裸にしてからどのくらいが過ぎたのか、男には、時間の経過が定かではなかった。
男は、閉ざされた快楽に全身を沈めていた。
ベッドの中の女は軽く目を閉じており、身動きひとつしない。
正に、男の意のままだった。女のすべてを自由にできることが、深く満ち足りたものを男に運んでくる。
静か過ぎる夜だった。
時折、戸外で乗用車の出入りする音がしたけれど、人声は全く聞こえてこない部屋だった。
閉ざされた部屋の中で、男の、単調な手の動きだけが生きている。単調ではあるが、男に、この上ない充足感を与える作業。
桜の造花は実物そっくりの枝で咲いており、男はイミテーションの枝を何本も用意していた。
男は一本の造花を全部散らせてしまうと、枝を女の頸部に置き、次の一本を取り出すのだった。
こうして、花を散らせた枯れ枝が十本を越えたとき、
「ゆっくり眠るがいい」
男はそっと、全裸の女に毛布をかけてやった。
それでも女は男のなすがままで、じっとしている。
男はダブルベッドを下りると、長い髪にちょっと手をやってから、たばこに火をつけ、背後を振り返った。
1章 外人墓地
春の訪れが遅かった。春雪に見舞われたせいか、花だよりが、なかなか聞かれない。
横浜地方気象台が、ようやく、ソメイヨシノの開花宣言をしたのは、前年より十二日も遅かった。
四月二日、土曜日。
桜前線到着が報じられたと言っても、横浜市の花は、まだ、ほとんどが、つぼみのままだった。
港の見える丘公園とか、外人墓地周辺にしても、同様である。
花曇りで、気温も低かった。最高気温が、例年より四度も低い十一度に過ぎない。
それでも、土曜日とあって、横浜港も、山手の丘も、人出が多かった。市外から訪れた、若い男女の姿も目立った。
その二人は、山梨県大月市から日帰りでやってきた恋人同士だった。
二人は小型カメラと観光案内図を片手に、港の大桟橋を歩き、マリンタワーに上り、それから港の見える丘公園に向かった。
恋人同士は、途中のスタンドで、ハンバーガーとオレンジジュースを求めた。そして、山下公園沿いの、いちょう並木の舗道を歩きながら、ハンバーガーを食べた。それが、若いカップルの早目の昼食だった。
二人が堀川にかかる山下橋を渡り、港の見える丘公園へつづくフランス山に足を向けたのは、午前十一時過ぎである。
フランス山公園は、大きく枝を広げた樹木が多い。散策路は、大木の間を縫《ぬ》って上がっている。
その細い坂道までくると、人影もぐっと少なくなった。
「やっぱ、きてよかった。港がある町っていいわね」
「帰りは、横浜駅の東口まで、シーバスで戻ろうか」
二人の口調が軽くなっていたのは、人気の少ない小道での、解放感のせいだろう。
恋人同士は、手を取り合って、立ち木の中の坂を上がっていく。
しかし、平穏は持続されなかった。木の間隠れに、新山下の貯木場を見下ろす曲がり角まできたとき、足音が、物すごい勢いで、坂の上から駆け下りてきたためである。
砂利と赤土の急坂を、足を滑らすようにして下ってくるのは、二十代の若い男だった。黒っぽいコートのえりを立てていた。
『ぼくと同じような体型でした。一メートル六十八で、六十キロぐらいかな』
『薄いサングラスをかけてたわ。うん、長髪でした。髪の長さは肩ぐらいまでだったと思います』
と、若い恋人同士は、後で山下署の刑事にこたえている。
その、サングラスの男が、曲がり角を曲がり切れないといった感じで、恋人同士にぶつかってきたのだ。
男の息遣《いきづか》いが荒かった。
手を取り合った恋人同士は、一瞬、柵《さく》の側に身を避けたが、
「失礼!」
男は一言そう言い残しただけだった。黒いコートのすそを翻《ひるがえ》し、さらに加速度をつけて、狭い坂道を下っていった。
まるで野良犬のような、乱れた息遣いだった。あっという間の遭遇だった。
何があったのか。
それが何であるのか、もちろん分かるわけはないが、坂の上で、異変が生じたことは間違いなかろう。
「あら?」
彼女は、男の足音が消えたとき、柵の下を指差していた。
一冊の文庫本が転がっていた。
いまのいままで、坂道に文庫本など落ちてはいなかった。サングラスの男の遺留品であることは、すぐに分かった。
彼は彼女の発見を継承して、柵の下にかがみこんだ。
文庫本に手を伸ばそうとして、彼は、慌ててその手を引っこめていた。
低い、乾いた声が、彼の口から漏れた。
「血じゃないか。そう、間違いない。これは血だ」
「血?」
彼女は、彼の背後から、恐る恐る柵の下の遺留品をのぞき込んだ。
文庫本にはカバーがなかった。白っぽい表紙全体に、真っ赤な染みが広がっている。染みのため、表紙の文字が読めないほどだった。
それは、まだ変色していない。文庫本に残された鮮烈な彩りは、血が、付着した直後であることを示している。
「恐いわ」
彼女の顔から、さっきまでの明るい微笑がうそのように消えている。
「交番へ知らせよう」
彼は、彼女の手を取り直した。
サングラスの男が駆け下りてきた坂道を、このまま上がる勇気はなかった。
若いカップルは、そこでくびすを返すと、サングラスの男にも劣らないスピードで、大木の下の小道を下った。
派出所は、元町《もとまち》商店街の港寄りにあった。観光用の、二階建てバスルートになっている谷戸坂の上り口。
フランス山公園を出て、徒歩一、二分の場所である。
土曜日の元町商店街は、正午から夕方六時まで、歩行者天国となる。
若い二人が、人込みをかき分けて、
「大変です!」
と、派出所へ飛び込んだのは、間もなく、商店街に交通規制が敷かれようとする頃だった。
*
だが、派出所の巡査が、二人を同行してフランス山公園の散策路へ駆け付けたとき、柵の下に、文庫本は落ちていなかった。
派出所の巡査は、
『本当に血塗られた文庫本だったのですか』
といった目で、二人を振り返ったが、それは、その後で通りかかった別のカップルによって、坂の上の方の派出所に届けられていたのだった。
谷戸坂の下り口にある、港の見える丘公園前の派出所だった。
後からきたカップルは、坂をそのまま上がっていったわけだから、木立ちの中の小道に異変≠ヘなかった、ということになる。
しかし、港の見える丘公園へ至る隘路《あいろ》に異変≠ヘなくとも、文庫本に付着するそれが、真新しい血痕であることは、間違いなかった。
所轄山下署の鑑識係が分析したところ、それは人間の血液であり、O型であることが分かった。
だが、坂の上の派出所にも、坂の下の派出所にも、異変≠ヘ急報されていない。該当する一一○番も入っていない。
どこで、何が起こったのか。
山下署の刑事課捜査係主任は、中山というがっしりした体格の、巡査部長だった。
中山部長刑事は、若手の堀刑事を伴って、フランス山の散策路に立ったとき、
「花見には二、三日早いが、桜の季節の刃傷沙汰《にんじようざた》か」
と、後輩刑事に言うともなく、つぶやいていた。
サングラスの男の慌てた行動は、逃亡≠意味している。そう解釈して、間違いあるまい。
と、なれば、どこかに事件≠ェ発生していなければなるまい。
それも、フランス山公園から、遠くない場所でだ。昼前から、花見酒だろうか。
聞き込みは、二手に分かれて着手された。すなわち、被害者¢{しと、サングラスをかけた、黒っぽいコートの男の追跡である。
事件発生の有無を確認する方には、警察犬が動員された。
逃げた男の行方ははっきりしなかった。
横浜港の周辺は、人出が多過ぎたのである。人が多いことは、目撃者≠フ増加を意味しない。
むしろその逆だった。
それらしき男が、JR石川町駅方面へ向かって、元町商店街を歩いていったという証言もあったし、谷戸橋を渡り、テレビ神奈川の前からタクシーを拾ったという聞き込みもあった。
いずれも、正確な裏付けはなかった。文字通り、お手上げと言っていい。
しかし、サングラスの男は、確かに逃亡≠オていたのである。
それを、警察犬が嗅ぎ出した。
人間の数千倍の嗅覚を持ったセパードは、血塗られた文庫本の落ちていた場所から、スタートを切った。
セパードは、しばしの逡巡の後で、真っすぐ急坂を上がった。
フランス山を上り切ると、樹木に覆われていた道には空が開けてくる。観光客の姿も、ぐっと多くなる。
セパードは、花壇と芝生で区分された港の見える丘公園を横断し、大仏次郎記念館の前を通った。
左折して、陸橋を渡ると、神奈川近代文学館となるが、セパードは、陸橋の手前で、本牧《ほんもく》埠頭の方向へ下りた。
公園の混雑とは裏腹に、全く人気のない枯れ草の傾斜地を、セパードは一目散に走った。
セパードが異常な反応を示したのは、枯れ草の繁みがこんもりした場所へきたときである。
最悪な形での、発見だった。
中山部長刑事がつぶやいたように、それは刃傷沙汰であり、完全なる殺人事件だったのである。
死者は、三十代と思《おぼ》しき男性で、分け目なしのリーゼントふうヘアスタイルだった。男は枯れ草の中で、背を丸めるようにして息絶えていた。
右腕と右胸、それに背中の三ヵ所を刺されており、死因は失血死だが、死者はバックスキンのブルゾンを着ていたせいか、血は飛び散っていない。従って、男を襲った犯人も、返り血はほとんど浴びていないはずだ。
凶器は、枯れ草の中に遺留されていた。刃渡り十一センチの、真新しい果物ナイフである。
中山部長刑事と堀刑事が駆けつけたとき、すでに男の呼吸音は聞かれなかったが、その体内には、わずかに、ぬくもりが残っているようでもあった。
息絶えてから、いくらも経っていない死者だった。
*
殺人事件発生の報告を受けて、山下署の署長以下、刑事課長、刑事、鑑識係などを乗せた三台のパトカーが現場へ到着したのは、午後一時十五分である。
検視の結果、死亡推定時刻は、午前十一時半から、十二時半の間と判明した。絶命後間がないので、これはほとんど誤差のない推定といえる。
しかし、刺されてから失血死までの時間が三十分と見られるので、犯行は十一時から十二時の間、と断定された。
「サングラスの男が、息急き切ってフランス山を駆けおりてきた時間と、ぴたり一致するな」
と、中山部長刑事はうなずいた。
死者の血液はO型だった。この点も、文庫本に付着した血液型と合致する。
文庫本は、最初から犯人(サングラスの男)が持っていたものなのか、被害者が所有していたのをサングラスの男が奪ったのか、この時点では分からない。
はっきりしているのは、いずれが持っていた文庫本であったにしろ、それが、殺人事件と深いかかわりを持っている事実だ。
血液O型の被害者は、身元を明かすものを何も所持していなかった。
ブルゾンというラフな格好からも分かるように、それは、休日の服装なのである。たとえば、通勤定期券とか、身分証明書の類はどこにも見当たらない。
だが、被害者の生活は、裕福な感じだ。
バックスキンのブルゾンにしても高級品のようだし、腕時計はスイス製のピアジュ、靴はイギリス製のバーバリといった具合に、一流品を身につけているのである。
その高級腕時計も、財布も奪われてはいないのだから、物盗りの犯行とは違う。財布には、五万円余りの現金が入っている。
では、通り魔か?
実際、シンナー中毒者などによる無差別刺殺事件も、後を絶ってはいない。そうした犯行は、特に、春先に集中する。
最近も、東京・中央区のオフィス街で、白昼、信号待ちで歩道に立っていた女性が、ナイフを持った男に、突然刺殺されるという事件が発生している。この犯人の場合は、精神分裂病患者だった。
通り魔事件は、犯人が男で、被害者は女性という例が多いけれども、男性が男性を襲うことも皆無とはいえない。
横浜市内では、二年前の、やはり春先四月、こともあろうに、神奈川県警交通規制課長が、出勤途中、信号待ちのところを背後から刺殺されるという事件が起こっている。
これも、犯人は精神病院から抜け出してきた男で、場所が、今回の現場とそれほど離れてはいないのである。
通り魔の線も十分考慮しながら、県警捜査一課の応援を得て、捜査本部が設置された。山下署二階道場のドアに、『港の見える丘公園殺人事件捜査本部』と大書された貼り紙が下がった。
被害者の身元確認が、最優先事項となる。署長を捜査本部長とする第一回目の捜査会議が開かれたのは、午後四時からである。
当然、問題となったのは、サングラスの男が落としていった文庫本だ。
「著者は梶井基次郎、書名は『檸檬《れもん》』となっています」
と、鑑識係が黒板の前に進み出て、報告した。
鑑識係は、文庫本から数種類の指紋が検出されたことを言った。
いずれも新しい指紋だった。それは、文庫本が事件発生前後に、数人の手を経ていることを示している。
サングラスの男とぶつかった、山梨県大月市から遊びにきた恋人同士は、文庫本に触れていない。
文庫本を港の見える丘公園前の派出所へ届けたのは、その後通りかかったカップルの方だ。
「後のアベックは、男女とも、文庫本に触れています。それと、届けられた文庫本を受けとった派出所の巡査。以上三人の指紋を除外すると、最近付着したと考えられる新しい指紋は、三点です」
鑑識係は、黒板に、「変体紋」「てい状紋」「渦状紋」と書き出し、「変体紋」の下に「被害者」と記して、双方を太い線でつないだ。
「結局、残るてい状紋と渦状紋。このいずれかがサングラスの男、すなわち犯人《ほし》ということになるでしょう」
と、鑑識係はメモをとる捜査員を見回した。
しかし、県警本部の鑑識課と、警察庁指紋センターに問い合わせた結果、被害者を含めた三つの指紋に、前科、前歴はないことが判明している。
次いで鑑識係は、刃渡り十一センチの果物ナイフからは、ひとつの指紋も採取されなかったことを強調して、自席へ戻った。文庫本には鮮明な指紋が残っているのに、凶器からだれの指紋も発見されないとは、どういうことか。
当然、犯人がナイフの指紋をぬぐい、犯行に際しては、手袋を用いたからだろう。凶器に指紋を残さないよう注意したのであれば、これは、通り魔による発作的な犯行ではない。
計画的な殺人事件ということになろう。物盗りでないことは、はっきりしているのだから、動機は怨恨か。
代わっては、長身の刑事課長が、立ち上がり、
「私の推定ですが、犯人《ほし》は渦状紋ではないでしょうか」
と、ファイルを繰りながら言った。
根拠は、文庫本の百六十二ページである。百六十二ページからの四ページは、『桜の樹の下には』という題名の小品だった。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる冒頭の五行に傍線が引かれてあり、見開きの百六十三ページには、新聞の切り抜きが、クリップでとめてあったのだ。
「傍線が引かれてあるのは、全体の中で、このページ一ヵ所ですし、新聞の切り抜きが挟《はさ》んであるのも、ここだけです。そして、このページから検出されたのは、変体紋、すなわち被害者《がいしや》の指紋と、もうひとつ、渦状紋のみでした。百六十二ページと、新聞の切り抜きに意味があるとすれば、被害者《がいしや》以外の指紋、この渦状紋こそ、本《ほん》犯人《ぼし》ではないでしょうか」
刑事課長は、新聞の切り抜きを示した。
これは、朝刊だけ発行している地元紙の、二月十二日付文化欄に掲載されていたもので、
「三月から四月にかけての、文化情報の一部であることが分かりました」
と、刑事課長は言った。
問題の記事は、今年の「シドモア桜の会」は、四月二日(土)に開催されるという予告だった。
「主催者である地元文化団体に電話で問い合わせたところ、エリザ・シドモアは、米人女性ジャーナリストだったそうです。ワシントン市ポトマック川畔桜並木の、生みの親であるという話でした」
シドモアは明治十七年頃から三回に亘って来日し、親日小説『ヘーグ条約の命ずるままに』などを発表している。
彼女の遺骨が、彼女が愛したニッポンのヨコハマに埋骨されたのは、昭和四年十一月三十日である。
「墓は、山手外人墓地の中腹です。墓前に桜が植樹され、墓前祭が営まれるようになったのは、昨年からです」
と、刑事課長はメモを読み上げるようにして、説明した。
昨年植樹された墓前の桜は、まだ五十センチほどの高さに過ぎないが、つぼみをつけている。
墓前で「さくら、さくら……」のフルートが演奏され、参加者が一人ずつ献花して、セレモニーは終了する。
今日がその四月二日だ。
今年は午前十一時から開かれ、三十人ほどが参加したという。
被害者は、墓前祭に出席した一人なのか。
*
刺殺されていた男は、しかし、地元文化団体の会員ではなかった。
中山部長刑事と堀刑事が、地元文化団体の関係者に面会したのは、第一回目の捜査会議が終えて間もなくである。
幸いなことに、出席者の一人が、山下署に近い中華街で喫茶店を開いていた。
二人の刑事は、小さい喫茶店の、低いカウンターを挟んで、問いかけた。
「さあ?」
五十過ぎの喫茶店経営者は、死者の顔写真を見せられて、首をひねった。
「この人はメンバーではありませんな。今日ご出席の方々の中にも、こういう男性はいなかったと思います」
すると、被害者は、墓前祭に出席するつもりで山手の外人墓地へきたものの、犯人によって、外人墓地とは反対側の、人気のない枯れ草の傾斜地へ連れ込まれた、ということになろうか。
それが墓前祭が始まる前のことであるなら、主催関係者に対して、いくら粘っても、死んでいた男に迫ることはできない。
中山部長刑事の質問が、しばし途絶えると、
「篠塚《しのづか》先生にお聞きになれば、何か心当たりがあるかもしれませんよ」
と、喫茶店経営者は、助け舟を出してくれた。
「篠塚みやさんと言いましてね。お年の方ですが、横浜では知られた女流詩人です。地元ペンクラブの副会長、詩人会の委員、文学館の評議員、さらには刑務所の篤志面接委員まで、いろいろなさっています。交際の広い方ですから、篠塚先生にお尋ねになれば」
殺されていた男性が、地元文化団体のメンバーでなくとも、手がかりを得られるかもしれないというのである。
しかし、今日の墓前祭に、篠塚みやは参加していなかった。
みやは活動家ではあるが、七十歳近いはずだ、と、喫茶店の主人は言った。
刑事は喫茶店のピンク電話で、篠塚みやの港南区の自宅へかけた。
女流詩人は不在だった。本家筋の結婚式に招かれて山梨県へ出かけている、とこたえたのは、詩人の娘だった。
「お帰りはいつになるでしょうか」
「それが、はっきりしませんの」
娘は電話口で言い渋った。
みやは結婚式に列席したついでに、独り、信州へ足を伸ばし、温泉めぐりをしているというのだ。
鄙《ひな》びた宿が好きで、気に入ると、五日でも一週間でも、長逗留することがあった。娘の話によると、十年前に夫を亡くしてから、なおのこと、こうした温泉めぐりが多くなったらしい。
そんなときは「便りのないのが無事」というわけで、みやは電話一本かけてこないというのだ。女流詩人は、奔放な一面を備えているのかもしれない。
「詩を書くような人は、われわれ凡人とは感覚が違うのだろうね」
中山部長刑事は礼を言って喫茶店を出ると、堀刑事に話しかけるともなく、つぶやいていた。
だが、死者の身元は、意外とスピーディーに割れた。
テレビ各局が、夕方のニュースで事件を報道したためだった。
捜査本部に電話が入ったのは、中山部長刑事と堀刑事が喫茶店を出て、山下署へ帰りかけた頃である。
*
それは、女性の声だった。
「ひょっとして、主人ではないでしょうか」
と、問いかける口調が上ずっている。
電話を受けたのは、刑事課長だった。
受話器を持つ刑事課長の表情が、次第に険しくなった。
容貌、服装、そしてスイス製の腕時計まで、ぴたり合致するようである。
別けても、刑事課長の横顔に緊張が走ったのは、
「文庫本を持っていなかったでしょうか」
と、女性の方から質問してきたときである。文庫本は、犯人割り出しの、重要な決め手となる可能性が強い。そこで、記者発表では一切伏せられていたのだ。
「ご主人は、文庫本を持って、家を出られたのですね」
「はい」
と彼女がこたえたのは、正に、『桜の樹の下には』が掲載されている文庫本だった。
「ご主人は、外人墓地の墓前祭に出席するおつもりだったのですか」
「それは分かりませんが、横浜へ遊びにいくとは申しておりました」
電話は、東京からだった。
大森裕《おおもりゆたか》 三十七歳 東京都|三鷹《みたか》市牟礼四七○『コーポ立野』408号 広告代理店『泰山』雑誌部第二企画課長
刑事課長は、受話器片手にメモをとった。問い合わせの電話は、ほかにも何本か入っていたけれど、確率からいえば、これが、最高だ。
『泰山』の本社は東京・有楽町。早くからテレビのCM制作などもしている一流会社だ。
「恐縮ですが、早速、横浜へお越し願えますか」
「もちろん、そうさせていただきます。しかし」
と、大森の妻は口ごもった。
逡巡の意味はすぐに分かった。大森の妻は、独りで遺体を確認することが、恐かったのだ。
品のいい、控え目な性格であることは、電話の口調からも察せられた。
近くに住む実弟に連絡したので、
「弟がこちらへ到着次第、弟と一緒に伺います」
と、大森の妻は言った。
刑事課長は、死者が大森裕であると判明しただけに、質問を先延ばしにすることができなかった。
「それでは、弟さんがお宅へ見えるまで、二、三お話を聞かせてください」
刑事課長は受話器を持ち換えた。
「ご主人は、横浜へ遊びにくることが多かったのでしょうか」
「滅多になかったと思います。あたくしは、聞いておりません」
妻は、相変わらず控え目な話し方ではあるけれど、刑事課長の質問には、積極的に応じた。
遺体を見ていないとはいえ、死者が夫であることは、いまや、百パーセント間違いないのだ。
おとなしい口の利き方をする妻は、より一層、何かにすがりたい気持ちがつのってきたのだろう。自分の方から、電話を切る意思はないようだった。
大森の妻は、子供は小学校二年生になる男の子が一人、一家はマンションの三人暮らしで、夫は高校大学時代から文学好きの読書家だった、というようなことを、問われるままにこたえた。
大森裕は、広告代理店勤務という職業柄、残業は多いし、酔って帰ってくることも連夜だったが、家族思いの、人柄だという。
職場での対人関係も、うまくいっている。特に、不満を漏《も》らしたことはないという。
「すると、今回のような不幸に巻き込まれたことについて、奥さんとしては、全く思い当たることはないとおっしゃるのですね」
「主人は、だれかに、生命を狙われるような人間ではありませんわ」
妻ははっきりと否定した。ごく一般的な夫であり、父親である、と、彼女は繰り返した。
「主人は、会社でも、順調に出世コースを歩んでおりました。次の人事異動では、次長になれそうだ、とも申しておりました」
「ところで」
刑事課長は、また受話器を持ち換えた。
「横浜には、どなたかお知り合いがいるのですか」
「いいえ。家族ぐるみでおつきあいしている方は、おりません。あたくしは東京、主人は茨城の出身です。主人の知人も、横浜にお住まいの方はいないはずです」
「すると、文学好きだったというご主人が、外人墓地の催しを知って、参加する気になったということかな」
と、刑事課長が、文庫本に新聞の切り抜きが挟まっていたことを告げると、
「あの文庫本が、問題なのでしょうか」
電話を伝わってくる声が重いものに変わった。
「文庫本に関して、奥さんは何かお気付きなのですな」
「いまも申しあげたように、主人は平凡なサラリーマンです。他人《ひと》様の恨みを買うような人間ではありません。でも、あれは妙でした」
「妙?」
「主人は仕事で神経をすり減らすせいか、休日は、今日のように、細かい行先も告げずに、ふらっと出かけることがありますの」
と、妻は言った。
彼女が文庫本に対して抱いた不審は、その大森の癖というか、詳しい目的も言わない外出に関連があるのかもしれない。
大森は文学好きだったというから、一流広告会社の次長にもなろうという、三十七歳になった現在でも、文学青年の気質がどこかに残っているのか。
刑事課長がその点を質すと、
「文庫本は一週間ほど前に、どこからか送られてきたものです」
と、妻は言った。
どこからか、とは、どういう意味だろう?
「はい、自宅《うち》のマンションあてに郵送されてきたのですが、差出人の住所も名前も記されていなかったのですわ」
封筒の裏側には、ただ一字「桜」と書かれていただけだという。
「さくら? 桜の花の桜ですか」
「そうです。漢字で、小さく記入されていました」
問題は、夜遅く会社から戻ってきて、郵送されてきた文庫本を手にしたときの、大森の驚愕だ。
その夜も、大森は酒に酔って帰宅したのであるが、
「ん?」
と、一声発するなり、酔いも醒めたかのように、文庫本をしまい込んでしまったというのだ。
そして、次の一瞬、大森は、そうした自分を、妻の目から隠そうとしていたというのである。
「奥さんは、ご主人の変化に気付いた。当然、理由を尋ねられたわけですね」
「主人は、何でもないの一点張りで、話題を避けてしまいました」
「前にも、それに類する妙なことがありましたか」
「いいえ。結婚して十年になりますが、こんなおかしなことがあったのは、後にも先にも一度だけです」
「どこからか郵送されてきたとなると、その文庫本は、ご主人の蔵書ではなかった、ということになりますな」
「どうでしょうか。主人は蔵書が多いもので」
あるいは、だれかに貸してあったものが戻ってきたのか、どうか、そこまでは分からないと妻はこたえた。
しかし、今朝、大森がその文庫本持参で出かけたのは、間違いないという。
『今日はどうしても出かけなければならない』
大森はそう言い置いて、時間を気にしながら、マンションを出て行ったという。
約束、というのも、いまにして思えば、
「だれかに呼び出された感じでした」
と、大森の妻は言った。
「あの文庫本に、そのような新聞の切り抜きが挟んであったのですか。それを主人が持っていたとなると、やはり、あの文庫本が問題となりますか」
「文庫本は、ご主人が所持していたのではありません」
犯人が落として行ったのだ、と、刑事課長が説明すると、
「犯人は、『桜』と書いて文庫本を郵送してきた人でしょうか」
大森の妻の声が、さらに暗いものに変わった。
(どうも、よく分からない事件《やま》だな)
刑事課長は長い電話を終えたとき、自分に向かって、つぶやいていた。
2章 信貴山の夜桜
横浜の桜は、まだ、ほとんどがつぼみのままであったけれども、関西では開花が始まっていた。
大森裕の妻が、実弟とともに横浜・山下署へ駆けつけて、変わり果てた夫を確認している頃、横浜から四百八十キロも離れた古都・奈良郊外の山中で、宵桜を楽しみながら、夕食を取る一家があった。
峡谷越しに、信貴山朝護孫子寺《しぎさんちようごそんしじ》を望むホテルだった。
深い谷の向こうとこちらは、開運橋によって結ばれている。
橋を渡り、ずらりと並ぶ千体地蔵を右に見て楼門をくぐり、石灯籠のつづく長い参道をいくと、朱塗りの三重塔、多宝塔、そして、多くの堂宇《どうう》が軒を接しているのである。それが、朝護孫子寺だ。
朝護孫子寺は、毘沙門天《びしやもんてん》を本尊とする、大和の名刹だった。
寅の日が、寺の縁日となっており、門前では、大小さまざまな、張り子の虎が売られている。
これは、聖徳太子が物部守屋《もののべのもりや》を討つため、信貴山で必勝祈願をしたところ、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天が現れ、その加護で勝利を収めたという、故事に由来しているのである。
毘沙門天は、七福神の中でも、商売繁盛、家内安全、心願成就の福の神として有名だ。福徳開運の毘沙門天は、関西のみならず、広く全国から信仰を集めている。
寅の日を中心にして、参詣者が多い名刹は、境内も広大である。
それは、信貴山南東中腹の、ほぼ全域を占めているほどだった。
広い境内から、山頂へかけては、桜の巨木が多いことでも知られている。
春の訪れとともに、峡谷にかかる開運橋周辺は、風景のすべてが花に埋まる。
開運橋の下は、東西に長い大門池で、その峡谷を挟んで、朝護孫子寺とは反対側の斜面に、何軒かの旅館、ホテル、土産物店、食堂などが点在しているのである。
東京の世田谷区から遊びにきた、寺沢隆《てらさわたかし》の一家は五人連れだった。
三十代後半の寺沢夫婦と、小学生の二人の女の子と、寺沢の妻の母親。
一家は、二人の子供の春休みに合わせ、四月一日から三泊四日の日程で、宇治平等院や奈良の桜を見にきたのだった。
昨日は奈良の中心、高畑町のホテルに一泊。
この日はハイヤーをチャーターし、奈良公園を歩き、興福寺、東大寺、春日大社などを観光してから、生駒スカイラインを経て、信貴山へきた。
投宿したのは『ホテル信貴』であり、夕食は、数寄屋造りの座敷で、時間をかけて食べた。
ホテルの庭園越しに、開運橋の赤い欄干と、朝護孫子寺の広大な境内が望める、落ち着いた日本間である。
和やかな雰囲気に包まれた五人は、傍目にも、平和そのものの家族と映った。
経済的にも、もちろん人一倍恵まれている一家だった。
寺沢の父親は、東京・品川に本社を置く『徳光製靴』という二部上場会社の社長であり、寺沢は父親の下で総務部長を務めているのである。
いずれは、父親のあとを継いで、社長となる立場だ。
ゆっくりと山菜料理を味わっているうちに、春の山は暮れてくる。
空が暗くなり、夜目に、桜の花が白く感じられるようになると、対岸の石灯籠に灯が入った。
長い参道には、ぎっしりと、無数の石灯籠が立ち並んでいるのである。
石灯籠のひとつひとつに点る灯と、その鈍い明かりに浮かび上がる夜桜は、何ともいえない神秘的なムードを醸《かも》し出す。
今日は縁日ではなかった。いまは全山が人気もなく、ひっそりとしている。
「お食事が終えたら、どうぞ、お出かけなさいまし」
仲居は、デザートのメロンをテーブルに載せたところで言った。
小学生の女の子二人は、古都の寺社めぐりに飽きたのか、柿の風呂吹き、子持ち鮎の甘露煮、無花果《いちじく》のホワイトソースかけ、椿の花や虎杖《いたどり》のてんぷらといった、山菜料理の夕食が不満なのか、
「ママ、お部屋へ行って、テレビを見たいよ」
と、ぐずったりしているが、妻の母親は、
「それじゃ、隆さんに、夜桜見物に連れていっていただきましょうかね」
と、桜湯を飲みながら、婿の顔をのぞき込んだ。
寺沢はアルコールには弱い体質なので、妻と分け合ったお銚子一本の地酒『信貴』で、顔を真っ赤にしている。
山の中のホテルは静かだった。
対岸の石灯籠に、一斉に灯が入ったとはいえ、いま、広大な境内は、無人ともいえる静寂を漂わせているのだ。
寺沢はメロンを食べ、妻の母親と同じように桜湯を飲むと、ケントに火をつけた。
もう一人の仲居が入ってきて、寺沢に電話がかかってきたことを告げたのが、そのときである。
「お電話は、こちらに回してございます」
仲居はひざをついて、部屋の隅の違い棚から受話器を取った。
寺沢の表情が見る間に変わってきたのは、
「あ、どうも」
と、たばこをもみ消して立っていき、
「寺沢ですが」
と、受話器を耳に当てた一瞬である。
「きみか、きみは一体だれなんだ?」
寺沢が早口で、そんなふうに問いかけたのを、寺沢の妻と母親は耳にしている。
寺沢は家族の注意を意識してか、テーブルの方に背を向け、送話口を、両手で囲うようにした。
そして、低いが、さらに激しい口調で、
「どういうことかね」
と、繰り返す寺沢の詰問を、妻ははっきりと聞いている。
電話は長くかからなかったけれども、寺沢が急に塞ぎ込んでしまったのは、それ以来だった。
「お電話、東京からですか」
「お仕事の、急ぎの連絡だったのですか」
と、妻が問いかけるのも、上の空といった感じで、
「ちょっと出かけてくる」
寺沢はいったんテーブルに戻ってきたものの、すぐにまた立ち上がっていた。
「お出かけって、王寺《おうじ》まで下りるのなら、ホテルでタクシーを呼んでもらわなければいけないでしょ」
と、妻は言った。
信貴山の最寄り駅は、関西本線の王寺だ。王寺からはJRで奈良駅まで十五分。逆行の大阪方面は、天王寺駅までおよそ二十二分。どこへ出るにしても、王寺を経由しなければならない。
『ホテル信貴』から王寺まで、タクシーで十分ほどだが、信貴山にタクシー会社はないので、下から呼んでもらうことになる。
妻はそれを承知しているので、尋ねたわけだが、寺沢は、
「いいんだ、すぐ近くまでだから」
というような言い方をし、妻の問いかけには、まともにこたえなかった。
寺沢は団欒《だんらん》中の家族をそこに残して、数寄屋造りの座敷を出ていった。
取り付く島もない、後ろ姿だった。何か、判然としない力によって、ふいに家族を拒否している感じだった。
そのため、妻が思わず二の足を踏んでいる間に、寺沢は、すうっと、音もなくといった感じで、桜が咲く夜の中へ消えていったのである。
*
『以前にも、似たようなことがあったのですか』
事件が表沙汰になった後で、所轄王寺署の刑事は、尋ねている。
『一度もありません』
と、寺沢の妻は、次のようにこたえた。
『今回の旅行は、春休みの子供たち二人のために計画されたものでした。信貴山で山菜料理をいただくことだけは、あたくしの母の希望でしたが、いずれにしても、お仕事を離れた、家族主体の旅行です。家族思いの主人が、家族をほったらかして、事情も打ち明けずにホテルを出ていくなんて、考えられません』
だが、妻にとって気になる点が、皆無というわけではなかった。実は、前夜も、釈然としない電話が、一本入っていたのである。
前夜、一家は奈良市内の高級ホテルに泊まったのであるが、電話は、やはり夕食の時間にかかってきた。
一階のレストランでフランス料理を食べているときに、ボーイが電話を伝えてきた。
前夜も、電話は手短だった。手短ではあるが、電話を終えて戻ってきた寺沢は、急に口調が重くなっていた。
そのときは、
『お仕事のお電話ですか』
『ああ、東京からだ』
といった会話が交わされたけれど、後で思えば、あれも『ホテル信貴』へかけてきた電話と同一人だったかもしれない、と、寺沢の妻は言った。
しかし、同一人が、同一条件でかけてきたのだとしても、寺沢の妻には、全く思い当たることのない電話であった。
『ところで、ご主人は、前にも信貴山へこられたことがありますか』
と、刑事が念を入れたのは、
『すぐ近くまで』
と言い置いてホテルを出ていった寺沢の、土地鑑を確認するためだった。
土地鑑はなかった。
寺沢が生駒スカイラインから信貴山へ足を伸ばしたのは、今度が最初だった。奈良は、中学校の修学旅行できて以来だというから、ほとんど二十五年ぶりだ。
今回の三泊四日の旅行にしても、『徳光製靴』出入りの旅行社に一任したスケジュールだった。
すると寺沢は、初めての土地で、しかも、日がとっぷりと暮れてから、暗い夜の底へ誘い出されていったことになる。
町中とは違って、人気も少ない山の中に、何が待ち受けていたのか。
*
だが、初めて訪れた土地での、夜の帷《とばり》とはいえ、迷う場所ではなかった。寺沢隆が足を向けたのは、朝護孫子寺にほかならなかったからである。
『ホテル信貴』の庭園から出てきた寺沢を、目撃した人間が二人いる。
目撃者の一人は、開運橋のたもとにある割烹料理屋の仲居だった。
寺沢は足早に割烹料理屋の前を通り、峡谷にかかる長い橋を渡り、人影のない朝護孫子寺へ向かって、夜桜の向こう側へと消えていったのである。
夜桜の下の長い参道で、鈍い明かりを点し、どこまでも、どこまでも、びっしりと並んでいる石灯籠。
まだ、午後七時前だというのに、完全に外来者の行き来が途絶えてしまっている境内。
その無数につづく、ひっそりとした石灯籠の陰に、影が立っていた。
「あれ?」
と、影を意識したのは、毎夜、境内を抜けて帰宅する、土産物店の従業員だった。彼が、もう一人の目撃者だ。
張り子の虎を売る土産物店の従業員は、南の信貴大橋を渡って、反対側から境内に入ってきたのだった。縁日でもない限り、午後六時半が、土産物店の閉店時刻となっている。
彼は毎夜この時間に、ここを通って、家へ帰る。
『何か、不気味な感じでしたよ。後で考えれば、あれが、殺気というんでしょうかねえ』
と、これまた、事件が発覚してから、王寺署の刑事に伝えたことである。
『境内で、若い男が女を待っているのは、たまにあるんですが、そうしたムードじゃありませんでしたね』
身を潜めていた男は土地の人間ではなかった、と、土産物店の従業員は断定している。信貴山では見かけない男だったという。
影の男は、石の灯籠に同化してしまったかのように、じっとたたずんでいたという。黒っぽいコートを着ており、男にしては長い髪型だった。
脂気のない髪が、肩の辺りまで垂れているのを、灯籠の薄明かりで、土産物店の従業員は目にしている。
影の男は開運橋の方にのみ注意しており、反対側からきた目撃者≠ノは、気付いていなかった。
影の男は、どこで手折ってきたのか、ソメイヨシノの小枝を口にくわえていた。三分咲きの、花をつけた小枝である。
そよとも風のない夜だった。影の男を発見した土産物店の従業員は、足が、前へ動かなくなった。彼は多宝塔の手前で息を詰め、数メートル先の参道に目を凝らした。
影の男が、口にくわえた小枝を、ぷっと吹き飛ばしたのは、開運橋の方向から跫音《あしおと》が近付いてきたときである。
その跫音が、(後でいくつかのデータを総合すると)寺沢のものだった。
目撃者の従業員は、思わず知らず両掌を握り締めていた。握り締めた両掌がじっとり汗ばんでいたのは、無意識のうちに緊張していたせいだろう。
風がないのに、風の音を聞いたように感じたとき、砂利を踏み締めてくる靴音がとまった。
跫音をぐっと近付けておいて、影が、ひょいと参道へ飛び出してきたのである。
「きみかね」
という声は、寺沢のものだった。乾いた声だった。
「一家で、奈良・京都の花見旅行とは、羨しい生活だな」
影は意識的にそうしているのであろう、抑揚を欠いた、低い話し方だった。
土産物店の従業員から見て、黒っぽいコートのえりを立てた影は、後ろ向きなので、顔かたちまでは分からない。
ただ、肩の辺りに届く長髪が、印象に残っただけだ。
『芸術家タイプっていうのかな。われわれとは人種が違うようでしたね』
土産物店の従業員は、刑事の問いに対して、ヘアスタイルの感じを、そうこたえている。
その彼が耳にした、寺沢と影のやりとりを再現すると、次のような具合になる。
「早く用件を言いたまえ」
「要点は、電話でお伝えした通りです」
「それが分からないから、尋ねている」
「まず、この文庫本を返さなければならない」
「文庫本?」
「寺社の境内でも何だから、下の池へ下りて花見でもしますか」
影は一歩寺沢に近付くと、
「桜が好きなんだろ。東京から古都まで、わざわざ花見にきたのだろ」
と、早口で言い、寺沢の肩を押すようにして、歩き出したという。
土産物店の従業員は、なおもしばらく、多宝塔の裏側で息を殺していたが、二人の跫音が茶店の先を通り、仁王門の外へ消えていくと、初めて、自分を取り戻した。彼はほっとして、改めて帰路についた。
影の顔を確かめていないとはいえ、この目撃≠ヘ、貴重なものとなった。
*
寺沢隆の失踪≠ヘ、その夜のうちに、王寺署へ届けられた。
『すぐ近くまで』
と言い置いた外出だったのに、二時間、三時間と過ぎて、午後十時になっても、寺沢は戻ってこない。電話一本、かかってこないのである。
『ホテル信貴』の支配人が、寺沢の妻に代わって、王寺署へ電話を入れた。
しかし、この時点では、警察も動きようがなかった。
大の男が、三時間いなかっただけなのである。
事件とはいえない。
いつもとは状況が異なっている、と、妻がいくら強調しても、それは主観の問題だ。一流製靴会社の総務部長をしているような人間なら、仕事の電話が、旅先まで追いかけてくることも十分考えられよう。
そしてまた、家人には、いちいち打ち明ける必要《こと》もない、プライベートな連絡もあるだろう。
王寺署の宿直警部が、『ホテル信貴』からの電話は丁重に受理したものの、成行きを見守ることにしたのは、当然の処置だった。
警察が動き出したのは、翌朝、一一○番通報が入ってからである。
寺沢隆の刺殺体を発見したのは、山菜採りの老人だった。
現場は大門池の南端。
峡谷の下に桜の巨木があり、寺沢は、桜の木の根元に、うずくまるような格好で、息絶えていたのだった。
通報を受けて、二台のパトカーが国道25号線を突っ走り、信貴生駒スカイラインにつづく坂道を上がったのは、早朝、六時前である。
凶器は、遺体に突き刺さっていた。刃渡り十一センチの、真新しい果物ナイフであり、心臓を一突きにしての、死であった。
ナイフがそのまま突き刺さっているためか、周囲に、血は飛び散っていない。凶器を抜かなかったのは、返り血を避けるための措置であったかもしれない。
流血もそれほどではない死体だった。
検視の結果、死亡推定時刻は、昨夜の午後七時前後、ということになった。それは、土産物店従業員の目撃から、間がないことを示している。
心臓を一突きだから、ほとんど即死だった。死亡推定時刻が、すなわち犯行時刻、ということになる。
土産物店の従業員が耳にした会話を裏付けるものが、死体の傍らに落ちていた。
カバーはついていない、白っぽい表紙の文庫本である。
一ヵ所、桜の花片が、大量に挟まれているページがあった。
それが、百六十二ページだった。そして「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる冒頭の五行には、はっきりと傍線が引かれてあったのだ。
「だれが、なぜ、主人を殺したりしたのですか!」
寺沢の妻は一睡もしていなかった。『ホテル信貴』から駆けつけた妻は、桜の木の根元で泣き伏したが、文庫本には思い当たることがなかった。
もちろん、昨夜、『ホテル信貴』を出ていったときの寺沢は、手ぶらだった。
「主人は、学生時代から映画好きではありましたが、文学には関心を持っていませんでした」
と、寺沢の妻は刑事にこたえた。
蔵書といえば、百科事典と美術全集ぐらいなものだった。いわば、応接間の飾り、といった書架であるのに過ぎない。
文庫本の類は数えるほどしかないし、傍線が引かれた問題の文庫本には、全く、記憶がないという。
そして、それは立証された。文庫本からは何種類かの指紋が検出されたけれども、いずれも死者とは一致しなかったのである。
すなわち寺沢は、生前も死後も、その文庫本には手を触れていなかったことになる。
では、影が口にしていた、
『まず、この文庫本を返さなければならない』
とは、いかなる意味を持つのか。
凶器の果物ナイフからは、ひとつの指紋も採取されなかった。影は、手袋をして、凶行に及んだ、ということだろう。
結局、土産物店の従業員による貴重な目撃≠別にして、物証と言えるのは、一冊の文庫本と、文庫本に残る(死者とは別の)指紋と、指紋を残さない凶器だけだった。
参道は砂利道だったし、峡谷を下って大門池南端の殺人現場に至るコースは、すべて草むらだった。
従って、足跡などの採取は不可能だったのである。
*
「何だ? 昨日、横浜で発生した事件《やま》とそっくりじゃないか」
王寺署の刑事課長がそれに気付いたのは、奈良県警捜査一課の応援で、捜査本部が設置されることになったときである。
朝、やっと目覚めた矢先に呼び出された刑事課長は、まだ朝刊に目を通していなかった。その点は、署長以下、他の捜査員にしても同様である。
刑事課長が新聞を手にしたのは、司法検視を終えて本署に引き上げ、朝食を取るときだった。
まず、社会面の犯罪記事から追っていくのは、刑事の習性だ。
奈良県下とその周辺に、目立つ事件はなかった。
大きい見出しとなっていたのが、横浜の、外人墓地近くの殺人事件である。
「これは、どういうことなんだ?」
みそ汁をすすりながら、社会面を開いた刑事課長の目は、「血まみれの文庫本」と記された、小見出しに吸い寄せられた。
朝食どころではなくなった。
「見たまえ!」
刑事課長は、同じテーブルで向かい合い、どんぶりめしをかっこんでいる二人の部下に、朝刊を突き出した。
*
神奈川県警山下署、奈良県警王寺署、双方の捜査本部が、早速協力態勢をとったのは当然である。
神奈川県警記者クラブの『毎朝日報』キャップ谷田実憲《たにだじつけん》は、他社よりも一歩早く、協力態勢をキャッチしていた。日頃、昵懇《じつこん》にしている、淡路《あわじ》警部を通じてだった。
四月三日。
日曜日ではあったが、山下署の捜査本部を取材するために、谷田は平常勤務についていた。
その山下署で、そこにはいないはずの、淡路警部の、ギョロリとした目と、出会ったのである。間もなく、昼休みになろうとする時間だった。
県警本部捜査第一課の課長補佐淡路警部は、港北区の菊名《きくな》署に設置されている殺人事件の捜査本部に出向していたのだが、昨日の事件が、奈良県と密接な関連を持ってきたために、急遽《きゆうきよ》応援に回されてきたのである。
菊名署の方は、スナックのホステス絞殺事件だった。発生以来二ヵ月近くなるのに、捜査は一向に進展していなかった。
捜査本部は縮小されて、迷宮《おみや》入りがささやかれている矢先であった。
捜査員にとって、迷宮入りほどの屈辱はない。
淡路警部にそのショックが少なかったのは、菊名署に殺人事件の捜査本部が設置された当初は別の事件《やま》にかかわっており、応援が、後半からだったせいかもしれない。
「菊名署で破れなかった壁を、山下署で崩すことになった」
淡路警部は、山下署の中廊下で谷田とすれちがったとき、
「殺人《ころし》に純文学とやらの文庫本が登場してきたのは、初めてだよ」
と、そんな言い方で、遠く離れた二つの捜査本部が、一点に結ばれたことを言った。
「奈良の捜査員は、いつ横浜へくるのですか」
「とっくに、京都から新幹線に乗っているんじゃないかな。午後には、本署で合同捜査会議が開かれる」
「警部、その前に腹ごしらえってのはどうですか」
谷田は大柄な背をかがめるようにして、警部の浅黒い顔をのぞき込んだ。
「ああ、ぼくはそのつもりで部屋を出てきたんだ。しかしねえ」
警部は渋い顔をした。
「記者発表は合同捜査会議の後、ということになっているのだよ。その前に、毎朝のキャップと、肩並べて捜査本部を出ていくわけにはいかない」
「ぼくだって、警部と肩を並べる気はありませんよ」
谷田はうなずき、
「中華街に、豚骨《とんこつ》ラーメンのうまい店があるのをご存じですか」
と、山下町公園と向かい合う広東料理店を、警部の耳元でささやいた。
山下町公園というのは、海岸公園とは全く別個なもので、中華街の裏手にある小公園だった。山下署からゆっくり歩いても、十分とはかからないだろう。
豚骨ラーメンをカンバンにするその広東料理店も、目立たない、小さい店だった。
「警部、一足先にいって、二人前注文しておきます」
と、谷田が早口になったのは、他社の記者が数人、ぞろぞろと裏の通用口から入ってきたためである。
「ラーメンは、伸びるとうまくありませんよ」
谷田はそう言い置いて淡路警部の傍から離れると、固まってやってきた他社の連中に向かって、
「や」
と、片手を上げて、通用口から外へ出た。
古い三階建てである山下署は、中華街の港側に位置している。
戸外は、昨日と同じように、低い気温の花曇りだった。
気候はいまひとつだが、中華街は、土曜日の昨日にも増して、早くも相当なにぎわいを見せている。大通りは、早足では歩けないほどの人波だった。
山下町公園に面した裏側の通りも、結構混雑している。
谷田は、何となく周囲を見回してから、広東料理店へ入った。
小さい店も込んでいた。
淡路警部は、谷田が注文した豚骨ラーメンがテーブルに載らないうちに、追いかけてきた。
「この分では、谷田さんが愛する後輩も、横浜へ飛んでくるだろうね」
警部は『週刊広場』の浦上伸介《うらがみしんすけ》のことを言い、
「週刊広場に限らず、週刊誌の取材記者やテレビのレポーターが、東京からどっと押し寄せてくるのは間違いない」
と、口元をとがらせて、顔を振った。
一階の、一番奥のテーブルだった。こぢんまりした店の中でも、もっとも目立たないコーナーである。
「警部、横浜と奈良のデータは、どのくらい重なり合っているのですか」
谷田は、テーブル越しに額を寄せるようにして、じわじわと探りを入れた。
いずれ記者発表はあるわけだが、その内容を一刻も早く知りたいのが、新聞記者だ。
「どうせ、今日は夕刊がありません。ちょっとばかり早く情報《ねた》をもらっても、どうということはないでしょう。間違っても今日活字にすることはないのだから、警部にご迷惑はかけません」
谷田は笑みを浮かべながら両掌を合わせ、軽く頭を下げた。
谷田は社会部記者として、キャリアが長い。警察関係にも、当然顔が広い。
だが、淡路警部との交流は、別ものだった。オフレコで情報を流してもらうほどに親しい仲であるのは、谷田の側からも、時には先行した取材結果を、提供してきたためだった。
谷田にとって、ルポライターの浦上伸介は東京の私大に通っていた頃のごく親しい後輩に当たるわけだが、犯人の偽装アリバイ工作を浦上と解明して、淡路警部にそっと耳打ちしたことも数多い。
双方とも、もちろん、一定の礼儀はわきまえているけれども、いわば、持ちつ持たれつの関係であった。
ラーメンが運ばれてきた。
「物証は三つしかないが」
と、淡路警部は言った。警部は豚骨ラーメンにたっぷりと黒|胡椒《こしよう》をかけ、割り箸《ばし》を紙袋から抜いた。
凶器である刃渡り十一センチの、真新しい果物ナイフ。文庫本。そして文庫本から検出された指紋。
この三点の物証を総合すると、横浜と奈良の犯人《ほし》は同一人になる、と警部はつぶやくような小声でつづけた。
しかし、横浜≠フ文庫本は、被害者大森裕三十七歳の所有物であることがはっきりしているけれど、奈良≠フ場合は違った。大門池で刺殺された寺沢隆三十九歳は、そのような文庫本など持っていなかった、と寺沢の妻は証言しているのである。
寺沢は文学好きでもなければ、読書家でもない。
すると、奈良≠フ方の文庫本は、犯人の持ち物だったのか。
谷田がその点を質《ただ》すと、
「いや、そうじゃない」
警部は考える目をし、
「奈良の目撃者は、この文庫本を返さなければならない、と、犯人《ほし》が被害者《がいしや》に話しているのを聞いている」
と、つぶやいてから、こう言い足した。
「しかし、奥さんが気付いていないというのは、変だよね。文庫本は、奥さんに隠すような内容のものではないだろう」
百六十二ページの五行に、同じように、傍線は引かれてあった。だが、奈良≠フ文庫本には、新聞の切り抜きが挟まれてはいない。
この違いは、どういう意味を持つのか。
相違は分からないが、犯人が、同一書名の(二冊の)文庫本にタッチしていることは、指紋が証明している。
山下署の刑事課長は、昨日の捜査会議の席上で、
『犯人《ほし》は渦状紋ではないか』
と、指摘したが、奈良≠フ文庫本から検出された指紋の中に、まさしく、同一の渦状紋があったのだ。
「これは重要な決め手だ」
と、淡路警部はラーメンを一口食べてから言った。
「奈良の場合も、犯人《ほし》は凶行に際して手袋を使用している。凶器に自分の指紋が残らないよう、万全の注意を払っているのは、横浜のときと同じだけどね」
「文庫本を落としていったのが、横浜の場合も奈良の場合も、計算外のミスだったことになりますか」
「指紋に対する配慮からいけば、そうなりますな。だが、奈良の土産物店の従業員が耳に挟んだところによると、文庫本は、犯人《ほし》から被害者《がいしや》に返されることになっていたわけだ」
「それが、間違いなく、現場に残っていた文庫本ですか」
「他に考えようがないだろう」
「というのは、犯行に際しては痕跡をとどめないよう注意をしても、事前に手にしていた文庫本については、その点の警戒が、欠けていたことになりますか」
「問題の渦状紋には前科《まえ》がない。完全犯罪を意図したつもりでも、犯罪慣れしていない人間の場合は、必ず、どっかから水が漏れてくるものでね」
「この犯人が、それだというのですか」
谷田も、豚骨ラーメンの大きいどんぶりを引き寄せた。
二件とも、被害者の身元はすぐに判明している。これは、捜査本部にとって大きい。
しかし、大森と寺沢がなぜ殺されたのか、
「犯行の動機が、さっぱり分からない」
と、淡路警部はラーメンを食べる箸を休めた。
横浜の事件は「物盗り」でもなければ、「通り魔」でもない。
第一回捜査会議での見通しは、「怨恨」だったはずだ。谷田がそれを口にすると、
「王寺署の捜査本部も、その線で動いているようだがね」
と、警部は口ごもった。
広告代理店『泰山』雑誌部第二企画課長大森裕と、『徳光製靴』総務部長寺沢隆は、
「目下のところ、どこにも接点がない」
というのである。
双方の家族はお互いを知らなかった。
「関連のない二人の被害者が、一人の犯人から、同じように標的にされるってことがあるかい」
「手がかりは、二冊の文庫本ですね」
「だが、これも、いまも言ったように、寺沢隆は文学的なこととは一切無関係だし、大森裕の方も、横浜の文化団体には加入していないんだな」
「何かあるとすれば、二人の生活の場、東京ってことですか」
谷田の口調も独白的なものに変わった。
しばらく、会話が途絶えた。警部と新聞記者は、黙ってラーメンを食べた。
どっちにしろ、今日は日曜日だ。『泰山』あるいは『徳光製靴』など、大森と寺沢の職場を中心に聞き込むのは、明日以降ということになる。
支局長と相談して、取材の段取りだけ今日のうちにつけておくか、と谷田が考えたとき、先にラーメンを食べ終えた警部は、浅黒い顔を上げて、
「一本くれませんかね」
と、たばこを吸う仕ぐさをした。警部は捜査一課内で、禁煙宣言をした直後なのである。
だが、こんなふうにして、谷田と二人だけで食事をしたりすると、食後は決まって、内密に「一本くれませんかね」となる。
禁煙の完全実行が難しいのは、警察官とて同じことだった。殺人担当の警部も、人の子である。
「警部、ぼくは口が固い方ですよ」
谷田は情報入手にひっかけて、にやりと笑ってからピース・ライトと百円ライターをテーブルに載せた。
*
その頃、山下署の中山部長刑事、堀刑事のコンビは、凶器である果物ナイフの出所を突きとめていた。
刃先の刻印から、メーカーはすぐに割れた。新潟県|燕《つばめ》市の製造業者だった。
販売会社から流通ルートをたどり、横浜の小売店から聞き始めたところ、早くも四軒目の刃物店で、確かな反応が出てきたのである。南区|通町《とおりちよう》の刃物店だった。
小さい店だったことと、客≠ェ同じ果物ナイフを二本購入していったことが、捜査陣には幸いした。
実は、客の希望するナイフが、陳列ケースには一本しか入っていなかった。店主は、希望のナイフを、裏の物置へ探しに行った。それで、はっきり記憶していたのだ。
「先々週の、定休日の翌日でした」
と、店主は迷わずに証言した。
商店街の定休日は水曜日だから、それは先々週の木曜日、三月二十四日ということになる。
「サングラスをかけていたので、年齢ははっきりしませんが、三十前でしょうか。ええ、髪の長い男性でした」
と、刃物店の主人が説明する客≠フ風貌は、フランス山公園で、山梨県大月市からきた若い恋人同士が目撃した男、そのままだった。
朝護孫子寺境内での目撃者、土産物店の従業員は男の顔かたちまでは確かめていないが、恋人同士の方は、細い坂道で、その男とぶつかっているのである。
もちろん、昨日の事件発生の時点で、男の似顔絵は作成されている。
だが、恋人同士の目撃はあっという間のことなので、もうひとつ、正確ではなかった。
それを、刃物店の主人が補足、訂正して、より完璧に近い似顔絵が完成されたのは、中山部長刑事と堀刑事が、刃物店を割り出してから一時間と経たないうちである。
奈良・王寺署との合同捜査会議が開かれる前に、犯人の新しい似顔絵は、山下署の捜査本部へ届けられた。
スピーディーな作成には、神奈川県警が開発した、捜査携帯用の似顔絵合成器が威力を発揮した。
この合成器は、それまでのモンタージュ写真や、専門家による似顔絵かきとは異なり、目や鼻などの顔の部分や、付帯物である眼鏡、帽子など、千三十六枚のフィルムを用意したものだった。このフィルムの入った合成器で、似顔絵を作成する仕組みとなっているのである。
しかも、似顔絵合成器は手軽く持ち運べるので、証人を、捜査本部へわざわざ呼ぶといった面倒も要らない。
こうして、時を移さずに完成された新しい似顔絵を見て、
「問題はサングラスだな。サングラスの裏側にどのようなまなざしが隠されているのか、それがはっきりすれば文句ないのだがね」
と、腕を組んだのは、捜査本部長である山下署の署長だった。
無論、それは、捜査員全員に共通する感想だった。
他でもない淡路警部も、サングラスにこだわる一人だった。
「髪の長い男か」
警部は似顔絵のコピーを机に置き、じっと見詰めていたが、捜査本部から出ていく鑑識係に向かって、
「髪を長くすると、人間の顔ってのは、似てくるものかね」
と、話しかけていた。
神奈川・山下署と、奈良・王寺署の捜査本部による合同捜査会議が、山下署二階道場で開かれたのは、午後二時からだった。
3章 三つのルート
「おや、浦上ちゃん、今日は珍しく部屋に閉じ籠《こも》っていたのかね」
甲高い声で電話をかけてきたのは、『週刊広場』の編集長だった。
「日曜日だってのに、新宿の将棋センターへいかないとは、このところ負けが込んでいるのかな」
「今日はテレビですよ。ゆうべ飲み過ぎたので、今日はおとなしく、ビデオで将棋の研究をしていました。テレビ将棋も、四月から新しくなるんですよ」
「ビデオにかじりつきでは、ニュースを見てないな」
「すぐにでも使えるネタですか」
「奈良の夜桜を、見物にいってもらうことになりそうだ」
「奈良?」
「朝刊には間に合わない事件《やま》だし、今日は夕刊がない。敏腕ルポライターなら、テレビニュースぐらい、がっちり見ていてくれなければ困るじゃないか」
編集長は、浦上の反応が鈍いので、すでにかっかしている。
「典型的な複合殺人だ。横浜絡みの殺人《ころし》だから、浦上ちゃんにとっては、他社に抜かれるわけにはいくまい」
「待ってくださいよ」
浦上伸介は受話器を左手に持ったまま、右手を伸ばして、ビデオをとめた。
時間が不規則なルポライターの、独り暮らしの部屋は乱雑である。
東京都|目黒《めぐろ》区、東横線中目黒駅から徒歩にして五分。九階建て『セントラルマンション』の三階、307号室の1DKが、シングルライフをつづけている三十二歳の住居であり、仕事場だった。
「横浜絡みの殺人《ころし》といえば」
と、浦上は受話器を持ち直した。
現在横浜に設置されている捜査本部は、菊名署と山下署だ。浦上も、それは承知している。
「うん、港の見える丘公園の方だ。テレビニュースなので、詳しいことは分からないがね、山下署と奈良の王寺署と、双方の殺人犯が同一人だってわけさ」
と、編集長はさらに甲高い声になった。
*
夜、浦上伸介は、谷田実憲を呼び出していた。
山下署に近い雑居ビルの、地階にあるカウンター形式の小さいバーだった。
「きみがやってくるのは、分かっていたよ」
昼めしを食ったときに淡路警部とそう話し合ったばかりさ、と、苦笑する谷田は、原稿を送って、ほっと一息入れた矢先だった。
「それにしても、今日のうちに現れるとは、えらく早い御出座《おでま》しだな」
「仕事熱心な編集長に、ハッパをかけられたのですよ。週刊広場の編集長は、日曜日に自宅から指令を発するのが、お好きな性分でしてね」
「捜査本部の言いぐさではないが、まだ、週刊誌に発表する段階ではございません、ってところだな」
各社ともスタートラインについたばかりで、勝負はこれからだ、と、谷田は中ジョッキを飲み干して、水割りに切り替えた。
浦上の方は、最初からウイスキーの水割りである。ボトルは、『毎朝日報』の名前で入っていた。
新聞記者《ぶんや》の出入りが、多い店だった。このときも、谷田に会釈したそれらしき客が二人、カウンターの反対側にいた。
谷田が、これまで報道されなかったし、明日の朝刊にも出ないデータを、無警戒に打ち明けてくれたのは、最初の水割りを空にしてからだった。
それが、すなわち、同じように傍線が引かれた文庫本のことである。
「当分活字にはできないが、オフレコで、各社とも承知しているはずのネタなんだ」
と、谷田は言った。無造作に口に出したのも、各社に行き渡っている情報のせいだった。
奈良≠フ文庫本は定かでないが、少なくとも横浜≠フ方は、封筒の裏面にただ一字、「桜」と記した差出人によって、大森あてに郵送されてきたものなのである。「桜」から大森に寄贈されたものか、あるいは、大森の所有であったのを返送してきたのか、その点は分からない。
しかし、大森が、その文庫本を手にしてショックに見舞われたのは事実だ。大森が驚愕したという、妻の証言がある以上、その驚愕が、文庫本が郵送されてきてから一週間後の、昨日の殺人に直結していることは間違いあるまい。
「百六十二ページの、冒頭の五行に引かれた傍線ですか」
「傍線自体に意味があるのかどうか、淡路警部などは疑問視しているが、傍線が引かれたことで、それが何かを特定しているという見方はできるだろうな」
「たとえば、その文庫本の、所有者を特定する、といったことですか。なるほど、そういうことかもしれませんね」
浦上は、一通り谷田の話を聞いたところで、二杯の新しい水割りを作った。こうして、二人で飲むときは、黙っていても、後輩の浦上が、先輩の水割りも一緒に作ることになる。
「横浜と奈良か。先輩、これは一種の二面指しですね」
浦上は、水割りのグラスを谷田の前に戻した。二面指しとは、一人が、同時に二人を相手にする対局のことだ。
「しかしねえ」
谷田はグラスに手を伸ばして、首をひねった。
「同じ駒組みで進行する二面指しもないだろう」
「序盤は同じに見えても、中盤に突入する頃から、二局の戦形は別々に変わってくるのではないですか」
「文庫本という小道具は共通していても、隠された殺人動機は異質だってことかい」
「被害者二人の関連次第でしょうが、大森と寺沢の間に、どうしても重複部分がないとすれば、そういうことになるでしょう」
「うそ矢倉《やぐら》みたいなものか」
谷田はカウンターの向こう側にいる他社の記者を意識してか、あえて、将棋用語でつづけた。うそ矢倉というのは、振り飛車と見せて、相居飛車に誘導する序盤作戦である。
こんなふうに、浦上と谷田の間では、将棋用語の飛び交うことが多い。
聞き込みとか推理が順調なときもそうだし、取材が行き詰まったときもそうだ。大学時代からの親しい先輩と後輩は、要するに将棋が大好きなのである。
お互いに、町のクラブでは、四段で通る棋力だった。浦上と谷田の生活にとっては、毎夜のアルコールが欠かせないように、将棋もまた不可欠である。
「先輩、しかし、うそ矢倉のように計画的に角筋をとめてきたのであれば、文庫本は、大森の場合も、寺沢殺しの場合も、意識的に遺留されたってことになりますか」
「犯人《ほし》が意図した陽動作戦の物証なら、そのウラを読まなければならんが、目撃者の方は、これは犯人の策略とは無関係だろう」
「そうかな」
浦上は考えるまなざしになっていた。目撃者≠ニいうものは、一般的には、偶然そこに立ち会った人間のことを言うのである。
偶然であればこそ、目撃証言が重みを持ってくるわけだ。
しかし、フランス山公園と、朝護孫子寺《ちようごそんしじ》と、偶然が二つ重なってくると、
(それをそのまま受けとめてもいいのだろうか)
と、つい疑ってかかるのは、ルポライターの本性である。
浦上は、夕刊紙の記者を経て、フリーのルポライターとして独立したのだが、以来、仕組まれた事件をいくつも経験している。当然その中には、最後までそれと知らずに目撃者≠ノ仕立てられた、完全なる第三者もいる。
それが、犯人の演出通りの目撃≠ナあるならば、それこそ、ウラのウラを分析しなければならない。
「そうだね」
谷田は、グラスをカウンターに置いてから言った。
「横浜の場合は、長髪サングラスで黒っぽいコートのその男が、若い恋人同士にぶつかってきたわけだ」
「文庫本は、体当たりしたはずみに落としたのでしょう」
「これは、犯人《ほし》の意思が動いていたと解釈できなくはない。だが、奈良の方はどうだ。寺沢を、石灯籠が立ち並ぶ境内に呼び出した長髪の男は、目撃者に全く気付いていないわけだろ」
「そりゃ、先輩らしからぬ発言ですよ」
浦上も、手にしていた水割りのグラスをカウンターに戻し、キャスターに火をつけた。
「その土産物店の従業員は、縁日でもない限り、午後六時半に店を閉め、寺の参道を通って、帰宅するわけでしょう。犯人《ほし》が、それを事前に知っていたとしたら、どうなりますか」
事前に知っていて、利用したのであるなら、それは立派に、作られた目撃者ではないか。
浦上も、他社の新聞記者を意識した、ぐっと低い声で、
「違いますか」
と、要点を言った。
だが、そうは口にしたものの、それでは、なぜ、作られた目撃者≠ェ必要なのか、それが判然としない。
真犯人が善意の目撃者を用意するのは、偽装アリバイ工作など、自己の潔白を証明することが大前提となる。
が、今回の場合は、横浜≠熈奈良≠焉A目撃者の登場が犯人の物証を裏付ける形になっている。目撃者の証言によって、犯人同一人説が、なお一層強化されるという結果を招いているのである。
犯行の過程をアピールするために、目撃者≠準備する犯人はいないだろう。
「先輩、こだわりは残るけど、こうした偶然もあるってことでしょうかねえ」
浦上の語調が重くなった。
浦上がたばこをもみ消して、新しい水割りを作ると、
「これが、目下のところはっきりしている、被害者お二人の経歴だ」
と、谷田はブレザーの内ポケットから取材帳を取り出して、カウンターの上に置いた。
大森裕は、茨城県|石岡《いしおか》市の出身だった。父親は郵便局長をしており、大森は三人兄弟の三男だ。
高校までは地元で過ごし、大学は仙台を選んでいる。
大学をストレートに卒業して、東京の大手広告代理店『泰山』に就職。趣味は読書。結婚は十年前である。上司の勧めによる見合結婚、と、谷田の取材帳には記されている。
一方、奈良で刺殺された寺沢隆は、東京の高級住宅街、田園調布に生まれ育っている。寺沢の方は二人きょうだいで、年の離れた妹がいる。
小学校から大学まで、私立の名門校に学び、卒業後は父親が経営する『徳光製靴』に入社。営業部を皮切りに、予定のコースで昇進して、総務部長に納ったのが、二年前である。
結婚は十四年前だった。結婚を機に世田谷区北沢に新居を建て、現在も同所に住んでいる。
寺沢も、大森同様見合結婚だった。趣味は映画鑑賞。
「二人の被害者は、生い立ちも、現在の生活も、全然違う」
「強いて共通点を上げるとすれば、同じ東京都に住んでいることと、見合結婚ということですか」
「そんなことが、犯行の動機に関係するとは思えないしね」
谷田は聞き流したが、
「大森のマンションは、三鷹といっても、牟礼だろ。寺沢の家とは、ごく近いのではないかな」
と、ふと思いついたように、口調を改めた。
言われてみれば、そうだった。京王帝都井の頭線を利用すれば、双方の間は三十分かからないかもしれない。
浦上は、駅間の距離が短い井の頭線を思い描いた。
しかし、双方の住所が比較的接近しているといっても、それがいかなる意味を持つのか、持たないのか、それもまた、これだけのデータでは釈然としなかった。
*
翌四月四日、月曜日。
桜の花はまだ開き切らないのに、東京は朝から小雨になった。
浦上伸介は早起きをした。コーヒーメーカーでキリマンジェロを淹《い》れ、トーストを一枚だけ食べて、『セントラルマンション』を後にした。
東横線で渋谷へ出、渋谷から井の頭線に乗り換えて、下北沢まで、待ち時間を入れても三十分ほどだった。
寺沢隆の家は、しゃれた商店街の、すぐ裏手に位置していた。
敷地はそれほど広くないが、鉄筋三階建ての瀟洒《しようしや》な白壁が四月の雨に濡れており、門の左手に一本、花をつけ始めた大きな桜の木があった。
ブロック塀に沿って、ずらっと高級乗用車がとまっている。
突然の不幸で主人を喪《な》くした家は、密葬の準備に追われていた。
浦上が門を入ると、桜の木の下で葬儀社を指示していた初老の男が、
「週刊誌ですか」
名刺を見て、渋い顔をした。新聞社やテレビ局などが、すでに何社もきているけれど、取材は一切断わっているというのである。
初老の男は、どうやら、『徳光製靴』の幹部社員らしい。
浦上は粘らなかった。こうした状況下では、名刺だけ置いて、黙って身を引くのが浦上の遣《や》り方だった。
浦上はショルダーバッグから一眼レフのカメラを取り出すと、桜の大木を左隅に入れる構図で、白い三階建てに向けて、何枚かシャッターを切った。
浦上が聞き込みに立ち寄ったのは、両隣の家である。最初から、取材の重点は近所の家に置いていた。
両隣は、どちらも中流以上といった感じの門構えであり、応対に出た中年の主婦も品がよかった。
それだけに、『週刊広場』特派記者の名刺を提示すると、どちらの主婦も警戒的なまなざしになった。
しかし、結局質問に応じてくれたのは、浦上の人柄のせいだろう。
浦上は口の利き方も、風貌も、派手ではなかった。
中肉中背の童顔。仕事はできるけれども、その言動は、どちらかといえば、控え目な方だ。
それに、寺沢は事件の加害者ではない。犯人サイドの取材はやりにくいものだが、寺沢は、不幸な被害者なのである。この点も、主婦の口を開かせるのに役立ったようだ。
「ご家族思いの、いい方でしたよ」
両隣の主婦は、異口同音に、その点を強調した。
多少は割り引いてメモする必要もあろうが、それにしても、故人は、家庭的なタイプだったらしい。妻の母親を引き取って同居するような人間だし、その義母とも、うまくいっていたというのである。
家族そろっての旅行も、今回が初めてではなかった。季節の変わり目には、よく小旅行に出かけたし、昨年の夏には、やはり五人で、ハワイへ行ったという話だった。
「寺沢さんは、横浜にご親戚とか、親しい知人がいると聞かれたことはありませんか」
浦上が最後にそれを尋ねたのは、無論、大森が刺殺された事件との関連を探るためだった。
「さあ、詳しくは存じませんが、亡くなられたご主人はドライブがお好きでしてね。横浜へもよく行かれてたようですよ」
と、これも二人の主婦の一致した返事だった。
しかし、このドライブは、休日の家族連れではなかった。「仕事の後のストレス解消」のためのもので、夜、独りで、車を飛ばして行くのだという。
「夜のドライブは、ご近所でも目立つほど多かったのですか」
「そうですわね。週末には、決まってお出かけになっていらしたみたい。大会社の部長さんでは、ストレスも多いのではないですか」
と、これまた、二人の主婦に共通する返事だった。
浦上は、小雨を避けるようにして、商店街へ戻った。
近くに酒屋があった。
酒屋は店を開けた矢先だった。若い店員が二人、軽トラックにドライビールを積み込んでいる。
「こう言っちゃ、悪いけど、あの旦那《だんな》、ちょっと変なところがあるんじゃない?」
と、思いも寄らないことを聞き込んだのが、酒屋の店員たちからだった。
「あの旦那、日曜日なんかに、たまに、そこのハンバーガーショップに来てたんだけどさ」
と、二十歳《はたち》前後の若い店員は、浦上の質問にこたえて、二軒先の店を指差した。そっちも、いま、店を開いたところだった。スタンド形式の、若者の客が多く集まりそうなインテリアである。
一流会社の総務部長が立ち寄るような店ではないが、寺沢は休日の、散歩の途中にでも利用したのだろうか。
寺沢は、時間をかけて、アメリカンコーヒーを飲んでいたという。
寺沢が紙コップを手にして、立つ場所は決まっており、
「それがね、一番端っこの出入口に近い所なんだけど」
と、一人が言い、もう一人の店員がこう言い添えた。
「その向かいに洋品店があるでしょ。これはね、その息子が発見したことなんだ。あの旦那、そうやってスタンドでコーヒーを飲みながら、通りを行く若い女の子を、じっと目で追いかけているんですよ」
「目で追いかける?」
それが珍しいことなのか。
きれいな女性が通りかかれば、無意識のうちに視線が吸い寄せられるのは、男性としてよくあることではないのか。
「それが、そうじゃないんだね。洋品店の息子に言われてから、オレたちも何となく注意するようになったのだけどさ、あの旦那の場合は、若い女の子を眺めるのが目的で、そこのハンバーガーショップへやってくるのですよ」
と、一人が言い、もう一人がことばを重ねる。
「そう、それに間違いない。こっちがそう思って見るせいか、何とも、いやらしい目付きでね」
「しかし、洋品店の息子さんは、いくらお向かいで店番しているとはいえ、よくそんなことに気付いたものですね。いやらしいまなざしで、通りを行く美人を見詰めているのはともかくとして、寺沢さんが具体的に、女性に何かを仕出かしたというようなうわさが、あるわけではないでしょ」
「そりゃ、そうだよ。社会的な地位のある人だもの。そこは、それ、理性ってものがあるでしょ。でもさ、目で追いかける分には自由だものね」
と、若い店員は口をそろえた。
商店街は小雨のせいか、午前の早い時間のためか、まだ、それほど人が出ていない。
浦上はハンバーガーショップの前を歩いて、下北沢駅へ戻った。
人間の目は、思いもかけないことを捉えているものだな、と考えた。そして、若い店員たちが話題にしているような、寺沢の行為≠ェ事実であったとしても、別に不自然なことではないだろう、と、浦上は自分の中でつぶやいていた。
たとえば、謹厳実直と評される人間にも、社会で見せる顔とは全く逆な一面が、あるはずだ。
寺沢が休息日の午後、それこそサンダル履きで、ハンバーガーショップへやってきて、会社とか、家族の前では見せたことのないいやらしい目をしていたとしても、それ自体は、責められることではあるまい。
別な見方をすれば、それも人間味というものだろう。
浦上は吉祥寺《きちじようじ》までの切符を買って、改札口を通った。
井の頭線のホームは、小田急線と交差して高架式になっている。
(待てよ)
浦上がふとある一点に目を据《す》えたのは、見晴らしのいいホームに立ったときである。
寺沢の中の、その別な一面が、犯人にとって、殺人の動機になっていることはないか。浦上の脳裏を、判然としないままに過《よぎ》ったのが、それだった。
商店街の若い店員たちは、寺沢の休日の行為≠何となく意識したが、それは、元来だれにも知られてはいないことなので、その辺りに動機≠ェ隠されているとすれば、家族とか、会社関係者などは、寺沢が狙われたことについて、だれもが、
『思い当たることはありません』
と、こたえることになろう。
(しかし)
浦上は首をひねった。
この思い付きが、仮にその通りであったとしても、それが、殺人にまでエスカレートすることだろうか。
浦上は未整理な状態で、じっと小雨の降る町を見下ろしていた。二人の、若い店員の証言も、いまはただ、ひとつのデータとしてメモするにとどまった。
*
大森裕の遺族が住む『コーポ立野』へ回ったのは、午前十一時前だった。
下北沢から吉祥寺まで、井の頭線で正味十九分。昨夜、谷田と話し合った通りの、近距離である。
そして、『コーポ立野』がある牟礼は、吉祥寺駅から徒歩にして、わずか五分ほどだった。
住居は遠くないが、どこにも接点を持たない、二人の被害者だった。
大森の方は武蔵野市の葬儀社を会場として、午前十一時から、密葬が営まれることになっていた。遺族は、妻も、小学二年生の男の子も、すでに会場に向かっており、『コーポ立野』408号室にはだれもいなかった。
浦上がドアチャイムを鳴らすと、隣の、407号室の主婦が顔を出した。
浦上はここでも、隣の主婦から話を聞くことになった。
「そうですわね、どちらかといえば、人見知りをされるご主人でしたが、いやな感じを与える方ではありませんでした」
と、若い主婦は言った。
大森は職業柄、毎晩帰りが遅かったし、酔って帰宅することが多かったようだ、と、隣の主婦は浦上の質問にこたえたが、彼女は広告代理店勤務を、一般のジャーナリストと混同していた。
人見知りするような、一種偏屈な大森の性格を、
「毎日、細かく神経使うお仕事をなさっているせいでしょうね」
と、若い主婦は、彼女なりに、受けとめていた。
だが、それは、その彼女の印象であって、大森の夫婦仲はよかったし、大森は一人息子をかわいがっていたという。
マンション内での、他の住人の評判も、(大森の口数とか笑顔が少ないことを指摘する人は多かったけれど)悪いものは一つもなかった。
「仕事熱心で、まじめなご主人という感じでした。殺されるような、恨みを買う人じゃありませんよ」
だれもが、同じことばを返してきた。大森という男は、要するに、人当たりはよくないけれども、家族を大事にする堅実なサラリーマンだった。
大森の妻が、山下署の刑事課長にこたえたところによれば、大森は『泰山』社内でも、順調に出世コースを歩んでいたわけである。
「そうですね、確かに気難しそうなところはあったけど、身の回りの、センスのいい人でしたよ」
と、こたえたのは、『コーポ立野』の管理人だった。
ことばをかえれば、おしゃれということになろうが、それは、死亡時の服装からも、推察できることだった。
浦上は、武蔵野市の葬儀社を管理人に聞いて、『コーポ立野』を出た。葬儀社は井の頭公園の反対側にあり、徒歩で十分とはかからない場所だった。
浦上は公園を突っ切り、小雨が降る池の端を歩いた。
公園の桜も、完全に花を開くには、まだ間があった。
桜の木の下を、傘さして、ショッピングカーを引く主婦がすれちがっていった。
浦上は水のある風景が好きだった。弁財天の近くで何となく足をとめると、小雨の中でキャスターに火をつけた。
(被害者の二人は、ともに、仕事も家庭もうまくいってたってわけか)
浦上はゆっくりと、たばこを吹かした。
製靴会社の部長も、広告代理店の課長も、それぞれに、隠れた個性≠備えている。それらの是非はともかくとして、人間がいくつかの面を持っているのは、当然なことなのだ。
問題は、プライベートな時間にふっと露呈される、そうした個性というか癖が、今回の殺人に結び付いてくるのか、どうか、ということだ。
浦上は繰り返しそれを考えながら、一本のたばこを灰にした。
葬儀社は、駐車場と向かい合っていた。
浦上が探し当てたとき、すでに受付は始まっていたが、密葬ということで、参列者は少なかった。
浦上は、一応写真だけは撮っておくことにして、駐車場の前でカメラを取り出した。
構図を決めようとして、ふと気が付くと、横浜・山下署の刑事が二人、受付の近くに立っていた。浦上は、直接口を利いたことはないが、山下署の刑事課は何度か取材しているので、顔だけは知っていた。
それは、中山部長刑事と堀刑事だった。葬儀の参列者をチェックするのは、捜査の常道だ。
しかし、二人の刑事は、手持ち無沙汰な顔付きである。
(あの分では、張り込みの収穫はゼロだな)
浦上はシャッターを切り、そっとその場を離れた。
*
浦上は、正午前に、『週刊広場』の編集部へ上がった。
『週刊広場』は、大手綜合出版社の発行である。本社ビルは、皇居・平川門に近い一ツ橋だが、週刊誌の方は、神田錦町の分室に入っていた。
七階建て、細長い雑居ビルの三階が編集室になっている。
編集長の机は大部屋の奥の窓際にあり、机の横に、小さい応接セットが、用意されてあった。
新聞社の編集局と同じことで、週刊誌の編集部が活気を呈するのは、午後も遅くなってからだ。
午前中は空席のみが目立つが、浦上が入っていくと、長身の編集長は早くも出社しており、
「や、ご苦労さん。うまくいったかね」
と、取材結果を待っていた。
浦上は応接セットで、編集長と向かい合った。
編集長は愛用のパイプにハーフアンドハーフを詰め、パイプたばこをくゆらしながら、浦上の報告に耳を傾けた。
浦上が、(昨夜谷田から入手した)報道管制が敷かれている情報を、最後に口にすると、
「ほう、桜の樹の下には屍体が埋まっている! か。梶井は、ぼくも、学生時代に愛読した記憶があるね」
編集長は長身を乗り出してきた。
「浦上ちゃん、梶井の文庫本が、結果的にそれほど重要なキーではなかったとしても、特集の導入は、桜の樹の下の連続殺人で決まりだね」
犯行の背景は、まだ皆目見当が付いていない。
だが、編集長は、この同日二件の連続殺人が、「いけるネタ」であることを敏感にキャッチしていた。
編集長の、長年の勘というものだろう。『週刊広場』の事件特集は、創刊以来、ユニークな切り込み方をすることで、定評があった。
港の外人墓地と、古都の古刹《こさつ》。
およそ関連を持たない二人の被害者が、どこでどう結び付いてくるのか。それは依然として厚い雲の中だが、犯人は同一人と断定されているのである。
大森と寺沢の、殺された動機が別々であったとしても、どこかに、重なり合う部分がなければならない。それが判明すれば、容疑者も絞られてくる。
山下署と王寺署の捜査本部も、もちろん接点≠フ洗い出しを、最優先事項としている。
「しかし、浦上ちゃん、泰山と徳光製靴の取材は、葬式が一段落してからの方がいいんじゃないか」
「ぼくもそう思います」
浦上が、今朝の取材がいまいちだったことを繰り返すと、
「ご両家が葬儀の後片付けをしている間に、奈良へ行ってきてもらうか」
編集長はパイプをテーブルに置いた。
浦上もそのつもりだった。出かけるなら早い方がいいし、一泊ぐらいの出張なら、旅慣れたルポライターにとって、旅の準備も不要だ。
編集長もその辺りを察したか、
「すぐに出発するかね」
と、出張費の仮払い伝票に判を押して、浦上の前に置いた。
浦上は伝票を経理に回した。
キャッシュが届くまでの時間を利用して、横浜へ電話を入れた。
谷田は、県警本部の記者クラブから、山下署へ出向いていた。
市外電話を山下署へかけ直すと、太い声が出てくるまでに、しばらく間があった。
「先輩、キャップ直々の取材ですか。捜査本部に動きがあったのですか」
「何もない。何もないけど、淡路警部がこっちに詰めているのでね。ま、ご機嫌伺いってわけさ」
「北沢と牟礼へ行ってきましたよ」
「大森の方が午前十一時、寺沢の密葬は自宅で午後一時からだろう。我社《うち》の若手も行っているのだが、カメラを構えたやつに会わなかったか」
と、谷田は言った。浦上は気付かなかった。『毎朝日報』の若手記者は、目立たない物陰から撮影していたのかもしれない。
「ところで、妙なことを聞き込みました」
浦上は、酒屋の店員たちから聞き出した内容と、マンションの住人から取材した結果を伝えた。
「ほう」
谷田は関心を示した。『コーポ立野』は『毎朝日報』でも取材済みであり、大森が一種偏屈な性癖であることは聞き込んでいた。しかし、寺沢がそうした一面を持っていたとは、意外だったらしい。
「でも先輩、性格が少し変わっていようと、道行く女性を見詰めてよからぬ夢想に浸《ひた》ろうと、それ自体は事件に関係ないでしょう」
「そうだな。少なくとも、二人の習慣か何かで共通点でもあれば別だが、偏屈な性癖≠ニ、よからぬ夢想≠セけでは、これはストレートには重複しないね」
「大森はアルコール好きだけれど、寺沢の方は、酒よりもドライブで、ストレスを解消していたという話ですね」
「それなんだよ。お互い酒好きなら、バーかクラブで出会ったとも考えられるが、それもない」
「やっぱ、大森と寺沢の日常をどこまで掘り下げることができるか。その一点に、かかってきますか」
「今度の事件《やま》は、捜査本部が二つだろ。山下署と王寺署は、もちろん密接に協力し合っているが、心情的には、競い合う形になっている。それだけに、刑事《でか》さんたちは、昨夜も、遅くまで、徹底的な聞き込みをつづけていたようだ。しかし、何も浮かんでこないんだよ。家族、友人、そして、双方の会社をいくら当たっても、大森と寺沢の接点はどこにもないそうだ」
「ぼくは、これから奈良へ行きます。関西での取材結果がどうであれ、その後で、泰山と徳光製靴を訪ねるつもりです」
「刑事《でか》さんたちが、これほど厳しくやっているのに、何も出てこないんだよ。やるなら、百八十度、発想を転換する必要があるだろうね」
「百八十度?」
「口で言うのは簡単だが、どうすれば百八十度転換できるのか、オレにもさっぱり分からんよ」
「それにしても、妙な事件《やま》ですね」
「奇妙もいいところさ。被害者《がいしや》が、一人ならともかく、二人だよ。しかも、決して、通り魔的犯行でないことが証明されている。その上、被害者は二人とも早々に、身元が割れている。なぜ、動機の見当もつかないんだ? こんな話、聞いたことがない」
「例の文庫本が、問題となってきますかね」
と、浦上は電話を切るときにつぶやいたが、つぶやきは、もちろん、何の裏付けも持たないものだった。
*
浦上は、東京駅発十三時四分のひかり223号≠ノ乗った。
焦げ茶のブルゾンにショルダーバッグひとつという、今朝方と同じ軽装だった。
月曜日の新幹線は空《す》いていた。
小雨は、多摩川を越える頃に、上がったようだ。
雨はやんでも、窓外の曇り空はつづいた。
新横浜を発車して、しばらくすると、車内販売のワゴンがきた。浦上は昼食として、サンドイッチを求め、お茶代わりの缶ビールを二本つけた。
サンドイッチを頬張り、缶ビールを飲みながら、ショルダーバッグから取り出したのは時刻表だった。
『週刊広場』編集部から、タクシーを飛ばしてくると、とりあえず一番早く利用できる新幹線に乗ったものの、目的地到着が何時になるのか、確認されていなかったのである。
(凶行時刻に、朝護孫子寺の境内を歩いてみたい)
それが、取材の前提だった。
浦上は時刻表のページの、あちこちをめくった。
サンドイッチを食べ終えるまでに、浦上の取材帳には、次のような数字が書き出されていた。
東京発 十三時四分 新幹線ひかり223号
京都着 十五時四十七分
京都発 十六時三十二分 奈良線普通
奈良着 十七時三十三分
奈良発 十七時四十七分 関西線普通
王寺着 十八時二分
犯行時刻は午後七時頃であり、王寺駅から信貴山までは、タクシーで十分前後。
(時間的には、ちょうどいいじゃないか)
と、浦上は思った。
二日前の凶行≠どこまで見ることができるか、それは疑問だが、同じ状況下で現場に立てるのは、意味あることだった。
目撃者である土産物店従業員の帰りを、石灯籠が並ぶ参道で、捕えることもできよう。
浦上を乗せたひかり223号≠ヘ、京都まで、新横浜と名古屋しか停車しない。
列車はスピードを上げたまま、三島を通過するところだった。曇っているので、富士は裾野しか見えない。
その曇り空の下で、時折、にじんでくる彩りが遠くに見えた。
風景の彩りは、桜だった。
浦上は東海道新幹線を利用することが多い。普段はそれほど気付かないが、こうして見ると、沿線は思ったより桜の木が、多いようだ。
桜の開花を追って、つつじなども、赤や白の花をつけてくる。
しかし、花々が与えてくれるはずの安らぎといったものも、いまの浦上とは関係がなかった。
桜の花の向こうに転がっている二個の死体は、どこから関連を持ってくるのか。絶えず、それだけが念頭を占めている。
やがて窓外の風景は茶畑になり、穏やかな傾斜を見せる山や林に変わった。そして、曇り空の下に水田が広がってくると、彼方に、また桜の彩りが点在する。
浦上は脚を組み換え、二本目の缶ビールを開けた。
新しいビールを飲みながら、取材帳に、改めて二行メモを書き付けた。
港の見える丘公園=十一時三十分頃
朝護孫子寺=十九時頃
横浜≠ニ奈良≠フ殺人時間だ。
二人の被害者の接点は、どう検討しても、これまでのデータでは何も分からない。だが、犯人の足取り≠ヘ、一冊の時刻表さえあれば、きっと浮き彫りにすることができる。
二つの殺人《ころし》を前提とする出発時刻と、到着時刻は決まっているのだから。
二つの殺人の間には、ざっと七時間が用意されている。
持ち時間がそれだけあれば、横浜から奈良への移動は容易、と、受けとめるのはいわば常識であるが、その常識≠しかとチェックし、足取りの見当つけておくのは必要なことだ。
あるいは、それが何かのヒントを与えてくれるかもしれぬ。二つの捜査本部は、どのルートに狙いを絞っているのだろう?
窓外の風景が市街地に変わると、静岡だった。
ノンストップのひかり223号≠ヘ、静岡、浜松、豊橋と通過していく。
名古屋駅に到着したのは、予定通り十五時一分だった。
名古屋を発車すると、四十五分で京都だ。
浦上が慎重に時刻表を繰って、三本のルートを書き出したのは、岐阜羽島を過ぎた列車が、米原に近付く頃だった。
犯人が完全を企らんだとしたら、横浜≠ニ奈良≠フどちらに、より多くの時間を必要としただろうか。
凶行現場を比較した場合、奈良≠フ方が実行が簡単で、確実性が高い。
『ホテル信貴』へ呼び出し電話をかけてきたのは、犯人と見て間違いあるまい。と、すれば、犯人は寺沢一家の旅のスケジュールを承知しており、スケジュールの中から、完全≠ェもっとも期待できる、大門池ほとりの桜の木の下を、殺人現場として設定したに違いない。
すなわち、(寺沢を呼び出すことに自信を持っていたのであれば)奈良≠ヘ、犯行時間の計算ができるのである。
それに対して横浜≠フ方は、人出が多い土曜日の白昼だ。
凶行はもちろんのこと、現場からの逃亡とて、なかなか計画通りにはいくまい。事実、犯人は、フランス山公園の散策路で、大月市から来た若い恋人同士にぶつかり、自分を見られてしまっているではないか。
どうしても、横浜≠フ方に、時間を取っておく必要があるだろう。
浦上はそれらのことを勘案して、三つのコースをメモした。
王寺駅到着のタイムリミットを、十八時三十分頃と想定すると、横浜≠ナの持ち時間がもっとも多いルートは、大阪経由の(1)であり、以下名古屋経由の(2)、京都経由の(3)の順序となる。
(1)大阪経由
港の見える丘公園発 十三時二十分頃(徒歩十五分)
石川町駅(石川町|新横浜間正味二十分)
新横浜発 十四時一分 新幹線ひかり349号
新大阪着 十六時四十八分
新大阪発 十七時十分頃 地下鉄(正味二十一分+運転間隔最長八分=二十九分)
天王寺着 十七時四十分頃
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
(2)名古屋経由
港の見える丘公園発 十二時五十分頃
新横浜発 十三時二十九分 新幹線ひかり105号=i臨時だが四月二日は運行)
名古屋着 十五時九分
名古屋発 十五時三十分 近鉄ビスタカー
大和八木着 十七時二十六分
大和八木発 十七時四十分頃
(正味十分+運転間隔最長二十分=三十分)
近鉄下田着 十八時十分頃
下田発 十八時二十六分 JR和歌山線普通
王寺着 十八時三十六分
(3)京都経由
港の見える丘公園発 十二時四十分頃
新横浜発 十三時二十一分 新幹線ひかり223号
王寺着 十八時二分
メモに書き出された推定時刻の「頃」というのは、時刻表の大判にも掲載されていないので、運行所要時間と運転間隔から、浦上が割り出した数字だった。
浦上は、いま、ひかり223号≠ナ西下中だ。すなわち、(3)は、現在、浦上が進行中のルートというわけである。
目的地が奈良なので、浦上は漠然と京都経由を選んでしまった。しかし、わずかな違いだが、実は、これが、横浜≠ナの持ち時間が一番少ないことになる。
(そういうもんかな)
浦上は苦笑しながら、時刻表をショルダーバッグにしまった。
列車は米原を通過し、右手に小さく琵琶湖が見えてきた。
京都が近付いたところで、車窓にはまた小雨がぱらつき始めた。
京都駅から奈良線の普通に乗り換えると、急に、地方へきた印象が強くなった。
古都は、京都も奈良も雨だった。
雨のために日暮れが早い。
浦上は予定通り、午後六時二分に、王寺駅へ到着した。岡崎川沿いのホームだった。この川はもう少し下流で石川と合流し、大和川となる。
浦上は混雑する跨線橋を渡って、駅を出た。
4章 関西本線王寺駅
生駒《いこま》山地のふもとに位置する王寺は、昔から、交通の要衝として知られている。
現在も、関西本線のほかに、JR和歌山線、近鉄の生駒線と田原本《たわらもと》線が入っており、町は活気を呈《てい》している。活気があるのは、信貴山への参拝口であると同時に、住宅団地の増加が著しいせいだった。
駅前には、食堂とか土産物店とか大きいパチンコ屋などが並んでいる。
「ああ、おとついの人殺しね。犯人を乗せたのは、確かに、我社《うち》の運転手ですよ」
と、そうした返事を浦上伸介が得たのは、パチンコ屋の近くで客待ちするタクシーに尋ねた結果だった。
「あいつ、さっき団地へ客乗せて行ったから、そろそろ戻ってくると思うよ」
と、同じタクシー会社の運転手は、待っていたようにこたえた。
横浜と関連する派手な殺人事件だけに、それは、当然、運転手仲間でも話題の中心となっているのだろう。お陰で、聞き込みに対する反応も早かったわけだ。
浦上はキャスターを取り出し、窓越しに運転手に一本勧めてから、自分も火をつけた。
その一本のたばこを吸い終わらないうちに、問題のタクシーが、駅前に帰ってきた。
「へえ、東京の週刊誌かね」
当の運転手はびっくりしたように、浦上を見た。やせた、中年の運転手だった。
浦上は最初に、神奈川県警が作成した似顔絵のコピーを提示した。
「うん、昨日刑事にも見せられた。似てはいるようだけどね」
運転手は肯定も否定もしなかった。
浦上は、そのタクシーに乗せてもらうことにした。取材先では、こんなふうにして、乗車の順番を無視してしまうことが、たまにある。
浦上は客待ちをしている先着の運転手に事情を話して、団地から戻ってきた矢先のタクシーに乗った。
「おとついと同じコースを、同じように走ってくれませんか」
「あの男、全体の感じは派手だった。でも、人殺しをするような悪党には見えなかったけどなあ」
中年の運転手は、一言そう言ってから、小雨の中へ車をスタートさせた。
タクシーは国道25号線へ出て、大阪方向へ走り、すぐに右へ曲がった。
町を出外れると、急に周囲が暗くなった。県道に入ってからはずっと上り坂で、右へ右へとカーブしていき、そのたびに人家が離れていく。
初めて訪れる土地が雨に閉ざされ、しかも、次第に夜が深くなっていくのは、取材慣れのしたルポライターにしても、どこか心細いものである。
寺沢隆を狙った犯人は、どのていどの土地鑑を持っていたのだろうか。
「そうだな。それほど詳しくはないが、初めてという感じじゃなかったね」
と、運転手はこたえた。
男は行きと帰りに一回ずつ電話をかけたが、坂の下の電話ボックスをちゃんと承知しており、男の方から電話ボックスを指定して、タクシーをとめさせたという。「それほど詳しくない」のなら、犯人は土地の人間ではない。
しかし、犯行のための、下見はしてあったということだろう。
「おとついも、このぐらいな暗さでしたか」
「ああ。今夜みたいに雨こそ降ってなかったけど、花曇りだったからね。それに時間も、少しだけど、お客さんより遅かった」
「そうか、客を乗せた時間は、運転日報にちゃんと控えてあるわけですね」
「それもそうだが」
刑事にしつこく聞かれたばかりなので、嫌でも頭にたたき込まれている、と、運転手は言った。
王寺署の捜査本部が、信貴山への一つのルートである王寺駅周辺を聞き込むのは当たり前だ。
だが、情報は、捜査員がやってくるよりも先に、運転手の方から届け出たものだった。
「明け番で洗車を終えたとき、テレビのニュースで事件を知ったんだ。それで、もしかしたら、と思って警察へ電話したら、刑事がぶっ飛んできた」
タクシー会社の営業所へやってきた二人の捜査員は、時間をかけて、詳しい経緯を聞き込んでいったという。
そして夕方には、新しく作成された男の似顔絵持参で、今度は運転手の畠田の自宅まで、捜査員が訪ねてきたという。
初耳だった。
淡路警部をぴったりマークしている谷田実憲にしても、もちろん、王寺署のそうした動きをつかんではいない。
それは重要な決め手だ。王寺署の捜査本部は、緘口令《かんこうれい》を敷いているのだろう。
そして、いずれ時間の問題で、新聞記者たちはそれをかぎ付けるだろうが、浦上がいま、早々とキャッチできたのも、現地を踏んだ成果にほかならない。
初めての土地は、距離を遠く感じさせるが、そのていどのことを話し合っているうちに、タクシーは坂を上り切った。
信貴大橋を渡った。
大門池ははるか眼下なので、夜の帷が下りた現在では、確かめることができない。
「桜の老木はこの下にあってね、ホテル信貴に投宿したお客さんは、桜の木の根元で刺し殺されていたんだ」
と、運転手は説明をつづけた。
間もなく、左手に、木立ちに囲まれた駐車場が見えてきた。砂利が敷き詰められた広い駐車場には、ライトバンが一台とまっているだけだった。
道の前方には、信貴生駒スカイラインの料金所があった。通行する車もなく、料金所は、電灯も暗い感じだった。
駐車場の手前を右へ行くと、すでに戸を閉めているが張り子の虎を売る何軒かの土産物店があり、開運橋となる。
一昨日の夜、タクシーの運転手は、ここの駐車場で待っていてくれ、と、犯人から頼まれたという。
「ぼくも、そうお願いします」
浦上はチップとして、一万円を運転手の手に握らせた。
そして、こう頼んだ。
「もちろん、待ち時間料金は別に払います。悪いけど、一緒に、朝護孫子寺まで散歩してくれませんか」
「あっしも長い間タクシーの運転手をしてるが、こんなことは初めてだね」
中年の運転手は、そうした言い方で、浦上の依頼に応じた。
*
「一昨日の男は、タクシーに乗るとき、サングラスをかけていましたか」
「眼鏡はかけていなかったね。だって、もう暗くなっていただろう。そんな時間に、サングラスなどかけていたら、かえって目立つんじゃないか」
「肩までもある長髪で、黒っぽいコートを着ていたわけですね」
「さっきも言ったけど、あっしは、犯人の顔をほとんど覚えていないんだ。あの男はサングラスこそかけていなかったが、意識的に、目線が合わないよう、避けていたんだと思うよ」
「顔もよく見ていないのに、男の全体の感じが派手だったとは、どういうことですか」
「ことば付きだよね。それから、ちょっとした仕ぐさ。うん、たばこの吸い方とか、シートで脚を組むようなときの感じが、何となく、テレビに出てくるタレントみたいだったな」
「年齢は、二十代の見当でしたか」
「若い男であったことは間違いない」
「派手な言動だったとして、具体的に、テレビタレントのだれに似ていましたか」
「特定のだれというんじゃない。感じが、何となく芸能人ふうだったというわけさ。第一、顔を確かめてないのだから、だれに似てるなんて言いようがないね」
「男が運転手さんのタクシーに乗るとき、どこからきたか覚えていますか」
「どこからって、電車を降りて、まっすぐタクシー乗り場へやってきたのさ」
王寺駅前で営業している運転手は、電車の到着時刻を詳しく承知していた。それは関西本線奈良行きの快速で、十八時二十二分到着の電車だった。
「奈良行きということは、男は大阪方面からやってきたってわけですか」
「そういうことだろうね」
やせ型の運転手は、並ぶと浦上と同じぐらいな背丈だった。
タクシーを駐車場に置いた二人は、それぞれに小さい傘をさして、人気の少ない夜道を歩いた。
開運橋のたもとに、割烹料理屋があった。一昨夜、朝護孫子寺へ向かっていく寺沢を目撃したのが、ここの仲居である。
『ホテル信貴』は、割烹料理屋の左寄りになる。峡谷に面して広い庭園があり、庭園の先に、ホテルの明かりが見える。
昼間は花見客も多いのだろうが、夜になると、ぐっと人影の絶える場所だった。
浦上と運転手は、朱塗りの橋を渡った。
犯人の王寺駅到着が十八時二十二分。
「大阪経由か」
浦上は、さっき書き出した足取りを確かめるようにして、つぶやいていた。
まさに、そのものずばりではないか。大阪経由≠ヘ、横浜での持ち時間がもっとも多いルートだ。そして、その到着時刻は、浦上の机上の計算に誤りがなかったことを示している。
問題は、この殺人計画が、どのようにして立てられたのか、ということだ。
なぜ、大森裕は港の見える丘公園で刺殺され、寺沢隆は朝護孫子寺で狙われたのか。
犯人が、二人の被害者を呼び出したという点では、共通しているかもしれない。
大森が「シドモア桜の会」予告記事の切り抜き持参で、横浜へ出かけたのは、墓前祭に列席の意思があったと見るべきだろう。問題は、その、出席の仕方だ。
予告記事が挟んであった文庫本は、身元不明の「桜」が郵送してきたものであり、文庫本を手にしたとき大森は顔色を変えた、と、大森の妻は証言しているのである。
大森は、「桜」から届いた文庫本によって呼び出されたという見方ができる。
しかし、四月二日に開催される「シドモア桜の会」が前提の呼び出しなら、殺人日時の設定は、百パーセント、犯人が意図したものとは言えない。寺沢の場合と、同じようにである。
寺沢が、家族連れで古都の桜見物にきたのは、寺沢の側の希望によるものだ。
犯人は、最終的には、二人の被害者をそれぞれに呼び出して、目的を達している。だが、被害者の行動≠ノ合わせての凶行であるなら、殺人日時は限定されてくる。
犯人は、限られた状況を、見事に活用したことになろうか。
たとえば、アリバイ工作などを前提としての、遠隔殺人≠ナはないということになる。言って見れば被害者側の都合≠ナ、こういう結果になったのだ。
(いや、そうじゃないな)
と、浦上の内面では別のつぶやきも生じていた。
恐らく犯人は、大森と寺沢が居住する、東京の人間だろう。二人の周囲にいる人間であるなら、東京で、二人を狙うチャンスが皆無というわけではあるまい。
視点を変えての、新しい考えが、それだった。
大森も寺沢も、帰宅の遅いことが多かったようだから、夜陰に乗じての犯行も可能だろう。横浜≠ヘともかくとして、殺人のために奈良≠ワで遠出する必要はあるまい。
被害者側の都合≠ノ便乗したとはいえ、同じ日に遠く離れた場所で実行したのは、犯人の強固な意志、ということになろう。
(すなわち、完全犯罪か)
浦上のつぶやきは、声になっていた。
しかし、二つの死点を結ぶ足取りは、簡単に割れてしまったのだ。
浦上の計算を裏付けて、犯人は十八時二十二分に、大阪経由≠ナ、王寺駅に到着している。
こんなに容易に発見できるのでは、たとえば偽装アリバイなどが用意されていたとしても、
(トリックは鉄道ダイヤではないな)
と、浦上のつぶやきは、そんなふうにつづいた。
浦上とタクシーの運転手は、境内に足を踏み入れ、赤門を通った。
鈍い明かりを放つ無数の石灯籠は、幽玄、という形容がぴったりだった。
夜桜の参道を占めているのは、静寂だけである。
浦上は石灯籠の下に立って、腕時計を見た。午後六時四十分になるところだった。土産物店の従業員が、石灯籠の陰に立つ影を、発見した時間帯だ。
反対方向から、従業員の足音が、そろそろ聞こえてくるのか。
浦上はそれを期待しながら、小雨が降っていることを除けば、ほとんど一昨夜と同じ状況なのだろうな、と思った。
それにしても、解せない。
こんな寂しい場所への呼び出しに応じ、なおかつ、全く無人の大門池まで、寺沢が犯人に先導されていったのはなぜか。
一流製靴会社の総務部長は、犯人に対して、首を横に振ることのできない、相当な弱味を握られていたのだろうか。
しかし犯人は、寺沢の弱点を衝いて、金品を要求してきたわけではない。
山下署の捜査本部は、大森殺しについて、いわば消去法から、動機を「怨恨」と結論付けたが、寺沢の場合も、王寺署の捜査本部が「怨恨」の線で動いているのは、正しい判断ということになろう。
その場合の問題が、寺沢の行動だ。
寺沢は、当然、犯人の怒りを承知していたはずだろう。怒りが殺意に直結していることを、予感しなかったのか。
予感があれば、(いくら呼び出しを拒否できない状況に追い込まれていたとしても)こうした寂しい場所で犯人と待ち合わせ、真っ暗な峡谷へ下りて行くようなことはしなかっただろう。
そのとき、犯人の影は、寺沢に向かって、こう言っている。
『桜が好きなんだろ。東京から古都まで、わざわざ花見にきたのだろ』
土産物店の従業員が耳にした、その話しかけの中には、何が隠されているのか。
いずれにしても、その一言で通じるものが、犯人と寺沢との間にはあったはずだ。横浜≠ナ殺された大森の方は、「桜」から送られてきた文庫本を見て顔色を変え、奈良≠ナ刺殺された寺沢は、
『桜が好きなんだろ』
と、犯人から肩を押されて、桜の木の下の殺人現場へと牽引されていったのだ。
「男は行きと帰りに一回ずつタクシーを降りて、電話をかけたと言いましたね」
浦上はタクシー運転手の方へ、話を戻した。
行き掛けの電話は、『ホテル信貴』に入れたものだろう。時間から推しても、食事中の寺沢を呼び出した電話に違いない。
帰りのそれは、殺人《ころし》の成功を、一刻も早く、だれかに報告したものでもあろうか。
「ああ、行きも帰りも、さっき言った坂下の電話ボックスへ駆けて行ったがね。帰りの方が時間がかかったな」
と、運転手は言った。
「帰りの電話は、何時頃でしたか」
「駐車場で三十分以上待たされたから、そう、七時半頃だったと思うよ」
「男が話していたことで、記憶に残っているようなものはありませんか」
「あの男がしゃべったのは、用件だけだよ。駐車場で待っていてくれ。電話をするから車をとめてくれって、具合でね。あっしの方から話しかけても、ろくに返事もしなかった」
「当然、男は緊張していたでしょうね」
「いまにして思えばそうだろうけど、あのときは、いやに覚めた男だと思ったね」
「黒っぽいコートのえりなんか立てて、クールで、都会派って感じですか」
「でもよ、こっちも寝覚めはよくないやね。何だか知らないうちに、人殺しの手伝いしたみたいでね」
運転手の口調が、次第に、重いものに変わってきた。
その運転手に向かって、崖道を下って、大門池までの案内を、乞うわけにもいかなかった。
境内と違って崖は真っ暗だし、しっとりと、四月の雨が降りつづいているのである。
運転手はチップの一万円札を受け取っている手前、露骨に嫌な顔こそしないが、所在なげにたばこをくわえ、口先で玩《もてあそ》ぶようにしている。境内は禁煙なのである。
浦上はもう一度腕時計を見た。七時になっていた。
今夜は、土産物店の従業員は雨で早仕舞いして、すでに帰ったあとだろうか。それとも、昨夜からは、参道を避けて、帰宅しているのか。
浦上はショルダーバッグからカメラを取り出すと、ストロボをたいて、びっしりと石灯籠がつづく、長い参道を撮りまくった。
フラッシュに浮かび上がる夜桜が、白い塊のように見える。一昨夜よりも、さらに開花が進んでいる。
*
王寺駅へ戻ったのが、午後七時四十五分だった。
意識的に、行動したせいもあるが、これは一昨夜、犯人が引き返してきたのと同じ時間である。
「男は、真っすぐ電車に乗ったわけですか」
浦上は料金を払って、タクシーを降りるときに訊いた。
「いや。あの男は、すぐそこの中華料理店に入っていったんだよ」
と、運転手は、フロントガラス越しに、駅前の一軒を指差した。
運転手は、もちろんそのことも、王寺署の捜査員に話したという。
浦上は礼を言って、タクシーを離れた。
駅前だが、こぢんまりとした、きれいな店だった。客が十五人も入れば、満席になるだろうか。三十過ぎの夫婦が、二人でやっている中華料理店だった。
カウンターのほかに、テーブルが二つあった。
雨の月曜日のせいか、店は空いている。浦上はカウンターに腰を下ろした。
さすがに、空腹だった。
朝、トースト一枚でマンションを出てきて、新幹線で、缶ビールを飲みながら、サンドイッチを食べただけなのだ。以来、何も口にしていない。
浦上は、五目焼きそばに、ビールを注文した。
本題に入ったのは、コップ一杯のビールを飲んでからである。
「はい、昨日は刑事さんも見えましたよ」
と、こたえる店主は小太りだった。店主は、傍で片付けものをする女房と顔を見合わせ、週刊誌記者の取材に興味をあらわにした。
「ええ、土曜日の夜のいま時分、確かに、黒っぽいコートのえりを立てた、そういう男の人が入ってきましたよ」
と、カウンター越しに浦上を見た。
土曜日とあって、一昨夜は込んでいた。男は、混雑するテーブルでの相席で、他の客から顔を避けるようにして、じっと時刻表に見入っていたという。
「時刻表?」
浦上の表情が動いた。
浦上は、ビールをコップに注ぎながら、尋ねた。
「その男に関して、他に、印象に残っていることはありませんか」
「昨日、刑事さんにもこたえましたけどね、最初は、テレビタレントではないかと思ったのですよ」
小太りな店主は、タクシー運転手と同じことを言った。
「長髪もカッコよかったし、それに何といっても、サングラスが、ぴたり決まっていましたね」
「サングラスですか」
浦上は口元をとがらした。
男は、タクシーを降りてから、サングラスをかけたのか。
タクシーでのサングラス使用は、(運転手が語っていたように)余計な不審を招く恐れがあるだろう。しかし、人込みでは、そんなことを言ってはいられまい。
疑惑を抱かれるよりも、顔を隠すことが先決なのだ。
「これを見てください」
浦上は似顔絵のコピーをカウンターに載せた。
今度ははっきりしたことばが返ってきた。
「昨日、刑事さんにも言いました。これはそっくりですよ。あの男に間違いありません」
「男は、食事をして、すぐに出て行ったのですか」
「結構長い時間、いましたよ。たっぷり一時間はいたと思います」
昨日、同じ質問を刑事から浴びせられているだけに、店主の口調によどみはなかった。
男はいまの浦上と同じ時間、七時四十五分頃に入ってきて、九時少し前に、テーブルを立ったという。
「たっぷり一時間なら、ビールか酒でも飲んでいたわけですね」
「それがそうじゃないんですよ。あの人、アルコールは駄目じゃないですか」
チャーハン、野菜いため、ぎょうざ、ラーメンの順に時間を置いて注文し、ゆっくり食べ終えると、時計を見ながら、立ち去ったという。
アルコール類は受けつけなくとも、相当な健啖家《けんたんか》ではあるだろう。
「男はそんなに次々と食べながらも、ずっと時刻表を開いていたのですか」
「そのようでしたよ」
「男はお店を出てから、JRの駅へ行ったのでしょうね」
「ええ、そうです。そのまま改札口を通って行きましたね」
と、店主は顔を上げた。
その店主の視線を追うようにして振り返ると、ガラス戸越しに駅が見えた。
(犯人はクールな男か)
浦上はビールを飲み干した。五目焼きそばができたところで、紹興酒《しようこうしゆ》に切り替えた。
犯人は、一体どんな神経をしているのだろう?
煮えたぎるような怒りをたたきつけての殺人であったとしても、凶行のあとで、そんなに食欲があるものだろうか。
浴びるようにウイスキーでも飲むというのなら、納得もいく。
アルコールが駄目らしい男は、時刻表を見ながら、次々とチャーハンなどを平らげたというのか。
横浜≠ニ奈良=A二件の殺人が予定通り完了したことで、急に空腹を覚えたのだろうか。
それにしても、太い神経の持ち主と言わねばなるまい。
(言動は派手だが、アルコールを飲まない男か)
浦上は焼きそばを食べ、紹興酒を飲みながら、ショルダーバッグから、取材帳を取り出した。
走り書きしたのは、王寺での、犯人の足取りだ。
十八時二十二分 王寺到着 タクシー使用
十八時三十分頃 坂下の電話ボックスから電話をかける
十九時頃 大門池で寺沢隆を刺殺
十九時三十分頃 帰途、坂下の電話ボックスから再び電話をかける
十九時四十五分頃 王寺駅前の中華料理店に入り、時刻表を見ながら食事をする
二十一時前 王寺出発
浦上もまた、一昨夜の犯人と同じように、午後九時前に中華料理店を出た。
浦上が乗車したのは、王寺駅二十時五十六分発の快速電車湊町行きだった。
大阪の天王寺着が、二十一時十四分。
浦上は、奈良には不案内だが、大阪は毎月のように取材にきている。この時間になってホテルを探すとなれば、奈良よりは、やはり大阪ということになる。
浦上は天王寺駅から、もっとも近いホテルにチェックインした。駅至近もいいところで、それは地下鉄とJR駅の真上、ステーションビルで営業しているホテルだった。
窓ガラス越しに、関西本線とか、阪和線の発着を見下ろすことができる客室だった。大阪の天王寺は、和歌山、白浜方面へ向かう阪和線の、始発駅ともなっているのである。
商都の、いわば南の玄関口だ。
奈良の王寺駅周辺とは異なって、こちらの繁華街は奥行きもぐっと深いし、夜も遅い。
浦上はシャワーを浴びると、阿倍野筋へ飲みに出た。
(ポイントは動機か。動機さえ割れれば、犯人の正体は、すぐにあぶり出されてくるだろう)
浦上は知らないスナックで、水割りを五、六杯も重ねただろうか。
大阪の街は、夜ふけて雨が上がった。
*
翌四月五日、火曜日。
天王寺のホテルで浦上が目覚めたのは、午前八時近くである。
窓のカーテンを開けると、昨日とは打って変わっての快晴だった。新宮行きのL特急くろしお2号≠ェ、穏やかな朝日を受けて、ホームを離れて行くところだった。
関西線の方のホームは、通勤客の姿であふれている。
浦上は洗顔を済ませ、キャスターを一本灰にしてから、『週刊広場』編集長の自宅へ市外電話を入れた。編集長の自宅は、東京の杉並だ。
「そうか、それはご苦労さん」
編集長は、浦上の取材が順調に進んだので、機嫌がよかった。
「浦上ちゃんが言うように、王寺署の捜査本部が緘口令を敷いているとなると、タクシー運転手たちの証明は、確かに、絶対的な決め手となる何かを含んでいるな」
「でも、東京からやってきたぼくでさえ、回り道をせずに、手にした聞き込みです。地元記者がキャッチするのは、時間の問題でしょう。あるいは、すでにかぎ付けているかもしれません」
「浦上ちゃん、今日はこれからどうするつもりだ?」
「どう考えても、奈良≠ヘ、単に、殺人《ころし》の現場に過ぎないでしょう。事件を構成しているのは、東京≠セと思います」
浦上は感じた通りのことを言った。
「そうだな。クールで食欲旺盛な男は、さっさと東京へ引き返し、人込みに紛れてしまっているか」
「ぼくも、ホテルをチェックアウトしたら、すぐに地下鉄で、新大阪へ出ます」
「昼過ぎには、編集部へ顔を出せるね」
編集長も浦上に同意した。
浦上はいったん電話を切ると、もう一本たばこを吹かし、今度は、横浜のダイヤルボタンを押した。
谷田は横浜市内の、港北区菊名の住宅団地で、妻と二人暮らしだ。
「あら、浦上さん? 大阪からなの?」
谷田の妻は、いつものように人なつこい声で、浦上に応じた。
『週刊広場』の編集長とは違って、谷田はまだ眠っていた。
「あなた、浦上さんよ。市外電話なのよ」
と、谷田を起こす声が、受話器越しに伝わってくる。
だが、待たされたのは、ほんの二、三分だった。
「おお、連絡が遅かったな」
谷田はいつもの太い声で、こたえた。妻に起こされているのを、電話越しに察知されていたとも気付かず、浦上の連絡を、早朝から待ち兼ねていたようなことを言っている。
「まだ大阪か。すぐにホテルを飛び出したとして、新横浜に着くのは何時だ?」
「何かあったのですか」
「ああ、特上のネタを仕入れた」
谷田はまだ完全に眼覚めていないのか、すし屋みたいなことを言った。
「ぼくの方も取材はスムーズにいきましたよ」
と、浦上が昨夜の結果を伝えると、
「なるほど、クールな男か。村田啓《むらたひろし》というのが、その野郎の名前だ。二十七歳。フリーのカメラマン」
と、谷田は早口で言った。
「何ですって? 先輩、どこからそのカメラマンを割り出したのですか」
浦上の方も早口になった。谷田の声はがんがんと耳に入ってくるが、そのことばの意味が、一瞬には飲み込めない。
一晩のうちに、どのような展開があったのか。
しかし、谷田は浦上の質問にはこたえず、太い声で、こう言った。
「オレは、きみが何時に新横浜駅へ到着できるのか、と、それを尋ねている」
*
浦上は、新大阪発九時二十分の、臨時新幹線ひかり322号≠ナ、帰ってきた。
新横浜到着は、十二時ちょうどである。
横浜も抜けるような青空になっていた。
浦上は真っ先に、列車を出た。ホームの階段を駆け下りて行くと、改札口に、谷田が大柄な姿を見せていた。
「めしでも食いながら、打ち合わせよう」
ということで、二人はコンコースに隣接する『オゾン通り』の、日本そば屋に寄った。
昼食時のそば屋は、満席だった。客は、旅行者よりも、新横浜駅周辺で働くサラリーマンや、OLが多かった。
二人はざるそばのチケットを買ったものの、席が空くまで、レジの近くに立っていた。
「まず、これを見てもらおうか」
谷田は、やがて隅のテーブルに案内されると、キャビネに焼いたモノクロ写真を二枚、浦上の前に置いた。どちらも葬儀の写真だった。
浦上にも見覚えがある一枚は、武蔵野市の葬儀社で営まれた大森家の葬式の、受付周辺を写したスナップだった。
もう一枚も、葬儀の受付周辺を撮影したもので、これは門の左手に大きな桜の木があるから、寺沢の自宅だ。
二枚とも、受付係のほかに、数人の参列者がとらえられている。
谷田は双方の写真の、画面右端を指差し、
「ここに、男性が写っているだろう。これは二枚とも同じ人間だ」
と、声を低くした。
「同じ人間ですって?」
浦上は自分の声が、引きつってくるのを感じた。
谷田は、浦上の反応を確かめてからつづけた。
「この男性こそ、大森と寺沢の接点と言っていいだろう」
「この男が、村田啓という二十七歳の、フリーのカメラマンですか」
「村田啓とは、今日これから、二時に会うことになっている」
と、谷田はつづけた。
もちろん、二枚の写真は、昨日、『毎朝日報』の若手記者が、撮影してきたものだ。
密葬の場に張り込んだ刑事は、不審者のチェックはつづけても、新聞記者のように、めったやたらと写真を撮ることはしない。
「すると先輩、これは毎朝だけの特ダネですか」
「葬式には他社も来ていたそうだが、記者クラブ内での動きから察して、どこも、この村田啓には気が付いていないはずだ」
「毎朝が単独で、捜査本部を追い抜いたってことですか」
「二枚の写真から、村田の顔だけを拡大すると、こうなる」
谷田は別の二枚を取り出し、さらに捜査本部で配付した似顔絵のコピーを、横に並べて置いた。
「あれ?」
浦上は拡大写真の方を、手に取った。
どこかに、釈然としない違和感があると思った。
すぐに分かった。
それは、髪型の違いだった。
似顔絵は、繰り返し見てきたように、肩までもある長髪だが、昨日撮影した写真の方は、長いと言っても耳が隠れるていどだ。
「問題はそれだよ。髪は一昨日の午後、カットしている」
「おとつい? 二件の殺人の、翌日ってことですか」
「一昨日は髪をカットし、昨日は、その少し短くしたヘアスタイルで、両家の密葬に参列しているんだ」
髪を切ったタイミングが気に要らない、と、谷田は低い声でつづけた。
すでに、村田啓というカメラマンの周辺を、相当に掘り下げている感じだった。
「どうだい、この二枚の写真の男の髪を肩まで伸ばし、サングラスをかけさせれば、似顔絵に重なってくるだろ」
「そうですね」
浦上の返事は、しかし、一呼吸置いてのものだった。
似ていると言えば、言える。どこか違うと思えば、違うようにも感じられる。
浦上はそう考えたわけだが、次の一瞬、この点は、元となる似顔絵自体が絶対ではないのだから、細部にこだわる必要もないだろう、と、思い直していた。
いまの場合は、一人の男が双方の葬式に参列していたという接点≠ノ着眼し、村田啓なるカメラマンを浮き彫りにした、『毎朝日報』の迅速なる行動を評価すべきだろう。
そして、何よりも留意すべきは、その接点となる村田の風貌が、影の男に似ているということだ。
村田と影の男が同一人と断定はできなくとも、しかし、別人であると言い切ることもできないのである。
と、いうのは、村田は、容貌の面でも、犯人の資格を備えているということだ。
浦上と谷田の、ざるそばが運ばれてきた。
「葬式の写真から、この男を発見したのは、我社《うち》の支局長なんだよ」
谷田は、ざるそばに箸をつけながら、説明をつづけた。浦上も、『毎朝日報』横浜支局長とは何度か会っている。
「早速、若手を、再度東京へ走らせた。大森家も、寺沢家も、家族は村田を知らなかった」
「村田は仕事で、双方の会社に出入りしてたってことですね」
「そういうことだ。が、残念ながら、三、四時間の取材では、動機≠ワでは浮かんでこない。しかし、動機≠ヘ見えなくとも、これまで、何ら重なり合う部分がなかった大森と寺沢を、村田が結んでいることだけは事実だ」
たとえ、風貌、年齢などが、事件周辺で目撃されている黒っぽいコートの男からかけ離れていたとしても、双方の葬儀に出席した唯一の人物なら、ぴったりマークされて当然だ。
「それなんだよ」
谷田は、浦上のそうした指摘に、満足気だった。村田は、両方の密葬に参列していたのみでなく、外観までが、犯人像に共通しているのである。
「こうなったら、動機≠フ追及は後回しだ」
「いつもの捜査とは逆ですね」
「動機≠謔閧熕謔ノ、犯人が特定されるってわけだ。現行犯逮捕みたいなものさ」
四月二日の土曜日、村田が、昼間横浜におり、夜奈良にいたことが証明されれば、ほとんど決まりと言っていいだろう。
「いや、犯行現場にいたことの証明は要らない」
谷田は、ざるそばを食べながら、強い口調になっていた。
「アリバイだよ。不在が証明されなければ、オレはその場で、淡路警部に電話をかけるね。捜査本部は、切り札を持っている」
「文庫本の百六十二ページから検出された指紋ですか」
「新聞発表は伏せてあるが、奈良≠フ文庫本からも横浜≠ニ同じ渦状紋はばっちり採取されているわけだ」
「だったら、指紋の線から攻めるのが、最短コースではないですか」
「支局の打ち合わせでも、そうした意見が出た。しかし、正面切って迫るわけにはいかないよ。人権問題がある。万一、村田が本《ほん》犯人《ぼし》でなかったとしたら、大問題だ。取材の行き過ぎは、厳に慎んでいる」
「でも、何も正面切る必要はないでしょう」
浦上はざるそばを食べ終えた。
村田を尾行すればいい。村田が立ち寄った喫茶店の、コップなどから指紋を採取する。
それは常識的な手段ではないか。
「もちろん考えている」
と、谷田はこたえた。谷田もざるそばを食べ終えた。
「場合によっては、若手を尾行《つけ》させるつもりではいる。だが、確認が相手の行動次第というのでは、時間がままならない」
「それよりか、アリバイというわけですか」
「アリバイがはっきりしなければ、刑事《でか》さんが、真っ向から指紋の提出を求めることができる」
谷田は、「万一」と口にしたものの、村田|本《ほん》犯人《ぼし》説に確信を持っているようだった。
「出ようか」
谷田は先に立ち上がった。スクープはもらったという、新聞記者《ぶんや》の目になっていた。
浦上は新横浜駅の構内から、『週刊広場』編集部へ、帰社予定変更の報告電話を入れた。
*
谷田と浦上は横浜線に乗り、次の菊名で東横線に乗り換えた。
村田啓は、浦上と同じ都内の目黒区に住んでいた。自由が丘のマンションだった。
自由が丘は、浦上が下車する中目黒から、横浜寄り四つ目の駅である。
自由が丘駅前の商店街は、しゃれた感じの店が多かった。田園調布などの、高級住宅地を控えているせいだろう。
浦上と谷田が東横線を降りたのは、午後一時二十分頃だった。
村田のマンションまでは、徒歩で十五分とはかからないということだから、約束の二時まで時間があった。
二人は、駅前広場に面したベンチに、腰を下ろした。
「どうも正式な結婚ではないらしいが、村田はマンションで、女と、同棲している」
と、谷田はさっきの説明を補足した。
港区芝に、出版社とか広告代理店などの外注で、企画、編集業務を請け負う『東都ペン』という小さいプロダクションがあり、フリーの村田は、『東都ペン』を通じて仕事をもらっていたのだという。
「泰山と徳光製靴は、その東都ペンの取引先だったということですか」
「うん。どちらも宣伝用写真の撮影で出入りしていたそうだ。村田は、去年の初め頃から、泰山では大森課長、徳光製靴では、総務部長の寺沢に目をかけてもらっていたというんだな」
「それで、双方の葬式に、顔を出したのですか」
「しかし、仕事の上でいくら親しかったと言っても、村田は小さい下請けプロの、そのまた下請けのようなカメラマンだろ。個人的な深いつきあいはなかったはずだ、と、泰山の社員も、徳光製靴の社員も、口をそろえて強調している」
『東都ペン』『泰山』『徳光製靴』の取材はスピーディーに終えたが、村田本人に対する質問は、今日が最初である。
昨夕、村田のマンションへ電話をしたところ、女が電話口に出てきて、
『どうしても、仕事の手が離せないので』
と、今日の午後二時を指定してきたのだった。
「取り次いだ女の応接に、不審な点はなかったのですか」
「ああ。オレが直接かけたのだが、少なくとも女に、疑惑は感じられなかったね。慌てて言い訳をしたり、取材から逃げようとしている様子ではなかった」
「村田が本《ほん》犯人《ぼし》なら、完全犯罪の成立に、確信を持っているってことでしょうか」
「何があろうと、面と向かえばこっちのものさ」
ベテラン事件記者は、その一言に自信を込めた。
「周囲の証言からは浮かんでこなかったポイントを、必ず、引きずり出してやる」
「村田が、一昨日になって、長髪をやや短くカットしたというのは、同棲している女の証言ですか」
「いいや。これは、東都ペンの代表者から聞き出したことだ」
「さりげなく、カットしたつもりでしょう。だが、案外その辺りが、完全犯罪に墓穴を掘ることになるのかもしれませんね」
浦上も、次第に、村田を犯人視するようになっていた。
「しかし、村田は伏線のつもりか、東都ペンの代表者に対して、一応の言い訳はしているんだな」
「言い訳?」
「あんまり長い髪では、葬儀に参列するのに、失礼になるというのだがね、オレは額面通りには受け取らない」
と、そうしたことを話し合っているうちに、約束の二時が近づいた。
谷田がマンションへ電話をかけると、今日は、直接、村田が出てきた。
電話を待っていた感じである。村田は自分の方から出向いてくると言った。
村田は、自由が丘駅前にある洋菓子店の二階喫茶室を指定して、電話を切った。
「おい、敵は、いやに落ち着き払った話し方だったぜ」
谷田は電話を終えたとき、そう言って、浦上を振り返った。
5章 密葬に参列した男
「おつきあいは短かったけれど、どちらにもこの一年余り、いろいろ仕事をもらって、かわいがってもらいました。その大森課長と寺沢部長が、同じ日に同じように刺し殺されたなんて、ぼくは、三日経ったいまでも信じられません」
村田啓は、長髪をかき上げながら、切り出した。細い、女性的な指先だった。
洋菓子店二階の喫茶室には、中年の品のいい主婦が二、三人ずつ、三組ほどが静かに談笑していたが、男性客は、窓際に陣取った三人だけである。
浦上伸介と谷田実憲はコーヒーを注文し、村田はレモンティーにチーズケーキを、頼んだ。
浦上は、あえて『週刊広場』特派記者の名刺を出さなかった。余計な警戒を、村田に与えたくなかったためである。
従って、ボールペンを握って取材帳は開いたものの、質問は、谷田に一任する格好になった。
村田が、そうした浦上を、谷田の配下と受けとめるのは、村田の勝手だ。
「新聞やテレビのニュースで、ご存じでしょうが、大森裕氏も、寺沢隆氏も同一犯人に殺害されたと警察では見ています」
と、谷田は、殺人の動機がはっきりしないことと、大森と寺沢との間につながりがないことを、質問の導入とした。
「なるほど。それで、ぼくが取材されることになったのですか」
村田は、回転が速そうだった。もちろん、いまは、サングラスなど、かけてはいない。
「確かに、ぼくは、大森課長とも、寺沢部長とも面識があるわけです。しかし、ぼくはただ、写真の仕事をさせてもらっていただけです。ぼくなんかで、お役に立てるのでしょうか」
と、谷田と浦上に向けられた視線は、別に濁ってもいないし、不安定に揺れているわけでもない。
谷田の横に控えた浦上は、犯人像についてのいくつかの証言を、自分の中で羅列していた。
『ぼくと同じような体型でした。一メートル六十八で、六十キロぐらいかな』『髪の長さは肩ぐらいだったと思います』(大月市からきた恋人同士)
『芸術家タイプっていうのかな。われわれとは人種が違うようでしたね』(信貴山駐車場脇の土産物店の従業員)
『全体の感じは派手だった。でも、人殺しをするような悪党には見えなかったけどなあ』(王寺のタクシー運転手)
『テレビタレントではないかと思ったのですよ。長髪もカッコよかったし、サングラスが、ぴたり決まっていましたね』(王寺駅前の中華料理店主)
そのひとつひとつが、目の前の村田に当てはまるようでもあるし、そうでないようでもあった。
村田は濃紺の麻のブルゾンに、白いコットンのスラックスという軽装だった。
村田は脚を組んでレモンティーを引き寄せ、それからチーズケーキに手をつけた。
「村田さんは甘党ですか」
と、谷田がさりげなく尋ねたのは、もちろん、アルコールを口にしなかったという、王寺の中華料理店の証言を、前提としたものだった。
「いえ、そんなことはありません」
村田は、質問の真意に気付いたのか、どうか、にこりと笑ってこたえた。
「これで、アルコールも、結構いける方なのですよ。よく言う二刀流です。そうそう、大森課長さんとも、有楽町で、何度か飲んだことがありました」
「ほう、それは仕事を離れての、プライベートなおつきあいでしたか」
谷田は何にでも食いついてやるぞといった感じで、しかし、表面は雑談ふうにつづけた。
「いいえ。私的な交際で、飲んでいたわけではありません」
村田は言下に否定した。
「ご一緒したのは、この一年間で五回ぐらいかな。ええ、いつも泰山の近くにある同じバーでした。全部、仕事絡みです。打ち合わせとか、あるいは打ち上げとか、そんなときに連れて行ってもらいました」
「打ち合わせを終えてから、他の酒場へハシゴするようなことはなかったのですか」
「それは、ありませんでした。大体が、大森課長さんは、アルコールは強かったですが、単独行動が多かったみたいですよ。泰山の社内の人とも、仕事を離れての交流は少なかったのではないですか」
「徳光製靴の方はどうでしょう。寺沢部長とか、あるいは他のどなたかと、やはり飲む機会がありましたか」
「いいえ。徳光製靴の方と、クラブなどへ行ったことはありません。新商品の撮影で、大宮工場へ出張することは多かった。しかし、社外での打ち合わせは、一度もありませんでした」
村田はケーキを食べ終えると、レモンティーを飲み、ホープに火をつけてから、改めて谷田の顔を見た。
「お話の様子では、このぼくが、殺された大森課長と寺沢部長、お二人を共通して知る唯一の人間という感じですが、警察もそう思っているのでしょうか。しかし、捜査本部からは何の連絡もありません。警察は、ぼくみたいな男は、重視していないということでしょうか」
村田の口調とか表情は、喫茶室で向かい合ったそのときから一定している。
ある意味では、つかみどころがないともいえる。
犯人の似顔絵は、新聞にも、掲載されている。
村田は、(たとえ本《ほん》犯人《ぼし》でなかったとしても)人一倍詳しく、報道記事に目を通しているはずだ。長髪という共通点が、村田の意識には上がらないのだろうか。
村田は被害者二人をよく知っているとはいえ、自分は全く枠外といった顔をしているのである。
短い沈黙がきた。
沈黙の中で、谷田はちらっと浦上を見た。
『こうなったら、動機≠フ追及は後回しだ』
と、口にしたさっきと同じ、目の動きだった。
谷田もたばこをくわえた。だが、火をつけようとはせずに、体の向きを変えた。
「村田さんが、最後に、お二人に会われたのはいつですか」
矛先《ほこさき》を転換するための、きっかけを求める話しかけであることが、浦上に分かった。
「泰山へおじゃましたのは、三月十日でした。徳光製靴へ伺ったのは、その五日後だから、三月十五日ですね。どちらも東都ペンの代表者と一緒でした」
と、村田がこたえると、
「今月は行ってないのですか」
谷田はタイミングを逃さないようにして、質問を重ねた。
「ええ、新年度からは、予備校の仕事が入っていましてね」
と、村田は、谷田と浦上の顔を、交互に見た。
「失礼ですが、どちらの予備校を撮影されているのですか」
「横浜ですよ」
「横浜?」
こたえた村田は平然としているが、質問する谷田の方に、微妙な動揺が走った。
「四月になってからは、ずっと横浜へ通っているわけですか」
「ええ、撮影は午後からでしたけどね。金、土、日、と三日通いました」
「すると、四月二日の土曜日も、横浜にいらしたわけですか」
ことば遣いに注意しながらも、焦点を絞った質問だ。
これに対しても、村田はあっさりとこたえた。
「いまにして思えば、殺人事件が発覚して、大騒ぎしている頃、ぼくも同じ横浜市内で働いていたのですよね。もっとも、横浜といっても広いですから、そのときは何も気付きませんでしたが」
と、村田は、(こっちが訊きもしないのに、なおかつもっとも知りたい)所在を、自分の方から言った。
それは、横浜駅東口にある『東田予備校』だった。
四月一日、二日、三日、いずれも、仕事は授業風景の撮影だった。
村田は三日間とも、十二時十五分から、十四時四十分まで、五つの教室を回って、撮影をつづけていたという。
「大森氏が殺された日も、その予備校でカメラを構えていたわけですね」
「間に、五分ずつの休憩が三回入りました。しかし、ほとんどカメラをぶら下げたままでした」
「ところで、東都ペン関係者以外の方で、大森、寺沢両氏と面識のある人をご存じありませんか」
谷田は形式的に、質問を戻した。
そのための取材であることを、谷田は精一杯に強調しているのだが、すでに、「心ここにあらず」の状態だった。
浦上も取材帳を閉じた。
*
村田と別れた浦上と谷田は、自由が丘駅へ戻った。
「自分の方から、四月二日の所在を明示してきましたね」
「村田が本《ほん》犯人《ぼし》だとすると、やはり、偽アリバイが完備しているってことだろう」
「先輩、二時四十分まで、横浜駅東口の予備校で撮影していたのが事実なら、アリバイは成立しますよ」
浦上は取材帳に書き出してある三つのルートを、谷田に示した。
「しかし、横浜≠フ方の犯行は、十分可能だな」
「そうですね、テレビ神奈川の前からタクシーを拾ったという聞き込みがありましたね、あれが村田なら、十二時十五分までに、東田予備校へ入れるでしょう」
「問題は、村田をどうやって奈良≠ヨ連れて行くかだ」
「仕掛けがあるとすれば、東田予備校ですね」
「新横浜発十四時一分が、タイムリミットか」
と、谷田は浦上のメモをのぞき込んだ。
「予備校の場所にもよりますが、横浜駅周辺から、新横浜駅まで、二十分見ればいいんじゃないですか」
「すると、十三時四十分に予備校を出ればいいわけだな」
「先輩、面白いことになってきましたね。村田は十四時四十分まで、撮影していたというのでしょ」
「ぴたり、一時間の違いか」
「こいつは、一時間錯覚させるトリックですか」
「だれが、どんな具合に証言してくれるのか、ともかく、その予備校へ急ごう」
谷田と浦上は、改札口を通り、桜木町行きホームへの階段を上がった。
浦上はホームの電話で、『週刊広場』編集部へ、二度目の報告電話を入れた。
「そんなわけで、今度は横浜へ逆行です」
と、村田に会った経緯を説明すると、
「さすがは、天下の毎朝さんだね。谷田さんは、スクープを明日の朝刊に、間に合わせるつもりなのじゃないか」
編集長の声も弾んでいた。
一方、谷田も、浦上と並んで、赤電話を取っていた。谷田の通話相手は、『毎朝日報』横浜支局長だった。
「アリバイを破り次第、淡路警部に連絡しますが、村田の指紋を、我社《うち》なりに、手に入れておいた方がいいかもしれませんね。だれか若いのを、東都ペンにでも向かわせますか。出入りのプロダクションなら、村田の所持品の一つや二つ、転がっているんじゃないですか」
所持品から指紋を採取しようという谷田の話し方には、熱気が籠っていた。
自由が丘から横浜までは、鈍行でも三十分足らずの距離だった。
浦上と谷田は、三時半には、『東田予備校』に入っていた。
『東田予備校』は、横浜市内の戸塚と、隣接する藤沢市、町田市にも分校を置く大手で、本校は、横浜駅東口から徒歩五分ほどの所にある雑居ビルの、三階から七階までを占めていた。
三階の事務室で、取材に応じてくれたのは、庶務課長の肩書を持つ、初老の男だった。事務室には、数人の男女職員がいた。
しかし、『東田予備校』は、期待をかなえてはくれなかった。
「そうですよ。四月一日から三日まで、東都ペンを通じて、宣伝パンフレット用の撮影を頼みました。ええ、三日間とも、撮影時間は、十二時十五分から、二時四十分まででした。これは、授業時間に合わせて、こちらから指定したものです」
と、庶務課長は、村田の主張をそのまま裏付けたのだ。
三日間、いずれも、撮影には、この庶務課長が立ち合っていたという。
「お伺いしたいのは、二日の土曜日ですが、その日も、村田カメラマンは二時四十分まで、撮影をしていたのですか」
「数学教室の終了するのが、二時四十分です。間違いなく、生徒さんたちが引き上げるまで、村田さんは第五教室にいましたよ」
庶務課長の返事には、何の揺るぎもなかった。
たまたま腕時計などを見て、そのときの時間を確認した、というような証言とは違うのである。裏付けとなるのが、教室の授業時間では、時間を錯覚させようもないだろう。撮影現場には、庶務課長の他に教師もいたはずだし、何よりも大勢の生徒がいる。
それらの人たちすべてに、錯覚を与えるトリック。
(そんなものは、あるわけがない)
浦上は、谷田の背後で首をひねったが、
(三日間通ってきたそのカメラマンは、本当に村田自身だったのか)
付随的に、新しい疑念が浮かんできた。そう、時間が動かせないのなら、人間を替えるしかあるまい。
すなわち、替え玉を横浜に置いておくという工作だ。
「三日間の撮影には、東都ペンの人も来ていたのですか」
浦上はそうした言い方で、谷田に代わって、疑問を庶務課長に投げかけてみた。
『東都ペン』の代表者は、初日に顔を出したが、二日と三日は、村田が一人でやってきたという。
「しかし」
それは村田に間違いない、と、庶務課長は強い口調で言った。
「村田さんがどうかしたのですか。一体何の取材ですか」
庶務課長が反問してきたのは、当然でもあろう。
浦上が、しかし、反問にはこたえず、村田の容貌を説明して確認を求めると、
「ええ、間違いありませんよ。村田さんに撮影を頼んだのは今度が初めてではありません。村田さんのことは、前からよく知っています」
と、庶務課長は言い、近くにいた女子事務員に、写真の袋を持ってくるよう命じた。
『東田予備校』と印刷された、青い、大きな紙袋の中から、庶務課長は、六つ切りに焼いたカラー写真を取り出した。
海の写真だった。砂浜をバックにして五人の男女が写っており、中央に庶務課長、右端に村田が入っている。
「この人でしょ」
と、庶務課長は右端の村田を指差した。
昨年夏、真鶴《まなづる》合宿を撮影したときのもので、それは、関係者一同による、打ち上げの記念写真だった。
間違いなかった。それは間違いなく、いま別れてきた村田だ。
すると、替え玉でもない、当の村田本人が、二日の午後二時四十分まで、ここに、この『東田予備校』にいたというのか。
十四時四十分というと、浦上が計算する大阪経由のルート、ひかり349号≠ヘ、ノンストップで、熱海辺りを通過している頃だ。
これではどうにもならない。
(見事にアリバイ成立か)
谷田は、そんな目で浦上を見た。
「どうも、お忙しいところを、おじゃましました」
谷田は浦上を促して、予備校の事務室を出ようとしたが、ふっ切れない何かが尾を引いていたのは、当然だ。
谷田は最後に訊いた。
「あの日、村田カメラマンに、いつもと違った素振りは見えなかったですか」
谷田一流の粘り、というよりも、この場合は、未練がましいという感じの方が、強かった。
先輩にも、こんな一面があるのかな、と浦上は思った。
質問された庶務課長は、一瞬考えるようにしたが、
「仕事振りはいつもと同じでしたよ」
と、つぶやいてから、こう言い足した。
「そういえば、もらい物で失礼ですが、と言って、カステラをくれました」
「カステラ?」
「いまも申したように、前から、村田さんには、本校の宣伝パンフレットの写真を撮ってもらっているのですが、あの人が手土産を持ってきたのは初めてですね」
「ほう、包装紙は、どこかデパートのものでしたか」
「いいえ、もらい物をおともだちと分けたということで、ちょうだいしたとき、包装はされていませんでしたな」
「包装紙がなかった? そのカステラ、どうしました?」
と、浦上がことばを挟んだ。
「どうしたって、職員で食べましたよ」
庶務課長は、何を質問するのか、といった顔で浦上を見た。
「いえ、そうじゃないんです。全部食べ終えて、カステラの箱をすでに捨ててしまったのかどうか、伺いたかったもので」
「あのカステラが、どうかしたのですか」
庶務課長はそう言って、傍らの女子事務員を振り返った。
「今日のお昼食《ひる》のあとで、いただいて、箱は空になりました」
女子事務員は、事務室の一隅に目を向けた。片隅には小さい流し場があり、カステラの木箱は流し台の下に置かれてあった。
「すみません。その空き箱、いただけないでしょうか」
と、浦上は言った。
「どうも、妙なことをおっしゃる記者さんたちですな」
庶務課長は、女子事務員にカステラの木箱を持ってこさせた。
*
「どういうつもりなんだ」
谷田までが、そう言った。
浦上はカステラの空き箱を大事そうに手にして、『東田予備校』を出てきたのである。
「先輩、この木箱には、村田の指紋がばっちり付着していますよ」
それが、浦上のもくろみだった。
「なるほど。そういうことか」
谷田は大きくうなずいたが、表情はいまひとつ冴えなかった。
(その箱から、本《ほん》犯人《ぼし》の渦状紋は検出されないだろうよ)
と、そう考えていることが、冴えない表情に、ありありと反映されている。
「あの日、二時四十分まで、村田が東田予備校でカメラを構えていたことは、動かしようがないね、その気になれば、教室にいた生徒など、証人は何人でも出てくるだろう」
舗道を行く谷田の足取りは重かった。
「気晴らしに、海を見てビールでも飲むか」
谷田は、横浜駅へ行くのとは反対の、海側に足を向けた。
シーバス乗船場には、エキゾチックなムードのレストランが付いている。
浦上も、このまま『週刊広場』編集部へ行く気にはなれなかった。思い付きで、カステラの空き箱をちょうだいしてきたとはいえ、期待がそれほど大きくないのは、谷田と同じことだった。
『そごう』と、シーバス乗船場をつなぐアーケードの橋には、かもめ歩道橋という名前が付いている。
その海に面した歩道橋を渡りながら、
「捜査本部には、動きが出ているでしょうかね」
と、浦上が話しかけると、
「おい!」
谷田が、ふいに厳しい顔付きになった。
「おい、時刻表を出せ!」
そう口走りながらも、谷田の視線ははるか前方に向けられている。
岸壁越しの、向こう側に見えるのは、横浜シティエアターミナルの、低い屋根だった。
「おい、いくら終着が奈良の信貴山だからって、空路を見落とすばかがあるか! 素人《とうしろ》っぽいミスもいいところだ!」
谷田は本気で、怒り出していた。
二人は急ぎ足で橋を渡り、レストランに飛び込んだ。
明るいレストランはすいていた。
浦上は、注文したビールが届く前に、ショルダーバッグから大判の時刻表を取り出していた。
顔色が、見る間に変わってきた。
昨日、新幹線車中でルートをチェックするとき、行き先が奈良ということで、最初に浮かんだのが、京都経由だった。浦上自身も、京都経由を選んだのであったが、次に、ごく自然に考えたのが名古屋経由。
結局、同じ奈良といっても、信貴山の場合は、最後にチェックした大阪経由が、もっとも速かったわけである。
そして、浦上がこの三つ以外のルートを注意しなかったのは、それで、横浜≠ゥら奈良≠ヨ、犯人を移動させることが、可能だったからである。その上、犯人は、浦上の想定を裏付けて、十八時二十二分に、王寺駅から出てきたのだ。
しかし、そのために、一時的にしろ視野が狭められていたなんて、弁明にも何もなりはしない。
浦上はテーブルの上に取材帳を開いた。震える指先が、次々と数字を書き出していった。
こうなったら、二つの殺人現場を結ぶルートは、すべて頭にたたき込んで置かなければなるまい。
浦上は、(1)大阪経由、(2)名古屋経由、(3)京都経由につづいて、(4)南紀白浜空港経由、(5)大阪空港経由の二本を、取材帳に書きくわえた。
(4)南紀白浜空港経由
港の見える丘公園発 十二時十分頃
(タクシー二十分)
横浜駅東口着 十二時三十五分頃
横浜駅東口発 十二時四十分頃
(タクシー、直通バス共三十分)
羽田空港着 十三時十五分頃
羽田空港発 十三時三十五分JASC383便
南紀白浜空港着 十五時二十分
南紀白浜空港発 十五時二十五分頃
(タクシー十五分)
白浜駅着 十五時四十分頃
白浜駅発 十五時四十三分 L特急くろしお19号
天王寺着 十七時四十六分
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
(5)大阪空港経由
港の見える丘公園発 十四時三十五分頃
横浜駅東口着 十五時頃
横浜駅東口発 十五時五分頃
羽田空港着 十五時四十分頃
羽田空港発 十六時 JAL119便
大阪空港着 十七時
大阪空港発 十七時十分頃
(タクシー三十分)
天王寺着 十七時四十五分頃
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
(4)の南紀白浜空港経由は、村田が犯人なら、全く無関係だ。
しかし、村田で決まったわけではないので、この際、横浜≠ゥら奈良≠ヨ移動可能なルートは、すべてチェックしたわけである。本《ほん》犯人《ぼし》は、この五つのルートのどれかを利用している。
いや、「王寺着十八時二十二分」が確認されているのだから、利用したのは、(1)、(4)、(5)の中のどれか、ということになろう。
「これだな」
谷田は(5)を指差し、大柄な体を乗り出してビールを注いだ。
チェックミスを犯した浦上は、顔色《がんしよく》ないが、谷田は、『東田予備校』を出たときとは別人かと思えるほどの、太い声になっている。
「早速、淡路警部に連絡を取ろう。四月二日のJAL119便=Bこの大阪行きに、身元不明の二十代の男がいたら、こっちのものだぞ」
そう、十四時四十分に『東田予備校』での撮影を終えて、後片付けに時間をかけたとしても、羽田発十六時の空路に、悠々間に合うではないか。
「おい、乾杯は持ち越しだ」
谷田はビールは注いだものの、コップを手にしようともせず、
「これはオレが預っていく」
カステラの木箱を抱えて、せかせかと立ち上がっていた。
*
結果は、翌四月六日、水曜日の午後に出た。
『毎朝日報』の発見を重視した捜査本部は、全力投球の形で、四月二日の搭乗客を追った。
当該のボーイング747ジェットは普通席五百十二、スーパーシート十六を備えていたが、満席ではなかった。
搭乗者総数は四百四十三人。男性が、ほぼ半分の二百三十一人であり、この中から、子供と四十歳以上を除くと、残ったのは五十四人だった。
この五十四人は、念のために、二十歳から三十九歳までと、年齢幅を大きく広げての対象である。
捜査本部は昨日の夕方から、搭乗者の連絡先へ向けて、徹底した電話攻勢を取った。
こうして洗い出された結果を浦上が知ったのは、出前の遅い昼食を終えて、一服やっているときだった。
浦上は『週刊広場』の編集部にいた。
「駄目だったよ」
記者クラブから電話をかけてきた谷田の、第一声がそれだった。
「搭乗客は、東京と大阪が大半でね、地方在住が四人いたそうだが、いずれも間違いなく実在しているって話だ」
がっくりきた感じが声に出ている。
その五十四人の中に、村田の意を汲んで、偽証している男はいないのか。浦上がそう考えたのは当然だが、
「確認を取ったのは、ベテランの刑事《でか》さんたちだぜ」
万に一つの見落としもない、と、谷田は言った。
搭乗を確かめて、「ああそうですか」と電話を切るわけではない。必ず、東京と大阪の空港の模様とか、機内の状況などを聞き出しているという。つい先週のことなので、乗客たちの記憶も薄らいではいない。
「電話の応答では、すっきりしないのが二人いたそうだ。どちらも東京の男でね。これは今朝、刑事《でか》さんが直接先方へ出向いて、念押しのウラを取るということまでやっているんだ」
「そうですか。余計に糸をこんがらからせただけで、動機なき男村田は、結局シロってことですか」
浦上も、力が抜けたように受話器を持ち換えた。
電話は簡単に終わった。
気配を察した編集長が、
(やり直しか)
といった目で、机越しに浦上を見た。
「浦上ちゃん、しかし(1)から(5)までのルートをきちっと割り出したことは、決して無駄にはならんよ。犯人《ほし》は間違いなく、その五本のうちのいずれかのルートを、渡って行ったのだから、この検証は必ず生きてくる」
編集長はそんな言い方で、浦上をなぐさめた。
「村田って男は、いい線いってると思ったのだけどなあ」
浦上は所在ないように、キャスターをくわえた。
その一本のたばこを吸い終わらないうちに、また机の上の電話が鳴った。
「はいはい」
くわえたばこの浦上が、投げやりな感じで受話器を取ると、
「おい、おかしなことになったぞ」
電話は谷田だった。お互い悄然と話を終えてから、五分とは経っていない。
五分の間に、何が生じたのか。谷田の口調は一転、力強いものに変わっている。
「あのカステラの箱が、ものを言ったぞ」
「何ですって?」
「きみが意図したところとは異なるが、空き箱に着目したのは、正解だった」
「何を持って回った言い方してるんですか。指紋が、渦状紋が出たのですね」
「淡路警部には悪いが、我社《うち》の東京本社の社会部が動いてくれた」
「どうして、神奈川県警を無視したのですか」
「他社の目が、うるさくてね」
「何か、かぎ付かれたのですか」
「大阪行き搭乗客の確認で、捜査本部が目の色変えているのは、毎朝日報に関係ありと、各社に睨《にら》まれたわけだ」
「淡路警部に、接近できなくなったというのですか」
「横浜支局長の意見もあって、木箱の分析は、神奈川県警ではなく、本社の社会部に頼んだ」
東京本社では、空き箱を科学捜査研究所へ持ち込んだ。
「勝手だけど、事情は明かさずにね、内密に、指紋検出を依頼した」
「で、本《ほん》犯人《ぼし》と一致する渦状紋が、出たのですね」
「そういうことだ。たったいま、本社社会部のデスクから、電話があった」
犯人の転写指紋は、各社とも入手している。照合は容易だ。
「村田が、渦状紋だってことですか」
「いや、村田は違う」
谷田の声ははっきりしていた。山下署の捜査本部では、大阪行き搭乗客の確認に並行して、村田の指紋も確認したという。
捜査本部とすれば、当たり前な処置だろう。これは、村田に面接した刑事が何枚かの似顔絵を提示し、「この中に見覚えのある人間はいないか」と、村田の掌に触れさせることで、指紋採取を図ったのである。
「たまたま、そっちの結果も、いま聞いたところだ」
と、谷田は言った。
さっきの谷田と浦上の通話中に、淡路警部からそっと連絡があり、村田の指紋が該当しないことを伝えてきたという。
「そんな矢先に入ってきた、社会部デスクからの電話だ」
と、話を戻す谷田は、完全に、生色がよみがえっていた。
「村田は、いたずらに、推理の糸をこんがらからせただけではなかったぞ」
谷田は早口になっている。
「動機もなければ、飛行機にも乗っていない。その上、指紋までが違うとあっては、村田は完璧にシロだ。しかし、とんでもないプレゼントをしてくれたことになる」
「あのカステラの箱は、東田予備校の職員も、何人か触れているのではありませんか」
「ああ、村田ももらい物だと言ってたわけだろ。やたら、数多くの指紋が検出されたそうだ」
「まさか、東田予備校の中に、問題の渦状紋がいるってわけではないでしょうね」
「違うと思うね、これは真新しい指紋じゃない。上げ底の下側から、半ば消えかかった渦状紋が出てきたんだ」
「すると犯人《ほし》は、カステラを販売した、店員という可能性もあるわけですね」
「村田の方は、早速|我社《うち》の若手に当たらせる。あのカステラが、どこをどう渡ってきたか、村田から逆にたどっていこう。いつでも出かけられるようにして、待っていてくれ」
谷田はそう言って、一方的に電話を切った。
*
谷田はまだ昼食をとっていなかった。
谷田は若手記者を呼ぶと、
「村田がカステラを、いつ、だれからもらったのか、その確認を急いでくれ」
と、自由が丘行きを指示し、昼食のために、その若手と一緒に記者クラブを出ようとした。電話がかかってきたのはそのときだ。
横浜支局の受付からだった。支局の方に、客が来ているという。
「客? 急ぎなのかね」
「詩人の、篠塚みや先生です」
「篠塚さんが何だろう」
谷田は、地元ペンクラブの副会長などをしている女流詩人と面識があった。最近も取材で会っている。
もっとも、社会部記者の取材だから、文化関係のことではなかった。刑務所の篤志面接委員としてのみやに、陰の苦労話を聞く内容だった。
これは、すでに先週活字になっている。神奈川版に掲載された時点で、みやにもお礼の電話をかけている。
谷田が一瞬そうしたことを考えていると、
「もしもし、近くまで来たから、ちょっとのぞいてみたのよ」
当人の笑声が、受話器を伝わってきた。気さくな女流詩人は、受付の電話を取り、直接谷田に話しかけてきたのだ。
みやは、本家筋の結婚式に招かれて、山梨県の小淵沢《こぶちざわ》へ出かけたのを機会に、独り、飯山線沿いに信州の温泉めぐりをして、さっき帰宅したところだ、と、それが癖の早口で言った。六十過ぎとは思えない、若い声だった。
「娘の話では、わたしの留守中、山下署の刑事から、電話があったっていうのよね。旅行から帰って、新聞見て港の見える丘公園の事件を知ったのだけどさ、刑事が何か問い合わせてきたのは、大森さんのことじゃないの?」
「ちょ、ちょっと。篠塚さん、殺された大森裕を知っているのですか」
「会ったのは二度かナ。それほど親しくはないけどさ、刑事がわたしに電話してくるなんてどういうことなのか、谷田さんに聞けば何か分かると思ってね。それで、伊勢佐木町で書店やってる友人に信州土産を届けに来たついでに、支局に寄ったってわけ」
「山下署には、連絡したのですか」
「わたし、昔から、警察って、あまり好きじゃないんだナ」
「それはよかった」
思わず本音が、谷田の口を衝《つ》いて出た。
「詳しいことは、ぼくから説明します。昼めしを一緒にどうですか」
「わたし、お昼食《ひる》は済ませたけど」
どこへ行けばいいのか、と、みやは訊いた。谷田は、記者クラブと支局の中間に当たる、相生町のレストランを指定して、電話を切った。
(妙なことになってきたぞ)
谷田は、独りうなずくようにして、記者クラブを出た。
会社などの仕事関係と、家族関係者を除いて、初めて、被害者を知る人間が現れたのだ。谷田は街路樹の下の舗道を、急ぎ足で歩いた。
*
「篠塚さん、寺沢さんはご存じありませんか。寺沢隆というのですが」
「その人のことも、さっき横浜へ帰ってから、新聞で読んだわよ。製靴会社の部長さんで、大森さんと同じような殺され方をしたというのでしょ」
「実は、二件の殺人《ころし》の犯人が同一人であることを裏付けている物証の一つは、文庫本でしてね」
「文庫本?」
「同じ書名の文庫本が、一冊ずつ、双方の周辺から発見されているのです。大森さんが所持していたと思われる方には、シドモア桜の会の、予告記事が挟んでありました」
「うん、それで警察が、わたしの家に電話してきたのかナ。それにしても、何であの男のことが分かったのかしら」
「あの男?」
「文庫って、梶井のでしょ。桜の樹の下には屍体が埋まっている! って冒頭の五行に傍線が引かれてあったのじゃなくて?」
篠塚みやの方から、的確に、問題の文庫本の特徴を言った。
「篠塚さん、承知しているのですか。その文庫本、見たことがあるのですか」
谷田の声が高ぶった。
もう間違いない。みや自身にどれだけの自覚があるか分からないが、彼女は間違いなく、事件の周辺に置かれている。
あの男、とはだれか?
谷田は、しかし、質問をする前に、ぐっと一息入れた。
ゆっくりと、ピース・ライトに火をつけた。
昼食時間を過ぎたレストランは、空《す》いている。
二人は、窓際のテーブルで向かい合っていた。みやは、仕立てのいい、藤色のスーツだった。
女流詩人は帽子が好きで、よく似合うのだが、旅行帰りのこの日は、なぜか帽子を被《かぶ》っていなかった。
谷田はビーフシチューにビールを注文し、昼食を済ませてきたというみやは、中ジョッキだけを頼んだ。
みやもまた、谷田や浦上と同様、お茶よりはアルコールを愛するタイプなのである。本来は日本酒党だが、ジョッキにしたのは、昼間のせいだろう。
「大森裕とは、どういうおつきあいだったのですか」
「彼は横浜が好きなのかナ。わたしたちのペンクラブに入会したいということで、それで、そう二回会ったのよね。私的な交際ではなく、二回ともだれかの詩集の、出版記念会の席上でだったわ」
「地元ペンクラブに、県外の人も参加しているのですか」
「そうねえ、七十五人の会員のうち、現在、県外の人は、五人ぐらいいるんじゃないかナ」
出版記念会場で声をかけられたというのは、大森も、その二度の出版記念会に招かれたということだろう。
「それは、だれとだれの出版記念会でしたか」
谷田は、ビールがテーブルに載ったところで、取材帳を取り出していた。
「大森さんは、その詩集を出版した人たちと、お知り合いだったわけでしょう」
と、谷田が尋ねると、
「そうじゃないね」
みやは手を振った。
大森は、地元新聞文化欄の予告記事を見て、自主参加したのだという。「シドモア桜の会」に、出席しようとした状況と同じだった。
大森は、会社を出て仕事を離れてからは、他者と交わることが少なかった性格である。確かに、三十七歳になっても、どこかに文学青年の気質が尾を引いていたのだろう。
大森は、日常生活を離れた場での、出版記念会のような雰囲気を、好んでいたのに違いない。
「大森さんは、篠塚さんたちのペンクラブに、入会することになったのですか」
「正式には、四月の総会で決まることになっていたのよ。うん、総会はこれから、下旬に開かれるのだけどね」
「篠塚さんは、傍線が引かれた文庫本を、どこで目にしたのですか」
谷田は、本題に入った。
「あの男、とはだれのことですか」
「それが変な話なのよ。二月の中旬だったかなあ。昼間、電話があって、若い男性が突然、港南区のわたしの家に訪ねてきたのよ」
みやはジョッキに口をつけた。
その若い男性は、地元ペンクラブの会長に会おうとしたのだが、たまたま会長は風邪で臥《ふ》せっており、
『そういうことなら』
と、会長は副会長のみやを紹介してきたのだという。「そういうこと」とは何か。
「男の人の似顔絵を持ってきてね、心当たりはありませんか、と訊くのよ」
「似顔絵?」
「新聞から切り抜いた小さい似顔絵が二つ、手帳に張り付けてあったわ」
その二人がペンクラブの関係者ではないか、という質問内容は、四日前、山下署の中山部長刑事が、みやの留守宅へ電話をかけた目的に共通していた。
中山部長刑事の方は、被害者が大森裕であると判明して目的を達したが、みやを訪ねてきた若い男が提示した似顔絵とは、何だろう?
それが、事件に関係したものであり、神奈川県下に限っていえば、菊名署に捜査本部を置いた殺人事件が挙げられる。
今回の事件を別にして、最近報道された似顔絵といえば、(まして容疑者が二名となれば)そのホステス絞殺事件のものだけだ。
二月十二日、金曜日の深夜に発生した事件であり、ホステスの全裸死体が発見されたのは、新横浜駅に近いモーテル、『菊水』の一室だった。
山下署に今回の捜査本部が設置されるまで、一課の淡路警部の出向していたのが、この絞殺事件である。
谷田自身も、何度か、菊名署の捜査本部とモーテル『菊水』を取材している。
犯人の手がかりが皆目つかめず、迷宮入りがささやかれている難事件に、地元ペンクラブの副会長である女流詩人が、微妙にかかわってくるというのか。
谷田は、菊名署の捜査本部が配付した似顔絵を、もちろん、はっきりと記憶している。容疑者は二人とも、二十代から三十代という推定で、耳が隠れる程度の長髪だった。
二人とも前髪が乱れており、一人はメタルフレームの眼鏡、一人は黒いフレームの眼鏡をかけている。
「そう、そういう似顔絵だったわ」
と、みやは谷田の説明にうなずいた。
「で、二つの似顔絵の見当がついたのですか」
「すぐには分からなかったナ。でも、新聞の切り抜きが挟んである文庫本を見せられて、あるいは、と連想したのよね」
「何ですって? 傍線が引かれた文庫本は、篠塚さんを訪ねてきた、その若い男が所持していたというのですか」
谷田は大柄な半身を、テーブルの上に乗り出さんばかりにした。その若い男性が、大森に文庫本を送り付けてきた、「桜」なのだろうか。
「文庫本を見せられて、何を連想したのですか」
「うん、その文庫本がね、似顔絵の二人のうちの、どちらかのものではないかと言われてね、大森さんが、同じ文庫本を持っていたことを、思い出したのよ」
出版記念会の会場で会ったとき、大森は四月二日の墓前祭に出席すると言い、地元紙の切り抜きを、みやに見せた。切り抜きが、その文庫本に挟んであったのを、みやは覚えているという。
「しかし、大森さんは、似顔絵の二人みたいな長髪でもなければ、眼鏡もかけてはいないでしょう」
「それはそうだし、前髪の垂れた似顔絵でしょ。だから、顔の輪郭も正確には分からない。でも、気のせいか、メタルフレームをかけている方の似顔絵が」
「大森さんに似てるって、いうのですか」
「目元、口元、それにあごの辺りが、その気になれば、似ていなくもない。それでね、わたしの知ってる人とは違うけど、知ってる人の兄弟かもしれない、と、その若い男性に教えてあげました」
「もう一点の似顔絵はどうでしょう? やはり、だれかに似ていましたか」
「もう一つは、全く心当たりがなかったわ」
「ところで、突然、篠塚さんのお宅へ現れた若い男は、どこの何者で、何ゆえ、似顔絵の男を追及していたのですか」
「文庫本には、地元文化団体が主催する墓前祭の、予告記事の切り抜きが挟んであったわけでしょ。切り抜きを見て、わたしたちのペンクラブに問い合わせてきた、とは言ってたけど」
「身元は打ち明けなかったのですか」
「わたしってね、その点、おうようなんだナ。相手が嫌がっているのに、無理に聞き出したりするの、好きじゃない」
みやは高い声で言い、またジョッキに口をつけた。みやは、面倒見はいいが、細かいことにはこだわらない性格だった。
みやは出版記念会の席上で、大森と名刺を交換している。
大森の名刺を、二月中旬のそのとき、若い男性に見せてやった。これは、広告代理店『泰山』の、雑誌部第二企画課長と肩書の入った、職場のものだった。
若い男はそれを手帳に控え、きちんと礼を言って帰って行ったという。
「二十代後半ってとこかナ。ごく平凡な、サラリーマンという感じだったわよ。うん、印象は悪くなかった」
と、みやは谷田の質問にこたえて言った。
刑事でもない男が、犯人を捜す。常識的に考えれば、被害者サイドの人間、ということになる。
「篠塚さん、この話は、しばらく他の人たちには伏せておいていただけませんか」
「それは構わない。いままでだって、だれにも話していないのだから。問題は山下署ね、電話もらったまま、放っておいていいのかしら」
「あれは、あの日のうちにケリが付きました」
谷田は、大森の妻からの問い合わせで、大森の身元が割れた経緯を簡単に説明した。
「あら、そういうことだったの。でも、大森さんは、何であんな殺され方をしたのかね。わたしも、気持ちはよくないわ」
「どうして殺されたのか、動機がさっぱり分からないので、捜査本部も手を焼いているようです」
谷田は事実をそのままこたえたが、
(ひょっとして、これは誤解殺人ということも、考えられるか)
と、ある一点を見た。
モーテル『菊水』で絞殺されたホステスと親しかった人間(すなわち、篠塚みやを訪ねてきた若い男性)が、みやの一言から、犯人の一人を大森と思い込んでしまったとしたら、どうなるのか。
「見てください。その男は、こういう感じではなかったですか」
谷田は、山下署と王寺署が追っている容疑者の似顔絵を、みやの前に置いた。
「違うね」
みやは一目で否定した。
「いまも言ったでしょ。平凡なサラリーマンという印象だったのよ。こんな長髪じゃなかったわ」
すると、実行犯は、若い男の命を受けた、別の人間ということになるのだろうか。
大森裕の殺人動機が誤解殺人≠ナあるなら、寺沢隆の場合も、誤解で刺殺されたことになるのか。
しかし、たとえ誤解であるにしろ、同じように狙われたということは、大森と寺沢は、どこかでつながりを持っていなければならない。
犯人は、どこから、その接点を探り出してきたのだろう?
6章 全裸殺人
谷田実憲は、レストランを出て、篠塚みやと別れた。
いったん支局へ上がった。
『毎朝日報』横浜支局は、桜木町駅に近かった。大江橋の傍に立つ五階建ての古いビルである。
一階は販売を担当する『横浜毎朝会』とガレージ。二階の大部屋が編集室になっている。
午後も二時半を過ぎて、取材に出ていた記者たちが、ぽつぽつと戻ってくる時間だった。谷田は今後の取材方法を支局長と相談し、村田啓に会うため自由が丘へ出かけた若い記者の報告を、支局で待つことにした。そのための連絡を県警本部記者クラブへ入れて支局長席へ戻ると、
「淡路警部には申し訳ないが、我社《うち》の完全スクープの線で、潜行取材をしてはどうかね」
小太りな支局長は、大柄な谷田を見上げた。カステラ木箱の分析を、東京本社社会部へ依頼しようと思い付いたときから、支局長には、その肚があったらしい。
「ま、週刊広場の浦上さんとは、協力することになるだろうけど」
「そうですね。しばらく、このままの線でそっと動いてみますか」
と、谷田はこたえた。
誤解殺人≠ナあるにしろ、そうでないにしろ、当面問題となるのは、二ヵ月近く前の二月中旬に、問題の文庫本持参でみやを訪ねてきたという若い男だ。
「モーテル菊水の取材は、きみが陣頭指揮を取っていたわけだ。被害者《がいしや》周辺で、思い当たる人間はいないのかね」
「さっきから考えているのですが、殺されたホステスは男関係がきれいだった、と、スナックのママも、常連客たちも口をそろえていましたね」
「特定の男はいなかったというのか」
「そう、彼女、同棲などはしていなかったのですよね」
と、谷田はこたえ、真冬の取材を思い返すようにして、ピース・ライトに火をつけた。
二月十二日、金曜日の深夜。新横浜駅近くのモーテルで、全裸で絞殺されていたのは、スナック『ラムゼ』のホステス、波木明美《なみきあけみ》三十一歳である。
『ラムゼ』は横浜市内の南区、京浜急行|弘明寺《ぐみようじ》駅近くにある小さい店だった。五十歳のママのほかに、ホステスが二人。
ホステスのもう一人は、住み込みで二十一歳の新顔だから、接客の中心となっていたのが、殺された明美だった。
明美は、新潟県|北蒲原《きたかんばら》郡の出身。色白でほっそりとした、典型的な新潟美人と評判だったという。
当然なことに、明美は『ラムゼ』の常連客にも人気があった。
「確認を取ったわけではありませんが、明美の生家は、北蒲原郡では一応の家柄だと聞いています。両親を亡くして、三年前に横浜に出てきたという話ですが、殺された明美は、一度結婚に失敗しています。死亡時の住所は、ラムゼに近い南区永田台の花之木ハイツ12号室。2DKの賃貸マンションです」
と、谷田は言った。
このていどの内容なら、取材帳を確認するまでもなく説明することができる。キャップの谷田自身が、菊名署の捜査本部へ、何度も足を運んだ事件なのである。
二月十二日、金曜日の夜、スナック『ラムゼ』は空いていた。
常連客の多くは、サラリーマンだった。花金《はなきん》といっても、十日過ぎの数日は、数えるほどしか客がこない。
ママと二人のホステスが、退屈を持て余しているところへ入ってきたのが、東野《ひがしの》という常連客だった。
午後九時を過ぎた頃である。
東野哲は三十五歳。同じ南区の、六ツ川に住むサラリーマンだった。
東野には、二人の連れがいた。連れは「アーさん」「イーさん」と呼ばれていたが、それが、本名とは何の関係もないらしいことは、後で分かった。
その場の思いつきで、ただアイウエオ順に、「ア」「イ」と並べただけらしいのである。
東野と「アーさん」は、『ラムゼ』に入ってきたときから相当に酔っていたが、「イーさん」はそれほどでもなかった。
それは、「イーさん」が車できているためだった。
『イーさんも飲もうよ。車なんか置いていけばいい』
と、東野と「アーさん」が、しきりに話しかけているのを、ママは耳にしている。
アルコールの回った三人は、相当に親しい感じだった。
三人は東野のボトルをあけてしまったので、「アーさん」の名前で、新しいウイスキーを入れた。しかし、新しいボトルには、ほとんど手をつけずに、立ち上がっていた。
それが、午後十一時頃である。
『明美さん、イーさんの車で送っていくよ』
と、東野が誘った。
普通、『ラムゼ』の営業時間は、十二時までとなっている。客が立て込む月末の土曜日は、深夜一時近くになることもある。
その夜は、そうではなかった。午後九時以降、客は、東野たち三人しかいない。
その三人が、帰ろうというのである。
『明美さん、送っていただいたら』
と、ママも同意した。
初めての客の誘いなら、もちろん、笑顔ですらりと体を交わすところだ。しかし、相手は常連客だし、一人でもない。
明美が住む『花之木ハイツ』は、東野の自宅と同一方向だった。しかも、東野が住む六ツ川より手前であることも、余計な警戒を抱かせなかったようである。
『ラムゼ』は早仕舞いをし、明美は「イーさん」が運転するホワイトの乗用車に乗って、夜の中へ消えて行った。
『明日は土曜日だから、早目にくるわね』
明美は、ママと、住み込みの若いホステスに笑顔を残した。
それが、ママと若いホステスが、明美の生きている姿を見た最後となった。
「谷田くん、アーさんとイーさんは長髪だったね」
支局長は、考える口調になった。
「そう、これです」
谷田は気軽く立っていき、手配用の二枚の似顔絵を持ってきて、支局長の机に載せた。似顔絵は前髪を乱した長髪で、一人はメタルフレームの眼鏡、一人は黒いフレームの眼鏡をかけている。
メタルフレームが「アーさん」、黒いフレームが「イーさん」。二人とも二十代から三十代だった、と、『ラムゼ』のママは証言している。
「このメタルフレームが、大森に似ているかね」
「確かに、篠塚みやさんに指摘されてみれば、似てますね」
「大森は茨城の出身で、三人兄弟だったな」
「長髪の兄弟がいるのかどうか、当たって見る必要はあるかもしれませんね」
谷田は似顔絵を見詰めた。
事件当夜、『ラムゼ』から明美を誘い出した東野は、ほとんど泥酔状態だった。「イーさん」の車に同乗したことは覚えているが、どこで降りたのか、降ろされたのか、そっちの記憶は、あいまいだった。
『気がついたら、菅田《すげた》の団地の中を、ふらふらと歩いていました』
と、東野は申し立てている。
神奈川区の菅田町は、東野の自宅とは、方向違いだ。
しかし、そこは、殺人現場となったモーテル『菊水』には近かった。
明美は、「アーさん」と「イーさん」に拉致されたわけであり、東野は犯行に、一役も二役も買っていたことになる。明美が「イーさん」の車に乗り込んだのは、飽くまでも、東野という常連客の誘いであったからだ。
「アーさん」と「イーさん」が東野と親しかったからこそ、明美は誘いに応じたのだ。陥穽は、親しげな談笑にあった。
実は、「アーさん」と「イーさん」が、『ラムゼ』にとって一見の客であったように、東野もまた、その二人とはその夜が初対面だったのである。
東野は、その二人がどこのだれであるのか、全く知らなかった。
『あの二人とは、元町のバーで一緒になったのですよ。はい、西之橋近くの、エンゼルというバーでした』
と、東野は菊名署の捜査本部で、こたえている。
東野は、酒好きだった。勤め先に近い『エンゼル』も、なじみの一軒だった。
東野が退社後『エンゼル』に立ち寄ると、二人がカウンターにいた。
「アーさん」はそのときすでに、酔いが回っている感じだった。「イーさん」の方はムードを楽しむように、ホステスと談笑していた。
東野が、先客と並んでカウンターに腰を下ろしたのは、連れがいなかったためだ。
双方は、隣り合って水割りを飲んでいるうちに、何となくことばを交わすようになった。酒飲みの常、と言えようか。
酔いが進んだとき、
『どこか河岸をかえませんか』
『それなら、ぼくのボトルが入っているスナックがある』
ということになった。
こうして、「イーさん」が運転する乗用車で、元町から弘明寺へ移動。『ラムゼ』に現れたときには、まるで旧知の仲であるかのように、談笑していたわけだ。
「なるほど。車に乗せられたホステスにしてみれば、そいつは、一つの盲点だな」
「前後の状況から判断して、明美という女を狙っての、計画的な拉致《らち》事件ではありません。だが、偶発的な犯行かというと、そうでもないのですね」
二人連れが、ともあれ、女性を連れ出すことに的を絞っていたのは間違いない、と、捜査本部も断定している。
泥酔した東野を途中で降ろしたことと、モーテル『菊水』へ入るまでの時間経過に無駄のないことが、断定の根拠となっている。
しかも『菊水』は、新横浜駅近くとはいえ、ラブホテルが立ち並ぶ西側一帯からは外れていたのだ。『菊水』はビルではなかった。乗用車ごと各部屋へ入れる、平屋作りのモーテルだった。
従って、男二人、女一人の組み合わせであっても、ゲートインのとき、男の一人が身を伏せていれば、従業員に怪しまれることなく、密室に入ることができる。
異常、というか、納得がいかないのは、女に犯された形跡がないことだった。
明美は確かに、全裸の絞殺死体で発見された。
凶器はモーテル室内に遺留されていなかったが、それはズボンのベルトであろうと推定された。凶行後、男がベルトを締め直して立ち去れば、凶器は残らないわけだ。
それはいいが、男二人で女を連れ込みながら、交渉の跡がないとは、どういうことなのか。
『明美は、モーテルへ入る前に殺害されていたのではないか』
捜査員の中には、そうした意見を述べる刑事もいた。
女性が黙って、閉ざされた場所へ連れ込まれるだろうか。世間知らずの少女なら、恐怖に怯えて声が出ないということも、考えられよう。
だが、明美は三十一歳である。夜の世界で生きている女性なのだ。モーテルの従業員に向かって、いくらでも救いを求めることができたはずだ。
助けを求めなかったのは、すでに、車内で息絶えていたからではないか、と、その刑事は言った。
それはそれで、一理ある見方だ。しかし、それでは、二人の男は、生ある女体ではなく、死者をモーテルへ連れ込んだというのか。
捜査員の中でも、意見の分かれるところだった。
いずれにしても、明美が、絞殺されてから衣服を剥《は》がされたことだけは、はっきりしている。それは、ベッド脇に投げ捨てられたワンピースとか、下着類の散乱をチェックすれば、一目瞭然だった。
「確かこの事件《やま》だろ、殺した女を裸にして、桜の造花をちぎって、死体に振り撒いたというのは」
と、支局長は、谷田を見た。「確か」と前置きしたのは、「造花」はオフレコで、各社とも、記事にはしていなかったためである。支局長は、概要の報告は受けているものの、詳しい経緯を知らなかった。
「どういう神経をしているんだ。二人の長髪の男が、二人がかりで、死体に造花を振り撒いたのかね」
「花を散らせたイミテーションの枯枝が、十何本も、女の頸部に置いてあったそうです。枯枝からは、犯人のものと思われる真新しい指紋が検出されています。指紋は二種類ですから、問題の二人が、二人そろってその場にいたことは間違いありません」
「男が強引に女を誘うというと、たとえば身代金要求といった、背景を持つ場合もあるだろう。しかしこれは、セックス以外の目的は考えられないね」
「絞殺は、明美の激しい抵抗が導き出したもので、二人の男にとっては予想外のアクシデントだった」
「そういうことになるだろうね。分からないのは、死者を弄ぶ神経だ」
「輪姦は例のないことではないが、この二人は、やはり異常性格者なのですかね。ええ、菊名署の捜査本部でも、当然、その点は問題になりました」
言ってみれば、通り魔的なこの事件は、ほとんど手がかりを残していない。
モーテル『菊水』で検出された二人の指紋は、『ラムゼ』のボックスシートに残っていた指紋と一致し、それが「アーさん」と「イーさん」のものであることは分かったが、指紋には、前科、前歴がなかった。
「イーさん」の乗用車にしても、『ラムゼ』のママと若いホステスは車種に詳しくなかったし、東野の方は元町の『エンゼル』を出るときから深酔いしていたので、ただ白いボディーだったというだけで、型もナンバーも全く記憶していない。
その点は、モーテルもいい加減なものだった。もっとも、こちらは、客を注視しないことをサービスと心得ている面があって、ゲートの窓口も、できるだけ小さくできている。
『クラウンの4ドア、ロイヤルサルーンだったかなあ』
と、『菊水』の従業員はこたえたが、それは、刑事が、ホワイトの車体というヒントを与えたからであって、確かな裏付けを持つ証言ではなかった。当夜、『菊水』には、十七台の乗用車が入っていたのである。
一泊の料金を支払った客が、夜の明けやらぬうちに車を戻しても、朝まではチェックしないシステムだった。
全裸の絞殺死体が発見されたのは、朝、九時が過ぎて、清掃係が部屋に入ったときである。
*
「谷田くん、文庫本に傍線が引かれた桜の樹≠ニ、死体に振り撒かれていた桜の造花《イミテーシヨン》=Bこの関連をどう考える?」
「深い意味があるとは思えない。しかし、こうなってみると、無関係じゃありませんね」
「大森は、シドモア桜の会へ出席する矢先に殺された。寺沢の方は、花見旅行の途中で襲われた。しかも犯人《ほし》は、桜が好きなんだろ、と、寺沢に言ってるわけだ」
「弘明寺のスナック、ラムゼから取材をやり直してみましょう」
谷田は自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
二月の事件を、新しい角度から洗い直す。それが、支局長との話し合いの結論となった。
待っていた電話連絡は、それから十五分ほどして入った。
「キャップ、分かりましたよ」
若手記者の声は弾んでいた。自由が丘駅前からの電話だった。
「村田にカステラをくれたのは、仲佐《なかさ》という男です」
仲佐|次郎《じろう》 二十六歳 東京都渋谷区上原三四○『リリイマンション』55号 『ASプロダクション』テレビ企画課勤務
「おい、この男が働いているのは、芸能プロダクションか」
谷田が、電話の報告をメモしながら、口調を改めたのは、犯人はテレビタレントを連想させたという、王寺の運転手の証言を思い出したためだった。
同じ世界に生きている男なら、当人がタレントでなかったとしても、似たようなムードを漂わせてはいるだろう。
「村田と仲佐は、どのていどのつきあいなんだ?」
「やはり仕事で知り合ったという話ですが、足掛け四年になるから、短くはありませんね」
「で、何かあったか」
谷田は声を落とした。
「はい、預ってきました」
と、若手記者はこたえた。
「村田のマンションに、ASプロダクションの、最近のパンフレットがありました。これは、村田が撮影したものです。パンフレットが完成して、仲佐が届けてきたわけです」
「注文通りのものが、出てきたじゃないか」
谷田はうなずいた。電話取材でも済むのに、若手記者を、直接村田のマンションへ向けたことの真意が、それだった。
「きみはそのパンフレットを、本社の社会部へ持って行ってくれ。指紋の検出依頼は、やはり本社の社会部を通すことになった」
と、谷田は、支局長が強調するところの潜行取材を伝え、
「指紋の結果いかんにかかわらず、その足で、仲佐には会ってきてくれよ」
と、要点を指示した。
いずれにしても、カステラの木箱からは、犯人の渦状紋が採取されているのである。渦状紋へたどり着くためには、仲佐を経由しなければならない。
『ASプロダクション』のパンフレットから問題の渦状紋が出れば、これはもう、実行犯は仲佐で決まりと言っていいだろう。
「大森の兄弟を当たるかどうかは、その結果次第でいいでしょうね」
谷田は、電話を終えると、支局長に向かって言った。
*
スナック『ラムゼ』は、夕方六時からの開店だった。
浦上伸介が、京浜急行の弘明寺《ぐみようじ》駅に降りたのは、五時半を少し回った頃である。谷田の指示に従って、『週刊広場』の編集部から駆け付けてきたのだった。
急行電車のとまらない小さい駅だった。駅は弘明寺に隣接しており、下りホームのすぐ向こう側が、寺の境内になっている。
改札口を出ると左手に踏み切りがあり、踏み切りを渡って行くと、五分ほどで、路線バスの走る県道だった。
商店が立ち並ぶ一画に、小さいスナックがあった。
車の往来が激しい県道だった。歩道の方も、夕方なので買物客で込んでいる。
(桜の花《イミテーシヨン》か)
浦上は、谷田の電話を思い返しながら、足をとめた。県道越しに『ラムゼ』を見やって、キャスターに火をつけた。
例の文庫本は、どこをどう渡って、死者の周辺に転がったのだろう? 篠塚みやを訪ねてきた若い男。彼がみやに見せた文庫本は、二冊のうちの一冊なのか。
それとも、死者の周囲から発見されたのとは別物なのか。
波木明美を拉致殺害した「アーさん」と「イーさん」が、大森裕と寺沢隆であり、新しく登場してきた仲佐次郎が、明美の隠れた愛人であるならば、
(復讐の線で、動機もすっきりしてくるのだがなあ)
浦上は、そんなつぶやきをかみ殺して、たばこを吹かした。
しかし、どう考えても、長髪の二人連れは、一流会社の課長や部長とは重なり合わないし、明美に愛人がいないこともはっきりしているのである。
谷田実憲は、約束の六時に現れた。『ラムゼ』は、その少し前に店を開いていた。
看板は出したが、客はまだ入っていない。取材には、ちょうどいい頃合だった。
浦上と谷田は、信号が青にかわるのを待ち兼ねて、県道を渡った。
『ラムゼ』のママは、小柄で、角張った顔の女性だった。
浦上と谷田は、身分と目的を告げてから、ビールとチーズを注文した。
質問は、明美に親しい男性がいたか、どうか、そのことの再確認から始まった。
「ママがいくら明美さんと親しくしていたといっても、四六時中一緒に暮らしていたわけじゃない。いまにして、と、何か思いつくことはありませんか」
と尋ねたのは浦上だが、ママは何の逡巡も見せず、自信を持ってこたえた。
「明美さんに限って、そういうことはないわね。彼女、一度結婚に失敗しているでしょ。ほとほと、男性には、懲りてるのよ。自分でもよくそれを言ってたし、こんな商売していても、そりゃ身持ちはよかったわ」
ママはカウンターに片ひじついて、チェリーを吹かし、
「その点は、あのとき、警察が詳しく調べてるはずよ。あたしばかりでなく、花之木ハイツの家主も、彼女に限って、男性の出入りなど一度もなかったと何度も繰り返していたわ」
と、そう言って、浦上と谷田の顔を交互に見た。
「それにしても、何だって、今頃になってまた、明美さんのことを調べたりしているのよ? あの二人の男のことは、全く分からず仕舞いなんでしょ」
「明美さんの遺体は、だれが引き取ったのでしたっけ?」
「弟さんだったわ」
「弟?」
浦上はビールのコップを、カウンターに戻した。
浦上は、モーテル『菊水』の事件を取材していなかった。全裸殺人を、真っ向から取材するのは、今日が最初だ。
明美には弟がいたのか。それがサングラスをかけた黒っぽいコートの男だろうか。
浦上がそんな目で、隣に腰かけている谷田を見ると、
「その弟さんは、新潟にお住まいなのですか」
と、谷田はママに尋ねた。
これまでの『毎朝日報』の取材は、「アーさん」と「イーさん」に焦点を絞ったものであり、被害者の明美サイドは、警察発表以上には掘り下げていなかった。被害者と加害者の間に脈絡のない事件、通り魔的な殺人だけに、それも当然だろう。
この種の犯行では、被害者側に関しては、それほど取材しないのが普通だ。被害者の周辺と過去を、いくら洗ったところで、そこから犯人が出てくるわけではないのだから。
「新潟のご両親は他界したと聞きました。弟さんが、家を継いでいるのですか」
「いいえ。お家《うち》は処分したって、話だったわね。その弟さんは埼玉県の浦和で結婚しているのよ。浦和から、東京の赤羽だったかしら、食品会社へ通っていると言ってたわ」
「明美さんの遺骨は、浦和の弟さんのところにあるわけですか」
「ええ、遺体を引き取ってお葬式出したのは、浦和に住む弟さんでしたが、先週、新潟の墓地に埋骨されました」
と、ママはこたえた。
四月一日が四十九日に当たる。明美の遺骨は、その日、実弟の手で、新潟県北蒲原郡の、先祖累代の墓に移されたという。
遺体を引き取った実弟は、波木和彦《なみきかずひこ》、二十八歳。
和彦は、七七日忌の法要の案内を『ラムゼ』にも電話してきたが、
「新潟では、横浜から日帰りというわけにもいかないでしょ。それで、あたしは失礼しました」
と、ママは言った。
「それにしても和彦さんは、今時珍しいほどの、お姉さん思いの弟さんだったわ。よほど仲のいいきょうだいだったのね。初めて、ここへあいさつに見えたときも、涙を流さんばかりにして、悲しがっていたわ」
明美の絞殺死体が発見された二月十三日の土曜日、『ラムゼ』は店を開けなかった。臨時休業の張り紙を出したスナックに和彦が入ってきたのは、昼過ぎだった。
急を聞いて横浜へ飛んで来た和彦は、菊名署で変わり果てた姉と対面し、それから、姉が働いていた『ラムゼ』を訪れた。
『ラムゼ』では、ちょうど捜査員たちが引き上げるところだった。指紋採取を目的とする鑑識係と、「アーさん」と「イーさん」の似顔絵を作成し、前夜の模様をことこまかく聞き込んだ刑事。
捜査員には、東野哲も同行していた。前夜、「アーさん」や「イーさん」以上に飲み過ぎた東野は、昼を過ぎても、完全に二日酔いの状態だった。
東野も、捜査員たちと一緒に『ラムゼ』を出た。和彦と入れ違いである。
和彦は、刑事の中にいるのが問題の東野と知るや、
『訳の分からない酔っ払いっていうのは、あんたかね!』
すさまじい形相で、東野ににじり寄ったという。
「あの場に刑事さんがいなければ、殴りかかっていたかもしれないわ」
と、ママは二ヵ月前を振り返った。
「和彦さんは、気性の激しいタイプでしたか」
「ううん、決してそんなことないわ。むしろその逆ね。刑事さんたちが帰って、あたしと二人きりで話していたときの弟さんは控え目で、とてもおとなしい感じだった」
そうした人間が、そんなに焦燥をあらわにするとは、それだけ姉を愛していたということだろう。
「明美さんは、自分のことを語らない人だったけど、あの弟さんから受けた印象では、家庭はあたたかかったみたい」
と、ママはつづけた。
相次いで両親が他界し、家が人手に渡り、そして結婚に失敗。明美が横浜へ流れてきたのは三年前だが、本来なら、水商売とは無縁の暮らしだったのかもしれない。
「あんな殺され方をした明美さんが、かわいそうでならないわ。ねえ記者さん、この種の事件って、犯人の挙がらないことが多いのですか」
「和彦さんが初めて訪ねてきたとき、ママはどんな話をしたのですか」
浦上は口調を改めた。
「どんなって、刑事さんにこたえたことと同じよ。あの二人が、東野さんと一緒に入ってきてから出て行くまでのことを、刑事さんに伝えたのと同じように、話したわ」
「明美さんの弟さんは、長髪でしたか」
「長髪?」
「髪の長さは肩ぐらいまである、長髪ではありませんでしたか」
「いいえ」
ママは顔を振った。
「そんな目立つヘアスタイルではなかったわ。ごく普通のサラリーマンという感じだったわ」
「待ってくださいよ」
谷田がことばを挟んだ。篠塚みやの一言が、よみがえってきた。
『二十代後半ってとこかナ。ごく平凡な、サラリーマンという感じだったわよ。うん、印象は悪くなかった』
みやは、自宅に訪ねてきた若い男のことを、そんなふうに説明している。
その若い男が、明美の弟であるなら、それなりに話の筋が通ってくる。明美の愛人と想定した男を、明美の実弟に置き換えればいいのだ。
そう、若い男は、波木和彦に間違いあるまい。
谷田は、そうした視線をちらっと浦上に向けてから、慎重に切り出した。
「和彦さんは、文庫本を持っていなかったでしょうか」
「文庫本ですか」
「文庫本を出して、ママさんに何か尋ねませんでしたか」
「新聞の切り抜きが挟んであり、何行か、傍線の引いてある文庫本ですか」
「ご存じでしたか」
谷田の声は、押さえようとしても大きくなる。
「その文庫本について、和彦さんはどのような話をしていましたか」
「ただ、これをぼくにくださいと言っただけですわ」
「ください?」
「あの文庫本は、ボックスシートの下に落ちていたのですよ。ええ、あの前の夜、東野さんと、あの二人が座っていたシートの下に落ちていたのを、朝、掃除したときに見つけたのよ」
ママは、だれが落としていったのか知れない文庫本を、それほど重視していなかった。落とし主が、前夜の客であることの証明もなかった。
と、いうのも、ボックスシートの下をきれいに掃除するのは、半月に一度ぐらいだったからである。
ママは、シートの下から出てきた文庫本を、カウンター脇の飾り棚に載せた。棚には週刊誌などが乱雑に積み上げてある。
いずれも、客が読み捨てていったものだ。ママにしてみれば、その文庫本も、読み捨てられた週刊誌などと同じ意味しか持たなかった。
たまたま和彦が文庫本に目をとめ、文庫本が発見されたいきさつを知って、
『これをぼくにください』
と、切り出したときも、
『いいわよ。どうぞ』
と、こたえていたのだ。深い考えは全くなかった。前の客が読み捨てた写真週刊誌を、後からきた客がもらっていくのは、よくあることだった。
もちろんママは、文庫本が発見されたことなど、刑事たちには一言も漏らしてはいなかったわけだ。
『ラムゼ』のママに他意はなくとも、これは大事な分岐点だ。
山下署と王寺署の捜査本部は、文庫本の出所を知らない。
従って、二月の全裸殺人事件と、四月に発生した二件の刺殺事件は結ばれようもないわけだ。
谷田は、高まる感情を、必死に抑えて言った。
「和彦さんが、その文庫本を欲したのは、挟んであった新聞の切り抜きと、傍線が引かれたページを確認してからではありませんか」
「そう、そういえばそうだったわ。あたしと雑談しながら、しばらくぱらぱらとページを繰ってから、この本をくださいと言ったのよ」
と、ママはうなずいた。谷田の期待通りのこたえだった。
*
浦上と谷田は、常連客が二人、連れ立って姿を見せたのを機に『ラムゼ』を出た。
県道は暗くなっていた。自動車のヘッドライトが目立つようになっている。
谷田は弘明寺駅まで戻ったところで、駅前の電話ボックスに入った。
電話をかけた先は山下署の捜査本部であり、呼び出した相手は、四日前まで菊名署の捜査本部に詰めていた淡路警部だった。
浦上に対する谷田の返答は、淡路警部との通話を終えてからになった。
「やはりそうだった。新聞発表は伏せたが、捜査本部では、被害者の身内である和彦には、死体に振り撒かれた造花《イミテーシヨン》の桜を、詳しく説明したそうだ」
谷田は電話ボックスを出てくると、厳しい顔付きで言った。
「和彦は、桜≠フ関連で、ボックスシートの下から発見された文庫本を、逸速く、犯人の遺留品と見抜いたのに違いない」
「やはり、動機は復讐ですか」
「篠塚みや女史を訪ねたのは、波木和彦に間違いない」
「長髪で、渦状紋の実行犯が、和彦の命を受けた男、ということになりますか」
「カステラの木箱の線で新しく浮かんできた仲佐次郎という、芸能プロダクションで働く男。この仲佐と和彦の両面から追及すれば、渦状紋の男が浮き彫りにされるのは時間の問題だと思うね」
犯人サイドの構図は、恐らくその通りだろう。
問題は殺された二人だ。大森と寺沢の二人が、どうして復讐のターゲットにされたのか、それが分からない。
「しかし、ようく考えて見ると、奇妙な共通点はあるね」
谷田が、考えるように下あごに手をやったのは、小さな改札口を通って、京浜急行の上りホームに立ったときである。
線路越しに、弘明寺の観音堂を見ながら、谷田は言った。
「アーさんを大森、イーさんを寺沢と錯覚させるだけの何かはあるんじゃないかね」
「大森は酒好きだった。寺沢はアルコール類は駄目。ストレス解消法は退社後のドライブ」
「アーさんとイーさんに当て嵌《は》まるね」
「しかも、アーさんがラムゼに落としていったと思われる文庫本には、殺された大森の指紋がばっちりと付着していた」
と、浦上は、谷田に応じるともなく、つぶやき、同一書名の文庫本が何冊登場してくるのかは分からないが、
(少なくとも、港の見える丘公園の血まみれの文庫本は、桜≠ゥら郵送されてきたものに間違いない)
と、自分の中で繰り返していた。
すると、「桜」、イコール篠塚みやから大森の名前を聞き出した若い男、イコール波木和彦、といった図式がはっきりしてくるのではないだろうか。
「先輩、被疑者とは、文字通り疑わしい人間であって、仮に起訴されても、それだけでは有罪じゃありませんよね」
「何を言いたいのかね」
「今回の事件《やま》が、二月の殺人《ころし》を前提とする復讐劇であり、中心人物が和彦であるなら、先輩が考えるように、誤解殺人ということになるでしょう。それが本当に誤解であるなら、二月の奇妙な全裸殺人について、大森と寺沢はシロであった、と、証明することが、推理の出発点となるでしょう」
「誤解に決まっているだろう。大森と寺沢は公的にも私的にも接点を持たないし、ラムゼに現れたような長髪でもない。精一杯譲歩してだよ、眼鏡は変装用ということもあるかもしれないが、ヘアスタイルは違うだろう」
「変装用というなら、長髪のウイッグがありますね」
ふっと浮かんできた思い付きだった。
思い付きは、口に出したことで、重みを持った。
「ウイッグ?」
「鬘《かつら》です」
浦上のことばに力が籠った。
「おい、泰山の企画課長と、徳光製靴の総務部長だよ。何で、この二人が鬘をかぶる必要があるんだ?」
「大森と寺沢が、見込み通りシロであるのか、それとも、殺されたのが誤解ではなかった、すなわちクロであったのか、物証で判断すべきです」
「指紋か。うん、指紋があったな」
谷田が浦上を見詰め直したとき、品川行きの京浜急行が入ってきた。
*
「淡路警部に、すべてを打ち明けた方がいいんじゃないですか」
「確かに、その方が仕事は速い。しかし、大阪行きJAL搭乗客のチェック以来、他社がえらく神経質になっているんだよ。オレは、我社《うち》の支局長の方針通り、当分は潜行すべきだと思う」
「指紋の照合はどうします? これは、淡路警部に手を回すしかないでしょう」
「こんなことになるとは思わなかったけれど、転写指紋は、アーさんもイーさんも、大森も寺沢も、それぞれの捜査本部から入手済みなんだ」
谷田の口調に余裕があるのは、そのためと知れた。
「四種類の指紋が似ているか、そうでないか、ルーペで確認すれば、素人にだって判断できる。どうしても釈然としない問題が生じたら、そのとき初めて、専門家に鑑定を依頼すればいい」
と、谷田は言った。
京浜急行を日ノ出町駅で降り、『毎朝日報』横浜支局へ向かって、夜の雑沓を歩きながらの会話である。
捜査本部から入手した転写指紋は、いずれも県警記者クラブの、キャップの机の中にファイルされているという。
転写指紋は『毎朝日報』に限らず、各社とも入手しているはずだという。
「それにしても、淡路警部は、四日前までは、菊名署の捜査本部に詰めていたわけでしょ。他にも、菊名署から山下署の捜査本部へ配置換えになった刑事がいるかもしれない。双方が同じ指紋であるなら、最初に、この刑事《でか》さんたちが気付いて然るべきですね」
浦上は、飲み屋が並ぶ野毛の通りを左に折れながら言った。
当然な疑問だが、
「そうでもないさ」
谷田は振り向きもしなかった。
「犯意が共通していれば、合同捜査本部ということになる。しかし、これは違うぞ。女を絞殺して全裸にしたのは、いわば通り魔的な犯行だが、山下署と王寺署の刺殺事件は、怨恨の線で捜査を進めているのだから、犯罪としては異質だ」
「内容の違う事件を、対比させる捜査員などいないってことですか」
「当たり前だ。これは盲点ともいえないだろうね。刑事《でか》さんたちは、それほど暇じゃない」
逆な言い方をすれば、そこに谷田と浦上の目がいったのは、細かい取材活動の成果、ということになろう。
二人は、急ぎ足で、桜木町駅前の横断歩道を渡った。
支局に入り、階段を上がって二階の編集室へ行くと、谷田の顔を見て、
「さっきから支局長が捜していましたよ」
と、若手記者が言った。
編集室内は、ごった返している。支局は、一日でもっとも活気のある時間帯だった。
浦上は外部の人間なので遠慮しようとしたが、
「今回は別だよ」
谷田に促されて、一緒に支局長席へ行った。
「ラムゼへ呼び出し電話を入れたら、ちょうど、きみたちが出たところだった」
小太りの支局長は目を通していた原稿を脇にどかすと、二人に傍らのいすを勧めた。
「やはり浦上さんとのご縁は切れないようですな」
と、浦上に会釈してから、
「今後はポケットベルを携帯してもらわなければならんね」
連絡不十分な谷田に苦情を言った。
「しかし支局長、ラムゼを出てから支局に上がるまで、四十分とはかかっていませんよ。そんなに急用ですか」
「これを見たまえ。東京本社からファックスで送ってきた」
支局長は一枚のコピーを、机に載せた。コピーは、新しく登場してきた男、仲佐次郎にかかわる取材結果を、若手記者が報告してきたものだった。
「取材はうまくいったのですか」
「たったいま、詳しい報告電話も入った。とんでもないことになったぞ」
支局長は、コピーを指差した。
「一致したんだよ。仲佐次郎の指紋が、本《ほん》犯人《ぼし》の渦状紋と同一であることが判明した」
「ASプロダクションのパンフレットから、検出されたのですか」
「いや、もっと確かな指紋だ。記者クラブの若手もやるじゃないか」
支局長は、谷田の配下の、敏速な取材をほめた。
若手記者は、さっき自由が丘から途中経過の報告電話を谷田キャップに入れてきたわけだが、その場で仲佐次郎に連絡をとったところ、いまなら空いているというので、東京本社社会部へ出向く前に、港区麻布台の『ASプロダクション』へ寄った。
「あいつ、何と言って、芸能プロダクションへ乗り込んだのですか」
「いまさら、おかしな理由はつけられない。自由が丘で、村田カメラマンに会った直後だからね」
「カステラの木箱を正面から打ち出したわけですね」
「ああ。事情は言えないが、あのカステラをどこから入手したのか。その経路の取材を、口実としたってわけだ」
カステラは、何と、『東都ペン』の代表者から寄贈されたものだという。下請け会社から発注会社担当者への、謝礼だった。
「仲佐は、アルコールは全く駄目の、甘党だそうです」
支局長が、その一言を浦上に向けたのは、浦上の王寺取材に対する返礼の意味を持っていた。犯人は、犯行後一時間余りも中華料理店にいたのに、ビール一杯口にしなかったのである。
「親しくつきあっている東都ペンでは、仲佐はアルコールが駄目なことを承知していたので、カステラを贈ったわけでしょう」
と、支局長は浦上を見て言った。
カステラの木箱は二つだった。仲佐の記憶では、大丸の包装紙だったという。包装紙を開けてみて、細長い木箱が二つと分かったので、一つを、パンフレットが完成したとき、かねて親しくしているカメラマンの村田に、おすそ分けしたというわけである。
『毎朝日報』の若手記者は、『ASプロダクション』で、当然なことに、仲佐と名刺を交換している。
名刺には、最も新しい、仲佐の指紋が付着している。
「すると、問題の渦状紋は、仲佐の名刺から検出されたってことですか」
「この芸能プロダクションには、肩までもある長髪の男が、何人か働いていたそうだ」
「仲佐も長髪だというのですか」
「渦状紋の本《ほん》犯人《ぼし》なら、当然長髪でなければなるまい」
支局長は、都内からかけてきた若手記者の電話の内容を、詳しく、谷田と浦上に伝えた。
妙な形で、登場してきた男だが、犯人《ほし》は、仲佐次郎で、ほとんど決まりではないか。
「支局長、捜査本部へは、いつ、どういう具合に連絡するつもりですか」
谷田は、支局長と浦上の顔を交互に見て言った。声には、張りつめた緊張感がにじんでいる。
「もう一日待ってみないか」
支局長は一息入れ、一言ずつ考えるような口調になった。
「絶対的なスクープとするためには、まだまだ済まさなければならない手続きがあるだろう。捜査本部へ渡すのは、完全原稿を書ける状態にしてからにしたいね」
指紋の一致は、確かに大きいニュースだ。明日の朝刊で、他社をぐっと引き離すことができるだろう。
しかし、それだけでは、パーフェクトな解決とはならない。
支局長席の周辺に、一瞬、複雑な沈黙が生じた。
浦上は沈黙の中で取材帳を開き、ボールペンを走らせていた。
(1) 仲佐次郎と波木和彦はどういう関係にあるのか。仲佐はいかなる過程で殺人を請け負ったのか。
(2) 仲佐が殺人の実行犯であることの証明。すなわち、仲佐は、四月二日の十一時三十分頃と、十九時頃のアリバイを持っているのか。
横浜≠ニ奈良=A二件の殺人犯は同一人なので、午前か午後、どちらか一方のアリバイが成立すれば、仲佐の容疑は解消されてしまう。
(3) 大森裕と寺沢隆は、果たして、間違って殺されたのか。誤殺であるにしても、和彦(あるいは仲佐)は、どこから大森と寺沢のつながりを洗い出してきたのか。
(4) 復讐側(和彦)のミスで、大森と寺沢をターゲットにしてしまったのだとしたら、全裸殺人の真犯人、「アーさん」と「イーさん」は、どこに潜んでいるのか。
順序不同のままに、ざっと書き出しても、これだけの問題があった。
「波木和彦と仲佐次郎の二人に、じかに当たるしかないが、問題は取材の口実だね。妙な結果になって逃亡でもされたら、それこそ一大事だ」
支局長が両腕を組むと、谷田は支局長席の電話を取って、県警記者クラブにかけた。
「オレはこのまま、待っている。いいか、ルーペを使って、四人の指紋をばっちり見比べてくれ」
谷田は受話器を握り締め、クラブに居合わせた部下に命じた。
新しい緊張が、谷田、支局長、浦上、三人の顔に広がった。
ぴりぴりとした緊張の沈黙は、この上なく長いものに感じられた。だが、実際には三分とかからなかっただろう。
「何?」
返事が受話器を伝わってきたとき、谷田の横顔に新しい表情が浮かんだ。新しい表情は、そのまま谷田の横顔に刻み込まれた。
「間違いないんだな! 間違いなく、四月と二月の指紋が一つに重なり合ったのだな!」
ぐっと受話器を握り締め、怒鳴りつけるような声にかわっている。
二月の指紋の一つ(変体紋)は大森と合致し、一つ(弓状紋)は寺沢のものだというのだ。
浦上も口元を引き締めた。
半ば予想していたことではある。
(ひょっとしたら)
と、考えが一点に集中したからこそ、シロかクロか、物証(指紋)で判断すべきだと提案した浦上であったが、思わず、口の中が乾くのを感じていた。何の紆余曲折もなく、抽出された結論が、当然のようでもあり、意外のようでも、あった。
「殺人《ころし》の動機は、理由もなく実姉を殺害したアーさんとイーさんへの復讐。これで決まりだな」
と、つぶやく支局長の吐息も、熱を持っていた。
「アーさんが大森、イーさんが寺沢なら、浦上さんが指摘されたように、二人はウイッグを使用していたことになりますな」
と、支局長がつづけると、
「指紋だけじゃない。血液型もどうやら一致するようです」
谷田は受話器を戻してから言った。
刺殺された大森と寺沢の血液型は、もちろんはっきりと分かっている。大森はO型、寺沢はA型である。
一方、「アーさん」と「イーさん」に関しては、モーテル『菊水』とスナック『ラムゼ』から、指紋同様血液型も採取している。これは、たばこの吸い殻に付着した唾液からの検出である。
指紋と同じことで、どちらがどちらと特定はできないが、記者会見で発表されたのが、O型とA型だから、これは、大森と寺沢の血液型と受けとめるのが自然だろう。
「何とも信じられないような、展開になってきたな」
支局長は、もう一度、両腕を組み直した。
支局長のつぶやきが、谷田と、そして浦上の心境を代弁していた。
前髪を乱したロングヘアのウイッグと、眼鏡。これはもう変装目的と見て、間違いあるまい。
一流会社の課長と部長は、何ゆえ変装してバーやスナックに出入りしていたのか。
まさか、当初から、全裸殺人が狙いだったわけではあるまい。
二人は、どこで、どのような接点を持っていたのだろう?
7章 新潟のアリバイ
翌四月七日、木曜日。
浦上伸介も、谷田実憲も、早起きをした。
JR有楽町駅の、有楽町マリオン側の改札口で待ち合わせたのが、午前九時である。
都心はラッシュアワーに入っている。
浦上も谷田も、こうした混雑する時間に電車に揺られるのは、月に一度、あるかないかだ。浦上はその例の少ない早起きを、四日の間に二度も経験したことになる。
三日前の月曜日の午前は、大森裕と寺沢隆の自宅を訪ねたわけだが、この日の目的は大森と寺沢の職場に置かれていた。
今日の訪問は、三日前よりは、ずっと重い意味を持っている。
広告代理店『泰山』雑誌部第二企画課
株式会社『徳光製靴』総務部
波木和彦
仲佐次郎
浦上の取材帳には、順不同なままに、重点取材先が、書き出されている。
浦上は、改めて取材帳の走り書きをチェックしながら、コーヒーを飲んだ。谷田と立ち寄ったのは、有楽町駅近くのスタンドである。
二人は、会社へ急ぐサラリーマンやOLの動きが一段落するのを、コーヒーを飲みながら待つことにした。
取材には一刻も早く着手したい。しかし、それはこっちの勝手であって、始業時では、会社側の応対にも限度があろう。
波木和彦は、詩人の篠塚みや女史に会って、似顔絵の一人が大森に似ているというヒントを得た。
「でも、それは飽くまでもヒントだろ。どこで、長髪のアーさんが大森と分かったのかな」
谷田は、昨夜来の繰り返しを、事新しくつぶやいて、アメリカンコーヒーを飲んだ。
桜は、まだ満開というわけにはいかず、この日も、東京の空は花曇りだった。
『泰山』と『徳光製靴』は、午前中にそれぞれの担当者に面会したい旨の申し入れを済ませている。一方的な申し入れだが、昨夜のうちに、『毎朝日報』横浜支局から電話をかけた。
同じようにかけた電話に対し、仲佐次郎はこうこたえた。
『おや、カステラの箱のことで、まだ用事があるのですか。ええ、かまいませんよ。明日は午後から新宿のテレビ局へ直行するので、午後早い時間がいいかな。そう、午後一時過ぎに、マンションの方へお電話ください』
口調も態度も、電話を通じて察する限り、不審を抱かせるものは何もなかった。
問題は波木和彦だ。
浦和の電話帳《ハローページ》で調べて、市外電話をかけると、
『昨日から会社の出張で、大阪支店へ出かけています』
と、妻と名乗る女性がこたえた。今週一杯の出張だという。
大阪支店まで和彦を追いかけていくことになるか、どうか。それは『泰山』と『徳光製靴』、両社の聞き込み結果と、仲佐のアリバイ如何にかかってくる。
「それにしても、仲佐は落ち着き払っていたな」
谷田は、昨夜の電話の感触を繰り返した。
「職業柄、対人折衝には慣れているのだろうが、人当たりが良すぎる」
「完全犯罪に、自信を持っているってことでしょうか」
「万一、万が一だよ、仲佐が実行犯でなかったとしても、指紋の一致は不動だ。仲佐が一連の犯行と無関係であるわけはない。仲佐は、二日つづけての新聞記者《ぶんや》の訪問にどう対処するつもりなんだ?」
谷田はコーヒーを飲み、たばこに火をつけた。
*
「大森課長は、興信所に何か調べられていたようです」
「たとえば、女性関係といったような内容《こと》ですか」
「そうだと思います。大森課長が、社内で個人的に親しくしている人はだれか、と質問されました」
「あなたにそれを質問してきた人間が、正式に興信所と名乗ったのですか」
「はい。おとなしい話し方で、感じのいい男性でした。年齢は、三十前だったと思います」
と、『泰山』の女子社員が説明する風貌は、浦上と谷田に、波木和彦を連想させた。
女子社員は、殺された大森の、直属の部下だった。
最初、一階の応接間で取材に応じてくれたのは、大森の上司に当たる雑誌部長だった。高い天井で、壁に静物画のかかっている応接間だった。
一通り話が終えたところで、
『そうですか、捜査本部でお聞きになりませんでしたか。そのことは、刑事さんが見える前に、我社《うち》の方から山下署へ通報したのですが』
と、雑誌部長は言った。
部長は会議を控えて、多忙だった。その部長に呼ばれて、部長と入れ違いに、一階応接間へやってきてくれたのが、第二企画課の女子社員である。
童顔だが、はきはきとした口の利き方で、
「あれは、二月中旬でした」
と、女子社員は興信所と名乗る男に、声をかけられたときのことを言った。
男は、昼食時の、社員の外出を狙って接近してきたのだが、別の女子社員に、
『雑誌部第二企画課の方はどなたでしょうか』
と、尋ねていることが、後で分かった。聞き込む相手を、大森の部下に絞っていたわけだ。
「男は名刺を出さなかったのですか」
「刑事さんみたいな手帳を、ちらっと見せました」
女子社員は、それを先方の身分証明書と受けとめたらしい。
舗道の下を歩きながらの、慌ただしい質問ではあったし、そうした経験は初めてなので、女子社員は、疑念を抱く余裕もなく、相手のペースに乗せられてしまったようだ。
「それで、大森さんのことを、どのように話したのですか」
「興信所の期待にはこたえられませんでした。だって、大森課長は、女性関係などとんでもないことで、男性社員とも個人的に親しくしている人はいませんでしたもの。お仕事が終えると、いつも一人で、さっと会社を出て行かれました」
と、女子社員は言った。それは、浦上と谷田が承知している大森の一面を、敷衍《ふえん》する説明だった。
大森は、とかく、単独行動を好んでいたらしいのである。
「その男から質問されたのは、あなただけですか」
「はい、他には聞いていません」
「では、その男が、直接、大森課長に接近した気配はありませんか」
「あったと思います」
「あった?」
谷田の横でメモをとっていた浦上が顔を上げると、
「あたし、そのあとで二回、その男の人を見かけました」
と、女子社員はこたえた。
二回とも退社時であり、男は明らかに、大森を待ち伏せていたというのである。
『泰山』の本社ビルは、東映会館近くにあるのだが、男は銀座教会横の舗道にたたずんでいた。
そして、本社ビルから出てきた大森の後を、そっと尾行《つけ》たという。
「二回とも、男は、大森課長を尾行したのですね」
浦上は口元をとがらせた。
女子社員の、たまたま目撃したのが二回ということは、尾行は、実はもっと多く繰り返されていたかもしれない。
女子社員は、尾行がどういう形をとったのか、そこまでは確認していない。帰宅方向が違っていたためである。
三鷹へ帰る大森は、東京駅乗り換えなのでJRを利用するが、彼女の方は、銀座から地下鉄だった。
しかし彼女は、尾行を二回も目撃したので、気味が悪くなり、大森にこのことを打ち明けた。すると、大森は、
『ほう、男はきみを呼び止めたのか。いや、何でもない。何でもないんだよ』
慌てて、彼女の話を遮《さえぎ》った。彼女がどういう質問を受け、どうこたえたのか、それを詳しく尋ねるのが、普通だろう。
それなのに大森は、その男の存在自体を否定するかのように、彼女の報告を無視しようとしたというのである。
「大森課長が刺殺されたあとで、あなたは、そのことも、山下署の捜査本部に告げましたか」
「はい、刑事さんが会社へ見えたときに話しました」
「ところで」
と、谷田が口調を改めた。
「大森課長は、桜に特別な関心を寄せていたというようなことは、ありませんか」
「桜、ですか」
女子社員は、自問自答するようにつぶやいてから、大きくうなずいた。
大森は、確かに桜の花が好きだったというのである。
桜が嫌いな日本人はいないだろう。大森はどのように、桜が好きだったのか。
「桜の、ぱっと明るい感じがいいと言ってました」
「明るい感じ?」
「課長は文学好きで、どちらかといえば、内向的なところがありました。それで逆に明るい彩りに惹かれていたのかもしれません」
と、女子社員は自分の考えを言った。
しかし、桜の季節は短い。大森は課長机の、透明ガラス板の下に、満開の桜を写したカラー写真を挟んでいたという。しかも、時折、桜の写真を取り替えていたという。
「ほう、そりゃまた、相当なものですね」
と、谷田は言ったが、大森の打ち込みようは、写真にとどまらなかった。
昨年辺りからは、造花を、一輪ざしのように、小さい花びんに入れて、課長専用の棚に置いていたというのである。
「造花ですって?」
浦上と谷田は、思わず顔を見合わせていた。
モーテル『菊水』に遺留されていた、桜の造花《イミテーシヨン》を説明したのは谷田だった。
造花自体は新聞発表を伏せてあるので、この女子社員が、仮に二月の全裸絞殺事件に関心を持っていたとしても、殺人と造花との関連は知らないはずだった。
谷田が説明したのは、(ちぎられた花片が死者に振り撒かれていたことではなく、モーテルから発見された)本物そっくりな造花と、死者の頸部に置かれた枝、すなわち、造花を咲かせていた枝の形である。
「あら、ご存じでしたの?」
女子社員は、そんな言い方で、谷田が説明する造花を肯定した。
まさに、殺人現場に遺留されていたのと全く同じ形の造花が、課長専用棚を飾っていたことになる。
桜の造花は、婦人雑誌のグラビア用に取りそろえられたものだった。
撮影が完了して不要になった造花を、ごそっと大森課長がもらい受けたのだという。
「大森課長って、文学青年的な面が尾を引いているというか、変に子供っぽいところがありました」
と、女子社員は言った。
女子社員は、もちろん、谷田と浦上の質問の真意に気付いていない。彼女は肯定的な、純粋といったような意味で、子供っぽいということばを使った。
*
浦上と谷田は、『泰山』の本社ビルを出た。通勤ラッシュが過ぎたところだった。午前の西銀座は、まだそれほどのにぎわいを見せていない。
「興信所を名乗った尾行者は、波木和彦に間違いありませんね」
「二月中旬といえば、篠塚みや女史を訪ねた直後だな。大森を割り出したタイミングも合っている」
「和彦は、逸速《いちはや》くウイッグに気付いたってことでしょうか」
「鬘に気付き、造花の存在を知っていたとなると、誤殺どころか、これは、はっきりとターゲットを絞った計画的な殺人だな」
「捜査本部は、大森課長を探りにきた男の正体を、どう解釈しているのでしょうか」
「重要視していることは間違いないね。いまの女子社員は、事件直後に、山下署へ通報してるわけだろ。それなのに、捜査本部では、一切この情報《ねた》を伏せている。淡路警部までが、一言も漏らしてはくれなかったではないか」
「極秘裡に、捜査中ってことですか」
「だが、手がかりはゼロってところだろう。波木和彦は、だれにマークされることもなく、大阪ヘ出張中だからね」
谷田と浦上は、山手線に乗車してからも、検討と分析をつづけた。
有楽町から品川までは、正味十分である。
『徳光製靴』は、品川駅港南口から徒歩十五分ほどの、旧海岸通り沿いにあった。
広い敷地だった。
応接室は、池のある中庭に面している。
『徳光製靴』の方には、興信所≠ヘ現れていなかった。
寺沢は、世田谷区北沢の自宅から自らの運転する乗用車で出勤しているわけだが、寺沢の帰りを待ち伏せたり、尾行したりする車はなかったようである。
社員たちは、だれ一人として、そうした不審に気付いていなかった。
ただ、奈良・京都の旅行寸前に、総務部へ電話が一本入っていた。家族旅行の、スケジュールの詳細を問い合わせる電話だった。
電話をしてきたのは、男の声であり、
『大宮工場からです』
と、告げたが、事件後に調べたところ、大宮工場では、だれもそうした電話をかけていないことが分かった。
当然、それは犯人サイドからの確認≠ニいうことになろう。
しかし、寺沢の場合は、大森と違って、桜の花に特別な関心を寄せている事実はなかった。
谷田は、取材に応じてくれた秘書課長に向かって、最後に、寺沢の乗用車を尋ねた。
「クラウン4ドアのロイヤルサルーンでした。はい、ボディーはホワイトです」
と、秘書課長はこたえた。
二月十二日の深夜、波木明美を連れ去ったのは、白い車体の乗用車である。
(アーさんとイーさんは、大森と寺沢で決まりだな)
谷田は、そんな目で、浦上を振り返った。
だが、ここまで追及しても、なお分からないのは、大森と寺沢がどこでどうつながっているのか、ということだった。
大森と寺沢は、何ゆえ、ウイッグや眼鏡で変装≠オていたのだろう?
繰り返し考えても、解けないなぞだった。
*
浦上と谷田は、曇り空の下を歩いて、品川駅へ戻った。
駅前の左手には小さいレストランとか酒場、喫茶店などが軒を接している。喫茶店が、モーニングサービス中だった。
喫茶店には、客が一人しかいなかった。
「尾行か」
谷田は先に立って喫茶店に入り、コーヒーを注文してから、浦上に話しかけた。
「和彦は、大森を尾行したことで、大森の秘密を知ったのに違いない」
「秘密?」
「うん、秘密と呼んでいいだろうな。大森は、毎晩、家に帰るのが遅かった。毎日残業していたわけではあるまい」
「そりゃ、そうでしょう」
「退社から帰宅するまでの間、大森はどこで何をしていたのか」
「アルコール好きで、孤独癖が強かったようだから、独り、酒場で飲んでいたのではありませんか」
「東京から横浜まで遠出して、変装して酒を飲んでいたのかね」
「和彦は大森を尾行することで、大森の隠された一面を知った、と、先輩はそう見るのですか」
「そう考えるのが自然じゃないか。そして、その秘密の時間といったものを共有していたのが、寺沢だったとしたら、どうなる?」
「和彦は、大森を尾行することで、労せずして、寺沢をも割り出したことになりますか。でも、アーさんが大森であると決めつけることは容易でも、和彦は、どうやってイーさんが寺沢であることの確証をつかんだのでしょう? 白い乗用車というだけでは弱いでしょう」
「桜じゃないかな」
「桜?」
「大森は桜≠ゥら文庫本を送り付けられて顔色をかえた。寺沢も、犯人の言いなりに、呼び出しに応じている。一流企業の課長と部長は、和彦の威しに、敏感に反応してしまったというわけだろう」
和彦は、最初は電話をかけたのかもしれない。
電話で、いきなりモーテル『菊水』と、桜の造花と、前髪乱したウイッグを切り出されたら、どうなるか。
『このままで済むと思っているのか! おまえも同じように絞め殺して、桜の花片を振り撒いてやろうか』
和彦は押し殺した声で、そうささやいたかもしれぬ。姉思いの実弟の口調には、どうしようもない憎悪と怒りが、にじみ出ていただろう。
理不尽に肉親を奪われた男の、凄まじい迫力を前にして、
『何を言いだすのかね。全く身に覚えのないことだ』
と、開き直ることができるかどうか。
「大森も寺沢も、それほど図太い神経の持ち主ではないと思うよ」
と、谷田は言った。
「和彦は、当然文庫本をちらつかせたことだろう。唯一の物証は、一冊の文庫本だけにしろ、大森と寺沢にしてみれば、他にも何か握られているのではないかと不安になってくる」
「怯えた応答が、和彦に確証を与えたことになりますか」
「違うか」
しかしなあ、と、谷田は顔を振った。
「大森も寺沢も殺されてしまったいま、オレたちに、尾行という手段は残されていない」
「それにしても、大森と寺沢は、何ゆえ明美を殺してしまったのでしょう」
「酔った勢いで、ホステスを口説くつもりはあっても、殺す気はなかっただろう」
「二月の事件《やま》は、殺された側だけでなく、殺した側にとっても、予想もしないアクシデントだった」
「うん、そう解釈するのが、常識だとは思うけどな」
「だが、殺害方法は絞殺ですよ。崖から足でも滑らせたというのならともかく、過失で絞殺ということはないでしょう。しかも、殺したあとで全裸にしたり、造花を撒き散らしたりしている。これはどういう意味を持つのですか」
「それが分からない。分からないが、その辺りが、大森と寺沢が共有する、隠れた時間と関係してくるのではないかね」
コーヒーがきた。モーニングサービスのトーストと、ゆで卵がついている。
浦上と谷田は無表情にコーヒーを飲み、トーストを食べた。
*
コーヒーを飲み終えて、ゆっくりたばこを吹かしても、まだ十一時十五分である。
仲佐のマンションへ電話をかけるわけにはいかない。約束は午後一時過ぎだ。芸能プロダクションで働く男は、まだ眠っているだろう。
「和彦の方は大阪出張中だから、浦和へ行って、勤め先を探り出しても、早急にどうということはないな」
「念のために、四月二日の和彦の行動でも当たっておきますか」
浦上はたばこをもみ消して、気軽く立ち上がった。昨夜、浦和の留守宅へ問い合わせたのは、『毎朝日報』だ。
初めて電話をかける浦上は、説明の面倒を避けるために、『毎朝日報』とは無関係であることにし、二月の事件の取材を口実とすることに決めた。
赤電話はレジの横にあった。
「もしもし」
電話を伝わってくる和彦の妻の声は、素朴な感じだった。素朴な印象を与えるのは、語尾に、東北訛が交じっていたためかもしれない。
浦上は『週刊広場』を名乗り、
「残念ながら、お姉さんを襲った犯人の目星はまだついていないようですね」
と、当たり障りのないことから切り出した。
問題を絞ったのは、しばらく雑談をつづけた後である。
「先週の土曜日ですか? 二日と言えば、義姉《あね》の四十九日の、明くる日ですわ」
「法要は、新潟で済まされたわけですね」
浦和からなら日帰りでしたか、と、浦上が誘導すると、
「納骨は一日の午前中に終えました」
と、和彦の妻はこたえた。
「お寺さんで、皆でお昼食《ひる》をいただいて散会しましたが、わたしと主人は、その足で本荘《ほんじよう》へ向かいました」
「本荘?」
「秋田の本荘が、わたしの実家です。久し振りに新潟まで行ったので、それで、足を伸ばして帰郷しました」
下車駅である羽後本荘まで羽越本線のL特急で、新潟から三時間余りだった。
夕方には実家に到着。その夜と、翌土曜日と二泊し、夫婦は三日の午後、羽後本荘を発って、浦和へ帰ってきたという。
「ご主人は、ずっと奥さんの実家にいらしたわけですね」
「主人がどうかしたのですか」
素朴な妻の声に、ようやく不審がにじんだ。声の調子から察するに、妻は夫の和彦が強く関与する五日前の二件の殺人事件に、全く気付いていないらしい。
和彦の妻は、不審をあらわにしながらも、
「二日は、実家の弟の運転で、朝から秋田市内までドライブしました。本荘へ戻ったのは夕方でした」
と、こたえて、和彦のアリバイを証明した。不審を抱いても、ともあれ、こたえてくれたのは、東北出身である彼女の人柄だろう。
言ってることにも、うそはない感じだった。浦上は、彼女の発言を信じた。
(和彦は、後日、疑惑を抱かれたときに備えて、万全のアリバイを用意したのかもしれない)
浦上は、赤電話のコインを追加しながら、そう考えた。
浦上と谷田がたどり着いたように、「ラムゼでの文庫本入手」「篠塚みやから得た大森のヒント」「泰山女子社員に興信所を装って接近したことと、大森に対する尾行」「寺沢の京都・奈良旅行のスケジュールを確認する、問い合わせの電話」などを、捜査本部によって一つ一つ崩され、正体を白日の下にさらされた場合、絶対の防禦となるのが、本物のアリバイだ。
これで、実行犯(仲佐次郎)を隠しおおせれば、殺人動機がいかに浮き彫りにされようと、憎い二人(大森裕と寺沢隆)を葬る復讐劇は、幕を、完璧に下ろすことができる。
浦上は、しかし、和彦の本物のアリバイについて、もう一つ念を入れた。
すなわち、横浜≠フ犯行時刻には、秋田市内へドライブしていたわけだが、奈良≠フ犯行時刻はどうか。
「いまも言ったように、夕方には本荘の実家に帰っていました」
「ご主人は、そのまま翌日まで奥さんの実家にいらしたわけですね」
「そうですよ」
「夜、どこかへお出かけになりませんでしたか。たとえば、七時頃はどうでしょう?」
「週刊誌の記者さんが、なぜそんなことを調べるのですか」
さすがに、むっとした口調にかわった。それでも、彼女はこたえてくれた。
「夜七時頃も、実家にいました。主人は、実家で電話を受けていました」
「電話?」
浦上の頬が引きつった。全身の血が逆流するような驚愕に見舞われたのは、電話をかけてきた相手の、名前を聞かされたときだった。
いや、かけてきた相手と、和彦との関係を知らされたときである。
和彦の妻は、こうこたえたのだ。
「電話は次郎さんからでした」
「次郎さん? 仲佐次郎さんのことですか!」
浦上が、はっとしたように畳みかけ、
「奥さん、仲佐さんをご存じなのですか」
と、口走ると、
「知っているのが当たり前でしょ」
と、和彦の妻はこたえた。
仲佐次郎は、波木和彦の実弟だったのである。明美、和彦、次郎は三人きょうだいだった。
次郎の名字が異なるのは、母方の伯父の養子になっているためだった。伯父夫婦に子供がいないため、次郎は生後間もなく養子に出されたが、縁組は戸籍上のことだけだった。
次郎は北蒲原郡の波木の家で、明美、和彦と、文字通り実のきょうだいとして育った。高校までは新潟で終え、東京の大学に進学すると、そのまま故郷へは戻らず、大学卒業後は、『ASプロダクション』に採用されたのだという。
和彦は控え目な性格だが、上の明美と、下の次郎は、前向きというか、都会派的な一面を備えていたようだ。
それは職業からも想像できることだが、三人は、和彦の妻が見ても羨むほどに、きょうだい仲がよかったという。
次郎は、和彦以上に明美の死を悲しみ、
『何て男たちだ! 草の根分けてもその二人を捜し出し、ぶっ殺してやる!』
と、怒りを表面に出していたらしい。
それだけの気性なら、犯人捜しも、和彦ではなく、次郎が分担すべきだったろう。次郎が表舞台に登場してこなかったのは、その時期、テレビ映画のロケで、フランスとイタリアに渡っていたためと知れた。
菊名署の捜査本部が、長髪の実弟を承知していなかったのは、明美の遺体を引き取るとき、次郎が日本にいなかったからだ。
次郎は、巧まずして、ベールの向こう側へ隠れてしまった、ということになる。
和彦の妻への電話が、長くなった。
浦上は驚愕を必死に抑え、和彦の妻の機嫌を損ねないようことば遣いに注意して、最後の質問に移った。
「これは、取材とは直接関係のないことですが、次郎さんから電話が入ったのは、正確には何時頃でしたか」
と、雑談ふうに持ちかけると、また、東北訛の純朴な口調が戻ってきた。
「そうねえ、テレビでクイズ番組が始まったときだったわ。うん、あれは七時半からの番組でした」
「すると、七時半を、少し回っていたことになりますね」
と、話しかけながら、浦上の連想は、事件当夜の王寺へ飛んだ。
『ああ、行きも帰りも、電話ボックスへ駆けていったがね、帰りの方が時間がかかったな』
と、犯人のことをそう証言しているのは、犯人を乗せたタクシー運転手だ。それが七時半頃だったという。
浦上は運転手の話を聞いたとき、犯人《ほし》は殺人《ころし》の成功をだれかに報告したのかもしれないと考えたが、秋田県の本荘へかかってきた電話が、まさにそれだろう。
浦上はもう一度、赤電話にコインを追加すると、さり気ない口調で、和彦の妻に尋ねた。
「次郎さんの電話は、奈良からだったのではないですか」
「いいえ」
これは、はっきりした否定のことばが返ってきた。
「次郎さんが電話してきたのは、新潟のホテルです」
「それは確かでしょうね」
「どうして、次郎さんが関西へなど行くのですか。次郎さんは、わたしたちと一緒に、一日の法要に出席されたのですよ」
「次郎さんは、お寺さんの昼食を終えてから、早々と東京へ引き返されたのではありませんか」
「次郎さんは、一日、二日と新潟泊まりでした。次郎さんも新潟は久し振りなので、ゆっくり、町を歩いて見ると言ってました」
次郎は万代橋近くの『新潟ターミナルホテル』を、半月前から予約していたという。
しかし、ホテルを予定してあったからといって、それだけでは、次郎が新潟にいたことの証明にはならない。そんなことは自明の理だが、
「電話は、最初わたしが取りました。次郎さんは、いまホテルの部屋からだ、と、はっきり言ってました」
だから、新潟からかけてきたのに間違いない、と、和彦の妻は繰り返すのである。新潟滞在のもう一つの根拠は、電話を受けた和彦の妻に対して、
『明日は、何時の上越新幹線にしましょうか』
と、次郎が話しかけてきたことだった。
帰りの列車は、電話を代わった和彦が打ち合わせ、和彦夫婦は翌三日の日曜日、『新潟ターミナルホテル』のロビーで、和彦と落ち合っている。
そして、三人そろって、同じ新幹線で新潟を引き上げた。
和彦の妻が、何の他意もなく、一日から三日まで次郎が新潟にいたと思い込むのも無理はない。
(和彦と次郎の兄弟は、この純朴な女房をアリバイ工作に利用したな)
と、浦上は自分の中でつぶやいていた。浦上の内面で、犯人像が、より確固たるものとなったのが、このときである。
浦上は受話器を手にしたまま、ちらっと、谷田を振り返った。和彦の留守宅へ電話することに、大した期待はなかった。
言ってみれば、時間つぶしの一本の電話から、仲佐次郎の正体が割れるとは夢想もしないことだった。
仲佐の正体どころか、十九時三十分頃≠フ電話までが、浮き彫りになってきたのである。
その時刻、犯人(すなわち仲佐)は王寺の電話ボックスに入っている。そして、その時刻、秋田県の本荘へかかってきた電話の相手が、その仲佐なのだ。
仲佐が新潟のホテルにいるはずはない。
だが、それを、和彦の妻相手に強調しても始まらない。
浦上は、話を二月の事件に戻して、長い電話を終えた。
*
「何だと?」
谷田は、浦上の報告を聞くと、浦上以上に顔色を変えた。
「あの二人、兄弟だったというのか」
仲佐に面会する意気込みがかわったぞ、という目の動きになっている。
昨夜、『毎朝日報』横浜支局で浦上が書き出した四つの疑問は、仲佐のアリバイ問題を除いて、おおむね氷解したわけである。
「確かに、和彦の女房は、それと知らされないままに、兄弟の犯行計画に一役買わされているな」
と、谷田はうなずいた。
和彦の妻は善意の第三者だ。善意の第三者の主張なら、アリバイ証言も重みを持ってくる。
しかし、善意の第三者には計算が働いていない。それだけに、浦上の電話質問にこたえたような、思わぬ事実≠ニか人間関係を、ごく自然に、吐露してしまう結果にもなるのだろう。
「そう、いくら完全犯罪を意図しても、役、振り当てられた登場人物が、そうそう、演出者の思い通りに動いてくれるものじゃない」
「何か嫌な気持ちですが、こうなって見ると、殺人《ころし》の動機が分からないでもありませんね」
「実弟二人の怒りは、理解できる。だが、憎悪が、こんな具合に形を整えたのは、やはり異常だよ」
「そうでしょうか」
浦上は、キャスターをくわえて、ゆっくりと火をつけた。一瞬、浦上の中のだれにも知られない暗部に、何かが照応したようでもあった。
谷田もピース・ライトを吹かした。
それぞれのたばこが灰になったところで、二人は小さい喫茶店を出た。
二人は、無言のまま、山手線に乗った。
*
和彦と次郎、二人の兄弟の立場に置かれたら、自分も、真剣に復讐を企てるだろうか。
浦上は山手線の電車内で、そのことだけを考えていた。昼前の電車は空いている。
(ぶっ殺してやる!)
と、全身が震えるような怒りに見舞われたとしても、恐らく、自分に殺人は実行できないだろう、と、思った。
なぜか。
良識だろうか。いや、違う。殺人を現実化できないのは、倫理をわきまえているからではない。度胸と、実行力を持ち合わせないためだ、と、そんなふうにささやく声が浦上の内面にあった。
度胸と実行力を伴わない復讐計画≠ヘ、ただ、黒い渦の中へ内向していくだけだろう。しかし、和彦と次郎は違った。
和彦と次郎は、愛する姉を奪った、通り魔の不合理に対して憤怒の拳を振り上げ、相手を叩き付けたのだ。
姉の恨みを晴らすための、主導権を握っていたのは、二人の弟の中のどちらだろう?
「先輩は、和彦と次郎の心情を、どのように記事にするつもりですか」
「新聞記者《ぶんや》は、評論家でもなければ、神様でもない。取材した事実を、ありのままに書くだけさ」
「そうですよね。動機が何であれ、殺人《ころし》は犯罪だ。殺された方が悪くたって、殺したやつは手錠をかけられる」
「何をおかしなこと言ってるんだ。いまは実行犯をきちっと洗い出すことが先決だ」
電車は新宿駅に着いた。
谷田は、小田急に乗り換える前に、新宿駅のホームから、渋谷区上原の『リリイマンション』へ電話を入れた。
約束の時間には、まだ早い。しかし仲佐は機嫌を悪くするでもなく、すぐに電話口に出ると、
「こっちへ来てもらってもいいけど、新宿ならぼくの方も通り道です。三十分後にどうでしょうか」
と、新宿駅中央口近くの喫茶店を指定した。電話での口調は、昨夜と同じように物静かだった。
*
喫茶店は、武蔵野会館の並びだった。広い店内は、サラリーマンとかOLふうの客が多かった。
仲佐次郎は、ほとんど約束通りの時間に現れた。
黒っぽいコートでも、サングラスでもなかった。
仲佐は金ボタンが付いた濃紺のブレザーで、グレーの替えズボン。スポーツシャツは縞柄。頸に巻いた水玉模様の絹スカーフが決まっており、いかにも芸能プロダクションで働いているという感じだった。
その長髪が、喫茶店の自動ドアを入ってくると、一目で、仲佐であることが分かった。
浦上は犯人像についての、いくつかの証言を対比させ、谷田は中腰になって、会釈を送った。
仲佐は、満席の店内を縫うようにして、浦上と谷田のテーブルにやってきた。
初対面の名刺を交換したのは、谷田だけだった。
浦上が、谷田の横にそっと控える形を取ったのは、和彦の妻との長電話を意識したせいである。いずれ、時間の問題で、仲佐は『週刊広場』から電話取材があったことを知るだろう。
そのとき、こっちの立場を取り繕い易くするためと、仲佐(と和彦)に余分な警戒を与えないために、『毎朝日報』のみを前面に出し、『週刊広場』は伏せることにした。
質問の主役は、当然谷田ということになる。
谷田は、仲佐の注文したレモンティーがテーブルに載ったところで、
「関係者のプライバシー問題があるので、詳しい事情は申し上げられないのですが」
と、切り出した。
仲佐を呼び出した口実は、飽くまでも「カステラの木箱」なのだ。まずは、もっともらしく、その方の取材≠ゥら、始めなければならない。
「例のカステラの箱は、我社《うち》の若手記者が、昨日お話したように、横浜駅東口にある東田予備校で入手したものです。あなたがカメラマンの村田さんに差し上げる前に、どなたかあの木箱に触れた人はいないでしょうか」
「取材目的がよく分かりませんが、あれは東都ペンから頂戴したものです。ぼくは独り暮らしなので、大丸の包装紙を解いたときも、その後も、だれも手にしていませんね。お尋ねの主旨は、おすそ分けした村田さんか、ぼくに贈ってくれた東都ペン、あるいは取扱い店の大丸の方が、はっきりするのではないですか」
仲佐はテーブルの下で脚を組み、レモンティーを口にした。
「ええ、東都ペンとか大丸でも、一応お話を伺うつもりです」
谷田は取材帳をひざに置き、それらしくボールペンを走らせながら、質問をつづけた。
浦上も、取材帳を開いてはいるが、実際に書きとめることは、何もありはしない。谷田と同じようにボールペンを使っているのは、本来の目的を、仲佐に気取られないための方便に過ぎない。
本当の内偵は、取材帳を閉じたときから始まるのだ。
それは、角度をかえての苦心の質問を、十分余りつづけた後できた。
「お忙しいところ、お時間を割いていただき、ありがとうございました」
谷田は丁重に一礼して、取材帳をブレザーの内ポケットにしまった。
それからピース・ライトに火をつけ、改めて、仲佐の名刺を手に取った。この辺りが、ベテラン事件記者の、強行取材の見せどころだ。
「おや?」
谷田は半分ほど吸ったたばこを、もみ消し、
「失礼ですが」
と、仲佐の顔を見た。
「失礼ですが仲佐さん、新潟のご出身ではありませんか」
「はあ。それが何か?」
「そうですか。新潟の北蒲原郡ですね」
と、谷田が、きっかけをつかもうとして畳み掛けると、
「あれ、前にどこかで会いましたっけ?」
仲佐は、きょとんとした顔をした。
「お目にかかったことはありません」
と、谷田は言った。
「お会いするのは今日が初めてですが、お名前に記憶があります」
谷田はもう一度確認するように、名刺を見た。それから、一言ずつ、区切るようにして言った。
「お姉さんが、波木、明美さん、ですよね」
「姉をご存じですか」
「ご愁傷さまでした。ぼくは二月の事件のとき、毎朝のキャップとして、菊名署の捜査本部に出入りしていました」
そのとき、被害者に二人の弟さんがいることを知った、と、谷田はつづけたが、無論、これは言い訳だ。あのときは、そこまで取材していない。
波木明美に、名字の異なる仲佐次郎という実弟がいることを知ったのは、さっき浦上がかけた和彦の妻への電話によってなのだ。
しかし、ベテラン事件記者は、実際の取材過程など、おくびにも出しはしない。
一方、仲佐の方も、
「そうですか。それは奇縁ですね」
と、脚を組み換えて、新しい表情を見せたが、口の端に、不審をにじませるわけではなかった。二十六歳とは思えぬ、落ち着きがあった。
(この落ち着きが、計画通りに、二つの殺人を実行させたのか)
浦上は、そうした目で、仲佐の、肩までもある長髪を見た。
兄が尾行までして割り出した大森裕と寺沢隆を、弟が桜の木の下で刺して、仕上げた復讐のドラマ。
殺人の日の三人の目撃者(大月市からきた二人の若い男女と、信貴山の土産物店の従業員)と、横浜市南区通町の刃物店の店主。この四人に仲佐を見せたら、どのような反応を示すだろうか。
密かに照合を終えた、指紋という動かぬ物証もある。
だが、仲佐が、二月の事件をちらつかされても、全く動ずる気配を感じさせないのは、一新聞記者の追跡調査がそこまで進んでいるなんて、想像もしないためだろうか。
そう、警察が動いていないのだから、新聞社が先行することなど有り得ないと、高を括《くく》っているのかもしれぬ。
それとも、あらゆる証拠がそろおうと、それを上回るアリバイ、殺人には決して参加できないという、確固たる現場不在証明が用意されているのか。
「通り魔事件の捜査の限界というか、菊名署の捜査本部は先週縮小されましたね」
谷田が、じわじわと話を持ちかけても、
「そうですね。浦和に住む兄がそうした連絡を受けたようです」
仲佐は、表情もかえずにこたえるだけだった。
谷田はそこで一転、港の見える丘公園で発生した殺人を話題にし、
「現在、県警捜査一課の主力は、五日前に起きた殺人事件、山下署の捜査本部の方を応援していましてね、菊名署の捜査本部から移ってきた警部や刑事もいます」
と、双方の捜査本部の重なり合いの深さをさり気なく強調しても、
「いろんな犯罪が続発するものですね」
仲佐は、自分には関係のない話だという顔をしている。
しかし、全く無関係なことではなかったのである。微妙に揺曳《ようえい》する何かを、浦上が敏感にキャッチしたのは、谷田が、さらに焦点を絞ったときだった。
「お姉さんが、不幸な亡くなられ方をしたのは、二月十二日でしたから、早いもので、もう四十九日を過ぎたわけですね」
と、とぼけて水を向けると、仲佐は同じ表情で、一定の口調ながら、待っていたように話に乗ってきたのだ。
「犯人も検挙されておりませんし、ああした他界でしたので、法要は、ごく内輪の者だけで済ませました」
と、仲佐は言った。
仲佐は、谷田のペースに乗せられたふうを装いながら、納骨のための帰郷を、詳しく話題にしてきたのだ。
久し振りの故郷だった。今年は新潟も桜の開花が遅く、四月一日現在ではつぼみも小さかった、というようなことを、仲佐は問わず語りで口にしたが、話題のポイントが、新潟での行動に置かれていることを、浦上は見逃さなかった。
(なるほど。兄弟は、相当計画的に対処しているんだな)
と、浦上は考えた。
仲佐の説明を事後工作と感じたのは、谷田とて同じことだった。それならそれで、仲佐の話を、相づち打ちながら聞かなければなるまい。
谷田は新しいピース・ライトに火をつけた。
「お兄さん夫婦とは、同じ新幹線で行かれたのですか」
「ええ、一日の朝に出発しました。上野発六時十六分の始発でした。兄夫婦は大宮から乗ってきました」
「内々の法要とおっしゃっても、北蒲原郡には、ご親戚も多いのではありませんか」
「そんなことはありません。ぼくたちの両親はすでに他界しています。親しくつきあっているのは、ぼくの戸籍上の養子先である伯父一家だけです」
「伯父さんご夫妻は、もちろん列席されたわけですね」
「はい、三人できてくれました」
「三人?」
「ああ、ぼくを養子にした後で、伯父夫婦には子供ができたのですよ。よく言うでしょ、もらい子すると、なぜか実子を授かるって」
「なるほど。それで仲佐さんは、戸籍上は養子縁組されても、ずっと実家の方で育ったわけですか」
「伯父夫婦には跡取りができたのだから、ぼくの籍はいずれ波木家へ戻すことになるでしょう。しかし、その光司《こうじ》という実子が生まれたとき、ぼくはもう小学校に上がっていました。途中で名字変えるのもおかしいというので、今日まで、何となくそのままになっています」
光司は現在、新潟の大学に通っているという。その光司を含めた伯父一家三人、和彦夫婦と仲佐、計六人による法要だった。
納骨を終え、寺で昼食をとって散会。
そして、新潟市内へ戻ったところで、仲佐は和彦夫婦と別れた。
和彦夫婦は秋田県の本荘へ向かい、仲佐は『新潟ターミナルホテル』にチェックインしたという説明だ。和彦夫婦が羽越本線の下りL特急に乗車したのは、その通りだろうが、
(仲佐の方は、素直に、ホテルに泊まってはいまい)
浦上はそんな目で、ちらっと仲佐を見た。
これから後が、アリバイ工作≠フ中心部分だ。
仲佐は横浜≠ニ奈良≠ナ二件の殺人が発生した四月二日の行動を、どう説明するつもりなのか。
谷田がもう一度、ピース・ライトの箱を取り出すと、
「ぼくにも一本くれませんか」
と、仲佐は言った。たばこの持ち合わせがないところを見ると、普段は吸わないのだろう。
仲佐は、谷田に火をつけてもらったたばこをくゆらしながら、問われるままに、といった口調で、
「新潟ターミナルホテルには、一日と二日、二泊しました」
と、こたえた。シングルの512号室。
「ええ、帰りはまた、兄たちと一緒でした。二日の夜、ホテルの部屋から本荘の義姉《あね》の実家へ電話を入れると、兄たちは日曜日のL特急いなほ12号≠ナ新潟へ戻ってくるという話でした」
羽後本荘を十三時十六分に発車するいなほ12号≠フ新潟着は十六時二十三分。
仲佐はいったんチェックアウトした『新潟ターミナルホテル』のロビーで、和彦夫婦と待ち合わせ、新潟発十七時七分の上越新幹線とき476号≠ナ、帰京したという。これは、四月三日だけ運行している臨時特急だ。和彦夫婦が下車した大宮着は十九時七分、終点上野到着は十九時二十八分。
この辺りの足取りは、浦上が、和彦の妻から聞き出した通りだ。
『新潟ターミナルホテル』512号室からかけたことになっている電話を始め、すべて、リハーサル通りの説明だろう。
問題は二日だ。
「二日の土曜日は、ずっと新潟市内にいらしたのですか」
谷田はたばこをもみ消しながら、さり気なく訊いた。
「久し振りの帰郷なので、高校時代のクラスメートに会うつもりでした」
仲佐もたばこを消した。
旧友に会う意思はあったが、しかし仲佐は、二日の日は、どこも訪ねてはいなかった。
電話で高校時代の友人を呼び出したのは、三日の日曜日になってからである。兄夫婦が本荘から引き返してくるまでの時間を利用して、三人のクラスメートに会ったという。
なぜ、そうした慌ただしい時間に三人もの旧友を呼び出し、まるまる一日空いていた土曜日を一人で過ごしたのか。
(弁解は無用だ。だれにも会わなかったのではなく、会えなかったのだ。そして、その事実こそ、仲佐が横浜≠ニ奈良≠ノ存在したことの、確かな裏付けとなるのではないか)
浦上の内面をそんなつぶやきが過った。
仲佐は、こうこたえた。
「故郷で姉を偲《しの》んでいるうちに、どうにも気持ちが閉ざされてしまったのですよ。二月の事件を取材されたのなら、ご承知でしょうが、姉は一度結婚しています。見合いで一緒になった結婚が不幸な結果に終わったのは、夫の女関係が原因です。姉は夫に裏切られたのです。その姉が、短い結婚生活を過ごしたのが、信濃川の河口に近い緑町でした。ぼくは姉を偲んで、姉が新婚生活を送ったアパートの周囲を歩いてみました」
仲佐の声が低くなった。
「町を歩いていると、姉の笑顔が浮かんできました。それが偽りの幸福とも知らず、公務員の夫を信じていた姉の笑顔。しかし、短い期間、姉が夫と呼んだ男には、結婚前も、結婚してからも、ずっと深い関係がつづく女がいたのです。ええ、東万代町の、バーで働く女でした」
といった説明を、浦上は聞き流していた。明美が横浜へ流れてくるまでの過程に、どのような不幸があろうと、それは、いまの取材と直接の関連を持たなかったからである。
「姉が結婚に失敗していなければ、故郷を離れることもなかったでしょう。訳の分からない連中に拉致されて、理不尽な死を押しつけられるような、こんな目には遇わなかったはずです」
仲佐は、低いが、確かな口調でつづけた。そうした経緯を、あれこれ考えていると、だれに会うのも億劫になり、土曜日はただぼんやりと新潟市内を彷徨していたという。
「納骨を済ませば、気持ちもふっ切れると思っていましたが、逆でした。故郷へ帰ったことで、姉の想い出ばかりが浮かんできて、本当に酒でも飲めるなら、浴びるほど飲みたい心境でした。でも、ぼくは、アルコールは一滴も受け付けない体質なので、ただ町を歩いていました。ま、翌日はどうやら気持ちも鎮まり、旧友たちを呼び出して、おしゃべりすることができましたけど」
と、仲佐はそこまでつづけて、思わず話し過ぎた、というように軽く頭を下げた。
「これは、とんだ脱線をしてしまいました。姉が殺された事件を取材されたと伺って、つい夢中になってしまいました」
「こちらこそ、お時間を取らせてすみませんでした」
谷田も一礼し、テーブルの上の伝票に手を伸ばした。
8章 イミテーションの桜
「仲佐は、あれでアリバイを主張したつもりでしょうか」
「いずれ捜査本部に呼ばれるのは時間の問題だ。そのときも、いまのようにこたえるつもりなのだろうな」
「心情は理解できるし、亡姉を偲ぶ気持ちはその通りでしょうが、ただ新潟市内をさまよっていたと言い張るだけでは、子供騙しにもなりませんよ」
「こんなアリバイ工作を打ち出してくるなんて、波木和彦も、仲佐次郎も、凶悪犯でないことの証明だろう」
「兄弟が悪党でないことは、最初から分かっています。凶悪なのは、大森と寺沢です。どう考えたって、一人の女性を、誤って絞殺することはないでしょう」
浦上伸介は、品川駅前の、モーニングサービスの喫茶店で強調したさっきの意見を繰り返した。
谷田実憲の方は、ここまでの取材結果を、いつ淡路警部の耳に入れるか、と、そのことを考えている。というのも、浦上が言うところの「子供騙し」みたいな偽アリバイなど、立ち所に崩れると思われたからである。
浦上と谷田は、喫茶店を出て仲佐と別れると、新宿駅まで戻ってきた。
副都心のターミナル駅は、いつも混雑している。
「特ダネと言っても、何か、後味が悪く残りそうですね」
「仲佐は最初から、カステラ木箱の取材が、われわれの口実であることを知っていたと思う」
「というのは、この偽アリバイを、それとなく提示するために、われわれの面会に応じたってことになりますか」
「素知らぬ顔でしゃべっていたのは、精一杯の芝居だろう。しかし、動機が何であろうと、さっきも言ったように、殺人《ころし》は殺人《ころし》だ」
「一応、ウラを取りましょう」
浦上は、構内の電話コーナーの前で足をとめた。
新潟市の一○四番で電話番号を問い合わせ、改めてカードを差し込むと、○二五二、と『新潟ターミナルホテル』のダイヤルボタンを押した。
「大変恐縮ですが、ご宿泊のお客様のことに関しては、一切おこたえできないことになっております」
ホテルのフロント係は、浦上の問いかけに対して、事務的なこたえを返してきた。
だが、それは表向きの、建前だった。
「実は、ぼくは仲佐次郎の実兄です」
浦上がその場の思い付きで、身元を偽り、
「弟は一週間の予定で、日本海側を旅しているのですが、さっぱり音沙汰がないもので」
と、適当な理由をつけると、
「お待ちください」
ホテル側の態度は、あっさりとかわった。
チェックイン=四月一日(金)午後五時二十分
チェックアウト=四月三日(日)午前九時三十分
「仲佐が、新潟ターミナルホテルに二泊していることは事実ですね」
と、浦上が電話の結果を伝えると、
「二泊することになっていた、と訂正すべきだな」
と、谷田は言った。
いずれにしても、一日の夕方と三日の朝、仲佐が『新潟ターミナルホテル』のフロントに立っていたことは間違いあるまい。
焦点は、犯行日(二日)だ。
「軽くビールでも飲んで、昼食《ひる》とするか」
と、谷田は浦上のショルダーバッグに目を向けた。
ショルダーバッグには、取材の必需品である一眼レフのカメラと一緒に、ほとんどいつも、大判の時刻表が入っている。
ショルダーバッグに向けられた谷田の視線が、ダイヤチェックを指示していた。
二人はエレベーターに乗り、ステーションビル、マイシティ八階のレストランに寄った。
日替わりランチを注文し、ビールを飲みながらのチェックは、それほど時間をかけずに終わった。すでに、横浜=\奈良<求[トは割り出されているし、犯人が二十一時前に王寺を引き上げたこともはっきりしていたためである。
新潟発 六時二十二分 新幹線あさひ300号
上野着 八時三十一分
(上野駅構内乗り換え時間十七分+正味五十五分+運転間隔最長十分=一時間二十二分)
石川町着 九時五十三分頃
(徒歩十五分)
港の見える丘公園着 十時八分頃
犯行 十一時三十分頃
(以下、(1)大阪経由)
王寺着 十八時二十二分
犯行 十九時頃
王寺発 二十時五十六分 JR関西本線快速
天王寺着 二十一時十四分
天王寺発 二十一時二十二分頃
(所要二十九分)
新大阪着 二十一時五十一分頃
新大阪発 二十二時六分 寝台特急つるぎ
新潟着 六時四十六分
「なるほど、この寝台特急はぴったりだ。終わったな」
谷田は、浦上が書き出した数字を見詰めて、うまそうに、ビールを飲み干した。
横浜=\奈良<求[トは、(1)大阪経由以外でもいいわけである。(3)京都経由でも、(4)南紀白浜空港経由でも、(5)大阪空港経由でも、十八時二十二分までに、王寺駅に到着することができる。
しかし、空路利用は搭乗申込書が残る。時間に余裕があるのだから、(1)か(3)を使用したと見るのが妥当だろう。
「土曜日は、終日、亡き姉を偲んで、新潟市内を彷徨《ほうこう》していた、か」
「よく言ってくれたものです」
「市内を歩き回っていたのは、終日どころか、二日の朝六時頃から、翌日の朝七時頃までとなるか」
「ホテルのキーはフロントに返さず、当然持って出たのでしょうね」
「きみは今日、これからどうする? オレは支局長とも相談して、どこかへ淡路警部を呼び出すつもりだ。一緒に、横浜へ行くか」
「問題は、もう一つ残っていますね」
「殺された大森と寺沢の接点だろ」
「それをはっきり洗い出さなければ、完全なるスクープとは言えません」
「仲佐次郎と、波木和彦が本《ほん》犯人《ぼし》であるなら、二人に自供《げろ》ってもらうしかないだろう。さっきも言ったように、大森と寺沢はもう生きていない。オレたちには尾行という手段を採ることができない」
「解明の方法は、尾行だけでしょうか」
浦上はビールのコップを戻し、キャスターに火をつけた。
何かないか。尾行に代わるべき何か。
兄弟は似顔絵の類似という、きわめて、あいまいな点から出発したが、こっちは違う。
「アーさん」「イーさん」が、大森と寺沢であることの絶対的な物証、指紋と血液型の一致というデータを確保しているのである。
すなわち、答は出ているのだ。解答が提示されている以上、方程式がなければならない。方程式、イコール大森と寺沢の接点ということになろう。
浦上は、脈絡もないままに言った。
「物証から、逆にたどっていけないでしょうか」
「しかし、そのことに、それほどこだわる必要もあるまい」
「じゃ、先輩は、大森と寺沢がどこでどうつながっているか、その点はぼかしたまま、仲佐次郎と波木和彦逮捕のスクープ原稿をまとめるつもりですか」
「もちろん、第一報に勝負をかける。淡路警部に電話を入れる時点で、我社《うち》のクラブの連中は、手分けして執筆開始ということになる」
日替わり定食がきた。メーンは魚のフライだった。
浦上はフォークを手にして、
「ぼくは、週刊広場の編集部で結果を待つことにします」
と、態度を決めた。
仲佐逮捕の一瞬はカメラに収めたい。ルポライターとすれば当然のことだ。
しかし、今回の事件では、本当にクローズアップされなければならないものが、他にあるような気がする。
浦上は、手錠をかけられる仲佐を見る気がしなかった。連行される仲佐に向けてシャッターを切ることに、自分にも整理のつかない抵抗を覚えていた。
*
山下署の捜査本部が、二手に分かれて行動を開始したのは、浦上と谷田が新宿駅頭で別れてから二時間と経たないうちだった。
二手、というよりも、正確には三つの対象に向かって、刑事たちはひそかに散って行ったのである。目的地は、いずれも東京都だった。
中山部長刑事と堀刑事は、地下鉄を乗り継いで、港区麻布台の『ASプロダクション』を訪れていた。
横浜からプロダクションに電話を入れると、仲佐は『毎朝日報』に告げたように、テレビ局へ直行していることが分かった。新宿のテレビ局であり、仕事は、秋から始まる昼の帯ドラマのロケハンだった。
テレビ局のスタッフと都内を回っているというのだが、車で転々としているので、連絡が取れない。
しかし、ロケハンを終了次第、『ASプロダクション』に上がってくると聞いて、中山部長刑事と堀刑事は、横浜から飛んできた。
現時点では任意に同行を求めることになるが、
『つべこべ言ったら、首に縄かけても構わず引っ張ってこい』
上司からは、そうした命令が出ている。捜査本部に出頭すれば、必然的に、緊急逮捕ということになろう。
芸能プロダクションは、人の出入りが激しい。派手な服装が多く、テレビでよく見るタレントが、ばかげた冗談を言いながら、通りかかったりした。
中山部長刑事と堀刑事は、慌ただしい大部屋の片隅にいた。ドアの横に、小さいテーブルとソファがあった。
応接室を避け、大部屋で待たせてもらうことにしたのは、仲佐が上がってきたときの、万一の見逃しに備えたためである。
待たされる時間は長かった。
仲佐は容易に姿を見せない。ロケハン先からの、連絡の電話もかかってこなかった。
中山部長刑事は捜査本部に報告電話を入れた。捜査本部では、念のため、仲佐の自宅マンションへ別の刑事を張り込ませることにした。
*
他の二組の捜査員は、順調に、予定を消化していた。
それぞれ三人ずつの、二組の刑事が急行したのは、三鷹市の牟礼と、世田谷区の北沢だった。そう、目的は大森裕の遺族が住むマンションであり、寺沢隆の遺族が暮らす邸宅だった。
刑事は、家宅捜索令状を携行していた。
いま、大森と寺沢は被害者ではなかった。加害者だった。波木明美殺害の被疑者として家宅捜索《がさいれ》を受けたのである。
浦上は、大森と寺沢の接点について、
『解明の方法は、尾行だけでしょうか』
と、谷田に問いかけたが、家宅捜索こそ、尾行に代わるものだった。
そして、ベテラン刑事は、一時間とかけずに、焦点を絞り込んでいたのである。
二組は密接な電話連絡を取り合いながら、捜索を進めた。
その結果、妙な一致点が出てきた。大森の方は本箱、寺沢の方は手提げ金庫の中から発見されたそれは、池袋にあるアスレチッククラブの会員証と、専用ロッカーのキーだった。
『さあ、夫がそうしたクラブへ通っていたなんて、聞いていませんわ』
二人の未亡人は、異口同音にこたえた。
何かが、匂ってくる。
会員証の住所欄には、それぞれ牟礼と北沢の所番地がその通りにワープロで打たれてあるけれど、双方ともに「大森方」「寺沢方」となっており、氏名欄には、未亡人たちの見も知らない名前が記されてあったのだ。
二人の偽名と見て間違いあるまい。
二組の刑事たちは合流して、池袋のアスレチッククラブへ向かった。
クラブは、東上線池袋駅近くにある、雑居ビルの三階だった。
*
浦上が、淡路警部を経由する新情報を耳にしたのは夕方である。
浦上は『週刊広場』の編集部で、谷田からの電話を受けた。
「すると、先輩、池袋のアスレチッククラブが、大森と寺沢の接点ってことになりますか」
「いや、これは一つの通過点だな」
「どういうことですか」
「二人とも、専用ロッカーを利用するのが目的で、アスレチッククラブに入会していたらしい」
二年前に大森が入会し、半年ほど遅れて、大森の紹介で寺沢が入会したという経緯だった。
「このアスレチッククラブは、場所柄からいって夜が遅くてね、午後十一時半まで専用ロッカーを使用できるそうだ」
「二人の目的はロッカーだけですか」
「ごくたまには、軽いトレーニングをしたこともあったし、クラブ内の喫茶室にも立ち寄っていたが、毎月の会費を納めていた主目的は、大森も寺沢も、専用ロッカーを借りるためではないか、と、クラブの従業員は言っている」
駅のロッカーでは長期保管ができない。そこで、こうした使い方をする人間が、他にもいるという。
一流会社の課長と部長が、何ゆえ、人の目を隠れての、ロッカーが必要だったのか。しかも池袋といえば、二人とも自宅とか勤務先と別方向だ。
まさか、犯罪に関係あるわけではあるまい。
「直接の関連はないが、明美さん絞殺の、伏線にはなっているね」
谷田はそんな言い方で、寺沢と大森の性癖に触れた。
それは三日前、浦上が、寺沢と大森の密葬の日に聞き込んだことだ。
三日前、浦上と谷田は、次のようなことばを交わしている。
『でも先輩、性格が少し変わっていようと、道行く女性を見詰めてよからぬ夢想に浸ろうと、それ自体は事件に関係ないでしょう』
『そうだな。少なくとも、二人の習慣か何かで共通点でもあれば別だが、偏屈な性癖≠ニ、よからぬ夢想≠セけではこれはストレートには重複しないね』
だが、それが一つに重なり合ったのだ。日常生活の異なる寺沢と大森を結び付けるものが、それぞれの専用ロッカーの中から出てきたのだ。
会社のロッカーへ隠しておくわけにはいかないし、もちろん家庭に持ち込むわけにもいかないそれは、
「例の変装用ウイッグと眼鏡ですか」
浦上が思わず力を込めると、
「そう、大事な物証となる長髪の鬘と眼鏡も押収された」
谷田は、一息入れるようにことばを切り、ロッカーにはそれぞれ三つの紙袋が入っていた、と、説明した。手提げひもの付いた、大きい紙袋だ。
その三つの紙袋の中身こそ、(浦上と谷田が追及してきた)寺沢と大森の接点だった。
「寺沢と大森はSMマニアだったのだな」
「SM?」
「それぞれの紙袋の中からは、プレイ用の、さまざまな器具が出てきたそうだ」
「二人とも変質者だったのですか」
「一概に変質者と言えるかどうか、これは心理学者のコメントを付けねばなるまいが、寺沢と大森が、家族や会社で見せるのとは全然別な顔を持っていたことは、間違いない」
「二人がどういう場所で秘密の快楽に耽っていたのか、それも判明したのですか」
「ああ、すぐに割れた」
大森の紙袋から、一枚のカードが発見されたためだった。カードには、一見、スナックのような店名が印刷されていたが、これが、大森と寺沢が入会しているSMクラブだった。
場所は西池袋公園に近いマンションの、一室である。
SMクラブの経営者は、最初、捜査に協力的でなかった。営業の内容が内容だけに、それも当然だろう。
しかし、大森と寺沢が刺殺されていると聞かされて、経営者は態度を軟化させた。経営者は横浜と奈良で発生した、二つの殺人事件を承知していたが、殺されたのが自分のところのクラブの会員とは気付いていなかった。
大森も寺沢も、もちろん偽名で通していたためである。
二人はどこで変身してくるのか、SMクラブのドアチャイムを鳴らすときは、すでにウイッグをかぶり、眼鏡をかけていたという。
「ぼくも一度だけ、新宿の秘密クラブを取材したことがありますが、会員同士が親しくする例は少ないのではないですか」
「いや、そうでもないそうだ。大森と寺沢の場合は、どこか別のクラブで知り合い、その後誘い合って、いまのクラブの会員になったらしい」
「二人は、いつも連れ立って、クラブへやってきたのですか」
「妙なところで、意気投合していたのだろうね。二人とも、典型的なSという話だ。二人は組んでプレイすることが多かったそうだ」
「そりゃ、間違いなく変質者ですよ」
浦上は受話器を持ち換えた。
それなら、分かると思った。過失で人間を絞殺することはないと繰り返してきた浦上だが、大森と寺沢が、いつもコンビを組んでのSMプレイのマニアであるなら、二月の事件は、それなりに納得がいく。
恐らく二人は、会費を払っての、プロの女性を相手とすることに飽き足らなくなってきたのだろう。快楽は、必ず、エスカレートするものだ。
その結果が、寺沢が運転する乗用車での、横浜へのドライブとなったのに違いない。モーテル『菊水』の利用方法などから推しても、大森と寺沢が女性を連れ込んだのは、波木明美が最初ではないだろう。
知らないバーで、たまたま隣り合った酔客と親しくなり、その酔客の馴染みのスナックへハシゴして行き、その酔客の古い仲間であるかのように振る舞い、送っていくという口実でホステスを連れ出す。こうした手口も慣れたものではないか。
明美の場合は、プレイが高じて、絞殺≠ニいうアクシデントを惹起《じやつき》してしまったが、それまでは、たとえばキャッシュで、けりをつけてきたということも考えられよう。
「うん、オレもそう思うし、淡路警部も、そんなふうに見ているようだな」
「現ナマで片がつくなら、余罪があっても、被害届けは出ませんね」
「それよか、問題の桜だ」
「例の造花《イミテーシヨン》ですね」
「あれも、アスレチッククラブのロッカーから何本も出てきた」
「文学好きの変質者。造花も小道具ってわけですか」
「SMクラブの経営者の話によると、大森と寺沢は、何と言うのかな、二人とも想像を絶するほどに桜の花が好きだったそうだ」
「想像を絶する、とはどういう意味ですか」
「あの二人は、一言で言えば、満開の桜を見ると燃えてくるタイプなんだな」
「そりゃ、やっぱり異常ですよ。桜の花を、そんな感覚で受けとめるなんて論外だ」
「ともかくあの二人は、プレイのときは必ず造花《イミテーシヨン》をちぎって、女性に散らせていたというんだ」
「先輩、波木和彦と仲佐次郎は、どこかで、大森と寺沢のそうしたアブノーマルな性癖を知ったのでしょうか」
「それは何とも分からない。しかし、大森と寺沢が刺殺されたのは、桜の樹の下だ。このことを、偶然と片付けるわけにはいかないだろう」
と、谷田は言った。
浦上も同感だった。
明美の七七日忌の法要の翌日、大森と寺沢が桜の樹の下に立たされたのは、復讐する側に、決定的な計算があってのことではない。最終的に、大森と寺沢は呼び出された形になっているけれど、四月二日に横浜≠ニ奈良≠ヨ向かったのは、大森と寺沢のそれぞれの意思であったはずだ。
大森は「シドモア桜の会」に出席するために横浜へ来たのであり、寺沢は家族旅行が目的で、奈良を訪れたのだ。
だが、言葉では表現できない、判然としない力が動いているのを、浦上は感じるのだ。
判然としない力。それは、亡姉の恨みを晴らそうとする二人の弟の怒り、と言い直すことができるかもしれない。
「これは、文字通りのオフレコだがね、淡路警部は、二月の事件《やま》を迅速に解決しておくべきだった、と、つくづく渋い顔をしていたな」
「そうですね。一冊の文庫本が左右したのであって、警察の黒星とは言えんでしょうが、民間人に過ぎない二人の実の弟が、警察の先を越してしまったのですからね」
「その弟だが、都内をロケハン中の仲佐もそろそろASプロダクションに上がってくる頃だろう」
「大阪支店へ出張している和彦の方は、どうなりますか」
「仲佐を逮捕したら、当然、和彦も引っ張ることになる。すでに、大阪府警が協力態勢に入っている」
「先輩はどうするのですか。山下署の捜査本部へ行って、仲佐の到着を待つわけですか」
「仲佐は、山下署へは連れてこない」
と、谷田は言った。
報道陣を避けるための措置だった。逮捕が時間の問題とはいえ、まだ令状は請求されていないのである。
「オレにしたって、大事な仲佐を他社の目には触れさせたくないものな」
「淡路警部は、そうした配慮もしているわけですか」
「無論、警部の一存にはいかないだろうが、捜査会議の席上で強く提言はしてくれたと思うよ」
結局、仲佐の取り調べは、菊名署で行なわれる手筈になっているという。菊名署の方が、山手署よりずっと東京に近い。
すでに淡路警部は、奈良県警から出張中の部長刑事と一緒に、ひそかに菊名署へ向かっているという。いよいよ大詰めだ。
「どうだ、今夜、オレの家へ飲みにこないか」
谷田は、電話を切るときに言った。谷田が入居している東横沿線の住宅団地は、菊名署からも、それほど離れていないのである。
浦上は受話器を置くと、編集長席へ行った。
「なるほど。桜の樹の下はそういう意味だったのか」
長身の編集長は、くわえていたパイプを机に置いた。
「これは普通の特集よりも、夜の事件レポートの方がいいかな」
編集長は考える口調になった。「夜の事件レポート」は、事件小説ふうのタッチが呼び物の、特別企画だった。
当然、導入部も、特集の場合とは違ってくる。
三日前、浦上が奈良へ出張するときの打ち合わせでは、
『特集の導入は、桜の樹の下の連続殺人で決まりだね』
と、指示した編集長であったが、新情報を加味すれば、連続殺人の前提となるモーテル『菊水』の殺人を、最初に暗示しておく必要があるだろう。
「うまく持って行くことができれば、冒頭は四十九日の納骨シーンってのはどうかね」
「そうですね、墓地に桜でも咲いていれば、御の字です」
「毎朝のスクープが社会面を飾るのは、明日の夕刊か。浦上ちゃん、仲佐が逮捕されたら、波木家の墓を撮りに、新潟まで行ってくるか」
と、編集長は言った。
新聞は『毎朝日報』、週刊誌の方は当然、『週刊広場』の独走だ。こういうときの編集長は、一枚の写真にも、取材費を惜しまないのが常だった。
その新潟≠ェ、問題となった。
*
仲佐次郎が、都内のロケハンを終えて『ASプロダクション』に上がってきたのは、午後五時半だった。
「どうして、ぼくがそのような質問を受けなければならないのですか」
仲佐は、二十六歳という年齢《とし》の割りには落ち着いている。
二日に発生した横浜≠ニ奈良=A二件の殺人事件は、全く自分には関係がない、という態度で一貫していた。新宿の喫茶店で、谷田や浦上に対したときと同じようにである。
「昼間、別の用件でお会いした毎朝の記者さんも、その事件を話していました。ぼくも新聞やテレビのニュースで承知はしています。でも何で、わざわざ刑事さんがお見えになったりしたのですか」
「お姉さんが殺された事件に、関連していましてな」
「姉の事件?」
「オフィスでは、細かい話もできません。ちょっと出られませんか」
中山部長刑事が語尾に含みを持たせた誘い方をすると、
「課長の許可を取ってきます」
仲佐は奥へ立って行き、すぐに戻ってきた。
「会議が六時半から始まります。それまでなら」
と、仲佐は言った。
会議など関係ない。どうせ最後は横浜へ行ってもらうのだ。
中山部長刑事と堀刑事は、目配せをして立ち上がった。
舗道を挟んで、『ASプロダクション』と斜めに向かい合う場所に、小さい喫茶店があった。壁一面に蔦が絡まる喫茶店だった。蔦は若い葉をつけている。
夕方の喫茶店は客足がなかった。
三人は窓際に座った。
話のつづきは、コーヒーがきてからになった。
中山部長刑事は、コーヒーにちょっと口をつけると、回り道をせずに切り出した。
「港の見える丘公園で殺された大森裕、信貴山で刺殺された寺沢隆。この二人は、二月十二日の深夜、お姉さんを新横浜駅近くのモーテルへ連れ込んで、絞殺した犯人と断定されました」
説明を聞く仲佐は、下を向いてコーヒーを飲んでいる。顔を下げているので表情は分からない。しかし、肩までもある長髪が、気のせいか、かすかに揺れたようだった。
「菊名署の捜査本部は縮小されたと聞いています。縮小された後で、その二人が犯人と判明したのですか」
仲佐が顔を上げたのは、しばらくの間を置いてからだった。
「しかし、どうしてぼくを訪ねてこられたのですか。いままで、警察からの連絡は、すべて浦和に住む兄が受けていたはずです。そうか、兄が大阪へ出張中なので、それで、ぼくの方へお見えになったのですね。長いこと待ってもらわなくとも、電話でよろしかったのに」
と、つづける仲佐は、まだ落ち着きを失っていない。
だが、口数が多くなってきた。問われもしないことを話題にするのは、余裕がなくなってきた証拠だ。ベテラン部長刑事は、それを体験的に承知している。第一、姉を襲った犯人が殺されたと聞かされても驚きもしない。これはなぜか。
そこで、機を見るようにして、一番最初の質問を繰り返すと、
「ぼくが、二日の日にどこで何をしていたかというご質問は、ぼくが疑われているってことですか」
仲佐は、やや気色をそこねた顔付きになった。
「姉を襲った犯人が殺されたからといって、なぜ、被害者の肉親が疑いの目で見られなければならんのですか」
「その辺りを詳しく話し合うために、どうですかな、これから横浜までご一緒願えませんか」
「横浜? いまも言ったように、間もなく会議が始まります。議題の中心は、今日のロケハンについてなので、ぼくが欠席するわけにはいきません」
「お姉さんを殺害した犯人が判明して、二ヵ月振りで事件が解決した。あなたにとっては、こっちの方も大事ではないですかな」
「姉を拉致した犯人が生きているのならともかく、二人とも殺されてしまったわけでしょう。そう急ぐことはないじゃありませんか」
仲佐はコーヒーカップに手を伸ばした。コーヒーは、もう残っていなかった。
仲佐は所在ないように、空のカップをテーブルに戻した。
中山部長刑事は、じっと仲佐の仕ぐさを見ていた。
仲佐は、谷田と浦上に対しては、積極的に、二日の行動を話している。
『事前に、アリバイを強調したのに違いありません』
と、谷田は淡路警部への連絡の中で述べている。事前とは、捜査本部の取り調べを受ける前、という意味だ。
中山部長刑事は、もちろん、谷田と浦上に向けられた仲佐の発言内容を承知している。
新聞記者に対しては、誘いに乗ったような形で口を開いたのに、刑事の前で固い顔をしているのはなぜか。刑事に対して生半可な説明は通じないと、警戒しているのだろうか。
指紋という不動の物証に加えて、足取りの推定もついているのである。『新潟ターミナルホテル』を起点として、横浜∞奈良≠ニ二つの殺人を経由し、ふたたび新潟へ引き返してくる鉄道ルートは、浦上が明確に書き出している。
『新潟ターミナルホテル』に二泊した仲佐は、二日の土曜日は、亡姉を偲んで、新潟市内を彷徨していたと主張している。
しかし、百万言を弄《ろう》して故人の追憶を語ろうとも、確かな裏付けが提示されない限り、刑事にとって、それは一片の価値も持たない。
仲佐も、その辺りに気付いているのだろう。
(よし、菊名署へ引っ張って行くぞ)
中山部長刑事は、そんな目で堀刑事を見た。
「事件の関係者、すなわち、二月と四月、双方の事件周辺にいる人は、だれによらず、四月二日の行動を報告書に控えることになっています。ご協力ください」
と、中山部長刑事が促すと、
「分かりました」
仲佐は最初の落ち着きを取り戻したように、うなずいた。
「いま、ここで申し上げればいいでしょう。話を聞いてもらって、得心がいかなければ、捜査本部でも、どこへでも行ってご協力しましょう。いずれにしても、姉の事件が解決したのであれば、兄が大阪から戻り次第、二人そろってごあいさつに伺います。しかし、今日は勘弁してください。今夜の会議は、うちのプロダクションにとって、極めて大事な打ち合わせなのです」
と、仲佐は語り始めた。
中山部長刑事は、話の弾みだ、聞くだけ聞いてやろうといった面持ちで、若い堀刑事にメモを取るように命じた。
裏付けなど出てこないに決まっている。メモを取るといっても形式的なことに過ぎない。
中山部長刑事はそう思った。
「二日の朝は寝坊しました」
と、仲佐は言った。
最初から朝寝するつもりなので、投宿した512号室のドアには「DON'T DISTURB」の札を下げて置いたという。
部屋は、一日、二日と二泊の予約になっている。昼間も気ままに眠ったりするかもしれないということで、二日の掃除は、チェックインのときに断わったという。
(ルームキーをフロントに返さず、自由に出入りするための伏線だな)
部長刑事は胸の奥でつぶやいていた。
「寝坊して、目覚めたのは何時頃でしたか」
「はっきり覚えていませんが、十時は過ぎていましたね。ホテルを出て、万代橋の方へぶらぶら歩いて行ったのが、十一時頃でしたから」
それが事実なら、仲佐は、もちろん犯人とは成り得ない。午前十一時に信濃川の流れを眺めていた人間が、それから三十分後に横浜の港を見ることなどできるわけがない。
仲佐は上大川前通りを歩き、丸大デパートの食堂で、朝昼兼用の食事を済ませた、と、五日前を思い起こすようにして、言った。
食事の後は、(谷田と浦上に話したように)信濃川の河口に近い緑町などを歩いていたというのである。故人の想い出をたどっての彷徨だった。
「途中、だれか知り合いの方に会いましたか」
「いいえ」
仲佐は首を振った。刑事の見込み通りだった。これでは、新潟にいたことにはならない。
デパートの食堂にしても、同様だろう。人の出入りが多い店で、食事を済ませたことにしたのは、小さい店では立ち寄らなかったことの証明が出てしまう。恐らくそれを避ける計算だろうが、いなかった証言も出ない代わりに、仲佐にとってもっとも必要な、いたことの裏付けも得られないに違いない。
その通りだった。
デパートの食堂でも、知人には擦れ違わなかったし、記憶に残るような、目立ったできごともなかった。
「そうですね、食べたのは天ぷらそばでした。別にレシートなんかとってありません」
と、仲佐はこたえた。
要するに、アリバイはないということだ。
「ホテルには、何時に戻りましたか」
部長刑事は、それでも話の締め括りとして訊いた。
「何時何分と正確には覚えていませんが、夕方、五時過ぎだったのは確かです」
「五時過ぎ?」
そんなことはない。
午後五時、すなわち十七時過ぎといえば、(浦上のチェック(1)大阪経由を採用すると)新大阪駅から地下鉄に乗って、天王寺へ向かっている頃だ。(3)京都経由なら、奈良線に揺られて、奈良駅に近付いている頃である。
このルートを逸すると、信貴山の殺人現場に立つことはできない。逆に言えば、十七時過ぎに、仲佐が『新潟ターミナルホテル』へ姿を見せられるわけがないのだ。
「夕方五時過ぎに帰って、フロントでルームキーを受け取ったわけですか」
「いえ、部屋のかぎは持って出ました。あてのない散歩でしたので、しょっちゅう出入りすることになりそうでしたし、あのホテルのキーホルダーは、駅のロッカーのものと同じように小さくて、軽くズボンのポケットに入りましたので」
と、仲佐はこたえた。
これまた、予想通りではないか。
仲佐は、十七時過ぎに、フロントに立ち寄っていない。すなわち、ホテルに戻った姿を、ホテル従業員に目撃されていない、ということになるだろう。
512号室のドアに提げた一枚の札、「DON'T DISTURB」を、アリバイ工作の隠れミノにするつもりか。
「すると仲佐さん、結局、あなたが新潟にいた証明は、何もないことになりますな。証明は、あなたの言葉だけだ」
中山部長刑事の口元には、皮肉な笑いが浮かんできた。
こうしたやりとりで、いつまでも時間を食っているわけにはいかない。それを問い質すのは、菊名署で待機している淡路警部と、奈良県警から出張中の部長刑事の役目なのだ。
仲佐の身柄を、一刻も早く、淡路警部と奈良の部長刑事に渡したい。
そう考えると、口元の、皮肉な笑いが消えた。すると仲佐は、そんな中山部長刑事の内面を見抜いたかのように言った。
「ぼくが、あの日新潟を離れていないことは、ホテル側が証明してくれるはずです」
「あなたはキーも預けず、フロントを素通りしている。あそこは全国的なチェーンで、新潟でもトップクラスのホテルでしょ。そうした規模の大きい都市型のホテルが、宿泊者の出入りを、いちいち覚えていると思いますか」
「ぼく、夕食はホテルでとりました」
「ほう」
中山部長刑事は、話に乗らなかった。ホテル内のレストランも広いだろう。広ければ、ウエイトレスに顔を覚えられる率も少ない。そして料金は、もちろんルームキーを見せての伝票にサインではなく、キャッシュで支払ったのに違いない。
そこにいない人間が、サインなど残せるわけはないのだから。
いなかったことの証明が出てこないことを、いたことの証明にしようとしているのである。デパートの食堂を口実にしたのと同じようにだ。
しかし、中山部長刑事の推理は、一瞬にして崩れた。
仲佐は、新しい質問に対して、こうこたえたのだ。
「ぼくが食事をしたのは、ホテル内のレストランではありませんでした。ルームサービスを頼みました」
「ルームサービス?」
「法要の後で、殺された姉のことばかり考えて、精神的に参っていました。疲れていたし、だれにも会いたくなかったので、ルームサービスを奮発しました。ええ、午後六時半に届けてくれるよう、予約しました」
「ルームサービスのディナーは、予約した時間に届いたわけですか」
「そうですよ」
こたえは、平然としていた。
午後六時半といえば、犯人は、関西本線の王寺駅に到着していなければならない。改札口を出て、すでに、駅前のタクシーに乗っている時間だ。
仲佐は本当に、その時刻、『新潟ターミナルホテル』512号室にいたのか。
「あなたは、食事を届けにきたホテルの従業員と言葉を交わしましたか」
「当たり前でしょう」
仲佐は長髪をかき上げた。むっとした口調になっている。
仲佐は、それでも自分を押さえるようにし、更に、こう言い足した。
「そうそう、夕食を食べているとき、電話が入りました」
「外線の電話ですか」
「そうです、交換手を経由した電話です」
「電話は市外からでしたか」
「市外と言えば、市外ですが、北蒲原郡の水原《すいばら》町に住む旧友からでした。姉の納骨でぼくが帰郷したことを知り、声だけでも聞きたいとかけてきてくれたのです」
旧友は、仲佐が『新潟ターミナルホテル』に投宿していることを、仲佐の戸籍上の養子先である伯父の家に問い合わせて、知ったという話だった。
思いもかけない、証人が出てきたものだ。ルームサービスの係と、旧友の電話をつないだ交換手が、仲佐が512号室にいたことを証明するというのか。
短い沈黙がきた。
中山部長刑事は、沈黙を破って言った。
「この際だから、ホテル側の確認を取らせていただきますよ」
「電話番号なら控えてあります」
仲佐は、金ボタンが付いた濃紺ブレザーの内ポケットから、薄い手帳を取り出した。
中山部長刑事は『新潟ターミナルホテル』のナンバーを控えると、
「失礼」
テーブルを立った。
この種の問い合わせは、若手刑事に担当させるのが普通だが、いまはその気にならなかった。それに、仲佐本人の目の前で、問い合わせる内容を、堀刑事に指示するわけにもいかない。
ピンク電話は、入口のドアの陰にあった。しかし、小さい喫茶店なので、ここからかけたのでは、テーブルの仲佐に筒抜けだ。
中山部長刑事は、宵闇の町へ出た。
飯倉小学校の方向へ、少し行くと電話ボックスがあった。
*
中山部長刑事は、テレホンカードを挟むと、『新潟ターミナルホテル』へかけた。
身分を名乗り、目的を告げると、先方はマネージャーに代わった。
ホテル側は協力的だった。マネージャーは、いちいち係の確認を取りながら、部長刑事の質問にこたえてくれた。
基本的な質問である、二泊に関しては、昼間浦上が聞き出したように、一日の夕刻から、三日の朝までで間違いないという、こたえが返ってきた。
「宿泊二日目、すなわち四月二日の夕食ですが、仲佐さんは、ルームサービスを頼んだと言ってるのですが」
「はい、その通りでございます。ご予約は六時半になっております。係のボーイは時間通りにお届けいたしました」
「ボーイさんが512号室へ行ったとき、無論、仲佐さんは室内にいたのでしょうな」
「はい。ボーイは仲佐さんとお話をしています。料理はテーブルワゴンのまま置いて参りまして、午後八時頃、お下げしております」
本当なのか。
部長刑事の背筋を、焦燥に似たものが這い上がってくる。
外部からの電話も、仲佐が説明した通りだった。
「交換手の話によりますと」
と、マネージャーは、これも電話交換台に問い合わせた上で、こたえてくれた。
「かかってきた電話は、若い感じの男性だったそうです。東京からの宿泊客、仲佐次郎さんをお願いします、とフルネームで呼び出してきたそうです」
「交換手さんがつないだのは、間違いなく、512号室でしたね」
「はい。仲佐次郎様ですね、と、お名前を確認して、おつなぎしております」
仲佐は、夕食を食べながら、交換台を経由した市外電話を受けている!
中山部長刑事は、一瞬、質問をつづけるためのことばを失った。受話器を持つ掌の汗ばんでくるのが分かった。
どこかに間隙はないのか。
「もしもし、ご用件は以上でございましょうか」
口調を改めたマネージャーの声が、受話器を伝わってきた。
ホテルは、チェックインの客で多忙な時間帯だった。
「こりゃどうも。お忙しいところを恐縮しました」
部長刑事は慌てて礼を言ったが、電話を切ろうとして、ふと、あることに気付いた。
「もしもし」
中山は受話器を握り締めた。
四月一日と二日、『新潟ターミナルホテル』に宿泊したのは、本当に仲佐次郎当人だったのだろうか。
部長刑事の頭をかすめた疑問が、そのことだった。代人を用意する以外に説明が付かなかったからである。
「お待ちください」
マネージャーは、また送受器を置いた。別の内線電話で問い合わせる声が、机に置かれた電話機を通して聞こえてくる。
間もなく、そのマネージャーの声が戻ってきた。
部長刑事の疑問は否定された。
「ASプロダクションさんは、手前どもホテルのお得意様でして」
と、マネージャーは言った。
ターミナルホテルは、全国九ヵ所にチェーンがあった。『ASプロダクション』は東京・新宿のホテルを、よく利用しているという。
仲佐の二泊の予約も、新宿のターミナルホテルを通じてだった。
「新宿」のフロント係の一人が、新年度の異動で、「新潟」へ移っていた。『ASプロダクション』テレビ企画課の仲佐と顔見知りのフロント係だ。
その従業員が、仲佐のチェックインのときも、チェックアウトのときも、『新潟ターミナルホテル』のフロントにいたという。
「係は、もちろん仲佐様とことばを交わしています。仲佐様は、おや珍しいところで再会しましたね、と、おっしゃっていたそうです」
「すると、そちらへ二泊したのは、仲佐さんに間違いないわけですね」
「何でしたら、そのフロント係を、電話口へお出ししましょうか」
「いや、結構です」
部長刑事は、丁重に辞退した。混雑する時間帯ではあるし、ホテル側が誤認しているとは思えなかったからである。
かねて顔見知りの従業員が、ことばまで交わしているのなら、万に一つも、替え玉は有り得ない。
仲佐は間違いなく二泊している。
そして、奈良の王寺でタクシーに乗っていなければならない時間、仲佐は新潟のホテルで夕食をとり、市外電話を受けていたのだ。
これを、アリバイと呼ばずして、何をアリバイと言えようか。
「いろいろと、ご協力、ありがとうございました」
中山部長刑事の声が沈んでいた。
これでは、仲佐次郎を横浜へ連行することなどできはしない。部長刑事の全身の力が、がくんと抜けていた。
この電話聞き込みの内容に関しては、神奈川、奈良両県警からの依頼に応じて、その夜のうちに、新潟県警が念を押した。
新潟県警の捜査員は、電話ではなく、直接、川端町の『新潟ターミナルホテル』を訪れている。
新潟の捜査員は、マネージャーとフロント係に面接して、山下署の中山部長刑事が電話で聞いた内容を、じかに確認している。
物証がどうあろうとも、仲佐次郎のアリバイは不動だった。
終章 完全≠フ構図
翌四月八日、金曜日。
浦上伸介と谷田実憲は、午前七時半に上野駅で待ち合わせた。
地下の20番線ホームから乗車した上越新幹線は、八時四分発のあさひ303号≠セった。
浦上も谷田も、朝には弱いタイプだ。二時間五分の車中を、二人ともほとんど眠ったままで、東京から新潟へと運ばれていった。
日本海側の空は曇っていた。新潟の市街地は、いまにも雨がきそうな、厚い黒雲に覆われていた。
同じ新幹線で到着した乗客は、それほど多くなかった。
浦上と谷田はホームで伸びをし、まずは腹ごしらえから始めた。二人が立ち寄ったのは、駅ビルの、セゾン・ド・ニイガタだった。
食堂も空いている。モーニングセットは、ハムエッグにトーストだった。東京と同じだ。この頃はどこへ出かけても、都内と共通なものを食べることができる。
「仲佐は、きのう中山部長刑事が引き上げた時点で、当然、大阪へ出張中の和彦へ電話を入れてるでしょうね」
浦上はコーヒーを飲み、キャスターに火をつけた。
「中山部長刑事は、いかに理由をつけようと、結局は真っ向から仲佐のアリバイを追及したわけでしょ。兄弟は、捜査が表面化したことを、どう受けとめているのでしょうかね」
「どうもこうもないだろう。新潟ターミナルホテル512号室の、アリバイにすがるしかあるまい」
「できれば、このまま、アリバイなど崩したくない。ぼくは新潟へ来て、改めてそんな気になりましたね。殺された大森と寺沢が悪過ぎますよ。ぼくは、ああいう仮面を被って生きているやつが許せない」
浦上がいつもの彼らしくもなく、知らず知らずのうちに強い口調になると、
「今度の事件《やま》は、人一倍神経を逆撫でされるようだな」
谷田もコーヒーを飲み、ピース・ライトを吹かした。
「しかし、きみの感情はさておき、新潟のアリバイ、本当に崩れるのかい」
「港の見える丘公園での、大森殺害だけは簡単ですね」
浦上はくわえたばこのまま、渋々といった感じで、ショルダーバッグから取材帳を取り出した。
「512号室で晩めし食べてた証言はあるけど、朝、何時までホテルにいたか、そっちの証明はないわけでしょう」
と、昨日のメモを示した。
朝早く新潟を出発していれば、十分、犯行時間に間に合うし、仲佐が主張する「夕方五時過ぎ」までに、『新潟ターミナルホテル』へ引き返してくることも容易だ。
これはもう、時刻表を開くまでもない。
焦点は、信貴山での寺沢殺しだ。兄弟は、夜のアリバイにすべてをかけている。
「ダイヤトリックではないですね」
浦上は取材帳をぺらぺらとめくり、これまでに書き出した、いくつかのルートに目を向けた。
「どうあがいても、新潟と奈良を遮断する空間は埋まりっこありません」
「捜査本部はどうするつもりなのかな。いよいよとなったら、横浜≠フ容疑だけで逮捕《ぱく》るのかな」
「犯人《ほし》は、横浜≠熈奈良≠焉A同一人であることがはっきりしているのですよ。片方がクロで、片方がシロって解決方法がありますか」
朝食を食べながらの話し合いは、結局、今朝上野駅頭で会ったときの繰り返しになった。
『ともかく現地を踏んでこい』
という点で、『毎朝日報』横浜支局長も、『週刊広場』編集長も、姿勢は同じだった。日刊紙と週刊誌の立場こそ違っても、狙いは一つだ。
これまでに、谷田と浦上が協力して崩してきた偽アリバイは、数え切れない。支局長も編集長も、そのキャリアを評価、信頼すればこそ、
『他社に嗅ぎ付かれないうちに、何とか手掛かりをつかんできてもらおう』
という指令となった。
山下署と王寺署の捜査本部は、新潟県警に依頼した裏付け調査で、ホテルの捜査は、一応の終止符を打った形になっている。そして、捜査の主力を、波木和彦と仲佐次郎の生活に集中させる方針を採った。
だが、兄弟の日常を掘り下げることで、果たして、決定的なデータが浮かんでくるかどうか。
浦上と谷田は、そこそこに朝食を終えると、駅前からタクシーに乗った。
きれいなビルが目立つ町並みだった。
午前のメーンストリートは、人出もそれほどではなかったが、新潟市の中心、万代橋は、想像よりも大きかった。橋の両側には、しゃれたデザインの街灯がついている。
厚い雨雲を反映してか、信濃川の大きい流れが暗かった。
タクシーは渋滞もなく万代橋を渡り、暗い川面は、すぐに浦上の視野から消えた。
駅前から『新潟ターミナルホテル』まで、十分とかからなかった。
*
ホテルも、それほど込んではいなかった。会議場など、多くの施設を整え、客室二百を越えるシティホテルは、十三階建てである。
ロビーの床は真紅のじゅうたんで、シャンデリアが豪華だった。
マネージャーは、ちょうネクタイが似合う長身だった。四十代半ばという感じである。
谷田の名刺を見て、
「はい、今朝方お電話を頂戴しております」
と、マネージャーは頭を下げた。
『毎朝日報』東京本社業務局長からの電話だった。ホテル業界に顔が利く業務局長に、横浜支局長を通じて、取材の橋渡しを頼んだわけである。
マネージャーは、こちらが希望する三人をそろえておいてくれた。
新宿から転勤したフロント係、ルームサービスのボーイ、そして、電話交換手の三人だ。
「どうぞ、こちらへ」
マネージャーは広いロビーの、一番奥へ谷田と浦上を案内した。ショッピングアーケードの近くで、大きい観葉植物で区切られたスペースだった。
ソファに腰を下ろすと、ボーイがコーヒーを出してくれた。それを機に、マネージャーは一礼して去った。
先方の仕事の都合で、話は電話交換手から聞くことになった。
グリーンの事務服を着た交換手は、小柄だった。
「はい、その通りです」
交換手は、昨夕、マネージャーを通じて中山部長刑事にこたえた証言を、繰り返した。かかってきたのは、若い感じの男性の声だったという。
交換手は512号室を呼び出し、電話をつなぐ前に、仲佐次郎を確認した。
「仲佐様はお食事中でした。何か、お口に含んでいる感じの話し方でした」
「その、かかってきた電話ですがね」
と、浦上が訊いた。
「一口に外線といっても、遠方からだと印象が異なるものですか」
「は?」
「新潟市内からの電話と、たとえば秋田辺りからかかってきた電話とでは、プロのあなた方が受けた場合、どこか感じが違うか、という意味ですが」
「どうでしょう。そのときによると思います。国際電話でも、国内とかわらないことが多いですよ」
「二日の電話はどうでしたか」
「さあ」
特に記憶に残っていない、と、交換手はこたえた。
浦上と谷田は顔を見合わせた。何とか裂け目を発見したいと、ともかく新潟までやってきたものの、具体的な質問が用意されているわけではないのである。
最後に尋ねたのは、呼び出し電話が入った時間だ。
「はい、七時二十六分でした」
と、交換手はこたえた。これは、マネージャーから言われて、事前にチェックしてきたのだろう、すらすらとした返事だった。
結局、最初の質疑は、ほとんど発見も進展もないままに終わった。
次は、フロント係がやってきてくれた。新宿時代、『ASプロダクション』の社員たちとはよく接していたというフロント係は、
「ええ、仲佐さんは二年前から存じ上げております」
と、こたえた。
このフロント係は、一日夕方のチェックインのときも、三日朝のチェックアウトのときも、仲佐とことばを交わしているわけである。
「仲佐さんがこちらの出身であることは、今回初めて知りました」
というのだが、ともあれ顔見知りのフロント係と私的なことを話しているのだから、『新潟ターミナルホテル』に二泊した男は、絶対に替え玉ではない。
「仲佐さんに、どこか、いつもと違った印象はありませんでしたか」
と、つづける浦上の一言は、どうにも力がなかった。それは、質問を切り上げるためのものでしかなかった。
「いいえ。東京でお会いしていたときと同じでしたよ」
と、フロント係は言った。
「仲佐さんは、若いけど、いつも落ち着いている方です」
フロント係は、そうこたえて、ソファを立った。
「駄目だな」
谷田は吐息して、たばこをくわえた。
その一本のたばこを吸い終えたとき、三人目が現れた。
ルームサービスのボーイは、袖をまくったジャケットという、私服姿だった。宿直明けで帰宅するところだったのである。
「これはどうも、すみませんでした」
谷田は引き止めたことを、わびた。
質問は、やはり浦上が主体となった。
「あなたが、512号室へディナーを届けたのは、午後六時半ですね」
「はい」
ボーイはうなずいた。
「仲佐さんがどのような服装だったか、覚えていますか」
「と、おっしゃいますと?」
「ワイシャツ姿だったとか、あるいは浴衣に着換えていたとか、といったことですが」
これまた、確かな目的を持つ質問ではなかった。浦上自身、焦点を絞り切れないままに、ともあれ取っ掛かりを求める問いかけだった。
しかし、そこに光が差した。
初めての反応は、
「仲佐様が、お部屋でどのような服装をしていたのかは知りません」
ということばで返ってきた。ボーイの口調が、前の二人に比べて、ややぞんざいなのは、年齢が若いことと同時に、制服を脱ぎ、私服に着換えているせいかもしれない。
服装を知らない、とはどういう意味だろう? 次から次へと客に接するボーイは、わずか六日前のこととはいえ、相手の身なりなど、いちいち記憶していないのか。
「いいえ、そうではありません。あのとき、仲佐様には会わなかったのです」
「会わなかった? だって、あなたは、予約された時間に、夕食を届けに行ったのでしょう」
「仲佐様はシャワーを使っていました。ワゴンのまま置いていってくれ、と、浴室のドア越しに申されましたので、ぼくはその通りにしました」
「食後の食器を下げに行ったのは、八時頃だと聞きました。そのときも、仲佐さんに会わなかったのですか」
「はい。ごちそうさまでしたという電話がありまして、512号室へ伺うと、ワゴンはドアの外に出ていました」
食後、テーブルワゴンを中廊下へ出して置く客は珍しくないという。特に、カップルの場合にそうした例が多い、と、ボーイは言った。そんなときは、もちろん室内には声をかけない。ボーイは黙って、テーブルワゴンを引き下げてくる。
そのときも、そうだったというのだが、
(おかしくはないか)
浦上は、はっとしたように、谷田の顔を見ていた。
512号室に、男性客がいたことは間違いない。だが、ボーイは、その男性が仲佐であったと証明することができない。一度も顔を合わせていないのだから。
ルームサービスでディナーを食べた男は、ボーイに顔を見せることができなかったのだ。
なぜか?
(そいつが替え玉か)
(仲佐は確かに、新潟ターミナルホテルに投宿しています。チェックインのときも、チェックアウトのときも、きちっと姿を見せています)
(二泊三日をまるまる使った代役ではなく、ポイントである二日の夕食時にのみ用意した、替え玉か)
(夕食時だけの替え玉というのが、盲点でしたね)
浦上と谷田は、ことばに出さなくとも、一瞬のうちに、それだけのことを、目と目で語り合っていた。
浦上は、谷田の顔面に緊張が走るのを見た。その緊張が、そのまま自分に反映してくるのを感じた。
あの日、あの時刻、仲佐は新潟にはいなかった。それが、浦上の内面で、不動の確信となった。
あの日、仲佐は朝早く、そっと『新潟ターミナルホテル』を抜け出したのだ。
横浜∞奈良≠ニ二つの殺人を完了して、(浦上が想定したように)新大阪発二十二時六分の寝台特急つるぎ≠ナ、新潟へ戻ってきたのだ。
仲佐は、二日のディナーを、新潟で食べていない。
新潟へ帰ってきたのは、翌三日の朝、六時四十六分だ。
しかも、この替え玉説を裏付ける、もう一つのデータが出た。
浦上は質問を切り上げるとき、震えを押し隠すようにして、
「仲佐さんのことで、他に、何か気付いたことはありませんか」
と、訊いた。
フロント係に対したのと同じように、これは質疑を終えるための、形式的なものであったが、
「仲佐様からは、食事をお届けする前にも、お電話をいただいております」
と、ボーイはこたえた。
電話は、ブランデーの注文だったというのである。
「ブランデー?」
「ハーフボトルをお持ちしました」
「待ってくださいよ。食事が終えたとき、ボトルはあいていましたか」
「はい、空になっておりましたが」
ボーイは、質問の意味が分からないという顔をした。それはそうだろう。夕食のために注文したアルコールなら、あけるのが当然だ。
しかし、浦上と谷田にとっては、それこそが、勝利の念押しに他ならなかった。
仲佐は、アルコールを全く受け付けない体質ではないか。
ブランデーを一本もあけるとは、これはもう、(そこにいた男は)絶対に仲佐ではない!
*
浦上と谷田は、礼を言ってボーイに引き取ってもらうと、ホテル内のティーラウンジへ場所をかえた。
「替え玉はだれでしょう?」
「仲佐の言いなりになって、晩めしを食った男か。和彦の女房と同じことで、この男も、仲佐に利用されたことを知らない、善意の第三者だろうな」
「兄弟の遣り口からいえば、恐らくそうでしょうね」
事実を打ち明けて協力を依頼すれば、いずれそこから完全≠フ崩れる危険がある。
「秘密を守るには、身近な人間でないと無理だな」
「地元にいる身近な、若い男性といえば」
「明美の法要に、一人列席しているじゃないか」
と、谷田から指摘されるまでもなく、浦上も、それを考えていた。
波木和彦、仲佐次郎の兄弟にとっては、伯父の子供。仲佐の養子縁組は解消されていないので、戸籍上、仲佐にとっては弟に当たる男。
「仲佐光司、といったかな」
「新潟の大学に通っているという話でしたね」
「善意の第三者なら、仲佐と妙な口裏合わせるような真似はしていないだろう」
「そうですね、光司にしてみれば、隠し立てすることは、別にないわけでしょう」
「大学はまだ春休みじゃないか」
「休みかどうか、北蒲原郡の仲佐という名字を、電話帳で当たってみましょう」
浦上は取材帳片手に立ち上がった。
電話コーナーは、エレベーターの右手だった。
案ずるより産むはやすいというべきか、電話確認は、あっけないほど簡単にとれた。
あてずっぽうに、仲佐姓にダイヤルしていくと、四軒目が、捜し当てる仲佐の伯父の家であり、電話を取ったのが、当の仲佐光司だった。
浦上は咄嗟の判断で、仲佐の旧友を装った。二日の夜、新潟駅前で仲佐と会う約束をしたのに、仲佐は約束の喫茶店へ現れない、待ちくたびれて『新潟ターミナルホテル』へ電話を入れると、
「仲佐の部屋は応答なしなのですよ。しかし、ホテル側の話では、さっきまでは部屋で食事をし、電話も受けていたというじゃありませんか」
と、浦上は思いつくままの口実を並べ立てた。
「あとで仲佐をとっちめると、約束の時間には、ちゃんと新潟駅前の喫茶店にいたと言い張るのですよ。会えなかったのは、喫茶店を間違えていたせいだろう、というのですがね、こんなばかな話はない。じゃ、ホテルの部屋で食事をしていたのはだれか、と問い詰めると、弟さん、きみだというじゃありませんか。本当ですか」
どうも釈然としないので、それでこうして、確認のための電話をかけたという、浦上の口実だった。
何日か経ってからの確認≠燒ュな話だが、
「ええ、そうですよ」
電話の真意に気付いていない光司は、明るい声で、こたえた。育ちのよさそうな感じだった。
「どうして、仲佐の身代わりで、弟さんのきみが、ホテルで食事をしたりしたのですか」
「午後、呼び出し電話がかかってきたのですよ。ルームサービスを予約したが、急に人に会うことになったので、代わりに食べないかというのです。こっちは春休みで、暇で体を持て余していましたし、一流ホテルのディナーとあっては文句なしです。二つ返事で応じましたよ」
「部屋のキーはどうしました」
「キーはかけておかないから、自由に出入りしろということでした。ええ、あそこのホテルは自動ロックではないのですよ。だからぼくは言われた通り、フロントを素通りしてエレベーターで五階へ行きました」
ルームサービスのボーイと顔を合わせてはいけないというのも、仲佐の指示だった。
これは守るのが当然だろう。光司は宿泊客ではないのだから。一点、指示にないことをしたのは、ブランデーのオーダーだ。これが替え玉の存在を決定的にしてしまったのだが、
「いやあ、一流ホテルのディナーはゴージャスでしたよ」
と、光司は言った。光司は仲佐に利用されたことに気付いていないし、旧友とうそをついた浦上の口実にも、疑いを抱いていなかった。
「食事中、電話が入っているでしょう。電話はきみが取った。すると、あの電話をかけてきた男性も、あのときあの部屋に仲佐がいなかったことを、知っているわけですね」
「そりゃ、知ってますよ」
電話をかけてきたのは、仲佐当人だったというのである。
「何ですって? 仲佐は何と言ってきたのですか」
「ホテルへ戻るのが、遅くなるということでした。食事が終えたら係に電話をかけ、ワゴンを部屋の外へ出して、来たときと同じように、目立たないよう帰れと言われました」
*
「仲佐は、自分で自分に電話をかけてきたのだな」
谷田は浦上の報告を聞くと、ある一点に目を据えた。
仲佐は部屋で電話を受けたことを、中山部長刑事に強調している。交換手を経由した電話を、アリバイの一つにしているのである。
そのとき、問題の電話の一方に仲佐がいたのは事実だが、
「やつが受話器を握っていたのは、新潟のホテルじゃない。仲佐が立っていたのは、信貴山から戻る途中の、坂下の電話ボックスじゃないか」
と、谷田はつづけた。
「そういえば、そうですね」
浦上はぼそっとつぶやいて、ティーラウンジの内部を見回した。浦上は、すでにそのヒントを得ていたのである。電話がかかってきた時間だ。
電話交換手は、それを午後七時二十六分と証言している。まさに、犯人がタクシーを降りて、坂下の電話ボックスに向かった時刻ではないか。
「やっぱり、現地は踏んでみるものだな」
谷田は視線を戻した。
「もう一つ、ここで決め手を得られるのではないかな」
「決め手?」
「秋田県の本荘へかけた電話だよ」
「電話を受けたのは七時半過ぎだった、と、和彦の女房は証言しています」
「当然、坂下の電話ボックスからかけたわけだろう」
「仲佐は昨日、われわれに対して、ホテルの部屋から義姉《あね》の実家へ電話を入れたと言ってましたね」
「あれは、新潟ターミナルホテルにいたことを強調したいばかりに口を滑らした、勇み足だろう」
「確認しましょう」
浦上はもう一度席を立った。テーブルの上の伝票を持って、谷田もティーラウンジを出た。
フロントへは、二人一緒に行った。
係の返事は、予想を違《たが》えなかった。
客室からの外線は、最初にゼロをダイヤルする、ゼロ発信となるのだが、
「仲佐様は、お部屋からは一本も電話をおかけになっておりません」
係は領収書のコピーを確かめて言った。
そう、二日の午後七時半過ぎ、仲佐が『新潟ターミナルホテル』512号室から電話をかけられるわけはないのだ。
浦上と谷田は広いロビーを横切って、電話コーナーの前にきた。
「どうした? アリバイが崩れたってのに、浮かない顔だな」
「それにしても、われわれの最初の見込みとは、大分違います。兄弟なりに考えたものですね」
横浜へトンボ返りということになるが、まずは淡路警部へ電話を入れるのが順序だ。
(待ってろ)
というように、谷田は緑色のカード電話の前に立った。
山下署捜査本部への通話は、意外と簡単に終わった。
谷田の顔が、一転、厳しいものにかわっている。
まさか、仲佐に逃げられたわけではあるまい。
「どうしたのですか」
浦上の問いかけに対し、谷田の返事は一呼吸を置いてからだった。
「おい、そんなに簡単にはいかないぞ」
谷田は吐き捨てるような口調で言った。
「仲佐は、あの日の午後三時過ぎ、新潟にいたそうだ」
「そりゃ、そうでしょう。夕方まで、新潟の町を歩き回っていたって、ことになっているのでしょう」
「そうじゃないんだよ。予約だ」
「予約?」
「例の夕食の予約をしたのが午後三時過ぎで、直接、仲佐が自分でフロントへ行ったというのだよ」
「何でいま頃、そんなことを言い出したのですか」
「刑事《でか》さんが畳み込んだ結果だろ。ともかく、確認だ」
二人はもう一度、フロントに足を向けた。
仲佐の新しい主張通りだった。
しかも、予約を受け付けたとき、仲佐をよく知る、新宿から転勤してきたさっきのフロント係もカウンターにいたというのだ。
そのフロント係がこたえた。
「はい、夕食の予約をお受けしたのは別の人間ですが、仲佐様がお見えになったことは、はっきり覚えています。フロントの交替時間の直後ですから、間違いなく午後三時過ぎです」
「確かに、仲佐さんだったのでしょうね」
「間違いありませんよ。私は、すぐ傍に立っていたのですから」
それが事実なら、奈良≠ヌころか横浜≠フ犯行まで、危うくなってくるのではないか。
物証は、何の意味も持たないというのか。
激しい懊悩が、浦上と谷田を見舞った。
二人は、重い足取りで、『新潟ターミナルホテル』を出た。
*
午後六時半から八時までの食事と、その間に外線電話を受けたというアリバイ工作は、崩れた。
しかし、午後三時過ぎに、フロントで夕食の予約をした事実、これは絶対だ。
この絶対的な事実を、仲佐は、なぜこれまで打ち出さなかったのか。
事実は事実でも、これは究極のところ、現場不在を証明することにならないのかもしれぬ。
浦上が、それに気付いたのは、何となく歩いて、新潟駅まで引き返したときである。
というのは、午後三時過ぎに新潟≠ノいても、横浜≠ニ奈良≠フ犯行に参加できるということだ。
そんなことが可能なのか。
朝、『新潟ターミナルホテル』を出発すれば、横浜≠フ殺人は容易だから、ポイントは横浜∴ネ降ということになる。
「何を発見したんだ、嫌に難しい顔になってきたな」
「一から、やり直してみます」
浦上は待合室のベンチに腰を下ろし、ショルダーバッグから時刻表を取り出した。
横浜≠フ犯行後、午後三時、すなわち十五時過ぎに『新潟ターミナルホテル』のカウンターに立つことができるのか。
そして、十五時過ぎに、新潟を出発して、十八時二十二分に、関西本線王寺駅へ到着することが可能なのか。
「空路しかないな」
谷田はそう言って、ベンチの前に突立ったまま、浦上をのぞき込んだ。
しかし、東京―新潟間に民間機は飛行していない。
嫌でも横浜から上野まで出て、鉄道を利用するしかないのだ。間に合うのか。
横浜≠ニ奈良=Aアリバイは、二つとも完璧に崩さなければならない。二件の殺人《ころし》は、同一犯人であることがはっきりしている。一方がクロで、一方がシロという解決は有り得ないのだ。
浦上は、見開いた大判時刻表の上に、取材帳を載せた。取材帳には、これまでにチェックしたダイヤのすべてが、書き出してある。
「微妙なところですね」
浦上の横顔が、さらに難しいものにかわってくる。
「ぎりぎりですね」
浦上が書き出したのは、あさひ317号≠セった。これは新潟に十五時四分に到着するが、次のとき415号≠ヘ、新潟着が十五時五十分になってしまう。「午後三時過ぎ」にホテルへ入るわけにはいかない。
「あさひ317号≠利用するには、上野駅では駆け込み乗車となります。これじゃ、完全犯罪とは言えません。ちょっとしたアクシデントでもあれば、間に合わなくなってしまう」
「それはどうかな。上野で、予定の上越新幹線に乗ることができなければ、奈良≠ヨ直行すればいいじゃないか。晩めしの予約は市外電話でもいいだろう」
谷田は浦上が提示する数字を確かめながら、そう言ったが、
「ぎりぎりでも、駆け込み乗車ができれば、メモはこれで十分だ」
と、口調を改めた。
「第二案の奈良£シ行が用意されているから、予定の上越新幹線に乗り遅れても構わないってことですか」
「そうじゃない」
谷田は話を戻した。
「おい、よく考えてみろ。犯行時間は、実際には、十一時から十二時の間と断定されているんだぞ。きみは余裕を持たせて計算している。それは当然だし、その方がいいわけだが、たとえば、十一時に殺人が完了していれば、港の見える丘公園出発を、きみのメモより三十分早めることができる。しかも、このダイヤは、根岸線、京浜東北線と、いわば鈍行で、石川町から、上野へ向かう計算だろ。途中、横浜―東京間を湘南電車利用にすれば、時間はもう少し短縮できる」
メモの上ではぎりぎりの乗り換え時間でも、現実にはもう少し余裕があったと見ていい。そう繰り返す谷田の声に、力が込もってきた。
浦上も、そうだったというように、うなずいていた。表情が明るくなってきた。
新潟≠ワで引き返すことが可能なら、次の分析は新潟≠ゥら奈良≠ヨ行くルートだ。
こっちは空路があった。
新潟空港から大阪空港へは、一日四本のJASCが飛行している。
慎重に時刻表を繰る浦上の目に、ほっとした色が宿ったのは、それから十分余りが過ぎたときだった。
港の見える丘公園発 十一時三十分頃(所要一時間三十七分)
上野発 十三時八分 新幹線あさひ317号
新潟着 十五時四分
(タクシー利用、『新潟ターミナルホテル』経由、空港まで四十分)
新潟空港発 十五時五十五分JASC796便
大阪空港着 十七時十分
大阪空港発 十七時二十分頃
(タクシー三十分)
アベノ(天王寺)着 十七時五十分頃
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
大阪経由十七時十分。それが、壁の向こう側に隠されていたルートだった。
空港からの所要時間は、「市内・空港間の交通案内」欄を参照としたものである。
「すぐに横浜へ帰ろう。上越新幹線に食堂車はなかったかな」
「ビュフェでいいでしょう。ビュフェで乾杯といきましょう」
「報告電話は、車内からかければいいか。よし、一分でも早く帰ろう」
谷田は、二階の新幹線コンコースへ向かって歩き出していた。
その大柄な背中に、さっきとは全く異質な表情が浮かんでいるのを、浦上は見た。
*
『毎朝日報』が独走したのは、翌四月九日、土曜日の朝刊である。
二月のモーテル『菊水』事件を絡めてのスクープは、「桜が散らせた連続殺人」。
六段抜きの大見出しが、社会面のトップを飾った。
事件の発生から一週間が過ぎて、外人墓地の桜も、すっかり花を開いている。
久し振りにのぞいた青空の下を、浦上と谷田が歩いている。
『毎朝日報』は特ダネを物にしたが、週刊誌はこれからが勝負だ。
「夜の事件レポートは、波木和彦、仲佐次郎の兄弟サイドでまとめるつもりか」
「それしかないでしょうね」
二人は横浜港を眼下に見ながら、急な坂道を上がった。
「兄弟はすらすらと自供しているそうだ。大森を尾行したことで、大森の隠された一面と、白い乗用車の寺沢を割り出したわけだが」
と、谷田は、淡路警部からもたらされた新情報を言った。
「大森に問題の文庫本を送り付けて、何も彼も世間にばらすと電話で脅したら、大森も寺沢も一発で震え上がったそうだ」
「後は、兄弟の意のままに呼び出されたってわけですか」
「完全犯罪の構図は、やはり、寺沢の信貴山行きに焦点を当てたことで、具体化したようだな。亡姉の四十九日が四月一日。そして二日は、大森がかねてから参加しようと考えていた、シドモア桜の会」
「でも、いまになってみると、大森はよく横浜へ来たものですね」
「それもまた、兄弟の呼び出しを断われなかったということだろう」
「たとえば、現金をせびられることはあっても、まさか命まで狙われるとは考えていなかったのか」
「そうかもしれない。ともあれ大森は、兄弟が午前十時半と指定した時間に、文庫本持参で、指定の場所へ現れたそうだ」
「それが凶行現場ですね」
「忘れず例の文庫本を持ってこいというのも、兄弟の指示だったというんだな」
すると、犯行後横浜≠ニ奈良≠ノ文庫本を落としていったのも、意図的だったことになろうか。
「うん、兄弟なりに、復讐の成功を、ひそかにアピールしたかったのかもしれんな」
と、谷田は言った。
坂を上がり切ると、港の見える丘公園だった。
明るい空を背景にして、桜が花を開いている。
「先輩、たまにはこういう所で、一杯やりたいものですね」
「桜が散らないうちに、夜の事件レポートを書き上げるんだな。オレはいつでもつきあうよ」
「そうだ、そのときは、女流詩人をご招待しなければなりませんね」
「篠塚みや先生か。そう、あの人の登場がなければ、こんなに早い解決とはならなかったわけだ」
二人は公園を抜けると、外人墓地の方へ足を向けた。
一週間前の土曜日と同じように、山手の丘は人出が多かった。
〈了〉
(注 本文中の列車、航空機の時刻は昭和六十三年 四月現在のダイヤによる)
本書は一九八八年七月、講談社ノベルスとして刊行されました。
講談社文庫版は、一九九一年六月刊。本電子文庫版は講談社文庫版を底本としました。
メモ(三つのルート)
(1)大阪経由
港の見える丘公園発 十三時二十分頃(徒歩十五分)
石川町駅(石川町|新横浜間正味二十分)
新横浜発 十四時一分 新幹線ひかり349号
新大阪着 十六時四十八分
新大阪発 十七時十分頃 地下鉄(正味二十一分+運転間隔最長八分=二十九分)
天王寺着 十七時四十分頃
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
(2)名古屋経由
港の見える丘公園発 十二時五十分頃
新横浜発 十三時二十九分 新幹線ひかり105号=i臨時だが四月二日は運行)
名古屋着 十五時九分
名古屋発 十五時三十分 近鉄ビスタカー
大和八木着 十七時二十六分
大和八木発 十七時四十分頃
(正味十分+運転間隔最長二十分=三十分)
近鉄下田着 十八時十分頃
下田発 十八時二十六分 JR和歌山線普通
王寺着 十八時三十六分
(3)京都経由
港の見える丘公園発 十二時四十分頃
新横浜発 十三時二十一分 新幹線ひかり223号
王寺着 十八時二分
メモ(四つの疑問)
(1) 仲佐次郎と波木和彦はどういう関係にあるのか。仲佐はいかなる過程で殺人を請け負ったのか。
(2) 仲佐が殺人の実行犯であることの証明。すなわち、仲佐は、四月二日の十一時三十分頃と、十九時頃のアリバイを持っているのか。
横浜≠ニ奈良=A二件の殺人犯は同一人なので、午前か午後、どちらか一方のアリバイが成立すれば、仲佐の容疑は解消されてしまう。
(3) 大森裕と寺沢隆は、果たして、間違って殺されたのか。誤殺であるにしても、和彦(あるいは仲佐)は、どこから大森と寺沢のつながりを洗い出してきたのか。
(4) 復讐側(和彦)のミスで、大森と寺沢をターゲットにしてしまったのだとしたら、全裸殺人の真犯人、「アーさん」と「イーさん」は、どこに潜んでいるのか。
メモ(いくつかの証言)
『ぼくと同じような体型でした。一メートル六十八で、六十キロぐらいかな』『髪の長さは肩ぐらいだったと思います』(大月市からきた恋人同士)
『芸術家タイプっていうのかな。われわれとは人種が違うようでしたね』(信貴山駐車場脇の土産物店の従業員)
『全体の感じは派手だった。でも、人殺しをするような悪党には見えなかったけどなあ』(王寺のタクシー運転手)
『テレビタレントではないかと思ったのですよ。長髪もカッコよかったし、サングラスが、ぴたり決まっていましたね』(王寺駅前の中華料理店主)
メモ(再び新潟に引き返してくる鉄道ルート)
新潟発 六時二十二分 新幹線あさひ300号
上野着 八時三十一分
(上野駅構内乗り換え時間十七分+正味五十五分+運転間隔最長十分=一時間二十二分)
石川町着 九時五十三分頃
(徒歩十五分)
港の見える丘公園着 十時八分頃
犯行 十一時三十分頃
(以下、(1)大阪経由)
王寺着 十八時二十二分
犯行 十九時頃
王寺発 二十時五十六分 JR関西本線快速
天王寺着 二十一時十四分
天王寺発 二十一時二十二分頃
(所要二十九分)
新大阪着 二十一時五十一分頃
新大阪発 二十二時六分 寝台特急つるぎ
新潟着 六時四十六分
メモ(二つのルート)
(4)南紀白浜空港経由
港の見える丘公園発 十二時十分頃
(タクシー二十分)
横浜駅東口着 十二時三十五分頃
横浜駅東口発 十二時四十分頃
(タクシー、直通バス共三十分)
羽田空港着 十三時十五分頃
羽田空港発 十三時三十五分JASC383便
南紀白浜空港着 十五時二十分
南紀白浜空港発 十五時二十五分頃
(タクシー十五分)
白浜駅着 十五時四十分頃
白浜駅発 十五時四十三分 L特急くろしお19号
天王寺着 十七時四十六分
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
(5)大阪空港経由
港の見える丘公園発 十四時三十五分頃
横浜駅東口着 十五時頃
横浜駅東口発 十五時五分頃
羽田空港着 十五時四十分頃
羽田空港発 十六時 JAL119便
大阪空港着 十七時
大阪空港発 十七時十分頃
(タクシー三十分)
天王寺着 十七時四十五分頃
天王寺発 十八時 JR関西本線快速
王寺着 十八時二十二分
メモ(昼間浦上が聞き出した情報)
チェックイン=四月一日(金)午後五時二十分
チェックアウト=四月三日(日)午前九時三十分