[#表紙(表紙.jpg)]
池波正太郎
幕末新選組 新装版
目 次
青 春 の 血
試衛館の人々
浪士隊出発
誠 の 旗
変 乱
梅 雨 空
池田屋騒動
戦 雲
江 戸 の 空
激 流
七条油小路
賊 徒
敗 走
明 治 元 年
落 日
あ と が き
[#改ページ]
青 春 の 血
一
芝草に、陽炎《かげろう》がゆれていた。
「大草……大草」
と呼ばれて、表門わきの門番小屋につめていた足軽の大草五十郎は、
「はー?」
ふりむいて見て、顔をしかめた。
(なんだ、永倉のいたずら小僧が、また悪さでもしにあらわれたのか……)
口には出さぬが、永倉栄治を見た五十郎の顔は嫌悪の表情をむき出しにしている。
「大草。そう、おれをにらむなよ」
栄治は、ませた口調で、五十郎にいい、
「今日は、おれ、なにもいたずらはせぬよ。ほんとだ」
とつけ加えた。
(なにを言いやがる、このガキは──)
七歳の子供にすぎない栄治を「さっさと向こうへ行っちまえ」と怒鳴りつけてやりたい気持でいっぱいなのだが、五十郎にとっては、それも出来かねた。
なにしろ、この腕白小僧は、百五十石どりの〔定府取次役《じようふとりつぎやく》〕で、殿様の信任もあつい永倉勘次の一人息子なのである。
足軽の大草五十郎とは、身分に大きなひらきがあって、とても歯がたたない。
「ね。永倉様の坊ちゃん、向こうへ行っておいでなされ。私は今、ここでお役目をしているのですからね」
むかむかする胸を押えながら、五十郎は、つとめてやさしくいってやった。
すると……
「うん。すぐ帰るよ」
栄治は、いつもに似ず素直にうなずき、
「大草もたいへんだね。年よりだから門番をしていても、疲れるだろう」
などと、やさしい声を出し、尻下がりの眉の下の細い眼に、精いっぱいの愛嬌をただよわせながら、
「いつも、大草には、めいわくをかけるので、おれ、父上からお叱りをうけてね」
七歳にしては小柄だが、|むちむち《ヽヽヽヽ》と肉づきのよい躯をくねらせ、しおらしく、前髪の頭を小さな手で掻いて見せる。
五十を越えた五十郎だけに、そんなことを孫のような栄治からいわれると、なんとなく胸の中が熱くなってきた。
(こりゃ、よほど永倉様に叱りつけられたものとみえるわい)
五十郎の唇《くち》もとが、ゆるんできた。
門番小屋につとめている三人の中間《ちゆうげん》も、あっけにとられて、栄治を見つめている。
この松前伊豆守の江戸屋敷にいる足軽や中間たちの中で、永倉栄治のいたずらに手をやかぬものはないといってよい。
夏の夜ふけに、そっと侍長屋をぬけ出して来た栄治が、つい居眠りをしている門番に、くらやみの中から水鉄砲の水をひっかける、などといういたずらは、まだ罪のかるいほうであった。
「ねえ、大草……」
栄治が小さな躯をすり寄せるようにして、
「あのねえ、これ──」
と、手にした経木包みをさし出した。
「なんですかな?」
大草五十郎は、もう笑っていた。笑うと皺が深くなり、見るからに好々爺《こうこうや》なのである。
「あのね、大草。これは、母様にいただいた饅頭《まんじゆう》なんだけど、大草にあげよう。食べないか」
「これは、これは……」
「いつも大草を困らせているおわびだよ」
「でも、それでは、せっかくの坊ちゃんのおたのしみを……」
「いいんだよ、おれは……さ、食べておくれ」
こう言って、栄治は門番小屋の中へ入って来た。
「ほら、うまそうだろ」
畳じきにおいた包みをひらくと、ぽっかりと白く、饅頭が二つ、経木の中にならんでいる。
下谷・三味線堀にある松前屋敷からほど近い鳥越三筋通りの菓子舗〔亀屋〕の八千代饅頭だということを、甘いもの好きの五十郎は、すぐに知った。
「ほほう。亀屋のまんじゅうですね、坊ちゃん」
「うン」
「いただいてもよいのですか?」
「大草が食べてくれると、おれ、うれしいんだよ」
あくまでも、あどけない声であった。
大草五十郎は、もう、この腕白小僧への怒りもなにも忘れて、
「すみませんなあ。では、ありがたくいただきます」
にこにこと頭を下げた。
「うン」
門番小屋の外へ出て行きながら、栄治が、
「じゃ、またね」といった。
五十郎は、栄治の姿が侍長屋をかこむ土塀の向こうへ消えるまで見送っていたが、
(永倉様のガキも……いや坊ちゃんも、こりゃ大分に変ったものだわい)
ほくほくしながら、熱い茶をいれにかかった。
「お前たちは甘いものなぞ見向きもしなかったっけの。わしは、ちょいとお八ツをいただくから、たのむぞ」
部下の中間たちに声をかけて、五十郎は饅頭にかぶりついた。
二つに割って見ればよかったのだが、五十郎は不運であった。
器用な栄治が、たくみに抜きとって自分の口へ入れてしまった饅頭の餡《あん》のかわりに入っていたものは、栄治の尻から排泄された黄色の|かたまり《ヽヽヽヽ》だったのである。
それも、健康な子供の排泄物にふさわしい、|あざやかなもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、たんまりと入っていたのだ。
もろに、五十郎は、この黄色の餡を口いっぱいにふくんでしまった。
「あッ……うわ、わ、わ……おのれ……くそ! くそ!!」
悲鳴と怒りの叫びをあげ、五十郎老人が饅頭を放り出したとき、いつの間に忍び戻って来たものか、ものかげにかくれていた永倉栄治が、手を叩き足をふみならして、よろこびの声をあげた。
「食った、食った。大草五十郎が|くそ《ヽヽ》を食った、くそくそと泣いた」
「ま、待て! 畜生……」
「わあーい」
栄治は、風のように侍長屋へ逃げこんでしまった。
二
さすがに、こんどは大草五十郎も黙ってはいなかった。五十郎老人は、憤然として、このことを上司に訴え出た。
永倉勘次は、ただちに、江戸家老の下国東七郎によばれて注意をうけた。
「栄治のいたずらも度がすぎるようじゃ。気をつけさっしゃい」
「はっ──」
父親としての面目は、まるつぶれとなった。
おとなしい永倉勘次が、長屋へ帰って来ると、栄治を庭に引き出し、木刀をふるって、七歳の息子が悶絶するまで折檻を加えたという。
饅頭事件は、下国家老の穏便なはからいによって大事にはならず、永倉家から大草五十郎に詫びのしるしを送ることになって、なんとか鳧《けり》がついたようである。
「困ったやつじゃ」
父親は嘆いたが、七歳の一人息子を勘当するわけにも行かなかった。
「一人の子ゆえ、いささか甘やかしすぎたようだな」
「はい。私の不行届きでございました」
「なんとしたものだろうかな」
「あれだけの折檻をなさいましたのですから、栄治も、これに懲りて……」
「ふむ。そうあってほしいものだが……」
永倉勘次夫婦は、折檻されて発熱し、床についてしまった息子の寝顔をうかがいながら、ぼそぼそと語り合った。
「少々、やりすぎたかな」
「大したことにはなりますまいが……」
「熱は下がったのか……?」
「いささかは──」
「ともあれ、饅頭の中に、おのれの尻から出たものを入れて……相手が、いかに身分の軽きものとはいえ、まことに我子ながら、|そら《ヽヽ》恐ろしゅうなってきた」
「旦那様」
「なんじゃ?」
「栄治のいたずらには、子供ながら、なにやら理由《わけ》があるように思いまするが……」
「なんの?」
「あの子は手習いがきらいでございます」
「困ったやつだ」
「それを、旦那様はむりやりに……」
「当然ではないか。習字ばかりではなく、これからは大学・中庸なども読ませなくてはならぬ。武士たるものの、これはつとめじゃ」
「はい」
「それが、栄治のいたずらと、どんな関係があると申す?」
「あの子は、勉学は大きらいなれど、どうやら剣術のほうは大好きと見うけますが……」
「だから困ると申しておるのだ」
「文武両道と申しまする。武の道を進ませてみることが、あの子の……」
「あやつに剣術を教えてみよ、なにを仕出かすか知れたものではないわ」
栄治は、五歳になったときから剣術をおぼえたがった。
「骨もかたまらぬのになにを申す。まだ早すぎるわ」
父親は、笑いとばしてしまい、これを許さなかったが、そのうちに同じ屋敷内の長屋に住む藩士の子供たちの大将となって、栄治は、あばれはじめた。
裏門近くの空地や馬場などで剣術ごっこをやる。戦ごっこをやる。町なかの子たちとちがって、大名の藩邸内のことだから、永倉夫婦も気をもみ通しであった。栄治の木刀に打たれ、ひどい瘤《こぶ》をこしらえた子供の家から苦情が集まる。上司からも注意をされる。
これで、永倉勘次の温厚な人柄が松前家中の人々に好感をもたれているということがなかったら、どんなに評判が悪くなったか知れたものではない。
思いあまって、永倉勘次は、家老の下国東七郎へ相談をもちかけた。
「栄治の熱は下がったのか?」
よく練れた人物だけに、下国家老は微笑をふくんで、
「それほどに好きなものなら、いっそ身を入れて習わせたらどうじゃな」
「はあ……なれど、なまじ剣術をおぼえましては、栄治め、またどのような……」
「そうもいえまい。おぬしの妻女がいわるるごとく、栄治の腕白は、剣術の稽古が出来ぬ不満から出たものかも知れぬ」
「左様でございましょうか……」
「よいではないか。剣術は侍の表看板じゃ。良き師のもとにつけてやれば、かえって栄治のためになるやも知れぬ」
七歳の子供を、二人の大人が、まるで不良あつかいにした相談なのである。
こうして、翌年の春になり、永倉栄治は正式に剣術の稽古をはじめることになった。
「もう決して、いたずらはしませぬ。これからは一生懸命、剣術をいたしますから、いたずらをするひまなど、ありませぬ」
栄治は大よろこびである。
下国家老の口ききで、栄治は、神道無念流の岡田十松の門へ入ることができた。
いたずらは、ぴたりと止んだ。
神田・猿楽町にある岡田道場のきびしい稽古の苦痛を、むしろ、栄治は、
「なんともいえませぬ」と、父親にいうのだ。
なんともいえずたのしいというのである。
好きで好きでたまらない剣術だけに、めきめきと腕も上がり、十五歳の夏には切紙をゆるされ、十八歳には本目録をうけ、岡田道場でも屈指の腕前となった。
明けても暮れても、剣術の稽古に没頭しつくした十カ年であった。
父も母も、もうあきらめていた。
父親は、我子を、松前藩の能吏として活躍できるように育てあげたかったらしいのだが、
「好きなようにいたせ」
こう言って、切紙のゆるしを得た祝いをかねて、息子を元服させ、名を新八とあらためさせた。
これより、栄治は永倉新八となったわけだが、後年、幕末の動乱期に新選組隊士として得意の剣をふるい命がけの働きをするようになろうなどとは、父母はもとより、新八自身も思いみなかったことであろう。
三
「それにしても……わしは、やはり、新八を剣の道に進ませぬほうがよかったように思うのだがな、今となってみると……」
永倉勘次は、成長した我子を見るたびに、嘆息をもらし、妻の|りつ《ヽヽ》に愚痴をもらす。
「なれど、もう、こうなっては、仕方がないではございませんか……」
りつも思いは同じなのだが、そこはやはり母親だけに、
「新八が満足しているのですから……」
諦観しているようであった。
とにかく、起きてから眠るまで、竹刀の音と気合の声の中に居ないと気がすまぬ、生きている気がしないという永倉新八なのである。
松前屋敷内の長屋へ帰るのは眠るためのことだけで、朝も七ツ半(午前五時)になると家を飛び出し、
「御門番、たのむぞ」
表門のくぐり戸を開けてもらい、神田の道場へ駈けつけて行く。
江戸市中の名だたる道場へも試合に出かけて行っては、
「今日は負けたが、明日は負けませぬ」とか「今日の試合は、私のもっているすべての力と技が思いのままに出せたものですから、楽に勝てました」とか、苦虫をかみつぶしたような父親には少しもかまわず、母のりつを相手に剣術の話ばかりをするので、
「新八。お前も行く行くは父の後をつぎ、永倉の当主ともなる身じゃ。剣術もよいが書物も読め。そして、侍づとめがどういうものかも知っておかねばならぬ。たまには家におれ。父が、いろいろと教えてつかわす」
たまりかねて、勘次がいった。
「はあ……」
いちおうはうなずいてみせるのだが、新八は父の言葉を、上の空で聞いている。
(厭だな。どう考えても厭だ。父の後をついで、上役や殿様にぺこぺこと頭を下げながら、おのれの身をかばい、失敗《しくじり》のないよう、そして少しでも出世をしたいがために何事をも我慢我慢で、堅苦しい屋敷づとめをするなぞとは、どうも、かなわぬ……)
このころになると、新八の剣術には|あぶら《ヽヽヽ》が乗ってきて、とても十九や二十のものの剣術には見えなかったという。
「新八に言うと慢心をするといかぬで言わぬが、あやつの技倆は大したものになった。まず、おれが弟子のうちでは、新八が一番だわ」
師の岡田十松が親しいものに、そっと洩らしたことがある。
新八は、試合でのかけひきや竹刀さばきに、もちまえの図太さと器用さを存分に発揮した。
人一倍に太刀すじもよかったのであろうが、技術の向上につれ、相手に勝つということの爽快味が倍加してきた。
竹刀を向け合い、相手と勝負を争うときの緊張が、むしろ、しびれるほどの歓喜をさえともなって、新八の全身にみなぎりわたってくる。
いくら、父親に「いいかげんにせよ」と言われても、(一日でも稽古を休むくらいなら死んだほうがましだ)と思いつめるほどの熱中ぶりであった。
つまり、永倉新八は、おのれの青春のすべてを、剣術の快味に没入させ、それにひたりきった一人のスポーツマンであったといってよかろう。
「いかぬ。もう、いいかげんにやめさせぬと……」
父親の勘次は、ようやく不安になってきた。
勘次としては、息子を自分の役目につけ、家をついでもらいたいのである。
〔定府取次役〕というのは、代々江戸屋敷につとめていて、殿様と謁見者との間を取り次ぎ、進物の披露や礼儀式典などもあつかわねばならない。
なかなかに、むずかしい役目であった。
それだけに、藩中でも、
〔永倉のあばれ息子〕で通っている新八が、一時も早く侍奉公の道へ戻ってもらいたいと念じているのだが、きかばこそであった。
「もう、そこまでやればよいではないか。道場通いも、ほどほどにせい」
年をとってからもうけた子だけに、勘次も、つい口うるさくなる。
新八は、もうたまりかねてきた。
安政四年(西暦一八五七年)の十一月十日の夜のことであったが、新八は、つぎのような書きおきをのこして、松前屋敷を逃げ出してしまった。ときに十九歳である。
父母の恩恵、きっと忘れがたく存じ候えども、とうてい宮仕えの|ならぬ《ヽヽヽ》新八。何とぞ何とぞ、御勘当下されたく、御許し、御許し。
[#地付き]新 八
父 上 様
母 上 様
文章も下手だが、字もひどい。
翌朝になって、この書きおきを見た永倉勘次は、
「りつ。読んでみよ」
息子の書きおきを妻にわたし、くるりと背を向けてしまった。
「まあ……」
「もはや、これまでじゃ」
霜のおりた庭を呆然と見つめている勘次の小|びん《ヽヽ》にたれた白髪が、かすかにふるえていた。
四
そのころから、世の中は騒然となってきはじめた。
いや、すでに、新八が生まれたころから、日本は、動乱騒擾の芽をふいていた。
西洋諸国の圧力が、しだいに強まってきたことが、その一である。
二百五十余年にわたって日本を支配してきた徳川幕府の政治・経済が飽和の頂点に達して土台がゆるみかかってきたことが、その二である。
幕府は、二百年も前に〔鎖国令〕を発し、中国(支那)とオランダ以外との交易を禁止してしまっている。
両国との交易も、長崎のみを開港し、ここには厳重な監視をおこなって、海外文明の日本国内に侵入することを極度におそれてきたものだ。
〔鎖国〕は、幕府がキリスト教の伝播をおそれて施いた法令であるという。
それもあろうが、武力によって諸国大名を屈服させた徳川政権としては、諸外国の文明に、日本の人々が自由にふれることが出来、日本以外の国々の政治や経済や文化のあり方を吸収することによって、幕府政治への批判が活発になることを警戒したものであろう。
もっとも、三代将軍のころ、九州・島原に起ったキリシタン宗徒の狂信的な叛乱と団結を見ては、
「国を閉じよ!」
と、将軍のみでなく、幕閣の重臣たちも、国内大名の叛乱をおそれるのと同様に異教徒の反抗をもおそれたのだ。
こうして、二百年もたってから、まず、北方からロシアが圧力をかけてきた。
当時、松前藩は、幕府とともに、蝦夷《えぞ》の地をねらって侵入をはかるロシアを追い払うため、非常な苦労をしたものである。
もっとも、親代々から江戸屋敷に奉公している永倉勘次などは、生まれてこの方、一度も殿様の領国である蝦夷の松前へは行ったことがない。
それはともかく、やっと、ロシアが手を引いたと思ったら、こんどはヨーロッパ諸国が日本をねらいはじめた。
ことにイギリスは、阿片戦争によって支那を侵し、香港を掌中につかみとって、いよいよ日本に|よだれ《ヽヽヽ》をたらしはじめる。
つづいて、フランス、アメリカであった。
嘉永六年(一八五三)というと、永倉新八が十六歳で元服をした年であるが……。
ついに、アメリカ艦隊が浦賀(神奈川県)の海へ入ってきて、強圧的に幕府へ開港・交易をせまった。
鉄と大砲によろわれた軍艦ひとつを見ても、異国の科学文明は驚嘆すべきものであって、狼狽した幕府が、いかに、これを追い払おうと考えても実行できるわけのものではない。
幕府は、大老・井伊|直弼《なおすけ》を押したて、夷狄《いてき》を追い払えと叫ぶ反対勢力をなんとか鎮圧し、アメリカはじめ諸外国と通商条約をむすんだ。
ここに、鎖国の夢やぶれた日本は内外の圧力をうけて、がたがたにゆれはじめることになる。
だが、永倉新八の青春は、こうした自国の危機感をも、うけつけなかったようだ。
時勢の重大さを知ったのは、もう少し後のことで、
「さあ、もうこれからは思う存分に試合ができるぞ」
岡田道場に住みこもうとも思ったが、そんなことになっては、師の岡田十松から、
「馬鹿者。家を捨て、両親を捨て、松前藩士という身分をも放り出してどうする気だ」
きっと、叱りつけられるにきまっている。
「おい、どうするかな?」
新八は、仲よしの市川宇八郎に相談をかけた。
宇八郎は新八より四つ上の二十三歳だが、この男の父親も、もとは松前伊豆守の家来であった。だが、どうも身もちがわるく、藩の公用金をそっともち出しては遊興費にあてていたことがわかって、十五年も前に藩を追い出され、浪人となったものである。
だから、市川宇八郎は子供のときから奔放な浪人暮らしが身についてしまっていて、女遊びも酒の味も、なにもかも、若い男のすることは、みんな、新八に教えこんだものだ。
血色がよくて小肥りで童顔の新八とは違い、市川宇八郎は六尺に近いひょろりとした長身であり、少年の頃に病んだ疱瘡《ほうそう》のあとが〔あばた〕になって顔中に浮いていた。
それでも、なかなかに気のよい男で、
「よし、よし。まあ、おれのところにしばらくいろ」
浅草・阿部川町の裏長屋に住む宇八郎は、すでに両親を失っていた。一人暮らしであった。
そこへ、新八はころがりこんだ。
「でもなあ、新さん。岡田道場へは行けねえぜ」
と、宇八郎は伝法な口調でいう。
後に、新八の言葉の調子が、いくらか伝法なものになったのは、悪友? 市川宇八郎の影響がたぶんにあったとみてよいだろう。
「そうかな、道場へは行ってはならないかね?」
「当り前さ。岡田先生は、あれで、なかなか堅物よ。お前を見たら首根っこをつかまえて松前屋敷へ持って行かあな」
「おお、いやだ。おどかすなよ、宇八郎さん」
「まあ、一杯飲め。万事はそれからだ」
互いに若い。
火の気もない長屋の一室で、冷酒をがぶがぶ飲んでは、
「こうなったら、腕をみがいて、お膝元の江戸でも、これと名の通った剣客になってみたい」
新八が気炎をあげれば、宇八郎も、
「俺も負けねえぜ」
と力み返る。
宇八郎は不思議な男で、浪人ながら、どこで手に入れてくるのか、酒や女につかう金に困ったことがない。
岡場所で女遊びをする金も、
「まあ、おれがおごるから心配するな」
新八の分まで出してくれていたものだ。
顔は〔あばた面〕だが、垢のついていない紬《つむぎ》の着物をさっぱりと着流しにして、大小も立派なものを横たえている。
髪は総髪で、それが新八から見ると、|ばか《ヽヽ》にいいものに見えたので、
「おれも、もう松前浪人となったのだから、宇八郎さんのように総髪にしようかな」と言うと、
「いや、そいつはよくねえ」
宇八郎は首をふって、
「新さんには総髪や着流しは似合わねえ。髪も着物も、いつもきちんとして、袴《はかま》もつけて……ちゃんとした侍の格好をしていなけりゃいけねえ」
「なぜかね?」
「なぜって……新さんは、子供づらだからよ」
「子供づら……?」
「愛嬌があって、おっぱいがのみてえような顔つきだからよ。そんな顔には浪人くさい格好は似合うもんじゃねえのだ」
「馬鹿にするな」
「ほめているつもりだぜ」
もっとも、宇八郎と一緒に女遊びに出かけると、きまって新八の方が女にもてたものであった。
どうも新八の顔は、女の母性愛をかきたてるように出来ていたらしいのだが、後年になると、女のことでは、永倉新八も、ずいぶん手痛い目にあわなければならないことになる。
とにかく、岡田道場へは顔を出せないので、二人は相談した結果、本所・亀沢町に道場をひらいている百合本昇三のところへ出かけることにした。
百合本も、岡田と同じ神道無念流である。
市川宇八郎も、あれで剣術は飯より好きな男で、百合本道場へ住み込んだ新八を毎日のように訪ねて来ては、
「さ、稽古だ、稽古だ」
決して、なまけない。
ときには、竹刀と竹刀が鍔《つば》ぜりのかたちとなって押し合っているときなど、宇八郎の面頬の中から、ぷーんと酒の香が匂ってくることもあった。
松前屋敷では、別に新八を探索することもしなかったようである。
別に悪いことをして脱藩をしたわけでもなく、家老・下国東七郎のはからいによって、表向きは、剣術修行に熱心のあまりのことゆえ──殊勝の段によって御構いなし、ということになったらしい。
五
翌、安政五年の春となった。
永倉新八、二十歳である。
「おい武者修行をやらかそう」
いきなり、市川宇八郎がいい出した。
「よかろう」
すぐに新八も応じ、百合本昇三に願い出て、宇八郎と共に江戸を発し、はじめての旅にのぼった。
「あまり永くならぬうち、帰ってまいれよ」
百合本は、餞別《せんべつ》として金五両をよこし、
「無茶はいかぬぞ」
と念を押した。
新八は、百合本道場でも、ほとんど師範代わりとなって若い門人たちに稽古をつけてやったし、ときには、百合本の出稽古先までもかわりに出かけて行ったものだ。
新八と宇八郎は、気楽な旅をつづけ、下野《しもつけ》の佐野宿へやって来た。佐野は、堀田|摂津守《せつつのかみ》の陣屋があるところで、宿場ながら武道もさかんな土地である。
ここで、新八は、堀田の家臣で大沢大助というものに試合を申しこんだ。
大沢は自分の道場をかまえていて、ここに新八と宇八郎を丁重に迎えた。
大沢大助は、四十がらみの痩せた小さな男で、口のききようも、まことにおだやかなものであった。
(おれに勝てるつもりなのかな……?)
旅へ出てからの道場破りにも退けをとったことのない永倉新八だけに、その日も自信満々といったところで、道具をつけ終え席をたとうとすると、例の着流しのまま、そばにいた市川宇八郎が、
「新さん。気をつけなよ」という。
「なにをだ?」
「大沢によ」
「ふン。なにをいうんだ、宇八郎さん」
「そうかい」
宇八郎はニヤリとして、
「そんなら、まあ、やってみるさ」
「当り前だ」
奮然として新八は中央へ進み出ると、大沢大助と竹刀を向け合った。
一礼するや、大沢は、するすると二間ばかり後退して竹刀を青眼にかまえる。
(む……)
新八は、背すじに冷たいものが走るのを感じた。
(こんな田舎に、こんな人がいたのか……)
打ちこめないのだ。
いつもなら、こちらから大胆に出て行き、自慢の竹刀さばきに相手を|ほんろう《ヽヽヽヽ》してしまうのだが、一歩も出られない。
二間の向こうにある大沢の竹刀が鼻先に突きつけられているように感じられる。このような圧迫感は、師の岡田十松からもうけたことはなかったと言ってよい。
あっと思う間もなかった。
「面!!」
するどい一声とともに、大沢の竹刀は宙を飛んで、新八の横面へぐさりと入っていたのである。
どうして負けたのか、さっぱりわからなかった。
大沢道場での酒宴になってから、新八が、すっかり自信を失ってうなだれていると、
「永倉さん」
大沢大助がそばへ寄って来て、
「あなたは、まだお若いのに大変な剣術ですな」
「からかっているのですか?」
「とんでもないこと」
「私は、もう手も足も出ませんでした」
大沢はうなずき、
「しかし、技倆では、とてもあなたにはかないませんよ」
「なにを言われるのです。いいかげんにして下さい」
「事実だ」
大沢は、じっと新八を見つめて、
「だが、永倉さん。あなたのは道場剣術なのです。いくらあざやかに竹刀をつかっても道場剣術では人を斬れぬ。人を斬ったことがありますか?」
「ありません」
「人を斬れというのではない。人を斬れるだけの力をそなえてこその剣術です。人を斬る、人に勝つことは、おのれを斬り、おのれに勝つことだ」
「………」
「私は、真剣をもってあなたを斬るつもりで竹刀をとった。あなたは、私を竹刀で打つつもりで立ち合われたのだ。それだけの違いですよ」
まわりで、がやがや話し合っている自分の門弟たちにも、すぐそばにいる市川宇八郎にも聞きとれぬような低い声で、大沢大助は新八にささやいたのである。
これは、永倉新八にとって強烈な衝撃であった。
翌朝、新八は大沢大助に別れの挨拶をのべ、すぐ江戸へ戻ることにした。
「やり直してみます」
新八は、悪びれることなく、大沢にいった。
「おやりなさい。こんどお目にかかったときには、私なぞ、とても歯が立ちますまいよ」
と、大沢も心からはげましてくれた。
江戸へ戻る途中でも、新八は一言も口をきかなかった。
「お前がそんなに沈みこんでいるのを見たのは、はじめてだが……しかし、いい薬になったらしいなあ」
市川宇八郎が笑いながら声をかけると、新八は素直に、
「うん」と、大きくうなずいた。
宇八郎は目をみはって、
「お前は、神妙で、いいところがあるよ」といった。
江戸へ帰ってからの新八の稽古は、猛烈をきわめた。
永倉新八が、牛込に道場をかまえる近藤|勇《いさみ》と、はじめて会い、試合をしたのは、それから三年後の文久元年(一八六一)秋のことであった。
[#改ページ]
試衛館の人々
一
近藤勇は、武州・多摩郡の農家に生れた。
父を宮川久次郎といい、勇は、その三男にあたり、幼名を勝太とよんだ。
勝太が十六歳のときに、江戸・牛込に道場をひらいている近藤周助が、
「わしの天然理心流は、ぜひとも、勝太に継いでもらいたい」
と、宮川家へ申し入れ、勝太を養子にむかえた。
天然理心流という剣法は、遠江《とおとうみ》に発し、のちに武州へつたわったもので、この流派をうけついでいる近藤周助も、勇と同じ多摩の出身なのである。
こういうわけで、武州の多摩地方は、関東のうちでも武術がさかんな土地柄であり、農家の中には、自宅の庭に道場まで建てようという熱心な人々もかなりあった。
近藤周助は、江戸へ出てからも、よく多摩へやって来て、これらの人々に稽古をつけているうち、少年の宮川勝太の素質を見こんだものであろう。
勝太は、近藤勇と名をあらため、養父の道場をひきうけるまでに成長してからも、毎月かならず、故郷へ出稽古にやって来たものだ。
「まあ、道場としては江戸でも三流どころだが、荒稽古で有名らしい。ひとつ行って見ようじゃねえか」
市川宇八郎が、永倉新八に、さそいをかけた。
「よかろう」
修行のためなら何でもやってみようという新八だから、すぐ承知をして、牛込・二十騎町にある近藤道場をおとずれた。
この文久元年で、新八は二十三歳になっている。
市ヶ谷御門前の佐内坂をのぼり、尾張公の宏大な屋敷塀の曲がり角を右手に、中根坂をあがりきって、しばらく行くと、少し前まで〔二十騎組〕とよばれた旗本たちの屋敷がならんでいる。
この一角に近藤道場があった。
「なるほど、小っぽけな道場だなあ」
市川宇八郎は門がまえを見てそういったが、
「新八さん。やってるぜ、やってるぜ」
気合いと、打ち合う竹刀の音が激しく聞えてくるのへ、宇八郎は、しばらく耳をかたむけていたが、
「こいつは面白そうだわえ」
新八をうながして、道場へ入って行った。
門から玄関までの、秋草が乱れている庭に、赤《あか》蜻蛉《とんぼ》がしきりに飛んでいる。
道場の名をしるした〔天然理心流・試衛館〕の大きな表札が、玄関にかかげられていた。
道場では、よろこんで二人を迎え入れてくれた。
江戸でも、格式のある一流の道場では、他流試合のものをあつかうのに、それだけのもったいぶった空気があるものだが、
「よくおいでだ。この道場は、門弟の数も少ないので、他流試合、大いに歓迎する」
ちょうど居あわせた主《あるじ》の近藤勇が気さくに声をかけてくれて、
「まず、藤堂さん、どうかね?」
五人ほどいる侍のひとりに笑いかける。
「願いましょう」
美男子であった。
すらりとした長身の上体をおりかがめ、
「藤堂平助と申します」
その侍は、わざとらしい、ばかに丁重な一礼を、新八と宇八郎に送ってきた。
(気どっていやがる)
新八は、初対面のこのときから、どうも藤堂平助と気が合わなかったようだ。
鼻すじのぴいんと通った品のよい顔だが、唇もとには冷笑がうかんでいる。
「宇八郎さん。おれが先に……」
こんな気どったやつ、思いきり叩きのめしてくれようと思ったのであろう。
たちまちに仕度が終って、
「では……」
竹刀を向け合ったが、どうも新八の方が腕は上で、三本のうち、二本とった。
声なきどよめきが道場にひろがった。
みんな、新八の力量に目をみはっているらしい。
面をぬいだ藤堂平助は、にやりと新八を見て、
「お強い、お強い」
子供の機嫌をとるような口調でいう。
|むっ《ヽヽ》としたが、新八は黙っていた。
「では、つぎに私が……」
誰かがいったようだが、このとき、
「いや。私が立ち合おう」
近藤勇が正面の座から立って、身仕度にかかった。
市川宇八郎は、おもしろそうに、近藤と新八の顔を見くらべては、顎をなでている。
近藤は、小肥り気味な新八と違って、がっしりとした筋肉質の体格であり、眉のせまった細い切れ長の眼つきで、への字にむすんだ唇が異様に大きかった。
「あの人の角張った顔つきは、鉋《かんな》をかけてねえ材木みてえだね。材木面だよ」
あとで市川宇八郎が、そんなことをいったものだ。
礼を交し、竹刀を向け合ってみて、
(不細工な剣術だな)
と、新八は思った。
腰をすえ気味に、低くかまえる新八とは対照的な近藤勇のかまえであった。
腹を突き出し、青眼につけた竹刀を微動もさせず、いかにも、がっちりとした形に見えるのだが、
(ふーん。これが天然理心流か──)
新八は、勝てると信じた。
二人の気合いが熟し、熱しきった道場の空気がゆれうごいたとき、
「面!!」
近藤の猛然たる打ちこみである。
これを新八の竹刀が軽くすりあげておいて、
「面──」
近藤の横面をねらって走る新八の竹刀を払って飛びさがるのへ、
「む!!」
新八は燕のように追いすがり、近藤の竹刀へ自分の竹刀を合わせつつ、
「たあっ!!」
得意の巻き落しをやった。
近藤の竹刀は見事に巻き落され、道場の板じきへ音をたててころがる。
素手となった近藤は、すでに負けているも同然であった。
新八でさえも、近藤の「まいった」の声をきくつもりでいたのである。
ところが、近藤は飛びすさると同時に、籠手《こて》をはめた両手を突き出して身がまえたではないか。
(や……)
あっけにとられたが、向こうはまだ闘うつもりらしいと知って、新八は、胸のうちで舌打ちをしながら飛びかかろうとした。
ところが、駄目であった。
今度は腰をおとし、素手をかまえている近藤勇の姿というものは……そうだ、ずっと前に、下野の佐野で、あの大沢大助のかまえに圧倒され、身動きもならなかった試合のときと同じものなのである。
面金《めんがね》の底から、近藤の細い眼が針のような光をおび、竹刀をふりかぶった新八の眼に吸いついてきた。
(むむ……)
打ちこめば、竹刀をつかみとられると、新八は感じた。
つかみとられて投げ飛ばされてしまうような気もする。
これで、相手が短刀をおびていれば押えこまれて、こっちの首をとられるというわけであった。
どうしても、打ちこめない。
冷たい汗が、どっと新八の総身へふきあがってきた。
そのときである。
「やあ、見事、見事──」
近藤が明るい声で怒鳴り、さっと構えをゆるめてしまったのだ。
「まいりました」と言いかけて、新八は声をのんだ。
さすがに恥と口惜しさで、躯中が煮えくり返るようであった。
近藤は面をぬぎすてて、
「こりゃァ、よい人が見えた。これからも、ときどきやって来て下さい。みんなのためにもなる」
言葉の調子は、ごつごつした、抑揚のないものだが、宇八郎のいう〔材木面〕が、いかにも素朴な、|しんそこ《ヽヽヽヽ》から嬉しそうな微笑をたたえているのである。
新八を馬鹿にしているのでもなければ、世辞を言っているのでもない。心からそう思ったことが口をついて出たということを、新八も、宇八郎も、はっきりと知った。
「永倉さんは、どこのお生れかな?」
近藤勇の問いに、永倉新八は竹刀をおいて膝をつき、面を外しつつ、
「松前浪人です」
近藤への好意をこめて、素直に答えていた。
二
以来、永倉新八と市川宇八郎は、よく試衛館へやって来るようになった。
「新さんは、近藤勇がお気に入りらしいねえ」
宇八郎は、新八の傾倒ぶりを見て、冷やかし気味に、そんなことをいった。
「ああ、おれは、あの人が好きだな。することなすこと、すべて誠意がこもっているものな。言動一致とは、あの人のやっていることだと、此頃つくづく思うよ」
「ほほう」
「心にもないことは決してやらないし口にも出さねえ。えらいもんだ。人間、いまどき、なかなかああいうようにはいかねえと思うな」
「新さんも若いくせに、いっぱしを言うじゃアねえか」
「だって、そうなんだから……」
「まあ、近藤てえ人は、武州多摩の生れだそうだから、なんとなく、こう、土の匂いがするね。ひまさえあれば竹刀をにぎるか、本を読むか、ともかく一国一城の主でいながら、まあ一生懸命に修行にはげんでいるところなんざ、たしかに、いまどき珍重するに足るもんだ」
一国一城の主といっても、試衛館道場などは、江戸に数ある道場の中でも、たしかに、二流の下といったところであった。
公儀講武所の頭取教授方をつとめ、本所・亀沢町に堂々たる門戸をかまえている直《じき》心影流の男谷|下総守《しもうさのかみ》のような超一流の剣客は別にしても、北辰一刀流の千葉道場、鏡智明新流の桃井春蔵、神道無念流の斎藤弥九郎など、何千もの門弟を擁して隆盛をきわめている人にくらべると、近藤勇の名は剣客の間に知られてはいても、諸大名や旗本の子弟や家来を門弟に迎えるというだけの格もなければ背景もない。
「今に見ておれ!!」
これが、近藤道場の合言葉のようになっている。
近藤を頭に、同じ多摩出身の土方歳三《ひじかたとしぞう》や、伊予・松山の足軽あがりだとかいう原田佐之助。それに、仙台脱藩の山南《やまなみ》敬助、同じく奥州出身の沖田総司など六、七人の門人が、毎日道場へ集っては、倦《う》むことなく稽古にはげんでいる。いずれも、ひとかどの剣士たちばかりであった。
ことに、沖田総司は、年齢もまだ十八か九だというのに、腕前は天才的で、永倉も三本のうち一本は、きっとやられたものである。
近藤などは、沖田とやって、三本とも負けてしまうようなことがあった。
「あの沖田てえのは、子供だが、すごいやつだね」
市川宇八郎など、そんなことをいうだけあって、いくらかかっていっても勝てなかった。
あるとき、新八が、
「総司さんと立ち合っていると、おそろしくなるよ」
なかば本気でそういうと、
「私はね、手すじがいいんですよ、永倉さん」
おくめんもなく、総司はそういってのけるのだ。
「けれどねえ、永倉さん。もし……もし、真剣をぬいて斬り合ってみたらですねえ……」
「うん」
「私は、道場の誰にも斬られないつもりです」
「ほう……そうかね。大したもんじゃないか」
「けれどねえ……只ひとり、どうしても斬れぬ人が、一人いますよ」
「誰かね?」
「近藤先生です」
「ふむ」
そうかも知れないと、新八は思った。
新八たちと竹刀で稽古をしているときには、おそらく、師匠の近藤が、いちばん負ける率が多かったといえよう。
それでいて、沖田のような天才的な剣士をして、真剣の場合は勝てぬと嘆かせるだけのものを、近藤勇はそなえていたようである。
道場の廊下つづきに、母屋があって、ここに、土方も沖田も寝起きしている。
山南や原田は道場に泊ったり泊らなかったりであった。
母屋には、近藤の妻子もいた。
妻女は名を|つね《ヽヽ》といって、容貌は、あまりぱっとせぬ婦人だが、実によく、門人たちのめんどうを見てくれたものだ。
子は、瓊《たま》という。まだ四つか五つの、元気のよい女の子であった。
はじめのころ、新八が、市川宇八郎に、
「近藤さんは、いくつくらいかねえ?」
と、訊いてみると、
「まだ、四十にはなるめえよ」
宇八郎は、そういったものだが、
「おどろいた。二十八だとよ」
本当の年齢がわかったときには、宇八郎もびっくりしていた。
それほど、近藤勇は、すべてに落ちつきがあったし、老成しても見えたわけだ。
ともかく、みんな若い。
「いまに、江戸一番の道場にしてみせるぞ」
「何、門人の数なんかどうでもいい。おれたちの試衛館が、江戸一の、いや日本一の力をもつ道場でありたいよ」
「同感!!」
みんな、剣術に情熱を打込んでいたものである。
「いまにな、眼の青い、乳臭い毛唐どもと戦争でもするようになってみろ。おれたちが、どんな働きをするか、こいつは見ものだぜ」
乱暴もので、やたらに女遊びの好きな、威勢のいい原田佐之助が、こんなことをいうほど、世の中も、さわがしくなってきていた。
八年前に、ペリー提督のひきいるアメリカ艦隊が江戸湾へ入港してからというものは、騒乱に次ぐ騒乱の世相が展開されつつあった。
江戸幕府が、欧米諸国の威圧に負け、外国と通商・和親条約をむすんだことは、すでにのべたが、目のあたりに見る外国列強の文明、ことに軍事的装備のおそろしさを知って、幕府のみか、諸国の大名も先をあらそって軍備に熱中しはじめた。
徳川幕府にとっては、痛しかゆしである。
二百何十年もの間、諸大名の経済・軍事の力をうばい、すべて、将軍の威風のもとに従わせてきたわけなのだが、今度は、
「軍備をととのえては、いかん!!」
叱りつけるわけにも、おどしつけるわけにも行かないのだ。
これまで、幕府は、
「蘭学をしてはならぬ」
と、きびしい監視をつづけ、日本が文明を知るための只一つ残された蘭学をも禁じ、あえてこれをおかすものは厳罰に処してきたのであった。
しかも、幕府のみは、こそこそと蘭学者を抱えて、こわごわ外国の事情に探りを入れたりしている。
それもこれも、こうなってはおしまいである。
いくら「いかぬ!!」と言っても、もはや諸大名たちが承知をしない。
「この重大なるときに当たり、おのが権力をまもるに汲々として、勝手気儘な仕方を押しつけてきても、もはや通らぬ」
力のある大名の中で、将軍へ頭を下げてばかりはいない人々が出てきている。
薩摩七十余万石を領する島津家をはじめ、長州も水戸も土佐も、今や、幕府の言うなりにはならなくなってしまった。
そこへ〔国学〕が拍車をかけた。
国学は、日本の古典を研究する学問だから、いきおい、二千年もの間、れんめんとして絶えぬ皇室の存在にふれざるを得ない。
「このときこそ、日本を治むる大権を天皇にお返し申しあぐるべきである!!」
すなわち〔勤王論〕だ。
この叫びをふりかざし、激しい運動を行なう勤王の志士や浪士たちが諸国からたちあがり、天皇のいる京都へ集まって行く。
「もはや、このままには放ってはおけぬ」
ときの大老・井伊直弼が敢然として、これらの革命の志士たちを弾圧したのが、あの安政の大獄とよばれる事件なのである。
勤王の志士たちに、この弾圧は油をそそぐ結果となった。
井伊大老が、水戸と薩摩の志士たちによって襲撃され、ついに首をはねられたのは、万延元年の三月三日である。
これは、永倉新八が、はじめて近藤道場へやって来た一年前のことだ。
三
「こうなると、いつ、どんなことが起こるかも知れん。剣術をやるのも、ただ人を斬るためだとか試合に勝つためだとか思うな。われわれは剣を学ぶことによって、いかなる危急をも切りぬけて行けるだけの人間にならなければならんのだ」
誠実な近藤勇らしい言葉が、このごろは、ひんぱんに新八の耳へも飛びこんでくる。
「なんとか、将軍家のお役にたち、はたらいてみたいものだな」
と、近藤は腕を撫しつつ、いうのである。
武州・多摩は、徳川将軍直轄の地である。
「われわれは、将軍様の御百姓だ」
多摩の人々は、こういう誇りをもって代々生きてきている。
いざともなれば、将軍の馬前に駈けつけようという気風があればこそ、武道もさかんになったのであろう。
多摩に生まれ育った近藤勇も、その例にもれない。
ここが、永年にわたって、幕府から押えつけられていた諸大名や、その家来と違うところであった。
「将軍さまにしろ、天皇をうやまっているのは、勤王浪人と少しも変わらんのだものな。なにも公儀をやっつけろと言うのではなしに、互いに力を合わせて、この世の中を乗りきって行くのが本当じゃないか。ねえ、宇八郎さん」
と、永倉新八も幕府には好意をもっている。
もともと松前藩は、蝦夷《えぞ》(北海道)の地を領し、ロシアの侵略を喰いとめる役目を果たしてきているし、前々から、
「われわれは、公儀と力を合わせ、外国の侵入をふせいできたのだ」
という誇りもあるし、幕府との協力感もつちかわれている。
新八は、その松前藩の家来の子に生まれた。
新八の考え方がそうなるのも当然であったかも知れない。
「なにしろねえ、新さん──公儀の力もおとろえてきているからなあ、これから先、どんなことになるか、知れたものじゃアねえ」
市川宇八郎は、物心がついてから浪人暮しをしているので、考え方も自由なところがあり、
「うかうかすると、将軍さまの首も危ねえ」
などと平気でいい出す。
「宇八郎さんは勤王浪人なのか」
新八がむきになって怒鳴ると、
「これさ、大きな声を出すな。勤王でも佐幕でもねえ。人間のやることは何をしても同じようなもんだ。どっちにしても、この日本の国が毛唐の餌食にならなければ、それでいいんだが……」
こういって、ふっと黙り、首をふりふり、
「いいんだが……そいつが、むずかしいのさ」といった。
「なにが、むずかしいのだ。みんな、御公儀に力を合わせて……」
「もういいわさ。それより新さん、深川だ、深川だ。さ、行こうよ」
深川の岡場所(私娼と遊ぶところ)は、二人のなじみのところだ。
市川宇八郎は商家や盛り場の用心棒のようなこともしているし、酒と女につかう金だけは、どこからか、ふしぎにもって来る。
新八も、ときどき近藤勇から小づかいをもらう。
近藤は、毎月かならず、多摩へ出張稽古に出かける。
江戸では、門人二十名にも足らぬ近藤勇だが、故郷へ帰れば、
「近藤先生、近藤先生」
で、大変なものであった。
多摩地方の郷士や農家の子弟たちだけでも四百人をこえる門弟があった。
永倉も沖田も土方も、近藤と共に、泊りがけで出張稽古に出かける。
この出張稽古の収入が、近藤勇の財源なのである。
近藤は、家計費を差し引くと、
「わけろ」
惜しみなく助手たちに金をわけあたえる。
といっても、若い新八の勃然たる遊びごころを満足させてくれるだけのものではない。
ときどき、新八は、そっと下谷三味線堀の松前屋敷へ出かけて行ったものだ。
父が居ないときを見はからって行く。
母から、小づかいをもらうためであった。
取次ぎは、伊兵衛という老僕がやってくれた。
「奥さまが、御心配でございますよ、坊ちゃん」
伊兵衛が、しわだらけの顔に鼻水をたらし、泣き声でいうのへ、
「父も母も元気かい?」
「すっかり、気が弱られまして……」
「そうか……」
申しわけないと思うが、二度と、堅苦しい屋敷づとめをする気はない。
金が手に入ると、すぐに酒と女だ。
いくら時代が危急をつげていても、人間の本能に変化がこようはずはない。
いや、むしろ、行先どうなるかという不安から逃れるためにも、女のあたたかい肌こそは何よりのものであるわけだ。
四
深川にも、いろいろと遊びどころはあるが、永倉新八と市川宇八郎は、山本町の〔仮宅《かりたく》〕へ、よく通った。
〔仮宅〕というのは、政府が公認している吉原の遊廓が火事などにあって営業ができなくなったとき、復興なるまで、しかるべきところへ仮の営業をゆるす、その仮営業所を仮宅とよぶのである。
深川は、川と堀にかこまれた水郷の地であり、土地も市中にくらべてひろびろとしている。仮宅をもうけるには絶好のところだ。
山本町は、富岡八幡宮の近くにあり、堀川に面した一郭にあった。うしろが浄心寺という大きな寺の墓地である。
ここは、延享の昔から、吉原が火事になるたび〔仮宅〕がもうけられたところで、俗に〔裾つぎ〕とよばれた遊里であった。
去年の九月に、吉原は大火事になり、例によって業者たちは、
「仮宅を、山ノ宿のほか、三十七カ所にもうけさせていただきたい」
と奉行所へ願い出たのだが、
「当今は、異国人の取り締まりがきびしいによって、前々のように諸方へ仮宅をもうけることはならぬ。よって、深川へ四カ所、本所へ一カ所、合わせて五カ所のみをかぎり、さしゆるす」
こういう許可がおりた。
山本町は、その以前から私娼をおき、そっと営業をつづけてきていたのだが、仮宅がゆるされ、政府公認となったので、見ちがえるような活気をおびてきている。同時に、遊女の相場も高騰し、
「こう上がっては、やりきれねえ」
と、市川宇八郎を大いになげかせたものであった。
二人がなじみの店は、浄心寺の裏門と小道をひとつへだてたところにある俵屋という店で、遊女は十二人。うまく遊べば二朱で遊べた。
永倉新八のなじみの遊女は、豊浦という女だ。鼻はひくいし、眉のかたちもよくないが、大柄な色の白い眼のぱっちりとした、男好きのする女である。
「永倉先生ったら、ほんとに可愛らしい……」
豊浦がむっちりした腕を巻きつけてくるのへ、
「よせよ。おれも、もう二十三だ。可愛いという年じゃねえ」
「でも、可愛いったら可愛いのよう」
いつでも、これなのだ。童顔だし、性格も竹を割ったように|からり《ヽヽヽ》としている新八は、これまでも相手にした女から、きっと「可愛い」といわれたものである。
「面白くないよ」
と、宇八郎にこぼすと、
「なにをいうか。お前なんか、ぜいたくだぞ。女郎にもてるには、新さんみてえな面が一番いいのだ」
つまり、遊女にも母性愛という女の本能があるから、子供っぽい顔つきの男の方が、女の愛情をかきたてるし、ついつい、金で身を売るという気持を女から消してしまう。遊女が本気で惚れるのはお前のような面にかぎる……と宇八郎は、からかい半分、ねたみ半分で新八にいうのだ。
新八も、ずいぶん豊浦には、無理をかさねて、いれあげたものであった。
こんな生活も……永倉新八の多感な、夢中ですごした青春も、ようやく、ひとつの目的に向かって進みはじめる。近藤道場へ入ってから一年目の、文久二年も押しつまろうというときに、こんな話が、近藤道場へもちこまれてきたのだ。
五
その話を持ちこんで来たのは、新八の厭《きら》いな藤堂平助であった。
これまでにも、藤堂は、ときどき道場へ顔を見せている。
二、三日来たかと思うと、また、ふいと来なくなる。来ないときの期間の方が永い。
いつも、|りゅう《ヽヽヽ》とした黒の紋服に仙台平の袴という|いでたち《ヽヽヽヽ》で、道場へ来ると、
「さ、久しぶりに──」
酒肴をたっぷりと持ちこんで来ては一同にふるまったりする。
「あの男はね、新さん……なんでも、藤堂さんの落胤だとかいうよ」
市川宇八郎が、そんなことを聞かせてくれた。つまり、伊勢の大名・藤堂|和泉守《いずみのかみ》が手をつけた女の子だというのである。
そういえば、気品もあるし、礼儀も正しい。新八なぞを見下げるような姿勢になることもあるが、口先だけは、
「永倉さん。相変わらず、お強いですなあ」
と、例の人を馬鹿にしたような冷笑と共に、丁ねいな言葉づかいをくずさない。
「今日は、みんな集まってくれ」
その日……。
近藤勇が、いつになく引きしまった表情で、土方はじめ腹心の門弟たちを、母屋の居室へ呼んだ。
みんな稽古をやめ、ぞろぞろと入って行くと、すでに、紋服に威儀を正した藤堂平助が、そこにすわっている。
「まあ、すわれ」
近藤は一同を座につかせ、
「実はな、藤堂君が、こういう話をもってきたのだが……」
と語りはじめた。
井伊大老暗殺事件があってより、勤王運動は、いよいよ激烈をきわめるばかりとなっている。
徳川幕府をほろぼし、天皇と共に新政府を樹立しなくては、とても、現在の危急をのりきることはできぬときめた革命家たちが、続々と、京都へ集結しつつある。
いや、いっぱしの革命家ならまだよい。
勤王運動に便乗して、なにか甘い汁にでもありつこうという浪人たちが、むやみやたらに、
「幕府を倒せ!!」
と叫び、まるで戦国時代をもう一度現出せしめたような興奮をもって騒ぎはじめ出したというのである。なにしろ、天皇のいる京都のさわぎは尋常のものではないらしい。
家柄も、金も、身分もない浪人たちがなにを仕出かすか知れたものではないし、勤王の志士たちは、たくみにこれをあやつり、京都の治安は乱れていると、藤堂平助は力説するのだ。
「外からは、外国の圧迫、内には勤王浪士どもの蠢動《しゆんどう》──いや、御公儀もひどい目にあっておるわけです」
つまり、藤堂がいうには……。
これらの勤王志士たちの動きを押え、合わせて京都の治安を平穏に復させるため、今度、幕府は“尽忠報国”の名目をもって、腕のつよい浪人たちを雇い一部隊を組織しようということになった。
「ちかごろは、朝廷におかせられても、公儀のすることなすこと、あまりよくは思うておいでにならぬようです。このため、諸国大名のうちでも、公儀を批難し、徳川は夷狄(外国の野蛮人)と手をむすんで神国をほろぼさんとしておる……と、かようにいいつのる者も少なくありませぬ」
近藤が舌うちをした。
「誰が好んで夷狄と手をむすぶか……今のところ戦っても、とうてい勝目がないのが、火を見るよりもあきらかであればこそ、御公儀も目をつぶって、涙をのんで……外国との条約を……」
「さ、そこのところが彼らにはわかりませぬ。ゆえにこそ、近いうちに、将軍家みずから京にのぼり、事情を釈明して天皇のお怒りを解かんとすることが決まったそうでござる」
「なに、将軍家おんみずから……」
「いかにも……」
藤堂は膝をすすめた。
双眸が異様な熱情をふくみ、きらきらと光っている。
「近藤先生!!」
「む──」
「この際、先生も、われわれを引きつれ、この浪士隊に加わって京へのぼり、存分に腕をふるい、天下に名をあぐるべきかと存じます。いまの世は、先生のような力のある人々を必要としております」
第一、徳川将軍が京へのぼるにしても、いまのように京の都が不穏な情勢だと危険この上もない。
将軍が京へ行くまでに浪士隊が先発し、京の町の治安をととのえておくことも、重要な役目のひとつなのだという。
「どうだ、みんな──」
近藤勇も、めずらしく顔を真赤にして、
「おれは行ってみたいと思う。その浪士隊の一員となってな」
きっぱりといった。
「あんたがよいのなら、私も行く」
言下に、土方歳三が低い声でいう。
土方は、故郷が同じためもあってか、子供のころから近藤に可愛がられ、影にかたちに、近藤へ、ぴったりとつきそっている男だ。藤堂平助にまさるともおとらぬ美男子の土方歳三だが、藤堂のように、おしゃべりではない。
仲間同士で酒を飲み、騒ぎ、唄い、笑いさざめいているときでも、土方だけは黙々として酒をふくみ、口もきかず、なにを考えているのかわからないといったところがある。
藤堂ほどではないが、
「どうも、あの人は、なんとなく気味がわるいね」
と、新八は市川宇八郎にいったことがある。
宇八郎は、そのとき、
「あの土方という男はね、才もあるし腕もつよいが、煎じつめてみると近藤さんと同じような人さ」
こういった。それが新八にわかったのは、ずっと後になってからのことだ。
ともかく、一同は双手をあげて、近藤勇に賛成をした。
この騒乱の時代に──朝廷の怒りをやわらげつつ、行先はなんとか外国の勢力をも追いはらい、政治をたてなおしたいと苦心している将軍家を助け、自分たちの実力をもって天下に名をあげたいと願う心は、藤堂ばかりではない。
近藤にしても、土方にしても、また永倉新八にしても同じことであった。だが……。
「おれは、ごめんだね」
と、市川宇八郎だけは背を向けてしまったのである。
[#改ページ]
浪士隊出発
一
「それではもう、ときどきにも会えなくなるのだねえ……」
そういった母のりつの瞼《まぶた》が、たちまちに赤くはれあがってきた。
「新八。でも、永くなるというても、どのくらいなのかえ? まさか、二年も三年もというわけでもあるまいけれど……」
「それが……はっきりしたことは、わからないのですよ、母様」
さすがに首をたれたまま、永倉新八はぼそぼそと答えた。
幕府が組織した浪士隊の一員として京都へ出かけて行き、勤王浪士を相手に、おそらく血なまぐさい働きをすることになろう、などということを、この母に向っては、とうてい打ちあけられるものではなかった。
今度は、市川宇八郎と一緒ではなく自分ひとりで、大坂から中国すじへかけて剣の修行に出かけることにしましたと、新八は嘘をついたものだ。
「けれどもお前……修行は、江戸にいても出来るのではないかえ」
「はあ……なれど、何事も若いうちです。それに、ひろい世間のありさまも、今のうちに歩きまわって見ておきたいし……」
「いまの世の中は、まことに物騒だというよ。それなのに、そんな遠くへ……」
「大丈夫ですよ。母様。心配はいりません」
ひとり息子にも、しばらくは会えなくなるという哀しみに、おろおろしている母の気持はわからぬではないが、若い新八にとっては一時も早く貰うものを貰って、行くところへ行きたいのである。
貰うものとは餞別の金であり、行くところとは、深川の岡場所なのだ。
くどくどとこぼす母の愚痴を聞いているうちに、父の勘次が御殿から帰って来たら、とんでもないことになる。
若い新八にとっては、母に別れるよりも、遊女の豊浦と別れるほうが大事なのであった。
母にはまた、いつか会える。
豊浦は金で身を売る女だ。京へ行ってしまえば、何時会えるか、おそらく再び、会うこともあるまい。
江戸にいるのも数日の間である。
その数日の間を、心ゆくまで豊浦と別れを惜しみたい新八なのは、若い男の常として無理もないところであろう。
去年の暮に、浪士隊のことを聞くまでは、新八も、このようにあわただしく江戸を離れて行こうとは思ってもみなかった。
浪士隊の結成は、たちまちに実現したのだ。
この浪士募集の件を、幕府へ提案したのは、松平|上総介《かずさのすけ》である。
上総介は徳川将軍の一族で、禄高こそ三百石そこそこなのだが、身分としては譜代大名の上席にあるほどで、幕閣にもかなり顔がきいている。
だが、松平上総介の背後にいて糸をひいているものは、羽州(山形県)荘内の郷士で、清川八郎という男であった。
清川は、十八歳のころに江戸へ出て文武をまなび、安政元年には神田三河町へ塾をひらき、同時に東奔西走して勤王運動をおこなっていた。武芸もたしかだし学問もある。弁説は天才的であって、諸国の勤王志士の間では清川の名を知らぬものはないといってよいほどだ。
「このような世の中となっては、巷に群れあつまる浪人たちを放っておくことは、実に危険千万でござる。目的を失い、腰に帯した剣のつかいみちもなく、その日の糧を得るためには、そして武士としての体面をたもてるならば、命をかけて、いかなることでもやってのけようという男たちが、江戸にも諸国にもごろごろしております。こういう連中をあつめ、一隊を組織して、京の都の治安をととのえるために働かせては如何?」
と、清川にいわれて、松平上総介は、
「なるほど」
膝をうった。
一口に勤王浪人といっても、その中には、永年、世にいれられず、武士でありながら武士として生きて行くだけの環境もあたえられず、幕府の政治に不満を抱く浪人たちが、反動的に勤王運動へ加わったという例が非常に多い。
こうした浪人たちの躯を張った抵抗には、幕府も手をやいていたものである。
(一石二鳥じゃ)
と、上総介は思った。
彼等を雇い入れて、反対に勤王志士たちの動きを封ずるというのは、幕府にとって、まさに名案だと考えた。
それが証拠には、松平上総介が、このことを献言すると、幕府は、すぐさま許可をして、
「ただちに事をすすめるよう……」
と、乗気になったものだ。
清川八郎は、にやりと笑った。
清川は、このことを松平上総介へ持ちこむ前に、京都へ出かけて行き、薩摩を中心とする諸方の勤王志士たちをあつめ、大胆不敵な計画を実行にうつそうとしたことがある。
つまり、これらの同志によって京都所司代を襲撃し、幕府と仲のよい九条関白を殺害して、倒幕運動の火の手をあげようとしたのだ。
所司代は、京における幕府の出張所のようなものだし、九条関白といえば天皇を補佐する公家の中で最も重い位にあり、その家の女は皇后・准后にも上れるといわれている。
黒も白もない。幕府方と皇室方の両方をやっつけて動乱をひきおこし、これに乗じて徳川政権を打ち倒してしまおうというのであった。
しかし、この計画は未然に発覚し、失敗に終った。
このため多くの犠牲者が出たが、清川八郎だけは無事に逃がれて、またも江戸へあらわれたのである。
ということは、何事にも清川は表にあらわれず蔭で糸を引くのがうまいからだ。
京都でそれだけの謀略をやっていながら、大胆にも、今度は幕府に浪士隊結成を提案するというわけで、清川の腹の底は二重にも三重にもなっている。
こうした清川八郎の性格が、近藤や永倉新八にわかってくるのは、もう少し後のことだ。
とにかく、その年の十二月中には、応募した諸家の家来および浪人のうちから剣槍の熟練、人格、学術などの銓衡《せんこう》がおこなわれ、日を追って浪士隊の組織内容もととのえられた。
近藤は試衛館の同志たちをひきい、藤堂平助の肝煎《きもいり》で、直接に松平上総介を牛込の屋敷に訪問した。
「いやあ、藤堂。よくも、これだけの人材をあつめてくれたの。何よりじゃ」
上総介は、親しく藤堂平助に声をかける。
(なるほど、大名の落胤といううわさも本当らしい)
と、新八は思ったものだ。
松平上総介は、幕府が幕臣の武術を向上させるためにもうけた〔講武所〕の剣術教授をつとめているほどの剣客でもあったから、
「おのおのの剣の力をもって将軍家を助け、合わせて尊王の実をもあげられたい。頼むぞ!!」
大いに激励をしてくれた。
年があらたまって、文久三年となる。
二月四日に、小石川・伝通院において浪士隊の会合がおこなわれた。
あつまるもの二百三十余名である。
幕府からは、目付役の鵜殿甚左衛門が、隊の取扱に任じ、旗本、山岡鉄太郎と松岡|万《よろず》が取締に任命せられた。
あまり多くはないが、仕度金もおりた。
そして、八日の早朝、浪士隊は京へ向うことになった。
「こいつは、鳥がたつようなもんだ」
新八は、四日の夕暮れ近くになって、下谷の松前屋敷へやってきた。
母に別れをつげたい気持もあるが、仕度金を女のためにつかってしまっては、道中一文無しということになる。
これから、四日の間、新八は、深川へ泊りつづけるつもりだから、どうしても金がいるのだ。
京へのぼって、しばらくは帰って来ないといえば、黙っていても、母親は餞別の金をくれるはずである。
甘い母親は、
「父様《とうさま》にはないしょであげるのだから、これで、我慢をしておくれ」
と、それでも臍《へそ》くりを金十両、包んでくれた。
「では、母様。おたっしゃで──」
母と、老僕の伊兵衛に見送られて、侍長屋の前の道へ出ると、冬の夕焼けが、板塀ごしに見える御殿の大屋敷のうしろに冷めたく光っていた。
ぼつぼつと、御殿から長屋へひきあげてくる人々もある。
新八は、ほうほうの体で、松前屋敷を飛び出して行った。
表門に、足軽の大草文太郎がつめていた。
「永倉様の坊ちゃん。また、おねだりですか」
笑いながら、潜り戸をあけてくれた。
文太郎は、あの五十郎のせがれである。去年、五十郎が病死したので亡父の後をついだのだが、新八より五つも年下なのだ。
「坊ちゃんはよせ!!」
新八は、門を出るとき、大草文太郎の頭に拳固をくわしてやった。
二
それから三日の間、永倉新八は、豊浦のあたたかい肌身におぼれきった。
豊浦のいる「俵屋」という店は、富岡八幡宮参道の一ノ鳥居をくぐり、油堀の川に沿って左へすすみ、裏通りへ出ようとする一つ手前の細路を右へ切れこんだ奥にあった。
このあたりは、茶屋や妓楼が、ひしめき合うように軒をつらね、路を歩いているだけでも、脂粉の香が濃密にただよう。
去年から幕府公認となったので、夕暮れともなると、絃歌がわきたち、勤王も佐幕もあったものかという風景が現出する。
何百年もの昔から、女遊びの場所というものは、政治にも法律にも、戦争にも平和にもまったく無関係の「城郭」である。
「もう会えねえのだなあ、お前とも……」
むっちりとした豊浦の乳房に顔をうめては、このつぶやきを何度くり返したことだろう。
「それなら、京へなんかお行きなさらなけりゃアいいじゃありませんか」
低い鼻をうごめかし、豊浦も媚態のかぎりをつくす。
どうせ離れて行く新八なのだから、思いきり滓《しぼ》りとっておかなくてはならない。
そのためには、おぼえこんだ手練手管《てれんてくだ》を総動員して豊浦がもてなす。
遊女に|もてよう《ヽヽヽヽ》などということは、男として恥ずべきことなのだが、そこが遊びの微妙なところで、みずから騙されつつ、女の嘘や手管におぼれて行き、そこに「夢」を見るのだ。
女のほうにしても、金で売る媚態を見せるうち、いつしか、本能のうごめきに、つかの間は身をゆだね、愉悦にひたって行くというわけであった。
「お前……お前は、こんなことを、少しもおれに教えてはくれなかったじゃねえか」
「いや。口をきいちゃア、いやですったら……」
顔は、あまりいただけないが、豊浦の、つきたての餅のような弾力をもった躯の仕種も、ひときわ強烈になってきて、新八は、もう圧倒されつづけであった。
「ああア……別れたくねえが、仕方がない……」
「また、そんなことを……」
「だって、おれも男だ。一生、こうしてお前と、こんなことをしつづけているわけにはいかないよ」
「にくらしい永倉先生──」
「痛い。おい、豊浦。お前、は、歯をたてるな。痛いというに……」
「もうかまわない。うんと、いじめてやる」
「待てよ、おい──おれはなあ。浪士隊へ加わって、京へ行くが、きっと偉くなってみせるぞ。近藤さんもあれで、なかなか肝のすわったところがあるし、おれたちが気を合わせてはたらけば、何しろ、この乱世だものな、御公儀だって厭でも、おれたちの力をみとめざるを得ないだろうよ」
「つまらない……」
「何がさ?」
「いくら永倉先生が御出世なすっても、あたしが奥方さまにおさまるというもんでもなし……」
「これ、そいつをいうなよ」
「もう、これで別れたら、行先二度と、お目にかかれるかどうか……」
「つまらねえことをいうな」
「だって、故郷《くに》には目くらの父親と、病気ばかりしている母親と、弟も妹も、まだみんな小さいし……たとえ、この泥沼から足がぬけても、どっちみち、また足を踏みいれなけりゃアならない……それを思うと、もうたまらない、先生とお別れするのが心細くて、心細くて……ああ、たまらないんですよウ」
ありふれた身上ばなしの嘘をついていても、女というものは本来、嘘にひたり、嘘をたのしむ天才的な素質をそなえているから、身をもんで語るうちに、豊浦の頬は滂沱《ぼうだ》たる涙にぬれてくる。
「まあ、泣くな。いいから泣くな」
豊浦は泣きやまない。
もう、すっかり舞台にのぼった役者のように〔嘘〕の中へ没入してしまっている。顔や姿がいくらよろしくとも、こうした芸が出来ぬ娼妓は本物ではないのだ。
「あんな女のどこがいいんだ。新八さんは──」
と市川宇八郎は、豊浦一本に通いつめる新八を、よくからかったものだが、
「ふふん……宇八郎さんには、あの女のよさがわからないのかねえ」
なぞと、新八も此頃では宇八郎を顔まけさせるほど遊びなれてもきていた。
けれども、女にすれるということが、永倉新八の一生を通じてなかったのは、生来そなえていた純で生一本な性格を新八自身、磨滅せずに生きぬいたからであろう。
酒と女の肌の香にひたりきった、夜も昼もない無我夢中の三日間に、新八は、とうとう母親がくれた金十両まで、つかい果してしまった。
もちろん、妓楼へ払った金のほかに、豊浦へそっと渡してやった金もふくまれてのことだ。
金十両というと、そのころは物価も高くなっているが、まず貧乏世帯が一年は保つといわれたほどの金であるから、現在の二十五万円ほどに当たろうか。
幕府から渡された仕度金は、一応、近藤勇にあずけてあったので、
(こうなったら、もうどうにでもなれ。出かけてしまえば、なんとでもなる)
新八は、六日の昼すぎになって、
「ちょいと金をとってくる。どこへも行くなよ、いいか──」
豊浦にいいのこして、俵屋を飛び出すと、いっさんに牛込の試衛館へ駈けて行った。
三
その夜、試衛館の人々は、永倉新八と市川宇八郎の案内で、深川の仮宅へくりこんだ。
新八と豊浦のことを、宇八郎が、みんなに面白可笑しくもらしてしまったらしく、道場へ戻った新八に、
「永倉君のような色男にあやかりたい。江戸も、しばらくは見おさめだし、どうだ、みんな、われわれも出かけようではないか」
何と、誠実を絵にかいたような近藤勇が、市川宇八郎いうところの「材木面」をほころばせ、まっさきにいい出したものである。
「先生。奥へきこえますぜ」
と、原田佐之助が声をひそめていうと、
「何、おれは夜のうちに帰る。つまらんことに気をつかうなよ」
近藤は、上機嫌であった。
沖田総司そのほか数名は、江戸にいる親類縁者をたずねて行き、留守であった。
一行は、近藤以下、土方歳三、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、それに新八と宇八郎を加えた七名である。
山本町の俵屋へ一同がくりこむと、すぐに二階の十畳と八畳の二間つづきを一つにして、それぞれ相手の女をえらび、
「市川君。これを──」
近藤は、市川宇八郎へ自分の財布をわたし、
「心おきなくやってくれと申したいところだが、何せ、拙者のふところだ、いくらもないが、足《たし》にしてもらいたい」
「すみませんなあ……」
「おぬしが、一緒に行かぬのは、さびしいな」
「どうも……」
宇八郎は頭をかいたが、
「新八のことは何分よろしく──」
「何、拙者こそ、永倉君をたよりにしているようなものだ」
芸者も来て、酒盃が目まぐるしく部屋を往来するうちに、三味線も太鼓も、にぎやかに調子をあげはじめる。
一同の意気は、天をつくばかりとなった。
「何よりも、一剣をもって天下の大事にはたらく機にのぞみ得たこと、いまのわれわれにとっては、これだけで充分である。あとは、拙者はじめ皆々の努力ひとつにかかっておる。よいか、試衛館の名をはずかしめぬよう、頼むぞ!!」
堅苦しいことを、しきりにいっていた近藤も、富士咲という、ほっそりした躯つきの敵娼《あいかた》へ、とろけそうな笑顔を見せては、さもさも楽しげに盃をなめはじめた。
(ふーん……近藤さんにも、こんな一面があったのかな)
新八は宇八郎と顔を見合わせた。
近藤と違って、土方歳三は、例によって面白くもなさそうに、そばによりそっている敵娼の顔へ一瞥もあたえず、むっつりと飲んでいる。
後で聞いたことだが、土方は女に指一本もふれず、近藤が女の部屋から戻って来るまで、膝もくずさず、この座を動かずに飲みつづけていたということだ。
そして、二人とも泊らず、夜明け前には道場へ帰って行ったそうだ。
「あの土方てえ人はね、永倉君──」
と、原田佐之助が翌日になって、
「女郎買いに行っても女が気に入らねえと、手も出さぬばかりか、顔も見てやらんという……まことに不思議なる人物でな。おれたちから見ると、もったいねえことをするもんだと思うのだが、なにしろ女の好みがうるさい人でなあ」
そんなことをいった。
そこで、また、その後の酒席にもどろう。
土方と同じに、もう一人、美男子がすましこんでいるのだ。
藤堂平助である。
土方の方は同じ美男子でも、武州・多摩に育った精悍さがある。しかし、藤堂となると、すらりとした躯にまとった黒羽二重の紋服に仙台平《せんだいひら》の袴という例のいでたちが、ぴたりと似合う気品がただよっていて、下ぶくれの、色白の顔貌を見ると、
「モテる面だなあ……」
原田佐之助でさえ、嘆息をもらすほどであった。
藤堂は、おっとりと敵娼の酌をうけつつも、あくまでも気位高く、まるで一同が藤堂の金で遊ばせてもらっているような錯覚におちいるほどである。
藤堂の相手の女は、もう下うつむいて白粉の濃い首すじが紅色になるほど血がさわいでいるらしい。
時がたつにつれて、酒もまわり、もはや他人のことなぞ気にかからなくなってきた。
「豊浦。おい、豊浦、今夜が最後だなあ」
「え……? ええ……」
そばにいる豊浦は、どうも新八の呼吸に乗ってこない。
それに気がつき、
(おや……?)
新八は、酔ったふりをしながら気をつけて見ると、豊浦の視線は、ぴたりと、向う側にいる藤堂平助の白皙《はくせき》の面へ吸いよせられているではないか。
どうも気になってきた。
いや、そればかりではない。
端然として姿勢をくずさず、しずかに盃をふくみながら、藤堂が、ときどき、ちらッ、ちらッと豊浦に投げる視線を、豊浦がまたいうにいわれぬ媚《こび》をふくんだ眼で受けとめているのである。
それを知った藤堂の敵娼が、実に厭な顔つきで豊浦をにらんでいるのだが、二人とも平気なものであった。
「おい、豊浦」
新八は、むかむかして、
「お前、さっきから妙なところを見ては、にやにやしているが、いったい、お前は誰のなじみなんだ」
「あら──」
豊浦は、けろりと眼をみはって、ふっくりと脂の乗った手を新八のそれへかさね、
「永倉先生。あら、いやだ」
「何が、いやだ」
「嫉《や》いているんですか?」
「ばかをいえ」
「だって……」
「何が、だってだ」
「もういいじゃありませんか、怒らないで……」
抱きごたえのある肌身を押しつけてきて、ククと笑う。
「ま、いいや」
気のよい永倉新八は、照れくさくなって首をすくめ、ちらりと藤堂を見やると、藤堂は近藤と首をのばし、何か語りあっているところであった。
「おれが悪かったよ」
気をとりなおし、新八は豊浦のすすめるままに盃をかさねていった。
飲んで飲んで、いつの間にか何もかもわからなくなった。
ふと気がついてみると、新八は豊浦の部屋の蒲団に寝ていた。
「う、う、う……」
ずきずきと頭が痛む。
新八は、蒲団をはねのけて起きあがった。
春が、すぐそこまで足音を忍ばせてきてはいても、夜から朝にかけての冷気は、まだするどい。
「う、う、寒い……」
豊浦は、部屋にいなかった。
行燈あんどんのにぶい光を、豊浦の|はんてん《ヽヽヽヽ》が被っている。
しばらく待ってみたが、手洗いに立った様子でもないらしい。
(もしや……?)
と、新八は思った。
廊下へ出る。
しいんと静まり返った廓《くるわ》の夜の気配が、すっかり酔のさめた新八の躯を、ぞくりと抱きすくめてきた。
しきりに喉が、かわく。
新八は、水差しの水をもとめて、もとの部屋へ入りかけたが、
(や……?)
どこかで、かすかに囁《ささや》く声がする……と、それにまじって、聞きおぼえのある忍び笑いが、もろに新八の耳へ飛びこんできたものだ。
新八の胸は煮えくり返った。
黄色い掛行燈の光に、ぼんやりと浮いている廊下を、そっと辿って行くと、階段口のわきの部屋から洩れてくるその囁きは、まぎれもなく、藤堂平助と豊浦のものであった。
ありありと、部屋内の二人の仕種が目にうかぶような囁きである。
(おのれ──)
よほど、ふみこんでやろうと思ったが、
(やめた──)
そこで、からりと考えが変った。
(でも、よく考えてみりゃア、豊浦も、おれにはよくしてくれたもんだ。そうかなあ、豊浦のような女でも一目惚れがあるものなのか……まあ、いい。だが、藤堂さえあらわれなければ、気持よく豊浦とも別れることが出来たものをな)
さびしかったが、苦笑のひとつも浮かべることが出来たのは、永倉新八の持って生まれたよいところだ。
心のうごきに余裕があるのである。
それは、さっぱりとした気性だと一口に片づけてしまうことのできないものであって、何と言ったらよいのか……つまり、何事をも、よい方へよい方へ解釈して行こうという抱懐のゆとりとでも表現したらよいのか、そういうものを、新八はそなえもっていたのだ。
部屋へ戻り、新八は、近藤から受けとった仕度金のうち、妓楼の支払いは別にして金一両を懐紙に包み、豊浦の枕の下へ差しこむと、その枕紙へ顔を近づけ、かぎなれた豊浦の|びんつけ《ヽヽヽヽ》の匂いを吸いこんで、
(あばよ──)
新八は、階下へ降り、裏庭の雨戸を外し、するりと裏木戸へぬけ出した。
空に、わずかな薄明があった。
夜も明けきらぬ油堀を漕ぎわたる一艘の舟の櫓の音が、いやに、はっきりときこえている。
裏通りへ出た新八は、いきなり腰をひねって、
「む!!」
うなるような気合と共に居合をやった。
鞘走った刃は、二度、三度と宙を切り、そのたびに電光のような速度をもって鞘へ吸いこまれ、吸いこまれては暁闇の空気を切り裂いた。
ぱちりと、鞘に刀をおさめ、永倉新八は遊び馴れた深川の土から、すたすたと遠去かって行った。
四
文久三年二月八日となった。
前日から、小石川の伝通院内・学習院に勢ぞろえを終えた浪士隊一行は、中仙道を京都へのぼった。
浪士隊について、幕府が任命した役職は次の通りである。
浪士掛 老中・板倉周防守
同取扱 鵜殿甚左衛門
同 高橋伊勢守
同 中条金之助
このほか、浪士一行を監督するため、人格・武道にすぐれた旗本や剣客数名を取締に任命した。
浪士一行は総勢二百三十四名である。
これを七つの隊にわけた。
それぞれの隊には、浪士の中から選んだ三名を〔伍長〕に任じた。つまり班長とでもいったらよいのであろう。
近藤勇以下、試衛館の連中は、出発に当たって〔伍長〕にもなっていない。いずれも平隊士として、七番隊三十名の中にふくまれている。
こういうわけで、近藤一党は、いかにも軽々しくあつかわれたものだが、
「あんた、すまぬが、わしの手伝役になってくれぬか」
取締下役の池田徳太郎にたのまれた近藤勇は、池田の助手となった。
池田と近藤は、一行に先がけて出発する。
つまり、一行の宿割りをするためなのである。
「近藤先生も人がよすぎる。いやしくも江戸において一国一城の主だった剣客を、伍長にもせず、宿割役なぞに使役するとは何事だ」
沖田総司は、若いだけあって、こめかみに青筋をたてて怒ったが、
「まあ、いいさ。はじめのうちだけのことだ」
めずらしく、口のおもい土方歳三がニヤリと笑って、沖田をなだめた。
板倉周防守以外の幕府役員たちも、一行と共に街道を行くが、浪士隊黒幕の清川八郎は、ひとり別に、後からついて来た。例によって清川は、浪士隊連名のどこにも名をつらねてはいない。
板橋の宿へかかると、朝の陽がやっと空へのぼりはじめた。
まだ人かげもまばらな街道へ、のっそりと市川宇八郎があらわれ、
「新さん、いよいよ行くかい」
と声をかけてきた。
「おう、見送り御苦労」
「江戸をたのむぞ、宇八郎殿」
などと、顔なじみの近藤一党も声をかける。
新八は、七番隊伍長の村上俊五郎に了解を得て、しばらく一行に遅れ、宇八郎と別れを惜しんだものだ。
「よく、来てくれたなあ、宇八郎さん──」
「うむ……元気でな」
「すまないが、松前屋敷の両親のことを、ときどき見に行ってやってくれ。そして、様子を京へ知らせてくれないか」
「いいとも。ときに、豊浦はどうした?」
「ふん、何もいうなよ、もう……」
「藤堂も藤堂だが……あんな女のことは忘れてしまえ」
「忘れてしまったさ」
「何……おう。その顔は、ほんとに忘れてしまった顔だな、安心したよ」
いざとなると、話したいことも言葉には出なかった。
二人して、ぶらぶらと宿場を通りぬけ、王子稲荷への道しるべが建っているところまで来ると、二人は、申し合わせたように、店をあけている道ばたの茶店へ入り、冷酒をなみなみと茶碗にくませて、眼と眼を見合わせ、
「何事につけ、無茶をするなよ。新八さん……」
「大丈夫だ」
一気に酒を飲みほした。
朝靄《あさもや》が、かなり濃い。
どこかで、駅馬のいななきが聞えた。
「少ねえが、餞別だ」
市川宇八郎が、紙にもくるまずに、ぽんと五両を新八の手にのせた。
「いいのかい、宇八郎さん……」
新八が眼をまるくすると、
「どうせ、|すっかんぴん《ヽヽヽヽヽヽ》なんだろう?」
「うん……」
仕度金も、ほとんどつかいきった新八だけに、宇八郎の好意が身にしみて嬉しかった。
どこで工面したものか、おそらく宇八郎は昨夜いっぱいかかって、この金をこしらえてきたのに違いない。
やがて市川宇八郎の、ひょろ長い躯も見えなくなった。
永倉新八は、あたたかくなったふところに元気百倍して、一行の後を追った。
浪士隊一行は、二月二十三日に京都へついた。
江戸を出てより十六日目である。
道中も、なかなか大変であった。
いずれも腕におぼえのある浪士たちだけに、喧嘩口論の絶えることがなく、幕府役員も手をやいたものだ。
中でも、常陸《ひたち》(茨城県)芹沢の郷士の出で、芹沢鴨《せりざわかも》という浪士は、一同の注目するところとなった。
芹沢は、三十を越えたばかりだが、まるで相撲とりのような巨漢である。しかも神道無念流の達人だそうで、見るからに豪傑そのものといった風貌なのだから、浪人たちも芹沢だけには始めから圧倒されてしまったようだ。
何しろ、応募した浪人のくせに、
「不肖ながら拙者は、御公儀御役目を果たすためには必ず人後に落ちぬ働きをいたす。よって、拙者を組頭にしていただきたい」
強引に押しきり、取締下役となってしまったほど押しがきいた。
毛むくじゃらの腕に四百匁の大鉄扇をつかみ、何か気にいらぬことでもあると雷のような声で怒鳴り散らす。
江戸を出たばかりの、武州・本庄宿泊りのとき、宿割役の近藤勇が、どうしたわけか、この芹沢鴨の宿をとるのを忘れてしまったため、大変なことになった。
「怪しからん!! こうなれば、おれは野宿をする。そのかわり、この宿場中へ焚火をして暖まるから、そう思っていただきたい」
たちまち、三番隊の浪士たちに命じて材木をあつめさせ、宿場の真中で天が焦げるような大焚火をやりはじめた。火の粉が渦を巻いて流れ飛ぶ。宿場が火事になりかねぬ騒ぎとなった。
近藤勇は、あくまで虫をころし、地に手をついて芹沢にあやまった。
「くそ!」
これを見ていた沖田総司が、刀の鯉口《こいぐち》を切って芹沢へ躍りかかろうとするのを、またも土方歳三が押え、
「いいよ、いいよ。はじめのうちだけだ」
平気な顔で、沖田をなだめた。
「以後は気をつけさっしゃい!!」
芹沢鴨は、近藤を怒鳴りつけ、やっと機嫌を直した。
あとで、近藤は試衛館出身のものたちを集め、
「これからは、いくらも、こうしたことが起きようが、みんなも軽々しい真似はいかん。何しろ寄せ集めの二百何十人もの人間が集まって一つの事をやろうとするのだ。何事にも忍耐がいるぞ」
といいきかせた。
たとえ、手をついてあやまったにせよ、そのときの近藤勇の態度には、みじんも卑屈なところがなく、あくまでも宿割役としての自分の失敗を自分で責めているという誠実さが滲み出ていて、
「近藤さんという人は、なかなかのものだ」
と、浪士たちのほとんどが感服したという。
その翌日である。本庄を発した一行が街道を進むうち、ぶらりと芹沢鴨が七番隊の列へやって来て、永倉新八を見ると、にこにこと笑いかけた。
まことに無邪気な微笑なのである。
新八が面くらっていると、芹沢が、
「昨夜はおどろいたろう。は、は、は……」
そう言って、さっさと遠去かって行った。
なぜだか、わからぬが、芹沢鴨は何となく出発のときから、新八に好意をもっていたようである。
土方も、沖田も、みんな白い眼で芹沢を見送ったが、新八は、別に厭な感じがしなかった。
ともかく、生まれて初めて京の地をふんだ永倉新八は、この年、二十五歳になっていた。
[#改ページ]
誠 の 旗
一
浪士隊一行は、京都郊外の壬生《みぶ》村へおちつくことになった。
郊外ではあるが、市中へも近いし、二条の城にも近い。
壬生村の東は町家や屋敷がつらなり京都市中へつづいているが、南から西へかけて畑と竹藪と雑木林がひろがり、まことにしずかなところだ。
浪士たちは六カ所にわかれ、宿舎にあてられた郷士の家や寺院に入り、旅装をといた。
近藤勇はじめ試衛館の連中は、壬生の郷士・八木源之丞の屋敷へ入った。
ところが、例の芹沢鴨も同宿なので、
(とんでもない奴と一緒になった)
土方も沖田も原田も、みんな実に厭な顔つきになった。
八木家では、庭の東面にある四間ほどの離れを提供してくれたのだが、芹沢は例によって、いちばん立派な八畳の間を占領してしまい、
(文句があるならいってみろ!!)
といわんばかりに、一同をにらみまわしている。
近藤勇は、平気であった。
みんなも、じっと我慢をした。
こんな芹沢なのだが、永倉だけには妙に人なつこい微笑をうかべて、
「永倉君は、こっちへ来なさい。大いに語ろうではないか」
などとさしまねくのである。
どうも、みんなの手前バツがわるい。
「いや、けっこうです」
しきりに辞退をしたが、芹沢はしつこく同室をすすめる。
ここでまた芹沢を怒らせては、八木家にも迷惑がかかると思ったのであろう。近藤勇が目顔で(行ってやれ)と新八にいった。
仕方がない。
新八は、芹沢腹心の平山五郎、平間重助と共に八畳の間へ入ることにした。
「永倉君、これから仲よくやろうなあ」
と、あの乱暴者の芹沢が、むしろ新八の機嫌をとるような口ぶりなのだ。
京へ来るまでの道中でも、芹沢鴨は何かにつけて新八のめんどうを親切にみてくれたものだ。
人を人とも思わぬ傲岸な芹沢だけに、新八も気味がわるかった。
翌朝になると、芹沢は朝飯の前に、平山五郎に剃刀《かみそり》をとらせ、ていねいに顔をあたらせた。
それがすむと、今度は自分が剃刀をとり、
「永倉君。こいよ」
とよぶのだ。
「何ですか?」
「髭をあたってやろう」
「いや、よろしいです」
「いいから、いいから──」
どうも気味がわるい。
土方も沖田も、向こうの部屋からこっちをながめつつ顔を見合わせている。
芹沢は、新八の顔に剃刀をあてながら、
「ほんとうに、君は、由之助そっくりだなあ」
と、ためいきをつく。
「は──?」
「いや、こっちのことだ」
あとになって、新八が近藤勇に、
「どうも困りました」
そっというと、
「いいではないか。芹沢は君を好ましく思っているらしい。ああいう男に君のような人がついていてくれれば何かにつけて、みなも助かろうというものだ。まあ、お守りをしてやってくれい」
却って近藤にたのまれてしまった。
二
浪士隊が壬生村へ入ると同時に、後からついてきた清川八郎も新徳寺という寺院へ入った。
新徳寺は、浪士たちの宿舎のすぐ近くにある。
到着の翌朝になって、清川は、浪士隊全員を、この新徳寺本堂へあつめた。
浪士隊をあやつる黒幕が、はじめて姿をあらわしたのである。
清川八郎はこのとき三十四歳。黒の紋服に仙台平の袴をつけ、厳然として浪士一同を迎えた。
やがて、清川一流の弁説がはじまった。
「わが浪士隊の目的は、近く上洛なさる将軍家を守護し、合わせて京都の治安をまもるのが名目なれど、これは、どこまでも表向きのことであって、まことの目的は、尊皇攘夷のさきがけとなり、一天万乗の大君をいただき天下のために粉骨するにある。以後は、この清川八郎が指揮をとらせていただく」
つまり、幕府から召されてあつまりはしたが、将軍も近いうちに京へのぼり、天皇の命を奉じて諸外国の勢力を日本から追いのけようというからには、尊皇攘夷のありかたにかわりはない。
もしも、将軍が皇命にしたがわず、外国との交際をつづけるようならば、われわれが起ちあがって幕府の弱腰をたたき直さなくてはならないという激烈な論旨を、清川は滔々《とうとう》とのべたてた。
浪士一同は水の流れるような清川八郎の弁説に、ただもう気をのまれてしまっている。
このとき、一応、もめごともなく散会となったが、清川は、ただちに浪士一同の名をもって、朝廷へ建白書をたてまつったものだ。
これは、清川の一存でおこなったものである。
こういうわけであるから、朝廷において、わが浪士隊を勤王の士のあつまりと見ていただきたいというのだ。
この建白書は朝廷にとりあげられ、孝明天皇は、次のような御製を浪士隊にたまわった。
雲きりをしなとの風に払わせて
たかまの原の月のきよけさ
この御製をかかげ、ふたたび、清川は浪士一同を新徳寺にあつめ、
「かしこくも御製までたまわり、まことに名誉のことである。これからわれわれは、もはや将軍家のためにはたらくものではない。天皇のおんために行動するのだ」
おごそかにいいわたした。
天皇の御製まで見せられては、文句のつけようがない。ついてきた鵜殿以下幕府の役人たちも、これには反対をとなえるわけには行かない。それに加えて、清川の熱烈な弁説に酔わされ、とにかく青い眼をした乳くさい異国人をやっつけるという気持には変わりはないのだから、ほとんどの浪士が清川八郎に共鳴してしまった。
それにまた、自分についてくれば行先きっと身を立てられるぞ、というふくみをも、清川はしめしていた。
「朝廷よりの命によって、われらはただちに江戸へ戻り、攘夷のために活動をすることになった」
と、清川はたたみこむようにいった。
着いたばかりなのに、もう江戸へ帰るというのだ。
清川の計画は、浪士隊を江戸へもどし、まず横浜市中へ放火し、外国船を焼きはらい、外国人を斬ってまわった上、一転して甲府へおもむき、甲府城を攻めとり、ここへ立てこもろうというのである。甲府城において倒幕の軍をおこし、全国の勤王派によびかけ、一挙に徳川政権を打ち倒そうというのが、はじめからの考えなのであった。
むろん江戸へ戻ってからの行動については、清川も口に出さない。とにかく、一同が清川の指揮をあおいで江戸へ戻ろうという気配濃厚となったときに、
「拙者は、ごめんこうむる」
近藤勇が、ふとい声を張っていいだした。
「何!!」
と、清川が睨みつけてくるのへ、
「われわれは、京へ花見にまいったのではない。将軍様が上洛されるのは、天皇のお怒りをとかれ、夷狄《いてき》を追いのけるため、種々の御談合あるためと聞きおよんでおります。かような、天下のため国のために上洛される将軍家を守護せよとの命をうけてあつまったわれらでござる。ゆえに、将軍家の命もなきうちに、貴殿一人の采配によって江戸へまいもどるなどとはもってのほかでござる」
今までは、おとなしかった近藤勇の切れ長の眼が裂けるばかりに見ひらかれ、清川をすさまじく睨み返した。
永倉新八はじめ近藤一派のものは、もちろんこれに同意である。
「拙者も近藤氏の申されること、まことにもっともと思う!!」
芹沢鴨が、われ鐘のような声で怒鳴った。
「黙れ!!」
清川が叫ぶと、芹沢は負けじと、
「そちらこそ黙れ。甘言をもって公儀に運動し、われわれを駆りあつめておいてからに、いざとなると寝返りをうち、おのれの勤王運動に浪士隊を利用するとはけしからん!!」
大刀の柄を丁とたたき、文句があるなら斬り合いをも辞せぬといった様子である。
清川は蒼白になった顔へ、にがい笑いをうかべ、
「勝手にせよ」
と突放した。
かくて、八木家に分宿していた近藤・芹沢以下十三名のみを京へ残し、清川八郎は二百二十余名の浪士たちを引きつれ、さっさと江戸へ引きあげてしまった。
そもそも、京へついたときから、清川八郎は八木家に入った十三名を警戒していたものと見える。十三名をのぞいた大半の浪士たちへ、数日の間に、たくみに工作をおこない、手なずけてしまっていたものであろう。
永倉新八も、かねてから、何となく怪しげな秘密の匂いにみちた清川八郎の言動が藤堂平助の笑いよりも厭だったから、一も二もなく京へ残ることにした。
「こうなれば、十三人だけでよい。何としても初めの目的を達しようではないか」
と、近藤勇がいうと、
「おぬしに、そんな強いところがあるとは思わなんだよ」
芹沢鴨も、少しおどろいたようだ。
三
清川八郎の行動に、幕府はあきれもし怒りもした。
ことに、幕府の京都守護職をつとめている会津藩主・松平肥後守は、
「只ではおかぬ」
と立腹した。
清川は江戸へ帰って間もなく、横浜焼討ちの計画を実行する前に、会津の士・佐々木只三郎に暗殺された。
「京へ残った十三名の浪士たちは、われらの手で庇護をしてやるように──」
松平肥後守の好意によって、近藤・芹沢以下は、八木家をそのまま本拠として〔新選組〕の名のもとに再出発することになったのである。
会津藩が動いてくれ、京、大坂にふれ出し、新たに浪士募集をおこなった。たちまちに集まるもの百余名という。
どこにもここにも、浪人たちがうようよしているのだ。
こうなったからには、まず〔隊旗〕をきめようということになった。
近藤勇は、
「誠の一字をそめぬいた旗にしたい」
と主張する。いかにも近藤らしい。
ところが芹沢鴨は、
「いや、龍の一字がよい。龍のごとく天に向かって駈けのぼる勢いこそ、われらののぞむところのものだ。それにしたまえ、それにしたまえ」
と、ゆずらない。
そこで、永倉新八が芹沢にいった。
「龍よりも誠のほうが、私はよいと思いますがね」
「そうか……」
と、芹沢は首をかしげ、
「それゃ、永倉がいいというのなら、おれも承知だ」
他愛ないほど素直にうけいれてくれた。
だが、隊旗をきめても、それをあつらえる資金もないのだ。
春から初夏にうつろうというのに、みんな江戸から着てきたままの垢じみた衣服ひとつを身にまとったままなので、八木家の人々は、
「臭うてかなわん」
と、こぼしたものである。
あつめた百余人の浪士たちは、八木家と通りひとつをへだてた前川荘司邸へ入れた。
前川屋敷はひろいのだが、
「とても一緒には住めませぬわい」
前川家の人々は、六角通の親類のところへ逃げてしまったので、ここが新選組屯所にきまった。
会津藩から出る金では、隊士たちを食べさせるだけでいっぱいだし、
「何とか金策をせにゃならんな」
芹沢鴨が先にたち、大坂の豪商・鴻池《こうのいけ》へ出かけ、芹沢一流の強引さでおどしつけ、金二百両を寄附させてしまった。
これをきいて、会津藩でも、
「勝手にそのようなことをしては困る。入用の金はこちらから出すから言ってくれるように──」
というので、鴻池へは会津藩が二百両を返した。
これで隊旗も出来たし、松原通の大丸呉服店へ麻の衣服、小倉袴などをあつらえ、一同に支給することも出来たのである。
新選組の局長には、芹沢と近藤が就任した。
副長は、土方歳三と山南敬助の二名。副長助勤といって隊士の監督にあたるものを十四名選抜し、この中には、永倉新八も藤堂平助もふくまれていた。
ようやく、新選組にもかたちがついてきた。
一同、市中の警衛、巡察、浮浪人の取締などにはたらく一方、武器をととのえ、会津藩の勢力を背後にして、日に日にその名をたかめていた。
薩摩、長州、土州などの勤王志士たちが、次第に新選組をおそれ、同時に敵意をいだくようになったのも当然であった。
すでに、将軍・家茂《いえもち》は上洛し、二条城へ入っている。
新選組も多忙になった。
四
このころになると、尊皇攘夷の叫び声は、いよいよ殺伐な様相を呈してきた。
すでに、幕府は欧米諸国の圧力に負けて、通商条約をむすんでいる。
江戸や横浜には外国人がふえるばかりだ。
勤王派といえども外国の底力のおそろしさは、じゅうぶんに知っている。
だが、自分たちが倒そうとする徳川政権が外国と手をむすんでいるのだから、
「外国人を追いはらえ!!」
の叫びは、また幕府打倒のスローガンにもなるのである。
勤王派の人々による外国人殺傷事件は年ごとにふえるばかりだ。
去年の八月にも、薩摩藩の行列が神奈川・生麦村へさしかかったとき、行列の前を通りかかったイギリス人を、藩士たちが斬殺してしまった。イギリス政府は、強硬な態度をもって、幕府と薩摩藩に償金十万ポンドを要求し、
「もし、これがいれられなければ、わが武力をもってのぞむ」
と、威嚇してきている。
その前には、江戸のイギリス公使館を松平藩士が襲撃するというわけで、外側からは外国列強に、内側からは勤王派の暴力におびやかされ、幕府も苦悶の頂点に達していた。
「片っぱしから、勤王浪人どもを叩っ斬れ、叩っ斬れ!!」
芹沢鴨は肩をいからし、自慢の大刀をよこたえた大兵を毎日のように京都市中へあらわし巡察をおこなう。
芹沢は、外出のときには、かならず、
「永倉君。来たまえ」
新八をつれて行かなくては気がすまない。
「行ってやりなさい。芹沢は、何をするか知れたものではないから、君がついていた方がよいのだ」
と、近藤勇にいわれ、永倉新八は平山や平間と共に、まるで芹沢腹心のものと見られても仕方がないようになってしまった。
芹沢鴨は一種の異常性格者であって、ことに酒が入ると手におえなくなる。
酒乱であった。
京でも大坂でも、芹沢は相撲取りを相手に大喧嘩をはじめるし、
「われらは、会津侯御預りの新選組である」
この一言で、島原や祇園の料亭であびるほど酒をのみ、女とたわむれ、代金を踏倒すという無茶苦茶をやる。
店のものが何かいおうものなら、
「黙れい!!」
鉄扇をふるって器物やら道具やらを叩きこわす、とめにかかる者を撲りつけるというあばれ方だ。
いかに永倉新八といえども、これを制することは出来ない。
それほどに、すさまじいあばれ方をする。
それなのに、新八は、どうも芹沢を憎む気がしなかった。
こんなことがあった。
梅雨に入ったころのある朝のことであったが、
「こいよ、永倉君」
例によって、芹沢がやさしい声で呼ぶものだから新八が芹沢の部屋に入って行くと、
「えりくびに毛がもじゃもじゃはえとる。剃ってやろう」という。
「では、たのみましょうか」
このごろの新八はさからわない。
八木家の離れの一室で、芹沢はみずから桶に湯をくみ、新八のえりくびを剃りはじめた。
ちょうど、誰もいない。
近藤や土方はじめ隊員の大半は、前川屋敷の屯所へ引移っている。八木家には、芹沢と平山、平間。それに藤堂平助と永倉新八が寝起きしていた。
「京の雨は、しずかに降るなあ」
と、芹沢が柄にもないことを、しんみりといいだした。
こういうときの芹沢鴨は、いかにも人なつかしげな男に変貌する。
躯も大きく、顔のつくりも大きいのだが、色は白いし、あばれまわっているときにくらべると、新八のくびすじに剃刀をあてている芹沢の顔は、むしろ美男に見えもするほどだ。
「永倉君の御両親はお達者かい?」
ていねいに剃刀をうごかしつつ、芹沢がきいた。
「はあ、健在です」
「いいなあ」
「え?」
「いいさ。おれなんぞ、もう二人ともおらん」
「そうでしたか」
「おれは、一人ぼっちよ」
さびしげに、芹沢はためいきをもらした。
芹沢鴨は、常陸・芹沢の郷士で、神道無念流の免許皆伝というすごい腕前の持主だ。
(芹沢は、いざというときになれば水火をも辞せぬ勇気を、たしかにもっている)
新八は、そう思っている。
たしかに、それだけの力をそなえた男なのだ。
新八には、何かのときに、芹沢の兄が、どこかの大名につかえて立派にやっているということを耳にしていたので、
「一人ぼっちといわれるが、御兄弟もおられると聞いていますよ」
「兄どもが二人いる」
「では……」
「いても、腹ちがいよ」
「なるほど」
「おれをうんだ母の腹から生まれた弟は一人きりだ。由之助というた」
「そうでしたか」
新八も、はじめてなっとくがいった。
いつか髭をあたってくれたとき、ふっと「君は由之助にそっくりだ」とつぶやいた芹沢の声を、新八は、まざまざと思い出したものである。
「可愛い弟でなあ。おりゃ、そいつが大好きで……顔は君にそっくりなのだ。しかし、どうも病身でなあ。おれが二十になるかならぬうちに、あいつ、まだ十五かそこいらで死んでしもうたわ」
こういうわけで、新八の顔を見るたびに、芹沢は亡弟のおもかげをしのんでいるらしい。
芹沢の生いたちにも何か複雑な事情があるらしかった。
新八が、そこへ突込んでききはじめると、
「おれの酒は悪い。そりゃ知っとる。だが、どうにもならんよ。こうなるにはこうなるだけのわけが人間にはあるものなのだ。もう、これ以上、何もきいてくれるな」
芹沢鴨について、新八がもっている印象というのは、およそこれほどのものしかないのだが、
(どうも憎めぬ)
新八にだけ、芹沢は別の一面を見せる。
平間にも平山にも見せない。それだけに、新八としても芹沢に愛情をおぼえざるを得なかったのであろう。
新八も、芹沢の乱暴を何度もいさめたし、近藤勇は、
「大変だろうが、もう少し辛抱してくれ」という。
いくら新八がついていても、それには限度がある。一日中、芹沢につきそっているわけには行かないのだ。
副長助勤という役目もあるし、隊士たちを急造した道場へ引出し、次々に剣術の稽古をつけてやらなければならない。
とにかく、新八のついていないときの芹沢は何をするか知れたものではなかった。
その乱暴ぶりは京都市中でも評判のものとなってきた。
土方歳三が、勇と二人きりになったとき、
「局長。このままではすまされませんな」
表情もうごかさず、そして声だけするどく、近藤にいったものだ。
「うむ」
近藤もうなずく。
「芹沢を、このままにしておくことは出来ませんよ」
「うむ……」
「誠の隊旗が泣きます」
「うむ……」
「新選組の威信が地におちます」
「うむ……」
土方は声をひそめつつ、ずばりといった。
「斬りましょう」
「まあ……」
近藤は手をちょっとあげて制し、
「まあ、待て」
「斬る以外に道はない」
このとき、はじめて土方歳三の双眸が、ぎらりと青白い光を放った。
「待て」
と、近藤勇もきびしい声音になり、
「もう少し考えさせろ」
きっぱりと押えてから、しばらく黙っていたが、やがて、
「おれも誠の旗じるしは忘れぬつもりだよ」
しずかにいった。
五
京へのぼってきた将軍・家茂は、さんざんな目にあった。
長州藩を主力とする勤王派は、少壮公卿と手をむすび、朝廷の勢力を〔攘夷〕の一色にぬりつぶそうとした。
幕府と仲のよい公卿・朝臣たちを片っぱしから暗殺をしてしまおうというわけで、この方も、見方によっては芹沢鴨の乱暴どころのさわぎではなく、京の町は血なまぐさいテロの颶風《ぐふう》がふきまくっている。
話し合いも何もあったものではない。少しでも邪魔なものは暗殺してしまって事を運ぼうというのだ。
こういうわけで、勤王派の強引な暗躍により、京都朝廷は、上洛中の徳川将軍を天皇にしたがわさせ、石清水八幡宮や加茂神社へ〔攘夷完遂〕の祈願をおこなわせようとした。
つまり、天皇と共に将軍が神社へ行き、「外国との交際を絶ち、彼等を海の彼方へ追い払うことが出来ますよう」と、神々にいのるわけだ。
この行列を見たものは何と思うか。
現在、外国と条約をむすんでいる徳川政権が、ついに天皇の命に服従し、条約を破って外国と争うというわけになる。
(もう、徳川の世は終りだ)
町民たちの目にも、はっきりとそのことがわかってしまう。
幕府の人々は、何とかして、この勅命から逃れようとしたが駄目であった。天皇の命をふりかざして迫られると、もはやこれをはねつけるだけの力が幕府にはない。
ついに、将軍家茂は天皇の御供をして加茂神社へ〔攘夷祈願〕におもむいた。
この行列を見物する群集の中には、勤王浪人たちもまじり、口々に「ようよう、大将軍!!」などと嘲笑の声をあびせかける。
この中にあって孝明天皇おひとりだけが、ただもう純真に国をおもい国民の行末をおもわれて、心をいためておいでになるのだ。
いずれにしても、天皇おひとりでは何ごとも出来ない。
天皇という象徴を、幕府も勤王派も、それぞれに利用し、双方へむすびついて朝廷内の有力な貴族たちの手によって、いいように事をはこんで行くのである。
「これ以上に、国の中を乱したくない」
という天皇のお心を知るものは、何とか天皇のお考えを表面に押し出したいと努力をした。
このときの孝明天皇のお心は、
「朝廷と徳川が力を合わせ、一日も早く国難を乗りきるように──」というものであった。
幕府を倒せなぞということではないのだ。
幕府を倒せば、それに代って勤王派の政権が出来るわけだし、どちらにしても同じことなのである。
むかしのように幕府が皇室を押えつけてしまうという時代ではない。幕府にしても皇室を重んじ、なにごとにつけ誠意をつくしてきている。
むしろ、何をたくらんでいるかも知れぬ勤王派の連中よりも、天皇は幕府を信頼しておられたのだ。
天皇の御妹は、将軍家茂の夫人である。
家茂は天皇の義弟ということなのだ。
「徳川には徳川の立場もあろう。いま少し永い目で見てやれぬものか」
と、天皇は親しくたのみにされている中川宮におもらしになったという。
さすがに石清水八幡への参拝には、将軍家茂もしたがわなかった。それでも、朝廷は、五月十日を期して外国を追い払ってしまえと命令を押しつけてきた。
むろん天皇の御意志ではない。
三条|実美《さねとみ》、東久世《ひがしくぜ》通禧《みちとみ》など朝廷を牛耳る公卿たちがはからったことである。いまの朝廷は、これらの攘夷派の公卿によってかためられている。これを勤王派があやつり、勅命を出させてしまうのだから、どうにもならない。
徳川将軍は、やっと、ほうほうの体で江戸へ逃げ帰った。
「いまがもっとも大切なときであるから、何事につけて言動をつつしむように──」
と、会津侯からも新選組に注意があった。
もっともである。
いまのところ、京都における徳川方の旗色はすこぶる悪いのだ。しかも、会津侯・松平|容保《かたもり》は将軍の親藩主であるし、将軍の命をうけて京都の治安をまもっている大名である。
責任は大きい。
この会津藩の下に新選組があるのだ。
芹沢鴨の目にあまる乱暴ぶりに、会津藩が眉をひそめたのも当然であろう。
新選組の局長という、百何十名の隊士の頭目となった芹沢の狂態は日に日につのるばかりであった。
(なぜ、こんなにまであばれたいのかな?)
永倉新八にも、そこのところがわからない。
何か、芹沢の過去にあったものが、いまここに地位と名目を得て猛然とほとばしり出たという感じなのである。
もてなし方が気にくわぬというので、島原遊廓・角《すみ》屋の珍器什宝を例の鉄扇をふるって叩きこわしてまわり、七日間の休業を命じたりする。
大坂新町では、芸妓の小虎というのが自分になびかぬというので彼女の髪の毛を切りとって坊主にしてしまう。
そればかりではない。
芹沢は、もっとも破廉恥なことをやってのけたものだ。
他人の女房を強奪したのである。
京の四条堀川にある太物問屋〔菱屋〕主人の女房お梅が気に入ったというので、白昼、これをむりやりにうばいとって八木家へ連れこみ、強引に犯してしまった。逃げようとしても部下に見張らせておいて逃がさない。
お梅も仕方なく、芹沢の妾同様になってしまった。
まだある。
飲代をゆすりに行ってことわられた一条通りの商家へ、隊の大砲をもち出して行き、どかんどかんと弾丸を撃ち放すなど、平気でやってのけるのだ。
「芹沢さん。度がすぎます」
新八が、そのたびに忠告をすると、
「わかったよ」
そのときは素直にうなずくのだが二日ともたない。
乱暴は酒をのむときにかぎっておこなわれる。
「酒を少しへらしたらどうです」
といえば、芹沢は陰惨な眼のいろになって、じいっと不気味に空間をにらみ、
「それが出来るくらいなら、すでにしているよ」
押しころしたような、実に暗い声でつぶやいたものだ。
新選組は、当然、二つにわかれた。
近藤派と芹沢派にである。
芹沢は、水戸以来の友達で新見錦《にいみにしき》という剣客を局長並にして、この新見と手をむすび、平山、平間、野口などを主力とした一派をつくっている。この連中は、みんなで芹沢の乱暴の手伝いをするものだから、さすがの近藤勇も、
「これは何とかせぬといかん」
土方歳三だけに、もらしたようだ。
「会津侯は、天皇の御信頼もふかいときいている。その下にあって京の町をまもろうとするわれらの中に、芹沢ごときものをおくわけにはいかぬ」
近藤も決意をかためたようであった。
こうした空気の中にあって、永倉新八は、依然として芹沢のそばへひきつけられている。
どうも困った。
しかも藤堂平助まで、芹沢のそばにくっついているのだ。
藤堂は、八木家に寝泊りしているだけで、別に芹沢の後へついて乱暴をするわけではないのだが、
「こっちの方がしずかでいいから──」
という理由で、八木家にいる。
新八と顔を合わせるたびに、あのうす笑いをうかべては、
「永倉君。いい女でも見つけたかね?」
などという。新八は、もう藤堂の顔を見るたびに胸がむかむかしてたまらなくなる。
そればかりではない。
ちかごろは、屯所へ行っても、土方や沖田など試衛館出身の人々の新八を見る目が違ってきたようだ。
土方なぞは口をきこうともしない。
(おれを、芹沢の子分だと思っていやがるのだな)
新八にも、はっきりとそれがわかる。
近藤は近藤で、たまに会っても、にっこりと笑いかけてくれるだけですぐにどこかへ行ってしまうし、何とも妙な気持であった。
だが、原田佐之助だけは、前と少しも変わらぬ態度で、新八につき合ってくれた。
原田は、松山藩の若党あがりだというが、竹をわったような気性で、歳は新八より四つ五つ上であった。
背も高く、芹沢にくらべても見劣りしないほど見事な体格で、新八は原田と一緒によく剣術の稽古をやった。
原田の得意は槍であるだけに、ひまがあるとすぐに「さ。永倉君、一丁たのむ」と、竹刀をつかんでは新八に剣術をならった。
この原田佐之助が、ある日の稽古あがりに、庭の井戸端で一緒に水をあびながら、
「永倉君。藤堂平助に気をつけろよ」
低い声でいうのだ。
「え……?」
「藤堂は、土方さんの命令で君を監視するため、わざと芹沢の近くにくっついているんだ」
「ばかな……」
「いいから聞け。これからは、あまり芹沢と口をきかん方がいいぜ」
新八は不快であった。
原田もすぐ、それと察したらしく、
「まあ。君は近藤さんにたのまれて芹沢についている、そのことは誰よりも近藤さんがよく知っているんだから、まず心配はないがね。どうも、おりゃ、土方さんてえ人がよくわからんのでね、それで君のことが心配になって、こんなこともいうのだ」
「わかったよ、原田さん」
「もう秋がそこまで来ていようというのに、どうも京の夏はしぶといなあ」
原田が話をそらしたので、新八も、
「京の町には風も吹かない。夏はたまらないね」
調子を合わせはしたが、何となく、このままでは済みそうにもない予感がした。
しかし、芹沢問題が解決されるひまもなく、京都に動乱が起こった。
「いまこそ、新選組の底力を見せるときだぞ」
まっ先にこう叫んで意気ごんだのは、なんと芹沢鴨であった。
[#改ページ]
変 乱
一
事件は、八月十八日におこった。
京都朝廷を思うままに牛耳っていた長州藩の勢力が、追いはらわれたのである。
この年──文久三年になってから、長州藩は〔禁裡守護〕という役目にもつき、皇居の警衛をも一手に支配するようになっていたのである。
なんでもいいから、一日も早く徳川幕府を倒してしまい、天皇をおしたてた新政権をつくり、自分たちの手ひとつに天下の権をつかみとろうというのである。
長州とならんで勤王派の主力となっていた薩摩藩は、すっかり長州藩に勤王運動のイニシャチブをうばいとられたかたちになっていた。
この両藩は、同じ運動をおこなっていても、そこには、かなりのひらきがある。
長州藩の毛利家は、あの関ケ原の戦で石田方(西軍)に与《くみ》し、東軍の徳川家康にそむいて敗北を喫した。
この戦は、徳川幕府の礎石をきずいたといわれるものだけに、毛利家は、もう徳川政権に頭が上がらぬことになった。
それまでは九カ国を領していたのが、わずかに防長の二国へ押しこめられてしまった〔うらみ〕を、毛利家では忘れることが出来ない。
この〔うらみ〕が、れんめんとして二百七十年もつづき、いまや爆発しようとしている。
薩摩藩も、関ケ原のときは長州と同じ西軍に属し、徳川から罰をこうむったのだが、長州ほどにひどいものではなかったし、現在でも、幕府と共に、天皇をたすけ、国難を乗りきろうという|たてまえ《ヽヽヽヽ》である。
「長州を押えつけてしまわぬと、どうにもならん」
近藤勇も、口ぐせのように、そういったものだ。
なにしろ、長州のうごき方は、激しい。
少しでも幕府と手をむすんでいるようなものは、片端から斬ってしまえというのだ。
孝明天皇は、いまのところ幕府に好意をもっておられ、
「日本人同士が殺し合うようなことはやめて、力を合わせよ」
このことのみを考えておられる。
だから、長州藩の過激なうごきについて行けぬお心なのだ。
「天皇を京都から大和へお移しして、新政権を樹立しよう」
とか、
「天皇をたすけ、何かにつけてわれわれの運動の邪魔をする中川宮を九州へ追いはらってしまおう」
とか、次々に長州の謀略はすさまじいものになってくる。
ここで、天皇の意を体した中川宮が中心となり、会津藩と薩摩藩に協力させ、物騒な長州藩を京都から追いのけてしまおうという計画が、ひそかにすすめられた。
会津は、すでにのべたように、あくまでも徳川幕府に忠誠を誓っている親藩だ。
新選組が、会津藩の庇護をうけて、はたらいていることもうなずけよう。
しかし、薩摩は勤王派なのだから、少なくとも〔外国勢力〕と手をむすぼうとしている幕府の政策には反対なのである。
現に、この六月には鹿児島湾にイギリス艦隊を迎え、いさましくこれを撃退し、板ばさみとなった幕府を困らせている。
だが、長州藩をやっつけようという点で、薩摩も会津も一致しているわけだ。
薩摩藩にしても、勤王運動が長州の支配下におこなわれるのは面白くないことおびただしいものがある。
長州追放の計画は、ひそかに、しかも緊密におこなわれた。
八月十七日の夜ふけに、早くも、
「明日|子《ね》の刻(午前一時)をもって御所へ参入し、これを守衛せよ」
という命令が、中川宮から会津藩へもたらされた。
用意はととのえてあった。
黒谷の会津藩邸からも、壬生の新選組屯所へ密使が馳せつける。
「それっ!!」
隊士一同、勇躍して身仕度にかかった。
「永倉君。新選組の初の出陣だ。おもしろいぞ」
芹沢鴨が、大刀をひきぬき行燈の光にてらして見ながら、
「君は、おれのそばから離れてはいかんよ」
と、永倉新八をちらりと見返り、やさしげな微笑をうかべていった。
「離れませんよ」
新八も興奮していた。おそらく長州藩も黙ってはいまい。京都にいる藩兵をこぞって御所へ攻めかけてこよう。
そうなったら、
(おれは、まっ先に斬りこむぞ!!)という覚悟だが、
(それにしても……)
こんなときに、江戸へ残った市川宇八郎が一緒だったら、どんなに心づよいだろうと、新八は思った。
二
十八日の午前一時すぎから明け方にかけて、武装した会津と薩摩の藩兵は、中川宮を擁して、御所へ参内した。
ついで、因州・備前・米沢・阿波《あわ》など、京にある諸大名に対し、至急御召の勅令が下った。
宮中の常御殿《つねごてん》においては、孝明天皇の御前において、中川宮が、近衛前関白《このえさきのかんぱく》をはじめとする公卿たちに向い、
「ちかごろは、朝臣の一部が長州藩にあやつられ、御上のお心にもないことを平気でやってのけるようになりました。まして……ましてやこのたび、御上を大和へおうつし申し、いっきょに幕府を倒さんとはかるなど、まったく叡慮《えいりよ》にもなきことで、御上には御立腹あそばしておられます。このたび、一部の朝臣どもの過激なふるまいをとりのぞき、合わせて、長州藩の粗暴のふるまいをやめさせたいとの、御上のおぼしめしによって諸藩の兵力をあつめ、御所に参入させたわけであります」
と、発表をした。
天皇は、いかにも満足そうにうなずかれたという。
朝議決定である。夜が明けると、長州藩も兵をくり出してきて、御所の堺町へつめかけ、ここで薩摩兵と対抗した。
「長州どもは、さっさと退け」
と、薩摩側が怒鳴れば、
「黙れ!! 堺町御門はわが藩の守衛すべきものだ。そちらこそ引き下がれい」
長州も負けてはいない。
けれども、長州側にとっては、まさに寝耳に水の異変であったといえよう。一夜にして、在京の諸大名が、すべて敵にまわってしまったのである。
新選組は、夜があけると共に隊士五十余名を二列縦隊に組み、蛤御門《はまぐりごもん》へやって来た。
先頭は、近藤勇である。
勇は、鎧に身をかため、陣羽織をつけて、自分のすぐそばに〔誠〕の隊旗をかかげた沖田総司をひきつけていた。
隊列の中央に、芹沢鴨が永倉新八をひきつけている。
芹沢は、革胴をつけた上に、例のだんだら染の制服羽織をはおっただけの軽装であった。新八も同様である。
蛤御門は、会津藩がかためていた。
いずれも武装きびしく槍の穂先をつらね、
「待てい!!」
新選組を迎えて、いっせいに槍の穂先をならべ、
「きさまらは、いずこの徒党だ!!」
血相を変え、すさまじい勢いでつめよせてきた。新選組も、このころまでは、あまりよく顔が売れていなかったものらしい。
だが近藤勇も、少しおどろいた。
新選組は、会津藩の下にあるものだ。
それなのに、こうしたあつかいをうけるとは、どういうことなのか……いささか迷ってしまい、声をのんだ。
芹沢鴨が、うしろから走り出て来たのはこのときである。
芹沢は、自慢の鉄扇をもって近藤を押しのけるようにして、前へ出た。
「黙れ、黙れ、黙れ!!」
実に何とも、すばらしい声である。
大きいばかりでなく、すごい力がこもった声であった。
「われわれを何と見るかッ。会津侯お預りの新選組であるぞ!!」
芹沢は、鉄扇をもって鼻先に光っている槍の穂先の列をぱんぱんと叩きつけておいて、
「公用方の命により、まかり通る!!」
怒鳴りつけておいて、うしろをふり向き、
「進めい!!」
われ鐘のような声で号令をかけた。
このときの芹沢の勇気|凛然《りんぜん》たる態度は、のちのちまでも語り草になったほどだ。
「壬生浪士が何だ」
と、かねてから軽蔑していた会津藩士たちも、以後は、新選組に向ける目の色をがらりと変えたという。
これで、会津藩の合印になっている黄色の|たすき《ヽヽヽ》を新選組一同がもらい、御所の警備にあたることとなった。
長州も三千に近い兵をくり出したが、どうにもならない。
それに何といっても天皇おわす御所を砲火と血に汚すことはできない。そのようなことをしたら、長州藩の勤王は天下から相手にされなくなる。
夕闇がただようころまでにらみ合っていたが、ついに、長州藩は御所から退出することになった。
また、雨がふりはじめた。
堺町門を出て行く長州兵と共に、三条中納言をはじめとする七人の過激派の公卿たちも出て行く。
いずれも京の都を追いはらわれたわけだ。
こういうわけで、戦闘はおこなわれなかったが、新選組の威容は六十名そこそこの人数ながら、
「なるほど、これが壬生浪士か」
と、諸藩の人々の目をみはらせるほどのものがあったらしい。芹沢や近藤の指揮によって、隊士たちは敏速にうごき、適切にはたらいた。
会津藩でも、また幕府でも、
「これなら心丈夫だ」
と考えたものであろうか。新選組へかける費用も大きくひろげてくれたし、この年が暮れるころには、永倉新八も月十五両の手当をもらうようになったものだ。
局長の近藤は五十両、副長の土方は四十両という月手当になったのだから、八月十八日政変以後の新選組が、いかに活躍したかがわかる。
十五両といえば、庶民のつつましい暮しが一年はどうにかもつといわれた時代なのである。
ふところがゆたかになれば、つかいみちもゆたかになる。
まして、命をかけてはたらいているのだから、金をもらって散ずる場所といえばきまっている。
永倉新八も、江戸での岡場所あそびよりもっと金のかかる遊里へ出入りするようになるし、好きな女も出来、そのためにはまた切ない苦労もしなくてはならなくなる。
それに加えて白刃と白刃の間をくぐりぬけ、死もの狂いの斬り合いもめずらしいことではなくなってくるのだ。
だが、その前に、新八は、崖の淵を目かくしされてわたるような危い目にあったものである。
三
その日も朝から雨であった。
夜に入ってからは、土砂ぶりとなった。
すなわち、文久三年九月十八日の夜である。
永倉新八は、ぐったりと酔いに重い頭の底のほうで、かすかに、三味線や唄声をきいていた。
したたかに酔っている。
(まだ、みんな、やっているな……)
よし、おれも広間へ出て行こうと思い、躯を起こしかけたが、もう駄目であった。
(いつの間に、此処《ここ》へ……)
目をみはって、一つきりしかない燭台の蝋燭の灯に、どんよりと浮きあがっているせまい天井や枕屏風などを見たような気がしたが、すぐに、新八は、ふたたび泥のような眠りに入っていった。
この日の夕刻から、新選組は総員で島原の遊里へくりこんだ。
長州藩が京を追いはらわれたときから、一カ月たっている。
あのときのはたらきをみとめられ、会津侯から新選組へ、かなりの手当が出た。
この手当で、懇親会をかねた息ぬきをやろうというのだ。
島原遊廓は、寛永十七年に、それまでは六条にあったのを朱雀野《すざくの》の地へうつしたものだ。
あたりは、田畑や雑木林が多くて、ちょうど壬生村と同じようなところなのだが、この一郭だけは、また別のものである。廓のまわりは土堤でかこまれ、東にある大門をくぐると、忽然として不夜城があらわれる。
格子づくりの二階家が整然とつらなり、揚屋の灯の色が絃歌の中に浮きたち、中之町・上之町・中堂寺町・太夫町・下之町・揚屋町の六町にわかれた遊里のありさまは、江戸の吉原などとくらべてみてもくらべようのない独特の雰囲気につつまれていた。
なにしろ、新選組がくりこんだ「角屋《すみや》」という揚屋などは、寛永年間の建築だといわれている。
火事の多い江戸とはちがい、色里の家並も古めかしく、しかもがっちりしたもので、
「なるほど、さすがは京の色里だ。貫禄というものがあるなあ」
近藤勇も、はじめて島原へ来たとき、こんなことをもらした。
騒々しいほど派手やかな江戸の|それ《ヽヽ》とは違い、道へ流れてくる三味線の音色からして何がなしに、しっとりとしている。
隊士たちは、角屋と輪違屋という二つの揚屋へ別れて泊ることになっていたが、それまでは角屋の下と上の広間へ入り、底ぬけの騒ぎとなった。
酔って剣舞をやるものがある。
刀を引きぬき、
「長州のやつばら、二度とふたたび京の地を踏めば、すなわち、これだッ」
角屋の柱へ切りつけるものもいる。
「永倉君。来いよ。此処へ……」
近藤勇は、宴のなかばから新八をそばへひきよせ、
「たまには、おれとも飲もうではないか」
しきりに酒をすすめる。
席の向う側で、これを芹沢鴨が白い眼をして、じいっと見ているのに気づき、新八もまったく弱った。
芹沢は、例のごとく芸妓を何人もよせておいて、しきりに悪ふざけをしては、盃洗にあけた酒をがぶがぶ飲んでいるのだから、何も新八がそばにいることはないのだが、
(おれがそばにいないと、芹沢さんはさびしいのだな)
と、新八は感じた。
早死をした弟にそっくりだという新八を可愛がる芹沢の気持の底には、その亡弟との間にあったいろいろな思い出が渦を巻いているのであろう。
(芹沢さんも、よくは知らぬが不幸な生いたちらしいなあ)
酒乱の性格がしみついてしまった芹沢鴨の過去に、感情のはげしい江戸育ちの新八は、そこはかとない同情を無意識のうちによせていたようである。
いいかげんに、芹沢のそばへ行ってやろうと思うのだが、その夜にかぎって、近藤は、なかなか新八を離さなかった。
「永倉君。市川宇八郎をぜひともつれて来たかったなあ」
「私も、そう思います」
「それはともかく、江戸の御両親には時折手紙を出しているのかね?」
「いやあ。勘当同様の身の上でして……宇八郎さんが中に入って、私の手紙を母にとどけてくれるというしまつです」
「お元気かな、御両親は……」
「父が、どうも躯を悪くしているらしいのですがね」
「そりゃアいかんな」
「では、ごめんを──」
一礼して、芹沢の方へ戻ろうとするたびに、近藤が新八の手をつかみ、市川宇八郎いうところの〔材木面〕へ懸命な笑いをうかべては、
「まあ、いいさ。芹沢さんのところには平山も平間もついている。たまには、おれと酌みかわしてくれんか」
いつになく執拗に、新八をひきとめるのだ。
引きとめては酒をすすめる。
近藤のそばにいる芸妓たちも、新八の手の盃を休めさせず、息をつく間もないほどに取りもつのである。
(変だな?)
そう思ったのも|つか《ヽヽ》の間のことで、次第に、酒が新八の心身をしびれさせていった。
向うから、飲むほどに青ざめてくる顔をちらちらとこっちへ向けていた芹沢鴨が、
「おもしろくない!!」
怒鳴ると共に、
「永倉君。おれは下の広間へ行くぞ。来給え。来んかッ」
新八へ呼びかけておいて、さっと座を立つ。
座が白けるにしては、一同、酒が入りすぎていた。
広間の騒ぎは消えようともしなかったが、新八は、さすがに芹沢の声に気づいた。
「下へ……そうですか。では……」
ふらりと立って、廊下へ出て行く芹沢の後を追った。
追ったつもりだったが、いつの間にか、近藤にひき戻されていた。
「まだ、いいではないか。まあ、もう少し此処にいろ」
「しかし……」
このとき、土方歳三がいつの間にか近藤のうしろへ来て、
「永倉君は、芹沢さんのところへ行きたがっているのだ。局長、行かせておやりなさい」
きらりと白い眼で新八をにらんだ。
近藤が、土方の耳へ口をよせ、何かささやいた。
土方は苦い顔をして、むっつりと盃をとりあげた。
(土方め、何をいってやがる)
まるで、おれが芹沢の子分か何かのように土方は考えているらしい。おれは……この永倉新八はな、芹沢さんを、もっと別の目で見ているんだ……胸のうちで、そんなことをつぶやいている間も、京言葉の芸妓たちが、寄ってたかって、たくみに新八へ酒を飲ませるのだ。
ついに、さすがの新八も、がくりときた。
「少し、寝かせてくれ」
こう言った近藤の声はおぼえているが、あとがわからなくなった。
何度か目がさめて、広間の絃歌を耳にしたが、そのうちに何も彼もわからなくなってしまった。
翌朝といっても、五ツ半(午前九時)をまわったころになって、新八は呼びおこされた。
「な、永倉さん。た、大変です」
おこしに来てくれたのは、中村金吾という隊士であった。
中村は|すじ《ヽヽ》がよいので、新八が目をかけてやり剣術を特別に念を入れてしてやっている男だ。
「大変です。お、おきて下さい」
「う、う、う……痛い。頭が、われるようだ」
「それどころじゃアありませんよ」
「な、何がどうしたというんだ、中村──」
「殺されました!」
「誰が!?」
「芹沢局長がです」
「な、何──」
新八は、ふとんをはねのけて突立った。
四
芹沢鴨が斬殺されたのは、前夜の四ツ半(午後十一時)ごろだという。
あれから、芹沢は、角屋の下の広間へ行き、またひとしきり酒をあおった。
「永倉はどうした? なぜ来ないのか」
しきりに叫ぶが、そのころ、新八は近藤の指図で別室へ寝かされていたのだ。
どうも、芹沢はおもしろくない。
同じ水戸出身で、局長心得として幅をきかせていた新見錦が、近藤と土方につめよられて、腹を切らされてしまったのは、つい数日前のことだ。
新見も芹沢と同じ酒くせが悪く、素行もいけなかったのだが、むろん、芹沢とは仲がよい。
それを、芹沢の留守中に、土方たちが祇園の茶室で酒を飲んでいた新見のところへ押しかけ、茶屋から一歩も出さず詰腹を切らせてしまったのだ。
(おのれ!! 近藤めが──)
あとでこれを知った芹沢は烈火のように怒った。
怒ったが、どうにもならない。
腹を切ったということは、新見自身がおのれの非をみとめたことにほかならないからである。こういうわけで、だんだんに味方がへって行くし、隊の中の勢力も近藤の手にうつりかかっているような気がしてならない。
そこへもってきて、角屋での宴会では、近藤勇が永倉新八をそばへひきよせ離さないのだ。
「おのれ、おのれ!!」
飲んで飲んで、いまや自慢の鉄扇をふるってあばれようと思ううちに、酒がすぎて、芹沢は腰がたたなくなってしまった。
「芹沢先生。こりゃア少し飲みすぎましたな」
「すぐに、屯所へ戻りましょう」
腹心の平山五郎と平間重助が、芹沢を駕籠《かご》に乗せ、雨の中を壬生へ、一足先に帰った。
島原の廓の大門を出て北へ進めば、壬生は、すぐ近くである。八木家の離れへは行けぬほど、芹沢は、したたかに酔っていた。
仕方なく、平山五郎は、玄関を入った右手の部屋に、芹沢を寝かせた。
例の商家からうばいとったお梅という女と一緒に、芹沢は床へ入り、平山も、島原のなじみの妓と共に、同じ部屋へ床をのべて寝た。
平間も、妓と共に別の部屋へ入る。
みんなが、ぐっすりと眠りこんだと見るや、四、五名の刺客が躍り込んで来て、ふとんの上からめったやたらに芹沢を突き刺した。
「うわあ!!」
すさまじい叫び声をあげて、芹沢は飛びおきたが、たちまち閃々たる刃の襲撃をあび、ずたずたに斬られて即死した。
お梅も即死である。
平山五郎も即死である。
平間重助と妓二人は、かろうじて逃亡した。
あっという間の出来事である。
八木家では、大さわぎになった。
刺客たちは、夜の雨をついて、どこかへ消えてしまった。
夜が明けると共に、近藤勇は、会津藩へ向けて、
──局長・芹沢鴨ならびに隊士・平山五郎儀、賊徒のために横死を遂げ候──という届書を差し出したものだ。
賊に殺されたなどといっても、隊士一同、いずれも、
(ははあ、やったな)と思っている。
その朝、永倉新八が中村金吾をつれて島原を出て、丹波口の街道を、ふらふらしながら駈けて行くと、
「おい、おい」
肥後藩の屋敷と法泉寺という寺の境にある椎《しい》の木のかげから、いきなり、原田佐之助があらわれた。
「あ、原田さん──」
「永倉君。きいたか?」
「きいた」
「そうか……」
原田は、ちらりと中村金吾を見て、
「永倉君は、おれが引きうけた。おぬしは先へ行け」と、命じた。
中村が駈け去るのを見送ってから、
「さ、一緒に行こう。何も急ぐにもあたるめえよ」
原田佐之助は、新八の腕をとらえ、肥後屋敷の塀外を西から北側へまわって歩きはじめた。
「原田さん」
「うむ?」
「芹沢さんを殺《や》ったのは誰だ」
「賊さ」
「嘘をいえ」
「そうか。そこまでわかっているんなら、もういいじゃアねえか」
原田は、乱暴な口のきき方で、ぱきぱきといった。
「おれはな、永倉君。これだけのことをいうために、貴公の来るのを待っていたんだ」
「何をだ!?」
「昨夜、近藤さんは貴公を手元から離さなかった。おぼえているな!?」
「うむ……」
「そのことを、よく考えろ。いいな……いいな……」
「むむ……」
「急ぐな。ゆっくり来い」
原田佐之助は、新八からはなれ、もう一度ふり返って、
「いいか。ゆっくり戻って来いよ。ゆっくりと考えながら戻って来いよ」
血走った新八の眼の中まで、原田のあたたかい友情にみちた微笑が、じいっとのぞきこんだ。
「うむ……わかった」
新八が、うなずくと、
「そうか……よかった。安心したぜ」
原田は飛ぶように駈け去った。
(そうか……)
肥後屋敷の塀にもたれ、新八はうごかなかった。
重くたれこめていた雲が風に吹き流れ、つよい秋の陽が路上に落ちかかってきた。
もはや、近藤と土方の手によって、芹沢が暗殺されたことは明白である。
前夜、新八が、いつものように芹沢や平山たちと共に八木家へ帰って寝こんでしまったら、
(きっと、おれも殺られたろう)と、新八は思った。
誰が刺客に出たか、それは知らぬが、きっと土方歳三もその一人だろうし、原田佐之助も加わっていたに違いないと、新八は考えた。何となく、新八は厭な気がした。
近藤勇が、新八を何とかして助けようとしてくれた気持はわかる。わかるが、どうも釈然となれない。
(生死を誓い合った同士ではないか。芹沢がいかぬのなら、堂々と腹を切らせるなり、追放するなりしたらいいんだ)
そう思うそばから、とてもとても、そのようなことを承知する芹沢鴨ではないからこそ、暗殺の手段に出たという近藤の気持もわかる。
大刀をぬいて、まともにあばれ出したら、近藤、土方といえども、芹沢の猛勇の前に手が出しかねようというものだ。
原田佐之助は、
(屯所へ帰っても、知らん顔をしていろ。近藤さんや土方さんに厭な顔を見せるんじゃないぞ)と、それをわからせるために、新八の帰りを待ちうけていてくれたのであろう。
やがて、新八は、どうにか気持をおちつけて、壬生へ帰った。
五
芹沢鴨と平山五郎の葬儀は、翌日の九月二十日におこなわれた。
場所は、前川屋敷の屯所においてである。
会津藩からも多勢の侍がつめかけてきたし、そのほか、幕府方の役人やら何やら、続々とあつまり、盛大な葬儀となった。屋敷の庭におかれた二つの寝棺を前にして、近藤勇が弔詞を読んだ。
黒羽二重の紋付に、仙台平のバリバリするような新しい袴をつけた近藤は、威儀堂々として葬儀の指図をおこなう。
まるで、一夜のうちに人が変ってしまったかと思われるほどの沈静な貫禄が、近藤を近寄りがたいものにした。
「近藤氏も、芹沢氏亡きあとの局長として、責任の重さを自覚しておられるらしい」
「立派なものじゃ」
「三千石の旗本には、じゅうぶんに見え申す」
「いかにも──」
葬儀につらなる所司代や会津藩士の間でも、こんなささやきが、もれていたようである。
やがて、二つの棺が前川屋敷を出る。
道の両側に、隊士一同、いずれも紋服か制服に身を正して、これを見送った。
棺の前に、土方歳三が歩いて来て、新八を見ると、じろりと白い眼を向けた。
(畜生、厭なやつだな)
どうも、新八は土方が好きになれない。
うつ向いて、土方が通りすぎるのを待って顔を上げると、ちょうど、棺のうしろについていた近藤勇が目の前へ来かかるところであった。
思わず、むしろ睨むような眼で、新八は近藤を見た。
(ひどいことをしましたね)そういってやりたかった。
芹沢の悪行は、新八もみとめざるを得ない。
それにしても、おれは芹沢さんの心の奥へ深く入りすぎてしまった。だからこそ、芹沢さんの死が悲しいのだ……と、いくら自分にいいきかせても、やはり、
(いくら何でも、暗殺なぞしなくてもよいではないか)
という感情を捨てきれない。
(おれはとても、近藤さんや土方さんのように冷たい仕打ちはできない……)
それが、江戸育ちのもののよさでもあり、いけなさでもある。ことに大事をおこなう役目にあって、人情におぼれてはいかんと、自分で自分にいいきかせても、やはり、芹沢の死は悲しかった。近藤勇を見つめた永倉新八の眼のいろには、こうした感情のすべてがふくみこまれていたに違いない。
その訴えるような眼ざしをうけて、近藤は眉ひとすじもうごかさなかった。うごかさなかったが、新八の前を通りすぎるとき、そっと左手をのばし、新八の肩を撫ぜていった。
新八は、どきりとした。
自分の肩に軽くあてられた近藤の指先には、
(わかっているぞ、おぬしの気持は──だが、おぬしも、もっと強い男になってくれなくてはいかん)
そういった近藤らしい暖い思いやりのすべてが、こめられていた。顔は冷ややかにひきしまってはいても、近藤の指先には血が通っていた。
遠去かる近藤勇のうしろから、新八も隊士たちと共について行きつつ、
(芹沢さん……これで、あなたも楽になりましたねえ)
棺の中の、むごたらしく切りさいなまれた芹沢鴨の死体に、胸のうちで、そう呼びかけた。くわしくは知らぬが、新八は、芹沢鴨という男の半生につきまとっていたらしい暗くて哀しい影を感じとっていたのである。
葬儀がすむと、また忙しい明け暮れとなった。
新しい隊士たちも増えてくるし、副長助勤としての永倉新八の勤務もあわただしい。
毎日、かならず道場へ出て稽古をつけてやらねばならないし、部下を従え、市中の見廻りをおこなわなくてはならない。その一方では、月々の手当もふえ、非番の日の遊びの金にも事欠かなくなってきた。
ひまが出来ると、新八も島原へ出かけて行った。
浅ぐろい江戸の女の肌とくらべては、まるで雪と墨の違いといってもよい京女の肌の白さ、その肌理《きめ》のこまかさに、新八は驚嘆した。
(こうした女もいたのか……)
第一、白粉の匂い、紅の|つや《ヽヽ》からして、江戸の女のそれとは違うのである。
(水も、食べるものも違うのだから、女も違うのは当然かも知れぬが……)
ともかく、往古からの皇都としての洗練がいたるところに存在している京の町であった。
澄み切った大気が古めかしい整然とした町をつつみ、加茂の清流と、なだらかな山なみとが町を、人を、やさしく抱きかかえているのだ。
遊女の芸妓までが、こうした風土の美しさに影響をうけて、京の町そのものが女の躯になってあらわれたような思いさえする。女の紅唇からもれる京言葉も、江戸生まれの新八にとっては、たまらぬ魅力となった。
それでいて、京の女たちは、とらえどころのない冷たさをもっている。
深川の、あの豊浦のような、手練手管をつかいつつ、そのうちに何も彼も忘れて情事に没頭してしまうというような女は、ほとんどいないといってよい。
金もかかる。
金をかけて抱いた女でさえ、なめらかにしめった肌の中の血はなかなかに熱くならないのが京の女である。京の遊女である。
新八はともかく、隊士たちは、それでも夢中であった。
只、女の躯をなぶるだけで満足しているものなら、京の女の肌の感触はたまらぬものなのであろう。
「どうですな、永倉さん。京女の味わいは?」
藤堂平助が、島原廓内で新八に出会ったりすると、にやにやしながら、こんなことをいう。
(藤堂め、おれと芹沢さんのことを何と言って土方さんに告げていたか、知れたものではない)
新八は、顔を合わせても口をきかなかった。
だが、そのうちに新八は、またも藤堂から煮え湯を飲まされることになった。
しかも、またぞろ女のことであった。
[#改ページ]
梅 雨 空
一
その日の、永倉新八の稽古は、すさまじいものであった。
「今日は、道具をつけずにやるんだ、いいか。みんな、木刀を持て!」
若い隊士たちを素面素籠手にしておいて、
「さア、来い」
次々に引っ張り出しては、
「それでも貴公たちは、長州や薩摩の犬どもが斬れるつもりか」
「そんな|なまくら《ヽヽヽヽ》剣術を、どこでおぼえてきやがったのだ」
とか、口汚くののしりながら、容赦もなく叩きのめした。
道具をつけていないのだから、たまったものではない。
「それっ──面だ!」
新八の気合がかかるたびに、悲鳴やうなり声をあげ、隊士が羽目板へ躯をぶつけて転倒したり、鼻血を出したり、腕を折られたり、
「そんなことでどうする。刀を叩き落されたら組みついてこい」
叱りつけられて組みついて行くと、新八は、これを肩や腰にかけて道場の床板へ厭というほどに叩きつける。
「今日は、ばかに荒れとるなあ」
見物していた原田佐之助も、目をまるくしている。
今は、すっかり新選組の屯所になってしまった前川屋敷の裏庭の納屋を改造した道場で、用務のないものは、日課として必ず武術の鍛練にはげむことになっていた。
土方や沖田、それに明石の浪人で斎藤|一《はじめ》などという腕利きが、隊士たちに稽古をつける。永倉新八も〔剣術教授方〕の一人なのだが、新八の稽古はおだやかなもので、どちらかといえば懇切丁寧な教え方をする。
「永倉君。君の教え方は生ぬるい。試衛館のころの猛稽古を忘れてもらっては困る」
土方歳三が、いつか苦々しげに注意をしたほどであった。
その新八が、このところ、道場へ出ると妙に荒れる。
「永倉さんは、人が変ってしまったな」
「道場に出ればあの通りだし、近頃はふだんでも、妙にこう取りつきにくい、怖い顔をしているではないか」
「口もきかんしな」
「前には、いつもにこにこしておって、話しやすかったのだがねえ」
などと、若い連中はうわさをしていた。
「中村。何だ、そのざまは──」
目をかけて可愛がっている中村金吾の木刀を叩き落し、息がとまるほどの一撃を胴へ打ちこんでおいて、倒れる中村を見向きもせず、
「よし。これまで……」
新八が稽古をやめるのを見て、原田佐之助は、一足先に道場を出た。
裏庭に、土蔵がある。
そのあたりは、いちめんの躑躅《つつじ》の植込みがあり、五片の花弁が赤、白、むらさきと入りまじって、いまがさかりであった。
晴れわたった空の青さにも、まざまざと初夏が感じられるような午後である。
土蔵の向うにある石井戸で、永倉新八が水をあびはじめるのを見た原田佐之助は、ながめていた躑躅の植込みの前をはなれ、新八へ近寄って行った。
下帯一つになった新八が、体をぬぐいはじめた、その手ぬぐいを、原田は横合いから引ったくり、
「背中出せ」
ふいてやった。
「どうも、これア」
「見ていたよ」
「え……?」
「すごい稽古だったな」
「………」
「荒れとるな、永倉君──」
新八が、ちらりと原田をにらんだ。
「おお怖わ」
と、原田佐之助は首をすくめて見せたが、すぐに、
「貴公、いいかげんにしろよ」
何も彼も、おれは知っているという口調なのだ。
「いったい、何の話だ?」
新八は、原田から手ぬぐいを取り返し、いらいらと胸のあたりをこすりはじめる。
「これ、ムキになるなよ」
原田は、好意のある微笑で、新八の興奮をやわらげつつ、
「なあ、永倉君──はっきり言おう。あの小常にア意中の男があるんだ。俺も、しばしば、小常にたのまれたことがある、その男との仲を取持ってくれとな」
「何だと」
「まあさ、そういきりたつなよ」
「誰だ? そいつは──」
「藤堂平助よ」
新八は、顔から火の出るような気がして、思わず呻いた。
二
京へ来て、永倉新八が惚れこんだ女というのは、島原の芸妓《げいこ》で、小常という女であった。
道場で、また稽古の気合いがわきおこった。
沖田総司のするどい声がする。新八のあとから道場へ入って来て、稽古をつけはじめたらしい。
「ほ。今日は、みんな、しぼられつくしてしまうぞ」
原田は笑った。
「ごめん」
新八が、そそくさと、行きかけるのへ、
原田が「まあ待てよ」と引きとめ、顔を近づけて、ずばりといった。
「永倉君。貴公を振った女は、亀屋の小常だろう? どうだ、図星か──」
「よせ、いうな」
「拗《す》ねるなよ──だが、俺ア心からいう。小常はよせ。何だ、あんな女──」
どうして、原田が小常のことを知っているのかと思ったが、新八は、もう相手が原田佐之助だけに隠しきれず、
「あんたの女じゃない。放っといてくれ」
島原の廓は、壬生のすぐ近くでもあったし、今の新選組は京へ来たばかりのころの、着たきり雀の浪士隊ではない。
羽振りもよくなると、給料の安い平隊士はさておき、重だったものは化粧の匂いが紅灯にたちこめる廓のうちへ有金残らずはたいてこなくては気がすまなかった。
それは、血なまぐさい明け暮れであれば尚更のことでもある。
事実、このごろの新選組がおかれた立場というものは、一刻も気をゆるめることの出来ない緊張の連続であったといってよい。
去年の八月十八日に、朝廷が会津藩と薩摩藩をうごかし、それまでは京都の勤王運動を一手に牛耳っていた長州藩の勢力を追いはらってしまった。
以来、長州藩では、たびたび朝廷に陳情をおこない、京都へもどろうと画策しているのだが、そのたびに、はねつけられてしまっている。
長州の庇護がなくなった京都で、土佐藩、肥後藩そのほか諸方の勤王志士たちは、それぞれに隠れひそみ、歯ぎしりをして口惜しがっている。
「この際に、不逞の勤王浪士どもを一掃してしまわねばならぬ」
というのが、京都守護をうけたまわる会津藩の意向であったし、新選組にも〔斬捨て御免〕の許可がおりたものだ。
会津藩をはじめ、幕府も、新選組に対しては、日毎に信頼の度をふかめてきている。
実際に、芹沢鴨が死んでからというものは、近藤勇と土方歳三の峻厳きわまる統率がものをいって、壬生の新選組の名は、京の町になりひびいた。
というのも、このごろの幕府の士たちは、まったくたよりにならぬありさまなのだ。
たとえば、江戸の旗本──それも、いざ戦いともなれば、まっ先に槍をそろえて敵に駈け向かい、合わせて将軍《だんな》の身をまもりぬかねばならぬという中堅どころは、武芸はおろか、馬にも乗れないのが多いという。
ひまさえあれば女のように衣裳の良し悪しを気にしたり、どこそこの料理はうまいとか、女あそびはどうだとか……。
そんなことばかりに熱中していて、命をかけて事をするなぞということは、とてもできたものではないのだ。
だから、京へ来ている幕府の役人なぞというものは、もう腑抜け同然であって、京の治安は会津藩が一手にひきうけている。
会津でも、この〔京都守護職〕という役目を幕府に命ぜられたとき、家老たちは色をなし、
「このような御時世に、京都までお出張《でば》りあそばし、そのような重きお役目におつきなさいますことは、避くるべきことでございましょう」
と、藩主・松平容保へ進言をしたが、
「いや。公儀をたすけ皇室を尊ぶは、藩祖公以来の、我藩のつとめじゃ」
容保は、これをきき入れず、断固として役目についたものだ。
ちなみにいうと、会津藩の祖、保科正之《ほしなまさゆき》は、二代将軍秀忠の子である。会津と幕府の間は、こうした深い関係が昔からむすばれているわけだ。
会津藩が京都へ出て行き、これに要する費用は莫大なものとなり、みるみるうちに藩の財政を食いつぶしていった。
たとえば、新選組へわたす給料その他にしても、後には幕府から出るようになったが、このころは会津藩がまかなっていたのである。
むかしからの慣例で、将軍さまの御威光をもって諸大名にすべてを申しつけてしまうというところが、このような非常事態となっても、まだぬけない。
第一、幕府の閣僚にしてからが、諸国の大名なのだ。
会津のように、将軍のため天皇のためと、単純にすべてを割り切り、殿さまも家来も一丸となってはたらくというような昔かたぎの大名は、幕閣にもいなくなっている。
何しろ会津公・松平容保は、孝明天皇の御信頼もっともふかき大名であったというから、容保が京の町の治安をととのえるため、寝食を忘れてはたらいたことがこの一事によっても察しられると思う。
今日は東へついたかと思うと、明日は西へ行くというような人心さだまらぬ時代であるから、会津藩や新選組の道ひとすじの生き方というものは、幕府からも皇室からもたよりにされていたのだ。
孝明天皇は、
「幕府が政権をもっても、勤王方が政権をにぎっても、こうなれば同じことじゃ。外国勢力の侵入というおそるべき事態をひかえて、日本人同士がやたらに事をかまえ、陰謀をめぐらし、血を流し合うなどというおそろしいことは一時も早くやめてもらいたい」
こういうお心であったと思われる。
勤王勤王と叫んでみても、天皇がみずから政権の座につき国事にあたったというのは往古のことで、平安の貴族政治から、鎌倉、室町の武家政治を経て、戦国時代、豊臣、徳川とうつり変ってきた政治も、みんな武家大名が政権をにぎっている。
なるほど、幕府もたしかにおとろえた。
何しろ薩摩や長州などに強く出られると、首をすくめて手足も出せないというおとろえ方なのである。
それだけに、
「おれたちがやるのだ、見事、将軍のためにはたらいてみせよう」
という意気は、新選組のような下層武士のあつまりにあって、ひとしお旺《さか》んに燃えてくる。
連日連夜、新選組は京の町にひそむ勤王志士や浪人たちを探し出しては、これを襲った。
新選組をこのままにしておいては、とてもたまらぬというわけで、
「まず、近藤勇を暗殺せよ」
と、長州から指令が下った。
早くも去年の九月はじめには、長州の志士・御倉伊勢武、荒木田左馬之助ほか二名が、桂小五郎の秘命をうけ、何くわぬ顔で、新選組へ入隊してきたものだ。
これが発覚して、四名ともに殺されたのは九月二十六日である。
それからも、こういう事件の連続であった。
幕末のころになって、京の町の遊里は、それまでの不景気からいっぺんに息を吹き返したといわれる。
勤王にしろ佐幕にしろ、こうした殺伐きわまる時代にはたらいている男たちが、いかに女と酒とを必要としたかよくわかろうというものだ。
永倉新八にしても、この例にもれない。
何しろ月十五両という給金なのである。
そのころ、物価は上るばかりであったが、町の職人たちの暮しで親子五人が、主は晩酌の一本もつけて、たまには家族連れで芝居見物もして月に一両二分もあれば、らくに暮せた。
副長助勤という役目についている新八の一カ月の給料は、こうした人々の一年分にあたるわけであった。
まず、どんな遊びでもできる。
島原では、揚屋へ上って花魁《おいらん》をよぶわけだが、太夫とよばれるもっとも格の高い女が、一晩揚げづめにして、銀七十匁前後である。
銀六十匁がおよそ一両にあたるから、庶民一家の一カ月の費用が一夜の遊興に相当するわけだ。
太夫の下にも〔天神〕とか〔鹿恋《かこい》〕とかよばれる遊女がいて、これはそれぞれに価《ね》も下ってくる。
京では花魁といわず太夫《こつたい》とよぶので、
「どうも、ぴんと来ねえなあ」
原田佐之助なぞが苦笑をしていたものだ。
近藤も土方も原田も、沖田や山南にも、それぞれ島原でなじみの遊女がいる。
新八も輪違屋の明里《あけさと》というのが、はじめのころは相手だったが、そのうちに、芸妓の小常があらわれ、新八は、もう小常に夢中となったわけだ。
廓では、まず遊女である。
芸妓は、唄、三味線をもって座をとりもつのが役目だし、格も下になる。
一夜座敷をつとめて銀十八匁というから〔太夫さん〕とは比べものにならない。
第一、廓へ来て芸妓と一夜を明かすなぞということは場違いなものなのだが、
(おれは、小常となら家をかまえてもいい)
と、新八は思いこんだ。
家をかまえるといっても、つまり〔妾宅〕である。
新選組では、これを〔休息所〕と称したものだ。
非番の日に出かけていって一夜泊り、英気を養ってくるというわけなのであろう。
三
小常は、ちょうど二十歳になるという。
島原廓内の亀屋の芸妓であった。
何でも舞が上手だという評判だし、新八も、なるほどと思う。
白の下着に、納戸とか古代紫のようなしぶい地色の裾模様の衣裳が、しなやかな躯へ吸いついているような見事な着こなしは何も小常にかぎったことではなく、
「京の芸者は違うものだなあ」
当世風を追って派手やかになるばかりの江戸の女にないおちつきが京の芸妓にはある。
「京の芸妓は、衣裳《べべ》に命かけてますえ」
と、小常がいったことがある。
江戸の女の浅ぐろい肌になれた新八にとって、京の女の肌の白さは感嘆してやまぬものであったが、わけても小常の肌のいろというものは、
(白粉が顔負けして塗られるのを厭がるほどだものな)
新八は、そう思っている。
小常の、ひきしまった小さな唇もいい。
ものやわらかな京なまりも、わけて小常のそれにはひきつけられる。
一度、酔って手をにぎったら、かるく外されて、
「ま。けったいな……」
ちらりと、にらまれたが、そのとき、こちらの手の|ひら《ヽヽ》へつたわってきた小常の手の感触というものは、
(おれの手の中で溶けてしまいそうだった……)
茫然と、数日の間は、その感触を忘れかねたものだ。
いくら廓でも、金があるのだから芸妓もなびかぬわけには行かない。
新八も、ある夜、小常とさし向いで、
「いいかげんに焦らすのはやめて、この辺で、何とか返事をしてくれぬかなあ」
思いきってもちかけると、
「そないにおいやしても、永倉先生……」
どうも煮え切らない。
「いやなあ、おれも、こんなに、お前に惚れていようとは我ながら思ってもみなかったんだが……」
と新八は、テレながらも懸命に、
「どうもね。夜、床についても、お前の、その白い肌や……お前の、京なまりというのか、そのやわらかい声が闇の中にちらついてきてねえ」
などと、精いっぱいの下手な世辞をつかうのだが、
「その位にしておいておくれやすな」
小常は笑いにまぎらわそうとする。
新八は、もう眼の色が変ってきた。
「はっきりいってみてくれよ。お前、おれの世話にはなりたくないのか」
「へえ……そんならいわしてもらいます。先生が、そないに、うちのこと思うておくれやしても、うちはまだ、そないな気持になれしめへんのどす。けんど、うちも……」
と、小常は不敵な微笑をうかべて、
「うちも、いえば売り物買い物の芸妓どすよって、新選組の永倉先生が、無理にとおいやすのなら、我ままを通すわけにもいきまへんなあ」
「馬鹿をいうな。おれが、そんな無理無体をすると思うのか。よせよ、そんな──」
ここらが、新八の弱いところだ。
厭がる女を無理にということが絶対にできない。
「もうちょっと、このままにしておいておくれやすな」
小常にとどめをさされると、
「そうか……お前が、そんな気なら仕方がないなあ」
情ないことおびただしい。
亡き芹沢鴨であったら、
「何をいうかッ」
いきなり小常の頬を張りとばしておいて、強引に押し倒してしまうところであろう。
(何で、おれは、あの女を好きになってしまったのか……)
いくら嘆息をくり返してみても、駄目であった。
惚れたものは惚れたものである。
理屈で解決出来ることではない。
(そうか……あのころから、小常は藤堂とできていやがったのか──)
原田佐之助から、小常の相手が藤堂平助だときいたとき、新八は、つくづく、あの夜の自分の下手くそな口説き方を思い出し、穴があったら入りたい気がした。
江戸にいたころから、江戸育ちの常で妙に気位が高くて、金ばかりかかる気取りきった芸妓と遊んだことがない新八だけに、どうも小常は扱いにくかった。
「いや、原田さん。おれも、あきらめるよ」
新八は、原田にきっぱりといった。
「そうしろ。だがな、永倉君。藤堂平助の方は、小常を相手にしてはいねえというぜ。何でも藤堂は、先斗《ぽんと》町の鞠菊とかいうぽっちゃりしたのを休息所に囲っているそうだよ」
「いや、藤堂のことだ。小常にも手をつけているさ」
「そうかなあ……とにかく、いまどきの女は、藤堂みてえな生ッ白いのがいいらしいなあ。そりゃ俺たちなどと違って学問もあるし、才は利く。腕も立つし折目も正しい。近藤局長の信用も大したもんだが……」
「うむ……」
それから、隊の親睦会などが島原でおこなわれるたびに、新八は、小常の様子に注目してみた。
(なるほど──)
宴席にはべる小常の、いつもは冷ややかに澄みきっている瞳が、熱っぽくうるんで、ちらりちらりと藤堂平助の横顔に射つけられるのである。
(畜生!)
新八も男だ。
しかも相手が藤堂だけに、いっそもう小常の首を叩き斬ってくれようと何度も思った。
(おれもヤキが廻った)
そのたびに、自分の激情をおさえては、耐えた。
ただ、深川の豊浦のときと違い、いくら小常が藤堂を見ても、藤堂平助は、まるで小常を相手にしないのである。小常が原田に、藤堂との間を取持ってくれとたのんだのは本当かも知れない。
冷然と、小常の視線をうけようともしないのである。
(変だな)
そう思ってはみても、依然として、小常は新八に冷たいのだ。
(あきらめるんだ。女などに血道をあげているときじゃアねえ)
島原へ出かけても、新八は小常をよぶまいとした。
しかしどうもいけない。どうしても悶々たる慕情を押えきれない。
(藤堂が死んじまえば、小常も|おこり《ヽヽヽ》が落ちて、おれになびくかも知れん)
そんな、あさましいことまで考えて、新八はぎょっとすることがあった。
しかし、藤堂平助が斬死をする機会は、すぐ目の前にやってきていたのである。
四
その日、三日ぶりで雨があがった。
だが、梅雨明けには少し間もあることだし、鉛色の空も重苦しく、
「中村。気晴らしに出かけよう」
ちょうど非番でもあり、永倉新八は、気に入りの中村金吾をさそって屯所を出た。
「永倉先生。島原ですか?」
「馬鹿ア言え」
「じゃア、祇園で?」
「女っ気のねえところで一杯飲むだけだ」
「けっこうですな」
「けっこうとは、どんな意味あいなんだ。厭なら来なくともいいんだぜ」
「いえ。お供をします」
中村も、このごろ新八にはびくびくものであった。
(あんな女、忘れてしまえばいいんだが……永倉さんもこれで思いつめると、なかなか生一本のところがあるのだな)
五つも年下の中村金吾に、そんなことを思われている永倉新八なのである。
いつまた降り出してくるか知れたものではないというので、中村が番傘を二本持った。
「お前も用心ぶかい男だ、若いに似ず──」
それを見て、新八がくすりと笑った。
ぶらぶらと、暮れかかる四条通りを東へ行き、四条の橋が行手に見えたところで、大運院の裏通りを右へ折れた。
鴨川の瀬音が、水嵩《みずかさ》も増していると見えて「おや?」と思うほど大きい。
四条と五条の橋の間に、松原橋というのがある。
この橋の手前に、高瀬川の畔に、新八が行きつけの料亭で〔いけ亀〕というのがあった。
「鮎が食えますなあ」
と、若い中村は色気より食気の方であった。
〔よろず川魚料理〕とそめぬいた茶の|のれん《ヽヽヽ》をくぐったとき、
(や……?)
新八は、どきりとした。
濃い夕闇の中で、すーっと新八の背後を通りぬけて行った者がいる。
振り向くと、その男は肩をいからせたまま細い道の彼方へ足早に去って行った。
夏羽織をきちんと着た侍であった。
「どうなさいました?」
じいっと、その侍の背後が見えなくなるまで見送っている新八に、中村金吾が声をかけた。
「いや……何でもないよ」
中村に笑って見せ、新八は、のれんをくぐった。
(あいつ、おれを斬る気じゃアなかったのかな……)
二階の小座敷へ落ちついてからも新八は眉をよせていた。
あの侍が、新八のうしろを通りぬけた瞬間に、ぞくりと衿もとへ走ってきたものは、新八にいわせれば〔殺気〕以外の何ものでもなかったといえよう。
「中村──」
「はあ」
「お前、まだ人を斬ったことはなかったっけなあ」
「ありません。どうしてですか?」
「いや何、こっちのことさ」
ふくみ笑いをしながら、新八は、開け放った窓の向こうに眼をやった。
すぐ下に、高瀬川が流れている。
ひとまたぎほどの高瀬川をへだてて、木屋町の細長い家なみがつらなっており、その向こうが鴨川となる。
このあたり一帯は、料亭が多く、先斗町から芸妓をよぶことも出来た。
仲居が来て、料理や酒がはこばれる。
「この鮎はどこでとれるんだね?」
「丹波の保津川どす」
「そうか。こいつは何だえ?」
「|たで《ヽヽ》と花丸きゅうりを、からし酢みそで和《あ》えたもんどす」
などと、顔なじみの仲居と口をきき合いながらも、新八は油断をしなかった。
去年の秋に、新八は、この〔いけ亀〕へ、あの長州から入りこんできた刺客のうち、荒木田左馬之助というのをさそいこみ、それとなく探りをかけたことがある。
「どうも怪しい。探ってみてくれ」
という近藤勇の依頼があったからだ。
荒木田も、さすがに俊敏な奴で、新八に探られているなと直感したらしく、
「まあ、永倉先生。おのみ下さい、おのみ下さい」
しきりに酒をすすめ、新八が酔いつぶれたふりをして寝ころんでしまうと、荒木田はそっと下へおりて行き、しめし合わせておいた他の三名と五条橋のたもとで落ち合い、ふたたび取って返し、新八を暗殺してしまおうと計った。
ところが、かねて打合わせておいた通りに、隊士たちは、彼等の行動をひそかに見張っていたものだから、
「これで間違いなし」
ということになった。
近藤暗殺の秘命をうけ、たくみに新選組隊士に化けていたつもりの四人が〔いけ亀〕へ取って返すと、すでに中村金吾や原田佐之助が来ていて新八を起こし、酒を酌みかわしているので、どうにもならない。
新八たちも、さり気なく、この夜は四人をもてなしておいて、翌日の白昼、屯所の庭で、それぞれに斬殺してしまったのである。
〔いけ亀〕では、そういうことがあっただけに、新八も少し気味がわるい。
「一人歩きは、決してせぬように──」
と、近藤からも厳命が出ている。
新選組に対する恨みは、勤王志士の間につもり重なっている筈であった。
(中村一人では、どうも頼りにならねえが……)
新八は、酒をのみつつ、
(もしかしたら、囲まれたかも知れないな)
そう思ってみた。
「帰るか──」
中村が少し飲み足りないような顔をしたが、新八はかまわず勘定をはらい、外へ出た。
「中村、お前、よく気がついたよ」
「はあ」
また雨が降りはじめてきた。
中村金吾は、得意気に番傘をひらき「どうぞ」と、新八に手わたした。
「おい、中村」
新八は、ゆっくりと歩み出しながら、
「出たら、あわてるなよ」
といった。
「何が出ます?」
「長州か、土佐か……」
こういいつつ、新八が幅一間半ほどの小路を右へまがったときであった。
「たあっ!!」
浄国寺という寺の裏塀へ守宮《やもり》のように吸いついていた黒い影が、激しい気合いと共に新八へ躍りかかってきた。
ばさっ……。
新八のさしていた番傘がすぼめられたかと見る間に、その傘が殺到して来るその刺客をすさまじい勢いではね返していた。
「中村。油断するな!!」
吾妻下駄をぬぎ飛ばして、新八が叫んだ。
五
新八は、寺の塀に向い合った民家の京格子に背をつかせた。が、まだ刀をぬいてはいない。
「せ、先生!!」
中村金吾は早くも抜刀し、新八とならんで身がまえた。夜目にはっきりとわからないが、はじめての斬合いだけに、中村はもう必死の様子であった。
(四人だな……)
と、新八は見きわめをつけた。
せまい路の左右から、ひたひたと迫ってくる白刃は四つで、いずれも平服に袴の股だちをとり、顔だけは黒い布をもって簡単に包んでいるようだ。
(十人もくるかと思ったが……)
新八は、急に自信がわきあがってくるのを感じた。
自信は気をのびやかにする。したがって、闘うべき刀がのびのびはたらくということだ。
「中村、お前逃げろ」
「な、何を……」
「邪魔だ」
「しかし……」
「逃げてくれろ。そうでないと、お前を叩ッ斬るぞ」
「は──」
これだけを言いかわすのが精いっぱいのところで、
「やあ!!」
じりじりと正面から左へまわった刺客の一人が、猛然と突きを入れてきた。
「む!!」
新八の躯が撥《はじ》かれたように格子から飛び出し、突き込んできたその刺客と飛び違ったかと見る間に、
「うわ……」
刀ごと、格子に躯をぶつけた刺客が、もんどりうって転倒した。
飛び違いざま、抜きうちにあびせた新八の一刀は、ほとんど後ろ袈裟《けさ》に刺客の背から腰にかけて、ざっくりと割りつけていたのである。
どこかで悲鳴がおこった。
まだ時刻も早かったし、民家の中でおこった女たちの恐怖の声でもあったのだろうか。
「くそ!!」
「包みこめい!!」
叫びながら、残りの三名が突風のように襲いかかってきた。
これを迎えて、永倉新八の躯は幅一間余の路いっぱいに飛びうごき、
「む!!」
例の腹の皮が破けたかと思われる、うなり声ともきこえる底力にみちた気合と共に、
「ぎゃア!!」
たちまち、もう一人が倒れる。
中村金吾も、少し離れて別の一人と、これはもう力ずくの闘いぶりで、
「えい、おう!!」
と、怒鳴り合う声が雨音を引きさいてきこえてきた。
残る一人──それは、はじめに新八へ斬りつけてきたやつであった。
たたっと青眼にかまえてつけ入ってくるのへ、新八はさからわずにするすると五間ほどの距離を退いておいて、
「名乗れ!!」
ぴたりと下段につける。
つよくなった雨の幕が、闇を白くした。
「荒木田左馬之助は、おれの従弟だ」
と、相手は答えた。
「左馬の敵を討つ!!」
「名乗れ」
「無用!!」
ひと呼吸あったのち、相手は大上段にふりかぶり、一気に斬りつけてきた。
新八の下段にかまえられた刀は、これを下からすりあげておいて、
「む!!」
ななめ横に身をひねりざま、相手の横面から顎へかけ、決定的な一撃を加えたものだ。
すさまじい絶叫をあげ、相手はぬかるみの中へ、うつ伏せに倒れた。
「中村、どこだッ」
路の向うで、中村金吾がうずくまっている。
「やられたのかッ」
走り寄って行くと、
「し、仕とめました」
中村は、ぜいぜいと息をきらせながら、やっと答えた。
中村の相手も、すぐそこに倒れ、まだぴくぴくうごいている。
中村も左肩を少し斬られているらしく、血にまみれている。
「大丈夫か?」
「はあ……」
〔いけ亀〕の男たちが飛び出してきた。
気がつくと、路の向うの料亭の灯がにじんでいるあたりには、くろぐろと見物の人々があつまっているようであった。
とりあえず、中村を〔いけ亀〕に運び傷の手当を……と、新八は思い、
「歩け、歩け」
中村の腕をとって引きおこした。
〔いけ亀〕の使用人たちにたすけられて行く中村金吾のあとへついて行きかけ、新八はふと思いついて、倒れている四人の顔をあらためてみた。
いずれも見知らぬ男たちばかりだが、長州のものに違いあるまい。
四人とも、もう息は絶えていた。
(おれも、これでは……)
ずぶぬれになっている新八は、
(いけ亀で着替えを借りるか)
刀を鞘におさめて歩き出したとき、
「永倉さん──」
呼びかけて、まだ散りきらない見物の中から出て来た男があった。
「どなただ?」
「岸淵兵介でござる」
でっぷりとした中年の侍で、身なりもきちんとしたものだ。
「おお──」
新八も声をあげた。
「そのせつは、いろいろと──」
岸淵は丁重に一礼してから、
「この春より、京へまいっております」
「それは、それは──」
岸淵兵介は、江戸の剣客で、新八とは一寸ふかい関係もある。
共に〔いけ亀〕へ入って行き、店の若い者を|その筋《ヽヽヽ》へ届けに出させておいてから、新八は岸淵と盃をあげて久闊《きゆうかつ》を叙した。
永倉新八が新選組にいるということをきいたとき、岸淵の眼が、きらりと光って、
「それは知り申さなんだ」
盃をおき、すわり直した。
「いささか申しあげたいことがあるのだが……」
「何でしょう?」
「人ばらいをねがいたい」
と、岸淵はもっともらしくいう。
新八も不審に思ったが、とにかく仲居たちを遠去け、岸淵のいうところを聞いてみると、
「ふうむ……」
新八の顔のいろも、おのずと変った。
人ばらいも当然のことであった。
[#改ページ]
池田屋騒動
一
岸淵兵介は、直心影流の剣客である。
岸淵は、かつて江戸の牛込・山伏町に道場をひらいていて、門弟たちにも、他の剣客たちにも、なかなか評判がよかった。
これは、剣術もすぐれていたが、岸淵の温厚円熟した人柄にもよることであったろう。
「岸淵殿は、ようできた人だな」
めったに人をほめたことがない土方歳三ですら、岸淵兵介にはいちもくおいていたものだ。
岸淵の道場は、近藤一党の道場〔試衛館〕のすぐ近くにあったので、試衛館の連中もよく出かけて行ったし、岸淵もまた、
「試衛館の剣法はなかなか激しい。貴公たちもどしどし出かけて行き、稽古をつけてもらいなさい」
と、こだわりがなかった。
ことに岸淵は、永倉新八のさっぱりした性格に好感をもち、
「永倉さん、永倉さん──」
と、下にもおかない。
新八も、だいぶ年齢のひらきがある岸淵には甘えて、
「まことに申しわけないのですが……」
遊びの金につまってくると、よく岸淵から借りたものである。
新選組が結成され、新八が京へのぼる半年ほど前のことであったが……。
同じ牛込の原町にある水野土佐守下屋敷の侍たちが、岸淵道場へ他流試合にやってきたことがある。
ちょうど、主の岸淵兵介は、上総・下総の剣客の招きで江戸を留守にしていたので、門弟の磯野養之助というものが中心となって、六人の水野藩士たちの挑戦をうけることになった。
ところが、水野の家来どもは、磯野をはじめ、十余人の岸淵門下をさんざんに打ちこみ、
「それっ。表看板を引き外せ」
という騒ぎになった。
このとき、すでに岸淵の門弟が、試衛館に駈けつけて急を訴えていた。
試衛館では、近藤も土方も留守で、永倉新八と原田佐之助が、冷酒をのみながら、ごろごろと寝そべっていたものだ。
原田は、もうぐでんぐでんに酔い、眠りこけているし、とても竹刀をにぎるわけには行かない。
「六人か……何とかなるだろう」
新八は、少しふらつく足をふみしめて庭へ出ると、ぱっと裸体になり、井戸の水をたてつづけにあびた。
それから駈けつけた新八が、水野の侍六人を相手に、
「岸淵の門弟でござる」
こう名乗って闘った。その試合ぶりをくだくだと書くこともあるまい。
ほうほうの体で、水野の侍たちは逃げ去った。
「おかげで、この岸淵の面目がたち申した。ありがたし、ありがたし」
と、江戸へ帰ってきた岸淵兵介が、新八の前に、ふかく頭をたれた。
新八、大いに恐縮をしたものだが……ともかく、岸淵兵介と永倉新八とは、こうした間柄にあったわけなのである。
むろん岸淵は、近藤や土方にも面識がある。
面識はあっても、新八に対して抱いているほどの友情や関心は無かったといってよい。
しかし、岸淵は、久しぶりに京の町で出会った永倉新八が、近藤勇にしたがい新選組の一員となっているときいて、
「いささか、申しあげることがある」
と、すわり直したわけである。
それにはまず、あれからの岸淵兵介の身の上についてのべねばなるまい。
岸淵は妻を早く死なせ、ひとり娘がいた。この娘が江戸で嫁《かた》づいた後に、淀藩から仕官の口がかかった。おそらく、岸淵の剣と人格を買われたものであろう。
この非常時には、どこでも人材を求めている。
岸淵は、思うところあって道場をたたみ、この招きに応じ、淀藩十万二千石、稲葉美濃守の家来となり、しばらくは江戸屋敷につとめ、今年の二月から京都屋敷詰を命ぜられ、京の地をふんだという。
稲葉侯は、前に京都所司代をつとめたこともあり、公家や諸大名との交際もひろい。
岸淵は、新参者ながら稲葉美濃守の気に入られ、いつも駕籠わきにひき添い、警固をつとめている一人であった。
淀藩の本国は、京都とは目と鼻の先にあるし、それだけに公務も忙しい。
稲葉侯は、つい先頃に幕府老中に任じたので、いまは江戸へ行っているが、近いうちに岸淵兵介も、江戸屋敷へ呼び戻されそうな様子らしかった。
よく練れた人柄だけに、岸淵は藩士たちからも信頼と好感をもたれていた。
岸淵ならというので、いろいろと藩の内情なども、腹をわって話してくれるものが多い。
「実はな、永倉殿……」
その夜──。
料亭〔いけ亀〕で、岸淵兵介が新八に語ったのは、次のようなことだ。
先頃、岸淵は、同僚の笹川忠右衛門というものから、
「四条河原町の辺りの小路を歩いていると、古道具屋をしている桝屋《ますや》とかいう店へ、長州の吉田|稔麿《としまろ》が入って行くのを見た。これを迎えて店の中からあらわれた道具屋の主人も、どうやら只者ではない。あれは、町人なぞではなかったようだ」
と、こんなことを耳にした。
笹川は、永らく京都詰めになっていて、長州藩が肩で風を切って京の町を歩いていたころのことも、よく知っている。
吉田にも、前に一、二度会ったことがあるし、一度見たら決して忘れるような顔だちではないから、
(吉田ではないか……?)
はっとして、物かげに身をかくして、吉田が桝屋内へ消えるのを見守ったというのだ。
「奥へ入ったきり出て来ないのだ。そのうちに、小女が出て来て、まだ夕暮れだというのに、バタバタと戸をおろしてしもうてなあ……どうも、あれはくさい。あの古道具屋は、勤王浪人の密会所にでもなっておるのではないかな」
と、笹川忠右衛門はいった。
淀藩の立場は、会津藩のように、はっきりとした立場をもっていない。
ことに、笹川や岸淵が「あそこがくさい」と思ったにしろ、各藩それぞれのうごきが、どういう政局の波瀾をよぶか知れたものではない時世であるし、何事にもいまは傍観の態度でいようといった気持が、大名にも家来にもつよいのだ。
「どうも物騒な世の中じゃよ、岸淵殿」
笹川は顔をしかめて、
「このようなことを他言なされまいぞ」
釘をさしてきたという。
これが、京都を守護する会津藩や新選組ともなれば、わけが違ってくる。
「怪しきものは斬ってよし!!」と、会津侯からもゆるしをうけている新選組にとって、これは重大な情報であった。京へ入ることを禁ぜられている長州の侍が市中を歩いているというのなら、それだけの理由で引捕えてもよいのである。
「ただ、それだけのことでござるが……永倉殿が新選組の一員と知って、拙者、おつたえいたした」
岸淵は、道場破りの一件ではたらいてくれた新八への好意から、このことを洩らしてくれたのであろうか。
「決して、あなたには御迷惑をおかけしません。よくおきかせ下さった。ありがとう存じます」
永倉新八も両手をつき、岸淵に謝した。
二
「そうか……」
新八からこのことをきくと、土方歳三の眼が、ぎらりと光った。
ともかく、新八は、近藤と土方だけに、岸淵から得た情報を告げたのである。
「岸淵さんの言われることだ。嘘じゃアあるまいよ。よし、明日から探らせてみよう」
土方が言うと、近藤もうなずき、
「おれも、何となく、浪士どもがざわめきはじめたような気がしているところだ。永倉君、岸淵殿には、おれからも挨拶したいが、この際はやめておこう。迷惑がかかってはいかぬからな」
といった。
いまの京都の表向きは、会津と薩摩の握手によって、幕府方の勢力のもとに一応はおかれているといえようが、それだけに、地下へもぐった勤王運動は反って激しさを加えてきている。
暗殺事件も頻発しているのだ。会津の家来たちも、浪士たちの襲撃をうけて死んだものが、かなりいるし、新選組にさえ「近藤勇を斬れ」というので、長州の刺客が入りこんできたではないか。
この春には、水戸藩が分裂して、天狗党と称する一派が筑波山にたてこもり〔尊王攘夷〕の旗をかかげ、このため、関東では大騒ぎだという。
幕府も、関東の諸藩に命じ、天狗党を鎮圧しようとかかり、双方の間に、小競合いが絶間なくつづけられているらしい。
これに刺激され、諸方の勤王志士たちも蠢動をはじめたし、長州藩も国もとへ引きあげてから、事あらば、ふたたび京都へのぼって来ようという気配が濃い。
「油断はならぬ」
新選組も、京都市中における勤王運動の網の目をさぐろうとして必死なのである。
隊士で、隠密方をつとめる山崎|烝《すすむ》が指揮をとり、新選組の密偵は、町人や乞食に化けて、四条木屋町の古道具屋〔桝屋喜右衛門方〕の内偵をすすめはじめた。
なるほど、怪しい。
主人の喜右衛門というのは三十前後の、細い躯つきの男だが、その躯が只の細さではない。
ぴいんと鉄条をはめこんだような、心得のあるものが見れば、かなりの鍛錬を経てきた体躯なのだ。
雇人は小女が一人と、若い番頭のようなのが一人いるが、この番頭もくさい。肩の肉の張りようが町人のものではないのだ。武術にきたえられた肉づきなのである。
ときどき、旅商人や巡礼のようなものが出入りをする。
古道具を見ているふりをして、通りすがりの商人体の男がすばやく番頭に紙片のようなものをわたすのも、山崎は見てしまった。
「間違いありません。ふみこんでいいと思います」
という山崎の報告によって、六月五日の夜明けに、新選組が〔桝屋〕を急襲した。
〔桝屋〕の跡は、現在〔しる幸〕という小料理屋になっている。
しゃれた小ぎれいなかまえの店で、ここで食べさせる〔利久弁当〕というのが若い近代女性たちにも評判で、大変な繁昌ぶりである。
店へ入ってすぐ右手の壁に〔勤王志士・古高俊太郎邸址──京都市〕と書いた大きな木札が、かかげられている。
左様、桝屋喜右衛門は正しく勤王志士であった。
音もなく近より、いっせいに戸を打ちこわして躍りこんだ新選組は、桝屋の主人すなわち古高俊太郎のみを捕えた。
小女も番頭も、すばやく逃れ去っていたのだ。
たちまち、徹底的な家宅捜査がおこなわれた。
桝屋の押入の底や縁の下からは、秘密書類や武器弾薬の類まで発見された。
古高俊太郎は、近江・坂田郡の生まれ、のちに山科毘沙門堂|門跡《もんぜき》につかえ、倒幕運動に加わったものである。
しっかりした男なので、長州をはじめ各藩の志士たちからも信頼をうけ、京都におけるアジトの一つをつとめていた。
屯所に引き立てられた古高は、
「わが名は古高俊太郎|正順《まさやす》だ。そのほかに何もいうことはない」
悠然といって、あとは、いかに撲りつけられても口をひらこうとはしない。
その日の朝から夜まで、原田佐之助や沖田総司が、竹刀や木剣をふるい、古高をいためつけたが、血みどろの古高は、断然、口をきかない。
「大したものだよ、永倉君」
撲り疲れたかたちで、原田佐之助が新八の部屋へやって来た。
「あいつ、相当な奴だ。あれだけ痛めつけられても、同志のことは|おくび《ヽヽヽ》にも出さねえ」
「少し、休ませてやったらどうだ」
と、新八は眉をひそめた。
さっきも、土方が、廊下から顔を見せ、
「永倉君も、少し拷問を手伝ったらどうかね」
にやりといったが、
「性に合いませんよ」
苦笑して、新八は逃げた。
隊士たちの夕飯がすみ、しばらくしてから、今度は土方歳三がみずから出て来た。
「君らのやり方は生ぬるいよ」
土方は青白い顔に一抹の殺気をみなぎらせて、
「まあ見ておきなさい」
古高が押しこめられている物置の中へ入って行った。
新八は見に行かなかったが、あとで、原田が知らせてくれた。
「いやどうも、土方さんもやるねえ。古高をな、さかさまに梁へつるしあげておいてからに、足の甲から五寸釘をぶちこんだもんだ。これには、さすがの古高も悲鳴をあげたよ。そうしておいて、百目蝋燭に火をつけ、焼けただれるような蝋を五寸釘にそって傷口へ流しこんだのだ。いやはや、おれも見ていて音をあげたよ。あの古高が、もう|ひいひい《ヽヽヽヽ》泣き出している」
顔色も変えず、このすさまじい拷問をつづけた土方歳三の前には、ついに、古高俊太郎も音をあげ、それからは茫然自失の態で、するどい土方の訊問に答えはじめたという。
古高俊太郎が自白した内容を聞いて、さすがの近藤勇も、しばらくは口もきけなかった。
三
京都市中にひそむ勤王志士たちが増加しつつあることは知っていたが、
「これア、容易ならんことだ」
さすがの近藤勇も、彼らの陰謀が、そこまでふくらみつつあったとは考えなかった。
土方歳三の訊問もうまかったのだが、古高俊太郎の自白によると、来る六月二十日前後の風のつよい夜をえらび、志士たちは、天皇おわす御所へ火をかけようというのだ。
強風の夜に御所炎上となれば、市中は大混乱におちいる。
もちろん、孝明天皇の信頼をうけている中川宮朝彦親王や、会津侯・松平容保も急ぎ御所へ参内ということになろう。
そこを待ちかまえ、中川宮と会津侯を襲撃し、この親幕派の二大巨頭を血祭りにあげようというのだ。
そればかりではない。
反長州派の諸大名の屋敷を襲って放火をするという計画のほかに、近藤がびっくりしたのは、天皇を御所からおびき出し申し、これを遠く長州(山口県)の本国へ遷《うつ》しまいらせようという一大事であった。
口には勤王をとなえながら、やることは、およそこうした乱暴きわまることをするのが、そのころの勤王志士たちであったのだ。
いや、それが革命というものの本体であり、興奮に押しあげられた行動力の激しさあればこそ、革命が成功するのである。
二十日前後が、その計画実行の日といえば、もういくらの日数もない。
白状をはじめた古高を、土方はなだめすかしつつ、または威《おど》しつつ、土方一流のねばりでもって、次々に新事実をつかんだ。
三条から四条あたりの旅宿にも、諸方の藩名を名乗って泊っている侍たちがいることは、かねてから知っていたが、この中の多くは、この襲撃計画によって京へ潜入した志士たちらしい。
「急を要することだが、あわててはならぬ。二人三人の狼どもを捕えたとて何にもならん。できるなら一網打尽にしたい」
と、近藤はいった。
夜があけると共に、またも、密偵が市中の諸方へ飛んだ。
翌五日の朝になって、町人姿の山崎烝が屯所へ駈けこんできて、
「局長。やはりどうも、くさいと思っていたが……池田屋の様子が只事ではありません」
「池田屋──三条小橋にある、あの旅籠《はたご》だな」
「左様」
山崎は、かねてから池田屋へ出入りする侍や旅商人たちを、あやしいとにらんでいた。
というのは、山崎が乞食姿にならず薬商人に化けるとき、よく池田屋へ泊っては、市中のうわさに耳をかたむけるということをやっていたからだ。
山崎は昨日から大坂の薬商人になって、
「また、ごやっかいになりますよ」
池田屋へ泊りこんだのである。
「どうも昨夜あたりから妙な奴らが出入りすると思っていましたら、今朝になって、何やら講中のあつまりがあるから、新しい客はことわってしまえ、と主人が番頭に命じている。番頭がいろいろ訊いても、主人はくわしいことをしゃべらぬのですが……どうもくさい。狼どもが集まるのではありませんか」
「そうかな」
「それに、昨夜おそく、変な奴が一人やって来て、主人と二人きりで密談をかわしていたようです」
「ふむ……」
「その変な奴というのは、古高の自白した例の四条木屋町下ルところにある三河屋という小さな旅籠に高崎藩士と称して泊っている、土佐の石川潤次郎なのですよ」
「そうか……」
近藤も土方も、屹《きつ》となった。
「尚もさぐれ。こちらは、いつでも斬りこめるようにしておく」
「承知」
と、山崎は連絡方法をくわしく打ち合わせて、またも池田屋へ引き返して行った。
その日は、朝から、三条・四条一帯に張りこんだ密偵が大活躍をした。
夕暮れ近いころになると、
「今夜、志士たちの会合が、池田屋と縄手の四国屋に別れておこなわれる模様です」
という知らせが飛びこんできた。
「よし」
近藤は、ただちに総員集合を命じた。
ところが、ちょうど前日の夕食に隊士たちが食べた魚か何かがいけなくて、十数名がひどい下痢をおこして寝こんでしまっているし、大坂へ出張中のものもかなりいる。
「下痢ぐらい、かまわん、みんな叩き起こせ」
と、土方副長はいうのだが、永倉新八は、
「病人まで駆り出したとあっては、隊名が汚《けが》れましょうよ」
にやりと口をはさんだ。
土方は、じろりと新八を見て、何かいいかけたが、すぐに近藤が、
「これア、永倉君のいう通りだよ、副長」
微笑をうかべ、おだやかにいった。
夕暮れといっても、まだ暑い。
隊士たちは、屯所のまわりに住む人々にも気どられぬようにして、何気なく、二人と三人と屯所を出て行った。
それとは別に、京都守護職たる会津藩へも密使が飛ぶ。
所司代にも連絡をしたし、隊士の武装に必要な品々を箱に入れ、これを荷車にのせ、下男に隊士一名がつきそい、ゆっくりと、祇園の町会所《まちかいしよ》へ運びこんだ。
これで、この六月五日の夜、戌《いぬ》の刻(午後八時)を期して、いっせいに浪士狩りをおこなうことになったわけだ。
会津藩も所司代も千余におよぶ人数をくり出すというし、桑名藩からも手兵を出すらしい。
折から、京の町は祇園祭の仕度でにぎわっていた。
初夏のころから祭ばやしの稽古がはじまっているし、一カ月前の五月一日には致斎《ちさい》の式があり、吉符《きちふ》入りの二十日になると町々からは鉾山車《ほこだし》を通りへ出し、囃子初《はやしぞ》めとなる。
六月に入ったいまでは、祭の景気が昼も夜も町の中にただよい、迎え提灯やら、いろいろな練物の行列が毎日のように町をねり歩く。
「祇園囃子の音というものは特別なもんだな。いいもんだ、いいもんだ」
新八と一緒に屯所を出た原田佐之助が、目を細めた。
四条通りへ出たところで、うしろから藤堂平助が追いついて来て、
「永倉氏、永倉氏──」と呼ぶ。
新八は、思うまいとしても、小常のことが頭にあるから、厭な顔をしながら仕方なく、
「何だね? 藤堂さん……」
「それ、その顔だ、その眼だ」
「何がだ?」
「貴公は、どうも拙者を誤解している。亀屋の小常なんどという女は、拙者、知らぬ。向こうがどう思っていようとも、拙者は、あのような……」
「よしてくれ、藤堂さん」
「え──」
「私も、そんな女は知りませんよ」
「そ、そうか……それならいいが……」
藤堂は少し鼻白んだかたちで「ごめん」と、二人を後にして先へ歩き出した。
原田佐之助が、新八の肩をたたいて、ささやいた。
「いまの貴公の目つきは凄かったよ。まるで藤堂を斬ろうとでもいう目つきだったぜ」
四
夜になった。
祇園会所の奥の部屋三つをぶっこぬきにして、新選組は局長の近藤以下三十名が集結を終えた。
みんな、思い思いの武装に身をかためている。近藤は淡黄のかたびらに皮胴をつけただけの軽装だが、土方は鎖襦袢を着こみ、鉢金《はちがね》をかぶるという物々しいいでたちであった。
永倉新八も、近藤同様に皮胴をつけたのみだが、鎖襦袢だけは身につけておいた。
「蒸すなあ」
誰かが、つぶやいた。
いざというときまで、こちら側の動きを知られてはならないから、一同、外へ出ることもならず、戸障子をあけ放つこともならない。
どちらにせよ、斬込みの先陣は、新選組がうけたまわることになっているから、さすがに隊士たちも緊張しきっていた。
「周平さん」
新八は、そばにいる近藤周平に声をかけた。
「あんた、顔の色が青いねえ」
「そ、そうですか。でも、別に……」
周平は、前髪をおろしたばかりの、少年の匂いを残した顔をふってみせた。
周平は、この春ごろに近藤勇が養子縁組をした青年で、実父は隊士の一人である谷三十郎だ。
三十郎は、備中松山五万石、板倉阿波守につかえていたことがあり、
「周平君は谷三十郎の子ではない。板倉侯の落し胤《だね》を、谷が引きうけたものらしい」
そんなうわさもある。
そのためかどうか、谷三十郎のところへは、板倉家の侍がよくたずねて来た。
「藤堂平助は桑名の殿さまの御落胤だというし、新選組には妙なのが大分いるなあ」
などと、原田がよく冗談にしたものである。
とにかく周平も、いまは近藤勇の養子というわけであった。
谷三十郎にきたえられ、周平は槍をよくつかう。
「あんたにとっては初めての斬合いだから躯中がこわばるのも無理はないが……私も二十二、三のころ、上州で博打うちを相手に真剣勝負をしたのが初めてだった。あのときはもう、手も足もぶるぶるでしたよ」
新八は、つとめて周平の気持をほぐしてやろうとした。
「永倉さんでも、そうでしたか」
周平が、おどろいたようにいった。
「当り前だ。でもねえ、ふだんの実力というものが、いざとなりゃア物をいいます。夢中で飛びこんで行けば、結構やれるもんだ。周平さんの槍は大したもんだし、心配はない。どんどん突きまくってやんなさい」
「はあ」
周平も、にこりとした。
さて、時刻が約束の戌の刻になったが、会津も所司代も出動して来る様子がない。
「何をしておるのか」
近藤は、じりじりしながらも、それから一刻(二時間)に近い時間を待ちに待ったが、依然として出動の気配はない。
「こんなことだから浪士どもになめられるんだ。大名の家来なぞというもんは、いざというときに、ぱっぱっと手足が動かねえようにできていやがるのさ」
伊予松山の若党をしていたこともある原田佐之助が、吐き捨てるようにいう。
「もう待つことはできぬ。土方君、君は一隊をひきいて四国屋を襲え。おれは池田屋へ斬りこむ」
ついに近藤は断を下した。
密偵の報告によると、四国屋に集まっている浪士の方が人数も多いというので、近藤は、永倉新八、沖田総司、藤堂平助、原田佐之助、近藤周平の五名だけをえらんで、
「永倉君。こっちは、これだけでいいな?」
と訊いた。
実戦ともなると、近藤は新八の腕をたよりにしていてくれる。それがまざまざと感じられて、新八も嬉しく、
「大丈夫ですよ」
大きくうなずいてやった。
芹沢事件以来、何となく、近藤と胸のうちの通わなかった新八なのだが、このときの近藤の一言で、今までの胸のしこりが、すーっと消えてしまったようだ。
二手にわかれた隊士たちは、いっせいに会所から飛び出した。
もう町は暗い。月は無かった。
囃子の音も絶えている。
近藤たちは、鴨川沿いの小道を走って三条大橋へかかった。
「息を入れよ」
近藤が足をとめて命じる。
六名は、橋上に呼吸をととのえ、ゆっくりと大橋をわたり、高瀬川にかかった三条小橋をわたった。
池田屋は、目の前にあった。
五
この夜──池田屋に集合していた志士たちは、長州の吉田稔麿、杉山松助、土佐の北副佶麿《きたぞえよしまろ》、野老山吾吉郎《ところやまごきちろう》、肥後の宮部|鼎蔵《ていぞう》、松田重助など三十余名であった。
ことに宮部鼎蔵は、勤王志士ならば一度は宮部の声を聞けといわれるほどの人物である。
志士たちの会議は難航していた。
古高が新選組に捕えられたからである。
長州の大立者・桂小五郎も、この会議に出る筈だったが、一度来て、集まりがまだなので、後でもう一度来るつもりになり、別のところへまわっていて、難をのがれた。
池田屋の潜り戸の掛金は、旅商人に化けて泊っている山崎烝が外しておいたので、
「亭主。御用あらためであるぞ!!」
と、近藤は堂々と呼ばわって中へ入った。
厭も応もない。
たちまちに、池田屋の内部は、怒声と血|飛沫《しぶき》と、刃金と刃金が打ち合う、すさまじい音響の渦巻と化した。
池田屋は間口三間半、奥行十五間の二階屋である。
中庭もせまい。この中で、三十対六の決闘がはじまったのであるから目も当てられない。
永倉新八は、近藤と共に二階へ駈け上った。沖田総司がこれにつづいた。
階下は、原田佐之助と藤堂平助、それに近藤周平が待ちかまえて、二階から駈け下りてくる志士たちを迎え撃った。
こうした、せまい屋内での、ごちゃごちゃに入り乱れた闘いは、新八にとって、はじめてのものであった。しかも、敵は五倍である。
斬りこみはしたものの、はじめのうちは敵を斬るというよりも、むしろ敵をふせぐというかたちになってしまった。
かーっと、新八の頭に血がのぼってきた。
「あせってはいかん、あせっては……」
自分に言いきかせながらも、新八はもう夢中となり、どこでどう敵とわたり合ったものか、後になっても、よくおぼえていなかった。
新八は、必死に刃をふるった。
屋内の灯も消えているし、敵もやりにくいらしい。
座敷から廊下へ──そしてまた座敷へと、新八は絶えず移動しつつ、闘った。
何度も何度も、敵の刃先がのびてきては、新八の着こんでいる鎖襦袢へチカチカと触れる。
そのうちに、新八は冷静になった。
(来い!! いくらでも……)
闘志がもりあがってきた。
それに……。
「えーい……おおっ……」
猛虎がほえているような近藤勇の声がどこかできこえてきて、その肚にひびきわたるようなすばらしい気合いが、新八たちを大いにはげましたのである。
そのうちに、四国屋へ向かった土方の一隊二十余名が駈けつけてきた。
四国屋には志士たちの集合がなかったからだ。
形勢は逆転した。
新八は、気がつくと二階座敷から物干し場へ出、そこから中庭へ飛びおりて闘っていた。
戦闘のひびきは、いよいよすさまじいものになってきている。
「あーッ」
たまぎるような絶叫が、新八の耳へ飛びこんできた。
はっと振向くと、縁先に藤堂平助が顔を血みどろにして倒れ、その上から、のしかかるように志士の一人が刀をふるっている。
藤堂は、懸命に首をふって、その志士の打込みを避けているが、もう、しどろもどろだ。
「藤堂──」
駈けよろうとして、新八は、ふっとためらった。
(藤堂が死ねば、小常も、おれに……)
ちらりと、そう思った。
思ったとたんに、新八は恥じていた。
新八は一気に駈けより、
「こらッ!!」
横合いから、藤堂を仕止めようとあせる敵へ殺到した。
「何を!!」
ふりむいた敵が打ちこんできたのを、新八は下からすりあげておいて、
「えい!!」
ざっくりと、敵の横面へ斬りつけた。
「わあっ……」
敵は、倒れながらも最後の一撃を新八へ送りこんできた。
新八の左の親指が、ぽろりと落ちた。
このころになると、ようやく会津、桑名の両藩に所司代の人数を加え、二千数百という手兵が池田屋周辺をとりまき、水も洩らさぬ態勢をととのえた。
池田屋からのがれ出た志士たちも、これでは、どうにもならない。三十余名のほとんどが斬られ、捕えられた。
激闘、二時間余におよんだという。
新選組で、もっとも重い傷をうけたのは藤堂平助である。
沖田も決闘中に持病が発して喀血《かつけつ》をし、このため、だいぶ手傷をうけた。
近藤勇は、あれだけのはたらきをしながら無疵《むきず》であった。
宮部鼎蔵は、近藤に斬られ、逃げきれぬと知って腹を切った。
隊士一同、とりあえず祇園町会所へ引きあげて負傷者の応急手当をおこない、夜明けと共に屯所へ引きあげた。
四条通りは見物の人々が群れ、満ちている。
藤堂平助は、頭から顔にかけて繃帯をし、板戸にのせられて運ばれて行く。新八は、藤堂のそばへつきそっていた。
新八の着ているかたびらは荒布《あらめ》のように切り裂かれていたし、刀は曲って鞘へおさまらないので、手にさげたままであった。
隊列は、汗と血の匂いを発散させつつ、進んだ。
「な、永倉氏──永倉……」
気がつくと、板の上の藤堂が新八を呼んでいる。
「何だ? 大丈夫かね?」
「うむ……」
藤堂は目をとじ、
「しかし、拙者は、あんたに助けられたくはなかった。これからはもう、あんたに頭が上らぬものなあ」
子供のように甘えた声でいうのだ。
「馬鹿をいいなさんな」
軽くうけ流しながらも、新八は、まだ胸が疼いた。
(あのとき、藤堂を助けなかったら……おれは、けだものになり下るところだったな)
しかし、皮肉なもので、以後の藤堂平助と永倉新八は、かなりうちとけた友人同士になるのである。
[#改ページ]
戦 雲
一
池田屋事件における新選組の活躍は、厭でも天下の耳目をひきつけずにおかなかった。
「池田屋のことがあるまでは、われわれも、会津藩の雇われ浪人のように世間から思われていたし、また、われわれとしても何となく、そんな気分だったもんだが……しかし、池田屋以来、何ごとにつけ、がらりと変ってきたよ」
と、後に永倉新八は、旧友の市川宇八郎へ語っている。
長州藩のおそるべき陰謀を探知したばかりではなく、京都へ潜入していた主謀者のほとんどを、新選組の手によって殲滅《せんめつ》したわけであるから、会津侯・松平容保は〔京都守護職〕として、
「新選組のはたらき、満足に思う」
感状と共に金五百両を隊士一同におくり、負傷者も、それぞれの手当があった。
また、幕府も、かねて〔新選組費用〕として会津藩にあずけておいた金のうちから、左のごとく行賞金をあたえるようにと指令をよこした。
金十両(別段金二十両) 近藤 勇
同 ( 同 十三両) 土方歳三
同 ( 同 十両) 永倉新八、沖田総司他四名
同 ( 同 七両) 原田佐之助、谷三十郎他九名
同 ( 同 五両) 松原忠治、中村金吾他十名
その上に、朝廷からも慰労のおぼしめしとあって、金百両が新選組に下しおかれたという。
去年八月、会津と薩摩の両藩が協力し、長州の勢力を京都から追いはらったときの政変にも、新選組は刀こそぬかなかったが、充分にその威力をしめしていたし、その後の〔浪士狩り〕のすさまじさを知った京都市中の町人たちさえも、
「壬生浪《みぶろ》」と呼んで、その闘争力の強さ激しさに目をみはっていたものだ。
だが、京に新選組ありと、その名と実力が天下に知れわたったのは、池田屋事件によってであろう。
「まあ、それからは、会津侯ばかりか御公儀からも大いにみとめられ、たのみに思われもした。また、おれたちもそれにこたえようと思い、いつも命がけになって、はたらいたもんだ」
新八が市川宇八郎にのべたように、そのころの新選組の隊士たちは、暗殺と陰謀とに異常な情熱をそそぎ一挙に革命を成功させようとはかる長州藩を相手にして、これも火の玉のようになっていた。
しかも、孝明天皇は、幕府と会津侯をいたく信頼されていたし、いわゆる〔公武合体〕の信念は、
「みじんもゆらぐことがなかったもんだ」
と、新八は語っている。
ともあれ、当時の新選組というものは得意の頂点にのぼりつめていたといえよう。
行動と行動を裏づける名目とが、ぴったりと歩調を合わせていたのである。
「諸君。よくやってくれた。局長として、近藤勇、心から感謝をする」
近藤勇は、島原の角屋での慰労宴で、隊士たちを前に挨拶をし、頭をたれた。
近藤としても、感無量というところであったろう。
武州・多摩の農家に生まれ、一剣をもって天下の大事にはたらくことができたという感動をおさえることができず、その夜の近藤は、めずらしく興奮を露骨にした。
「諸君の将来については、近藤が誓ってひきうけよう。近藤を信じ、近藤にどこまでもついてきてもらいたい」
といった。
「私は諸君をひきい、徳川幕府の起死回生の|みなもと《ヽヽヽヽ》ともなり、陣頭に立って進むつもりである」
ともいった。
酔ってもいる。
いつになく近藤は、ながながと演説をおこなって尽きるところを知らない。
永倉新八は、盃をなめながら、演説をつづける近藤へ、ちらりちらりと視線を送っていたが、
「ねえ、原田さん」
となりで、さかんに酒をあおっている原田佐之助を指で突いて、
「今夜の近藤さんは、何か変じゃアねえかな」
心配そうに、ささやいた。
原田は、にやりとして、
「私は、諸君をひきい……と、近藤さんはいったようだな」
「うむ……」
「その諸君の中に、おれも貴公も、土方さんや、沖田君も入っているのかなあ」
「ふむ」
「そのつもりらしいぜ」
と、原田は酒をみたした盃洗を膳に置き、
「いかにも近藤さんは新選組の局長だが……しかし、江戸以来のわれわれだけは同志なのだぜ。こっちへ来てから隊に入れたものとは、わけが違う。われわれだけは近藤さんの家来じゃねえよ」
新八は、苦笑をもらした。
「そうだろう、永倉君。こんなことで、近藤さんがいい気持になられては困る」
原田は、どうも近藤の演説が不満らしい。思わず語気がつよくなってくるのを、新八はおさえて、
「いまの近藤さんは、晴れがましい気持で胸がいっぱいなんだろうが……これから、せっかくここまで進んで来た新選組が何か妙なものにならなけりゃアいいと、おれは、そう思うだけだ」
「いかにもなあ……」
原田はうなずき、
「しかし、諸君をひきうけるというのはいけねえ。諸君と共にといってもらいたかった」
などと、いつもは、さっぱりした男なのに、近藤の演説には、くどくこだわった。
新八も、原田とは気が合う。
二人とも物事にこだわらぬ気性だし、ただもう一剣をひっさげて、おのれの信ずるところへ、わき目もふらず進みぬいて行こうという心がまえだけで生きているのだ。
それだけに、近藤の後からくっついて行けば、何か行手に嬉しい恩賞や出世なぞが待ちかまえている、だから自分にしたがってもらいたい、とでもいいたげな近藤勇の演説を、新八はほろ苦い気持できいたのである。
やがて、近藤の演説が終った。
百余名の隊士たちは、われ返るような拍手をもってこれにむくいた。
近藤は、満足気に何度もうなずき、
「では諸君。今夜は心おきなくやってもらいたい」
大声にいって、手を鳴らした。
それを合図に、障子という障子を開け放った廊下から、どっと島原の芸妓たちが広間へ流れこんで来た。
さんらんたる灯下に、女たちの夏衣裳が、あわただしくうごきはじめる。
三味線、太鼓、笛の音が、角屋の広間から部屋という部屋にわきたった。
隊士たちは、それぞれ好みの席に散って、酒盃をあげはじめた。
夏のさなかである。
京の夏の夜はむし暑く、汗はしとどに流れてくるのだが、みんな気にもかけない。
肌をぬいで大刀を引きぬき剣舞をやるものが、其処此処の部屋の中で、
「えい!!」
「おう!!」
ところかまわず、柱や鴨居に切りつける。
女たちの嬌声が絶間なく、部屋の廊下に、庭にわきおこった。
「永倉先生」
ふわりと前にすわった芸妓を見て、
「小常か……」
新八は顔をしかめた。
小常、相変らず美しい。
「しばらくだったな」
「へえ……」
「ま、一つ行こう」
盃をやると、
「へえ、おおきに──」
小常はうけて、すぐに、
「藤堂先生のお怪我は、どうどすえ?」
「………」
「今夜は来やはりまへんなあ」
「当り前だ」
「なら、藤堂先生のお怪我は、ぎょうさん重うおすのか?」
「屯所に寝ているよ」
こんなことを、なぜ、選りに選っておれに訊くんだ、この女は……舌うちしたいのを我慢して、新八は、
「お前、そんなに気になるのか、藤堂のことが……」
「へえ」
小常は眉をひそめ、
「お見舞いに屯所へ行ったら、いけまへんのやろか?」
ぬけぬけというのだ。
「ああ、来いよ来いよ。おれが藤堂の部屋へ連れて行ってやる」
新八も、もう自棄《やけ》になり、怒鳴るようにいってやった。
「へえ、おおきに──」
用がすむと、すぐに、さっさと、小常は新八の前から去って行った。原田佐之助が新八に顔をよせて、
「貴公も人がいいねえ」
と笑った。
「ふン」
「怒るなよ。永倉君」
原田は新八より一つ年下なのだが、見たところは新八よりも三つ四つ上に見えた。
また事実、もっと後になるまで、新八は自分が、原田の年下だと思っていたし、原田もまた、そう思いこんでいたものだ。
ふっくらとした童顔で、何かまぶしそうな目つきをしている永倉新八だけに、
「おれは……このおれの顔つきというものは、京の女にはもてねえ。江戸ではよかったのだがなあ」
新八も、原田には、もちまえの伝法な口調で遠慮なく何でもしゃべれたものであった。
二
〔池田屋事件〕は、諸方の勤王志士たちを憤激させた。
長州の本国に、この知らせが入ったのは、六月十二日という。
これより先、長州藩では何度も使者を大坂屋敷へおくり、藩主・毛利大膳大夫をはじめ、長州本国にかくまっている三条実美以下六人の公卿の冤罪を朝廷にうったえてきている。
「勤王革命をなしとげようとする我藩を京都から追い出し、幕府の飼犬たる会津や薩摩のいうままになられているのは、あまりにも情ない。朝廷は、日本の政権を天皇にお返ししようとする我藩の心がおわかりにならぬのか……」
というわけだ。
この嘆願は、すべてしりぞけられた。
むろん、京にある公卿たちの中でも、
「長州が気の毒じゃ」
「何とか、ふたたび京の地へ彼等をよびもどしてやりたい」
と思うものも、かなりいる。
だが、朝廷は今のところ、親幕派の公卿の勢力が圧倒的につよい。
その上に、孝明天皇御自身が、松平容保を寵愛せられ、会津藩が懸命にととのえている京都の治安を、
「容保がようはたらいてくれる」
満足に思っておられる。
幕府と朝廷とをむすびつけるための〔京都守護〕の役目にはたらく会津藩を、このようにふかく天皇が信頼されておられるのでは、まず長州藩がいくらさわいでみても、はじまらないというところだ。
そこへ、池田屋事件がおこった。
「もう、我慢はできぬ!!」
こらえにこらえていただけに、長州藩の過激派は、いっせいに起ちあがった。
藩主の毛利侯や重臣たちの一部は、去年の政変における敗北にこりているので、もう少し我慢をしたい気持であったらしいが、下からもりあがる革命の気運を押えきることはできない。
幕府側といい、勤王側といい、旧勢力のおとろえ方は同じものであって、あきらかに新時代への息吹きが芽生えはじめていたのだ。
「それっ!!」
殿さまの考えなぞは意にもかけない。
早くも六月十六日の夕刻には、長州軍の先発部隊三百人が、久坂義助や真木和泉守にひきいられて、周防《すおう》(山口県)三田尻の港を出帆した。
ついでに書いておく。
真木和泉守というのは、筑後(福岡県)久留米の神官で、熱烈な勤王論者である。
長州藩のものでもない、こうした勤王志士たちが、続々と長州本国に集まっていたのだ。
幕府や会津藩と手をむすんだ薩摩藩は、かつて彼等のメッカであった。
その薩摩藩に裏ぎられたのだから、諸方の志士たちは、もう一つのメッカである、長州藩に集まり、藩内の過激派と協力して、何とか長州の軍事力をもって京都を制圧しようと活動をしていたわけだ。
さて……。
第一軍につづいて、福原越後という長州藩家老がひきいる第二軍が大坂へ到着し、すぐに、来島又兵衛《きじままたべえ》・国司信濃を隊長とする第三軍が長州を発した。
第四軍も、長藩の家老・益田右衛門介がひきいる。
何しろ、大変な意気ごみである。
再三の敗北にもひるむことなく、長州を中心とする勤王派の闘志は狂気じみて燃えさかるばかりのようだ。
軍をひきいて京都にせまりながらも、長州藩はしきりに、前にのべたような嘆願をつづけた。
もはや、これは嘆願というようなものではない。
いうことをきかなければ、京都へ攻めのぼるぞ、と威嚇をおこなっているのと同じことである。
これに対し、幕府側も、会津藩を中心として、京都にある諸国大名に命を下し、藩兵の出動を要請した。
いうまでもなく、新選組にも出動の命令が下った。
「おい、もう小常どころじゃアねえな」
と、原田佐之助が永倉新八にいった。
「ふン。何だ、あんな女……」
「だが、何だぜ。あれから何度も、小常は屯所へやって来て、そのたびに、貴公が藤堂平助の病室へ案内をしてやっていたようだが……藤堂は一度も会おうとはしなかったと言うじゃアねえか」
「そうらしい」
「ふうむ。ではやはり、藤堂め、小常には気がねえのだな」
「そうらしい」
「貴公もよく、このごろは藤堂と話しこんだりしているようだな」
「うん」
「なるほど。藤堂も池田屋の斬込みで、貴公に一命を救われたことが、よっぽど身にこたえたとみえる」
「そんなことはあるまいよ」
その藤堂平助も、いまは傷も癒り、元気に出動をした。
赤地に〔誠〕の一字をあざやかに染めぬいた大四半の幟《のぼり》を先頭にして、新選組は堂々と屯営を出発し、九条河原に陣をかまえた。
三
元治元年(一八六四)七月十八日──。
長州藩は、ついに、会津藩に対して宣戦布告をした。
ぐずぐずしていれば、幕府の迎撃体制がととのってしまうばかりである。
「ともかくも、これ以上待つことはならぬ。幕府や会津に機先を制せられては、またも長州の面目がまるつぶれとなる」
会津藩を相手に戦うという名目をたてたのは、
「われわれは、天皇を、朝廷をたぶらかし、幕府の走狗《そうく》(手先)となって天下を乱す会津藩を京都より追いはらうのである」
会津が、天皇の信頼をうけていることを、長州側もよくわきまえているから、こうした理由をつけたわけだ。
戦いに勝ち、京都を手中におさめたあかつきには、天皇をおしたてて新政権をつくりあげようという意気ごみだから、戦いをはじめるにしても、まずどんな理由にせよ、あきらかにしておかなくてはならない。
これをきいて、京都市中はわきかえるようになった。
すでにその前から、市中の町民たちは、
「戦さがはじまるのや」
「いまのうちに逃げとかぬと、ひどい目にあうぞ」
家財をはこび出すものもいるし、市中から逃げ出しにかかるものもいる。よろこんだのは、武具や刀を商うものたちで、刀屋や武器専門の古道具屋なぞは、もう目の色を変えてはたらきはじめた。
幕府側でも、年若い将軍・家茂の後見役として京都二条城にある一橋慶喜が御所へ参内し、長州派の公卿たちを押え、ついに〔長州討伐〕の勅令をうけた。
慶喜は、前の水戸藩主・徳川|斉昭《なりあき》の子で、一橋家へ入り、現将軍の家茂と、かつては将軍位をあらそったこともある。
勅令が下ったのだから、京にある諸藩の兵も、いっせいにうごきはじめた。
長州軍来攻にそなえた軍備・配置は次のようなものだ。
稲荷山方面 (大垣・彦根藩)
八幡山方面 (宮津藩)
遊 軍 (丸岡、小倉藩)
豊後橋方面 (仁正寺、園部藩)
山崎方面 (郡山、津藩)
これに、会津と桑名の両藩が中心となり、伏見から押しよせてくる長州軍にそなえた。
この方面から来る敵軍が、もっとも強力なものと見たからである。
そして、もう一方の天竜寺方面から攻めて来る長州軍にそなえて、薩摩・膳所《ぜぜ》・越前・小田原・松山などの各藩が出動をした。
御所の諸門を守る各藩の部署もきめられた。
新選組は、むろん、会津藩と共にうごいている。
つまり、会津藩の特別機動隊のようなものであった。
近藤、土方以下〔副長助勤〕をつとめる幹部は、それぞれ甲冑《かつちゆう》に身をかためたが、
「この暑いのに、鎧なんぞ着ちゃアいられねえ」
永倉新八は、例のごとく、籠手《こて》・臑当《すねあて》をつけた上に、黒ぬりの皮胴をつけた。
この皮胴は、つい先頃、特別にあつらえたもので、皮胴といっても剣術の稽古につかうためではなく、
「池田屋の斬合いのときのことを考えて、こしらえたのだよ」
新八が原田佐之助に自慢したように、あくまでも実戦用の工夫が諸処にこらされている。
見事な黒うるし|ぬり《ヽヽ》の中から、新八の家紋〔五三の桐〕が金箔であざやかに浮き出していた。
これに袴をつけ、隊服にきめられた浅黄にだんだら染めの羽織を着こみ、その上から皮だすきをかけ、あとは鉢巻のみという平隊士なみの軽装であったが、
「しかし、その皮胴はすごい。おれも命があったら、あつらえておこう」
と、原田がひどくほめてくれた。
新選組が、九条河原の銭取橋《ぜにとりばし》に陣をかまえたのは七月に入ったばかりで、それから半月あまりも、伏見の長州軍とにらみ合っていたわけだ。
長州討伐の令が下ったときくなり、
「よし!! 今夜すぐに、新選組だけで、伏見の長州屋敷を襲撃しよう」
すぐに、近藤勇が幹部たちを集めていったものだ。
「なるほどねえ」
と、原田も感心して、
「鎧に金ぴかの陣羽織なぞを着こみ、おまけに烏帽子なんぞを頭にのっけて馬にまたがり、どこのお大名になったつもりでいるのかと、実はおれア気にくわなかったんだが……いざとなると、考えることはすかさねえ。今夜のうちに長州屋敷へ斬りこもうというのは、おれも気に入ったよ」
そっと、新八にささやいた。
新八も我意を得たりとうなずく。
しかも近藤は、
「こういうことは、いちいち会津藩へうかがったりしているうちに手おくれとなる。こっちだけでやってしまおう」
という。
襲撃は十八日の夜ふけというよりも、十九日の未明にきまった。
一同、勢ぞろいをして、いざ出発というときになって、
「何だ、あれは──」
「寄せ貝ではないか」
突然、幕軍の本陣から〔ほら貝〕が鳴りはじめたのである。
「手おくれだな」
新八は、原田をかえり見て舌うちをした。
早くも長州軍は、京都を目ざして進撃をはじめたらしい。
ともかく、近藤は馬に飛び乗り、会津藩の陣営へ駈けつけると、
「本陣からの達しによると、伏見稲荷の関門が危いそうじゃ。すぐそちらへ向かってもらいたい」
会津藩では、神保内蔵《じんぼくら》を隊長とする一隊百五十名を新選組に合わせ、伏見稲荷へさし向けることにした。
伏見の関門は、彦根と大垣の両藩が守っていた。
これより先、伏見の長州軍をひきいる福原越後が伏見奉行の林肥後守に、
「先日、御公儀より、伏見を引きあげよとの命をうけましたによって、只今出発いたす。なにとぞ、人馬の拝借を願いたい」
と申し出ている。
もちろん、宣戦布告の直前であった。
「心得申した」
林奉行は、これを承知して、人足や馬を提供したというのだからおどろく。
伏見奉行といえば、幕府の命によって伏見の地をまもるものであるのに、目と鼻の先の京都にある〔守護職〕に問い合わせもしていない。
このころの武士や大名というものは、この林肥後守のようなものが多かった。
血相を変えた長州軍が伏見にいることを、奉行所ではもてあましていたのだろうし、おそろしく思っていたのでもあろう。
とにかく引きあげてくれれば、責任を負わなくてすむというわけであった。
長州軍は伏見を引きはらい、天王山に向かうと見せて、開戦と同時に、いきなり伏見稲荷の関門へ殺到して来た。
だ、だあん……。
一斉射撃と共に、すさまじい喚声をあげてせまって来る長州軍を見るや、
「これは、いかぬ」
関門を守る彦根藩は、あわてて逃げ出してしまったのだ。
かつて、家康が徳川幕府をつくりあげたころ〔井伊の赤備え〕とかよばれ、徳川軍の中でももっとも精強をほこった彦根軍が、いかに小勢だからとはいえ、ろくに戦いもせず逃げ出してしまうのだから、徳川幕府のおとろえ方も、およそわかろうというものだ。
この福原越後ひきいる長州軍は、伏見を通りぬけて比叡山にこもり、京都随一の食道である江州《ごうしゆう》の移入をおさえ、京都にいる敵軍を兵糧攻めにしようという作戦であったともいう。
それはともかく、伏見の門をまもる敵が逃げ出したので、
「幕軍は、あのように腰ぬけぞろいなのだ。いまに見よ、京は長州のものだぞ」
長州軍は、悠々として伏見関門を通りぬけようとした。
会津と新選組の合同軍が、駈けつけて来たのは、このときである。
四
両軍、激突をした。
夜は、まだ明けきってはいないが、薄明のうちに、双方のうごきは、よく見えた。
長州軍が放つ銃声よりも先に、
「わあっ……」
おめき声をあげて、新選組が斬って入った。
このあたりは、山肌に沿った細い道が曲りくねっているし、民家もある。
それに何といっても夜明け前のことだし、遠方のながめはきかない。
長州軍は気をよくしていて、あまり斥候も出していなかったらしい。
そのため、新選組の接近をゆるした。
「どこからでも来い!!」
永倉新八は刀をひきぬいて突進した。
敵の槍、刀……こっちへ向かって来るのをはねあげ、はらいのけておいては、
「やあ!!」
ざくり、ざくりと敵の横面から首にかけて斬りつける。
つまり武装のない、相手の肌が露出しているところをねらって斬りつけるのだ。
斬りつけるたびに、新八の小柄な躯が、ぱっぱっと飛びあがるように見えた。
戦いは、短かった。
何しろ、会津兵と新選組といえば、幕軍のほこるもっとも精強な部隊である。
それに、長州軍隊長の福原越後が、敵か味方か、どちらが撃ったものかわからぬ弾丸を顎にうけて負傷をしたので、
「ひきあげよ!」
さあーっと、長州軍は退却してしまった。
会津兵と新選組は、ひとまず、伏見稲荷の境内に引返し、そこで点呼をおこなったが、
「や!!」
「大砲だ!!」
京都市中から、いんいんたる大砲の音がきこえはじめた。
これは、嵐山の天竜寺にあった長州軍が一気に京都へ攻めこんだものである。
伏見方面から攻めこむと見せて、別の嵯峨方面にあった一軍をひそかに増強し、これを主力として、横側から市中に突き入った長州軍の作戦が、まんまと効を奏したのだともいえる。
が、それにしても、天竜寺から京都御所までの、わずか三里ほどの近間にあって、長州軍のうごきがわからなかった幕軍や諸藩の部隊も手ぬかりの〔そしり〕はまぬがれまい。
戦国時代の武士たちなら、こんな間のぬけた戦争をする筈がない。
魔神のような長州軍の攻撃は、たちまちに、天皇おわすところの御所の外門へせまった。
薩摩藩は、西郷吉之助(隆盛)が大将となって諸藩の兵と共に御所をまもっていた。
薩摩藩はずるい。
朝廷にも幕府にもくっついていながら、長州軍とも正面衝突をやりたくないのだ。
薩摩は、長州のように過激ではない。
手段をえらばず革命をしようというところまで行ってはいない。
そのくせ、いつかは折を見て〔勤王の薩摩藩〕が中心となり、新政府をおこそうとしているわけだ。
皮肉にも、この薩摩藩が長州の主力をひきうけて戦うことになった。
「長州は無茶をしすぎる」
西郷吉之助は舌うちをしたが、御所へ攻めかかる敵と戦うのだから、後世になっても、何のそしりをうけるものではない。
激戦となった。
蛤御門を中心にして、両軍は、御所の門、塀、屋敷などのたてこむ地形の中で渦を巻き、すさまじい戦闘をくりひろげた。
結果は、長州軍の敗北に終った。
やはり多勢に無勢であった。
この戦いで、長州藩は多くの人材をうしなった。
久坂義助、入江九市、来島又兵衛なども、ここで戦死をしたのである。
真木和泉守は、やっと、血路をひらき山崎の天王山へたてこもった。
新選組が天王山攻撃を命ぜられた。
けれども、真木和泉は戦うことなく、みずから陣営を焼き、新選組が山上の敵陣へ飛びこんだときには、真木以下いずれも腹を切って火中に身を投じていた。
ここにいたものは、わずか十七名で、長州の兵は一人もいなかった。
いずれも、諸国の浪士ばかりで〔忠勇隊〕という一隊に属し、長州軍に加わっていたものばかりであった。
こうして、またも長州藩は敗北し、追いはらわれた。
この戦争にあたり、あの池田屋事件以来、京都の六角の牢獄にとらわれていた勤王志士たちは、ほとんど首をはねられてしまった。
取りしらべもせずに、斬首してしまったのは、無謀には違いないが、口に勤王をとなえながら、御所を攻めた長州藩も無謀だ。
乱世には、無謀が常識となる。
幕府といい、勤王派といい、よいことも悪いことも、煮えたぎる釜の中で一緒になり、煙となって消えてしまったのである。
このときの時世のうごきや人間たちの言動を、現代の常識によって批判することは、非常にむずかしい。
戦争は終った。
終ったが、京都市中の被害もひどかった。
焼失家屋二万七千四百戸におよんだという。
このほか、公家や武家の屋敷五十数戸、寺や神社が百七十余、橋四十、芝居小屋三という焼失記録が残っている。
新選組としては、死者三、負傷者二十を出したのみであった。
それは、いちばん激しい戦闘に間に合わなかったためでもある。
〔禁門の変〕とよばれるこの戦争がすんだ後ごろから、島原の芸妓、小常の態度が少しずつ変ってきた。
新八に対する態度が、である。
これには、藤堂平助が蔭へまわって、いろいろと工作をしてくれたものらしい。
「ともかく、私は、小常のような美女には、指もうごかんのだ。もっと、ぼってりとした、躯つきのゆたかな女が、私にはよいのでね。だから、はっきりと、小常にもいってやったし、あんたの気持も小常につたえておいた。永倉君のような立派な侍に想われていることを、お前は女のみょうりだと思うべきだとね」
からかっているのではない。
まじめな顔つきで、藤堂は新八にいったのだ。
「もういいよ、藤堂さん」
新八は苦笑をした。
あれだけきらわれたのだ。いまさら小常がなびいてくるとは考えてもみなかった。
ところが、島原へ出かけるたびに、
「おこしやす」
小常が微笑をふくんで、新八の席へあらわれるようになったではないか。
「ほう。どうした風の吹きまわしなんだ。厭な奴の座敷に出てくるにゃアおよばないよ」
「あきらめました」
「何を?」
「藤堂先生を……」
「ふうん……」
「もう藤堂先生にのぞみも無うなりましたし、それに、うちも芸妓どすよって、いつまでも男はんの手から逃げまわっているわけにもいけしまへん。うちはなあ……」
「うちは、何だ?」
「藤堂先生の次に、永倉先生が好きやのどっせ」
「いまさら何をいやがる」
「ほんまや……他の男はんの手に抱かれるより、もういっそ永倉先生に……」
「お前は、ハッキリしているなあ」
新八もあきれたが、こだわらずに、さっぱりと小常を〔わがもの〕とした。
囲ってみると、はじめは少し、ぎこちなかった二人の間も肌と肌に通い合う温みにとけ、小常も新八を大事にするようになったのである。
[#改ページ]
江 戸 の 空
一
永倉新八は、小常との新居を、西本願寺近くの鎌屋町にかまえた。
いわゆる〔休息所〕である。
このあたりは、慶長のころからひらかれたところで、八百屋町だの松明《たいまつ》町だの、樽屋町だのという町名が一緒にかたまっており、はじめは農商雑居の地であったという。
いまの京都駅のすぐ近くだ。
「まあ、こんなところで我慢をしてくれ」
京格子のはまった小さな家ではあるが、小常は、満足そうに、新八へうなずいて見せた。
何しろ、月に十両から十五両という金を、新八は小常において行く。
町民一年の暮しが出来る金を、毎月つかってもよいのだから、小常もいうところはない。
「ほんまに、あんた。立派な旦那はん見つけて、よかった、よかった」
祇園で、これも芸妓をしている小常の姉のおせいも大いによろこんでくれた。
「それにしても、よくお前、承知をしてくれたもんだなあ」
非番の或夜、小常と共に酒を酌みかわしつつ、新八がいうと、
「もういわんといておくれやすな」
さすがに、小常も恥じらった。
あれだけ新八を、ふりぬいてきた小常だけに、おもはゆい気がするのであろう。
このごろの小常は、新八の愛撫にも、細かいからだをひどく汗ばませ、我にもなく激しいこたえ方をするようになった。
「たまには、藤堂平助の顔も見たいだろうな」
新八が、からかいはじめても、
「ちっとも、そない気イはおこらしまへん」
さばさばと、小常はいった。
池田屋騒動の傷が癒えてから、藤堂平助は何度も島原へ足をはこんだらしい。
小常の心を、新八になびかせようがためである。
「永倉先生と一緒になれとおいやして、そらもう、よくよくいいふくめられてしもうて……」
藤堂は、懸命に、新八のよさを力説した。
「拙者なぞは、くらべものにならぬ人物だぞ。女の冥利と思え」
あの気取りやの藤堂が、池田屋で新八に助けられたときのことを包み隠さずにのべたてて、
「お前のことでは、拙者も永倉氏に憎まれていた。その前にも……その江戸でだな、女のことで、拙者は永倉氏に憎まれざるを得ぬようなこともしていたし……」
と、藤堂は何も彼も小常にうちあけ、
「本来なれば、あのとき、拙者を助けぬでもよかった筈なのだ。お前にはわかるまいが、憎いと思うやつをとっさの場合に命をかけて助けあげるということは、なかなか出来ぬものだ。永倉氏は立派な人だ。この立派さがわからぬようではお前も女の屑だ」
藤堂一流の弁説を聞いているうちに、小常も、新八の人柄に、今までは思っても見なかった好ましさを、おぼえるようになってしまったという。
「それもこれも、お前が藤堂にふられたからさ」
こんな冗談を新八がいっても、
「そうどンなあ」
小常が微笑で受け流すほどに、二人の間には、こだわりが消えた。
小常のいる〔休息所〕には、新八も満足しきっていたが、屯所へ出て行くと、不愉快なことも多くなってきた。
新選組の存在が大きなものになって行くにつれ、隊員も増え、組織も複雑になってくる。
近藤勇も、あれだけの人物ではあるが、何となく肌合いが違ってきたようだ。
「ふン。成り上りもんめ──」
と、原田佐之助なぞは思いきったことをいう。
「武州の百姓上りが、まるで、大名にでもなった気でいやがる」
今や、近藤は〔大御番頭取取扱〕という身分にのし上り、会津侯はじめ、親幕派の大名たちにも、すぐに目通りをゆるされるほどの威勢もある。
たとえば、朝の挨拶ひとつにしても、新八や原田が頭を下げると、
「むむ……」
かるくうなずき、頭を下げるどころか反対に、ぐっと胸も反り返ってしまうという近藤なのである。
どうも、おもしろくない。
新八や原田にしてみれば、あくまでも近藤勇は〔同志〕にすぎない。人物を見こんで局長にいただいているわけだが、そのために、近藤自身が江戸以来の同志を、まるで自分の家来か何かのように思っているのでは、とてもかなわない。
ことに京都へ来てから入隊したものが大半をしめる新選組である。
互いに力を合わせ、命をかけて勤王浪士の暴動を鎮圧する──という初期の目的が、
「近藤先生の後について行けば、いまに我々も甘い汁が吸える」
という隊士たちの期待に変りつつある。
この動乱の時代に、何とか浮かびあがり立身出世をしたいという熱情は、彼らばかりではなく、勤王浪人にもある。
槍一筋に運命をかける戦国時代が、またやって来たのだ。
政治の仕組や文明の構造が、三百年前のそれとは大いに違っていても、人間の本能には変りがない。
それはそれでよい。
だが、それだけに、同志が、主人と家来に変ってはおもしろくない。
たとえば、隊員の一人で、五番隊組長をつとめる武田観柳斎という者がいる。
出雲《いずも》・松江の出身で、医学をおさめた上に、永沼流の兵学をやる。書もうまいし、文章もたくみな上に、愛嬌もあり、弁説もさわやかなものだ。
この武田を、近藤はしきりに可愛がる。
近藤にしてみれば、剣術一つに打ちこんで今まで生きてきただけに、学問に対する劣等感が、絶えずつきまとっている。
(おれも、これだけの身分になったのだから……)
教養も充実した人物にならなくてはいかぬ、と焦っているのだ。
だから、武田の才能を珍重する。
武田はまた、近藤や土方には、まんべんなく、おべっかをふりまいて取入ってしまったので、何事につけても、
「武田君を呼べ」
と、近藤が命じて、武田の意見を聞くのが慣例となってしまった。新八や原田には目もくれないところがある。
「もう黙ってはいられねえ」
原田佐之助の主張で、永倉新八、島田甲斐、桂山武八郎、尾関政二郎、斎藤一の六名が、会津藩邸へ出かけて行き、会津藩公用方の小森久太郎に面会した。
このとき、新八たちが、近藤勇について会津藩に出した建白書は、五カ条からなっていたそうだ。
どんな五カ条か伝わってはいないが、近藤に対する不満を訴えたものに違いなく、
「右五カ条のうち一カ条でも、近藤氏が申しひらき相たてば、我々六名は切腹いたす」
とまで、いいきった。
このことを聞き、会津侯・松平容保も非常におどろき、すぐに、その場へ近藤勇を呼びつけたものである。
「京都守護職として、余は、新選組をたのみに思うこと、すこぶる大きい。新選組は、もともと、おぬしたちが申し合わせによって組織されたものではないか。いまここに、そのような仲間割れがあって、もしも解散いたすなどということになっては、新選組を預りおる余の不明ともなろう」
じゅんじゅんと説いた。
近藤も馬鹿ではない。
新八が、
「近頃、武田観柳斎などが、局長に対し、新選組は局長のものである。我々は臣下として、局長につかえましょうなぞと、しきりに諂《へつら》うため、新選組出発当時の精神が失われつつある」
という意味のことを、会津侯の前で、近藤にいってのけると、近藤は顔をしかめたが、
「みなの心は、よくわかった。おれも、よくよく考えてみよう」
と、さからわなかった。
そればかりではなく、近藤自身、おのれの慢心ぶりに、いくらかは気もついたらしい。
会津侯から酒肴をたまわり、一同、屯所へ帰ると、土方歳三が、にやにやしながら、これを出迎えた。
近藤も、さすがに苦い顔で居間へ入ってしまったあと、土方が新八に言った。
「やったな?」
「いけませんか」
「誰もいかんとはいってない。おれも武田は大きらいだ」
その武田観柳斎の態度が、がらりと変った。新八や原田や斎藤のそばへ、にこにこ顔ですりよって来ては、しきりに世辞をつかう。
「永倉さんたちが、隊の粛清をするらしい」
といううわさも飛ぶし、武田はもう生きた心地もなかったのだ。
こんなことがあって間もなく、新八は、近藤勇と共に、急に、江戸へ出発することになった。
二
近藤勇の江戸行には、二つの目的があった。
一つは、将軍・家茂の上洛を、諸方への運動を通じて実現しようというものである。
一つは、江戸にある有為の人材を集め、これを新選組に迎えようとするものだ。
このため、近藤の出発に先立ち、江戸の浪士たちにも顔のひろい藤堂平助が、単身で江戸へ急行をした。
近藤が京都を発したのは、元治元年十月二日である。
近藤に従うものは、永倉新八、尾形俊太郎、武田観柳斎の三人で、依然、近藤は武田を愛寵している。
「今度は、君にはたらいてもらわなくてはならぬ。よろしくたのむ」
近藤から、新八にも、ねんごろの言葉があった。
つまり、新八の旧主・松前伊豆守を通じ、近藤は先ず、将軍上洛要請の運動を起こすつもりであった。
一時も早く、将軍が京へやって来て、天皇の御機嫌をうかがってもらいたい、それが今の情勢において、もっとも大切なことであるというのは、近藤のみではなく、会津侯も同意見なのである。
これは、どういうことなのか。
池田屋事件から、禁門戦争と、いずれも幕府方に敗北を喫したが、長州藩の動きは活発をきわめた。
戦争に負けはしても、激烈な革命への闘志をむき出しにして京都へ迫り、市中の三分の二を戦火に焼きつくすということをやってのける長州藩である。
いまは本国へ引きあげた長州藩に対し、幕府はすぐさま、
「長州を征伐せよ」
勅令をもうけて、征長軍の編成にとりかかった。
征長軍総督は、尾張・名古屋六十一万九千石を領する徳川|慶勝《よしかつ》が任じた。
幕府は、芸州口からの攻撃を、山陽道にある諸大名に命じ、石州口を山陰道の諸藩、下関口及び萩口の攻撃を、九州の諸藩に命じた。
このときの参謀は、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が就任した。すでに、このころにおける西郷の人望、思うべしだ。
孝明天皇も、御所にまで攻めかかって来た長州軍に対し、
「もはや、がまんがならぬ」
とまで、おおせられている。
長州征伐の準備もすすめられているときでもあるし、ここで将軍・家茂みずから、京へやって来て、天機をうかがうと共に、征長軍を激励してくれれば、士気は、いやが上にもさかんになる。
今や、勤王派大名として表向きに幕府に対抗しているのは長州藩のみだといってよい。
もう一つの勤王派の巨頭である薩摩藩は、今のところ、幕府方に加わり、長州征伐の一翼となってしまっている。
このときである。
おとろえかけた徳川幕府の威勢を一挙に盛り返し、徹底的に魔神のような長州藩を叩きつぶしてしまわねばならぬ。
ここで将軍が京都へやって来ることは、すべてにおいて違う。
朝廷に対しても好感を抱かせることになるし、幕府軍の気勢は大いにあがるに違いない。
「この機をのがさず、将軍家上洛……」
と、会津も、これを熱望している。
近藤の江戸出発に際しても、会津侯は、老中諸侯に当てての添書を、みずからしたため、近藤にわたしたほどであった。
この老中の一人に、松前伊豆守がいる。
伊豆守が老中に任じたのは、つい先頃のことだ。
老中といえば、幕府閣僚の最高位をしめる要職である。
「ちょうどよい。永倉君がうまく口ぞえをしてくれれば、会津様からの添書をさしあげるだけではなく、おれが松前侯に目通りを願い、直接に、将軍家上洛のことについての力ぞえをお願いするつもりだ」
こうなると、近藤勇は火の玉のようになる。
誠意と熱情とが、はっきりと看取されたし、
「よろしい。ひきうけましょう」
新八は胸をたたいた。
たたいては見たが、いささか心細くもあった。
何しろ、安政四年十一月に、十九歳の新八は、ひとり松前屋敷をぬけ出し、脱藩の処分をうけている身である。
それから七年もたっている。
江戸にいたころ、小づかいをねだりに、そっと、母親を松前屋敷内の長屋におとずれたことはあるが、
(そうだ。おやじには、まる七年会ってはいなかったんだなあ)
あらためて気がついた。
江戸にいる親友、市川宇八郎からの手紙によると、父の永倉勘次は、ちかごろ健康が思わしくなく、出仕も休み、薬餌にしたしむようになったという。
(おやじにも会いたいが、母さまにも会いてえな)
近藤と共に江戸へ向かいつつ、新八の胸はときめきつづけていた。
一行は、早駕籠をつらねて桑名まで飛ばし、ここから船で、熱田へわたった。
海上、ひどい暴風雨となって、船が転覆をしかけた、などということもあったが、十月二日に京を発ち、早くも八日の夜ふけには、江戸へ到着した。
三
足かけ二年ぶりの江戸であった。
牛込・市ケ谷柳町の近藤道場には、勇の養父・周助が病床につき、これをまもって、妻の|つね《ヽヽ》と娘の瓊子が留守をしている。
勇の故郷の武州・多摩から、絶えず交替で、勇の門人たちが道場へつめて来ていた。
新八にとっても、試衛館道場は、なつかしかった。
この道場に、自分の青春が、きざみつけられているような気がする。
翌朝、新八は、とりあえず、市川宇八郎をたずねた。
駕籠を飛ばして、牛込から浅草・阿部川町の裏長屋へ一気に乗りつけると、
「おや……永倉先生じゃねえか」
「これは、まあ、ずいぶんと御立派におなンなさいましたねえ」
長屋の住人たちが、ぞろぞろと出て来て、新八をとりかこんだ。
「やあ、しばらくだなあ」
つい二年前までは、この長屋に、市川宇八郎と酒を酌みかわし、ひとつ床に眠っては、剣術への情熱を燃やしつづけていた新八なのである。
あのころにくらべると、新八も、|りゅう《ヽヽヽ》としたものだ。
小常が縫いあげた仕立おろしの紬の着物に黒紋つきの羽織で、袴もぱりぱりしている。
棒天振《ぼてふり》の千吉に、新八が、
「宇八郎さんは、いるかね?」と訊くと、
「まだ、高いびきの最中でさ」という返事だ。
「このごろも酒はやっているのか?」
「何だか、景気がよさそうで……」
「ふうむ」
宇八郎の住む長屋の戸をあけて、新八は入って行った。
「よう、来たな」
宇八郎が床の中から起き出してきた。
「しばらく」
「おう……」
宇八郎は、まじまじと新八をながめやって、
「ふうむ……」
と、うなる。
「何だ? 何をうなっているんだよ、宇八郎さん──」
「なるほど? うわさに聞く新選組の羽ぶりは、ばかによさそうだなあ。新八さんの面を見ただけでもわかる」
「宇八郎さんも、ずいぶん貫禄をつけたもんじゃねえか」
「なに、肥っただけだよ。このところ、稽古を怠けっぱなしでね」
ひょろりと痩せていた長身の市川宇八郎の体躯に、みっしりと肉がつき、寝ていたふとんから寝巻から、壁にかかっている着物から、以前の宇八郎にはない贅沢な匂いがただよっている。
「景気がいいそうじゃないか」
新八が上って行くと、
「先ず一杯だ」
すぐに冷酒を茶碗につぎ、
「乾盃!!」
と、宇八郎は叫び、おのが茶碗を新八の茶碗へ、カチリと合わせた。
「何のまねだ?」
「何、こいつは毛唐が酒をのむときにやる仕来たりだとさ」
「ふうん……」
「さ、新八さん。一杯やったら深川だ、深川だ。昨夜、売れ残った女を朝から抱くのも乙なもんだぜ」
などと、宇八郎は相変らずであった。
「それどころじゃアねえのだ、宇八郎さん。前もって手紙にも書いておいた通り……」
「わかった。松前屋敷へは入りにくいか?」
「手びきをしてもらいたいな」
「冗談いうな。お前さんは、もう立派な公儀御役にはたらいているも同然ではないか。大手を振って門をくぐれ」
「しかし、何しろ脱藩の身だし、第一、おやじのゆるしも得てはいない」
「よし、よし。一緒に行こう」
阿部川町から三味線堀の松前屋敷までは、目と鼻の先である。
肩を並べて、二人は歩いた。
このあたりは寺院が多い。
其処此処の寺の塀からのぞいている銀杏の樹などは、もう黄ばみつくしていた。
「なあ、新八さん」
「うむ?」
「おれはな、ひょいとすると養子に行くかも知れねえぜ」
「ほほう……」
「芳賀なにがしという旗本から、養子に来てくれと頼まれてな」
「いいじゃねえか」
「いいのは相手の娘よ。こいつはちょいと、掘り出しものでね。しかも、おれに首ったけときている。このごろは、女中をつれて、あの裏長屋へおでましになってな、やれ着物を縫ったとか、お惣菜を煮てまいりましたとか……いやはや、このところ市川宇八郎、大もてだよ」
のろけるところを見ると、まんざらでもないらしい。
「どうだ、新八さん。京の女は……?」
「悪くないな」
「できたか?」
「うむ、……それよりも宇八郎さん。おやじの病気はどうなんだ?」
「うむ……」
ちらりと眉をひそめ、
「そいつが、あまり、かんばしくねえらしい」
と、宇八郎はいった。
四
市川宇八郎に、つきそって行ってもらったが、松前屋敷では、意外に、
「よう見えたな、新八。元気で何よりじゃ」
と、公用方の遠藤又左衛門が、こころよく新八に会ってくれた。
近藤勇から、殿さまに当てた書面も差し出し、
「何とぞ、お目通りが、かないますよう、お取りはからい下さい」
新八が頼むと、
「左様か。申しあげてみる。しばらく待て」
と、遠藤又左衛門は立上りかけて、
「おう、そうじゃ。殿の御返事がいただけるまで、おぬし、長屋へ行け」
「は……?」
「会って来い。父御や母御に……」
市川宇八郎も、
「そうしろ、そうしろ」
そばから、しきりにすすめる。
「では……」
おもはゆいような、なつかしいような、そして何となく、父親の勘次に会うことがおそろしいような気持であった。
御殿を下って、なじみぶかい屋敷内を、きょろきょろと見廻しつつ、新八は、自分が生まれ、育った長屋の前に立った。
「ごめん」
「はい」
女中が出て来た。
若い女中で、新八は見たこともない。
「奥様は、おいでか?」
「はい」
「新八が来たと……そっと申しあげてくれ」
女中の顔色が変った。新八のことを、いろいろ聞きおよんでいたものであろう。
「は、はい。お待ち下されませ」
あわてて、女中が引込むと、すぐに、玄関へ、母親のりつが駈け出して来た。
「し、新八……」
口をぽかんとあけたきり、りつは声も出なくなった。互いに見合うこと、しばし……。
「母上。ごぶさたを……」
新八から口をきると、
「お前は、まあ、立派になって……」
母親の眼が、みるみるうるんでくる。
玄関の次の間で、新八は待たされた。
母親が、病床にある父親に、新八来訪のことを告げに行ったのである。
老僕の伊兵衛が、茶をはこんで来た。
「わ、わ、若旦那さま……」
「おう、伊兵衛。まだ生きていたのか?」
「お別れをしたのは、去年の二月でございますよ」
「そうだった。いや、すまねえことをいっちまったが、おれは、お前が生きていてくれるのが、嬉しいんだよ。悪く思うな」
「とんでもございません」
「伊兵衛……」
「へえ……?」
「母さまは、すっかり、やつれてしまったなあ」
伊兵衛は眼をむき出し、
「みんな若旦那が、そう、おさせ申してしまったんでございますよ」
痛いことをいった。
母親があらわれた。
「おゆるしが出ました。さ、早う……」
「さようですか」
新八も、さすがに飛び立つ思いであった。
奥へ行き、母親が開けてくれた襖から首をのばし、新八は病室をうかがい見た。
青ぐろい、むくんだ顔を天井に向けたままで、父親の永倉勘次が、弱々しくいった。
「入れ」
「はい」
入って、新八は、ひれふした。
「ち、父上。申しわけ……」
「もうよいわ」
「は……」
「お前も今は、御公儀の御役に立ち、立派にはたらいておるそうな……会わぬわけにも行くまい」
「おそれ入ります」
「新八……」
「はい」
「わしも永くはないぞ」
新八は眼を伏せた。
異常にむくんだ父親の顔なのだが、小鼻の肉が、げっそりと落ちている。これは、もう死期が近づいていることをしめすものだと、新八は、岡田十松先生から聞いたことがある。
父母と共に、新八は、いつまでも黙っていた。
晩秋の空は、あくまでも澄みわたり、しめきった障子の向こうから、あかるい陽ざしが、部屋の中までしみこんでくるようであった。
「新八。このうえは心おきなくやれ。わしも、母も、すでに覚悟はきめてある。一家の存続のみを、願うている世の中では、ないものなあ」
ややあって、父親が、そういった。
「はい」
答えて、父親の横顔を見つめているうちに、その顔が新八の瞼の中で、ぼーっと、にじんできた。
五
松前伊豆守に、近藤勇が目通りをゆるされたのは、その翌日であった。
伊豆守の斡旋により、それから毎日、近藤は老中諸侯を訪問しては、将軍上洛の必要を説いてまわった。
老中たちも、近藤のいうことはよくわかっている。
「尽力をしてみよう」
と返事はするのだが、いずれも何か、はっきりとした手ごたえがない。
幕府も今は火の車であった。
長州征伐の費用は、出兵する大名に、押しつけるとしても、将軍が京都へのぼるための費用がないのである。
永年にわたる慣例で、将軍の行列、旅程、その他の仕来たりをくずすことはできない。
そのためには莫大な入費がかかる。
「将軍御一人にても京へおのぼりあるべきかと存じます。今や、御公儀にとって、のるかそるかの大事なるときでござります」
とまで近藤はいい張ったが、
「ともあれ、尽力をしてみよう」
という諸侯の返事だけを空だのみにして、近藤勇は、京都へ戻ることになった。
さて……。
この間にも、藤堂平助は毎日のように出歩き、いろいろと工作をしているようであったが、
「局長。伊東|甲子太郎《かしたろう》殿が、お目にかかるそうです」
と、報告してきた。
「そりゃア、ありがたい」
近藤も、よろこんだ。
伊東甲子太郎は、常陸の浪人で、深川・佐賀町に道場をかまえている北辰一刀流の剣客だ。
藤堂平助も北辰一刀流だし、ずっと以前から、伊東との親交があったらしい。
「伊東氏を隊に加えることは、大変な力になります」
かねてから、藤堂は近藤に説きつづけていた。
今度、江戸へ来た近藤は、伊東との会見を、重要な用件の一つに考えていたものだ。伊東は、剣客として名が通っているばかりではなく、国学者としても知られているそうだし、門弟も七十名をこえるという。
江戸出発の三日前に、近藤勇は、藤堂平助をともない、伊東甲子太郎に会いに行った。
両国|薬研堀《やげんぼり》の〔草加屋〕という料亭の二階で、会見がおこなわれたようである。
その夜、試衛館へ帰って来た近藤は、上機嫌であった。
「酒の仕度をしてくれい」
すぐに、妻女のつねに命じた。
「はい、はい」
つねは、おどおどしている。
一年半ほどの間に、夫の勇が堂々たる侍になってしまい、口のきき方から、風貌から、まるで違ってきている。妻女にしてみれば、この道場にいたころの、素朴な土くさい武芸者の匂いをかぎわけることもできぬらしい。
(何も、あんなに反っくり返らなくとも、よさそうなもんだ)
と、新八も苦笑している。
京都では、近藤も、かなり好色なところを見せ、島原の深雪太夫というのを身うけし、これを醒ケ井の妾宅にかこっているばかりか、祇園町でも馴染みの女をこしらえ、三本木の芸妓で駒野という女とも浮名をたてている。
新八は、妻女のつねが気の毒になってきた。
つねの酌をうける近藤は、
「うむ、うむ……」
まるで、下女か何かを相手にしているような態度なのである。前に、この道場で、たゆむことなく稽古に汗を流し、
「つね、背中をふいてくれんか」
井戸端で、にこにこ笑いながら妻女を呼んでいる近藤の好ましさは、どこへいってしまったものか。
江戸へ来てから、近藤は妻女を抱いてやったものであろうか、どうだろうか……と、新八は、ふっとそんなことを思ったりした。
「ともかく、大した人物であったよ」
近藤は、新八や武田観柳斎に向かって、伊東甲子太郎をほめそやした。
「ともかく、眼の青い毛唐人に、わが日の本の国を踏みにじられてはならん、ということで大いに共鳴をした。そのためには何よりも、天子おわす京の町に平安をもたらすことが第一ということでな。いやもう剣客というよりも、むしろ学者だ。いうことがすべて大きい。弁説もさわやかなものでな。ああいう人物が新選組の幹部として、はたらいてくれることを、わしは、かねてからのぞんでいたのだよ」
近藤は、いつも〔おれ〕というのが、急に〔わし〕といいだした。
(何が|わし《ヽヽ》だ。あんまり威張るな)
新八は、どうも、おもしろくない。
新八にしても、むろん、一剣をもって世に出ようという気持はある。しかし、それは、あくまでも剣士として、天下のために活躍出来る場所がほしいと、一途に思いつめていただけのことだ。
世の中がおさまり、そのときまで生き残っていられたら、幕府から取立てがあるのは当然なのだ。
だからといって、何も百石よこせだの二百石の旗本になりたいだのとは、考えてもみない。
だが、近藤勇は、こうして江戸へ出て来て、老中諸侯にまで単独の会見が出来るような身分になれた、ということが嬉しくて得意で、たまらないらしい。
原田たちとはかり、厭な思いまでして会津侯に、近藤弾劾の建白書を差し出したことも、あまり、ききめはなかったようにさえ思われる。
その夜、道場の板の間に、藤堂平助と床をならべた新八がきいた。
「藤堂さん。伊東甲子太郎という人は、そんなに、えらいのかえ?」
「むろんだ!!」
藤堂は、きらきらと双眸をかがやかせ、ふとんの下から、ぐっと新八の手をつかんだ。
「どうしたんだ?」
「永倉氏」
「何だね?」
「新選組も今に変ってくる。もっと、もっと変ってくるぞ」
「どう変るのだね?」
「よくなる」
「よくなる……?」
「そうだとも、永倉氏。新選組は、もっと立派になる。伊東さんが入隊を快諾されたことは実に愉快だ。こんな嬉しいことはない」
異様に、藤堂平助は、はしゃいでいた。
新八は、それに、ついて行けなかった。
「永倉氏。これからも、あんたと拙者は手を握り合い、どこまでも一緒に進んで行こうではないか」
藤堂の興奮は、なかなかにさめない。
小常のこと以来、新八は、藤堂へ好意を抱くようになっていたほどだが、何となく、この夜の藤堂には、
(どうかしているな)
得体の知れぬ不安をおぼえた。その不安は、漠然としてはいても、新八自身への不安にもつながっている。
(どうも、発足のころの新選組ではなくなってしまったような……)
十月二十日の朝、近藤一行は江戸を発し、京都へ向かった。伊東甲子太郎は後から来るらしい。
その朝、市川宇八郎が試衛館へやって来てくれた。
「おやじやおふくろの消息をたのむよ、宇八郎さん──」
「わかった。新八さんも無茶をしちゃいけねえぜ」
江戸の朝風は、もう冬のように冷たかった。
[#改ページ]
激 流
一
近藤勇の江戸における活動は、まずまず、所期の目的を達したと言えよう。
将軍・家茂の上洛は、近藤の嘆願が効を奏したわけでもあるまいが、翌年の五月になって実現をした。
「何よりも有力な同志をあつめることが出来たのは嬉しい。それもこれも、今度は藤堂君が、実によく、はたらいてくれたよ」
京都へ帰って来ると、近藤は土方に向かってこう言い、「よかった、よかった」
満悦であった。
伊東甲子太郎は、実弟の三樹三郎を筆頭に加納道之助、服部武雄、佐野|七《し》五|三之助《めのすけ》、篠原泰之助、中西登、内海二郎の一党七名をしたがえ、近藤の後から、十二月早々に京都へ到着をした。
つづいて、新井忠雄、毛内有之助など、諸国脱藩の侍や浪士たち五十余名が、次々にやって来て、新選組に加わることになった。
「どこの馬の骨だかわからねえ奴らを、いくらふやしてみても、はじまらねえのじゃアないか。どうだ新八さん」
と、原田佐之助は眉をよせ、
「どうも、近藤さんの病いは膏肓《こうこう》に入ったようだね」
近藤は、もう新しい隊づくりに夢中であった。
新選組は、二百名以上にふくれあがったのである。
その隊長ということになれば、二百名の部下を指揮する大将ということだ。
戦国の世には、百石の武士は四人の軍役をうけもったという。
つまり百石の武士は、四人の家来をもつということだから、近藤の場合、五、六千石の旗本と同じほどの地位にのぼりついたということがいえなくもない。
「これからはやるぞ!!」
近藤の得意、思うべしであった。
翌慶応元年になると、近藤は隊の組織をあらためた。
およそ、次のようなものである。
総 長 近藤 勇
副 長 土方 歳三
参 謀 伊東甲子太郎
組 長
一番隊 沖田 総司
二番隊 永倉 新八
三番隊 斎藤 一《はじめ》
四番隊 松原 忠司
五番隊 武田観柳斎
六番隊 井上源三郎
七番隊 谷 三十郎
八番隊 藤堂 平助
九番隊 鈴木三樹三郎
十番隊 原田佐之助
そのほか〔伍長〕とか〔取調役並監察〕とかの職制が、さだめられた。
これを見ても、伊東甲子太郎が、いかに新選組の重要な地位をしめたかが、よくわかる。
伊東は、京へつくや、すぐに、
「あらためて念を入れたい」
と、近藤にいった。
「何でござる?」
「新選組の勤王は、まことに王事に仕うる主義の勤王派でありましょうな」
「いかにも──」
近藤は、うなずいた。
勤王などということは、あらためていうがものではないと思っている。
天皇をうやまい、これに仕えたてまつることは、徳川将軍とて長州・薩摩のものにおとりはしない。
なるほど、幕府は創成以来、朝廷の力を殺ぎ、政権の安定をはかりつづけてきた。
しかし、今は、まるで状態が違ってきている。
京都朝廷を中心にして、渦巻く勤王運動を押えきるためには、どこまでも天皇を、朝廷を重んじ、これを押したてて政権の安定をたもつべきだ、ということが、幕府にも身にしみてわかっている。
前には、勅使が江戸へやってきて、定めの挨拶を将軍におこなったものだ。
今は、将軍が京へのぼって、天皇の機嫌をうかがうというまでに、変ってきている。
さいわい、孝明天皇は、義弟に当る将軍・家茂の純真さに、いたく好感を抱いておられるし、京都守護職たる会津侯にも深い信頼をよせておいでになる。
新選組は会津侯直属の団体である。
(新選組が勤王なのは、当然のことではないか。伊東氏も何でまた、あらためて、こんなことを……?)
むしろ、近藤は意外であった。
(江戸でも、そのことは、くわしく話しておいた筈ではないか──)
それは伊東甲子太郎、百も承知なのだ。
それでいて、くどく念を押したのである。
というのは、入隊したときの伊東の肚の中には、もっと別な考えが、はっきりとおさまっていたのだ。
勇の勤王と、伊東の勤王とは、まったく違う。
伊東の勤王とは──幕府を倒し、外国列強の勢力を日本から追い払い、そして、薩摩と長州を中心とした新政権をつくりあげようというものであった。
この食い違いを知りつくしているくせに、伊東は口に出さない。
念を押してから、
「わかり申した。これからは共に力を合わせ、国難をのりきるため、はたらきましょう」
近藤の手を力強く、にぎりしめたものだ。
伊東ほどの学者が、剣客が、新選組の幹部になってくれたことで、近藤はもう感激、興奮の体であった。
近藤には、絶えず、
(おれは、ろくに学問をしてはいないのだ)
という劣等感が、つきまとっている。
たとえば、勤王佐幕とか攘夷開港とかいうスローガンの理論的な説明を、やってのけるだけの自信がない。
二百余名をひきいる大将としては、心細い気がすることもある。
(これからは剣術だけで、立派な武士になれると思ったら大間違いだ)
と、ひそかに近藤は思う。
それは、たしかにそうなのだが……。
二
これより先、新選組隊士一同に深甚な衝撃をあたえた事件が起こった。
すなわち、山南敬助の脱走が、それである。
山南は、仙台の浪人で〔試衛館〕以来の同志であった。
でっぷりした体つきの、色白で眼もとのすずしい温厚な人柄で、隊士たちは、
「山南先生、山南先生──」
と慕い、なついていたものだ。
山南もまた隊士たちのめんどうを身を入れてしてやる。
伊東甲子太郎が来るまでは、局長の近藤と、土方・山南の二人が、隊の主導力であったのだし、隊規をみだしたものは、少しの容赦もなく切腹させてしまう土方歳三とは違い、
「山南先生は話がわかる。心のあたたかい人だ」
山南によって失敗を隠してもらい無事にすんだ隊士も、かなりいたものだ。
こういう人柄で、学問もあるだけに、山南敬助は伊東甲子太郎に会うと、たちまちに意気投合してしまった。
ひまさえあれば、伊東の部屋で、しんみりと酒を酌みかわしつつ、しずかに、いつまでも語り合っている。
ひとつには、近藤と土方の二人による秘密会談によって、どしどし事がはこばれてしまうのにも、不満であったらしい。
慶応元年二月二十一日の夜に、突如として、山南は脱走した。
土方歳三は、かねてから山南の行動に目をつけていたらしく、
「追え!!」
すぐに、沖田総司に命じ、駿馬《しゆんめ》で追わしめた。
沖田は、近江・大津の宿に泊っていた山南を発見し、これを隊に連れもどしたのである。
取調べには、土方自身が、これに当った。
何と訊いても、山南は石のように黙ったままである。
「あんたが答えぬなら、もう何もいうまいよ」
と、土方は苦笑した。
「新選組は、もともと分が悪くなった徳川の力を盛り返し、ともに王事のためにはたらこうというので生まれたものだ。あんたも、それを承知で行を共にしたのではないか」
山南は、軽侮の笑いを土方へ投げつけた。
理論より直截な行動力ですべてを押しきろうとする農家出身の土方歳三と、根っからの武家育ちで内省的なインテリの山南との間には、今でも、事ある毎に、冷たい反目を重ねつづけてきている。
山南は、急に、切りつけてでもくるような激しい声をあげた。
「私はただ、この重大な時局にあって、やたらめったに斬り合い、人の血を流すことが厭になっただけだ。貴公のような、狼ごとき男には、いくら話してきかせてもわかるまい」
「そうですか」
と、土方は座を立ち、
「脱走は切腹という隊の掟です。あんたも御承知のことと思う」
さっさと部屋を出てしまった。
山南の切腹は、二十三日におこなわれた。
「永倉君。介錯をしてやり給え」
と、土方が、その前夜に新八へいった。
ひきうけてみたものの、どうも気がすすまなかった。
休息所へ帰り、小常の酌で酒を飲んでみても、味がない。
「どうおしやした?」
「何でもない」
「けど、青いお顔どすえ? 何か厭なことでもあったンどすか?」
「小常、お前の知ったことじゃアない」
そこへ、原田佐之助がやって来た。
先に、小常を寝かせておいて、二人は、ひそひそと語り合った。
「原田。貴公、おれの代りに山南さんの介錯をしてやってくれ」
「いやだよ、そいつだけは困る」
「弱った。なぜ、脱走なぞしてくれたのかな」
「おれはねえ、永倉──」
と、原田は顔をよせ、
「どうも、あの伊東甲子太郎というのは気にくわねえ」
と言った。
「おれもな、若いころから世の中の、いろんなところを、この目で見て来ている。理屈じゃアねえ」
と、原田は、自分の頭を指で突ついて見せ、
「おれのカンなんだが……どうも、伊東の奴、何か魂胆があって、隊へ入ってきやがったんだぜ」
「何の魂胆だ?」
「そこまではわからねえが……ともかく、山南さんは伊東に、何かそそのかされたんじゃねえのか」
「そうかなあ」
「また近藤さんもよくねえ。何とか言うと、土方、土方だ。山南さんが、むかむかするのは無理もねえよ」
「そんなことだけではあるまい」
「今な、伊東が近藤さんに膝づめ談判でもって、山南さんの助命を願い出ている」
「そうか──」
と、新八も喜色をあらわし、
「うまく行くといいな。おれは、どうあっても山南さんの首をはねるのだけは、ごめんだよ」
「ところが、うまく行かねえさ。何しろ、土方が近藤さんのそばにつきっきりで目を光らせている。今までに脱走して腹を切ったものは何人もいるぜ。山南さんだけを特別扱いにするわけがねえ」
果して、翌朝になり、新八が屯所へ出て行くと、屯所西側の一室に、切腹の用意がととのっていた。
永倉新八は、たまりかねて、沖田総司をつかまえ、そっと、
「おれにはできないよ」
つぶやいた。
すると沖田は、
「私も厭だが……よろしい、あんたと代りましょうよ」
「ほんとうか」
「どうせ、誰かがやるのだ。私なら、山南さんもよろこんでくれると思う」
「おぬし、若いのに気が強いなあ」
新八は、あらためて、この肺を病んでいる白面の青年剣士を見やった。
沖田は、山南にも可愛がられ、親交は深かった筈である。
近藤、土方以下、隊士たちの見守る中で、山南敬助は切腹の座についた。
「沖田君。すまないねえ」
と、山南は落ちつきはらい、短刀を取りあげるや、ぐっと土方歳三をにらみつけ、
「あわれむべし!! 山猿めが……」
叫ぶや、短刀を腹に突きたて、ひきまわした。
三
山南の死に、隊士たちは不満であった。
「何とか命だけは助けてもよかったではないか」
「土方さんも土方さんだ」
「土方さんの血は凍っているのか!!」
かげでは、非難の声も、かなりあったようだ。
新八も、おもしろくなかった。
何しろ、江戸の、あのふるびた小さな試衛館の道場で、苦楽を共にした仲ではないか。
その山南を切腹させるに、土方は眉一本もうごかさなかった。
むしろ近藤の方が、かなしみは深かったらしく、山南の切腹後は、居室にこもり、ひとり経をよんでいたという。
こうした永倉新八の胸のうちを、早くも察したらしい。
あるとき、廊下ですれ違いざま、新八の袖をつかみ、
「永倉君。おれのようなものがおらなんだら、これだけの人間を束ねては行けないのだよ。ま、いい。憎みたければ憎んでくれ」
いきなりこういって、ふり向きもせずに、さっさと行ってしまったことがある。
ともかく、山南敬助切腹のことがあってから、隊内では、何となく、ざわざわとした空気がただよいはじめた。
たとえば、こんなこともあった。
伊東甲子太郎が、
「永倉さんも、たまにはつき合って下さい」
といった。
島原へくりこもうというのである。
「承知しました」
死んだ山南同様、伊東の隊内における評判もよい。近藤、土方が一目おいているのに、それを少しも伊東は鼻にかけない。
山南切腹以来、隊士たちの中には、あまりにきびしい隊規へ反感を抱いて、脱走するものも、二、三あった。
もう発足当時の新選組ではない。
人数もふくれあがった。壬生の屯所では手狭でもあるし不便でもあるというので、西本願寺の集会所へ引き移ることになったほどだ。
「大世帯になったからには、尚更に、隊規を重んじなくてはならん」
というので、近藤も土方も、びしびし隊士を取りしまった。
実に、息苦しい。
この中にあって、伊東は隊士たちを、あたたかく包容しており、彼らの失敗をかばって、危いところを助けてやったことも二、三にとどまらない。
まるで、山南敬助が生き返って来たようだと、隊士たちの多くは、伊東になつくようになった。
原田佐之助は、相変らず、
「どうも、伊東は気にくわねえ。おれのカンが、そういってる」
と、新八にいうのだが、
「気にすることはないさ。同志となった人をうたがうべきじゃあるまい」
新八は、こだわりがなかった。
伊東にさそわれたときも、だから、気軽くこれに応じて、新八は、島原へ出かけて行った。
「今日は、私のおごりだ。心おきなくやってもらいたい」
永倉のほかに、斎藤一が、さそわれた。この二人のほかは、伊東の弟、三樹三郎をはじめ、服部、加納など、みな江戸以来の伊東の腹心のものばかりであった。
例によって〔角屋〕へ上った。
すでに、伊東は〔輪違屋〕の花香太夫というのを馴じみにしていて、これを〔角屋〕によびよせ、酒宴が、はじまった。
小常と暮すようになってから、新八も遊里へは足ぶみをしないようになっている。
久しぶりだというので、新八も女たちから大いにもてた。
「藤堂君から、あなたのことは、よくうけたまわっていましたよ」
伊東甲子太郎は、新八をとなりにひきよせ、しきりにもてなしてくれる。
「あなたの剣術も剣術だが、人柄も人柄だというてねえ」
「そうですか。藤堂さんは、私のことを気の早い、おっちょこちょいだとでもいったんでしょう?」
「とんでもない。一剣をもって王事につくす、その生一本の人柄を、藤堂君は、ほめてもほめてもたりないようでした」
新八は苦笑した。
たしかに、藤堂の態度は変ってきている。
小常との仲を取りもってくれたり、何かにつけ気をつかい、
「いい鴨が一羽、手に入った。夜は休息所行きだろう、永倉氏。お常さんと鍋にでもして下さいよ」
鴨の肉をよこしたりする。
(池田屋のことを、いつまでも恩にきてくれなくてもいいのにな……)
しかし、悪い気持はしなかった。
「何しろ、剣術だけしか、身についたものはない私ですからね」
新八は、くすぐったそうに伊東へ答えた。
「結構、結構。この上とも、この伊東甲子太郎の力となってもらいたい。よろしいか、永倉氏。私も、これと見込んだ人には、どこまでも誠をつくす男です。互いに、互いの力となり合いましょう」
「承知しました」
新八は愉快であった。
近藤も土方も、このごろでは、いよいよ近よりがたくなってきている。
二人とも、毎日、仕立おろしのような黒紋付の羽織、仙台平のパリパリするような袴をつけ、胸をそらし、廊下ですれ違ったときなど、新八が頭を下げると、
「うむ……」
挨拶を返す近藤の頭は下るかわりに、ぐぐっと反り返ってしまうのだ。
(近藤さんも、とうとう成り上り者になってしまやァがったな)
苦々しくて、たまらない。
新八のような江戸育ちのものは、何よりも大形《おおぎよう》なことをきらう。
いくら出世しても、いくら立派な着物を身につけても、中身は変ろうとしても変らないのが、江戸のものの気性である。
(ただもう今の世に力一杯はたらける場所さえあれば、いいのではないか。なるほど、おれは剣術一方の能なしかも知れぬが、これで世がおさまり、剣術の入用が無くなったとなれば……そのときは、小常と二人で、どんな田舎の片隅へでも、ころがっていって、ひっそりとおれは暮すつもりだ。もっとも、そのときまで命があればの話だが……)
こんなことを、新八は考えている。
それだけに、伊東甲子太郎の少しも傲《おご》りの見えぬ気さくな人柄に、新八は、ひきつけられていたのだ。
島原の宴は、大いに羽目を外し、つきるところを知らなかった。
いつのまにか、新八は酔いつぶれてしまい、ふと気がつくと、角屋の小間に寝ていた。
広間では、まだ、さわいでいる。
廊下へ出て、仲居をつかまえて時刻をきくと、もう五ツ半(午後九時)をまわったというではないか。
(いかん)
当番の日の帰隊時刻は五ツ半にきめられている。
夜ふけから明け方までの方が、事件の起こる率は高い。
新選組は、池田屋以来、勤王浪士の探索に全力をあげているのだ。
ことに、新八のような〔組長〕の役についているものは、いつでも部下の出動を容易ならしめるだけの責任がある。
「伊東先生。もはや帰隊の時刻をすぎました」
少しあわてて、広間にいる伊東のそばへ行き、新八がささやくと、伊東は、じいっと見返して、
「かまいませんよ」
という。
「しかし──」
「伊東がひきうけました」
「だが、それは……」
「たまには、近藤さんをおどかしてやりましょう」
「切腹を覚悟でもよいのですか?」
「かまわぬとも──」
|にっ《ヽヽ》と伊東が笑った。大胆不敵な笑いである。
「これだけのものを……」
と、伊東は一座を見わたし、
「みんな切腹させると言うなら、切腹しようじゃありませんか、どうです」
「ふむ……」
ちょっと、痛快になってきた。
人間である以上、たとえば止むを得ない失敗もある。そのたびに、隊規をふりまわされ、腹を切らせるというのでは、息もつけない。
というよりも、そのような雰囲気を隊士たちに感じさせるところが、いけないのだ。
規則には、血が通っていなくては、ならぬ。
伊東は、こうした近藤・土方のやり方を、どうやら少しずつあらためて行こうと考えているように、新八には思えた。
あとの連中は時刻にも気がつかず、もう大騒ぎであった。
「よろしい」
と、新八も決意した。
「おまかせしましょう」
飲んで飲んで、ついに朝が来た。
伊東一派のものは平然としている。
斎藤も、こうなっては仕方がないといった顔つきで、
「今夜も帰らんぞオ」
と、わめき出す始末であった。
その夜も、島原泊りである。
三日目の朝、一同そろって本願寺の屯所へ帰った。
四
隊士一同「さあ大変なことになるぞ」という顔つきで、帰ってきた伊東一行を迎えたが、伊東甲子太郎は平然たるものであった。
一行八名、ただちに近藤の居間へ呼びつけられた。
近藤は、血相を変えていた。
「伊東先生が先に立って、このようなことをなさっては、困りますな」
苦々しげに、近藤がいうと、
「どのように処分なされようとも、かまいませぬ」
伊東は微笑さえふくんでいる。
「追って申しわたす。しばらく謹慎されたい」
八名は、それぞれの部屋に別れてとじこめられた。
新八は、加納道之助と同じ部屋に入れられたが、
「永倉さん。いくら近藤さんが切腹を命じようとも、それでは隊士一同が承知しませんよ」
自信ありげに、加納がいう。
その通りであった。
屯所内は、急に、ざわめきはじめた。
(二度と、山南先生のときのようなことを、くり返してはならぬ)
不穏なものが、隊士たちの間にみなぎりはじめた。
さすがに土方歳三は、この気配を敏感に見てとって、今度は、なだめ役にまわった。
「近藤さん。切腹を命じてはいかん。今度は黙っておきましょう」
「しかし……」
と、近藤は、まだ激怒していた。
近藤といえども、伊東を切腹させるつもりはない。しかし、永倉新八には、たまりかねていた。
「古参のものが、あれでは困る。どうだ、土方、思いきって永倉と斎藤だけを……」
「そりゃアいかん。片手落ちになります」
「むむ……」
自分のことを、会津侯へ訴え出た永倉と斎藤である。
(奴ら、おれに楯をつきはじめた)
それが口惜しいのである。
けれども、この場合、何ともならない。
永倉新八のみは六日間の謹慎。それ以外は〔慎しみ御免〕ということで、三日の謹慎の後、ゆるされた。
「思いきってやったもんだな。しかし、おれは、あんたが伊東たちと一緒だったことは、どうも気にくわねえ」
と、原田佐之助が新八にいった。
藤堂平助は、にこにこしながら、
「私は、安心してましたよ。今度ばかりは、近藤さんも土方さんも、どうにもならぬと思っていた。何しろ、相手が伊東先生だからねえ」
という。
その口ぶりが、もう伊東の部下のような調子であった。
ちらりと、新八は妙なものを感じたが、そこは新八たるところで、
「まあ、おかげさんでね」
こだわらずに、さっさと休息所へ引きあげて行ったものだ。
「まあまあ……ごぶじで何よりどしたなあ」
小常は、うれし涙と共に出迎えた。
「知っていたのか?」
「へえ。原田さんが知らせてくれはったんどすえ。もしも切腹いうことになったら、何とか一目だけでも会わせたいから、そのつもりでおれ……こないにいやはりましたんどっせ」
「つまらねえことをいやアがる」
新八も、内心、ほっとしていた。
それにしても、小常が、涙をこぼすばかりに、新八の無事をよろこんでくれたのを見て、
(小常も、すっかりおれのものになったなあ)
しみじみと、そう思った。
三日の当番で屯所につめると一昼夜の休息がもらえる。
そのたびに、新八は、もうわき目もふらずに小常のもとへ飛んで帰る。
細くて、しなやかだった小常のからだが、このごろは、みっちりと肉づいてきて、新八の愛撫にも、小常は、おどろくほど烈しいこたえ方をするようになった。
「うち、子供がほしい。ほんまどっせ」
狂ったように、
「ほんまや、ほんまどっせ」
新八の胸肌に歯をあてたりするのだ。
「うむ、うむ。よしよし……」
新八も悪い気はしない。
こうなると女はふしぎなものだ。
藤堂平助が、たまに遊びに来たりすると、小常は一層に新八へしなだれかかり、これ見よがしに、藤堂へ見せつけるのである。
「もう行かないことにする」
と、さすがの藤堂も音をあげたほどであった。
それはさておき、幕府の旗色は、あまり冴えなかった。
この年の五月──。
将軍・家茂は、みずから上洛して、長州征伐の士気を鼓舞した。
〔禁門の変〕の後、すでに幕府は第一回の征長軍をおこしている。
そのころから、幕府方についていて、会津藩と共に長州藩と対抗していた薩摩藩のうごきが、微妙になってきた。
諸藩からなる征長軍は、尾州侯・徳川慶勝を総督にして、広島へ本営をおき、いざ、これから長州を攻めようというときになって、
「長州側が罪に服すれば、無益な血を流すことはござるまい」
と、いいだしたものがある。
薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)であった。
西郷は、このとき、薩摩藩代表として、征長軍の総参謀に任じている。
「おまかせ下され」
幕府へはうかがいもたてず、西郷は長州側と談判をはじめた。
長州もたび重なる敗北をうけた上、京都から追いはらわれて引きあげてくると、たちまち、英米仏蘭四国連合艦隊の襲撃をうけた。
外国側としても、幕府との開国交易の実現を邪魔し、
「毛唐どもは皆殺しにせよ」
と叫んでいる長州藩を黙って捨ててはおけない。
ついに、長州軍は、下関砲台のすべてを占領破壊され、大砲六十五門を外国艦隊にうばいとられてしまった。
もう仕方がない。
長州藩は、西郷吉之助が突きつけた要求をのむことにした。
これだけ打ちのめされてしまっては、とても幕府軍に勝てよう筈はない。
要求は、次のようなものであった。
一、藩主・毛利父子の謝罪
一、藩をあげての恭順
一、禁門戦争に参加した三家老と参謀の処刑
そのほかにも、まだあったが、およそ、こうした要求とひきかえに、長州本国への進撃を中止しようというのである。
このとき、総督の徳川慶勝が、先ず西郷に説きふせられてしまった。
長州藩も、三家老に腹を切らせ、恭順の意をあらわしたので、幕府側も、しぶしぶ、征長軍を引きあげさせた。
「何だ、だらしのねえ」
このとき、原田は唾を吐きつけていったものだ。
「このまま、長州の狼どもが黙っていると思っているのか。力がついてくれば、またほえたててくるにきまっているじゃねえか。あやまろうが何をしようが、奴らは口で勤王をとなえながら、天皇おわす御所にまで攻めかけて来やがったのだ。この一事でも放り捨てておくことはねえのだ。あいつらの息の根を止めるのは今だぜ。毛利三十六万石をぶっつぶして、毛利侯に腹を切らせる位のことは当り前だよ」
たしかに、幕府は機を逸した。
というよりも、もはや、将軍家の鶴の一声で諸大名が手足のようにうごくという時代ではなくなったのである。
西郷などは、幕府の意向なぞ、頭から問題にせず、てきぱきと事をはこんでしまったのだ。
その後、長州藩では、藩内の革命がおこった。
長州藩の志士・高杉晋作のひきいる〔奇兵隊〕が、下関や三田尻の役所を襲い、次いで山口の城下をも手中につかんだ。
(なまぬるい年よりどもに、藩をまかせてはおけぬ!!)
というわけだ。
〔奇兵隊〕は下士や農民の集合部隊である。
この下から盛り上る力によって、長州藩の改革は成功した。
(幕府を倒せ。石にかじりついても、老衰した徳川政権を打倒せねばならぬ)
まことに、長州のエネルギイはすさまじい。
やられてもやられても起ち上ってくるのだ。
そして……。
薩摩藩は、急速に、長州藩との同盟にかたむいて行くのである。
(一緒にやろう!!)
これであった。
今までは、なるべく犠牲を少なくして満を持していた薩摩藩だが、
(幕府を倒すには、どうしても長州と手をにぎらねばならぬ)
と、心をきめたのであろう。
斬られても捕えられても、勤王浪士の蠢動はやむことを知らない。
「やはり、長州は討たねばならぬ!!」
このところで、幕府は威勢を見せておかねば、諸国は弱腰の幕府に見切りをつけてしまうことになろう。
第二回の長州征伐軍は、こうしておこされた。
近藤勇が、将軍上洛を嘆願しに江戸へ出かけたのも、
(今度こそは、ぜひにも長州をやっつけてもらわねばならぬ)
と、思いきわめていたからである。
「いよいよ、また戦争だな。おい、小常。もし、おれが死んだら、どうするよ?」
寝物語に、新八が、こういってふざけると、
「うちも死にます」
「ほんとうかえ?」
「嘘いうて、どないなりますのや」
小常は、新八の腕にかぶりついてきた。
「痛い!!」
その小常の噛んだ歯のあとは、一年ほども、消えなかった。
[#改ページ]
七条油小路
一
「何や……妙どすのや」
と、小常が永倉新八にいい出したのは、慶応二年初夏のころであった。
「何が、妙なんだ?」
「赤子《ややこ》ができたような……」
「何、ほんとうか?」
「へえ……」
「こりゃア大変だ」
新八は、居ても立ってもいられなくなり、屯所へ出かけて行き、
「おい、とうとう妊娠《はらん》だよ」
原田佐之助をつかまえていった。
「お前さんがか?」
と、原田もどうかしている。きょとんとした顔つきで、新八の下腹のあたりをながめるのだ。
「馬鹿をいえ、小常がだ」
「なるほど……」
「男の子だろうか、女の子だろうか?」
新八も、世の男の常で、はじめての子持ちとなる前の感動を、厭というほど味わったものである。
「こうなると新八さんも、うっかり死ねねえなあ」
原田がからかうと、新八は、
「そんなことをいっていられるときでもないだろうよ」
きびしく表情をひきしめた。
「うむ……」
原田も、眼をふせ、
「まったくなあ。京にいると、じりじりして来る。新選組も長州征伐へ出かけりゃアいいのだ」
吐き捨てるようにいった。
この年の正月──。
幕府は、老中・小笠原|壱岐守《いきのかみ》を〔将軍御名代〕の名をもって広島へ出張させた。
長州藩の領地十万石をとりあげ、藩主・毛利大膳太夫父子を蟄居《ちつきよ》せしめようというものであった。
このことについては、もちろん勅許を得ての上のことだが、
「長州藩三家老・三末家の出頭を命ず」
と、広島本営から幕府の命令が来ても、長州藩では、
「病気中ゆえ、まかり出ることがなりませぬ」
といい張って、命令をきこうともしない。
徳川将軍の威勢も、まことに地に落ちたものだ。
「来る三月三十日までに出頭なきときは、断固、毛利家を誅伐する」
かさねて申しわたしたが、ろくに返事もよこさない。
「攻めるなら、攻めて来い」
と、長州藩は軍備をかため、いつでも幕府と戦う気でいるのだ。
このころ、土佐藩出身の坂本龍馬が大活躍をして、長州の桂小五郎と薩摩の西郷吉之助を会見させ、ひそかに、両藩を握手させてしまっている。
薩摩藩は、表向き〔知らぬ顔〕でいながら、かげへまわってイギリスにたのみ、新鋭兵器を長州へ売らせたり、
「決して見殺しにはせぬから、充分におやりなさい」
慰問使を送って、激励したりもする。
これを知っていながら、幕府は手も足も出ない。
(もし、薩摩藩を怒らせたりしたら……)
という不安と恐怖がある。長州一つでさえも持てあましているのに、薩摩を真向から敵にまわしたのでは、どうにもならない。
しかし、ここまで、ひどい侮辱をうけては、幕府も黙っているわけに行かなかった。
当時、次のような落首が、大坂や京の町にひろまった。
いつまでも長門(長州)の国の御評定
難波ともあれ、寄手めいわく
ふみ出して帰るもならず行くことも
ならで難波(大坂)に何をして居る
将軍本営のある大坂城下に、こんなことを民衆がうたいはじめたのだ。いかに幕府の威信が地に落ちていたかが、わかろう。
とにかく、幕府は長州征伐軍総督に徳川|茂承《もちつぐ》を任命し、彦根・紀伊・大垣ほかの諸藩は芸州口から長州の国境へせまった。
福山・浜田・津和野の諸藩は石州口から攻撃を命ぜられた。
これを迎え撃つ長州軍は兵力において非常に劣っている。
「踏みつぶしてしまえ!!」
と、思っていたかどうか知らぬが、戦いがはじまってみると、はじめのうちはともかく、日を追うて幕府方は連戦連敗ということになった。
幕府に出陣を命ぜられた諸大名も、今や、将軍のために命を捨てて戦うというだけの気力すらもない。
長州軍は、もう退くも引くも出来ないから、決死の覚悟であった。
「少しは景気のよい知らせが来ねえものかな」
原田佐之助が、苛らだつのも無理はない。
京や大坂へもたらされる報告は、いずれも幕府敗戦をつたえるものばかりであった。
「そうかといって、おれたちが京を留守にして出て行くわけにもいかぬ」
新八がいう通りである。
京都の勤王浪人の蠢動をおさえつけているのは、一に新選組の威力が物をいっているからだ。
新選組は、去年の暮に、堀川通りの東、木津屋橋南方の不動堂村へ一町四方の土地をもとめて、屯所を新築したばかりであった。
新八の〔休息所〕からも目と鼻の先の新屯所を見て、
「立派なもンどすなあ」
と、小常が感嘆した。
大名屋敷のような堂々たる新屯所で、近藤や土方の部屋などは、まるで殿様の居間のようである。
「いくら屯所をかざりたててみても、こんなに負けっぱなしでは何にもならねえ。おれたちだけでもいいから、近藤さんに願い出て、長州へやってもらおうじゃねえか」
などと原田や新八が言い合っているうちに、今度はまた、幕府にとって衝撃的な事件が、つづけざまにおこった。
一つは、将軍・家茂の死である。
一つは、孝明天皇の崩御であった。
二
「弱り目に祟り目とは、このことだなあ」
永倉新八は、なげいた。
今まで、幕府の威光が何とか保たれてきたのも、孝明天皇と家茂をむすぶ〔親愛〕の一線が、大きくものをいっていたのである。
家茂が十四代徳川将軍となったのは、わずかに十三歳のときであった。
以来、二十一歳の没年まで、一日として心を休めることなく、家茂は日本のすさまじい動乱の中に生きそして死んだのである。
大坂城で家茂が病床についてからというものは、天皇の心痛ひとかたならぬものがあった。
幕府の圧力をもって、皇妹・和の宮を家茂に嫁がせなくてはならなくなったとき、
「将軍の顔など見とうもない」
天皇はお怒りになったというが、文久三年、はじめての家茂上洛のときに、天皇は、この義弟にあたる若き将軍と会われ、
「よき将軍である」
一目で、気に入られた。
何とか世を平穏なものにしたいと願う家茂の純白な心情をくみとられたからであろう。
ともかく、この慶応二年という年は、徳川幕府にとって致命的な年になった。
家茂の後をつぎ、徳川慶喜が、十五代将軍になった。
慶喜は水戸家から一橋家へ入り、将軍にもっとも近い親族として、家茂を補佐してきていたし、孝明天皇も、慶喜の聡明さには、かなりの信頼をおかれている。
「まずまずと思っていた矢先に、まさか、こんなことになろうとは……」
と、たまりかねて、小常にさえも、こぼしぬいたものである。
慶喜が将軍となって一カ月もたたぬ十二月二十五日に、孝明天皇が崩御されたのだ。
「何や、毒をもられて、天子さまが……」
と、小常が声をひそめて新八にいった。
大晦日の夜ふけである。
苦い酒をのんでいた、その盃をおいて、新八が、
「お前、そんなことを、どこできいた?」
「どこでいうても、あの……町中で、そんなうわさが……」
「そうか。お前たちの耳にもなあ」
新八は、唇をかんだ。
崩御の前まで、天皇は疱瘡《ほうそう》(天然痘)を病まれていたことはたしかなのだが、この病気が、ほとんど全快に近いところまで行ったことも、たしかなのである。
それが、急に激しい苦痛を訴えられ、あっという間に亡くなられたそうな──。
「前《さき》の将軍《だんな》がお亡くなりあそばされても、天子さまは御公儀をもって世をおさめさせようというお心に変りはなかったのだ。もしやすると、長州の手がのびたのかも知れねえ」
原田佐之助も血相を変えていったものである。
朝廷にも、長州・薩摩と手をむすんでいる公卿たちが、いくらもいる。
孝明天皇がおわすかぎり、幕府を倒せという勅命を得ることはむずかしいことだ。
(まさか……)
と思うが、
(或いは……?)
とも思う。
どうにもこうにも、新八はやりきれなくなって来た。
「もうじきどすえ」
小常が、新八の手をとって、ふくらんだ自分の腹にあてさせた。
天皇の崩御などということよりも、小常にとっては生まれてくる子のことで頭がいっぱいなのであろう。
「名は何とつけまひょ?」
「男か女か、わかりもしねえのに……」
「両方とも、考えておいとくれやすな」
「うむ……」
無性に苛らだち、新八は、いきなり、小常を抱いて寝間へ入ろうとした。
「いけしまへんがな」
「なぜだ?」
「なぜいうて、もうじきどすえ。|うち《ヽヽ》のからだのことも考えとくれやすな」
「そうか……そりゃ、そうだな」
どうにも気が晴れぬまま、慶応三年の正月を迎え、そして二月に入った。
その日は、久しぶりの非番で、前夜から休息所に帰っていた新八が、小常と差し向いの朝飯をすましたところへ、
「ごめん」
藤堂平助が、たずねて来た。
「ほほう。お常さんも、だいぶ、ふくらんできたな」
と、藤堂にしては珍しく露骨な冗談をいったので、
「知りまへん」
さっさと、小常は隣りの部屋へ逃げてしまった。
「もうじきだねえ、永倉氏」
「今日か明日というところだ」
「いざというとき、貴公がおらぬと困るだろうに」
「いや、前の八百屋の女房が駈けつけてくれることになっている。親切な人だし、まあ、安心だろう」
「そうか。ところで……」
「何か、急用かね? 藤堂さん……」
「外へ出てくれぬか?」
「外へ……?」
「たのむ」
「ふむ。ま、いいだろう」
小常にことわっておいて、新八は、藤堂と連れ立って外へ出た。
二人は、堀川に沿って南へ下り、八条通りを右へまがった。
行手に東寺の壮大な伽藍《がらん》が見える。
「いったい何の話なんだ?」
「まあ、いいではないか」
と、藤堂平助は、新八を東寺の境内までつれこみ、五重塔のうしろの木立の中へ来て、
「少し寒いが、がまんしてくれ」
陽だまりをえらび、二人はしゃがみこんだ。
「さすがに陽の光が違ってきた。もうじきにあたたかくなるなあ、藤堂さん。京の冬をすごして春を迎える気持は何ともいえないねえ」
「永倉氏──」
「何だ、そんな顔をして……」
「はじめにいっておく。決して、他言をしてもらっては困る」
藤堂の顔のいろにも、声音にも、異様な緊張が見てとられた。
「よし、誓う」
新八も、いさぎよく答えた。誓った以上は武士の一言、死んでも他へもらさぬつもりであった。
「貴公は、新選組の将来について、どう思うかね?」
と、藤堂が押しころしたような声でいった。
まじまじと、新八は藤堂の顔をながめていたが、やがて、しずかに、
「藤堂さん。あんたは、何を考えているんだね?」
訊き返した。
「永倉氏。今のままの行き方では、新選組も、いたずらに崩壊の一途をたどるのではないかと思う。御公儀のため、徳川のためと、ひたすら忠義をつくすのもよいだろうが、今や、この考え方はだな、滔々と流れ、渦巻き変転する時勢に遅れをとるばかりだと、私は思う。私は……私は貴公を、そのような危うい目にあわせたくはない……なればこそ、近藤局長や土方さんの耳に入ったら、こっちの首が飛ぶようなことを貴公にのみうちあけているのだ。わかってくれるな」
藤堂は一気にまくしたてた。
「それに、貴公は私の命の恩人だ。池田屋のあのとき……」
「もういうな、藤堂さん。実のところ、あのとき、私は、あんたが死んじまえばいいと思ったもンだ、小常のことでね──は、は、は」
「だが助けてくれたではないか」
「もういいじゃないか。とにかく、あれからは仲直りも出来たし、それにあんたには、小常のことで、いろいろと厄介をかけたもんだし……」
「いや、まったく、あんたの人柄のよさには、藤堂平助、感服のほかはない」
「というと、きこえはいいが……お人よしだといいたいんだろう」
「いや違う」
「そうかねえ」
「腹に一物もなき率直無類の貴公だ。それだけに、これからのことが、なおさらに心配になるのだ」
「私のことが?」
「うむ」
このとき新八は、ずばりといった。
「藤堂さん。あんた、隊を脱退する気だね」
「うむ」
「そうか……やっぱりなあ……」
ぼんやりと、胸の中のどこかに新八が予期していたことなのである。
三
いまの新選組は、二派に分れているといってよい。
近藤・土方派と、伊東甲子太郎派の二つに、何となく隊士たちは分れている。
おだやかな伊東の人柄にひきよせられている隊士たちも、このごろではかなり多くなっているのだが、そのことのみではなく、両派は、半年ほど前から何かにつけて、うまく行かなくなって来ている。
近藤や土方の考え方は、どこまでも、幕府と共にある〔勤王〕であった。
伊東は、京へ来てから、表向きは近藤にさからわず、裏へまわっては、長州や薩摩の藩士たちとも、交際をふかめてきて、このごろでは、ひそかに錦小路の薩摩屋敷へも出入りしているという。
「彼らの動静をさぐっておるのです」
というのが、伊東の言い分であった。
近藤も土方も黙っている。
伊東もまた平然として、思うままにふるまっている。
「あの野郎は、やっぱり山師だわ。斬ってしまえばいいのだ」
原田佐之助などは、じりじりしていた。
藤堂平助は、もう伊東のそばへ附きっきりであった。
どこへ行くにしても、伊東の供をして出かける。
新八も、藤堂と話すときは、つとめて、伊東甲子太郎のことは口にのぼらせぬようにしてきたものだが、
「何も彼もブチ割っていう。薩摩と長州は、今までのいきさつを捨てて手をにぎり合ったのだ。もういかぬよ。今や、朝廷を押し立てて盛り上って行く薩長の恐るべき力の前には、徳川幕府も、ほろびるほかに道はないのだ」
と、藤堂がいうに至っては、新八も、藤堂を引きとめることはできない。
「今のうちに先物買いをして徳川に見きりをつけ、薩長方へ取入ろうというのか?」
「そういってはミもフタもない。いいか、永倉氏。われわれはまだ若い。犬死は厭だ、そうだろう?……末長く生きて国家のために働きたい、そうだろう?」
「ふ、ふ、ふ……」
「何が可笑しい? 何も恥じることはない!! 同じ日本人同士のすることだ。勤王といい佐幕といい、同じ日本人の争いだ。この争いを早くやめさせるためにも、行先の、のぞみが大きい方へ味方すべきだ。そうではないか」
「ふ、ふ、ふ……」
「また笑うのか。私は、貴公のためを思えばこそ……」
「ありがとうよ、藤堂さん。あんたのお気持はたしかにわかった」
「ならば……」
「まあ、きいてくれ、いいかね」
新八は、冷たく晴れあがった空を仰ぎつつ、
「ねえ、藤堂さん、そもそも、新選組というのは、何故出来上ったのだね?……将軍家だけの力では、大名や浪人どもの反抗を押えきれなくなったからだろう。それでなくては、身分も家柄もねえおれたちのような剣術つかいを雇いあげてまで、はたらかせよう筈はない。近藤局長だって、いえば武州の百姓あがりだものね」
「しかし、それは……」
「まあききなさいよ。いいかね、いえば、新選組は、もともと分が悪くなった御公儀の力を盛り返すがために生まれたもんだ。何も今さら、あわてるこたアねえ。はじめっから分が悪いんだからね」
「では、貴公、このまま……」
「どっちにしても天子様おひとりじゃア天下はおさめられねえ。薩長か、徳川か……どっちかが勝って天下をおさめる。何、昔から何度も何度もくり返されて来たこった。理屈をこねるにはおよばないのさ」
「勝てると思うのか?」
「勝負は別のことさ」
「しかし、今の時勢を何と見る。無駄な争いをつづけておれば、青い眼をした外国人が、この小さな島国を乗っ取ってしまうぞ」
「ふ、ふ、ふ……」
「また笑う」
「日本人を見損なっちゃいけねえな、藤堂さん──徳川にしろ薩長にしろ、互いに喧嘩はしていても、外国に色眼をつかいすぎて、ドジをふむようなまねはしないよ。徳川にも薩長にも、馬鹿もいるかわり、偉い奴もいるらしいからねえ」
なぜ、こんな言葉が出てきたのか、新八にもわからなかった。しかし、そういってみて、新八は、おのれのいったことに確信がもてるような気がした。
「私はねえ、藤堂さん。なぜ、みんなが徳川を助けてやらねえのかといいたいよ。将軍だって、昔のように威張り散らかしているのじゃアないのだ。結局は、天子様をもりたて、互いに力を合わせて事にあたるというだけなのだものね」
「永倉氏!! 惜しむべし、貴公は古い」
藤堂は口惜しがって叫んだ。
「古い、古い!!」
「そうかね」
立ち上った新八は、あくまでもおだやかに、
「では藤堂さん。あんたは新しい方へ進むがいい。安心しなさい。このことは誰にも、私はしゃべらねえから……」
興奮にふるえている藤堂平助の肩を、かるくたたいてやった。
四
慶応三年三月二日──。
伊東甲子太郎は、新選組を去った。
「脱退ではござらぬ。われらは薩長両藩と親交をむすび、ひそかに彼らの動静をうかがい、新選組のためにつくす。そのためには、一応、たもとを分ったかのように見せかけねばなりませぬ」
と、伊東は近藤を説いたという。
「結構でしょう」
近藤も、あっさりと承知をしたので、伊東一派は円満に隊を出て行ったわけである。こうなると、さすがに気もひけて、伊東の後について行かず隊へ残った者も多かった。
伊東と共に隊を去った者は、次の十四名であった。
鈴木三樹三郎 (伊東甲子太郎実弟)
藤堂平助
新井忠雄、毛内有之助
服部武雄、加納道之助
篠原泰之進、富山弥兵衛
阿部十郎、内海二郎、中西登、橋本皆助、清原清
それに、斎藤一が加わっていた。
斎藤一は、播州出身の剣客で、新選組でも古参の一人だ。
血の気も多くて腕もたつし、近藤や土方にも負けてはいず、新八と共に伊東甲子太郎に引っ張られ、島原へ流連《いつづけ》をして近藤へ反抗したことは、すでにのべた。
(しかし、斎藤が、そこまで伊東に……)
新八も意外であった。
「斎藤め、うまくごまかされやがった。あいつは、そんな男じゃなかったのにな」
と、原田も憮然としている。
伊東一派は、東山の高台寺内へ屯所をかまえた。
名づけて〔禁裡御陵衛士〕というのだそうだ。
早くも手をまわし、朝廷のゆるしを得て、朝廷の御陵をまもる者という名目をつかんだのである。伊東たちは、オランダ語や英語、それに西洋兵学などを勉強すると共に、いよいよ、薩摩藩邸への出入りも大っぴらになった。
西郷吉之助、大久保市蔵などという薩摩を代表する人物たちとも親交をふかめ、御陵衛士として活動の第一歩として、
「先ず、新選組を破壊せしめねばならぬ」
ということになった。
新選組を倒すには、近藤勇を倒さねばならぬ。
「私がやりましょう」
と、斎藤一が率先して口をきった。
伊東も、そのつもりだ。
斎藤の剣は、原田も新八も一目をおくというほどの凄さがある。
こうするうちにも、形勢は、日に日に、幕府にとって不利なものとなっていた。
長州・薩摩の雄藩へ、芸州・広島四十二万石の松平少将も勤王方へ入り、三藩同盟して幕府を討つことを約したものだ。
それまでは、あくまでも幕府の味方についていてくれた土佐藩も、国父・山内|豊信《とよしげ》(容堂)が、
「時勢がこうなっては仕方もあるまい。今のうちに政権を朝廷に返上し、徳川家も一大名として野に下るほうが安全ともなろう」
という考え方になってきた。
ともかく、孝明天皇が亡くなられてからの朝廷は、勤王派公卿の擡頭《たいとう》が目ざましい。
これで天下を争う大戦争にでもなっては、大変なことになる。
いまのうちに、将軍が政権を返上してしまえば、何も彼もおだやかにおさまろうと、山内豊信は考えたのであろう。
「結構でござる」
と、薩摩藩もこれに共鳴する。
共鳴してはいるが肚の底は、どこまでも、
「徳川家そのものを徹底的にほろぼしてしまわねばならぬ」
という決心であった。
将軍・慶喜も、こうした時勢のうごきには、聡明なだけに敏感であった。
(薩長のうごきが険悪とならぬうちに……)
政権を皇室へ返上しようと、決意をかためたのである。
徳川幕府の衰亡も、いよいよ最後を迎えることになった。
十一月十八日の夜──。
近藤勇は、伊東甲子太郎を七条醒ケ井の妾宅にまねいた。
伊東と近藤との間は、狸と狐の化かし合いである。
表向きは、にこにこして交際をつづけながらも、近藤は、伊東と薩摩藩との関係をさぐろうとするし、伊東は近藤の命をねらっている。
「この際、行かぬ方がよいでしょう」
と、伊東一派の者は、みな伊東をひきとめたが、
「何、大丈夫。斎藤君がついて来てくれるからな」
伊東甲子太郎は平気であった。
これで、一同も安心をした。
斎藤一が同行するなら、近藤たちも、むやみな事はするまい。
つまり、それほどに斎藤の剣は高く買われていたということになる。
夕暮れから、伊東は斎藤をつれて、徒歩で、近藤の妾宅へ行った。
「やあ、伊東先生。ようおいで下された」
近藤は、満面に笑いをうかべ、伊東を迎えた。
(近藤も人がよいところがある。おれのいうことをどこまでも信じきっているらしい)
ふっと、そんな安心感が伊東の胸をかすめたようであった。
それに、この席に、伊東の大きらいな土方歳三がいなかったのも、伊東の神経をゆるませたもののようだ。
「久しぶりですなあ、伊東先生」
と、山崎烝やら吉村貫一郎などいう人ざわりのよい隊士たちもいて、
「今夜は無礼講です。旧交をあたためましょう」
にぎやかに伊東をかこみ、和気|あいあい《ヽヽヽヽ》となった雰囲気である。
肴もよし、酒もよかった。
さんざんにのみ、伊東甲子太郎が帰ろうとして、
「斎藤君は?」
と訊くと、
「さっき、のみすぎて頭がいたむというので、一足先に帰ったようです」
吉村貫一郎がいった。
「そうですか……」
ふっと妙な気がしたが、酒もまわっているし、伊東は、別にふかく気にもとめず、
「では、失礼する」
「駕籠をよばせましょうか、伊東先生」
「結構です。歩いて酔いをさましましょう」
みんなに送られ、伊東甲子太郎は、醒ケ井の近藤妾宅を出た。
ときに、亥《い》の刻(午後十時)という。
伊東が去るや、一同、部屋へ取って返した。
と……。そこに、帰った筈の斎藤一がいるのだ。
「うまく行きましたな」
と、斎藤がいう。
「永い間、御苦労だった」
と近藤勇が、これをねぎらう。
斎藤一が、近藤の命をうけて、わざと伊東一派に与《くみ》していたことは、この夜まで、永倉新八も原田佐之助も知らなかったことだ。
来る二十二日に、伊東一派は、いよいよ近藤勇暗殺を決行することになっていた。
「私が乞食に化けて、近藤先生が屯所から出て来るところを近よって斬りつける。それを合図に、一同、屯所に火をかけて中へ斬りこむ。薩摩藩からも応援の人数が出るというわけです」
と、斎藤一は報告した。
「これまでだ。もう生かしてはおけぬ」
近藤も土方も肚をきめたというわけである。
すでに手配はととのえてあった。
「もう、そろそろだな」
近藤勇は冷えた酒を口にふくみ、ぼそりとつぶやいた。
そのころ、伊東甲子太郎は、もうこの世の人ではなかった。
木津屋橋の道を東へ出たところで、伊東は、いきなり左側の空地をかこむ板塀の中からくり出された槍に、肩から首へかけて突き刺された。
「うわ……」
辛うじて抜刀したが、もう遅い。
正面へあらわれた新選組の大石鍬次郎が、
「くたばれ!!」
伊東を斬殺してしまった。
伊東甲子太郎にしては、まことに、はかない最期であったというべきであろう。
少し、近藤を、新選組を見くびりすぎたようである。
間もなく、このあたりの町役人が、高台寺に伊東を待つ御陵衛士たちに、この惨劇を知らせた。
これは、近藤が町役人に命じて、わざと知らせたのだ。
「どうする?」
「罠かも知れぬぞ」
「なれど、伊東先生を、このままにしておくことはならぬ」
寒夜の路上に、尊敬する師でもあり頭領でもある伊東の死体をさらしておくわけには行かない。
「行こう!!」
ということになった。
このとき高台寺にいた伊東一派は七名である。
伊東実弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納、毛内、服部、富山、それに藤堂平助であった。
七名は、伊東の死体を入れる駕籠をたのみ、人足二人、小者一名をつれて油小路へ向かった。
ときに、八ツ刻(午前二時)ごろという。
身も凍るような寒夜で、月が煌々《こうこう》として中天にあった。
油小路の四つ角まで来ると、
「先生だ──」
伊東の死体が月光をあびて横たわっている。
町は、死んだように眠っていたが、
「出たぞ」
篠原泰之進が、こういってぎらりと大刀を抜き放った。
道の両側の、一方は蕎麦屋、一方は湯屋の中にひそんでいた新選組四十余名が、
「それ!!」
あっという間に七人を包囲するや、
「かかれ」
いっせいに突進して来た。
この中に、永倉新八も原田佐之助も加わっていたことはいうまでもない。
幅三間ほどの道で、すさまじい闘いがはじまった。人足や小者は逃げるにまかせた。
伊東一派もみな腕がきいているし、覚悟もしてきている。
中でも武州浪人の服部武雄は、大小二刀をふるって奮戦した。
「畜生め、見ていろ」
原田が飛び出して行ったが、二、三合すると服部の一刀を右肩にうけて、
「やりゃアがるわい」
一度は引き下ったが、すぐさまに飛びこんで行った。
逃げようとしても、あまりに月の光があかるい。伊東派も必死で立ち向った。
絶叫と気合いが飛び交い、血がしぶいた。
藤堂、服部、毛内の三名が闘ううちに、鈴木以下三名は血路をひらいて逃げ出した。
十名ほどの隊士が、すぐさまこれを追う。
服部が原田の突きに倒れると、残るは藤堂と毛内であった。
藤堂平助は、少しも無駄なうごきをせず、的確にふせぎ、すきを見ては、
「えい!!」
甲走った気合いと共に斬って出て、そのたびに、隊士たちが傷を負った。
猛勇の服部を倒した七、八名が、どっと藤堂に走りよって来るのを見て、新八が飛び出した。
「藤堂!!」
「おおっ」
ぱっと見交した眼と眼の中に、二人は何を語り合ったものか。
「えい」
斬りこむ新八の刀を受けとめた藤堂へ、
「く、く──」
新八は力をこめて刀身を押しつけつつ、
(逃げろ)と、眼で言った。
ハッと、藤堂の眼もそれにこたえる。
引っ外しておいて、二合三合と刃を合わせ、
「たあっ!!」
猛然と藤堂を追いまくる様子を見せて、新八は、ついに藤堂を包囲の輪の外へ突き出した。藤堂も心得て、身をひるがえして逃げにかかった。
三浦常次郎という若い隊士が、横合いから走りよって、藤堂に斬りつけたのは、このときであった。
払いのけておいて、藤堂は血相を変えた。
「三浦かッ」
三浦は、藤堂が在隊中に、よく目をかけて可愛がってやった男である。新八が逃がしてくれただけに、この三浦のふるまいは、藤堂を激怒させたものらしい。
「きさま!!」
奮然と、藤堂は三浦へ斬りつけて来た。
これで逃げるのが遅れた。すべては一瞬のことである。
追いかけて来た隊士たちは、狼のように藤堂を押し包み、ずたずたに斬ってしまった。毛内も斬られた。
人の声も、刃のかみ合う音も絶えた。
月光だけが光っている。
その月の光を端正な顔にあびて、藤堂平助は、道の東側の溝の中へ仰向けに倒れていた。
かっと白い眼をあけてはいたが、見苦しい死ざまではない。
「裏切者め」
誰かが、藤堂の顔へ|つば《ヽヽ》を吐きつけた。
(藤堂さん……あんたも算盤《そろばん》をはじきそこねたねえ)
引きあげて行く一同の後に残って、新八は、藤堂の顔についている血やつばを、懐紙でぬぐいとってやった。
[#改ページ]
賊 徒
一
徳川十五代将軍・慶喜が、政権を朝廷に返上したのは、この年の十月十四日であった。
油小路の決闘があった、約一カ月前のことだ。
将軍みずから、
……旧習をあらため、政権を朝廷に返上し、ひろく天下の公議をつくし、聖断を仰ぎ、皇国を保護せば、かならずや、海外万国とならびたつべく、我国につくすところ、これにすぎず……。
という沙汰書を、天下に公表したわけである。
この日──。
将軍・慶喜は、二条城へ在京の諸藩有志をあつめて、大政奉還の発表をおこなった。
「何しろ、そのときは、城中が蜂の巣を突ついたようなさわぎになったというよ」
永倉新八は、家へ帰ってきて、小常にいった。
「大将おんみずから兜をぬいでしまったのでは、話にもなりゃアしねえ」
苦々しげに、
「なあ、小常。いまの将軍さまは、ちょいと藤堂平助に似ていやしねえかえ?」
「どこが似ておいやすの?」
「お利巧なところがさ。おれなどと違って頭がはたらきすぎ、先を読むことがお上手なのだよ。馬鹿をみるのは家来どもさ」
「これから、いったい、どうなりますのやろ?」
「わからねえが……」
新八は、にやりとして、
「どっちにしろ、もはや徳川将軍というものは無くなったということになるのだものな。藤堂平助も、しめたと手をうっていることだろうよ。小常。お前も景気の悪いおれのところへくっついていて、どうも気の毒よなあ」
「知りまへん」
と、小常は屈託がなかった。
「女子には、男はんのすることなど、わからしまへんえ」
この春に生まれたばかりの赤ん坊を抱きあげ、頬ずりをして、
「お磯もお母ちゃんも、お父ちゃん一人いておくれやしたらもう何も言うことおへんなあ」
「どれ、こっちへよこせ」
抱きとって、
「いくら見てもいいもンだ。この子はお前ゆずりで顔立ちがいいものな」
女の子であった。
新八は、名を磯子とつけた。
「おれが小さいときに、よく可愛がってくれた、祖母の名だよ」
「いや、そうどすか……」
小常にも異存はなかった。
磯子の顔を見ていれば、何も彼も忘れるのだが、そのうちに、休息所へも帰れぬ日が多くなった。
政権返上のことあってから、京の町は一変した。
すでに薩摩・長州・土佐の勤王同盟が成立していたし、
〔徳川家を討伐し、会津・桑名両藩を追放せよ〕
という密勅まで下っている。
密勅といっても新帝〔明治天皇〕は、まだ十六歳にすぎない。朝廷は、勤王派の思うままに牛耳られているわけであった。
朝廷での勤王派公卿の勢力は増大するばかりだし、薩長土の志士たちは続々と京都へ入りこんでくる。
藤堂平助も、油小路などで、むざむざと命を落さなかったら、大得意で活躍をしたことであろう。
あの坂本龍馬が暗殺されたのも、このころであった。
坂本は、土佐の志士で、薩摩と長州の同盟を実現させ、大政奉還という無血革命を成功にまでみちびいたほどの男である。
坂本の考え方には、薩摩のような、すさまじい〔徳川討伐〕の実行はふくまれていない。
彼が、土佐藩の重臣・後藤象二郎を通じ、老侯・山内豊信にはかった大政奉還の構想は、あくまでも〔無血革命〕であった。
そして、新しくつくりあげようとする〔新政府〕の閣僚の一人として、徳川慶喜を迎え入れようというものであった。
この坂本が同志の中岡慎太郎と共に、河原町通り蛸《たこ》薬師の下宿先で暗殺されたのは、十一月十五日の夜である。
二人を殺したのは、京都見廻組・佐々木只三郎以下七名ということになっているが、糸をひいたものは不明だ。
日夜、京の町は殺伐をきわめた。
坂本も、むろん佐幕派から恨みを買っているし、紀州藩からも狙われていたという。
というのは、この年の初夏──。
土佐藩の汽船が紀州藩の汽船と、備後・鞆《とも》の津の沖合で衝突し、このとき、坂本は紀州藩を相手にして、見事、八万三千両の賠償金を取りあげたことがある。
「坂本め、ただではおかぬ」
という紀州藩士の怒りは、かなり烈しかったようだ。
紀州藩も徳川御三家の一つで、むろん幕府方でもあり、ことに藩の公用方・三浦久太郎という人物は裏に表に活躍をして、大いに勤王志士たちをなやませている。
「三浦の指図だ」
ということになった。
三浦久太郎が坂本・中岡暗殺の指令者だというのである。
土佐藩の坂本派の連中が、三浦をつけ狙いはじめた。
三浦は、油小路・花屋町下ルところの〔天満屋〕という宿にいたが、身辺が危くなったので、会津藩を通じ、新選組に護衛をたのんできた。
いくら将軍家が大政奉還をしたといっても、
「こっちの息の根をとめるまでは、決して手はゆるめまい。それが薩長のやり口だ」
近藤勇も土方歳三も断言をした。
そうなれば、
「まだ、おれたちのすることもありそうだな」
と、原田佐之助が屯所の道場で居合に熱中している姿にも迫真の感がある。
十二月七日、亥の刻(午後十時)──。
土佐の志士たち約二十名が、突如、天満屋を襲撃した。
この夜、三浦久太郎を護衛していた新選組は、斎藤一、大石鍬次郎ほか八名であった。
たちまち大乱闘となる。
知らせを受けて、永倉新八や原田佐之助が駈けつけたときには、すでに土佐の連中は逃げた後であった。
新選組では死亡者一名、重傷一名。
土佐側では九名死亡、五名負傷などというが、明確ではない。
とにかく、追い払った。
そして、この夜から、新八たちは足どめになった。
堀川の屯所から小常や磯子のいる休息所まで、目と鼻の先といってよいほどの近間《ちかま》なのだが、隊務は多忙をきわめていて、副長助勤という役目をもつ新八は、とてもぬけ出せるものではない。
九日には、会津藩と共に二条城を警備した。
勅使がやってくるというのである。しかも薩摩の藩兵千五百名が、これを護衛して二条城へ乗りこんで来るという。
何をするか知れたものではない。
こっちも武装で出かけた。
すると、勅使は沙汰やみになった。
何のために慶喜のところへ勅使が来るのか、さっぱりわからない。
宮中では、勤王公卿や薩長の西郷吉之助だとか桂小五郎だとかが集まって、しきりに密議をこらしている様子だ。
京都守護職たる会津侯・松平容保も、すでに宮中へは入れなくなっている。
十二日になると、徳川慶喜は二条城を立ちのき、大坂城へ移ることになった。
大政を奉還した以上、京にとどまって、勤王派との無用な摩擦を避けたいという、慶喜の考えなのであろう。
「新選組は屯所を引きはらい、大坂へ下るべし」
という指令が、会津藩公用方から下ったのは十一日の朝であった。
その日のうちに、というのである。
「七条一帯は、薩摩の兵が固めているそうだ」
「来るなら来い!!」
屯所内は、殺気にみちみちている。
隊士たちは騒然たるうちに、仕度をととのえた。
(一目、小常や磯子に会って行きたいが……)
だが、そのひまはなかった。
数日前から、小常は発病している。
風邪をこじらせたのが原因で、毎日、高熱がつづいているらしい。日に一度は、近くの八百屋の女房が屯所へ来て、新八が不在のときは、屯所の下男をしている亀吉という者に病状をつたえておいてくれるのだ。
「亀。たのむ」
新八は武装の身仕度にかかりつつ、亀吉を走らせた。
小常はとても来られまいから、磯子だけをつれて八百屋の女房に来てもらうことにしたのだ。
二
八百屋の女房に抱かれて、磯子は眠っていた。
屯所内の自室で、しばらくの間、新八は我子を抱き、さくらんぼのような磯子の頬に唇をあてたり、まじまじと、そのあどけない顔をながめては、何度も、ふといためいきをついた。
「小母《おば》さん。よく眠っているねえ」
「へえ……」
女房は四十に近い。世話好きな女で何かと小常のめんどうをみてくれている。
「お常の工合は、どうかね?」
「へえ。今日は何や知らん、よう眠てはります。熱も下ったようどすえ」
「そいつは、よかった。ねえ、小母さん……こいつは小母さんひとりの胸の中へしまっておいてもらいたいのだが……」
「へえ……何どす?」
「新選組も、これから大坂へ移るが……何しろ知っての通りの御時勢だし、これからの私の身の上もどうなることやら知れたものではない。だがねえ、小常には、ただ大坂へ行ったとだけつたえておいてもらいたいのだ、心配するといけないからな」
「へえへえ……」
新八は、磯子を女房にわたし、用意の袱紗《ふくさ》包みを取出してきて、
「この中に金五十両入っている。それともう一つ、私の伯母の遺品《かたみ》の巾着《きんちやく》が入っているんだ。もしも、私が身に万一のことあれば、この巾着をそえて磯子を、江戸の松前屋敷内、永倉嘉一郎方へとどけてもらいたいと、小常につたえてもらいたい。嘉一郎は私の従兄だ」
「へえ……」
「このことは、祇園の大和橋にいる小常の姉のおせいさんに小母さんから、あらかじめたのんでくれぬか。折を見て、おせいさんから小常に話してもらう方が……」
「まあ、何いうておいやすのや。まるで永倉先生の身に間違いでもおしたようなことを今から……」
「そうだったな」
新八は笑った。
そうこうするうちにも、屯所内のざわめきは昂まるばかりであった。
会津藩その他との連絡に往復する馬蹄のひびき、馬のいななきが間断なくきこえ、隊士たちの足音が廊下を走りまわっている。
「とにかく、小母さん。いまいったことを、たのむよ」
と、新八は別に、八百屋の女房へ、金五両を包んでわたした。
「磯子。元気でなあ」
立ち上って、もう一度抱いた。
「お磯はん。おいそ……」
女房がそばから手をのべ、ゆりおこそうとするのへ、
「あ、眠らしといてくれ。目をさまされると、反って別れにくくなる」
じわりと、さすがに新八の双眸もうるんだ。
大坂へ入った新選組に対して、
「伏見一帯を警備せよ」
と、会津侯からの命令が下った。
伏見は大坂から九里、京へ三里の地点にある。吉田東伍博士の〔大日本地名辞書〕に、次のごとく記されてある。
此地、山野を負い、水沢にのぞむ形勝の宜を得れど、豊臣氏築城の時まで、尚いまだ大いに著《あらわ》れず。
豊太閤此に居り海内に号令したるより大|都邑《とゆう》となり、徳川氏創業の際、また一要鎮たり。(中略)
その繁昌は京都・大坂に亜《つ》ぎ、海内の一名市たりき。徳川氏の中世に町数二百六十。舎屋六千三百と号す。
いまや、伏見一帯が、勤王方にも幕府方にも重要な地点となったことは、これによっても、判然とするであろう。
さすがに、会津侯の指令はすばやいもので、慶喜の大坂入城と同時に、伏見一円の警備として、次の諸隊を送りこんだ。
会津藩 林権助父子のひきいる三百余名
幕軍伝習隊 五百名
新選組 六十六名(のちに、大坂表で急募した新隊員をふくめて百四十余名といわれる)
新選組の本部は、伏見奉行所をもって、これに当てた。
薩摩・長州をはじめとする勤王派の兵たちも伏見周辺に出没し、双方対峙して、まさに殺気をはらんだ。
慶応三年も暮れようとしている、その十二月十五日の夜であった。
永倉新八は部下十名をひきいて、伏見市中の巡回をおこなった。
奉行所の南面を流れる宇治川の岸辺をまわり、讃岐町の民家の小路へ入ったとたんに、
「あッ……」
部下の叫ぶ声よりも早く、民家の羽目板に吸いつくようにしていた七、八名の黒い影が、ぱっと鳥が立つように乱れ走って、逃げた。
「追え!!」
追ったが、ついに見失った。
翌朝になってから、新八は一人で、もう一度、昨夜の場所へ行って見た。
「や……?」
手紙が一通、右手の溝の中に落ちている。少々ぬれていたが、ひろってみて、新八は目をみはった。
手紙は、新八の部下である小林敬之助が、伊東甲子太郎派の篠原泰之進にあてたものではないか。油小路事件の当夜、篠原は、伊東の弟・鈴木三樹三郎や富山弥兵衛と共に囲みを破って逃げている。
「小林め、伊東派の密偵だったのか……」
小林敬之助は、でっぷりと肥った、気のやさしい男で、新八も目をかけてやっていただけに、
(おれも甘《あめ》えなあ……)
がっかりした。
だが、このままにはしておけない。すぐに奉行所へ引返して、そっと土方歳三の部屋へ行き、この手紙を見せた。
手紙の内容は、新選組の動向をはじめとして伏見にいる幕軍の陣容、大坂における将軍・慶喜や会津侯などのうごきについての聞きこみなどを、こくめいに記してある。
土方は一読して、苦い顔になり、
「永倉君。何のための副長助勤だ」
と叱ってきた。
「申しわけない」
新八も返す言葉がない。
「ま、いい。とにかく、小林の始末をつけよう」
土方は、てきぱきと事をはこんだ。
やがて、新八が隊士たちのいる広間へやって来た。
「小林はいるか?」
にこにこと笑いながら呼ぶ新八に、
「はあ」
朝飯を食べていた小林敬之助が立ち上った。
「副長の使いで大坂まで行ってもらいたい。すぐ来てくれ」
「はっ」
小林は、また新しい情報がつかめると思ったものか、いそいそとして新八のうしろへついて来た。
(こいつめが……)
何気なく廊下を歩きつつ、新八は、あの夜、可愛がっていた三浦常次郎に斬りつけられ、猛然と引返して来た藤堂平助の口惜しさが今さらのように思いおこされたものである。
(人が人に裏切られるということは……ことに男が男にそむかれるということは、たまらねえものだな)
唇を噛み、
「さ、入れよ」
土方の部屋の障子をあけて、小林を中へ突き入れるようにした。
小林、さっと顔色が変った。
「坐れ」
坐った小林に、土方が冷ややかに、
「小林。御用の儀は……」
言いかけたとたんに、小林はガクリと首をたれてしまった。すべてを察したに違いないし、逃れるものではないと覚悟をしたのであろう。
このとき、部屋の隅にいた島田魁が、すーっと小林の背後へ近寄りざま、いきなり、小林の首をしめた。
「う、うう……」
もがいたが、島田の怪力は隊内随一のものだ。
ついに、小林は扼殺《やくさつ》され、しずかに密葬されてしまった。
隊士たちも、小林は大坂へ行ったものとばかり思っている。隊内の動揺をふせぐための処置であったが、さすがに土方はうまいものだと、新八は思った。
三
近藤勇が、京の二条城へ出かけたのは翌々日の十八日である。留守兵をひきいて二条城にいる、永井|玄蕃頭《げんばのかみ》によばれて種々の打ち合わせをするためであった。
何しろ敵中にあるといってもよい二条城へ行くのだから、近藤も二十名ほどの隊士に護衛されて出かけた。
その日の八ツ半(午後三時)ごろであったろうか──。
土方の酒の相手をしていた新八は、表玄関のあたりで異常な叫び声が乱れ飛ぶのをきいた。ハッと土方も盃をおく。
物もいわずに新八が廊下へ飛び出して見ると、近藤勇が隊士たちに抱えこまれるようにして廊下をやって来た。
「局長」
思わず駈けよると、
「永倉君。やられたよ」
落ちついたもので、少しも声が乱れてはいない近藤だが、顔からは血の気がひいて、左肩から胸にかけて、血まみれであった。
飛び出して来た土方歳三へ、
「高台寺の奴らだ。墨染のあたりで、鉄砲を撃ちかけおってな」
という近藤の声を耳に入れるより早く、
「つづけ!!」
新八は、大刀をつかんで部下と共に走り出していた。
近藤勇を襲撃したのは、まさに伊東派の残党であった。篠原泰之進など六名ほどが、伏見街道・墨染の木立にひそみ、騎馬で来る近藤を狙撃したものである。
肩を撃たれると同時に、近藤は鞍壺に伏し、手綱をさばいて馬腹を蹴った。
「よくも落ちなかったものだな」
近藤ぎらいの原田佐之助も舌をまいて、
「さすがだよ」
めずらしく、ほめた。
近藤が馬で逃げた後、伊東派の残党と隊士との間に斬合いがあったが、結局、馬丁の久吉と石井清之助の二名が殺された。刺客たちは逃げてしまい、新八たちの追跡も及ばなかった。
近藤は重傷であった。
大坂城にある徳川慶喜から医薬がつかわされ、診察の結果近藤勇は大坂へ行き、治療をうけることになった。
「こんなときにつまらぬ目にあったものだ。土方君、たのむ」
近藤も時がたつにつれて口惜しさがつのり、居ても立ってもいられぬ様子だが、どうにも身うごきができない。仕方なく後を土方にまかせて大坂へ去った。
年が明け、慶応四年となった。
すでに、薩長両藩は本格的な軍備をととのえていたし、幕府方でもこれに応じて伏見・鳥羽へ部隊を集結せしめた。
こうなるまでには、いろいろとあった。
徳川将軍が大坂へ去るや、
「徳川慶喜は大坂城へたてこもった。そして京都攻撃の準備にとりかかった」
ということにされてしまった。
京都は、もう幕府のものではない。年若い新帝を擁した薩長のものであり、勤王革命派の根拠地なのである。
「チェ。こっちから城を明け渡して何の得になるンだ。いいたい放題をいわれていやがる」
と、原田が地団太をふむのも無理はない。
「徳川慶喜は政権を返上しても、まだ領土は返しておらぬ。徳川の領土は、すべて朝廷へ返上すべきものである」
などと勤王派は叫びはじめる。
「踏んだり蹴ったりとはこのことだな。何をいわれても手が出せねえ。おれたちだけでも京にいりゃア、奴らに好き勝手なまねはさせるものじゃアねえのだが……」
原田がいえば、新八も、
「毎日毎日、御所に薩摩や長州が集まり、公卿どもと一緒に朝議を引っかきまわしているらしい。京にいる諸大名たちはこの勢いにのまれて口もきけないそうだ」
「だが、永倉君よ。土佐の御老侯だけは、大切なる朝議の席に、なぜ前将軍なる徳川慶喜をよばぬのか、と、喰ってかかられたそうだぜ」
山内豊信も、薩長のやり口にはあきれているらしい。
去年から、豊信は土佐藩の国父として、薩摩、宇和島、越前の三藩と力を合わせ、何とか政局を平和解決にもちこもうと努力してきた。
はじめのうちは、薩摩藩も、わざわざ西郷吉之助が土佐へ出張し、豊信と会談をおこなったりして、
「御老侯さまに出ていただかねば、長州の処分もうまく解決は出来ますまいし、幕府も下らぬ意地をはるばかりにて、貴重な時日をいたずらに送ることになりまする」
しきりに、けしかけたものである。
やがて四藩の藩主が京都へ集まり、何度も会議をかさね、長州藩の処分と、諸外国からせまられている兵庫の開港という当面の問題を解決しようとしたのだが、
「どうも、薩摩の肚はつかみきれぬ」
と、山内豊信は途中で歯痛を理由に帰国してしまったこともある。
ともかく、薩摩と長州のやり方には端倪《たんげい》すべからざるものがあった。
大坂へ移った幕府勢力と入れ違いに、長州の藩兵が軍列をつらねて京都へ入って来た。間髪を入れぬ手際ではある。
いままでは皇都を追われていた長州藩が、堂々と勤王勢力の主軸となって乗りこんできたわけだ。
こうなると、土佐藩の仲介的な立場もなかなかに通りにくくなってきた。
ついに──。
越前藩主・松平|春嶽《しゆんがく》と、尾張藩主・徳川慶勝の使者が、朝廷の命をおびて、大坂へやって来た。
「将軍職の辞表をゆるす。しかして徳川慶喜は官位をも辞し領地を朝廷に返上すべし」
というものだ。このことは、慶喜がまだ二条城にいるときから、両藩主が内密で慶喜に進言をしていたことでもある。
こんな朝命を、徳川将軍の親類である両藩主がもってきたのだから、大坂の幕府方はあきれはてて声も出なかった。
つまりは、両藩主とも、
「こちらから辞官納地のことを願い出たほうが、のちのち徳川家のためとなりましょう」
と、内諭をしているわけであった。
「もう黙ってはおられぬ」
幕臣はもちろん、会津・桑名など幕府側の諸大名たちは、
「上様が何とあろうとも、われらは承知できぬ」
憤激した。
このころになると、江戸からも、榎本釜次郎ひきいる海軍が将兵をのせてやって来たし、江戸の幕臣が続々と大坂へ集結をして来るし、亀山・若狭・姫路などの諸藩もこれに加わり、淀から山崎、伏見あたりを固めはじめるということになった。
もはや、慶喜一存では、どうにもならない。
この勢いを見て、
「出て来れば、のぞむところだ」
薩摩藩は、あくまでも徳川討伐の線にもって行きたい。
土佐をはじめ、戦争反対派をうまく押えて、朝議をのびのびにさせているうちに、
「薩長両藩に申すことあり!!」
と、幕軍は〔薩摩討伐〕の名目をもって、伏見・鳥羽の両街道から進軍を開始した。
ときに、一月三日である。
四
いさぎよく、みずから、政権を皇室に返上した徳川将軍を〔賊〕として討つためには、薩摩も長州も、ずいぶん思いきったことをしたものだ。そのためには、先ず徳川方から砲火をひらかせなくてはならない。
江戸の薩摩屋敷が、この密謀の主役を演じた。
浪人たちをひそかに集め、江戸や関東一帯に、暴動をおこさせたり、豪商・民家の劫掠《ごうりやく》をさせたりしたので、幕府方では江戸の薩摩邸に焼打ちをかけるというさわぎになった。
こういう知らせが次々に大坂へもたらされる。
将軍……いや前将軍というべきであろう。
前将軍・慶喜も、旧幕府勢力の怒りを押えることができなくなったし、慶喜自身にしても薩長への憎悪は、
「あまりといえば……」
たかまってきた。
「いうことがあるなら慶喜一人で京都へやって来い」
などと、朝廷からいって来るし、
「あのとき、もしも一人で慶喜がやって来たなら、われわれは、彼を新政府に迎えるつもりであった」
と、後年になって勤王派公卿の巨頭・岩倉具視はいっているが、そのようなことが慶喜にできるわけはない。
一月三日の夕刻──。
鳥羽街道・下鳥羽村の近くで、薩摩軍主力と幕軍が戦闘の火ぶたを切った。
「さあ来た!!」
砲声をきいて、伏見奉行所の集会所で冷酒をのみつつ開戦を待っていた永倉新八や原田佐之助たちは、
「かかれい!!」
隊士一同に戦闘準備を命じた。
夜に入ると、奉行所の北方にある御香宮へ陣をしいている薩摩軍から、どしどし大砲を撃ちかけてきた。
「それっ!!」
幕府軍もくり出す。
会津藩千五百名に新選組百五十名という、敵の二倍の兵力をもって、
「わあーっ……」
喚声をあげて突撃した。ところが、どうもいけない。
敵陣へは、歩いて十五分ほどなのだが、伏見の町の街路が坂になっている上に敵がいて、こちらは下なのである。
上から、イギリスゆずりの新鋭火砲をもって、敵は伏見の町の諸方を炎上せしめたので、あたりは昼のように明るい。
そこを撃ってくる。奉行所内へも砲弾が飛んでくるし、
「畜生メ」
土方歳三は歯がみをした。
「土方さん。これでは仕方がない。私が斬込みましょう」
新八は、自分がひきいる二番隊十五名をもって決死隊を志願した。
「やってくれるか」
「やるよりほかに仕方がない。このまま射すくめられていたのでは皆殺しだ」
「よし。たのむ」
火炎と流弾の中をくぐりぬけ、
「つづけ」
新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など十七名をつれて、奉行所の北東面の土塀を飛びこえて、街路へ出た。
幅二間半ほどの街路の右手は、すでに住民が逃げた民家が木立をはさんでつらなっている。
左手は、奉行所の土塀がつづいているが、その塀の切れ目のあたりから、すさまじい突貫の声をあげて、薩摩の先鋒隊が押しよせて来た。
「来やアがれ!!」
大刀をひたと鉢金をかぶった額につけて、新八は猛然と坂路を駈け上った。つづく十七名も、
「うおっ……」
新八の両傍をかためるようにして突進した。
双方の槍が、刀が渦を巻くようにぶつかりあった。
「押せ、押せい!!」
小ぶとりの躯なのだが、永倉新八は縦横に飛んで敵を斬りまくった。
がつん、がつん……と、敵の槍の柄が、こっちの肩や胸に当るほどの混戦なのである。
その隙間を縫って、新八は的確にうごき、
「む!!」
気合いがほとばしるたびに、敵の黒い影が地面へ沈んだ。
「ひけ、ひけ、ひけい──」
二町ほども押し返したろうか……。
敵は、いっせいに逃げた。
「な、永倉さん……」
あえぎつつ、島田魁が近寄って来て、
「大丈夫ですな?」
「ふしぎだ。どこも斬《や》られていねえらしい」
「追っかけますか?」
「どうも無理だなあ……」
新八は嘆息をした。
御香宮の敵陣まで斬込むつもりだったが、とても駄目だ。
先に出て行った会津部隊も、ぐんぐんと押し返されているらしい。あたりはもう火煙が流れ渦巻き、行手も見えぬほどになっていた。
「奉行所も燃え出しましたよ」
「そうか」
「こっちは四人斬られました」
土塀を越えて、一同、奉行所へ引返すと、
「おう、無事だったか……」
めずらしく感動の色をうかべ、土方歳三が走りよった。
「よかった。永倉君、よかった」
冷静な土方が、ぐいと新八の手をつかみ、力をこめてうちふるのである。
「君が死んだときいたのだ」
「そうでしたか」
「外に、いかんかね?」
「駄目です」
「ふむ……」
土方は舌うちをして、
「刀と槍だけでは、戦さはできんのだな」
吐き捨てるようにいった。
「こうなったら、会津藩と一緒になるより仕方がありますまい」
「うむ」
表門の内外には会津部隊が集結していた。
こうするうちにも、奉行所周辺の民家は次々に炎をふきあげるし、奉行所自体も燃え出している。
明け方近いころになり、伏見の幕軍は、一応、淀のあたりまで引きあげることになった。
四日、五日と、諸方に戦闘が展開された。
日に日に、不利である。
この鳥羽伏見の戦争における勤王軍は、約四千とも五千ともいわれた。これに対し幕軍は総勢二万四千余。つまり、こちらは敵の四、五倍の兵力をもって戦争にのぞんだわけだ。
それでいて、負けた。
土方歳三の「刀槍だけでは戦さはできぬ」といった通り、敵の火力のすばらしさは、幕軍を圧倒したものだ。
それよりも尚、
「この戦争だけは何としても勝たねばならぬ」
という薩長二軍の闘志は、その近代的な戦術と相まって、火力の効果を倍加せしめた。
ことに長州は、ここ二、三年の間に何度も戦争の経験をもち、薩摩の猛撃をたすけて、あざやかな進退をしめした。
この戦争の最中に、勤王軍は〔錦の御旗〕をかかげた。
日月を金銀で刺繍した赤地錦の旗だ。この旗は、天皇の軍隊が賊軍を討つときにかかげるものである。
「徳川に与《くみ》するものは、日本の国にとって、賊徒となるのだぞ」
と、きめつけられたも同然であった。この旗を、薩摩藩では半年も前から用意しておいたという。
一月五日──。
淀川堤千両松附近の激戦を頂点として、幕軍は、ついに負けた。
六日──。
永倉新八は、退却する幕軍の殿《しんがり》をつとめ、淀の城下から男山八幡に闘い、大坂へもどった。
あれだけ働いたのに、新八の負傷は、とるにたらぬほどのものであった。
[#改ページ]
敗 走
一
(小常も、死んだか……)
軍艦《ふね》は、大ゆれにゆれていた。
永倉新八は、船艙いっぱいにつめこまれた兵士たちの中にいて、天井にゆれるカンテラの灯を、ぼんやりとながめていた。
(泣っ面に蜂だな、まったく……)
鳥羽伏見の敗戦により、幕軍は、大坂城をも捨てて、海路陸路をそれぞれ江戸へ逃げ帰ることになったのである。
すでに兵庫沖へ待機していた幕府軍艦を、大坂天保山へまわし、新選組は全員、富士山丸に収容された。
小常の死の知らせがとどいたのは、大坂を去る前夜のことであった。
知らせてくれたのは、前に屯所の下男をしていた亀吉だ。
「先生たちが、大坂へ移られて……そや、伏見の戦争が始まった前の日の朝どしたが、あの、八百屋のおかみはんが、台所でお粥を煮ていたら……」
小常の寝ている部屋で、妙なうめき声がきこえた。
あわてて、八百屋の女房が台所から飛んで出たときには、もう、小常の呼吸が絶えていたらしい。
その日は、泊りがけで看病しつづけてくれた八百屋の女房に、
「何や知らんが、今日は気分がええようや。思いきって、祇園の姉さんのところへ移ろうか思うてますのや。おかみはんも忙しいのに、こうして泊りこみさせてしもてすまんこっとす」
きげんよくいって、となりの床にすやすやと眠る磯子に、
「お磯はん。もうじき、お父ちゃんが戦さに勝って帰ってきやはるえ」
語りかけたという。
それが、急に、思いがけないことになった。
駈けつけて来た医者は、
「心の臓が、急に弱ったのや」
といったそうな。
(まったく、ついていねえなあ……)
新八にしては、めずらしく、ふとい溜息が出た。
前将軍・徳川慶喜は、そのときすでに、大坂城をぬけ出し、江戸へ逃げ帰ってしまっていた。
慶喜の供をしたのは会津侯・松平容保ほか、わずかに五名ほどだ。
敗戦の将兵を大坂へおいたまま、総大将が一人で逃げ出したということになる。
慶喜としては、
(かくなる上は、もはや抗戦すべきではない。余が大坂にとどまっていたのでは、おそらく将兵も城へこもって官軍を迎え撃つということになろう。大勢はいかんともならぬ。時代は変ったのだ。先ず、前将軍たる余が恭順の意をしめし、徳川の家が賊の汚名をこうむらぬよう、そして無益な戦乱を、この上におしひろげぬようにせねばならぬ)
と、決意したわけだが、
「それなら、なぜ、伏見の戦さが始まる前にお逃げ遊ばさねえのだ。将軍《だんな》の腰がきまらねえのにもおどろいたもンだ」
原田佐之助が吐き捨てるように、怒鳴ったのも、うなずけないことはない。
敵は〔錦の御旗〕などというものを勝手にこしらえ、これをかかげては、
「錦旗に刃向かう徳川の賊徒!」
と、きめつけている。
「何をぬかす。官軍もへちまもあるか、敵は薩摩と長州だ。やつらの息の根をとめてしまえば、今度はこっちが官軍になるのじゃアねえか」
原田の怒りは、大坂城へ帰って来た将兵の怒りでもあった。
慶喜が夜陰に城をぬけ出し、大坂の港から小舟に乗って兵庫沖へ向かい、軍艦〔開陽丸〕へ移り、ひそかに江戸へ去ったと知ったとき、
「豚一《ぶたいち》さんのすることは、いつもこれだ!」
大声にわめいて、はばからなかった幕臣もいたほどだ。
慶喜を「豚一」とよぶ渾名《あだな》の由来は、慶喜が好んで豚肉を食べたということと、一橋家の出であることから、
「一橋《いつきよう》さん」
とか、
「豚一さん」
とか、蔭口をたたかれたものである。
薩長のものがつけた渾名ならともかく、幕臣が将軍へたてまつったものだ。
慶喜も聡明な人物で、よくも思いきって〔政府返上〕にふみきった。
みずから権力を捨て、反って無血革命? の先頭をきったと言えないこともない。
これは、古今を通じ、かつて見ぬことであったといってよい。
これで、薩摩や長州が、
「よくぞ為せられた。われらも力を合わせ、新国家をつくりあげよう」
と、徳川に手をのばしてきたとしたら、明治維新のありさまも、もっと、違ったものになっていたろう。
ところが、あまりにもさっぱりと、慶喜が政権の座を下りたので薩長二藩は困った。
「徳川は、あくまでも、賊徒にしてしまわねばならぬ」
徳川の息の根をとめてしまわなくては、安心ができないというのだ。
そして、ひたすらに恭順の意をつくそうとする慶喜を引きずり出し、鳥羽伏見の戦争で、ついに〔賊徒〕の汚名を着せることに成功した。
こんな目にあいながらも、慶喜は家来を捨てて、江戸へ逃げたのである。
考えることは立派であるが、それを実行にうつすときの気魄にも、決断にも、慶喜は欠けていたようだ。
(まだ、負けたというわけじゃアねえ)
永倉新八は、富士山丸の船艙で、荒模様の海をわたりながら、
(万事は、江戸へ着いてからだ)
と、思っていた。
江戸には、新鋭の幕軍銃隊もいる。幕臣の多くはまだ江戸に残っている。軍艦は手つかずにあるのだし、海軍力は勤王軍のそれを、はるかに越えていることは誰の目にも、あきらかであった。
(これからだ、これからだ!!)
小常の死顔はどんなだったろうか、などと、しょんぼりしはじめた思いをふっ切るように、新八は首をふり、
「見ていやがれ、薩摩ッポめ」
つぶやいた。
「おい」
原田佐之助が船艙へ入って来た。
「永倉君。いけねえ、いけねえ」
「何が……?」
「死んだよ、山崎が……」
「そうか……」
新八も、暗黙となった。
山崎烝は、香取流の棒の名手であり、新選組にとっては、その隠密活動のすばらしさによって、
「山崎君だけは、死んでもらっては困る」
と、近藤勇が土方歳三にもらしたとかで、これを耳にはさんだ新八たちが、
「山崎だけが隊士じゃアねえ」
憤激したこともある。
近藤と土方と、山崎との呼吸は、ぴったり合っていた。
池田屋騒動をはじめ、新選組が勤王浪士を相手に目的を達した無数の事件の裏側には、山崎烝の活躍が光っていた。
その山崎が、伏見の戦争で重傷を負った。富士山丸にかつぎこんでからも容態は重るばかりであったが、ついに、この夜、息をひきとったのである。
「惜しい男を死なせてしまったなあ……」
思わず、新八もいった。
「水葬にするそうだ。一緒に……」
と、言いかけて原田佐之助は、船艙につまっている隊士に向かい、
「山崎烝君が、いま死去された。遺体をおがみに来い」
と、叫んだ。
隊士たちの、ざわめきがおこった。
そのざわめきよりも、重傷者のうめき声の方が高かった。
船艙内は、血の匂いにみちていた。
二
江戸に着いた新選組は、四十四名となっていた。
百五十名余の隊士のうち、三分の二が戦死、または脱走してしまったわけである。
慶応四年一月十四日、富士山丸は品川沖へ錨をおろし、十五日に一同は上陸をした。
「江戸に着いたなあ」
新八は、曇り空を仰いで、
「おい原田君。まだ負けちゃアいねえよ」
元気に、いい放った。
「うん……」
原田は、妙に蒼い顔をしている。
「どうした? 元気がねえじゃねえか」
「笑っちゃアいけねえよ、新八さん」
と、声をひそめて、原田佐之助が、
「貴公だからいうんだが……江戸へ着いたら、妙にこう……その何だよ、京に残して来た女房子が気にかかってなあ」
苦笑して見せた。
「当然だよ、人間だものな」
「そう思ってくれるか、新八さん」
「思うさ」
「ありがてえ」
原田、涙ぐんだ。このあばれ者にしては、こんなところを、たとえ新八にしても、他人に見せるのは初めてであった。
やはり、それだけに伏見の敗戦が身にこたえていたのであろうか。
原田佐之助の女房は、京の仏光寺上ルところの薬種問屋〔椿生堂〕のむすめで、|まさ《ヽヽ》という。
新八と小常の間は、まだ正式の夫婦というところまで行っていなかったが、原田は、まさ女と盃をかわしている。
しかも、近藤はじめ、隊員の重だったものを、例の料亭〔いけ亀〕に招んで披露までしたほどだ。
男の子が生れたばかりである。
「無理もねえが……」
わざと、新八は、あかるく笑って、
「小常も死んだよ」
と、いった。
「え……」
原田は、びっくりして、
「ほ、本当か?」
「艦へ乗る前の日に、知らせがあってね」
言っているうちに、新八も眼の中が熱くなって来て、
「かまわねえ、泣こうじゃねえか」
「よし、やっつけよう」
二人して、男泣きに泣いたものである。
品川宿の、釜屋という旅宿の一室でであった。
二人きりであったし、隊士の誰にも気づかれはしなかった。
間もなく、隊士たちは、大名小路の鳥居甲斐守の屋敷を宿舎にきめられ、引き移った。
近藤勇の肩の傷は、まだ癒りきってはいない。
近藤のみは、品川へ着くとすぐに、神田和泉橋にある幕府の医学所へ入院をし、典医・松本良順の治療をうけている。
土方歳三は、毎日のように医学所へ通い、近藤と今後の行動について、密議をこらしているようであった。
或日、佐倉藩の江戸留守居役をつとめる依田某が近藤を見舞いに来て、
「伏見での戦さは、どのような工合でしたか?」
と、たずねた。
近藤は、にがりきって、
「拙者は大坂におりましてな。土方君が、よく知っています」
土方は、にやにやして、依田にいった。
「どうもねえ、依田さん。これからの戦さは、刀や槍だけではどうにもなりませんよ」
それはともかく、近藤と土方が何を考えているのか、新八にも原田にも、さっぱりわからない。
何も彼も二人だけの秘密らしく、
「もう少し待て」
と、土方は密談の内容をもらそうとはしない。
「ここまで来て、何をいうんだ」
原田はむろんのこと、尾形俊太郎・斎藤一・大石鍬次郎・島田魁なども怒り出して、
「おれは一人でもいい、別行動をとる」
といい出す者もいた。
京都朝廷は、徳川征討軍の編成をおこない、総督に|有栖川 宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王をいただき、薩摩の西郷吉之助が総参謀となって、三道に分れ、江戸へ向かい進発したというではないか。
総勢、五万余といわれる。
これを迎え撃つのなら、どしどし準備をすすめなくてはならないのだが、
「これじゃア駄目だ」
新八は、がっかりした。
前将軍は、どこまでも恭順をつらぬき通すというので、上野寛永寺内の大慈院へ謹慎してしまったのである。
「一橋さんにも手を焼くよ」
或日、宿舎を訪ねて来た市川宇八郎が、
「将軍《だんな》は、もう勝安房《かつあわ》に何も彼も任せっぱなしさ」
といった。
市川宇八郎は、あれから旗本の芳賀家へ聟《むこ》入りして、名も、芳賀|宜道《ぎどう》とあらためている。
「何だえ、妙な名前をくっつけて、神主じゃアあるめえし……」
新八は笑いとばし、
「おれは、市川宇八郎のつもりでいるぜ」
「結構だ」
変ったのは、宇八郎である。
新八が新選組へ入って京へのぼるころには、
「何しろ、公儀の力もおとろえているし、これから先、どんなことになるか知れたものじゃアねえ。まあ、これからは勤王でも佐幕でもねえ、どっちにしても、日本の国が毛唐の餌食にならなければ、それでいいのさ」
などと、宇八郎は、かなり自由な物の見方をしていたものだ。
「宇八郎さんは勤王浪人か」
と、新八が喰ってかかったこともある。
その宇八郎が今度は、
「我慢がならねえ。おいらはどこまでも薩長の奴らと闘うぜ」
と、いい出したのだ。
「おらアね、豚一さんのしたことを、偉いと思ったよ。天下の将軍家が、みずから大政を奉還するなんざ見上げたもンだ。よくもやった。これで徳川の家は、もっと新しい、もっと進歩をしたやり口で、新しい世の中に先頭を切って歩き出した。薩長の奴らよりも将軍の思い切りのいい手際が一歩先んじている、と、こう思ったもンだ」
「馬鹿をいいなさんな。そんなことをしたからこそ奴らをつけ上がらせたのじゃ……」
「そこだ!!」
「何がだよ? 宇八郎さん」
「おれア、つけ上がって来た薩長が憎い。奴らの勤王が|つけ《ヽヽ》焼刃だってことが、はっきりわかった」
「ふふん」
「何が、ふふんだ?」
「宇八郎さんは京にいたのじゃアねえ。だからわからねえのだよ、薩長のやり口というものが……煮ても焼いても食えねえのが、あいつらだ。このことを会津侯なぞは、口をすっぱくして将軍に申しあげたもンだ。しかし、とうとうおきき入れがなく、政権のみか家来たちまでも放り出してしまわれたのさ」
「まあ、いい」
宇八郎は眼を光らせ、
「すんだことは、もう仕方がねえ。これからは何とかして、攻めのぼって来る奴らに一泡ふかせなくては、おれがおさまらねえ」
息まいた。
「宇八郎さんも、旗本の養子になったら、ずいぶんと変ったねえ」
「それよりも新八さん。松前屋敷へ行ったか?」
「行かねえ。松前藩の動きは危ねえ。どっちかと言うと、官軍とやらいう方へくっつきかけているンじゃねえのかな」
「そこだよ、大分もめているらしい」
「父上にも母上にも会いてえのだが……」
「行けよ、新八さん。御父上の病気は、大分悪いという話だぞ」
「そうか……」
行きたいのは山々だが……。
徳川につくか官軍につくかというので、松前藩は混乱の極に達しているらしい。
そこへ顔を出すのは、どうも、はばかられる。
この前、江戸へ来たときに、新八は、近藤勇を松前侯へ引き合わせるため、堂々と胸を張って松前屋敷へ出かけたものである。
新選組の威風はまだ地に落ちず、あの伊東甲子太郎までが、新選組を利用する価値ありと見て、同志に加わったほどであった。
それが、今日《こんにち》どうだ。
同志わずか四十余名。
敗北《ま》けて帰った江戸なのである。
松前屋敷へは、意地にも、行けたものではなかった。
三
江戸にも、春は、しのびよってきていた。
霧のような雨がふりつづいて、
「今年は雨が多いな」
「何かこう、あの雨の音をきいていると躯が火照ってきゃアがる」
「春だよ、おい……久しく女も抱かぬからな」
宿所に閉じこめられて、隊士たちは、もうくさくさしている。
前将軍には、まったく戦意がない。
徳川慶喜は、恭順派の幕臣・勝安房守(海舟)を主軸にして、終戦内閣のようなものをつくらせた。
「たのむぞ」
すべてを、勝安房にゆだねたのである。
江戸へ向かい、進軍中の官軍に対する、勝のねらいは、
一、前将軍・慶喜の恭順謹慎を楯にして、慶喜を賊の汚名から救い、合わせて、徳川家の名目をたてること。
一、江戸を無血開城し、江戸の町を戦火から救うこと。
一、このためには、江戸にある幕臣たちの官軍への抗戦をくいとめること。
などであった。
諸外国は、フランス公使のレオン・ロッシュの発議により、いっせいに局外中立を声明したが、ロッシュは、諸方へはたらきかけてひそかに旧幕府の抗戦を、そそのかしているらしい。
むろん、こうなる前に、幕臣・小栗《おぐり》上野介《こうづけのすけ》や会津侯の、
「敵を東海道に迎え撃つべし!!」
との主張も、激烈をきわめたのだが、
「負けて帰って来て何をいうのだ。ここに至って薩長のやり口がどうのといったところではじまらぬ。相手は、勅命をもって、われらを討伐せんとしておる。この実態は、まさに厳たるものである。今や徳川も薩長もない。先ず、日本国内に一日も早く戦火を絶やしてしまわねばならぬ」
と、勝安房守は主戦派に立ち向かったし、前将軍の決意はいささかもゆるがない。
松平容保は江戸をひきはらい、領国の会津へ去った。
容保は、どこまでも戦うつもりである。
東北の諸大名へよびかけ〔奥羽越列藩同盟〕というものをつくり、反撃の準備にとりかかったという。
もともと、新選組は、会津侯|麾下《きか》のものであったし、
「会津へ行き、共に戦うか」
または、
「新選組独自の行動をとるか」
の二つに、今後の動きをしぼってきている。
近藤も土方も、このことで毎日のように諸方とうち合わせやら密議やらをおこなっているのだが、隊士たちの耳には何も洩らさぬという慎重さであった。
「おれたちは、近藤や土方の家来ではない。同志なんだ。少しは、われわれの意見もきいたらどうか」
みんな不満たらたらである。
「とにかく、こうくさくさしてはたまらん。くり出そうではないか」
島田魁の発言で、若い連中が六人ほど、宿舎を出ようとするのへ、
「おれも連れて行けよ」
新八が声をかけた。
「いいんですか、永倉さん。土方副長は、われわれに禁足をくわしている。そいつを押しきって行くのですぜ」
「かまうもんか」
同勢七人である。
深川へ、くりこんだ。
洲崎の品川楼というのへ上り、それぞれ敵娼《あいかた》をえらび、芸妓もあげて大さわぎになった。
みんな京都を出るとき、それぞれにまとまった金をもって来ているし、大坂ではかなりの手当も支給されている。
今まで、これをつかうひまもなかったのだから、
「かまわん、流連《いつづけ》だ」
一同、堰を切ったように官能の世界へおぼれこんで行った。
のちに新八は、市川宇八郎へ、こういっている。
「三日、流連したよ。みんなもう、久しぶりに嗅ぐ白粉の匂いだったもンだから、夢中になってなあ……ところが、おれはいけない。敵娼の顔が小常の顔に見えてねえ……手を出す気にもなれず、後で花魁にうらまれたがね、もう酒びたりさ。のんでのんで……のみまくったもんだが……」
三日目に、
「ちょいと酔をさまして来る」
ぶらりと新八は、品川楼裏庭の木戸から、表へ出た。
どんより曇った生あたたかい昼下りである。
海辺の空気でも吸いに行くつもりで、小格子のならぶ細い道を、ふらりふらりと歩いて行くと、行手に小さな橋が見える。
海の潮の香もただよってきた。
(あれは、もう何年前のことか……)
牛込の試衛館に|とぐろ《ヽヽヽ》を巻いていたころ、同じ深川の山本町の〔仮宅〕の遊女で豊浦というのに、新八は通いつめたものだ。
その豊浦を、今は亡き藤堂平助に横取りされ、むしゃくしゃして夜も明けきらぬうちに妓楼を飛び出したのは、試衛館の同志が京へのぼろうという前日であったかと思う。
(もう、足かけ六年前のことになるのか……早え、まるで夢の間だ)
ふところ手をして、新八は橋へかかった。
向こうから、侍が三人、大手をふってやって来た。
江戸のものではなく、どこかの藩の勤番侍だということは武骨な身なりを見ても知れる。
何気なく橋の上ですれ違ったとき、新八の刀の鐺《こじり》が、三人のうちの誰かにふれた。
「む──」
そやつが屹と見て、新八を白い眼でにらんだ。
「いや、失礼」
こだわりなく詫びて行きすぎようとすると、
「これ、おい」
いきなり、肩をつかまれた。
「失礼ですむか」
相手も酔っているらしい。角張った顔をまっ赤にして、
「貴様、どこの者じゃ。こらやい、名を言えい!!」
わめきたてた。
「勝手にしやがれ」
言いすてて、新八が後も見ずに橋をわたりきったときである。
「待てい!!」
新八に喰ってかかった侍が、突風のように駈け向かって来た。
ふり向いた新八へ、
「無礼者め!!」
ふりかぶった大刀が、|もろ《ヽヽ》に打ちこまれた。
ちょうど通りかかった品川楼の若い者が、
(旦那が殺られた……)
思わず眼をつぶったほどの急場である。
しかし、さすがに新八であった。
半身をひらいて相手の打ちこみをかわすと、
「む……」
さっと飛びはなれて抜き放った。
「くそ!!」
たたみかけて、斬込んで来る一刀を事もなげに、
「それっ──」
下からすりあげておいて、新八の刀は宙に一回転すると、その余勢をもって、ざくりと、侍の横面を割りつけていた。
新八、得意のかけひきであった。
「わ、わわあ……」
刀を振り落し、顔面を押えたまま、その侍は鞠《まり》のように転倒した。
橋の向こうから、同行の二人も抜刀して、この様子を見ていたが、
「おい、どうした」
にやりと新八は、刀をさげたまま一歩出て、
「後も来いよ」
低く声をかけた。
二人とも、まっ青になった。顔を見合わせたかと思うと、刀を抜いたまま、ころげるように逃げ去ったものである。
斬られたやつは、橋際にふせたまま、もう、びくりともしない。
四
この事件は、うまく片がついた。
江戸市中も、いつ戦争が始まるか知れたものではないというところだし、すぐに島田魁が出て来て、廓役人へ金をまき、片をつけてしまった。
新八が、宿所の鳥居屋敷へ帰って来ると、土方歳三は早くも、このことを耳に入れたらしく、新八を呼びつけ、
「この際だ、自重さっしゃい」
と、叱りつけてきた。
「深川で女を抱くのもいいが、永倉君。貴公の留守中に何がおこったか、よう知るまい」
変に持ってまわった言い方で、
「貴公の留守に、市川宇八郎さんが見えられてな」
「え……?」
「御父上が亡くなられたそうだ」
「何ですと──」
「うらむな。第一、貴公たちがどこへ行ったものか誰にきいても知らんという。これでは手のつくしようがあるまい」
新八は、うなだれてしまった。
(何ということだ。おれは何も知らずに酒をあびていたんだなあ……)
土方の前だけに、新八も穴があったら入りたい思いである。
いつもの土方なら、これからねちねちと、新八を責めたてるところなのだが、
「とにかく松前屋敷へ駈けつけ給え」
という。
「はあ……」
「かまわん。私も行くし、隊士一同にも焼香させる」
近藤は、まだ医学所にいることだし、土方を頭に四十余名が三味線堀の松前屋敷へおもむいた。
新八も、これには嬉しかった。
体面もたつし、遠慮をせずにすむ。
松前屋敷でも、わざわざ家老の下国東七郎があらわれ、
「京都では、いろいろと御苦労でござった」
酒肴をととのえ、一同をもてなしてくれた。
新八は、おそるおそる母の待つ長屋へ出かけて行った。
「遅うございました。遅うございました」
老僕の伊兵衛が、かじりつくようにして泣く。
寝所に、父の勘次の遺体は、まだあった。
「母上……」
両手をついたまま、それだけいうのがやっとの新八であったが、
「いいのですよ、新八」
意外に、母の|りつ《ヽヽ》はしっかりしたもので、
「お父さまのお顔をおがみなさい」
おだやかな死顔であった。
死に当って、永倉勘次は、りつに、
「このような御時勢となっては遺言することものうなった……新八によろしゅうつたえてくれい。犬死を……犬死をせぬことだ。そう言うてくれよ」
とのみ、いいのこしたそうだ。
「これから、どうしやる?」
落ちついてから、母がきいた。
「しかとはわかりませぬが……何事も隊士一同と心を合わせ、はたらくつもりでおります」
新八は、さしさわりのないように、答えておいた。
めっきりとやつれた母の顔には、何の表情もうかんではいない。
「わたしのことは、御家老さまはじめ皆々様が、ようして下さるゆえ心配せずともよい」
「おそれいります」
「ただ……」
母は眼をとじて、
「お父さまの申されたこと……犬死をせぬように……それだけを心にとめて……」
さすがに、声がふるえていたようだ。
「御屋敷でも、いろいろともめごとが多いらしい。何しろ大変なことになったものですねえ、新八」
「はい……」
母の手づくりの夕飯をいただき、新八は長屋を出た。
「きっとお迎えにまいります」
と、口まで出かかったが、
(母上に気やすめを言っても仕方がないな)
あきらめた。
長屋の玄関口に立ち、いつまでもこっちを見送っていた母の、骨張ってうすい肩のあたりが、宿所へ帰ってからも、新八の胸の中にちらついてきて、どうにも困った。
(そうだ……小常のことも、磯子のことも、母上には申しあげなかったな)
気がついたのは、まんじりともせずに夜を明かした翌朝のことである。
(磯子は、母上にとって初孫《ういまご》ということになる。きっと、よろこんで下されたろうに……)
もう一度、松前屋敷へ出かけようと思ったが、その日の夕暮れになって、近藤が、医学所から宿所へ移って来た。
京にいたころから見ると、近藤は、とげとげしく痩せおとろえている。
だが近藤は、血の気のひいた青ぐろい顔を昂然とあげて、
「いよいよ、きまった」
といった。
隊士たちを広間にあつめてのことである。
「わしの考えが通ったのだ。新選組は、これより甲州へおもむき、甲府の城を手に入れ、ここへ将軍をお迎え申しあげることになった。このことは、御公儀を通じ、将軍家の御内諾もうけてある」
原田佐之助が膝をすすめ、
「そうなれば、こいつア面白い」
眼をかがやかせた。
「間違いない。御公儀では、勝安房殿の肝煎《きもいり》で、銃器、弾丸をはじめ大砲二門、軍用金として五千両を、われらに下しおかれる」
近藤勇は、声を凜《りん》として、
「すでに、敵軍の一部は、東山道を甲府へ、進みつつある。一戦はまぬがれまいが、何のことやあるだ。京における新選組の力を存分にふるい、甲府城をわれらの手中におさめるのだ。諸君の奮闘をのぞむ」
反っくり返って、のべたてはじめた。
「首尾よく、甲府百万石が、われらの手に帰したるあかつきには、隊長は十万石、副長は五万石、副長助勤はおのおの三万石、調《しらべ》役は一万石をあたえよう」
隊士たちは歓声をあげた。
永倉新八も、三万石の大名になるというわけだし、近藤に至っては、何と十万石の大名ということだ。
景気がよすぎる。
(本気でそう思いこんでいるのかな、近藤さんは……)
じっと見つめてやると、それに気がついた近藤勇は、腕を組んだまま天井を見上げ、傲然と、
「諸君は、一命を近藤にささげてもらいたい。近藤を信じ、どこまでも従って来てもらいたい」
きめつけるように言って、さっさと別室へ去ってしまった。
新八は、原田と顔を見合わせた。
原田も、うんざりした顔つきになって、
「近藤さんは、もう十万石でも貰った気になっているのじゃねえか」
新八に、ささやいてきた。
新選組は〔甲州鎮撫隊〕という名称にかわり、三月一日、江戸を出発することになった。
出発の前夜に、市川宇八郎が、宿所へやって来て、
「いよいよ行くのだってね? 新八さん」
「うん。宇八郎さんも一緒にどうだ?」
「ごめんこうむるよ」
「何でも幕臣たちが、彰義隊というものをつくり、浅草の本願寺へ立てこもったそうだね。宇八郎さんはそこへ行くつもりなのか?」
「まだわからねえが、どっちにしても薩長の奴らに楯をつくつもりだ。ところで……」
と、市川宇八郎は声をひそめ、
「新八さん。甲州鎮撫などといって体裁はいいが、新選組は江戸を追っぱらわれたのじゃねえか?」
「どうして……?」
「新選組が江戸にいたのじゃア邪魔になるさ」
「誰の邪魔に……?」
「慶喜公《うえさま》にも勝安房守にもよ」
「え……?」
「近藤さんは、勝の手品に引っかかったのじゃアねえかえ」
「まさか……」
「勝安房守てえ人は、どこまでも戦さをせずに敵を迎え入れようというのだ。そのお人が、軍用金や鉄砲までくれて、甲州へ行ってくれというのは、こいつおかしいと思うがなあ」
「しかし……」
「新選組にあばれられては困るに違えねえ」
「まさか……」
「ま、いいや。とにかく行くんなら新八さん。思いきりやってこいよ、うまく行けばめっけものだからな」
翌日──甲州街道を進みながらも、永倉新八は、市川宇八郎の言葉が気にかかって仕方がなかった。
[#改ページ]
明 治 元 年
一
新選組あらため〔甲州鎮撫隊〕が、江戸を出発したときの総勢は、百六十七名であったという。
このうち、京都以来の同志は二十七、八名にすぎない。
江戸へ着いたとき四十四名を数えた同志のうちの約半数が、どこかへ逃げてしまったのだ。
だから、後の百四十名というものは、江戸へ来てから寄せあつめたものにすぎない。
食いはぐれの浪人もいる。
浅草の非人頭・弾左衛門に位をあたえ、手下や人足たちを差出させたり、旧幕府の撒兵隊や伝習隊からも人をあつめたりした。
とても、京都にいたころのようには行かなかった。
江戸出発の第一日──。
内藤新宿の遊女屋を買いきりにして、
「これからうんと働いて貰うのだから、今夜は思いきってやってくれい」
隊士一同の歓心を買う始末である。
(あの近藤さんがなあ……)
永倉新八も憮然たるものがあった。
こんなときに、しかも瞬時を争って甲府を乗取らねばならぬというときに、こんなことをしてまで隊士たちを掌握しなくてはならない近藤勇の胸のうちを考えてみると、
(気の毒だ……)
人のよい新八は、今までの反感も忘れて、
(あの人は、きっと、胸の中で泣いているに違えねえな)
と思った。
いくらでも人がほしい。金が、武器がほしい。
二日目は府中泊りだ。
このあたりは、近藤と土方の出身地でもあり、府中には、土方歳三の実兄・粕谷良順が住んでいる。
良順は医者であったが、
「よう来てくれた」
大歓迎である。
近藤の生れた上石原からも、ぞくぞくと縁類のものや村の人々がつめかけて来た。
酒も食べものも、本陣となった粕谷家へ山のごとくにもちこまれて、
「しっかりやって下され」
「おれも近藤先生の御供がしてえ」
「人数に加えて下され」
血気の若者たちが、刀・槍を抱えてあつまっても来た。
「ありがとう、ありがとう」
さすがに近藤も、感傷に胸をかまれたのか、声がうるみがちになっていた。
土方歳三は、どこまでも冷静そのもので、
「戦さに勝てば、お前たちの身を、悪いようにはせぬ」
と、悠々せまらぬ様子を見せたものだ。
ここはどこまでも人手をあつめ、気勢をあげて甲府へ進まねばならないから、土方も内心は必死であったのだろう。
とにかく、大変な景気である。
三日目は、日野泊りで、ここは土方の姉婿の佐藤彦五郎方が〔本陣〕であった。
彦五郎は、近藤勇の養父・周助の高弟でもあるし、勇とは、共に稽古をはげんだ仲だ。このあたりの人々にとっては、近藤も土方も、郷土の誇りなのである。
武州・多摩の農家に生れた二人が、若年寄格だの寄合席だのという身分に出世をしたのだ。
若年寄といえば老中見習の大名格だし、寄合席といえば三千石以上の旗本格であった。
「名前も、徳川家譜代の功臣たる大久保姓を名のることをゆるされてな。このたび、大久保大和と名をあらためたよ」
なぞと、近藤が酒に顔をほてらせながら、もったいらしく佐藤彦五郎へ語ったりしているのを見て、
(こんなことで、戦さに勝てるつもりなのか……)
また、新八には反感がつのって来る。
「仕方がねえさ」
と、原田佐之助が、
「まさか近藤さんも馬鹿じゃねえ。こうやって人をあつめなくてはどうにもならねえと思っているんだろう。むかしの新選組なら、三日のうちに甲府まで駈けつけているのになあ」
「しかし、原田君。こんな連中をあつめたところでいざというときの役に立つかねえ」
「まあ、あたりめえの百姓よりはましだろうよ。何しろ武州・多摩といやア、近藤・土方を生んだ武芸どころだ。鋤鍬《すきくわ》を右手に、竹刀を左手にという土地柄だものな」
「ふうむ……」
「それよりも新八さん──おりゃ、気が気じゃねえ」
「何が?」
「中仙道を進んで来る敵軍が一足先に甲府の城へ入ってしまったらどうなる。手も足も出なくなるぜ」
「同感だ」
「そうかといって、一人でも多く人数をふやしたいところだろうが……」
江戸から三日もかかって、こんなところにぐずぐずしていることは居ても立ってもいられない気持であった。
おそらく、近藤も土方も、同じ気持であったろう。
こころよく歓迎の酒盃を手にし、同志勧誘のための弁説をふるい、次々におしかける郷党へ自信にみちた笑顔をあたえることも、大抵のことではなかったといってよい。
佐藤彦五郎の肝煎で〔春日隊〕というものが、一夜のうちにできた。
これは多摩の人々があつまって行を共にし、〔甲州鎮撫隊〕のため、兵糧万端をうけあうことになった。つまり〔輜重《しちよう》隊〕のようなものである。
だが、日野宿へ泊ったその夜、官軍の東山道先鋒三千名は、板垣退助の指揮の下に、甲府城へ入城してしまったのだ。
このことを知ったのは、翌四日に、ふり出した雪をついて笹子峠を越え、駒飼の宿へ入ってからであった。
「しまった」
叫んだが、もう遅い。
一日の差であった。
甲府城では、城代の佐藤駿河守が、
「近藤氏は何をしているのだ。遅い、遅い」
待ちこがれていた。
官軍がやって来て、
「城を明けわたすよう──」
と諭告をしても、何の彼のといいのがれ、江戸を一日に発ったという甲州鎮撫隊を待とうとしたのだが、断乎たる官軍の進撃の前には抗すべくもない。
五日──。
官軍は後から来た土佐・因幡《いなば》の両藩に松代藩も加わり、全軍が甲府へ入った。
勝沼まで来ると、
「とてもこれでは勝てない」
二十余名が鎮撫隊から脱走してしまった。
「これはいかん」
と、近藤が、
「後の者が逃げぬようにしてくれ」
新八にいった。
「どうしたらいいんです?」
新八も、やけになってきき返すと、
「うむ……よし。会津藩の援兵が五百名も猿橋まで到着しているから安心せよ、とこういっておけい」
「そんな……」
あきれて、
「すぐばれる嘘を……」
「わしの言う通りにできんのか、君は──」
近藤は高圧的に、いらいらと怒鳴りつけてきた。
二
「そのとき、もう、負けたと思ったねえ」
永倉新八は、市川宇八郎に語りつづけた。
甲府へ出発してから、まだ一カ月もたってはいない。
「土方さんが、神奈川にいる菜葉隊へ救援を乞いに馬を飛ばせて行ったけが……とても駄目さ。勝沼まで来たら、官軍の方から押し出して来やがってね。近藤さんが、あたりの百姓たちをあつめて……徳川家の御為尽力せしものは、御挽回の後、恩賞いたすべきものなり、なぞとよびかけて、いくらかはあつまっても来たが……」
五日、六日の戦闘で、鎮撫隊は総くずれとなった。
「近藤さんは、どうしても吉野宿で最後の一戦をやろうと言ってきかない。ところが、かんじんの隊士一同、みんな逃げ出してしまったのではどうにもならない。近藤さんもねえ、がっくりしたようだった──ついに、こういったよ。この上は拙者も会津の城を枕に討死いたそう、とね」
「そうさ。はじめから、そうすりゃアよかったんだ」
江戸の本所二ツ目にある大久保主膳正という旗本の屋敷内であった。
この屋敷が、新選組残党の宿所である。
永倉、原田以下わずかに十名が、甲州からここへ戻って来た。
別れるときが散り散りだったので、近藤もまだ顔を見せてはいない。
神奈川へ飛んだ土方歳三も、消息は不明であった。
「こうなれば、会津へ行くより仕方があるまい」
と、新八が言えば、宇八郎も、
「今度は一緒に行くぜ」
にやりとした。
二十日ほど江戸を離れている間に、様相は、がらりと変っていた。
東海道を進んで来た官軍は、すでに、江戸市中へ入っている。
これより先──〔徳川終戦内閣〕の総理ともいうべき勝安房守は、官軍総参謀・西郷吉之助へはたらきかけ、江戸高輪の薩摩藩邸で、ひざをまじえて会談をした。
勝のいうところは……。
一、江戸市中を戦火に包ませたくはない。
一、そのために旧幕臣の抵抗を一切やめさせ、江戸城を無血開城する。
一、前将軍・徳川慶喜を水戸に退隠させる。
一、官軍も、戦乱の惨禍を江戸へあたえぬように願いたい。
およそ、こうしたものであった。
「勝さんに、まかせもそ」
と、西郷はいった。
何しろ、勤王革命は、薩摩の西郷吉之助の威望あってこそ成しとげられた、とまでいわれた西郷である。
すぐに江戸を発って、駿府(静岡)まで進んで来た官軍総督府へおもむいた西郷は、東海、東山、北陸の三道総督に令して、その進軍をとめ、みずから京都へ長駆し、朝廷に、徳川慶喜謝罪のむねをつたえた。
これが、勝と西郷、両雄の劇的会見による江戸城明渡しの一幕であった。
「何、勝さんもぬかりはねえのさ」
どこからききこんできたものか、市川宇八郎が、
「勝さんはね、西郷を説きつける前に、イギリス公使のパークスとかいうのに会っているンだ。イギリスといえば敵軍の味方さ。思いきって、こいつに泣きついたもんだ」
勝は、こういったそうな。
「前将軍は非を悔いて上野山内に謹慎している。この上、官軍が前将軍の首をとろうというならば、旧幕臣も手をつかねてはおるまい。江戸市中は戦火に包まれ、災害は非常なものとなろう。
われわれは、おだやかに、江戸を官軍に引渡したい。それでも尚、官軍が慶喜をほろぼさんというのなら、われらも刀槍をとって、これを迎え撃つであろう。何とぞ、文明国である貴国の力をもって、官軍を説得していただきたい」
イギリス公使も、今までは敵視していた旧幕府から、こういう率直な依頼をうけて面喰ったらしい。
だが、たよられてみると悪い気持はしなかった。
ここでイギリスが仲に入れば、将来の日本へ対する発言力も大きなものとなる。
勝と西郷が会う前に、
「官軍がぜひにも戦うとあれば、イギリスは徳川前将軍の味方にたち、江戸を守るであろう」
と、イギリスがいい出した。
「それで西郷も仕方なく折れたのさ」
市川宇八郎は、せせら笑った。
むろん、それだけのことで万事がはこんだのではない。
十年も二十年も先を見透した勝安房守の鋭敏な政治家としての感覚と、西郷吉之助の英断とが、最後には物をいったのである。
イギリスやフランスへはたらきかけることがあっても、勝や西郷は、いささかも異国の権力が日本を侵すことをゆるさなかった。
なればこそ、江戸は二人の取りきめによって無血開城と決したのである。
江戸には旧幕臣が〔彰義隊〕というものを組織して、近いうちに、その本拠を上野山内にうつすとかいう話であった。
上野寛永寺には前将軍が謹慎している。
これを強引に押したてて官軍に刃向かおうという噂も耳に入って来る。
「そりゃア駄目だ。三千かそこいらで、何万という官軍に向かっても、それこそ、甲州鎮撫隊の二の舞だよ」
市川宇八郎は、
「やっぱり会津へ行こう」
という。
会津侯は若松の城にこもり、決戦の準備を急いでいる。
仙台藩も、米沢藩も、越後の長岡藩もこれと同盟し、東北の地に官軍を迎え撃とうとしている。
「近藤さんが見えた」
という知らせが、旧幕府医学所の松本良順からもたらされたのは、間もなくのことであった。
新八は、原田佐之助や島田魁、矢田賢之助などという同志たちと、早速に医学所へ出かけて行った。
近藤も、土方もいた。
「ともかく、会津へ行こうということになりました。甲州から逃げて来たものも全部で二十四名ほどおります。いかがですか、近藤さん。われわれと行を共にされては……」
原田が口をきると、近藤は、実に厭な顔つきになった。
原田などから親しげに、なれなれしく、「近藤さん」などと、呼びかけられたのが、たまらないらしい。
たちまちに、近藤勇は胸をそらし、
「みなは、新選組の局長が、誰であるかを忘れたのか」
と、癇声に叫んだ。
(まだ、あんなことを言っている……)
新八は、馬鹿馬鹿しく、そらぞらしくなるばかりだ。
土方歳三は腕を組み、黙然と眼をとじている。
「君達は……き、君達は、勝手にすべてをきめ、局長たるわしにこれをはかるなどとは……もってのほかである」
やせこけた蒼白な面を引きつらせて、それでも近藤は懸命に自制しつつ、
「しかし……しかし、これから以後、何事についても、わしの采配に従うというのなら、同意してもよい」
と、ついにいい出した。
やはり、味方はほしいのである。
しかも、新選組結成以来の力強い同志である永倉や原田を放したくないのは知れている。
それでいて、
「よし。一緒にやろう!!」
手をさしのべることの出来なくなった近藤勇の虚栄を、むしろ、新八は哀しくながめた。
なまあたたかい雨の夜であった。
原田と新八は、ちらりと眼を見合わせてから、
「さようですか」
今度は、新八が、
「われわれは、あなたの家来ではない、同志です」
といい出した。
「何──」
「土方さんは、どうお考えか?」
「うむ……」
土方は、うめくような声を発したきり、もう答えようとはしなかった。
「近藤さん、これまでです。われわれは、われわれだけでやります」
「勝手にさっしゃい」
「では……」
「勝手にせい」
「ごめん」
一同、さっと座を立った。
近藤は後も見ずに、となりの部屋へ入ってしまう。
土方歳三が、廊下へ追って来て、
「永倉君──」
と呼んだ。
新八が引返して行くと、
「十五両あるよ」
金包みをにぎらせ、
「しっかりやってくれ給え」
「はあ……」
「おれと近藤さんとは兄弟も同じ仲だ。おれだけはついて行ってやりたい」
「わかっています」
暗い廊下で、土方の顔の表情はよくわからなかったが、土方の声には少しのみだれもなく、
「いずれ、冥土で会おうよ」
いってよこした。
三
新八たちと別れてから、近藤勇、土方歳三は江戸を脱し、下総・流山《ながれやま》へおもむいた。
流山は、江戸から七里余。現在の千葉県東葛飾郡流山町である。
ここは、野田と共に醤油、味醂《みりん》の産地としてむかしから著名なところだ。
近藤は、流山において、江戸を逃げて来た旧幕臣やら、浮浪人なぞも交え、百人ほどの人数をあつめた。
この前後の近藤勇のことは、後年生き残った新選組古参の隊士が一人もついていなかったので、くわしい資料を得ることができない。
けれども、近藤は、何とか兵をあつめ、最後まで戦うつもりであったのだろう。
が、その準備もととのわぬうち、早くも東山道官軍が、近藤の流山にいることをきいて、
「討て!!」
東山道鎮撫総督府・副参謀の有馬藤太(薩摩藩)が、彦根の兵三百をひきつれ、流山に押しよせて来た。
四月三日──。
官軍は、流山の村を包囲した。
多少の交戦もあったようだが、そのうちに……。
何と、近藤勇自身が軍使として官軍陣地へあらわれたものである。
このときの近藤は、あくまでも大久保大和として官軍へ出頭し、「菊の御旗を見て、はじめて官軍と知りましたが、それと知っていたならば発砲なぞするのではありませんでした」と、弁明し、官軍のうたがいを消しておき、官軍の引きあげるのを待って流山を去り、再挙をはかろうとした、などといわれてもいる。
これを土方歳三が、
「うかつに出て行っては、どんな陰謀が待ちうけているか知れたものではない。自身で出頭するなぞとはとんでもないことだ、やめて下さい」
強くひきとめたが、近藤は、
「大丈夫だ、うまく陳弁して帰って来る」
こういい放ち、大胆にも、一人で出ていったという。
しかし、これはどうも納得できない。
第一に、近藤が、どこまでも白をきって〔大久保大和〕で押し通そうなぞと思う筈がない。
京都で、あれだけ名を売った、新選組の近藤勇である。
とても隠しおおせるわけがないと思うし、土方もこれをそばにいて承知するわけがないのだが、それとも、
「何、ここに来た奴らには、わしの顔が知れているわけのものでもなかろうよ。ここさえ切りぬけられれば……」
というので出かけたものか。そこは明確ではない。
いずれにせよ、ここまで何とか張りつめて来た近藤勇の心も、ついに、がくりとくずれ折れたのであろう。ろくに銃も火薬もない、見すぼらしい寄せあつめの兵と、大砲三門、新式のミュンヘル銃を装備した官軍精鋭とをひきくらべて見て、
(もういかぬな……)
激しい絶望をおぼえずにはいられなかったろう。
近藤は、一度、五平新田の民家にもうけた、わが本陣へ戻り、身仕度をし直し、食事をしたためてから、またも単身、官軍陣地へ出頭して来た。
一説には──この日以前に、近藤と土方との間で意見の衝突があり、土方歳三は、京都以来の同志・野村利三郎ほか数名と共に、
「では、これで別れましょう」
近藤と訣別して、流山を去ったとも言われているし、すでに流山へ来る前に、土方は近藤と袂を分ったともいう。
近藤は、すぐに板橋の官軍本営へ引き立てられ、ここで何も彼も明白となったため、正式に捕縛された。
そして四月二十五日に、板橋刑場へ引き出され、近藤は首をはねられたのである。
近藤勇、ときに三十五歳であった。
副参謀の有馬藤太は、
「近藤は敵である。しかし徳川家にとっては|まれ《ヽヽ》に見るところの大忠臣である。しかもだ。近藤は錦の御旗を見るや神妙に降伏して来たではないか。これを、ろくな取調べもせずに斬罪に処しては官軍の名折れになる」
と、大いに力説したそうだが、
「断じて斬るべし!!」
との本営内での内部工作が熾烈におこなわれ、有馬が宇都宮の戦闘で負傷し、横浜の病院へ送られた留守中に、近藤の処刑が決行されてしまったのである。
近藤の死を惜しむ官軍将士の声は、当時、かなり高かったようだ。
近藤は、亀綾の袷《あわせ》を着、袴をきちんとつけ、刑場へあらわれると、
「ひげがのびていてむさ苦しい。ひとつ、きれいにして頂けぬか」
ひげを剃ってもらってから、少しも悪びれず首を斬られた。
この首は、京都へ送られ、三条河原にさらされたが、その後の行方がわからない。
首のない近藤の遺体は、妻の、つねのたのみにより、娘の瓊子の聟となっていた近藤勇五郎が多摩の人々六人と一緒に板橋刑場へ行き、番人に金をにぎらせ、遺体を掘り出して来た。
これで、近藤勇の遺体だけは故郷の菩提寺へねむることができたのである。
これより先──すなわち慶応四年四月十一日に、官軍総督府は江戸城を接収した。
同日、徳川慶喜は上野寛永寺を出て、わずかな供にまもられ、駕籠へも乗らず、水戸へ退隠して行った。
この後、彰義隊が上野山内へたてこもり、江戸の一角に最後の抵抗をこころみることになるのだが、
「とても、太刀打ちができるものじゃアねえ。こうなれば、会津へ行って戦うが一番だ」
永倉新八は決意をした。
江戸であつめた同志六十余名をもって〔精鋭隊〕と名づけ、新八も原田佐之助も、江戸城が敵の手におさめられた同じ日の朝に、江戸を出発した。
四
〔精鋭隊〕に加わった芳賀宜道こと市川宇八郎が、
「どうも、新八さん、母御の工合がよくないらしいぜ」
と、出発間際になり、知らせてくれたが、
「もう一日だって江戸にいることは危ねえものな、宇八郎さん──江戸は、もう敵地だ。母上にも一目会って行きたいが……」
それだけが、心残りであった。
〔精鋭隊〕は、途中に充満する官軍を突破しつつ、十九日に、下野(栃木県)の鹿沼宿へついた。
(おや……?)
鹿沼へ着いた夜ふけに、永倉新八は、原田佐之助の姿が見えないことに気づいた。
「そう言えば、夕方から、おれも姿を見ねえ」
と、市川宇八郎もいい出した。
みんな、知らないという。
いつ、どこで原田は姿を消してしまったものか……。
江戸を出る前から、原田佐之助は口数も少なくなり、何となく滅入った様子なので、
「どこか悪いのか?」
新八が心配すると、
「いや別に……なあ新八さん、笑ってくれるなよ。このごろ、おれはなあ、ばかにこう、京へ残して来た女房……というよりも子供のことが気にかかるんだ」
「無理もないよ」
「そう思ってくれるか……」
「おれだって子持ちだものな」
原田の子は男の子で、お磯より少し後で生まれた。
どっちにしても生まれたばかりの子に別れたきりの二人だし、これからもう生きて再会するのぞみも捨てておいた方がよさそうだ。
徳川家への忠誠をあくまでもつらぬき通す、というよりも、
「おれたちは、少しも悪いことをして来たおぼえはない。それなのに、やつらが官軍で、おれたちが賊軍というのは、どういうわけだ」
というのである。
信念があるから、これに賊の汚名を着せられて黙っているわけには行かないのである。
「しかし……」
ついに、原田の脱走が、確定的なものとなったとき、
「おれは、原田をうらまないよ」
と、新八が市川宇八郎に、
「あの男は小さいときから、あばれ放題に世をわたって、女の情にふれることも余りなく、いごこちのよい家の中に暮すということもなかった男でねえ……それだけに、つかの間の、おまきさんと暮した京の家でのことが忘れられねえのだろうよ」
「まあ、いいさ」
市川宇八郎も、さばさばと、
「それにしても原田君、これから京へ引返すのは大変だろう。どこもここも敵軍がみちあふれている中をぬけて行くのだからなあ」
しきりに、原田を〔卑怯物〕あつかいにして憤激している隊士たちとは違い、そこは江戸生まれの新八と宇八郎だけに、
「むしろ、御苦労さんと言ってやりたいねえ」
こだわりがなかった。
翌朝になって、旧幕臣をひきいた大鳥圭介が、会津藩の秋月悌次郎の一隊とともに、鹿沼へやって来た。
大鳥圭介は、旧幕府・歩兵頭をつとめた男で、のちに明治政府に抱えられ、枢密顧問官・男爵にまでなったほどの英才であるが、
「いずれは、江戸にいる榎本釜次郎さんも、海軍をひきい、江戸を脱走して来る筈だ。そうなればこいつ、まんざら捨てたものではないぜ」
と、元気いっぱいであった。
榎本釜次郎は、旧幕府・軍艦頭をつとめ、オランダ帰りの新知識をもって海軍を一手に牛耳り、オランダわたりの最新式軍艦〔開陽丸〕ほか七隻をひきいて、江戸湾にいる。
「海軍を刺激しては、まずい」
という勝安房守の進言をいれた官軍総督府が、
「旧幕府海軍は、江戸湾を警備してもらいたい」
反って役目につけ、これをうまく処理して行くつもりらしい。
「何といっても榎本さんは逃げて来る」
大鳥圭介は榎本と、じゅうぶんな打ち合わせをすませて来ているらしい。
三隊合流し、大いに気勢もあがった。
翌日から、宇都宮の城を攻撃。敵の残していった三千両の軍用金もうばいとって、勝利をおさめはしたが、
「こりゃあ、いかん」
続々と押しせまって来る敵の大軍を見て、精鋭隊は日光街道を今市へ出た。
このあたりの戦闘でも、精鋭隊はかなり奮闘したようだ。
春から初夏にかけて、新八たちは諸方に飛んでは闘い、闘ってはまた隠れた。
それは、どこまでも〔ゲリラ隊〕の活躍にすぎない。
東照宮のある日光を乗取ろうとしたが、すでに官軍が入っている。
「とにかく、日光をうばい返そう」
徳川家康を祀った東照宮を、敵の手にゆだねておいては、これからの気勢にも関係するし、日光はまた、いずれ江戸へ反撃するときの、有力な拠点にもなる。
「よし。会津から援兵を乞おう」
ということになった。
隊士たちを残し、永倉新八と市川宇八郎が馬を飛ばして、若松城下へ急いだ。
会津へ来てみると、少しの遅れで、
「しまった」
若松城下は官軍に包囲されつくし、はいこむ隙もないのだ。
会津藩主・松平容保を中心に結成された〔奥州諸藩同盟〕には、伊達、上杉、南部、佐竹、相馬など東北の大名たちが加わり、一時は、奥羽一帯が旧幕府勢力にぬりつぶされたかのように見えた。
「とにかく会津を倒さねば──」
と、官軍は若松城攻略に全力をそそぎ、合わせて、内部工作により〔奥羽越同盟〕の切りくずしをはじめた。
五月になると、十五日には江戸の彰義隊が官軍の総攻撃をうけ、たった一日で敗北。上野の山から追い払われるという始末で、刻々と形勢は悪くなるばかりだ。
新八と宇八郎が、会津へは入れぬとあって、引返そうと思ったが、もう駄目であった。
どこにもここにも、官軍が充満している。
何しろ二人きりだから無茶はできない。
「困ったな」
進むにも引くにも、一日一日と、危険が増大するばかりとなり、
「今度は逃げるのか……」
二人は、あっちこっちを潜行しつつ、結局、江戸へ戻って来たものである。
すでに、夏もすぎようとしている。
江戸へ帰ってみると、いつの間にか、官軍総督府が〔江戸を東京とあらたむ〕の布告をしていた。
「おい、東京とは何だ、東京とは……」
市川宇八郎、激怒をしたが、どうにもならない。
「もう少し早く帰れたらなあ……」
と、新八はなげいた。
一足違いで、榎本釜次郎ひきいる旧幕府海軍が江戸を脱走し、八隻の艦に二千余の将兵をつみこみ、蝦夷(北海道)へ向ったというのである。
江戸へ着いて間もなく、会津・若松城が落ちたことを二人は知った。
その前に、官軍は〔奥羽越同盟〕を、軍事的にも政治的にも、巧妙な手段と、断乎たる威圧をもって粉砕してしまったのである。
「もういかんなあ」
「あとは、蝦夷だけか……」
近藤勇の刑死のことは知ってはいたが、土方その他、京都以来の同志たちは、いまどこにいるのだろう、もう死んでしまったか……と、新八は暗澹《あんたん》となった。
母のことも気にかかるが、松前藩はすでに官軍へ加わっていることだし、うっかり近よることもできない。
新八と宇八郎は、宇八郎がなじみの、浅草・花川戸にある〔布引そば〕という蕎麦屋の二階へ隠れていた。
「少し、金を都合して来る」
或日、市川宇八郎が外出をした。
「危いから、よせ」
新八がとめるのもきかずに、
「何、平気さ」
着流しに脇差だけをさしこみ、ふらりと宇八郎は〔布引そば〕を出て行ったものだ。
これが、二人の別れとなった。
その夜ふけ、市川宇八郎は死んだ。
殺されたのである。
殺したのは、養子へ行った芳賀家の親類の者で、藤野亦八郎というものであった。
藤野は、宇八郎の妻ゆき女の従兄にあたり、もちろん旧幕臣である。
その日、深川・条木弁天社の知人のところへ行き、金を借りるつもりだった市川宇八郎は、稲荷町の通りで、ばったりと藤野亦八郎に出会った。
「おう……」
「帰ってきたのか、宇八郎殿──」
見ると、藤野は岡っ引らしい男と、三人ほどの侍を後にしたがえている。この連中に、藤野が目くばせをして、いった。
「おぬしたちは、その辺で待て」
近くの西照寺門前にある小料理屋の二階へ、
「まあ、とにかく──」
と、藤野が宇八郎をひっぱりこんだ。
酒になる。
きいてみると、藤野はみずから官軍の屯所へ出頭し〔脱走取締〕の役目についたという。
つまり官軍の手先となって、新八や宇八郎のようなものを探しまわり捕える役目だ。
「きさま、よくもそんなことができたな。この恥知らずめ!!」
宇八郎が怒鳴りつけると、藤野は、
「そんなことを言っていいのか。ええ、おい。親類のよしみで見逃してやろうというのに、バチがあたるぞ」
にやりといい返したものだ。
たちまち、口論となった。
二人とも、腕にはおぼえがあるし、酒も入っている。
つかみ合いとなったが、藤野の手下の岡っ引が、そっとこの様子をうかがっていたらしく、下に待っていた藤野の部下が、いっせいに駈け上って来ると宇八郎の背後から斬りつけてきた。
市川宇八郎は、もうずたずたに切りさいなまれ、二目と見られぬ無残な最期であったという。
のちに、このことを宇八郎の妻女からきき、
(宇八郎さん。きっと敵はとってやるぜ)
新八は、生涯に只一人の親友をうしない、泣くにも泣けなかった。
この年──慶応四年は、九月八日をもって改元され、明治元年となった。
[#改ページ]
落 日
一
永倉新八は、明治二年の夏まで、東京に潜伏をしていた。
日本の本土は、すべて官軍の制覇するところとなり、残るは蝦夷(北海道)箱館に立てこもる反政府軍のみとなった。
旧幕臣と海軍をひきい、蝦夷の新天地に徳川勢力の残存をはかろうとした榎本釜次郎も、新政府の大軍を迎えて敗戦に次ぐ敗戦という始末だし、箱館陥落も目前にせまっている。
(いけねえなあ。もう、いけねえ……)
花川戸の〔布引そば〕の二階にひそみながら、新八は、もう覚悟をした。
それでも尚、危険な東京に残っているのは、何としても親友・市川宇八郎の敵を討ってやりたかったからである。
宇八郎を殺した藤野亦八郎は、宇八郎妻ゆきの従兄にあたるのだが、
「何とぞ亡き主人の敵を討って下さいませ」
ゆきが〔布引そば〕へ忍んで来て、新八に泣きついたものだ。
何しろ官軍が江戸へ入るや、たちまちに取入って手先となり、昨日まで禄を食《は》んでいた徳川家をあっさりと売った藤野であるから、それだけに、ゆき女の怒りも烈しかったようだ。
「よろしい」
新八もひきうけたが、どうもいけない。
新八自身が、いわゆる〔おたずね者〕なのだから大手をふって市中を歩きまわり、藤野を探し出すこともならぬし、藤野が毎日詰めているという神田橋の屯所へ出かけるわけにも行かない。そのようなことをしたら、たちまちに囲まれてこっちの首に縄がまわる。
藤野が歩いているところを見つけて、そっと近より、すばやく討果して逃げるより仕方がない。
明治二年二月十日、新八は久しぶりに外へ出た。
(藤野にうまく出っくわすといいんだが……)
深川から日本橋一帯を歩きまわり、夕暮れ近いころになって、新八は両国橋の盛り場へ来かかった。
東京の人々には、すでに平常の生活が戻っている。盛り場の雑沓も以前のままであった。
この盛り場の人ごみの中で、新八は、めずらしい人物に出会った。
朝からかぶりつづけていた笠の|ひも《ヽヽ》がゆるみ、これをむすび直そうとして、新八が、ひょいと笠をあげた。そのとたんに、目の前を通りすぎようとしたその侍が、何気なくこちらを見て、
「あ……」
ぱっと、飛び退いた。
侍は、あの油小路で新選組が襲撃した伊東甲子太郎の弟・鈴木三樹三郎であった。
伊東の死体をはこぶために、油小路へあらわれた御陵衛士の中に、この三樹三郎もいたのだが、新選組の包囲をのがれ、逃げ終せたことは、すでにのべた。
いわば、鈴木三樹三郎にとって、新八は兄の敵の一人ということになる。
互いに見合って、二間ほどの距離をおき、新八も三樹三郎も見る間に眼の色が変った。
三樹三郎の眼は、怒りと恨みに燃え、じりじりと右手が刀の柄にかかろうとしていた。
このさまを見て、あたりの人の群が、ぱっと散った。
(いかん……)
新八は、つめたい汗が腋の下にじわじわとういてくるのを、どうしようもなかった。
(勝てば官軍、負ければ賊……三樹三郎は勝てばの方だ。おれは、賊……)
どんな斬合いにも一度だってひけはとらなかった新八なのだが、
(見廻りの官軍が駈けつけてこようものなら、おれはもう死ぬだけだ)
腰の一刀を引抜く気力もない自分に、新八は我ながら呆れはてたものである。
睨み合って、少しずつ間がつまった。
向こうは向こうで、刀に手もかけぬ新八が、やはりこわかったらしい。かつては新八の手練の早業を厭になるほど見ている鈴木三樹三郎なのである。このとき、三樹三郎が部下の者でもしたがえていたら、新八の運命もどうなっていたか知れたものではない。
「むむ……」
うなり声をあげた三樹三郎が、ふっと刀から手を放し、
「しばらくでござった。貴公、いま、いずれに?」
と、かすれた声できいてきた。
「松前藩に帰参いたした」
新八は、出たら目に答えると、三樹三郎は引きつったような笑いをうかべ、
「では、いずれまた……お目にかかりますかな」
いい捨てるや、あっという間に人ごみの中へかくれてしまった。
新八が夢中で反対側の人垣を割って逃げだしたのは、もちろんである。
(これでは、とても市川宇八郎の敵を討つどころのさわぎじゃアない)
がくりと剣士としての自信が萎えてしまった。
(時世が変るということは、おそろしいもんだ。原田佐之助が行方をくらましたときも……おそらく原田は、今日のおれと同じような気持になったのだろうな……)
思いきって、新八は、三味線堀の旧松前藩邸へ飛びこみ、家老の下国東七郎へ相談をかけた。
むかしから自分を可愛がってくれた下国家老の温顔を、忘れ得なかった新八なのである。
「ばかもの。どこにおったのだ。お前一人ぐらいはわしの一存で何とでもなったものを……新八。母親は七日前に亡くなられたぞ」
なさけなくてなさけなくて、永倉新八は声も出なかった。
二
下国家老は、松前邸内へ、新八をかくまってくれた。松前藩も今は官軍に入って箱館の榎本軍を攻めているわけだから、下国東七郎としてはかなり思いきったことをしたものだ。
間もなく、箱館は陥落し、ここに旧幕府の残存勢力はすべて消滅したのである。
蝦夷の地に戦火が絶えるのを待っていた下国家老は、
「福山へ行け。東京にいては、何かとめんどうになる」
と、新八にすすめた。
事実、松前藩屋敷のまわりを、妙な奴どもがうろうろしている。鈴木三樹三郎が新八を見つけ出そうとしているのかどうか知らぬが、とにかく危険であった。
(宇八郎さん、敵も討たねえで、ゆるしてくれよ)
新八は、下国家老のはからいで、福山へ逃げた。
福山は松前ともよばれ、箱館をへだたる二十五里半。北海道・渡島《おしま》半島の西南端にあり、ここが松前藩三万石の城下町である。
松前は、古くからひらけて蝦夷の首都ともいわれた。
永倉家は代々江戸詰めに任じていたので、新八はもちろん、父の勘次も北海の地にある領国を見たことがない。
生れてはじめて、新八は蝦夷の地へわたった。
蝦夷全土が明治新政府によって〔北海道〕と改称され、これが十一郡に分けられたのは、新八が東京を出発した八月十五日のことであった。
うまく北海道へ逃げこんだ永倉新八は、ここでも下国東七郎のあたたかい配慮をうけた。
下国家老は、すでに手をまわし、松前藩お抱えの医者だった杉村松柏の養子に、新八を迎えさせたのだ。
松柏は、江戸へ二度ほど来たこともあり、亡き永倉勘次とも知り合いであったし、
「永倉さまの御子息ならば否やはござらぬ」
一も二もなかった。
こうなっては一日も早く、新選組の永倉新八というものを、どこかへ消えさせてしまわなくてはならぬ。
翌明治三年の春になって、
(小常、ゆるしてくれよ)
気にもそまなかったが、新八は思いきって、杉村松柏の娘・米子と夫婦になり、名も杉村義衛とあらためた。
この年、新政府は、前将軍・徳川慶喜をはじめ最後まで反抗をした会津藩主・松平容保などの大名、および旧幕臣の罪をゆるす、との布告を発した。
(ふふん……罪をゆるすがきいてあきれる)
新八は冷笑をした。
(おれたちは錦旗に刃向った賊だから、罪をゆるすというのだろうが……それでは、長州の奴らが、天皇おわす御所へ大砲を撃ちかけた、あのときの罪はどうなるんだ。ふん……勝てば、そいつも帳消しかえ)
口惜しがったが、どうにもなるものではない。天皇を中心に、薩長はじめ勤王諸藩の指導者をもってかためた新政府は、すさまじいほどの速度とエネルギイをもって、次々に発せられる政令と共に近代国家への一歩一歩をのぼりはじめている。
それはともかく、永倉新八も白日の下を歩けることになったのだ。
福山の杉村家での新婚生活が、どのようなものであったか、後年の新八は多くを語ってはいない。
新婦の米子は一人娘で我ままいっぱいに育ったらしく、新八が、
「とても、小常のようには行かなかったが、それでも、おれも尻へ敷かれ放しで一緒に暮すうち、ふしぎなもので、少しずつ互いがわかり合うようになってきてね。まあ、夫婦とはこんなものかと……何しろ小常と京都で暮していたころは、いつも斬死を覚悟ではたらいていたのだし、暮した月日もはかないほど短いものだったものな」
というように、新八は歳月の流れの中へ、いつともなく溶けこんで行ったようである。これも(江戸育ち)の物事にこだわりのない新八の性格が、そうさせたものであろう。
世の中が落ちつくと、新八はもう江戸へ……いや東京へ戻りたくて仕方がない。松前藩士の家に生れても、新八の故郷は東京をおいてほかにはないし、それに、
(京都へも行ってみたい。磯子は、どうしているか……)
明治八年に養父の松柏が病没するや、妻の反対を押しきり、
「ときどき帰って来るよ。それに、もう居喰いをしていられる余裕もなくなったし、おれだって何とかはたらかねばならぬさ」
妻を福山へのこし、新八は、さっさと上京してしまった。はたらくといっても、新政府の役人になるわけには行かない。旧勤王軍に加わって戦った者たちですら、なかなかに身を立てることができない時世なのである。維新後、武士階級は〔士族〕の名称をあたえられはしたが、もとの主君〔大名〕は、いずれも知事となって中央政府へ吸収されてしまったし、といって〔士族の誇り〕を捨てて商人にもなりきれない。なってみても、いわゆる〔武家の商法〕というやつで、ほとんどが失敗をした。
ことに、もう徳川家に属して最後まで戦ったものほど、みじめな末路をたどることになり、旧旗本の娘たちが東京の夜の街路に春をひさぐ、などということは当然のように思われたほどである。
(おれに出来ることといったら、剣術だけさ)
さいわいに、武道はすたれるどころか、むしろ流行しはじめてきている。
竹刀一本をもとでに、新八は東京へ出た。
諸方の道場をまわったり、官庁の役人たちに稽古をつけたり、たまには北海道へ帰ったり、新八は新八なりに好きな剣術をたのしんで暮したようだが、留守をしている妻の米子も、ここで大分に苦労をした。自分だけが食べて行くので精いっぱいだし、新八は、あまり妻のもとへは金を送らなかったようである。
京都へは、ついに行かなかった。
行くのが、こわかったからだ。
娘の磯子の行方をたずねることが、こわかったのである。生きていても死んでいても、父親としての自分は苦しい思いをしなくてはならぬ。
明治十三年に、永倉新八こと杉村義衛は北海道へもどった。ときに四十二歳である。
この間に、あの西南戦争がおこり、そして新八と米子の間にも、義太郎という男の子が生まれた。
間もなく、新八は、樺戸《かばと》に新しく設立された〔集治監〕の剣術師範としてまねかれた。つまり監獄の嘱託となったのである。
〔樺戸監獄〕は、現在の北海道樺戸郡月形町にあって、ここでは所員のみか囚人たちにも精神修養のためとあって剣術を習得させることにした。
「よし来た!!」
新八としては久しぶりに血がおどる思いだ。一も二もなく妻子をつれ、樺戸へ赴任した。
十九年六月まで、新八は剣術師範をつとめ、四十八歳になって辞職をした。
この後、杉村家の縁者をたより、小樽へ居をかまえたが、
「これが最後だ。死ぬ前にもう一度、東京を見ておきたいよ」
こういって、また、妻子共々、北海道から出て来た。
東京へ来て、新八は牛込やら浅草・清島町やらに道場をひらき、明治三十二年まで東京暮しをつづけている。この間に新八は、近藤勇が刑死した板橋に近藤はじめ維新戦争に倒れた新選組隊士の墓碑をたてた。
いわゆる隊士殉難の碑というものである。殉難とは国難のために命を捨てたことを意味するわけで、新選組は賊徒ではないことを証明したわけだ。
老いて尚、剣ひとすじに生きる新八だけに、政府へこびへつらうこともない。思うままにやってのけたし、明治の世も後代に入って、日本の近代化は目ざましく、政府も新選組に目くじらをたてているひまはない。
「なあに、明治維新なんてえものはね、つまり薩長たち雄藩と徳川との争いさ。いまのような文明開化の世が来たのも、そいつは時勢というやつでね。つまりは日本国民がえらいのだよ」
と、新八はいつも笑って語ったが、日清戦争が始まったときには、抜刀隊の一員として従軍志願をやっている。ときに新八は五十六歳であったし、政府は「志はありがたいが……」といって、これを取りあげなかった。
さて、それはともかく……。
新八は、この東京在住の間に、
(やはり、死ぬまでに京都を見ておきたい)
明治二十三年になって、ついに京都へ出かけたものである。
三
その前年、東京・神戸間に鉄道が全通したばかりで、これに乗った新八は、むかし十数日もかけて京都まで出かけたのが、わずか二十時間ほどで到着したのに、
(ふうん……)
びっくりしたものだ。
(なるほど文明開化よなあ……)
新八だって変っている。|ちょんまげ《ヽヽヽヽヽ》もないし、刀もさしてはいない。五十をこえて白いものがまじった髪を短く刈りこみ、それに懐中時計などというものを見て、汽車の時間をはかったりしているのだ。
京都へついて、
(あまり変ってはいないなあ……)
と思った。
京の町の中へ歩み出て見ると、首都になった東京の目まぐるしいばかりの発展にはおよびもつかぬ京都のたたずまいが、まだどこにも残っている。
京都駅のすぐ近くに、かつて小常と愛の巣をいとなんだ鎌屋町がある。先ず第一に、新八が、そこへ足をはこんだとしても無理はなかろう。
町なみは、むかしのままであった。
ちょうど、奈良・東大寺のお水取りがすんだばかりというところで、京の町を抱きすくめた寒気冷気が、日毎に、うす紙をはぐように消えて行く、といった季節である。
新八は、紬の着物の裾を端折り、股引に脚絆をつけ、麻裏草履をはいていた。
小さな旅行鞄をさげ、竹のステッキをついた新八が、旧居の近くまでやって来ると、
「もし、先生……永倉先生やおへんか?」
いきなり声をかけられた。
ふり向いて見て、
「おう……おかみさんか」
よぼよぼの婆さんになってしまったが、まさに、あのころ小常のめんどうをみてくれた八百屋の女房なのである。
「よくわかったなあ」
「ようまあ、御無事で……」
「しかし……お互いに老けたなあ」
じっと見合って、二人とも、じわりと涙ぐんだ。
「当り前どすがな。もう、あれから二十四年もたってしもうて……」
「うむ。旦那も元気かね?」
「へえ、おおきに──息子が店をやってますのや」
「そうか……」
「先生……先生は、お磯はんのことを知っといやすか?」
「何──」
さっと、新八の顔色が変って、
「おかみさん、知っているのか?」
「へえ……では、……」
「知らん。むすめは、どこにいるんだね」
思わず、新八は婆さんの肩をつかんだ。
近くの〔うどん屋〕で、婆さんがいうのをきき、新八はおどろいたり、よろこんだり、ただもう血がさわぐばかりで、注文した酒をのむことも忘れた。
娘の磯子は、いま大阪で、尾上小亀と名のる女役者になり、一座の花形として関西にすばらしい人気をよんでいるという。
「そりゃ、おばさん、ほ、本当なのかい」
「嘘いうてどうなります。一年に一度か二度、うちへも、ひょいと訪ねて見えますのや。そりゃもう亡くなった小常はんそっくりの……」
そっくりの白い肌、黒い髪──でも、つぶらな、それでいてくりくりと小気味よくうごく瞳のいたずらっぽいところだけは、新八そっくりだと、八百屋の婆さんが語ってくれた。
磯子は二十三歳。新八と暮したころの小常と同じ年ごろになっているわけだ。
まあ、まかせておいてくれ……と、八百屋の婆さんがうけ合ってくれた。
新八は木屋町三条上ルところの小さな宿にとどまり、毎日のように町を歩きまわった。新選組が先ず〔屯所〕を置いた壬生の八木家へも行き、当主の為三郎氏と会い、昔がたりに時を忘れたりしたが、少しも気は落ちつかない。
五日目に、八百屋の婆さんが宿へ来て、明日の昼すぎに、大阪から磯子がやって来る、と告げた。
「そうか、会いに来てくれるのか……」
新八も、感無量といったところだ。
その夜は眠れなかった。
朝になると、霧のような雨になっている。昼すぎまでが、長いような短いような、何ともいえぬ気持で、新八は只もう、わくわくと胸をおどらせ立ったり坐ったり、窓の外の鴨川の流れをながめ、
「雨やめ雨やめ、磯子がぬれちまう……」
無意識のうちにつぶやいたりした。
午後一時すぎ──。
「先生。お磯はんがおいやした」
婆さんが叫びつつ、部屋へ入って来た。
「そ、そうか……」
あわてて卓の前にすわり、衿もとをかき合わせつつ、新八はへどもどするばかりで、昼飯のときにのみかけた酒の冷えたのを盃につぎかけたが、
(いかん、いかん……)
新八の手のうちで、徳利は音をたてて盃にふれ、酒は卓にこぼれた。
このときの親娘の対面は、実に、うまく行ったようである。お磯は、女役者とは見えぬ地味な姿でやって来たが、まるで小常そっくりであった。
茫然たる新八に、お磯が、
「イヤ嬉しいなあ。伯母はん(小常の姉)からようきかされた江戸っ子のお父ちゃんに会えるなんて、夢みたいや」
いきなり、いったものである。
新八そっくりの、こだわらぬ、あかるい気質の磯子であった。
「むむ……だらしのない江戸っ子で、まことにすまない」
ふかぶかと頭をたれつつ、
(こんないい娘《こ》になってくれて……いや、この娘をここまでにしてくれた見も知らぬ多勢の人々に、おれは何といって礼をいったらよいものか……)
さすがの新八も、このときばかりは泣いた。
この夜、親娘は明け方まで共に酒をくみかわし、心ゆくまで語ったという。
そして新八は、この後磯子とは一度も会うことがなかった。新八の孫にあたる杉村道男氏によると、磯子はかなり永生きをして、神奈川県藤沢市に生涯を終えたという。
四
明治三十二年夏──。
六十一歳になった新八は妻子をつれ北海道・小樽へもどり、此処に永住することにきめた。米子との間には娘のゆき子も生れたし、すでに長男の義太郎は小樽に住みつき、土木建築の仕事をやっている。
「およね、もうどこへも行かないよ」
と、妻女にいった新八なのだが、小樽の稲穂町の小さな家に暮らすようになってからも、札幌や函館へ出かけて行き、同好の士と剣術をたのしむことを欠かさない。
ことに札幌の北大へはよく行き、学生たちへ稽古をつけることを唯一のたのしみにした。
息子の義太郎は、新八と違ってなかなかに事業家肌のところがあり、理財にもたけていたし、間もなく帝国興信所の支所長になったり、はじめて小樽へ建てられた純洋式ホテル(北海ホテル)の専務取締役になったり、後には映画館やら料亭やらの多角経営をしたり、いわゆる小樽〔名士〕になった。
住居も稲穂町から花園町へ移った。
現在の公園通りを小樽日活館の少し先まで行き、右へまがったあたりである。
やがて、義太郎も結婚し、道男という、新八にとっては初孫をもうけてくれた。
「この年になって、こんなに|うめえ《ヽヽヽ》おもちゃができようとは思わなかった」
新八はもう大よろこびで、この孫を溺愛し、
「おじいちゃんは甘やかしすぎる」
という老妻の米子と、道男のことでいつもいい争ったものだ。
「およね。いくら道男がいたずらをしても、お前が道男をつねるのはいけねえよ。つねっちゃアいけねえ、つねっちゃア……」
もうムキになって老妻へ喰ってかかる。朝夕の散歩には必ず道男を背負って出かけるのだが、道男が泣き出すと、うまくあやす言葉も出てこず「ホラ、ホラホラ、ホラヨ」の一点張りで、しかも大声に機嫌をとりつつ歩いて行くので、道行く人々が、みなびっくりしたそうだ。
孫が小学生になると、
「さア、剣術をやらせなくちゃいけねえ」
七十に近い新八が竹刀を持ち出し、近くの水天宮の境内で道男に稽古をつけはじめた。
義太郎は「剣術より柔道をやれ」と、すすめる。
「いや、あんなものはやらねえでいい」
と新八は大反対し、道男も祖父と父の間にはさまり、大いに困ったものだ。
この年になっても、新八は、まだ諸方へ稽古や試合に出かけた。道男も時には供をするのだが、手製のズックの袋に竹刀を入れたのを肩にかつぎ、よぼよぼの新八が北大の道場なぞへあらわれ、
「さア、みんな順番にかかっておいで」
竹刀をとって立つと、まがった背すじにぴいんと鉄線が入ったようになる。学生たちは面・籠手《こて》の防具をつけて立ち向かうのだが、新八は稽古着ひとつで、
「さア来い、さア来い」
ぽんぽんと、おもしろいように打ちすえてしまうのである。
こんなことがあった。
少年の道男をつれて、近くの小屋にかかった芝居を見物に行ったときだが、出て来るときの人ごみの中で、よろよろしている新八を、近ごろ函館あたりから流れこんできた無頼漢どもが、
「じじいめ、さっさと出ろ」
「何をまごまごしていやがる」
小突いたり、突き飛ばしたりする。そのたびに小さな新八の躯はあっちへよろめき、こっちへよろめき、さすがに道男がたまりかねて、
「おじいちゃんに何をする!!」
と叫んだ。
「何を、このガキめ──」
いきなり、やくざの一人が道男をなぐりつけてきた。しかし、そやつの腕は道男の頭へとどく前に、ふわりと新八につかまれ、
「ああ……」
どこをどうされたのか、その男はおそろしい悲鳴をあげ、毬《まり》のように小屋の入口から街路へころがっていったものだ。なだれのように人々が逃げたあとの下足札の並ぶ板敷きで、
「このじじいめ」
「叩っ殺せ!!」
どっと、やくざ共が、新八を囲んだ。
道男はもう生きた心地もなく、祖父の腰にすがりついて、わなわなふるえている。このとき、新八は七十二歳。頭はほとんど禿げあがっていたが、鼻下から|あご《ヽヽ》にたくわえた|ひげ《ヽヽ》がまっ白で、ことにあごひげは胸のあたりまでたれた見事なものであった。
小首をかしげ、若いときからのくせで、何かまぶしいものを見るような眼つきになり、新八は七人の荒くれどもを見まわし、にやりと笑った。
「何を笑いやアがる!!」
前の一人が拳をかためて打ちかかろうとした瞬間であった。
「む……」
あの、うなるような腹の底から低い気合が新八の唇からもれたと思うと、
「あ……」
新八の眼前一尺のところまで殺到したそのやくざが、電気にでもかけられたように立ちすくみ、ガクガクとふるえ出した。
新八の腰はのび、細い眼の底からすさまじい光がほとばしっている。ほかの連中も、ふるえ出した。
「出て行きな」
と、新八の一言がもれるや、一同は気が狂ったように先を争い、街路へ逃げ出したものである。
「さ、帰ろうかね、道男……」
また腰をまげて、何事もなかったように、新八はよたよたと外へ出て行った。
五
小樽の春は、海からやって来る。
三月の末から雪がとけはじめると町の人々は、一刻も早く土の匂いを嗅ぎたい思いにかられ、つもりにつもった雪を突きくずし、はねのけにかかる。町の道路に張った氷を割る音が絶間なくきこえ、割った氷をはこぶ馬車がいそがしく行き交う。
そして〔春告げ魚〕とよばれる鰊《にしん》の大群が、小樽の海へ押しよせて来る。魚群は陸近いところまで来て、雄鰊の吐き出す白子(塊状の精液)で海面がまっ白に濁るほどであった。
町は、にわかに活気づく。
「にしん、にしん……」
と、魚屋の|ふれ《ヽヽ》声が町中を駈けまわり、どの家の台所からも鰊を焼く煙が空へふきあがった。
このころになると、新八は、雪ごもりの綿入れの衣類をぬぎすて、好みの袷に着替え、近くの台地にある水天宮の境内へ、毎日、出かけて行った。
この社《やしろ》は安政六年の創立になるもので、台地上の境内は千二百坪。小樽の海も港も眼下にひろがり、汽船や漁船の群が眠りからさめたように、生き生きとうごき、彼方の鰊漁場から漁師の威勢のよい掛声も、はっきりと風にのってきこえてきた。
新八は、境内の石の上にかけ、いつまでもいつまでも海と空をながめている。
「おじいさん、毎日、お宮へ行って何をしているんだい?」
すっかり大きくなった学生の道男がきくと、
「何、海の向うの空を見ていると、むかし、出会ったいろいろな人たちの顔が、次々にうかんできてねえ……そいつがまた、とても、たまらなくおもしろくて、なつかしくてなあ」
市川宇八郎や藤堂平助・原田佐之助や、近藤勇や土方歳三や、そして小常も豊浦も、ことに京都で一度会ったきりの娘・磯子のおもかげが、もっとも新八の胸の中にあたたかく灯をともしていたことであろう。
「わしア、しあわせものだよ」
これが口ぐせになった。
もう剣術もやらない。
冬は老妻と二人で家にひきこもり、春から秋にかけては、水天宮の境内へ行ったり、前々からたんねんに書きしるしていたむかしの〔おぼえ書〕を、あきることもなく書きつづけたりした。
小樽に電燈がともるようになったのは、明治三十七年で、日露戦争がはじまったのと同時であった。
「とうとう蝦夷にも電気がきたねえ」
と、新八は目をほそめ、
「あのころ……あの血なまぐさい時代のことを考えると、よもや、日本が、ここまでこぎつけようとは思わなかった……もう毛唐人どもと一緒になって何でもやれる。ここまで来たのも、みんな日本人が、いやその国民がえらいからさ。むかしのように政治家が国民を踏台にして、|やに《ヽヽ》下っちゃアいけねえ。そんなことをしたら元も子もなくなるからなあ」
道男に語ったものだ。
老いても、新八はよく酒をのんだ。
酔って上機嫌になると、
「さア見てくれ」
家族の前で、くるくると着物をぬぎ、下帯ひとつの裸身になり、背中の腰に近いあたりを叩き、
「この通りだ」
得意になっていった。
そこには引きつれた弾丸の傷痕が残っていて、これは維新戦争のときうけたものだが、
「わしア、これでも御国のために命をかけて、はたらいて来た。この傷痕は、わしの誇りだぜ」
威勢よく叫び、
「また、おじいさんが始まったよ」
顔をしかめた老妻の米子に冷やかされた。
夏になると、住吉神社の祭礼がある。
三日間の祭典に小樽の町はわきたち、市や夜店が沿道に立ちならび、見世物も芝居もはなやかに囃子の音をあげ、雪と寒気のきびしい季節を耐えぬいてきた人びとの胸をおどらせる。
「祭りだ、祭りだ」
新八は、こうなると朝から晩まで遊びまわった。
住之江町の遊里へ少年の道男をつれて行き、芸妓をあげて大さわぎをやる。
老妻や嫁は厭な顔をするのだが、義太郎は、
「さア行っておいでなさい」
気前よく小づかいをくれる。
東京に住んでいたころ、新八はこの長男をつれ、金が入るとすぐ吉原や深川へ出かけ、
「ここで、むかしはよく遊んだものだ」
こういって、父子二人で酒をのみ、芸妓をあげて遊びまわったものである。
冬になると、大きな炉の中に燃える炭をじっと見つめながら、ふいに、
「道男。おじいさん、お前と一緒に京都へ行きたいねえ」
しみじみと、もらすことがある。
「京都はいいぜ。酒がよくて……」
ここまで言ってから、ちょいと居ねむりをしている老妻の顔をうかがい、声をおとして、
「それに、女がいい」
にやりと笑いかけてくるのであった。
日露戦争に勝った日本は、外国列国に伍して目ざましい擡頭ぶりをしめし、後進国の名残すらとどめぬようになっている。
しかし新八は、政治にはまったく無関心であったが、
「伊藤博文なぞというのは、むかし、俊輔といってね。長州の中でも、なかなかすばしこい奴で、わしなぞもずいぶん追いまわしたもんだ。あっちこっちを飛びまわって、ずいぶんあくどいまねをしたり、人も殺したらしいが……いまの伊藤は違うよ。日本の政治を牛耳るようになってからというものは、なかなかしっかりしてきた。思えば伊藤も、むかしのいろいろとやって来た世の中の裏表をのみこんで、そいつをお国の役に立てているのだねえ。うん、立派な男になったよ。うん、うん、けっこうなことだよ」
こだわりもなく、いったことがある。
さて……。
永倉新八あらため杉村義衛は、大正四年一月五日に世を去った。
行年、七十七歳の長寿をたもったのである。
死因は虫歯の治療をこじらせ、骨膜炎から敗血症をおこしたのだという。
病中、激痛に耐えて、いささかの苦しみをもうったえることなく、絶えず微笑をうかべていた。
息をひきとる直前、ふっと昏睡から目ざめ、枕頭にあつまる家族の顔を見まわしたのち、
「悔はない」
と一言、莞爾《かんじ》として永眠した。
新八が北海道へ来てから諸方をまわり、剣術の試合をおこなった相手に署名を乞うた帳面が現在も残っている。表紙には新八の筆で〔英名録〕としるされ、次の紙面には〔神道無念流・岡田十松門人〕とあって、さらに、
──旧会津藩御預、新選組副長助勤
永倉新八改、杉村義衛
と、堂々としたためてある。
新八が〔新選組〕にかけた青春の誇りは、彼自身の胸中にあって、いささかも〔悔はない〕ものであったのだ。
[#改ページ]
あ と が き
戦前戦後を通じて、烈しい時代の変動にもかかわらず〔新選組〕の人気は、すたれたことがない。
ふしぎなことではある。
それはなぜか?……ということを考えてみながら、私は、いくつかの新選組を素材にした短篇小説を書いてきた。
これからも私は新選組物語を書くだろうが、いままでのところ(それはなぜか……?)に対する答えを、この〔幕末新選組〕で一応は出したつもりである。
この小説の主人公・永倉新八という人物は、近藤や土方の名にひきくらべて、あまり有名ではないのだが、数多い新選組隊士のうちで、私がもっとも好きな男である。
七年ほど前に、新八の息・杉村義太郎氏の編著になる〔永倉新八伝〕をよんでから心をひかれ、とりあえず私は、彼を主人公にした短篇を書き、それから少しずつ、彼に関する材料をあつめてきた。
そして一昨年の暮から、この小説を連載執筆することになったわけだが、小説がのった雑誌が、たっぷりと余裕をくれたので、私は、のびのびと書き終えることが出来た。
好きな主人公だけに、ほとんど一カ月おきに京都へ出かけて行き、かつて新八の活躍した舞台をこまかくしらべ歩き、心おきなく仕事をつづけたものだ。
現在も、新八の孫にあたる北海道在住の杉村道男氏宅に新八老年の胸像が残っているが、この胸像の顔を写真にとり、私は人相学の書物を買って来たりして、彼の好ましい風貌をたのしんだりしたものである。
昭和三十九年春
[#地付き]池 波 正 太 郎
本書は昭和五十四年に刊行された文庫の新装版を底本としています。
〈底 本〉文春文庫 平成十六年一月十日刊