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池波正太郎
おおげさがきらい 池波正太郎未刊行エッセイ集1
目 次
初心ということ
伯母の供養
|抵 抗《レヂスタンス》
牧野博士の声
痴漢
固くなる
税金とネエブル
余話二題
鹿児島三日間
伊豆の春
三昧
喫茶店「スワニイ」主人
あらまきの鮭
劇場と花柳界
私の文学修業
「ろくでなし」の詩と真実
信濃松代町
私の生れた家
自講の思い出
七月九日の酒
長崎・平戸の旅
痔用体操のすすめ
若い人
ハマの思い出
むかしのこと
日々好日
土方歳三の女
伊豆の宿
男の衣裳
充実したテレビを
「日本敵討ち異相」長谷川伸著
「おとこ鷹」の劇化
先生の声
六回目に受賞 直木賞と私
猫
四十眼《しじゆうめ》
行きつけの店
今月のヒロイン
「人材」小栗上野介
「豪傑」桐野利秋
「革命家」坂本竜馬
九万田先生の鉄拳
垢おとし
城
おおげさがきらい
「おおげさがきらい」メモ
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初心ということ
正月公演の「名寄岩《なよろいわ》」は幸い好演であった。作者、演出者としてどうやら責任が果せたということになる。スタッフの協力に対する感謝は細々《こまごま》と書いていたらキリがないのでやめるが、登場俳優数十名のいずれも、生き生きと役柄に溶け込み、これほど見事な舞台をつくり上げてくれたことは、今までの自分の芝居の中でも今度が一番、心ゆくまでの満ち足りた思いをさせてくれたといってもいい。
「名寄岩」の稽古から上演まで、私は数多くの深い印象を受けた出来事があるのだが、そのうちの一つを書かせてもらうことにしよう。
それは、島田正吾という人の、初心というものについてである。
島田さんとしても、この力士という特殊な職業、生活の中に、名寄岩という、これまた珍重すべき特殊な人間像を舞台に表現するについては、かなりの苦悩もあり、不安もあったことと思う。私は、十一月の名古屋公演中の稽古に入ってから、ふッと気づいたことは島田さんのういういしさであった。本読み、立稽古、舞台稽古と進むにつれ、三十年近くも舞台を踏み円熟した技能を持つスターである俳優が、初めて舞台というものに立つのだという初心の熱情であった。時によっては、それが、二十台の青年みたいな、頼りなさ、たどたどしささえ感じさせられたこともある。
この気持は大切なことだとおもう。この気持をはっきりと、まだ掴《つか》んでいる島田さんという俳優としての立派さが、初めて私にも、わかるような気がした。このういういしさ、若々しい情熱というものが、「名寄岩」の舞台でどんな演技になって現われたか――正直に言って、私は、予想以上の島田さんとして従来になかった異質の表現(それは俳優としての、まごころというものであろう)によって、成功をおさめたわけである。
私ども、芸術の仕事にたずさわる者は、仕事にスレてはならないとしみじみ、そう思う。
新しい仕事があるたびに、生れて初めて、その仕事に立ち向う気持を忘れないように、私はこれからも自分に言いきかせては仕事に取組むつもりだ。
正月にひきつづいて、二月にも「夫婦」一幕を出すことになった。急に決まった話で、またあわただしい稽古になったが惰性で、仕事にスレてしまわないように、私の「初心」さが、作にも演出にも出てくれるように自分で自分を祈っている。
「初心」――ういういしさということは、取りも直さず、「新鮮」だということになるのだろう。
[#地付き](新国劇ニュース・37・昭和三十一年二月一日・如月随想)
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伯母の供養
昨秋、私の母親は二十数年間を働きつづけた仕事を辞《や》め、弟と共に私の家へ引移って来た。私も、このほど、十年間の月給取り暮しに別れを告げ、戯曲と小説の勉強に専念することにした。
過ぐる日、辞表を出して帰宅すると、「お前さんも私も、勤めているうちは、ずいぶん伯母さんに死んでもらったっけね」と、母が言う。
茶をいれかけていた|うちのもの《ヽヽヽヽヽ》が「あら、お母さんも?」と聞いたので、昔の思い出話になった。|うちのもの《ヽヽヽヽヽ》は私が伯母に死んでもらったことは承知しているが、母が伯母や伯父を、勝手に病気にしたり死なせたりしたことは、まだ知らなかったのだ。
母は戦前は、或《あ》る女学校の購買部に、戦後は保険会社のビルの管理人になって働いていたのだが、父親のない二児を抱えて、あまり楽でない暮しの中に居ても、遊び好きなので機会があれば映画や芝居、一寸した野遊びなどに、よく出かけたものである。日曜日ではない、そうした行楽日には、少年の私が、かねて示し合せておいた演出に従い、息せき切って母の勤め先に駈《か》けつけ、大声に怒鳴る。
「母さん。砂町の伯母さん(又は伯父さんが)病気でキトクだって(又は死んだって)知らせが来たよッ」
その瞬間、
「ええッ、ほ、本当かい?」と、あわてふためいて見せる母の演技は堂に入ったもので、心配する同僚や上司に言い訳やら説明やらするさまは見ものであった。二人で外へ出て来ると「たまには怠けなくっちゃね」と済まなそうにペロリと舌を出すのだが、平常の勤務ぶりの見事さを裏書きする事実を幾つも知っている私は、この(伯母殺ろし)を、あまり悪いことではないと思ったものだ。母もまた、こうした(怠け心)を、忘れなかったからこそ、女で永い間の労働に耐えて来られたのだろうと思っている。私が『伯母危篤。駈付《かけつ》けの場』に、一役買ったことは、二十年間に、四、五回あったと思う。
昭和二十六年に、私の戯曲が新国劇によって処女上演されてから、今年の「名寄岩」まで、四本の作品が舞台にかかったが、上演一ヵ月前の旅に居る劇団の稽古に立会う十日ばかりの旅行の言い訳に、私は伯母を三人ばかり死なせている。と言うのは、堅い月給取りの生活で、私一人が内職の脚本書きで何十万円も稼いだ(素人の方は誰でもケタ違いの数字を想像して羨《うらや》んでくれる)と思われることは同僚や上司を刺戟するばかりでなく、いけない事でもあり、以後の勤務に面白くない負《ひ》け目を感ずることになるので、私は芝居の為に勤めを休むことを極力隠し、平常の勤務には人一倍精を出した。何となれば仕事の上で指一本さされなければ、少しも負け目を覚えず堂々としていられるからだ。その度びに、旅先の劇団の文芸部から「オバ、キトク、スグコイ」の電報を打ってもらっては、その電報を持って|うちのもの《ヽヽヽヽヽ》か母が、私の勤め先へ出かけて行くわけだ。三回とも伯母を死なせたのは、十年間に、私が三回、役所を転勤したということになるのだが、帰って来て神妙に伯母の死を上司に報告する度びに、私は、この嘘つきを何時になったら止めることが出来るだろうかと深い溜息をついたものだ。一度か二度、帰って来ると同僚から香奠《こうでん》を頂いて赤面したことがある。しかし頂かないと嘘になるので心苦しく頂戴《ちようだい》したことを、退職した今、私は、しみじみとザンゲせざるを得ない。どうか、許して下さい。
ともあれ、この十年間、生活の憂いなく勉強させて頂いた世の中に、善良なる上司と同僚に、私は心からお礼を申上げたい。と同時に、無暗《むやみ》に死なせた架空の伯母の霊におわびをしなければならない――と、まあ、そんなことを母や|うちのもの《ヽヽヽヽヽ》にしゃべっている、と母が、
「全くねえ、悪いことをしちゃったねえ」と、首をすくめた。母の方は死なせた伯父、伯母ともに、現在ピンピンと生きている。
しかし、仮りに死なせた伯母の霊が怒ったのか、母が退職するときは、その溺愛する二番目の息子(私の弟)を、私が退職するときは|うちのもの《ヽヽヽヽヽ》を、思いがけない事故で死なせかけた。ともに危篤状態まで行きながら蘇生したのは、ひとえに近代医学の進歩と新薬の効果によるものであった――と言うわけで、母は、うっとうしい梅雨空に眼をやりつつ、
「あれは、たしかに、私とお前が罰を受けたんだよ」と、しきりに言い、
「もうじき、お盆が来るし、死んだ伯母さんの供養をすべきだと、私は思うね」と力説した。
「供養って――どんな?」聞き返すと、間髪を入れず、母は、
「鰻丼」と言った。
何となく、その気持がわかるような気もしたので、「よし、行こう」と、三人で近辺の商店街へ出て、この辺の草分けから店を張っているという「浜田屋」なる鰻屋で、二百円の鰻飯を三人で喰べ、
「うまかったね」
「ああ、おいしかった。一年ばかり生延びたよ。御馳走さま」
「私、鰻は一年ぶりだわ」なんどと、大げさにうまがって家へ帰って来る途中、私は誰の供養をしたのだか、さっぱり、わからなくなってきていた。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十一年八月号)
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抵抗《レヂスタンス》
この夏、半月余の信州旅行から帰京して、玉川一郎氏が胃の三分の二を切開し、事後の経過が良くなくて、いまや危険状態だということを、島源四郎氏から聞いてびっくりした。
この初夏に、玉川氏と戸川幸夫氏と三人で、渋谷のふるさと≠ニいう東北民謡を踊り聞かせる店で、眼前に見た元気一杯の痛飲ぶりが印象に残っているだけに、ほんとうにびっくりした。
二、三日して村上元三氏邸へ用事があって出向き奥さんが玉川夫人と電話で話しているのを傍で聞いていると――玉川氏の経過は、いよいよ悪く、手術の傷口は、すでに密着しているが、胃へ入ったものが腸へ渡らず、腸は全く活動を止めて、日に日に衰弱して行くばかりだということらしい。
帰って来て、その夜、私の胃も変な工合になってきた。
信州から帰っても、うちつづく毎日の暑さと、旅の疲れと、それに、二ヵ月も仕事をしなかった惰性で、一日も早くとりかからなくてはならぬ長篇?にも取りつけず一日中寝転んでは、この春、勤めを辞めて以来、ことに鈍《にぶ》くなった胃腸の働きが一層鈍くなり、体中が重く、食慾がなくなって、やたらに怒りっぽくなる自分を持て余しはじめた。
玉川氏を見舞いに行かなかったのは、腕にリンゲルの針を刺し込まれ、キソクエンエンとして、今や面会謝絶だと聞いたからだ。
数日して、島氏から、棟田博氏が見舞いに行って、少し話されたということを聞いた。やはり悪いらしい。棟田氏は「とてもいかん」と眉を曇らせたと言う。しかし話が出来るなら一目だけでもと、私は、芝の東京病院へ出かけた。
病室へ入ると、ベッドは空《から》だった。誰も居ない。不審に思っていると、奥さんが現われ、「今、まいりますから」と言われた。
やがて、玉川氏は廊下の散歩からドカンドカンと現われた。四貫目へったと言うが十八貫の肉体は精気にあふれ、たてつづけに元気な声でしゃべりはじめたではないか。私は呆気《あつけ》にとられた。
しかし、たしかに数日前に棟田氏が訪れたときには、キソクエンエンだったらしいのである。
奇蹟は、この五日前に行われたのだ。
キソクエンエンの玉川氏は、その日、決然として病室を抜け出し、自動車を拾って本郷の自宅に飛ばせ味噌汁を一杯食べ、また自動車で帰院したらしい。
「体を動かすのはとても苦しかったが、しかし、オレは腸に振動を与えて刺激させ、その活動をカッパツならしめんとしたのだヨ」と、玉川氏は言った。ところが、その夜、非常に工合がいいのである。翌日、また玉川氏は、医師や看護婦の目をかすめ、車を馳《か》って自宅の味噌汁を食べに行き、帰りに銭湯へ飛び込んで頭髪までも洗い、病院前の氷屋で氷イチゴを二杯ものみ、帰院した。ところが、その夜、工合はまた良くなったのである。腸が活動を開始したのだった。
「とにかくオレは、あのままベッドに寝ていたら死んでしまうのじゃないかと思い、起ち上ったのだ。危いハナレワザだったがネ。しかし、オレのレヂスタンスは成功したヨ」と、玉川氏は、たくましく笑った。
人間は行動したいのであって服従したいのではない。自分の為の行動には必ず苦労と苦痛がつきまとう。そして人間は、その苦痛と苦労の中に快楽を発見する、という、かの碩学《せきがく》アランの言葉を、玉川氏は実行してみせたわけだ。
一寸した怪我をして、適度の痛みを繃帯に包んでいるときなど、その痛みからくる刺激が、我々の精神活動をカッパツにするという経験を持った人は少くあるまい。傷の痛みが精神を、知らず知らずのうちに緊張させているわけなのだろう。私も、このとき、その経験を思い起した。
玉川氏は奥さんに、庭をへだてた向側の病室に遠く見える若い女性の病人に、自分のベッドに仕かけた、書見器を贈呈しようと言い、
「オレは、もう手で本を持って読めるゾ」と言われた。
私は、生死の境に奮然と行動された玉川氏のレヂスタンスに敬意を表し、その翌日、烈日の下を、静岡から四時間もバスで山奥へ入り、梅ケ島という湯治場から安倍峠という峻嶮を越え、七里の山道を甲州の身延山まで歩いた。
へとへとに疲れて帰り、その夜はトンカツで飯を四杯もたべ、その翌日、痛む腰と足を揉みながら、私は机に向った――すると(ケッサクかどうか知らないが)とにかく小説が書けはじめてきたのである。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十一年十月号)
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牧野博士の声
新国劇の島田正吾は、昨年秋から、「藤野先生」「穂高」と続いた二本の新作に、同じようなタイプの、医学者の役を演じ、引続いて先月、新橋演舞場で上演した私の戯曲「牧野博士」も高名な植物学者なので、何とかして性格的に前々の学者役と違った、つまり脚本に描かれた牧野博士の人間像を、今までの自分の体臭を捨て切って描出しようと苦心した。
しかし、商業劇場の、あわただしい稽古では充分な研究の暇もなく、私は演出にあたり学者<^イプという従来の演技観念に迷わされることなく、一介の庶民としての博士――博士などという肩書を一顧《いつこ》だにもしない植物への愛情に溺れ切った幸福な男を演ってもらいたい。そしてまた批評家や観客に対する、いわば「学者」を演ずる俳優が知らず知らず気にする(俳優として)自分の貫禄や立派さを絶対に気にかけては困る、と注文を出した。
そして、生前の牧野博士に会っていない島田に、私は、私が聞いた三言ばかりの博士の声を雑談の折に何気なく下手クソな声色《こわいろ》でつたえておいた。
立稽古から舞台稽古に至るまで、島田は例のごとく、全く初心に、ひたむきに励むという、この人の美点を充分に発揮してくれ、若くて大後輩の私の言うことを真剣に受け入れ、些細《ささい》なダメ一つにも、キチンとメモをとり、翌日は必ず改ためているという風である。
もちろん、稽古前には、二人して議論し合い、それぞれの駆け引で反撥したり口論したりもあるが、一たん稽古に入ると、丸でたどたどしい位の初心≠フ尊さになる、そのときの島田を私は一番好きだ。
舞台稽古で、懸命に最後の仕上げをしながら、私はたのしかった。舞台稽古がたのしいときは、予期した成果が少くとも作者だけに得られるのだといってもいい。
諦《あきら》めることはさっぱり諦めているし、初日以後の舞台の大体が掴《つか》めるからである。
○
初日以来、幸運にも好評を得て、客の入りも良かった。私の机に切り抜かれた新聞や雑誌の劇評が一枚一枚と増えていったが、その中に、某週刊誌のものを記してみよう。これは島田の演技が悪いものとした唯一のものである。
(人間としての牧野翁を知りたいと思うと、この芝居では、どうしても食い足りない。その原因は脚本が短すぎるという点にもあると思うが、芝居をみているかぎりでは、|島田のつくり声にヘキエキして人間牧野の臭へ入ってゆけないのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)
私の脚本については、この際ふれずに、島田の|つくり《ヽヽヽ》声について、こういう挿話が、二つある。
その一つは――中日《なかび》近くに、牧野家の一族の方が多勢見物された日のことである。客席の前の方で見ていた故牧野博士の曾孫《ひまご》に当る五ツになる男の子供さんが、大詰で九十二歳の白髪の老翁に扮して演技をつづけている島田を指し、
「あッ。おじいちゃんがいた。おじいちゃんがいなくなったってウソよ。おじいちゃん、チャンとあそこにいるヨ」と、附添っているお母さんに言ったかと思うと、バタバタと舞台に駈け寄り、舞台上の島田に、
「おじいちゃんッ。おじいちゃんッ」と呼びかけたのである。
もう一つは――この公演中に、私は盲目の大学生、畑美喜三氏と友達になった。畑氏は十年ほど前に失明し、現在、日大で心理学を学んでいる、大変な秀才であり努力家だ。
畑氏は私と知り合う前に「牧野富太郎」の中継放送を聞いてくれ、私と初めて会ったときに、
「あの、島田正吾という人は、つくり声でやっておられるのですか? それともああいう声なのですか?」
「つくり声です」と私は答えた。
「そうですか。いや、あまりに牧野博士の声と似ているので――」
畑氏は盲人特有の鋭い記憶で、声の印象は忘れないらしい。牧野博士が亡くなった一月末の、生前の博士の声を放送したのをハッキリ覚えていたのだと言う。なお、畑氏は言った。
「しかし、つくり声というものは何処《どこ》かで必ず、本当の自分の声が出てくるものですが、島田さんという方は一ヵ所もつくり声が破れませんでしたね。えらいものですね、俳優というものは――」
○
「芝居」というものは素直に見るものである。
島田正吾という人の地の声を知っている人が、牧野翁の声を消化した見事なつくり声を、地の声と違うから空々しくて芝居に溶け込めないというのでは演技というものは成立しない。
何故なら、演技するということは、自分の声でも性格でもない全くの他人を創り上げることだからである。
千秋楽の日――楽屋へ行って、四月には大阪へ出演する島田に、
「おつかれさんでした」と挨拶すると、
「いろいろと有難う」と島田は言い、私が畑氏の言葉をつたえると、
「そう――そりゃよかったなア。僕はね。いつか池波さんが何かのときに、一言牧野さんの声色をやったでしょ。ほらワシも早く元気になって、ワシの芝居を見に行くかねエ≠チてやつ――あの一言を盗んだんですよ。あの一言を僕ア二時間に伸ばしたんだ」
誰にも言わず、そっと、ネチネチと積み重ねてきた演技研究の苦労が報われたよろこびを、さすがに島田は隠さなかった。
今日もまた、大阪歌舞伎座の舞台に、牧野翁は生きているであろう。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十二年五月号)
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痴漢
暑い日の午後――。表で近所の細君達と井戸端をやっていた私の母親が玄関から飛び込んで来て、
「一寸《ちよつと》――一寸」と、女房を呼び出し、二人して、また表へ出て行った。
行商の八百屋の荷の中に、安い西瓜でも見つけたんだろうと思って二階へ上り、私は日課の昼寝にとりかかった。
|とろとろ《ヽヽヽヽ》ッと、したかと思うとき、私は女房に起こされた。
「川向うの(溝《みぞ》向うが正しいのだが、母も女房も家の前を流れるそれを「川」と呼ぶのである)奥さんが、昨夜、旦那さんと二人で夜遅く帰って来たんですって――。十二時頃だってんだけど、そのとき、ひょいと、家の前を見るとね、便所の汲取口ンとこに、白いワイシャツ着た男がねえ、しゃがんでるンですってよ」
女房は青くなって言い続けた。声がふるえている。
「そしたらね、前の奥さんが出て来て、その男なら、この間から、三、四回見たっていうのよ」
「俺ンとこの便所の汲取口前に於てか?」
「そうなのよ」
「まさか――」
「何が、まさか?」
「お前と、おふくろと女は二人だ。二人ともババアだ。まさか――」
プイと、女房は階下へ駈け降りて行ってしまった。下で母親と二人でボソボソ話している。
私は昼寝にとりかかった。ふと、気がつくと、玄関で男の声がしている。応対しているのは女房だ。
窓から夕風が吹き込んでいる。かなり眠ったらしい。
階下の話声がハッキリ聞える。延坪十六坪の小さな家だから筒抜けである。男は巡査らしい。女房が交番へ知らせたらしい、汲取口にしゃがむ白ワイシャツの一件をだ。私は階下へ降りて巡査に挨拶した。巡査は若い。美青年だ。
「どうも御面倒をかけて――何か、女達が騒ぎたてたようで――」
「いや、どうも。痴漢ですな」と青年巡査は大人びた口調で言う。
「そうですかね」
「そうです。この辺は多いです。とにかく、便所の下窓にカギをかけておけばよろしい。別にそれ以上のことはしませんからな」
「それ以上?」
「しゃがんでるだけのことですよ。ときに、お宅では、よく女の方が庭で行水してますな」
女房が、チラッと訴えるような眼つきで私を見た。
「二度ばかり巡回中に気がつきました。注意しようと思ったが、まアまアと思ってやめといたんですがね」と、巡査は、わけのわからないことを言い出した。
「あなたじゃありませんな」と巡査は女房に言って「もっと肉体美の方でしたな」。
行水は母がするのだ。母は下町の職人の娘だからつましい。入浴代を倹約する。深夜、暗闇の中で台所から庭へタライを出して行水をする姿を垣根に繁茂する雑草越しに青年巡査は見たらしいのだ。
母は小柄で十四貫あるから、鏡里《かがみさと》を8ミリのカメラで写した位には見える。
「肉体美の方でした、確かに」と、巡査は、女房が出したカルピスをぐいぐいと飲みほして、
「危険ですなア。だから狙われるんですよ」と、私をたしなめるように言った。
「ははあ――」
「この向うの山本さんてお宅ね。あそこの風呂場も、よくのぞかれる。娘さんが三人います」
「肉体美ですか?」
「あんた。およしなさいよ」と、女房が私を突ついた。
「危険ですなア。もう行水はいかんですよ。こういうことは彼等を挑発しますからね。当事者自体の注意が必要です。事件を未然に防ぐ。これが大切です」
巡査は、なお、巡回中にこちらも注意するから、そちらも行水はやめてもらいたいと言って帰った。
夕飯後――また私は宵寝した。半分眠りながら、いろいろ考えた。
まず深夜、便所の灯をつけておく。痴漢がそれに誘われて汲取口へしゃがみ込む。原稿を書くのは深夜から朝にかけてだから私一人は起きている。ときどき、そっと二階の西向きの小窓から汲取口を見下してみて、もし白ワイシャツがいたら、大刀を掴《つか》んで、そっと下へ降り、わざと遠廻りに南口の縁側から外へ出て、東の玄関から、西の汲取口へ廻る。
ちょうど、弟が夏の休暇で仕事を休み帰京しているので、これを起こして、南から西へ廻らせる。ハサミ打ちにする。
大刀は、新国劇の中堅幹部達のグループが、私が彼等の為に書下した「黒雲峠」という剣戟の芝居の上演記念に贈ってくれたもので、刃はつぶしてあるが、本身だ。こういうときでないと使うときはない。
「こらッ」と大喝して白ワイシャツの肩口のあたりを打つ。きっと仰天するだろう。そこを弟と二人で取押え交番へ引ッ立てる。
(こいつはおもしろい)と、やや血が躍ったとき、母親が二階へ上って来た。
女房は煎餅を齧《かじ》りながら猫の蚤《のみ》をとるという忙しい仕事に没頭している。
「今、池田さん(母の親戚)で胃の手術のテレビを見てきたよ。おもしろかったよ、ついでに便所の窓のカギを買って来た」
「さっき、お巡りさん、来たわよ」と、女房。
「へえ。どうした? それで――」
「肉体美の人が行水しちゃいけないって――」
「だって――バカらしい。私は五十六だよ」と母は息まいた。私は口をはさんだ。
「湯銭なんかを始末するから、あらぬ疑いをかけられるんだよ。行水はもうよしなよ」
母は永い間、働いて来て、勤めを辞めて私の家で暮すようになってからは、食事の仕度や毎日の経済の一切をやっている。女房は楽隠居させたいのだが、一日中忙しく体を動かしていないと母はたまらないのだ。体がナマになるとも言うが、内心は得意の経済手腕を発揮して家計を引しめ、私をあくせく稼がないでもすむようにさせたいというところもある。
女房は今のところ主婦の座を奪われた形になっているので、これも内心面白くない。だから私は、女房に雑用を言いつけて、これを絶やさないようにする。
「お前は俺の仕事を手伝うので手一杯なんだから家のことはおふくろに任せとけ」と政治的手腕で懐柔する。
しかし、二人とも「豊子さんほど気前よく小遣いをくれる嫁はいまい」「お母さんは口は達者だが喧嘩しても根にもたないからいい」と言う点で溶け合っている。仲は、まア好い方だろう。
行水の件で、一寸またこじれかけたのが面白かった。母は倹約政策の一端を一言の下《もと》に嫁と息子から蹴られたので面白くなかったらしい。
「私の行水ばかりじゃない。豊子さんだって、あんな短いショートパンツはいてるからいけないんだよ」と逆襲してきた。
女房は三十五になる。やせているが暑がりやなので、今年の夏から家にいるときだけショートパンツをはいているのだ。
「あら。私、家の中だけではいてるんじゃないの」
「家の中だって、チラチラ見えるよ」
「よくてよ、そんな――私だってもう三十五よ。まさか――」
「私だって五十六だよ、まさか――」
ここで、二人は顔を見合せて、ふふンと笑った。
「バカにしてるわねえ。若い娘がいるわけじゃあるまいしさ。その白ワイシャツの男の顔が見てやりたいね」
「ほんとだわ。五十六と三十五ですもんね」
二人は、また笑った。何だか嬉し気に笑った。そして、先刻までは、「気味が悪い悪い」と青くなっていたくせに、何やら二人して大声で、笑ったり騒いだりしながら便所の窓のカギを取つけはじめた。
その夜更《よふ》け、――私は便所の灯をつけ、二階の西口の窓を開けて、大刀を押入れから出して柱に立てかけた。
十二時すぎに、ウイスキイに入れる氷を台所にとりに行ったとき、二階の窓から下をのぞいてみた。誰もいない。
月がきれいで、りょうりょうと冷めたい風が吹いてる。
視線を転ずると、五十米ばかり離れたところに見える二階家の窓が開け放たれていて、若い女性が今やブラウスを脱ぎ、タオルらしい寝巻に着替えるところが眼に入った。私の家のまわりは二階家が少いので、屋根と木立の向うに、ハッキリと見える。
(ははあ。あの家には、あんな娘さんがいたのかナ)と、私は思った。
彼女はパンツ一枚になり、両腕をぶるんぶるんと振って体操をやりはじめた。小麦色のピチピチした肉体らしい。このとき、私の脳裡をかすめたのは、(望遠鏡を一つ買っとこうかナ)ということだった。
彼女が寝巻きに着替え、窓をしめて灯が消えるのを見届けてから、私は大刀を押入れにしまい、便所の灯を消し、西の窓をしめ、机の前に坐って原稿書きにとりかかった。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十二年九月号)
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固くなる
相撲も昨年からいよいよ五場所制になり、今年からは一年六場所の実施が決って、初の福岡場所が終ってから、もう一ヵ月ほどになる。
例によって私は、十五日間の取組をテレビで見続けたが、その各力士の土俵上に於ける映像は今もって脳裡から消え去らないのである。メカニックにふくれ上った社会、経済の機構に対処する為に、人間一個の能力をもって仕事をする者の労働力? は戦前の二倍三倍になった。
一年二回の本場所に全精力をそそげばそれでよかった力士達も、三場所から四、五場所になり、来年からは一ヵ月置きの本場所に備えなくてはならなくなったのだ。
九月の東京場所が終って早くも十一月に福岡の本場所にのぞんだ力士達の、どの体にもどの顔にも激烈な自分自身への闘いの痕《あと》が歴然と刻みつけられていた。
前場所の優勝者、安念山は、優勝者であるが為に腰の治療も休養もとれず、痛む腰を引摺《ひきず》って巡業に参加し、すぐ目前に控えた本場所にのぞまねばならなかったし、古参力士として永く幕内に在って高雅な風格を示してくれた大蛇《おろち》潟《がた》も、相次ぐ本場所に膝の古傷を癒《なお》す暇もなく幕下にまで一挙に転落し、ついに引退することになった。
そうかと思うと、これも病気の為、幕尻《まくじ》りにまで落ちて、この場所の成績|如何《いかん》では十両に下げられるという玉乃海が、ガタガタする体に鞭打って登場したが、調子にのってついに全勝優勝の栄誉を掴《つか》むということになった。
本場所の回数が増え、病気や負傷を癒《なお》す暇がなくて止むなく転落した実力のある平幕力士が下位の力士達を連破して優勝を掴む可能性が増えたのである。
現に、今年は関脇から落ちる安念山なども初場所は腰の治療を徹底的に癒す為に休場するというから、三月の春場所に出る頃には、おそらく幕内の中軸以下の地位に下っていることだろうが、そのとき彼の素晴しい膂力《りよりよく》には取組む下位の力士達が歯も立つまいと思われようし、大内山、成山《なるやま》などが今度はまた、ぐっと下位に落ちるから彼等の調子一つで優勝争覇戦の大アナになる可能性も大きい。
また青年力士達の昇進の機会も増えたわけだから新陳代謝はいよいよ激しくなる。上位の――まして横綱、大関の苦労は一通りではあるまい。これから下位力士の優勝が続くことにでもなれば、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞などが巻き起す世論を浴びて彼等の苦悩は一層倍加する。
十日目、下痢を押して出場した若乃花の面上には言うに言われぬ影が漂っていた。
毎日一度ずつ十五尺の土俵内で否応《いやおう》なしに勝負をつけ、その結果が、たちまちに力士自身の地位や、やかましい世評の対象になる|エゲツナサ《ヽヽヽヽヽ》に、舌打ちしたいような嘆きと、何百人もの弟子を大関という自分の腕一つで抱えている切なさ(ということは病気はおろか指一本すらいためることが出来ないということ)などが一緒《いつしよ》になって、それが眼と唇の表情にハッキリと現われているような気がしたのである。(もっとも、これは、私みたいな者の物事の批判などということは自分自身の気分と好みに左右されやすいのだから、そのときの若乃花が私の言う通りであったとは、あえて申しませんが――)
○
ものごとの批判といえば、先頃、今や花形の一人として若々しい精気に満ちた土俵ぶりを見せてくれる或《あ》る青年力士と会って語り合ったときのことだが、
「自分もまだ夢中で相撲やってるンで、だから自分の取り口ってものを新聞やラジオや、テレビの解説なども他人《ひと》によく聞いておいてもらって参考にするンですけど、ときには言うことがマチマチでどっちを採って自分の為にしたらいいんか、迷うことがあるンですよ」と彼は言った。
「そうでしょうね。場所が始まると、此頃《このごろ》じゃ、うるさくなる程《ほど》、いろんな批評が聞けるんだろうけど、それだけに迷うことも迷いますね」
「あなたなんかどうなんです? 芝居だの小説だの、やっぱり、いろいろと……」
「そうですよ。ことに芝居やってるときには、一せいに劇評が出るからね」
「そういうとき、どうします?」
と彼は喰いつくように真剣な眼つきで訊《き》いてきた。
「やっつけられていても良い気持で、すっきりと胸に沁《し》みてくる批評がある。そういう批評家は本当に、心から劇作家としての僕の将来を考えて忠言してくれているんだと思います」
「やっぱりねエ――そういう人の言ってくれることは、読んでも耳で聞いてもピインときますね」
「カンでね」
「そうそう、やっつけられる方のカンちゅうもンは割合に正直ですからねエ」
「同時に、個人的な小っぽけな量見《りようけん》で叩いてくるのもカンで何となくわかりますね」
「そうそう、わかります」
「だからさ――カンですよ、やっぱり――やっぱりもうこれは自分のカンを澄ましてピインと胸に響いたものだけを採り入れるより仕方がないね」
「とにかく、いろんなことが耳に入りすぎるンですよ。だから神経がとんがっちゃって自分の相撲がわからなくなるンです」
「聞くまいとしても入ってくるしね」
「そうそう。全く、聞くまいとしても入ってくる」
と、その青年力士は、苦笑してこう言った。
「これは、みんな|マスコミ《ヽヽヽヽ》ってやつのせいなんですね。わし達の人気もおかげで全国的に高くなったけど、それだから尚更《なおさら》、気を使いますよ」
「負けちゃいられないってね」
「そうそう。だけど、そう思って土俵へ上ればコチコチに固くなってやられちまいますしねエ」
「といって固くならなきゃ、又いけないしね」
「そうかナ。わしア、何とかしてらくな気分で相撲とりたいと思ってますけどね」
「だから、固くなるってのは人気やなんかのことじゃなく、自分の相撲の為に固くなるのが本当なんじゃないですか。何時だったか、三根山さんにそんなことを聞きましたよ。土俵へ上って固くならないようになったら、もうお終いだって――」
「三根山さんがねエ……」と、彼は、しみじみした調子で、三根山や若瀬川のような熟練した古参力士が勝っても負けても、淡々とした毎日の土俵を楽しんで全力を出し切れる境地が、うらやましくてたまらないと語った。
○
三根山は、今度の福岡場所の初日前三日間を立浪部屋の稽古に参加して、今を時めく(福岡場所では、あまり時めかなかったが――)時津山、北ノ洋《なだ》、若羽黒等の立浪一門の精鋭と申合いをして、
「ああ、二、三年ぶりで、全く久しぶりで良い稽古をしたな」と、大いによろこんだそうであるが、その折、北ノ洋と申合いをしたときに、
「北ノ洋さん。あんた、立上るときには、必ず左掌を外側から廻して、それを下すか下さないかの瞬間に立ちますね。それを相手に知られたら、先手をとられて差し込まれるでしょう」そう言って忠告したそうである。
三根山の面目が躍如としている話であった。
この話を、私が家の者にすると、
「やっぱり違うわね。北ノ洋は後輩なんでしょ。でも今じゃ番附が上の役力士なのに、ハッキリと注意してあげるなんて、一寸出来ないことだわ」と言ったのはよいが、すぐに、
「あんたならどうするかしら?」
「おれなら黙ってる。喰うか喰われるかってときに、相手の不利な点を教えてやれるほど、おれは出来ていねえよ」
「そりゃ、まア、そうだわね」
「お前もヌケヌケと言うね、おい――」と睨《にら》みつけてやったが、全く此処《ここ》まで来ると、他人の批判だろうがマスコミがどうしようが、みじんも精神的な動揺は受けまいと思われた。
現に、去年、私が三根山伝を書いたときに神田の病室の一室で語り合った三根山さんは、六場所制にも大賛成であった。
私は、そのときの三根山さんの眼の光りを忘れてはいない。
テレビなどで見ると、伏眼勝ちの、いかにも童顔といった感じなのだが、すぐ前で見ると、眼尻がキュッと撥《は》ね上った大きな眼である。そして、その眼は、肚《はら》の据《す》わった、底の深い眼であった。
福岡場所二日目に、三根山と北ノ洋は対戦したが、北ノ洋が九死に一生の打棄《うつちや》りで勝った。
しかし、立合いは完全に三根山のもので充分の右四ツになり一気に寄り立て西土俵へ追い詰めたがここで北ノ洋が辛うじて右下手の廻《まわし》を引いたので必死に右に打棄ったのである。現在、また膝の故障が悪化している三根山としては、これが全力をつくしたところなのであろう。
私は、あとになって考えた。
あのとき、時間一杯になって手を下そうとした北ノ洋は、一瞬、数日前に受けた忠告を脳裡に浮べたかも知れない、いや浮べたであろう、そうすると、もしかすると、北ノ洋は反《かえ》って固くなっていたかも知れない、そう思った。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十三年一月号)
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税金とネエブル
十年間の役所勤めを辞め、執筆生活に入ってから早いもので、もう三年になる。
私が最後の二年間の役人生活を送ったのは都の税務事務所の徴収員としてであった。差押えもしたし、滞納者と口論もしたりして、厭《いや》な仕事ではあったが、しかし、私の今までにしてきた数多い仕事の中でも、この仕事は忘れ難い思い出のいくつかを残してくれている。
今でも時折、むかし自分が鞄と自転車とお仕着せの紺の背広という税務|吏員《りいん》スタイルで、滞納した家屋税や事業税を取立てて廻った町々へ、私は、ふっと散歩しに出かけることがある。
当時、整理し切れなかったほどの税金と負債に喘《あえ》いでいた店々が新装をこらして目ざましく発展しているらしい有様を、よそながら見て通るのは楽しいものだし、また反対に、確かにあった筈《はず》の支那料理店が姿を消し、そのあとに見覚えのない電機器具店などが店を開いているのを見たりすると、
「ああ、やっぱりいけなかったのかな」と、思わず溜息が出る。
その店の主人などが懸命に税金を払おうとし、悪税と知りながらも取立てねばならぬこちらの気持も察してくれて、納税に協力してくれた人であればあるほど、その溜息は深く大きい。
○
芝居の仕事で出かけていた大阪から帰った数日前のことである。
私は、女房に言いつけられてM町へ洋菓子を買いに出かけた。私の家から私鉄で二十分ほどの、そのM町は、私が税金集めに廻っていた町の一つなのである。
菓子を買ってから、例の如く、私は懐旧の思いにふけりながら町を見て廻った。
見覚えのある店や家、――その店の主人や細君の顔を遠くから眺めては、私はニヤニヤしたり溜息をついたりした。
この町を歩くのは一年ぶりのことであった。
私鉄のガード沿いの道を、ぼんやり歩いていると、五間ほど先で、健康そうな明るい娘の、張り切った声が、私に浴びせられた。
「あらア、池波さん。今日は無いのよ」
其処《そこ》にある八百屋の娘なのである。
この八百屋は姉妹二人の娘が母親と店をやっていて、私が廻っていた頃には滞納票が十枚もピンでとめられていたものだ。
たとえ少しずつでもという誠意があったので、私は、三百円、五百円、と、日銭の入るその店へ足まめに通っては、少しずつ整理をしたものであった。
「ほんとに、あんたが面倒くさがらずに寄って下さるんで、いつの間にか片づいちまいました。ほんとうにすみませんでしたねえ」とどうやら一年がかりで完納出来た日に、その八百屋のおふくろさんは私に礼を言ってくれたものだ。税務吏員としては当り前のことなのだが、しかし、こんなに手間をかけた仕事も珍らしいことだったとも言える。
「あのねえ。今日は方々へ勘定があったもんだからネ、ちっともないのよ。明日。明日なら全部片づくわ。来てくれるかしら?」
妹の方の娘は、続けざまに、私に言って、
「でも、池波さん。ずいぶん、こっちへ廻って来なかったじゃない。一年位、会わなかったわネ」
「一年どころか、三年も会ってない筈だよ」
「あら、そんなになる? 受持ちの地域が変ったの?」
「うン、変った」
「道理で――ま、お入んなさいよ、お茶を入れるから――」
「小母さん、いる?」
「ええ、姉ちゃんもいるわよ」
「此頃《このごろ》どう? 景気は――」
「おかげさんで――一枚しか滞《たま》ってないわよ」
「ふーン。そりゃ大したもンだ」
「ねえ。また、こっちの方の受持ちになったの?」
「いやア――もう役所は辞めたよ」
「あら厭《いや》だ。ちっとも知らなかったわ。じゃア、とうとう書く方専門になっちゃったの」
「まアね」
私の芝居なども、テレビやラジオで前々から見たり聞いたりしていてくれる、この八百屋一家であった。
○
店へ入って小母さんや姉妹と、私は、久しぶりに語り合った。
あれからは事業税も固定資産税も、必ず郵便局に払い込んでいたので、取立てに来る人もなかったのだが、たまたま、このところ一枚だけ遅れていたので、そのうちに誰か取りに来るだろうと思っていたと小母さんは語った。
「主人《あるじ》が亡くなってから、この娘達二人で店をやってくれたんですがネ、あの当時はあんた、他の借金が多すぎて税金まで手が廻りかねてたんですけどさ、此頃は、何とか一息つけるようになりましてねえ」
「そりゃ、よかった」
「ほんとに、あの当時はお世話かけちゃって――でもネ、店がどうやらってとこまでコギつけたかと思うと、今度は、この娘達の嫁入りのことで頭が痛いんですよネ」
「あらア、お母さん。私《あたい》達、とっても結婚なんかしないわヨ。ねえ――」姉妹、二人は屈託《くつたく》もなく大声をあげて笑った。
やがて、辞去するとき、私はムリヤリに、オレンジ色が春の陽に暖く匂っているネエブルの一包みを、小母さんから頂戴してしまったのである。
○
「アラ、そのネエブル、お土産げ? うまそうだわ」と、女房は、私の手からネエブルの包みを引ったくって、
「あら、良い匂いだわ」
「お前。うちの固定資産税は、チャンと納めてあるだろナ?」と、私は訊いた。
「ええと――三枚ばかり滞《たま》ってるかナ」
「バカ。どうして、そんなに……延滞金がつくだけでバカらしいじゃねえか」
「だって――何だか払うのがバカらしいのよ。あんたが税金屋してたときは、身につまされてたからキチンと払い込んでたけど――今になると、タダでお金をとられるような気がするもンだから、つい延び延びになっちまうんですよ」
「八百屋が一枚なのに、俺ンとこは三枚か――」
「何がよ?」
「何でもいい。そのネエブルを有難く頂戴したら、全部払って来いよ」
「ハイハイ。すぐ怒鳴るんだからネ」
女房は、私のおふくろと顔を見合わせ、首をすくめた。
おふくろも、女房も、私にわからないようにペロリと舌を出し合ったが、私は二階へ上りながら、そいつをチラリと眼の片隅に入れてしまい、舌打ちをしながら階段を駈け上った。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十三年五月号)
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余話二題
この話、二つとも余り品のよくない話で恐れ入りますが……。
(A)
大阪から上京中の若手俳優某君と一晩飲んだ。
彼は東京出身だが、二年ほど前に大阪の女と結婚し、枚岡《ひらおか》(大阪府)に住み、現在、大阪の或《あ》る劇団に所属し、ラジオやテレビにもよく出ている。今度の上京も、その方の仕事で、滞在はおよそ二週間ほどなのだそうである。
至極《しごく》安直な、それでいて新鮮な魚介類を食べさせる渋谷の恋文横丁の一寸手前の「玉久」という小さな店で、たらふく喰い、飲んだ。(この店は実に安くて実にうまい。一度お試めしのほどを……)
「池波さん、相変らず飲むと茄《ゆ》でタコみたいになりますな」と、彼――。
「うン」
「ああ、いい気持だ。ねえ、池波さん」
「うン」
「新宿も吉原もねえのか。つまらねえの」
「うン」
「ねえ――よウ。よウったらよウ……」
「何だよ」
「あのねえ――そのつまり、清潔な淫売が一寸この、欲しいなア」
「そうかい」
「チェ、他人《ひと》ごとだと思って、あんた――僕は、これで十日以上も女房と、ああ、たまらんなア」
無理もないと思った。まだ三十には三ツか四ツ間のある彼だ。
安直に遊べる赤線が廃止になったことが、旅行中の彼に、どんな不便をもたらしていることか、察するに余りある。
荒れかけて、ハシゴをやろうという彼をなだめ、目黒の旅館へ連れ戻《もど》り、そこで彼はビール。私はジュースの冷たいのを飲むうちに彼もやっと落着いてきた。
「ねえ――ねえたらよウ、池波さん――僕ね。上京して、もう二度やっちゃいましたワ」
「何を?」
「ムセイ」
「え? 何だ、よせよ、バカだな」
「この旅館で女を頼んだら四千円とられますからな。もうバカバカしくてね。そんな金払う位なら、もういっそのこと我慢しますワ」
「そりゃいいことだ。何事にも我慢が大切だよな」
「ひでえもんですワ。ほれ……」
と、彼は手を伸ばし、ボストンバッグの中から、クチャクチャに丸めたパンツを二つ掴《つか》み出した。
「おいおい。汚ねえな。洗わないのかい」
「洗いまへん。明後日《あさつて》は、もう帰れますからナ」
「奥さんに会えるな、いよいよ」
「これ、家内に土産ですワ」と、彼は、そのゴワゴワの丸めたものを私の目の前に突出し、ニヤニヤと言った。
「これ見せて、この通り品行方正でおったんやと報告すると、家内が安心しましてねえ」
(B)
二ヵ月ばかりで、出張の旅先から帰京した弟の机上に、此頃、女の裸体写真の多い週刊誌や刺激的な読物が増えてきたらしい。
「全く厭《いや》になっちまうよ、全く――あんなものを読んだり見たりして柄《がら》が悪くなったことオビタダシイじゃないか、全く……」
と、おふくろが私にこぼす。
「少し注意してやっとくれよ、お前は兄さんなんだから……」
「うむ……」
と、私も、これには苦笑するばかりだ。その理由も何だかわかるような気がする。
「それにこのごろ、何かと言うとプリプリ怒って、私に当り散らすんだ。全く生意気だったらありゃアしない」と、おふくろは息まいた。
そう言われてみると、此頃の彼は、私などにはムーッと黙り込んでいることが多く、そのくせ階下で毎夜、おふくろと口争いをしている声が多く聞えるようになったことは確かだ。
数日前のことだったが、弟は夜遅い仕事を終えて帰って来る途中、私の家の近辺の愚連隊と喧嘩をやった。
その愚連隊の一人が、深夜放送のラジオに合せて、近所の飲み屋の中で、ドラム叩きの練習をやっているのを通りかかった弟が「フフン――」とせせら笑ったらしい。
弟はトランペット吹きになろうとして、かなり練習もした位なので、
「ブリキ鑵《かん》を叩いてるような、あいつらのドラムなんか近所迷惑だから、おれ、睨《にら》みつけてやったんだ」と、後で語ったが――。
とにかくそのとき弟を追いかけて来た威勢《いせい》のいいのが、我家の前で、弟に追いつき、二言三言やり合ったかと思うと、たちまちにボカンボカンと始まったのだ。
私は仕事中で起きていたから、すぐに飛出し、庭に積んである古材木の切れ端を掴《つか》んで弟に加勢した。こういうとき非力な私には絶対得物が必要である。取っ組み合ったらとても敵《かな》わない。
「くそったれめッ」
と、私は喚《わめ》いて飛出し、一人を撲《なぐ》りつけたが。
それよりも弟の強いのなんの――まるで気狂いみたいに荒れ廻って、あとの二人をメチャメチャに撲りつけ、前の溝川へ蹴込んでしまった。近処の人も起き出して来るし。彼等は這々《ほうほう》の体《てい》で逃去った。
去年、私は弟を強く叱りつけ、生れて始めて彼を庭先へ引ずり出して折《せつ》かんしたのだったが、あのとき歯向われていたら、とうてい一たまりもなかったろう。歯向って来ず温和《おとな》しく私に撲られていた弟が、このとき急に思い出され、ひとしお、彼が可愛いくなったので私は、びっくりして起き出し眼をパチパチさせている女房に、
「ビールを買って来てあいつに飲ませてやんなよ」と言った。
弟は、唇から血をたらし、凄く生き生きした眼をキラキラ光らせ何か重い荷物を一ぺんに振り落したような調子で、
「ああ、全くもう、これでセイセイしちゃったよ、兄さん――」と言った。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十三年七月号)
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鹿児島三日間
(A)
新国劇の辰巳《たつみ》柳太郎氏が、どうしても二月に演《や》りたいと言うので私が「桐野利秋」の調査に鹿児島へ飛び立ったのは旧臘《きゆうろう》の十一日であった。戦後は初めての飛行機だが、戦時中、止むを得ざる為とは言いながら、もっと押詰められた思いで何度も搭乗した、この乗物に乗ることは、全く厭《いや》な薄気味悪い思いであった。一寸した手違い(それは余りにも宿命的な)から惹起した事故を、かつて余りにも眼前に見すぎていた為かも知れない。先輩の井手雅人《いでまさと》は私の家のものにこう言ったそうである。
「あいつは、飛行機が空中分解しても死にませんよ」
何という、非科学的な、ありがたい彼の友情であることよ。
しかし一旦《いつたん》、飛び上ると無風快晴、快適であった。しかも、あの発動機の鈍い唸り声、機内の振動は何ものかを懐しく思い出させてくれる。何ものか身内を揺さぶってくる私の青春がある――なぞと書くと「あいつは極右じゃねえか」と言われそうだが……別にそういうものじゃない。私のもっている二つの青春のうちの血なまぐさい方が私を昂奮させてくれただけのことである。これは本能である。戦後二、三年ほどは、ときどき夜中に脂汗《あぶらあせ》かいて飛び起きたほどの悪夢が、今は懐しく思い出されてくる。あの夢をもう一度見たいとは決して思わぬが、そこには突きつめた胸苦しいばかりの感傷に溢《あふ》れた私の青春の一部がハッキリと残されているので懐しいのであろう。
(俺は生残ったんだなあ!)と、こういう思いが切実に十三年後の今、旅客機の上で、かつてないほど強烈に私の胸をしめつけようとは思わなかった。
窓からの眺めは、かつて内地上空を飛んだ印象を再び呼びさましそのひたぶるな思い出の追求のうちに、……あッと言う間に九州上空へさしかかっていた。
高千穂の峰を擦り抜けて行手に錦江湾をのぞみ、徐々《じよじよ》に、しかも猛烈な速さで桜島の山腹を飛び抜け、ぐるり廻って鹿児島の鴨池飛行場へ着陸する。紺碧《こんぺき》の空と堂々たる二つの火山の偉容と、鉛色の海と白い雲と……機上からの、この景観は、今もって忘れがたい。鴨池空港に降りたった私は、秋口から悪化しつつ最近はことにひどくなっていた痔の痛みを、すっかり忘れてしまっていた。
(B)
私が今度芝居に書く「桐野利秋」という豪傑は、何十人何百人の女にモテたという、男性的美男の上に、恐るべき剣の使い手であって、西郷隆盛の片腕となり、幕末から明治にかけて活躍。かの西南戦争に賊将の一人として西郷と共にサイゴをとげた有名な男である。
資料も出来るだけ集めたが、いずれも桐野については通り一遍のもどかしさより得ることが出来ず、本の締切も迫るばかりなので、思い切って鹿児島行を決心したわけであった。私の考えでは鹿児島へ行ってみても特別|雀躍《じやくやく》するような材料は得られないと思っていたのだが、果してそうだった。
県立図書館、郷土史家、新聞社の人々、いずれも徹底的に親切をつくしてくれる。
今まで地方へ調べに行って、これほど親切に協力してくれるという市、町、村を私はかつて知らない。ことに朝日新聞支局長の原田磯夫氏には大変お世話になってしまった。
鹿児島人は排他的だという。しかし二日間の鹿児島滞在中、私はみじんもそれを感じさせられることはなかった。
車の運転手、物産館喫茶室の老主人、喫茶店の女の子、図書館の女事務員、町や村で道をきいた老若男女、いずれも礼儀正しくきわめて親切であった。
二日間をフルに使って予想外に調査内容がひろげられたのも、みな、これらの人々のおかげであると私は思っている。
買いたい人は勝手にお買いなさい――と言わんばかりの、味も素ッ気もないメインストリートの装飾ぶり。
「市内にはゴーストップなんか三ツか四ツでございもす」と宿の女中さんが教えてくれた、その市中の、のどかな、のびやかな景観――。
そして、鹿児島湾にそびえる桜島の風光――。
帰る前の日の午後、桜島へ蒸汽船で渡り、二時間ほど見物してから、また湾内を市へ戻って来るとき舟着場のある「袴越《はかまごし》」と呼ばれる小丘陵の向うから……舟が遠去《とおざ》かるにつれて徐々に頭をせり出してくる桜島が、夕陽に突端を紅く染め始めたかと思うと、それは忽《たちま》ちに紫色に変り、桔梗《ききよう》色の暮色の中に、やがて巨大な噴火山の全容を、くろぐろと海に浮べてくる――船の動きと共に変るこの景観のリズミカルな美しさは、鹿児島二日の滞在中、もっとも印象深いものがあった。
(C)
それから宿がいい。宿の女中がいい。このあたりでは、娘さんに家庭教育を身につけさせる為に旅宿づとめをさせるそうで、だからチップの如何にかかわらず懸命のサービスをしてくれるのである。懸命といっても鹿児島の女子《おごじよ》には色気がないから、女中恐怖症にして、かつまた宿の女中にモテること凄まじい井手雅人兄が宿泊しても、そのカユイところへ手の届くサービスぶりに気が弱くなり苦悩することもあるまいと私は考えた。
あるのは男性尊重のお国気風である。
恐らく井手兄が、この鹿児島の宿で執筆せんか、必ずや名作シナリオの二つ三つは生れるであろう。ただし食べ物はあまり……?
しかし、桜島の一角にF温泉というひなびた温泉地があって、その近くに林芙美子の文学碑があるというので訪れた私は、このF地の宿の、これは一寸、本誌の品格を損うオソレあって筆には出来ぬが(私が、そのような言動をしたのではない。断っておくが……)つまりその温泉一帯の、何というか、ちょいと都人のドギモを抜くイカモノ的な風格?に私は一種の感動をおぼえた、ということを記しておきたい。
(D)
最後の一日――私は磯の島津別邸を見物した。その武人的な剛健素朴な清潔な建築と庭。庭に、海と桜島が一杯にひろがる、この海岸の薩摩の殿様の別荘の美しさも心に残った。
戦災で九割五分は焼け果てたそうだが、その残りの五分というのは「沖ノ村」という遊郭一帯を指す。明治開化の横浜風俗に見られる如き西洋風の古びた建物が、森閑《しんかん》として「禁止法案」に拗《す》ねていた。
そして鹿児島の芸妓は全部で十八人、大へんに繁昌している。
かくして、三日後の朝――再び南国の冬の陽を浴びて機上の人となった私の胸につかめたものは、(成程《なるほど》、桐野利秋が生れた国じゃわい!)と、言うことであった。来た甲斐《かい》ありというべし。
飛行、約五時間にして夕暮れの羽田上空に日航機が近づいたとき、私の尻は、またヅキンヅキンと痛み始めてきたのである。
私は、忘れ切った落しものにめぐりあったように、私の身心を刺激してくれる懐しい痛みの中へ三日ぶりで懐しく浸《ひた》りつつ、着陸したのであった。(三十四年一月・大阪の稽古場にて)
[#地付き](大衆文芸・昭和三十四年二月号)
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伊豆の春
(A)
毎年、二月の末になると必ず伊豆へ出かけるのが、ここ六、七年来の習慣である。毎年、大晦日に街へ出かけて映画を見て飯を食って万年筆を買うのと同じ習慣になっていたのだが、旧冬から今年にかけて、この二つの習慣を実行することが出来なかったのは、丁度《ちようど》、芝居の仕事がはさまって大阪、九州と出かけたり、二月は劇場へ行く日が多かったからだが……それにしても、まだシーズン前の、今や春の息吹きに溌溂《はつらつ》たる青さを取戻《とりもど》し始めているだろう静かで暖かな伊豆の海を見ないことは寂しく、それに下田港を調べに行く仕事もあったりしたので、私はウイークデイの一日をえらび三月に入ったばかりの或日《あるひ》、雨上りの伊東駅へ降りた。
やはり習慣は破るものではない。
三月に入ったばかりの大安の日が昨日というので駅前広場のバス発着所は、眼もアヤなる新婚のカップルで充満している。たった数日の違いで僕の嫌いなシーズンが伊豆にやって来てしまっていたのだ。
水害地の三島から天城へかけての温泉地を遠慮する傾向もあって、海岸沿いは何処《どこ》も彼処《かしこ》も満員だと言う。
顔見知りのM荘の案内人、と言ってもおばあさんで毎日駅前に詰めているひとだが、
「どうせ今日は混んで何処へ行っても同じでござんしょうヨ。だから何とかハメ込みますから、|うち《ヽヽ》へ……」
「昨日が大安だとは知らなかった」
「あなたは混むのがおきらいだから――明日はガラッともう、空きますですヨ」
「じゃ明日おばさんとこへ泊る。今日は蓮台寺《れんだいじ》にする。どこか探しとくれよ」
近頃、いわゆる山間のひなびた宿というのがイヤに人擦《ひとず》れして来はじめたのに引替え、東京近県では伊豆と上越の、観光協会というのか、宿屋全体の協力サービスは如何にも快いものがある。
自分の宿でなくてもそれは親切に案内し、探し、電話をかけ連絡をつけてくれる。
例外もあるだろうが、私は近年この二つの温泉地で不快な思いをしたことがない。
蓮台寺の宿がとれた。
急行バスに十二組の新婚である。
いずれも女の方を窓際《まどぎわ》の良い席に坐らせ、男が通路際に坐ってこれを守る。一人がカメラをとり出すと、一斉に男どもはカメラを構えて新妻に向ける。シャッターの音がバス内に充満する。うるさい!
(B)
下田港の人口は、五、六千もあろうか。
この歴史の匂いを今も濃厚に漂わせている港町は現在でもヒンターランドを持たない。つまり消費の町だ。そして旅情の町である。
新婚組は、名所古蹟以外のこの町の裏手を余り歩かない。
疲れ疲れた身に鞭打って、彼等は交通公社が組んだ廻遊券のスケジュールをへめぐるのみだ。
結婚式は大安の日にやってもいいが、旅行はもう一寸延期するか、さもなくば前にやっちゃったらどうだ。もっとシーズンオフのときにゆっくりやったらいいではないか。新妻同士はバスの中でチラリチラリと互いの服装を点検し合い、男どもは照れくさそうにあくびの連発だ。
バスの窓外の美しい風景も物かはガクンと頭を垂れて眠りこける新妻。それをイマイマしげに見やりつつ舌打ちする和製ターザンの如き美丈夫《びじようぶ》。早くもノオトをひらいて支出した金額を計算する新妻。男同士は何となく眼が合うとニヤニヤとするか、又はツンと傍を向き合うか……悪いようだが、見ていると仲々おもしろい。
私は下田の平滑川をはさんで立並ぶ古めかしい花街や、七軒町、坂本町の石畳の路地(そんな路地の中に、ひょいとお稲荷さんが祀《まつ》られてあったりする)や、又は大工町、原町などという魚市場裏の通りをブラブラと歩くのが好きである。
禁止以来、娼家はさびれ、大方は宿屋・料理店に替った。白亜のレストランが一軒出来て、この情緒たっぷりの花街のおもかげは消えようとしている。
しかし芸妓は旅客のまねきで大繁昌。昼間の町を歩いている芸妓の中にハッとするような美人がいるのも前と変らない。
(C)
下田から河津浜へかけて、今度出来た有料道路は実にすぐれたドライヴウエイになった。
波浪の浸蝕激しい南から東にかけての海岸は複雑な屈曲を見せ、見る見る青味を増した海の面は、あくまで明るい陽を受けて光る。
バスは何処《どこ》までもこの海と離れず、入江入江の小さな港や白砂に生える松や、白く泡を噛む波濤を縫いつつ快適に走る。
海の彼方に浮ぶ大島や利島、神子元島などの伊豆諸島は、走るバスを何処までも追って来る。
おそらくこの道路は日本のドライヴウエイの中でも屈指の美しいものとなったのではあるまいか。
帰京の前の夜は今井浜のM荘へ泊った。これでたしか三度目だろう。明くる日、今井浜から出るバスには新婚は三組。大方は昨日のうちに帰京したものだろう。いずれも静かで好ましいカップルと見た。
中にも、私のすぐ後ろの一組は美女美男子で仲々甘い。男は頼母《たのも》しいことをしきりに言っている。
「ウフン、でも、あたし心配だわア」
「大丈夫々々々。何人生れたって……(一寸聞えなかったが、やがて)……セイカツテキには僕が君……(又聞えない)ね、僕だって今のままじゃいないもん。僕アね、今の会社じゃ、これでも、かなり腕を振ってるんだからな。知らないの……」
「ウフン、知らない……」
熱川《あたがわ》へバスが着くと、ドヤドヤと乗り込んで来た十人ばかりの女も三人交じる高校生とこれを引連れている青年の二人。東京近県の何処かの町から遊びに来たらしく、すこぶる荒っぽい。席がないので通路に立ちはだかり大声に昨夜の騒ぎそのままの放歌、おしゃべりが続く。
そのおしゃべりが、私もヘキエキする体《てい》のものだ。
それまで仲良くしゃべっていた後の二人は、とたんにあおられてシーンとなる。
そのうちに彼等は、この新婚の二人をニヤニヤ眺めながらコソコソと、又は急に高い声で、からかいはじめた。
その台詞《せりふ》は、全く高校生が口にすべき筈《はず》がない猥褻《わいせつ》極まるものだが――しかし、近頃は、真面目な学生の中の少数のものの中に確かにこういう学生がいるのである。
後の席で新妻がそっと言った。
「あなた。叱っておやりなさいよ」
「ウーム……」
新郎は眼を伏せた、らしい。
「ねえ……ねえったら――私、もうガマン出来ない」
「ウン……ウーム……」
この新郎、案外頼母しくない。
他の乗客達は勿論、知らん顔だ。ここで私が口を出して彼等をやっつければ、私もいい男だったんだが……。
そのうちに、新妻は苛《い》ら立ちつつ何か良人《おつと》に強く二言三言言ったかと思うと、いきなり腰を浮かせて、くだんの高校生達を睨みつけ、鋭く、
「あんた達、何処の学校ッ!」
意外、連中はピタッと静まった。
新妻は腰を下ろし「意久地がないのねえ」と低く良人に言った。これは私にハッキリと聞えた。
バスの中を沈黙が支配した。
バスが伊東へ着き、私は後から降りて来るその新婚二人を眺めた。
新妻はハイヒールの音をカツカツと鳴らして一直線に駅へ進み、その後からシオシオと新郎がボストンを抱えて従《つ》いて行った。
春の陽は今日も燦々《さんさん》と頭上にあった。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十四年四月号)
[#改ページ]
三昧
鳥取県米子市から日本海に突出し、その突端を島根半島が扼《やく》している弓ケ浜半島の余子《あまりこ》村に住むS老が、何年ぶりかで所用の為上京して来たそのついでに、わたくしの宅を訪れてくれた。
わたくしは、昭和二十年四月から終戦まで海軍八〇一空に所属して半島の特攻隊基地に勤務し、このS老の家の蚕室《さんしつ》に分宿していたことがある。以来、文通は今までも続いてはいたが、会うのは十四年ぶりのことであった。
ちょうどわたくしは痔の悪化で慾も得もなく何も放ったらかしにして、|ふとん《ヽヽヽ》の中で、(シチテンバットウ)をやらかしていたのだが……S老の訪問は、その余りの懐しさ、耐えがたい嬉しさ、押え切れない感傷と思い出の噴出によって、しばしば激痛を忘れさせてくれたのであった。
烏賊《いか》や鯖の干物、野菜などの手土産と共に、老はワラ半紙を閉じた一冊の帳面の如きものを取出し、
「これはなあ、池波さんが友達の皆さんとつくっとられた回覧の本や。復員するときにわしがねだって一冊頂いたもんやけど、今ごらんになったら、きっと懐しいと思われるに違いないと娘達がゆうもんで……」
見ると、わたくしは思わず、
「こりゃ凄い。復員のときに、皆で一冊ずつ分けて持ち帰ったんだけど、その一冊が何処《どこ》かへいっちゃって、ほんとに残念だったんですよ。これ、返して下さいますか?」
「ええ。わしは、もう中味をみんなノオトに写してきましたよ」
「そ、そりゃどうも……」
このとき、わたくしはその日、いや、前の晩から引続いている何度目かの慾求に急襲され、あわてて便所へ駈け降りた。わたくしは、どうせ二、三十分の苦しみを便所の中で耐える為に、そのワラ半紙の小冊子を手にすることを忘れなかった。
出るものが出ない苦しみ。きんかくしの中へ、出たがっている余計《よけい》な物を、肛門の腫《は》れと痛みが通せんぼしているその苦しみに、五体をよじらせながら、私は本のページを繰った。
本と言っても同好の水兵、下士官五名ほどが集り、一ヵ月に約一回、それぞれの随筆や、俳句、短歌などをおのおのザラ紙にペンで書き一冊にとじ、表紙をつけ(その表紙に張る画もおのおのが交替で描いたものだ)回覧をしたものである。本の名前は「三昧《さんまい》」とつけた。つけたのは今、三井銀行でもうかなりの地位に就いているであろう中村幸一一等水兵である。中年で応召した中村一水は俳号を穂哉《すいさい》と称し、彼の作品も〔西瓜喰むや想い出に生くこの一年〕〔老農の手指|逞《たくま》し西瓜切る〕など数句が彼のペンによって記載されてある。この(老農)はおそらくS老のことであったろう。中村一水は当時池波二曹の部下であった。(ヘンなところで威張ってるわけではない)
読みすすむうち、わたくしは、あの一日一日と絶望の深まるうちに暮した半島の生活がまざまざと胸に浮び、美しい白砂の地質と純朴な人情と、爽《さわ》やかな初夏の微風と新鮮な魚類に取巻かれつつ、決死の搭乗に、対空戦闘に、又は巡羅《じゆんら》隊の勤務に明け暮れした「三昧」の同人達の声を、この小冊子のページの中からハッキリと聞いた。
そして何よりも驚いたのは、わたくしが、この「三昧」第2号に発表した俳句や短歌のおびただしい数量である。それはいずれも稚拙《ちせつ》な作品ばかりで恥ずかしい思いをするばかりだが――しかし、これだけの歌や句を激烈な勤務の余暇によくもつくり出したものだとわたくしは我ながら感動した。
それは着想も技術もお話にならぬものでありながら、ともかく一木一草に、おのれの生活に、ひたむきな思いを込め、日々感動を新らたにして働いていたことがよくわかったからである。
「六月十日、中島滋一を思う日に」と題する連作のうちの一首に〔また会ひて語るときとてなかりけむ、砲火の響《とよ》み、いやまさる夏〕とある。このときは生きて帰ることなど夢にも思っていなかったのであろう。少年のときからの友、中島は今、元気によき夫、よき父として暮している。
「ありがてえナ」
わたくしは思わずつぶやいた。そしてやっと転がり出た少量のものを壺の中へ落してから、しびれた足を伸し、またしゃがみ込んでページをめくった。
はなはだ読む方には御迷惑なのだが、このうちのわたくしの短歌連作を次に記させて頂きたい。
[#ここから1字下げ]
軒端の下
宿舎に当てられし母家の姥《うば》のひねもす豆をむきはげむ姿に心打たれて――。
朝凉の軒端の下に筵《むしろ》のべ姥が豆むく仕事場といふ
眼も耳も不自由なる姥の手をとりて主婦は軒端《のきば》へいざなひにけり
この家の主も主婦も野良に出で留守居の姥はひとり豆むく
今日も晴 軒下かげにひつそりと働きつづくちひさき姿
地を低み頬かすめ飛ぶつばくらに姥は手をとめ首をかしげり
この家の主婦は野良より帰りきて姥が手をひき昼餉《ひるげ》知らすも
昼下りふと気がつけば姥の手はまたも軒端に豆をむきをり
耳遠き姥が代り立ち出でて役場の伝へ我は聞くなり
夕されば杖手さぐりにみじろがずさやゑん豆《どう》をむき終へにけり
むき終へし豆片寄せる姥が背に夏蜜柑の花散りにけるかも
陽ざかりをひねもす豆をむきつぎて倦《う》まぬ励みぞ老の身にして
(その翌朝に――)
朝凉の奥の小部屋に姥はまだ眠りさまざま疲れたまふか
[#ここで字下げ終わり]
すでに敗戦は誰もが知るところであり、暗澹《あんたん》たる自暴自棄的な戦務に従っていたわたくしが、行手も見えぬ絶望の日本の国土の一隅にいて黙々と豆をむいている老媼《ろうおう》の姿に、こんな深い感動を受けたということ、そしてそれは我ながら、みずみずしいものであったと思い及んだとき、わたくしはタラタラと思わず涙をこぼしてしまった。
今、作家の端くれとして、どうにか仕事をし、どうにか食べている自分に、これだけの感受性があるだろうか。これだけの一日一日のすべてを深く心にとめ、想いをつのらせる感情が残されているのだろうか――そう考えたとき、わたくしは何とも知れず泣けてきたのであった。
S老は、やがて家のものに言ってどくだみを買いにやらせ、これを煮出して、わたくしに腰湯をつかわせてくれた。
「一時しのぎだが楽になる。あとは医者に診てもらいなさい」
「すみません」
「三昧の中の句や歌はみんなええなあ。わしゃほとんど暗記してます」
「今、便所ン中で読んだんですがね。今の私が、どんなにガサガサしちまってるか、思いきり知らされました」
「そりゃ誰もそうですワ。わしだって、あの当時の思いつめた悲しみや嬉しさは、今はもう味ってみることが余りないワ」
「しかし、もう一度、あの頃の自分を取戻《とりもど》したいなあ」
S老は黙って、熱い湯をタライに注いでくれた。
わたくしはふと思いついて、腰湯に汗ばんで来る両膝を抱え、家のものに広辞苑を持って来てもらい〔さんまい〕の項をひいてみた。
〔三昧〕―(梵語《ぼんご》)心を一事に集注して他念のないこと。一心不乱に物事をすること……とあった。
思うに中村一等水兵も、あだやおろそかに、このささやかな小冊子に命名したのではなかったに違いあるまい。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十四年五月号)
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喫茶店「スワニイ」主人
私は、午後三時に銭湯が開くとすぐに出かける。品川の一角にある私の住むこの町は、繁華な商店街と下町風の職人の家とサラリイマンの住宅とがゴチャゴチャに入交っているところだが、口開け早々、湯屋にやって来る人の顔ぶれは、何処の町の湯屋でもそうであるように大てい決っている。
まっ先に湯槽へ飛込み、二十分もの間ユデ上るにまかせて、後から入って来る連中の股間を毎日飽きもせず、しげしげと観察する表通りの自転車屋の隠居――路地奥の踊りの師匠と結婚して、まだ通学中の医学生は毎日入浴中にヒゲをそるのだが、ヒゲが濃いのと剃刃が切れないのとで何時も顔中血みどろになっている。その他いろいろ数人の常連があるが、いずれも毎日の入浴を欠かさぬところを見ると清潔好きな人ばかりなのであろう。喫茶店「スワニイ」の主人も同様である。
主人といってもまだ二十四、五歳。若手人気力士の柏戸を生っ白くニヤけさせ、体重を三分の一ほどに減らしたようなのが彼だ。痩せているくせに肩から腕の筋肉は固そうで、胸毛が凄い。そのくせ脚には一本も生えていない。ヒゲは濃く毎日必ず二、三十分もかけて入念また丹念にそる。
彼はまず入って来ると持参の小さな脱衣籠に着衣を脱ぐ。私も昔、銭湯の籠を汚ながって新聞紙をひろげ、その上に脱衣した老人を見たことがあるが、籠を持参というのは初めてお目にかかった。口開けの閑散とした脱衣場だから常連が、その奇異に馴れると、さして目立たなくなる。彼も、だから混み合うときには決して現われないのであろうか。
彼は洗い場に入り、まず石鹸を泡立て、タイルの置台と蛇口を洗う。こういう潔癖屋さんはよく見かけるが、私が特に奇異に感じたのは、彼が入念を極めて、その肉体を三度洗うことである。つまり石鹸を塗りつけて洗っては流し洗っては流しを三度やるということだ。そんなにも毎日、彼の体には洗い落さなくてはならぬようなものがくっつくのだろうか。いくら若い脂が豊富でも、こうも極端に脂をこそげ落しては寒中など風邪を引きはしまいかと心配になる。頭髪も毎日必ずオイルシャンプーで洗う。その後をポマードで固く固く塗固めるのだ。
だから彼の入浴時間は、たっぷり一時間二十分はかかるそうだ。私は湯屋の女中に聞いたのである。私は用便の時間と入浴の時間と比らべると用便の方が倍も永いそうで、母親がたまりかねて近所へ借りに行ったことが、ここ数年間に三度はあるほどだから、彼の入浴につき合ってはいられないのだ。彼が上り湯を浴びているときに私が入り、私がサッと入りパッと洗って出て来ると彼はまだいる。彼は顔にクリームをぬりたくり、オーデコロンを両掌にとって全身くまなきまでに塗るのである。(彼に抱きしめられる女性は何と幸福なことか……)
その女性はいるのだ。彼より七ツか八ツは歳上の大年増で、痩せぎすの何時も眼のまわりに薄い隈を浮かせている女で、彼がこの女と銭湯の近くの横通りで喫茶店「スワニイ」を開業してから約一年半ほどになるだろうか。
私は開業早々からこの店へ出かけるようになった。ただし大相撲のテレビ十五日間の六場所中に限ってである。
私のテレビを買わぬ理由は種々あって、これはまた改めて書き度《た》いと思っているが……しかし自分の作品をたまにテレビでやるときとか、大好きな相撲が始まるとかするときには、近頃は必ず「スワニイ」へ出かける。
何故なら「スワニイ」は静かだからだ。昂奮の油汗を流して相撲を一心に見る私にとってはうるさい野次馬の批評が耳に入らないのは有難い。静かにもなんにも、この店へは、開業以来一年余、めったに客が来ないのである。
「オレンジスカッシュ」はないかといったら出来ないという。アイスクリームもない。出来るのはコーヒー紅茶。それにレモンスカッシュだけである。レモンが出来てオレンジが出来ぬのはどういうわけか、大して違わぬスカッシュだ。一年半もたつのだから何とかしたらよさそうなものだが、かの柏戸を生っ白くした主人はガンとしてメニューを変えない。もっともレモンスカッシュというと、あわてて隣りの八百屋へレモンを買いに行ったことがあるから、思うに資金難なのであろうか。勿論《もちろん》、女の子は一人もいない。何から何まで主人一人のサーヴィスである。それにしても高い家賃の貨店舗によくもがんばっていられるものだ。だから近頃では私が行くと、主人はもう待兼ねたように、「あ、いらっしゃいマセ。お待ちしてました。只今《ただいま》安念山が負けましてね、カンタンに――レモンスカッシュ? ハイかしこまりました」と、ホッとしたようなよろこびを顔一杯にみなぎらせて、そそくさと用意にかかる。
そそくさとかかるのはいいが、飲みもの一つ作るのに、これがまた彼の入浴と同様、やたらに永いのである。水を出し新しい灰皿を出し、狭い店内を行ったり来たり主人は忙しそうに動き廻るが――まず注文の品が運ばれるのは五、六番の取組が経過してからだ。
これでは客は来ない。
主人の好みで卓や椅子、壁にも戸にも、チリ一つ止めずに磨かれてあるが、そんなことよりもまず若い一寸イケる女の子を店におくことが、この辺りでは一番肝心なことなのである。
以前は彼の(内)か(本)かしらないが、彼の妻が店に出ていた。しかし三十を越えて妙に閨房の執念が凝《こ》り固ったような彼女に興味をおぼえる客はなかったようである。半年ほど前から彼女は何処《どこ》かへ働きに出ているようだ。
一見して水商売を永くしてきていることが判る彼女と、少年の頃は良い家庭に育ち、のちに何処かのバーテン稼業にでも踏み込み、互いに結ばれて商売を始めた、とでも想像される彼と彼女だ。
それにしても近頃は、いよいよ店に衰退の悲愁が、濃く暗く滲《にじ》み出てくるようになった。
「やあ!」と入ると「いらっしゃいマセ!」と、飛びつくように主人は愛想笑いを浮かべるが、用が済むと、黙念とカウンタアの後ろに座り込み、私が出るとき燕のように飛出し「明日もどうぞ」とドアを開けてくれる以外、口もきかない。これで本来はこうした商売に向かぬらしい、彼は精一杯なのであろう。しかし、こうした彼と浴場に於けるお洒落な彼とは、全く一つのタイプとして受けとり難い複雑さをもっている。第一店の景気が悪すぎるのに、よく毎日使うシャンプーやオーデコロンがつづくものだ。こういう突っころばしタイプの彼が、駅前の飲み屋が並ぶ小路で土地の与太者二人を目にも止まらぬアッパーカットで伸ばしたということを――、精神薄弱の気味あって、二十九歳になっても十五歳位にしか見えぬサンドイッチマンの|まあ《ヽヽ》ちゃんに家のものが聞いてきたのは、つい一ヵ月ほど前のことである。
私は作家の端くれとして、もっと人間を勉強しなくてはいかんとそれを聞いてつくづく思った。
まだある。
これほど馴染《なじ》みになっている私と、毎日浴場で出会っても、彼は一言も口をきかんのである。
暇な店だからと気を使い寒中にも我慢して一番値の張る氷入りのレモンスカッシュを注文する私だ。たまにケーキがあれば無理して二つ買い、その為《ため》に胃の薬を買ったこともある。何も客づらをしているのではない。こういう私に「やあ!」の一言位かけるのが常識であるのだが、彼は私と眼と眼を合せても冷然と、完全なる沈黙を行使している。
公私の生活をキチンと清潔に分けたというモラルが、彼を支配しているのだろうか――。
この名古屋場所も、私は十五日間の内十二日は「スワニイ」で大相撲を見た。この間、私以外の客は通算して三人であった。相撲テレビをやっているときでさえこれだ。推して知るべしである。表通りのにぎやかさから横に外れた通りだと言っても近くには繁昌している喫茶店が三軒はある。静かなのはよいが近頃では私も、何となく気詰りになってきている。気の毒でもあり、最後までこの店の客となってこの店の終焉《しゆうえん》を見届けるつもりではあるが……こうした気詰り、つまり活気のない陰気な店の雰囲気が客を遠退けるのだということを私は身に沁《し》みて知った。
悪循環は、いよいよ悪循環を呼ぶのである。それにまた水商売出身らしい彼女が、一向に店の変化へ気がつかぬ風なのも不思議といえば不思議である。
数日前の夜――用事の帰りに「スワニイ」の前を通りかかり、暗くキャンドル風の照明に沈み込んでいる店内をのぞいて、ふッと入ってみる気になった。
「やあ!」
「あ、いらっしゃいマセ。お珍らしいですねえ」
「相撲のときでなきゃ来ねえものなあ」
「いえ、そんな――レモンスカッシュ? ハイ」
相変らずポツネンと主人ひとりだ。
レコードが低く鳴っている。ルイ・アームストロングの「ロッキング・チェア」である。
彼は独り、ルイの渋い濁《だ》み声に聞き入っていたものと見える。
彼はジャズが好きらしい。しかも、かなり渋い好みであるらしい、と私は思った。
「ナイターをごらんになりますか?」
水を運んで来た彼が訊いた。
「そうだな……」と言って、私はふとあることを考えつき、
「かけてもらいましょうか」と応えた。
レモンスカッシュを飲み、しばらくテレビのナイターを見てから私は立上った。
「どうぞ、また」と、彼はドアをひらいた。
相撲中のときと違い「どうぞ明日も――」と言わなかったところに、私は彼のシンセリテイを感じた。
私はドアの外へ身を移しながら言った。
「あのねえ――こんなことを言っちゃ何だけどねえ。あのさア……」
「は――?」と彼。
「もう野球のシーズンだよねえ。だからさあ、あのねえ黒板を買って来てさ、小さいのでいいから――。今日は何時から何と何の試合をテレビでやるってことを白墨で書いてさ、店の前へかけといたらいいと思うんですがねえ」
(どうでござんしょう?)までは言わずに、さっさと帰って来てしまった。
二、三日して前を通ると黒板がぶら下っていた。私は入らずに通りすぎた。
さて一昨日の昼湯で、彼に会った。
と、珍らしや彼は体中に盛り上る石鹸の泡の中からニッコリと私に微笑みかけたではないか。
(や……?)
彼の意志を重んじ、浴場内では冷には冷をもって相対していた私も思わずニタリとすると、彼は言った。
「おかげさまで――黒板、効果的でゴザイマシタ」
「そう……そいつはよかった」
台詞のやりとりはこれ切りであったが、思いなしか、体に石鹸を塗りたくる彼の腕も明るく躍っているようだった。
以来二日たったが、景気を見に行こうと思って行けずにいる「スワニイ」に於ても、昨日は芝居見物の為、今日は昼寝をしすぎて夕方の入浴となった為――何時もの時間には行けなかった湯屋に於ても――彼にはまだ会えずにいる。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十四年八月号)
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あらまきの鮭
腹を空かして帰宅したら、外で済ましてくると思っていたらしく、
「これで食べてよ」と、うちのものは新巻鮭の切身を焼いて膳に出した。
「これだけか?」
「あとはナスの味噌汁《おつけ》」
「それだけか?」
「それからキャベツのお香《こう》コ」
「それっ切りか?」
うちのものはカンシャクを起し、
「たまには文句言わずに食べたらどうオ」
「おれは一日のうち一食はパン二切れだ。晩飯だけを楽しみにしてる。仕事をして眠るとき、明日食う晩飯を思い浮べつつ眠る位だ。それをお前……」
「帰らないと思ったから用意しなかったんじゃありませんか」
例の如くつまらぬ喧嘩になった末、うちのものは言った。
「昔のこと忘れたの?」
「何が何だ、何が昔だ?」
「Sさんのお母さんのことよ」
「フム……」
私は黙った。黙って飯を食い出した。うまかった。四杯食べた。思い出が味覚を倍加したものらしい。
思い出へカットバックしよう。十余年前、終戦直後――あの真暗な、|ひでえ《ヽヽヽ》頃、私は、|ひでえ《ヽヽヽ》生活をしていた。年中、腹を空かしていた。ヤミで儲けることの手はいくつも知っていながら、その手を出さなかった頃だ。
由来《ゆらい》、私は、こすっからいところがありもし、やってもきた奴だから手を出さないことが切なく辛らかった。あのとき手を出していたら、今の私よりも、もっとひどい奴になっていたろう。金は儲けたかも知れぬが……。などということは、どうでもよい。そのSの母のことに移ろう。
Sは小学校の同級生だ。現在、大阪の或《あ》る放送局で腕利きのアナウンサーの一人である。交際は今もつづいている。子供が二人、奥さんが一人(これは当り前だが)。この奥さんも実によろしい人である。子供もよい。夫婦子供みなよい。それでいて、この一家からSのお母さんは離れ、東京近郊に別居している。どうも息子とも嫁とも気が合わないらしい。いや合わなくなってしまったものらしい。
Sは長男だけに何とかして呼び戻そうとこころみるが、ガンとして応じない。
子供や孫と別れて一人暮ししているほどだ。余程《よほど》、気が合わないのだろう。
しかし、私にはうなずけない。
「あのお母さんがねえ、おれにはわからねえな」と言うと、Sは、「おれにもわからん。しかし人間って奴、年をとると意外に変るぜ」
Sの母は、私が子供の頃からの馴染みだ。やさしい温和な人柄で、親類中から〔毒口《どくぐち》のお鈴〕と異名をとった私の母の乱暴な巻舌とは、口のきき方も雲泥の差があった。
(いいな、Sの奴は――あんないいおふくろをもって……)
私は、わが母から張り飛ばされ、ギャンギャンと叱り飛ばされる度びに、そう思ったものだ。
しかし、その私の母も老いて隠居している現在、全く昔のおもかげはない。甘ったれの弟が二十五にもなって、私に内密でせびる小遣いに応じ「ハイヨ、ハイヨ」と右から左である。昔なら、
「金の成る木でも持っていると思ってやがるのか。ふざけるんじゃない」と一喝の下《もと》に跳ねつけられるところだが……。
さて終戦後――私もSも復員して、また交際が始まり、私はよく埼玉のSの家へ遊びに行った。
Sの母は相変らずで、私が行くと精一杯の御馳走をしてくれる。泊れ泊れと口をすっぱくして言われたが、その頃の私は朝早い仕事をして食べていたので、何時も夜更《よふ》けてから東京へ帰って来ることにしていた。だが、たった一度、話込んでしまって終電車を逃がし、泊まったことがある。
翌朝――Sが眠っているうちに床を脱け出し、そっと裏手へ廻り、庭の井戸で、そっと顔を洗っていると、
「さア、御飯出来てますヨ」
台処《だいどころ》から声がかかった。
まだあたりは薄明が漂っている。
黙って帰るつもりでいた私は恐縮した。Sの母は、私の為に早起きして、熱い飯と熱い汁をととのえてくれたのだった。
感激して、その朝食をいただいたのは言うをまたない。
「御馳走さまでした。遅くなりますから、じゃア頂き立ちで――」
と私が立ちかかると、Sの母は、「ハイ、お弁当」と、アルミの部厚い弁当箱を私に出してくれた。
「いや、これは……」
「そのお弁当箱、返さなくてもいいから、あんた使えたら使って下さいヨ」
「すみませんなあ」
また感激した。あの食糧欠乏の時代には、食物に関する感動が、ひとしお強烈に残っていることは誰しもそうであろうと思う。
その私の感動は、その日、戸外の仕事場で、その弁当をひらいたときに、頂点へ達した。
その朝、Sの母がむしりとったばかりの青い紫蘇《しそ》をきざみ、これを炊き込んだ御飯を俵型に握ったものがギッシリと詰められ、片隅に、オレンジ色の肌もつややかな新巻鮭の切身が横たえられてあった。
そこには女の情が、見るも暖くこめられていた。
息子の友に対する愛情が、ひたむきなるよろこびをさえ伴って、その弁当に、新巻の鮭の焼加減に生き生きとこもっていた。
この弁当箱のフタを払い、中を見たとたん、私は落涙した。いやほんとうに……。そしてこのとき、私は人生に対する闘志を猛烈にかきたてられたことをハッキリと覚えている。
「美味そうだなあ。一箸くれよ」
「おい。僕の蒸しパンと少し取替ろよ、そのお握りをさ――」
等々、あたりの同僚達が一斉《いつせい》に喚《わめ》き出したほどに、その弁当は見事なものであったのだ。
私は言った。
「済まないが、こいつはおれ一人で食うんだ。とてもとても勿体《もつたい》なくて君達にアやれねえのだ」
私という奴には、こういうイジキタナイところがある。厭《いや》な奴だと思うのだが……。
かくて十余年のうちに、Sは、九州、京都と転勤して大阪勤務となり、母親と別居していることは前にのべた。
仕事で下阪しSに会う度びに、私はSに、Sの母の安否を尋《たず》ねるが……しかし、東京近郊に住むSの母を訪ねてはいない、一度も……。
心にとがめてはいるのだが、しかし訪れることは恐ろしい。
勿論《もちろん》、Sの母にしても相当な理由あってこそ、息子との別居を決意したものであろう。だが現在、彼女を訪ねてSと彼女との紛争を耳にすることは、私には耐えられないことだ。訪ねれば耳にしないわけには恐らくいくまいと思う。
私は、あの日、新巻の鮭の弁当をこしらえてくれたSの母を――Sと共に在り、Sを愛し私を愛してくれた彼女を、何時までも心にしまっておきたいからである。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十四年九月号)
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劇場と花柳界
昔からそうなのだろうが、現代はもっと、より以上に、花柳界と庶民《しよみん》とのつながりは消えてしまったようである。
花柳界で遊ぶだけの金は、今や莫大なものとなり、それよりもまた楽しく遊ぶために費やさなくてはならぬ時間というものが、あわただしい男達の生活からひねり出すことが出来ない。
めんどうくさい手続きの要らぬ、そして安上りなバアやキャバレーが繁昌するゆえんであろう。
劇場もまたそれによく似た状態になってきたようである。
私は、よく新国劇の芝居の脚本を書いているが、新国劇のような庶民の生活と関係が深かった芝居でさえも、劇場は前もって団体客をとっておかぬと経営が成り立たないようである。二十五日間の興行のうち半分ほどは、これらの団体の親睦会や招待の会で劇場は買切られてしまう。
一般客を芝居の面白さで呼ぶということよりも、むしろ、一般の人々は前もって切符を注文し、その当日には見物に出かけて行かなくてはならぬという余裕が、ないのかも知れない。そうした時間の予定がつかぬほどあわただしい毎日なのかも知れないし、一等席千円前後の料金にも二の足を踏むのだろう。
しかし、三等席は大体よく空いている。歌舞伎座でも演舞場でも明治座でも……。
三階席は映画を見る料金とほとんど同じだ。それでいて見よい、聞きよい。そして静かである。それに余り此頃の人々は気がつかないようだ。
「見たいんだけど、千円もとられるんじゃねえ」とか「全部団体の貸切りで切符がないのよ」とかいう声をよく聞くが、こころみに、フラリと三階席へ行ってごらんなさい。大てい日曜でも一枚か二枚の切符はある筈《はず》だ。そして行ってみると、こんなにも気やすく芝居が楽しめるのか、ということがおわかりになるであろう。
などと、私は劇場の宣伝をしているわけではない。私は花柳界の三階席について書くつもりだったのだ。
すなわち、信州や越後や北陸の、ひなびた温泉地にいる芸妓さん達のことをである。
そこにはまだ庶民達が気易《きやす》く語り合え、温くもてなしてくれる何物かが残っている。
私どもは、そういう地方の芸妓さん達のひなびた唄や話を聞くのが好きである。
そうして、そういう場所を探しては出かけて行くのだが、それも一年ごとに、都会風の味気なさに変って行くようだ。
編輯部におことわりしきれずに、何ともまとまらぬものを書いてしまったので、埋め合せに芝居の写真をのせて頂くことにした。これは松竹写真部の宮田博君が撮った。私の書いた「高田の馬場」の中山安兵衛である。
[#地付き](スクラップブック・昭和三十四年十二月)
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私の文学修業
私の直木賞受賞に際し「文学修業」という表題で何か書けということなのだが、いまふりかえってみると、修業という言葉のニュアンスからは、私のしてきたことがほど遠いような気がする。
「文学」というからには、小説のほかに戯曲もふくまれているから、まず作家としての私の出発点であった戯曲のことからのべなくてはなるまい。
私が劇作家をこころざすようになったそもそもの動機といえば、子供のころから並みはずれての芝居好きがこうじたものだ。
なぜ私が芝居見物に熱中するようになったかといえば、並みはずれて芝居好きの母が、まだ私が六つ七つのころから私を連れ、機会あるごとに東京中の芝居を見に出かけていたということが、その起因だということになろう。母は貧乏暮らしの中で気がくさくさすると衣類を質に入れても菊五郎の芝居を見に行く女であった。
芝居好きな人間は大なり小なり意識的にも無意識的にも舞台の作者たらんとする夢をいだくものであると、私は思っている。俳優を通してなまなましく舞台に具現される劇作によって、わが夢みる人生を、生活を生み出したいという欲求は「芝居好き」にとって共通のものなのではないだろうか。私が復員して、あの戦後の混乱期に自分の進むべき道を見いだすことができたのは、こうした少年期にはぐくまれた芝居への夢が土台になっている。
その後都庁の職員としてつとめた十年間を、すこぶる楽しく生きがいのある年月にしてくれたのも、この夢を見つづけていたからだ。
夢が舞台の上に実現したのは昭和二十六年の七月――というと、いまこの原稿を書いている同じ月だから丸九年前ということになる。処女上演は新国劇所演の「鈍牛」という芸居で、劇場は、新橋演舞場であった。生来わがままで、憎まれっ子の私がここまでたどりつけたのは、長谷川伸先生はじめ、多くの先輩、友人の激励と指導があったからだ。小説の処女作「厨房《キツチン》にて――」を書いたのは昭和二十九年の秋だったと思う。
私も私なりに苦労はしたのだろうが、今となってはすべて苦しいことは忘れてしまっている。私は、そうした方々の好意の中で、のんべんだらりとやってきたような気がする。
私は旧制の小学校しか学歴はないが、今までこのためにひどい目かなしい目に会ったおぼえは少しもない。ひけ目を感じたこともない。十三のときから外へ出て自分ひとりで飯を食べてきたが、自分のきらいな仕事をしつづけたことは一度もない。いつも自分の好む仕事ばかりしてきた。株屋、鉄屋、装飾屋、その他もろもろのうちで、もっとも今の私、作家としての私に影響を与えた職業は、無理矢理、戦争中に徴用された飛行機工場の精密旋盤工の仕事であった。私は今も、油にぬれて光っている旋盤を見ると胸がときめいてくる。私はその二ヵ年にわたる旋盤工としての生活で(ものを創造する道程)というものの実体をからだの底まで知らされた。
徹夜に次ぐ徹夜、息づまるような明け暮れであったが、私は、あのときほど生きがいを感じ、その日その日の充実をおぼえたことはかつてなかった。お国のために飛行機をつくるというような感激ではない。とにかく旋盤をあやつり、毎日、新しい、精密な構造をもつ奇妙な物体を、鉄やジュラルミンという素材によってつくり出すことに限りない興味をいだいたものだ。このとき、生来無器用な私を一人前にしてくれた水口伍長という職人さんの、おどろくべき見事な指導を私は生涯忘れられないだろう。
しいていえば、こうした私の過去の生活が、私の文学修業の土台になっている、というようなことしか、今の私は言うことができない。
作家としての私に、もっとも大きい影響を与えた書物は、長谷川伸先生の歴史小説と、サン=テクジュペリの小説およびエッセイである。
長谷川先生の歴史に対する驚嘆すべき透徹さをもった目と、過去の人物に当てる深刻な照射――。名パイロットであり詩人であったサン=テックスの、行動主義文学の精神にみちあふれた作品――。ともに現在なお、手アカのつくまで読み返してあきない。
舞台で自分の作品を演出するようになってから、実際上の、戯曲と舞台という関係において多くのものを学ばせていただいたのは北条秀司氏のお仕事がそれであった。
私は自分の作品の上において、偉人、庶民、善人、悪人、男、女を問わず、人間としての肉体と精神の強い人間を描きたいと努めてきたし、これからも恐らくそうなってゆくのではないかと思う。甘ったるい言い方かも知れないが、そうした人間たちが登場するモチーフに、私の夢があるのかも知れない。
いままで発表した作品のうち、小説では一回目と二回目に直木賞候補となった「恩田木工」と「信濃大名記」それに今度受賞した「錯乱」に愛着がある。
劇作の方では、島田正吾氏が演じた「渡辺崋山」「牧野富太郎」辰巳柳太郎氏が演じた「賊将」などだ。井上靖氏の「風林火山」を脚色演出した仕事も印象が深く残っている。三十七歳になった現在の私は、まだ鼻たれ小僧なのだろうが、しかし、もう十台二十台のころのようにはからだもきかなくなってきている。
これからの文学修業が、どういう道を通って行なわれてゆくことか、それを考えるとタメイキが出る。
[#地付き](読売新聞・昭和三十五年七月三十日・文化)
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「ろくでなし」の詩と真実
株屋の小僧から
私が小学校(旧制)六年になったとき、母が言った。
「お前は、学校を卒業したら、カブヤになるんだよ」
「カブヤって、八百屋で売っているカブかい」
「違う! もっと大きなカブだ」
兜町には、母の従弟が三人も入っていた。
どうせ中学にもやれないのだし、学歴がなくても大威張りで一人前になれる社会だからというので、母は、私を背負って父と離別してきたときから、そう決めていたものと思われる。戦前の株屋では、むしろ学歴のあるものを敬遠し、小僧から叩き上げることをのぞんでいた。
卒業のときに、君はどこへ行くのか? と受持の先生に訊かれたので、カブヤですと答えると、先生は顔をしかめた。その意味がわかったのは、株屋の水を一年も飲んでからだったろうか。
ともかく私は、友達にも「おれはな、カブヤへ行くんだぞ」と、嬉々《きき》として卒業を待ちかねていた。なぜなら私は、勉強が大きらいだったからだ。
私が茅場町の※(やまでんた)という現物専門の株屋の小僧になったのは、二・二六事件が起きて間もなくの昭和十一年の春だった。
そのとき、商店主に挨拶をする為、母が洋傘も蛇の目も買えなくて破れた番傘をさして店に来たことを、よくおぼえている。母親は当時、大阪ビルの地下室にあった〔萩や〕というレストランのコックの下働きみたいなことをしていた。同じ地下室にあった〔レインボー・グリル〕の繁昌に圧《お》されて細ぼそと営業していた小さなレストランである。
母は、私の父と離別したのち、また再婚し、一児を生んでからまた離婚してしまった。亭主運が悪いというよりも、母は面倒臭いことが大嫌いな女で、結婚しても家庭内が揉《も》めてくると、その中で、じっと息を殺し辛抱をするということの出来ない性質なのだ。勝気の上にも勝気で、下町育ち特有の毒口(当人は当り前のことを言っているつもりなのだが……)にまくしたてられると、生みの親であるところの、私の祖母までが涙を浮べて口惜しがったものである。私も一度、あまりの毒舌をもって叱られたのにたまりかね、母を抱き家の中から路上へおっぽり出したことがある。そのとき、祖母は言った。
「親不孝もヘチマもあるものか。もっとやれ、もっとやれ」
ともかく、母は再婚に破れてからは、徹底した男ぎらいになり、私と義弟を抱えて働き抜いた。
おそらく母は、全く見込みのない子だと見極めをつけていた私に小遣を貰《もら》おうとは、血気さかんな頃には思ってもみなかったことであろう。
母や祖母がいうところの〔ろくでなし〕に私がなったのは、もちろん下地もあってのことだろうが、これを助長させた環境が、いわゆる〔兜町〕と俗称《ぞくしよう》された株屋暮しの中にあったからだ。
※(やまでんた)商店に十三歳で入店した私は「正どん」と呼ばれた。私が入って二年ばかりして、この社会でも小僧を「どん」から「君《くん》」と呼び改めることになったのだと記憶する。
住込みの衣食は別で、月給は五円だ。当時、米が一升四十銭位で、母子三人が三十円足らずで食べていたのだから、小僧の分際《ぶんざい》ではあり余る。ところへもってきて、店の外交や幹部店員たちが私達小僧を使いにやったり煙草を買いにやらせたりすると、必ずチップをくれる。これがほぼ、月給と同じ乃至《ないし》はそれ以上になるのである。つまり現在の相場でいうと十三かそこらの少年が、月に一万四、五千円ほどの小遣いを使えるということになる。
さア面白くて楽しくて仕方がない。土曜は半日、日曜は休みだし、毎日の給食も揚げたてのカツレツが三日に一度は出る。
こんなに、こたえられない職業が世の中に存在しているとは夢にも思わなかった。少年雑誌などの物語に出てくる小僧奉公の辛《つら》さ苦しさとは雲泥の相違なので、私は面喰ってしまっていたものだ。
小僧の仕事というのは、店から取引所への使い走り、株券の名義書替えの為の会社廻りなどが主なものだったが、私は「正どん正どん」と割に可愛がられ、支配人の気にも入られて、三ヵ月ほどすると、チッカー係というのをやることになった。
取引所に於て刻々と変動する株式相場は、各取引店に設置された有線印字式電信機によって報道される。リズミカルな音と共にテープへ打出される相場の変動を用紙にメモしつつ、これを店内にむらがる客や店のものに、大声を張り上げて知らせるというのが、チッカー係の役目だ。
ここで、私は甚《はなは》だ困惑した。どうしても、この大声が出ないのである。いや出したくないのである。声が出なかったほど恥かしがりやだったのかといえば、そうでもない。
人間が大声をあげるということは、人間自体の肉体、または感情に、著しい刺激か昂揚《こうよう》があってこそ自然なのであって、機械から出て来る数字を、むやみやたらに、「新東五カイ六ヤリ」とか「郵船七カイ八カイ九ヤリ」などと、たった一人で空間に向って叫ぶということが、どうにもバカバカしくてならない。普通の声でやっていると、もっと大きく怒鳴れと支配人が言う。私には、まことにいけないところがあって、こう無理に強要されればされるほど、相手の思うままにならなくなってくるところがある。
「正どん」びいきの支配人も、ついに烈火のごとく怒り、大声を出さなければクビにするということになった。店員一同、口ぐちに私を諫《いさ》めてくれたが、ついに大声は出ない。
私はクビになった。
こうした私の、世にいう悪強情な性格は、自分ながら〔小心者で気のやさしい自分に、どうしてこんな……〕と、我ながら扱いかねるときがある。この性格の為に、私は今までに大きな損をしてもいるし、また僅少の得をしてもいる。後年、海軍に入って早々に、私が直属した将校や下士官の命令を拒み通して、ひどい目にあったことも、この性格に起因するものだ。
重光邸のペンキ塗り
わずか四ヵ月の奉公で、私は浅草永住町に住む母のもとへ帰って来た。
帰っても遊んでいるわけにはいかないので、今度は叔父(母の弟)の世話で、日本橋の鉄屋へ奉公に行った。ここは店員達も皆親切で住心地は悪くなさそうだったが、着任早々の夕飯の膳に、二銭のコロッケが一個しかついていないのを見て、私は失望落胆した。
貧乏暮しの中でも、母は、かなり食べるものだけは気張っていたし、三ヵ月にわたる兜町の生活は、私の舌を生意気にしてしまっている。
それともう一つは銭湯に行けないことだ。店の浴場のしまい風呂はドロドロに濁っていて、上り湯もない。東京の銭湯のあり余る湯で垢《あか》を流す癖が、体にも気持にもしみついてしまっている。こんな汚ならしい湯を毎晩使うのかと思うと涙が出てきた。私は三日目に独断で暇《ひま》をとって帰って来てしまった。
その次は、小石川にあった看板屋である。ここの主人兄弟は叔父の親友でもあり、まことに家庭的な、まるで使用人の私自身が家族の一員にでもなったような職場であり、高い足場に登ってペンキを塗ったり、看板の下塗りをしたりすることは仲々面白かった。このときに私は、麹町にあった重光葵《しげみつまもる》邸のキッチンへ壁塗りに行ったことをおぼえている。
すべて洋風の建築で、バスルームに、隻脚の重光氏が使用する白い杖の松葉杖が夏の陽射しに光って置かれてあったことを、私は今でも生なましく思い起すことが出来る。
「君らは、よう働くねえ。少し休んでケーキを食べなさい」と、重光氏は気さくに、キッチンや廊下の壁塗りを見物しながら声をかけてくれる。
先輩のKと二人がかりで、重光邸の仕事は三日ほどで終った。私は看板屋の主人から、重光氏が駐支大使の頃、第一次上海事変の収拾に活躍中、朝鮮左翼独立党の爆弾襲撃にあって一脚を切断されたという話を聞いていた。仕事が終ったとき、私は、前夜に買い求めておいた白扇を差出し、「何か書いてください」と、お願いした。
重光氏は快く、筆をとられ、精神一到、何事不成≠ニしたためて下さったが、この扇子は戦災で焼いてしまった。たしかKも書いて頂いたようだが、このKは後に北支で戦死してしまったそうである。戦後、重光氏が大臣として活躍され、昭和三十二年に急死されたとき、私は哀しかった。あのときの重光氏の温顔は、今も私の眼の底にやきついている。
看板屋の主人は書道に深い造詣《ぞうけい》があり、図案を受持つ弟さんは二科の画家でもあって、私は将来の為に(看板屋として……)この二つを教えられた。楽しかった。
現在、この看板屋は会社組織の、すこぶる大きな美術宣伝社として活動している。もしも私が辛抱していたら、図案、装飾家として一本立が出来たろうに……私は、またも飛出してしまった。
仕事そのものに不満はなかったのだが、結局、私は暇がもう少し欲しかったのだ。住込みの上に休みは月に一回だし、それ以外は朝から晩まで馬車馬のごとく働かねばならない。それほど働かねばやっていけないほど小さな店だったし、主人もむろん私達同様(それ以上に……)に働き抜いていた。
私は、もう少しでもよいから、書物が読みたかったし、映画や芝居が見たかった。
私の母は、貧乏暮しに気がくさくさしてくると、さっさと衣類を質に入れ、子供の私の手を引いて菊五郎の芝居を見に行く女だから、私も、五つ六つの頃から芝居と映画は、いやになるほど見てきている。一週に一度は、せめて映画を見なくては、生理的にやりきれなくなってくるのだ。いろいろと考えた末、学歴もない自分が働きつつ、しかも分不相応な欲求を満足させることが出来る職場といったら、これはもう兜町という島へ、再び戻るより他はないと思い至った。
むろん、母にも叔父にも、きびしく叱られた。
たしかに、私の体には、すでに三ヵ月ではあるが、あの島にある甘い毒草の汁がまわっていたものとみえる。
仕方なく、今度は祖母が乗出した。つまり私の再従兄《またいとこ》二人がつとめている店の主人へ、祖母が頼みに行ってくれたのだ。この店の主人は、飾《かざり》職をしていた祖父(そのときには亡くなっていた)に指輪の注文をたびたびしてくれたことがあるとかで、祖母はよく知っていたものと見える。私が入店の挨拶に行くと、主人は、
「お前さんが卒業したらすぐ私のところへという話は、お前さんのおばあさんからあったのだが、TやKが厭《いや》がって、お前さんを他の店へ世話しちまったらしいね」と、言った。
※(ます)(仮名)というこの店は、※(やまでんた)よりも大きく一般取引員であり、店主の人柄もあって、いわゆる堅い店で通っていた。
住込みは一杯になっているということで、私は通勤にされた。これこそ願うところのものだ。私は有頂天になり、母に、
「これなら思いきり活動(映画)や芝居も見られるし、小説も読めるなあ、母ちゃん」と言うと、
「ろくでなし!! 今から遊ぶことばかり考えていやがる。言っとくけどね、堅くやっとくれよ、いいかい。私は今になって、お前にあの社会の水を飲ませたことを後悔してるんだ!!」
思うさま叱り飛ばされた。
給料は通勤の為《ため》もあって初給七円。家へ三円入れたが、この店は大きいだけに、チップが※(やまでんた)の比ではない。五十銭出して「チェリイ買って来い」と外交員が言う。十銭の煙草三つで釣銭が二十銭なのだが「やるよ」と、いとも簡単に言う。こういうお使いが一日に三つや四つはあるのだから堪《こた》えられない。
意地悪な先輩に仕込まれることなどは全く気にならず、暇さえあれば内外の映画を見てまわり、銀座の三昧堂で新刊書を買い漁った。友達と連れ立って銀座の食べものやを軒並に食べて歩いた。
この辺までは、どうにか書いて行ける――がしかし、十六歳になってからの私の兜町に於ける生活の裏側を、今も一寸書く気にはなれない。もっと年を老《と》ったら書けるかも知れないが、三十七歳の現在では、見っともなくて、照れくさくて、恥かしくて、洗いざらい書く気にはなれないのだ。
けれども、この時代の私が、知らず知らず経験したことは、当時思ってもみなかった作家という仕事に、かなり大きな影響と肥料を与えてくれたようにも思う。この時代の私がなかったら、おそらく物書きになっても原稿が書けるようになったかどうかわからない。この頃の私と、後年、もう一つの職業に転じたときに得たものと、この二つの全く異質な世界から獲得したものが無かったら、私は、今も東京都の職員でいたことだろう。
その方がよかったのかも知れないが……。
忘れ得ぬ吉原のひと
私に遊びを教えたのは再従兄のTだった。
Tは、その頃、私の家の二階を借りて暮していたので、母から、
「くれぐれもお前を堅く仕込んでくれと言われてるんだから、いいか、くれぐれも、おふくろさんには内密にするんだぞ」
こう言われて、吉原へ連れて行かれた。
私は、初めてTが連れて行ってくれた店へ通った。京町の〔角海老〕という大店の横町を入って右側の「大華」(万華、だったかも知れない)という中店である。
この店は資力があって、店の娼妓を集めるのに日本全国へ手を伸ばしていて、かなり評判の店だった。
この店へ遊びに行っても、私は一度も泊ったことはない。映画見物を名目に行くのだから泊れない。その頃の血気さかんな頃の母というものは全く恐ろしい存在であった。そんな遊びに使う金があることなど知れたら、たちどころに私は店をやめさせられていたかも知れない。
と言っても、うすうすは何か感じていたらしい母は「夜遊びがすぎる」というので物指で私を叩いた。叔父もやって来て、一度、徹夜で意見をされたことがある。叔父の意見は文学的で、私の涙を誘った。
その頃になると、私は、自分で、少しずつ相場(というには気がひける。思惑《おもわく》であった)もやるようになっていた。前の店(※(やまでんた))のMと二人で、僅かずつだが「今日は俺、炭鉱を十枚利喰いしたぞ」などと威張り合ったりしたものだ。
堅い店だけに、私は自分の店のものには誰にも気づかれないようにした。それにまたTが店の者数人と組んで店の客の名義で相場をやり、大穴をあけ、自分一人が罪を引っかぶってクビになった後だけに、私は充分注意をした。損をすることもあったが、十六か七の子供がやる思惑だけに、大きく穴をあけることもなく、吉原へ通う金位は充分に儲けた。その頃は、また取引所の中へ入って走り使いをする方へ回っていたので機会はいくらもある。Mと私は、取引所傍に出ている屋台のアイスクリームをなめながら、よく相談をし合った。
人の波と取引の歓声とが渦巻く「場《ば》」の中にいると、少し大きくやってやろうと思い、心がはやる。これは、戦前の「場」で働いていたものたちのほとんどが感ずる一種の昂奮なのだが……。
私はTの失敗と、母の恐ろしさを思い起しては、大きく心がはやるたびに我慢した。
けれども、現在の株屋と違い、現物取引を主にした長期、短期の取引があって、自分の金が無くても相場がやれるのだから大なり小なり誘惑を撥ねつけることは出来なかった。
私が「大華」へ初めて行ったときから相手になってくれた女のひとは、東北の白石というところの生れで、井上せん子(仮名)さんと言った。私より十歳も年上で、この人と私は、戦後に新橋駅で出会ったことがある。私が二十七か八のときだから、そのひとは四十近くになっていたのだろうが、ぽんと肩を叩かれて「正ちゃんじゃあないの?」と言われたときには、一寸見当がつかなかった。
「あんたの芝居、見たわよ」と、せん子さんは言った。
その年の夏に、私の戯曲が新国劇で処女上演されていたのだった。少しもこだわらぬ、あくまで明るい態度で、せん子さんは私を、近くの喫茶店へ誘い、一時間ほど話した。それによると、私は「大華」へ通っていた頃、しばしば、もっと大人になったら芝居が書きたいと言っていたそうだ。私は覚えがない。その頃には劇作家になろうと思ったことは一度もないと思っていたのだが……。
せん子さんは、麻布辺の商店へ嫁に行って、子供が二人生れて、幸福に暮しているという。
娼妓という、あのじめじめとした暗い環境から、そこまでに変身したせん子さんを、私は驚嘆の眼で眺めた。そして成程《なるほど》と思った。せん子さんなら、自分の妻にしようと決意する客が、きっと現われたろうと思った。
せん子さんは、私に初めて女というものを教えてくれたが、その教え方に親情がこもっていた。私は、そのとき、娼妓だという観念を、せん子さんに持ったことは一度もなかった。金を払って遊ぶのだが、そういう気持を、みじんも起させない不思議な女の温さを、せん子さんは持っていた。私はその頃、彼女を「ねえさん」と呼んでいたかと思う。
新橋駅で出会い、数年してから、私は、せん子さんのイメージを劇化した。新国劇で上演した「夫婦」という一幕物がそれで、辰巳柳太郎氏が主役を演じ、せん子さんのイメージは、初瀬音羽さんが舞台上に具現してくれた。
せん子さんは、遊びに来る私よりも、見たこともない私の母へ、非常に気を使ってくれた。そして、人生の道程に於《おい》て、男と女が出会う種々の危険と困難と歓喜とについて、ことこまかに教えてくれた。やがて、彼女は、私を遊びに来させないようにし、私は、一時は、こうした遊びから全く離れた。
私が文学に熱中するようになったのはそれからである。といっても作家たらんと志したわけではない。ただもう若い体にものを言わせて、わかるわからないにかかわらず、次から次へと岩波文庫の各色帯の一冊一冊を読破していった。
こういう生活環境へ私を引っ張って行ってくれたのは、文学好きの叔父であり、同じ兜町の店につとめる同輩の中島滋一だった。
中島は、現在も私の親友であり、しかも隠れたる詩人である。
中島と私とは、二人きりの同人雑誌?を創刊した。「路傍の石」という誌名をつけた。これは二十数号を発刊したが、両人の兜町を離れるに及んで廃刊となり、そのすべては戦災によって灰化した。残念でならない。
その頃、別の店に働いていた再従兄Tは、葭町《よしちよう》の花柳界へ溺れ込み、酒色に心身を爛《ただ》れつくしていた。
当時の世界情勢は、いよいよ荒模様の形相を見せはじめ、ついに第二次大戦が勃発した。
私ども当時の株式界に働いていたものが、このとき一番痛切に感じたこと(株価の変動その他から看取された……)は、欧米列強の、日本へ対する強烈な経済的圧迫だった。
日本は、支那大陸に軍を派遣しつづけていたし、Tのような脆弱《ぜいじやく》な肉体を持つものへも次々に召集令状が来た。
Tは、世田谷の聯隊《れんたい》にとられて、面会に行った私に、しみじみとこう言った。
「お前。毎朝、浅草の観音さままで駈足《かけあし》しとけよ。兵隊、辛《つら》いぞ」
この悲痛な声を、私は今もハッキリと思い出すことが出来る。
「いいかい。兜町のもんには、兵隊辛いぞ。俺は死ぬかも知れない。お前、兵隊へとられて死にたくなかったら、毎朝、駈足しろ」
と、Tは、また言った。
十七か、八で、朝寝坊をしたあげく、ハイヤー(円タク)をつかまえて店へ通うというような、だらけきったところがまだ残っている自分の生活が、このとき痛切にかえりみられた。
私は、余り思惑《おもわく》をやらなくなった。
戦前の兜町の人間は、金ひとつが頼りで、あの社会を離れたら、無慚《むざん》にも無力になる。ことに若いものにとっては行手に否応《いやおう》もなく兵役という大役が手をひろげて待っているのだ。事実、あの頃に、兵隊になり戦場へ向った若い株屋さん達の多くは、戦死ではなく戦病死したものが多いようである。
Tもその例に洩れなかった。彼は、胸を病み間もなく支那大陸から帰され、このときの病気は徹底的に彼を苦しめ、戦後間もなく、今、この稿を書いている私と同じ年齢で不幸な死をとげるに至らしめた。まことに気のやさしいひとだったが……。
私は、株屋暮しに、不安を感じはじめた。
こういうときに、めぐり会ったのが、サン=テクジュペリの「人間の土地」という書物だった。
「ゲタ」をはく
サン=テクジュペリは、詩人にして、飛行家である。彼が民間航空路開拓の途上にあった飛行界に身を投じ、フランス民間航空が開拓に当ったアフリカや南米で活躍した。
まだ航空機が、人間の精神や肉体の力を最大限に必要とした時代である。サン=テックスが恐ろしい危険と苛酷な現実に直面しつつ人間というものの、あらゆるエネルギイを投じて探りとった「自然と人間」との関係について、詩情豊かに、しかも人間の尊厳をうたいあげたこのエッセイを読んだとき、私は、人間にも、こんな世界があったのかと驚嘆したものだ。
ここにサン=テクジュペリの文学について語ろうというつもりはない。ともかく私は、――僕等人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するが為だ――と書出した、この書物を読んだとき、まるで、自分が情なく息づいている人間の世界が引っくり返ってしまったような衝撃をうけたことは確かだ。
むさぼるようにして、私は同じ著者の小説「夜間飛行」「南方飛行」の二冊を読んだ。そしていよいよ、行動主義文学の精神にみちみちたこの作家に畏敬の眼を見張らずにはいられなかった。
その頃――神田のシネマパレスの名画祭で「夜間飛行」を見た。若きクラーク・ゲエブルが扮する飛行士が暴風雨に針路を失い、燃料もつき果て、やむなく機を上昇させ、雨雲の上へ飛び出る……と、其処《そこ》は月光の海であり、静穏の宇宙がひろがっている。思わず自分の死をも忘れて飛行眼鏡をとり、茫然と、その美しさに見とれるとき、燃料がつき、プロペラの回転が止まって行くのである。
私は、このシーンを今もはっきり覚えている。この映画は三、四回見た。この映画とデュヴィヴィエの「商船テナシチー」だけは、何度見ても飽《あ》きなかった。
昭和十五年九月七日の日記に、こんなことが書いてある。
――昨日は、十円近い暴落(新東株のことか? ……)だったが、今日は五、六円も戻《もど》し、商い大いに出来る。こんな忙しい日だと、やるまいと思ってもゲタをはいてしまう。やんぬるカナだ。こんなコソ泥みたいなことをして入ってくる金を、オレはいい気になってつかっているのか……。一日中、雨。防空演習なので、町は墨を流したようだ。つくづく自分にアイソがツキル。土曜日だが商い出来たため、四時すぎ帰宅。夜、WAに行く。
こんなことが書いてある。この中で――やるまいと思ってもゲタをはいてしまう――とあるが、これは相場が激しく動くときに、直接「場《ば》」の中で商いをしているものがよくやることで、私などは、まだ代理と呼ばれて商いの手を振る仕事にはつけなかったが、忙しくなると、店からの売り買いの電話が、代理の人達だけでは捌《さば》き切れず、私どもも手を振って商いをすることが間々《まま》あった。
「いくらでも良いからすぐに買え」と客からの注文があって、たとえば五円で買った株が、店の電話へ通そうと思ううちに、四円九十銭、八十銭……五十銭……と、あッという間に下ってしまうような株価の変動が激しい場合、これを四円五十銭で買ったと店へは通しておき、その五十銭の差額をピンハネしてしまうことを「ゲタ」をはくというのである。
一株で五十銭だが、百株の注文だとすれば五十円になる。当時の一家族の一ヵ月の生活費だ。むろん税金をとられるわけではないし、付替屋に手数料を払ったあとの七、八割が儲けになる。忙しい時だと、一日のうちに「ゲタ」をはく機会が何度やってくるか知れない。
同じ店員でも、店で事務をとっているものと、取引所へ詰めているものとでは、こういう違いがある。だから「場へ行けるようにならなければウソだ」と、入店早々の小店員達は気負いこむのである。私は、当時、こんなことをしたり、自分の相場で儲けていた金をどういう風につかっていたか、よく覚えてはいない。母には給料を渡すだけで、あとは、みんな下らなく消費してしまった。この頃の自分のことを考えると冷汗がにじんでくる。こうした自分の惰性的な生活の中で、東京中の芝居という芝居、映画という映画を残らず見物することと、親友中島と共に登山をすることが、私の只《ただ》一つのなぐさめだった。その頃は登山が兜町の若者達に流行していて、高尾山の山小屋から、毎日、日本橋まで通って来る店員もいた。
私のみならず、兵役を目前に控えた、あの〔島〕の若者達は、抜け切れない脆弱な生活環境が、やがて来る現実に対して、どれだけの抵抗力を持っているかということに、たまらない不安を抱いていたようである。
中島と私は、昭和十六年の春に、思い切って辞職した。十八歳だった。
店には全く知られないように相場をしたり〔ゲタ〕をはいたりしていたつもりなのだが、どうやら感づかれたと見え、私は店の帳場へ廻されてしまい、算盤をはじいたり帳面をつけたりという、私にとっては地獄の責苦も同然な仕事には、ほとほと音《ね》を上げていたところだった。
辞職の前に、これが最後だから母に、まとまったものでも残しておこう、などという殊勝?な考えを起し、相場をやったら、手ひどい目に会ってしまった。私は、もっているものを洗いざらい投入して、どうにか尻ぬぐいをし、這々《ほうほう》の体《てい》で兜町を逃げた。
旋盤を人間扱い
やがて、あの十二月八日が来た。兜町をやめて、約一年半の間に、私は数種の職業に就《つ》いたが、そのいずれもに生甲斐を見出すことが出来なかった。再び、往時の〔ろくでなし〕に戻り、ことごとに母と争う始末だ。その間、いろいろとあったが……。
結局、ヤケ気味になった私は、どっちみちいずれは召集されるのだからと、徴用令に先んじて、K航空機製作所へ入ってしまった。入ったが最後、国家の徴用となる。生甲斐もヘチマもない。やめると国法違反の罪を犯したと同じことになる。
勤務先は、芝浦の工場だったが、工場長に、私は、
「事務だけはごめんですから、職工にして下さい」と、申し入れた。
「ふふん」と、工場長は鼻で笑い、
「ムリだよ。兜町にいたものに職工が出来るかい」と言った。
「出来ないかも知れませんが、一応やらせてみて下さい。とにかく算盤や帳つけは絶対に厭《いや》なんです」
私が、あくまでも言い張るので、工場長も、「体がきついんだよ。病気になっても知らんぞ」と、厭な顔をしながら、仕方なさそうに旋盤工場へ廻してくれた。
油と汗にまみれた、たくましい工員達は、ひょろひょろと頼りなげな男を、一様に、奇異の眼をもって迎えた。
私も、さすがに心細かった。とうとうこんな処へ飛込んでしまったが、辞めなくてもよかったのじゃあないかと、後悔もした。とにかく丸で異質の世界だった。
わんわんと吠えたてる機械の唸《うな》りの中で、私が立ちすくんでいると、私の上長である伍長という役目の、水口氏が現われた。
この水口氏の指導によって、人並以下に不器用な私が、旋盤工として一人前になったわけだが、……。思いもかけず、私は、この旋盤工員という仕事の中に、かつて思ってもみなかった〔物を創造する歓喜〕というものを、たっぷりと味わったのだ。
水口氏は、本所の生れで、十歳のときから叩《たた》き上げた熟練工だ。当時、三十四、五歳であったろうかと思う。
この時代の話を、私は「キリンと蟇」という小説に書いた。五年前に書いたこの小説は余り人の眼にふれなかったものだから、その一節を、抜き書きさせて頂きたいと思う。
――亮助は、まっ白な木綿の伍長の制服が、洗濯とアイロンの利いたすがすがしさで、この男の皮膚のように、ぴったりと、むしろスマートに、一点のスキもなく、その不恰好《ぶかつこう》な肉体を包んでいるのを発見した。伍長は、広い窓際にある四尺の小型旋盤の前に、彼を立たせた。
「これが、お前さんのバンコだ」
「バンコ?」
「機械ってことさ」と、伍長は亮助の肩へ、ぶらさがるように手をかけて話しはじめた。パクリパクリと開閉する厚く大きい唇の間から、歯が白く光った。
「いいか。この機械はねえ、俺達と同ンなじに命ってものがあるんだよ。こいつを忘れちゃ困る。おまけに、こいつは、新しいバンコで、こいつを動かすのは、お前さんが初めてだ。つまり、こいつは、初めて、お前さんのところへ嫁入りした可愛い奴なんだ。なあ旋坊」と、伍長が機械へ声をかけたのに亮助はおどろいた。
(この男、どうかしてやがる)
伍長は、軽蔑《けいべつ》の眼を向けている亮助を見て、ニタニタと笑い、嫁入りの旋坊という男の子の呼び名のアンバランスには頓着なしに、尚も話しつづけた。
「この旋盤をお前さんが使うときには、お前さんが自分の|かあちゃん《ヽヽヽヽヽ》を可愛がるように、いいかい、うまくやってもらいたいね」
――とある。これが伍長と私の出会いのシーンだった。
伍長は徹底的に旋盤機を人間として扱った。
「お前さんねえ、機械の掃除は女の化粧と同じだよ。女てえもんは化粧が上らねえうちは一日の仕事を始めねえもんだ。またそれでなくちゃあ女とは言えねえからね。バンコだって掃除が、きちんとしてねえと、プーンとふくれッ面をしやがるのだ。そればかりか、カンシャクたてて、こっちの腕へ噛みついてきやがる。こいつは忘れないでチョウダイよ」とまあ、こんな工合に、私へ言うのである。
とにかく私は、この仕事をしてみて、自分の不器用さに呆《あき》れ返った。悲観と絶望とに打ちのめされ、何度も会社を欠勤した。しかし今度は辞めるわけにはいかない。辞めれば憲兵に引張られるのだ。それなのに、私のどこを見込んだものか、「こんな教え方をしてやるのは、お前さんだけなんだよ」と、伍長は、少しも倦《う》むことなく、あくまでも優しく、あくまでも粘り強く、私を仕込んでくれた。伍長は、あまりにもひ弱い私に同情してくれたものであろうか。
もっとも簡単なパッキングの工程を卒業するのに、私は三ヵ月もかかった。
まず青写真の図面が渡され、機械の性能と図面の見方について、伍長は、ゆっくりと説明してくれる。例のごとく機械の各部分の性能を擬人法によって呑み込ませようとする。ことに、女の、あの部分にたとえて機械の操作と作業の進行状態を説明するときの伍長の身振り手振りは異常な熱をおび、私をヘキエキさせた。しかし、工作機械の中でも、最も重要な位置をしめるという旋盤機が、不思議な生なましさをもって、私に迫ってきたことは事実だった。
仕事が終ると、一点のぬかりなく指図して機械の掃除を指導する。私が、機械に油をさしはじめると、伍長は、
「ほうら、晩飯だよ」と、クソまじめに機械へ話しかけるのだ。これには呆れ返ったものだが、終いには、終始変らぬ伍長の機械へ対する愛情に、私もうたれた。
自分の不器用に腹をたてて「この野郎!!」と機械を蹴飛ばすと、伍長は、
「この野郎というだけ、お前さんはマシだ。機械を人間扱いにしてる」と、笑った。
私は何よりも、工場長が巡回して来、伍長をかえり見て、私をアゴで示しつつ、「大変だねえ」と、眉をひそめるのを見るのが口惜しかった。
三ヵ月たって、十六個のパッキングを自分ひとりで仕上げ、この製品の検査が通ったときの歓喜を、私は忘れない。こういう嬉しさは生れて初めての性質のものだったと言えよう。
「キリンと蟇」の抜き書きに……。
――あの旋盤《ばんこ》――粛然と、コンクリイトの床に、寸分のスキもないバランスを保った鉄の姿態をきびしく横たえ、自分を使いこなす人間の邪念には少しも容赦《ようしや》なく反抗し、自分に対する愛情と理解に対しては、これに報《むく》いることに於て全力を尽してくれた旋盤――。不器用な彼が、心をこめてふき清め油を射込み、充分な点検を怠ることのない限り、機械は忠実に働き、無理な製作計画の下に強引に押し進めようとする彼の怠慢には、いきなり調子を狂わせて刃《バイト》をへし折ったり材料を跳ねとばしたり、あと一歩というところまで漕ぎつけた製品のネジ山を無惨に切崩して、彼を絶望させた。――と、ある。
精密な航空機の部品を製作するだけに、図面をもらったときの検討、製作計画が誤ったときには、その一点の誤りが、必ず工程の何処《どこ》かにハッキリと現われて、製品は失敗する――ということが、難かしい仕事になればなるほど、よくわかって来た。
これは、今の私の、小説なり戯曲なりの構成についての考え方の基盤になっている。
北条秀司氏は、その劇作の構成について、御自分がサラリーマンとして学ばざるを得なかった経理事務への経験が、基盤になっていると、私に話して聞かせてくれたことがある。
軍隊への叛逆
そのうちに、株式界も、すべて国家の管理下に入り、業者も自然消滅の形になったし、私はもうあの社会のことを忘れ切ってしまっていた。ガダルカナル撤退、山本長官の戦死と、戦争も苛烈《かれつ》の度を加える一方で、工場は、一日おきの徹夜がつづいた。私は平気だった。国の為に飛行機をつくるのだから、などというヒロイズムからではない。只《ただ》もう、毎日、旋盤に向うことが楽しくて嬉しくて、たまらなくなってきていた。
「それだから、あの小説は古めかしいのだ」と、或《あ》る友人が「キリンと蟇」の批評をしてくれた。
「君は古くさい職人かたぎに陶酔して、知らず知らず軍国主義の先棒をかついでいたんだ。こういうモチーフを現代に持ってくることは、どうかと思うな」とも言った。
「そうかい、そうかい」と、私はさからわずに聞いていたが、新田次郎氏が、この小説を読み、「あれはいいですね。あれはほんとによかった」と、心からはげまして下すった。嬉しかった。
ついに、小型旋盤では太刀打ち出来るものがいないというところまで、私は漕ぎつけた。大型の方へ移れば金になるといわれたが、私は応じなかった。金にはもう魅力がなかった。私は、徹夜のあくる日でも平気で芝居を見に出かけた。ふしぎに全く病気はしなかった。
そのうちに、私は、岐阜県へ出来た分工場の徴用工指導員として、美濃の太田へ出張することになった。工場は日本ラインの河原に建てられてあった。私は、約半年出張滞在しているうち、ここで召集令状を受けとったのである。入団までに二週間もあった。
私は、関西から飛騨に遊び、入団三日前に帰京して、母をつれて伊豆の修善寺へ行った。二月の中旬だったが梅が満開だった。
「新井」へ泊った。このときの昼食に、蕎麦の寿しが出たことをおぼえている。
横須賀海兵団には、修善寺から入団した。
「じゃア、行ってくるよ」
「ああ」
と、これだけだ。母は汽車で東京へ帰り、私は大船駅から一人で海兵団へ向った。さびしくもなかったし、生きては帰れないとも思わなかった。
海軍へ入ってから、後に、私は自動車講習員というのへ志願したが、この分隊で、私は死損なった。自動車の運転を教えて、これを戦地へ送り出すのが、この分隊の役目なのだが、隊長をはじめ教官の下士官達の横暴や堕落ぶりは目に余るものがあった。
このとき一緒《いつしよ》にいた戦友は、今も「あのときは地獄だった」と言う。
すでに日本軍も末期的症状を呈《てい》してきていて、ひどい軍人も多かったが、これほどなのは珍しい。私も方々の分隊へ行ったが、こんなにひどい奴等が集った分隊というものを見たことがなかった。兵隊達は囚人だった。
何よりも、その運転を教えるやり方が気に喰わなかった。暴力と無智を結集して、人間をチリアクタのように扱いながら教える(詰め込ます)のである。私は、水口伍長に機械を操作することを仕込まれた人間だった。生徒達に配給されるべき菓子や酒を横須賀の料亭へ流して、大酒をくらいつつ、棒と拳をもって生徒を虐待しながら実績を上げようとする教官達のいうことなど、おかしくてきけたものではない。といって表向きに刃向うことは許されない。軍隊だからだ。私は、もう徹底的に教務をおぼえこまないことにした。
ハンドルを握らされ、教官が革のスリッパで私の頭や顔を撲りつけながら運転させようとしても、私はハンドルを握っているだけで何もしないのだ。車はスリップしてコンクリート塀にぶつかりかける。教官はあわてて横合いからハンドルを握り、片手のスリッパで私を撲《う》つ。
私の顔は冬瓜《とうがん》の化け物みたいになった。
このときの話はいくらでもある。十五年たった今でも、思い出すとハラワタが煮えくり返ってくる。このときに痛めつけられた体の傷は、いまも冬になると疼く。
教官達の中には、教務を遂行せぬ不忠者だから、私を殺して(むろん病死届が家族にはとどけられるのだ)しまおうという相談もあったらしい。ようやく、数ヵ月の教程から私が落され、使いものにならぬということで、海兵団へ転勤させられることになったとき、私は十貫そこそこに痩せこけていた。
シラミと共に
終戦となって、米子の航空基地から復員した私は、半年ほど、ぶらぶら遊んでいた。
その頃は女学校の購買部というのにつとめていた母が言った。
「気がすむまで遊んでいていいよ。こんな世の中になっちまったのじゃア、何をしていいか、ふんぎりもつくまい」
そして二百円くれた。温泉へでも行って来いというのである。前代未聞のことだ。
私は、その金で上越国境の法師温泉へ行った。前々から何度も訪れた山の湯である。湯につかって、ぼんやり暮してみたが何の考えも浮ばなかった。
翌年にY新聞で戯曲の懸賞募集があった。
何気なく「雪晴れ」という三幕ものを生れて初めて書いて出したら入選した。これは村山知義氏がとりあげてくれ、宇野重吉氏など新協のスタッフが地方公演に持っていってくれた。
翌々年もまた応募した。また入選した。このときの選者の一人に長谷川伸先生がおられ、それが縁になり、私は、先生から劇作の指導を受けることになったわけである。
それはさておき、私は、昭和二十一年春から、暴威をふるった、かの発疹《はつしん》チブスを撲滅する為に、進駐軍と東京都が募集した労務員に応じて、一世を風靡《ふうび》したDDTの撒布作業に従事した。配置されたところは、これもまた有名な上野山内を控えた下谷《したや》地区だった。
日毎の徹夜作業で、地下道に密集した(寒夜は暖いから……)浮浪者諸君に、ワクチンの注射と、DDTの撒布を毎年のごとく行った。おかげで私は、シラミという動物に馴《な》れ、これを可愛いものと思うようになっている。
当時の金で、三ヵ月の残業手当が一万円もあったのだから(一ヵ月千円で暮せた)いかに激しく働いたか知れる。
この頃、町中に患者があると、その辺一帯を消毒したものだ。谷中の朝倉文夫氏邸を消毒したとき、温顔をほころばせて、われら作業員に茶を御馳走して下さった朝倉先生に、私は、あつかましくも、「先生。何か書いて下さいませんか?」とやったものだ。私には、どうも、こういうところがあるらしい。
「フム。僕のは、いま、一寸ないんだがね。よし、それじゃア、娘のデッサンをもらってやろう」と先生は、二階におられた二人の令嬢を呼ばれた。降りて来られたのは、いうまでもなく摂《せつ》、響子の二令嬢だ。私は、ここで摂さんのデッサン三枚をいただき、今も大切にしまってある。
そのうちに私は、正式に都庁の職員にしてもらった。そして保健所勤務となるかたわら、劇作の勉強に精を出した。
保健所から税務事務所へ転勤になったのは、ビキニの灰が福竜丸を包んだ年の夏だ。
大臣邸を差押える
区の税務事務所へ転勤した。
ここで久しぶりに算盤を持たせられた。
仕事は外勤で、家屋税や事業税、飲食税、自転車税などの地方税滞納者の家を訪ねて、これを整理して歩く役目だ。徴収員という。
ここで私は、いろいろな目に会い、いろいろなタイプの人びとを見ることが出来た。
とにかく税金のとりたてと差押えをやる係なのだから、あまりいい仕事ではない。憎まれ毒づかれ、肉屋が肉切り庖丁を振りまわして追いかけて来たことがある。などということは一週間に何度もあった。私が直木賞を受けてから、この時代のことが或《あ》る週刊誌にのり、私は非常に取立てのきびしい税鬼だったとあるが、これは大間違いだ。
すべてのことに自信のない私だが、これだけはハッキリと言える。私は非常に面倒見のよい優しい公僕だった。
差押えは、差押え期間以外には、一度もしなかった。いや、たった一度ある。
それは或る大臣(当時の……)の私邸の家屋税をとりに行ったときのことだ。
応対に出た人が大臣風を吹かせ、警察に届けてからとりに来いとか、公邸へとりに行けとか、あまりにも筋違いなことをおっしゃるので、やった。むろんこれは大臣の知るところではない。金がなくて滞納したのでもない。忘れてしまっていたのだ。しかし、税金を決めた政府の大官の邸が、こんなに威張っていては困ると思ったので、私は差押えを強行した。
問題はなく、すぐに全額を役所へ届けに来てくれて、トラブルはなかったが、もう一つ、共産党の八百屋の細君が、弁証法をまくしたてたあげく、私をけだもの扱いにし、罵倒の限りをつくしたとき、私が、その細君のホッペタを一つ張った為《ため》、党員が赤旗をたてて役所へ押しかけて来たことがある。
課長、係長が応対し、私をかばってくれた。私は今も、時どき当時自分が税金をさいそくして歩いた町々を廻り歩く。一生懸命に働き、少しずつでも納めて、辛《つら》い立場の私に協力してくれた滞納者の店が、見違えるように立派に大きくなり繁昌しているのを見ることは筆舌につくしがたいよろこびだ。
と、同時に、苦境を切り抜け得ず、その店の名も姿も、その町に見出せなくなってしまっていることもある。これは哀しい。
あるとき、これも共産党の床屋さんへ督促に行った。例のごとく唯物弁証法をぶたれて、どうしても払ってもらえない。ふと見ると、仏壇の写真の前に線香が煙をたてている。
「どなたが亡くなったの?」と訊くと、主人は、眼を白くむいて怒鳴った。
「女房だよ。お前ら政府の役人が税金税金とせめたてて殺したのだ」
「そりゃア、すまなかった。どれ、線香でもあげさせて貰おうかナ」と言って、線香をあげ、主人の顔を見ると、ポロポロ涙を流している。そして、
「少し、払うよ」と言ってくれた。
この主人は、間もなく全部を片づけてくれた。
徴収員達は、自分の金をとりに行くわけでもないのに、知らずして成績を競う形にどうしてもなる。私とてもその例に洩《も》れない。一軒もとれずに日が暮れてくるときの焦りは一種独特のものだ。こういうときに滞納者とのトラブルが起りやすい。
五年前に、私が辞職を決心したのも、こうした仕事に厭気《いやけ》がさしたからだ。何時《いつ》までもやっていてはいけないと思った。
当時の同僚A君の曰く。
「おれ達はねえ、相手が若くてきれいな女のときは、顔を見ずに督促しなくちゃアダメだよ」
滞納者にしても督促の側にしても、相手次第のことである。私のように愛嬌もなければ口もうまくない男が、よくもあの仕事をつづけられたと思う。それはそれなりに、かなり私は楽しんで働けたし、成績も中以下になったことは一度もない。
十年にわたる都庁勤務の間に困ったことが一つある。
それは、私の芝居が、一年に二回ほど上演されるとき、稽古に立会うことだ。自分で演出もすることだし、忙しい最中に自分のことで一週間ほど役所を休むのは気がひけた。ことに劇団が旅へ行き、その旅先で東京公演の稽古をするときは、私も東京を出て行かなくてはならぬ。こういうときには、先ず私が行先から電報を打ち、これを母か家内が持って役所へ行くのだ。
「オバ、キトク、スグコイ」……。
伯父や伯母を何人死なせたことだろう。
或時《あるとき》は香奠をもらった。ことわるわけにも行かずに私はもらった。慙愧《ざんき》に耐えない。私は今も、このときの役所の人びとに申しわけなく思っているのだ。
母は現在も元気なのだが、永らく別れていた父は、去年の夏に急死した。
直木賞に私が落ちた直後だったが、父の死は、かなりの衝撃を私に与えた。
数ヵ月は家にこもっていて何をする気にもならなかった。というのは、虫が知らせたというのだろうか。死ぬ数ヵ月前に、父が突然訪ねて来たのだ。
母は三十年ぶりで父に会った。私は十五年ぶり位だったろうか。
母と別れてから、ずっと独身だった父は貧しそうだったが、サッパリした服を着て、少しも厭《いや》な感じはなく、力まず卑屈にならず、好い感じだった。私は丁度《ちようど》、九州へ行くことになっていたので、父に家の中のことを少しやってもらい、父は十日ほど我家へ通って来た。家内の言うところによると、父は非常に楽しそうだったそうだ。また母とも一しょに食事をし、いろいろと語り合っていたという。
こういうことがあったので、私も家内も父への愛情が湧き、為に父の死は、いろいろな意味で、私を考えさせた。
私ども夫婦の間には子供がないので、おそらく父同様にわがままな私は、父のように何時かは、たった一人きりでポッキリと死ぬような気がしてならない。
紙数がつきたので、もうやめる。
五年前に勤めを辞めてペン一本で食べて行こうと決心したときは、ペンで食べられなくなったら、人夫でも職工でも何でもやって勉強し直すからいいと思い、平気だったが、さすがに此頃は、その気力もなくなってきたようだ。〔俺が、書けなくなったとして、いま一番やってみたい職業は何かな?〕と、よく自問自答してみるが……。
そんなとき、私の脳裡に浮ぶのは、大相撲の土俵際で登場する力士達の世話をやきながら、時間一杯になったとき「時間です」と力士に告げてやる、あの呼出しの姿だ。私は、全力をつくして、あの仕事をやってみたい。
[#地付き](文藝春秋・昭和三十五年十月号)
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信濃松代町
「日暮硯《ひぐらしすずり》」を読み、信州|松代《まつしろ》藩の家老、恩田木工《おんだもく》の事蹟と人柄に魅了されて、これを小説に書きたいと熱望しながら四、五年もすぎ、ようやく着手したのは五年前の夏のことでした。
それから今までに私は十二、三回は信州を、松代を訪れています。
「恩田木工」につづいて、松代藩の藩祖、真田信之《さなだのぶゆき》を描いた「信濃大名記」「碁盤の首」。真田家のお家騒動を背景にした「刺客」。それから今度思いがけなく直木賞を授賞された「錯乱」は、信之の晩年にあった事件を描いたものです。
松代藩真田家は信之以来、明治維新に至るまで一度も国替えのなかった大名です。幕府は何度も、真田家を改易《かいえき》にしようとしたり取潰《とりつぶ》そうとかかったりしましたが、その度びに切抜けました。
これはやはり、真田信之という藩祖が偉大なものを後世に残しておいたからでしょう。そして、信州という風土が培《つちか》った人々の魂がしっかりとしていたからでしょう。
松代の町は、明治になってから、その文明的発展を長野市にゆずりました。
皆さんも御存じの通り、古風な風趣を今も残しています。これは見方によって、非常に良いことだとも思われます。少くとも私のような物書きには、ありがたいことでした。
今も残る松代城跡の石垣に立って、私は、春の、秋の、夏の、冬の善光寺|平《だいら》を何度も眺めては構想を練ったものでした。
親切に私を教えて下すった松代の郷土史家、大平喜間太氏の温顔も忘れ得ません。大平氏は昨年亡くなられました。
この原稿を書いている今の明日に、私は、また信州へ出かけます。
真田信之の死を今度書くつもりなのです。
私は、弟の真田幸村というポピュラーな英雄の蔭にかくれて、今まではあまり名を知られていなかった信之という人物に接し、これに愛情をかた向《む》けることの出来た嬉しさだけは、作家としての冥利《みようり》だと思っているのです。
[#地付き](日本の屋根・昭和三十五年十二月号)
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私の生れた家
私は大正十二年一月生れだから、東京浅草|聖天町《しようでんちよう》の生家は、その年の九月、大震災によって潰滅してしまった。
したがって生家の思い出はもたぬが、震災以後、私が幼少時代を送った、つまり私の育った家のことを書いてみようと思う。その家は、私が生れた家と同じようなものだ。貧乏暮しの東京ッ子には移転から移転のならわしもあるし私も方々へ住み移ったが、この家には五歳から十三歳までの永い間、暮している。
その家は、浅草|永住町《ながすみちよう》にあった。上野と浅草の中間にあり、どちらへも歩いて二十分弱。しずかな、寺の多い下町である。表通りに面した二間のガラス戸をあけるともうすぐに四帖半の部屋があり、となりが六帖、その向うは台所と便所。廊下も縁側もない典型的な長屋スタイルである。二階は六帖に三帖の二間であった。
母が早く離婚をしたので、私は、この祖父の家に引取られて八年間を送った。四帖半は飾《かざり》職人だった祖父の仕事場である。小肥《こぶとり》の老躯《ろうく》を丸めながら、一年中、ハゲ頭に汗をかき、フイゴをならしたり、ヤスリで指輪の仕上げをしたりしていた祖父の熱心な仕事ぶりを、今でも思い出すことが出来る。祖父は、しがない職人でありながら詩情を解した。
夏は、不忍《しのばずの》池《いけ》の蓮の花。春は小金井の桜、秋は美術館等々。四季のささやかな行楽を決しておろそかにしない人であった。私は幼時から祖父につれられ、芝居や相撲、そして浅草「中清」の天ぷらや「金田」の鶏の味などおぼえた。
八つか九つのとき、夏の縁日の夜店で風鈴を買って来て「おじいちゃんにおみやげだよ」と渡したら、祖父は悶絶《もんぜつ》せんばかりによろこんだ。
「正坊は、風流の道を知ってやがる」というわけで、大よろこびの祖父は、私をつれて、すぐ浅草へ出かけ大御馳走をしてくれたものだ。風流でも何でもない、私は祖父の好みを知っていただけなのだが……。
そして祭の日――鳥越《とりごえ》神社の氏子であったがあの、お神輿《みこし》の揉《も》み合いつつ表通りを練って行く光景は、忘れがたい。祭の衣裳に身をかため、金棒を持って駈け出して行く一年一度の嬉しい楽しい日を、どんなに待ちこがれたことだろう。私の母などは、浅草三社祭ともなれば、子供の私を背負って、朝も暗いうちから駈けつけ、神輿の宮出しから後へくっついたまま、一日中、神輿の後を追いかけまわしたものである。
一日を汗水たらして働き、得た金は、すべて自分と自分の家族のために気前よく使い果してしまう祖父であった。こうして、せまくるしい長屋暮しも、祖父が生きている間は、私にとって天国であった。豆腐屋の呼び声、金魚屋や煮豆屋の声、定斎屋《じよさいや》の引出しの鳴る音、それらは四季の、朝夕の風物詩である。家も安普請《やすぶしん》、家具も用にたつものだけの間に合せ――地方の民家にくらべて、東京下町の家には伝統の重味はない。しかし、その生活には、東京人の伝統があった。その伝統も、今は、煙りのごとく消え失せ、私自身、とうてい祖父の心身を人生に向ってぶっつけ投出した、捨身の生き方は出来ないようになっている。時代の流れを云々するよりも、私にとって、これは哀しいことである。
その家の跡は、今もある。その町は、下町のまっ只中《ただなか》にありながら、ふしぎに今も静かな町である。当時、隣同士だった人びとも、そのままそこに住んでいる。
[#地付き](朗・昭和三十六年五月号)
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自講の思い出
自講《じこう》と読む。
正規に言うと(海軍自動車講習員)のことである。
(自講)というのは海軍用語だ。
数多い海軍の兵科のうち、軍楽隊員が(海軍芸者)とよばれて軽蔑《けいべつ》されていたように(自動車講習員)も、自講と言っただけで鼻の先で嘲笑されたものである。
軍楽隊が前線の危険にさらされる可能性が少いのと同じように、海軍軍人のくせに、自動車運転手では戦闘に於ける危険性が少いから卑怯である、という解釈が成りたったものであろうか……。
私が富山海兵団の新兵教育の途中で、この(自講)へ入ったのは昭和十八年の三月末だったかと思う。
理由は、やはり自動車に乗って活躍したかったからだろう。
厳重な試験があって、どうやらパスした。
(なあに、自動車の運転なんか、わけはない)
タカをくくっていたが、いざ教課が始まってみると、いやもう、実に凄《すさ》まじいばかりの明け暮れとなった。
後でわかったことだが、海軍の教習所の中でも(自講)の教習は、もっとも陰惨|苛烈《かれつ》、昔の樺太《からふと》監獄と同じことだという定評があったほどだ。
教習期間は三ヵ月である。
三ヵ月のうちに全員を卒業させなくては(自講分隊)の成績に関係するというわけで、分隊長、教官以下は連日、息をつぐ間もない学科と実習に生徒を追いまくるのである。
ブレーキやハンドルの握り方ひとつにも棍棒《こんぼう》を持った教官(下士官、兵長)が隣りにいて、これで頭を撲りつけ、どやしつけながら教え込むのだった。
一週間一度位ある模擬《もぎ》試験に良い点数がとれなかったものがいた班などは、その一人のために全員が腰に棍棒の襲撃を受け、食事を食べさせてはもらえない、などということは朝飯前のことで、われわれ生徒に支給される菓子類の配給までも停止されてしまう。
「お前ら、たるんどるから、菓子止めだ!!」
この一言で、われわれは、じいっと我慢しなくてはならないのだ。
のみならず、二百名近くの生徒に支給されるべき菓子や酒を、下らぬことに理由づけては、これをため込み、そして、教官連中が、これを横須賀の料理屋へ横流しするのである。
しかもだ、これらの物品を運ぶトラックは、実習訓練に使用されるもので、われわれが彼等に頭を撲りつけられながら夜の街道を横須賀まで運んで行くのである。
ここに至って、私はもう我慢が出来なくなってきた。まだ若く、純な気持で戦列にのぞもうと考えていただけに、この終戦末期の軍人たちの腐れ方には激しい怒りをおぼえた。
といって、彼等に向って反抗するわけにはいかない。表向きの反抗をすれば殺されてしまっただろう。
私は、もう彼等の言いつけ通りに教課をやらないことにした。
学科の成績も落ち、実習では、ハンドルを握ったまま何もしないことにした。
車が走り出してもハンドルをもって、ぽかんと正面を見つめているだけだ。車は右に左にスリップして、あわや兵舎にぶつかりそうになったり、塀にブチ当りかけたりする。
教官は怒り心頭に発し「この野郎!! 何をしてやがる。このバカ、このマヌケ!!」と、あらん限りの罵声《ばせい》を投げつけ、手にした皮スリッパで頭といわず顔といわず、メチャクチャに撲りつける。
夜になると、ロープを体に巻きつけられ、水をぶっかけられたが、これには参った。水にしめったロープで体をしめつけられる苦しさは、たまったものではない。
ことに、何とか吉弥とかいう名の、殿様のお小姓みたいなやさしい名前だが、丸でアメリカ映画のギャングの親分みたいな凄い下士官にいためつけられたことは忘れられない。
そのときの打撲の痕《あと》は、今も寒くなると痛む。
しかし、とうとう私は無言の反抗をしつづけ、彼等にサジを投げさせた。この間、いろいろとあったが、もう枚数がないので……。
つまり(落第)というわけで、私は(自講)の教程終了と同時に横須賀海兵団へ送られることになったのだ。
(助かった!!)
私は心のうちに叫んだ。事実、それまでに私は何度か(奴等に殺されてしまうかも知れないぞ)と覚悟したものである。殺されても家族には(事故死)とか(病死)とかの届一つで何も彼もほうむられてしまうことだろう。
教官達は、みんな私を憎んでいたからだ。そしてまた生徒達も私を憎んだ。私のために(菓子止め)になったことは何度もある。このことは今になって済まないと思っている。今の私なら一途《いちず》に反抗をせず、教課に従ったであろう。
この中にあって、打撲のためハンモックから起き上れなかった私の下着などを一生懸命に洗ったり、そっとキャラメルなどを持って来てくれたりした同年兵のS君のことは忘れられない。私が昨年、直木賞をもらったとき、十何年ぶりでS君がハガキをくれ、互いに居処《いどころ》がわかって、今は文通している。
(自講)で運転を習っていたら、今の私は、きっと中古の車の一つ位は、何としても買っていることだろう。
だが、もう自動車の運転をおぼえるのがめんどうくさくなってしまった。
それでも春になると、東京近郊の静かな道を、赤いスポーツカーに乗って走って見たいと思うことしきりである。
[#地付き](モーター・マガジン・昭和三十六年五月号)
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七月九日の酒
この四年間の七月九日という、いまこの稿を書いている日に、ぼくは、どんなことをし、どんなオカズで、どんな酒を飲んできたものかと、ふっと考え、古い日記を引っぱり出してみた。日記には毎日のオカズが必ず記されている。日記に記事を書かぬ日はあっても、毎日食ったものを記さぬ日はない。どういうつもりか自分でもわからぬが、年月がたってから、これを読み返すのは何となく楽しいのである。
[#ここから1字下げ]
昭和三十二年七月九日(月曜)曇
退庁ベル後、「退職願」を係長と課長に渡す。ようやく受理してくれてホッとなる。課長曰く「僕も若いころ、上役とケンカして辞表を叩きつけちまってサ。ところが二、三ヵ月したら金はなくなる仕事は見つからず、音《ね》をあげたところを、前の役所の上役が辞表を握りつぶしておいてくれて、再びだネ、戻《もど》れと、こう言われて、全く助かったもンだ、どうかね? ……しばらく握りつぶしとこうか、僕が……」
課長の親切は嬉しかったが、もう半年も前から願い出ていることなので、思い切って辞退する。
朝 トースト三枚 コーヒー二杯 ベーコン・エッグ
昼 狐うどん 自由ケ丘(そばや)
夕 鰺のすのもの トマトサラダ ビール二本 酒一本 シソの御飯 ナスの味噌汁
[#ここで字下げ終わり]
これは十年つとめた役所づとめの足を洗った日である。当時は目黒税務事務所の徴収員をやっていた。月給約二万円、その他、舞台やラジオの脚本料が、ときどき入ってきた。これから筆一本で食べて行くつもりで、それでいよいよダメなら、守衛をやるつもりで、知人にあらかじめ頼んでおいた。家族がいるので食えないのに文学をやるつもりは毛頭なかった。ダメなら何度でも出直すつもりだった。
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昭和三十三年七月九日(水曜)曇
夕方から鬼の会。演舞場「新喜劇」見物。ハネてから(酒舟)に集まり、天外、寛美などと屋形船で向島まで行く。川風さむく、一同ひどい目にあう。
朝 きしめん 番茶
夕 舟中にて 寿司 折詰 ビール 酒
寒いのでガブ飲みするが、酔わず。ブルブル震えながら飲む。
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この後、風邪をひき三日ほど寝ている。
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昭和三十四年七月九日(木曜)晴
午前十時、和具発。観光船で「英《あ》ご湾」一周。真珠イカダの群が浮ぶ海なり。賢島から電車にて鳥羽へ。ここで帰りの〈ハト〉の切符を入手帰宅し、父の死を聞く。腸ガンなりと言う。
夜、酒をのみ、大酒のみの父と、ついに一度も酒を飲み合わなかったことに気づく。
朝 (和具ひろはま荘)ハムエッグ つくだに 味噌汁 魚の干物 ビール一本
昼 (名古屋駅) オムライス
夕 豚肉酒むし クジラと胡瓜のすのもの 冷奴 ビール一本 酒一本
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志摩へTVドラマの取材に行き、帰った日に行方不明だった父の死を知ったのである。
前年の年の暮に、突然、長い間会わなかった父がたずねて来、その翌日から私は芝居の仕事で鹿児島へ行ってしまったので、その日一日が父との別れになったわけである。だが、家内が一週間ほど父に来てもらって、家のなかのことをいろいろやってもらい、母も父と一緒に食事したりしたらしい。もともと憎み合って別れた父と母ではないのだから……。このとき、父は、私の部屋のフスマを張っておいてくれた。それを今でも張り替えずにおいてある。長く生別していたので私は父に愛情をもってはいなかったが、このときの再会がこころよいものだったので、今は父をなつかしんでいる。この日の夕方の酒は少しもうまくなかったような気がする。
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昭和三十五年七月九日(金曜)晴
京都発〈出雲〉にて松江に向う。暑し。大阪から丹波を抜けてエンエンと列車がたどる道は、十五年前に復員列車のアミ棚に中村一等水兵と共に押しあげられて大阪へ出て来た道だ。あのとき、大阪駅前の廃墟に立ち、東京行の列車を待った思い出がマザマザとよみがえって来る。
米子に近づくと海の水平線を区切るかのように松林と砂丘の弓ケ浜半島がのぞまれる。明後日、自分は、あの砂嘴《さし》を踏むのだと思うと胸が騒いできた。
松江五時十四分着。岩多屋泊。
夜、女中の公ちゃんと大橋畔の「山小屋」というバーへ行く。「スカート」という紅いカクテルをのむ。
朝 (京都たちばな)味噌汁 おにぎり
夕 (松江岩多屋)エビフライ 鮎しおやき 鯛の刺身 焼豚 里芋のくずあんかけ ビール二本
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去年、映画の仕事で京都へ行き、ひまを見て戦争中に私がいた山陰を訪れたのである。
そして今夜は――ナスに鶏肉をはさみ揚げたものと、めじの刺身で、ショウチュウに氷とレモンを入れて飲んでいる。
[#地付き](酒・昭和三十六年八月号)
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長崎・平戸の旅
このごろ、東京にいるときは、ほとんど外へ出ない。机の前で一生懸命に仕事をする。それがたのしいのだし、酒も自分の家で好きな肴《さかな》をこしらえてひとりで飲むのが一番うまい。
こういう私にとって、一ヵ月に一度(ヒマができれば何度でも……)の旅行は絶対に欠かせないリクリェーションであり、仕事への収穫ともなる。
去年の暮に、はじめて北九州をまわった。
大阪・姫路・赤穂・岡山――それから新年早々にオール讀物へ書く「山中鹿之介」が斬殺された備中・高梁《たかはし》へ行き地形を見、それから尾道・広島・岩国・下関・門司・博多・太宰府・柳川・佐賀・長崎……と、ここまでは清水正二郎君運転するところのヒルマンで走った。
清水君とは長崎で別れ、豚のマークをつけたヒルマンは、一路、南薩へ去った。数日後には小倉で再会することになっていた。
さて、長崎である。よかった。二日の予定が三日も滞在してしまった。
ここは「人間」の住むところである。昔からの開港地だけに、人情もあつく、心もひろい。
かの勤皇志士たちが大いに痛飲し、大いに恋愛をしたという丸山《まるやま》の花街、そこで昔から有名な料亭「花月」へ、私は電話をした。
「東京のものだが、飯をたべたい」というと、すぐにうけてくれ、私はその日の夜「花月」のしっぽく料理風のワンコースで夕飯をした。
菊笑《きくえみ》ちゃんという出たばかりの妓に来てもらい、長崎の話をきいた。
彼女は十八歳。長崎から一里ほどはなれた蜜柑の産地で生まれたという。
女中さんも女将も、まことに親切で、この次は平戸島へわたるといったら時間までしらべてくれる。当然のことなのだが、そこに温情がこもっているのだ。「花月」は昔のままの姿を残し、二階広間には坂本竜馬が剣舞か何かをして切りつけたという柱の傷あとまで残っている。
そして、勘定書を見て、またおどろいた。いくらだったと思います? まあ、ここに書かないでおくが、その良心的なこと、ただもう驚嘆するばかりであった。
勤皇志士たちが、勤皇運動にかこつけて、何かというと長崎へ出張したわけが、よくわかったのである。
さて、平戸島へわたった。
海外貿易発祥の地である平戸は、長崎同様のエキゾチシズムが色濃く町と港の風物に残っている。
旅行の途中、こわれたカメラで撮りつづけてきたフィルムを町の写真屋へもって行くと、
「それでは、夜中までに現像焼付を全部してさしあげましょう。うつっているかどうか心配ですもンね」と店の青年がいう。
夜中までには五時間しかない。
旅人を親切にするのは当然だという顔つきで、青年は出来上った写真を宿へ届けに来てくれた。
田口楼という宿の、素朴のサービスのよさも忘れがたい。
東京・大阪など大都会を中心としたマスコミがつくりあげてしまう「現代」とは全く違った「現代」を、私は旅するたびに感ずるのだ。このことを忘れて小説を書くつもりに私はなれない。
数日後――小倉へもどると、豚マークのヒルマンは南九州のどこかに沈没して帰れないという連絡が、私を待ちうけていた。
[#地付き](内外タイムス・昭和三十七年二月一日・わたしの道楽)
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痔用体操のすすめ
七年前から「ジ」がジビョウになった。
いつだったか、自分の芝居のテレビ中継のとき解説に出ることになっていた当日、ひどい出血をしてひっくり返った。
このとき、何としても癒してしまわなくてはならぬと決心をした。
手術をするのもいいが、とにかく前に聞いていた体操をやってみようと思いたった。
病む最中に、この体操をやってみると、すーっと軽快になることは、すでに知っていたが、三日坊主ではダメなのだ。
やるからには一年はつづけなくては――といわれていた。
寒くなると、ぼくはもう全く手も足も出ず、コタツにちぢこまっていたものだが、三年前の初冬から一念発起して、一日も欠かすことなく、この体操を一年間つづけぬいた。
去年の冬から、ほとんど痛まず、血も出ない。冬も元気で仕事をするうれしさを久しぶりに味わっているわけだ。
しかし、人間は、どこか一つ位、痛いところ悪いところが体にあった方がいいらしい。
痔を患うようになってから、ぼくの胃腸が健康になった。
飲みもの食べものに気をつけざるを得ないからだ。
さて……。
痔を治すための体操を次にのべる。
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一 両足を投げ出し、すわる。
二 両ヒジをタタミにつけ上体をささえ、両足をまっすぐにのばし、高くあげる。
三 上げた両足をぴいんとひらく。
四 ひらいた足の片方の指先(とくに親指)に力をこめ、片方の足の土フマズを強く叩く。このとき、両足を曲げずに、左右から中央へもってきて叩き合せること。
この叩きを左右交互にくりかえし、ひらいては叩き、叩いてはひらく。しまいには両足の土フマズが赤くはれ上ってしまう。
五 はじめは疲れても、一日百回までの線にもって行き、一日も休まず一年間つづける。
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以上のことをやれば、たいていの痔は引込む。
この体操で肛門周辺の筋肉が発達するのか引きしめられるのか、とにかく、ぼくは薬にも医者にもかからず、治してしまった。
いまはもう、ほとんどやらない。
体操は寝る前がいい。そしてもう一つ、寒中寝るときに、湯タンポをお尻のそばに入れておくと効果は倍加する。
いまのぼくは、どこか一つ、痛いところか悪いところを見つけようと思うのだが、無い。
そして近ごろは、酒の量もふえてくるし、また少し胃の工合が悪くなりそうだ。
それにしても、冬のおとずれを、尻の痛みに感ずることのなつかしさよ。
命に心配のない体の痛みをじっとこらえているのも自虐的な快味があっていいものだ。
もっとも、痛すぎるときのあの病気のつらさは、一種特別なものではあるが……。
[#地付き](オール讀物・昭和三十七年二月号・私の病歴)
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若い人
近頃の若い人たちについて何か書けという注文である。
ちょいと困る。ぼくだって、まだ四十には一年も間がある。自分でも若いつもりだから書きにくい。
大体、人間というものも、「近頃の若いもんは……」と言い出したらお終いである。そんなとき、人間は自分の若いときのことを、すっかり忘れてしまっているのだ。
およそ、人間の世界、歴史なんどというものは古今を通じて、それほどに変化はないものなのである。
やれ「ビート族」とか「ツイスト族」とか言っても、あんなものは問題じゃないような都会の若者たちの狂態は、チョンマゲ時代からあったのである。
それはさておき……。
せっかくの注文ゆえ、このごろ眼のあたりにした若ものの姿を、一、二ひろいあげてみることにしようか……。
旧冬(あるいはこの正月かも知れぬ)ぼくは、丸の内の某映画劇場へ「ウエスト・サイド物語」というミュージカル映画を見に出かけた。階下が満員なので、二階の指定席へやむを得ず坐ったのである。
となりに、若き女性が若き男性と共に見物している。
映画が始まった。
同時に、その女性もチューインガムを噛み始めた。
ぼくも、ガムは時々噛みます。噛みますが、しかし、噛み方にも、いろいろとあるのである。
クチャクチャ、ニチャニチャ……読者もおわかりであろう。あの、不必要に高くガムを噛みつづける厭《いや》な音は……。
ことに、女性が人前であれをやると、たまらなくなる。
電車の中でそれを見てさえ厭になるのに、映画観賞の際に、これをやられては、たまらんのである。
ぼくのみではない。前後左右の人びとの(それは中年の人が多かった)視線をうけても、彼女は平気で噛みつづける。映画の台詞も音楽も、彼女のガムを噛む音が奪いとってしまって不快この上もない。うしろの中年の紳士が注意をしたが、彼女はやめない。彼女の連れの青年もニヤリとしただけで、彼の方は、その発達しすぎた両足の靴を前の席の頭にかけている。そこの見物の人がふりむいて睨んでも平気だ。
こういう若ものたちが増えてきたことは確かである。ことに都会の、ことに東京の町に……。
しかもだ。
その女性はガムの音高く噛みつづけながら、映画の女主人公の悲恋に、ボウダと涙を流しているではないか……。
「よろこび」も「悲しみ」も、今の時代に於ては、すべて自分ひとりのものとなったのであろうか。
こういうことは、ぼくらの若いころには余り見かけなかったような気がする。封建的だといわれた時代に他人の自由を尊重する意志が若ものたちの間にあって、自由主義を謳歌する現代に、この人間の|わがまま《ヽヽヽヽ》がのし歩いている。
ぼくが、この二人の若ものに対して何をしたかは、ここにのべない。
さて、次の話になる。
昨年、九州へ旅行をした。
長崎、小倉、その他北九州をまわり、平戸島へもわたった。
半分は取材の目的もあり、まず市役所をたずねる。この小さな島の風物もすばらしいものだが、古びた庁舎の中にはたらく青年吏員たちの親切さえ、心あたたまるものであった。
ただ「東京から来たもの……」に対する親切さは、東京の旅人だけにするものでないことは土地の人びとに対する応接の仕方でわかる。
ちかごろの東京のホテルのフロントをごらんなさい。もっともホテルにもよるが、去年まではサーヴィスのよかったホテル受付の女の子の、見る見るうちに変貌する、その冷めたさ、親切の一片もない|ふてぶて《ヽヽヽヽ》しい態度。客は泊ってもらうのではなく泊めてやるという勘違い。おどろくべきものがあるのである。
喫茶店しかり、料理店しかり……。
ところが、日本は都会だけ、東京だけではない。
しかし、他の人びとは、今の東京に住む人びとをもって「東京人」という。大変な間違いである。いわゆる「江戸ッ子」というものについても世間は大変なマチガイを犯している。これは「江戸ッ子」ぶる奴がいて、キザなことをしゃべったり書いたりするから、そうなってしまったのである。
本当の「東京人」というもの……それを、ぼくは、いつかきっと小説に書いてやろうと思っているのだが……。
平戸へ泊ったその夜……。ぼくは町の写真屋を訪れた。
「カメラが少しこわれてるらしいので、今まで撮ったのがうまくうつってるかどうか心配なんだ。ダメなら安いカメラを買おうと思うんだけど、出来るだけ急いで、何時までに焼付をしてくれる?」
明日一杯はかかるだろうが、そうしたら明日も平戸へ泊るつもりでいた。
「それはお困りでしょう。ぼく、急いでやります。夜の十二時まで待って下さい」
ときに午後八時半である。
その青年、十九歳だといった。
きちんと十二時。夜ふけの宿へ、フィルムの現像・焼付をそろえて、
「みんな、ちゃんと撮れてますよ」と嬉しげに持って来てくれたその青年のことを、今も、ぼくは忘れないのだ。こんな例は旅行をするといくらも得ることが出来る。
日本は、中央の都会だけで、その都会を中心としたマスコミだけで成り立っているのではないのである。
[#地付き](うえの・昭和三十七年四月号)
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ハマの思い出
ちかごろ、丹波恒夫氏が蒐集《しゆうしゆう》された「横浜浮世絵」が出版された。
それを見ているうちに、ボツゼンと、横浜が書きたくなってきた。
しかし、開港時代から現代にかけて、そのどの部分を書くにしても、二、三年はハマを調べもし、たびたび出かけて行き、ふところにあたためなくてはなるまい。
数日前に、M氏に案内をしていただき、野毛から日ノ出町一帯、それに支那墓地なぞを見た。
私にとって、横浜は少年のころから思い出のふかいところである。
親類の家が、滝頭《たきがしら》にあったし、戦前のある時期には、土曜日というと、きまってハマへ出かけたものであった。
と言っても、ぼくの歩きまわり遊びまわるところは、本牧から元町、南京町、それに山下公園をふくめた港一帯と伊勢佐木町といったところで、根岸の競馬場は知っていても、支那墓地なぞは、今度初めて見たようなわけである。
先日、車の中から滝頭の市電の車庫を見て、それが昔のままの姿であったのを、ひどく、なつかしく思った。
滝頭の親類の家に泊まっていると、夜ふけに、港の船が鳴らす汽笛が、はっきりときこえてきて、ぼくの感傷をかきたててくれた。
秋がふかくなると波止場一帯は、ふかい霧に包まれる夜があって、そんなときには、必ず波止場へ出かけて行ったものだ。
外国船の甲板にペルシャ猫が歩いていたりして、ぼくらは、よく飽きもせずに、波止場を歩きまわった。
朝早く波止場へ行くと、黒人のパン屋が馬車を駆ってパンを売り歩いていたのを見たこともある。
元町もよかったが、弁天通りも好きであった。
今日もう、どこが弁天通りだか、わからない町なみになってしまっている。
弁天通りの、たしか「ジャーマン・ベーカリー」だったと思うが、よく行った。それに、馬車|道《みち》の方へ向かって行く左側にあった「スペリオ」という店――レストランとカフェを一緒にしたような小さな洒落た店で、ぼくは、この店のカレイのフライが好きで、悪童(十六、七歳のころだ)どもと、ブドウ酒をのみながら、たっぷりと量感のある見事なカレイのフライを食べているのを、女給さんがおもしろがって、からかいながら、ぼくらの相手をしてくれたものである。
そのころのぼくは、一人で働いて飯を食べていたし、そのときやっていた商売柄、分不相応の収入もあったので、もうハマへ行くのが楽しくて楽しくてならなかった。その時分から、小説を書くつもりになっていたとしたら、ぼくはただうかうかと遊びまわっているだけでなく、もっといろいろなものを摂取していたことであろう……。
残念でならない。
戦争で海軍にとられ、しばらくして、磯子の横浜航空隊へ転属になったときはうれしかった。
「ジャーマン・ベーカリー」から東京のわが家へ初めての外出の日に電話をかけて連絡をし、次の外出の日に、母と桜木町の駅前で待ち合わせ、外人墓地へ行って、母がこしらえてきた寿司を食べたこともある。
海軍の外出日は夕方から翌早朝までであって、しかも横浜の海軍兵員は川崎までが外出許可区域なのである。
東京へ行くことは禁止されており、桜木町をはじめとして各駅には厳重な巡邏《じゆんら》隊の見張りがあった。
ぼくは、滝頭の親類の家へ国民服をあずけておき、外出ともなると、これに着替え、民間人になりすまして東京の家へ帰った。
そのうちに、もう着替える時間が惜しくなり軍服のまま種々の手段を考え、東京へ潜行したものだ。巡邏隊につかまりそこねたことが二度ある。このときのことは短編に書いた。
海軍にいたころは磯子の「ハマ・ホテル」というのによく泊まった。
磯子の海のにおいや、すみ切った冬の空の感触を、ぼくは今も忘れない。
そして、ぼくは、この目でハマが空襲に燃える姿を何度も見た。
戦後は、三月に一度ほどしかハマを訪れなかったぼくだが、これからはマメに通うつもりである。そしておもしろい小説を書きたい。
[#地付き](神奈川新聞・昭和三十八年十月十九日)
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むかしのこと
先日、昔、つとめていた店の若主人だった人が急逝し、そのため二十数年ぶりで、当時の同僚たちが集まった。
そのとき、昔の仲間たちが口をそろえて言うには、
『夏の暑い日に、君は、酔っぱらって、店の裏の川にかかっている橋のランカンをわたって見せているうち、川に落ちこんで死にかけたのを、みんなで飛び込み、助けあげたことをおぼえているだろう?』と言われた。
私は、まったく、これを忘れてしまっていたし、みんなに、そう言われても、少しも思い出せなかった。私は、自分の記憶力に絶望を感じた。
私は金ヅチである。海水浴には縁がない。
海軍へ入ったときには、ひどい目にあったがとうとう泳げずじまいで通してしまった。
[#地付き](小説倶楽部・昭和三十七年十月号)
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日々好日
私たちの仕事は、書斎の机を相手に一日中を暮すことが多い。
ことに、夏は、私にとって、もっともすばらしい季節で、食欲はすすむし、身体のすべてが快適となり、体重も一貫目近く増加する。
こういうわけで、夏は出来るだけ外出をせずに、書き、読む――ことに、たまった書籍をみっちりと読むことにしている。
避暑などとは、とんでもないことで、夏の盛りの一日一日こそ、一年中で、もっとも自分のための勉強に有効な日々であるから、汗をたらたら流し、せっせと新聞の連載を片づけ、読み、書き、見物する。
見物とは――映画見物のことである。
我家の近くに散在する内外の映画館は、いずれも二本立て三本立てであるが、これを片っぱしから見てまわる。何を見ても、それぞれにおもしろい。
ふだんの月は二十本程度しか見ない映画も、夏は月に三十本から四十本になる。それでいて仕事にも読書にも、能率が、ぐんと上るのだ。
今月(八月)などは、ラジオ・ドラマで小栗《おぐり》上野介《こうずけのすけ》を書き、団十郎氏が出演したので、そのリハーサルに立合った日以外は、電車にのって外出したおぼえはないようだ。
仕事は四季を通じ、深夜から明け方までのことが多い。家族(母と家内)は先に寝かせてしまい、仕事をして、寝る前にウイスキイをのむ。これがたまらなくたのしみである。
この文章が出るころには、秋の気配も濃くなっていることだろう。
秋も、ずっと深くなると、そろそろ私も外へ出かけはじめる。
原稿を書きためては、旅へ出て行く。
観光客もいない静かな晩秋から冬にかけて、それは、私にとって一番快適な旅行の季節だ。
東京へ帰って来たかと思うと、また出て行く。
旅行をすることは、気づかぬうちに自分の仕事へ肥料をあたえてくれるので、つとめて出て行く。
去年の十二月は北九州を、じっくりとまわった。今年は南九州の見残したところをまわるつもりである。
なかなか思うようにはいかぬが、日々好日の持続に心がけるようにしている。
ということは――私たちのような仕事では、何よりも生活の大半をすごす自宅の、書斎の空気を住み心地のよいものにしなくてはいけないと思っている。
ことに時代小説の場合、資料を抱えて他の場所へ行き仕事をするということが、どうしても出来にくいのだから、我家をもっとも居心地のよいところにするより仕方がない。
夕飯の酒がうまい日だったら、その日は、私にとっての好日である。
[#地付き](講談倶楽部・昭和三十七年十一月号)
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土方歳三の女
一昨年の夏のある日のことであった。
母と家内と三人で、テレビを見ているとき、たまたま、そのテレビが時代物のドラマをやっていたためかと思われるのだが……。
「土方歳三っているだろ、新選組の……」
いきなり、こんなことを母が言い出した。
「いる」と、私が何気なく答えると、
「あの土方って人の彼女は、京都の、大きな経師屋《きようじや》の未亡人だったんだってねえ」
こんなことを言うのだ。
私は顔色を変えた。
「新選組」については、子母澤寛先生はじめ、先輩の諸作家が、いまのところ書きつくすところまで書いてしまっているように思われているだけに、新鮮な素材がなかなかに見つからない。
しかもである。土方歳三の色女に経師屋の未亡人があったということは、いままで読みつくした「新選組」関係の小説にも、史料にもなかったことだ。私の目が血走るのも無理はないところであろう。
「おっ母さん、そんなことをどうして知ってるんだ?」
「お父っつぁんに、ちょいと聞いたことがある」
母の父だから、私の祖父だ。私をもっとも可愛がってくれた(母よりも、だれよりも)祖父は、私が十歳のときに死んでしまっている。浅草永住町に住んでいた、職人である。飾《かざり》職だった。
「おじいさんが、なんてったんだ?」
「おじいさんの仲間――なんでも田原町の方にいた同じ飾屋さんが、おじいさんに、ちょいと話したことがあって、それを、おじいさんが、私に聞かせてくれたことがある……もう古いこったねえ。なんでも、私が、そうだ……十七、八のころだから……」
「もっと、くわしく話せよ」
「話せったって、それだけのこったよ」
「たよりねえなあ……もっと、何かあるだろ? 思い出しなよ」
「ふむ……それだけだよ。その飾屋さんのお父っつぁんが、その、土方歳三の馬の口とりをしてたんだってね、だから……」
「だから……? もっと何か聞いてるだろう? 思い出しなよ」
「それだけだよ。そのほかのことは知らないよ。もっとなんか聞いてたかも知れないが、もう忘れちまったね、なにしろ四十年も前のこったもの」
結局、いくら責めたてても、それ以上のことを、母は思い出してはくれなかった。
「まあ、いいや……」
それだけで、作家にとっては、じゅうぶんだと思った。
つまり――土方歳三の馬丁《ばてい》をしていた男が明治になって飾職となり、そのむすこが友人であるところの私の祖父に「土方歳三の色女は、京都の大きな経師屋の後家さんだったそうだよ……」と、こう話したという、それだけの素材が、私を有頂天にさせた。
しばらくして、オール讀物から注文があったので、これを書くことにした。私は京へ行き、大阪での仕事(芝居の……)をしながら、京の町を歩きまわり、傍系の史料をしらべ、帰るとすぐに執筆した。
雑誌にのると、さいわいに好評で、去年の夏に片岡千恵蔵と淡島千景が映画でやった。この映画の中で、島原の角屋の「青貝の間」のセットが、すばらしいリアリティをもっていたことを今だにおぼえている。
素材が、まことに簡単なものだけにかえって生々しい魅力を感じ、懸命に書いたが、その素材をふくらませるのには、ひどく骨を折って、書き終わると、めずらしく、ぐったりしてしまい、二、三日寝込んだものだ。
[#地付き](スクラップブック・新聞・昭和三十七年・小説の舞台うら)
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伊豆の宿
伊豆、伊東のS旅館は、物見ケ丘の上にある。普通の民家に建増しをした小さな宿だ。
この宿を私に紹介してくれたのは友人のシナリオ・ライタア井手雅人《いでまさと》である。
井手雅人は一年の大半、いっては大げさになるが三百六十五日のうちの半分は、この宿で暮している。仕事をしている。気むずかしい彼は、よほどこの宿が気に入ったものとみえる。客室は四部屋で、女中さんも番頭氏もいない。家族、といっても殆ど母と娘の二人きりで経営している。
私も、井手雅人と共にこの宿へ、ときたま行くようになり、だんだんにこの宿から離れられなくなってしまいそうである。それほど、この宿は、私どもにとって魅力があるのだ。
○
私の場合、時代小説の仕事なので余り旅行して仕事をすることがない。資料書を持ち運ぶのが一苦労だからだ。最近、久しぶりに現代小説を一つ書くことになり、こういうときでないとS荘にも行けないと思って、伊東へ出かけた。
宿は海に面した丘上にある。庭は小さいが、山茶花《さざんか》も薔薇も、浜《はま》木綿《ゆう》も花をひらき、昼近くになると白い双蝶が、ひらひらと花の間を縫っている。これだから、暖い伊豆が私は好きだ。
宿の主婦が食事をつくり娘さんが給仕をしてくれる。私が泊っていた一週間に他の客は一組しか来なかった。これ以上経営の幅をひろげずにやって行きたい方針らしい。清潔だし、すべてに親情がこもっている。
井手君も私も、まず、この宿へ来て楽しみにするのは食べもののことである。
新鮮な魚を、すべて家庭料理によって供してくれる。気取りもテライもなく、とりたての|※[#「魚+陸のつくり」、unicode9be5]《むつ》を甘辛く煮上げたものや、蛤鍋などが出る。一週間居て只《ただ》の一度も同じものを出さない。これ、親情がこもっているユエンであろう。一人一人の客が起床してから飯を炊いてくれるので、遅く起きても熱い飯をフウフウ吹きながら食べられる。これもまた親情があればこそであろう。
こういうやり方を崩したくないと宿の主婦はいう。商売気を出すというよりも、このままでどうにか食べて行ければよいというやり方なのだ。
経営がふくらめば、勢いこうした親情は薄れて行くものなのだろうが、こうした消極的な経営の仕方もあり、これを積極的に支持する客も僕達のみではないらしい。伊東や川奈へゴルフを楽しみにくる客の少数が根強い支持を、この宿へ与えていることは確かだ。
○
何時起きても舌がやけるような熱い飯が食べられる宿というのは、おそらく、もう今の日本には皆無に等しいのではあるまいか。
宿の飯ばかりではない、客に売る食べものに、それをこしらえた人の、売る人の親情がこもっているということは、何よりも人のこころを明るくするものだ。
私は、人間というもの、何よりも食べものに関心を持っている動物だと思うからである。
私どもは、この宿が繁昌していることをのぞむ。今のままで、ひっそりと何時までも続けていってもらいたい。これは私どもの我儘《わがまま》である。宿の人達が聞いたら怒られるかも知れない。
[#地付き](スクラップブック・昭和三十七年)
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男の衣裳
女は得だ。
色も形も、さまざまなニュアンスをこらした衣裳を自由自在に着こなしているように見えてならない。ただし洋装の場合に限ってであるが……。
和洋の生活様式が、ごった煮になっている今の日本の日常生活にも、腰かけたり坐ったり、歩いたり走ったり……すべて、肉体の動きのままに、衣裳が言うことを聞いているように、男には見える。
違うだろうか? 女性から言わせると女性の衣裳も、余《あま》り気楽には着ていないと叱られるかも知れないのだが……。
もともと男女両性の肉体機能の相違が、違った生活を生み、違った衣裳を生み、育ててきたことは言うをまたない。
日本人の場合、女性のスカートは和洋いずれの生活様式にも適応するが、男洋服、ことにズボンは、非常な苦痛を伴う。
男のズボンというやつは、椅子とテーブルには合うが、畳敷きの部屋には手も足も出ない。
単に、シワだらけになったそれを、いちいちアイロンによって形をととのえなくてはならぬ面倒はともかく、あのズボンのヒザを折り、バンドに胴をしめつけられながら坐るということは、私にとって実に辛いことだ。
永い歴史の工夫によって、もっとも簡潔にデフォルメされ、日本人の体によく合った和服というものがあるのに、何故、われわれは洋服を着なくてはならないのか……つくづく哀しいことだと思う。
今どきの若いものが、ゆるやかに和服をまとい角帯をしめて街を歩いたなら、おそらく「何とキザな奴だろう」とか「アナクロも、はなはだしい」とか、苦笑とひんしゅくを買うに決まっている。事実また、気狂いのように自動車やオートバイが疾駆《しつく》する街路を和服の裾《すそ》を捌《さば》きつつ歩むのは危険きわまりないことだろう。
私も今は全く和服を着ない。どちらかに決めなくては経済的にもやりきれないし、このような文明?が進歩しすぎた時代には、和室での、ズボンと上着とワイシャツとネクタイに体をしめつけられる苦痛もあえて耐え忍ぶより他に仕方のない現状である。
年を老るのは厭《いや》なことだが、しかし年を老って、麻の筒袖《つつそで》のかたびらに、これも麻のモンペをはいて暮してみたいと思う。足も靴に噛まれず、素足《すあし》に、ひんやりと下駄をはいてだ。老人のことなら誰も笑いはすまい。
どなたか、リッカーミシンを使って、現代青年の体に合う、あッというようなニューモードを流行らせてくれませんか。
[#地付き](スクラップブック・昭和三十七年)
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充実したテレビを
テレビの魅力は、やはりドキュメントなものにあるようだ。
野球と相撲とが、なまなましい迫力をもって家庭の茶の間に再現され、または中継されることは、現代人としての幸福をしみじみと感じさせてくれる。
それにくらべると、映画や芝居の中継は、まだまだなまぬるく、なんとなくものたりない。
テレビ・ドラマにしても単発のそれは、やはり『やっつけ仕事』が多くて、それがまた歴然と画面にあらわれてくることは、おそろしいほどのものがある。
わたしも年に何度かはテレビのドラマを書くが、うまくいったためしがない。
ことに時代物のそれは、テレビ局側の演出、衣装、小道具、かつらなど、すべてのスタッフをふくめて演劇界のそれにはおよぶべくもない。
そこへいくと、NHKの「事件記者」や、その他の連続ドラマはやはり見ごたえがある。
それは、俳優にしても、脚本にしても、演出にしても一つのドラマに『年期』をいれているのと同じことになるからであろう。
だから、そのうちのどれかが力の弱いものであっても、別のどれかがカバーをして、最後まで見させてくれる。いまのテレビ界に必要なものは『年期』のはいったチームワークであろう。
テレビ界のスケジュールは、まことにあわただしい。
じゅうぶんに企画を練ったり、ケイコをつんだり、勉強をしたりするヒマもないのであろう。
もちろん中には、すぐれた演出家もいるが、総じて、テレビの演出家は俳優の演技をひき出す術《すべ》を知らない。
ことに、時代物のそれは、まことにひどい。大名の家来が、自藩の犯人をつかまえる場合に、幕府の役人のような姿をして出てくるし、大名の家老が大刀を差したまま畳にすわったりする。
演出家の多くは、カメラワークとか、前衛的な音響効果とか、そんなものにおぼれてしまって、そんなことに浮き身をやつすことが『新しい』のだと思っているようだ。
[#地付き](西日本新聞・昭和三十八年四月九日・随想)
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「日本敵討ち異相」長谷川伸著
この一冊におさめられた十三篇は、いずれも「敵討ち」を扱ったものだが、この小説が、中央公論に連載されているころ、私は、毎月の発売日が待ち遠しかったものだ。
私どものように、時代小説を書いているものにとっては、著者のような大先達が、毎月々々、この短篇によってしめされた作家としての熱情と含蓄《がんちく》のふかさに、つくづくと教えられることが多かったからである。
著者みずから「……大型トランクを一杯にした草稿の中の敵討ち℃O百七十件ばかりの中から異質《ヽヽ》なものばかり選んで書きました。異質のものと言ったのは、人間と人間とがやった事を指しています。それは、現在の人間と人間がやっていることと、共通していたり、相似《そうじ》であったりだと言うことです……」と書いているように、十三篇のどれをとってみても、いままでの「敵討ち」小説にはかつてなかったスケールの大きさが看取される。
たとえば、第二話の「山本孫三郎」を例にとってみよう。
封建時代の一国であるところの加賀藩の政治と法制と、社会と、人心とが、〔敵討ち〕という極点にまで追いつめられた登場人物の人生をみっしりと取巻き、討つもの討たれるものの物語以外の世の中の仕組みを、まざまざと見せつけてくれるのだ。
善と悪とがあり、立場と立場があり、そうしたものが、絶えず討つものと討たれるものに発現され、なまなましい迫力を読むものにつたえずにはおかない。
ということは、かたちこそ変れ、世の中の仕組みや人の心は、むかしも今も少しも変ってはいないということが判然とするからだ。
かぎられた枚数の中で、思うままをのべることは出来ないが、一篇一篇にこもった著者の丹念な創作態度は、煮つめられ、みがきぬかれた文章を燦然《さんぜん》たるものにしている。
これらの作品の資料となったものは、生半可《なまはんか》なものではない。二十余年間もあたためられ、機会あるごとに調査がつみかさねられ、徹底した追求のもとにあつめられたものだからだ。
それをまた、豊富な技術と推定の経験を駆使し、おそらくは、三度も四度も稿をあらためた労作なのであろうと思う。
文章にそれが、はっきりとくみとれるからだ。
私どもは、これによって、日本の風土を知ることが出来る。各地、諸国によってことなる制度を知り、その制度の中に生きていたむかしの人々の、それぞれにことなった生活をも知り、そうしたものが、またそれぞれに異《こと》なった敵討ち事件をひき起していることを知る。
著者は、つとめて主観をさけているのだが、おそらく資料と資料の間隙《かんげき》をうめるための推定には、全精力をかたむけつくしたと思われる。
たとえば第三話中の女《め》敵討ちで、大坂定番植村土佐守の家来、青木某の妻|ふさ《ヽヽ》が、米津相模守家来の平田平左衛門と知り合い、密通をかさねる経路を綴った文章に――白昼ばかりを選んでする情事、絶えたかと思えばつづき、続いたかと思うと絶える逢引《あいび》き……とあるが、このような簡潔な文章の中に、これ以上は表現しきれぬまでの「人妻の密通」の情景が見事に描写されている。このような見事さは、全篇いたるところから拾うことが出来よう。
[#地付き](図書新聞・昭和三十八年四月十三日)
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「おとこ鷹」の劇化
「おとこ鷹」の上演を、明治座が早くから希望していたことは、私も知っていたのだが、その脚色と演出の仕事が自分にまわってくるとは思ってもいなかった。
明治座から話があったのは去年の暮からだが、子母澤先生は、なかなか上演をおゆるしにならなかったと聞いている。
御自分のえがかれた勝小吉《かつこきち》のイメージを、他人の脚本や演技で、勝手にいじりまわされることをおきらいになったものであろう。
私は、劇作から出発して小説を書くようになっただけに、両方の世界の違いが、よくわかる。
だから先生が上演をこばむ気持は身にしみて感じられた。
私は、前に井上靖さんの「風林火山」を、脚色演出して新国劇で上演したことがある。
これは評判がよく、新国劇の当り狂言となったし、井上さんもよろこんで下すったが、しかし、原作者としての井上さんからみれば、御不満の点もずいぶんと多かったろうと考えている。
芝居と小説とは、まったく別の生きものである。そのことを、私は自分の小説が他人の手にかけられることによって、まざまざと知ることが出来た。
子母澤先生には、これまで一度もお目にかかったことはなかったが、数年前から年賀状をさしあげていたし、いただいてもいた。
なぜ、私が子母澤先生を親しく身に感じ、また「おとこ鷹」の脚色をひきうけたか――その理由は、私事にわたることなので書くにはおよぶまい。
さて……。明治座側の熱心な奔走があったのかして、上演の許可があったのは今年の一月に入ってからであった。
それから半月ほどの間に、原稿紙にして約百枚の脚本を書くことになった。しかし、気は重かった。
何しろ千数百枚にわたる大長篇の、しかも数えきれぬほどのエピソードを含んだ、淡々たる味わいをもつ「おとこ鷹」である。
この見事な「小説の世界」へ、どっしりと根をおろした大作を、六場面で一時間半という上演時間の中にハメこむわけであるから、(おゆるし下さい)思いきって、大手術をやらなくてはならない。
しかも、俳優たちは尾上松緑を中心にした混成劇団であるし、稽古時間は読み合せをふくめて約十四時間という、おそるべき商業演劇の制約の中で仕事をすすめなくてはならない。
私は、俳優たちの技倆《ぎりよう》と稽古時間と上演時間をにらみ合せ、ともかく全力をつくした。
初日(三十八年三月)をあけると、自分の思わく通りの舞台となった。客の反応もよく、成功をおさめた。
ここまでは、脚色・演出の担当者としての私の言い分である。
客の反応を見れば、成功と失敗の如何は、たちどころに担当者へひびいてくる。
(まず、よかった)と思うと同時に、味わいゆたかなる原作をブチこわしてしまったことに、私はせめられた。
子母澤先生は、招待日に少し風邪をひかれてお見えにならなかった。私はすぐに、手紙をさしあげた。
――私の下手な脚本はともかく、松緑氏の小吉は非常によいと思われます。一度、ごらんいただきたいと思います……と書いた。
初日のあく前に、先生に初めてお目にかかってもいたし、また手紙をさしあげてもいて、
「どうも、今までの小吉は……小吉をやる俳優さんがみんな立派すぎてねえ」
と、こう言われた先生の不安を見事に松緑氏は一掃した(私から見ればのことだが……)演技をしめしてくれたからである。
先生は、私が手紙をさしあげるたび、はねっ返ってくるように、キチンキチンと御返事を下すった。
その文面も、先生のおゆるしがないまま発表するわけにはいかないのだが、先生のお手紙を読み、またお目にかかった印象から、私はまず第一に先生の「律儀《りちぎ》」さを感じた。
「律儀」の気風こそは、江戸人の持つ、もっともすぐれた性格の一つである。
芸人言葉で、キザな江戸っ子を誇示するのが、ちかごろの流行らしいが、これはとんでもない間違いであって、本当の江戸人――東京びとというものの気風は何よりも「律儀」をもって第一とする。
その気風は、子母澤先生によってえがかれた勝小吉に脈をうっている。
と、ここまで書いてきて、私は私の脚本の不足をおぎなってくれた松緑氏の演技を、なつかしく思いうかべているのだ。
[#地付き](子母澤寛全集第八巻おとこ鷹月報・昭和三十八年七月)
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先生の声
十何年も前のことになるが……。
先生が戦後はじめての大患を切りぬけられた翌年の夏のことだったと思う。
先生が、亡き井原敏さんと私とを連れて、そのころ不忍池畔にあった文化会館に興行中の鶴蔵一座で〔一本刀土俵入〕を上演していた、その舞台を見に行かれたことがあった。
このころの先生は、あの重患後だとは思えぬほどの元気さで、目のくらむような日ざかりの中を、|とっと《ヽヽヽ》と歩かれた。
会館のキップ売場で、先生は財布を出され、
「三枚下さい」
といわれ、御自分の芝居を見るためのキップを買われたものだ。
芝居を見て外へ出ると、
「池波君。君は、この辺、くわしいんだろ。どこかで茶をのもう」
といわれた。
当時、私は、下谷保健所に勤務していたからである。
仲通りの喫茶店へ案内すると、
「このごろ、少し、コーヒーがうまくなったね」
先生は、あかるい声でいわれた。
日本の、東京の復興が、思いもかけない早さで進み出していることに、先生は満足のようであった。
このとき、喫茶店で、先生は、井原さんに、
「君は、先ず健康だ。がっしりとした体にならなくちゃアいけないよ」
しみじみと言われた。
当時の井原さんは、まだ元気そのものであるように見うけられたのだが、先生は、早くも、井原さんの躯に芽生えはじめている病気の芽を看破しておられた。
「大丈夫です」
と、井原さんは言ったが、数年後に、肺患で亡くなられた。
井原さんは、誠意のこもった生《き》一本の人柄で、懸命に小説をかいておられたのだが、だいぶ悪いと聞き、江本清さんと二人で見舞いに行った帰途、榎町《えのきちよう》へ寄って、先生に報告をした。
「見舞いに行ったら、帰りによって知らせてくれ給え」
と、先生から言われていたからである。
先生は、私の顔を見ると、いきなり、
「井原君の小鼻は落ちていたかい?」
と訊かれた。
「落ちていました」
と答えると、先生は非常にガッカリされて「いけないかなあ、もう……」と、つぶやかれた。
このときの先生の表情、声を、今もって、私は忘れられない。
池ノ端の喫茶店で、先生は、井原さんと私に、こんなことを言われた。
「ぼくが君たちにあげるものの中から、君たちの身につくものがあって、それを生かしてくれることは嬉しい。だがね、それは、あくまでも、君たち独自の個性の中で生かしてくれなくちゃアいけないのだ。それでなくてはなんにもならない。このことをよくおぼえておいてくれ給え。作家としても、人間としても、個性を失ったらダメだよ」
この追悼の文章を書くに当って、このころの先生のことを記したのは、そのころの先生が実に、|かくしゃく《ヽヽヽヽヽ》としておられたからだ。
われわれと語るとき、ことに芝居について語るときの先生の眼は青年のように輝いていた。
もっとも、この眼の輝きの若々しさは、亡くなるまえまで、すこしも変ってはいなかった。
「君ねえ、ぼくなんか、いつ、ひょっくりと死ぬか知れないんだよ。聞くことがあるんなら今のうちだよ」
にこにこと言って下さっているうちは、よかったが、対座していて話題につまると、
「もう聞くことはないのか!」
きびしく、言われた。
たまさか、私は榎町をおとずれるとき、前もって用意した質問を五つ六つは必ずもって行くようにした。
こういうとき、先生が教えて下さったものを記したノートは、七冊になる。
先生、亡くなられて一ヵ月余――。
このノートを、毎夜、くりかえして読んでいる。
そして、先生が亡くなられたのだとは、今もって私には思えない。このノートと共に、私は、ひとりコツコツとこれからも勉強をしつづけて行こうと思う。
[#地付き](大衆文芸・昭和三十八年八月号)
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六回目に受賞 直木賞と私
四年間に、六回、候補になった。
そのころ、私は芝居の脚本と演出で暮していた。
落ちるたびに「万年候補」とか「棚《たな》ざらし」とかいう声も耳に入らぬではなかったが、気にしなかった。
芝居の世界における毀誉褒貶《きよほうへん》は日常茶飯の事で、その世界にいて仕事をしてきたものだから、賞に落ちたからといって、がっかりすることもなかった。
四回目に落ちたとき、新国劇の稽古で大阪にいた。新聞で私が落ちたと知った劇団の文芸部員が宿へなぐさめに来て、仕事をしている私に、
「よく書く気になれたもンですね」
と、あきれたように言ったが、四回、五回ともなると(また落ちるのだろう)という気になってしまい、賞がきまる日も忘れている。
それよりも、候補にもれたときの方がさびしかった。直木賞の候補になるということは、その年の自分の勉強の成果が世にみとめられることなので、大いにはげまされたものだ。
六回目に賞をもらったのは私一人ではないかと思う。
このとき、もらえなければ、永久にもらえなかったかも知れない。運のよい私であった。
受賞ときまったときには、受賞後第一作のことで頭がいっぱいになった。
とにかく全力をつくした仕事にしなくてはと思い、湯ケ島へこもり、「北海の男」という小説を懸命に書いた。
受賞のよろこびは、むしろ、三年後の現在の方がつよい。
[#地付き](別冊文藝春秋・昭和三十八年八十六号・十二月十五日発行)
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猫
秋になると、猫が美しくなる。
夏中、体の毛が抜け落ち痩せて見えていたのが、猛烈な食欲を取りもどすと共に、毛なみもゆたかになり、鳴声までが違ってくる。
猫は夏の動物ではない。
夏は、日蔭をえらび、一日中ぐったりと寝ころんでいて、しなやかな体の動きもにぶるし、美しい眼の光も、どんよりと曇っているようだ。
私の家では、もう三十年間も、猫を飼いつづけてきた。
したがって私は、少年のころから猫という動物が好きである。
戦争直後――海軍から復員してきて、東京の家が戦災に焼けてしまったものだから、勤務先の役所の一室に寝泊りしていたことがある。
そのときも、私は(ルル)という女猫を飼っていたものだ。
ルルは、おもしろい猫であった。昼間、私が勤務している間は、机の下の箱の中におとなしく眠っているか、外へ出かけるかしているが、夜になると帰って来て、事務室の机の上にフトンをしいて眠る私の枕元へうずくまるのである。
この猫は夜中に踊りを踊った。
深夜、ふと目ざめると、彼女が何に浮かれてか、私の枕元で後足二つをぴいんと張って立ち前足をフラフラと動かして、首をふったり、妙なうなり声を低く発したりして、踊っているのをよく見かけた。
その彼女の体の動きは、どう見ても踊っているとしか思われない。
フトンをかぶったまま、じいっと見つめていると、彼女は、やがて私に見られていることに気がつく。
すると、ピタリと踊りをやめ、素知らぬ顔で、また枕元へ寝そべって眠りはじめる。こうなったら、もういくら待っていても駄目だ。決して二度と踊ろうとしないのである。
月夜のときなど、事務室の窓から月光が一杯にさしこんできて、その中で、フラフラと踊っている猫をみると、私は、この動物に、神秘的で玄妙《げんみよう》なものを感じないわけには行かなかった。
犬と違って、猫は、その感情をあまり顔や形にあらわさないが、実は犬よりももっと奥深いものを持っているように思う。
このルルが死んだとき、役所の同僚たちは盛大な葬儀をいとなんでくれた。戦後の三年間ほどは、役所や会社も、こうしたのんびりとした味わいがあったものだ。
現在、私の家には雄と雌、一匹ずつを飼っている。
「ミイ子」に「五郎」というのが、それだ。
「ミイ子」の方は愁い顔で体も細く、非常に神経質な性格だが、「五郎」は、まるまると太った大食漢であり、こんな人なつっこい猫もまた珍しい。
先日、映画館へ行き「ジャングル横丁」と「泥棒株式会社」という映画二つを見物した。
二つとも有名なスターが出ていない映画なので、評判にもならぬイギリス映画なのだが、いかにもイギリス物らしい風格をもった作品で、たのしく見た。
この二つの映画に猫が出てくる。
「ジャングル横丁」では、ストリップ劇場の番人が四匹の猫を飼っていて午後四時キッカリに餌《えさ》をやるのが習慣になっているのだ。
ところが或日――町を巡回する警官が、その時間に四匹の猫が餌も食べずに路地をうろついているのを見て、老番人の身に異変が起ったことを直感し、劇場へ駈けつけ、ギャングに襲われて気絶している老人を助け出すというシチュエーションがある。
いかにもイギリス映画らしい猫の扱い方で感心した。
「泥棒KK」の方は、三人の囚人が刑務所の自室で猫を飼っているのである。これも点景として仲々におもしろい。
イギリス映画では、よく猫をつかう。それがまたうまい。
私も「猫と香水」という短編小説を書いたことがあって、この作品は今でも気に入っている。
これからも猫をつかった小説を書いてみたい。
[#地付き](茶の間・昭和三十八年)
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四十眼《しじゆうめ》
先日、鷲羽山から下津井、倉敷、岡山と旅をして大阪へつき常宿のDホテルへ入ったとたん自分の躯《からだ》がひどい疲れ方なのを知った。
冬はともかく、春から秋にかけては、よく旅をし、このときとばかり、ふだんは書斎にとじこめられて、ちぢこまっている手足を存分にうごかしてくるのだが、今度という今度は欲も得もないほどの疲れ方なのである。
翌日一日は、宿にねころがっていて、夜になってから大阪の友人をおとずれた。
私も、その友人も今年で満四十歳になる。
「疲れがひどくてねえ」
「あんたも――」
話は期せずしてそこへ行った。
俗にいう「四十腕」とか「四十肩」とかいう現象が少しずつわれわれの肉体にもあらわれてきているらしい、ということになった。
「それはそうと、ちかごろは本が読めない。資料を読むのがおっくうになって」
と私がいうと、友人は、ニヤニヤ笑いながら、机上の眼鏡をとって、かけてみろとすすめた。かけて、そこらにある小さな活字の本を見てごらんというのである。
かけて、見た。
「フム……」
思わず、私はうなった。
活字の一つ一つが、はっきり眼に飛びこんでくるではないか――。
この二年ほど前から、私は、本をひろげるたびに、ページの活字全体が一つのかたまりになって眼に入ってくる感じがして眼がつかれ、読書力が日に日におとろえていくのを感じていたところなのだ。
「あんた、老眼や」
友人は、すぐさま心斎橋のメガネ店を紹介してくれ、私は、そこで検眼をしてもらい、老眼鏡を一つ買った。
宿の女中さんにも「わア、好かん」とか「じじくさい」とかいわれ、自分でも、ばかに老けこんだような気がして、さびしくなった。
帰京して、また書斎にこもる毎日がつづいている。
ところが、私は老眼鏡をかけることによって一つのたのしみを発見した。
ものをかく、読む、そのたびに眼鏡をかけたり外したりする所作《しよさ》が私の書斎での生活に加わったからである。
この所作をひとりおこなうことは、まことにたのしい。
うまく書きつくせないが、そうした所作があると、執筆や読書の時間に一つの「間」というものが加わってきて、何となく疲労感が解きほごされる気分が醸成《じようせい》されるからであろう。
「年をとるにしたがって、こんなたのしみもあるもんなんだね」
と、私は家人に言った。
「今のうちはともかく、すぐに馴《な》れてしまって、たのしいとも何とも思わなくなるわよ」
と、家人が言い返した。
そうかも知れない。
しかし、そのときにはまた別なたのしみが……老人になるにしたがって、いろいろのたのしみがふえてくるに違いないと私は思う。
私のように時代小説を書き、歴史をよみ、史上あらわれるさまざまな人物の一生をいくつも読んだり知ったり探ったりしているものにとって、いつも考えることは、人の一生――人の死ということである。
肉体の力がおとろえることは悲しいが、よく考えてみると、日々のあけくれを味わうことについては、二十台、三十台のときよりも、ぐっと興味もふかめられている。それに、四十の眼は老眼鏡によって活力をとりもどし、読書力が、ふたたび旺盛《おうせい》になったことが、いまの私にとって何よりもうれしいことだ。眼鏡をかけ本へ向かうと「さア読むぞ」という闘志さえもわいてくる。
(五十になったら、どんなたのしみが待っていてくれるだろう……)
たのしみとともに五十の悲しみもやってこようが私はたのしみだけを探って生きて行きたいものだと考えているのだ。
[#地付き](スクラップブック・新聞・昭和三十八年・日曜随想)
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行きつけの店
「行きつけの店」を一軒だけ……というのは、ちょいと迷いましたが、家族をつれてよく行く店という意味で一つだけえらびました。
「中華第一樓」です。この店の中華料理は、日本人の舌によく合うよう味つけされています。つまり日本風中華料理という意味で、おいしい。
ぼくの、この店でよく食べるものは「中華風サラダ」です。あまずっぱい味で、生野菜と肉の細切りがさわやかにミックスされているので、ビールにとても合います。次に「とうもろこしのスープ」がうまい。次に「シューマイ」です。「肉まん」もいける。
前菜もなかなかよく吟味されているし、つまり一品一品に念が入っている、そこがいいのです。
ということは、この店の女店員さんのいずれもが実に親切で、そのサーヴィスに接するだけでも食べるものの味が倍加します。
これは当然のことなのだが、当然が当然でなくなった近頃の食べものやのことを思うと、この店のサーヴィスは非常にこころよいものだ。
清潔なムシタオルが食前食後に出て、つめたい水にはレモンの輪切りが浮いている。ソバはチャーシュウメンが、いちばんよい。
店内もおちついた感じで、ゆっくり話しながら食事が出来るところです。
[#地付き](スクラップブック・昭和三十八年)
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今月のヒロイン
京マチ子さんにとっては、舞台は初めてのことであるが、舞台女優として非常にカンの良さをもった女優さんである。
また、眼・鼻のはっきりした容貌が演技と結びついていい芝居をみせてくれている。
とくに、菊五郎劇団の中にはいって芝居するということは、なかなか苦心されたことと思う。稽古時間の少なかったのによくここまで融けこんでこられたと感心する。やはり日本を代表する大女優の一人である。
元来、京マチ子さんはOSKの出身であり、十七年前、大阪でその舞台(レビュー)を観たがダンスの非常に上手の人でもあった。恐らくこの十七年間、彼女ほどのダンサーは生まれていないであろう。
これからも映画ばかりでなく、舞台女優として大いに活躍していただきたいと思う。
[#地付き](スクラップブック・昭和三十九年三月・明治座・風林火山演出時に)
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「人材」小栗上野介
小栗上野介|忠順《ただまさ》は、二千五百石の旗本の家に生まれた。小栗家の二代目・忠吉《ただよし》は、徳川家康の祖父・清康につかえ、以来、れんめんとして徳川家に奉公し、幕末に至った。まさに生えぬきの徳川の家来であり、名門であった。
上野介は、幼少のころに疱瘡《ほうそう》をわずらい、そのあとが、みにくい「あばた」になった。
この容貌に対する劣等感が反動的に、彼の性格を強固なものとし、学問武術ともに抜群の武人となり、十七歳のときに将軍・家慶《いえよし》に目見得をゆるされ、以来小栗上野介の昇進は、まことに順調なものであった。
後年、井伊|直弼《なおすけ》が大老のとき、小栗は、アメリカへの通商条約使節の一員(目付役)として渡米している。帰国したとき、小栗の後楯《うしろだて》ともいうべき井伊大老は、水戸浪士の襲撃をうけ桜田門外に殺されていた。
後楯を失った小栗上野介は、幕末の急変が起こるたびに、憎まれもし、遠ざけられもした。所説を曲げぬ強烈な彼の性格を、もっともよく理解してくれたのは井伊大老であったといわれる。
だが――。幕府は、小栗を捨て去るわけに行かなかった。力量もあり才能もある小栗の官僚としての活躍ぶりは目ざましく、
「いやなやつだ」
と思いながら、幕閣は彼を用いざるを得なかったようだ。
外国奉行、勘定奉行、町奉行、歩兵奉行と、そのころの彼の任免表を見ると、まことにあわただしい。小栗の硬骨ぶりに手をやきつつも、なお、彼を登用せざるを得ない人材不足の幕府のありさまが、手にとるようにわかる。
小栗は、アメリカから帰って来て「海軍強化」に本腰を入れた。横須賀海軍|工廠《こうしよう》の開設は彼の創案になるものだといい、小栗を好む人は、これを高く買っている。
だが、小栗をあまり買わぬ人々は、
「何、あの時代に外国へ行ってくれば、よほどのバカでないかぎり、先進国の科学文明に目ざめないものはない。当時の指導者の一人として、幕府の高官である小栗が工場や製鉄所をつくろうと考えたことは、別に取り立てていうべきものじゃない。政治家として当然なことだ」
と、いうことになる。
官軍が東海道を、まっしぐらに江戸へ押し寄せたとき、小栗上野介はあくまでも抗戦を主張し、恭順《きようじゆん》派の勝安房《かつあわ》(海舟)と激論をし、ついに敗北した。ここに、旗本名門の誇りが身にしみついている小栗と、同じ幕臣でも最も身分の低い家に生まれ、物の見方が自由自在な勝との相違が、はっきりと看取される。
江戸開城ときまり、小栗は、さびしく領地の上州・権田村へ隠遁《いんとん》した。
小栗が主張した郡県制度も、あくまで徳川政権を主体にしたものである。
「勤王の心は徳川も薩長に劣らぬ。なぜ公儀を助けて、共に新時代を迎えようとしないのか」
これが小栗の叫びであった。
官軍の怒濤《どとう》のような進撃が、上州へも及んだとき、小栗は捕えられ、有無もいわさず即座に首をきられている。このあたりの官軍の仕方は、まことにひどいものであった。
近年発見された小栗上野介の、上州隠遁中の日記を読むと、いかにも好人物な一面がうかがわれ、あわれ深い。
首をはねられるため、烏川畔に引き出されたとき、ともに捕えられた三人の家来が口惜しがるのを見て、小栗は、
「このようなときには、いかなる正義も通用するものではない。みれんを残すな」
敢然《かんぜん》といって首をきられた。ときに四十二歳。
官軍が維新後まで残しておけば、決して損はしなかった「人材」であった。
[#地付き](東京新聞・昭和三十九年五月二十四日・幕末維新の人々)
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「豪傑」桐野利秋
桐野利秋は、日本最初の陸軍少将である。
鹿児島城外・吉野郷の貧乏郷士の家に生まれた彼は、薩摩藩中でも〈カライモ〉と嘲笑される低い身分であり、その貧困ゆえに、わずかな藩金を無断借用した罪により、島流しにされてしまった父の汚名と、相も変わらぬ貧窮を背負い、イモをつくって母や弟妹を養っていた桐野が勤王革命の主導力の一つとなった薩藩の一兵士として京へのぼったのは文久二年(西暦一八六二)の春であった。
そのころ、中村半次郎と名乗っていた桐野は、たちまち〈人|斬《ぎ》り半次郎〉の異名をもらった。
革命へのプロセスには、必ず、相互の〈暴力〉がともなう。勤王・佐幕入り乱れての血なまぐさい時代に、桐野の卓抜した勇猛無類の剣が大いに物をいったのは当然である。
この時代に〈人斬り〉の異名をつけられたものは何人もいる。しかし、そのいずれもが悲惨な末路をたどっているといってよい。
革命が成功の曙光《しよこう》をのぞむと、それまではたのみにしていた〈暴力〉を排除しにかかるからだ。
桐野が、その過程において生き残ったばかりでなく、革命後の栄誉を獲得したのは、彼が薩摩藩士であったからである。薩摩藩は、革命の、もっとも血みどろなときに巧みに身を避け、後には握手をした長州藩のすさまじい勤王運動を幕府と共に阻止せんとしたこともある。
いよいよ、幕府がだめと見きわめをつけてから長州と結んだ。このため、薩摩藩には革命の犠牲者が少なく、得るものは、もっとも大きかった。ひどい目にあったのは長州で、後年に明治の顕官《けんかん》となった連中が頭も上がらぬようなすぐれた人材を何人も失ってしまった。
桐野は、貧乏ゆえに学問をしておらず、そのくせ得意満面になって、天皇陛下を、
「天皇階下は……」
なぞとやるものだから、諸藩の志士たちの笑いものになっていたようだ。こうした例は無数にあって、そのたびに、桐野は、
「知らぬものは仕方なか、これからおぼえればよか」
平然として、うそぶいていたというが、内心は、もう必死で勉強をやったらしい。
桐野がのこしている、わずかな書を見ると、わずか六、七年の間に、命をかけた活躍をしながら彼がいかに勉学に励んだかが、判然とする。
まれに見る好色漢だといわれてもいるが、調べて見ると、たくましい美貌《びぼう》と、豪快で、しかも繊細な妙味を兼ねそなえた桐野に、みんな女の方が夢中になっているのだ。
戦後しばらくは、西郷隆盛が薩摩の地方ボスで、桐野利秋は、その乾分《こぶん》だという見方が多くの史書の主流となっていたが、桐野のことを、どれだけ調べて物をいっているのか、これは疑問である。
西郷の征韓論も、桐野の|それ《ヽヽ》も、結実を見なかったために、だいぶ損をしているようだ。
明治六年――新政府と別れ、鹿児島へ帰り、同十年、新政府|詰問《きつもん》の軍団をひきいて〈西南戦争〉に無謀の敗北をしたのは、この四年間に新政府が、どれだけの実力をたくわえつつあったかを、知らなかったからである。
桐野利秋は、明治政府が狂奔《きようほん》しつつ、つくりあげた〈近代日本〉には、どうしても溶け合えぬ〈豪傑〉であり、一種の理想家であったともいえよう。
城山の最後の戦闘で、桐野は白刃をふるって官兵の群れへ突進し、すさまじい戦死をとげた。没年四十歳。
[#地付き](東京新聞・昭和三十九年五月三十一日・幕末維新の人々)
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「革命家」坂本竜馬
時代は人を生むというが、維新動乱の中で、ケタの外れた活躍をしたのが、勝海舟であり、西郷隆盛であり、そして坂本竜馬であったといえよう。
この三人にくらべると、他の勤王志士たちも幕府側の人材も、まったく色あせて見える。
竜馬の家は、かの明智光秀から出ているという。明智氏がほろびた後、土佐へのがれ、やがて酒造業に転じたが、竜馬より三代ほど前に、土佐高知二十四万二千石・山内家の郷士となった。
禄高《ろくだか》百九十余石の郷士なのだが、富商の出だけに、坂本家は高知城下でもきこえた金持ちであった。
竜馬は父・直足《なおたり》の二男に生まれ、めぐまれた家庭環境にはぐくまれつつ成長し、やがて江戸へ留学に出た。剣を学ぶためにである。
彼が、北辰《ほくしん》一刀流の免許皆伝をゆるされたほどの剣士になったことはさておき、風雲急なる幕末の時流が、どのように竜馬へ作用し、竜馬を変えて行ったか――その変わりっぷりの鮮烈さは、まさに瞠目《どうもく》すべきものがある。
竜馬は、勝海舟との出合いを、姉の乙女《おとめ》へあてて「天下無二の軍学者、勝麟太郎という大先生に門人となり、ことのほか、かわいがられ候て……」と、記している。ときに竜馬は二十九歳であった。
幕臣である勝と、大名の家来である坂本竜馬の目の中には、国内の血を血で洗う体を見せはじめた革命騒ぎなど、どうでもよかった。
来たるべき新しい時代――強大な西洋諸国を相手に世界のヒノキ舞台へ出て行かねばならぬ小さな日本≠フ将来を、|ひた《ヽヽ》と見入っていた。
竜馬は、勝のような学者ではない。しかし彼は自由自在に時勢の流れを見通し、西洋文明の実態を把握《はあく》し、日本がおかれている実情を正しく看取《かんしゆ》した。その上で、彼は困難な現実に立ち向かって行ったのである。
世に勤王勢力を薩長土肥≠ニいう。
この四藩の連合によって、ついに徳川幕府は倒されたが、至難な四藩連合が成ったのは、ひとえに竜馬の奔走があったからだと、いい切るものもいる。
だが、竜馬は、新時代を迎えようとする政体≠フ中に、徳川家をも包含するつもりでいたのだ。
むだな血を流し合い、せまい国土の中で争っている日本人たちを一時も早く開眼させるべく、竜馬は活躍をつづけた。
彼の藩論≠竍船中八策≠ネどの文書をよむと、いかに彼が近代日本≠フいかにあるべきかを正しくつかんでいたかがわかる。
この日本の夜明けを目前にしつつ、竜馬は幕府側の刺客に暗殺された。ときに三十三歳。
奔放無比《ほんぽうむひ》にして独往|濶歩《かつぽ》。あくまでも明朗な革命家としての竜馬の性格は、封建国家のどんな土壌から生まれたものか……思えば不思議な感をさえ抱かざるを得ない。
「天下に志あるものは商業の道に邁進《まいしん》すべし。この道には刀もいらず、流血の惨もなし」と叫んだ彼の声が、維新後の日本に生き残っていたら……いや、せめて後一年、竜馬の命脈があったなら、明治維新の様相も、かなり変わっていたことと思われる。
[#地付き](東京新聞・昭和三十九年六月四日・幕末維新の人々)
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九万田先生の鉄拳
先日、小学校時代のクラス会があって、九州からちょうど上京中の恩師・九万田《くまた》正次郎先生を迎えた。現在、故郷にあって牛飼いをしておられる老先生に向って、十七人のクラスメートが語る思い出というのは、いずれも、先生からなぐられた話ばかりであった。
男の子としてウソをつく場合、自分の言動に責任をもたぬ場合、先生の鉄拳《てつけん》が、われらに下ったのである。先生は、入学以来三年生までを担当された。
三十五年前に七つか八つで、この体刑をうけたわれわれは、そのときも現在も、先生に対する尊敬の念を失っていない。先生は渾身《こんしん》をかたむけて教育にあたられ、昼飯はいつも五銭のキャラメル一個だった。そしてまた父兄の先生に対する信頼は絶大なものがあったことをおぼえている。
[#地付き](文芸朝日・昭和三十九年七月号・アンケート殴られた温かさ)
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垢おとし
師走になると、私は二十日ごろまでに無理をしても仕事を片づけてしまい、一年の垢おとしの旅に出る。これが慣例になってしまった。
一年のうち何度も旅へは出ても、それは半ば仕事のためのものであるし、じゅうぶんに旅をたのしむということにはならないのだが、師走の旅は、好きなところへ行き、よく食べ、よく眠り、一切の仕事を忘れてしまう、となると、やはり行きつくところは、大阪、京都、名古屋の三都市になってしまう。
前に芝居の脚本を書いていたころ、この三都市に滞在して仕事をするのが、一年のうちのほとんど半分だった時期もあったほどなので、泊る宿も酒をのむ店も、そしてなつかしい友人たちも、むしろ東京よりは多いのである。
だが今年の師走の旅の予定に、大阪は入っていない。大阪での我家のような常宿が改築のため休業をしているからだ。
相合橋北詰にあるこの宿の主婦から手紙が来て、
「――毎日、主人《おやじ》を急《せ》かしておりますが、ああでもない、こうでもないと工事にダメを出しているので、少しもはかどりません」とある。
この宿へ泊らなくては、私の師走の慣例は充実をしない。そこで今年は、京、名古屋とまわり、伊勢から志摩のあたりをうろついてくるつもりでいる。志摩の魚介や牡蠣《かき》が目あてなのはいうまでもない。
それにしてもまず京都である。
五条の「野村」のからし茄子と木屋町三条上ル「とりとも」の小鯛の酢漬を自宅へ向けて送る。この二品とも我家の大好物で、私の正月の酒のさかなには、なくてはならぬものだ。
年に三、四度は京へ行くたびに寄る「松鮨」にも、この季節には千枚漬で鯛の雀ずしを巻いたすしがあるし、この店の塵ひとつとどめぬ小さな店の中で、なごやかにあるじが握ってくれるすしのうまさは一種独特のものがある。京都には三日もいて、行きつけの店を食べ歩くのだが、清滝まで出かけて行き「ますや」のコタツにぬくもりながら鶏鍋か「ぼたん鍋」で酒をのみ、のびのびと昼寝をして来るのもいい。
一年中、ほとんど休暇がないような仕事をしているのだから、師走のこの旅をすることは、まことに寿命がのびたような気持になる。
名古屋では、旧友たちと「宮鍵」やら「大甚」やらをまわり、広小路にならぶ屋台の「どてやき」に首を突込んだりして二、三日をすごす。
そして師走も押しつまった二十七、八日ごろに東京へ帰って来ると、私は生気のよみがえった自分を発見するのだ。
帰って一仕事して正月早々から机に向かわないでもすむようにする。と、もう大晦日である。
午後から外出して池ノ端の「やぶ」へ行く。鴨なんばんで酒一本。我家の年越しそばを買う。これも十年来の大晦日の習慣なのだ。
そばやから丸善へ行き万年筆を買い、帰宅する。この日の夕飯には、タラとホウレン草にユズを浮かせた熱い汁をたべるのも、これは私が子供のころからの我家のならわしなのである。
私などのように東京の下町に生れ育ったものにとって、タラとホウレン草は、まことに合いもので、この汁の香りをかぐと冬が来たような気持になってしまう。
[#地付き](AJIKURIGE・103・昭和三十九年)
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城
五年ほど前の初秋の或日であったが……。
大阪から京都へ出て、いつも泊るステーション・ホテル六階の部屋へ入り、南面の窓外側をふと見たとき、
(おや……?)
私は、立ちすくむかたちになった。
南方の山脈《やまなみ》が空に消えはてんとするその頂点に、小さな城の影を見たからである。
(まさか、伏見城では……?)
と思ったが、まさに伏見桃山の城の再建が着手されていたのである。
さっそく、翌日に出かけて見た。
桃山の台上の、もと伏見城の西ノ丸があったあたりに、コンクリートの天守閣が出現していた。
うすぎたない灰色の、コンクリートの外観を見ただけでも、この再建が古城の忠実な復元《ふくげん》を目ざしたものではなく、あくまでも観光用のそれであることが、ただちに看取され、私は顔をしかめたものだ。
その後の五年間に、工事は少しも進歩を見せなかった。
京都へ行くたび、私は、わびしい残骸《ざんがい》といってもよいほどの、この城の姿を見つづけてきた。
「金がつづかんらしイいうてますのや。あんまり汚いのンで何や取りこわすいうてるそうで……」
京都の知人からも、そんなことをきいた。
だが、そのうちに……。
私は、京へ行くたび、この城を遠望することがたのしみになってきていた。
ホテルの窓《まど》から見ると、夕闇が濃くなった空に浮ぶ黒点のような城には、コンクリートのうすぎたなさは全く感じられず、本物の伏見城に見えた。
(なるほど、豊臣秀吉は、さすがにうまいところへ城をきずいたものだな)
と、それが今更のように感動をよぶのである。
京の町をからむ山脈がひらけて行く南端に、この城の影をのぞむことは、時代小説を書くものの胸を何んとなく、おどらせてくれる。
秀吉が、京の町にもおとらぬ城下町をつくりあげようとした(夢)が、ひしひしと感じられるのだ。
山崎のあたりを車で走っていて、京都盆地のはるか彼方に、この城が、ぽつねんと見える風景もよかった。
(残骸でも、いい。でもこわさないでくれ)
と、私は胸のうちに叫ぶようになった。
○
今年の春になって「あっ」という間に、伏見城再建が成ったことを新聞が知らせた。
(いつの間にやったのか)
おどろきながらも、私は、すぐに出かけた。
まさに、これはひどい。
コンクリートの上から金と赤を塗りまぶしたような安っぽい城になってしまった。完成までの速度が(なるほど――)と思われる。
観光バスは群れをなして発着し、天守閣前の広場には早くも遊園地がつくられつつあった。
安手な観光ブームそのままの、この城の再建は今や京都の知名人の〔ひんしゅく〕を買っている。
もっともなことだ。
しかし、時代小説というものなぞを書くもの、書こうとするものは、ぜひ一度行くべきである。
インチキな、けばけばしい天守にのぼり、伏見の町を一望するだけでも、この城が秀吉在世中に、どのような威光を放ったかが即座にわかる。
これは史書数冊によって、この城を理解するよりも、はるかによい。
そして、京の町から遠望する黒点のような伏見城は、相変らず私の胸をときめかせてくれるのだ。
(ないよりは、あった方がいい)
と私は思うのだが、
(できてしまえば、忠実な復元の道は全く絶たれた)
と、残念がってもいる。
[#地付き](蜂・昭和三十九年秋号・東京八日倶楽部発行)
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おおげさがきらい
母は三十前から女手一つで働きつつ、私ども兄弟二人を育ててきたわけだが、
「|ろく《ヽヽ》に教育を受けさせたわけでもなし、私はけっして無理な働き方をして子どもを育てたわけでもない」
今、六十六になる母は、事もなげに言う。
私ども兄弟も、小学校を出ると、すぐに世の中へ出たわけだが、これとても当然なことだと私たちも思っているし、母もそう思っている。したがって、われわれ母子は昔の苦労話をすることがなかったし、何事にも|おおげさ《ヽヽヽヽ》に事を行ない、言葉に出すことがきらいだということを、母は身をもって示した。
私が直木賞をもらったときなども、
「そうかい」
と、事もなげに一言。もっとも内心はうれしかったらしいが……。
[#地付き](主婦の友・昭和四十二年十二月号)
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「おおげさがきらい」メモ
まだ本になっていないエッセイが約二百五十編。
これらは、昭和三十一年から平成一年に至る三十四年の間に書かれたもので、雑誌、新聞、PR誌、同人誌、プログラムなどに掲載された。
旅、食、友人、家、父母祖父母、映画、芝居、習俗、小説、自分自身のことなど求められるままに書いた文章で、エッセイというより短文といったほうが適切なものもある。
これまで、折りにふれ求めに応じて書いたエッセイは、「私が生まれた日」「私の仕事」「小説の散歩みち」(各、朝日文芸文庫)、「私の歳月」「新私の歳月」(各、講談社文庫)、「池波正太郎の春夏秋冬」(文春文庫)として結実しているが、このたび、それらとほぼ同量のエッセイが新たに見つけ出されたのである。
「完本池波正太郎大成」全三十巻・別巻一巻を編集して、雑誌・新聞を調査しているさいに見出したもので、まるで小説山脈の所々に湧いている小さな泉のように、これらのエッセイがあった。
さらに、池波家に残されたスクラップブックにも、自作の批評や新聞広告に混って、短い文章の切り抜きが貼りこんであった。
あわせて二百五十余編、落ち穂拾いの心得で探し出し、発表順に並べて五冊の本に分かち、その一冊めが本書になる。
書名は、何事も大袈裟が嫌いだった著者が昭和四十二年に書いた短文を収録してその題名をとった。
各エッセイの末尾に、初出紙誌名・刊行年月日などを記したが、スクラップブックにあって発表の場、月日が分からないものは、スクラップブックと表記した。
年度別のスクラップブックではあるが、自分の文章のみを切り抜いていて、どこに、いつ、が分からず、活字や裏面の記事で判明するものもあった。
「ぼくらは、今の仕事に全力をつくさないとね」という口ぐせのとおり、自分の足跡を整理して後世のために残すという時間も惜しかったのではないかと思われる。
本書の中で「三昧」の短歌および「ろくでなしの詩と真実」の章の抜き書きは、「完本池波正太郎大成」所収のものと多少異なっているが、エッセイの発表時のままとした。
また、文意は同じでも、別のエッセイの場合には、これを収録した。
若き日の創作の喜びと作家として立つ覚悟が見えて、池波正太郎のこれまでに刊行された書籍ではうかがえない肉声の聞こえる思いのするところが本書の特徴かもしれない。
これらのエッセイを発表紙誌とともに過去に埋没させることなく、本にできたことを喜びたい。
この落ち穂拾い、しっかりと実の入った穂を拾いえたのではないかと思う。
[#地付き](小島香・記)
[著者]池波正太郎(いけなみ・しょうたろう)
一九二三年一月東京生れ。下谷区西町小学校卒業後、株式仲買店に勤める。旋盤機械工を経て横須賀海兵団に入団。米子の美保航空茎地で敗戦を迎える。その翌竿、下谷区役所衛生課に勤務竈長谷川伸の門下に入り戯曲「鈍牛」を発表、上演。新国劇の脚本と演出を担当。一九六〇年、「錯乱」で直木賞受賞。「鬼平犯科帳」「仕掛人・藤枝梅安」「剣客商売」の三大シリーズで絶大な人気を得る。吉川英治文学賞、大谷竹次郎賞(戯曲)、菊池寛賞を受賞。一九九〇年五月・六十七歳で逝去。
※池波正太郎真田太平記館(上田市)、池波正太郎記念文庫(東京都台東区中央図書館内)で作品と生涯を偲ぶことができる。
(注)収録した文中に今日では差別表現として好ましくない、身分、職業、民族、身体障害、病名等に関する用語を含むものがある。これは、作者がすでに故人となっているため、著作権法上、無断の表現変更はできないという制約もさることながら、それ以上に、作品の持つ時代背景を重視し、あえて発表時のままとしました。