池波正太郎
火の国の城 下
目 次
四 年 後
名古屋築城
そ の 夜
熊 本 城
主計頭清正
大 坂 城
甲 賀 指 令
対 面
始 動
家 康 上 洛
鴻 ノ 巣 山
死 闘
二 条 城
祝 宴
無
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四 年 後
空のどこやらで、雲雀《ひばり》がさえずっている。
ほがらかに、高らかに、そして、そのさえずりが空遠くへ消えたかと思うと、
「あれ、また……」
もよは、うっとりと眼をほそめ、水仕事の手をとめて、ききほれた。
裏の戸口の外は、ひろい草の原である。
ここは、大坂城の西方、東横堀川が淀川へ合するあたり、俗に今橋《いまばし》すじ≠ニよばれる町で、町家もびっしりとたちならんでいるのだが、この塗師《ぬし》屋・寅三郎≠フ家の裏がわは、二年前の火事で焼け、それからはまだ、家が建たぬのだ。
寅三郎は、腕のよい塗師で、太閤秀吉が在所のころから、大坂へ住みついているのだそうな。
二年前に家を焼かれたときも、すぐさま新築をしたほどだから、
「寅三郎は、よほどに、ためこんでいるのじゃろ」
と、近所の人びとがうわさしている。
寅三郎は、家を新築するのと同時に、妻を迎えた。
「近江からもろうてきました」
こういって、寅三郎は新妻のもよを、近所の人びとにひき合せたものであった。
もよは、丹波大介《たんばだいすけ》の妻であった、あのもよ≠ネのである。
寅三郎は四国の生まれだとかで、近所でも評判のはたらきもの≠セし、彼がうるしを塗った器物は、大坂の大名屋敷でも、よくつかわれるという。
六九《ろく》≠ニいう、奇妙な名の老人をつかい、店先でうるし塗りにはげむ寅三郎は三十をこえたばかりだが、見かけは四つ五つ若く見える。
こうした工人にはめずらしく気のさばけた男で、他人のめんどうもよく見るし、近所のつきあいもまことによい。
うるしを塗っているときも、絶えず微笑を絶やさぬ。
六九≠ノもやさしいし、妻のもよへもいたわりをこめたあしらいをするし、もよもまた、寅三郎によくつかえる。
仲のよい夫婦であった。
この年――慶長十五年は、もよが、夫の丹波大介をさがしに、故郷の甲斐・丹波村を出てから、まる四年目にあたる。
もよは、すでに大介をあきらめていたのか……。
そのとおりだ。
あのとき、伊賀の女忍び・於万喜《おまき》にたすけられたもよは、
「しばらくは、ゆるりとしていたがよい。なんというても、お前の夫をさがし出すには、京か大坂へ行ったほうがよいであろう」
と、於万喜にいわれ、なにごとも親切な?……於万喜にまかせることにした。
於万喜は、京の七条にある小さな寺へもよをあずけ、ときどきあらわれては、もよをつれ、京の町、大坂の町を大介の行方をたずね歩いてくれた。
もちろん、もよは、いまもって於万喜の正体を知らぬ。
(於万喜さまは、いったい、どのようなお人なのか?)
その疑問はあっても、もよから見ると、於万喜は、こころから、
(わたしのことをおもうて下さる)
なのであった。
四年前の、年が暮れようとするころになって、
「どうも、大介どのとやらが、物盗りに殺されたらしい」
と、於万喜が告げたものである。
「えっ……」
もよは、驚愕《きようがく》した。
事実、於万喜は、丹波大介が、甲賀・山中忍びたちに殺害されたと知らされていたのだ。
近江・佐和山で菜飯や≠フ主人に化けている山中忍びの長次郎老人が、こういったからだ。
「於万喜どのよ。丹波大介を、われらが山中忍びが、ついに討ちとったそうな。場所はな、上牧《かんまき》の村外れで、こなたは、ほれ、下田才六どののむすめの小たまと他に、七名ほどであったそうだがな……生き残ったは、小たまのみじゃったそうなよ。さすがは大介、死にものぐるいで闘ったと見えるわい」
山中忍びたちは、いまもって、馬杉の甚五を大介と間ちがえている。
甚五の死体を大介が運び去ってしまっただけに、いまさら、たしかめようがないからでもあろう。
「いやはや、頭領さま(山中俊房)は、なぜ、大介めの首を持ってこなかったか、と、えらくごきげんがわるかったそうじゃが、そのな、大介を助けに駈けつけて来た編笠の牢人の、すさまじいばかりのはたらきで、辛《かろ》うじて、小たまだけが逃げてきた、という。おそらくその牢人、真田忍びででもあろうかのう」
そして、長次郎はくやしげに、
「それにのう、三条河原の乞食小屋の中に、大介の仲間がいて、これを才六どのと弥平次が襲うたところ……なんと二人とも討たれた。おそらく、討ったものは、その編笠の牢人であったろう」
年齢も躰つきも、大介とよく似ている馬杉の甚五だけに、
「大介を討った!」
と、山中忍びたちはおもいこんでいるらしい。
真田忍びといえば、あの印判《いんばん》師・仁兵衛こと奥村弥五兵衛《おくむらやごべえ》と佐助は、いまも京都の室町に住んでいるとか……。
しかし、隣家の足袋や才六と、むすめの小たまは、忽然《こつぜん》として消えてしまった。
このとき、弥五兵衛と佐助は、
(しまった……)
はじめて足袋や父娘が敵方≠フ忍びであった、ことを直感したようだ。しかし彼らは大胆にも元の場所に住みつづけている。
そして、弥五兵衛も佐助も、あれ以来、四年の間、丹波大介の消息をきかなかった。
もよは、上牧の村外れへ、於万喜につれられて行ったことがある。
四年前のあのとき……。
馬杉の甚五の死体をのせるために、丹波大介は、近くの百姓に馬を借りた。
それで、百姓たちは、あのすさまじい雨の日の斬り合いをおもい出し、於万喜に、こういったものである。
「その、馬を借りた牢人どのはな、斬り殺された旅の商人の死骸に向って……大介どのよ。まよわずに成仏してくれい、と、かように申されておじゃった」
これで、於万喜も、
(もはや、まちがいなし!)
と、おもいきめてしまった。
もよにしても、
(やはり、大介どのは、死んでしもうた……)
あきらめざるを得ないではないか。
於万喜は、伊賀の平吾にもつたえた。
「おれが、おれの、この手で大介を討ちたかった……」
と、平吾は歯ぎしりをした。
大介は、兄・小虎《ことら》を討った憎いかたきなのであるから、平吾がくやしがったのも、むりはないことだ。
於万喜にとっても、大介は、恋人だった小虎のかたきである。
「ふたりのかたきを山中忍びが、かわって討ってくれたと、おもえばよい。それは私とても、この手で大介を……いつもいつも、そうおもうていたのだもの」
於万喜は、平吾をなぐさめた。
しかし彼女は、もよのことを平吾にはうちあけていない。
それをきいたら、執念ぶかい平吾だけに、
(なにをするか、知れたものではない)
のである。
はじめは、もよを囮《おとり》にして、大介をおびき出すつもりでいた於万喜であったけれど、大介が死んだとなると、もよに用はない。
於万喜も、長い間、もよの世話をしてきていると、いつか親身の情もわいてくるし、それに彼女は、もよが大介の妻であっても、別にうらみや憎悪を抱いてはいなかった。
「人をつけて、故郷の丹波村へ、お前を送りとどけてあげよう」
於万喜がそういうと、もよは、烈しくかぶりをふったものだ。
「なぜじゃ?」
「なぜでも……」
「故郷へ帰るのが、いやなのかえ?」
「はい」
もよは、大介との思い出が残る故郷へは帰りたくない。こうなれば、こちらにいて、どこぞの商家に下女奉公でもしたい、と、こたえた。
故郷をはなれて、もよが京・大坂という、当時の日本の最大の都市で暮すようになってから、かなりの月日がながれていたのである。
もよも、甲斐の山村から出て来たばかりの彼女とはちがってきていた。
町ぐらしにもなれたし、気もしっかりとしてきたし、
(いまさら故郷へ帰っても、しかたのないこと)
と、おもいきわめたのも、於万喜には、うなずけることであった。
「そうかえ。それならば私にも考えがある」
と、於万喜はいった。
それからしばらくして、京の寺にいたもよをたずねて来た於万喜が、
「もよどの。奉公するよりも、いっそのこと、も一度、夫婦《めおと》になったらどうじゃ?」
「夫婦に……?」
「大坂で、塗師をしている寅三郎という人なのじゃが、三十になっても、まだ独身《ひとりみ》で……いえ、独身にしておくには、もったいないほどの、やさしい、おだやかな人柄ゆえ、もよどのにはちょうどよい、と、私はおもう」
「はあ……」
「いやかえ?」
「と、申されても……」
「ま、よい。ともあれ一度、会うて見なされ。私もむりにはすすめぬ。お前が寅三郎に会うて見て、それでも気がすすまぬといやるのなら、また別に、奉公の道も考えてあげようほどに……」
こういわれては、ことわるわけにもゆかなかった。
そこで、会うことにした。
寅三郎のほうから、京都へやって来たのである。
「いま、火事で家が焼けてしまいましたが、すぐに、新しく建て直します。私のようなもののところへ来て下さるのなら、それはもう、うれしいことなのだが……」
と、寅三郎は率直にいった。
一目見て、もよを気に入ったらしい。
もよも、ふっくりと健康そうな寅三郎の顔だちが、どこか大介に似てもいるし、
(亡くなった大介どのとおなじに、この人も耳朶《みみ》が大きいこと)
と、おもった。寅三郎が帰ってから、
「どうじゃ?」
於万喜にきかれたとき、われにもなく、もよは顔があからむのをおぼえたのである。
於万喜は、笑って、
「ま、ゆるりと考えたらよい」
と、いう。
その後も、寅三郎は三度ほど、もよが身を寄せている寺へ、みやげものなどを持ってたずねて来た。
そのたびに、親しみが加わった。
そして、ついに……。
もよは、於万喜のすすめに従う決心をしたのだ。
寅三郎と夫婦になり、大坂・今橋すじの新居での生活がはじまってみると、
(やはり、よかった……)
もよは、しみじみとそうおもった。
大介と夫婦になったときのもよは十七歳で、しかも山里の少女であったわけだが、そのときの女の稚《おさな》さは、いまの彼女から消えてしまっている。
肉体も、こころも女の成熟を見せてきはじめ、町ぐらしの間に、めっきりと女らしい色気もただよい、そうしたもよを、夫としての寅三郎はじゅうぶんに愛してくれたし、きびきびとたちはたらく、彼の塗師としての収入もわるくはない。
間もなく六九≠ニいう下職の老爺《ろうや》もやとわれて来て、この老人も無口ながら夫婦をたすけて、忠実にはたらいてくれる。暮しの心配は、いささかもない。
こうなると、女にとって過去≠ヘなにものでもない。
女という生きもの、ことに健康な肉体をもつ女は、あくまでも現在≠ノ生きる特質をもっている。
こうして二年……もよが故郷を出てから四年の歳月がすぎてしまうと、大介のことを想いうかべることが、たまさかにあっても、
(なにやら、ずっとむかしに見た夢のような……)
としか、感じられないもよであった。
この年の春の或る日。
魚を買いに天満《てんま》まで出かけたもよを路上で見かけ、その後をつけて、彼女が家へ帰るところまで、見とどけた男がいる。
もよは、この男にまったく気づいてはいなかった。
男は、路上をながし歩く猿まわし≠ナあった。
もよの家を見とどけるや、この猿まわしはすぐにどこかへ姿を消した。
あごひげの濃い、中年の猿まわしは笠をかぶり、赤い羽織をつけていたが、その姿のまま、夜ふけになると、彼の姿は京の町を歩いていた。
向井佐助であった。
だが、いまの彼は、猿をつれていない。
そして、暗夜の街の横道から横道をつたわり、室町の印判師・仁兵衛宅へ入って行ったときの佐助は、いつの間にかあごひげも外し、猿まわしの扮装もぬぎ捨て、印判師の徒弟の姿に変っている。
「もどりました」
「む、佐助か」
出迎えたのは、奥村弥五兵衛である。
「大坂は、どうじゃ?」
「いまのところ、別に……」
「ま、酒でものまぬか」
「弥五兵衛どの。今日は、めずらしい人を見かけました。丹波大介どのの妻、もよどのを天満のあたりで見かけ、そっと後をつけて行きますと、今橋のあたりの塗師屋・寅三郎というものの家へ入りました。近くでさぐって見ましたところ、どうも、塗師屋の女房になっているらしい」
弥五兵衛と佐助は、顔を見合って、しばらくは声もなかった。
上牧の村外れの事件は、二人の耳にまだきこえてはいなかった。
こうした血なまぐさい事件は、当時、めずらしくなかったし、うわさもすぐに消えてしまったからであろう。
「それにしても……大介は、どうしたものか?」
弥五兵衛はためいきをついた。
加藤清正のためにはたらく丹波大介とは無関係ながら、あまりに消息がないので、弥五兵衛よりは佐助が、
(会いたいものだ)
とおもい、大介が前にいった、伏見稲荷の大師堂へ、合図の紙片(小ゆびの先ほどの三角形のもの)を貼りつけておいたが、その紙片は、いまも黒ずんで貼られたままになってい、依然、大介はあらわれない。
「もよどのも、大介どのをさがしあぐねたのでしょう」
「うむ。それにしても……」
「いまは、もよどのもしあわせらしい。近所でも評判の、仲のよい夫婦だとか……」
「大介が見たら、なんとおもうかな」
「もしや!」
「なに?」
「大介どのは、もはや、この世の人ではないのやも知れませぬな」
「佐助……やはり、おぬしも、大介が伊賀の平吾か、または山中忍びに討たれたとおもっているのか?」
「はい」
「ああ……」
またも、奥村弥五兵衛はふかいためいきをもらした。
むりもないことなのだ。
紀州・九度《くど》山の配所にいる真田の大殿・昌幸の健康が、このごろはすこぶるよろしくない。
昌幸は、もはや六十八歳になってい、
「もはや、いかぬわ……」
と、先日も弥五兵衛が、ひそかに九度山へ忍んで行ったとき、病床にある真田昌幸が、
「わしの、この躰もいかぬが……大坂の豊臣家の運命《さだめ》も知れておるわい」
と、ついに弱音をはいたものである。
つまり……。
徳川政権の土台は年ごとに強く、しっかりと固まるばかりだし、諸国の大名たちは、あげて徳川の旗の下にあつまり、もはや、その体制は、
「わしから見ても、小ゆるぎもせぬわい」
と、いうのである。
この四年のあいだ、奥村弥五兵衛は絶えず天下の形勢を昌幸老人のもとへつたえてきている。
また、このごろは昌幸の子・真田幸村も、姿を変え、こっそりと九度山をぬけ出し、京や大坂へ潜行して世の中のありさまを見ることにしている。
というのも、それだけ、九度山の真田父子を見張る徳川方の監視の眼がゆるやかになったということだ。
「われらなぞ、もはや家康めは相手にしてはおらぬのじゃ」
と、真田昌幸はくやしがっている。
「あまりにも、なさけない。加藤清正なぞは、わしも、いますこし骨のある男じゃとおもうていたに……」
と、病気がちになってからの真田昌幸は|ぐち《ヽヽ》が多くなった。
昌幸は、かつて幸村にこうもらしたことがある。
「いまに大坂と関東とが手切れとなったとき、もちろん、われらは、この九度山を脱し、大坂城へ駈けつけ、秀頼公のおんために、おもいきりあばれまわり、家康の白髪首、かならず掻き切ってくれようが……もしも、そうなれば、わしは、かならず、加藤清正こそ、もっともたのもしき大坂の味方になってくれることとおもう」
「まことに?」
「まことじゃ。関ヶ原の戦さとはちがうぞよ、幸村。そのときは、太閤殿下の後つぎ、秀頼公が家康と戦うのじゃ。これを……これをよ、肥後殿(清正)がだまって見すごしていようか。おもうてみてもわかることじゃ」
しかし、この四年間における加藤清正の言動は、あくまでも、
「徳川家康に服従」
なのである。
以前よりも、さらに、清正が徳川のために忠義をつくす度合いが大きく、深くなってきているのだ。
徳川家康は、五年前に、将軍の座を息・秀忠へゆずりわたし、みずからは駿府(静岡市)へ隠居のかたちとなった。
これは、徳川二代将軍として秀忠を勉強させ、いつ自分が死んでも、天下を治めるにふさわしい人物にしておきたかったからである。
だから、ただの隠居ではない。
秀忠の後見役として、以前よりもさらに、家康の政治的活動はするどく、活発になってきている。
江戸から京・大坂への交通機関はすっかり整備され、いつでも大軍をさしむけるだけの用意がなされ、同時に家康は、幕府に老中≠フ職を置いて、将軍を補佐させることにした。
これも、のちのちのことを考えているからである。
例によって、家康は次々に諸大名へ工事を申しつけている。
江戸城はもとより、京都の皇居の修築とか、さらに去年からは名古屋に城をきずき、これへ、わが子(第九子)の義直を入れようというのだ。
名古屋城のスケールは非常に大きい。
江戸と京・大坂の間に、このように立派で堅固な城をつくり、わが子をその城主とするわけだから、徳川の大勢力が名古屋まで進出することになる。
この城の大工事に、またも加藤清正がひき出されている。
今度の清正は、名古屋築城の総監督ともいうべき大役を、家康から申しつけられ、文句もいわずにこれをひきうけているのだ。
名古屋城の工事を命ぜられた大名たちは、
「こうもたびたび、工事があったのではやりきれぬ」
蔭では、こぼしぬいていた。
費用を、みなそれぞれ、分担によって出さねばならぬのだ。
福島正則なども、こぼしぬいて、ついつい加藤清正に、
「たまったものではない」
と、いうや、清正は苦笑して、
「かるがるしいことをいうものではないぞよ」
「なれど、こうもたびたびでは……」
正則が愚痴をいうのもむりはない。
家康がたびたび、外様《とざま》の諸大名に土木建築の工事を申しつけるのは、豊臣の旧臣である大名たちの、徳川への忠義をたしかめるのと同時に、その財力をできるだけ吐き出させてしまおうというねらいなのである。
いざとなったとき、大坂方へ味方をしかねない大名たちの金と労力を吐き出させ、それで徳川の城をつくろうというのだから、
「たまったものではない」
のである。
だが清正は、正則にいった。
「もしも、この築城が|いや《ヽヽ》だというなら、すぐにも国もとへ帰り、徳川を相手に戦さする仕度をしたらよいではないか」
正則は、それをきくや、ただもうためいきをつくばかりであった。
「それができぬほどなら、つまらぬことを申されるな」
清正は、少年のころから共に、豊臣秀吉につかえ、苦労を共にしてきた福島正則だけに、えんりょもなく、たしなめたものらしい。
このはなしは、諸大名の間でも評判になったし、奥村弥五兵衛の口から、真田昌幸も後になってきいた。
加藤清正ほど、豊臣家に縁のふかい大名でさえ、いまは徳川に絶対服従のかたちなのである。
気力のおとろえた昌幸老人が、なげくのも当然だろう。
これでは、真田父子がのぞむ、
天下分け目の戦争
が、ふたたび起るものとは、とても考えられぬ。
徳川家康も意気さかんなものであって、これも築城工事を分担させられた池田輝政へ、
「工事がいやなら、さっさと国もとへ帰り、籠城《ろうじよう》の仕度をしたがよかろう」
と、おどしつけている。
また家康は、諸大名に、
「大きな船をつくってはならぬ!」
と命じたり、人質を江戸へ送るようにさせたりして、加藤清正も後つぎのわが子・忠広を江戸屋敷へ送った。
(これではもう、われわれの忍びばたらきする余地《ところ》もない……)
と、奥村弥五兵衛が落胆するのも、こうした天下の情勢を知ればこそなのであった。
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名古屋築城
加藤|主計頭《かずえのかみ》清正は、そのころ、すでに名古屋へ入り、築城工事の指揮にあたっていた。
この年、清正は四十九歳になっている。
関ヶ原戦争が終って十年。
加藤清正の、この十年は、まことに瞠目《どうもく》せざるを得ない活動ぶりをしめしているのだ。
主家ともいうべき豊臣家と、天下の大権をつかみとった徳川家との間に在って、清正は両家の平和をねがうあまり、それこそ身を粉にして、はたらきつづけてきた。
この十年間に……。
清正は、徳川家康の命をうけ、四度も、江戸諸方の修改築工事に狩り出されている。
そのたびに、九州・熊本から家来たちと工人をひきつれ、大量の石材や資材を運んで、はるばると、みずから江戸へあらわれた。
その間をぬって……。
清正は、慶長八年に、火事で全焼した伏見屋敷を新築し、同じ年に江戸・桜田の新築工事へも取りかかっている。
「われながら、よくも、躰がつづくものじゃ、と、おもうことがある」
と、清正は重臣・飯田|覚兵衛《かくべえ》にもらしたことがあるそうな。
それだけではない。
足かけ七年の歳月をかけ、加藤清正は一生一度の情熱をかたむけて、
「古今無双の城」
を完成していた。
すなわち、わが居城たる熊本城≠ェこれである。
さらに、一昨年はほとんど熊本にいて、築城の完成にともなう領国の土木工事の総指揮にあたっているし、その前年には、江戸屋敷にいた次男の忠正が九歳で病死してしまった。
忠正は、妾腹の子ながら、清正が大へんに愛していただけに、
「さすがの殿も、三日ほどは、喉へ水すらも通らなんだわい」
と、のちに鎌田兵四郎が丹波大介へ語ってきかせたほどだ。
このところ、三年ほど、加藤清正は、大介の顔を見ていない。
「大介は、まったく顔を見せぬが……そちのところへは、何やら|たより《ヽヽヽ》があるのか?」
と、清正は、今年、名古屋へおもむく前に伏見屋敷へ立ち寄り、鎌田兵四郎に問うや、
「まったく、ござりませぬ」
「ふうむ……」
「なれど、もしも大介へ御用あるときは、私めへ御申しつけ下されたし。さすれば、すぐにも大介の耳へとどきましょう」
「どこにおるのじゃ、丹波大介は?」
「それは、私も存じませぬ」
鎌田兵四郎も、大介の行方を知らぬ、とは、
(意外なこと……)
と、加藤清正はおもったらしい。
ここ三年ほどは、世の中も落ちついてきているし、清正にしても、火急に大介を必要とすることもなかった。
それよりも、清正は、
熊本城の完成
を目ざし、ほとんど昼夜兼行で指揮にあたったここ数年の歳月が、
(まるで、夢のようにおもわれる)
のであった。
熊本城が本当の意味で完成したのは、去年の早春である。
幕府には、一昨年に完成の報告をしてあるが、最後の、清正にとっては、もっとも大切な、扇の要《かなめ》ともいうべき秘密の工事≠おこなうため、さらに一年を必要としたのだ。
この秘密の工事≠ニは、なにか……?
いずれ、この物語にものべねばなるまいが、ともかく、熊本城は完成した。
そして、一息つく間もなく、今度は、
「名古屋築城の手つだいをせよ」
と、徳川家康に命ぜられた。
まったく、
「たまったものではない」
などと、福島正則が清正にこぼしたけれども、清正が、ここ十年の間に、家康と徳川幕府へ奉仕したことを考えたら、他の大名たちの不平なぞ、問題にならない。
それほどに、加藤清正は徳川家のためにつくした。
と、いうことは、それほど清正は、徳川家康によって財力と労力とを吸いとられてしまった、ともいえる。
「ようも、肥後どのは、つづいたものでござる」
と、徳川家康の謀臣・本多正信が、あるとき、家康にいったそうだ。
家康はこのとき、妙に陰鬱な顔つきになり、
「底が知れぬわえ」
とつぶやいた。
加藤清正が内蔵している財力を「底が知れぬ」と、いったのである。
いろいろな工事を命ずるたび、いささかもこだわることなく、
「おうけつかまつる」
と、承知し、惜しみなく財を投じていながら、しかも、熊本には大坂城をしのぐ≠ニいわれるほどの、自分の城をつくりあげてしまった。
(どのような、城なのか……?)
と、家康は想いをめぐらしている。
いうまでもなく、徳川方の忍びたちは、伊賀も甲賀も、熊本城の内容をさぐりに潜入して行った。
ところが……。
どうも、今度だけは彼らの報告が、あまりかんばしくないのである。
熊本城の外観は、むろん、わかる。
しかし、清正は自分が熊本を留守にしているときでも、外部からの見学者をきびしく拒否してきている。
工事にあたる数千の工人たちも、肥後の国のみか、筑紫、肥前などからも呼びあつめられた。
清正の生国である尾張からも、かなりの大工が、熊本へあつめられているとか……。
彼らは、それぞれに、いわゆる分担工事≠させられているし、加藤家の士《もの》がいちいちこれを監督しているので、城の内部の全容が、つかみにくい。
「どこが、どのようになっておるのか……われらにもわからぬ」
当の清正の家来たちすら、語り合った、というはなしさえ残っているほどだ。
それに、これは徳川家康が直接に知ったわけではないが……。
徳川方の忍びの者で、熊本へ潜入した二十数名のうち、半数が、
「行方知れず」
になっている、との報告が、本多正信の耳へとどいていた。
甲賀・山中忍びの頭領・山中俊房が、
「おそらく、殺されたのでありましょう」
暗い表情で、こう正信へいった。
「つまり、それだけの備えが、肥後どのにある、と申すのか」
「はい」
「ふうむ……」
本多正信にも、これは意外なことであった。
諸大名のうちでも、加藤清正は万事に開けひろげ≠ナあって、忍びなどを抱えて探偵の役目をさせた様子は、以前からなかった。
加藤家の内情は、だから徳川方に、
筒ぬけ
であったのである。
それがどうも、四年ほど前から事態が変ってきた。
万事に、
「ゆだんがなくなってまいりました」
と、山中俊房は本多正信にいうのである。
だからといって、加藤家に忍び者が抱えられた様子も見えない。
ただ、加藤の家臣たちが上下一体となって外部からの諜報《ちようほう》活動に対しての備えが、きびしくなったのである。
それも、単純なものではない。
「これは、おそらく、よほどにすぐれた忍びの者が一人か二人、ごく目立たぬように召し抱えられ、その者の指図によって、見張りがおこなわれているものとおもわれまする」
山中俊房がそういったので、本多正信は、
「それは、何者であろうか?」
と、きいた。
「それが……わかりませぬ」
山中俊房のこたえは、苦しげであった。
関ヶ原戦からこのかた、徳川方のスパイ網≠ヘ、ほとんど日本の諸国にゆきわたっている。
丹波大介や奥村弥五兵衛のような、ごく少数の、特殊な忍び≠ヘ別としても、甲賀・伊賀の忍びたちは、徳川の傘下へあつまり、完璧《かんぺき》な情報網を完成してしまっているから、
「もしも、こなたに刃向う忍びがあらわれましたときには、われらの耳へ入らぬはずはないのでござりますが……」
俊房は、くびをかしげてしまう。
奥村弥五兵衛など真田忍び≠フうごきは、いまも、しっかりと見張っているつもりだ。
丹波大介については、
「討ちとった!」
と、山中俊房もおもいこんでいる。
それにしても、大介とひきかえに、下田才六という、山中俊房にとってはかけがえのない老熟の忍びを死なせてしまった。
(それにしても、才六を討った、あの編笠の牢人ふうの忍びというのは、いったい何者なのか……?)
その牢人こそ、丹波大介であったのだが、ともあれ、山中忍びたちは、
「大介を討った」
と、信じきっているのだ。
熊本へ潜入している忍びたちが、本多正信へとどけてよこす報告は、いずれも、
(おもしろうもない)
ものであった。
熊本城の内部を、いくらさぐりとろうとしても、徒労に終った。
加藤家のさむらいたちの口は、実に堅い。
築城工事をした大工や左官たちを、ひそかにさぐって見て、部分的なことはわかっても、全貌がわからぬ。
おもいきって、城の中へ忍びこもうとして見るのだが、昼も夜も警戒がきびしい上に、
「忍びこんだら、とても元の場所へもどれぬ」
不安すら、おぼえて、忍びたちも手がつけられぬ、というのだ。
それでは、いかに何でも甲賀・伊賀の忍びの名にかかわる、というので、何度か、両方の忍びが合同して、熊本城潜入を決行したこともある。
それらの忍びたちは、ついに、一人も帰って来なかった、というのである。
「おそらく、城内で、捕えられたか、殺されたか……」
と、山中俊房はいうのだ。
本多正信も、われ知らず|あせり《ヽヽヽ》を感じはじめていた。
はなしを、名古屋築城のことへもどそう。
名古屋は、むかし、今川氏豊の城があった。
その後は、織田氏の居城となっていたこともある。
織田信長の代となってから、その本拠が清須へうつり、さらに信長は、岐阜、安土《あづち》へと居城をうつして行ったため、名古屋は、まったくさびれてしまい、
「葦蘆繁茂し、鷹狩りのときなどは、あやまって古井戸へ落ちこむことがあった」
などと、|もの《ヽヽ》の本に記してあるほどだ。
したがって、尾張の府城は、名古屋の西北、濃尾平野の中央にある清須≠ナあった。
関ヶ原戦争のころは、福島正則が清須城主であったが、正則が関ヶ原のときに東軍へくみした功績により、四十九万石の大守《たいしゆ》として安芸の国・広島へうつった後、清須は松平忠吉が城主となった。
松平忠吉は、徳川家康の四男にあたる。
この忠吉が、三年前に病死し、後つぎがなかったため、家が絶えた。
そこで、家康は、九男の徳川義直を清須の城主にした。
「これからの尾張は、もっとも、われらにとってたいせつなるところじゃ」
と、家康は考えている。
尾張の国は……。
徳川幕府の本拠たる江戸≠ニ、天皇と朝廷とがある京都≠ニをむすぶ重要地帯になったからであろう。
いざ、京や大坂を、徳川の軍事力≠ェ制圧せんとするとき、尾張は、まさに徳川幕府の巨大な兵站《へいたん》基地となるわけだ。
なまなかな大名に、尾張を、
(まかしてはおけぬ)
と、家康が考えたのも当然であろう。
だから家康は関ヶ原の後、わが血肉を分けた子によって尾張の国を治めさせることにした。
それでなくては、
(安心ができぬ)
からであった。
徳川義直が、父・家康の命によって清須城主となったとき、わずか八歳の少年にすぎない。
それだけに家康は、譜代《ふだい》の家臣である平岩|親吉《ちかよし》や成瀬正成を、おさない我が子の義直の家老としてさしむけ、そのほか、義直の家臣団の中心は、いずれも徳川家の息のかかった武士たちをもって構成せしめたのである。
平岩親吉が、徳川家康に、
「尾張の府城として、清須は、ふさわしくないと考えまする」
と、申し出たのは、それから間もなくのことであった。
それというのも、清須の地は木曾川と五条川がしばしば氾濫《はんらん》し、水害が非常に多い。
それのみか、井戸水の便がわるい。
これからの尾張の国がもつ役目と、発展を考えると、尾張の大守の居城は清須≠ニは別な場所へ、新しくつくりあげたい、というのである。
「もっともである」
と、家康はいった。
そこでえらばれたのが、名古屋、小牧、古渡の三地であった。
三地とも、かつては城のあったところだ。
家康は、熟考の末に、
「では、名古屋にせよ」
と、いった。
名古屋ならば、|いざ《ヽヽ》となったとき、大兵力を集結させるのに、便利である、というのだ。
すでに、天下の権をつかみとった徳川家康であるが、いささかもこころをゆるめてはいない。
これまでに、何度も天下人《てんがびと》≠フ座がうつりかわり、その興亡を見知ってきている家康は、
(わしの眼のくろいうちに……)
徳川政権の|いしずえ《ヽヽヽヽ》を徹底的に打ちかためておきたいのだ。
むかしの書物に、
「……豊臣家が大坂にあって、尚も太閤の遺臣を擁しているからには、すこしもゆだんはできぬ。もしも、他日に事あらむとき、豊臣軍が江戸へ向って進軍して来たとき、これを東海の地にくいとめるためには、美濃・伊勢の両国から街道が合致する尾張の国をおいて、ほかにはない」
こう、家康がいった、などと記してある。
そして、去年の正月。
徳川家康は、みずから義直をつれて視察のため、名古屋へあらわれた。
そして、
「やはり、名古屋にいたそう」
さらに、断を下した。
徳川方の普請奉行にえらばれたのは、牧助右衛門・滝川豊前守ほか三名であった。
この五名の奉行たちが、築城を命ぜられた大名たちの工事を、
「監視する」
のである。
築城工事を命ぜられた大名たちは、いずれも豊臣家に関係のふかい人びとであった。
前田利光、加藤清正、福島正則、毛利高政、黒田長政、細川忠興などである。
福島正則が、前年、家康から命じられて丹波・篠山《ささやま》城の工事をおこなったばかりなので、
「このたびは、御役目を免じてもらいたい」
と、いい出し、加藤清正にたしなめられたのも、このときだ。
加藤清正は、このときも率先して、徳川家康に、
「それがしが、御天守をうけたまわりましょう」
と、申し出ている。
もっともむずかしく、めんどうな、そして費用もかかる名古屋城の天守閣の工事を受けもちたいと、いったわけだ。
このことを耳した、豊臣秀頼の生母・淀の方は、
「これよりは、もはや肥後どのを、豊臣の家来とはおもわぬ!」
激怒したそうである。
諸大名の中にも、
「肥後どのも、そこまで徳川へ尾を振らねばならぬのか……」
冷笑するものもいたし、顔をしかめるものもいた。
しかし清正は、まったく、このような風評を意に介さなかった。
今年、慶長十五年の早春。
加藤清正は、肥後・熊本の居城を発し、名古屋へ到着した。
今回は、いつになく、武装の兵列をひきい、みずからも甲冑《かつちゆう》に身をかため、先ず大坂へ着くや、大坂城の豊臣秀頼のきげんをうかがい、伏見屋敷に三日をすごし、それから名古屋へ入ったのである。
この報は、すぐに徳川家康の耳へ入った。
しかも、清正の軍列は相当の人数であって、五千とも七千余ともいわれている。
「おだやかではない」
と、徳川方がおもったのも当然であろう。
清正が名古屋へ着き、宿舎にあてられた万松寺へ入るや、さっそくに、家康の使者として、本多佐渡守正信みずからがあらわれた。
正信は、清須の城に入って、清正の到着を待ちうけていたものである。
「これは、わざわざのおこしで、おそれ入る」
にこやかに迎えた加藤清正へ、本多正信が、ちかごろ、関東(徳川)と大坂(豊臣)との間は、このままではすむまい、やがて一戦あるにちがいない、などと世の風評《うわさ》もうるさいときに、足しげく大坂の秀頼のきげんうかがい≠するのは、
「いかがなものでござろうか……」
と、いった。
先ず、このごろは本多正信のいうように、豊臣家と関係のふかい大名たちも、
(うかつに大坂のきげんとりして、関東に、にらまれてもつまらぬことだ)
と、考えている。
清正のように、旧主の遺子である秀頼へ奉仕する態度を堂々と見せてはばからぬ人物は、ほとんど無い、といってよろしい。
本多正信の、この問いに対し、加藤清正は微笑をした。
その微笑は、なにか哀しげであった。
清正は、今度、大坂城へ伺候したとき、秀頼に目通りをゆるされなかった。
淀の方が、名古屋築城におもむく清正を怒り、
「目通りをゆるすな」
と、命じてあったからである。
さて……。
徳川家康の意を体した本多正信の問いに対して、加藤清正の返事は、こうであった。
「これは、ふに落ちぬことを申される。豊臣家が、この清正にとって、いかに大恩のある家か、これは家康公もとくと御存知のはずではござるまいか。なるほど、それがしは徳川家にも恩義がござる。なれど新恩のために旧恩を捨てると申すのは、まことの武士のなすべきことではないと存ずる」
正論である。
本多正信も、いい返すことばがなかったが、しかし、こうもはっきり、清正が自分の態度を、しかも徳川の重臣にいいきったのは、このときがはじめてといってよい。
「では……」
と、正信は|かたち《ヽヽヽ》をあらため、
「こたび、まるで戦陣へおもむかれるがごとき御仕度にて、しかも多くの軍勢をもよおされて道中をなされたのは、いかがなわけでござろう?……これは時節柄、不穏ではござるまいか」
「なるほど、いまの世には無用のことでござった」
と、清正。
「ならば、何故に……?」
「ま、御承知のごとく、それがしの領国は、肥後の国にて、はるばると遠うござる。もし万一、途中にて異変が起ったとき、軍兵を領国から呼び寄せたりしていては、急場の役にはたち申さぬ。したがって、じゅうぶんの奉公もできぬ、と、おもいつきまいたので……」
「うけたまわった。なれど、その奉公とは、どなたへの奉公でござるか?」
と、正信がするどく問いつめるや、清正は言下に、
「むろんのこと。天下をおさむる徳川家への奉公でござる」
と、こたえたものだ。
これではもう、これ以上に問いつめることができないではないか。
本多正信は、最後に、もう一つ、家康に命じられたことをもち出した。
もち出しながら、正信は、
(ばかばかしいことじゃ)
と、おもっている。
徳川家康は正信に、
「清正は、むかしの戦陣の折のままの、ひげを、いまだにつけておる。あのひげを剃《そ》り落すよう、申しつたえよ」
と、いったのである。
大名のひげにまで文句をつけるほど、徳川家康の権勢は巨大なものとなっていた、というべきか……。
この問いは、さすがの本多正信もいい出しにくかったと見え、苦笑をもらしつつ、清正へ、
「いかがでござるかな?」
「は、はは……」
清正は、明るく笑い、あごにたれた見事なひげをしごき、
「なるほど。まさに、このようなものを剃り落してしまえば、さっぱりといたすことでござろう。
なれど、若いころからたくわえたこのひげ。むかし、戦陣に在ったころ、このひげ面《づら》に頬当をつけ、兜《かぶと》の緒をきりりとしめたるとき、身の内が引きしまるほどのこころよさを、いまもって忘れがたく……このように天下泰平の世とはなっても、若きむかしを忘れがたい清正の胸中を、おくみとりねがいたい」
と、こたえた。
正信の老顔から、苦笑が消えていた。
正信の両眼が、するどい光りをたたえている。
いま、加藤清正は、
「むかしのことを忘れがたい」
と、いった。
自分の青春を……というよりも、むかしの豊臣家の繁栄時代を忘れがたい、と、いっているようにもおもえる。
こうしたことばも、いままでの清正が洩らしたことのないものである。
加藤清正は、いい終えて、まともに本多正信の視線へ、自分の視線を合せてきた。
いささかも気おくれをしていない清正の眼には、あくまで温和な色がただよい、その顔《おもて》もやわらかな微笑につつまれている。
正信は、つと、眼をそらし、
「たしかにうけたまわった。御言葉をそのまま、おつたえつかまつる」
低く、いった。
この後、加藤清正は寵愛《ちようあい》の老料理人・梅春《ばいしゆん》が庖丁をふるった料理を本多正信へすすめ、こころをこめたもてなしをした。
「めずらしき料理でござるな」
と、正信も我を忘れて舌つづみをうった。
「お気に入られて何より」
「肥後どのには、よき料理人をお抱えじゃ。これは、おどろきまいた」
「梅春と申し、もはや十八年も奉公いたしくれまいて、な」
「さようでござるか……」
本多正信は、駿府(静岡市)の城にいる徳川家康のもとへ帰り、清正との会見のもようをつたえるや、家康は、むしろきげんよく、
「清正の申すことよ」
と、いった。
だが、その口調とは全くそぐわぬ緊張が、家康の面上にただよっていたのである。
ところで……。
加藤清正が工事を担当した天守閣は、本丸の西北の方に建てられたもので、その偉容がどのようなものだったかは、再建された現代の名古屋城・天守閣を見れば判然とする。
天守は五重であった。
土台は、地の中へふかくふかく松の丸太をしきつめた。
その上へ、二十数メートルも石垣をつみあげ、天守台とした。
大変な工事なのだが、加藤清正は六月三日に石垣の根石を置き、早くも八月二十日には石垣を完成してしまったものだから、これには、清須城から毎日のように工事現場へ来ていた平岩親吉が、
「さすがは肥後どの……と申すよりも、それがしの眼が、はじめのうちは狂うておるのではないか、とおもわれまいた」
と、徳川家康に語っている。
とにかく早い。
清正はじめ、十九の大名たちが、のべ二十余万の人をつかっての築城であったといわれるが、清正の工事が群を抜いて早かった。
天守の石垣につかう大石が、船で熱田へはこばれて来ると、加藤清正はみずからこの運搬を指揮した。
こうしたときの清正は、亡き太閤秀吉にならい、おもいきり費用を投じ、派手に、にぎやかに工事をすすめる。
はこばれてきた大石を赤の毛氈《もうせん》でつつみ、大綱にあざやかなみどり色の布を巻きつけたものでからげ、その石の上へ、清正自身が乗る。
清正は大|烏帽子《えぼし》をかぶって、片鎌《かたかま》の槍を突き立て、そのまわりに美しく着かざった小姓たちをはべらせ、
「それ、唄え」
みずから大音声に|木やり《ヽヽヽ》の音頭をとるのである。
この清正をのせた大石を先頭にして、いくつもの石材を何千人もの人夫が引きはこぶわけだが、
「それ、肥後さまの石引きじゃ」
というので、熱田から名古屋までの道端には、酒、さかな、餅などを売る商人たちがつめかけ、店をひろげ、人夫と見物人を相手に眼の色を変えたという。
それほどに、加藤清正の築城や土木工事の華美なことが世に知られていたわけだ。
「よしよし、おもうさまに買うてとらせい」
と、清正は彼らが売る酒や餅をいくらでも買いあげる。
そしてこれを惜しむことなく、人夫や見物にふりまくのであった。
「酒は、何者なりとも、のみほうだい」
というのだ。
「さすがは肥後さまじゃ」
「よし、わしたちも手つだおうではないか」
と、見物たちまでが|ほろ《ヽヽ》酔いきげんで綱へ取りつき、
「えいや、えいや!」
と、石はこびの手つだいをしはじめたものだ。
こうなると、酒や食べものを売りつくした商人たちも、だまってはいられなくなる。
「おれたちも手つだおう!」
いっせいに綱へ飛びつき、
「知るも知らぬも、えいやらや……」
と、愛宕まいりの小歌を唄って石を引く。
いやもう、大へんな景気であった。
加藤清正の散財ぶりもすばらしかったけれど、酒に酔った見物人や商人たちが、これも何百何千。石材の運搬を手つだったことになる。
だから運搬の能率が、かえってあがった。
平岩親吉が、このことにも感服して、万松寺の宿舎へ清正を訪問し、
「まことにもって……」
感嘆をするや、清正は事もなげに、
「亡き殿下(秀吉)ゆずりの仕様でござる」
と、こたえた。
そればかりではない。
夜になると、清正は遊女たちを多勢よびあつめ、宿舎の前に踊り屋台をもうけて、笛や太鼓もにぎやかに、篝火《かがりび》をつらね、酒さかなもたっぷりと用意させ、人夫や家来たち、見物の人びとにふるまった。
これがために、こんな唄がうたわれたという。
[#1字下げ]音にきこえた名古屋の城を
[#1字下げ]踏みゃならいたる
[#1字下げ]肥後の衆《しゆ》が……。
こうして気勢をあげ、また翌日の工事にとりかかるのだから、人夫たちもうれしくてたまらなくなってくる。
しかも、加藤清正自身が、麻の小袖に短袴《みじかばかま》をはき、工事場へ出て来て、人夫といっしょに汗まみれとなり、石材をうごかしたり、大声で指揮をしたりする。
もっともこれは清正ばかりでなく、福島正則なども人夫たちと共に労働をするのが大好きであったらしい。
福島正則が下帯ひとつになって、人夫たちと酒ののみくらべ≠やったりする。
「……そのさま、見ものなり」
などと、むかしの本に記してある。
清正といい、正則といい、そこは豊太閤子飼いの武将であるから、旧主・秀吉や、秀吉がつかえた織田信長のころの遺風を、つたえのこしていたのであろう。
他の大名たちは、
「あのような大さわぎをして駿府(家康)へ知れたなら、どうするつもりなのか……」
などと、うわさをし合い、徳川家康の監視の眼をどこまでも気にし、おそれていたようである。
また、家康の耳へ、こうした名古屋のありさまがとどかぬはずはないのだ。
家康は、こういった。
「清正のおかげで、工事がはかどろうというものじゃ」
家康のことばのとおりになった。
清正や正則がうけもった工事場では、見る見るうちに工事が進行して行く。
お祭りさわぎの中にも、清正がこまかく神経をつかい、綿密な指揮をあたえ、みずからが泥と汗にまみれてはたらくのであるから、人夫も家来も、労働の愉快さをたっぷりと味わいつつ、懸命にはたらく。
他の大名たちの工事場の人夫たちは、これを見てうらやましくおもい、どうも、気勢があがらぬ。
「これは、いかぬ」
どこの大名も、そうおもった。
加藤、福島の両家に、
「追いぬかれては面目をうしなうことになる」
のである。
だれに、面目をうしなうのか……。
いうまでもない、徳川家康に、である。
そこで、大名たちは人夫の待遇もあらためたし、家臣どもも必死懸命となってはたらきはじめたから、その工事もだいぶんにはかどった、ということである。
徳川家康が、清正のむすめの|あま《ヽヽ》姫を、
「わが子頼宣の嫁にもらいたい」
との意向を、本多正信へもらしたのも、このころであった。
徳川頼宣は、家康の十男で、母は正木頼忠のむすめだ。
ときに、頼宣はわずか九歳の少年にすぎなかったが、水戸城主として二十八万石の殿さまであった。
先に、加藤清正の後つぎの忠広へ、家康はわが孫女《まごむすめ》を嫁入らせた。
今度は、清正のむすめをわが子にもらおうという。
こうして家康は、清正との婚姻関係をふかめて行き、清正と徳川家とを、
「切っても切れぬ」
関係にもちこもうとしている。
あま姫は長福丸より一つ年上であったから、この慶長十五年で、十歳になる。
徳川家康は、正式に、この縁談を加藤清正へもちこむ前に、頼宣の侍臣・三浦為春をわざわざ名古屋へつかわし、清正の宿舎万松寺≠訪問させている。
三浦為春は、
「築城工事の見舞い」
という名目で、たくさんの贈物をはこび、清正に目通りをした。
その夜の酒宴で、
「このような折、申しあぐることにてはござりませぬが……」
と、ひそかに家康の意向をつたえるや、加藤清正は、瞬時もためらうことなく、
「それは、ねごうてもなきしあわせにござる」
と、こたえたものだ。
このときの加藤清正の顔は、いかにも晴れ晴れとして見えた、という。
「いずれ、御帰国の後に、それがし、あらためて熊本へ参上、御あいさつをつかまつりますが……」
と、三浦為春はいった。
この縁談の、正式の使者として、あらためて熊本へ出向く、というのである。
「さようか……」
清正が、にっこりとして、
「その折を、たのしみにお待ち申す」
「それがしも、たのしみにいたしております」
「うむ……」
「こたびは、世にまたとない御城をおきずきになりましたそうで」
三浦がいったのは、むろん、名古屋城のことではない。
熊本城のことを指したのである。
完成した清正の城を、熊本へ参上したときに、ゆるりと見物をさせてもらうのが、
「いまからたのしみでござります」
と、三浦はいった。
「おお、おお……」
加藤清正も、うれしげにうなずき、
「わが熊本の城は、九州の地の要とも申すべきもの。それゆえ、念を入れて築き申した」
と、こたえた。
これは、徳川幕府の信頼にこたえ、自分が九州の地をまもっている、との意味をふくめたものと、三浦はうけとったし、清正もまた、そのつもりで口にのぼせたことばなのである。
「三浦殿。その折には、わが城を、すみからすみまで、ゆるりとごらん下され」
と、清正の両眼が、あくまでもなごやかな光りをたたえたまま、凝《じつ》と、三浦為春を見つめて、
「大御所さまへの、よき、みやげばなしともなり申そう」
「は……」
三浦は、おもわず眼を伏せた。
(肥後侯は、なにもかも、心得ておられるのだ)
と、三浦はおもった。
徳川家康が、いや徳川幕府が、加藤清正の新城のことを、どれほど気にかけているか……。
今度の、名古屋城での清正の工事を見てもわかるように、そのころの加藤清正は、日本随一の土木と建築の名人であったともいえる。
その清正が心魂をかたむけてつくりあげた熊本城≠ヘ、
「総がまえの大きさは類を見ず、ふところの深さは計りきれず、幾重にも、高く低くめぐらされた石垣の備えを外部からながめたのみにても、おもわず、背すじが寒くなるばかりにて……」
と、九州へ潜行した忍びの者≠スちの報告が、家康の耳へもとどいているのであった。
これは、単なる城でない。
城主の威風をしめすだけの城ではない。
あくまでも、実戦用の城がまえ≠セといってよい。
その城のもつ意味を、役目を、加藤清正は、あくまでも、徳川政権のかわりに九州の地をまもるためなのだ、といいきっている。
正当な築城理由といえよう。
関ヶ原の折も、清正は、肥後の本国に在って、西軍に参加した小西行長の宇土城と、立花宗茂の柳川城を落し、徳川家康を安心させたものである。
だからいま、清正が、
「徳川政権の安泰のために、世の平和をまもるために、熊本城をきずいた」
というのは、理路がととのっている。
築城工事中の何年間、清正は、外部からの眼を徹底的に警戒し、巧妙な分担工事によって、熊本城の内部機構の秘密≠もらさなかった。
このことを徳川方では、
(気にしている)
のだが、もともと、築城工事には当然のことなのだ。
今度の、名古屋城でも、清正は天守の石垣をつむだけでも、厳重に板がこい≠して、他の工事場からは見られぬようにし、見張りの家来を武装させ、板がこいのまわりを絶えず巡回させてきている。
そう考えれば、熊本城の工事についても、なっとくが行かざるを得ないではないか……。
しかも、工事が完了したいま、加藤清正は、徳川家の使者として熊本にやって来るという三浦為春へ、
「城内をくまなくお見せいたそう。それを家康公へのみやげばなしにされよ」
と、いった。
三浦為春が、名古屋から駿府へもどり、このことを徳川家康に語ると、
「さようか……」
家康も、何か|ほっ《ヽヽ》とした表情を見せ、
「間もなく清正は国もとへ帰るであろう。この縁組は一時も早くすすめなくてはならぬゆえ、そのつもりでの」
と、三浦へいった。
すでに、夏もすぎようとしている。
天守の石垣工事が終れば、加藤清正の受けもち≠ヘ完了したことになる。
石垣の上へ建てられる五重の天守閣の工事は、清正の担当ではないが、設計の大要は清正自身の案によるものだし、城の総がまえ≠ノついても、徳川家康は清正がさし出した案を、ほとんどそのままに用いていた。
八月に入った。
現代の九月である。
天守の石垣工事は、完成の一歩前へ、というところであった。
その夜ふけ……。
宿舎の万松寺の奥まった一室……加藤清正の寝所へ、二つの黒い人影が微風のようにながれこんで来た。
庭に鳴く虫の声すら絶えなかったほど、この二人の男たちのうごきには気配≠ェなかった、といえる。
二つの影は、加藤清正がねむっている臥床《ふしど》から、すこしはなれたところへぴたりとすわり、両手をつかえた。
このとき……。
二人の男たちの躰から、急に、人の気配がただよいはじめている。
二人が、整息の術を解いて常の人間≠ノ、もどったからであろう。
だから、ねむっていた加藤清正も、それと気づいて、
「たれじゃ」
眼をさました。
「丹波大介にござりまする」
影の一つが、しのびやかにこたえた。
おもわず半身を起した清正が、
「大介か……」
まさに、丹波大介。久しぶりのことではある。
「これなるは……」
と、大介がかたわらにひかえているもう一人の男をかえり見て、
「甲賀・杉谷の忍びにて、横山八十郎と申しまする」
横山八十郎は、かの島の道半≠フ甥にあたり、この年、五十六歳であった。
いうまでもなく、八十郎は四十年もの間、忍びの世界にいて、はたらいてきている。
もっとも杉谷忍び≠ェ大介と共にうごき出す前までは、八十郎も、伯父の道半や杉谷のお婆《ばば》・於蝶《おちよう》などと共に、ひっそりと杉谷の里へかくれ住み、百姓や木樵《きこり》をしていたものだ。
とても六十に近い年齢とはおもえぬほど、横山八十郎の体躯はしなやかであり、髪もくろぐろとしてい、見たところは四十そこそこにしかおもえぬ。
「さようか……」
と、清正は平伏をしている八十郎へ、
「主計頭である。よろしゅうにたのむ」
まことに、ねんごろな態度であった。
「大介……」
「はっ」
「久しゅう、会わなんだのう」
「申しわけもござりませぬ」
「なんの……わしは安堵《あんど》しておる。そちが、熊本へ……いや、わしのそば近くへつけてよこしてくれた千代《ちよ》と申す老女。なかなかに、ようはたらいてくれてのう」
と、清正がいった。
千代≠ヘ、武田家の遺臣・林元景の未亡人という|ふれこみ《ヽヽヽヽ》で、加藤家の老女として奉公をしつづけている杉谷のお婆・於蝶である。
於蝶は、あくまでも千代という名で奉公をしているけれども、つい、二年ほど前から、
「このままでは、もはやいかぬぞえ」
と、連絡係の小平太を通じて、大介にいってよこしたものである。
そのとき、於蝶がいうには、
「徳川方の忍びの眼が、うるさくつきまといはじめたゆえ、とても、この婆ひとりでは、手がまわりきれぬ」
当時、熊本城は、その完成を目ざして、ほとんど昼夜兼行の工事がおこなわれていた。
この城の全貌をつかもうとして、徳川方の忍びたちは、さまざまに姿を変え、九州の地へ潜入して行った。
なるほど、これではお婆もたまったものではない。
お婆のほかには、島の道半の孫・小平太が連絡の役目を負うて熊本と京都を往復しているのみなのだ。
しかも、お婆は老女≠ニして、城内の侍女たちを監督するという表向きの役目がある。
丹波大介は、この知らせをお婆からうけとったとき、
「……かくなれば、主計頭様へ直接、こちらの秘密を明かし、談合をされたがよろしかろう」
と、小平太へ、お婆あての手紙をもたせてやった。
お婆は、大介の手紙を読み、
「お婆も、そのようにおもうていたところじゃ」
と、小平太にいったそうである。
そこで……。
お婆は或る夜。ひそかに加藤清正の寝所を訪問した。
城内の警衛の眼をくぐりぬけ、だれにも知られず、清正のまくらもとへ立つ……などということは、お婆にとってわが顔を洗う≠アとと同じに、わけもないことだ。
いま、大介と八十郎がひそかに万松寺へ清正を訪問したように、である。
目ざめた清正に、お婆は、
「杉谷忍びの於蝶と申すものにて、丹波大介が手のものにござりまする」
と、名のるや、
「うすうすは、気づいておった」
清正が、そういったそうな。
さらに、
「そちがいてくれるとおもうと、こころづよかった」
と清正にいわれ、お婆は感動したようである。
五十年もの忍びばたらきをしてきて、いまは六十をこえた於蝶であったがやといぬし≠フ大名から、このようなことばをかけてもらったのは、
「はじめてのことじゃわえ」
なのだ。
お婆は、
「なにぶんにも、こなたの忍びの人の手が足りませぬゆえ、かくなれば、御当家の士々《かたがた》にはたらいてもらわねばなりますまいかと……」
と、清正へ進言をした。
「ほう……いかがいたす?」
「はい。相手方の忍びが入りこむのをふせぐ方法は、いくらでもござりまする」
そこで、於蝶は加藤清正と共に、夜な夜な、談合をかわし、熊本城内の警備をかためにかためた。
それらは、すべて、清正の口から、命令となって家臣たちへいいわたされたのである。
この結果……。
たちまちに……。
工事の人夫にまじり、なにくわぬ顔ではたらいていた、忍びが、三名も捕えられた。
三人とも、捕えられると、みずから自殺をとげている。
かくしもっていた忍び針≠ナ、おのが心ノ臓を一突きにして死んだ。
この三人の死体を、深夜、ひそかに杉谷のお婆があらためて見て、
「伊賀忍びでござりましょう」
と、清正へいった。
この後も、数人が捕えられたり、警備の武士に発見されて、斬られたりしている。
むろん、捕えたところで|えりぬき《ヽヽヽヽ》の忍びたちであるから、たとえ、どのような拷問《ごうもん》≠ノかけられたとて、白状をするわけはない。
前記の三人のように自殺したものもあった。
「捕えるよりも、その場で斬ってしまわれたほうがよろしゅうござります。捕えようとすれば、かえって、こなたのそなえにゆるみを生じまするゆえ……」
と、お婆が清正にいった。
いつか、山中俊房が、本多正信にいったことばは、このときのお婆の活躍を、それと知らずに物語っていたわけだ。
また、加藤家の士たちは、
「さすがは殿さまじゃ」
瞠目していたようである。
主人・加藤清正の偉さは、いうまでもないことだが、忍びの活動に対するそなえ方を、これほどまでによくわきまえているとはおもわなかったようだ。
加藤清正が、丹波大介や杉谷のお婆への信頼を、なおさらに深めるようになったのは、いうをまたぬ。
「ところで……」
と、加藤清正は久しぶりで見る丹波大介へ、
「今夜は、火急の用事でもあってのことか?」
「は……」
「なんじゃ?」
「これなる横山八十郎を、熊本へおつれ帰り下されまするよう」
「ふうむ……」
清正が、白いものがめっきりふえたあごひげを撫《ぶ》しつつ、
「事は、さしせまった、と申すか?」
うなずいた大介が、
「徳川家康公は、大坂を攻むるこころをかためられまいた」
と、こたえた。
この四年間。
丹波大介は、まったく京都や大坂からはなれて、忍びばたらきをしていた。
どこにいたか、というなら、
「江戸におりました」
なのである。
江戸は、徳川方の本拠であるが、それだけに却《かえ》って、徳川方の忍びの眼が行きとどいていないところもある。
そこが、大介のつけ目であった。
敵地へもぐりこむのだから、危険ではあるけれども、その性質がちがう。
大介ほどの忍びにとって、他の忍び以外の警戒や警備などは、
「ものの数ではない」
ことになる。
さすがに、江戸城や駿府の城の……たとえば現将軍・徳川秀忠や、大御所・家康の寝所などへ忍びこむことは、大介一人では不可能だったけれども、やはり、大介が考えていたように、敵方の忍びの眼はすくなかった、といってよい。
いま、徳川方の忍びたちは、京・大坂を中心に、九州の加藤清正をはじめ、豊臣家と関係がふかい大名たちの動向をさぐりとるのに懸命であった。
大介は、清正にいった。
「なれど……」
「ふむ?」
「いささかではござりますが、のぞみがないこともござりませぬ」
つまり、関東(徳川)と大坂(豊臣)との戦争を起さぬようにしたいという加藤清正ののぞみ≠ネのである。
「申せ」
加藤清正が、寝具から身を乗りだすようにして、
「事《ヽ》がふせげるのなら、わしは、どのようなこともいたすぞよ」
と、熱心にいった。
「そうしていただかねばなりませぬ」
大介も、おもわず身をのり出し、
「来年の春に、家康公が上洛をなされます」
そのことは、うすうす、加藤清正も耳にしている。
その家康の上洛は、後陽成《ごようぜい》天皇の御譲位のことについてであったが、その折に家康は、いま一度大坂の豊臣秀頼へ、
「京へまいられい」
上洛をうながすつもりでいると、大介は清正にいった。
このとき、もしも前回のように、秀頼が上洛せぬときこそ、家康はそれを理由に、開戦へふみきる決意をかためている、と、大介はいった。
徳川家康のことばにしたがって、豊臣秀頼が京都へあいさつ≠ノ出かける、ということは……。
すでに何度ものべてきたように、前《さき》の天下人≠ナあった豊臣家が、現・徳川政権へ、臣として従うことを意味する。
だからこそ、秀頼の生母・淀の方が、
「天下は、秀頼どのが御成長なさるまでの間、徳川へあずけてあるのも同じことじゃ」
などと、くやしがっているわけなのだ。
五年前の慶長十年。
徳川家康が将軍の座を息・秀忠へゆずりわたし、その将軍宣下の式をおこなうにあたり、京へのぼったとき、
「伏見まで、秀頼公へおはこびねがいたい」
と、大坂へ申し入れたことがある。
このとき、幼年の秀頼にかわり、淀の方が、
「徳川が、強《た》って秀頼どのに上洛せよと申すなら、母子《おやこ》(淀君・秀頼)とも、大坂において自害したほうが、よほどに|まし《ヽヽ》じゃ」
とまで、いいはなった。
家康も激怒し、
「いよいよ、戦争《いくさ》じゃ」
と、京・大坂の町民たちが大さわぎをし、荷物をはこんで逃げ出すものさえ出たという。
その五年前のときも……。
「もはや、がまんがならぬ!」
徳川家康は、あやうく開戦にふみきろう、とまで考えた。
それを、おもいとどまり、五年の間、豊臣家のうごきを見まもりつづけてきていたのである。
ゆえに、今度こそは……。
「大坂のわがままをゆるさぬ」
の決意のもとに、秀頼の上洛をうながそうというのだ。
もしも、秀頼のほうからあいさつ≠ノ出向いてくるのなら、これをむりやりに討つ、ことはならぬ。
そのようなことをすれば、世の中がだまってはいない。
徳川政権は、非常な非難をあびるし、とりかえしのつかぬ汚点をのこすことになる。
そうなれば、家康も開戦にふみきることはできない。
また、前々のごとく、秀頼があいさつ≠ノこない、となれば、
「大坂は、われに謀反《むほん》を起そうとしている」
という理由で、開戦の名目が成り立つのである。
徳川家康としては、
(どちらをのぞんでいるか……?)
であった。
「相わかった」
すべてをきいて、加藤清正がきびしい眼の色になり、
「うまく事がはこぶか、はこばぬか……それはさておき、わしもちからのかぎりをつくしてみよう」
と、大介へいった。
加藤清正の立場としては……。
あくまでも、
(関東〔徳川〕に乗ずる|すき《ヽヽ》をあたえてはならぬ)
このことにつきる。
徳川家康がねらっている開戦の機会を、
(あたえてはならぬ)
のである。
それは、とりも直さず、豊臣秀頼を大坂城から出し、来年の家康が上洛にさいして、あいさつにおもむかせねばならぬ。
つまり、
(関東へ、いさぎよく、あたまを下げさせねばならぬ)
のだ。
加藤清正としては、ふたたび豊臣家が天下をつかんだとしても、それは一時のことで、
(決して、永続きはせぬ)
と、見ている。
いまの天下を、日本を統治するためには、あまりにも豊臣家の政治機構が単純でありすぎる。
先ず第一に……。
豊臣家は徳川家のように、何代もの主人につかえ、家康から秀忠へ至る家臣団≠フ結束がない。
清正自身もそうであるが、豊臣恩顧の大名といっても、それはみな、亡き太閤秀吉が一代のうちに、
(わが家来)
と、したものであった。
だから、関ヶ原戦後の事態のながれを見てもわかるように、いったん、古今の英雄たる秀吉が死んでしまえば、たがいの協力も結束も分散してしまうのだ。
第二に……。
秀頼の生母・淀の方のことである。
淀の方は、むすめのころ、秀吉の側室となったのだが、そのころは加藤清正から見ても、
(まことに愛らしい)
女であった。
織田信長と浅井長政の血をひいた気性の正しさ、高さ、強さはあったとしても、無邪気にはつらつとしてい、老年の坂へさしかかった太閤秀吉を、大いによろこばせたものだ。
秀吉は、淀の方のことになると、もう夢中の態であって、これをあまやかせるだけ、あまやかしてしまった。
その上に、淀の方は秀吉の只ひとりの後つぎを生んだのだ。
わざわざ彼女のために、淀へ城を築いてやった。
おそらく、初めから女の城主となったのは彼女が、はじめてであろう。
淀の方≠ニか淀君≠ニか、彼女がよばれるようになったのは、このためである。
こうした威勢と、破天荒のあまやかしをあたえられた女という生きものが、どのように変貌するかを、秀吉は気づいていなかったらしい。
女が、驕慢《きようまん》の頂点へのぼりつめてしまうと、決して、わが身のことをかえり見なくなる。
女性は現在に生きている
のである。
いまの淀の方は、りっぱな青年大名に成長した、わが子の秀頼を後見しているという信念があって、
(まだまだ、秀頼どのにまかせてはおけぬ)
と、気負いたっている。
淀君にとって、秀頼はまだ、むかしの幼児にすぎない。
現在に生きるといっても……。
それはどこまでも、自分中心なのが、これまた女性の特質なのだ。
淀の方にとっては、徳川家康もまた、
(むかし、亡き殿下〔秀吉〕へつかえていたころの家康ではないか)
との観念からぬけきれない。
加藤清正に対してもそうだ。
(むかし、あれほど殿下から御恩をこうむりながら、あの関東へ尾をふり、家康のきげんをとりむすんでいるありさまはどうじゃ)
と、怒るのみだ。
関東と大坂の実力の差を知りつくし、
(なんとか、両家の間に戦さが起らぬよう……)
と、こころをくだいている清正の胸のうちへは、すこしも考えがおよばないのである。
偉人の過去の業績を忘れかね、これにみれんを残しているその家族ほど、おろかなものはない。
そこへゆくと、仏門へ入って、ひっそりと亡き夫のめいふくを祈っている高台院《こうだいいん》のほうが、現在の天下の形勢がよく見てとれるのであった。
だが、事態がこうも切迫して来たとなれば、加藤清正も、
(手をつかねてはおられぬ)
ことになった。
いま、いのちをかけて豊臣家の安泰をはかろうとしている実力者は、清正のみと、いってよい。
だからこそ、丹波大介は、
「ちからのかぎりをつくしていただきたし」
と、清正へいったのである。
加藤清正は、いまこそ、なんとしても、秀頼が家康へ従うように仕向けなくてはならぬ。
しかし、淀の方は、清正が大坂城へあらわれても、これをよろこばず、秀頼に会わせようともしない。
「かくなれば……」
と、加藤清正が、
「高台院さまにおたのみするより、仕方もあるまい」
「は……」
大介がうなずき、
「なれど……」
「うむ。このことは、あくまでも隠密にはからわねばなるまい」
「はい」
「わしが、みずから高台院さまをおたずねすることは、まことにたやすいことではあるが……」
大介が烈しくかぶりをふって、
「それはなりませぬ」
「やはり、のう……」
「このことが先に関東へ知れましたら、どのような手段《てだて》をもっても、高台院さまのはたらきかけを、邪魔いたすにちがいござりませぬ」
「ふうむ……」
「まことにもって、ゆだんなりませぬことで……」
と、大介は、高台院内へ仕かけてある徳川方の眼≠フ見張りについて、清正へ語った。
「それは、鎌田兵四郎から、ききおよんでいる」
「殿!」
「む?」
「私めが、殿のおことばを高台院さまへおつたえいたしましょう」
「うむ」
うなずいた清正が、
「あの折、そちの顔を高台院さまに見おぼえておいていただいたのが、いまこそ、役に立つわけじゃな」
加藤清正は、ふかいふかいためいきを吐いた。
「忍びのはたらきというは、こうしたものか、と、はじめてなっとくがいったわい」
大介から清正へねがい出て、清正の引き合せにより、大介が高台院へ目通りをしたのは、
(四年前のこと)
なのである。
それが、ようやくいま、効果をあらわしたわけだ。
清正自身が引き合せた丹波大介ゆえに、高台院は、夜半ひそかに大介がまくらもとへあらわれたとしても、
(いささかも懸念はない)
のである。
この方法ならば、だれにも気づかれず、清正は高台院と連絡《つなぎ》をとれるわけであった。
本格の忍びばたらきが、いかに長い月日と忍耐を要するか……それを加藤清正は、いまはじめて、体得をしたことになる。
「では、いずれ……」
丹波大介は、横山八十郎をつれて、外の闇へ消えた。
八十郎が清正のそば近くつかえるためには、もう一つ、工作をしなくてはなるまい。
この夜から、約半月ほどを経て、伏見屋敷にいた鎌田兵四郎がりっぱな武士の姿となった、横山八十郎をつれ、名古屋へあらわれた。
八十郎は、
「……むかし、武田家の重臣・馬場美濃守につかえたる士」
と、いう|ふれこみ《ヽヽヽヽ》で、鎌田兵四郎自身の紹介によって、
「加藤家へ奉公することになった」
との名目にしたわけである。
加藤清正は、八十郎を万松寺の庭で引見《いんけん》した。
八十郎は、
「横山八蔵にござります」
と名のり、平伏をした。
清正のそばには、数名の侍臣がいる。
清正は、さあらぬ顔で、
「兵四郎が引き合せゆえ、まちがいもなかろう」
と、いい、
「ちからをつくして、はたらきくれるよう」
「ははっ」
「何歳じゃ」
「五十六歳、に相なりまする」
「屈強の体《てい》に見ゆるな」
すかさずかまたさま≠ェ、
「武田家のほろびつくすまで、闘いぬいた武士《もののふ》にござります」
と、いった。
「ふむ」
大きくうなずいてから、清正は、
「馬廻りにさせよ」
と、いった。
つまり、清正の外出時には、これをまもる親衛隊≠ヨ組み入れるように、といったのだ。
これも、かねてから大介と清正が打ち合せておいたことである。
この半月の間に……。
丹波大介は、名古屋と伏見を三往復し、横山八十郎の仕官について、打ち合せをしている。
そして……。
清正が高台院とちからを合せ、来るべき危急にそなえるための下準備も完了していた。
新参者の、横山八十郎に対して、加藤家の人びとは、
「さすがに武田の遺臣じゃ」
「礼儀正しく、口数も少なく、見るからに好もしい」
と、評判がすこぶるよろしい。
八十郎が、万松寺で暮すようになってから三日目の夜ふけに、丹波大介が、清正の寝間へ忍び入って来た。
「殿……」
「お……大介か……」
「はい。では、これより京へまいりまする」
「たのむぞよ」
「|しか《ヽヽ》と……」
「わしも、間もなく名古屋を発し、いちおうは熊本へ帰る」
「大坂へは、お立ち寄りなさいませぬよう」
「心得てある」
「ごめん下され」
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そ の 夜
闇が、冷え冷えとしている。
どこからともなく、香のにおいがただよっていた。
それは、この屋敷内の、高台院の居住区≠ヨしみついてしまっているにおいだといえよう。
決して、人のこころをかきみだすようなにおいではない。
むしろ、このにおいは、人のこころを落ちつかせ、沈潜させる。
仏間にたきしめる香なのである。
丹波大介は、この夜。
黒の忍び装束に身をかため、微風のごとく、高台院屋敷へながれこんでいた。
大介の背後に、小人《こびと》のような黒い影が、つきしたがっている。
島の道半老人であった。
居間と廊下をへだてて、宿直《とのい》の侍女たちのねむる部屋があり、その奥に、高台院の寝所があった。
宿直の侍女は三名。いずれも高台院にならい、あたまをまるめた尼僧の姿である。
そのまくらもとを……。
大介と道半が、気配もおこさずに通りぬけた。
|ふわり《ヽヽヽ》と、二人の姿をのみこんだ寝所との境の板戸が、音もなく閉ざされた。
そこは、寝所の次の間で、長六畳の部屋であり、正面に襖がある。
この襖も、難なく大介と道半をのみこんでしまった。
高台院は、よくねむっていた。
大介が、高台院のまくらもとへ忍び寄った。
ねむり灯台《とうだい》≠ノは、淡く灯りがともっている。
「おそれながら……」
と、大介が高台院の耳へ口をさし寄せて、ねむりから起し、
「肥後さま、手の者にござりまする」
すばやく、ささやき、顔をおおっていた黒布《ぬの》を外して見せた。
「お……」
さすがに高台院。一瞬のおどろきに耐えてからは、すぐ、大介のことをおもい出してくれたらしい。
「あのときの者か……」
「ははっ……」
引き下って平伏した大介に、
「あれなるは?」
と、高台院が、襖ぎわにひれ伏している島の道半を目顔で問うた。
「私めと、同様にござりまする」
「おお……」
「肥後さまよりのおことばを、つたえにまいりました」
「さようか……」
半身を起そうとする高台院へ、大介が、
「なにとぞ、そのままにて……」
「む」
高台院は、夜着の中へ横たわったままで、
「申してみよ」と、いった。
大介は、加藤清正のことばをつたえた。
清正は、
「とてもとても、われらではいかぬ」
と、名古屋で大介にいっている。
清正や福島正則、浅野|幸長《よしなが》など、豊臣恩顧の大名たちを、淀の方は、
「忘恩の徒《やから》」
と、きめつけてしまっている。
「みなみな、関東へ尾を振るものたちばかりじゃ」
なのだ。
淀の方の怒りの底にはひがみごころ≠ェひそんでいるといってよい。
「わしが出向いたところで秀頼さまもおふくろさまも会うては下さるまい」
と、清正はあきらめている。
おふくろさま≠ニは、淀の方のことをさす。つまり、秀頼の生母であるからだ。
まして……。
来年春の徳川家康上洛にさいし、京都・二条城まで、秀頼があいさつに出向いてほしい、などと、
(わしからねがい出てみたところで、とうてい、おとりあげにはなるまい)
と、清正は考えていた。
いまの大坂城は……豊臣家は、みずから秀頼の後見をもって任ずる淀の方の威勢によって運営されており、清正や正則と同様に、故太閤秀吉子飼いの大名である片桐且元なども、名目は秀頼を補佐する役目につき、大坂城内に屋敷をかまえているけれども、淀の方には歯も立たぬ。
大野|治長《はるなが》・治房《はるふさ》という、世にきこえた侍臣も秀頼や淀君につきそっているのだが、加藤清正にいわせると、
「ひと通りの役には立つものたちなれど、いまだ、心眼《め》がひらききってはおらぬ」
のだそうな。
大野兄弟は、淀の方同様に、近年の清正が、身をもって徳川家につくしていることをこころよくおもっていない。
だから、清正が大野治長を通じ、淀の方や秀頼へ、自分のことばを通じさせようとしても、これが淀の方の耳へとどくときには、かたちが変ってしまっているらしい。
どうも、
「わしの申しあぐることが、そのまま、つたわらぬらしい」
と、清正はいっている。
近年は、こうした経験が一度ならずあった加藤清正なのだ。
そこで、清正は、
「こたびの大事には、どうあっても高台院さまに出ていただかねばならぬ」
と、おもいきわめたのであった。
高台院は、世を捨てた身とはいえ、太閤秀吉の正夫人であるし、淀の方は側室の一人にちがいない。
いかに淀の方といえども、高台院には一目おかねばならぬところだ。
その清正のねがいを大介からきいたとき、高台院は、かるく眼をとじた。
高台院は、沈黙した。
どこからか、虫の声が微《かす》かにきこえている。
大介は、まばたきもせず、まくらの上の高台院の老顔を見まもっていた。
高台院が眼をひらいた。
「これ……」
「はっ」
「|むだ《ヽヽ》であろうとおもうなれど……」
「は……?」
「まいってみよう」
「ははっ」
「まいらずばなるまい」
「おそれいりたてまつる」
「その折……」
いいさして、高台院が口をつぐむ。
「は……?」
大介が、おもわずにじり寄った。
「その折のことじゃが……」
なんの折なのか……?
高台院が大坂城へ出向き、秀頼上洛のことをすすめるときに、ということなのか……。
その通りであった。
高台院は、こういい出したものである。
自分と共に、丹波大介も大坂城へ、
「まいったがよい」
と、いうのだ。
大介は、耳をうたぐった。
いずれにしても、いま、すぐにではない。
来春。徳川家康が上洛のことを天下に公表してからのことである。
「今度こそは、あいさつに出向くべきですよ」
と、高台院が大坂城へ出かけて行く。
そのとき、大介が供の一人に加わり、共に大坂城内へ入ったがよい、と高台院はいっているのだ。
(何故に、おれを……?)
大介も、むしろ、とまどった。
「共に、城内へ入る……それからは、そちのおもいのまま。そうであろ」
高台院が、まくらの上から大介をながめやって、にっこりと笑った。
高台院は、大介が忍びの者≠ナあることに気づいている、と見てよい。
大坂城へおもむくからには、高台院も、
「両三日は……」
城内に滞在する。
その三日の間に……。
「肥後どののために、おもうまま、はたらいて見よ」
と、高台院は、ほのめかしているのであった。
「ははっ……」
大介は、ひれ伏した。
大介も、これまでに何度か、
(大坂城内へ潜入して、内部の様子をさぐりとろう)
と、おもったか知れぬ。
だが……。
大介が、江戸城や駿府城へ、単身で潜入し得なかったのと同じに、天下無双のスケールをもつ巨大な大坂城内の奥ふかく忍び入るには、すぐれた忍びの者といえども、一人や二人でなしうることではないのだ。
端倪《たんげい》すべからざる高台院であった。
もしも、大介が大坂城内で忍びばたらきをし、捕えられたときには、自分がすべて、
「責任《せめ》を負う」
と、高台院はいうのである。
「御供つかまつりまする」
大介は、感動していった。
「なんの……」
高台院は、さびしげに笑い、
「いまの私にできることは、それほどのことのみ」
「はっ……」
「豊臣家を絶やしとうはない。また、この世にふたたび、戦さを起しとうはない。それのみじゃ」
「はっ」
「なれど……お、そちの名は?」
「丹波大介、と申しまする」
「うむ」
「おそれながら……」
「なんじゃ」
「これなる老人をお見おぼえおき下されまするよう」
と、大介は島の道半をさしまねき、高台院へ引き合せた。
「お……」
うなずいて高台院が、
「可愛ゆげな老爺《ろうや》ではある」
と、いった。
島の道半は、すでに八十をこえている。
その老齢で、大介と共に忍びばたらきをするのだから、まことに、おそるべき老人といわねばなるまい。
「大介とやら……」
「はい」
「肥後どのへ申しつたえるがよい」
「は……?」
「徳川家康公は、いたずらに大坂方を戦さに引き入れようおつもりはない、と、私はおもうている」
きっぱりと、高台院は、
「家康公は、秀頼どのが京へまいらるることを、のぞんでおわす」
大介は、意外におもった。
自分が、江戸や駿府でさぐりとったことから考えると、徳川家康は、なんとしても豊臣家を戦争に引きずりこみたい、と考えているとしか、おもえなかったからだ。
「おそらく関東も、戦さ仕度はしていようなれど、……だれがこの世に、戦さを好むものとてあろうか」
高台院は、しずかに笑い、
「私とても、亡き殿下(秀吉)につきそい、戦乱の世をくぐりぬけてまいった女じゃ」
「は……」
「なれど……家康公は、秀頼どのを、わが旗の下に従えてのち、むざむざ、豊臣の後つぎを大坂の城へ残してはおくまい」
大介は、このとき、おもいもかけなかったするどい衝撃をうけた……と、いってよいだろう。
(なるほど……)
丹波大介は、そこへ、はじめておもい至った。
高台院のいうとおり、徳川家康は、もしも豊臣秀頼が自分に対して、臣下の礼をとるならば、
(それもよし!)
そのかわり、いったん臣下となったからには、豊臣家を、どこの国へうつしてしまおうと、だれにも文句をいわれるものではないのだ。
豊臣家を、その本拠たる大坂から遠去けてしまい、そのかわりに、大坂城へは、家康の子のうち、だれかを入城せしめる。
そうなれば、京・大坂は完全に、
(徳川のものになる)
のである。
となれば……。
豊臣家を、日本の政局の中心である江戸や京・大坂から、出来るかぎり遠い国へ追いやってしまうのが、
(もっともよい)
ことなのだ。
すると、先ず……。
九州の国が考えられる。
(あっ……)
大介は、胸のうちに叫んだ。
家康は、豊臣秀頼を九州の地へうつすことを、早くから考えていたのではあるまいか……。
家康も、加藤清正がいる九州の地へ、秀頼をうつすならば、
(わしも安心であるし、秀頼もさびしくあるまい。清正も、折々には出向いて、秀頼のきげんをうかがうこともできる)
そう、考えていたのではあるまいか。
家康が、九州のどの地を秀頼へあたえるつもりでいたか、それは、大介も知らぬが、
(家康と清正。清正と秀頼……そうして長年の懸案であった徳川と豊臣とのむすびつきを|しっくり《ヽヽヽヽ》とさせたい)
だからこそ、徳川家康は、むしろ好意的に、加藤清正の熊本築城≠ゆるしたのだ、ともいえるのではないか。
ところが……。
出来上った熊本城が、なみなみの城ではないという。
あくまでも、実戦のための城がまえ≠ナあり、加藤清正が心血をそそいできずきあげた大城になってしまった。
そのような城をもつ清正の近くへ、豊臣秀頼をうつすことは、徳川家康としても、あまり、うれしいこころにはなれまい。
(なるほど……)
徳川方が、懸命になって、熊本城の内外をさぐりとろうとしていることの意味が、いま大介に、はっきりとわかったようだ。
丹波大介は、高台院の枕頭を去るにあたり、
「いま、おもいたちましたが……私も一度、熊本へまいって見ようかと存じまする」
と、いった。
「そうじゃ、そのほうがよい」
高台院も、熱心な眼の色となって半身をおこし、
「来春の、大御所上洛のことは、天下にとってたいせつなことじゃ。こなたと肥後どのとの間に、いささかのすきもあってはならぬ」
「はい」
「肥後どのも、もはや名古屋を発つころであろうか?」
「と、おもわれまする」
「いずれにせよ、くれぐれも、こころをつけての」
「はい」
やがて……。
大介と島の道半は、高台院の寝所を出た。
奥御殿の廊下を、二人は、微風のようにながれて行く。
高台院専用の浴室や料理の間がある一画には、まったく灯影が絶えていた。
おもおもしい、なまあたたかい闇に、すべてが塗りこめられている。浴室と小廊下をへだてた塩部屋≠フ中へ、二人は消えた。
四年前のあの日。
丹波大介は、はじめて高台院へ目通りをし、奥庭から引きあげて行くとき、この塩部屋の外がわから、巧妙に仕かけられた見張り穴≠発見した。
この高台院屋敷は、徳川家康の寄進によるものであって、だから工事は、徳川の手によっておこなわれたのである。
そのときから、徳川方の見張りの眼は、高台院へも向けられていたことになる。
大介の知らせで、島の道半老人は、この四年間に、高台院屋敷の内外をすべてさぐりつくしていたのであった。
むろん、
「見張り穴のことも、さぐりとったぞや」
と、道半老人は、大介に報告をした。
塩部屋は、一種の物置きのような場所で、およそ十坪のひろさがある。
この塩部屋内の土間に内井戸≠ェ一つ、設けてあるのだ。
台所つづきの土間であるし、予備の石づくり井戸なのであるが、その井戸穴の途中に、横穴が通じている。
そこは、上から見ても決してわからぬほどに、深い位置であったし、石組みの仕方で、横穴は、たとえ上から灯りをさし入れても発見できぬようになっているのだ。
「井戸の横穴はのう、大介どの。となりの高台寺の境内へ通じておったぞや」
と、道半老人がいった。
四年前の当時。そこまで、さぐりとるのには、島の道半も、ずいぶんと苦心をしたにちがいない。
当時は、徳川方の忍びたちが、絶えず、内井戸のぬけ穴≠ゥら高台院屋敷へ潜入していたからである。
しかし……。
四年後のいまは、徳川方も、このぬけ穴を、あまり利用していない。
高台院を見張る必要が、このところはない、と見てよい。
丹波大介が、久しぶりに杉谷の里へあらわれ、道半老人へ、
「高台院さまへ、お目通りいたすつもりだ」
と、告げるや、
「では、あの、ぬけ穴から入ってみてはどうじゃ。わしが案内《あない》しよう」
道半が、こういったものである。
「それは、おもしろい。おれはまだ一度も見てはおらぬゆえ」
「もしやすると、徳川の忍びの一人や二人、ひそんでおるやも知れぬが……」
「それも、おもしろいではないか、道半どの」
「なれど、おそらくはだれもおるまいわえ。わしもな、たいくつしのぎに、月に一度ほどは出かけて見るが、このところ、まったく、敵の忍びも、高台院屋敷へは、ぶさたのようじゃ」
島の道半は、もう高台院屋敷内のことについて、なにからなにまで精通してしまっている。
「この春ごろにな、高台院さまにつかえる尼僧のひとりが、子をはらみおってな……いや、相手というは他でもない、表御殿につめておる太田なにがしという若い足軽でのう……高台院さまはこれをきいて、大へんによろこばれ、二人に金をあたえ、ひまをとらせたわい」
などと、道半は語ってきかせた。
そして……。
二人は、高台寺の境内へ、先ず潜入をしたわけだ。
高台寺の由来は……。
高台院が、秀吉夫人・北政所《きたのまんどころ》であったころ、生母の朝日局の菩提《ぼだい》をとむらうため、京都の寺町に創建した康徳寺≠、東山の山裾、まくずヶ原の南へうつし、亡き夫・秀吉の菩提を共にとむらうべく、開山には、建仁寺の三江和尚をまねき、寺名も、
高台寺
と、あらためた。
高台院の屋敷と同様に、高台寺の造営にあたっても、徳川家康は財力を惜しまなかった、といわれる。
ひろい境内には、いくつもの堂宇があるけれども、東の奥まったところにある開山堂の北方……なだらかな東山の山腹へかかる松林の一角に、高台院屋敷へ通ずるぬけ穴≠フ入口が、かくされてあった。
さて……。
いま、大介と道半老人は、塩部屋の土間の石井戸のぬけ穴から、高台寺の境内へぬけようとしている。
井戸のふちへかけた鉤縄《かぎなわ》をつたわって、約四間も下ったところに横穴が口をあけている。
井戸の水は、それから三間ほど下に、たたえられていた。
横穴の入口は、ごく小さなものだが、這《は》って二間もすすむと、穴がのぼりになる。
そのあたりから、腰を屈《かが》めて歩めるほどの大穴が、木材や石にささえられ、堅固に掘りぬかれてあるのだ。
「なるほど、これは大したものだ」
大介は、おもわず嘆声を発した。
「それもこれも、この穴は、高台院さま御屋敷を建てるときから、徳川方が、ひそかに工事の中へふくみこんでいたからじゃよ」
「いかさま、な」
「ま、外へ出るまでは、ゆだんすまいぞ。万一にも、敵が向うから入って来ることを考えておかねばならぬ」
「うむ……」
大御所・家康の上洛にそなえ、上方における徳川方の諜報活動も、ふたたび活発なものとなるにちがいない。
となれば、
「またも、高台院さまへの見張りの眼が光りはじめよう」
と、道半はいうのだ。
大介も、当然、
(そうなるだろう)
と、考えていた。
灯もつけず、島の道半はするすると歩む。
高台寺と、高台院屋敷とは、となり合せであるし、たがいに、東山の山腹へ向って敷地が奥まっているから、ぬけ穴の距離もさほどのものではない。
(さ、ここじゃ)
と、道半が目顔でうなずいた。
穴が、行きどまりになっている。
頭上に、銅板をはりつけた木製のふたがあった。
大介が手をのばし、このふたを引きあけるや、|さっ《ヽヽ》と、冷気が穴の中へながれこんできた。
大介と道半は、穴の外へ出た。
「ここは?」
「大介どの。地蔵堂の中じゃ」
「ふうむ……」
開山堂の北方の山林の中には、むかしから古びた地蔵堂があり、康徳寺の境内にふくみこまれていたのだが、
「高台寺建立の折に、堂を建て直したものらしいわい」
と、道半がいった。
石の地蔵尊を置いた台座の下が、ぬけ穴の出入口であった。
地蔵堂といっても、二間四方の立派なものだ。
扉に、錠が、かかっている。
だが、島の道半は、この錠をそのままにしておいて、隅の地板をたくみに切り外し、床下から外へ出られるように、細工をほどこしてあった。
だから、おそらく外から錠を外し、堂内へ入って来るであろう徳川方の忍びは、堂内の異状に気づいてはいないはずだ。
道半が先に、つづいて大介が床下へもぐった。
と……。
島の道半が、急に大介をふり向き、細いゆびを口へあてて見せた。
大介は、床下の土へ伏せた。
(だれか、ここへ近づいて来る……)
らしい。
二人は、転瞬のうちに呼吸《いき》をとめ、とめておいてから、整息の術≠ヨ入った。
ひそかに、錠の外れる音がきこえた。
そして……。
地蔵堂の中へ、入って来たものは、
(三人……)
と、道半老人が三本のゆびを大介へ見せた。
三人は、徳川方の忍びにちがいない。
大介と道半が、ともに案じたのは、たったいま、この床下へ入る前まで、地蔵堂の中で二人とも、じゅうぶんに人間のにおいを発散させていたことである。
その、まだ残っている人の気配を、いま堂内へ入った敵の忍びが、どのようにうけとめるか、であった。
いやしくも忍びの者であるからには、
(つい、いままで、だれか、この堂内にいたらしい)
と、気づかぬはずはないのだ。
果して……。
堂内へ入った三人の忍びの気配が、ぴたりと消えた。
(気づいたな)
と、大介も道半も床下で、それを直感した。
しかし、うかつにはうごけない。
堂内の三人も、大介たちが、どこから堂外へ出たか、を、凝とうずくまったまま、さぐろうとしているだろう。
大介と島の道半の、伏せているすぐ眼の前には、地蔵堂をかこむ山林の闇がひろがっている。
飛び出すのは、まことにわけもないことだが、そうなれば堂内の敵がたちまちに襲いかかって来る。
闘って、負けるつもりはないが、それよりも、敵が床下の大介たちに気づかず、戸外へ、
(われわれを追って行ってくれるのが、もっともよい)
と、大介はおもっている。
大介は、いましばらく、自分の死を徳川方の忍びたちに信じこませておきたかったのだ。
敵の忍びだからといって、丹波大介を知る者は数少ない。
しかしどうも、
(いま、堂内へ入った忍びの中に、おれを見知っているものが、いるような……)
気がしてならぬ大介であった。
鋭敏な忍びのみがもつ、すぐれた直感力というべきものであろうか……。
堂内……といっても、二人が伏せている頭上のことである。
上から、手槍でも突きこまれたら、危険なことは、大介も道半も、じゅうぶんにわきまえていた。
道半老人が、大介へ合図を送ってきた。
(わしが、|おとり《ヽヽヽ》に出る)
と、いうのだ。
大介が、これをとめる間もなかった。
合図を送った次の瞬間には、道半の小さな老躯が信じかねるほどの速さで、戸外の闇へ躍り出して行った。
道半は、弾丸のごとく、山林の中へ疾《はし》りこんだ。
ほとんど同時に……。
地蔵堂からも、二個の黒い影があらわれ、道半を追って山林の中へ消えた。
(まだ、一人いる……)
大介は、伏せたままでいる。
もしも、三人ともに道半を追って飛び出したら、すかさず背後から飛苦無《とびくない》を投げ撃《う》ってもよい、と、おもっていたのだが、敵も手だれのものと見える。
後の備えに、一人を残しておいたのだ。
(あ……?)
大介は、頭上の床板が、かすかな音をたてたのを知った。
こちらの脱出口に、敵は気づいたらしい。
これ以上、床下へもぐっているのは危険きわまる。
大介が、床下から外へ躍り出した。
半身を出したとおもった瞬間に、大介はおもいきり身をかがめつつ、両手を前へ突き出し、くるくると二度ほど小さく回転をして、反動をつけるや、怪鳥《けちよう》のように、地蔵堂の屋根へ舞いあがった。
一瞬おくれて……。
堂内から飛び出した敵も、脇差をぬきはなち、屋根へ飛びあがって来た。
だが、これを予期せぬ丹波大介ではなかった。
屋根へ舞いあがったとたんに、早くも大介は、飛び上って来る敵とすれちがいざま、飛び下りる体勢をととのえていた。
「ぎゃあっ……」
飛びあがって来た敵が、絶叫を発した。
待ちかまえていた大介が、ぬき打ちに斬りはらいざま、屋根から飛び下りたのである。
「う、うう……」
それでも、屋根の上の敵は、必死に足をふん張り、耐えようとしたが、耐えきれなかった。
大介の切りはらった脇差に、彼は|くびすじ《ヽヽヽヽ》から|あご《ヽヽ》にかけて割りつけられ、おびただしい血を噴出させながら、
「だあっ……」
最後の叫びをあげ、屋根からころげ落ちた。
そのときすでに、大介の姿はない。
大介は、島の道半が逃げた山林とは反対の方向……つまり、東山の上へ上へと逃げていたのである。
しばらくして……。
夜の闇に、しだいに白く淡いものがまじりはじめた。
朝が、近づいて来たのである。
道半を追って行った二人の忍びが、地蔵堂の前へもどって来た。
道半を逃がしたらしい。
「おのれ……なにものか?」
いいつつ、山林の中からあらわれたのは、伊賀の平吾であった。
「よう、見えたか?」
平吾が、ふり返って訊いた。
「いいや……」
くびをふりつつ、後からあらわれたのは、平吾と同じ伊賀の女忍び・於万喜である。
「平吾どのと、このわたくしが追うたのをかわして、みごと逃げ終《おお》せたやつ。ただものではない。ようは見えなんだが……小さな、男であったような……」
「うむ……」
「あれほどの忍びが、この高台寺のぬけ穴をさぐっていたとは……」
「於万喜どの。これは、なんとしたことだ?」
「まさか、真田忍びの奥村弥五兵衛ではあるまいし……」
「あのものたちには、甲賀の山中忍びの眼が、絶えず光っておるはずだ」
「あっ、平吾……」
「どうした?」
「血のにおいがする」
平吾と於万喜が、地蔵堂の前へ駈けもどって来て、
「あっ……」
「こ、これは……」
愕然《がくぜん》となった。
大介の一刀に斬殺された伊賀忍びが、そこに殪《たお》れていたからである。
「まだ、一人……どこかに、かくれていたらしい」
「やはり、な……」
「これだけの手だれは……?」
於万喜が、くちびるをかみしめ、
「なにものであろうか……?」
「わからぬ」
「これは平吾。ゆだんのならぬことじゃ」
「高台院屋敷のぬけ穴まで、さぐり出されていようとは、おもいもよらなかった……」
「いかにも……」
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熊 本 城
このたび……。
筆者は、久しぶりに九州・熊本をおとずれ、熊本城の偉容を見た。
この城を見るのは四度目のことであったが、何度見ても、
(これほどにすばらしい、実戦用の城は他にあるまい)
というおもいがする。
同行のH氏は、熊本城を見るのがはじめてだけに、
「これは、すごいものです。すごいものです」
の連発で、
「なるほど、この城の石垣が、西郷隆盛の薩軍の猛攻をふせぎきったのですなあ」
感にたえた口調で、いったものだ。
その通りである。
慶長年間に、加藤清正が心血をそそいで築きあげた熊本城は、約二百八十年後の明治十年となって、明治新政府の鎮台《ちんだい》となった。
折しも、西郷隆盛を総帥とする薩摩士族の反乱軍が、
「東京政府に尋問のことあり!」
と、三万の兵力をもって鹿児島を発し、隊伍堂々と熊本へ入った。
このとき、熊本鎮台をまもる司令長官・谷|干城《たてき》は、寡兵《かへい》をもって、反乱軍の猛攻を喰いとめ、援軍の到着まで、完全に熊本をまもりぬいた。
剽悍無比《ひようかんむひ》をほこる薩摩の将兵が、どうしても、この城を落すことができず、西郷隆盛は苦笑をして、部将・桐野利秋をかえり見ながら、こういったそうである。
「わいどんらは、加藤清正と戦さして勝てぬ、ようなものじゃ」
つまり、二百何十年も前に世を去った清正の城が、いまも尚、薩軍と戦っているのだ、といいたかったのであろう。
戦端がひらかれるまでに、熊本城は火事を起し、天守閣をはじめ、多くの建造物を焼失してしまったが、城の濠《ほり》と石垣とは厳然として、敵軍の侵入をゆるさなかった。
ことに城の南面の飯田丸≠フあたりの石垣は、いまこれを見ても、重畳たる波濤《はとう》を見るようなおもいがするのだ。
熊本平野の北端に、北方から南へ細長くのびてきている丘陵がある。
丘陵の南端を茶臼山≠ニよび、加藤清正は、ここに熊本城を築いたのである。
そして、この城を中心にして町づくりがおこなわれ、現代の熊本市となったわけだが、茶臼山へ築城する前の清正は、茶臼山の西方五百メートルほどのところにある隈本《くまもと》城≠居城としており、朝鮮征討出兵のときも、ここから出陣をした。
いまも、古城≠ニよばれるこのあたりに、当時の濠のあとを見ることができる。
熊本城は、三つの川に取り巻かれている。
谷と崖とを利用した幾層もの石垣が、南にひらけた平野に対し、特に厳重なかまえを見せていることは当然としても、石垣と濠と、幾重にも備えかためた櫓《やぐら》や城門が、深く深く、城の本丸と天守閣をつつみきっているのを見ると、そこに加藤清正の意志が、何か語りかけてくるような気がしてならぬ。
城の周囲は二里余におよぶ、といわれている。
当時の城郭は、現熊本市の市街の一部をもふくみこんでいたのだから、もっともっと、この城の実戦的偉容を誇っていたにちがいない。
もっとも清正は、関ヶ原大戦の後に、徳川家康から約三十万石の加増をうけ、肥後一国のほかに豊後の国の一部をもわけあたえられ、一躍、五十四万石の大大名となったので、
「これよりは、いまのままでいてはならぬ。領国をゆたかにし、領民たちを幸福《しあわせ》にするため、城をきずき直し、これを中心《しん》にして町づくりを急がなくてはならぬ」
と、清正は決意をした。
これまでは、数々の戦陣に席があたたまる間とてなかった清正だが、いよいよ、徳川の天下が定まり、戦火が絶えたので、わが領国の経営に全力をかたむけることになったのである。
そのことと、きずきあげた熊本城の実戦的価値≠ニは、別のものなのだ。
だが、その別なものというところに、当時の加藤清正の複雑な心境があった。
熊本築城と共に、周囲の土木工事も整然とおこなわれる。
水利を改良し、その水を城内へ引き入れるためには、深さ五十メートルにもおよぶ井戸が掘られた。
城のすばらしさは、いまも城内に残っている、この井戸だけを見てもわかる。
当時、城内の井戸の総数・百二十をかぞえたといわれる。
清正は、築城工事の指揮にあたりながら、
「この城は、まことに長い間、わしの胸の中にうかんでいた、夢のようなものじゃ。その夢が、いまこそ成る」
こういって、双眸《りようめ》をかがやかせ、
「老いを忘れるようじゃ」
つぶやいたそうである。
城の本丸≠ヘ、茶臼山・丘陵の東面、その最高地域におかれ、二の丸・三の丸と、曲輪《くるわ》が西へ下っている。
大手口は、西にある。
天守閣は、本丸の西側・北寄りにあって、一の天守と二の天守が連結しているのだが、はじめに大天守をつくり、さらに小天守をきずいてむすび合せたものだ。
天守閣は、城の司令部であり、象徴である。
天守閣は……。
敵が城内へ攻めよせて来たときに、
「最後の根拠」
と、なる。
ここまで攻めこまれたら、もはや、城が落ちたのも同然といってよい。
しかし、熊本城の連結天守を見ると、これが単に威容をほこるものではないことが、はっきりとわかる。
ここにまで攻めこまれても、尚、じゅうぶんに抗戦でき得るための設計がなされている、と、筆者は考えている。
この点において熊本城は、日本の城の中で比類のない名城≠ナあるとおもう。
大介が熊本へあらわれたのは、島の道半と高台院をおとずれてのちの、十一月はじめのことであった。
すでに、加藤清正は熊本へ帰っている。
だが大介が、熊本城の正面から、
「丹波大介」
と名のり、入城するわけには行かぬこと、もちろんである。
熊本城内にいる杉谷のお婆と、大介との間を連絡する役目をおびている小平太は、いま、熊本の城下町で木地屋≠している。
木地屋の中でも、小平太がしてるのは膳《ぜん》や重箱をつくる指物師であった。
幼少のころから、小平太は細工ものをするのが大好きであって、祖父の島の道半も、
「それはよいことじゃ、忍びばたらきをする上にも、指物師としておかしゅうないほどの修行をしておけよ」
こういってくれ、十二歳のころから約三年間、小平太は京の町の指物師へ弟子入りをし、ひと通りの仕事ができるようになっていた。
それが、いまになって、
「役に立っている」
のである。
およそ、本当の忍びばたらきというものはこうしたものなので、敵と斬り合ったり、猿のように木から木へ飛び移ったり、飛苦無を投げて闘ったりすることは、
「出来るかぎり、避けねばならぬ」
ことなのだ。
丹波大介が旅装を解いたのは、いうまでもなく、木地屋・太兵衛≠ノなりきっている小平太の家に、であった。
「これは……」
小平太はおどろき、
「よう、まいられましたな」
「うむ。杉谷のお婆と、いろいろ打ち合せておかねばならぬこともあってな」
「さようでしたか」
小平太の家は、熊本城の東面にあたり、藤崎八幡宮から程近い町屋の一角にあった。
道の向うは雑木林をへだてて城の濠がめぐり、先ず、城下町の中でも一等地≠ニいってよい。
ここへ住みつくためには、加藤清正が、小平太のことを、
「太兵衛は指物師として、りっぱな腕をもつ男じゃ。京や大坂でも、名を知られたほどの男ゆえ、わしも、伏見屋敷の什器(家具)をいろいろとつくらせたものじゃ。太兵衛が、この清正を慕いくれて、ぜひにも熊本に住みつきたい、と、かように申していたので呼びよせた」
家臣たちにこういって、みずから、その住居をさだめてくれたのだ。
「そして、お婆は、とき折、ここへもあらわれるのか?」
と、大介がきいた。
「はあ」
小平太がうなずき、
「お婆さまにとっては、わけもないことです」
「いかさま……なれど、あの御城から出るのはわけもなかろうが、もどるときがむずかしい」
城へ帰るときは、外部から侵入するかたちとなるから、むずかしいのである。
杉谷のお婆と小平太の連絡は、加藤清正以外のだれにも、知られてはならない。
「おぬしが御城へ忍び入ることも、あるのか?」
「それは、あたりまえのことです」
「どうして入る?」
「明日の夜にでも、大介殿を御案内いたします」
「ほほう……」
「われらが城内へ入りこむ道を、殿さま(清正)がつけて下さいましてな」
「ふうむ……」
「それはともかく、京・大坂の様子は?」
「それが……ただならぬことになってきた」
「ははあ……」
「なればこそ、こうして、おれも熊本へやって来たのだ。お婆とは、くわしい談合をせねばならぬ」
「いよいよ、戦さになるので?」
「いいや、戦さにならぬよう、われらも、いのちがけで、はたらかねばならぬことになった」
「なるほど」
「おぬしにしても、これからは、京・大坂と熊本とを、何度も往復してもらわねばなるまい」
「祖父《じじ》さまは、元気でしょうか?」
「島の道半殿は、いささかも、おとろえてはおらぬ。これにはおれも、つくづくと感服している。やはり、われわれとは忍びの修行がちがっているのだな」
翌朝。
丹波大介は小平太に、
「熊本の御城下がよく見える山が、この近くにないか?」
と、問うた。
「それなら、石神山がよいでしょう」
「道を教えてくれ」
「ここから、西へ半里ほどのところです。御城下からもよく見えます」
間もなく……。
大介は、石神山の頂きに立っていた。
この山は、熊本の西方二里ほどのところにそびえる金峰《きんぽう》山が、むかし火山活動≠つづけていたとき、数度の噴火によって流出をした溶岩が、熊本の西方に、いくつもの山々をつくった。そのうちの一が石神山だそうな。
のちに、加藤清正の墓所となった本妙寺がある本妙寺山≠竅A荒尾山、天狗山なども同様である。
熊本の町の東方六里の彼方に展開する雄大な阿蘇の山なみ。
これも大火山であって……となれば、加藤清正の城と城下町は、大小二つの火山にはさまれ、有明海へひろがる平野の北方の山ふところに在ることになる。
「なるほど……」
石神山の頂に立ち、熊本の城と町を見下したとき、丹波大介は、おもわず声を発したけれども、その後は、凝然《ぎようぜん》と立ちつくしたまま、沈黙した。
初冬の、鏡のような大空の彼方に阿蘇山が、しずかに噴煙を吐いているのが、くっきりとのぞまれた。
大火山≠フ山すそは、無限のごとくひろがり、そのひろがりが眼下の城下町にむすびついている。
そして、熊本城……。
この城の偉容を見下したとき、大介の脳裡《のうり》を、得体の知れぬ戦慄《せんりつ》が疾った。
(肥後さまは、やはり、戦さをなさろうというのだ!)
これであった。
城郭は木立につつまれ、巧妙な櫓と石垣の配置によって、山々の頂から見下しても、内部の構造は容易につかめぬ。
それでも尚、毅然たる連結天守の風貌は、
(まさに……)
この城が実戦用の大城郭として築きあげられたことを、大介は、ひしひしと感ぜぬわけにはゆかなかった。
徳川方の忍びたちも、この城を見たはずだ。
(見て、なんとおもったろう。おそらく、このおれと同じおもいを抱いたにちがいない)
のである。
小平太の家へもどって来た丹波大介の顔を見て、小平太がくすりと笑った。
「なにが、おかしい?」
「いえ、私も、石神山の上から、御城をながめたときには、いまの大介どのと同じような顔つきになっていたろう、と、こうおもったので……」
「ふむ……」
「天下に、またとない城でござる」
「む……」
「ところで……」
「なんだ?」
「御城へは、いつ、まいられますか?」
「お婆どののおゆるしを得てからでないと、いかぬのではないか?」
「大丈夫でござる。おまかせ下さい」
「おぬし一人で、案内がつとまるのか?」
「はい」
「よし。では、今夜……」
「心得ました」
小平太は、細工物の手をやすめずに、
「それまでは、ゆるりと、旅の疲れをおやすめ下さい」
「なんの……」
大介は苦笑した。
京都から肥後・熊本まで、約百七十里。
常人ならば二十日の行程を、大介は七日で走破している。
それでいて、いささかも疲れをおぼえていないのは、さすがに鍛えぬかれた忍びの脚力であった。
しかし、小平太がすすめるまま、大介は奥の小部屋でねむることにした。
眼を閉じる。
ここ熊本ならば、京や大坂にいてねむるときの緊張がゆるめられる。
こうしたとき、大介がおもいうかべるのは、若妻だった|もよ《ヽヽ》のことなのである。
もよが、大坂の町に住む塗師屋・寅三郎と再婚していることを、大介は知らない。
(もしや……甲斐の丹波村へ帰ってくれているのなら、安心だが……)
それにしても、
(もう、いかぬ……)
大介はもよのことを、あきらめていた。
もよと別れてから、すでに五年の歳月がすぎてしまった。
この間。
一度、丹波村へ帰り、もよが行方知れずになったことを知った大介だが、
(たとえ、もよが丹波村へ帰ったとしても……)
若いもよが、独身《ひとりみ》をまもっているとは、
(とうてい、考えられぬ)
のである。
(むかし、甲賀の伯母から、よういわれたものだ。忍びの血が冷えぬうちは、妻も子も、真の妻や子ではない、と……)
いつの間にか、|とろとろ《ヽヽヽヽ》とねむった。
ゆり起す小平太の手に気づいたとき、夜の闇が下りていた。
「腹をこしらえておきましょう」
と、小平太がささやく。
熱い粥《かゆ》が、鍋に白い湯気をたてていた。
夏の間に、小平太がこしらえておいた瓜の塩漬で、二人は粥を食べた。
夜ともなれば、京や大坂の町とはちがい、町屋の灯は、ほとんど消えてしまう。
当時の灯油やろうそくが、いかに貴重なものであったか、現代人にとっては想像を絶するものがあった、といってよいだろう。
「ところで大介どの。これから、どうなるのでしょう?」
「わからぬ」
「え……?」
「島の道半どのも、こういっていた。なにごとも関東……いや、徳川家康の肚《はら》の内ひとつにかかっている、とな」
「それは、いうまでもないことではありませんか」
「なれど……道半どのも、このごろでは、その家康の肚の内が読めなくなってきた、と、こう申していた」
「ふうむ……?」
「道半どのは、家康が何よりものぞむところのものは、豊臣家を京・大坂から追いはらい、たとえば、この九州の地へ封じこめてしまおうということだ、と申している。なれど、この熊本の城を見ては……道半どのも、なんというか……それよりも、だ」
「それよりも?」
「おれは先刻、石神山の上から御城をながめていて、ふと、おもった」
「なにを、です?」
「このように、御城が出来あがったところで、肥後さまを熊本から追いはらう」
「あ……」
「しかるのちに、右大臣さま(豊臣秀頼)を、九州へ封じこめる。そして、この熊本へは、徳川譜代の大名を送りこみ、右大臣さまの見張りをさせる……」
徳川家康なら、やりかねないことである。
加藤清正が心血をそそいだ熊本城を、徳川のものにしてしまえば、これほどうまいことはないのだ。
そのかわり清正へは百万石ほどの国々をあたえ、これを徳川の監視が容易な場所へ移してしまう。
もっとも、そのためには、天下がなっとくする理由をこしらえなくてはならぬ。
島の道半は、大介に、
「家康はまだ、大坂へ戦争《いくさ》を仕かけようつもりはあるまい」
と、いった。
それだけに大介の杞憂《きゆう》は、尚もつのるのであった。
「では、そろそろ……」
と、小平太が腰をあげた。
「よし」
やがて……。
丹波大介と小平太は、ひそかに家を出た。
出た瞬間から、二人は夜の闇にとけこんでしまっている。
危急の場合ほどではないにしても、二人は整息の術をおこないつつ、人の気配を最小限度に絶ち、ゆっくりとすすむ。
すぐに、濠端へ出た。
このあたり――つまり城の東面は、崖や谷間を利用して、ところどころに番所と城門をもうけ、石垣は少ないのである。
濠の彼方に、藤崎八幡宮の森がこんもりと闇に浮いて見えた。
藤崎八幡宮は、九州・五所別宮の一つで、鎮護の国・九州の霊社として古くからこの地にあり、鎌倉の時代《ころ》からいよいよ上下四民の尊崇をあつめたといわれる。
神体は、大菩薩であるそうな。
八幡宮のうしろから北側へかけて、熊本城・三の丸の曲輪であった。
濠の淵の茂みへしゃがみこんだ小平太が、
「しばらくは、このままで……」
と、ささやく。
うなずいた大介も屈みこみ、そのまま二人は呼吸をつめ、あたりの気配をうかがった。
それも、半刻(一時間)におよぶほどの長い時間を、である。
ようやく、
(だれにも見られてはいない)
との確信を得てから、小平太が腰をうかせ、大介を無言でうながした。
いい忘れていたが、小平太は細長くて軽い箱を抱えている。
うるしを塗りこめ、ふたをすれば、たとえ水中へ落しても、箱の中へ水がしみこむことがないように細工をしてある。
土手を下り、二人は、濠の水ぎわへ出た。
ここで、二人とも衣服をぬぎ捨て、全裸体となった。
黒い衣服は、小平太の箱の中へしまいこまれた。
その箱を抱え、小平太は音もなく、濠の水の中へ入った。
丹波大介も、水中へ入った。
そのまま、二人は濠を横断し、前面の崖の切れ目をつないでいる石垣の下へ、泳ぎついた。
そこでまた、二人は水からくびだけを出し、あたりの気配をうかがう。
石垣の上には城門があり、番所がある。
しかし、気づかれた様子はない。
小平太が大介へうなずいて見せた。
小平太が、水の中へもぐって行った。
小平太が左手に持つ細い竹杖を大介が右手につかみ、これもまた水中へ没した。
二人がもぐりこんだ深い濠は、崖と石垣によって二分されている。
奥の濠へ入りこむためには、どうしても、石垣と崖を越えねばならないのだ。
濠の水底から、小平太が石垣の一点へ、吸いこまれるように入って行く。
石垣が、小平太を呑みこんでしまった。
したがって、小平太の竹杖をつかんでいる大介も、石垣へ吸いこまれたことになる。
石垣の、その箇処に小さくて長い穴がうがたれていたのであった。
穴の中の水をくぐり、難なく二人は、石垣の向う側の濠水へ浮きあがった。
この濠をめぐる外郭の石垣や城門は、熊本城の工事の中でも比較的に早くすすめられていたようだが、
「肥後さまが、いつの間にか、あの石垣の抜け穴をつくられたのか……それは、お婆にもわからぬそうで」
のちに、小平太が大介へ語っている。
そこは、濠というよりも楕円形の大きな池といってよかった。
池の彼方に……つまり池の島の中に、武家屋敷が建っている。
「あの屋敷は、三千二百石をいただいている成田弥兵衛さまのものです」
と小平太が、例の読唇の術をもって、大介へ知らせた。
大介が、うなずく。
このあたりから、城の本丸にかけては、成田弥兵衛のみではなく、加藤家・重臣の邸宅が、びっしりと建ちならび、それが、茶臼山東面の傾斜を埋めつくしているといってよい。
その邸宅の一つ一つが、堅固な石垣と、崖と谷間を利用して、いざ、この城内で戦闘がおこなわれるときは、櫓ともなり、一つの小さな曲輪ともなって、敵をふせぐ役目を果すように出来ているのであった。
城内へ入って見て、
(いよいよ、この城は、ただの城でない)
大介は痛感せざるを得ない。
多数の櫓を一つとってみても、いずれもが、その石垣の要所にそびえ立つ小さな城の天守閣≠ルどに見える。
ことに、重臣・飯田覚兵衛が縄張りをしたという飯田丸≠フ櫓は五階もあり、立派に一城の天守とよんでさしつかえないほどのものである。
「では、まいりましょうか」
「この濠から、あがるのか?」
「ま、ついて来て下され」
小平太は、しずかに、濠の……いや、池の中央にくろぐろと見える、成田弥兵衛屋敷へ向って、音もなく泳ぎ出した。
ここまで入ると、諸将の邸宅も多いだけに、いくつもの番所や門があって、そこにはかならず、警衛の士が見張りに立っている。
成田屋敷の北側に、濠池の水を引きこむための、小さな水門がある。
これは、邸内の泉水《せんすい》へ水を引きこむためのものだ。
成田弥兵衛は鉄砲組の将官であるけれども、三千二百石という禄高から見て、この屋敷は、
(大きすぎるな)
と、丹波大介はおもった。
しかし……。
これものちにわかったことだが、公式の名称でなく、池の中の成田屋敷を、加藤家では成田丸≠ニ、よんでいる。
丸≠ニいうからには曲輪≠フことで、いわば熊本城の一拠点という意味をもつ。
それはつまり……。
戦闘のときは、この成田屋敷が鉄砲隊≠フ陣地になるのである。
だから邸内には、鉄砲組の武士や足軽たちの住居もふくまれていて、城郭としての防備施設も充分にととのえられている。
これがために、成田屋敷は宏大なのであった。
さて……。
小平太にみちびかれるまま、大介も水門の際へ泳ぎついた。
水門の内側に番所があり、番士が交替で、日夜をつめきっている。
水門の番士は、鉄砲足軽・青山|文介《ぶんすけ》ほか二名のうけもち≠ナあった。
小平太が水から顔を出し、かすかに、合図の指笛を吹き鳴らした。
と……。
番所の小窓が明き、番士の顔がのぞいた。
小平太が、低く、
「杉」
と、声をかける。
とうなずいた番士が「谷」とこたえ、すぐに窓の内へかくれた。
間もなく……音もなく、水門の戸が二尺ほど引きあげられた。
小平太と大介は、またも水底へもぐりこみ、隙間ができた水門の下から邸内へ泳ぎ入った。
入ると、左手に番所があり、右側は石垣である。
小平太が、大介へうなずいて見せ、水から這いあがり、番所の戸口へ立つか立たぬかに、戸が|するり《ヽヽヽ》と開く。
二人は間髪をいれず、番所の中へ吸いこまれた。
「や、青山殿か……」
小平太が、番士を見て、
「ちょうど、よろしかった」
うなずいた番士は、青山文介だ。
小肥りの、温和な顔貌をした中年男である。
青山が大介を見た。
小平太が、
「丹波大介でござる」
と、引き合せた。
青山文介は、大介へにこりと笑いかけてきた。
大介も微笑をうかべ、あたまを下げる。
青山が小平太とうなずき合い、番所の外へ出て行った。
「小平太。ここに青山文介殿がおらぬときは?」
「いえ、ここの番士三名には、いずれもつなぎがついています」
「そうか……」
「さ、早う……」
小平太は、これまで持ち運んできた箱を開け、中から鍵を出し、番所の戸棚の錠を外した。
戸棚の中に、これも箱が入っている。
箱のふたを開けると、武士の衣服と大小が二組、しまいこまれていた。
二人は、これを身につける。
その上から、丈がひざ下におよぶ筒袖の羽織を着た。
この羽織は、加藤家で鉄砲羽織≠ニよばれてい、鉄砲組の制服といってもよい。
灰色の地へ、ふとい白線を二本、肩から袖にかけて浮き出させたものであった。
そこへ青山文介が、別の鉄砲足軽・滝葛兵衛をつれて入って来た。
「や、これは……」
と、滝が小平太と大介へあいさつをする。
すでに小平太とも、顔見知りになっていることがわかる。
「では、まいりましょう」
と、青山文介が大介と小平太にいった。
青山は、手に鉄砲組の箱提灯を提げている。
青山の後について、大介・小平太が成田屋敷の裏門から出たのは、それから間もなくのことだ。
眼の前に、通路をへだてて城戸があり、番所がある。
青山が番士へ門鑑を見せると、難なく通りぬけられる。
これで、大介にもわかった。
加藤清正は、成田弥兵衛へのみ、杉谷のお婆と小平太の使命を明かし、弥兵衛の屋敷によって、城の内外をむすぶことにしたのであろう。
外から小平太が、秘密の抜け穴を一つだけくぐり、成田屋敷へ達すれば、あとはもうめんどうなこともない。
足軽といえども青山文介は、主君・加藤清正の愛寵がふかく、鉄砲の名人である上に馬術も巧妙なもので、清正が領内巡見の折などは、かならず彼を供にする。
そのときは青山、特別に騎乗をゆるされるのだそうな。
そうした彼の人格は、いくつもの番所をぬけるたびに、青山とあいさつをかわす番士たちの態度を見ても、すぐに察知することができた。
加藤清正の居館は、本丸・南面の台上にあった。
居館は、高い石垣にかこまれてい、月見櫓をはじめ、五層、三層の櫓がそびえ立ち、ふかい木立につつまれていた。
青山文介は、十八間櫓の門から二人をみちびき入れた。
青山の所持している門鑑は特殊なものらしい。
何年も前から、この門鑑を加藤清正にあたえられている青山は、清正のまねきに応じ、深夜といえども奥御殿≠ヨの参入をゆるされていたものだ。
成田弥兵衛や、青山文介へ対する加藤清正の信頼は、よほどに深く、大きいものと見てよい。
番士たちは、青山のうしろについている大介と小平太の顔をあらためようともしないのである。
そこは……。
両側を石垣にかこまれている通路であった。
「では……」
青山は小平太に声をかけ、どこかへ去った。
大介と小平太は、用意の鉤縄を左側の石垣へ投げあげた。
引きかかった鉤縄を両手につかむや、そこは手練の忍び二人、夜の闇を切って宙へ舞い上る。
石垣を越えると、そこは奥女中たちの起居する建物の裏手であった。
この建物の一角に、老女・千代になりきった杉谷のお婆が、女中たちの総取締りとして住み暮しているのだ。
ここまで入りこめば、小平太ではないが、
「|らく《ヽヽ》なものです」
なのである。
やがて……。
二人は、杉谷のお婆の寝所へ、微風のごとく忍び入った。
入った瞬間に、
「大介どの。来やったのう」
なつかしい杉谷のお婆・於蝶の声がかかった。
さすがにお婆・早くも二人が廊下の闇の中を近づいて来るのに気づいていた。
「お婆どの」
「さ、これへ……」
「いささかも変っておりませぬな」
「熊本の水が、この老体に合うたものと見ゆる」
笑ったお婆が、小平太に、
「お前は帰ったほうがよいぞや」
「はい」
「明後日の今頃、ここへ、大介どのを迎えに来やれ」
「心得た」
小平太は大介へ一礼し、寝所から去った。
「ま、今夜は、ゆるりとここにねむったがよい」
お婆が、大介にそういった。
丹波大介が、加藤清正へ目通りをするには、むしろ、
「明日の昼すぎがよい」
と、杉谷のお婆はいうのである。
夕方から朝にかけて、清正の寝所のまわりの警備は、非常にきびしくなってきているらしい。
「さ、ここへ入ったがよい」
お婆が、自分がすわっている夜具をあげ、大介をまねくではないか……。
大介は苦笑をもらした。
「なにを笑うのじゃ、大介どの」
「いや、別に……」
しかし、なんとなく|ためらい《ヽヽヽヽ》を生じている大介なのである。
もはや七十に近いはずの杉谷のお婆であるけれど、女は女だ。
寝床を共にするのは、なんとなく、こそばゆいおもいがする。
「ほ、ほ、ほ……」
お婆がそれと察したらしく、妙に、なまめいたふくみ笑いをして、
「大介どのよ」
「む……」
「まさかに、取って食おうとはいわぬ。安心して入って来やれ」
「わかった」
大介も、こうなって尚、遠慮をするのは却っておかしい、と、おもった。
するりと、お婆の横へ入るや、お婆が大介を抱きつつむようにして、夜具をかけてくれる。
なにか、甘酸っぱいにおいが、夜具の中にこもっている。
(これが、お婆の……)
体臭なのか、と、大介は瞠目をした。
成熟した女の肉体から発散するにおいなのである。
「ほ、ほほ……」
「お婆……」
「むかしを、おもい出したぞや」
「なんと……?」
「大介どののような、好いたらしい男と共寝をするなぞ、何年……いや二十年ぶりのことであろうかの……」
「お婆。|いろう《ヽヽヽ》のはよしてくれぬか」
「そうではない」
「え……?」
「ま、ここを……」
いいつつ、お婆が大介の手をつかみ、おのが胸の中へすべりこませた。
「あっ……」
またも大介は、驚愕したものである。
七十に近いお婆の乳房が、ふっくりと、ふくらんでいるのだ。
そして、その肌の感触も三十女≠フものであった。
「ほ、ほほ……」
お婆のふくみ笑いが、いちだんと若やぎ、
「どうだえ、大介どの……」
ささやく声が、がらりと変った。
丹波大介、このように胸がさわいだことも、かつてないことだ。
この夜のことを、丹波大介は生涯忘れることができなかった。
杉谷のお婆の体臭は、いよいよ蠱惑《こわく》的な密度を増し、その香りは大介を惑乱させずにおかなかった。
これまでに、こうした香りを大介は知らない。
おそらく、南蛮渡来の香料を全身にぬりこめてでもいるのか……。
「今夜は、なにも彼も、忘れたがよい」
お婆のささやきにも、若さがみなぎり、
「忘れたがよい、忘れたがよい……」
呪文のようにくり返して、ささやくその声をきくうち、大介はもう、何も彼もわからなくなってきてしまったようだ。
「お婆……」
「於蝶とよんで……」
「お、於蝶……」
「あい……」
まろやかな、お婆の双腕《もろうで》が、しっくりと大介のくびを巻きしめてきた。
だが……。
さすがにお婆は裸身を見せぬ。
けれども、寝衣からみだれこぼれるお婆の肌は、しっとりとしめっていて、大介の肌を吸いこむようにおもえた。
お婆のくちびるはぬれぬれと肉がみちていて、大介の口を飽くことなく吸いつづけた。
大介は、魔界の悦楽へ全身を投げこんだようになり、無我夢中となった。
やがて……。
杉谷のお婆が、大介から身をはなし、
「まだまだ、若い女には負けぬ」
自信にみちて、つぶやいた。
大介は放心している。
「これ……これ、大介どの」
急に、お婆の声があらたまった。
「いまのことは、たがいに忘れましょうの」
「あ……」
「しっかりとせぬかえ」
「お婆……」
「よい、よい。もう、よいわえ」
声が、もとのお婆のものになった。
「さて、大介どの。上方の様子をきかせてもらおうかの」
「む……」
ようやく、大介も自分を取りもどした。
同じ寝床に横たわりつつ、大介が語るをきき終え、杉谷のお婆は、長い長い沈黙にとじこもった。
その沈黙は半刻(一時間)もつづいたのである。
そして、お婆はいった。
「まだ、のぞみがなくもない。したが、これはどこまでも、大坂城のおふくろさまの、こころひとつにかかっておるのじゃわえ」
そのとき、杉谷のお婆の双眸が、にわかに妖《あや》しい光りをたたえはじめたのを、大介は見のがさなかった。
「のう、大介どのよ」
お婆が大介から視線を外し、凝と天井を見上げた。
大介は、お婆のつぎの声を待ったが、お婆は黙りこんでしまった。
(いま、お婆どのは何をおもいついたのだろうか……?)
もしや、
(おれと同じことを、お婆は考えているのではないか……)
ややあって、大介も暗い天井を見上げたままで、
「お婆の胸のうちを、あててみてもよいか?」
「なに……?」
「口にのぼせることではないのだが……」
「おもしろい。いうてごらん」
「お婆は、大坂の城におわすおふくろさまを、ひそかに……」
いいさして、大介がお婆の横顔を見やると、その顔がはっきりとうなずいた。
それは……。
豊臣秀頼の生母・淀の方を、暗殺してしまうのが、
(豊臣家のためには、もっともよい)
と、お婆は考えていることになるし、大介も同様であった。
「あの、おふくろさまが生きてあるかぎり……たとえ、こたびは戦さをまぬがれたとしても、つぎにまた、関東(徳川)のさそいにのって、むざむざと負くる戦さに、大坂方はくびを突きこむことになるであろ」
お婆が、しみじみというのである。
(たしかに……)
と、大介もおもう。
淀の方の、関東へ対する虚栄と、過去の栄光をなつかしみ、これを今一度わが手にとおもうこころは強く、烈しい。
淀の方が……大坂の豊臣勢力が完全に、自分のもとへあたまを下げ、臣下の誓いを現実の上で見せぬかぎり、
(断じてゆるさぬ!)
と、徳川家康は決意しているにちがいない。
「わしは、な、大介どのよ」
「うむ?」
「大坂のおふくろさまは、大御所・家康の老齢を見こし、死ぬる日も間近い、と、考えているにちがいないとおもうのじゃが……」
「いかさま」
「なればこそ、こころの張りもつよくなってくる。わが子の右大臣(秀頼)と大御所の年齢をくらべて見るとき、おふくろさまは、いま少しの辛抱をすれば大御所が亡くなり、そうなれば天下の大名をふたたび、豊臣家のもとへ群れあつめることもできる、とおもいこんでおるのじゃわえ」
しかし、その淀の方の胸の中を、もっともよくわきまえているのが、徳川家康なのだ。
家康はいま、七十の坂へ足をかけようとして、尚も健康である。
けれども、この老年に達したからには、(二十年前には、わけもなく乗り切ることができた病気《やまい》に勝てぬ、ということもあり得る)
と、家康は決してゆだんをしていない。
(おふくろさまのおもうところへ、はまりこんでなろうか)であった。
わが眼のくろいうちに、家康は、徳川政権にとって邪魔になるものは、一粒の塵《ちり》でも、
(見のがしてはおけぬ)
の決意を抱くにいたっている。
「さて、大介どのよ」
「なにかな?」
「明日、おぬしは殿(清正)へお目にかかることになる」
「いかにも」
「そこでじゃ」
「え……?」
「よくよく、殿の肚の内をうかがってくることじゃの」
「それは……」
「ま、ききやい」
お婆の声が押しころしたようになった。
「殿が、心血をそそいで築きあげたばかりの熊本の城を出て、他国へ移ってもよいか、どうか、そこを|しか《ヽヽ》とたしかめることじゃ」
大介は、息づまるようなおもいがした。
杉谷のお婆は、先の先まで見通している。
高台院や加藤清正の尽力によって、来春の家康上洛の折、秀頼があいさつに出向き、徳川家の旗の下にしたがうことになったとき、家康は、秀頼を大坂から出し、たとえば九州のような遠国へ移してしまうやも知れぬ。
そのとき、これだけのすばらしい城郭をもつ加藤清正が、同じ九州の地にいることを、
(大御所は、ゆるさぬであろ)
と、お婆はいっているのだ。
大恩ある太閤秀吉の遺子のために、ちからつくすことが、とりも直さず、清正を九州から追いはらうことになる。
そこのところを、清正が、
(なんと考えておられるのか?)
であった。
「なれど、お婆。秀頼公を九州へ移すとは決まっていまい」
と、大介がいった。
上方と関東をはなれた遠国《おんごく》というのなら、東北の国々もある。もしくは、徳川の本拠に近い国へ封じこめ、徳川幕府みずからが秀頼を見張ってもよいのではないか……。
お婆が、うすく笑い、
「これほどの城を、家康が見のがすものか……」
清正につくらせておいて、結局は自分がうばい取ってしまう。
家康にしてみれば、これほどうまいことはあるまいが、そうした家康のこころを見ぬけぬ加藤清正でもあるまい。
「殿は、なにゆえに、これほどの城をきずかれたのか……」
「大介どのよ。見たか、この城を……」
「石神山から、のぞみ見たときには、おもわず、声をあげてしもうた……」
「まことにのう……わしも、これほどの城を見たことがない。むかし、忍びばたらきして、織田信長の安土や岐阜の城へも入りこんだことがあるなれど……戦さ城としては、とうてい、熊本の城におよびもつかなんだわえ」
「そうか……」
「この城へ、殿がたてこもられたなら、いかに関東の大軍が押し寄せても、とてもとても、城を落すことはなるまい」
「うむ、うむ……」
お婆が見るところによれば、加藤清正はじゅうぶんに、その自信をもっている、という。
それはつまり……。
清正は、それだけの準備をしておいて、家康に、
(豊臣家の安泰をねがっている)
ことになるのではないか。
では、もし、その清正のねがいがききとどけられなかったとき、清正はどうするか……?
丹波大介の血が、にわかに、わきたった。
(殿は、そのときこそ、関東を相手に戦うおつもりなのか……)
となれば、
「秀頼を九州へ移す。お前は九州を出よ」
などという家康の命令を、清正がむざむざときくはずがない、のではないか……。
「お婆……」
「したが大介……どちらにせよ、大坂のおふくろさまは、秀頼公のおためにも、殿のおためにも、世のためにもならぬわえ」
「どうする?」
「ひそかに、あの世へ旅立ってもらうのなら、おぬしと、このお婆の胸三寸に、このことを秘めておかねばならぬ。いざともなれば、わしがおぬしと共に、大坂の城へ忍び入ってもよい」
九州から帰ったなら、高台院の供の一人へ加わり、大坂城へおもむくことになっている、と、大介からきいたとき、杉谷のお婆は、にんまりとうなずき、
「手がかり、足がかりをつくっておくことじゃな」
と、いった。
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主計頭清正
夜が明けると……。
「しばらく、ここに入っておじゃれ」
と、杉谷のお婆が、寝間の一隅にある、大きな飾り戸棚≠フようなものを指し示した。
いかにも、がっしりとしたつくりの置き戸棚なのだが、その細工といい、意匠といい、日本でつくられたものでないことは、大介に一目でわかった。
「殿が、朝鮮へ出陣された折、彼国《かのくに》の人から贈られたものじゃそうな」
お婆がいって、戸棚の戸を引き開けた。
中には何もなく、人ひとりがゆっくりと入れる。
「さ、入りなされ」
いいつつ、お婆が手をさしのべ、戸棚の底板の一箇所の桟を外し、底板を引き起したものである。
底板の下に、|ぽっかり《ヽヽヽヽ》と穴が口を開けていた。
「わしが、合図するまで、その下にいなされ。うごかぬようにの」
「心得た」
底板の下の穴へ、大介は、なめらかに身をすべりこませた。
その頭上へ、お婆の手が底板を押し閉めてしまう。
そこは、お婆の寝所の床下である。
ゆっくりとすわっていられるほどに床高が高かった。三尺あまりはあろう。
外まわりにもかこいがしてあるので、外の様子は何も見えなかった。
床下はひろいが、ところどころに、石や木材で仕切りがしてあるようだ。
どれほどの時がすぎたろう。
外がこいの細い隙間から、床下へさしこんでくる陽光が明るかった。
時折、太鼓の音がきこえてくる。
家臣たちの登城の時刻やら、種々の日課を告げるためのものらしい。
急に、頭上の底板が開いた。
「おあがり」
お婆が、にぎりめしを二つ、黒ぬりの小さな盆にのせ、竹製の水筒へ入れた白湯《さゆ》と共に、床下へ下げおろしてくれた。
「すまぬ」
「いま、すこしの辛抱じゃ」
「よいとも」
また、底板がしまった。
にぎりめしは味噌がぬってあり、その上から火で焙《あぶ》ってある。
たとえようもなく、おいしかった。
にぎりめしを食べ終えて間もなく、またも底板が開き、杉谷のお婆が、
「よし。すまぬが、這うて行ってもらおうかの」
「なんでもないことだ」
「床下をどこまでも行くと、石積みの壁のようなものに突き当る。そこで、待っていてくだされ」
「心得た」
大介は、いわれる通りに、這ってすすみはじめた。
長い床下であった。
やがて……。
お婆が指示した石積みの壁へ突きあたった。
石積みと石積みの間が、幅二尺ほどの板張りになっている。只の板張りではなかった。
鉄鋲《てつびよう》をいちめんに打ちつけた厚い板戸なのである。
そこへ、大介がうずくまってから、しばらくして、
(あ……?)
この板戸が少しずつ、うごきはじめたではないか。
そして、板戸がすっかり、右がわの石積みの壁の中へ吸いこまれてしまった。
ぽっかりと、黒い穴が開いたようなものである。
その穴のどこからか、
「大介どの……」
杉谷のお婆の声が、あくまでも低く、きこえてきた。
「おれは、ここに……」
「よし。そのまま、すすみやれ」
「うむ……」
大介が中へ入った。
うしろで、また板戸が石の壁から出て来て、ぴたりと閉ざされた。
「お婆……」
「まっすぐに行きやれ」
お婆の声は、大介の頭上からきこえる。
床の上のどこかにいて、お婆が、この床下の|仕かけ《ヽヽヽ》をあやつっているにちがいない。
大介は、ゆっくりと這ってすすむ。
(この仕かけは、お婆が、この城へ住むようになってからもうけられたものだろうか……?)
それにしても、さすがに杉谷の於蝶と加藤清正である。
昨夜からのことを考えると、
(これならば、加藤家の家臣の間にも、われわれのことが洩れるはずはない)
と、大介も確信をふかめざるを得ない。
これまでの関東(徳川)のやりくちをおもえば、加藤家の中に、何年も前から、関東の忍びが家来に成りきって潜入していることも、じゅうぶんに考えられる。
暗い床下の前方に、陽の光りが射した。
(まだ、すすんでよいのか?)
大介は、こころみに、
「お婆……」
そっと呼んでみた。
が「とまれ」とは、いわれていない。
意を決して、大介は尚も這いすすむ。
床下の彼方に奥庭の植込みが見えた。
このあたりは、もはや秘密の場所ではない、と見てよい。
丹波大介は、床下が切れるところまで這いすすみ、戸外をうかがった。
まさに、奥庭である。
床下のすぐ前の植込みの向うに、芝生をへだてて茶室がのぞまれた。
わら屋根の小さな茶室のまわりは、竹林であった。
と……。
その茶室の、白い障子が内側から開いた。
(あ……)
大介は、そこに、はっきりと、加藤主計頭清正の、なつかしい顔を見たのである。
清正も、こちらを凝と見つめている。
大介が、床下から顔を出した。
清正はこれをみとめ、にっこりと笑いかけ、つよくうなずき、手まねきをする。
「は……」
三カ月前に、名古屋の万松寺で見たときより、加藤清正の顔はめっきりと老《ふ》けこんでいるようにおもえた。
床下から出た大介が、音もなく走って茶室へ近寄るや、
「中へ……」
と、清正が声をかけた。
「はっ」
すべりこむように、大介が茶室の中へ入り、障子をしめる。
「ここへは、たれも来ぬ」
と、清正がいった。
両手をつかえて大介が、
「おそれいりましてござります」
「うまく仕かけてあろうが……」
「はい」
「お婆の指図じゃ」
清正が笑った。
森閑とした初冬の静寂《しじま》の中に、釜の湯が音をたてている。
「年が明けたなら、すぐさま上洛のつもりじゃ」
「はい」
「その前に、何かきいておくことでもあったのか?」
「いえ……私めは、この御城を一度、この眼に見ておきたかったのでござります」
「ほう……」
清正が、白いものがまじった自慢のひげを撫でて、
「見て、なんとおもうたぞ?」
「戦さの御城でござりますな」
清正は、こたえなかった。
しずかな表情が、いささかもくずれていない。
ややあって……。
「城は、いつの世にも戦さのためのものじゃ。また、そのつもりにて築くべきが当然《まこと》であろう。この清正のみのことではあるまい」
と、清正がいった。
なるほど、加藤清正のことばは道理である。
しかし、いまの大介にとっては、これほどまでに、はっきりと、清正が熊本城のことを、
「戦さの城」
であるといいきったことに、異様な感動をおぼえずにはいられなかった。
大介の顔に、見る見る血がのぼってきた。
清正は、しずかに大介を見まもっている。
二人とも、しばらくは沈黙したまま、たがいの眼を見つめ合っていたのである。
そのうちに……。
丹波大介は、
(なにもかも……)
わが胸のうちになっとくができたようになってきて、杉谷のお婆から、
「殿に、|しか《ヽヽ》とたしかめておくことじゃ」
と、念を入れられたことも、
(もはや、問うまでもない)
とまで、おもうにいたったのであった。
加藤清正が、こころの底におもいきわめていることのすべてが、この沈黙の間に、
(すべて、わかった……)
ような気がした。
知らず知らず、丹波大介は、あたまをたれていた。
大介の両眼に熱いものがあふれはじめた。
清正は、まだ、だまったままで大介を見まもっている。
その清正の沈黙が、なおさらに、大介の確信をふかめた、といってよいだろう。
(ああ、殿は……やはり、そこまで、おもいきわめておわしたのか……)
であった。
そのことが、大介を感動させた。
加藤清正は、これまで誠意をこめ、労苦をつくして、徳川家康のために奉仕をつづけてきた。
しかし、太閤秀吉・豊臣秀頼への忠誠≠ヘ微動だにしていない。
天下に、ふたたび戦乱が起ることは、決してのぞまぬ清正であるけれども、これまでに自分が奉仕した誠意を、もしも関東がふみにじろうとするなら、
(殿は、一歩も退《ひ》かぬおつもりだ)
と、大介は見きわめた、おもいがしている。
「大介よ……」
ようやくに、清正の声が大介の頭上できこえた。
「ま、おもてをあげい」
袋床の傍の炉にかかった釜へ、加藤清正はすわり直していた。
大介に、茶をたててくれようというのである。
肥後熊本五十四万石の大守が、他の大名たちにはさげすまれている忍びの者に、手ずから茶を点じてくれようというのだ。
(この殿のおんために、おれは死のう)
と大介は、その瞬間に決意をした。
古めかしい感傷ではない。
むかしの甲賀の忍びたちは、みな、この感動がなくては、決して、いのちがけの忍びばたらきをしなかったものなのだ。
人と人の熱い血の交流がなくなった人間の世界≠ノ、なんで、わがいのちをかけられようか……。
一わんの茶を、大介がのみ終えたとき、加藤清正の黒々と張った両眼が|ひた《ヽヽ》と、こちらを見つめてい、
「たのむぞよ」
やさしい清正の声が、大介の耳をうった。
「ははっ……」
「明年の春じゃ」
「はい……」
「なんとしても、右府《うふ》さま(秀頼)に上洛していただかねばならぬ」
「はい……」
「たのむぞよ」
「大介、身にかえましても……」
「わしも、じゃ」
うなずいた清正は、
「その先のことは、いまここで、おもうにおよばぬ」
「はい」
「そのときどき、機に応じて事をおさめてゆくのみじゃ」
「心得まいた」
「で……いつ、帰る」
「もはや、何もおもいのこすこととてござりませぬ。明日にも……」
「いや、待て」
「は……?」
「明日一夜、千代と共に酒くもうぞ」
「おそれいりたてまつる」
「くれぐれも、かるがるしゅううごいてくれるな」
この清正のことばに、大介が、|はっ《ヽヽ》と顔を上げた。
清正の顔に、苦笑がただよっている。
|とっさ《ヽヽヽ》に、大介は何をいわれたのか、よくわかりかねたが、つぎの清正の声に、全身がふるえ出し、ひれ伏すよりほかはなかったのである。
加藤清正は、こういった。
「お婆ともいろいろ、語り合うたことであろうが……大坂の城におわすおふくろさま(淀の方)に、決して害を加えてはならぬ、と、申すことじゃ」
清正は、杉谷のお婆と大介が、ひそかにおもいめぐらしている大事≠、早くも感じとっていた。
その洞察力は、おそるべきものといわねばなるまい。
大介は、いつまでも顔が上げられなかった。
「よし、よし……」
清正のやさしい声が、大介の頭上できこえた。
「おそれいり……」
いいかける大介に、
「もはや、何も申すな」
と、清正がいった。
「はっ……」
「申しては、味ないことになるぞよ」
「ははっ……」
清正のいうとおりである。
お婆と大介の密計は、豊臣秀頼の生母・淀の方を、
「暗殺すること」
なのである。
「わしが、この世にあるうちは……」
と、清正がいいかけ、
「大介。おもてをあげよ」
「はっ」
おそるおそる顔を上げた丹波大介へ、もう一度、清正が、
「わしが世にあるうちは、大坂のおふくろさまのおもうままにはならぬ」
決然としたものが、清正の顔にも声にあらわれている。
|いざ《ヽヽ》となれば、どのような手段を講じても、淀の方が気ままに関東に反抗することを、
(ゆるさぬ!)
と、清正は考えているらしい。
加藤清正も、これまでに淀の方から手ひどいあつかい≠うけてきている。
上洛するたびに、大坂城の秀頼のきげんをうかがいに出ても、淀の方はこれをこころよくおもわず、秀頼との面会を何度も阻《はば》んできた。
清正にしても、愉快ではなかったろう。
それだけに、来春の秀頼上洛のことについて、清正は期するところがあるらしい、と、大介はみてとった。
やがて……。
大介は茶室を辞した。
もどるときも、出て来た床下へ入る。
床下の石の壁のところまで這って来て、しばらく待っていると、
「大介どの……」
頭上から、お婆の声が落ちてきた。
「お、ここじゃ」
「よし」
板戸が、きしみはじめ、開いた。
くぐりぬけると、板戸が閉まる。
大介が、お婆と打ち合せてあったように、ふたたび、飾り戸棚の下の床下にうずくまっていると、戸棚の底板が、しずかに開いた。
お婆の部屋の中に灯がともっている。
いつの間にか、夕闇が濃くなっていたのであった。
お婆は、熱い粥の用意をしてくれていた。
酒も出してくれる。
「すまぬな」
「なんの……内密の客ゆえ、|ろく《ヽヽ》におもてなしができぬ」
「うまい」
「ここに焼味噌もあるぞや」
「うむ」
「ときに……どのような談合であったな?」
とお婆は、昨夜、大介を愛撫したことなどは|けろり《ヽヽヽ》と忘れてしまった顔つきで、
「殿は、なんと申された?」
「それがお婆。おどろいたぞ」
「なんと……?」
「大坂のおふくろさまのことだが……」
と、大介がすべてを語るや、杉谷のお婆は、さしておどろいた様子もない。
「そうか……」
にんまりと笑って、うなずく。
「お婆。おどろかぬのか?」
「いやいや、それほどのことを、あの殿なら考えておわすことに、すこしもふしぎはあるまい」
「それは……そういわれれば……」
「わしが昨夜、おぬしに申したのは、な……」
「うむ?」
「殿の御意向がいかがあろうとも……わしと大介どのが、事をおこなうときはおこなうのじゃ」
「え……?」
またも、大介は瞠目をした。
「ふ、ふふ……」
いつものお婆のふくみ笑いが、むしろ不気味であった。
「世の中が変ってくると、忍びの考えまで変ってくる、……いや、大名や武士たちのおもうことが、みな狂うてしもうたわえ」
お婆の眼がきらきらと光りはじめ、
「むかし……と申しても、このお婆が若いころまでは、甲賀忍びのはたらきは、いざというときになると、いちいち頭領さまの指図をうけなくとも、おのれひとりの判断で事を決したものじゃ。たとえば、戦場の中で敵ともみ合い、激しく戦う最中《さなか》に、いちいち総大将のことばを待っていられようか、どうじゃ?」
「そ、それは……」
「それと同じことよ」
「なれど、お婆……」
「かまわぬことじゃ!」
|ぴしり《ヽヽヽ》と、お婆が、
「殿のおんためによし、と、われらがおもいきわめたときは、大坂のおふくろさまにあの世に旅立ってもらおうぞ」
大介、ことばが出ない。
「それほどの決心がのうては、なんで甲賀の忍びといえよう。これ、しっかりせぬかや、丹波大介どのよ」
あまりにもすさまじい、杉谷のお婆の闘志であった。
大介は圧倒された。
(なるほど……)
このとき、大介はおもった。
忍びの者として、甲賀の中でもそれと知られた丹波大介ではあるが、
(ああ……とても、お婆にはおよびもつかぬ)
なのである。
むかしの、すぐれた忍びたちは、これだけの独断と自由をゆるされていたのであろうか……。
しかし、その結果が間ちがっていたとなれば、もちろん、独断決行をした忍びは責任をとったにちがいない。
それも一通りや二通りの仕方ではない方法≠ナ、わが判断のあやまりを、
(わびたにちがいない)
のである。
それにしても、杉谷のお婆のような忍びたちが縦横に活躍をしていた戦国の時代の、いまも尚、大介たちの耳へ語りのこされている大名や武将たちの闘争の底には、どれほどにすさまじい忍びばたらきが隠されていることか……。
それは、大介などが、
(およびもつかぬ……)
ほどのものであったろう。
武田、上杉、北条、織田、豊臣などの大名たちがくりひろげていった戦陣の歴史は、
(むしろ、忍びたちがうごかしてきたのではあるまいか)
そのことが、大介を昂奮させるのである。
「ふ、ふ、ふふ……」
また、お婆が笑い、大介の顔をのぞきこむようにして、
「どうじゃ……?」
と、問うた。
早くも大介の想いを感じとったらしい。
「お婆……」
大介の両眼は血走っていた。
「うむ、うむ……」
何度もうなずきつつ、お婆が、
「やろうぞ、大介どの」
「うむ……」
「わたしたちのはたらきで天下が変る。そこまで仕てのけねば、忍びばたらきする甲斐がないぞや」
「やろう、お婆」
「なれど、急ぐことはない。大坂のおふくろさまにあの世へ行ってもらう、と、決めこむこともないが……すべては、その場の成行きしだい。なれど、大坂城内の様子は、くわしゅうさぐっておいて下され」
「わかった」
三日後に、丹波大介は熊本を出発した。
そして小平太もまた、熊本の家を閉ざし、大介と共に熊本を去ったのであった。
加藤清正も、家臣たちへ上洛≠フ準備を命じた。今度は杉谷のお婆も清正の行列へ加わることになっている。
さて……丹波大介が熊本へあらわれたのを機に、加藤清正の挿話を二、三、のべてみたい。
加藤清正のみではなく、当時、天下に名を知られるほどの大名・武将ともなれば、われわれがおもいもよらぬほどに神経《こころ》がこまやかで、人の情にも通じていたようだ。
加藤清正が旅行中の態《さま》は、輿《こし》に乗るときも、裁《た》ちつけの袴をつけ、わらじをはいたままであったという。
それも、よほどのときでないと輿へは乗らず、
「輿や馬よりも歩いたほうが、気もはればれとする」
と、行列の先頭に立ち、よく歩いたものだそうな。
その服装も、まことに質素なものであったから、清正が行列の先頭に立って行くと、まるで、行列の中の家来の一人のように見えたという。
こうしたとき、足軽の百右衛門というのが、いつも清正のすぐうしろについて歩く。
百右衛門のくびには、真紅のひもでむすばれた金銭一貫・銀銭一貫が掛けられていて、清正はこれを現代でいう道中のチップ≠ノしていたようだ。
銭が無くなれば、すぐに補充して百右衛門のくびに掛けさせるのである。
あるとき、中山道を江戸へ下る道中でのことだが、次のようなことがある。
美濃の国の大井というところへさしかかったとき、道に盲目の女乞食がすわりこみ、しきりに物乞いをしている。
このときも行列の先頭にいた加藤清正が、
「百」
と、よび、盲目の女乞食へ銭をあたえよ、と目顔でいうや、百右衛門が、
「偽のめくらやも知れませぬ」
すると女乞食がすり寄って来て、
「わたくしめは、めくらの身で、はたらくすべもなく、老いた母親を養わなければなりませぬので……まことに、恥ずかしいことながら、こうして、物乞いをしているのでござります」
と、いった。
しかし、百右衛門は、どうもうたがわしい、と、しきりにいう。
清正は笑って、
「では、向うで畑仕事をしている百姓に、この女の身の上を問うて見よ」
「はい」
百右衛門が駈けて行き、問い正してみると、女乞食のことばにうそはなかった。
「わかったなら、それでよし」
と、清正が百右衛門に、
「金はたいせつなものゆえ、お前が、こころをつけてくれることはうれしいとおもう。なっとくがいったなら、銭をあたえよ」
と、いった。
このとき、さらに清正は、百右衛門を畑の百姓のもとへ走らせ、
「女乞食に銭をあたえたが、無事に家まで送りとどけてやるように」
と、いわせている。
盲目の身で、当時は貴重な通貨を持っていては、危険だ、と考えたものであろう。
百右衛門は独断で、その百姓の名をたしかめ、これにも礼のしるしとして銭をあたえ、女乞食を送りとどけさせた。
清正は、
「百。よう出来た」
と、百右衛門の処置をほめ、にっこりと笑った。
また……。
加藤清正が尾張の国・中村の生まれであることは、すでにのべておいたが、旅行中に、尾張を通るときは、かならず故郷の中村へ立ち寄ったものである。
そのときは、ま新しい桶《おけ》を三、四十も、わざわざつくらせておき、この中に餅を山のように積みあげ、道へ出迎えた村人たちへ、
「さ、とれ。とってくれい」
と、すすめた。
桶も、そのままあたえる。
当時は、水を汲むにしても、物を運ぶにしても、桶のない生活は一日も成りたたない。
清正は、そのことをよくわきまえていて、実用的な入れものに餅を入れてあたえたのであろう。
関ヶ原戦後は、あれほどたびたびに江戸へ下っていた清正が、その往復に立ち寄り、新しい桶を寄附してゆくのだから、当時、中村の人びとは、ほとんど桶を新調せずにすんだ。
中村へ立ち寄ると、村の老人をいちいち近くへまねき、
「おう、鍛冶《かじ》屋の宗《そう》か。元気でよいな」
とか、
「や……孫左のところのお婆か。達者でけっこう、けっこう」
声をかけつつ、銀子《ぎんす》一枚ずつあたえるのを常とした。
また、あつまってきた子供たちへも、
「これは、どこの子じゃ、これは、だれの孫じゃ」
と問いかけ、次に来るときは、かならず、その子たちの顔も名もおぼえていて、
「大きゅうなったな」
銀子一枚をあたえ、あたまを撫してやる。
自分の領国でもない中村のことを、加藤清正は終生忘れなかった。
晩年に、中村をおとずれるときの清正の両眼は、道の彼方の出迎えの村人たちの姿を見るや、たちまち、熱いものにぬれつくしたそうだ。
加藤清正が旅行中に、
(これは……)
と、眼をつけた者を、わが家来に召し抱えたことはめずらしくない。
こんなはなしもある。
伏見に近い美須というところに弥次右衛門という三十男の百姓が住んでいた。
この弥次右衛門、なかなかに心がけのふかい男で、寝間の窓にはめこんである竹の桟の一つ二つを、いつでも自由に引きぬけるよう、細工をしておいた。
ある夜。
弥次右衛門の家へ、盗賊が九人も押しこんで来た。
弥次右衛門は、そっと女房を起し、
「あわてるな」
と、ささやき、窓の竹桟を二つ外し、女房を先に戸外へ出してから、戸棚を開けて脇差をつかみ、自分も窓から出た。
それから、女房を裏手へまわし、
「それ、大声をたてろ。たてたら逃げろ」
といい、女房が悲鳴をあげたものだから、中へ忍びこんだばかりの盗賊どもが、あわてて、表口から外へ出て来るところを、待ちかまえていた弥次右衛門が、
「えい!」
猛然と、脇差をふるい、盗賊三人を切って殪《たお》した。
残る賊六人を相手に闘い、このうち三人を殪したというのだから、弥次右衛門も、相当に腕力《うでぢから》の強い男であったのだろう。
そのかわり彼も、全身に十七カ所の傷を負った。
残る賊三人は、女房の知らせで駈けつけて来た村人たちが捕えた。
このはなしをきいて、伏見城下に屋敷をかまえる大名たちが、
「千石つかわそう」
とか、
「いや、二千石つかわすから……」
とか、あらそって弥次右衛門を、
「わが家来に……」
と、のぞんだ。
加藤清正も、ぜひ、弥次右衛門を召し抱えたくおもったけれども、古い家臣たちの手前、とても、そのような大禄をあたえるわけには行かぬ。
そこで、かまたさま≠フ鎌田兵四郎を弥次右衛門の家へつかわし、
「二百石で奉公してくれぬか?」
と、もちかけたところ、弥次右衛門は、
「別に、武士になるつもりはござりませなんだが……肥後さまが、さようにおおせ下さるのなら、よろこんで御奉公させていただきとうござります」
すぐさま承知をして家をたたみ、その日のうちに肥後屋敷へ入り、清正の家来になったのである。
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大 坂 城
年が明けた。
慶長十六年である。
旧年の秋から、高台院は何度も、
「秀頼公と淀どのに申したきむねあり」
といい、大坂城へおもむくべく、片桐且元を通じ、大坂行の日どりをたずねさせていた。
片桐且元は、加藤清正や福島正則と共に、助佐《すけさ》と名のっていた少年のころから太閤秀吉に奉公をしてきた人物で、高台院が|ねね《ヽヽ》とよばれ、若き秀吉の妻として暮していたころは、
「助よ、助よ」
と且元をよび、
「腹がすいてはおらぬか、にぎりめしでもいかがじゃ。お前の好きな味噌つけてあげようかえ」
夜おそくまで、当時は木下藤吉郎≠ニいった秀吉の側につきそい、さかなや酒をはこんだりしていた片桐且元を、そっと台所へまねき、空腹をみたしてやったことなど、めずらしくもないことであった。
そのころは、高台院から見て、加藤清正の虎之助≠竅A福島正則の市松≠ネどよりも、
(助佐のほうが、何やら利発な……)
そう、おもえていたものである。
少年のころの清正や正則は、やたらにちからじまん≠するばかりで、だからむろん、戦場へ出ると大人顔負けの活躍をしたわけだが、それだけに、大人たちのいうことなど鼻で笑ってきこうともせぬところがあった。
主人の秀吉から叱りつけられるようなことがあっても、あやまるどころか、頬をふくらませ、|ぷい《ヽヽ》と横を向いてしまう。
気に入らぬことがあると、秀吉や高台院にも食ってかかる。
いつのことであったか、たまりかねたことがあって、高台院は清正の虎之助をつかまえて来て、
「わるさをすると承知せぬぞや」
台所の桶の水を、あたまからあびせかけたことがある。
ともかく、いたずらで乱暴で手におえなく、それはそれで、
(可愛ゆい)
ともおもうのだが、高台院も若かったし、女だけに、
(助佐は、よう気もつくし、口のききようも心得てあるし……)
夜ふかしの秀吉の側近くにいて、少しもいやな顔をせず、まめまめしく立ちはたらくのを見ていると、
(助佐は、いまにきっと、偉うなるにちがいない)
と、考えていたものだ。
これをきいた秀吉が、破顔して、こういったことがある。
「ねねよ。そりゃ、助もよいがな、虎や於市にくらべたなら、まわりが一つ、小さいわい」
つまり、片桐且元は、清正や正則にくらべて、人間のスケールがひとまわり小さい、というのだ。
その夫のことばに、不満を感じたことを、高台院はいまもおぼえている。
片桐且元も若いころは、清正や正則に負けず、戦場ではたらいたもので、あの賤《しず》ヶ岳《たけ》の合戦≠ナは七本槍の一人に数えられるほどの武勇をあらわし、一躍、三千石をあたえられた。
別格の福島正則だけが五千石をあたえられたが、清正も三千石であった。
しかし……。
長じてのちは、且元の経歴が彼の資性を、よくものがたっている。
且元は、秀吉直属の事務官として、はたらくようになった。
それとても、後輩の石田三成や大谷吉継ほどに、才能を秀吉にみとめられて、大きな責任を負った役目についたことはない。
だが、誠実な片桐且元は、ぶんに応じた役目をあたえるなら、
「これほどに間ちがいのない男もないぞよ」
と秀吉はいい、彼に豊臣≠フ姓をあたえてもいる。
そうした名誉≠あたえても、秀吉は且元に大禄をあたえなかった。
秀吉が亡くなったとき、加藤清正は肥後の国で二十五万石の大名であったし、福島正則は尾張・清須の城主として二十四万石余を領している。
だが、片桐且元は、播磨・伊勢両国のうちで、わずか一万石を領しているにすぎない。
秀吉は、まじめで謹直な且元の性格をみとめてはいても、
(且元には大国を治め、多勢の家来を召しつかうことがむりじゃ)
と、見きわめていたのであろう。
秀吉が且元を、ふかく信頼していたことは事実だ。
死が、すぐ眼の前へせまって来たことを知ったとき、秀吉は、
「秀頼のそばに、いつまでもつきそうていてもらいたい」
と、且元にいった。
そして、正式に彼を秀頼の補佐としたのである。
且元は、この遺命をまもり、いまも大坂城に屋敷をかまえ、実弟の|主膳 正貞隆《しゆぜんのしようさだたか》と共に、秀頼のそば近くつかえている。
いまは仏門に入り、大坂城からはなれてしまった高台院にとっては、何事につけても、自分と豊臣家とをつなぐ役割を果してくれるのが、この片桐且元だといってよい。
亡き夫の後をついだ秀頼は、わが腹をいためた子ではないし、その生母・淀の方とは打ちとけて語り合ったこともない高台院なのだ。
だから、今度のことも先ず、片桐且元へ、秀頼と淀の方への面会を、
「すこしも早う……」
と、申し入れてきたのである。
片桐且元からの返事は、いつも、はかばかしくないものである。
これは、淀の方が高台院との面会を拒否しているからだ。
もとは、正夫人と側妾の二人であったから、秀吉在世のころも、めったに顔を合せたことのない二人であった。
高台院にしても、亡き夫の女色にはあきれもし、はじめは憎みもしたが、ついにはあきらめきってしまっている。
とはいえ、淀の方は、高台院がついに果せなかったことをみごとにしてのけた。
夫の後つぎの子を、彼女は生んだのである。
そこに、高台院の女としてのふかい哀しみと、複雑な心境が存在したことはいうまでもない。
ことに、いまの淀の方は……。
豊臣家の主・右大臣秀頼の生母として大坂城に君臨し、
(自分は、太閤殿下の……)
秀吉の正夫人であったかのような錯覚に、おちいっているといってもよい。
もっとも、正夫人だった高台院が仏門に入ってしまった以上、これも仕方のないことやも知れぬ。
(それにしても……こたびのことは、ほかのことではない。大御所の上洛も間近のことじゃ。なんとしても大坂を説きつけ、秀頼どのに上洛をしてもらわねば!……)
と、高台院は気が気でなかった。
関東と大坂との間に、もしも戦争がはじまることになると、京・大坂の町と人が、すさまじい戦火にさらされることになる。
そのことを、高台院は、もっともおそれている。
大名や武士たちが……いや、そうした男たちが性こりもなく、ちからずくで争い、血をながし合い、戦さをするありさまを、高台院は何度も見つづけてきた。
夫の秀吉が天下統一を成しとげたときには、
(ようやくに、これで終りか……)
ほっとしたものだが、やすむ間もなく夫は、なんと朝鮮へ攻めかけはじめたものだ。
秀吉は、織田信長につかえていた若いころから、
「おれは、むだな血をながすのが大きらいじゃ」
と、よく高台院にもいったし、事実、ちからにまかせての戦争よりも、謀略や外交で敵を屈服せしめてしまうのが得意でもあり、自慢でもあったのである。
その夫が、あのように無謀な戦争を外国に仕かけ、このためにつかいはたした金銀と労力と人命の大きさをおもうと、高台院は、いまも慄然とする。
だが、年が明けて間もなく、正式に大坂からの使者が来て、秀頼の健康がおもわしくないゆえ、御遠慮したい、と面会をことわってきた。
いうまでもなく、秀頼の病気は口実にすぎない。
高台院は、淀の方から拒否されたとき、
(このことを、一時も早く肥後どのへ知らせのうては……)
と、おもった。
そこで、老臣の井坂孫左衛門を、伏見の肥後屋敷へつかわし、折しも熊本から伏見へ到着したばかりの、加藤家の重臣・飯田覚兵衛へ、このことをつたえしめた。
「うけたまわった」
と、飯田覚兵衛は緊迫の中にもたのもしげに、
「あるじ主計頭、いのちにかえましても、右府様(秀頼)御上洛のことをおはからいつかまつる。かように高台院さまへおつたえねがいとうござる」
と、いった。
「大丈夫でござるか?」
と、井坂がいうや、覚兵衛が屹《きつ》となって、
「大丈夫にせねば、ならぬことでござろうがな」
「それは、いかにも……」
「御案じ下されますな、と、おつたえねがいたい」
「では……」
井坂が帰ったあとで、飯田覚兵衛が、独断で、紀州・和歌山三十七万六千余石の城主・浅野幸長の伏見屋敷へ出かけた。
浅野幸長は、ちょうど伏見に在邸している。
「覚兵衛とな。よし、通せ」
幸長は、清正とも親密の間柄であるし、したがって飯田覚兵衛をよく見知ってもいる。
浅野幸長の父・長政は、加藤清正同様に、豊臣家恩顧の大名であって、秀吉在世のころは五奉行≠フ一人であった。
この年、浅野長政は六十五歳。
すでに息・幸長へ家督《かとく》をゆずりわたし、和歌山の城で隠居の身となっているが、このごろは病いを得て、その病状もおもわしくない。
この浅野長政。
関ヶ原の大戦が起る前に、大野治長・土井雄久の両名とはかり、
徳川家康の刺殺
の|うたがい《ヽヽヽヽ》をうけたほどの人物であるから、清正と共に、
「あくまでも、豊臣家への忠誠をつらぬき通したい」
との決意であったし、息・幸長も、この病父の立場を尊重しており、「今年は大御所の上洛のこともあれば、いささかのゆだんもならぬ。御苦労じゃが、伏見屋敷へつめきっていてもらいたい」
との父・長政のことばにより、正月早々、和歌山から伏見へ到着したばかりであった。
浅野幸長は、飯田覚兵衛を見るや、
「右府さま、御上洛のことであろうが……」
|ずばり《ヽヽヽ》と、いった。
「はっ」
「肥後殿から、何か?」
「さればでござります」
覚兵衛が、高台院からのことばを、包みかくさず申しのべた。
「さもあろう」
と、幸長が吐いて捨てるように、
「大坂のおふくろさまにも、困ったものじゃ」
「は……」
「父上が、出てまいればよいのだが、このところ、身うごきもならぬ」
「さほどに……」
「覚兵衛は、なんとおもうぞ?」
「あるじ主計頭と共に、左京大夫さま(幸長)も、大坂へおもむかれていただきとうござります」
「む……」
「主計頭一人にては……」
「大坂のおふくろさまは、肥後殿をなんであのように、うとましくおもわれるのであろうか」
「あまりにも、関東へ近づきすぎるとか……さようにおもわれておわすのでござりましょう」
「ばかな!」
浅野幸長が憤然となって、
「肥後殿の御苦労は、こころあるものなれば、たれにてもわかることじゃ」
「おそれいりまする」
このとき、浅野幸長は三十六歳の若さであったが、
「よし!」
断固として、
「わしも、およばずながら、肥後殿のお手つだいをいたそう」
「かたじけのうござる」
「したが……これは、むずかしいことじゃ」
「いかさま」
「いかに、われらが右府さまへお目通りをねごうても、おふくろさまがこれを邪魔されるのでは、仕方もあるまい」
「さ、そこでござります」
と、飯田覚兵衛がひざをすすめた。
この夜。
幸長と覚兵衛の密談は二刻(四時間)におよんだという。
夜ふけて……。
肥後屋敷へもどった覚兵衛が鎌田兵四郎をまねき、
「兵四郎。丹波大介へ連絡《つなぎ》はつかぬか?」
「つきまする」
「すぐに、わしがもとへまいるよう、手配をしてくれい」
「何か、急な……」
「そうじゃ。早ういたせ」
「心得ました」
「いつにてもよい。わしがねむっていたなら、かまわずに起せ、よいか」
「はっ」
鎌田兵四郎は、飯田覚兵衛の前を下ると、邸内の自分の長屋のとなりに住む横山八十郎のところへ行った。
杉谷忍びの八十郎は、いま、加藤家の臣横山八蔵≠ノなりきっている。
「八十郎、急ぎの用じゃ」
「これは、鎌田さま……」
「大介へ、つなぎがつこうかな?」
「たぶん……」
「どこにいる?」
「熊本から帰りましてからは、ずっと京に、……」
「たのむ。すぐに、まいってくれるよう、つたえてもらいたいのじゃ」
「心得まいた」
八十郎は、すぐに肥後屋敷を出て行った。
丹波大介がかまたさま≠フ前へあらわれるのに、二刻はかからなかったろう。
八十郎と大介の出入りに、屋敷のものはまったく気づいていない。
「お、大介か……熊本へまいったそうじゃな」
「はい。殿さまにもお目にかかりました」
「さようか。ところで、飯田覚兵衛さまが急ぎの御用事らしい」
「では……」
すぐに大介は、鎌田が用意してくれておいた衣服を身につけ、鎌田にともなわれ、同じ邸内に在る飯田覚兵衛の住居へ出向いた。
もう、夜明けが間近い。
覚兵衛は、ねむっていなかったようだ。
「大介。これへ……」
すぐに、覚兵衛は大介を居間へまねいた。
覚兵衛の家来たちも、鎌田にともなわれてあらわれた大介を、どこぞの大名の家来……浅野幸長の家来とでもおもいこんでいるらしい。
人ばらいがなされた。
そして、廊下にも、居間のまわりにも、あかあかと灯がともされた。
「飯田さま……」
と、大介が、
「できますことなれば、このような仕様は、あまり……」
たとえ、覚兵衛の家来にせよ、
(おれの顔は見せぬがよい)
と、おもっている大介であった。
「さようか、いかぬか?」
「御用事の折は、私一人にて、この御部屋まで忍んでまいります」
「ふむ……」
飯田覚兵衛はうなずいたが、
「かまわぬ」
きっぱりとした口調で、
「そのことは、先刻、鎌田兵四郎も申していたが、もはやかまわぬ。今夜はここに泊れ。明日、わしと共に、浅野家へまいってもらいたい」
「浅野、幸長さま、御屋敷へ……?」
「いかにも」
加藤清正より一つ年長というから、今年五十一歳になる飯田覚兵衛の顔を、丹波大介はまじまじとながめやった。
清正は、ここ三年ほどの間に、めっきりと老けてしまい、六十の老人といってもふしぎにおもわれぬが、覚兵衛は五十をこえたばかりの男の精悍《せいかん》さ≠ェ巨大な体躯にも、あごの張り出した顔貌にもみなぎりわたっている。
(なにをいい出そうというのか、飯田覚兵衛さまは……?)
と、大介は困っていた。
主人の加藤清正は、おそらくいま、熊本を発ってこちらへの旅をつづけているにちがいない。
(今夜のことは、殿さまの御指図によるものではないな)
と、大介は直感している。
ここへ来る前にかまたさま≠ゥらきいたところによれば、前日の午後に、高台院の使者として井坂孫左衛門が肥後屋敷へあらわれたと、いうことだ。
井坂が帰って間もなく、
「浅野家へまいる」
といい、飯田覚兵衛が供の者もつれず只ひとり、騎馬で、浅野幸長の伏見屋敷へ出向き、およそ二刻後に帰邸したという。
帰邸するや、覚兵衛は、
「ただちに、丹波大介をよべ」
と、鎌田兵四郎へ命じたというのだ。
この間に、いま道中にある加藤清正の指示をあおいだわけではないこと、もちろんである。
とすれば……。
(これは、飯田さまの……)
独断によるもの、と見てよかろう。
そもそも、加藤清正ならば、このようなあつかい≠するわけがない。
大介が、清正のために、忍びばたらきをしていることを知っている加藤家の臣は、鎌田兵四郎と飯田覚兵衛の二名のみ、といってよい。
清正も、いつであったか大介へ、
「覚兵衛のみへは打ちあけておいた。それでのうては、いざというときに、さしつかえが生じよう。覚兵衛は、わしが幼少のころからの友だちというてもよい男ゆえ、な」
こう、もらしたことがある。
そのときは大介も、万事にぬかりのない清正のことであるから、
「承知つかまつりました」
と、こたえたものだ。
(なれど……)
今夜の、この飯田覚兵衛が自分をよびつけ、あからさまに、自分の居宅の玄関からまねき入れたことを、大介は粗雑な仕方だとおもった。
だから、鎌田兵四郎へも、
「明夜にでも、私が、そっと飯田さまの御寝所へ忍んでまいったほうが、よろしいのではありませぬか」
何度も念を押したのであった。
しかし、鎌田も、
「火急の御用事らしい。もしやすると、道中の殿さまから、何やらの御指図があったやも知れぬ」
と、いうのみだ。
仕方なしに、大介はかまたさま≠フいうまま衣服をあらため、飯田覚兵衛のもとへおもむいた、ということになる。
「浅野さまへ、私が……」
さらに、大介が念を入れると、
「待て」
と、飯田覚兵衛が次室へ去った。
覚兵衛の直情≠ェ、むき出しにされている感じであった。
(……?)
大介は、不安をおぼえずにはいられない。
なるほど、人ばらいをし、密談の場所と、その周囲を灯火であかるくしたことを見ても、飯田覚兵衛という人物に相当な心得があることは、大介にもよくわかる。
密談には、あかるい場所が却ってよい。
見通しもきいたほうがよいのである。
こうしたほうが、盗み聞く者をふせぐことができる。
こうすれば、盗み聞きをしようとする者は、むしろ近寄れなくなってしまう。
それだけのことをわきまえているというのは、飯田覚兵衛も、加藤清正の重臣として、
「万事をまかせられるほどの人物」
と、見てもよいだろう。
二十年も前のことなら、忍びの自分を、こうした方法で呼びつけるということもあり得る。
しかし……。
(いまとなっては……)
であった。
丹波大介は、これまでに、徳川方の忍びの網の目が恐るべき複雑さと巧妙さをもって、いたるところに張りめぐらされていることを知ってきていた。
針の穴ほどの隙が、
(敵に乗ぜられかねない)
のだ。
飯田覚兵衛が、となりの部屋からあらわれた。
手に、何やらの図面とおぼしきものを持っている。
「申しあげます」
と、大介がいった。
「なんじゃ?」
覚兵衛が、大介の前へあぐらをかき、
「申せ」
「このことは、殿さまも御存知のことでありましょうか?」
「いいや」
「は……?」
「覚兵衛がひとりの考えである」
「かまいませぬので?」
「かまわぬ」
「は……?」
「わしは、殿の片腕じゃ。いや、血肉をわけてもろうていただいておる、と申してもよい」
こういわれては、大介も沈黙するよりほかにない。
「見よ」
と、飯田覚兵衛が、手にした図面を大介の眼前にひろげた。
見て、
(あっ……)
大介は瞠目をした。
「大坂の御城の絵図面じゃ」
と、覚兵衛。
「は……」
不安も不満もどこかへ消えてしまい、丹波大介は、たんねんに描きこまれた大坂城・絵図≠ノ見入った。
「この絵図は、先刻、左京大夫さまより拝借してまいったものじゃ」
浅野左京大夫幸長が、このような大坂城・絵図≠所有していたことには理由がある。
豊臣秀吉が大坂城を築いたのは、二十八年前の天正十一年から十二年にかけてであった。
そのころ、浅野幸長の父・長政は、近江の国・勢多の城主で、秀吉の命をうけ、築城初期の総監督にあたった。
といっても、築城の構想は、あくまでも秀吉のものであって、浅野長政はむしろ、近江の国の工人・職人をあつめ、実際的な現場監督≠フ役目を果したわけだ。
けれども……。
「ようも仕てのけてくれた」
と、秀吉が大いによろこび、二万三百石を長政に加増しているところを見ると、このときの浅野長政の活躍は大きなものだったにちがいない。
当時の長政は京都奉行≠かねてもいたし、秀吉の信任は非常に厚かった。
こうしたわけで、浅野長政が、完成した大坂城のくわしい絵図面をつくらせ、これを息・幸長へゆずりわたしたとしても、ふしぎはないのである。
また、秀吉にしても、大坂城の内部が他へもれることを警戒した、というようなことはまったく無い、といえる。
熊本城と同様に、大坂城は、その城郭そのもののスケールがすばらしく、いざ戦争となった場合、城の秘密工事も何も関係がないほどに鉄壁の名城であったのだ。
「どうじゃ?」
喰い入るように絵図面をながめている丹波大介へ、
「それを写してもよいぞ」
と、飯田覚兵衛がいった。
「は……そりゃ、まことで?」
「よいとも。いや、写してもらわねばなるまい。その絵図は明日……いや、もう空が白みかけたわい。今日のうちに、浅野家へ返さねばならぬゆえ、な」
とっさに、大介は覚兵衛のことばの意味を、つかみかねた。
飯田覚兵衛は、みずから料紙と筆墨を、大介の前へ運び、
「さ、写せ」
と、いう。
「かまいませぬので?」
「早くいたせ。なれど、じゅうぶんに写しとれ。よいな」
「は……」
わけはわからぬながらも、大介は緊張をした。
かねてから、このことはのぞみにのぞんでいたことではないか。
(絵図面さえあれば、おれ一人にて大坂城へ忍び入ることも……)
できるのではないか、と、かつて大介は考えたことがあった。
絵図面は、かなり明細なものであった。
大介は、夢中で筆をうごかしはじめた。
その間、飯田覚兵衛が一度、座を外している。
朝の光りに障子が白みはじめたので、さらに周囲の警戒をおこたらぬよう、家臣たちへ念を入れに行ったものとおもわれた。
丹波大介が、大坂城絵図を写し終えるのに半刻(一時間)はかかったろう。
「終りましてござる」
「よし」
覚兵衛がうなずき、浅野家から借り出してきたという絵図を折りたたみ、桐の箱へ仕まいこんだ。
「ここをうごくな。しばらくは休んでいてくれい」
と、覚兵衛がいいおき、居間を出て行ったが、そのとき、次の間との境の襖を閉じて去った。
冬の朝の冷気が室内に張りつめていたが、鍛えぬかれた大介の躰は、ほとんど寒さをおぼえてはいなかった。
耳をすますと、かすかに、廊下や他の部屋部屋の戸を閉じる音がつたわってきた。
「大介。おるか?」
次の間へ入って来た鎌田兵四郎の声に、
「は。ここに……」
襖が開き、かまたさま≠ェ緊迫した表情を見せ、
「いま、熱い粥などをはこばせる」
「かたじけのうござる」
「いま、横山八十郎を、道中の殿のもとへ使者に出したぞ」
これも、飯田覚兵衛の指図ということになろう。
大介が、顔をしかめた。
すぐにそれと察したらしく、鎌田兵四郎が、
「いい出したらきかぬお人でのう、飯田覚兵衛さまは……」
低く、いった。
大介はそれにこたえず、
「今日、私を浅野さま御屋敷へつれてまいられるとか?」
「いかさま」
飯田覚兵衛の長屋は肥後屋敷の南面にある。
はじめに大介が、肥後屋敷へあらわれたとき、鎌田兵四郎は竹林の外の、加藤清正専用の蔵へ大介をまねき入れ、共に語り合ったことがあった。
あの二棟つづきの蔵の南がわに内塀がまわってい、その内塀の外が重臣長屋≠ナあった。
飯田覚兵衛の居宅も、そこにある。
鎌田兵四郎は重臣ではないけれども、主人・清正の内々の御用をうけたまわるものとして、やはり、この一角に長屋をもらっている。
だから大介がかまたさま≠フ長屋から、飯田覚兵衛の長屋へ移ったのを目撃した加藤家の士《もの》は、わずかに限られている。
しかし……。
今朝。飯田覚兵衛が浅野屋敷へおもむくとき、大介は覚兵衛の家来として、堂々と肥後屋敷の表門から出て行くことになるのだろうか……?
「どうも、このような仕方は、案じられてなりませぬ」
と、大介はかまたさま≠ヨいった。
「わしもそれを、な。申しあげたのじゃが、覚兵衛さまは、かまわぬ、と申されての」
「殿のおゆるしがあってのことなら、別ですが……」
「うむ、うむ」
「横山八十郎を、私にはだまって使者に出されたことも、なっとくがまいりませぬ」
「ほ……そうか!」
「何故、私に知らせてはくれませぬ?」
「わしは、おぬしが知ってのことじゃと、そうおもうていた」
「鎌田さままでが、そのようなことでは困ります」
「ま、そう怒るな」
「たとえば、これから私が浅野屋敷へまいって、どのような火急の用事が起るやも知れませぬ。いえ、飯田さまについてではなく、私……丹波大介として、やってのけねばならぬことが起るやも知れませぬ」
「む、なるほど……」
「そうしたとき、私は、八十郎がおりませぬと困るのです」
「あ……む……」
どうも、たよりなくなってきた。
「鎌田さま。いったい私が、浅野屋敷へまいって、何の用事がありますので?」
「さ、そこまでは、わしも知らぬ」
粥の膳が二つ、はこばれて来た。
鎌田も大介と共に、ここで朝食をとるのである。
食事が終ると、いま大介が着ているものより、さらに立派な衣服と大小がとどけられた。
「さ、着替えてくれ」
と、鎌田がいう。
大介も、肚を決めざるを得ないことになってきた。
冬の、よく晴れわたった朝であった。
大介が衣服をあらためたとき、飯田覚兵衛長屋の小さな内庭へ、二頭の乗馬が引き入れられた。
内庭は細長く、覚兵衛居間の縁先にまで、つづいていた。
「あ、馬が……」
大介はもとより、鎌田兵四郎も、
(これは、なにごとか?)
と、おもった。
このとき……。
飯田覚兵衛が身仕度をして、居間へあらわれた。
「さ、まいるぞ、大介」
「はい」
一人の家来が、覚兵衛と大介の履物を持ってあらわれ、内庭の沓脱《くつぬぎ》石へ置いた。
「これをかぶれ」
覚兵衛が、手にした塗笠を大介へあたえた。
(なるほど)
と、大介にもわかってきた。
飯田覚兵衛は、この内庭から馬へ乗り、屋敷を出て行こうとしている。
こうすれば、他の家臣の眼に、笠をかぶった丹波大介の顔を見られる機が、もっとも少ない。
だが、大介は笠の内で苦笑した。
覚兵衛にしたら、ずいぶんと考えた結果のことなのだろうが、こうしたやりぐさは、大介や島の道半などから見れば、あまりにも、
(子どもじみて……)
見えるのであった。
大仰なことではある。
今朝になって、このようなことをするのなら、
(昨夜の仕様を考えてもらいたかった)
のである。
「それっ」
飯田覚兵衛が、かるく馬腹を蹴って内庭をぬけ出るや、供の者もつれぬままに、
「まいるぞ」
大介へ声をかけ、重臣長屋の前のひろい通路を駈けぬけ、左へ折れた。
大介もつづく。
通路が、まっすぐに伸びている。
右がわが、家来たちの長屋。左がわは内塀だ。
前方の木戸は、覚兵衛の指図によって開かれていた。
二人を乗せた馬が駈けて行くのを、通路に出ていた士が見送りはしたけれども、たちまちに覚兵衛は木戸をぬけ、これも八文字に開かれた表門から道路へ出た。
振り返った飯田覚兵衛が、大介を見て、
(どうじゃ)
とでもいいたげな、得意そうな笑いを送ってきた。
このとき……。
肥後屋敷の塀に沿って歩いていた旅商人が、路上へ駈けあらわれた二騎を見送り、
「あれは、もしや……?」
つぶやいて、くびをかしげたものである。
この旅商人は、真田忍びの奥村弥五兵衛であった。
飯田覚兵衛のうしろから行く馬上の武士を、
(もしや、丹波大介では……?)
とっさに感じたのは、さすがに弥五兵衛である。
顔は塗笠にかくれて見えなかったが、その躰つきでそれと感じたのである。しかも、大介は、弥五兵衛の引き合せにより、加藤清正のもとではたらくようになったのであるから、彼の直感はたちまちに、
(間ちがいなし!!)
と、なった。
(大介は、生きていた……)
堀川に沿った道を北から東へまわって行く二騎の背後から、弥五兵衛は足を速めて行った。
伏見城へ通ずる道をすすむと、城の大手口へかかるすぐ右がわに、浅野家の伏見屋敷がある。
飯田覚兵衛は、堂々と表門から中へ入って行く。
大介もつづいて門内へ消えたのを見とどけてから、弥五兵衛は道を引き返した。
朝のことではあるし、あたりは諸大名の屋敷がびっしりとたちならんでいるから、どこぞへ身をかくして、大介が出て来るのを見張るわけにもゆかぬ。
(大介が、うごき出している。これは、どういうことなのか……?)
荷を背負い、笠をかたむけつつ歩む奥村弥五兵衛の脳裡にうかんだのは、間近にせまっている徳川家康上洛のことであった。
加藤清正が、そのときぜひにも、大坂の豊臣秀頼を上洛させ、家康との友好関係をうながそうとしていることは、弥五兵衛にも、よくわかっていることだ。
大介が飯田覚兵衛と共に浅野屋敷へ入って行った事実を見ても、弥五兵衛にはおよその事情がわかるような気がする。
(それにしても、大介ともあろうものが……)
いささか大胆にすぎる仕方をするものだ、と、弥五兵衛はおもった。
いかに顔を笠でかくしているとはいえ、大介ほどのすぐれた忍びが、朝の陽光をあびて町中を行くのは、なっとくがゆきかねることではある。
(大介ではなかったのやも……?)
しかし、弥五兵衛は笠の内でかすかにかぶりをふった。
(大介だ。間ちがいはない)
こうなると……。
夫・大介が死んだことを信じ、大坂の町の塗師屋・寅三郎と再婚をした|もよ《ヽヽ》は、
(どうなる?)
であった。
(大介が生きていることをもよどのに……そして、もよどののことを大介に、知らせてやるべきか、どうか……?)
弥五兵衛も、向井佐助からもよのことをきき、その後、二度ほどは大坂へ出たときに、今橋すじの塗師屋・寅三郎方のまわりを歩いて、もよの顔を見とどけていた。
(それにしても、おれと丹波大介の立場は、妙なものになってしもうたな……)
つくづくと、そうおもう。
なぜといえば……。
いま、紀州・九度山に住む真田昌幸は病状が重くなるばかりであったが、息・幸村は依然、健在である。
昌幸は、
「もはや、これより徳川の天下じゃ」
あきらめきっているし、そのあきらめが、この徳川ぎらい≠フ老人の病体をさらにおとろえさせているともいえよう。
しかし、真田幸村は、
「まだ、あきらめるには早い」
と、先日も久しぶりで弥五兵衛が九度山へ潜行したとき、
「大御所(家康)は、かならず、大坂の息の根をとめるまでは、安堵してあの世へは行くまい」
そういった。
弥五兵衛はそのとき、
「右大将さま(秀頼)の上洛をやめさせてしまえば、関東と大坂が手切れとなり、戦さがはじまりましょう。じゃまをする手段《てだて》は、いくらもありまするが……」
眼を光らせ、するどくいうと、幸村は笑って、
「ま、こたびのことは肥後どの(清正)にまかせておいたらよい」
「なれど……」
「戦さは起る。必ず、起る」
幸村の口調は断定的なものなのである。
「ま、いまは、のびのびとしておれ。いずれは弥五兵衛よ。おぬしのいのちをわしがもらわねばなるまい」
「はっ」
幸村は、ひとり何度もうなずき、
「おもしろいぞよ、おもしろいぞよ。そのときまで、なんとしても、わしは生きておらねばならぬし……また、肥後どのにも元気でいてもらわねばなるまい。こうなると、根くらべじゃ。父上のように病んでしもうては、元も子もなくなってしまうからの」
そういわれると、弥五兵衛も何となく勇気づけられてもくる。
このまま、真田父子が九度山に朽ち果ててしまえば、真田忍びとしての自分の、
(生くる道は絶える)
のである。
京の室町の家へもどった奥村弥五兵衛が、留守居をしていた向井佐助に、大介を見たことを告げるや、佐助は即座に、こういった。
「そりゃ、大介どのへは、もよどののことを知らせずばなりますまい」
そのころ……。
丹波大介は、伏見の町を出ている。
浅野幸長の供の一員として、騎馬で大坂へ向っていた。
浅野幸長は、飯田覚兵衛と共にあらわれた大介を引見するや、
「よし。すぐに……」
と、わずか十余騎の供で、大坂へ駈け向うことにした。
遠乗りに出るというかたち≠とったのである。
これは、どこの大名もやることだし、あやしまれることもない。
幸長は、前後に飯田覚兵衛と打ち合せたとおり、
(何の前ぶれもなしに……)
大坂城へ駈け入るつもりなのである。
あらかじめ、予告をしておいたのでは、大坂城の淀の方が、幸長との会見をこばむことは眼に見えている。
いや、幸長は淀の方に会おうとしているのではなかった。
幸長は一気に大坂城へ馬を乗りつけ、遠乗りのついでに、ついつい、大坂までやって来てしまったゆえ、
「久しぶりに市正《いちのかみ》殿(片桐且元)の顔を見てまいりたい」
こう、申し入れるつもりであった。
これでは幸長とむかしなじみ≠フ片桐且元だけに、面会をこばむわけにはゆかぬだろう。
且元の屋敷は、大坂城内にある。
そこが、幸長と覚兵衛のねらい≠ナあった。
伏見の浅野屋敷を出る前に、丹波大介は、浅野幸長から厚目の書状を手わたされている。
これは、浅野幸長自筆のもので、幸長と加藤清正両人の名をもって、豊臣秀頼へあてた手紙であった。
もちろん、これを清正は知らぬ。
飯田覚兵衛の独断≠ノよるものなのだ。
内容は、現下の情勢をくわしく説き、関東との間にトラブルが起きることのばからしさ≠こんこんといいふくめたもので、そこには浅野幸長の至誠と情熱とが流露しているはずだ。
この、秀頼へあてた手紙を丹波大介があずかっている、ということは、大介が人知れず、これを秀頼のもとへとどける役目を帯びていることになるではないか……。
そのとおりであった。
大介は単独で、秀頼に会い、この手紙をわたすことになっている。
これが今度、大介にあたえられた使命なのである。
このことを知るまで、大介は、飯田覚兵衛の大仰な、ものものしいふるまいに厭気がさしていたのだが、浅野屋敷へ到着し、幸長と覚兵衛から計画を打ちあけられたときには、おもわず身ぶるいがしたものだ。
今朝。飯田覚兵衛が大坂城の絵図面を自分に写しとらせたことも、ようやくになっとくがいった。
「やってのけましょう」
きっぱりと、大介は幸長と覚兵衛にいった。
伏見から大坂までは、約九里。
馬を駈って行けば、明るいうちに大坂へ入れるが、浅野幸長は伏見の町を出ると、馬足をゆるめた。
つまり……。
夕暮れか、また夜に入ってから大坂へ入るつもりなのである。
こうなれば、片桐且元も無下《むげ》には面会をこばむわけにゆかぬ。
なんとしても、幸長をわが屋敷へ泊めねばなるまい。
且元は、このごろ、淀の方と諸大名の板ばさみになり、古い友人の加藤清正や浅野幸長と顔を合すことをさけている。
それというのも、且元自身がおふくろさま≠フ圧力に負け、おもうことが通らぬからであろう。
且元自身としては、清正や幸長同様に、
「あくまでも、関東と仲ようすべきである」
との考えだ、といってよい。
これは幸長も清正も、みとめているところのものだ。
で……。
計画通りにゆけば、今夜、浅野幸長は大坂城内の片桐屋敷へ泊ることになる。
幸長の供の武士も泊る。だから丹波大介も泊る。大坂城内に、である。
それから、大介ひとりが、ひそかに忍び出る。
そして、豊臣秀頼の寝所を目ざす。
浅野幸長にいわせると、
「城内へ入るまでが大変なのじゃ。入ってしまえば、さして、むずかしいことにはおもわれぬ」
なのだそうだ。
城内の警備は案外に手うすであって、徳川方の忍びなどは、
「まるで、わが家のごとく出入りをしているのではないか、とさえおもわれてくる……」
と、幸長が覚兵衛に向って、嘆息をもらしたことさえある。
とにかく、大坂城中でおこなわれる会議の模様などが筒ぬけ≠ノ、関東へつたわっている|ふし《ヽヽ》がある、と幸長はいうのだ。
いうまでもなく幸長は、大介をつかう前に、片桐且元を通じ、一度は秀頼へ面会をねがい出て見るつもりでいる。
万が一、これが成功すれば、大介をわずらわすこともないのだ。
だが、おそらく不可能だと、幸長も覚兵衛も、おもいは同じであった。
浅野幸長一行十五騎が、大坂へ入ったとき、夕闇は濃かった。
これまでに、何度も大坂城を見てきている丹波大介だが、氷を張りつめたような冬の夕空を背後に、くろぐろとそびえたつこの名城を仰ぐとき、
(関東が、豊臣の勢力《ちから》を、この城から追いのけようとするのも、|むり《ヽヽ》はない)
つくづくと、そうおもった。
曲輪内へ入ると、諸大名の邸宅がびっしりとならび、木戸木戸の番所では、見張りもなかなかにきびしい。
浅野幸長自身が、このように、わずかな供まわりをしたがえたのみで、大坂城へあらわれたものだから、
「なにごとか?」
「これは、何やら大事がもちあがったのではないか?」
武士たちが、一行を通してから、不安そうにささやき合ったりした。
もっとも……。
当時の大名たちが、どこへでも気軽に出かけたことは、いくらも例のあることだ。
あの福島正則にしても、だ。
出雲の国、松江の城主、堀尾忠氏の家老をつとめている松田左近という武士を、
「よき男じゃ」
と、正則は大へんに気に入っていた。
あるときは、伏見城中で堀尾忠氏を見かけた福島正則が、
「松田左近殿におかわりはないか?」
問うと、忠氏が、
「国もとから召しつれてまいる途中、病いにかかり、いまは大坂にて臥《ふ》せっております」
と、こたえた。
正則は、左近の病気が心配でたまらなくなり、伏見城を出るや、
「左近の見舞いにまいる。なに、わし一人にてよし」
と、家来たちにいうや、すぐさま馬へ飛び乗り、二十四万石の大名が供もつれず只一騎、大坂の松田左近の見舞いに駈けつけたものである。
こうした当時のありさまをみるとき、戦国の世の大名の仕様が、江戸時代の大名とは大分にちがっていることを、われわれは知るのだ。
ただ、ときがときだけに、浅野幸長の突然の訪問を、大坂方がおどろいたものであろう。
「なに、左京大夫(幸長)殿が……」
片桐且元も先ぶれの口から、その訪問を知るや、
「わしをたずねて、とか?」
「はい。野駈けのもどりみちに日暮れとなりしゆえ、一夜の宿りを所望したい、と、かようにおおせられてござります」
「ふうむ……」
且元としては、幸長や清正には会いたくない。
だが、このような訪問の仕方をされては、面会を拒もうにも、とっさに理由がつかぬ。
間もなく……。
浅野幸長が、気に入りの侍臣・内田弥八郎以下十四騎をしたがえ、城の玉造口《たまつくりぐち》から城内へ入って来た。
大坂城の表口は、外濠の西がわ・追手口だが、幸長は、この訪問があくまでも私用≠ニいう|たてまえ《ヽヽヽヽ》をとり、南がわの玉造口から参入したのであった。
ここから城内へ入ったところが二の丸≠ナある。
二の丸は宏大な輪状≠ノなり、内濠をへだてて本丸≠フ四方をめぐっていた。
二の丸の西がわを西の丸≠ニいい、そとには、豊臣秀頼の侍臣・大野修理大夫の屋敷があり、東がわの北寄りに、片桐且元の屋敷があった。
このほか、二の丸には豊臣方の重臣といわれる人びとの屋敷がたちならんでいる。
「まことに不作法とはおもいましたが、久しぶりにて、お顔を見たく存じて」
と、浅野幸長は、片桐且元と対座するや、
「おゆるし下されい」
と、いった。
むかしは故太閤の家来として、父・長政と同僚であった片桐且元に、幸長は、ていねいな言葉づかいをする。
「弾正(長政)殿の病状は、いかがでござるな?」
且元も、こうして会ってみると、やはりなつかしい。
幸長が長丸≠ニいった幼年のころ、天下は織田信長の手中につかみとられようとしてい、太閤秀吉は羽柴筑前守≠ニして信長|麾下《きか》の宿将の一人にすぎなかった。
(おもえば、夢のような……)
と、片桐且元は、三十六歳の壮年に達した堂々たる浅野幸長を、久しぶりにながめ、
「左京大夫殿も堅固にて、なによりでござる」
いいつつ、眼をしばたたいた。
このごろは、なにかにつけて感傷をもよおすことが多い且元であった。
今年で五十六歳になる且元だが、
(もう、六十を越えたようにおもえる……)
ほどに老けこんでいる。
太閤秀吉亡きのちは、遺子・秀頼の補佐をうけたまわったといえども、なにごとにつけ、自分のおもうようにはならない。
秀頼は、生母・淀の方のいうままにされているし、大野治長のように少壮な侍臣が万事を奉行し、淀の方にも秀頼にも気に入られている、となれば、且元の出る場面はすくなくなるばかりだ。
「ま、ゆるりとなされ」
且元は、いそいそと立ちあがり、みずから浅野幸長へのもてなしを指図するため、廊下へ出て行った。
この夜。
内庭に面した書院において、片桐且元は幸長主従をもてなした。
幸長も、政局についてのはなしなどを一言もいい出さぬ。
だから且元も気が楽になったらしい。
「むかしは、世も住みやすうて……」
とか、
「いまの世は、槍ひとすじで身が立ちゆくものでもなし……」
とか、愚痴めいた言葉が、切れ切れに口からもれる。
だが、それ以上には談話をすすめない。
徳川の天下へ対しての批判というよりも、それは大坂城内における自分の位置についての不満であるらしかった。
若いときから戦陣にはたらいてきただけあって、片桐且元の体躯は老いたりとも、がっしりとふとく、大きい。
その巨体にくらべ、顔が、いかにも小さい。
眉も細い。
鼻も細く、口ひげも何かたよりなげに生えている。
木の実のように小さくてまるい両眼を、いつもしばたたきつつ、
「むかしはのう……」
と、なるのである。
(なるほど。これでは……)
と、丹波大介は、末座にいて盃を口にふくみながら、
(肥後さまや浅野侯が、こころぼそくおもわれるのも……)
当然、だとおもった。
たのみにおもう補佐役が、このありさまでは、清正や幸長や、それに高台院の真情が秀頼へ通ずるはずがない。
おそらく、淀の方の豊満な貫禄と、激情的ないいつけの前に、この且元は黙もくとひれ伏しているのみなのであろう。
「ときに……」
と、浅野幸長が、
「右大将(秀頼)さまには、御変りもござらぬか?」
さり気なく、いい出してみると、且元はもうあわてきって、
「いや、別に……すこやかにおわします」
すぐに話題を転じてしまう。
幸長は、席を立つとき、大介へ目くばせをした。
(この上は、そちにたのむ)
と、いったのである。
はじめは幸長も、折があれば且元へ、秀頼へ目通りのことをたのむ、つもりでいたのである。
しかし、且元は決して二人きりにならなかったし、たとえ、幸長の希望をきき、これを且元が本丸の秀頼へつたえたとしても、それは淀の方によって拒否されてしまうにきまっている。
幸長は、そう見きわめをつけたものらしい。
宴が果てて、書院を出て行く浅野幸長へ、大介は目礼を送った。
大介と浅野幸長との目礼の意味を知っているのは、この日の供まわりの仲では内田弥八郎のみであった。
この夜。幸長は片桐邸の母屋へ泊ったけれども、侍臣たちは邸内の客長屋≠ヨ案内された。
これは、片桐且元の家臣たちの長屋に附随して建てられたもので、客の供の者が泊れるようにしてある。
このほうが、大介にとってはさいわいといえよう。
内田弥八郎が大介をつれ、二人だけで一室をとった。
他の者も、
(なにか、あるな)
と、感じてはいるだろうが、なにもいわなかった。
夜がふけた。
亥《い》の刻がすぎようとしている。
丹波大介が、むっくりと身を起したのは、このときであった。
内田弥八郎が両眼をひらき、
「行くか?」
大介がうなずく。
「たのむぞ」
「心得まいた」
いつの間にか、大介は身仕度をととのえていた。
濃い灰色の筒袖に短袴、同色の忍び頭巾《ずきん》に顔をかくし、忍び用具の入った革袋を二つ、腰と背につけている。
内田が、そうした大介の身仕度を、まじまじとながめ、
「なるほど、のう……」
感嘆をした。
「そこにいるおぬしの姿が、何やら、ぼんやりとしてまいった」
大介は笑った。
忍び装束の色合いを染め出すには、なかなかの苦心がいるのだ。
黒に染めてしまっては、闇の中で、かえって目立つのである。
また、灰色が明るすぎてもいけない。
いま、大介が身にまとっている忍び装束は、島の道半老人が手ずから染め、ぬいあげたものなのだ。
「では……」
大介が内田へ一礼し、部屋を出て行った。
片桐屋敷から外へ出るには、わけもないことであった。
ここは大坂城内・二の丸の曲輪内であるし、個人の邸内に特別な警戒があるわけではない。
大介は、内濠に沿った幅三間の濠ぎわへ走って、身を伏せた。
空は曇っている。
寒気がきびしい。
濠ぎわに身を伏せたまま、大介の躰が蛇のようにすすむ。
前方から、城内警備の番士が三人、松明《たいまつ》をかかげて近づいて来る。
と……。
大介の姿が、通路から消えた。
このとき大介は、濠の石垣へ手をかけ、濠の内がわへ吊り下ったのだ。
通路を、番士たちが通りすぎる。
またも、大介が通路へ這い上り、すすみはじめる。
大坂城の正面というべき桜門≠フ近くまで、大介は難なく接近することを得た。
二の丸から桜門へかかる橋は、橋というよりも通路であった。
石垣積みの、幅四間にもおよぶものである。
桜門の両わきに篝火が燃え、番士が二人、槍をついて立っている。
ここでまた、大介の姿が内濠へ吊り下る。
濠ぎわへ手をかけたまま、しずかに移動を開始した。
大介ほどの忍びにとって懸垂力の持続は、常人の想像を絶したものがある。
大介の脳裡には、飯田覚兵衛邸で写しとった大坂城内の絵図が立体化し、しっかりとたたみこまれていた。
内濠へかかる桜門の通路へ、大介の躰が吸いついた。
両の手ゆびが、わずかに通路へ出てはいるけれども、夜の闇の中で、これを発見することは不可能である。
それに石垣づみなので、足がかりはあるし、懸垂も楽にできるのだ。
大介の左手が、ゆっくりと腰の革袋の中へ入った。
取り出したのは散らし≠ニよばれる道具であった。
長さ八寸ほどの細い竹筒で、これに仕かけた|ひも《ヽヽ》を引きぬくと、低いがするどい、笛の音のような音を発する。もっとも|ひも《ヽヽ》を引きぬくと同時に、投げなくてはならぬ。
投げることによって、栓《せん》の外れた竹筒の内部の空気が作用し、音をたてるのだ。
左手に散らし≠つかみ、右手ひとつと両足に体重をあずけ、大介はあくまでもゆっくりと通路の石垣を桜門へ近づいて行く。
「冷えるのう」
という番士の声が、すぐ近くできこえたとき、大介は|ひも《ヽヽ》を口にくわえて引きぬきざま散らし≠、おもいきって宙へ投げた。
散らし≠ヘ、宙を疾《はし》り、音が尾を引いて、通路の向うの内濠へ吸いこまれた。
「やっ……?」
「なんじゃ、あの音は……」
番士二人が、共に肩をならべ、通路の向うがわへ駈け寄ったとき、大介は左手を濠ぎわへ出し、今度は右手につかんだ鉤縄《かぎなわ》を内濠の上の矢倉≠フ屋根へ投げつけている。
これは鉤縄の性能と、これをあつかう者の手練が得る只ひとつの機会であった、といってもよい。
鉤縄の手ごたえがあった。
転瞬……。
大介は、通路の石垣を蹴って、両手に縄をつかみ、内濠の空間へ身を投げている。
「なにかな、あの音は……?」
「さて……」
「鳥の啼《な》き声か……」
「まさか?」
「なにごともないようじゃ」
「うむ……」
二人の番士が、|くび《ヽヽ》をかしげながら篝火の傍へもどって来ると、桜門の内側から、
「なにか、あったのか?」
番所の武士の声がした。
「さて、別に……」
「妙な音がきこえたが……」
「はい。なれど別条ありませぬが……」
「さようか。よし」
このとき大介は、内濠を越え、桜門の門屋根つづきの矢倉の下の石垣へ、しずかに吸いついていた。
そのままで、しばらく待つ。
やがて……。
鉤縄をつたわった大介が、するすると石垣を、矢倉の屋根へのぼりついた。
桜門の内面には、内塀がめぐらされてい、大きな番所がもうけられ、十名の番士が昼夜交替で詰めきっている。
だが、大介がのぼりついた矢倉は、そうした警備設備を外れてしまっている。矢倉の内側は、大坂城・本丸御殿の前庭であった。
その前庭の木立へ、大介が飛び下りた。
鉤縄は、仕かけておいたままにしておく。縄も外の内濠へたらしたままだ。
木立の向うに、低い内塀が見えた。
その向うが、御殿の大玄関前になるのである。
木立を走り出た大介が、地を蹴って跳躍し、宙に一回転すると、内塀の向うがわに消えた。
すべて、絵図面のとおりであった。
内塀を躍り越えた大介のすぐ前を番士が一人、通りすぎて行ったけれども、音も気配もたてぬ大介の潜行に気づくはずもない。
内塀に沿って、大介がむささび≠フ如く疾った。
突当りに、また内塀がある。
今度は、じりじりとよじのぼる。
このとき、大玄関前の篝火の傍にいる番士が、もしも左手へ視線を転ずれば、火影を背にうけた丹波大介を、あきらかにみとめたことであろう。
もちろん、大介はそれを承知しているが、こうしたときには、おもいきってうごかねばならぬ。
一瞬のためらいが、失敗をまねく。
大胆にふるまうときは、あくまでも、そこへ徹しきらねばならない。
大玄関傍の内塀を、大介が越えた。
そこには、闇が濃かった。
豊臣秀頼と淀の方が住む御殿のうしろに、有名な五重の天守閣がそびえ立っている。
もっとも、表から見ると五重だが、内部は八階であった。
この天守を太閤秀吉が築いたとき、その偉容のすばらしさに世人は瞠目したものであった。
そのときまでは、織田信長の安土城の天守閣が評判をよんでいたものだが、城全体のスケールといい、天守の厚味といい、大坂城のそれは、当時|けたはずれ《ヽヽヽヽヽ》のものといってよかった。
御殿も善美をつくしたもので、淀の方の居住区≠ヘ、その北面にある。
秀頼が住み暮している主殿≠ヘ、西側の奥で、内庭をへだてて千畳敷≠ニ向い合っていた。
千畳敷とは、太閤が朝鮮出兵の折、いずれは講和の交渉に来日するであろう明《みん》国の使節を迎えるため、慶長元年に建てられた。
その後、京坂を襲った大地震のために、千畳敷は崩壊したが、四年後に再建されている。
畳千枚を敷きのべられるほどの大広間をもつ殿舎ゆえ、これを千畳御殿≠ニよんだ。
いま丹波大介は、千畳敷と主殿をへだてる内庭の塀のすそにうずくまっていた。
この内庭には桜の樹が多い。
亡き太閤秀吉は桜が大好きであったそうな。
本丸の北部は山里曲輪≠ニよばれる一郭で、ここに秀吉が愛した野山の風情を城内に再現したものだといわれている。
「それは見事なものじゃそうな。わしは見たこともないが、山あり谷あり、こんもりとした木立にまじって植えられた桜が花ひらくときなど、これが城の中か、と、おもわず夢見ごこちになってしまうそうじゃ」
と、鎌田兵四郎が、いつであったか大介へ語ったこともある。
さて……。
大介は、間もなく主殿の床下へ這い込んだ。
そこから、秀頼の寝所へ向うのかとおもうと、そうではない。
むしろ、大玄関に近いあたりまで這いもどってから、
(む、……このあたりか……)
耳をすました。
秀頼の居間や寝所のまわりの床下には厳重な柵《さく》がめぐらしてあるのを知ったからだ。
また、すこし北へすすむ。
(ここか……)
大介の手に、小さくて鋭利な刃物が光った。
床板の一部に、その刃物が刺しこまれる。
大介が、床板、畳をはね上げて、上の部屋へあらわれるのに、それほどの時間はかからなかった。
その部屋は料理の間であった。
夜半の料理の間に、人がいるはずはない。
警戒の、もっとも手うすな場所なのである。
大介は、料理の間の天井裏へ消えた。
ここから、秀頼の寝所に近い廊下の隅へ、大介が下り立つまでには、それ相当の時間がかかったようだ。
この年、豊臣秀頼は十九歳の青年君主に成長している。
秀頼夫人で、徳川家康の孫女でもある千姫は十五歳だが、その寝所は、ここからはなれた一画にあるはずだ。
秀頼は熟睡していた。
顔だちが、亡き父・秀吉とは、まったく似ていない。
ふっくらとした、色は浅ぐろいが、凜々《りり》しくて秀麗《しゆうれい》の美貌であった。
これは、生母の淀の方に似たものであろう。
体躯も堂々としている。背丈が六尺をこえていたともいわれる。その上に肉づきがよいのだから、三宝院義演という坊さまが、そのころの秀頼に目通りしたとき、
「……殿は、ことのほか御成人にて候。御智恵つきたまい、珍々重々。大慶に候」
などと、ほめたたえている。
その秀頼が、ふっと目ざめた。
秀頼の口を、人の手が押えている。
「たれじゃ?」
とがめたつもりだが、声にならなかった。
そのかわり、相手がささやいてきた。
「まことにもって、おそれいりたてまつる。なれど、しばらくはお声をおたてなされませぬよう。私めは、加藤主計頭清正が手の者にござります」
見ひらいた秀頼の眼から、いくらか、おどろきの色が消えた。
丹波大介は忍び頭巾≠ぬぎ、自分の顔をさらして見せている。
「お声をおたて下されますな。よろしゅうござりますか?」
秀頼はうなずく。
次の間には、宿直《とのい》の侍臣が二人、ねむっている。
さらに小廊下をへだてた部屋には、数人の小姓がいるはずだ。
枕もとへまわした小屏風《こびようぶ》の中へ、すでに大介は身を入れ、秀頼のあたまの上から、あくまでもひそやかに、ささやきつづける。
大介の手は、秀頼の口からはなれていた。
「さぞ、御不審でござりましょうが、私めは本日、浅野幸長さまの御供に加わり、城内へ……」
「なに、左京大夫が、まいっておるのか」
「はい」
「なぜ、目通りをせぬ」
「ゆるされますまいか、と、存じられます」
「なんと……」
秀頼が、信じられない、という表情をうかべた。
「先ず、これを……」
と、大介が、浅野幸長から秀頼へあてた書状をさし出した。
「む……」
秀頼が鷹揚《おうよう》にうなずき、書状を受けとった。
いささかもあわてず、また、大介を恐れてもいない。
(さすがは……)
と、大介も感じ入ったものである。
「まさに……」
秀頼が大きくうなずく。
浅野幸長の筆跡を間ちがいなし≠ニ、見きわめたからであろう。
秀頼が手紙を読みはじめた。
読み終えた。
また、はじめから読み直しはじめた。
手紙の内容は、この春にせまっている徳川家康上洛のことには、いささかもふれていない。
ただ、天下のことがさわがしくなり、自分(幸長)と加藤主計頭が、いかに右大将さまへ御目通りをねがい出ても、これがゆるされぬのは、御城内にも、いろいろの取沙汰もあってのこととおもわれる。
「……なれども、われらがひたすらにねがい、祈念するところのものは、ただ豊臣家の安泰のみでござります。
主計頭殿も、近く上洛のよし。私ともども、ぜひとも御目通りをねがいとう存じます。右大将さまのおすこやかなお顔を拝するだけにても、われらのよろこび、これにすぎるものはありませぬ」
およそ、こうしたものであった。
そのほかに、こまごまと、これから秀頼がとるべき手段が書きしたためられていたのである。
「そちの名は?」
「かまえて、おもらし下されませぬよう」
「うむ」
「丹波大介、と申しまする」
「おぼえおく」
「はっ」
「城内には、自分《み》にもようわからぬことが多い」
「は……」
「会いたい、主計頭にも……」
「よろしゅう、ねがいあげまする」
「よし」
「では、その書状を……」
「返せ、と申すか?」
「そのほうが、万事につけ、よろしいかと……」
「うむ」
秀頼が手紙を返した。
素直であり、判断が早い。
にわかに丹波大介は、
(この御方なら……)
血のわきたつのをおぼえた。
(天下人にふさわしい御方だ)
と、感じたからである。
「そち、もどるか?」
「はい。御案じ下されますな。入ってまいった道をもどるだけのことにござりますゆえ」
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甲 賀 指 令
雪が、降っている。
甲賀の山も野も、灰色の空の下に、ひっそりと呼吸していた。
近江の国・甲賀郡・柏木郷の惣社《そうじや》として世に知られた若宮八幡宮≠フ社の南に、甲賀頭領の一人である山中俊房の屋敷がある。
古いむかしから、この地に土着している山中家は、甲賀の豪族たちの中でも、特に重きをなした家柄であった。
いまの俊房の亡父・山中|俊峯《としみね》の代までは柏木郷の代官をつとめていたものだ。
ちなみにいうと、柏木郷は伊勢神宮≠フ領地である。
また、山中家は鈴鹿山守護の役目もかねていて、飯道山を背負ったかたちに構えられた屋敷は、二町四方の石垣塀をきずいた堂々たるものだ。
同じ、甲賀の頭領であった故杉谷信正の杉谷屋敷≠フ三倍ものスケールをそなえた山中屋敷である。
山峡に細長くのびている田の道を、いま、一人の女が山中屋敷へ近づきつつあった。
この女、|小たま《ヽヽヽ》である。
あのとき……。
父の下田才六を丹波大介に討ちとられ、自分も大介の刃《やいば》を右肩にうけ、重傷を負いつつ逃げた小たまだが、いまは傷も癒えていた。
この日。
小たまが、小さな自分の家で、朝餉《あさげ》を終えたところへ、近くの山中屋敷から老僕の西兵衛があらわれ、
「頭領さまが、急のおよびで……」
と、告げた。
そこで小たまは、身仕度もそこそこに、山中屋敷へ向ったのである。
山中屋敷の前を杣《そま》川という川がながれていた。
この川に、一間余の橋がかけわたしてあり、橋をわたりきったところが屋敷門だ。
橋ははね橋≠ナあった。
この橋をあげてしまえば、屋敷はたちまち、一つの城≠ニ化す。
かつて杉谷屋敷が織田信長に包囲され、襲撃をうけたことからも知れるように、甲賀頭領の屋敷は大小それぞれに防戦の構えがととのえられていたわけだ。
屋敷門の傍のくぐり門≠、西兵衛が開けておいてくれた。
「頭領さまはえ」
「蔵居間におわすぞや」
と、西兵衛が、
「庭からまいれ、とのことじゃ」
「うむ」
男のようにうなずいた小たまの右肩のあたりが、左肩にくらべて、何か|げっそり《ヽヽヽヽ》と肉が殺《そ》げたように見える。
あのときの大介の刀痕は、相当に深かったものと見てよかろう。
小たまは、門内の右手の土塀に沿ってすすんだ。
小たまの前方に、玄関構えがある。
その手前まで来た小たまの姿が、|ふわり《ヽヽヽ》と消えた。
つまり、土塀の一部が割れ、小たまの躰をのんでしまったのだ。
歩みつつ、小たまは土塀の下側にかくされている押し口≠フ楔《くさび》を足で押し、仕掛けで割れひらいた土塀の向う側へ入ったのである。
小たまを呑んだ後の土塀は、ふたたび割れ口を閉ざしている。その割れ目さえも常人の眼にはわからぬ。
このように、山中屋敷の中へ入るためには、表と裏の玄関口以外はほとんど、このような仕掛けによって出入りをすることになっている。
小たまが入ったところは、内庭であった。
内庭の向うに、第二の土塀がある。
それへ、またも小たまが吸いこまれて行く。
今度は、奥庭になる。
雪は、まだ浅くしかつもっていないけれども、その雪をふむ小たまは足音もたてなかった。
銀杏《いちよう》の大樹があった。
そのうしろは、土蔵づくりの一棟になっている。
西兵衛が小たまに、山中俊房が蔵居間≠ノいる、と、つたえたのは、この土蔵づくりの中の居間のことをさしたものである。小たまは、銀杏の樹の下へ来て、
「頭領さま……」
と、眼前の白い壁に向ってよびかけた。
「小たまでござりまする」
すると……。
白壁の一隅が、二尺四方ほどの穴を開けた。
内側から、山中俊房みずからが仕掛けを外したのだ。
「入れ」
と、山中俊房の声がかかった。
するり……と、小たまが穴の中へ消えた。
白壁は、もとのままになる。
平常、山中俊房が部下の忍びたちへ命令を下すとき、この奥庭まで呼びつけ、白壁の穴の向うから、顔だけのぞかせる。
いまのように、忍びを中へ入れることは、めったにないことなのだ。
それだけに小たまは、
(只ごとではない)
と、感じた。
小たまが入ったところは、板敷の三坪ほどの、暗い部屋であった。
山中俊房が、その隅に立っている。
「頭領さま。おそうなりまして……」
「よいわ。ま。こちらへ……」
先に立って、山中俊房が板敷の間の向うの小廊下へ出た。小廊下をへだてた部屋に灯がともっている。
ここが頭領さまの蔵居間、とよばれる場所であった。
山中俊房は、なにやら長い手紙をしたためていたらしい。
「さ、ここへ」
「はい」
小たまにしても、蔵居間の中を見たのは、はじめてのことだ。
ここも、せまい部屋である。
机、書物戸棚のほかには何もない。
「実は、な……」
と、山中俊房が凝と、小たまを見て、
「生きておるらしい」
「だれが、でござります?」
「丹波大介がじゃ」
「ええっ……」
小たまが驚愕した。
むりもない。
丹波大介は、自分と山中忍びたちとで、
(討ちとった……)
はずではないか。
あのとき、三条河原の乞食小屋から出て行った馬杉の甚五は、大介の着物に着替えて、霧の中からそれを見張っていた下田才六は、
(まさに、大介)
とおもいこみ、山中忍びたちに後を追わせた。
だからその後、甚五と交替に乞食姿になり小屋に残った丹波大介の逆襲をうけて死んだときも、才六老人は、
(わしが死んでも、大介の息の根は小たまたちがとめてくれよう)
と、おもいつつ息絶えた。
大介の顔を見知らぬ小たまと山中忍びたちは、才六老人のいうままに、馬杉の甚五を討ちとり、これを大介だとおもいこんだ。
そのすぐあと、駈けつけた丹波大介と闘って傷ついた小たまだが、いまのいままで、その男が大介だとは、おもってもみなかったのである。
「すりゃ、まことのことでござりますのか?」
「まこと、らしい」
「ま……」
「わしは、どうも、大介めが生きておるような気がしていたのじゃ」
「……?」
「あやつめ、ひとすじ縄ではゆかぬ忍びゆえな」
「おきかせ下さりませ」
うなずいた山中俊房の両眼が白く冷やかな光りをたたえ、
「きかせよう」
「は、はい」
「なれど、小たま。お前も、あのときの|つぐない《ヽヽヽヽ》をせねばならぬぞ」
「覚悟しておりまする」
「お前にも、これは申しておかなんだことじゃが……」
と、山中俊房が、
「十年ほども前から、砂坂角助を、わしは伏見の肥後屋敷へ入れてあったのじゃ」
「ま……」
小たまも砂坂角助≠フ名は耳にしている。
角助も山中忍びの一人であるが、彼は、むかしからの、
遠国《おんごく》忍び
であった。
したがって、他国へ住みつき、情報を送るのが役目であったから、頭領直属の小たまなどとは、顔を合せたこともないのである。
その角助が、名を伴野久右衛門≠ニ変え、なんと加藤清正の重臣・飯田覚兵衛の家来となりきって、忍びばたらきをしていたわけだ。
あの関ヶ原戦争≠ェすむまでの加藤清正は、
(これぞ)
と、おもう人材なら惜しみなく召し抱えた。
不幸な身の上の人びとを見れば、それぞれに身が立つようにしてやり、しかも、その人たちの前歴≠ノは、あまりこだわらなかった、というところがある。
それが加藤家の豪快な家風≠ナもあったから、清正の重臣である飯田覚兵衛のもとへ、砂坂角助が、
「今川家の遺臣」
というふれこみで、召し抱えられたことも、十年前ならばむしろたやすいことであったろう。
もっとも、いまの加藤家は人の出入りにも神経をとがらすようになっているし、清正自身が、いささかもゆだんをしなくなってきている。
砂坂角助の伴野久右衛門は、もう六十に近い老人ながら、万事によくこころがつき、老熟の奉公ぶりだし、寡黙で誠実で、あるじの飯田覚兵衛もよろこんで使っている。
角助は、これまで忍びばたらきを、ほとんどおこなっていない。
真底から飯田の家来になりきってしまい、十年の歳月をすごしてきたのだ。
山中俊房も、角助からの情報がなくとも、打ち捨てておいてある。
これは、いざというとき、角助がじゅうぶんに活躍できるために、双方とも連絡を絶っていたのである。
「その角助から、十年ぶりに急ぎの便りがあってのう」
と、山中俊房は笑った。
会心の微笑といえよう。
いままでは、飯田覚兵衛の臣になりきっていた砂坂角助が、いよいよ「期《とき》が来た」と考え、忍びばたらきを開始したことになる。
その砂坂角助は、山中俊房へ、このようにつたえてきている。
[#1字下げ]……昨朝。顔を見たこともない、若い武士が、家中の鎌田兵四郎と申す者にともなわれ、飯田覚兵衛のところへやってまいりました。鎌田兵四郎は、主計頭加藤清正の内々の用事をとりしきる人物にて、この鎌田がともなって来た若い武士と、飯田覚兵衛とは、夜明け前から数刻にわたり、奥の一間で密談をかわしていたようでござる。
[#1字下げ]むろん、人ばらいがなされ、警戒もきびしく、むりにも、両人の密語をきこうとすれば、その手段がないわけでもありませなんだが……やはり、ここのところは、むりをせず、後日にそなえておくべきか、と、存じ、私も、凝とひかえておりました。さて……。その若い武士のことでござるが、身のそなえも尋常ならず、顔つきもたくましゅうおぼえまいた。
[#1字下げ]その武士へ、鎌田兵四郎が「大介」とよびかける声を、私は耳にいたしました。
[#1字下げ]彼ら二人が、廊下をまがりきったとき、その声が、うしろの小部屋におりました私の耳に入ったのでござる。大介……これはもしや、かねて頭領さまからききおよんでおりまいた丹波大介ではないか……と、私はおもいました。甲賀を、山中家を裏切った大介を、小たまが成敗《せいばい》したことは私もききおよんでおりましたなれど、頭領さまが、大介めは、どうも生きておるような気がする……と、かねてから申されておいでのことも知っております。
[#1字下げ]それで、とり急ぎ、この手紙を書いたわけでござる。尚、その後、大介とよばれる若い武士は飯田覚兵衛と連れ立ち、邸内より騎馬にて、どうやら浅野屋敷へ出向いたようでござる。
[#1字下げ]前夜も、覚兵衛は浅野屋敷へまいっておりました。
[#1字下げ]覚兵衛は間もなく帰邸いたしましたなれど、若い武士は、ついにもどってまいりませなんだ。
[#1字下げ]昨日、ききおよびましたが、当日は浅野幸長が十余名をしたがえ、騎乗にてどこかへ出向き、翌日の夕暮れに伏見へもどってまいったようでござる。
[#1字下げ]それがしも、そろそろ、腰を上げようかと存ずる。
[#1字下げ]頭領さまも、そのおつもりにて、御思案をめぐらされたし。
山中俊房は、この手紙を小たまに読ませ、
「どうじゃ?」
といった。
小たまは声もなく、うなだれている。
「ま、お前は大介の顔も声も知らぬゆえ、むりもないことじゃが……」
「なれど、それにてはすみませぬ」
小たまは、血がにじむほどに、くちびるをかみしめていた。
自分は、父の下田才六の指図通りにうごき、大介、と信じて、
(あの男を討った……)
のである。
となれば、あのときの手ちがいは、すべて亡き下田才六が責任《せめ》を負うべきことになる。
それにしても、甲賀忍びの中でそれと知られた才六が、なぜに、そのような間ちがいを仕出かしたものか……。
(あっ……)
胸のうちで、小たまは叫んだ。
(では、後から駈けつけ、私を斬った、あの牢人ふうの男が……丹波大介ではなかったのか……そして、父を殺したのも大介の仕わざではなかったのか……)
ようやく、そこにおもい至った。
山中俊房は、その小たまの動揺を見まもりつつ、何度もうなずいていた。
小たまの胸の中のことを、すべて見とおしているらしい。
「も、申しわけもござりませぬ」
「責めを果すべき才六は、すでにこの世のものではない。お前が父にかわって、このつぐないをせねばならぬ」
「はい」
「よいか。その若い武士……おそらく丹波大介であろうが、かならず所在をつきとめてまいれ。いま、甲賀にいる忍びをすべて使うてもよい」
「はい。屹度《きつと》……」
「下田才六ほどの男を、みごとにあざむくほどのやつなのだ、大介は……」
「くやしゅうござりまする」
「ゆだんすなよ」
「はい、今度こそ……」
「今度は、ただ一人の裏切り者として大介を討つのではない。どうやら大介は、加藤家のため……というより、大坂方のために忍びばたらきをしておるらしい。これは、いよいよもって放り捨ておくことができぬ」
「頭領さま……」
「なればこそ、きゃつめを見たからというて、すぐに殺してはならぬ。大介のうごきをさぐりつくしてのち、討ってとれ。場合によっては、この山中俊房がじきじきに出向いてくれよう」
「かたじけのうござります」
「いよいよ、大事は間近にせまった。わしも、ひそかに、こころを決していることがある」
こういったときの山中俊房の声には、すさまじいばかりの殺気がただよっている。
山中俊房の、その顔を見て、小たまは身がひきしまるようなおもいがした。
(頭領さまは、われらがおもいおよばぬほどのことを、何やら考えておいでのような……)
であった。
「小たまよ」
「は……?」
「いま、|ふっ《ヽヽ》とおもいついたことじゃが……」
「なんでござりましょう?」
「丹波大介の女房は、大坂表の塗師屋と夫婦になっているとか……」
「はい。それは、伊賀忍びの於万喜どのからきいたことでござりますが……」
「大介をおびき出すために、その女をつこうてもよいな」
「なれど、その塗師屋の寅三郎も、伊賀の忍び……」
「むろんのことじゃ、そこは、うまくやれい」
「はい」
「なれど、大介生存のことを於万喜や……ことに、伊賀の平吾などにもらしてはならぬ」
「心得ておりまする。もしも大介が生きてあると知ったなら、伊賀の平吾にとって大介は兄のかたきでござります」
「お前にとっても、父のかたき、であるやも知れぬ」
と、俊房がいったのは、やはり、下田才六を討ったものは、
「丹波大介」
だと、おもっているらしい。
「小たま。ともあれ最後には、このわしの手で、かならず下田才六の無念をはらしてくれようぞ」
「は、はい……」
「ときに、これよりすぐ伏見へまいってくれぬか」
「何か……?」
「肥後屋敷の、飯田覚兵衛のもとにいる砂坂角助へ、そっと、わしのことばをつたえてもらいたい。もそっと寄れい」
「はい」
山中俊房は、肥後屋敷の平面図と、さらに、飯田覚兵衛の居宅の間取図も取り出して見せ、
「よいか。角助は、この部屋にねむっておるはずじゃ」
と、いった。
この図面も、すべて砂坂角助の手で書かれ、俊房のもとへ送りとどけられたものであった。
こうして見ると……。
かつて大介が発見した肥後屋敷内の池の中の忍びは、どうも伊賀忍びといってよいだろう。
それはさておき……。
この山中俊房と小たまの密談を、丹波大介がきいたら、どのようなおもいがしたことか……。
大介の直感と杞憂《きゆう》は、やはり適中していたのである。
すべてが手おくれ≠ノなってしまっている。
関東(徳川方)の忍びの眼は、飯田覚兵衛の身辺にまで、十年前から張りめぐらされていたのだ。
その翌日の、夜ふけのことであったが……。
伏見の肥後屋敷内にある飯田覚兵衛の居宅へ、小たまが潜入をした。
砂坂角助の部屋の中へ、彼女が、闇からにじみ出たようにあらわれたとき、すでに、角助は目ざめていた。
「お……小たまどのではないか」
と、角助のくちびるがうごく。
「久しぶりのことでありましたな」
「わしの手紙を見て、何やら、頭領さまからのお達しがあったものとみえるな」
「はい」
「なにごとか?」
「甲賀まで、来ていただけませぬか?」
「わしに?」
「いかにも」
「さて……」
これは、小たまを通じての指令ではない。
山中俊房は、直接に、砂坂角助とひざをまじえて、何か重大なことを談合するつもりなのである。
「すぐにか?」
「いえ、両三日のうちに、と、申されておいでです」
「よし。ともあれ、行かずばなるまい」
飯田覚兵衛は、朝が早いし、夜もおそい。
主の覚兵衛につき従っている角助の伴野久右衛門としては、ひそかに伏見をぬけ出し、甲賀へ行き、朝までにもどって来る……それがもっともよいのだが、どう考えても、時間が不足であった。
なにか、もっともらしい、だれがきいても怪しまれぬような理由をつくり、泊りがけの外出をしなくてはならぬ。
「よろしゅうござるか?」
と、小たまが、まるで男のような口調で念を入れてきた。
「どうしても、わしに甲賀へ来い、と、申されるのじゃな」
「いかにも」
「ならば、行かずばなるまい」
「たのみましたぞ」
「心得た。ときに……?」
「はい?」
「小たまどのは、頭領さまから、何か、わしの手紙について……?」
うなずいた小たまが、
「やはり、丹波大介とおもいまする」
「やはり、な」
「そのことも、|しか《ヽヽ》とおぼえておいて下さるようにとのことで」
「よし」
「では、私はこれにて」
小たまは、またも闇に溶けこんでしまった。
(さて……なんといって、甲賀へまいったらよいものか……?)
しかし、その翌朝になると、角助にとっては大へんに好都合なことになった。
それは……。
上洛の途中にある加藤主計頭清正から、飯田覚兵衛へ、
「明日には大坂表へ到着いたす。覚兵衛は兵四郎をともない、大坂にて待ちつけるように」
との差図が、伏見屋敷へとどけられたのである。
清正は、船で瀬戸内海を大坂へ向いつつある。
その指令を受けた使者は、大坂も近くなったどこかの港で下船し、馬を飛ばして伏見へ駈けつけたのだ。
その朝のうちに、飯田覚兵衛は鎌田兵四郎をともない、伏見屋敷を騎馬で出て行った。
供は足軽・小者のみ五名であったのが、砂坂角助にさいわいした。
覚兵衛一行が出て行って間もなく、角助は、
「京までいってまいる」
と、仲のよい同僚にことわり、外出の仕度にかかった。
「京の、いずこへじゃ?」
「そう、問いつめるな」
と、角助が苦笑して見せ、
「笑うて、くれるな」
「あ……女か」
「この年をして、はずかしいことじゃが……たのむ、明朝まで」
「なんの、独り身ゆえ、たまさかにはむりもござらぬ」
「では、たのみましたぞ」
「ゆるりと行っておいでなされ」
「みやげを、たのしみにしていて下され」
「よし、よし」
角助の伴野久右衛門≠ヘ、馬で出かけた。
伏見から、甲賀の山中屋敷まで十五里余。往復三十里であった。
そして……。
この日の夜ふけに、山中屋敷の蔵居間で、砂坂角助は山中俊房と向い合っていた。
「わしのほうから出向いてもよかったのじゃが……このところ、諸方からの知らせが入ってまいるので、ここを留守にできなんだのじゃ」
「はい」
「角助よ。主計頭清正は、明日、大坂表へ到着と申したな?」
「さよう」
うなずいた山中俊房の声が絶えた。
だが、くちびるのみがうごいている。読唇の術による指令なのだ。
その頭領の口のうごきを見つめているうち、砂坂角助の顔が凍りついたように緊迫の色をたたえはじめてきた。
ややあって……。
指令をつたえた山中俊房が、ふところから小さな革袋を取り出し、角助へわたしてから、
「このことは、わしとおぬしの二人のみが知ることじゃ。よいか」
うめくがごとく、いった。
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対 面
海路を大坂表へ到着した加藤清正は、まっすぐに大坂城へ入った。
この日。
浅野幸長もまた、伏見から大坂へあらわれている。
これは、豊臣秀頼みずからが、清正と幸長を大坂城へまねいたからであった。
あの夜ふけに……。
丹波大介が、秀頼の寝所へ忍び入って、浅野幸長の書状をわたした。
秀頼は、その手紙のいうままに行動した。
すなわち……。
数日後の或る日になって、秀頼は、片桐且元と大野修理大夫治長が同席の折に、
「主計頭が近く上洛じゃそうな」
と、切り出したものだ。
且元も治長も、
(よく御承知でおわす……?)
いささか、おどろいたようである。
このごろの秀頼は、城内の奥御殿からほとんど外へ出ない。
これは、生母・淀の方が、
「このように、世の中がさわがしゅうなっては、うかつに城外へ出られること、なりますまい」
といい、たまさかには戸外で馬を走らせたい秀頼の外出もとめてしまっているからだし、城内を歩くにしても、
「かるがるしゅうなされては……」
淀の方が、いちいち口をさしはさむ。
秀頼と千姫夫妻のそば近くつかえる家来や侍女たちは、すべて淀の方の息のかかったものたちばかりであった。
だから秀頼は、外部の事情にまったくうとい。
加藤清正が、いつ帰国し、今度は、いつ出て来るか、などということを知っているはずがないのだ。
大野治長が不審そうに、ひざをすすめ、秀頼へ何かいいかけたとき、
「修理」
秀頼のほうから、
「久しゅう肥後のじいにも会うておらぬ。会いたいものじゃ」
と、いった。
「はっ……」
大野治長にしても、これを制止する理由がない。
清正や幸長が大坂城へあらわれるのをきらっているのは、淀の方なのである。
治長はもちろん、この秀頼の希望を淀の方へつたえなくてはならぬが、困ったことには、同じ席に片桐且元がいることであった。
且元は、近年の自分が淀の方や秀頼から遠去けられ、なにごとにも治長がひとりで切りまわしていることを不快におもっている。
果して……。
秀頼の、このことばをきいたとき、片桐且元の老顔にぱっと血の色がのぼったのを、大野治長は見のがさなかった。
片桐且元は、秀頼がなぜに、清正の上洛が間近いことを知っているのか……などという疑問を忘れてしまい、
「それは、よろしゅうござる」
叫ぶようにいった。
且元にとっては、これはうれしいことである。
秀頼が、亡き太閤秀吉の子飼いの大名である自分や清正や幸長にかこまれて、語り合う情景をおもいうかべただけで、もう且元の目がしらは熱くなってくるのだ。
「うむ」
秀頼が大きくうなずき、
「すぐさま、とりはからうように」
と、いった。
大野治長も、これを承知せぬわけにはゆかなかった。
この席には、淀の方がいない。
しかも、加藤清正の大坂到着は目前にせまっている。
ついで、秀頼は、浅野幸長とも会いたい、といい出した。
これも、治長としては拒むわけにゆかぬ。
拒む理由がない。
淀の方は、清正や幸長が、しきりに関東へ取り入っている、それがけしからぬ、といい、自分も面会をこばみ、秀頼とも会わせぬようにしているのだけれども、秀頼自身の希望を、この場で治長が制止するわけにはゆかぬ。
秀頼は、片桐且元に向って、
「主計頭が大坂へ到着いたしたなら、すぐさま、城内へまいるように……」
あらためて、念を入れた。
「かしこまりたてまつる」
且元は、はっきりとうけ合った。
だが……。
これだけで、事がすんだわけではない。
大野治長の報告を受けた淀の方が、
「なりませぬ」
みずから、秀頼のところへあらわれ、関東へ取り入り、大坂を見返るような清正や幸長に会うて、なんの|ものがたり《ヽヽヽヽヽ》をなさるおつもりか……と、せめたてたものである。
ところが……。
いつもはおとなしい秀頼が、このときばかりは頑《がん》としてゆずらない。
すでに、片桐且元をもって、清正と幸長が伺候のことを準備させてしまったのだから、いまさら、どうにもなるわけのものではない、といいきった。
淀の方は、はじめて自分にしめされたわが子≠フ抵抗に瞠目した。
多勢の家臣や侍臣たちのいる前で、秀頼は、
「われらは、亡き父君の若き日のことどもなどを、くわしゅうは知りませぬ。折あるごとに清正や幸長から、いろいろときき正し、一城の主として亡き父君に学びたいとおもうております」
こういった。
淀の方も、これ以上、押しとどめる理由が見あたらぬ。
加藤清正と浅野幸長が大坂城へ入り、久しぶりに秀頼とものがたり≠オた日は、まるで春が来たような、あたたかい日和であった。
この席には、淀の方も大野治長もあらわれた。
清正は、久しく見ぬうち、あまりにも秀頼が大きく立派に成長しているのを見て、とても信じられぬ、という顔つきになった。
秀頼は秀頼で、清正がすっかり老《ふ》けこんでしまったのに、おどろき、
「躰でもわるいのではないか?」
おもわずいった。
「いや、別に……さしたることはござりませぬ」
清正の顔の血色は、旅の疲れもあってか、あまりすぐれていないようだが、双眸はかがやき、声にも、かくしきれぬよろこびがあふれている。
この対面は、清正にとって、
(おもいもかけぬこと)
であった。
この日の朝に大坂へ着くや、浅野幸長が来ていて、
「すぐに御城へ……」
と、いう。
飯田覚兵衛が、そっと、簡短に前後の事情をのべた。
もっとも覚兵衛、丹波大介の活躍については、ふれていない。
浅野幸長とも打ち合せ、清正へはことわりなしにしてのけたことを、二人だけの秘密にしておくつもりであったし、
「それでよいな?」
大介へも念を入れると、
「けっこうでござります」
大介も、首尾よく秀頼の寝所へ忍び入って、使命を果し、万事が清正のため、豊臣家のためにうまくはこんだのであるから、
(いまさら、殿の御耳へ入れずとも、よい)
と、考えていたようだ。
「ようも、おふくろさまがおゆるしになったものじゃ」
仲よく馬首をならべ、大坂城内へ参入しつつ、加藤清正が浅野幸長へ、
「さても、ふしぎなことよの」
「いかさま」
幸長も神妙な顔つきで、
「こたびは右大将さまより、おおせ出《いだ》されたことのようにききおよびまいた」
「ほほう……」
「主計頭、近く上洛のよし。久しぶりにて顔を見たい、と、かように……」
「ふうむ……わしの上洛を、よく御承知でおわした」
「いかさま」
「左京大夫殿」
馬足をゆるめつつ、清正が、
「またと得がたいことでござる」
|ひた《ヽヽ》と幸長の眼を見つめて、
「大御所の上洛について、こたびこそは……」
決意をこめていった。
加藤清正が、それだけいったのみで、浅野幸長の胸にはすべてがわかる。
幸長は、
「いかさま」
つよくうなずいた。
にっこりとして、清正もうなずき返す。
これで、万事、打ち合せがすんだようなものだ。
二人とも、おもうところは一つである。
春になって、徳川家康が京都へあらわれたなら、ぜがひにも秀頼を上洛させ、関東と大坂との友好を深めておかなくてはならぬ。
それがいまのところ戦火≠避け得る唯一の道であった。
こうして、いよいよ対面となったわけだが……。
清正も幸長も、うかつに口をすべらすわけにはゆかぬ。
これは、淀の方や大野治長が同席しているから、というばかりではないのだ。
この席につらなる家臣たちや侍女の中に、関東へひそかに内通をしているものがないとはかぎらぬ。
それに、家康からの、
「上洛せられたい」
との声が、まだ大坂へとどけられたわけではない。
また、あまりに事を急ぎ、淀の方に警戒をされてもまずい。
この日は、ともかく、なごやかに、さしさわりのないものがたり≠かわす、のみにとどめておこう。これが清正と幸長の考えであった。
幸長も、大介にもたせてやった手紙で、このことはよくよく秀頼につたえてあったようだ。
秀頼と対面する前に、清正と幸長は、ひとまず片桐且元屋敷へ入り、且元と会った。
このときは、人ばらいをし、三人のみで密談をかわし、こまごまと、今後の打ち合せをとげた、といわれている。
「おぬしが、|しゃん《ヽヽヽ》としていてくれねば困るではないか」
と、加藤清正は、むかしの虎之助と助佐にもどり、遠慮なく且元にいったし、且元もまた、現在の自分の苦境をあますとこなく語った。
「そりゃ、おぬしの苦労もわかる。なれど、いまはそのようなことではすまなくなってきておるのじゃ」
「うむ……まさに……」
「のう、助佐。わしもいのちがけで事にあたるつもりじゃ。左京大夫殿も、そのつもりでいてくれる。これは関東と大坂との不和、というばかりでなく、ふたたび、この世に戦乱がおこることの空しさを、よくよく、考えて見てくれい」
「まさに……」
且元も、昔なじみの清正にはげまされ、いくらか勇気も出てきたようであった。
三人の談合は二刻におよび、午後になってから、本丸の御殿へ参入したのだ。
秀頼の主殿≠フ広間で、酒宴がひらかれた。
淀の方は、清正たちが早々に退出することとおもっていたのだが、秀頼みずからが、片桐且元に命じて、酒宴の用意をさせたのである。
秀頼は、しきりに、熊本城のことを清正に問うた。
「まことに、みごとなる城であるそうな」
「おそれ入りたてまつる」
「秀頼も見たい」
「はい。いずれ、おこしねがうときもござりましょう」
と、清正がこたえたとき、淀の方が苦虫でも噛んだような顔つきになり、
「右大将さまが西国(九州)へまいらるることなど、ゆめ、あろうか」
と、口をさしはさんだ。
えんぎでもないことをいう、とでもいいたげな口調なのである。
「いや……」
と、清正は、あくまでもおだやかに、にこやかに、
「もはや、この世に戦さは絶えまいた。これからも戦さは起りますまい。となれば、われらも好き自由に、日本諸国を見物して歩けようと申すものでござります」
すると、秀頼が大きくうなずき、
「いかにものう。平穏ほど、世に尊きものはない」
と、いったものである。
これには、清正も、且元・幸長もおどろいた。
十九歳の豊臣秀頼が、はっきりと平和≠フよろこびを口にのぼせたのである。
これは、こころづよいことだ。
加藤清正は、満面を笑みくずして、こういった。
「それがしは、初夏のころまで、伏見におりまする。こうして、たびたび、御目通りがかないますならば、清正この上もなきよろこびにござります」
「おお……」
秀頼が、すかさず、
「いつにてもまいられよ」
「かまいませぬか」
「亡き父君のことどもを、いろいろとききたい」
「ははっ」
「父君の若き日のことを……」
「それはもう……」
「いつにてもよい。市正《いちのかみ》(且元)まで申してくれよ」
満座の中で、秀頼がここまで念を入れてしまったのだから、淀の方も口をさしはさむ余地がなかった。
片桐且元も、昂奮している。
「めでとうござる。今日は、まことによき日でござる」
泪《なみだ》をうかべ、そのことばを何度もくり返した。
加藤清正は、その感傷にひたりこんでいる且元を見て、何か、たよりなくおもった。
清正も幸長も、片桐且元ひとりのみでは、
(あぶない)
と、考えていた。
そこで、清正は重臣・飯田覚兵衛を、浅野幸長は侍臣・内田弥八郎を、わざわざ秀頼の面前へ呼び出し、
「上様。われらに御用のおおせつけられまするときは、この両名を市正殿屋敷へとどめおきますれば、すぐさま、伏見まで馳《は》せつけまする。清正も明年は、こちらへまいることもなりますまいゆえ……たびたび、上様へ御目通りの儀、こころたのしゅう待っておりまする」
加藤清正が、そういったものだ。
世にきこえた家来を、大坂城内にとどめておき、秀頼と自分たちとの連絡係≠ノしたのであった。
「うむ。ようもはかろうてくれた」
と、秀頼も大満足の様子なのである。
眉をしかめた淀の方が、急に立ち、ことばもかけずに、侍女たちをしたがえ、奥へ去った。
これをきっかけにして、宴も終ったわけだが、
「上様」
と、清正がひざをすすめ、
「主計頭、いっこん御酌をつかまつりする」
「おお……」
秀頼が盃を取りあげる。
するすると近寄った加藤清正が、酌をしながら、一言、二言、何やらささやいた。
秀頼が、かるくうなずく。
清正は満面に笑いをうかべてい、秀頼も微笑している。
他の者たちが、これを見るとき、何やら清正が秀頼に冗談でもいったように見えた。
それほどに両者とも、何気ない態度であったからだ。
だが……。
清正は、こうささやいたのだ。
「こたびは、関東におゆずりなされ。世に戦さを起さぬことが、上様のつとめでござりますぞ」
徳川家康上洛のことは、だれもが知っている。
今度も、家康から秀頼へ上洛≠フ要請があるだろうことも、大坂方は予期している。むろん、淀の方は大反対であろうが、秀頼の考えは別のものであった。
丹波大介がとどけた浅野幸長の手紙にも、こんこんと書きしたためられてあったように、いまは関東と大坂との平和が、そのまま天下の平和に通じている。
そのことを、秀頼はよく認識したようであった。
本丸御殿から退出をし、片桐屋敷へもどった加藤清正は、浅野幸長に、
「いや、あまりに立派な御成長ぶりにて、清正つくづくと、たのもしくおぼえ申した」
と、いった。
清正と幸長は、この夜、片桐且元屋敷へ一泊し、翌朝早く、大坂城を出て伏見へ向った。
浅野幸長は船で、加藤清正は陸路を、別れ別れに伏見へ入ったのである。
飯田覚兵衛と内田弥八郎が、片桐邸へ残留したのはいうまでもない。
鎌田兵四郎は、主・清正にしたがって伏見へもどった。
「兵四郎」
伏見へ向う途中で、清正によばれた鎌田が馬を近づけるや、清正が、
「ちかごろは、丹波大介と出会うたか?」
「いえ……このところ、あらわれませぬ」
鎌田も、飯田覚兵衛から、
「先日のことは、殿に申しあげてはならぬぞ」
と、念を押されている。
それがいいことか、どうか……。
鎌田も割り切れぬところがあったけれども、大介が、
「ま、いまのところは飯田さまの申されるようにしておいても、よろしゅうござる」
といったので、これまで何事も主人にかくしごと≠しなかった鎌田兵四郎も、ついうそ≠ついてしまったのだ。
「さようか……」
清正は、沈思している。
鎌田は不安であった。
たまりかねて、
「殿……」
「なんじゃ?」
「何か、お気にさわることでもございましたのか?」
「いや、別に……」
うなずいて、行列のきめられた位置へもどれ、目顔でしめしたので、鎌田が一礼し、馬を返そうとしたとき、
「それにしても、あまりにうまくはこびすぎた……」
つぶやく清正の声が、耳へ入った。
鎌田は、冷やりとした。
伏見屋敷へ入った加藤清正は、三日後に京都の高台院を訪問している。
このときの談合も、かなり長かったようだ。
さらに八日後になって……。
清正はふたたび、大坂城へ出向いて行った。
熊本城の絵図面をたずさえ、これを秀頼に見せて、くわしい説明をおこなったのである。
これも、秀頼との約束であったから、清正はらくらくと目通りができた。
今度も、大野治長たちがそばにつきっきりで、眼を光らせていたけれども、清正を遠去けるべき理由は何もない。
清正もまた、家康上洛のことについては一言もふれなかった。
二月に入ると、家康上洛の評判が大きくなり世の人びとは、
「関東と大坂は、どうなるのか……?」
かたずをのんで、そのときを待った。
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始 動
そのころ……。
丹波大介は、浅野幸長の伏見屋敷で暮していた。
幸長は、
「あの丹波大介と申す者、まことに、すぐれたる男じゃ」
すっかり、気に入ってしまったらしいのだ。
「ともあれ、ここしばらくは当家へとどまるように」
との、幸長の内意をうけたとき、いつもの大介ならば、これを辞退したろう。
いや、辞退しかけた。
(だが、まてよ……)
|ふと《ヽヽ》、大介はおもい直した。
(おれが、この浅野屋敷にとどまっているほうがよいのではないか……?)
であった。
なんといっても、いまの加藤清正が目ざしているところのものは、
(上洛する徳川家康と、豊臣秀頼との友好関係をふかめること)
にある。
その、家康の上洛は、翌月にせまっているのだ。
杉谷のお婆も老女・千代≠ニして、清正の行列にしたがい、熊本を発し、すでに伏見の肥後屋敷へ入っていた。
これからは、なにかにつけて、お婆との連絡も密接にせねばならぬ。
杉谷忍びたちも、京都から伏見にかけて集結をしているし、島の道半老人も、甲賀の杉谷屋敷から、あらわれた。
一同の指揮をとるにも、いまの大介が伏見城下にいることは、もっとも適切なことなのである。
その方法は、いくらでもあるけれども、
(どうせ、伏見にいるほどなら、この浅野屋敷にいてもよい)
と、大介はおもいはじめた。
浅野幸長は、大介の正体を知っている。
それだけに、こころやすい。
幸長と清正とは密接な間柄であるが、なんといっても別の大名家だ。
清正のためにはたらく大介が、幸長のところにいることは、かえって、
(おれの忍びばたらきがしやすくなる)
と、大介はおもった。
これからは清正も、幸長と手をむすび合い、緊密な協力のもとに事を推しすすめて行かねばならぬ。
両者の連絡をたもつ上においても、大介が加藤家か浅野家のどちらかに居たほうがよい。
それなら、浅野屋敷にいたほうが、むしろ安全といえよう。
このことを、大介が肥後屋敷にいる杉谷のお婆の寝所へ忍んで行き、
「いかなるものか?」
問うや、お婆は、
「よろしかろう」
言下に、うなずいてくれた。
大介が浅野屋敷にいて、なによりも便利なことは、堂々と連絡がとれることであった。
大介なりお婆なりに、急な用事がおきた場合、たとえば鎌田兵四郎が、主人・清正の使者として浅野幸長のもとへおもむき、かねて打ち合せておいた方法にもとづき、大介をよべばよい。
大介のほうから、清正なり、お婆なりに用あるときは、浅野幸長の侍臣が使者となって、清正のもとへおもむけばよい。
そうすれば、鎌田兵四郎が、
「何用か?」
すぐさま、浅野屋敷にいる大介のもとへ馳せつけてくれようというものだ。
「じゃがな、大介どのよ」
と、杉谷のお婆が、
「くれぐれも、気をつけてもらわねば……」
「心得ている、お婆どの」
加藤家と同様に、浅野家へも、関東からの監視の眼が光っているものとおもってよい。
このことについては、じゅうぶんに、こころをつけねばならぬ。
いささか大胆にすぎる仕様だ、と、おもわぬではないが、このさいは、やはり双方の連絡を密接にとることが、もっともたいせつなことだ
いちいち大介なり、小平太なりが、肥後屋敷へ忍びこみ、こちらのことばをつたえたり、鎌田兵四郎や杉谷のお婆を通じて、加藤清正の意をうけるというのは、不便にすぎる。
「今度のことが、うまくはこび、たとえ一時なりとも世の中がおだやかになったら、われらの忍びばたらきを、も一度、やり直そうではないか」
と、お婆が大介にいった。
なんといっても、徳川方の諜報網が完璧であって、どこにどのようなものが忍びこんでいるか、知れたものではないのだ。
十余年も前から、
「たとえば、この加藤家の臣になりすましているものを……いかに、わしじゃとて、なかなかに見やぶることはできぬ」
お婆は、つくづくと嘆いた。
むりもないことだ。
忍びの世界では、お婆や島の道半ほどの古強者《ふるつわもの》≠烽まりない。
だが、現状では伊賀・甲賀の忍びたちの大半が関東のために、はたらいているといってよい。
こちらも忍びなら、相手も忍びなのである。
なかなかに正体をあらわすものではないのだ。
「どうも、このような忍びばたらきは苦手じゃ」
と、お婆は苦く笑った。
女ながら杉谷のお婆は、城取り、城攻めのさかんな戦乱の中で、いさましい忍びばたらきをして来た。
「そのほうが、ずっとおもしろいのじゃ」
と、お婆はさびしげにいった。
なにしろ杉谷のお婆は、あの上杉謙信と武田信玄が川中島で大決戦をおこなった永禄四年のころ、すでに一人前の女忍びとして、上杉方のために活躍をしている。
それは、もう五十年も前のことなのだ。
織田信長が、淀の方の実父・浅井長政と姉川に戦ったとき、杉谷のお婆は、頭領・杉谷信正にしたがい、
戦さしのび
として戦場へおもむき、信長の首を討たんとして決死のはたらきをした。
杉谷信正をはじめ、杉谷忍び最後の忍びたちのほとんどが戦死をとげたのも、
「そのときのことじゃ」
なのだそうである。
大名や武将たちが入り乱れて戦った時代では、なによりも目的がはっきりしている。
敵を倒す。
この一事あるのみであった。
だから、双方の忍びも、そのためにうごけばよい。
ぐずぐずしてはいられぬ時代ゆえ、
「なにごとにも勝負が早い」
と、お婆はいうのだ。
いまのように、戦争が実現せず……というよりも、戦争をふせぐために、何事も凝とこらえ、あくまでもこちらの姿を見せずに敵の実体をさぐる。よしまたさぐりとったとしても、すぐさま飛びかかって、これを殺してしまうわけにも行かぬという。
お婆にとっては、
「年を老《と》ったためか、気が短こうなってきてのう。いやはや、まことにめんどうな……」
「申しわけもない」
「いやなに……買って出た役目じゃもの、いつ死んでも惜しゅうはないわえ」
お婆も、大介から、くわしく大坂城内の模様をききとり、
「ふうむ。それほどのことなれば……」
にんまりとなって、
「淀の方を、ひそかに殺害することなど、おぬしと、このお婆の二人のみにても見事、やってのけられよう」
「そのおつもりか、まだ……」
「いやいや。秀頼公御上洛のことが、うまくはこぶのなら……いますぐに、と、急ぐこともあるまい」
「いかにも」
「なれど、大介どのよ」
「なんでござる?」
「敵方も、われらと同じことを、考えているやも知れぬぞえ」
「なんと……?」
「家康の指図にはかまわず、おのれの了見ひとつで、秀頼公なり、清正公なりを殺害する決意を、かためているものが、おらぬとはかぎるまい。どうじゃな?」
この、杉谷のお婆のことばは、丹波大介を凝然《ぎようぜん》とせしめた。
(そういわれれば……)
ないとはいえぬ。
お婆や自分と同じ、烈しい忍びの血をもつ者が、敵方にもあってよいはずではないか……。
「たとえばじゃ……」
と、お婆が、
「甲賀頭領・山中俊房なれば、やってのけてもふしぎはないぞや」
「ふうむ……」
大介も、かつては山中俊房につかえた、忍びであったし、大介の亡父も先代の山中俊峯につかえていた。
大介が父のもとをはなれ、甲賀へもどって、山中忍びの一人となってからの印象では、謀略にすぐれ、部下の忍びたちにも、決して、肚の底を見せようとはせぬ、山中俊房であった。
俊房は、
「敵をあやつるばかりではなく、おのが配下をもあやつる」
のである。
それに厭気がさし、関ヶ原戦争の折に、大介は裏切ったのだ。
「くれぐれも、気をつけて下されよ」
大介が去るとき、お婆は、もう一度、念を入れてきた。
お婆は、もし無事に、家康と秀頼の会見がすんだなら、
「わしが外へ出て、大介どのが肥後さまの家来となり、内へはいりこまれたがよい」
と、いっている。
または、
「肥後さまへは島の道半どのを入れ、わしと大介どのと二人して、外から忍びばたらきをしよう」
ともいう。
お婆の意見では、たとえ双方の会見がおこなわれたとしても、危機は去るまい、というのだ。
「どこまでも家康は、わが眼のくろいうちに、豊臣家をほろばさねば気がすむまい」
そして、自分の直感にすぎぬやも知れぬが、と、ことわってから、
「熊本の御城はのう、大介どの。肥後さまが秀頼公を迎え、あれへたてこもられ、徳川の大軍を一手に引きうけ、大戦さするためにこそ、きずかれたものじゃ、と、わしはおもうている」
と、決定的にいいはなったものである。
「あの備えあればこそ、家康も肥後さまへは一目も二目もおいているのじゃ。さ、そのことが大坂方にはわからぬ。いまの豊臣家には、凝と眼をこらし、天下のうごきをはっきりと見きわめられるだけの人物が一人もおらぬ、というてよいわえ」
そして、お婆は、こうつけ加えた。
「いかにどのようなことがあろうとも……行末は、肥後さまと家康との大戦さになろう。そのときまで、ぜひとも生きていて、杉谷の於蝶が最後の忍びばたらきを、見せてやりたいものじゃ」
その日。
丹波大介は、編笠に顔をかくしつつも、浅野屋敷の表門から堂々と外出をした。
浅野家における大介の立場は……。
浅野幸長の侍臣・伊藤助九郎の食客ということになっている。
伊藤助九郎は浅野家・譜代の家臣である。
主・幸長の信頼もあついし、年齢は五十を越え、老巧の人物だ。
そこで、浅野幸長は、
「実は……」
と、伊藤助九郎へ大介の立場を或る程度は打ちあけた。
もちろん、大介にはかっての上でのことである。
「心得申した」
と、助九郎はたのもしくうけ合ってくれた。
大介は武田家の遺臣≠ニ、いうことになっている。
これが、もっとも無難なのだ。
武田家は、すでにほろびている。
その遺臣たちは、徳川家をはじめ、諸方へめしかかえられている。
信玄以来、その強兵をほこった武田家の遺臣というものは、天下の評価がすこぶるよろしい。
それを、浅野の家臣の中でも人に知られた伊藤助九郎が世話をしている、ということは、いささかも不自然でないのである。
大介は、いま、浅野屋敷内にある伊藤助九郎の長屋に暮している。
助九郎の妻は、すでに病死をしていたし、長男・主馬元親は、国もとの紀州・和歌山に暮している。
そこで、ちなみにいうと……。
実は、浅野幸長は徳川家康から、
「紀州・九度山にいる真田父子を監視せよ」
との密命をうけているのだ。
それから見ると浅野幸長は、たとえ表向きのことにせよ、徳川家康から悪くおもわれていない、ということにもなる。
そうした意味からも、大介は、浅野屋敷へとどまったのであろう。
この日。丹波大介は、杉谷忍びの一人、門兵衛に会うつもりで、外出をしたのであった。
前に伏見城下で指物師をしていた門兵衛は、いま、伏見にはいない。
五年前のあのとき……。
丹波大介が、杉谷忍びの甚五を救わんとして、小たまや山中忍びと闘ったとき、門兵衛も一足おくれて駈けつけた。
そのときすでに血闘は終っていたが、
「この上、伏見にいてはあぶない。敵に気づかれる」
と大介がいい、一時、門兵衛は大介と共に関東へ下り、江戸を中心に忍びばたらきをしていたのだが、半年ほど前に、また、伏見の近くへもどって来ていた。
伏見の城下を西へ半里ほど行くと、横大路の村へ出る。
ここは、京都市中の東西をながれる鴨川と桂川が合流するところである。
二つの川は、やがて宇治・木津の両川とも合流して、淀川となり、大坂湾へそそぐ。
しかも、伏見や京の町の至近距離にあるのだから、必然、水運の要衝地となったわけだ。
ことに……。
豊臣秀吉が天下人≠ニなり、大坂と京都を手中におさめ、さらに伏見城を築いてからは、横大路村がにわかに繁盛となった。
大坂の海から淀川を通ってはこばれる魚介や物資が横大路へ陸揚げされ、京や伏見をはじめ諸方の町や村へ散ってゆく。
川のほとりには、こうした食糧や物資をあつかう問屋が立ちならび、堤の上には魚市場がひらかれている。
こうなると、それに付随した店屋――すなわち、酒屋・菜飯やなどや、種々の物売りもむれあつまって来るし、朝から昼すぎまでは、非常なにぎわいとなる。
杉谷忍びの門兵衛は、堤の下の道に沿ったところに、板屋根の小さな店をかまえ、笠やわらじ、わらぞうりなどを売っていた。
伏見城下では、指物師として顔を知られた門兵衛だが、あのころはつけひげ≠つけていたし、めったに店先へは出ぬようにしていたから、いまの門兵衛を見ても、
「先ず、気づくものはいまい」
と、大介さえ、門兵衛の変装ぶりの巧妙さにおどろいている。
いまの門兵衛は、坊主あたまになって、つけひげ毛髪を剃り、もとより、躰つきから口のききよう歩く足取りさえも別人≠フようになってしまっていた。
そして……。
甲賀・杉谷の里から出て来た島の道半老人も、この門兵衛の家にいる。
もっとも、道半は、店先へはあらわれない。
杉谷のお婆と同様に、忍びの世界では古くから知られた道半だし、その小さな体躯や顔貌が特殊なものであるだけに、
「ま、できるかぎりは、この姿を見せぬほうがよいわい。なれど、この島の道半が、まだ生きて在ったと知れば、伊賀や甲賀の忍びたちも、さぞかし、びっくりすることであろう」
大介にそういって、|くっくっ《ヽヽヽヽ》と笑ったものだ。
さて……。
大介が、伏見の浅野屋敷を出たとき、すでに日はかたむきはじめていた。
春とはいえ、まだ名のみのことで、風が冷たかった。
前に、門兵衛が住んでいたことのある家の近くへ、大介がさしかかったとき、堀川沿いの道にうずくまっていた物売りの男の眼が、笠の内で白く光った。
そこは、かつて門兵衛が山中忍び≠フ安四郎を追いつめた村上周防守屋敷の近くであった。
物売りは、堀川にかかる橋のたもとへ二つの荷箱をひろげ、|ねじり《ヽヽヽ》餅を売っていたのである。
陽に灼《や》けたような……というよりも、行商人特有の塵にまみれたくろい顔つきをした物売りは、躰つきも顔も、若く見えた。
常人ならば、まったく気づくまいけれど、もしも、この物売りの顔を、丹波大介でなくとも、真田忍びの奥村弥五兵衛が見たら、なんというであろうか……。
物売りの男は、女忍び・小たまの男装≠セったのである。
日暮れどきもせまっていて、人の往来も多く、大介は、この物売りを気にもとめていなかったようだ。
もっとも、小たまのほかにも、橋の両たもとへ三人ほどの物売りが荷をならべている。
小たまは立ちあがり、すばやく荷箱のふたをしめ、ひとまとめに重ねておいて、上からむしろをかぶせた。
大介は橋をわたり、ゆったりと遠去かって行く。
その後から、小たまも橋をわたった。
橋の西たもとで荷箱をならべていた物売りが、小たまが橋をわたって来るのを見るや、何気ない様子で荷箱を片づけ、すばやくこれを背負い、どこかへ立ち去った。
小たまが、伏見の町を出たとき、この物売りが、今度は百姓の姿で黒い牛をひきながらあらわれた。
この男は山中忍びの権左という者であった。
うなずいた小たまが、その牛の背へ乗った。
権左も、小たまのように笠をかぶっている。
小たまは、少年のように見えた。
百姓の老爺が、牛に孫を乗せて田の道を行くという、このあたりのどこにでも見られる風景の中に、二人はまったく溶けこんでしまっている。
これなら大介が振り返って見ても、
(気づくはずはない)
のである。
「小たまどの……あの、前を行く武士が……?」
「まさに、五年前のあのとき、私を斬った男」
「では、丹波大介……」
「と、おもうてよかろう」
「なれば、こうしてはおられぬ」
「ま、落ちついたがよい」
「なれど……」
「大介め。どこからあらわれたか……そして、どこへ行くのか……それをたしかめるが先じゃ」
「む……」
「ま、権左どの。落ちつけ、落ちつけ」
堤から川岸へかけての魚市場にも、人の気が絶えていた。
まるで冬の最中のように、冷たく寒い夕暮れであった。
丹波大介が門兵衛の家に入って行くのを見とどけた小たまと権左は、田の中の小さな木立を背負った祠《ほこら》の蔭に、身をひそめた。
「どうする、小たまどの」
「いますこし、見張っていよう」
「二人ほどなら、すぐに呼んで来られるが……」
「ま、よい」
と、小たまはすさまじい笑い顔になって、
「いずれにせよ、おのれが姿を私に見られたのは、丹波大介の運の|つき《ヽヽ》じゃ」
うめくがごとくに、いった。
飯田覚兵衛の家来になりきっている砂坂角助からは、
「あれから、大介めはまったく姿を見せぬ」
との知らせを何度もうけた小たまだが、ともかく辛抱づよく、権左ほか二名の山中忍びをつれ、伏見城下からうごかなかったのである。
肥後屋敷や浅野屋敷のまわりも、日に何度かは交替で徘徊《はいかい》をしたが、このあたりは、ほとんど大名屋敷だけに、道を行く人びとにもおのずから限度があるし、あまり執拗《しつよう》にうろつきまわっては、
(かえって、あやしまれる)
ことになる。
そのかわり、肥後と浅野両屋敷をむすぶ線と、そのまわりの町すじへは、かならず四人の眼が光っているようにした。
それが今日、ついに成功をした。
自分の躰を傷つけたうらみよりも、父・下田才六を殺したのが、どうも丹波大介らしいことをおもうと、小たまは、
(憎い、憎い!!)
居ても立ってもいられなくなるほどであった。
いますぐにも人手をあつめ、あの家を包囲し、大介を討ってとりたいのは山々だが、頭領・山中俊房からくれぐれも念を押されたように、大介の忍びばたらきの実体をつかんでからでも、
(おそくはないし、そのほうが、かえって大介を苦しめることになる)
と、小たまは考えている。
門兵衛の家の中では……。
大介が、島の道半に、
「これからは、肥後の殿と高台院さまとの連絡《つなぎ》にも至急のことが起きてこよう。ついては道半どの。先日の大坂での、秀頼公と殿との会見の様子を高台院さまへおつたえすると共に……、ほれ、あの伊賀忍びのものらしい抜穴もしらべて来てもらいたい。その後また、あの抜穴から敵の忍びが高台院さま御屋敷へ忍びこんでいるか、どうかを……」
「む。わけもないことじゃ」
「たのみ申す」
間なく……。
丹波大介が、家の中からあらわれた。
祠の蔭にいる権左が、
(あとを……)
つけようか?……と目顔で問うのへ、小たまが、なぜかかぶりを振った。
そして……。
大介の姿が、かなり遠去ってから、
「大介めは、私にまかせておきなされ」
「む……」
「権左どのは、いましばらく、ここを見張っていて下され」
「心得た」
小たまは、祠の蔭から出ると、いま大介が去って行ったのと反対の方角へ走り去ったものである。
(これは……?)
と、権左が不審そうにくびをかしげた。
どう見ても、大介の後を追ったとはおもえぬ。
小たまも、はじめは後をつけるつもりでいたのだが、
(相手は丹波大介。後つけて、|うかつ《ヽヽヽ》にさとられてはならぬ)
おもい返した。
大介の行先をつきとめるためには、あまり間隔がはなれていてはいけない。
ここまで、小たまと権左が大介をつけて来たのもそれであったが、忍びの尾行の場合、夜と昼とでは、まったく条件がちがってくるのである。
日のあるうちの尾行のほうが、容易なのである。
なぜといえば……。
日のあるうちは、人びとの生活の物音がある。往来の人もいる。このほうがかえって相手に気どられない。
ところが夜になると、忍びの眼は闇の中をも見通すちからをそなえている上に、あたりがひっそりとしずまるから、人の気配も足音も尚更に、するどい忍者の耳にとらえられることになる。
まして、相手は丹波大介であった。
(よし)
|とっさ《ヽヽヽ》に、小たまはおもい直した。
大介は伏見の町から出て来た。
ゆえに、伏見に帰るであろう、と仮定してみる。
伏見へ帰るとなれば、肥後屋敷か浅野屋敷へ入って行くやも知れぬ。
これは、大介が立派な武士の服装をしていたことから、小たまが感じとったことだ。
(おもいどおりに行くか、行かぬか……)
それはわからぬが、ともあれ、こうした想定のもとに、彼女は行動を起すことにきめたのであった。
で……。
小たまは、大介と別の道をとり、まっしぐらに伏見城下へ駈けもどって行ったのである。
そして、伏見の町の、肥後屋敷と浅野屋敷との分れ道にある前野但馬守屋敷の北側の塀へ飛びあがり、邸内からさし出ている木の枝にひそみかくれた。
やがて、丹波大介の姿が道にあらわれた。
小たまが見まもっていると……。
大介は、道をまっすぐ東へすすんで行く。
肥後屋敷へ向っているのではないことが、これではっきりとしたわけだ。
と見るや……。
小たまが、鳥のごとくに闇の道へ舞い下りた。
またしても彼女は、大介とは別の道、別の小路をつたわり、疾風のように走り出している。
あたりは、すべて大名屋敷であった。
人の気は、まったく絶えている。
またたく間に、小たまは浅野屋敷と道をへだてた月光院≠ニいう寺の傍道へ到着し、その土塀の上へ躍りあがった。
そのまま伏せて、凝と、浅野屋敷の表門をうかがう。
たとえ大介が裏門から入るとしても、この道を行きすぎねばならぬ。
(来た……)
まさに丹波大介。
編笠のまま、表門へ近寄りつつ、ゆだんもなくあたりの気配をうかがう。
大丈夫とはおもったが、念のために、小たまは整息の術によって、わが呼吸を消した。
大介は、立ちつくしたまま、うごかぬ。
(もしや……?)
見つけられたのではないか、と、小たまは気が気でなかったけれども、
(あ。よかった……)
大介が小たまに背を見せ、表門へ近づいて行く。
大介が、長屋門の番所へ向って何かいうと、潜《くぐ》り門が内側からひらき、大介の姿を呑んだ。
(やはり、浅野屋敷にかくれていたのか、大介めは……)
小たまの胸がおどった。
ちょうど、そのころである。
肥後屋敷内へ、影のように忍びこんだ者がいた。
甲賀頭領の山中俊房であった。
俊房みずからが、ついに伏見の町へあらわれたのだ。
これは山中俊房の、なみなみならぬ決意をあらわしたものと見てよい。
小たまは頭領さまが、この近くの肥後屋敷内へ潜入したことを、すこしも知らぬ。
山中俊房は、潜入した肥後屋敷のどこかにかくれたまま、しばらくは時をすごしている。
夜といっても、まだ時刻が早い。
人も起きている。
それにしても、山中俊房は、単身で肥後屋敷へ潜入し、何をしようというのか……。
小たまは、大介が浅野屋敷へ入ってからも、しばらく月光院の塀の上から見張りをつづけていたが、大介が出て来る様子がないのを見きわめるや、ふたたび、横大路の門兵衛宅を見張っている権左のところへ引き返した。
木立の祠の蔭に、権左の姿はなかった。
小たまが祠の蔭へもどる前に、門兵衛の家から島の道半があらわれ、京の高台院へ向った。
権左は、道半の後をつけることにした。
(子供が出て来た……?)
と、はじめは権左がそうおもったほどに、小さな躰の道半であったが、自分の背丈ほどもある杖へすがるようにして歩きはじめたので、
(な、なんだ。老人《としより》か……あれでも大介一味の忍びなのか?)
一時は権左も、道半を、
(見捨てておこうか……)
と、おもいもした。
しかし、
(あの家から出て来たからには、やはり大介一味の者と見てよかろう。どこへ行くのか、つきとめておいても|むだ《ヽヽ》ではない)
考え直し、後をつけることにしたのであった。
道半は、堤の上の道をとぼとぼと行く。
灯も持たぬのに、足さばきにためらうことがない。
(やはり、な……)
権左も、こうなると道半が忍びであることを見ぬき、
(どうも、京へ行くようだ)
極度に呼吸をつめ、慎重に後をつけはじめた。
島の道半は、鴨川の南岸を東へすすみつつある。
間もなく、竹田の村へ入った。
このあたりは、京と伏見をつなぐ街道に沿った村落であるが、田畑よりも湿地帯と森や林がつらなり、農家もひとかたまりになってはいず、林の蔭や、小さな丘のすそなぞに点在している。
川水がすぐにあふれるため、まとまった村落になりにくいのであろう。
しかし、遠いむかしには白河法皇が、このあたりへ離宮を造営されたこともあったそうな。
その白河法皇の歌に、
「池水に今宵の月をうつしもて、こころのままにわがものと見る」などというのがある。
それから見ると、離宮をかこむ公家たちの館もたちならび、はなやかな月見の宴もおこなわれたことがわかる。
いま、そのおもかげはまったくない。
このあたりまで来た島の道半は、
(どうも、おかしい……?)
と、感じはじめた。
杉谷のお婆や道半のように忍びとしての経験が豊富で、しかも未曾有《みぞう》のものといってよいものにとっては、老いて尚、その感能のはたらきは常人の想像を絶するものがあるといってよい。
権左のような忍びでは、とても太刀打ちはできない。
(つけられている)
と感じた道半は、さらに、たよりなげな足どりになって、一度もうしろをふり向こうとしなかった。
(まことにつけられているのか、どうか……ためして見ようかえ)
道半は、とっておきの忍びの術をつかってみることにした。
すでに、堤の道は絶えている。
道半は、竹田の村外れの細道をゆっくりと歩いていた。
その小さな影が、竹林の中の道へ入って行くのを、権左は、星あかりに見とどけた。
このあたりの地形に、権左もくわしい。
竹林の道をぬければ、街道へ出る。
その街道は、京と伏見をむすぶ竹田街道であった。
(やはり、京へ行くつもりなのだな?)
権左は、
(これは、おもいがけぬことになるやも知れぬぞ)
何やら、尾行の収穫が大きいような気がして、胸がときめいた。
権左も竹林の道へ入る。
道は暗い。
まるで竹の高塀にかこまれたかのような道であった。
(や……?)
権左は、道へ伏せた。
前方を行く老人が、立ちどまったからだ。
(気づかれたか……?)
|はっ《ヽヽ》としたが、立ちどまった老人は、どうやら尿《ゆばり》をしているらしい。その音が権左の耳へとどいた。
尿の音がやんだ。
だが、老人は尚も、そこにたたずんでいる。
(どうしたのか?)
こちらをふり向いて見る様子もない。
凝と、尿を放っていたままの姿勢で立ちつくしているようなのである。
(うごかぬ。いったい、どうしたのか……?)
じりじりと、権左は這いすすんで行った。
老人は、まだ、うごかぬ。
尚も、権左はすすんだ。
かなり近くまで接近して見て、何をおもったのか権左が、
「う……」
かすかにうめき、戦慄したようである。
権左が釘づけのようになり、地に伏せたまま、すさまじい眼つきになって、前方の老人をにらみつけている。
権左の右手がふところへ入った。
ふところの飛苦無をつかんだ。
その瞬間であった。
竹林の中から、むささびのように飛び出して来た黒い影が、権左の背後へ襲いかかった。
権左の絶叫があがった……いや、その絶叫も半ばで消えた。
襲いかかった影の左手が、ぐいと権左の口を押えつけてしまったからだ。
黒い小さな影は、なんと、島の道半だったのである。
道半の右手につかまれた鋭利な刃物は、完全に権左の背中の急所を刺し通していた。
権左は、即死した。
このとき、島の道半老人がおこなった忍びの術を蝉《せみ》ぬけの術≠ニいう。
この術を、いま完全におこなえるものは、甲賀忍者の中でも、ほとんどいない、とおもわれる。
杉谷のお婆は蝉ぬけ≠フ名手であったそうだが、
「この老齢《とし》となってしもうては、とても、できるものではない」
と、いつか大介へ語ったことがある。
蝉ぬけの術≠ニは……。
つまり、歩みつつ、または立ちどまったままで、身につけている衣類をそのままにして、わが肉体を下方から脱せしめるのだ。
歩きながら蝉ぬけ≠するときは、これを助ける受け≠フ者がいなくてはならない。
肩をならべて歩きつつ受け≠ェ、蝉ぬけをする者の衣類をささえ、人のかたちをさせたまま、前へすすむ。衣類からぬけ出た者は裸のまま地に伏せ、どこかへかくれてしまう。
うしろからつけて来る者は、これを知らず、依然として前を行くのは二人である、とおもいこんでいるから、尚もそのまま、尾行をつづける。
そこを、裸のままで待機していた蝉ぬけ≠フ忍びが飛びかかり、捕えるなり殺すなりしてしまうのである。
ところで……。
今夜の島の道半の場合は、同行者の受け≠ェいない。ひとりきりの蝉ぬけを、みごとにしてのけたわけだ。
これは、道半が持っていた長い杖が受け≠フかわりをつとめてくれたのであった。
杖を土中へ突き立て、杖に仕組まれた仕かけ≠フ棒を横へぬき出し、それへ衣服を引きかけざま、すばやく帯やひもを解き、裸となって地へ伏せ、さらに竹林の中へかくれこみ、道半は権左のうしろへまわった、ということになる。
むろん、このためには杖に仕かけをしてあるばかりでなく、道半の衣類がいつでも蝉ぬけ≠ェ出来るようにつくられていた、ということにもなる。
ともあれ、衣類を人のかたちに立てておいて、その中から自分の躰を灰のように下へくずれぬけさせるのだから、よほどに柔軟な肉体の所有者でなくてはつとまらない。
その上、他の忍びばたらきをする何倍もの神経をつかわねばならぬ。
もともと蝉ぬけ≠ヘ、すぐれた女忍びの特技である、といわれてきた。
それを、道半のような老人が仕てのけたことはめずらしい。
丹波大介ほどの忍びでも、まだ蝉ぬけ≠フ実際を見てはいないのだ。
島の道半は、はじめ、権左を殺すつもりはなかった。
しかし、捕えるとなるとむずかしい。
ちからずくの、しかも相手を殺してはならぬ闘いでは、道半も権左にはかなうまい。
殺さずにおいて、蝉ぬけをした島の道半が、今度は反対に権左を尾行し、その居所をつきとめる、というのがもっともよい。
よいことは、
(わしじゃとて、わかっていたが……)
であった。
ところで、これがなかなかにむずかしいのだ。
権左は、相手が蝉ぬけ≠したことに気づく。
気づいたら、これほどの術をつかう相手に対し、必死で逃げるだろう。
全神経を張りつめ、わが行方をくらまそうとするにちがいない。
そうなったら、さすがの島の道半でも、肉体的に権左の脚力にはかなわぬ、これは当然のことだ。
こちらが気づかれていないのなら別のはなしだが、権左としては蝉ぬけに気づいた以上、瞠目して逃走するだろうし、現に、その姿勢を見せたではないか。
尾行もならぬ、捕えることもむずかしい、となれば、
(殺すよりほかに、仕方はあるまい)
と、道半が決意したのもむりはない。
「ふうむ……」
道半は、権左の死体をあらためて見て、
(これは、甲賀忍びじゃ)
と、判断を下した。
(おそらくは、山中屋敷の忍びであろうかえ)
これは、道半の直感である。
(こやつめ。わしが門兵衛の家を出るときから、後をつけていたにちがいない)
とすれば、
(先に出て行った大介どのも、別の忍びにつけられたのではあるまいか)
島の道半は、気が気でなくなった。
胸が、さわぐ。
このようなときに、高台院のもとへおもむかなくてもよい、とおもった。明日の夜でもかまわぬことなのである。
それよりもまず、
(このことを、大介どのに知らせねばなるまい)
と、道半は考えた。
道半は、権左の躰をあらためた。
権左の手が、飛苦無をつかんでいるところを見ると、まさに甲賀忍びである。
道半は、権左の死体を竹林の奥ふかく引きずりこみ、土を掘って埋めこんでしまった。
それから道半は、来た道を引き返して行ったのである。
ちょうど、そのころであった。
肥後屋敷内の、飯田覚兵衛宅の一隅へ、山中俊房の忍び姿がぽっかりと浮き出した。
俊房は忍び装束≠身につけている。
山中俊房は、飯田覚兵衛の家来伴野久右衛門≠ノなりきっている配下の砂坂角助の部屋へ忍び入った。
「これ……」
と、俊房が声をかけるまでもなく、砂坂角助は目ざめていた。
「や……頭領さま。私は、また小たまどのか、とおもいました」
「む」
うなずいた俊房が、
「小たまでもよかったやも知れぬが……なれど念のために、わしが出てまいった」
と、いった。
(これは、何やら重大のことらしい)
と、角助もおもわざるを得ぬ。
「角助」
いいつつ、山中俊房がすっと砂坂角助の傍へすり寄って、
「これを見よ」
ふところから、小さな品物を取り出し、ねむり灯台のあかりへ近づけて見せた。
それは、一寸四方ほどの小さな銅版であった。
その銅版に、これも小さな蝸牛《かたつむり》が彫りつけられてあるではないか。
砂坂角助は、このようなものを一度も見たことがない。
「これは……なんでござる?」
「別に……これだけのものじゃ」
「は……?」
「よう、見ておけい」
「はい」
「これと寸分《すんぶん》たがわぬものを見せられたとき、見あやまってはならぬぞ」
「は……」
「よく、見て、胸にたたみこんでおいてもらいたい」
「む……」
「よいか……見たか?」
「|とく《ヽヽ》と拝見つかまつった」
「よし」
と、山中俊房が蝸牛の銅版をふところへしまいこんだ。
砂坂角助は、まだ、俊房がわざわざ忍びこんで来た理由がのみこめないらしい。
俊房が微笑をうかべ、
「よいか、角助。いま、おぬしに見せた品と同じものを持っている者は、味方とおもえ」
「は……?」
「その者の申すことなれば、どのようなことも信じてよい。わしが言葉とおもうてくれてよい」
「は――心得ました」
「よし、では……」
「それのみで?」
「うむ」
うなずいた山中俊房が、砂坂角助の眼にもさだかではなく、いつの間にか、この部屋から消え去っていたのである。
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家 康 上 洛
この年――慶長十六年三月六日。
徳川家康は、大軍をひきいて駿府を発し、上洛の途についた。
二代将軍である息・秀忠は、今度の上洛に同行をせず、江戸城に残ったが、第九男である徳川義直と十男の同頼宣が、老父・家康に陪従することになった。
義直は十六歳。
尾張名古屋六十一万九千石の大守である。
頼宣は十四歳。
駿府・遠江《とおとうみ》・三河を合せて五十万石。
いずれも将来は、家康が徳川幕府の支柱たらしめんと考えている子息たちであった。
家康は、駿府城を発するにあたり、大坂の豊臣秀頼へ、
「上洛せられたし」
との使者を派してはいなかった。
三月十一日。
家康は、まだ完全に築城を終っていない名古屋城へ入った。
城主たる、わが子の義直のために、家康は、築城の模様をこまかに検分し、義直の重臣たちをまねきあつめ、法制その他の改良についての指導をあたえている。
十三日。
家康は、岐阜に到着した。
このとき、京都所司代をつとめている板倉伊賀守勝重が、出迎えにあらわれた。
というよりも、かねて家康は、板倉勝重に、
「岐阜へ、先着いたしおるように」
との指令を、あたえていたのだ。
家康は、
「皇居の改築を諸大名へ命じ、その総監督に板倉勝重を任ずる」
ことを、岐阜において公表したものである。
このたびの、後陽成《ごようぜい》天皇の御譲位と、新帝即位の式典に参列するため、京都へおもむく徳川家康なのだが、この内裏造営《だいりぞうえい》の事≠ヘ、京都朝廷によって、なによりの、
みやげもの
と、いってよかろう。
これは……。
天皇や朝廷の、われへ対する心証を良くすることと同時に、またも、諸大名が自分の命令に屈服し、皇居造営のために費用と労力を諾々として提供するであろう事実を、はっきりと天下に見せ、徳川幕府の威風を、さらに誇示しようという、一石二鳥の意図から出たものであった。
板倉勝重は、
「かしこまりたてまつる」
すぐさま、扈従《こじゆう》の士を引きつれ、京都へもどって行った。
家康の意を朝廷へつたえると共に、皇居造営の計画をねりあげるためにである。
こうして、上洛の途上にありながらも、徳川家康は遺憾なく政治工作をおこないつつある。
だが、大坂へは、何の沙汰もしていない。
大坂城は、家康が京へ近づくにつれ、一種異様な緊迫につつまれはじめた。
まだ、何もいっては来ぬが、
(かならずや、秀頼公の御上洛をうながしてくるにちがいない)
と、大坂方は考えている。
淀の方の神経は尖《とが》るばかりで、まだ家康からの声もかからぬというのに、
「右大将どのを、上洛させてはならぬ」
いいつのっているのだ。
大坂城内の片桐且元屋敷へとどまっている飯田覚兵衛から、伏見の肥後屋敷にいる加藤清正へもたらされた情報によれば、
「おふくろさま御心痛のことは、右大将さま御身に危害のおよぶことあるやも知れずとの……」
その不安が、第一のことである、というのだ。
家康のきげんうかがい≠しに、秀頼が上洛することが、
「くやしい」
とか、
「豊臣家の恥である」
とか、
「あいさつに来るのなら、徳川どののほうから大坂へまいるがよい」
とか、そうした女の虚栄も、むろん、ないではないのだが、それよりも先ず、淀の方は、うかつに秀頼を上洛させ、家康と面会させる折に、
「ずるがしこい徳川どのが、何をたくらむや、知れたものではない」
というおもいが、胸の底へしみついてしまっている。
それには、一理ないこともないのである。
太閤秀吉が亡くなってのち、ここ十余年の間に、天下を我が手につかみとるため、家康がおこなった謀略の巧妙さと強引さを、眼《ま》のあたりに見つづけて来た淀の方だけに、
「とうてい、徳川どのを信ずることはできぬ」
と、いうのだ。
簡略にいえば……。
上洛した秀頼が、家康によって、
(毒殺されかねない)
というおもいが、している。
飯田覚兵衛から、この情報をうけとった加藤清正は、
(さもあろう)
むしろ、微笑をうかべた。
覚兵衛は、このところ大坂城中へも自由に出入りをし、秀頼へ目通りすることについても、比較的に自由な立場となっていた。
これはひとえに、覚兵衛の才覚によるものだといってよい。
それだけに飯田覚兵衛は、大坂城内の雰囲気や、淀の方のこころもちや、それを取り巻く侍臣たちの意向も、かなり正確につかみとることを得ている、といってよい。
淀の方が胸に抱いている、もっとも大きな不安と恐怖を知ることができれば、これを取りのぞくことに、
全力をつくせばよい
と、清正は考えている。
現在の徳川家康が、上洛する秀頼を迎え、そのような害意をいささかも抱いていないことを、
(先ず、おふくろさまへ……)
信じせしめねばならぬ。
しかし、
(おふくろさまの御存念にも、むりはない、ところもある)
と、加藤清正も、
(わしだとて、そのことをおもわぬわけにはゆかぬ)
のであった。
丹波大介を、わが手につかいはじめてより、徳川方の忍びばたらきが、いかに端倪《たんげい》すべからざるものかを、清正は、はっきりと知った。
忍びの者たちの活動が、どのように恐ろしいものか……それは、自分のためにはたらいてくれている大介たちを見ても、わかることではないか。
大介や、杉谷のお婆が、
(わしには内密で、いざともなれば、大坂のおふくろさまのおいのちをねらいかねない)
ことを、すでに清正は看破している。
なればこそ、熊本へあらわれた丹波大介をいましめておいた。
しかし、徳川方の忍びたちが、
(大介と同様、大御所〔家康〕の知らぬうちに、秀頼公へ危害を加えることが、ないとはいえぬ)
のである。
となれば……。
家康が関知しないだけに、家康は何の証拠ものこさず、したがって秀頼がうける危害は、闇から闇へほうむり去られてしまうのみだ。
そのため、忍びたちがつかう手段はどのようなものか、
(実《げ》に、はかり知れぬものがある……)
と、いってよい。
加藤清正は、家康の上洛が近づくにつれ、何度も、高台院との打ち合せをおこなった。
これは清正自身が高台院屋敷へおもむくのではない。
いつも、丹波大介が使者に立った。
手紙もつかわぬ。
両者の口から口へ、大介が聞き、これをつたえるのであった。
高台院も、いざとなれば、清正と共に大坂へおもむき、淀の方を説得する決意をかためている。
その説得の仕方が、飯田覚兵衛の情報によって、はっきりとかためられたわけだ。
三月十七日。
徳川家康は京都へ到着、二条城へ入った。
徳川実記に、
「……広橋大納言兼勝卿、勧修寺中納言光豊卿はじめ、月卿雲客、山科に迎えて拝謁せられる」
とある。
そして家康は、この日のうちに京都から伏見城へ入った。
翌十八日。
広橋大納言と勧修寺中納言が勅使として伏見城へ参向し、天皇の譲位と即位の大儀につらなるため上洛した家康の労をねぎらっている。
家康は、このとき、
「すでに隠居の身でござるが、江戸将軍の名代として上洛つかまつった」
と、謙虚にこたえている。
家康はまだ、秀頼上洛のことを口に出してはいない。
加藤清正もこの日。肥後屋敷を出て、伏見城へ伺候した。
家康は、にこやかに清正を迎えたが、そのときも、秀頼上洛のことについて一語も洩らさなかった。
帰邸してから、清正の顔色はすぐれなかった。
居間にとじこもって沈思すること数刻、夜に入ってから鎌田兵四郎をよびよせ、
「浅野屋敷へまいって、丹波大介を、ひそかに、わしのもとへ」
「はっ」
「急げ」
「ははっ」
天皇の譲位・即位の式典は、二十七日におこなわれる。
とすれば……。
その翌日か、おそくとも翌々日には秀頼上洛がおこなわれねばなるまい。もしも家康が、それをのぞむならばだ。
ここに至って、家康が尚、秀頼上洛のことをいい出さないのは、そのことを、のぞんでいないのか……。
または、故意に引きのばし、日がせまってから、
「上洛なされたし」
と、大坂へ申しわたすつもりなのか。
そうなると……。
日もせまっていることだし、大坂方が狼狽《ろうばい》し、淀の方を中心とする意見も、なかなかにまとまりにくくなる。清正や高台院が淀の方を説得するための時間も得られないことになる。
(もしや……?)
それが、徳川家康のねらいではないのか……。
そこにおもい至ると、加藤清正の不安はつのるばかりとなるのだ。
大坂方の意見がまとまらず、秀頼の上洛が不可能となるのを、家康は期待しているのではないか。
そうなれば、家康が大坂方の謀反をいいたて、開戦へもちこむためのきっかけとすることもでき得るのだ。
夜がふけてから……。
肥後屋敷へ忍び入った丹波大介が、加藤清正の意をうけ、高台院屋敷へおもむいたのは、
「いつにても……」
ただちに、大坂城へおもむかれるための、
「御仕度をととのえておいていただきたい」
との、清正のねがいを高台院へつたえたものと見てよいだろう。
翌々二十日となった。
この日。
徳川家康は、ついに大坂の豊臣秀頼へあてて、
「……久しゅう御対面をいたさぬが、日々、御成人のおもむきを、かげながらうけたまわり、うれしゅうおもっております。こたび上洛につき、ぜひとも、お目にかかりたく存ずる」
と、上洛をうながす使者を送った。
いよいよ来た……というので、大坂方の緊迫は頂点に達したようだ。
このことが、飯田覚兵衛によって伏見の肥後屋敷へとどけられるや、
「それ!」
待機していた鎌田兵四郎が馬に飛び乗り、他に二十騎を引きつれ、まっしぐらに高台院屋敷へ馳せつける。
同時に……。
肥後屋敷においても、加藤清正が大坂へ向う準備がととのえられた。
鎌田兵四郎が京の高台院屋敷へ到着したときは、すでに夕闇がたちこめていたけれども、
「相わかりました」
高台院はたちまちに身仕度をととのえてしまった。
それもこれも、かねてから、高台院と加藤清正との間にめんみつな連絡がなされていたからであろう。
高台院の行列は、夜に入ってから鎌田兵四郎ら加藤家の士にまもられ、伏見の肥後屋敷へ入った。
肥後屋敷では、ここから高台院が大坂へ向うための御座船≠フ仕度をととのえてある。
肥後屋敷で躰を休めるひまもなく、高台院は加藤清正との談合半刻。すぐに御座船へ乗った。
警固は、鎌田兵四郎指揮する一隊である。
高台院を乗せた御座船が伏見から出て行くと、今度は加藤清正が騎馬で屋敷を出発した。
供は約二十名。
この中に、丹波大介と小平太が加わっている。
つまり、この夜のうちに高台院は淀川を船で、加藤清正は陸路を騎馬で大坂へ向ったのであった。
こうなると、高台院と清正の呼吸は水も洩らさぬ。もともと親族の関係にあるばかりでなく、九歳のころから故太閤秀吉と高台院夫妻に引きとられ、家族同様の薫陶をうけてきている加藤清正だけに、高台院としても一抹の疑念すらわきおこることがないのだ。
大坂方としても、このように早く、両者が乗りこんでこようとは、おもってもみなかったろう。
同じ夜に……。
浅野幸長も、三十余騎をしたがえ、伏見屋敷を発し、大坂表へ向った。
加藤清正からの知らせをうけたことは、いうをまたぬ。
翌朝になると……。
先ず加藤清正が、つづいて浅野幸長一行が、さらに高台院が、ぞくぞくとあらわれたものだから、大坂方は、瞠目した。
前ぶれもなしのことなのである。
これでは、淀の方一派が豊臣秀頼の病気をいいたて、面会をこばむひまもない。
加藤清正は、徳川家康から秀頼に対し、上洛の要請があったことを知ったので、
「そのことにつき、右大将さまに申しあげたきこと、これあり」
と、いった。
これより先、飯田覚兵衛によって、かねての手筈のごとく、清正が大坂城へ馳せつけて来ることを知っていた豊臣秀頼は、
「主計頭はまだか、まだか?」
と、朝から飯田覚兵衛をそばへ引きつけておいて、これをはなさぬ。
これでは、淀の方も清正をこばむ隙がなかったし、また、その理由も見あたらぬのである。
そして、清正との面会がゆるされた。
そうなれば、つぎにあらわれた浅野幸長や高台院との面会も、これをことわるわけにはゆかない。
この日の未《ひつじ》の上刻《じようこく》ごろから、奥主殿の広間で、高台院・清正・幸長と、秀頼・淀の方との対面がおこなわれた。
片桐且元と大野治長も、列席した。
ただし、家康の孫女で、現将軍徳川秀忠の長女であり、豊臣秀頼の妻でもある千姫がこの席に加わることは、
「かまえて、なりませぬ」
あくまでも、淀の方が拒絶をした。
千姫は、当年十五歳である。
大坂城へ嫁いりのときは、わずかに七歳であったが、秀頼と実際上の夫婦として、|ちぎり《ヽヽヽ》をむすんだのは、ごく近ごろのことといってよい。
千姫が同席したからといって、別に、どうというわけではないけれども、淀の方が、徳川家から来た嫁を、どのように見、どのようにあつかっているか、それはこの一事を見ても判然とする。
加藤清正は、このことを耳にしたとき、実にいやな表情をうかべたものだ。
(これでは、行先がおもいやられる)
と、清正は考えたのであろう。
だが、いまは淀の方のきげんをそこねないことが、もっともかんじんの事であった。
それでも淀の方は、故太閤の正夫人であった高台院の席を、自分の上座へおいた。
高台院は、淀の方に対し、
「こたび、右大将どのの御上洛がなくば、よも、関東はだまっておるまいとおもわれる。このことは、よう御存知のこととおもわるるが……」
と、いった。
淀の方は、うなずいた。
そうしたことは、よく、わかっているらしいのである。
つぎに高台院は、天皇の譲位・即位のことについてのべた。
朝廷の、こうした大事の儀式がおこなわれるさいに、関東との間で紛争をおこすことは、
「いかがなものであろうか」
と、いうのである。
これには、さすがの淀の方も、うつ向いたまま一言もない。
徳川家康が、その朝廷の儀式へ参列するために上洛するのであれば、
(なおさらのこと)
なのである。
それでも尚、淀の方は、秀頼の上洛を、
「承知した」
とは、いわぬ。
しかし、彼女のこころが弱まってきていることは事実であった。
それを見て、加藤清正がひざを乗り出した。
「忍びがたきこともござりましょうが、いま、高台院さまの申された御ことばを、よくよくお考え下さいますよう。豊臣家が、幾久しゅう栄えますことをおもいみますれば、いまこのとき、|みだり《ヽヽヽ》に事をかまえることは屹度《きつと》つつしまねばなりますまい」
「なれど……」
と、淀の方が何かいいかけたとき、すかさず秀頼が、
「母上、これは主計頭が申すとおりでござる」
きっぱりと、いいきった。
淀の方は蒼ざめ、くちびるをかみしめ、わが子秀頼をにらむ。
清正は、さらにひざをすすめ、まことにやさしげな口調となって、
「御案じなされますな」
と、淀の方に、
「この主計頭と左京大夫殿(幸長)が、一身に替えましても、かならずや右大将さまをお護りつかまつる」
たのもしく、うけ合った。
それでもまだ、淀の方の不安は消えない。
「先ず、おききあれ」
清正と幸長が、こもごも語りはじめた。
上洛する秀頼を、二人がどのようにして護衛するか、という実際上の計画を、かんでふくめるように、淀の方へ語ったのである。
淀の方のおもてに、ようやく決意の色が見えはじめた。
伏見城の徳川家康から、第二の使者が大坂城へあらわれたのは、このときであった。
家康は、こういってきている。
「こたびは、どうあっても秀頼公に御上洛をねがいたい。もしも母君(淀の方)に何か御心痛のことでもあるならば、右兵衛督と常陸介の両名をおわたし申そう」
つまり、わが子義直と頼宣を、人質として大坂方へ引きわたしてもよいから、ぜひとも、秀頼を上洛させてもらいたい、というのだ。
これをきくや、
「それならば……」
淀の方が強くうなずき、
「承知いたしましょう」
と、いった。
「なにを、おおせられますことやら」
加藤清正は微笑し、
「つまりは、関東も、ここまで折れて出ているのでおざる。この上は、なにをもって人質などをとることのござりましょうや」
「なれど、関東から申し出たことではないか」
「さ、そこでござります。この大御所の申し出をうけ入れることなく、右大将さまに御上洛をおさせ申してこそ、豊臣家の威風が天下に知れわたることとなりましょう」
家康の子を二人までも人質にとった上でないと、秀頼が上洛できぬというのであれば、あまりにもさもしい。いまは戦時ではないのだ。
「いやいや、そのようなお気づかいをされずともよろしい」
こういって、秀頼が出かけて行けば、家康もこころが和《なご》むであろう。
天下もまた、
「さすがに、太閤殿下の御子じゃ」
といって、秀頼と豊臣家の襟度《きんど》をみとめることになるのだ。
それでなくとも、今度の家康が上洛してからは、
「また、関東と大坂にもめごとが起るのではあるまいか」
「今度も、大坂方では秀頼さまの御上洛をゆるされまい」
「では、いよいよ、戦さか」
「起きぬとは、いえまい」
京坂の人びとがさわぎはじめ、この前のときと同様に、荷物をまとめて田舎へ逃げ出す町民たちも、すくなくはないのだ。
そのことを清正が説明すると、淀の方が、
「さほどまでにか……」
ついに、我を折って、
「では、よしなに……」
秀頼上洛のことを承知したのであった。
清正は、満面を歓喜にほころばせた。
そしてすぐさま、家康へ、人質無用、上洛決定のことをいい送ったのである。
家康が二子を人質にしてまでも、秀頼の上洛をねがっているところを見ると、このさい、強引に開戦へもちこむ心底ではないことがわかり、それが清正を、さらに安心させた。
豊臣秀頼が上洛し、二条城において、徳川家康との対面がおこなわれることが知れわたると、
「何よりのことじゃ」
「これで、戦さにもならずにすんだ」
「これからは、まことに天下泰平の世の中になるやも知れぬな」
京坂の人びとのこころも、ようやくに安らぎ、いち早く疎開をしていた者も、また京都・伏見や大坂の町へもどりはじめた。
加藤清正と浅野幸長は、伏見へ帰り、対面の折の警備その他について、何度も、めんみつな談合をかさねた。
丹波大介にも、
「よろしゅう、たのむぞよ」
と、清正からねんごろなことばがあった。
清正から、秀頼警衛のくわしい計画をきいた大介は、
「よう、わかりまいてござります。私どもも、屹度……」
ひそかに秀頼の行列を護ることについて、大介は、杉谷のお婆や島の道半をはじめ、一味の忍びの人びとを総動員(といっても、合せて六名にすぎない)することにきめた。
今上天皇(後陽成)が、三宮(後水尾院)に、皇位をゆずられる儀式は、来る二十七日におこなわれる。
この式典に徳川家康が参列することはもちろんであるが、同日、豊臣秀頼の行列は大坂城を発し、京へ向う予定だ。
その日。
秀頼は、淀城へ一泊。
翌二十八日に京へ入り、二条城において家康と対面することになっている。
対面が終ったのちのことは、加藤清正と浅野幸長の腹中に在って、まだ、くわしくは発表されていない。
だが清正は、丹波大介のみに、
「同日、わが屋敷へお迎えし、船にて大坂へ御送り申しあぐるつもりじゃ」
と、もらしてくれた。
そのほうが、大介にとってもはたらきやすい。
「どうじゃな、大介……」
と、清正がこのとき、
「こたびの右大将さま御上洛のことについて、御身に、なにやら異変でも起ろうか?」
冗談のようにいうと、大介はきっぱり、
「わかりませぬ」
と、こたえた。
「わからぬ、と……」
「われら行先のことは、たとえ今日、明日のこともはかりがたし。これが、甲賀忍びの信条にござります」
「なるほどのう」
そうした、人の世の|はかなさ《ヽヽヽヽ》の上にたってこそ、はじめて甲賀忍法は成り立つ、というのである。
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鴻 ノ 巣 山
三月二十三日の朝が来た。
伏見城下から南へ約二里半。奈良街道を東へ入ったところに、
水度《みと》神社
という社《やしろ》がある。
祭神は、|天照国照天 火明 命《あまてるくにてるあまのほあかりのみこと》ほか、であるそうだが、創祀《そうし》の年代は、まことに古いものらしい。
奈良街道から、美しい松並木が鴻《こう》ノ巣《す》山というなだらかな山すそに伸びて、その松並木のつきたところが、水度の社であった。
古びた拝殿のうしろは、そのまま鴻ノ巣山の木立へつづいている。
木立の中の、まがりくねった細道をのぼりつめると、鴻ノ巣山の頂上に出るのだが、この山、低いけれども眺望にすぐれ、秋になると、松茸がよくとれるそうな。
ところで……。
街道から松並木をすすみ、水度神社へ至る途中で右手へ切れこむ細い道がある。
この道は、こんもりとした松林の中へ吸いこまれているのだが、松林を背に、百姓家とおぼしき小さなわら屋根を見ることができる。
この家のあるじは、六十がらみの老爺であった。もう二十年ほども、ここへ住みついている百姓だが、ずっと独りきりの暮しをつづけているようだ。
老爺の名を仙右衛門という。
仙右衛門は、甲賀頭領・山中俊房の配下のひとりであった。
とすれば、この百姓家が山中忍び≠フ隠れ家であり、根拠地の一つであることはいうまでもなかろう。
この日。
朝の光りが、まだ、あたりへゆきとどかぬ時刻に女の行商人がひとり、伏見の町の方向からあらわれ、仙右衛門の百姓家へ消えた。
女、山中忍びの|小たま《ヽヽヽ》である。
「どうじゃな?」
と、小たまを迎えた仙右衛門が、
「権左の行方は、まだ、知れぬか?」
小たまは、かぶりをふった。
「ふうむ……」
あの夜……。
小たまが引き返して来たとき、すでに、権左の姿は見えなかったのである。
あのとき、小たまは、
(まさかに、権左が……)
と、おもい、いったん、この仙右衛門の家へもどって来たものだ。
やがて権左も、ここへ姿を見せるはずだった。
それが、ついにあらわれぬ。
あれから、一カ月近くも、もどって来ない。
もちろん、小たまのほうでも権左の探索をつづけてきた。
七人ほどの山中忍びが、小たまをたすけてくれた。
しかし、依然として権左の行方は知れぬ。
竹田の村外れの竹林の土中へ、島の道半が埋めこんでしまった権左の死体は、容易にわかるまい。
いまでは小たまも、
(権左は、敵に殺された)
と、おもっている。
しかし、
(どこで、だれが、どのようにして権左を殺したのか?)
そのことを知りたいがため、今日まで探索をつづけてきたのである。
(大介の仕わざではない)
だが、大介一味の者が権左をほうむったであろうことは、ほぼ間ちがいないと見てよい。
「これは、な……」
仙右衛門が、小たまを凝と見て、
「もはや、丹波大介というやつを、捨ておけまい」
と、いった。
「仙おじも、さようにおもわれるか?」
「小たまどの。天下のうごきは、いまのところ、一応はしずまったようじゃ」
「案に相違して、大坂の右大将上洛のことが、すらすらときまった上からは……」
「うむ。わしも、今度はひとさわぎあろうか、と、おもうていたのじゃが……」
「はい」
「となれば、ここで、いったんは関東と大坂の間もおだやかになろう……というても、わしの見るところ、それは数年の夢にすぎぬとおもうが……」
「やはり、な……」
「さよう。なれど、平穏の夢がさめるまでは……われらも、ひと休みということじゃ。われら同様に、相手の忍びも、な」
「はい」
「いずれにせよ、真田忍びの奥村弥五兵衛をはじめ、大坂の忍びたちの居所《ありか》は、ほとんど、われらがさぐりとってしもうてあるのじゃ」
「なれど、丹波大介……」
「なればよ、いよいよ大介めを討ってとるときが来た、ということじゃよ」
「仙おじ……」
「いずれにせよ、大介と共にはたらく人数なぞ、|たか《ヽヽ》の知れたことじゃ」
「それは……」
「大介を、いつまでも生かしておくは、よくないことじゃ。なにを仕出かすやら、知れたものではないゆえ……」
「なれど仙おじ。頭領さまは、どこまでも大介の身辺をさぐり、じゅうぶんにさぐりとった上で討つようにと……」
「それもこれも、豊臣秀頼上洛のことがきまった上からは、用もないことではないか」
「それもそうな……」
しかし丹波大介と、その一味を襲撃する上からは、
「頭領さまのおゆるしを得なくてはなりますまい」
と、小たまがいうや、
「いや、それにはおよぶまい」
と、仙右衛門が、
「他人に討たせるのじゃ」
「なんと?」
「丹波大介を兄のかたきとつけねらう伊賀の平吾もおれば、於万喜もいるではないか」
「では、伊賀忍びたちに大介を討たせよ、といわれる?」
「いかにも」
「いやじゃ」
「小たまどのよ。おぬしが亡き父《てて》ごのかたきを討ちたいのは、ようわかる。わしが頭領さまにはいわぬ。いっしょにやりなされ」
仙右衛門も、古い甲賀忍びだけに、相当の独自性をそなえている。
「いざとなって、頭領さまのお耳へ、このことが知れたときには、わしがひとりで取りはかろうたことにすればよいのじゃ」
「では、そうして下さるか」
「よいとも」
と、仙右衛門が、
「では、伊賀の於万喜へ|つなぎ《ヽヽヽ》をつけねばなるまいわい」
「それは、大丈夫」
「ともあれ、於万喜に来てもらい、三人して、大介を討つ談合をしようではないか」
「心得た」
「小たまどの。それはさておき、丹波大介は引きつづいて浅野屋敷におるのかな?」
「いまのところは」
「で、横大路の村にある、大介の忍び宿のほうは?」
「ぬかりなく、見張らせてありまする」
「よし。では、心配もあるまい」
「これより私は、於万喜どのとのつなぎをしてまいります」
と、小たまは身仕度をして、仙右衛門の家を出た。
小たまは昼前に、早くも大坂城下へ入っていた。
例によって、行商人の風体《ふうてい》であった。
大坂の町の今橋すじ≠ニよばれる一角にある塗師屋・寅三郎の家へ小たまがあらわれた。
「ごめん下され」
店先へ入って来た小たまが、仕事場で、ひとりはたらいている寅三郎へ声をかけ、かぶっていた笠のふちへ手をかけ、わずかに顔をのぞかせた。
その小たまの顔を見て、寅三郎は、
「何用でござる?」
さり気なくいった。
小たまのくちびるが、声なくうごいた。
例の読唇の術である。
「明日、申《さる》の刻(午後四時)に、久世の鴻ノ巣山のいただきへ、ぜひとも於万喜どのに来ていただきたい」
と、小たまはいったのである。
これに対して、寅三郎の口もすばやくうごいた。
「承知した」
と、こたえたのである。
このやりとりがすむや、小たまは、
「野菜《あおもの》のよいのを買わぬかや?」
声に出していった。
「いらぬ、いらぬ」
寅三郎が大声にいい、手を振った。
小たまは舌うちをもらし、塗師屋の軒下からはなれて行った。
そのすぐあとで、店の奥から、
「だれが見えたのですか?」
と、いま寅三郎の妻となっている|もよ《ヽヽ》があらわれた。
もよが、寅三郎と夫婦になってから、五年の歳月がすぎている。
もよは、前の夫の丹波大介が、五年前に上牧《かんまき》の村外れで斬り殺されたものと、信じきっていた。
寅三郎との間に子は生まれないが、近辺でも、この夫婦の仲のよさは評判ものだし、もよも、いまでは大介のことを、ほとんどおもい出すことさえないのである。
「いや、なんでもない。物売りが来ただけじゃ」
と、寅三郎が、
「もよ。これから出て来る。堺へ用事があってな」
「いまからでは、おそうなりましょう」
「なに、平気じゃ。日暮れてもどらなくとも案ずるなよ」
「はい」
「急いで、何か食べさせてくれ」
「あい、あい」
寅三郎は出かけて行き、夜に入ってから帰って来た。
そして、翌二十四日となった。
その日の申の刻も近いころ、伊賀の女忍び・於万喜が、水度神社の近くへ姿を見せた。
このあたりに住む百姓女のような姿をした於万喜は、肩に籠を背負い、松並木をぬけ、水度の社の拝殿にぬかずいてから、山道をのぼりはじめる。
よく晴れた日の夕暮れも近く、芽吹きはじめた樹々のにおいに、於万喜はうっとり眼を細めつつ、松林をぬけ、鴻ノ巣山の頂上へ立った。
「しばらくじゃ、於万喜どの」
早くも、小たまが待っていた。
「小たまどのか。昨日、大坂の寅三郎より、ことづけをきいたので」
「わざわざ、すみませぬ」
「なんの、なんの。むかしは知らず、いまは甲賀と伊賀は共にちからを合せ、徳川のためにはたらいているのじゃもの。して、なんぞ、わたしに?」
「あい、なれど、いまより申すこと、他言は無用」
「よろし」
「於万喜どの。丹波大介めは、この世に生きてある」
「なんと……」
於万喜が、愕然として、
「そりゃ、まことか?」
「まことじゃ」
そこで於万喜は、五年前に上牧の村はずれをさぐりに行ったとき、百姓たちの口から、馬を借りた牢人が、その馬の背へ乗せた旅の商人の死骸に向い、
「大介どのよ。まよわず成仏《じようぶつ》してくれ」
と、いっていたことをきいたので、
「わたしも、大介めが死んだことは、間ちがいなし、とおもうていたのじゃ」
「いえ、そのとき、大介を相手に闘うたは、われら山中忍びゆえ……」
「それは知っていた……」
「ま、おききなされ」
と、小たまがすべてを語るのを聞き終えたとき、於万喜は紙のような顔色になっていた。
「いかがじゃ、於万喜どの」
「よう、わかった」
噛みしめている於万喜のくちびるへ血がにじむのを、小たまは見た。
「いかが、おもわれる?」
「いうまでもないこと……すぐにも大介めを討ってとらねばならぬ」
関ヶ原合戦の折に、伊賀の平吾の兄であり、於万喜の恋人でもあった伊賀の小虎≠討った丹波大介が生きていたときいては、
「ゆ、ゆるしてはおけぬ、ゆるしては……」
於万喜は身をふるわせつつ、
「では、小たまどのの父ご、あの下田才六どのを討ったのも、大介と……」
「おそらくは……」
「よし。共に大介を討とう!」
「ちからを貸して下さるか、かたじけない」
「それは、わたしの申すことじゃ」
「なれば於万喜どの。いかな手段《てだて》にて……?」
「さればさ」
と、於万喜がすさまじい笑みをうかべた。
「大坂にな、以前に大介と夫婦であった女が住んでいる」
「え……?」
「いまは塗師屋・寅三郎と夫婦になっているもよというのが、その女じゃ」
「では、伊賀の寅三郎どのの……いささかも知らなんだ。昨日、わたしが出向いたときには、寅三郎どの一人であったゆえ」
「ま、よい。ところで小たまどの。かくなれば、そのもよを囮《おとり》につこうて、大介をおびき出すが、もっともよいとおもう」
「うまく大介が、のってこようか」
「来るも来ぬも、なんというても、もよはまことに大介と夫婦であった女ゆえ、もよをさえ、うまくつこうたら、かならずや、おびき出すことができよう」
「なるほど……」
「さて、どうしたものか。どのように、あの女をつこうたらよいか……」
於万喜は、西の山なみへ沈む夕陽をながめながら、
「大介め。もはや、逃がさぬ」
うめくがごとく、つぶやいたものだ。
翌二十五日の夕暮れに……。
伏見の浅野幸長屋敷へ、百姓姿の老爺がひとりあらわれ、門番の士《もの》へ、
「見知らぬ女ごから、たのまれましたもので……」
こういって、一通の手紙をさし出した。
手紙の表書には、
あさ乃さま御やしき内、丹波大介どの
とある。
門番の士は、大介の顔を見知っていたが、その名は知らぬ。
「これ……」
さらに問い質《ただ》そうとしたとき、老爺の姿は闇に消えてしまっている。
(妙な……?)
ことだとおもったが、門番の士は、その手紙を上へ取りついだ。
「これは、もしや、伊藤助九郎殿の食客となっておられる仁のことではないか」
ということになり、助九郎のもとへ手紙がとどけられた。
「よし。わしがあずかる」
伊藤助九郎は、そういって手紙を受けとった。
助九郎の長屋には丹波大介がいる。
「このようなものが、とどいたそうな」
助九郎にいわれ、手紙をうけて見るや、大介の顔色が変った。
(もよの筆だ)
忘れるものではない。
もよに文字を書き、読むことを教えたのは、ほかならぬ大介自身であったからだ。
大介は大介で、自分をさがしに丹波村を出たもよが、そのまま行方知れずになってしまったことを知っている。
(やはり、こちらにいたのか……)
だが、
(おれが、当屋敷にいることを、どうして知ったのか?)
そこが、ふしぎであった。
助九郎の前を下ってから、大介は、たまりかねたように手紙をひらいて見た。
もよは、こういってきている。
「……あなたさまが、浅野さま御やしきにおられることを知らせて下されたのは、京の四条室町に住む印判師・仁兵衛というお人でございます」
印判師・仁兵衛なら、真田忍びの奥村弥五兵衛である。
(なるほど……)
大介も、|ふ《ヽ》に落ちた気がせぬでもない。
浅野屋敷の出入りには、じゅうぶんに気をつけている大介だが、いかに編笠で顔をかくしていようとも、伏見の町のどこかで奥村弥五兵衛が、
(もしも、おれの姿を見たら……よも、見あやまることはあるまい)
であった。
また大介も、弥五兵衛や向井佐助に、もよの行方をさぐってくれ、とたのんだこともあったではないか。
もよの手紙はつづく。
丹波の村を出てからのことをのべ、大介が上牧の村外れで死んだうわさをきいてから、世話する人があり、いまは大坂の町の塗師屋・寅三郎と夫婦になっていること。
そして、大介がいま、伏見の浅野屋敷に暮していることを知ってからの苦しみは、たとえようもない。
どうやら、もよは、
(弥五兵衛から、昨日、おれのことをきいたばかりらしい)
と、大介は手紙の文面から察知した。
もよは、いまの夫である塗師屋に、まだ大介のことをはなしていないらしい。
ともかく、大介が生きてあると知ったからには、
「……すぐにも、お目にかかりたく、その上で、いろいろと……」
相談をしたい、と、もよはいってきている。
(むりもないことだ)
大介は、暗然となった。
なんといっても、非は、
(おれのほうにある)
といってよい。
もよが、新しい夫をどうやら愛しているらしいことも察せられた。
(こうなった上は、もはや、もよと共に暮そうという夢は捨てよう。これから先も、おれは肥後さまのおんためにはたらかなくてはならぬ)
それにしても、
(もよに会いたい)
と、おもいは大介も同じであった。
(会うて、語りつくして……その上で、もよを、その塗師屋のもとへ返してやろう)
ついに、大介は決心をした。
もよは、明日二十六日の戌《いぬ》の刻(午後八時)に、
「久世の水度の社に近い百姓家へ来ていただきたい。その家は、わたしのよく知っている人の家ゆえ、ゆるりと語り合えようから……」
と、いってきている。
豊臣秀頼が、上洛のため、大坂城を出発するのは二十七日の朝も、おそくなってからのことだ。
出発のときまでに大介は、小平太と門兵衛をつれ、大坂へ出かけて行き、かげながら行列の前後を警戒するつもりであった。
だが、二十六日の夜ふけから、たとえ夜半すぎまで、もよと語り合ったとしても、大介の足なら、二十七日の朝までに大坂に駈けつけるのは、
(わけもないこと)
なのであった。
(それにしても、奥村弥五兵衛殿に、ぜひ会いたいものだ。おれのことを、もよに知らせてくれた礼をのべねば……弥五兵衛にも向井佐助にも、ずいぶんと会っていない)
なつかしくもなった。
こうして、二十五日の夜はふけて行った。
大介は、弥五兵衛と会うのは、もよのことがすみ、秀頼上洛の大事がすんでからのことにしよう、とおもった。
二十六日となった。
もしも、この日に丹波大介が、もよと会う時刻までに京都へおもむき、奥村弥五兵衛に会うことにしたらどうなったろうか……。
そうなれば、伊賀の平吾や於万喜をはじめ、二十余名の伊賀忍びに、山中忍びの小たまを加えた一隊の襲撃を、大介は単身でうけとめねばならなかったろう。
これでは、いかに丹波大介といえども、うけとめきれるものではない。
どちらにせよ、於万喜たちは、大介を討ち取る手はずをかためていたのである。
伏見の浅野屋敷から、京への道すじには、すでに伊賀忍びたちが、水も洩らさぬ網の目を張りめぐらしていた。
その一方で……。
於万喜は、大坂の塗師屋・寅三郎へいいふくめ、もよをつれ出し、大介生存のことを告げて、
「わたしのいうとおりにせぬと、大変なことになるゆえ……」
たくみにいいふくめ、もよに、大介へあてた手紙を書かせた。
もよも、おどろいたろう。
しかし、あの手紙にこめられた彼女のこころは、まさにうそいつわり≠フないものだといってよい。
いまは、寅三郎と夫婦になりきったつもりのもよであったが、いざ、大介が生きているとなれば、やはり胸がさわぐ。
寅三郎を愛してはいるけれど、大介と共に、なつかしい丹波の村へ帰り、六年前のときのように、おだやかな山暮しをしたいという気もちにならざるを得ない。
(ともあれ、大介どのに会うてから……)
もよは、昂奮の極に達していた。
寅三郎は、もよも知らぬが伊賀の忍びであるし、大坂の塗師屋の店は、伊賀忍びの忍び宿≠ナもある。
いかに、もよを愛していたとしても、於万喜からの指令には従わねばならぬ寅三郎なのであった。
於万喜は、さりげなく、
「もよどのを、ちょっと借りて行く」
と、寅三郎にいい、つれ出したのである。
そして……。
二十五日の夕刻までには、於万喜につれられたもよが、山中忍びの仙右衛門の百姓家へ入っている。
明日の夜のことを考えると、もよは、二十五日の夜を|まんじり《ヽヽヽヽ》ともしなかった。
於万喜は去り、仙右衛門ひとりが残っている。
さて、二十六日となるや……。
丹波大介は、小平太と門兵衛を大坂へ先発せしめた。
その指令をあたえるため、門兵衛宅へあらわれた大介へ、島の道半老人が、
「大介どのは行かれぬのか!?」
問うや、大介は事もなげに、
「一足、おくれてまいる」
と、こたえた。
「おくれて……?」
道半は、めずらしく問返した。
「さよう」
大介も、これほど、島の道半に対して無口だったことはなかったといえよう。
それもこれも、大介がもよと会うのは、まったくの私事≠セったからである。
明日、大坂を出発する豊臣秀頼の行列は、加藤清正・浅野幸長が指揮する、部隊によって、きびしく警衛される。
千軍万馬の勇将・加藤主計頭清正のすることだ。心配はないといってよい。
しかし、大介たちは万が一の事態にそなえ、行列が通過する沿道一帯を、ひそかに警戒するのが眼目なのである。
万が一の事態というのは、いうまでもなく、徳川方の忍びの蠢動《しゆんどう》をさすのだ。注意して、しすぎるということはない。
門兵衛と小平太をつれ、加藤家の臣として行列に加わっている杉谷忍びの横山八十郎と連絡をたもちつつ、秀頼を蔭ながらまもって行くべき丹波大介が、二人を先にやっておき、自分は一足おくれて大坂へ向う、というのである。
あれほどに、忍びとしての責任感が強い丹波大介としては、
(妙なことを……)
と、島の道半は直感した。
大介は大介で、このたいせつなときに、もよと会うことが、やむにやまれぬことであるにせよ、
(道半どのに、このことを告ぐるは、はずかしいことだ)
と、考えていた。
はなしがもつれ、長引くようなら、もよとの談合を先へのばしてもよい。
(いずれにせよ、二刻ほど、おくれるだけなのだから……)
と、大介は自分自身にいいわけをしていた。
大介は、門兵衛と小平太に、しかるべき指示をあたえてから、そそくさと去って行った。
門兵衛と小平太は、すぐに家を出て行った。二人とも、大介の態度に不審を感じていないらしい。
道半は、門兵衛の家に居残るはずであった。
(なれど、一足おくれる理由《わけ》をいわぬとは……)
道半は、しばらく沈思していたが、やがて、おもいきったように立ちあがり、家の戸じまりを堅くしてから、外へ出て行った。
この家に、いまは忍び道具も置いてはいないし、留守中に、怪しい者にふみこまれたとしても、証拠をにぎられることもない。
家を出て行ったときの道半は、すっぽりと笠をかぶってい、足どりもしっかりしているので、外から見たところは十三、四歳の少年にも見えたのである。
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死 闘
この日は、朝からどんよりと曇ってい、妙にむし暑かった。
すでに、桜も散りつくしていた。
昨日から、伏見の町がざわめいている。
昨日は、大御所・徳川家康が伏見城を発し、明日の朝廷の式典へ参列するため、京の二条城へ向った。
そして……。
いよいよ明日は、豊臣秀頼が上洛のため、大坂城を出発するというので、諸大名の屋敷では、それぞれの立場により、さまざまな情報も入って来るのだろうし、家康にしたがって京へ向う大名たちの屋敷は当然としても、ともかく、どこの屋敷でも人の出入りがはげしい。
昨日から今日にかけて、騎馬の武士たちが、あわただしく町すじを往来しているのであった。
島の道半は、近道を一気に駈け、伏見の町へ入ると、浅野幸長屋敷と道をへだてた月光院の土塀のすそへ、すわりこんだ。
夕闇が、淡くただよいはじめてきていた。
やがて……。
丹波大介の姿が、道の彼方へあらわれた。
道半は身をおこし、土塀の曲り角の向うへ消えた。
大介が、あたりに眼をくばりつつ、浅野屋敷の門内へ入った。
夜が来た。
しかし、この夜は明日の大事をひかえていることとて、諸大名の屋敷の表門に篝火《かがりび》が燃え、警衛の士が外へ出ている。
大介が、浅野屋敷を出たのは酉《とり》の下刻(午後七時)であった。
今日の午後に、門兵衛宅へあらわれたときと同じ小袖を着、短目の袴をつけ、足ごしらえをしているのは、もよと会ってから大坂へ駈けつけるつもりだからである。大介は塗笠をかぶっていた。
(どこへ……?)
このとき、島の道半は、月光院の土塀の上へ身を伏せていた。
(ともあれ、大介どのは、この道半にもいえぬかくしごとをもっているらしい。この、たいせつなときに、わしにもいえぬ秘密の用事……それは、なんであろ?)
であった。
もちろん、大介みずからが、道半たちを裏切る行為をするとは考えていない。
(では……かくし女にでも会いに行こうというのか……いやいや、そのような|まね《ヽヽ》を、大介どのがするはずはない)
道半は、大介が可愛いのである。
それといまひとつ、道半が蝉ぬけ≠して殺した山中忍びとおもわれる男のことが、
(どうも、気にかかってならぬ)
のである。
道半からそのことをきいて、大介たちも、翌夜すぐさま、男の死体を埋めこんだ竹藪へ行き、土中から死体を掘り出し、顔をあらためて見たが、見おぼえはなかった。
以来、こちらの動静をうかがっているらしい敵の忍びの所在は、つかめぬままなのである。
そのころ……。
水度の社に近い、仙右衛門の家では、もよが、大介のあらわれるのを待ちかねている。
大介のことも、気にかかるけれども、大坂の家で、自分の帰りを待ちかねているだろう夫の寅三郎のことも、
(於万喜が、うまくいいふくめてくれる、と、申されていたなれど……夫婦《めおと》になってより、はじめて家をあけるわたしを、寅三郎どのは、なんとおもうておられようか……)
案じられてならない。
仙右衛門は、土間にいて、わら仕事をしている。
大介があらわれたなら、
「わしは、外へ出ていようわえ」
と、仙右衛門はもよにいった。
於万喜は、この家へもよをつれて来ると、
「二十七日の朝には迎えに来ようから……」
といい、どこかへ去ってしまったのである。
(なれど……まことなのか?)
於万喜は、もよに、
「丹波大介どのは、伏見の浅野屋敷においでじゃ」
と、きかせてくれたが、
(名は同じでも、ちがうお人ではないのか……?)
そうも、おもえる。
(なれど大介どのの父《てて》は、むかし、甲斐の武田信玄公の家来衆であったそうな。それならば、大介どのが浅野さまへつかえる身となっても、ふしぎはない)
於万喜がいうには、
「大介どのは、まだ独り身じゃそうな」
ということが、
(もはや、わたしのことなど、忘れてしもうたやも知れぬ)
そうおもうと、さびしい。
さびしいが、しかし、もし大介が自分のことを忘れてしまっているようなら、ほっとするおもいがせぬでもない。
(わたしに会いたくなければ、今夜、大介どのは、この家《や》へあらわれまい)
そうなれば、大坂へもどり、寅三郎へはなにも語らず、いまのままのおだやかな暮しをつづけて行けるのであった。
(けれど……大介どのに会いたい)
そのおもいに、熾烈《しれつ》なものがある。
(ああ、わたしは……)
なんと多情な女なのであろうか……と、もよは、炉端に燃える火に顔をそむけ、
(いかに於万喜どのからさそわれても、ここへ来るのではなかった……それが、いまのわたしの、ただひとつの、できることではなかったのか……)
ここにいたって、もよはおもい迷い、激情をこらえるのに苦しんでいた。
家の裏手で、狐が啼いた。
山中忍びの仙右衛門は、あくまでもひっそりと、|わら仕事《ヽヽヽヽ》をつづけながらも、
(気の毒に、な……)
そっと、もよの様子をうかがいながら、
(わしも老いたものじゃ。いざともなると、このように、こころが弱くなってこようとは……)
苦笑をもらした。
それはむしろ、哀しげな笑いであった。
この家に、もよをつれ出し、さらに丹波大介をさそい出し、二人が久しぶりの対面に語り合ううち、縁の下に仕かけた火薬≠爆発させ、二人を一度にほうむってしまおう、という計画をたてたのは、ほかならぬ仙右衛門なのである。
それをきいたとき、於万喜は、
「それは、いやじゃ」
といったものだ。
於万喜も、伊賀の平吾も、丹波大介を、
「なぶり殺しにしなくては、気がおさまらぬ」
のであった。
しかし、それでは確率がうすくなる。
これまでに何度も、大介は、絶望的な敵の重囲を切りぬけてきている。
それは、於万喜も平吾も、よくわきまえているだけに、仙右衛門が、
「こたびこそは、仕損じてはならぬ」
きびしくいうと、うなずくよりほかはなかったのである。
すでに火薬は仕かけてある。
そればかりではない。
於万喜、平吾、それに小たまと、助勢の伊賀忍び≠ェ五名、仙右衛門を合せて九名の忍びが、この家を中心に、闇の中にひそみかくれ、大介があらわれるのを待ちかまえているのだ。
大介と入れかわりに外へ出た仙右衛門が、奈良街道へ出て行くのと同時に、縁の下にひそみかくれている伊賀の平吾が、火薬に点火し、いっさんに走り出すことになっている。
火薬が爆発し、家が吹き飛ぶと同時に、諸方から、忍びたちが、いっせいに飛び出し、大介ともよの死体を見とどけた上、す早く、逃げる手はずなのだ。
もしも、二人が息をしていれば、ただちにとどめ≠さす。
大介が死ぬのはよいが、もよも同時に死ぬことを、
(あわれな……)
と、仙右衛門は見ているのである。
(いかぬ。このような、あわれみのこころが出てくるようでは、わしも……もはや、わしも忍びばたらきが、つとまらぬようになってきているのやも知れぬ)
なんとなく、仙右衛門の気が沈んできた。
外から表戸を叩く音がきこえたのは、このときである。
「たれじゃ?」
と、仙右衛門が立って行き、表戸を開けた。
もよは、大介が来たのかとおもい、蒼ざめた。
入って来たのは、伊賀忍びの笹蔵という者であった。
笹蔵が、もよにきこえぬように、
「来た、大介が……」
と、仙右衛門に、
「奈良街道を、こっちへやって来る。於万喜どのが、たしかに見た」
「よし」
「手ぬかりはござらぬな?」
「大丈夫じゃ」
うなずいて仙右衛門が、
「外の囲みは、よいな」
「水も洩らさぬ」
「よし、行け」
百姓姿の笹蔵が、いかにも人のよさそうな笑いをうかべて見せ、もよに一礼するや、戸外の闇へ消えた。
「もはや、春もたけなわじゃ」
と、仙右衛門がもよへふり向き、
「外には、なにやら花のにおいがただようておるわえ」
「は……」
もよは、花どころではない。
「いまのはな、この近くに住む知り合いの者じゃよ」
「さようで……」
「間もなく、お前さまの待つお人も、あらわれよう」
「は、はい」
そのときは仙右衛門、どこまでも、百姓の老爺になりきって、大介ともよに、
「わしは今夜、近くの知り合いの家へ泊るゆえ……ゆるりと、な」
こういいおいて、外へ出て行くつもりなのだ。
「もよどの」
「はい?」
「炉のなべには、汁も煮えておる。二人して、食べたがよい」
「かたじけのうござります」
「そろそろ、あらわれてもよい時刻じゃな」
「は、はい……」
「春とはいえ、夜になると、冷ゆるわえ」
「ほんに……」
縁の下には、伊賀の平吾が伏せている。
平吾は、土中に深さ二尺ほどの穴を掘り、その穴の底に、火を燃やしていた。
火薬は七個で、これは、頭上の炉端の位置の真下へ仕かけてある。
火薬玉は伊賀の里でつくられる、まことに強烈なものであった。
平吾は、穴の中の火を火薬玉へ点火し、縁の下から走り出るのだが、間を外しては平吾自身も死なねばならぬこと、いうまでもない。
そのころ……。
丹波大介は、奈良街道をまっすぐに南下しつつあった。
街道の左手は、水度の社の背面にある鴻ノ巣山へつづく山なみで、右手は、木津川に沿った田地と木立のつらなりであった。
闇が、におっている。
春のにおいなのだ。
灯りもなしに、大介は道をすすむ。
大介ほどの忍びでも、このときの敵の謀略は見ぬけなかった。
それは、あくまでも、もよの手紙が本当のものだったからである。
その筆跡のみではない。
手紙の文面にこめられたもよのこころまでが、うそいつわりのないものであったので、大介も、これを信じきってしまったわけだ。
おもえば、伊賀の於万喜も、もよの危急をたすけ、これまで何かとめんどうを見てきてやった結果、このように、もよをつかうことになろうとは、おもってもみなかったことであろう。
その於万喜は、水度の社へつづく松並木の蔭へ、穴を掘り、半身を沈めていた。
となりの穴には、小たまがひそんでいる。
二人とも身仕度は充分で、脇差を帯へさしこんでいる。
他の伊賀忍び五名は、仙右衛門の家を包囲するかたちになり、いずれも穴を掘り、もぐっていた。
穴を掘ったのは、火薬の爆風を避けるための用意であった。
縁の下から走り出た伊賀の平吾が飛びこむ穴も、掘ってある。
「小たまどの、いよいよじゃ」
と、於万喜が、街道の方へ眼をくばりつつ、
「間もなく大介はこれへ……」
「うむ。笹蔵が申すには、たしかに奈良街道を、こなたに向って来るというてじゃ」
「叱《し》っ」
「え?」
「なにやら、見えはせぬか」
「どれ……」
月も星もない闇夜《あんや》であったが、忍びの眼のはたらきは常人の想像を絶している。
「大介らしい」
「いかにも……」
二人の眼には狂いはなかった。
丹波大介が街道にあらわれ、こちらへ向って来るのである。
「まさに、大介……」
と、於万喜がささやいた。
大介は、水度の社へつづく松並木の手前まで来て、急に、足をとめた。
(……?)
於万喜も小たまも、それを見て、穴の中から身を乗り出すようにした。
いつの間にか……。
大介の傍へ、笠をかぶった子供のように小さい人の姿が立っているのを、二人は見た。
於万喜と小たまが見た子供のような人影は、島の道半であった。
丹波大介にとって、まさか、ここへ道半老人があらわれようとは、おもいもかけなかったことだ。
もよが待ちかねているであろう百姓家の間近まで来て、背後から、急にひたひたと起った人の足音に気づき、
(……?)
ふり向いて見ると、いつの間にか道半が、自分のすぐうしろを歩いて来るので、大介はおどろいた。
「や……」
「大介どのよ」
足をとめた大介へ、道半が、近寄りざま、
「このあたりは、あぶない」
低く、ささやいた。
「なんと……?」
「叱《し》っ」
あとは、二人とも読唇の術によって語りはじめることになる。
「このあたりへ、なにしにおじゃった?」
「む……」
「この道半にも、申されぬことかな?」
「実は……」
「ま、よい。早く、ここから遠去かろうではないか、大介どの」
「どうしたわけなのだ、道半どの」
「関ヶ原の戦がはじまるずっと前からのことじゃが……ほれ、あの水度の社へつづく松並木の途中から、南へ切れこんだあたりに一軒の百姓家があっての」
「なに……?」
それなら、もよが自分を待っている家らしい。
大介は、おもわず顔色を変えた。
「その百姓家は、いまもあるじゃろ」
「それが、どうしたといわれる?」
「甲賀山中の忍び宿じゃ」
「え……」
「山中忍びの仙右衛門が、たしかに住んでいたはずじゃ」
以前は、山中忍びの一人であった丹波大介だけに、仙右衛門の名前は何度も耳にしている。していたが、見たことが一度もなかった。
そのころから……。
甲賀頭領・山中俊房は、配下の忍びたちにも、わが忍びばたらきの組織の全貌をめったに知らさなかったものである。
「仙右衛門が生きておれば……いまもまだ、このあたりに住んでいるのではないか、そうおもうてよいとおもう」
もしも島の道半のいうとおりなら、これは大介としても、ききながすわけにはゆかない。
(では、もよの手紙は|にせもの《ヽヽヽヽ》か……いや、そうでない。まさに、あれは、もよの筆だったが……)
だが……。
島の道半は何故、山中忍び・仙右衛門の家を知っていたのであろうか。
すでにのべたように、道半や杉谷のお婆など、甲賀の杉谷忍び≠スちは、四十年前の姉川の合戦において、頭領、杉谷信正をはじめ、その大半が戦死をとげてしまった。
そして、わずかに生きのこったお婆や道半たちは、荒廃した杉谷屋敷にひっそりと住み暮しつつ、忍びばたらきから遠去かってしまったのだ。
このことは、他の甲賀忍びたちの耳へも眼にも、当然、入っていたわけである。
「杉谷のお婆も、姉川で死んだらしい」
「島の道半も、な」
などという|うわさ《ヽヽヽ》もたち、甲賀ものたちは、いつしか杉谷忍びのことを忘れかけていたようだ。
また、お婆や道半も、杉谷屋敷から外へ出て行くときには、まったく人目にたたぬようにしたものである。
杉谷屋敷の中に、もとの杉谷忍びが、わずかに生きのこって暮していることはわからぬでもないが、お婆や道半のことを、山中忍びたちも、
(もはや、この世にはあるまい)
と見ていたようだ。
関ヶ原の戦争がはじまろうとする前に、島の道半が杉谷のお婆へ、
「どうやら世の中がさわがしゅうなった。ちょと、様子を見てまいる」
こういって、杉谷屋敷を出て行ったことがある。
お婆は、
「ま、ほうっておくがよい。われらはもはや、忍びばたらきをする身ではないゆえ……」
苦笑していったが、
「いやなに、退屈しのぎでござるよ」
こういって、道半は出て行った。
京や伏見、大坂の様子を見物した道半は、
(こりゃもう、石田方の負けじゃわえ。ばかものどもめが……とうとう徳川の古狸の手に乗せられてしもうたわえ)
などとおもいながら、奈良へもまわって、帰途についた。
道半は笠に顔をかくし、奈良街道を行くうち、水度の社へかかる一里半ほど手前で、牛をひいた若い百姓に出会い、世間ばなしをしながら歩むうち、その若者が、
「爺さまよ。伏見の方へ行くのなら、おれの牛の背へ乗ったらよいに」
と、いってくれた。
「すまぬな。では……」
道半は、若者の好意をうけた。
牛の背にゆられつつ、晩春の午後の陽ざしをあびて島の道半が水度の社の前へかかったとき、
(おや……?)
街道の向うから来た百姓が、松並木の道へ入って行くのを笠の内から見るや、
(あれは、山中忍びの仙右衛門だわえ)
道半は、にんまりとうなずき、
(ははあ……このあたりに忍び宿があるのじゃな)
と、おもった。
むかし、山中忍びと杉谷忍びが協力して忍びばたらきをした時期に、道半は仙右衛門をよく見知っていたのである。
仙右衛門も、ちらりとこちらを見たが、まさかに、百姓がひく牛の背にいる小さな男が、島の道半だとは、おもってもみなかったらしい。
すぐに視線をそらし、松並木の道へ入って行った。
行きすぎてから道半が、ふり向いて見ると、仙右衛門が松並木の道から畑道へ切れこみ、松林の中へ入って行くのが見えた。
(あの松林の中に、忍び宿があるのじゃろ)
道半は、そう直感した。
そのときから、十一年がすぎたいま、丹波大介の後をつけて来た道半は、|とっさ《ヽヽヽ》に十一年前のことをおもい出し、
(あぶない)
と、感じたのである。
大介が、山中忍びから、
裏切者
としてつけねらわれていることは、道半もよく知っている。
このあたりへ大介が、
(わしにも打明けぬ用事であらわれたというのは……?)
道半にとって、うちすててはおけぬことであった。
道半老人は大介の腕をつかみ、
「それで、どこへ行くつもりなのじゃ?」
「む……実は、あの向うの、松林の中にある百姓家へ……」
「やはり、な」
「そこが、山中忍びの……」
「そうじゃ」
それときいては大介も、うかつにすすめぬ。
大介と道半は、ふかい闇につつまれている四方の気配へ耳をすませた。
大介と道半が、街道に立って語り合った時間は、ごくわずかなものである。
しかし、二人の様子を闇の中からうかがっていた於万喜も小たまも、他の伊賀忍び五名も、
(これは、あやしい)
と、感じかくれ穴≠ゥらぬけ出し、大介と道半をつつみこむように散開しはじめていた。
ただ、家の中にいる仙右衛門と、床下にいる伊賀の平吾と、それから、もよだけがこれを知らぬ。
そればかりではない。
於万喜の指令によって、他の伊賀忍び十名ほどが、このあたりを遠巻きにし、大介を見張っているはずであった。
「さ、早う……」
島の道半にうながされ、
「む……」
丹波大介が、街道の西側にある木立へ駈けこもうとした。
これを見た於万喜と小たまが、
(あ、逃げる)
(さとられたか……)
女ながら猛然と、奈良街道の東側へ二手に別れて突進した。
於万喜と小たまの手から、合せて十余の飛苦無≠ェ、街道の向う側の木立へ駈けこもうとする大介と道半の背へ投げつけられた。
そのうちの一個が、島の道半の小さな背へ撃ちこまれた。
「う……」
道半が、もんどり打つようにして街道へ倒れた。
そのとき……。
一足早く、木立の中へ飛びこんだ大介は、背後に道半の叫びをきいた。
(あっ……道半どのが……)
愕然として街道へ駈けもどろうとする大介の側面から、早くもこちら側へまわりこんでいた伊賀忍びが二名。声もかけずに、斬りつけて来た。
「あっ……」
さすがに大介もあわてた。
こうまでも、敵の術中にはまりこもうとは、おもいもかけぬことであった。
このとき……。
仙右衛門の家の中では、もよは、大介を待っている。
と……。
土間にいて、わら仕事をしていた仙右衛門の手が、とまった。
もよにわからなくとも、仙右衛門の耳は、たしかに戸外の闇が異常にゆれうごきはじめたことをさとったようだ。
仙右衛門が立ちあがり、戸を開けた。
これを見て、もよは、
(大介どのか……?)
とどろく胸を押えるようにし、おもわず、腰を浮かせた。
伊賀の平吾も、彼方の街道で闘いがはじまったことをさとり、床下から飛び出して来た。
仙右衛門が戸外へあらわれ、平吾へ、
「さとられたらしいぞ」
と、いった。
「よし!」
平吾が、忍び刀を引きぬき、街道へ走り出した。
仙右衛門は家へ入り、後手に戸をしめつつ、じろりと、もよを見た。
奈良街道へ眼を移そう。
島の道半は、背に深々と飛苦無を突き刺され、道に倒れている。
間髪を入れず、於万喜と小たまが街道へあらわれ、
「それ」
倒れた道半へ、さらに数個の飛苦無を投げつけた。
これは、ほとんど、道半の躰へ命中したといってよい。
だが……。
道半老人は、うめき声ひとつたてなかった。
ために、於万喜も小たまも、道半が完全に即死したものとおもい、
「こやつではない」
「木立へ飛びこんだが大介じゃ」
二人とも脇差をぬきはらい、倒れている島の道半の躰を飛びこえるようにして、木立の中へ駈けこもうとした。
実に、このときである。
小さな老体の背、胸、足などへ五個の飛苦無を撃ちこまれていた道半がはね起きた。
おそるべき苦痛に堪え、死をよそおい、道半はこのときを待っていたのである。
はねおきざま、ふところから短刀を引きぬいた道半が、駈けぬけようとする於万喜の腰へ組みついたものである。
「あ……」
低く叫んだのが、伊賀の於万喜の最期であった。
道半の短刀は、於万喜の下腹へ拳《こぶし》も入るまでに突き通っていた。
二人は折りかさなるようにして街道へ打ち倒れた。
木立へ走り込もうとして、これを見た小たまが、
「あっ、於万喜どの……」
身を返して近づきざま、半身を起しかけた道半のあたまへ脇差をたたきつけた。
今度こそ、致命的な一撃であった。
島の道半は、両腕を左右へのばし、ゆっくりと仰向けに街道の土へ倒れ、死んだ。
「於万喜どの。こ、これ……」
左腕で、小たまが於万喜を抱き起した。
於万喜が、かすかに、何かいった。
「こ、と、ら……」
と、小たまの耳へはきこえた。
丹波大介に討たれた恋人・伊賀の小虎の名をよんだものであろうか……。
がくりと、於万喜のくびがたれた。
息絶えたのである。
木立の中で、伊賀忍び二人を斬って倒した大介が、街道へ駈けもどったのは、このときであった。
同時に、伊賀の平吾も、この場へ走りついた。
街道へ出た大介は、倒れている於万喜と道半と、脇差をぬき持った小たまと、街道の向うから駈けあらわれた平吾とを、一瞬の間に見た。
「おのれ」
叫んだ小たまが於万喜の死体からはなれ、脇差をかまえたのへ、大介の左手から二個の飛苦無が疾《はし》った。
小たまが、これをかわし、腰を沈めて自分も左手に飛苦無をつかもうとするのへ、
「む!」
大介が走りかかって、刀を打ちこんだ。
小たまが脇差しをふるって、これを受けとめたところへ、
「小たまどの……」
駈け寄った伊賀の平吾が呼びかけつつ、大介の背後から襲いかかった。
刃と刃が噛み合う音が烈しくおこり、闇の街道に三つの影が目まぐるしく飛び交った。
平吾の後から、三名の伊賀忍びが街道へ駈けあらわれたのは、このときである。
「ああっ……」
小たまの絶叫があがった。
大介の一刀に左腕を切断されたのだ。
「うぬ!」
すかさずに大介へ切りつけた平吾の刃に、たしかな手ごたえがあった。
大介がよろめく。
「兄のかたき」
伊賀の平吾が追い打ちに切りつけた。
大介の躰が仰向けざまに倒れた……ように見えた。
(しめた)
と、平吾はおもったらしい。
のしかかるように、彼は刃を突き入れて来た。
大介は、平吾の一刀に左肩を切り割られつつ、みずから倒れて見せたのである。
手ごたえがじゅうぶんにあっただけに、平吾としては、その大介のさそい≠見ぬけなかった。
平吾が突きこんだ刃は、大介にとって予測していたものである。
その刃よりも早く、大介の両足がはね上り、躰を巻きこむようにして反動をつけ、|くるり《ヽヽヽ》と飛び返っていた。
飛び返った大介の両足が地につくや、大介の躰が宙に舞いあがっている。
「あ……!」
突き入れた刃をかわされた伊賀の平吾が、大介の姿を見うしなった。
それも転瞬のことである。
平吾は、宙に舞った丹波大介の躰が、自分の頭上へ落ちかかってくるのを見た。
「あっ……」
平吾は、必死に飛び退りつつ、夢中で刀をふるった。
だが、おそかった。
宙に一回転して地に落ちた大介の刀が、平吾のくびすじを切り裂いていたのである。
ぴゅっ……と、血が疾った。
「う、うう……」
平吾が、ぐらりとよろめいた。
そこへ……。
駈けつけて来た三名の伊賀忍びが、いっせいに大介めがけて殺到して来た。
左腕をひじのところから切断された小たまが、
「おのれ……おのれ、父のかたき……」
うめき声を発しつつ、右手の脇差を振りかざし、伊賀忍びたちと大介の決闘の渦の中へ割りこんで来た。
これが、伊賀忍びたちにとっては邪魔となったのである。
なんといっても、左腕を切り落されているのだから、小たまの躰のうごきはにぶくなっている。
重傷を負うと、女忍びは男忍びほどの体力がないから、
「おのれ……おのれ……」
必死に脇差をふりまわすのだけれども、それが適確ではない。
「小たまどの……はなれろ」
「どけい」
伊賀忍びたちが、あわてて声をかけた。
その混乱に乗じ、丹波大介は伊賀忍びの包囲を突破し、ふたたび、街道西側の木立へ躍りこんだ。
躍りこんだが、逃げたのではない。
木立の中の土へ伏せて、大介は待ちかまえていたのだ。
「逃がすな!」
と、先に飛びこんで来た伊賀忍びの笹蔵の顔へ、大介が投げつけた飛苦無が|ぐさ《ヽヽ》と突き刺さった。
笹蔵の、すさまじい悲鳴があがった。
飛び起きた大介の一刀に、胴をなぎはらわれたのである。
大介は、笹蔵を殪《たお》すや、逆襲に転じた。
つづいて木立の中へ飛びこんで来た次の伊賀忍びは、右のひざを大介に切り割られ、さらに別の一人は、ななめに身をひるがえしつつ投げつけた大介の飛苦無を喉もとに受け、
「わあっ……」
まるで、突き飛ばされるように転倒している。
それから、大介は木立の中を逃走にかかった。
街道では、伊賀の平吾の息が絶えている。
小たまも多量の出血に堪えきれず、伏し倒れていた。
丹波大介は、木立の中を走りつつ、
(道半どのも、もよのことも、あきらめねばならぬ)
と、おもいきっていた。
周囲の闇の中に、大介はあきらかに、多数の敵が自分を包囲しつつあることを感じていた。
(しまった……)
悔んでも悔みきれない。
自分の私事≠フために、島の道半を死なせてしまったのである。
(おれは、なんという……)
忍びの風上にもおけぬやつだ、と、大介は自分をののしりつつ、走りつづけた。
肩の傷も、かなり重い。
途中で、大介は足をとめ、衣服を切り裂いて、血どめの包帯をした。
その時間だけでも惜しい。
(それにしても……あの、もよの手紙は……)
そのことが、まだ大介にはなっとくのゆかぬことなのである。
そのころ……。
街道へ、三名の伊賀忍びがあらわれ、道半・於万喜・平吾の死体を確認した。
「や……小たまどのは、生きているぞ」
と、一人がいった。
三人が、小たまの介抱にかかった。
気づいた小たまが、
「だ、大介……逃げた。早う、早う……」
と、大介が逃げこんだ木立の方を指した。
「よし。案ずるな」
「われらが、大介をつつみこんでいる」
「かならず討って取る」
「早く、早く……」
「大丈夫か?」
「かまわぬ。わ、わたしは、かまわぬ」
三人の伊賀忍びはうなずき合い、三方に別れて走り去った。
諸方に待機している他の伊賀忍びたちへ、大介包囲のことを知らせに走ったのである。
「う、うう……」
小たまは、すでに脇差をはなしていた。
全身の知覚がない。
そこへ……。
もよを家の中の柱へ縛りつけた山中忍びの仙右衛門が駈けつけて来た。
仙右衛門は、茫然となった。
まさかに、丹波大介が逃げ、そのかわりに於万喜・平吾・小たまが、これほどの被害をうけようとは、おもってもみなかった仙右衛門なのである。
「小たまどの……」
抱き起した仙右衛門の腕の中で、小たまの息が絶えた。
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二 条 城
三月二十七日の朝が来た。
水度神社付近の街道から木立の中にかけて、昨夜の死闘の跡はまったく見られなかった。
街道の土にながれた敵味方の死体も流血の痕も、完全に消されていた。
仙右衛門の家にも、異状は見られない。
いつものように朝早く起き出した仙右衛門が、水度の社へ参拝に行く姿を、奈良街道を通りかかった百姓が見かけてもいる。
この日の昼前に、豊臣秀頼の行列が大坂城を発し、京へ向うはずであった。
その秀頼の行列が大坂城を出たとおもわれるころに……。
早朝、大坂を出た騎馬の使者が、伏見の肥後屋敷へ駈けつけて来た。使者は、すでに大坂城へ入っている加藤清正のことばを、つぎのようにつたえた。
「秀頼公御上洛、大御所との御対面が|ぶじ《ヽヽ》にすんだならば、よろこびの酒宴をもよおしたい。その用意をととのえておくように」
とのことである。
その宴席には、浅野幸長をはじめ、数名の客も招待されるというので、肥後屋敷では、にわかにいそがしくなった。
清正気に入りの料理人・梅春老人が、
「おめでたいことでござりまするな。ひとつ、腕をふるって、おいしいものをめしあがっていただきましょう」
すぐさま、献立を考えはじめ、諸方へ魚や野菜をととのえるべく、小者たちが屋敷を出て行った。
飯田覚兵衛の家来伴野久右衛門≠ノなりきっている山中忍びの砂坂角助へも、覚兵衛からの書状がとどけられた。
その内容は、次のごとくである。
「……明日の酒宴は、堀川へ御座船をうかべてもよおされたい、と、殿(清正)がおおせあるゆえ、その仕度をもぬかりなくしておくよう」
角助もこうなれば、伴野久右衛門として、たちはたらかねばならぬ。
「どのようにしたら、よろしかろう?」
と、角助が鎌田兵四郎に相談をした。
「さようさ」
鎌田も考えて、
「御座船のうかぶ川の両岸に、屏風をたてまわし、岸辺にても酒宴ができるようにせねばなるまい」
「いかさま。御客衆の数も多いゆえ……」
「何人ほどじゃ?」
「さ、それはわかりませぬが……」
「よし。多すぎて困ることはない。なにごとにもゆとりの出るよう、これは料理人の梅春へもつたえておかねばならぬが……」
そこで、砂坂角助が、
「よろしゅうござる。それがし、梅春に会うて、くわしく打ち合せてまいりましょう」
「そうしてくれるか」
「では、ごめん」
と、鎌田兵四郎の長屋を出た角助は、その足で、御殿の中の大台所へおもむいた。侍女や小者たちが、宴席へもち出す器物などを、蔵の中からはこび出していて、大台所のまわりは人の出入りがはげしい。
大台所の北がわに、料理人・梅春の部屋があった。
そこへ来た角助が、
「梅春どの。いるかな」
と、声をかける。清正気に入りの料理人だけに、梅春のことを家来たちも粗略にはあつかわぬのである。
「はい、はい」
部屋の中から、梅春老人のやさしげな声がして、
「伴野久右衛門さまにござりますな。さ、どうぞ、お入り下されませ」
「では……」
砂坂角助が部屋へ入ると、梅春は子供のように小さな背をまるめ、机に向って、なにか、しきりに書きものをしていたところらしい。
「なんぞ、用事か?」
「いえなに、明日の献立のことを、書きしたためておりましたので」
梅春は、主人・清正の愛寵をよいことにして威を張るようなことを決してしない。
肥後屋敷のだれもが、梅春に好感をもっている。
梅春は、もと増田《ました》長盛の料理人であったそうな。
増田長盛は、故太閤秀吉の引きたてにより、二百石どりの武士から、のちには大和の国・郡山二十万石の城主となったほどのすぐれた人物だ。
ところが……。
太閤の亡きのち、長盛は進退がむずかしくなり、関ヶ原戦争のときには、やむなく石田三成の西軍に参加したため、西軍やぶれたのち、徳川家康の処罰をうけ、武州・岩槻の高力清長のもとへ押しこめられてしまっている。
こうして、増田家は取りつぶされてしまったのだが、加藤清正は、かねてから増田長盛気に入りの料理人・梅春のことをききおよんでいたので、
「わしがもとへ来ぬか」
さそいをかけると、梅春も、
「これから、どこへ行ったらよいものか、途方にくれておりましたので」
よろこんで、清正の料理人となることを承知したのであった。
砂坂角助の伴野久右衛門≠ニ、梅春老人は、明日の酒宴について、めんみつな打ち合せをおこなった。
すっかり歯のぬけ落ちた梅春は、口をもぐもぐさせながら、女のようなやさしげな声で、うけこたえをする。
角助も、この老料理人をかねてから、
(好ましいやつ)
と、おもっていた。
打ち合せがすみ、角助が立ちかけると、梅春が、
「今日は、夏のように暑うございますな」
と、いった。
「いかにも、な」
「明日も、よい天気、だとよろしいのでござりますが……」
「さようさ」
「こたびは、殿さまも、御苦労なことでござりますなあ」
いいつつ、梅春の両眼に光りが加わった。
尋常の光りではない。
それまでは、ねむり猫のように細かった梅春の両眼が、するどく、あたりを見まわし、その右手がゆっくりと、ふところへさし入れられつつある。
(……?)
砂坂角助は、|ぎょっ《ヽヽヽ》とした。
(こやつ……なにものか……?)
山中忍びの正体をかくし、飯田覚兵衛の家来になりすましている角助だけに、この梅春の、おもっても見なかった挙動を見ては、警戒せざるを得ない。
梅春老人の視線が、角助の顔へとまった。
無言である。
梅春の右手が、ふかく、ふところにさし入れられていた。
角助は、飛び退こうとした。
手裏剣でも撃ちこまれそうな予感がしたからである。
と……。
「あわてなさるな角助どの」
梅春が、|じわり《ヽヽヽ》といった。角助は愕然《がくぜん》とした。
(こやつ。おれの本名を……いや、正体を知っている……)
腰を落し、ゆだんなく角助が身がまえたとき、
「先ず、これをごらん」
梅春が、ふところから取り出した品を見て、角助は、わが脳天を鉄棒でなぐりつけられたようなおもいがした。
その品物は……。
一寸四方ほどの、小さな銅版であった。
銅版の表に、小さな蝸牛《かたつむり》が彫りつけられてある。
これはまさに……。
あの夜。飯田覚兵衛宅にいた角助の部屋へ忍んで来た甲賀の頭領・山中俊房が、
「よく見ておけい」
と、角助にしめした銅版と寸分たがわぬ品だったのである。あのとき、山中俊房は、
「これと同じ品を持っている者は、味方とおもえ。その者の申すことなれば、わしのことばとおもうてくれ」
と、砂坂角助にいった。
だが……。
まさに、料理人の梅春から、蝸牛の銅版を見せられようとは、さすがの角助もおもいおよばなかったことだ。
つまり、梅春老人は角助同様に、山中俊房につかえる山中忍びだったわけなのである。
「頭領さまより、ききおよんでいような?」
梅春が、念を入れてきた。
「む……」
「わしは、ながい年月を、甲賀からはなれて忍びばたらきをしていたのじゃ」
「は……」
「さて……」
梅春が、あたりの気配に神経をくばりつつ、
「おぬし。頭領さまより、あずかった品があろう」
「あ……」
たしかにある。角助が、甲賀の山中屋敷へ呼びつけられたとき、山中俊房が、
「おぬしがあずかっておいてくれい」
と、わたしてよこした小さな革袋のことだ。
革袋は、中に何が入っているか知らぬが、いつも肌身からはなさぬ角助であった。
「そこに、持っていような」
と、梅春。
「いかにも」
すばやく、角助は革袋を取り出し、梅春へわたした。
「よし、行け」
梅春が、革袋をふところへしまいつつ、
「早く、行け」
まるで、叱りつけるようにいった。
梅春の部屋から出て、飯田覚兵衛宅へもどりつつ、砂坂角助は、夢を見ているような心地がしている。
(それにしても、頭領さまは、なんと、すさまじい……)
であった。
十余前も前から、梅春は、徳川家康のために、増田長盛のもとへ入って忍びばたらきをしていたことになるではないか……。
山中忍びの中でも古顔の砂坂角助だ、かつて一度も、山中忍びとしての梅春の顔を見知ってはいない。
それほどに、山中俊房の忍びの網の目≠ヘ底が深い、ということになる。
(なんと、頭領さまは、恐ろしいお人じゃ)
角助は、痛むようにのどがかわき、飯田家の自室へ入りこみ、ひとりきりになると、手足が細かくふるえ出した。
この日。
京都において、天皇譲位の式が、とどこおりなくとりおこなわれた。新帝は、後水尾天皇である。
豊臣秀頼の行列も、大坂城を発し、淀川を船ですすみ、この夜は、むかし、生母の淀の方の居城であった淀城へ泊した。
加藤清正と浅野幸長は、それぞれ三百の将兵をひきい、秀頼を護衛した。異変は起らなかった。
だが……。
丹波大介たちにとって、島の道半が斬死にをしたことは、非常な傷手であったといわねばなるまい。
大介は、二十七日の夜が明ける前に大坂へたどりつき、道半の死を門兵衛と小平太に語った。
「そ、そりゃ、まことでござるか……」
「い、いったい、どうしたことなので……?」
二人とも、愕然とした。
大介はうなだれている。
「わ、わけをはなして下され」
と、小平太が血相を変えていった。
「のちに、では……いけぬか……」
「それは……どうしてもと申されるなら……」
「かならずわけをはなす。なれど、今度の御役目が、秀頼公御上洛のことが無事にすんでからにしてもらいたい」
「え……?」
「そのときこそ……おれは、丹波大介は、忍びの掟《おきて》によって、おぬしたちや杉谷のお婆から、どのような罰をも受けるつもりだ」
門兵衛と小平太は、顔を見合せるばかりである。
やがて、門兵衛が小平太へうなずいて見せてから、
「よろしゅうござる。すべては大介どのへ、おまかせいたしましょう」
と、いった。
「そうしてくれるか」
顔をあげた大介の両眼には、泪があふれそうになっている。
いつもながら丹波大介には、忍びの者とはおもわれぬ烈しい感情と熱い人の血がながれているようだ。
それが、門兵衛や小平太、さらにお婆や道半を魅了する大介の性格なのであろう。
こうして……。
秀頼が大坂城を発するのと同時に、大介・門兵衛・小平太の三人は、行列の前後を遠くから警戒しつつ、淀城へ入った。
大介は、昨夜の負傷にもめげず、全身の神経をはたらかせつつ、行列の先をおよそ半里ほど、沿道の周辺に、異状のないことをたしかめつつ、すすんだのである。
杉谷のお婆は、行列の中へ老女≠ニして加わっていた。これも、ひそかに秀頼の身辺をまもるためのものであった。
翌二十八日の朝が来た。
淀城を出た豊臣秀頼は、陸行で京都へ入ると、片桐且元の控屋敷で装束をととのえ、二条城へ向った。
秀頼は、父・太閤秀吉が亡くなってのち、わずか七歳で、伏見城から大坂城へ移ったのだが、今度は十二年ぶりに、はじめて大坂城の外へ出たわけであった。
秀頼は、四方あきの駕《かご》乗物へ乗り、この両わきに、加藤清正と浅野幸長の二人がふとい青竹の杖をつき、徒歩でつきそっている。
清正と幸長の躰が、駕の中の秀頼の袖にふれるほどであったそうな。
二人とも、
(身をもって……)
秀頼をまもりぬこうとしていることが、だれの眼にもあきらかであった。
そのころの人の書いた聞書《ききがき》≠ノは、
「……秀頼公、二条の城に御入り候。大御所様はじめ御老中迎えに出られ、堀川通りの御城の前、広庭に京中の男女・貴賤群衆《きせんぐんじゆ》が秀頼公を拝したてまつり、涙をながし、声をあげ……」
歓迎をしたと、したためてある。
秀頼の上洛によって、関東との和解も成り、
「これで、戦争《いくさ》にもならぬ」
そのよろこびが、群衆の顔にあふれ出ていた。
また、そればかりではない。
太閤以来、京・大坂における豊臣家の人気は、はかり知れぬものがあった。徳川将軍があり、幕府という政権が出来ても、京・大坂の人びとの感覚としては、
「それは関東のことじゃ。上方は、豊臣のもの」
なのであって、その実情が、秀頼歓迎のどよめきの中に、はっきりとあらわされていた。
秀頼が駕から出て、加藤清正・浅野幸長の両大名につきそわれ、ゆったりと二条城・正門へ歩み出したとき、
「うわあっ……」
見物の歓声が、晩春の晴れわたった空へ、いっせいにたちのぼったものである。
大玄関に出迎えた徳川家康の顔に、何らのうごきはなかったけれども、正門前に居ならぶ徳川の重臣たちの表情が、にわかに変ったことはたしかであった。
家康は、正門を入って眼前に近寄って来る秀頼の、若わかしく堂々たる体躯を、感嘆の面《おも》もちでながめやった。
このとき、豊臣秀頼は六尺二寸の巨体になっていた。
家康が、すすみ出た。
「よう、わせられた」
と、徳川家康がよびかけ、その老顔に、笑いが波紋のようにひろがっていった。さらに家康は、秀頼の手をつかみ、かるく二度、三度と打ちふった。
いかにも、親愛の情のこもった様子に見える。
秀頼も、丁重にあいさつをしたが、その様子に、いささかもへり下ったところは見られない。
それよりも家康のほうが、秀頼の、
(きげんをとっているように……)
見えたという。
こうして、二条城・殿舎内の祝宴がひらかれた。
高台院も、この席に列していた。
これは、家康からねがい出たことである。
高台院をまねくことによって、いささかも自分に害意≠フないことをしめそうとしたのであろうし、祝宴をなごやかに終らせたいとの意向もあったからだろう。
この日。
豊臣秀頼は、徳川家康に、次の贈物をしている。
一、真守の太刀
一、金子三百枚
一、黒毛の馬
一、猩々緋《しようじようひ》三枚
一、緞子《どんす》三十巻
一、左文字の脇差(その他)
これに対して、家康が秀頼へ贈ったものは、大左文字の太刀・吉光の短刀・鷹三居、馬十疋――と、ある。
祝宴では、家康ひとりが上きげんであったが、胸の中はおだやかでない。
秀頼が、立派に成長をしていることをきいてはいたが、
(かほどまでに……)
とは、おもわなかった。
立居ふるまいが、悠々としている。秀頼の大きな顔と大きな体躯ゆえに、そのさまが、いかにも堂々と見え、祝宴の席にいならぶ大名たちが消し飛んでしまったかのようにおもえた。
家康のことばに受けこたえをするとき、秀頼の黒ぐろと光る双眸が|ひた《ヽヽ》と、家康を見つめる。
いささかも臆するところのない眼の光りであった。
家康は、圧倒されそうになるのに、かろうじて堪えた。
十九歳のいま、秀頼が、これほどに輝やかしい風格をそなえているからには、
(あと、十年もしたなら、どのような成長ぶりをしめすことか……)
と、それにおもい至ったとき、家康は、むしろ戦慄した。
列座の中で、長い間、秀頼を見ていなかった大名たちの顔には、感嘆の色が、はっきりと浮かび出ていたのである。
祝宴がはじまると、加藤清正、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎、片桐且元、大野治長へは、別間において酒食が出された。
このとき、清正は幸長とうなずき合い、
「それがしは、ここに」
といい、秀頼の側からはなれようとはせぬ。
これを見たとき、それまでは絶えず笑いにほころびていた徳川家康の面上へ、|ちら《ヽヽ》と不快の色が浮かんだ。
幸長は別間へ行き、饗応をうけた。
だが、祝宴は、まことに短かった。
三献《さんこん》の祝儀が終って間もなく、急に、加藤清正が、ものしずかな口調ながら、はっきりとした声で秀頼へ、
「大坂の母君も待ちわび給うべし。はや、御暇《おいとま》を……」
と、いった。
秀頼が、
「む」
大きく、うなずく。
秀頼がうなずいたからには、むりにとどめもできぬと考えたのであろう、徳川家康も、
「実《げ》に、もっとものことじゃ」
これは、いささか皮肉のにおいも感じられる口調で、
「大坂のおふくろさまに、心痛をおかけ申してもなりますまい」
と、いった。
家康と秀頼が、うちとけて語り合うというような雰囲気は、まったく見られなかったといえよう。
見送りに出ようとする家康へ、秀頼が、はきはきとした声で辞退をするや、
「いかで、お送りせずにおられようか」
家康は、あくまでも下手に出て、大玄関の筵道まで、秀頼を送って出た。ゆきとどいたことではある。
そればかりではない。
「ちょうど、よい機会《おり》ゆえ……」
と、家康は、故太閤を祀《まつ》った豊国神社への参拝をすすめたので、秀頼も、これにはよろこび、二条城を出ると、そのまま高台院の屋敷へおもむき、躰をやすめたのち、豊国社へ参拝した。
ようやくに清正や幸長、高台院の顔へ安堵の色がただよいはじめた。
ともあれ、秀頼の上洛によって、大坂と関東の危機は避けられたのであった。
諸大名のうちには、豊臣家・恩顧の人びとが多い。
だが、二条城を出て、大坂への帰途につく秀頼につきそい、しかるべきところまで見送ろうとするものは、ほとんどなかった。
池田輝政なども、二条城を出るときは一緒であったが急病≠セといい出し、秀頼一行と別れ、伏見の屋敷へ帰ってしまった。
加藤清正が、
「伏見の、わが屋敷へ御立ち寄り下されまするよう」
と、秀頼へ申し出たのは、高台院屋敷で休憩をしているときに、であった。このときまで秀頼は、帰途も淀城へ一泊するつもりでいた。
「それはよい」
秀頼は、大よろこびである。
何年も大坂城内から外へ出たことがないだけに、今度の上洛は秀頼にとって、
(すべてが、ものめずらしく……)
おもわれ、こころが、はずんでいたようだ。
「なれば、主計頭の屋敷へ一夜を……?」
「いえ、そのように恐れ多きことはなりませぬ。御座船を、伏見までまわしてござります」
「さようか……」
その手まわしのよいことに、秀頼もおどろいたらしい。
今朝早く、秀頼が淀城を発したのち、飯田覚兵衛の指揮により、秀頼の御座船を伏見へまわしてあったのである。
この御座船を肥後屋敷・西側の川へ引きこみ、美しく飾った饗宴の席をもうけ、御座船を中心に川の両岸から肥後殿橋にかけて竹の虎落《もがり》をむすびまわし、金屏風を隙間なく立てまわした。
秀頼が豊国社の参拝を終え、伏見へ向うころ、ようやくに準備が終ったところであった。
加藤家の家来たちも、いまは、
「右大将さまが御成り」
のことを知った。
二条城での対面が無事にすんだことを知らせる使者が、駈けもどって来たので、
「よかったのう」
「まことに、めでたいことじゃ」
「殿が右大将さまを御迎えし、御祝いなされようとおもわるるおこころが、われらにはようわかる」
一同、よろこんで祝宴の仕度に忙殺されたのであった。
その家来たちのよろこびに、表向きは調子を合せながらも、時がうつるにつれて、
(まるで、胸の底が痛むような……)
昂奮を懸命に押えようとしている男が、一人いる。
砂坂角助の伴野久右衛門≠ナある。
昨日。
料理人の梅春にわたした革袋≠フことが、脳裡をはなれぬ。
中を見てはいないが、
(おそらく毒薬であろう)
と、角助は直感していた。
それを、梅春老人がつかおうとしているのだ。
つかうからには、今日の祝宴において、梅春の手にかかる料理の中へでも、毒薬を落しこむつもりにちがいない。
では、だれを毒殺しようとしているのか……。
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祝 宴
加藤清正が、豊臣秀頼を招いての祝宴を、わざわざ川に浮かべた御座船の上においてもよおしたのは、
「秀頼が大坂城へ帰る途上に、折しも伏見の肥後屋敷前を通りかかったので、しばらく足をやすめていただき、酒食を供した」
というかたち≠とったのであった。
白昼の川面で、だれの眼にもあきらかな宴である。
それもこれも、清正が徳川家康の眼をはばかり、その神経に刺激をあたえぬように……とのおもんぱかり≠ェあったからだ。
秀頼の行列が肥後屋敷へ到着するや、すぐさまに酒と、料理がはこばれた。
御座船を中心に、両岸二町ほどに金屏風を立てまわした宴席に供奉《ぐぶ》の人びとがぎっしりとつめ合い、にぎやかに酒をのみはじめた。
砂坂角助の伴野久右衛門≠ヘ、いそがしく立ちはたらきながらも、
(梅春は、だれを毒殺しようとしているのか……?)
気にかかってならない。
梅春は、|そのこと《ヽヽヽヽ》を角助にもらしてくれなかった。
はっきりときいていたなら、角助の肚も据わったろうが、これから先、どのような異変が起るか、とおもうと、角助ほどの忍びが、
(気が気ではない)
のである。
(まさか、秀頼公を……)
大坂城の、豊臣家の象徴たる秀頼を毒殺するとなれば、その指令は甲賀の山中俊房から出たものにせよ、大御所・家康が知らぬはずはない。
もしも、この宴席に毒を盛られた秀頼が苦悶《くもん》して死ねば、
(だれの眼から見ても、毒殺のことはあきらかになる)
のであった。
秀頼が毒殺されたとなれば、その犯行が関東の手によるものだ、と、だれもがおもうであろう。
(そのような|まね《ヽヽ》を、頭領さまがするであろうか……また、大御所がさせるであろうか?)
どうも、わからぬ。
しかし、梅春老人が今日の宴席で、あの革袋の中の毒をつかおうとしていることは、
(まちがいはない。だが……?)
だが、果して、あの小さな革袋の中の品は、
(毒薬なのであろうか?)
角助も中を見たわけではないから、断定はできかねる。
いずれにせよ、日時がさしせまった昨日になって、梅春が突如、角助の前に本体をあらわし、革袋を受け取ったことは、
(まさに、今日の役に立てようとしている、としかおもえぬ)
そう考えてくると、梅春が料理人≠ニして加藤家につかえているだけに、その役目を利して忍びばたらき≠するものと見てよい。
(となれば……やはり、毒薬か……)
となる。
あれから何度も何度も、角助は、この思案をくり返してみた。
(だが、わからぬ……)
祝宴がはじまると、角助は川岸の宴席の接待をうけもたされていた。
川の幅は、さほどにひろくはない。
美々しく飾りつけられた御座船の上の座所に、豊臣秀頼の巨体がひときわ立派に、はでやかにのぞまれる。
その両わきには、加藤清正と浅野幸長がひかえ、こぼれるような笑顔で、秀頼と語り合っている。
晩春の、昼下りの陽光が川面にも川岸にも、くまなくゆきわたっていた。
人びとの談笑の声も、重苦しい緊張と不安から解放されただけに、ことさらほがらかにきこえる。
秀頼は上きげんに見えた。
秀頼としては、家康との対面という重大事よりも、何年ぶりかで戸外の空気にふれたことが重要であった。みどりの木々や草、土の香り、民家のたたずまい、街道、川水のきらめき、小鳥のさえずり……そのようなものが、大坂城内での生活とはまったくちがった新鮮さで、秀頼の胸をときめかしたのだ。
祝宴の時間は、あまり長引かぬことになっていた。
この日。
料理人・梅春は、工夫をこらした料理をいろいろと秀頼の前へ出したけれども、その中でも、
「このようなものを、はじめて食《と》うべた」
と、秀頼をよろこばせたものがある。
それは、梅春手づくりの蒲鉾《かまぼこ》であった。
鮮魚を臼に入れ、みじんに搗《つ》きあげたのを、強火で|さっ《ヽヽ》と炙《あぶ》り、その炙りたての蒲鉾をすぐさま秀頼へ供した。
平常、大坂城内で、淀の方の指図もあって、何人もがさんざんに毒見をした後の、すっかり冷えてしまった料理ばかりを口にしていただけに、
「これは珍味じゃ」
新鮮で、野趣にあふれた料理を、秀頼がよろこんだのも当然で、
「この蒲鉾とやら申すものを、みやげに持って帰りたい」
と、いい出した。
これをきいた梅春老人は、
「まことにもって、身にあまる|みょうが《ヽヽヽヽ》でござりまする」
感動の泪さえうかべ、秀頼が大坂へ持ち帰る蒲鉾の用意にかかった。
もっとも、川岸にいた砂坂角助は、そうした秀頼の声をきいたわけではない。
川岸に腰を下ろした供奉の人びとの談笑の声が、わきたつようにあたりをみたしていて、御座船の会話など耳へ入らぬ。
だが角助は、こちらから見ていて、彼方の秀頼が箸をとり、さもおいしそうに料理を口へはこぶたびに、胃の腑《ふ》を得体の知れぬちからでしめつけられるようなおもいがした。
清正の供をして二条城まで行った家臣のはなしによれば、
「二条城内において、殿は一献の酒もめしあがらなかった」
そうである。
その加藤清正が、いまは、よろこびにあふれて盃をかさねている姿も、角助の眼に入った。
そうした清正の姿を見ているうちに、砂坂角助の五体が知らず知らず、かたくなってきた。
これは、それまでの角助がおもいつかなかったことだ。
(もしや、清正に毒薬を……)
このことであった。
山中俊房にいわせると、
「大御所は秀頼公を恐れてはおわさぬ。九州の地に、あの熊本城をもつ主計頭清正を、もっとも恐れておわすのじゃ」
だそうな。
けれども、梅春が清正を毒殺するのなら、なにも今日という日を特にえらばなくとも、いくらでも機会はあるはずではないか。
そこへおもいおよんだとき、砂坂角助に新しい連想がうかんだ。
(では、清正と共に、別の人物へも毒をのませる。たとえば浅野幸長……)
その幸長が、愉快そうに盃をあげているのが見えた。
清正と幸長を一時に毒殺する……。
それなら梅春が、この日をえらんだのも、うなずけぬことではない。
浅野幸長と何やらうなずき合った加藤清正が立ちあがり、侍臣をしたがえて御座船を下り、屋敷へ入って行くのが角助に見えた。
(どうしたのだ、清正は……)
たまりかねて、角助は川岸の宴席からぬけ出した。
不安になってきた。
もしも異変が起った場合、角助には、
「どのようにしろ」
という山中俊房からの指令が出ていないし、梅春もそのことをいわぬ。
(いざともなると、頭領さまの奥の手は、いつもこれだ)
角助は、前もって梅春のことを知らせてくれなかった山中俊房に、烈しい不満を抱いた。
(さほどに、このおれがたよりにならぬのか)
であった。
加藤清正が、屋敷内へ入ったのは、身仕度をするためであった。
清正も、ここから大坂城までは秀頼につきそって行くつもりはなかった。
しかし、御座船の上で、秀頼と共に酒をくみ、秀頼がまことにうれしそうな様子を見ているうち、清正も、ここから別れるのが、のこり惜しい気がしたものとみえる。
淀の方へも、
「さ、かくのとおり、御無事でおわしまするぞ」
と、いってやりたいおもいもする。
そこで清正は、浅野幸長へこのことを告げ、にわかに大坂まで行くことにした。
秀頼は、それときいて尚さらによろこび、
「なれば、今夜は城内において、主計《かずえ》殿のための祝いをいたそう」
と、いった。
屋敷内で身仕度をととのえた清正が、
「梅春をよべ」
と、いった。
あらわれた梅春は、平常といささかも変らぬ微笑をたたえている。
「梅春。今日の馳走は、ことさらに見事であったぞ」
「へへっ……」
梅春、あたまを下へすりつける。
「上様がな。上様が、ことのほかに、およろこびであった」
「恐れ入りたてまつりまする」
「いずれ、そちにほうびをとらす」
「かたじけのうござりまする」
「よし、よし。それだけを申したかったのじゃ。ようもしてくれた。清正、礼をいうぞ」
「はっ……」
梅春は、うれしなみだにかきくれる、といった態で引き下って行った。
秀頼の御座船が、川をすべりはじめたのは、それから間もなくのことである。
両岸の人びとが低頭するのへ、豊臣秀頼は何度もうなずいて見せ、そばにつきしたがう加藤清正も、酒に顔をほてらせ、笑いが絶えぬ。
(これは……?)
見送っている砂坂角助が、またもくびをかしげた。
(何事も起らなかったではないか……)
なのである。
秀頼のみか、清正と幸長はとうてい毒薬をのんだ様子もない。
三人とも、元気いっぱいに見えた。
(おかしいぞ?)
わけがわからぬ。
角助は、おもいきって梅春老人に会ってみよう、と、おもいたった。
梅春は、大台所の自室にて、なにか書きものをしていた。
「梅春、どの……」
角助が、かすれた声をかけた。
梅春は、だまって筆をうごかしている。
角助へ背を向けたままであった。
「ば、梅春……」
「うろたえるな」
梅春が低く、
「なにを、うろたえておるのじゃ」
厳然と、
「去れ」
「は……」
角助は、圧倒された。
小さな梅春の背に、侵《おか》しがたいものがただよっている。
それは、忍びの者のみが知る感覚だった、といえよう。
つまり忍び≠ニして、梅春と角助とは、まったく格も貫禄もちがうことになるのだ。
「おぬしは、このまま当屋敷におればよいのじゃ。おぬしは知らぬ。なにごとも知らぬのじゃ」
「は……」
「行け。去れ。二度と来るな」
角助は、茫然として大台所へ出て来た。
秀頼と清正を乗せた御座船は、淀川へ出て、大坂へ向いつつある。
飯田覚兵衛宅へもどった砂坂角助は、全身のちからがなえ、地の底へ引きずりこまれそうなほどの疲労をおぼえていた。
「やれやれ、これで終った」
「ともあれ、めでたいことじゃ」
「これで、熊本へ帰れるのう」
肥後屋敷の人びとは、帰国のよろこびにわきたっている。
今度の清正の上洛は、ただひとつ、秀頼と家康との対面を実現し、大坂と関東との融和をはかり、戦火を避けることにあった。
そして、その希望は達せられたのである。
「この大事が、ぶじにすんだなれば、すぐさま帰国いたす」
と、かねてから清正はいっている。
だが、高台院その他へのあいさつもあり、いよいよ熊本へ帰国するときは、
(いま一度、右大将へお目にかかって……)
と、清正はおもっている。
それやこれで、清正が帰国の途につくのは、来月五日ごろになると見てよいだろう。
伏見の町が夜の闇につつまれた。
そのころ……。
伏見からも近い水度神社近くの雑木林にある仙右衛門の百姓家が火につつまれ、焼け落ちた。
近辺の人たちが駈けつけて、延焼をくいとめ、焼跡をあらためて見たが、仙右衛門はむろんのこと、焼け落ちた家に、人のいた形跡はまったくなかった。
加藤清正は、翌日の夕刻に伏見へもどって来た。
非常に、元気であった。
清正は飯田覚兵衛をはじめ、重臣たちをよび寄せ、この夜も祝宴をひらいた。
料理人・梅春がまたも活躍をする。
「梅春には、大分に御ほうびを下されたようじゃ」
「料理人として、あれほどの面目はござるまい」
などと、かねてから人びとに好意をもたれている梅春だけに、だれもが梅春の身になってよろこんでいる。
梅春はまた、泰然として大台所にはたらきつづけているのである。
(なにごともなかったのだ)
と、砂坂角助も、落ちついて来た。
梅春が、山中忍びの一人であることはたしかだが、
(あの革袋の中は、毒薬ではなかったらしいな)
角助は、そうおもいはじめた。
その夜。
加藤清正は、杉谷のお婆(老女・千代)をも宴席へまねき、いろいろと、ものがたりをしたようである。
「熊本へもどってくれるかな?」
清正がそっと問うや、お婆は、
「熊本に、住みつきましてもよろしゅうござります」
「これで一応は、丹波大介やそなたのはたらきもすんだ、わけじゃが……」
「それなれば、ようござりますが……」
お婆は、いたずらめいた眼つきになり、
「去れとおおせあるなれば、いつにても……」
と、白髪のあたまを下げた。
二人の会話は、ごく小さな声でかわされていたし、同席の人びとも、このような内容だとは、すこしもわからぬ。
「去れ、とは申しておらぬ」
「では……?」
「尚も、はたらいてもらいたい」
「つぎは、なんのために、はたらきましたらよろしいのでござります?」
すると清正は破顔して、
「わかっておるはずではないか」
と、いった。
このときの二人の会話は、これで終った。
夜ふけて……。
杉谷のお婆は、わが寝所へ引きとってから、
(殿は、このままに、すべてのことがおだやかにおさまろうとは、考えてはおわさぬ)
と、おもった。
永久に、徳川と豊臣の間が平和のままに経過することを、清正はもちろん熱望している。このことに間違いはない。
(なれど……)
お婆は、今夜の加藤清正から、いっそうに或る確信をふかめていた。
お婆は、こう考えている。
今度の二条城の対面において、徳川家康は、どこまでもへり下って秀頼をきげんよくもてなしたそうな。
二条城へ、杉谷のお婆はおもむかなかったので、その模様を自分の眼で見たわけではないが、堂々たる豊臣の当主になっていた秀頼を見て、家康はかならず、
(不安をおぼえたにちがいない)
と、感じている。
これは、大坂から淀までの船中で、間近く秀頼を見たお婆が、
(家康の身になって……)
直感したのであった。
(あの家康が、このまま右大将を見のがそうはずはない)
これは、お婆の確信であり、同時に、加藤清正も、自分と同じことを、
(感じとられたに相違ない)
と、おもっている。
(家康めは、かならず、戦さを仕かけて来るにちがいない)
そうなれば、
(なによりも家康は、肥後の殿を恐れているにちがいない)
のである。
(これよりは、うかつにすごしてはならぬ)
戦争へもちこむ前に、徳川家康は、かならず何らかの方法で、清正をほうむり去ろうとするにちがいない。
その手段が、どのようなものであろうとも、
(われら、殿の御身をおまもりするためには、いささかのゆだんもならぬ)
のであった。
さすがのお婆も、料理人の梅春が、山中忍びであることは気づいていない。
当然だ。
山中忍びの中でも古手≠フ砂坂角助でさえ、気づいていなかったほどなのである。
(それにしても……)
お婆は、丹波大介からの連絡が絶えていることを不安におもった。
秀頼の上洛について、大介たちが蔭にまわって警戒をおこなったであろうことは、お婆も知っている。
だが、かねてからの打ち合せでは、秀頼上洛がすみしだい、大介自身がお婆のもとへ忍び入り、今後のことを談合することになっていた。
それが、来ない。
いささか、気にかかる。
四月に入った。
その七日。
浅野幸長の父・長政が病死した。
かねてから病臥《びようが》していたことではあるし、別にふしぎなことはない。
しかし浅野幸長は、父が危篤ときいて伏見屋敷を発し、急ぎ和歌山の居城へ急行した。
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無
浅野長政が亡くなったのは、四月七日である。
同じ日に……。
伏見の肥後屋敷で、加藤清正が発病した。
といっても、急に倒れたとか、重病だとかいうのではない。
発熱したのである。
「疲れが出たのであろう」
清正はそういって、別に気にもとめなかったが、めずらしく大事をとって床についた。
浅野長政の葬儀へは、清正の代理として、重臣の和田備中守が列席することになった。
浅野長政は、故太閤の奉行をつとめ、その恩顧も非常なものがあり、関ヶ原の折には、大野治長たちと徳川家康暗殺のうたがいをうけ、謹慎を命じられたほどの人物であった。
その子の幸長が、いまは当主となり、清正と共に豊臣家のために奉公にはげんでいることは何よりも、清正にとってはこころ強い。
ところで、加藤清正は、なかなか病間から出ようとしなかった。
見たところは、それほどの病状でもないらしい。
侍医も、
「風邪でござりましょう」
などといっているが、
「どうもな、起きあがる気になれぬのじゃ」
と、清正が侍医たちへもらしたそうである。
食欲もあまりないようだが、梅春のつくる料理だけには箸をつけた。
十五日になると……。
「こうしてもおられぬ」
ようやくに、清正は床をはらった。
なにやら、急いで熊本へ帰国したいらしい。
十六日に、清正は京へおもむき、諸方へ別れのあいさつをおこなったのち、高台院を訪問し、
「共に夕餉を……」
高台院にすすめられるまま、馳走になってから、夜に入って伏見へ帰って来た。
「千代をよべ」
ぐったりと疲れた様子で、清正は、すぐ寝所へ入ったが、急に、おもいついたように老女・千代の杉谷のお婆をまねいた。
お婆が、清正の寝間へ入って見ると、
「帰国の前に、丹波大介に会いたいものじゃ」
と、清正がいった。
「はい。わたくしのもとへもまいらるるはずなのでござりますが……いまだに、なんの連絡《つなぎ》も……」
「ないと申すか。何か、大介の身に異変でも……」
「そのようなことはございますまい」
お婆が見たところ、清正の顔色は決して悪くはなかったし、むしろ紅潮しているようにおもえた。
(これなら、殿さまの御病気もさしたることはあるまい)
お婆は安心をした。
丹波大介が、杉谷のお婆の寝所へあらわれたのは、この日の夜ふけであった。
忍び装束の大介が、お婆のまくらもとへ屈みこむや、早くも気づいたお婆が、
「大介どのかや?」
「いかにも」
「待ちかねていたぞや」
「すまぬ」
「ともあれ、秀頼公御上洛のことも、|ぶじ《ヽヽ》にすんでなにより」
「うむ……」
「どうなされたかえ?」
「とんでもないことに、なってしもうた」
「なんといやる」
「島の道半どのが……」
「道半どのが、どうしました?」
「亡くなった」
お婆が、沈黙した。
衝撃に、堪えているのだ。
「おれが……この大介が、殺したも同然……」
「なに?」
「きいてくれ、お婆どの」
つつみかくさず、大介はすべてを語った。
「それもこれも、大介がわたくしごとのために、道半どのを死なせてしまった……」
「ふうむ……」
「お婆どの。おれを、どうにでもしてくれ。まことに、忍びの一人としてはずべきことだ。大事の前に、女ひとりのために、こころをひかれ……と、とり返しのつかぬことをしてしまった……」
「よいわえ、大介どの」
お婆の声は、もう落ちついていた。
「わたしも道半どのも、大介どのと同じように人の熱い血をもった忍びじゃ。それが杉谷忍びなのじゃ。山中忍びや伊賀の忍びとは、そこがちがうところじゃ」
「お婆に、そういわれると尚更に、つらい」
「道半どのも、おぬしに命じられてしたことではない。みずから買って出て、おぬしのためにはたらいたことじゃ。道半どのも、さぞ、まんぞくであろ」
「お婆……」
「われらに、大介どのを罰する資格はない。いまの大介どのは、われらの頭領なのじゃ」
「なれど……」
「もはや何も申されるな。われらはこれより先、肥後の殿のおんためにはたらき、いくらも死場所が得られよう。そこのところを、よう考えなされ」
「やはり、お婆もそのように?」
「むろんのこと。殿は一日も早く熊本へ帰り、城がまえに万全の備えをなさるおつもりであろ。そして徳川家康は間もなく、肥後の殿を熊本から追いはらい、他国へ移すための|はかりごと《ヽヽヽヽヽ》をめぐらすにちがいない。そのときこそ……」
「殿は、断じて熊本からどかれまい」
「そのとおりじゃ」
そうなったときの加藤清正が、家康に対して、どのような態度に出るか……。
はっきりと予測はつかぬが、いずれにせよ清正も、今度の秀頼上洛によって獲得した平和が、
(永久のものではない)
このことを直感しているにちがいない、と、杉谷のお婆はいうのである。
「あのように、立派に成人をされた秀頼公を眼《ま》のあたりに見ては、家康も手をつかねてはおられまい。徳川の天下を末長く栄えさせるためには、どのような手段をめぐらしても、大坂を、秀頼公を……そして肥後の殿を何らかのかたちでほうむり去らねば、落ちついてあの世へは行けまいわえ」
「いかさま……」
「殿がのう、大介どの。御帰国の前に、ぜひ一度、おぬしと会いたい、かようにおおせられてじゃ」
「む……」
「いかがじゃ?」
「お婆……いまのおれは、殿へお目にかかりたくない」
「なぜ?」
「今度のことでは、まことに忍びとして、はずかしいことを……」
「まだ、そのようなことを申されるのか、やめなされ」
「しばらくは、じっと、島の道半どのの冥福《めいふく》をいのっていたい」
「殊勝な……」
「お婆から殿へ、よしなにおつたえ下され」
「ぜひにというならば……」
「と申しても、殿が熊本へ御到着のころには、おれも後から走りつづけて追いつくつもりだ」
「熊本へ来てくれるか、大介どの」
「うむ。そして、お婆と共に殿へお目にかかり、じっくりと今後のことをはかりたい。そのときにこそ、おれも殿の御胸の底にひそむおもいを、しっかりとつかみたいと考えているのだ」
「なるほど」
「では、これにて……」
「いまひとつ、ききたい」
「え?」
「道半どのの死体は?」
「伊賀の忍びどもが、どこかへ片づけてしもうたらしい」
「さもあろう、な……」
「すまぬ」
「なんの、なんの……」
大介は、お婆に一礼し、闇の中へ溶け去った。
それを見送ってから、夜具の中へ仰向けに寝た杉谷のお婆の両眼から、熱いものが|ふつふつ《ヽヽヽヽ》とあふれ出してきた。
お婆は、かすかにつぶやいた。
「道半どのよ。よいことをしてくれたのう」
翌日になって……。
杉谷のお婆が加藤清正へ目通りをし、
「昨日。大介がまいりましてござります」
昨夜のありさまを語るや、清正は大きくうなずき、
「さようか。熊本へ来てくれるとか」
「はい」
「それならばよい。ゆるりと会えよう」
「はい」
「大介は元気でいたかの?」
「すこぶる元気にござりました」
お婆は、大介と島の道半にまつわる事件については、清正の耳へ入れなかった。
この月の二十日。
加藤清正は伏見を発し、大坂城の豊臣秀頼へいとまごい≠フあいさつをすませ、その夜、大坂から海路を帰国の途についた。
料理人・梅春も例のごとく、清正の傍へつきそい、行列に加わって熊本へ向ったのである。
(なんのこともなかったのだな)
と、砂坂角助はおもった。
角助は依然、鎌田兵四郎と共に、伏見の肥後屋敷へ残った。
しかし、飯田覚兵衛は清正と共に熊本へ帰った。
ところが……。
この帰国の船中において、加藤清正が血を吐いたのである。
血を吐いて倒れた。
同時に……。
料理人・梅春の姿が、船中から消えてしまった。
いったい、どこへ消え去ったものか……。
梅春が船に乗り込んだのは事実であり、清正が吐血する直前まで、彼の姿を見かけたものは何人もいる。
それが、いつの間にか消えた。
この梅春の失踪《しつそう》を、清正や加藤家の人びとが、
(なんと見たか……)
は、つたえられていない。
ともかく、加藤清正は帰国の船中において発病し、五月二十七日に熊本城へ入った。
このとき、すでに清正は重態であったようだ。
それでも尚、清正は闘病した。
懸命に病気と闘った。
血を吐きつつ、その後一カ月を生きた。
しかし、六月中旬に、浅野長政の葬儀に参列した和田備中守が熊本へもどって来ると、清正は和田備中と飯田覚兵衛を病間へまねき、
「もはや、これまでじゃ」
と、いった。
そして、子息・虎藤をもって、自分の亡きあとの加藤家の相続願いをさせるため、和田・飯田の二人を江戸と駿府へ出発せしめた。
和田と飯田の両重臣は、すぐさま熊本を発した。
徳川将軍と、大御所の家康へ、家督相続のゆるしを請うためであった。
飯田覚兵衛も和田備中守も、
(熊本へ帰るまでには、とうてい、殿は生きておわさぬ)
という覚悟であったし、清正もまた同様に、
「のちのちのことをたのむ」
「何も彼も、終りとなったのう」
二人へいうや、あとはもう口もきかず、凝と二人を見つめたまま、泪ぐんで、身じろぎもしなかったという。
六月二十三日の朝から、加藤清正は危篤状態になり、翌二十四日の丑《うし》の刻(午前二時)に息をひきとった。ときに清正は五十歳。
清正は、かねてから家臣たちの殉死をゆるさなかった。
けれども、二人の殉死者が出た。
一人は、大木土佐守といい、もとは佐々《さつさ》成政の家臣であったが、成政亡きのち清正につかえ、その才幹を買われ、三千石の大禄をあたえられるほどまでに奉公をつくした。
いま一人は、朝鮮人で、名を金官《きんかん》という。
金官は、あの朝鮮征討の折に、清正からひろいあげられ、そして熊本へ来てからは清正をこころから慕い、二百石をあたえられて奉公をしていた。本当の名は良甫鑑《りようほかん》といい、もとは朝鮮後宮の財務官であったそうな。
さて……。
徳川家康は、十歳になる加藤虎藤に、家督をゆるしたが、加藤家の重臣二十人を人質として江戸へとどめ置くことを申しわたした。
加藤清正の葬儀は、虎藤の帰国を待って、十月十三日におこなわれ、中尾山(現在の本妙寺)へほうむられた。
この葬儀が終ってから、杉谷のお婆・於蝶は忽然として熊本から、どこかへ去った。
去るにあたって於蝶は、伏見から駈けつけて来た鎌田兵四郎へ、ひそかに、こういった。
「さてもさても、おそろしき毒薬が生まれたものでござる。申すまでもなく、殿に毒をもったは料理人の梅春に相違ありませぬが……それにしても、われら殿の御身をまもるためにつきそいながら、ついに梅春の正体を見ぬけなんだこと、つくづくとくちおしゅう存ずる。あの毒は、たちまちに人のいのちをうばうものではなく、長い日をかけ、すこしずつ、人の躰へまわりめぐって、ついにはいのちをうばうという……おそらくは南蛮わたりの高価な毒薬かと……」
それにしても、この慶長十六年という年は、豊臣家の崩壊が、音をたててはじまった年だといえる。
加藤清正が亡くなった同じ月の十七日に……。
これも豊臣家・恩顧の大名、堀尾吉晴が病歿している。
また同じ月の四日。
紀州・九度山に押しこめられたまま、あの真田昌幸が六十五歳で亡くなってしまった。
あれほどに、大坂と関東との開戦を待ちのぞみ、そのときこそ、わが子・幸村と共に九度山を脱出し、
(家康めの首を打ち落してくれよう!)
と、そのことのみに老いの情熱を燃やしつづけてきた真田昌幸も、ついに世を去ったのである。
その直後に……。
京都の室町に印判師・仁兵衛として住み暮していた真田忍びの奥村弥五兵衛と、向井佐助の姿も消えた。
二人は店をたたみ、いずこともなく姿を消してしまった。
翌々、慶長十八年になると、三河・吉田の城主で、これも故太閤から羽柴≠フ姓をさずけられたほどの池田輝政が亡くなった。
同じ年の八月。
加藤清正と共に秀頼をまもりつづけて来た浅野幸長も、三十八歳の若さでこの世を去っている。
幸長の死も、毒殺だという|うわさ《ヽヽヽ》がながれた。真偽はわからぬ。
翌十九年五月。
加賀の大守・前田利長が病歿した。
利長の亡父・利家は、故秀吉と共に織田信長へつかえ、苦労をわかち合いつつ戦場を往来し、秀吉が天下人となってからは、あくまでも豊臣家への忠誠をつらぬき、秀吉をして、
(たのむは、大納言〔利家〕のみじゃ)
とまで、ふかい信頼を寄せしめた人物である。
その前田利家の子の利長が死んだ。
こうして、豊臣家と、もっとも関係のふかい大名たちが、三カ年の間に、ほとんど世を去ったのであった。
だが、徳川家康は、齢《よわい》七十をこえて尚、壮健であった。
家康は、
(もう、よかろう)
と、腰をあげた。
いよいよ大坂の……豊臣秀頼の存在を、たとえどのようなかたちにせよ、この世からほうむってしまわなくてはならぬ、と決意をしたのである。
もはや、家康が恐るべきものは何ひとつなくなった。
あとは、豊臣家を戦争へ引きずりこむことの政治工作があるのみだ。
このようなことは、家康にとって、わけもないことであった。
慶長十九年。
徳川家康は、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺の釣鐘へ、
国家安康・君臣豊楽
と、ほりつけられた文字について、
「まことにけしからぬ。秀頼どのが方広寺の鐘へほりつけた文字は、わしの名の家康という字の間に安という字を入れている。これは、わしの名を二つに切ったことになるではないか。しかも、その下には、豊臣家を天下にいただいて世の中がたのしくなる、という意味の文字がある。これは、徳川将軍家を軽んじ、天下に謀反をおこす心底ではないか。そうおもわれても仕方がないことじゃ」
激怒して、豊臣秀頼へ難くせをつけたものである。
もとより、これは家康のむりやりな|こじつけ《ヽヽヽヽ》であった。
「かくなれば仕方もなし。秀頼どのが徳川将軍にしたがうつもりなら、大坂城を出て、他国へ移ってもらいたい。それでなければ、母ごの淀の方を人質として、江戸へ送ってもらいたい」
家康は、するどく、断を下した。
これをきいて、淀の方がだまっているわけがない。
大坂城から駈けつけたいいわけの使者も、家康の前には通じなかった。
(もはや、こうなれば大坂の城へたてこもり、関東と戦うよりほかに道はない)
淀の方も秀頼も、豊臣の家来たちも、ずるずると家康の|さそい《ヽヽヽ》に乗り、諸方から多勢の牢人たちや、関ヶ原の敗戦以来、諸国に散っていた豊臣家と関係のふかかった武将たちを大坂へよびあつめた。
「よし!」
家康は、
「いまこそ、大坂城を討ちほろぼすぞよ!」
七十三歳ともおもえぬ元気にあふれ、諸大名を召集して軍団を編成し、大坂攻めの準備を急いだ。
九度山にいた真田幸村が、ひそかに脱出し、大坂へ入城したのもこのときであった。
奥村弥五兵衛や向井佐助が、幸村にしたがっていたであろうことは、容易に想像ができる。
大坂攻略の徳川軍(東軍)は約二十万。
大坂城にたてこもる豊臣軍(西軍)は約十万。
真田幸村は、大坂城・三の丸の平野口に出城をかまえ、これを真田丸≠ニ名づけ、独自の戦法を駆使して東軍をなやました。
大坂城は、なかなか落ちなかった。
すると家康は休戦工作をはじめ、これに成功するや、一気に大坂城の濠を埋めたて、城をまる裸≠ノしてしまったのである。
こうしておいて、翌元和元年になると、家康は、ふたたび大坂方を戦争へさそいこみ、大軍をひきいて攻め寄せてきた。
いわゆる夏の陣≠ナある。
濠を埋められ、まる裸となった大坂軍は、ひとたまりもなく押しつめられ、いよいよ最終の決戦にのぞむことになった。
五月七日の決戦の当日。
真田幸村は大坂方全軍の指揮にあたり、天王寺口へ徳川軍の主力をひきつけ、猛然として家康の本陣へ突進した。
このときの真田幸村の勇猛な戦闘は、最後まで統一がとれなかった大坂軍のだらしない戦さぶりの中に、只ひとつ、後世にまでうたわれたほどの光彩≠はなった。
事実、徳川家康は真田隊の猛襲をささえきれず、一時は、戦死の覚悟さえした、といわれているほどである。
記録に、
「幸村、十文字の槍をもって大御所めがけ……大御所、とてもかなわずとおもわれ、植松の方へ……」
いのちからがら逃げた、とある。
その幸村も、ついに安居天神の境内で討死をとげた。
そして……。
豊臣秀頼も、淀の方も、猛火につつまれた大坂城内において死んだ。
ここに、豊臣家は、完全に滅亡したのであった。
このときまで、もしも加藤清正が生きていたら、どのようなことになったであろうか……。
このこたえは、ここまで書きつづけてきた物語の中に、いろいろなかたちであらわれているかとおもう。
さて……。
奥村弥五兵衛のような真田忍び≠ヘ、この最後の機会を得て、敗けはしたが、こころゆくまで主人の真田幸村をたすけ、忍びばたらきをしたことであろう。
だが、丹波大介も杉谷のお婆も、生きのこった杉谷忍びたちも、大坂戦争には姿をあらわさなかったようだ。
あれから、彼らはどこへ行き、どうして生きていたものか……。
もしやすると、高齢だけに杉谷のお婆は、すでに、この世の人ではなかったやも知れぬ。どちらにせよ、加藤清正の死と共に、大介たちは二度と、忍びばたらきに出ることを絶ったにちがいない。
大坂戦争が終って、大坂が徳川のものとなったのちも、今橋すじには、塗師屋の寅三郎が住んでいて、女房との間に二人の子どもをもうけ、その後も仲よく暮しつづけていたそうな。
とすれば、もよはふたたび、再婚の夫のもとへ帰り、その夫が伊賀の忍びであることも知らず、幸福な老後を迎えたものとおもわれる。
豊臣家がほろびてのちの大坂城へは、徳川家康の孫にあたる松平忠明が城主として入った。
「諸国大名は、本城ひとつをもっていればよい。あとの城は取りこわすように……もはや、これにて戦乱の世は絶えた」
と、家康はいった。
家康は、かの武家諸法度≠はじめ、新しい政令をつぎつぎにさだめ、徳川将軍と江戸幕府の将来を万全なものとすべく、死ぬ間ぎわまではたらきつづけた。
現将軍・秀忠の跡をつぐべき三代将軍を、秀忠の子の竹千代(のちの家光)にさだめるなど、まだ秀忠が元気でいるのに、みずからこの大事を決定し、
「これで、でき得るかぎりのことはやり終えた。わしは、もう疲れはててしもうた……」
大坂戦争が終ると、さすがの家康も、心身のおとろえを感じたようだ。
「それにしても……」
と、駿府の城へ帰って来た家康は、老臣・本多正信へ、
「大坂の戦さに、もし主計頭清正が生きて在ったなら……と、それをおもうて、わしは、陣中にいて、つくづくと胸をなでおろしたものじゃ」
「いかさま……」
「なれど……」
「は?」
「清正は、まこと毒をのまされたのであろうか……」
「さて……」
「わしは、清正を殺せとは申さなんだ」
「それがしも、うけたまわりませぬ」
さぐるような家康の視線を受け、本多正信は苦笑をもらした。
「もはや、すぎ去ったことにござります」
「そうであったのう……」
正信にしても、清正毒殺の命令を、甲賀の山中俊房や伊賀の忍びに下したおぼえはまったくないのである。
しかし、正信の脳裡には、山中俊房の顔が、はっきりとうかんでいた。
清正が死んだときも、山中俊房は何くわぬ顔をしていた。
毒殺だ、というわさがながれはじめたので、正信が俊房をよび寄せ、
「おぼえなきことじゃな?」
念を入れると、俊房は眉の毛ひとすじうごかさずに、
「それがしは、佐渡守様(正信)のお指図もなき、忍びばたらきは、かつて一度もいたしませぬ」
平然とこたえている。
(なれど、俊房ならば……)
やってのけた可能性もある、と、本多正信は考えている。
どちらにせよ、加藤清正の死によって、豊臣家の栄光は、家康の眼のくろいうちに消滅したのであった。
大坂戦争が終った翌年の四月十七日に、徳川家康は七十五歳の生涯を終えた。
家康が世を去った翌々年。
すなわち元和四年に、甲賀の自邸において、頭領・山中俊房が死んだ。
本多正信も、すでに病歿していたし、これで徳川幕府と甲賀・山中忍びとの関係は、いちおう断ち切られたかたちになったのである。
以後、幕府は直属の家臣と伊賀忍者をもって、全国の大名を監視すべき間諜網をととのえてゆく。
ところで、
山中俊房が死んだ年の夏に、将軍・徳川秀忠は、笹井丹右衛門という武士を旗本にとりたてた。
「いったい、なにものであろうか?」
と、人びとはうわさしあったほどに、笹井丹右衛門の経歴が不明であった。
もちろん、将軍と幕府要路の、それもごく数人のものが、丹右衛門の来歴をわきまえていたにちがいない。
新規召し抱えながら、丹右衛門は二千石の大禄をもらい、外神田に立派な屋敷を拝領した。
笹井丹右衛門は、七十をこえた小柄な老人で、しごくおだやかな人柄らしく、家来たちや奉公人の評判もよかったそうである。
この老人、回春のためとかで若い侍女を全裸にして、寝間へはべらせ、共にねむるのがなによりのたのしみだそうな。それもただ、裸の若い女にはさまれてねるだけのことらしい。
金もあるし、
「大坂の戦さに大功をたてたらしい」
とのうわさはあるが、その功績がどのようなものであったかは、不明である。
元和五年六月一日の夜ふけであったが……。
例によって裸の侍女にはさまれてねむっている笹井丹右衛門の真上の天井から、ひとすじの糸が音もなくすべり出してきた。
|くも《ヽヽ》の糸が……いや、そうではない。
糸でありながら、垂直に、のばした針金のような重味をもって、この糸が、丹右衛門の老顔のすぐ上へ下りてきた。
丹右衛門は、わずかに口をあけ、ぐっすりとねむっている。
と……。
その先端から、一滴二滴と……水のしずくのようなものが落ち、丹右衛門の口へ入った。
やがて、丹右衛門のいびきが深くなった。
そのとき、天井の羽目板がひらき、黒の忍び装束をつけた男が寝間へ飛び下り、丹右衛門にそい寝をしている二人の侍女の鼻へ、ぬれた灰色の布をあてがった。侍女たちの寝息がふかくなる。
そうしておいて、この男は、ねむり薬をのまされた丹右衛門の躰をかるがると抱きあげた。
ねむりからさめたとき、笹井丹右衛門は手足をしばりつけられ、どこかの森の中の土の上に投げ出されていた。
丹右衛門は愕然とした。
「気づいたか、梅春」
かがみこんでいた忍び装束の男が、
「ようも生き長らえていてくれたな」
「た、たれじゃ」
「丹波大介」
「ああっ……」
「老いたな梅春。若い女をはべらせておろかにもねむりこけていたか……おのれの身は、もはや安泰とおもっていたのか」
「おのれ……」
「肥後さまに……加藤清正公に毒をもったおのれを、このように立身出世させたからには、徳川のたれかが、おのれの仕わざを知っていたことになる。おのれに、肥後さま毒殺の命を下したのはたれじゃ。いえ」
「わしは、頭領さまからいいつけられた、それのみじゃ」
「かくなってしもうては何も彼も無となったゆえ、強いてきこうとはおもわぬ。だが梅春、亡き肥後さまの|おうらみ《ヽヽヽヽ》だけは、おれも人としてはらさねばなるまい」
「た、助けてくれえ、大介」
梅春は、泣き声をあげた。
「もはや、すんだことじゃ。わしは忍びとしての本分をつくしたまでじゃ。も、もはや戦さは絶えた。わしを殺したとて、なんになるのじゃ。助けてくれえたのむ、たのむ」
「泣くな。あの世のみやげにきいておけ。甲賀頭領・山中俊房を討ったのも、おれだ」
「げえっ……」
「忍び針一本で、俊房は死んだ」
「た、助け……助けてくれえ……」
急に、梅春は自由になった。手足をしばっていた忍び縄を丹波大介が切ったのだ。
「これを持て」
大介は脇差を梅春にあたえ、
「さ、かかって来い、梅春」
こうなっては、とても逃げ切れぬとおもったのであろう。梅春は怪鳥のような叫びをあげ、地を蹴って宙へ躍りあがった。
同時に、大介も宙に舞っている。
二人の躰が地に落ちたとき、梅春の右腕は、刀と共に断ち落されていた。
翌朝……。
江戸城・大手門の前が大さわぎとなった。
右腕を切断された笹井丹右衛門の、苦しみ死《じに》≠ノ死んだ遺体が大手門前へ投げ捨てられてあり、その傍に大きな高札がたてられてあったからである。
その高札には、墨くろぐろとつぎのように書きしたためられてあった。
この者、加藤主計頭清正公を毒殺した者なり。よって誅《ちゆう》す
〈底 本〉文春文庫 平成十四年九月十日刊
初出誌 (一九七八年)この作品は昭和四十四年三月二十五日より四十五年六月九日まで三百八十七回にわたり、京都新聞、新潟日報その他に掲載された。
単行本 本書は昭和五十三年に刊行された文庫の新装版です。