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人斬り半次郎 幕末編
池波正太郎
目 次
唐芋武士
後家簪《ごけかんざし》
火の山
西郷吉之助
男と女
光 芒
太平記
訣 別
寺田屋騒動
へそ石餅
青蓮院衛士
法秀尼
精 気
薩英戦争
乞食の子
七卿落ち
沈丁花
西郷還る
和泉守兼定
池田屋事件
禁門の変
帰 郷
淀川夜船
藪 椿
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唐芋武士
一
昭和三十七年九月──、私は四年ぶりに九州・鹿児島をおとずれた。
鹿児島の街は、四年前とくらべものにならぬほどの活気にあふれていて、私をおどろかせた。
しかし、鹿児島市中を北に一里ほど離れた吉野村・実方《さねかた》のあたりへやってくると、あたりの風物に、いささかの変化も見られない。
この実方の里に、本篇の主人公である中村|半次郎《はんじろう》はうまれた。
とき天保《てんぽう》九年(一八三八年)十二月というから、今より百二十四年前のことになる。
このあたりは、鹿児島市を背後から抱きすくめたかたちの吉野原高地《よしのばるこうち》の入口にあたる。
そして、この吉野高原は、薩摩《さつま》の国(鹿児島県)のほとんどをしめている山岳地帯につらなっているのだ。
私は、実方の里の手前に流れる精木川《あやきがわ》にかかった橋をわたると、車をおりた。
崖《がけ》の下の渓流は岩をかみ、はげしい音をたてて流れている。
あたりの木立からは、もう九月も終りだというのに蝉の声がしきりであった。
夏のながい南九州らしい陽のかがやきなのである。
橋をわたりきると、右手に小さな谷間が見える。谷間は耕地になっており、この谷間の北面を上りきったところに、中村半次郎の生家があった。
家はすでになく、谷間を見下す小道から、二十メートルほど台地をのぼりきったところに〔桐野利秋《きりのとしあき》誕生之地〕としるした立派な石碑がたてられてある。
中村半次郎は、後年、桐野利秋と名乗り、日本最初の陸軍少将となったわけだが、この生家があった敷地は、いかにもせまく、薩摩藩士中でも〔唐芋侍《からいもざむらい》〕といやしめられた貧乏郷士の貧しい家のありさまが、目にうかぶようである。
私は、橋の上から、半次郎誕生の地へまがりこむ道があるところまで街道を歩いてきて、そこの雑貨屋の店先へ立ち、蜜柑《みかん》ジュースを注文した。
ジュースは、十三円であった。
四年前に、やはり、私はこの店でジュースを飲んだ。そのときも十三円だったのである。
この四年間の物価の高騰などには一切おかまいなしに、薩摩の国・吉野村・実方の雑貨屋のジュースは、平然と十三円の価格をまもり通している。
ふしぎでもあり、そして、いかにも薩摩らしい感じもする。
ジュースはよく冷えていた。
私は喉《のど》をうるおしつつ、いま通ってきた橋の方向へ眼をやった。
この橋を、むかしは〔太鼓橋〕とよんだらしい。今はスマートなコンクリートでつくられているが、当時は巻張石橋《まくはりいしばし》であったという。
中村半次郎が、この石橋の上で、同じ薩摩の侍・佐土原英助《さどはらえいすけ》に喧嘩《けんか》を売り、決闘をいどんだのは、文久二年二月の或《あ》る日のことであった。
二
この日──。
佐土原英助は、実方の里にある藩の〔御内用屋敷《ごないようやしき》〕へ連絡のことがあって、鹿児島城下からのぼってきたのである。御内用屋敷というのは、殿様が日常使用する上等の紙(雁皮紙《がんぴし》・奉書・西ノ内などの紙)を製造するためにもうけられたものだ。
佐土原英助が〔御内用方〕につめている役人と用をすませ、城下へ戻るべく、太鼓橋にかかったのは八ツ刻《どき》(午後二時)を少しまわったところであった。
英助は馬に乗っていた。
旧暦の二月だから今の三月にあたる。
南国の陽ざしは、まことにあたたかい。
きらきらと木の間をもれる陽の光に、
「もう春じゃ」
英助が、うっとりと眼を細め、太鼓橋をわたりきろうとしたときだ。
道の向うから、破れかけた菅笠《すげがさ》をかぶり、すたすたとやって来た男が、英助と擦れ違いざま、ものもいわずに英助の乗っている馬の尻尾《しつぽ》を、抜打ちに切り落としたものである。
馬はおどろいて竿立《さおだ》ちになった。
「な、何すっか!!」
ふだんは温厚な佐土原英助も、これには怒った。
あわてて、ころげるように馬から飛びおり、
「わりゃ、何者《なにもん》じゃ!!」
大刀の鯉口《こいぐち》をきって、身がまえた。
男は、菅笠をむしりとって哄笑《こうしよう》した。
その笑い声は、まっ青な早春の空に高らかにのぼった。
「や!!」
英助は、相手の顔を見て身内をひきしめ、
「わりゃ、中村半次郎じゃな」
中村半次郎は、陽にやけた精悍《せいかん》な顔を突き出すようにし、「半次郎なら、どげんするか!!」と、肩をそびやかした。
幅のひろい、肉の厚い、がっしりとした彼の躯《からだ》からは精気がほとばしるようであった。
洗いざらしの粗末な手織|木綿縞《もめんじま》の着物に、薩摩独特の兵児帯《へこおび》を巻きつけているのは、このあたりの貧乏郷士の風俗なのだが、つんつるてんの着物の中から半次郎の若い躯がはちきれそうに見える。
英助は、黙って半次郎を睨《にら》んだ。
「やいもそか──どうじゃ、やいもそか?」
決闘をやろうか──と、半次郎が挑んでいるのだ。
眉《まゆ》の濃い、ぴりっと鼻すじの通った半次郎の顔が白い歯を見せて笑っている。
「くそ!!」
佐土原英助は、うめいた。
(俺《おい》がやらねば誰がやる)
とっさに決意をした。
城下の若侍たちの中には、今までに半次郎から喧嘩《けんか》を売られ、足腰の立たなくなるまで叩《たた》きのめされた者が何人もいる。
「よし!! 今こそ城下侍一同になりかわり、この佐土原がわれの首、斬っちゃる!!」
「やいもすか」
「いかにも──」
「後悔しもすなや」
「黙れ、吉野の唐芋!!」
唐芋と言われて、半次郎の顔色が変った。
すぐに半次郎は、にやりと笑ったが、その笑いにもすさまじい闘志がただよっている。
「なるほど、この中村半次郎は吉野の貧乏郷士じゃ。芋ばかり喰《く》って屁《へ》ばかりたれちょる。じゃが、わいどんのように殿様の近くへ這《は》い出して、ベチャベチャしちょる城下侍の骨抜き剣術には負けもはんど!!」
「来い!!」
「此処《ここ》じゃ場処が悪い。あっちへ行きもそか」
「よし」
橋を渡り戻り、少し行ったところを右に切れこんだ林の中にある小さな草原へ来て、
「行きもすぞ」
「おう」
二人は、ぱっと飛び離れて、大刀を抜きはらった。
三
どこの大名の家中でもそうなのだが、ことに薩摩藩では、上級藩士と下級藩士の区別がやかましい。
中村半次郎のような貧乏郷士の家に生まれた若者は、ことごとに、鹿児島城下に住む藩士たちから軽蔑《けいべつ》をされる。
七十七万石の島津家が支配する薩摩藩の郷士は、平時においては農民と共に働き、いざというときには武器をとって戦列に加わるという使命をもたされていた。
そして、吉野高原に住む郷士たちは、〔唐芋〕とか〔紙漉《かみす》き侍〕とかよばれ、上級藩士の冷笑を買っていたものだ。
唐芋、すなわち薩摩芋のことで、吉野一帯の名産である。
「今に見ちょれ。おいどんな、きっと城下侍どもを見返しちゃる!!」
この一念は、少年のころからの半次郎の心に、躯に、異常なまでの激しさをもって凝り固まっていった。
それは、単に〔からいも侍〕とさげすまれることへの忿懣《ふんまん》ばかりではなく、ほかにもう一つ、特別な理由があったといってよい。
というのは……。
中村半次郎の父・与《よ》右衛門《えもん》は、公金横領のことあって、徳之島(薩南《さつなん》諸島)へ流罪にされ、そこで病死をした、ということがあった。
いわば罪人の家に、半次郎は成長したのであって、彼の、「今に見ちょれ!!」も、諸方から中村家へ集中される軽侮の白い眼に対する反発が大いにふくめられている。
「俺の父が、あげなことをしたのも無理ないと、俺は思うちょる。罪は罪じゃが、俺やおぬしは、父のことを少しも恨んではなりもはんど。よいか、半次郎──」
こう言って、少年の半次郎をはげましつづけてきた兄の与左衛門も、半次郎が十八歳のときに病死をしてしまった。
畑仕事や紙|漉《す》きの重労働に、兄の弱い躯が負けたのである。
兄の言う通りだと、半次郎は今も思っている。
父・与右衛門の罪というのも、貧苦が原因だったからである。
そのころ、与右衛門は、藩の小吏として、五石あまりの、わずかな食禄《しよくろく》をもらい役目にもついていた。
ところが、殿様の御供をして江戸屋敷へつめているうちに、公務上の金を、そっと一時借用していたのが、上役に見つかってしまった。
その金は、半次郎の妹の貞子が大病をわずらったため、その医療費に困っての上のことだと、他人は知らなくとも、中村家のものたちはみな知っていた。
そのため、罪に落ちた父に感謝こそすれ、恨みがましい気持などは、家族の誰もが抱いたことはないのである。
妹の貞子は、どうやら健康になり、今は十七歳になっているが、半次郎が少年のころは、丈夫なのは彼だけで父母も兄も妹も、みんな躯が弱かった。
こういうわけで、兄の与左衛門が死ぬと、一家は、あげて半次郎の肩にすがりつくことになったのだ。
「今に見ちょれ!! 俺はな、きっと出世しちゃる。城下侍などに負けもはんど」
母や妹に向って、半次郎は大いに息まいて見せたが、母も妹も、哀しげな苦笑をもって、これにむくいるよりほかにどうすることもできなかった。
薩摩の国は火山灰地が多く、重畳たる山岳が、国土のほとんどをしめている。
水利にもめぐまれず、したがって水田が少なく、収穫も貧しい。
畑作としては、ヒエ・麦・アワ・大豆などが主なものであった。
唐芋が、ここに登場する。
やがて薩摩芋とよばれるほどに、唐芋の植えつけは成功し、貧しいものたちは山地を切りひらいて、芋をつくった。芋は、あまり租税の対象にもならず、貧しい領民たちの主食として、たちまちにひろまっていったのである。
この芋は、南蛮人により、中国を経て日本にもたらされたもので、はじめて、唐芋が日本に到来したのは、元和《げんな》元年であるという。
元和元年というと、徳川家康が大坂の戦争に豊臣勢を破り、名実ともに天下をつかみとった年である。
などと、芋の歴史を書いていてもきりがあるまい。
ともかく、これで、〔唐芋武士〕のいわれが、おわかりいただけたことと思う。
半次郎は、一家の浮沈を十八歳の肩に背負って、猛然と起《た》ちあがった。
罪人の息子だから、公職につくことは許されない。
百姓と同じように働いて一家を守らねばならないのだ。
全精力をふりしぼり、半次郎は百姓仕事に取りくんだ。
彼は、他人が持て余している荒地や山林を借りうけ、たった一人で開墾を始め出した。夜もあけきらぬうちに内職の紙漉きをやる。陽がのぼってからは畑仕事だ。
そして、夜になると手づくりの太い木刀を持ち出す。
半次郎の家の軒口にある楠《くす》の大木は彼の木刀に打ちこまれて、枝は折れるし、幹の皮はぼろぼろになるし、ひどい目にあった。
このころになると、吉野の郷士たちは半次郎の奮闘ぶりを見て、中村家にもあたたかい同情をよせるようになってきて、
「そげに剣術が好きなら、稽古《けいこ》にいきゃい。俺《おい》がめんどう見ちゃる」
母の父──つまり半次郎には外祖父にあたる別府九郎兵衛《べつぷくろべえ》がそう言ってくれ、鹿児島城下に住む伊集院鴨居《いじゆういんかもい》の道場へ入門させてくれた。
流儀は、薩摩に名だたる〔示現《じげん》流〕である。
ここで、めきめきと、半次郎は腕をあげた。
「唐芋が剣をまなんでどうなるのじゃ」
などと、はじめは冷笑していた同じ道場の城下侍も、いつの間にか、ぽんぽんと半次郎にやられてしまうようになった。
もともと仲の悪い上士と下士なのだから、どうしても摩擦がおきる。
「もう面倒じゃ。俺は、道場へ行くのをやめもす」
半次郎のあばれぶりに師匠の鴨居先生が上級藩士との間にたって困りはじめたらしいので、半次郎はさっさとやめてしまい、以後は、自己流の稽古を、たゆむことなくやりはじめた。
またも楠の大木が悲鳴をあげることになったのはいうをまたない。
「今に見ちょれ!!」
半次郎の口ぐせである。
「俺は、この腕一本で、きっと身を立てて見せもすぞ、母《かあ》さア──」
とてもそんな夢みたいなことを……そう思って、母の菅子《すがこ》は、半次郎が哀れに思えてならないのだが、
「俺どんな、薩摩第一の使い手になっちゃる。そうなりゃ、殿様が、きっと俺をみとめてくれ、取立ててくれるに決まっちょる。そうなったら、俺どんな、殿様に願うて、死んだ父《とう》さアの罪をゆるしてもらうんじゃ」
単純に信じきっている息子を見ると、もう何も言えなくなるのであった。
それにしても、近辺のものが「中村の半次郎どんな、ようつづくもんじゃ」と、あきれ返るほどに、半次郎の精力はつきることを知らなかった。
「俺どんな、疲れるちゅことな知りもはん。こりゃ自分でも不思議じゃと思うちょる」
と、半次郎はみずから言う。
労働に鍛錬に、まったく倦《う》むことを知らぬ半次郎なのである。
精気にみちた、いかにも逞《たく》ましい肉体。そして天性の美男子なのだから、村の女たちがさわぐのも無理はなかった。
中村半次郎が吉野村に咲かせたロマンスは、いろいろとある。
だが、そこへふれる前に、佐土原英助との決闘の始末をのべねばなるまい。
二人が睨《にら》み合った林の中には、陽の光が縞《しま》になってさしこんでいた。
どこかで、牛のなく声が、のんびりときこえている。
半次郎は刀をつかんだ両腕をまっすぐに突きあげ、ぴくりとも動かない。
突撃あって防禦《ぼうぎよ》なし──といわれる示現流独自のかまえだ。
佐土原英助は、堂々と自信にみちた半次郎のかまえに、かなり威圧された。
(じゃが、死んでも、やらなくてはならん。こやつのために、城下侍はどんな恥をかかされてきたか……)
英助は、水野流の居合をまなんでいて、かなりの腕前をもっているし、
(負けるものか)
睨み合うまでは相当に自信をもっていたのだが、どうもいけない。
半次郎は、頭から英助をのんでかかっているのである。
道場をやめてからも、半次郎は大刀を帯び、木刀をぶらさげて城下へやって来て、城下侍に喧嘩《けんか》を売り、ほとんど刀をぬかず、木刀で叩《たた》きのめしたものである。
「もう黙ってはおられぬ!!」
近頃は、城下の若侍たちも殺気立ってきているところだ。
英助は、むしろ「あげな唐芋に手も出せぬとは……」
と、若侍たちの無力をあわれんでいた位なのだが、いざ喧嘩を売られて見ると、
(なるほど、こやつはやるわい)
ちりちりと肌がちぢんでくるような気がした。
一歩、二歩と二人は詰め寄った。
英助も今は覚悟がきまり、正眼《せいがん》にかまえた刀の切先を、ぴくりと、わずかにあげた。
「待ちゃい!! ちょっと、待ちゃい!!」
中村半次郎が、急にあわてて飛び退《さ》がり、怒鳴り出したのはこのときである。
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後家簪《ごけかんざし》
一
「卑怯《ひきよう》!!」
佐土原英助は叫んだ。
叫んでから、急に自信がわきあがってきた。
(相手も俺《おい》の剣に気おくれしていたのだ。勝負の差は紙ひとえだというが、このことだな)
じりじりと迫る英助に手をふって、
「ま、待ちゃい、待ちゃいちゅに──」
中村半次郎は、かなり狼狽《ろうばい》をしている様子ではないか。
「黙れ!! 許さん」
「待ちゃい」
「気おくれしたか」
「何言うか。おはんごときに負くる半次郎じゃなか」
「何!!」
「ちょっと待ちゃい、用事が出来もした」
「逃げるか」
「逃げん。この場ですむ用事ごわす」
半次郎は刀を土の上へ置き、
「すぐ、すみもすで──」
と言った。
「何じゃ。何の用事じゃ」
相手が刀を手離したのでは、斬りつけるわけにもいかなかった。
英助は舌うちをしながら刀をひき、それでも油断なく半次郎の動きを注視した。
「ちょっと……すぐに、すみもす」
不審そうに光る英助の眼の前で、半次郎は中腰になり、
「うむ……」
低く、うなった。
同時に、半次郎の尻《しり》から、たてつづけに快音が発した。
それは、放屁《ほうひ》の音とも思われぬ見事なものであって、
「あ──こりゃ、きさま……」
英助も二の句がつげず、あわてて鼻をつまんだが、
「くさい」
うらめしげに半次郎を睨む。
「こりゃ無礼しもした。どうも、吉野のからいもは、こげなとき、大いに困りもす」
少年のような無邪気な笑いで顔中をいっぱいにし、半次郎は英助に、ぺこりと頭を下げたが、すぐに刀をとった。
「さ、やりもそか」
「む……」
二人は、またも刀を向け合ったが、とても先刻までの闘志がわきあがってこなかった。
睨み合ううち、どちらからともなく刀をひき、声をたてて二人とも笑い出していた。
「おはんちゅ人は。ま、何ちゅ人じゃ」
すっかり気がぬけた英助が、やっと血がのぼってきた顔をしかめ、
「まだ、くさい」
「いやアちょいと気がぬけもした。今日《きゆ》はやめもはんか?」
「やめもそ」
二
半次郎は、佐土原英助を、自分の家に案内した。
「試合な、いつでもできもす。まだ陽も高い。ひとやすみして行きなされ」
「うむ……」
ためらっていると、半次郎はさっさと街道へ出て行き、人なつこい笑顔をふりむけ、
「さ、おじゃし、おじゃし」
と、英助を手まねきした。
「ふむ……」
どうも憎めない。
(からいもめ──)と思いながらも、英助は刀を鞘《さや》におさめ、半次郎の後から街道へ出ていった。
英助の馬は、どこにも見えなかった。
街道を太鼓橋に向って少し戻り、石の井戸がある共同|水汲場《みずくみば》の角を左へ折れて行くと、間もなく左側の斜面をのぼる小道が見え、
「ここでごわす」
その小道をすたすたとのぼりながら、半次郎が言った。
斜面を切りひらいた三十坪ほどの敷地に、小さな家がある。
半次郎の家は、鬱蒼《うつそう》とした竹藪《たけやぶ》にかこまれていた。
オモヤとよばれる小さな部屋が二つとカマヤ(台所)の土間が、破《や》れ瓦《がわら》の屋根の下に、ちぢこまっている感じであった。
これにつづいて牛小屋がある。
黒い牛が、にゅっと首を突き出して、半次郎を迎えた。
「よか、よか……」
牛の鼻づらをなでてやり、半次郎は、
「母さア、客人をつれてきもした」
と、怒鳴った。
「どなたじゃ」
カマヤの土間で芋をふかしていた女があわてて表へ出て来た。
半次郎の母、菅子である。
今年で五十になったばかりなのだが、髪の毛は、ほとんど白くなってしまい、見たところは六十を越えて見える。積年の貧苦が彼女のすべてにあらわれていた。
きちんと袴《はかま》をつけた英助を見れば、一目で城下侍だということがわかった。
菅子は低頭して、口の中で挨拶《あいさつ》の言葉をぼそぼそとあやつった。
「佐土原英助ごわす」
英助が言うと、半次郎がそばから、
「ほう。そげな名でごわしたか。おいは……」
「おはんが中村半次郎ちゅうことは、さっき太鼓橋で見たときから知っとる」
「そげに、おいの名は、城下でも有名ごわすか」
「あれだけ暴れればなあ」
「は、は、は……」
「だが、気をつけぬといかん。おはんには藩の重役たちも目をつけとる」
「え──そや、まことでごわすか?」
「まことじゃ」
「母さア──」
半次郎は菅子の袖《そで》をつかみ、
「見やい、見やい。おいの剣術が城下でも評判になっとる。いまに殿様からおよび出しがあると、いつも俺が言うていたのは嘘じゃなか」
英助は、苦笑した。
「違う、半次郎どん──」
「何が違《ち》げもす?」
「おはんを、このまま放りすてておけば、きっと血を見る。その証拠に、さっきも危く、おはんとおいどんは、真剣勝負を──」
言いかける英助に、菅子が、もう青ざめて、
「そりゃ、まことのことでございもすか?」
「まことごわす」
「半次郎が、また、……」
「おいどんの馬の尻尾を、半次郎どんが斬り飛ばして……」
「まあ……」
菅子が半次郎を睨《にら》みつけた。
半次郎が、ぷいと逃げた。
母だけには頭があがらぬらしい。
「佐土原どん。お前《まん》さアの馬をさがしてきもす」
下の道で、半次郎が怒鳴る声がする。
「馬さがして戻るまで、休んでいて下され」
先刻から馬のことは気にかかっていたが、半次郎の母がしきりにすすめるので、英助はオモヤのせまい縁先に腰をおろした。
「半次郎な、きっと馬を連れて戻りもす、すぐに戻りもす。すぐに……」
懸命に白湯《さゆ》をくんで出したり、ふかしたての芋を鉢に盛って、
「こげなもんしかござりもはんで──」
恥じらいながら運んできたりするのである。
英助は、そんな菅子を見ていると、八年前に亡くなった母のことが、しきりに思い出されてくる。
(半次郎が戻ってきたら、よく言いきかせてやろう。こげな、あわれな母親を心配させて……)
半次郎の剣法がみとめられて召し出されるという話どころではないのだ。
中村半次郎制裁の声は、藩の重役たちの間でも次第に高まりつつあったのである。
三
半次郎が馬を見つけ出して来た。
尻尾を切られた英助の馬は狂奔し、少し先の帯迫《おびせこ》の村外れまで疾走して行き、そこで、土地の郷士に押えられた。
見れば鞍《くら》もおいてあるし、城下侍の馬に違いないというので、手当も加えられていたようである。
「おいどんも、つい、かっとなって抜き合わせたが、あのとき、もしどちらかが死ぬか、傷ついていたら、どげなことになると思《おめ》もす」
佐土原英助は、ためいきをつき、
「危いとこじゃった。こげな下らんことで、互いに身をあやまるときじゃなか。そうでごわしょうが……」
「はあ……」
半次郎も、こんこんと英助にさとされて、意気消沈のていである。
「今や、わが薩摩藩は、徳川将軍と肩をならべるほどの力をそなえ、この日本の国の危急存亡のときに当たり、中央に乗り出して国歩の舵《かじ》をとらねばならん役目なごわす」
英助は、むしろ、怒りにまかせて決闘をしかけた自分に言いきかせているような気持であった。
「斬った方は罪をうけ、斬られた方も死ねばそのまま、たとえ生き返っても恥をさらすだけのことじゃ。国のために働くべき大切な躯《からだ》を、こげなことで台無しにしてしもうては、とりかえしがつかん」
「…………」
「半次郎どん──おいどんな、このように思もすが……」
「どげに思もす?」
「今に、きっと、おはんなども藩にめし出されて、大いに働くときがやってきもす」
「そりゃ、まことごわすか」
「いくら人手があっても足りぬときがきもす」
「そりゃ、まことごわすか」
「うむ。そのときのために、おはんも身をつつしみ、力をたくわえておくが本当じゃとおいどんは思もす。やたらに城下侍へ喧嘩《けんか》を売り、人々の憎しみを買う──つまらんことじゃごわはんか」
「はあ……」
半次郎は頭をかき、子供のように、うなだれている。
あとでわかったことだが、英助は半次郎と同じ二十五歳であった。
ろくに読み書きも出来ぬ半次郎と違い、英助は武士としての正規の教育をうけ、藩庁に出仕して、薩摩のみか江戸幕府の政局の動向にも通じている。
城下侍のうちでも、格別に身分の高い家に生まれた英助ではないが、吉野高原で芋をつくっている貧乏郷士の半次郎とは何も彼もが違うといってよい。
しかし、半次郎にしても、ただならぬ風雲をはらんだ自分の国の危機を知らないわけではない。
二百六十年の威勢をほこる徳川幕府も、今はその土台が、ぐらぐらとゆれはじめている。
いや、ゆれはじめてから、すでに十年もたっているのだ。
嘉永《かえい》六年六月──。
アメリカの軍艦は、突如、日本の海にあらわれ、幕府に開港・交易を迫った。
それまで二百余年もの間、国をとざして、外国との交際を絶っていた徳川幕府は、目《ま》のあたりに見る外国の武力と経済力と、科学文明のおそるべき力の前に、ただもう、あわてふためくよりほかなかったのだ。
そのときから十年たっている。
この十年は、日本が近代国家として目ざめるための陣痛の時期であった。
そして、それから、唐芋侍の中村半次郎が陸軍少将となるまでの十年は、その陣痛が頂点に達した時期であった。
この日──山道を一里下った鹿児島城下へ帰って行く佐土原英助を、太鼓橋に見送った半次郎は、まさか、自分が日本初代の陸軍少将になろうとは思ってもみなかったろう。
(そうじゃ、今の日本は大変じゃ。眼の青い毛唐人は、おいどんの国を乗っ取ろうとしとる。薩摩藩は、江戸の将軍家に力を貸して、これを防ごうとしとんのじゃ。こりゃ、英助どんの言う通りじゃ。おいどん、今に斬っちゃる!! 毛唐人の乳くさい首斬っちゃる!! そして日本の国を守らんといかん)
半次郎は胴ぶるいをした。
(じゃが、おいどんの働き場所が見つかるだろうか……?)
すでに、陽は山蔭《やまかげ》にかくれていた。
半次郎は、太鼓橋近くの細道を川の方へ下って行った。
川べりにもうけられた村の紙|漉《す》き場で働いている妹の貞子を手つだってやるつもりであった。
谷へ下りて行くと、まばらな木立とせまい畑地が東面にのびている。
畑地の向うの台地の一角に半次郎の家の屋根が、わずかにのぞまれた。
親類の別府家もこの近くで、そこには、半次郎と仲よしの従弟《いとこ》・別府晋介《べつぷしんすけ》も住んでいる。
晋介は、半次郎の母の弟の子で、弘化《こうか》四年の生まれだから、半次郎より九つ下の十六歳だ。
その別府の家へ曲る小道に椎《しい》の大木がある。
そこまで半次郎が来たとき、
「何しておじゃした?」
椎の木の蔭から、女の声がした。
「や──」
半次郎が足をとめて、
「幸江《ゆきえ》さア。ずいぶんと会いもはんで、おいのことを忘れたかと思《おめ》もしたど」
「ふ、ふ、ふ……」
女があらわれた。
いかにも薩摩女らしい、色の浅ぐろいたくましい躯つきの女であった。
畑仕事で顔も手足も陽にやけつくしているが、紺いろの筒袖《つつそで》木綿の着物をまとっている胸も腰も、遺憾《いかん》なく成熟しきったふくらみを見せている。
髪を琉球風《りゆうきゆうふう》にくるくると巻きあげているのが、このあたりの女と違って異色である。
大きな瞳《ひとみ》が、底知れぬ光をたたえて、じっと半次郎に笑いかけているのだ。
女は、半次郎より一つ年上であった。
名を幸江といって、この近くの郷士・宮原弥介《みやはらやすけ》の妹である。
幸江は、後家であった。
後家といっても、そうなる前に、子が生まれぬのを理由に婚家から離別されていたのである。
離別されてすぐに幸江の夫が急死したので、村では後家ということになっていた。
幸江が嫁いだ先は、鹿児島よりずっと遠い肥後《ひご》境の村の郷士だったので、あまり、離別のいきさつを村の人々は知らないらしい。
「幸江さア」
「あい」
「さ、こっち、こっち──」
半次郎は、もう妹の手つだいをしてやることなぞ念頭になかった。
幸江の手をひき、いま下って来た小道を太鼓橋の上へ出ると、あたりをうかがい、向う側の竹藪《たけやぶ》のなかへ走りこんだ。
日中はあたたかくても、高原地帯だけに、陽が落ちると、かなり冷える。
「あ──冷たい……」
竹藪の中の、やわらかな土の上で半次郎と抱き合いながら、しきりに土が冷たいと言う幸江に、
「何言うとる。梅が咲いとるちゅうに……」
甘えた小犬がじゃれつくように、半次郎は鼻を鳴らしながら、幸江のひろい胸肌に顔をうめていった。
幸江の髪から、小さな珊瑚《さんご》の簪《かんざし》が落ちた。
幸江の亡母のかたみだということで、幸江は半次郎と会うときだけ、この簪をつけてくるのである。
うっとりと男の首に、もろ腕を巻きつけかけた幸江は、はっと眼をひらいて、
「誰か来もす……」
と、半次郎にささやいた。
四
二人のあとを追って、竹藪へふみこんで来たのは、幸江の兄の、宮原弥介であった。
中村半次郎が幸江の手をとって竹藪へ入るところを、弥介は、どこからか見つけたものであろう。
「まあ、兄さア……」
幸江も、さすがに、少しあわてて襟もとをつくろった。
半次郎は、平気である。
「おう、弥介どんごわしたか」
立ち上がって、肩でもたたきそうに親しげな口調なのである。
弥介は顔をしかめ、妹を睨《にら》み、半次郎を睨んだ。
弥介は幸江と二人きりの兄妹で、二つ年上の兄であるから、半次郎より三歳の年長ということになる。
ものがたい真面目な男だし、運よくめし出されて御内用屋敷に出仕し、役目にもつき、わずかながら俸禄《ほうろく》も貰《もら》っているのだ。
「弥介どんな、むかしから物がたい男じゃ。夜這《よば》いの味も知らんのは、このあたりで弥介どんだけじゃあるめか」
こんなことを、半次郎が幸江に言ったことがある。
薩摩では、南国の常もあって、男女関係には、かなり放漫なところがあった。
ことに、鹿児島城下とは違い、村々の郷士や百姓たちは日常の生活が苦しいだけに、男女の間の愉楽が非常に大きな生甲斐《いきがい》ともなってくるのだ。
俗にいう〔夜這い〕という言葉──男が女の寝所へ忍び込み、思いをとげる(むろん、女にきらわれて目的を果せぬ場合もあるが)ことをあらわしたものだが、うまい表現の仕方だ。
夜の闇の中を、ひそかにはいよりながら、好奇と期待に五体をおののかせつつ、女の部屋に近づいて行く男の姿が、この〔夜這い〕の一語にほうふつ[#「ほうふつ」に傍点]としてくる。
この言葉には、少しも暗い影が、ただよってはいない。
むしろ、この言葉はユーモラスなひびきをもち、そして一歩を間違えば泥まみれになってしまう人間の本能を見事に明るいものにすくいあげている。
そこには、犯罪や打算や非行のかげりが、まったく無いといってよい。
人間の性慾《せいよく》というむずかしい問題を処理するための、むかしの人々の賢明な考え方が、この言葉にはひそんでいるように思われる。
薩摩の国の場合、男女の情熱に対する周囲の仕くみが、意外に、大らかなものに出来あがっているようだ。
いわゆる男尊女卑の国柄であって、一見したところ、男の都合のよいようにも思えるのだが、そのかわりに、男たちは女のことから家のことに至るまで、すべてに責任を負わされているのである。
〔夜這い〕の結果は、さまざまなかたちになってあらわれるのだが、彼等は、このことについて、ぶざまな争いや不幸をまねいたりすることを決してしなかった。
だが、半次郎の場合は、少し違う。
同情をされてはいるが、何といっても半次郎は罪人を出した家の若者なのである。
「半次郎どんには、近寄っちゃなりもはん」
親たちに、きびしく言いふくめられた吉野の娘たちは、大いに不満であったらしい。
美男で、たくましくて、いささかも貧苦に負けぬ半次郎の精力的な活動ぶりを見ては、男尊の国である薩摩の女が、眸《ひとみ》を輝かすのは無理もないところであった。
幸江ひとりに自分の情熱の対象をしぼるまでには、半次郎も、こっそりと、数人の娘たちと愛をかわしていたものだ。
そのときも、だいぶ、村の問題になった。
それだけに、幸江の兄の宮原弥介が、眼のいろを変え、妹を監視している気持も、わからないことはない。
「何しちょる!! これ、幸江。おんし、此処《ここ》で、半次郎どんと何しちょる」
竹藪の中へ踏み込んできた宮原弥介は、顔面|蒼白《そうはく》となり、わなわなと唇をふるわせつつ、やっと詰問にかかった。
「何もしていもはん」
幸江はおくれ毛を平然とかきあげつつ半次郎に視線を流し、いたずらっぽく微笑をうかべた。
「何笑う。こりゃ、幸江……」
弥介が、妹につかみかかろうとするのを、半次郎が軽く突き放した。
弥介は、ぶざまに尻《しり》もちをつき、
「何する!! 何するかッ」
「乱暴しもすなや」
「何言うとッか。暴れもんのおはんから、そげな言葉きくと、笑うにも笑えぬわい」
弥介は立ち上がって、
「こりゃ、おはんは……おはんは、ようも、おいの妹をもてあそんだな」
小柄な弥介が叫ぶ目の前へ、ずかずかと半次郎が近寄った。
厚い半次郎の胸板が、ちょうど弥介の鼻先に、ぐっとせまり、
「おいは、幸江さアを、なぐさみもんにしとるのじゃない」
「何言うか。村中の評判を、おはんは何と聞いちょる」
「何とも聞いちゃおらん。幸江さアは、おいどんに惚《ほ》れちょりもす」
「これ、半次郎どん。おいはな……おいどんは、妹の親がわりじゃ」
「おいは、幸江さアを嫁にしたいと思っとる」
「黙れ。いくら出戻りの……」
と、思わず言いかけて、弥介は眼を白黒させた。
村の人々には「後家」だと言ってあるからだ。
子が生まれぬので離別されたなどということが知られたら、村中のうわさは、もっとひどいものになるであろう。
「兄さア、半次郎さアな、何も彼も知っちょりもす。私が、うちあけたのでござす」
幸江が、くっくっと笑いながら口を出した。
「黙んなはれ!!」
弥介は妹に飛びつき、その腕をつかむと歩き出しながら、半次郎に、
「いくら出戻りの妹でも、罪人の家へは嫁にやれもはん」
と叫んだ。
「何……」
のそりと、半次郎が弥介の前に立ちふさがった。
「弥介どん。もう一度、言うてみやい──さ。もう一度、今の言葉、言うてみやいちゅうに──」
半次郎は凄《すご》い眼のいろになっていた。
「お。おう──言うちゃる」
弥介は威圧され、躯《からだ》中をぶるぶる震わせながらも、必死で、
「何度でも言うちゃる。あ、言うちゃる……」
「早《はよ》う言え!!」
半次郎が弥介の胸倉《むなぐら》をつかんだ。
それを力一杯にふりきった弥介は、
「別れてくやい。な、半次郎どん。妹と別れてくやいちゅに……」
恐怖に耐えきれず、弥介は見得も体裁もほうり捨ててしまった。
「たのむ。別れてくやい」
もう哀願の調子なのである。
「おはんも、おいどんと同じ吉野の貧乏郷士じゃごわはんか」
と、半次郎が言った。
弱くなった相手に腕力をふるう半次郎ではない。
からりと態度を変えて、
「おいどんも、おはんも、城下侍の下にくっついていてやっと名ばかりの禄を貰っとる仲間じゃごわはんか──いや、おいどんな、その俸禄も、父の罪によって失うてしもうた……ようごわすか、弥介どん。おいの父が多勢の家族をかかえて、芋も粟《あわ》も満足に食えん身の、なぜに、ちょっとばかりの罪を問われて島流しおうたか……その気持な、おはんはわからんちゅのでごわすか……」
「そりゃ、わかっとる……」
「何かと言うと、罪人の家じゃと村のもんは言いもす。こげな情知らずな言葉を聞くたび、おいどんは、そやつらの素ッ首|叩《たた》き落として……」
「は、半次郎どん……」
「おはんも、いま、罪人の家と言うた。さ、その言葉を取消しなされ。あやまんなはれ。あやまれちゅに……」
半次郎の声は、やるかたのない悲憤の情にあふれていた。
「す、す、すまんこッごわした」
あやまるほかはない。
あやまらねば、半次郎の鉄拳《てつけん》が、弥介の躯のどこかを、どうにかしてしまうであろう。
「あやまれば、もう、ようごわす」
半次郎も、さっぱりとした顔つきになって、
「幸江さア。今日《きゆ》は兄さアと一緒に帰んなはれ」
と、理解のあるところを見せる。
「あい」
うなずいた幸江は、土の上に、へたへたとすわりこんでしまっている弥介に、
「兄さア。じゃから半次郎さアに言うても無駄じゃと、私が言うたじゃございもはんか」
まだおののいている兄の肩を軽くたたいてやった。
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火の山
一
その日も、空は晴れていた。
その日──というのは、中村半次郎が佐土原英助と刀を抜き合わせ、それがもとになって、親しく言葉をかわすようになった日から三日ほどたったある朝のことである。
夜も明けぬうちから、半次郎は裏山を切りひらいた畑に種芋を植えつけに出かけた。
「今日は、私も行きもす」
まだ暗い土間に立ち、仕度にかかる半次郎の気配を知って、妹の貞子が目をさました。
「寝ちょれ、寝ちょれ」
「大丈夫ござす。昨夜は早う寝もしたで……」
「いかんちゅに──おはんに病気でもされたら大変じゃ。そげなことになったら、兄が、いくら芋つくっても追いつきもはんど」
「でも……」
「寝ちょれよ。な……」
「あい……」
女なら、だれにでもやさしい男なのである。
恋人にも、母にも、妹にもやさしい。
幼少のころから、自分の家における女たちの苦しみを、厭《いや》というほど見せつけられて育った半次郎だからであろうか。
畑にのぼった半次郎は、猛然と働きはじめた。夜明け前のうすい光のただよう中に、半次郎の上半身をむき出しにした躯が休むことなく動きつづける。
「おいどん、疲れるちゅことを知りもはん」
みずから彼が言う通り、そのリズミカルな労働のうごきは、いささかも止むことがないのだ。
腰をのばして一息入れるなどということを、半次郎は決してしない。
今日はこれだけやると決めたことを、一刻(二時間)ほどかかって一気にやってのけるのである。それも常人の三分の一の時間でやり終えてしまうのだ。
仕事を終えて気がつくと、陽がのぼりはじめていた。
半次郎の躯は汗にぬれつくしている。
「さて……」
これから家へもどり、水をあびてから半次郎の家の前の小道をのぼり、その行きどまりのところにある小さな草原に出かけて行くのが日課になっている。
そこは、台地の突端になっており、そこまで出ると、錦江湾《きんこうわん》をへだてて桜島の全貌《ぜんぼう》が、手をのばせばとどくかと思われるほど近くにのぞまれるのである。
桜島について、くだくだしくのべるまでもあるまい。
この日本の代表的な活火山の噴火の始めは、およそ一─三万年ほど前だといわれている。北岳・中岳・南岳とよばれる三つの火山|錐《すい》からなりたっているが、見たところは富士山の頂点を、もっと平に長く押し広げたようなかたちで、海抜一一一八メートル。周囲五二キロに及ぶ堂々たる大火山である。
しかも、噴煙を吐くこの豪快な山の姿には、
「母のごつある」
半次郎の感想を聞くまでもなく、女性の愛のやさしさが匂いたっているようだ。
富士にしても桜島にしても、日本の名山がもつ特徴は、その山自身が他の山脈の一つではなく、ひろびろとした地形に只《ただ》ひとつそびえ立つところにある。
富士は野に、桜島は海に浮かんでいる。
湾をへだてて、眼前に桜島の威容をのぞみつつ日を送る鹿児島の人々は、海と山と空が織りなすすばらしい景観をほしいままにしつつ暮してきた。
風土は、そこに住む人々の心へ微妙にはたらきかける。
半次郎は、桜島の山肌が朝の陽にそまりつつ、薄明の空の中へ、次第に、やがてくっきりと全容をあらわすのをながめるのが、たまらなく好きであった。
桜島は、一日のうちに七度、その色を変えるといわれている。
赤や紫や、褐色にいろどられつつ、その色彩の中にはまた、緑や黄や灰色の微妙な色がまじり合い、とけ合って、桜島が一日に着る衣裳《いしよう》の数は、とうてい数えきれるものではない。
「桜島な、洒落《しやれ》もんごわすな」
これは、つくづくと感にたえた半次郎が外祖父の別府九郎兵衛にもらした言葉だが、九郎兵衛老人は、
(半次郎は、ときどき奇妙なことを言う……)
怪訝《けげん》そうに、娘が中村家へ嫁いで生んだ、この孫の顔を見入ったものである。
二
(今日はちょっと遅すぎたか……)
陽は、桜島の背後からのぼる。
山の頂点は、すでに陽ざしをうけて輝いていることであろう。
半次郎は、あわてて農具をまとめ、畑を出ようとした。畑の下の道から声がかかったのは、このときであった。
「お前《まん》さア、よう働きなさる。見事ごわす」
「……?」
びっくりして見おろすと、いつの間に来ていたのか崖《がけ》下の道に、馬の手綱をひいた侍が、こちらを見上げているのだ。
そのあたりは両側の崖にかこまれていて、まだ薄暗く、侍の顔だちも、はっきりとは見えない。
距離もかなりあったが、侍の声は朝の大気をぬって、はっきりと聞こえてくる。
「さっきから見ちょりもしたが、おはんの働きぶり、まことに見事ごわした。なかなか、お前さアのようには行かぬものじゃ」
羽織もつけ、袴《はかま》もはき、馬をひいているからには城下侍に違いないと、半次郎は思った。
何となく、ぺこりと頭を下げて、
(大きいお人じゃ)
半次郎も、ちょっと眼をみはった。
近くへ行かぬとわからないが、見たところ、背丈は六尺に近く、よく肥えた体躯は二十四、五貫もあろうか……。
「お前さアは、何と申されます?」
あたたかく、やさしい声音で、しかも丁重な言葉づかいで、その侍が問いかけて来た。
「中村、半次郎ごわす!!」
もう、めんどうくさくなったので、半次郎はそう怒鳴り返すと、もう一度頭を下げ、すたすたと畑から出て、我家へ通ずる道を下って来てしまった。
家の前の庭で、汲《く》みおきの水をかぶっていると、母や妹が、すでに、カマヤへおりて朝飯の仕度にかかっている。今朝は芋を混じた粟粥《あわがゆ》に味噌汁《みそしる》らしい。
水にむれた躯《からだ》を、布で、ごしごしとこすると、半次郎は肌を入れて、いつもの草原に歩いて行った。
「早よ、戻っておじゃし」
母が、うしろから声をかける。
「はアーい」
半次郎も、母の菅子へは、まことに素直な返事をする。
半次郎は、草原に来た。ここは、吉野高地の一角ということになる。
樹木の生繁《おいしげ》った斜面と崖は、そのまま、鹿児島の城下や磯《いそ》の海辺に落ちこんでいるのであった。
「毎日、見ちょるが、ようも飽きん」
つぶやいて、半次郎は桜島の景観に見入った。
いつもなら、そのまま我を忘れたひと時に没入するのだが、今朝は、
(あの侍は、どげなお人か……?)
さっき声をかけてきた躯の大きな城下侍のことが、ふっと脳裡《のうり》にうかびあがってきたのである。
(立派な侍じゃったが、おいに、親切な言葉をかけてくれた……)
城下侍でも、あげな男なら、もう一度会ってみたいと半次郎は思った。
三
女の、荒い呼吸が山道をのぼって来た。
朝の陽にぬれはじめた台地の草原にあぐらをかき、桜島の威容に見とれていた半次郎であったが、
(や……誰か?)
宮原の幸江かと思った。
にこりとして立ち上がると、
「あ、兄さア……大変ござす」
妹の貞子なのである。
一町ほど離れた家から、懸命に駈《か》けて来たものらしい。
蒼《あお》ざめた貞子の顔に、あぶら汗がういていた。
「貞、どげんした? そげに駈けたりしちゃいけんちゅに──」
まだ充分に、躯が恢復《かいふく》してはいない妹なのだ。
半次郎の胸に飛びつき、貞子は喘《あえ》ぎつづけた。
「駈けちゃいけんと言うてあるのに、お前は……」
半次郎は、妹の、か細い肩を、やさしくさすってやった。
この妹の病気のために、父は藩の公金を無断借用し、それが〔横領の罪〕と見なされ、せっかくついた役目からも追われ、島流しにされたあげく、病死してしまったのである。
それを考えると、
(貞子だけは、丈夫にしてやらにゃ、父さアにすまぬ)
このごろでは、貞子も、ようやく紙漉《かみす》きの内職を手伝えるようになったのだが、半次郎は妹の健康に絶えず気をつかっていた。
「た、大変ござす。兄さア……」
「どげんした?」
「兄さアを斬るちゅて……城下の侍衆が……」
「来たちゅのか? 家へ」
「あい」
「ふむ……母さアは、知っちょるのか?」
「母さアな、ちょいと用事で別府の家へ行きもしたで、いまは留守でござす」
「よか」
うなずいた半次郎は、眼を輝かせた。
「貞、よう気づいたな」
貞子が両腕に、しっかりと抱えこんだ大刀を見たからである。
山道を踏みのぼって来る数人の足音が聞こえた。
「何人じゃ?」
「四人ござす。半次郎な出せちゅて……」
「ふむ、四人か……」
「大丈夫ござすか?」
「心配すっな。お前、家へ帰っちょれ。いいから帰っちょれちゅに──」
草原の木立の中に、城下侍らしい若者が四人、襷《たすき》を肩にまわしながらあらわれ、近寄って来た。
「ふむ、おはんたちごわすか」
半次郎は、貞子から大刀を受けとり、
「俺《おい》を斬るちゅが、まことでごわすか?」
「黙れ!!」
四人のうちでは、もっとも腕がたつと思われる石見半兵衛《いわみはんべえ》というのが進み出た。
あとの三人をふくめ、いずれも伊集院鴨居の道場で、半次郎と共に剣をまなんだことがある城下侍ばかりであった。
「唐芋!!」
半兵衛が、先ず侮蔑《ぶべつ》の叫びをあびせかけておいて、
「城下侍一同にかわって、今日は、われを斬っちゃる」
ぎらりと抜刀した。
半兵衛のうしろにいた三人も草を蹴《け》って半次郎のまわりをかこむと、
「チェスト!!」
かけ声と共に、いっせいに刀を抜きはらった。
「チェスト!!」というかけ声の語源は明確でない。
ともあれ、事に当たって奮起一番というときに薩摩男児が発する独特のかけ声が、「チェスト!!」なのである。
城下の若侍たちも、奮起せざるを得なかったのであろう。
この年──文久二年に入ってからでも、鹿児島城下で中村半次郎に喧嘩《けんか》を売られ、半次郎の木刀の餌食《えじき》になったものが四人いる。
そのうちの一人には、いま半次郎に刃を向けている芝原弥五七《しばはらやごしち》もふくまれていた。
日頃、軽侮しきっている郷士の、しかも罪人の子の中村半次郎ひとりを持てあまして手も足も出ないというのでは、城下の二才衆《にせしゆ》(若者)のうけた恥辱が、半次郎打倒に結集されたのも当然であったといえよう。
「貞、行け。行きゃいちゅに──」
半次郎は、刀を腰に差しつつ、きびしい声で妹に命じた。
「どけ!!」
石見半兵衛が、半次郎にすがりついている貞子に怒鳴った。
貞子が、白い眼で半兵衛を睨《にら》み、それから、ちらりと半次郎を見上げて、
「兄さア、死んじゃ厭《いや》ござす」
と言った。
「ああ、死なん、死なん」
「じゃ、行きもす」
貞子は、しゃんと背をたてて、思いのほかにしっかりした足どりで、木立の向うへ去って行った。
じりりと、四つの刃が半次郎に迫った。
「待ちゃい」
半次郎が、しずかに言う。
「卑怯《ひきよう》な……」
「卑怯じゃごわはん。ちょいと用事が出来もした」
「何の用事かい」
「すぐに済みもす」
大胆きわまる所作を半次郎がした。
くるりと尻《しり》をまくったのである。
快音は、冷たい朝の大気を割って、つづけざまに鳴った。
「あッ」
「無礼もん!!」
一時は、あっけにとられたらしいが、この半次郎のふるまいは、彼等の怒りをやわらげるどころか倍加させたらしい。
先日の佐土原英助のように、彼等は諧謔《かいぎやく》を解す余裕をもち合わせてはいなかったようだ。
半次郎は、このとき意識して放屁《ほうひ》をしたのであった。
佐土原と刀を抜き合わせたときは違う。
あのときは、真実、生理的な要求にせまられたのだ。
今日は、四人を相手に決闘をしたくないという気持があって、それだからこそ、半次郎は切羽つまった手段をもちいたのである。常食にしている芋の作用を音に変化させることなど、半次郎にとっては、わけもないことなのだ。
けれども、突き出した半次郎の尻を目がけて、
「やあ!!」
石見半兵衛は、草原にただよう異様な臭気の中を殺到した。
「何すっか!!」
半次郎は鳥のように草の上を飛んだ。
半兵衛の刀の切先が、半次郎の野良着の裾《すそ》を、わずかに裂いた。
「チェスト!!」
たたみかけて、ふりむいた半次郎の真向から、石見半兵衛は猛烈きわまる打ちこみをかけた。
誰が見ても、間合いといい、斬込みの激しさといい、半兵衛の勝はあきらかと見えたのだが、その一瞬に、
「あっ……」
三人の侍たちは、立ちすくんでしまっていた。
四
斬られたかと見えた半次郎の悲鳴のかわりに、刃と刃が噛《か》み合う凄《すさ》まじい音がした。
石見半兵衛の大刀はきらりと朝の陽に光って宙に舞った。
野獣のような素早さで飛び退《さ》がった中村半次郎が、自分も抜刀し、半兵衛が振りおろした一刀をはねあげたのである。
そして……落ちてきた半兵衛の刀が草の上へ突き刺さる前に、半次郎の刀は音もなく鞘《さや》に吸いこまれてしまっている。
四人の城下侍は、ぽかんと口をあけたまま、半次郎のすばらしい早業に、もう呑《の》まれきってしまったようだ。
(こやつ、何時《いつ》の間に……)
もともと一対一の立ち合いでは勝てぬ相手なのだが、それにしても、いま半次郎が見せた居合抜きの絶妙さは神わざとしか思われない。
だが、これだけで四人がおどろくのはまだ早いのだ。
すでに、このときの半次郎は、おのれに課したきびしい鍛錬と工夫の成果を、
「見ちょれ」
一度だけ、妹の貞子に見せたことがある。
右手に持った柿の実を、ひょいと宙にほうり投げ、その柿の実が地上へ落ちきるまでに、
「むむ!!」
腹の皮を破って発したような低い気合と共に、半次郎の大刀は四度び鞘をはなれ、四度び鞘におさまったのである。
「三度ござしたな」
と、目をみはった貞子が言うと、
「四度じゃ、速いので見間違えるのも、女のお前じゃから無理ないが……」
半次郎は事もなげに答えたものだ。
石見半兵衛は、凝然と立ちつくしたままであった。
半次郎の右、約一間のところである。
動こうにも動けない。
ぴたりと、自分の眼に喰《く》い込んできている半次郎の視線を外すことは出来ない。
飛び退がっても、飛びついても、半次郎の抜打ちは、いささかの誤算もなく半兵衛を倒すに違いなかった。
小鳥のさえずりが、木立の中から聞こえはじめた。
「おはんな、何ちゅう無茶なことをしなさる」
「……?」
石見半兵衛は、ものしずかに言い出した半次郎の態度に、いささか戸惑ったようだ。
「石見どん。そいから、そこにおる方々──」
今度は半次郎の声が、おごそかな、もったいをつけた重々しいものとなった。
「ようごわすか。おいどんの申すことを、よう聞いて下され。よいか、同じ薩摩の者が、こげなつまらぬことで刀を抜き合い、命をかけて争うなぞということは、まことに下らん、馬鹿馬鹿しいことごわす」
どうも風向きが違う。
四人とも、完全に喰われた感じであった。つい先日までは、
「唐芋侍を打負かすもんはおらんのか!!」
城下侍への鬱憤《うつぷん》と、世にいれられぬ口惜《くや》しさを木刀にこめ、肩をそびやかし腕を振って、鹿児島城下へやって来ては、喧嘩相手を見つけるため血眼《ちまなこ》になっていた、中村半次郎なのである。
「ようごわすか。よう聞いてくやい」
半次郎は胸を張って、つばをとばしながら演説をやりはじめた。
「今や、わが日本は、メリケン、エゲレス、フランスなど、毛唐の国々の侵入を喰いとめようにも喰いとめられんちゅ有様になっとる」
どうやら、先日、佐土原英助から、こんこんと言い聞かされた、その受け売りらしい。
「毛唐人な、わが国が及びもつかん大砲を持っちょる。鉄の船な持っちょる。こりゃ大変ごわす。うっかりすると、日本な、毛唐に負け、毛唐に、国をうばいとられてしまう。ようごわすか……」
一同、あっけにとられた。
芋をつくるのと木刀をふるってあばれまわるのと、それだけしか能がないと思っていた半次郎が、天下の形勢を論じようとは、誰もが考え及ばなかった珍事ではないか……。
「こげな一大事にあたり、わが薩摩藩は殿様はじめ家来一同、力を合わせ、徳川将軍家を助けて国難に当たらねばなりもはん。こげな一大事に当たって……」
ここまで一気に、しゃべってきて、半次郎は、ふっと、佐土原英助が言った言葉のうちで、すこぶる気に入ったのを思い出した。
そこで、彼はひときわ声を張りあげ、
「こげな危急ボウゾンのときに当たり……」と、やったのである。
〔危急|存亡《そんぼう》〕を、〔亡存《ぼうぞん》〕とおぼえこんでしまったらしい。
もっとも、後年になって、半次郎は〔天皇陛下〕のヘイカを〔カイカ〕とおぼえこみ、「わが日本におわす天皇|陛下《かいか》は……」などと、よくやって笑いを買ったものである。
危急存亡などは、まだよい方であった。
というのは、聞いている四人が、その間違いにはまったく気がつかず、
「こげな大切なときにあたって、われわれが、つまらんことで刃を抜き合い、命のやりとりなぞするのは、愚劣ごわす、おろかでごわす。斬った方は罪をうけ、斬られた方も死ねばそのまま……」
佐土原の受け売りを、そのままにまくしたてる半次郎の怪弁に圧倒されてしまい〔亡存〕もちゃんと〔存亡〕に聞こえたらしいのだ。
汗みずくになって、熱弁をふるった半次郎が、
「御一同、おわかり下されたか」
こう言って、四人を見まわしたときには、四人とも、すっかり闘志をうしない、照れくさそうな顔つきで黙りこくって眼を見合わすばかりである。
このとき、草原の向うから笑い声が聞こえた。
大気が揺れ出すような笑い声であった。
五
「や……」
木立の中から草原へ歩み出して来た侍を見て、半次郎は、
「ありゃ、お前《まん》さアは、さっきの……」
「おう、先程は……」
少し前に、半次郎が畑仕事を終えたとき、下の山道から声をかけてきた、あの大男の城下侍なのだ。
「先程は、御無礼しもした」
総髪にゆいあげた髷《まげ》が、かたむくほどの丁重な挨拶《あいさつ》であった。
「は……こりゃ、どうも……」
半次郎は、へどもどと頭を下げながら(さっき見たときより、もっと大きい)と思った。
躯《からだ》も大きいが、顔の輪郭も大きい。
顔のつくりも大きい。
何から何まで大きいのだ。
その侍は、質素な黒木綿の羽織を着、これもかなり古びた、よれよれの袴《はかま》をつけている。
けれども、恰幅《かつぷく》のよい、どっしりとした躯の押出しの立派さの方が先に眼の中へ飛びこんできて、侍の着ているものなどを気にかけるゆとりも、半次郎にはなかった。
「半次郎どん──」
大きな侍が声をかけてきた。
「おはん、腕もたつが、弁も立派ごわすな」
ほめられた、と半次郎は思った。
だから、彼は照れて、頭をかいた。
生まれてこの方、他人にほめられたことがあまり無いからであった。
ほめられることに馴れていないから、照れくさいのである。
「たのもしいと、おいどんは思《おめ》もす」
大きな侍が、また、ほめてくれたらしい。
大きな侍のうしろから、妹の貞子が、そっとあらわれるのを、半次郎は見た。
(俺《おい》が、ここにおるちゅうことを、この人は、貞からきいておじゃしたな)
あとで、貞子から聞くところによると、半次郎の決闘を心配し、草原の下の道でうろうろしている貞子へ、
「おーい。この辺に、中村半次郎ちゅう人の家なごわすか?」
彼方から、大きな侍が声をかけてきたのだという。
「兄な、いま、果合いなしちょりもす」
やっと、この巨漢が兄の敵でないということがわかってから、貞子が、そう言うと、
「ほう。畑仕事やら果合いやら、忙しい人ごわすな。あんた、妹御ごわすか?」
「はい」
こういうわけで、大きな侍が崖《がけ》上の草原へ出現したことになる。
さて──大きな侍は、まだ半次郎をほめつづけるつもりらしい。
「半次郎どん。おはんのような、一日中汗水たらし、畑仕事に精出して、ただもう黙々と、薩摩の国な養のうてくれちょる人が、そこまで国の大事を考えていてくれなさる……おいどん、嬉《うれ》しく思《おめ》もす」
大きな侍の眼は、大きかった。
眸《ひとみ》が鳶色《とびいろ》がかっていて、ぬれぬれと光っている。
見つめているこちらの眼の力という力を吸いこんでしまうような眸なのであった。
半次郎は、眼をそらした。
佐土原英助からの受け売りが、恥ずかしかったのだ。
眼をそらして、半次郎は、はじめて気がついた。
石見半兵衛をふくめた四人の城下侍たちは、いずれも刀をおさめ、ふかぶかとその大きな侍に頭をたれているではないか。
(城下侍の中でも、この人は立派な家柄の人らしい……)
半次郎が、そう感じたとき、まだ四十にはなっていないと思われる大きな侍が、
「半次郎どん。おいどんは、西郷|吉之助《きちのすけ》というもんごわす」
と名乗った。
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西郷吉之助
一
大きな侍が、西郷吉之助だと知ったとき、中村半次郎の草を踏みしめていた両足が、感激に震え出した。
(この人が、西郷さアか……)
西郷吉之助の城下の青年たちからうけている尊敬と人気のすばらしさは、村の女たちでも、よくわきまえていることだ。
とくに、半次郎は、うわさに聞く西郷の人物を(偉いお人じゃ)と思うだけではなく、人一倍の親しみをおぼえていたのである。
西郷の顔を見、言葉を聞いたのは、今日がはじめてであるが、
(西郷さアな、城下侍のうちでも、いちばん身分のひくい貧乏な……俺《おい》と同じように芋|喰《く》うて大きゅなったほどの家に生まれて、こげな出世した人じゃ。偉い!!)
何とかして身を立て、亡父がうけた罪名をそそぎたいと熱望している半次郎にとって、西郷は、もっとも大きな典型であったといえよう。
しかも西郷吉之助は、三年もの間、罪をうけて半次郎の父と同じように大島へ流され、刑に服していたのだ。
その罪がとけ、鹿児島へ呼び戻されたのが、つい先頃のことであった。
もともと西郷の罪は、半次郎の亡父がうけたようなものではない。そのことについては、追々にのべて行くつもりである。
「おはん方、もうようごわす。城下へ戻んなはれ」
西郷吉之助が、石見半兵衛たちに言った。
「はっ──」
一同、面目なげに、頭をたれ、すごすごと下の道へ消えた。
貞子が、にわかに血のいろを顔にみなぎらせ、
「兄さア、ようござしたな」
半次郎のそばへ駈《か》けよって来た。
「おはん方、兄妹ごわすな。よう似ちょる。そろいもそろうて、美男美女ごわす」
西郷が、またほめる。
貞子は、まっ赤になったが、半次郎は青くなった。
(俺は、西郷さアに嘘ついてしもた)
もう黙ってはいられなかった。
「実は、その……」
自分が四人の城下侍に向って弁じた内容は、すべて、佐土原英助から聞いたものの受け売りであることを、率直にうちあけ、
「まことに、恥ずかしゅ思《おめ》もす。どうか、おゆるし下はれ」
まだ朝露のかわききらぬ草の上へすわり、半次郎は両手をついた。
「ほう、ほう……おはん、めずらしか人じゃ。おはん、まことにもって正直無類の人ごわすな」
西郷は、またも、ほめるのである。
「こりゃ、どうも……まことにもって弱りもした。おゆるし下はれ。赤面、赤面でごわす」
「いや、わびることな何《なん》もごわはん」
「は……?」
「他人が言うたことでも、おはんがそれを信じておるなら、それはもう、おはんの言葉ごわす。そうじゃごわはんか?」
「はあ……」
それはそうだと思った。
信じないことを口に出す俺ではないと半次郎は考えた。
佐土原の説諭に共鳴し、感動したからこそ、四本の刀の前にわが尻《しり》をさらしてまで、斬り合いをやめようとしたのだし、演説もやったのである。
「おはんでも、おいどんでも、もとは何事《なんごと》も知らぬ赤子ごわした。そいが、人の言うことを聞き、人の教えをうけて、どうやら、ここまで育ちあがってきたのでごわす。そうごわしょう?」
「はあ……その通りごわす」
「佐土原英助どんな、よか男ごわす。おはんな、よい友達を得たちゅうわけじゃ」
「はアい」
甘えた犬が、飼主にじゃれつくような半次郎の「はアい」であった。
「腹がへりもした。何か、ごわはんか?」
西郷が、貞子に言う。
貞子は、うろたえて、口ごもった。
「あの……」
半次郎が、すぐにひきとり、
「粟粥《あわがゆ》と汁ならござす」
西郷が、ぴたりとうけて、
「頂きもそ」
「はアい──貞、早《はよ》う行って支度、支度」
貞子が、あわてて駈け去るのを見送った西郷が眼を転じて、
「桜島な、煙はき出しもしたな」
と言う。
桜島の山肌は、褐色に変っていた。
早春の、やや重たげな空の青さに、これも褐色の煙が、ゆったりと流れはじめていたのである。
後に、西郷隆盛となった吉之助は、この年、三十六歳であった。
二
西郷吉之助は、文政十年(一八二七年)十二月七日──鹿児島城下に生まれた。
だから、中村半次郎より十一歳の年長ということになる。
西郷の家は、菊池氏から出ていて、吉之助が生まれる百三十年ほど前まで、菊池郡(熊本県)七城《しちじよう》村・西郷の地に住んでいたということだ。
のちに薩摩の領主・島津家の家来となってから九代目の、吉兵衛の長男が、西郷吉之助だ。
吉之助の弟妹は六人。男と女、三人ずつである。
子は多い方だが、西郷家の貧乏暮しは他の下級藩士の家と同様、まことにひどいものであった。
城下侍と郷士との差別は、すでにのべた。
ところが城下侍の中でも、上級と下級の差別があり、これまたやかましいのである。
どこの藩でも、上士と下士の区別はうるさいのだが、特に薩摩藩、島津家のそれは、きびしすぎたといわれている。
下級藩士は、絶対に身を立てることが出来ぬ仕組みになっていたわけだ。
西郷家では、一枚のふとんを多勢の兄妹がひっ張りあい、もぐり合って冬の夜をしのいだ。
中村半次郎の家と大差はない貧乏暮しだったのである。
けれども、城下侍は郷士と違い、ちゃんと役目もあり俸禄《ほうろく》ももらっている。
つまり、貧乏暮しでも、表向きは自分で畑仕事をせずにすむということだ。
それだけでも郷士たちを〔唐芋〕と呼ぶだけの格式のようなものがあったのであろう。
いや、むしろ下級藩士が村の郷士に威張り散らすのは、上級藩士に頭が上がらぬ腹いせだったのかも知れない。
人生の行手に全く希望が持てぬ鬱憤《うつぷん》がそうさせたのかも知れない。
藩士のうちの、わずか二パーセントが上級藩士だったというから、中村半次郎が喧嘩《けんか》を売ったのも、城下侍のうちの下級藩士の子弟だということになる。
「西郷の家は、先祖伝来、大きな躯《からだ》に生まれついちょるらしい。おかげで、みんな、よう食べるのう」
吉之助の父は、妻の政子に向って、つくづくと慨嘆したそうだ。
吉之助が、七人の子の中で、もっとも大きかった。
父を失った二十六歳のころには、身長五尺九寸、体重二十五貫をこえた。
家族がみな病身で、次男の半次郎だけが健康だという中村の家とは対照的な西郷家であった。
この西郷家の下女として、永年つかえていた滝《たき》という女が、今は老いて、半次郎が住む吉野の高原に、ひっそりと、只《ただ》一人で貧しく暮している。
罪をゆるされ、三年ぶりに鹿児島へ戻った西郷吉之助は、滝が眼病にかかったということを耳にすると、
「そりゃいかん。滝な、おいの子供のころには、質屋通いまでして西郷の家のために働いてくれた人じゃ。放ってはおけぬ」
苦しい中を工面して得た二俵の米を馬につみ、吉野へ出かけて行った。
その夜は、滝の茅屋《ぼうおく》に泊り、老いた滝女をなぐさめ、翌早朝、鹿児島へ帰る途中で、畑仕事を終えた中村半次郎に声をかけた、と、こういうことになる。
半次郎の鹿児島城下における乱暴の所業を、すでに聞いていた西郷だけに、あの半次郎の猛烈きわまる畑での働きぶりの見事さを見たとき、
(ほほう……)
西郷吉之助は、半次郎に特別な興味を抱いたものと見える。
西郷も畑仕事には、くわしい。
郡方書役《こおりがたかきやく》という役目についたことがあり、村方との関係も深かったし、自分も亡父・吉兵衛と相談し、無理な借金をして、薩摩藩・水引村のうちの土地を買い、父と共に野良仕事をやったこともある。
城下侍でも、下級武士のうちで、もっとも低い家柄といってよい西郷家なのだから、とても俸禄だけでは多勢の家族が食べて行けない。
そう見きわめをつけ、思いきってこの手段に出たもののようだ。
「じゃが、あまり楽にもなりもはんで……」
後年、西郷は当時を思い出して、そう語ったという。
三
「父も躯《からだ》の大きな人じゃったが、長生きもできなんだのはたくさんの子供かかえて苦労しなはったが原因じゃと思《おめ》もす。母とても同様ごわす。父が亡くなると、もう気も力も折れて、すぐに父のあとを追うて亡くなられたのじゃが、そのとき、おいどん、しみじみと思もした。父も母も……子のために、おのれの血も肉もみんな吸いとらせ、子のために生き、子のために亡くなられたちゅことが、はっきりとわかりもした」
あれから、西郷吉之助は、半次郎の家へ寄って、芋と汁の饗応《きようおう》をうけた。
母や妹と共に、懸命にもてなす半次郎から、中村の家のことも聞いたし、自分の身の上も語った西郷なのである。
西郷の父母が病死したのは嘉永五年のことであった。
九月に父が亡くなり、十一月に母が亡くなった。
「お前《ま》んさアな、もう二十六じゃ。後のことをたのみましたぞ。弟や妹の数も多くて、大変じゃとは思もすが、わたしゃ、ここまで生きぬいてきたのが、精いっぱいのところござす。父さアが亡くなってから、わたしゃ、もう、躯中に張りつめていた力という力が、いちどにぬけてしまいもした」
と、死ぬ二日前に、母の政子が吉之助をよんで言った。
この話を聞いて、半次郎の母が声をあげて泣き出した。
よほど、身につまされたのであろう。
半次郎も、城下侍の中には、このような悲惨な生活を送っているものもいるのだと、あらためて知った思いがする。
自分たち郷士や百姓のつくったものを食べて、殿様から俸禄をもらって威張り散らかしているとばかり思っていた城下侍の実態は、このようなものであったのか。
むろん、城下侍のうちでも下級のものの暮しがひどいということを知らないではない。
それにしても──西郷吉之助が父母を同時にうしなったのは二十六歳のときだというから、いまの半次郎と同じ年頃であったわけだ。
(そのときの西郷さアにくらべたら、俺には、まだ母な残っちょる)
家族も母と妹を抱えているだけだし、自分が力一杯に働けば、何とか芋や汁で腹をみたすこともできるのだ。
当時の西郷が六人の弟妹を抱えて途方にくれたありさまは、半次郎にもよくわかった。
「半次郎どん……」
西郷吉之助は、常人の倍はあろうかと思われる大きな瞳《ひとみ》で、じっと半次郎を見守り、
「おはんな、母御を大切にしなはれ。いや、いまも、おはんな、母御に孝養をつくしちょることは、よくわかりもす。じゃが、その上にも大切にしなはれ。そげなことができるおはんを、おいどん、うらやましく思もす」
こういうと、両眼から、どっと涙がふき出してきた。
その涙をぬぐうなどという、ありふれたことを、西郷はやらない。
そのような羞恥《しゆうち》もなければ、体裁も見栄も、西郷にはまったくないのである。
涙が、大きな顔をぬらし、ふとい鼻の両わきをつたうままにして、
「おいどん、生きた母御をもっちょる人な、ねたましいと思もす」
と言った。まことにいささかの粉飾もない言葉であった。
いまの西郷吉之助が、薩摩藩のどういう位置にある侍か──その西郷が、吉野村の貧乏郷士にすぎぬ中村家の人々に対して、こういう態度を見せ、こういう言葉を口にのぼせたということは、半次郎たちにとって驚嘆すべきことであったのだ。
「あのお方は、まこと情にあついお方ござしたなあ……」
半次郎の母の菅子は、馬をひいて帰って行く西郷の後姿が、谷を越した彼方の太鼓橋の方へ消えるまで、家の門口に身じろぎもせず立ちつくしたまま、感にたえたようなつぶやきをもらした。
四
このときの西郷吉之助は、罪をゆるされて帰国したばかりでもあり、まだ役目にもついてはいない。
だが、間もなく〔徒目付《かちめつけ》・鳥預《とりあずかり》兼庭方役〕という旧職に復すことは、目に見えていることであった。
それにしても、現在の西郷の立場は微妙なものがある。
若い藩士たちが西郷吉之助へかけている人気と希望は、まだまだおとろえていないのだが、現在の薩摩藩の殿様、島津|久光《ひさみつ》と西郷の間は、あまりうまく行っているとはいえないようだ。
殿様といっても、島津久光は現藩主の忠義《ただよし》の父である。
忠義がまだ若年でもあるし、名目は藩主の後見ということになってはいるが、実際上の権力をもつ薩摩の殿様は、島津久光だといってよいのだ。
西郷吉之助は、先代の殿様、島津|斉彬《なりあきら》に見出され、その〔ふところ刀〕ともよばれるほどのあつい信任をこうむった。
島津斉彬という殿様がなかったなら、のちの西郷隆盛も無かったであろう。
だから、斉彬が死ぬということは、西郷にとって、もっとも大きな後楯《うしろだて》が倒れてしまったというわけになる。
島津斉彬は、四年前の安政五年七月に急死をした。
死の前夜、斉彬は弟の久光をよびよせ、
「余の後つぎは、忠義にせよ」
おごそかに命じた。
「承知つかまつる」
久光も、いさぎよく承服をしたが、胸のうちには、かなりの動揺があったようである。
斉彬と久光は、八つ違いの異母兄弟であった。
大名の家には珍しくないことだが、この兄弟は、父の斉興《なりおき》の後をついで島津家の当主となるために、いわゆる御家騒動をひきおこしている。
これは、兄弟が争ったというよりも、兄と弟の二派に薩摩藩が別れて、勢力を争ったということだ。
そして、ついに兄の斉彬派が勝ち、島津の家督をついだのである。
その斉彬が自分の死にのぞみ、あえて弟の久光をしりぞけ、甥《おい》の忠義に後をつがせたことについては、いろいろと複雑な事情があったからだ。
何も、久光が憎いからというのではない。島津七十七万石の藩主の地位を争った弟を、自分の死後、ただちに藩主の座につかせたのでは、「またも、必ずや騒動になろう」と考えたからであろう。
その兄・斉彬の心は、久光にもよくわかっていた。
格別に仲の良い兄弟ではなかったが、兄は弟の、弟は兄の心が見ぬけぬような二人ではなかった。
斉彬には、六男六女、合わせて十二人の子がいた。
そのうちの八人までが、五歳にならぬうちに急死してしまっているのだ。生き残ったのは、女子ばかりなのである。
かくて──島津家は、久光の子忠義が亡き斉彬の養子ということになり、無事にうけつがれた。
久光は、我子の後見の座にすわり、いわゆる〔国父《こくふ》〕となったのだが、以後の藩政は、すべて久光の実権のもとにとりおこなわれるようになった。
こうなってきて、いわば亡き斉彬の〔秘書官〕ともいうべき重い役目についていた西郷吉之助にも、悲運が到来した。
島流しにあうような羽目に追いこまれたのも、そのひとつである。
つまり、島津家においては、先代・斉彬派の勢力がおとろえ、久光派の勢力が擡頭《たいとう》してきたというわけであった。
さて……このあたりで、中村半次郎に眼を転じよう。
「おいどん、ちょいと城下まで行っち来もす」
西郷吉之助と会ってから二日たった昼下がりに、半次郎は菅子に、
「母さア。みやげにしもすで、芋の大きいのを三本ほど包んで下はれ」
と、たのんだ。
「どこへ行きなさる?」
「西郷さアのところへ行きもす」
「何しに?」
「いろいろと、その、こみ入った、たのみごともありもすで……」
菅子は顔をしかめた。
息子が何をやり出すか、知れたものでないと思ったからだ。
五
その日も、よく晴れていた。
中村半次郎が、鹿児島城下へ出て来たのは八ツ(午後二時)を少しまわったころで、まだ陽もたかい。
実方《さねかた》の里からは、ゆるい下りで約一里の山道なのである。
この道を、吉野街道という。
街道が、城下町へ入ろうという左側に智慧《ちけい》院という寺があり、そのすぐ先に、藩の番所があった。
例によって、破《や》れ菅笠《すげがさ》をかぶり、筒袖《つつそで》の着物に、うす汚い兵児帯《へこおび》をまきつけた半次郎は、愛嬌《あいきよう》たっぷりに笑いをつくり、
「実方の中村半次郎ごわす」
番所の木戸を入って、詰めている足軽に声をかける。三人の足軽が、みんな厭《いや》な顔をした。
半次郎がこの番所を通って城下へ入ってくるたびに、いざこざがおこるからである。
(や……?)
遠ざかる半次郎の後姿を見た足軽の一人が、
「今日《きゆ》は刀をさしちょらん」
と言った。
「なるほど……」
「何しに来たのか、今日は……」
足軽たちは、首をかしげ、いつまでも半次郎を見送っていた。
本当なら、番所につめているものは、半次郎の行先を問わねばならぬのだが、訊《き》いてみたところで、いつものように、
「伊集院先生の道場へ行きもす」
半次郎の答えはきまっていると思い、このごろでは、顔をしかめて見送るのみになっていた。
中村半次郎を通してはならぬ──という藩の命令が出ていればともかく、今のところ、そのような達しも出してはいない。
〔唐芋侍〕といやしめられてはいても、いざというときは出陣の名誉をあたえられている薩摩の郷士だ。
足軽よりも格が上だということになっている。
この番所が城下町の北端とすれば、西郷吉之助の家がある下加治屋《しもかじや》町は南端ということになる。
下加治屋町は、城下侍のうちでも下級のものの家がたち並んでいたところだ。
町の背後を、甲突《こうつき》川が、ゆるやかに流れている。
この川から向うが城下外れということで、上級藩士の屋敷が並ぶ上《かみ》加治屋町から、甲突川へかかるところに、大きな番所がある。
番所をすぎると、有名な西田橋だ。
この橋は、現在も残っている。
鹿児島は戦災で焼け果ててしまい、旧城下町のおもかげをほとんどとどめてはいない。
しかし、甲突川にかかる五つの石づくりの橋は、百二十余年の変転に耐えて、生き残った。
これらの石の橋は、島津斉興が天保十年に、肥後の石工・三五郎という者を招いてつくらせたものである。
中村半次郎が生まれた一年後のことだ。
薩摩は石材の豊富なところだから、建造物には、よく石をつかう。
その中でも、甲突川にかかる橋は、一種のエキゾシズムを感じさせるような美しさをたたえている。
ゆるやかに弧をえがく橋の肢体にも、たくみな石材の組み合わせにも、言うに言えぬ優美な匂いがただよっているのだ。
私どもが、現在、鹿児島を訪れて、甲突川の風光と橋の美しさに魅せられるのだから、五つの石橋が初めてかかったとき、西郷吉之助や中村半次郎は、どんな眼で、この異国情緒たっぷりな石橋を見つめたことであろう。
島津斉興という殿様は、西郷を可愛がった斉彬の父にあたる人だ。
この人は外国の文明・風俗を大いに好んだというから、橋のデザインにも、みずから、やかましく口を入れたに違いない。ちゃんと、日本風のらんかんもついている橋なのだが、どう見ても異国の匂いがする。ことに幕末のころの人の眼になってみると、型破りに異国風な新しさが城下の人々の眼をおどろかせたであろうと、察しられる。
西田橋の下を、錦江湾に流れこむ甲突川に沿って前方の海に浮かぶ桜島をのぞみながら、下って行くと、次の石橋が、やがて見えてくる。
この石橋が高麗《こうらい》橋だ。
橋のたもとを右へ入って行った左側のあたりに、西郷吉之助の家があった。
下士の家であるから小さいものだが、半次郎の家のようにひどいものではない。
門もある。石をつんだ塀もある。
中村半次郎は、いささかもためらうことなく〔サの字門〕とよばれている小さな門をくぐった。
突当たりに竹の垣根があり、そこを右へ折れると、玄関であった。
「ごめん下はれ」
半次郎は、玄関口から大声を張りあげた。
「どなたごわす?」
奥の部屋で、まぎれもない西郷吉之助の声が答えた。
「実方の中村半次郎ごわす。ちょいと参上させて頂きもした」
「おお……。そこの、木戸口から庭へまわんなはれ」
半次郎は、眼を白黒させた。
先代の殿様の〔ふところ刀〕として、江戸や京都を舞台に日本の政局のうごきにも大きな関係をもつほどの活躍をし、諸国の大名や、有名な学者たちに名を知られた〔薩摩藩の西郷〕の、これが本体なのか……。
(からいもの俺《おい》を、まるで友達あつかいにして下はる)
よほど、うれしかったのであろう。
半次郎の眼が、じわりとうるみかかってきた。
六
「こりゃ、ようおじゃしたな」
西郷吉之助が、縁側へ出て来た。
縁側に面した部屋が二つ、奥にもう二つほどの部屋もあろうかという、武家屋敷というには、あまりにもささやかな西郷家であった。
「小兵衛《こへえ》どん。兄は、客人の相手をしもす。おはん、一人で習いなはれ」
西郷は、うしろをふり向いて声をかける。
「はい」
見ると、部屋の机に向って十五、六歳かと思われる前髪の少年が、しきりに墨をすっていた。
習字をしているのだ。
「弟の小兵衛ごわす」
西郷が、巨大な両眼を細められるだけ細め、まるで生まれたての我子をながめるように、小兵衛を見ながら、
「こりゃ、おいどんの末弟ごわしてな。長男のおいとは、二十も年が違《ち》げもす」
可愛くて、たまらないという様子なのだ。
「中村、半次郎ごわす」
半次郎が挨拶《あいさつ》をすると、小兵衛もきちんとすわり直し、
「西郷小兵衛ごわす」
一礼すると、すぐに筆をとって習字をはじめた。
家の中には、ほかに人の気配もなかった。
「あいにく、家のものも、女中も、みんな外へ出ちょりもして……」
西郷は、縁にあぐらをかき、
「ま、ここへおかけ」
と言った。
「ようごわしょうか?」
「よいにも何《なん》にも──遠慮することはなか」
「では……ちょいと……ごめん下はれ」
半次郎は固くなって、縁側に腰をかけた。
眼前三尺のところに西郷吉之助がいるのだ。
(大きい!!)
あらためて、そう感じた。
今日は、定紋の入った黒木綿の着物に黒っぽい袴《はかま》をつけているのだが、半次郎は西郷の着ているものなど眼には入らなかった。
先日、はじめて会ったときもそうであった。
(西郷さアの躯《からだ》は、桜島のごつある)
大きくて威厳があり、しかもやわらかい肉体の線が、着物の中からむくむくと飛び出してきそうな西郷なのである。
「みやげ、ごわす」
半次郎は、ふところから新しい布に包んだ三本の大きな芋を取り出し、縁に置いた。
(これなら──)
と、半次郎が自信をもっている見事な唐芋であった。
「ほう……これは……」
西郷がこう言って手をのばしかけたときである。
「ハ、ハ、ハ、ハ……」
突然、小兵衛が笑い出した。
横目で、すべてを見ていたものらしい。
みやげだといって、芋三つを、少しも恥じることなく兄の前にひろげて見せた半次郎の姿が、少年の笑いをさそったのであろう。
むっとして、半次郎が小兵衛を睨《にら》んだ。
「何が、おかしい!!」
天井が張りさけるような声で叱りつけたのは、半次郎ではない。
西郷吉之助なのである。
「これ、小兵衛。おはん、いま、半次郎どんが出したみやげものを見て笑《わろ》うたな」
「はあ……」
小兵衛は、人が違ったように悄然《しようぜん》となった。
「この芋は、半次郎どんが厚志のあらわれじゃ。およそ、人の贈物にうすい厚いがごわしょうか。よう考えてみなはれ」
いつの間にか、西郷は正座している。
かっと見ひらいた双眸《そうぼう》が、小兵衛を射ていた。
「おはんも知っちょることと思うが、吉野の郷士の苦しい暮しの中から、わざわざ、兄のために贈って下はれた芋ごわす。兄はいま、どうして、この半次郎どんの厚志にむくいたらよかろうと考えていたところじゃ。それを何じゃ、おはんは、この大切な……」
西郷の声が、うるんできた。
半次郎が、むしろ狼狽《ろうばい》した。
「もう、おやめ下はれ。どうかもう……」
言いかける半次郎を眼でおさえ、西郷は、
「あやまんなはれ」
声は静かになっていたが、それだけに侵しがたいものがある。
「はいッ」
小兵衛が、ぴょこんと机の前から飛び上がるようにして、うしろへ退《さ》がると半次郎へ両手をついた。
「おゆるし下はれ」
「いや、その……これは……」
さすがの中村半次郎も、後になって、
「俺な、これほど困ったことはない」
従弟《いとこ》の別府晋介に述懐している。
現代なら当然のことであるが(いや、笑うものもいるかも知れぬ)前にものべておいたように、唐芋侍の差別のはげしい薩摩藩にあって、しかも藩の名士である西郷の実弟が、両手をついて〔からいも半次郎〕にわびるということなどは、
「俺な、思うても見んことじゃったものなあ」
この話を半次郎に聞いてから、従弟の晋介の西郷熱は一度に沸騰したという。
七
半次郎は、夕暮れになって吉野の我家へ帰り、今日の西郷家での出来事を、母にも妹にも語ってきかせた。
「そうござしたか……」
母の菅子は、感動した面持ちで、粛然と言ったものである。
「薩摩の国も、大へんに変ってきたものじゃ」
上の者と下の者──上には厚く、下にはうすいという封建の世のゆるぎない掟《おきて》が、西郷吉之助のような人材によって打破されつつあることを、直感的に、菅子は知ったのだといえよう。
「そいで、お前《まん》さアのたのみを、西郷さアは何とおきき下はれたのじゃ?」
「よう、考えてみると申されたが……」
「よう、考えてみるとかえ?」
「いずれは、おはんのような人にも出てもらわねばならんときが、きっとくると申されたが……」
「そげなことを……?」
「うむ。早いか遅いかの違いじゃそうな」
「罪人の家の子でも、殿さまのお役にたつと申されてかえ?」
「うむ。おはんが罪人の子なら、おいどんも罪人ごわした。罪は罪でも、こりゃみな、古い世の中の間違いがそうさせたものじゃから、少しも気にかけることはないと、このように西郷さアは申されました」
近いうちに、藩公の父・島津久光は、名実ともに薩摩藩の支配者として、京都へのぼるらしい。
このことについては、先日、佐土原英助が、
「これはもう公になっちょることじゃから、話もすが……」
と、半次郎に語ってきかせたものである。
江戸や京都は、いま大変な騒ぎになっているらしい。
徳川幕府は、アメリカはじめ、イギリス・フランス・ロシアなどとも条約をむすび、日本の港をひらいて外国との通商をおこなうことにした。
外国の勢力に立ち向うだけの力は、今の幕府にも、日本にも無い。
西洋諸国のアジア進出によって、日本という小さな島国がしめる位置の重要さは、いやでも彼等の眼を心を、ひきつけずにはおかなかったようである。
このことは、世界地図をひろげて見れば実によくわかることだ。
気候もおだやかで風光も美しいというばかりではない。
太平洋と日本海にかこまれた日本の国土が、その歴史の上において、一度も外敵の侵入するところとならなかったことを考えてみるがよい。
現代は違う。現代においては、いくら広い海があり嶮《けわ》しい山岳にかこまれていようとも、決定的な戦争が始まればどうなるか、それは誰でも知っている。
それでいて尚《なお》、現代の日本にも、日本海側のごくせまい幾つかの海峡をへだてているだけで、国民は国境の緊張感をおぼえずにすんでいるのだ。
それが、よいことか悪いことかはさておき、動乱相次ぐ東南アジア諸国のすさまじい様相にひきくらべ、日本の平和は、あまりにも平和すぎるほどだといえよう。
現代では、それを無心によろこんでいられるというわけのものではない。
けれども、これをもってしても、日本の地形がアジアにおける特異な条件をそなえていることが、わかると思う。
当時の西洋諸国が、それぞれの意味において、理由において、日本に目をつけたのも無理はない。
「さて……」
徳川幕府が諸外国と握手をしたことによって、勤王《きんのう》運動に火がついた。
「天皇の国である日本に異国の侵入をゆるすな。幕府を倒して、日本の政権を天皇にお返し申しあげよう!!」
この叫びである。
すでに、徳川幕府の政治力はおとろえていた。
国民にも信頼されていなかったことはもちろんである。
薩摩の国の唐芋侍と城下侍の差別を見てもわかるように、それが武士と農民、または町民ということになると、もっとひどいことになるのだ。
それでいて、経済の力は商人たちの手にわたってしまっている。
金も力もなくなって、何とか昔の威望をとり戻そうと必死になっているのが、当時の徳川幕府であった。
島津久光が、薩摩の兵をひきいて京都へのぼるというのも、薩摩藩が、島津という大名の力が、幕府にも朝廷にも大きく物をいうからだ。
つまり、勤王派にも佐幕(幕府を助けること)派にも、たよりにされているからだ。
「俺《おい》な、ぜひ、今度の殿様の御供をして京へのぼり、働いてみたい」
西郷吉之助が親しく接してくれたのへ甘えかかるような気持で、半次郎は、
「西郷さアに、たのんで見よう!!」
と、思いついたのである。
これを聞き、母や妹も一笑にふしてしまった。
「のさらん[#「のさらん」に傍点]果報は願うもんじゃなか」
母の菅子は、半次郎をたしなめた。
のさらん果報は願うな──というのは、薩摩の人々が、ことに農民たちが何かにつけて口に出す言葉である。
つまり、実現しない幸せなぞを願って見ても無駄だ──というのである。
この言葉に、いくら働いても働いても、家の暮しが毛すじほどの向上を見せぬまま、永い永い歳月を経てきた薩摩の国の民衆の〔あきらめの歴史〕を、くみとることができる。
「今に、俺は、きっと殿様に取立てられ、出世して、父の汚名をそそいでくれる」
意気込む半次郎へ、誰も彼もが「のさらん果報は願うな」と言った。
だが、西郷吉之助は、
「おはんが世に出ずるときは、もはや早いか遅いかの違いだけでごわす」
たのもしく、断言をしてくれたではないか。
母も、妹の貞子も、西郷がそう言ったと聞くと、にわかに態度が変った。
「あのお方の申されたことじゃ。嘘いつわりじゃあるめ。西郷さアは、城下侍でもいちばん身分のひくい小姓組の家からあれだけ出世なされたお方じゃ。そのお方がそげに言わるるなら……」
母が半次郎を見つめた双眸《そうぼう》には、希望の輝きがあった。
半次郎は、もう夜更けが待ち遠しくてならない。
一時も早く、幸江にこのことを話したかったのだ。
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男と女
一
闇の中に、戸外の木や草の萌《も》える匂いがただよってきている。
中村半次郎は、しずかに幸江の躯《からだ》からはなれて、
「朝まで居とうても、それもならんで……」
幸江は答えなかった。
横たわったまま、幸江は眼をとじている。
闇に馴れた半次郎の眼は、幸江の豊熟した乳房がゆるやかに息づいているのをとらえることが出来た。
(朝まで幸江さアのそばにいたいもんじゃ)
宮原家の、幸江の寝室へ忍びこんで来るたびに、そう思わずにはいられない。
だが、薩摩男の夜這《よば》いは女の部屋で朝を迎えてはならぬという掟《おきて》がある。
「そろそろ、帰らんと……」
かたく引きしまった半次郎の筋肉は、なめし皮のようになめらかで強靭《きようじん》な皮膚におおわれていた。
汗ばんでいる上半身を手拭《てぬぐい》でこすってから、半次郎は着物をまとった。
家の中は、静まり返っていた。
宮原弥介は、今夜が当直なので〔御内用屋敷〕へ泊っていて、留守なのである。
もっとも、弥介の妻の伊佐子は、いま半次郎たちがいる部屋の小さな廊下をへだてた一室に眠っているはずだ。
いや、眠っていないかも知れない。
伊佐子は幸江の兄嫁に当たるわけだが、年齢も幸江と同じ二十六歳である。
いたって無口な女であり、薩摩女そのもののような働きものだ。
それでいて心があたたかく、義妹の幸江のめんどうを実によく見てやっている。
「よいか。俺の留守中、半次郎が来ても入れてはなりもはんど。もしも、あやつが押し入って来たようなときにゃ、かまわぬから大声あげて村のもんな呼びやい。よいか、よいな」
何時《いつ》も、くどくどと念を押す夫の弥介には、
「はい。心得ちょりもす」
さからわずに返答をしておいて、いざ半次郎が忍んで来ると、知っているのか知らぬのか、自分の部屋へひきこもったまま、音もたてない。
「伊佐子さアは、兄との間に子ができんので、私のことをよう可愛がってくれちょりもす」
幸江も兄嫁にはよくつくしている。
弥介夫婦には、子が生まれなかった。
「六年も連れそっとるちゅに、子な生まれん。私も石女《うまずめ》だというので離縁された女ござすが……兄も私も、子をもうける力な、まこと無いのじゃあるまいか、半次郎さア……」
今でこそ口にしなくなったが、半次郎と愛し合うようになった当初、幸江は、よくこんなことを、やや哀しげにもらしたものである。
「幸江さア……おい、幸江さアちゅうに……」
「…………」
「眠っとんのか、おい──」
半次郎が顔をよせてゆくと、
「おきちょりもす」
幸江は眼をひらき、両手をのばして男の首のあたりを撫《な》でた。
「半次郎さア……」
「うん」
「それじゃ、お前《まん》さアも、近いうちに、この吉野の村を出てお行きなさるのか」
「そりゃ、そうなる。西郷さアが申されるには、薩摩の二才《にせ》どもな、みんな殿様に従って、江戸や京へのぼり、力一杯、働かにゃならんときがやってくると申されたものな」
「そりゃ、いつのことでござす」
「いつになるか、そりゃ俺にもわからんが……」
「そうござすか……」
幸江は、しばらく黙っていたが、やがて、
「それじゃ、日本中が戦さ騒ぎになるちゅのでござすな?」
「そりゃ、なると俺は思《おめ》もす」
勤王佐幕の争いはともかくとして、西洋諸国の侵略ということが先ず第一に、半次郎には考えられるのである。
幕府が諸外国と通商条約をむすんでから、外国人の殺傷事件が相次いでおこった。
まず、安政六年七月の事件である。
これは、ロシアのシベリア総督・ムラビエフが、軍艦十隻をひきいて江戸湾へ入港したときのことだ。
突然の入港なので、幕府はこれを追いはらおうとしたが、ロシア艦隊の威容を見ては、手も足も出ない。
ロシアは、樺太《からふと》における境界問題について談判するため乗りこんで来たのであった。
神奈川奉行所から江戸城へ何度も急使が馬を飛ばして往来したが、なかなか埒《らち》があかない。
夜になって、ロシアの一士官が水夫二名をつれて横浜へ見物に上陸をした。これを知った水戸浪士四名が港の岸壁で、ロシア士官と水夫一名を斬殺したのである。
ロシア艦隊は激怒し、いまにも軍艦からの砲撃をもって江戸を攻めると言い出したが、このときは英国公使・オルコックが仲裁に入ってくれ、何とかおさまった。
犯人は、捕えることができなかった。
つづいて、同じ年の秋に、横浜に住むフランスの副領事の従僕が、どこかの浪士に殺された。
これも、犯人が逃げてしまったようである。
外国と通商条約をむすんだということが、当時の人心に衝撃をあたえたことは非常なものであった。
外国といっても、友好的なアメリカと英仏両国とでは日本へ対する考え方も違っており、ロシアなどは、露骨に侵略的な態度を見せる。
ともかく「我々と交際しなければ、武力をもってのぞむであろう」と、諸外国に威圧されれば、幕府としてはいうことをきかぬわけにはいかない。
西洋の先進諸国と鎖国の夢からさめたばかりの日本とでは、武力も経済力もくらべものになるわけのものではないのだ。
幕府では、ときの大老・井伊直弼《いいなおすけ》が、この渦を巻くような混乱の政局を切りまわし、ついに外国との通商条約にふみきった。
「朝廷の御裁断をも待たずに専横のふるまいなり、井伊大老を斬れ!」
勤王の志士たちの騒然たる叫びは、京都を中心にすさまじい勢いでひろがりはじめる。
これに対し、井伊大老は京における勤王派へ大弾圧を加えた。
捕えたもの百余名におよぶ大疑獄事件である。いわゆる〔安政の大獄〕だ。
吉田|松陰《しよういん》、橋本|左内《さない》など著名な勤王家も、このとき死罪になった。
幕府としては、せめて国内における威信だけでも取戻さなくてはならぬ危機に追いこまれていたし、やむをえない処置であったのだろうが、
「井伊の首を斬れ!!」
反動は、反《かえ》ってするどいものとなったようだ。
このさなかに、先代の藩主・島津斉彬が急死をしている。
二
島津斉彬は、老中・阿部正弘《あべまさひろ》(福山藩主)や徳川|斉昭《なりあき》(水戸藩主)山内容堂《やまうちようどう》(土佐藩主)などと共に、この難局をきりぬけるため活躍をした。
斉彬の主張は〔公武合体《こうぶがつたい》〕にあった。
つまり、朝廷と幕府が協力して国難を処理しようというのである。
ときの徳川将軍は十三代・家定《いえさだ》である。
この将軍は三十を越えて、女とのまじわりもできぬという精神薄弱ぶりなのだから、幕府の政治が、力のある大名たちによっておこなわれるのは当然だ。
ここに、すさまじい勢力争いが展開される。
病弱な家定が将軍ではどうにもならない。
次の将軍には誰がよいかというので、島津斉彬派は、水戸藩主・徳川斉昭の子・慶喜《よしのぶ》をおしたてようとした。
水戸藩は、将軍家の親族のうちで、最も重きをなす〔御三家〕の一つである。
ところが……。
井伊直弼を中心とする譜代大名派は、これも〔御三家〕のうちの紀州藩から徳川|慶福《よしとみ》を将軍に迎えようとした。
政争、激烈となる。
西郷吉之助が、殿様の斉彬にしたがって江戸へおもむき、水戸藩をはじめ、諸方の大名や勤王家との連絡や、京都朝廷の密使などにも出て、大いにはたらいたのは、このときである。
そして、ついに井伊大老派が勝利をおさめた。
十四代将軍は、紀州から江戸城へ、徳川慶福を迎えることにきまった。すなわち後の家茂《いえもち》将軍だ。
この政争が波瀾《はらん》をよび、井伊が大老となって幕政をきりまわすようになる──かと思うと、島津斉彬が急死をするという目まぐるしい時代の様相はわずか二年たらずのうちに起ったことだ。
これにまた外国問題がからむ。
現在、私どもが考えて見ても、まことに大変なことだったろうと思われる。
西郷吉之助は、敬愛する殿様の斉彬が鹿児島で死んだことを京都で聞いた。
「吉之助、京の地に、薩摩の兵を容《い》るる場所を見つけておけ。二、三千人ほど容るる場所をな……」
これが、江戸を去るにあたり、西郷にあたえた島津斉彬の最後の言葉であった。
西郷吉之助は、絶望のどん底に落ちた。
「おいどんな。斉彬公の前に出て、話のお相手いたすうちに、知らず知らず、あたりもはばからぬ大声になりもしてな。はっと気がついたときにゃ、斉彬公とおいどんの膝《ひざ》な、すれすれになっちょる、こういうことが何度もごわした」
と、後年になって西郷は語っている。
意気投合した君臣のありさまが、よくわかる。
斉彬は斉彬で、
「それがしに家来は多くござれども、大いに用ゆべきものはまことに少のうござる。ただ、西郷吉之助のみは、貴重なる薩摩の宝と申してもよろしいと存ずる」
福井藩主・松平|慶永《よしなが》(春嶽《しゆんがく》)に語ったという。
このとき、慶永が何度もうなずいて見せると、斉彬は、わずかに苦笑をうかべて、
「なれども、西郷めは、独立独行の気に富む男ゆえ、彼を用うるものは、この斉彬ならではかないますまい」
と言った。
自分以外には、西郷吉之助を使いこなせまいというのである。
斉彬と西郷の間柄は、およそ、こうしたものであった。
斉彬の言う通り、当時の西郷は、独断で諸方の勤王家とまじわり、井伊大老からも睨《にら》まれていたほど革命家として、名をあげていたのだ。
斉彬が死んだころ、西郷吉之助は幕府のきびしい捜索の目を逃れつつ、身を隠していたのである。
(もう、いかぬ)
激しい感情のもちぬしであるだけに、愛する殿様をうしなった西郷は、勤王派の僧・月照《げつしよう》と共にひそかに鹿児島へ帰って来た。
けれども斉彬の死後の薩摩藩は、島津久光の支配するところとなっている。
久光は、兄の斉彬をとりまいていた重臣たちを遠ざけ、反斉彬派の重臣を用いるようになってきていた。
つまり、西郷の後楯《うしろだて》というものが、みんな消えてしまったのだ。
加えて、久光は、西郷に対し冷淡である。
幕府の捜索は尚《なお》もきびしい。
西郷は〔おたずね者〕なのだ。
薩摩へ帰って来ても、身をいれるところがない。
安政五年十一月十五日。
西郷吉之助は、月照と共に錦江湾《きんこうわん》へ舟をこぎ出し、投身自殺をはかった。
月照は死んだが、西郷は皮肉にも助けあげられ、蘇生《そせい》してしまったのである。
こうなっては幕府への手前もあることだし、薩摩藩でも放っておけない。
それで、西郷を奄美《あまみ》大島へ流罪にした。
約三年の間、西郷は大島で刑に服し、そしてまた鹿児島へ呼び返されるというわけである。
「西郷さアな、罪ゆるされて、殿様に呼び戻されたちゅうことだけでも、いよいよ容易ならんことになってきたちゅうことが、わかるじゃごわはんか」
中村半次郎は、またも床に寝そべり、幸江の肩を抱いてささやきはじめた。
「おはんと別れるなつらいが、俺《おい》も薩摩武士の端くれとして、力を見せるはこのときじゃと思《おめ》もす」
「わかっちょりもす」
「待っててくやい。な、幸江さア……俺な、きっと身をたて、立派な侍になって帰っち来もすで──」
西郷にしたがって活躍できると、もう信じきっている半次郎なのだ。
「けれど、半次郎さア……」
幸江の声が笑いをふくんで、
「何《なん》も彼も、そげに、うまく行きもそうか?」
「いや、西郷さアな、俺に、ちゃんと言うて下はれた」
「まことござすか?」
「まことごわすよ」
「…………」
「早いか、遅いかの違いだけじゃと言うて下はれた」
「早いか……遅いか……」
幸江は、ほとんど聞きとれぬほどの声で言うと、くるりと半次郎に背を向けてしまった。
「どげんした? 幸江さア……」
幸江は、黙っている。
「どげんしたちゅに……」
幸江は身じろぎもしない。
「怒っとるのでごわすか?」
返事はなかった。
障子が、ほの白く浮きあがってきた。
いつの間にか、もう夜が明けようとしている。
「幸江さア……これ……」
半次郎は、やさしげな声でささやきつつ、背後から幸江の躯《からだ》を抱きすくめた。
「な……帰って来もすで。きっと俺は帰っち来る。幸江さアのところへ帰っち来て、必ず夫婦になると言うちょるじゃごわはんか……な、な……」
くるりと、幸江が半次郎の腕の中でふり向いた。
「半次郎さア……」
「うん……」
「何も、あたしゃ、お前《まん》さアと夫婦になりたいと言うてるのじゃありもはん」
「俺と夫婦になるのが厭《いや》じゃと……」
「厭も何も……そげなことを言うてるのじゃありもはん」
「じゃ、何のことごわす?」
また、幸江は黙った。
「これ、何のことじゃ。言うて見やい」
「…………」
「何じゃちゅうに──」
「叱《し》っ、声が高うござす」
「わかっちょる」
いらだたしげに、半次郎は、幸江の襟もとへ顔をうめながら、
「俺も、幸江さアと別るるのは、辛いと言うちょるじゃごわはんか」
「そげなこと、わかっちょりもす」
「それなら、なぜ……」
「わたしゃ、別のことな考えちょりもした」
「じゃから、何のことだちゅに──」
「もう、ようござす」
幸江の声が、急に明るいものに変った。
母のように、幸江は半次郎の躯を愛撫《あいぶ》しつつ、
「お前さアな、男らしゅう働いて下はれ。わたしのことなぞ、気にかけんでもようござす」
「気にかけちょる、気にかけちょる」
「もう、ようござす。わたしゃ、覚悟な決まりもした」
「そうか。わかってくれもしたか。そいで俺も安心ごわす。ああ、よかった、よかった」
半次郎は、単に、幸江が自分と別れることを悲しんでいると思っていたのだ。
このときの幸江の心の動きが、半次郎にわかったのは何年も後のことである。
半次郎が、そっと宮原家をぬけ出したときには、あたりはもう白みかかっていた。
(こりゃいかん。畑へ行くのが遅れてしもうた)
太鼓橋をわたり、半次郎は矢のように駈《か》け出した。
佐土原英助が馬を飛ばして、鹿児島城下から半次郎の家へやって来たのは、それから五日後のことであった。
母の菅子は別府の家に行っており、妹の貞子が家にいた。
「兄な、一昨日《おととい》の夕方から留守ごわす」
「何処《どけ》へ行きもしたか?」
「それが……」
貞子は困惑して、
「それが、わからずに困っておりもす」
「わからぬ?」
「はい──家を出て行くとき、長《な》げ刀さして出て行きもした。それで、母もわたしも、また、兄な、御城下へ行ったと思《おめ》もした。ところが、昨日も、今朝になっても、兄な、戻って来もはんのでござす」
陽は、すでにかたむきかけていた。
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光 芒
一
「困った。何処へ行きよったのか、半次郎どんは……」
佐土原英助は、舌うちをくり返し、
「どうしても、わかりもはんか……」
「はい……」
貞子が、不安そうに、
「兄な、どげんしたとで……?」
「いや、実は、西郷先生からお呼び出しがありもしてな。中村半次郎をすぐ呼べちゅことで、おいどんも、くわしいことな聞きもはんが、ともあれ、すぐに連れて来いと、先生は申されたので……」
「兄な、また何か御城下で悪さでもしたのとちげもすか?」
「さあ……」
英助にも、よくわからない。
西郷家の下僕が、同じ下加治屋町の佐土原家を訪れ、西郷の簡単な伝言を英助につたえただけのことである。
しかも英助は、すでに半次郎が西郷の面識を得ていることを知らない。
あの決闘騒ぎ以来、中村家を訪れるのは今日がはじめての英助であった。
貞子にしても、一昨日の夕方、家を出て行ったときの半次郎の様子を思い出せば出すほど、不安になってくるのだ。
その日──川辺りの紙漉《かみす》き場から貞子が帰って来ると、山道をおりて来た半次郎を見たので、
「兄さア、まあ、刀さして何処へおじゃす?」
刀を腰にして行くからには、もう兄のすることはきまっていると貞子は思った。
「何処へおじゃすちゅたら……」
「うん……ちょいと、そこまで……」
「何しにおじゃす?」
「ふむ……」
上眼づかいに、ちらりと妹を見た半次郎が、何か不気味に唇をゆがめて笑い、
「何でもよか」
さっと走り出しながら、
「母さアには内密《ないしよ》にしちょれ」
と叫んだのが、なおさらに貞子をあわてさせた。
「ま、待って──兄さア、待ってちゅたら……」
これからは、喧嘩《けんか》の売り買いなど決してせぬと、母にも貞子にも誓った半次郎なのである。
そのことを貞子が口にする間もなかった。
菅笠《すげがさ》をかぶり、筵《むしろ》を抱えた半次郎は、あっという間に山道の夕闇にとけこんでしまったのだ。
(西郷さアなら、兄を好いておじゃす筈《はず》……)
西郷からの呼び出しだけに、半次郎が行方不明でなければ何かよい話でもあろうと、貞子にも感じられたのであろうが、どうも、一昨日、刀を腰に家を出た兄の態度には、なっとくしかねるものがある。
昨日も、貞子は宮原家の畑へ行き、兄嫁と共に働いている幸江にわけを話し、
「兄な、何処にいなはるか知っちょりもはんか?」
と訊《き》くと、幸江は、
「心配いりもはん。半次郎さアのこつござすもの」
まるで、相手にしないのだ。
「そうか……」
佐土原英助は、縁側にかけて、
「俺《おい》は、何ぞ、よか話かと思うて駈けつけて来たんじゃが、二日も行方《ゆくえ》知れずちゅのは、こりゃ、変ごわすな」
「はい……」
「また、喧嘩しに出かけたのかも知れもはん。……それにしても、西郷先生が、何の用で、半次郎どんを……」
此処《ここ》からもわずかにのぞまれる太鼓橋の向うの山蔭《やまかげ》へ、陽はかくれようとしていた。
どこかで、牛がないている。
たまりかねたものか、いきなり貞子が土間から駈け出し、下の山道へ飛び出して行ったが、すぐに、
「兄な、帰っち来もした!!」
呼ぶ声がした。
「帰ったか」
門のつもりで、半次郎が組み合わせたのであろう丸太づくりの囲《かこい》のところへ、英助が駈けて行くと、
「あすこでござす」
貞子が、道の下にひろがる谷間の一角を指さした。
「なるほど──」
谷間の畑を縫う小道を、菅笠をかぶった半次郎が、すたすたと、こちらへやって来る。
「兄さア、何しちょる!! 早《はよ》う、早う」
貞子が、手をふって叫んだ。
二
「おはんな、何処《どけ》へ行っとった?」
佐土原英助は、土間へ入って水をのんでいる中村半次郎に言った。
「二日間も、行方知れずだと、妹御が言うちょる」
貞子が、兄を叱りつけた。
「兄さア、いいかげんにしてたもし。母さアも心配して、いま、別府の家へ相談に行っちょりもす」
「何も騒ぐことはなか」
「何処へ、何しに?」
「うん。滝の上の川まで行ったんじゃ」
「じゃから何しに──」
「あの辺に、河童《かつぱ》が出るちゅので……」
「何、カッパ……」
と言ったきり、英助が、ぽかんと口をあけて貞子を見やった。
貞子も、あきれたらしい。
「冗談言うてるときじゃありもはん」
「冗談じゃなか。あの辺は河童が出て、通る者の尻《しり》ご玉《だま》ぬきよるちゅて、村のもんが怖がっちょる。そいで……」
英助がひきとって、
「そいで河童退治な?」
と、苦笑まじりにあびせかけると、
「いかにも──」
半次郎は平然たるものだ。
今度は貞子が、
「そいで、飲まず食わずに二日間も川べりに……?」
「うん。なれども、河童めあらわれぬ」
英助が、腹を抱えて笑い出した。
「何が可笑《おか》しいのでごわす? 英助どん……」
「おはんな、ま、何ちゅ人じゃ」
と英助は、先日、決闘の最中に、半次郎から放屁《ほうひ》をあびたときと同じことを言った。
「半次郎どんな、今どき、珍重すべき人物ごわすよ」
「そうごわすか」
半次郎は、嬉《うれ》しげに笑って、
「おいな、珍重すべき人物ごわすか。ははあ、なるほど──」
ほめられたと思っているのだ。
まず、このころ中村半次郎と言えば、こうした男であったのだ。
だからと言って、彼は智能の低い男ではなかった。
つまり、智能にみがきをかける機会をまだ得ることが出来ずにいた若者であったといえばよかろう。
西郷からの呼び出しだと聞いて、半次郎は躍り上がった。
「貞子、母さアと一緒に待っちょれ!! 吉報な持って帰っち来る!!」
馬上の佐土原英助に、半次郎は草鞋《わらじ》がけでつきそい、馬の方が閉口するほどの駈足《かけあし》で、鹿児島城下へ向った。
西郷家へ到着するころには、空が燃えるような鮮烈な夕映えとなった。
西郷吉之助は、半次郎を待ちかねていたようである。
すぐに、庭へまわされた。
「佐土原どんに、伝言するのを忘れてしもうたが……」
といいかけ、すぐに西郷は半次郎の腰に視線を走らせ、
「お、刀をさしてきもしたか」
にやりとした。
「はあ……?」
わからない。
半次郎が英助を見やると、英助も不審そうに、かすかに首をふった。
西郷は、障子がしまった部屋の内へ、
「市蔵どん、待たせもしたな」
と、声をかけた。
障子があき、総髪の侍が、縁側に出て来た。
侍は紋つきの羽織・袴《はかま》をきちんと身につけ、端然たる態度で、一語も発せず、しずかに其処《そこ》へすわった。
佐土原英助が丁重な一礼を送った。
その壮年の侍は、となりに立っている西郷吉之助とまことによい対照をなしている。
分量からいうと、西郷の大きな躯《からだ》の半分もないと思えるほどの、やせた小さな体躯《たいく》に見える。
(この人な、妙に威張っちょる)
そう感じた半次郎の視線は、その侍の細い眉《まゆ》の下にくぼんだ栗鼠《りす》のような双眸《め》にじわり[#「じわり」に傍点]とうけとめられた。
その侍の小さな眸から発するするどい光を半次郎ははね返すことができなかった。
半次郎は眼をふせて、
(厭《いや》な人じゃ、気味わるい人じゃ……)
と思った。
この第一印象は、半次郎の生涯を通じて多少の変化はあったにせよ、ついに変ることがなかったといえよう。
「半次郎どん。このお人な、大久保|市蔵《いちぞう》さアでごわす」
西郷に言われて、半次郎も思わず、
「あ……」
あわてて、一礼をした。
名をきけば薩摩のものなら西郷同様に知らぬものはない。
大久保市蔵は天保元年の生まれだから、西郷吉之助より三歳の年下で、この文久二年で三十三歳ということになる。
家も、西郷家のすぐ近くにあって、少年のころから西郷吉之助に兄事し、西郷をしたい、ともに仲よく一つの道を歩みぬいて来た大久保市蔵なのだ。
大久保も、西郷と同じように先代藩主・島津斉彬に見出され、活躍の場をあたえられた英才である。
だから、斉彬の死後、彼もまた西郷同様に、斉彬という大きな支柱を失った筈であった。
斉彬の弟・久光が藩主同様の権力をもつに至った現在では、大久保もまた西郷と同じに、久光から遠ざけられてよいわけだ。
ところが、大久保市蔵は、島津久光の信任もかなりあついのである。
それについて、故斉彬を慕い、久光から遠ざけられたものや、西郷派の若侍たちが、こんなことを言っているのだ。
「大久保どんな、腹の黒い人じゃ」
「斉彬公な亡くなられたとなると、すぐに、今まで大きらいじゃった碁石をつまみ、囲碁の稽古《けいこ》をはじめたものじゃ」
「それも、わざわざ城下から二里も離れた重富《しげとみ》に師匠を見つけ、そっと忍んで稽古に行ったちゅことよ」
「久光公の囲碁好きを、ちゃんと心得た上での所業ごわすな」
「決まっちょる!!」
「卑劣きわまる奴じゃ!!」
つまり、こういうことなのだ。
島津久光は、兄の斉彬とは腹違いの次男である。
生母は、お由羅《ゆら》の方といって、もとは江戸・芝高輪《しばたかなわ》の船宿の娘にすぎない。
お由羅の方は、自分が産んだ久光を殿様の斉興が非常に可愛がることに目をつけ、次第に、
(斉彬どのをしりぞけ、我子の久光に島津七十七万石を……)
と、野望を抱くにいたった。
お由羅は、殿様を取巻く重臣たちを抱きこみ、斉彬を擁立する〔お為派〕と対立した。
この結果、藩士十余人が切腹するという〔御家騒動〕が起り、血なまぐさい暗闘もくり返されたあげく、ついに斉彬をいただく忠義派の勝利となったのである。
こういうわけで、斉彬が藩主の座についたのは四十三歳のときである。
斉彬が、薩摩の名君として天下の政局に活動すること、わずかに八年であった。
それはさておいて──お由羅派の敗北により、久光は、重富の島津の分家へ養子にやられてしまった。
このとき、久光は、菩提寺《ぼだいじ》の和尚に囲碁の手ほどきをうけたのである。
斉彬没後、ようやくにして我子・忠義を藩主にすえ、その後見として、久光が実権をつかむに至ったとき、この和尚もしばしば鹿児島の城にまねかれ、久光の囲碁の相手をしたという。
これを知っていた大久保市蔵は、ただちに、その和尚へ取り入って囲碁をまなび、和尚の口ぞえによって、久光に用いられるようになった。
「先君の御恩も忘れ、おのれの出世のためには、あのような、あさましい手段をもえらばぬ大久保を斬れ!!」
と、叫ぶものもいた。
だが、大久保市蔵の心の奥底にひそむものは、誰よりも西郷吉之助が、よくわきまえていたのだ。西郷は、大久保を少しも憎まなかった。
罪をゆるされ、大島から戻されたのも、大久保市蔵が懸命に久光の心をときほぐしたからである。
「いま、このとき、西郷吉之助も用いぬということはござりませぬ。何とぞ、西郷をお呼び戻し下されたし」
久光も、西郷を好きではない。
けれども久光という殿様も暗君ではない。おのれの自我をころしても益するところあれば、これを採るというだけの度量もある。
また一つには、それだけ大久保への信頼がふかくなっていたということにもなろう。
三
赤い夕焼けの光を半身にあび、中村半次郎は、この大久保市蔵の前で得意の居合いをつかうことになった。
「何でもよい。市蔵どんに、おはんの剣法を見せなされ」
西郷吉之助に命じられて、
「はアい……」
半次郎は甘えた声で答えると、
「では……」
ぱっと片肌をぬいだ。
大久保市蔵の顔は、夕陽の光を背に負っているので、よくは見えない。
夕闇も濃くなってきている。
「よろしゅごわすか?」
半次郎が、大久保と西郷を見やりながら、低い声で言う。
「うむ」
と、大久保が答える。
半次郎が、腰に下げた竹の水筒を左手で外《はず》し、佐土原英助にわたした。
「おいどんが合図しもしたら、それを、ぽーんと宙へ投げて下はれ」
「この水筒をか?」
英助は、きょとんとしている。
「はアい」
「うむ……よし」
「あまり高く投げんでもよか」
「よし」
西郷は、にこにこして、半次郎をながめている。
「西郷さア。では、やりもす」
半次郎は、左手を鍔際《つばぎわ》へかけ、右足をややななめに引いた。
そして、ゆるやかに右手を刀の柄《つか》へ向ってまわしつつ、
「よか!!」
唸《うな》るように叫んだ。
佐土原英助の手から、竹の水筒が宙に躍った。
「むむ!!」
例の、腹の皮が破けて出たような、低い重圧感のある半次郎の気合いであった。
夕闇の中に、半次郎の腰から光芒《こうぼう》が走った。
光芒は、半次郎の腰の鞘《さや》に消え、また走った。
電光のような、きらめきである。
からん……と、音をたてて、半次郎の刃で真二つに割れた竹の水筒が庭の土に落ちた。
同時に、最後の光芒が鞘に消えた。
はあーっ……と、声にならぬ感嘆のどよめきが、三人の口からもれたようだ。
「こりゃ、たまげもした」
まっ先に言ったのは、佐土原英助である。
「おいどん、おはんに危く首を取られるところごわしたなあ」
先日の、未然に終った決闘のことを、英助は思いうかべたものとみえる。
西郷吉之助が、大久保市蔵に言った。
「三度ごわしたな」
「はあ……」
大久保は、半次郎に見入ったまま身じろぎもしない。
「いや──」
半次郎は進み出て、
「四たびでごわす」
「何!!」
英助が、あきれたように、
「おいは、三度しか見えもはんじゃったが……」
「何となれば、も一度、やって見せもそか」
竹の水筒が下へ落ちるまでに、半次郎の刃は四度び鞘を走り来て、四度び鞘におさまったというのである。
「いや……」
大久保市蔵が、ひざの上の右手を少し上げて、
「それには及ばぬ」
と、言った。
それから大久保は、立ちはだかったままの西郷を見上げて、
「これなら、ようごわしょう」
大きく、うなずいたものである。
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太平記
一
「正成《まさしげ》、座上に居つつ、舎弟の正季《まさすえ》に向って、そもそも最後の一念によって、善悪の生《しよう》を引くといえり。九界《きゆうかい》の間に何か御辺の願いなると、問いければ、正季、からからとうち笑いて……」
すぐ近くの渓流の音が消えてしまうほどの大声であった。
いま、中村半次郎が声高らかに暗誦《あんしよう》しているのは〔太平記〕の一節である。
南朝の忠臣・楠《くすのき》正成が湊川《みなとがわ》において賊軍と戦い、ついに敗れ、弟の正季と共に自決をするという一節だ。
どこかで、鶯《うぐいす》が鳴いていた。
太鼓橋の下の道を、川に沿って少しのぼったところにある竹藪《たけやぶ》の中であった。
このあたりは深い竹藪が多く、半次郎と幸江の媾曳《あいびき》の場所には事をかかない。
仰向けに、やわらかい土の上に寝て、〔太平記〕を怒鳴りつづける半次郎のそばに、幸江はすわっていた。
今日も、珊瑚《さんご》の簪《かんざし》を髪にさしている。
「ええと──正季、からからと打ち笑いて……ようごわすか、幸江さア、これからがよかところじゃ──からからと打ち笑いて、七生まで只《ただ》同じ人間にうまれて朝敵をほろぼさばやとこそ存じ候え──と申しければ、正成よに嬉しげなる気色《けしき》にて──罪業ふかき悪念なれども、我もかように思うなり、いざさらば、同じく生を替えて、この本懐を達せん──と契って兄弟共に差違えて、同じ枕に臥《ふ》しにけり……」
天皇のために、七度生まれかわっても賊をほろぼさんと誓い合って自決をする楠兄弟のありさまを半次郎は誦《しよう》し終えて、
「どうじゃ、幸江さア……立派なもんごわすなあ。ここのところは何度よんでも飽きぬ」
幸江は、黙って、竹藪の向うの草原に明るく射している春の陽光を見つめたまま、身じろぎもしない。
やや放心の状態にも見えた。
「幸江さア……これ……どうしたんじゃ? これお前《まん》さア、俺《おい》の言うことな、聞いておらんじゃったな」
「いえ……聞いちょりもした」
「嘘じゃ」
「聞いちょりもしたというに……」
「お前さア、このごろ、変ごわす」
「何が変でござすか?」
「ぼんやりしとる。俺の言葉な、身を入れて聞こうとはせぬじゃごわはんか」
「そう見えもすか……」
「幸江さア──」
半次郎が、幸江の肩を、うしろから抱きよせて、
「何を考えとるんじゃ? 言うてみやい。また弥介どんが、何か言うたのでごわすか? 俺と別れろと言うたのでごわすか」
「そげなこと決まっちょりもす。今さら兄が私と半次郎さアのことを許してくれるとは、私も思うてはおりもはん」
こう言って、幸江は突然に半次郎の腕を突きのけて立ちあがった。
「幸江さア……」
「ハ、ハ、ハ……」
幸江が笑い出した。
妙な笑い声である。笑うのと泣くのとが一緒になっている。
「ど、どうしたんじゃ……」
半次郎は狼狽《ろうばい》した。
笑いつづける幸江の頬に、泪《なみだ》がしたたり落ちているのであった。
「よし。そげに、弥介どんは、お前さアを苦しめとったのか。それほどとは、俺も今まで気づきもはんじゃった」
半次郎は憤激した。
「村のもんな、何かというと、俺のことを罪人の子じゃと……」
「何いうておじゃす」
幸江が、筒袖《つつそで》ですばやく泪をぬぐい、
「そげなことじゃございもはん」
「何──」
「あたしはな、半次郎さア──」
一歩近寄り、何か言いかけたが幸江は喉《のど》をそらし、激しく首をふりはじめた。
髪から、例の簪《かんざし》がふり落とされたほどの激しさで、幸江は首を振りつづける。
(気がちごうたのか……)
一瞬、半次郎も、ぎょっとしたものだ。あわてて、幸江の簪をひろいあげてから、
「幸江さア──」
振り向いて抱きとめようとしたとき、幸江が首をふるのをやめて、半次郎の胸もとへ飛びこんできた。
「ハ、ハ、ハ……」
今度は、さっぱりとした笑い声なのである。
「もう、ようござす」
ゆるやかに、幸江のもろ[#「もろ」に傍点]腕が、半次郎の首へまきついてきた。
「もう、よいのでござす」
「何がじゃ?」
「何も彼も……」
男の首に腕を巻きつけたまま、幸江が土の上にすわった。
そして、半次郎の頭を自分の膝《ひざ》の上へ抱えこみ、
「どうやら、私はお前さアに、心配なかけちょったようござすなあ」
と言う。
「いかにも」
半次郎は、もったいらしくうなずき、
「いま少しの辛抱ごわす。いまに見ちょれ、弥介どんにきっと頭を下げさせて見せもす」
「そげなことは、もうよいのでござす」
「なれど……」
「半次郎さア」
「はアい……」
母親の乳房をしたう赤子のような甘えた声を、半次郎が出した。
この甘えた「はアい」は、母親の菅子と恋人の幸江だけに発する半次郎の声であったが、このところへきて、もう一人、その相手がふえたと言ってよい。
その相手は、西郷吉之助であった。
二
「兄さア……兄さア、どこにおじゃす!!」
妹の貞子の声である。
川沿いの道を、貞子が近寄って来る。
半次郎は、幸江の膝から、むっくりと頭をあげた。
「あいつ、早いやつじゃ、この場所を知っちょったな」
「貞子さアになら、知られてもようござす」
「ま、そりゃそうごわすが……」
にこりとして、半次郎が竹藪の中から道へ飛び出した。
「貞、此処《ここ》じゃ。此処じゃちゅに──」
「あ──兄さア……」
「何じゃ?」
「大変でござす」
「何じゃちゅうに?」
「御城下から、お呼び出しがござした」
「何──」
「いま、大久保市蔵様よりの使いの人が家へ見えておじゃす」
「大久保さアじゃと──?」
「あい」
「西郷さアからのお使いじゃないのか、貞──」
「すぐに、お城へ出向くようとのことでござす」
「何、城にじゃと──」
「あい。近《ちけ》うちに、殿様な、京へおのぼりなさる、そのお供に加えられたちゅことで……」
「俺がか──」
「あい」
「ほんとか?」
「何でも、そげなふうに言うておじゃした」
「俺が、殿様の御供にか……そうか、そうか。そうなるだろうと、俺は思うていた。うん、思うていた」
もう、幸江のことも貞子のことも忘れてしまい、中村半次郎は川沿いの道を猛然と走り出していた。
「兄さア……待ってちゅたら」
貞子も興奮しているので、幸江のことなぞ念頭にない。
罪人の子が召し出されたのである。
ということは、父の罪がゆるされたことになる。
(兄な、留守の間は、私が兄のかわりじゃ、うかうかとしてはおられぬ)
十七になったばかりの貞子だが、こうなると薩摩女だ。病身だからと言ってはいられない緊張に顔をひきつらせながら、半次郎の後を追って駈《か》け去ってしまった。
幸江は、ひとり竹藪に残された。
鶯が、しきりにないている。
川の音が、冴《さ》え冴《ざ》えと幸江の耳をうってきた。
昼近い春の陽ざしはいよいよ明るさをまして、竹藪から道へ出た幸江の躯《からだ》をやわらかく抱きすくめてきた。
陽射しに眼を細め、幸江は、そこに立ちつくした。
「これで、何も彼も、おしまいござすなあ……」
幸江は、われ知らず、つぶやきをもらしていた。
三
先日──西郷の家によばれて、中村半次郎は得意の居合抜きを見せた。
その居合いを見るために、わざわざ大久保市蔵が同席をしたのであった。
そのときは、
「もうよい。今日《きゆ》はこれで帰んなはれ」
西郷吉之助に言われて、半次郎は、すぐに吉野へ引き返して来たのである。
腕だめしをされた──ということはわかったが、大久保市蔵が居合わせていただけに、半次郎は少々無気味な思いもしていたのだ。
(大久保さアが、何のために……)
いくら考えても、わからなかった。
それが、ついに、島津久光の行列に加わり、京へのぼることをゆるされたと言うのである。
このたびの、島津久光の東上は、まことに重要な意味をふくんでいるといえる。
今や徳川幕府を中心とした封建制度は音をたてて、ゆれはじめてきた。
もはや、徳川将軍は今までのように諸国大名へ一方的な威圧を加えるだけではすまなくなってきているのだ。
諸国大名は〔譜代〕と〔外様《とざま》〕の二つに別れている。
〔譜代大名〕というのは、徳川家康が天下をとる以前から徳川家につかえ、代々幕府の臣として忠勤をはげんできている大名たちである。
〔外様大名〕は、これに反して、家康が関ヶ原の大戦に勝ち、徳川政権の土台をきずいた後に、徳川家へ従った大名たちだ。つまり、徳川に負けて、徳川に服従したということになる。
徳川幕府から見ると、外様大名は、幕府の威力がおとろえれば、すぐに頭をもたげ、幕府に刃向うという危険を内蔵している。
だから、幕府の政治機構は、主として譜代大名たちの手によって行なわれてきた。いわゆる御三家・御一門・譜代の勢力である。
薩摩藩は、関ヶ原の合戦に石田|三成《みつなり》の西軍について、徳川軍に刃向ったものである。
終戦後、西軍に加わった大名たちは、いずれも徳川家から弾圧を加えられた。
しかし、薩摩の島津家だけは例外であったといってもよかろう。
鎌倉時代からの島津家領国である薩摩の国を、幕府は、ついに島津家から取りあげることをしなかった。
何しろ、日本の最南端である。
取りあげて禄《ろく》をけずり他国へまわすにしても、島津の代りに薩摩へ国替えになる大名たちは、大変な困難をともなう。
山また山をこえて、永年、島津の政治がしみついた領地へ新しい藩主が出て行っても、うまい政治がとれようはずはない。
それのみか、もしも、そのような命を幕府が下した場合、島津家の武士たちが黙っているであろうか──という不安は、かなり幕府にとって大きなもののようだった。
関ヶ原の戦いに、徳川の大軍でひしめく中を、勇猛無類な退却を敢行した島津義弘ひきいる薩摩武士の底力は、天下に鳴りひびいたものだ。
「薩摩だけは、いじらぬ方がよい」
この方針は、二百何十年にわたって徳川幕府がついに破りきれなかったものだといってもよい。
そのかわり、幕府も、薩摩藩の力を殺《そ》ぐために、さまざまな手段をもって意地の悪い仕打ちをくり返してきたものだ。
もっとも、これは薩摩のみにではない。
〔外様大名〕たちは、いずれも幕府の巧妙な政策のもとに財力を奪われてきたし、家を取りつぶされたものも多い。
薩摩藩士の合い言葉に、こういうのがある。
「木曾《きそ》川の事な、忘るッな!!」
これは、宝暦《ほうれき》年間に、幕府が木曾川の治水工事を、薩摩藩に命じたことから引き起された事件をさすものであった。
この工事のために、薩摩藩は血の出るような借財を背負いこんだあげく、普請《ふしん》奉行として出張した平田|靭負《ゆきえ》以下数十名の藩士を死なせてしまっている。
責任問題からの切腹であった。自決であった。
たとえば、この事件などが一例であって、幕府が外様大名をきびしく監視し、その力を殺ぐために行なった政策は、数えきれるものではない。
そうした徳川幕府の威力が、いまや通りきらぬ時代となったのだ。
あれだけ遠ざけられていた薩摩藩が乗り出して、幕府と朝廷の間を取りもちしようというのである。
外国の侵入を何とか喰《く》いとめるために、むしろ幕府を指導して行こうというのである。
すべてが、新しい力を必要としている。
諸大名の家においても、同様であった。
薩摩藩が中央へ乗り出して行くためには、島津斉彬という殿様の力が大きくものをいっている。
それに、斉彬によって抜擢《ばつてき》された新進気鋭の藩士たちの活躍も忘れることができない。
西郷吉之助しかり、大久保市蔵しかりである。
もったいぶった古くさい習慣や儀礼を通してからでないと事が進まぬというのでは、おさまらぬ時代なのだ。
若く、新しい行動の力を時代が要求している。
この文久二年という年は……幕府と大名──そして大名とその家臣たちという段階において、分裂と育成が入りまじって行なわれようとする気配が、はっきりと見てとれるようになった年だともいえる。
「あの男……中村半次郎ちゅ男の剣は、役にたちましょう」
大久保市蔵は、西郷吉之助に言った。
「おいどんも、そう思《おめ》もす」
西郷は先ず、半次郎の剣技を大久保に見せ、島津久光の傍近く仕える大久保の口ぞえによって、半次郎を働かせてやりたいと思ったのであろう。
「いかがじゃ、市蔵どん」
「引きうけもした」
「引きうけてくれるか?」
「つまらぬ、いやな事ごわすが、当分は血なまぐさい風も吹こうと思もす」
「国のためじゃ、仕方ごわはん」
西郷は決然と言った。
勤王志士たちは、先年の井伊大老による弾圧によって、一時は鳴りをひそめた。
しかし、それだけに内へこもる激発力は一層するどいものとなった。
そのあらわれが、安政七年三月三日の井伊大老襲撃事件である。
この水戸浪士が敢行した襲撃には、薩摩からも、有村雄助《ありむらゆうすけ》・治左衛門《じざえもん》の兄弟が参加していた。
当時、西郷吉之助は大島流罪に服していたが、井伊大老殺害の報を聞くや、
「よか!! よか!!」
ま裸となって狂喜乱舞をしたということだ。
井伊大老が死ぬや、勤王運動の火の手は殺気をおびて、いっせいに燃えあがった。
だが、幕府にしても、昔日の威勢を取戻そうと必死である。
江戸にも京にも謀略は、渦を巻いている。
暗殺は続出している。
こういう最中《さなか》に、島津久光は京へ、江戸へ向おうとしていた。
もちろん、藩兵をひきいての東上であるが、久光には、
「先ず、幕府の政治機構を改良せねばならぬ」
こういう抱負と計画をもって東上しようとしている。
しかし、藩士たちの中の〔若い力〕は、改良などと生ぬるいことを言っているときではない。むしろ一挙に革命をおこして、くたびれた徳川幕府という政権を倒してしまえと叫んでいる。この叫びは、大名である島津久光にとっても少々不安なものを感じさせる。将軍を倒せが、何時、大名を倒せに変るかも知れないからである。
どちらにしても血を見ずにはおさまらぬ世の中となってしまったのだ。
中村半次郎は、五石|二人扶持《ににんぶち》をあたえられ、久光の行列の中の一員として京へのぼることにきまった。
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訣 別
一
文久二年(一八六二年)三月十六日に、島津久光は鹿児島を発し、京へ向った。
久光に供奉《ぐぶ》するもの千人余という、いわゆる大名行列の中に、中村半次郎も加わっていたことはいうをまたない。
出発の二日前に、半次郎は実方《さねかた》の村を出て、鹿児島城下へ向った。
半次郎のような身分の低い郷士たちは行列の出発に先立ち、種々雑多な準備に使役されるからであった。
その日、実方の村には、雨がけむっていた。
旧暦の三月中旬というと、現在の四月下旬ごろにあたる。
ふりけむる雨は、むしろあたたかい。
その朝は、十何年ぶりかで、母の菅子と妹の貞子が炊いた赤飯が、ふるまわれた。
不幸つづきの中村家では、おそらく、貞子が生まれたとき以来のよろこびであったと思われる。
母の実家である別府の家からも、隠居の九郎兵衛老人をはじめ、当主の十郎夫妻、それに十郎の子で、半次郎には従弟《いとこ》にあたる九郎や晋介もやって来た。
「俺《おい》も半次郎どんと一緒に、殿様の御供なして、京へのぼりたい」
まだ十六歳の晋介が眼を輝かして言うと、
「ああ、待っちょれ待っちょれ。俺がな、西郷さアにお願い申して、いまに、わい[#「わい」に傍点]どんも京へよんでやるぞ」
半次郎は意気|軒昂《けんこう》たるもので、大きなことを言う。
「お前のどこが、いったい西郷さアの気に入られたのじゃろ?……俺にはわからん」
と、外祖父の九郎兵衛が、つくづくと半次郎をながめ、
「乱暴なしちゃいかぬぞよ。この実方の村におるのとは違う。大勢の城下侍にかこまれて、いっぱしの御奉公な、するのじゃからな」
「わかっちょりもすよ」
「これで、お前がまた何か事でもひきおこして、罪をうけるようにでもなったら、中村の家はもう目も当てられんことになるちゅことをじゃな、ようわきまえてたもし」
「わきまえちょりもす、わきまえちょりもす」
「喧嘩《けんか》ないかぬぞよ」
「はアーい」
芋焼酎《いもじようちゆう》も出た。
みんな、にぎやかに食べたり飲んだりしていると、貞子が、そっと半次郎のそばへ来て、
「兄さア……もう、よいのでござすか」
「何が?」
「叱《し》っ。もっと小《ち》っけな声で言いなはれ」
「だから、何じゃちゅに?」
「あの……幸江さアと別れのあいさつはすんだのでござすか?」
半次郎が、にやりと笑った。
「貞。昨日、ちゃんとすましちょる」
貞子が、まっ[#「まっ」に傍点]赤になって、うつ向き、
「そいなら、ようござす」
あわてて、カマヤ(台所)へ走りこんで行った。
じいっと笑いをふくんだ眼で兄から見つめられ、
「……昨日、ちゃんと済ましちょる」と言われたとき、貞子には、その半次郎の言葉の底にふくまれているものが、すぐに感得出来たものらしい。
「貞も、もう一人前じゃ」
人々の談笑する声が、せまい室内にみちあふれている。
半次郎は、ぐいぐいと焼酎をあおりつつ、カマヤで忙しそうに立ちはたらいている妹の、十七歳の躯《からだ》を横目で見つめていた。そして、「俺が発つ前に、何とかしとかんといかぬ」と、思った。
「おい、晋《しん》どん」
と、半次郎は別府晋介をよんだ。
まだ前髪のとれぬ晋介がそばへ来ると、
「おはん、ちょいと使いに行って来てたもし」
低い、半次郎の声であった。
「行って来もすが……何処へ?」
「伊東の才蔵どんな、ちょいと、此処へよんで来てたもし」
「何の用ごわす?」
「何でもよか。よんで来いちゅたら──」
「はあ」
「そっと行け。誰にも言うな」
晋介が、不審そうに首をふりふり、外へ出て行った。
伊東才蔵は、帯迫《おびせこ》の村に住む郷士の息子だし、半次郎とは何の関係もなく、別だん中村と別府の両家が親しくしているわけではない。だから、この訣別《けつべつ》の宴に、才蔵をよべと言った従兄《いとこ》の意が、晋介にはくみとれなかったのであろう。
二
しばらくして、晋介が帰って来た。
「晋。雨の中を何処へ行っとったんじゃ」
九郎兵衛が、これを見つけて声をかけると、
「おいどん、ちょいと御一同に話なござす」
横合いから、半次郎が大声を張りあげた。
別府家の人々も、母の菅子も、半次郎のことだから、別に何ということもあるまいといった顔つきであった。
「晋どん。才蔵どんは来ちょるのか?」
「外に待っちょりもすが……あの、才蔵どんな、顔の色まっ青でござす」
「ふむ。そうか──それはな、俺に怒られると思うちょるのだ」
別府九郎兵衛が、
「おはんら、何をごそごそ話しちょるのじゃ」
と二人の孫へ、怒鳴った。
「はアーい」
半次郎は一礼し、
「貞。ちょいと此処へ来んか」
と、言った。
手をふきふき、カマヤから貞子が上がって来ると、半次郎は晋介に「才蔵どんを此処へ連れておじゃし」と言いつけておいて、
「さあ、御一同……」
かたちをあらため、両手をついて、
「半次郎な、お願いがござす」
九郎兵衛が笑って、
「お前《まん》が、願い事言うを聞いたは、はじめてじゃ」
「はアーい。実は、妹の貞子のことごわすが……」
そこへ、伊東才蔵が、おずおずと入って来た。半次郎を見て脅えている。
ひょろりと背の高い伊東才蔵は二十三歳になり、その温順で誠実な性格は実方の村でも評判のものであった。
才蔵があらわれたとたんに、貞子が狼狽《ろうばい》した。居ても立ってもいられぬ様子なのである。
半次郎が、貞子をちらりと見てから、振り向いて「才蔵どんこっちへ来て一緒に飲みもはんか」と言う。
みんな、きょとんとして伊東才蔵を見つめていた。
才蔵は、目のやり場に困り、膝《ひざ》のあたりが、ガクガクとふるえている。
いまに、半次郎の鉄拳《てつけん》が飛んでくると思っているらしい。
「才蔵どん。さ、おじゃしおじゃし。遠慮することはなか」
「は──」
「いまに、貞子の聟《むこ》になるおはんじゃなかか。さ、遠慮すッな」
「何じゃと──」
別府九郎兵衛たちもおどろいたが、菅子もおどろいた。
菅子が、きょろきょろと貞子と才蔵の顔へ視線を走らせつつ、半次郎の前へ、にじりよって来て、
「半次郎。何じゃと?……伊東の才蔵どんな、貞子の……」
「はアい。もう、二度も夜這《よべ》えにきもしてな」
貞子が、雨のおもてへ飛んで逃げた。
伊東才蔵は、それでも男だ、逃げるわけにもいかず、緊張のあまり顔面|蒼白《そうはく》となって立ちすくんでいる。
せまい家ではあるが、貞子はカマヤに接した牛小屋の天井に寝ていた。
そこは中二階のかたちになっていて、畳三帖ほどのひろさもあり、
「貞子な年ごろごわすから、部屋もひとつこしらえてやらにゃなりもはん」
半次郎が菅子にこう言って、そこへ一部屋つくってくれたのだ。むろん、半次郎自身が木を切り、組み立てた上に、手づくりの小さな鏡台までこしらえてやった。こういうところは、まことに気が細かに行きとどく半次郎なのである。
その牛小屋の上へ伊東才蔵が二度ほど忍んで来たのを、半次郎はカマヤの土間をへだてた自分の部屋から、ちゃんと見とどけていたものらしい。
男が女の寝所へ忍ぶという薩摩の風習には別におどろくことはないのだが、貞子がいかにも可憐《かれん》であり、母や親類の人々から見ると、まだまだ子供だとばかり思っていたのだから、一同がおどろいたのも無理はなかった。
「これで、安心ごわす。俺も、才蔵どんが妹の聟になってくれるなら、安心して京へのぼり、この腕をふるって命がけのはたらきな出来もす」
半次郎は、呆気《あつけ》にとられている人々の前で滔々《とうとう》としゃべりはじめた。
「何とぞ、何とぞ、二人をめでたく夫婦にしてやって下され。お願い申す、この通りござす。これで、母も妹も安心ごわす。何しろ才蔵どんな吉野のあたりでは誰にも知られた人柄のよい二才《にせ》でござす。かならずや母や妹も大切にしてくれる、俺は確信しちょる!!」
半次郎が、ぎょろりと才蔵をにらみ、
「そう思うてようごわすな? よいな、よいな!! 才蔵どん」
と、まるで家の柱が二つに折れそうな、すさまじい声で叫んだ。
ふだんは細い切長の半次郎の眼が裂けて、眼球が飛び出してきそうな顔つきであった。
単に、才蔵をおどしつけているのではない、何か必死な気魄《きはく》が、半次郎の声にも眼にもこもっていたようである。
伊東才蔵は、ふらりと、一度足を泳がせてから足をふみしめ、
「大丈夫ごわす」と答えた。
青かった才蔵の面《おもて》に血がのぼってきた。
三
二日後の三月十六日の朝となった。
島津久光の行列は、鹿児島城下を発した。
この時代の、ことに薩摩藩の大名行列ともなると、絵にかいたような美々しいものではなくなってきている。
ことに、今度の上洛《じようらく》は、江戸幕府と京都朝廷の険悪な状態を何とか自分の手によってまとめて行こうという島津久光の意図があるだけに、薩摩藩の威風をも内外に示さなくてはならぬ。それだけに、行列は、半ば出陣の備組《そなえぐみ》となっていた。
先ず先頭に、鉄砲足軽十人をひきいた鉄砲頭が進み、次に弓足軽と中小姓、槍《やり》奉行とつづき、華美な飾道具なども廃し、久光の駕籠《かご》の周囲を鉄砲隊によってかためるという異例のものであった。
中村半次郎は、行列の後方をかためる鉄砲隊の兵として加わっていた。
陣笠《じんがさ》をかぶり木綿|筒袖《つつそで》の着物に革胴をつけ、もんぺ[#「もんぺ」に傍点]のように細い裁着《たつつ》け袴という鉄砲隊の容体は、ちかごろ決められた〔薩摩藩の制服〕によるものであった。
行列は、城下を出て西に進む。
城下の町民たちも、城外の村人たちも行列を送るべく沿道に群れ集まっていた。
菅子も貞子も、別府家の人々と共に暗いうちから城下へ出て来ていて、新川を西へわたりきった天神瀬戸のあたりで行列を待ちうけていた。
やがて、行列が来る。
隊伍《たいご》堂々たる軍列といってもよい威容である。
ひれ伏している母の菅子に、九郎兵衛が、そっと袖をひいて言った。
「あれが、大久保市蔵どんじゃ」
「まあ……」
大久保市蔵は久光の側役として、駕籠のすぐ前にあった。騎乗である。
塗笠《ぬりがさ》をかぶり、黒紋付にぶっさき[#「ぶっさき」に傍点]羽織という姿の大久保市蔵は、きゅっ[#「きゅっ」に傍点]と唇を引きむすんで、むずかしい顔つきをしていた。
それには、わけがある。
この久光上洛について、市蔵は、
「お前《まん》さアも俺と一緒に、ぜひ、久光公の御供なして下はれ」
と、西郷吉之助にたのんだ。
ところが、西郷は、
「そりゃ困る」
頑としていうことをきかない。
「久光公では、とても無理じゃ。先君(斉彬)とは御兄弟であっても、まるで器量というものが違《ち》げもす。御自分では何とか乗り出して行って幕府と朝廷の間を取りもちしようと思うておいでなのでごわしょうが、とても、先君のようにはいかぬ」
むしろ冷笑しているのである。
「では、どうしたらよいと、お前さアは申されるのか?」
「第一、久光公は、薩摩の主《あるじ》ではありもはん。殿様は忠義さまじゃ。久光公は、その後見というわけござす。島津家の当主でもなく、天下をおさむる器量もないお方がいま京や江戸へ出て行っても無駄でごわす。もしも、今度のことが失敗《しくじ》ったなら、薩摩藩は笑いものになりもすぞ」
西郷から見ると、久光では天下の人望を集め、政局を好転させる舵《かじ》とりなぞ出来る筈《はず》はないというのだ。
もともと、久光が大嫌いな西郷吉之助であるから、何かにつけて、自分が敬愛の限りをささげつくした先代藩主・斉彬とひきくらべてしまうらしい。
そこには、たぶん西郷の感情というものが激しく動いていたのである。
西郷吉之助の考えは、久光が中央に出て政局を切りまわすつもりなら、先ず、その下準備を行なってからでないといけないというのだ。その工作を、薩摩藩のしかるべき人々が行なっておいてから久光を出すようにしなくてはならぬ、それでないと心もとないというのである。
久光自身も、つとめて感情をおさえ、親しく西郷を城中によび、
「余と共に行ってくれぬか?」
と、たのんだものだが、このときも西郷は、あまりよい顔はせず、
「御供なつかまつりますが、そのかわり、お願いもござります」
「何じゃ?」
「私めを一足先にやってはいただけますまいか。この吉之助が先ず諸国の情勢を見きわめておき、何かと御役にたちたいと存じまする」
久光の前へ出ると、西郷も言葉は丁重だが、胸を張り、少しも臆《おく》することなく久光に相対する。
久光も、面白くないのだが、西郷の内外における人望はみとめているし、兄の斉彬が死んでからの、自分が西郷に行なった仕打ちにも、いささか後めたいところがある。
「では、思うようにせよ。なれど、京までの別行動はゆるさぬ。下関にて待て」
久光は厳然として命じた。
西郷は、厭《いや》な顔をしたが承知しないわけにはいかない。
こういうわけで、西郷吉之助は、村田|新八《しんぱち》・森山新蔵の二名をつれ、久光出発に先立ち、鹿児島を出発して行ったものである。
こんなことを、中村半次郎は知るよしもなかった。
(西郷さアな、なぜ京へ行かんのかな)
それが、さびしかった。
行列の中には、顔見知りのものもいるが、みんな半次郎を見ると〔芋侍《いもざむらい》め〕というような顔つきをするので、話合うこともできない。
(まあ、いいわい。ともかく俺《おい》は、こうして召し出されたんじゃから……)
天神瀬戸のあたりで、半次郎は道ばたにひれ伏している母や妹や、祖父や従弟たちを見つけた。
手をあげるわけにもいかないので、半次郎は片眼をつぶり精いっぱいの笑いを、みんなに送り、鉄砲をかついだ肩をいからせて母たちの前を通りすぎた。
その日は、よく晴れて、陽光は夏のもののように輝いていた。
貞子が、母と共に夕暮れ近くなって実方へ戻って来ると、太鼓橋のたもとに、幸江が立っていた。
幸江は、貞子を手まねぎして、川岸へおりて行くと、
「半次郎さアは……」
「無事に発《た》ちもした」
「そうござすか」
「幸江さア。何で見送りに来なかったのでござす?」
「もう、よいのでござす」
「でも……」
幸江は、数日前に、この近くの竹藪《たけやぶ》で半次郎と気が狂ったような愛撫《あいぶ》におぼれこんだ自分を思い浮かべながら、
「もう、よいのでござす」と、くり返した。
そして、半次郎の子を宿している自分を、これからどういう方向へもって行ったらよいのかと、迷っていた。
このことは半次郎ばかりか、誰にもうちあけてはいないことであった。
(もともと夫婦になるつもりで半次郎さアと、あげなことをしたのじゃなか。兄にさからってまで、年下のあの人と……互いに、たのしみ合っただけのこと……それなのに、こげなことを誰にも押しつけ訴えたり、泣言いうたりは出来もはん)
幸江は、そう思っていたのである。
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寺田屋騒動
一
その日、中村半次郎は、京都・錦小路《にしきこうじ》にある薩摩藩邸正門の門衛をつとめていた。
半次郎が、生まれてはじめて故郷の鹿児島をはなれ、島津久光|供奉《ぐぶ》の一員として京都へ到着したのは、四月十七日であった。
それから六日ほどたっている。
見るもの聞くもの、ただもう珍しく、夢中ですごした六日間であったが、何よりも半次郎を興奮させたのは、
(天下は動いちょる!!)
これであった。
行列が鹿児島を発してから、およそ一か月余の間に、薩摩藩の存在というものが、いかに天下の政局を左右しているかということを、半次郎は、まざまざと知ることが出来た。
京の藩邸へ着いてからは、市中を見物するどころの騒ぎではなく、毎日、朝から夜まで、武器の手入れやら門衛やら、半次郎は下士や足軽たちと共に、まっくろになって働きつづけてきたのである。
薩摩藩は、大坂にも伏見《ふしみ》にも屋敷があり、そこから毎日、数人の藩士が馬を駆ってやって来る。
京からも使者が飛び出して行くし、不気味で、あわただしい空気が藩邸内にたちこめているのだ。
「おい、半次郎どん」
門のわきの詰所にいて、夕飯にくばられた握り飯を食べている半次郎へ、戸口に顔を見せた佐土原英助が低く呼んだ。
「おう、佐土原さア……」
「ちょいと出て来れぬか」
半次郎は握り飯をおいて、外へ出た。
道中、同じ行列にいても、英助とは身分も役目も違うし、めったに顔を合わすこともなく、この京へ着いてからは、ほとんど顔を見たことがなかっただけに、
「しばらくでごわしたなあ」
なつかしげに、半次郎が言うと、
「うむ。ちょと、ここに待っていてたもし」
英助が妙に硬張《こわば》った表情で答え、そそくさと詰所へ入って行き、すぐに出て来た。
「いま、ことわってきた」
「何をでごわす?」
「おはん、これから、ちょいと用事なごわす。大久保さアの用事ごわす」
「俺《おい》に、大久保さアが、用事ごわすと?」
「まあ、ついておじゃし」
英助は急ぎ足で、先に立った。
広い屋敷内の、半次郎が、まだ見たこともない庭や木戸や、いくつもの塀にかこまれた通路をぬけて行くのである。
「どこへ行くのでごわす?」
「黙っちょれ」
ふり向きもせずに、英助が言う。
屋敷内の奥へ奥へと進み、低い土塀の潜門《くぐりもん》をあけて入ると、そこに立っていた藩士が佐土原英助を見て、何かささやいた。
英助はうなずき、半次郎の袖《そで》をひいて少し進むと鉄砲垣の木戸をあけ、中へ入った。
「ここにおるのじゃ」
英助が押し殺したような声で言い、片膝《かたひざ》をつき、かがみこんだので、半次郎もそれにならった。
奥庭であった。
木立もふかく、青葉の匂いが、むしむしする夜気の中に濃くたちこめている。
空は曇っていた。
「佐土原さア……」
「叱《し》ッ、黙っちょれちゅうに……」
「いったい何のこつごわす?」
「叱ッ」
このとき、向うに見える回廊に人影があらわれた。
人影は九つあった。
そのうちの一人は大久保市蔵だ。すぐに佐土原英助が半次郎をうながし、二人は鉄砲垣のところから廊下へ進んだ。
「英助どん、半次郎を連れて来たか」
「は──」
英助が、半次郎に、「前へ出やい」と言う。
半次郎は、非常に緊迫したものを、これらの人々に感じた。
「半次郎」
大久保市蔵が廊下にしゃがみこみ、
「おはん、これから、この人らの供をして伏見へ行くのだ。殿様の御命令で、同じ薩摩の侍を斬ることになるやも知れん。わかったか──」
「は──」
半次郎は、うなずいた。それがどういうことか、おぼろげながら半次郎にもわかる。
「こげな芋侍、連れて行かんでもようごわす」
大久保のうしろにいた体格のよい侍が、不満そうに言うのを、
「まあつれて行け。もしもということがある。この中村半次郎は、おはんらがつれて行って不足のない男だ」
大久保市蔵が、きびしく言いわたした。
「よか」
別の一人が進み出て、
「ぐずぐずしていては時を逸する。さ、早く出かけよう」
落ちついた声で言うと、すぐにその場で草鞋《わらじ》をはきはじめた。
この侍は奈良原喜八郎《ならはらきはちろう》といって、半次郎も顔を見おぼえている。鹿児島の伊集院道場へもよく稽古《けいこ》に来ていたし、薩摩藩でも名のきこえた〔つかい手〕なのである。
佐土原英助をのぞいた九人は、大久保市蔵に見送られ、奥庭から、ひそかに藩邸を出た。
京から伏見までは二里そこそこの道のりであった。
九人は、本街道に別れ、伏見へ向けて走り出した。
これは、伏見のどこかに集合をしている薩摩藩の過激派である〔精忠《せいちゆう》組〕の一部のものを捕えるためだ。
「余の命にしたがわぬときは、斬れ!!」
と、島津久光は激怒していた。
二
〔精忠組〕というのは、勤王運動へ加えられた井伊大老の弾圧が、もっとも激烈をきわめたころ、薩摩藩士百余人をもって結成されたものである。
西郷吉之助も、大久保市蔵も、この〔精忠組〕の中心となって活動をした。
島津斉彬が急死したとき、
「殿が亡くなられては、もはやこれまでじゃ。西郷どんも大島へ流されてしもうたし、このまま藩におっては、どのようなことになるやも知れぬ。われわれは脱藩をして自由なる浪人の身となり、井伊大老を斬り、東西の勤王志士をあつめ、天下の人心を目ざめさせ、徳川幕府をほろぼす先がけとなり申そう」
慎重な大久保市蔵でさえ、こういう気持であったのだ。
井伊大老のおこなった弾圧は、たしかに幕府の威力をしめしたものといえよう。
主だった勤王志士たちが一網打尽にされてしまったといってよい。
たのみとする偉大な主君であった斉彬が死んでしまうと、にわかに、薩摩藩でも保守派の重役たちが乗り出してきて、幕府の顔色をうかがうような気配を見せはじめたものだ。
これでは、斉彬によって育てられた〔精忠組〕の人々が危険にさらされることになる。そのよい例が、幕府への申しわけのために、流罪にされた西郷吉之助である。
「西郷はじめ、精忠組の連中は公儀からにらまれておる。何とか片づけてしまわぬと、御家に迷惑」というのが保守派の考え方で、このころはまだ、幕府のにらみも、いくらかは利いていたようだ。
こうして、精忠組一同、あわや脱藩という間際になり、
「待て──」
島津久光から声がかかった。
久光は国父として一同に自筆の諭書をあたえたものである。
──方今、世上一統動揺容易ならざる時節に候……という書出しにはじまる諭書には、久光が、兄斉彬の志をつぎ、あくまでも勤王運動をつらぬき、幕府政治を改革しようという理想が、はっきりとあらわれていた。
「久光公が、このようなお考えなら、われらも考え直さにゃならぬ」
大久保も、はやりたつ同志を押え、あらためて、久光を見直したようであった。
久光が、我子の忠義を故斉彬の遺志によって藩主にすえ、みずからはその後見となったことは、すでにのべた。
そして、久光は、おのれの力が藩政にゆきわたるようになると、たちまちに、保守派の家老たちをしりぞけ、喜入久高《きいれひさたか》を主席家老に、小松|帯刀《たてわき》が側役に、大久保市蔵、堀次郎などが小納戸役《こなんどやく》にひきあげられた。
ここに久光は、斉彬の遺志を、ふたたび実行にうつすべく体制をととのえた。
大久保市蔵は、側役も同然であり、万事、老巧な小松帯刀と力を合わせ、久光を助けた。久光は、四十をこえているだけに思慮もふかく、
「井伊大老を暗殺した水戸浪士の中には、我藩の有村兄弟も入っておる。幕府の力おとろえたりといえども、今ここで、急激に事を起すことは危うい。われらが勤王の志をつらぬく前に、幕府に押えられては元も子もなくなろう。何事も天下の形勢を、とくと見きわめての上のことじゃ」
こんこんと大久保に言いきかせた。
大久保市蔵も、次第に、久光の考え方へ理解をもつようになる。
以来、大久保市蔵は、精忠組のなだめ役となった。
そこで、「大久保どんは、久光公に取入って腹黒いことなしちょる!!」と、精忠組同志の反感を買うことになったというわけになる。
久光の、こうした態度を見て、幕府も何かと薩摩の機嫌をとるようなかたちになってくる。
何といっても、勤王運動のもっともさかんな藩は、薩摩の島津家と長州の毛利家である。
幕府としては、薩摩を味方につけ、長州を押えようという気持も多分にあるわけであった。
こういうわけで、またも薩摩藩は有利な立場に頭を出してきたわけだ。
「ころはよし!!」
島津久光は、決意をかため、上洛《じようらく》の行列をくり出したのだ。
久光としては、まだ幕府をほろぼして天皇を中心とした新政権を樹立するというところまで考えてはいない。
天皇の意思にそった新政権を幕府と共に薩摩藩がつくりあげるという気持である。
大久保や西郷は、この久光の考えにさからってはいないが、腹の底は違う。
「いまはともかく、近いうちに徳川政権を倒してしまわねば、どうにもなるものではない」
かたく心にきめているのだ。
そのときは、おれたちが日本の国を動かして行こうという野心と熱情に燃えたぎっている。
島津久光が千余の藩兵をしたがえて京へのぼるといううわさは、すでに前年から諸方にひろがっていた。
「いよいよ、薩摩が乗り出すぞ!!」
「倒幕の機会は今をおいてなし」
「島津公を押したてて、一挙に幕府を打ち倒してしまえ!!」
諸国の勤王志士たちは色めきたった。
まるで、薩摩藩が幕府と一戦を交えに京へ出てくるといわんばかりの空気がもりあがってきたのだ。
興奮した勤王志士たちの中には、久光の出発に先立ち、薩摩へ潜行して来て、
「この際、ぜひにも久光公に御出馬を……」
眼の色を変えてせきたてる。
世間の方が、さわがしくなるばかりなのだ。
大久保や小松は、
「こうなると、我藩の血の気の多いものも何をたくらむか知れたものではない」
と、心配をした。
まさに、その通りであった。
西郷吉之助が、久光の行列に先立ち、ともかく下関までやって来て、
「こりゃ、いかぬ」
思いのほかに事は重大な段階に達していることを、西郷は知った。
三
下関に、白石|正一郎《しよういちろう》という豪商がいる。
白石は船舶業者であるが、金もあるし、学問もある。
早くから勤王運動に加わっていたので、諸国の勤王志士たちは、下関へ来ると、必ず白石家に泊り、その助けをうけたものだ。
西郷吉之助が部下二人をつれて、白石の家へ草鞋《わらじ》をぬぐと、
「おう、西郷殿!!」
「いよいよ倒幕の機、到来ですな!!」
白石と共に西郷を迎えたのは、筑前《ちくぜん》の平野|国臣《くにおみ》と豊後《ぶんご》の小河弥《おごうや》右衛門《えもん》の一行である。
二人とも、錚々《そうそう》たる勤王の志士だ。
この二人から、西郷は事態の容易ならざることを聞いた。
諸国の勤王志士は、薩摩藩が乗り出すときめて、続々と京都に集結しつつあるというのである。
しかも、薩摩藩・精忠組からも、江戸屋敷にいた伊牟田尚平《いむたしようへい》という大物をはじめ、森山新五左衛門など五人が鹿児島から脱走して、京都へ向っているというのだ。
そればかりではない。
長州藩では、「勤王の先がけを薩摩に横どりされては、我藩の名折れになるぞ!!」というので、続々と革新派の連中が京都へ集まり、しかも下関にもやって来て、薩摩藩のうごきをさぐっているらしい。
「もはや、幕府を助けて政治のあり方を変えるなぞとは生ぬるい」
「こうなれば、各宮家をうごかし、天皇から倒幕の勅旨をたまわり、体当たりに幕府を打ち倒すまでじゃ!!」
これらの勤王志士たちの言動は、その極点に達しているらしい。
「西郷殿も、われらと共に旗をあげていただきたい」
平野も小河も眼を血走らせ、西郷吉之助にせまった。
(これは、うかつに動くと、大変なことになる)
西郷は、少し、びっくりもしていた。
勤王志士たちの意気ごみもすさまじいのだが、何と言っても二百何十年間、天下をおさめてきた徳川幕府である。
徳川将軍の威望のもとに集まる大名たちの方が、いまのところは勤王大名より多いのだ。
「彼等の熱血を思うままに流動させたら、またも安政の大獄の二の舞じゃ」
と、西郷は考えた。
幕府の弾圧がふたたび行なわれたら、せっかく久光を中心にして故斉彬の遺志を生かそうとしている薩摩藩のもくろみは、またも、くじけ折れてしまうではないか。
久光を厭《きら》いな西郷だが、それは感情である。
ともかく、何とかして、これらの過激派を押えなくてはならぬと思った。それには、西郷吉之助という人物はうってつけなのである。
人物も立派なのだが、何しろ、見るからに偉人の風貌《ふうぼう》をそなえているから、することなすこと、すべてに信頼をもたれる。
もしも、西郷隆盛が、〔きりぎりす〕のようにやせた男であったら、西郷は、あれだけの仕事をなしとげられなかったであろうし、上野の山に銅像もたたなかったであろう。この点、大久保市蔵は大分に損をしているといえそうだ。
人間というもの、姿かたちも大切なものなのである。
諸国の勤王志士たちが、西郷吉之助へよせる期待は、そのころから実に大きなものであった。
西郷一人で薩摩藩がどうにでも動くと思われていたほどである。
それほどまでに、西郷は故斉彬の助手として顔も売り、活躍もしてきたことはたしかである。
三月二十八日の七ツ(午後四時)に、折柄ふりしきる雨の中を下関に到着した島津久光は、
「何──西郷が先に京都へ行ったと申すか」
たちまちに顔色が変った。
下関で待て──と、きびしく言いわたしてあったはずである。
「吉之助め、余の命にそむき、何を仕出かすか知れたものではない」
久光も感情的には西郷が厭いなのだ。
それを我慢して、大久保市蔵のすすめをうけいれ、西郷を大島から戻してやったのである。
「余を、あなどっておる」
久光が怒るのも無理はないところであろう。
「ともあれ、私めが西郷を呼び戻してまいりまする」
大久保市蔵は、下関へ着くや、そのまま草鞋《わらじ》もぬがずに、西郷を追った。
こうしたいきさつを、行列に加わっている中村半次郎が知らぬわけにはいかない。
(そうか……西郷さアな、先に鹿児島を出ておったのか……)
それはよいとしても心配であった。
(殿様のお怒りにふれねばよいが……)
下関から京都へ入るまでが、また大変である。
大坂や京都の藩邸から、次々に使者が馬を駆って来て、久光を待ちうけ、京都の情勢が不穏にみちみちていることを告げる。
(なるほど、鹿児島にいたのじゃわからん。天下は騒いどる!! こりゃ、大変じゃぞ)
中村半次郎は、興奮した。
(俺《おい》も、力いっぱい働けそうじゃ!!)
若者にとって、時代の革新が大きな魅力であることは、今も昔も変りないことであった。
四
島津久光の東上を知り、京・大坂間に集まった勤王志士は七十名におよんだ。
江戸屋敷につめているはずの薩摩藩士・橋口|壮助《そうすけ》、柴山《しばやま》愛次郎なども、江戸をぬけ出し、大坂・中之島の旅館〔魚屋太平〕方に泊り、
「われわれは、魚太組《うおたぐみ》ごわす!!」
なぞと、大いに気勢をあげているのだ。
しかも、行列の供をゆるされなかった鹿児島在住の精忠組からも、森山新五左衛門ほか四名が勝手にぬけ出し大坂へ乗りこんで来るという始末であった。
「これは、いかぬ」
大坂の土佐堀にある薩摩屋敷でも大いに困った。
「彼等をほうりすてておいては、何をはじめるか知れたものではござらぬ」
このとき、江戸屋敷から大坂屋敷へ駈《か》けつけて来た堀次郎が、
「彼等を、一か所にまとめてしもうたほうがよろしい」
と、提案をした。
大坂藩邸の重役たちも、これに同意したので、堀次郎は、魚屋方にいる橋口壮助たちを訪ね、
「みんなを集めよ。藩邸にかくもうてやる」
と、もちかけた。
「そりゃ、まことでごわすか」
「まことじゃ」
橋口たちは生き返ったように、よろこびの声をあげはじめる。
無断で江戸屋敷をぬけ出したのだから、本来ならば罪をうけなくてはならぬ。
それなのに、自分たちばかりか、ほかの勤王志士たちも一緒にかくまってやると言うのだ。
しかも、久光の信頼もあつい側役《そばやく》・堀次郎じきじきの言葉であったから、
「よかったぞ!!」
「久光公も、なかなか話せるわい」
一同は勇みたった。
「いよいよ戦争ごわすな」
「チェスト!! 幕軍に目にもの見せてくれるぞ」
さっそくに、手をまわして同志たちを集め、七十名もの勤王志士が、薩摩の大坂屋敷へ、ひとかたまりになった。
彼等は、藩邸内の二十八番長屋へ収容されたのである。
久光と薩摩藩をおしたてて事を起そうとしているだけに、九州諸藩の侍が多かった。
しかし、一同を指揮しているものは、先ず、田中|河内介《かわちのすけ》であると言ってよい。
河内介は、但馬《たじま》(兵庫県)の医者の家にうまれたが、天保のはじめごろ、京都へ出て学問にはげんだ。
その後、公卿《くげ》の中山|忠能《ただやす》の家臣・田中|近江介《おうみのすけ》の養子となって家をつぎ、諸太夫《しよだいぶ》(官位)となった。
こういう経歴をもつだけに、田中河内介は、純粋の勤王家であり、外国勢力と徳川政権を追いはらって、日本を天皇統一のもとにおこうという思想には熱烈なものがある。
勤王運動に乗じて、一旗あげようという革命家の多いなかで、河内介は五十に近い命をかけて働いている。
主人の中山忠能は、こうした河内介の言動をよろこばなかった。
安政の弾圧事件があってから、京の公卿たちは、幕府をおそれ、何事にもひかえ目な態度をとるようになってきていたのだ。
ところで、これらの勤王志士たちの計画とはどういうものであったろうか。
先ず久光の上洛《じようらく》を待ち、江戸の同志が幕府老中・安藤|対馬守《つしまのかみ》など、幕府の閣僚たちを暗殺する。
次に、九州の同志は京都において、幕府と仲のよい九条|関白《かんぱく》を殺し、京都所司代も血祭にあげる。
こうしておいて、久光のひきいる薩軍をおしたて、長州藩とも手をにぎり合い、天皇の勅旨を仰いで幕府を倒し、外国勢力を国内から追いはらおうというのであった。
そのようなことが、うまく行く段階ではない。
徳川幕府にしても、
「このままでは、いまの時代を乗りきることは出来ぬ」
反省もしている。
何とかして政局を安定させたいと、努力もしているのだ。
第二に、孝明天皇自身が、幕府の真剣な態度を見て、
「国内における騒乱は好まぬ」
と、いわれているではないか。
幕府も天皇をうやまい、手をつくして、京都に静穏をもたらそうとしている。だから勤王浪士たちへの警戒もきびしい。
幕府自身、天皇をいただいて政治をおこなうという気持になっているのだ。
〔公武合体〕という考え方が、これである。
島津久光も、この考え方であった。
五
大久保市蔵が、急ぎに急ぎ、大坂藩邸へ入り、
「西郷どんな、何処じゃ」
いきなり訊《き》くと、
「伏見屋敷へまいられました」
とのことである。
翌朝、大久保は、騎乗で伏見にある藩邸へ駈け向った。
伏見といえば、京都といってもよいほどである。
それだけに、大久保は不安であった。
藩邸に着くと、西郷は、村田などの部下をひきつれて、宇治の万碧楼《まんぺきろう》へ酒をのみに出かけたというのだ。
「すぐに使いをたてろ。西郷どんを呼びもどせ」
夕方近くなって、西郷吉之助が伏見藩邸へ帰って来た。
「吉之助どん。おはんな、なぜ下関で待っておらなかったのでごわす。久光公の怒りは、そりゃきびしい」
「わかっちょりもす」
「わかっちょるちゅて……」
冷静な大久保市蔵が、このときはこめかみ[#「こめかみ」に傍点]に青すじを浮かせ、
「おいどんの身になって下さらんか」
「わかっちょりもすよ」
西郷は、びくりともしない。
肚《はら》をきめてしたことだから、どんな事態に直面しても覚悟はついている。ということは、いざとなれば死ぬ気なのだ。
大久保も、すぐにそれを知った。
「吉之助どん。それじゃ、おはんは、勤王浪人どもと共に、騒ぎを起すつもりごわすか」
「いや、違《ち》げもす」
「何……」
「実はな、市蔵どん。下関まで来ると、九州諸藩から脱け出した連中が続々と京へ向っておるのを知って、おどろきもした。今度のことは、あの連中も命がけでとりかかっちょる。それでな、おいどんをかつぎ出し、久光公の出馬を乞うというわけで、そりゃもう大変な勢いごわした」
「なぜ、止めてくれぬのじゃ」
「いや、止めるために、あの連中と一緒になっちょるのでごわすよ」
「何ですと──」
「放っておいたら、何をするか知れたもんじゃごわはん」
「ふむ……」
「せめて、おいどんな、あの連中の中へ入っておれば、いざというときに、何とかうまい仕方もあろうかと思いもしてな、そいで、一足先に、こちらへやって来たちゅわけじゃ」
「なるほど……なれど、西郷吉之助が先頭にたち事を起そうとしちょるという噂が、大坂屋敷にもひろがっておりもすぞ」
「そんなことだろうと思うていたが、ともかく、あの連中な、決死の覚悟じゃ。もう、しゃにむに幕府を倒してしまえちゅて、公武合体なぞという生ぬるいやり方では、とても、あの連中を納得させることは出来もはん」
「まだ早い……早まってはならぬ」
「だから、おいどんが連中の中へ飛びこんだのじゃ。さいわい、一同のものは、みな、おいどんをたのみにしてくれちょる。いざというときには、おいどんも死ぬつもりで、連中の爆発を食いとめるつもりごわした」
「わかった……よう、わかりもした」
ここで、大久保も西郷の心がわかった。
そして、偉いと思った。
偉さにもいろいろあろうが、西郷吉之助という人物は、この動乱期を切りぬけ、最後まで生き残って出世しようとか、名誉を得ようとか、そんな気持がみじんもないのだ。事に当たって計算をしない。自分が死んでも、これはやるべきことだと思ったら、いささかのためらいもなく死地に飛びこんでしまう。
(俺にも、このまねだけは出来ぬ……)
大久保も、つくづくと頭が下がったが、
「なれど、吉之助どん。覚悟してもらいたい」
「久光公のお怒りのことか?」
「いかにも──」
「せっかく、おはんの骨折りで島から帰れたのに、このようになり、おはんにはすまぬと思うちょる」
「仕方ごわはん」
「それで……?」
「おそらく、久光公は、おはんを呼び戻されることと思《おめ》もす」
「また、島流しごわすか」
「…………」
「それもよか。何ちゅうても、久光公な、先代様(斉彬)とは器量がちげもす。あれでは駄目じゃ。何事にも慎重にすぎて、事をはこぶに力がない。お利巧なのかも知れぬが、そげなことで、このむずかしい時代は乗りきれもはん」
西郷も久光がきらいであるから、思わず忿懣《ふんまん》が出た。
薩摩藩の西郷吉之助でなかったら、一個の人間として、今度の勤王浪士たちの企てに身を投じたいようにも、大久保から見て感じられる。
「じゃが、おいどんが居なくなれば、連中を押えるものが無くなる。それは、おはんも承知しておいてもらいたい」
と、西郷は釘《くぎ》をさした。
ともかく、先ず久光の怒りをとくことが第一であると考えた大久保市蔵は、西郷を東上して来る久光に会わせて詫《わ》びさせようとした。
西郷吉之助が兵庫(神戸)へ到着した島津久光を出迎えたときには、すでに、
「吉之助めを鹿児島へ戻せ。いずれ罪状を定める」
久光の怒りは頂点に達していた。
これを知って、大久保は西郷と共に自殺をしようとしたそうである。
いくら、大久保が弁明につとめても、
「余をあなどる吉之助を放ってはおけぬ」
久光は、頑として聞きいれない。
「おはん一人を罪におとすことは出来もはん。一緒に死んでくれ」
大久保も珍しく感情的になって、西郷に言うと、
「何言うか! 市蔵どん。おはんが死んだら後はどうなる。俺《おい》もおはんも死んでしもうたら、亡き斉彬公の御遺志を誰がつぐのじゃ」
かえって、西郷のほうが冷静になり、大久保をいさめた。
こうして、この年の六月に西郷吉之助は徳之島へ流され、村田新八は鬼界《きかい》ヶ島へ流罪。もう一人、西郷について出て来た森山新蔵は鹿児島へ送られ、自殺してしまった。
それは後のことであるが、西郷が鹿児島へ護送された後でも、問題は残っている。
いや、西郷吉之助が罪をうけて薩摩へ戻されたと聞き、京坂にある勤王浪士たちの憤激はつのるばかりとなった。
「もはや、薩摩をたよるべきではない。島津久光たのむにたらず。よし、こうなれば、われらだけで事を起そう」
西郷の予言の通りになったのである。
六
久光の供をして行列にあった有馬|新七《しんしち》は、大坂藩邸についてから、一味に加わった。
新七は、中村半次郎と同じ薩摩郷士の家にうまれたが、やがて、父親・四郎兵衛が城下侍の有馬家をついだので、二十歳のころから江戸屋敷へつとめるようになり、精忠組の中では、もっとも激しい勤王運動を行なってきた男である。
この有馬新七が先にたち、田中河内介と相談した結果、長州の勤王派とも手をむすんで、四月十八日の夜、九条関白と京都所司代の酒井公を襲撃し、クーデターに火をつけようときめた。
これより先、島津久光は、京都の近衛《このえ》忠房《ただふさ》の座敷において、中山忠能、正親《おおぎ》町実愛《まちさねなる》、岩倉|具視《ともみ》などの公卿《くげ》列席の上で、九カ条の建言書を提出した。
その大要は……。
一、幕府からにらまれている青蓮院《しようれんいん》宮と、左大臣近衛|忠煕《ただひろ》の謹慎をとき、同時に幕政改革を容易ならしめるため、徳川慶喜、徳川|慶勝《よしかつ》、松平慶永の謹慎をとくよう、皇室から幕府へおおせわたされたい。
二、そして、近衛左大臣を関白職につけられ、松平慶永を幕府大老に任ずるよう、これもおおせわたされたい。
三、現老中、安藤|信正《のぶまさ》をやめさせるよう、おおせわたされたい。
天皇の威光をもって、右のようなことを徳川幕府に言いわたしてもらいたいというものであった。
「生ぬるい」
精忠組の人々は、こう叫んだ。
四月十八日に決行しようとした襲撃計画は、大坂藩邸の監視がきびしくなったので、一日一日とのびた。
だが、一同はたくみに、少しずつ藩邸をぬけ出し、二十二日の夜から二十三日の朝にかけて、大坂・八軒家《はちけんや》の船着場へ集合し、淀川《よどがわ》を舟で上って京へ向った。
田中河内介はじめ諸方の志士たち十余名と、薩摩藩士など九州の志士たち三十余名が、伏見の旅宿・寺田屋へ集まったのは、二十三日の夜である。
寺田屋に顔をそろえ、腹ごしらえをすまし、これから京都へ乗りこもうというわけだ。
大坂藩邸でも、ようやくこのことを知って、すぐさま京都藩邸へ騎馬の使者が飛ぶ。
「けしからぬ者どもめ!!」
島津久光は、すぐさま、「みなのものを引っ捕えよ」と命じた。
中村半次郎が、大久保市蔵の進言によって、伏見へ向う藩士たち九名の中へ加えられたのも、こういうわけからであった。この九名は、いずれも薩摩では名の通った剣士ぞろいである。
「いざというときに、九名では少なくないか」
大久保が言うと、大山|格之助《かくのすけ》が、「多勢で行くと、かえって向うも気がたかぶり、騒ぎが大きくなるばかりでごわす。これだけで充分」と、答えたという。
そこで大久保は、半次郎を供のかたちでつけてやることにしたのだ。
二手に別れ、伏見へついた一行は、間もなく、寺田屋に志士たちが集結していることを探り出した。
寺田屋は、伏見における薩摩藩の定宿である。
伏見の町の南端、宇治川の流れが堀川となって町へ入り込むところ、蓬莱橋《ほうらいばし》の船着場の近くに、寺田屋はあった。
すでに四ツ(午後十時)に近い。
「お前《まん》、此処《ここ》に待っちょれ」
寺田屋の少し前まで来ると、奈良原喜八郎が、半次郎に言った。
「なぜごわす?」
半次郎は、不満である。
「なぜでも、よか!!」
森岡善助という藩士が、ぴしりときめつけた。
殿様じきじきの命をうけて、うまく一同を捕えて京都屋敷へ帰るか……または反抗する一同と斬合いになるかという、必死の役目なのである。
それだけに、芋侍の半次郎を中に入れては、城下侍の名にかかわると思っているらしい。
(ふうん……)
半次郎は厭《いや》な顔をした。
彼等の気持が、痛いほどに、わかったからだ。
「なんちゅう顔をするかッ」
江夏仲左衛門《えなつちゆうざえもん》というのが、半次郎を叱りつけた。
そのとき、大山格之助が半次郎に近より、
「おはん、此処で、見張りをしていてくれ」
「見張りごわすか……?」
「不満か?」
「…………」
大山は、にこりとした。
小肥りの血色のよい男で、眼が大きく愛嬌《あいきよう》がある大山格之助だ。
「こっちへ来い」
蓬莱橋のたもとへ半次郎をひっぱって来て、大山が、
「斬合いの物音が聞こえたら、飛びこんで来いよ」
と、ささやいた。
半次郎の眼がかがやいた。
「まことごわすか?」
「まことじゃ」
「はっ」
「おはんの腕前な、俺はよう知っちょる。いざとなれば、おはんがいてくれると心強い」
「大山さア……」
半次郎は感動した。
「待っちょれ。な……」
「はいっ」
岸辺の柳が、夜風にそよいでいる。
もう夏といってもよいほどに、むし暑い夜であった。
伏見の町は、森閑と寝静まっている。
しかし、寺田屋の部屋という部屋には灯がともり、このむしむしするのに閉めきった雨戸の隙間から、その灯がもれている。
遠くで、火の番の打つ拍子木の音が鳴っていた。半次郎を残した八人は、いささかの躊躇《ちゆうちよ》もなく、寺田屋へ乗り込んで行った。
七
八人の藩士たちが、寺田屋の戸を開けさせ、中へ入って行くのを見送り、
「くそ!!」
中村半次郎は足をふみならし、
「こげなときにも、芋侍がついてまわるのか──」
あたりいちめんに、唾《つば》をはきちらしながら口惜《くや》しがった。
そこへ、京橋の方向から人影が駈《か》けよって来た。
「何|者《もん》かッ?」
「おう──半次郎か。俺だ、上床源助だ」
上床は身分もかるいものだが、先に入って行った鎮撫使《ちんぶし》のうち鈴木|勇《ゆう》右衛門《えもん》の部下だった男である。
鈴木の身を心配し、強引に願いでてゆるされ、後を追って来たものだ。
「おはんは見張りか。たのむぞ」
上床源助も、さっさと寺田屋へ飛びこんで行った。
半次郎は舌うちをした。
身分が軽くても上床は〔城下侍〕である。郷士の半次郎とは、ぬくべからざる差別がついているのだ。
このとき、寺田屋の前の蓬莱橋の向うから、物音がおこり、近づいて来た。
(何じゃ?)
半次郎は、橋のたもとまで駈けて行って見て、
「何だ、荷車か──」
荷物をつんだ数台の牛車が提灯《ちようちん》のゆらめきと共に、こちらへやって来る。
土をかむ車のきしむ音が、かなり高い。
すでに、このとき、寺田屋の内部では談判が決裂をしていた。
鎮撫使たちは、まず、有馬新七を寺田屋階下の一室へ呼び出した。
有馬が薩摩藩・精忠組のうち、今度の企てに加わったものの中で、もっとも指導的な立場にあるものと見たからである。
「ともかく、行って来る。おはんらは、静かにしておれ。よいか」
有馬新七は、同志たちへ言いわたし、階下へ降りて来た。
二階の部屋には、精忠組をはじめ九州諸藩から集まった勤王志士三十余名が、鎖《くさり》かたびら[#「かたびら」に傍点]や籠手《こて》、脛当《すねあて》などの武装を身につけ、襲撃の仕度を急いでいる。
階下には、田中河内介や真木《まき》和泉《いずみ》など十数名が、これも仕度の最中であった。
真木和泉は、筑後《ちくご》・久留米《くるめ》の神官で、これも河内介と同様、熱烈な勤王論者である。
有馬新七を階下の一室にむかえた鎮撫使たちは、
「久光公の御命令じゃ。くどくは言わぬ。この際、暴挙はならぬ。すぐに京都屋敷へ出頭してくれ」
まず、奈良原喜八郎が、おだやかに言った。
「いやじゃ!!」
断固として、有馬新七は首をふる。
有馬のうしろから、田中、柴山、橋口の三名が入ってきて、
「帰れ」
「おいどんたちが、のめのめと戻ると思うか」
口々に言いつのる。
互いに、あたりへ気をかね、声を殺してはいるのだがたちまちに双方の間が険悪となった。
「おはんら、それでは、久光公の御命令にそむくというのだな」
とどめをさすように、奈良原喜八郎が言うと、
「仕方ごわはん」
有馬も屹《きつ》となり、
「すでに、われらは事をあぐるべく、此処に集まっておる。われわれの中には薩摩藩士のみか諸方の勤王志士がふくまれておるのだし、今さら、おいどんたちだけが身をひくことな、ゆるされぬ。いまや、この命をささげ、日本の国と天皇のために事を起さんと……」
「いったい何をするつもりじゃ、おはんらは……」
「うむ……」
有馬新七は黙った。
この寺田屋に一同が集まってから、襲撃計画は、かなりの変更をみたのである。
はじめの計画では、まず九条関白邸を襲撃することになっていたのだが、
「手ぬるい。どうせやるのではないか、もっと大きなところを狙うべし!!」
「こうなれば、二条の城を攻め取ってしまえ」
ということになったのだ。
二条城は、京都における徳川幕府の象徴である。将軍が京へ来たときの居城でもあり、皇室へ向って、幕府の威風を誇示するために築かれたものであることはいうをまたない。
襲撃計画は、当初のものよりも大きくふくらんできていたわけだ。
いくら「何をするつもりか?」と問われても、この計画をもらすことは出来ない。
たがいに言葉も少なくなり、話し合っても駄目だという空気が濃密となってきた。
連れ帰れぬときは斬れ、と命ぜられた鎮撫使たちである。
たちまちに、双方の眸《ひとみ》が、じわじわと殺気をはらんできた。
「よし」
奈良原喜八郎が、片|膝《ひざ》をたてた。
「おはんら、君命にしたがわぬとあれば、上意討ちにするぞ」
声は低いが、すさまじいひびきがこめられている。
「やむを得ん」
むしろ、有馬新七の方が叫ぶように答えた。
このとき、蓬莱橋を渡りきった牛車の列が、ちょうど寺田屋の前を通りかかっていたので、室内の会話は、廊下をへだてた一室にいる田中河内介たちにも、二階廊下で息をころし、階下の様子をうかがっている精忠組の人々にも、よくは聞こえなかったらしい。
ともかく、有馬が「やむを得ん」と叫んだ瞬間であった。
奈良原の右手にいた道島五郎兵衛《みちじまごろべえ》が、
「上意じゃ!!」
わめくと共に、有馬の左側にいた田中|謙助《けんすけ》の頭から額にかけて、抜討ちに斬りつけた。
ばさっ……と、音をたてて田中の頭から血がふいた。
「やあっ!!」
道島の「上意じゃ!!」の叫びが終るや否や、山口|金之進《きんのしん》が、激烈な気合と共に柴山愛次郎の首のつけ[#「つけ」に傍点]根へ斬りつけた。即死である。
奈良原と有馬が、ぱっと立って抜き合わせたのも、ほとんど同時であった。
「新七、覚悟!!」
「おう!!」
奈良原の打ちこんだ刀を払ったとき、有馬新七の刀が鍔元《つばもと》から折れて飛んだ。
「くそ──」
だだっ……と廊下へ身を転じた有馬の前へ、道島五郎兵衛が刀をふりかぶって立ちふさがると、有馬は、猛然と道島の躯《からだ》へ組みついていった。
「何ン事じゃ?」
「まだ、もめとるのかッ」
「追い返してしまえ!!」
二階にいた精忠組のうちの二、三人がやっと階下の物音の異常さに気づき、階段を降りかけて来るのへ、下に待ちかまえていた大山格之助が、
「ええい!!」
飛鳥のように躍りあがって斬りつける。
せまい寺田屋階下の廊下と部屋が、飛びはねる血と、入り乱れて刃をふりまわす人々と、怒号と叫喚にぬりつぶされた。
八
しかし、斬合いは、あっという間に終った。
土をかむ牛車の音が寺田屋の前から遠ざかったとき、
(や……?)
半次郎も寺田屋内の気配に気がついて、あわてて中へ飛びこんで行ったときには、すべてが終っていた。
斬合いで、血みどろになりながらも、奈良原喜八郎は、自分の刀を大小ともに放り捨てて、
「有馬新七ほかのものは、いずれも、君命にそむいたによって、上意討ちにしたぞ。おはんらは、このような、同じ薩摩のもん同士が殺し合うような、馬鹿なまねはせずに、いさぎよく、久光公のもとへ帰ってくれい」
ぱっと双肌《もろはだ》をぬぎ、身に寸鉄もおびずに、只《ただ》ひとりで二階へ上がって行ったものだ。二階にいた人々は、この奈良原の決死のふるまいに気をのまれ、茫然《ぼうぜん》としている。
ここで、ようやく話合いのめどがついたのであった。
「ともかく帰ってくれ。よいか、おいどんだとて、久光公だとて、勤王の志《こころざし》に変るところはない。よいか、明日にも……明日にも、わが薩摩藩は、おはんらの志を無にせず、共に起《た》って事をはかるつもりなのだ。しかし無謀のふるまいはいかん。正々堂々とやろう。な、わかったか!!」
奈良原も今は必死だ。
これ以上の惨劇は、ぜひにも喰《く》いとめたいという一心で、とっさの嘘をついた。
これで、殺気がゆるんだ。
田中河内介や真木和泉も、奈良原に説得をされ、
「久光公も、われらに御同意とあるからは、悪しきようにもなさるまい。ここは一応、京の薩摩屋敷へ、一同そろって参ろうではないか」
と言い出した。
「奈良原は嘘をついちょるのだ」
「どっちにせよ、久光公では頼りにならん」
などと叫ぶものもいて、かなりの時間もかかったが、夜の明けぬうちに、残りの者四十余名を、鎮撫使たちは京都屋敷へ連れて行くことを得たのである。
この夜の寺田屋における薩摩藩志士たちの死傷者は、有馬新七をふくめ、八人であった。
このうち、生き残ったのはわずか二名だが、これも翌日には、久光から切腹を命ぜられている。
鎮撫使《ちんぶし》のほうでも、道島五郎兵衛が即死し、残ったものも、ほとんど手傷をうけていた。
京都藩邸に収容された薩摩志士たちは、やがて、鹿児島へ護送せられた。
「奈良原め、嘘をつきおった!!」
口惜《くや》しがったが、もうどうにもならない。
二十二名の志士たちは帰国謹慎を命ぜられ、大坂から海路をとって鹿児島へ向った。
この中には、西郷吉之助の弟・慎吾《しんご》も入っているし、後年、陸軍元帥となった大山|巌《いわお》も入っている。
そして田中河内介も、息子の瑳磨介《さまのすけ》と共に、これは〔保護〕という名目で、同じ船に乗せられ、鹿児島へ向うことになった。
ところが、船が小豆島《しようどしま》沖を通行中に、田中父子は船中において護送の薩摩藩士の手にかかり、殺害されてしまった。
保護をしてやろうといって騙《だま》した上、なぶり殺しにしてしまったのである。
二人の死体は海に投げこまれたが、翌朝、小豆島・福田の海岸に流れついた。
河内介父子の無惨きわまる殺され方に、福田の村人は口もきけなかったという。
この事件は、たしかに、島津久光という人物へ汚点をつけてしまったといってよい。
「だから、おいどんは、亡き斉彬公とはくらべものにならぬお人じゃと言うていたのじゃ。田中父子は、中山|大納言《だいなごん》の家来ではないか。となれば、朝廷につかえるものの一人じゃ。これを騙し討ちにするなぞとは……もはや久光公の勤王論なぞに、おいどんは耳をかさぬ」
後に、このことを知った西郷吉之助は、久光のやり方に悲憤の叫びをもらしている。
ちなみに言っておくが、田中河内介は、明治天皇の生母の実家である中山家の家臣として、幼年時代の明治天皇の養育係をつとめたほどの男であった。
薩摩藩を主軸とする一派と合流して事を起そうと、京都に待機していた長州藩の志士たちも、このさわぎとなったので、ちりぢりに京を脱出したが、
「もはや、薩摩をたのんではならん。われわれの手だけによって幕府を倒すことを考えるのだ。島津久光あるかぎり、薩摩藩の勤王は物にならぬ」
見切りをつけられてしまったようである。
余談になるが、田中河内介の、薩摩に対する恨みは、現代になっても、消えず、折にふれて、河内介の亡霊があらわれるそうである。
筆者も、その経験談を、亡き新派の名優・喜多村緑郎《きたむらろくろう》氏の口から聞いたことがある。
つまり、それほどに、寺田屋騒動の事後処理についての薩摩藩のやり方は天下の悪評をこうむった。
志士たちの計画は失敗に終ったが、この事件は、多くの勤王志士たちの革命思想を、もっと強烈なかたちにして行くための大きな原動力ともなったのである。
ともかく、島津久光の怒りは激しいもののようであった。
「余の命をきかぬ者どもを、この際、じゅうぶんに懲らしめてくれる」
亡き兄の斉彬をしたい、ともすれば勝手な言動に流れ自分の言うことをきこうともせぬ一部の家来たちに、久光は、かねてから業をにやしていたのであろう。
「今度は、ゆるせぬ!!」
家来への激怒が田中河内介へ向けられたのにも、理由がないとはいえぬ。
西郷以下の過激分子を全部殺してしまったら、家来たちの中に、どんな反動が起きるか知れたものではないからだ。
ともかく、この寺田屋騒動の後始末については、明確な事実が浮かび上がってこない。
殺すにもよりけりである。
自分の家来でもなく、しかも公卿《くげ》につかえる田中父子を、切ったり刺したり、なぶり殺しにして海へ放りこんだのだ。
武士のなすべきことではない。
そのようにして殺せと、久光みずからが命じたのかどうか……。
そしてまた、そのように殺されるだけの理由を、何か田中河内介が持っていたものか……。
あるいは、久光以外の黒幕が、このような一幕を演出したものか……。そのあたりまで深くさぐって行くと、一切は不明なのである。
どちらにせよ、田中河内介の殺し方はまずかった。
島津久光の株が下がったことだけは、たしかである。
だが、当時の中村半次郎は、そのような、むずかしい問題にまで首をさし込む暇もなかった。
彼は、相変らず雑用に追いまわされていた。
けれども、寺田屋へおもむいた鎮撫使一行の供をして行ったということだけで(大久保さアは、俺の、この腕を買《こ》うてくれちょった。これからも、きっと、俺の働けるときが……手柄をたてるときがやって来るに違《ち》げなか)
胸は、期待ではちきれそうであった。
吉野の村にいる母や妹や……そして、宮原の幸江の声や、ぬめやかな肌の感触や、愛撫《あいぶ》し合ったときの、さまざまな仕種《しぐさ》なぞを、半次郎も思い出さぬわけではなかったが、
(西郷さアは、どげにしておらるるのか……)
まず、頭にうかぶのは、久光の怒りにふれ、またも島へ流されてしまった西郷吉之助のことなのである。
たまりかね、半次郎は藩邸の奥に起居し、藩務にあたっている佐土原英助を呼んでもらい
「西郷さアな、どうなるのでごわす?」
と、訊《き》いてみた。
「わからぬ」
英助も、顔をしかめ、
「まったく、これから先、どうなって行くのか、俺《おい》にもさっぱりわからん」
「そげに、お怒りが、ひどいのでごわすか?」
「うむ?……あ、久光公のか?」
「はあ」
「いかに久光公が西郷さアを嫌《き》ろうておられても、あの人を島に流したままで捨ておくわけにはいかぬ」
「では、いまに罪をゆるされて……」
「うむ。大久保さアも、そのことについては、いろいろと考えておられることじゃし……ま、安心しちょれ」
「それ聞いて、ほっとしもした」
「どうじゃ、元気でやっちょるか?」
「はあ」
「使いまわされて、骨が折れるだろう?」
「何、故郷《くに》で働いていたときの半分も躯《からだ》をつかわんので、ほれ、この通り肥《ふと》ってきもした」
「ほんとうじゃ」
藩邸の東の内玄関を出た土塀によりかかって、佐土原英助は、まぶしそうに空を見上げた。
太陽は、すでに夏の輝きをもっていた。
「京の夏は暑いというが……」
と、佐土原英助が言うのと半次郎が、
「京の女は、きれいごわすなあ」
そのつぶやいたのが、同時であった。
若い二人は、声をたてて笑い合った。
「きれいじゃが、何となく細い躯つきでたよりないようには思わんか、半次郎どん──」
「俺が、この両腕で抱きしめたら、折れてしまいそうな躯つきごわすが……じゃが、きれいごわす。色の白いことというたら、まったくもう、何とも……」
外へ使いに出ても、まず半次郎の眼をうばったのは、京の女たちであるといってよい。
天下に鳴る京の風光の美しさを感ずるようになったのは、もっと後になってからで、
(女ちゅもんにも、こげな女があったのか……)
半次郎は町を歩くたびに、きょろきょろと眼をうばわれ通しだった。
往古からの皇都としての洗練が、町にも風景にもあるように、人にもある。
たくましい吉野の村の女たちが洗いざらしの木綿の着物をつけ、土にまみれ、陽にやけて歩いているのとは、わけが違うのだ。
女たちの衣裳《いしよう》の色彩の、何と多種多様であることか……。
その衣裳をまとった女たちの肉体の、なよやかな動きに、紅をぬった小さな唇に、細い腰に、半次郎は嘆息をもらすばかりであった。
間もなく、中村半次郎は新しい役目についた。
大久保市蔵の抜擢《ばつてき》によるものである。
この役目についたことは、半次郎の実力を発揮させ、これを諸方へみとめさせる最初の機会を得たことにもなった。
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へそ石餅
一
六角堂《ろつかくどう》の境内に、蝉の声が、うすくただよっていた。
「暑い。こりゃまた、何ちゅ暑さか。京の暑さには風ちゅもんがない」
中村半次郎は、六角通りの表門から境内へ入ってくると、いつものように、門内の左側にある茶店へ、
「ごめん」
と声をかけ、店の前の縁台に腰をおろした。
「おこしやす」
いつものように、腰がまがりすぎ、膝《ひざ》のすぐ上に顔を突き出している茶店の老婆が、半次郎の注文もきかず仕度にかかった。
やがて老婆は、夏|茶碗《ぢやわん》にうす茶をたて、菓子と共に運んでくる。
この菓子を〔へそ石|餅《もち》〕という。
一文銭ほどの大きさに求肥《ぎゆうひ》をまるめ、小豆《あずき》を三粒ほど散らした可愛らしいもので、白とみどりの二種を五つ六つ木皿にのせ、客に供すのである。
「あ……うまい」
半次郎のふとい指の間に〔へそ石餅〕が身をすくめている。
「ああ、うまい」
ゆっくりと一個を噛《か》みしめ、次いでうす茶[#「うす茶」に傍点]をのむ。これがまた何ともいえないのだ。
故郷にいたころ、甘いものといえば唐芋の甘味しか知らぬ半次郎であった。
高級な人々が茶の湯の席で味わうとかいううす茶[#「うす茶」に傍点]をのむのも、はじめての経験なのである。
淡い甘さの餅と、こころよい香りをたたえた緑色の茶とが、半次郎の口の中で渾然《こんぜん》となるとき、
「うまい!!」
思わず声をあげざるをえない。
半次郎から見れば、すばらしく高級なたのしみなのだが、京の都では、丁稚《でつち》ですら平気で茶店へ入ってきて、〔へそ石餅〕をつまみ、うす茶をのむ。
(さすが、皇都ごわすなあ)
見るもの聞くもの、すべて驚嘆の的でないものはない。
半次郎にとって、考えても見なかったこのたのしみがまた、まことに安直に購《あがな》えるのである。
いつであったか、佐土原英助に連れて行ってもらった藩邸近くの〔重六〕という饂飩《うどん》やの酒を一本のむ金で、〔へそ石餅〕が四皿も食べられるのだ。
悠々と腰をおろし、菓子をつまみ、うす茶を味わっていると、
(ふむ。俺も、これで、やっと一人前の侍になれた)
何となく出世をしたような実感も、わいてくる。
いや、たしかに、かつての中村半次郎とくらべれば、彼も薩摩藩士として立派に通用する男になったといえよう。
いまの半次郎は、藩邸での雑用に追いまわされることもない。
役目当番の日以外には、町中も歩けるし、六角堂でのささやかな愉楽にひたることもできるのであった。
六角堂は、錦小路の薩摩屋敷から、ひとまたぎのところにある。
六角堂とよぶのは、本堂の構造が六角づくりになっているためで、正しくは紫雲山・頂法寺という天台宗の寺院だ。
寺の歴史は古く、聖徳太子が六角の小堂を建立したのが起りだという。
「あの、東門の敷石のなかに、昔むかしのころの、このお寺の台石が残っておりましてなあ」
茶店の老婆が、そう言って、わざわざ案内をしてくれたことがある。
なるほど、南門外の敷石の中に、円形の石が埋めこまれており、その中央には往古の寺の柱か何かをささえていたらしい穴が穿《うが》ってある。
「この石を、へそ石いうていますので……」
「それで、寺の茶店が売る餅を、へそ石餅と名づけたちゅわけか」
「さようでござりますがな」
町なかにしては境内もひろい。
本堂をかこみ、塔頭《たつちゆう》や愛染堂、天満宮の社《やしろ》まであるのだが、妙なことに、鐘楼《しようろう》だけが六角通りをへだてた向う側にある。
つまり昔は、そのあたりまでが境内であったものらしい。
木蔭《こかげ》もあるし、参詣《さんけい》の人々も物日《ものび》以外にはあまりなく、しずかなのが、半次郎には気に入っていた。
役目についたので、藩からも手当が支給されたし、それに、どんな工面をしたものか、故郷の母親が金一両を送ってよこしたものだ。
「何かと入用もあろうから……」
と、母は手紙に書いてきている。
おそらく実家の別府家からでも借用したものであろう。
「婆さん。また、ちょいと寝かせてもらいもす」
「さあ、さあ。ゆるりとおやすみしとくれやす」
これもいつもの通りであった。
茶と菓子を味わったあと、半次郎は店の中の、幅のひろい腰かけに寝ころび、うとうとと故郷の思い出を追い、将来への希望をさまざまなかたちに托《たく》して夢にみるのが、ならわしとなってしまったようだ。
その日も、どれ位、昼寝をむさぼったことだろうか……。
「あの……もし……」
半次郎は、ためらいがちな茶店の老婆の手にゆりおこされた。
「何ごわす?」
「あの……あれを……」
「何?」
老婆が、ふるえながら指し示すところへ眼をやって、
「ふむ……」
半次郎は、のそりと起きあがった。
二
梅雨があけたばかりの空は、青々と晴れわたっている。
風は、ほとんどなかった。
まわりを山々にかこまれた京の夏は、冬の寒さと共に有名なものだ。むしろ、夏より冬のほうが風も出るし風速も大きい。
夏の日ざかりの一時は、京の町に人通りがゆるむ。
いまが、ちょうどそのころなのか、六角堂の境内には人の気配もない。
しかし、老婆が指し示した愛染堂のうしろの木立の中へ入って行った三つの人影を、半次郎は見のがさなかった。
浪人風の男が二人で、もがきぬいている若い女を押えつけ、木立の中へ吸いこまれて行ったのである。
「い、いま、東の御門から浪人衆が、あの娘をひっぱり込んで……」
老婆が、あえぐように言った。
「婆さんの知っている娘か?」
「いえ。知らしまへん」
「ふむ……」
助けてやるのは、わけもないことだと思ったが、町中での喧嘩《けんか》は藩から厳禁されている。
おとなしく浪人どもが手をひくことは、まずないといってよかろう。
ちかごろの京の町には、得体の知れぬ浪人が激増している。
ひとくちに勤王の浪士というが、肚《はら》の底からの革命家のほかに、この動乱の時代に乗じて何とか甘い汁にありつこうというものも多い。
戦国の世が終りをつげてから二百何十年もたっているのだ。戦争もないのに刀をさした侍という階級をもつ男たちの価値が下落したのは当然なのである。それでなくとも、権力を維持するため、徳川幕府は絶えず諸国大名の取りつぶしや左遷をおこない、そのたびに役職をうしなった侍たちが浪人となって流れ出る。
こうしたことが二百年もつづけられてきたのだから、浪人もふえるわけである。
したがって、幕府の無関心といってもよい浪人対策に浪人たちは不満と怒りを抱き、絶望と自暴自棄に身も心もさいなまれてきていた。
それが、いまや幕府に対抗する勤王派の活動は日ごとに激しさを加え、血なまぐさい事件が、江戸に、京に、頻発するという時代になってきた。
こういう時代に、あぶれ浪人たちがどのような動き方をするのか、くどくどとのべなくともわかろうというものだ。
勤王派の人々が、かえって、こうした浪人たちをあやつり、同志という名をあたえて、彼等をもっとも危険な場所に働かせるということもある。
浪人たちにしてみれば、のぞむところであった。
金もなく地位もなく、刀を腰にさしているだけで酒も満足にのめないという浪人たちが、
「幕府を倒せ!! 眼の青い毛唐どもを追いはらって、政権を天皇にお返しするのだ!!」
この叫びに酔い、命がけであばれまわるのも、無理はないところといえよう。
種をまいたのは、幕府自身なのである。
田中河内介のように立派な勤王家もいれば、その一方では、こうした勤王浪人もいたわけであった。
何しろ、命なぞ捨てるのは何とも思わぬという連中であるから、京へやって来ても、すべてに本能的な生き方をする。
たとえば、勤王派にとって邪魔な人物を殺そうとする場合、これらの浪人たちをひそかにあやつることは、もっとも賢明なやり方である。暗殺につかうばかりではなく、こうした浪人たちが京へ集まり「勤王だ!! 幕府を倒せ!!」と、叫びまわってくれるだけでいいのだ。それだけでも、土台のぐらつきはじめた幕府をおびやかすに大きな効果がある。
勤王かぶれの浪人たちには、どこからか金がふりまかれる。
浪人たちは、活気をみなぎらせて動きまわる。
幕府が頭をなやませたのは、京都市中の治安であった。
暗殺事件のみではない。町に住む庶民たちの生活までも、おびやかされはじめたからである。
名はあっても地位がなく、いわば浮浪の徒ともいうべき浪人たちだから、逃げてしまえばどこにも迷惑がかからないというので、無銭飲食はやる、廓《くるわ》の遊びの代金はふみ倒す、町娘や人妻を暴行する、いざとなれば刀をふりまわしてあばれまわる。
幕府は、京都に所司代をおいて市中の治安保持にあたらせているが、とてもとても手をまわしきれるものではない。
そこがまた勤王派のつけ目[#「つけ目」に傍点]であった。
あばれ浪人などに手をやいている幕府は、町民たちからも、その政治力のおとろえを指摘されるようになるからだ。
「ともかく、京の町なかにおいて喧嘩《けんか》口論なぞは一切することはならぬ。われわれは島津家七十七万石の家来である。このような、むずかしい世の中なのじゃから、ひょいとしたことが、御家の迷惑とならぬともかぎらぬ」
京都屋敷の重役から、藩士たちはきびしく言いわたされていた。
薩摩藩も、幕府と朝廷との間にたって何とか政局を安定させようとしているところだから、家来たちも、すでに慎重でなくてはならない。
「ふむ……」
と唸《うな》ってはみたものの、半次郎が手を出しかねたのも、そこであった。
まかり間違えば、女を助けるため、浪人たちと斬合わねばならなくなるかも知れぬ。
いくら封建の世でも、白昼の斬合いは重大問題だ。かくし終《おお》せるものではない。
いまの中村半次郎は、かなり重要な役目についている。
故郷にいたころ、城下侍に喧嘩を売ってあばれていたようなまねは、かたくつつしまねばならない。
「うむ、む、む……」
苦しげに、半次郎はうめき、べとべとする胸肌の汗を手でこすった。
飛び出して行きたいのを懸命におさえるためのうめき声である。
「あの……あのなあ……」
婆さんは、しきりに半次郎の袖《そで》をひく。
助けてやってくれというのであろう。
近くの番所へ行って役人を連れてくるのがいちばんよいのだが、そうしていては間に合わない。現代のように町角のどこにでも交番があるという時代ではないし、江戸市中からくらべると、当時の京の町の警察機関──ことに町民を守るためのそれは、まことにのびやかなもののようであったといえる。
「あッ……あ、あ……」
老婆が、口をもぐもぐさせ、両手を宙に泳がせるようにして、目をみはった。
木立の中から、よろめくように出てきた若い女が、愛染堂の横手の椎《しい》の木の根もとに倒れ伏した。
その後から、浪人二人が駈《か》け出して来て、またも、女を抱きすくめ、木立の中へ連れこもうとする。
「あッ」
叫んだのは半次郎ばかりではない。
老婆も叫び、おそらく浪人たちも叫んだことであろう。
浪人二人に引きずり起された女の手に、きらりと光ったものがある。
三
光ったものは、女が髪にさしていた銀の簪《かんざし》であった。けだものの手にかかるよりはと、その女が、自分の簪の足で喉《のど》を刺そうとしたのである。
「待て!!」
半次郎が茶店を飛び出した瞬間、たまぎるような女の悲鳴がおこり、女が、棒を倒すようにころがった。
「こらあッ」
もう我慢ができなかった。二人の浪人が逃げる間もおかせず、一気に半次郎は駈け寄った。
浪人の一人が歯をむき出し、身をひねりざま、
「何を、くそ──」
眼前へせまった半次郎をめがけて抜き打った。
鉄と鉄の噛《か》み合うすさまじい音がした。
「うわ!!」
横っ飛びに逃げた浪人の手から、刀が陽に光って宙に躍った。
斬りつけてきた相手の一刀を、半次郎が走りながら抜き合わせて撥《は》ね飛ばしてしまったのである。
「逃げろ!!」
右と左に、二人の浪人は鼠のように走った。
「待てい!! こりゃ──」
追いかけようとしたが、倒れている女を捨てておくわけにはいかない。
一人は東門から、一人は、本堂の前を突切り、彼方の西門から逃げ去るのを見送って舌うちをした半次郎も、すぐに、
「これ、しっかりせぬか」
女を抱きおこしてみた。
若い町娘である。故郷にいる妹の貞子と同じ年ごろに見えた。
びん[#「びん」に傍点]を張らせ、つと[#「つと」に傍点]をあげた京風島田の髪はむざんにみだれていて、白蝋《はくろう》のような細いおもての双眸《そうぼう》はかたくとじられ、小さな唇があらあらしく喘《あえ》ぎをたかめている。
半次郎の片手でひとにぎりにも出来そうな、しなやかなくび[#「くび」に傍点]にあふれてくる血が、うす青い夏|衣裳《いしよう》のえりもとへ流れていた。
一目見て、
(大丈夫じゃ)
と思った。
突きは突いても、十八か九の町娘のことだ。簪の足はななめに娘の肌を浅く裂いたのみであったが、衝撃がつよく、娘はあえぎうめいても半分は意識がないようである。
それにしても、よくこれだけのことが出来たものである。町娘なぞのよくするところではないと、半次郎は感心をした。
「婆さん、医者をたのンもす」
怒鳴りつつも、手早く半次郎は腰の手ぬぐいをとり、娘のくび[#「くび」に傍点]へ巻きつけていた。
表門と東門に、人声がした。
婆さんが駈けて行って、門前の町家のものや通行の人々に呼びかけたものらしい。
合わせて十人あまりのものが境内へ駈けこんできたし、本堂や塔頭《たつちゆう》からも寺僧があらわれた。
「お侍さま、その娘《こ》、死にはったのンで?」
と、婆さんは汗だらけの顔をゆがませる。
「いや、助かりもそ」
娘を抱きあげた半次郎が、
「誰か、医者を呼んでくやい!!」
叫んだが、薩摩なまりをまる出しにしたので、町の人々は、きょろきょろしている。
誰かが何か叫んだが、半次郎にも通じない。
興奮すると互いにお国言葉の調子になるものだ。
「さ、早《はよ》う」
まわりをかこみ、ざわめくのみの人だかりを割って、声をかけてきたものがある。
「おう」
半次郎は坊主だと見たのだが、
「近くに、わたくしの知り合いの医家がおいでじゃ。さ、早う」
「たのむ」
近寄ってから、その坊さんが女の坊さんであることに半次郎は気づいた。
(ふむ……)
先にたち、小走りに東門を出て行く尼僧は胸を張った立派な躯《からだ》つきで、肩もひろく腰もふとやかであった。
陽ざかりの通りへ出て、かるがると娘を抱きあげ、尼僧のあとから走る半次郎に町の人々も、ぞろぞろとついてくる。
走りつつ、半次郎は娘を見た。
ひそめた可憐《かれん》な眉《まゆ》、青ざめた肌、切なげに喘ぐ唇のわななきが、身ぶるいをするような情感を半次郎によびおこした。
(いかん!! 俺《おい》はどうかしちょる)
首をふって、半次郎は尼僧に追いつき、
「まだごわすか? まだか?」
「もうじきどすがな」
尼僧が、ふりむいて、にこりと笑った。
目にしみるような歯の白さだ。
化粧などはむろんしていないが、肉のあつい、それでいて彫のふかい健康そうな尼僧の顔は、うすく陽にもやけている。
ほのかな香の匂いと共に、汗ばんだ尼僧の体臭が半次郎の鼻先へただよい流れていた。
(宮原の幸江さアな、どげんしとるか……)
とたんに、そう思った。
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青蓮院衛士
一
その日も暑かった。
八ツ半(午後三時)になって、中村半次郎が同役の藩士九名と共に藩邸を出て行くと、表門の前で、佐土原英助に出会った。
英助は、公用の帰りらしく、白扇を頭上にかざし、つよい西陽をよけながら近づいてきて、
「おう、半次郎どん。これからか?」
「はい」
「御苦労ごわす」
微笑をかわし、すれちがって門内へ入りかけた英助に、
「佐土原さア。ちょいと……」
半次郎が声をかけておいて、伍長《ごちよう》の杉原|伝《でん》右衛門《えもん》に、
「すぐに追いつきもす」
と、ことわり、英助のそばへ駆けて行った。
藩士たちは半次郎を残し、伍長の杉原に引率され、四条通りの方向へ去った。
いま、半次郎は〔青蓮院衛士《しようれんいんえいし》〕という役目についているのだ。
粟田口《あわたぐち》にある青蓮院へ、十人の薩摩藩士が交替でつめ、警衛をおこなっているのである。
「何《なん》ごわす?」
英助が、門外へ戻ってきたのをつかまえて、
「どうも困りもした」
と、半次郎が頭をかいてみせた。
「何が?」
「どうしても一度、来てくれちゅうて、きかんのでごわす」
英助にも、すぐわかったらしい。
「あのことか」
「はあ、あのことごわす」
「行ってやれ、行ってやれ。何も、そげに困ることはなか」
「どうも、それが……」
事実、半次郎は、困りきっていたのだ。
六角堂境内で二人の浪人者に乱暴をされかけた町娘を救い出してから、半月ほどたっていた。
あのとき、六角堂近くの医者の家へ、娘をかつぎこんでおき、半次郎はすぐに藩邸へ引っ返してしまった。
医者への案内を買って出てくれた尼僧へ、
「では、あとのことをたのみもす」
半次郎が言うと、尼僧は、ぬれぬれとした眸《ひとみ》で半次郎の頭から爪先までながめまわし、
「お名前は?……そして、どこのお方どす?」
おちついた声できいた。
髪の毛がないだけに、半次郎から見ると、これは、いかにも豊艶《ほうえん》きわまる尼僧であった。
あざやかな血のいろが、ふっくらとした喉《のど》もとにみなぎっており、その下の、白衣につつまれてもりあがっている胸肌の美しさは、どんなだろうと、半次郎は思った。
あの、細い躯《からだ》つきの少女のような町娘が敢然と簪《かんざし》をぬいて自害をはかった見事さにも、半次郎は強くひきつけられていたが、その感動を精神的なものとよぶなら、尼僧に対するこのときの感動は本能的なものであったといってよい。
この春、鹿児島を出てから、目まぐるしいばかりの日常に追いまわされ、女といえば、たまに、故郷の母や妹、それに幸江のことを思いうかべていただけの半次郎だが、あの尼僧が発散するなまなましい女の匂いには、まったく閉口したものだ。
かっ[#「かっ」に傍点]と頭へ血がのぼってきて、ただもう、へどもどと、
「いや、その……名は……名のるほどのもんじゃごわはん」
「なれど、この娘ご[#「娘ご」に傍点]に後できかれたら困ります」
「いや、かまわん」
「そちらが、かまわんとおいやしても……そりゃいけませぬ」
「いかんことはない、名はごわはん」
言いすてて、半次郎は医者の家を飛び出した。
半次郎は娘を助けたとは、みじんも考えてはいなかった。
娘が、みずから喉を突いたので飛び出したのだ。
そのときまで、半次郎は上司の命令をまもり、じりじりしながらも決意しかねていたのである。
出て行けば斬合いにならぬはずはない。公務以外のことで、市中において騒ぎをひきおこすことは、いかなる理由があってもまかりならぬ、と厳命をうけている藩士の一人として、
(ここで失敗《しくじ》っては、元も子もなくなる)
せっかく、西郷吉之助に見出され、京へのぼることが出来たいま、半次郎は、何事につけ、おのれの熱い血の高鳴りを懸命におさえつづけてきたのだ。
芋侍と軽蔑《けいべつ》されることにも耐え、黙々と役目にはげんでもきた。
(おそらく、俺が出て行かずとも、あの娘の、あげな激しいふるまいを見たら、浪人どもも手をひいて逃げたにちげなか)
と、いまでもそう思っているほどだ。
名前を名のるなぞということは、はずかしくて出来たものではない。
むろん、藩邸へもどってからも、このことを半次郎は誰にも言わなかった。
それなのに、七日ほど前の昼すぎ、五条通り・富小路《とみのこうじ》にある扇子問屋の松屋佐兵衛というものが藩邸へあらわれ、
「実は、わたくしの娘が、薩州様の御家来に、危いところをお助けいただきまして──」
と、挨拶《あいさつ》にあらわれたのだ。
六角堂のあたりは、藩邸のすぐ近くだし、見物の中に、藩邸へ出入りする商人か何かがまじっていたのかも知れぬ。いつも門番をしていた半次郎を見おぼえているものの口から松屋が聞きこんだものであろうし、もちろん、六角堂の茶店の老婆は、名を知らなくても半次郎が薩摩屋敷のものだということは知っている。半次郎も、この老婆とは、よく世間ばなしをしていたからだ。
松屋佐兵衛に応対をしたのは小納戸《こなんど》頭取をつとめている吉井|幸輔《こうすけ》であった。
佐兵衛が申したてた容貌《ようぼう》容姿をきいて、
「それなら、半次郎じゃ」
と、すぐに吉井は思い当たった。
半次郎は、すぐに、吉井から呼びつけられた。
松屋は、涙をこぼさんばかりに礼をいう。
どうも、困った。
「よか、よか。何も悪いことをしたちゅわけのもんでなし──」
すべてをきき、吉井幸輔が笑いながら取りなしてくれたが、あとになり、あらためて呼び出され、
「何しろ、いまの薩摩藩な、いろいろな意味で天下の注目の的となっちょる。いまの世の中は、とるに足らぬ小さなことが大きな騒ぎをよぶ。おはんも、充分気をつけさっしゃい」
ほめられるどころか、念をおされた。
「はあ。おいどんも、それは……何も、礼に来んでもよいのに──」
半次郎も、松屋が来たことを、むしろくやしく思ったほどだ。
「まあ、よいわ」
吉井は、ここで、にっこりして、
「おはん、だいぶやったそうだな。その浪人者の刀を宙にはねとばしたちゅので、六角堂のあたりでは大評判だそうな──」
「いや、その……そげなことは……」
しきりに閉口をする半次郎を見て、吉井幸輔はかなり好感をもったようである。
そのときは、それですんだ。
ところが、それから毎日のように松屋佐兵衛が藩邸へやって来て、一度ぜひ、中村様に松屋へ来ていただきたい。娘の傷もだいぶよくなり、心ばかりの祝いの席をもうけたいし、家内も娘も、ぜひぜひ、お目にかかって、御礼申しあげたいと願っておりますので……と、いうのである。
そのたびに、吉井幸輔が応対するので、しまいには、吉井も、
「うるさくてかなわん。半次郎、非番の日に行ってやれ」
言いわたされたのが、今朝である。
仕方がないので行くことにしたが、一人では気はずかしい。
(別に、俺《おい》が助けたわけじゃない。助けたとすれば、あの娘のしたことが、あの娘を助けたのだからな)
その考えに変りはないのだが、吉井にも迷惑だし、松屋がやって来るたびに、藩邸のものから冷やかされる。
(そうじゃ、佐土原さアに一緒に行ってもらおう)
それなら、英助が松屋との応対をひきうけてくれるだろうし、何かにつけて心づよいというものだ。
半次郎は、あの娘に会うことが、何となく、おもはゆかったのである。
「そうか──」
佐土原英助は、すぐにうなずき、
「よか、ついて行ってやろうよ」
承知をしてくれた。
「あいがとごわす」
ほっとして、半次郎は先に行った衛士たちの後を追って駈《か》け出した。
二
青蓮院は、比叡《ひえい》山・延暦寺の別院である。
寺格も高く、天台宗の門跡《もんぜき》寺だ。
門跡寺というのは──むかし、宇多《うだ》天皇が住居せられた仁和寺《にんなじ》の御所を天皇崩御の後に〔跡門《せきもん》〕とよんだ、これが、その起りであるといわれている。
以来、法皇、皇子、皇族が住職となられる寺をさだめて、門跡寺とよんだ。
このうち、皇族のみが継承する寺を〔宮門跡〕という。
青蓮院は、この宮門跡の一つであった。
青蓮院宮とも、粟田《あわた》御所ともよばれるのは、このためである。
いまの門主は、伏見宮|邦家《くにいえ》親王の第四王子で尊融《そんゆう》親王とよばれる方であるが、これからは青蓮院宮の名称をもって書きのべることにする。
宮は、文政七年の生まれであるから、この文久二年で三十九歳になられる。
三年前に、ときの大老、井伊直弼が、勤王運動に大弾圧を加えた〔安政の大獄〕で、幕府に捕えられ刑死をした名ある勤王志士たちの信頼を一身に負うていられたのも、青蓮院宮であった。
このため、宮は、幕府からにらまれ、一時は相国寺《しようこくじ》におしこめられ蟄居《ちつきよ》の身の上となられた。
島津久光が上京し、宮を元通りに青蓮院へおかえしするよう、朝廷を通じて幕府に申し入れたことは、すでにのべた。
寺田屋騒動前後のことである。
幕府も、いまは強い態度をもちつづけているわけにもいかなくなってきている。
宮が蟄居をとかれ、青蓮院へ戻られたのは、この四月末であった。
このときから、薩摩藩では、
「宮をおまもりするよう、衛士をつめさせよ」
という島津久光の命によって、護衛隊を組み、青蓮院へつめさせることになった。
中村半次郎は、この衛士の一員に抜擢《ばつてき》されたのだ。
青蓮院宮は、孝明天皇から深い信頼をうけている。
何かにつけて、「宮をよべ」と、天皇はたよりにしておられる。
もちろん、諸方の勤王志士からうける人望も大きい。
寺田屋騒動のときも、
「まず、青蓮院宮をうごかし、宮の斡旋《あつせん》によって、幕府を倒せという天皇の宣旨をいただこう」
という決定がなされていたほどだ。
こういうわけで、青蓮院宮は幕府からも警戒をされている。
同時に、一部の志士たちからも、
「青蓮院宮を暗殺してしまわなくてはいかん」
という声が起こりはじめているのだ。
これは、なぜか?
いまのところ、孝明天皇は、
「この上、国内において、日本人同士が争い、血を流し合うことは、まことに嘆かわしいことだ。薩摩の島津久光も、皇室と幕府とが力を合わせて、国難を乗りきるよう斡旋をしているのだし、幕府もまた皇室に対して謙譲な心をもちはじめてきている。もはや、国内に騒乱の起こることを、朕《ちん》はのぞまぬ」
と言っておられる。
青蓮院宮も、この、まったく私心のない孝明天皇の国をおもい民をおもわれる心にうごかされた。
「何とか、この上は血を流さず、おだやかに国の政治をたて直したい」
という心になってきているから、島津久光を中心とする薩摩藩のうごきに大いに賛成をされ、
「すみやかに世の騒乱をおさめるよう」
と、島津久光にも親しく言葉をかけ、はげましておられる。
こうなると、何が何でも幕府を倒してしまわなくては新しい時代が生まれぬと心に決めている勤王志士たちは、
「あの宮がいたのでは、いつまでたっても埒《らち》があかぬ」
と叫び出すものも出てきた。
血を血で洗う革命前夜の時代であるから、手段はえらばない。
島津久光が、ついに、朝廷につかえる田中河内介を惨殺してしまったのと同じことで、勤王方が邪魔な皇族を暗殺してしまうこともありうるのである。
事実、宮が青蓮院へ帰られてから、寺のまわりをうろつく得体の知れぬ浪人者がふえた。
薩摩藩が、護衛隊を寺につめさせることにしたのも、およそ、こうした理由からであった。
三
その日、中村半次郎が佐土原英助との立ち話に手間どって、護衛交替の藩士たちの後から粟田口の青蓮院へ到着したのは七ツ半(午後五時)に近かった。
「何の用か知らぬが、おそいではないか!!」
番の伍長《ごちよう》・杉原伝右衛門が、半次郎を叱りつけた。
「すみもはん」
と、半次郎は丁重に頭を下げて、詫《わ》びを言う。
鹿児島にいたころの彼とくらべると、ずいぶん変ったものだ。
ただの暴れものではなかったのである。
一身をかける目的をつかむことが出来た半次郎は、
(ここで、俺《おい》は、父上のように失敗《しくじ》ってはならぬ)
かたく、自分に言いきかせていた。
すぐに、半次郎は身仕度をととのえ、青蓮院の警備についた。
身仕度といっても、藩から支給された袖口《そでぐち》のせまい麻の着物、黒の袴《はかま》の上から撃剣用の革胴をつけ、手槍《てやり》をかいこみ、紺の脚絆《きやはん》に草鞋《わらじ》をはくだけである。
鉢巻は、しめていない。
こうして、十人の衛士を二つに分け、交替に絶え間なく寺の内外を見まわるのだ。
青蓮院がある粟田の地は、東海道から京都への入口になっている。
東山三十六峰とよばれるうちの一峰、華頂山の西がわの山裾《やますそ》に、青蓮院の寺域がひろがっている。
南どなりは、知恩院であった。
宏大《こうだい》な知恩院の境内にくらべると、寺域はせまい。
これは、宮の住居をかねているためでもあり、皇族以外の関係を外にもたぬから、墓地もなく、仏像も少なく、種々の堂舎もない。
建物を見ても、寺院というよりは邸宅の感じがするのである。
背後に東山をめぐらし、前面の通りに勅使門がある。
この門は平常とじられたままだ。
通常は、通りから切れこんだ北門が使用されている。
宸殿《しんでん》、本堂、小御所、鐘楼《しようろう》、書院などからなりたつ主要な建物の奥に〔叢華殿《そうかでん》〕とよばれる二階建ての質素な別棟がある。
この叢華殿が、宮の起居される住居であった。
したがって、警戒も叢華殿を中心におこなわれる。
小さいが美しい奥庭に面したこの住居から青蓮院宮があらわれ、奥庭を散歩されることもある。
いつであったか、半次郎が昼間の当直のとき、奥庭の一隅に膝《ひざ》をついて、ひそかにあたりへ眼をくばっていると、
「これ──これよ」
すぐ上の小高いところにある好文亭という茶室から声がかかった。
「はっ」
半次郎は緊張をした。
少し前に、宮が、ひとり茶室に入られたのを知っていたからである。
「ここへ、おいで」
宮がよばれるので、おそるおそる茶室の前へ出て行くと、
「毎日、苦労をかける」
宮がねぎらわれ、うす茶[#「うす茶」に傍点]を一服たててくれたのには、半次郎もびっくりしたものだ。
「少し、薩摩の国の話でも聞かせぬか」
などと、まことにこだわりのない宮さまなのである。宮は、体格も立派だし、皇族というよりは武家のようにたくましい顔かたちであった。
半次郎は、いっぺんに、この宮さまが好きになってしまったものだ。
(俺《おい》がつめているかぎり、宮さまに曲者《くせもの》の指一本もささせるものか)
この半次郎の意気ごみは、その夜、現実のものとなった。
四
陽が西山に沈んでも、夏の夕空は、まだいくらか明るい。
(おや……?)
その男の顔を、半次郎は、どこかで見たと思った。
佐土原英助との立ち話で勤務につくのがおくれてしまい、伍長・杉原伝右衛門に叱りつけられた半次郎が、半刻《はんとき》ほど奥庭の警衛をしていると、
「おはん、今のうちに、めしを食べてこい」
奥庭へあらわれた同役の藩士が言った。
「では、願いもす」
「うむ。宮様は、何してござる?」
「御屋形《おやかた》の奥で御書見な、しておられます」
「よし、行けい」
「はあ」
交替してもらい、半次郎が奥庭の土塀についているくぐり戸をあけ、外へ出たときであった。
塀の外の道の向うに立っていた浪人風の男が、すいと身を返し、すたすたと表通りの方向へ歩きはじめたのである。
(どこかで見た顔じゃ)
そう思ったのも一瞬のことで、半次郎はすぐに駈《か》けよって行った。
「これ、これ──」
声をかけると、浪人者がにやりとふりむき、
「何でござる」
「おはん、此処《ここ》をどこじゃと思っちょる。青蓮院宮の寺の内ごわすぞ」
「ははあ……この道は、しかし……」
「寺の内の道じゃ。おはん、どこから入って来た?」
「表の通りからでござる」
「どこへ行く」
「別に……」
「別に?」
と、問い返した半次郎が目をみはり、
「おい、おはん。俺の顔に見おぼえはないか」
「ござらん」
「嘘をつくな。六角堂で町娘な、手ごめにしようとした二人のうちの、おはんは一人じゃ」
「知らん」
浪人は、眉《まゆ》もうごかさない。
とにかく怪しい男だ。
第一に、この細い道に入って来るまでには、藩士がつめている番所の前を通りぬけて来なくてはならない。
番所は北門のすぐそばにあるのだ。
「来い、とにかく番所まで来い」
「なぜでござる」
と言いながら、浪人者が、ゆっくりと右手を袖口へ入れ、ふところ手になった。
細道の向う側は高い石垣で、その上は樹木が鬱蒼《うつそう》としている。
その木立の中に、親鸞《しんらん》上人の遺髪塔がまつられてある。
半次郎は、この浪人者が、東山の方からぐるりとまわって、柵《さく》を飛び越え、遺髪塔がある区域へ忍びこみ、そこから、この細道へ下りてきたのだと感じた。
「来い。ちょいと来てくれ」
しずかに声をかけつつ、半次郎は浪人者の左わきへ、ぴたりと身をよせた。
細道をおおうように石垣の上の樹木が蔭《かげ》をつくっているので、夕闇が濃くただよっている。
「来い」
浪人者の左腕をつかみかけた一瞬であった。
「かかれ!!」
するどい一声を石垣の上へ投げておいて、浪人者が半次郎を左手で突き放し、ぱっと飛び退《さ》がった。
退がると共に、ふところ手の右腕をぐいと肌ぬぎにした浪人者の手に、短銃があった。
「えい!!」
二|間《けん》の距離を、いささかのためらいもなく飛びかかって、半次郎が抜打ちをかけたのと、浪人者の短銃が火を吹いたのと、ほとんど同時であった。
ばさっと、血がふいた。
浪人者の躯《からだ》が土塀にぶちつけられるように倒れた。
そのとき、石垣の木立を割って細道へ飛び下りて来た四、五人の人影が、夕闇の中を蝙蝠《こうもり》のように飛び交い、半次郎へ殺到してきた。
「む!!」
はっと目がくらみかけたが、するどい刃風をくぐり、体当たりに曲者《くせもの》の一人をはねとばして足場をつくると、さすがに鹿児島での鍛錬がものをいって、
「曲者じゃ!! お出合いなされ」
叫びつつ、こちらから猛然と半次郎は突進していた。
幅一間の細道である。
五人の曲者のうち三人が、くぐり戸をあけて奥庭へ飛び込もうとするのへ、
「えい、や!!」
せまい地形をたくみに利用し、半次郎が斬りつけた。
「うわあ!!」
「えい、や!!」
「ぎゃあッ!!」
たちまち、二名が棒を倒したようにのめった。
すさまじい早わざである。
人声が諸方で起こった。
奥庭につめていた衛士が、やっと入りこんだ曲者一名と争う物音が土塀の間からきこえたし、番所からも駈けつけてくる足音が、はっきりと半次郎の耳に入った。
「えい」
「おう!!」
二名を相手に、半次郎は闘った。
びいん……と音をたてて、曲者の一人の刀が半次郎の刀にはねとばされ、宙に飛んだ。
「逃げろ!!」
二人とも、必死で飛び退《の》き、細道を東に向って走り出した。
そこへ、三名の衛士が駈け寄り、
「曲者!!」
半次郎の前を駈けぬけ、追って行く。
半次郎は、すぐに奥庭へ入った。
宮の住居の廊下には四名の衛士が駈け集まり、いずれも刀をぬきはらって身がまえている。
奥庭へ入った曲者は斬り倒されていた。
「斬ったのか?」
半次郎が息もきらせずに言うと、
「仕方なか!!」
二人の衛士が吐き捨てるように答えた。
その曲者も、必死で宮のお住居へ斬りこもうとしたらしい。
捕える余裕がなかったのであろう。
細道を逃げた二人は、短刀で胸を突き、自殺をはかった。
すぐに取り押え、番所へ引きずって来たときには、二人とも絶命をしていたという。
五
この事件があってから、青蓮院衛士は昼間でも二十名にふやされた。
大胆にも五名ほどの人数で、しかも夕闇にまぎれ、青蓮院宮を暗殺しようとした浪人者がいたということは、まぎれもない事実なのであった。
夜になると、むしろ警戒はきびしい。
宮の御寝所のまわりを三名の衛士がぴったりとかため、さらに、叢華殿《そうかでん》の外まわりを四名がかためる。
残りの三名は、奥庭と北門口に別れ、夜に入ると藩邸から十名の別動隊がやってきて、寺のまわりをすっかり、かためてしまうのだ。
夜のほうが、むしろやりにくいと、曲者たちは見きわめをつけ、別動隊がやってくる前の夕刻をねらって忍びこもうとしたらしい。
以後は昼間二十名、夜間になると三十名の衛士が青蓮院をまもることになった。これを交替制にすると六十名の藩士が動員されることになる。
藩邸は、いろめきたった。
それにしても、中村半次郎のはたらきぶりは、藩邸でも評判のものとなった。
またたくような短い間に、三名の者を斬りふせたのである。
島津久光は、このころ、京を発って江戸屋敷にいた。
大久保市蔵も久光の供をして江戸にいる。
京都藩邸は重役の岩下|佐次《さじ》右衛門《えもん》がとりしきっている。
岩下は、みずから半次郎をよび出し、
「このたびのはたらき、見事であった」
ほうびに金一封をくれた。
浪人の曲者六名の死体からは、何の手がかりも得ることができない。
「きっと、長州藩にあやつられた無頼浪人どもであろう」
と、岩下佐次右衛門は見ていたようである。
「やったなあ、おい」
佐土原英助が、半次郎に、
「これでおはんの腕前も、はっきりと藩のものに知れわたったぞ。どうじゃ? 斬合いの心もちは?」
「何しろはじめてでごわしたから……」
「人を斬ったのは、はじめてか──」
「鹿児島で、そげなことしちょったら、いま、こうして、俺《おい》は京へなぞ来てはおられぬはずごわす」
「そうか──それにしても、おはん、ほんとうに強いのじゃなあ」
「いや、そげに言われては……」
「見えたか? 斬合いのとき、相手の刀が、顔が……」
「はじめ、ぱっと来られたとき、目がくらみかけもしたが、くそと思うて、足をふん張りもしたら、そこで、はっきりと見えてきもした」
「ふーむ」
英助は、うなって、
「三人もなあ、ようやれたもんじゃ」
「そうごわすか」
故郷にいたころ、あれだけの居合術をほとんど一人きりで会得するためには、半次郎も人には言えぬ修行をやってきている。
左手の人さし指と親指には無数の傷あとがあり、いまではその傷あとが重なりあって、何ともいえないかたちをつくっているのだ。
はじめのうちは、抜いた刀を鞘《さや》におさめるとき、鞘口を押えている左手を、めったやたらに傷つけたものであった。
ともかく、はじめて中村半次郎は人を斬った。
(あのとき、俺は、たしかに一度、くらくらと目まいがした。怖かったのかも知れぬ。あのまま目がくらみ放しでいたら、きっと、俺は斬られていたに違《ち》げなか)
半次郎は、そう思った。
このはじめての真剣勝負が、半次郎に絶大な自信をうえつけたのはいうまでもない。
(そうじゃ。いざというときには稽古《けいこ》したときのようにやればよか)
そこへ、剣士としての反省を割りきったのである。
やがて半次郎が、松屋佐兵衛の家にまねかれる日がきた。
六
扇子問屋・松屋佐兵衛の店は、五条橋の西詰を少し行った右側にある。
五条通りは、京の町を東から西へつらぬく大通りで、商家も多い。
松屋のかまえは、なかなかに大きく、使用人も多い。
約束の日の夕刻に、半次郎が佐土原英助と連れだち、松屋へ出かけて行くと、
「これはこれは、ようおこし下はれましたなあ」
主人の佐兵衛夫婦に、まだ喉《のど》もとをほうたいしている娘のたみ[#「たみ」に傍点]、それに番頭や丁稚《でつち》までが店先へならび、下へもおかぬありさまであった。
「佐土原さアに来てもらってようごわした。俺は一人じゃ、とてもいかぬ」
半次郎は、そっと英助にささやき、しきりに手ぬぐいで顔の汗をふいた。
二人は主人に案内をされ、店先から通り庭へぬけ、そこから座敷へあがった。
中廊下から二階への階段をのぼりかけ、半次郎は、がっしりと組み立ててある階段の横側が、一段ごとに引出しや戸棚になっているのを見て、
「ほう……こりゃ……」
目をまるくしたものだ。
この階段を〔箱段〕とよぶ。
京の民家に見られる独特のものなのだが、半次郎は、はじめて見た。
「ふむ。こりゃ、便利ごわすなあ」
つくづくとながめ、感服のていであった。
「何から何まで違うのう。薩摩じゃ御家老の屋敷でも、つくりはいたって簡単|至極《しごく》のもんじゃ」
と英助も、ものめずらしげにあたりを見まわす。
やがて、二人は二階座敷へ通された。
奥庭を見下ろす一間であった。とりはずしのきく京格子をはずした窓からは、暮れなずむ東山の峰々が、町家の屋根の彼方にのぞまれる。
「まわりに二階家がござりまへんよって、ながめはようござります」
と、佐兵衛が自慢をした。
酒がはこばれてきた。
料理も次々にはこばれる。
まず、汁は、じゅんさいの入った八丁みその汁で、粉山椒《こなざんしよう》をふりかけたものだ。
「うむ……こりゃ、何ごわす?」
半次郎にとっては、生まれてはじめての味覚なのである。
料理は、どこかの料亭から人をよんでつくらせたものらしい。
たで[#「たで」に傍点]と花丸きゅうりを、からし酢みそで和《あ》えた小鉢を見ては、
「ふうむ……こげな食べものがあったのでごわすか……」
美しい器物にもられた涼しげな料理の色彩と微妙な味わいに、すっかり半次郎は酔ってしまった。彼は生来、舌の感覚も敏感であったといえよう。
車えびに錦糸玉子をあしらった煮物にも驚嘆したし、あわびや水貝の鉢にもおどろきの声をあげる。
それが、いかにも天真らんまんとしているので、はじめは苦笑をしていた佐土原英助も、
「は、は、は……おはんちゅ人は、ま、何ちゅ人じゃ」
ずっと前に、吉野の太鼓橋の上で斬合いとなったとき、半次郎に言ったのと同じ言葉を何度もくりかえしては、
「この男な、こういう男ごわす。よか男でごわしょうが……」
佐兵衛をかえり見て、
「男がみても、この中村半次郎ちゅ男はよか男ごわす」
と言った。
食べるものに気をとられていた半次郎も、自分と佐土原の間へ、そっと入ってきた娘のたみ[#「たみ」に傍点]に、
「あの……お酌を……」
にっこりと笑いかけられたときには、体中に汗がふきあがった。
ぬれぬれと島田にゆいあげた髪の匂いに、半次郎は惑乱するばかりであった。
たみの、ほそい喉もとに巻きつけている浅葱《あさぎ》色のほうたいが眼にしみるような思いで、
「そ、それにしても、ようもあのとき、あれだけの思いきったことが出来たもんごわすな」
やっといった。
「へえ……」
たみは、はずかしそうに顔をうつむけ、
「うちも、そう思います」
つぶやくように答えた。
「とにかくも、中村様がお助け下されませぬでしたら、この娘も、どうなっていたやら……それ思うたびに、ぞっとしますがな」
うちとけてきた佐兵衛が口をはさむと女房のりん[#「りん」に傍点]も、
「おたみ、中村様は、お前の命の恩人や、忘れたらあかんえ」
と、たみに言う。
「いや、違う。違げもす!!」
半次郎は叫んだ。
そして、はじめは助ける意思を自分がもたず、たみが自害をはかったのを見て飛び出したのだから、
「助けたなぞと大げさなことをいわれては、穴の中へ入りたい気持になりもす」
顔を、まっ赤にしてのべたてる。
だが、松屋一家の感謝は、あげて半次郎に向けられているのだから、半次郎の弁解など誰も聞こうとはしない。
佐兵衛なぞは、いよいよ半次郎に好意をもったようである。
「いや、違う。そりゃ違げもす」
なお半次郎がいい張ってやまないので、しまいには英助が、
「もうよか。せっかくの馳走《ちそう》じゃ、心おきなくいただきもそ」
と、たしなめる始末であった。
夜ふけて、二人は藩邸へ帰って来た。
今夜は特別に許可を得ている。
門番に声をかけ、くぐり戸をあけてもらう間に、佐土原英助がにやりとして、
「おはん、松屋の娘に惚《ほ》れたな」
といった。
半次郎は黙っていた。
彼の頭のなかにうかんだ宮原の幸江の顔が、すさまじく自分をにらんでいたからである。
(俺は男じゃ。幸江さアのほかの女に惚れるわけにゃいかぬ)
しかし、邸内の長屋の一室で床に躯をよこたえ、目をとじると、今度は松屋の娘の顔だけが、はっきりとうかんできて半次郎はいつまでも眠れなかった。
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法秀尼
一
夏もすぎようとしていた。
中村半次郎も、このごろは、なかなかにいそがしい。
半次郎は、七月二十五日附をもって、青蓮院衛士の伍長《ごちよう》に抜擢《ばつてき》された。
もちろん、先日の見事なはたらきを見こまれたからである。
「あの男は腕がたつばかりではない。頭もよくはたらくし、仕こみようによっては、まこと藩の役にたつ男じゃ」
大久保市蔵が、そんなことをもらしていたのを知っていた京都留守居役の岩下佐次右衛門、本田|弥《や》右衛門《えもん》、藤井|良節《りようせつ》の三人が相談をして、半次郎を抜擢することにきめたのだ。
「何じゃ、芋侍が伍長だと──」
「芋侍の下につくのはごめんだわ」
などと、蔭《かげ》へまわってぶつぶついうものもいたことはいたが、あのとき、夕暮れの青蓮院で、あっという間に三人の勤王浪人を斬りふせてしまった中村半次郎のすばらしい活躍を、みとめぬものはない。
昼夜交互に、半次郎は十名の部下をひきつれて青蓮院へつめることになった。
正式に半次郎の身分を上げるということは、島津久光のゆるしを得なくてはならぬ。
だから、いまのところは〔鉄砲足軽〕の一員でありながら、青蓮院警備の隊長をつとめるというわけだ。
のべ六十名の衛士たちに、六名の伍長がついているが、そのうちの一人に半次郎はなったのである。
「中村をよべ」
と、青蓮院宮が親しく半次郎を叢華殿《そうかでん》へまねき、気やすげに言葉をかけられた。
「ようはたらいてくれた。まろ[#「まろ」に傍点]は貧乏じゃで、何もほうびにやるものがない。このようなものでも、よかったらうけてくれぬか」
宮様は、文庫の中からとりだした印籠《いんろう》を半次郎にあたえた。
この印籠は、名人とうたわれた山田|常嘉《つねよし》の作で、根つけ[#「根つけ」に傍点]は象牙《ぞうげ》をほった兎、印籠は秋草の野の蒔絵《まきえ》という見事なものであった。
半次郎は大いに面目をほどこした。
わずか半年ほど前には、吉野の村で芋をつくり、罪人の子として世にいれられぬ鬱憤《うつぷん》を城下侍との喧嘩《けんか》にまぎらせていた半次郎なのである。
「よかったなあ」
佐土原英助も、心からよろこんでくれ、
「これでもう、おはんを芋侍などとよぶやつは藩邸にいなくなりもそ」
「はあ……」
「西郷先生も、このことをきかれたら、きっとよろこんで下はれもそ」
「はあ」
何よりも、このことを西郷吉之助に聞いてもらいたいと、半次郎は思った。
「先生は、いつ島から戻られもそか? いつ罪をゆるされるので?」
「心配するな。どちらにせよ、西郷先生をあのままにしておくことは出来ぬ。そりゃ、久光公とは心も合わぬようじゃが、何しろ先生は天下の西郷吉之助ごわす。薩摩藩が中央に乗り出し、幕府と朝廷をむすぶくさび[#「くさび」に傍点]ともなろうというときに、西郷先生をのけておくわけにゃいきもはん」
「そうごわしょうか?」
「ま、見ちょれ、大丈夫じゃ」
と、英助は胸をたたいてうけあってくれた。
二
江戸も京都も、日ごとに切迫した空気につつまれてきている。
もともと、島津久光が藩兵をひきいて江戸へ向ったのは、勅使の大原|重徳《しげとみ》をたすけ、徳川幕府に天皇の御意思をつたえようがためであった。
このため、久光は、娘|聟《むこ》である都城《みやこのじよう》領主・島津|久静《ひさなが》の出兵上京を命じた。
久静はただちに義父・久光のまねきに応じ、三百余の精兵をひきいて九州から馳《は》せのぼってきた。
「ようきてくれた」
と、久光はよろこび、
「予が、勅使の大原|卿《きよう》と共に江戸へおもむく留守中、浮浪|不逞《ふてい》のやから[#「やから」に傍点]が何をたくらむや知れたものではない。そなたは予にかわり、京都屋敷のものどもと共に御所をまもってくれい」
といった。
ところが、千余の藩兵をひきいた久光が勅使をまもり、江戸へ出発して三日後の五月二十六日、島津久静が急死をした。
九州を出るときから発していた病患をこらえつづけていたからである。
それやこれやで、薩摩屋敷のものたちは祗園祭《ぎおんまつり》のにぎわいもよそに、あわただしい明け暮れを送ってきたのだ。
半次郎にしても、たまさかの息ぬきに、六角堂の〔へそ石|餅《もち》〕をたのしむのがやっとであったのだ。
江戸へついた島津久光はすぐさま活動をはじめた。
このとき、朝廷が幕府につきつけた政治改革案というものは次のようなものであった。
一、日本の内政をととのえ、外国勢力を追いはらうための相談に、将軍みずから京都へのぼるべし
一、沿海の五大藩(島津・毛利・山内・前田・伊達《だて》)の五家をもって五大老とし、国政に参加させるべし
一、徳川慶喜を現将軍の補佐とし、松平慶永を大老職とすべし
およそ、こういったものだ。
二百何十年も天下を制圧してきた徳川幕府も、天皇をいただいて幕府の権力をつきくずそうとする勤王大名たちの実力の前には、一歩も二歩もゆずらねばならぬことになってきた。
幕府は、なるべく、これら勤王大名を別にして、朝廷と手をむすびたい。
孝明天皇が幕府に好意をもっておられるのをさいわい、幕府もうつだけの手はうってきた。
将軍・家茂が京へのぼるということなどは、すでに京都所司代を通じ、天皇のお耳にも入れてあったし、政治改革についても、薩摩藩のくちばしが入らぬように朝廷と水いらずできめてしまおうというわけだ。
朝廷を手なずけ、今度は反対に、幕府が天皇をおしたて、勤王大名たちを屈服させてしまいたいというのである。
孝明天皇は、ひたすら、
「一日も早く平穏なる世を迎えるよう」
というお心である。
ところが、いつの世にも、ありのままのことが天皇のお耳に入るわけではない。
天皇のまわりには、幕府方の臣もいるし、勤王方の臣もいる。
こうした朝臣が入りみだれて、うごきまわるのだから、幕府も勤王大名もいろいろと策謀をこらして暗躍をするのだ。
先年、幕府は、孝明天皇の御妹の和宮《かずのみや》を将軍・家茂夫人としてむかえることに成功した。
このときは、まだまだ幕府の強引な手段がものをいっていたのであるが、わずか一年の間に、幕府の力もだいぶおとろえてきている。
それでも、勅使・大原重徳と島津久光を江戸にむかえた幕府は、つきつけられた要求を何とかはねつけようとした。
「ともあれ、慶喜公を将軍家の後見にすることだけは何としても喰《く》いとめねばならぬ」
と、幕府の閣僚たちは必死となった。
すでにのべたように、前将軍・家定の後は将軍位をだれが継ぐべきかということで、すさまじい勢力あらそいがおこなわれたことがある。
このとき、薩摩藩を主力とした勤王派が、水戸の徳川家から出た慶喜をむかえようとした。
ところが、ときの大老・井伊直弼は、紀州の徳川家からむかえた家茂を将軍の座にすえてしまったのだ。
だから、いまさら徳川慶喜を将軍の後見にするようなことになると、またも薩摩をはじめ勤王大名の勢力を江戸城へ入れてしまうわけにもなる。
「これだけは何としても……」
と幕府は、老中の脇坂安宅《わきざかやすおり》と板倉|勝静《かつきよ》をもって勅使に応対させ、のらりくらりと返答をのばさせた。
「こうなれば仕方なし」
と、大久保市蔵は決意した。
大久保は、野津《のづ》七左衛門ほか数名の藩士を伝奏屋敷・会見の間の近くにしのばせておいた。
いよいよ、何度目かの勅使と老中の会見がおこなわれた。
幕府側が、またも言いのがれをはじめると見るや、かねて打ち合わせておいた通りに、勅使・大原重徳はいきなり座をたって、
「この上の言いのがれは、もうききとうない。もしも、朝廷の命を受けぬとあらば、お二人とも最後のお覚悟をなさるがよろしかろう」
と、おどかした。
老中二人は、どきりとした。
なるほど、すだれごしに見える次の間には、いまや剣を抜いて飛びかかるばかりに、数名の薩摩藩士が殺気をふくんでひかえているではないか。
(い、いつのまに入って来たものか……)
脇坂老中も板倉老中も真っ青になってしまった。
「返答はいかがじゃ?」
大原|卿《きよう》は、するどくたたみかける。
老中二人、ぶるぶるとふるえながら、勅命のすべてをいれることを誓ってしまったのである。
この老中二人は幕府の代表として出てきたものであるから、二人の返答は、そのまま幕府の返答ということになる。
命も惜しかったのであろうが、幕府もこのようにだらしのない閣僚を抱えていたのは不幸であった。
大久保市蔵の思いきった〔たくらみ〕が、見事に成功したわけだ。
この成功に乗じ、島津久光は、幕府に対し政治改革案二十三カ条をつきつけた。
幕府も、もはや一方的にこれをしりぞけるわけにもいかなくなっていたようだ。
三
「久光公も、なかなかおやりになるのう」
「思いのほかに、な──」
と、京都藩邸でも江戸からの知らせがとどくたびに騒然となる。
今まで、諸国大名は妻子を江戸屋敷におき、一年おきに領国から江戸へ出て来て将軍のきげんをうかがうということにきめられていた。
いわゆる〔参勤交代制度〕である。
妻子は幕府が人質にとっているようなものだし、大名を定期的に江戸へよびつけるのは取りも直さず大名への監視である。
領国から江戸へ出てくる道中の費用も莫大《ばくだい》なものだ。
大名にとってはこの参勤交代ほど面倒くさくて、ばかばかしいものはなかったのである。
「参勤は三年に一度にしてもらいたい。そして江戸につめている期間も百日にちぢめ、妻子はすべて領国へ連れ戻すことにあらためてもらいたい」
と、島津久光は厳然として幕府にせまった。
そして幕府は、ついに、この要求をのんだのである。
もはや諸国大名を制圧したかつての威風は地におちてしまった。
今からみると何でもないようだが、この参勤交代制度の改革をやってのけた薩摩藩のはたらきは、諸大名にとっておどろくべきものであったといえよう。
中村半次郎も、毎日、わくわくしていた。
京都にいても、いかに薩摩藩が天下の注目をあつめているかが、はっきりとわかる。
「おいどんも、なまけちゃいかん」
半次郎は、非番の日でも朝の七ツ(午前四時)には床をけって起きた。
藩邸の裏庭で、居合術の稽古《けいこ》をやるのである。
その日も非番であった。
非番のときは、別にいろいろと用事もあるし、このごろは伍長《ごちよう》の役についているので責任もある。
ふらふらと外へ出かけることも出来ない。
だが、その日は少し暇があったので、
「久しぶりに、へそ石の婆さんの顔でもみてくるか」
ぶらりと、半次郎は六角堂へ出かけて行った。
あのとき以来であるから、茶店の婆さんは大よろこびで半次郎をむかえた。
娘を助け、浪人者の刀を宙にはねとばした半次郎のはたらきは、いまもこのあたりで評判になっていると、婆さんは、くどくどと語った。
「もう、わかった。もう何も言わんでくれ」
半次郎もしまいには、閉口して、
「婆さん。へそ石|餅《もち》を少し包んでくれもはんか」
ふっと、思いたったのである。
へそ石餅をみやげに、松屋佐兵衛方をたずねようと考えたのだ。
「先日はいろいろと馳走《ちそう》になり申した」
と、こう言って何気なく入って行くつもりだったのだが、いざ、五条通りの松屋の近くまでやって来ると、
「どうも、いかぬ」
何気なく、入って行けなくなったのである。
松屋と通りをへだてたこちら側に上徳寺という寺があった。
この一角には寺が多い。
その上徳寺の山門の下にたたずみ、半次郎は、半次郎らしくもないためらいをもてあましながら、うじうじと松屋の店先を見つめては、
「いかんなあ。どうも、いかん」
つぶやいては、舌うちをくり返している。
昼さがりの陽ざしは、かなりつよい。
秋風がたってもよいころなのだが、まるで蒸し風呂《ぶろ》へでも入ったような暑さであった。
松屋の白い夏のれん[#「のれん」に傍点]はそよりともうごかなかった。
扇やも、いまごろは、いちばん暇なときなのであろうと、半次郎は思った。
(あの娘……おたみさんとかいうたが、どげんしちょるか。傷は、もうすっかり癒《なお》ったかな……)
同じことだけを思い、おたみに会いたいことだけが半次郎の胸をいっぱいにしているのだ。
だからこそ、松屋へ入って行けないのである。
吉野の村で、半次郎も幸江以外の女を知らぬわけではない。
しかし、どの女とも南国の風土が生んだ情熱のままに奔放な接し方をしてきている。
幸江にしてもそうだ。
精神よりも肉体を先にむすびつけてしまい、そこから彼女との恋情が芽生えたのである。
これは、ある意味において正しいことだともいえる。
それだけに離れがたいものがあるからだ。
ところが、おたみに対しては、まず、
(あげな細い、あげな美しい、ぽっきりと折れてしまいそうな娘が、ようも、あのように雄々しいふるまいをやってのけたものだ)
と、こういう感動から半次郎はおたみに魅了されてしまった。
魅了の中に尊敬すらもふくまれている。
恋は恋でも、幸江に対するそれとは、だいぶ違うのである。
それだけに半次郎は、とまどっているのだ。
女を知らぬ男の初恋に、これは似ている。
肉慾《にくよく》的なものよりも、ただ、おたみの顔を、声を思いうかべるだけで、もう胸がときめいてくるのであった。
(いかん)
とうとう、あきらめた。
上徳寺の山門をはなれ、松屋の店を横眼に見ながら、半次郎は五条橋に向って歩きはじめた。
おたみでも佐兵衛でも、いや番頭でも外へあらわれてくれればよいと思ったが、松屋の夏のれんは眠ったようにうごかない。
誰か出て来て半次郎を見つければ、厭《いや》だといってもひっぱりこんでくれるだろう。
(今日は、だめじゃ)
五条橋へかかり、半次郎は、さっさと足を早めた。
(ちょうどよい。清水《きよみず》の舞台ちゅのを見てこようか)
そう思いついた。
京へ来て半年近くになるが、有名な清水寺を、まだ見物していなかったのである。
五条橋をわたり、若宮|八幡《はちまん》の前をすぎて右へ進むと、人家もまばらになる。
東山の山裾《やますそ》は、このあたりから坂をつくり、東へ向ってのぼりはじめている。
寺の屋根と、ふかい木立とが、陽ざしをさえぎり、蝉の声もまだしている。
「こりゃ涼しい」
半次郎は、思わずつぶやいた。
ふところの〔へそ石餅〕の包みのことは、もう忘れてしまっていた。
(何でも、清水寺の近くに清閑寺ちゅ寺があるそうな──その寺で、西郷先生な、月照上人と会い、大いに勤王のことをはかられたちゅことじゃが……)
道をききながら、このあたりまで来た半次郎の眼が、きゅっと細くなった。
(や……?)
殺気を感じたのである。
感じたが足はゆるめなかった。
人影もない坂道を、ゆっくりとのぼりながら、
(おいを、ねらっとるやつがいる)
半次郎は、そっと刀の鯉口《こいぐち》をきっておいた。
四
坂道の右側は〔大谷〕とよばれる本願寺の廟所《びようしよ》であった。
左手は、木立の中に妙見堂の屋根が見える。
土塀と石垣と木立にはさまれた幅一間にもたらぬ細い坂道なのである。
これをのぼれば、おのずと清水寺の境内へ入るわけだ。
(ここで斬りつけてこようというのか……)
うしろもふり返らず、半次郎は坂道をのぼりつつ、
(いや、ここでは手を出すまい)
と考えた。
うら道ながら、清水寺へ参詣《さんけい》する人通りもないとはいえぬ。
人家も近いのである。
(よし!! どこの奴か面《つら》を見てくれる)
半次郎は足をとめて、くるりと向き直った。
誰もいない。
坂道の下に、大谷廟前を通る道が白く陽の光を吸って見える。
少し前に、ひやりと背すじに感じた殺気は消えていた。
(間違いなく、おいどんを殺そうとしてつけて[#「つけて」に傍点]きたもんがいる。こりゃ、たしかなことだ)
じいっと、あたりに目をくばった半次郎は、油断なく身がまえながら、坂道を降りて行った。
下の道へ出た。
そのとたんに、
「おや──」
ついと、半次郎の右側の土塀のくぐり戸からあらわれた尼僧が、おどろきの声をあげて、
「めずらしいところで、また、お目にかかりましたなあ」
「や……あのときの……」
「あい」
と、尼僧はふくよかな躯《からだ》をくねらせ、
「どこへおいでなさるえ?」
いたずらっぽい微笑を投げてきた。
「いや、その、ちょっと……」
「お役目か?」
と、今度は胸をそらし、まるで半次郎を子供あつかいにしたような口調であった。
六角堂で松屋のおたみを助けたとき、見物の中から出て来て、医者の家を教えてくれた、あの尼僧なのである。
半次郎は、にやりとした。
「尼さんは、この近くごわすか?」
「あい」
「おいどんが、薩摩屋敷のものちゅことを知っとんな?」
「あい。六角堂のあたりでは、そりゃもう大へんな評判え」
「それを言うて下さるな」
もう、自分をねらう刺客のことなどはどうでもよかった。眼前一尺の近くに見る尼僧の白い衣のえりもとから見える肌の色に、半次郎は心をうばわれていた。
えりくびから喉《のど》もとへかけて見える尼僧の肌に、凝脂がねっとりと光っている。
托鉢《たくはつ》もするのであろうし、化粧もせずに道を歩いているためか、うっすらと陽にやけているのが、なおさらに故郷の幸江を思い出させるのである。
ごくりと、半次郎はつば[#「つば」に傍点]をのんだ。
「何を見ていなさるえ?」
尼僧がいった。
「いや、別に……」
「急ぎの用事でなくば、私のところで、休んでおいでなされ」
「ようごわすか」
「ようごわすとも」
尼僧は、半次郎の薩摩言葉をまねてみせ、
「たまさかには、若い男と酒のんでみたい」
とんでもないことを言い出したのである。
「よ、よいのか? そげなことをして──」
「いやかえ」
「いやじゃない、いやじゃごわはん」
「お名前をきいておきたい。私の名は、法秀尼《ほうしゆうに》というて、ごらんのとおりのもの。そちらは?」
「中村、半次郎と申す」
どうせ薩摩屋敷のものと知れているのだからと思い、悪びれずに名乗った。
五
「お前さまを、よいように成仏させてあげようと思うたのに……ああ……もうすっかり、こちらが成仏させられてしもうた」
法秀尼は、かすれた声でつぶやき、半次郎の躯からはなれた。
背ぼねの両側にひろびろと肉のみちている法秀尼の背中が、汗にぬれつくしていた。
なめし皮を張りつめたような、たくましい半次郎の躯も汗ばんでいる。
雨戸をしめきったせまい庵室《あんしつ》の中は、まるで蒸風呂《むしぶろ》のようであった。
あれから、半次郎は法秀尼に案内をされ、小松谷の庵室へやってきた。
このあたりは、むかし平重盛《たいらのしげもり》の別荘があったとかいわれているところだ。
東山の山ひだが、ゆるやかに起伏をつくり、松林が高く低くつらなっている。
庵室は、正林寺という寺院の東南の丘の一角にあった。
〔不了庵《ふりようあん》〕という額が入口にかかっていたので、
「こりゃ、どういう言葉でごわす?」
と、半次郎がきくのへ、法秀尼は、
「そうやな……自分には世の中のことは何もわからぬという意味合と思うたがよかろ」
「ははあ、この寺は、どげなお寺でごわすか?」
「寺いうほどのもんでもない。わけあって、ある物もちのお人が女房どのの供養のため、この庵《いおり》をたてられ、わたしが、此処《ここ》をまもっているというわけや」
女にしては、ひびきのつよい、まことにはきはきした声であり、言葉づかいなのである。
(この尼さんは、いったい、どげな人か?)
竹林にかこまれた庭もせまく、庵室といっても、わらぶき屋根の下に小さな部屋が二つあるきりだ。
そのうちの一つが仏殿というわけで、そのとなりに、法秀尼の居室がある。仏殿といっても、簡素な仏壇に高さ二尺ほどの釈迦像《しやかぞう》が安置され、その下に二つの位牌《いはい》がならべられてあるだけのものだ。
「何を見ていなさる。さあ、こちらへおいで」
半次郎の手をひき、ぐいと居室へ引き入れてから、法秀尼は、
「酒をお飲みかえ?」
という。
「飲むが、いまはいかぬ。赤い顔をして屋敷へは戻られぬ」
「どうでもよいが……」
法秀尼は台所の石井戸から、冷たい水を汲《く》んできて、半次郎に出した。
「よい水で、これだけが自慢どす」
法秀尼は、尼さんらしい言葉づかいになるかと思うと京なまりをまぜて話す。
どうも、得体の知れぬ尼僧であった。
年ごろも、おそらく幸江より三つ四つは上であろう。
とすると、三十前後の年齢と見てよい。
黒の法衣《ほうえ》をぬぎ、ひとえの白衣《びやくえ》ひとつになると、熟れきった法秀尼の肉体が着ているものをはじきやぶってしまいそうに見えた。
美人というのではないが、ぷっくりとふくらんだ唇からのぞく歯ならびの白さまでも、そぞろに幸江を思い出させるのである。
「うまい。なるほど、よか水でごわす」
なぞと言っているうちに、半次郎の眼がすわってきた。
ぼつりぼつりと言葉をかわす二人の声がとぎれがちに、押しころしたように上ずってきたかと思うと、いきなり、法秀尼が立ちあがり、雨戸をしめはじめたのである。
室内がうす暗くなった。
戸外の熱気が一度に部屋の中へたちこめた。
「あの……今年は、いつまでも暑いこと……」
しめきった雨戸のそばに立ち、背をむけたままの法秀尼がつぶやいたとたんに、半次郎が、ぐいと両腕をのばし、ふとやかな法秀尼の腰を抱きよせた。
「あわてずともええがな」
と言いながらも、法秀尼は半次郎の胸に顔をうめ、
「はじめて見たときから、お前さまを可愛ゆく思うていた……」
「そ、そうか……」
「どうなとしてエな」
「よ、よいのか、かまわんのか、仏につかえる身で……」
「三年ぶりじゃもの。おゆるしがあろう」
「そ、そうか……」
「あい」
あとは、のべるにもおよぶまい。
やがて、夕闇がただよってくる台所で、法秀尼は裸の半次郎に井戸の水をあびせかけてやった。
雨戸をあけると、京の町の一部が松林の間からのぞまれ、西山の空いっぱいに夕焼けがもえていた。
雨戸をあけ放してから、法秀尼が、うす茶をたててくれた。
小さな〔いろり〕にかけてある釜《かま》には、いつも湯をたぎらせておくのだと法秀尼はいった。
半次郎が此処までもってきてしまった〔へそ石|餅《もち》〕を二人でつまんだ。
「茶はええ。煩悩をしずめてくれます」
「ははあ」
「今日かぎりのことと思うたが、何やらまた会いとうなった」
「おいどんも……」
「来てもよい」
と、法秀尼が胸をそらし、また半次郎を見下ろすような声になり、
「お前さまならよい」
「そうでごわすか」
「あい」
まだ二人とも、互いの身の上なり性格なりが何もわかってはいないのだ。
それでいて半次郎も法秀尼も、何より先に愛撫《あいぶ》し合った互いの躯《からだ》と躯が声にならぬ言葉をつたえ合ったことを感じていた。
性慾《せいよく》の発現にも、人間のそれには必ず何らかの心が通っているものだ。
「お前さまなら、また来てもよい」と、事が終ってから法秀尼が言ったのも、半次郎なら、どこへも迷惑をかけず自分も迷惑をこうむることなく交際がなり立つという信頼をもったからであろう。
このことは、半次郎にしても同様である。
性慾は食慾同様に、人間にとって欠くべからざる生活の原動力であり、愉楽である。
この二つを軽蔑《けいべつ》するものは人間の屑《くず》である。
動物的に、この味覚をむさぼり、味覚には鈍感で、ただもう空腹をみたせばよいというものも、また人間の屑なのだ。
ともかく、半次郎と法秀尼は、それぞれ丹念に心をこめ、五官のはたらきを充分に駆使して、互いに互いを味わいつくしたわけであった。
帰りぎわに、半次郎は、ふっと壁にかけてある小さな掛軸に目をとめた。
「こりゃ、うまい書でごわすな」
「そうかいな」
「どなたの書で?」
「私が書いたもの」
「ほほう」
「よんでごらんなされ」
「一字一字は読めるが、何ちゅ意味か、おいどんにはわかりもはん」
法秀尼が読みかたを教えてくれた。
字は〔六月火雲飛白雪〕というのだ。
六月の火雲白雪《かうんはくせつ》を飛ばす、とよむのである。
つまり、夏の雲が雪をふらせるというわけであった。
「ははあ……」
「私も、ようはわからんが、この文句が好きどンのや」
「どげな意味ごわすな?」
つまり、世の中の常識というものにとらわれてはいけない。夏に雪をふらせるというほどの自由自在な機能をもつということが人間にとっては大切である。言いかえれば、常識というものの中にある馬鹿馬鹿しい考え方からはなれて事にのぞむことも、ときには必要なのだという意味をこの言葉は語っているのだと、法秀尼は教えてくれた。
「何でも〔中峰広録〕とかいう禅の書物の中にある言葉だそうな」
「ふーむ……」
と、半次郎は感服のてい[#「てい」に傍点]で、
「こりゃ、よい言葉じゃ。ふむ、うまいことを言うちょる」
「おわかりかえ?」
「わかる」
「えらい」
「すると、つまり、今日、仏につかえる身のお前《まん》さアがおいどんを此処《ここ》へ連れて来て、こういうことになったのも……その、つまり、六月の火雲が白雪をとばしたわけじゃ」
「は、は、は……」
法秀尼は笑いころげながらも、
「よう出来た」
手をうって、ほめてくれた。
六
その日は、もう清水寺へも清閑寺へもまわる時間がなかった。
「今度おいやしたとき、私が案内《あない》をしてあげまひょ」
法秀尼が約束をしてくれた。
そのとき、半次郎は、
「ひとつ、お願いがごわす」
と言った。
「何《なん》え?」
「拙者に、ひとつ書を教えて下さらぬか」
きちんと両手をさげたまま、半次郎は頭を下げた。拙者[#「拙者」に傍点]なぞ、と言い出したのも生まれてはじめてのことだが、そう言ったことにも半次郎は気づいていない。
「お願いごわす。どうも生まれつき、書物をよんだり手習いをしたりする暇もなく、いまになって恥をかくことばかりで……」
「お屋敷で習えばよい」
「そげな……なおさら馬鹿にされもす。このままじゃ、おいどんも一人前の侍にはなれぬ。何とかせにゃならぬと思いつづけていたのでごわすが、いま、その掛けものを、お前さアが書いたときいて、とっさに思いついたのでごわす」
「手習いいうもんは、人に教えてもらうものやない。自分でやるもんどす」
法秀尼は笑ったが、しかし半次郎が、
「けれどもおいどんな、人の書いた手紙もろくに読めもはん。どうやって手がかりをつけて習《なろ》うたらよいか、それも見当がつきもはんので──」
あまり熱心にたのむものだから、
「まあ、考えときまひょ」
と言ってくれた。
〔不了庵〕からの帰りみちにも、半次郎は油断をしなかった。
大谷|廟《びよう》の坂道で感じた殺気を忘れてはいない。
法秀尼と雨戸をしめきった庵室で抱き合っていたときも、いざ刺客が飛びこんできたらこうして……と、心づもりはしていたのだ。
「ふむ。よか尼さんじゃ」
何度も口にのぼせて、ぶつぶつとつぶやきながら、中村半次郎は錦小路《にしきこうじ》の藩邸へ戻って来た。
長屋への木戸をくぐろうとすると、御殿の内玄関から佐土原英助が駈け寄って来て、
「おい、こら。見たぞ、見たぞ」
と言う。
「はあ?」
「おはん、松屋の前でうろうろと何をしていたんじゃ」
「見たのでごわすか?」
「おいどん、今日は朝から馬で伏見屋敷まで御用があってな、その帰りみちに、五条へ出て来ると、おはんが……」
「いや何でもない。何でもごわはん」
「は、は、は、──中村半次郎も存外|初心《うぶ》じゃ。よし、おいどんがまた一緒に行ってやろうか」
「それよりも佐土原さア──」
と半次郎は話を転じて、今日の出来事を語った。もちろん、法秀尼のことはおくびにも出さない。
「そうか──」
佐土原英助は、うなずき、
「おはん、これからは充分に気をつけぬといかん、何しろ、青蓮院でのはたらきは、京の町で評判が高い。勤王浪人にとって、おはんは恐るべき人物になったわけじゃから……」
「人物ちゅて……そげに、おいどんは何も強くは……」
「いや、強い。強い邪魔物は手段をえらばず殺してしまうという世の中でごわす。勤王方にしても幕府方にしても、こりゃ同じじゃ。よいか、半次郎どん。くれぐれも気をつけてたもし」
「はあ」
この夜、江戸からの使者が馬を駆って藩邸へ到着した。
またも事件が起ったのだ。
この月の二十一日に、江戸を出発して京へ向った島津久光は五百余人の供ぞろえで神奈川宿の手前の生麦《なまむぎ》村へさしかかったところ、街道の向うから四人のイギリス人が馬でやって来るのに出合った。
婦人一名をふくめたこのイギリス人を久光の駕籠《かご》わきに附添《つきそ》っていた奈良原喜八郎が走り出て斬りつけ、三名は逃げたが、一名を殺してしまったというのである。
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精 気
一
この事件が、いわゆる生麦事件とよばれるものである。
島津久光の行列が江戸を発し、品川、大森をすぎ、鶴見の生麦村街道を通行中、前方からやって来た騎乗のイギリス人四名が、行列を横切ろうとしたのだ。
「さがれい」
「無礼者」
行列の先ばらいをつとめている藩士が口々に叫ぶ。
叫んだところで、何の意味かイギリス人にはわかるはずがない。
行列のはるか前方を邪魔にならぬよう横切っただけのことである。
大名行列というものが、当時の日本でどのような意味をもつものか、彼等が知らなかったのは当然だ。
いくら「下に下に」と声をかけようが「無礼者」と怒鳴ろうが、そんな日本語が通じるはずはない。
イギリス人たちは、奇妙な顔つきになりはしても、別だん逃げようとも思わず、馬上のまま行列へ近づいてきた。
藩士たちの眼は一様に怒気を発した。
何しろ攘夷《じようい》、攘夷で国中がわきかえっているのだ。
二百何十年も国をとざし外国との交際を絶ってきていて、しかも、外国と外国人は、神国・日本を侵略するものであるという考えがしみついてしまっている。
外国人に対する敵意は、「夷狄《いてき》に殿さまの行列を侵された」という恥辱と容易にむすびついてしまったものだから、
「おのれ!!」
久光の駕籠わきにいた奈良原喜八郎が、刀の柄袋《つかぶくろ》をはねて駈《か》け出した。
奈良原は、寺田屋騒動のとき、鎮撫使《ちんぶし》の一人として決死のはたらきをした男だ。
「えい!!」
先頭のイギリス人へ、奈良原は下から、はねあげるような抜きうちをかけた。
この四人のイギリス人はリチャードソンほかいずれも商人で、女はボロデール夫人という。
奈良原の行動を見て、血気の藩士たちもすぐに刃をぬいた。
外人たちは悲鳴をあげ、馬を駆って逃げようとする。
「逃がすな!!」
追いかけたが、三人は傷を負いながらも逃げてしまい、リチャードソンだけが落馬して、とどめをさされた。
三人の外人は、それぞれ、神奈川のアメリカ領事館や居留地にのがれ、危急を告げた。
島津久光は、平然としていた。
むしろ「よくやった」といいたげな顔をしている。
行列は、そのまま生麦をすぎて行った。
横浜居留地の外国人が、このことを知って激怒をしたのは当然である。
イギリス領事は、
「横浜に入港中の海軍を総動員し、島津久光を追い、海兵隊を上陸させて彼をとらえよ」
と叫んだ。
これも無謀である。
そんなことをしたら、ただでさえ外国人を憎んでいる日本の侍たちは何をするか知れたものではない。
イギリス代理公使・ニールは、ひとまず激昂《げつこう》する居留地の人々を押え、徳川幕府に向って、きびしい叱責《しつせき》をあたえ、応急処置の実行を要求した。
こえて翌文久三年二月、ニールは本国政府の命令によって、
幕府は償金十万ポンドを差出すこと。
薩摩藩は、下手人をイギリス士官立会のもとに処刑すること。そして慰謝料二万五千ポンドを差出すこと。
この二つを要求してきた。
「もしも、この要求をいれぬとあれば、海軍力をもって解決をする」
といって、ニールは、横浜に十二隻の艦隊を集結させた。
薩摩藩は、知らん顔である。
幕府は困りに困ったあげく、五月になって、十万ポンドの償金を支払うことをきめた。
昨日までは、将軍の前にひれふしていた大名の尻《しり》ぬぐいを幕府がさせられたわけであった。
しかし、イギリスは「薩摩藩主の暴慢をこのままにしてはおけぬ」というので、やがてイギリス艦隊は鹿児島湾へ侵入。これを迎え撃つ薩摩軍と戦争をはじめることになるのだが、皮肉なもので、これがきっかけとなり、イギリスと薩摩藩は握手をしてしまうことになるのである。
「薩摩を少しこらしめてやったがよい。イギリス艦隊の武力を目《ま》のあたりに見たら、少しは、われわれの気持もわかるであろう」
と、内心それを願っていた徳川幕府の思惑は見事にはずれてしまい、かえって窮地に追いこまれることになるのだ。
これは、のちのちのことであるから、それよりも先に江戸での使命を果し「天下に薩摩藩あり」というところを見せた島津久光は、その上、おみやげに生麦村での武勇談までひっさげ、意気ようようと、京都屋敷へ到着した。
「これからは、薩摩藩が──いや、このわしが勤王派の主動力となって天下に乗り出して行ける」
と、久光は確信していたにちがいない。
ところが、わずか数か月、久光が京をはなれていた間に、がらりと情勢が変ってきたのである。
二
寺田屋騒動における島津久光のやり方が、天下の不評を買ったことは、すでにのべておいた。
つまり、あれ以来、「勤王の事をはかるには、もはや薩摩藩をたよりにしてはならぬ」ということになってきたのだ。
薩摩とならんで、勤王の一大勢力となっていた長州藩は、むしろ、これを逆に利用した。
勤王派の主導的位置をこっちへうばいとってしまおうというのだ。
勢力のあらそいというものは、いつの世になっても絶えないものだ。
天下をとったときに、おれがすべてを指揮したい、何もかもおれ一人の手でやってのけたい、それでなくては、革命の立役者にはなれないし、革命後にころがりこんでくる勢力も、他人のおこぼれをもらうことになろう。
「天下のことを薩摩にまかしておけぬ」
もはや、徳川幕府と協力をして天皇につくすなどということは、なまぬるい。
幕府を倒し、天皇をいただいた新しい新政権をわれわれの手でうちたてるのだというところまで、長州を主力とした勤王派は考えはじめていた。
まず、このためには朝廷をこっちのものにしておかなくてはならない。
このころの孝明天皇は、かなり徳川幕府を御信頼であるから、天皇にはかまわず、朝廷にある公卿《くげ》たちを味方にひき入れる。
三条|実美《さねとみ》だとか姉小路公知《あねがこうじきんとも》だとかいう少壮の公卿たちは、いずれも長州や土州の勤王派と連絡をたもち、
「幕府を倒せ!!」
この叫び一つに朝廷をぬりつぶしてしまおうと活躍した。
そして、朝廷での空気は、次第に長州藩信頼というところへかたむいてしまった。
島津久光は、この空気をさとり、急ぎ参内して、
「勤王浪人どもの声に耳をかたむけなさらぬように──」
と奏上したが、朝廷の空気は久光に冷たくなるばかりだ。
久光は、失望した。
「長州のやつらめ、けしからん、せっかく、久光公が勅使の供をして江戸へ行かれ、あれだけの御働きをされたちゅうのに、長州のやつらめ、朝廷をそそのかし、またも勅使を江戸にさしむけるそうだ」
「これでは、薩摩藩の面目はまるつぶれじゃ」
藩士たちは口々に叫ぶ。
中村半次郎だとて、この例にはもれなかったろう。
だが、そのころの半次郎にとっては、
「一日も早く、おいどんも一人前の侍にならんといかぬ」
このことのみを考えていた。
剣術を武士の表芸とするなら、すでに半次郎は申しぶんのない資格をそなえているといえよう。
「剣術だけじゃ、これからの侍は立ちゆかぬ」
と、半次郎は感じていた。
なるほど、現在は血なまぐさい暗殺やら争闘やらがくり返されている時代だ。いずれは、戦争にもなろう、剣術も必要かも知れぬ。
しかし、その後になると、もっと何か必要なものを今のうちにたくわえておかぬと一人前の男にはなれぬような気がしてくるのだ。
現に、むずかしい政局のうごきを論じられても、半次郎にはわからぬことが多い。
文書や手紙の字を見せてもらっても、よみきれぬことが多い。
自分で字を書くことにでもなると、
「いかぬ。おいどんは、これじゃいかぬ」
半次郎は冷汗をかいた。
「なぜ、もっと、吉野にいたときに勉学をしとかなかったのか……」
伍長《ごちよう》という役目は、十人の部下をもっているということなのだ。
青蓮院へつめていても、部下たちの目は、いずれも、
「ふん、吉野の唐芋めが──」
そう言っているように思える。
どうも、ひけ目を感じる。
法秀尼に書道を教えてくれとたのんだのも、こうした半次郎の劣等感と、それをおぎなおうとする強烈な欲求があったからである。
三
「ごめん下はれ」
中村半次郎が、法秀尼の庵《いおり》をおとずれたのは、ようやく秋の気配が京の町をかこむ山なみの色が、空にあらわれはじめたある日のことであった。
はじめて、この〔不了庵〕をおとずれてから二十日ほどもたっている。
法秀尼が、本堂の縁先へ出てきて、
「ほ、おいでやしたな」
といった。
「酒、少し買《こ》うてきもした」
「ほう」
「屋敷の近くに錦小路の市場ちゅのがごわす。そこで、魚を少し買うてきもした」
「なまぐさかえ」
「いけもはんか」
「かまいませぬよ」
「入ってよろしいか」
「入りたければ」
「入りたい」
「では、お入り」
半次郎が法秀尼の居室へ入ると、
「今日は、ま、ようも空が澄みわたっていること……」
西山の空を見上げながらも、法秀尼は、さっさと雨戸をしめはじめるのだ。
「六月の火雲、白雪を飛ばすでごわすか」
「ようおぼえていた。その通りや」
雨戸をしめきって、ふとんものべぬまま、
「待っていたえ」
するりと、法秀尼は白衣《びやくえ》をぬぎすてる。
ほのぐらい光の中で、まるくひろやかな法秀尼の肩があらわれると、
「ごめん」
半次郎もたまらなくなってきて、声をつまらせ、
「おいどんも、会いとうて会いとうて……」
などと、切なげな声でささやき、法秀尼へのしかかっていった。
「いたい。いたいがな」
「すまぬ」
「もっと、やわらかくたのむえ」
「心得た」
互いに味わいつくし、いやというまで堪能してから、二人して台所へ行き、石井戸の水をくみ合って、躯《からだ》の汗をながした。
「ああ……ええ気持や」
と、法秀尼は思わず嘆声を発した。
「さわやか、ごわすな」
「ふむ。後であびる水はええなあ」
「はあ」
「酒《ささ》、くもうか」
「お相手いたす」
「魚焼きまひょ」
「お手伝いしもす」
「たのむえ」
まず、こういった工合に、すべてがとんとんとはこぶ。
(こりゃ、とても偉い女子じゃ)
半次郎も感服した。
吉野の幸江も、さばさばとした女であったが、別れるときに哀愁のおももちを見せたのは、さすがに女であった。
この法秀尼とも、いずれは別れるときが来ようけれども、そのとき、どんな別れ方になるものか、半次郎には、まるで見当もつかない。
(もしや、この尼さんは、勤王方のまわしものかも知れん。薩摩のもんを憎む勤王方のな……)
そう思わないでもない。
だから、半次郎は、かたときも油断はしていないつもりなのだが、法秀尼のふとやかな、それでいて腰から股《もも》のあたりのこりこり[#「こりこり」に傍点]と肉のひきしまった躯を愛撫《あいぶ》していると、そんなうたがいはすっかり消えてしまう。
半次郎の愛撫にこたえる法秀尼の仕ぐさには、何ら警戒をさしはさむ余地がないからだ。
彼女は、男を愛することに没頭しつくしている。それが、半次郎にはっきりとつたわってくるのである。
夕暮れの空をながめながら、半次郎と法秀尼は、酒をくみかわした。
「法秀どの」
「何え?」
「先日、おねがいしたことでごわすが?」
「あ──手習いをしたいということじゃった」
「はあ」
「手本をこしらえておいたえ」
「えッ」
半次郎は眼をかがやかした。
「まことでごわすか」
「ふむ」
法秀尼は、戸棚の中から手本を取り出してきた。
何と、高さ一尺にも及ぶ何冊かの手本が半次郎の前へおかれたのである。
「こ、これを全部……?」
「あい」
「おいどんのために……」
「あんさんもいそがしいことや思うて、いっぺんに何もかも出来るよう考えたンえ」
「すまぬ」
「すまんことあらへん」
手本は〔論語〕であった。
論語の一句一句を、楷書《かいしよ》と草書にわけて書いてある。
見事な筆蹟《ひつせき》であった。
「論語なら、書くのといっしょに読めもする。よめぬところは、今度きたときに教えてあげまひょ。けれどなあ、ふしぎなもんで、書いているうちに、よめてもくるもんや、書物いうもんは」
「はっ」
「論語、よまはったか?」
「いや。国におったとき、太平記な大好きで──」
「ほほう」
法秀尼は微笑をした。
少し前に半次郎に抱かれていたときの法秀尼とは別人のような微笑であった。
「薩摩屋敷は、たいへんやろな?」
「毎日、いそがしいばかりごわす」
「うわさは、私らの耳にも、いろいろと入ってくるえ」
「そうごわすか」
「世の中も大変なことになったものじゃ」
「どうなりもすかな」
「わからぬ」
「わかりもはんか?」
「わかろうはずがないわえ」
「は?」
「世の中の行末なぞを、人間がわかろうとすることが、間違いや」
「しかし、それでは天下のことを行なうことができんではござらんか」
「天下のこというのは、いまのことや。いまのことをうまくおさめてゆくことが天下のことや。いまのことがうまくおさまり、それがつみかさなって行き、だんだんに行末のこともわかってくるもんや。いまのことがうまく行かんで行末のことがわかろうはずもない」
「ははあ」
半次郎は、何となく感心をしてしまった。
この尼は何ものであろう。
そこのところへ、少しでも半次郎が話をもって行くと、法秀尼は笑って、
「男と女の色ごとに、そんなものはいらぬ。そやないか?」
と、きめつけ、
「これからのち、そないなこというたら、もう二度と会わぬえ」
と念をおした。
「は、もう訊《き》きもはん」
「さ、もう帰んなはれ。帰って、ひまをみつけ次第、その手本をよう見て手習いしなはれ」
「あいがとござす」
四
中村半次郎の勉強がはじまった。
それは実に、猛烈きわまるものであった。
何しろ、ほとんど睡眠らしいものはとらないのだ。
ねむるときは、机にうつ伏せとなったまま眠るのである。
ちょうど折もよかった。
京都にいる藩士たちの人数はふくれあがるばかりとなったので、とても藩邸ひとつには収容しきれなくなったのだ。
錦小路の藩邸は、いまの大丸百貨店の裏のところにあった。
半次郎から見るとすこぶる宏大《こうだい》な屋敷のように思えるのだが、江戸の藩邸などとくらべたらまことにせまい。
「おはんも、五人ほどつれて外へ出てくれ」
佐土原英助がそういって、
「だが、くれぐれも間違いのないようにたのむ。よいな」
と、念をおした。
つまり、下宿をさせられたわけである。
藩邸の裏通りを六角堂の方へ行ったすぐ左側の瀬戸物屋の二階を、藩が借りうけたのだ。
半次郎ばかりでなく、ほかにも、藩邸近くの民家へ分宿している藩士が、かなりいる。
半次郎の入った瀬戸物屋はかなり大きい店で〔瀬戸物諸国積問屋・みすや庄八〕という大看板をかかげ、間口六間半という店がまえであった。
「こりゃ、うまい」
半次郎は、大いによろこんだ。
六畳と三畳の二間は〔みすや〕の家族の居室とは廊下をへだててあり、出入口も裏手からついている。
五人の部下を六畳に入れ、半次郎はひとりで、三畳を占領した。
「唐芋伍長《からいもごちよう》は、えばっちょる」
などと、はじめは部下の連中も口をとがらせたものだが、そのうちに、
「えらいもんじゃ、朝まで手習いしちょる」
「いつ眠るのかな、中村は──」
「わからん」
「それでいて、昼間はちゃんと役目を果しちょるし……」
「眠そうな様子も見せん」
「ようつづくな」
「もう三月にもなる。ぶッつづけじゃ」
ということになった。
こうなると、もう半次郎は夢中であった。
読書も手習いも、剣の修行と同じものだと、まずはじめからきめてかかる。
法秀尼のことも幸江のことも、それからもっとも今の彼が関心をふかめている松屋の娘おたみ[#「おたみ」に傍点]のことも、すべてを忘れきってしまうのだ。
役目は役目で、以前にもまして緊張の度をつよめている。
「二度と、あげな浪人どもはよせつけもはんど」
他の組の勤務はともあれ、自分の組の勤務のときは、いささかも気をゆるめず、
「何しちょるかッ」
なまけている部下を見つけようものなら、すごい目つきをして怒鳴りつける。
一度、こうした半次郎の変貌《へんぼう》をこころよからず思っていた佐嶋与助という部下が、ほかの連中にもたきつけられたと見え、
「中村どん、えばンな。国へ帰れば、おいどんな、おはんより身分も上ぞ」
と、言いかえした。
半次郎は、じろりと見て、
「伍長の言うことがきけぬ部下をもったからには、おいどん、藩に対して申しわけがたたぬ」
ゆっくりと、不気味な声で言う。
「たたんなら、どうするちゅのだ」
佐嶋ものりかかった舟だから、後へはひけない。顔面|蒼白《そうはく》となりながらも身がまえて、いまにも抜刀する気配を見せはじめた。
「おはんを斬って、おいも死ぬ」
半次郎は、ぴたりとするどい視線を佐嶋に射つけたまま、しずかに言った。
むろん本心ではない。
腹の底では(何だ、こげな奴)と思っているのだが、この際、一同の前で伍長としての威厳を見せておかなくてはいかぬと心をきめたのだ。
ちょうど、半次郎の前の組が帰りかけていたところだった。
この連中も息をのんで、二人の対決を見まもっている。
佐嶋与助も、ひくにひけなくなって、
「チェスト!!」
叫ぶや、必死の抜きうちをかけてきた。
びいん、と鍔鳴《つばな》りの音が夕暮れの大気を割ってひびいたかと見る間に、佐嶋は三間も彼方へのめりこむように打ち倒れてしまった。
中村半次郎は、後もふりむかず、さっさと番所前の通路を遠ざかって行く。
「待てい」
佐嶋が飛びおきて叫んだ。
ここで、見物の藩士たちが、どっと、どよめいた。
佐嶋は抜いた刀をもったままである。
すると、鍔鳴りは半次郎の刀が発したものだ。
ところが、立ちあがった佐嶋与助の背中が、着物のえりもとから袴《はかま》の腰板にかけて、ぱっくり口をあけていた。
血は流れていない。
飛びのきざま、後手に抜きうった半次郎の一刀は、佐嶋の着物一枚を切り裂いて、たちまち鞘《さや》へおさまったというわけであった。
佐嶋は、みんなに言われてこのことに気がつくと、ぽかんと口をあけたまま、手も足も動かなくなった。
「おはんが弱いのじゃない。半次郎が強すぎるんじゃ」
みんなから、そうなぐさめられても、佐嶋は夢を見ているような目つきであったという。
以来、半次郎の部下は、何も言わず黙々として伍長にしたがうようになった。
五
法秀尼が書いてくれた〔論語〕は全文ではない。
彼女が好きなところだけをえらんで書いてくれたものだ。
三か月の間に、半次郎は、五十回もくり返してこれを習い、その後に全部を清書して、法秀尼のもとへもっていった。
すでに、年も暮れようとしている。
「ほほう」
法秀尼は、こくめいに見てくれて、
「よう、やったものじゃ」
「はあ。もう夢中で」
「あんさんは、お上手や」
「は?」
「見こみがあるいうてますのや」
「そうごわすか」
「ええ字が書けるようになると私は思います」
半次郎は嬉《うれ》しかった。法秀尼が世辞をいうような女ではないと知っているからだ。
「別の手本、書いときましたえ」
「えッ、まことでござるか?」
「これじゃ」
〔千字文《せんじもん》〕であった。
「これを千回ほど習うたらよい」
「は、やりもす」
「ま、手本もええが、折あるごとに、他人の書いた手紙やら、書やら、上手やと感じたものをようお見やして、その書体やら読み方やらを、納得のいくまでおぼえこむことや。わからぬときは知っている人に遠慮のう訊《き》かなあかんえ。ものを習ういうことに恥ずかしいことは何もないよって──」
「わかりもした」
半次郎は両手をつき、
「おいどん、いままで、自分の恥を人に知らるッことを避けちょりもした」
「そりゃ、あかんがな」
「これからは気をつけもす」
「今日は、いそがしおすのか?」
「いや、まだ大丈夫でごわす」
「そんなら、早《はよ》う雨戸をしめてエな」
「はあ」
雨戸をしめて、それから三月ぶりの交歓である。
もう寒くなってきているから水をあびることもなく、二人ともよいかげんに汗ばんだ肌をよせ合い、夢中の時をすごした。
法秀尼の庵室《あんしつ》を辞し、手本の包みをかかえた半次郎が、五条通りへ出て来ると、あたりは、もう暗くなっていた。
五条橋にかかると、西山の空へ、わずかに夕焼けの色がひとすじ刷《は》かれているのが見えた。
向う岸の左手に遠く見える灯のかたまりは、七条新地の遊里であろう。
藩邸の下級藩士なぞは、ゆとりがありさえすれば七条新地へ出かけて行くようだ。
「中村どんは、よう辛抱できるのう」
血の気の多い連中がいぶかしがる。
「まあ、何とか……」
苦笑でごまかしているのだが、むろん、いまの半次郎は金をつかって女あそびをやる必要がない。
法秀尼ひとりで、じゅうぶんであった。
(それにしても、めずらしか女子《おなご》じゃ)
思わず、半次郎は橋の上から東山の方へ向き直り、
「あいがとごわす」
とつぶやいた。
むりもない。
豊潤きわまる女体を惜しげもなくあたえてくれるばかりか、勉学の手つだいまでしてくれるという、半次郎にとっては、まるで観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》のような法秀尼なのである。
「いつになるか知らぬが、今度、あんさんが来やはるまでに、今日、もってきた清書に朱を入れておいて進ぜましょう」
とも言ってくれたのだ。
今度来るまでに、半次郎の清書の悪いところを直しておいてくれるというのである。
もう、何もいうところはない。
(おいは、何ちゅ運のよか男じゃ)
半次郎がそう思うのも当然であった。
実のところ、近頃では、故郷の幸江のことも忘れかけている始末なのだ。
京都における生活に、中村半次郎は没入しきっていた。
役目、勉学、剣術の鍛錬、そして法秀尼、そして松屋のおたみ……。
もう躯《からだ》がいくつあっても足りないほどだ。
もっとも、おたみのことだけは、折にふれて、うっとりと脳裡《のうり》におもいうかべるだけのことだから、あまり時間をとられないですむことはすむ。
橋の上から、半次郎は扇屋の灯を見た。
まっすぐにのびた五条通りの右側にならぶ商家のつらなりの中に、扇屋がある。
(前を通って見ようか……)
一歩ふみ出して、半次郎は、ひやりと首すじに冷気を感じた。
(来た!!)
三か月前に、大谷|廟《びよう》の横手の坂道で感じた殺気を、半次郎は思い出した。
橋のらんかんに背をつけ、半次郎は、ゆっくりとふり返った。
すでに十一月に入っているだけに、京の冷気は身にしむものがある。
暗くなってからの人通りは、あまり無いといってよい。
橋の上を、向うから馬方に口をとられた荷馬がやって来るのが見えた。
その荷馬のうしろから、人影が一つ、こちらへ歩んで来る。
ひょろりとした姿の浪人であった。
この季節だというのに着流しの裾《すそ》を帯にはさみこみ、素足にわらじばきであった。
(こいつだ)
ほかに人影もない。
半次郎は、眼前を通りぬけようとする荷馬のうしろへ、じっと眼をこらした。
その浪人者は、少しも半次郎を見ることなく、まっすぐに荷馬の尻《しり》へ眼を向けて半次郎の前まで来た。
左手に、長さ三尺ほどの棒をさげていて、腰に帯した刀は、脇差一本であった。
「待て」
半次郎は、低く声をかけた。
そのとたんに、浪人者の躯は矢のように橋の向う側のらんかんまで飛び退《さが》っていた。
闇が濃くなっているので顔はよくわからぬが、たしかに若い奴、と半次郎は知った。
幅四間あまりをへだて、半次郎と浪人者は、それぞれ、らんかんに背をつけてにらみ合った。
残照はまったく消えていた。
西山の山なみも闇にとけてしまっている。
そして、その浪人者も、少しずつ、いま渡って来た五条橋の上から戻って行き、闇に消えた。
(あいつ、おいどんを狙っとったことだけは、たしかじゃ)
六
こうして文久二年も暮れていった。
朝廷は、ふたたび三条実美を勅使として江戸へさしむけ、種々の勅命を下した。これによって、三年前の安政大獄や、井伊大老襲撃に関係し、まだ死刑にならずにいた志士たちをも幕府は赦免せざるを得ないということになった。
今度は、薩摩藩にかわり長州藩が朝廷をうごかしはじめている。
両藩は同じ勤王運動をしているといっても、そこには大分のひらきがあった。
第一に、長州藩・毛利家は、薩摩の島津家にくらべ、徳川幕府というものを徹底して憎んでいる。
慶長五年に、徳川家康と石田三成が東西両軍の勢力をあつめて関ヶ原に戦ったとき、毛利家は石田方、すなわち西軍についた。
この戦争が家康の勝利となり、ここに徳川幕府の礎石がきずかれたといってもよいのだが、このとき、敗れた毛利家は領地九カ国を徳川にうばいとられ、わずかに長防二州に押しこめられてしまった。
このときのうらみが、れんめんとして二百七十年後のいまもつづいているのである。
薩摩も長州と同じ西軍に属していたが、長州ほどひどい処罰をうけなかったし、先代の殿様の斉彬も幕府の政治改革をした上で、皇室に対する奉公を密にしなくてはならぬ。つまり幕府と皇室とは力を合わせて、国難に当たるべきだという考えであった。
いまの島津久光も同様である。
ことに、薩摩藩内における老臣たちの中には幕府を助けて事にあたろうというものも多く、久光も、こうした老臣たちの協力によって、国父でありながら藩主同様の権力をもつに至ったわけだ。
だから、こういうことになる。
長州藩は倒幕派の勤王であり、薩摩藩は佐幕派の勤王というわけなのだ。
似ているところは、「毛唐どもを日本から追いはらえ!!」ということである。
この点では、薩摩藩は、まことにいさましいことをやってのけた。
あの生麦事件がそれである。
あのとき、イギリス人が薩摩藩士に殺されたというので、神奈川奉行が、久光の行列を追いかけてきて、
「下手人をお引き渡し願いたい」
と、つめよった。
そのとき、島津久光は、平然として、
「そう申せば、妙な浪人者が街道にいたので、ふと見ると、以前、わが藩を浪人した岡野新助という者であった。この男が予の行列を乱したイギリス人に斬りつけたのは、たしかに見たが、なれど、岡野はもはやわれらの家来ではない者である。したがって、逃亡した岡野の行方なぞは、とんと存ぜぬ」
と、突き放してしまったものだ。
「よし!! 薩摩なぞに負けてたまるか!!」
と、長州の連中もいきりたった。
この年の十二月に、高杉|晋作《しんさく》の指揮によって、長州藩士が、品川・御殿山《ごてんやま》のイギリス公使館へ焼打ちをかけた。
相次ぐ外国人殺傷事件に幕府も頭をなやませ、イギリス関係の公舎を御殿山にあつめ、その建築がようやく成ったばかりのところを、きれいさっぱりと焼きはらわれてしまったのである。
イギリスの怒りは、いよいよ激しいものとなる。
幕府は、ますます頭が痛くなるというわけだ。
勝手なことをしておいて、それをみんな幕府が尻《しり》ぬぐいをしなくてはならない。
それには莫大《ばくだい》な金もいるし、いよいよ幕府の財政はちぢこまってくるばかりだ。
だから次第に、幕府の力がおとろえるのも、無理はないのであって、力がおとろえるから勤王大名に強く出られなくなる。
そこでまた勤王派があばれまわる。
そのたびに何らかのかたちで幕府の力が一つ一つと殺《そ》がれて行くという、つまり悪循環である。
天下は、いよいよ〔攘夷《じようい》〕の一色にぬりつぶされようとしている。
朝廷の意向も、まず〔外国勢力〕を追いはらえというところに堅められた。
ことに京都は〔攘夷〕の策源地帯であった。
幕府の手がたりぬ京都で、いろいろな計画をしては、江戸や横浜で実行するのだから、たまったものではない。
公使館の焼打ちでも、誰がやったのかわからぬようにするから、尻尾《しつぽ》もつかめない。
それに加えて、「将軍みずから京都へやって来て、天皇にお目にかかり、外国勢力を追いはらうための勅命をうけよ」という命令が再三にわたって幕府へ通告された。
もう踏んだり蹴《け》ったりである。
こう書いてくると、徳川幕府は手もなく打ち倒されてしまうように感ぜられるが、しかし、まだまだ幕府を助けようという大名も多い。
創成以来、幕府を助けてきた、いわゆる親藩大名がそれであるし、将軍近親の大名もある。
(来年は、きっと大変なことが諸方でもちあがるぞ)
中村半次郎も、そう思っていた。
(いまのうちに、やれるだけはやっとかんといかぬ)
勉学に役目に鍛錬に、半次郎の心身は精気にみちみちていた。
「おはん。ようもつづくな」
と、佐土原英助があきれて、
「いったい、いつ眠るんじゃ?」
半次郎はにこにこして言った。
「おいどんのような二才《にせ》が眠るなぞちゅことは、ぜいたくごわすよ」
二才とは、薩摩でいう〔若者〕のことである。
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薩英戦争
一
年があけて、文久三年となった。
中村半次郎、二十六歳である。
この文久三年という年は、明治維新というものの発芽が、はっきりと、かたちになってあらわれてきた年である。
同時に、中村半次郎も、彼自身を飛躍的に成長させた年でもあった。
これによって彼は、ついに、薩摩藩に中村半次郎ありとよばれるまでの男になるわけであるが、それは単に剣術がすぐれているからとか、人を斬ったからというだけのことによって評価されたわけではない。
半次郎の今までは眠っていた素質が、機会を得て、みがきをかけられたのだ。
それにしても、こんな話がある。
半次郎が、長州や土佐、その他の藩の志士たちとまじわりをむすぶようになってからのことだが、「あなたの藩は……」というところを、「御弊藩《ごへいはん》は……」といって得意になっていたというのだ。
弊藩というのは、自分の藩を謙遜《けんそん》していう言葉である。
藩士たちが他人とのあいさつなどに、「弊藩はどうしてこうして……」というのを、半次郎が耳にはさみ、それなら、相手の藩をよぶときには御の字を上へつければうやまってよぶことになると思いこみ「御弊藩は──」とやったわけだ。
これを知った藩士たちに笑われたとき、半次郎は、
「おいどんな、字を知らん。じゃから、間違えても恥ずかしいことはごわはん。可笑《おか》しかったなら、なぜ、笑う前に教えてはくれんのじゃ」
と言ったそうだ。
しかし、そうした間違いがわかるたびに、半次郎は歯を喰《く》いしばって勉強をしたものだ。
「おいどんの年ごろで、まんぞくに眠るなどということは、ぜいたくでごわす」
これが信念である。
次第にいそがしさを増してくる勤務の中で、半次郎は、その公務と勉強との二つを、どちらも人の三倍、四倍の努力をかたむけてやったのである。
のちに、彼が陸軍少将となってから書いた字を見ると、まことに見事なもので、生来感覚の鋭敏な半次郎は美的なそれ[#「それ」に傍点]にもすぐれた素質をもっていたことが、はっきりと看取される。
文久三年の、まず第一にあげなくてはならぬ事項は、将軍・家茂の上洛《じようらく》である。
「将軍みずから京へやってこい!!」
と叫ぶ勤王派の計画を、はね返すことが出来なくなったわけだ。
これは、もちろん勤王派の手中にある朝廷が〔勅令〕を発したからである。
孝明天皇おひとりは、
「何とかして、これ以上、天下にさわぎをおこさぬよう……」
しきりに気をもんでおられても、政権そのものはまだ幕府にあるのだし、その政権をつぶし、こっちの手にうばいとろうという勤王派がいるのだから、天皇おひとりではどうにもならない。
朝廷には〔国事御用掛《こくじごようがかり》〕という機構がうまれた。
もはや幕府だけが日本の政治をとるのではない。天皇おわす朝廷を中心に、事をはこぶのだという意志のあらわれである。
これは、今から見ると何でもないが、当時にあってはおどろくべきことであった。
何しろ二百何十年も、幕府がよこす〔あてがいぶち〕で暮し、政治には少しも介入させられず、沈黙を守りつづけることを余儀なくされていた朝廷が、堂々と、こうした態度に出たのである。
もはや、これを押えつけるだけの力は幕府にない。
このころの京都における勤王志士たちの勢いは、おそろしいほどのものがあった。
所司代という警察機関はあっても、これらの志士たちの運動をおさえることなど、思いもよらない。
幕府は、親藩の、会津二十八万石の藩主・松平|容保《かたもり》に命じ、これを〔京都守護職〕として、京の町の治安をととのえさせることにした。
かの〔新選組〕が、これと前後して京へ派遣されたのも、ひとえに、幕府が勤王志士や浪士たちの活動をおそれ、これを何とかおさえつけようと考えたからだ。
とにかく、幕府に近よるものは、「みんな殺してしまえ!!」と、勤王浪人たちは叫ぶ。
暗殺は流行した。
殺しても、まるで無警察の状態なのだから、誰がやったのかわかるものではない。
将軍が、やがて京都へやって来た。
三月十一日、天皇は、賀茂《かも》神社へ行幸し、攘夷《じようい》祈願をされた。
将軍は、この御供をしたのである。
ということは、いま、外国と通商条約をむすんでいる徳川政権が、勤王派の言う通りになって条約を破り、外国を追いはらうことに同意をした、ということになる。
幕府の、将軍の権威は、これだけで、もうまるつぶれとなってしまった。
次いで四月十一日、石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》へ行幸ということになったが、さすがに将軍として、これ以上の恥をうけたくはないから、病気ということにして辞退した。
孝明天皇御自身も、
「なぜに、このようなことをするのか……力を合わせて、国難にあたるということが、なぜ出来ぬか」
と、青蓮院宮に向って嘆かれたものだ。
ちなみにいっておくが、青蓮院宮は還俗をされ、中川宮《なかがわのみや》となり、朝臣の一人として天皇を補佐することになったのである。
これにより、中川宮の名称をもって書きすすめる。
二
このとき、将軍・家茂は、わずか十八歳であった。
亡き井伊大老の政略によって紀州家から江戸城へ入り、十四代徳川将軍となった家茂は、聡明《そうめい》な生まれつきでもあり、温和な性質でもある。
平和なころの徳川将軍であったなら、家茂も、おそらく名君の一人として無事平穏な生涯を終えたことであろう。
しかし、何しろ、すさまじい動乱の時代である。
十八歳の将軍の苦悩は、はた[#「はた」に傍点]の見る目もいたわしいほどであった。
将軍が若年なだけに、一橋慶喜が後見となり、将軍をたすけている。
慶喜が、かつて家茂と共に将軍候補となり、ついにやぶれて将軍位を家茂にゆずったことは前にのべた。
その慶喜が後見となって政局の上にあらわれてきたのも、薩摩藩の後押しがあったからこそである。
こういうわけで、慶喜と薩摩藩とは、ふかい関係がもたれていたわけだが、のちに十五代将軍となった慶喜を、今度は薩摩藩が攻めるということにやがてなるのだ。
それはさておき、慶喜のほかには将軍と共に京都へやってきた大名のうち、松平慶永と山内|豊信《とよしげ》の二人が、もっとも重要な位置をしめていたといえよう。
松平慶永は、越前福井三十二万石の藩主である。
山内豊信は、土佐二十四万余石の藩主である。
「ともかく、何としても、幕府の苦衷を天皇に申し上げ、このまま外国との交際をつづけるよう、お願いせねばならぬ」
というのが、幕府政事総裁をつとめる松平慶永の決意であった。
「よし!! それなら見ておれ」
と、京都に蠢動《しゆんどう》する勤王浪人たちは、たちまちに、東山の高台寺へ火をつけたりした。
高台寺は慶永の宿舎なのである。
「これでも京都へ入ってくるつもりか!!」
という示威運動をやったわけだ。
一橋慶喜にも、山内豊信にも、ありとあらゆる強迫手段をもって浪人どもがおどしをかける。
ついに、たまりかね、松平慶永は将軍にもことわりなく、福井へ逃げ帰ってしまった。
そのころの幕府は、ここまでおとろえていたのである。
いかに温和な大名だからとはいえ、いやしくも〔政事総裁〕という重役にあるものが、勤王浪人の襲撃をおそれて逃げ出したというのでは話にならない。
これに反して、勤王浪人たちは、もう火のかたまりになっている。
今まで両刀を腰にしていても、身分もなく金もなく、したがって大の男の働き場所もなかったのが、もしも革命成功となれば、どんな出世がまちうけているか知れたものではない。
いや、そのことよりも、腕力をふるってあばれまわり、大名でも将軍でもふるえ上がらせるという痛快さは筆にも口にもつくしがたいものがあったに違いない。
日本の危機のためにはたらこうと叫ぶ、その裏がわに、こうした人間の本能が強烈にうごいていることはいつの時代でも同じことだ。
これだから無益の血が流れる。
これだから人間の集団は、おそろしい動きをするものなのである。
ともかく、こういうわけで、京へ入って来た将軍・家茂もずいぶんと、ひどい目にあったわけだ。
石清水八幡宮への攘夷《じようい》祈願に、家茂が病気と称して出なかったので、
「もう、これでは将軍なぞ、あってなきがごとしだ」
「もはや幕府はたよりにならぬ」
「徳川将軍は不忠不義のものだということが、これではっきりした」
勤王派は、口々に叫ぶ。わめく。
ことに長州藩では、桂小五郎《かつらこごろう》なぞの指揮により、この際、いっきょに朝廷の力をもりたて、幕府を攻めほろぼしてしまえという作戦だから、天皇おひとりの心のうちなぞをおしはかろうともしない。
幕府を倒し、新政府の指導的地位を長州藩が何としてもかちとらねばならぬということだ。
桂小五郎という人は、こんなせまい心のもちぬしではないのだが、幕府を倒さなければ新しい時代はやって来ないという信念はゆるがない。
ゆるがない以上、もり上がった〔攘夷倒幕〕の叫びを利用せざるを得ないわけだ。
小五郎一人では何も出来るわけのものではない。
守護職として京都にやってきたばかりの松平|容保《かたもり》も、これら勤王派の激しい動き方をおさえきれようがなかった。
それほどに、長州藩の活躍は目ざましかったのだといえよう。
三
ついに、徳川将軍は、五月十日をもって日本の港をとじ、外国人たちを追いはらえという勅令をうけなくてはならなくなった。
将軍は、ほうほうの体で、やっと江戸へ逃げ帰ったのである。
孝明天皇は、
「攘夷もよいが、なぜ、長州藩はあのような荒々しい所業をするのじゃ。幕府も今は朝廷に対し、何ごとにも腰を低めておるではないか。やたらに火をつけたり、人を殺傷したりせずともよい。もっと……もっと、おだやかに話し合うすべはないものか……」
と、中川宮にだけは、つくづくとおもらしになる。
こうした天皇のお心は、中川宮によって、すべて薩摩藩へ知らされた。
「中村半次郎がよい。中村をまろ[#「まろ」に傍点]のそばにおけ」
中川宮の信頼は大きい。
何しろ、青蓮院での中村半次郎のはたらきを知って以来、中川宮は外出するときは必ず、「中村をよべ」といわれる。
いまの中川宮は、天皇のおよび出しにこたえ、日に一度のみか、場合によっては、二度も三度も御所へ参内されることがある。
天皇と共に何とかおだやかに事をおさめようとする中川宮に対し、
「あの宮様を、このままにしておいてはいかん」
という長州藩の声もきかれる。
長州藩が手中におさめた朝臣たちを、天皇と中川宮が懸命におさえているかたちになったからだ。
長州藩では、国もとから兵士を続々と京へあつめ、いざとなれば戦争をしかけ幕府を倒そうというところまで行っているのだから、中川宮が邪魔になるのは無理もない。
「何としても、おいどんな、宮様をおまもりするぞ」
との決意をひめ、中村半次郎は、中川宮の身辺へつききりとなった。
もはや衛士|伍長《ごちよう》という役目をしているわけにも行かない。
中村半次郎は一種特別の任務をおびてきたのだ。
むろん、宮のうしろにしたがい、御所へも出入りをする。
御所を警固しているのは長州藩の侍たちである。
薩摩藩の中村半次郎が中川宮について出入りするのを、こころよく思うはずがない。
京都御所が、長州勢によってかためられている中を、半次郎は、びくともせず胸を張って出入りをした。
「あいつが、中村じゃ」
「人斬り半次郎じゃ」
「なかなか、やるらしいのう」
なぞと、ささやく声も耳ヘ入る。
青蓮院でのすさまじい剣のはたらきを、今では知らぬものがない。
評判は評判をうみ、
「薩摩の中村半次郎という男が、二十人も刺客の首をとったそうな──」
ということになった。
中川宮は、天皇の御苦悩を、すべて半次郎に語りきかせる。
「このことを藩邸につたえよ」
「承知いたしもした」
半次郎は、こういう役目をもやるようになってきた。
それもこれも、宮様の信頼があればこそである。
自然、藩邸でも半次郎を重く見るようになった。
もう「唐芋侍」とよぶものもいない。
この一方で、天皇は、京都守護職・松平容保を一目見て、
「容保は信ずるに足る」
といわれた。
京都の治安に全精力をこめて奮闘している、容保の人がらを好まれたのであろう。
だから、中川宮も、
「何とか、会津と薩摩が力をあわせ、京の町をしずかなものにしてもらいたい」
という意思を、半次郎を通じて薩摩藩へもつたえる。
薩摩藩にしても、
「長州は朝廷を一手に引っかきまわし、政権をおのれの手一つにつかもうとしているのだ」
と、大いに憤慨しているところだから、
「よし、会津と手をむすぼう」
ということになる。
この秘密の計画に、中村半次郎が先にたって連絡係をつとめる。
こうなると、もう政権争奪のかたちになってきた。
会津にしても、薩摩にしても、別に仲がよくなる理由はないのだ。
会津は、あくまでも将軍のためにはたらこうとする。
薩摩は、いまのところ将軍を助けて天下をおさめようというたてまえ[#「たてまえ」に傍点]ではあるが、西郷吉之助をはじめとする新鋭勢力は、
「行先は、くされかかった徳川幕府を倒さなくてはならない」
という考え方に変りはない。
今のところ、島津久光の〔公武合体〕に、厭々《いやいや》ながらしたがっているまでのことである。
それにしても、邪魔なのは長州藩である。
長州に勤王の成功をさせてはならぬというわけだ。
こうなると、もう戦国時代をもう一度再現させたといっても、あまり違いはない。
派閥と勢力との関係は、いついかなるときでも、どのような社会、団体にもつきまとうものなのだ。
こうしたさなか[#「さなか」に傍点]に、また大事件がもちあがった。
すなわち、文久三年五月十日──。
つまり、幕府に攘夷《じようい》決行を申しわたした当日である。
幕府は、仕方なくひきうけはしても、そのような無茶なまねが出来るはずがないから、知らん顔をしていたのだ。
ところが、長州は、「まず、われらの手で決行せよ」というので、下関海峡に停泊していたアメリカの商船に、いきなり砲撃を加えた。
つづいて二十三日には、同じ下関の海にいたフランスの軍艦・キンシャン号に、二十六日にはオランダ軍艦・メデュイサ号に大砲をうちかけたものである。
これらの艦船は、いずれもびっくりして逃げてしまったが、六月になると、アメリカとイギリスの戦艦が下関海峡へやってきて、長州藩の砲台と船へ襲いかかった。
このため、長州藩は秘蔵の蒸気船二隻をしずめられてしまい、砲台をすべて破壊された。
さんざんな敗北である。
諸外国は、日本に対して、
「もう黙ってはおられぬ」
猛烈に怒り出したものである。
四
そのころのある日に、
「中村。姉小路を暗殺した下手人が、薩摩の田中|新兵衛《しんべえ》じゃということを、お前はどう思うか?」
と、中川宮が半次郎に問われたことがある。
半次郎は、しばらく考えたのちに、
「私は、田中新兵衛だとは思いませぬ」
それだけを、はっきりと答えた。
「ふむ……」
中川宮は、その瞬間に、きらりとするどい光を双眸《そうぼう》にはしらせたようだが、まじろぎもせず見返している半次郎の言葉を、そのまま素直にのみこまれたようであった。
「実は……まろ[#「まろ」に傍点]もそう思うている。ここだけの話じゃが……」
と、宮はつぶやかれた。
朝廷の国事参政・姉小路少将公知が暗殺されたのは、つい先頃のことである。
文久三年五月二十日の夜ふけに、姉小路は、御所での会議をすまし、公卿《くげ》門から退出をした。
月は雲にかくれていて、暗い。
家来三名をしたがえ、姉小路公知が徒歩で、朔平《さくへい》門のあたりへさしかかったとき、突如三人の覆面侍が暗闇の中からおどり出し、ものも言わずに斬りかかってきた。
姉小路邸は、そこからほど近い。
重傷を負った姉小路公知は、家来の中条《ちゆうじよう》右京にたすけられ、ようやく屋敷へたどりついたが、間もなく絶命をした。二十五歳の若さであった。
このころ、姉小路公知の活躍は目ざましいものがあった。
勤王過激派は、朝廷と手をむすぶため、何事にも姉小路|卿《きよう》をおしたてて計画をめぐらし、実行におよんだものである。
もちろん、姉小路も、〔攘夷〕については激烈な考え方をもっていた。
「神州を外国にとられてはならぬ!!」
その一事に、若い情熱を投げこみ、朝廷の、公卿たちのなまぬるい言動を〔倒幕攘夷〕の一点にあつめようとして懸命であった。
ところが……。
姉小路公知は、さきごろ、幕臣・勝安房守《かつあわのかみ》の案内で、幕府がもっている洋式軍艦を大坂港において見学をした。
勝は、得意の弁舌をふるい、
「この軍艦は西洋から買い入れたものにございます。ごらんのごとく、この船ひとつを見ても、西洋諸国の文明がいかにおどろくべきものであるかが、よくおわかりのことと存じますが……」
世界情勢から見ての日本の開国がやむを得ないことを、こんこんと説いてきかせた。
「むむ……」
姉小路公知はうめくように、
「私の不明であった」
と、思わずもらした。
姉小路は京へもどると、このことを孝明天皇に奏上し、
「幕府にも勝安房守のごとき人物がおることを、はじめて知り得ました。いまや国内において無駄なあらそいをくり返すときではございませぬ」
頭をたれた。
孝明天皇はふかくうなずかれ、
「たのむ」
ただ一言、姉小路を力づよくはげまされたという。
これから、姉小路の言動が前とはちがったものになってきた。
先に、公武合体論をとなえて勤王派からしりぞけられ、洛北《らくほく》の岩倉村にひきこもっていた前中将・岩倉具視を訪問したり、京都守護職の松平容保をひそかに訪れて密談をかわしたりするものだから、
「姉小路卿は、幕府のうまい口にのせられたらしいぞ」
「いかぬ。姉小路を敵にまわしたら、とんだことになる」
幕府の主張にかたむきはじめた姉小路公知を見た長州藩の志士などが、こう叫び出したのも無理はない。
だから、長州あたりからのまわしものが、姉小路を暗殺したというのなら話はわかる。しかし、逃亡した下手人は薩摩の田中新兵衛だという。
新兵衛の大刀が現場に落ちていたからである。刀は、和泉守《いずみのかみ》忠重作のもので、新兵衛の愛刀であることは、柄の一部に新兵衛の名がしるされてあることを見ても間違いない。
田中新兵衛は、守護職の命で捕えられたが、町奉行所へ連行されたとたんに、小刀をぬいて腹へ突きたて、ぎりぎりと引きまわすや、役人どもが飛びかかっておさえる間もなく、みずから頸動脈《けいどうみやく》をはねて自殺をしてしまった。
自決する前の新兵衛の言い分は、こうである。
「おいどんな、あの大刀を磨《と》ぎに出してあったのでごわす。十日も前から別の刀な差しとる。おいどんは、姉小路卿殺害の下手人ではござらん」
五
中村半次郎は、姉小路卿暗殺の当日に、田中新兵衛と会っている。
その日の昼すぎ、半次郎は少しひま[#「ひま」に傍点]が出来たので、法秀尼をたずねようと思い、中川宮邸を出た。
中川宮は、すでに青蓮院から出ておられた。
京都御所の西側南寄りの下立売《しもたちうり》門を入ったところにある〔女院《によいん》御旧地〕内の空屋敷が、中川宮の新しい住居となったからである。
半次郎は、中川宮邸への出入りも自由だし、藩邸へ泊ったり、瀬戸物屋の下宿へも泊ったりするが、このごろはほとんど宮の屋敷へ泊ることが多い。
内玄関わきの八畳の部屋を、半次郎は自分の居室とした。
何しろ、宮さまが外出するたびに、「中村をよべ」といわれるものだから、半次郎の地位というものは、ぐんとはねあがった。
もう「唐芋《からいも》」なぞとよぶものもいない。
その上、半次郎は御所をまもる長州藩士たちにも、平気で、
「今日は、よか天気ごわすな」
例の人なつこい微笑を惜しみなく投げては、のこのこ近づいて来て話しかけたりするのだ。
いまの薩摩と長州は、犬猿の間がらである。
京都御所をかこむ外郭には九つの門があり、それぞれの門を土州・肥後・長州・薩摩・仙台・水戸・備前などの各藩が受けもち、警衛に当たっている。
けれども、何しろ長州藩主・毛利|大膳大夫《だいぜんだゆう》は〔禁裏《きんり》守護職〕というので、御所警衛の総指揮をとっているのだ。その羽ぶりというものは、実に大したものであって、勤王といえばまず長州藩であり、諸方の勤王志士たちは何事にも長州のいうままにうごくといった気配がある。
かつて長州と肩をならべた薩摩藩の株は、いまや凋落《ちようらく》の気味があった。
こうして長州の勢力が渦巻いている御所の中へ、半次郎が平気で入って来ては、諸藩の人々としたしげに語り合う。
「あいつにはかなわん」
「薩州のものだと思うても、あの、にこにことした笑い顔で近寄って来て、いっしょに菓子をつまもうといわれると、どうも、にらみつけるわけにもいかんしなあ」
「菓子を、か?」
「何でも六角堂境内で売っているへそ石|餅《もち》とかいう……」
「そのことよ。中村半次郎というやつ、へそ石餅を、いつもふところに入れとるそうだ」
「しかし、気をつけろよ。何せ薩摩のもんは油断ができん。中川宮のお気に入りだというのをいいことにして、のこのこ御所へやって来るが、あいつ隠密の役目をしているのかも知れんぞ」
長州藩士たちは、口々に、そんなことを言い合ったものだ。
そのころ、京都に集まっていた錚々《そうそう》たる勤王の志士たちは、まず長州藩では桂小五郎、周布政之助《すふまさのすけ》、久坂《くさか》義助(玄瑞《げんずい》)、品川|弥二郎《やじろう》などがあり、土佐藩では、武市半平太《たけちはんぺいた》、吉村|寅太郎《とらたろう》、小南《こみなみ》五郎右衛門など、いずれも勤王運動の指導者として優秀な人材が各藩から京都へ集まってきている。
こういう人々に、半次郎は、いささかも臆《おく》するところなく、顔を見かければ道ばたであろうが何であろうが、つかつかと近寄って行っては、
「薩摩藩士、中村半次郎ごわす。お見知りおき下され」
と、自己紹介をやってのける。
「半次郎どん、少し気をつけたがよかろう」
と、佐土原英助が注意をした。
「何で?」
「いまは、薩摩の立場がむずかしくなっちょるときじゃ。何も長州ざむらいにまで挨拶《あいさつ》をすることはなかろう」
「そりゃ違う」
「何でじゃ?」
「佐土原どん。いまにわかりもすよ」
と、半次郎は言った。
佐土原さアとよんでいたのが〔どん〕になったわけだ。これは何も半次郎が威張り出し、呼びかたをあらためたわけでなく、
「おはんも、いまは立派に薩摩の士として働いておるのだし、これからは何事にも友だちづきあいにしてくれ」
と、英助の方からたのんだのである。
中村と呼びつけにしていた他の藩士たちも、いまでは「中村どん」とか「半次郎どん」とか呼ぶようになってきた。
半次郎は、まさに得意満面といったところだ。
去年の春までの自分とくらべたら、現在の自分が夢の世界にでもいるような気がする。
天皇がもっとも信頼されている中川宮に可愛がられ、京都にいる勤王志士たちの中で、半次郎を知らぬものはない。
ひとえに、彼の卓抜した剣術がものをいったのだといえよう。
芋をつくりながら、必死に剣術の稽古《けいこ》をつづけたことは無駄にならなかったわけだ。
(だが、剣術だけじゃとても偉くはなれん)
学問についての劣等感がついてはなれない。そのことが、まだ半次郎の得意を慢心にまで堕落させなかった。
無邪気に得意満面となる一方では、
(このままじゃいかん。いかんぞ)
半次郎は懸命に習字をつづけ、つとめて読書にはげむ。
習字の方は好きにもなれたし、
「あんさん、ここへ来るたびに、字が上手になっておいやす」
法秀尼もほめてくれるのだが、読書力は相変らずで、
「どうも、読むことはいけもはん。眠うなって、眠うなって……」
と、半次郎は法秀尼にこぼした。
その日も、読書をした千字文をとじたものを風呂敷《ふろしき》に包み、半次郎が〔不了庵〕をおとずれるべく、三条大橋をわたって行くと、向うから、田中新兵衛がやって来るのが見えた。
六
新兵衛の顔からは酒の香が発し、眼がどんよりとにごっている。
「また祗園《ぎおん》ごわすか」
と、ていねいに半次郎がきいた。
「うん」
新兵衛は、うなずいたが何となくうかぬ顔つきであった。
新兵衛も、薩摩藩士の中ではすばらしいつかい[#「つかい」に傍点]手で、これも〔人斬り新兵衛〕の異名をもらっている。
先年の七月に、九条関白の家来・島田左近を暗殺したのは、この新兵衛だということになっているし、本人も別にこれを否定していない。
新兵衛も、半次郎には目をかけてくれて、たまに藩邸で顔を合わせると、「来いよ」と、東の洞院蛸薬師《とういんたこやくし》にある自分の下宿へ連れて行って、半次郎に酒をのませてくれたものだ。
しばらくぶりに顔を合わせた二人は、三条大橋東詰にある法林寺という大きな寺の山門の下で、いささか世間話をした。
半次郎が、ふっと見ると、いつも新兵衛が、自慢で差している大刀が、間に合わせの貧弱なつくり[#「つくり」に傍点]のものに変っている。
「刀が、ちげもすな、今日《きゆ》は──」
と訊《き》くと、
「そのことよ」
新兵衛は苦虫をかみつぶしたような顔になり、
「おはんにだけ話すのじゃが、実は、昨夜、新地の茶屋で酔いつぶれていた隙に、誰かが盗んで行ったのだ」
と言った。
これで、新兵衛が浮かぬ顔つきだったのが半次郎にのみこめてきた。
「誰にもいうな。武士の恥じゃからな」
こう言って、新兵衛は半次郎に別れ、大橋を西へわたって行ったのである。
その夜に、姉小路卿が暗殺された。
新兵衛が下手人となったときも、
(いや、違う!!)
あの日の新兵衛の、自分にしめしてくれた率直な言動を思いおこすとき、半次郎は、どうしても新兵衛が下手人だとは思えなかった。
奉行所で、刀を磨《と》ぎに出したと新兵衛が言ったのは、盗まれたことを恥じたからにきまっている。
そうかといって、薩摩藩のものがやったのではないと、言いきれないところがある。
このときの姉小路公知は、過激派から穏健派に考え方を変えている。
攘夷《じようい》から開港の方へ近づきつつあったのだ。長州藩よりも、いまの薩摩藩(島津久光)の行き方へ近よってきたことになる。それを薩摩のものが暗殺するというのは少しおかしい。
おかしいが、ありうるのだ。
わざと薩摩がやって長州に罪をなすりつけ、長州の評判を悪くさせるということもありうる。
姉小路卿をまだ誤解している薩摩藩士が単独にやったということもありうる。そのへんのところは、まだ半次郎にはわからない。薩摩藩の内情もいろいろと複雑だし、半次郎の耳などへはとどかぬ秘密も多いのである。
何しろ、寺田屋騒動の田中河内介の場合よりも、もっと事は大きい。
姉小路は、れっきとした公卿《くげ》なのである。
果して、孝明天皇は、烈火のように怒られた。
「口に勤王をとなえつつ、しかも朕《ちん》の家臣を暗殺するとは何ごとじゃ」
天皇は、薩摩のやったことと思いこまれたらしい。
新兵衛の自殺後も、評判はうるさかった。何といっても、裁きをまたずに自殺をしてしまったのは、新兵衛にも薩摩藩にも不利であった。
長州藩では、このときとばかり、
「新兵衛が腹切ったのは、おのれの罪をみとめたからにきまっている。薩摩のものは、何という恥知らずなまねをしてのけるのか」
「あれが薩摩の勤王じゃ」
「油断も隙もあったものではない」
しきりに弾劾の叫びをあげる。
どうも旗色がわるい。
前からわるくなっていたところへ、なおも悪くなってしまった。
天皇や中川宮は長州の仕わざだと思っておられるのだが、何しろ、いまの朝廷を牛耳っている少壮の公卿たちは、いずれも長州と手をにぎり合っている。
「薩摩をしりぞけよ」
ということになった。
かくて、薩摩藩は今までまかせられていた御所の乾《いぬい》門の警備を免ぜられてしまった。
「御所の内へ入ってはならぬ」というわけだ。
乾門警備は、雲州・松江藩、松平|出羽守《でわのかみ》がかわった。
こうなると、半次郎も中川宮邸にはいられない。
「仕方がないのう」
宮はなげかれて、
「お前に行かれては、まろ[#「まろ」に傍点]もおちおち外を歩けなくなる」
といった。
中川宮は、長州藩から大いに、にらまれている。まったく危険な身の上であったといってよい。
新兵衛が死んだあと、半次郎は当日の様子を藩の重役に語り、
「ともあれ、私は田中どんが下手人じゃちゅことに反対ごわす」
と力説した。
藩でも、この半次郎の説をとりあげ、大いに弁明につとめたものだが、結果はかんばしくなかったのである。
「血なまぐさいことや」
と、市中の評判を耳にはさんだ法秀尼が半次郎に言った。
「こないなことばかりつづいたら、行末は大変なことになるえ」
いたずらっぽく、法秀尼は半次郎を見やって、答えを待つ様子であったが、半次郎は黙っていた。
黙ってはいたが、(どちらにしても、長州とわが藩とは一戦をまじえにゃならぬ)という考え方は、いよいよかたまるばかりだ。
中川宮邸にいたころ、つとめて長州藩士に近づき、彼らの言動にふれようとしたのも、長州藩のうごきを少しでも感じたかったからだ。
その結果、半次郎は(双方のうらみ、憎しみの根は、相当にふかく根を張っている)と見ている。
それにしても、西郷吉之助は、いつになったら罪をゆるされるのか──それを思うといても立ってもいられなくなる。
(西郷さアに帰ってもらわんと、どうにもならぬ)
半次郎ばかりでなく、藩士たちは、みなそう思っている。
先代の殿さま斉彬の寵臣《ちようしん》として諸方に顔もきき名も売れ、しかも、その人物の立派さを知られている西郷吉之助の帰参は、沈滞の薩摩藩に生気をよびおこすにきまっている。
こうした中にあって、半次郎はひまさえあれば法秀尼のもとに出かけ、その帰りみちには必ず扇問屋〔松屋〕の前を通り、もしや、おたみの顔が見られたら……という期待に胸をふくらませ、そして失望をしては、すごすごと帰って来る、ということをくりかえしていた。
どうしても松屋を訪問する勇気が出ないのは、自分でもふしぎでならなかった。
(これが、恋ちゅもんか……)
そうらしいと、半次郎は思った。
七
松屋の娘、おたみについて、後年、陸軍少将となってからの中村半次郎は、親友だった中井|桜洲《おうしゆう》に、こう述懐している。
「あのころはもう、われながら、だらしのないありさまで、ひまさえあれば松屋の前までは出かけて行くのじゃが……どうも、どうも思いきって中へ入って行くことが出来んのじゃよ。
おいどんの頭ン中には、おたみさんがあの夏の日盛りの六角堂で、浪人どもの手ごめにあおうとしたとき、そのウ、みずからだ、みずからおのれの簪《かんざし》を引きぬき、喉《のど》を突こうとした。あの、けなげな、何ともいえぬ強い、美しい、女ちゅもンの、もっともすばらしいというか何というか……つまり、おいどんな、あのとき、女ちゅもンの精髄を、はじめて目《ま》のあたりに見たちゅ気がしたものだ。
それが、もういかん。それで、もう手も足も出んちゅことになった。それまでのおいどんは、女ちゅもんは、まず抱き合《お》うてからのち、いろいろと、何事《なんごつ》も発展して行くもんじゃと……こう思うていたものじゃから、どうも見当がつかぬ。それでいて、どうも忘れられんちゅわけだ。どうも弱った。
それに、次から次へと事件の続出で、毎日のいそがしさいうたら、とても筆や口にはつくせぬほどでな、それでいて、どうも忘れられんちゅわけじゃ。まっ青になりながらも、簪をつかんで、喉を突きそこね、血にまみれた白い首を、がっくりと、おいどんの胸にもたせかけたあのときのおたみさんの顔は、今もって、おいどんな、忘れられん」
一年前の夏に招待をうけて、佐土原英助をさそい松屋へ出かけ、おたみの顔を見て以来、半次郎は一度も、おたみに会ってはいなかったようである。
そのうちに、薩英戦争がおこった。
戦争といっては、いささか大げさになるが、ともかく、イギリス艦隊が鹿児島湾へやって来て、薩摩藩と砲火をまじえたのである。
ときに、文久三年七月二日であった。
八
この戦いは、いうまでもなく〔生麦事件〕が原因となっている。
文久三年に入って間もなく、英国代理公使のジョン・ニールは、イギリス東洋艦隊司令長官・キューバア中将のひきいる七隻の艦隊を横浜港に集結せしめ、幕府に要求書をつきつけた。
その要求書の内容は、およそ次のようなものだ。
一、下手人を捕え、厳罰に処すべし
二、幕府は外人保護の責任をとり、謝罪状と共に英貨十万ポンドを支払うべし
三、幕府は、薩摩藩をして、死傷者ならびに遺族への弔慰金二万五千ポンドをイギリスへ納めしむべし
もしも薩摩藩が、これをこばむときは、イギリス艦隊をひきいて鹿児島へ至り、直接に談判をひらくつもりだが、ともかく二十日の猶予をあたえよう。この期日をすぎて、幕府の回答がないときには、海上より江戸市中を砲撃し、これを焦土にしてしまうぞ、と威嚇したものである。
ちょうど、そのころ将軍・家茂は京都へ行っていたので、幕府閣僚は、
「将軍が帰るまで待ってもらいたい」
と、イギリス政府へ泣きつく一方、小笠原長行《おがさわらながみち》を京都へさしむけ、このことを将軍に報じた。
報じたが、どうにもならない。
とにかく、五月九日になって、幕府はようやく洋銀四十五万元をととのえ、これをイギリス代理公使にさし出し、イギリス側の感情をやわらげることができた。
あとは薩摩藩の始末である。
島津久光は、いささかも動じない。
「余は、江戸を発するにあたり、留守居役・西築右衛門をして公儀へ稟申《りんしん》をしてある。すなわち、大名行列の通行あるときは、万一の椿事出来《ちんじしゆつたい》もはかりがたく、公儀に横浜の各国長官に命じ、外国人の通行を禁じられよと申しあげ、公儀もまたこれを了解せられた。それにもかかわらず、かの生麦村に外国人の通行ありたるは、すべて公儀の手落ちによることじゃ」
償金を支払うなぞとは、もってのほかだとうそぶいている。
幕府は、もうイギリスと薩摩藩との板ばさみとなり、あわてふためくばかりであった。
そうこうするうち、幕府もようやく腰を落ちつけ、
「よろしい。イギリスのおそるべき武力によって薩摩を叩《たた》かせてやれ。そうなれば、いくらか目もさめるであろう」
ということになった。
かくて文久三年六月二十二日に、イギリス艦隊は横浜を発し、鹿児島へ向った。
いま(昭和三十八年)から、ちょうど百年前のことだ。
イギリス艦隊は、六月二十七日午後二時すぎに、山川港外を通過し、鹿児島湾に入った。
艦隊は、夜に入ってから、鹿児島城下の南およそ三里のところにある谷山郷の沖合にある七ツ島附近に投錨《とうびよう》した。
「いよいよ、やってきもしたぞ!!」
「見ちょれ。毛唐どもの肝をひやしてくれる」
鹿児島城下にある藩士たちは、いささかもおどろかない。
下関海峡で外国軍艦に敗北した長州藩とは少しちがうぞ、というところだ。
沿岸の砲台には藩士がつめかけ、水も洩《も》らさぬ防禦陣《ぼうぎよじん》をしいた。
人も、銃も、大砲も、総動員された。
こうなると、先代の斉彬時代から密貿易によってたくわえた財力を投入し、つとめて最新式の武器をたくわえてきた薩摩藩だけに、かなりの自信もあったことと思われる。
後年の東郷平八郎《とうごうへいはちろう》や大山巌なぞも、みな薩摩の二才《にせ》として砲台にとりついていたものだ。
夜があけた。
二十八日の午後七時ごろ、イギリス艦隊は桜島と鹿児島城下をへだてた湾内へ侵入しようと錨《いかり》をあげ、進みはじめた。
「貴公たちは、何しにやって来られたのか」
島津久光も、こういうところは、なかなか腹がすわっている。
イギリスの旗艦〔ユリアラス〕号へまず使者を送ったものだ。
何しに来たかもないものである。
旗艦に乗っていたイギリス代理公使・ジョン・ニールは、かんかんになって怒った。
「薩摩藩は、生麦事件、忘れましたか!!」
償金と下手人を引きわたせと、またも同じことを要求すると、薩摩の使者は平然として、
「ともかく、いまは藩主が霧島温泉において療養中でござる。霧島は、これより二十余里をへだてた彼方にござるによって、この知らせをもたらし、返事がとどくまでには、およそ十日もかかり申そう」
まるでイギリスを馬鹿にした返答をあたえておいて、さっさと引きあげてきてしまった。
そうしておいて、今度は、
「藩主公の返事がとどくまで、代理公使どのには上陸をされ、談判の下準備かたがた御休息をなされてはいかが?」
とやった。
上陸させておいて焼き殺してしまおうというのである。
ジョン・ニール代理公使も、さすがにこの手にはのらない。
こんなことをしているうちに、七月二日の朝となった。
九
この日は前日からの風雨がいよいよ激しく、昼少し前に、天保山《てんぽざん》砲台から発射された砲弾一発、まず旗艦〔ユリアラス〕に飛んだ。
これをきっかけに、湾をかこむ各砲台から、いっせいに砲撃が開始された。
イギリス艦隊も、荒天の中によろめきながら態勢をととのえ、各砲台や鹿児島市中に向って発砲をはじめる。
戦闘は、夜に入ってもつづけられた。
このとき、鹿児島城下と湾をへだてている桜島に大砲をかくしておいて、桜島海岸に近よってきたイギリス軍艦に「今こそ!!」とばかり、集中砲撃をおこなったのが、非常に効果的であった。
旗艦〔ユリアラス〕号は、弁天波止砲台からの砲撃により、ひどい損傷をこうむったばかりでなく、艦橋にあって指揮をとっていた艦長と副艦長を倒され、三十名に近い死傷者をだしてしまった。
翌三日から四日朝にかけて、イギリス艦隊は鹿児島湾から去った。
逃げて行ったのである。
一時は海岸に近づき、イギリス陸戦隊を上陸せしめたようであるが、薩摩藩としてはこれこそ待ちに待っていたところのものだ。
刀と刀の闘いなら絶対に退《ひ》けはとらない。
まっ裸に腹巻ひとつという薩摩侍が、刀と槍《やり》をひらめかせて斬込みをかけたので、たちまちに陸戦隊は逃げ去ってしまったらしい。
ともかく、思いのほかに猛烈果敢な薩摩藩の抵抗にあって、イギリス海軍も、いささか度胆《どぎも》をぬかれた。
この戦いで薩摩側の死傷、わずかに十余名という。
そのかわり、城下町の一部がイギリス側の砲撃によって焼きはらわれ、沿岸の全砲台も、ほとんど大破された。
イギリス側では、死傷者六十三名を出した。
軍艦も〔ハボックス〕号をのぞいて、あとの六隻は、いずれも大破小破をこうむったし、〔レイズホオス〕号なぞは、僚艦に曳航《えいこう》されて逃げ去る始末だ。
まず、イギリスに僅少《きんしよう》の差で勝ったというところか……。
イギリス艦隊を追いはらったことだけは、たしかなことである。
「どうじゃ。長州藩のやることとは、ちょいとちげもすぞ」
この知らせをきいた京都藩邸でも、藩士たちは眼を輝かせ、興奮し、
「こげなことがおきるのなら、おいどん、吉野にいた方がようごわした」
と、中村半次郎が、佐土原英助に言った。
長州藩の威勢に圧迫され、陰鬱《いんうつ》な沈黙につつまれていた藩邸に、ようやく生色がただよいはじめた。
薩摩藩の底力というものが、諸外国のみか、日本中に知れわたったことになる。
この知らせがイギリス本国へとどくと、
「日本に対する考え方をあらためねばならぬ」ということになった。
いざとなると、あれだけの武力を発揮する日本なのだし、その日本をとりまく諸外国は、アメリカ・フランス・オランダ・ロシアなどがある。
これらのうちのどの国と日本が手をむすんでも、イギリスの東洋政策は痛手をこうむらずにはいない。
それよりも、むしろ、諸外国に先がけて日本の中の大勢力と握手をしてしまったほうがよいという結論に達した。
イギリスは、日本の歴史を研究し、皇室の存在が、れんめんとして政権とむすびついていることを知り、これからは徳川幕府よりも勤王派勢力と手をむすんだ方が有利であるとの見こみをたてて、薩摩藩へ近づきはじめるようになる。
薩摩藩にしても、一応は勝ったようなものだが、あらためて西洋列強の実力というものを認識せざるを得なかった。
こうした双方の歩みよりによって、イギリスと薩摩は提携し、薩摩藩では留学生をイギリスへ派遣すると共に、武器や艦船を買入れたりするようになる。
「薩摩をこらしめてやれ」という幕府の思惑は、見事に外れてしまったようだ。
そればかりか、イギリスという強大な国を勤王派とむすびつけてしまったわけである。
その上に、今度はイギリス政府が幕府へ向って〔生麦事件〕および〔鹿児島湾戦闘〕の責任をとれとつめよってきた。
この後も、幕府は薩摩とイギリスの間にたって、ふんだり蹴《け》ったりという目にあっている。
下手人を差出すなぞということも、いつの間にかうやむやになってしまい、償金は一万ポンドにまけてもらったが、これも、
「いまのところわが藩の財政はおとろえていて、とても、そのような大金は出せませぬ」
と、薩摩藩は突っぱねてしまった。
仕方がない。
あるとき払いでよいからと、幕府はまたも薩摩藩の立替えとして償金をイギリスに支払った。
十
祗園祭《ぎおんまつり》もすぎたころから、薩摩藩は、御所の北面にある相国寺の隣地に新しく屋敷をたてはじめた。
いままでのように、政治のうごきが、江戸を中心になされていたのと違ってきている。
京都は政局の中心となった。
来たるべき動乱にそなえ、各藩ともに、京都における出張藩士が増加している。
佐土原英助は、新邸の工事監督のような役目につき、急にいそがしくなった。
ほとんど工事場へ泊りこみになっている。
どんなやつが火をつけて建築中の邸を灰にしてしまうか知れたものではない時勢であるから、もちろん、警備の士もつめかけて行く。
中村半次郎は、このころから別の任務につくことになった。
「ちょいと、願いごとなあってやっちきもした」
半次郎が、扇子問屋〔松屋〕ののれんを一年ぶりにくぐったのは、七月なかばのころであった。
「これは、まあ、ようおこし下されました」
と、主人の佐兵衛が飛んで出てきた。
「いつも、いつも菓子や酒をおとどけ下はれ、一度、お礼に参上せにゃならぬ思うちょりもしたが、つい忙しゅうて……」
「何をまあ、そのような。さ、まずお上がり下されませ」
夕暮れであった。
すぐに酒が出る。膳部《ぜんぶ》がはこばれる。
おたみもあらわれた。
半次郎は、かあっと顔にも頭にも血がのぼってきて、おたみの顔を正視できない。
あわてて、たてつづけに酒をあおり、
「どうも、すぐ顔に出もして……」
と、いいわけをした。
おたみは、半次郎のそばへつききりで酌をする。
京|白粉《おしろい》の匂いが半次郎を狼狽《ろうばい》させた。
「ところで、御主人」
半次郎は、わざとおたみの前で佐兵衛にきり出した。
「実は、知ってもおられようが、中川宮様御屋敷で扇屋をよんでもらいたいと、わが藩へお言いつけがありもしてな」
「ははあ」
「わが藩と宮様とは、青蓮院に宮様がおわしたころから親しい間柄ごわして……」
「さようでござりましたなあ」
「どげでござろうか。こちらで行って下はるか?」
「中川宮さまへ御出入りがかないますのなら、まことにもってありがたいことでござります」
「行って下はるか?」
「はい」
「ところで……」
と、半次郎は嘆息をもらしてみせ、
「御承知かと思《おめ》もすが、わが藩な、このところ御所へ出入りを禁ぜられておりもしてな」
「はい。いろいろとうわさをきいて、心配をしておりました。何やもう、あてらにはむずかしいことばかりで……」
「じゃから、このことは内密にしておいてもらいたい。明日、宮様の御屋敷からここへじか[#「じか」に傍点]におよび出しがあると思もす」
「なるほど」
「もうひとつ、お願いなごわす」
「何でござりましょう?」
「宮様な、この中村半次郎をいたく可愛ゆがって下はれもしてな」
「ほうほう」
「たまには、おいどんへあてた手紙をことづけなはることもあろうかと思もす」
「それも内密《ないしよ》で……」
「はあい。何しろ、薩摩藩な、御所への出入りを禁ぜられちょるもんで──」
「心得ました」
「もうひとつ、お願いなごわす」
「……?」
「宮様御屋敷への出入りは、おたみどのにしていただきたい」
「おたみに?」
「かえって女子《おなご》のほうが無事かと思もす」
おたみが、このとき口をはさんだ。
「うち[#「うち」に傍点]でよいなら、させとくれやす」
佐兵衛が何となく表情をきびしくして、うなずいた。
おたみも佐兵衛も、これは単なる出入りと違う、そう察したらしい。
半次郎も、むろん、佐兵衛父娘が無言のうちにそうと察してくれることをのぞんでいたのだ。
一度あったきりの佐兵衛に、半次郎は信頼をおいていたし、おたみについては今さらいうべき何ものもない。
座敷には三人きりであった。
むしあつい京の晩夏の夜である。
じっとりと汗ばみつつ、三人は、しばらく黙ったままでいた。
中川宮を中心にして、薩摩藩と会津藩が、今や手をむすぼうとしている。
御所は長州藩の勢力下にあって、ことに幕府とは親密な中川宮に対しての警戒はきびしい。
しかも、薩摩藩は御所への出入りを禁ぜられている。
連絡の方法の一つに、松屋をつかうことを考えたのは半次郎である。
それだけのことをまかせられるだけに、半次郎の藩内における位置も、重くなってきていたのである。
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乞食の子
一
丁稚《でつち》ひとりをつれたおたみ[#「おたみ」に傍点]の姿が、それから中川宮邸へ出入りをするようになった。
それも、およそ半月ほどのことである。
つまり、それだけの間に、おたみの役目はすんだというわけだ。
この間に、おたみは五|度《た》びほど、中川宮の手から半次郎へことづけた密書をはこんだ。
半次郎から中川宮へわたす密書も、三度びほどはこんだ。
もちろん、これは半次郎が書いた密書ではない。
遠く鹿児島にある島津久光の意を体した京都藩邸の幹部たちが、中川宮へあてたものを、半次郎がたくみにおたみをつかって、とどけるのである。
「すまんこつごわした。これでもう、何《なん》も彼《か》もすみもした」
という半次郎の言葉をきいたときには、おたみも思わず吐息をもらした。
おたみはおたみなりに緊張しきっていたのであろう。細い顔の頬が、げっそりとしてしまっていた。
佐兵衛夫婦も、これで、ようやくほっ[#「ほっ」に傍点]としたに違いない。
何をさせられているのか知らぬが、とにかく、只事《ただごと》でないことはたしかであったし、佐兵衛夫婦が娘の身を心配して、居ても立ってもいられなかったことはたしかである。
のちになって、このことを半次郎からきいた大久保市蔵は、
「おはんな、そのような町人に、あげな大事をまかせたとは……」
目をまるくして嘆息をした。
「何ちゅ危い事をしたものじゃ」
「しかし、藩邸の奈良原さアも高崎さアも、おいどんな宮様に可愛ゆがられちょるちゅので、何も彼も、おいどんにまかすちゅことで……」
「危い、危い」
「あの扇屋の父娘《おやこ》は、きっとやりとげてくるっと信じたりゃこそ、おいどんもたのんだのでございもす」
「もうよい。すんだことじゃ」
中川宮は、このとき孝明天皇のお心を体して、長州藩の勢力を御所内から追いはらおうとされたのである。
長州も、少しやりすぎた。
若い血気の公卿《くげ》たちをそそのかし、このさい一挙に外国勢力を追いのけ、幕府を倒してしまおうと急いだのである。
下関における戦いで、自分の藩の力だけでは、とても外国の武力に抗し得ないことを長州藩はさとった。
これに加えて、薩摩藩の鹿児島湾における勝利は、いよいよ長州藩をいらだたせたのである。
「一日も早くわれわれの手で攘夷《じようい》倒幕をなしとげてしまわねば、またも薩摩に割りこまれよう」
これであった。
そのすさまじい意気ごみは、次々に、かたちとなってあらわれた。
まず、天皇を大和《やまと》の神武《じんむ》天皇の御陵と春日《かすが》神社に参拝せしめる。
いうまでもなく、例の〔攘夷祈願〕の名目をもってである。
次に、何かにつけて幕府に好意をもっておられる天皇の腹心となってはたらいている中川宮を、勅命によって九州へ追いやってしまうというのだ。
これも〔鎮西《ちんぜい》大使〕という名目で、つまり、薩摩藩をはじめ九州の諸大名を監視する役目だというのである。
何とも虫のよい話で、これでは勤王運動をおこなっていながら、天皇も中川宮も、長州藩が手玉にとってあやつろうというのだ。
三条中納言実美はじめ、長州と手をむすぶ公卿たち十三人の総力をあげて朝廷の議事をうごかし、このことを実行にうつそうとかかった。
「このままにしてはおけぬ」
中川宮も、長州藩のうごきや過激な公卿たちのうごきの只《ただ》ならぬ気配を感じとり、
「この上は、会津と薩摩両藩にたちあがってもらい、長州藩を追いのけ、天皇の御心を体した政治がおこなわれるようにせねばならぬ」
と、決意をされた。
しかし、このことを長州藩に気づかれてはならぬ。
そこで、松屋のおたみの手により、かなり重要な打合わせの密書が、薩摩藩邸へとどけられたと、こういうことになる。
半次郎の大胆きわまるやりかたが、かえって効を奏し、このことに気づいたものは一人もいなかった。
会津藩は、京都守護の役目にあるわけだから、これは堂々と御所内へも出入りができる。
会津から薩摩へ密使が行くことも可能である。
ただ急を要する連絡に、おたみがはたらいたのであった。
二
八月八日の夜──。
徳大寺中納言|実則《さねのり》と烏丸侍従光徳《からすまるじじゆうみつえ》の二人が、中川宮邸へあらわれた。
すなわち、勅命をもって、
「中川宮、鎮西大使として中国・九州の各藩をおとずれ、攘夷実行のすみやかなることをはかるべし」
と命じたのである。
「承知つかまつりました」
中川宮は、一応はおだやかに受けておいて、二人の勅使を帰した。
勅命といっても、孝明天皇の知るところではないのだ。
長州藩と過激派の公卿が、すべてをとりしきっているのである。
この謀略は、どこまでも秘密|裡《り》におこなわれた。
しかし、事前に、中川宮も薩摩・会津両藩も、これを知っていた。
過激派の公卿の中の二人や三人は、すでにこちら側へひきこみ、むしろスパイとして、さりげなくひそませてある。
これで、事前にもれたのだ。
そして、これも秘密裡に、中川宮を中心とした薩摩と会津の歩みよりが進行しつつあったのである。
おたみや半次郎がはたらいた密書の取次ぎも、このことに関係している。
中川宮は勅使を帰したあとで、うす紙[#「うす紙」に傍点]の小片に細字をもって密書をしたため、これを心きいた家来の襟もとに縫いこませ、外へ出した。
家来は、下立売門を出て室町通りを突っきった。
御所の下立売門の警衛は、仙台藩であるから、宮邸への出入りには気をゆるしている。
しかし、門の外には長州藩の密偵が絶えず中川宮邸を見張っているから、
「家来が一人、出て行ったぞ」
という知らせが、電光のように飛ぶ。
中川宮の家来は、密偵につけられた。
ちかごろは、めっきりと京の市中にふえた乞食《こじき》に化けた長州の密偵が、みなひたひたとつけて行くと、宮の家来は、まだ人通りがある通りをすたすたと行き、薬屋へ入った。
薬屋といっても〔勅許・御合薬司《おんあわせぐすりつかさ》──森肥後大掾《もりひごたいじよう》〕といういかめしい看板をかけた薬屋である。
この薬屋は御所の出入りをゆるされているもので〔地黄丸《じおうがん》〕という家伝の薬を製していた。
すぐに、家来は薬の袋のようなものを手にして出て来た。
まもなくすたすたと、また下立売通りを戻って行き、中川宮邸へ入る。
「なんだ、誰か病気だったのか……」
と、長州の密偵は考えた。
考えたが、それにしても勅使の帰った直後のことだから、
「まてよ」
思い直し、下立売通りの町家の軒下にうずくまっている、これも乞食姿の同僚に耳うちをしてから、ふたたび、あの薬屋の前へ引き返して来たが、
「あ……」
蝙蝠《こうもり》のように身をひるがえし、道ばたの用水|桶《おけ》のうしろへ隠れた。
薬屋の潜戸《くぐりど》から出て来た男を見たからである。
しかも、その男は、丹波《たんば》あたりの百姓姿に化けているが、まぎれもなく中村半次郎であったからだ。
長州の密偵であるからには、中村半次郎を知らぬはずがない。
(やはり、何かあったのだ)
乞食姿の密偵が、八方へ飛んだ。
半次郎は、まだどことなくむし暑い町中を背をこごめ、提灯《ちようちん》を手にしてゆっくりと歩いて行く。
町中には人通りが絶えていた。
まだ夜も早いのだが、何しろ物騒な京の町である。
町家から灯がもれてきてはいても、なるべく夜の道を歩かぬようにするのが、このごろの京の町民たちの心がまえになっていた。
半次郎は衣棚《ころものたな》通を南へまっすぐに進み、姉小路通りへ出ると左へまがって、六角堂の裏側へ出た。
薩摩屋敷は、すぐ間近かにある。
思わず、足をはやめた。
「おっさん、あぶない!!」
子供の叫び声が、どこからかきこえた。
右側は六角堂の裏塀であった。
左側は空地になっていて、近くの商家の荷車なぞがごろごろおいてある。
「あぶない!!」の声と共に、半次郎は背後から殺到して来る数人の足音をきいた。
「嗅《か》いだな!!」
わめくと共に、半次郎は提灯をすてて向き直った。
こういうときに逃げ出さないのが彼のやり方であった。
くらやみの路の向うから、きらっ、きらっと刃が光って、こっちから駈《か》けて行く半次郎と、たちまちにぶつかり合った。
三
敵は四人である。
いずれも黒覆面をつけ、袴《はかま》もつけぬ着物の裾《すそ》を高々とからげ、たすきをかけ、素足に草鞋《わらじ》という恰好《かつこう》であった。
逃げるのを追いすがって斬りかけようとしていただけに、この長州の刺客たちも、半次郎が突進して来たのには、気をのまれたらしい。
その気を呑《の》まれた一瞬の隙をつかむのが半次郎のねらいであった。
何しろ、こちらは百姓姿だし、もうまったくの素手なのである。
ぶつかり合って、
「馬鹿もん!!」
叫ぶと共に、半次郎は目の前の一人があわててふりおろす刃の下から相手の躯《からだ》を抱えこみ、ぐるりと一回転したかと思うと、その刺客の脇差をひきぬきざま、
「や!!」
ずぶりと相手の腹へ突き刺した。
「わあ、わ、わ……」
幅二間の路である。
しかも暗い。
「こいつ!!」
「さ、薩摩めが──」
わめきつつ、刺客三人は、ばらばらに足なみをみだして刃をふるったが、半次郎の意表をついた機敏な動きについて行けず、
「くそ!!」
「おのれ!!」
すっかり動顛《どうてん》してしまっている。
半次郎が自由自在に飛び、三人をほんろうした。
「えい」
「ぎゃあッ!!」
と、一人が倒れる。
「そりゃ!!」
「ざ、残念……」
と、また一人が突伏す。
最後に残った一人は、刃をひいて何かわめきながら、逃げ去った。
これが、またたく間のことである。
しいんと静まり返った路上に立って、
「おい……おい」
と、半次郎が空地の草むらへ声を投げた。
「あて[#「あて」に傍点]か?」
荷車の上から答えがあった。
「うん、どこの子じゃ?」
「おっさん、強いのやなあ」
「出て来んかい」
「おっさん、百姓でも力が強いのやなあ」
「来いよ」
もそもそと、空地の草むらの中から路上へ出て来たのは、まだ七つか八つの乞食の子であった。
「お前か、危いと声をかけてくれたのは──」
「うン」
「どこの子じゃ?」
「どこの子でもないのや」
「家は、どこじゃ?」
「そんなもん、ないのや」
「みなし子か?」
みなし子という言葉が、ぴんとこないらしい。
「うん?」
乞食の子が訊《き》き返した。
「ようわかったな。おいどんが危いちゅこつが……」
「向うの通りで道ばたで寝ていたのや。そしたら、おっさんが通って、その次にこの死んでるおっさんたちが刀ぬいて通ったんや」
「よう声をかけてくれたな」
子供の声をきかなくとも、半次郎は刺客にむざむざ斬られはしなかったろう。
だが嬉《うれ》しかった。
こんな小さな子供が百姓姿の自分の身を危ぶみ、わざわざと此処《ここ》まで刺客のあとからつけてきてくれた、その気持の強さに半次郎は感じ入った。
「おはん、名は何というか?」
「あての名か?」
「うむ」
「幸吉」
「幸吉か。親は?」
「あて、捨子や」
「ま、よい。ともかく来い」
半次郎は、幸吉をつれて藩邸へ着いた。
「おっさん、百姓やないのんか?」
と、幸吉は物々しい藩邸の中へつれこまれ、目をまるくしている。
中川宮からの密書は、無事に薩摩屋敷へとどけられた。
これから、薩摩屋敷から黒谷の会津屋敷へ使者が飛ぶ。
使者は高崎佐太郎であった。
佐太郎は後年の宮中御歌所の長となった高崎|正風《まさかぜ》である。
島津久光の侍臣として信頼も大きい高崎佐太郎は、鹿児島にある大久保市蔵との連絡も緊密であり、
「そちは京へ残り、予の心を体して、はたらきくれよ」
久光が、去年、京都から帰国するにあたり、高崎佐太郎へこのように言いつけているほどだ。
騎乗の高崎のまわりを二十名の藩士が武装してまもり、会津屋敷へ駈《か》けつけた。
翌日になって、薩摩藩からは高崎佐太郎、会津藩からは主君・松平容保の意を体した秋月|悌次郎《ていじろう》が、白昼、堂々と中川宮邸をおとずれた。
この二人をまもる両藩士三十名というから、さすがの長州藩も手が出せない。
こうして、会津と薩摩は協力して長州の勢力を京都から追い払うことに成功するのだが、その前に乞食の子の幸吉にふれておきたい。
幸吉という名も誰がつけたか知らぬという。
物ごころついたときには、柳馬場《やなぎのばんば》の油屋にいたという。
身の上をきかされたのは、去年のことで、それも油屋の老女中からきかされた。
もちろん、五歳のときから丁稚《でつち》同様にはたらかされていたのであった。
「いくら辛《つろ》うても、がまんするのや。拾うてもろただけでも、御主人さまをありがたいと思わなあかんえ」
と、老いた下女が言った。
身の上を話しておけと、主人に命じられたのだそうだ。
それが、この春から店を飛び出して乞食の子になった。
「なぜ、そげなことをしたんじゃ?」
半次郎がきくと、
「父ちゃんや母ちゃん、さがすのや」
と、七歳の幸吉が言った。
「腹へっておるな?」
「うン」
「いま、何か食わしてやる。待っちょれ」
幸吉は、薄幸な身の上に似ず利巧そうな子供であった。
入浴させ、さっぱりした着物をあたえてやると、見違えるほどになった。
顔だちも品がよくて、みじんも暗い影がただよっていない。
油屋の人々が、別に幸吉をいじめた様子でもないらしいので、
「おいどんが、一緒に行ってやるから、その油屋へ帰ったらどうじゃ?」
半次郎がすすめると、幸吉は、どうしても厭《いや》だと言う。
厭なわけがあるらしいが、どうしても言わない。
「まあ、おいといてやれ」
藩邸の人々もそう言ってくれるので、
「お前、ここにおるか?」
半次郎が言うと、幸吉は嬉《うれ》しそうに、
「おっさんもいるなら、あてもいる」
と言った。
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七卿落ち
一
乞食《こじき》の子の幸吉は、それからずっと、中村半次郎がめんどうを見ることになってしまった。
幸吉は、どうしても柳馬場の油屋へ帰るのが厭だという。とりあえず半次郎は、その夜のうちに、下宿先の瀬戸物屋〔みすや〕の二階へ連れてきて、
「帰るのが厭ちゅのならそのわけを話せ。話すのも厭じゃちゅのなら、おいどんが腕ずくでも、油屋へ引ったてて行くぞ」
と、きびしく言った。
幸吉は、うなだれた。
「言え。わけを言えちゅのに──」
「わけ言うたら、おっさん[#「おっさん」に傍点]のそばに置いとくれやすな?」
「事と次第による」
「ことと……?」
「つまり、おっさんになっとくがゆけばよいが、ゆかなければ連れ戻すちゅのだ」
「そんなら駄目や」
「なぜじゃ?」
「あて[#「あて」に傍点]、旦那《たいしよう》に顔むけならんこと、してしもうたんや」
思わず、そう口走ってしまい、幸吉は、はっと眼をふせた。
こうなっては、何も彼も語らざるをえない。
自分を捨てた父母をさがし、ひと目でも会いたいという思いに駆られ、油屋を飛び出すときに、二朱ほどの金を盗んできたというのである。
わずかな金高でもあるし、半次郎もまず[#「まず」に傍点]ほっとしたが、
「では、ともかく、おいどんが油屋の主人にあやまってやろう。その上で、主人がお前をゆるしてくるッちゅなら、お前も油屋へ戻るか?」
「…………」
「なぜ、黙っちょる?」
幸吉は、ちらりと、うらめしそうな視線を半次郎に投げたが、また眼をふせ、ひざの上に握りしめた小さな拳《こぶし》をわなわなとふるわせつつ、返事をしない。
「おかしなやつじゃ、戻るのが厭なのか?」
幸吉が、うなずく。
「油屋では、そげに、お前をいじめるのか」
今度は首をふる。
「それなら帰ったらよいじゃないか。おいどんが、よく、あやまっちゃるから……」
幸吉は、首をふりつづける。今度は頑強にふりつづけているのである。
前髪だちといいたいところだが、永い乞食ぐらしで幸吉の頭は、まるで河童《かつぱ》のように、むさくるしくたれのびていて、その下から、これは入浴をすましたばかりの童顔がまっ赤[#「まっ赤」に傍点]に力んでいる。
つぶらな双眸《そうぼう》からは、涙が遠慮会釈もなくあふれ、幸吉はそれをぬぐおうともしない。
ややあって、幸吉が、
「あんな悪さをしたあてや。店へもどっても、もうもう気がひけてつとまらしまへん。それ思うたら、どうでも厭や。あては、このまま好きなところを歩いて、父ちゃんや母ちゃんをさがすつもりや」
きっぱりと言った。
七つや九つの子供にしては、言うことが強い。
しかも、自分のささやかな悪行に対する反省の心も激しいのである。
「ふーむ……」
半次郎は、しばらく考えたのち「ともかく、今夜はここへ泊れ」と幸吉に言い、一つふとんに眠った。
翌朝──といっても、まだ外がうす[#「うす」に傍点]暗いうちに、半次郎は床をぬけ出し、まだ眠りこけている幸吉には黙って、柳馬場の油屋へ出かけて行った。
出て行きがけに、別室に寝ている部下の一人を起し、
「あの小僧な、おいどんが戻るまで外へ出しちゃいかんぞ」
言い残すことを、半次郎は忘れなかった。
柳馬場というのは、碁盤の目のような京の町の通りを薩摩屋敷から北へまっすぐに進み、御所の堺町《さかいまち》門の手前の辻《つじ》を右へ入って二ツ目の通りがそれである。
半次郎の下宿からも、それほど遠くはなかった。
油屋〔丹波や嘉兵衛〕の店は、すぐにわかった。
まだうす[#「うす」に傍点]暗いのに、早くも店の戸は開けはなされている。
店での商売のほかに、呼び売りもしているらしく、手押車に油の荷をつんだ小僧が二人、いそがしそうに立ち働いていた。
あまり大きな店がまえではない。
「ごめん下はれ」
半次郎が店先から声をかけると、すぐに、主人の嘉兵衛があらわれた。
でっぷりとした、いかにも好人物らしい中年男なのである。
半次郎の言うことを聞き終ると、嘉兵衛は、まことにごめんどうをおかけして申しわけないと丁重にわびを言い、
「何もあれほどのことをしたからと言うて、こちらでは何とも思うてはおりませぬ。幸吉が顔も名も知らぬ両親を慕《しと》うていたことは、うちのものがみな知っておりまする。何とぞ、幸吉を……いえ、これから私がお供をして、幸吉をつれもどしに……」
「いや──」
と半次郎は、これを制した。
「へ……?」
主人が、きょとんとして、
「いけませぬか?」
「とんでもない。御主人はじめ、この店のみなみなの言わるッことをきいたなら、幸吉も、どげによろこぶことか知れもはんが……」
「では……」
「なれど、当の幸吉が、すでに悪事をしてしもうたからには、何としても戻るのが恥ずかしく、この上は一人前の男となり、何とか両親にめぐりあえてから、あらためて御主人におわびをする、とまあ、こげに言うて、何としても聞き入れもはん」
「はて……」
「それでじゃ」
半次郎は身をのり出し、
「おいどんも、薩摩の家来で中村半次郎といえば、少しは……そのう、少しは名を知られたもんでごわす」
「はい……」
「悪うはせぬ。おいどんに、あずけてくれもはんか」
「お侍さまに?」
「おいどんがもし死んだとなりゃ、薩摩のもんが何かにつけ、めんどうを見てくれるじゃろうし、それに、われわれは何と言うても諸方へのつきあいもあるし、旅へ出ることも多い。たくさんの藩士によくたのんでおけば、ひょいとして、幸吉の親どもの消息も耳に入るかも知れんと、こう思《おめ》もすが……」
「なるほど……」
「なお、幸吉の将来についても心配ごわはん。これからは心がけ次第で、どんなにも出世できるちゅ世の中が、きっとやってきもす」
「ははあ」
「どげでごわしょう? おいどんにまかせてくれもはんか」
「それは……」
嘉兵衛は、うなずいた。
「幸吉が、それでよいと申しますのならば……」
「否やはござらんな?」
「はい」
嘉兵衛が答えたとき、台処の方で何かしていたらしい老女中があらわれてきた。
(ははあ、この老婆な、幸吉に親切にしてくれたちゅ女中じゃな)
と、すぐに半次郎もわかった。
老婆は、幸吉の身のまわりのものなぞをすぐにまとめ、半次郎と共に、下宿へやって来た。
ようやく、朝の陽が東山のうしろから顔を出したばかりである。
起きていた幸吉は、
「あッ、おばはん」
と、半次郎のうしろから二階へ上って来た老下女を見て、びっくりした。
さらに、半次郎が自分をそばにおいてくれると知って、おどりあがらんばかりによろこんだものである。
「おいどんも、お前が好きじゃ。好きじゃから、こうしたのだ」
と、半次郎は微笑と共に幸吉へ言ってやった。
二
それから、およそ十日後になって、事変がおこった。
すなわち、文久三年八月十八日の午前一時ごろから明け方にかけて、薩摩と会津両藩は武装の兵をくり出し、中川宮をまもり、御所へ参入したのである。
中川宮は、宮中の常御殿に、前関白の近衛《このえ》公をはじめ、右大臣・二条|斉敬《なりゆき》や内大臣・徳大寺|公純《きんいと》などの公卿《くげ》をあつめた。
これらの公卿は、いずれも天皇や中川宮と志《こころざし》をおなじくするものたちである。
孝明天皇も、むろん、その席においでになる。
中川宮は、声をはげまし、
「これより、帝《みかど》の叡旨《えいし》をおつたえいたします」
ふだんは、何となく茫洋《ぼうよう》としていて、公卿らしくもないがっしりとした体躯《たいく》も、顎《あご》の張ったいかめしげ[#「いかめしげ」に傍点]な顔も、とろんと眠ったようにおだやかな感じがする中川宮なのだが、この席上では、
「まるで、公卿びとのように思われず、戦国の世の、どこかの荒くれ大名が鎧《よろい》に身をかため、出陣の下知《げじ》をおこなっているような勇ましさであった」
と、このとき同じ席につらなっていた会津藩主の松平容保が後年になって語っている。
中川宮は、
「近ごろ、朝臣の中には長州藩のたくらみにあやつられ、帝の御心にもないことを平気でやってのけるものがあることは、どなたも御承知のことと思います」
と言った。
孝明天皇が、この言葉に、ふかくうなずかれたのを、列席の人々は、はっきりと見た。
「このたび、御上を大和《やまと》へおうつし申し、この私を、ひそかに九州へ追いやり、京の都から皇室を引きはなしておいてから、その上で、すぐさま兵をあげ、いっきょに幕府をほろぼそうという計画が、長州藩をはじめ少壮の公卿たちの間におこなわれていたのです」
中川宮が語りつづけるうちに、公卿の中には色を変えておどろくものもいた。
中川宮はひざをのり出し、
「御上には、こうした過激なふるまいをおよろこびなさいませぬ。そのようなことになれば、京をはじめ、諸方に戦火がひろがり、無辜《むこ》の国民《くにたみ》がどのように無惨な、ひどい目にあうか知れたものではない。このことを何よりも御上は御心痛あそばしておられます。
しかも、事はせまりました。
すぐる八日の夜に、私の邸へ、中納言実則どの烏丸侍従《からすまるじじゆう》の二人が勅令と称し、この私へ鎮西《ちんぜい》大使として九州へおもむくように申してまいったのです。むろん、このことは御上の御承知なきことにて、すべては、長州藩と少壮公卿たちの陰謀にほかならぬこと」
座が、どよめいた。
前夜からの雨がやまず、その上にまだ夜も明けきってはいない時刻であった。
公卿たちは、身のひきしまる思いで、天皇のお顔をうかがった。
孝明天皇は、一言も発せられない。
すべて中川宮にまかせておいでになるのだが、宮の一語一語に、いちいちうなずかれ、いつもはやさしげな眼ざしも、怒りにもえておいでになるようであった。
「かくなっては、もはや、このまま手をつかねているわけにはまいらぬ。それでこのたび、一部の朝臣どものふるまいをとりのぞき、合わせて、長州藩の粗暴なる言動をおさえたいとの御上のおぼしめしにより、かくは諸藩の兵力をあつめ、御所へ参入させたわけであります」
と、中川宮は発表を終えた。
薩摩と会津が主動力となり、しかも勅令によって、京都にある諸大名にも、至急の御召しが伝達されていたのである。
すべては、天皇と中川宮と、そして会津と薩摩との秘密|裡《り》におこなわれた計画が、見事に効を奏したというわけであった。
三
たちまち、その席上において、中川宮は朝臣の職席の異動・変更をおこなった。
同時に、いままで長州藩がまもっていた堺町門の警衛を、薩摩藩に命じられたのである。
そうするうちに、因州《いんしゆう》・備前《びぜん》・米沢《よねざわ》・阿波《あわ》などの諸藩が、御召しによって兵をくり出し、ぞくぞくと御所へ参入してくる。
「これで、御所のまわりは、すべてかため申した」
という会津藩の使者が、薩摩藩へ知らせてくると、
「よろしい!!」
薩摩藩では、ただちに、勢ぞろいをしていた公卿門《くげもん》のあたりで別動隊を組み、
「それっ!!」
雨の中を、長州藩がかためている堺町門へ向った。
ときに寅《とら》の刻(午前四時)という。
御所のまわりは、にわかに騒然となった。
武装の隊列があわただしく行き交《か》い、馬蹄《ばてい》の音が、わきたつように諸方でおこる。
このとき轟然《ごうぜん》たる砲声がきこえた。
これは、すべての準備がととのったという知らせである。
会津藩が、かねてそなえつけておいた大砲一発をもって、これを報じたのだ。
中村半次郎は、四十名ほどの別動隊の一員となって堺町門へすすんだ。
この別動隊には、中川宮の執事をつとめている鳥山|三河介《みかわのすけ》と、もう一人、京都守護をうけたまわる会津藩の代表として会津藩士・大野|英馬《ひでま》がくわわっていた。
この二人は、堺町門の長州藩に勧告をおこなうためであった。
「一戦、はじまりもすかな?」
半次郎が、となりに歩む佐土原英助にきいた。
「わからん」
「長州もだまってはおらぬと思《おめ》もすが……」
「うむ」
と、英助も緊張で顔のいろが青ざめていた。
「佐土原どんな、人を斬るのは、はじめてごわすな?」
「当たり前だ」
「いざとなったら、おいどんと一緒に闘かいもそ」
「よか!!」
御花畑の西側をすすみ、別動隊は早くも中川宮邸の裏塀にそって左へまがった。
右手に九条邸があり、この塀を右へ折れると、堺町門の裏側に出る。
このあたりまで来ると、門のあたりできこえる物音が、誰の耳にもつたわってきた。
馬のいななきや馬蹄の音が雨音を引き裂いてみだれ走っている。
さすがに、長州藩も、この朝の事態を知り、あわてふためいているらしい。
会津藩士の大野英馬が、馬をあおって隊列の先頭に出た。
つづいて、これも馬上の鳥山三河介が大野のあとから先頭にぬけ出すと、
「しばらく、おとどまり下されい!!」
と叫ぶ。
隊列がとまると、鳥山が叫んだ。
「くれぐれも血を流さぬよう心がけられたい。これが御上をはじめ、中川宮様の御意思でござるによって……」
つづいて、大野も、
「長州が仕かけてくるまでは、御一同も口をとじて耐えていただきたい」
と叫ぶ。
一同がうなずくのを見て、大野と鳥山は馬に鞭《むち》をくれて走り出した。
そのあとから、隊列は粛然とした足なみに変り、ゆっくりと九条邸の塀を右に折れた。
騒然たる物音が、わあーん……と門の向うから雨の幕をぬってきこえてくる。
堺町門のまわりには、武装の長州兵がまっくろになってひしめいていた。
「薩摩じゃ!!」
「かまわぬ。打ちかかれい!!」
口々にわめいて、長州兵が、どっと門の中へ乱入しようとする。
「かまえ!!」
中村半次郎と共に、隊列の先頭へ駈《か》け出した高島|鞆之助《とものすけ》が号令をかけると、四十名の別動隊のうち、二十余名が小銃をかまえ、ぴたりと長州側へねらいをつけた。
隊列は、門の手前百メートルのあたりでとまり、さっと横に散開し、いざとなれば──の体制をととのえる。
水ももらさぬうごきであり、この整然たる威圧感に、長州側も思わずたじろいだようであった。
そこへ、鳥山三河介がすすみ出て、前にのべた天皇の叡旨《えいし》をつたえ、
「早々に御門の警衛をとき、京都より退去するように──」
厳然と言いわたした。
四
申しわたしをうけても、長州藩は堺町門の警衛詰所から退こうとはしなかった。
長州の士で、人数頭をつとめる天野甚太郎というものがあらわれ、
「勅令とあれば容易ならざることと存ずるが、われらも、重役一同の指図なき上は、かるがるしく此処《ここ》をうごくことはなりませぬ」
と、突き放した。
そうするうちにも、河原町にある長州藩邸からは、ぞくぞくと人数がくり出してくる。
こちら側でも、淀《よど》藩や会津の兵がつめかけてきた。
そして、堺町門の内側にある鷹司関白《たかつかさかんぱく》の屋敷のあたりで、長州勢とにらみ合った。
そのまま、まるで、あぶら汗が凝りかたまるような時間がすぎていった。
長州藩では、三千に近い兵力を動員し堺町門へつめかけてきた。
参謀の久坂玄瑞、桂小五郎など、長州の指導者をもって任ずる人々も駈けつけてきたが、すでに後の祭りである。
「しまった!!」
さすがに、長藩に桂ありといわれたほどの、利け者の桂小五郎も、こうまで何も彼も膳立《ぜんだ》てができていようとは、思ってもみなかったろう。
薩摩と会津の両藩が、中川宮を中心にして、あくまでも隠密のうちに、ここまで事をはこんだのは、非常な成功であったといえる。
ともかく、寺田屋騒動から姉小路|卿《きよう》の暗殺とつづいて、薩摩藩の勤王も地に落ちたかと思われていたのが、一夜のうちに、立場が逆転をしたのだ。
「それもこれも、長州が調子にのって乱暴なこツをやりすぎたのじゃ。そのために、せっかくの、天皇から得たところの信任ちゅうものをうしのうてしもうた。まあ、あのまま何も彼も長州に牛耳られとったら、いまごろは、おいどんな、陸軍少将になれたかどうか、こりゃ疑問ごわすな」
と、後年になって、中村半次郎あらため桐野利秋が述懐している。
その日、雨は終日ふりしきった。
ひたひたと地をぬらし、霧のようにけむるかと思うと、にわかに音をたててふる秋の雨であった。
昼ちかくなった。
そのころから、鷹司邸内にまで充満していた長州兵のうごきが、にわかに緊迫したものになった。
「こりゃ、いかん」
半次郎は、後から運んできた二門の大砲を少し後方に退《さ》がらせたほうがよいと、進言をした。
「戦いな、はじまると、あまり近間では会津や淀の兵を共に撃つことになりもす」
「もっともじゃ」
半次郎の進言がいれられて、大砲二門が後退したときであった。
するどい叫び声が、つづけざまにおこったかと思うと、
「出たぞ!!」
「撃て!! 撃ってしまえ」
鷹司邸を包囲していた会津藩兵がどなりはじめた。
半次郎は矢のように駈けもどった。
長州兵が、鷹司邸内から外へくり出してきたのは、このときである。
その人数はおよそ百五十名ばかりで、いずれも白い筒袖《つつそで》の着物にこれも筒袖黒もめんのぶっさき[#「ぶっさき」に傍点]羽織をつけ、鉢巻をしめ、槍《やり》、弓矢、銃なぞを思い思いにつかみ、無言のまま殺気と闘志にみちみちて押し出してきたものである。
会津と淀の両藩兵は口ぐちに叫びながらも、この長州勢の威容に、はっと気をのまれた。
あっという間もなかった。
長州の隊列は、見る見るうちに薩摩の隊列へ近づいてきたのだ。
五
「退《ひ》け、退けい!!」
薩摩側が、銃や刀をかまえて、押しよせてくる長州側を押し返そうとする。
「そちらこそ退かんか!!」
「徳川の狗《いぬ》め!!」
と叫ぶ長州側の声が、わあーっと一つにかたまって、どよめきとなった。
一触即発の危機である。
こうなると、会津や淀の藩兵もだまってはいられず、長州兵の隊列の横合いからつめよせてきて、そのあたりでも怒号の応酬がわきおこった。
これで、誰かが少しでも手を出したらもうおしまいである。
門内の一角は、たちまち修羅場《しゆらば》と化してしまい、それは尾をひいて、御所全体におよぶことであろう。
こうなることも、薩摩や会津は予測していて、いざとなれば、天皇を御所から脱出せしめようと、輿《こし》も用意し、これを守護する兵力をも常御殿の近くへあつめさせてあった。
「待て、待てい!!」
中村半次郎が、薩摩側の隊列のうしろから躍り出したのは、このときである。
このとき、長州と薩摩双方の間隔は、およそ二十メートルほどにさしせまっていたという。
「待ちゃい!!」
白い雨の幕が裂けるかと思うような大声であった。
半次郎は、鎧《よろい》の籠手《こて》と、黒革胴を身につけ、袴《はかま》をひざ[#「ひざ」に傍点]のあたりまでたくしあげている。
黒のきゃはん[#「きゃはん」に傍点]にわらじばき[#「わらじばき」に傍点]というのは、他の藩兵たちと変らないが、半次郎だけは鉢巻をしめていなかった。
「中村だ!!」
「人斬り……」
「かまわん、斬ってしまえ!!」
飛び出した半次郎を見て、ざわざわと波だつようなささやき声や、かん高い叫びが一緒になって長州兵の間にたちのぼった。
「諸君!!」
半次郎が、また怒鳴った。
〔諸君〕というのは、ちかごろ流行の言葉で、前ならば「御一同!!」とよびかけるところであろう。
「諸君は、ここを何処《どこ》じゃと思っちょる!!」
両腕をひろげ、半次郎は、
「ここは、天皇おわす御所でござるぞ、禁裡《きんり》ごわすぞ、諸君はおそれ多くも禁裡のうちにおいて血を流すおつもりか、そりゃなるまい。そげなこつしたならば、長州藩の勤王な地に落つること火をみるよりもあきらかでごわす!!」
どうも、言うことは平凡なのだが、実に何とも、すばらしい気魄《きはく》が声にこもっている。
半次郎の声は、明瞭《めいりよう》に、あたりへひびきわたった。
「勅命じゃ、勅命ごわす!!」
なおも、半次郎はたたみかけ、
「長州藩は、勅命にそむく気か!!」
ずかずかと進み、長州の隊列の先頭に立っていた隊長らしい侍の鼻づらにまで近よってきて、
「おはん、勅命にそむくかッ」
と、その隊長をにらみつけて言った。
「む……」
隊長は、すっかりのまれた。
「そむくなら、仕方ごわはん」
さっと飛びさがると、半次郎は、
「そちらから仕かけてくるなら、おいどんな、手向いいたす。勅命によって薩摩藩な、長州の賊を斬る!!」
叫んだかと思うと、半次郎の体躯《たいく》が雨足を縦横に切りやぶって、前後に、左右に、電光のようにうごいた。
まるで燕《つばめ》のようにうごく半次郎の躯から、鞘《さや》をはなれた大刀の光芒《こうぼう》が走りきらめいては吸いこまれてゆく。
得意の居合術を、数百の敵味方が見まもる中でやって見せたわけである。
ひしめき合い、叫び合っていた人々は、あっけ[#「あっけ」に傍点]にとられて、これを見つめたままだ。
びいーん……。
鍔鳴《つばな》りの音がひびいた。
半次郎は片ひざ[#「片ひざ」に傍点]をついて、最後に刀を鞘におさめ、しずかに立ちあがると、声もないどよめきが、あたりいちめんにおこった。
すかさずに、半次郎が、
「何事も、勅命ごわすぞ」
とどめをさした。
しかし、さすがに長州藩である。
血気のものが三名ほど、抜刀して隊列から飛び出そうとした。
「待て!!」
後方から馬を疾駆させてきたものがある。
鎧に陣羽織を着した堂々たる侍だ。
これが、参謀の久坂玄瑞である。
長州の桂小五郎、久坂玄瑞といえば、薩摩の西郷、大久保ほどの立場にあり、声望がある。
「勅命にさからうな!!」
久坂は、隊列の先頭へぬけ駆けてきて、
「引け!!」
と言った。
鶴の一声である。
久坂の命とあれば、どうにもならない。
無念の形相《ぎようそう》も物すごく、長州兵は、たちまちにしりぞき、鷹司関白邸の中へ入ってしまった。
そのとき、久坂玄瑞が馬上から半次郎をちらりと見て、
「いさましいな」
にやりと笑い、かるい皮肉をまじえて声をかけた。
半次郎は、テレくさそうに頭をかき、自藩の隊列の中へ、かくれこんだ。
中川宮邸にひとりでつめていたころ、半次郎は、御所内を我物顔に通行していた羽ぶりのよい長州の侍たちへ、
「今日《きゆ》は、よか天気ごわすな」
などと、おくめんもなく笑いかけては、もちまえの愛嬌《あいきよう》のよさで、
「ひとくち、いかがごわす」
例の〔へそ石|餅《もち》〕をすすめたりして、話しかけたものだ。
久坂玄瑞も、そのうちの一人であった。
そのころ、半次郎は佐土原英助に、こんなことをもらしたという。
「薩摩と長州が、これ以上に仲が悪うなり、互いに相戦うちゅことになれば、まず、桂小五郎、久坂玄瑞の二人は、まっさきに斬らにゃいけもはん。そげなときには、おいどんがやるつもりごわす。そのためには今のうちから相手の力をはかっとかにゃいかぬ」
また、もう一つ。
「もしも、双方の仲がようなったときには、長州方に顔見知りをつくっておくことな、無駄にはなりもはん」
両藩が、犬猿のように憎み合っていたときから、半次郎は平気で、桂や久坂のみか、長州藩の下士から重役に至るまで、御所内で見かけては挨拶《あいさつ》をおこなったものだ。
別に、顔を売るという意識があったわけではない。
半次郎は半次郎なりに、これからの自分のはたらきへ、自分自身が期待をかけていたのである。
勤王といい、佐幕といい、天下がひっくり返ろうとする時代であっても、外国勢力の圧迫をうけて、自分の国がどうにかなってしまいそうな時代であっても、人間の出世|慾《よく》にはかわりがない。
いや、むしろ、時代というものは、人間の慾望のはげしさが押しすすめ、変転させてゆくものなのであろう。
六
長州藩が、たまりかねて、鷹司関白邸から押し出した目的は、次のようなものであった。
いま、お召しによって宮中へ参入している鷹司関白を迎えに行くというのが、表むきの理由である。
関白という、朝臣の中でも高い位にある鷹司|輔煕《すけひろ》は、少壮|公卿《くげ》たちの上にたち、長州藩とも密接なまじわりがある。
だから、宮中へめされて、中川宮から事態の説明をうけても、なかなか承知をしなかった。
ことに、過激派の公卿──三条中納言実美をはじめ、沢、日野、烏丸、万里小路《までのこうじ》など二十名におよぶ人々が禁足命令をうけたときいて、
「ひとことのおとりしらべもなく、このようなる御処置をあそばすのは、何としても、なっとくがゆきませぬ」
天皇の前で、はげしく中川宮へせまった。
この鷹司関白を迎えに行くと称して宮中に入り、長州藩は、何とか打開の道をこうじようとしたのだが、打開の道といっても、ここまでくれば、武力を行使するよりほかに道はない。
もちろん、その覚悟でくり出したのであろう。
しかし、中村半次郎がやたらに「勅命だ」とわめきたてるのを耳にはさんでいるうち、参謀の久坂玄瑞は、
(やはり、まずいわい)
と、考え直したようである。
それでなくとも、長州は自分たちがやってきたことを、ちゃんとわきまえている。
(天皇も公卿も、しょせんは天下をとるために利用するだけのことだ。これは、昔から、どの政権も同じことをくり返してきている。幕府を倒し、新しい時代をつくりあげるためには、どんなことをしても、やりとげるということが大事だ)
革命には、どんな理由でも簡単につけることができる。
そこに革命の魅力があるのだし、おそるべきエネルギーもひそんでいるのだ。
そのころ、孝明天皇が中川宮へたまわった密書に、こんなことがしるされてある。
長州附属の輩《やから》、手廻し足廻し候策略に、尹宮《いんのみや》(中川宮のこと)、肥後守、石清水において僧を語らい……。
つまり、中川宮と会津藩主・松平容保が、石清水八幡《いわしみずはちまん》の僧にたのみ、天皇の位をうばい、孝明天皇にかわって中川宮が皇位につくことを祈願させ、あわせて孝明天皇を呪詛《じゆそ》させたということを、京都市中に張紙をしたり、うわさをふりまいたりして、天皇と中川宮の間をさこうとしたというのである。
……例の風説張紙、朕《ちん》それになずむようなるわけ無之《これなく》……。
と、天皇は、このような長州藩の陰謀にまどわされることなく、これからも力を合わせ、相談相手になってくれるよう……と、中川宮へあてた手紙におしるしになっているのだ。
このためには、長州藩が石清水八幡宮の罪もない坊さんを一人、殺している。
「この坊主が呪詛のいのりをおこなったから、斬ったのだ」
という、まことにすさまじい理由をかぶせ、これをまた、まことしやかに言いふらすものだから、
「けしからぬは中川宮じゃ」
と息まいて、激昂《げつこう》する若い公卿もいたほどである。
とにかく、長州藩はやりすぎた。
何でも彼でも、この際いっきょに幕府から政権をうばいとろうと焦ったために、ところきらわず、手段をえらばなかったことはたしかだ。
桂小五郎にしても、久坂玄瑞にしても、こうした自藩のうごきを知らぬわけはない。
なぜなら、彼等は指導者の立場にあったからだ。
それだけに、白昼、しかも御所内において、諸藩の兵が見つめる中で、勅令をおかしてまで御所へ乱入することは、避けるべきだと、久坂はさとったのである。
(出直しだ、そのためにも、ここはおとなしくひきさがるよりほかはない)
長州の誰もが、そう思ったことであろう。
中には、ぜひにも武力をもって御所をうばいとろうとするものもいたが、
「ひきあげよ」
ついに、夕闇がただようころとなって命が下った。
長州藩の兵力は、すべて堺町門をひきはらい、ともかく東山・阿弥陀《あみだ》ケ峰の山すそにある〔妙法院〕へしりぞくことになった。
この前に、勅使の柳原中納言が、鷹司邸内にあつまっていた長州藩の重役一同へ、勅諚《ちよくじよう》をつたえている。
つまり、何事につけ、乱暴なふるまいを反省し、勤王の忠節をつくすようにせよ……というものであった。
長州藩のひきあげと共に、長州側がまもっていた三条中納言ほか七名の公卿が御所から出て行った。
「鷹司邸にあつまる堂上《どうじよう》(公卿)たちは早々に退散すベし」
との勅命があったからである。
これら過激派の公卿に対する天皇のお怒りは、ただならぬものがあったようだ。
雨は、まだやまない。
七名の公卿たちは、いずれも衣冠束帯《いかんそくたい》の礼装のまま馬にのり、政争にやぶれた無念さで顔面|蒼白《そうはく》となっている。冷雨にぬれつくしつつ妙法院へしりぞいた長州藩の士卒と七名の少壮公卿たちは、やがて、京の都からも追いはらわれてしまった。
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沈丁花
一
「もうじきに、春どんなあ」
半次郎の腕の中で、法秀尼が言った。
「うむ……」
午後の陽ざしに、しめきった白い障子が明るんでいる。
その明るさがもう違ってきていた。
「春が近うなると、男はんの肌の匂いも、ちごうてくる……」
法秀尼がとろりとした声でつぶやき、ぼってりとした唇を、厚くもりあがった半次郎の胸肌へさしよせてきた。
「よしなはれ」
と、半次郎が笑いながら言う。
「よいではないかえ」
「こそばゆいちゅのに……」
法秀尼は、ちらりと舌の先をのぞかせ、これで半次郎の胸毛をなぶったりするのである。
しめきった小さな法秀尼の居室の中で、例のごとく、二人は床にもぐりこみ、愛撫《あいぶ》のかぎりをつくしている。
京都から、長州藩の勢力が追いはらわれ、ふたたび、薩摩藩が幕府と朝廷との間にたち、活溌《かつぱつ》なうごきをしめすようになってから、およそ半年になる。
いまは、年があけて、元治《げんじ》元年二月のはじめだ、ということは、現代でいうと三月中旬ごろになる。
中村半次郎は、有名な京の寒さというものを去年の冬は初めて体験をしたが、二度目の冬を迎えても、やはり寒かった。
寒いというよりも、冷えこむのだ。
冷たい風もないのに、山なみにかこまれた町中が、しんしんと冷えわたる。
腹のあたりから腰、股《もも》へかけて、いつも濡《ぬ》れた布を巻かれているような気がするほどであった。
雪も、この冬はよくふった。
南国の鹿児島にも、ふらないではないが、まず、本格的な冬景色というものを見たことがなかった半次郎だけに、今年も雪がふると大よろこびで、
「冷えるのはかなわんが、雪景色ちゅもんな、よかもんごわすな」
古めかしい町に、山なみに、川に、寺に、ふりしきる雪を見ては、
「おいどんに歌をよむことを教えて下はれ」
と、法秀尼に甘えたりしたものである。
そして、この冬は、半次郎もたびたび〔不了庵《ふりようあん》〕へ足をはこんできた。
「そないに、たびたび来やはってよろしおすのか?」
「いまのところ、京の町も血なまぐさいことな無《の》うなったようごわす」
「いまのところだけやないのんか」
「いかにも──先のことは、わかりもはんが……」
「なんや薩摩屋敷が、また二本松のあたりにでけるそうな──」
「知っておられたのか」
「町中のうわさや」
と、それが去年の秋のころの話である。
八月十八日の政変があってから、薩摩藩では、洛東《らくとう》の吉田の地に新しい屋敷をかまえた。
会津藩でも、いままで仮藩邸にしていた黒谷の光明寺から引きはらい、これも急いで鴨川《かもがわ》の東岸、荒神橋《こうじんばし》をわたったところに新邸をいとなむことになった。
こういうわけで、薩摩藩では、すでに相国寺の隣地へ建築中の新邸と並行して、吉田の新邸の工事をすすめた。
昼夜兼行の大工事である。
金に糸目はつけない。
こうなると、薩摩藩の実力は、諸大名のそれにくらべ、はるかに上まわるものをもっていたのだ。
薩摩は本州の最南端を、おのれの領国とし、早くから海をわたっての海外貿易に進出をして、地盤をきずいている。
幕府が国をとざしてからも、薩摩は大いに〔密貿易〕でもうけた。
ことに、文政年間における強引な財政改革に成功してからは、なおも貿易のスケールをひろげてきている。
徳川幕府は、これを知っていても、もはや何も文句をつけられない。
将軍といえども、実力のある大名には一歩も二歩もゆずらねばならなくなってきた。
これは、すでにのべた薩英戦争前後のいきさつを見ても、わかろうというものだ。
島津久光も、去年の十月三日に、藩兵千六百余人をひきいて、鹿児島から京都へやってきた。
天皇の御意思で、
「京都の形勢容易ならず、ただちに上京ありたし」
という命が下ったからである。
それ以来、久光は、ずっと京都藩邸にとどまっているのだ。
「まず、人もふえもしたよ」
半次郎も、びっくりしている。
相国寺と、吉田の新しい藩邸は、まだ完成をみてはいないのだが、
「かまわぬ。どしどし移れ。移って、ともに工事を助けよ」
久光が命じた。
久光自身も、錦小路の藩邸を出て、吉田の藩邸へさっさと移り、みずから工事の指揮にあたるという張りきり方であった。
二
「それで、半次郎どのは、まだ瀬戸物屋の二階においやすのか?」
愛撫に飽満した法秀尼が、手まわしよく枕もとにおいておいた手ぬぐいで、汗にぬれた躯《からだ》をふきながら、
「何とやら言うた……あの子供の……」
「幸吉ごわすか?」
「そや。その幸吉いう子も、まだ、いっしょに……?」
「いっしょごわすよ」
ふとんの中から両腕をのばし、半次郎は法秀尼のふとやかな腰を、うしろから抱きよせた。
「もう、ええがな」
「フン、フン……」
半次郎が甘えて、鼻をならす。
「もうじき、日の暮れどすがな」
「フン、フン……」
「何や、大の男が甘えて」
「フン、フン」
「半次郎どのは、今年でいくつや?」
「二十七になりもした」
「そうか……」
法秀尼は、白い下着をまといつつ、何か考えにふけっているようである。
「どげんしもした?」
「何でもないのや」
「それならよいが……何か、心配事でもあるのとちげもすか?」
法秀尼は首をふり、
「早う、着物を着ておしまい」
と、つよく命じた。
「はアい」
「お手本も、そこに書いてあるえ」
「あいがとごわす」
「早うお帰り」
「え……?」
硬張《こわば》った法秀尼の声に気づき、半次郎が半身をおこして思わず見やると、
「早うお帰り言うているのや」
法秀尼はすでに法衣《ほうえ》をまとっていた。
「どげんしもした?」
「どげんも何もない」
「何か気にさわったことでも、ごわすのか?」
「早うお帰り」
「おいどんな、何か失礼をしたちゅのなら、あやまりもす」
「お帰り、お帰り!!」
たたきつけるように言い、法秀尼は境の襖《ふすま》をあけ、さっさと仏殿へ走りこんだ。
「法秀どの」
あわてて追おうとする半次郎の鼻先でぴしゃりと襖がしまった。
(どげンしたちゅのか……?)
いくら考えても、わからなかった。
こんなことは、はじめてなのである。
(女ちゅもんな、ときどき、こげな風になるらしい)
突然に硬化した法秀尼の態度が、どのような理由をもつものかわからなくとも、
(何しろ、女ちゅうもんの躯は、いろいろとめんどうくさくできとるちゅことじゃ)
鹿児島にいたころ、宮原の幸江も、ときに、こうした様子をみせることがあったものだ。
あの太鼓橋の川上にある竹藪《たけやぶ》の中で、たのしい媾曳《あいびき》をしている最中にも、幸江が、急に不機嫌な様子を見せることがあった。
どうした? ときいても、幸江は、
「男には、わかりもはん。女子《おごじよ》の躯は、大層めんどうくさくできちょるもんござす。そいで……」
「そいで?」
と、半次郎が訊《き》き返すと、
「何とでもよかごわしょうが……女ちゅもんは、ときどき、こげに気が変になるもんじゃちゅこと、おぼえておきなはれ」
叱りつけられたことがあった。
(ま、よか)
それでも、半次郎は着物を着てから、襖ごしに、仏殿にいる法秀尼の気配をうかがった。
ひくく、経をよむ法秀尼の声がもれてきている。
「法秀さア……」
半次郎が、そっとよんだ。
返事はない。
「法秀尼どの」
「…………」
読経がやんだ。
「また、来てもようごわすか?」
「いかぬと誰が言うた」
と法秀尼が、とげとげしく答えてきた。
半次郎は首をすくめた。
「では、ごきげんな、直ったころに、またやっち来もす」
「明日になれば、直るえ」
「そうごわすか」
「今日は、早くお帰り」
「心得た」
「今度来るまでに、その手本の清書を、ちゃんと仕上げておいで」
「はアい」
ふとんをたたみ、半次郎は刀をさし、庵室《あんしつ》の外へ出た。
また、読経がきこえだした。
(それにしても、法秀どのは、どげな女なのか……どうも見たところ、武家の出らしゅう思えるが……)
庭から竹垣にそって、小さな門に通ずる敷石を踏んで行きながら、
(ほう……もう、ほころびかけちょる)
ふっと、庭の一隅に植えこまれた沈丁花《じんちようげ》に目をとめて、
(早いもんじゃ、もう二年か……)
半次郎は、この常緑性の、背のひくい灌木《かんぼく》に見入った。
沈丁花は、中国から日本に渡来したものである。
去年の春に、半次郎は初めて、この不了庵で、沈丁花の花を見た。
直立した茎に分岐し、みっしりと硬くて濃緑な葉をつけたこの植物が、花をひらくのは二月のなかばごろからであった。
花は、四つにわれた筒《つつ》形のものが、いくつもかたまって咲く。
咲いたばかりのときは白いのだが、次第に、赤とむらさきをまぜたような色にかわってくるのである。
それが、いかにも春らしい。
春の気配濃厚になるにつれ、葉も花も少しずつ濃艶《のうえん》なものにかわってくるように思えるのだ。
それに、この花の香気はすばらしかった。
甘酸っぱい、あやしい香気が、庵室の中にまで、ただよってくるので、
「よう匂う花ごわすな」
半次郎が言うと、法秀尼が、
「沈丁花ゆう花は、ことさら、京というところでは匂うえ」
「なぜごわす」
「京は湿気が多いところや。この花は、湿気の多いところで、よう匂うのや」
「ははあ」
法秀尼は、いろいろなことを知っていると、半次郎は感心をしたものである。
「さて……」
一年前の、そんなことどもをちらりと思いうかべた中村半次郎が、夕焼けにそまる丘の道へ、一歩ふみ出したとき、
(や……?)
半次郎は猟犬のようにするどい眼つきになった。
たしかに、門のあたりから彼方の松林のあたりへ、人の気配がうごいて行ったような気がしたのである。
(誰か、いたな。おいを見張っていたのか?……)
半次郎は、立ちつくしたまま、じいっと気配をうかがっていたが、急に、妙な表情になった。
(何じゃ、これは……?)
半次郎は、鼻をひくひくさせた。
庵室のまわりをかこむ松林の中から夕闇が這《は》いよってきている。
半次郎が気づいた匂いは、沈丁花のそれではない。
京|白粉《おしろい》の匂いであった。
三
扇子問屋・松屋の娘おたみ[#「おたみ」に傍点]は、息をきらせて、暗くなった五条橋をわたった。
家へ帰ると大さわぎの最中であった。
昼すぎに、下女をつれて、祗園社《ぎおんのやしろ》まで出かけて行ったおたみが、途中から下女と別れて、どこかへ去ったきり、日暮れになっても帰ってこなかったからである。
「まあお前、どこへ行っていたのや?」
母親のりん[#「りん」に傍点]が飛び出してきて、
「ほれ、お母ちゃんの顔をようお見。こないに親を案じさせてよいものか」
と、おたみを叱った。
「かんにんえ」
わびたが、おたみの顔は青かった。
おたみに「先へ帰れ」といわれて帰ってきた下女も、ひどく叱られたらしい。
店のものは、ほとんど外へ出て、心あたりをさがしまわっているという。
父親の佐兵衛も、さっき薩摩屋敷へ行き、中村半次郎に力になってもらおうと思ったが、半次郎は外出中だというので、ちょうど居合わせた佐土原英助にたのみ、二人して、また、どこかへ出かけたという。
おたみは、意外な大騒ぎになっているのを知って、ただもう身をかたくするばかりであった。
「松屋の娘が行方知れずとあっては捨ててもおけまい」
重役の小松|帯刀《たてわき》もこれをきいて、
「屋敷の小者なぞをつかってもよい。手分けをして、すぐにさがし出せ」
と、英助に言ってくれた。
中川宮と薩摩藩との密書の往復に、松屋のおたみが一役買っていたことを、小松帯刀は知っている。
何しろ、この前の六角堂の事件があるだけに、松屋では、あわてふためいてしまった。
下女にきいても、
「早うお帰りお言やして、うち[#「うち」に傍点]が祗園さんの石段をおりて行くまで、石段の上にお嬢さんが立って見送っておいやしたんどす」
というだけが、精いっぱいのところだ。
とにかく、その夜は大変であった。
さいわい、おたみが見つかったときの処置をうまくとってあったので、夜がふけぬうちに、松屋のものはみな戻ってきたし、佐土原英助も、小者をまとめ、
「戻ったそうでごわす」
藩邸へ帰って、小松帯刀に報告をした。
中村半次郎も、下宿へ戻る前に藩邸へたちより、同輩に将棋を教わっていたところで、
「何かあったので?」
小者をひきつれて帰邸した英助を見かけ、大廊下へ出てきたものである。
「知らなんだのか、松屋のおたみどのが行方知れずというので……」
「ええッ」
半次郎が、手にしていた将棋の駒を、ぽろり落とし、
「そりゃ、まことごわすか?」
英助の胸ぐらを、つかまんばかりになった。
英助は苦笑して、
「じゃが、ぶじに帰ったちゅことじゃ」
「え……」
「安心しろ」
「いや……どうも……」
ほっとしたが、半次郎のおどろきは一通りのものではない。
とにかく、明日は一緒に松屋へ出向き、様子を見てこようと言いおいて、英助は小松の部屋へ去ったが、
(やはり、まだ、半次郎はあの娘に惚《ほ》れちょる)
佐土原英助は、さびしげに首をふってみて、
(いかん、いかん。俺《おい》としたことが、これじゃいかん。あの娘は、半次郎のものなのだ)
自分で自分に言いきかせた。
四
その日──。
祗園社へ参詣《さんけい》に出かけたおたみ[#「おたみ」に傍点]が、先に下女を帰したのは、中村半次郎の姿を見かけたからである。
(あ……)
おたみは声をかけようとして、口をつぐんだ。
半次郎が一人ではなかったからだ。
半次郎の連れの女は、尼僧であった。
いうまでもなく、法秀尼だ。
おたみは、参詣をすまし、南の楼門《ろうもん》から、下河原《しもがわら》の通りへ出ようとして、二人を見かけた。
春めいてきて、よく晴れた日でもあるし、参詣の人々は、かなり多い。
(どこの尼さんやろ)
人ごみの向うの石の大鳥居のそばを、下河原の方向へ歩き出している半次郎の連れの尼僧を見て、
(あ……あのときの……)
すぐにおたみは思い出した。
六角堂で無頼浪人におそわれ、近くの医者にかつぎこまれたとき、最後までつきそっていてくれた法秀尼を忘れようはずがない。
法秀尼については、半次郎からも、
「あのとき、あの尼さんがおらなんだら、おたみさアを医者へかつぎこむことも出来ず、なにぶん不案内の京の町じゃもんで、おいどんも、まことに困りもした」
そんなことを聞いたことがある。
法秀尼は、あのとき、おたみを松屋の店のものにひきわたすと、すばやく姿をかくしてしまい、
「ぜひ一度、お礼にまいらねばならんなあ」
今もって、松屋佐兵衛も気にしているのだ。
「ちょうどええ、お礼を……」
おたみは、後を追いかけてためらった。
ためらわずにはいられない何ものかが、したしげに語り合いつつ歩いて行く半次郎と法秀尼の間にただよっていたからである。
こうしたことに、女は無類の直感をはたらかせる。
まして、恋をしている若い女にとっては……だ。
おたみは、半次郎を慕っていたのである。
(あれから、中村さまは、あの尼さんとつき合《お》うていたのやろか……?)
とっさに、おたみは下女を先に帰すことを思いついた。
二人の後をつけるためであった。
五
半次郎は、この日、吉田の新しい藩邸へ用があって出かけた。
「よう晴れたな」
めっきりと春めいてきたと思い、何となく気持がはずんだ。
用がすむと、今日一日は非番同様であったし、
(祗園でも、ぶらついてみようか)
そして不了庵をおとずれるのもよい、と考え、半次郎は祗園社へやって来た。
祗園社は、いまの八坂神社だ。
有名な祗園祭はこの社《やしろ》の祭礼である。
四条大橋を東へわたったこのあたりは、いわゆる祗園・円山《まるやま》の歓楽地でもあった。
橋をわたって、祗園社の西の楼門の石段下までの両側一帯には、茶屋や、種々雑多な商店がつらなり、京都一のにぎわいをきわめている。
半次郎は参詣をすまし、四条へ出るつもりで西の楼門をくぐった。
一昨日、法秀尼をたずねたばかりなので、
(今日は遠慮しておこう)
と、思い直したのである。
門を出たとたんに、
「やあ──」
石段をのぼってくる法秀尼に、ばったり出会ったものだ。
「どこへ?」
「いや──ちょいと参詣に……」
「ま、殊勝なこと」
「おいどんでも、それほどのことはしもすよ。あは、は、は、は──」
「今日は?」
「もう暇ごわす」
「そんなら寄って行かぬかえ?」
「よろしいか?」
「よいとも」
法秀尼は、うなずき、
「ちょいと待っとくれやす」
門をくぐり、本殿へ参拝をすますと、
「さ、行きまひょ」
肩をならべて西の門から出た。
前後して──というよりも、半次郎たちより少し先に、おたみは門を出たらしい。
おそらく境内でも同じころに歩いていたのであろうが、人ごみにまぎれてわからなかったものとみえる。
とにかく、おたみは西の楼門を出たところで、半次郎たちを見つけた。
そうして、下女を帰し、後をつけた。
下河原から八坂の塔のわきをぬけて行くうちにも、おたみの直感は、いよいよとぎすまされてきた。
どうも、二人の間は只事《ただごと》ではない。
人通りも少なくなった妙法院横手の小道をのぼって行くときなぞ、半次郎が法秀尼の耳もとへ口をよせて何かささやき、法秀尼もまたこれに応じて、何やらたのしげに笑い合いつつ、肩をよせて歩いて行く。
おたみは、かなりの距離をたもちつつ、すべてをうしろから見てしまった。
半次郎も二、三度ふり向いたようだ。
ちらりと、遠くにおたみの姿を見かけたとしても、遠くに町娘が見えたというだけのことだから、別段、気にもかけなかったと思われる。
小松谷の庵室《あんしつ》へ二人が入ってからも、障子という障子は閉ざされたままであった。
さすがに、おたみも庵室のそばまで近づくことは出来なかったが、わなわなと躯《からだ》をふるわせつつ、門のそばの木立の中から、庵室を見つめつづけていた。
やがて、障子があいた。
法秀尼が、むっちりともりあがった胸肌のあたりをちらりと見せ、法衣《ほうえ》をまといつつ、障子をあけたのだ。
せまい部屋の中にこもった愛欲の熱気を外へ放つためであったかも知れない。
すぐに、障子は閉ざされた。
(やっぱり……やっぱり、そうだったのや)
おたみは、涙ぐんだ。
だが、唇を血がにじむほどにかみしめ、哀しみに耐えた。
半次郎が外へあらわれる直前に、おたみは駈《か》け出していた。
六
おたみは、京の女である。
京の町の暮しが、身にも心にも、しみこんで育った娘であった。
いまでも、京都へ行くと、半次郎やおたみが、この町に暮していたころの家がいくらも残っている。
いや、町中のどこへ行っても見ることが出来る。
その町家の間口のせまさにくらべて、何と奥行の長いことか。
俗にいう〔うなぎの寝床〕そのものの民家がほとんどである。
一日中、日当たりが悪く、通風もよろしくない。
昼でも灯をともさぬと物がよく見えぬ屋内での暮しが、いまもってつづけられているのだ。
気候は温和でも、夏はむし暑く[#「むし暑く」に傍点]、冬はひどい底冷えがするというのに、このような家の建て方ではたまったものではない。
風光|明媚《めいび》な皇都に、なぜ、こうした家が建ち、人の暮しがうまれたのか。
こんなことをいうものもいる。
天皇の住む御所が南向きなので、それと同じ南をあけ放っては、おそれ多いという往古からの習慣がそのまま受けつがれてきたのだと……。
また、こうもいわれている。
京都は、むかしから権力の争いに巻きこまれ、厭《いや》というほどに戦火をこうむった。
京都を中心にした戦史は数えきれぬほどである。
そのたびに、京の民衆は家を焼かれ、路頭に放り出された。
明日はどうなるか知れたものではないという不安と戦慄《せんりつ》とを、京の人々は何度も体験してきたのである。
いきおい、警戒心がつよい。
家の窓や戸口をひろげぬのも、この伝統的な心情が、そうさせるのであるという。
物を大切にするのも、このためだ。
社会の変動が、むごたらしい現実となって京都へ集中するのであるから、明日への蓄積をおこたるわけにはいかない。
陽がさしこまなければ、道具も畳もいたまぬというわけだ。
現代《いま》は旅館なども冷温の設備が、かなり改良されたが、数年前までは、冬に京都をおとずれると、たまったものではなかった。
立派な旅館でも、客室にある火鉢に火が入っていない……と思って、よく見ると入るには入っている。
火箸《ひばし》で灰の中をかきまわすと、おこった堅炭が顔を見せる。
筆者のような、東京育ちの、火鉢の火は、顔がやけるほど勢いよくないとあたった気がしないというものには、これが、まったくたまらなかった。
だが、よく考えてみると、こうした京都人の性格を、ただ単に吝嗇《りんしよく》だと言いすててしまうことはなるまい。
火災に対する徹底的な用心ぶかさを、くみとることが出来るのである。
とにかく、むかしの京都の人々の生活は、健康にはよくなかったろう。
家ひとつ例にとってみてもわかる通り、食物に対しても、同じような考え方がある。
これに加えて、水が清く、風光が美しい。
肌が白く、ほっそりとした京女がうまれようというものではないか。
京女のしとやかさも、みんなこうした暮しの環境にむすびついているようだ。
美しい町ゆえ、家も美しく、何もかも清らかにという感覚がみがかれてくる。
内攻的でありながら、するどくとぎすまされた美意識が、髪や化粧や衣裳《いしよう》へおのずと集中するのだ。
徳川幕府が政権をにぎってより戦火は絶えて、二百何十年にもなる。
友禅染だの、西陣織だの、女の衣裳の代表的なメッカとして、京都は天下に君臨した。
京の女は、こうした環境につくられたのである。
表面は、おとなしやかでいて、内側はしんねりと強い。陰気で冷たい性格の女が多いなどと悪口をいわれるのも、およそ、ここまで書きのべてきたことが素因となっているからなのか……。
おたみにしても、
(うち[#「うち」に傍点]、中村さまが好きや)
たった一人で、胸にひめていたのだ。
これが江戸の商家の娘なら、女中に何も彼もうちあけ、恋の橋わたしをたのむという場面になることであろう。
そうなれば、中村半次郎も法秀尼のもとへ通うことをぴたりとやめたろう。
いや、やめなかったかも知れないが……。
とにかく、おたみと半次郎の心と心は通じ合ったはずである。
しかし、おたみは自分ひとりの胸を、ひそかに燃やしつづけることで満足をしていた。
もちろん、肉欲の味覚を知らぬ娘である。
六角堂で、半次郎に助けられたときの彼女は、十七歳であった。
元治元年のいまは十九になっている。
縁談も、そろそろ持ちこまれてきているのだが、
「もうちょっと、かんにんえ」
おたみは、母親に甘えて、ことわりつづけている。
それも、いつまでことわりつづけられることか。
(いずれは、どこかへお嫁入りするのや)
おたみも、半次郎と夫婦になろうということなどは夢々思っていない。
なぜか──。
(中村さまは、おさむらいさまや)
しかも、風雲ただならぬ勤王佐幕のあらそいの中で、命をかけてはたらく薩摩の侍ではないか……。
中村さまだって、私のことを思うていて下さるわけでなし、両親もゆるしてはくれないと、はじめから、おたみはあきらめている。
ただもう、半次郎したわしさでいっぱいな今の自分を、もう少しこのままで、そっとしておきたいという、それだけの気持なのであった。
七
このときのおたみの心を、のちになって知ったとき、中村半次郎は、只《ただ》ひとこと、
「おいどんとしたことが──」
いまいましげに言い放ったきり、しばし茫然《ぼうぜん》としたままであったそうな。
半次郎にしてみれば、再三のべてきたように、おたみという清らかな娘への畏敬《いけい》と、表情のうごきの少ない京女の、それも、両腕で抱けばみじんにくだけてしまいそうな、たおやかな処女に対し、どのような手段をもっておのれの恋情をうちあけてよいのか……という戸惑いと、
(うちあけてもはねつけられては……)
その気おくれもあったのだ。
半次郎らしくもなく、大いにはにかみつづけて、一人では松屋ののれんもくぐれぬというありさまだったのも、こうした女との経験が、全くなかったからである。
そのかわり、南国の情熱を思うままに発散する幸江や、男女の情事をいとも大らかにたのしもうという法秀尼のような女に対しては、半次郎も打てばひびくばかりの反応を見せる。
おたみは、もちろん、半次郎の秀抜な美男子ぶりにも心をひかれた。
その上に腕がつよい。
それも、豪傑肌のつよさなのである。
それでいて気がやさしい。
〔唐芋侍《からいもざむらい》〕とののしられた農兵の身分にうまれ、苦労をしつくしてきただけに、半次郎は町人といえども、決して(おれは侍だ)という意識をもたなかった。
つまり、特権階級であるという意識をもたない。
こののち、年を経るにしたがって、こうした半次郎の素朴さも少しずつ変化して行くことになるのだが、それはさておき、おたみが、もっとも半次郎にひかれたのは、
(ほんに強うて、やさしくて、えばらぬお人や)
これであった。
こうした侍というものは、当時、あまりなかったといってよい。
新しい時代をつくると口ではとなえながらも、勤王派の浪人侍なぞは、もっとも町人に対して階級意識がつよく、だからこそ、おたみのような町娘を平気で犯そうとしたり、料理屋の勘定をふみ倒したりするのである。
さて……。
(もう、駄目《あかん》)
おたみも、小松谷の庵室での二人の情事を確認してからというものは、すべてをあきらめてしまった。
ひとりきりで男を想うということすらも、あきらめてしまったのだ。
五条の店へたずねてきた半次郎に、それからも数度、おたみは会うことがあった。
けれども、こうしたおたみの心境は、彼女の表情のうごきをなおさらに少なくしてしまったようである。
それを見て、
(こりゃ、いくら、おいどんな思いつめても、おたみさアは何とも思うちゃおらぬ)
半次郎にしても、次第に、あきらめざるを得ないことになる。
こうするうちにも、春は、たけなわとなった。
冬の間は、鏡のように冴《さ》えた青さを見せていた空のいろが、うっすらと霞《かす》んでくる。
陽の光は、日ごとにあかるく、町をかこむ山脈のいろも見る見る色づいた。
〔不了庵〕の沈丁花も花をつけ、その芳香は、仏殿に経をよむ法秀尼をなやませた。
(とんと見えぬが……、半どのは、どうしたことやら……)
待ちかねているのだが、あの日以来、中村半次郎は姿を見せないのである。
半次郎はじめ、薩摩藩士たちは、急にいそがしくなってきたのだ。
といって、何も血なまぐさい事件が起ったというのではない。
半次郎にとっては、この二年の間、待って待って待ちぬいていたことが、春と共に駈《か》けてきてくれたのだ。
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西郷還る
一
西郷吉之助の罪が、ゆるされた。
あの、寺田屋騒動前後の行動をとがめられ、西郷が島に流されてから、まる二年もたっている。
それほどに、島津久光の西郷へ対する怒りは激しかったのだといえよう。
久光にしても、亡き兄の斉彬に可愛がられていた西郷吉之助を、ただそれだけの理由できらいなのではない。
そもそも、西郷自身が、
「何事《なんごと》につけ、斉彬公とは大ちがいじゃ」
あまりにも故斉彬を尊敬するあまり、はじめから久光に対しては、
「久光公を頭にいただいておるのでは、とてもとても……」
薩摩藩が中央に乗り出し、勤王運動のさきがけをするということは無理だときめてかかっている。
こうした西郷の態度は、すぐに久光にも感じられてくるし、
「吉之助は余をあなどっておるのじゃ」
西郷の顔をみるのも厭だというようになってきたわけだ。
同じ、斉彬に可愛がられていた大久保市蔵などは、
「久光公とて、暗愚のお方ではないのじゃから、われわれが、うまく舵《かじ》をとって行けば、きっと、われわれの思うようなうごき方をなさるようになってくる」
辛抱づよく、久光にとり入り、少しずつ、倒幕勤王の線へ近づけて行こうというわけだ。
西郷には、そうした腹芸が出来ない。
冷静な大久保とちがい、火の玉のような熱情のままに、うごいてしまう。
もちろん、考え方もふかく、軽挙妄動をするわけではないが、いったん、こうと決めたからにはテコでもうごかぬという強情さをもっている。
久光の前へ出ても、軽いあなどりが顔にあらわれるのを隠そうともしない。
「久光公は生ぬるうごわすよ。公武合体なぞ言うて……あげに腐れかかった徳川幕府の屋台骨が、しっかりすると思うちょるところがおかしい。幕府と共に天皇を助けて新政府をつくるなぞということが、そもそもおかしい。そりゃ、斉彬公が御存命中は、公武合体がたてまえごわした。
じゃが、そのころと今とでは、まったく違う。幕府は、もはや何のたよりにもならぬほど弱体になっちょりもす。こげなものは一時も早くつぶしてしまわぬといかん。
斉彬公がいましも御存命であれば、かならずや、そうなされたに違《ち》げなか!」
西郷は、そう思い、そう信じている。
自分はどこまでも斉彬の遺志をおこなうものであるという信念にみちみちている。
久光が、西郷をきらいなのも当然であろう。
何かにつけて「斉彬公は──」が、西郷の口をついて出てくる。
「兄は兄──余は余である」
久光が怒るのも無理はない。
斉彬の遺志によって、島津七十七万石は自分の子の忠義につがせたが、久光は藩主同様の実権をもった〔国父《こくふ》〕ではないか。
二年前に、西郷は、まず徳之島へ流された。
薩摩藩では罪人を島流しにするとき、九州の南端の洋上から飛石のように、沖縄(琉球《りゆうきゆう》)へつらなる奄美《あまみ》諸島のどれかへ送りつけた。
前に、西郷が流されていた大島は、徳之島の手前にある。
大島にいたころ、西郷は、島の女アイガナと同棲《どうせい》し、菊次郎と菊子の二児をもうけた。
アイガナを〔愛子〕とよんで、大いに可愛がったらしい。
西郷も女性には目がなかったようだ。
ふたたび、西郷が島流しになってくるというので、愛子が二児をつれて、徳之島へわたってきた。
西郷もよろこんだであろうが、何しろ罪人の身だから、
「いずれはまた会えもそ、帰ってたもし」
二日にして愛子や子供たちを、大島へ帰した。
そこへ、久光の命令が追いうちをかけてきたものである。
「徳之島より沖之永良部島《おきのえらぶじま》へうつれ」
というのである。
永良部島は、島流しの場所としては、もっとも重罪のものを送りつけるところだ。
「下関で待て」と命じたにもかかわらず、過激派の〔精忠組〕と共に、久光へは無断で大坂へ入ってしまった西郷吉之助への怒りは、
「ふたたび、西郷を用いることはあるまい」
と、久光に言わしめたほどのものであった。
これほどの久光の激怒が、なぜ解けたのか。
そこには時代の要求があったからだ。
京都藩邸にいる人々の中で、
「どうしても西郷先生に戻ってもらわぬといかぬ」
という熱意を、久光が無下にしりぞけることができなくなってきたからである。
二
なるほど、薩摩藩は、ライバルの長州藩を京都から追いはらった。
そして、ふたたび京都における勤王運動の主導権をつかんだとも見えよう。
しかし、そのためには、
「薩摩も、ずいぶんと恥知らずなまね[#「まね」に傍点]をしたものではないか。おのれ一個の力によって長州を追いのけたのならまだわかる。事もあろうに、会津藩と手をむすぶとは何たることだ」
諸方の勤王志士たちの中では、こうした声がひろまりつつある。
会津藩の藩祖・保科正之《ほしなまさゆき》は、徳川二代将軍・秀忠の第四子にうまれた。
この正之以来、会津藩は徳川将軍の親藩として重きをなしてきている。
東北の諸大名を監視し、これをおさえるという意味をもふくめ、会津の地を領しているのだ。
現藩主の松平容保は、美濃《みの》・高須《たかす》の城主・松平|義建《よしたけ》の第六子にうまれたが、弘化《こうか》三年に、会津の松平家へ養子に迎えられたものだ。
容保が、義父のあとをつぎ、会津藩二十八万石の当主になった翌年には、アメリカ艦隊が浦賀の海にあらわれている。
それからの狂瀾|怒濤《どとう》のような時代の流れの中で、会津藩は、あくまでも徳川将軍のために力をつくし、はたらいてきた。
一昨年(文久二年)の閏《うるう》八月に、会津藩は、京都守護職を命ぜられた。
このとき、会津の重臣たちは、
「このような御時世に、京都での、そのような重き御役目におつきあそばすことは、なるべく避けたほうがよろしゅうございましょう」
こう言って、容保をいさめたが、
「いや。徳川をたすけ、王室を尊ぶは、藩祖公(正之)の遺訓ではないか」
これをはねつけて、京都の治安をととのえるための役目についたのである。
こうした場合、会津藩がこうむる出費は莫大《ばくだい》なものとなる。
京都へ出張のための入費は、みるみるうちに藩の財政を食いつぶしていった。
そんな思いまでしても、あくまで幕府をたすけて行こうという会津藩なのだ。
この会津藩とむすび、長州を追いのけたということは、
「薩摩は、とてもたよりにならぬ」
諸国の勤王派に顔をしかめさせることになったわけだ。
こうして見てくると、口では、天皇のためとか国のためとか叫んでみても、実際上の権力を得ることが、いかにむずかしいか──それがよくわかる。
戦国時代に、大名たちが小勢力から大勢力にふくみこまれ、その大勢力が、そのまた上の大勢力にくわわり、織田・豊臣を経て、ついに徳川の天下となった経過が、この明治維新成るまでの、さまざまなことにも、同じような形態をみせて看取されるのである。
力ずくで権力をうばえば、長州藩のような失敗をみる。
政治的にうごけば、一時の権力を得ても世上の悪評をこうむる。
いまの薩摩藩がそれであった。
島津久光は、今度こそ、長州藩などに蹴落《けお》とされまいと決心をしている。
錦小路の藩邸のほかに、二つの藩邸をつくり、どしどし兵力を増員させているし、
「余も、当分は帰らぬぞ」
京の地へ根をおろすつもりらしい。
まさに、幕府と皇室との間に割って入り、自分の力で両者をうまくこね合わせ、天下の実権を薩摩がつかもうという野望は、久光の胸のうちに渦をまいている。
そう見られても仕方がないのだ。
京にある諸藩の重役たちも、
「薩摩は、何を仕出かすつもりか?」
「ゆめゆめ油断は出来申さぬ」
のし上がってくる薩摩藩を、白い眼で見ずにはいられなくなってきたようだ。
「これじゃいかぬ」
「こうなれば、何としても西郷先生に戻ってもらわぬと……」
京都の薩摩屋敷でも、こうしたささやきが、次第に高められ、
「おいどんらの命をかけても、先生の赦免《しやめん》を願うことじゃ!!」
という決意に、かたまっていった。
あまりにも勢《きおい》こみすぎる久光のやり方にうたがいをもち、西郷の帰藩をねがう藩士たちは身分が軽いものが多かった。
家老だの重役だのは、久光の前に頭が上がらない。
大久保市蔵にしても、西郷の帰りを待ちわびてはいるのだが、
「もう少し……もう少し待て」
やはり、久光に気がねをしている。
もっとも、下手にうごいて、なおさらに久光の怒りをあおりたててしまっては、元も子もなくなるという危険がある。
国もとの鹿児島でも、京都でも、ひそかに西郷赦免実現のための会合がもたれた。
ことに京都では、中村半次郎のようなものでも会合の席へ出ていたそうだから、低い身分のものが中心になっていたのであろう。
黒田吉左衛門、伊地知正治《いじちまさはる》、三島|弥兵衛《やへえ》、篠原冬一郎《しのはらとういちろう》、中村半次郎なぞ、およそ、こうした連中が、しばしば円山の茶屋の一室を借りては、相談にふけったという。
半次郎は、八月十八日の御所での〔居合抜き〕以来、またも名をあげている。
「あげなまね[#「まね」に傍点]をして見せて、おのれの名を売るちゅな怪《け》しからん」
と、ののしるものもいたし、
「まるで大道芸人のごつある」
と、さげすむものもいた。
そんなうわさを耳にするたび、
「いやア、おいどんも、そげに言わるっと穴ン中へ入りとうごわす」
半次郎は首をすくめ、ひたすら恥じている。
だが、肚《はら》の中は、まるで違っているのだ。
「口惜《くや》しければ、おいどんのまねをして見やい」
これであった。
実際にあのとき、半次郎は生死を超越していたものだ。
というと、ばかに偉そうにきこえるが、
(こげな大事にあたり、薩摩に中村半次郎ありと言われるだけで、満足じゃ)
死んでも、いいのである。
唐芋の半次郎が、あれだけのはたらきをしたと、世間がみとめてくれるだけでもよいのだ。
男とは、そうしたものなのだ。
やってのけたことは、間違いもなく立派なことなのだし今も半次郎は、少しも自分を卑下してはいない。
それでいて、上役や同僚にさからわぬのは、
(こげなことにさからって、にくまれてはつまらん。せっかく、これから命をかけて大働きなしてくれようと思うちょるのにな……)
そこまで、ちゃんと考えているのだ。
誰も面と向って、半次郎をさげすむものはいない。
半次郎が怖いからだ。
「そげな奴らにかもうな。放っときゃい」
と、言ってくれるものもいた。
あの寺田屋事件に活躍をした大山格之助や、奈良原喜八郎などが、
「名前を売るちゅなこつで、あれだけのまねが出来るものではない」
と、半次郎をみとめてくれている。
三
京都の同志たちは、去年の暮に、黒田と伊地知を代表として薩摩に送った。
大久保市蔵が、薩摩に帰っていたからである。
とにかく、大久保と、それから京都藩邸にいる小松帯刀の二人を通じて赦免運動をやるのが、いちばんよいという結論に達したからだ。
ところが、大久保は、
「まだ早い。もう少し待ってくやい」
という。
小松も同意見だ。
島津久光の西郷へ対する悪感情を、二人とも知りつくしているから、
「あわてて、なおも久光公の怒りをあおりたてるようなことになってはならぬ」
それだけに、無理はできない。
また、二人とも、久光側近の家来であるから、立場の上からも慎重な態度にならざるを得ない。
「ええ、もう誰もたのまん」
「大久保さアも小松さアも、西郷先生の赦免をよろこばぬのじゃ」
「こうなりゃ、おいどんたちでやってのけよう」
すぐに、京都藩士の中の同志三十余名の血判状をつくりあげた。
これを久光の前につきつけ、一同、いざとなれば、その場で腹を切る覚悟で西郷の復帰を願い出ようというわけであった。
これが、事前に、高崎佐太郎の耳へ入った。
(一大事じゃ!!)
と高崎はおどろいた。
(そげなこつしたら、内輪もめを天下に公表するようなもんじゃ。それでなくても、いまの我藩な、さまざまな評判をうんじょる。これは捨てておけぬ)
高崎は、すぐさま、黒田吉左衛門と伊地知正治をよび、
「おいどんに、まかせてもらいたい、とにかく、すぐに行動するようなこつだけはやめてたもし」
いちおう、なだめておいてから、
(よし!!)
決意をかためた。
高崎佐太郎は天保七年生まれというから半次郎より二つの年長である。
学問にふかく、ことに歌道に長じ、後年になって〔宮中御歌所〕の長をつとめたほどだ。
この高崎は、久光のお気に入りなのである。
それだけに、黒田も伊地知も、
「まかせろちゅても、高崎どんな大丈夫であろうか……?」
少し、不安であった。
ところが、高崎佐太郎は、翌朝になると、ただちに久光の前へ出て、人ばらいを願った上で、
「西郷吉之助の赦免、願いあげたてまつる」
ずばりと言上した。
「な、何……」
久光は、さっと青くなった。
「ならぬ」
「申しあげまする」
高崎も必死だ。どうしてもゆるされなければ、自分ひとりで腹を切るつもりであった。
西郷吉之助の人望を思うべしである。
西郷一人のために、多くの人たちが命をかけている。
こういう人物に生まれた西郷はまことに、幸福な男であった。
高崎が死を決してきていることを、久光も、さすがに見ぬいたようである。
「申すことあれば、申せ」
煙管《きせる》をとりあげた久光の指が、かすかに、ふるえている。
「では……」
高崎佐太郎は、じりじりっと膝《ひざ》をすすめつつ、
「西郷吉之助儀は、先君、斉彬公の御|寵臣《ちようしん》にござります。このことは、天下知らぬものなきこと。その吉之助を、このままおゆるしなきことは、先君のお眼がねちがいとも相成りましょう、いかが?」
「む、む……」
久光は、どうも亡き兄の寵臣ということが持ち出されると弱い。
「家臣一同は、西郷の赦免をひたすらに願《ねご》うておりまする。しかるに、君公御一人のみ、これをゆるさぬとおおせられましては、天下の人々の……」
「もうよい。申すな」
このとき、口惜《くや》しげに煙管を噛《か》んだ久光の歯の痕《あと》が、銀の吸口に残ったといわれているほどだ。
四
西郷吉之助赦免の使者が沖之永良部島へついたのは、元治元年二月二十二日だ。
いまでいうと三月下旬にあたる。
使者は吉井幸輔と、西郷慎吾であった。
慎吾は吉之助の弟で、後年の従道《つぐみち》である。
島津久光も、ついに西郷をゆるさざるを得なかった。
高崎佐太郎も(このまま、すてておいては、若い連中が何をするか知れたものではない)という結論に達したので、
「わが藩の内輪もめを天下に知られ、恥をひろめるよりは──」
自分が死ぬ気で、久光へ必死の進言をおこなったわけだが、意外に、これが効を奏《そう》したのである。
高崎が、久光の前を退出して、
「これこれでありました……」
と、京都家老の小松帯刀につたえると、
「そうか。余も考えてみるとおおせられたのか……」
帯刀も意外であったらしく、目をまるくした。
「先君(斉彬)の御寵臣を、このまま島流しにしておくことは天下のきこえもいかがか──と、かように申しあげたのが、やはり、効いたようでございます」
「ふむ……」
「思いきって申しあげてみて、ようござりもした」
「皮肉を申すな。わしじゃとて、何度もそう思うてはいたのじゃが……もしも、久光公のお怒りをつのらせてはと……」
「よう、わかっちょりもす」
「まず、それなら見こみが出てきたちゅわけじゃな。すぐに、国もとの大久保市蔵へ、このことを──」
「心得もした」
それでも久光は、何とか西郷を戻すまいとした。
「余は藩主の後見役であるから、太守公のゆるしを得ねばならぬ」
太守公すなわち、久光の子の島津忠義である。
何もいまさら忠義のゆるしを得るまでもない。
何から何まで国父である久光が切りまわしているのだから、久光が西郷をゆるすといえば、それで決まってしまうのである。
しかし、久光は、侍臣の岸良七之丞《きしらしちのじよう》を鹿児島へつかわし、忠義の口から「西郷の赦免はまだ早い」と、言わせようとはかったものだ。
ところが、岸良が京を出発する三日前に、早くも小松帯刀の意をふくんだ密使として、三島弥兵衛ほか一名が鹿児島へ飛んだ。
「ふむ。高崎な、思いきったこつやりもしたな。じゃが、久光公がそれほどのところで、高崎にやりこめられたちゅうなら、おいにも考えがある」
密使からの報告により、かなり思いきった態度に出ても大丈夫という確信をもった大久保市蔵は、
「よし、忠義さまに申しあげる」
岸良七之丞が鹿児島城下へ入る一日前に、大久保は、若き藩主・忠義に目通りを願い出て、
「天下の一大事にござります」
熱弁をふるい、西郷吉之助を呼び戻すことが、いまの薩摩藩にとって、いかに大切であるかということを説きに説いた。
かねてからこういうこともあろうかと思い、大久保市蔵は懸命に取入っていたので、忠義からは絶大な信頼をうけていたから、忠義も、
「もっともである」
すべてをきいて、大久保に同意をした。
こんなところへ、岸良七之丞がやってきても、どうにもならない。
岸良は、それでも内密に、忠義と二人きりで密談をおこなわんとしたが、
「父上の使いとして岸良七之丞が帰ってまいったゆえ、すぐに、大久保をよべ」
岸良の顔を見るや否や、忠義が侍臣に命じてしまった。
「いえ、それは……」
「大久保がまいるまで、ゆるりと休め」
さっさと忠義は奥へ入ってしまう。
岸良に、口をきかせないのだ。
すべては、大久保の言う通りに、忠義はふるまった。賢明というべきであろう。
大久保市蔵が登城してきた。
「岸良殿か」
岸良は厭《いや》な顔をしたが、
「まず、おききあれ」
大久保は、少しも意に介せず、またも、じゅんじゅんと天下の大勢を説ききかせた。
二人の談合は、およそ三刻(六時間)におよんだという。
岸良七之丞も、大いに論争したのであろうが、
「なるほど……」
ついに、大久保に説得されてしまった。
「しかし、おいどんな、京へ戻り、何ちゅて久光公に復命したらよかとでごわしょう」
「おはんな、しばらく鹿児島にいやい」
「しかし……」
「よか。おいどんから久光公へ、とっくりと手紙をさしあげよう」
大久保市蔵からの手紙と、忠義の「西郷赦免許可」の書状をもった使者が、馬を飛ばして鹿児島城下から京へ向った。
これで島津久光も、藩の大勢がおもむくところ、西郷を戻すより仕方がないと心をきめたわけである。
五
「と、かようなわけで、おゆるしが出たちゅうわけでごわすよ」
永良部島へやって来た吉井幸輔から、すべてをきいて、
「むむ……」
さすがの西郷も、涙ぐんだ。
島流しつづきで、国を憂え藩を憂えつつ、熱血のほとばしりをどこへももって行きようがない苦悩に耐えぬいていた西郷吉之助である。
何しろ、永良部島は、死罪に次ぐ大罪人を流すところになっていて、この島へ来たら、もう絶対に国もとへ帰ることをあきらめねばならぬといわれていたほどだ。
禿山《はげやま》だけで地味も悪い。
したがって穀物もとれず薪もとれぬところから、馬糞《ばふん》や砂糖|黍《きび》の殻を燃料にしているほどの島暮しを二年もつづけていたのだ。
前に大島へ流されたときとはくらべものにならない。
丸太造りの三坪ほどの小屋を二つに仕切った畳もないところで、豚同然の生活を西郷はしていたので、あれだけの巨体が、
「兄上な、半分になってしもうた」
吉井と共に西郷を迎えに来た弟の慎吾が、茫然《ぼうぜん》として、やせおとろえた兄の姿を見つめ、思わずつぶやいた。
しかし、赦免の報をきいた西郷吉之助は、見る見るうちに生気がみなぎってきて、
「よか、帰りもそ!!」
叫ぶように言って、
「ときに吉井どん。おいどんな許されても、村田はどうなったか?」
と、訊《き》いた。
村田新八は、あのとき西郷の供をしていて、共に久光の命にしたがわず、大坂へ行ってしまった罪によって、これは鬼界ケ島へ流されていたのだ。
「いや……その、村田どんな、まだごわす」
「まだちゅのは……?」
「いや、今回は貴殿《おはん》ひとりをおゆるしになったちゅわけごわす」
「ふーむ……」
西郷慎吾が、そばから、
「なれども兄上──いずれは村田どんもゆるさるっこつは目に見えちょりもす」
といなしたが、
「ふーむ。じゃから、久光公が心のせまいお人じゃちゅのだ」
西郷は、早くも久光への嫌悪を露骨にして、
「おいどんな一人帰って、新どんは帰らぬちゅことはなか!!」
「しかし……」
「吉井どん。かまわん。新八な、途中で鬼界ケ島へよって連れ戻そう。一緒に連れて帰ろう」
「じゃが、久光公に……」
「おはんな、何ちゅ人じゃ。この期におよんで、何もそげなこつに遠慮することはなか。もしもお怒りにふれたちゅのなら、おいどんも村田も、また島へ流されればよいのでごわす」
国父であり、しかも藩主同様の久光を、西郷吉之助はまったく問題にしていないのだ。
この強さは、何事も殿さまの御機嫌をうかがってからでないと事が運べなかった封建時代にあってはおどろくべきものであったといえる。
おのれの信念をつらぬくためには、家も名も、命もいらぬというのが西郷の傑出したところである。
藩の中堅以下の侍たちが、西郷のためには……という気持になるのは無理もないところだ。
のみならず、こうした西郷の人格が、全国にある勤王志士たちから絶大な信頼をうけていたのも当然であったろう。
こうして西郷吉之助は、村田新八をも独断で連れ帰った。
二十八日に鹿児島着。すぐさま亡き斉彬の墓前へ参って、永い祈りをささげた。
村田新八のことに対しては、何のとがめもなかった。
西郷は、島での疲れをやすめる間もなく、三月四日には鹿児島を発し、十四日に京都藩邸へ入った。
「只今《ただいま》、もどりましてござります」
西郷は、はじめてみる吉田の新藩邸へ伺候して、島津久光に挨拶《あいさつ》をした。
久光も、前のことには少しもふれず、
「そちに軍賦《ぐんぶ》役を申しつける。うけてくれるか?」
こう言っただけだ。
「は──おうけつかまつる」
西郷も、つとめて感情を表に出すまいとしている。
「せっかく、はげみくれい」
「はい」
これで終った。
大久保も小松も、そして西郷帰藩に眼を輝かせている藩士たちも、まず、ほっと胸をなでおろしたのである。
六
「おはんな、非常《すつたい》に大きゅうなったのう」
西郷吉之助は、まる二年ぶりに見た中村半次郎へ、何度もそう言ったものだ。
「いや、ほんに大きゅうなった……立派になった」
京へつき、久光の前から退《さ》がってきた西郷は、それから藩士たちの挨拶をうけたり多忙をきわめたが、夜ふけになると、錦小路の藩邸へ、半次郎をよんでくれた。
「大きゅうなった」と言われるたびに、半次郎は頭をかき、まっ赤な顔をして、少年のように大いにテレる。
「さ、もっと飲みやい。遠慮せずともよか」
藩邸には、国もとから送らせている芋焼酎《いもじようちゆう》が常備してある。
これを居室へはこばせて、西郷は、半次郎に飲ませた。
「この二年の間の、おはんのはたらきは京へ来るまでの道中で、慎吾からすっかり聞きもしたぞ」
「はたらきちゅうようなものは、しちょりませぬ」
「ほんに、そう思《おめ》もすか?」
と、西郷は大きな双眸《そうぼう》をひた[#「ひた」に傍点]と半次郎に向けた。
半次郎は眼をそらした。
躯《からだ》はやせおとろえていても、くろぐろとぬれた西郷の巨大な眸《ひとみ》は前のままであった。
いや前よりも、もっと深い光をたたえ、もっと、こちらの眼の力をうばいとってしまう吸引力にみちみちていた。
半次郎は、この二年間の自分の生活のすべてが、西郷の眸の前にむき出しになってしまうような気がした。
たとえば、法秀尼との情事までも、西郷の眼の前には隠しきれぬとさえ思われるのである。
「いや、目出度い」
西郷はうなだれた半次郎にいつくしむような微笑を投げて、
「立派に……ほんとに、おはんな、立派なさむらいになってくれて、ようごわした。目出度い、目出度い」
こう言ってくれたかと思うと、突然、そばの机の上の硯箱《すずりばこ》のふたをとり、墨をすりはじめた。
(ははあ、おいどんに一筆下はるおつもりか……)
西郷の書は有名である。
他の藩の家老たちもこれを欲しがっていることは、半次郎も知っている。
(何ちゅ文句を書いて下はるのか……?)
法秀尼によって手習いにはげんでいるだけに、半次郎はつばをのみこみ、西郷の手のうごきを見つめた。
墨をすり終えた西郷が、料紙を机上へひろげた。
「半次郎どん」
「はアい」
「ここへおじゃし」
「は……?」
「この、机の前へおじゃし」
「は……?」
不審そうに半次郎が机の前へすわると、
「その紙へ、何でもよいから好きな字を書いてたもし」
「おいどんが、でござすか?」
「うむ」
「は……」
「早う、早う」
「はアい」
半次郎は、首すじに火がついたようになった。
しかし、西郷の言葉にそむくことはならない。筆をとり、やぶれかぶれで、一気に書いた。
例の〔六月火雲《ろくがつのかうん》飛白雪《はくせつをとばす》〕という、法秀尼の庵室《あんしつ》にかかっていた禅の句であった。
書き終えて、おそるおそる西郷をぬすみ見ると、西郷吉之助は両の手でかたく袴《はかま》をつかみ、腰を浮かせ、あの大きな眼をかっ[#「かっ」に傍点]とみはり、ぽかんと口をあけたまま、身じろぎもせず、机の向う側で半次郎の書いた字を見つめているではないか。
「先生……」
「む……」
「どういたされました?」
「ちょいと、それを……」
字の書かれた半紙を半次郎から受けとり、またも、まじまじと見てから、
「半次郎どん」
「はアい」
「おはんな、刀ふるって暴れちょっただけではなかったのじゃな」
「は……いや、別に……」
「どこで手習いなしなはった?」
「いや、その……ひとりで──」
「ひとりで」
「はアい。おいどんな無筆同然ごわす。そいが恥ずかしゅうてならぬので……」
「ふうむ……」
ややあって、西郷吉之助は、
「おはんな、死ぬまで、その心がけな忘れちゃいかぬ」
と、それだけを、こちらの胸の中に泌《し》み通ってくるような声で言い、
「おいどんも、これで安心しもしたよ」
慈父のような、やさしい微笑を見せた。
「ときにな、半次郎どん」
「はアい」
「おいどんな、こちらへ来る前に、一度吉野へ行きもしたよ」
西郷が少年時代に、よくめんどうを見てくれた乳母が、目を病んで吉野高原に住んでいるのを心にかけ、よく西郷が吉野へ出向いたことは、すでにのべた。
今度の、あわただしい日程のうちにも、西郷は、米や野菜をつけた馬をひいて、吉野の乳母のところへ見舞いに出かけた。
その帰途、西郷は、半次郎の留守宅へも立ちよってくれたらしい。
「汁と飯な、馳走《ちそう》になりもしてな」
と、西郷は言った。
母と妹が大よろこびで、西郷をもてなしたありさまが、半次郎の目にまざまざと浮かびあがってきた。
そのとき、鹿児島城下へ帰る西郷を、半次郎の妹の貞子が太鼓橋のたもとまで見送りに出たという。
貞子は、西郷にこう言ったそうだ。
「京へおいでじゃすのなら、兄にもお会いなさるのでごあんすか?」
「おお、毎日のように会うことと思うが……」
「では、まことにぶしつけながら、兄へおことづてなして下されましょうか」
「よいとも……何ちゅことか?」
「はい、これだけのことをおつたえ下され」
「どげなことじゃ」
「はい。宮原の幸江さアな、嫁に行かれたと……」
「宮原の幸江ちゅ女子《おごじよ》が嫁に行った……と、半次郎につたえればよいのじゃな」
「はい」
「よか、つたえもそ」
西郷は、このことを半次郎につたえて、
「おはんも国もとじゃ、だいぶ夜這《よば》いなしたと見ゆるな」
と、からかった。
半次郎は頭をかいたが、しかし顔のいろが変っていた。
(幸江さアが嫁に……)
松屋のおたみや、法秀尼という女性たちとの交渉で、このごろは幸江のことも忘れがちになっていた半次郎だが、この妹からの伝言をきくと、さすがに衝撃をうけずにはいられなかった。
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和泉守兼定
一
「半どの……」
と、法秀尼が汗にまみれた裸身を、手ぬぐいでふきながら、
「浮かぬ顔ばかりして……どうしたのじゃ」
「いや……別に……」
半次郎も汗に光った厚い胸をよじり、法秀尼の視線から顔をそらして、
「別に、何のこともござらぬよ」
と言った。
しめきった障子の外には、初夏の陽ざしが、むせかえるような青葉の匂いと溶け合い、不了庵をかこむ木や草の緑の色が、部屋の中にまで流れこんでくるようであった。
「ほんに、しんきくさ」
法秀尼は軽く舌うちをして、
「私が飽いたのなら、はっきりと言うたらよい。いつでも別れてあげまひょ」
「何を申されるか──」
半次郎はふりむき、法秀尼のふとやかな腰に抱きついて、
「飽いたなぞと、いつ、おいどんな申したか──おいどんこそ、法秀尼どのに、いつ捨てられるかと、びくびくしちょるのごわす」
「また、そないに甘えた」
「いや、まことじゃ」
いきなり、法秀尼を抱き倒し、半次郎は、彼女の法衣《ほうえ》をおしひろげて、乳房の中に顔をうめながら、
「何も訊《き》かんで下はれ、たのむ、たのむ」
鼻をつまらせ、幼児のような甘え方で法秀尼にむしゃぶりついていった。
「もう、倒《へ》たるがな」
法秀尼は卑俗な言葉でいいながらも、半次郎の荒々しい愛撫《あいぶ》のくり返しには、まんざらでもないらしい。
それはともかく、
(半どのの身の上に、何かあったらしい)
と、法秀尼も思ってはいた。
このごろの半次郎は、習字の清書をもってきても、前のような根をつめた勉強ぶりを見せてはいない。
どこか投げやりな仕方が、ありありと書体にも見てとれるし、
「これは、次の手本じゃ」
と、せっかく手本を書いておいてやっても、
「あいがとござす」
礼をのべても、いつものように嬉《うれ》しげな眼の輝きが消えてしまっている。
(何が、あったのやろ?)
ほかに女でも出来たのかとも思うのだが、それにしては少しおかしい。
というのは、前にくらべて、半次郎が不了庵を訪れる回数が倍近くも多くなってきているからだ。
愛撫の仕様も強烈になってきて、半次郎は狂ったように、法秀尼の肩や胸にかみついたりする。
何か、胸の中にたまっている苦悶《くもん》を、法秀尼との情事によって忘れよう忘れようとしているらしい。
それでいて、愛撫の終ったあとで、いくらか痩《や》せが目だつ顔を、ぼんやりとさせ、天井を見上げてはためいき[#「ためいき」に傍点]をつく半次郎なのである。
(男の……ことに薩摩屋敷にいる半どののことや。いろいろむずかしいこともあるのであろ)
法秀尼も、そう思ってはいるのだが、どうも、愛撫のあとで男に浮かぬ顔をされるのは、おもしろくないことであった。
だが、「何も訊かんで下はれ」と言われると、それをおしてまで、しつっこく問いただそうとも思わない法秀尼なのである。
(お互いさまや)
と、法秀尼も思っている。
いつであったか、庵《いおり》の庭に沈丁花が咲きはじめたころ、法秀尼も愛撫の後で、突然に不機嫌となり、
「早うお帰り」
強い声音《こわね》で半次郎を追い返したこともあったではないか。
「どうなされた? わけを言うて下はれ」
と、半次郎が戸まどいながらたずねても、
「お帰り、お帰り!!」
わけは言わずに、追いたてたものだ。
あのとき、法秀尼は、「半次郎どのは、今年でいくつや?」と何気なく訊き、半次郎は、二十七になった、と答えた。
法秀尼は、そのとき、亡き夫のことを思い浮かべたのである。
夫が亡くなったのも、二十七歳であった。
それは、夫婦となって二年目の春のことだ。
亡夫は、半次郎のようなたくましい風貌《ふうぼう》ではなく、性格も温和な、どちらかといえば武士というよりも、学者といった方がよいほどの人であったし、事実、学識もふかかった。
法秀尼は、夫を愛し、まめやかに仕え、夫がひまなときは、ともに読書をたのしみ、夫の指導で、書物にしたしむ一刻が、法秀尼にとってたとえようもない幸福であったものだ。
(ああ、半どのと同じ年齢に、夫は……)
そう思ったとき、法秀尼は、愛欲の匂いがたちこめている居室に、半次郎と共に居ることがたまらなくなってきたのだ。
夫が亡くなり、故郷を出て、いろいろな体験もし、何人もの男と肌を合わせてきた法秀尼だが、
(やはり、私は、夫を忘れきれぬと見える)
半次郎を追い返してから、さびしげな苦笑をもらしたのである。
二
「すまぬこつごわした」
不了庵を辞するとき、中村半次郎は両手をつき、法秀尼にわびた。
「何え?」
「いや……その……おいどんな、わが苦しみを法秀どのにまでふりかけてしもうて……」
「いまさら何言うておいやす」
法秀尼は笑った。
「いや……こげに、いろいろと、世話をおかけ申し……」
「ふ、ふ、ふ……世話をおかけ申しは、こちらの方や」
「いや、その……」
どうも法秀尼の方が一枚上であった。
宮原の幸江にも半次郎は甘え放題に甘えていたのだが、法秀尼には頭が上がらない。
おのれの無学をも、薩摩藩士としての苦しみも、何も彼も、法秀尼にはさらけ出してしまっている。
法秀尼によって、半次郎は字を書くことも読むこともおぼえたといってよい。
これからも、半次郎は血なまぐさい劇務の間を縫って、たゆむことなく習字をつづけ、本もよみつづけて行くのだが、その土台は、法秀尼によってつくられたものだ。
情人であると同時に、法秀尼は師匠でもある。
愛慾《あいよく》と共に尊敬が存在する。
その法秀尼を抱いたあとで、
(ああ……宮原の幸江どんな、嫁に行ってしもうたか……)
茫然《ぼうぜん》として、過去の恋人に想いを馳《は》せるとは何ということか……。
(しかも、おいどんは……)
しかも半次郎は、松屋の娘・おたみにまで熱をあげていたではないか。
その上で法秀尼と愛慾におぼれ、なおもまた学問を教えてもらうというわけだ。
まことに、半次郎としては、女のことだけでも多忙きわまりない明け暮れであり、帰藩した西郷吉之助によって、幸江の再婚を知るや、あれから一月もたつのに、まだ幸江のことをあきらめきれない。
(おいどんな、どうかしちょる。おいどんな、人なみ外れて多情な男なのか……)
幸江に対して、
(なぜ、おいどんが出世して国へ帰るまで待ってはくれなかったのじゃ)
そう思い、口惜しげな舌うちを何度もしつづけるうちに、
(では、おいどんが、おたみさアを想うていたのは、どげな気持じゃったのか……?)
そう考えると、何も彼もわからなくなってくる。
結局は、
(やはり、おいどんな、幸江さアをいちばん好いていたのじゃ)
そこへ落ちついたわけだ。
京へ来てからの目まぐるしい月日の流れに押し流され忘れかけていた幸江が、もう手のとどかぬところへ行ってしまったと知ったとき、厭《いや》でも半次郎は、幸江への愛情を身にこたえて知ったわけである。
だが、法秀尼と別れるなぞとは思ってもみない。
肉慾のみではない交情が、半次郎と法秀尼の間にかもし出されてきている。
これは、肉慾というものを軽んじない男女のみが知るものであった。
肉慾の中に男女の間のもっとも大切なものを見出すもののみが知る親愛を、法秀尼も半次郎も感得し合っていたのだ。
「もう、ごちょごちょと言わんでもよいがな」
と法秀尼は水でしぼった手ぬぐいで半次郎の背をぬぐいつつ、うしろからくびをのばし、男の耳朶《みみたぶ》を噛《か》んだ。
「あ──」
「痛かったかえ?」
「いや──」
「もう何も言わんでよいがな。わたしも訊《き》かぬ」
「はアい」
さすがの半次郎も、幸江のことを法秀尼にうちあけるわけにはいかない。
昔の女のことを思いながら、あなたを抱いているのですということになるからだ。
「さ、気晴らしに酒《ささ》くもうかえ」
「はアい」
たちまちに酒の仕度がととのう。
冷酒である。
「半どの」
「はアい」
「いま、あらためて言うておくが……」
「何ごわす」
「わたしと半どのの間は、川の水の流れのようなものじゃ」
「……?」
「流れるままに流れて行き、何事にも、こだわりをもたぬことじゃ。おわかりかえ?」
「はアい」
「別れるときはいつかくる。おわかりかえ?」
「はアい」
「別れるときは、いつか、くる……」
と、もう一度、法秀尼はつぶやくようにくり返したが、急に、にこりと笑い、
「半どのに、よいものをあげよう」
「おいどんに?」
法秀尼はうなずき、立ち上がって、押入れの戸をひらき、奥の方から何か細長い箱のようなものを持ち出してきて、半次郎の前におき、ゆっくりと、箱を包んだ布を解きひらいた。
その細長い箱が刀をおさめておくものだということは、一目で半次郎にもわかった。
三
「さ、とってみなはれ」
法秀尼にうながされて、
「は……」
半次郎は、おそるおそる箱の中から一振の刀を取出した。
刀の拵《こしらえ》も、まことに立派なものであった。
黒の蝋色鞘《ろいろざや》に、鍔《つば》は赤銅丸形の〔けんじょう〕と称するもので、柄《つか》は茶の柄糸で巻いてある。目貫《めぬき》や小柄《こづか》の細工もすばらしいものだ。
刀剣というものは、よく切れさえすればよいと思っているだけの半次郎でも、
「ふうむ……」
さすがにこの刀の拵の見事さがわかったし、したがって、中身も何やら由緒ありげなものだ、ということが察しられた。
「ぬいてごらん」
と、法秀尼が言う。
「ようごわすか」
「よいとも」
「では──」
作法によって、半次郎は刀をぬいてみた。
「うーむ……」
またも、半次郎はうなった。
刀剣への知識はないが、半次郎ほどの手練のもちぬしなら、この刀が只物《ただもの》ではないことは見てわかる。
「どうじゃ、半どの……」
「名刀ごわしょう? いや、名刀にちげなか」
「何という名刀や、と訊いているのじゃ」
「わかりもはん」
「わからぬかえ」
「こげな立派な刀を、腰にしたこともなければ見たこともない唐芋侍のおいどんでごわす。わかるはずはなか」
刀身に見とれつつも、半次郎はさびしげに言った。
刃長は、およそ二尺四、五寸もあろうか、切先はするどく尖《とが》っていて、反りは六分か七分に見える。
青白い光を沈ませた刀身の刃文のみだれの美しさに、半次郎は息をのむばかりであった。
「じゃ、何ちゅ刀ごわすか?」
「和泉《いずみの》守兼定《かみかねさだ》作のものじゃ」
「兼定、ごわすか……」
なるほど、と半次郎は思った。
和泉守兼定は、美濃国の住人で、世にいう〔関物《せきもの》〕の中でも天下に名を知られた刀工である。
古刀でも新しい方に属し、戦国の世に諸国大名が争って、兼定の刀をほしがったそうな。
それほどのことは、半次郎も聞きおよんでいたが、
「その刀を、半どのにあげまひょ」
事もなげな法秀尼の言葉をきいても、
(この刀を、おいどんに……)
本当とは思えなかった。
兼定も初代のものではなく、二代兼定の作だそうであるが、この刀を腰に帯《お》びることの晴れがましさに、半次郎は顔中をまっ[#「まっ」に傍点]赤にして、
「ほんに、この刀を、おいどんへ下はるっちゅのでごわすか?」
何度も念を押さずにはいられなかった。
「尼が刀を持っていても詮《せん》ないことや」
「こげな名刀を、法秀どのは、なぜに?」
「つまらぬことを訊かいでもよいがな」
「しかし……」
「しかしも何もないがな」
法秀尼は、もう刀のことなど念頭にない様子で、
「早うしまいなはれ。それとも腰にさして帰んなはるかえ?」
「では、ほんに、下はるちゅので?」
「くどい半どのじゃな」
和泉守兼定は、法秀尼の家につたわったものである。
亡き父から亡き夫へ、この刀はうけつがれた。
つまり、法秀尼の亡夫は、養子であったわけだ。
夫が死に、わけあって家を出てからも、法秀尼がこの刀を手離さなかったのは、別に、家重代の名刀だからという、あらたまった気持があったからでもない。
法秀尼に言わせれば、
(何ということもなく、刀がわたしについてきたようなものじゃ)
ということになる。
もともと、兼定の名刀は、いつか金に替えるつもりであった。
それが何となく手離さずにすんだのは、
(わたしも何ということもなく、食べて寝て、その日その日を送るに事を欠かなかったからなのであろう)
刀をおしいただく半次郎を見やりながら、
「そないにありがたがられては、かえってめいわく。刀ひとふりを、半どのにあげただけのことや」
と、法秀尼が、
「今日は急がれるかえ?」
「いや、別に……非番ごわす」
「それなら、久しぶりに夕飯を一緒にどうじゃ?」
「いただきもそ」
障子を開け放つと、西山へかたむいた陽の光は、まだあかるく、微風が興奮に火照《ほて》った半次郎の頬をなぶっていた。
竹林にかこまれた小さな庭先を、燕《つばめ》が矢のようにかすめ飛んでいる。
(おはんとは生涯はなれぬぞ)
と、半次郎は手にした兼定に胸のうちでささやいた。
この日、
夜に入ってから不了庵を辞した中村半次郎は、もちろん大得意で和泉守兼定を腰にさしこみ、藩邸への帰路についた。
このため、和泉守兼定は半次郎の所有するところとなったこの日に、早くも血にぬれたのである。
四
その刺客が、どこからつけていたものか、半次郎にはわからなかった。
だが、不了庵にいるときから見張られていたようにも思われない。
(誰か、おいどんをつけちょる)
そう感じたのは、四条大橋の東詰にある芝居小屋の横手を通りすぎ、縄手の道をしばらく行きはじめてからだ。
このあたりは祗園社《ぎおんのやしろ》を中心とした歓楽地だけに、風も生あたたかい初夏の夜の灯も、はでやかなものである。
おそらく、刺客は、その灯かげの中に半次郎を見出し、後をつけはじめたものであろう。
(長州か……土佐のもんか……)
このごろの中村半次郎をねらう勤王浪士たちが、何人いても不思議はない。
諸方の勤王派から、現在は大きなうらみを買っている薩摩藩士だからというばかりでなく、半次郎は、すでに、勤王浪人たちを何人も斬っている。
(一人歩きは、つつしむように……)
と、わざわざ中川宮が半次郎の身を心配して伝言をよこしたほどだ。
(よか、来るならきやい!!)
縄手の通りの両側には、小間物屋だの仏具屋だの、めし屋だの、種々雑多な店が軒をつらねて、まだ人通りもある。
半次郎は、一度もふり返らなかった。
つけられていると知ったのは、ただ剣士としての直感の作用によるものだといえよう。
もともと、半次郎は、こんな場所へ出て来るつもりはなかった。
法秀尼と別れてから、まっすぐに錦小路の藩邸へ戻るつもりであった。
あの乞食の子の幸吉も、いまは藩邸にいるし、半次郎としても瀬戸物屋の下宿に住むことが何かと不便になってきている。
大坂や伏見にある藩邸のほかに、京都だけでも二つの藩邸がふえた。
中川宮への使いもあるし、会津藩へも行く。
とにかく、重要な文書をはこぶ役目になると「中村をよべ」ということになるのだ。
ことに、西郷吉之助が帰って来てからは、
「半次郎どんな、呼んでたもし」
と、西郷直接の使者にたつことが多い。
つまり、半次郎なら密書をねらう刺客に襲われても、まず大丈夫であろうというわけなのである。
その西郷に、このところ半次郎は三日ほど会っていない。
一日でも顔を見ぬときは(先生な、いまごろ何しておじゃすかな[#「おじゃすかな」に傍点]?)と、絶えず西郷を慕っている半次郎だけに、
(そうじゃ。この和泉守兼定の刀を、先生に見て頂きもそ)
そう思いつくと、矢も楯《たて》もたまらなくなってきた。
腹に横たえた業物《わざもの》の重味が、こころよく半次郎の躯《からだ》につたわってくる。
今まで差していた刀は、兼定の入っていた箱に入れ、法秀尼がくれた風呂敷《ふろしき》につつみ、小脇にかかえていた。
いま、西郷吉之助は、吉田の新藩邸に起居をしている。
先ごろ、島津久光は、京都を発し、鹿児島へ帰った。
「何ごとにも大事をとり、油断なきようにたのむぞ」
帰国に際し、久光は西郷に念を押した。
自分が帰国したあとの京都藩邸で、西郷吉之助が中心になろうということは、久光もよくわきまえている。
もう二度と〔寺田屋騒動〕のような事件はひきおこしたくない久光であった。
西郷の思いきった行動力を、久光は危険なものに思っている。
それなら、何も帰国せずにいたらよさそうなものだが、どうも、久光は不愉快であった。
西郷が帰って来たというだけで、京都にいる藩士たちの顔の色まで違ってきている。
三つの藩邸の中に、溌剌《はつらつ》たる活気がみなぎりはじめた。
「さぞ心身ともに疲れておることであろう。西郷をいたわりやれよ」
という孝明天皇のお言葉が、下賜された時服と共に、中川宮から西郷へつたえられた。
そればかりではない。
前関白の近衛公をはじめ、三条右大臣や徳大寺|卿《きよう》などからも、次々に招かれては、ねぎらいといたわりをうける西郷吉之助であった。
また、京都にある諸藩からも、威儀を正した使者たちが薩摩屋敷へ挨拶《あいさつ》にやって来ては、西郷帰還のよろこびをのべて行く。
島津久光が上京をしても、これほどの歓迎をうけたことはない。
久光としても、おもしろくなかったろう。
だが久光も、こんなことで、逆上するような人物ではない。
結局は、いかに西郷吉之助という男が薩摩藩にとってかけがえのない人間であるかということを、久光は知ったわけである。
しかし、愉快でないことはたしかだ。
「西郷が戻ったからは、余が京におらずともよかろう。国もとをいつまでも留守にしておくこともいかがと思われる」
半ば皮肉めいた口調で、久光は小松帯刀に言い、帰国の令を発したわけだ。
大事をとれ──という久光の言葉にも、西郷はさからわず、
「おおせのごとくつかまつる」
と、こたえた。
三年の島暮しで、西郷も辛抱づよくなってきている。
久光の前へ出ても前のように軽侮の色を露骨にあらわさなくなってきていた。
五
ここで、半次郎へ眼を戻そう。
縄手の道から、急に、半次郎は右へまがった。
白川の細い流れにそった小道を何度もまがって行くうちに、あたりは人影もない淋《さび》しいところになってくる。
肥後藩の控屋敷の東を右へ切れこむと、右手に、これも平戸藩の控屋敷があって、土塀が東へのびている。
左手は、雑木林であった。
(来るな)
半次郎は、そう思った。
出て来るのを待つために、わざと、こんなところをえらんで歩いて来たのだ。
果して……
ひたひたとつけて来た足音が、しだいに殺気を含んできた。
月が出ているので、ほんのりと道が白く浮き、すたすたと歩みを止めぬ半次郎の姿も、刺客からはよく見えているはずだ。
半次郎は、いささかも歩調をゆるめない。
一定の速度をくずさずに、歩みつづける。
足音は、一人であった。
(一人きりで、おいどんを斬ろうちゅのは、よほどの自信があると見える)
油断はならないが、おびえることもない。
ここまで来たからには、斬るか、斬られるかという単純無比な事だけなのだ。
そこに全身を没入することが出来るのは、すぐれた剣士の特権というものであろう。
平戸屋敷の土塀がつきようとするあたりまで来たとき、後から忍び足につけて来た足音が、にわかに変った。
前方には町家の灯が見える。
このあたりが斬りどころと決心したものであろうか。
刺客は、一気に、半次郎の背後から殺到してきた。
「たあっ!!」
気合いと共に、刺客が打ちおろした刃は、鉄と鉄が噛《か》み合うすさまじい音と共に、きらりと月に光って宙天にはね[#「はね」に傍点]飛ばされていた。
「うわぁ……」
刀をはね[#「はね」に傍点]飛ばされた刺客が絶叫をあげ、だだっと横ざまに走り、道の左手の松の幹に背をもたせて、
「お、おのれ、くそ──」
必死に、今度は脇差をぬきはらった。
同時に、半次郎の刀は、鍔鳴《つばな》りをひびかせて鞘《さや》におさめられた。
半次郎一声も発しなかった。
すたすたと、刺客の顔をあらためるでもなく、半次郎は道を遠ざかって行く。
一瞬の間であった。
刺客は自分一人で勝手に斬りつけ、勝手に斬られてしまったようなものだ。
それでも、なお刺客は、
「く、く、く……ざ、残念……」
ぬいた脇差をつかみ、二歩三歩と、半次郎の後から、よろめきよろめき道へ出たが、ついに、
「むう……」
脇差を落として、道に倒れた。
もう、半次郎の姿は見えなくなっている。
暗い道の向うから、三名ほどの侍があらわれ、もうぴくりともしなくなった刺客のそばへ来た。
「死んどる……」
「ふうむ……」
期せずして、三人が吐息をもらした。
「人斬り半次郎か……なるほどなあ」
総髪にした三十前後に見える苦味《にがみ》ばしった侍が、半次郎が去った方向へ視線を射つけたまま、
「これからはどのようなことになっても、薩摩の中村半次郎には手を出すな、と一同に言っておけ」
吐き捨てるように、あとの二人へ言った。
この男が新選組の副長・土方歳三《ひじかたとしぞう》である。
あとの二人は、いうまでもなく新選組の隊士であった。
新選組については、くだくだしくのべるまでもあるまい。
去年(文久三年)の三月に、江戸幕府が、武芸にすぐれた浪士たちを集め、京都にあって暴れまわる勤王志士たちを鎮圧させるべく編成した一部隊が〔新選組〕だ。
隊長・近藤勇がひきいるこの浪士団は、いまや勤王派にとって、もっとも恐るべき存在となっている。
よりすぐった剣客ぞろいだけに、長州・土佐その他の勤王志士たちが、何人も新選組の手によって殺されている。
新選組は、いま、京都守護職たる会津藩に属して活動をつづけているのだから、薩摩藩のものに手を出すわけはない。
だから、土方等三人は、半次郎を斬るために、此処《ここ》までつけてきたのではないのだ。
彼らは、半次郎を斬ろうとした刺客をつけてきたのである。
ここで、この刺客の名をあきらかにしよう。
名を津山典蔵という。
足軽上がりの長州浪士だ。
津山の剣は、長州ではかなり有名なもので、斎藤|弥九郎《やくろう》門下の逸材として天下に知られた桂小五郎でさえも、稽古《けいこ》のときは、三本に一本は必ずとられたという。
津山が、中村半次郎をねらった理由は今更のべるにもおよぶまい。
長州の勢力を京都から追い出してしまった薩摩へのうらみは、そのまま、薩摩藩士へもつながる。
ことに、中村半次郎へのうらみはつよい。
あの、八月十八日の政変が起る前にも、乞食《こじき》姿の長州の密偵が二人も半次郎に斬られているのだ。
四条の灯下に、ちらりと半次郎を見かけた津山典蔵が、
(よし!!)
とっさに決意したのもむべ[#「むべ」に傍点]なるかなであった。
ところで、この津山は、新選組の隊士を三人も斬っている。
(生かしてはおけぬ)
かねてから津山を探すのに血眼《ちまなこ》になっていた新選組が、ちょうど、この夜、祗園下の飯屋で冷酒をのんでいた津山を発見した。
そして、半次郎をつける津山の後からつけて来た、ということになる。
つまり、新選組は労せずして津山の死を見とどけたわけだが、中村半次郎の手練をも見とどけてしまった。
新選組の鬼といわれた土方歳三が「あいつには手を出すな」と言ったのだ。
やはり、半次郎の強さは本物だったのであろう。
「おいどんにゃ、刀ちゅうもんは、わからぬ」
西郷吉之助は、半次郎が得意げに差し出した和泉守兼定を、それでも気がなさそうにながめたが、はっとなり、
「おはん、いま、斬って来たな」
「はアい」
「誰を斬りなはった?」
「わかりもはん。うしろから斬りつけてきもしたで、仕様ごわはん」
半次郎は平然としている。
西郷は憮然《ぶぜん》として、
「このごろは、どうも、すぐに血を流したがるようじゃ、誰も彼も……」
「ほんに、気の早いもんばかりござす」
「おはんも、なぜ、逃げぬ」
「逃ぐるなぞと……そりゃ、逃げてもようござすが……」
「これからは逃げなはれ」
「はアい」
「人斬りなんちゅて、妙な名をつけられちゃいかぬ」
「おいどんな、好んで斬っちょるわけじゃごわはん」
「わかっておる。じゃが、何度も人を斬っているうちに、人間ちゅもんな、何かおのれが、格別にえらか人になったような気がして来ようというものじゃ。おいどんな人を斬るのがうまいというても自慢にゃならぬ」
「はアい」
「今度から逃げなはれ」
「はアい」
「ところで、そげな刀を、おはんは誰から貰《もろ》うたのじゃ」
あっと思った。
そこまでは、半次郎も考えていなかった。いつもの半次郎なら、そこにまで気もまわったのであろうが、何しろ兼定の名刀を自分のものにした嬉《うれ》しさで夢中になっていたものだから、当然に西郷が質問するであろうことへの答えなぞ、考えてはおかなかった。
半次郎の身分ではとても手にすることが出来ぬ刀なのである。
「どうしなはった?」
ぎょろりと、西郷の大きな眼が光った。
もういけない。
「はアい。実は、その……」
半次郎は包み隠し切れず、ついに、何も彼も、西郷吉之助にぶちまけてしまったものだ。
「ほほう……」
聞き終えて、西郷は笑った。
「よか、よか」
「は……?」
「そげな女子《おごじよ》なら心配いらぬ」
「は──」
「いったい、その女子は、どこの生まれか?」
「知りもはん。法秀どのも話してはくれもはん。おいどんもまた訊《き》きませぬ」
「半次郎どん」
「はアい」
「おはんな、ま、何ちゅ人じゃ」
「はあ……?」
「腕が強うて、女子に可愛ゆがられて……ま、何ちゅ、しあわせな男じゃ」
半次郎はテレてしきりに頭をかいた。
このとき、西郷吉之助が坐《すわ》り直し、あらたまった口調で言った。
「このことは、おはん一人の胸にしまっておいてもらいたいのじゃが……」
「はアい」
「近いうちに、外へ出てもらわにゃならぬ」
「外へ、でござすか」
「うむ。おはん、一人長州へ行ってもらわにゃならぬ」
「長州へ、でござすか」
「誰にも言うてはいかぬ。ようごわすか」
と、西郷は又も念を押した。
この夜、中村半次郎は錦小路の藩邸へは戻らなかった。西郷吉之助の部屋で、夜が明けるまで半次郎は、西郷との密談に我を忘れていた。
朝になって、半次郎は錦小路の藩邸へ帰った。
ちょうど、佐土原英助が顔を見せていて、
「何処へ行っちょった?」
「西郷先生に酒よばれて……」
「ほほう」
「英助どん」
「何じゃ?」
「おいどんも、もっと学問せにゃいかん」
「何じゃ、急に……」
「いかん、いかん」
自室の中から、幸吉が飛び出して来るのへ、半次郎は廊下から言った。
「幸吉。おはんも学問せにゃいかんぞ」
「おっさん、何な?」
幸吉が、ぽかんと半次郎を見あげた。
いまは乞食の子だというおもかげは少しもない幸吉だ。
小ざっぱりとした着物をつけ、こまめに藩邸内の雑用をしてのけるので、藩士たちからも、
「とても七つや八つの子供とは思えぬ」
などとほめられている。
佐土原英助と別れてからも、半次郎は身ぶるいをするほどの緊張に、耐えていた。
(西郷先生の言わるるような使命が、おいどんに果せるじゃろうか……?)
長州藩の動向と内情を一人で探りに行けと、西郷は命じたのである。
と同時に、西郷は天下の情勢についても、こんこんと半次郎へ言いきかせた。
(西郷先生な、長州と手をむすぼうとしておられる)
その理由を聞いたとき、剣術だけを唯一の誇りにしていた半次郎は、叩《たた》きのめされたようになったものだ。
[#改ページ]
池田屋事件
一
そのころ、地下にもぐった勤王志士たちのうごきは、日ごとに激しさを加えはじめてきた。
京都からしめ出されたといっても、三条河原町には長州の藩邸があり、ここには、留守居役の桂小五郎をはじめ、少数の藩士たちがいることはいる。
ただ、表向きの役目をとかれ、藩主・毛利|敬親《たかちか》父子の入京をゆるさず、兵力の集結をゆるされないといった逆境にあるわけであった。
一時は、京都を手中につかみ、朝議の主導権をにぎり、勤王革命をいっきょになしとげようというところまでいった長州藩にとって、これは耐えがたい屈辱である。
「何とかせねばならぬ!!」
このままでひき下がるような長州藩ではないし、それは誰もが予感しているところのものだ。
諸国の勤王浪人も、幕府と手をむすんで長州を追いはらった薩摩藩に見きりをつけ、
「何が何でも、長州方を中心とした勢力をひろげなくてはならぬ」
というので、続々と京都へ入りこんで来ているようだ。
こうした連中が、しきりに暗躍をする。
この年の五月に入ってからは、会津藩士の松田|鼎《かなえ》が暗殺をされたし、つづいて、中川宮の家来・高橋健之丞が、大坂出張中に、本願寺門前で斬殺された。
そればかりではない。
浪士たちは名も姿も変えて、いろいろの流言を放ち、市中の人々を不安におとし入れたり、隙あらば兵をあげて京都へ乗りこんで来ようという気配濃厚だ。
「なまぬるい仕方ではいかぬ」
京都守護職たる会津藩でも、
「かまわぬ。怪しきものは斬捨ててよろしい」
と、新選組にも命じている。
折しも、遠く関東の地に〔尊王|攘夷《じようい》〕の旗をかかげたものがある。
水戸の〔天狗《てんぐ》党〕であった。
これは水戸藩の分裂である。
亡き藩主・徳川斉昭の遺志を奉ずるというので、もと水戸家の重臣・武田|耕雲斎《こううんさい》、田丸|稲之衛門《いなのえもん》にひきいられた水戸藩士たちは、筑波山《つくばさん》にたてこもって兵をあげた。
幕府もあわてて、関東の諸藩に命じて出兵をもとめ、いまや筑波山をかこんで小競合いをつづけているという。
二
京の町に、夏が来た。
「中村どんな、このごろ姿を見せぬようじゃが……」
「そう言えば、見えぬな」
三つある京都藩邸の誰もが、ふっと気がついたように話し合っては、
「どこへ行ったのか?」
「佐土原英助どんも、知らぬと言うちょる」
「仲のよい佐土原どんが知らぬちゅのは、どげなわけか」
「わからん」
「まさか、どこかで斬られたのじゃあるまいな」
「まさか……」
錦小路藩邸をあずかる小松帯刀でさえも、
「半次郎が行方不明になったそうでござるが、おはん、何も御存知ないか?」
わざわざ、吉田の藩邸へやって来て、西郷吉之助にたずねた。
このとき、西郷は、
「心配ごわはん」
「と申されると……?」
「ちょいと、おいどんが使いに出しもしたよ」
「何じゃ。それならなぜ早う……」
「ちょいと、秘密の用件ごわしてな。半次郎の行先を、みなに知られては困る」
「ほほう」
「まあ、ゆっくりして行きなされ」
あとは、ひそひそ話になった。
京の町は、祗園祭《ぎおんまつり》の仕度でいそがしい。
五月一日の致斎《ちさい》の式は、すでにすみ、吉符《きちふ》入りの二十日になると、町々からは鋒《ほこ》山車《だし》が通りへ出て、囃子初《はやしぞ》めになる。
中村半次郎については、藩士たちの間に、
「中村は、西郷先生の御用で江戸へ行っている」
といううわさが流れはじめた。
「どうも、半次郎が斬られるちゅことなぞないと思うたが、やはり、そげなことであったのか」
藩士たちも、やっと安心をしたようだ。
祗園祭も目の前にせまった。
四条木屋町にある古道具屋で、桝屋喜《ますやき》右衛門《えもん》というものが、新選組に捕えられたのは、このころであった。
桝屋喜右衛門は、古高俊太郎《こたかしゆんたろう》といって近江《おうみ》・坂田出身の勤王志士である。
新選組の密偵がこれをかぎつけ、六月三日の夜明けに、突如、桝屋方を襲い、古高をつかまえたのだ。
古高は、新選組の屯所へ引立てられ、徹底的な拷問にかけられた。
ほとんど、まる一日の間、少しも口をわろうとしなかった古高俊太郎も、無惨で、巧妙で、ねばりづよい拷問に耐えかね、ついに、自白をはじめたのが、六月四日の夜明けである。
古高の自白をきいて、新選組の局長・近藤|勇《いさみ》もさすがにおどろいた。
新選組ばかりではない。
この自白の内容を知った会津藩でも、まさか、そこまで、勤王派の地下運動がふくらんでいたとは思ってもみなかった。
古高の自白によると……。
来る六月二十日前後の、風の強い日をえらび、天皇おわす御所へ火をかけようという計画がすすめられているという。
計画実行のため、京都へ潜入している志士たちは、古高のように町人に化けているものばかりではない。
二条、三条、四条にかけての旅館に〔何々藩家来〕というふれこみで泊りこんでいる侍たちのほとんどが、勤王志士であるということもわかった。
そればかりではない。
御所へ火をつければ、天皇の信頼ふかい中川宮と会津侯・松平容保が急ぎ駈《か》けつけて来ることは明白である。
これを待ちかまえ、中川宮と会津侯の首をはね、つづいて、薩摩藩をはじめ、長州方の邪魔になる諸大名の屋敷へ放火し、京都市中をいっきょに混乱させようというわけだ。
まだある。
騒ぎに乗じ、天皇をうばって、これを長州本国へうつしまいらせようというのである。
そうして、強引に彼らの勤王運動をつらぬこうとしている。
志士たちの、こうした過激なやりかたを、孝明天皇がおきらいになるのも無理はないところであろう。
天皇は、長州の志士たちをおそれておいでになる。
こんなこともあった。
先頃に、会津侯が、京都守護職から一時の間、京都所司代の役目へ転じたことがある。
これは、幕府に長州征伐の考えがあって、松平容保を、その軍事総裁にしようというふくみがあったからだ。
容保が、はるばると軍をひきいて長州へ攻めのぼることになると、京都を守護するものを今のうちにきめておかねばならぬというので、越前侯・松平|春嶽《しゆんがく》が守護職についた。
ところが、会津侯をひたすらたのみに思われる天皇が、
「でき得るならば、容保に守護職をしてもらいたい」
と、おもらしになったのである。
京都の治安をととのえるため、いかに会津藩がよくはたらいたか、これをもってしてもわかろうというものだ。
事実、松平容保は、あまりの激務に発熱|病臥《びようが》し、三条寺町の浄花院という寺に寝ついてしまったほどだ。
このときの天皇の心配は、言語に絶した。
「容保だけは、死なせてはならぬ」
と、典薬の高階安芸守《たかしなあきのかみ》を見舞いにおつかわしになり、とくに極秘の宸翰《しんかん》を容保におくられたという。
この天皇直筆の手紙をよんで、容保は感泣した。
天皇の手紙には……過激派の公家たちや長州藩の乱暴なふるまいを憎まれ、容保をふかく信頼しているから、一日も早く病気をなおし、今後も、何かと相談相手になってもらいたい……という意味のことが書きつらねてある。
徳川幕府の命によって、京都を守っている松平容保だが、その誠意にみちあふれたはたらきぶりは、勤王だとか佐幕だとかいう立場を超越したものであったといえよう。
三
古高俊太郎の自白によって、新選組の密偵は八方に飛んだ。
これによって、六月五日の夜、三条小橋の旅宿・池田屋と、縄手の四国屋において、志士たちの会合があることがわかった。
新選組は近藤勇以下三十名の隊士が出動し、ひそかに、祗園町の会所へ集合、夜を待った。
そして四ツ時(午後十時)すぎに、新選組は池田屋を襲撃した。
これが有名な〔池田屋騒動〕である。
ちなみに、四国屋では志士の会合がおこなわれなかった。
この夜、池田屋へ集まった志士たちは三十余名といわれる。
その中には、肥後の宮部|鼎蔵《ていぞう》、長州の吉田|稔麿《としまろ》などという、当時、志士たちの間でも第一級の人物とされていた人々がふくまれている。
激闘、二時間におよんだ。
新選組では、局長の近藤勇、副長の土方歳三以下、腕ききの隊士が、これも決死の覚悟で斬込んだ。
宮部鼎蔵は、近藤の一刀をうけ、のがれぬところと見きわめをつけて、みずから腹を切った。
斬合いの最中に、会津藩からも兵がくりだし、所司代、桑名《くわな》藩もこれを助け、三千名に近い人数が池田屋をとりまいてしまったので、志士たちのほとんどは、斬られるか捕えられるか、とにかく全滅したわけである。
「しかし、桂小五郎を逃したのは残念だ」
と、新選組は口惜《くや》しがった。
何といっても、桂小五郎は、いまの長州藩を代表するものの一人である。
新選組は、何度も、桂に逃げられていたから、今度こそはという意気ごみであったろう。
桂小五郎も、むろん、池田屋の会合に加わることになっていた。
といっても、桂は他の志士たちの計画に賛成しているわけではない。
去年八月の、あの政変によって、見事に敗北をし、長州の勢力が京都から追いはらわれたことを、桂小五郎は肝に銘じて忘れない。
(やりすぎた。おれもまだ若い。もっともっと、事を起すには慎重なかまえがなくてはならぬ)
だから桂は、この際、御所へ火をつけるなどというまねはやめるべきだと、同志たちを説きふせるつもりで、池田屋へ出かけた。
このとき、池田屋には、三、四人ほどしか集まっていなかったので、
「では、別の用事をすまし、諸君が集まったころに、また来よう」
と、桂は池田屋を出て、三条縄手の〔小川〕という魚屋兼仕出し屋へ行った。
この小川の女将《おかみ》・てい[#「てい」に傍点]というものは、かねてから志士たちの世話をよくしてくれて、桂も親しい。
小川方で少し時をつぶし、さて、これから池田屋へ行こうと腰をあげたときに、
「大変でございますよ」
女将が、二階の小部屋で数人の同志と酒をのんでいた桂小五郎に知らせた。
「池田屋へ、新選組が斬込んだそうで……」
「何──」
鴨川をへだてたすぐ向こうに、池田屋はある。
こうして、桂小五郎は危いところをのがれたわけだが、
「そうごわすか。桂どんな、池田屋におらなかったとな。そりゃようごわした。あの人に死んでもらっては困る。実に困る」
池田屋事件を聞いたとき、西郷吉之助は思わず興奮して口走ったという。
長州藩と薩摩藩とが事ごとに対立し、敵対してきたことは、すでに何度ものべた。だが、西郷は、
(久光公もどうかしておる。いかに国政の主導権をにぎりたいと言うても、幕府となれ合う[#「なれ合う」に傍点]てまで、勤王派の大勢力である長州を追いのけようなどとは、小心きわまるところじゃ)
こういう考えであった。
藩士たちは、中村半次郎が江戸へ行っていると思いこんでいるのだが、違う。
西郷の命をうけ、半次郎は長州へ密行したのである。
(長州の本国では、どげなうごきをしておることか……?)
西郷は、それを知りたかった。
半次郎のぬけ目[#「ぬけ目」に傍点]のないはたらきぶりを見こんで、
「おはん、長州へ行ってたもし。おはんの目から見えるものだけでよい。出来るだけ多く、出来るだけひろく、長州本国の様子をさぐってきてもらいたい」
と、西郷は言った。
もちろん、半次郎は勇躍した。
「だが、薩摩言葉な、長州人にさとられてはいかぬが……」
「はアい」
「自信なごわすか?」
「ござす」
「ほほう」
「長州へ入りこんだなら、おいどんな、口をききもはん」
「口をきかぬ……?」
「はアい」
「そりゃ、どういうことじゃ」
「唖《おし》になって行きもす」
「ほほう」
西郷は目をみはって、
「おはん、なかなかよいことを言う。唖になるか……なれど、半次郎どん。唖になるな辛《つ》ろうごわすぞ」
「大丈夫ごわす」
「よか。たのみもそ」
むしろ、半次郎は唖になって長州へ行くことを、たのしんでいるかのようであった。
「役者が唖の役なしちょる気持で行っち来もす。おもしろうごわす」
「刀な抜いちゃいけもはん」
「刀な持って行きもはん」
「じゃが、乱暴ないかん。争うてはいかん」
「はアい」
「無事に帰って来てもらいたい」
「はアい」
出発に当たり、半次郎は不了庵へ行き、和泉守兼定の一刀を、
「しばらく、あずかって下はれ」
法秀尼にたのんだ。
「どうして?」
「わけがごわす」
「どんな……?」
「言わぬといけもはんか?」
「何の……言わずともよいがな」
法秀尼は笑って、
「どこかへお出かけかえ?」
「…………」
「話せぬことかえ?」
「はアい」
「ま、よいがな。半どの、無事でお帰り」
「はアい」
「なるべく。早うお帰り」
「はアい」
半次郎が京から消えて、二か月になった。
夏も終ろうとしているが、まだまだ京の町は暑い。
池田屋における志士の遭難は、志士たちを激怒させた。
長州の久坂玄瑞やそれに筑後久留米《ちくごくるめ》の神官・真木和泉守などは、志士三百名を集め、単独で長州を発し、大坂へ乗込み、やがて、伏見から山崎のあたりまで進んで来て、京都の形勢をうかがいはじめた。
「会津と薩摩から兵を出させ、彼らを打ちはらってもらいたい」
と中川宮は、将軍の後見たる一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》にせまられたという。
薩摩藩は、少しも騒がない。
「しばらくの間、藩士たちの外出を禁ずる」
と、西郷が命を下した。
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禁門の変
一
いつの間にか、中村半次郎が京都へ戻って来た。
ある朝、忽然《こつぜん》と、半次郎が錦小路藩邸の自室で、幸吉を相手にめしを食べているのを発見した藩士たちが、
「西郷先生の御用事で江戸へ行っていたそうじゃな」
「どげな御用事じゃったのか?」
「話して聞かせろ、おい──」
口々に言いながら集まってくると、半次郎は、
「何、つまらぬ用事ごわすよ」
白い、たくましい歯でたくあん[#「たくあん」に傍点]を噛《か》みくだきつつ、事もなげに答えた。
藩士たちも時が時だけに、その答えだけでは納得をしない。
これから薩摩藩が時局に応じて、どのようなうごき方をするのか……それは、すべて西郷吉之助の胸のうちにあると思いこんでいるから、
「教えろ」
「どげな様子じゃ、江戸は──」
などと、なかなか離れようとはしない。
半次郎は箸《はし》をおいて、
「実は……」
にやりとして、言った。
「西郷先生の女子に、金をとどけてきもした。それだけの用事ごわすよ」
一同、あっけにとられたが、
「これから先生に、その女の手紙な届けにゃならぬ。ごめん」
さっさと身仕度をして、吉田の藩邸へ出かけて行った。
西郷は、半次郎を迎えて、
「待っておった。ずいぶんと遅かったではないか」
「これでも帰りは昼夜兼行をもって戻ってきもしたのでごわす」
「御苦労、御苦労──それで、長州の様子な、どうでごわす?」
「先生……」
「何じゃ?」
「唖になりきるちゅのも、まことに苦しゅうごわすなあ」
「いや、御苦労じゃった」
長州藩の主力は、萩の城下から山口(現在の山口市)へ移っていて、半次郎は山口へ潜入し、旅商人に化けたり乞食《こじき》になったりして、探偵をつづけたが、何しろ警戒もきびしく藩内の情勢をくまなくさぐりとるところまでやってきたわけではない。
それにしても、京都にいるのと、長州の本国へ乗りこんで行って見たり聞いたりするのとでは大変に違う。
ことに半次郎は、池田屋事件の知らせが長州へ届くまで、山口にひそんでいたものだから、その後の長州藩の動向が火をつけたように変ったことも見てきている。
「はじめのうちは、毛利侯も、何とか恭順の意をあらわして帝の御許しを願い、ふたたび、京へ戻って、朝廷のためにはたらきたい。そのためには、長州方が迎え入れた三条実美公をはじめ七卿《しちきよう》の方々を朝廷へお返ししたいと……まあ、このような考え方でおったようでごわす」
「ふむ。毛利侯がなあ……」
「はアい」
「それで?……」
「ところが……」
ところが、藩主・毛利敬親の、こうした穏やかな考え方も、ともすれば藩内の過激派によって押されがちになり、
「もはや、殿の申されるようなことでは駄目じゃ。この際、むしろ兵力をもって京へのぼり、会津、薩摩をはじめ幕府に与《くみ》する大名どもを討ち、朝廷を我藩の力によって助けまいらせねばならぬ」
という叫びが、藩主派と対立した。
それに加えて……。
今は、長州藩のみを頼りにする諸国の勤王志士たちが続々と長州へ入りこみ、
「今や、なまぬるいことでは埒《らち》があかぬ。京へ攻めのぼるべし!!」
例の久留米の神官・真木和泉守などが中心となって、しきりに長州藩を煽動《せんどう》したものである。
ここへ、池田屋事件の報が、もたらされたわけだ。
ともすれば、過激派のうごきが活溌《かつぱつ》になりつつあったときでもあるし、
「言わぬことではない!!」
「尊い同志の血を、あの新選組の狼どもに吸われたかと思うと、居ても立ってもおられぬ。もはや我慢はならん」
「攻めのぼるべし!!」
久坂義助や真木和泉守が、いち早く志士たちを集め、大坂へ繰り出してきたことは、すでにのべたが、これにつづいて、福原|越後《えちご》、国司《くにし》信濃《しなの》などという長州藩の重臣が兵をひきいて山口を発した。
こうした長州のうごきや、山口を発した長州軍の兵力や、山口から三田尻《みたじり》へ集結し、軍船によって進路を大坂へとった軍の装備などを、かなりのところまで半次郎は見とどけてきている。
西郷と半次郎の密談は、朝から夕刻にまでおよんだ。
「いや、半次郎の物おぼえのよいのには、おいどんも、ちょいとおどろきもしたよ。あとからあとから、見聞きしたことをよどみもなく話しつづける。あの男な、学問をもっとさせるとよい。なまじ剣術がつよいのは心配ごわす」
あとになって、西郷吉之助が小松帯刀に洩《も》らしたそうだが、この西郷の言葉によってみても、中村半次郎の素質というものは、かなり多様なものをふくんでいたように思われる。
半次郎は法秀尼によって書を習い、いくらかは本を読むことをおぼえた。
何とか無学の自分を、他の藩士たちのもつ教養に近づけて行きたい、その負けずぎらいの気持から、夜を徹して習字もやったし、「どうもわからぬ」と、首をかしげながら本も読んだ。
だが、それを好んでしたのではないから、そこに没入したわけではない。
半次郎が全力をこめて没頭したのは、やはり剣術であった。
この忙しい最中にあって、彼は毎日、三百回の居合術を行なうことをおこたらなかったという。これは人間業ではない。おそるべきエネルギーの発散である。
二
京の町に夏はたけなわ[#「たけなわ」に傍点]であった。
町をつつむ熱気のはげしさにあえぐよりも、京の町の人々は、
「戦《いくさ》がはじまるそうや」
「長州の軍勢が何千も何万も、大坂にあつまり、伏見まで押し出してきているらしい」
「焼け出されてはたまらん。逃げるなら今のうちや」
戦火への恐怖と不安で、商売も手につかない。
長州藩は、何も何万という兵力をもって押して来たのではない。
東上した長州軍の編成は、およそ次のようなものであった。
一、浪士隊が、約三百名
一、長州藩家老・福原越後のひきいる部隊が五百名
一、同家老・国司信濃の部隊五百名
一、来島又兵衛《きじままたべえ》の遊撃隊四百名
一、家老・益田右衛門之介《ますだうえもんのすけ》の部隊六百名
一、藩主・毛利敬親(所属の部隊人数は不明)
ともかく、総勢二千五百ほどの兵力である。
六月の下旬から七月の上旬にかけて、これらの長州軍は、大坂から進出し、伏見と嵯峨《さが》に別れて陣形をととのえた。
伏見といい、嵯峨といい、京都を指呼の間にのぞむ地点だ。
京都は、北、東、西を山々にかこまれ、南方のみが大阪平野に向ってひらけている。
その南面の要所要所を、早くも長州軍は押えてしまったわけだ。
けれども、長州藩はいきなり戦いをいどんだわけではない。
ちょうど、京都にいた幕府老中の稲葉美濃守を通じ、訴状《そじよう》を朝廷にさし出したりした。
訴状といっても、去年の八月に、中川宮はじめ、会津・薩摩の両藩が主軸となり、一夜のうちに長州藩を宮中から、いや京都から追いはらってしまった政変に対する怒りが、めんめんと、しかも激烈な調子をもって書きつらねてある。
その一方では、大砲をひき、銃隊をつらね、いずれも甲冑《かつちゆう》に身をかためて乗りこんで来るのだから、いったい何をしようとしているのか、見当もつかない。
大坂には、幕府の城代もいるし町奉行もある。
紀州藩の兵も、淀川一帯を警備している。
枚方《ひらかた》にも、伏見にも、諸藩の警備隊もいたし、幕吏もつめている。
ところが、みんな、長州軍の通過を見守るばかりで、手も足も出ない。
「いずれの御藩でござる?」
「どちらへ参られるのか?」
などと一応は立ちふさがっても、
「わが長州藩は、外敵襲来にそなえ、ちかごろは武装をくずさぬたてまえ[#「たてまえ」に傍点]でござる」
家老の福原越後は、銃砲隊を前面に押し出し、怒鳴りつけるように言いはなったものだ。
「ど、どちらへ参られます?」
「藩命によって、関東へまいる」
もう、これだけで幕府や諸藩の警備隊は青くなってしまった。
「半次郎どん──」
西郷吉之助は、中村半次郎に、
「おはんが指揮をして、物見の者を諸方へ出しなされ」
「はアい」
「今は、我藩なうごくときじゃごわはん。よって、さわぎたててはならぬ」
「はアい。みな、物見の者は唖にしもす」
「は、は、は──そうしなはれ」
京にある三つの薩摩屋敷は、ぴたりと門をとざし、沈黙したままであったが、御所は大さわぎである。
もちろん、京都守護職たる松平容保も、病躯《びようく》をおして御所に参内した。
この日から、容保は御所南門に仮宿舎をしつらえ、会津の士兵を指揮し、加えて、御所九門をまもる諸藩にも命を下し、銃隊、砲隊を出動させ、御所の警備についた。
三
宮中では、会議がつづけられた。
公卿《くげ》たちの議論は、二つに別れた。
「毛利家(長州藩)も思えば気の毒である。せっかくに嘆願書を出してきておることでもあるし、何とか考えてやってはいかが──」
と言い出すものがある。
「もっともじゃ。ともあれ、毛利大膳大夫父子のみは入京をゆるし、帝《みかど》の御勘気をといてやってもよいではないか」
公卿の中でも、長州に好意をもっている三条|実愛《さねなる》をはじめ、飛鳥《あすか》井中納言《いちゆうなごん》、柳原中納言などのほかに、一条家、大炊御門《おおいごもん》家などの公卿たち三十余名が、長州藩主の入京に賛成し、一同、連署をおこない、このため、朝議は、毛利をゆるそうということになった。
むろん、松平容保は、この会議に参列をしていたが、
「何を申されまする。長州は兵馬をもって京にせまりつつあるのでございますぞ。彼らが暴慢のふるまいは、堂上方もよく御承知のはずでござる。今こそ、長州藩に鉄槌《てつつい》を加え、二度と不遜《ふそん》のふるまいのおこらぬよう、こらしめてやらねばなりませぬ」
病熱をこらえつつ、必死に反対をした。
「黙れ!!」
公卿の中にも、幕府をにくみ、会津藩をにくむものがまだまだいるし、
「会津は、守護職にすぎぬ身をもって、朝議に口をさしはさむなど、もってのほかじゃ」
と、叱りつけてくるものもいる。
松平容保は、うんざりしてしまった。
口先ばかり達者で、何かにつけ、このごろは〔朝議〕をふりまわし、天皇の家来だからというので、のぼせあがるばかりの公卿たちは、いざとなると旗色のよい方にのみ、流し目を送って身の安全をはかる。
いまは、薩摩藩が、
「こちらは何も知らぬ」
と、形勢を見ているかたちなので、公卿たちも気がつよくなっている。
もう一つには、
「もしも、長州が京へのりこみ、会津や薩摩を追いはらったあかつきには、どうしよう?」
早くも、うろたえはじめたものもいないではないのだ。
このことを聞いて、さすがに、おだやかな一橋慶喜も怒った。
慶喜は、前の水戸藩主・徳川斉昭の子で、一橋家へ入り、現将軍・家茂と将軍位をあらそったこともある。
その慶喜が、いま年若い将軍の後見として、京都に来ているのだ。
「よし、参内する!!」
一橋慶喜は、すぐさま御所へ参入し、いならぶ公家たちを前にして、
「長州よりの歎願《たんがん》をおとりあげになるとは、もってのほかである」
満面に怒気をあらわし、堂々と弁じはじめた。
「兵をおこし、砲をそなえて、朝廷にせまる長州藩のふるまいこそ、まさに臣子の分をわきまえぬものである。かくのごとき歎願をおとりあげになっては、帝の威風は地におちざるを得ませぬ。歎願とあれば、武装をとき、毛利父子が身ひとつになってあらわれてこそ当然。
何よりもまず、長州が兵をとかぬかぎり、そのような、なまぬるき応じ方をなさることには反対でござる。
堂上方において、慶喜が申すことをお聞き入れなくば、只今《ただいま》にも、松平容保ともども、われらは職を辞し、関東へひきあげまする。あとは長州をひき入れらるるなり、何なり、御勝手になさるがよろしい!!」
すさまじい一橋慶喜の見幕を目《ま》のあたりにすると、もう公卿たちは何も言えなくなる。
こそこそとささやきあったり、長州をひき入れて、またあとで幕府に睨《にら》まれ、めんどうなことになっては……と不安になったり、何とも煮えきらぬこと、おびただしいものがある。
このとき、中川宮は、前関白の近衛《このえ》|忠煕《ただひろ》に、
「西郷をよび、意見を聞いてはいかが?」
と言った。
「よろしかろう」
近衛も賛成し、ただちに薩摩屋敷へ、
「早速にまかり出るように──」
西郷への使者が飛んだ。
一橋慶喜をもって、公卿たちの長州赦免をいっきょにくつがえしたのは、中川宮のとりはからいによるものであった。
ともかく、あとは西郷吉之助の意見が朝議を決定づけるというところまできたわけである。
公卿たちの間にも、西郷の人望は大きい。
あの巨体、あの重々しい、堂々たる、そのくせ少しも力まずしてそなわった威厳など、西郷吉之助に天性そなわった風貌《ふうぼう》のすばらしさは、西郷の声や言葉を〔真実〕のものとした。
もしも、西郷がやせこけた男であったり、むさくるしい容貌であったりしたら、薩摩の西郷として動乱の時代に大役を果した人生はなかったろう。
近衛からの使者をうけて、
「来もしたな」
西郷吉之助は、にこりと立ちあがった。
待っていたのである。
「半次郎どん、ついて来てたもし」
「はアい」
すでに夜はふけている。
中村半次郎は、二十名からなる警備隊をたちまちにととのえた。
「おう、英助どん……」
ちょうど、吉田の藩邸にいた佐土原英助を見かけて、
「一緒に来て下され」
「うむ」
西郷を駕籠《かご》に入れ、警備の兵を前後において、
「それっ──」
むし暑い夜の闇をぬって、一行は走り出した。
「半次郎どん」
西郷の駕籠のうしろに半次郎と肩をならべて走りながら、佐土原英助が、
「このところ、おはんとは、久しく会わなんだ」
「江戸から帰って来てからも、お目にかかる機会なごわはんもんで、さびしく思《おめ》もしたよ」
「半次郎どんは、本当に江戸へ行ったのか?」
「その通りごわす」
「半次郎どん……」
「何でごわす?」
「おはん、このごろ、松屋のおたみどのに会いもしたか?」
「いや、会いもはん」
答えて、半次郎は英助を見た。
闇の中に、英助が顔をそむけるのを、半次郎は見た。
(ははあ……)
半次郎は、とっさに、
(英助どんな、おたみさんを好いているのじゃな)
こういうところは、まことに敏感な半次郎なのである。そのくせ、おたみが自分に抱いている感情には、少しも気がつかなかったのだ。
(よか──どうせ、おたみさんな、おいどんの女子になるちゅ気はないのじゃから……)
もしも、おたみが英助を好きなら、おれが間に入ってもいいと半次郎は思った。
四
御所へ参内した西郷吉之助が、近衛忠煕と中川宮へ申しのべたことは、
「一橋慶喜公より堂上方へ言上のおもむき、まことに、もっとものことでござります。帝のおゆるしを乞《こ》うならば、まず長州みずから兵を解き、恭順の意をあらわすが当然のこと。もしも、それを承知せぬとあれば、朝廷より各藩へ追討の勅令を下しおかるべきかと存じます」
西郷の言葉は、薩摩藩の言葉である。
いまや島津久光は鹿児島にあることだし、それに、このころになると久光も影がうすくなってきた。
このころから明治維新成るまでは、西郷吉之助の、もっともはなやかな時代であったといえよう。
それでいて、長州藩からも、薩摩藩とのうらみ、にくしみはさておいて、西郷個人へは、いろいろと密書もとどけられてくるのである。
今度の事件についても、吉田の藩邸へ、うすぎたない煮豆売りの老人がやって来て、
「この手紙を、西郷吉之助いうお人に、わたしてくれとたのまれましたんや」
一通の書状をとどけに来た。
「誰じゃ、お前は?」
「豆屋でござりますがな」
「ふむ……待っとれ」
いちおうは取調べてみたが、ほんとうに、この老人は煮豆売りにすぎない。いくらかの金をもらって、どこかの立派な侍に手紙のことをたのまれたのだという。
西郷は、むろん、この手紙を見た。
内容は簡単なものである。
──このたびのことについては、我藩としては、まず会津藩を朝廷から追放することが第一の目的なのである。薩摩には何の関係もないことであるから、そちら方では、手をひかえていていただきたい。よろしく我々のはたらきを傍観せられたし──
およそ、こんなことがしたためられてあった。
誰のしわざか知らぬが薩摩に出られては、長州も困ることはいうをまたない。
西郷にしても、いずれは、長州と手をむすぶべきだと思っている。
おとろえたりといえども、徳川幕府はその傘下に諸大名をあつめているのだ。決定的な勢力の相違があらわれぬうちは、これらの大名も、幕府の顔色をうかがうことをやめない。
朝廷にしても、同じである。
天皇をとりまき、昨日は黒だというかと思うと、今日はもう赤になるような公卿《くげ》たちにしても、はっきりとした勢力のうごきが目に見えないから、がやがやと立ちさわぐのだ。
西郷吉之助は、
(徳川政権というものを倒し、まったく新しい政権をたてなくては、どうにもならぬ)
この決意は少しも変っていない。
島へ流される前の西郷には、この決意が、まざまざと、言うことにも顔の色にもあらわれていた。
これを、島津久光はきらったのである。
不安に思ったのである。
だから、西郷をつとめて遠ざけようとした。
久光は、蛇蝎《だかつ》のように長州藩をきらっている。
長州よりも徳川と共に新政府をつくろうというわけだ。
「とても、とても……」
西郷は、中村半次郎を長州へ潜行させるにあたって、こう言った。
「見なはれ、長州が徳川を倒そうとする執念は、すさまじいものじゃ、追いのけても追いのけても頭をあげ、何としても幕府を倒そうとしておるのじゃごわはんか」
去年の夏、あれだけひどい目に会って本国へ追いはらわれても、長州は少しも屈しない。
ことに、藩主・毛利侯の方では、下から盛りあがってくる革新勢力をおさえきれなくなっている。
勤王派の長州が、天皇をひきさらってまでも幕府を倒そうとする革命へのエネルギーは、単に乱暴だとか不遜《ふそん》だとかで片づけられぬものをふくんでいるのだ。
「いずれは、長州と手をむすばにゃならぬ。そのつもりで行ってもらいたい」
敵意の眼で物を探るな、そうすると本当のものが見えなくなるからと、西郷は半次郎に教えさとしたのであった。
単に、半次郎は、
(よし。いよいよ、長州と戦をするのじゃ。そのための間者に、おいどんは出かけるのじゃ)
と意気ごんでいただけに、西郷の深い考え方を知って、叩《たた》きのめされたようになったものである。
五
長州と戦いたくはない西郷吉之助だが、
(長州は、あまりに無理押しをしすぎる)
むかしの西郷なら、血気にまかせ、薩摩藩をどううごかしたか知れたものではない。
だが、二年にわたる島流しの間に、西郷もうつ手ひく手を深く考えるようになっていた。
表向きは、久光の機嫌をそこねまいと大いに気をつかってもいるし、今度、島へ流されでもしたら取り返しがつかぬと思ってもいる。
(いまの一年は、おいどんが島流しにおうたころの十年にもあたっている。世は、今や変ろうとしつつあるのじゃ。その変りかける頂にあるのじゃ。このときに、中央におらなんだら、何も出来ぬ)
鹿児島にいる大久保市蔵とも、絶えず緊密な連絡をたもちつづけてきている。
いまの西郷吉之助は、まず時代が変った後のことを考える。
軍をおこして京都へせまり、しかも天皇のゆるしをうけようというのは、まるで無茶だ。
勤王|攘夷《じようい》のスローガンが、これでは泣き出してしまう。
(われらは、こうして誰にも負けぬ力をもってやってきたのだ。だから、我々の言うことを通すべきである)
という長州側の態度なのである。
(あせりすぎる)
と、西郷は思った。
自分が京都へ帰って来たのだから、もう少し落ちついて、心しずかに時を待ってくれれば、何としてでも、長州藩の勢力を少しずつ京都へも入れ、行く行くは力を合わせ、出来得れば戦火をおこさずに革命を成功させたいと思っていた西郷だけに、
(もう一度、熱を冷ましてもらわにゃならぬ)
長州藩が、天皇おわす御所へ攻めかかるというのは何としても無謀すぎる。
これを追いのけるために、薩摩藩が立ち上がったとしても、大義名分は立派にたつのである。
むろん、鹿児島にいる久光は、
「西郷はよくやった」
ほめてくれるにきまっているし、それを考える西郷は、ひとり、むずがゆい苦笑をもらさずにはいられなかった。
さて……。
元治元年七月十七日に、長州追討の勅令が諸大名へ下った。
伏見にいる長州軍に対しては、大垣、彦根、会津、桑名の四藩に、丸岡と小倉の二藩が遊軍として加わり、攻撃することになった。
また嵯峨・天竜寺にある長州軍には、薩摩、膳所《ぜぜ》、福井、小田原などの諸藩を向け、本陣は京都市中の東寺《とうじ》におき、ここには会津藩と幕府旗本の部隊がつめるというわけだ。
ところが……。
薩摩藩では「我藩は、御所と帝《みかど》を守護したてまつるべく兵を出す」という名目を強引に押し通し、長州を攻撃することはさけたものである。
いうまでもなく、いずれは握手しようとする相手との正面衝突をさけようとする西郷の深謀であった。
(まさかに、市中まで入ってこられまい)
というのが、西郷の考えであったのだが、これは見事に外れた。
十九日の夜明けと共に、嵯峨にあった長州軍は物も言わず、風のように市中へ押し入ってきたのである。
同時に、山崎にあった久坂義助がひきいる部隊もうごき出した。
伏見の方面でも戦闘がはじまる。
とにかく、嵯峨から、御所の西側へせまった長州軍の攻撃は魔神のような疾《はや》さであり、すさまじさであった。
嵯峨から御所までは、およそ三里ほどの道のりである。それにしても、その途中で、これを喰《く》い止めることもできずに……いや、何をしていたのか。幕軍も諸藩の兵も、やすやすと長州軍を中へ入れてしまったのは、どういうわけか……。
早くも、長州軍の大将・国司信濃は、来島又兵衛の一隊をあたえ、下立売《しもたちうり》、蛤《はまぐり》の両門を攻撃させ、みずからは中立売御門へ攻めかかった。
これらの門は、いずれも御所外部の門であって、
「諸藩の兵は、今まで何をしておったのか」
西郷も、あきれはてた。
もはや、このころの侍たちは、戦いをする術を忘れてしまっていたのかも知れない。
西郷吉之助は、薩摩兵をひきいて、蛤御門の北にある乾門《いぬいもん》につめていた。
砲声は地をゆるがし、豆をいるような小銃の音が、いっせいにおこった。
わあっ……。
長州軍の喚声が、ぐんぐんと御所の中へ突きこんでくる。
このときの戦闘を、くだくだと書きのべるまでもあるまい。
戦闘は、いまの午前四時半ごろから、およそ八時ごろまでつづいた。
山崎方面から進んだ久坂隊も、御所の南面、堺町御門から突入してきた。
まるで、錐《きり》をもみこむような激しい突撃であった。
御所内の公家屋敷が、たちまち砲火をあびて黒煙と炎をふきあげる。
西郷吉之助は、大砲四門と兵をひきい、公卿門のあたりで、来島又兵衛の長州軍と衝突した。
野戦ではない。
公家屋敷だの、塀だの、木立だの、通路だのの間にひしめき合いつつ、互いに銃火をあびせ合うのだ。
だ、だあん……
銃声がやむと、双方から弾煙りの下へ飛び出し、白刃をふるって斬り合う。
こうなると、中村半次郎としては他人に負けをとるようなことがない。
この日──半次郎は、もめん筒袖《つつそで》の胴着の上から籠手《こて》をつけ、革胴をつけ、鎖股引《くさりももひき》をはいて袴《はかま》なぞはつけなかったという。
弾丸が飛ぶからというので彼は鉢金をかぶっていた。ぬきはなった一刀は、もちろん和泉守兼定である。
六
西郷は馬に乗って指揮をしていた。
「大丈夫ごわすか」
長州藩を相手に斬りまわっては、すぐに、半次郎は駆け戻ってきて、西郷に声をかけた。
そのたびに、西郷は、
「あい」
妙にカン高い声をあげて答えてはゆっくりと、うなずいて見せる。
また銃声がおこる。
また、半次郎は混戦の中へ斬って入るというわけで、
「やりにくい斬合いごわしたが、何人斬ったか、今はもう、おぼえておらん」
と、のちに半次郎は語っている。
斬り合っては、互いに離れ、その間隙をぬって、両軍の銃隊が撃ち合うのだ。何しろ、長州の来島又兵衛といえば名うての豪傑であって、たくみに馬を乗りまわしつつ、
「えい、おう!!」
鉄条をはめこんだ、槍《やり》だか鉄棒だかわからぬようなものを振りまわしてあばれまわる。
「くそ!!」
乱闘の中で、半次郎は一度だけ、馬上の又兵衛へ殺到した。
下から馬の首か脚を斬って、又兵衛が落馬したとこで勝負をいどもうとしたのだが、
「芋侍め!!」
ふりおろした又兵衛の槍の柄に、鉢金をかぶった頭を叩《たた》かれ、
「あっ!!」
のめりこむように転倒した。
夢中で、半次郎は逃げた。
このとき、烏丸通《からすまどお》りの国司信濃の一隊を破った薩摩の一隊が、長州勢のうしろから襲いかかった。
それこそ芋を洗うような混戦である。
喚声も悲鳴も、大砲の音に消されて、ただ、
わあーん……。
と、異様なひびきが両軍の戦闘をつつみこんでいるのだ。
小銃の弾丸も、どこをどう飛んでいるのか──おそらく味方の弾丸に当たったものも、ずいぶんいたろう。
びゅーん……。
西郷吉之助の脚に一弾が命中した。
(むむ……)
こらえようとしたが、こらえきれなかった。
西郷は、あまり乗馬がうまくない。
ずるずると、巨体をずり落とすようにして、西郷は馬から落ちた。
「わあーっ……」
右手の勧修寺《かじゆうじ》の塀際あたりから、西郷の落馬を見た長州兵が叫びをあげて突きかかってきた。
中村半次郎が、たちこめた砲煙の中から飛び出し、
「えい、や!!」
突出する長州兵の横合いを駈《か》けぬけざま、三人ほどを斬り倒すのが見えた。
こちらでも、薩摩兵が西郷をかこんで槍ぶすまをつくるし、西郷もまた、のこのこと起きあがり、
「馬な、どげしもした。早う、ひいて来なはれ」
という。
傷口を縛って、また西郷は馬に乗った。
来島又兵衛が戦死をしたのも、この前後のころであった。
豪勇の彼は、腹に弾丸をうけて落馬するや、
「もう、いかぬ」
みずから太刀をぬいて、おのれの首にあてがい、
「やあ!!」
気合いもろとも、自分で自分の首を落としたという。
本当なら、すごい。
長州藩の攻撃もおどろくべき猛烈さであったが、やはり兵力の差には勝てない。
ことに、もっとも目ざましい突撃ぶりをした来島隊を、薩摩藩が追いのけたのがきっかけとなって、形勢は、たちまち逆転をした。
長州側では、久坂義助、入江|九一《くいち》などのすぐれた人材をこの戦いで失ったし、真木和泉守も山崎の天王山へ逃げ、ここで自殺をした。
ちなみにいうと、天王山を攻めたのは、あの新選組である。
「馬鹿なこつ、したものでごわす」
戦いが終って、西郷吉之助は苦々しげに言った。
この戦いは、勤王方にとっても幕府方にとっても、何の得るところはなかった。
それなのに、京都市街の大半は、このときの戦火をうけて焼失した。
焼失家屋二万七千四百戸におよんだといわれる。
このほか、公家屋敷十八戸、武家屋敷四十四戸、神社六十四、仏閣百十五、土蔵二百十六、橋四十、芝居小屋三という焼失記録が残っている。
この戦いで、半次郎は軽い切傷数か所ですんだが、佐土原英助は右の太股《ふともも》に銃弾をうけ、左の肩から胸にかけて切傷をうけた。
相国寺となりの藩邸は焼けてしまったし、英助も吉田の藩邸へ来て、他の傷兵と共に手当をうけた。
毎日、雨がふらず炎天つづきだけに、焼けただれた京の町の悲惨さはいうべくもない。
扇問屋の松屋も焼け落ちたという。
このあたりは、長州兵が放火してまわったらしい。
後も大変であった。
御所では、またも連日の会議である。
戦いの最中には、死人のような顔をして、歯の根も合わぬほどであった公卿たちが、またも二派に別れ、
「長州を討つべし」
「いやいや、このたびのことは藩主たる毛利大膳大夫の真意ではなく、家来どもが勝手にしたふるまいであるから、なるべく寛大な処置をとるべきであろう」
などと、相変らず、宮中における勢力を争って、やかましくさわぎたてている。
「英助どん、工合はどうでごわす?」
ある朝──半次郎は英助の病室へ顔を出したが、
「や……おたみさんは、お見舞いでごわすか?」
英助の枕もとにすわっている松屋のおたみを見て、
「よか……よか……」
こわばった笑いを見せ、すぐに自室へ引返してきたが、やはりさびしかった。
英助は、しきりに、おたみとのことについて半次郎に気がねをしているようだが、おたみが英助を好きなら仕方のないことである、と半次郎は思った。
「どうも、俺は気が多くていかぬ」
半次郎は、便所へ飛びこみ、しゃがみこんで、そうつぶやいた。
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帰 郷
一
燭台《しよくだい》の灯はあかるかったが、それにしても質素きわまる婚礼であった。
花聟《はなむこ》の西郷吉之助も、花嫁の糸子も、ほとんど平服に近い姿だったし、
「こげなあわただしい世の中に、大形《おおぎよう》なことをせぬでもようごわす」
と西郷の意見で、この夜の西郷宅における婚儀は、おごそかに、かための盃《さかずき》をかわしたあと、
「さ、あとは無礼講じゃ。ゆっくりと飲んで行って下はれ」
西郷は、みずから立ちあがり、つめかけた客に酌をしてまわった。
この日は、元治二年一月二十八日という。
京都の〔禁門戦争〕の翌年ということになるが、およそ半年を経過しているわけだ。
「半次郎どん。もっと元気よう飲みなはれ」
にこやかに、西郷吉之助が人々をかきわけ、縁側にしいた〔うすべり〕の上にすわっている中村半次郎のそばへやって来た。
冬とはいえ、南国のことでもあるし、庭に篝火《かがりび》をいくつも焚《た》いているので、庭のムシロの上で盃をあげる者もあるほどだ。
「どうしなはった? さっきから見ていると、どうも元気がないが……」
「いや、別に……」
半次郎は、まぶしそうに目をほそめて西郷を見たが、
「何でもごわはん」
盃をとって、西郷の酌をうけた。
「久しぶりに故郷へ帰ったちゅのに、おはん、どうも変じゃ。浮かぬ顔つきばかりしちょるようじゃ」
「先生、そう見えもすか?」
「見えるとも」
「いや──何でもごわはん」
「そうか。それならよいが……」
西郷が顔を近づけ、
「どうじゃ。母御も妹も元気かな?」
「はアい」
「おはんが帰ったので、母御もよろこんでおられよう」
「はアい」
話しているうちにも、次々に、客が西郷に話しかけたり、祝いの言葉をのべたりする。
いまの西郷吉之助は、名実ともに薩摩藩を一手に切りまわすほどの人望と役目を兼ねそなえている。
それでも、下加治屋町《しもかじやまち》の小さな家を変えようとはしない。
「そちほどのものが住むにふさわしい屋敷をあたえよう」
と、このところ西郷に対する悪感情がやわらぎかけてきた島津久光が、いくらすすめても、
「いまの私は、鹿児島御城下に住みつけるほどの身ではござりませぬ。いずれ世の中が落ちつきましたならば……」
西郷は、かたく辞退してきている。
薩摩藩士・岩山八郎太の二女で、糸子という女性を西郷の妻に、という話は、だいぶ前からあったことだ。
しかし、西郷は東奔西走して身を落ちつける間もなかったし、島流しになったりして、その機を得ることがなかった。
それでも、糸子は待っていたのである。
すでに、西郷は二十八歳のころ、伊集院兼寛《いじゆういんかねひろ》の妹を妻にしたが、これはうまくゆかず、すぐに離別となった。
その上に、大島へ流されたとき、島の娘アイガナと同棲《どうせい》し、菊次郎と菊子の二子をもうけてもいる。
こうしたことを、すべて、糸子は承知した上で、西郷の妻となった。
西郷にしても〔愛子〕とよんで、大いに可愛がったアイガナを忘れたわけではない。
だが、アイガナは島の女である。
現代の感覚でいうと、辺地の土人の女くらいにしか思われていない女だ。
これを薩摩藩士の正式の妻にすることはできない。
できないというのが当時の常識であるから、
「それにしても、いずれは菊次郎と菊子のどちらかをひきとり、我手に育ててやりたいと思《おめ》もす」
結婚にあたって、西郷が糸子にそういったのが、むしろ異色な考え方だといえよう。
「心得ました」
と、糸子は一も二もなくうなずいた。
京都での西郷のはたらきは、その後もあわただしくつづけられていたのだが、
「ひまを見つけて帰ってきてやんなはれ。岩山家が気の毒じゃ、いつまで待たすわけにも行くまい」
という大久保市蔵からの再三にわたる手紙をよみ、
「では……」
西郷も心をきめ、出張先の小倉から鹿児島へ帰ったのであった。
このとき、小倉には、中村半次郎が来ていた。
例によって、出先の西郷と京都藩邸との機密連絡の役目を、半次郎はやっていたとみえる。
「ちょうどよい。おはんもついてきなはれ。そして、母御に、その立派になった姿を見せてやんなはれ」
西郷に言われて、半次郎は、しばらく考えていたが、
「しかし、京都には、いろいろと用事もたまっておりもすので……」
よろこんでくれるかと思いのほか、半次郎は何か煮えきれぬ様子を見せ、
「先生、今度はやめときもそ」
というのだ。
(何かあるのじゃな……)
西郷もすぐに察したが、
「そうか。では好きなようにしなはれ」
言いすてて、その翌朝は旅宿を出発しようとすると、
「先生、御供なさせて下はれ」
半次郎が急に言い出した。
「おかしな人じゃ。好きなようにしなはれ」
「はアーい」
「そのかわり、おいどんの祝言がすんだなら、おはん一人で、先に京都へ戻ってもらわにゃならぬ」
「心得ちょりもす」
いまの半次郎は、三年前に故郷を後にしたときの彼とはまったく違っている。〔芋侍《いもざむらい》〕どころか、薩摩の中村半次郎といえば、京にある諸藩の侍たちのみか、江戸にも知られている。
相次ぐ事件、動乱のたびに、半次郎のはたらきは目ざましかった。
それは主として、剣術による力量の発揮と、すぐれた感性による隠密活動での成功とによるものであった。
顔もひろくなった。
これは、そもそも、半次郎が青蓮院衛士として、中川宮に目をかけられ、京都御所にも出入りしたり、在京の大名たちの家来との交際が、ごく自然にすすめられたためでもある。
けれども、こうした地位の向上につれて、半次郎の品性が高められたというわけではなかった。
半次郎の本質は、依然として、もとのままの半次郎である。
このごろでは、居合術の稽古《けいこ》は必ずおこなっても、本をよむことや字を習うことは、あまりやらない。
「手習いは、もうやらぬでもよいがな」
と、法秀尼もいった。
事実、半次郎の書く字は、見事とはいえないまでも、字だけ見たのでは、これがあの半次郎の書いたものかと誰もがおどろくほどに上達をしていた。
こういうところにも、彼の隠れた才能があったものか……。
「まず、おいどんが世にほこるものは、これだけじゃ」
半次郎は、和泉守兼定の柄《つか》をたたいて、幸吉に言った。
幸吉も、あれからずっと京都藩邸におり、半分は半次郎につかえ、半分は藩邸の用事をして、少年ながら給金を貰《もら》っている。
侍たちの中で「幸吉、幸吉」と可愛がられながら、ちょこちょことはたらきまわるのが、幸吉にとっては、たまらなく嬉《うれ》しいらしい。
生き別れをした親をさがす、という大望も忘れてしまったかのようで、
「あて[#「あて」に傍点]は、もう中村先生のそばにおいてもらえるなら、それでええ」
枕をならべて、半次郎の部屋で眠る。
幸吉が、中村先生とよんでも、おかしくないほどに、半次郎の剣士としての風貌《ふうぼう》は見る見る変化していった。
京へ来たころ、先輩でもあり上役でもあった人々とも対等になったし、部下もふえる一方だ。
役目がら、たっぷりと機密費も出る。
諸藩の動向をさぐるため、祗園や島原の料亭で芸妓《げいぎ》たちにかこまれながら、酒をのむことも、めずらしくない。
中村半次郎としては、得意にならざるをえないではないか。
紋服もあつらえたし、袴《はかま》だけでも五つや六つはある。
髪も変えた。
茶筅《ちやせん》といって、月代《さかやき》をそったびん[#「びん」に傍点]の両わきの毛を後頭部にまとめ、そこで結び、たらりと下げる。
その下げた髪が首すじのあたりまで長くたれているのが、半次郎独得のもので、りゅう[#「りゅう」に傍点]とした折目正しい衣服をつけ、肩をふるって歩くたびに、この髪がはらはらとゆれる。
もともとひきしまった美男子なのだから、藩邸にいても、料亭の宴会にのぞんでも、颯爽《さつそう》たるものであった。
二
三年ぶりに、実方《さねかた》の村へ帰った中村半次郎を見た人々が、目をみはったのも無理はあるまい。
「もとのままじゃ。少しも変ってはおらぬ」
小さな、くすみきった我家を見て、半次郎は、つぶやいた。
母親の菅子は、突然の息子の帰郷を見て、口もきけなかった。
「お前さアは……まあ……何ちゅ立派な……立派な男に……」
京都での評判は耳にしてもいたし、留守宅へも藩庁から手当がおりるようになっていた。
半次郎も、京都から母へ金を送ってよこす。
しかし、これほどまで、都の風が半次郎を別人のようにしてしまっていようとは、菅子のみか、吉野の郷士たちの思ってもみなかったことだ。
もともと、半次郎は美意識のゆたかな性格を持っていたらしい。
現在も残っている彼の書などを見ると、彼のものとは思えぬ美しい筆蹟《ひつせき》であって、墨の濃淡、運筆のかろやかさなぞにも、すぐれた彼の美的感覚が、うかがえるのである。
こうした彼の感覚が、おのれの身につけるものに、あらわれずにはいない。
京都での三年間の生活は、知らず知らず、中村半次郎を人なみはずれた〔洒落者《しやれもの》〕に仕立てあげてしまったようだ。
それにまた、法秀尼も、なかなか男の身なりにくわしく、
「半どのの着るものは、私が縫うてあげよう。何というても、半どのの生身のからだを、よう知っている私が縫うのじゃから、ぴたりと身に合おう」
などと言って、着物の柄から履物にいたるまで、このごろの法秀尼は半次郎の世話をやくようになってきている。
ときには、どこにそんな金があるのか知らぬが、
「この帯はどうや」
白献上の帯を買ってきて、こまかい柄《がら》の薩摩絣《さつまがすり》の着物にしめさせ、
「おう、見事や」
抱きついて、ちゅっと半次郎の頬を吸ったりしたこともある。
こうなると、半次郎も、
(おいどんも、昔の中村半次郎とは違うのだぞ)
という意識が、知らず知らずに胸にひそむようになってきた。
剣術ができて、探偵の役目にすぐれ、しかも交際上手というのだから、この時代の侍として百パーセントの価値をもった男なのである。
機密費を派手につかっても、
「中村め、少々増長しすぎる」
「西郷先生が甘やかすからいかんのだ」
藩邸の評判もいろいろだが、重役たちも大目に見ている。
「言いたいやつには言わせておけば、よか」
自信と慢心とが一緒になっているところだから、半次郎は平然たるものだ。
また、そのようなことを気にしてはいられないほど、半次郎も西郷も、禁門の変以来というものは、多忙をきわめたものである。
実方へ帰ると、
「母さア、少し、家の中も立派にしなはれ」
半次郎は、ぽんと十両の金包みを出して、
「中村半次郎の家が、こげなみすぼらしくては、おいどんの名にかかわりもす」
と言ったものだ。
菅子は、わずかに眉《まゆ》をよせた。
けれども、嬉《うれ》しさは隠せない。
半次郎の言う通り、すぐに畳を入れ替え、障子をはりかえたりした。
妹の貞子も二十歳になっている。
貞子は、去年あの伊東才蔵と結婚をして、これは、半次郎も知っていた。
貞子は、帯迫の村にある伊東家に暮しているが、毎日のように母のところへやって来るし、才蔵もまた一人暮しの菅子には、こまやかな心づかいを見せているらしい。
「おいどんのにらんだ通り、伊東才蔵は、よか二才《にせ》ごわしたな。これで安心しもした」
さすがに半次郎も、ほっとしたらしい。
貞子は、兄が帰ったと聞き、夫の才蔵と共に駈《か》けつけて来た。
「兄さア。お帰りござしたか──」
「貞か──」
半次郎は、にやりとした。
「お前の腹な、だいぶ、ふくれちょるな」
「いやでござす」
貞子は、まっ赤[#「まっ赤」に傍点]になった。
「嫁になると、すぐにふくれるものかな」
「もう、やめてたもし」
「あれだけ、才蔵どんな、夜這《よば》いに来たころは、はらみもせなかったに!」
ずけずけと言っては、半次郎が笑った。
貞子も少し眉をひそめた。
土にまみれ、つぎはぎだらけの着物をまとい、木刀をふるい、鍬《くわ》をふるい、来る日も来る日も労働と鍛錬にはげんでいた兄の姿を貞子は思いうかべながら、
(立派になったが……兄さアは、もう昔の兄さアではなくなったような……)
ふっとさびしい気がした。
三年前の兄は、猥褻《わいせつ》な冗談を面白がって、しかも実の妹に言いかけたりはしなかったように思う。
次から次へ、来客が絶えなかった。
母方の祖父の別府九郎兵衛も、従弟《いとこ》の晋介を連れてやって来たが、
「ほほう……」
ぽかんと口をあけたきり、半次郎をながめて物も言えない。
三年前までは半次郎を子供あつかいにして、さんざんに叱りとばした九郎兵衛だし、半次郎も、この祖父が、あまりにやかましいので、
「バカおんじょ[#「おんじょ」に傍点]」
と、祖父をののしったことも何度かある。
〔おんじょ〕とは、じじいという意味だ。
その半次郎が、渋い紬《つむぎ》の羽織、袴《はかま》を端然と身につけ、座敷にすわったまま、
「まず、これへ──」
右手をのばして、かるく頭を下げたときには、
「では、ご、ごめん」
へどもどしながら入って来た。
晋介は、もう羨望《せんぼう》と驚嘆の目ざし[#「目ざし」に傍点]を従兄《いとこ》の半次郎から離そうともしなかった。
「晋介どん」
と、半次郎が、悠然たる口調で微笑みかけ、
「どうじゃ、都へのぼりたいか?」
「はッ」
「よか。いまに、おいどんが引張っちゃる。安心して待っちょれ」
「はッ」
字が読めぬ半次郎のために、苦笑しながら〔太平記〕を何度も読んできかせてやった晋介なのだが、もう圧倒されてしまっている。
近所の郷士たちをふくめ、この夜は中村家で半次郎歓迎の宴がおこなわれた。
「まあ、聞いて下はれ」
半次郎は得意満面だ。
話すことはいくらでもある。
青蓮院での斬合いから、文久三年の政変でのはたらき、禁門戦争での活躍など……身ぶり手ぶりも派手やかに、半次郎はまくしたてたものである。
感嘆のどよめきが絶間もなく起り、話すものと聞くものとの興奮は頂点に達した。
夜がふけて、帯迫へ帰る伊東才蔵夫婦を見送るふりをして、半次郎は外へ出た。
「貞」
妹だけをまねき、半次郎が低く、
「幸江さアな、消息をきかぬか」
といった。
「中別府《なかべつぷ》の村へ嫁入りしてから、少しも顔を見せもはん」
と、貞子は答えた。
「そうか……」
半次郎は、哀しげに首をふって、
「よか。もう帰れ」
「はい」
貞子は、待っている夫のそばへ駈けて行きながら、
(兄はまだ、幸江さアのことを慕っておじゃす。けれども、あのことは……あのことだけは、口がさけても兄にうちあけちゃならぬ)
と思った。
三
西郷吉之助と糸子の婚礼がおこなわれた翌日に、中村半次郎は、幸江の兄の宮原弥介の家をおとずれた。
弥介は、三年前と同じように〔御内用屋敷〕の小吏をつとめているらしい。
出世した半次郎が戻ったと聞いても、弥介が他の郷士たちと同じように、中村家へ心やすく顔を見せない理由は、
(何しろ、あれだけ、俺《おい》と幸江さアの間を引きはなそうとした弥介どんじゃから……)
と半次郎も納得をしていた。
(だが、何としても聞いておかねばならぬことがある)
幸江が再婚をした相手の名前を聞いておこうというのである。
そもそも、ふしぎなことばかりだ。
幸江の嫁いだ先は、中別府の村の郷士だという。中別府と実方とは同じ吉野郷の中にあって、しかも目と鼻の先の近距離ではないか──。
中別府のことなら、道に生えている草一本も知らぬわけがない。
ところが、
「何ちゅ家へ嫁《い》ったのか、それが……よう、わかりもはん」
妹の貞子さえも、半次郎には、かたく口をつぐんでいる。
村の人々に訊《き》いても、
「さあ、ようわからぬが……」
みんな、煮えきらぬ返事ばかりする。
返事をしながら、ちらりちらりと半次郎を見る眼つきが、何となく怪しい。
知っていても、半次郎にしゃべったら大変なことになる……そうなっては、宮原弥介も幸江も気の毒なことになる……といったふくみが、その眼の色にただよっている。
母の菅子に訊いた。
菅子だけは、少しも表情をうごかさず、
「そげなことを聞いて何にするつもりじゃ。お前さアも、いまは、そげなことに気をつこうている暇はないはず──」
と、たしなめた。
半次郎は、最後に、従弟の別府晋介をつかまえて、
「幸江さアの居どころを教えろ」
強い口調で言った。
「知りもはん」
「知らぬはずはなか──」
「…………」
「言え!!」
「そげなこつ聞いて何にしなさる?」
「幸江さアを奪い返すのじゃ」
晋介が、ぽかんと口をあけ、
「じゃが半次郎どん。宮原の幸江さアは、もう人妻に……」
「人妻であろうと何であろうと、かまわん」
「しかし……」
「言え!!」
晋介は、だまっている。
「よし」
半次郎は、にやりとして、
「もう訊かん」
その足で、直接に宮原家を訪問したのである。
ちょうど、弥介は非番らしく、小さな家のいちばん奥の部屋の縁側の陽だまりで、爪を切っていた。
その部屋は、かつて半次郎が忍びこみ、幸江との愛撫《あいぶ》にひたりきった部屋だ。
「ごめん」
声をかけ、半次郎が庭先へ入って行くと、
「あっ……」
弥介は悲鳴に似た声をあげ、爪を切っていた鋏《はさみ》を放り出し、ぴょこんと飛びあがった。
「半次郎ごわす」
「あ、ああっ……」
「久しぶりでごわすな」
弥介は、もう顔面|蒼白《そうはく》となり、手も足も、がくがくとふるわせ、ろくに声も出ない。
芋侍だったころの半次郎にさえ圧迫され通しだった弥介であるから、いま眼前に見る中村半次郎の、自信にみちあふれた風貌《ふうぼう》と向い合っては、どうにもなるものではない。
半次郎は、苦笑をした。
(弥介どんな、相変らず気の小《ち》っけな男じゃ)
自信というよりも、このときの半次郎は、同じ薩摩の士《さむらい》として、弥介を見下しているところがある。
慢心というやつは、五十男の分別をも狂わせるしろもの[#「しろもの」に傍点]である。
二十八歳になったばかりの半次郎にしては、今の境遇が、めぐまれすぎていたのかも知れない。
眼をふせている弥介を、半次郎は、
(たしか、俺《おい》より三つ年上のはずじゃったが……もう四十をこえた男に見える。気の小っけなやつは、早く老けこむというが……どうじゃ、弥介どん。いまのおいどんになら、幸江さアをくれぬわけには行くまい)
そんなことを考えながら、しばらくは弥介を見つめていた。
冬のさなかだというのに、南国の陽ざしは暖かく、晴れた日中は、精気にあふれた半次郎の躯《からだ》が汗ばむほどであった。
「弥介どん──」
半次郎が一歩ふみ出し、
「弥介どん。幸江さアな……」
言いかけたとき、
「あっ……」
弥介は両手を泳がせ、ころがるように部屋の中へ逃げこんだ。
四
半次郎が、縁側に近よって見ると、弥介は、部屋の向うの廊下まで逃げ、何か叫んだ。
小さな廊下をへだてた向うの小間《こま》で、弥介の妻の伊佐子が何か言う声がした。
「弥介どん──」
縁側にかけ、また、半次郎が呼びかけた。
このときの半次郎は、叫んだ弥介の声を耳にしてはいても、言葉までは明確に聞きとどけてはいない。
「弥介どん、何をそげに怖がっちょるのだ。おいどん、幸江さアの居どころを聞きにきただけじゃ」
苦笑しつつ、半次郎がいった。
弥介は、ぎょっとしてふりむき、すぐに、伊佐子の部屋へ飛びこんでしまった。
「弥介どん……これ、弥介どん──」
返事はない。
中庭の枯草に二羽の雀が降りてきて、さえずりながら、何かをついばんでいた。
「弥介どん、出てこぬなら、こちらから上がって行きもすぞ」
少し苛《い》らだち、半次郎が縁側へ上がったときであった。
「いま、まいりもす」
女の声である、伊佐子の声であった。
伊佐子が廊下にあらわれた。
伊佐子は、三つほどに見える幼児を、しっかりと両腕に抱えていた。
男の子なのである。
(ほほう。弥介夫婦にも子がうまれたのか……)
と、半次郎が見ているうちに、伊佐子が廊下から、こちらの部屋へ入り、半次郎の目の前へ、ぴたりとすわった。子供を抱いたままだ。男の子は、ふしんそうに、伊佐子と半次郎の顔を見くらべていて、一語も発しない。
(こりゃ、幸江さアによう似た子じゃ)
そこは持ち前の愛嬌《あいきよう》で、半次郎は、その子へ、にこりと笑いかけた。
「ウフン、ウフフン……」
男の子が笑い返した。まるまると肥えた、丈夫そうな子である。
「子な、うまれたのでごわすな」
と言う半次郎に、伊佐子は、ゆったり微笑をうかべ、
「はい」
しっかりと、うなずいて見せた。
「そりゃ、おめでとうごわした」
「あいがとござす」
「ところで……」
「はい?」
「幸江さアな、嫁に行かれたそうな……」
「いかにも、その通りござす」
弥介とはちがい、伊佐子は落ちつきはらっている。半次郎も、伊佐子には一目《いちもく》おかざるをえない。
この家の、この部屋で、弥介が〔御内用屋敷〕へ宿直する夜をえらび、半次郎と幸江は、何度も忍び逢《あ》っている。
これを伊佐子は承知の上で、何も言わなかった。
年齢は義妹の幸江と同じで、いまは二十九歳になっている伊佐子だが、三年ぶりに伊佐子を見た半次郎は、
(弥介どんには、釣り合わぬほどの立派な女房ぶりじゃ)
と思った。
躯《からだ》にもみっしり[#「みっしり」に傍点]と肉がついて、着ているものは質素なものだが、おかしがたい威厳すらただよっているではないか。
(女子《おごじよ》も、母親になると変ってくるものだ)
半次郎は、すわり直した。
「お願いごわす。幸江さアは、中別府の何ちゅう家に嫁がれたのか、おきかせ願いたい」
「何のためにでござす?」
「知りたいからじゃ」
「何のために知りたいのでござす」
半次郎の面に、ぱっと血がのぼった。
「幸江さアに会いたいからじゃ」
「何のために会うのでござす」
「おいどん、幸江さアを京へ連れて行くつもりでごわす」
「何を申されます」
伊佐子が苦笑をもらし、
「幸江さアは人の妻でござす。そげなこつ、できるはずがありもはん」
「できるもできぬもない。連れて行くといったら連れて行くのじゃ」
「半次郎どのも、相変らずでござすなあ」
「何が相変らずじゃ。第一、おいどんは幸江さアと別れたわけじゃごわはん」
「別れたじゃございもはんか」
「何──」
「幸江さアをおきすてたまま、半次郎どのは三年の間も戻ってはこなかったじゃございもはんか」
「おいどんな、京へ遊びに出かけたのじゃごわはんど──」
「わかっちょりもす」
「それなら……」
「男には男の世界なござす。それと同じに、女には女の世界ちゅもんなござす」
「…………」
「わかりもはんか?」
「わからん。わからん、わからん!!」
「では、何も彼も話しもそ」
きゅっと、伊佐子の表情がひきしまった。
男の子は、いつの間にか伊佐子の膝《ひざ》からはなれ、次の間へ、ちょこちょこと入って行き、そこにある玩具か何かで遊びはじめているらしい。
弥介が廊下へ飛んで出て、半次郎の前を走りぬけ、次の間の男の子を抱きあげ、また廊下へ駈《か》け戻ると、
「伊佐子。言うちゃならぬ。言うちゃならぬ」
叱りつけるように言った。
弥介の血相が変っていた。
半次郎におびえながらも、必死でにらみつけているのだ。
「いえ……」
と、伊佐子は首をふった。
「いつまでも、かくし終《おお》せるものじゃございもはん」
「言うな」
「まあ、まかせておいて下はれ」
伊佐子が半次郎に向き直り、
「これ半次郎どの」
と声をかけた。
おそろしく威厳のある声であった。
「は──」
半次郎は思わず、神妙な返事をしてしまい、すぐに(こげな女に……)と舌うちをしたものだ。
「あれに、私の夫に抱かれている男の子を、半次郎どのは何と思《おめ》もす」
「…………?」
「何と思もす」
「ありゃ、おはんら[#「おはんら」に傍点]の子じゃごわはんか」
「その通り。なれど──」
と伊佐子はするどい視線をひたと半次郎の両眼へ射つけて、
「いまは、宮原弥介の子でござす。なれど、生みの親は父母共に別人ござす」
「何──」
「あの男の子の名は、宮原半太郎と申します。半太郎ちゅ名は、幸江さアが、ぜひにもと言うて、つけた名前ござす」
中村半次郎も、このときだけは、ぐゎん[#「ぐゎん」に傍点]と顔をなぐりつけられたようになった。
唇のあたりが、ぴくぴくとふるえ、ぎらぎらと光る眼を、弥介の手に抱かれている男の子に射つけたまま、
「むウ……」
うなった。
半太郎という男の子が泣き出した。
この場の異様な空気が子供心にも、おそろしかったのであろう。
弥介は半太郎を抱いて、廊下を玄関へ走って行った。外へ逃げたのだ。
「では……」
ややあって、半次郎はうめくように、
「では、あの子な、おいどんと幸江さアの子でごわすな」
「生みおとしたのは幸江ござす。なれど、いまは、私たち夫婦の子でござす」
伊佐子は、きっぱりと言った。
五
それからしばらくすると、半次郎は精木川《あやきがわ》にそった竹藪《たけやぶ》の中にしゃがみこんで、ぼんやりと川音を聞いていた。
このあたりは山ふところになるので、午後の陽ざしも、冬は早く遠のいてしまう。竹藪の色にも、まだ春は来ていなかった。
土も冷え冷えとかわいている。
南国と言っても、冬は冬なのだが、京都の底冷えのつよさを経験している半次郎にとっては、少しも寒さを感じない。
寒いのは胸のうちだけであった。
衝撃は、まだ尾をひいている。
再婚した幸江を引きさらって京都へ戻ろうとしたのも、
(幸江さアが嫁いだのは、弥介どんの一存に違《ち》げなか)
と思ったからだ。
幸江は半次郎を忘れることが出来ぬはずだ。忘れようにも忘れられぬ烙印《らくいん》を、幸江の肉体のすみずみにまで、半次郎は残しておいたはずなのである。
(かまわぬ。引きさらってしまおう!!)
という無謀きわまる考え方をしたのも、
(いまのおいどんは、三年前のおいどんではないのだ!!)
こういう自負に、あふれていたからこそであった。
勝手気ままな自負である。
この三年間に、半次郎は、幸江のみを想いつづけて生きてきたのではない。
法秀尼との関係は別にしておこう。
何よりも、扇問屋の娘・おたみに向けた半次郎の恋情を何と言って幸江に説明出来るというのだ。
もっとも、そのようなことを、半次郎は幸江に語るつもりはない。
いや、いまの半次郎には、おたみのことを思いうかべる余裕はないのだ。
半太郎が、幸江と半次郎の間に出来た子だということを、実方の村の郷士たちは〔事実〕として知っていないらしい。
知っているのは、宮原夫婦と、半次郎の母と妹と、別府九郎兵衛のみだという。
半次郎が帰ったとき、母の菅子は、すぐに別府の家へ駈けつけ、実父・九郎兵衛にたのんだ。
「村の人たちの口を封じて下はれ。半次郎が何ときいても、幸江さアの居どころを教えぬようにと……」
「わかっちょる」
九郎兵衛からの通達は、たちまち村中へまわった。
「半次郎は、何をするかわからぬ。皆も黙っていて下はれ」という九郎兵衛の願いを、村の郷士たちは「心得もした」と、うけ合ってくれた。
とは言え、宮原夫婦の子の名前が〔半太郎〕というのでは、
「ありゃ、半次郎が幸江にうませた子じゃないか」
「そうかも知れぬ」
石女《うまずめ》といわれた伊佐子が、子をうむために阿久根《あくね》の実家へ戻って行ったことも、村人たちの不審を倍加させていたようである。
はっきりと知らなくても、ぼんやりと吉野の郷士たちは、これらの事情を感じとっていた。
「お家のため、国のために、男が故郷をはなれて行くのを、身ごもった女が……しかも夫婦でも何でもない間柄の女が、そのまま安穏と父《てて》なし子をうみ、村に暮しておられるとでも、半次郎どのは思うておじゃすのか」
「幸江も半太郎も、おいどんが貰《もら》って行く」
と夢中になって半次郎が怒鳴ったとき、伊佐子はびくともせずに、
「半太郎な、まだ四つの子供ござす。しかも、宮原の子供として育ったのでござす。お前さアも人の子なら……いや、中村半次郎という立派な薩摩藩士ならば、むしろ、幸江さアに、有難いちゅて手な合わさぬといけもはん」
伊佐子に、こう出られて、半次郎も引きさがるより仕方がなかった。
やがて半次郎は、竹藪の中に立ちあがった。
夏の陽がもれてくるこの竹藪の、しめった土の上で、半次郎の手がまさぐりつくした幸江の乳房や腕や……その感触が、まざまざと半次郎の脳裡《のうり》によみがえってきた。
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淀川夜船
一
一月三十日の早朝に、中村半次郎は、吉野郷・実方の我家を発した。
霧のような雨がふっていた。
この急な出発を、半次郎は、母の菅子だけにしか知らせてはいない。
笠《かさ》をかぶり、合羽《かつぱ》をつけた旅姿で、半次郎は、
「また、しばらくは会えもはんなあ」
太鼓橋まで、ひとり送って来た菅子に、
「もう少しじゃ。というても、俺の命があってのことだが……立派な長屋門のついた屋敷へ、母さアを迎えるつもりごわすよ」
どこかさびしげな微笑のうちにも、これからはもう死物狂いのはたらきによって、おのれの力のおよぶかぎりの出世をつかみとってくれようという決意をひそませ、半次郎は、
「待って下はれ、たのしみに……」
と言った。
菅子は、うるんだ眼をふせて、うなずいた。
半次郎も一人前の侍になったことだし、貞子も伊東才蔵という良い聟《むこ》をえらんでくれた。ただひとつ心がかりだった幸江と半太郎のことも、どうやら解決がついたようである。
昨日、宮原家をたずねたという半次郎から、すべてを聞き、菅子は、一瞬、青ざめたものだが、
「おいどんも無茶ごわした。何も彼もあきらめもす」
きっぱりと半次郎が言ったので、肩の荷が一度におりたような気がしている。
「これからも無茶してはいけもはんど」
菅子は念をおした。
「もう、これで、じゅうぶんござす。お前さアに、これより上へ出世してもらいたいとは思ってもみないことじゃ。それよりも何よりも、躯《からだ》をいとうてたもし」
「はアい、はアい」
半次郎も、母にはさからわない。
橋をわたり、山道がまがりくねって下って行くところまできて、もう一度、ふり返ると、橋の上の菅子は、笠もかぶらず、両手を合わせ、半次郎の後姿へ祈りをささげている。
眼が熱くなった。
「母さアも、しわ[#「しわ」に傍点]がふえたな」
それからは、まっしぐらに鹿児島城下へ駈《か》けた。
西郷吉之助の屋敷へ行き、案内を乞《こ》うと、
「早いのう。もう発《た》つのか」
西郷は寝巻きのままで、玄関へあらわれた。
新婚二日目の夜をすごした朝である。
「先生。こりゃ、どうも……」
半次郎が、くっくっと笑い出した。
「何を笑うていなさる?」
「いや、何でもごわはん」
「おかしな人じゃ。言いなはれ」
「先生の眼も鼻も唇も、顔中が、だらんと、たるみきっておりもすので……」
テレくさそうに、西郷はあぶら[#「あぶら」に傍点]の浮いた顔をなでて、声をひそめ、
「新しい女子《おごじよ》な、とりたての鯛《たい》よりもよかものごわす」
と言った。
二人とも、声をあげて笑った。
「ま、あがんなはれ」
「いや。このまま発ちもす」
「ばかに早いじゃないか」
「もう、用はごわはんで──」
「ふむ……」
西郷は、じっと半次郎を見つめた。
どうもいけない。
西郷の巨大な、しかも深淵のような色をたたえた眸《ひとみ》に見つめられると、いまの半次郎は、うつ向かざるを得ない。
「半次郎どん。むかしの女子に会うて来なはったか?」
幸江が嫁に行ったことを、西郷は、貞子からたのまれ、半次郎につたえてくれたことがある。
「会いもはん」
「ふむ……」
「では、これで……」
「まあ、待ちなはれ」
西郷は奥へ入り、すぐに金包みをもってあらわれた。
「半次郎どん。この金で馬関《ばかん》(下関)へより、二、三日骨休みをしてゆきなはれ。馬関の女子は、よか」
ぽんと、金包みを放ってよこした。
それを受けとめて、
「頂戴《ちようだい》しもす」
「おいどんも間もなく京へ行きもそ」
「待っちょりもす」
「これからは、ちょいと世の中もさわがしくなりもそ」
「はアい」
「おいどんも、おはんも……命な、かけて、はたらかにゃなるまい」
「はアい」
「人間な、いつかは死ぬものごわす」
「はアい」
「早いか、おそいか、それだけのことじゃ」
「…………」
「そのことな、忘れちゃいかぬ」
「はアい」
「そのことな忘れずにおれば、つまらぬ、小《ちつ》ぽけな、欲張りな、厭《いや》な人間にならずにすみもす」
「はアい」
はアい、と答えはしたものの、中村半次郎には、西郷吉之助の言葉の底にひそむ、深い意味が、すべてわかったのではない。
いまの半次郎は、燃えたぎる功名心に全身を投げこんでいるのだ。
松屋のおたみへの慕情も彼一人の判断によって絶望ときめていたし、事実、このごろのおたみは、むしろ佐土原英助との交情にかたむいている。
英助も、はじめは半次郎に気がねをしながら、松屋訪問をおこなっていたようだ。
それも半次郎が、
「おはんが何と思うちょるか知らぬが、おたみさアは、おいどんの女子じゃない。遠慮はいらぬ」
おたみの心も知らずに言いきったので、英助も、いそいそと松屋通いにはげんでいる。
おたみからまた幸江に逆もどりした半次郎なのだが、この方は、すでに互いの肌身をよせ合い、激情のおもむくままの愛撫《あいぶ》におぼれこんだ間柄である。
それだけに、幸江を……そして思いもかけなかった我子の半太郎をあきらめなくてはならぬということに、半次郎はもだえた。
もだえるということが、この男には、ふさわしくないはずである。
だが、もだえぬいたあげく、突如として、あと半月を余した滞在予定をくりあげ、出発したのも、さすがに、
(一時も早く故郷をはなれたい)
という、切実なものがあったのであろう。
(あとは、やるだけじゃ!!)
和泉守兼定にものをいわせ、動乱の世に飛びこみ、思うさまあばれまわることだけが、半次郎の進むべきただひとつの道になった。
二
九州・鹿児島から京都まで二百七十余里。
大名行列なら一か月はかかる陸路を、半次郎は十三日で大坂へ到着した。
大坂の藩邸で、ひとやすみしてから、京へ向うつもりであったが、藩邸の人々とも久しぶりで会ったので、半次郎は、その夜を大坂にすごした。
藩士たちは、半次郎をかこみ、質問ぜめにした。
むりもない。
この半年の間に、政局は京都を中心にしてうごいてきたといってよい。
しかも、薩摩藩は、西郷吉之助という立役者を得て、日本の政治の舵《かじ》をあやつるという位置をしめた。
西郷につかずはなれず、いつもその身辺を守ってきた中村半次郎だけに、藩士たちは何よりも、半次郎を通して西郷の言動を知りたがった。
「いやあ。西郷先生な、嫁御寮《よめごりよう》と二人きりで家にこもりきりごわす。話も何も、あったもんじゃごわはんよ」
笑いとばして、半次郎は早々に藩邸内の小部屋へ引きとり、ふとんをかぶってしまった。
(がそれにしても、何度も長州と京都を往来して、俺《おい》もひどく忙《せわ》しかったな)
と思った。
禁門の変の後に、長州本国へ退却した長州軍を待ちかまえていたのは、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊による下関攻撃であった。
外国──ことにイギリスでは、
「日本が国をひらこうとするのを、狂気のように邪魔している大名がいる。それは長州の毛利だ」
とにかく、長州藩が手中におさめている下関から瀬戸内海への海路を、武力によって、こちらのものにしてしまわねばならない。
もはや将軍や幕府なぞをアテ[#「アテ」に傍点]にしても駄目である。なぜなら、徳川幕府という政権は、おのれの麾下《きか》にあるはずの長州藩一つをもてあましているほどに弱体化しているではないか……というわけである。
イギリス本国で、こうした決意が、かためられはじめたとき、
「これは大変だ」
驚愕《きようがく》したのは、そのころ、イギリスに留学していた長州藩士・伊藤|俊輔《しゆんすけ》と井上|聞多《もんた》の二人である。
この二人──特に伊藤は、後年、伊藤博文となって明治政府の中心人物となるわけだ。
それはともかく、欧米諸国を蛇蝎《だかつ》のようにきらう長州藩が、なぜ、この二人をイギリスへ留学せしめたのか……。
「行け!!」
命じたのは、殿さまであった。
「これから後、夷狄《いてき》と戦うについても、一応は敵国の様子をしらべておかねばならぬ。そのかわり、このことは、むろん誰の目にもさとられてはならぬ。もしも、危くなったときは、覚悟をしてもらわねばなるまい」
幕府にさとられてはならぬ、もし捕えられでもしたら、腹を切れ、というのである。
「承知つかまつりました」
井上はひきうけた。
井上が伊藤と二人で、首尾よくイギリスへ密航したいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を書くだけでも、じゅうぶんに一篇の小説ができよう。
このための費用として、藩の重役・周布政之助は、ひそかに五千両の金をつくった。
金を出したのは、横浜の金貸しでもあり、貿易商でもある大黒屋六兵衛だという。
井上も伊藤も、殿さまにえらばれた名誉と、若さが求める冒険への興奮とに駆られ、しゃにむにイギリスへわたった。
幕府も、海外渡航と密貿易に対しては、実にうるさい。
これは徳川政権の伝統であって、いまの幕府自身が外国との通商にふみきってはいても、幕府以外の、まして長州のものが密航するなどと知ったら、幕府はどんな手を打っても、二人を捕えたことであろう。
とにかく、五千両の金が、ものをいった。
二人は、まず上海《シヤンハイ》へ密航し、そこからイギリスへわたった。
現代の外国旅行とは、まったくちがう。
言葉もわからず、字もよめず、ちょんまげをつけ、刀をさした若い侍が二人きりで海をわたったのである。
当時の青年たちの溌剌《はつらつ》たる意気ごみは、この伊藤、井上の密航を見てもわかる。
何事をも、自分の手で切り拓《ひら》いて行こうという気力には、すさまじいばかりのものがあったし、だからこそ、こうした新しい力の前に、老衰《ろうすい》した幕府勢力は一歩一歩と後退せざるを得なくなるのだ。
さて、
伊藤と井上は、イギリスの長州攻めをきき、とるものもとりあえず帰国した。
「とんでもないことだ」
二人とも、まっ青[#「まっ青」に傍点]になっていた。
殿さまが、
「敵の内情をさぐれ」
と命じたので、イギリスへ出かけた二人なのだが、目《ま》のあたりに見る先進国の科学文明に、二人とも、目をみはるばかりであった。
「とてもいかぬ」
「こんな大きな、すばらしい国と戦って、勝とうなどと……いや、攘夷《じようい》などとは飛んでもない」
がらりと考え方が変った。
日本の海へやってきた黒船の大砲の威力どころではないのだ。
経済力の相違が、
「足軽育ちの俺と殿様の違いよりも、もっと大きい。日本とイギリスとではなあ」
と、伊藤俊輔は嘆息したという。
三
長州へ帰った伊藤と井上は、何とか、外国艦隊と長州藩との間を、平和的解決にみちびこうとしたが、
「二人とも、毛唐に日本人としての血を売って来おったのだ」
「許せぬ!!」
というので、井上聞多は過激派の藩士たちに襲撃され重傷をおうというさわぎになった。
そこへ、四国連合艦隊が押しよせて来た。
元治元年八月五日である。
京都の戦争ではひどい目にあうし、それから一か月もたたぬうちに、今度は外国艦隊の砲撃をうけるという始末だ。
長州藩も、さんざんな目にあった。
下関砲台から、海上にせまる敵艦隊を砲撃することはしたが、とても駄目だ。
二千数百人の陸戦隊が上陸してきて、各砲台は占領破壊されるし、大砲六十五門をうばいとられてしまった。
もう仕方がない。
長州藩は白旗をかかげた。
イギリスはこれによって、またも幕府へ難題を押しつけてきたものだ。
下関港をひらけ!!
償金三百万ドルを支払え!!
というのだが、そんな金が幕府にあるわけがない。
「長州の奴め、あばれまわっては、こっちへ尻《しり》ぬぐいをさせるのだから、まったく、たまったものではない」
幕府も頭を抱えたが、抱えているばかりではどうにもならない。
「長州を討て!!」
ついに、狼のような長州を徹底的に攻めほろぼしてしまおうというので、幕府は諸大名に命じ、大軍を編成すべく準備にかかった。
征長軍の総督には、尾張侯がすえられた。
尾張侯すなわち、六十一万九千石の名古屋城主・徳川|慶勝《よしかつ》である。
総参謀は、西郷吉之助となった。
ついに、西郷の名望は、ここにまで到達してしまった。
幕府の命によって集まる二十三藩の大軍をひきいる総参謀として、薩摩藩の家臣にすぎない西郷が任命されたのである。
「半次郎どん。また頼む」
「何をでごわす?」
「また、乞食《こじき》になってたもし」
「はアい」
「長州へ、また行ってもらいたい」
「心得もした」
今度は、探偵すべき事柄も大きい。
半次郎は三名ほどの心きいた藩士をえらび、長州へ潜行した。
長州軍の経済状態、軍備、政治、その他の内情を、西郷は事前において出来るかぎり知っておきたかったのだ。
この前後に、西郷吉之助は、大坂へ行き、そこで、勝麟太郎《かつりんたろう》に会見をしている。
勝は、幕臣だ。
微禄《びろく》の御家人から、幕府の海軍奉行にまで出世をした偉材である。
こんなことは、かつて幕府の人事には無かったことである。
才能一つをみとめられて、ここまで身を立てたのだから、勝の人物もすぐれているわけだが、幕府にしても、勝のような人材にはたらいてもらわなくては、どうにもならないところまできていたのだ。
薩摩、長州を問わず、諸大名の家でも、続々と人材が登用されている。
勝は、初対面の西郷に言った。
「国内で、日本人同士が争っているときじゃあ、ありませんよ」
幕府の海軍大臣が言うのである。
「もはや、幕府には、天下をおさめる力なぞ無くなってしまっているんです」
さすがの西郷も、これには呑《の》まれた。
海軍奉行は、へらへらと笑って、
「これからはむしろ、力のある藩が国の政治をうごかし、何ごとも将軍さまをたてまつり、古くさい習慣をありがたがるあまり、機に応じて手も足も出ぬような幕府要人どもを叩《たた》きつぶし、一日も早く国政をととのえなくてはいかぬ。それでないと、今に、日本は、外国の食いものにされてしまいますよ」
勝は、ずばずばと言ってのけた。
西郷は、このときの勝の印象を──実におどろき入り候人物にて……とんと頭を下げ申候。どれだけ知略のあるやら知らぬあんばいに見うけ申候──と手紙に書いている。
勝は、のちの勝|海舟《かいしゆう》だ。
幕府の家来でありながら、そのころに、これだけ自由奔放に物事を考え、大きなひろい目で、日本を、世界を見ていた人物は無い。
いや、勤王派の大物の中にも、海舟ほどのスケールの大きな人物はなかったといってよい。
勝の言葉におどろき、考えさせられ、半次郎がもたらしてくる長州の内情とを合わせ見て、西郷は、ひそかに決意をかためた。
西郷吉之助の決意とは、何であったのか。
「薩摩と長州とが手をにぎり合わなくては、この国難を乗り切ることな、できぬ」
前々から西郷には、この考えが何となく胸にあって、はなれなかったものだ。
長州藩の凄《すさ》まじい陰謀や、暗殺や、追いのけられても、そのたびに執念をもやし、京都へ迫ってくる狂気じみた〔やり方〕には、
(あれじゃ、いかぬ)
西郷も疑問を抱いていたことは、たしかだ。
長州のうごき方は、勤王をとなえ、これを実践にうつすというよりも、
(まず、徳川幕府を打倒せ!!)
という一事に、すべてを賭《か》けているように見える。
そのためには、天皇を引きさらってまでも、強引に京都の実権をつかみとろうとさえしたではないか。
だが、西郷は、勝麟太郎との会見によって、
(長州と戦ってはならぬ)
はっきりと目標をさだめた。
長州と共に政権をにぎったあかつきにこそ、西郷は、おのれの理想とする新政府をつくりあげようと考えている。
その自信は大きかった。
また、その自信を西郷が抱いたとしても、少しもおかしくないほどに、西郷自身の中央政局にしめる位置は大きなものとなっていたのである。
ちょうど折もよかった。
禁門戦争につづく、下関での外国艦隊との交戦による敗北によって、長州藩は失意の底にあった。
こうなると、
(やはり、やりすぎであった)
藩内の空気も変ってくる。
過激派は弾圧され、殿さまの毛利侯を中心にした家老たちは、だいぶ気も弱くなってきている。
そこへ、西郷吉之助が乗りこんできた。
部隊を引きつれてではない。
中村半次郎以下、数名の供をつれただけで、やってきたのである。
西郷は、長州討伐軍の総参謀として、次のような要求を長州藩へつきつけた。
一、藩主・毛利父子の謝罪
一、藩をあげての恭順
一、禁門戦争に参加した三家老と参謀の処刑
そのほかにもまだあるが、およそ、こうした要求とひきかえに、長州本国への進撃を中止しようというのである。
長州藩は、これをのんだ。
この上に戦って敗北を重ねることは、息の根まで絶えてしまうからだ。
自信をもった西郷吉之助は、広島までやって来た総督の尾張侯を説きふせ、幕府の意向なぞを無視して、てきぱきと事をはこんでしまった。
とにかく、いろいろと、むずかしい局面にもなった。
しかし、十二月二十七日の広島・総督府における会議で、
「長州は、こなたの条件をすべてうけ入れたのでごわす。これ以上、無益なる戦乱をひきおこすべき理由な、たちもはん」
幕府側の反対を押しきってしまった。
第一に、将軍家の親類でもあり、征長軍の総督でもある尾張侯・徳川慶勝が、すっかり西郷吉之助の言うことに同調してしまっているのだ。
こういうときの西郷は、いささかの私心もなく、行先にのぞむ理想社会への建設に命をかけて、ものを言うのである。
その情熱は、堂々たる彼の風貌《ふうぼう》や、おもおもしい言動と相まって、聞くものの胸をうたずにはおかないのだ。
征長軍は、ついに引き返した。
ところが、これと前後して、長州藩の志士・高杉晋作《たかすぎしんさく》のひきいる〔奇兵隊〕が、下関や三田尻の役所を襲撃し、年を越した正月二十日ごろには、山口の城下を落とし入れてしまった。
(なまぬるい年よりどもに、藩をまかせてはおけぬ!!)
というのである。
つまり、長州藩内に革命がおこったのだ。
これによって、事なかれ主義の家老たちは一掃された。
殿さまも、高杉等の意見をいれることになり、ここに、長州藩の藩政改革が実現する。
高杉によって結成された〔奇兵隊〕というのは、下士や農民の集合部隊である。
こうした下からの、もりあがってくる力の前には、大小さした藩兵たちが、五分の一にも足らぬ小部隊と戦って、どうにもならなかった。
幕府も、これを知って、
「捨ててはおけぬ」
またも騒ぎ出したが、西郷は気にもかけない。
「嫁御をもろうてきもす」
半次郎をつれて、さっさと鹿児島へ帰ってしまった、ということになる。
四
中村半次郎が、鹿児島から大坂への旅をつづけるうちに、春がやってきた。
大坂藩邸の馬を借りて、京都へ入ろうと思ったが、
(急ぎの用事があるわけでもなし……)
淀川《よどがわ》を舟で上ることにした。
伏見から大坂へ往来する舟を、三十石船という。
淀川の名物であった。
伏見からの船は、大坂・八軒家の岸まで、半日、または半夜をかけて着く。
大坂から伏見へは一日、または一晩かかる。
上りの時間が倍もかかるのは、淀川の流水に逆行するので、船を引綱でひいては上って行くからだ。
船の苫《とま》の下に、ぎっしりと旅人がつまり、半次郎の乗った三十石船は、その日の夕暮れに八軒家の岸をはなれた。
明日の夜明けには、伏見の京橋口へ船がつくわけであった。
大坂と伏見の間、十数里の道中を、眠っているうちに進むことができるのだから、三十石船は、現代の夜行列車と同様な便利さがある。
春は、まだ浅い。
夜になると、まだ冷えこむ。
苫の下に早くも寝ころんでいる客は、およそ十八名ほどで、用意の合羽《かつぱ》や糸経《いとだて》を引きかぶり、冷酒《ひやざけ》をくむものもいるし、菓子をほおばるものもいる。
侍は、半次郎ひとりであった。
あとのものは、旅商人だの、巡礼の親娘だの、京都の寺の僧が三人連れで乗りこんでいるのが、その話声でわかる。
半次郎は、ほこりにまみれた旅装をぬぎ、大坂の藩邸で貸してもらった茶の紬《つむぎ》にもめんの袴《はかま》、素足に草履ばきという姿で、どう見ても長旅をしてきた者には見えない。
「明日は、法秀どのに会えよう」
法秀尼の顔も、久しく見てはいなかった。
あの、ひろやかな法秀尼の胸肌に顔をうめ、半次郎は安らかな思いにひたりたかった。
この三年の間、半次郎は無我夢中ではたらき、彼らしくもないしおらしい恋をし、手も指も出せぬうちに、相手の女をあきらめなくてはならぬことになった。
事実、このころになると、松屋のおたみも、
(中村さまは、あの美しい尼さんのものや)
と、あきらめきっており、その反動で、次第に佐土原英助の温厚な人がらに心をひかれるようになってきていた。
何しろ、法秀尼との濃厚な場面を、ひそかに、おたみに見られてしまったのでは、どうにもならない。
そしてまた、おたみに見られたことを半次郎自身、少しも気づかないということが、二人のあきらめを、それぞれに決定的なものにしてしまったのだ。
(じゃが、やはり、おいどんは幸江さアを……)
今度、故郷へ帰ってみて、それが、はっきりとわかった。
幸江の再婚を知ったときの絶望は、京都にいて、ともすれば幸江のことを忘れがちだったころの半次郎にとっては、思いもかけなかったものである。
(しかもじゃ。おいどんの知らぬ間に、おいどんの子が、うまれておった……)
これにも、おどろいた。
おどろいたが、夢のような気もする。
半太郎への、父親としての愛情がうまれるためには、もう少しの年月を半次郎へあたえてやらねばなるまい。
たちまちに、夜の闇が川面へおりてきた。
水をきる棹《さお》の音が、しばらくつづくと、
「おおいひくぜよゥ」
船に乗っている四人の船頭が岸へ飛び上がり、流れに逆行して引綱を船にかけ、
「よいさ!!」
「えいさ!!」
船をひきはじめる。
大坂から伏見まで、三十石船がさかのぼる間に、引綱の場所が、九か所もあった。
五度目の引綱で、淀川の東堤を、およそ二十丁も引き、枚方《ひらかた》の岸へ着く。
枚方はにぎやかなところで、料亭も多く、大坂からの遊び場所として、むかしから有名なところだ。
昼間の三十石船は、ここで休憩をとるが、夜船は、そのまま通りすぎる場合が多い。
枚方を出ると、やがて〔くらわんか船〕というのが川面にあらわれる。
この船は〔物売り船〕であるが、
「やい、こら、お客。目をさませ、目をさませェ。寝ぼけンで、ごんぼ汁|喰《く》らわんかい。餅《もち》くらわんかい。銭を先へ出せ、このしみったれめェ」
と、悪態をつき、怒鳴り声をあげて、物を売りつけるのだ。
夜ふけの川面を漕《こ》ぎよせてくる〔くらわんか船〕へ手をのばし、客は苦笑しつつ、酒や菓子を買う。
「おい。餅をくれ」
半次郎も手を出して、
「銭出せ。出してからくれ[#「くれ」に傍点]とぬかせ」
と、頭ごなしにやられた。
「よし、よし」
餅を食べている間も、
「おーい。しみったれェ。もっと買わんかい。せんべ喰らわんかい。酒くらわんかいィ」
二|艘《そう》の〔くらわんか船〕が、一里近くも三十石船にまといついてくるのが、きまりのようだ。
「どうじゃい、売れたかい」
と三十石船の、船頭が言えば、
「夜船の客は、よう喰《く》いさらさん。これ、そないに早う舟をやるな。まだ客の喰いさらした茶碗《ちやわん》を返《か》やしてもらわんのじゃ」
〔くらわんか船〕でも、だみ声[#「だみ声」に傍点]を張りあげる。
とても眠ってなぞいられたものではないのだが、客も客で〔くらわんか船〕をからかいながら、駅弁でも買うようなたのしみを感じているのだ。
〔くらわんか船〕が引き返して、ふたたび水棹の音のみが客の耳をうつ。
すると、船は前島につく。
前島は、大坂と京都の中間にあり、夜船でも、ここの岸へ船をつける。
乗る客も、あがる客もあるのだ。
岸辺には、夜あかしで茶店が店をひらいている。
ここは、京都盆地をかこむ山なみが淀川にせまっているところだし、西国街道にも近い。
「おーい。船つけるぞウ」
提灯《ちようちん》をふって、船頭がわめいた。
茶店の灯をあびて、数人の男が立ちあがり、船着場へ出てくるのが見えた。
船の中からも、旅商人が一人と、巡礼の親娘が腰をあげて岸へあがる仕度にかかった。
棹が水を切る。
ぎ、ぎい……。
船が、船着場についた。
杭《くい》に綱が投げられる。
船からあがったものは三人であった。
だが、船着場へ出て来た六人の男を見て、
「いけねえ。三人がきまりじゃわい」
と、三十石船の船頭が叫んだ。
「かまわん。乗せろ」
六人のうちの一人が、進み出て言い返した。
浪人風の男であった。
残りの五人も、裾を端折《はしよ》った旅姿の侍で、どう見ても貧乏浪人である。
「いけねえ。三人だけじゃわい」
船頭もゆずらなかった。
三十石船には乗船人数のきまりがあって、番所番所での取調べが、やかましい。
「六人ともに乗りてえのなら、明日の朝まで待つがええわい」
船頭の一人が、杭にかけた綱をひきあげようとしたときである。
「ぎゃあッ」
たまぎるような絶叫をあげて、その船頭は川の中へ投げこまれていた。
「さからうと叩《たた》っ斬るぞ」
早くも船の上へ飛び移ったその浪人者が、ぎらりと刀をぬき、
「みんな、早く乗れ」
船着場にいる五人の仲間へ声をかけた。
声をかけたとたんに、その浪人は、
「わあッ」
悲鳴をあげて、川へ落ちこんだ。
なまなかな悲鳴ではない。
悲鳴と共に血しぶきがあがったのだ。
苫の中から、半次郎があらわれ、抜討ちに、浪人者を斬ったのである。
三十石船の船頭が「わあッ」と叫んで、三人とも苫の中へ逃げこんだ。
「こわがるな。早く船を出せ」
半次郎が怒鳴った。
船頭の一人が、苫の中から、おそるおそるあらわれるより先に、船着場の五人の浪人者が、引綱をたぐって、
「おのれ!!」
「よくも、やったな!!」
ぐい、ぐいと船を岸へ引き寄せてしまった。
半次郎は舌うちをした。
「船頭、おれはあがる。斬合いが始まったら船を出せ。出してから待っていろ。すぐに片づく」
言いおいてから、
「浪人ども、おれの方から行く。そこをどけい」
ぱっと船着場へ飛びうつった。
同時に、
「う、うわ……」
一度、鞘《さや》におさめておいた和泉守兼定が、夜目にきらめいた。
「くそ!!」
ぱっと、四人の浪人たちが、船着場の踏板を走って、茶店の前の草原へ展開した。
(や……?)
はじめて、半次郎は気がついた。
四人の浪人者は、それぞれに長さ四尺ほどの棒をかまえたのである。
半次郎が斬った二人の浪人者も、それぞれ棒のようなものを手にしていたらしい。
(槍《やり》か……?)
槍ではない、棒であった。
三十石船が、岸をはなれた。
叫び声が、茶店でも、遠ざかる三十石船の苫の中でもしている。
「きさま……」
と、四人のうちの一人が一歩出て、
「中村半次郎だな」
押しころしたような不気味な声で、
「いくら探しても会えなんだが、ここで会おうとは思わなんだ」
と言った。
「誰だ?」
「忘れたか」
「何……」
「五条大橋では、やりそこねたが、今度は逃がさぬ」
「ふむ」
思い出した。
三年前の文久二年に中村半次郎が、はじめて京都へ来て、法秀尼と知り合い、その何度目かの逢引《あいびき》をすまし、習字の手本をふところに、五条橋をわたった晩秋の夜のことだ。
半次郎のうしろからやって来た荷馬のかげに隠れ、ひたひたと半次郎をつけて来た、あの若い浪人者の姿を、いま眼の前にして、
「おう、おはんか……」
にやりと、半次郎は笑った。
「この二年の間、おはんな、おいどんをつけ狙うてはいなかったな。どこへ行っていた?」
「答える必要はない」
「うむ……じゃが、おはん、何で、おれに恨みをもつか」
「敵討ちだ」
「何──」
「青蓮院で、きさまが斬った俺の兄の敵を討つ」
「ほう……青蓮院で、あのときの……」
「わかったか」
「わかりもした」
「では、行くぞ」
「来い」
「おれも、三年前のおれとは違う。中村半次郎を討つため、いささかの修行もつんできた」
「よか!!」
双方、ぱっとかまえた。
五
飛び退《さ》がって、半次郎を包囲した四人の浪人たちの手がうごいた。
浪人たちが持っている四尺ほどの棒が、六尺余の長さに伸びた。
棒には、仕かけがしてあるらしい。
(ふむ)
半次郎は、三年前の夜、五条橋で自分をつけて来た若い浪人が、三尺ほどの棒を手にしていたことを思い出した。
(棒術か……?)
兼定の一刀を、だらりと手にさげたまま、
「おいどんを兄の敵とねらうそこなお人。名乗られい」
と言った。
「よし」
若い浪人はうなずき、
「土井九市郎」
と叫んだ。
叫ぶや、土井九市郎は、両手に棒をあやつり、水車のように振りまわしはじめた。
他の三人も、これにならう。
茶店の灯を背に負った中村半次郎には、彼等のうごきが、はっきりと見える。
まず、有利な態勢にあったと言えよう。
「来い」
和泉守兼定が、ゆっくりと刃先を擡《もた》げた。
半次郎は、自信にみちあふれていた。
いくら巧みに棒を振りまわそうとも、打ちこんでくる敵の攻撃をはねのけるのは、いともやすいことだと考えている。
「何をしちょる。おいどんな、気が短いんじゃ。早う来い!!」
平正眼《ひらせいがん》に刀をかまえつつ、半次郎が四人を怒鳴りつけた。
余裕綽々《よゆうしやくしやく》たる自分に、半次郎は満足をした。
(おこがましい奴じゃ。薩藩の中村半次郎に勝てるつもりか──)
半次郎が、一歩出た。
同時に、
「や、やあっ──」
じりじりと右手へまわりこんで来ていた一人が、地を蹴《け》って殺到して来た。
うなりをたてて打ちこんでくる棒を、半次郎は、ななめに左足をひきつつ、
「む!!」
事もなげに切り払った。
棒が二つになって宙に飛んだ。その下から、
「えい!!」
抜討ちに、その浪人者が半次郎の足をないだ。
飛び上がって、かわして、半次郎が振りおろした兼定は、飛び退こうとしたそやつ[#「そやつ」に傍点]の右腕を切り飛ばしていた。
すさまじい絶叫があがった。
夜の闇が、熱気をふくんでゆらいだ。
するすると退《さ》がって、足場のかまえを固めた半次郎へ、
「うおっ……」
残る三人が猛烈な気合いと共に迫って、
「ええい」
いっせいに、手のうちの棒を半次郎へ投げつけたものである。
これは、思いもかけぬ強襲であった。
三本の棒が、それぞれ違ったところへ投げられた。
一本は、半次郎の躯《からだ》へ──別の二本は、半次郎が投げ棒をかわして逃げる位置をねらって、それぞれに飛びこんできたのである。
「むむ!!」
一本をかわして飛び退《の》いた半次郎の左肩へ、別の一本が、もろ[#「もろ」に傍点]に当たった。
ずーん……と、意外に強烈な衝撃をうけて、横ざまに倒れた半次郎へ、
「死ねい!!」
おどりこんできた一人が、刃《やいば》を叩《たた》きつけた。
土の上をころがりつつ、半次郎は片手に兼定をふるった。
「わあッ」
どこかを斬られて倒れる一人の左右から、
「兄の敵!!」
残る二人が、むささび[#「むささび」に傍点]のように襲いかかった。
六
それから後のことは、半次郎も、よくおぼえてはいない。
(もう、いかぬ)
懸命に、土の上をころがって、一人を斬ったまでが精いっぱいのところであった。
左肩の傷の痛みを感じる間もない。
自分の顔いっぱいに、二人の刺客の黒い影と刃が、おおいかぶさって来たそのとき、
(幸江さア……)
母でも妹でもない、幸江の笑顔だけが、半次郎の脳裡《のうり》をかすめたものだ。
そして、
(おいどんな、死ぬ)
と思った。
その瞬間に、するどい気合いと、闇を引裂いた絶叫とを、半次郎は聞いた。
(死ぬ)と覚悟をしたとたんに、目はくらんでしまっていた。
刀をかまえ直そうにも、躯をうごかそうにも、三間の向うから襲いかかる刺客にそなえるすべは無かった。
手も足も、その襲撃に反射してうごいてはくれなかった。
だから、あきらめたのである。
「や……? おはんな、半次郎どんじゃないのか」
声がした。
「これ──おい、しっかりせい!!」
ぐっと、左肩をつかまれた。
左肩の激痛が、半次郎の意識をよみがえらせた。
「う、うう……」
「これ、おいどんじゃ。大山じゃ、大山格之助じゃ」
「おお……」
「何がおおじゃ。おはんとしたことが、一体どうしたわけか──」
「敵は……?」
「おいどんが斬っ払った。一人、逃げたぞ」
「そうか……」
このとき、偶然に、大山格之助が淀川べりを通りかからなかったら、中村半次郎も、単に、薩摩藩の剣客としてその名をとどめたにすぎなかったろう。
「大山どんにゃ、頭なあがらぬで、困っちょる」
半次郎が、その生涯のうちで、
(負けた。死ぬ!!)
と思いきわめたことが、二度ある。
そのうちの一度目は、この夜の、前島の岸辺における決闘であった。
大山格之助は、早くから西郷の部下として、江戸や京都ではたらいている。
半次郎が、薩摩藩の一兵として京都へのぼったとき、すでに大山は、藩の青年将校として、大いに活躍をしていた。
茶坊主あがりではあるが、大山格之助の剣術は、一時藩中随一の評判をとったものである。
寺田屋騒動のときも、他の藩士たちは、
「芋侍なぞの手は借りぬ」
と、半次郎を戸外に立たせ、見張り役をつとめさせた。
あのときの半次郎の口惜《くや》しさは、筆舌につくしがたいものがあって、
(おいどんを仲間に入れるちゅのは、城下侍の名にかかわると思うちょる。くそ!! 今に見ちょれ)
思わず忿懣《ふんまん》が顔に出て、
「何ちゅ顔をするかッ」
と、江夏仲左衛門に怒鳴りつけられたことがある。
このときも、大山が半次郎をかばってくれた。
大山が、間髪《かんはつ》を入れずに口をきいてくれなかったなら、半次郎は、江夏につかみかかっていたかも知れない。
「斬合いが始まったら、飛びこんで来てくれ。おはんの腕前な、おれがよう知っちょる」
そっと、あたたかく半次郎にささやいてくれた大山格之助である。
その大山とも、今の半次郎は対等のつきあいになっている。
二人とも剣術は好きだし、物事にこだわらぬさっくり[#「さっくり」に傍点]とした気性なので、会えば、共に酒を飲み、剣を語った。
寺田屋騒動のころからくらべて、大山格之助は、また肥《ふと》った。
眼も大きく顔だちも立派で、西郷吉之助を小形にしたようなところもないではない。
「こりゃ、いかん。だいぶ、やられちょる」
大山は、半次郎の左肩の傷所を見て、
「突かれたな」
と言った。
「いや──棒を投げられた……」
言いさして、半次郎はハッとなった。
「そうじゃ……」
思い出した。
棒が当たって衝撃をうけ、倒れながら敵を斬るのと同時に、肩に突き刺さっていた棒が、はね飛んだことを思い出したのである。
その棒は、すぐに見つかった。
棒というよりも、ふしぎな武器であった。
四尺ほどの、ふとい竹棒中に、三尺に近い樫《かし》の棒がはめこまれてい、鉄製の止具を外すと、この樫の棒がすべり出て、たちまち七尺の武器に変化する、というものだ。
しかも、その樫の棒の尖端《せんたん》には、するどい、槍の穂先だけを切りとってつけたようなものが、はめこまれている。
半次郎の左肩をえぐったのは、この棒の尖端であった。
「ふーむ……」
大山は、うなって、
「こげなもんを見たこともなか──」
「どこの奴らか……おいどんも……」
言いさして、半次郎はうなり声をあげた。
「痛むか?」
「大山どん、毒な塗ってあるのじゃあるまいな」
「まさか……」
すぐに、茶店へはこびこみ、大山は手当にかかった。
人だかりが、いっぱいである。
さっきの三十石船も、半次郎に言われて、一度は岸をはなれたが、無理を承知で船中へ押しこもうとした暴漢と闘ってくれた半次郎のことが気がかりだったらしく、船頭が、船を岸へもどした。
客も船頭も船からあがり、心配そうに、大山の手当をうけている半次郎を見つめていた。
茶店の酒で傷所を洗い、大山は、手早く包帯をした。
包帯にする布などは、船の客が先を争って出してくれた。
「大したことはあるまい。おはんの躯なら、五日もすれば癒《なお》るさ」
大山が笑って、半次郎を助けおこし、
「手伝うて、船へ入れてくれ。この男な、重うて重うて……」
船頭たちが飛び出して来た。
半次郎は、船へかつぎこまれ、大山格之助は、決闘の現場に落ちていた五本の棒を拾いあつめ、後から船へ入った。
「一人、逃がした」
大山が言った。
「うむ──そやつが、おいどんを兄の敵とねろうているのじゃ」
「兄の敵じゃと?」
半次郎は、もう元気になり、青蓮院で斬った侍のことを語った。
「勤王浪人か?」
「と思う。それでなければ、中川宮様を襲うこともあるまい。ともかく悪い奴ごわすよ。そやつはな、町娘を手ごめにしかけたこともあるやつでごわす」
「ほほう。それは……?」
「もう、これで話すことな、ごわはん」
半次郎は苦笑した。
六角堂で、浪人に手ごめになりかけたおたみ[#「おたみ」に傍点]を救ったあの日のことを、思い出すのが厭《いや》であったからだ。
「これからも、おはん、気をつけにゃいかん。あの逃げた浪人者は、きっと、これからも、おはんの首をねらうに違《ち》げなか」
「ふン……」
事もなげに、半次郎が、つぶやいた。
「今度は、斬っちゃる」
水をきる棹《さお》の音も、まだ興奮さめやらぬ乗客の声に消された。
「ときに、大山どんな。こげに遅く、どこへ行っておじゃした?」
思いついたように、半次郎が訊《き》いた。
「何……ちょいと、あの向うの、西国街道に近い村によか寡婦《やもめ》なおって……」
大山格之助が口を、半次郎の耳によせて、
「このところ、毎晩、通っておる」
「毎晩、京都からごわすか?」
「いや──おいは今、伏見屋敷につめちょるのだ」
「なるほど……」
「帰りには淀川を泳いで戻る。こりゃ、ちょいと辛《つら》い」
大山は、そう言って大声に笑い出した。
七
大山が、
「伏見屋敷へ来て、休んだらよい」
しきりにすすめたが、
「こげな姿を見られては恥ずかしい」
と、半次郎は肩をすくめ、
「大山どんな、今日のことを藩邸の人々に何と申されるか?」
「何とも言わぬよ」
「まことか……」
「は、は、は──おはんも、負けずぎらいな……」
「油断ごわした。まったくもって、おいどんは……」
「どうした?」
「いささか慢心の気味な、ごわしたよ」
「ほほう」
「何せ、負けたことがないもんで……それがいかん。どげな奴が、どげな武器をつかって、かかってくるか知れたものじゃごわはん」
「あんな棒よりも鉄砲でも撃ちかけられたら、それっきりじゃ」
「いや、鉄砲に撃たれるなら仕方ごわはん。あげな棒なぞに……」
くやしくて、たまらない半次郎なのである。
くやしいというのは、敵に対してではない。
おのれの油断に対してである。
(あのとき、おいどんは、勝つにきまっちょると思っていた。そげに思いながらも、あげな敗北を喫したちゅのは……こりゃ恥ずかしい。こりゃ、いかぬ)
大山に何と言われても、仕方がないところだ。
けれども、大山格之助は、別に半次郎救出をほこる様子もなく、
「では、好きなようにしたらよい」
伏見の京橋口へ三十石船が着くと、すぐに駕籠《かご》をやとってくれた。
空が白みかけている。
三十石船の船着場をあがると、すぐ目の前に、あの寺田屋があった。
駕籠へ乗る半次郎を見送りつつ、大山格之助は、ふっと寺田屋を見やり、
「半次郎どん。おぼえちょるか?」
と言った。
「おぼえちょりもすよ」
「三年前じゃな」
「早いものごわす」
「この三年は、十年にも二十年にも思われたような……」
「いかにも……」
と半次郎も、しみじみとうなずき、
「目まぐるしいことでごわしたな」
「うむ……」
うなずいてから、大山が、
「駕籠や、行けい」
声をかけた。
「いずれ、また──大山どん」
「おう。無理をするなよ」
伏見の町を駆けぬけ、半次郎を乗せた駕籠が竹田街道を、まっすぐに京へ向うころ、朝の陽が落ちかかってきた。
半次郎は、藩邸へは帰らない。
京の町へ入ると、そのまま六角堂近くの瀬戸物屋〔みすや庄八〕宅へ、駕籠をつけさせた。
〔みすや〕は、かつて半次郎が下宿をしていた家でもあるし、その後も主人夫婦との交際は絶えていない。
「中村様。こりゃ一体、どうしなはりました?」
主人の庄八は、負傷をした半次郎を見て、おどろいた。
「何でもない。たのむ。すぐに錦小路の屋敷へ使いを出し、幸吉を呼んできてもらいたい」
「へえ、へえ」
「おいどんが居ることを屋敷のものにさとられぬよう、たのみもす」
「心得てござります」
間もなく、幸吉がやって来た。
「先生。いつ帰られましたんや」
幸吉も負傷の半次郎には、おどろいたらしい。
「先生も、斬られることがあるのんどすか?」
「あるとも」
ふとんに寝たまま、半次郎が、
「幸吉。大きゅうなったなあ」
目を細めた。このところ、三か月余も幸吉の顔を見てはいない。
「のびざかりやもの」
幸吉も、いっぱしのことを言う。
幸吉ひとりを傍におき、半次郎は〔みすや〕で傷を癒《いや》すことに専念した。
傷も、やがて癒えた。
元気になると、半次郎は、もう〔すみや〕に居たたまれなかった。
何よりもまず、法秀尼に会いたくなってきたのである。
[#改ページ]
藪 椿
一
〔不了庵《ふりようあん》〕の雨戸という雨戸は、みな閉ざされていた。
(法秀どのな、留守か……)
萌《も》えはじめた草をふみしめ、不了庵の庭へ入って来た中村半次郎だが、
(変じゃな……)
気になった。
法秀尼が留守の場合、半次郎は勝手にあがりこんでよいことになっている。
また留守の場合でも、仏殿の戸は閉ざしても、居室の雨戸や台所の戸などはしめてあったためしがないのだ。
(もしや……?)
ハッとした。
みやげに持ってきた五月ずしの折を縁におくや、半次郎は、居室の雨戸を外から開けにかかった。
雨戸はわけもなく開いた。
外から戸じまりをしたらしく、桟をかけてはいない。戸の隙間へ、脇差の小柄《こづか》を差しこみ、ぐいとひねると、雨戸が一枚、音をたてて外れた。
飛びこんだ。
がらんとしている。
もともと法秀尼の居室は無駄なものとてなかったが、机、衣類を入れた二箇の葛籠《つづら》、硯箱《すずりばこ》まで消えている。
「おらん!!」
と、半次郎は叫んだ。
「おりゃせぬ、おりゃせぬ。どこへおじゃした!!」
わめきつつ、仏殿へ踏みこんで見ると、
「無い、無いッ」
仏壇も、釈迦像《しやかぞう》も、位牌《いはい》もなかった。
くやしいとも、なさけないとも、何とも言えぬ感情が胸にこみあげてきて、
「どこへおじゃした。おいどんに黙ってなぜ逃げた」
縁へ飛び出し、眠たげな春の空に向って、半次郎は怒鳴りつづけた。
(みんな、逃げて行った。幸江さアも、おたみどのも、法秀どのも……おいどんから逃げて行った……)
逃げて行った原因は、みな、半次郎自身にあるのだが、そこまでかえり見る半次郎ではない。
半次郎は、そこへあぐらをかき、大声をあげて泣きはじめた。
こんなさまを、法秀尼が見たら何と言うことであろう。
半次郎、今や二十八歳である。
しかも、薩摩藩の青年将校のうちで、もっとも大きな位置をしめるほどの利け者になっていたはずである。
その半次郎が、泣くのである。大声をあげて泣きわめいているのである。
こうした感情の激しいうごきに、わけもなく、おのれのすべてをぶちこんでしまうことができるのは、やはり九州の男であるからかも知れない。
雄大で荒々しい風土に育ち、貧しさに耐えつつも、激情のおもむくままに行動する男たちにのみ、ゆるされたことかも知れない。
法秀尼は苦笑するかも知れぬが、おそらく、西郷吉之助は、この半次郎のさまを見て、
「泣きなはれ、気のすむまで泣きなはれ」
と言ってくれるに違いない。
「黙って、逃げんでもよか。おいに、なぜ黙って……」
やがて半次郎は、ぶつぶつとつぶやきながら、縁に置き捨ててあった五月ずしを手にとり、ふたをあけて、むしゃむしゃと食べはじめた。
五月ずしは、両替町二条下ルところにある〔いけ定〕という料理屋の名物で、法秀尼の大好物であった。
野菜を炊きこんだ酢飯なのだが、さすがに京のものらしい風味があって、
「今度来るときのおみやげは、また五月ずしがよいなあ」
いつも、法秀尼が半次郎に言っていたものだ。
二
五月ずしを食べ終えて、
「くそ!!」
空になった杉の折箱を、半次郎は庭へ叩《たた》きつけた。
「帰る!!」
また、半次郎が、誰もいない庵室《あんしつ》の中へ向って怒鳴った。
「おいどん、帰り……」
つづけてわめきかけ、
「や……?」
半次郎は、仏殿の一隅に目をやって、
「手紙じゃ」
駈《か》けこんで、天井からヒモでぶらさがっている手紙らしいものを、むしりとった。
息もつかずに封を切って、ひろげた。
手紙は、やはり法秀尼から半次郎にあてたものであった。
手紙には、こう書いてある。
半どのは、どこへ行ったやら。
半どのの口を吸いとうても、半どのは、なかなか帰らず。
釈迦如来の口を吸うて見ても、しようもない。
それに、もはや京の地にも飽いてしもうた。
この文《ふみ》見たら、半どのは嘆くか、平気か、どちらどす?
また、いつかお目もじのせつは、口吸いまひょ。
[#地付き]法 秀
半どの、まいる
頭を抱え、半次郎はうめいた。
あの、ひろやかな法秀尼の背中や胸肌に埋もれて、心ゆくまで甘えたかった。
肩の傷の包帯も、まだとれぬというのに、半次郎は矢も楯《たて》もたまらず、駈けつけて来たのである。
法秀尼に対する半次郎の感情は、幸江や、おたみに対するそれとは、まったく違う。互いの肉欲が友情にまで昇華されていたからだ。
男女の性別があって、男女の間の、めんどうな感情の交流がない。
慾情《よくじよう》がしずめられた後には、姉と弟の、母と子の……それらのものが渾然《こんぜん》と溶け合った交情が流れていたのだ。
それだけに、半次郎にとっては、ただ単に、情をかわした女が居なくなった、ということではすまされない。
法秀尼は、また半次郎の師匠でもあった。法秀尼によって、半次郎は書も習い、字もおぼえた。
幸江を失ったさびしさとは、また別の哀しさが、そくそくとして半次郎の胸にあふれてきた。
どのくらい、半次郎は不了庵の仏殿にすわりこんでいたものか……。
気がつくと、夕闇がただよってきていた。
京都は寺の都でもある。
晩鐘が、諸方から鳴りわたるのを聞いて、半次郎は、やっと腰をあげた。
次の日も、半次郎は不了庵へやって来た。
何度も読み返し、しわだらけになった法秀尼の手紙を、ふところにしてである。
次の日も、来た。
どうにも、あきらめきれない。
その日、半次郎は、庭から裏山へ通ずる小径に、紅い藪椿《やぶつばき》が咲いているのを見た。じっと見ているうちに、たまらなくなった。
藪椿の花片が、法秀尼の豊麗な肉体をまざまざと思いおこさせたからであった。
三
この年──すなわち、慶応元年から同三年までに、徳川幕府の力というものは、まったくおとろえてしまうのである。
こんな話がある。
すでに、再三のべておいた外国艦隊の薩摩や長州への攻撃についてだが……。
薩長一藩の圧迫を、もはや幕府の威光ひとつでは押えきれなくなり、幕府の外国奉行をつとめる竹本|淡路守《あわじのかみ》が、たくみにイギリスやフランスを説きつけ、
「彼らさえ打ちほろぼしてしまえば、幕府と外国との交易、親交をむすぶにつき、邪魔だてするものは、まったくいなくなります」
しきりに、あおりたてたという。
イギリスにしてもフランスにしても、事実、勤王志士たちの暴動によって何度も殺傷事件がひきおこされ、犠牲者も出しているところだから、
「もっともである」
まず、鹿児島を攻めた。
このときは、イギリス艦隊も、猛烈果敢な薩摩武士の迎撃に会い、ひどい目にあった。
以来、急速に、薩摩藩は幕府とも手をにぎり、イギリスとも親交をふかめ、着々として、地盤と実力とを獲得することにつとめてきた。
この藩の方針に、藩士たちは一糸みだれずに従い、うごいた。
これは、島津久光や大久保市蔵だけでは出来得ぬところである。
西郷吉之助という人物がいて、
「西郷先生のすることなら、間違いはない」
という全藩士の信頼が、すべては、そこへむすびつけられたから、
「幕府と肩をたたき合うのも、いいかげんにしたらどうじゃ?」
たまりかねて叫ぶものはいても、長州藩のように、暴動をおこしたり血気にはやって藩に迷惑をかけたりするという者が、あまりいなかった。
ことに、寺田屋騒動や、姉小路|卿《きよう》暗殺などのことがあってからは、西郷吉之助の強い指示もあって、藩士たちは歩調をそろえ、藩のうごきについて行ったのである。
ところが、長州藩は、藩全体が火のような革命意識をもって、あばれまわった。
「どうしても、徳川幕府をやっつけてしまわねばならん!! そして我々が新しい政治を行なうのだ」
この一念であった。
その結果は、何度も何度も痛手をこうむり、有為の人材も命をうしなってしまった。
俗に、勤王派の主力たる諸藩を〔薩・長・土・肥〕という。
そのうちの土佐藩は、藩主・山内容堂が、あくまでも公武合体という、幕府と共に天皇をおたすけし、新政を行なうというたてまえである。
だから土佐藩の勤王志士たちは、次々に脱藩して京にのぼり、長州の志士たちと力を合わせて活動をした。
しかし、たとえば新選組や見廻《みまわり》組が、これらの浪人たちを捕まえようとする、又は襲撃しようとして血眼《ちまなこ》になって追いかけて来た場合、土佐藩出身の浪士たちは、逃げる場所がない。
これが長州の場合なら、藩全体が、追いかけられ逃げこんで来たものをかばう。
京都には長州屋敷も、土佐の屋敷もある。
だが、土佐のものが、自分の屋敷へ逃げこむことは出来ない。藩としては、幕府に力を合わせているのだから、反対に、
「ふらち者め」
つかまえられて、腹でも切れということになりかねないのだ。
あの有名な坂本|竜馬《りようま》をはじめ、土佐藩出身の志士たちは、逃げる場所もなく、潜伏をつづけ、しかも坂本のように、維新の大業成るの日を前に、刺客の手に倒れたという悲劇を、いくつも見ることができるのは、土佐の志士たちに多い。
さて……。
幕府の第一回の長州征伐は、西郷の仲介によって、ひとまず中止となった。
長州は、もう、さんざんの目に会っている。
幕府へあやまるという意味で、禁門戦争の責任者として、三家老の首まで斬って見せた。
このときの西郷の腹はきまっている。
「こげに、日本人同士で、いつまでも血を流し合《お》うていては、とんでもないことになる」
イギリスと手をむすび、もはや、幕府などは眼中におかず、薩摩藩は、勝手にイギリスとの交易もはじめ出した。
これによって、西郷は、外国文明のおそるべき力を知りもしたし、日本という東洋の美しい島国に、よだれ[#「よだれ」に傍点]を流している外国列強の勢力争いの実体をも見ることを得た。
「勤王政権をつくるのは、我々である!!」
などと、日本人同士が争っているうちに、
「日本における、もっとも有利な権利を何としてもつかみとらねばならぬ」
着々と、それを実行にうつしつつあるイギリスやフランス、アメリカなどに対して、
「もはや、ぐずぐずしてはおられぬ」
西郷はじめ、長州の桂小五郎、土佐の坂本竜馬などを主体とする人々が、たまりかねて起《た》ちあがったのだ。
四
「どうも、薩摩のうごき方は変じゃ」
「西郷吉之助め、油断はならぬ」
幕府方でも、西郷に目を光らせはじめた。
ことに、会津藩の怒りは激しいものになってきた。
何しろ、会津藩には、
「われらは、孝明天皇の絶大なる御信任をうけているものだ」
という、ほこりがある。
幕府と共に、乱暴な勤王方から天皇を守りぬこうと一途に信じこみ、懸命にはたらいている。
長州征伐を中止させた西郷吉之助に、そして薩摩藩に会津のうたがいの目が向けられたのも当然であった。
これが、会津・薩摩両藩の分裂ということになるのだ。
幕府としても、このごろは何かにつけて、長州をかばう薩摩のやりくちが面白くない。
ああでもない、こうでもないと、戦力もなくなったくせに、幕府の閣内は蜂の巣をつついたようにやかましくなる。
実行がともなわず、口だけがやかましくなるのは、すでに衰亡のきざしが見えたのも同然であった。
「勝手にせよ」
というので、薩摩藩も知らぬ顔をして、どしどし思うところへ進んで行くようになってしまった。
「やはりいかぬ。このときにあたって、幕府内での派閥争いにうつつ[#「うつつ」に傍点]をぬかしているようでは、徳川の天下も終りじゃ」
西郷も、見きりをつけてしまった。
イギリスなども、幕府の弱腰を見てとり、慶応三年にひらくべき兵庫と新潟の二港を、今すぐにひらいて外国の船が入るようにせよと言い出した。
これが慶応元年のことだ。
イギリスは、幕府よりも、むしろ、薩摩藩の力のほうを買っているほどであった。
こうなっては、幕府も最後の力を見せないわけには行かなくなった。
将軍・家茂を押したて、京都へのぼり、幕府にしたがう大名たちの全力をあげ、勤王大名を一掃してしまえということになった。
戦わぬまでも、幕府の威力を見せ、彼らを屈服せしめねばならぬ。
事実、慶応二年の夏には、幕府も軍を出し、長州へ攻めかけたものだ。
ところがいけない。
見事にやられてしまった。
このころ、すでに長州藩は、また新しい力をたくわえていた。
家柄だの身分だのということにかまわず、長州領国にあるもののうち、非常の役に立つものならば、どしどし抜擢《ばつてき》して事に当たらせるという必死のかまえだ。
ひそかに薩摩も、金や武器を送って、これを助けるようになってきている。
幕軍と長州軍の戦争は、広島口、石州口、小倉口でおこなわれた。
幕軍は敗北につぐ敗北という始末になったものである。
これで、幕府は内外における威信を、まったくうしなってしまったのだ。
「戦争な、したくはごわはんが、近いうちに、この日本の国土で、日本人同士が最後の戦争な、することになりもそ。それでのうては、どっちみち、おさまりがつくまい。そのとき、我らは負けちゃならぬ。そのときの用意を、今からしておかねばならぬ」
今や、西郷吉之助も奮然となってきた。
「半次郎どん、勉強しなはれ」
「何をでござす?」
「新しい、イギリス式の兵学を、でごわすよ」
西郷は、そのころ京都に家塾をひらき、名の高かった赤松|小三郎《こさぶろう》のところに藩士たちをおくった。
赤松は蘭学者だが、イギリスの兵学にも通じている。
中村半次郎と共に、村田新八、野津七左衛門など七名が赤松塾へ通いつめた。
この中に、後の東郷平八郎も加わっている。
「東郷。先生の教えることな、おいどんのかわりによく聞いておいてくれ」
ときどき、半次郎は、赤松先生の講義に出ないこともあった。
何しろ、このごろ西郷の身辺は、非常に危くなってきている。
会津藩では、
「西郷を暗殺せよ!!」
新選組にも、ひそかに指令を下していた。
一時は、治安も回復したかに見えた京都市中に、またも血なまぐさい風が巻きおこった。
西郷吉之助の影のように、中村半次郎はうごいた。
「いくらでも来い!!」
である。
「おいどんがついちょる。西郷先生な、死なせてたまるか!!」
である。
半次郎帯するところの和泉守兼定も、のんびりと鞘《さや》の中で眠っているわけにはいかなくなった。
[#地付き](幕末編 了)
角川文庫『人斬り半次郎 幕末編』昭和47年6月30日初版発行
平成19年6月25日改版初版発行