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キップをなくす
ある初夏の朝、一人の少年が恵比寿《えびす》駅から電車に乗った。
ホームは空っぽだった。日曜日の午前中だから人が少ない。
来た電卓もがらがらに空《す》いていた。少年はドアの脇に立った。こういう時に席に坐《すわ》る習慣がない。彼は外の景色を見ながら、今日のうちに手に入るはずの切手を思い浮かべた。コレクションが完成する。彼は嬉《うれ》しかった。
コレクションは自分が生まれた昭和五十一年に発行された切手を集めるという方針で、ぜんぶで四十枚ほど。それが今日すっかりそろう。そう思うとにやにやしそうになる。けっこう得意な気持ちだ。
ぼんやり窓の外を見ながら、ずっと切手のことを考えていた。電車の中では誰も喋《しやべ》らない。みんな黙ったまま外を見ているか、新聞を読んでいる。
気がつくと電車は浜松町《はままつちょう》を出るところだった。あれ、ずいぶんお客が増えた。どこでこんなに乗ったんだろう。
前にこの駅を通った時、浜松という町と何か関係があるのだろうかと考えたのを思い出した。それを二か月後にまた思い出す。こんなこと、またすぐに忘れてしまうんだけど。だいたい浜松ってどんなところだったっけ? 次の新橋《しんばし》は人の出入りが多かった。たくさん降りてたくさん乗る。扉の横で身を細くして、出る人入る人の流れに押されないようにしていた。
扉が閉まった。次が有楽町《ゆうらくちょう》だ。チョウの付く駅が二つ並んでいればすっきりするのに、浜松町と有楽町の間に新橋が挟まっている。これもこの前に考えたこと。一瞬だけ、ぐるっと回って元のところに戻ったような気がした。山手《やまのて》線ってぐるっと回っているんだ。
有楽町に着いた。扉が開いていちばんにホームに降りる。駅を間違えて降りたり、乗り過ごしたり、そういう失敗をしないよう気をつけなくちゃ。はじめは悪い中学生にカツアゲなんかされないかとか考えて、すごく緊張していた。でも、その後でも失敗したことはなかったし、悪い奴には会ったことがない。大丈夫。
階段を下りながら、最初の時のことを思い出した。雑誌の広告を見て、銀座三原橋《ぎんざみはらばし》の山村切手店というところを選んで、電話で行きかたを聞いたのだった。まず紙と鉛筆を用意してと言われたので、あわてて探した。自分の家の場所を告げ、最寄りの駅を告げた。
店のおじさんはゆっくり丁寧に教えてくれた。
恵比寿から山手線に乗って、有楽町まで行って、マリオンという大きな建物の中を抜ける。向こう側の広い道に出る。そこを左に行って、銀座四丁目の大きな交差点を過ぎて、しばらく行くと左側に花屋がある。そこを曲がって、次の角を右に曲がって二軒目。小さな茶色いビルの二階が山村切手店。迷ったら公衆電話を見つけてまた聞きなさい、とおじさんは言った。
有楽町からマリオンに出る途中の暗い感じの悪い道で彼は迷いかけた。八百屋のお兄さんに聞いて、最後にはちゃんと広い道に出られた。あとは何の問題もなかった。山村さんは電話の声のとおりの親切な人だった。小学生の彼をバカにすることはなかった。次の時は慣れているからずっと楽だった。
今日はもう五回目。コレクション完成の日だ。
有楽町駅の階段を下りて、改札口に向かいながら、ポケットの中に右手を入れてキップを探す。いつも考えもせずにやっていることだ。改札口が迫ってくる。だけどキップが指先に触れない。とうとう改札口の前に来てしまった。
立ち止まると後ろの人がいらいらしているのがわかった。あわてて横にどいた。後ろの男は彼を横へ押しのけるようにして出ていった。その後の人が続く。
キップがない。おかしいな。恵比寿でちゃんとポケットに入れたんだけど。
こういう時はあせってはいけない。落ち着いて探そう。そう思ってポケットの中を探るのだが、指は四角い小さな紙にさわらなかった。中のものをぜんぶ出してみた。小銭で二百五十円はど(千円札一枚は財布に入れてデイパックの方にしまってある)、使いかけのティッシュの袋。ガムが三枚。それだけ。
反対側のポケットに手を入れてみた。こちらは何もない。きっとティッシュの中にまざれこんだんだ。そう思って中の紙を一枚ずつ出してよく見たけれども、やっぱりキップはなかった。
とつぜん、小学二年生で初めて一人で電車に乗った時のことを思い出した。恵比寿の隣の目黒《めぐろ》駅の近くに住んでいた友だちの家に遊びに行ったのだった。
「キヅプをなくしちゃダメよ。キップをなくすと駅から出られなくなるから」
そうママは言った。だから彼はしっかりキップを手に握って電車に乗った。電車の中で、少しだけ手を開いて何度もキップを見た。一駅だったし、他のことは何も考えなかったのだから、なくすはずがなかった。着いた駅の改札口で友だちが待っていた。
今日だってなくすはずはない。でも、ない。どうしたんだろう?
こういう時はどうすればいいんだろう? 駅の人に言って外へ出してもらう。出してくれるかな? 「キップ、なくしたんでしょ」 いきなり後ろで声がして彼はびっくりした。
振り向くと、彼より五センチほど背の高い女の子が立っていた。白いブラウスの上にピンクのカーディガンを着て、ジーンズをはいている。それにピンクのスニーカー。中学生かな、高校生じゃないみたい、と彼は考えた。
「あるはずなんだけど」と小さな声で言いながらまたポケットの中を探す。けっこうあせっている。
「キップをなくしたら駅から出られないの」と女の子は言った。別に叱っているわけではなく、あたりまえのことを教えている風だった。どこかで聞いた言葉だ、と彼は思った。
「でも、ぜったい、あるはずなんだよ」
そう言ったけれど、この時には彼はもう自分がキップをなくしたことを知っていた。探す手に力が入っていなかった。キップはない。なくしたのだ。
「おいで」と女の子は言った。ちょっと乱暴な口調で、だから彼は言うことを聞いた方がいいだろうと思った。
相手がすたすた歩きはじめたので、少年はその後を追った。ついて来るとわかっているのか、女の子は振り向きもしなかった。
先ほど彼が下りた階段を上る。なかなか足が速いから、彼は半分駆け足のようにして後を追った。背中のデイパックが揺れ、その中に切手のアルバムが入っていることを一瞬だけ思い出した。
ホームに着いた時、女の子はちょっと手を上げて何か合図のようなしぐさをした。すると山手線の電車がゴーゴーと音をたてて入ってきた。ちょうどタイミングが合っただけなのに(と彼は考えた)、まるで女の子が電車を呼んだように見えた。本当にそうだったらすごいけど。
中はまた空いていた。空席もあったけれど、女の子は吊革《つりかわ》につかまって立っている。らくらくとそうしているように見えたが、彼が同じことをするとちょっと背伸びというか無理をしている感じになる。だから吊革ではなく縦の握り棒の方につかまった。
でもどこへ行くんだろう。どうしてこの子はぼくを連れ出したんだろう。
恐い人には見えない。ただ決まったことをしているだけという感じで、悪いことを企《たくら》んでいる風ではない。なんて言うか、キンチョーカンがないよ。
「ねえ、ガム持ってる?」
「は、はい」
そう答えて彼はポケットの中のガムを三枚とも差し出した。
「一枚でいいよ」
そう言って相手はガムを受け取り、包装をむいてロに放り込んだ。
これはカツアゲではないな、と彼は思った。ガムはみんなの共有物。ポケットからポケットへ移動する。それから口の中へ。
彼は残った方のガムを自分の口に入れた。二人ともガムを噛《か》んでいる。ガムのおかげで知らない人でなくなった気がした。少し安心。
でもどこへ行くんだろう。すぐに有楽町に戻れるだろうか。
そう思う間もなく、電車は駅に入って、減速し、停車し、ドアが開いた。
一駅目だ。女の子はさっと電車を降りた。彼は後に続いた。降りてからホームに立って駅名を見る。
東京
そうか、有楽町の次は東京《とうきょう》か。でも、ここは東京ではなくて東京駅って呼ぶんだ。ここだけ特別みたい。
女の子は何の説明もしないまま、ホームを進む。前から駅員さんが一人来た。女の子はちょっと会釈した。相手はにこっと笑って 「ごくろうさん」と言った。
たしかにそう言った。この女の子、駅の人と知り合いなの? 目尻《めじり》が下がって、ずいぶんやさしい顔をした人だったけど。
「武井《たけい》さんだよ」
その名前は覚えておいた方がいいというような口調だったので、彼は目尻の下がった駅員は武井さんと覚えた。
階段を下りる。広い通路をたくさんの人が行ったり来たりしていた。
だけど、ごくろうさんってどういう意味だろう。まるでこの女の子が何か仕事をしているみたいだ。中学生の女の子の駅員なんているわけないのに。
ピンクのカーディガンは人をかき分けるようにしてどんどん進む。遅れないように追おう。
その姿がひょいと曲がって細い通路に入った。そこには他の乗客は誰もいなかった。先の方にドアがあった。何も書いてない、ステンレスの四角い板で、ドアぜんたいが「入るな!」と言っているみたいだった。
でも女の子はすっと手を伸ばしてドアを押した。
振り向いて、首をちょっと動かし、入りなと合図する。彼は入った。
外よりもずっと暗くて、何か湿っぽい匂いがした。普通の乗客は来ないところだ。少し恐い。どこへ行くんだろう。
女の子は暗い通路を進む。彼も後を追った。
いくつも角を曲がって、三段ほどの短い階段を下り、また曲がって、今度は踏むたびにうるさい音のする鉄板の階段を八段下りた。しばらく行くとガラスのはまった大きな木の扉があった。ガラスにはトランプのマークのような模様があって、中は見えなかった。女の子はそれを開けて中に入った。遅れないように後に続く。
中は教室の半分くらいの大きな部屋だった。半地下みたいで、高いところに窓があったけれどガラスが汚れているので外は見えなかった。小さな机や椅子がいくつかあって、隅の方には古ぼけたソファがあって、棚がある。壁に小さな黒板が吊《つ》ってあった。低い戸棚が壁の前に並んでいる。
少年はドアのところに立って、心を落ち着けて室内を見回した。今入った彼と女の子を別にして、そこには五人はどの子供がいた。大人はいないのかな。
この子たちもキップをなくしてここに集められたのだろうか。ここで待っていて、一緒に駅の人に会って、それから外に出ることになるんだろうか。どうしてこんなにたくさんいるんだろう?
誰かが顔を上げて、「お帰り」と言った。
なんだかのんびりした声で、まるで兄弟みたいだ。
女の子は小さな声で 「ただいま」 と言ってから彼の方を見た。
「名前は?」
「遠山至《とおやまいたる》です」とイタルは言った。
「イタルでいいよ。苗字《みょうじ》はいらない」と女の子は言って、それから部屋の中の子供たちに向かって「この子、新しく来たの。イタル君だよ」と大声で言った。
みんながこちらを見た。
イタルはなんとなく頭を下げた。挨拶《あいさつ》のつもりだった。新しく釆たって、どういう意味だ? キップの件が済むまでなのに、まるでこれからずっと一緒みたいだ。
「荷物をそこに置いて」と女の子は言って、横の棚を指さした。
イタルは大事なアルバムの入ったデイパックをそこに置いた。
「あの、お名前は?」と勇気を出して女の子に聞いてみる。この子はちょっと恐い。生意気な口をきくと叱られそうだ。だからせいいっぱい丁寧な聞きかたをした。
「わたしはフタバコ。むずかしい字よ」
そう言って、壁の黒板のところに行き、白墨で字を書いた。
嫩子
「字なんかどうでもいいんだけど。ともかくフタバコ」
「あだ名はゲタバコ」と誰かが言った。
「あははは、また言う」とフタバコは笑った。腹を立てた気配もない。
ゲタバコと言ったのは声の澄んだ大きな人だった。隅の方の椅子から立って、こちらへやってきた。フタバコよりももっと背が高くてひょろっとしている。この人は子供じゃないみたい。
「ぼくはキミタケだ。字はどうでもいい」
「むずかしくて自分でも書けない字なのよ」とフタバコさんが言ったのはさっきの仕返しだったのだろうが、キミタケさんは取り合わなかった。
「まず、東京駅を案内してあげよう」と言って、キミタケさんは扉の方に向かった。
「他にも誰か一緒に来ないかい?」
「行きます」と元気な声で言って立ったのはイタルよりちょっと小さいくらいの少年だった。
「ミンちゃん、来る?」とキミタケさんが足下に坐っていた女の子に声を掛けた。
「あたし、行かない」とその子はとても小さな声で答えた。小学三年生くらいのほっそりした子だ。こちらはぜんぜん元気でない声だった。
「そうか。わかった。他にはいないかな。じゃあ三人で行くよ」
外の廊下に出たところで、一緒に来た男の子が「ぼく、ユータだよ」と言った。
「イタルです。よろしく」
そう答えたけれど、なんだかおかしい。駅の中の案内なんて、まるでぼくが転校生みたいだ。だいたい、キップのことはどうなったんだ。
そう思う間もなく、キミタケさんは先に立ってどんどん歩き、長い廊下を抜けて、ガタガタ鳴る階段を上った。途中で二人の駅員が何か話しながら前から釆たが、まるで子供たちが見えないみたいにすれ違って行ってしまった。ここは駅の裏側だ。子供が来てはいけない場所じゃないんだろうか。
キミタケさんは広い通路を進んだ。お昼近くなってさっき来た時より乗客が増えた感じだ。ホームへの階段を上る。フタバコさんと違って、キミタケさんは時々振り向いて二人がついてきているかどうか確かめてくれた。
三人はホームに出た。あたりがいきなり明るくなった。風が気持ちいい。
オレンジ色の電車が待っていた。
「中央《ちゅうおう》線快速|高尾《たかお》行き」とユータが言った。「ここが始発。神田《かんだ》、御茶《おちや》ノ水《みす》、四《よ》ッ谷《や》、新宿、《しんじゅく》と停まって、最後は高尾まで行く。一時間十四分かかる」「正解」とキミタケさんが言った。
ホームにはあまりたくさんの人はいなかった。階段を上ってくる人はすぐに電車に乗ってしまう。
「ホームの端へ行ってみよう」と言って、キミタケさんは歩きはじめた。「電車一両がだいたい二十メートルで、十二両編成。ぜんぶで長さは?」
「二百四十メートルー」とユータが答えた。二人ともクイズが好きなのだろうか。
イタルは口の中のガムがもう味がないのに気づいて、ホームに吐き出した。
「ダメだよ、そんなことしちゃ」と即座に言ったのはユータだった。「まったくもう」と言いながら、ポケットからティッシュtを出して、イタルのガムを包み、近くのくずかごに捨てる。
「きちんと捨てないと、後で太田《おおた》さんたちが困るだろ」とユータは言う。
イタルは恥ずかしい気持ちになった。キミタケさんは何も言わなかった。でも太田さんて誰だろう?
電車の横をずっと歩いて、もう電車がないところまで行って、線路を横目で見ながらもっと歩く。小さな駅員室がホームの端をふさぐようにあって、それ以上は行けない。
「中央線はこの東京駅が終点だ」とキミタケさんがイタルの顔を見て言った。「だからほら、あっちにはもう線路がない」
そう言われて首を伸ばして見ると、線路は行き止まりになっていた。頑丈な柵《さく》のようなものが立ちふさがっている。
もうこの先には電車は行けない。戻るしかない。
「はい、次のホームへ移動」と言って、キミタケさんは歩きはじめた。残る二人も後を追う。
そうやってホームをいくつも回り、下のコンコースに並んだ土産物店や、食堂とレストラン、キヨスク、コインロッカー、待合室などを教えられた。どこについてもユータはよく知っていて、キミタケさんのクイズに元気に答えた。
「駅のことはだんだんにわかるから、あせらなくていいよ」とキミタケさんがイタルの方を見て言った。
だんだんになんて、いよいよおかしい。まるでこれからずっと駅にいるみたいだ。
「さあ、そろそろ昼ご飯だ。詰所へ戻ろう」
詰所? あの部屋はそういう名なのか。
戻ってみると、子供の数が少し増えていた。フタバコさんは本を読んでいる。壁のところで女の子が二人、綾《あや》取りをしていた。一人はさっきのミンちゃんで、もう一人は知らない子だった。帳面に何か書取をしている子もいる。
今、三人が入ってきたドアがばんと開いた。男の子が二人、段ボールの箱を抱えて入ってきた。
「飯だぜ」と一人が言った。
「ご飯ですよ、って言いなさい」とフタバコさんが顔を上げてたしなめた。
「ご飯です」とその子は言い直した。
「新入りのイタル君、先に取っていいよ」とフタバコさんに言われて、イタルは段ボールの中を見た。四種類の弁当が入っていた。「旅のひととき」と「特製牛めし弁当」と「インペリアル洋風弁当」と「トンカツ弁当」。イタルはいちばん小さな「牛めし」を取って、それから缶のリンゴジュースをもらった。
キップをなくした子は弁当がもらえるらしい。
みんなが手を伸ばして、それぞれに好きな弁当と飲み物を取った。
「ミンちゃんは?」とキミタケさんが聞く。
「わたし、いらない」とミンちゃんはやはり小さな声で答えた。キミタケさんはそれ以上は何も言わなかった。
みんなはわいわい言いながら食事を始めた。
「牛めし」はすごくおいしくて、あっという間に食べてしまった。おなかが空いていたらしい。
さっき弁当を運んできた二人はロックとポックという名だった。
「双子?」
「まさか。ここで知り合っただけだよ」とポックが答えた。ここで知り合ったってそれはいつのことだ? それからずうっとここにいるのか? イタルは我慢できなくなった。
誰に聞くか考えて、フタバコさんの前へ行った。
「ぼく、もう外に出たいんです。今日は切手屋さんに行くために来たんです。お弁当はごちそうさまだけれど、外へ出してもらえませんか? 大事な用事なんです」
フタバコさんは大きな目でじっとイタルの顔を見た。
「さっき、有楽町でわたしが言ったでしょ。キップをなくしたら駅から出られない、って。キミはこれからわたしたちと一緒に駅で暮らすのよ、ずっと」
駅の仲間
イタルはぽかんとして相手を見た。まさか、そんな。
さっきから何かおかしいとは思っていた。ここの子供たちはまるで転校生を迎えるようにイタルを迎えたし、みんなここに住んでいるみたいだった。
最初はキップをなくした後の手続きのためにここへ来たのだと思っていたが、そんな気配はぜんぜんない。だいたい駅の人が誰も出てこないのが変だ。
「出られない、んですか?」
「そう」
「ずっと?」
「ずっと」
「死ぬまで?」
「まさか。しばらくの間、かな」
「いつまで……?」
「わからないよ」とフタバコさんはそっけなく言った。
「え?」
「わからないの。出ていいよと言われて、その時に出るかどうか決める。そんな感じね」
「フタバコさんは?」
「わたしはまだ出ろと言われていない。出たいとも思っていない」
それならばいいか、とイタルが思ったのはどうしてだろう。
ここはいいかもしれない。とりあえず今はこのフタバコさんがいる。この人は信用できそう。他の仲間もいるわけだし。
でも、そんなに簡単にいいかと思ってしまっていいのかな。
「駅の中で暮らすんですか」
「そうだよ」と今度はキミタケさんが言った。「ぼくたちはみなキップをなくしてしまった。改札口の外には出られない。だから駅で暮らす」
「みんな一緒」と小声で言いながら、部屋の中を見る。いくつもの顔がこちらを見ていた。どれも仲間が増えて嬉《うれ》しいという顔だった。
「ミンちゃんはずっと前からいる。ぼくもけっこう長い。ゲタバコちゃんがその次。他の子は後から来た。だけどね、ここではあんまり時間の感じがないんだ。ここへ来たのはついこの前だったような気もするし、ずっと遠い昔だったみたいに思えることもある。時間は伸びたり縮んだりするからね」
キミタケさんは親切に説明してくれた。キャンプ場のお兄さんみたいだ。
それにしても、とんでもないことになった、とイタルは思った。でも、おもしろいかもしれない、とも思う。
「あの、食事はいつも駅弁ですか?」
「そんなことはないよ。まるしの食堂があるし、レストランなんかも使えるから」
「まるし?」
「行けばわかる。ともかく、ラッチの中には食堂も床屋さんもお風呂《ふろ》もあるんだ」
「ラッチって何ですか?」
「改札口。ぼくたちはキップがないから、ラッチの外へは出られない。ぜんぶのことをラッチの内側で済ませなければならない。その代わり、ラッチの中なら日本中どこへでも行ける。線路はつながっているからね」
「電車はみんな乗り放題」と脇からロックが言った。
「電車も汽車も」とキミタケさんが言った。「でも、自由席はぜんぶ乗れるけれど、指定席は使えない。全席指定の寝台特急なんかは最初から乗れない」
汽車と聞いてイタルは遠い旅のことを考えた。家族で新幹線に乗ったのがいちばん遠かった。京都《きようと》に行って、乗り換えて琵琶湖《ぴわこ》の岸にある親戚《しんせき》の家へ遊びに行ったのだった。それでイタルは家のことを思い出した。
「あの、夜になって家に帰らないと、ママが心配すると思うんですが」
「大丈夫」とフタバコさんが言った。「ちゃんと連絡が行っているから」
「そう、ですか」
ずっと話を横で聞いていたユータが身を乗り出した。
「まるっきり忘れてていいんだよ、家のことなんか」
それはすばらしいことかもしれない、とイタルは思った。
「学校は?」
「行かない。実際、行けないんだ。ラッチの中に学校はないからね」とキミタケさんが言った。「でもこの中でも勉強はする。先生はいないけれど、みんなで教えあう」
それもいいかもしれない。
でも、待てよ。いちばん気になっていることを聞かなければならない。そう考えて、イタルはキミタケさんの顔をまっすぐ見た。
「その、ラッチのことですけれど、越えちゃったらどうなるんですか? 駅員さんの前を走り抜けるとか。改札口じゃなくて柵《さく》になっているところだったらもっと簡単でしょ。乗り越えたら外に出られるじゃないですか」
部屋中の子がイタルの方を見ていた。誰もにこにこしていない。さっきから部屋の隅でふざけていたロックとポックも真剣な顔でイタルの方を見ている。
何かまずいこと言ってしまったのかな、とイタルは思った。
「ラッチを越えることはできるわよ」とフタバコさんが言った。「やりたければやったら」
そう言ってから、フタバコさんはイタルの顔をじっと見た。
「でも、そうしたらキミは一生ずっと汽車にも電車にも乗れなくなるよ。キミのお金を自動券売機は受け付けない。人に買ってもらったキップを出しても、改札口で鉄《はさみ》を入れてくれない。これから先ずっと、キミが生きている間ずっと、日本の鉄道ぜんぶがキミの乗車を断る。だって、キミは神聖なラッチを越えた者なんだから。一度やったらそれっきり」 「わかりました」
夕食はみんなでまるしの食堂に行った。
乗客がたくさんが通るコンコースの横に鉄の扉があって、「職員専用」と書いたのと まるり と書いたのと二枚の表札が貼ってある。
「ここは床屋だよ。理容室だから まるり なの」とユータが説明してくれた。
その隣に同じように「職員専用」と まるし と書いた扉があった。「ここが食堂」とロックが言った。
イタルほみなに続いて中に入った。
「広いんだ」と思わず声が出る。
地味な目立たない扉だから中は蕎麦《そば》屋さんくらいのところだろうと想像していたのに、まるでデパートの食堂みたいだ。
「東京駅にはね、職員食堂がぜんぶで七つあるんだ」とユータが言った。「なにしろ三千人が働いているからね。でも、ラッチの中にあってぼくたちが入れるのはここだけ。
その他に、和食のけやきや洋食のレストラン東京みたいに普通の乗客が入れるところもぼくたちは使える」
調理室の前のカウンターに大人の人たちが列を作っていた。子供たちもそこに並んだ。
「夜はやっぱり定食がいいよ」とロックが小さな声で言った。
カウンター脇の献立表に
定食
朝 二八〇円
昼 三八〇円
夕 四〇〇円
と書いてあった。その他に「牛井 三〇〇円」とか、うどんとか蕎麦とか、いろいろ選べるようになっている。普通の食堂と変わらない。
「四〇〇円なの?」とイタルが聞いたのは、自分がいくら持っているか考えたからだ。
「ううん。ぼくたちはただ。ここでも、けやきでも、レストラン東京でも、サンディーヌでも、ただ。それから散髪もただ。本当は靴磨きだってただなんだけど、誰も革靴を履いていないからイミないね。キヨスクや本屋さんの買い物もただ。ともかくここにいる間はお金はいらない」
タ定食はご飯と味噌《みそ》汁、豚の生妻《しようが》焼きと焼売《シュウマイ》三個とおひたしと漬け物だった。カウンターの中のおばさんは「ほい。しっかり持って。落とすんじゃないよ」と言いながら、 丼と《どんぶり》皿と小鉢の乗ったアルミのトレイを渡してくれた。
その先にレジがあって、大人の人たちはそこでお金を払っていたが、子供たちはそこを素通りする。イタルもおそるおそるそこを通ったけれど、何も言われなかった。
その時になって気がついたのだが、この時間にこんなところに子供が何人もいるといぅのに、制服の人も私服の人も気にしていない。まるで子供たちが見えないみたいだ。
「ぼくたちは見えないの?」と隅の方のテーブルにトレイを置きながら、ロックに尋ねてみる。
「見えてても見えないのかな。ぼくらがいても誰も変に思わない。駅の子だから」
そう言われて、いきなり何か自分が変身したような気がした。駅の子か。
「ステーション・キッズとも言うよ。何かあって話しかければ、大人はちゃんと返事してくれる。さっきのカウンターのおばさんみたいにね」
「ふーん」とイタルは言った。
「ぼくたちの世話をしてくれる人もいる。駅の中で会った時に挨拶《あいさつ》するのはそういう人」
「うん」と言いながら、イタルはフタバコさんと一緒にすれ違った武井さんのことを思い出した。
「ポックは特別に見えないらしい」とロックが言った。「見えなくなれるっていうか。だからあいつは時々とんでもないことをするんだ」
そのポックは、聞こえているはずなのに、知らん顔で焼売を食べていた。
生妻焼きはおいしかった。丼のご飯もぜんぶ食べられた。ほうれん草のおひたしが苦手なので残そうとしたら、フタバコさんに叱られた。ママより恐い。
しぶしぶ口に運んでいると、大人の人がやってきて空いている椅子に坐《すわ》った。
「みんな、元気かな?」
「はーい」とみんなが返事した。
「武井さんだよ」とロックが小さな声でイタルに言った。
「知ってる。前に会った」とイタルは言った。
「新しく来た子は?」と武井さんが聞いた。
自分のことだと気づいて、イタルはあわてて手を挙げた。
「最初は大変だけど、みんなが助けてくれるからね。早くここに慣れなさい」とやさしい声で言う。
「はい」
なんだか、ボーイスカウトに入ったみたいだ。ボーイスカウトじゃなくて、ステーション・キッズなんだけど。
「そんなに大変なことじゃないよ、駅で暮らすのは」とテーブルの向こう側にいたキミタケさんが言った。「大事なのは、食べるものと、寝床、風呂と着替えと勉強だろ。ぜんぶラッチの中で間に合うんだよ。食べるのは食堂がある。寝るのは仮眠所のベッド。ここはぼくたち専用で、その隣に浴場もある。勉強なんかはさっきの詰所でする。私物もあそこに置いておく。着替えはね、遺失物で保管期限が切れたものの中から選ぶことができる。たいていのものはあるから、時々行って、新しいのを探すといいよ。洗濯機と乾燥機は浴場の隣。困ることはぜんぜんない。駅はステーション・キッズを大事にしてくれる」
「はあ」と言って、イタルは深呼吸をした。本当にここで暮らすらしい。ぼくはステーション・キッズの一人になったんだ。
「その代わり、大人には手伝ってもらえない」と斜め前に坐った武井さんがにこにこしながら言った。子供どうしの話を聞いていたらしい。
「私たちが見てはいるけれど、なんでも自分たちでしなければならない。お金はいらないし、大人は邪魔もしないが、よほどでなければ手も貸さない。駅の子はね、そうやって賢くなるんだよ」
食事を終わって立つ時、イタルはキミタケさんの腕に手を掛けた。
「あの子はどうしたの? あの小さな子。晩ご飯も食べないの?」とそっと聞いた。
「あの子? ああミンちゃんだね。ちょっと理由があって、ご飯は食べないんだよ」
「大丈夫なの?」
「まあね。キミが心配するのはよいことだ。大きい子は年下の子に対して責任があるから」
食事の後、みんなは詰所に戻った。
ミンちゃんは一人で静かに待っていた。
夕食の後は本当は勉強の時間だけど、今日は日曜日だから勉強はなしで、みんな勝手に遊んでいい。隅の方に子供の雑誌や本がたくさんあったし、オセロのボードなんかもあった。
イタルは何をすればいいかわからなかったが、他のみんなはそれぞれ何かを見つけて遊んでいる。隅の方でフタバコさんが小さな子供たちを集めて絵本を読んでやっていた。
ユータは何か絵を描いている。そっとのぞいてみると、蒸気機関車の精密な絵だった。尖《とが》った鉛筆でメカの細部を正確に描いている。絵というより図かもしれない。とても本物っぽかった。
「すっごいじょうずだね」と思わず言った。
「C62。旅客列車を牽《ひ》くSL」とユータは言った。口調がすっかりマニアだ。「丸の内地下北口を出たところの広場にC62の動輪だけ飾ってある。直径一七五〇ミリ(そう言いながらユータは描いている図の大きな車輪のところを指さした)。あれだけじゃしょうがないんだけど、でもまあ、ないよりはましだね」
「出たところって、つまりラッチの外でしょう」
「もちろん。いいこと教えてやろうか」そう言ってユータは声をひそめた。「終電が出てから始発までの間なら、ラッチの外へ出てもいいんだ。その時なら動輪の広場に行くこともできる。この車輪に手で触れられるよ。鉄は冷たいことがわかる」
「実際には深夜だからね」と横から声がした。
見ると、キミタケさんだった。
「そんな時間に目を覚ますのが大変だし、シャッターがあるから駅の外には出られない」
「というわけさ」と言ってユータは絵を描きつづけた。「でもぼくは行って触ったよ」
部屋の隅でミンちゃんが同じくらいの歳の女の子とせっせっせをして遊んでいた。あの子の名は比奈子《ひなこ》ちゃんだったな、とイタルは考えた。
「せっせっせのよいよいよい。お寺の和尚さんがカボチャの種を蒔《ま》きました。芽が出てふくらんで、花が咲いてしぼんで、ぐるっとまわってじゃんけんぽん!」
なんだか古いなあ、とイタルは思った。ここはみんながぜんたいにのんびりというか、ぼんやりというか、とろいというか。
「お茶壷《つぼ》、茶壷。茶壷にゃ蓋《ふた》がない。底を取って蓋にしろ」
「お寺のツネ子さんが、階段上ってこーちょこちょ」
そういうみんなを見ていて、イタルははっと気づいた。ここにはテレビがない! だからみんな昔っほい遊びばかりしているんだ。
「どちらにしようかな。天の神様の言うとおり。なのなのな。鉄砲うってバンバンバン。玉子が割れたかな」
「最初はグー、ジャンケンポン、アイコでしょ、いかりやチョースケ頭がパー、正義が勝つとはかぎらない」
これは相当に退屈なところですよ、とイタルは自分に言った。
寝るまではロックが世話をしてくれた。大きなキヨスクに行ってタオルと歯ブラシを買い(と言っても、実際にはもらったのだけど)、遺失物の倉庫に行って着替えを選び出し、職員浴場に行ってお風呂に入り、そこから遠くないところにある寝室に向かう。
出会う駅員はみな子供たちに気づかない風だった。
寝室というのは詰所の先にあって、二段ベッドが四つ並んでいた。女の子たちにはまた別の部屋があるらしい。
糊《のり》でばりばりのシーツの上に横になって毛布を掛け、薄暗い天井を見上げながら、おかしなことになったなと考えた。結局、山村切手店には行けなかった。コレクションはもうすぐ完成するのに。今朝まではそのことしか頭になかったけれど、もうそれどころじゃない。まるでぼくは家出したみたいだ。
そうだ、これは一種の家出なんだ。でも家にはちゃんと連絡が行っているから、ママたちは心配していない。そう聞いたけど、どんな連絡だろう。お宅のお子さんはステーション・キッズになりました。駅の子として元気に暮らしています。
でも、駅の子のことなんかなんにも知らないママやパパが、それで安心するんだろうか。明日の朝、学校にはなんて言うんだろう。先生だって駅の子のことなんか何も知らないのに。
さっき、寝床に入る前にユータが言ったことも気になる。「明日は月曜日だから、朝から仕事だよ」
仕事ってなんだろう? 聞いたのに教えてくれなかった。行けばわかるって。行くって、どこへ行くのかな。
それが気になって眠れない、と思っているうちに、イタルは眠りこんだ。
翌朝は六時四五分に起こされた。さっと着替えて、顔を洗って、トイレを済ませて、まるしの食堂に行く。ラッチの中で朝食を食べられるのはここしかなくて、ここが開くのが七時だから、逆算して起きるのは六時四五分になる。そう説明してくれたのはロックだった。
朝食は、ご飯と味噌汁、鯵《あじ》の干物、納豆、それにひじきの煮物だった。あと白菜の漬け物。イタルはひじきを残したかったけれど、フタバコさんに叱られそうだからと思ってがんばって食べた。子供たちだけで勝手な暮らしができるはずなのに、どうもこっちの方が家よりも厳しいみたい。
食事が終わってみんなそろってまるしの外へ出た。コンコースは行き来する乗客が多くなっていた。
「じゃぁ、いつものように受持の駅へ行ってね」とフタバコさんが全員に向かって言った。「今日は月曜日。日曜日に遊びすぎた生徒はみんな月曜日の朝はぼんやりしている。だから特別に気をつけてあげて」
いったい何のことだろう? 受持の駅? 生徒って誰だ?
「ええと、イタル君は今朝が初めてだね。じゃあ、ユータと組んで。ユータ、イタルに教えてやってね」
「はい」
「では、出発」 そう言われて子供たちは散っていった。ユータがイタルの肩を叩《たた》いた。
「おいで」
「どこへ行くの?」
「今日はぼくたちの受持は四ッ谷駅だよ。1・2番線から中央線快速で三番目」
「それは知っているけれど(とイタルは昨日キミタケさんとユータと一緒に駅の中を探検した時のことを思い出しながら言った)、でも何をしに四ッ谷に行くの?」
「道々話すよ。これがぼくたちの仕事なんだ。日に二回、朝と午後と」
2番線で電車が待っていた。ホームは案外がらんとしている。そう思いながら電車に乗った時に、1番線に別の電車が入ってきた。ホームは降りる乗客でたちまちいっぱいになる。それを待っていたようにイタルたちが乗った電車のドアが閉まった。
イタルとユータはドアの近くに立っていた。
「電車で学校に通っている子がいるだろう」とユータが言った。
「うん」
「ぼくたちは生徒って呼んでいる。子供って言うと自分たちと区別できないからね。電車通学の生徒を護《まも》るのがぼくたちの仕事だ。わかった?」
「うん。でも、どうやって?」
「小さい子がランドセルを背負って、体育着の袋を持って、込んだ電車に乗ってくる。大人の通勤客に囲まれて、小さい子は大変だ。だから手を貸してやるのさ。駅でちゃんと降りられるよう、ホームの端を歩かないよう、大人に突き飛ばされたりしないよう、気をつける」
「それが仕事?」
「そうだよ。今は生徒も慣れているからだいぶ楽になったらしい。四月はほんと忙しかったってキミタケさんが言っていた。新入生が多くて、何も知らないからね。最初の三日くらいは親が一緒だけど、そのうち一人になるだろ。その時が危ないんだって」
そんな仕事をするのか。けっこう大変じゃないか。
「でも、生徒は気づかないんだよ、ぱくたちが護っていることに。自分でうまく通学しているって思ってる。それでいいんだけどね」
そう言っている間に電車は四ッ谷駅に着いた。ユータとイタルはホームに降りた。
「今日はぼくたちはこの駅が受持。ここで降りた生徒はあの階段を上って、麹町《こうじまち》口から出る。地下鉄に乗り換える子は少ないね。ほら、上り電車が来た」
イタルたちが来たのと逆の側からホームに電車が入ってきた。ドアが開いて人が降りはじめる。ユータは少し離れたところから人の流れを見ている。大人に混じってランドセルを背負った子供の姿があった。小さくて、頼りなげで、危なっかしい。階段へ急ぐ大人の群の中に入ると見えなくなる。
電車のドアが閉まって、動きはじめた。ユータは人の流れを横切ってホームの反対側に行った。電車を背にして立ち、ホームの先に目を配る。
ユータが走り出した。イタルは後を追った。すぐ横を轟音《ごうおん》をたてて風を巻いて電車が走る。
ホームの端をよたよた歩いている子がいた。二年生くらいだろうか。ユータは駆け寄って、そっとその子の肩をつかみ人の流れの中の方へ連れていった。その子は、自分でホームの端は危ないと気づいたみたいに、大人に混じって階段に向かって歩きはじめた。
人の流れがまばらになった。その中にぽつんと一人で立っている子がいる。ユータはまた走っていって、その子と手をつなぎ、一緒に歩きはじめる。
「この子は転校生でね、まだ学校までの道がよくわかっていないのさ」とユータはイタルに言った。でもその子の耳には聞こえていないみたいだ。数歩行ったところでユータが手を離すと、ああそうか、学校はこっちだったかという風に一人で歩きはじめた。
ホームには歩いている人はほとんどいなくなった。これから乗ろうと電車を待っている人も少ない。
「だいたいこんな風だよ」とユータは言った。
「キミは、さっきみたいに電車のそばを走っても大丈夫なの、危なくないの?」とイタルほ聞いた。
「ぼくは大丈夫。キミも大丈夫。駅の子はぜったいに傷つかない」
本当だろうかとイタルは思う。
「次の電車が来たよ」とユータが言った。
またホームの反対側に行って、降りてくる人々を見張る。子供たちはみんなちゃんと歩いているようだ。
降りる人が済んで、乗る人がドアから入りはじめた。ユータとイタルは人の流れを横切って電車の近くに移動した。
「あ、あの子、また降りられない」とユータが叫んだ。
その次に起こったのは、いったい何だったのだろう。
ユータは電車の横に立って、右手を高く上げ、指をパチンと鳴らした。すると、電車に乗り込もうとしていた人たちの動きが止まった。ホームを歩いている人々もピタリと静止している。時間が止まった!ユータは動かない乗客の間をすり抜けて電車の中の方に入っていき、すぐに二年生くらいの女の子を引っぱって出てきた。赤いランドセルの他に大きな布|鞄《かばん》を持ったその子は半分ペソをかいていた。
ユータはその子をホームに立たせ、階段の方に向けて、また右腕を高く上げてパチンと指を鳴らした。固まっていた人たちが動き出した。赤いランドセルの子は大きな鞄を引きずるようにしながら、歩いていった。
「あの子は三鷹《みたか》から来るからね、後から乗る人に押されてついつい電車の奥の方に入っちゃうんだよ」と後ろ姿を見ながらユータが言った。「荷物も多いし、降りる駅が近くなってもなかなか出口の方へ行けない。四ッ谷で降りる人は実はあまり多くないんだ。この時間の快速ではほとんどの乗客が終点の東京まで行くからね。『降ります!』 って大きな声で言えばみんな協力して出してくれるはずなんだけど、気が小さいんだね、きっと。だいたい子供の姿は大人には見えにくいものだしさ」
「それよりも、キミ、今、何をしたの?」
「何って?」
「時間を止めた」
「ああ、そうだよ。そうしないと、あの子を電車の奥から出せなかったから」
「できるの?」
「時間を止めること?」
「そう」
「ステーション・キッズならばみんなできると思うよ。そうしないと生徒を助けられないだろ」
「ぼくも……」
「できるようになるさ。ぼくが指を鳴らすのはきっかけみたいなもんで、止まれって強く思えはいいんだ。比奈子ちゃんや緑《みどり》ちゃんたちは指が鳴らせないから、靴のかかとでホームをトンと蹴《け》るんだって言っていた。フタバコさんは一回だけポンと拍手だって」
「ぼくも、できるんだ」
「いたずらでやっちゃダメだよ。時間を止めてこっちの人とあっちの人の鞄を取り替えたりしちゃいけない」
「わかった」
「だから、さっきも言ったけど、駅の子は電車にぶつかって傷ついたりしないのさ。電車が身体に触れる直前にハッとして、それで時間が止まるからね」
すごいことになった、とイタルは思った。朝の駅で生徒たちを護るというのは、最初に聞いた時にはそんなにおもしろい仕事だとは思わなかった。
でも、必要とあらば時間まで止められるんだ。しかもまわりの人は誰もそれに気づかない。大人はもちろん、ぼくたちが護ってやってることを生徒たち自身も知らない。
そういうことなら、ステーション・キッズになるのもいいかもしれない。学校に行ったり切手を集めるのよりおもしろいかもしれない。
甲州焼肉弁当
朝の四ッ谷駅の仕事は八時半には終わった。通学の生徒たちがいなくなったのだ。
イタルとユータは、着いた乗客がみな階段の方へ行ってしまって一瞬がらんとなったホームに立っていた。
「朝の仕事は忙しいけれどすぐ終わる」とユータが言った。「授業が始まる時間は決まっているからね。でも午後の仕事は長い」
「そうか」とイタルは言った。
「そうなんだ。みんな帰る時間はばらばらだろ」
言われてイタルは自分の学校のことを思い出した。下校時間は学年で違うし、日直だと遅くなるとか、クラブとか、友だちと遊んでいるとか、いろいろある。でも、ぼくは今日は学校に行かない。月曜日なのに。
「午後はラッシュの混雑がない分だけ楽だし、遊べるけどね」とユータは言った。「東京駅に戻っても退屈だから、ちょっと駅弁を買いに行こうか」
「東京駅で売っているじゃない」
「いつもと違う駅弁だよ。おいで」と言ってユータはちょうどホームへ入ってきた下り電車の方へ歩き出した。
二人は満員の上りに比べるとずっと空《す》いている快速高尾行き下り電車で一駅先の新宿まで行った。たった四分で着いた。8番線ホームに降りて、込み合った階段を下り、コンコースを歩いて、4番線へ回る。
そこに、通勤用とは明らかに違う長距離列車が悠然と待っていた。一車両に出入口が二箇所しかない。
「あずさ9号」とユータは言った。
「これに乗るの?」
「1号車に行くよ」と言いながら、ユータはホームを走り出す。
「どうして?」とイタルも走りながら聞いた。
「自由席で禁煙車は1号車だけ。ぼく煙草の匂い嫌いなんだ」
いちばん後ろの1号車にはまだ空席があった。二人並んで坐《すわ》った。
「やっぱ汽車って、こっち向きに坐らないとダメだよね。
「こっち向きって?」
「ああ、進行方向」
そうかもしれない、とイタルは思った。これまでイタルが乗ってきた電車では、たいてい背中側が窓だった。座席がそういう向きになっていた。今二人で坐っているこの席は横を見れば外の景色が見える。そこがぜんぜん違う。それに、ユータは「キミがそっち」と言って、窓側の席を譲ってくれた。
車内の誰もが遠くまで行く顔でゆったりと構えている。これは、いつもの電車とは達うんだ。そう思うとイタルもわくわくしてきた。
あずさ9号は九時ちょうどに走り出した。
「どこへ行くの?」
「陣中|鍋《なべ》めし、甲州焼肉弁当、煮貝ずし」
「何、それ?」
「そういう弁当が買えるところ」
コーシューつてどこだっけ?
ユータに聞くのは恥ずかしいので黙っていることにした。
しばらくの間、ずっとガラス窓の向こうの景色を見ていた。街はすごくごちゃごちゃしている。家やら小さなビルやら電柱やら看板が四角い窓の中をびゅんびゅん通る。駅を通過するけれど、速いから駅の名が読めない。列車はどの駅にも停まらなかった。
「ここは日本で三番目に長い直線区間だよ」 とユータが耳元で言った。
「線路がまっすぐなの?」
「そう。東中野《ひがしなかの》から国立《くにたち》まで、二一・七キロ。まっすぐ」
電車の走る音がうるさいし、前には知らない人がいるから、どうしても顔を寄せて話すことになる。
「じゃ、いちばんは?」
「北海道。室蘭《むろらん》本線の白老《しらおい》と沼《ぬま》ノ端《はた》の間。二八・七キロ。二番も北海道」
感心して相手の顔を見る。
「キミって本当に汽車が好きなんだ」
ユータは目と目の間が開いていて鼻が小さくて、どっちかというとおかしな顔だけど、鉄道については詳しいらしい。
「まあね。けっこうマニアだね」
イタルはその答えになんとなく満足して、また窓の外を見た。
車窓の景色はやっぱりごちゃごちゃしている。しばらくして、ユータの方を向く。
「じゃあキミは駅で暮らしていることも好きなの? 毎日うれしくてしかたがないとか」
「やっぱそうかな。運がいいと思うよ。電車乗り放題だからさ。ほら、三鷹を通過したよ」
速くて駅名なんか読めないのに、よくわかるな。
「さっき四ッ谷で電車から降りられなかった子、知ってるんだ。ぼくの家、今は田端《たばた》だけど、前は三鷹だった。あの子はそのころの近所の子なんだ」
「だから特別に気をつけたんだ」
「そうでもないけどね」
またしばらく窓の外を見る。建物と建物の間にだいぶ隙間が出てきた。少しだけ田舎っぼくなった。
「じゃあキミはずっと駅の子でいたいんだ」
「たぶんね。楽しいから」
ユータがそう言ったところへ車掌さんが回ってきた。ぼくたち、学校さぼりと思われていないかな、と思ってイタルは少しどきどきした。キップもないわけだし。
でもユータは平気な顔をしている。
車掌さんは二人の顔を見た。どうなるんだろう。
「キミたちは、ああ、駅の子だね。ごくろうさん」
それだけ言って車掌さんは行ってしまった。
「駅の子か。ぼくたち、キップいらないんだ」
「そうさ。言っただろ。いつだって行きたいところへどこでも行けるのさ」
「すごい」
ようやく実感が湧いてきた。
「もうすぐ八王子《はちおうじ》だよ。新宿から三十七分。快速だと五十五分かかるんだからやっぱりこっちは速いよね」
八王子を出た列車はやがて山の中に入った。トンネルが多いし、建物もあまりない。高速道路の赤い橋がちらっと見えた。緑の多い山の中を走るのは、本当に東京の外へ出た感じで嬉《うれ》しかった。
しばらく走って、大月《おおつき》駅に停まった。「どこまで行くの?」
「甲州焼肉弁当なんかが買えるのは甲府《こうふ》駅です。小淵沢まで行くと、高原野菜とカツ弁当や、あっちっち牧場の牛めしも買えるけれど、みんなの昼食に間に合わないからね」
「そうか、買って帰るのか」
というわけでユータとイタルは一〇時四一分に甲府駅に到着し、ホームで三種類計十一個の弁当を買った。
弁当を買ったと言っても、売店のお姉さんは「あら、駅の子ね。じゃ、お代はいらないわ。重いから気をつけてね」と言っただけだった。さっきの車掌さんといい、このお姉さんといい、面と向かえば駅の子はわかるらしい。
二人はビニール袋に入れた弁当を持って、上りホームへ行った。キヨスクの横に公衆電話を見つけて、ユータが東京駅に電話する。交換手に詰所の内線番号を言って、出た誰かに弁当を買ったと伝える。
その電話が終わったとたんに列車が入ってきた。一〇時四六分発のあずさ12号。
二人はまた1号車に乗って東京に向かった。駅から一歩も出ない、本当のとんぼ返りだった。イタルは、次はもっと遠くまで、あっちっち牧場の牛めしの方まで、行きたいと思った。
ユータは帰りの汽車の中でも鉄道についておもしろいことをいろいろ教えてくれた。
十二時二五分に新宿に着いた二人は、一時にはみんなの部屋に弁当を届けることができた。
いつものと違う弁当は人気があった。みんな寄ってきて、三つのうちの好きなのを選ぶ。イタルとしてはちょっと得意な気持ちだった。
部屋の隅にミンちゃんが坐って一人|綾《あや》取りをしていた。
「お弁当、要らない?」とイタルは近くまで行って声を掛けた。
「いいの」とミンちゃんは言った。イタルの顔を見て、少しだけほほえむ。なんだか寂しい顔だなあ。
あの子が何か食べるところは見たことがない。なんにも食べなくて大丈夫なんだろうか。いろいろと口うるさいフタバコさんもミンちゃんには何も言わない。他のみんなもミンちゃんは特別と思っているみたいだ。
どうしてだろう。
わいわい言いながら食べる駅弁はおいしかった。飲み物は牛乳かトマトジュースか一〇〇%のアップルジュース。コーラなんかはない。そういう決まりらしい。
「さあ、そろそろ仕事に行く時間だよ」とキミタケさんが言った。
それまでお喋《しゃべ》りしたり、漫画雑誌を見たり、何かノートに書いたりしていた子供たちが立ち上がった。すぐ立つ子もいるし、仲間にせかされて立つ子もいる。でも、立たない子はいないし、立ちたくないとごねる子もいない。
「じゃあ、気をつけて行ってきて。月曜日の午後はぼんやりしている生徒が多いからね」とキミタケさんは言った。
「イタル君はだいたいわかったかい?」
いきなり聞かれて、ちょっととまどう。
「はい。わかりました」
「じゃあ、午後はユータとは別にしよう。ユータは今日は田町《たまち》に行って。それでイタル君は、そうだな、泉《いずみ》と緑と馨《かおる》この三人を連れてまた四ッ谷にゆく。わかったね」
え? 女の子を三人も? どうしよう。まだ初めての午後なのに。
泉と縁と馨はミンちゃんよりちょっと下くらいの女の子だった。一人っ子で妹のいないイタルにすればいちばん苦手な年頃だ。この子たちを連れていくのか。
そう思う間もなく、三人はあたりまえのようにイタルのところにやってきた。泉と緑が両方からイタルと手をつなぐ。馨は先に立った。
詰所を出てぞろぞろコンコースに向かう子供たちに混じって、イタルは二人の女の子に手をつながれたまま歩いた。
「ステーション・キッズはお互いの面倒を見るんだよ」とフタバコさんが言った。「キミはこの三人に教えてもらうことがいろいろあるしね」
まさか。
イタルはわかった顔で、今朝と同じように1番線か2番線から中央線快速の下りに乗ればいいと思ってそちらに向かった。
「まだ時間があるよ」と緑が言った。ちょっと背が高くて緑色の半ズボンをはいているのが緑。顔がふっくらして白と空色の縞《しま》のスカートが泉。黄色いワンピースが馨。
「時間があるって、だから?」
「秋葉原《あきはばら》から行こうよ」と馨が言う。
なんかよくわからない。
みんなは1、2番線ではなく、4番線へ向かった。
「午後は急がない時はいつもこうするの」と泉が言う。知らなかった。
4番線からウグイス色の山手線内回りに乗る。
これでいいのかなとイタルはまだ心配だが、三人の女の子はぜんぜん平気だった。
神田駅に停まるところまでは今朝の中央線快速と変わらない。ちょうど隣をオレンジ色の電車が併走していたから、ここまで同じということはよくわかった。
ところがその先でオレンジ色は離れていき、ウグイス色はまっすぐ走って秋葉原のホームに入って停まった。
「降りるよ」と馨に言われてああてて降りる。
「この駅はむずかしいからね。迷わないよう気をつけてね」と緑が右からイタルの手を取りながら言った。まるで手を引くという感じだ。
「こっちだよ」と泉が言って、暗い階段を上る。
上ったところは日の射す明るいホームで、向かいあってもう一つのホームがあった。
「あっちの電車に出ると千葉《ちば》に行っちゃうの」と馨が言った。
入ってきた電車にみんなで乗る。
「これは中央線じゃなくて総武《そうぶ》線だからね」
がらんとした電車の中で泉が言った。
まったく、この子たちはなんでも知っているんだから。
「キミたちは一緒に駅の子になったの? 三人で一緒にキップをなくして?」
「まさか。バ力みたいじゃない、それって」と緑が生意気な口をきいた。まいったな。
「べつべつばらばら」と馨が言う。「いつもだって一緒にいるわけじゃないよ。今日は新入りにいろいろ教えてあげようと思って、三人で来たのよ」
電車は御茶ノ水の駅に停まった。隣のホームにオレンジ色の中央線が見える。
その後、電車は水道橋《すいどうばし》、飯田橋《いいだばし》、市ヶ谷《いちがや》と停まってようやく四ッ谷に着いた。三人は外も見ずに「おちゃらかおちゃらか」をやっている。それに飽きると「あっち向いてホイ」。
解放されたイタルは一人でものを考えていた。駅の名は互いに似ている。橋と橋が続くし、次は谷《や》と谷が続く。この前もどこかでこんなことを考えた。どこだったかな。浜松町と有楽町だ。あの二つの駅は並んでいなくて、間に新橋が挟まっていた。町《ちょう》と町の間に橋がある。
あれって、つい昨日のことじゃないか。今日はまだ月曜日で、山村切手店に行こうと思って家を出たのは昨日の朝だ。それなのに、もう一か月くらい駅で暮らしているような気がする。
ホームに降りて、ざっと見回す。
「ちょっと早かったね」と馨が言った。
「四ッ谷は四谷見附《よつやみつけ》でしょ」と緑がイタルに向かって言った。
「昔の名前だろ」とイタルは、社会科、歴史の勉強、江戸時代、と思い出しながら答える。小さい子を相手に恥をかきそうなのが恐い。
「そう。地下鉄だとさ、隣の駅は赤坂見附《あかさかみつけ》だよね」
地下鉄はそうなっているのかと思いながら、知った顔で「うん」と言う。
「じゃ、その隣は?」
「ええと、わからない」
「あのね、おみおつけ」
三人がそろってきゃらきゃらと笑う。
まじめに江戸時代のことを考えようとしていたイタルは言葉に詰まった。
悔しくて、何かうまいことを言い返してやろうと考えていると、泉が「あっ、来たよ!」と言ってホームの先の階段を指さした。
見ると六、七人の小学生の女の子が下りてくるところだった。
わーと言って三人はそちらへ走っていった。残されたイタルはいちおう用ありげにホームを見渡してから、そちらに向かった。
学校帰りの生徒と馨たちがきゃーきゃー言いながら喋っている。ぜんぶで十人くらい。週末が挟まったから会うのはひさしぶりという感じ。
それを見ながら、イタルはあれっと思った。緑と馨と泉はステーショソ・キッズだ。電車通学の生徒たちを護《まも》るのが仕事だ。だから生徒には見えないはず。それなのに、この子たちは一緒になってクラスメートみたいに喋ったり笑ったりしている。どうなっているんだろう。遊ぶ時は見えちゃうのかな。
「じゃあね、じゃあね、花いちもんめ」と誰かが大きな声で言った。
生徒たちはランドセルを階段のいちばん下の段に積み上げ、二手に分かれてホームの真ん中で花いちもんめを始めた。
勝ってうれしい花いちもんめ
負けーてくやしい花いちもんめ
隣のおばさんちょっと来ておくれ
鬼がいるから行かれない
お布団かぶってちょっと来ておくれ
お布団びりびり行かれない
おかまかぶってちょっと来ておくれ
おかま底抜け行かれない
たんすながもち、どの子が欲しい
あの子が欲しい
あの子じゃわからん
その子が欲しい
その子じゃわからん
みどりちゃんが欲しい
みどりちゃんじゃわからん
そう歌っている背中に電車が入ってくる。危ない。
イタルは、手をつないで歌いながら後じさりする子供たちと進入する電車の間に入って、両手を広げてみなの背中を押さえた。
他の乗客もホームにいる駅員もこの花いちもんめに気づかない風で、子供たちの間をすたすた歩いてゆく。一緒にいると普通の生徒も駅の子の魔法の輪の中に入ってしまうらしい。
みずしまみどりちゃんが欲しい
相談しましょ
それから一時間ほど、イタルはホームを走り回って生徒たちを電車から護った。女の子はまとまって遊んでいるが、男の子は階段を駆け下りてきて、ホームを縦横に走り回り、上履き入れでキャッチボールをし、閉まる電車の扉を押し開けて乗り込もうとしたりした。扉に挟まったランドセルを駆け寄ったイタルが押し込む。
一度はどうしようもなくて、指を鳴らして時間を止めた。うまく鳴るかどうか、時間が止まるか、心配する暇もないほどとっさのできごとだった。だけど、うまくいった。時間を止められた。ぼくはたしかに駅の子だ。
やれやれ、とんでもない仕事だよ、これは。
勝ってうれしい花いちもんめ
負けーてくやしい花いちもんめ
夕方になってイタルと緑と馨と泉はくたびれて東京駅に戻った。帰りは総武線ではなく中央線快速に乗ったのは、三人とも疲れて乗換などしたくなかったからだろうか。
詰所には半分くらいの子供たちが帰っていた。
「どうだった?」とフタバコさんが聞いた。
「大変ですよ、あの子たちは」
「ほほは、わかったみたいね」
しばらく休んだ後は勉強の時間だった。詰所の隅の本棚には教科書や参考書やノートや文房具がたくさんあって、勝手に使っていいようになっている。ざっと見ると、算数も国語も社会も理科も、イタルが学校で使っていたのがそろっていた。
緑と泉と馨は隅の方で大きな声でかけ算の九九をどなっていた。ユータとロックとポックは参考書を何冊も広げて何か研究発表の準備をしている。比奈子は家庭科らしく、真っ白い布にアイロンを掛ける練習をしてい(アイロンなんてどこにあったんだ?)。フタバコさんがそれに手を貸している。キミタケさんはみんなの間を回ってノートをのぞき込んだり質問に答えたりしている。
イタルは『こども日本地理』という本を持ってきて開いた。甲府について知りたい。駅のホームにきっちり五分しかいなかったけれど、あれは本当はどんなところなのだろう。そうか、山梨県か。山があっても山なし県。
制服姿の駅員さんが入ってきた。
「みんな勉強してるかい?」
「あ、桑島《くわじま》さんだ」と叫んだのはロックだった。
若い人だ。武井さんよりもずっと若い。
「次のシフトまで間がある。しばらく一緒にいられるよ。キミタケ君は自分の勉強に戻っていい。ぼくがみんなの勉強を見るから」
そう言ってから桑島さんは室内を見渡し、イタルの方を見た。
「キミが新入りのイタル君か。今日は四ッ谷でごくろうさま。花いちもんめは大変だったね」
あれ、どうして知っているんだろう。
線と馨と泉は知らん顔で九九をやっている。
桑島さんはイタルが見ていた本を肩越しにのぞいた。
「甲府のことだね。今日行ったからか」
「駅弁にあった煮貝って何かと思って」とイタルは小さな声で言った。
「ならばこれが役に立つよ」
そう言って桑島さんは百科事典を一冊取ってくると、ページを開いて見せてくれる。
「――アワビをしょうゆ味で煮込んで、そのまま煮汁につけ込んだもの。かつて駿河《するが》地方から生のアワビを運ぶために考案された料理で、保存性が高く、薄切りにして、からしじょうゆで食べることが多い。」なるほど。
「甲州は海から遠いからアワビなんか食べられなかった。だから煮てから運んだんだ。その名残があの駅弁だよ」
「あの列車はどこまで行くんですか?」
「それは時刻表を見てごらん。あそこにある」と言って桑島さんは部屋の隅の本棚を指さした。「中央本線のページだよ。最初の方に索引地図がある。行く先がわかったら、どんなところかはその本を見ればいい」
ああ、『こども日本地理』 か。
イタルはしばらく山梨県と長野県のことを勉強した。ノートにいろいろ書き写して勉強らしくしたけれど、どこかうきうきしていた。知りたい気持ちに背中を押されている。今日行ったところだから、いつかもっと先まで行くかもしれないところだから、興味がむくむく湧く感じだった。今度は長野県まで行ってみたい。
桑島さんは馨と泉と緑を相手に九九をやっている。二の段から九の段まで唱えた後は「さんぱ」とか「はっく」とか「ごご」とか言って答えを促す。その声が耳に入ってき て、なんだか懐かしい。
少し飽きて室内を見回した。
隅の方でミンちゃんがリリアンを編んでいた。そばでアイロンを終わった比奈子ちゃんが見ている。リリアンはまだ長くなっていないから、比奈子ちゃんから教わったばかりなのかもしれない。
キミタケさんは一人で本を読んでいた。
フタバコさんと桑島さんはみんなの間を回って何か教えている。先生みたいだけど、でもみんな一緒の授業とは違う。誰もが勝手なことをしているのだが、その割に力が入っている。イタル自身にしても、長野県なんてまるで知らなかったところのことが今は知りたくてしかたがない。いつか行こうと思うと身が入る。
桑島さんが手招きした。イタルは立ってそちらへ行った。
「この子たちの九九、見てやってくれる? もう時間だからぼくは行かなくては」
「はい」と言いながら、またこいつらの相手かと思った。
ところがこれがおもしろい。「にはち」と言うと泉が「じゅうろくー」と答える。「ろっく」と言うとやはり泉が「ごじゅうに」と言う。しばらくすると泉がいちばんできることがわかった。これは外そう。
「今は緑と馨だけ」
そう言って、泉の不満げな顔を無視して続けた。緑と馨の実力は同じくらいだった。緑が出した答えを聞いて、不参加の泉に「正しい?」と聞くと、嬉しそうにうなずく。じゃあ、これからは泉が先生ということにしよう。
三人とも納得した風だったので、その場を泉に任せてイタルは長野県の勉強に戻った。牛に曳《ひ》かれて善光寺参り、ってなんだ?
しばらくすると、みんなが勉強に飽きたのか、部屋の中が騒がしくなった。
「体育の時間!」とロックが叫んだ。
何をするんだろう?
「いつものとおり、プラットホーム・ランニング。今日は7番、8番ホーム。湘南《しょうなん》電車のところだよ」
「何するの?」 とイタルはユータに聞いた。
「走るの」とユータは答えた。「この部屋を出て、中央通路からホームまで階段を上って、それから神田寄りの端っこまで走ってUターン、有楽町寄りの端まで行って、戻って、階段を下りて、この部屋に戻る」
「けっこうあるね」
「ああ。一キロ近くあるって、フタバコさんが言っていた」
「行くよ」と言って、ロックがドアを開いた。みんなが出るまで押さえていてくれるらしい。
はじめは狭い廊下をみんなでまとまって走ったけれど、中央通路に出たところでばらばらになった。混雑している時間で、人がたくさんいる。その間を縫って、人にぶつからないよう速く走るのがむずかしい。一種の障害物競走だ、とイタルは思った。
やがて7番と8番のホームの上り口が見えてきた。右に曲がって、階段を駆け上る。息が切れる。体育は苦手だし、走るのは特別に苦手だからなと思っているイタルの横を黄色いワンピースが駆け抜けていった。え? 誰? 馨ちゃんだ。負けた。
ホームには中央通路以上に人があふれていた。その人たちを右へ左へかわしながら、進む。あんまり走るという感じじゃないな。でも前から来る人たちも避《よ》けてくれるから、まるっきりぼくたちが見えないんでもないみたいだけど。透明人間じゃないということ。
いちばん端の柵《さく》のところまで行って、タッチして、戻った。その後ですれ違ったのはポックとキミタケさんと比奈子だけだった。他のみんなはぼくより速いのか。
復路のホームは長かったし、人はいよいよ多くなっていた。ここで時間を止めるのはインチキだろうと思った。ようやく有楽町側の端に行って、またUターンして、階段のところに着いた。階段の途中でポックに抜かれた。
詰所に戻ってみると、イタルはびりに近かった。まだ戻っていないのはキミタケさんと比奈子。みんなの顔を見てそう計算しているところへ比奈子が戻り、それに続いてキミタケさんが帰った。キミタケさんはみんなを見ながら最後に走ってきたらしい。ミンちゃんは走らなかったのかな。
「いちばんは?」とイタルは聞いた。
「いつものとおり、馨ちゃんだよ」とロックが言った。
「速いんだ」
「そう。込んでいる時に競争すると、馨にはかなわない」
「大きくなったら、バスケットボールをやるといいよ」とフタバコさんがまだ息を切らしながら言った。「フェイントの名人だから」
「晩ご飯に行こう」としばらくしてキミタケさんが言った。
しばらくわいわい議論したあげく、今日は二手に分かれて、一方はレストラン東京、もう一方は和食のけやきに行くことが決まった。イタルは洋食の方を選んで、フタバコさんの引率で詰所を出た。今度もミンちゃんは後に残った。
特製ハンバーグ定食を食べている時も、イタルはミンちゃんのことが気になっていた。なんであの子は何も食べないんだろう。なんでフタバコさんは何も言わないんだろう。
帰り道でイタルはそっとフタバコさんに近づいた。
「あの」
「何?」
「ミンちゃんのことですけど、本当に何も食べなくていいんですか?」
フタバコさんは足を止めて、じっとイタルの顔を見た。
「キミはちゃんと夕食を食べたよね」
「はい」
「ニンジンもキャベツも残さず食べたよね」
「だって、フタバコさんがにらんでいたから」
「普通、そうやって人はご飯を食べる。イタル君は明日も元気で働くために、もっと大きく育つために、ご飯を食べる。そうだよね」
「そうです」
「じゃミンちゃんがなんでご飯を食べないか、あの子に聞いてごらん」 それだけ言ってフタバコさんはさっさと歩き出した。
詰所に戻るとミンちゃんはまだ部屋の隅でリリアンをやっていた。編んだところがだいぶ長くなっている。
他の子のことはどうでもいい。そう考えたっていいわけだ。でも、気になった。ものを食べないとおなかが空く。おなかの真ん中が風船になったみたいで、それが気になって何もできない。いらいらする。そのうち、手足の力が抜けてくる。苦しい。何か食べなくてはと思ってあせる。それがおなかが空くということだ。
イタルはまっすぐミンちゃんの前に行った。
初めて直接に声を掛ける。
「ミンちゃん、ぼく、イタルだよ」
「知ってる」とミンちゃんはイタルの顔をまっすぐ見て言った。「今日は四ッ谷駅に行ったでしょう。それから甲府まで行ってお弁当を買ってきてくれた。午後も四ッ谷駅に行った。知ってるわ」
「ぼくは、ええと、キミのことが気になるんだ。キミは昨日の昼の駅弁を食べなかった。夜もまるしの食堂に行かなかった。今朝も行かなかったし、ぼくとユータが買ってきた甲府の駅弁も食べなかった。夕食も食べない。キミは、キミは、どうして何も食べないの?」
気がつくと、部屋の中のみんながこっちを見ていた。黙って、心配そうに見ている。
聞いてはいけないことなのかもしれないとイタルは思った。でもみんなは知っているみたい。ならばぼくも知りたい。だってミンちゃんだって誰だって、おなかが空くのは辛《つら》いことだから。
「わたし、死んだ子なの」とミンちゃんが言った。
ミンちゃんの話
イタルはびっくりして、本当にびっくりして、口をぽかんと開けたままミンちゃんの顔を見た。
まわりでみんながふっとため息をつくのがわかったが、それを気にする余裕はない。
いったい、これは、どういうことなんだ?
「わたしは死んだの」とミンちゃんは、今度はもっとはっきりした声で言った。「学校に行く途中で駅のホームから落っこちて、そこに電車が来て、それで死んだの」
イタルはまだびっくりしたままミンちゃんを見ている。誰も何も言わない。
イタルはどうしていいかわからなかった。死んだのにどうしてここにいるんだろう? ミンちゃんは目の前にいる。普通の子のようにいる。
死んだって、どういうことだ?
イタルは大急ぎで考えた。死んだ子は学校に行かない。何も食べない。何をしても、リリアンも花いちもんめもプーさんの本も楽しくない。今日一日でたくさんの生徒たちを見たけれど、ミンちゃんがあの中に戻ることはない。ミンちゃんは何もしない。もう死んでしまったのだから。毎日が空っぽ。
そこまで考えて、イタルは急にものすごく悲しくなった。死んだミンちゃんが目の前にいることの不思議より、悲しい気持ちの方がずっと強い。
だからいつも元気がない。何もしないでぼんやり坐《すわ》っている。勉強もしないし、ちょっとリリアンをするだけ。
そう考えると、この小さな女の子がとてもとてもかわいそうで、どうにもしょうがなくて、頭がかっとなった。胸が熱くなって、鼻の奥が水っぽくなって、そこに立ってミンちゃんの顔を見たまま、イタルはずぐずぐずぐと泣き出した。顔に手を当てるでもなく目をぬぐいもせず、しゃくりあげながら、涙を流した。言いたいことはたくさんあるみたいなのに、言葉が出てこない。イタルは胸の中で暴れる思いをどうしようもなくて、わーわー泣いた。
まわりの子供たちの中にも泣き出す子がいた。緑と泉と馨は三人で手を取り合って泣いていたし、ポックもすすり泣いていた。ユータはじっと下を向いている。その目から涙が落ちた。
キミタケさんとフタバコさんは黙って立っていた。
でもミンちゃんは泣いていなかった。ミンちゃんは黙って静かにイタルを見ていた。悲しそうな目で見ていたけれど、しっかりした顔つきだった。
ずいぶんたって、イタルはまだしゃくりあげながら、なんとか泣きやんだ。誰かが手に何か渡してくれたので見ると、ティッシューだった。くれたのはフタバコさんだ。イタルは鼻をかみ、涙を拭《ふ》いた。まだ悲しかったけれど、その気持ちのままに流されるのは終わった。へたへたと近くの椅子に坐った。
「わたしはその日、学校に行ったんだけどね」とそれを見てミンちゃんが話した、「お熱が出て、早引きして、家に帰ることにしたの。それで給食の前に学校を出て、保健の先生に駅までついてきてもらって、それでホームに入ったの。熱があってふらふらしていた。ふらふらするのがなんだか気持ちがよくて、ちゃんとホームの真ん中を歩けばよかったのに、遊び半分にホームの端を歩いていた」
「そんな時間だから、ホームにはステーション・キッズは誰もいなかったんだよ、きっと」とロックが横から言った。
「だから、わたしがおばかさんだったの。ホームの端をふらふら歩いていて、そしたら なんだか風がどどって吹いてきて。それでからだがグラッてしたの。気がついたら線路に落ちていた」
イタルは黙ったまま、目の前で恐ろしいことが起こるのを待つような気持ちでミンちゃんの次の言葉を待った。
「落ちた時に足をくじいて、すごく痛かったの。すごく痛いなって思って、それから、ここにいちゃいけない、電車が来るって思って、でも見たらホームは高いし、登れない。どうしていいかわからなかった」
「大人は誰もミンちゃんが落ちるのを見てなかったんだろうね。駅員さんも近くにいなくて」とキミタケさんが言った。
「それで、立ち上がろうとしたんだけど、でも足が痛いの。ホームに戻れない。線路の外に出ようって思って、立ったんだけど、足が痛かった。すごく痛かった」
そう言ってミ、ンちゃんはちょっと口を閉じた。その時の足の痛さを思い出しているような顔だった。
「それで、立ってびっこたっこで歩きはじめたところへ電車が来て、電車はわたしを見たけど、でも停まれなかった。わたしの背中にどしんとぶつかって、わたしはドーンって突き飛ばされて、何かにごんと頭をぶつけたの、すごい勢いで」
「電車の運転士はもちろん急ブレーキを掛けたし、警笛も鳴らしたけれど……間に合わなかった」とキミタケさんが言った。
「そこで、わたしは何もわからなくなったの」
イタルは何も言えなかった。そんな恐ろしいことがこの小さなミンちゃんの身に起こったなんて。
一度起こってしまったことは元には戻せない。割れた玉子は元には戻らない。だから玉子を手に持った時には割らないように気をつけなければいけない。でも、運が悪くて割れてしまったら、もうどうしようもない。玉子に入っていたのが命なら、命はなくなってしまう。
そこまで考えて、イタルは最初の疑問に返った。死んだミンちゃんがどうしてここにいるんだろう? どうして駅の子の仲間に入っているんだろう?
「気がついたら、わたしは広い大きな部屋にいたわ」とミンちゃんは続けた。「ホームから線路に落ちて、そこへ電車が来てドーンと飛ばされたことも、何かに頭をぶつけたことも思い出した。自分はどうなったんだろうって思った」
そう言ってミンちゃんはちょっとうなだれた。それからまた顔を上げる。みんな黙って聞いている。
「わたしの前に背の高い人が立っていた。駅の、あの、駅員さんの服を着ていたけれど、とっても偉い人みたいだった。帽子には赤い線が入っていたわ。だから、ああこの人は駅長さんだってわかったの」
そこでミンちゃんはちょっと口をつぐんだ。みんな黙って次の言葉を待った。
ミンちゃんは駅長さんに会った時のことを思い出しながら、ゆっくり話を続けた。
「駅長さんがね、おまえは自分がどうなったかわかるかって聞いたの。わたしは、はい、わたしは駅のホームから落っこちて、それで電車にぶつかって、ぽーんと飛ばされましたってお返事したわ。そうしたら駅長さんはそうだって言って、そしておまえは死んだのだって言ったの」
みんな黙って聞いていた。立っていたキミタケさんとフタバコさんも坐っている。
「わたしは、やっぱりそうなんだって思った。電車に突き飛ばされた時に、ぽーんと飛んで何かに頭をぶつける前に、わたしは死ぬんだっていう気がしたもの。でも、その時はやっぱりって思っただけで、そんなに悲しくはなかったの。死んだ時にはどうすればいいんだろうって考えて、それを駅長さんに聞かなくちゃって思った。初めてのことだからね」
そう言ってミ、ンちゃんはちょっと笑った。
イタルはそれを見て、ああ、この子は賢いんだと思った。
「駅長さんがね、死んだ者は天国に行くことになっているが、おまえはすぐに行きたいかねって聞いたわ。その時になって、わたしはもう生きていないんだってことが本当にわかって、すごく悲しくなった。泣きそうになった。でも駅長さんは、泣いてはいけないって言った。だからわたしはいっしょうけんめい我慢したの」
自分だったらどうしただろうとイタルは考えた。ミンちゃんは今はここにいる。ぼくたちの目の前にいる。だけど、いつかは天国に行くことになっている。そうなんだ。
「天国に行くともう誰にも会えないんですか、ってわたしは駅長さんに聞いた。そしたら駅長さんは、天国に行く前の今だって、もう誰にも会えないのだ、って言った。それでわたしはママの顔を思い出して、学校の友だちの顔を思い出して、それからママや犬のグングンやおじいさんや学校の関矢《せきや》先生や近所のコンビニのおじさんや土曜日の水泳教室の先生や従妹《いとこ》のキリコちゃんの顔を思い出して、それでまたすごく悲しくなったけれど、でも我慢して泣かなかった」
ミンちゃん、強いんだ、とイタルはロの中でつぶやいた。
「悲しいのをよく我慢しているな、って駅長さんが言った。だが、おまえを失ったみんなもとても悲しい思いをしている。おまえのママはご飯も食べられなくなっている。そう言われてわたしはママのことを思い出して、とうとう泣き出した。ママのことがいちばん悲しかった。ものすごく」
そうか、やっぱり泣いたのか、とイタルは思った。それはそうだよな。関係ないぼくだって聞いただけで泣いたんだから。
「ずっとずっと泣いてから、わたしは泣きやんだわ。それからわがままを言ったの。ぜったいに天国になんか行きたくない。どこにも行きたくない。元のところに戻りたい。早くおうちに帰りたい。
そしたら駅長さんが、それはできないって言った。死んだものは元には戻らない。それは生きているものぜんぶの決まりだからって。トンボやタンポポからはじまって人間まで、ぜんぶ同じなのだって。
前にママがね、グングンだっていつか死ぬって言って、それでわたしは泣いたことがあったの。ママはまじめな顔で言ったわ、グングンと別れる時が来て、その時はいくら悲しくてもしかたがないのよ、って。犬の方が命が短いから。でもわたしの方がグングソンより先に死んでしまった。
やっぱりわたしは死にたくない。ママだってすごく悲しいし、お友だちはみんなちゃんと学校に行っているのにわたしだけ学校に行けないなんて嫌だ!」
ミンちゃんは椅子に坐っていた。イタルも他のみんなもそれぞれ坐っていた。誰も何も言わなかった。じっとミンちゃんの顔を見てミンちゃんの話を聞いていた。辛《つら》い話だった。
「わたしはぜったいに天国に行きたくない。死ぬ前に戻りたい。早く帰してください。でも駅長さんは黙って首を横に振ったわ。わたしは駅長さんをにらんだ。そんなことをしてもしかたがないと思ったし、駅長さんは偉い人だからにらんではいけないと思ったけれど、でもにらんだ」
ミンちゃんににらまれてもあんまり恐くはないけど、とイタルは思った、でも、駅長さんは困っただろう。
「そうしたら最後に駅長さんが、しばらく駅の子になっていなさいって言ってくれたの。駅にはキップをなくして改札口から出られなくなった子が何人か暮らしている。その仲間に入れてもらって、駅の中で暮らしなさい。そうして、天国に行く決心がついたら行けはいい。残念だがおまえをママのところに戻してやるわけにはいかない。それは命の決まりに反することだからできない。生きている者が死ななければ、赤ん坊が生まれることもできなくなる。
それでもしばらくの間だけ駅の子にしてやることはできる。死ぬとはどういうことか、みんなと考えなさい、って駅長さんは言った。だからわたしはここにいるの」
そう言ってミンちゃんはイタルの顔を見た。
イタルはまわりにいるみんなの顔を見た。誰もが悲しそうな顔をしていた。
「ミンちゃんのこと、みんな知っていたの?」
「ミンちゃんがホームから落ちて電車にはねられて死んだってことは知っていたよ」とロックが言った。「キミタケさんがそう教えてくれた。でも、いろいろ聞くのは悪いと思って、ぼくたちは黙っていた。こんなに詳しいことを聞いたのは初めてだ」
「ぼくはこの中でいちばん古い駅の子だけど」とキミタケさんが言った、「ぼくが来た時にもうミンちゃんはいた。その時の仲間がミンちゃんのことを教えてくれた」
「ミンちゃんが何も食べないのをキミが本気で心配したから、だから話す気になったのかな」とキミタケさんが小さな声で言った。
「駅長さんって、誰? この東京駅のいちばん偉い人?」
「達うみたい」とフタバコさんが言った。「わたしも会ったことはないんだけど、駅ごとにいる駅長さんとは別に、すっごく特別の駅長さんがいるらしい。その人は鉄道のことをぜんぶ知っていて、みんなが汽車や電車に乗って行きたいところに行けるよう、気を配っている。なにもかもお見通し。たぶん鉄道ぜんたいでいちばん偉い、神様みたいな人だと思うよ」
「会ったことがあるのはミンちゃんだけなの?」
「そうだね」とフタバコさんは言った。「でも声は聞こえるのよ。誰かが聞くの。この間だって、有楽町の駅でキップをなくす子がいるから連れてきなさいって、そういう声がわたしに聞こえたの。だから迎えに行ってあげたのよ。そしたらキミだった」
「ぼくがキップをなくすこと、駅長さんは知っていたんだ」
「そうみたい。駅の子はみな駅長さんに面倒を見てもらっているんだと思う。それが駅長さん、ザ・ステーション・マスターだよ」
イタルはちょっとぞくっとした。そんな人がいるんだ。ぼくたちがその人に会うことはないのだろうか。
「だからね」とキミタケさんが言った、「ミンちゃんのことはみんな知っていた。大事にしてあげようとは思ったけれど、いろいろ聞いてはいけないとも思って、そっとしておいたんだ。たぶんミンちゃんの話を聞くのはキミの仕事で、だからある意味でぼくたちはキミを待っていたんだとも思うよ」
「ぼくの仕事? ぼくはミンちゃんが何も食べないから心配になっただけだよ」
「そう、キミはミンちゃんが死んだ子だって知らなかったからね。ぼくもなんだか言わないでいたし」
イタルとキミタケさんがそう話す間、ミンちゃんは別の誰かのことを聞くように普通に聞いていた。
「ねえミンちゃんはこれからどうなるの?」と緑が聞いた。泉と馨が同じことを聞きたそうな顔でイタルの方を見ている。
「ぼく、わからない」とイタルは言ってフタバコさんの方を見た。
「わたしだってわからないよ」とフタバコさんは言った。「しばらくここにいて、わたしたちと一緒にいて、天国に行こうと心を決める時が来たら、そっちに行くんじゃないかな」
「ミンちゃんが自分で決めるの?」
「そう。でも知らないところへ行くんだからね。決心するのほ大変かもしれない」
「わたし、みんなと一緒にいたい。どこにも行きたくない」とミンちゃんが小さな声で言った。
「大丈夫、一緒だよ」とイタルは答えた。それ以上は何も言えなかった。
その晩はそれ以上ミンちゃんの話はなかった。キミタケさんが、「さあ、みんな、勉強の時間だよ」と言って、子供たちはそれぞれの机に向かった。でも誰もなんだか勉強には身が入らない。なんとなくざわざわしていて、それなのに空気が湿っている。
ふと思いついてイタルは自分のデイパックから切手のアルバムを取り出した。
「みんな、いいもの見せてあげる」
誰もが顔を上げて、寄ってきた。
「なあに? 何なの?」
「ぼくのコレクション。ぼくが生まれた年に日本で発行された切手ぜんぶ。でも少しだけ足りないんだ。さわっちゃダメだよ」
そう言って、みんなに見せて、一枚ずつ説明した。「これが自然保護シリーズで、リユウキュウヤマガメと、モリアオガエルと、ミヤコタナゴと、イトヨ。この鳥も同じシリーズのアカヒゲ。これは船シリーズの昌平丸と大成丸と千石船と……」
それぞれの動物や船のことも説明できた。切手を手に入れるたびに勉強してきたのだ。みんな感心して聞いてくれた。
「きれいだね」 とミンちゃんが言った。
「船のシリーズはあるのに、汽車はないの?」とユータが聞いた。
「あるさ。これは昭和五十一年だけど、その前に蒸気機関車のシリーズが出ている」
「持ってない?」
「何杖かあったと思う。このアルバムには貼らないで、ストックブックに入れてあるんだ。待ってね」
そう言ってイタルは壁のところの戸棚にいれたデイパックを取ってきて、中からストックブックを出した。
「ええと、ほら、一枚、二枚、三、四、五枚。これだけだ。SLシリーズは全部で十枚だから半分か」
「え、何がある」と言ってユータはイタルの手元をのぞき込んだ。「D51《でごいち》とC58、それにC11があって、それから、9600は渋いね。それからこの7100って、義経号とかだろ。明治時代だ」
ユータはずいぶん興奮していた。
「ぜんぶ自分で集めたの?」と比奈子が聞いた。
そこでイタルは切手の集めかたをみんなに教えた。
「銀座のお店に切手を買いにいく途中でぼくはキップをなくしたんだ」
「たくさんキッテ持っててもキップなくしちゃダメじゃないか」とロックがちょっとからかうように言った。
「そうだけど、キミだってなくしたんだろ」
「それはお互いさまだから言わない方がいいよ」とフタバコさんが笑った。「ここの暮らしは悪くないしね」
「ぼくもそう思う」とイタルは言った。「フタバコさんはきびしいけど」
「そう。好き嫌い言っちゃダメよ」
「わかってます」
「自分たちだけだからきびしくしなけりやいけないのよ」
「どうして?」とロックが聞いた。
「今だから言うとね、ここに来た最初の日、キヨスクのお菓子がぜんぶただってすごいことだって思った。だからガムをぜんぶ試してみた。二十何種類かあるんだよ、ガムだけで。それで、一日中ガムを噛《か》んでいて、そのうちなんだかこれじゃいけないって思ったんだ。だからガムはやめた。自分でキヨスクには行かない。時々誰かにもらうだけ」
「時々じゃないよ、しょっちゅうねだってるよ」 とロックが言った。
「そうか、ごめん」とフタバコさんは言った。「でもいいじゃない、ただなんだから」
「まあそうだけど」
「これでもキヨスクで自分でもらうのよりはちょっと我慢してるのよ」
イタルは最初に有楽町の駅で会った時にフタバコさんが 「ねえ、ガム持ってる?」と 聞いたのを思い出した。ガムがフタバコさんの弱いところだったのか。
しばらくして就眠時間が来て、男子組と一緒にお風呂《ふろ》に入り、ベッドに入った。ミンちゃんのことを考えると眠れなくなるかもしれないとイタルは考え、また切手のコレクションのことを考え、ここでは使用済み切手も手に入らないなと思った。まあ、ここにいる間はいいことにしよう。またやれる時が来るよ。今度はユータの言うとおり汽車の切手を集めようか。
やがてイタルは眠ってしまった。
こうしてイタルは本当に駅の子になった。
ある日、イタルはポックと一緒に大塚《おおつか》駅に行った。
ポックは詰所の仲間の中でいちばん口数が少ない。その日も、「じゃあ行くよ」と言っただけで途中ほとんど何も言わずに大塚駅まで行き、「ぼくがあっち側を見るから、キミはこっちね」と言って、別れた。
電車から降りる生徒たちの世話はいつものように三十分ほどで終わった。ポックがやってきて、「もうこれくらいにしよう。これ以上は生徒は来ないよ」と言ったのだ。
「帰る?」
「うん、帰ろう」とポックは言った。
ポックは機嫌が悪いわけではない。でもいつも無表情で、あんまり喋《しやベ》らない。笑う時もげらげらではなくて、にやっという感じ。悪い奴じゃないけれど、みんなに混じってわいわいふざけることはない。よくロックと一緒にいるけれど、特別に仲がいいわけでもないようだ。
「帰りは、外回りだね」とイタルは言った。
山手線はぐるぐる回っているから、上りと下りという言葉が使えない。それはユータが教えてくれた。でも電車は左側通行だから、東京駅4番ホームから神田の方に行く電車が内側の線路を走ることになる。これが内回り。反対に5番ホームから有楽町の方に行くのが外回り。大塚からならば、巣鴨《すがも》、駒込《こまごめ》、田端を通って東京駅に向かうのが外回りになる。
「日本でいちばん高いところはどこか知ってる?」とその時、ユータはイタルに聞いた。
「え? 富士山のてっぺんだろ」
「はずれ。東京駅だよ」
「どうして?」
「だって、東京駅に向かう列車が上りなんだもん。ぜんぶの汽車が上ってくるんだから、東京駅がいちばん高いところ」
どうもユータの言うことはまじめに考えない方がいいみたいだ。
ユータとポックはぜんぜん違う。
話を大塚駅に戻せば、その朝、生徒を護《まも》る仕事が終わった時、ポックは黙ったままイタルをホームのいちばん池袋寄りに連れていった。
内回りで帰るのかな、とイタルは考えた。時間はかかるけれど、別に急いでいるわけじゃなし、どっちでも同じ。
電車が入ってきた。いちばん前の車両のいちばん前の扉が目の前に停まって開いた。イタルはそっちへ一歩寄った。
「違う。こっちだ」と言って、ポックはイタルの手を取って、もっと前、運転室の扉の前へ連れていった。
「えっ? ここに乗るの?」
「黙って。口をきいちゃいけない」とポックが耳元でささやいた。「ゆっくり深呼吸して。ゆっくり、ゆっくり。気配を消すんだ。自分は見えないと信じて」
よくわからないけれど、まるでおまじないみたいだ、と思いながら言われたとおりに深呼吸をして、前に出た。ポックは運転室の扉のハンドルをそっと押し下げ、素早く扉を開いて、イタルの手を握ったままするりと中に入った。イタルも入る。音がしないように扉を閉める。ちょっとどきどきする。
制帽をかぶった運転士は前を見たままだった。二人がこっそり入ったことに気がつかないみたい。気配を消すんだ、とポックは言ったけれど、本当に消えているんだろうか。二人で運転室の隅に黙ったまま立つ。
ブブッと短くブザーが鳴った。
「出発進行! と運転士は前方を指さして大きな声で言い、その手を目前のレバーに戻して、前に押した。クッと軽いショックが伝わって、電車は動き出した。
あのブザーは車掌からの合図だったんだ、とイタルは考えた。ポックにそう言って確かめたかったけれど、気配を消しているところだから、口をきいてはいけない。ポックはまだイタルの手を握ったままだ。
電車はぐんぐん加速した。目の前の線路は次々に分岐したり合流したりしたけれど、電車は一瞬も迷うことなく正しい線路を選んで進んだ。信号機がいくつも迫ってきては背後に消える。どれがこの線路の信号かよくわからない。運転士はイタルたちがいることにぜんぜん気づいていないみたいだ。
スピードが上がってきた。運転室だと、後ろの方に乗っているのとはぜんぜん感じが違う。すごく速い。線路やら架線やら跨線橋《こせんきょう》やら信号柱やらが前から飛来して目の中に飛び込み、後ろに飛び去る。ひゅんひゅんひゅんという感じ。手を握ったままのポックが興奮していることが伝わってきた。手のひらがじっとり汗ばんでいる。
そう思っているうちに電車は大きな建物に開いたトンネルのようなところに突入し、気がついてみるとそれは池袋駅だった。右側にホームが現れて、人がたくさんいるのが見え、運転士は 「第二場内信号注意!」と言いながらレバーを少しずつ動かした。ゆっくりと電卓は減速し、ホームの所定の位置にぴたりと停まった。
運転士がふっと息を抜くのがわかった。
後ろの方では乗客が降りたり乗ったりしている。
やがてまたブブッというブザーの音がして、運転士は「出発進行!」と唱え、電車は動き出した。
でもブザーの少し前に運転士は一瞬だけホームの方を見た。つまりイタルたちの方を見たのだけど、二人がいることに本当に気がつかなかったみたいだった。本当にぼくたちは見えないんだろうか、とイタルは考えた。ポックはまだイタルの手を握っている。
そうやって二人は目白《めじろ》を過ぎ、高田馬場《たかだのばば》を過ぎ、新大久保《しんおおくぽ》まで行って、そこでそっと運転室から降りた。扉を開けてホームに出たのだけれど、その時も運転士は気がつかない風だった。
「おもしろかった」とホームでイタルはポックに言った。
「だろ」とポックはようやくイタルの手を放して答えた。
「キミが気配を消していたからできたの?」
「まあね」と言う。「スピードが好きなんだ。別に電車でなくてもいいけど、電車だったらあそこに立つのがいちばんスピード感が来るだろ。なんか目が回るみたいでさ。だからあそこに潜り込むのき」
「その気になったら、気配が消せるの? つまり見えなくなれるの?」 「そうだよ」と言って、それでは説明が足りないというように付け足す。「でも今は二人分の気配だから、疲れちゃった。一人なら東京駅までずっと運転室で帰るんだけど」
「ともかく、ありがとう」とイタルは言った。
「手をつないでいないとダメなんだよ」
そう言うとポックは、もう運転室の近くには用はないと言うように、ホームのずっと後ろの方に歩いていった。この駅は高架で、途中で道路の上を跨《また》いでいる。そこまで行くとポックは振り返った。
「あそこに線路が見えるだろ」と言う。
道路の向こうの方に同じようにガードが見えた。
「うん」
「あのすぐ横が大久保《おおくぼ》駅なんだ、中央線の」
「近いんだね」
「おれ三年生まで高田馬場に住んでたんだ。電車通学でさ。新宿まで行って、中央線に乗り換えて、中野《なかの》まで行って、あとは歩いた。だからこのへんには詳しいんだ。朝、家を出るのがちょっと遅れると、もう遅刻って感じだろ。そういう時はね、新大久保で降りちゃうの」
「この駅で?」
「そう。それで、あの大久保駅までこの道を走るのき」 そう言ってポックはホームの下の道を指さした。
「そうすると新宿乗換より一本か二本早い電車に乗れる。新宿だと10番ホームから階段を下りて、中央通路を走って、それからまた12番ホームまで階段を上らなけりゃならないからね」
「じゃ、いつもあの道を走っていたの?」
「いつもじゃない。時々。そうすると、滑り込みセーフなんだ」
またまたポックという仲間に感心しながら、イタルは東京駅に帰った。
その日の夕方、イタルはユータに運転室潜入の話をした。別に秘密でもないだろうと思ったのだ。
「乗ったの? ぼくも一緒に乗せてもらったことがある。あれはあいつにしかできないんだよ」とユータは言った。
「あれって?」
「だから、自分を見えなくすること」
「ああ、気配を消すって言っていた」
「そう。おんなじこと。ぼくもやってみたんだ。中央線で、そっと運転室に入った。そしたら運転士がさ、すぐにこっちを見て、『ああ、キミは駅の子だね。でも、駅の子でも運転室には入ってはいけないよ。さあ、出なさい』 って言って、すぐに降ろされちゃった。あれはやっぱりポックの超能力だよ」
キップをなくす子がいるから詰所まで連れてくるように、という連絡を受けたのはイタルだった。頭の中でいきなり声がしたのはびっくりしたし、それが駅長さんの声だとわかった時にはもっとびっくりした。
駅長さんは、ニッポリの駅に行ってキップをなくした子を連れてきなさいと言った。イタル君とロック君の二人で行きなさい。
そこまで聞いてロックの方を見ると、ロックもこっちを見ている。つまり二人とも同じことを駅長さんから言われたのだ。
「ニッポリってどこ?」 とロックに聞く。
「こういう字を書くんだ」と言いながらロックは手元の計算用紙に「日暮里」と書いた。
「そんな、読めないよ」
「ともかく行こう。山手線か京浜東北《けいひんとうほく》線だからホームは3番か4番。上野《うえの》の二つ先」
「わかった」
「でも、二人で行くのは珍しいね」
「そうなの?」
「初めてだと思うよ。どうしてかな」
そう言いながら二人はコンコースを急ぎ、階段を上り、ちょうど4番線に入ってきた山手線内回りの電車に乗った。
日暮里の駅は谷のようなところにあった。跨線橋ではなく、ホームから階段を上っただけで改札口に出る。イタルとロックがそちらに行くと、誰かがわめく声が聞こえた。
「ったくもう、どこにいっちゃったんだよ!」
一人の男の子が改札の横の床に坐り込んで、ランドセルの中身を次から次へとまわりに投げ出している。
「ないはず、ないじゃないか!」
その横を大人たちがあきれて見下ろしながら、足早に通り過ぎていく。
改札口の駅員さんが心配そうにこちらを見ている。
男の子は今度は立ち上がって、ポケットの中身を端から通路に投げはじめた。くしゃくしゃの紙くず、十円玉が三個、死んだコガネムシ、短い鉛筆、箱のままの酢昆布、スーパーマリオのカードが二枚。
「これじゃ、家に帰れないだろ!」
そう言って男の子はランドセルを持ち上げて、駅の壁に投げつけた。
イタルとロックは顔を見合わせる。こいつ、ちょっとおかしいぜ。とんでもない療病《かんしやく》持ちだ。
でも、仕事は仕事。やらないわけにはいかない。
「キミ、どうしたの?」
「キップ、なくしたの?」
男の子はジロッと二人を見た。イタルよりも三センチくらい背が高い。ロックよりはもっと高い。それに、二人よりずっと太っている。
ぷいとよそを向いて、床に落ちたランドセルを取って、また壁に投げつける。
「やめなよ、壊れちゃうよ」とイタルは思わず言った。
「うるさい!」と男の子はすごい声でどなった。「おれのランドセルだ。よけいなこと言うな!」
「だけど、壊れたら……」とロックが小さな声で言ったとたん、男の子はまたランドセルを拾ってロックに投げつけた。
ロックは腰を落として、じょうずにキャッチした。それから、あたりに散った教科書やノートや下敷きなどを拾って、ランドセルに入れはじめた。イタルはばらばらになった筆箱の中身を拾い集めた。鉛筆はみんな折れ芯《しん》になっちゃっただろうなと思う。消しゴムは改札口の横のところまで飛んでいた。駅員さんがかがんで拾ってくれる。
怒っている男の子が邪魔するかと思ったが、二人が散らかったものを集めるのを、黙って見ている。目がぎらぎらしているけれど、イタルたちに向かって突っかかるわけではないようだ。
イタルは鉛筆などを収めた筆箱をロックが持っているランドセルに入れ、今度はポケットの中身を拾う。
ロックは、ランドセルを返したらまた壁に投げつけるかもしれないと考えて、そのまま胸に抱えていた。イタルもポケットの中身をまとめて手に持ったままでいる。
「キップないと外へ出られないだろ。ぼくたちとおいでよ」
男の子はきょとんとした顔をした。
「キップじゃない! 定期だ!」と大きな声で叫ぶ。
「同じことだよ」とイタルが静かな声で言った。
「ちゃんと紐《ひも》でランドセルに結んであったのに! 誰かが盗んだんだ! じゃなきゃなくなるわけがない!」
「そうかもしれない。でも、ともかくないんだから、改札は出られないだろ」
「ぼくたちと一緒に行こう」
男の子は少しだけおとなしくなった目で二人を見た。なんだか疑っているみたいだ。
「キミたちは駅の子かい?」と改札口の駅員さんが聞いた。
「そうです。この子を連れに来ました」
「ごくろうさま」
それを聞いて、男の子は少し落ち着いたように見えた。
「どこに行くんだよ?」
「キップをなくした子がみんな行くところ。心配しなくていいよ」
「キップじゃない! 定期だったら!」
「わかったわかった」とロックはランドセルを抱えたまま言った。
「返せよ!」と言いながら、男の子はそのランドセルをもぎ取って、乱暴な身振りで背負った。次に、イタルが持っていたポケットの中身を取り返す。ポケットに入れる。
「さあ、おいで」と言ってイタルは男の子の肩に手を掛けた。
「触るな!」
イタルの手は振り払われた。
まったく乱暴な奴だな、と思いながら、イタルとロックはちょっと離れて男の子を見た。
「キミ、名前は?」とイタルが聞いた。
「名前聞くんだったら、自分の名前を先に言えよ」
それはそうだ。
「ぼくはイタル」
「ぼくはロックだよ」
「おれは、タカギタミオ!」と早口で言う。意外に素直だ。
「じゃ、タカギタミオ君、一緒に行こう」
そうロックが言ったとたんに、タカギタミオは改札口の方へ走り出した。一気に駆け抜けて外へ出ようというつもりらしい。
改札掛が鋏《はさみ》を一度だけチャンと鳴らした。
タカギタミオの身体は直前で止まった。
鋏の音で勢いを削《そ》がれた。
改札を突破して外へ出るほどの気力はないらしい。
すごすごとイタルたちの方へ戻ってくる。
タカギタミオは、がっかりという顔でイタルを見た。暴れすぎて力がなくなったみたいだ。
そのタカギタミオを左右から挟むようにして、ロックとイタルは階段の方へ歩きはじめた。タカギタミオはのろのろとついてきた。
これじゃ、まるで逃亡犯人の逮捕だよ、とイタルは思ったけれど、まさか口に出して そう言うわけにはいかない。この子は詰所に着いてからも暴れるだろうか。
まあ、なんとかなるだろう。
階段の決闘
タカギタミオは電車の中ではだいたいおとなしくしていた。いったい定期はどこへ行ったんだとか、なんでこんなことになっちゃったんだとか、小さな声でぶつぶつ言っていたが、イタルとロックに突っかかることはなかった。
しかし、東京駅に着いてホームからコンコースに降りたところで、足が動かなくなった。
「どこに行くんだよ?」
「ぼくたちの部屋だよ。詰所っていうんだけど」
「ぼくたちって誰だ? おまえたちの他にもいるのか?」
「いるよ。キミと同じようにキップをなくした子が何人もいる。一緒に暮らしている」
「キップじゃない。定期だ!」とタカギタミオはまた言った。「電車に乗ってキップなくすなんて、みんなバカじゃないか。おれはそんな奴らと一緒にいたくない。おれは家に帰りたい」
「キミだってキップ、じゃなくて定期なくしたじゃないか!」とロックが少し憤慨した口調で言った。
「なくしたんじゃない。誰かに盗《と》られたんだ」
「でも今はキミの定期はないんだろ」とイタルはなだめるように言った。「ならば改札口は出られないよ」
そう言われてタカギタミオの顔つきがちょっと変わった。さっき日暮里で改札口を突破しようとして駅員さんがチャンと鉄《はさみ》を鳴らした時のことを思い出したのかもしれない。
「ひとまずぼくたちの部屋に行こう。けっこう楽しいから」とイタルは重ねて言った。
それでまたタカギタミオはしぶしぶ歩き出した。
詰所に着くと、キミタケさんとミンちゃん、それにユータと緑と比奈子が迎えた。他のメンバーはまだあちこちの駅に散っているらしい。フタバコさんもいなかった。
「タカギタミオ君だよ」とイタルが言って、次にみんなを紹介した。
「タミオさんて言うの?」と緑が尋ねた。
「違う! タカギタミオだ!」とタカギタミオはどなった。禄は脅《おび》えて黙ってしまった。
「おれはこんなところにいたくない。おれは家に帰りたい。定期を盗った奴を殴ってやりたい」
そう言ってタカギタミオは背中のランドセルを外すと、床に投げつけた。みんなびっくりしたけれど、イタルとロックは、ああやれやれと思った。本当に乱暴な子なんだ、これは。
次にタカギタミオはそこにあった机を蹴《け》っとばした。足の方が痛いだろうとイタルが心配するような蹴りかただった。
「もう、帰りたい!」
「でも、キップをなくしたんだから……」とユータが言った。
「キップじゃない、定期だ! なくしたんじゃない、盗られたんだ!」
そう言ってまた机を蹴っとはす。キミタケさんはあきれて見ていたが何も言わない。
「ぜったいに帰るぞ!」
そうは言ったものの、部屋から出ていくわけではない。みんなをにらみつけて立っている。
「改札口、通れないのに」とロックが小さな声で言った。
「わかってる!」とタカギタミオはまたどなった。「わかってる! もう! ちくしょう!」
そう言って、今度は机をこぶしで殴る。半泣きになってがんがん殴りつける。ガダガダガダとすごい音がした。キップか定期がなければ改札口は通れない。駅員さんの鋏のチャンという音をよく覚えている。どうしようもないから、自分の思いどおりにはならないから、だから腹が立つ。そういう感じだった。
「ねえ、おうちがとっても好きなの? だから早く帰りたいの?」
静かな声でそう聞いたのはミンちゃんだった。ミンちゃんはタカギタミオの前に行って、机を殴っていた腕にそっと手を掛けた。
タカギタミオはびっくりしたようにミンちゃんを見て、ふっと静かになった。
「違うよ。家なんか大嫌いだ。ママもパパも大嫌いだ。だけど……」と言った後、言葉が続かない。
「今はみんなと一緒にここにいよう」とミンちゃんはやさしく言った。背の高さでいえばミンちゃんはタカギタミオの肩までもないのに、まっすぐ立ってまっすぐ顔を見て、はっきり話す。
他の誰が言ってもタカギタミオはまた癇癪《かんしゃく》を起こすだろうけど、なんだかミンちゃんには逆らえないみたいだ。
タカギタミオは脇にあった椅子に坐《すわ》ると、机に突っ伏した。肩が震えているところを見ると、泣いているのかもしれない。ミンちゃんはそっとその肩に手を置いた。
しばらくすると、出ていた子が次々に帰ってきた。タカギタミオは机に突っ伏したままだ。
「あれ、誰?」と部屋に入る早々聞いたのは馨だった。
「しーっ!」と緑が言った。「新しい子」と小さな声で続ける。「でも怒ったり泣いたりするから、そっとしてあげて」
それが聞こえたのか聞こえなかったのか、タカギタミオはやはり机に突っ伏したままだった。疲れて眠っているのかもしれない。
フタバコさんが戻った時、イタルは「ちょっとお話があります」と小さな声で言って、部屋を出た。キミタケさんも来てくれた。
三人で廊下に立って話す。
「どうしたのよ、イタル君がもったいぶって」とフタバコさんが聞いた。
「実は、ぼくとロックで連れてきた新入りの子なんだけど……」
「新しい子が来たの?」
「そう。でもものすごく乱暴なんです。ランドセル投げつけたり、机を蹴っとばしたり。なんだか、気持ちが暴れはじめると自分でも抑えられないみたい」
「キミの言うとおりだ。よく見ているね」とキミタケさんが言った。
「問題だね、その子」とフタバコさんが言った。
「さっきはミンちゃんがなだめたんです。そしたら静かになった。ミンちゃんの言うことは聞くみたい」
「ふうん」とフタバコさんは言った。
「誰かを殴ったりはしない?」
「今のところは。でも、あれじゃやるかもしれない。ともかく止まらなくなっちゃうんだから。それで、ぼく考えたんですけど、今日は夕食を部屋で食べた方がいいんじゃないかと思って」
「どうして?」
「あの子が、タカギタミオが、まるし食堂や、和食のけやきや洋食のレストラン東京みたいなところで暴れたら困るでしょ」
「たしかに。他の人がいるからね」とキミタケさんが言った。
「ほら、キッネうどんの丼、ひっくり返したりしたら大変だから」
「そんなことするの?」
「するかもしれない」
「じゃあ、今日はキミの言うとおりにするか。駅弁を買ってこよう。野菜が足りないのが問題だけどね」とフタバコさんは言った。
「ぼくの方も別の理由で、今日はみんな詰所にいてくれた方が嬉《うれ》しいんだ」とキミタケさんが言った。
「何、それ?」
「いや、後で言うよ」
というわけで、その晩はみんな部屋で食べることになった。ユータとロックとポックが駅弁と飲み物を買いに出た。
イタルはなんとなくタカギタミオのことは自分の責任のような気がして、目が離せないと思って、部屋に残った。
買い出し組が戻り、机の上には「トンカツ弁当」と「インペリアル洋風弁当」と「手巻寿司旅っ子」と、「旅のひととき」と「特製牛めし弁当」と「トラベルランチ」が並んだ。
タカギタミオはまだ突っ伏していた。イタルは近くに行って、肩を叩いた。
「ご飯だよ」
タカギタミオはすっと顔を上げて、無表情なまま立ち上がり、弁当のところに行き、いちばん大きな「旅のひととき」とミルクを取って隅の方の机に一人で坐って開いた。特に騒ぐようすもないのでイタルは安心した。
みんなも同じ気持ちなのか、最初は少し気にしながら、そのうちにすっかり忘れてにぎやかに食事を進めた。縁と馨と泉はいつものようにおかずの交換をしてはしゃいでいる。
ミンちゃんは比奈子の隣に坐って、食べるみんなをぼんやりと見ていた。
イタルほタカギタミオの近くに行って 「おいしい?」と聞いた。
「うまい」とタカギタミオは弁当から顔も上げずに答えた。すごい勢いで食べているところを見ると、とてもおなかが空《す》いていたのかもしれない。
ロックとユータはさっさと弁当を終えて、駅名読みのクイズを始めた。ユータが時刻表を見ながら駅の名を漢字で書き、ロックがそれを読む。
「読めない駅名と言えばやっぱり北海道だよ。池北《ちほく》線でいくよ。広郷《ひろさと》、日《ひ》ノ出《で》、穂波《ほなみ》……あたりは読めるとして、これはどう?」
そう言って、弁当の包み紙に字を書く。
訓子府
「くんしふ?」とロックが自信なげに言った。
「くんねっぷ」
「まいった。読めっこない」
「じゃこれは?」
小利別
大誉地
愛冠
足寄
勇足
様舞
「ぜーんぜんわかんない。こりべつ、だいよち、あいかん、そっき、ゆうそく、ようぶ?」
「ぜんぶ違う。正解はですね、しょうとしべつ、およち、あいかっぷ、あしょろ、ゆうたり、さままい」
「無理だよ、そんな」とロックは悲鳴を上げた。
「北海道の地名はもともと日本語じゃないからね」とキミタケさんが言った。
「え? 何語なの?」
「アイヌ語だよ。それに漢字を当てた。だから読めないんだよ。ぼくも知らないけれど、それぞれアイヌ語では何か意味があるんだ」 「ぼくなんか、にっぼりも読めなかったのに」とイタルは思わず言った。
そのとたん、タカギタミオがすごい勢いで立ち上がった。
「おれ、帰る」
そう言って、足音も高く出口に向かった。
イタルはしまったと思った。日暮里という言葉を聞いて家のことを思い出したんだ。うかつだった。
「待って」と言って止めようとしたが、間に合わない。
あわてて後を追う。ユータとロックが一緒に来た。
タカギタミオは通路を足早に進み、迷うこともなくコンコースに出た。イタルたちは走った。止めた方がいいが、言うことを聞かなければともかく日暮里駅まで一緒に行ってみよう。タカギタミオが強引に改札口を突破するのなら、それはもうしかたがない。
彼が一生ずっと電車や汽車に乗れなくなったとしても。
タカギタミオはまっすぐ3番4番のホームを目指して階段を上る。イタルたちも後に続く。
ちょうど電車が着いたのか、たくさんの乗客が階段にあふれていた。その一人が右に左にふらふらしながら下りて来て、下から駆け足で上ってくるタカギタミオとぶつかった。タカギタミオは階段から落ちかけて、踏みとどまる。
「なんだ、おまえは?」と相手が言った。まだ夜も早いのに酔っぱらっているらしく、赤い顔をしていた。
「そっちがぶつかったんだ」とタカギタミオは顔を真っ赤にして言った。どっちも赤くなっている。
「なんだと? 子供のくせに生意気だぞ」
そう言って相手はふらふらと前に出ると、タカギタミオを突き飛ばした。タカギタミオは階段を四、五段ころげ落ちた。見ているイタルたちが手を貸す暇もない。
特に怪我をした風でもないタカギタミオは、階段の下で立ち上がると、駆け上って、相手の二段上に立った。下では不利だと覚ったらしい。
「なんだ、おまえ」と言うのを聞こえぬふりで、相手を思い切り突き飛ばした。子供でも大きくて重いから力がある。酔っぱらいはがくっと膝《ひぎ》を折って、階段から落ちはじめた。
先ほそピタカギタミオはまだしもバランスを保ちながら転げたけれど、酔っぱらいはぐにゃぐにゃの身体で小麦粉の袋のように落ちていった。下まで落ちて、床に伸びてしまった。
タカギタミオはその後を追って階段を駆け下りた。コンコースの床に転がった酔っぱらいの頭を蹴ろうとしている。
まずい、とイタルは思った。あれでは本当に怪我をさせちゃう。どうしようと思った時、脇にいたロックが指を鳴らした。
時間が止まった。
階段を下りるたくさんの乗客も、コンコースを歩く人たちも、みんな凍ったように動かなくなった。タカギタミオは倒れた酔っぱらいの頭を蹴ろうと右足を引いた状態で固まっていた。
「どうしようか?」
時間を止めたものの、次がわからなくてロックが尋ねた。
「どうしよう」とイタルも考え込む。
「詰所に連れて帰ろう」
「このまま?」とユータが聞いた。
「うん」
「重たいよ、こいつ。大きいもの」
「大丈夫。時間が止まっている時は重さがないんだ。風船みたいなものだよ」
そこでロックとイタルほ固まったままのタカギタミオの頭と足をそれぞれ担ぎ、ユータがベルトをつかんで、人と人の間を抜けるように歩き出した。本当に軽い。
それでも詰所に着いた時には三人とも息が切れていた。重さはなくても急いでここまで来るのは大変だし、時間が止まっている時はなんだか空気がねっとりしていて動きにくいのだ。
詰所の中のみんなは固まっていなかった。時間停止は駅の子には効かない。とすると、タカギタミオはまだ駅の子と認められていないのだ。
「どうしたの?」とポックが聞いた。
「階段で喧嘩《けんか》になった。こいつが酔っぱらいの頭を蹴ろうとしたんで、ロックが時間を止めた」とイタルは説明した。
「じゃ、時間、元に戻すよ」とロックが言った。
「待って」とユータが言った。「また乱暴したらどうする? 手と足を縛っておいた方がいいんじゃない?」
そう言われてみんな考えた。ここで暴れられては困る。タカギタミオはさっきの乱暴な気持ちのままだから、まだ何かを蹴るつもりでいる。場所の移動にも気づかないかもしれない。
「でも、縛ったりしてはいけないと思うよ」とイタルは言った。「人を縛るのはよくないことだ」
「たしかに」とフタバコさんが言った。
「それにさっきの喧嘩は、あの酔っぱらいの方が悪かった。タカギタミオはすごく短気だけれど、あれは怒っても無理ないよ」とロックが言った。
「縛らない方がいいと思う」とミンちゃんが小さな声で言った。
結局、みんなはタカギタミオを椅子に坐らせ、正面の少し前にイタルが立って、それで時間を元に戻した。
タカギタミオはびっくりしていた。夢から覚めたような顔だ。さっきは酔っぱらいの頭を蹴ろうとして、次に気づいた時には詰所に戻っている。まだ身体の中には力と怒りが余っていて、それをどうしていいかわからない。
「待って!」とイタルは言った。「待って! 落ち着いて。今、説明するから待って」
相手は半ばぽかんとしたまま、待った。
「キミはあの酔っぱらいの頭を蹴ろうとした。覚えているね?」
「ああ」
「本当に怪我をさせるところだった。だからロックが時間を止めて、その間にキミをここに運んだ」
「ロックが、時間を、止めた」
「そう。ぼくたちは駅の子だ。キップをなくすと駅の子になる」と早口で言う。「駅の子には通学の生徒たちを護《まも》るという仕事がある。そのために時間を止めることができる。だから、ロックはキミを護るために時間を止めた」
「あの酔っぱらい! おれを突き飛ばした」と言って、急に立ち上がる。
「そうだ。だけどキミもあいつを階段から突き落とした」とイタルは手で相手を制しながら言った。「その後で、床に倒れたあいつの頭を蹴ろうとした。頭はサッカーのボールじゃない。蹴れば血が流れて、相手は怪我をする。警察が来る。キミは捕まる。だから時間を止めた。キミを助けるために」
みんながイタルの言うことを聞いてうなずいた。タカギタミオも黙っている。気がついたらこの部屋に戻っていたのだから、時間を止めたという話は信じるしかない。
「どうしてあなたは乱暴なの?」と静かな声でミンちゃんが聞いた。
タカギタミオは力なく椅子に坐って、ミンちゃんの顔を見た。
「わからない。自分の中に乱暴な気持ちが出てきて、そいつが暴れはじめて、おれはどうしようもなくなる」
「でも、ここでわたしたちと一緒にいれば大丈夫でしょ」
タカギタミオはまた黙ってうなずいて、机に肘《ひじ》をつき、頭を抱えた。自分でもどうしようもないというのは本当なのだろう。机を殴ったり蹴ったりすれば、自分の手や足も痛いのだから。だいたいタカギタミオのランドセルは傷だらけだ。
ミンちゃんがタカギタミオの背中にそっと手を掛けた。
「ちょっと、別の話をしてもいいかな?」とその時、立ってみんなに聞いたのはキミタケさんだった。
「はーい」という答えが返ってきた。そういえば、さっき、今夜はみんながこの部屋にいてほしいとキミタケさんは言っていた。
「突然だけど、ぼくはあさって、ここを出る」
みんなびっくりした。なんと言ってもキミタケさんはいちばん年長だし、何があっても頼りになる人だ。それなのにいなくなる。なんだか心細い感じ。
「駅長さんと話したの?」とフタバコさんが聞いた。
「話したというか、そう言われた。もう出る時だって」
「行くんだね」とフタバコさんが言った。
「卒業みたいにおめでたいことかな」とイタルほ言った。
「新入りの人たちもいるから言っておくと」とキミタケさんは続けた、「ここはけっこう出入りが早いんだ。ぼくが見送った子もいるし、新しい子をたくさん迎えた。ゲタバコちゃんだって明日にも出て行くかもしれない」
「それは駅長さんが決めるんですか?」と比奈子が聞いた。
「そうだよ。ぼくの場合は家の事情のことなんかもあるのかもしれない」
「なんなんだよ、これは?」と大きな声で聞いたのはタカギタミオだった。「いったい 何の話なんだ?」
「ここにいる子はみんなキップをなくした」とキミタケさんは説明した。「そして、ここで一緒に暮らしている。それが何のためか、ぼくたちにはわからない。駅長さんという偉い人がいて、その人が決める」「じゃ、おれ、今そいつに会って、ここから出してくれって言う」「会えないんだよ。ここで駅長さんに会ったことがあるのはミンちゃん一人なんだ。他のみんなには声が聞こえるだけ。こちらから話しかけることはできない」
「そんなのインチキじゃないか!」
「大丈夫。駅長さんはタカギタミオさんのこともちゃんと考えてるから」とミンちゃんが言った。
そう聞いてタカギタミオはおとなしくなった。
「駅長さんはみんなのことを考えている」とキミタケさんが言った。「キミたちは賢いから、何があっても大丈夫だよ。ぼくはそう信じている」
翌々日の朝、駅員の桑島さんが詰所にやってきた。
キミタケさんの前に立って、少しだけもったいぶって一枚のキップを手渡す。
「ここを出る時が来たんだね。まあ、おめでとう」と桑島さんは言った。「駅長さんから預かってきた。これがキミの新しいキップだ」
「ありがとう。お世話になりました」と言ってキミタケさんは草の鞄《かばん》を手に取った。
子供たちはそろってキミタケさんと一緒に山手線外回りのホームへ行き、そこで本当のお別れをした。キミタケさんの家は五反田《ごたんだ》らしい。
「詰所にまた遊びにきてください」とユータが言った。
「来るつもりだけど、その時にキミがまだここにいるかどうかはわからないね」
「そうか。じゃ、お元気で」
「キミたちもね。さようなら」
「さよなら」とフタバコさんが言った。くすんと鼻を鳴らす。
「みんなにはまた会えそうな気がするよ」とキミタケさんは言って、手を振って山手線に乗った。
電車は行ってしまった。みんなは寂しい気持ちで詰所に戻った。キミタケさんとは短いつきあいだったタカギタミオでさえなんとなく寂しそうだった。
キミタケさんの代わりかどうかはわからないが、その次の日、中学生の男の子が入ってきた。キップをなくしたのではなく、自分でキップを捨てて。
その日の午後、イタルはタカギタミオを連れて田町の駅に向かった。通学の生徒を護るというステーション・キッズの仕事を教えるのに、田町がいいという指示が駅長さんからイタルに届いていた。
山手線外回りの二人の前に中学生らしい男の子が坐っていた。本を読んでいる。
駅長さんが田町駅を選んだのは、乗降の生徒が少なくて仕事が楽だからだろうとイタルは思った。それに山手線内回りで北に向かうと嫌でも日暮里を通る。みんなと一緒に暮らしてずいぶんおとなしくなったタカギタミオだが、自分の家の最寄り駅を通ればまた騒ぐかもしれない。
「この間、おまえが言ってただろ、日暮里って読めなかったって」とタカギタミオが言った。
「うん、知らなかったんだ」とイタルは言った。そんなことでタカギタミオが怒りだきなければいいと思った。
「おれもわからないんだ。なんで日が暮れる里って書くのか」
その時、二人の目の前に坐って本を読んでいた中学生が顔を上げた。タカギタミオの声は大きいから、会話が耳に入ったのかもしれない。
「教えてあげようか」と中学生は言った。
「えっ?」
「日暮里のこと」
「ええ、教えてください」とタカギタミオがとても丁寧に言った。ちゃんとお行儀よくできるじゃないか、と隣でイタルは思った。
「もともとは新しい堀と書いて、にいぼりだったんだ。それに江戸のころ誰かが日が暮れる里という字を当てたのき。日はにちだし、暮はぼ、里はり、だろ。にちぼりが音便でにいぼりと読まれて、にっぽりに変わった」
中学生は鞄から出したノートに字まで書きながら説明してくれた。
「日が暮れる里って、江戸の人にはすごくアピールする地名だったんだよ。日が暮れるんじゃなくて、日々暮らすところって意味だったかもしれない。ひぐらしって、一日中って意味もあるしね。だから日暮しの里。セミのヒグラシも鳴いたりして」
タカギタミオはすっかり感心して、ほとんどびっくりして、話を聞いていた。
「ほら、新堀より日暮里の方が字で見てもずっとかっこいいだろ。もとから景色がいいところで、一種の名勝だったのさ」
「よくわかりました。ありがとうございました」とタカギタミオが言って頭をさげた。
敬語だってつかえるじゃないか、とイタルは思いながら自分も礼を言った。タカギタミオは日暮里が好きなのかもしれない。自分の家がある土地が好きで、にっぽりという音の響きも好きで、だから定期をなくして日暮里の駅を出られなくなったのが悔しいのかもしれない。
イタルがはっと気がつくと、電車は田町の駅に入っていた。
「降りなくちゃ」とイタルは言って、タカギタミオの手を引いて、もう一度中学生に礼を言って、電車を降りた。
「すごい人だね」とタカギタミオはホームに出てから言った。
「うん、日暮里のこと、よく知っている」
タカギタミオはなんだかボーッとなっている風だった。
田町はやはり楽だった。万一にも彼がホームで乗客と喧嘩するようなことになれば、また時間を止めるしかないとイタルは考えていたが、そんなことにもならないまま、二時間ほどが過ぎた。
その後しばらく、イタルとタカギタミオは山手線外回りのホームのペンチでお喋《しゃべ》りして過ごした。タカギタミオはよく喋った。今まで誰も彼の話を聞いてやらなかったみたいによく喋った。話はばらばらで、あっちこっちに飛んでわかりにくかったけれど、イタルは辛抱づよく聞いた。
やがてホームの乗降客の数はぐっと少なくなった。生徒は来ない。
「もう帰ってもいいと思うけど、外回りで帰ろうか?」
「外回りって?」
「この電車」と言って目の前の線路を指さす。「山手線をぐるっと一周して帰るの」
「そうしよう!」とタカギタミオは言った。
日暮里を通る時は大丈夫かなとイタルは思ったけれど、このところタカギタミオは落ち着いている。なんとかなるだろう。
そう思って次の電車に二人で乗った。
さっきと同じ席に、さっきの中学生がまだ乗っていた。
精算券とスイカ
同じ人だと思って、つい足が向いて、二人はその中学生の前に立った。
「あの、さっきはありがとうございました」とタカギタミオが声を掛けた。
「え?」と相手は顔を上げた。「ああ。日暮里の子たちか」
「あの、これ、さっきの電車ですか? ずっと乗っていたんですか?」
「まあね」という軽い答えが返ってきた。本当にこの電車にずっと乗っていたらしい。電車はどこかへ行くために乗るものだ。ずっと乗っていて降りなかったらどこにも行けない。
「ぼくたちは東京駅まで行くんです。暇だからちょっと遠回りしようかと思って」とイタルが言った。
電車は空《す》いていた。中学生は読んでいた本を閉じて膝《ひざ》の上に置いた。読みかけのところに指を挟んでいる。白いワイシャツに黒のズボン。
「ずっと電車に乗っているんですか?」とタカギタミオが尋ねた。なんだか電車の中に住んでいる人みたいな言いかた。
相手はしばらく黙っていた。聞かれたことを無視するのではなく、答えようかどうしようかと迷っている顔だった。イタルたち二人はその顔を見ながらじっと待った。
「うん、いつも乗っている」とようやく言った。秘密を漏らすような口調だった。イタルたちは引き込まれた。「キップがあれば電車はずっと乗っていられる。冷房が効いて涼しいし、それに山手線ならば本に夢中になっていても遠くへ行ってしまう心配がない」
でも、電車の中ではひとりぼっちだ。一人でもできることしかできない。たとえば本を読むこととか。
「本を読んでいるんですか? 山手線の中で?」とイタルは聞いた。
相手はまた考えた。見知らぬ小学生二人にそんなに自分のことを話していいかどうか考えている。この二人だって電車に乗ったり降りたり、なんだか怪しい。そう思っているのかもしれない、とイタルは考えた。
「一周だいたい一時間なんだ」と中学生は言った。「本がたくさん読める。朝乗って、三周すると昼になるから降りてご飯を食べる。それから一駅か二駅だけ歩く。ずっと坐《すわ》っているだけだと飽きちゃうから」
「駅と駅の間を歩くの?」
「歩く。今日は恵比寿で降りて、渋谷《しぶや》まで歩いて、双葉《ふたば》っていう店で立食い蕎麦《そば》を食べて、その後でまた原宿《はらじゅく》まで歩いた。それでまた電車に乗って、ぐるっと回って東京駅まで行ったところでキミたちが乗ってきた」
「ええ、日暮里のこと、教えてもらいました。字のこととか、わかりました」とタカギタミオが神妙に言った。
「山手線はぐるぐる回っているのがいいんだけど、時々大崎《おおさき》止まりや品川《しながわ》止まりというのが来る。そうすると一度降りなけりやいけないし、次の電車は込むから困るね。だけど、しかたがない」
「なぜ止まるんだろう」とイタルが言った。
相手は身を乗り出した。
「朝のラッシュの時は乗客が多いから、ぎりぎりまで電車の本数を増やすだろ。でもそれが過ぎると、そんなにたくさん電車はいらない。だから余った編成を山手電車区に返す。その前にお客をぜんぶ降ろすのが大崎と品川なのさ」
「すごい。ユータより詳しい」とイタルは思わず言った。
「環状線の終着駅って、矛盾だけどね」と中学生はむずかしいことを言った。
「ぼく、タカギタミオと言います」とタカギタミオはいきなり自己紹介した。「日暮畠に住んでいます。あ、住んでいました」
「ぼくはイタルです」としかたなく続ける。
「ぼくはね、フクシマケンだよ」と中学生はちょっと恥ずかしそうに言った。
「福島県?」とイタルが言った。
「そうじゃなくて、フクシマ、ケン。健康の健。だけどみんなフクシマケンって呼ぶ」
「フクシマケンさんは……」と言いかけてタカギタミオが笑った。
「さんは付けなくていいよ。呼び捨ての方が言いやすい」
「じゃ」と言ってタカギタミオほ呼び捨てのために気合いを込めた。「じゃ、フクシマケンはなんでそんなに電車に乗っているんですか?」 子供電話相談室のような聞きかただった。
「それになんで電車で本を読んでいるんですか?」と、これはイタルが聞いた。
電車は大崎駅を出るところだった。これは品川止まりでも大崎止まりでもなかったらしい。
フクシマケンはまたしばらく考えていた。また秘密を明かすかどうか迷う顔になっていた。秘密の多い人だ。
「学校が嫌いだから」としばらくして小さな声で素早く言った。
すごい、とイタルは思った。なんてわかりやすい答えだろう。学校が嫌いだから電車に乗って一日を過ごすなんて、すごく勇気がいることだ。イタルはフクシマケンを心から尊敬した。
「学校って、おもしろくないんだ」とフクシマケンはまた小さな声で言った。
「そうです」とタカギタミオが言う。「学校も家もおもしろくない。ぼくも本当にそう思います」
「キミたちも電車に乗ってるのかい?」とフクシマケンが話題を変えていきなり聞いた。
「ええ、ぼくたちは、駅の子といって……」とタカギタミオが言いかけたところでイタルはあわててタカギタミオの腕を引いた。
「ダメだよ。そんなにぺらぺら喋《しゃべ》っちゃ」と小さな声で言う。
「いいじゃないか」とタカギタミオはいきなり大きな声を出した。目が怒りはじめている。また大騒ぎになるのは困るし、とイタルは考えた。「だって、この人は日暮里のことだって教えてくれたんだし……」
「しっ――。頼む。頼むから怒らないで。大きな声を出さないで。ちょっと来て」
そう言ってイタルはタカギタミオを引っぱって少し離れたところまで連れていった。二人でちょっと背伸びをして吊革《つりかわ》につかまったまま話す。前の座席には誰もいない。
「駅の子のことは、普通の人にはナイショナイショだろ。駅員さんや掃除のおばさんやキヨスクの人は知っている。でも普通の人は知らない。知らせないことになっている」
「でも、フクシマケンには言ったっていいじゃないか」とタカギタミオはまた大きな声で言った。「いい人だよ」
ちらっと見ると、中学生はこちらを見ている。
「だから、いい人かどうかじゃなくて……」
「邪魔するな!」と言って、タカギタミオはフクシマケンの方に戻りかけた。
抑えようがない。時間を止めて説得することもできるけど、たぶんタカギタミオは言うことを聞かないだろう。それに時間を止めていいほど緊急なことではないような気がする。
「わかった。話していい」とイタルは歩きはじめたタカギタミオに駆け寄り、後ろから腕を押さえながら耳元で言った。「でも、電車の中はダメだ。他の人に聞かれると困る。次の駅で降りてベンチで話そう」
「わかったよ」
そこで二人はフクシマケンのところに戻った。
「ぼくたちがなぜ電車に乗っているかお話ししますから、次の駅で降りてくれませんか?」
「いいよ」と相手は言った。怪しい小学生二人組に興味を持ったらしい。
次の駅は恵比寿だった。イタルの家はここから歩いてすぐだが、どうせ外には出られない。それに今はそんなことを考えている暇もない。ホームには人が少なくて、ベンチで話がしやすかった。先輩ということでもっぱらイタルが駅の子のことを説明した。キップをなくすと駅の子になること。みんな東京駅で暮らしていること。通学の生徒を護《まも》る仕事をしていること。
フクシマケンは時々聞き返しながら聞いていた。
「子供がいなくなって、親とか学校は心配しないのかな? 誘拐とか事故とか騒がないの?」
「それは大丈夫みたいです。何か駅長さんから連絡が行くみたいで、誰も心配しないって言われました」
「駅長さんって、東京駅の?」
「違います。もっと偉い、神様みたいな人。よく知らないけど」
「ともかく、駅の子になるともう大丈夫なんだ」
「大丈夫っていうか。もう帰りなさいって言われるまでは駅の子なんです。ステーション・キッズなんです」
「誰が言う?」
「駅長さん」
「会ったことがある?」
「いいえ。いつも声みたいのが聞こえるだけ。ミンちゃんって子がいて、その子は会ったことがあるって言ってました。でもミンちゃんは特別だから」
「どう特別なんだろう」
「それは」と言ってイタルはちょっとタカギタミオの顔を見た。「それは言えません。秘密です」
タカギタミオはまだミンちゃんの秘密を知らない。今ここで教えろとも言わなかった。
フクシマケンはしばらく黙って何か考えていた。目の前に電車が入ってきて、少し人が降り、少し乗って、また電車は出ていった。
「キップをなくすと駅の子になる」
「そうです」とイタルが言った。
「定期をなくしても」
「そうです」とタカギタミオが言った。「おれは定期をなくしました」
「自分からなくしたら、どうだろう?」
「えっ?」
「だから、自分でなくしたら、東京駅で暮らせるだろうか?」
「自分でなくすって、つまり捨てるんですか、キップを?」
「そうだよ」とフクシマケンは軽く言った。
「なりたいんですか?」
「うん」
今度はイタルの方が考え込む番だ。たまたまキップをなくしてしまったから駅の子になる。ぼくはしかたがないと思って、フタバコさんの言うとおり素直に駅の子になったけれど、タカギタミオは嫌がって大騒ぎした。今日は田町駅で通学の生徒の世話をちゃんとやっていたから、もう強引に家に帰る気持ちはなくなったみたいだけど。
でも、駅の子というのは自分からなるものとは達うんじゃないかな。
フタバコさんに聞いたらどう言うか。でもここにフタバコさんはいない。それより町長さんはなんと言うだろう?
頭の中でいっしょうけんめいに駅長さんに呼びかけてみたけれど、返事はなかった。今朝、田町駅へ行くようにという連絡は入ったのに。
「わかりません」とイタルは言った。「今の仲間たちにそんな風にしてステーション。キッズになった子はいないから。みんなしかたなくなったんです」
「でも、話を聞いていると楽しそうじゃないか」
「それはそうだけど」
「学校に行かなくてもいいし、電車にたくさん乗れるし、駅弁も食べられるし」
「そうだけど」
「ぼくは学校に行きたくない。いじめられるだけだから行くのはやめた」
「そうなんですか? 中学校でもいじめられるんですか?」とタカギタミオが聞いた。
「そうさ。中学の方がひどいよ。だから行かない。でも、お母さんに言うわけにもいかない。だからずっと電車に乗っているんだ」
「中学校でもいじめられるんだ」とタカギタミオはつぶやいた。タカギタミオはいじめる側みたいに見えるけど、達うんだろうか。
「よし、やってみよう」とフクシマケンは言って立ち上がった。
ポケットから定期入れを出して、定期を抜くと、ゴミ箱のところへ行って、ポイと捨てた。
「ああ、捨てちゃった」とイタルは小さな声で言った。タカギタミオの方はなんだか嬉《うれ》しそうだった。
「さあ、東京駅に行こう」
もちろんフタバコさんはフクシマケンを歓迎しなかった。
イタルたちが新入りの中学生を連れて詰所に戻った時、フタバコさんは幼い子供たちの勉強を見ていた。緑と泉は算数、比奈子と馨は漢字、あまり勉強しないミンちゃんは絵を描いていた。
イタルたちはフクシマケンを詰所に連れていって、フタバコさんに紹介し、いっしょぅけんめい説明した。山手線で出会ったこと、日暮里の説明、また会ったこと、フクシマケンという名前、ずっと電車に乗って本を読んでいる人であること、そして駅の子のことを話したこと……
「言っちゃったの、私たちのことを?」とフタバコさんはきつい声で言った。
「そうなんです。そうしたら、定期を捨てて……」
「……ステーション・キッズに志願しました」とフクシマケンが自分で言った。「イタル君は止めたけれど、ぼくは来てしまった」
「さあ、駅長さんがなんて言うかな」とフタバコさんは言った。「駅の子と認めてもらえるかどうか。自分でキップを捨てるというのはね」
「ダメなら帰ります」とフクシマケンは言った。
「だって帰れないでしょ。もうキップがないんだからラッチは通れない」
「ラッチ?」
「改札口」とフタバコさんが説明する。
「通れます」とケンさんは言った。「駅の精算所に行って、キップをなくしたって言って、もう一度買えばいいんです。今だったら、この駅の精算所に行って、たとえば有楽町から乗ってなくしましたって言えば、百二十円の精算券を売ってくれます。それで改札口は通れます。時刻表の『きっぷをなくした場合』というところに書いてあります」 子供たちは黙り込んだ。
誰も何も言わない。
すごいショックだ。知らなかった。そんなことで自分は駅から出られたのだ、とイタルは考えた。お金ならあの時も持っていた。恵比寿から有楽町だから子供料金で九十円、そのお金は持っていた。あの時に、フタバコさんの言うことを聞かないで、そのまま精算所に行けば家に帰れた。
みんな黙っている。同じことを考えているのだ。駅の子になることはなかった。
「後になって、なくしたキップが出てきたら、精算券と一緒に持っていけば百二十円は返してくれます」とフクシマケンがつけ加えた。
まだみんな黙っている。
今すぐだって精算所に行けばラッチの外に出られる。イタルのデイパックはロッカーに入れてあった。その中には切手のアルバムなんかと一緒に財布も入れてあって、そこにお金は入っている。キミタケさんのように駅長さんから出ていいと言われるのを待たなくてもいい。
みんな、その気になれば今すぐでもここから出られる。あ、ミンちゃんは別か。
タカギタミオなんかはじめのうちは「おれは家に帰りたい」って叫んでいた。今も同じ気持ちならばランドセルを担いでまっすぐ精算所に行けばいいのだ。
「わかった」とずいぶんたってからフタバコさんが言った。低いかすれた声だった。
「わかった。私たちはその気になればラッチから出られる。駅長さんの許可を待つことはない。私たちは自由なのね。じゃあ、どうする?みんな、そうやって今、駅から出る?」
また誰もが黙り込む。一人一人、必死で考えている。
イタルは自分が家に帰るところを想像した。マンションの玄関を入って、エレベーターに乗って、4のボタンを押して、外廊下を歩き、家のドアを鍵《かぎ》で開けて、中に入る。ダイニングを抜けて自分の部屋。六時になったらママが帰ってくる。パパはどうせ夜ずっと遅く。あの家、あの部屋。
でも今、自分はここにいる。この仲間たちと暮らしている。ここを出たら家に帰れる。ここを出たら家に帰るしかない。キップをなくしたから、ここにいるしかないと思っていた。でも帰れる。
じゃあ帰るか?
帰るか?
帰らない。
誰もが同じ結論に達したようだった。
「帰れば帰れる」とフタバコさんが言った。「だけど、わたしは今は駅の子だよ。ステーション・キッズの仕事がある。わたしは帰らない」
緑と馨がうなずいていた。ユータはぼんやりしていた。ロックはなぜかにこにこしていた。ミンちゃんはいつもの静かな顔だ。
「タカギタミオはどうする?」とフタバコさんが聞いた。「キミは前は帰りたいって言っていた。こんなところにいたくないって大騒ぎした。今なら帰れる。どうするの?」
タカギタミオはしばらく黙っていた。それから顔を上げてフタバコさんを見て、ケンさんとイタルの顔を見た。
「ここにいます」
「なんで?」
「ここですることがあるような気がする」
「そうだよ。そうなんだ」とロックが言った。「みんな、ここですることがある。ここがいい」
「駅の子がいないと、通学の子たちが困るでしょ」と泉が言った。「おうちに帰りたいって時々思うけど、でも今はまだ帰らなくてもいい」
「ミンちゃんは?」とタカギタミオが聞いた。
イタルはちょっと息を呑《の》んだ。タカギタミオとフクシマケンにミンちゃんのことを話さなければならないだろうか。ミンちゃんは、話すだろうか。
「わたしは帰るとこがないの」とミンちゃんが言った。「わたしは死んだ子だから」
そしてミンちゃんはびっくりしている新入りの二人に、事故のことや駅長さんに会ったことを話した。
「帰るとこがないんじゃない。生まれる前の世界に帰るの。そこは天国だけど、でもわたしはまだ決心がつかない。駅長さんは自分で決めなさいって言ってくれたし。だからわたしは天国に行くか駅の子でいるか、どっちかなの。おうちには帰れないの」
みんな黙った。イタルは頭が空っぽになった気がした。最初にこの話を聞いた時はわーわー泣いてしまった。今日は泣かないけれど、でもやっぱりどうしていいかわからなくなる。
みんな何も言わない。タカギタミオもフクシマケンも何も言わない。言うことがない。じっと噛《か》みしめるしかない。
その時、電話が鳴った。
近くにいたロックが出た。「はい、はい」と相手の言うことを聞いている。「ありがとうございます。すぐに行きます」
そう言って電話を切る。
「まるし食堂のおばさんだよ。おやつにスイカをあげるから取りにおいでって」
ユータとイタル、それにロックが立った。
「キミも来な」と言ってタカギタミオを誘う。
四人で行ってよかった。スイカ一個はちゃんと切り分けて、調理用のきれいなバケツに入っていた。すごく重い。その他にみんなで行儀よく食べるために大きなお皿が十二枚。こっちも段ボールの箱に入っていて重い。それに、落としたら割れる。
みんなでふーふー言って持って帰った。
「スイカだよ!」とロックが叫んだ。
みんなでわいわい食べるうちに、ひとまずミンちゃんのことは忘れた。珍しくミンちゃんも小さな口でスイカを食べている。この子がものを食べるのを見るのは初めてだとイタルは思った。
「外だと、種をプッと吐き出せるんだけどね」とフクシマケンが言った。
「それはお行儀の悪いことだわ。いけないんだわ」と緑が言う。
「そうよ、そうよ」と馨と泉が応援する。
「吐き出した種が地面に落ちて芽が出てね。そこはスイカ畑になる」
「ならないわ」
「なるかもしれない。だからスイカとブドウは外で食べるのがいい。種を吐き出しながら」
おもしろい人だ、とイタルは思った。
「フクシマケン、あなた、その服は換えた方がいいわ」とフタバコさんが白いワイシャツに黒の制服のズボンをじろじろ見ながら言った。「やぼったい」
「換えるって?」
「遺失物倉庫に行くと服がもらえるんです」とユータが言った。「自分で選べる。後で連れていってあげます。タカギタミオも行く?」
「うう」とタカギタミオはうなった。スイカに夢中でそれしか言えないらしい。
「今晩はまるしの食堂に行こうよ」とポックが言った。「さっき見たんだけど、今日の夕定食は小鍋《こなべ》すき焼きだって。それにキュウリとジャコの和《あ》え物、味噌《みそ》汁に香の物」
「食堂でも食べられるの?」とフクシマケンが聞いた。
「食べられます。職員食堂の他に和食のけやきというのと、洋食のレストラン東京もある。みんな無料です」
「本屋はないかな?」とフクシマケンは重ねて聞いた。「駅の中に。キヨスクじゃなくて、ちゃんとした本屋さん」
「八重洲《やえす》南口の横に栄松堂があるわ」とフタバコさんが言った。「一通りはそろっているし、注文もできる」
フクシマケンは安心した風だった。
「あなた中学生でしょ。この子たちの勉強、手伝ってやってね」とフタバコさんが言った。「高校生がいたんだけど、出ていっちゃったから、わたし一人ではみんなを見きれないの」
「わかりました」とフクシマケンは言った。
そこで、スイカの後かたづけが済んで、新入りの二人が遺失物倉庫から衣類をもらってくると、また勉強の時間になった。
みんな自分で教科書を開いたり、ドリルを使ったり、年上の子に問題を作ってもらったりして、神妙に鉛筆を握った。
「やっさしー!」と言いながらかけ算を解いていくのは泉だ。馨と緑は口の中でぶつぶつ言ったり互いに相談したりしながらやっている。
ユータは何か本をノートに写していた。
イタルが見ると歌らしい。
汽笛一声新橋《きてきいつせいしんばし》を
はや我汽車《わがきしゃ》は離《はな》れたり
愛宕《あたご》の山《やま》に入《い》りのこる
月《つき》を旅路《たぴじ》の友《とも》として
「むずかしそう」とイタルは言った。「何、これ?」
「昔の歌。東海道《とうかいどう》線の歌らしいんだ。でもそのころはまだ東京駅がなくて、新橋始発だったんだって。だから『汽笛一声新橋を』って言うんだ」
「東京に東京駅がなかったの?」
「そうみたい」
「はや我《わが》って何?」
「速い私ってことだろ。速い私の汽車さ。この歌は六十六番まであって、神戸《こうべ》まで行くんだ。ぜんぶ書こうと思うんだけど、大変だよ」
「東海道線って、大阪《おおさか》に行くんじゃないの?」
「東海道本線は東京駅から神戸駅までだよ」と横から教えてくれたのはフクシマケンだった。「その先が山陽《さんよう》本線」
もっと説明してくれようとした時、ガタンと大きな音がした。タカギタミオが椅子を後ろに蹴倒《けたお》すほどの勢いで立ち上がったのだ。
「ダメだ、こんな問題! できるわけないだろ! こんなの変だよ」
部屋中に響くような大きな声でそう叫ぶと、机の上にあった参考書を壁に投げつけた。
ああ、またやっちゃった。ずっとおとなしかったから大丈夫と思っていたのに。
「どうした?」とイタルは声を掛けた。タカギタミオのことはなんとなく自分の責任のような気がする。本当はカンケイないのに、とも思うのだが。
「知らないよ! こんな問題、おかしいよ。もう、やめた」
タカギタミオは仁王立ちになって顔を真っ赤にしていた。かんかんに怒っている。今日はランドセルではなく本を投げつけた。
だけど、この前とはちょっと違うみたいだ、とイタルは思った。自分でもどうしようもないほどの怒りではないみたい。
イタルはみんなが見ている中で投げられた本を取りにいった。参考書は背の角が曲がっていた。
「どの問題?」
タカギタミオはしぶしぶページを開いた。
「これだよ。『ツルとカメが合わせて七匹いました。足の数は合わせて二十本でした。ツルとカメはそれぞれ何匹いるでしょう?』 って、すごく変だよ」
「なんで?」
「だってツルとカメじゃ足の形がぜんぜん違うじゃないか。それに、カメは何匹って数えるけれど、ツルは何羽って言うんだろ」
「でもこれは算数の問題なんだから、ぜんぶがツルだったら足は何本のはずで、って考えるんだよ」
「だって、ぜんぶツルじゃなくて、カメもいるんだろ」
というタカギタミオの声を聞きながらイタルが見ると、机の上にある白い紙にさらっとカメの絵が描いてあった。すごくうまい。ユータの汽車のような本物っほい絵なのに、小首をかしげて顔がちょっと笑っているところは漫画みたい。
「うまいんだね、絵が。ねえ、ツルも描いてよ」
タカギタミオはそう言われて気持ちが落ち着いたのか、坐ってツルの絵を描きはじめた。今日は算数はやめた方がいいみたいだ。
駅長さんに会う
フクシマケンが来てから、駅の子たちはなんとなく落ち着かなくなった。
みんなで暮らすのは楽しいし、通学の生徒を助ける仕事も大事だ。いつも電車や汽車や駅の雰囲気の中にいるのだってけっこう楽しい。
だけど、本当は自分はここにいなくてもいいんだという気持ちがどこかに混じっている。それをフクシマケンが植え付けてしまったという感じ。電車で好きな駅まで行って、精算窓口でキップをなくしましたと言って、精算券を買う。それだけで駅の外に出られる。家に帰れるし、学校に行ける。本当は出口は開いているんだ。後は自分の気持ち次第。そう考えると気持ちは少し揺れるのだ。
その日は雨だった。朝、詰所で目を覚ます。そこはもちろん室内で、東京駅という大きな建物の中、長い廊下の果てにある窓もほとんどない半地下の部屋の中、つまり雨の降る外からはずいぶん遠いところだ。それでもどこか雨の匂いがする。雨だとわかる。ああ今日は大変だなとイタルは思った。
初夏の雨の日はまず蒸し暑い。それに通学の生徒たちはみな合羽を着たり傘を持ったり、荷物が増えて動きがにぶくなっている。電車の中も湿って嫌な匂いがするし、通勤の大人たちもなんだかいらいらしていて、中には電車から降りる時に子供を突き飛ばす人もいる。ステーション・キッズの仕事もその分だけやりにくくなる。雨の日は苦労が多い。
案の定、その日は大変だった。イタルはフタバコさんと二人で池袋《いけぶくろ》駅に行ってへとへとになった。この駅は大きいし、乗換も複雑だし、ともかく子供の数が多い。ここは日本で二番目に乗降客の多い駅なんだって、とフタバコさんが言った。
二人は山手線の内回りホームと外回りホームに分かれて働いたのだが、イタルは三回も時間を止めて生徒を助けなければならなかった。一度などは閉まりかけた扉を手と足で無理に開いて、大人を一人引き出し、代わりに子供を一人押し込んだ。
つまりこういうことだ。その子は池袋で降りるつもりはなかったが、扉の近くにいたために降りる人の流れに押されてしかたなく一度は電車を降りた。そのまま扉の脇で待っていたのに、それにそういう場合は池袋から乗る人をさしおいて優先的に乗れるはずなのに、殺到する大人たちにはじき出されて乗れないまま扉が閉まりかけた。だからイ
タルは時間を止め、扉を両手と片足で押し開いて、最後に乗った大人(子供四人分くらいの場所を取りそうな太ったおばさん)をホームへ運び、空いたところに生徒を入れて時間を元に戻した。
時間が止まっている間は重さもなくなる。だからイタル一人で太ったおばさんを降ろすこともできたので、そうでなかったらとても無理だっただろう。ホームに残されたおばさんは、たしかに乗ったはずなのにとキョトンとしていた。近くで知らぬ顔をしている少年の仕業だとは気づかない。
そんな風にして湿気と雨の匂いと汗とみなの苛立《いらだ》ちの中で働くと、やっぱり疲れる。
子供はいなくなったけれどまだ込んでいる電車で東京駅まで帰る時、イタルとフタバコさんは、二人ともくたびれた顔をしていた。
「雨だと大変ですね」とイタルは隣のフタバコさんに言った。
「やっぱりね」とフタバコさんも疲れた顔で言う。「大人もみんなぴりぴりしているから」
「この雨って、梅雨《つゆ》ですよね」
「そう新聞に書いてあった。もうすぐ明けるはずって」
フタバコさんは新聞を読む。キヨスクからもらってきて、丁寧に読んで、おもしろいニュースがあるとみんなに教えてくれる。時には新聞を材料に勉強の問題を作ってる。
「ねえ、梅雨が明けると、夏休みでしょう」
「そうだね」
「ぼくたち、どうなるんですか?」
「どうって?」
「通学の生徒はいなくなるし、することがなくなる」
「そうなのよ。わたしもずっとそれを考えていた(とフタバコさんはイタルの耳元で小さな声で言った)。夏休みに駅の子がどうするのか、どこにいるのか、知らないね」
「どうなるんでしょう?」
「東京駅に帰ってから相談しょう」とフタバコさんが言った。
東京駅に着いた時、二人はそのまま詰所には帰らず、八重洲南口のレストラン東京でジュースを飲みながら話すことにした。フタバコさんから相談と言われて気づいてみると、イタルは、フクシマケンを別にすれば、今いる駅の子の中でいちばん歳が上だった。電車通学の生徒の保護という仕事もしっかりやっている。フタバコさんにとってフ
クシマケンは相談の相手ではなく議論の相手らしい。となると、フタバコさんが誰かに相談したいと思ったら、相手は自分しかいないことになる。
「なんだかいろんなことがわからなくなってきたね」とフタバコさんは言った。
「ぼくはそうだけど。フタバコさんもそうなんですか?」
「わたしだってこんな暮らしをするのは初めてだよ。春休みにはまだ普通の中学生だったんだから。一学期の最初からいたのはミンちゃんとキミタケさんだけだよ」
「誰も休みのことを知らないんだ」
「そうよ。どうする?」
「それは駅長さんに聞くしかないでしょう。こういうことぜんぶ決めているのは駅長さんなんだから。聞いてみましょうよ」
「そうだよね、やっぱり。みんなで呼べば出てきてくれるかしら?」「今日、晩ご飯の前に頼んでみたら」
午後になって雨は上がったが、それでも学校帰りの生徒たちは朝と同じように傘を持ったり合羽を着たりしていた。まあラッシュではないから朝ほど大変ではなかったけれど、その代わり男の子たちが傘でちゃんばらをするのが危ない。みんな勝手にホームを走り回るから。
イタルは鶯谷《うぐいすだに》駅で二時間ほど生徒たちの面倒を見てから詰所に戻った。しばらくするうちに他の駅の子も三々五々帰ってきた。やがてフタバコさんが戻って、全員がそろっているのを確かめてから、フタバコさんは「ちょっと聞いて」とみんなに呼びかけた。
子供たちは勝手なお喋《しやべ》りをしたり(緑と泉と馨)、本を読んだり(フクシマケン)、汽車の時刻表をながめたり(ユータ)、恐竜の絵を描いたり(タカギタミオ)、綾《あや》取りをしたり(ミンちゃんと比奈子)していたが、すぐに顔を上げてフタバコさんの方を見た。
「今ねえ、わからないことがあるの。フクシマケンが教えてくれたとおり、わたしたちはその気になれば駅から出られる。でも今は出ないと決めたよね」
みんながうなずいた。
「でも、もうすぐ夏休みだよ」
何人かが、「あっ、そうだ!」という顔をした。
「夏休みになったら生徒は通学しない。わたしたち、駅にいてもすることがなくなる。じゃぁ勝手に家に帰ることにするのか。駅の子はこのまま解散する?」
誰も返事をしない。フタバコさんの次の言葉を待っている。
「どうすればいいのか、わからないんだよ。家に帰るのはいいけれど、でも駅の子って何だったの? 何のためにわたしたちはここで暮らしたの?」
学級会みたいだけれど、もっと真剣だった。
比奈子が手を挙げた。
「いちばん大事なのは、ミンちゃんだと思います」
ざわざわという波が部屋の中に広がった。そうだミンちゃんには帰るところがないんだ。
「そう」と言って、フタバコさんはちょっと黙った。「ミンちゃんのことがいちばん大事だ」
そのミンちゃんはみんなに見られながら、何も言わなかった。
「この間、フクシマケンが、キップをなくしても駅から出られるって言った時、わたしは家に帰ろうかなってちょっとだけ思った。でもやっぱり残ろうと思った。ミンちゃんのこともあったけれど、それだけではないの。なんだか、これを終わりまでやってしまわなければって、そう思った。終わりっていうのがよくわからなかったけれど、今考えれば夏休みは一学期の終わりに来るよね」
誰も何も言わないのは、それぞれに二学期になって普通に学校に行っている自分の姿を思い浮かべているからだろうか。家だって友だちだって懐かしくないわけがない。
「でも、終わりならばちゃんと終わりらしくなければいけない。ミンちゃんが寂しくないようわたしたちは考えなければいけない」
「じゃ、どうするんですか?」と聞いたのはフクシマケンだった。
「駅長さんに会う」とフタバコさんは言った。「それしかないよ」
みんなが「ああ、そうだ」という顔になる。納得して、一瞬の後、「でも、どうやって?」という疑問が浮かんだ。
「どうやれば駅長さんに会えるか、わたしにもわからない。でも、みんなで一斉にお願いしたら、会えるかもしれない」
「それって、教会のお祈りみたいですね」とフクシマケンが言った。「やっぱり駅長さんて、神様みたいなものなのかな」
「よくわからないけど、他にないでしょ」
フクシマケンが何か言うたびにフタバコさんはちょっといらいらするみたいだった。
「いつもはどうしているんですか、連絡を取る時?」とフクシマケンが聞いた。
「こちらから連絡を取ることはあんまりないのよ。たいてい声が聞こえてくる」
駅の子たちはそれぞれにうなずいた。みんな駅長さんの声を頭の中で聞いたことがある。朝どの駅に行くかはそれでわかる。
「用がある時は頭の中で呼びかけると答えてくれることもある。返事がないこともあるけれど」
「じゃ、今は?」
フタバコさんが何か言おうとした時ミンちゃんが立ち上がった。
「わたしがお願いしてみるわ」とミンちゃんは言った。「きっと聞いてくれると思う」
そう言ってミンちゃんは目をつむった。口を動かして何か言っている。
しばらくした時、イタルの頭の中で駅長さんの声が響いた。深い洞窟《どうくつ》の奥から聞こえる声みたいだ。
「みんなで私に会いに来なさい」とその声は言った。
室内を見ると、駅長さんの声は全員に届いたようだった。
「どこへ行くの?」とユータが言った。たしかに、行く先の指示はなかった。
「わたしが聞いたから」とミンちゃんが言う。そこのところはミンちゃんだけに伝わったらしい。
みんなはぞろぞろと詰所を出て、ミンちゃんの後について歩いた。灰色の長い廊下を過ぎて、三段とか五段とかの半端な階段を上ったり下りたりし、重い扉を開いてコンコースに出る。夕方遅くの駅構内は空《す》いていた。ラッシュはまだ先だ。
ミンちゃんはどんどん歩いて行って、細い通路に曲がり、クリーム色の扉の前に山た。こんな扉のこと、今まで知らなかったぞ。
ミンちゃんが扉の鍵《かぎ》穴のところに手を当てた。カチッという音がした。ハンドルをつかんでぶら下がるようにする。でもミンちゃんの体重が足りないのか、ハンドルは下がらない。すぐ隣にいたロックが手を貸した。ハンドルは下がって、ロックが押すと扉はゆっくりと開いた。
中はまた細くて長い、がらんとした通路だった。でも、詰所への通路と違ってこちらはずいぶん明るい。壁の色は薄い緑だった。空気はほんの少しだけカビ臭い。
子供たちは互いに顔を見合わせた。ちょっと恐いかなという気がしたが、ミンちゃんは平気でどんどん歩いていく。それなら大丈夫なんだろうと思って、イタルたちもついて行った。
途中で通路はもっと広い廊下につながっていた。床には赤い絨毯が敷いてあり、天井が高くなり、壁は大理石、ところどころにシャンデリアがぶら下がっている。もうカビ臭くはない。それでも子供たちは広い廊下の真ん中あたりになんとなく固まってミンちゃんの後についてこわごわ進んだ。羊飼いと羊の群みたいだとイタルは考えた。家にある絵本でそういう場面を見たことがある。
廊下はずっと先まで続いていたけれど、途中の右手に大きな入口が現れた。扉が二枚あって、真ん中から両側に開くようになっている。ミンちゃんがその前で止まった。
右手を上げる。
二枚の扉がゆっくりと開いた。
ミンちゃんがすっと中に入り、その後にフタバコさんが入った。あとはどやどやとみんなが入り込む。
ものすごく立派な部屋だった。というより、ものすごく立派そうに造った部屋、それにおそろしく古くさかった。壁とか大きなテーブルを覆う布とか、何もかもがくすんだ金色で、そこに臙脂《えんじ》色の模様が入っている。天井には外の廊下にあったのの五倍くらいの大きなシャンデリアが吊《つ》ってあった。
そして、正面に誰かいた。大きなテーブルの向こう側に濃紺の制服を着た男の人が立っていた。おじさんというよりおじいさんに近い歳に見えた。まじめな顔で入ってくる子供たちを見ていた。にこにこはしていないが、でも恐い顔でもない。
みんなが部屋に入ってテーブルのこちら側になんとなく並んだ時、背後で扉の閉まる気配がした。
「こんにちは」とミンちゃんがテーブルの向こうの人に言った。
「こんにちはミンちゃん」とその人は言った。少し甲高い、でも静かな声だった。
「駅長さん、みんなを連れてきました」とミンちゃんが続けた。ちょっと仲間の方を振り返って、「駅長さん、知ってると思うけど、紹介します。あの、フタバコさんと、比奈子ちゃん、泉ちゃんと緑ちゃんと馨ちゃん、ユータさんとロックさんにポックさん、イタルさん、あとはタカギタミオさんとフクシマケン」
駅長さんに会ったことがあるのはミンちゃんだけだったからミンちゃんがみんなを紹介したのだ。フクシマケンには「さん」が付かない。
「あのね、この人が駅長さん」とミンちゃんは今度は子供たちの方を向いて説明した。
みんなそろって頭を下げた。駅長さんが軽く会釈した。
「みなさん、よく来たね。お掛けなさい」
テーブルの前には大きな立派そうな椅子がずらりと並んでいた。十二名の子供が一列に坐《すわ》って、こちら側の椅子はちょうどすべて埋まった。反対側には一つしか椅子がなくて、そこに駅長さんが坐った。
「毎日あちらこちらの駅で生徒たちの通学を手伝ってくれてありがとう。特に今日は雨だから大変だったね。さて、飲み物をあげたいのだが、みんなジュースでいいかな?」
「はい」とみんなを代表してフタバコさんが言った。「でも、どうぞ、おかまいなく」
そのやりとりを聞きながら、やっぱりフタバコさんは大人だなとイタルは思った。
駅長さんが何か合図をしたわけでもないのに、すぐに脇の方の小さな扉が開いて、ウエイトレスのような制服を着たおばさんがワゴンを押して入ってきた。これまで見たことのない顔だった。全員の前にジュースのコップを置いて、駅長さんの前にも一つ置いて、何も言わずにまた出ていった。その間は子供たちも黙っていた。
「さあ、飲みなさい」と駅長さんが言った。テーブルが高いので緑たちなどは肩から上しかテーブルの上に出ていなかったけれど、みんな上手にコップを持ってストローをくわえ、こぼさないようにジュースを飲んだ。
いよいよ大事な話をしなければならない時が来た。
「あの、わたしたち、いろいろ聞きたいことがあって来ました」とフタバコさんが言った。「駅の子のこととか、夏休みとか」
「なるほど」と駅長さんは言った。「ではキミたちが聞きたいことを一人一人言ってみてくれないかな。いくつあってもいいよ。ぜんぶ聞いてから私は答えよう」
そう言われてみんながフタバコさんの顔を見た。でもフタバコさんはイタルの方を見ている。
「キミがまず聞いて」と小さな声で言う。
なんでぼくが、と思いながらイタルは立とうとした。椅子が重くてなかなか後ろに引けない。
「坐ったままでいいよ。教室ではないのだから」と駅長さんが言った。
「はい、あの、もうすぐ夏休みですよね? 生徒たちが学校に行かなくなったらぼくたちやることがなくなるんだけど、どうすればいいんですか?」
駅長さんは黙ってうなずきながら聞いていた。
ロックとポックが二人で小声で話して、ロックの方が手を挙げる。
「ええと、ぼくたちは家に帰ってもいいんだって、あの人が言いました」
そう言ってフクシマケンの方を指す。
「キップをなくしたのに、本当に帰ってもいいんですか?」
「なるほど。次は誰かな?」
「はい」と言って比奈子が靴を脱いで椅子の上に立った。まっすぐ天井の方を向いて話す。
「わたしはミンちゃんと、仲よしです。だからミンちゃんのことがとっても心配です」
それだけ言ってまた坐った。
駅長さんが深くうなずいた。
しばらくの間は誰も何も言わない。駅長さんはみんなの顔をゆっくり見ながら待っていた。
並んで坐っていた馨と緑と泉が何か小さな声で相談していたが、やがて泉が手を挙げた。
「あの、ええと、駅長さんも、前は、駅の子だったんですか? ええと、ずっと前のことだけど」
そう聞かれて駅長さんは一瞬はっとしたようだった。
「それも後で答えてあげようね。他に聞きたいことは?」
「はーい!」とユータが元気に手を挙げた。「東京駅にSLが来ることはありますか?」
これだけは聞きたいと待っていたみたいだった。
「エスエルってなんだよ?」とタカギタミオが横のユータの方を向いて大きな声で聞いた。
「蒸気機関車」とユータが答える。「昔の、すごく強い機関車」
「そんなの、関係ないじゃん」
「あるさ。SLはものすごくかっこいいんだから。一度見たいんだ」
「見たくない」とタカギタミオは言った。
「じゃ見なければいいだろう」とユータは言う。「目つむってればいいだろう」
「うるさい! おまえ生意気だぞ」とタカギタミオはやりかえした。
テーブルのいちばん端と端という位置で、ユータとタカギタミオがにらみ合っている。
「やめなさい!」とちょうど二人の真ん中にいたフタバコさんがタカギタミオの方を見て言った。「みんな聞きたいことは聞いていいの。それで、タカギ君は駅長さんに聞きたいことはないの?」
「タカギ君じゃなくてタカギタミオ!」と言ってからしばらく考える。「ええ、聞きたいのは……おれの定期はどこに行ったんですか?」
ああ、本当にタカギタミオらしい質問だとイタルほ思った。
「それで、あなたは?」と駅長さんがフタバコさんに聞いた。
「わたしは、ええと、駅の子のことをもっと知りたいと思います。これがどうして始まったのか、これからも続くのか、キミタケさんみたいに駅の子をやめたら、わたしたち、ここのことは忘れてしまうのか。そんなことです」
「わかった。では残ったキミは?」と駅長さんはフクシマケンの万を見て促した。
「聞きたいことはたくさんあります。まず、この子たちはうっかりキップをなくしたために東京駅に閉じ込められて働かされていますね。これは一種の誘拐ではないのですか? ここは強制収容所みたいじゃないですか」
この問いを聞いてイタルはちょっとびっくりしたし、他の子もざわめいた。そんな言いかたをしてもいいのか。まるで駅長さんが悪い人みたい。だいいち、自分たちほ誘拐されたと思ったこともない。しかしフクシマケンはみんなの動揺を無視して先を続けた。
「次に、ぼくが聞いたかぎり、ステーション・キッズは東京駅にしかいないみたいですね。だからぼくたちは毎日他の駅まで出張して通学の生徒たちを助けなければならない。それだって山手線管内だけでしょう。本当に大事な仕事ならばなぜ全部の駅に配置しないんですか?」 言われてみると、これはもっともな質問だった。
「それに、通学の生徒に手を貸すのなら、大きい子の方が役に立つでしょう。なぜもっと中学生を増やさないんですか」
「それは比奈子ちゃんや泉ちゃんたちが役に立っていないって意味?」とフタバコさんがきつい声で聞き返した。「だいたい、強制収容所なんて失礼じゃない。あなたは勝手に定期を捨ててここに来たんでしょ。それなのに精算すればここから出られるとかわたしたちに言って。それでも誰も出なかったんだから、つまりここは強制収容所じゃないのよ」
「まあ、彼の質問を最後まで聞こう」と駅長さんが静かな声で言った。
フクシマケンは怒ったフタバコさんの顔を黙って見ていたが、やがて駅長さんの方に向きなおった。
「では、最後の質問です。あなたはいったい誰なのですか? 駅長さんと呼ばれているけれど、もちろんこの東京駅の正式の駅長ではない。その一方、ぼくたちの心の中に直接話しかけたり、誰かがキップをなくすことを初めから知っていたり、不思議な力を持っている。また、この駅で働く人たちがステーション・キッズに手を貸すよう仕向けている。あの詰所を子供たち専用にするとか、駅弁や食堂も無料とか、そういう力を駅ぜんたいに及ぼしている。子供たちに時間を止める能力まで授けている」
そう言ってフクシマケンはみんなの顔をちょっと見た。
「それに、ぼくたちと会うためにこの部屋を使っていますよね。ここは皇族専用の待合所でしょ。皇居に住んでいる人たちが汽車に乗る時、丸の内中央口からまっすぐ来て、お召し列車に乗るまでの時間を過ごす、ここはそういう部屋でしょ。そこをぼくたちと話すために使っている」
そうなのか、と子供たちは気づいて、改めて立派すぎる部屋の中を見回した。
「これらのことを全部まとめて考えると、あなたが普通の意味で人間だとは思えない。では、あなたはいったい誰なのですか?」
「その質問にもたぶん答えてあげられるだろう」と駅長さんは言った。「もう一人いたね。ミンちゃん、今、私に聞きたいことはあるかい?」 ミンちゃんはしばらく黙っていた。
それから、椅子の横に立った。
「ええと、ええと、わたしは死んだ子です。みんなにも言ったけど。本当はここにいてはいけないんです。でも、まだここにいる。みんなと一緒にいる。それで、ええと、わたしはどうすればいいんですか?夏休みも来るし。みんな家に帰ってしまったら、寂しいし。春休みも寂しかったけど、夏休みはもっとずっと長いから」
イタルは鼻の奥がつーんと痛くなった。ミンちゃんはかわいそうだ。ぼくたちはそばにいてあげることしかできない。でも夏休みが来る。
駅長さんが軽く右手を挙げた。
みんながそちらを見る。
「みんなからの質問はよくわかった。私はいちばん大事な質問から答えていこうと思う。そうすれば結局はぜんぶの質問に答えたことになるだろう。
では、みんなが聞いた中でいちばん大事な質問はどれか? キミが聞いたことだよ」
そう言って駅長さんはフクシマケンの方を見た。
「私は誰か? 私は殉職者だよ」
そう聞いてはっとしたのはフクシマケンだけだった。フタバコさんもよくわからないという顔をしていた。
「ジュンショクシャというのは、仕事をしている時に生命をなくした者だ。私はこの東京駅でホームに立って乗客の整理をしている時に死んだ。
その時に起こったことはミンちゃんの場合によく似ている。東海道線のホームは込んでいた。特急つばめが到着するところだった。男の子が一人、機関車が見たくて、一緒にいた母親の手をふりほどいてホームの端に走った。そして、誰かを探しながらホームに沿って急ぎ足できた大人とぶつかって、線路に落ちた。そこへ列車が入ってきた」 駅長さんの話をみな真剣な顔で聞いていた。
駅の子のはじまり
駅長さんの説明を子供たちは黙って聞いた。目の前にジュースがあることも忘れている。
「列車が入ってきた。ゆっくり走ってきたのだが、列車は自動車と違ってすぐには停まれないものだ。重い機関車があって、その後に客車が何両もつながっている。急制動を掛けてもまだ何十メートルかは進んでしまう。子供はホームから落ちてびっくりしたのか、どこかひどくぶつけたのか、動けなくなっている。機関車が迫ってくる」
全員が息をこらえて駅長さんの方をじっと見ていた。
「緊急のことなのに、時間がのろのろ流れているようだった。私はとっさに、あの子の身体に機関車が触れてはならないと思った。人の身体はやわらかく、鉄の機関車は硬い。子供は線路の上に横になっていた。ひどく弱々しく、哀れに見えた」
イタルはそっとみんなの顔を見回した。誰もが真剣な顔で駅長さんの話を聞いていた。
「実際の話、私は自分が何をしたのかよく覚えていない。あの瞬間、私は何か決心したのだろうか。子供を救おうという決断をしたのだろうか。私はただ機関車があの子の身体に触れてはならないと強く思っただけだった」
ミンちゃんは目をつぶって駅長さんの話を聞いていた。自分の身に起こったのと同じような話だからだ、とイタルは考えた。
「気がついたら私はホームから飛び降りて、その子の身体を抱き上げ、線路の外に放り投げていた。ずいぶん乱暴だと思ったけれど、そうするしかないとも考えていた。怪我をするかもしれないが、怪我で済めばいいではないか。そう思っている私の上に、急制動の轟音《ごうおん》と共に何か大きくて黒いものがのしかかってきた。私には逃げる暇はなかった。自分はここで死ぬのか、と思った。一瞬のできごとだったはずだが、すべてが終わるまでがとても長く感じられた」
駅長さんはそこでふっと口を閉じた。みんなもため息をついた。イタルがそっと見る とミンちゃんは目に涙をためていた。
「そうやって私は死んだんだよ」
ふーっとみんなが肩を落とす。
「死んでしばらく意識がなかったが、やがて私は高いところから事故の現場を見ている自分に気づいた。動かない自分の姿が見え、死んでいるということがわかった。不思議に平静な気持ちだった。こんな風にして自分の一生は終わったのだと、一種の感動をもって見ていた」 イタルは人が死ぬ話をこんな風に聞くのは初めてだと思った。ここにいる誰だって、こんな話は初めてだろう。駅長さんは死んだ人なのか。それにしては恐くないし、だいいち幽霊っぼくない。普通の人みたいだ。
「急制動を掛けた列車は所定の位置よりずっと手前に停止した」と駅長さんは話を続けた。「ホームに届かなかった後ろの方の客車の乗客が駅員に誘導されて車内の通路を進み、前の方から降りた。私が救った男の子はやはり怪我をしたようで、病院に連れていかれた」
駅長さんはしばらく口をつぐんだ。何か思い出している顔だった。
「こうして私は殉職者になった。後日の話だが、乗客の子供の命を救うために自分を犠牲にしたと新聞は書いた。そのため葬儀も盛大だった。総裁という国鉄のいちばん偉い人までが出席して弔辞を述べたし、他にもたくさんの人が私を讃《たた》えてくれた。もともと私はただの駅員だったのだが、死んでからは東京駅の名誉駅長という特別の身分になった。今キミたちが私を駅長さんと呼ぶのはそのためだ。これが私の帽子だ」
そう言って駅長さんはテーブルの上に置いてあった制帽を手に取って見せた。
「普通は駅長の帽子にはぐるっと赤い帯がある。私の帽子はその赤の真ん中に一本、黒い細い線が入っている。それが名誉駅長の印だ。まあ、私の姿を見られる人はたくさんはいないのだがね」
「それから、どうなったんですか?」とフタバコさんが聞いた。かすれた低い声だった。
「それからか。。。死んだ者がどうなるか知っているかね?」
「知りません」とフタバコさんは言った。ぼくだって知らない、とイタルは思った。
「別の世界に行く。現世から預かってきたものを返して、他のたくさんの魂と一緒になってしばらく暮らし、互いに混じり合う。やがて自分は自分だという気持ちが薄くなって、ぜんたいの中に溶け込んで、長い歳月の後、別の生命となってまた生まれ変わる。死ぬ前の自分のことはやがて忘れる。そういうことらしい」
「らしいって、誰かに聞いたんですか?」とフクシマケンが尋ねた。ひどく真剣な声だった。
「聞いたというか、なんとなくそう知るようになった」
「子供を救って亡くなった後で?」
「そうだ。そういう声が聞こえたのかもしれない。しかし私はそのまま向こうの世界へ行きたくなかった。自分の葬儀などを見ているうちに、なんで子供が線路に落ちて、それで自分は死ぬことになったのだろうかと考えた。これからもまだ同じような事故が起こるのか。そう考えると思いが残った。それに、私は駅や汽車が好きなんだよ」と駅長さんは恥ずかしそうに言った。「そんなわけで、ずっとこちら側にいる」
「わたしには天国って言ったでしょ。それは向こうの世界と同じですか?」とミンちゃんが尋ねた。
「ああ、同じだよ。楽しいところらしい。天国はあるけれど地獄はない。地獄というのは人間が勝手に考えたものだ。死ぬことは誰にとっても終わりだし、安らぎだ。もしもこの世に思いが残らなければね」「残ったらどうなるの?」とミンちゃんは重ねて聞く。
「しばらくこちら側にいることになる。私がそうだったように」
「ずっと残っているの、何年も?」
「そうすることもできる。こちら側に残ることは禁じられていない。だから、死んでも見えない存在として暫時この世に残る者もいる。ただ、やがては納得して、旅立ってゆく。私はまだその納得に至れないだけだよ」
「そういう人はたくさんいるんですか?」とフクシマケンが聞いた。
「たいていの人はすぐに旅立つが、残る者も少しはいる。この世のあちこちにそういう人がいる。それぞれに何かしている。ただし普通の人には彼らの姿は見えない」
「何をしているんです?」
「私がしているようなこと。私たちには普通の人にできないことをする能力が与えられる。最初はすべてをただ見ているだけだが、少しずつ力は増す。だから今、私はキミたちに手伝ってもらって、通学の子供たちを護《まも》る仕事をしている。それだけでなく、鉄道ぜんたいについて気がついたことを報告して、みんなが汽車をうまく使えるように考えている」
「報告って誰にですか?」
「私と話ができる駅員が何人かいるんだよ。どうしてだかはわからないが、そういう人がいる。キミたちも知っている武井君や桑島君などのようにね。私のことを知っていて、でもそれは秘密にしたまま、私の提案を自分の意見のように仲間に伝える。これがなかなか役に立つんだ」
「この世に残って悪いことをする人はいないんですか?」とフクシマケンが尋ねた。
「つまり、生きている時に恨んでいた相手にとり憑《つ》くとか。怪談にあるような幽霊になるとか」
「私が知るかぎりそういう死者はいない。恨みは死後まで残る感情ではないようだね。怨霊と《おんりょう》いうのも地獄と同じで、生きた人間の妄想ではないかな」
「駅の子みたいなのは、駅長さんが、ええと、殉職する前からあったんですか?」とフタバコさんが聞いた。
「いや、私が始めた。正確に言えば、私とある少年で始めたんだ。死んで間もないころ、私は一人の男の子に出会った。ハンタロウ君という名だった。私の顔を見るとまっすぐやってきて、『どうしてここにいるんですか?』と尋ねた。私が誰だか知っているような口調だった」 みんなが駅長さんの顔を見ていた。
「私は自分のことをその子に話した。すると、『ぼくも同じです』と言う。つまり、自分も線路に落ちて死んだ子だと言った。私より何年か前のことで、それからずっと一人で駅の中にいたという話だった。二人で話しているうちに、これ以上子供たちが線路に落ちないために何かしようということになった」
駅長さんは昔を思い出す顔になっていた。
「ハンタロウ君が、キップをなくした子供たちに手伝ってもらうという案を出した。みんなで暮らすことにして、親や学校が心配しないよううまく伝える。私たちはそれを手配した。それくらいのことはできるんだ」
「ぼくたちはだからここにいるんですね」とロックが聞いた。
「そうだよ。そうして私とハンタロウ君で通学の生徒たちを護る仕事を開始した。最初のうちは私もホームに出ていたんだ」
「時間を止めるのは?」とフタバコさんが尋ねた。
「それもハンタロウ君が始めたことだ。私は自分にそんな力があるとは思っていなかったが、どうしてもそうしなければならない時に試してみると、なんとうまくいったのさ」
「それから?」
「仲間が増えた。キミたちが暮らしている詰所を見つけたのは私だった。食堂でご飯が食べられるようにした。私はホームに立つのはやめて、みんながうまく働けるよう気を配る側に回った。それから何十年か、駅の子は続いてきた」
「ハンタロウさんはどうなったんですか?」とイタルが聞いた。
三か月くらいして、もう自分の仕事は終わったと言って天国に旅立っていった。後は任せますと言ってね」
その子がステーション・キッズの大先輩なのか、とイタルは考えた。
「しかし、私はそれから何十年にもなるのに旅立つことができないでいる。任せる相手はいないし、誰かがこの仕事をしなければいけない」 駅長さんは子供たちの顔を見た。
みんながふっと息を吐いた。
「さて、昔のことはもういいだろう。さっきキミは鋭い質問をしたね」と言って駅長さんはフクシマケンの顔を見た。ここは強制収容所ではないのかと」
「はい」
「私はキミたちを閉じ込めているとは思っていない。私はこれまで誰かを無理に駅の中に閉じ込めたことはない」
「でも、フタバコさんはぼくに『キップをなくすと外に出られないのよ』って言いました」とイタルは言った。
「私はそう思っていたのよ。電車に乗る子供がみんな親に言われることだし」
「そのとおり」と駅長さんが言った。「精算すれば外に出られると私はキミたちに伝えなかった。しかし私は毎日みんなを見ていた。本当に家に帰りたいと泣く子がいたら、その子はすぐに外に出してやったはずだ。だいたい、そういう子は最初から駅の子に選ばないのだよ。キミたちは駅の中で不幸だったかい?」
「いいえ!」とたくさんの声が答えた。
「おれが嫌がったのは最初だけだった」とタカギタミオが言った。
「でも、それでもやっぱり、収容所みたいな気がします」とフクシマケンが言う。
「そうかもしれない。外へ出ないまま何か仕事をさせられるんだからね。しかしね、社会というのはみんなそうではないかね。人は社会の外では暮らせない。仕事をしないわけにはいかない。大事なのは、暮らしが楽しいことと、仕事がみんなの役に立つことだ。私はそう思うね」
そう言われてフクシマケンは、まだ不満そうだったが口をつぐんだ。
「駅の子がどの駅にもいればいいはずなのに、実際には東京駅にしかいないのはなぜかともキミは尋ねた」と駅長さんはまたフクシマケンの顔を見ながら言った。「理由は簡単、そんなことを始めようという者が私とハンタロウ君しかいなかったからだ。たまたま生まれただけであって、制度というような公式のものではない。全国展開は無理なんだよ。私の力が届くのはだいたい山手線とその内側くらいまでだ。あとはどんな質問があったかな?」
「夏休みです」とイタルが大きな声で言った。
「そうだ、夏休みだ。夏休みには駅の子は解散する。これまではずっとそうしてきた。しかし一学期の駅の子のうちの一人は二学期にも少し働いてもらう。二学期になって新しいステーション・キッズを組織する時にいろいろ教える係りだ」
「やっぱりキップをなくした子ですか?」とロックが聞いた。
「そうだよ。いつだってキップをなくす子はいる」
そう聞いてみんなはちょっと安心したように笑った。ぼくたちだけじゃないんだ。
「だからキミタケさんは前の三学期から残ったんですか?」とフタバコさんが尋ねた。
「そのとおり。ミンちゃんはずっと駅の中にいた。新学期になった時にキミタケ君がまた来てくれた。夏休みの後でこの中の一人がまた来てくれると私は嬉しいがね」
そう言われてイタルとフタバコさんが顔を見合わせた。
ぼくかな? フタバコさんは一学期のほとんどを駅で過ごしたらしい。もう充分と思っているかもしれない。ぼくは途中から入った。それならば次はぼくかな?
「駅の子をやめたら、ここのことはみんな忘れてしまうんですか?」とフタバコさんが聞いた。
「そんなことはない」と駅長さんは言った。「ここで暮らしたことをキミたちは一生忘れないよ」
そう聞いてみんなが安心した顔になった。ここの思い出はとっても大事だ、とイタルは思った。
待てよ、大事な問題がもう一つあったぞ。
「ミンちゃんは……」とイタルと比奈子が同時に言った。
ミンちゃん自身はじっと下を向いている。その姿がとても寂しそうに見えた。
「それは私にもどうにもならない。私が決められることではない。夏休みにミンちゃんがこのまま駅に残れば、たしかにミンちゃんはひとりぼっちになる」
「残ればって、残るしかないんでしょう?」とイタルが聞いた。「ミンちゃんは自分の家に帰るわけにはいかないんでしょう?」
「そうミンちゃんは家に帰るわけにはいかない」
みんながミンちゃんの方を見た。ミンちゃんが顔を上げた。
「でも、わたし、発《た》つことはできますよね、天国へ?」
「そう。それはいつでもできる。キミがその決心をすればすぐにも行ける」
「わたし、その決心がつかなくて」と言ってミンちゃんは唇を噛《か》んだ。泣きそうな顔になっているが、でも泣かなかった。「夏休みまでに決めます。まだ発たないと決めたら、ひとりぼっちでも大丈夫です。わたしが決めます」
「ではそうしなさい。キミは賢い子だから、きっと迷わず決めることができるだろう。後、残った質問は何だったかな?」
「おれの定期、どこへ行ったんですか?」
「そう聞いたね、キミは。それは私にもわからない。私が知っているのは、ものはなくなるということだけだ。キップも例外ではない。毎日何人もの子供たちがキップをなくす。大人はもっと多い」
「やっぱりそうなんだー」とタカギタミオが大きな声で言った。
「キップをなくす子は多いが、それがぜんぶ駅の子になるわけではないのだよ。私はちゃんと子供を選んでいる」
しかし、どういう子が選ばれるのか、駅長さんは説明しなかった。
「あの、SLが東京駅に来ることは‥…」とユータが小さな声で尋ねた。
「残念ながらそれはない。地方の支線で走らせるイベントがあるから、そういう時に乗るんだね」と駅長さんは言った。
真夜中の目白駅
駅長さんに会ってから、子供たちは元気になった。
自分たちがなぜ駅の中で暮らしているか、自分たちが何の役に立っているか、そういうことがはっきりすると元気が出る。夏休みになったら家に帰るのだとわかっているから、それまではがんばろうと思う。この仲間との暮らしもその時までだから仲よくしようと考えて喧嘩《けんか》が減る。タカギタミオもずいぶんおとなしくなった。もう癇癪《かんしゃく》を起こすことはめったにない。
次の日曜日。
休みの日は生徒の世話もないからみんな勝手なことをして過ごした。詰所で本を読んだり、何人かでゲームをしたり、あるいは外に出て構内早回りの競争をしたりする。でなければ、東海道線のホームのどこかと決めて宝物を隠し、それをみんなで探す。
宝探しはみんなの好きなゲームだった。普通はテニスボールほどの赤い玉が宝になる。何に使うものか知らないが、遺失物の山の中から誰かが見つけてきたのだ。鬼になった一人が先に行って赤い玉をホームのどこかに隠し、十分後に他のみんなが行ってそれを探す。ホームは平らだから隠すところなどないように見えるけれど、それが案外あるのだ。
ロックが鬼になった時、キヨスクのおばさんに赤い玉を預かってもらって、それはズルだと後でみんなに叱られた。
ホームではぜんぜん別のいたずらをしたこともあった。
5番6番ホームでみんなで遊んでいるところへ掃除の太田さんが清掃カートを押してやってきた。ホームに落ちたゴミを拾い、ゴミ箱や灰皿の中身を空けて、誰かがぽいと捨ててへばりついたガムを鉄のへラでこすり取る。
みんなは太田さんが好きだったから、すぐに駆け寄って、手伝いを始めた。イタルがガム剥《は》がしのへラを借りたのは、駅の子になった最初の日に食べ終わったガムをぽいと吐き捨ててユータに叱られたからだ。あれは恥ずかしいことだった。
「後で、おもしろい列車が来るぞ」
イタルとポックがへラを返しに行った時、太田さんがそう言った。
太田さんはいつもにこにこしていて、駅の子たちの手伝いを喜ぶ。あまり喋《しゃべ》らないけれど、時々、謎のようなことを言う。それはいつでも何か楽しむことにつながっている。
「おもしろい列車って、何ですか?」とイタルが聞いた。
「『踊るアホウに見るアホウ、同じアホウなら踊らにゃ損々』 って、あるだろ」
「え???」
「夏になると、ほら徳島にたくさん集まって毎晩踊るだろ」
「踊る??」
「その練習をこの時期からやっている。今日は閑東地区の大練習会で、湘南支部の連中がもうすぐ東海道線で来る」
「ここで、踊るんですか?」
「いや、ここでは踊らない。だが、うまくやれば、踊るぞ」
そこで太田さんは秘密めかした口調になって、イタルとポックに作戦を授けた。
「できるかな?」とイタルが言う。
ポックはもうすっかりその気になっている。
「やろうや」
「わかった」とイタルは言った。「まずは下のキヨスクだね」
太田さんが言ったのは、一四時〇〇分に7番ホームに着く八四六Mという列車には踊る人たちが五十人くらい乗っているということだった。午前中から平塚《ひらつか》の体育館で練習して、昼食の後、平塚駅を一二時五八分に出るこの列車で上京し、他の地域の人たち何百人かと合流して、皇居前広場で大練習会をする。
イタルとポックは駅の子の仲間たちに気づかれないよう、そっとその場を離れて、階段を下り、中央通路にある大きなキヨスクに向かった。
「阿波《あわ》踊りのカセットつて、ありますか?」 とイタルが聞いた。
「あら、駅の子ね。阿波踊りのカセット、ええと、ここにあるわ。夏の間だけ置くことになっているみたい。こんなもの誰が買うのかと最初は思ったけど、あんがい売れるのよ。はい、あんたたちだからお代はいらないわ」
そう言っておばさんはカセットを出してくれた。キヨスクでカセットを売るほどの大イベントなのか。
それから、駅の事務室に行く。この先はポックに任せるしかない。
「アナウンスの機械、わかる?」
「たぶん」
「一緒に行こうか?」
「いや。こういう時に二人分の気配を消すのは無理だ。おれ一人の方がいい」
一四時ちょうど、ポックはそっと事務室に入っていった。この先はもうイタルにできることはない。
しばらくすると八四六M列車が入線してきた。速度を落とし、所定の位置にぴたりと停まる。ドアが開いてたくさんの乗客がホームに降りた。みんな普通の恰好《かっこう》をしていて、どれが踊る人かわからない。でも、この中の五十人くらいは午前中から練習していて、音楽に反応する身体になっているはずだ。太田さんはそう言っていた。
乗客がみなホームに降りて階段の方に向かいはじめた時、いきなりスピーカーから音楽が流れた―――
アッ
えらいやっちゃ
えらいやっちゃ
よいよいよいよい
踊るアホウに見るアホウ
同じアホウなら踊らにゃ損々
ホームの乗客ははじめ、おやっという顔で上を見た。
その次に、何人かが、そっと手にした荷物を下に置き、遠慮がちに手足を動かした。
二拍子のリズムに合わせて両手が上に上がり、腰が落ちて、足が交互に踏み出し、身体ぜんたいが踊り出す。初心者なのか口の中で「いちにっと、いちにっと」と言って拍子をとっている者もいる。
踊りの曲はホームいっぱいに流れていた。最初に踊り出したのは今日の大練習会に出るためにこの列車で到着した人たちだった。この人たちは慣れているから手足の動きも滑らかだ。
その後で踊り出したのは、阿波踊りなんかぜんぜん知らない人たちだったらしい。踊りは伝染するのだ。右を見て左を見て、見よう見まねで、それでも音楽に浮かれて、手と足が動くのが抑えられないという風に、ぎこちなく、楽しく、みんなが踊る。イタルがあきれて見ている前で、ホームの全員が手を振り足を踏み出していた。
「うまくいったね」
隣でささやく声がしたので見ると、ポックだった。
「見つからなかった?」
「ああ。言われたとおりやったよ。アナウンスの機械を見つけて、カセットのところがあったから入れて、電車が来るのを待って、ボタンを押した。それだけ」
ホームの人々は曲に合わせて盛大に踊っている。
こんなに簡単に踊ってしまっていいのだろうか、とイタルは思った。
ふと向かい側のホームを見ると、そちらまでは踊り熱は伝染していないらしく、乗客たちはあきれた顔でこちらを見ていた。そのあきれた顔の中に駅の子の顔がいくつもあった。
フタバコさんが素早くイタルを見つけて、にらんでいる。「あんたがやったんでしょ?」と目が言っている。
そのすぐ横に、太田さんの顔もあった。嬉《うれ》しそうに笑っていた。
それから三日ほどたった暑い日の午後、信濃町《しなのまち》で駅の仕事を終えた泉と馨と緑が東京駅へ戻り、コンコースから詰所への通路をべちゃべちゃ喋りながら歩いていた。
「夏休みまでもうすぐだね」と馨が言う。
「おうちに帰れる」と泉が続けた。
「でも、みんなばらばらになっちゃう」と緑は言う。
「大丈夫よ。わたしたち仲よしだからまた会おうよ」と馨は言った。「電話してさ、時間を決めて詰所に集まるの」
「お菓子持ってこよう」と泉が言う。「好きな本やお人形もみんなに見せてあげる」
「その時でも詰所に入れるのかな? もう駅の子じゃないんでしょ」「だってわたしたち、卒業生みたいなもんでしょ。次の駅の子にいろいろ教えてあげられるし」
「お菓子、何がいいかな」
「キヨスクで売ってないもの。もう、キヨスクのはぜんぶ食べて飽きちゃった」
「そうだね。ここはお菓子は食べ放題だったね」
「わたし、お母さんに何か作ってもらって持ってきてあげる。うちのお母さん、料理が得意だから」と馨が言った。
「すごいね。そういうお母さんって、お得だね。うちのお母さんはダメだからな、料理は」
「うちも」
「夏ならば白玉がいいよ。冷たい白玉が冷やしたあんこの中に入っているの。ううう、食べたい」
「作るの、それ?」
「そうよ。粉をこねて、手でまるめて、お湯の中に落とすと、白玉になって上がってくるでしょ。それを冷やすの。すっごくおいしい」「ああ、ママに会いたいな」と泉が言った。
「わたしも」
「わたしも」と二人が続ける。
通路を歩きながら、三人とも肩を落として、ちょっと遠くを見る目になって、ため息をつく。感傷的な気持ちだ。
「もうすぐ夏休みだから」
「お母さんに会える」
「白玉、食べられる」
三人はこの思いに浸った。家に帰れる日は遠くない。
「待って」とすぐ後ろで声がした。
振り返ってみると、そこにミンちゃんがいた。
「ミンちゃん、どこに行っていたの?」
「本屋さん。みんな、ゆっくり歩いているから、追いついちゃった」
ミンちゃんは片手に雑誌を持っていた。付録がいくつも挟んであって分厚く、表紙に「夏休み特集」の文字が見える。
「おうちへ帰れるんだね、馨ちゃんたちは」
「ミンちゃんは帰れないから」と泉が小さな声で言った。
「わたしも白玉食べたいな」とミンちゃんは、泉の言葉が聞こえなかったみたいに言った。「馨ちゃんのママのでなくてもいいから」
たしかに、今すぐ食べたい、と三人も思った。
「ミンちゃんが何か食べたがるなんて珍しいね」と緑が言った。「いつもは何も食べないのに」
「馨ちゃんの話聞いていたら、とっても食べたくなったの」
「おいしそうに話すからね、馨ちゃんは」と禄が言った。
「そうだ、食堂のおばさん!」とミンちゃんが言った。「作ってもらおうよ、白玉。わたし、お願いしてみる」
その考えが浮かんだおかげでミンちゃんは元気になったようだった。
四人はスキップしながら詰所に向かった。ミンちゃんの夏休み問題は少し先に延ばされた。
その翌日、駅の子たちはみんな冷たいおいしい白玉を食べた。ミンちゃんのお願いはすぐにかなえられ、おばさんは張り切って冷たい白玉を作った。これはとても評判がよくて、まるし食堂の夏の新メニューとして残った。
イタルはずっと考えていた。
夏休みだ。自分は家に帰る。みんなも帰る。
でもミンちゃんは帰らない。帰れない。
ミンちゃんは一人でここに残るか。この広い詰所にたった一人で暮らすのか。毎日毎日ここで一人でぼんやりしているのか。
ミンちゃんは本当は天国に行った方がいい。誰もはっきりそうは言わない。それはミンちゃんが自分で決めることだ。駅長さんもそう考えている。だけどミンちゃんがずっと悲しそうな顔でここにいるのはよくない。
ここにいるかぎりミンちゃんは悲しそうな顔。
駅長さんの話では、天国はそんなに悪いところじゃないみたい。だったら、決心した方がいいんじゃないかな。
ぼくがそう言うのはお節介だろうか。ミンちゃんをあっち側に追いやることになるのだろうか。
でも、いつか行くのだとしたら、いつか行かなければならないのだとしたら、今がいい。ぼくたちみんなが解散して、それぞれの場所に戻る時。ぼくたちにとっては家。ミンちゃんには天国。
「ミンちゃん、話がある」とイタルは言った。たまたま詰所に他に誰もいない時だった。
「なあに?」
「ミンちゃんのこれからのこと。どうする?」
「心配してくれてありがとう。決められないの。わたし、ぐずだから」とミンちゃんは答えた。
「夏休みにここに一人になるのはよくないよ。ぼくは一緒にいてあげたいし、そうすることもできるけど、二人でもやっぱり寂しい」
「そうよね。わたし、本当はね、やっぱり天国に行こうと思っているの。でも、どうしても最後の決心がつかない。あと少しなんだけど。イタルさん、わたしに行きなさいって言って」
「ぼくにも言えない。無理だよ。あと少しの決心を手伝ってくれる人はいない?」
「駅長さんでもダメだったし」
「ひょっとして、キミのママは?」
「無理よ。いちばんダメ。だってわたしをなくしてすごく悲しいんだから。わたしに天国へ行きなさいなんて言えない」
「そう言ってもらうんじゃない。ただ会うんだ。どうやれば駅の外に出られて、どうやればキミがママに会えるかわからないけど、でも会えば何かが大きく変わるかもしれない。キミのことをいちばん真剣に考えている人だし、今いちばん悲しい人だ。だから、だから、何かが起こるかもしれない」
ミンちゃんはしばらく黙って何か考えていた。
そしてそれ以上は何も言わず、部屋の隅へ行った。
その晩、食事も終わった自由時間にミンちゃんとイタルはフタバコさんのところへ行った。
「ちょっと話を聞いてください」とミンちゃんは改まって言った。
「どうしたの?」とフタバコさんが聞く。
「わたし、ママに会いに行こうかと思うんです」とミンちゃんは言った。
「ええ?」とフタバコさんはびっくりした。
「そう。わたし、夏休みになったら一人になってしまうでしょ」
「そうだね」
「わたし、天国に行くのがいいんだってわかっているけど、ママのことを考えると決心がつかなくて。だけど、会って話してみたら気持ちが変わるかもしれない」
「なるほど」とフタバコさんが言った。
「ママだってわたしが死んですごく悲しいはずだけど、そう言って泣いていてもわたしが生き返るわけじゃないし」
イタルは黙ってうなずいた。
「駅長さんに頼んだの。一回ならばいいって」
「で、行ってみると決めたわけね」とフタバコさんが聞く。
「そうしようかと思って」
「どうやって?」
「わたしの家は目白です。終電が行ってしまってから始発が走るまでの間はラッチの外に出てもいいんでしょ。だから、夜とっても遅い山手線に乗って目白まで行って、それでおうちに行くの」
「ママのところね」
「そう。それで、ママとお話しして、あとは朝の電車で帰ってくれはいいの」
「でも、頁夜中の電車に乗ったり、暗い道を歩いたり、一人じゃ恐いでしょ」とフタバコさんが聞いた。
「イタルさんが一緒に行ってくれるって」
「行きます」
「私が行ってあげたいけれど」とフタバコさんが言った、「他の子を放ってもおけないし」
「そうでしょ。泉ちゃんなんか、よく夜中に恐い夢見て泣くから」とミンちゃんは小さな声で言った。「誰かがそばにいてよしよししてあげないと」
「知ってたの?」とフタバコさんが聞く。
「知ってた」とミンちゃんは言って、ちょっと笑った。
「だからぼくが行きます」とイタルは言った。
そう言いながら、やっぱりこれは大変なことだと考えた。夜中の電車や暗い道のこともあるけれど、それ以上にミンちゃんのママに逢うのが大変。二人がわーわー泣いてしまったらどうすればいいだろう?
二人はその次の晩に目白に行くことにした。
イタルは和食のけやきで夕食を済ませ、シャワーを浴びてパジャマに着替えた。それでもまだ八時半。ユータに調べておいてもらったところでは、東京駅発目白行きの最終電車は〇時二四分発の外回りで、これだと一時〇三分に目白に着く。
実はその後で、〇時二七分に東京駅を出る内回りの電車があるのだが、これだと〇時五三分に目白に着いてしまうから、目白駅に最も遅く着く電車というとやはり〇時二四分発の外回りということになる(とユータは詳しく説明したが、イタルは身を入れて聞いていなかった。ともかく、〇時二四分に5番ホームに行けばいいのだ)。
しかし、それまで四時間近い間は何をしていればいいだろう?ミンちゃんが寝てしまっていたら起こしてやらなければならない。そのためにはぼくは起きていなければならない。
そう思う間にも眠気は襲ってきて、こんな時間に眠くなるのはおかしいと思いながらも、寝床に辿《たど》り着くのが精一杯で、イタルは眠り込んだ。
「ねえ、もう時間なの。起きて」と言われてはっと目が覚めた時はもう〇時だった。起こしたのはミンちゃんだ。
大急ぎでパジャマから昼間の服に着替える。だいたいなんでパジャマなんか着ていたんだ? ここで暮らしている男の子でパジャマを持っているのはイタルだけだった。遺失物の衣煩の中に子供のパジャマは珍しい。たまたまそれを見つけたぼくは、と考えながら、それはどうでもいいことだと思い返してボタンをはめる。他の子がみなよく眠っているのを横目で見ながら、詰所を出た。
〇時過ぎのホームは昼間とはまるで違っていた。真夜中だから空っぽかと思っていたら、ずいぶん人が多い。しかもそのうちの三人に一人くらいは酔っぱらっているのかふらふらしている。大声で喋っているのもいるし、鼻歌を歌っているのもいる。そして、あたりまえだけれど、子供がいない。
「大人ばかりだね」とイタルほミンちゃんに言った。
「そう。わたしたち、この時間も見えないのかな?」
「見えないって?」
「見えないと思うけど、大丈夫かな。朝の通学の手伝いの時は見えないけれど、今はどっちかしら」
「念のため、用心しよう」
ポックみたいに気配を消せればいいのにとイタルは思った。それから二人で考えて、まずホームのいちばん後ろに行くことにした。そこだとあまり人がいない。
それから、酔っぱらっていないおじさんとおばさんの二人組を見つけ、なんとなくその近くに立った。ちょっと見たら家族と見えなくもない距離を保つ。
電車が入ってきた。イタルとミンちゃんはその二人と共に乗り込み、車掌室の窓の方を向いて立った。酔った人に、おまえたち、なんでこんな時間に子供が電車に乗っているんだ? 家出でもしたのか? などと聞かれたら困る。勝手な心配から駅員さんが呼ばれるような騒ぎになるのも困る。駅の子とわかってもらったところで、なぜ終電に乗っているかを説明するのがまたむずかしい。
いちばん後ろに乗って車掌室の方を向いているのがいちばん目立たない。
目白駅までの三十九分間は長かった。乗客の数は次第に減っていった。いちばん後ろに乗ったのもよかった。新宿駅を過ぎるとこの車両にはお客はほとんど残っていなかった。誰もこちらを見ない。
目白で降りる。ミンちゃんがすっとイタルの手を取った。目の前に長いプラットホームがあって、先の方に降りた人が数名見える。出口はいちばん前だから、ホームを端から端まで歩かなければならない。その代わり、イタルたちの後ろにはもう誰もいない。
二人が階段を上って上の改札口に出ると、構内の見回りに行ったのか、もう改札掛はいなかった。
出たところは広い暗い道だった。時おり車が通るけれど、歩いている人はいない。
ミンちゃんは知っている道だからすたすた歩いた。駅のすぐ脇で信号を渡ると、道の角に向かって斜めに大きな門柱のあるとても大きな門があった。その横についている小さな潜り戸をミンちゃんは通る。イタルも後に続いた。
「ここがミンちゃんの家?」と小さな声で聞いた。ものすごく大きなお屋敷なのだろうか。
「違う。ここは大学」
なんだ、学校なのかとイタルは思った。
「この中にわたしのアパートがあるの」とミンちゃんが説明した。
大学の構内は薄暗くて、大きな建物が並び、木もたくさん生えていて、人は誰もいなかった。木の枝が風に揺れる。
「ちょっと恐いね」
「そう?」
「おばけとか出ないかと思って」
「だってわたしが幽霊なんだよ」
「よせよ。そんなこと言うなよ」とイタルは笑って言ったが、その笑い声はちょっとかすれていた。
「うちはお父さんがいないの。死んだとかじゃなくて、最初からいなかったの。最初から二人だけ。ママはこの大学の事務のお仕事をしていて、だから大学の中に住んでいるの。こっちだよ」
その先はいよいよ木が多く、本物の林になっていた。
「あっちに池があってね、堀部安兵衛血洗《ほりべやすべえちあらい》の池って言うんだ」
「なんで?」それも恐そうな名前だと思いながらイタルは聞いた。
「そういう名前の人が高田馬場でちゃんばらをして、刀をそこの池で洗ったんだって」
「昔の話?」
「すごく昔」
それならば血の話でも恐くない。
その先は細い道になって、少し坂を下ってしばらく林の中を進むと、木々の間に運動場のような空地が見えた。その近くに建物がいくつかある。なにか特別な匂いがするけれど、これは何の匂いだろう?
「あそこは?」
「あれは馬場。大学の馬術部があって、馬がいるの」
「馬の匂いだ」
「わたしは時々乗せてもらったよ。近くだからよく遊びに行って、厩舎のお掃除とか手伝った。わたしの好きな馬がいて、ヤマザクラっていう名前なの」
馬場は傾いた月に照らされて光っていた。
林の中をもう少し行くと、やがて、アパートの前に出た。団地のような四階建ての建物が二棟並んでいる。
「ここだよ」とミンちゃんは言った。
こんな時間なのに、アパートのところどころ小さな明かりがついている窓があった。
ミンちゃんは上を見る。
「起きているんだ」と窓の一つを見て言った。
「ママに言うこと、考えたの?」とイタルは聞いた。
「ううん。でも、会えばなんとかなるような気がする。ここまで来たら力が出てきたみたい。あんまり迷ってないよ、わたし」
そう言ってミンちゃんは階段を上りはじめた。イタルも続く。
三階まで上って、鉄のドアの前に立つ。ミンちゃんが深呼吸するのがわかった。
「ぼくはここで待っていようか?」
「ダメ。一緒に来て」
ミンちゃんはドアのノブに手を掛け、そっと引いた。鍵《かぎ》がかかっていただろうに、ドアは開いた。
左手の部屋から明かりが漏れている。
ミンちゃんは中に入って、そちらのふすまをすっと開けた。
「ママ、わたしよ」
「みなこ」と息を呑《の》む声がした。
「びっくりしないでね。ちょっとだけ帰ってきたの」
「夢なの、これは?」
「そう。一種のね」とミンちゃんは言った。
部屋の隅の方で何かが動いた。黒い小さな犬がむくっと起きあがって、とことこ駆けてくるとミンちゃんに飛びつき、顔を舐《な》めた。
「ああ、グングン」
そう言ってミンちゃんは犬を抱きしめた。
ママはまだ信じられないという顔でミンちゃんを見ている。
「あのね、この人、イタルさん」とミンちゃんはグングンを片腕に抱いたまま、廊下に立っていたイタルを狭い居間に手招きで中に入れた。「お友だち。今ね、一緒にいる仲間なの。この人は生きているんだけどね」
そう言って笑う。
「遠山至です」と言って頭を下げる。
「みなこの母でございます」と言ってママはびっくりしたまま会釈して、それからミンちゃんの方を向いた。
「みなこ」
「ごめんね。急に来ることにしたんだ」
グングンはすっかり安心したようにミンちゃんの腕の中でおとなしくしている。
「坐《すわ》ろ」とミンちゃんがイタルに言った。
二人で畳の上に坐る。
「なんだか眠れなくて起きてきたんだけど」とママが言った、「夕食の後で、ちょっと膜を下ろして、そのままウトウトしてたみたい」
「やせたね、ママ」
「そうね。なんていうか張り合いがなくなっちゃって。去年の暮れにグランマが亡くなって、それに続いておまえでしょ。ママは本当にひとりぼっちになったって毎日思っていたのよ」
「ごめんね」とミンちゃんがまた言った。
そのとたんにママは泣き出した。両手で顔を覆い、肩をふるわせ、声を抑えて泣いている。
ミンちゃんは膝《ひざ》で立って、ママの肩に手を掛けた。そちらの方がお母さんのように見える。泣く子を慰める母親のように見える。グングンがひょいと畳の上に飛び降りてママの方に行った。
「だって、だってあんまり寂しいじゃない」とママは泣き声の合間に言った。「本当を言うと、あれから四か月、毎日泣いていたのよ。仕事に行けば 『大丈夫です、ありがとうございます』って言っているけれど、ここに戻ったらあとは泣くしかない。トマトを剥《む》いても、魚を焼いても、ついみなこの分まで作ってしまう。そのお皿を前にして泣くのよ。もういないんだって思うと、どうしようもなくてね。他の人を妬《ねた》んだりもするよ。みんな夫がいて、子供も二人も三人もいるのに、母親も健在なのに、なんで一人しかいない私の子が死ななければならないの? そんなの不公平じゃない」
「ダメだよ、ママ」とママのすぐ隣に坐ったミンちゃんが静かに言った。「死んでからわかったんだ。人と比べちゃいけないんだよ。わたしだって初めはなんで自分だけがって思ったけど、でもこれはしかたがないことなの」
しっかりした声だった。
「そうだけど」
「今、イタルさんなんかと一緒に、わたしと同じくらいの歳の子もいる。みんな生きている。その、比奈子ちゃんや緑ちゃんや泉ちゃんや馨ちゃんを見ていたら、なんでわたしだけが死んだのって考えるわ。でもそう考えちゃダメなんだ。それがわたしにはわかったの」
「そこはどういうところなの?」とママが聞いた。
「東京駅よ。今、わたしは駅の子なの。ねえ、説明してあげて」といきなり言われて、 イタルはあせった。
「あの、駅の子というのは、つまり、キップをなくした子が集まって暮らしていて、それで、他の通学の生徒を助ける仕事をしているんです」
そこまで言うと、あとが楽になる。東京駅での日々の暮らしのことや、毎朝のホームでの仕事のこと、フタバコさんやタカギタミオのことなどを話した。そして、いちばん 大事な駅長さんのことも。
「そこにわたしはお世話になっているの。今は」
「今はって、どういうこと?」
「もう行かなきゃいけない。本当はこんなにぐずぐずしていちゃいけなかったんだけど、駅長さんが特別に許してくれたから。駅の子たちと一緒ならばいいって。それにママのことが心配だったから」
「どこに行くの?」
「天国よ。グランマと同じところ」
そう聞いてママはまた泣き出した。卓に突っ伏して、頭を両手で押さえて、大きな声で泣いている。ミンちゃんはその背中をさすっていた。グングンが卓に上ってママの手を舐める。
「どうして、どうして、うちの子だけが……どうして私だけが……」と言ってママは泣いた。
「そうじゃないの、ママ」とミンちゃんはしばらくしてから小さな声で言った。「違うのよ」 ママはふっと顔を上げてミンちゃんを見た。
「わたし、死んですぐの時に、わたしと同じように事故で死んだ赤ちゃんに会ったの。生まれて三日目で、まだ名前もなかった。言葉も知らなかった。でもその子はにこにこ笑っていた」
どんなところで会ったんだろう、と思いながらイタルはミンちゃんの言うことを聞いた。
「わたしはその子に聞いた。日本語とかじゃなく、言葉になる前の、心の中の思いと思いの言葉で聞いた。そうしたらその子は、『三日だけど、とっても楽しかった』って言ったわ。『いろいろなものを見たよ。お日さまの光がまぶしかったし、そよ風が気持ちよかった。おっぱいの味も、お母さんの匂いも、手に触るものぜんぶ、おしっこが出るのも、みんな嬉しかった』って」
ミンちゃんのママはぼんやりとした目で娘を見ていた。
「それでわたしも考えたんだ」とミンちゃんは続ける。「この子は三日でも喜んでいる。この子は自分を他の子と比べていない。それまではわたしだって辛《つら》かった。悔しかった。なんでわたしばっかりって思った。でも振り返ったら、いいこといっぱいあったよね。ママと一緒で嬉しかったよね。夏はいつもグランマのところに遊びに行ったし、友だちもたくさんいたよね。グングンだってかわいかったし。おいしいものもいっぱい食べた。そういうことぜんぶを覚えたまま向こう側に行くんならいいじゃないかって今は思ってる。人は人、自分は自分ってね」
「そんなこと言ったって……」
「そうだよ。そんなこと言ったって、だよ。やっぱり辛い。でも、しかたがないじゃない」
そう言ってミンちゃんはママの顔を正面から見た。
「わたしはママが心配だった。ママの毎日が空っぽになっちゃったのがわかるから、それが気になって、あんまり役に立たないのに駅の子でいた。でも、ママの顔を見て決心がついたわ。もう本当に行かなくちゃ」
「ここには帰ってはこないのね」
「今夜だけ特別に許してもらったの。イタルさんが一緒だからこうやって来られた。わたしがうろうろしていたら、いつになってもママはわたしを忘れられない。これが最後だからね。じゃあ、行くよ」
そう言ってミンちゃんは立ち上がった。イタルも立つ。
グングンが一声吠《ほ》えた。
ママは泣き濡《ぬ》れた顔で娘を見ている。
「これっきりなのね」
「そう。ほんとに、いろいろ、ごめんね。でも、これが決まりなんだよ」
「わかった。わかってる」とママはかすれた声で言った。「わかってるけど……」
「ママ、今はわたしを忘れて。でも、ずっとわたしを忘れないで」
「わかってる」とママは繰り返した。
ミンちゃんはドアのノブに手を掛けた。イタルの肩越しにママの方を振り返る。ちょっと小さく手を振った。
ドアを開けて外に出た。イタルも続く。
閉まりかけたドアをまた開いてミンちゃんはママの顔をもう一度見た。
それから手を伸ばしてグングンの頭をぽんぽんと叩《たた》く。
「今思いついたの。ねえ、わたし、グランマに迎えに来てもらうわ」
そう言ってドアを閉めた。
中でグングンの声がしたがミンちゃんはさっさと階段を下りた。外へ出て、暗い林の中を速足で歩く。まるで少しでも速くママの家から、元の自分の家から、遠くへ行こうとしているみたいだ。
そのうち、大学の大きな校舎の間を抜けるころになるとミンちゃんの足が遅くなった。ゆっくり、一歩ずつ踏みしめるように歩く。それからとぼとぼと力のない歩きかたになり、大学の外へ出た時にはイタルの肩にすがるようにして歩いていた。
何も言わない。だからイタルも何も言わずミンちゃんを支えて歩いた。電車の線路の上にかかった橋を渡って駅の前に出た。
深夜の駅はシャッターが降りていた。始発電車はまだまだ先だろう。外で待つことになるかなと思ったのに、ミンちゃんはまるでシャッターなどないようにそこに歩み寄り、そのままシャッターを通り抜けた。そして、手をつないだままだったイタルもそこに何もなかったかのようにシャッターを素通りした。
階段を下りる。誰もいないホームに行って、ずっと先の方まで歩いていって、ベンチに坐った。
夏の夜は涼しかった。
「大変だったね。ミンちゃん、決心できたね」と言ってみた。そんなことを言っていいのかどうか、この場合に言うべきはそんなことなのか、よくわからなかったけれど、それでも何か言わないではいられなかった。
「ありがとう」と言ったとたんに、ミンちゃんは泣き出した。イタルにすがりついて、ゆすぶり、こぶしで叩き、顔をすりつけて、身体をぶつけて、ミンちゃんは泣いた。さっきのママの泣きかたの十倍くらいの声と身振りで、大声で泣きじゃくった。
イタルに支えられたままミンちゃんはひたすら泣いた。
始発電車が来るまでの長い間、泣き続けてやがて眠ってしまったミンちゃんを、イタルはずっと駅のベンチで抱いていた。
二回目の会議
次の日、イタルは駅のホームへ生徒たちの世話に行かなかった。ミンちゃんと一緒に朝早く詰所に戻って、寝床に入ったとたんに眠りこんで、気がついたら朝の九時を過ぎていた。まわりには誰もいなかった。
寝坊してしまった。なんで誰かが起こしてくれなかったんだろう?
のろのろと寝床から起き出し、がらんとした室内を見回し、そこで前の晩のことを思い出した。あの大学の林の中の家に行って、後はずっと目白の駅のベンチで泣きじゃくるミンちゃんを抱いていたのだった。そして始発電車で帰ってきた。だからフタバコさんが寝かしておいてくれたんだ。
まだ眠いと思いながら着替えて、詰所に行く途中で女の子の寝室をのぞいてみた。いちばん手前の寝台に毛布がこんもりしている。ちぢれた髪が少しだけ見えていた。ミンちゃんだ。毛布は寝息につれてゆっくりと上下していた。ぐっすり眠っているらしい。
ミンちゃんが眠るのは珍しい。いつもみんなと一緒に寝床に入るけど、あまり眠らないのだと言っていた。どこに行くのか夜中にいないこともあるとフタバコさんも言う。
ミンちゃんはもう眠ったり食べたりしなくてもいい身体だから、食事の時もたいてい来ない。怪我をしたりすることもないから、夜中にミンちゃんの寝台が空っぽでもフタバコさんは心配しない。
イタルは洗面所に行って顔を洗い、詰所に行った。誰もいない広い部屋でしばらく雑誌を読んだりしながら待つ。なんだか風邪で学校を休んだ日みたいだ。朝はたしかに熱があったから休んだのに、昼前になると元気になってしまって、そうなると暇を持て余す。あの感じに似ている。困ったな。
そう思っているところへフタバコさんがユータとタカギタミオを連れて戻ってきた。
「起きたのね」とフタバコさんは言った。
「ああ、こいつ、さぼったな」とタカギタミオは言った。
「おはよう」とユータはのんびり言う。
「おはよう。でもあんまり早くなかった。寝坊した」とイタルは答えた。
「ミンちゃんは?」とフタバコさんが尋ねた。
「まだ眠っているみたい」
「そうじゃなくて、昨夜、お母さんに会って」
「ママが泣いてミンちゃんの方はしっかりしていて、なんだかミンちゃんの方がママみたいだったよ。ぼくがここでの駅の子の暮らしのことをちょっと話して、それからミンちゃんはもう天国に行くからママのところには来ないよって言って、それで家を出た。グングンという犬がいてね、でもミンちゃん、ちゃんと別れた」
「ミンちゃん、決めたんだ」
「そうみたい。でも、目白の駅まで戻ったらわーわー泣いて、その後もずっと泣いていた」
「ミンちゃんが泣くのって見たことなかったね」とユータが言った。
「変わったのよ。一歩踏み出したの。人は前へ出なくちゃ」
それはどういう意味だろうとイタルが考えているところへ、緑と馨と泉がどやどやと帰ってきた。イタルの顔を見たとたんに三人で走ってくる。
「ねえねえ、どうだったミンちゃん? ママに会ったの?」
イタルはまた一から説明した。でも言いすぎないようにした。ミンちゃんがどうしようと思っているか、本当のところはミンちゃんに聞かないとわからない。
ミンちゃんは夕方までぐっすり眠っていた。みんなが午後の仕事に行って(これはイタルも参加した)、帰ってきてもまだ眠っていた。そして、五時ごろになってようやく起きてきた。ちょっと顔つきが変わったように見えた。前のおずおずしたところがなくなって、きりっとしている。
「わたし、駅長さんに会いにいきます」とミンちゃんはフタバコさんに言った。
「あ、おれも行く」とすぐに言ったのはタカギタミオだった。
「来る?」と言ったミンちゃんの顔は別に嫌がっている風でもなかった。
「じゃぼくも」とイタルはちょっと出遅れた感じで言った。
「イタルさんは来てくれると思った」とミンちゃんは言う。
「またみんなで行ったら」とフタバコさんが言った。「この前みたいに」
「そうよ」と小さな声がした。比奈子だった。「わたしたちミンちゃんのこと心配なんだもの」
それで誰もがわいわい言って、みんなで行くことになった。
駅長さんはすぐに会ってくれた。
またあの立派な部屋で、みんなでジュースをご馳走《ちそう》になり、静かにミンちゃんの言葉を待った。
「わたしは天国へ行きます」
その言葉が部屋にいたみんなの心にゆっくりと染み込んだ。誰も何も言わなかった。緑が鼻をすすりあげてちょっと泣きそうになったけれど、隣にいた泉が肘《ひじ》で突《つつ》くと静かになった。
「そうか。もう迷うことはないね」と駅長さんがミンちゃんの顔をまっすぐ見て言った。
「はい」
「それはよかった」
イタルはそれを聞いて、そうだ、これはよかったことなんだと改めて考えた。ミンちゃんがこっち側にいるというのは、結局は宙ぶらりんのままでいるということで、それはミンちゃんにとっても辛いことだ。
みんなが食事に行く時にミンちゃんは行かない。食べられないわけではないけれど食べてもしかたがないから、といつか言っていた。食べるのは身体に力をもらったり大きくなったりするためで、おいしさのためだけではない。力になるから、大きく育つ元だから、だからおいしいので、何の役にも立たないものを口に入れてもおいしくない。そうミンちゃんは言っていた。
ミンちゃんは発《た》つ。寂しいけれどしかたがない。これはそういうことだ。
「それでお願いがあります」とミンちゃんが言った。
「何だね?」と駅長さんが聞く。
「わたし、一人で行くのはさみしいから、グランマに迎えに来てもらいたいんです。わがまま言って済みません」
そういえば、昨夜もミンちゃんはママにそんなことを言っていた、とイタルは思い出した。あの時は聞き流して今まで忘れていたけど、グランマって誰だろう。
そう思った時、右側にいたフクシマケンが「おばあちゃんのこと、英語」とささやいた。「隣に伝えて」
そこでイタルも左のポックにそう伝える。ささやきがフクシマケンから右と左に広がっていった。ミンちゃんの家ではおばあちゃんのことを英語でグランマって呼んでいたんだ。
「グランマは去年のクリスマスの日に亡くなりました。これからはクリスマスが悲しいねってママが言いました。それからわたしもいなくなってしまって、ママは本当に悲しい」
そう言ってミンちゃんは小さなため息をついた。
「でも、しかたがないんです。起こったことは起こったことなんです。ママだってずっと泣いていちゃダメでしょ。わたしがうろうろしているとママはいつになってもわたしのことしか考えない。忘れてもらいたいわけじゃないけれど、わたしのことばっかりではいけない。だから、わたし、発ちます」
「ああ、よくわかっている。ミンちゃんは偉いね」と駅長さんは言った。「私からキミのおばあさんに連絡してみよう。たぶん迎えにきてもらえるだろう」
「ありがとうございます」とミンちゃんは明るい声で言った。「グランマはわたしのこと、かわいがってくれてたから」
「それで、キミのおばあさんはどこで亡くなったの? お墓はどこにあるの?」
「北海道です。春立《はるたち》ってところ」
駅長さんは一瞬だけ何かを思い出そうとするような顔をした。
「春立は、日高《ひだか》本線で静内《しずない》の少し先だね」
「ええ? 駅の名前、ぜんぶ知ってるんですか、日本中の?」とユータが感心したように言った。
「それは、なんといっても私は駅長だからね」と得意そうな顔をしてみせる。駅長さん、少しふざけているみたい。ミンちゃんが心を決めたのが嬉《うれ》しいみたい。
「日高本線のあのあたりは、ええ、静内、東静内、春立、日高東別、日高三石、蓬栄、本桐、荻伏、絵笛、浦河、と駅が続く」と駅長さんはいよいよ得意そうに言った。
「浦河って、気象台があるところですね」とフクシマケンが言った。
「そうだが、よく知っているね」
「フクシマケンは何でもよく知っているんだ」とタカギタミオが言った。最初の日暮里という地名の話以来、タカギタミオはフクシマケンに心服している。
「前に気象通報を聞いていたことがあって。『気象庁午前六時発表の気象通報をお伝えします、はじめに全国天気概況』というあの放送です。それで『浦河では北の風、風力3、晴れで気温は零下五度、気圧は一〇一〇ミリバール』なんていうでしょ。あれでいろいろな地名を覚えました」
「ああ、石垣島《いしがきじま》から始まって、国内は稚内《わつかない》まで。そのあとは外地になって、パスコと か、木浦《もつぽ》、鬱陵島、恒春と長春、ハバロフスク……」
「最後が富士山ですね。駅長さんも聞いていたんですか?」
「本当は鉄道ではなくて気象台に入りたかった。学校が終わるとまっすぐ家に帰って午後四時の気象通報を聞いていた」
「でも鉄道に入ったんですね?」
「気象台の試験に落ちたからね」と少し恥ずかしそうな顔をする。「鉄道の試験には通ったんだ」
「天気図を描くの、やりましたか?」
「ほほ、キミもかね。毎日、鉛筆を持ってラジオに向かったよ。放送を聞きながら一気に等圧線を引くのが得意だったよ」
「ぼくは経度と経度の数字を一度メモしないと駄目でした。練習が足りなかった」
駅長さんは懐かしそうな、嬉しそうな表情だった。目が遠くの方を見ている。
「ああ、ごめんミンちゃん」とフクシマケンが言った。「キミのことだったのに」
「いいの、楽しそうだから、続けて」
「いや、これ以上の話題もあるまい」と駅長さんが言った。昔話にひたったことを反省しているのかもしれない。
「そうですね」とフクシマケンも言う。
「もっと聞きたい」と大きな声で言ったのはタカギタミオだった。「そういうこと、おれ、知らないから、もっと聞きたい。その放送って今でも聞けるんですか?」
「聞ける」とフクシマケンが小さな声で言った。「NHK第二放送。午前九時一〇分と午後四時と午後一〇時。後で詳しく教えてあげる。天気図用紙の買いかたも教える。だから今は静かにして」
「わかりました」とタカギタミオは口をつぐんだ。
「ええ、浦河ではなくて春立のことだったね」と言って駅長さんはミンちゃんの顔を見た。
「ええ」と言ってこくっとうなずく。
「おばあさんに迎えに来てもらうには、お墓のところまで行かなければならない。つまりキミは春立に行くんだ」
「行きます」
「一人で行けるかな?」
「ぼくが一緒に行きます」
自分が気がつく前にイタルはそう言っていた。「ミンちゃんを送っていきます」
「あの、ずっと汽車で行くんですよね?」とユータが言った。「汽車、いっぱい乗れますよね? ならばぼくも行きます」
「動機が不純だな」とフクシマケンが笑いながら言った。「でも同じような動機で、つまり一度浦河の気象台を見てみたいと思っていたから、ぼくも行く」
「おれも」とタカギタミオが言う。
「わたしはミンちゃんを見送りに行きます」とフタバコさんが言った。
「わたしも」
「わたしも」
緑と馨と泉、それに比奈子が口々に言う。
ロックとポックが顔を見合わせてうなずいた。
「全員で行きましょう」とロックが言う。
「わかった」と駅長さんがわいわい騒ぐみなを白手袋の手で制して言った。「ではみなで行きなさい。少し早いが夏休みの旅行ということにすればいい」
わーっと歓声が上がる。
「みんな、ありがとう」とミンちゃんが言った。
本当はこれはミンちゃんのお葬式なんだけど、とイタルは心の中で思ったが、口に出しては言わなかった。お別れだってにぎやかな方がいいんだろう。
「では全員参加ということで旅程を作ってみよう」と言って駅長さんはちょっと宙を見て考えた。「ええ、青森《あおもり》まではやはり夜行の寝台車だな。午前中に青函《せいかん》連絡船で北海道に渡る」「船にも乗れるんだ」とユータが叫んだ。
「船に乗らないでどうやって北海道に行くんぜよ?」とタカギタミオが馬鹿にしたような口調で言った。
「今、トンネル掘ってる」とロックがぽつんと言った。
「まだ開通してないけど」とポックが付け足す。
「だから……」とタカギタミオがじれたように言った。
「ねえ、男の子たち、うるさい。船に乗れるんだからいいでしょ」とフタバコさんが叱った。
「指定券は使えるんですか?」とフクシマケンが駅長さんに尋ねた。「たしか駅の子は普通乗車券の列車しか乗れないはずでしたけれど」「今回は特例とする。終電以降でなくてはラッチから出られないのでは宿にも困るだろう。それも手配しよう。これは修学旅行か林間学校だ」
「すてきな夏休み!」と比奈子が言った。
「わたしがいちばん嬉しい」とミンちゃんが小さな声で言った。
「函館《はこだて》の先はどうなります?」とフクシマケンが聞く。
「その日のうちに春立まで行けないことはないが…‥」と言って駅長さんは考える。
「時刻表がぜんぶ頭に入っているんだ」とユータが尊敬を込めて小さな声で言った。
「二十日に発つとして、どこかで一泊すると翌日が……これはおもしろいことになるな。ユータ君が喜びそうだ」
「え? ぼくが?」
「そうだよ。では後で旅程表を詰所の壁に貼っておく。楽しみに待ちたまえ」
そう言って駅長さんは席を立った。みんなはがやがや喋りながら部屋を出た。
やがて出発の日がやってきた。
学校はその日でおしまいで、だから通信簿をもらったらすぐに家に帰る。駅の子たちは登校する生徒たちの面倒を見た後でも東京駅には戻らず、下校時間までそれぞれの駅で待った。どうせ昼前には仕事は終わる。今日が最後だ。
「ぼくたちの通信簿はどうなるんだろう?」とロックが言った。
「いいんだよ」とフクシマケンが言った。「今はみんな東京駅学校に留学しているんだから。通信簿の一学期のところには『成績優秀』 って書いてあって、きっと駅長さんの判子が押してあるよ」
「東京駅学校ですか?」とイタルは聞きなおした。
「それくらい勉強しているよ、みんな」
その日の午後は駅の子はもっぱら旅の準備をして過ごした。
駅員の武井さんが詰所にやってきた。ちょうど勤務明けらしい。
「何か、旅で必要なものはないかい? あったらそろえてやるようにと駅長さんが言っていたから」
「パジャマ!」とフタバコさんが言った。
「パジャマ、パジャマ」と女の子たちがつられて口々に叫ぶ。
男の子はぽかんとして見ていた。
「昼間着るものは遺失物の中にいっぱいあるけれど、子供のパジャマの忘れ物は少ないんです」とフタバコさんは言った。
「夏だからみんなTシャツと短パンなんかで寝てましたけど、旅行にはちゃんとパジャマがほしい」
「男の子は?」
「じゃあ、やっぱりパジャマ」とみんなが言ったのは他に思いつかなかったからだ。
「ぼくはいいです」とイタルだけが言った。
武井さんはみんなの身長を紙に書いて、女の子用と男の子用の印を付けた。
「武井さん、お金、大丈夫?」とポックが聞く。
「心配いらないよ。特別予算を駅長さんにもらってあるから」と武井さんはにこにこしながら答えて、出ていった。
そのあとはがやがや騒ぎながらそれぞれの鞄《かばん》に持ち物を詰め込んだ。鞄やバックパックは遺失物の倉庫にいくらでもあったから好きなのを選べた。イタルはもともと持っていた自分のを使うつもりだった。
それから、お菓子を調達するために全員でキヨスクに行った。
大量のお菓子を持って詰所に戻ってみると、三日前から壁に貼ってあった旅程表の横に封筒が一つピンで留めてあった。封筒にはマジックで
切符
と書いてある。
「あっ! キップだ!」とタカギタミオが叫んで手を伸ばした。
「待って」とフタバコさんが言った。「大事なものだから、誰か一人がまとめて持った方がいいよ。ユータ、できる?」
「はい、やります」
ユータはみんなが見ている前で封筒からキップを出して机の上に並べ、旅程表に合わせて整理し、全員の分がまちがいなくそろっていることを確認した。
「キップがある」とロックが言った。「これでもうぼくたちは駅の子じゃなくなるのかな?」
「どうして?」と馨が聞いた。
「だって、キップをなくした子が駅の子になるんだろ」
「違うと思うよ。駅の子として暮らそうと決めた子が駅の子なんだ」とフタバコさんが言った。「みんな一緒にいるかぎり、わたしたちは駅の子だよ」
東京駅で食べる最後の夕食をやっぱりまるし食堂で食べ、詰所に戻って落ち着かない気分で出発時間を待った。イタルは壁に貼られた旅程表を何度となく見た。ほとんど覚えてしまったけれど、それでも見る。
二一時三〇分、みんなそろって詰所を出た。壁に貼られた旅程表はユータがはがしてポケットに入れた。キップだけでなく旅程の管理もユータの役割になっている。だからユータは昼間イタルと一緒にキヨスクに行って、分厚い時刻表を一冊もらってきて自分のバックパックに入れた。
山手線内回りに乗ってまず上野駅に向かう。東京駅と同じくらい大きな上野駅で少し迷ったけれど、ちゃんと13番線ホームに行って、自分たちが乗る客車の入口のところに並んで待った。二一時五七分、寝台特急「はくつる1号」が入線してきた。
みんなはどやどやと乗り込み、それぞれの指定券に書かれた自分のベッドを探した。通路の両側に三段ずつ向かい合わせにベッドがある。入口に近い方に男の子、その奥が女の子というところはすぐに決まった。みんなが梯子《はしご》を上っていく上の段のベッドを欲しがったけれど、これは歳の小さい子が上というルールをフタバコさんが決めて混乱は避けられた。
それぞれに寝床に入って、新品のパジャマに着替える。頭がつかえるから半分寝たままの姿勢で脱いだり着たりするのがむずかしかった。でもそんなことがいかにも旅らしくて楽しい。脱いだものはきちんと畳んで足下に置いた。
「みなさん、駅の子ですね」という声がした。見ると、車掌さんだった。
「はい!」と全員が答える。
「駅長さんから聞いています。もう着替えも終わったのですか。さすが行儀がいい。何かあったら隣の車両の車掌室にいますから、遠慮なく声を掛けてください。駅の子を乗せるなんて、名誉なことです。一応、キップを拝見」
車掌さんが一人一人のキップを見ている間に発車のベルが鳴り出した。
ほんとにこれが最後、汽車は走り出しますよ、見送りの人は降りてください、と知らせるように、ベルは長く長く鳴った。イタルはそれを聞きながら、これはミンちゃんが心を決めるベルだと思った。これがあっち側への本当の出発になるのだ。
さっき、ユータがみんなの分のキップを整理している時にイタルは気づいたのだが、行きの分のキップは十二人分あるのに帰りは十一人分しかなかった。ぼくたちは帰りには一人減っている。これはそういう旅なんだ。
そう思っているうちに、二二時二〇分、列車は走り出した。
とうとう出発してしまった。ミンちゃんのことをもっと考えようとイタルは思ったけれども、汽車の走る音と振動は眠気を誘った。通路の照明が消える前に、駅の子たちは みんなぐっすり眠っていた。
仙台《せんだい》は真夜中だから知らなかったし、四時五五分着の盛岡《もりおか》も気づかなかったが、八戸《はちのへ》では半分くらい目が覚めていた。窓の外がだいぶ明るくなっていた。
それからしばらくして、イタルは目がはっきり覚めた。汽車に乗っているんだと思うだけで起きたとたんにもう興奮している。しかもこれから連絡船に乗るのだ。
ええと、どこの駅でみんなを起こすんだったっけ、と考えて、パジャマのポケットから昨日ユータにもらったメモを取り出した。寝過ごすと困るから誰か早く起きた子がみんなを起こすことにしたのだ。他のベッドがまだ静かなところを見ると、どうやらイタルがいちばん早く目が覚めたらしい。
メモの「野辺地《のへじ》」というところの横に「ここでみんなを起こす」と書いてあった。さっきの駅名のアナウンスはたしか「はちのへ」だった。まだ大丈夫だ。メモには盛岡から先の各駅の到着時刻が書いてある。八戸は六時〇八分、野辺地は六時四二分だった。
それでも六時半くらいになったと思った時、イタルは待ちきれなくなってベッドを抜け出し、上の段のユータをゆすった。
「起きろよ。時間だよ」
ユータはすぐに起きた。自分がどこにいるか思い出して、きりっとした顔になった。
ロックとポックも声を掛けるとむくっと起き上がった。タカギタミオほだいぶ手間がかかった。
「女の子は?」とユータが聞いた。
イタルが首を伸ばして見ると、フタバコさんが手を振っていた。こちらの気配で起きて、みんなを起こしているらしい。
着替えて、順番に洗面所で顔を洗って、荷物をまとめる。少しもたもたしたのもいたけれど。全員が用意が整った時に、汽車はちょうど青森駅に入った。七時一五分、定刻どおりだ。
車掌さんに挨拶《あいさつ》してホームに降りて、全員そろっていることをユータが確かめた。階段を上り、長い跨線橋《こせんきょう》を渡った。前にも後ろにもたくさんの乗客が歩いていた。みんな汽車を降りて船に乗るのだ。
みんなが感心したことに、ユータは船の中のこともすっかり知っていた。「こっちです」という声のとおりに行くと畳を敷いた広い船室があった。
「荷物を置いて、ここで遊んでいてもいいし、甲板に出てもいい。出港は七時三〇分、函館到着は一一時二〇分です。一一時になったらここに戻って荷物を持ってください。船が海に出たらすぐに食堂に行って朝ご飯を食べます」
みんなそこに荷物を置いた。タカギタミオはまだ眠いと言ってそのまま船室の畳の上に横になった。
イタルはユータに誘われて甲板に出た。
「こっちこっち」と言われるままに木を張った甲板を走っていちばん後ろに行く。
「何があるの?」
「汽車?」
「もう乗ったじゃない」
「達うんだ」
船の最後部まで行って手すり越しに見ると、駅の方から船のところへ線路が続いていた。そのまま伸びて船の中まで入っている。
「何、あれ?」
「汽車が船に乗るんだ。でも、もう乗せちゃったかな。あの線路を汽車が走ってきて、船の中まで入る。函館に着いたら降りて、今度は北海道の線路を走る」
「さっきの寝台車?」
「いや、貨車ばっかり。でもぼくたちが乗るずっと前に乗せちゃったんだろうね」
ユータは汽車が船に乗るところを見られなくて本当に残念そうだった。
甲板には煙突から出る煙の匂いが漂っていた。すごくいい匂いだとイタルは思った。
自動車の排気ガスとはぜんぜん違う。海の匂いも混じっているんだろうか。ぼくはこんな大きな船に乗るのは初めてだ。
その時、汽笛が鳴った。
「あっちに行こう」とユータが言ってまた走り出した。
今度は船のいちばん前だ。
岸壁に人がいて、船を岸につないでいたロープをほどいた。それがずるずると巻き取られ、どんどん短くなってやがて船の中に消えた。船に乗った時から響いていたエンジンの振動が一段と大きくなり、まるで船が身を震わせているようだった。
「あ、動いている」
船はゆっくりと岸壁を離れた。
また汽笛が長く鳴った。胸のあたりがびりびりするほど大きな音だった。
防波堤の端にある二つの灯台の間を抜けて外の海に舶先《へさき》を向けた。
「海なのね」という声がした。
ミンちゃんがイタルの横に立っていた。
「そう、海を渡るんだ」
「去年のグランマのお葬式の時は飛行機で行ったの。船に乗るのはわたし初めてなの」
「ぼくも初めてだよ」
「海は広いね。風が吹いてて、気持ちいい」
イタルは何も言えなかった。帰りの船にはミンちゃんはいない。それを思い出して、何も言えなくなってしまった。
船はみんなを乗せて北に向かった
函館めぐり
青函連絡船は一一時二〇分に函館港に着いた。
航海の間はだいたい甲板を走り回って過ごしていた駅の子たちは、接岸の少し前に船室に戻って荷物を取り、一団となって元気にタラップを下りた。岸壁で、ユータが全員そろっていることを確かめた。
「北海道へようこそ」という声が後ろでした。イタルはえっ? と思った。どこかで聞いた声だ。迎えが来るとは聞いていなかったぞ、とユータと顔を見合わせながら後ろを見る。
みんながびっくりしたことに、そこに立ってにこにこしていたのはなんとキミタケさんだった。
「ええーっ? どうしてここにいるんですか?」
「おっどろきーー」
「わーい、また会えた」
みなが口々にいろいろなことを言った。
フタバコさんは何も言わずに突然現れたキミタケさんをぼーっと見ていた。それからふらふらと近づいていって、手にした鞄《かばん》を地面に置いて、キミタケさんにすがりついた。
キミタケさんはちょっとびっくりしたようだったが、そのままフタバコさんをしっかり抱いて立っていた。
みんなぽかんと見ている。
他の船客が物珍しげにこの子供たちを見ながら通り過ぎる。
しばらくしてフタバコさんははっと我に返ったようにキミタケさんを突き放した。真っ赤な顔をしている。
「ごめん、変なことして」
「別に変なことじゃないよ、ゲタバコちゃん。ひさしぶりで懐かしいしね」
「ずっと一人でこのチビどもの面倒を見てきて、きっと疲れたんだ」とフタバコさんは言った。「ともかく目が離せないから」「そんなことないでしょ」と思わずイタルは言った。「みんなしっかりしていたよ。そんなに心配掛けなかったでしょ」
「そうだよ。チビどもなんて、失礼だよ」とロックが言った。
「フタバコさんとキミタケさんは前からそんな仲だったんですか?」と緑が生意気な口調で聞いた。だいたいこの子はいつもおませだ。
「わかった、ごめん」とフタバコさんは縁の質問を無視して、イタルたちにしぶしぶ謝った。「たしかに、キミたちはよくやってくれた。でも一応わたしはリーダーの立場だと思っていたし、それはやっぱり大変なんだよ。けっこう心細かった」
そんなこと、ぜんぜん知らなかった、とイタルは思った。
「イタル君はよく手伝ってくれた。この旅の指揮はユータが執っている。このところタカギタミオもあんまり問題を起こさないし (と言われてタカギタミオはむっとした顔になったが、どなりたい気持ちは抑えたようだった)、三人組もいい子にしている。フクシマケンが来てくれたのもよかった」
そう言いながらフタバコさんはみんなの顔を見回した。
「キミタケさんがいなくなってから来たのはフクシマケンだけかな。紹介します。こちら、前に駅の子の仲間だったキミタケさん。こちらはフクシマケン」
「よろしく」と二人はぎこちなく挨拶《あいさつ》した。
「でも言っとくけど……」と言ってフタバコさんは改めて緑の方を見た。
「はい?」
「わたしとキミタケさんはどんな仲でもないからね。今だけ特別」そこで向き直ってキミタケさんの方を見る。「それはそうと、どうしてここにいるんですか?」
「もともとぼくは函館の生まれで、小学校までこの町にいたんだ。そのあとで東京に引っ越したけれど、親たちがまた戻ることになった。それで、ぼくも、受験もあるし、それまではこっちの高校に通おうかと思って」
「それで駅を出たの?」
「というより、駅長さんがぼくが出る時期だと言ってくれたときが、たまたま引っ越しの直前だったんだ。見捨てたみたいでごめん」
「そんな、いいんです」とフタバコさんは言った。
「お詫《わ》び代わりに今日はみんなを案内するよ。駅長さんからキミたちが来ると連絡があった時からプランを作っておいたんだ。一六時五四分の『快速アイリス』に乗るまで、午後はずっと函館という予定だよ」
まず、桟橋から函館駅まで歩いて、駅のコインロッカーに荷物を預けた。これで身軽に函館を歩ける。
キミタケさんが最初に連れていってくれたのはラーメン屋だった。
駅からしばらく歩くと市電の駅があった。そこから電車に乗って三つ目の十字街《じゅうじがい》という駅で降りる。市電に乗れただけでユータは感激していた。
ラーメンはおいしくて、今度はみんなが感激した。四時間近く船の上で潮風に吹かれておなかも空《す》いていた。朝食は船の食堂で食べたけれど、それは海の上の話だ。
「ラーメンって、もうずっと食べていなかったね」とポックがおつゆをすすりながら言った。暑くて顔を真っ赤にしている。
「東京駅になかったから」とイタルが言う。「職員食堂はお蕎麦《そば》とうどんだから」
「ひさしぶりでなくても、これは相当うまいラーメンですよ」とフクシマケンが静かに言った。
「お代わりしてもいいよ」とキミタケさんが言った。「駅長さんからお金を預かっているから」
結局、フクシマケンとタカギタミオが二杯目に挑戦し、イタルとユータ、ポックとロックはそれぞれ一杯を二人で分けることにした。
みんなは満足して店を出た。
「次はどこに行くんですか?」とタカギタミオが聞いた。
「やっぱり教会かな」とキミタケさんが言った。
「教会?」
「函館ハリストス正教会。この町は昔から国際的な港だったからね、ロシア人がたくさんいたんだ。その人たちが造った教会で、形がおもしろい。すぐそこだよ」
そう言われてみんなは元気に歩き出した。すぐそこかもしれないけれど、でも上り坂だ。北の町のはずなのにけっこう暑い。ラーメンの熱さもまだ身体の中に残っている。汗が出てきた。
門のところに立つと、正面に白い塔のような建物があった。
「ああ、きれい」と正面に立った時、泉と馨が口をそろえて言った。「きれい」と緑がなぞる。
「ウエディング・ケーキみたい」と言ったのは比奈子だった。「白くてとんがっている」
「地元の人はね、ガンガン寺って呼ぶんだ」とキミタケさんが言った。
「はは、何それ?」とタカギタミオが聞く。
「日本のお寺の鐘はぽーんと鳴るだろ。でもこの教会の鐘はロシア式だからガンゴンガンゴンガンゴンってにぎやかなんだよ。それで、ガンガン寺」
「あそこに鐘がある」とミンちゃんが言った。「いちばん高いところ」
「そう、あれがガンゴンガンゴン鳴るんだ」
しかし子供たちは古い教会を見てもあまり感心しなかった。すぐに飽きたようだ。
「あの山、登れませんか?」とタカギタミオが教会の向こう側に見えている山を指して聞いた。
「登れるよ。行こうか」とキミタケさんは言った。「標高約三百メートル。景色がすごくいいよ。町も港も海も見える。今日は天気もいいしね」
「行こう」とポックとロックが言った。
「二つ、行きかたがある。歩いて登るか、ロープウエイに乗るか」
「ロープウエイ」と即座にユータが言った。「ぜったい乗りたい」
「歩く」とタカギタミオが言う。「ぜったい歩く」
「じゃぁ二手に分かれよう。歩く方はぼくと行く。ロープウェイはゲタバコちゃんが引率する。ロープウエイ組は上で待っていて」
イタルはどちらにしようかと迷った。歩くのはおもしろそうだけれど、暑いかもしれない。ロープウエイにも乗ってみたいが、たぶん帰りに乗れるだろう。
そう考えて一歩キミタケさんの方に寄った時ミンちゃんが一緒に来た。こちらの組は他にタカギタミオとフクシマケン、ロック、それにキミタケさんだった。
「ミンちゃん、大丈夫?」とフタバコさんが聞いた。
「わたし、体重がないのよ。だからぜんぜん平気」
そう言ってミンちゃんはすーっと三メートルほど坂を登ってみせた。足が動いていない。地上二センチのところを滑っているみたいだ。
「へー、ミンちゃん、すごいね」とイタルは思わず言った。ミンちゃんはもう普通の子ではないから、と心の中で思ったが、それは口にしなかった。
「すごいでしょ」と言ってミンちゃんは得意そうに笑った。
あんなに明るい顔をしている、とイタルは思った。もうすぐお別れなのに。
山の上まではそんなに急な登りではなかったけれど、とてもとても遠かった。一時間くらいかかって頂上に着いて、先に来ていたロープウェイ組の前に立ったとたん、歩き組はその場に坐《すわ》り込んだ。けろっとしているのはミンちゃんだけで、太っているタカギタミオなどはもう汗まみれでへとへとという顔をしていた。
「ずいぶん遅かったね」とポックに言われてタカギタミオが顔を上げる。
「なに言ってんだ。そんなこと言うんなら自分で歩いてみろ。すっごい山道なんだぞ。ずっと上り坂なんだぞ」
それはそうだ、山なんだからとイタルは思ったが、そう言うとタカギタミオほもっと怒るだろう。
「でも偉かったわね、みんなちゃんと足で登って」とフタバコさんが言った。
「だって、歩くって決めたんだから」とタカギタミオは、それでも少し得意そうな顔になって言った。
「それより景色、景色。せっかく来たんだから」
そうユータに言われて、イタルたちは立って景色を見た。
みんなは目の下におもちゃのように見える町や港に夢中になっていたし、イタルも最初はそうだったのだが、ふと横を見るとミンちゃんはもっとずっと遠くを見ている。東の方、山の向こうを見ている。
「あっちなの?」とイタルは聞いた。
「うん、あっちだと思う」とミンちゃんは小さな声で言った。
その後、子供たちは全員でロープウエイに乗って山を下り、また市電に乗って、それからしばらく歩いて、五稜郭《ごりようかく》というところに行った。
昔、戦争をしたところだと聞いて、ロックが目を輝かせた。熱心にキミタケさんの説明を聞いている。
「ここは日本で初めての西洋式の砦《とりで》で、上から見るとこんな形をしている」とキミタケさんは言って、地面に図を描いた。
☆
「星だ」とロックは叫んだ。
「丸や四角の城壁はね、城壁の真下まで攻め込まれると守るのがむずかしいんだ。でも星形だと、城壁に迫った敵の背中を撃てるだろ。死角がない。だから守りやすい」 キミタケさんが図を指して説明するのをロックは熱心に聞いていた。
その時ミンちゃんがすっと歩き出した。みんなはキミタケさんの図を見ていたから、気づいたのはイタルだけだった。
どうしたんだろう、と思ってイタルはミンちゃんを見た。トイレとかではなくて、何か気になるものを見て確かめに行くという感じの歩きかた。どんどん行ってしまうのでちょっと心配になる。もう、桜の木の向こうに姿が見えなくなった。
イタルはミンちゃんの後を追って歩き出した。たぶんすぐ戻れるだろう。
しかしミンちゃんはどんどん歩く。青っぽい緑のTシャツが遠くなる。
イタルはちょっと速足になった。急がないとミンちゃんを見失いそうで、でもまだ先の方にちらっと背中が見えて、あんなところまで行ってしまったと思って、ほとんど駆け足になる。
ミンちゃんは小さいからそんなに足が速くはないはずだと思いながら、でもさっき函館山に登る時はすーっと滑るような怪しい登りかたをしていたなと考える。体重がないと言っていた。もう超能力みたいなものかもしれない。
それにミンちゃんは近ごろポック以上に自分を隠せるらしい。小さな女の子が異常に速く歩いていたら人は変に思うけど、でもきっと姿が見えないんだ。現にこのあたりにいる観光客もあんなに速いミンちゃんに気づかない。
どこへ行くんだろう。
後ろのみんなのことも気になったが、しかしここで戻るわけにはいかない。みんなまだしばらくはあそこにいるだろう。
ミンちゃんはお堀の橋を渡って、公園を出てしまった。大きな建物が並ぶ道の向こうの方で、角を曲がるのが見えた。
イタルは走った。いったいどうなっているんだ?
その先は普通の住宅街だった。
ミンちゃんの姿がない。どこにもない。いなくなってしまった。
イタルはなおも走った。前の方にいないから、角まで行って左右を見て、それでもどこにもミンちゃんはいなくて、右か左か適当に決めてまた次の角まで走る。それを何度も繰り返した。
息が切れた。暑い。汗が出る。
もうへとへとだ。
もうあきらめようか。
そう思った時、広い道に出た。電車の線路がある。左の方に停留所があって、そこに電車が停まっていて、あれ? 今、電車に乗ろうとしているのはミンちゃんじゃないか?
暗くてよくわからなかったけど、たしかに青っぽい緑のTシャツだった。
走っていけば乗れるだろうか?
そう思っているうちに電車が走り出した。ぼーっと立っているイタルの目の前を電車が通り過ぎる。窓の隅の方にちらりと青っぽい緑のTシャツが見えた。
あれがミンちゃん?
電車はあっという間に行ってしまった。
イタルはへたへたとその場に坐り込んだ。汗まみれだ。
通りかかったおじさんが、どうしたのかなという顔でイタルを見た。普通、子供は道ばたに坐り込まない。変に思われてもしかたがない。
イタルは立った。
ええと、どうすればいいんだろう?
ミンちゃんはいない。あの市電に乗って行ってしまった。
みんなのところへ帰るか?
なんだか夢中になって走って、すごく遠くへ来てしまったみたいで、帰るにしても道 がわからない。
誰かに聞く?
でもあの☆型のお城みたいなところは何という名前だっただろう?
ミンちゃんはどうする?
あの停留所に行って次の電車に乗ろうか? 追いかけようか?
そこでイタルは自分がお金をぜんぜん持っていないことに気づいた。電車賃がない。
バックパックには駅の子になる前に使っていた財布が入っていたし、その中にお金もあったのだが、それはみんなでまとめて函館駅のコインロッカーに預けてしまった。ラーメンや何かのお金はキミタケさんが払った。駅長さんから預かったお金だって言っていた。
だからここには、イタルのポケットにはお金がない。電車に乗れない。
イタルは歩きはじめた。
あのお城みたいなところに戻ってみんなに合流するのはむずかしい。道がわからないし、もうみんなあそこにはいないかもしれない。ぼくとミンちゃんがいなくなって、探してくれて、ぎりぎりまでは待っていてくれるだろうけど、時間が釆たら次に移動するだろう。
次がどこかは知らないが、最後はぜったいに函館駅だ。ミンちゃんはどこに行ったかわからない。でもミンちゃんだって最後は函館駅だ。この市電の線路に沿って歩いていけば駅に着ける。
そう思って歩いた。暑かったし、さっき山に登ったばかりで足はくたびれていたし、この先どうなるか不安だった。でも歩くしかない。この道は平らだから山よりは楽なはずだ。
次の電車がイタルの横を通り過ぎた。それを見ながらただ歩く。
さっきお城みたいなところに行くのに降りた停留所があった。「五稜郭公園前《ごりょうかくこうえんまえ》」という名だ。あのお城はゴリョーカクだった。知っているところまで戻って少し元気が出た。電車道はその先で左に曲がっていた。
のどが渇いてきた。どこか水が飲めるところはないかと思ったけれど、見つからなかった。駅に着けばあるだろうけど、たぶんまだまだ遠いんだ。
次の停留所は「中央病院前」《ちゅうおうびょういんまえ》だった。それから「千代台《ちよがだい》」があって、「堀川町」《ほりかわちょう》があった。停留所と停留所の間はすごく遠い。疲れた。遠い。暑い。のどが渇いた。
この道筋はたしかに市電の窓から見た覚えがある。道は間違っていない。でも、どれくらい遠かったんだか、それがわからない。停留所にいくつ停まったっけ? 時間のことが気になりはじめた。函館駅で次に乗る列車は何時発だった?ユータと何度も予定表を見たのだ。忘れてはいない。キミタケさんも言っていた。そう、一六時五四分の「快速アイリス」だ。
今は何時だ? どこかに時計はないか?
一六時五四分までに函館駅に行き着けばみんなと一緒になれる。あの市電に乗ったのだからミンちゃんもそこにいるだろう。
でも間に合うか? 間に合うだろうか?
道ばたに時計屋さんがあった。ショーウィンドウの中は時計だらけ。立ち止まって見る。でも、たくさんある時計の時間がばらばらだ。ぜんぜん合ってない。ダメだ、こんな店は。誰も買いにこないよ。
また歩きはじめる。「昭和橋《しょうわばし》」、「千歳町《ちとせちょう》」を過ぎ、「新川町」《しんかわちょう》を過ぎ、「松風町」《まつかぜちょう》まで行くと、線路は右に曲がっていた。それに沿って曲がる。
いったい後いくつ停留所があるんだろう、と思ったら、次の停留所が「函館駅前《はこだてえきまえ》」だった。
この先はわかる。ここから駅までがけっこう遠かった。でももう大丈夫。
駅が見えてきた。
正面に時計がある。四時三〇分。間に合った。
建物の中に入って改札口を目指す。
「あっ、イタルが来た」と大きな声が聞こえた。タカギタミオの声だ。
みんなの姿が見えた。もう大丈夫。
目で捜す。ミンちゃんがいる。青っぽい緑のTシャツ。にこにこしている。その横に誰か女の人がいた。知っている顔。ああミンちゃんのママだ。でもどうしてここにいるのかな? みんながイタルを囲んだ。
「間に合ってよかったね」とフタバコさんが言った。「でも、いったいどこに行っていたの? みんなすごく心配したよ」
「ミンちゃんがいなくなったから」とイタルは言った、「後を追いかけて、見失って、それから歩いてきた」
「ここまで歩いたの? 四キロ近くあるよ」とキミタケさんがびっくりして言った。
「わたしが悪かったのね」とミンちゃんが言った。「ママの姿が見えたから、そっちを追いかけて。イタルさんが後から釆たこと知らなかった」
「五稜郭を出る時に二人がいないことがわかったんだ。捜してもいなかった」とキミタケさんが言った。「でも、たぶん二人一緒だろうと思ったし、それならば心配ないと思った。ミンちゃんは無敵だからね。それで、この駅まで戻ったらミンちゃんはいた。キミはいない。それから待っていたんだ。きっと間に合うって信じていたけどね」
「わたしのために、ごめん」と言ってミンちゃんが近づいてきて、ちょっと背伸びしてイタルをぎゅっと抱きしめた。「後でゆっくり説明するからね」
「そんな仲だったの?」と緑が言った。
「生意気なことを言わないの」とフタバコさんがたしなめた。
全員がそろって無事に一六時五四分発の「快速アイリス」に乗った。キミタケさんも一緒だった。それにミンちゃんのママも。
「快速アイリス」の旅は短かった。一七時二五分には列車は大沼公園《おおぬまこうえん》駅に着いて、みんなは荷物を背負って降りた。
「みなさん、駅の子ね」と改札口で声を掛けてくれたのはほっべたの赤いお姉さんだった。キミタケさんよりもっとずっと年上。「駅長さんから連絡を受けて、お待ちしていました。今夜の宿は民宿てつろ。私は由美子《ゆみこ》と申します。じゃ、みんなマイクロバスに乗って。ちょっと狭いけど、すぐ近くだから」
ぎゅうぎゅう詰めの車の中で喋《しゃべ》っているうちに、由美子さんは桑島由美子さんで、東京駅のあの駅員さんの妹だということがわかった。桑島さんのお父さんとお母さんが経営しているのが民宿てつろ。
マイクロバスで着いてみると、てつろは「鉄路」だった。
おじいさんの代から汽車の仕事をしてきたので、お父さんが国鉄をやめて民宿を始める時にそういう名を付けたのだと由美子さんが説明してくれた。
部屋を決めて、大きなお風呂《ふろ》に男の子と女の子と交替で入って、それから大沼が見える広い庭でバーベキューを食べた。お肉も野菜もおいしくてみんなたくさんお代わりをした。ホッケという魚がけっこうおいしいし、鮭もホタテ貝もおいしかった。
東京駅の中にはこんなものはなかったな、とイタルは考えた。あそこの暮らしは楽しかったけれど、我慢することも多かった。みんなよく働いたし、いろんなことを覚えた。学校では教えてくれないことばかりだった。でも、もういいや。もう充分、夏は普通の暮らしに戻ろう。
ミンちゃんが近くに来た。ミンちゃんのママと一緒だ。
「昼間はごめん、すごく歩かせちゃって」とミンちゃんが言った。
「大丈夫。ぜんぜん問題ないよ。汽車に間に合って、ちゃんとみんなと一緒になれたし」
「あのね、あのお城の公園でわたし、ママの姿を見たの、ちらっと。それで、つい追いかけたの」
「私から話しましょう」とミンちゃんのママが言った。「先週、駅長さんから手紙をいただきました。汽車のキップが入っていて、みなこが向こう側に行くと心を決めたと書いてありました。この前、家に来て私の夢の中で言っていたとおり、グランマに迎えに来てもらうと」 他のみんなも近くに寄ってきて、ミンちゃんのママの話を聞いていた。
「よろしければ、その時に合わせてお母さんも北海道に来ませんかという招待の手紙とキップだったの。私はすぐに行くことに決めました。でも、私の姿を見てみなこの決意が揺らぐと困るとも思ったの」
そう言ってママはミンちゃんの顔を見た。ミンちゃんは正面からママの顔をきっと見ている。わたしの決心は揺れないと言わんばかり。
「だから最後の時まで身を隠していようと思ったのね。駅長さんもそう考えてくれたのかもしれない。寝台車の寝床は別の車両だったし、連絡船の上でも船室にこもっていた」
そう言ってママはふっとため息をついた。
「でも、その一方、ママはどうしてもみなこの姿が見たくなったの。駅の子のみなさんと一緒に楽しくしている姿を、いちばん嬉《うれ》しそうにしているみなこを見ておきたい。そう思って、つい五稜郭に行ってしまった。函館は知っている町だし、着いてからの予定も駅長さんの手紙に書いてあったので、あそこへ先に行って待っていれば見られると思ったの。隠れていれば見つからないと思った。でも見つかってしまったのね。それで急いで消えようと思ったんだけど」
「わたしはママが来ていることを知っていたわ。近くにいるってずっと感じていた。だから公園で姿を見た時は、隠れるなんて変と思った。逃げるみたいにどんどん行っちゃうから追いかけて、けっきょく市電の中で追いついたのよ。でも、イタルさんが後から心配してついてきてくれたのは気がつかなかった。ごめんね」
「いいんだ。なんでもないよ。こうやって一緒にバーベキューが食べられたんだから」
「それでミンちゃんの決心は変わらないんだね?」とキミタケさんが聞いた。「駅長さんからもそこを確かめてって言われているものだから」
「変わりません。みんながここまで一緒に来てくれて本当に嬉しい。わたしは駅の子の一人になれてとても運がよかったと思っています」ミンちゃんは胸を張ってそう言った。
「明日の汽車で春立に行きます。お墓に行ってグランマと一緒に向こうへ行きます。みんなにも、ママにも、お別れを言います。わたしは大丈夫です」
春立の広い空
ゆっくり朝ご飯を食べて、みんなが民宿鉄路を出たのは朝の九時半だった。また由美子さんがマイクロバスで駅まで送ってくれた。
旅の時にはいつも先の予定を考えておかなければならない。前の晩にイタルはユータから翌日の昼食のことを相談された。汽車の中で食べるようにお弁当を用意しましょうかと由美子さんに聞かれたのだという。
「どうしよう?」
「頼んだら」とイタルは答えた。
「でも、駅弁もあるんだって。大沼公園の駅で買えるんだ」
みんなどっちが食べたいだろう。東京駅の暮らしで駅弁はたくさん食べた。いつも買える味に飽きて、近県まで別の種類のを買いに行ったくらいだ。民宿鉄路のお弁当は魅力がある。
でも、ユータとイタルは駅弁を買う方を選んだ。熱烈鉄道ファンとしては北海道の駅弁も食べてみないわけにはいかないとユータは言ったし、そう聞くとイタルにもその方がおいしそうに思えたのだ。
だから駅に着いてみなが最初にしたのは、売店で好きな駅弁を買うことだった。函館駅で売っているのをここでも買えるということで、種類も豊富だった。そこでみんなは、
かにめし
大沼牛牛肉弁当
えぞちらし
つぶ貝弁当
鰊みがき弁当
の中から議論しながらそれぞれ選んだ。
「なんだ、あの字? なんか魚か?」とタカギタミオが「鰊みがき弁当」を指さして聞いた。
「あれはニシンという字ですよ」とミンちゃんのママが教えてくれた。「身欠き鰊というニシンの干物があるの。それをまた煮てあるの」 「おいしいですか?」
「ええ。私は子供の時にあんまりたくさん食べたから、もう遠慮したいけれど。でも懐かしい気もするわね」
「わたしがかにめし買うから、はんぶんこしよう」とミンちゃんがママに言った。
イタルは考えてつぶ貝弁当にした。
みんなの分の代金をキミタケさんが払った。
由美子さんに口々にお礼を言って、子供たちは改札口から中に入った。
イタルが最後になった。
「あ、忘れていた。これを渡さなくちゃ」と由美子さんが言って、ポケットから封筒を出した。「駅長さんから送られてきたの。ユータ君に渡すようにって」
見ると封筒の表には「ユータ君へ 苫小牧《とまこまい》到着前に開くように 駅長」と書いてあった。なんだろうと思いながら、イタルはそれを自分のポケットに入れた。
ホームに列車が入ってきた。函館発・函館本線・室蘭本線経由|札幌《さっぽろ》行きの急行「すずらん91号」。大沼公園駅発は九時五九分。
「これ、臨時列車なんだ」とユータが乗り込んで席に坐《すわ》りながら言った。「連休とか出るんだけど、今日はなんでだろう?」
「夏休みの最初の日だから?」とフクシマケンが言った。
「それぐらいで臨時列車出すかな? これは謎だ」
そうは言ったものの、汽車が走り出すとユータはもう窓の外を見たり、時刻表で駅の名を追ったりするのに夢中で、臨時列車の理由のことなど忘れてしまったようだった。
二十分ほど走ると、汽車は海岸に出た。森《もり》駅から先、右側はずっと海だったが、トンネルも多い。
「あれは何という海?」
「内浦《うちうら》湾だけど、噴火湾という名もあるって。室蘭までずっとこの湾に沿って走るよ」
長万部《おしゃまんべ》の手前でイタルはトイレに立った。揺れる汽車の中ではなかなかむずかしいと思いながら、それでも無事に用を済ませて、手を洗って、席に戻る。
ミンちゃんはママと並んで坐って静かにお喋《しゃべ》りをしている。その前に比奈子ちゃんがいた。キミタケさんとフタバコさんも並んでいる。緑と馨と泉はやっぱり三人で一緒にいた。ポックとロックはどっちも寝ていた。前の晩、遅くまでトランプをして遊んでいたから、今ごろ眠くなったのだろう。タカギタミオは前の日に函館駅の売店で買った漫画雑誌を見ていた。フクシマケンは黙って外の景色を見ている。
客車の中は八割がた埋まっていた。なんだか親子連れが多いみたいだ。それも男の子が目立つ。それに中学生や高校生の二、三人連れもいるけれど、こっちもみんな男子ばかり。なぜだろう、とイタルは考えた。
自分の席に戻った時、なんだか大事なことを忘れているような気がした。いったい何だったっけ?
「ああ、そうだ。これ」と言って、ポケットの封筒を出してユータに渡した。「駅長さんから民宿に届いていたらしいよ」ユータは「何?」と言いながら、それを受け取って、見た。
「苫小牧到着前に開くようにか、じゃ今、開けてみなくちゃ」
中には手紙とキップのようなものが入っていた。ユータは黙って手紙を読み、キップの枚数を数え、そこに書いてあることを丁寧に読んだ。
「すごい! すばらしい! やった!」と小さな声で言った。興奮したのか、顔が赤「どうしたの?」とフクシマケンが聞いた。タカギタミオも雑誌から顔を上げた。
「今日は特別列車が走るんだって、苫小牧から。ぼくたちはそれに乗るんだ。これがその特別乗車券。ぼくたちをびっくりさせようと思って、駅長さんは手渡しでなく民宿に郵便で送っておいたらしい」
「だから、何が特別列車なんだよ?」とタカギタミオがじれて聞いた。
「SL。蒸気機関車。今日の苫小牧発|様似《さまに》行き六四三列車はいつものようにディーゼル機関車ではなくて、CH11が牽引《けんいん》する」
「それは楽しそうだね」とフクシマケンが言った。
「楽しいって、すごいことですよ!」 とユータはいよいよ興奮して言った。
「C11つて、機関車の名前?」とイタルは聞いた。
「そう。イタルの切手にあったじゃない」
「そうだっけ」
「C62やD51のようなテンダー型ではなくて、もう少し小さいタンク型だけど、それでも本物のSLだよ。石炭を焚《た》いて蒸気で走る」
「それでわかった」とフクシマケンが言った。
「何?」
「東京駅で北海道行きの計画の話をした時、駅長さんが『おもしろいことになるな。ユータ君が喜びそうだ』って言っただろ。あの時はそれっきりで説明はなかったけど、このことだったんだよ」
「そうだった。忘れていた」とユータが言った。
「だから、この汽車、子供が多いんだ」とイタルは言った。
「そうなの?」と言いながらユータは半分立って客車の中を見回した。
「あれはみんなキミみたいな鉄道ファンだ」
「あっ、わかった。だからこれ、臨時列車なんだ。特別列車に接続する便を臨時に出したんだよ」
実際の話、二二時一七分に到着した苫小牧駅は大変な混雑だった。
ホームにはたくさんの人が群がり、カメラを持っている人も多かった。そのほとんどが男の子か男の人。
さっき、洞爺《とうや》の駅を過ぎたところでユータはみんなに弁当を配りながら、苫小牧から先はSLが牽《ひ》く特別列車だと説明した。その時も歓声を上げたのは男の子で、女の子たちは冷ややかだった。
「こんなにたくさんの人が乗れるんだろうか?」とイタルはホームを見回して思わず言った。「まるで、朝の東京駅みたいだよ」
「ぜんぷは乗れないよ。四両編成だろ」とフクシマケンが列車を見ながら言った。「だから指定券なんだよ、各駅停車なのに。みんな蒸気機関車を見るのに集まったのさ」
その言葉を最後まで開かずに、ユータは人込みを縫ってホームの前の方に行く。イタルはそれについていった。ロックやタカギタミオも一列になって後に続いた。ホームにはもう列車が入っていたから、いちばん前には機関車がついているはずだ。
なんとなく動いている人の流れについて押し合いへしあい進んでいくと、やがて機関車の前に出た。こんなに大きいのか、とまずイタルは思った。客車と同じだから見上げるほど大きいのはあたりまえだが、それにしても大きい。黒くて、形が複雑で、外側にたくさん部品がついている。そして、熱い。前に立つと顔がほてるほどの熱気があっ た。ストーブみたい。中で火を焚いているんだ。
前の方の下のあたりから湯気が出ていて、煙突からは少し黒い煙が出ている。窓から顔を出した運転士は帽子のあご紐《ひも》を締めていた。やっぱりすごい、とイタルは感心した。
「すっげー」とタカギタミオが言った。
ユータはと見ると、感動のあまりぼーっとした顔になっている。何か口の中でつぶやきながら、きょろきょろとせわしなく目を動かしている。
後ろの人が押すので、イタルたちは少しずつ前に出て、やがて機関車の正面を見る位置まで進んだ。丸い釜《かま》の前にナンバープレートが付いていて
C11248
と書いてあった。ユータはポケットから手帳を出して、そのナンバーを書き留めた。
「ねえ、もう戻って客車に乗らなくちゃ。乗り遅れちゃうよ」とイタルは言った。
「わかった。でももう一分」
そう言ってユータはなかなか動かない。
結局、イタルとロックで背中を押すようにして客車の方に戻った。他の子はみなもう座席に坐っていた。
一三時五三分、特別列車は走り出した。
駅長さんが用意してくれた指定席券をフタバコさんがみんなに無造作に配ったら、たまたまイタルの席はミンちゃんの隣だった。向かい側はユータと比奈子。緑たちは券を交換してまた三人でまとまって坐ったけれど、他の子はそれぞれの席に着いた。ミンちゃんのママはタカギタミオと並んでいる。
「機関車ってすごかった?」とミンちゃんが聞いた。
「まあね。黒くて、大きくて、熱かった」
みんなが乗った客車は機関車のすぐ後ろだったから、前の方からは時々、ポッポッポーッという力強い音が聞こえてきた。ドラフト音というのだとユータがわざわざイタルの席まで来て教えてくれた。
フィイーッという汽笛も時おり聞こえた。それに開けた窓からは煙の匂いが風に乗って流れ込む。それを別にすれば、SLでも列車の走りかたは普通の汽車と変わらなかった。
「あれ、ポックがいない」
「本当。どこに行ったのかしら」
「機関車の運転室に乗ったんだよ、いつもみたいに」とロックが言った。
「そんなことできるのかな」
「あいつならうまくやるさ。この間なんか、新幹線の運転室に潜り込んで名古屋《なごや》まで往復したんだよ」
「おもしろかったって?」
「うん。すごいスピードだったって」
イタルはミンちゃんに言いたいことがたくさんあるような気がしていた。だから隣の席になった時はよかったと思った。ところが、いざとなると言えることは何もなかった。何か言おうとしても、それは言わない方がいいことじゃないかと考えて、黙ってしまう。
ミンちゃんはもうすぐいなくなる。だから今のうちと思うのだけれど、でも何も言えない。
ミンちゃんも黙って窓の外の海を見ていた。
特別列車とはいえもともとが各駅停車だから頻繁に停まった。そのたびにギシギシ前後に揺れる。キィーッと金属的なブレーキの音がする。駅ごとに人がたくさんいた。カメラを持った人も多い。
イタルは民宿でユータにもらった時刻表のコピーの駅の名を小さな声で読んだ。
「この次が浜厚真《はまあつま》で、浜田浦、鵡川、汐見《しおみ》、富川、旦向門別、豊郷、清畠、厚賀……」 そこまで読んで口をつぐんだ。このまま読み続ければ、やがて降りる駅が出てくる。春立という名だった。その先はどうなるんだろう? どうやってミンちゃんは旅立つんだろう?
「心配しないで」とミンちゃんが、まるでイタルの心の中を読んだように耳元で言った。「わたしほんとに大丈夫なの。ママにも言ったけど、行くのは悲しいことではないの」
「それでも、残ったぼくたちは悲しいよ。ミンちゃんはぼくたちのこと、忘れるのかな?」
「ぜったい忘れないよ。それにグランマが一緒だから何も心配ないの」 イタルはそれ以上なにも言わなかった。言えば泣きそうな気がした。
何週間か前、たまたまキップをなくして駅の子になった。たまたまそこにミンちゃんがいた。特別に仲よくなったつもりもなかったのに、なんでこんなに悲しいんだろう。なんで行ってしまうミンちゃんが惜しく思えるんだろう。
そう思っているところへポックが帰ってきた。
「暑い!」と、額の汗をぬぐいながら、まず言う。
「どうしたの?」とユータが聞いた。
「機関車に乗ってみたんだ。あれは大変な仕事だってよくわかった。機関士の人が運転をして、その横でね、助士が次から次へとシャベルで石炭をボイラーに放り込むんだ。二人ともよく動くし、狭いし、おれがどんなに気配を消しても立っていられる場所がない。それに、ものすごく暑い。だからもう帰ってきた。SLの機関士は偉いよ」
ポックは珍しくよく喋った。
それをユータがうらやましそうな顔で見ていた。
静内という大きな駅を出て、幅の広い川を渡った。東静内に着いたのが一六時一九分。走りはじめる時には力がたくさんいるから機関車はドラフト音を響かせる。ポッポッポッという音と共に速度が上がった。海沿いの線路をどんどん走った。
一六時二八分、とうとう列車は春立に着いた。鋭いブレーキのきしみ音と共に列車は停まった。
全員が降りる。子供たちの他にはこの駅で降りる人はいなかった。空が明るい。すごく高いところに薄い雲が少しだけある。
「空が青いね」とイタルはたまたま隣に立ったキミタケさんに言った。「それにすごく広い。東京駅の空とはぜんぜん違うよ」
「夏だから。それに北海道は緯度が高いから夏は昼が長いんだよ」
なんだかよくわからない。
春立はとても小さな無人駅だった。さすがにここにはSLファンはいなかった。列車から降りてきた車掌さんがキップを回収した。
駅前の広場にみんなで立った。ミンちゃんがママと何か話している。
「行きましょうか。こちらです」とママがみんなに言って、歩き出した。「ちょっと歩くけれど」
時々車が通る街道を少し歩いて、それから左に折れて踏切を渡った。その先にはもう人の家はなくて、広い野原になっていた。なんて空っぽなところなんだろう、とイタルは思った。
野原ではなくて牧場だった。しばらく行ってそれがわかった。柵《さく》の中に馬がいたのだ。
「あっ、馬だ」とタカギタミオが叫んで、柵のところへ走っていった。
大人の馬が四頭と子馬が二頭いた。声を聞いたのか、頭を上げてこちらを見ている。タカギタミオに続いてみんなが柵のところに行くと、子馬がゆっくり近づいてきた。
柵のこちら側には子供たちが群がっている。向こう側には子馬がいる。子供たちは手をさしのべるが、子馬はそれ以上近づかない。
キミタケさんが足下の草をむしって差し出すと、子馬は寄ってきて草を食べた。みんなが夢中になって真似をした。
ミンちゃんはあの大学の中の馬場で馬に乗っていたんだ、とイタルは思い出した。あの時そう言っていた。馬術部のマスコットだったって。この馬にだってミンちゃんは乗れるかもしれない。柵の中は広い。そこを馬に乗って走るミンちゃんの姿が目に見えるような気がした。ずっと遠くまで走っていって、また走って戻ってくる。
でももうミンちゃんが馬に乗ることはない。この馬にも、どこの馬にも。子馬は生きているけれどミンちゃんは本当はもう生きていない。もうすぐあっち側へ行ってしまう。イタルはまた泣きそうになって、馬ではなく空の方を見た。
子供たちはずいぶん長い間ぐずぐずと馬のところにいた。もう行かなくてはとみんな思っているのに、動く気になれない。こうやっているかぎりミンちゃんはこちら側にいる。
子馬の方が飽きて大人の馬の方に行ってしまってしばらくたってから、ようやく子供たちも道の方に顔を向けた。
「さあ、行きましょう」とママが言った。
左前方に低い丘が連なっていた。道はそのふもとに沿ってゆるやかに右へ曲がっている。その丘の中腹に墓地があった。
道をそれて、墓地の方に登って行く。小さな墓地だった。去年のクリスマスに亡くなったグランマをミンちゃんとママが葬ったのはここなのだ。
上の方に誰かが立っていた。
「グランマ」とミンちゃんがとても小さな声で言った。そして、ちょっと足を速めてそちらへ登って行った。
おばあちゃんのはずなのに、あんまりおばあさんらしくない。ミンちゃんのママよりはずっと年上、でもおばさんという感じ。やさしい顔だけど、姿が全体になんとなくぼんやりしている。身体の輪郭が背景に溶け込んでいるみたい。普通の人と違う。
ミンちゃんとグランマは両手を取り合った。グランマがミンちゃんを抱きしめる。ママが近づいて、抱き合っている二人を抱いた。
子供たちは輪になって三人を見ていた。
グランマが顔を上げてこちらを見た。
「みなさん、ここまでみなこを送ってきてくださって、ありがとうございました」とグランマは言った。
みんな背筋を伸ばして、黙って立っていた。
「みなさんにはまだまだ先のことだけれど、死ぬというのはむずかしいことです。私は去年死んで、その後で苦労しました。準備が充分でなかったと思いました。ましてみなこは、こんなに幼いのに、こちら側に来なくてはならない。事故だから何の準備もなかったでしょう」 そうか、とイタルは思った。死ぬのには準備がいるのか。考えてもみなかった。
「だからなかなかこちら側へ来られない。宙に浮いている間は辛《つら》いものです。その辛いところをみなこは駅の子になることで乗り越えられた。とてもありがたかったと思いますし、私はみなさんに心からお礼を申し上げます」
みんな黙っていた。
ぼくは何もしなかった、とイタルは思った。ミンちゃんは一人で考えて、とてもよく考えて、それで納得した。向こう側に行くことを決めた。
「おかげさまでみなこは私と行くと決めました。もう迷いはないようです」
そう言ってグランマは横に立っているミンちゃんの方をちょっと見た。
「みんなありがとう」とミンちゃんは言った。その顔は少しだけ笑っている風だった。
子供たちはやはり何も言えなかった。すごく悲しいことなのに、そう思ってほいけない。当のミンちゃんが悲しむのをやめたのに、まわりが悲しんではいけない。でも……
「あの」とフクシマケンが一歩前に出てグランマに言った。「あの、うかがいたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい?」とグランマはちょっといぶかしげな顔で言った。
「聞いてはいけないことだったら、そうおっしゃってください。失礼だったらお詫《わ》びします。でも、ぼくは知りたいのです、人が向こう側に行くとどうなるか、人が死ぬとどうなるか。教えていただけませんか?」
ああ、という声が子供たちの間で上がった。ずっとみんなが心の中で考えていたことだ。駅長さんが少し説明してくれたけど、よくわからなかった。でもミンちゃんへの遠慮もあったし、お互いにもそのことは言わなかった。死ぬことは話しにくい。
グランマはしばらく考えていた。それから口を開いた。
「わかりました。お話ししましょう。みなさんも知っておいた方がいいと私も思うから。長い話になるでしょうから、あちらに坐らないこと?」
そう言ってグランマは墓地の横の草地を指さした。
みんなはぞろぞろそちらに向かった。イタルの横をミンちゃんが歩いた。
「グランマはずっと先生だったからね、お話が上手なの」とミンちゃんはイタルにだけ聞こえるように言った。まるで秘密を明かすみたいだ。
イタルが返事をする前に二人は草地に着いてしまった。
みんなで輪になって草の上に坐った。草はよく乾いていていい匂いがした。
「人が死んだらどうなるかを説明する前に、人の心のことを話しましょうね。本当はみんな知っていて、でも気づいていないこと」
グランマはそこにあった丸太に腰を下ろしてゆっくりと話しはじめた。静かな、はっきりした声だった。ミンちゃんはイタルの隣に坐っていた。
ずっと遠くで鳥が鳴く声がした。
「人の心はね、小さな心の集まりからできているの。たくさんたくさんの小さな心が集まって、一人の人の心を作っている。だから人が何か決める時は、その小さな心が会議を開いて相談したり議論したりして決める」
そうだったのかとイタルは思った。そんな気がしたよ。
「みんなも何か決める時に、気持ちが二つに分かれて困ることがあるでしょう。そういう時は会議が二派に分かれて議論しているのよ」
「学級会みたいにですか?」と泉が聞いた。
「そうね、学級会か委員会みたいに」とグランマは言った。「心を作っている小さな心たちに何か名前を付けてあげましょう。心がクラスならば小さな心はその生徒。何かいい名はない?」
みんないっしょうけんめいに考えた。心のもと、心の子、こごころ、しんそ(何それ? 心の素と書いて音読み。わかんないよ、そんなの)、ここころ、ころころ、ころっこ……いろいろな案が出る。
「じゃあ、コロッコにしましょう」と議論が果てしなく続きそうになった時にグランマが言った。この案を出した比奈子が嬉《うれ》しそうに笑った。
「人はいつか亡くなります」とグランマが真剣な顔に戻って言った。「亡くなった人は向こう側に行きます。そうして、その人の心を作っていたコロッコたちはだんだんに解散して、その心はやがて消滅します。それまでにかかる時間は人によって違うけれど、 でも最後にはすっかりなくなってしまう。だから昔々の人の心は向こう側にもありません」
「つまり、永遠の魂はないのですか?」とフクシマケンが聞いた。
「そう。心はつまり魂ね。永遠の魂はありません。まだずっとまとまっていたいというコロッコたちの思いが強いと、ずいぶん長い間もとの心に近いままで残るけれど、それでもコロッコたちは一人抜け二人抜けして、だんだんに減っていきます。私の心のコロッコはもうずいぶん少なくなりました。ここでこうやって話している私は生きている時の私より、どう言えばいいかしら、そう、薄いのね。みんな散っていって」
「そのコロッコたちはどこに行くんですか?」とフタバコさんが尋ねた。
「宇宙ぜんたいの大きな大きな心の中に入るの。それはもうとても大きいから、会議なんか開かない。ただ楽しくそこにいるだけ」
「いつまでも?」とフクシマケンが聞いた。
「いいえ。しばらくするとまた仲間を募って、まとまって、新しい命の中に入る。人間のような大きな心の場合はたくさんのコロッコが集います。この花やあのチョウチョのような、小さな生命には少しのコロッコ」
そう言ってグランマは近くの黄色い小さな花と藤色の蝶《ちょう》を指さした。
「だから、しばらく人間の心にいたコロッコは、今度は蜂にしようとかミミズはおもしろそうとか、椰子《やし》の木はどうだろうかとか、いろいろ考えて、それからたくさんでまとまって、次の命になるわけ」「コロッコは永遠ですか?」とフクシマケンが聞いた。
「コロヅコは永遠です。何万回でも転生できます。宇宙の果ての別の星に生まれることもできると私は聞いています」
みんながふうっと息をついた。なんだかとても大きな話を聞いて、とても一度では呑《の》み込めないみたい。
「残された人たちが……」とイタルは言いかけた。その先が出ない。
グランマがイタルの顔をじっと見た。聞きたかったことがわかったらしい。
「残された人たちが死者のことを懐かしく思い出したり、お墓にお参りしたり、いつまでも覚えていたりすると、心の解散はそれだけ遅くなります。コロッコたちはまとまっていることに意味があると思って、なかなかその心から出ていかない。二十年も三十年もたってもまだコロッコが残っている例もあったと聞きました」
それならばぼくはミンちゃんのことを忘れないぞ、とイタルは思った。
「準備がない死というのはどういうことですか?」とフクシマケンが聞いた。フクシマケンは真剣だった。
「コロッコたちは一つの命に入ったら、その命を充分に楽しんでから終えたいと思っています。充分な喜びが得られないままに終わった命の場合、コロッコの会議は紛糾してその人はなかなか向こう側に行かない。行って解散としたくないコロッコたちが多数派になって、何かよく生きた証拠を持って向こうに行きたいと願う。どこで間違えたか議論する。不運だったとしたら、その不運を納得ずくで受け入れたいと思う」
「みなこがイタルさんと一緒に家に来た時、三日生きれば三日の喜びと言いました」とミンちゃんのママが言った。「私はその時はよくわからなかった。他の子には何十年もの人生があるのにと思った。でも今はわかります。みなこの心の中の会議が円満に終わって、八年の生命を八年分として受け取って、不満もなく向こう側へ行くのね」「そのとおりよ、ママ」とミンちゃんが言った。
最後に、上野駅で
「コロッコが永遠ならば、なぜ生き物は死ぬことを恐れるのですか?」とフクシマケンが聞いた。
「それが生きるというゲームのルールだから」とグランマは言った。「みんなで一つの生命を組み立てて、この世界で一つの個体として生きているコロッコたちは、できるかぎりその個体を長く楽しく生きるという大きな前提に沿って生きます」
「むずかしくて、わからないわ、グランマ」
とミンちゃんが言った。
太陽はもうずいぶん傾いていた。ざわざわと風が鳴った。
「あら、ごめんなさいね。先生の癖が出てしまったみたい」
とグランマは言った。
「ウサギのことを考えてみて。ウサギはとても弱いわよね。キツネに描まったらすぐに殺されて食べられてしまう。つまりそこで死ぬ」 そう言ってみんなの顔を見る。
「でも、だからと言ってウサギの命は無駄でもなければ無意味でもない。腕力では弱くても、ウサギにはウサギの喜びがあるでしょ。おいしい草を食べて、たくさん子供を産んで。キッネは恐いけれど、キツネに追われて逃げてキツネの鼻先で穴に逃げ込むのはいい気持ちよ」「スリルがあって?」とミンちゃんが聞いた。
「そう、スリルがあって。生きているのが嬉《うれ》しいから、だからウサギは逃げる。なるべく長く生きようとする。それでも最後には捕まって、あーあと思いながら、命の外へ出るの」
「それで、コロッコたちは……?」とフクシマケンが聞いた。
「会譲を開くわ。亡くなるとすぐ。なぜ自分たちのゲームはそこで終わったのか。なぜもっと生きられなかったのか。自分たちは充分に努力したか。充分に生きたか」
「楽しい人生だったか、ということですか?」
「ええ。でもそれだけではない。楽しいことも苦しいことも含めて、欲ばって、与えられた機会を隅から隅まで使って、生きられたかということ」
みながため息をついた。よくわからないけれど、もう少しでわかるような気もする。
「ちゃんといっぱい楽しんで、苦しみもきちんと受け取ったか、ということね。それが死ぬことの準備でもあるの。長くても短くてもいい。よく準備された人生ならば、死んだ後もコロッコたちはずっと一緒のままでいて、生前のことをいろいろ思い出して、いつまでも話が尽きない」
「準備がないと?」
「会議は紛糾するわ。コロッコたちの誰がいけなかったのか、責任をめぐって論争が続く」
「わたしは……」とミンちゃんが言った。
「あなたはよく生きた。短いけれどたくさん生きた。でも、急な事故にあってしまったから、死ぬ準備が不足していたの。だからね、あなたのコロッコたちは、生きることと死ぬことの意味がわかるまで、もう少しこちら側の世界にいたいと思ったのよ。その時に運よく駅の子になることができたんでしょ」
「これからは……」
「コロッコたちはあなたがこんなに幼いのに亡くならなければならなかったことをひとまず納得したわ。これからは、生きていた時のことをみんなで一つ一つ思い出して、長い長いお喋《しゃべ》りを楽しむでしょう。そして、肉親や友だちが生きるのを見ているでしょう。応援はするけれど、手は貸せない」
「見ていられるのね、みんなのこと」
「そうですよ。わたしがずっとあなたを見ていたように」
そう言ってグランマはミンちゃんを見た。
「そして、しばらくしてあなたの人生の意味がすっかりわかった時に、コロッコは少しずつ散っていって、次の機会を待つはずよ」
みんながしばらく黙った。むずかしい話だ、とイタルは思った。でも、これからずっと考えていけばいい。その時間はあるだろう。大人になって、ぼくが年取って、それから死ぬまで、考えていればいい。
自分の心の中でコロッコたちがそうだそうだと言っているのをイタルは聞いた気がした。
「わかった?」とグランマがミンちゃんに聞いた。
「わかったみたい。わたしは大丈夫よ。もう心配なことはなんにもないわ。わたしはグランマと一緒に行ける。あっち側からみんなを見ている。応援するわ」
そう言ってミンちゃんは駅の子の仲間たちを見回した。その顔は、斜めになった日の光を浴びてオレンジ色に光って見えた。
「じゃあ、行きましょうか」とグランマが言った。「もうお別れはできたわね」
「うん」とミンちゃんが言った。
「あなたもいいわね?」とグランマはミンちゃんのママに言った。
「はい」とママは答えた。
ミンちゃんが行ってしまう。もう止められないし、止めてはいけない。
イタルは一歩前へ出て、後ろ手に持っていた小さな黄色い花を差し出した。
「ありがとう。最後まで一緒にいられて、嬉しかった」とミンちゃんは言いながら花を受け取った。にっこり笑っている。
「行きますよ」とグランマが言った。
ミンちゃんは手を伸ばしてグランマの手をつかんだ。
そして、みんなが見ている前でミンちゃんとグランマは、ほほえみを浮かべたまま立ち、二人の影は少しずつ薄くなって、そのままゆっくりと宙に浮かび上がり、だんだんに広がって、やがて空いっぱいになったように見えた。ミンちゃんがちょっと手を振ったようだった。
そして、みんなが気がついてみると二人の姿は見えなくなっていた。
残ったのは青い空ばかりだった。
すっと涼しい風が吹いた。
ミンちゃんはいなくなった。
みんな黙っていた。何か言うと大事なものが失われるような気がする。自分の中にある思いがこぼれないよう、黙ったままでいる。
ぼくが大人になるまでの間くらいはミンちゃんが見ていてくれる。イタルはそう考えて、その場にじっと立っていた。
ずいぶんたったころ、キミタケさんがそっとみんなを促した。何も言わないままで、そろそろこの場を離れようと身振りで示し、それに応じて一人また一人と足を動かす。
緑と泉と馨は手をつないでいたしその横に比奈子がいた。ロックとポックとユータ、フクシマケンとタカギタミオもなんとなく並んでいた。キミタケさんとフタバコさんも一緒。
イタルは一人で歩いた。
歩いている方がものが考えられる。いろんな考えが浮かんで、頭の中を巡って、やがて別の考えを連れてきて、議論が始まり、やがて収まる。雲が流れるみたいだ。ああ、コロツコたちが会議をしている、とイタルは思った。
子供たちが柵《さく》の外を通っても、子馬はもう寄ってこなかった。遠くの方で知らぬ顔で草を食《は》んでいる。
その晩は春立の民宿に泊まった。
やっぱりもと鉄道に勤めていた人が家族とやっているところで、「民宿シュッポ」という名だった。
「どういう意味ですか?」と、夕食の時、ロックが宿のおばさんに聞いた。
「ほれ、汽車はシュッポシュッポって走るだろうが。あんたたちが乗ってきたあれだよ」とおばさんは言った。
みんな笑って、それでようやくお葬式が終わった。スイッチが入ったみたいに子供たちはにぎやかに喋りはじめた。お膳《ぜん》に盛られた料理を食べながら、いつものようにわいわい喋った。
明日はまた東京行きの汽車に乗る。そして、上野駅に着いたら、もう東京駅のあの詰所には行かないで、それぞれに自分の家を目指す。ステーション・キッズの日々は終わった。
夏休みだ。
「おばさんもぼくたちと一緒に帰るんですか?」とイタルは隣に坐《すわ》ったミンちゃんのママに聞いた。
「いいえ。ここの隣の静内という町は私が生まれて育ったところなの。友だちが何人もいるから、しばらくいてから東京に帰るわ。それにまだ一つ、大事な用事が残っているし」
「何ですか?」と、お刺身の皿からボタンエビを箸《はし》でつまみあげながら、フタバコさんが聞いた。
「みなこのお骨。母のと一緒にお墓に入れようと思って持ってきたの。私はこれを納めてから東京に戻るわ」
ああ、お骨というものがあるのだ、とイタルは思った。
「ぼくも残って、お墓に行きましょうか?」
気がつくとイタルはそう言っていた。
「ありがとう。でも私一人で大丈夫よ。これは母親がすればいいこと。あなたはみなさんと一緒に汽車にお乗りなさい」
「わかりました」
「ぼくはキミたちとは別々に帰るよ」とフクシマケンが言った。
「ぼくは浦河の気象台が見たくて来たんだから、ちょっと足を延ばして見てくる」
「ああ、そうでしたね」
「ここから汽車で一時間ほどだけど、一日遊んで帰ろうと思うんだ」「おれも一緒に行っていいですか?」とタカギタミオが聞いた。
「いいよ。一緒に行こう」
翌日、日高本線の上り列車に乗って東京に向かったのは十人、函館でキミタケさんが降りて、その先は九人になった。
帰路はどこにも泊まらず、夜行の連絡船の中で半端に寝ただけで朝早く東北《とうほく》本線に雫り換えたから、普通の座席に坐った駅の子たちは午前中ずっと互いによりかかるようにして眠っていた。
車内販売のお姉さんがメモを見ながらお弁当を配ってくれたのは、あれは仙台あたりだっただろうか。きっと駅長さんから来たメモだ。
眠りの中でイタルは心のどこかで寂しい気持ちを味わっていた。駅の子になってから いつもミンちゃんのことを気にしていた。どこにいるか、何をしているか心に掛けていた。もしも東京駅にいた時に、たとえばタカギタミオが「おまえミンちゃんのこと 好きなんだろう」と言ったら、イタルは顔を赤くしたはずだ。
でもロックはそんなことは言わなかったし、他の誰も言わなかった。おませな緑も言いはしなかった。だからイタルはミンちゃんを好きだとはそんなに意識しないで済んだ。
でも、いなくなってみると、とても寂しい。何か見たり聞いたりしたことを、ああこれはミンちゃんに話そうと思っても、その思いには行く先がない。これが、誰かがいなくなるということだ。旅立つとか、別れるとか、死ぬということだ。
だから汽車の振動に合わせて揺れながらずっとうつらうつらしていたイタルは、半ば目覚めるたびに一緒に旅している仲間のことを考え、そのたびにもう九人しかいないことを思い出して、また眠りの中に戻った。
昼食を食べた後はもうさすがに誰も寝なかった。泉たち三人はきゃーきゃー騒いでいた。ユータはまた通過する駅の名を時刻表のコピーと突き合わせていた。比奈子とポックとロックはトランプをしていた。でも前の晩に函館でキミタケさんと別れたフタバコさんはずっと黙っていた。イタルはなるべくものを考えないようにしていた。
そんな子供たちを乗せて汽車は夏の午後を走り抜け、まだ明るいうちに上野駅に到着した。
みんな荷物を持ってホームに降りる。
「ここからどうするんです? 東京駅に行って駅長さんに挨拶《あいさつ》しますか?」とイタルはフタバコさんに聞いた。
「いいえ。上野からそれぞれの家にまっすぐ帰りなさいって。さっき、車掌さんが駅長さんからの手紙を渡してくれたわ。みんなご苦労さま、って。だから、今期のステーション・キッズはここで解散よ。元気でね」
それだけ言うと、フタバコさんはくるっと後ろを向いて足早に行ってしまった。
みんなはフタバコさんの素っ気ないふるまいにびっくりしたようだったが、イタルだけはフタバコさんがもう少しで泣きそうな顔になっていたのを見た。
「じゃあ、行こうか」とイタルが言ったのは、今や最年長だと思ったからだろうか。
「ここから山手線と京浜東北線に乗る子はいる? 常磐《じょうばん》線や高崎《たかさき》線、地下|鉄銀座《ぎんざ》線・日《ひ》比谷《びや》線なんかの子は?」
みんなが自分の最寄り駅を口々に言った。
その時になってわかったのだが、子供たちの家はみんな山手線か中央線か京浜東北線の駅から歩いて帰れるところにあった。あんまり遠い子はいないし、私鉄への乗換もない。
「なんだ、みんな都区内の駅じゃない」とユータが言った。
「何だよ、それ?」とロックが聞いた。
「簡単に言うと、このキップで行ける範囲」と言って、ポケットの中のキップを出して見せた。春立駅でユータがみんなに配ったキップだ。
「青森みたいな遠くの方から汽車に乗って来た時は、東京のどこで降りても同じ運賃なんだ。東京というのは、国鉄、じゃなくて今はJRになったけど、その路線で言うと北は浮間舟渡《うさまふなど》、西は西荻窪《にしおぎくぼ》、南は西大井《にしおおい》か蒲田《かまた》、東は金町《かなまち》か小岩《こいわ》、この内側ならばどの駅で降りてもいいんだ。ここにいる子はみんなこの中に住んでいる」「だから駅の子になれたんだね」とイタルは言った。「東京二十三区内の、国鉄の駅から歩いていけるところに住んでいる子。駅長さんはそういう子だけを選んでステーション・キッズにした」
「ポックはどこ?」とイタルは聞いた。
「おれの今の駅? クイズだね。ユータは知っていると思うから黙っていて」
そう言われてユータはおやっという顔でポックを見た。
「都内、二十三区の中だ。でも、山手線でも京浜東北線でも常磐線でも中央線でもない。さてどこだ?」
ユータがわかったという顔をした。
イタルは駅の子になってから、電車の路線にずいぶん詳しくなった。ユータほどではないけれど、東京の駅はたいてい知っていると思っている。しかし、東京都区内を走るJRでさっきの四つの路線以外というのはわからなかった。みんなお手上げらしい。
「実はさっき通ってきたんだ」
「えっ? 東北本線?」とロックが聞いた。
ユータはにやにやしている。
「そのとおり。駅は北区。ちょっと歩くと荒川区。タカギタミオの家がいちばん近い。駅の名はオクだよ」
「えっ?」と聞いたロックのためにポックはメモ帳に「尾久」と書いた。
「そんな駅、知らなかった」とロックは言った。
「きっと気配を消してる駅なんだよ、ポックみたいに」とイタルが言って、みんな笑った。
上野駅のコンコースで笑いながら、ああ、前と同じだ、とイタルは思った。ミンちゃんがいなくてもこういう会話は弾む。
「ユータ、これあげる」
と言ってイタルは小さな紙の包みを出した。
「何、これ?」
「ほら、いつか見せた汽車の切手。五枚あるよ」
「わあ、ありがとう」とユータは喜んだ。
「他のが手に入ったらまたあげるよ」
「うん、待ってる」
ステーション・キッズはここで解散するけれど、これから学校や塾や広場や公園で、ぼくたちはそれぞれの友だちを相手にこんな風にいろんなことを話すだろう。楽しいことや嫌なことがいっぱいあるだろう。ミンちゃんはいないけれど、でもミンちゃんはぼくたちを見ていてくれる。まあ、それでいいか。いいよな。
東北本線にまた乗るのはポック一人だった。
京浜東北が緑と比奈子の二人。山手線は内回りが馨と泉、それにユータ。外回りに乗るのはロックとイタルだけだった。でもロックは千駄ヶ谷《せんだがや》だから、秋葉原で中央線に乗り換えるという。フタバコさんがどの駅か聞かなかったな。
「じゃあね、バイバイ!」と叫んで、みんなは上野駅でそれぞれのホームに向かった。
ロックと二人だけになってもあまり話すことがない。
「また会おうね」
「うん。夏休みの最後の日に東京駅の中央通路。午後三時」
「ああ。民宿シュッポの約束ね。覚えているよ。キミタケさんも来るって言っていた」
その先を話す間もなく、電車は秋葉原駅に入り、ロックは手を振って降りた。
一人になった。
夏休み最後の日、ぼくは再会した仲間に、二学期もしばらくぼくは駅の子を続けると言うだろう。新しい仲間が増えてみんながやり方を覚えた時に、ぼくは学校に戻ろう。
有楽町を通る時、ちょっと降りて山村切手店に寄ってコレクションを完成させようかと思った。でも、ポケットの中のキップ、春立駅発の普通こども乗車券は「東京都区内ゆき」で、裏側には「東京都区内各駅(駅名標に国と表示されている駅)下車前途無効」と書いてあった。
今日はまっすぐ家に帰ろう。
恵比寿の駅から家までの坂道はひさしぶりで、知っているのに知らないような、不思議な感じだった。
イタルはその道を歩き、マンションの玄関を入ってエレベーターのボタンを押し、自分の家の前に立って、デイパックの横のポケットから出した紐《ひも》付きの鍵《かぎ》でドアを開いた。
この時間にはパパはもちろんママもいないだろうなと思いながら、大きな声で言った。
「ただいま!」
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キップをなくして
平成一七年七月二五日初版発行
著 者 池澤夏樹
発行者 田口恵司
発行所 株式会社角川書店
テキスト化 平成一七年九月一六日 零一