漂泊の神 抄伝
津守時生
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)涼《すず》しい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)帰宅|途中《とちゅう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)この俺が[#「この俺が」に傍点]
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待望の新作、書き下ろし22ページ
―……こいつ……すげー色っぽい……っ!
[#ここから1字下げ]
|人の世界《物質界》に巣くう〈鬼〉を、人知れず狩り続ける神族と神々。
若き翠龍・夏龍《シャアロン》につけられたお目付役は、
美貌の……男!?
[#ここで字下げ終わり]
漂泊の神 抄伝
[#地から1字上げ]著/津守時生
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第一章 ふたつの出会い
もうすぐ午後七時だというのに、三十度以上あった昼間から気温はほとんど下がらず、夜を感じさせる涼《すず》しい風が吹《ふ》く気配もなかった。今夜も熱帯夜の連続記録を更新《こうしん》するのは確実だろう。
首座《しゅざ》の青海妃《チンハイヒ》との約束の時間は迫《せま》っていたが、すでに遅刻《ちこく》を覚悟《かくご》した夏龍《かりゅう》は、帰宅|途中《とちゅう》に寄り道をする周囲の人々のペースに歩調を合わせていた。
この時間帯は、同僚《どうりょう》や友人と飲食店に向かう会社員や、百貨店へ買い物に入るOLたちが歩道を行き交《か》っている。その人々の間をぬって、ぶつからないように気をつけながら先を急いだとしても、短縮できる時間はわずかなものだった。
時間通りに昇天《しょうてん》しようと、青海妃からきつい小言をいくつか言われることに変わりはない。遅刻して小言がひとつ増えるだけなら、余分な気苦労はするだけバカバカしかった。
普通《ふつう》に歩いていても汗《あせ》の吹き出る熱気の中、背広の上着をかかえたサラリーマンの群れに混じって、半袖《はんそで》のYシャツにチノパンという格好の彼は、ひたすら目的地をめざして歩き続ける。
日夏龍二《ひなつりゅうじ》――というのが、十年前に夏龍が憑依《ひょうい》したこの憑坐《よりまし》の名前だった。
物質界に下る神族たちは、憑坐となる人間の肉体を必要とする。通常は、まだ胎児《たいじ》の段階で憑依するのだが、多くのやむを得ない事情によって、九歳の龍二が憑坐に選ばれた。
憑依によって少年の人格は消滅《しょうめつ》し、それまで生きてきた日夏龍二という人間は、もはやどこにも存在しない。
記憶《きおく》を操作された両親や周囲は、少年の人格の変化に違和感《いわかん》を持たなかった。
そして、成長期の子供は日々変化していく。
母親に似た腺病質《せんびょうしつ》な少年が、どちらにも似ていないハンサムな青年に育ったところで、今の子は栄養がいいせいかスタイルがいいねと、祖父母が嬉《うれ》しげに目を細めるだけのことだった。
今年の春、現役で合格した大学へ通うため、東京のマンションで一人暮らしを始めた彼は、ごく普通の大学生として、過干渉《かかんしょう》気味な母親のいない気楽な生活を楽しめるはずだったのだが――。
――俺《おれ》の担当区域が東京に移ったとたん、こんなに〈おつとめ〉が増えるってのは、すンげぇサギと違《ちが》うかぁ。四方天界の首座たちの間で、なんか裏取り引きでもしてるんじゃねーの?
飲食店のウインドウに、心の中でぼやきながら通り過ぎる彼の姿が映る。
さまざまな明るさの茶色と金色の房《ふさ》が混ざるように脱色《だっしょく》した髪《かみ》は、努力のかいあって、自然に日に焼けた肌《はだ》との色合いのバランスが絶妙《ぜつみょう》に美しい。
百八十センチに少し足りない身長でも、彼のプロポーションに不満を感じる女性はいないだろう。
若者が多い盛り場を歩けば、よくモデルクラブや芸能プロダクションの名刺《めいし》を持った人間に声をかけられる容姿だった。
だが、彼に声をかけたスカウトたちは、面と向かうと一様に気おくれし、熱心に職務を果たそうとしなくなる。
夏龍自身は、最近の若者によく見かける男女に共通した甘《あま》い美貌《びぼう》の持ち主だった。表情は明るくて優《やさ》しい。
少し軽薄《けいはく》に感じる人当たりのよさも、タレントに向きそうな親しみやすさがあった。
それでいて強引に話しかけるのを許さない気迫《きはく》のようなものが、他人とのあいだに目に見えない壁《かべ》を作っている。
結局スカウトたちは、差し出された名刺を愛想《あいそ》よく受け取っただけで、さしたる会話もせずに去っていく若者の背を、釈然《しゃくぜん》としない面持《おもも》ちで見送るだけだった。
よく見かける光景に出会った周囲の人々も、すぐに関心を失って通り過ぎていく。
気を取り直した彼らが、次なる有望新人の物色に移る頃《ころ》、声をかけたばかりの若者の記憶は、その頭から完全に消えていた。
夏龍に限らず、東方天界では〈おつとめ〉と呼んでいる〈鬼《おに》〉退治のため、人間の肉体に宿って物質界にいる神族は多い。
いついかなる事情で仮の宿を捨てることになるかわからない以上、人間の記憶に残る行為《こうい》は極力|避《さ》けるべしというのが、どこの天界でも不文律になっていた。
神族としては生《しょう》じたばかりの赤子《あかご》にひとしく、憑坐に憑依して物質界に降りたのもこれが最初という夏龍だったが、そのきまりは守っている。
不意に、よどんだ暑苦しい空気が動いた。
かたわらを吹き抜《ぬ》ける風は、すがすがしい花の香《かお》りを含《ふく》んでいる。
夏龍は心持ちあごを上げ、犬のように空気の匂《にお》いをかいだ。
――こんな街中で泰山木《たいざんぼく》……? なワケねーか。
ゆきずりの女性がつけている香水にしては、あまりに強く自然な匂いだった。先を急ぐ身でありながら、つい足を止めて香りの発生源をさがす。
自然|崇拝《すうはい》と深くかかわりのある東方神族の自分が、自然物の匂いを間違うはずはないと、なかばむきになって周囲を見回した彼は、交差点の方角を顧《かえり》みて息をのんだ。
純白のロングコートを着た男が、交差点の信号機の上に立っている。
真夏の黄昏時《たそがれどき》に燐光《りんこう》を放つ白い人影《ひとかげ》といえば、少々時間は早いものの、オカルトやホラーの世界の住人という話に流れそうだが、本来そちら方面の関係者である夏龍は、その存在をいて当然のものと判断した。
全身から放射している霊光《オーラ》が強い。かなり霊格《れいかく》の高い――おそらく首座に匹敵《ひってき》する強力な神族のしるしだった。
ベルトをせず前を開けて着たコートが、大気の流れとは関係なく宙に広がり、ゆるやかに波打っている。そのコートのポケットに両手を入れ、空を振《ふ》りあおぐ男の長い髪も、コートと同様に真っ白だった。
反対にコートの下の服装は、すべて黒で統一してある。タートルネックのニット素材の上着に黒いズボン、いくつもベルトのついた黒いロングブーツ。
いくら肉体を持たない神族でも、うだるような暑さの真夏にこんな格好でうろつかれては、見ているこちらが汗をかく。
頭部の周囲を漂《ただよ》う髪が邪魔《じゃま》になり、男の面立ちはわからないが、最初から知った顔ではないのは明白だった。
――西の野郎だったら絶対これ見よがしに羽を出しているそうだから、北の神族っつーコトになるよな。俺たちの〈縄張《なわば》り〉で北のやつがなにをしているんだ?
いつの頃からか、四つの天界は北対南、東対西が険悪な関係になっていった。
その対立に加えて自然に対する考え方の違いもあり、今の夏龍のように別の神族と組んで〈敵〉と戦う時は、ほとんど自動的に南と東、北と西が組む。
世界に生じて日の浅いまま物質界に降りた夏龍は、今まで北と西の神族に出会ったことがなかった。
現在日本にいる南方神族は、ほとんど知り合いだし、西には一目でわかる目印がある。自分の属する東方は言わずもがなとなれば、最初から北の神族しか残らない。
男の足が信号機を離《はな》れ、白いコートをまとった体が空中に浮《う》き上がった。ネオンサインや照明の明かりがあふれるビル群を背景に、ななめ前方に上昇していく。
ゆっくりとした速度とゆるやかにひるがえるロングコートのせいなのか、夏龍は男の姿に天女とも呼ばれる飛天たちと似た優美さを見出《みいだ》した。
夏龍は、まだ東方天界にいた頃、空を舞う飛天をながめるのが好きだった。神族として知らねばならない世界についての勉強を放り出し、部屋《へや》を抜け出しては彼女たちのもとへ遊びに通った日々がなつかしい。
そんな思い出にひたる彼は、人間に神族の姿が見えないことを失念し、空を見上げたまま歩道に立ちつくす。
彼の視線の先をたどり、別になにも変わったもののない空間を一瞥《いちべつ》した通行人たちが、釈然としない表情で彼を振り返っては去っていく。
「ヤダァ。あのひとカッコいいのに、ちょっとイッちゃってる系?」
女子高生のふたりづれが、通り過ぎながらかわしたささやきが耳に入り、我に返った。同時に遅刻確実の約束を思い出す。
「ゲッ、やべっ」
あわてて身をひるがえす彼の背中に、もうひとつ思い出せというようなタイミングで、花の香りを含んだ風が吹きつける。
そもそも泰山木の香りに誘《さそ》われて、その源《みなもと》を探すつもりが、思いがけず見知らぬ神族に出会い、そちらに気を取られた。
突然《とつぜん》の芳香《ほうこう》が、あの男と関係のある可能性に思いいたり、去りかけた足を止めて顧みる。
しかし、季節外れの格好をした男は、離れた場所へ転移したのか、すでに消えていた。
自分が先に立ち去ろうとしたにもかかわらず、取り残されたような一抹《いちまつ》のさびしさを感じ、夏龍はとまどう。
――北方神族が、ナニしてたんだろうなぁ……?
考えたところで答えの出るはずもない疑問にとらわれながら、半分上の空で歩き出す。
これから昇天するなら、妙《みょう》に印象的だった北の神族について、誰《だれ》かにたずねてみるのもいいかもしれない。あれほどの霊光《オーラ》を放つ神族ならば、素性《すじょう》を突《つ》き止めるのは簡単なように思えた。
わだかまりを解消するすべを思いついた彼の足取りは、迷いのないものに変わる。
駅に背を向けて歩き続けたあと、いくつかの角を曲がるうちに幹線道路の車の騒音《そうおん》は遠ざかり、人通りもまばらになった。格段に歩きやすくなったおかげで、気温が少し下がった気もする。
そのビルは、一階と地下が飲食店で、二階が税理士事務所、それから上はカルチャー・スクールの大きな看板が取り付けられている。
このあたりでは珍《めずら》しくない雑居ビルのドアに片手をかけた彼は、視界のすみでこちらへ近づいてくる女性の姿をとらえた。
彼女の到着《とうちゃく》に合わせて押《お》し開ける動きを少し遅《おそ》くし、ドアを押さえて待っている。
ビル全体を冷房《れいぼう》する装置は、時に冷やし過ぎるきらいがあった。店の裏方に面した通路とエレベーター・ホールの冷気が多少逃げたところで、誰が文句を言うわけでもない。
「すみません。ご親切にどうも」
彼の気遣《きづか》いがわかった女性は、明るい笑顔《えがお》で礼を言った。
笑顔は若々しいが、落ち着いた雰囲気《ふんいき》からして二十代後半だろうか。一般《いっぱん》的にきれいな人だと呼ばれる範囲《はんい》に入る。
襟元《えりもと》に花の刺繍《ししゅう》があるほかは無地の開襟《かいきん》ブラウスと長めのタイトスカート。どちらも普通は汚《よご》れが目立って着るのをためらうような白だった。心持ち栗色《くりいろ》がかった髪をひとつにまとめ、シニョンにしている。盛夏の装《よそお》いにふさわしく、すがすがしい。
ベージュ系の口紅にナチュラルなメイクで、ブランド物の茶色いショルダー・バッグと紙袋《かみぶくろ》をさげ、すぐそこにあるデパートの包みもかかえた姿は、終業後にカルチャー・スクールへ通う典型的なOLに見えた。
それでも夏龍は、ひとめ見て彼女に好感を持つ。
大人《おとな》の女の華《はな》があるのに清楚《せいそ》で生気に満ち、表情ひとつにしても内側から輝《かがや》くものがあった。
最近、学校生活の重圧で疲《つか》れ切っている十代の女の子より、下手《へた》をすると二十代半ば以上の女性のほうに、生きものとしてのパワーを感じるのは、彼女たちが持っている自信のせいかもしれない。
平均よりずっと見目のいい彼が称賛《しょうさん》のまなざしを向けてくれば、自尊心をくすぐられた彼女たちが彼に好意を抱《いだ》くのも自然の流れだった。
一緒《いっしょ》に遊ぶ機会の多い大学の友人たちは、年上の女性から非常にウケのいい彼を『フェミニストの皮をかぶった甘えん坊《ぼう》』と呼んでからかう。
自覚はある。最初からつまり東方天界にいた当時から、ずっとそうだった。
そして、今回も彼は、白のよく似合うすてきな女性ににっこりと笑いかける。
「どういたしまして」
「あ……っ!」
彼の笑顔に気を取られたのか、彼女のバッグが軽くドアに接触《せっしょく》し、ひもが肩《かた》からずり落ちた。ひもの長さの分だけ落下したバッグの重みに腕《うで》が動いて、かかえていた紙袋が手を離れる。
手ぶらだった夏龍は、ドアを押さえていたのとは別の手をのばし、紙袋をすばやくキャッチした。
その時、顔の近くで花の香りが漂う。
「すみませんっ。ありがとうございました。割れものだったから助かります」
「ラベンダー……?」
全身で感謝している彼女に紙袋を返しながら、袋から漂った香りを持つ花の名を口にする。
「え? やだ。ちゃんと箱に詰《つ》めてもらったのに、中身がこぼれちゃったのかしら」
「あ、いや。俺、臭覚《しゅうかく》が発達してるらしくって、匂いに敏感《びんかん》なんです。特に花の香りが好きなモンだから……」
「ああ……。それじゃ、ラベンダーの精油と一緒に買った石鹸《せっけん》の匂いかもしれません」
安堵《あんど》の表情で袋を受け取った女性は、それを大切そうに胸に抱《かか》えた。
「アロマテラピーの教室ですか?」
「いえ、これは今、単に私がハマっているだけ。お手軽なストレス解消法ですね。授業が終わってからだと、一番近いお店も閉まっちゃってるし。平凡《へいぼん》に英会話教室に通ってます。あなたはパソコン・クラスかなにか?」
「俺は、このビルの奥《おく》のほうに用があって」
「そう……」
「……じゃ、失礼します」
これ以上しつこく話しかけるのも不自然なので、夏龍は軽く会釈《えしゃく》して、その場を離れた。
ここまでくれば、目をつぶっていても波動を頼《たよ》りに〈力場〉までたどりつける。
霊体だけなら簡単な昇天も、夏龍のように物質界の肉体を備えたものには〈力場〉、の助けが必要だった。
大地が有するエネルギーの連なりである地脈の一部が、地層の表面近くに出ている場所がある。
神族たちは、その中でも特に場を歪《ゆが》めるほど強力な場所を〈力場〉と呼び、天界に位相を変える――すなわち〈転位〉する際に利用していた。
――物質界に戦いの影響《えいきょう》を与《あた》えるなっつーなら、もうちっと丈夫《じょうぶ》な結界を張れるやつを、南方から借りてくれよなー。
〈鬼〉との戦いに夢中になると、結界を張り続けられない自分が悪いので、首座から叱責《しっせき》されるのはしょうがないにしても、どうして南方天界はああも弱い神族まで鬼退治に降臨させるのか理解に苦しむ。
「……あのぉー」
背後から声をかけられ、ひとりごとを言うクセがある夏龍は、内心冷や汗をかきながらエレベーター・ホールを顧みる。
さきほどのOLが、狭《せま》い廊下《ろうか》の半ばに立つ彼にたずねた。
「すみません。そちらになにがあるのでしょう?」
「……え? なにって?」
「あの、変なコト聞いてごめんなさい。いつもここを通るたび、そっちになにがあるのかしらって……なんだか、とっても気になるものですから」
このビルの構造上、一階の飲食店のバックヤードと考えるのが順当なのだが、彼女の質問は別のニュアンスを含んでいる気がする。
ためすつもりで言う。
「そんなに気になるなら、ここまで来て、見ていけばいいんですよ。誰も怒《おこ》りませんよ」
「あ、いえっ、いいんです。ちょっと圧迫《あっぱく》感があって行きにくい感じがするし……。別に嫌《いや》な感じじゃないんですけど」
ああ、やっぱりそうかと思いながら、どう答えるべきかを少し悩《なや》む。
「もし違っていたら申し訳ないんですが、あなたには、いわゆる霊感ってヤツ、あるでしょう?」
「え、ええ。そうなんです。やっぱりそこ、なにかあるんですね」
紙袋を胸に抱きしめたOLは、顔をこわばらせて確認《かくにん》を取る。
その反応を予想していた夏龍は、あわてたように片手を振って、ことさら軽い調子で補足した。
「そうじゃなくって。ここ、ビルが建つ前は、お稲荷《いなり》さんだか小さな神社だかがあったって、聞いたことがあるんですよ。嫌な感じじゃないってことだから、それかなって思ったんですけどー」
「ああ……そう、ですね。大きな神社の近くを通ると、こんな感じがする時があるわね。なんだー、よかったー! ごめんなさい、変なことで呼び止めちゃって」
「別にいいですよ。ずっと気にしていたんでしょ。それじゃ、俺はこれで。待ち合わせがあるんで」
「つまらないことで呼び止めちゃって、本当にごめんなさい」
気がかりがなくなった安堵と、親切な青年をわずらわせた申し訳なさの入り混じった笑顔で頭を下げる女性に目礼を返し、夏龍は歩き出す。
薄暗《うすぐら》い廊下の半ばで左に曲がると、短い通路の先にビルの配電室がある。ビルの管理者やその許可を得たものしか入れない場所だが、そこに用があるのではなかった。
配電室のドアに達する前に右へ曲がりながら、彼は肉体の位相を神族側に変える。
容貌は同じだが、脱色した髪は漆黒《しっこく》に戻《もど》り、目は翡翠《ひすい》を思わせる緑色になった。服装も黒い中国風の長衣に入れ替《か》わった彼は、なんの抵抗《ていこう》も感じることなく壁を通り抜け、このビルとつながる〈力場〉への道を歩き出す。
いつものように壁を通り抜けたとたん、心地《ここち》よさに吐息《といき》がもれるような独特のエネルギーに包まれる。
視覚的になにが見えるというわけではない。目を閉じても、自分の周囲が明るいか暗いかはわかるように明るいだけの場所だった。重力のお陰《かげ》で上下の感覚はあっても、靴《くつ》の下の感触がないと、歩いている実感さえなくなる。
ただ、力の源のある方向は、全身で感じるエネルギーの流れで感じ取れた。
数歩の距離《きょり》のようでもあり、果てしなく遠くにある気もするのは、まだ人間の感覚を引きずっているせいで起こる認識のぶれだった。
彼が、より強く神族の感覚におのれの意識を重ねかけた時、背後で女の細い悲鳴が上がった。
よもやと思いつつ顧みる。
やはり先程別れたばかりのOLが、配電室前の廊下から呆然《ぼうぜん》とこちらを見ていた。
失敗した、と夏龍は心中で舌打ちする。
封《ふう》じられている地脈の力に感応《かんのう》する彼女に対し、あなたの感じているものは良くないものだと言っておけば、好奇心《こうきしん》にかられて見にくることもなかっただろうに、彼女への好感が不安を取りのぞく方向に働いた結果がこれだった。
彼女は、最初に彼が予想したとおりの霊媒《れいばい》体質、すなわち神族の憑坐として最適な肉体に生まれついている。
しかも、結界の壁を透過《とうか》して夏龍の姿まで見えるということは、かなり力の強い神族の憑依を受け入れられるほどの〈親和率〉だった。
性別が男で、もう少し遅く生まれていれば、夏龍の憑坐になった可能性さえある。
近年、衰退《すいたい》の激しい東万天界の事情を知る彼は、これほどの憑坐がフリーのまま放置された事実に哀《かな》しくなった。
エコロジー・ブームによって、状況《じょうきょう》は一時期より改善されつつあると聞くが、成人したこの女性に神族が憑依を試みることはない。
本来の憑依は、胎児の段階で行なうのが一番好ましく、上限の思春期を過ぎて自我が確立すると、肉体が拒絶反応を示す。心身が分かちがたく一体化した成人への憑依は、肉体のショック死を招くだけだと聞く。
夏龍は困った。
ここまで〈親和率〉の高い憑坐の彼女には、いつも普通の人間に行なうような記憶操作が効かない。対処に悩みながら戻りかけると、彼女はおびえた表情であとずさった。
悲鳴を上げて逃げ去りかねないようすを見て、夏龍は足をとめる。
――ああ、もう〜! ただでさえ遅刻で超《ちょう》ヤバイってのに、こんな面倒《めんどう》なコトになって、どーしたらいいんだよぉっ。
前髪に片手を突っ込んで乱暴にかき回す。
考えたところで、とっさに名案など浮かぶはずもない。ヤケになって居直る。
彼は立ちすくんでいるOLに対し、身振り手振りで現在の自分の窮状《きゅうじょう》を訴《うった》えた。
最初に、位相を変えても残した腕時計を指さし、次に向かおうとしていた方向を示す。そして、頭の両脇《りょうわき》に人差し指を立てた手を添《そ》え、立腹した待ち人が鬼のようにツノを出すようすを表現した。
続いて、相手をさした指で自分の足元を示し、唇《くちびる》に指を当てて沈黙《ちんもく》を要求する仕草をしたあと、柏手《かしわで》を打って拝《おが》む。心から拝んだ。
やや間を置き上目遣いに彼女を見ると、当惑《とうわく》した面持ちながらも、かすかにうなずいた。
意味が通じたとわかって破顔した彼は、さらに深くお辞儀《じぎ》をして念を押し、身をひるがえす。
本当にまずい。
今、ちらりと目にした時計の文字|盤《ばん》によると、すでに約束より二十分経過している。
自分の経験から判断して、待たされた相手が遅刻したものに寛大《かんだい》な態度をとれるのは、平均十五分までだった。
夏龍は半ばかけ足で〈力場〉の中心に向かう。
この場の自分にできる限りのことをしたつもりだった。
見たものを誰かに言ったところで、どうせ信じてはもらえない。それでも放置せず頭を下げた彼の誠意が、彼女に伝わると信じたい。
十数歩走ったところで、不意に〈力場〉の中心に達していた。なにも目に見えないおかげで、唐突《とうとつ》に突っ込んだという感じがする。
全身を押し包むエネルギーによって与えられる快感に総毛立った。細胞《さいぼう》のひとつひとつが活性化して、勝手に動き出しそうな感覚に浸《ひた》るたび、ずっとこの場にとどまりたいとさえ思う。
だが、いくら地脈の末端《まったん》とはいえ、地球の擁《よう》する純粋《じゅんすい》なエネルギーにさらされていると、憑坐の肉体が滅《ほろ》んでしまう。
神族に位相を変えても、同じ場所に二重写しの形で存在しているため、完全に影響を避けることはできない。
夏龍は東方天界の池を思い浮かべた。
東方天界が出現した時から湧《わ》き出る清水《しみず》があふれ、清い水に
は咲《さ》かないはずの蓮《はす》の花と、身をくねらせて泳ぐ色とりどりの鯉《こい》――。
地脈のエネルギーの助けを借り、夏龍は人間の肉体とともに一瞬《いっしゅん》で神族である自分の故郷とも言うべき東方天界に昇天していた。
夏龍は世界最大の花と言われるラフレシア顔負けの巨大《きょだい》な蓮の花の中心に立っていた。
とりあえず池のほとりまで、日本庭園の飛び石のように蓮の花を跳《と》んで渡《わた》り始める。
「あらまあ。やーっと来たのね、この子は」
頭上から軽い叱責の声とともに舞《ま》い降りてきた女性が、彼の片肘《かたひじ》に手をからませるなり、あわただしく空中へ飛び上がった。
結《ゆ》い上げた漆黒の髪に金のかんざしを飾《かざ》り、朱赤の薄物をまとったあでやかな婦人は、東方天界で飛天たちの長《おさ》を務める凰《ファン》夫人だった。
十一年前、東方天界に生《しょう》じた彼を見つけ、物質界に下るまで色々と身辺の世話をしてくれた彼女は、めざましい速さで快晴の空を飛びながら、夏龍に小言を言い続ける。
「あれほど約束の刻限は守れと、日頃から厳しく言っているでしょうに。よりにもよって、この世で誰よりも大切なお客さまをお待たせするとは! ただでさえ衰退のさまが見苦しい東方天界にお出ましいただくなど、おそれ多い御方《おかた》なのに……」
気性の激しい凰夫人の声音が、言葉通りにおそれ敬う響《ひび》きを帯び、それが逆に夏龍の反発を招く。
東方や南方の天界が荒《あ》れ始めたのは、昨日《きのう》今日に始まったことではない。
人間たちの信仰《しんこう》が形ばかりとなった現代、天界を維持《いじ》するエネルギーの供給は、限りなく先細りというお寒い状況だった。
だからと言って、東方天界の荒廃《こうはい》を神族の自分たちが見苦しい光景だなどと、恥《は》じたりへりくだったりする必要があるのだろうか。
第一、自分たちの主《あるじ》である東方主神と他の方位神は完全に対等だと聞いている。主神を差し置いて、この世で誰より大切な客などいるはずがない。
「そのおそれ多い客って、ダレ?」
「『始原の蛇《へび》』の一柱で『太古の翼《つばさ》』と呼ばれるアイテルさまです」
ってナニ? と喉元《のどもと》まで出かけたが、こらえる。
案の定、黙《だま》っている彼の態度を不審《ふしん》に思った夫人が、凄《すご》みのある低い声でたずねる。
「よもや忘れたなどと、言ったりしませんね」
「大丈夫《だいじょうぶ》わかってますって。あまりにおそれ多い方なんで、絶句しちゃっただけだってば」と、適当に話を合わせておく。
夏龍は、生じてから物質界に下るまでの一年間、世界のことを勉強するため、首座の命令で毎日記録庫に通った。
他の神族たちは五年以上、勉強の期間を与えられるというものを、一年で全部頭に入れろと言うのは最初から無理がある。彼は、一番効率がいいと思われる勉強法を考えて実践《じっせん》した。
現在の自分に全然関係のない太古の昔は切り捨て、まず近代と現代の人間の歴史を記憶する。そのあと残った時間があれば、近世以前をさかのぼる――つもりだったが、現代の終わりが見えたところで遊んでしまい、最低限度の目標達成で終わった。
――抜かったぁ……。東西南北の主神のほかにおエライさんがいるなんて、マジかよ〜。そんな話、今まで聞いたことがねーぞ。
首座の青海妃の前で、歴史の勉強をサボったことがバレるのはまずい。そのおエライさんに対しては、下手に出て無難にやり過ごすに限る。
「くれぐれも粗相《そそう》のないようにね」
「へーい。それより、まだ神族の感覚に馴染《なじ》んでないんだから、空中で振り回さないでよ、おかん」
「おかん?」
夫人に聞き返され、言った夏龍の方が初めて気がつく。
「ごめん。つるっと口から出ちゃった。若者言葉でさ、お母さんってイミ」
「人間の母親は、私に似ているの?」
「いや、全然。凰夫人の方が、比べようもなくキレイです。そうじゃなくって、俺が天界にいる時の母さんみたいだから、無意識のうちに出たみたい。ごめん」
「どうして謝るのですか」
「だって、いつまでも若くてキレイな夫人に向かってお母さんみたい≠ネんつーのは、失礼というものでしょー」
天女の羽衣《はごろも》と呼ばれる五色に輝く領巾《ひれ》を優雅《ゆうが》にひるがえす飛天の長は、夏龍の答えに声を上げて笑った。容姿に相応の華やかな笑い声は、鳥のさえずりにも似て美しい。
「子供なら、物質界に降りて憑坐に憑依するたびに産んだわ。数えたことはないけれど、軽く百人は超《こ》えるのではないかしら。食糧《しょくりょう》危機の不安から産児制限が必要だと言われるようになったのは、つい最近のことで、それまでは多産が当たり前だったのよ」
「そっかー――ってゆーか、何となくショックかも……」
「私が大勢の子持ちの大年増だったから?」
「じゃなくって、ずっと、母さんだと思ってた人が、他人だと知った時の気分っぽいかなー。……まぁ、もともと他人なんだけどさ」
神族は、正体を失い核《コア》≠ェ消滅する瞬間まで、天界に生じた時点の姿のままで存在する。
生物ではないので親はいないが、強《し》いてそれに当たるものを探《さが》すなら、各天界を作り出した主神たちだろう。
物質界から集められたエネルギーは、主神を通じて各神族に分け与えられる。
主神にエネルギーを断たれた神族は消滅するほかなく、その意味では扶養《ふよう》家族というより、へその緒《お》でつながった胎児とみなすほうが実態に近い。
凰夫人は、彼女に腕を引きずられる形で東方天界の空を飛んでいる青年を顧みた。
「おまえには憑坐を産んだ人間の母御《ははご》がいるでしょう。途中からの憑依では、母とは思えないと?」
「だからさー、人間の母さんがいるんだから、神族の母さんもいたっていいじゃん」
その答えを聞き、夫人は再び声をあげて笑う。
「母親は多いほうがいいですって? なんて、子供なんでしょう。普通は、あちらとこちらの世界に愛人を置いて、女はひとりでも多いほうがいいと、うそぶくのが男というものよ」
「そんなに笑うことないじゃん。そりゃ、俺だって男だから女の人は好きだよ。大好きだって言ってもいいくらいだけど、大|先輩《せんぱい》の凰夫人に対して、さすがにそんな失礼なこと言えるわけないでしょー。第一、口説いたところで百年早いって、鼻で笑われるのがオチだろ」
「百年どころか、三千年は早いわね」
微笑《ほほえ》みをたたえたままの飛天の長に、いとも軽くあしらわれた夏龍は口をとがらせた。
「飛天たちは、みんなそーゆー風に言うけどさ。三千年たって俺が凰夫人を口説いたら、やっぱ、また三千年早いって言わない? 不公平だよな。年齢差が縮まるわけないんだからさ」
「中身の成熟の問題です。三千年たったおまえを誰も子供あつかいはしませんよ。それより、おまえが飛天たちと仲がいいのは知っていたけれど、つい十一年前に生じたばかりの身で、飛天たちを口説いて回ったの? あきれたこと」
「あっと。いや、その……。口説いたって言えるのかなー。俺、初めて見た時から、わけもなくすげー飛天が好きなんだよ。飛んでいる姿をずっと眺《なが》めていても、全然あきないし。そばでフワフワしながら、時々笑いかけてくれたりなんかすると、幸せってこーゆー気持ちを言うんだなって思うんだ。人間の女の子も可愛《かわい》いけどさ、やっぱ飛天だよな……」
最後は半分ひとりごとのように言う。
夏龍にそう言われた飛天たちと同じく、その長もわずかな寂《さび》しさを含んだほろ苦い笑みを浮かべた。無邪気《むじゃき》に女心をとらえる言葉を吐《は》く年若い神族が、将来本気で愛するようになる相手は、どんな女性だろうかと思いつつ。
「神族が子を産むことはありませんから、ここに私の子はいません。私はおまえの教育係でもあるし、おまえがそう思いたければ天界の母親になりましょう。――ただし」
「うへ。やっぱ、そこで、ただしってついちゃうのぉ? あんまりむずかしい条件つけたって、俺クリアできないからね」
「これ、意気地のない! おまえは、物質界まで私の監視《かんし》の目が届かないのをいいことに、日頃遊びほうけているでしょう。遊ぶなとは言わないけれど、とにかく人間の心のありようをよく学んでくるように。もちろん、そのあいだに一|匹《ぴき》でも多く〈鬼〉を退治するのは当然のこと。それが私の条件です。おまえは東方天界の次期首座なのだから、将来を視野に入れて――」
天界の中心にある神宮《じんぐう》まで、先を急ぐ夫人に引き立てられるがままになっていた青年だが、つかまれた片腕を引き、初めて抵抗する。
「ちょーっとタンマ。次期首座ってなんだよ。俺、そんな話を聞くの初めてなんですけど。本人のいないところでナニ勝手に決めてんの」
「勝手ではありません。自分でもわかっているはず。おまえの霊格と近い神族は、青海妃さまの他にいないということを。そして、青海妃さまは……」
夏龍は、語尾《ごび》を濁《にご》した夫人の不吉《ふきつ》な言葉にショックを受けた。
「首座が正体を失うなんてことあるのかよ!」
「これ! そのような大事を軽々しく口にしてはなりません。我々神族とて天命というものがあります。おまえのように生じるものもあれば、天命が尽《つ》きて消滅するものもいる。おそらくおまえが生じたのは、青海妃さまの天命をご承知の東方主神さまが、首座の代わりをとご配慮《はいりょ》なされてのことでしょう」
「だから、勝手に決めるなって! あ、ひょっとして俺を急いで物質界に降ろしたのは……」
「そうです。おまえが次期首座になるのでなければ、いかに霊力が強いとはいえ、生じたばかりの赤子にひとしい神族を、ろくな教育もせずに物質界へ降ろしたりはしません。ましてや〈鬼〉退治など」
つまり首座になる以上、たった一度でもいいから物質界に降りて人間というものを我が身で理解し、自分たちの敵である〈鬼〉との戦いを体験すべきだという考えのもと、大急ぎで修行の旅に出したというわけだった。
「……そんなに切羽詰《せっぱつま》っているのか」
「ええ。ですから私は、アイテルさまにお出ましいただくよう青海妃さまに進言いたしました。あらかじめ言っておきますが、おまえのことは私が作った口実です。途中で気がついても、絶対にそれを口にしてはいけませんよ。特に青海妃さまの前では」
「すみませーん。全然話が見えませーん。バカな俺にもわかるように説明してくださーい」
「もはや説明している余裕《よゆう》はありません。この大事な時におまえが遅刻してくるからです。さあ、おいでなさい」
宙に浮いたまま東方天界の今後にかかわる深刻な話をしていた凰夫人は、説明を求める青年の腕をとり、すでに間近まできていた神宮へと強引に引き立てる。
「ちょっと待ってよ。打ち合わせなしのぶっつけ本番なわけ? 本人無視してなにしてるんだよーっ」
「身から出た錆《さび》でしょう。こうなったら、よけいなことは一切言わず、おとなしくしていなさい」
なにがなんだかわからない夏龍は、口封じまでされてしまう。
神宮は、東方主神に代わって神族を束ねる首座の居城で、東方天界|唯一《ゆいいつ》の住居だった。さまざまな色の玉《ぎょく》で造られ、黄金の装飾がふんだんにほどこされた壮麗《そうれい》な中国風の城だが、規模は小さい。
テレビで昔の中国の皇帝が住んだ紫禁城《しきんじょう》、現在の故宮《こきゅう》の全容が映し出されたのを見た時、神宮よりはるかに大きいと思った。
〈鬼〉退治を使命とする神族は、その大半が物質界に降りているため、天界での住居が必要ないという理由もあるのだろう。
紅玉の瓦《かわら》が連なる屋根をななめに横切り、首座の青海妃が執務《しつむ》に使う正殿《せいでん》の前に舞い降りた二人を、夏龍もなじみの飛天が迎《むか》えた。
「ああ、よかった。なんとか面目が立ちますわ。青海妃さまが、時間|稼《かせ》ぎをしてくださいました」
「時間稼ぎとは?」
「アイテルさまにお会いするのも久方ぶりなので、入念な仕度《したく》にもう少し時間をいただきたい、と。お待たせする間、胡蝶《こちょう》たちと如星《ルウシン》さまがお相手をつとめて、お庭の散策をおすすめしました。今しがた戻られたばかりです」
凰夫人が思わず安堵の息をつく。
「皆《みな》には苦労をかけました。早速《さっそく》、青海妃さまにご報告を。私は夏龍《シャアロン》を連れてお目通りいたします」
飛天は、長の夫人へ優雅に一礼した。
すぐに正殿には入らず、凰夫人は青年の回りを一周して身なりを点検し、ささいなところを直してから自分にうなずく。
「よろしい。くどいようですが、くれぐれも失礼のないよう、よけいなことは言わぬように。わかりましたね」
「はい」と、短く答える。
異様なほど東方神族にうやうやしくあつかわれる賓客《ひんきゃく》への疑問は、頭の中で大きく膨《ふく》らんでいく一方だったが、質問が許される状況ではなかった。
凰夫人は扉《とびら》を開けて正殿に入り、案内もなく奥へと進む。客がどの部屋に通されているのかを知っている迷いのない歩みだった。
中庭に面した部屋のひとつに声もかけず入る。声をかけないのも道理で、無人の部屋だった。
夫人に示された椅子《いす》におとなしく座って待っていると、客の相手をしていると飛天から聞いた如星がやってきた。
「二人とも待たせたな。青海妃さまのお召《め》しだ。黒華《こっか》の間へ行きなさい」
「まぁ、麒麟《きりん》の長自らのご案内とは恐《おそ》れ入ります」
夫人が恐縮《きょうしゅく》すると長い鶯色《うぐいすいろ》の髪を頭の高い位置でひとつに結び、中国風の長衣をきた美丈夫は、ささやきに近い小声で言った。
「私はあの御方が苦手なので、これにて失礼する。今回のことは、貸しにしておくぞ」
あとの言葉は夏龍に向けてのものだった。首座にまで迷惑をかけた新参者に対する眼差《まなざ》しは厳しい。
別に頼《たの》んだわけではないと反発する気持ちを抑《おさ》え、夏龍は無言で頭を下げた。
見かけに寄らず剛直《ごうちょく》な気性の如星に、苦手とまで言わせる客とは何者なんだろう。
自分の不勉強ゆえに素性の不明な客への好奇心にはちきれそうな青年は、飛天の長に伴われ、最高の賓客をもてなす黒華の間にはじめて足を踏《ふ》み入れる。
入ってすぐ目についた透《す》かし彫《ぼ》りの入り口飾りで、この部屋が「黒華の間」と呼ばれる由来を知った。
普通の入り口飾りは、日本建築で言うところの欄間《らんま》飾りと似たようなもので、柱と柱をつないだ上部を飾るのだが、この部屋は人の出入りする空間を残して、黒いそれが天井《てんじょう》から床《ゆか》までを覆《おお》っている。
巨木から取った一枚板で作られた黒い入り口飾りは、牡丹《ぼたん》と胡蝶を透かし彫りの意匠《いしょう》に使い、細部にわたって見事な出来だった。豪華《ごうか》だが派手《はで》にならず、重厚で贅沢《ぜいたく》な空間を演出している。
入り口飾りをはさんで向こうの部屋にいる胡蝶の化身たちが、いっせいに笑いさざめく。
その中でもはっきりと聞き分けられる高く澄《す》んだ笑い声の持ち主が、東方天界に属する全神族の長である首座の青海妃だった。
「ふたりとも長く待たせたな。こちらへ参れ」
涼やかな若い声にうながされ奥の部屋に移ってきたふたりを、前髪を額におろした十歳ほどの美少女が、椅子に座って迎える。
外見は少女でも、小柄《こがら》なその身に備わった威厳《いげん》と気品、青い双眸《そうぼう》に宿る慈愛《じあい》と叡智《えいち》の光は、首座という彼女の地位を納得《なっとく》させるには充分《じゅうぶん》だった。
微笑む彼女の様子にわずかな異常もないのを確認し、夏龍はひそかに胸をなでおろす。
どう考えても、生じたばかりの自分がこの青海妃から首座の務めを早晩引き継《つ》ぐなどという話は、非現実的な妄想《もうそう》のたぐいにひとしい。第一、霊力が強いだけでつとまるような名誉《めいよ》職でないことくらい、どんな神族だって知っている。
少女の姿をした首座は、つややかな黒髪を一度側頭部で丸く束ねてから、両脇に流していた。
その束ねた髪のぐるりに挿《さ》している花の髪飾りが、見事な細工物だった。薄く削《けず》った貝殻《かいがら》を花びらの形に仕立てて、大小さまざまな形の花にしてある。
自然崇拝が存在の根幹にある東方天界の首座らしく、彼女は華麗《かれい》な金銀細工を飾るより、命の温もりと透明感のある装いを好む。
「アイテルさま。これなるものが、さきほどお願いした件の夏龍《シャアロン》にございます。――夏龍。この御方が、かの『始原の蛇』にて『太古の翼』であられるアイテルさまです」
――だからさぁ、その始原のナンタラが、なんだか知らないんだってばぁ……。
夏龍は、再度聞かされた耳慣れない言葉に内心|辟易《へきえき》しながら、卓《たく》をはさんで首座と向かい合って座る客に挨拶《あいさつ》しようと視線を上げ、そのまま硬直《こうちょく》する。
赤や黄色の胡蝶に群がられた大輪の白牡丹――というのが第一印象だった。
実際、手に手に青磁の瓶子《へいし》を持ち、客人の玉杯《ぎょくはい》が空になるや否や、すかさず酒をつごうとしている女官たちは、本性が胡蝶の神族だった。彼女たちに囲まれ、陶然《とうぜん》とした眼差しを一身にそそがれている男を白牡丹にたとえたのは、彼が微光《びこう》を放つ白髪《はくはつ》の持ち主だったせいばかりでもない。
手にした白玉《はくぎょく》の杯をあざむく白面《はくめん》の美貌は、富貴の象徴《しょうちょう》である百花の王・牡丹を思わせる豪奢《ごうしゃ》な華と蠱惑《こわく》の風情《ふぜい》があった。
新宿の交差点で姿を見かけた時、髪に隠《かく》れて顔の見えなかった彼は、瞳孔《どうこう》だけが浮いて見えるほど淡《あわ》い水色の目を、会釈するどころか身じろぎもしない夏龍へと向ける。
視線の合った彼の両眼が、冷淡《れいたん》な|海の水色《アクアマリン》から鮮烈《せんれつ》な|永遠の青《エターナル・ブルー》へと急速に色を変化させていく。
目を合わせた瞬間に自分の身にわき起こった衝動《しょうどう》は、夏龍に激しいショックを与えた。
神族は、それぞれ霊力の強さと性質に応じた個性的な外見をしているが、おしなべて美しい。一定のレベルを超《こ》えた先の優劣《ゆうれつ》は、もはや見る側の個々の好みに任されると思っていた。
ところがアイテルという男には、容貌の美醜《びしゅう》や好みと関係なく、同姓の自分ですら震《ふる》えを覚えるほど強烈に惹《ひ》きつけられるものがある。
夏龍が衝撃《しょうげき》を受けたのは、なにかを思うより早く体が勝手に反応し、欲情していたことだった。
――お、おい……っ。なんなんだよ、これはっ。よりにもよって男相手に……ウソだろーっ!
自分にはまったくソノ気《け》がないと直前まで信じてきた彼は、半ばパニックになりかけ、あやうくアイテルが初めて発した言葉を聞き逃《のが》すところだった。
「今度は翠龍《すいりゅう》か。東方神め、よほど困っているとみえる。だが、俺の歓心《かんしん》を買うつもりなら、次の首座もメスにするべきだったな」
耳を疑うような侮蔑《ぶべつ》の言葉とは裏腹に、硬質で物静かな声には、本来こめられるべき感情が見事なまでに欠落していた。
そのせいもあって最初言葉の意味が理解できず、夏龍は二、三度のまばたきをしてから激怒した。
「貴様ぁっ! 東方天界でそんな暴言を吐くとは、いい度胸だなっ」
「こ、これ……っ。おやめなさい」
青年の剣幕《けんまく》に女官たちが息を呑《の》み、顔色を失った凰夫人が、あわてて制止する。
「どうしてとめるんだ。こいつは、目の前にいらっしゃる青海妃さまに対して、メ、メ、メ……」
「バーカ」
玉杯を手にした男は、物憂《ものう》げに卓へ頬杖《ほおづえ》をつき、怒る夏龍の姿を平然とながめていたが、たった一言にこれ以上はないと思われるほどの深いさげすみをこめて切り捨てた。
夏龍は、物理的な衝撃すら覚えた短くも痛烈な侮蔑に逆上する。
この白髪の男にあらぬ衝動をかき立てられた困惑など、一瞬のうちにどこかへ消し飛んだ彼は、表に出ろという言葉がのどまで出かかる。
「やめよ、夏龍《シャアロン》。この御方への無礼な言動は、断じて許さぬ」
「でも、主神さままで呼び捨てに……」
「黙りや。同じことを二度言わせるでない」
首座の静かな声は、冷たい圧迫感をともない、夏龍の反抗心を問答無用に抑え込む。
言葉に恐るべき力がある。そこで夏龍は、さきほどのアイテルも、今の青海妃と同様に言霊《ことだま》の力を使ったのだと気づく。
――だけど、バカなんて言葉に言霊の力は宿るんだろーか?
切実にして他愛もない疑問にこだわった青年は、直前までたぎっていた怒《いか》りの勢いをそがれる。
「まだ生じて十一年の若輩者ゆえ、軽挙妄動はなはだしくはございますが、どうぞよろしくお導き下さいませ」
「十一年っ!」
玉杯を取り落としかけた白髪の男は、丁寧《ていねい》な口調で頼んだ彼女に答えず、うなり声をあげた。
「十一年だとぉ? おまえの後釜《あとがま》だと言うから、まだケツに卵のカラをくっつけた小蛇だろうとは思っていたが……。小蛇どころか、イトミミズじゃないか! イトミミズのお守《も》りをするのか、この俺が[#「この俺が」に傍点]」
心外極まりないという口調と表情だった。
そんな彼の口から出たイトミミズなる単語が笑いを誘ったのか、周囲を囲む女官たちは前後して噴き出す。青海妃まで袖で口元を覆う始末だった。
すかさず夫人に足を踏みつけられ、夏龍は再度|爆発《ばくはつ》しかけた怒りをこらえる。
度重なる侮辱に総身の震える思いだったが、得体《えたい》の知れない相手への警戒《けいかい》心が彼を押しとどめた。
首座は各天界にひとりずつしかいない。神族の最高位にいる青海妃に対し、ここまでぞんざいな言葉遣いをしてとがめられない存在がいるとしたら、それは――。
「そのようにおっしゃらず……。ご無礼はもとより承知の上でのお願い。おすがりできるのはアイテルさまより他におりませぬ。どうか、お力をお貸し下さいませ」
「俺がおまえの後釜なんぞの面倒を喜んで見ると、本気で思っているのか?」
「……いいえ。このような私とて、女のうぬぼれはございます。ですが、頼みと思うのもアイテルさまだけ。どうあっても否とおおせなら、正体を失うまで途方にくれているしかございませぬ」
少女の姿をしている青海妃の甘えた物言いは、子供のおねだりなどという可愛いものではなく、成熟した女の媚態《びたい》だった。
鋭《するど》く舌打ちをしたアイテルは、いらだたしげに前髪を片手で梳《す》き上げる。
「言うな。よけいにムカつく。俺がおまえの願いを聞き入れなかったことがあったか? 首座になる時ですら、おまえの頼みを聞き入れただろうが。それを承知で俺を呼びつけた用は、それだけか?」
「それでは夏龍がこと、お預けしてよろしゅうございますな?」
ふたりの会話に口をはさめずにいた夏龍は、こんな得体の知れない横柄《おうへい》な男に預けられるなど絶対に願い下げだと思った。
だが、彼が抗議するより早く、横目で彼を見やったアイテルが微笑む。
「そうだな。おまえの後釜だ。消滅しない程度にいたぶりながら、可愛がってやるとも」
想像もしなかった強烈な悪寒《おかん》と快感が背筋を駆《か》け抜け、夏龍は我知らず身震いした。
――……こいつ……すげー色っぽい……っ!
ようやく自分に衝撃を与え続けるものの正体が判明する。
きつめのTシャツを着た女の子の胸のラインとか、駅の階段を上《のぼ》っていくOLのタイトスカートの揺《ゆ》れる腰《こし》とか、年頃の男の子が不意をつかれてドキドキするものはたくさんあるが、理屈《りくつ》を超越《ちょうえつ》して本能に訴える力という点で、この男の流し目と残酷《ざんこく》な微笑は最強だった。
――本能って……だって、こいつ俺と同じ男じゃん。俺、絶対にホモじゃねーぞっ!
自分がホモでない以上、この男がそうなのかといえば、どう見ても女性的ではないし、色目を使っているというわけでもない。
なにより女官たちが、ずっと半ば恍惚《こうこつ》とした表情でアイテルを見つめていることからして、その魅力《みりょく》は性別を問わないことがわかる。
凰夫人が、混乱している夏龍の脇腹をひじで小突き、率先して頭を下げた。
「この通りの粗忽者《そこつもの》ですが、どうぞよろしくお願いいたします。――これっ」
「やだよ。なんで俺が、こいつによろしくしてもらわなきゃなんないワケ? そもそも本人無視して、一体なにを頼んでいるのさ」
「この子は――……っ!」
「よせよせ。さっきから話が見えなくて、いらだっているんだろう。見るからに頭悪そうだし」
男は仲裁に入るふりをして暴言を放ち、
「おまえが最悪最低な未熟者で、たかが〈鬼〉退治の結界すら満足に張れない上、コンビを組んだヤツの結界まで吹き飛ばすような馬鹿《ばか》力を出すからだ」
「だ、だからなんだよ。あんたに関係ないだろっ」
「関係はある。この俺が、おまえの〈鬼〉退治につき合って、毎回結界を張ってやることになった。イトミミズの分際で〈太古の翼〉を相棒にするんだ。土下座して礼を言っても、バチは当たらない[#「バチは当たらない」に傍点]ぞ」
次から次へとくり出される倣岸不遜《ごうがんふそん》な言葉の数々に、夏龍の頭は沸騰《ふっとう》寸前だった。
青海妃が、真っ赤になってわななく彼へ厳然と言い渡す。
「おまえの力にたえる結界を張れる神族で、現在無役のものは、ひとりもおらぬ。私が助力を乞《こ》うたアイテルさまに対し、これ以上無礼を重ねるなら、即刻《そっこく》当方天界より追放する。それがいやなら口をつつしむがよい」
そこまで言うかと思ったが、いまさら抵抗しても無意味らしいと判断し、夏龍は黙って頭を下げた。礼など口が裂《さ》けても言う気はない。アイテルは青年の精一杯の意地など気にする風もなく、簡単に話題を転じる。
「ところで夫人。おまえたちを呼びに中座した河馬《かば》の長はどうした?」
「またそのような……。如星|殿《どの》は、おつとめにかかわる大事が出来《しゅったい》したとのことで――」
「逃げたか、孺子《こぞう》め。これから本腰を入れて、いたぶってやるつもりだったのに」
ずっと麒麟の長がいたぶられる≠ウまを見ていた胡蝶たちは、互《たが》いに目配《めくば》せをして笑いさざめく。
如星にしたくもない同情をしている夏龍の横で、飛天の長が苦笑いしつつ、やんわりとたしなめた。
「三千年も前の些事《さじ》をまだ根に持っていらっしゃいますのか?」
「些事だぁ? やつが俺を〈鬼〉と間違えて、退治しようとしたことを東方天界ではそう呼ぶのか? まぁ、別に些事にしてやってもいいがな。一万年くらいイビってやるのに変わりはないし」
――うわぁ、こいつってとことん性格悪い〜。
夏龍が心中でうなった時、首座の少女はなつかしげにつぶやいた。
「あなたは、相変わらずでいらっしゃる……」
「河馬の孺子すら生じて四千年だぞ。俺が千年程度で変わるわけがない。もっとも千年ぶりの東方天界で、ずいぶん変わったものを見せてもらった」
「まあ、なんでしょう?」
「半分から上が、透《す》けて見える蓬莱山《ほうらいさん》」
アイテルの低い声にその場が凍《こお》りつく。
東方天界の成り立ちを学んでいない夏龍は、女たちが全員|蒼白《そうはく》になっている理由を知らない。
蓬莱山は東方天界の中心にある険峻《けんしゅん》な山だった。中央という位置からして、なにか特別な意味のある山だとしても、上から半分透けて見えるなど、あり得るのだろうか。
アイテルは空にした白玉の杯を卓に置き、青ざめた少女の顔を正面からのぞき込む。
「青海妃。そのありさまでは、あと一年ももたないだろう。イトミミズを物質界に降ろしたりせず、さっさと東方天界を背負わせるんだな。負担がなくなれば数年は楽に寿命《じゅみょう》がのびるぞ」
正確な意味はわからないものの、自分がとんでもない役目を押しつけられそうになっていることを知り、夏龍はあわてた。
しかし、大任を辞退する彼の言葉は、女官たちの上げた悲鳴にかき消された。
彼女たちの恐怖《きょうふ》の眼差しは、呆然とした表情のまま体が半透明になった青海妃に向いている。
「首座様、お気を確かに……っ!」
凰夫人の鋭い叱咤《しった》も届かず、正体を失いかけている少女の体は、いっそう透明感を増していく。
ようやく事態の深刻さを悟《さと》った夏龍も、女官たちと同じ恐怖にとらわれ、大きく身を震わせる。
今まさに正体を失い、消滅という神族にとっての死を迎えようとしている首座を目の前にして、東方天界のものたちは誰も動けない。
白髪の男が、小さく舌打ちして立ち上がった。
「いらん見栄を張って、無理に元気なふりをするからだ」
少女に歩み寄り、腕をつかんで引きずり立たせると、コートをまとう長身を深く折って、互いの唇を重ねる。
「うわっ。げっ、変態、ロリコン!」
思わず叫《さけ》んだ夏龍の後頭部に夫人の平手が飛ぶ。
「失礼なことを言うのではありませんっ」
「……ってえなぁ。だって、まともな男が、小さな女の子にいきなりキスするか、フツー」
青年は、後頭部をなでつつ口をとがらせる。
人間の肉体と違い、神族の霊体は衝撃のレベルを感知するだけで、苦痛とは認識しないが、とっさに痛みを訴える言葉が出るのは、物質界で人間の肉体を持って暮らす神族全員に共通するくせだった。
「いいから、黙って見ていなさい」
そう言われても気色が悪い彼は、あらぬ方向へ視線をそらす。そろそろ我慢《がまん》の限界がきそうなところで、ようやく男は青海妃から離れた。
宙を漂う男の髪とコートの陰《かげ》に隠れていた首座の姿は、今にも溶け消えそうだった頼りなさが払拭《ふっしょく》され、鮮烈な存在感を取り戻している。
頬を上気させた少女は、目をうるませて男を見上げ、妖艶《ようえん》な大人の女の顔で微笑みかけた。
のけぞった夏龍が、なにかをわめき出す前に、また夫人の平手が後頭部を打つ。
「これで、あと十年は楽勝だろう。もっと長くもつように〈生気〉を送り込んでやってもよかったが、北に続き東の首座まで発狂《はっきょう》させて、東方神族たちにもつけ狙《ねら》われるのは、さすがに面白《おもしろ》くないからな」
「そのようなことは、決して……! あなたが、私を消滅から救ってくださろうとしたことは、この場にいる誰もが証人になりましょう」
生気を取り戻した東方天界の首座は、おのれより遥《はる》かに長身の男を見上げ、彼の言葉を懸命《けんめい》に否定した。
ようやく衝撃から覚めつつある胡蝶の化身たちも、そろってうなずく。
夏龍は、男の語った内容の異常さに驚《おどろ》き、とても素直《すなお》にうなずく気になれなかった。
――キスで北方天界の首座を発狂させたって……まさかエロい意味じゃねーよなぁ。マジに言葉通りだとしたら、こいつ、一体なにもの?
天界にあってさえ宙を漂う不思議な髪が、束の間男の表情を一同から隠す。
「その言い訳が通用するのは、狂《くる》った首座を見た神族たちが、こうなっても消滅するよりマシだったと思えばの話だ」
「アイテル様……」
青海妃は、男の黒|手袋《てぶくろ》の片手を取り、両手で押し包む。
「ヒルデガルド殿のことで、ご自分を責めたりなさらないで。あれは、あの方自身が望んだことの結果。この思いがおのれを滅ぼそうとも、決して後悔《こうかい》しないと、私にそう申されました」
「あいつが、おまえに会いに来たのか?」
「はい。始原の蛇に望まれながら逃げた臆病《おくびょう》者は、指をくわえて見てるがよいと」
「なんとまぁ。おまえへの当てつけ兼《けん》宣戦布告か。いかにもあいつらしいが、結局あのざま[#「あのざま」に傍点]では……」
苦笑する男に応《こた》えず、少女は男の手を強く握《にぎ》ってつぶやいた。
「私……嫉妬《しっと》いたしました。なにも……あなたとともに生きることを恐れなかったあの方の強さに」
「その俺を袖にしたおまえが、一番恐れ知らずだと思うんだがな。これで、おまえが急に消滅する不安はなくなったし、俺がここにきた用はすんだ。帰る。――久しぶりにうまい酒を呑んだ。ありがとう」
最後の礼は、女官たちに向けたものだった。
彼の笑顔を目にした胡蝶たちは、会釈を返すことも忘れ、全員同時に恍惚とした表情になる。
夏龍は心の中でツバを吐いた。
――ケッ。結局、やっぱ男も顔ってことかよ。女ってのは、そいつが変態ロリコン野郎《やろう》でも、顔さえよけりゃウットリできちゃうもんなのかね。
アイテルは、夏龍のいるほうへ早足に歩き出す。
内心の反感を隠し切れない仏頂面で脇にのき、道をあけた青年ののどへ男の片腕が巻きつき、強引に連れて行こうとする。
「……苦しいっ。なにすんだ」
「おまえも一緒に下界[#「下界」に傍点]に帰るんだよ、相棒[#「相棒」に傍点]」
夏龍は、得体の知れない上に変態と相棒を組まされるのは断じて願い下げだった。
だが、反発した彼の抗議は、凰夫人の呼びかけに邪魔をされ、未遂《みすい》に終わる。
「夏龍。おまえなら大丈夫だと思うけれど、くれぐれも〈鬼〉退治の時は油断せず、気をつけるのですよ。アイテル様のおっしゃることをよく聞いて、失礼のないようにね」
口調から心配そうな表情、手を胸元に持っていく仕草までが、あまりに日夏の母とそっくりだったので、身内に膨れ上がっていた反発心がしぼむ。
「は〜い」
気の抜けるような返事をした直後、視界がかすむ。二、三度まばたきをしても状況が改善しないので、拳《こぶし》で目をこすろうとした――時には、もう周囲は星が輝く夏の夜空に変わっていた。
「う……うわあぁーっっっ! なんだコレー!」
「やかましい。いきなり耳元で叫ぶな」
「ここはどこだよっ!」
「おまえの担当地区の上空だ。下界に帰ると言っただろう」
アイテルは無造作に片腕を解いて、夏龍の体を空中で突き放した。
一瞬パニックになりかけたが、眼下に広がる新宿の見慣れた夜景を目にして、逆に冷静になる。神族に位相が移っている今は、墜落《ついらく》死の危険はない。
それでも、本来あり得ない突然の帰還《きかん》の驚きからは、まだ完全に覚めていなかった。
人間の肉体を有する夏龍を連れていながら、東方天界と連結した〈力場〉を使用せず、一瞬で物質界に戻った事実は、この男が〈力場〉と同等以上のエネルギーを自在に操《あやつ》れるということを証明している。
――始原の蛇だとか言ってたよな。北方天界の連中でもないなら、なにモンなんだ、コイツ。ちくしょう。東方天界に居残って、こっそり調べるつもりだったのに、こっちの都合も聞かねーで……。
腹の中で悪態をつきながら、全身から微光を放って浮いている白いコート姿の男を改めて見直す。
瞳孔だけが目立つ、ごく薄い色の目と視線が合う。そのとたん、ぞくり、と全身に震えが走った。
――うわぁっ。なんで股間まで反応すんだーっ。変だぞ、俺〜。
「またな、夏龍《シャアロン》」
どぎまぎしている青年の気も知らず、そっけない別れの言葉を残して去ろうとする。
あわてて追いすがるように声をかけた。
「あ、あのさ。俺のコト、シャアロンじゃなくて、かりゅうって呼んでくんない? 俺の憑坐が日夏龍二って名前で、日夏の夏と龍二の龍をあわせて、かりゅうってアダ名なんだ。ソレのほうがずっと馴染んでいるから」
「……おまえ、生じて十一年だったはずだな。その憑坐には、途中で憑依したんだろう? それなのに、なぜ都合良く神族と同じ名前の憑坐があった」
「父方のじいさんが、やっぱ神族の憑坐になっててさ。人間には、憑坐を生み出しやすい血統ってあるじゃん? 俺が生じた時に天界にいて、孫が丁度いい憑坐になるから、成人する前に憑依すればってコトで即決しちゃったワケ。神族の俺の名前は、そのじいさんがつけたんだ。その時、日本の季節が夏だったのにも引っかけたらしい」
アイテルは納得しがたいのか、細い眉《まゆ》を軽くしかめる。
ずいぶんいい加減な話に聞こえるが、脚色なしの事実だった。
結局、相手が質問をする気はないようなので、今度は夏龍のほうから尋《たず》ねる。
「えーと……俺のほうも、あんたをアイテルって呼んじゃって、いいのかな――なんて?」
「好きに呼べ」
今までの態度から考えて、様づけしろと横柄に命じられるのを半分覚悟して聞いた彼には、予想外の返事だった。
驚きが表情に出たのだろう。アイテルのほうから、つけ加える。
「おまえたちの神が、俺を封印した上に呪縛《じゅばく》としてつけた名前など、たいした意味はない」
「東方主神さまが……?」
「バカ。東方主神ごときが、単独で俺を抑え込めるか。全部だ全部」
「全部って……まさか方位神全部っ?」
「正確に言うなら、俺の女房の両方を捕《つか》まえて脅迫《きょうはく》しやがった上で、だ」
――ふ、ふたりの女房持ちーっ! じゃなくって、こいつ……こいつ、一体何者ーっっっ!
想像を絶するスケールの話を聞かされ、夏龍はさすがにこわくなった。
「……あんた、本当に俺の相棒になるワケ?」
「そうだ。おまえが〈鬼〉を倒《たお》すか、逆に倒されるかするまで、おまえのバカ力でも破れない結界を張っていてやる。ついでに、倒した〈鬼〉が再生しないよう核の始末もな。どうせ相手の核がどこにあるか、まだ見当もつかないんだろう?」
図星だったが小馬鹿にした薄笑いを浮かべて聞かれると、素直に認められない。
最初から返事を期待していないアイテルは、夏龍について首座から受けた依頼《いらい》のうち、残るひとつを明かした。
「もしもおまえが、大間抜けにも返り討《う》ちにあった場合は、おまえの核が〈鬼〉に吸収される前に、東方天界まで持って行くこと。以上が俺の仕事だ」
「誰が返り討ちになんかあうかよっ! 俺はそんなに弱かねーぞっ。東方神族の次期首座だって話なんだからな。ひとがおとなしくしてりゃ、好き放題バカにしやがって。ったく、ふざけんなよ。偉《えら》そうに何様のつもりだバカヤロー」
ついに我慢できなくなった夏龍は、相手を怒鳴《どな》りつけた。何者だろうと知ったことではない。
誰がテメーみたいな胸クソの悪い野郎とコンビなんか組むか、とタンカを切るつもりだった。
だが、アイテルの返事に凍りついた。
「神様に対して何様もないだろうが、バーカ」
[#地付き]――――抄伝終わり
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○最新作 [漂泊の神] を30倍!? 楽しむ方法
ついに明らかになった津守時生の新作「漂泊の神」。
多くの謎に満ちた新しい物語を楽しむために、今回の「抄伝」をじっくり読み解いてみよう!
たとえば街の雑居ビルの一角に、異界との連絡通路があったなら。たとえば道ゆく人が、人間の中にまぎれ込んだ異質なもの――だったとしたら。人知れず、けれど結構人間くさく生きる〈異質なもの〉たちは、意外と私たちのすぐ隣にいたりするのかも。
そんな想像をかきたてる津守作品がスタートした。「漂泊の神」は、神様のアーバンライフ(なにか言葉の取捨選択を間違っている気も…)をえがく意欲作。千年万年単位で生きる登場人物続出のこの物語、平均実[#「実」に傍点]年齢の高さには定評のある(?)津守作品の中でも、まれにみる壮大なスケール(と平均年齢の高さ)になること確実だ。
◆舞台は現代日本!
物質界とは、肉体を持たない神族がいうところの「こちら」の世界の名称。対して天界は、東西南北四柱の方位主神のもと、各方位天に属する神族によって治められている。
夏龍《シャアロン》は東方天界に属し、十年前にこの物質界へ鬼退治の〈おつとめ〉に出された新米神族。一匹でも多く敵対する〈鬼〉を退治することは神族としての大事な使命だが、力が強すぎてコントロールの下手な夏龍は、戦闘時に結界を壊し、上から叱責されることも。ともあれ日本人・日夏龍二の身体を憑坐《よりまし》にしての使命遂行のかたわら、イマドキの大学生活を満喫しているのだったが……。
◆人間は神族の糧?
そもそもどうして神族は物質界に干渉するのか? それは彼らの属する天界の維持には物質界から供給される、ある〈もの〉が必要不可欠だから、というのが理由のひとつ。
その〈もの〉とはつまり精神的エネルギーのこと。たとえば人間の信仰心などがエネルギーとして主神のもとへ集まり、そこから各神族に分け与えられる。それが供給されないと神族は存在を保てなくなり、やがて正体を失い〈消滅〉の道をたどることになるから事態はかなり深刻。最近は信仰の形骸化が進み、エネルギー不足が慢性化して、東方天界もずいぶんと不景気らしい。神様も人間も、ツライ台所事情は同じなのだ。
◆勉強不足なばっかりに…
現東方首座・青海妃《チンハイヒ》の天命が尽き〈消滅〉の近づいた今、次期首座候補の夏龍の責任は重大である。……ああ、それなのに勉強をさぼっていた夏龍には、神族としての基礎知識が絶対的に足りない。生まれたてなので当然、経験値も低い。ゆえに事態を把握できず、いきなり現れたアイテルにもアンタ誰?状態。「始源の蛇」「太古の翼」なんて重要ワードも耳を素通りだ。
◆キーワードは「欲情」!?
そんなひよっこ夏龍にもハッキリわかることがひとつ。かのアイテル様の「流し目」と「残酷な微笑」が下半身直撃の最強必殺技であるという事実だ。
果たしてこの、毒舌女王様系神様の得体のしれない必殺技が、地球の命運を握るのか握らんのか。夏龍ってばコンビ組んじゃって無事で済むのか否か。というかこの話ってばそういう話なの!?――という数多くの謎はきっと、ごく近い未来、あなたの目で直接確かめられるはず……!
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底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.04