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本能寺(上)
池宮彰一郎
目 次
雲煙飛動
白刃《はくじん》可蹈也《ふむべきなり》
蜀犬《しよくけん》日に吠《ほ》ゆ
飛蓬《ひほう》風に乗《じよう》ず
盤根錯節《ばんこんさくせつ》
戈《ほこ》を揮《ふる》って日に反《かえ》す
一以《いつもつ》て之《これ》を貫《つらぬ》く
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雲煙飛動
美濃《みの》の山野に、春が訪れかけていた。
西北の空に聳《そび》える伊吹《いぶき》の山系を越えた白雲が、青空にただよう。
紫にけむる田野の中に、散在する村落と林が見える。木立の中に白く光るのは、今を盛りの梅の花か。
畑地は淡黄の敷物を敷きつめたように、菜の花が咲き乱れていた。
畑中の道を、信長は単騎、馬を走らせていた。小袖の片肌ぬぎ、白く艶《つや》やかな筋肉質の体に汗が光る。信長は存分に遠乗りを堪能していた。
朝餉《あさげ》のあと、稲葉山《いなばやま》の山裾に新築の城館を見廻った信長は、小者が自分の乗馬を馬場に曳《ひ》き出すのを見て、その一頭にとび乗り、駆け出した。乗馬は趣味の域を越えた物好みであった。
昨年夏、攻略した美濃の主城稲葉山城を岐阜城と呼ばせ、その城下町の井之口《いのくち》という町名も、岐阜と改称した。
――この山野は、今はおれのもの。
然《しか》り。馬蹄《ばてい》が蹴る黒い土は、今はすべて彼のものであった。
かえりみれば、長い道のりであった。
天文二十年(一五五一)、十八歳で父|信秀《のぶひで》の後を継いだ頃は、尾張《おわり》のうつけもの≠ニ呼ばれた。
以来、足掛け十年。永禄《えいろく》二年(一五五九)までは、織田家の相続を争って、肉親・一族との内訌《ないこう》が続いた。
永禄三年、上洛《じようらく》を目ざす今川義元を、桶狭間《おけはざま》合戦で討ちとった時、彼は二十七歳。前年尾張一国を制した信長は、勢いに乗じて三河《みかわ》の徳川家康と結び、甲斐《かい》の武田信玄の進出を阻んで、隣国美濃の攻略に専念した。
美濃との戦いは、七年を要した。幾たびか大敗を喫し、悪戦苦闘を繰り返した。
昨永禄十年八月、またも軍を起した信長は、打って変って易々《やすやす》と美濃を席巻《せつけん》し、稲葉山城を攻め陥《おと》し、美濃一円を掌中におさめた。従来と異なる見違えるばかりの戦いぶりであった。
宿願を果した信長は、歓喜に酔う色を見せなかった。彼は尾張|小牧山《こまきやま》にある本拠を岐阜に移すことに忙殺されていた。
――遠駆けがちと過ぎたようだ。いまごろおれを探して騒ぎたてていよう。
長良川《ながらがわ》の堤に沿って、松林が続いている。木立に馬をとめた信長は、腰に手挟《たばさ》んだ布切れをとって、汗を拭《ぬぐ》った。
ふと気がつくと、川の方角で異様な物音がした。多勢の物具《もののぐ》の触れあう音と、号令らしい叫びがまじる。
――敵勢?
征服したばかりのこの土地は、四面皆敵とみていい。信長に緊張の色が走った。
常人なら、堤の上に顔だけ出して、様子をうかがうところである。
信長は、そうしなかった。軽々と馬にとび乗ると、いっきに堤へ駆け上がった。
濃尾三大河川の一つ、長良川はいまより水量ゆたかで、川幅も広い。このあたりは川原が続いていて、近くに馬場《ばんば》の渡し≠ニいう渡渉点がある。
対岸のひろい川原に三、四百の軍兵が隊伍《たいご》を組んで、調練に励んでいた。
「鉄砲組ーッ、前へ!」
隊伍の前を、水煙を蹴上げて騎馬武者が一騎、号令を下す。
「遅いぞ! そのあたり……狙えーッ、射て!」
指揮する騎馬武者は、川を無二無三に渡ってくる信長の姿に気付いた。
「あ、待て……お屋形様!」
信長は、顔に掛かった水|飛沫《しぶき》をそのままに、笑顔で応じた。
「平左《へいざ》か。いずれの兵だ」
武者は、福富《ふくずみ》平左衛門。尾張の出身で才有り、信長は侍大将の一員として旗本に加えている。
「新付《しんぷ》の美濃勢にござる。近日組内に加えると聞き、いささか軍《いくさ》作法を習わせようと……」
「殊勝。続けよ」
信長は、極端に言葉が短い。馬首を廻《めぐ》らすと、隊伍の外に出た。
福富は、調練を続けた。
――槍《やり》扱いが、いま一つだな。
信長は、早くから槍の長さを変えた。従来の槍は一間半(九尺、約二・七メートル)であったのを、三間半(二丈一尺、約六・四メートル)という思いきった長尺に改めた。
槍組が敵と接近戦となったとき、長い方が先に穂先が届く有利はいうまでもない。
だが、手許《てもと》につけ入られると、長い槍は進退がままならない。扱い易い一間半は、戦国の常識であった。
信長は、いとも簡単にその常識を破った。槍は刺突《しとつ》するもの≠ニいう固定観念を無視したのである。
――打ち叩いてもよいではないか。
槍先を上下左右に振って、相手を叩く。まるで子供の喧嘩《けんか》だ、と相手は思った。だが戦《いくさ》の要諦《ようたい》は勝つことに尽きる。信長の軍の槍組は無類の働きを示した。
新付の兵は、馴れぬ長槍を持て余し気味だった。
信長が、福富に声をかけようとしたとき、一散に駆けつけてくる平服の侍があった。
「お屋形様! お探し申しましたぞ!」
これも侍大将の一員、猪子兵介高就《いのこひようすけたかなり》である。
「参りましたぞ、公方《くぼう》様のお使い」
猪子兵介は、声をはずませてそう言う。
兵介は美濃の出、旧国主斎藤|道三《どうさん》の側近であった。
京都|妙覚寺《みようかくじ》の学僧が、還俗《げんぞく》して油商人となり、美濃へ行商に来て守護大名|土岐《とき》氏の重臣に取り入り、絶家した名門の家を継いで、重臣に列した。土岐氏の相続争いに乗じて、争いに敗れた土岐|頼芸《よりなり》を擁立、これを守護職につけると、自らは守護代斎藤氏の名跡《みようせき》を侵した。更には頼芸をも追放し、美濃の国主となる。
乱世の梟雄《きようゆう》といわれた蝮《まむし》の道三こと斎藤道三の履歴である。だが、最近発見された史料によれば、いわゆる国盗りと称せられた道三の事績は、父子二代にわたるものであったようだ。前半は父新左衛門|尉《じよう》であり、その父が土岐家の重臣長井氏と並ぶ権勢を築いた後、その子道三が長井氏の名跡を奪い、遂には主《あるじ》の土岐頼芸を追放して、自ら国主の座に就いた。このあたりが、道三の事績であったらしい。
ともあれ、道三が権謀術策を駆使した梟雄であることに間違いはない。その道三は頼芸から奪って自らのものとした側女《そばめ》が、頼芸の子を身籠《みごも》っている事を知らず、生れたその子をおのれの後継者とした。
その義龍《よしたつ》は、後に自らが頼芸の子であることを知り、土岐家の仇敵《きゆうてき》である道三を討伐しようと軍を起し、長良川畔の合戦で道三を討った。
猪子兵介は、最期まで道三に忠節を尽し、乱軍を脱すると、信長の許に奔《はし》って、その側近に登用された。
「どのような男だ」
使いのことであろう。相変らず信長は言葉がひどく短切である。
「は、それは……」
兵介は、言葉を詰らせた。人物評などそう簡単に言えるものではない。
「存じ寄りではないのか。同じ蝮の家来筋であろう」
確かに道三に臣礼をとった美濃の豪族に、明智《あけち》という者がいた。東美濃明智城の城主である。土岐家庶流明智|頼重《よりしげ》の後胤《こういん》で、兵庫助|光安《みつやす》という。長良川の合戦の後、斎藤義龍に攻められ、光安はあえなく討死し、明智城は滅亡した。使者の明智|光秀《みつひで》はその光安の甥《おい》であると自称し、伴《とも》の三宅弥平次秀満《みやけやへいじひでみつ》(後に光秀の娘婿となり明智姓を名乗る。俗称|光春《みつはる》)を従え、越前《えちぜん》朝倉|義景《よしかげ》の許に身を寄せ、客分として捨扶持《すてぶち》を貰《もら》っていた。
その経歴は、前年の暮、ひそかに岐阜を訪れた足利将軍|義昭《よしあき》の側近、細川|兵部大輔藤孝《ひようぶだゆうふじたか》が、信長に伝えていた。
「さあ、明智光安殿とは、面識があるというだけで、その親族は一向に……」
豪族、というのは譬《たと》えの言葉で、猫額大の領地を持つ氏族に過ぎない。明智光安でも道三の部将というほどの者ではなかった。その一族のことなど知らぬのも当然である。
信長は、くだくだしい話し方をひどく嫌う。単刀直入に結論だけを述べよというのである。それを理解しない部下の者は、容赦なく退けた。
「素性などどうでもよい。どういう男だ」
「は……年ばえ四十前後、容姿は優れております」
兵介が懸命に答えるのに、信長は冷然と言った。
「見ればわかる。ほかに」
「もの言いゆるやかで、言葉を選びます」
「もういい」
信長は、手綱を引いて、馬首を廻らせた。
帰途についたと見て、猪子兵介は後に従った。
信長は、兵介の言葉で、明智光秀という男の性情を掴《つか》みかけていた。もの言いゆるやかな慎重な質《たち》で、言葉を選ぶほどの教養があるらしい。
昨年の暮、岐阜の城と城下町の修復に忙しい信長の許へ、小人数の一行が訪れた。
足利第十五代将軍義昭(前名義秋、越前で義昭と改名)の使者と称する貴種の武人である。
細川兵部大輔藤孝
と、名乗った。
足利義昭は、第十三代将軍|義輝《よしてる》(初名|義藤《よしふじ》)の弟である。天文十一年、仏門に入り、覚慶《かくけい》と名乗って奈良|興福寺一乗院《こうふくじいちじよういん》の門跡となった。
十三代義輝は、三好・松永勢に壟断《ろうだん》されている将軍権威を回復しようと志し、たびたび争い戦ったが味方する者少なく、都を蒙塵《もうじん》すること相次いだ。
細川藤孝は、将軍幕下の名門|三淵《みつぶち》氏の子として育てられ、夙《つと》に十二代将軍|義晴《よしはる》とその子十三代義輝に仕え、将軍の業《ぎよう》を扶《たす》けた。
永禄七年、三好家当主|長慶《ながよし》が病歿する。実はその重臣松永|弾正久秀《だんじようひさひで》が、主家にとって代ろうと毒殺したとも伝えられる。松永久秀は次いで翌八年、三人衆(三好|長逸《ながゆき》・同|政康《まさやす》・岩成《いわなり》主税助《ちからのすけ》)と呼ばれる三好家重臣と謀《はか》り、二条第《にじようだい》の将軍義輝を襲って殺害した。
――意のままにならぬ公方なら、殺して代りの者を擁立すればよい。
三好・松永らは、義輝の末弟|周ロ《しゆうこう》(京・鹿苑寺《ろくおんじ》院主)を騙《だま》し討ち、残る奈良一乗院の門跡、覚慶を幽閉した。
二条第変事の際、近江《おうみ》にあった細川藤孝は、松永・三好の野望を挫《くじ》こうと覚慶を救出、甲賀の豪族和田|惟政《これまさ》の支援をうけ、十五代将軍義秋(後に義昭と改名)を名乗らせた後、近江から越前守護職朝倉義景を頼ってその庇護《ひご》の下に入った。
だが、義景は惰弱の上に酒色にふけり、新将軍義昭の擁立のため軍を出すことを肯《がえん》じない。
事ここに至って細川藤孝は、朝倉氏を見限って新興勢力の織田信長を頼もうと、昨年暮、ひそかに岐阜を訪れ、将軍動座をはかった。
その際、藤孝が話柄《わへい》にあげたのが、朝倉家で養われている明智光秀の名である。
この時点から六年前の永禄五年、加賀の本願寺勢が越前侵攻を策した。
加賀の守護大名は、五百年も続いた富樫《とがし》氏であったが、長享二年(一四八八)に一向|一揆《いつき》に攻められ当主の富樫|政親《まさちか》が自刃して終った。以来加賀は地侍と本願寺によって支配されていた。
本願寺は坪坂伯耆《つぼさかほうき》という屈強の者を送りこみ、一揆勢の大将とした。
一揆勢は、加賀国内の数ヵ所に要害を築き、越中と京を往還する荷駄を奪い取ったり、加賀・能登《のと》の納米を京・大坂へ送らなかったり、恣《ほしいまま》に振舞った。
堪りかねた朝倉義景は、一揆の鎮圧に、家老朝倉土佐守|景行《かげゆき》を出陣させた。
美濃から越前に流れ、朝倉家に仕えていた明智十兵衛光秀とその郎党三宅弥平次秀満も、この陣中にあった。
この時光秀は、朝倉の部将|青蓮華景基《しようれんげかげもと》に奇妙なことを言った。
「山にお登りあれ。東の敵陣に奇襲の気≠ェ立ち、南へたなびいております」
景基には一向に変った気配は感じられない。だが再三再四言われると、そんな気がしないでもない。
半信半疑の朝倉勢が迎撃の用意をすると、果して坪坂は雲霞《うんか》のごとく攻め寄せて来た。待ち構えていた朝倉軍はこれを打ち破り、坪坂勢はあえなく潰滅《かいめつ》した。
この一戦で、敵の攻撃を未然に察知し、なお自ら新兵器の鉄砲を自在に操作して殊勲を立てた光秀の名は、朝倉家中に知れ渡った。
だが、光秀に与えられた褒賞は義景の感状と鞍置《くらおき》の馬一頭であった。
足利義昭が朝倉家に身を寄せ、|敦賀金ヶ崎《つるがかながさき》城に仮住居すると、義景は明智光秀に連絡役を申し付けた。諸国を遍歴して礼式を弁《わきま》え、話柄も豊富な光秀を適任とみた。
光秀は、禄を返上し、客分扱いを願い出た。自尊心の強い光秀は、薄禄を恥じたのである。義景は無頓着にそれを許し、捨扶持を与えることとした。
光秀の博学多識を、細川藤孝は高く評価し、親交を深めた。
藤孝は、進取の気性なく酒色に溺《おぼ》れる義景を見限り、美濃を攻略した織田信長に嘱望した。信長は降って湧いた新将軍擁立の委嘱に、充分な乗り気を示した。
だが、一旦《いつたん》身を托した朝倉家から信長への鞍替えは、慎重を要する難事だった。藤孝は朝倉家への工作を担当するが、織田家との連絡将校が必要だった。
藤孝は、足利義昭の名を借り、将軍家|昵懇《じつこん》衆の名義で、光秀を信長が召し抱えるよう推挙した。
信長は熟慮の末、銓衡《せんこう》を義昭にあて申し送った。
そしてその日、明智光秀が足利将軍の使者という名義で、岐阜に出向いてきた。
信長と光秀、運命の出会いである。
稲葉山の山裾に、新築の城館がある。
斎藤氏は最後の城主|龍興《たつおき》(義龍の子)まで稲葉山の山頂にある城を住居としたが、信長は出入りに不便な山頂に住居する気はなかった。それで山裾に華麗な城館を建てた。
城館は四層、信長好みの豪奢《ごうしや》な造りである。一階には約二十の部屋があり、すべて絵画と塗金の屏風《びようぶ》で装飾され、その一部は黄金で縁取られていたという。
二階は、奥向の女性のために造られた。信長の嫡男|信忠《のぶただ》、次男|信雄《のぶかつ》を生んだ側室|生駒《いこま》氏はすでに亡く、三男|信孝《のぶたか》を生んだ側室|坂《さか》氏などが、部屋を分けて住んだようである。斎藤道三の娘で正室|濃姫《のうひめ》(帰蝶《きちよう》)はこの頃から消息が知れない。一説には美濃攻めの以前に仏門に入ったとか、あるいは堺《さかい》に独り住居し終った、ともいう。
ともあれ、この時代の女性はひどく存在価値が稀薄で、史料に見るべきものがない。現在語り継がれるのは、殆《ほとん》どが後世の物語作者の想像によるものであり、時代はすべて男性が動かしていた。
三階には、当時流行し始めた茶事の部屋が設けられた。最上層の四階は物見を兼ねた会議場であった。
後に、岐阜を訪れた宣教師ルイス・フロイスが、
「よくぞはるばる遠方より来られたものよ」
という信長に先導され、この館を隈《くま》なく見物したとの記録が残っている。
光秀は、一階の広間で信長の謁見を待っていた。
――何という美意識の強さだ。
光秀は、尾張のうつけもの≠ニいわれた信長の、伝説めいた育ちようを聞き知っている。男根を染めぬいた浴衣《ゆかた》を着て縄の帯を締め、片肌ぬいで泥まみれとなって歩いたという……。
その泥まみれというのは、おそらく訛伝《かでん》に違いない。浴衣は仕立て下し、帯代りの縄一筋も選びぬいたものであろう。信長の傾《かぶ》いた美意識は、常識を度外視しながら、それなりに完璧を期したものと思われる。黒檀《こくたん》を惜しげもなく用いた柱や欄間《らんま》に、燦然《さんぜん》と輝く黄金の縁取りの調和は、簡素の美を最高のものとする日本古来の観念をみごとに打ち破って、新たな美の完成を目指す信長の、創造力を示していた。
――この主に仕えるのは、容易ではない。
重く伸《の》しかかるその思いは、ふしぎと不快ではなかった。むしろ快感を呼び起こす。
――この主と一体となり、その業を扶けたら、どのような世界が現出するだろうか。
わかり易くいえば、そのような未知なるものへの期待と恐れ、あこがれをないまぜた魅力が、心躍らせる。
光秀は、いつしか少年のような心になっていることに気付き、われとわが心を戒めた。
襖《ふすま》が開く。信長がいとも無雑作に座に着いた。
扈従《こじゆう》しているのは、猪子兵介ただ一人だった。
開け放しの部屋に吹き渡る早春の風は、まだ肌に寒い。
その風に乗るように、信長はふわりと座に着いた。
下段に控えた猪子兵介が、軽く咳払《せきばら》いして光秀を促した。
「明智、十兵衛光秀にござりまする」
光秀は平伏したまま、名乗った。
「で、あるか」
やや音調が高い。簡にして要を得た信長の特徴ある言葉である。かつて岳父斎藤道三と尾張・美濃の国境《くにざかい》に近い富田庄聖徳寺《とみだのしようしようとくじ》で初めて相見《あいまみ》えたとき、道三の重臣堀田道空が、
「山城《やましろ》入道にござりまする」
と、引き合わせたときも、信長の言葉は、
「で、あるか」
の、ひと言だけであった。
そのあと信長は、道三に一礼するとそのまま座敷に入り、対面の座に着いた。
一介の油商人の出で、美濃の守護大名土岐氏の重臣に伸し上がった父新左衛門尉の後を継ぎ、遂にはその土岐氏を逐《お》って美濃五十四万石を奪った一世の梟雄、斎藤山城入道道三と信長が、生涯に交した言葉は名乗りだけであったという。
その一言で信長は、美濃の蝮≠ニ呼ばれた道三への親愛を表し、一族討伐の戦の際、留守城の守りを委《ゆだ》ねるほどの信頼を示した。「で、あるか」の意味は重い。信長は、光秀の存在感を認めたことを意味する。
「よい名乗りだ」
「は……?」
光秀は顔をあげ、初めて信長の面貌《めんぼう》を仰ぎ見た。
端麗な顔である。織田家は代々美男美女の血統である、といわれた。面長で色白く、切れ長の眸《め》が細く、一重瞼《ひとえまぶた》が決断力の鋭さを示す。
――だが、戦国大名の容貌ではないな。
光秀は即断が、後に誤りであると覚るようになる。
戦国大名は、容貌|魁偉《かいい》、鬼面人を驚かす態《てい》のものをよしとした。信長はその若さを補うため鼻下に髭《ひげ》をおいたが、その細い八字髭は気品のたすけにこそなれ、武威を示すよすがにはなっていない。
「智、明らかにして、光り秀《ひい》でる……か。ようつけた」
信長は、髭先を震わせて、呵々《かか》と笑った。
「は……」
光秀は、われにも非《あら》ず内心|狼狽《ろうばい》した。これは仕官のための面接である。一廉《ひとかど》の武士として係累の詮議《せんぎ》は当然だが、姓名の文字の談議は予想外だった。
「恐れ入り奉る」
光秀は、急いで言葉を続けた。
「てまえの家は、美濃守護職土岐家の傍流にて、十代前の頼重が住居致しました明智郷の名を姓とし……」
「もういい」
信長は真顔に戻ると、うるさそうに言った。
「いや、お聞き願いとうござる。光の一字は父|光綱《みつつな》、叔父《おじ》光安と、それぞれに付けたが習わしにて……」
「死に果てた先祖のことなど、どうでもよいのだ」
信長は、不機嫌に声を荒らげた。
「うぬが名乗る以上、うぬが納得した名であろう。その名が気に入ったと申したのだ」
信長は、じろりと光秀を見た。
「それと、気≠ニは何だ」
「はて、気≠ニ申しますと?」
信長の目配せで、猪子兵介が言葉をそえた。
「そこもと、御幸塚《ごこうづか》の陣で、青蓮華景基どのに申された筈《はず》……奇襲の兆《しる》しの気が見えると……」
「そのようなものはこの世にない」
信長がすかさず言う。
「恐れ入り奉る」
光秀は、あっさり認め、平伏した。
「だが、おもしろい。その才智、おれがために使え……兵介、どうであった」
「勘定方の申すところによれば、安八郡《あんぱちごおり》に五百貫ほどの闕所《けつしよ》(知行地のあき)がござります」
「……よいか」
信長に無雑作に言われて、光秀は面くらった。これは騎乗《うまのり》の身分である。
「ありがたき倖《しあわ》せに存じ奉ります」
「言うておくが、土地はやらぬ。禄を勘定方から貰うて士卒を養え」
「は……いかほど?」
「それがそちの才覚だ。励め」
何人の軍兵を持つかは、当人の才覚だというのである。
――なかなかに食えぬお方である。
「光秀、茶を喫《の》むか」
室町時代、村田|珠光《しゆこう》を祖として始まった茶道は、武野紹鴎《たけのじようおう》を経てひろまり、各地の武将の間で盛んとなった。
信長も幼少の頃からたしなみ、異常なほど愛好し、趣味の域を脱して達人であったといえる。
光秀も、流浪の間に研鑽《けんさん》を怠らなかった。たびたび堺を訪れ、紹鴎の後を継ぐ茶人|千宗易《せんのそうえき》や津田|宗及《そうぎゆう》、今井|宗久《そうきゆう》などに接して学んだ。茶道は当時、武道と並ぶ武人のたしなみであった。
「振舞うてやる。来い」
信長は座を立つと、三層目の茶室へ足を運んだ。従うのは光秀ただ一人であった。
光秀は、茶を一服喫するものと思った。
だが、いつの間に用意されたのか、供されたのは、茶懐石であった。簡素な食膳が出、酒も添えられていた。
――茶懐石を振舞われるようだと、面接は上乗の首尾とみてよい。
光秀は、安堵《あんど》した。盃を重ねた。
ふと気付くと、信長は盃を伏せて、光秀の言動を興味深げに見守っている。信長は酒好きとみえて、今し方までは闊達《かつたつ》に盃をあけていた。微醺《びくん》をただよわせながら盃をおき、話を聞く。自制の力強しとみえた。
光秀が酒を辞すると、信長は膳を下げさせ、茶事に入った。
作法が終ると、亭主の信長はおのれも一服を喫し、光秀に問いかけた。
「おれが軍勢、よそ者の眼にどう映った」
光秀は、形にあらわれた尾張兵の特異性を述べた。
尾張兵は戦に弱いという定評があった。尾張は商業の盛んな国である。保守的で鈍重だが頑健で持久力に富む農民兵と比べると、商人気質というのは先を見ることに敏であるため耐久力に乏しい。
それが、信長の代になると、他に比べて見劣りせぬほど強壮になった。
光秀は、その因を槍組の三間半長柄槍と、足軽(軍兵)の簡易具足の採用によるものと推定した。
この時期、鉄砲という新兵器は、戦闘の様相を一変させた。戦闘の主役は、騎馬武者から、鉄砲や槍を手にした足軽に移った。一騎打ではなく、集団戦闘が戦の勝敗を決するようになった。
従来の防具、札板《さね》を糸で縅《おど》した腹巻では、鉄砲を防げない。
戦国大名の多くは、鉄の延板《のべいた》を鋲《びよう》ではぎ合せた桶側胴《おけがわどう》という防具を採用した。だが重い上に動きが不自由な桶側胴は、著しく軍兵の運動を妨げた。
信長は、横に細長の鉄の延板を革紐《かわひも》でとめ、揺《ゆる》ぎの糸≠ニいう長い紐で胴と草摺《くさずり》をつないだ、動きの自由な簡易具足を採用した。
三間半長槍≠ニ簡易具足は、尾張兵を一変させた。
光秀が、その二点を指摘すると、信長は事もなげに言った。
「長槍はおれの発想だが、具足は蝮の工夫だ」
信長は、軍事機密に類することを、軽々と言って憚《はばか》らない。
天文二十年、実父信秀の死で家督を嗣《つ》いだ信長は、二年後の春、岳父の斎藤道三と濃尾国境に近い富田庄の寺で初会見した。道三は、奇矯《ききよう》に振舞う信長の底意を見抜き、心|惹《ひ》かれたのであろう、自ら工夫した簡易具足を贈ってきた。
信長はその優秀性を認め採用したというのである。
後世、歴史を一変させる信長と光秀の、初の対話はまだ続いた。
信長は、みたび席を移した。今度は四層目の軍事用の階だった。信長は望楼に自ら案内し、肩を並べて美濃の山野を望見した。
――これは難攻不落、天然の要害だ。
山裾、といっても、平地より遥かに高い。四層の城館から見下ろせば、城下町の外れ長良川の悠揚たる流れの向うは平坦な美濃平野で、視野を遮《さえぎ》る何物もない。
見返れば峨々《がが》たる稲葉山の峻嶮《しゆんけん》が聳えたつ。山頂の岐阜城から望見すれば、遠く尾張の平野までが一望の下に見はるかせるに違いない。
軍勢の隠密行動など、到底無理である。
――よくも陥《おと》したものだ。
永禄三年の桶狭間の合戦から数えて七年、信長は美濃攻めを飽かず繰り返した。岳父斎藤道三がその子義龍に討たれてから始まった戦は十年余に及ぶ。
美濃から戦を仕掛けたことはない。いつも信長の侵攻であった。その戦は毎年のように行われ、その都度信長が敗けた。三千、五千の軍勢が徹底的にうちのめされ、命からがら逃げ帰ることの連続だった。
――美濃兵は強悍《きようかん》、尾張兵は劣弱。
それが昨永禄十年の美濃攻めでは、彼我の様相が一変した。信長の尾張勢は木ノ葉を散らすように美濃勢を席巻し、瞬く間に旧稲葉山城に取り付き、これを攻略した。
強悍の美濃勢は、為《な》すところなく敗退し、部将は次々と降伏して、国主斎藤龍興は国外に蒙塵、美濃は信長のものとなった。
――美濃勢と、尾張勢の強弱が逆転したのは何が原因か。
世人はいう。それは信長の多年にわたる謀略が功を奏したためである、と。
確かに、それはある。信長は倦《う》まず侵攻を繰り返しながら、その裏面で謀攻・調略に意をそそいだ。
小者あがりの木下藤吉郎の抜擢《ばつてき》もその一つである。濃尾国境の要衝|墨俣《すのまた》に一夜城を築かせ、敵前築城が成功すると、その守将に登用した。
――あれは、築城の功績だけの抜擢ではない。
当時、国外にあって、専心、戦の推移を見守っていた光秀は、そう見ていた。
墨俣築城の成功は、その殆どが川筋衆《かわすじしゆう》≠フ戮力《りくりよく》協心によるものであった。
川筋衆≠ニいうのは、濃尾平野を貫通する木曾《きそ》・長良・揖斐《いび》の三大河川の舟運・荷役や警備請負を業とする野武士集団で、その一方の頭目である蜂須賀《はちすか》党の首領、蜂須賀|小六正勝《ころくまさかつ》は、木下藤吉郎の流浪時代、相識の仲であった。
川筋衆は、権力におもねらず、自由奔放な暮しぶりを好み、主持《あるじも》ちをも凌《しの》ぐ剽悍《ひようかん》さと、鉄の団結を誇る。
信長は、小者の藤吉郎が蜂須賀党とつながりを持つのを知って、その調略を命じた。
川筋衆の殆どは、斎藤道三の時代、美濃と協力関係にあった。その有能を見込んだ道三が、金を惜しまず散じたためである。
川筋衆が、道三の破天荒な生き方に共感を抱いた所為《せい》もある。
その道三は、子の義龍に弑《しい》せられ、美濃は彼の子のものとなった。信長はそれを好機とみた。
――道三の仇《かたき》とは手を結び難いであろう。われに靡《なび》け。
調略の舞台となったのは、生駒屋敷という土豪の館である。川筋衆とは昵懇の仲で、なかでも蜂須賀党は、自党の本拠のように出入りしていた。
因《ちなみ》に、生駒氏には、吉乃《きつの》という女性があった。吉乃は望まれて信長と結ばれ、長子信忠、次子信雄を生む。
一説には、藤吉郎の登用は、生駒氏の仲介により、蜂須賀党とつながりのある小才の利いた小者を召し抱えた、とある。真偽のほどはさだかでない。
ともあれ、蜂須賀小六は、とび抜けた奇矯の信長に魅せられた。むしろ魅入られたというほうが当っているかも知れない。
藤吉郎が、濃尾国境の三大河川の合流点である墨俣で為し遂げた、敵前築城という難事も、川筋を熟知している川筋衆の手をもってすれば、さしたる難工事ではなかった。
この頃から、木下藤吉郎の活躍が始まる。藤吉郎は、多年美濃衆と協力関係にあった川筋衆の縁故を辿《たど》り、斎藤氏|麾下《きか》の重臣や名ある武将に食い入り、寝返り工作に努めた。
それには、義龍・龍興と二代にわたる凡庸・暗愚の失政が与《あずか》って力あった。墨俣築城後わずか一年足らずで、稀代《きたい》の謀将竹中半兵衛|重治《しげはる》をはじめ、美濃三人衆といわれた安藤伊賀守(守就《もりなり》)・稲葉|一鉄《いつてつ》・氏家卜全《うじいえぼくぜん》らが、残らず龍興を見限った。
永禄十年八月一日、突如行動を起した信長は、美濃に攻め入った。
寝返りを約した美濃三人衆から人質を取ることになっていたが、その一行が到着するより前の急襲であった。
十五日に龍興は稲葉山城を退散し、美濃は信長の手に落ちた。美濃攻めは信長と木下藤吉郎の謀略工作の成果と言っていい。
だが光秀は、その謀略の裏に疑問を持った。
――剛強の将が、劣弱の軍勢に寝返ることはない。
木下藤吉郎は、調略の際、尾張の軍事機密をひそかに明かしたのであろう。その機密は信長の今後の躍進を約束するものであったに違いない。
光秀は、それを知りたかった。
信長は、光秀の心情など忖度《そんたく》する気はない。
「その方、蝮が滅んだあと国を離れ、十年諸国を遍歴したと聞いたが」
「いや、足掛け七年にござります」
光秀は、履歴の正確を期した。
「そのあと、越前朝倉家より扶持をいただきました」
「年月はよい。有りようを囀《さえず》れ」
囀る、とはひどい言い方である。信長は往々親しみを持つと言葉遣いが粗雑になる。それにひどく短い。
道三に味方した明智光秀は、敗死した叔父光安の子と称する弥平次秀満を伴って諸国を流浪した。その足跡は(彼の言によれば)京畿《けいき》にはじまり、東は関東小田原、甲斐、越後《えちご》から、西は中国、四国、筑紫《つくし》に及ぶという。
そのなかには、また聞きもあろう、浪人暮しが長くなるとおのれを大きく見せかけるため、多少の誇大がまじる。
それにしても光秀の遍歴談は才智が光っていた。軍状、治政、民情から武将の性癖に至るまで、観察は鋭く細をうがち、分析は耳を傾けるに足るものだった。
信長は、光秀の喋《しやべ》るに委《まか》せたが、熱心に聴き入る様子は見せなかった。懐紙を割いて紙縒《こより》を縒《よ》り、腰の巾着《きんちやく》から煎《い》り豆を取り出して齧《かじ》り、小刀で木片を丹念に削ったりした。
それが信長の性癖だった。傍目《はため》にはばかにしているように見えるが、彼は集中力を一点に傾注するとき、手足を別の他愛もない事に使う。信長は全身を耳にし、脳裏ではそれに対する評価を考えていた。
――おもしろい。こやつなかなかのものだ。
それは、彼の家臣団には無い新たな人材だった。柴田権六勝家《しばたごんろくかついえ》や丹羽《にわ》五郎左衛門|長秀《ながひで》をはじめとする家臣団は、戦闘力には優れているものの、教養の点では田舎者の域を出ない。観察力も分析力も無いに等しく、それはすべて信長ひとりの能力に委ねられていた。
「もういい。それより聞こう。わが敵はどれとどれだ」
信長は長々と続く光秀の話を事もなげに遮った。遠国の武将の評価をいま聞いてもしようがない。相見えるまでには時がかかる。その間に変化が起る。
「……越後の上杉、甲斐の武田かと愚考|仕《つかまつ》ります」
案の定、である。上杉、武田の二雄は史上最強といっていい。軍兵の質でも動員兵力でも、信長の実力は著しく劣る。
信長は、ふんと鼻先で咲《わら》った。
「おれは負けぬぞ」
「は……」
光秀は、返事に困った。
「勝つ、とは言わぬ。だが負けぬ手だてはある。おれはこの七年、そのための手を打った」
信長は、傲然《ごうぜん》とうそぶいてみせた。
――上杉、武田おそるるに足らず、負けぬ手だてありという。その手だてとは何か。
この治乱興亡定かならざる世に、信長の下に加わり一生の運を賭ける。目算が外れればおのれ一人の命運にとどまらず、一家|眷族《けんぞく》ことごとく滅亡する。
だが、それを信長に問いかけるほど、光秀は無智ではなかった。この対面は信長が光秀を選び見確かめるためのものである。光秀は恭謙であらねばならない。
光秀の諸国見聞|譚《たん》は、そのあと暫《しばら》くして終止符が打たれた。信長は飽いたのであろう、一方的に打ち切ったのである。
「その方、どこに宿った」
信長は脈絡もなく突然問いかけた。
「御城下、常在寺《じようざいじ》に宿を借りましてございます」
常在寺は、京の油屋山崎屋庄九郎と名乗っていた頃の道三の父、斎藤新左衛門尉が、油行商の途次、宿とした寺である。元京都妙覚寺の学僧で法蓮坊《ほうれんぼう》と称した新左衛門尉は、同じく南陽坊と称した常在寺住職日護上人の弟弟子であったという。
日護上人は、当時美濃第一の出頭人長井|豊後守利隆《ぶんごのかみとしたか》の実弟であったことから、新左衛門尉、ひいてはその子山城入道道三の出世の道が開けた。
信長にとっては、自分の真価をはじめて認めてくれた岳父、斎藤山城入道道三の所縁《ゆかり》の寺である。もちろん住職は数代代っているが、堂宇《どうう》は戦火を被《こうむ》ることなくそのまま残った。何か感慨なり懐旧の情があるかと思ったが、信長は微塵《みじん》もそれを示さなかった。
「公方殿への返書は、明朝までに届けよう。今宵《こよい》は館で美濃の酒を飲んでゆけ」
表向き、光秀は足利将軍の使者である。用件が済めば早々に帰参しなければならない。信長はきわめて冷静にそう伝えると、さっさと座を立って奥へ消えた。
光秀は、感情の動きを少しも見せない信長の挙措に驚嘆した。
――なるほど、信長は過去を見返ることがないというが、まことだな。
光秀は、信長の特性をまた一つ知った。
信長は、桶狭間の一戦で寡《か》をもって衆を討ち、東海の覇王今川義元を討滅して天下を驚かせた。だがその手柄話は光秀との会話で一度も話柄にとり上げなかった。
そればかりではない。光秀の知る限り以後七年に及ぶ美濃攻めで、寡をもって衆を討つ奇襲戦法をただの一度も用いることはなかった。常に新しい戦法を試み、悪戦苦闘を重ねた。
――この御人に仕えるからには、このことを肝に銘じておかねばならぬな。
怜悧《れいり》な光秀は、その優れた分析能力で信長を評価した。
春うらら。埃《ほこり》っぽい中山道《なかせんどう》美濃路を西へ向って歩む一隊の軍列がある。
七、八人の光秀の一行と、国境《くにざかい》までの警護と見送りを兼ねた信長配下の小部隊である。
昨夜の酒席に、信長は出席しなかった。相伴は猪子兵介ただ一人であった。兵介ははじめ、同じ美濃の出である光秀に昔噺《むかしばなし》をしかけたが、過去の思い出が辛《つら》かったのか、光秀は生返事に終始して乗ってこない。酒席はしめりがちに終った。
早朝、光秀が行列を整えて常在寺の山門を出ると、門前に三、四十人の軍兵の列が待ちうけていた。
隊列の長とみえる小柄の部将が、光秀の前に進み出ると、笑顔で挨拶した。
「木下藤吉郎と申します。主君信長の申し付けにより、国境までお見送り申し上げる。道中お望みのことあらば、何なりとご遠慮のうお申し付け下され」
愛想のいい男である。戦場焼けした顔は小皺《こじわ》が多く、気品も威厳も乏しく、むしろ醜貌《しゆうぼう》といっていい。だが人なつこく、妙に惹かれるものがある。
道が城下を外れると、木下藤吉郎は光秀の横に馬を並べた。
光秀は、初対面ながら、その名を知っていた。
「木下殿と言われる。お噂はかねがね聞き及んでおります。過ぐる美濃攻めには大層なお手柄でございましたな」
「いやいや、さようなことは」
藤吉郎は、快活に笑った。別に謙遜《けんそん》する風はない。気にとめないという態度だった。
「おおかた調略のことを仰《おつ》しゃるのであろうが、もののふというのは刀槍《とうそう》の功名が第一でござる。謀計謀略というのは尊ばれませぬ」
別段、うらみがましい言いようではない。それを当然のことと受け入れる態度に好感が持てた。
「ご案内とは思うが、てまえは浮浪の出でござってな」
藤吉郎は、衒《てら》う様子もなく、思いきったことをずばりと言った。
「口取りの小者から足軽とお見出《みいだ》しに与って、ようやく士分に列し、一廉の者になり申した。したが素性は争えず、戦場での働きは大の不得手で、刀槍の扱いもままならず、やむなく調略のことで茶を濁しております」
人には謙譲の美徳というのがある。だが、それも過ぎれば厭《いや》みになりかねない。それにしても藤吉郎の言い条は度を越えていた。人間ここまで虚心坦懐《きよしんたんかい》に自己分析されると、何か親身にならざるを得ない。
光秀は、知らずその人柄に魅せられた。
それが、藤吉郎秀吉の処世術――有名な人たらしの術――と気付くのは、まだだいぶ先のことである。
「実は……」
藤吉郎は、顔をくしゃくしゃに笑ってみせた。
「てまえ、昨夜遅うにお城に戻りまして、図らずもお見送りの命《めい》を拝しました。そのためよろず手配が間に合わず、不行届きとなっております」
「お心遣いは御無用に願いたい。していずれの戦場よりお戻りか」
光秀は、藤吉郎の具足に残る硝煙の匂いに興味を持った。
「北|伊勢《いせ》でござる」
藤吉郎は、あけっ広げだった。
「ほう、北伊勢……?」
昨年早春、信長は北伊勢に兵を出した。美濃攻めの前である。「勝負は二度あらじ」と宣言しての決戦の前に、兵を割いて北伊勢に侵攻する。誰もがその意図を疑った。
光秀は、光秀なりに推量した。
――戦法を再検討し、兵をそれに慣れさせるため。
当然、八月の美濃攻めの機に取止めたものと思いこんでいた。
それがまだ続いているという。
光秀の不審顔に、藤吉郎はいたずらっぽく顔をのぞきこんで言った。
「昨夜、お屋形様がてまえにこう申されました。こたび明智光秀なる者を召し抱える。この方は問いたきことを存分に確かめたが、かの者は尋ねたきことを数多《あまた》残しておろう。包み隠さず話してやれ……と」
「…………」
光秀は、呑まれた。
昨日、初めて対面した信長は、我儘《わがまま》で勝手仕放題だった。やんちゃ坊主そのままの振舞いだったが、光秀はその振舞いの中に、天才の片鱗《へんりん》を見た。
だが信長には、更にもう一段の底の深さがあった。光秀の心理を読みとって、藤吉郎に軍事機密の開示を許していた。
それだけ信長の光秀に対する信頼と期待が大きかったともいえよう。
「そこもとは……」
藤吉郎は、光秀の沈黙に、先に言葉を放った。
「尾張勢の強さのもとを、槍と具足の新工夫と申されたそうだが、まだ足りませんぞ」
「それは……」
「鉄砲でござるよ。お屋形様は鉄砲の数を揃えるのと、鉄砲足軽の調練に七年の歳月をかけられた。ようやく物の用に立つとみて、美濃攻めにおかかり遊ばすと……何と、ごらんの通りの始末でござった」
美濃攻め七年の歳月は、戦の調練のためと聞いて、光秀は唖然《あぜん》となった。
光秀は、信長が最重要課題である美濃攻略の前に、貴重な兵力を割いて北伊勢侵攻を実施した因を知った。
当時、鉄砲の生産を独占していたのは、畿内の南辺、和泉《いずみ》の堺であった。堺は守護不入、いまでいう自由都市で、傭兵を抱え、なにびとの掣肘《せいちゆう》も受けない。南蛮貿易を独占するかたわら、海外渡来の技術を入れて鉄砲を大量に製造し、戦国諸大名の需《もと》めに応じていた。
諸大名は、鉄砲の採用にあまり熱意を持たなかった。有用ではあるが高価に過ぎる。将士には「飛道具は卑怯」という妙な固定観念があり、足軽相当のものとされた。さらに習熟させるためには手間暇がかかり、銃弾と火薬の補給も面倒である。
ひとり信長は、鉄砲に魅入られた。
――使用法によっては、戦の様相が変る。
寡をもって衆を討つことも可能である。また鉄砲の効用は、兵の強弱とあまり関係がない。脆弱《ぜいじやく》と定評の尾張兵を率いる信長は唯一の活路を鉄砲に求めた。
それにしても、泉州堺は遠い。堺の商人は沿道の大名や豪族、はては野武士の集団に関銭を払い、野盗に備えて傭兵を雇って鉄砲その他を搬送した。
信長と直接かかわりのない大和《やまと》の筒井順慶《つついじゆんけい》や、伊賀の土豪は堺商人の顔と金銀で済んだが、尾張と境を接する北伊勢は、信長の相次ぐ鉄砲購入に神経を尖《とが》らせた。通関に難を唱え、必然北伊勢の国境付近に滞貨が激増した。
信長は、打開のため北伊勢回廊の侵攻を断行した。信長は近江浪人の出という部将滝川|一益《かずます》に軍勢を預け、伊勢の国司|北畠具教《きたばたけとものり》と戦端を開き、北伊勢を制圧して具教を大《お》河内《かわち》城に逼塞《ひつそく》させた。
「目下、和睦《わぼく》を交渉しておりますが、何せ北畠家は南北朝以来の名家、気位ばかり高く、なかなか捗々《はかばか》しく進みませぬ」
藤吉郎は、あけすけに戦況をいう。そのあけっ広げの態度に、光秀は異人種を見るような感銘をうけた。
――よもや信長は、ここまで機密を打ち明けよとは言うまい。この大腹、噂には聞いたがこの男、さりとはの者である。
「甚だ卒爾《そつじ》だが……木下殿はいかほどの処遇を得ておられる」
相手が相手だけに、思いきって訊《たず》ねてみた。
「御扶持、四百貫を頂戴《ちようだい》致しております。ただしお屋形様のご所存にて、家来に土地は与えぬとのことで……いや、それにしても出自《しゆつじ》卑しき身にとっては、身に余る大禄でござる……」
またしても、知行地の話が出た。それとは別に光秀は、知らず怯《おび》えの感覚を持った。
――この男を朋輩《ほうばい》として扱うのは、容易ではない。
藤吉郎は、信長から明智光秀の新規取り立てを聞いた。
――かの者、識見・才智、得難い人材とみたが、いらざる教養が妨げとなっていま一つ人物の掴めぬうらみがある。その方、帰りの道中をともにして、人柄を試して参れ。
生れてこの方、およそ物怖《ものお》じということを知らぬ藤吉郎には、うってつけの役目であったといえよう。
一行は、大垣|牛屋《うしや》城で休息をとった。当時の大垣城は粗笨《そほん》な田舎城で、もちろん天守閣などまだない。
大垣は、往古|不破関《ふわのせき》の置かれた関ヶ原に隣接し、畿内と東国・北陸を結ぶ要衝で、これより西の方、関ヶ原は、不破関を控えた平地、という意味である。
大垣城を預かる将、氏家卜全は、もと斎藤氏に仕えた美濃三人衆の一人であったが、藤吉郎の招降で信長の許へ裏返った。その恩縁もあって卜全は一行を手厚くもてなし、早目の昼餉《ひるげ》を供したため、休息は思いの外長引いた。
「明智殿には諸国見聞のご意見が秀逸であったそうで、お屋形様はいたく感銘なされたとうかがいました」
藤吉郎は、食後の茶を喫しながら話を誘った。
「ご過褒《かほう》、痛み入る。わけても越後の上杉、甲斐の武田の動静に興味を抱かれたようです」
上杉|景虎《かげとら》(謙信)・武田|晴信《はるのぶ》(信玄)は、群を抜いた存在である。遠国の諸大名でも興味を持たぬ者はない。まして濃尾二ヵ国を占有した織田家にとっては、不断の脅威である。
「それで、お屋形様はどのように……?」
光秀は、苦笑してみせた。
「それが……戦うて、勝つとは言わぬが、負けぬ。そのための手を七年かけて打った、と……何のことかおわかりか」
一瞬、とまどいを見せた藤吉郎は、撥《はじ》けるように笑いだした。
「なるほど……明智殿はご存知であろうが、上杉・武田はこれまで信州川中島で五|度《たび》戦い、五回とも雌雄《しゆう》を決せず終っております」
「それが何か……」
「川中島合戦は八月が三回、七月と九月が一回ずつ、つまり両者ともに田植えが済んで後、刈入れまでの間の戦であった。農繁期は戦を休む。さもないとその年の物成りが無うなります。それが諸大名の泣きどころでござる」
諸大名の兵力動員は、配下の将領が知行地の地頭に軍兵の供出を割当てる。軍兵の過半は徴発された農民であった。ために戦は農閑期に限られ、訓練もままならない。殊《こと》に新兵器鉄砲の調練に事欠いた。
信長は、兵農分離という新機軸を現出した。当時とすれば、まさに天才的発想であった。戦乱の続く当時、敗残の浪人と流民は物資流通の要地尾張に多く流れこんだ。信長は農民を農事に専念させ、年貢や課税で浪人・流民を傭兵に雇った。
ゆとりある税収で傭兵を養う。専門化した兵は訓練が行き届き、精兵となる。だが欠点があった。忠誠心の欠如である。
農兵は、おのれの土地に異常な執着心を持つ。農業国三河の兵が堅剛強悍の名を恣《ほしいまま》にしたのは、その所為であった。
商業の盛んな尾張には、その特性がない。まして流竄《るざん》の浪人・流民の傭兵には、望むべくもなかった。
信長の天才的発想は続く。彼は傭兵を美濃攻めの戦場に投入することで鍛錬した。道三以来訓練精到の美濃兵は強く、信長は攻めるたびに惨敗を喫し、たびたび死地に陥った。
信長はそのたびに常に陣頭に馬を進め、大音声《だいおんじよう》で叱咤《しつた》し、敵の隙を衝《つ》いて脱出した。「信長の大音声」は後の語り草になるほどであった。
信長の死をも恐れぬ勇猛と、乱戦のさなか敵の寸隙《すんげき》を衝く沈着冷静な指揮は、兵に一つの信仰を生んだ。
――この将の下におれば、戦で徒死《むだじに》することはない。
その絶対的な信頼に、鉄砲の利が着々と加わった。尾張勢は大敗を喫するごとに強悍さを増した。
――敗戦でしか兵を鍛える機会はない。
信長の天才としか言えぬ発想は、この点にもあった。
浅春の空の下、光秀は黙々と馬を進めた。
馬首を並べた藤吉郎は、もう話し掛けようとはしなかった。ただ時折、光秀の沈黙の顔をぬすみ見るだけであった。
――教養人というのは、時に不自由なものだ。
単純明快な藤吉郎には、明日を思い煩うことがない。いま目前にあることのみに集中して即断する。信長に帰服すると決めれば、あるじの意を迎えることだけを考えればよい。それが藤吉郎の処世術であった。だから常に明るかった。
だが、光秀の暗さはどうであろう。光秀はしきりと思い悩んでいる、と藤吉郎は推測した。光秀の有り余る教養は、先へ先へと思い煩う。このあるじに終生つき従ってゆけるだろうか、と。
――ま、それは無理からぬことだ。
藤吉郎は、幼少の頃から筆舌に尽し難い貧苦の中で、世と人の裏表を知り尽した。その藤吉郎からみて、信長は全くの異常人である。発想に常識というものが無い。
それをおもしろいとみるのが藤吉郎であり、怖いと思うのが光秀である。どちらにも自分の人生が懸っている。
関ヶ原宿が目前に近付いてきた。宿の外れに五、六人の供を従えた侍が待ちうけていた。敦賀金ヶ崎に仮寓《かぐう》する足利将軍義昭の侍臣、細川兵部大輔藤孝である。公方の使者明智光秀を出迎えに来たものとみえた。
細川与一郎藤孝、官位は兵部大輔、この年三十五歳。信長と同年である。明智光秀より六歳若い。眉目《びもく》秀麗だが、出自に分明ならざる点があった。かなり高貴の落《おと》し胤《だね》らしいが、生母の出自が卑賤《ひせん》であったため、重臣三淵氏の子として育てられ、管領《かんれい》細川氏の後嗣となったという。
そうした噂の根は、十二代将軍義晴の嫡男で十三代将軍を嗣いだ義輝と、容貌がやや相似していたことである。但《ただ》し性格は対照的であった。義輝が直情径行、空洞化した将軍の権威を回復し、幕府の威令をもって天下の権を掌握しようと一途《いちず》に志したのと異なり、藤孝は義輝の補佐役に徹し、常に蔭にあって、義輝とわが身の保全に努めた。
永禄八年、京畿一円に勢力を展張して我欲を恣にする三好|義継《よしつぐ》・松永久秀らは、将軍義輝を二条第の館に襲って弑した。
藤孝は屈せず、僧籍にあった義輝の弟覚慶(後の義秋・義昭)を擁し、足利幕府の再興を悲願として、越前朝倉氏の庇護の下にある。
藤吉郎と藤孝は、旧知の間柄らしい。両人は互いに久闊《きゆうかつ》を叙し、親しげに談笑した。
他人の会話に耳をそばだてるのは非礼である。光秀は道の脇に寄って、供の者の列を整え、携行の荷を点検していた。
「明智殿」
一しきり話の終った藤吉郎は、笑顔で声をかけた。
「お名残り惜しゅうはござるが、ここでお別れ致します」
「ご挨拶、痛み入る」
光秀は、丁重に礼を述べた。
藤吉郎は、光秀・藤孝に会釈を残し、元来た中山道を引っ返して行った。
「いつに変らぬ如才ない男だ」
佇《たたず》んで見送った藤孝は、さりげなくそう評した。
「人なつこいと申しますか、話好きな質のようで……藤孝殿とは昨年以来のおつきあいですか」
昨冬、藤孝はあるじ足利義昭と謀って、ひそかに岐阜へ使いし、美濃への動座を申し入れた。
その時に知り合ったのであろうと推測した。
「いや、もっと古い。七、八年も前になる……思えばあやつも偉く出世したものだ」
年齢からみれば、光秀は藤孝より六歳も年上だが、官位の差で藤孝が上位の言いようになる。
「七、八年といえば、かの者が織田家に仕えたばかりの頃で……」
光秀は、事の意外に怪訝《けげん》な顔になった。当時小者の身であった若者の藤吉郎と、十三代将軍義輝の侍臣であった藤孝が、どこでどう結びついたのであろうか。
藤孝と光秀の一行は、関ヶ原宿を通り過ぎ宿外れの不定形な十字路にさしかかった。
右に曲れば北国街道、浅井領の小谷《おだに》城下を経て江北を辿り、朝倉領敦賀に至る。左に折れれば伊勢街道、養老山系の山裾を廻って桑名に通ずる。
一行は、北国街道を北上した。
藤孝と藤吉郎の初見は九年前、永禄二年二月であった。当時信長は尾張統一の戦に専念し、岩倉城に一族の長老織田|信賢《のぶかた》を攻めてその目的を達成しようとしていた。
その信長が、突如、戦闘指揮を宿老柴田権六勝家に委ねて、騎馬士卒八十人を率いて上洛した。
異常の人、信長の上洛の目的は奈辺《なへん》にあったか不明である。だが、単なる思いつきでなかった事は、永禄十年に海内《かいだい》一の美女といわれた妹お市を、江北の領主浅井|長政《ながまさ》に嫁がせた事でも分明である。江北の浅井家は、長政の父|久政《ひさまさ》の代に南近江一円を領する六角《ろつかく》(佐々木)承禎《じようてい》(義賢《よしかた》)と結び、その後六角氏の内紛に乗じて版図を愛智郡《えちごおり》まで広げるほどの威勢にあった。信長が浅井氏と姻戚を結んだことは、濃尾北辺の防衛に備えてのことであったと想像される。
信長は、前年召し抱えたばかりの小者木下藤吉郎を供に加えていた。これも川筋衆の藤吉郎が足利将軍義輝の知己縁辺に、何か手蔓《てづる》を持っていたからであろう。
将軍義輝は、長らく私権の拡張を図る三好一族の長、長慶と争い、たびたび干戈《かんか》を交えていたが前年晩秋、六角承禎の仲介で和睦が成立し、蒙塵していた湖西の朽木谷《くつきだに》から京に帰還したばかりであった。
義輝の無二の支えといっていい侍臣細川藤孝は、仲立する者あって信長の使者木下藤吉郎と会った。藤吉郎は将軍義輝の苦境を事細かに知っていて、取りあえず永楽銭六百貫を提供し、信長が将軍義輝に謁見を許されれば、更に四百貫を献上する旨を申し出た。
孤立無援の将軍義輝にとって、永楽銭一千貫の軍用金は、旱天《かんてん》の慈雨に等しい。それと、窮状を熟知しながらそれにつけ入ることなく、ひたすら辞を低く謁見を懇願する藤吉郎の弁口に、藤孝は魅せられた。
信長が私称する上総介《かずさのすけ》は、正式の官名ではない。当り前なら庭先にひれ伏して瞥見《べつけん》されるにとどまるのを、藤孝は格別の計らいで対面を許した。
信長が義輝に何を奏上したか、記録にはない。恐らく尾張統一後、軍勢を上洛させ、三好・松永|輩《はい》を駆逐して幕府再興に力を貸そうというのではあるまいか。
直情径行の義輝は、幕府再興をおのれの手で実現したかった。助力を申し出た信長の当時の所領は尾張半国二十万石に過ぎない。義輝は信長の進言を容《い》れなかった。
信長は空しく京を去った。松永久秀の義輝|弑虐《しぎやく》は、その六年後の事である。
尾張一国統一を前に、当時の信長が時の将軍義輝に軍勢上洛を進言したのは突飛に過ぎるかも知れない。
だが信長はわずか一ヵ月後の尾張岩倉城攻略で統一を果し、彼は尾張五十四万石を掌中におさめる。その自信があった。
その頃、越後の長尾景虎(上杉謙信)が士卒五千余を率いて上洛し、将軍義輝に謁した。景虎は足利将軍の窮状を聞くと、帰国を前に三好・松永輩の討伐を申し出た。
だが義輝は、謝意を表したがその一挙も辞退した。景虎が京に拠点を構えるならばいざ知らず、討伐後に引揚げられてはかえって三好・松永輩の残党が増長するからである。
信長は、京より帰国すると、未練なく京都進出を断念した。
――おれに百万石の大領があれば、足利将軍も無下に進言を拒まなかったに違いない。
信長の百万石という数値は、並の戦国大名のそれとは違う。並の大名の百万石は所領の農民兵の徴募数だが、信長はすでに兵農分離の着想を抱いていた。農民の専業化と物資の集散による商業活性化で、傭兵をどれ程集め得るか、信長は軍の傭兵化と美濃攻めの二大目標に転換する。それには七、八年の歳月が必要だった。
その夜、藤孝と光秀の一行は、姉川に近い|龍ヶ鼻《たつがはな》にある成玄寺《せいげんじ》という寺に宿った。江北の領主浅井氏は静謐《せいひつ》を保っているが、宿を求めるのは憚られた。
「わざわざのお出迎え、ありがたきことでござった」
光秀は丁重に礼を述べた。
「いや、実は一乗谷《いちじようだに》に出向いての帰り途《みち》、公方に復命する前にそこもとと談合したいと思ったのだ」
奈良を脱出した足利義昭(義秋)が、越前朝倉家に寄食して一年半になる。朝倉家は金ヶ崎に仮館を建て歓待はしてくれるが、積極的に動こうとしない。
藤孝は、義昭の意を体し、京都|還御《かんぎよ》のため軍勢を出してくれるようたびたび懇請していた。
だが、越前一国に安住して退嬰《たいえい》に陥っている怠惰の朝倉義景は、一向に動かなかった。
足利将軍義輝弑虐後、三好・松永は急速に勢力を伸長し、余勢を駆って義輝の従弟義栄《いとこよしひで》を担ぎ出し、十四代将軍を自称させ傀儡《かいらい》化している。一方、南近江の六角氏、大和の筒井順慶らと相互援助を協定した。
これらを制圧するのは容易ではない。入洛を果しても大軍を常駐させなければならない。
――火中の栗を拾うようなものだ。
そう考える朝倉家を、義昭・藤孝は遂に見限った。次の寄り処は、最近美濃を制し、一躍百十万石の大領となった織田信長である。
だが、朝倉家がむざと義昭の動座を許すだろうか、それが重大問題だった。
「いかがでござりました。朝倉家の意向は」
光秀の問いかけに、藤孝は自嘲《じちよう》に似た笑みを浮べた。
「公方様のご意向なれば、われらが異を唱えるいわれなし。お気ままになされよ、とな。素直な応答であったよ」
「…………」
光秀は絶句した。妨げなく動座できることは朗報に違いない。だが征夷大将軍という武人の最高権威者を近隣の大名に奪われるというに、厄介者が始末できると言わんばかりの扱いは、心が冷えたというほかはなかった。
「そこもとの身柄を申し受けたいとの願いも異論はなかった」
わずかでも戦功あった者を、よそ者という差別感で捨て去る。その朝倉と比べて、光秀は今更ながらに信長の異能を思わずにはいられない。
「さすがに義景公は寂寥《せきりよう》の感を禁じ得ない面持ちであったが……何せ門閥の重臣どもが頑迷でな」
慣例慣習を重んずる官僚主義、門閥血統を尊しとする差別、仲間同士で傷をなめ合いかばう排他、それらは新しい血の流入を妨げ、家を国を腐らせる。朝倉家はその典型といえた。
藤孝はそれなり押し黙り、暫く沈黙が続いた。二人は寺の僧から購《あがな》った濁り酒を啜《すす》った。
「のう十兵衛殿、朝倉家は救い難い退嬰の家柄とは思うが、さて、われらにしてもそう大言壮語できる身であろうか」
藤孝は、思いもかけぬことを口にした。
「と、申されますと……?」
「公方がことよ」
藤孝は、蔭の会話では将軍家に敬称をつけない。鬱屈《うつくつ》した思いが敬称を省かせるのであろう。
「義輝公は、あまりにも直情径行、清濁併せ呑む度量なく、ために志半ばで凶刃《きようじん》に斃《たお》れた。そう申すと憚りあるが、この躬《み》は出自が曖昧《あいまい》のため、幼時より浮世の荒波に揉《も》まれ過ぎ、権謀術数を事とし、公方に仕える身分にふさわしからざる性分となった……」
「いやいや藤孝殿、それは謙譲が過ぎましょう。今の世は経世の智なくして世は渡れませぬ」
藤孝は、首を横に振った。
「わしが言いたいのは、その事ではない。いまわれらが担ぐ公方が、真に公方にふさわしいお人柄であろうか、ということだ」
光秀は、愕然《がくぜん》となった。今が今まで足利家直流に最も近い血筋ゆえ、公方と奉った。だが足利義昭という人物は、乱世をおさめるにふさわしい人物であろうか。
足利義昭、この年(永禄十一年)三十二歳。信長・藤孝より三歳年下、光秀より九歳下で藤吉郎と同年である。
血のつながる義輝や、あるいは腹心の藤孝と比べると、著しく軽く、それに軽躁《けいそう》の気味が甚だしい。
思考が直線的で即断癖は、義輝ゆずりとみえる。だが義輝には一念を貫く強い意志があった。義昭にはそれがない。利不利に迷い易いのは俗人と変らない。
謀事謀略好みは、藤孝より格段に激しい。ただし藤孝のそれは、生死の危機を察知して万|已《や》むを得ざるものであり、その切所《せつしよ》にあっての謀事謀略は重く厚く、常人をはるかに超える深さがあった。だが義昭のそれは、おのれの智を誇示する癖があり、淫して耽溺《たんでき》する類《たぐい》のものだった。
――血筋は尊貴でも、人はこうも卑しい事を企むものか。
光秀は、義昭の昵懇衆という処遇を得て、身近に接するようになると、それを実感した。
だが、人にはおのれの将来を期待する心があり、その心が眼を曇らせる。
義昭は、さすがに足利将軍の血を引くだけあって、眼鼻だちだけは頼もしげである。
――足利将軍を継ぐのは、この義昭しかいない。
武家の最高権威者として、戦国大名も足利将軍にはまだまだ一目置いている。光秀はその将軍を意のままに扱うことで、信長を凌ぐことができるであろうと考えた。
その夢を、藤孝はあっさり打ち砕くように言った。足利義昭は将軍に担ぎ上げるにふさわしくないのではないか。
「では、どうなさる」
藤孝は、光秀の問いに答えず、信長が光秀に托した義昭への返書を取り上げ、無雑作に封を切った。
「あ、それは」
「大事ない。あとで言いくるめるまでの事」
藤孝は、一読した。
「信長は、そこもとを大層気に入られたようだ。早速に召し抱えたいとある」
「恐れ入る」
と、光秀は安堵した。
「公方の動座は夏、それまでに支度を調えおくとのこと、まずは上首尾であったな」
藤孝は、書状を巻きおさめると、光秀に向った。
「さて、そこもとの信長観を伺いたいな。人柄、性癖をどう見られたか。それに美濃をわが手におさめて、次にどのような方策を持っておるか」
光秀は、事細かに話した。城館のこと、要害のことに始まり、謁見の一部始終。転じて織田軍勢の改変から、美濃攻め七年間の経緯に至るまで、おのれの見聞のほか、信長と藤吉郎から洩《も》れ聞いた種々《くさぐさ》を、包まず話し続けた。
――この男の分析能力は凄《すご》い。
藤孝は、信長と同じ感想を持った。それと同時に、知り得た機密をあけすけに話してしまう光秀の率直さに、ある種の危うさを感じた。
――おれなら、どれ程信頼する相手でも、ここまでは打ち明けぬ。七、八分は話しても二、三分は内に秘めておくところに、人間の深みがあるのではないか。
光秀は、将軍義輝と同様の、直情径行の危険性がある、とみた。義輝はその直情径行ゆえに弑虐の悲運を招いた。光秀はこの乱世にどのような末路を辿るのであろうか。
「いや、人の世の常識では到底推し量れぬ異常人だな、信長という男……」
「確かに……人を超えた人、と申せましょう。それが悉《ことごと》く図に当って今日《こんにち》を得た、というのは、よほどの強運の為せるわざと考えられます。ただし……」
光秀は、ちょっと言いよどんだ。
「その運、どこまで続きますか。その辺がいささか案じられます」
「そうかな。わしは運ではなく才だと思うのだが……」
藤孝は、心楽しげに眼を細めた。
「その常識破りの異才が続く限り、信長はまだまだ伸びよう。唯一恐いのは、一時の成功に満足して、常識に戻ることだ。常人に立ち返った時、信長の飛躍は一挙に崩れる……」
藤孝は、光秀を諭すように言った。
「わしはそこもとを、埋れた異能の士とみて信長に推挙した。その甲斐があったように思う。旧家朝倉家に一生仕えても、門閥に押しひしがれて一手の侍大将一千石の身分は難しかろう。信長の下でその異能がどれ程に伸ばせるか、それを試してみるのもおもしろかろうと存ずるが……」
光秀は、苦笑した。
「木下藤吉郎と申す者も、そう申しておりました。人の一生はどう転んでも一生。信長殿という異常人を傍近くで見て終るのもおもしろいではないか、と……」
「そうか、藤吉郎めもうがった事をいうようになったな、なかなかのものだ」
藤孝は、笑った。
臥所《ふしど》で光秀は、この両三日に知った信長と藤吉郎、それに本心を打ち明けた藤孝のことを思い続けた。
――世の中には、種々の人材がいる。
光秀は闘志をかきたてた。負けてはいられない。
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白刃《はくじん》可蹈也《ふむべきなり》
永禄《えいろく》十一年(一五六八)、七月十六日。
越前敦賀《えちぜんつるが》、|金ヶ崎《かながさき》城の仮御所に滞留中の足利義昭《あしかがよしあき》は、朝倉家に別れを告げ、十余名の幕臣を従えて一路|美濃《みの》に向い出立した。
一ヵ年半、彼を接遇した朝倉|義景《よしかげ》は、見送りに家老の朝倉土佐を派したのみであった。
義昭とその一行は、北国街道を南下し、近江小谷《おうみおだに》城に足をとどめた。北近江一円を領する小谷城主浅井|久政《ひさまさ》・長政《ながまさ》父子は、かねてから朝倉家と親交を結び、また織田信長の妹で三国一の美女といわれたお市ノ方は先年長政に嫁いでいる。浅井家の扱いは丁重を極めた。
信長は不破光治《ふわみつはる》、村井貞勝《むらいさだかつ》、嶋田所之助《しまだところのすけ》に兵一千を付して近江犬上郡まで派遣し、義昭一行の供奉《ぐぶ》に充《あ》てた。
義昭一行の岐阜到着は、七月二十五日と定められた。
――本日は、公方《くぼう》様のお成りの日である。
二十五日を迎えた岐阜城の内外は、暁闇《ぎようあん》から異常な昂奮《こうふん》に包まれていた。
公方、天下の将軍家を迎えることは、都を離れた美濃という片田舎にとって、大変な出来ごとであった。
そのなかで、唯一|醒《さ》めた男がいた。信長である。
信長は、いつものように浴衣《ゆかた》がけのまま、ほの暗い夜明け前の馬場で、馬を責めていた。
「殿……こちらにおわしましたか」
きらびやかな甲冑《かつちゆう》を着用した部将姿の明智光秀が、馬上の信長の許《もと》に駆け寄り、声をかけた。
「なんだ!」
うるさそうに信長が見返った。
「公方様お出迎えの軍勢が揃っておりまする」
「ならば行け」
「では、殿は……?」
「おれが何で食い詰め者の居候を出迎えなければならん。着いてから会いに行くと言うておけ。今は忙しい」
光秀は、唖然《あぜん》となった。昨日今日、以前に倍する所領を得たばかりの出来星《できぼし》大名が、箔《はく》をつける絶好の機会である。いちばん喜んでいると思っていた。
――何が忙しいというのだ。
忙しいのは、信長の頭の中であった。
足利十三代|義輝《よしてる》に軽んじられたのは、所領の小禄《しようろく》である。戦国大名が真に独立独歩するには、百万石が目安であると思った。
それを得た。と同時に異常人の信長は目標を失った。今後何を為《な》すべきか、信長は美濃攻略後一ヵ年、それを考え続けてきた。
――これが、人生の転機か。
信長は足利将軍の到来を、そう感じていた。
光秀の率いる八百の軍勢は、岐阜城の西、三里(約十二キロ)ほどの地点で、義昭の一行を出迎えた。
供奉する不破、村井、嶋田の一千と、光秀の八百は、美意識の強烈な信長の軍勢とあって、その装いは絢爛《けんらん》たる華やかさであった。
――これは贅《ぜい》ではない。軍装華やかならば敵を圧倒し、味方の士気を鼓舞する。軍兵の装備は庶民の憧れの的でなければならぬ。
時代の常識を打破して、傭兵を常備軍とした信長らしい発想である。
降りそそぐ陽光の下、細川|藤孝《ふじたか》は光秀の許に馬を寄せた。
「お出迎え、過分に存ずる」
以前の光秀は、朝倉家客分とは言い条、捨扶持《すてぶち》を貰《もら》う一介の素浪人であった。それが今は小勢ではあるが八百の軍勢を率いる部将である。自然藤孝の言葉遣いは改まらざるを得ない。
「藤孝殿にはお変りもなく、祝着に存ずる」
「して、信長殿は?」
藤孝は、信長の姿のないことに、不審を抱いた。
「それが、図らずも所用重なり、ご無礼|仕《つかまつ》る。後刻、謁を賜わりたいとのことでござる」
「では、新造のお城館で……?」
「いや、公方様仮御所は、城外|西庄《にしのしよう》、立政寺《りゆうしようじ》と申す古刹《こさつ》にござる」
――寺を仮御所に……?
さすがに藤孝は顔色を変えた。
公方動座の交渉をはじめてすでに十ヵ月ほど経つ。厚遇とはいえぬ朝倉家でも館は建造した。それが濃尾二ヵ国領有の身、殿舎建造の費《つい》えを惜しむとは、尊崇の念が薄すぎよう。
――これは、あとで揉《も》めごととなろう……。
そうは思ったが、道中での揉めごとは外聞にかかわる。藤孝はおのれの胸三寸におさめて、光秀の先導に従った。
一行が立政寺に到着すると間もなく、信長が極めて少数の扈従《こじゆう》を伴って、寺に入った。
信長は以前|微行《しのび》して京の十三代将軍義輝に謁している。礼式は心得ている。
拝謁の礼式が終ると、信長は細川藤孝を通じて、献上品を披露した。
品は刀剣、馬、鎧《よろい》、武具、銭など通例の物で、大したことはない。だが人々を驚かせたのは、鳥目《ちようもく》(銭)の量と質だった。
永楽銭と呼ぶ硬貨がある。
明は、蒙古《もうこ》王朝元を追った漢民族国家で、第三代成祖(永楽帝)の頃に最盛期を迎え、南海諸国を経略、その勢威はアフリカ東岸にまで及んだ。
その成祖が永楽六年(一四〇八)から鋳造した青銅銭を、永楽銭と呼ぶ。表面に永楽通宝の文字がある。きわめて良質で各国で通用し、値も高価であった。日本では足利四代将軍|義持《よしもち》が国内通用の永楽銭(地銭)を鋳造したが、技術が落ちるため、渡来銭に比べると値が低かった。
信長が足利義昭に献上した鳥目は、最も高価な唐《から》渡りの永楽銭であった。永楽銭一枚は、並の銭貨の十数倍の値であったという。銭一貫は鳥目一千枚である。それを一千貫、百万枚、立政寺の庭前に積み上げた。
――さすがに尾張《おわり》は商業国、富裕。
人々は、底知れぬその財力に驚嘆した。
だが、義昭の侍臣にはその感覚がない。金銭は貰って費《つか》うもの、とだけ思っている。彼らはけろりとしていた。
岐阜に移り住んだ当座、義昭はひどく不機嫌のうちに日を過ごした。
――これは、来るのではなかった。
義昭には、他人から歓待されるのが当然、という観念が染み着いている。
その点では、朝倉家に抜かりはなかった。
身を寄せると早々、金ヶ崎城に公方館を新築してくれた。侍女や召使も取り揃えて、義昭の侍臣までが上げ膳、据え膳で食事を摂り、何一つ不自由のない暮しであった。
当主義景は、月に二、三度、かなり遠路である一乗谷の居城から出向き、宴を催した。実を言えば、歓待が目的ではなく、自身が遊興好きだったのであろう。居城を離れての遊興とあって、小うるさい老臣から諫言《かんげん》される恐れもない。派手に羽目を外して遊び戯れた。
――国主ともあろう者が、猥雑《わいざつ》に過ぎる。
そう思うことも度々だったが、義昭自身が遊興好きで猥雑な質《たち》だから、大いに楽しんだ事も否めない。
だが、世には「盈《み》つれば虧《か》く」という格言がある。義昭は朝倉家の処遇に、次第に不満を抱くようになった。
――おれは、このような草深い田舎で朽ち果てる身ではない。
朝倉義景が一乗谷に帰城すると、無性に淋しく、居たたまれぬ焦慮に身を灼《や》くようになった。
――そもそもが、主城から遠い小城に、公方館を建てる根性が気に食わぬ。
その思いに拍車をかけたのが、藤孝の進言だった。
「どうやら、頼む先が違うように存じます。百年経ったとて、朝倉殿には公方様を擁して上洛する大気は無いと見えますが……」
藤孝は、最近出来星の信長を頼めと言う。
移る先が、主城の岐阜と聞いて移った。だが聞くと見るとでは大違い。公方館も建ててはくれず、仮御所であろうが、古びた寺に泊る身となった。宴席で厭《いや》みの一つでも言ってやろうと思ったが、宴を催してくれるどころか、肝心の信長が一度挨拶に来たなり、あとは姿も見せない。
――いったい、どういう魂胆で、公方のおれを招いたのだ。
足利義昭には、別に灼けるような思いがある。
三年前(永禄八年)、義昭の兄である十三代義輝は、三好・松永|輩《はい》に弑虐《しぎやく》された。三好三人衆は阿波《あわ》にいた義輝の従弟義栄《いとこよしひで》を擁立し、阿波から摂津に移し、昨年十四代将軍の宣下《せんげ》を朝廷に奏請した。これには朝廷内にも異論が噴出し、本年二月、ようやく許されて十四代将軍に叙任された。
足利義栄が京に入り、幕府を再興すると、義昭の将軍職継承はまったく目が無くなる。次の将軍は義栄の子に移るであろう。
――義栄が、京で地盤を固めぬうちに。
その期限は、おそらく一、二年のうちであろうと思われた。
その焦慮が、退嬰《たいえい》一途の朝倉家を見限らせたのである。
――信長は、頼みになるだろうか。
半信半疑であったに違いない。
信長には、馬場で、馬を責めるうちに閃《ひらめ》いた一瞬の発想があった。
世に、深思≠ニか熟慮≠ニいう言葉がある。だが発想≠ニはまったく別のものである。
発想は、深思・熟慮からは生れない。その者の学業・思想・環境・人生経験・哲学が凝縮されて、発想の基盤を作る。それに天分が加わって、一瞬の閃きを生む。何よりも大事な要素は天分であろう。天才が天才たる所以《ゆえん》である。
その頃の戦国大名には、上洛して天皇なり将軍を奉戴《ほうたい》して、天下を統一し、号令するという考えは無かった、といっていい。
まず第一に、天下に号令して自己なり自己の家に何の利を生むか、という考え方がある。天下に号令すれば、従わぬ者が続出するだろう。その者たちを一々討伐していれば、短い一生を戦《いくさ》のための戦に費やすだけで、所領の物成りを蕩尽《とうじん》するだけである。
それと、もう一つの観念は、天下が広すぎ、それに割拠する大名・豪族が数限りないことである。六十余州を一手に掌握するには、人の一生ではとても足りない。何代か継承しても凡庸の子孫が出れば挫折《ざせつ》する。
戦国時代、百年にわたって日本国中、戦が絶え間なく繰り返されたが、その殆《ほとん》どは領土の拡張戦争であった。
当時、日本最強を誇った上杉謙信と武田信玄も例外ではなかった。謙信は気候温暖の関東平野への進出に執着し、信玄は信州への領土拡大に血道をあげた。
両雄が上洛を志すようになったのは、人生の盛りを過ぎてからの事である。それも信長が上洛を果し、その勢威が伸長して、天下統一が夢ではないことを見てからであった。中国の毛利、小田原(関東)の北条などは大領を保全するに汲々《きゆうきゆう》として、夢を抱かぬことを家訓としたほどであった。
唯一の例外は、今川義元の上洛戦であった。義元の上洛意図が奈辺《なへん》にあったか、一切不明である。尾張に侵攻した今川勢は、桶狭間《おけはざま》合戦の挫折がなければ、尾張の攻略は成功したであろう。だがその後、美濃へ向ったか、伊勢《いせ》へ進んだか、それすらも明らかでない。
おそらく、足利将軍に最も近い血縁である今川氏は、将軍を擁護し、幕府再興に力を貸したであろう。だが、駿・遠・三の三ヵ国の農民兵は、長く京都に駐留することは不可能である。農繁期には国許《くにもと》へ帰さないと、その年の収穫は望めまい。また国許から京都へ、いかに補給路を確保するか、その方略も一切伝わっていないのである。
それにひきかえ、桶狭間の奇襲を敢行した信長の意図は、想像に難くない。信長は玉砕を覚悟で、乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦を挑んだとは思えない(結果においては、そうなったが……)。彼は家臣に決死の覚悟を示して士気を鼓舞したが、実は奇襲の遊撃戦を試み、軽く一勝を挙げることが目的で、あとは山峡に兵をひそませ、補給路を断つ遊撃戦で今川勢の衰弱を待つつもりであっただろうとも想像できるのである。
信長には、百難屈せざるしぶとさがあった。
だが、凡庸の義元にはそれがない。上洛戦の緒戦であえなく討死した義元は、戦の意義すらも世に残さなかった。
義昭動座のその朝、暁闇の中で一瞬の閃きを感じとった信長は、残る時間をその裏付けと、慎重な計画に費やした。
一見、不可能にみえる上洛計画も、視点を変えて仔細《しさい》に検討すれば、打開の途《みち》は次々と脳裏に浮んだ。着想の妙は困難を償って余りあった。
――これは、転機だ。
信長は、そう感じとったに違いない。七年、兵を鍛えるために美濃を攻めた。美濃を掌中におさめると、思いもかけぬ公方という貴人が飛びこんできた。その公方を引っ抱えて京に攻めのぼる。その方策も立った。
そのあと、どうすると尋ねたら、信長は当惑したに違いない。信長は先の先まで見通して行動したとは思えない。ただ彼は片々たる領土欲で戦をしなかった。彼の戦はその点で型破りだった。
旧暦八月は、すでに秋の気配が濃厚である。
中旬の一日、立政寺仮御所で藤孝は、信長の書状を持参した藤吉郎を迎えた。
信長との交渉ごとを一切委任されている藤孝は、ためらいもなく封を切りながら、藤吉郎に声を掛けた。
「以来、信長殿は一向に伺候されぬが、どうしておられる」
やんわりと苦情を言ったつもりだったが、藤吉郎はけろりと言った。
「いやもう、戦支度《いくさじたく》で夜昼ない有様でござります」
「ほう、すると上洛戦を催されるつもりかな」
藤孝は皮肉を利かせた。
――どうせ、また北伊勢あたりに出兵するつもりであろう。
藤吉郎は、平然と言った。
「わが殿は、公方様を京におつれする所存にござる」
「ふむ」
藤孝は虚を衝《つ》かれて、真顔になった。
――それで仮御所という訳か……。
書面を読んだ。
「戦にわしと、和田伊賀を貸せと言われる」
藤吉郎は、にんまりと笑った。
「どうやら、見込まれましたな」
藤孝は書状を巻き納めながら、苦笑した。
「和田殿はわかるが、わしは買い被られておられるようだ」
和田伊賀守|惟政《これまさ》は、甲賀の名ある豪族だが、藤孝は十三代将軍義輝以来の侍臣である。
「確かに官名は兵部大輔だが、信長殿の官名であった上総介《かずさのすけ》が関東に縁無きと同様、名ばかりのものだ」
「御謙譲も時によりまする。十三代将軍義輝様をお輔《たす》けなされて三好・松永輩を相手に、八面六臂《はちめんろつぴ》のお働きあった事、この草深い美濃尾張にも聞えております」
そう臆面もなく褒め称えられると、藤孝も二の句が継げない。
「ところで、木下殿……信長殿は変った印章を用いておられるようだが、これは以前からのものかな」
指し示されて、藤吉郎は覗き込んだ。
「てまえ、無学にて読みかねますが、何とお読みするので?」
「天下布武《てんかふぶ》」
鮮やかな朱印である。
「天下に武を布《し》く。武を以て天下を制するという意味だが……」
「さあ……昨年あたりからと存じますが、それが何か……」
「いや、些《いささ》か穏当を欠くと思われるが……つまり、武を以て天下を統《す》べ治めるのは、征夷大将軍、公方様が勅命を奉じての使命と心得る。申すと過言だが、信長殿は戦国の世の一大名、公方様をさておいておのれの武で天下を掌握するのは、足利将軍に対し逆意ありと……」
「ごめん蒙《こうむ》る……藤孝殿、これにござったか」
入ってきたのは、光秀である。
「お、木下殿とご面談中でござったか。これは御無礼を……心安立てに礼を失しました」
「いやいや、こなたの用件は済みました。それより光秀殿、ちょうどよい。実はこの信長殿の印章について、そこもとの意見をお聞かせ願えぬか」
風向が変って光秀の方に向いた。藤吉郎はそろそろと後退《あとずさ》りしながら、両人の遣り取りを興味|津々《しんしん》と見守った。
「まずは、ざっと済んだようだな」
信長は、尾張|小牧山《こまきやま》の城址《しろあと》に立って、付き随う林佐渡以下の家臣を見返った。
小牧山城は、美濃攻略のさなかに移転した本城で、今はもう不用となった。
「三日前、お指図の材木、屋根瓦、建具の類《たぐい》、残らず藤吉が稲葉山へ運んでおります。あとは侍屋敷、お長屋の分で……」
八月、残暑の日ざしの照りつける広場に、取り毀《こわ》した建物の部材が仕分けされ、積み重ねられて、陽炎《かげろう》の中にゆらいで見える。
手付かずで残された兵舎と侍屋敷が整然と日に映えていた。
信長は、小牧山の城地を傭兵軍団の駐屯地に変えていた。
「岐阜では建物の用はない。在郷の百姓を集めて大垣へ運んでおけ。一人当りの日当は米六合宛、木口《きぐち》に記した符号を乱さぬよう、くれぐれも申し付けろ」
信長は、宿老の林佐渡に噛《か》んで含めるように命じた。
林|秀貞《ひでさだ》。佐渡守は私称で正式の官位ではない。信長の亡父|信秀《のぶひで》の代からの家老職で、尾張一円の内政を司《つかさど》り、収税、軍糧の調達、資材の運搬など、後方|兵站《へいたん》の事に当っている。
林佐渡は、先代信秀の歿後の頃は気迷い多く、うつけものと呼ばれた信長を見限り、柴田勝家らと信長の弟|信行《のぶゆき》をかつぎ、家督の簒奪《さんだつ》に与《くみ》したことがある。
信長の疾風迅雷《しつぷうじんらい》の討伐に畏怖《いふ》して降伏し、贖罪《しよくざい》の沙汰《さた》を待ったが、信長は猛勇の勝家と、家政に練達の佐渡を捨てるに惜しく、あえて罪を問わなかった。
――おれが家には、礼式や算勘(計算)の才ある者が無いに等しい。それが弱点だ。
信長は、そう自認している。多少でも教養があるほうの林佐渡だが、岐阜の改名にまだ慣れず、旧名稲葉山の名をそのまま用い、一廉《ひとかど》の部将に昇進した木下藤吉郎を、小者の頃と同じように、藤吉と呼ぶ。役目を申し付けるにも、一々念押しをせぬと安心して任せられない。
――話相手になるほどの奴は、ひとりもおらん。
それが、信長にとって最大の不満であった。
――その点……こたびの明智光秀という男は、物の用に立ちそうだが……。
本陣の陣幕に入りかけた信長の思考は、背後の林佐渡の罵声《ばせい》に断ち切られた。
「藤吉! うぬは斯様《かよう》なところで何をうろうろしておる!」
信長のために陣幕を片寄せていた藤吉郎は、うろたえ気味に、眼を丸くした。
「殿の御用が済んだらさっさと御城に戻らんか! 目障りな奴だ」
見返った信長は額に青筋を立てた。
「佐渡! 出過ぎた口を叩くな!」
「はッ、ははッ」
秀貞は狼狽した。
「猿(藤吉郎)はおれが呼びつけ、まだ話半ばで中座したのだ。うぬは余計な口出しせずと、おのれの腐れ稼業に精出して働け」
宿老に対して、ひどい物言いである。秀貞は慌てふためいて逃げるように引き退った。
「さてと……話はどこまでだった」
信長は床几《しようぎ》に腰を下すと、跪《ひざまず》く藤吉郎を促した。
「最近お用いなされます殿の御印章の事でござります」
「そうであった。細川兵部大輔めが、苦情を申し立てたと言うのだな」
藤吉郎は、掌《てのひら》を振り立てて打ち消した。
「藤孝殿が苦情を申した訳ではござりませぬ。ただ公方様のお側近くお仕えの方々は、とかく論を立て、公方様御威光をふりかざして難癖をつけたがる、殿の御印章の文字で問題が生ずるのは必定と……」
「天下布武の事か」
信長は、嘲弄気味に苦笑した。
「それで、うぬはどう答えた」
「どう、と言って、てまえは無智蒙昧《むちもうまい》……答えようがござりませぬ。ちょうど折よく光秀殿が伺候されましたので、代っていただきました」
信長は、興味を覚えたらしく、真顔になった。
「光秀が? どのように言った」
「一言の下に笑い捨てられました。天下に武を布く、武をもって天下を制するととれば、殿が足利将軍にとって代るように思われるであろうが、さに非《あら》ず、公方様をお迎えして足利将軍の威を天下に示す御胸中を吐露なされたととれば、御異議あるまいと……」
信長は、くくくと含み笑いをしたが、堪り兼ねたように哄笑した。
「言うのう、あの金柑頭《きんかんあたま》(光秀)め、屁理屈も堂に入っておるわ。いや、得難い弁口だ」
藤吉郎も嬉しそうに笑った。
「そう申しては当り障りもあろうかと存じまするが、これまで御家中にない智恵袋でござります。いや、こうも申しておりました。日頃の藤孝殿とは思えぬ猜疑《さいぎ》である、殿の稜々《りようりよう》たるお志を示すみごとな印文、むしろお褒めになって公方様に御披露なさるべしと……」
「もうよせ、歯の根が浮くわ」
笑いをおさめた信長は、藤吉郎を叱るように制した。
「ありようはな、稲葉山城や城下町|井之口《いのくち》と同様、田舎じみた今までの印章が気に入らなかっただけの事だ」
「では、あの禅の僧侶が……」
「そうだ、沢彦《たくげん》に選ばせたのだ。あやつめ、周の太王が基《もとい》を開いた岐山《きざん》の故事にならい、井之口を岐阜と名付けたついでに、印文も天下布武を奨めおった。字面《じづら》の雄壮が気に入って使っただけの事よ」
「ははあ……そうでござりましたか」
藤吉郎は、拍子抜けの態《てい》でそう言った。
「それだけの事よ。語句の意味などどうでもよい。字面の語感が使う人間を表す。それでよいのだ」
信長は、明智光秀の語句解釈の当否にも問題意識はない。
――そういう解釈も有り得るのか。
と思っただけである。ただおもしろいとは思った。語句一つの解釈に当意即妙の智恵を示す明智光秀の頭脳が、である。
「しかし……うるさい事でござりまするな。たかが他人の用いる印章の文言ひとつに、目くじら立てて、難癖をつけ謗《そし》る者がいる……お節介と言うか、暇人と言うか、他人の粗探《あらさが》しをして何の役に立つのでござりましょう」
「それはな、藤吉、古《いにしえ》の歌にこうある。
男《おのこ》やもむなしかるべきよろづ世に
語り継ぐべき名は立てずして」
「よろず世に、語り継ぐべき名を立てる……人というのは、難しいものでござりまするな」
藤吉郎は、嘆息してみせた。
「難しいどころか、よろず世はおろかこの世でさえ、名を立てるのは何万何十万に一人あるか無いかだ。空しく終る何万何十万は、せめてもの鬱憤を晴らそうと、鵜《う》の目鷹の目で他人の些細な粗を探し、謗ることに専念する……その心根《こころね》は卑しむべきだが、避けられぬ……それが、人の性《さが》というものだ」
藤吉郎は、しきりに感に堪えたように頷く。
――この男の純心も捨て難い。
藤吉郎は、私情をまったく差し挟まず、事実を有りのまま伝えた。藤孝と光秀に対して、些かも私心を持っていない。彼の伝える情報は、あるじの信長にとって信頼のおける貴重なものと言っていい。
――どちらも得難い家臣だ。
信長は、諭《さと》すように言った。
「藤吉よ、万人を凌ぐ王者は、その心ない謗りに如何に傷付こうとも、堪えねばならぬ。王者は常に孤独。万人の誹謗にさらされてこそ王者たり得るのだ。人は何とでも言わば言え。愚かな謗りに堪えてこそ、大志は遂げられる。それが王者の運命《さだめ》である」
言い終ると信長は、床几を立って藤吉郎に去れと手で追い、陣幕の奥へ去った。
藤吉郎は、あることに気付き、愕然と見送った。
――殿は、王者の大志と仰せられた。ではやはり、天下布武の印章は、天下人たる大志を示すものであったか……?
信長に仕えて十余年、初めて示すあるじの大志を彼は垣間見《かいまみ》た。
どうも信長の考え方は変っていて、並の常識ではわからぬことが多い。
八年前、永禄三年の桶狭間合戦の大捷《たいしよう》でもそうだった。勝算のまったく無い戦に勝っても、驕《おご》る気配はおろか、喜色すらみせなかった。その証拠に三月《みつき》と経たぬ間に、念願の美濃攻めを始めている。三年の間に二度仕掛けて二度とも大敗を喫した。それでいて一向に懲《こ》りる色がなかった。
三年目の永禄六年、突然本城の清洲《きよす》から小牧山への移転を令し、築城を始めた。
後に造る墨俣《すのまた》の一夜城のような仮城ではない。本格的な築城だった。
――美濃攻めのさなか、何のための本城移転か。
信長の考えを聞いて、家臣一同仰天した。美濃攻めのための築城ではない。爾今《じこん》小牧山を本城にするというのである。
小牧山は、清洲の北東四里(約十六キロ)、戦相手の稲葉山城のほうが近い。平坦な濃尾平野のなかに突出した丘陵である。標高は三百尺(約九十メートル)に満たぬ小山だが、鬱蒼《うつそう》たる森林に包まれ、各所に懸崖《けんがい》があって、杣人《そまびと》が薪《まき》を採るしか役立たぬところだった。『信長公記《しんちようこうき》』には、こうある。
「清洲と云ふ所は国中真中にて富貴の地なり」と。
その繁栄の本城を、小牧山というまったく新しい地に移そうというその意図は何であったか。
上杉|景虎《かげとら》(謙信)の本城は越後《えちご》春日山《かすがやま》城であり、武田|晴信《はるのぶ》(信玄)は古府中《こふちゆう》(甲府)、北条|氏康《うじやす》は相州小田原、今川義元は駿府《すんぷ》城であった。
彼らは、領土を拡張するため戦をし、勝敗にかかわらず、必ず本城に戻った。戦国期の大名は、例外なくそうであった。
だが、信長は一途に飛躍を目ざした。天下布武の意味がどうであれ、自身が濃尾平野で安穏に暮すことを考えたことはない。
――本営は、可能な限り前線近くに移動する。
交通と通信に多大な時間を要する当時にあっては、これほど合理的な事は他にない。
それを家臣団に徹底しようとした。彼は負け戦のさなか、実践したのである。
昨永禄十年、信長は美濃を併呑《へいどん》し、宿願を果した。
そして年を越すと小牧山城の取り毀しにかかった。信長は本城を岐阜に移したのである。
小牧山城の結構は、仮のものではなかった。石塁、土塀、城館から侍屋敷、徒士《かち》・足軽長屋、調練場など、以前の清洲に倍するほどの規模で、家臣団を満足させた。
清洲から移り住む商人にも土地を与え、楽市《らくいち》・楽座《らくざ》(商人の資格、既得権の制限令等を一切撤廃して、自由に――楽に市を開き、商いの自由を認めた制度)を設けて、物の売買を奨励した。
果然、小牧山城の城下には、尾張のみならず、諸国の商人が雲集して、活況を極めた。
だが、それすらも、信長を遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》させる種とはならなかった。稲葉山城を攻略し、岐阜と改称して間もなく、信長は小牧山城を廃し、楽市・楽座も美濃|加納《かのう》に移した。
築後わずか五年である。木の香もまだ残る新造の城郭・城館を未練なく解体し、元の丘陵に戻してしまった。城址は(これは軍事機密としたが)傭兵軍団の駐屯地とした。
――よく体験しておけ。織田信長に定まる本拠・本城はない。常に移動を繰り返しつつ発展し続けるのだ。
信長は、そう家臣団に説き聞かせたかったに違いない。
だが、信長自身にもハキとわからぬその未来像と、発展への方策を、凡愚といっていい織田家臣団の誰が理解し、献身を申し出るであろうか。皆無であろう。
言語というのは、時によって不便極まりない。
――説いてもわからぬものには、言わざるにしかず。謎に包んでおいたほうが、かえって服従させ易い。
幼少の頃より、うつけものとしか見られなかった信長は、そうした処世術を身につけていた。
九月に入ると間もない五日、信長は突然行動を発起した。
傍目《はため》には、突然、と映った。実は信長にとっては突然でも何でもない。慎重に手を打った末の行動であった。
まず、東方の同盟者である三河《みかわ》の徳川家康に、二十日ほど前に通告した。
「足利公方を奉じて、上洛を決行する。貴下は兵四千を供出し、奉公に励まれよ」
信長が、当時|松平元康《まつだいらもとやす》と名乗っていた家康と和を結び、同盟を約したのは、永禄四年から五年にかけてである。以来六年あまり、織徳《しよくとく》同盟は緊密の度を増していったが、まだ発動したことはなかった。
家康は、親族の雄である藤井松平家の当主松平信一に兵四千を預け、信長の麾下《きか》に参加させた。
また、過ぐる永禄十年、信長は美濃攻めで手塞《てふさ》がりのさなか、美貌《びぼう》の聞え高い妹(お市ノ方)を北近江の領主浅井長政に嫁がせ、婚姻同盟を結んでいた。
美濃領有を見越してのその同盟は、意外な効果を齎《もたら》す。信長はひそかに若干の将兵を率い、浅井長政の居城小谷城を訪れ、足利義昭の帰洛に力を貸すよう要請した。
実は浅井氏は、南近江を領する佐々木氏(京の六角堂《ろつかくどう》に屋敷のあったことから、六角氏を名乗る)と領地を争う間柄である。佐々木|義賢《よしかた》(別称・六角|抜関斎承禎《ばつかんさいじようてい》)は、京を制する三好・松永と同盟し、十四代将軍|義栄《よしひで》の擁護派となっている。
長政は、謀略に長《た》けた父久政と謀って、兵を率い、義昭に供奉することを約した。
問題の南近江は、山岳地域を義昭に随身した和田伊賀守惟政が押えている。湖南平野は鎌倉期から室町期に至る頃の守護大名、佐々木氏の所領である。
近江源氏の直流である佐々木氏は名門を誇る。近隣の朝倉氏は越前守護|斯波《しば》氏を追って成り上がったもので、頼朝《よりとも》以来の佐々木源氏とは比較にならない。
同じく尾張守護職斯波氏の被官であった織田氏も、主家を追い払って領主と成り上がった。また佐々木氏の同流|京極《きようごく》氏を籠絡《ろうらく》して北近江を領するようになった浅井氏などとも、家柄が天と地ほども違う。
六角承禎は、信長の申し入れを一蹴した。
「われらは早くより三好|義継《よしつぐ》・松永久秀と結び、十四代将軍義栄様を推戴《すいたい》申しておる。坊主上がりの義昭など胡乱《うろん》な者は領内を通すこと、罷《まか》りならん」
かねて予期した通りの回答である。信長は直ちに出陣を下令した。
信長が動員した兵力は、尾張徴募の一万五千を中核に、新付《しんぷ》の美濃・北伊勢勢が一万六千、それに三河勢四千、北近江勢八千、総勢四万三千という大軍であった。
信長には、独特の美学がある。美意識が昂じて、実用に及んだといっていい。
信長は、自軍の軍装についても、特有の考え方を示した。
「いくさびとは、外観は勇壮美あふれ、内に敵の攻撃を防ぐため、万全を期さなければならぬ。凜々《りり》しき美しさと、機能的で働き易い軍装をまとえば、将士は敵に優る動きにより勇気湧き上がり、美々しき装いに恥じざることを心掛けるようになる。またその美と勇の姿形は万人|憧憬《しようけい》の的となり、尊敬の念が燃えるばかりか、有能の者、勇気ある者は、挙《こぞ》って志願、登用されん事を冀望《きぼう》するに至る。かくてその軍勢は天下第一の精強を誇る。これひとえに軍装の美か否かにかかる」
大意は、右の通りである。
数百年を経て、世界の軍はその効果に着目し、挙って軍装を改良し、その勇壮美を競った。最初に着想したのはプロイセンであるといわれている。
信長は、戦国末期に思い立った。天才というしかない。
信長の着想のもう一つはその機動力である。
主城南近江|観音寺《かんのんじ》城で、信長の申し入れを一蹴した六角承禎とその手勢は、夜明けと共に来襲した目も彩《あや》な信長勢に肝を潰《つぶ》した。その軍勢は、湖南平野を埋め尽すほどの大軍であった。
援軍を呼ぼうにも、支城|箕作《みつくり》城以下、六角家の十八城は、それぞれに信長勢の大挙来襲を受け、必死の防戦に奔命していた。
信長は、かつて功を奏した桶狭間合戦の、少数奇襲の戦法を二度と使おうとしなかった。
古来、戦は兵数の多い方が勝つ、というのが常識であった。
しかし、戦が日常的となってしまったこの時代には、奇妙な常識が罷《まか》り通っていた。すなわち、少数の兵で敵の大軍を打ち破る者が名将の誉れであるという常識である。
百戦錬磨の六角承禎などは、そうした不合理の信奉者で、名将を自負し、凝りに凝った戦法を駆使するのが常であった。
だが、戦国時代の名将≠ヘ、合理専一の凡将$M長の圧倒的な軍勢の前に、手もなく粉砕された。観音寺城をはじめ、十八の支城に分散していた六角勢も、片端から潰滅していった。
――こんな戦の仕方があるか。
六角承禎は歯噛みして地団駄《じだんだ》踏んだが、惨敗の事実は覆らない。
信長は、古来の常識である数の絶対的価値を実践したに過ぎない。しかし、寡《か》をもって衆に敵することこそおのれの才覚・才能と、誰もが考えていたこの時代に、本来の常識に立ち戻り、生半可な策を弄せず、確かな勝利に突き進んだ信長は、図らずも新機軸の戦術の具現者となった。
百年以上も長く続いた戦国の世は、戦の常識からも、時代の転換点にさしかかっていたのである。
「戦が、かほどおもしろいものとは知らなんだ」
二、三千の寄騎《よりき》を預けられた細川藤孝の率直な感想である。
「お屋形様の戦は、いつもこうでござる」
と、藤吉郎は得意顔で言う。
中国の古書「四書」(『礼記《らいき》』の中の「大学」「中庸」と、『論語』『孟子《もうし》』の総称)のなかの「中庸」に、
「天下国家は均《ひと》しくすべきなり。爵禄《しやくろく》は辞すべきなり。白刃は蹈《ふ》むべきなり。中庸は能《よ》くすべからざるなり」
という一節がある。
白刃は蹈むべきなり、とは、勇気をもってすれば、いかなる困難な事も打開できる、という意である。抜き身の刃を蹈む勇気、その無謀ともいえる勇気で事に当れという。
信長は、まさに白刃を蹈んだ。なにびとも能くなし得なかった上洛戦を、易々《やすやす》と決行した。
他人が達成し得た事は、いかにも容易《たやす》くみえる。信長が三河の家康、北近江の浅井と結び、四万の大軍を催して、六角承禎の観音寺城ほか十八城をいとも易々と踏み潰したことに世人は、
――あれほどの大軍をもってすれば……。
と、評したという。
四万の兵力を動員するには、桶狭間合戦より八年余、尾張統一戦より九年余の美濃攻めが必要だった。百十万石の所領と、その威を示しての四万である。
その四万を、未知の結果を齎す上洛戦に投入する。信長は白刃を蹈む思いだったに違いない。武田晴信も、上杉景虎も、毛利|元就《もとなり》も、北条氏康も為し得なかったその勇気は称《たた》えられるべきである。
――戦の勝敗は、数で決まる。
至極当然な近代的戦術思想の戦法に、練りに練った策で対抗した六角承禎は、手もなく潰《つい》えて伊賀の山中に逃竄《とうざん》した。その後も三好・浅井氏らと結んで信長に挑んだが、翌々年の元亀元年(一五七〇)、力尽きて降伏し、六角氏の名は史上から消滅する。名門の通用する時代は、信長によって去りつつあった。
信長が上洛を果したのは、岐阜出戦後、二十一日目のことであった。九月二十六日である。
信長の豪語はみごとに果たされた。
この上洛戦において、明智光秀と木下藤吉郎の戦功は、際立っていた。
氏素性、学問教養、風流の素養が天と地ほど隔たっている両名が、信長という異常人に見出《みいだ》されて、一躍一廉の部将に取り立てられた。
両名は、はじめて正規の部隊を指揮し、戦陣に臨んだ。
――あの者たちに、将才はあるか。さもなければ武者働きでもできるであろうか。
信長は、直感で、あると信じた。だがこれだけは実戦で使ってみなければわからない。
光秀は、六角氏の支城箕作城の攻略を命じられた。藤吉郎はもっと凄《すご》い。六角承禎の主城観音寺城である。
観音寺城を包囲した藤吉郎は、六角承禎に面会を求め、降伏を勧告した。
六角承禎は、風采のあがらぬ藤吉郎と、随従する蜂須賀《はちすか》党の面々を見て、いっぺんに軽蔑し、憫笑《びんしよう》した。
――出来星大名の家来の下品さよ。いくさびと[#「いくさびと」に傍点]の数にも入らぬ。
承禎は、けんもほろろに突っ撥ねた。
「わが城が欲しくば、弓矢で獲れ」
承禎も六角勢も、藤吉郎の詐術にかかったことに気付かなかった。藤吉郎に供して城に入った蜂須賀党は、敵の油断に乗じて城内に潜伏し、暁闇を利して放火して廻った。
消火に懸命の六角勢は、払暁、攻めかかった藤吉郎勢の整然たる美々しい将士に度肝を抜かれ、戦意を失って遯竄《とんざん》した。
光秀の箕作城攻めは巧妙だった。城の正面から小当りに当《あて》て、頃合をみて退却する。城兵は門を開いて突出し、殲滅《せんめつ》にかかった。
それが策だった。巧みに姿を隠した伏勢が両側から銃火を浴びせた。光秀は自らも鉄砲を射って敵を攪乱《かくらん》した。たまらず城に逃げ帰る六角勢につけ入って、城内になだれこんだ。みごとな芸である。
信長の軍勢が山科|日ノ岡《ひのおか》に差しかかると、衣冠束帯に威儀を正した公家たちが出迎えた。古くは木曾義仲の例もある。京の公家たちは、不安な面持で信長の華やかな軍勢を瞶《みつ》めていた。その公家の不安を宥め、信長の進駐を円滑に進めるのは、細川藤孝の役割であった。
さしあたり、信長の宿舎は東山《ひがしやま》の東福寺《とうふくじ》。義昭の宿所は清水寺と定められた。
「驚くべき男だな」
細川藤孝は、御所を退出する途次、連れだった光秀に、信長をそう評した。
義昭の十五代将軍宣下には、様々の手数がかかる。その宮中工作は、精通している細川藤孝が当り、光秀と和田惟政が補助を務めた。越前朝倉家に寄留していた頃から三人は、同志的な結びつきを持っている。
「お屋形様がですか」
光秀は、顔をほころばせた。
「そうだ、あの男、ひどく手前勝手に振舞っているが、結構計算高い。人心掌握の術にも抜かりないようだ」
「それにしても、異常でございますな」
同行の和田惟政が、感に堪えたように言う。
「公方様のご帰洛は難中の難事とこの数年、肝胆を砕いて参りましたが、あの殿の手にかかると、右手の品を左手に移すような手軽さで、易々とやってのける。まるで手妻《てづま》(手品)を見るような心地がします」
藤孝は、頷いてみせて、軽く吐息を洩らした。
「さてこのあと、あの男は自らをどうするつもりであろう。位階官職が望みか、それとも義昭様の補佐として幕政をあやつりたいのか……いや、肝心の、京に根城を構えるつもりかどうかも、さっぱりわからぬ」
細川藤孝は、根っからの幕府要人である。夢のように思っていた京都回復が果されてみると、これからの信長の動向が最大の関心事であった。
「それもこれも、将軍宣下の後のことでしょうな。まずは晴れて大将軍叙任の宣下をいただくことが肝要……」
三人は、公家屋敷の歴訪の歩を進めた。
その信長は、占領行政に没頭した。
頼みになる部将も少ない。伊勢方面で続いている紛争には浪人上がりの滝川|一益《かずます》をあて、尾張には宿老丹羽長秀、美濃には同じく柴田勝家をおいた。林佐渡は後方補給のため、大垣に駐留させている。
松永久秀が降伏を申し出てきた。私欲のため将軍義輝を弑《しい》し、東大寺の大仏殿を焼き、あるじ三好|義興《よしおき》を殺害した久秀は、時流に敏で三好党を裏切った。
信長はこれを受け入れつつも、他の三好党には容赦しなかった。後ろ楯の三好党を失い、阿波に逃亡した十四代将軍義栄も病死してしまう。
松永久秀を兄義輝の仇《かたき》と恨む義昭は、久秀の赦免に猛反対した。だが信長には、義昭の意を汲んでいる余裕がない。浅井長政の八千、徳川家康の四千が帰国の途についている。松永久秀の力が是非にも必要だった。
信長は久秀に兵を与え、畿内南方の鎮定を命じて、京から遠ざけた。
久秀の力を利用して、三好党を制する。それにしても、信長軍の人材不足は深刻だった。
信長は、摂津の敵対勢力を次々と帰順させ、その力を借りるしかなかった。
細川藤孝も山城|勝龍寺《しようりゆうじ》城に入れた。ここは藤孝の旧城である。信長は三好三人衆の一人、岩成《いわなり》主税助《ちからのすけ》から奪取し、藤孝に返してやった。勝龍寺城は現在の京都西郊長岡京市にあり、城下を長岡と呼ぶ。細川氏の別姓長岡は、それに由来する。
信長が上洛を果して一ヵ月も経ぬ十月十八日に、足利義昭は、正親町《おおぎまち》天皇から征夷大将軍に任ずる旨の宣下をうけた。
感泣は義昭だけではない。細川藤孝、上野|清信《きよのぶ》ら幕臣や、昵懇《じつこん》衆と呼ばれる和田惟政、明智光秀らは、流浪の義昭に随従した苦労を偲《しの》び、感動に涙した。
ひとり醒めていたのは信長である。
――まずは、これもざっと済んだ。
越前朝倉家に居候していた流浪人の義昭が、信長の許に動座したいと申し入れてきたとき、信長は、
――これぞ、運命の転機。
と、とらえ、帰洛の途を切り開いてやった。
義昭は悲願の将軍職を手に入れた。信長には、京都占有という果実が手のうちにある。
確かに、運命の転機であったといえよう。昨日までの田舎大名が、天子・将軍の住む王城の地を占有しているという事実は、天下に衝撃を与える。
――どう反応するかだ。
信長は、おのれの運の転回を楽しんでいるかのようだった。
稀少な支持者である細川藤孝と明智光秀が、理解に苦心している信長の異常な人間性に、当の足利義昭はまったく無神経だった。
自儘《じまま》な義昭は、清水寺の仮御所が気に入らず、五条堀川の日蓮宗本山|本圀寺《ほんこくじ》に移っている。
将軍宣下の後、義昭は細川信良の屋敷に信長を招き、馬や太刀を与えて感謝の意を伝えた。
更に信長を御前に召出し式三献《しきさんこん》でもてなした。酒肴の膳に添えられた大中小の盃で一杯ずつ酒を勧め、この膳を三回繰り返す最も正式な饗応の形式である。
その後も義昭は、信長に御父と呼びかける感状を送ったりしている。わずか三歳しか違わぬ自分を父と呼ぶ義昭の諂《へつら》いぶりに、信長は興醒《きようざ》めする思いであった。
それでも足りぬと思った義昭は、懸命に信長の意を迎える方法を考えた。
――信長を副将軍か管領《かんれい》にしたい。
管領は、幕府の最高職位で、実質上いまの内閣総理大臣と似ている。政治の実権者といっていい。
父と呼んでおいて、次は副将軍だの管領だのという。そんな軽忽《きようこつ》な男に仕えるための上洛戦ではない。
「天運」と思ったから踏み切ったのである。戦の結着として、将軍職に就けた。だが幕府を開くとなれば、話は別である。このような軽佻浮薄《けいちようふはく》な小才子に、天下を委《ゆだ》ねるなど真っ平である。
信長は、
――おれが望んでいるのは、そんなものではない。
と、思ったであろう。信長が上洛を果し、義昭を将軍職に就けたとき、ようやく見えてきた未来像は、過去の因習を悉《ことごと》くぶち破った新しい世の中を創ることであった。
それが、どのような形の世の中で、自分がどう機能するかは、まだわからない。漠然と、今までと全く違う世の中に魅力を感じたにとどまっている。
――その儀は平《ひら》に。
辞退を伝えられて、義昭は戸惑った。
信長と義昭の思いがまったく擦れ違うことに、藤孝は困惑するしかなかった。
今は昔、将軍は天下を統《す》べ、大名の免黜《めんちゆつ》、官職の配分は意の儘《まま》であった。だが、今の義昭が与える官職など何の実もない。
それが義昭にはさっぱりわかっていない。その程度の頓狂《とんきよう》な頭脳の持ち主だった。
だが、義昭の再三の申し出に、信長は漸く応じた。
「折角の思《おぼ》し召《め》しゆえ、堺、大津、草津に代官所を置かせていただきたく、お願い申し上げる」
さあわからない。
――何でたかが三ヵ所の代官所だ。維持するだけでも無駄な費《つい》えではないか。
義昭は不得要領のまま、信長が望みらしきものを口にしたことで、ひとまず安堵した。
「あれ(信長)は所詮《しよせん》成り上がりの田舎大名に過ぎぬようだ」
義昭は、藤孝にそう意中を洩らした。
――果してそうだろうか。
信長の代官設置には裏があるに違いない。そう思った藤孝は脳漿《のうしよう》を絞った。
堺、草津は訳なく理解できた。
堺は室町時代、わが国の代表貿易港として内外に認められ、商人の自治による環濠《かんごう》都市として発展した。今日でいう自由貿易港で、守護不入の特権を持っている。当時貴重極まりない渡来品の利益は莫大で、貿易を独占する堺商人は巨利を貪《むさぼ》って、大いに栄えた。
信長は、永禄二年、当時尾張半ヵ国に過ぎなかった領国を離れ、わずかな親衛の兵を伴って上洛し、時の将軍義輝(十三代)に謁している。その途次、堺を訪れ、つぶさにその繁栄を実見し、重立った堺商人と懇親を結ぶうち、その自由特権の在り方に、大いに感ずるところがあった。
堺に代官を置くことは、信長にとって勢力圏に入れることを意味する。港市保護のための徴税権を行使できるとともに、海外の優れた産物を優先的に買い入れることと、武器の購入、就中《なかんずく》、近年製造が盛んとなった堺の鉄砲・火薬類の入手に至便なことなど、その利は計り知れない。
――さすがに信長、すばらしいところに目をつけた。
当時の大名や京都朝廷にはあり得ない経済に関する眼力の鋭さは、瞠目に値する。
更に信長は、草津と大津の代官設置を望んだ。
東山道(後の中山道)と東海道が分かれるのが、草津である。両街道を扼《やく》することの軍事的意義は大きく、また近畿・西国と東国との物資の陸送に制限を加えられるほかに、人の通行、物資の通過に関銭《せきせん》を課する経済的利点がある。
問題は、大津の代官設置の狙いである。藤孝は苦慮に苦慮を重ねた。
その末に、漸《ようや》く思い当った。
――そうか、舟運(船舶輸送)か。
馬の背を借りる陸送には、きつい制限がある。重量の大なる物、容積の大きい物の輸送は困難を極める。だが舟運は大量の物資と多人数の兵員を一時に運べる。それも少人数の水夫《かこ》、船頭の働きで、昼夜兼行の輸送が可能である。
これまで、日本最大の広さを持つ琵琶湖の利用は漁業が主であり、湖上舟運は小舟による短距離に限られていた。それもうち続く戦乱で国々が対立抗争の状態になると、落武者や流民・浮浪の跋扈《ばつこ》で湖賊が跳梁《ちようりよう》し、舟運途絶の状態となり果てていた。
それが、美濃に本拠を構える信長が京都を制圧すると、様相が一変した。
信長は、美濃と京都を結ぶ湖南回廊の兵站《へいたん》線の確保に努めるうちに、江北今浜(後の長浜)と大津を結ぶ航路に着目したのであろう。
大型・中型船舶による航路が開拓されれば、京への兵員急送は容易となり、将来湖北にまで伸張すれば、北陸と京畿の間の物資流通は計り知れぬ利を生むに違いない。
――これまで、軍事戦略に優れた人物は、数知れぬほど輩出したが、経済に関する智略の人物は例を見なかった……。
藤孝は、感嘆を通り越して、深淵を覗く恐怖すら感ずる思いにとらわれた。
――この先、信長の目指すものは何か?
思いがそこまで廻《めぐ》ると、藤孝は慄然とした。
――ただの杞憂《きゆう》かも知れぬが……公方が、世に罷《まか》り通る目はないのでは……?
その冷えた心の奥底では、公方義昭の身の上までが、些事に過ぎぬような気がした。
信長の身辺には、吉事と煩縟《はんじよく》の事が相次いだ。
十月二十二日に信長は参内《さんだい》し、弾正忠《だんじようのちゆう》の官職に補任《ぶにん》された。
弾正忠というのは、律令制の官職で、今でいう警察庁の長官であろうか、もちろん形式上のものである。だが従来信長が称した上総介は私称だから、これより織田弾正忠信長が、正式の名乗りとなる。
参内を終った信長は、細川藤孝の屋敷に招かれた。任官の祝賀の宴を催した義昭が、将軍宣下の吉例として、十三番の能興行を挙行するという。
信長は、断乎《だんこ》反対した。
「これで弓矢の争乱がおさまったとは考えられませぬ。五番で充分にござる」
強硬な信長の態度に、義昭は服した。だがうわついた気持は抑えられない。
興行中、四番「道成寺」に至ると、義昭は、信長の気持を逆撫《さかな》でするようなことを言い出した。
「弾正忠に、鼓《つづみ》を所望したい」
信長が好んだ幸若舞《こうわかまい》は有名である。「敦盛《あつもり》」の一節、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。ひとたび生を稟《う》け、滅せぬもののあるべきか……云々」
は、単なる愛唱歌ではない。信長の心に秘めた人生観であった。
軽躁な男の酒宴の座興に供すべきものではない。
強く固辞する信長に、自ら酌をするほど義昭の上調子《うわちようし》はとまらなかった。呆れ果てた信長は、耐えかねて席を立ってしまった。
その二日後、信長は突然義昭に帰国を通告し、翌日、軍をまとめて、岐阜への帰路についた。上洛からわずか一ヵ月余である。
仰天した義昭は、悲鳴をあげたという。
信長には、義昭はともあれ、掌中にした京を捨てる気はない。尾張から呼び寄せた丹羽長秀を長に、総勢五千の将兵を残した。
それらの軍勢は、京の南から東西にかけての要衝に陣を布き、敵の来襲に備えた。京にあるのは市中警固の明智勢だけである。
「あの小才子をあやしておけ」
義昭の意である。信長は、さすがに阿呆とは呼ばない。
――そのあたりに、まだ救いがある。
光秀は、内心そう評していた。
年明けて永禄十二年(一五六九)正月四日。
満を持していた三好勢が京に来襲した。総勢一万余。三好|政康《まさやす》、三好|長逸《ながゆき》、岩成主税助の三好三人衆に、斎藤|龍興《たつおき》、長井隼人が加わっている。
三好勢はまず、義昭の排除を目指した。そのために凝りに凝った戦法を展開した。
残留部隊は、信長が岐阜に帰城したあと、漸次《ぜんじ》占領地を拡大した。その頃の信長の家臣は、まだ功名手柄に奔《はし》る旧来の慣習を抜けきっていない。山城一円、摂津芥川、摂津池田から、遠く堺にまで進出した。また東方の湖南回廊の確保に、大津に兵を出していた。
各地に散ったそれらの部隊に、三好長逸は五千の兵を割き、盛んに蠢動《しゆんどう》させて牽制《けんせい》する一方、残りの兵を率いて京の町へ突入した。
三好勢は、京の地理を熟知している。さしたる妨害も受けず、夜陰に乗じ義昭の仮御所本圀寺に到達した。あざやかな戦巧者ぶりである。
急を知った光秀は、二百の手勢を率いて本圀寺へ急行した。残りの三百は市中警固に散っている。その取り纏《まと》めを弥平次秀満に命じ、策を施した。
本圀寺の義昭は、うろたえまくっていた。
「ご安堵めされよ。いっとき支えれば近くの織田勢が駆けつけます。四、五日のうちには岐阜より援軍が到着しましょう」
「そ、それまで支えきれるか」
「この十兵衛光秀がお側にあれば」
光秀は門扉を閉ざし、寺を囲む濠《ほり》の橋を悉く落し防戦の準備をととのえた。
さらに手だれの銃士二十名と共に、物見|櫓《やぐら》に登った。
――いる、いる。侮《あなど》れぬ兵力だ。
本圀寺の東の寺域はさして広くない。真下に見える濠外の道に、みるみる三好勢がひしめきあった。
「まだ射つなよ。雑兵どもには目を掛けるな。狙うは騎馬武者ぞ、狙って合図を待て」
三好勢は、篝火《かがりび》や松明《たいまつ》を焚《た》き、近くの荒屋《あばらや》を打ち壊しにかかった。その残骸をどんどん濠に投げこむ。徒渉《としよう》する目算と見えた。
と、近くの暗い路地裏に、点々と火縄の灯影が動き始め、数を増した。その一つが弧を描いた。
――弥平次め、漸《ようや》く間に合ったわ。
光秀は、連射を命じた。
拳上《こぶしあ》がりの狙撃に、指揮する騎馬の将は次々と落馬する。たじろいだ歩卒が後退すると、路地にひそんだ弥平次秀満の士卒が、斉射とともに突入し、荒れ狂った。こうなると数の問題ではなかった。
三好勢は、部将の多くを討たれ、ひとまず退《ひ》いた。
「ようやった。さすがに光秀、あっぱれである」
義昭は狂喜したが、光秀は素直に喜べない。
――再度数を恃《たの》みに来襲したら、次は防ぎきれまい。
信長がいう通り、戦に数は絶対的である。
暁闇の頃、本圀寺に駆けつけた軍勢がある。
敵か? と見たら味方であった。勝龍寺城から急行してきた細川藤孝とその兵千五百である。
――助かった。
見ると藤孝勢の背後に、濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》があがった。三好勢の再攻撃であった。
「攻めよ」
光秀勢五百が唐門の門扉を開いて突出した。
藤孝勢は、背後に迫った三好勢に、とって返して攻撃に移った。光秀勢は二手に分れ、左右の側面から三好勢に斬り込んだ。
たまらず三好勢は潰走《かいそう》した。
「光秀殿、御無事か」
藤孝は、兜《かぶと》をぬいで笑顔を向けた。
「早速の援軍かたじけない」
光秀は、馬を寄せ、下りて一礼した。
「礼をいうのはこなたの方だ。公方様を助けて貰うた」
藤孝は、寄って掌を握った。
六日、急を知った信長が、軍勢の整うのを待たず、一騎駆けに岐阜を発し、後を追った軍勢に先んじて京へ到着したのは正月八日の未明である。
信長は、軍功目覚しい光秀を、兵団の長に昇格させた。破格の登用である。
信長が岐阜を発する時、あたりは前夜来の吹雪であった。悪天候の中、実質二日間での上洛は記録的である。それにはかねて佐和山《さわやま》の湖岸に用意した数百艘の軽舟が役立った。
信長の天才的頭脳に、機動軍団の構想が湧いた。
京都制圧後の信長には、難問が山積した。
その一つは、領土問題である。
当時の戦国大名の願望は、唯一領土の拡張であった。武田晴信(信玄)然《しか》り、上杉景虎(謙信)然り、奥州の雄という伊達輝宗《だててるむね》、筑紫《つくし》の大友|宗麟《そうりん》も同様である。戦国時代百年の戦乱はすべて領土拡張戦争であったといっていい。
信長は、一族の覇権争いのなかに育ち、おのれの自立のため、尾張統一戦を戦った。次いで織田家の存在確立のため、美濃の併呑を念願し、それを果し得た。
以後の信長は、領土の拡張に、さしてこだわりを持たなくなった。天下布武を国内に宣明したが、それは領土欲であったとは断じ難い。
その証拠に、同盟を固く守り、相手方にもそれを強《し》いたが、併呑を考えたことはない。三河の徳川家康にも、北近江の浅井長政にも、それは変らない。後に浅井家を潰すが、それは相手が背叛《はいはん》したからである。稀代《きたい》の悪と認めていながら、松永弾正久秀に対しても、領地を奪おうとはしなかった。
上洛戦のときから、信長の戦争目的は一貫している。
――おれにまつろわぬ者を討つ。
それが、信長のいう天下布武である。
何に、まつろえというのか。それは信長が終生求め続けた新しい世の中≠ナある。旧来の陋習《ろうしゆう》を悉く打破・消滅した新しい世、新しい秩序、その具体的な姿は、信長の胸中に秘められたまま消え、今に残っていない。もちろん、信長が上洛戦以後、数々の困難に遭遇するたび、その構想は発展し、変化し、熟成していったであろう。それが後世に伝わらなかったのは、返す返すも惜しい事であった。
ともあれ、まつろわぬ者と戦い、勝てば必然的に領地、いや勢力圏は増えた。拡張欲がないからといって放棄すればまた背《そむ》く。賽《さい》の河原の石積みになる。勢力圏は確保しなければならない。
そこで次の難問に逢着する。新付の領地を守るため、兵を募《つの》らなければならない。その兵の忠誠心はあてにならない。本国から将兵を派遣しなければならない。必然的に兵力は不足する。
炯眼《けいがん》の信長は、傭兵による常備兵力を持った。部将も氏素性を問わず、実力本位で抜擢《ばつてき》登用した。それでも新付の地を守るため常駐させると、本国が空になる。
そこで機動軍団を発想した。部将級で五百から一千、兵団長級で二、三千の手持ちの兵を占領地におく。急変が起れば信長が数万の機動兵力を率い、疾風迅雷駆け付けて敵を叩く。戦終れば機動軍団は、次の地に移動・転進する。
信長の機動軍団は、東奔西走、常に敵に倍する兵力で戦に勝利した。
永禄十二年初頭の三好勢の反攻は潰え、以後の京都奪回は不可能視されるに至った。
光秀は、実質上、京都駐留軍の司令官格に昇進した。光秀にそれを告げるとき、当の光秀以上に喜んでいたのは、信長自身であった。
――よき人材を掘りあてた。
信長には譜代《ふだい》・新規の家臣が山ほどもいる。柴田勝家・丹羽長秀ら重臣は別としても、武者働き抜群とみて母衣《ほろ》衆に抜擢した佐々成政《さつさなりまさ》・前田|利家《としいえ》・生駒勝介《いこましようすけ》・蜂屋頼隆《はちやよりたか》。馬廻の池田|恒興《つねおき》・伊藤彦兵衛・湯浅甚助・道家《どうけ》清十郎。美濃衆には竹中|重治《しげはる》・金森長近《かなもりながちか》・不破光治《ふわみつはる》等々が功を競っている。
その中にあっても、明智光秀は確かに異能の人物であった。
周辺を山に囲繞《いによう》された京洛の地は、守るに難く攻めるに易い。殊《こと》に奇襲を避け難い。
信長は、より防備の堅固な将軍居館を造る必要を感じた。見立てた場所は、今は空き地となっている勘解由小路室町《かでのこうじむろまち》の「二条ノ御所」である。十三代将軍義輝は、この場所で三好・松永輩に討たれた。
公方屋敷の造営を決定した信長は、村井貞勝と嶋田所之助を御大工奉行に任じ、一言だけ命じた。
「能《あた》う限り急げ」
信長の命令は絶対的だった。五畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)はもとより、東は尾張、西は播磨《はりま》に至る各地から大量の職人・工人が集められた。三好三人衆の来襲から一月も経たぬ二月二日には、早くも御鍬初《おくわはじ》めが行われるという慌ただしさであった。
作事用の建物は、旧小牧山城の古材を使った。新館の建造木材には、隣国近在の材木を、費えを惜しまず集めて用いた。また、洛中洛外の石を集めて石垣を積み上げ、足らざる分は他人の屋敷の庭石まで徴集した。無茶苦茶な急ぎようであった。
この時期、信長は荒廃の著しい内裏《だいり》の大修復にも着手している。将軍館と同様、村井貞勝を奉行に任命し、朝山日乗《あさやまにちじよう》を補佐にした。この作事は急がせることなく、むしろ質の面で高い水準を求めた。工事の開始は四月頃と伝わっており、完成は翌々年の元亀二年十月、二年半を要した。
信長は、二つの大工事を同時に行う労苦より、天子と将軍の守護者となることによって、「信長革命」に対する天下の信を確定することを目指した。都における二大普請が、天下の平定を示すのに最適の象徴であると考えたようだ。
義昭を擁して上洛を果した信長は、逸早く将軍より上位の最高権威者、天子と朝廷の存在を感得し、その最も効果的な政治利用の手段を見出しつつあった。つい先頃まで、尾張の田舎大名に過ぎなかったとは思えぬ、政治感覚の鋭敏さである。
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蜀犬《しよくけん》日に吠《ほ》ゆ
京都、という都市には、王城の地という実質の条件によって、天下を統《す》べる地、という概念が存在する。
各地に割拠する大名や豪族は、絶え間なく領地拡張のための戦《いくさ》を起す。その戦は相手方の支配者を倒せば事足りる。領民は支配者が交替しても何ら変ることはない。ただ黙って服するだけである。
だが、王城の民は容易に靡《なび》かない。覇者の交替を冷やかに見て、力量をはかり、辛辣《しんらつ》に評する。その評言は近隣から遠国に伝わり、将来の予言となってゆく。
むかし、信州の山奥から出て京を制した木曾|義仲《よしなか》は、兵の統制を放置して民衆の支持を失った。流布される評言・予言は怖い。未見の大名・豪族の服従・背叛《はいはん》はそれによって起る。
人気というのはそういう力がある。
幼時、うつけもの≠ニいう蔑視《べつし》をうけながら、父の領内を彷徨《ほうこう》し奇行に奔《はし》った信長は、人気の潜在力を肌身で感得していた。
――兵は、厳たるべし。
信長は、自軍の軍紀にひどく厳しかった。
――美しからざる行為は、厳罰に処す。
異常なほどの美意識である。
信長には、自負がある。徴募であれ雇傭であれ、士卒には充分な報酬を払っている。分を越えた働きには、登用・昇進の途も開いてある。木下藤吉郎がそのよい例である。
傭兵が主力であるだけに軍律は厳格でなければならなかった。
――織田殿は、峻厳《しゆんげん》。
京の市中に噂がひろまった。
それで信長の人気が騰《あが》ったかというと、そうではない。暫《しばら》くして落首があった。
(長らえば、またこの頃や偲《しの》ばれん、憂《う》しと見し世ぞ、今は恋しき)
という古歌をもじった狂歌である。
(長らえば、またこの頃や偲ばれん、憂しとみよし[#「みよし」に傍点]ぞ、今は恋しき)
見し世を三好にかけている。
以前、京に勢威を保った三好党は、人の口の端《は》を恐れて、市政に干渉しなかった。そのため強盗・押し借り・物乞いが横行したが、市民は法制に縛られず暮せた。信長が上洛すると治安はよくなったが、窮屈でやりきれない、というのである。
そうと悟ったのは、信長だけである。木強漢《ぼつきようかん》の部将や、世間知らずの義昭《よしあき》には、その呼吸がわからない。
――難しいところだ。
初めて、天下というものを実感した信長は、案外素直だった。
弛《ゆる》めれば、野放図に奔る。締めれば反感をつのらせる。町民は、将士・軍兵以上に厄介だった。
そう考えるあたりが、信長の天才たる所以《ゆえん》であろう。侍は武を以《もつ》て制することができるが、世の中は侍以外の民衆で構成されている。
信長に欠けているのは、人気であった。
人気、というものに、まったく関心のない人間がいる。足利十五代将軍義昭である。
世人は、単身三好・松永|輩《はい》の軍勢と戦い、壮烈な斬り死にを遂げた十三代将軍|義輝《よしてる》の悲劇を忘れていない。義昭はその義輝の実弟である。勇壮であった兄義輝に比し、館ひとつ自分で建てられない情けなさ、と軽侮した。
義昭も、その側近も、そうした流言に無関心だった。信長の公方《くぼう》館の建築を当然と考え、感謝の念もなかった。
――あれも武家の端くれ、将軍家に尽すは当然の義務である。
そんな論理は百年も前に滅び去っている。応仁の乱以来、世は下剋上《げこくじよう》が当り前となり、将軍に尽す義務など通用しなくなった。
その時流を認めまいと、義昭とその側近は固執した。認めたら負けである。おのれらの存在価値が消滅する。無意識に自己保存の本能が働いていた。
義昭は、退屈した。信長が勝手に指図して造っている館など見ても始まらない。出来《しゆつたい》したら受け取るだけである。
「お暇なら、鷹狩でもなされましてはいかが」
連絡に伺候する光秀がそう勧めたが、幼少の頃に出家した義昭には、武張った趣味はない。毎日、為す術《すべ》なく暮しているだけである。
人の運というのは、一種類ではない。出世運、名誉・名声運、財物・金運、肉親運、知己・友人運、仕事運、家庭・夫婦運等々、分類の仕方で数限りない。
その運を一つも持たないという人間はいない。浮浪者となっても僥倖《ぎようこう》があるから食物にありつける。すべての運に見放されたら死ぬしかない。
逆に、すべての運を併《あわ》せ持つ者もいない。運は往々にして相剋《そうこく》する。仕事運に恵まれれば家庭運を損なう。金運と名声運は両立が難しい。
足利義昭は、僥倖に恵まれていたというべきだろう。兄義輝が足利家正統を継いだため、名家の常として相続争いの根を断つべく、義昭(当時・覚慶《かくけい》)は奈良|一乗院《いちじよういん》の門跡に、その弟|周ロ《しゆうこう》は京都|鹿苑寺《ろくおんじ》(通称・金閣寺)の院主として、ともに出家させられた。義昭は弟の周ロを羨んだものである。京の金閣寺ならまだしも、奈良は遠い。それが僥倖を齎《もたら》した。逆臣三好・松永らの手勢が間に合わず、単身駆け付けた細川藤孝に救い出され、近江・若狭《わかさ》・越前を流竄《るざん》した末、織田信長の庇護《ひご》を得て上洛を果し、晴れて将軍位に就いた。
だが、義昭に武家の棟梁たる将軍の権威が維持できるのだろうか。
一日、光秀は京の西郊山崎にほど近い勝龍寺《しようりゆうじ》城に細川藤孝を訪れ、近況を話し合った。
話柄《わへい》は自然、義昭に対する愚痴となった。
「どうしたものか……手に余る」
藤孝には出生の秘密がある。
その秘密を固く洩らさぬ藤孝としては、義昭のことをそうとしか言いようがなかった。
藤孝は、光秀の訴えをよそに話柄を転じた。
「ときに、公方館の作事はどうかな」
藤孝は、小城ながら以前の居城を与えられ、信長の外様《とざま》大名格になっている。公方館の造営は信長の手一つで施行されているため、人手も費用も出していない。
「それがもう、ふた月六十日で仕上げよとのきびしいお申し付けで、何もかも大あわての有様で……」
とはいうものの、光秀の顔が輝いている。信長の人使いの妙がうかがえる。
「ほう、それは凄《すさ》まじい急ぎようだな」
「なにせ、石垣の足らざるに、寺々の敷石や公家屋敷の庭石を剥ぎとって充《あ》てる始末で……慈照寺《じしようじ》(銀閣寺)の庭石がみごとと聞けば、それを召して来よと仰せ出されましてな……」
聞くうち、藤孝の胸中に不安が兆した。
――何か、わしも馳走《ちそう》せぬと機嫌を損ずるおそれがある。かの御人の気に入る物はないか。
藤孝は、その翌日、東福寺《とうふくじ》に本営を構える信長の許《もと》へ伺候した。
時刻を計っていた。信長が昼餉《ひるげ》を済ませ、公方館の作事場へ出向く直前である。
「忙しい。用向きがあるなら言え」
信長は、例によって短兵急である。
「銀閣の九山八海《くさんはつかい》≠ニ申しますは名石にござるが、豪壮の趣《おもむき》に欠けまする」
「ふむ」
信長は、出端《ではな》を挫《くじ》かれたように押し黙った。
「で、なんだ」
「てまえの勘解由小路《かでのこうじ》の旧邸に、藤戸石《ふじといし》≠ニ申す格好の大石がござります。献上|仕《つかまつ》りたい」
「よし、見よう」
信長は藤孝と馬を連ねて、藤孝の昔ながらの屋敷へ出向いた。
その庭に、青々と苔《こけ》むした巨大な庭石がある。
信長は、巌岨《がんそ》たる大石を、ぐるぐると廻って見た。
「貰おう」
常人なら、どうやって運ぶか頭を悩ますところである。だが、信長の思考は違っていた。
どれ程の大石でも、それに見合う人手を集めれば事足りる。それより世にも稀《まれ》な大石を運ぶことで、京の町を沸きたたせようと考えた。
――祭りだ。絶えて久しい祭りを催してやる。
信長は、綾錦《あやにしき》で大石を包み花で飾った。これに太綱を巻きつかせ、転棒《ころぼう》を噛《か》ませて、厚板を敷いた道路に曳《ひ》き出した。
曳き手は美々しい甲冑《かつちゆう》姿の将士である。
大石の上で扇を振りかざした信長は、集った町民に大音声《だいおんじよう》で呼びかけた。
「新しい公方殿への進物じゃ。手を貸せ。祝儀をとらすぞ、曳けや、曳け」
更に、笛や太鼓、鼓《つづみ》の芸人を集めて囃《はや》し立てた。
この前代未聞の石運びは、洛中洛外から集った見物衆で怪我人が出るほどの混雑を呈した。
――ばかなことを。
そう思ったのは柴田・丹羽の譜代《ふだい》の部将たちである。光秀もそう思った。
驚嘆したのは、この一挙を言い出した藤孝である。京で生れ育った藤孝は、排他的で支配者に冷淡な京都の人間が、いかに扱いにくいかを熟知している。
その京都人が浮かれ囃している。
――さすがは織田様じゃ、このお方の力で天下が治まるかも知れぬ。
信長の人気は、俄然沸騰した。
(では、新公方はどうなるだろう)
信長は、無類の忙しさであった。
摂津《せつつ》・河内《かわち》に蠢動《しゆんどう》する三好勢力の一掃に、信長の軍は東奔西走した。応仁の乱以来、京畿《けいき》の地に盤踞《ばんきよ》した旧足利の家臣団の勢力は根強く、草の根を一本一本引き抜くような掃討戦を、根気強く実施しなければならなかった。
一方、北伊勢から中伊勢にかけての北畠《きたばたけ》勢力も、ばかにはならない。この方は三好勢よりもっと古い、南北朝以来の勢力である。
――こうした旧勢力を根絶やしにしなければ、新しい秩序は生れない。
おそろしく気短な信長は、一面稀にみる根気と辛抱強さを持っている。
伊勢方面軍の司令官を命ぜられた滝川|一益《かずます》は、元近江浪人という素性に似ず、懸命に働いたが、それにも限度はある。連戦連勝という訳にはゆかない。殊《こと》に大《お》河内《かわち》城に籠《こも》った国司北畠|具教《とものり》は、剣技を剣聖塚原|卜伝《ぼくでん》に学び奥義《おうぎ》を極めたほどの武人で、頑強そのものだった。
信長は大至急で公方館の建造を進める傍《かたわ》ら、その繁忙のなかで、何度となく北伊勢に急行し、策を練り時には陣頭指揮した。
信長は、超人的な働きを示した。公方館の建造が半ばに達した三月一日、撰銭《えりぜに》令を発した。
物々交換から貨幣経済に移行して久しい。だが肝心の通貨が雑多で統一性が無かった。唐・宋・元から渡来した古銭。わが国で鋳造した皇朝十二銭、近年渡来の明の洪武銭《こうぶせん》・永楽銭・宣徳銭。それらに模造の古銭・新銭がまじる。なかには摩耗していずれともわからぬ鐚銭《びたせん》も、いまだに用いられている。
信長は、英断をもって良貨と悪貨の交換比率を定め、流通の法則を規定し、金銀貨は高額商品の売買に、銭貨は価格の廉価な日用必需品に用いるよう定めた。
注目すべきことは、信長が京を制圧し、確保したこの時期に至っても、自己による天下統一政権の樹立という大看板を掲げてはいない点である。撰銭令というのは、あくまで自己の考え――統制なき貨幣経済の不便と不合理の是正――を制定しようというものである。それは法制度の施行というより、普遍性を目的としたものだった。
そのあらわれは、二ヵ条の付帯条項である。
「ことを精銭によせ、諸物価を高直《こうじき》になすべからざること」
精銭を理由に、諸物価を高値にするな、というのである。
「陳列棚の商品を、撰銭令以降多少でも撤去(売り惜しみ)した者は、信長の分国中の商業を永久に禁止する」
厳しさも一入《ひとしお》だが、信長の領国内と限っているところがおもしろい。あくまでも現実主義であり、誇大な未来展望を掲げていない。
その信長を、多くの者が見誤った。
信長を見誤らなかったのは、極く少数の者だけであった。細川藤孝・明智光秀・木下藤吉郎ぐらいか。その者ですら信長の思考と、その真価をすべて把握したとはいえない。ただ常人とは卓絶した一面を垣間見《かいまみ》た程度であった。
直《じか》に戦った六角承禎《ろつかくじようてい》・三好|義継《よしつぐ》・松永久秀らも、信長が時代を引っ繰り返すほどの人物とは見なかった。せいぜい備前《びぜん》の宇喜多直家《うきたなおいえ》か土佐の長宗我部元親《ちようそかべもとちか》、今は亡き美濃《みの》の斎藤|道三《どうさん》ほどの梟雄《きようゆう》で、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、中国の毛利|元就《もとなり》には遠く及ばず、やがては高転《たかころ》びに仰向《あおむ》けに倒れると思っていた。四年後の天正元年(一五七三)、京にいて信長を傍観していた安国寺恵瓊《あんこくじえけい》が、四、五年のうちに信長が倒れることを予言し、藤吉郎秀吉を「さりとはの者」と評したことで、予言者の名を高めたが、信長を知らざること甚だしい。時代の転回を見抜けぬ凡僧に過ぎない。
安国寺恵瓊ほどの客観性も持たない朝倉|義景《よしかげ》や、同盟者である浅井|久政《ひさまさ》・長政《ながまさ》父子も同様であり、最たる愚見の持ち主は足利義昭である。彼は信長を三好・松永・六角程度の者としか見なかった。
その義昭は、側室を得た。名はさこの方≠ニいう。さる地方大名の息女である。家柄にふさわしく臈《ろう》たけた美貌の気品溢れる乙女であった。
義昭が、側室を手に入れたのは、おのれの才覚ではない。
堺の会合衆《えごうしゆう》からの献上であった。
室町期、納屋《なや》、すなわち海岸に倉庫を有する豪商を、納屋衆と呼んだ。日本の海外貿易の大半を独占する堺では、時の朝廷や幕府に莫大な金品を献上して、「守護不入」の自治権を獲得すると、百数十人の納屋衆の中から豪商三十六名の会合衆と称する合議政体を作って、商権の独立拡大と、傭兵による警護組織、局外中立の隊商派遣など、独自の政治力を発揮した。
昨今、不祥事の際、商人道を称呼《しようこ》して商業道徳を誇示する者があった。わが国には何かというと「道」を称《とな》える者が多いが、その粗製乱造は無学の証明でしかない。商人道などというものはない。商人は社会性の埒外《らちがい》に身をおき、機に乗じて変化に応じ、利益の追求に専念するのが本来の生き方である。堺に特権を与えた室町幕府の威権がおとろえると、すかさず威権を簒奪《さんだつ》した三好・松永輩に取り入り、軍資金を貢いで商権の確保に努めた。
その三好・松永輩は、突如あらわれた織田信長という新興勢力により、都を追われ、僧侶出の足利義昭が十五代将軍の宣下《せんげ》を受けて京に居坐った。
堺は、阿波の本国に後退した三好勢の回復に期待し、ひそかに援助した。
――出来星《できぼし》大名の信長に、何ほどの経綸《けいりん》やある。
堺は、信長を見誤った。越前朝倉より遥かに下位であり、近江六角・大和筒井程度の勢力とみた。
三好勢一万が京都奪回に失敗すると、堺会合衆は新将軍足利義昭に祝賀の使者を送った。会合衆を代表する今井|宗久《そうきゆう》・津田|宗及《そうぎゆう》・千宗易《せんのそうえき》の三名である。三名とも侘《わ》び茶の道をおしすすめ、茶の湯の道を開いた武野紹鴎《たけのじようおう》の高弟であり、京都朝廷|正親町《おおぎまち》天皇の愛顧を受けていたためである。
三名は、まず義昭に進物を贈った。
――新たな支配者には、まずその欲する餌をくらわせて、人間の出来不出来と、欲の程度を測ってみる。
堺の処世術は、狡猾《こうかつ》の一語に尽きる。新将軍義昭は側室を贈られて、手もなく籠絡《ろうらく》された。
次いで信長に謁した今井宗久らは、名物松島の壺、紹鴎|茄子《なす》を献上して機嫌を伺った。
松島の壺は、大小の突起が無数にある葉茶壺で松島の景観に准《なぞら》え銘された。紹鴎茄子は宗易らの師紹鴎愛蔵の茶入。共に天下無二の大名物《おおめいぶつ》である。
前《さき》に上洛を果した信長は、唐物《からもの》の名物を大量に買上げた。信長は茶の湯に耽溺《たんでき》していると見た。それは、足利将軍にとって仇敵の松永久秀が銘器つくもがみ[#「つくもがみ」に傍点]を献上した事で降伏を許し、軍勢を貸して大和平定を命じたことであきらかである。
信長は、贈られた銘器を無雑作におさめたあと、今井宗久ら三名に問いかけた。
「昨年、公方殿上洛を果したあと、上方に三ヵ所、代官所を設ける許しを得た。大津・草津・堺である。堺には村井|貞勝《さだかつ》を差し向けた。会うたか」
村井|民部丞《みんぶのじよう》貞勝、信長譜代の将で、能吏として名高い。今は皇居修復の奉行をつとめ京都所司代を兼ねている。脛《すね》に傷持つ三名は顔色を変えた。返事は千宗易が代って答えた。
「その節、矢銭《やせん》(軍用金)二万貫と鉄砲五百挺の献上方を承りました。秋口から年末にかけて物入り多く、取りあえず矢銭三千貫、鉄砲二百挺を調達仕りました。残りは遠からずお納めできるかと存じます」
「物入りとは、正月の三好勢京攻めのための援助であろう。長年の恩顧に報ゆるその心掛け、殊勝である。われらは堺に格別の恩を施すつもりはないが、われらにもそうあって欲しいものだ」
信長は、おだやかな笑顔である。こういう時は怒ってくれる方がいい。三名はあぶら汗を流した。
「そこで、矢銭を今一度二万貫申し付ける。鉄砲は千五百挺。昨年未納の分と合せて、早急に差し出《いだ》せ」
三名は色を失った。信長は辞色《じしよく》を改めて言った。
「もしも再び背くときは、数万の軍勢を繰り出し、堺の町を跡形なく焼き払い、老若男女の差なく一人残らず斬り捨てる。堺は大事な港町と思うな。代りはいくらも造ってみせる。さよう心得よ」
堺の代表三名は、一議なく屈伏した。信長の言葉に掛け値のないことを覚ったのである。
信長は、堺を消滅させた後、自領の尾張か、もしくは目下攻撃中の伊勢四日市・桑名に貿易港を造ったであろう。新兵器鉄砲の生産地を他に移すことは易々《いい》たるものであったに違いない。
――これは成吉思汗《ジンギスカン》の再来だ、新将軍義昭などとは桁《けた》が違う。
海外事情に通暁している今井宗久らは、そう感じ取ったに違いない。
堺の代表に厳命を下した信長は、間髪を入れず、京都朝廷と新将軍義昭に通告した。
「御暇乞《おいとまごい》にござる」
公方館が完成して、まだ旬日を経ない、永禄十二年四月二十一日のことである。
「御父は相も変らず気忙《きぜわ》しいことよのう。この館についても、いろいろと申し入れたき条々があるのだが……」
閨房惚《ねやぼ》けの義昭は、脳天気なことをいう。
「伊勢を平定する所存」
北伊勢の神戸《かんべ》氏には、三男三七|信孝《のぶたか》を養子に入れて懐柔したが、伊勢国司北畠具教は頑強に抵抗を続けている。信長は七万の大軍を動員した。
義昭は、粟田口《あわたぐち》を去る信長を涙で見送った。
義昭が涙して信長を見送ったのは、哀惜の情ではない。信長が機動軍団を率いて去ったあと、再び京畿の防備が手薄となるのを怖れたためである。
京都朝廷も、その危惧《きぐ》を持った。
――信長不在の間、誰が京畿一円を守るのか。
近い例がこの年正月にあった。三好勢の京都回復戦である。明智光秀の勇戦と、信長の疾風の上洛で事なきを得たが、総司令官の不在は危機感が大きい。
当り前なら義昭直臣の細川藤孝か、和田|惟政《これまさ》であろう。だが信長は藤孝に勝龍寺城と旧領を、和田伊賀守惟政には、摂津|高槻《たかつき》城と所領を授け、織田家の外様大名とした。新将軍義昭に直轄兵力を持たせぬ巧妙な策略であったが、外様に直領の京都を委《ゆだ》ねるのは筋道に外れる。京畿に散在する信長家臣団が反発するだろう。指揮系統の乱れは戦略の忌《い》むところである。
それでは、丹羽長秀など、旧来の家臣団の一人ではどうであろうか。兵団長として、京の防衛には適している。だが信長は、彼らが政治力に乏しいことを懼《おそ》れた。朝廷の政略、将軍とその側近の容喙《ようかい》など、たとえ軍勢の駆け引きに優れていても、それだけでは御しきれない複雑怪奇な政治の動きが、京には蠢《うごめ》いている。よほど鋭敏な政治感覚と、咄嗟《とつさ》の機略が無いと、そうした魑魅魍魎《ちみもうりよう》の渦に呑み込まれかねない。
京の勢力、朝廷や義昭は、明智光秀を期待した。光秀は京都警固の部隊長に過ぎないが、正月の三好勢の来襲に際しては、臨時に方面軍の指揮をとって誤りなかった。政治感覚や調停能力にも長《た》けている。義昭と信長を繋ぐに格好の人物である。
だが、信長は肯《がえん》じなかった。光秀は新参の家臣であり、外様と同様にしか見られていない。旧来の家臣団の反発が予想される。それに何より、外部からの人事権への容喙は、指揮権への重大な侵害行為である。
信長の人事は意表を衝《つ》いた。木下藤吉郎を、代理司令官に任命した。
信長は、藤吉郎を自分と同様に扱えと、朝廷や義昭に通告した。驚いたのは朝廷と義昭である。
――浮浪からの成り上がり、無智無学。氏素性も定かならぬ者に格式・慣例きびしい京の代官が務まるか。
信長が、藤吉郎に申し付けたのは、ただの一ヵ条であった。
(事の円滑を心掛けよ。ただよく威権を維持すべし)
この一件から外された光秀は、おもしろくなく思ったに違いない。
信長にとって初期の戦歴に属する伊勢征伐は、華やかなものではない。むしろくすんだ色合いさえ感じられる。
それだけ苦戦であった。
伊勢は鎌倉時代、執権北条氏の直轄領であった。建武の中興ののち後醍醐《ごだいご》天皇は足利|尊氏《たかうじ》に敗れて吉野に蒙塵《もうじん》、南朝(吉野朝)を樹《た》てた。尊氏は光明《こうみよう》天皇を擁立して南北朝時代となる。
頽勢《たいせい》の南朝を支えた北畠|親房《ちかふさ》は南伊勢を制して南朝の拠点を確保した。親房と長男|顕家《あきいえ》は奥州に渡り、伊達《だて》・結城《ゆうき》氏らを味方にして南朝の勢力伸長に努めた。
後醍醐天皇はその功績を嘉《よみ》し、三男|顕能《あきよし》を伊勢国司に任命、以後北畠氏は代々国司を継ぎ、南北朝統一後も変らなかった。
伊勢は、北畠氏累代の麾下の家々が領した。その結束は戦国の世を経ても変らず、上方《かみがた》への交通・輸送路の打開を目指す信長に、果敢に抵抗した。信長は武略抜群の滝川一益を使って蚕食《さんしよく》に努める一方、三男信孝をはじめ親族の有能の若者を家々の養子として送りこみ、北伊勢の制圧を達成しつつあった。
だが、国司北畠家は、新興勢力の織田氏に激しく反発し、中伊勢大河内方面に防備を固め、七万の総兵力を呼号する信長に対し、一歩も退《ひ》かぬ気勢を示した。
この時代にあって奇妙なことだが、信長に領地拡張の野心があったとは考えられない。信長は、交通路の障害となる者を征伐したかったに違いない。
滝川一益には、高等政略は無理だった。あまりに手間どるので信長が繁忙の中を割いて出向いたが、さて手足となって使う配下の将がいない。
――やはり、藤吉郎か。
信長の優れた点は、方針変更に何のこだわりも持たぬことだった。
藤吉郎は、伊勢に急行し、信長の先駆けを務めた。阿坂《あさか》城を陥《おと》すと、諸軍と共に、北畠具教・具房《ともふさ》父子が立て籠る大河内城包囲戦に加わった。兵糧攻めで餓死者の出るのをきっかけに、得意の調略で北畠氏を説き、信長の次男|信雄《のぶかつ》を具房の養子とすることで降伏させた。
この時信長は、丹羽長秀、柴田勝家、中川秀政らを呼集しているので、京には光秀や村井貞勝、朝山日乗《あさやまにちじよう》らが残り、統治を行っていたようである。
京の光秀は、自意識過剰に悩んでいた。
前《さき》に、京都朝廷や将軍義昭は、信長の代官に光秀を期待した。それが木下藤吉郎であった事で、光秀は面目を失った。少なくとも光秀自身はそう思った。仮に丹羽長秀のような織田家生え抜きの者であったら、まだよかった。
一方、藤吉郎が光秀の立場だったら、気にもとめなかっただろう。藤吉郎にその種の悩みはない。
藤吉郎から引き継ぎをうけると、光秀は何より先に勘解由小路《かでのこうじ》の細川藤孝邸を訪れた。
京都朝廷や将軍家の扱いには、多くの有職故実《ゆうそくこじつ》・先例・慣習がある。光秀はかなり通暁しているつもりだが、常識の域を出ない。それには藤孝が頼みの綱だった。
それと、光秀自身の悩みも聞いて貰いたかった。光秀には信長の思考経路がまるで理解できない。まして信長が何を目指して目まぐるしく走り廻っているのかわからない。
加えて、光秀自身の評価がどれほどのものかも知りたかった。正月の三好攻勢における光秀の働きは抜群であったと、信長は戦功第一に挙げた。それが半年と経ぬ間に藤吉郎に見変えられたと感じた。
いつか光秀は、藤吉郎と競り合うことに取り憑《つ》かれていた。
細川邸には、先客があった。
「お手前方、顔見知りの間柄であろう。差し支えなければ相席で話し合おうではないか」
気さくな態度で部屋に入ってきた藤孝は、ふたりに声をかけた。
先客は、堺の千宗易であった。
「私めは一向に差し支えござりませぬ。明智殿はいかが」
光秀は、無言で頷《うなず》いた。
光秀の流浪の七年は、近畿の地が主であった。流浪の初め堺を訪れた光秀は、自治都市の堺に心惹かれたのであろう。その地に足をとどめること多く、そこを足場に大和、摂津、河内、山城、近江、遠くは播磨、備前と足を伸ばし、地勢や民情、土地の豪族、大名の勢力の伸長などを見聞して歩いた。
堺は、流浪の資金を得るのに至便な地であった。海外物産や鉄砲の類《たぐい》、南蛮鉄などの原材料を輸入した堺の豪商は、注文に応じ各地の豪族・大名にそれらを売り渡すため、隊商を組んで輸送した。堺は「守護不入」の特権を延長して、輸送隊の不可侵を各地の支配者から取りつけていたが、土匪《どひ》・野盗の類には及ばない。そのため、隊商警護の傭兵をその都度雇った。
主従の約を結ばない不定期の傭兵という職は、見聞の旅を続ける光秀にとっては好都合であったに違いない。その間、光秀は暇を得て、当時流行の茶の湯を学んだ。いずれ定まる主を持ったときの武士のたしなみとして、茶の湯は欠かせぬ教養であった。
明智光秀は隊商の雇われ警護の頃、千宗易と知り合った。
宗易は堺の商人で、後に正親町天皇から利休|居士《こじ》の号を授けられ、茶聖といわれた。
商人と茶の湯の関連を、簡略に述べたい。
鎌倉前期、禅僧|栄西《ようさい》が宋から持ち帰った抹茶は、当初、養生の仙薬として珍重されたが、茶の湯に用いる唐物具足《からものぐそく》(茶道具)が鎌倉武士にもて囃され、唐物数奇《からものすき》と異名をとるほど流行した。
南北朝から室町初期にかけて、闘茶《とうちや》と呼ばれる賭博《とばく》が流行した。本《ほん》(栂尾《とがのお》産の茶)非《ぴ》(他の産の茶)十種、四種十服などを飲みくらべて、賭けを争った。
足利三代|義満《よしみつ》の北山文化の頃、将軍室町邸の会所では、和歌・連歌の会で茶を喫するのが習わしとなった。やがて会所は独立して建造され、書院造りに茶道具を飾るようになり、殿中の茶の湯が盛んに催された。八代|義政《よしまさ》の頃、足利家代々の蒐集《しゆうしゆう》名宝が東山御物《ひがしやまぎよぶつ》と呼ばれ、東山文化の一端を担った。
その名物(名宝)を扱うのが、将軍に近侍する同朋衆《どうぼうしゆう》の役目である。同朋衆は法体《ほつたい》で阿弥《あみ》の名を称した。当時の三代三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)の名が、今も伝わる。
その能阿弥に師事して、目利《めき》き稽古の道を究め、また一休和尚に参禅して、草庵小座敷の侘び茶の開祖となったのが村田|珠光《しゆこう》である。亭主と客の交流、道具立てなどに深い精神性を追求する侘び茶は、乱世の武士から公家、庶民にまで普及し、京の町では座売り茶屋や担《にな》い売りの茶が、一服一銭で楽しまれた。
侘び茶の道を大成したのが、珠光の門人に茶を学んだ堺の豪商武野紹鴎である。和歌・連歌・古典を学び、参禅して茶禅一味を開拓し、古今の名人といわれた。今井宗久・津田宗及・千宗易は、いずれも紹鴎門下の逸材である。
堺で茶の湯が盛んとなり、商人から多くの茶人を輩出したのは茶の湯が利を生むためだった。茶の湯で珍重された唐物は、堺の商人の買付品である。その価格は彼らがつけた。もちろん美術品の値打はその品の芸術性にある。芸術性の有無・優劣は目利きの判断で左右される。それは唐物であれ和物であれ変らない。
堺の商人は目利きの権威であらねばならない。名品を入手すれば値は付け放題なのだ。そのため彼らは心血を注いで茶の湯の真髄を究め、目利き稽古に励んだ。
千宗易の幼名は与四郎。父与兵衛の史料は全くない。宗易が死の直前に残した財産処分状によれば、父から相続したのは物資の保管(倉庫)と輸送(隊商)の権利、塩魚を扱う座(組合権)、ほかに田地家屋敷、貸地などである。彼の自筆の偈《げ》によれば、祖父七回忌法要も満足に営めぬ程の貧であった。彼は家運を挽回するため魚の座を他人に貸し、専ら武器輸送と、先々での茶道指導、名物の売買で暮したらしい。
光秀との出会いは、そうしたさなかだった。
「あの夜は、ひどうござりましたな」
千宗易は、なつかしむ風情で言った。
京、勘解由小路室町の細川藤孝邸では、藤孝と宗易、光秀が、酒を酌み交しながら談笑している。
宗易は微笑《ほほえ》んでいる。四十八歳、当時としてはそろそろ高齢である。若年の頃から家運を挽回するため重ねた苦労が実って、面貌に年輪を加え、おだやかな気品となっている。
「覚えておる。伊賀道、柘植《つげ》の在でしたな。頼む宿は焼け失せていて、それに篠《しの》つく雨。ほとほと難渋致した」
六年前、永禄六年(一五六三)の秋の暮であった。光秀は産褥《さんじよく》の妻の看《み》とりに郎等《ろうどう》の弥平次秀満《やへいじひでみつ》を残し、宗易の求めに応じて尾張へ運ぶ荷駄の列の護衛に加わった。
柘植の山道で、伊賀の野伏《のぶ》せりの集団に襲われた。警護の雇われ浪人の大半が逃げ散る中で、光秀は奮戦し、残る警護を叱咤《しつた》指揮し、ようやく事なきを得た。
「奇《く》しき因縁でございますな。そのあなた様は、今は弾正忠(信長)様の、京の警固役を務められる。男子と桜は三日見ぬ間に見違えるほど変られます」
「それはみな……藤孝殿のお計らいの所為《せい》だ」
「そのような事はない」
藤孝は苦笑して口をはさんだ。光秀とは六歳年下、宗易とは十歳以上の違いだが、対等以上の気位がある。
「初め公方殿の名を借りて推挙したのはいかにもわしだが、あとは光秀殿の働きだ」
藤孝は、話頭を転じて続けた。
「奇しき因縁といえば、その頃、わしの妻も産褥にあって、初めての子を産んだ。与一郎《よいちろう》(忠興《ただおき》)だ。光秀殿のお娘御|玉子《たまこ》殿と同年になる」
「まだ、ござりまするよ」
宗易が言葉をつなぐ。
「尾張行きの荷は、弾正忠様の御注文の鉄砲で、それが役立ってあのお方様の今日がございます。世の中は広いようで狭うござりますな」
「その弾正忠様だが……そこもと何と見る。新公方様とうまく折り合いがつくであろうか」
藤孝は、さりげなく問題の核心に触れた。
彼は、堺の会合衆が信長に服するか、反信長に結集するか、それが知りたかった。
「さて、お武家方のお心うちはとんとわかりかねますが……」
宗易は、話柄をそらせた。
「あのお方は目利きにかけては異様な眼力をお持ちで、真贋《しんがん》はいうに及ばず、天下の名品と折紙付きの物でも、出来不出来を鋭くご指摘になられます。物を見る眼の鋭さは人を見る眼と通じましょう」
宗易は、新将軍義昭の人柄次第だと言う。さすが一流の人物らしい評言だった。
新将軍義昭は、贋物《がんぶつ》ではない。たしかに足利の正統の血をひく本物であった。だがひどく不出来な粗悪品だった。
戦国という限りなき動乱の時代の末期に、歴史上重要な人物として現れた将軍義昭は、実に歪《いびつ》な思考の持ち主であった。
それは、天下人たる名門の血統に生れながら、言語に絶する苦患《くげん》に弄ばれた前半生の運命の所為かも知れない。
――おれは、他の人間とは違う。格別の高貴な存在である。
人を人とも思わぬ強烈な差別意識が、彼の頭脳を領していた。
愚鈍ではなかった。人並み以上の智能を有していた。その智能が悪く働いた。謀略好みである。
こと謀略に関しては、同時代の梟雄《きようゆう》たちに優に匹敵する才を発揮した。有名無実とはいえ、足利将軍という権威が付随しているから侮れない。
その義昭は、頼みとする武力の後ろ楯もないまま、幕府という時代遅れの権力組織を渇望した。そのため、信長を廻る諸勢力の力関係には敏感であったが、自分と信長の力関係には、ひどく鈍感であった。
――あのような田舎大名は、いずれ使い捨ててもよい。
こうした義昭の策謀|耽溺《たんでき》癖と、余りに乏しい現実感覚に、光秀や藤孝は深刻な危惧を抱いていた。
そうした矢先、遂に抜き差しならぬ事態が発生した。
義昭が、諸国の武家大名に将軍|御内書《ごないしよ》=i非公式文書)を乱発し始めたのである。
争いがあるなら将軍が調停するので、乱を停止《ちようじ》せよとの内容だが、実効のないことは義昭自身が百も承知である。要は将軍家の存在を世に誇示したいのである。
義昭は、越後の上杉、甲斐の武田、越前朝倉、安芸《あき》毛利を始め、一向宗《いつこうしゆう》の本山石山本願寺、比叡山《ひえいざん》延暦寺などにまで書状を送った。将軍に同情的というより、信長の動きを警戒している勢力だ。彼らは、将軍を擁して上洛するということの効果に、ようやく気付き始めていた。義昭の陰謀≠ヘ、予想外の進展をみせはじめた。
義昭の企む陰謀≠ヘ、約《つづ》めていえば信長に対する身勝手な叛乱≠ナある。
だが諸大名、殊に京周辺の者は、義昭に対する好意以上に、信長に対する不信をつのらせていた。
――信長は将軍を操って、天下を壟断《ろうだん》するつもりらしい。
嫉妬と恐怖と不安が、義昭を援《たす》けた。越前朝倉家を始め、義昭を支援する勢力が相次いだ。
信長に知られぬわけがない。京で政務をとっているのは光秀だけではない。村井貞勝や朝山日乗のような内治練達の者もいるのだ。
それを思い、これを思うと、藤孝は次第に憂鬱《ゆううつ》に囚われた。
彼は微恙《びよう》と称えて、公方御所への出仕を怠るようになった。
――このままでは、公方の身が危うい。
果断の信長が、義昭をどう処置するか。眼に見える心地がする。信長は刻々に義昭の行状を知っている。それでいて諫《いさ》めるでもなく、咎《とが》めようともしない。
――弾正忠殿は、慎重に切っかけを待っている。
そうとしか思えない。腐り切ったとはいえ、公方は公方である。足利将軍を無下に切り捨てることには、天下に憚《はばか》りあるであろう。
心ある直臣は、焦慮に身を灼《や》いた。
――今のうち、お心を改められて、信長殿に虚心坦懐《きよしんたんかい》で協力なされば……。
あるいは、信長も受け容《い》れるかも知れない。あの天下の三悪を犯した松永弾正久秀ですら、降伏したとなるとあっさり許し、おのれの配下に加え、大和平定に使っている。
それを、光秀が藤孝に直言したことがある。
だが藤孝は首を横に振り、苦い笑みを浮べるのみであった。
「あれは、どうしようもないお方なのだ。天性大の謀略好きでおられるばかりか、隴《ろう》を得て蜀《しよく》を望むというか、この辺で満足ということをお知りにならぬ」
藤孝の苦い笑みは、冷笑ではない。実は自身に対する自嘲《じちよう》の笑みだった。
藤孝には、秘めた一事がある。これだけは他人はおろか身内の者にも洩らしたことがない。おのれ一人が胸中に秘めて生涯を終ると決めた秘事である。
その秘事に照らし合せて、藤孝が言えることは、次のような言葉であった。
――人の値打は、血筋だけのものではない。
藤孝は、過去を顧み、今を冷静に見て、痛切にそう思った。
武人最高の尊貴であった足利十三代将軍義輝は、直情径行を貫き、傲岸不遜《ごうがんふそん》の三好・松永輩に抗争を挑み、あえなく命を失った。
その生一本の性格は、同じ血筋の弟の義昭にはまったく無い。
十三代義輝を支えていた頃の藤孝は、武事が全く不得手だった。個人技の剣技は人並以下だったし、戦の力、戦の術《すべ》、戦の計略に秀でた面が無い。
ただし、身の処し方に、見るべきものがあった。機を見るに敏であった。永禄八年、当時の花の御所で義輝が、三好・松永の軍勢に襲撃され、弑虐《しぎやく》された際、藤孝は近江で親兵を募ると称し、居城山城勝龍寺城に潜んで難を避けた。
――十三代も十五代も、韜晦《とうかい》という世渡りの術を、全く御存知ない。
藤孝は病気見舞いに立ち寄った旧友和田惟政に、
「わしの風邪がお気がかりなのであろう。拝謁を願っても叶わぬ。所詮《しよせん》は使い捨ての身よ」
と、嘯《うそぶ》いてみせたという。
和田惟政は、返す言葉が無かった。
十月、伊勢国司北畠具教は降伏し、伊勢平定は終った。一旦《いつたん》岐阜に戻って四囲の情勢を思惟《しい》した信長は、十二月上洛して朝廷に参内《さんだい》したあと、永禄十三年(一五七〇)の年明け早々義昭に対し、手厳しい裁定を下した。
――人の心は、信じ難い。
幼少の頃からうつけもの≠ニ人にうとんじられた信長には、根底にその概念が灼きついている。
人には五欲がある。五官(眼・耳・鼻・舌・身)の五境(色・声・香・味・触)に対する感覚的欲望と、それに伴う財・色・飲食・名(名誉)・睡眠を求める欲望である。それは本能に根付く欲望である。本能は善悪を超えている。本能があるから人間なのである。
信長は、上洛して天子に接した。
天子は、神の子孫と言われ、そう信じられている。神に五欲はない。その正統は五欲を持たざることを本旨としている。建武の中興から南北朝にかけて、天子もまた人間性のおもしろさに惹かれ、人間社会を統治することに魅せられ、乱世に身を投じた。
だが、やがて天子は神の子としての本旨に戻り、戦国の世にも超然として、人の子の崇敬を集めた。地上の支配権を望まない。人の子があがめうやまうことで、国家・国民の統合の基《もとい》となっている。
――将軍は、所詮人の子だ。
五欲がある。義昭は特に強い。愚かなほど強烈である。人間だから致し方ないといえばそれまでだが、五欲を抑えかねる人間の支配欲は世の乱れを助長する。
――わが国には、天子があればよい。愚かな将軍など不用である。
だが、一気に事を運べば、無用の混乱を生ずる。
信長は、熟慮の末、正月二十三日、義昭に条書を送りつけた。
条文は、五ヵ条である。
一、諸国に将軍御内書を下されるときは、必ず信長に相談され、信長の添状を付すこと。
二、従来の下知は、すべて破棄されよ。
三、恩賞を与えるときは、信長の分国内を提供する。
四、天下のこと、信長に委任された上は、将軍の意見を求めず自由に成敗する。
五、宮廷の事、油断なく務められよ。
これは、幕府開設の否定であるだけでなく、将軍権威の否認である。
威丈高に迫る使者の朝山日乗に比し、同行した光秀は義昭の顔を見るに忍びなかった。
義昭は、これを受け入れるしかなかった。
恭順を装う義昭の引き攣《つ》った笑顔の裏に、瞋恚《しんい》の炎《ほむら》が燃えあがるのを、光秀は感じとっていた。
――この先、両者の間でどのような争いが起るか。
光秀は、わが身の去就を考えずにはいられなかった。
足利義昭という厄介者を抱えこんで、上洛戦を果した信長は、意外な事態の進展に、自己の立場を冷静に分析する必要に迫られた。
元々戦争というのは、敵を徹底的に叩き潰《つぶ》す。相手を無力化して自分の意思を強制する。それで終る。
それが今度の場合は違った。抑《そもそも》が目的が違った。領地の拡大という単純なものではない。武士の棟梁である将軍の京都復帰という多分に政治的な武力行為である。政治的な闘争というものには、必ず反作用が起る。武力行動によって獲得したものには、必ず正反対の敵が発生し襲ってくる。
抱えこんだ者が悪かった。義昭という厄介者は、信長を利用し尽したあと、自分の配下に組み入れて使い捨てようという下心を持っていた。義昭は実兄十三代義輝の悲劇を実感している。信長と組んで重用すれば、いつか信長は三好・松永輩と同様に将軍を蔑《ないがし》ろにし、意のままにならぬときは弑虐するだろう。その防護策は信長以上に強力な武力保持者を、早急に迎え入れ、いわゆる毒をもって毒を制すほかはない。義昭の陰謀好き――将軍御内書の乱発――の裏面には、彼にとっては已《や》むを得ざる事情があった。
考えてみると、濃尾二ヵ国をわがものとし、おのれの進路を模索していた信長は、途方もない札を掴《つか》んだ感がある。だが信長はそれを後悔した気配はない。彼はそれを転機と感じ、天運を楽しんでいたと思われる。
義昭の御内書外交は、意外なほどの効果をあげた。反信長勢力の結集である。
越後の上杉、甲斐の武田、安芸の毛利などと比べて、京に最も近い反信長勢力は越前朝倉家である。
朝倉にすれば恐れがあった。京を制した信長が次に狙うのは、越前であろうという思いがある。
一方で朝倉家は、反信長の色が濃い叡山の古くからの大檀越《だいだんおつ》である。京に侵攻するにはまことに都合のいい足場である。対信長戦の先頭は朝倉と見られた。
卓越した分析能力を持つ信長が、それを知らぬ筈《はず》はない。両者が戦端を開くのは、時間の問題であった。
信長の最も優れた特性の一つは、行動の迅速である。
二月初旬、信長はひそかに光秀を岐阜に呼び返した。
光秀が到着すると、信長は早速、義昭の動静を訊《たず》ねた。
「ひたすら慎んでおられますようで」
「ふん」
鼻で嗤《わら》われて光秀は色を失った。だが意外にも信長は光秀を諭《さと》し始めた。
「将軍位を有難がるうぬは、少々|嘗《な》められておるようだ」
「さようでござりましょうか」
「本願寺が、阿波(三好)と語らって動く。毛利に後押しさせようとあの恩知らずめが、しきりと画策しておる」
「それは……」
「騒ぐな。いずれ出端を叩いて、思い知らせてくれる」
信長は、不気味なほど抑制の利いた声で言った。光秀はひたすら身を縮め、嵐の来ぬのを願った。
蒼惶《そうこう》として京へ戻った光秀は、心気を押し静めて義昭に拝謁した。
信長の条書に脅えていた義昭は、光秀が洩らした本願寺|蹶起《けつき》の情報に血を沸きたたせた。
「そうか、本願寺が遂に起《た》つか。よもや誤報ではあるまい。信長めに先手を取られぬよう、守りをかためさせねばならぬ」
「上様……」
義昭は、嗤って言った。
「信長に先はない。その段取りはもうついておるのだ」
光秀が公邸に戻ると、弥平次秀満が出迎えた。顔は蒼《あお》ざめ落着きを失っている。
「兵部大輔《ひようぶだゆう》様(細川藤孝)がおみえになっておられます」
三宅弥平次秀満。俗説では明智弥平次光春と伝えられ、従弟《いとこ》または甥《おい》とも言われた。美濃を追われた光秀と共に七年諸国を巡歴し、仕官の途《みち》を求め、光秀のよき補佐役を務めてきた。孤独の光秀にとってよき従者であり、秘書役であり、今は参謀・将領である。
書院から出て迎えた細川藤孝は、待ちくたびれた顔で言った。
「公方にだいぶ責められたとみえる」
「藤孝殿……」
「公方は謀叛《むほん》を起される。上杉・武田・毛利・本願寺・朝倉・叡山などと連携し、信長を駆逐する。公方の考えそうな策よ」
「藤孝殿は、どうしてそれを?」
「地に落ちた足利将軍に連なる身がこの乱世で生き抜くためには、飛耳長目《ひじちようもく》しかない。十三代義輝様のときにも、わしはそれで生き延びた。今度もそうだ」
「では、公方様の陰謀は成就せぬと……?」
「わしはそう見る。それで公方に疎《うと》まれるよう振舞った。断っておくがそこもとは別だ。公方に賭けるもよし、岐阜に賭けるもよし。賭けの成否は命の存否だ。わしは信長に賭けた」
光秀は沈黙した。苦悩の色で迷った。
「苦しかろ。わしも同じだ。剣の刃渡りするようにして作り上げた将軍をこの手で潰す。因果な事よ。だがわしはいま滅びたくない。よくよく思案することだ」
藤孝は、言い終ると茶一服喫せず帰って行った。
義昭の謀叛について知らせる、光秀の苦悩に満ちた書状が岐阜に届いた。
信長は、ひそかに会心の笑みを洩らした。
――光秀には、気の毒した。少しばかり策を弄した。
京における光秀と藤孝の動きは、信長の計算通りだった。
今回は信長にしては珍しく、味方をも巻き込んで、手の込んだ謀略を用いた。これも、相手が将軍だからといえよう。さすがの信長も、義昭個人はともかく、将軍という権威にこちらから仕掛けることを憚《はばか》ったのだ。
――これで、公方から事を起したことになる。
信長は、かねて考えていた通り、徳川家康に使者を送った。
――京において、公方館の普請造畢《ふしんぞうひつ》の祝言を催す。軍勢を率いて上洛されたい。
一昨永禄十一年十二月、甲斐武田氏の駿河《するが》侵攻に呼応して、遠江《とおとうみ》に攻め入った家康は、今川|氏真《うじざね》を掛川《かけがわ》城に囲むと共に、遠州|引間《ひくま》に築城を開始した。翌十二年五月、氏真の降伏を待って、家康は居城を岡崎から引間に移した。引間は後に家康によって、浜松と改称される。
今川氏の降伏により、強大な武田軍団と、大井川を境に直接|国境《くにざかい》を接することになった家康は、出来る事なら国を留守にしたくない。しかし、その武田の圧力に対抗するためには、長年同盟関係にある織田軍団の支援が必須である。家康は後ろ髪引かれる思いで信長の要請に応じ、なけなしの兵四千を率いて上洛を開始した。
二月二十五日、信長も自らの軍団に上洛を命じた。
旧聞に属する作戦機密に関して大胆な開放主義の信長は、一面、新規の行動についての説明は一切しない。そればかりでなく、行動の予測や流言をきびしく禁じた。
――過去の作戦の経緯を包み隠さず論議・検討することによって、その欠陥・失敗は得難い教訓として役立つ。だが実施中の作戦の予測や批判は、軍をいたずらに惑わすだけである。
四百年後の日本軍部は、過去の失敗例を隠す一方、行動の秘匿《ひとく》を怠って数々の失敗を招いた。信長はこの点でも得難い才を持っていた。
行動の迅速、という特性を持つ信長だが、この時ばかりは驚く程ゆるゆると行動した。
しかも、琵琶湖東岸の常楽寺《じようらくじ》に至ると、逗留《とうりゆう》を令した。
常楽寺という巨刹《きよさつ》のあるこの地は、後の安土《あづち》郷である。近江の守護六角氏(佐々木氏)の所領であった佐々木庄と、聖武天皇の時代から薬師寺の荘園であった豊浦《といら》庄が作り出す、水路と環濠《かんごう》の風景は絶佳を誇る。
「江州一円から相撲上手を召し出《いだ》せ」
里人に布令した信長は、連日相撲興行を催して大いに楽しんだ。
あまりに長閑《のどか》な行軍ぶりに、不審を抱いた部将や将士も、穏やかな水辺の春光と賑やかな見世物を前にして、次第に寛いだ気分に浸った。
その中で、木下藤吉郎と、配下の川筋衆《かわすじしゆう》蜂須賀党だけが、別命をうけ、忙しく働いた。
――傭兵は緩急に備えて鍛練を怠ってはならない。
信長は同盟を結んでいる浅井氏の諒解を得て、伊吹《いぶき》山系に軍団を交替派遣し、山野|跋渉《ばつしよう》の訓練に従事させた。指揮は木下藤吉郎と蜂須賀党が当った。
杣道《そまみち》を開き整備する。間道を開削する。
その間、信長は上洛目的を表明した。「公方館の落成祝いを京で催す。期日は四月一日」。なお意図が付け加えてあった。「これは天下鎮静を万民に示す催しである。適《あた》う限り華やかに挙行する」
信長は、行事執行の諸奉行を任命するとともに、各地の国司・大名に招請状を発した。宛先は浅井長政、松永久秀ら、信長派の面々に限らない。越後の上杉、甲斐の武田、越前朝倉、安芸毛利等々、反信長党にも洩れなく送った。
彼らが不快だったことはいうまでもない。
――信長如き出来星が、出過ぎた振舞い。
だが反信長同盟の主軸である新将軍の祝い事を無視もできない。彼らはそれぞれに祝賀の使者を義昭の許に派したが、殊更《ことさら》に信長を無視する態度をとった。その中で越前朝倉だけは、見限られた不快感からか、音沙汰《おとさた》無しに過ごした。それも信長の計算内だった。
信長は近江常楽寺(安土)を発した。交替制の山野跋渉訓練はそのまま続行させた。
「それにつけてもお屋形様は、何でお屋敷をお持ちにならぬのであろうか」
伊吹山中にいる藤吉郎は、竹中半兵衛に疑問を呈した。
竹中半兵衛|重治《しげはる》。もと美濃|菩提山《ぼだいやま》の城主で、斎藤|龍興《たつおき》の家臣であった。龍興の暴政を憎み、弟の重矩《しげのり》らと謀って一夜のうちに稲葉山城を乗取ったことがある。信長は美濃半国を与える条件で引渡しを求めたが拒否、城を龍興に返還して浪人した。信長の美濃攻めに際しては、藤吉郎の説得に応じて帰服、以後智将・謀将として重用されている。
「おわかりになりませぬか」
半兵衛重治は微苦笑した。
信長が京に城館を構えれば、反信長勢力は、京を本拠に将軍の政権を簒奪《さんだつ》する気だ、とみて闘志をかきたてるだろう。義昭と反信長勢力が結ぶ格好の口実となる。
御所の修復・公方館造営には政治目的があった。自分の城館に無駄な費《つい》えはしたくない。
それは信長の徹底した合理精神だった。
この頃の信長は、京都|衣棚押小路《ころものたなおしのこうじ》の日蓮宗大本山|妙覚寺《みようかくじ》を宿としていた。往年斎藤道三の父新左衛門|尉《じよう》が修行した寺である。
信長は何の感慨も持たなかった。信長はついぞ過去をふりかえることのない男だった。
三月五日、入洛した信長は、医師|半井驢庵《なからいろあん》の屋敷に入った。
代々宮廷医の家柄である半井家は、内裏の近くに大きな屋敷を構えていた。
信長は、松井友閑と丹羽長秀を堺に遣わし、納屋衆自慢の名物を取り寄せるよう手配していた。
「見せい」
信長の茶好きは、当時知れ渡っていた。特に道具集めは、殆《ほとん》ど病的であると評判であった。しかも目利きは当代並ぶ者がない。
信長は片端から目利きし、眼鏡に適《かな》った道具を所望すると、相応の代価を支払った。
家康の京到着に続き、信長の同盟者も競って集まった。
四月一日、公方屋敷落成の華やかな祝賀として、能の興行などを催し、京を祭り騒ぎに沸きたたせた。
時の天子、正親町天皇は、天下鎮静のしるしを嘉され、二十三日、永禄の年号を元亀と改元されたもうた。
永禄十三年(一五七〇)は四月二十二日をもって終り、これより元亀元年となる。戦国期最高潮の時代、元亀・天正《てんしよう》の合戦が始まる。信長は数日前、軍団を率いて京を去っていた。今度は光秀も軍勢に加わっていた。
公方館落成は、詐術とはいえない。だが、この時期を選んで京で祝賀の祭り騒ぎを起したのは、信長のみごとな策略であった。信長の振舞いに、天下はすっかり泰平を決め込んでいた。
湖南平野に出た信長の機動軍団は、突如急進を開始した。
あれほど遊楽にふけった安土郷常楽寺を一顧だにせず、東進して関ヶ原に至った。
関ヶ原には、山野跋渉訓練の名目で、伊吹山系の山裾に道を切り開いていた木下藤吉郎と蜂須賀党が待ちうけていた。彼らは道案内に立ち、本街道の北国街道を避け、間道に分け入った。目指すは越前である。
京を遅れて発ち、ゆるゆると帰国の途についた八千の浅井長政勢は、信長軍団の急進に、
――相も変らず、義兄上《あにうえ》の気忙《きぜわ》しさよ。
と思ったに過ぎない。まさか朝倉攻めを発起したとは、夢にも思わなかった。
信長は、同盟者の浅井長政に秘密の意図を打ち明けなかった。同じ同盟者の徳川家康に打ち明けたにもかかわらず、である。
浅井は、朝倉とも同盟を結んでいた、という説があるが訛伝《かでん》であろう。ただ小国の浅井は大国の朝倉と親交関係にあった。浅井長政の祖父|亮政《すけまさ》が近江の守護|京極《きようごく》氏の内紛に乗じて自立する際、朝倉氏の支援があり、その恩義と大国朝倉への遠慮があった。
信長は、妹お市ノ方を嫁がせた浅井長政との同盟を固く信じたようである。今回の上洛に際しても京の貴顕に引き合わせ、自分と同等の扱いを求めた程であった。
その浅井長政に朝倉攻めを秘匿《ひとく》したのは、長政の父久政の策謀好みと、家臣団の内通を恐れたためである。
――長政は、信義に厚い義弟である。事後承諾でも納得するだろう。
信長は、長政の性格の弱点を軽視していたようである。長政は武勇に優れ、義に厚く情に深い武将だったが、唯一親子の情に脆《もろ》かった。長政の父久政は功利家で、家臣の扱いが冷酷だったため、重臣に疎まれ、早く家督を長政にゆずる破目となった。長政は不遇の父に威権を取り戻させようと、念願してやまなかった。それが大事の破綻《はたん》となった。
信長の機動軍団は、杣道《そまみち》・間道を急進し、浅井家の目をかすめて北上を続け、越前国境を越え、朝倉方の要衝、手筒山《てづつやま》城を奇襲、易々と占領し、怒濤《どとう》の如く敦賀《つるが》平野に雪崩《なだ》れこんだ。名目は「新将軍に礼を失し、朝廷の御意向に背く。不敬許し難し、征伐」という。
なぜ朝倉が京の新将軍を無視し、天子の意向に背いたか。もちろん信長への反感もあっただろう。それ以上に義昭の陰謀工作があったことは明々白々である。信長は義昭の陰謀に先手を打ち、おのれの意図と実力を見せつけようとしたのである。だが成功しただろうか。
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飛蓬《ひほう》風に乗《じよう》ず
手筒山《てづつやま》(現・天筒山)城の攻略は、一刻(約二時間)とかからず、朝倉方の敗兵は手筒山の尾根続きの|金ヶ崎《かながさき》城へ敗走した。
敦賀《つるが》湾に突出した岬の背にある金ヶ崎城は、南北朝のころ新田義貞《につたよしさだ》が築き本拠とした名城であるが、守衛に偏し、地域への制圧力が少ない。
敦賀平野に進出した信長は、陣容の配置を急いだ。まず木下藤吉郎に兵二千を与え、金ヶ崎城へ向けた。
「よいか、功を焦って無理攻めするな。その方得意の調略で陥《おと》せ」
金ヶ崎城は早晩立枯れるとみた。それより朝倉の息の根を止めることが急がれた。
「全軍、北進――」
先鋒《せんぽう》は、無類の剛強を誇る三河《みかわ》勢四千である。首将の徳川家康の道案内に明智光秀と兵一千を配した。
光秀は多忙を極めた。敦賀をはじめ越前の兵要地誌《へいようちし》を熟知しているのは、彼をおいてほかに無い。
まず、以前足利義昭が居館を構えた金ヶ崎城の攻略法を藤吉郎に指導しなければならない。
「よろしいか。朝倉家は鉄砲の備えが少ない。お味方の通過部隊の鉄砲隊を一時借りして、間断なく射ちすくめられよ。敵方の士気が沮喪《そそう》する」
更に、調略法に及んだ。
「守将朝倉|景恒《かげつね》は気短ゆえ、救援の遅れを説き、本隊への帰還を許せば必ず崩れよう」
一時借りの鉄砲隊の銃数は二千挺を超えた。
藤吉郎の調略と、息つく暇ない鉛弾を浴びた金ヶ崎城は、一日で陥《お》ち、景恒と敗兵は北へ去った。
それをよそに光秀は、徳川隊へ走った。
信長は、急いでいた。
阿波から海を渡って摂津《せつつ》・河内《かわち》に侵入する三好勢の攻勢は止むことがない。
蔭で、反信長の策謀に熱中する足利義昭が、糸を引いていることは明々白々であった。
畿内の信長党の外様大名や駐留する部将が奔命している隙に、機を見て反信長党が湖南回廊に進出すれば、信長は補給路を断たれて京を失う。
信長は、先手を打って越前に侵攻した。仕組まれた陰謀の骨幹を叩き潰《つぶ》す。信長の果断は意表を衝《つ》いた。ただし行動の開始から終結まで、事は急を要した。信長の不在が知れ渡れば、四囲の敵は京に襲いかかる。
家康の三河勢は、|木ノ芽峠《きのめとうげ》に通ずる嶮路《けんろ》の半ば、深山寺《みやまでら》という村落で光秀を迎えた。
「明智殿自ら御出張りいただくとは過分に存じます」
年歯二十九の家康は、丁重だった。
光秀は、暑熱と嶮岨《けんそ》に難渋する家康を励ました。
「明日一日の御辛抱でござる。木ノ芽峠を越えればあとは下り坂。越前平野に出ます」
「その先は?」
「峠から一乗谷《いちじようだに》の本城までは十六里。燧《ひうち》城(今庄)、府中城(武生《たけふ》)、鯖江《さばえ》城に砦《とりで》を加えると、ちょうど十六城ござる」
「なんと……堅い守りでござりますな」
家康軍に合流した光秀は、翌日、自ら手勢を率いて尖兵《せんぺい》となり、木ノ芽峠の頂上に進出した。
抵抗はまったくなかった。光秀は不安に駆られた。楽観か悲観か、極端に傾くのが光秀の性癖だった。
――何か様子がおかしい。
頂上で軍をとどめて様子を窺《うかが》った。
だが、その用心が彼らを救った。まさにその四月二十八日、信長軍団は潰滅《かいめつ》の事態に瀕《ひん》した。
同盟軍、北近江浅井|長政《ながまさ》軍の背叛《はいはん》である。
浅井家の背叛は、信長の背信――約束破棄によるものだ、という説がある。
かつて近江守護であった京極《きようごく》家の家臣浅井|亮政《すけまさ》が、主家の実権を奪い北近江で自立した際、隣国越前の朝倉家は庇護《ひご》を与えた。以来浅井家は長政まで三代、年を重ねたが、両家の密接な関係は変らなかった。
亮政の後を継いだ久政《ひさまさ》は、生来権謀を好む悪癖があったため、家臣はその子長政が長ずると、強《し》いて代を譲らせた。長政は眉目《びもく》秀麗、古武士の如き剛健で世に知られた。
信長は、その風格を見込んで妹お市を嫁がせ、同盟の約を結んだ。美濃攻略を果し破竹の勢いを示す信長との同盟は、浅井家も望むところであったが、越前朝倉との関係悪化を懸念し、万一朝倉と事を構えるときは、事前に相談あるべしとの一条を求めた。
信長がどう答えたかは明らかでない。恐らく「われを信ぜよ」と言ったのであろう。浅井はそれを約定《やくじよう》承認と受取り、信長は「わが行動を信頼し、任せよ」の意であったように思われる。
泰平の世ならいざ知らず、戦国乱世の時代である。同盟というのは激しい痛みと犠牲を伴う。東の家康との同盟は、合戦ごとの援軍強制となり、果ては妻と嫡男の処分に及んだ。家康はよくその痛みに堪え、三河・遠江《とおとうみ》・駿河《するが》に進出することを得た。大国と小国の同盟とは、そういうものであった。
浅井には、そうした時流に対する認識が欠けていた。また信長に対する人物評価も甘かった。更に久政の権謀好きは足利義昭の使嗾《しそう》に共鳴するところがあった。加えて当主長政は、壮年期に代を譲った父親の意見に逆らえぬ人間性の弱さがあった。
背叛は、隠居の久政によって口火を切られた。信長軍の補給小荷駄隊への襲撃である。
程なく京より帰着した長政と軍勢八千は、留守居の久政による背叛の挙に、合流するほかはなかった。
信長は、夕刻この報を知ったが俄《にわか》に信じられぬ様子であった。
――妹婿が、まさか――。
信長は一途《いちず》に長政の人柄を愛し、京の貴顕に引き合せ、将来の大人物たることを保証した。
その浅井長政が、義兄の死命を制する裏切りを敢行したのである。
信長は、一瞬にして冷静を取り戻し、事態を正確に把握し、有名な決断の言葉を発した。
「是非に及ばず」
いまさら是とか非とか論《あげつら》っても始まらない。それより目前の危急にどう対処するかである。信長の天才的な頭脳は目まぐるしく回転した。
「京に帰る」
信長が越前侵攻に、どれ程の兵力を動員したか、正確な記録が見当らない。『信長公記《しんちようこうき》』には「御人数|出《いだ》さる」とあるのみである。濃尾両国の備え、京の駐留兵力から推定すると約二万、それに家康の同盟軍四千であったようだ。
この危急の場合、常人ならまず戦うことを考える。手筒山・金ヶ崎両城に立て籠《こも》るか、敦賀平野で一大決戦を挑むかである。兵力は朝倉・浅井連合軍とほぼ拮抗《きつこう》している。態勢を立て直せば充分に戦える。
問題は兵站《へいたん》線だった。補給がつかない。何としても持久戦を避けなければならなかった。
信長の思考は、現状より飛躍していた。的確な自己評価であった。
「信長、敦賀平野に屏息《へいそく》」
との報が伝播《でんぱ》すれば、四辺の反信長勢力が一斉|蜂起《ほうき》する。信長はそれらの敵を、迅速な機動軍団の移動で抑え続けてきた。「疾《と》きこと風の如く」といわれた武田信玄ですら瞠目《どうもく》して言った。「足長《あしなが》(韋駄天《いだてん》)信長」と。
信長がいなければ、その機動力は発揮されない。信長が行動の自由を得るためには、兵力の消耗は問題ではない。傭兵要員の敗残兵や浪人は巷《ちまた》に溢《あふ》れている。
――この際、侵攻兵力は見捨てるしかない。
信長には、そうした非情性があった。それなくしては信長の飛躍は有り得ない。常人の情を超えるところに、彼の天才があった。
「藤吉はおるか」
信長は馬廻のうちから百騎を選び、慌《あわ》ただしく出立準備を調えながら言った。
折柄、木下藤吉郎は金ヶ崎城攻略の詳報を報告するため、本営に来ていた。
「そちに道案内を命ずる。先駆けせい」
全軍の中で、明智光秀に次いで木下藤吉郎が、この方面の地理・地勢に明るい。
「あ、いや……」
藤吉郎は、信長に相見《あいまみ》えて以来、初めてその意に逆らった。
「手前は殿《しんがり》を務めます。道案内の儀は寄騎《よりき》蜂須賀党の稲田大炊助《いなだおおいのすけ》に命じますゆえ、お許しを」
稲田大炊助は、蜂須賀小六の弟分で、金ヶ崎から伴ってきていた。
「そちが、殿を――?」
これには信長も、絶句した。信長が去れば二万四千の大軍は乱軍と化す。その潰乱《かいらん》の味方を救うのは、殿軍《でんぐん》の働きしかない。勝ちに乗じて追撃してくる敵勢を一時的にも支えるのは、必然の死を意味する。
策謀と弁舌の上手とさげすまれている卑賤《ひせん》の男が、初めて見せた未練なき様であった。
一身と直属部隊を捧げて、一軍の危急を救う。いじらしいまでの藤吉郎の申し出は、本営全員を感動させた。
この一件が、藤吉郎に対する信長の認識を定めた。その認識は生涯変ることはなかった。
――この男、終生われに背くことあらじ。
その藤吉郎すら、棄てた。
「よし……」
いつにも増して短い言葉しか残せなかった信長は、馬に跨《またが》り、馬腹を蹴った。わずか百騎、従う馬廻と信長の姿は、夕闇迫る西方の山なみに消えて行った。
信長は、躊躇《ちゆうちよ》なく全軍を棄てた。全部隊の部将にも告げず遁走《とんそう》した。分秒が信長の生命と、その大業の継続か否かを決める。その決断はまさに神業《かみわざ》であった。
残った藤吉郎は、将士に早急に本営を撤し、信長の後を追うように命じた。更に各部隊の将に事態の急変を告げる騎馬伝令を発すると、急ぎ金ヶ崎城に戻り、朝倉勢の追撃を阻止するための防備を開始した。
次々と異変を知った各部隊は、先を争って退却に移った。夜が明けるのを待たず、信長軍団の殆《ほとん》どが、敦賀平野を離脱した。
最も不利な立場となったのは、先鋒の家康勢である。藤吉郎の急報で取り残されたことを知った家康は、言葉を失ったという。
だがすぐ気をとり直し、光秀ともども、退却準備にかかった。
藤吉郎は、光秀にも、退却を急ぐよう一書を送ってきていた。
「……陣中の小荷駄など悉皆《しつかい》お棄てなさるべく、それがし殿を務めますれば、御通過の節ご入用の物、何なりとお申し付け下され……」
この男の天性の人たらしは、こういう瀬戸際にも発揮されていた。
光秀は、藤吉郎には感謝したが、信長に対しては不快感を抱いた。越前侵攻は無理に無理を重ねている。
――これは、拙策ではないか。
道案内を務めさすなら、事前に相談があるべきだろう。その時は死を賭《と》してもとどめた。
それを独断で強行し、この始末である。
――情無しめ。
だが、もっと憤《いきどお》っていい家康は、至極当然の事のように、退却に専念している。信長、藤吉郎、家康。それぞれが並の人間にはない個性を発揮していた。ひとり光秀だけが心を乱しながら、戦巧者の技を発揮しようと脳漿《のうしよう》を絞っていた。
木ノ芽峠に通ずる山坂を降《くだ》ると、敦賀平野に出る。その隘路口《あいろぐち》付近に蜂須賀党が巧みに擬装した陣を布《し》いていた。藤吉郎が仕掛けた伏勢である。
木ノ芽川沿いに半里ほど行くと、|笙ノ川《しようのかわ》との合流点に藤吉郎が仮本陣を構えていた。
「ご無事で何より。そろそろ食いつきますぞ」
いま降ってきた坂道に、敵影が見え始めた。
木下藤吉郎の殿戦は、巧智を極めた。彼はこの後、城攻めの名手と言われるようになるが、あるいは防衛戦や退却戦に彼の本領があったのかも知れない。それほどこの困難な殿戦をよく戦った。
信長を窮地に追いこんだ朝倉勢は、果然追撃の速度を増した。その先鋒は信長軍の意表を衝こうと、海岸沿いの道を伝って、夕刻近く金ヶ崎城を奇襲した。
藤吉郎は、その策を読んでいた。城構えの各所に、各部隊から譲りうけた旗幟《きし》を隙間無く掲げて、全軍が立て籠る威勢を示し、防柵を急造して手勢を配し、攻め寄せた敵勢をさんざんに鉄砲で射ちすくめた。
――信長軍の大半は、金ヶ崎城に籠った。
奇襲部隊は算を乱して退却し、木ノ芽峠に宿営する本隊に逃げ戻った。
藤吉郎は、あらん限りの篝《かがり》を焚《た》かせて擬勢を示し、総勢を率いて敦賀平野の木ノ芽川と笙ノ川の合流点にある仮本陣に移った。
払暁《ふつぎよう》、木ノ芽峠を降りた朝倉勢は、二手に分れた。本隊は金ヶ崎城に向い、攻撃を始めた。盛んに鉄砲・弓矢を放ち、喚声を挙げて城兵の出撃を誘った。何度繰り返しても応答がない。暫《しばら》くして突撃を敢行した。城は旗幟と篝の燃え滓《かす》だけで人影はない。安堵《あんど》した朝倉勢はとりあえず休息をとった。
別動の一手は、峠を駆け下りた。麓《ふもと》近くで退却する家康勢の小荷駄に追いつき、蹴散らした。貧乏性の家康は、小荷駄を棄てるに忍びなかったための災難だった。
隘路口を出た朝倉勢は、半里先の藤吉郎勢の仮本陣に襲いかかった。待ち構えた藤吉郎勢は、鉄砲の乱射で報いた。前《さき》に退却する部隊から三十挺・五十挺と恵んで貰った鉄砲は凄《すご》い数であった。殊《こと》に信長の鉄砲隊を預かる佐々成政《さつさなりまさ》は、その過半を割いて残した。
たじろぐ朝倉勢に、隘路口付近に伏せてあった蜂須賀党が姿をあらわし、背後から襲った。朝倉勢は散り散りになって、金ヶ崎の本隊に逃げ帰った。
藤吉郎は、敵の退却と同時に、手勢の遁走を命じた。敦賀平野を横切って湖北の山地の関峠にかかると、半日前に退却した家康勢に追いついてしまった。背後からは勢いを取り戻した朝倉勢が、真っ黒になって追ってくる。
兵力は敵が圧倒的である。峠道は嶮峻《けんしゆん》、全滅必至で戦うしかない。
その時、光秀が一案を思いついた。
藤吉郎勢と佐々鉄砲隊は嶮路の上から三段構えの鉄砲陣で敵を斃《たお》す。ひるむ敵勢に左右に伏せておいた家康勢が斬りこみ、潰乱させる。これを何度も繰り返せば、敵の追撃は頓挫《とんざ》するに違いない。
策はみごとに当った。悪戦苦闘の末、信長が遁走した湖西の道を辿《たど》って、ようやく京に着いた。
信長は、二日前に無事帰洛していた。
信長は北近江浅井領の湖東を避け、湖西の山地に道をとった。湖西|朽木谷《くつきだに》には、古くからの小土豪朽木|元綱《もとつな》がいる。元綱が新興の浅井氏と反目しているのを計算に入れ、その支援を頼み、異変以来二日目に京に戻った。
宿舎は京を発つ前に予告しておいた四条|西洞院《にしのとういん》の本能寺である。信長は腹中の敵に等しい足利義昭を喜ばせたくなかったに違いない。帰着早々衣裳を改め公方《くぼう》館に出向くと、浅井の急使が異変を告げて帰った直後であった。さすが陰謀好きの義昭も、信長の神速に何を画策するにも暇《いとま》がなかった。
翌日から越前攻めの部将・部隊が陸続と京に戻ってきた。予想外に兵力の損耗は少なかった。殿軍の藤吉郎と家康、光秀の働きが並大抵でなかったことが明白であった。
その三名が、京都に帰着したのは、五月二日である。将士の殆どが馬を失い徒歩《かち》裸足《はだし》となり、具足は破れ千切れて見る影もない姿となり果てていた。
信長は、自ら三名を出迎えた。
「藤吉、ようやった。三河殿にも随分と苦労をかけた。それぞれの働きなくば、この京をも失うところであった」
信長は、わざと光秀の名を挙げなかった。光秀には客将の道案内という任務があった。兵要地誌に通じ、敵方の内情を熟知しているから任命したのである。それが野伏《のぶ》せり同然の無惨な姿でようやく帰還した。
――何か方策はなかったのか。
そうまでは口に出さないが、さりとて光秀の働きを賞讃するわけにはいかない。
光秀も明晰《めいせき》な頭脳の持ち主である。それと察したが、不面目に面《おもて》を伏せたなりであった。
――いっそ、虚心坦懐《きよしんたんかい》に謝ってしまえばよいのに。
藤吉郎はそう感じ、家康は、
――列座するのが間違い。単独で謁を乞い、叱責《しつせき》を受けるべきだ。
と、思った。三人三様の考えが微妙に違っていた。
光秀が右筆《ゆうひつ》に戦闘報告書を提出すると、京都警固役に復する旨の沙汰《さた》が告げられた。悪い沙汰ではない。既往を咎《とが》めぬ信長の意がこめられている。
殿舎を出ると、庭前で細川|藤孝《ふじたか》に出合った。
「無事のご帰還、祝着至極に存ずる」
藤孝は、庭の散策に誘った。
本能寺の庭は宏大で、奥は鬱蒼《うつそう》の深緑に包まれている。旧暦五月初旬は梅雨の前で、初夏の色があざやかな季節である。
光秀は、留守中の京都警固代行を務めた藤孝に礼を述べた。
「それより、越前での戦の模様をうかがいたいものだな。大層な負け戦であったとか」
光秀は、憂鬱《ゆううつ》そうに答えた。
「この戦に限っては、語る心地にはなれませぬ」
「公方様はな、こたびの信長殿の大敗に、意を強くしておられる」
意外な藤孝の言葉に、光秀は顔色を変えた。
「それでは、浅井の寝返りは、やはり公方様の……」
「うむ。長政殿はともかく、父上の久政殿にはしきりに御内書を送られていた」
「…………」
光秀は嘆息した。九死に一生を得た撤退戦の苦境も、その結果として信長に疎まれたことも、すべては義昭の策謀の結果であったことになる。光秀はこれまで、何とか義昭と信長の仲を取り持ち、連繋を図ろうと懸命に努力を重ねてきた。それを、こっぴどく裏切られた思いであった。
――このおれまでも、出《だ》し殻《がら》のように使い棄てなさるおつもりか。
光秀は、努めて無表情に訊ねた。
「公方様は……これからどうなされるおつもりでしょうか」
藤孝は、暫《しば》し無言の末、感懐を洩らした。
「ご自身の力を過信なされなければよいのだが……」
義昭を奈良の寺から救い出し、ここまで担ぎ上げたのは藤孝である。その手塩にかけた将軍が危険なものと化しつつある。
「でもござりましょうが、道は自ら選ぶしかないかと……」
光秀は、思いつめたようにそう言う。藤孝は頷きながら思った。
――この男は一途に自分の立身を思い続けている。
そのためなら、場合によっては義昭であろうと殺すかも知れない。藤孝はかすかに肌に粟立つのを感じていた。
(常勝信長、敗北を喫す)
その報は、四辺の反信長勢力に伝播し、一時は徒《ただ》ならぬ気配が漲《みなぎ》ったが、程なく鎮静した。
越前侵攻軍の損害が、意外に少なかったためである。
藤吉郎・家康・光秀の奮迅《ふんじん》もさることながら、朝倉勢の追撃行動が鈍かった。更に挟撃する浅井勢が、江越国境の狭隘《きようあい》な嶮路を抑えた藤吉郎軍の別動隊蜂須賀小六の遊撃に阻《はば》まれて、目的を果さず終ったためである。
だが、信長の惨敗は隠れもない。
――態勢を立て直すには、来春頃までかかる。
その予想は、またしても裏をかかれた。
わずか二ヵ月後の六月、信長は動いた。
信長の微動は、光秀への下命から始まった。
――あの男、このまま捨てるには惜しい。
だが、来るべき浅井・朝倉との再戦に、光秀を使うのは些《いささ》か憚《はばか》りがある。光秀は信長に仕える前に浅井家と交際があり、事情に通じていた筈《はず》である。それが突然の離反を事前に察知し得なかったのも手落ちだったし、敦賀平野からの退却戦に、朝倉勢を熟知している彼が、客将の家康を度々窮地に陥れた不手際も問題である。
――はて、奴の魂胆を今一度試してみるか。
信長は、早馬を駆けさせ、光秀を呼びつけた。
光秀は、湖西の最前線、朽木谷にほど近い太田川で浅井の部隊と対峙《たいじ》している。急命を受けると、後を弥平次秀満に委《ゆだ》ね、単身駆けつけた。
――いかなる作戦命令か。
固唾《かたず》を呑む光秀に、信長の下命は予想外のものだった。
「兵百を貸し与える。芦浦《あしうら》観音寺への寄進を届けて来い」
――寺への寄進物の宰領だと……?
光秀は反問しかけて言葉を呑み込んだ。信長は命令の繰り返しや説明をひどく嫌う。身を入れて聞かないからだ、というのである。
「畏《かしこ》まりました」
光秀は、早速荷駄の隊列を整えた。
南近江、草津の芦浦観音寺はただの田舎寺ではない。古来|名刹《めいさつ》として知られ、足利幕府健在の頃から守護不入・寺領|安堵《あんど》≠フ制札を得ていた。
東西交通の要地である湖南の地には、同様の特権を持つ神社・仏閣が多い。坂田郡山東町の成菩提院円乗寺《じようぼだいいんえんじようじ》や多賀大社、百済寺《ひやくさいじ》、永源寺などがある。これらの社寺勢力は領主にとっても軽視できぬ存在で、中でも芦浦観音寺はそれらの束ねとして隠然たる力を持つ。
それは芦浦観音寺が独自の舟運力を持ち、物資輸送を司るためであろう。早くから領主|六角《ろつかく》氏の坂本日吉大社への奉幣使代官を務めるほどの力量を有していた。
永禄十年(一五六七)暮、越前朝倉家に寄寓《きぐう》中の足利義昭から、密かに身を寄せたき旨の内意を受けた信長は、湖南回廊の打通《だつう》を計画し、芦浦観音寺住職|賢珍《けんちん》に意を通じ、社寺勢力の協力を取り付けた。
翌永禄十一年の上洛戦で、六角勢があっけなく敗退流亡した裏面には、そうした慎重な工作があった。
「二、三日滞在して、和尚の説教でも聞いて来い。そちにも悟るところがあろう……行け」
例によって、信長は短兵急に促した。
「これは、これは、ご苦労をおかけ致しましたな。道中難儀などござりませんでしたか」
道中の難儀、というのは、信楽《しがらき》あたりに盤踞《ばんきよ》する六角勢残党の蠢動《しゆんどう》であろう。光秀は警戒を怠らなかったが、それも無かった。
住職の賢珍は、今は眉白く温和な顔立ちだが、壮年の頃は敏腕不屈のやり手で、当時の領主六角|承禎《じようてい》と五分に渡り合ったという。
――この戦乱の世に、名門の名に溺《おぼ》れて安逸を貪《むさぼ》り、自前の船団も持たぬ呆《あき》れ果てた奴。
そういう気構えだから、信長の招請に応じて六角氏を見捨てたのであろう。
「折よく、客人がござってな。聞けばそこもと様とは旧知の仲とか……ま、ゆるゆるとお話しなどなされ、よろしければご滞留なさってはどうかな」
「はて、旧知の者と申すと……?」
「いま、生憎《あいにく》と他出なされておられる。夕餉《ゆうげ》の時の楽しみになされ、今宵《こよい》は酒を酌み交し、よもやま話など致しましょう」
夕餉の時、現れたのは、堺の千宗易《せんのそうえき》であった。
「やあ、久方ぶりにお目にかかりましたな」
相も変らず、堺の荷駄を率いての帰途だという。
「このたびは、いずれからのお帰りで?」
光秀の問いかけに、宗易は酸味《すみ》の強い濁り酒を口にした。
「一乗谷……鉄砲火薬を少々運んだ帰りで」
一乗谷は、朝倉氏の本城である。
この時期、信長の強圧を受けながら、堺の持つ商権は、依然絶大な既得権を保持し続けている。
敵味方の区別なく、鉄砲・刀槍《とうそう》等の武器から、軍装品・衣類等あらゆる物資を輸入・移入し、販売運搬する。それを阻止し、妨害した者は、忽《たちま》ち供給を断たれ、領地経営が成り立たなくなる。堺商人の荷駄隊列の治外法権は、不可侵とされていた。
「相も変らずの御稼業じゃの。もう充分に貯えられたであろう。そろそろ足を洗われてはどうかの」
微醺《びくん》の賢珍和尚がそう言うと、宗易は苦笑で答えた。
「先般来、織田様からもそう言われました。禄を遣わすゆえ、茶の道専一に励んだらどうかと……」
「織田様は大層な茶の湯狂いと聞いたが……?」
宗易は、笑って首を横に振った。
「あのお方は、生来多趣味で無趣味なお方でござります」
光秀は、魅入られたように、両者の話に聞き入った。
宗易は、いま浅井・朝倉を往復して帰ったところだという。
信長の侵攻を駆逐した浅井・朝倉勢の現況はどのような有様か、それに付け入る隙があるだろうか。光秀は灼《や》けるような思いに囚われていた。
その反面、家臣では窺い知る由もない信長の性情も知りたいと思う。確かに信長は、無類と言えるほど仕え難い主人である。だがその思慮は奥深く、発想は天才の域をはるかに超え、一頭地を抜いている。光秀は到底及ばないまでも、その驥尾《きび》に付しおのれの才を磨いてみたい願望に燃えていた。
「難しいことを言われるの、多趣味で無趣味とは、どういうことかな」
「あのお方は、何にでも一流の眼力を持っておられます。書画|骨董《こつとう》から刀剣茶道具、館造りから城造り……ご家来衆の人選びまで、前歴にこだわらず、その者の持つ特技・特色を見てとって、みごとに使いこなす……これは趣味とは言えませぬが……思い当ることはござりませぬか」
話を向けられた光秀は、苦笑するしかない。
「ま、その身なり、服装選びにまで及んでおりますが……かと言って執着、拘泥することがない……堺は度々、名品の茶道具などを強請《ねだ》られ、恐慌を来しておりますが、一旦《いつたん》手に入れられた名品を、日夜|愛玩《あいがん》して楽しむかというと、そうでもない。人への褒美とか、親密な相手とかに、惜しげもなく与えてしまう……つまりそれは、名品を見出《みいだ》すことをたのしまれ、他人に珍重されることに悦びを抱く……だから多趣味で無趣味だと申すのでございます」
「ほほう、聞けば聞くほどに変ったお方である……」
賢珍は、口数の少ない光秀に話を向けた。
「光秀殿も茶の湯を嗜《たしな》まれるのでございましょうな」
「いや、なかなかもって」
と、光秀は答えた。
「茶の湯が許されるのは、極く限られた者のみにござる」
信長は、家臣が茶会を催すことを、きびしく禁じた。
京を制した織田軍団は、四面楚歌《しめんそか》のうちにある。一瞬の油断も許されない。憂き世を離れて茶事にふけることは、大事を招く。
そのきびしい掟《おきて》の中に、例外があった。
信長は、兵団長級の部将の際立った戦功に茶道具の名品を与えた。下賜《かし》された部将は、茶会を催し、名品を披露することが許された。
当時の大流行とあって、部将たちは茶の作法をひそかに習い覚える。だが、晴れて茶会を催すことも、茶会に招かれることも信長は許さない。
従って、何か目覚ましい戦功を立てて、名品を下賜されたい、諸将は憑《つ》かれたもののようにそれを渇望した。
これは、信長の隠れた思惑であった。
あるじは、戦のたびに戦功者に報いなければならない。古今東西、その報償は領地か財宝であった。
それは、戦のたびにあるじの疲弊を招く。
殊に信長は、独創的な発想で、四方の敵に対応した。農民を徴発せず、傭兵を主力とした機動軍団の創設である。機動軍団を支えるのは年貢と、矢銭《やせん》・関銭《せきせん》などの税である。
部将に領地を与えると、機動軍団が痩《や》せ細る。
領地は惜しまなければならない。その代償として名品の茶道具を与え、茶会を催す特権を付与した。
どれ程の効果があったか。
美濃攻めの際、墨俣《すのまた》の一夜城を築造した藤吉郎に与えた報償は、抹茶の小袋一つであった。藤吉郎は狂喜して、上司や知友に振舞った。小袋の茶は瞬く間に無くなった。以後、藤吉郎が名品の茶道具を下賜されるまでには、十余年の歳月を要した。
小者上がりの戦功に、消耗品の抹茶一袋を与えるところが凄い。
これは後の話だが、武田氏滅亡の戦で、戦功第一と称された滝川|一益《かずます》は、信長所有の大名物《おおめいぶつ》、珠光小茄子《しゆこうこなす》の茶入をねだったが、信長は許さず、関東管領《かんとうかんれい》の官職と、東国三郡を与えた。一益は落胆の余り「茶の湯の冥加《みようが》、尽き候」と、嘆いたという。
信長にとって、茶道具の名品は勲章≠ナあった。
後世、平民出身のナポレオンが、部下に与える褒賞として、勲章制度≠創始したのは、これより二世紀以上も後のことである。
京に戻った光秀は、信長に報告した。
「どうであった。何か得るところ有ったか」
「驚きました。堺の千宗易殿と出逢いました」
光秀は率直に打ち明けた。
「朝倉に鉄砲火薬、弓矢刀槍を運んだ帰りであろう。向うの様子はどうだ」
「…………」
光秀は一瞬のうちに、おのれの使命を理解した。芦浦観音寺行きの目的は、宗易と接触する為だったのである。光秀は流浪の頃、宗易に雇われ、隊商の護衛を務めた旧知の間柄である。
堺の商人として、敵国浅井・朝倉の軍事について、信長には喋《しやべ》り難い。それで偶然を装い、光秀を派遣した。
「傲《おご》っております」
光秀は、短切に結論を述べた。
「であろうな。無敵のおれを破ったのだ」
信長は、微笑して見せた。
「桶狭間《おけはざま》などは紛《まぐ》れ当り、まともに戦えばあのざまだ。勝てると……」
「それはよい。反攻を起す気配はあるか」
「そこまでは、なかなか……とりあえずは南近江に小部隊を幾つか出し、治安を攪乱《かくらん》しつつ、六角残党を糾合し、あとは蹶起《けつき》した本願寺と呼応し、京を挟み撃ちにしようと……」
「わかった。もういい」
信長は、うるさそうに制して、宙の一点を瞶《みつ》めた。
「それで、策はあるか」
「は……」
「うぬの策を聞いておるのだ。有るなら喋れ」
どうも、話しにくい相手である。光秀は度胸を決めた。
「城攻めは不可と思います」
「当然だ、浅井・朝倉の城に手間暇かけてはおられぬ……一気呵成《いつきかせい》に奴らを叩きのめし、奴らを封じ込める」
「では……越前攻めは……?」
信長は、苦い顔で言った。
「そんな暇はあるまい。本願寺が動く。いやはや忙しい事だ」
信長は、性急に続けた。
「それで、奴らをどう城から誘《おび》き出す」
その答えには、光秀は自信があった。
浅井の南近江の最端基地は佐和山城(現・彦根付近)で、家中切っての剛将磯野丹波守|員昌《かずまさ》が守る。浅井の本城小谷城とは距離が遠いため、関ヶ原北方に横山城を持つ。横山城は小城だが交通の要衝だけに守りが堅い。
光秀の策は、まず横山城を攻める、というのである。
「なんだ、やはり城攻めか」
「いや、これは餌にござります。大軍を催して囲むだけでよろしいかと存じます。捨ててはおけぬと小谷城から浅井が出ます。こちらの軍勢が多ければ、朝倉に救援を要請します。朝倉は前の戦の義理があり、相手が上様と聞いて、猛《たけ》り立って出陣するは必定……」
「その傲りの冷えぬ間に始めなければならん」
信長は脳裏に地図を思い浮べた。
横山城の山の北端は|龍ヶ鼻《たつがはな》という。その前面、姉川《あねがわ》の流れを挟んでの決戦となろう。構想が次々と湧いてくる。もう光秀は不要の上に邪魔になる。
「十兵衛、軍勢を大津に移し、大掃除をしろ。飯炊《めした》きの要領でやれ」
信長の命令は、翻訳が難しい。大方湖南回廊の打通であろうと、光秀は見当をつけた。
光秀は、与えられた四千の寄騎《よりき》に自分の手勢を加え、南近江一円の掃討作戦を開始した。
敵は、北近江から侵入した浅井の遊撃隊と、鈴鹿《すずか》山系の山中に蠢動していた六角・三好の残党である。彼らは呼応して湖南平野の六角の廃城に立て籠り、徹底抗戦の構えを示した。
六角家の旧城は、十八城もある。光秀はゆるゆると攻勢を展開した。信長の言う飯炊きの要領は、始めチョロチョロととろ[#「とろ」に傍点]火で炊き、中ほどはパッパと強火《つよび》、あとは赤児が泣いても蓋《ふた》とるな、とある。あとは二度と敗残兵に蠢動させぬよう、蓋をしておけの意であろう。
世間の耳目が光秀の攻勢に集中する間《かん》、信長は動いた。動くと速い。彼は近江|神崎郡《かんざきごおり》から根平峠を越えて伊勢三重郡にぬける山岳地帯のけもの道を駆け抜けて行く。俗に千種越《ちぐさごえ》≠ニいう。
この時、道案内をつとめた地侍が、後に飛躍を遂げる蒲生賢秀《がもうかたひで》と、布施藤九郎《ふせのとうくろう》、菅六左衛門である。
御在所山《ございしよやま》(標高約一千二百十メートル)近くの山中で、信長は、予想だにせぬ狙撃に見舞われた。
杉谷善住坊《すぎたにぜんじゆうぼう》という近江杉谷の住人で、鉄砲の名手といわれる男が、六角承禎に雇われ、千種越の杣道《そまみち》に潜んでいた。
道は一段と嶮岨、馬足も儘《まま》ならない。崖上から拳上《こぶしあ》がりに狙った手練《てだれ》の二ツ弾が信長を襲った。だが信長の不測の動きで弾は二発とも外れ、袖を少しかすっただけであった。
一部の史書や俗書には、信長はこの時その片袖を後続の将士にふり翳《かざ》し、「天運、われにあり」と揚言したとあるが、実際はおそらく何事もなかったように通り過ぎたであろう。善住坊は後に捕えられ、処刑された。
信長の岐阜帰着の報を受けた光秀は、俄然火を吹くばかりの攻勢に転じた。押しまくられた浅井・六角勢は野洲川《やすがわ》に陣を布き、必死の抗戦を試みた。
と、信長に追随していた柴田勝家・佐久間|信盛《のぶもり》勢が方角を転じ、野洲川を背後から襲った。腹背に攻撃を受けた浅井・六角勢は忽ち潰滅し、湖南回廊の打通は成った。
その間、信長は濃尾の機動軍団に動員を下令した。目的は北近江浅井勢の討伐である。
信長が浅井征伐に動員した兵力は、必ずしも多くない。周辺諸国に隙あらばと窺う反信長勢力は、過日の越前侵攻の失敗に意気盛んである。それらに備える兵力を充分に配置する要があった。
推定では、岐阜とその近辺にある機動軍団二万を割いたと思われる。それに京から随伴した八千を加え、総勢二万八千。
例によって家康に参陣を求める急使を送ると、信長は先んじて出陣の準備を整えた。
信長は、出陣の身支度に忙殺されている。
「いつもながら、お気忙《きぜわ》しゅうござりますな」
介添えの側室坂氏(名・不詳)は、気兼ねそうに呟く。
この頃、信長の奥を預かる女性は、坂氏が筆頭であった。
信長の正室として、正史に名を留めるのは、美濃の元国主斎藤|道三《どうさん》の娘、濃姫《のうひめ》である。濃姫は名を帰蝶《きちよう》、美濃の姫という意でそう呼ばれた。十五歳で隣国尾張を領する織田|信秀《のぶひで》の嫡男信長に嫁ぐ。これは紛れもない政略結婚であった。
父信秀の歿後、家督を継いだ信長は、道三と同盟、その後ろ楯《だて》を頼んで尾張統一戦に励んだ。
道三は天文二十一年(一五五二)、守護の土岐頼芸《ときよりなり》を追放し、美濃の領主として君臨していたが、その嗣子|義龍《よしたつ》と不和になり、長良川《ながらがわ》の一戦に敗死する。一説には義龍が土岐頼芸の落胤《らくいん》であったためともいう。
道三が末子勘九郎に書き送った遺言書によれば、道三は娘婿の信長に「美濃国を譲る」という譲状《ゆずりじよう》を送ったというが、よほど両者は心の通じあう間柄であったと思われる。
道三亡き後、信長は岳父《がくふ》の仇《かたき》である義龍と敵対関係となる。道三が弑虐《しぎやく》された弘治《こうじ》二年(一五五六)の翌年、斎藤家の菩提寺常在寺《ぼだいじじようざいじ》に、濃姫が寄進《きしん》した道三画像が今に残るが、以後、彼女の名は正史に出てこない。
説は種々雑多である。その年信長に離縁されたという説、死亡説、あるいは明智光秀の庇護を受け、永禄十一年(一五六八)ごろまで生存していたという説、最も穿《うが》った説は、信長が敵対関係を機に、子を生まなかった濃姫を、美濃の義龍の許《もと》へ送り返して敵意を明白にしたという説である。
その最後の説は、信長の美意識からみて考え難い。義龍の生母は土岐頼芸の寵妾深芳野《ちようしようみよしの》であり、濃姫の生母は明智光秀の伯母と言われる小見《おみ》ノ方である。異腹の濃姫の始末を敵対関係の義龍に委ねるのは、亡き道三との親交からみて有り得ない。
唯一の手掛りとして、信長の死後、濃姫は「安土《あづち》殿」と敬称され、織田|信雄《のぶかつ》の知行目録にその名が見える。とすると、尾張で余生を送ったと考えるのが至当ではないか。大徳寺|総見院《そうけんいん》の織田家墓所のなかに、「養華院要津妙法大姉《ようかいんようしんみようほうだいし》」の墓碑銘があり、これが濃姫の墓所とも言われている。
ともあれ、実父(道三)は異母兄(義龍)に殺され、その異母兄は三十五歳で若死にした。その嗣子|龍興《たつおき》は永禄十年(一五六七)、夫信長の美濃攻略で国を追われ、越前朝倉家に身を寄せた後、信長の朝倉攻めの際、刀禰坂《とねざか》合戦で討死する。
子なく、父も異母兄も甥《おい》も失い、寄辺《よるべ》なき身となった濃姫は、自ら願って信長の許を去り、尼寺に身を寄せ、亡父母の菩提を弔《とむら》って余生を送ったとみるのが妥当であろう。
さすれば、あえて濃姫を家にとどめなかった信長の心中も、大方察せられるというものである。
因《ちなみ》に、本能寺ノ変の時、やはり本能寺で死んだ「お能《のう》ノ方」を濃姫とみる向きもあるが、戦陣に伴う側女《そばめ》に、濃姫を当てるのは考え難い。これは新しく召し抱えた若い側室であろう。濃姫が生きていれば四十八歳。当時の常識からみれば、側に侍《はべ》るには年をとり過ぎている。
側室の筆頭は、生駒吉乃《いこまきつの》と呼ばれた女性である。正室濃姫が政略結婚の相手であるのに比べ、信長と相思相愛の仲で、濃姫の所在が不明となったのに反し、吉乃はむしろ実質上の正室と呼んでいいほどの存在であった。
生駒氏は、尾張|丹羽郡小折《にわごおりこおり》の豪族で、吉乃は当主|家宗《いえむね》の娘、永禄九年死去し、「久庵桂昌大禅尼《くあんけいしようだいぜんに》」と諡《おくりな》されたことから、別名「久庵様」と呼ばれた。
吉乃は、はじめ土田弥兵次という侍に嫁いだが、夫は弘治二年(一五五六)四月の長山《ながやま》城の戦で討死した。後家となった吉乃は実家(家督は兄八右衛門|家長《いえなが》が嗣《つ》ぐ)に戻り、亡夫の菩提を弔う身となっていた。
たまたま生駒家を訪れた信長は、若い未亡人の麗美に心惹かれたのであろう。鷹狩などに事寄せてたびたび訪れるうち、吉乃は懐妊し、翌年、嫡男|信忠《のぶただ》を生む。
吉乃は、嗣子信忠の生母として清洲《きよす》城に引きとられ、信長と琴瑟《きんしつ》相和するようになる。時に信長二十四歳、吉乃二十一歳、花の年齢である。この頃信長は濃姫と結婚して八年を閲《けみ》している。政略で結ばれた濃姫との仲は、さして愛情が深かったとは思えない。
遂に子を生《な》さなかった濃姫と比べて、吉乃は、次男信雄、長女|徳姫《とくひめ》と、続けて年子を生む。その負担が重かったのであろう、徳姫を生んだあと、産後の肥立ちが悪く、病床につく身となった。暫く生駒屋敷に戻って療養していたが、小牧山城を築城した信長は、城内に新居を設け、病身の吉乃を呼び寄せ、自ら手をとって案内したという。
吉乃を小牧山城に迎えて、信長は美濃攻めに励んだが、病状は悪化の一途を辿り、薬石効なく遂に身罷《みまか》ってしまった。
信長の落胆は目に余るほどであった。日がな城の望楼に登り、吉乃が葬られた久昌寺《くしようじ》の方向を眺めては涙した、と伝えられている。
生来、恋慕の情なし、と言われた信長が唯一の愛を抱いた相手は吉乃であろう。以後信長は女人に対する愛情を断ち切ったように思われる。側室は数多く持ったが、さほど執着を持った女人は見当らない。
坂氏は、伊勢の豪族の出であるとしか伝わらない。おそらく伊勢を制圧する折に、帰服した豪族の娘の美貌に眼を止め、側室としたものであろう。
坂氏は、永禄元年、信長の三男|信孝《のぶたか》を生む。同じ年、吉乃が生んだ次男信雄より二十日ほど早かったと言われているが、すでに正室同然に扱われていた吉乃に遠慮して、三男として扱ったのであろう。
元亀元年(一五七〇)のこの頃、吉乃は世を去って、岐阜城奥向を取り仕切るのは坂氏であった。
信長は、当時別の側室を持っていた。近江野洲郡北里村の土豪高畑源十郎の四女で、同じ近江の八尾山《やおやま》城主小倉右京亮|実澄《さねずみ》に嫁ぎ、二人の男子(甚五郎・松千代)を生んだおなべ[#「おなべ」に傍点]ノ方である。
二年前の永禄十一年、信長の六角承禎(佐々木|義賢《よしかた》)攻めの際、信長に帰服し内通した小倉実澄は、日野城主蒲生定秀に攻められ、進退|谷《きわ》まって自害する破目となった。夫を失ったおなべ[#「おなべ」に傍点]は、二人の子を連れて信長を頼った。信長はとりあえず岐阜城に母子をとどめ、湖南平野の制圧を達成した。
その年の秋、信長は近江神崎郡の永源寺に寺領安堵状を与え、おなべ[#「おなべ」に傍点]ノ方の館を造った。
おなべ[#「おなべ」に傍点]ノ方との間に二男一女(七男|信高《のぶたか》・八男|信吉《のぶよし》・振《ふり》姫)を生したところをみると、信長は湖南回廊の往き来に立ち寄ったらしい。小倉実澄の遺児甚五郎・松千代にも、本領安堵をしているところをみると、かなり気に入っていたとも思われる。
――いつもながら、気忙しい。
坂氏のその言葉には、閨《ねや》の怨言《えんげん》の意が含まれている。越前侵攻を企図して以来、信長は湖南に足を留《とど》める事が多くなった。男子の大志に無縁な女人は、愛憎のみを事とする。
信長には、そうした女人の業に思いやる心はない。
「貧乏所帯だ」
信長の言葉は、例によって短切である。彼の言う貧乏は金銭ではなく、兵力のことであろう。まさに貧乏暇なしである。
「一度お伺い致しとう思うておりました。殿は京へお移りなされます御所存でござりますか」
「いや、京は兵家にとっては魔性の住処《すみか》だ」
信長は、炯眼《けいがん》よく見ていた。京都朝廷、足利将軍家、陰謀・策略渦巻く京は、定住するところではない。
「では、このまま岐阜に……?」
坂氏は、心躍らせた。
信長は、首を横に振った。
「今、迷うておる。人間五十年、夢まぼろしの一生に、何を為《な》すべきか……」
信長は、人生を五十年と思い定めていた。最愛の吉乃を失ってから、特にその感が深い。この年三十七歳。天下統一、百余年続いた戦国の世を泰平に戻すことも考えないではなかったが、余りにも人生は短すぎる。
――だが、その基盤となる何かができる筈だ。
戦の無い世の中は、誰か後の人間が作るであろう。信長ができることは、その障害となるものを打ち壊しておく、その一事に尽きるであろう。
――それは、何だ。
単純に考えれば、諸国に割拠する群雄の武力を打ち砕くことであろう。だが、信長の思考はもっと奥深くを探っていた。
――世の進化、時代の発展を妨げる最大の障害は何か。
それがまだ思い当らない。思いつかぬままに当面の敵、まつろわぬ者どもを征伐しなければならない。
心|急《せ》いた。
「征《ゆ》くぞ」
坂氏の思いの丈《たけ》を半ば聞かぬまま、発った。
元亀元年六月十九日、岐阜を発した信長軍団は北近江浅井領に雪崩《なだ》れこんだ。即ち一部兵力を以て浅井領南部の要衝横山城を囲むと、本陣を浅井家主城小谷城の前面、虎御前山《とらごぜやま》に進め、城下を焼き払って挑発した。かと思うと一転、軍を退《ひ》いて横山城の丘陵北端、龍ヶ鼻に腰を据え、姉川の流れを前面に、陣形を整えた。
丹羽長秀三千、氏家卜全《うじいえぼくぜん》・安藤|守就《もりなり》各一千の軍勢に囲まれた横山城は、懸命に救援を求めた。横山城は南近江侵出の重要拠点であり、主城小谷城と唇歯輔車《しんしほしや》の関係にある。浅井は越前朝倉に援軍急派を要請し、その来着と呼応して、出撃を開始した。
その頃、姉川南岸に信長軍の布陣が終った。
先 鋒 坂井|政尚《まさひさ》 三千
第二陣 池田|恒興《つねおき》 三千
第三陣 木下藤吉郎 三千
第四陣 柴田勝家 三千
第五陣 森 可成《よしなり》 三千
第六陣 佐久間信盛 三千
各陣の士卒は過半、最近徴募した傭兵である。それを寄騎として各将に与えた。かつて美濃攻めに徴募の兵を鍛えた実績に倣《なら》う意味があった。信長は危険を承知でそれを実施する。それほど兵力は逼迫《ひつぱく》していた。
遅れて家康の三河勢五千が着陣した。
信長は、すぐさま陣形図を示した。
「わが軍勢はこのように布陣した。三河殿はいかがなされる」
家康は、物見台で信長軍の布陣を望見した。
六陣の横隊は、階段状に陣している。が、前面の姉川の上流は、陣形の右翼の端で急に折れ曲り、各隊の横を流れている。水深が浅いため、敵が強行渡河して陣の横腹を衝いてくる恐れがある。
各隊は、それを予期して、右翼を退《さ》げ備えている。
――右肩下がりの陣は、左肩を衝かれると弱い。左翼を突破されたらひとたまりもない。
家康は、即座に決断した。
「それがしは、左翼に陣を布きましょう」
信長は、それを待っていた。剛強を誇る三河勢に任せれば、陣形の弱点は補える。
家康は、信長軍の梯形《ていけい》陣の左、半里ほど離れた岡山に陣した。
第一陣 酒井|忠次《ただつぐ》 一千
第二陣 小笠原長忠 一千
第三陣 石川|数正《かずまさ》 一千
本 陣 大久保|忠世《ただよ》・榊原康政《さかきばらやすまさ》 二千
信長は、予備軍から稲葉一鉄一千を両軍の中間に置き、万一の援兵とした。
姉川へ急行中の浅井・朝倉は早くもそれを知った。
浅井・朝倉勢は、払暁戦を予定して夜行軍中、草野川《くさのがわ》で小休止をとる時、物見の知らせを受けた。
――信長と家康、どちらの敵をとるか。
浅井長政は、言下に答えた。
「信長は、われらの敵、朝倉殿は三河勢にお立ち向い下され」
長政は八千の手勢で信長軍二万四千に立ち向い、朝倉勢一万は家康軍五千と戦えという。さすがに長政は名にし負う勇将であった。
六月二十八日の朝日が空を明け初《そ》める頃、朝倉勢が行動を開始した。
――支援の軍が遅れをとれば士気がだれる。戦はわれら朝倉勢が先手。
主将朝倉|景健《かげたけ》は、先鋒朝倉|景紀《かげのり》三千に突撃を命じた。
「来たぞ!」
姉川の水辺、葦《あし》の葉陰に展開した徳川第一陣酒井勢の鉄砲隊が見た敵影は、まさに雲霞《うんか》の大軍であった。
朝倉勢は遮二無二《しやにむに》浅瀬に兵馬を乗り入れた。先鋒朝倉九郎左衛門景紀の三千は、水を蹴立てて突進する。その水煙は人馬を覆うほどの勢いを示した。
迎え撃つ鉄砲火薬の白煙と銃声は、葦の茂みをゆるがす。
「かかれーッ」
猛将酒井忠次は叱咤《しつた》した。酒井隊一千は水際で川縁《かわべり》に駆け上がろうとした朝倉景紀を迎え撃ち、川中へ押し返す。
朝倉勢が乱れたと見て、第二隊前波新八勢三千が姉川に兵馬を乗り入れた。一千対六千、寡勢《かせい》の酒井勢は忽ち押され、退く。朝倉・前波勢は渡河して第二陣小笠原長忠勢に突入する。人馬入り乱れての乱戦となった。
龍ヶ鼻本陣の物見台で望見する信長は、感嘆した。
――さすがに三河者は強靭《きようじん》だ。
三河は農民の国だ。領主と領民の結び付きが深い。商いで人が流動する尾張には、それが稀薄《きはく》である。
だが、領民の兵農一致は、動員力に限りがある。
――傭兵制は、已《や》むを得ぬところか。
その信長軍の傭兵に、満を持した浅井勢が戦端を開いた。
抑《そもそも》、この合戦の主因は浅井長政の背叛にある。長政は父久政の陰謀を容認して、信長を窮地に陥れた。今度の姉川合戦はその総決算である。
「われらが主軍ぞ、朝倉勢におくれをとるな」
浅井長政にためらいはない。剛毅|闊達《かつたつ》の長政は、半面単純な男であった。彼に大局観はない。所詮《しよせん》北近江の木強漢《ぼつきようかん》に過ぎない。
浅井勢先鋒、近江佐和山城主、磯野丹波守員昌の手勢千五百は、姉川に突入した。
その勢いの凄《すさ》まじさは、信長勢を戦慄《せんりつ》させた。
「あッ、磯野丹波」
「丹波が手勢ぞ!」
浅井家随一の猛将と聞え高い磯野員昌の手勢千五百の突進は、信長軍の第一陣坂井政尚勢を畏怖《いふ》させた。
坂井政尚は、かつての美濃斎藤家で豪勇を謳《うた》われ、信長は彼の資質を見込んで先鋒を托《たく》したが、彼をもってしても、新徴募の傭兵の浮足をとどめ得なかった。
磯野員昌は、信長軍の右肩下がりの弱点を見抜き、左肩を目掛けて斜めに襲いかかった。
二倍の兵力を持つ坂井政尚も、その勢いに敵しかね、みる間に崩れ、潰乱状態に陥る。
――戦況、われに有利。
すかさず浅井勢第二陣浅井|玄蕃允政澄《げんばのじようまさずみ》一千が姉川を渡って戦場に加わる。更に第三陣|阿閉《あつじ》淡路守|貞征《さだゆき》一千が背後から押す。
潰乱した坂井勢は乱戦の中で政尚の嫡男久蔵を始め士卒百数十を失い、第二陣池田勝三郎恒興勢三千の中へ雪崩れこむ。
磯野員昌・浅井政澄勢は、嵩《かさ》にかかって池田勢に突入した。阿閉勢も遅れじと加わって突撃する。池田勢は一気に崩れて第三陣木下藤吉郎勢に救援を求めた。木下藤吉郎は叱咤怒号して支えようとしたが果さず、第四陣柴田勝家勢に乱入するほかない有様となった。
柴田勝家は、前《さき》の湖南回廊打通作戦に、六角承禎の逆襲を受け、窮地を脱する際、甕割《かめわ》り柴田≠フ異名を轟《とどろ》かした程の勇将だが、味方の総崩れに為《な》す術《すべ》なく、必死防戦に努めながら後退するに至った。
――勝機は今。
本隊三千五百を率いる浅井長政は、残る予備隊|新庄《しんじよう》駿河守|直頼《なおより》一千を戦場に投入した。
六陣の中、四陣まで潰乱状態となるのを望見した信長は、第五陣森三左衛門可成に陣形の死守を命ずるとともに、第六陣佐久間信盛に森勢への支援を命じ、全軍の潰乱を食い止めようと図った。
戦況は飽くまで信長軍に非である。浅井長政が本陣の兵力三千五百を、機を見て戦場に投入すれば、勝敗は決するかに見えた。
だが、長政は決断をためらった。
――信長には、何か企みがある。
それは、この窮状に、信長の本陣五千の精兵が未だ動かない。虚勢かと迷い、信長の意中を量りかねた。
信長は、そのためらいを計算に入れていた。
――この五千は、敵|殲滅《せんめつ》の決め手。
別に信長は、ひそかに横山城包囲網の中から、氏家卜全一千、安藤守就一千を抽出、姉川上流(戦場の右手)を渡河させ、浅井勢の伸びきった陣形の横を衝く作戦を実施していた。
信長六陣の潰滅が早いか、氏家・安藤勢の奇襲が間に合うか、合戦の帰趨《きすう》は一点にかかっていた。
家康は、寄騎として与えられた稲葉一鉄勢一千が、砂塵《さじん》をあげて信長軍左翼へ引き返すのを見ていた。
――案の定だ。だから寄騎というのはあてにならん。
それは家康のひがみというべきだろう。信長軍六陣の陣形は左翼に弱点あり≠ニ見た浅井勢によって、左方から斜めに攻められ、次々と崩れて行った。戦巧者の稲葉一鉄は咄嗟《とつさ》に判断した。
――左翼の攻勢を食い止めなければ、全軍が崩壊する。
彼は独断で信長の六陣の左翼に馳《は》せ戻り、奮戦して敵の突進を妨げた。ために浅井勢の攻勢がやや鈍ったことは隠れもない。
家康のひがみも無理ないことではあった。信長軍六陣一万八千は、浅井勢突進隊四千五百に押し捲《まく》られて、稲葉一鉄の加勢を頼みに懸命の防戦中である。
――四倍の兵力を持ちながら、何たる弱さだ。
信長の兵の実態を知らぬ家康は、腹立たしい限りだった。家康軍の三陣三千は、朝倉勢六千の猛攻に堪えているさなかではないか。
それも今は五分と五分だが、朝倉本隊四千が投入されれば、敗北必至の状勢である。
――どうする。どうすればいい。
二十九歳の家康は歯の根が合わなくなった。
「おい」
大久保忠世の声に応じたのは榊原康政だった。
「やりますか」
とみる間に彼は駆け出した。
家康は呆気《あつけ》にとられた。
「おいおい、どこへ行く」
「まあお任せあれ、殿は居坐っておればよろしい」
榊原康政は、本陣の兵一千を抽出し、半里ほど左へ迂回《うかい》し、姉川を渡り、田畑を越え、三田村付近の朝倉本陣の右側面を衝いた。
朝倉本陣は、思わぬ奇襲に潰乱した。
すかさず家康本陣の大久保忠世が号令した。
「鬨《とき》の声を上げろ」
時ならぬ鬨の声に、死に物狂いの敵味方は、朝倉本陣の潰乱を見た。
――われ、敗れたり。
戦場にあった朝倉勢は忽ち乱れ、先を争って退却し始めた。
朝倉勢の潰乱は、浅井勢に衝撃を与えた。朝倉本陣を四分五裂した榊原康政勢は、勢いに乗じて浅井本陣に迫った。
浅井の全軍が動揺するさなか、迂回した氏家・安藤勢が浅井突進隊を横あいから衝いた。
浅井勢は総崩れとなり、小谷城に逃げこんだ。朝倉勢は越前へ遁走した。
信長は、追撃をとどめた。何故かは歴史の謎とされている。余力が無かったと思われる。
史上、信長の姉川合戦に対する評価は、必ずしも高くない。
信長が動員した兵力は、横山城攻囲軍や同盟軍家康勢を加えると、三万三千にのぼる。
対する浅井・朝倉連合軍は一万八千である。兵力劣勢でありながら、浅井・朝倉勢は終始攻勢をとり、優勢に推移した。戦は家康勢の善戦健闘と朝倉勢の無策、それに横山城攻囲軍の一部の作戦行動によって、信長軍が辛《かろ》うじて逆転勝利するが、信長が当初企図した筈の浅井征伐は達成できず、以後三年間にわたって浅井・朝倉の絶え間ない攻勢に悩まされ続けた。
それゆえ、姉川合戦は信長の軽率な作戦であったという。
越前侵攻の失敗(これは明らかに信長の失敗であった。彼は浅井氏の背叛をまったく予期しなかった)は、各地の反信長勢力を活気づけた。そのため信長は備えの兵力を多く割かなければならなくなった。
――信長が、新たな侵攻軍を組織するには、一年近くかかるであろう。
世人はそう見た。だがその間、湖南回廊が遮断されたままであったら、信長は京畿を失い、元の濃尾の一大名に成り下がるほかない。
信長は、無理を承知で攻勢に出ることを決断した。湖南回廊の打通と、恒久確保である。それには北近江浅井に痛棒を与えるしかない。
機動兵力には、不本意ながら急募の傭兵を用いることとした。六陣一万八千の過半を訓練・選抜の行き届かぬ傭兵で編制した。
信長は、前線六陣の崩壊を予想した節がある。六陣のうち四陣までが潰乱し、残る二陣が必死懸命に支えている時も、精強五千の本陣の兵を動かさなかった。六陣が潰滅しても精強五千の本陣が迎撃すれば、疲労した浅井勢と充分に戦える。その間に横山城攻囲軍から抽出した部隊が横腹を衝けば、勝利は間違いない。
確かに勝った。家康勢の予想外の働きもあって、勝利は完璧であった。敵は算を乱して小谷城に逃げこんだ。
信長は、姉川を渡ったところで軍をとどめた。
部将たちが追撃戦を交々《こもごも》進言したが、信長は言下に退けた。
「口出し無用」
信長は、四散した六陣の兵をまとめるに三日を費やし、士卒の考課表を検分して軍団を再編制すると、さっさと京へ引き揚げた。
信長にとっては、姉川の勝利だけで充分だったのである。それよりも、急がぬと大業が危うい。信長にはやるべきことが山積していた。
人には、見込違い・思惑違いが多々ある。天才と雖《いえど》も人である以上、錯誤は免れない。
姉川合戦の勝利は、信長が期待した程の効果を齎《もたら》さなかった。それどころか四辺の反信長勢力に火をつけてしまった観がある。
信長は、姉川合戦の事後処理を手早く片付けた。攻略した浅井の支城横山城に木下藤吉郎を入れ、兵三千を与えた。
「抑えよ、挑むな」
信長は、短切に方針を指示した。
話は多少前後するが、信長の機動軍団が去ると、浅井勢が時をおかず来襲した。
藤吉郎には、戦の天才的な謀将が臣従している。元美濃|菩提山《ぼだいやま》の城主竹中半兵衛|重治《しげはる》である。信長の美濃攻めの際、命を受けた藤吉郎が三顧《さんこ》の礼を尽して帰服させたが、半兵衛重治は信長に臣従することを避け、すすんで藤吉郎の家臣となった。天才は天才を知るという。互いに相容《あいい》れない性格なのであろう。信長もそれを感じて、藤吉郎に属させた。
藤吉郎は、半兵衛に師礼をとり、客将とした。
浅井勢が攻め寄せたとき、半兵衛重治は台上に藤吉郎とその本陣二千を置き、自らは一千の軽兵を率いて山裾に布陣した。
一|揉《も》みに揉み潰そうと攻めかかった浅井勢は、半兵衛の陣の難攻をいやというほど思い知らされた。前面に深田があって細い畦道《あぜみち》は軍勢の展開を許さない。迂回しようとすると、崖や地隙《ちげき》を利した伏兵が盛んに銃火を浴びせる。森や林には逆茂木《さかもぎ》や仕掛けの罠《わな》があって通過を阻《はば》む。
――なるほど、戦の芸とはこういうものか。
感嘆した藤吉郎は、以後横山城を半兵衛に委《まか》せ、得意の調略に専念した。
湖東の要衝佐和山城を守る浅井家の侍大将磯野丹波守員昌が久政・長政を見限り、信長に帰服したのは、それから間もなくである。
姉川合戦から半月も経たぬうちに、浅井が兵を催し反攻を試みたことは、信長の口から全軍に伝えられた。
(浅井・朝倉の回復は意外と早い。戦捷《せんしよう》に酔うことなかれ)
信長は、全軍に緊張を弛《ゆる》めぬよう警告したつもりであったが、将士は鮮やかにその反攻を退けた藤吉郎と竹中半兵衛の働きに眩惑《げんわく》された。
殊に明智光秀は羨望《せんぼう》した。
――藤吉めは、得難い謀将を持った。
光秀には、弥平次秀満という忠実この上ない謀将があるが、才は到底半兵衛に及ばない。
――よき家臣が欲しい。
光秀は、美濃出身の稲葉一鉄の家臣、斎藤|内蔵助利三《くらのすけとしみつ》を誘って召し抱え、信長の説諭を聞き入れず、不興を買ったこともある。
藤吉郎は、生涯を通じてよき家臣に恵まれ続けた。運の良さもあるが、性格にもよる。藤吉郎は卑賤の出であることを逆にひけらかし、無智無学を包み隠さず、あけっ広げに人に接し、家臣であろうと意見を素直に受け入れた。あるじとしてこれ程仕え易い人間はない。
光秀にその真似は到底できない。学と教養が人を弾《はじ》く。彼にとってよき家臣とは、彼に教えを乞い、忠実にその命に服し働く士である。光秀の藤吉郎に対する羨望は、無い物ねだりに等しい。
そのうちに藤吉郎は、浅井家随一の豪勇、磯野員昌を調略し、佐和山城を信長に献じさせた。信長はその機会に姉川合戦の論功行賞を発表した。戦功の第一は明智光秀である。信長はその探査能力、予想の確かさと、作戦立案を重視した。第二は森可成、前軍六陣の崩壊を食い止めた決死の勇を認めた。
評価の意外性は、客軍家康に対しても同じだった。朝倉勢が、家康の前軍三陣を掻《か》き乱すさなか、朝倉家随一の猛将|真柄《まがら》十郎左衛門|直隆《なおたか》を槍で突き伏せた本多平八郎|忠勝《ただかつ》の働きを激賞し佩刀《はいとう》を授けたが、戦の勝因となった榊原康政の迂回作戦にはひと言も触れない。
――余計な策だ。
信長には、氏家卜全・安藤守就の迂回策があった。それが完璧に実施され、浅井・朝倉勢を殲滅する構想は、家康軍の思いもかけぬ逆転勝利によって崩れたという思いがある。
家康に報いた褒賞は、初花《はつはな》の茶入一個である。「一国にも代え難し」という名物だが、無風流の家康にとっては何の価値も感ぜられず、長く岡崎城の庫《くら》に眠ることになる。
佐和山城には、丹羽長秀を入れ、四千の兵を配した。
――まず後方整備は一段落した。次なる手は何か。
信長の楽観をよそに、未曾有《みぞう》の大難が勃発《ぼつぱつ》した。大坂石山本願寺の一大攻勢である。
明智光秀に与えられた褒賞は、京都警固役への復帰であった。傍目《はため》には無きに等しい褒賞と見られたが、信長の考えはもっと奥深かった。姉川合戦の勝利は信長の大業をますます発展させる。京都警固役は外交と軍事の両面で多事多端となり、その重要性は昔日の比でなくなる。信長は大抜擢《だいばつてき》のつもりであった。
戦功第二の森三左衛門可成は、織田一族の将領織田|信治《のぶはる》(信長の異母弟)と同等で、共に近江志賀の宇佐山《うさやま》城の守将を命ぜられた。湖南の要衝《ようしよう》大津を扼《やく》する枢要の城とあって、可成の抜擢は注目を集めた。
光秀は、行賞より藤吉郎の働きに関心を持った。
「あの男は、そこもとの生涯の競争相手だな。氏素性、学教養、隔絶した両人がこの時勢時流にどのような働きを示すか、競い合わせて漁夫の利を得る信長殿は、煮ても焼いても食えぬ御方よ」
近頃、信長とも義昭とも疎遠となりがちの細川藤孝は、かこち顔でそう冷評したが、光秀はかえって競争意識を昂《たかぶ》らせた。
――あの馴れ馴れしい下品《げぼん》には負けたくない。
光秀は、八方手を尽して義昭の動向を探り、併せて畿内の形勢探査に全力を傾注した。
果して、異変は醸成《じようせい》されつつあった。
大坂石山本願寺は、信長への叛意をますます募らせ、諸国の宗徒に使僧を派して、反信長の一揆《いつき》を指令する一方、朝倉義景・浅井長政・毛利輝元・武田信玄・上杉謙信らと呼応して兵を挙げるべく、着々と準備をすすめていることが判明した。
更に、阿波に逼塞《ひつそく》していた三好党が、この機に乗じようと、性懲りもなく、兵を摂津に上陸させつつあるという。
――その根元は、あの葱坊主《ねぎぼうず》だ。
葱は立ち姿がいい。すらりとしていかにも清爽《せいそう》の趣がある。だが育ち過ぎると中は空洞で、仲間同士で支え合わぬと折れ曲がる。
盛りに、茎の頂点に嚢状《のうじよう》の苞葉《ほうよう》に包まれた小花を咲かせ、多数の種子を孕《はら》む。その姿を葱坊主と言い、もはや煮ても焼いても食えぬ。葱坊主は若い頃は珍重されるが、頃合いを過ぎると、子種を撒《ま》き散らすだけの存在である。
信長は綽名《あだな》を付けるのがうまい。足利義昭の本質から葱坊主≠ニ名付けた。因《ちなみ》に光秀は金柑頭《きんかんあたま》=A藤吉郎は禿《はげ》ねずみ≠烽オくは猿≠ナある。
光秀の急報を得た信長は、間髪を入れず軍団を率いて岐阜を進発した。足長《あしなが》(韋駄天《いだてん》)信長の名に恥じぬ駿足で湖南回廊を一気に駆け抜けると、京に入らず、山科《やましな》から宇治に抜けた。途中光秀に指令を送った。
光秀は、公方館へ急いだ。
「光秀か、よいところへ来た」
石山本願寺蹶起の報を知ったのであろう、義昭は上機嫌であった。
「信長のたっての要請にございます」
「なんだ、どこぞと和睦の相談か」
「いえ、石山本願寺を討伐する。ついては上様(義昭)の御親征を仰ぎたい。明日伏見で会同を、と願っております」
義昭は蒼《あお》くなり、次いで怒気を発した。
信長と、石山本願寺の抗争は、この年元亀元年(一五七〇)に始まり、天正八年(一五八〇)まで、ほぼ十年間続いた。途中絶え間がなかった訳ではない。何度か休戦を繰り返したが、暫くするとまた戦火を交え、全面講和に至らなかった。
信長にとって、三十七歳から四十七歳に至る期間の後半生のすべてを賭けた戦といっていい。人は言う。信長が石山本願寺と早期に和睦すれば、彼の大業は早くにほぼ達成をみたかも知れない、と。
それは、信長の大業――彼が目指した最初の目的――が何であったかに依る。彼が岐阜に本拠を構えてから常に用いた印章の「天下|布武《ふぶ》」という標語と、彼の後継者となった羽柴秀吉(木下藤吉郎)が達成した「天下統一」からみて、信長もまた全国制覇を目指した、という説が専らである。気宇広大な論は、宣教師が齎した地球儀を日夜|倦《あ》かず眺めたことから、海外進出を企図しただろうといい、また彼が建立した総見寺《そうけんじ》に仏像を飾らず、自身を拝めと言ったことから、遂には天皇家を凌《しの》ぎ、自ら神格を得て君臨したであろう、ともいう。
それらの根拠は、信長の洩らした片言隻句が史書に残っている事による。史書はその時代に生きた当事者や、側近・右筆《ゆうひつ》が書き残したものが、一級史料とされる。だが、人は毎日を過すうちに、大言壮語を口にすることもあれば、気分次第で夢でしかない戯言《ざれごと》を、さも信念であるかのように口にすることもある。それらを書きとどめた記録が、一級史料とされる。たとえ本人が書いたもの(例えば日記)でも、事実ありのままを記したとは言い切れないのが人間である。
ただ、これだけは言える。信長は極端に美意識の強烈な人間であった。彼は老いさらばえた自分を想像しなかった。幸若舞「敦盛」の一節、「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり……」云々は、彼の人生観を物語る。人生五十年、そのうち三十七歳から四十七歳までの貴重な年月を費やしながら、彼が考えたことは何であったか。取り返しのつかぬ年月を何故惜しまなかったのか。何故石山本願寺が全面屈伏するまで、妥協の手を打たなかったか。
その疑問を前提として、物語をすすめたい。
――将軍親征の御旗を陣頭に、軍を進めたい。
信長の要請は、強請《ごうせい》に等しい。義昭は怒った。石山本願寺の蹶起も、三好党の摂津上陸も、義昭自身が画策した陰謀である。それを親征するのは、滑稽以上に悲惨の趣がある。
だが、結局は屈伏した。征夷大将軍の出陣ともなれば、本来は内裏《だいり》に参内して節刀を拝領するなど、慣例に則《のつと》った儀式が必要である。それらをすべて省き、蒼惶《そうこう》と出陣した義昭は、陣頭に足利家二ツ引両の旗幟を掲げた。
石山本願寺は、浄土宗の一派である浄土真宗本願寺教団の本拠である。
親鸞《しんらん》を開祖とする浄土真宗は、京都東山の大谷廟所《おおたにびようしよ》を中心に結集したことに始まり、親鸞の曾孫|覚如《かくによ》の代にその本廟が本願寺に成長した。
その後、蓮如《れんによ》(兼寿《けんじゆ》)の代になって時流に乗り、大教団に成長し、門徒は京畿から中部・北陸地方にひろがった。世の中が乱れると新しい宗教が勃興《ぼつこう》するのはいつの時代も同じで、人々は一途に救いを求める。その弱さが宗教にとって付け目であり、一向一心に阿弥陀仏を念ずれば極楽往生疑いなしと説く一向宗(浄土真宗)は、庶民大衆に絶大な人気を獲《か》ち得た。
天台・真言宗など既成宗教は、一向宗の隆盛に脅威を感じ、寺号の使用を禁じた程である。そのため教団はその拠点を御坊と呼んだ。北陸の吉崎御坊、摂津の石山御坊(本願寺)がそれである。御坊に仕える僧侶を坊主と呼んだのはそれから始まる。
一向宗は、新興宗教特有の戦闘的布教を行った。そのため、庶民の人気は沸騰したが各地の領主は脅威を感じ、弾圧を事とした。門徒はそれに対抗して一揆を起す。三河一向一揆は徳川家の家人《けにん》の過半が一揆側に走り、家康は散々苦杯を舐《な》めさせられた。
蓮如が布教の根城とした加賀では、旧来の領主・土豪が激しく抵抗・排斥し、遂には一揆が起り、教団側が勝利して支配者を追い払い、僧侶・地侍・門徒の代表が合議して統治するという珍しい国まで出現した。
一向一揆の猖獗《しようけつ》は、各地の武将大名の頭痛の種となった。懐柔と討伐、飴《あめ》と鞭《むち》の使い分けが、辛うじて領主の地位を保つ手段であった。
信長は、そうした妥協手段を一切採らなかった。一揆であろうと単なる暴動であろうと、領国の治安を乱す者は容赦なく討伐する。戦乱の世の治安維持は、領主の務めである。
だが、信長は宗教自体を否定しようと思わなかった。戦乱百年、ゆえなくして被害を蒙《こうむ》る庶民は、わずかな希望を後世に求めて信仰に奔《はし》る。安心立命《あんじんりゆうめい》を得るにはそれしかない。
信長の憎悪の対象は、教団と僧侶だった。一般大衆の弱さを好餌《こうじ》にして、布施と奉仕を強要して肥る。彼らの得手は死後の転生である。だが死後、人は無限の暗黒か、転生して安穏悦楽を得るかは、誰もわからない。死後の世界を見聞して戻った者はない。
嘘、と言ったら語弊があろう。だが、宗教と政治は所詮嘘で成り立っている。それゆえに恭倹であらねばならない。自ら発企し、暴動に門徒を使嗾するなど以《もつ》ての外である。
――彼らの真因は何だ。
信長は、初めて思考の壁にぶち当った。
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盤根錯節《ばんこんさくせつ》
信長の強請《ごうせい》によって出陣した将軍|義昭《よしあき》の手勢二千は、伏見を経てその日のうちに、細川|藤孝《ふじたか》の居城|勝龍寺《しようりゆうじ》城に入った。藤孝は不在であった。彼は信長の命により摂津に出陣、|中ノ島《なかのしま》城に出張っている。石山本願寺は現在の大阪城とほぼ同じ場所にあったというから、目と鼻の先である。
元亀元年(一五七〇)九月三日、石山本願寺を包囲した信長軍団に歓声がどよめいた。中ノ島城に、足利家の紋所が翩翻《へんぽん》と風にはためいたのだ。
――やはり将軍家だ、武家の棟梁《とうりよう》だけのことはある。
随伴する光秀は、心が躍った。京にあってはさんざん手を焼かせる義昭だが、戦陣にあっては信長を凌《しの》ぐ威勢があった。
――信長に従うか、将軍家の御為をはかるか、よくよく考えねばならぬ。
光秀には、事に臨んで身の利害得失に迷い、去就をためらう嫌いがあった。
信長は、光秀ほどに義昭を高く買っていない。
――虚位、虚名をもてはやすは、一時的なもの。使いものになるかならぬかは、人間の出来次第である。
信長にすれば、義昭親征の効果など期待していなかったに違いない。彼は義昭に小細工の結果を直接見せつけたかったのであろう。数万の機動軍団が石山本願寺を十重二十重《とえはたえ》に取り囲む。
――坊主までが、軍を催して刃向うか。
その怒りを、形として見せつけた。
戦《いくさ》は緩慢に推移した。信長は力攻を避けた。本気で戦えば、必然的に門徒大衆の大虐殺を招く。威圧すればそのうち屈伏するであろうと考えた。
それが、一大誤算であることに、後日気が付く。それは運命的な誤算であった。
一日、信長は直感的に不吉を感じとった。
――おかしい。近江《おうみ》からの報告が途絶えている。
湖東の木下藤吉郎、丹羽長秀《にわながひで》、湖西の朽木元綱《くつきもとつな》、森|可成《よしなり》からの連絡が、示し合せたように無い。
信長は、摂津出陣中の光秀と村井|貞勝《さだかつ》を呼んだ。
「京へ戻って、様子を見てこい」
九月二十一日の晩、二人のほかに柴田勝家も手勢を引き連れ、大急ぎで帰京した。
すでに十二日頃から朝倉義景が上洛するという噂が駆けめぐっていた京都では、商家が大戸を閉ざし、住民の避難が始まっていた。
光秀は、浅井・朝倉の攻勢がすでに京都間近に迫っていることを直観した。光秀の直観は当を得ており、二十日には、浅井・朝倉軍によって、大津にほど近い宇佐山《うさやま》城が陥《おと》されていたのである。
村井貞勝とその手勢を二条城館の守備に残した光秀は、湖西の物見に出た。
「急げ」
三条|蹴上《けあげ》から九条山を越えると、その予測が当っていることを知った。|日ノ岡《ひのおか》の台上から見はるかす山科《やましな》の田野に、点在する村落が炎上している。すでに浅井・朝倉の偵察隊が侵入している。
天智天皇陵を通過し、|四ノ宮川《しのみやがわ》を越えると逢坂越《おうさかごえ》の峠道にさしかかる。遮二無二登ると峠に仮の関柵《せきさく》があり、小屋の炉にはまだ余燼《よじん》が燻《くすぶ》っていた。
――叡山の僧兵だな。
光秀は、遺留品からそう見破っていた。
大方、近江の信長軍の連絡を断っていたのであろう。
京の北東を扼《やく》する比叡山は、京側の|四明ヶ岳《しめいがたけ》と近江側の大比叡に分れ、最澄《さいちよう》上人が入山して延暦七年(七八八)根本中堂を建立、延暦寺の勅号を受け、天台宗総本山にとどまらず、八宗兼学の道場としての権威を誇る。四、五百の堂塔、千を超える碩学《せきがく》の僧侶のほか、常に数千の僧兵を抱えて、その権力は武将大名を超えるものがあった。
――世に儘《まま》ならぬものは、賀茂の水と賽《さい》の目、叡山の山法師。
平安の昔、白河法皇を嘆かせたその横暴は、今も続いている。
峠から見下ろすと、湖西から大津にかけて、敗残兵が逃げてくる。それを懸命に収容しているのは、佐和山《さわやま》城から急行した丹羽長秀の手勢であろう。
――それにしても、何で僧兵が急に叡山へ引き揚げたのだ。
その訳は、山科の南方、稲荷山《いなりやま》方面にあがった砂塵《さじん》であった。信長が急派した光秀への増援部隊である。
百年にひとり、有るか無しの天才の閃《ひらめ》きというのはどういうものか、凡愚の者にはわからぬとしか言いようがない。
光秀の直観は、精神が対象――この場合は京都市民の俗臭――を直接把握して事態を察知した。直感ではなく直観・直知である。
信長は、説明や証明を経ず、事態の真相を感じとった。即《すなわ》ち直感であり、一瞬の閃きである。
――光秀が対処するに兵力が足りない。
信長は石山本願寺包囲陣から七、八千の兵力を抽出し、寄騎《よりき》として光秀の許《もと》へ急派した。
信長は、極めて仕え難い主人であった。
彼の吐く言葉は極端に短く、その包含する意味は多岐にわたっている。一を聞いて十を覚る理解力がないと、ついて行けない。発する命令は、受領者の能力を目一杯引き出す。
論功行賞は、常に意表を衝《つ》く。桶狭間《おけはざま》合戦の戦功第一は、敵将今川義元の首級を挙げた毛利|新介《しんすけ》や、槍をつけた服部小平太《はつとりこへいた》ではなく、絶えず情報を集め続けた被官の梁田政綱《やなだまさつな》であり、姉川合戦の第一は、作戦立案者の明智光秀とされた。
当座は人を驚かすが、後日よくよく考えてみると肯綮《こうけい》に中《あた》っていることに気付く。論功はそれで一応納得するが、行賞の時期は状況によっておそろしく先になることがある。姉川合戦の光秀がそうであった。京都警固役の再任のまま三ヵ月ほど放置されていた。
それは、すべて信長の胸三寸に納められていた。
――状況は時々刻々に変化する。最も適切な時機に行賞を施す。
決して忘れてはいない、と、信長は言いたいのであろう。だが、それを口にしないから始末が悪い。
そうした信長の独断専行を呑みこまないと務まらない。信長が並の武将なら家臣の大半はとうに逃げ出したに違いない。信長の家臣団は死力を尽して働いた。何が彼らをそうさせたのであろうか。
天才は傾《かぶ》いているという。姿勢がではない。思考が傾《かたむ》いているのである。百万の凡才はその思考の傾斜に眼を奪われ、その飛躍に驚嘆するうち、憧憬《しようけい》の念にとりつかれる。そして無意識のうちにおのれの人生を思う。
――凡愚百万の人生を費やしても、何ほどの事やある。所詮《しよせん》は空しい歴史の埋め草ではないか。せめてものことに、一世の天才の業に力を副《そ》え、その大業に奉仕することで、自分の人生を意義あらしめたい。
書けばくだくだしいが、これは理屈ではない。感覚である。そう感じたとき、凡才は天才の虜《とりこ》になっている。魅力ではない、魔力なのである。だから天才は、人の奉仕に見返りを考えることは要らない。凡才は奉仕することに人生の意義を感得し、喜びを得る。それが見返りなのである。
状況はこうである。姉川合戦の大捷《たいしよう》に信長がひと息ついた虚に乗じて、石山本願寺という当時無類の難敵が、宣戦の旗幟《きし》を掲げた。
信長の機動軍団が摂津へ急行した。湖東横山城で浅井の蠢動《しゆんどう》を抑える木下藤吉郎の裏をかいて、浅井・朝倉は持てる力をすべて動員し、湖西からの侵攻を開始した。その兵力三万、掉尾《とうび》を飾る大兵力である。
狡智《こうち》を極める策謀の主は、足利義昭である。
江北から湖西に侵攻した浅井・朝倉勢が、最初に攻撃したのは、朽木谷の小領主朽木元綱である。不意を衝かれた朽木勢はひとたまりもなかった。急を知らせる暇なく、山中深く遯竄《とんざん》するしかなかった。
湖西を急進した浅井・朝倉勢は、八王子、堅田《かたた》、和邇《わに》などを殆《ほとん》ど無血で席巻《せつけん》し、大津の坂本口を攻撃した。
宇佐山城の守将、姉川合戦戦功第二の森可成と、織田|信治《のぶはる》がこれを迎え討った。可成は信治と共に敢闘したが三万の大軍に抗する術《すべ》なく、枕を並べて討死した。
浅井・朝倉勢と呼応した叡山の僧兵は、地理・地勢に通じているため、危急を告げる急使を悉《ことごと》く斬って、連絡を遮断した。光秀の物見がもう一日遅ければ、浅井・朝倉勢は京に到達していたであろう。
光秀は、まず二千の手勢で敗兵の収容に努めた。次いで援軍の寄騎を併せて総勢一万余を大津に展開し、南下する浅井・朝倉勢を喰い止め、敵手に陥ちた宇佐山城の奪回戦を開始した。
――信長軍の対応は速すぎる。あれは魔王か。
浅井・朝倉勢に畏怖感が蔓延《まんえん》した。折角攻略した宇佐山城は、手も無く奪回された。
光秀の速報を受けた信長は、即座に石山本願寺攻めの方針を一擲《いつてき》した。
「全軍、最速反転せよ」
疾風迅雷《しつぷうじんらい》摂津を撤し、信長は義昭と共に二十三日の夜、京へ戻った。更に翌日、近江の坂本に到着した機動軍団は、浅井・朝倉勢に猛然と襲いかかった。
先鋒《せんぽう》を務めたのは、明智兵団である。信長は威力偵察隊から万余の兵力にふくれあがった光秀の兵団を、そのまま彼に委《ゆだ》ね、軍団組織内の一単位として用いた。
この頃、信長の支配領は増大の一途を辿《たど》り、ほぼ三百万石に達しようとしていた。その支配領を防衛し、四囲の反信長勢力と対抗するための機動軍団もまた肥大化し、信長の統一指揮は徹底を欠く事態が屡々《しばしば》起った。
余人の誰もがその弊に気付かぬうち、信長は断乎改革を発企し、実行に移した。
――組織の肥大硬直は、衰退を齎《もたら》す。
四百年後の昭和・平成の政治家・官僚が耳にしたら、胆《きも》を潰《つぶ》し腰を抜かすであろう。信長は権力の一部をいとも易々《やすやす》と下部に移した。
機動軍団の大部分を兵団に分割し、その指揮を兵団長に委ねる。更に驚くべき事に、その最初の兵団長に、柴田・丹羽・佐久間(信盛)ら宿老を差し置いて、最も新参の明智光秀を充《あ》てた。それが姉川合戦戦功第一の行賞であったことは、言うまでもない。
感奮興起した光秀は、湖西路の北上を開始し、瞬く間に奪われた城砦《じようさい》を回復し、打通《だつう》した。
明智兵団の湖西北上に退路を断たれ、信長の機動軍団の出現に直面した浅井・朝倉勢は、叡山の山中に移動した。
比叡山は、標高こそ一千メートル以下だが、渓谷が複雑に入り組み、急峻の峰々に堂宇があって、天与の要塞となっている。
信長は、宇佐山城に本営を置き、全軍をもって難攻不落を誇る叡山全域を囲んだ。
直ちに山門の僧徒代表を召致して申し入れた。
一、味方するときは、分国内の寺領を元の如く還付する。
一、出家の道理として一方への味方成り難きならば、どちらも見逃がせ。
一、両条とも受け入れぬ時は、根本中堂・山王二十一社をはじめ、山中の堂宇悉く焼き払う。
叡山の僧徒は、当然の如く一蹴した。
「仏法にいらざる口出しは無用」
叡山の戦意は明らかである。
わが国には「王法は仏法を侵すべからず」という、二大権威|棲《す》み分けの不文律が存在し、山門には法皇ですら悩まされた歴史がある。まして叡山が、新興の戦国大名に屈する事は、到底考えられない。
――兵を退《ひ》くしかあるまい。
常識人の光秀にとっても、当然の回答であった。
信長は、その回答を得ると、宇佐山城で長く沈思し続けた。
光秀が抱く思考程度のものは、信長にもある。彼の思考は根本の定義に及んだに違いない。
それと同時に、現状打開の方策が脳裏に駆け廻《めぐ》っていた。
やがて、信長が発した命令は、当り前すぎるほどのものであった。
「囲みを堅固にせよ」
しかし、この作戦は一向に効果を挙げなかった。山砦《さんさい》の敵は、山荒らしが身体を丸めて棘《とげ》を立てたようにうずくまり、戦は膠着《こうちやく》状態になった。
――何たる無芸の策だ。
光秀のみならず、部将の誰もがそう思った。こうしている間にも、摂津の石山本願寺、阿波から上陸した三好党などが、虎視眈々《こしたんたん》と信長の背後を狙っている。
だが、信長は動かない。
信長の真意が判明するのは、二月ほど後のことである。十一月の二十日過ぎ、寒風と共に雪が降り始めた。『武功夜話』には、「時に北風粉雪|頻《しき》りなり、叡山連峰白雪を覆い寒気日を追って稠敷、越前勢は長途の路次深雪のため兵粮続かず」とある。
霏々《ひひ》と降り続く雪は三尺余にも達し、人馬とも動きの取れぬ状態になった。
信長は、独り方策の図に当たるのを期していた。
――湖西の尺余の降雪は、越前、江北の丈余の豪雪。
信長は、浅井・朝倉の補給路打開に余裕を与えぬため、忍耐強く包囲の厳を続けたのであった。
――そろそろ浅井・朝倉が、堪りかねて公方に泣きついてくる筈。
だが、信長にもそう時間はなかった。本願寺や三好党のことも気になるが、雪は包囲の織田軍にも苛酷《かこく》な試練を与えていた。
十二月に入って間もなく、ついに待ちに待った知らせが届いた。義昭を通じて、朝倉から和睦の意が伝えられた。
和睦は信長の望むところであった。だが、足許を見透かされては、浅井・朝倉と義昭をつけ上がらせる。信長は応対に苦慮した。
実はこの十月、包囲網の解けた石山本願寺は、諸国の門徒に一斉|蜂起《ほうき》を号令した。
信長の本領、尾張にも一揆《いつき》勢が蜂起するほど、一向一揆は猖獗《しようけつ》した。中でも伊勢長島は石山本願寺に匹敵する一揆勢の要塞となる。十一月二十一日、長島を監視する尾張|小木江《こきえ》城は一揆勢の急襲を受け、信長の五弟|信興《のぶおき》は討死を遂げ、城は陥落した。
その悲報すらも、信長は堪え忍んだ。信長はその頃、一揆に加担しなかった尾張|聖徳寺《しようとくじ》に文書を寄せた。
「然《しか》れば門下の者(本願寺門徒)の事、男女に寄らず、櫓械《ろかい》に及ぶ(武器を取って敵対する)ほどに、成敗《せいばい》(断罪)すべく候」
信長は、一向宗徒を殲滅《せんめつ》しようというのではない。信長の行動に干渉しなければ、何の宗教でも構わないというのである。ただ武器を取って敵対する者は容赦なく断罪する。
だが、一向宗徒・宗門は、一向宗を信仰せぬ信長を「仏敵」と定め、反信長戦を宗教戦争と断じた。八宗兼学の叡山も本願寺に同調した。宗教戦争の行きつくところ、大虐殺以外にないことは、古今東西の歴史が物語る。人の信仰は理屈ではなく信念の問題である。
信長が抱いた戦の信念と、本願寺・叡山の言う信仰とは、論争しようにも次元が違う。信長を悪逆非道の虐殺者と断ずるのは、古今東西敵に向って弾丸を放った者を、殺人者と断ずるのと同意義である。
信長は、その故なき悪罵《あくば》と、宗門の殺戮《さつりく》行為によく耐えた。重ねて言うが、宗教戦争を仕掛けたのは信長ではない。一向宗の宗門であった。
信長は、雪中の叡山包囲陣に合戦準備を下令すると共に、光秀を本営に呼び寄せた。
「十兵衛(光秀)、所用に事よせ公方を見舞うて来い。さぞかし心配しておろう」
「は……?」
光秀は、信長の真意を量りかねた。
「これより浅井・朝倉に戦を仕掛ける」
「しかし……それは?」
雪に覆われた山岳戦は、山の下から攻める方が圧倒的に不利である。
光秀は、公方を通じて浅井・朝倉が和議を打診してきていることを承知していた。
――和議を拒絶する気か?
ますます信長の意中が読めない。
信長は、洒々落々《しやしやらくらく》と言った。
「京も寒かろう。縮こまっておる公方に、少しばかり汗を掻かせてやれ」
「あ……わかりました」
それで真意が判った。この雪中、敵も味方も難儀していることに変りはない。どちらが先に悲鳴をあげるか、その差は一髪の間である。
傍観している義昭は、浅井・朝倉の滅亡を恐れること頻《しき》りであった。信長は、その焦りを駆り立てて、わが方に有利な和睦を仲介させようと図っているのだ。
――わが殿は、見捨てた筈の将軍の権威を、利用しようと企んでおる。
光秀は、狡猾としか言いようのない信長の戦略に、舌を捲く思いであった。
信長軍の擬勢にまんまと乗せられた義昭は、矢も楯も堪らず、十一月三十日、降雪を冒して自ら三井寺《みいでら》に出向き、必死懸命に和睦調停を行った。結果、両軍とも「将軍の上意|黙《もだ》しがたく」とのことで、十二月十四日、和議成立、双方軍勢を退いた。
和議の条件は、諸書によって異なる。『三河《みかわ》物語』には「天下は朝倉殿持ち候へ、我は二度望みなし」と信長が起請文《きしようもん》を書いたとあるが、これは極端に過ぎて信じ難い。だが、この浅井・朝倉対信長の対陣は、決定的に信長軍が不利で、仮にこの機に乗じて本願寺など反信長勢力が動けば、信長軍は潰滅状態に陥ったであろうと言われた。遠く甲州にあってこれを知った武田信玄は、「朝倉、勝機を逸す」と長嘆したという。
信長は危機を脱した。「当時信長の地位は最も危殆《きたい》であった」と、『近世日本国民史』で徳富蘇峰《とくとみそほう》も言う。
年が明けると、元亀二年(一五七一)である。相変らず信長は、危機のなかにいた。なにせ敵が多すぎるのである。兵書には二方面作戦の不利を説くが、信長の敵は四方八方であった。
昨年暮、将軍義昭の仲立ちで、浅井・朝倉勢と和睦を結んだが、それは叡山から湖西にかけてであって、湖東浅井の小谷《おだに》本城と、木下藤吉郎の横山城は盛んに戦火を交え、いつ合戦が始まるかわからない。
石山本願寺攻めは、続行中である。本願寺の攻勢に呼応して、阿波の三好勢は海を渡り、摂津への侵攻を繰り返す。この方面だけでも信長は、機動軍の一個兵団半を割き、更に外様大名の兵力を投入している。
湖南回廊は、信長にとって生命線である。丹羽長秀・柴田勝家の軍勢が確保に当っているが、旧六角家の残党が鈴鹿山系に出没して蠢動を止めない。
「仏敵」と石山本願寺が指名して、反信長の一揆を使嗾《しそう》した、いわゆる一向一揆は信長の分国に続発して、治安の悪化は一通りでない。なかでも伊勢長島に立て籠《こも》る一揆勢は、石山本願寺を凌ぐ威勢を示し、信長の本国尾張と上方の通行を断ち、容易ならぬ事態となりつつある。
更に、甲斐の豪勇武田信玄が西上の機を窺《うかが》い、家康が占めた遠州への侵攻を繰り返している。
まさに八方|塞《ふさ》がりと言っていい。だが信長はそう思っていなかったようである。相も変らず機動軍団を率い、危殆に瀕《ひん》した味方戦線の補綴《ほてい》に東奔西走している。彼自身がこの事態をどう見、どう打開する心算《つもり》か、窺い知ることを許さぬかのように見えた。
明智光秀が兵団を率い、摂津中ノ島城に細川藤孝を訪れたのは、四月下旬、春もようやく終ろうとした頃であった。
「よう使われておるの、高槻《たかつき》の和田伊賀から委細を知らせて参った」
和田伊賀守|惟政《これまさ》。足利義昭に早くから心を寄せ、流浪の際は、扈従《こじゆう》した。義昭を推戴《すいたい》した信長はその功を賞し、摂津高槻城主に封じた。
高槻に隣する池田城主池田|勝正《かつまさ》は、昨元亀元年、三好党に通じた弟|知正《ともまさ》に追われ、義昭の許に流亡、池田城を占拠した知正の臣荒木|村重《むらしげ》は和田惟政を攻め、一進一退を繰り返していた。
「阿波の三好党が兵を尼崎に揚げましたので、伊賀殿も一時危殆に陥りましたが、どうやら事なきを得ました。これより石山本願寺にひと当て当てて、小細工を封じこめます」
「その小細工の源《みなもと》は、公方殿だ。伊賀殿もわれらもそれで苦しんでおる。皮肉なものだな。流亡中にお助け参らせた公方殿が、われらの敵と通じておる。それと知って打つ手がない」
義昭の兄、足利十三代将軍を弑《しい》したのは、松永久秀と三好党である。
三好党は、阿波にいた足利一族の義栄《よしひで》を擁立して、十四代将軍に就けた。だが同じ年、信長に擁された義昭が上洛を果し、義栄の将軍位は有名無実となり、義栄は敢《あ》え無く病死した。義昭にとって三好党は不倶戴天《ふぐたいてん》の敵である。
その義昭が、信長を憎んで三好党とひそかに手を結ぶ。奇々怪々という外ない。
奇怪が当り前の事のように横行する。それがこの時代の特徴だった。百年、国内で絶え間なく戦争が続く。世相がいかに乱れるかは想像に難くない。肇国《ちようこく》以来、初めて敵に降伏したわが国が、五十年間にいかに国の尊厳を捨て、国民が矜持《きようじ》を擲《なげう》ち、利己的な拝金思想に奔《はし》ったか。政治・官僚組織・経済界の指導的階層の醜態と、無差別殺人が横行する世相を見れば、戦国末期の堕落は当然であった。
信長は、その行動の美意識でも卓絶した人間であり、極めて自制心に富んでいた。そういうと反論する向きもあろう。確かに個々の戦では策謀を用いた。だが大局では至極まともだった。天下統一の野望に燃え、権謀術策に憂《う》き身《み》を窶《やつ》せば、もっと違った進路があったように思われる。少なくとも義昭如き小才子を擁する迂遠《うえん》の策を用いずとも、伊勢・大和を制し、京へ進む手もあった。また浅井との同盟を強化し、退嬰《たいえい》の朝倉を懐柔し、越前に封じ込める方策もある。
信長は姑息《こそく》を好まず、大道を突き進んだ。そのため好んで敵を作った感がある。
「天下|布武《ふぶ》」。人は絢爛《けんらん》たる文字に幻惑された。だがそれは信長特有の美意識から出た言葉で、目的意識は稀薄《きはく》であったようにも思う。
その信長は、一向宗石山本願寺という未曾有《みぞう》の難敵の挑戦を受けた。あえて挑戦という。戦は本願寺側から仕掛けた。理由は簡単である。彼らは信長を「仏敵」と断じた。宗徒(信者)ではない。檀越《だんおつ》(檀家)ではない。宗門に助勢しないから「敵」であるという。
宗教は、富士山登頂に似ている。登山口は宗教・宗派によって異なる。いずれの登山路も嶮岨《けんそ》難路で、一心不乱でなければ登攀《とうはん》できない。苦労の余り他の登山路に迷ってはならない。五欲を捨て、戒律を守り、行きつく頂上は安心立命《あんじんりゆうめい》の法楽世界である。
他の登山路を認めない。宗教・宗派の鉄則である。それが排他の狭量を生む。
苛烈な条件下の宗教は、戦闘的に傾く。元寇《げんこう》の際の日蓮宗も、戦国期の一向宗もその道を辿った。
殊に一向宗は、仏法を超え王法(国土の支配権)に奔った。それは乱脈な戦国期における自衛の意味もあったのであろう。それと彼らは宗教の持つ「既得権」の確保に身命を賭けた。
戦国期の武将は、現在の人間とは比較にならぬ程の切実な無常観を持っていた。そのため罪障消滅・後生安楽と、子孫の繁栄を願って仏の道に帰依し、在家僧となる者が多く見られた。上杉謙信、武田信玄を始め、北条|早雲《そううん》、島津|義久《よしひさ》・義弘《よしひろ》、筒井|順慶《じゆんけい》、金森|法印《ほういん》(長近)等々、法体《ほつたい》で戦場に臨んだ武将の例は、数限りない。
その点、信長は極めて異質の人間だった。宗教の存在価値は否定しなかったが、仏に信倚《しんい》する心を持たない独特の無常観を持った。「死なうは一定」、死はしかときまり訪れる。「人間五十年、夢まぼろしの如くなり」、この世は夢まぼろしの五十年であり、死とともに消え失せる。死とは一瞬に異次元へ転移することである。
――人は、一瞬の夢でしかないこの世で、何を為《な》せば意義ある生となるか。
信長は、透徹した論理を編み出す程の哲学者ではない。ただ感覚的にそう会得したに過ぎない。だから使命感は直面する事態に即応して変った。美濃攻め、上洛戦、浅井・朝倉戦は、事態の打開策であった。
彼は当面の敵と果敢に戦いながら、考え続けた。この乱れた世を是正する。だがそれは到達し得ない夢想でしかない。
――おれ一代で、できることは何だ。
その結論を得ぬうち、彼は途方もない難敵と遭遇した。一向宗石山本願寺と比叡山延暦寺、宗教との衝突である。
現実主義者であり、徹底した実証主義者である彼が、宗教と争う愚を覚らぬ筈がない。
だが、信長はその中から結論を得た。
――愚は、相手方だ。
彼のいう「愚」とは、「既得権」にしがみつくことである。
開祖は、無私無欲・奉仕こそが世を浄化し、人を救う道であると説く。世人はその教えに感銘し、広宣流布のため種々の特権を認めた。寺域・寺領の守護不入、地子銭《じしせん》の免除、通行自由など、「王法(地上支配権)は、仏法を侵さず」がそれである。
宗教・宗派は代を重ねるうち、宗門が変貌を遂げる。既得権益の確保拡大を事とし、宗徒に布施・喜捨を強要し、財物を貪《むさぼ》り、戒律を破って酒色にふけり、淫楽《いんらく》に溺《おぼ》れる。戦国末期の世の乱れに乗じた宗僧の堕落は、頂点に達した。仏法が王法を侵すの感があった。
この年(元亀二年)、石山本願寺に使嗾された伊勢長島の一向一揆は猖獗《しようけつ》を極め、五月、鎮圧に出戦した信長軍の将|氏家卜全《うじいえぼくぜん》が、苦戦の末、深田に馬足をとられて討死を遂げる。
信長は、その悲報のなかでひそかに決意を固めた。それは宗教に限らず、この乱れた世に存在するあらゆる「既得権益」の破棄である。信長の信念は、明快であった。
――既得権が、諸悪の根源である。
昨年暮、近江大津の陣を撤して以来、岐阜にあって思惟《しい》を廻らせていた信長は、夏も漸《ようや》く過ぎようとする八月、突如動いた。
十八日近江湖東の横山城に入った信長は、一向衆の立て籠る湖南東岸の城砦・堡塁を次々と討滅し、九月十一日、近江石山に本拠を構える山岡玉林斎の許へ入った。
例によって信長は、真意を他に漏らさない。
――浅井との決戦ではなかったのか?
京から兵団を率いて参陣した光秀は、そう思った。
翌十二日早朝、全軍が出立の準備を整えている最中《さなか》、信長から命令が下された。
「明智勢の配置は、志賀《しが》坂本」
後に志賀郡は光秀に下され、坂本には城が築かれる。しかし、浅井の本陣小谷城とはまったく方向の違う、湖西、比叡山の麓である。
「ま、まさか……」
光秀は、驚愕《きようがく》した。
最澄が入山して延暦七年に根本中堂を建ててより七百八十余年、叡山はわが国最高の霊地として累代の天子ですら憚《はばか》った。一代の出来星《できぼし》大名の手の及ぶところではない。
光秀は、昏迷《こんめい》の中で軍を進めた。
昼を待たず、叡山四、五百の堂塔を要地とする寺域は、信長の配した部将によって完全に囲まれた。
――そうか、反信長に凝り固まった叡山を懐柔するための策か。
だが、脅しに乗る相手ではない。守護不入≠フ特権を維持して、時の王法に逆らい続けた相手である。容易に靡《なび》く筈がない。光秀は信長の拙策と見た。
――交渉は、容易ではあるまい。
包囲陣形が整う頃、続いての騎馬伝令が駆けつけた。
「今夕《こんせき》、申《さる》の下刻を期し、号砲を合図に攻めかかる。根本中堂、三王二十一社を始め、一宇も残らず焼き払え。山門の僧侶・神官、山下の凡俗の輩《やから》、老若男女を選ばず悉く討滅せよ」
騎馬伝令の将校は、言葉を継いだ。
「篝火《かがりび》、松明《たいまつ》、抜かりなく用意せよ、ゆめゆめ懈怠《けたい》(怠け)あるな、との仰せにござる。よろしいな」
「いかん、それは……」
光秀は、反射的に口走って、馬に飛び乗ると、単身信長の本陣へ駆けた。
信長は、昨年暮に破毀《はき》した宇佐山城址に本営を置いていた。諸軍勢が配置に付くのを遠望していた信長は、砂塵をあげて本営に馬を乗りつけた光秀をじろりと見返った。
光秀は転《まろ》ぶように片膝つき、頭を下げた。信長は、鋭く言った。
「無駄は口にするな」
短簡だが、意味は深い。堂塔四、五百、万巻の書、僧俗数千の老若男女、すべて世の無駄と思い切った。だから諫言《かんげん》も無駄である。思い切るまでの八ヵ月の苦慮を無駄と言うか。
明晰《めいせき》の光秀は、それを一瞬に覚った。この際、無駄でない提言とは何か。
「せめて一応……御決意の程を叡山に告げて参ります。それまでのご猶予を」
光秀は敢《あ》えて至難を自らに課した。信長の常識を超えた決意、不退転の決断を相手に覚らせることは難中の難事である。既得権にしがみつく僧侶は、あり得ることかと一笑に付すであろう。
どう説いて覚らせるか。光秀に自信はなかった。
「金柑《きんかん》(光秀の綽名《あだな》)よ。これは昨冬、相手に告げてある。将たる者は二度の警告をせぬものだ」
昨冬、浅井・朝倉勢の退去を迫ったとき、叡山にはその旨を警告し、無視された。
同じ警告を二度三度と繰り返せば、警告は脅しと受取られるようになる。信長は敵がそれを軽視するより、部下が信長の威令を軽視するのを懼《おそ》れた。
いま信長は、百年の乱世を正すため、諸悪の根元である「既得権」を打破しようとする。言葉は簡単だが、それは現代でも至難の業である。常識を超えた命令を部下に下すとき、千鈞《せんきん》の重みがなければならない。遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》する者あらば事は破れる。
「で、では……」
光秀もまた必死だった。これは暴挙である。千載《せんざい》に悪名を残すだろう。せめて弁明の余地を残したかった。
「碩学の智者、名僧智識をいかがなされます。それに堂塔には得難き寺宝、御仏《みほとけ》の像も数多く、唐天竺《からてんじく》渡りの万巻の書物……」
「悪人を誅《ちゆう》するだけだ」
「悪人は山法師(僧兵)にございます」
叡山の僧は刀槍をたずさえ、頼まれれば大名に雇われて殺生をなす。魚鳥を食らい、遊び女《め》を抱き、賄賂《まいない》に目が眩《くら》んで、浅井・朝倉を贔屓《ひいき》にする。天下の嘲弄《ちようろう》にも恥じず、天道の恐れをも顧みず、恣《ほしいまま》に振舞う。
「僧侶の悪行を知りながらそれを見過し、われに罪なしとする高僧はかえって罪が重い。世人に職責の大事を示すため殺せ」
信長は、更に言う。
「仏像や経典は、御仏の姿を写し、その教えを伝えるために人が尊崇するのだ。それが仕える僧の悪逆に、仏罰一つ下すことなければ、是非もない。世人の迷信を覚ますためにも、一切灰にしてしまえ」
信長の叡山糾弾の意志は、鉄壁の如く光秀の思考の前に立ち塞がった。光秀は抗する言葉なく、ただ俯《うつむ》くばかりであった。
小姓がしつらえた床几《しようぎ》に腰掛けた信長は、光秀を見下ろして、言葉を和《やわら》げ言った。
「うぬは常人より以上の学を修めた。だが、学の本質を知らぬ」
「は……?」
「学ぶというのは、本来後ろ向きのものだ。この世にあるすべてのものの意義を知る。法と秩序はそれぞれに意義あって成り立った。将軍の威権、仏門の特権、みなそうである」
「は、はあ……」
「だが、人の世は時とともに変化する。邪《よこしま》な欲は世を乱す。邪欲の排除を妨げるのは後ろ向きの学だ」
「…………」
「学ある者は、既得の制度・権益の意義を言いたてて擁護する。それがこの世を決定的に駄目にした。いま威権・特権を持つ者は存分にその権利で甘き汁の吸える日を待ちわびているのだ。だからそれを叩き潰す。おれならでやる人間はない」
信長は独り、時代を超越していた。信長にとって、光秀の守旧的な常識など、論破するほどの価値もなかった。一方で、彼が抱懐する新時代への信念は、今日の難局にも適応するほど先進的なものであった。
主義・主張というのは、結果でしか理解し難いものである。伯林《ベルリン》の壁が崩壊して教条的社会主義の誤謬《ごびゆう》を知る。無差別大量殺人が発生して信教自由の過誤を覚る。十数年以前までは信長の近代性より、叡山焼打による殺戮が問題視され、暴挙と見做《みな》された。明智光秀が昏迷に陥ったのは無理からぬ事であった。
「納得できぬとあれば、うぬも叡山に加われ、共に焼き尽す。……行け」
光秀は、すごすごと引き下がるほかない。
寺域を取り囲んだ信長軍は、四方から鬨《とき》の声を上げて攻め上った。霊仏、霊社、僧坊、経巻一切残さず火を放ち、裸足で逃げ惑う僧俗を引っ捕えて次々と斬首した。堂宇を焼き尽す炎と黒煙は天高く昇り、琵琶湖の対岸からも遠望できた。
凄惨な叡山の焼打で、山門は一宗磨滅の態《てい》であった。
「おれが神罰仏罰を下す」
信長は、そう叱咤《しつた》して、わが心を励ました。
――後には退けぬ。退けばわが生涯を賭けた革命は、空しく潰える。
彼も必死だったのである。彼が戦う相手は数千の僧俗ではなかった。八百年に垂《なんな》んとする歴史が作った矛盾と、百年の乱世であった。
――われならで、誰が打開の途《みち》を開く。
明晰な光秀の頭脳を以《もつ》てしても、信長の果断は遂に理解できなかった。
魔に憑《つ》かれた――。そうとしか思いようがなかった。
光秀の許には、その名を慕って投降してくる鴻学《こうがく》の賢僧、上人と称する名僧、智識が跡を絶たない。
光秀は、それらの者一人一人に、
「この者、高名にして得難き名僧知識なれば、別して御助命下されますよう、云々」
という嘆願を付して、信長の本陣に送った。しかし、悪僧愚僧と何ら区別なく、悉く斬首されたという。
降伏を伝える使僧も相次いだ。それらも口上を述べる暇も与えず、首を刎《は》ねられた。
女子も斬首された。この聖域に居る筈のない遊び女も数えきれない程、死の宣告を受けた。
史上類を見ない殺戮は一昼夜にわたって続いた。残された屍《しかばね》は数千、焼亡の堂塔は四百を超えた。
――千年の後まで、悪名が残るであろう。
人一倍美意識の強烈な信長は、それを深刻に悩んだ。
――美しく生き、死もまた美しくありたい。
それが信長の理想であり、この時代の心ある武士の誰もがそうありたいと願う。
だが、信長の人生行路は、その理想とまったく懸け離れていた。向うところ世の汚濁との格闘であり、汚泥にまみれた死闘である。
――汚濁の浄化は、手を汚さずにはできない。
信長は、それを天命と割り切った。
世には天というものがある。空の意ではない。また神仏の如く善因善果・悪因悪果を齎すようなあまいものではない。万物流転を司《つかさど》って、人の世を推し進める。治乱興亡に善悪の概念なく、時に非情、その結果の是非は棺《かん》を蓋《おお》って定まらず、千年の歳月を要する。
――これは、天運。われに受けた天命である。
信長は、心ひそかにそう思い定めた。
信長の抱いた天命思想は、後に誤解を生んだ。彼は自ら神たらんとした、と。
ともあれ、殺戮は終った。叡山は後年、秀吉が再建するまで、無住の山岳と化した。
元亀二年から翌三年にかけて、信長は凄まじい繁忙の中に身を置いた。
公方義昭の火の出るような蹶起《けつき》の督促に、畿内と周辺の反信長勢力は次々と攻勢を仕掛け、信長の機動軍団は三|乃至《ないし》四個兵団に分れて東奔西走し、敵味方入り乱れて、時折状況を把握するのも困難となった。
後世、この時代を専門にする歴史学者でも、信長がいつどこに居て、何を考えどう行動したかを調べるのに、歴史年表を片手に途方に暮れる程の有様であった。
そのなかで、筆者はできるだけ事態を簡略に説明しようと努力を続けている。
叡山焼打が完了すると信長は、明智軍団を湖西の北へ押し上げた。叡山大檀越の浅井・朝倉が動かぬ筈がない。その攻勢を邀撃《ようげき》するため、光秀には一万二千の兵を与えた。
光秀は本隊を安曇川《あどがわ》辺に展開し、前衛部隊を知内川《ちないがわ》から石田川の間に配置して備えた。
が、一向に来襲の気配はない。僅《わず》かに偵察の小部隊が出没し、小競合いが散発するのみである。
――相も変らず、反応が遅い。
光秀は、因循に凝り固まった朝倉の動きに焦《じ》れた。彼の胸中には叡山焼打で生じた鬱屈《うつくつ》が昂じて、殆《ほとん》ど病の様相を呈していた。
――なぜあの時、刺し違えてでも制止しなかったか。
教養人の光秀は、後世の悪名をひたすら懼れた。
その点、湖東の横山城で浅井勢の牽制《けんせい》に当る木下藤吉郎は、気楽であった。
――殿は、思い切った事をなされる。
彼の辛《つら》さは、兵力の不足だけであった。浅井勢は三日にあげず小谷城を出て小競合いを仕掛ける。藤吉郎の謀将竹中|重治《しげはる》は、戦術の妙を尽して追い返す。その間に藤吉郎は、浅井の属党宮部|善祥房《ぜんしようぼう》の調略に血道をあげていた。
京の公方館では、信長が繁忙に追われて眼が逸《そ》れている間に、度々密議が交されていた。
議題は言うまでもなく、叡山焼打である。
義昭の寵臣《ちようしん》上野|中務少輔清信《なかつかさしようゆうきよのぶ》は、口を極めて罵《ののし》った。
「悪逆非道、奢侈僭上《しやしせんしよう》も甚だしい。早々に誅伐《ちゆうばつ》すべきである」
会同するのは上野清信のほか、飯江山城守、一色《いつしき》信濃守|輝光《てるみつ》、日野|輝資《てるすけ》、高倉|永相《ながすけ》、伊勢|貞興《さだおき》、三淵藤英《みつぶちふじひで》ら、いずれも足利将軍累代の側近であり、更に近習《きんじゆう》として尼子兵庫頭《あまこひようごのかみ》高久、番頭大炊介義允《ばんとうおおいのすけよしみつ》、岩成《いわなり》主税助慶之《ちからのすけよしゆき》、荒川|掃部頭《かもんのかみ》政次ら、最近まで三好党に属していた旧臣までが加わっていた。
その日は、細川藤孝も列していた。
細川藤孝は、明智光秀不在の間、京都警固役の代行を命ぜられている。彼はそれを口実に、公務多忙≠ニ称して公方館の会合を敬遠し続けていた。
――有言不実行の会同など、有害無益だ。
藤孝は、義昭の小賢しい陰謀には厭《あ》き厭きしていた。だがその日は、名目上の兄に当る三淵大和守藤英が、義昭の内意を受け、藤孝の出席を強請したため、已《や》むなく加わった。
「どうだ、藤孝。叡山焼打という暴挙を何と心得る。それでも信長に心を寄せるか」
義昭は、勝ち誇ったように嘲笑《あざわら》う。
「奢侈僭上はどうでありましょう。弾正忠殿は京に館ひとつ持ちませぬが」
藤孝は、平然と微笑を浮べて言う。
「誅伐などとは絵空事、いったいどなたが戦を催しますか」
痛烈な当て擦《こす》りに、上野清信は真ッ赤になった。
「では、時機尚早と言われるのか」
「いや、時機はすでに逸しておると申し上げたい」
「な、何をもって逸機と言われる」
「天下、というのはな、自ら発企して起《た》たぬ限り、手に入らぬものと心得る。いかに尊貴のお生れであろうと、他人をあてにしていては、天下人にはなれませぬ」
藤孝は、叡山焼打という信長の決断に、義昭擁立の可能性が断ち切られたとみた。
――八百年の法燈を滅却する程の決断をもってすれば、足利十五代を滅亡させることなど、いと易かろう。
その不敵な態度に、居並ぶ足利旧臣は一様に色を失った。
だが義昭は、意外に動じない。
「そうは言うが、藤孝、世の中は信長づれの考えるほどあまくないのだ」
義昭は、取り出した書状を投げ与えた。
それは義昭が乱発した上洛要請の御内書に対する返書であった。「今明年の早き時期に必ず上洛果すべく……云々」とある。
返書の署名は、「武田信玄」とあった。
武田信玄。
越後の上杉謙信と並び称される戦国期最強の武将である。
二十一歳の折、父信虎を追放して、甲斐国に君臨して以来、常に領地の拡大に努め、東の北条氏康、北の謙信と角逐《かくちく》しつつ、更なる飛躍を企図し続けている。
信玄上洛の風聞が都に流れて久しい。
永禄十一年(一五六八)、没落の今川|氏真《うじざね》を逐《お》って駿河に進出、待望の街道筋を占めた信玄は、同じ時期、遠州侵攻を果した三河の徳川家康と大井川を挟んで対峙《たいじ》、爛々《らんらん》と上洛の機を窺った。
――信玄が動けば、信長など物の数ではない。
義昭と、足利旧臣はそう見た。頽廃《たいはい》の公方一類の独善的観測だけではない。反信長勢力の浅井・朝倉、石山本願寺と一向宗徒、三好・六角の残党、果ては信長に帰服した大和の松永弾正や、中国の雄毛利に至るまで、一様にそう見ていた。
信玄の返書にある「今明年の早き時期に必ず上洛果すべく……云々」の文言は、単なる辞宜《じぎ》辞令ではない。実績をもって裏付けている。即ちこの年、元亀二年三月、信玄の兵は遠江《とおとうみ》に入り、要衝|高天神《たかてんじん》城を攻め、家康の築城結構を具《つぶさ》に知悉《ちしつ》するや風の如く伊奈(現・伊那)に退き、一転して東三河に侵攻、四月には岡崎城外の村々に火を放ち、軍を返して吉田城を攻め、守将酒井忠次と戦火を交えた。
それらの戦闘行動は、本格的な上洛作戦を前にした威力偵察であることは明々白々である。その周到な作戦行動は、信玄の並々ならぬ戦意を物語る。
――信玄|来《きた》る。東より来る。
さすがの藤孝も、不安を禁じ得なかった。
――信長の成算は、奈辺《なへん》にあるか。
信玄上洛の風聞に、信長の真意を知りたい気持は誰にもある。わけても義昭は切実であった。藤孝も同様である。
だが、信長は家臣にも心情を打ち明けたことがない。命令を発するに当っても極めて短切な言語で用を足す程である。生涯最大の難敵にどう対処するか、生半《なまなか》な者に話す筈がない。
――藤孝ならば……。
義昭はそう思う。義昭が流亡の頃、朝倉|義景《よしかげ》を見限って信長に身を寄せさせたのは藤孝の決断であった。この危急存亡に存念を語るのは藤孝以外にない。
藤孝には、別しての思いがあった。元はといえば義昭の軽躁《けいそう》に、藤孝は常に冷やかであった。信長が義昭を見限るとき、まず存念を打ち明けるのは自分であろう、と。
藤孝は、叡山焼打の弁明を求める名目で、公方名代として信長の許へ赴いた。
その前に、京都警固役代行として果さなければならぬ役目があった。
京都御所造営の検分である。
永禄十二年二月、義昭のための公方館建造とほぼ同時期に始められた京都御所の修復は、公方館がわずか七十日で竣工したのに比し、二年半を費やしてこの年末、漸く作事を終ろうとしている。信長に謁すれば当然その報告を求められるであろう。そのための検分であった。
検分するうち、藤孝はその結構のみごとさに瞠目《どうもく》した。紫宸殿《ししんでん》、清涼殿《せいりようでん》、内侍所《ないしどころ》、昭陽舎《しようようしや》、その外、御局《おつぼね》等々、残る所なく古式床しく造らせている。
造営奉行は村井|貞勝《さだかつ》・朝山日乗《あさやまにちじよう》の両名。信長は俄《にわか》仕立の公方館と異なり、柱一本、屋根瓦一枚にも念入りの物を選び、後世に残る御所たらしめようと、格別の心遣いを示した。
――この三年、戦に明け暮れているさなか、要した費《つい》えと人手はどれ程であったか……。
藤孝は、叡山焼打との対比に、罔惑《もうわく》すら覚えた。
――一方で、旧弊に堕した仏法を破却し、他方で王法の尊厳を創造する。これが信長の真骨頂か。
藤孝がただの教養人であれば、信長の理想主義に、素直に感動したであろう。だが藤孝は、生れも育ちも旧体制下の人間である。感動より予感・予見が先走った。
――信長の激烈な理想主義に反する将軍義昭の威権は、遠からず空しくなろう。
それは、十二代将軍|義晴《よしはる》が夢に描いた足利将軍の栄華と、十三代義輝の非業の死によって終った足利幕府の威権復活が、遂に消滅する事を意味する。
藤孝は、必死に模索した。おのれの生き残る途を。
近江宇佐山城址の信長本営は、十日余り費やした叡山焼打の後始末を終えて、出立準備にとりかかっていた。機動軍団は岐阜への帰途につくという。
信長に謁した藤孝は、御所造営の報告を済ませると、信玄上洛の噂を伝えた。
「信玄坊主が動くのは、一年先だ。それまでにあちこちの掃除を済ませたら、京も公方も信玄坊主に譲ってもよい」
信長は、次いで思いがけぬ事を言った。
「おことの友垣の金柑頭《きんかんあたま》(光秀)だが、大名に取り立て、大津の地を委《まか》せようと思う」
それは藤孝にとって、願ってもない朗報だった。
兵団の長、明智光秀の大名登用は、光秀と切っても切れぬ間柄の細川藤孝が抱く疑心暗鬼を一気に払拭《ふつしよく》した。
――おれを義昭派とみて切り捨てれば、信長は一個兵団と南近江領を失う。そのような下策を採る筈がない。
信長にすれば、公方周辺の内情に通じた藤孝を味方に取り入れ、確実な情報を入手できる。
――光秀と藤孝の忠誠を入手する。まさに一挙両得である。
信長と藤孝の信頼関係は、確たるものとなった。
信長は、明智兵団の湖北方面の撤収を下令した。
(汝《なんじ》、坂本城主たるべし、南近江志賀郡を与う)
石高は十万石を優に超える。しかも城持ちである。織田領の分国と言っていい。その点で光秀は戦国大名の資格を得た。
信長の宿老柴田勝家や丹羽長秀も、これ程の処遇を得ていない。濃尾両国に知行地が点在しているが、石高は併せて二、三万石程度であり、城持ちは許されていない。
信長は、ひそかに期待するところがあったようである。この時期まで信長は、既存の城を奪ってきたが、本格的な新城を築いたことがなかった。
「坂本に新城を築け」
という含みある命令は、光秀の築城能力を試してみたい願望あってのことだった。その駄々ッ児のような期待がなければ、先輩を差し置いての抜擢《ばつてき》は有り得なかった。
――金柑め、どのような縄張りをするか。
光秀は、その期待に応えなければならない。
近江坂本は、湖畔に山裾迫る狭隘《きようあい》の地である。その狭隘を埋め尽す里坊《さとぼう》≠ニいう寺院・宿坊が数多い。
本来、僧侶は山中の寺に住み、修行にいそしむべきである。だが悦楽に慣れた叡山の僧たちは修行より里坊の生活を楽しんだ。
無住となった里坊を始末して、狭隘の地にどのような城を築くか、皆が光秀を注目した。
光秀の異能の才は、人々を瞠目させた。
さなきだに狭隘の地に拘泥せず、逆に一擲したのである。
――地面にしがみつくような愚を捨てなければ、他日大をなさない。
当時、類例を見ない水城《みずき》≠発想した。
湖中に石垣を組み、湖そのものを濠《ほり》にしてしまう発想である。
津田宗及の残した記録によれば、城内に水門を設け、船を出入りさせていたらしい。当時、琵琶湖の湖上には賊が跋扈《ばつこ》しており、人里離れた沿岸は、漁師を兼ねた賊の住処《すみか》と言っていい。ために舟運はおとろえ、軍用の荷船ですら賊に通行税を支払う有様であった。
――舟運を活性化すれば、京と美濃路の距離が縮まる。
光秀の水城構想は、そこから始まった。
さらにこの城には、当時の城郭にはないもう一つの特徴があった。天守の存在である。『兼見卿記《かねみきようき》』には、大小二つの天守があったと記されている。後に信長は、安土城でこの天守を大掛りに採用している。
信長は、相も変らず急《せ》き立てた。
「火急だ。大火急でやれ」
作事の間、明智兵団とは別に、部隊を割いて大津・京都間に駐留させなければならない。慢性的な兵力不足の信長が焦れるのは無理ではない。
だが、事態は度々急迫し、摂津石山、伊勢長島、江北小谷城と、信長の動員下令で明智兵団は作事を中止し、戦場を求めて東奔西走した。
更に合間に、京都警固役の役務が積み支《つか》える。光秀は京津の間を駆けずり廻った。
時に事態が急変した。
「藤吉が危うい。救援せよ」
岐阜の急報に、光秀は直ちに出動準備を調えた。
その矢先、坂本城の水門口に船を寄せてきた者がある。
草津|芦浦《あしうら》観音寺の住職、賢珍《けんちん》である。坂本城の完成を知って、祝いの品を届けに来たと言う。
火急の時であったが、光秀は賢珍に人知れず義理を感じていた。
実は、観音寺で千宗易《せんのそうえき》と出会った際、浅井・朝倉の現況を事細かに尋ねたのは光秀ではない。賢珍であった。
商権を持って敵味方の国を自在に通行する宗易としては、旧知の間柄とはいえ信長の部将である光秀に、見聞した軍事機密を語るのは憚りがある。光秀としても訊《たず》ね難い。
その双方の気を察してか、賢珍は酒盃を重ねながら、酔いにまかせて次々と核心に触れる質問を続けた。
――この和尚、ただ者ではない。
さすがに、この激動の世にあって、要地要衝の南近江の社寺を束ね、無事を得ているだけのことはある、と光秀は舌を捲《ま》いた。
翌日、光秀が謝辞を述べて帰途につこうとすると、賢珍はこう応えた。
「拙僧も年じゃによって惚《ぼ》けがひどうなってな。殊《こと》に酒を過すと醒《さ》めたあと、酔いに任せた話は何も覚えておらん。御無礼な事があったらお聞き流し下されや」
――わしが介在したと、信長に伝えるなよ。
大方、その意味であろう。それが守護不入の権を持つ僧侶の智恵……と、光秀は察した。
だから、信長に伝えた浅井・朝倉の情勢や、佐和山、横山両城の配置など、光秀はおのれの見聞として報告した。
その結果は、姉川合戦に参加しなかったにもかかわらず、光秀の戦功が第一とされ、坂本築城の栄誉を得た。
――この恩義、何かで報いねば……。
その光秀の案内で、城櫓《しろやぐら》に登り、湖畔を眺望した賢珍は、この時代稀に見る水城の発想を褒め称えた末、突拍子もないことを言い出した。
「そこもと様は、あの浜辺の古名を御存知かな」
「はて、それがし無学にござれば一向に……」
「唐崎《からさき》じゃよ。ほれ、古歌に詠まれている……」
唐崎の松は扇の要にて
漕ぎゆく船は墨絵なりけり(紀貫之)
いま見る浜辺に、それらしい松の古木はない。
「惜しいことじゃ、思えば四百年近い歳月の変転の中で、いつか朽ち果て、跡形も無《の》うなってしもうた……」
「さよう、果無《はかな》いものでございますな」
「わしはな」
賢珍は真顔で向き直った。
「若い頃から日吉大社奉幣使代官を仰せつかって、この坂本に往き来するたびに思っておった。せっかく歌に詠まれた唐崎に、肝心の松が無い……せめて一代のうちに、昔を偲《しの》ぶ松を植えたい、とな……。だが、この争乱の世、見聞を広めることも叶《かな》わず、古歌に値する名木に出合わなんだ。そこで頼みがある。明智殿が一城のあるじになったのも何かの縁じゃと思う。いつか松の名木を見つけたら、唐崎の松として植えてくれんか」
「…………」
光秀は沈思した。
――この和尚には、再生の恩義がある。
「よろしゅうござる。いつか……というより、早速に名木を見付け、植えてご覧にいれましょう」
賢珍は、嬉しそうに笑った。
「早速にか、それもそうだ。わしも寄る年波、そう長くはないでな」
江北の浅井に関して信長は、木下藤吉郎に最小限の兵を与え、彼らの湖南平野進出を抑制する外なかった。
決定的な兵力不足である。別の観方をすれば、敵が多すぎるのである。
主城小谷城の浅井勢は、二千、三千という兵力を動員し、藤吉郎の横山城に戦を仕掛けて止まない。藤吉郎の謀将竹中半兵衛重治は、その都度天才的な戦術を駆使して撃退するが、賽《さい》の河原に石を積むような現象を来した。
藤吉郎は、逆に積極策を講じた。横山城に少数の守兵を置き、主力を小谷城前面の虎御前山《とらごぜやま》に進出させ、相手の攻勢を待った。
藤吉郎の目算では、浅井勢が虎御前山の藤吉郎主力を無視して、横山城奪回に出撃するだろうとみた。そうなったら横山城の竹中重治と呼応して相手方の退路を断ち、殲滅する。
だが、相手方はその策に乗らない。虎御前山を取り囲んで連絡を断ち、藤吉郎の主力を厳しく締めつけた。
横山城の竹中重治は、素早く危機を察知した。元々藤吉郎の策に反対した重治は、そういう積極策には兵力が足りないとみた。
(木下勢、虎御前山で進退ままならず、危機)
と、早目に岐阜へ通報した。
――野戦して横山城に逃げ帰るしかない。
藤吉郎が、敗北覚悟で撤退策を講じていると、思いもかけぬ湖岸方面に明智兵団が出現し、浅井の包囲網の一角を攻撃し、打ち破った。
包囲作戦というのは必勝を期する大胆な戦法だけに、破綻《はたん》を生ずると脆《もろ》い。浅井勢は、思わぬ新手の明智勢の出現に崩れて、小谷城に遁《に》げ帰るのが精一杯という手痛い惨敗を喫した。
「やあやあ、明智殿、お蔭で助かった。危うく一命をとりとめた」
この機に虎御前山を撤収、横山城へ帰路についた藤吉郎は、あけっ広げに礼を述べる。それが藤吉郎の魅力である。当り前なら一理屈を捏《こ》ねて、窮状を糊塗《こと》するところである。
馬を並べた藤吉郎は、頻りとあたりの地物に眼を配る光秀の様子に気付いた。
「どうされた。何か気になることでもおありか」
光秀は、激戦のさなか、敵城小谷城の湖岸に近い懸崖《けんがい》に、枝振りみごとな松の古木を見た。
――あの松なら、唐崎の松にふさわしい。
そうは思っても、敵の本城に程近い絶壁である。到底手が届かない。せめてこのあたりに似た松があれば……と、つい藤吉郎に話した。
「よろしい、小谷城を陥す際に、心掛けておきましょう」
目下の情勢では、見果てぬ夢に近い。
鞍壺《くらつぼ》を叩いて哄笑する藤吉郎の大言壮語につられて、光秀も笑った。
話はそこまでで終らない。藤吉郎は、早速占領地横山城周辺から山野の農産物を山のように掻き集め、信長への献上品として岐阜へ運んだ。虎御前山進出で危機を招いたことの詫びである。こういう詫びごとは実に早い。
信長は、山麓の城館の庭前で、藤吉郎を面詰《めんきつ》した。
「出過ぎ者め、持久に努めよとあれほど申し付けたのに、半兵衛(竹中重治)の止めるのも聞かず、敵を誘うなど、うぬは名詮自性《みようせんじしよう》の猿智恵だ」
信長の叱言は辛辣《しんらつ》だが、機嫌はそう悪くない。それにしても局地戦に過ぎない虎御前山の状況を、早速に知悉《ちしつ》していたのには驚かされる。
「申し訳ござりませぬ。これは腹切っても追いつかぬ大失態にござりました」
「こら、うぬはいつも大袈裟《おおげさ》なことを申して、おれの小言をはぐらかす。狡《ずる》い奴だ」
信長は、苦笑するしかない。
「それにしても、思わぬ大勝となったな。こうなると浅井は当分|逼塞《ひつそく》する外あるまい。金柑頭め、戦況を一変させおったわ」
「その事でございます。電光石火と申しましょうか、遠い坂本から駆けつけ、浅井勢の度肝を抜いた上、獅子奮迅の働きにて、お蔭をもって負け戦の筈が思わぬ大勝を得ました。これもひとえに光秀殿の大手柄でござります」
藤吉郎は、口を極めて明智勢の働きを激賞した。
「うむ……」
信長が内心感心したのは、僥倖ではあったが浅井勢に痛撃を与え、小谷城包囲の態勢をとることが可能になったことを申し立てず、すべての情勢判断を信長に委ねる態度であった。
――臣下のわれらは、策を論ぜず、ただ殿の命のままに動く。
その意がうかがえる。
――抜かりのない奴だ。
信長は、即座にその判断を下した。
「折角、勝った事ゆえ、褒美をやらずばなるまい。その方に兵五千を預ける。この機に虎御前に城砦を築き、小谷の城の出入りを差し止めよ」
藤吉郎の兵力一千に五千を加えると、信長|麾下《きか》の一個兵団に当る。藤吉郎は光秀同様兵団長の格を得たことになる。
「あ、ありがとうござります」
藤吉郎は狂喜して平伏した。
「まずはめでたい。励め」
信長は終りの言葉を結んだ。
藤吉郎は、恐る恐る頭をもたげた。
「実は……御恩沢に甘え、まことに恐れ入りまするが、こたびの戦が勝ちとなりましたのは、ひとえに光秀殿の機敏この上なき助勢の賜《たまもの》と肝に銘じております。かの御仁にも御褒美を賜りたく……お願いでござります」
藤吉郎は、再び平伏した。
「それは難題であるな。実は、光秀にはそちに先んじて坂本の城を与えた。それにかかる折、観音寺船を徴発して機敏に動くことを命じてあるのだ」
「いえ、兵を増すとか、禄を増やすという事ではござりませぬ。当人が望んで已《や》まぬ物を何卒《なにとぞ》……」
「なに? どのような望みだ」
「その松の木にござります」
藤吉郎が指したのは、庭の真ん中に一際目立つ松の古木である。
その松の木は、かつて美濃の領主であり、信長の舅《しゆうと》であった斎藤道三が愛して已まなかった、という言い伝えがある。
「あの松か……」
日頃、物惜しみせぬ信長も、心の通じ合う仲であった道三の遺物には、ためらいの色を見せた。
「あの金柑頭が、松の木一本に執着を持つには何か訳があろう。それを申してみろ」
藤吉郎は、光秀から聞いた唐崎の松の由来を、隠さず述べた。
話半ばに、信長は俊敏に覚った。
――芦浦《あしうら》観音寺の賢珍《けんちん》の所望だ。
賢珍は、信長が寄進をするたびに、丁重な礼状を返す。それには必ずと言っていいほど偶感に事寄せて、古歌を添えてくる。
――そうか、姉川合戦の策の礼心か。
光秀は、唐崎の松を欲したのであろう賢珍の名を洩らしていない。そうした余事はおのれ一人のこととしている。
信長は、松を藤吉郎に与え、藤吉郎はそれを光秀に贈った。
光秀は、信長に直接礼状を寄せた。
われならで誰《たれ》かは植ゑむ一ツ松
こころして吹け志賀の浦風
後鳥羽院の歌を本歌とする一首である。賢珍の歌道に刺戟を受けた光秀は、懸命に研鑽したのであろう。
織田家初めての本格の城を築いた光秀は、心魂を傾け尽した。その坂本の城に何かほかとは違う趣向が欲しいと思っていたが、それは治乱興亡の世にあっても、忘れてはならない風流であると気付き、唐崎の松を心掛けた。
そして今、御愛蔵の松の古木を賜る。わが心根を殿は知る。まことめでたき限りである、と。
――あやつめ、なかなかやりおる。
信長は嬉しくなった。
君臣水魚
と言う。君臣の間の緊密なことは、水と魚の関係の如し、という意味である。
――藤吉郎には、この種の美学は無い。だが無学を恥じず、あからさまにひけらかすことによって、人を惹き寄せる魅力がある。
信長は、ふと思いが胸中をかすめた。
――おれの大業を継ぐのは、どちらの男だ。
叡山焼打から一ヵ月後、二年半の歳月をかけた京都御所修復が落成した。
信長は、更に念を入れた。朝廷への供御《くご》、供物が末代まで絶えざるよう、工夫を凝らした。
皇室領や幕府御料所から一定の割合で集めた御料米を、京の町衆に貸しつけ、その利息を毎月献上させ、御所経営の資とした。
天皇家始まって以来、このような経営法を考えついた臣下の者はいない。信長の発想はまさに時代を超え、現代にも通ずる、他に類例を見ない近代的な発想であった。
肝心の発想主信長は、岐阜に滞留し続けていた。停頓《ていとん》と言ってもいい。
如何《いか》にせん、敵が多すぎた。
越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、摂津石山の本願寺、阿波から京都回復を目指す三好家の一族。その中で、石山本願寺が一番の難敵で、信長は手を焼いた。
二方面作戦は成功しないというのが、兵法の常道である。信長は四面の敵と同時進行の戦を展開していた。
まだある。本願寺の使嗾を受けた一向宗門徒が、信長の分国中で蜂起し、戦を挑む。中でも伊勢長島の一揆は大名並の戦闘力を駆使して、信長の機動軍団中の一個兵団を釘付けにして足らず、しょっちゅう援軍派遣を要するほどの勢いを示した。
それに近江の南、鈴鹿山系で、執拗に遊撃戦を繰り返す六角《ろつかく》(佐々木)承禎《じようてい》と、その残存兵力。
朝倉に加担して、旧所領の美濃で蠢動する斎藤|龍興《たつおき》の残党。
信長は、常に背後を脅かす浅井・朝倉を始末したかった。機動軍団の半ばを用いれば、片を付ける自信がある。
だが、所詮それは無い物ねだりである。処々方々の戦線から、それだけの兵力を抽出すれば、たちまち全線にわたって崩壊《ほうかい》し、将棋倒しになる。
信長が苦悩に明け暮れているうちに、元亀二年は過ぎ、翌三年を迎えた。
この時期、戦国末期の驍雄《ぎようゆう》が、相次いで世を去った。二年六月に中国の覇者毛利|元就《もとなり》。同十月に関東の雄北条氏康。
小田原の北条氏康は、家祖早雲を凌ぐ程の人物で、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄が、中央進出を果せなかったのは、関八州の王者氏康がいたからである。
俄然武田信玄に上洛の道が開けた。
武田信玄は、信長にとって生涯最大の難敵で、脅威というより恐怖に近い感覚を持っていた。
――あの男の軍団には勝てない。
それは、天才が天才を知る感覚であったかもしれない。
当時、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は龍虎と並び称されて、わが国最強の戦闘能力と認められていた。
その両者が、信州川中島で五度も戦う。互いに死力を尽して遂に勝敗が決せず、両者とも中央進出の機を失ったのは、玄妙な天運の然らしめるところ、とも言えよう。
武田信玄は、累代甲斐国の守護大名である武田信虎の嫡男として生れた。幼少の頃から才知に優れ、必ずや大をなすであろうと嘱望された。
それかあらぬか、豪気で姦雄《かんゆう》の気味ありと言われた父信虎と確執を生じた。父親を強制的に隠居させ、隣国駿河の今川義元へ放逐した信玄は、家臣団の支持を得て当主の座に就いた。
甲斐は、四方を山に囲まれた盆地で、海道筋から隔絶していたため、時流の変遷に疎く、畿内の情勢変化にも疎遠であった。
また、累代甲斐国の守護大名であった家柄から、結果として守旧的な考えの持ち主であった。
それが近年、金山の発掘、開発、唐土《もろこし》伝来の冶金《やきん》術の導入などで、飛躍的に富裕となった。更に今に残る信玄堤など、甲州流河除法と称する治水技術の発明などによって、農地の洪水・冠水を免れ、経済が安定するようになった。
その余裕が、軍事化を促進した。山国特有の頑健な体躯《たいく》を持つ農兵は、鍛えれば鍛えるほど強剛になり、ついには戦国時代最強の兵団を保有するに至った。
信長に比べれば穏健な価値観と、強力無比の兵団、そして豊富な黄金を基軸とする経済力、それらが中央の守旧派の憧憬の的となり、「信玄待望論」が根強く生み出されていった。
――この世の乱れは、社会改革を呼号して、既存勢力に戦を挑む新興の信長|輩《はい》が引き起したものである。その不逞《ふてい》の徒輩を討滅し、古来の秩序を取り戻さなければならない。
信長の不撓不屈《ふとうふくつ》の征討戦に手を焼いた反対勢力は、手を替え品を替えて、信玄の中央進出を慫慂《しようよう》した。
信玄は、なかなか動かなかった。東に関東の北条氏、北に越後の上杉氏が、日増に強大化する信玄に懼れを抱き、隙あらばその虚を衝こうと狙っている。旧秩序の守護者と崇められ、その使命感に愉悦を覚えはしたが、本国を留守にする危惧《きぐ》は、それ以上の決断をためらわせた。
その呪縛がようやく解けたのである。
北条氏康の死を知ると、信玄は氏康の後嗣氏政に同盟を申し入れた。懦弱《だじやく》な氏政は手もなく懐柔された。一方、宿敵上杉謙信は、領国越中で一向一揆が猛威を振るっているため、動くに動けない。
一向宗徒を使嗾して、謙信を足止めしたのは、他でもない石山本願寺の顕如光佐《けんによこうさ》である。
――千載一遇の好機である。上洛戦を発起して、信長の背後を衝け。
顕如光佐は、信玄に使者を送る一方、越前の朝倉義景と子女の婚約を結んで、縁戚関係となる。
因《ちなみ》に、顕如光佐と信玄は、前からの縁戚である。顕如の外交策は奥義に達し、並の戦国大名を瞠目させるほどのものであった。
かくして信長包囲網は、鉄壁となる。信長に大和一国の切り取りを許されて、謀攻に寧日のない松永久秀までもが、信玄西上の情報に、背叛《はいはん》を標榜する。
信長はこの時期、どのように行動していたか。
彼は逸早《いちはや》く、信玄が上洛戦の準備を開始したことを知った。続いて顕如光佐が鉄壁の包囲網を構築したことも。
信長の行動は、世人の意表を衝いた。何と自制し続けた京の居館を建造し始めたのである。御鍬初《おくわはじ》め(起工式)には、まず築地《ついじ》を設け、舞台を飾り、歌舞音曲をもって賑やかに囃《はや》し立てた。集う貴賤《きせん》は花を手折り袖を連ね、衣香周囲に薫って、さながら祭りの様相であったという。
激烈な戦の合間に祭りを催す。信長は戦に荒《すさ》みきった民衆に、泰平の安楽を示そうとした。民衆の教化なくしては戦国の悲惨は止《や》まない。時代を変革するのは民衆の意志の力である。自らの武威の限界を覚った信長の、驚くべき思想である。
次いで信長は、将軍義昭に痛棒を見舞った。
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戈《ほこ》を揮《ふる》って日に反《かえ》す
元亀三年(一五七二)、春から夏にかけて、信長自身と反信長勢力は、信玄が遠からず上洛を決行するであろうことを予測し、その思惑で動いた。
義昭《よしあき》は、信長の要請によって、各方面の和平調停に、積極的に行動した。信長の強請《ごうせい》に反抗するほどの意気地はない。それより噂ばかりで信玄がなかなか甲斐《かい》を発向しないのが気にかかる。
――足長《あしなが》(韋駄天《いだてん》)の信長に、各個撃破で反信長党を潰《つぶ》しにかかられたら、かなわない。
義昭の狙いは、信玄の到来までの勢力温存である。
真っ先に応じたのは、石山本願寺の顕如光佐《けんによこうさ》であった。信長の最大の敵と評価された本願寺一党も、内実は相当に草臥《くたび》れている。
顕如は、信長に白|天目《てんもく》茶碗を贈って、和睦《わぼく》の意を表明した。どうせ一時的な擬態に過ぎない。信玄が本格的に西上したら、また背くつもりである。
たとえ一時的でも、背後の摂津方面が安定したのを機に、信長は機動軍団を北近江に向けた。小谷《おだに》城の浅井を覆滅しようという作戦である。
すかさず、越前朝倉が動いた。一万五千の兵力を動員して江北に入り、信長軍の挟撃を策した。
江北、北国街道脇往還を埋めて、えんえん長蛇の如く南下してくる朝倉勢を望見して、信長は構想の破綻《はたん》を覚った。
――何者か、おれの作戦を先に朝倉に通報した者がいる。
間もなく到着した細川|藤孝《ふじたか》の密使によって、委細が判明した。
通報の主は、言うまでもなく義昭である。畿内にあった信長の機動軍団は、突如移動し、風の如く去った。戦闘準備を調えていたところを見ると、岐阜へ帰ったとは思えない。行先は江北と予想したようである。
義昭を見限り、信長に帰服した藤孝は、事細かに義昭の行状を知らせていた。
――浅井攻めは失敗だが、藤孝の忠誠心を確かめ得たのは収穫であった。
信長は、浅井討伐をあきらめた。月余をかけて虎御前山《とらごぜやま》に堅固な陣地を構築し、藤吉郎に与えて小谷城の封鎖を命じ、軍を返した。思い切りのよさも、信長の身上《しんしよう》である。
扈従《こじゆう》の者を伴って京に戻った信長は、「異見(意見)十七ヵ条」と称する諫状《いさめじよう》を義昭に呈出した。
禁中(朝廷)の儀に懈怠《けたい》することなきよう言ったのに、忘れ怠けているとの冒頭から始まって、悪しき評判を列記し、最後に蔵米を売って投機に奔《はし》ったことまで、非道の数々を摘発した。
義昭を公然批難したことは、一種の挑戦状であった。
信長が突きつけた「異見十七ヵ条」は、義昭の改心が目的ではない。
義昭は、一片の諫状で、心を改めるような生易しい人物ではなかった。
抑《そもそも》、信長は、義昭をどう扱おうと考えていたのであろうか。
流浪の義昭が身を寄せてきた頃の信長は、ひどく単純な考えだった。
――この不遇の貴人をあるべき姿、将軍位に就け、おれが背後で支えれば、乱世が変るかも知れない。おれの運も開ける。
だが肝心の義昭は、軽躁《けいそう》で、他人を頼るだけの資質しか持っていない。そのくせ権力欲だけは途方もなく強い一種の化物だった。
とりあえず、権力を封ずるため、幕府開設を阻止した。その頃の信長の考えは、将軍を紛争処理の調停機関と思い描いたようである。
ところが義昭は、紛争を起し拡大する名人だった。信長は八方敵に囲まれた。打開に努める信長が、度々義昭を功利的に利用したことは否めない。
――おれが乱世を静める。少なくとも鎮静の基盤だけでも造る。
信長は、おのれの生きようをそう定めた。そうなると将軍義昭は、ひどく有害な存在である。
だが、一旦《いつたん》与えてしまった将軍という中世的権威を剥奪《はくだつ》するには、大義名分が要《い》る。信長は極端な独裁者に見えるが、この時代、彼ほど世人に気を遣った者はない。
彼は義昭の側近中の側近である細川藤孝を取り込んだ。流浪の頃から義昭と苦楽を共にした藤孝に狙いをつけたのは、彼の政治能力を高く評価しての事であろう。そうとしか思えない。
――彼を重用すれば、劣悪の公方《くぼう》を見限るかも知れぬ。
果して、藤孝は、義昭に愛想をつかした。
義昭の懶惰《らんだ》な行状は、逐一信長の耳に入った。彼は義昭の朝倉への内通を機に、「異見十七ヵ条」を発した。
そのみごとさは、彼の裏切り行為に、毫《ごう》も触れなかった点にある。天皇への奉伺《ほうし》を怠ったという第一条から、御物を隠匿《いんとく》し、蔵米を投機売りした十七条まで、すべて醜悪な行状の暴露である。
これは「弾劾《だんがい》状」ではなかった。世間に向っての「将軍不要の宣言文」であった。
その内容はどこからか世間に広まった。当然、信長自身が流したのであろう。
その諫状からわずか五日後、信玄が動いた。
十月三日、信玄は本隊五千を率いて甲府を発向した。
前後して動員された配下諸将の軍勢は一万七千、信濃伊奈から秋葉街道を南下する。
目的は遠州三河の席巻である。信玄は甲斐に一万の後発部隊を残し、更に西信濃に別動隊として三千の兵を動かした。総勢三万五千、公称四万と呼号した。
信玄、西上開始。
信長も、反信長勢力も、選《え》りすぐった諜者《ちようじや》を甲州に入れて、懸命に信玄の動向を探っていた。急報は西へ走った。
信長は、家康に急使を派した。
「岡崎に移られよ。織徳《しよくとく》呼応して武田勢を尾《び》・三《さん》の山地に引き入れ、補給を断って信玄を衰弱させよう」
信長が、智嚢《ちのう》を絞って考えた戦略は、それしかない。
まともに戦って、勝てる相手ではない。三河兵一人が尾張兵三人に匹敵する、その三河兵三人より甲州兵一人の方が強い、というのが定評であった。
家康は、頑として拒絶した。信玄西上の噂に、武田と境を接する遠州三河の北辺山地の土豪は、続々と家康を見限り、武田帰服を申し出ている。家康が浜松を捨てれば、戦わずして徳川勢は崩壊する徴候が見えていた。
「同盟の誼《よしみ》、軍勢を貸与願いたい」
家康は、度々信長の要請に応じ、なけなしの軍勢を動員して馳《は》せ参じた実績を持つ。越前攻め、姉川合戦などで充分恩は売ってある。それに今回はこちらの侵攻作戦ではない。織徳両家の興廃が懸《かか》っている。家康にしてみれば、叶《かな》えられて当然の願いであった。
信長は、苦慮した。
――あいつは、おれの意図がわかっておらん。
三河岡崎城と呼応して、尾張|沓掛《くつかけ》城や大高《おおたか》城を根城に、頑強な抵抗を示す。武田軍が遅滞する間に、尾・三の嶮岨《けんそ》な山地を潜行した遊撃隊が、街道の補給|兵站《へいたん》を襲う。
信玄は、山地の掃討戦を行わなければならない。西上を焦る信玄は、自ら掃討戦を指揮するようになる。
――山間の戦《いくさ》に、武田は精強の騎馬軍団が使えなくなる。こちらは得意の鉄砲集団を活用する。
信長が家康に伝えた戦略は、一時逃れではない。これしかない、という必勝策であった。
だが、家康は肯《がえん》じない。逆に決戦兵力を貸せ、と要求した。
信長が、同盟の誼で万已《ばんや》むを得ず派した援軍は、僅か三千。せいぜい八千程度しか動員兵力を持たない家康が、心中期待した数の半ばにも満たなかった。
徳川勢の潰滅《かいめつ》を予想する信長にとって、佐久間|信盛《のぶもり》、平手甚左衛門、水野|信元《のぶもと》の三将を応急派遣するのが、精一杯であった。
この頃、信長は度々岐阜を離れ、江北の横山城に出向いている。七月に越前から小谷城の支援に出撃した朝倉勢は、小谷城の前面虎御前山の攻撃を執拗《しつよう》に繰り返している。守将の木下藤吉郎は善戦健闘して退けているが、兵力不足のため、度々危機に陥り、信長の救援を求めた。
――禿《はげ》ねずみ(藤吉郎の綽名《あだな》)は、ようやる。
信長は、浅井・朝倉を一掃したいが、これも兵力不足で思うに委《まか》せない。
なにせ、無類の忙しさであった。九月に発した諫状に、将軍義昭は一も二もなく服しているが、擬態であることは紛れもない。
それと、摂津石山の本願寺がまた背いた。大方信玄西上の報が伝わったためであろう。わずかな和睦期間中に戦備を整え、摂津の信長の出城を陥《おと》し、当るべからざる勢いを示した。
信長は、明智兵団の畿内進出で、義昭の蠢動《しゆんどう》を抑え、石山本願寺の再攻を命じている。
――光秀の離反はないか?
義昭の推挙によって、光秀の今日がある。その懸念は無くもないが、信長は細川藤孝の存在に、すべてを賭けている。
大和で背叛《はいはん》した松永|久秀《ひさひで》には、伊勢に駐留する滝川|一益《かずます》とその軍勢を当てている。度々兵力を抽出された滝川一益は、盛んに大和侵攻の擬勢を示し、松永久秀を牽制《けんせい》しているが、討伐するまでには至っていない。
家康に与えた三千の援軍は、なけなしの無理算段であった。
事情は推察するが、家康は不満であった。浜松では繰り返し軍議が開かれたが、家臣団が口にするのは信長の非情を責める言葉だけであった。家康は孤立感にさいなまれたであろう。
軍議では、岡崎への撤退策と、掛川《かけがわ》城に進出する案が出て紛糾したが、さすがに信玄に帰服する論は出なかった。三河武士の土性骨と言うべきか、それが家康の唯一の救いであった。
遠州|天方《あまかた》城、飯田《いいだ》城、久能《くの》城を席巻《せつけん》した武田軍団は、十月中旬、更に西を目指した。一糸の乱れもなく、ただ黙々と行軍する恐ろしげな甲州兵が、家康の浜松城をめざす。
信長の唯一の同盟者、家康に危機が迫った。
武田軍団は、浜松城と、掛川・高天神《たかてんじん》城の間に、うねり割って入る巨大な龍の如き動きを見せた。
家康は、まず本多平八郎|忠勝《ただかつ》、大久保|忠世《ただよ》、内藤|信成《のぶなり》の三将に、それぞれ一千ずつの兵を付し、出陣させた。
徳川軍は、天龍川を挟んで浜松城の対岸にある三箇野《みかの》で、武田軍の本隊二万と初めてまみえた。陣形を調える暇も無い遭遇戦であった。
――あれが武田の騎馬隊か。
徳川勢が感嘆しているうちに、武田勝頼率いる部隊が急進し、包囲にかかった。音に聞く甲州兵の錬度は群を抜いていた。まだ決戦態勢に無い徳川勢は、ひとまず離脱を開始した。この出陣は、家康らしい慎重さで、武田軍の実態を把握するのが目的だったのである。
退却を図る徳川軍が、見付《みつけ》の宿にさしかかったとき、本多忠勝が一計を案じ、他の二将に告げた。
「一足先に退かれよ。見付に火を掛ければ、火煙で敵方、案内を知るべからずと覚ゆ」
忠勝は自ら殿《しんがり》となり、味方の避退を援《たす》けるため、見付の家々に火を放ち、煙幕を張って視界を遮《さえぎ》った。
白煙は町並から付近の田野に立ち籠め、視界を奪う。その中を、本多の騎馬隊は急速に姿を消して行った。
その奇策のみごとさには、武田方も感嘆を惜しまなかったという。
信玄は、すかさず対策を講じた。元は家康に属していた犬居城の天野|景貫《かげつら》を呼び寄せ、道案内を命じた。そのため武田勢は一言坂《ひとことざか》で徳川三将の軍勢に追いつき、散々に蹴散らした。この時も殿軍《でんぐん》を引き受けた本多忠勝の奮迅の働きで、徳川勢は辛うじて浜松城に遯竄《とんざん》することを得た。
この合戦の後、信玄の近習小杉左近という者が、一言坂の合戦場に落首を残した。
家康に過ぎたるものは二ツあり
唐《から》の頭《かしら》に本多平八
唐の頭とは、旄牛《ぼうぎゆう》《ヤク》という動物の尻毛である。
姉川合戦の後、信長はかねて堺で手に入れたその白毛の束を、家康に贈った。
「兜《かぶと》に掛け、武功抜群のしるしとせよ」
家康は、本多忠勝を始め七人の部将に分ち与えた。
落首を敵に与える余裕もさることながら、徳川家の内情を熟知している武田方の炯眼《けいがん》には、驚く外はない。
浜松城の軍議は、紛糾し続けた。浜松城に籠城《ろうじよう》して武田勢を食い止めるか、出戦して乾坤一擲《けんこんいつてき》の野戦を挑むか。籠城説が圧倒的であった。だが家康は、頑として出戦を主張した。
「籠城というのは、救援の軍あってのものである。今のわれらに救援の軍がどこにある。弾正忠《だんじようのちゆう》(信長)殿が、救援に駆けつけると思うか」
軍議に参加した織田の三将、佐久間信盛・平手甚左衛門・水野信元らは、籠城説を支持しただけに、ひどく赤面し、顔を上げられなかった。
皮肉に聞えたが、家康にそのつもりはない。籠城して二万二千の精強武田軍団に囲まれたら、勝ち目はない。よく防いでも早晩立ち枯れてしまう。
家康が怖れたのは、包囲されたら逃げ道のない事だった。
――どう戦っても、勝算は無い。
勝算が無ければ、逃げる外ない。いきなり逃げたら軍勢は士気|沮喪《そそう》し、統率がきかなくなる。ひと当てして敗色を見たら早急に退却する。逃げるのは勝手知った三河の山岳地帯である。祖先の地|松平《まつだいら》郷あたりの山間の小盆地で陣容を立て直し、遊撃戦に転ずる。
――信長殿は、よく見ておられた……。
家康は、信長の智略の真意を初めて知った。
ところが、信玄の戦略・戦法は、更にその上であった。信長の戦略が天才的であるとすれば、信玄の戦法もまた古今|未曾有《みぞう》の天才である。
信玄は、天龍川東岸の要害、二俣《ふたまた》城を一月ほどかけて攻略した。さらに西から浜松に重圧を加えるべく、信州伊奈方面から南下した山県昌景《やまがたまさかげ》の別動軍が、長篠《ながしの》を越え、三河に侵攻した。
これで浜松は丸裸の様を呈した。
だが、信玄は手のかかる城攻めを避けるため、巧智を凝らした。本隊を北上させ、天龍川の上流|野部《のべ》(現・天龍市の南)に移し、渡河準備を整えた。
十二月二十二日、行動を起した武田軍団は、易々《やすやす》と天龍川を渡り、一路南下して浜松城を衝《つ》く気勢を示しつつ、行動した。
家康は出た。
双方とも野戦を望む思惑が、奇妙に合致していた。両軍の接触を先に知ったのは武田軍である。
武田軍は戦を避けるように道を西に転じた。
気負いたった徳川勢は釣られた。
――口ほどにもない。敵に背を向けるか。
徳川勢は、懸命に追尾した。
武田軍は、|三方ヶ原《みかたがはら》台地の裾にさしかかると、急に北に転じ、欠下《かけした》から台地に登りはじめた。
「や、や、信玄め、恐れて山へ逃げこむぞ」
追撃にかかった徳川勢は、胸を突く急坂を登る。息がはずむ。胸中に流れこむ空気は凍りつくように冷たい。
――おかしい。武田が何で戦を避ける。
武田の軍勢の末尾は、急坂を登り切って三方ヶ原台地の上に消え去ってゆく。
後を追う徳川勢は、勢いづいた。
――何か、策を構えているのではないか。
家康の冷えてきた脳裏に、疑惑の黒雲が渦巻き始めた。
「控えよ。敵の様子をよく見定めてから上がれ」
台地の端に、恐る恐る顔を出して、家康も部将たちも仰天した。
踵《きびす》を接するように追って来た筈《はず》である。武田軍団が先を争うように台上に消えたのは、小半刻《こはんとき》(およそ三十分)にも満たぬ寸時であった。
その短い時間に、どのようにして展開したのか、信玄の軍勢二万二千は、一糸乱れぬ整然たる陣形を整え、待ちうけていた。
しかも、その陣形は最も複雑な魚鱗《ぎよりん》であった。魚鱗とは各隊が魚の鱗《うろこ》のように重なり合って敵に対する、重厚かつ縦深の陣形をいう。
かつて数度の川中島合戦の折、剛強を以《もつ》て聞えた上杉謙信の軍勢が苦杯を嘗《な》めたと伝えられている。
その必勝の陣形を、弱敵と見做《みな》す徳川勢に対してとる。信玄の慎重さは褒《ほ》むべきであろう。
この日、天龍川渡河に始まり、徳川勢を三方ヶ原台地に誘う信玄の智略と行動は、まさに芸術といえよう。名品の香気すらあった。
「殿! 殿! お指図を!」
先鋒の酒井|忠次《ただつぐ》、大久保忠世から、悲鳴に近い絶叫が届いた。
「か、鶴翼《かくよく》!」
家康は、反射的に叫んだ。
「鶴翼に開け! 鶴翼!」
鶴翼とは、鶴が翼を張り伸べたように、敵を呑みこんで殲滅《せんめつ》する陣形で、中央が山型に突出する魚鱗と対照的に、中央(本陣)がやや後方に退《さが》る。普通は大軍が鶴翼に開き、兵数の劣る方が決死の陣形魚鱗に構える。鶴翼は動きが軽快だが、縦深が浅いため脆《もろ》い。
ここで信玄の読みがわかる。小勢の家康に決死の陣形をとらせぬため、先手を打って魚鱗の陣形をわがものとした。
「え? 鶴翼?」
麾下《きか》の部将は勿論《もちろん》、織田の三将も耳を疑った。
――二倍以上の敵の強兵を、どうやって包みこむのだ。
史書は、意図不明と伝える。だがその理由は簡単である。縦に薄い陣形で、本陣が後方に位置する鶴翼は、味方が潰乱したとき主将が遁走するのに便利である。
――とても、勝てん。
家康は、戦う前からそう覚った。
徳川勢は、鶴翼に開いた。
右翼が前軍より酒井忠次、織田の寄騎《よりき》(援軍)三将(佐久間信盛・平手甚左衛門・水野信元)。
中央の本陣が徳川家康と旗本、予備勢若干。
左翼が前軍より、石川|数正《かずまさ》、本多忠勝、松平|家忠《いえただ》、小笠原|長忠《ながただ》という布陣である。
武田軍では、小山田信茂《おやまだのぶしげ》、馬場信春《ばばのぶはる》が先陣を固める。すぐ後には、内藤|昌豊《まさとよ》と別動隊を率いて来た山県昌景が続く。
その後方には、信玄の後継者と定められた勝頼《かつより》の騎馬軍団と信玄直轄軍、それに後詰《ごづめ》の穴山梅雪《あなやまばいせつ》が控えている。
徳川勢は、敵に立ち遅れた陣形を整えるため、やや後方に退った。そのため坂の中途に在る。敵にのしかかられる不利は、言うまでもない。
武田の先鋒四隊が、坂の上に姿を現した。一気に攻めかかるかと思ったが、そう動かない。
徳川勢は、手が出せない。そのまま長い時間が過ぎた。
未《ひつじ》ノ刻(午後二時頃)から申《さる》ノ刻(午後四時頃)まで、両軍は対峙《たいじ》したまま動かなかった。
信玄は、悠然と徳川勢の疲労を待った。
冬の日は短い。急速に暮色が迫った。
信玄は、やおら命令を下した。
「信茂の飛礫《つぶて》隊を出せ」
武田の足軽が進み出て、石礫《いしつぶて》を投げ始めた。
石投げ、といってもばかにならない。手練《てだれ》の投石である。負傷者が続出した。堪《たま》りかねた石川数正の手勢が、徒歩《かち》兵を追い払おうと動いた。
すかさずその前面に立ち塞《ふさ》がった馬場信春勢が戦端を開いた。その正面にいる織田の三将も加わった。
「尾張衆に万一の事あらば、三河者の名折れぞ! 奮え!」
忽《たちま》ち全面戦闘に突入した。
――強い。
家康とその部将は、舌を捲《ま》いた。死傷者をいささかも顧みず、隊伍整然と突進してくる武田の各勢は、重い鉄床《かなとこ》を木槌《きづち》で叩く感触であった。打っても叩いてもビクともしない。傷つき、ささくれだち、折れ砕けるのは木槌だけである。
無類の強さだった。
信長が、しぶしぶ寄騎として派遣した三将は、そう戦が強くなく、それに、端《はな》から戦意に乏しかった。
ところが、真っ先に本格的な合戦に巻込まれてしまった。
自然と及び腰になった。精強と定評のある武田の騎馬集団、山県昌景五千が突進した。
織田三将はひとたまりもなかった。あっという間に潰乱した。それを援けようとした酒井勢が、内藤昌豊に横手を衝かれて支えきれず、尻餅をついたように頓挫《とんざ》した。小笠原長忠勢も、織田寄騎勢の潰乱に捲きこまれて崩壊してゆく。
――右翼が崩れた。
急を見て、最左翼に布陣していた石川数正勢が駆けつけたときは、右翼を突破した武田軍先鋒は、家康本陣に雪崩《なだ》れこみ、旗本衆が必死に防いでいる最中であった。
頼みの左翼も、小山田信茂・山県昌景勢の重圧を受けているところへ、武田の第二陣、勝頼の騎馬集団の襲撃を受け、潰滅寸前となった。
「平八、平八、ここはいい。本陣を救え」
大久保忠世の崩れかけるのを、必死に支えている石川数正が、絶叫する。
「心得た、後を頼む」
本多平八郎忠勝は士卒の先頭に立ち、大身の槍を縦横に振るって道を開こうとするが、十重二十重《とえはたえ》の武田勢は鉄桶の如く、血路が開けない。
――けッ、何という強さだ。
混乱の本陣の真只中で、馬上に突っ立ち、武田勢の怒濤《どとう》の来襲を望見した家康は、おのれの常識を超えた敵の強圧に、呆《あき》れ返った。
甲州兵と三河兵。その素質の違いもさることながら、訓練の度合が隔絶している。
――おれは、あまかった。
訓練は、日常の事である。戦場で後悔しても始まらない。
それにしても、武田勢の強悍《きようかん》は並外れていた。人間以外の異生物と戦っているような恐怖と戦慄《せんりつ》が襲う。
「――――!」
思わず家康は言葉にならない絶叫をあげた。
折から駆けつけた本多忠勝が、咄嗟《とつさ》に言い替えた。
「死ねやーッ! 死ね、死ねーッ!」
本陣の中は、もう修羅の巷《ちまた》と化している。鮮血が噴出し、籠手《こて》・脛当《すねあて》の手足が飛び、形相凄まじい首までが、宙を過《よぎ》る。
「殿! 殿! お退きなされ!」
群がる武田勢を、槍を振って押し開けながら、本多平八郎忠勝は叫び近付いた。
「千鈞《せんきん》の弩《ど》は、|※[#「鼠+奚」、unicode9f37]鼠《けいそ》の為に機《き》を発《はつ》せず! お退きなされッ」
おや、と家康は思った。
――あいつ、妙なところで学がある。
本多忠勝は、腰の引けた旗本を叱咤《しつた》した。
「うぬら! うろたえんと、殿を早くお落しせんか!」
旗本十数騎が寄ってたかって馬上の家康を囲み、遁走にかかった。やらじと武田勢が追いすがる。
武田勢の追撃は急だった。逃げても逃げても暗闇から強力な敵勢が現れ襲いかかる。
徳川勢の逃げっぷりも速い。
「殿! 殿! おさらばでござる!」
と、今まで護っていた十数騎が追手に突撃すると、忽然《こつぜん》現れた別の一隊が、
「殿! こちらへ! 早く! 早く!」
と、かっさらうように引き立て逃げる。
家康は、惑乱した。
どこをどう逃げたか、まるで記憶がない。我に返ると僅《わず》かな供を連れ、浜松城の城門をくぐっていた。
「や、ようこそ御無事でお帰りなされましたな。まずは祝着至極……」
城の守兵も、勝って帰ったとは思わない。鎧《よろい》の袖は千切れ、兜は失《う》せてさんばら髪である。
この時、家康の幼な馴染みでもあった徳川十六神将の一人、鳥居|元忠《もとただ》が頓狂な声を上げた。
「殿、馬の鞍《くら》に糞をもらされましたな」
実は兵糧の焼き味噌が折柄の雨で溶け出し鞍壺に付着していたのだが、深刻な敗北に打ちのめされていた味方の空気を軽くするため、剽軽《ひようげ》たのである。
後にこの一件は、敗走する家康がいかに錯乱していたかを示す挿話として、恐怖のあまり脱糞した≠ニいう伝説となった。
「とりあえず湯浴《ゆあ》みなされてはいかが。その間に防ぎの備えを仕ります」
「いや、城門はすべて開け放ち、篝火《かがりび》を有るだけ焚《た》いておけ」
わずかな守兵で防げる相手ではない。敵が来たら反対側の城門から逃げる。そのため明かりが必要だ。
家康は、欲も得もなく、味噌|塗《まみ》れの尻を洗って湯漬け飯を食らい、横になるとどっと疲れが出て、寝入ってしまった。
「や、や、お肝のふといことよ」
次々と逃げ帰る家来は感嘆した。
味方ばかりではない。追って来た馬場信春の一隊は、開け放した城門に人影なく、あかあかと燃える篝火にかえって無気味になり、
――三河の小童《こわつぱ》め、何か仕掛けがあるやも知れぬ。
と、突入を見合わせ、とって返して信玄に報告した。
「それでよい。打ち棄てておけ」
信玄は兵をまとめ、西進を開始した。
家康惨敗の報は、時をおかず岐阜に届いた。
――来たか、信玄……。
信長は、会戦を覚悟した。
またもや足利義昭である。
九月、信長が発した十七ヵ条の諫状に閉口頓首して、行状を改めることを誓った義昭は、信玄西上開始の報を聞くと、矢も楯《たて》も堪らず、またぞろ陰謀に憂き身を窶《やつ》した。
伊賀から鈴鹿にかけての山間に、辛うじて残喘《ざんぜん》を保つ六角承禎《ろつかくじようてい》の残党を嗾《けしか》けて、近江|石山寺《いしやまでら》で聞えた石山と、近江八景の落雁《らくがん》で知られた堅田《かたた》の古城址をひそかに修復、立て籠《こも》らせた。
言わずと知れた湖南回廊の遮断である。信玄西上と呼応したつもりであろうが、少々気が早すぎた。
三方ヶ原の戦で家康を完膚なきまでに破った信玄は、その北方十キロほどの刑部《おさかべ》で行軍を止めた。そこで元亀四年(一五七三)の正月を迎えてしまう。
――何でだ。理由がわからぬ。
越前朝倉の焦慮は非常であった。ひそかに急使を送って督促に努めた。
「そちらの御軍勢、尾張に攻め入れば、当方時を移さず相呼応して信長を討ち滅す所存、機到《ときいた》るを待ちわびております。何ゆえ遅延なされるか」
だが、信玄は、
「時を待たれよ」
と伝えるにとどまった。
信長は、事態の対応に多忙を極めた。滝川兵団を伊勢から戻して尾張防衛を強化する。木下兵団を増強して、江北戦線に圧力を加える。湖南回廊の掃討には、石山本願寺攻めに参加していた明智兵団と、柴田勝家、丹羽長秀を充《あ》てた。
二月二十四日には、光秀らの近江石山城攻撃が開始され、これを僅か二日で陥落させてしまう。更に二十九日には、堅田の城もあっさり陥してしまう。
光秀らの軍事行動の直前、信長は京都の義昭にも政治的重圧を加えていた。
信長の手足となったのは、ここのところ義昭に疎まれ、信長の意を迎えることに専一となっていた細川藤孝である。
――公方様に御逆心の兆しあり。
信長は、遠州進出の信玄に備えると同時に、江北の浅井、越前の朝倉の大軍を相手に、虎御前山の守備にも更なる増強を行わなければならぬ状況にあった。
――信長、八方手詰りの模様。
お側衆の賢《さか》しらな進言を真に受けた義昭は、打倒信長の兵を挙げる決意を固めた、と見てよい。
信長は藤孝の報告を聴取すると、朝山日乗、村井貞勝、嶋田所之助の三名を使者として上京させた。打った手は意外にも、義昭に対する和議の申し入れであった。しかも、義昭が要求する誓紙と共に、人質を差し出すも苦しからず、とまで伝えた。
――信長の足下が見えた。
傲った義昭の返事代りが、先の近江石山城と堅田城の挙兵であった。
結局、義昭は信長の思い通りの行動をとったことになる。その証拠に、光秀らの近江石山城と堅田城の叛乱鎮圧は、信長の使者派遣の翌日であった。あまりに手際がよすぎる。この絵図を描いたのは、恐らく信長ではなく藤孝であろう。
表向きは、信長が将軍に対して意を尽したにもかかわらず、義昭が弓矢刀槍で報いたという形となった。こうなると義昭は、二条御所に立て籠り、信長の出方を窺うしかない。
もう信長は容赦しない。三月二十九日、自ら軍勢を率いて上洛した。
今回の立役者の藤孝は、逢坂山《おうさかやま》まで出迎え、信長の宿所|知恩院《ちおんいん》まで随行した。
知恩院に入る早々、信長は藤孝を接見した。
「兵部大輔、こたびはようやった」
上機嫌の信長は、自ら脇差をとって与えた。
ここで感泣するようでは、藤孝の底が割れる。藤孝は逆に鬱屈した様子で拝受した。
「まだ公方に未練があるか」
「いや、なかなか」
藤孝は、自らの将軍補佐が不十分であったことを、苦渋の表情でくどくどと述べ始めた。
いつもの信長なら、「くどい」の一言で片付けるところだが、この時ばかりは黙って聴取した。将軍側近をみごとに裏切らせたのである。それくらいの辛抱はすべきだと思ったに違いない。
そのうち、信長は耳をそばだてて聞き入った。藤孝は繰り言に事寄せて、世間の知らぬ義昭の悪行非行から、これまで表面化しなかった陰謀の数々を、次々と述べたててゆく。
――それらをとどめ得なかった慚愧《ざんき》の念を吐露するこの男には、もはや足利将軍への忠節心は無く、この信長に身命を捧げるに違いない。この男は使える……だが……?
信長は、われとわが心を引き締めた。
――無私ではない。旧幕臣に無私の忠誠心を求めてはならない。
信長は、義昭の事を決する前に、奇態な人物と面談している。
洛北、吉田神社の神官で、前《さきの》関白近衛|前久《さきひさ》の家令《けりよう》(親王・内親王・三位以上の公卿などの家で、家政を担当した)、従二位神祇大輔の吉田|兼見《かねみ》である。この人物は、『兼見卿記』という織豊時代一級の史料を残したことで知られている。
「南都滅亡時には北嶺も滅亡し、王城に災いが生ずるというのは真《まこと》か」
信長は、吉田兼見に訊ねた。
これは吉田神道の興隆者で兼見の父、吉田|兼右《かねみぎ》の述べたことと伝えられている。即ち興福寺(南都)が滅亡すると、叡山(北嶺)も滅亡し、京都(王城)に災いが降りかかる、という意味である。普段信長は、こうした縁起を担がない。だがこの時代、尊皇の念は誰よりも篤い信長は、都の故事言い伝えにこだわりを持った。
兼見は、明快に答えた。
「そのような事柄は、典拠のないことと存じます」
「で、あるか」
信長は喜悦し、「奇特」と言ったと『兼見卿記』にある。
義昭が将軍位に就く前、寄宿していた一乗院は、南都の興福寺の一坊であり、昔、平家によって焼亡したことがある。信長は自ら平氏であると称している。また、叡山はつい先頃、信長自身が滅却した。
そしてこの会見から二日後の四月四日、信長は義昭の立て籠る二条御所を囲み、火を放った。
火災は上京に延焼したが、内裏は炎上を免れた。王城への災いは避けられたのである。
近江の叛乱を鎮圧した後、賀茂《かも》に布陣していた光秀は、二条御所の包囲戦に加わった。かつて義昭を信長の許へ送り、将軍として擁立するのに尽力した光秀と藤孝は、共に旧主を見限ったのである。
事、ここに至っては、義昭も遂に為す術《すべ》なく、朝廷の勅旨を懇請して、和睦を申し出るしかなかった。この時、藤孝は織田方の代表として、義昭との交渉に当った。
後顧の憂いを断った信長は、
「怨をば恩を以て報ずる」
と称して義昭を寛大に扱い、将軍位に留まることさえ許した。行状を戒《いまし》めただけで包囲を解き、岐阜へと帰って行った。
光秀とその兵団も、近江坂本に帰った。
「湖上輸送の用意を調えよ」
信長は丹羽長秀に命じて、佐和山に巨船の建造を始める。百挺櫓《ひやくちようろ》というその巨船は、一日半という速さで数百人の軍兵を大津に運ぶ。義昭への圧力のためだけではない。信玄の近江進出に備えてのものだった。
信玄の動きは、相変らず鈍い。
遠州刑部で越年した武田軍団は、程なく前進を始め、三河に入ったが、一向に街道筋に出る気配を示さず、山間の道を辿《たど》った。
――何で、敵を避ける。
やがて、三河の山峡にある家康方の城、野田城の攻略を開始した。武田軍は、たかの知れた小城の攻略に一ヵ月もかけ、しかもそのまま留まってしまう。信玄は長篠にほど近い鳳来寺《ほうらいじ》に移った。
――信玄、病む?
噂は伝播《でんぱ》し、尾鰭《おひれ》が付いて流布された。
四月十二日、信玄は帰国を急ぐ途中、信州伊奈郡|駒場《こまんば》で歿する。死因は宿痾《しゆくあ》の肺疾患であったと伝えられている。
「三年、喪を秘めよ」
という信玄の遺命によって、その死はひた隠しにされたが、その異状は紛れようもなかった。
信玄の安否は、騒然たる噂と論議を巻き起した。
――信玄、この世にありや。
生涯を権謀術策で明け暮れた信玄である。謀略説が主流であってもふしぎではない。
信玄の存在は、重大な意味を持っていた。甲斐の信玄は、天下の信玄となることを約束されていた。
反信長勢力は、灼《や》けるような期待を抱き、信長とその勢力は乾坤一擲の大勝負を覚悟した。その信玄の不可解な西上中止である。揣摩臆測《しまおくそく》が渦巻いた。
その渦中で、信長ひとりは冷めていた。合理的な思索を旨とする信長は、あらゆる事物・事象を冷静に分析し、更に一ヵ月余の観察で、結論に到達した。
――信玄、死せり。先んじて制するは今。
七月三日、信玄の死と信長の決意を知った義昭は京に居た堪れず、宇治へ走り、槇島《まきのしま》城に拠《よ》って再び挙兵した。
七月六日、信長は岐阜を出発、佐和山で建造した大船を使い、坂本口から京へ入った。更に七月十六日、山科《やましな》を経て宇治に南下、槇島城を囲んだ。
義昭は、降伏するより道はなかった。八方に派した密旨に応ずる者はなく、使者までが逃げて戻らない。城兵は抵抗を止めた。
義昭は、助命を嘆願した。
「助けて進ぜる。もう二度と京の地を踏むな」
義昭は追われ、信長が再興した足利将軍の顕位は、信長の手によって廃絶された。
将軍、追放。信長は、慎重にその反応を見守った。
――天下の大小名は、こぞっておれを極悪と見立て、敵対を表明するだろう。
信長の予想は外れた。昨日の足利将軍が消え失せても、今日の世間は何も変らない。敵は敵、味方は味方、京の営みもその儘《まま》である。
世の中は、足利将軍の存在価値を見放していた。
ただ一つの効果は、信玄の死が明らかになったことである。
「何という運の強さだ」
近江坂本城を訪れた藤孝は、会う早々光秀にそう言った。
「は?……どなたのことでござるか」
「知れた事、信長という御人よ」
藤孝は、将軍義昭の追放を、ひそかに信玄に急報した。その反応で信玄の安否を確かめ、将来に備える意を包含している。信長に帰服していながら、その強力な敵にも意を通じておく、激動の戦国期を生き抜く足利一族・支族の血が、藤孝にも流れている。
通報は葦火《あしび》≠ニいう足利家累代秘存の飛脚によって行われた。足利飛脚を略して足飛脚、文字を替えて葦火客という、更に略して葦火≠ニ呼んだ。
葦火≠ヘ甲賀者を選抜し、その統率には甲賀の名門和田家が当った。最近まで和田家の当主、伊賀守|惟政《これまさ》が司《つかさど》ったが、一昨年元亀二年(一五七一)夏、和田惟政が池田党との戦に討死を遂げたあと、細川藤孝が統轄している。
甲賀者の常として、葦火≠ヘ抜群の速度と共に、飛耳長目《ひじちようもく》に長《た》け、諜者として役立った。甲州に使いした葦火≠ヘ、武田家の重臣穴山梅雪の仏壇に、信玄のものと思われる位牌を盗み見て戻った、という。
「信ずるに足りましょうか、葦火の報告」
光秀はなお、半信半疑である。信じたい願望と、信じ難い奇蹟の思いが渦巻く。
それにひきかえ、藤孝は冷静そのものだった。
「葦火だけではない。こなたの知らせに穴山梅雪めは、はきとした返書を寄せぬ。執次ぐ気配もない」
藤孝は、先の言葉を繰り返した。
「この期に及んで、甲斐の虎が空しく消え失せるとは……はてさて、呆《あき》れるほどの強運だ」
「藤孝殿……」
光秀は、食らいつくような勢いで訊《たず》ねた。
「あなた様は……公方様を追われるとき、殿にお賭けなされた筈……」
「そうだ、信長公に賭けた。六、七分はな。あとの三、四分は他に賭ける。それが義父養父から伝受した足利幕臣の伝統である」
「では、信玄に……?」
藤孝は、謎めいた微笑を浮べた。
「信玄のあと、誰に賭けておくか。浅井・朝倉、上杉、毛利……難しいところだな」
「…………」
光秀は、物《もの》の怪《け》を見るように、藤孝を見詰めた。
その七月、改元あって天正元年(一五七三)。月が変って八月、信長は行動を起した。
越前朝倉、再攻である。光秀の兵団にも動員が命ぜられた。
八月八日、岐阜を進発した信長の機動軍団は、北国街道を北上、越前へ侵攻する気勢を示した。
江北の浅井・朝倉の小城砦は果敢に抵抗し、急を一乗谷《いちじようだに》朝倉本城に急報した。朝倉義景は二万の兵を動員、国境《くにざかい》を越え、江北に進出した。
――朝倉勢に、これまでの生気なし。
信長は、予《あらかじ》め信玄死去の噂を撒《ま》いておいた。その所為《せい》かも知れない。越前兵に活気が消え失せている。
越前を始め、加賀・能登《のと》・越中《えつちゆう》・越後《えちご》の兵は、些《いささ》か鈍重のきらいはあるが、粘り強く、剛強である。軽佻《けいちよう》な尾張兵と比較にならない。それが今度に限って腰が引けている。
――今だ。越前朝倉を滅ぼすには、今しか無い。
信長は軍団を叱咤して攻撃を開始した。
越前兵は脆く、たちまち敗走した。
だが、生気が失せているのは敵ばかりではなかった。信長の機動軍団も捗々《はかばか》しくない。緊張感が抜けている。信長自らが先鋒となって敵を撃破したのに、肝心の捕捉殲滅作戦が遅れて、敵将朝倉|義景《よしかげ》を取り逃がした。
「うぬら、どうしたというのだ!」
信長は、軍団参加の諸将を本陣に呼びつけ、烈火の如く怒鳴りつけた。
「揃いも揃って、比興《ひきよう》(卑怯)者め」
本陣に顔を揃えた柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、木下藤吉郎秀吉らは、顔もあげられない。
諸将にしても、意外であった。何で活気がこうも失せたのか。
――信玄の死で、兵の生気が消えた。
それ程、信玄の圧迫感が凄かったといえる。
諸将の中で、ひとり敢然と信長の言葉に反発した者がいる。佐久間右衛門|尉《じよう》信盛である。
「比興とはお言葉が過ぎましょう。われら程の家臣が外におりましょうや」
「何を言うか。多少の器用を鼻に掛けおって、片腹痛いわ」
信長は、向っ腹を立てた。この時、前線からの急使が到着しなければ、どうなったかわからない。それほど険悪な空気だった。
「|橡ノ木峠《とちのきとうげ》に陣した朝倉勢が、敗走しております」
果敢に攻撃を仕掛けたのは、湖西を北上した明智兵団である。朝倉勢は脆くも崩れ、越前平野を敗走した。
光秀は、そのまま敵の主将朝倉義景を追い、一乗谷に追いつめた。
義景は、逃れて大野郡|賢松寺《けんしようじ》に隠れたが、一族の朝倉式部大輔|景鏡《かげあきら》の裏切りに遭い、進退|谷《きわ》まって腹を切る。ここに累代越前守護職を務めた名門朝倉家は滅亡した。
「光秀、天晴《あつぱ》れである」
信長は、光秀に越前一国の統治を任せた。
朝倉家の怠惰と因循姑息《いんじゆんこそく》の行政は、治政にも能力を発揮した光秀により一変した。光秀の有能さは、対応の速さにあった。改めるべきは即座に改め、廃すべき法制は即座に廃し、有効な施政は即座に実行する。
信長は任命に当り、光秀を厳重に戒めた。
「国が腐り果てて、施政が正常であった例《ためし》はない。施策は残らず洗い立て、悪を悉《ことごと》く剔抉《てつけつ》せよ。情実に傾き私欲に堕した悪を見逃すな。配下の悪を見過し、見逃した者は大悪である。更に、便々と職にあって、何ら為《な》すことなかった者は極悪である。職責を全うせざる者は万死に値する。怠ることなかれ」
信長は、吏僚政治の弊をよく知るもののようであった。
越前から取って返した信長と機動軍団は、北近江小谷城の前面、虎御前山に布陣した。
浅井氏も追いつめられていた。三年に及ぶ対信長戦に、江北の支城は悉く奪われ、領地の物成りは何一つ入らず、頼むは大国朝倉の援助のみであった。
その朝倉が滅亡した今、彼らは絶望の末の戦を続けるしかない。
――信長は稀代《きたい》の謀略家である。彼にあざむかれて国を失った者は枚挙に遑《いとま》がない。
そう考えた浅井久政が、嫡子長政と共に信長を裏切ってから、三年余の歳月が流れていた。
だがそれは錯覚である。信長が躍進を遂げるために攻めた美濃の斎藤、近江の六角、京の三好党、摂津石山本願寺に、虚偽詐術を用いたことはない。流浪の身を将軍位に押し上げた義昭に対しても、隠忍に隠忍を重ねた末の追放である。
信長ほど、裏切られ背かれた者は他に例を見ない。なぜ背かれるのか、その理由は彼の躍進にある。想像を絶する躍進に誰もが不安を感じた。
――こんな躍進が、長く続く筈がない。
彼らは、どこで信長と手を切るかを必死に模索した。背叛の理由はみな同じだった。
――信長、信用に値せず。
そういう彼らこそが、信用に値しなかった。
浅井長政は、父久政や重臣たちの観念を覆すことが出来なかった。
一升(約一・八リットル)の桝《ます》には、一升しか入らない。
長政を一升桝とすれば、信長は数|石《こく》(一石は約百八十リットル)を容《い》れる醸造|樽《だる》であろう。その樽の水の深さを、水の心を量るのは無理だった。
百余年続く戦国の世を変更する、この世のあらゆる既得権を打破して、新たな秩序を樹立する。そうした信長の理想などは、到底理解の及ぶところではなかった。
長政の父久政も、累代の重臣も、志など無きに等しい。所領の確保と安全保障の方策に明け暮れた。
古武士の風格を持つ長政は、その姿形通り極めて保守的であり、父と重臣を一途《いちず》に尊重し、他を顧みなかった。義昭を足利将軍なるがゆえに尊崇した。よって義昭が信長に背叛すると、それに同調して手ひどい裏切りを行った。妻お市ノ方の兄を死地に陥れることに、何の痛痒《つうよう》も感じなかった。
彼らに便利な言葉が二つあった。「大義、親を滅す」と、「善悪の報いは必ずある」である。彼らは型通りにそれを信奉した。
――正義は、必ず勝つ。
彼らは、この非理非道の横行する世に、大義・正義が奈辺《なへん》にあるかをまったく考えなかった。
名門朝倉は滅び、数万の信長勢が小谷城を十重二十重《とえはたえ》に囲む。勁悍《けいかん》を以て鳴る浅井の将兵にも動揺は覆い難い。
戦闘が始まった。浅井勢最後の戦闘は意外に脆く、その日のうちに出丸《でまる》の京極丸《きようごくまる》は陥ち、隠居の久政は自刃した。
その夜、木下藤吉郎は密使を送って長政を説き、長政の妻お市ノ方と三人の女児の身柄を引き取った。
翌日、信長勢の猛攻に本丸は陥落し、長政も自刃して果てた。
久政・長政の首級は、朝倉義景のそれと共に京に晒《さら》された。その討滅を天下に公示するには、已むを得ぬ措置であった。
小谷城を手中にした信長は、これを木下藤吉郎に与えた。なお浅井の遺領近江坂田・浅井・伊香《いか》の三郡をこれに付した。はじめて一城と所領を持つ身となった木下藤吉郎は、姓名を羽柴《はしば》筑前守秀吉と改めた。光秀より二年ほど遅い出世であった。
尚、秀吉は、小谷城の交通不便を考慮し、城を琵琶湖畔の今浜《いまはま》に移し、長浜《ながはま》と改称した。
岐阜に戻った信長の許へ、京で梟首《きようしゆ》された朝倉義景、浅井久政・長政の首が戻った。
三個の首は、晒されて髑髏《どくろ》と化している。
その白い頭骨は、一点の曇りなく輝いて見えた。一見した信長は、使いの者に命じた。
「それぞれの菩提寺へ戻し、葬ってやれ」
三個の木箱に納められた頭骨が下げられようとしたとき、信長の脳裏に閃《ひらめ》くものがあった。
「あ、待て」
頭骨は、再び座に戻された。
――人の一生とは、斯《か》くも空しきものなのか。
生前の浅井・朝倉は、信長の進路に立ち塞がる巨岩の如き難敵であった。
頑迷、固陋《ころう》。改革の方途を拒み続け、剛健の軍勢を駆使して信長に戦を挑んだ。歴史にもしも≠ヘ成立しないとは言いながら、仮に浅井|一家《いつけ》が抗さなければ、信長の畿内制覇は三年早く終ったであろう。おのれの余命と、志の道遠きを思うと、痛恨限りないものがあった。
その三名は、いのち尽き、この世を去った。この世に残るものは、中身の失せた空の頭骨だけである。
――死ねば、皆こうなる。
信長は、三名の一生を思うと、わずかに残った白い頭骨を土中に埋めて腐り果てさせることの無惨を思った。
――せめて、醜い姿でなく残したいものだ。
信長は、三個の頭骨を前に、思いをめぐらせた。
天正二年(一五七四)の年が明けた。
岐阜に参集していた京都隣国の部将たちが、正月元旦に出仕した。
外様衆の拝賀が終ると、御内衆《みうちしゆう》が信長の許に集った。柴田、丹羽、林、佐久間といった家臣団、それに兵団長の光秀、秀吉などである。
酒が酌《く》み交され、酔いが廻って座が乱れた。
柴田勝家が、違い棚にある三個の桐箱に目を付け、拝見したいとねだった。
それは、浅井・朝倉の頭骨の箱であった。
桐箱には、それぞれに箱書がある。「朝倉遺物」「浅井遺物」「浅井遺物(隠居分)」とある。柴田勝家は戦利品と見た。
信長は、不得要領な笑みを浮べ、暫《しば》し迷った。
――武士の本懐は、溝壑《こうがく》(溝《みぞ》と谷間)に死して、敵に頸首《けいしゆ》(頸《くび》と首《こうべ》)を授けることにある。だが、この者たちに、その意が汲《く》めるだろうか?
折悪しく、用事が出来《しゆつたい》して、信長は座を外した。並の時なら謹んだであろう部将たちは、戦捷気分の屠蘇《とそ》酒に酔っていた。信長が諾否を明らかにしなかったのに乗じて、箱を棚から下し、蓋《ふた》を開けた。
中には、いずれも姿別々の椀状の漆器が入っていた。黒漆に黄金で割れ目を埋めた器物である。
「みごとな器《うつわ》であるが……はて、これは何に用いる品であろう」
柴田勝家が、仔細《しさい》に改めながら呟《つぶや》く。
「茶器と思うが、見掛けより持ち重りする。材は何であろうか、木でなし、金《かね》でなし、焼物とも思えぬ……」
丹羽長秀が、掌《て》の上の器物を計って小首を傾げる。
「それは、浅井、朝倉の曝《さ》れ頭《こうべ》だ」
信長が入って、声をかけた。
「えッ、曝れ頭――?」
勝家は、思わず頭骨を取り落しかけた。
「では、これは浅井の……」
長秀は、しげしげと見詰めた。
「よいか、おれは浅井、朝倉の屍《しかばね》を辱《はずかし》めようと、斯く細工を施したのではない。武士《もののふ》は功名手柄が生き甲斐ではない。戦場の溝の泥水に倒れ伏して、敵手に首を授けるを以て本懐とする。彼らは身を以てそれを示した。それをおのれの戒めとして、こうして身近においておる」
「なるほど……御教示、忝《かたじ》けのうござる」
勝家は頭骨を捧げ拝したが、少しもわかっていない。ただ酔いに委せて浮かれた。
「のう、各々……さればわれらも浅井、朝倉の武士《もののふ》ぶりにあやかるため、この髑髏盃《どくろはい》で一献《いつこん》酌み交そうぞ」
勝家は、頭骨になみなみと酒を満たし、一気に呑んだ。
やんやと囃《はや》す者、吾も吾もと髑髏盃を奪い合う者、騒ぎとなった。
――揃いも揃って無智|蒙昧《もうまい》の輩《やから》だ……。
信長は、呆れ顔で眺めていたが、叱りもならず、奥へ入ってしまった。
信長の通史『信長公記《しんちようこうき》』は、慶長五年(一六〇〇)頃に武将太田|牛一《ぎゆういち》によって書かれた。牛一は号とみられ、名は資房《すけふさ》という。信長の下で近江の代官を務め、右筆《ゆうひつ》であったともいう。
『信長公記』は、その正確な記述で第一級の史料といわれるが、信長の思慮分別への忖度《そんたく》は、当時、並の家士であった者の域を出ない。
天正二年元旦、岐阜城年賀において信長公は、朝倉義景、浅井久政・長政三名の髑髏を薄濃《はくだみ》(漆で固め、金泥《こんでい》などで彩色する)にして据え置き、御肴《おんさかな》にして諸将と共に興じたとある。薄濃は事実であろうが、酒の肴として打ち興じたのは無識不学の家臣たちであって、独自の美意識と死生観を持つ信長が、死者を辱めるとは信じ難い。
確かに信長は、史上|稀《まれ》に見る大虐殺を強行した。それは狂信に奔り、分を越えて戦乱を惹起《じやつき》した徒輩《やから》の救い難きを思い、一殺多生《いつせつたしよう》のため殲滅するしかなかったからである。敵将の頭骨を酒盃に用い興ずるのとは意味が異なる。
三月、信長は上洛し、御所に参内して戦捷を報告した。時の天皇(正親町《おおぎまち》天皇)はこれを嘉《よみ》し、望みの褒賞を与うる旨を、内示し賜うた。世人は将軍位を望むであろうと推察したが、信長が下賜《かし》を願ったのは、銘香|蘭奢待《らんじやたい》の一片であった。早速に勅使は奈良に下向して、正倉院に秘蔵する香木蘭奢待を一寸八分(約五・五センチ)切り取り、信長に与えた。累代の将軍家でも叶わぬ銘香の下賜に、信長の美意識は極まったであろう。
信長は、参議に任じられ、従三位《じゆさんみ》に叙せられた。
信長が、朝廷との融和を望まぬ訳がない。次々と下される朝廷の沙汰《さた》を甘受した。
だが、不審が胸中をかすめた。
――少し、しつこい。それに作為が感じられる。
いわゆる位打《くらいう》ち≠ナある。朝廷は目覚ましい躍進を示す者に、たて続けに位階・官職を与え、懐柔を図ると同時に、位負けしてその者が失脚することを狙う。
かつて源平合戦の折、後白河《ごしらかわ》法皇が木曾|義仲《よしなか》を位打ちし、その堕落を誘った。また源義経もその策に乗って、兄頼朝と不仲になり、身を亡ぼした。
今回の位打ち≠ノは、更に示唆が内蔵されている。
――軍勢を、西に向けよ。
西は、石山本願寺。更には中国の覇王毛利、そして九州の列強である。
――おれを、畿内から遠ざけようとしている。策略の主《ぬし》は誰か。
その疑いと符合するように、四月、一度和睦した石山本願寺が、またも信長敵対の号令を発し、戦端を開いた。
五月、京都に滞留している信長は、賀茂の祭り・競馬《くらべうま》・神事・天下祈祷を次々と行い、京の町衆の人気を煽《あお》る。
六月、信玄の後嗣武田|勝頼《かつより》が行動を起して、駿遠国境の大井川を渡り、家康の堅城高天神城を攻撃した。
家康は、再び援軍を求めた。信長は嫡子|信忠《のぶただ》と共に機動軍団を率い、東に向った。
だが、浜名湖畔に到達したとき、高天神城失陥の報が入る。信長は武田軍の推移を見守った。
積極的に行動を起して高天神城を屠《ほふ》った武田勝頼は、その後、捗々しい行動を示さず、高天神城に守兵を残すと駿府に引き揚げて行く。
――なぜだ。何のための軍事行動だ。
もちろん、信玄の後を嗣《つ》いだ勝頼が、武田滅びず≠フ気勢を示すためである事は、容易に想像がつく。
だが、この時期、石山本願寺と呼応したあたりに、信長は深い疑念を抱いた。
――この一連の出来事には、明らかな作為がある。裏で絵図を描いたのは誰だ。
到底、世慣れぬ公家の智恵ではない。かつての将軍義昭を遥かに超える策略が見え隠れする。
だが、信長には、それを詮索《せんさく》する暇がない。
三州吉田に軍を返した信長の許《もと》に、家康が謝意を表するため、参向した。信長は支援の果せなかった代りに、黄金をつめた皮袋二つを贈って慰めた。一つの皮袋は二人掛りでも持ち上がらぬほどの重量であったという。
だが、家康に喜色はなかった。
――何で信長公の行動は、今度に限って鈍い。
信長は、無類に忙しい男だった。
彼は、生涯に謀将というものを持たなかった。大事であろうが、日常茶飯の些事《さじ》であろうが、すべてひとりで決めた。他に一々説明する要はない。そのためその行動は不可解と見做され、悪名を残した事績も少なくない。
この時の、並外れた軍事行動の遅滞も、その一つであった。
遅滞の理由は幾つかある。この時、信長は武田軍団との決戦を望まなかった。実は背後の伊勢長島の一向一揆が猖獗《しようけつ》を極めていた。武田軍団との戦闘が長引けば、背後を衝かれる恐れがある。
――各個撃破しかない。
石山本願寺と長島一揆、それに武田軍団は、どの一つでも、信長軍団の総力を挙げてようやく勝てるほどの大勢力だった。
――勝頼の遠州侵攻は、一過性に過ぎない。
信玄が死去してから、まだ一年余しか経っていない。若年の勝頼は人心を掌握するのに腐心している筈である。遠州侵攻は統帥の確立のために違いない。
勝頼は、要衝高天神城を攻略して、一勝を挙げた。だが遠州一国を奪取するとなると、周到な準備が必要となる。勝頼にその用意はない。
――それに、各部将が承知すまい。
世に、武田二十四将という。武功|赫々《かくかく》たる名将・勇将が信玄に仕えていた。それらが年若の勝頼の冒険を阻止するとみた。
――一過性の侵攻なら、気長に退散を待てばいい。
それよりも、遠江・三河の山間に、形勢を観望している土豪の動向を見定める必要があった。信玄西上の際には、挙《こぞ》って信玄に靡《なび》いた。勝頼にはどう反応するだろうか。信長はそれを観察するため、ゆるゆると軍を進めた。
案の定、勝頼は、高天神城を確保すると、風のように軍を退いた。
「織徳同盟軍、口ほどに無し」
勝頼は、高笑いしたであろう。信長も軍を戻した。
岐阜に戻ると信長は、電光石火長島攻撃を令した。
尾張に帰着した機動軍団は、そのまま長島へ進路を転じた。岐阜にあった予備兵団も加わった。
――今、この狂信集団を討滅しなければ、将来に禍根を残す。
信長は、非常の決意をもって事に臨んだ。
海上に兵船を動員して封鎖を断行、一揆勢の退路を断ち、自ら陣頭に立って軍勢を叱咤し、息つく余裕を与えず、攻めに攻めた。
信長の意図するところは、敵の降伏ではない。殲滅、であった。
[#改ページ]
一以《いつもつ》て之《これ》を貫《つらぬ》く
美濃《みの》を流れ出る河川は数多い。木曾川《きそがわ》・揖斐川《いびがわ》・長良川《ながらがわ》の三大河川を始め、十数河川が長島の東・西・北の五里・七里の間に幾重にも流れ、南は伊勢《いせ》湾の海漫々として、補給路に事欠かない。
ここに拠《よ》る一揆《いつき》勢は、難攻不落を誇った。
信長とその軍団の猛攻は続いた。信長は新兵器の大鉄砲を戦場に投入し、巨弾を放って城砦《じようさい》の塀・櫓《やぐら》を破砕する挙に出た。長島城の出城、篠橋砦《しのはしとりで》・大鳥居砦《おおどりいとりで》は瞬くうちに窮地に陥り、赦免を条件に降伏を申し出たが、信長は許さない。
「抑《そもそも》この戦《いくさ》は汝《なんじ》らが予を仏敵と誹謗《ひぼう》して起した戦である。言を尽して慰撫《いぶ》し、度々和議に及んだが、その都度裏切って爰《ここ》に至った。汝らの詐言は聞き飽いた。汝ら穢土《えど》を厭離《おんり》し、浄土に赴くは本望と聞く。いさぎよく死ね」
と、きびしく包囲して糧道を断った。
月余の後、風雨に紛れ、大鳥居砦の男女が脱出を図ったが、信長軍は見逃さず、千余の一揆勢を取り籠《こ》めて討ち、残余の者は悉《ことごと》く餓死して果てた。
長島本城の一揆勢も堪《たま》らず、詫び言を申し送って数多《あまた》の舟を出し、脱出の挙に出たが、信長はこれも許さない。鉄砲隊を配置して撃ち払う。射殺される者、溺死《できし》する者数千に及び、目も当てられぬ惨状となった。
そのさなか、七、八百の一揆中核の者が抜刀隊を組み、突撃を敢行して包囲陣を攪乱《かくらん》し、首脳部の脱出を図った。運よき者は鈴鹿《すずか》山系に遁入《とんにゆう》し、散り散りに大坂へ逃走する。取り残された男女二万余は、中江城・屋長島《おくながしま》城の両城にあって慈悲を嘆願したが、信長はこれを許さず、幾重にも柵を構えて取り囲み、四方より火を放って悉く焼殺した。世にいう長島の大虐殺≠ナある。
長島の虐殺は、信長生涯の汚点と評され、信長の狂気が喧伝《けんでん》された。
――それは、実状を知らぬ者のたわごとだ。
信長は、一顧も与えなかった。
一向一揆といえば、純粋に信仰に殉じた者の姿を思い浮べる。確かに初期にはそれがあった。だが、戦に明け暮れ、しかも有利に戦況が展開するうち、一揆勢は堕落の一途を辿《たど》った。物資を収奪し、寄進を強制し、勝勢に傲《おご》り、酒池肉林の奢《おご》りにふけった。集まる流民は仏事を顧《かえり》みず、淫行《いんこう》にふけった。長島城に婦女の数が多かったのもその所為《せい》である。
――乱行、正視に堪えず。
それを使嗾《しそう》したのは石山本願寺である。彼らは道徳の規範なく、信仰に仮託《かたく》して私権を貪《むさぼ》った。世に邪信ほど始末に悪いものはない。一殺多生《いつせつたしよう》=B信長の断乎《だんこ》たる信条である。
信仰は、人の精神の骨幹を為《な》すという。
うつろい易い世の中で、人の精神はとかく私利私欲に揺らぎがちとなる。一身一家の幸と利を求めて、世の規範に背く。
宗教は、広大無辺に功徳を及ぼすことを本旨とする。人は社会の一員であることを常に自覚、自戒し、よりよき世の中をつくることに奉仕を忘れてはならない。
世に邪教というものがあり、人に妄信・狂信というものがある。邪教は信仰者個々の幸福や利益《りやく》を餌《えさ》として教団の隆盛を図る。宗門自体が利己の欲望の凝結であり、美辞麗句を並べる教義は看板に過ぎない。
信徒も、他を顧みない。修行を積まず、金銭・財物を喜捨することで、罪障消滅・後生安楽が得られるものと信じてやまない。宗門に媚《こ》び、後生の安楽を得んがため、殺生戒をも犯す。狂信・妄信というしかない。
戦国末期、横暴を極める武士権力に対し、一向宗は一揆を激発させ、敢然と戦を挑んだ。初期のそれは意気壮とするが、宗門が干戈《かんか》をとる矛盾は覆い難い。その矛盾の解決を怠って、宗門の拡大を狙うに至っては、自家|撞着《どうちやく》も甚だしいと言わなければならない。
更なる矛盾は、武権に抗するに、他の武権と結んだことにある。宗門に同調せざる武権を仏敵と称し、無辜《むこ》の信徒を駆り立てて、戦乱を助長・拡大させた。まさに仏法、王法を侵すの有様となった。
世の過半の武権は、宗教を敵とするのを懼《おそ》れ、懐柔の策をとったが、ひとり信長は敵と見做《みな》し、討滅を呼号した。
「国と大衆のためにこそ宗門がある。宗門のために国や大衆があるのではない」
彼は、猖獗《しようけつ》する一向一揆の利己排他を憎み、これを根絶しようと、あえて非情の手段をとった。
――彼らを説得し、常道に戻すには、長い年月と多大の労苦を要する。人間五十年、残された命は長くない。おれは急ぐ。
長島大虐殺の根底には、信長の信念と焦りがあった。それは狂気と一概に言えるものではなかった。
長島掃討戦が終ると、信長は光秀を京から呼んだ。京の反応を確かめるためである。
「天下は震駭《しんがい》しております」
「御所もか」
「魔神と懼れる者あり、悪鬼|羅刹《らせつ》と謗《そし》る者あり。人、様々でござります」
信長は、鼻を鳴らして受け流した。
「処で、わかったか」
浅井・朝倉の討滅に、京都朝廷は数々の恩典を授与した。その裏に信長を京から遠ざけようという作為を感じ取り、光秀にその詮索《せんさく》を命じておいた。
光秀は、返事を言い淀んだ。
光秀は、懐紙を取り出し額の汗を拭った。
「てまえは、畏《かしこ》き辺りには迂遠《うえん》でござりますれば……」
彼は、朝廷工作のおおもとを探れ≠ニいう信長の命令には、ほとほと難渋した。元々素性の明らかでない浪人としか思われていない身である。朝廷には何の手掛りも持たない。
信長は、その辺の事情は推察していた。だが学識・教養では家中随一の人間である。何か才智が有る筈《はず》である。
「已《や》むなく、兵部大輔殿に内々意見を求めましたところ……」
信長は、苦笑を洩らした。
――細川|藤孝《ふじたか》か。こ奴にはあれしか頼る者はおるまい……。
光秀は、信長の笑みに勇気づけられたようである。
「昨秋、中国毛利の使僧|安国寺恵瓊《あんこくじえけい》なる者が、御料地|供御米《くごまい》を運んで上洛|仕《つかまつ》りました」
「安国寺恵瓊?……覚えておこう。それで?」
安国寺恵瓊は使僧というより、毛利の外交僧というべきであろう。京都|東福寺《とうふくじ》で修行を積み、学識人に優れ、世情に通じ、情勢分析に才あったため、禁裏や足利将軍家に珍重され、人脈を築いた。安芸《あき》安国寺の住持となってからは、毛利氏の信任を得て、専ら毛利家の京都外交に当っている。
「そやつか? そやつが禁門の公家どもを操ったと?」
「御意、藤孝殿はそう見込んでおりまする」
「…………」
信長は、思慮を廻《めぐ》らせた。
あり得る事である。中国毛利の一族、家臣団には一向宗(浄土真宗)の宗徒が多く、本願寺|法主顕如光佐《ほつすけんによこうさ》の最も頼みとする大檀越《だいだんおつ》である。過去、石山本願寺が信長の攻勢に堪えた裏には、中国毛利の武器・弾薬、兵糧の補給、軍資金の支援があった。反信長勢力の包囲網が崩壊しかけている今、中国毛利が金に飽かせて公家を操り、謀略を仕掛けるというのは、さもありなんと思う。だが……。
――迂曲の策だな。
信長の心中に、一点の疑念が残った。
武田|勝頼《かつより》は軍を甲斐《かい》に戻し、長島一向一揆は信長の猛攻に潰《つい》えて滅んだ。要《かなめ》の石山本願寺はこれより信長の攻撃にさらされる。
かかるとき、信長を位打《くらいう》ちにするのは、策として遠廻りに過ぎる。策が上品過ぎて戦国武将らしくない。
「藤孝殿が申されるには、中国毛利は過激な策を構えたようですが、禁裏の公家どもは殿の御威勢を恐れて動かず、已《や》むなく今の程度にとどめたようであると……」
「藤孝は、今も京か?」
「いや、堺|納屋《なや》衆の茶会があるとかで、出向いて参ると申しておりました」
堺の茶会は、三日にわたり、豪商今井|宗久《そうきゆう》の屋敷で催され、無事に終った。
亭主役は、今井宗久、津田|宗及《そうぎゆう》、千宗易《せんのそうえき》、いずれも紹鴎《じようおう》門下の高弟が、代り代りに務めた。
集う客は、堺はもとより畿内、畿外から招かれ、盛会を極めたとある。京都朝廷からは前《さきの》関白|近衛前久《このえさきひさ》、中国毛利の外交僧安国寺恵瓊、大和の松永|久秀《ひさひで》、石山本願寺の塔頭証善《たつちゆうしようぜん》、紀州|雑賀《さいか》衆鈴木|孫市重秀《まごいちしげひで》、それに細川藤孝が加わると、ひどく生臭い顔触れであった。
今井宗久は、茶会のあと、それら遠来の客を招いて宴を催した。
「種々《くさぐさ》の因縁や行きがかりもおありであろうが、今宵一夜を限り、恩讐《おんしゆう》を忘れてご歓談ありたい」
明日は銃火を交えることになるやも知れぬ者が一堂に集い、一夜の歓を尽す、戦国の世の俗事を離れた茶事の効用がそれにあった。
主客ともに差し障りのあることを避けて、風流を心掛けたが、時に話柄《わへい》が際どい点に触れるのは、已むを得ぬ事であった。
「時に、公方《くぼう》殿は近頃、どう遊ばしておられようか」
ふとそう洩《も》らしたのは、松永久秀である。
「てまえあるじが御面倒見を致し、備後《びんご》、鞆《とも》に別墅《べつしよ》を構え、無聊《ぶりよう》を託《かこ》っておられますそうで……」
と、安国寺恵瓊が応えた。
「お気の毒といえば、お気の毒この上ないが……いまの岐阜の御威勢では、どうにもなるまい」
「岐阜の威勢もさることながら、公方殿は腐り果てておる。われらも一時《いつとき》、紀州|由良《ゆら》へお迎え申し、御面倒を見て差し上げたが、身分格式のみを言いつのり、今の境遇への反省がない。口を開けば越後上杉と語らうの、小田原北条を動かすのと、夢物語ばかり……あれは天下の将軍職に就ける器量がない」
口を極めて罵《ののし》ったのは、紀州雑賀党の棟梁《とうりよう》、雑賀孫市こと、鉄砲の名手鈴木重秀である。他の者の頷《うなず》きを見ると、義昭《よしあき》はもう過去の人となり果てた観があった。
「そうなると……十五代続いた室町幕府も終りか。もはや十六代を継ぐべき血筋がおらぬ」
石山本願寺の証善坊が、嘆息まじりでそう言うと、前関白近衛前久が、薄笑いを浮べて言った。
「いや、そうとばかりも言えぬ。実はまだひと方残っておられるのだ」
「え、お血筋が?」
一同が注目した。それをよそに、細川藤孝は、人知れぬよう座を外した。
「どなたでござる」と、松永久秀。
「今は言えぬ、洩れたらお命が危うい。だが室町幕府再興となれば、その御方をおいて無い」
乱世は、怪物を生む。
第二次世界大戦の三年八ヵ月と、戦後の混乱期に、政治・経済・社会・思想・宗教等々に、得体の知れない怪人物が横行したことは、まだ記憶に新しい。
戦国時代も百年を閲《けみ》すると、その時々に怪物と見做される人物が出現した。この物語に登場している信長も、いい意味の怪物であり、細川藤孝も、その複雑な性格と行動から、怪物といえるであろう。貴種を唯一の取柄としながら、志操定まらない将軍義昭も、またおのれの栄達のためにあるじを殺し、将軍(義輝)を弑《しい》し、東大寺大仏殿を焼亡させた松永|弾正《だんじよう》久秀も、怪物の名に恥じない。
雲上人《うんじようびと》にも、それがあった。
前関白近衛前久という人物もそれに該当する。前久は公卿《くぎよう》(従三位《じゆさんみ》以上の公家)の筆頭、近衛家の嫡流に生れ、六歳で従三位に叙任、内大臣、右大臣を経て十九歳で関白・氏長者《うじのちようじや》、間もなく左大臣となった。
多年政治権力を武家に奪われ、無力と化した朝臣の中にあって、近衛前久はひとり朝権の回復を画策する稀有《けう》の人物であった。
ただし、おのれの才智・能力をもって天下を変革しようとするほどの大志を持っていたわけではない。衰微の極に達した足利氏の末裔《まつえい》を援《たす》けて幕府を再興させるか、あるいは割拠する諸国の群雄の中から有力者の京都進出を恃《たの》んで、新たな政権の樹立を促すか、いずれにしても既成の概念から一歩も出ない程度の人材である。
五摂家の筆頭近衛家の後嗣に生れた前久は、関白・左大臣・氏長者に任ぜられ、名目上は位《くらい》人臣を極めたが、実質としては官位任免の外は何の権力も持たない無為徒食の身であった。
当時、足利十三代将軍位を嗣いだ義輝(前名義藤)は、幕府の威権を回復しようと図り、専横を極める幕臣三好氏に果敢に抗争を挑み、ために京を追われることたびたびであった。
永禄二年(一五五九)、尾張統一戦の最終段階にあった織田信長は、ひそかに兵八十を率いて上洛、十三代義輝に拝謁して面晤《めんご》の機を得た。帰国に先立ち信長は、尾張統一後に軍勢を上洛させ、京洛《けいらく》に盤踞《ばんきよ》する三好勢を駆逐し、幕府再興に力を貸そうと申し出ている。
義輝は、熟慮の末、その申し出を謝絶した。思うに当時の信長の勢力をもってしては、頼むに足らず、と見てとったのであろう。
信長が帰国して一ヵ月後、越後の雄|長尾景虎《ながおかげとら》(後の上杉謙信)が五千余の軍勢を率いて上洛、信長と同様足利将軍の窮状を見て、帰国前に三好勢と同腹の松永久秀勢の討伐を申し出た。
だが、義輝はそれも謝絶した。景虎に京常駐の意志なしと見てとったからである。
長尾景虎は、甲斐の武田信玄と並んで日本最強の軍団を持ち、信長にとっては最大の難敵と目された。
景虎は、越後の守護代長尾|為景《ためかげ》の末子として生れ、十四歳の頃、兄|晴景《はるかげ》に起用され栃尾《とちお》城主となった。中越地方の安定に功あり名声を博するが、兄晴景や上田城主長尾|政景《まさかげ》に嫉《そね》まれて対立、十九歳の折、守護上杉|定実《さだざね》の調停によって兄晴景の跡目を継承、春日山《かすがやま》城主となった。
その後、守護上杉定実の死と政景の屈伏により、名実ともに国主の地位を確立した。
そうした一族の間の内紛が、景虎の精神構造に影響を及ぼさぬはずがない。景虎は弱肉強食の戦国期にあって、稀有な正義感をもって身を処した。即ち不当に虐《しいた》げられた者、名分なき侵略を被った領主のためには、おのれの利得を省みず、総力を挙げ武力を尽して救済と回復を図るのを常とした。
天文二十一年(一五五二)、関東|管領《かんれい》の重職にあった上杉|憲政《のりまさ》が、相州小田原の北条|氏康《うじやす》に追われ、景虎の許《もと》に身を寄せた。
次いで翌年、信州|葛尾《かつらお》城主村上|義清《よしきよ》が武田信玄の侵掠《しんりやく》をうけ、敗れて景虎を頼った。
景虎は上洛し、後奈良天皇に拝謁、足利十三代将軍義輝と対面し、両人救済の名分を得て帰国、まず信州に出兵し、武田信玄と戦うこと五回に及んだ。
関東管領上杉憲政は、性放縦、奢侈《しやし》を極めたため、その回復はかなり遅れた。だが、憲政が管領職と、永享《えいきよう》の乱の際に下賜された錦旗、系図を景虎に譲り、父子の約を結ぶに及んで景虎は永禄二年再び上洛、天皇・将軍に奏上、その認可を得る。翌三年、関東に出兵、翌四年小田原を囲んで北条氏に武威を示し、その帰途鎌倉に立ち寄り、上杉の家名継承の式典を挙げた。
景虎は、関東進出に先立ち、当時関白である近衛前久を越後に招いた。実権を伴わぬ官職とはいえ、朝廷第一位の官職にある顕官が、京を離れ遠国に下向した例はない。
景虎に、上杉家相続の大義名分が必要であったと同様に、前久には景虎に求めるものがあった。兵を率いて上洛し、京の治安と秩序を回復すること、即ち三好・松永|輩《はい》とその軍兵を排除して、足利十三代将軍義輝を擁護し、室町幕府を再興して貰《もら》おうというのである。
だが、景虎は端無くも始めた武田信玄との戦、天文二十二年以来の五回に及ぶ川中島合戦が結着つかず、前久の要請に応ずることが不可能であった。前久は空しく永禄五年に帰洛する。足利将軍義輝は永禄七年、長年対立した三好|長慶《ながよし》の歿後、台頭した三好三人衆や松永久秀との抗争が激化し、翌八年、京都二条第の将軍館を包囲され、自刃して果てた。
永禄十一年、織田信長に擁立された足利義昭が上洛、足利第十五代将軍に就任する際、前久は信長の求めに応じて力を副《そ》えるが、後に義昭との間に隙を生じて出奔、諸国を遍歴、諸大名・豪族の許に身を寄せ、情勢を見聞し歩いた。
その間、諸大名の官位の奏請を取次いで謝礼を得たり、時には政治顧問として外交交渉に携わったりして、糊口《ここう》を凌《しの》いだ。当時松平|元康《もとやす》と称した家康の依頼で、徳川姓の下賜《かし》と三河守任官を斡旋《あつせん》している。
公家の禄がまったく保証されない時代であったが、さすがに宮中に仕える雲上人の威名は、下剋上《げこくじよう》の大名・土豪には珍重され、利用価値ありと認められたようである。後には信長も彼を利用し、薩摩《さつま》島津に帰服勧告を伝えるため、度々遠く鹿児島まで派遣している。
前久は、当時無為徒食の公家の中で、唯一おのれの存在価値を発見した人物といえる。前に述べたように官位の斡旋から、調停工作に介入するようになると、謝礼収入もさることながら、謀事・謀計に持ち前の才を発揮するようになった。更に、公家に似ず、口の堅いことが、信頼感を厚くしたようである。
天正二年(一五七四)九月の長島一向一揆討滅以来、暫《しばら》く平穏に過ぎた信長に、またも戦機が動いた。
天正三年四月、武田勝頼は前年に引続いて一万五千の兵力を動員し、甲斐府中を発し、伊奈路を経て三河侵攻作戦を開始した。
信玄在世の頃、|三方ヶ原《みかたがはら》の戦を前に甲州軍団は遠州|高天神《たかてんじん》城を攻めたが、攻略に至らなかった。信玄の意図は上洛戦に備えての威力偵察に過ぎなかったが、若年の勝頼はそう思わなかった。
――父信玄が陥《おと》せなかった高天神城も、おれの手にかかれば、かくまで脆《もろ》い。
その驕《おご》りがあった。今回の出撃は、信玄歿後、家康に奪われた長篠城を奪回し、あわよくば長駆して、三州吉田城(現・豊橋市)を攻めようというのであった。
――死後三年は、他国に兵を出《いだ》すべからず。
信玄は、そう遺言を残した。戦をすれば領国が疲弊する。信玄は常にそれを慮《おもんぱか》った。それゆえ上洛戦が遅れ、宿願を果せず終った。
――たかが長篠の小城一つ、捨ておけばよい。
武田二十四将の遺臣団は、挙《こぞ》って出撃に反対したが、血気に逸《はや》る勝頼は聞き入れない。
遂には神器《じんき》御旗《みはた》∞楯無《たてなし》≠フ前で出戦を令した。
甲斐武田家の家祖は、新羅《しんら》三郎|源義光《みなもとのよしみつ》である。
新羅三郎義光は、前九年の役(一〇五一〜六二)、後三年の役(一〇八三〜八七)で奥州を平定し、関東源氏の基《もとい》を築いた源|義家《よしいえ》の弟で、甲斐源氏の祖となった。
その新羅三郎以来の甲斐源氏の嫡流である武田家には、累代の神器御旗∞楯無≠ェあった。領主が出戦を企図して家臣に諮《はか》った際、異論・反論が百出して軍議|纏《まと》まらざるとき、御旗∞楯無≠フ神前で命令を下せば、なにびとたりとこれに服さなければならない。
それだけに、御旗∞楯無≠フ誓言は、真に国の興廃・存亡にかかわる戦でないと、執行されない。信玄在世の頃はついぞ執行されることは無かった。それほど信玄の信望は厚かったのである。
三河北部への侵攻に、武田二十四将は容易に諾《うべな》わなかった。
――無用の戦である。今は領国経済の充実を図るべき時。
それが、圧倒的な意見であった。
勝頼は、焦慮した。亡父信玄には一も二もなく服した家臣が、勝頼には批判的で不服を唱える。
――おれも信玄の子、父に劣らぬ能力を持っている。
確かに勝頼は人並優れた将才を持っていた。戦略・戦術に長《た》け、剛毅果断、いずれの武将と比べても劣らなかった。彼が並の大名家に生れていたら、見るべき働きを示し、後世に語り継がれたであろう。
彼の父が、戦国史上、稀有の名将の信玄であったことが、彼の不幸を招いた。彼は将才はあったが将器に一つ欠けるところがあった。
それは、信望≠ナあった。信玄の遺臣は事毎《ことごと》に信玄と比較して彼を評価した。信玄は信奉する孫子の兵書にある通り動かざること山の如き¥d量感を持っていた。年齢《よわい》三十の勝頼にそれを望むのは無理である。勝頼はせめて三年、父の遺臣の意に従い、それらの死去・老衰を待つべきであった。だが、父の遺領と精強無比の軍団を継いで、父を凌駕《りようが》しようと弥猛《やたけ》に逸る勝頼に、その辛抱はない。
遺臣二十四将の遅疑逡巡《ちぎしゆんじゆん》に焦《じ》れた勝頼が、神器御旗∞楯無≠持ち出し、出戦を令したとき、彼と甲斐武田家の命運が決した、といえよう。よく物の譬《たと》えにいう伝家の宝刀≠ニいうのは、抜くぞと見せかけるまでの効用で、決して抜いてはならぬものである。抜けば宝刀の値打は下がり、只の刀でしかなくなる。
勝頼は、それを軽率にも抜いたのである。遺臣は例外なく勝頼に武田家の命運を思った。
――この後嗣《あとつぎ》に、国は保てぬ。
だが、御旗∞楯無≠フ掟《おきて》は厳然とそこにある。諸将は勝頼の出戦命令に服するよりなかった。
すでに三月、信長の許へ家康から情報が齎《もたら》されていた。
――甲斐武田勢、近々出戦の模様。
家康は、武田勢の動向にひどく神経質であった。無理もない。精強武田軍団の戦力は優に三河勢を凌ぐ。
信長は、家康の心情を察して、取りあえず嫡男信忠に三千の兵を預け、三河に派した。
――勝頼の侵攻までには、まだ二ヵ月はかかる。
信長は、四月、石山本願寺攻めを敢行する。武田との決戦に、背後を衝《つ》かれぬ要慎《ようじん》である。
史書『信長公記《しんちようこうき》』によれば、
「四月十四日、大坂へ取寄り作毛悉《さくもうことごと》く薙捨《なぎす》て、御人数十万余騎のつもりなり。か様に上下結構なる大軍見及ばざるの由《よし》にて、都鄙《とひ》の貴賤《きせん》皆|耳目《じもく》を驚かすばかりなり」
とある。
まず、石山本願寺領分の作物を悉く刈り取って捨て、十万余騎の美々しい大軍をもって攻め寄せた。都会も田舎も身分を問わず、このようなみごとな軍勢を見たことはなく、その様に耳目を驚かした。
信長得意の示威作戦である。十万余騎はかなり大袈裟《おおげさ》で、実数はせいぜい六万ほどであろう。美々しい軍装で見る者の目を奪い、相手方の気勢を削《そ》ぐと共に、中国毛利・紀州雑賀党・阿波三好勢を牽制《けんせい》した。
実戦は、佐久間信盛に預けた兵団約一万と畿内の外様勢三、四千である。
「日は東よりのぼる。怠るな」
後詰《ごづめ》は京に残した明智兵団である。
「日は西に沈む。掃除しておけ」
信長の命令は、示唆に富んでいる。東は武田との戦況|如何《いかん》で攻勢の好機を掴《つか》め、の意であり、西は中国毛利を指す。遠からず毛利との戦闘が始まる。それまでに畿内の敵を一掃せよ、というのであろう。
信長の機動軍団の過半は、示威運動を終ると、大和・伊賀路の間道を利して、東へ向った。
勝頼が催した軍勢は、約一万五千であった。兵力はやや少ないが、選《え》りすぐった精兵である。戦場が三河北方の山間であるため、徒《いたずら》に大兵を投入すれば混乱を招く。まず当を得た兵力、と言えよう。
勝頼が攻略を目指した長篠城は、三河|設楽《したら》郡|鳳来寺《ほうらいじ》の近く、信州伊奈から東海道に抜ける要衝である。
城は土豪菅沼氏の末裔元成が、今川氏に仕えたとき築いた。
桶狭間《おけはざま》合戦で今川氏が衰退すると、菅沼氏は徳川氏に属したが、信玄が遠江《とおとうみ》に侵攻すると、逸早《いちはや》く武田氏に降ってその支城となった。
天正元年(一五七三)家康はこれを攻略し、奥平|信昌《のぶまさ》を守将に置いたが、勝頼の来攻を受けた。
俗言にやらとら≠ニ言う。やったり、とったり≠ナある。三河長篠城は武田・徳川の間《はざま》で、まさにやらとら≠セった。
守将の奥平信昌もまたやらとら≠ナあった。三河生れの信昌は、初め父|貞能《さだよし》と共に今川氏、次に家康に仕えたが、元亀三年、武田信玄に属した。天正元年信玄が没したとなると早速家康に鞍替《くらが》えした。
武田氏にとっては、城も守将も因縁が深い。勝頼が執着したのは、そういう因縁に依《よ》るものであった。
城は、豊川の上流(下流は三河吉田に通ずる)、寒狭川《かんさがわ》と三輪川《みわがわ》の合流点にある三角点に位置している。両川とも切り立った断崖で、攻め口は三角の一辺しかない天然の要害である。この城を攻略すれば、一気に三河吉田に到着するとあって、勝頼は是非にも欲しかった。
「武田軍団、来襲」
浜松城で武田軍の動静を窺《うかが》っていた家康は、すぐさま主力を率いて岡崎へ急行した。
吉田が失陥すれば、岡崎と浜松の連絡が断たれる。かと言って家康の動員兵力一万(うち決戦兵力八千)では、勝頼の一万五千に敵すべくもない。三河兵三人で甲州兵一人に対抗するのも難しい。それほど武田軍団は強い。
「武田の大軍に、徳川一手では到底勝ち目がありませぬ。ご来援無きときは、当方も考えねばなりませぬ」
家康は、同盟以来、初めて脅迫の一手を用いた。だからと言って、武田に降伏するとまでは言わない。せいぜい三河を無抵抗で通過させ、武田軍を尾張へ進出させるぐらいのところであろう。
信長は、かねてこの事態の急迫を読んでいた。石山本願寺への示威運動から戻した機動軍団を発向させ、救援に赴いた。兵力は三万。それのみで勝頼の兵力に倍する。それに家康の決戦兵力八千を加えてさえ、確たる勝算は立たない。
――これは、宿命だ。
信玄が不慮に逝去して、東部戦線は一時小康を得たが、精強無比の武田軍団は、依然健在である。
せめて後嗣の勝頼が、穏健で慎重な性格であれば、懐柔の方策もあると思ったが、伝え聞く勝頼の性格は、信玄に輪をかけた拡大主義の上に、猪突猛進《ちよとつもうしん》型の激しさである。
――いつか一度、青々としているうちに、叩かねばならぬ。
多忙の信長は、多忙のうちに秘策を練り続けていた。
岐阜・尾張を発向する信長軍の装備は、意表を衝いた。
三万の軍兵に、一人の例外もなく、丸太材を担がせた。一人あて一本、縄一巻がその割当であった。
時に五月十三日、折悪しく梅雨の候である。
天正三年五月中旬は、新暦六月の終りに当る。折からの梅雨は連日降り止まず、行軍は難渋を極めた。
信長の援軍三万は、前年勝頼の遠州高天神城攻めの時と同様、ひどく遅れがちとなった。
岐阜を発した信長は、馬廻三十騎を率いて長駆し、十四日に三河岡崎城に到達して前衛軍に合した。
その日、長篠城から救援を求める奥平信昌の急使、鳥居|強《すね》右衛門《えもん》が到着し、攻防の委細を告げた。
長篠城は、危殆《きたい》に瀕《ひん》していた。城の守兵はわずか六百。勝頼は一方口しかない城攻めに二千の兵力を充《あ》て、寒狭・三輪川の合流点の対岸、|鳶ノ巣《とびのす》山に一千の兵を登らせ、城を俯瞰《ふかん》させた。
城中の守備を逐一敵に望見されては、不利この上ない。兵糧・矢弾の備えも乏しく、奥平勢の命は旦夕《たんせき》に迫っていた。
勝頼も焦っていた。彼は長篠城を知らない。かほどの天険要害の地であるとは思わなかった。城攻めに二千、対岸の要地に一千の兵力が釘付けとなった。
――愚図愚図していると、家康と信長の軍勢が来援する。
武田の諜者は、家康軍八千、信長の援軍三万と、正確に諜報を送ってきた。
勝頼にすれば、脆弱《ぜいじやく》と噂の高い尾張兵は問題ではなかった。だが鈍重でねばり強い三河兵と戦うのに、総兵力のなかから三千の兵を割くことが痛かった。
――調略すべきであった。
奥平は、元々武田の被官だった。それが今は徳川の属将である。信玄なら昔の縁故を利用して帰参させたであろう。性急な勝頼はただ攻めることだけに執着した。
鳥居強右衛門の報告で、現状を知った信長は、長篠城の戦略価値を知った。
――長篠城を保持する限り、勝頼の決戦兵力の一部を足止めできる。
それには、長篠城に「援軍、来《きた》る」の朗報を伝えて、徹底抗戦の構えを崩させぬことにある。
だが、脱出でさえ決死行の末、僥倖《ぎようこう》に恵まれた結果である。十重二十重《とえはたえ》に囲まれ、戦闘中の城へどうやって戻るか。さすが戦場馴れした荒武者たちも、二の足を踏んだ。
この時、敢然と復命を申し出たのは、鳥居強右衛門であった。
戦国期、最強と自他ともに認める武田軍団は、信玄死したりと雖《いえど》も未だ健在である。
稀代《きたい》の天才信長に、必勝の策は有ったのであろうか。
策は有った。信長は百余年続いた戦国時代の常識を覆す奇想天外の策を考案していた。
だが、必勝とまでは断言できない。
――戦というのは、やってみなければ勝敗はわからぬものだ。
不世出の天才ではあったが、信長は幾度となく苦杯を嘗《な》めている。彼ほど戦の本質を知る者はいない。その点、昭和の軍人などは、愧死《きし》しても足りない。
信長は、あえて鳥居強右衛門の復命の申し出を止《とど》めなかった。
――彼の忠誠心によって、三千の武田の兵力を決戦の場から除くことができれば、生け贄《にえ》も辞さず。
信長の決断である。並の武将なら無駄死にを危惧《きぐ》してためらうだろう。信長の合理主義は非情に徹していた。
鳥居強右衛門の長篠城復帰は成功しなかった。彼は武田の包囲陣に捕えられて、城外で磔《はりつけ》となった。
「援軍来らず、と城内に告げれば、助命の上、褒賞を与えよう」
鳥居強右衛門は、武田の将にそう誘われたが、彼は磔柱《たつちゆう》にくくりつけられると、大声を発し、城内の味方に告げた。
「すでに家康殿の本隊と、信長殿の援軍は間近に迫っておる。勝利の日は近い。暫くご辛抱あれ」
怒った武田勢に刺し殺されながら、強右衛門は籠城《ろうじよう》の味方を鼓舞して止まなかった。
その間に織徳《しよくとく》連合軍は急速に長篠に近付き、決戦の場を求めた。三万八千の織徳連合軍と、一万五千の武田軍団が激突する広闊《こうかつ》の地が必須の要件だが、山間の事とてそうした平原がない。多少手狭だが、勝頼が本営を置く寺の近くのあるみ[#「あるみ」に傍点]原(後の|設楽ヶ原《したらがはら》)を選び、その背後の極楽寺山に信長、高松山に家康が本陣を構え、原の一辺に布陣した。
以来、織徳連合軍は三日をかけて、あるみ[#「あるみ」に傍点]原を貫流する連吾川《れんごがわ》を深掘りし、更に空堀《からぼり》を二重三重に掘り、土居を掻《か》き上げた上に、馬防柵を四重五重に構築するなど、土木工事に昼夜を問わず励んだ。
その間、武田勢は、敵状をまったく知らずに過した、というから迂闊《うかつ》というほかない。ひとつには織徳連合軍が長篠近くに進出して以来、諜者・細作《さいさく》に厳重な警戒網を布《し》いたこともあり、また血気に逸る勝頼が、落城間近と見られる長篠城攻略に異常な執心を示したことと共に、三河吉田に侵攻するための準備に専念したため、といわれている。それらはすべて勝頼の経験不足の所為であり、また部下の将領が熱意を失ったためでもあろう。
信長が決戦場に想定したあるみ[#「あるみ」に傍点]原は、三河吉田への街道から外れている。如何《いか》にして武田勢を誘導するかが問題となった。
信長と家康、両軍合同の軍議の席上、様々に論議が交されたが、どうも名案が無い。
家康家臣団の筆頭、酒井忠次がふと思い付いた案を提議した。
「血気に逸る勝頼に、怒気を発せさせるが最上の策と心得ます。そのためには長篠城内を窺う|鳶ノ巣山《とびのすやま》を夜襲し、所在の武田勢を追い散らしてはいかが」
「愚案」
信長は、苦り切って斥《しりぞ》けた。
「その方は、大軍に奇なしという兵法の常識を知らぬ。この一戦は織田・徳川の命運を賭けた戦である。そのような姑息《こそく》な策は、両家の面目にかかわる」
酒井忠次は、赤面して沈黙した。
結局、結論を得ず、軍議は散会した。
そのあと、信長はひそかに忠次を招いた。
「先ほどの案だが、その方どれだけの軍勢を動かすつもりであった」
「は……まず一千ほど」
忠次は、面食らって答えた。
「それでは足らぬ。織田勢を三千ほど貸そう。明日明け方までに鳶ノ巣山を乗っ取れ」
「それがしが、でござりますか?」
信長は、呵々《かか》と笑った。
「忠次よ。大事の策というのは軍議の席上などでは言わぬものだ。たとえ内通する者が無くても、得意顔で噂する者があれば敵に洩れる。それゆえわざとその方に恥掻かせたのだ」
老巧を以《もつ》て鳴る忠次も、信長の深慮には感服せざるを得ない。
枚《ばい》を銜《ふく》んだ酒井勢四千は、徹宵《てつしよう》鳶ノ巣山を登攀《とうはん》して、払暁武田勢を奇襲した。不意を衝かれた武田勢は、一溜りもなく四散し、鳶ノ巣山は酒井勢の手に帰した。
立場は逆転した。城攻めの武田勢は俯瞰《ふかん》されて、攻撃は頓挫《とんざ》した。
武田の部将は挙《こぞ》って撤退を進言した。
「三河侵攻のための城攻めが不可能ならば、早期撤退に若《し》くは無しと心得ます。織徳連合軍がわれに倍以上の大軍を催しておるからは、長居は無用」
だが、勝頼は肯《がえん》じなかった。
「敵は鳶ノ巣山に四千の軍勢を登らせた。残る敵勢は三万五千。何ほどの事やある。われに騎馬突撃兵団あり、戦場は狭隘《きようあい》の原。好機は二度ない。一挙に敵を蹴散らせ」
勝頼は、突撃陣形を十三段に構えて、あるみ[#「あるみ」に傍点]原に進め、決戦の機を窺った。
信長の対武田作戦は、慎重を極めた。
信長がかほど緊張を強いられたのは、今川義元を迎え撃った桶狭間合戦以来であった。
対今川戦の折は、信長の勢力は弱小で、勝算は無きに等しく、敗けて元々と覚悟しての一戦だった。
対武田戦は、それと立場を異にする。信長は京の覇権を掌中にしてからの戦である。
――敗けられぬ。敗ければこれまで築き上げた人生の成果が空しく潰える。
だが、上洛戦で見せた信玄の強さは格別だった。
信玄と家康が激突した三方ヶ原の合戦で、潰乱《かいらん》する家康勢に捲きこまれた信長の援軍は、完膚《かんぷ》なきまでに叩き潰《つぶ》され、派遣三将のうち平手甚左衛門が壮絶な討死を遂げる惨敗を喫した。
信玄は天運に恵まれず病死したが、彼が鍛えあげた武田兵団は健在である。
――後嗣勝頼と、いつか一戦を交えなければならぬ。
信長は、堺の鉄砲鍛冶に大量の鉄砲を発注した。
――無比の強力を誇る武田騎馬兵団の突撃を食い止めるには、新兵器の鉄砲しかない。
彼は、その意図を秘匿するため、家康への援軍派遣を二ヵ月近く遅らせ、石山本願寺攻めを強行した。摂津・河内に行動した信長の機動軍団は、堺で鉄砲三千挺と弾薬を入手すると、尾張に舞い戻った。
折から梅雨の候である。雨の日は鉄砲が使えない。信長の援軍はゆるゆると行動した。やがて梅雨の中休みの晴れ間に差しかかると活発に行動し、あるみ[#「あるみ」に傍点]原に布陣し、陣地構築に奔命した。
――あとは、敵至るを待つのみ。
信長は、策の悉くを尽して、勝頼の動きを見守った。
[#地付き](下巻へつづく)
角川文庫『本能寺(上)』平成16年1月25日初版発行
平成16年5月20日再版発行