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レキオス
池上永一
[#改ページ]
[#この行1字下げ] 守護霊とは、個人によって──しばしば夢や幻覚のうちに──獲得される超自然的な保護者であり、その人の幸福に特別な関心をもち、しばしば当人に霊的な力を賦与する。
[#地付き]ベネディクト
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海はもうすぐ満潮だ。
那覇《なは》の夜景に現れた巨大な闇は、人知れず活動を始めていた。都市を抉《えぐ》る広大な空間はクレーターの底さながらの暗さである。重機が眠る都市のサバンナは、内陸にありながらも埋立地の外観をもっていた。
誰もいない闇の中で、申し合わせたようにプンと植物がいっせいに息を吐いた。その草いきれが漂いながらも次第に収斂《しゆうれん》されると、香りの中心が緑色になってくる。それがつぎつぎと息を飲みこんで膨らんでいく。すると枯れ葉剤が撒《ま》かれたときでもこうは劇的ではなかっただろうと思わせる驚異的な早さで、周りの植物が枯れていく。バオバブ並木が倒れるのを目撃したセイタカアワダチソウが、種子を飛ばし逃げ支度を始めた。草の命を飲み込んだ香りの塊が、蛇行しながらある場所で止まった。その時漫然と照射されていた月明かりが、一点を睨《にら》んだ。
キャタピラー痕《あと》に亀裂が走る。そこから種子を割って出てくる新芽のように、女の爪先がするりと土を抜けた。ピンと爪先に力を入れて足の指を閉じている。そしてゆっくりとふくらはぎまで伸びてくる。大地でシンクロナイズド・スイミングをしているように、白いふくらはぎを夜風に晒《さら》したまま、すうっと水平に移動した。奇怪な脚を見た野良猫が毛を逆立てて牙《きば》をむく。爪先を揃えた脚はそのまま緊張を保ちながら、大腿部《だいたいぶ》までずんずんと浮き上がってくる。もう少しで腰が見えそうな位置で絶妙にキープして片足をくの字に曲げた。くるくると方向を確認しているように回っていた足が、何かの音を聞きわけて止まる。そして五本の指をカッと開くと、国道に抜けようとしていた米軍のタンクローリーめがけて加速していく。
目の前に現れた逆さの脚に驚いたドライバーは急ブレーキをかける。アスファルトを擦《こす》る金属音と同時に、大地から女の全身が飛び出した。
「おのれええ、友庵《ゆうあん》ッ! どこへいったああッ!」
ライトが灯台のように一度ぐるりと闇を照らし、タンクローリーは電柱の腰を折った。それでも自らの大きな遠心力で回り、重心をとられたまま転がっていく。ほんの一瞬だけ付近が照らされると、すぐに闇に飲まれた。それから揮発性の臭いがあたりに充満したかと思うと、空を割る音とともに紅蓮《ぐれん》の炎が上がった。土煙が同心円を描いていく。火炎の中に人が浮かんでいる。それは蝙蝠《こうもり》のように頭を大地に向けていた。女の顔には鼻がなく、黒い鼻腔基部《びこうきぶ》を露《あらわ》にしながら笑っていた。
もう一度、爆発が起こり、女の笑い声がかき消された。火炎の起こす上昇気流の縄を掴《つか》んで、女は螺旋《らせん》を描きながら、するすると足を上にしたまま空を昇っていく。女の長い髪が尻尾《しつぽ》のように揺れていた。
天久《あめく》開放地の闇に上がった火柱は、付近の古島《ふるじま》郵政団地からも目撃された。
通路に出た住民が天久開放地方面に身を乗りだしている。すぐに団地上空にドラムカンの山を崩したようなヘリコプターの音が聞こえてきた。普天間《ふてんま》基地から飛び立ったヘリが演習中に、偵察命令を受けての飛来だ。夜間演習中だった二機のAH64D攻撃ヘリが、天久の爆発現場へと振動を重ねて飛んでいく。
住民はこんな光景には慣れていた。軍のタンクローリーが爆発した。偵察ヘリがやってきた。これで充分のはずだ。あとはいつもの闇の中だ。団地の住人たちはきびすを返そうとしていた。
「イクサヌユー(戦争の世)なのか」
上空の風を受けて髪をなびかせる逆さの女が呟《つぶや》いた。二機のヘリコプターが女を見つけて、こちらへと向かってくる。回游魚《かいゆうぎよ》のように痩身《そうしん》な機体には不釣り合いなほど夥《おびただ》しい武器が搭載され、すぐにでも牙をむいてきそうだ。女は自分の異形《いぎよう》の姿を臆《おく》することなく見せつけて笑った。那覇の夜景が闇の周囲を縁どっている。その光の集まりに、こちらを指さしてくる人垣がみえた。しかし誰も女には気がついていないようだ。ではこれはどうだ、とわずかに左目の瞳孔《どうこう》を開くと、赤い光が波うって現れた。女の左目の瞳孔はシャコ貝のようだ。
「こちらハリー・ホーク。火器管制パネルを作動する。|LSR《レーザー》 |CODE《コード》低感度ON」
すぐさまヘリは左右に分かれて、三十ミリ機銃を放ち、闇夜に点滅するオレンジ色の放物線を幾重にもたなびかせた。実弾が交差する中心にいた女はそれを躱《かわ》して瞬時に舞いあがる。あまりの俊敏さに、ターゲットが上に逃げたことをパネルが伝えてくるまで、パイロットは目標を見失っていたほどだ。
「ミサイルシステム|NORM《ノーマル》。NVS暗視システム作動。ターゲット、ロック・オン。発射」
すぐに下から彼女をめがけて二発のミサイルが追いかけていく。女は身を大気と同化させた。目標を失ったヘルファイア・ミサイルは大きなループを描いて、天久開放地の闇に落ちていく。
タンクローリーの爆発地点の左右六十度に激しい爆裂が起こった。
一度は部屋に戻ろうとしていた団地の住民は何事かと再び高層階を目指した。遊び惚《ほう》けていた女子高生のグループがエレベーターのボタンを苛々《いらいら》しながら押し続けている。その脇から他の棟の住民が逆走する雪崩となって階段を昇っていく。
「なんかあったわけー?」
「行ってみようか」
Okay
女子高生らは面白半分で野次馬に加わる。その中で飛び抜けて背の高い少女が、階段を四段跳びで駆け昇っていき、次々と人を追い抜いていく。
団地の屋上が人垣でいっぱいになる前に、天久上空でのショーは最後を迎えようとしていた。
「ミサイルシステム|RIPL《リツプル》。発射後自動ロック・オン」
さらに五発のミサイルが発射された。女は羽織っていただけの簡素な着物を脱ぐと、大きなひと振りで接近したミサイルを躱した。ミサイルは噴射痕だけを夜空に残して、五つの方向に消えていった。
「こちらハリー・ホーク。普天間基地応答せよ。ヘルファイア消滅。繰り返す。ヘルファイア消滅」
『普天間基地より、ハリー・ホーク。不発だったのか』
「いいえ。空中で消えたんです」
攻撃ヘリのパイロットが必死に状況を説明している。
「ゴチャゴチャとやかましい、この蚊トンボめっ!」
女は長い髪を触手のように操り、尾翼のテールローターに絡ませた。そして機体をバットのように振り回して、もう一機のヘリコプターを破壊した。勢いあまったバットは遠心力に引っぱられて大きく回る。那覇の夜景をたっぷりと堪能すると、搭載した武器を誘爆させながら落ちていく。
「アパッチ・ロングボウが……」
八階まで三十六歩で着いた少女は、エレベーターホールの窓から、ヘリコプターが空中でなぎ倒されるのを見た。火球が方向の定まらない木の葉のように落ちていく。少女は頭の中で爆発音を響かせた。数秒の沈黙の後、やや遅れて本物のサウンドが届き、同時に衝撃波がガラスを砕いた。湾岸戦争でイラク軍の戦車を叩《たた》いた世界最強の攻撃ヘリが紙きれのようにやられた。彼女はギャラリーのいる踊り場へ走った。
「本当に事故なのか?」
「もしかして、あそこに何かいるんじゃないか」
「暗くてよく見えんが……」
「いる……」
呟いたのは、息を切らせてやってきた女子高生だ。ピアスを三つつけた耳、ルーズソックスにローファー靴といった恰好《かつこう》はまさに今どきの女子高生だが、彼女は極めて個性的だ。ツンと尖《とが》った小さな鼻と目がふたつ分は入る厚い唇、その目さえも装飾過剰な睫《まつげ》毛で縁どられていた。そしてしなやかな筋肉で覆われた黒い肌が何よりの特徴だった。少女は黒人との混血である。褐色の肌にセーラー服の清潔な襟が交差する。そして彼女の出自を否定するかのように真っ直ぐに固定されたストレートパーマの髪は、高層階の強風にもびくともしなかった。中南米のムラートやメスチゾのような人種混合は、この土地でも当然のごとく存在する。ふたつの国のアイデンティティをもつ彼らは、アメレジアンと呼ばれている。
「デニス。危ないから中に入りなさい」
少女の祖母が玄関から声をかけてくる。この団地にデニスと祖母はふたりで住んでいる。デニスは人垣を割って前に出た。祖母の制止の声が苛々混じりの英語になる。流暢《りゆうちよう》な発音はデニスと会話をするために覚えたのではなく、夫とのコミュニケーションのために若い頃に培ったものだ。また祖母が英語で呼びかける。その言葉を聞くたびに、デニスはこう言い返すことにしていた。
「オバァ、マッチョーケー(ちょっと待って)」
最前列で手すりから身を乗りだす。普段ならこんな怖いことは絶対にできなかった。小柄な沖縄人なら腹の上にくる手すりも、脚の長いデニスには腰の下になる。この団地のフェンスから先が天久開放地だ。
「あ、星がズレた!」
デニスの目に夜空が動いたように映った。そのときだ。
魔法陣は完成した。[#「 魔法陣は完成した。」はゴシック体]
どこからか声が響いてきた。声なのだろうか、デニスは確信がもてない。なにか空気全体が振動して音を発生させているように鈍いものだった。不思議なことに誰もその声を聞いていないようで、爆発の火炎に目を釘《くぎ》づけにされている。デニスもまた、天久開放地を見る。
「何あれ? ペンタグラムじゃない?」
闇の中の五つの炎は五芒星《ごぼうせい》を描いているように見えた。
デニスの目は超人的によかった。むしろよすぎて日常生活に不便を生じるほどだ。住民が目を凝らしたり双眼鏡をもってきたりしているのをよそに、彼女は難なく、五芒星の中心に現れた女の姿を捉《とら》えていた。神秘五角形を使うといえば魔女しかいない。witch<fニスはそう呟いていた。それにしても巨大な五芒星である。一辺の長さが軽く一マイルを越えていた。
「逆さまだわ」
そう言って頭をできる限り傾けてみる。一瞬シルエットが魔女の箒《ほうき》のように見えた。女は水の中にいるように手で空をかき浮力を保っている。デニスが眉《まゆ》をひそめた。対象が遠い上に暗いから今ひとつ確信がもてないが、女の顔には鼻がないように見える。目を凝らすと、向こうと視線がぶつかったような気がした。三キロメートル離れた上空から逆さの女がデニスを見つけて笑ってきたのだ。
Why me?
あたりを見渡すと、地上の爆発に気をとられている野次馬ばかりだ。遠くから女が「おまえだ」といわんばかりに指をさしてきた。向かいのバイパスを消防車のけたたましい音が駆けていく。サイレン音が低くなると同時にまた高い音がやってきて、それがひとつながりの音のように何分間もたなびいた。
デニスは後ずさりをして人波を出た。そしてゆっくりと振り返るとプリーツスカートを翻し、自分の部屋に駆けていった。ペパーミントグリーンに塗られた鉄のドアをガタンと閉めると、あの逆さの女の顔がありありと浮かんでくる。
「八階の住人だってバレたかもしれない……」
どうせなら七階で目撃すればよかった、とスーパーハードムースで固めたストレートの髪に指を入れたら、ザクッと音がした。この好奇心がいつも災いをもたらすのだ。彼女の思考に平穏な時はない。常に何かのノイズが鳴っているように、苛々している。思春期という時代がそれを増幅して揺れを大きくしていることもある。鍵《かぎ》をかけると外の騒ぎとは無縁の穏やかな日常だった。
「今日、スザンナから電話があったよー。元気かって言ってたさぁ。あと、夏休みはアメリカにおいでって」
祖母の良枝《よしえ》が台所で火をみながら声をかける。スザンナはアメリカにいる母だ。デニスはいつも電話に出そびれている。母が時差をまるで計算できない女だからだ。
「チャーガンジュー(いつも元気さ)って言っておいた?」
「あんたは変な言葉ばかり覚えて」
デニスと沖縄を結ぶのは、祖母の血だけである。白人との混血の母は第一世代のアメレジアンだった。そして母は黒人の父と婚姻関係にあった。しかしデニスは父の顔を知らない。複雑な血をもつ彼女は、十八年を怒りと悲しみと戸惑いにまみれて育った。そしてこの葛藤《かつとう》は現在進行形である。父の正体など知りたくもなかった。どうせろくな男ではない。母が言っていたことを思い出す。
「生まれてきた子はDennis≠ノしよう、ってパパが言ったのよ」
つまりデニスが生まれる前に、放蕩《ほうとう》な父は母を捨て、本国へ帰ったということが容易に想像できる。生憎《あいにく》、生まれてきたのは女の子だったのだ。
「天久で何かあったようだねえ」
「うん。すごい爆発だったよ。軍が発砲してた」
「またアメリカ軍だねえ」
良枝は外面はアメリカびいきなのだが、本当は米軍のことをよく思っていない。それでも夫は軍人だった。これをデニスは矛盾とみる。どっちかにしてくれないと、話が合わせられないではないか。デニスはそう思いながら、矛盾を抱えている祖母に対して、どうして自分が困惑しているのか気がついたことがある。つまり、アメレジアンの自分が祖母の目にどう映っているか気になるのだった。
「おばあちゃん、またソーメンチャンプルー? 育ち盛りなんだから肉|喰《く》わせろよ、肉」
食卓は平凡な沖縄家庭のものだ。すべてが伝統料理というわけではない。ポークランチョンミートやキャンベルスープはもはや沖縄のおふくろの味である。
「デニスはもう充分育ったよ。これ以上食べたらあんた百八十センチ越えるよ」
「でも味噌汁《みそしる》のお椀《わん》にキャンベルのマッシュルームスープ入れるかな、普通」
文句を言いながら箸《はし》でソーメンチャンプルーをつまむと、ダラリと垂れたソーメンがあの女の髪を彷彿《ほうふつ》とさせた。
お気に入りのテレビを見ようとAFN放送にチャンネルを合わせたが、予定されていた音楽番組が中断されて、さっきの事件の緊急放送が流れている。軍も大騒ぎになっているようだ。普段は文字放送よりもつまらない連絡事項しか流さない軍のキャスターも、冷静になろうとして逆に興奮しているのが見てとれた。
「そうだよなー。ヘリが二機落ちたもんなー」
と呟《つぶや》いた声を聞いた良枝がいつまでも減らないデニスの皿を指して、
Kill it!
と怒鳴った。すかさずデニスは切り返す。
「マークネーン(だって美味《おい》しくないんだもん)」
アメレジアンの家庭はどこでもこんなものだ。もしかしたら英語と日本語と沖縄語を区別していないのかもしれない。箸でソーメンをつまんだまま、デニスが尋ねた。
「オバァ、逆さの女って沖縄にいるねー?」
「そりゃあ頭に血が昇ってしょうがないねー」
「やっぱし、ユクシー(嘘)だよねー」
あれは幻覚だと思うことにした。そういえば昔、昼間の人工衛星を見つけて母の彼を庭へ呼びだしたことがあった。デニスはUFOだと騒いだが、彼はまるで見当違いの場所を眺めてそんなものは存在しないと笑った。
デニスは初等教育をアメリカンスクールで受けた。その後、素直に久場崎《くばさき》ハイスクールかキングスクールに行けばよかったものを、持ち前の反抗心で沖縄の普通の高校生になった。デニスはここで、アメレジアンは地域社会で排除されている存在だということを嫌というほど味わった。たいていはイジメに遭って再びフェンスの中に戻っていく。アメレジアンはまるでタブーを犯した象徴のように見つめられることがある。面と向かって詰《なじ》られるならまだ戦う余地があるのに、世間はデニスを存在しないか、もしくはいずれアメリカ国籍を取得する存在と頭から決めつけている。
世間はセーラー服姿で沖縄言葉をしゃべる彼女を好奇な目で見る。そして勝手に納得したように「がんばってね」という同情の色を浮かべた。親が奔放なアメリカ人で、そのツケを払わされている沖縄女の子供、そういう典型的な図式を読みとっているのだろう。
母は二度目の結婚をした。デニスは母の相手を嫌いではなかったし、むしろ良縁だと祝福した。それに幼い頃はその男と母と三人で一緒に住んでいたこともある。彼を父と呼ぶことに今でも抵抗はない。しかし、彼女は沖縄に残った。
白人将校だったマイロンと母のスザンナは軍を離れて一緒にアトランタに住んでいる。祖母は、彫りが深くて骨太だ。だから、間に生まれたハーフの母はほとんど白人にしか見えなかった。母は、すんなりとアメリカ社会へ溶けこめるだろう。しかしデニスが子供の頃アメリカンスクールの図書館で読んだ怪しい本には、Kが三つ並んだ組織の蛮行が記されていた。「アトランター? 死んでも嫌」と思った。しかしそれをスザンナには言えなかった。
軍の定期便で旅立つマイロンとスザンナ、それにあと数カ月で生まれてくる弟を良枝と一緒に見送った日、デニスは泣いた。寂しくて泣いたわけではない。スザンナがあと一回、ついておいでと言ったら、デニスは行くつもりだったのに、彼女はそうしてくれなかったからだ。
良枝と一緒にこの団地に引っ越してきた。ドアを開けると目の前に天久駐留地が広がっていた。いつか母とマイロンと一緒に住んでいたことのある土地である。広い敷地に柵《さく》のない家、隣の家まで軽く三十ヤードは離れている。夏の暑い日にはスプリンクラーが回って、いつも青々とした芝生が輝いていた。幼かった日、そこから那覇の街を見て、小さくて狭い建物が壁を作っているように感じた。なんだか窮屈そうで、迷路を好んでいる人種が住んでいる街だと思った。自分たちのように、開放的に住めば気分も爽快《そうかい》なのにね、と言ったら、母はぼんやりと頷《うなず》いただけだった。
その美しかった思い出の天久駐留地が消えた。あのまま残してくれたらどんなによかったか、とデニスは思う。ここが返還されると聞いたとき、私たちはどこに行けばいいのとマイロンにすがった。せっかく機能し始めていた家族がバラバラになるかもしれないことが怖かった。デニスはマイロンの口癖を真似てこう言い返した。
「だってマイロンがいつも言っているじゃない。極東の平和のために基地があるんだって。沖縄に基地があることで助かっている国がたくさんあって、みんなが平和に暮らせるんだって。それを日本も望んでいるんだって。沖縄を日本に返したからもういいじゃない。あたしたちの家まで返さなくてもいいじゃない」
それがどうだ。しっかり返還されてこの荒野だ。アメリカ軍は県の要求に応じて基地を縮小している。天久が返還されたのは、軍のキャンプ縮小計画と合致しただけで、莫大な維持管理費を削減したいアメリカの都合にすぎない。それでも天久はデニスの故郷だった。しかし、かつての湿度を感じさせない涼しげな景色はどこにもない。財政が破綻《はたん》している那覇市には、天久再開発は負担でもある。どうせ再開発できないのなら、あのまま残してほしかったとデニスは思う。
初めてフェンスの外側にきたとき、祖母から聞かされた話は、まるで天地がひっくり返るかのような衝撃をデニスに与えた。天久は元々、沖縄人の土地であること。その土地に入ることすらできない地主たちがたくさんいること。軍があるために生じる被害があること。それを裁くこともできないこと。
祖母は言った。
「私たちがお願いして軍に居てもらっているわけではないんだよ。朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、湾岸戦争も、みんなここから出撃したんだよ。沖縄に外国の軍隊が本当に必要なのかい。なくてもいいとは思わないかい」
I don't think so
デニスはそう答えるのが精一杯だった。今では彼女が沖縄の中で基地問題の少数派であることはわかっている。かと言って、良枝の問いに何もかもYESというわけにはいかない。彼女には子供の頃からの夢があった。フェンスの向こうの沖縄とこちら側の小さなアメリカの、どちらにもアメレジアンの居場所はない。いつか飛びきりきれいな国を作って、同じ境遇の仲間たちと一緒に暮らしたかった。
「天久がアメレジアンの国になったらいいのに……」
そんなことを夢想しては、馬鹿馬鹿しいと笑うのだった。そんな感傷はどこの国の立場からも受け入れられないだろう。天久は本当に美しい楽園だった。そこには血腥《ちなまぐさ》いものはひとつもなかった。自分たちはそのフェンスの中で幸せに暮らしていたし、フェンスをどこまでも広げようとは思わなかった。しかし、こんなことを公言すれば、集団リンチに遭いかねない。良枝の言うことはたぶん正しい。デニスの考えはたぶん間違っている。でも泣きたくなるのは本当の気持ちだ。
沖縄の大地には怒りが宿っていると感じることがある。今日見たあの逆さの女もそのようなものなのだろうか。軍のヘリを落とすなんて並の力ではない。
そんなことを考えながらベッドに入ったデニスは夢を見た。
霧に覆われた懐かしい景色は沖縄本島の中部にある、キャンプ・瑞慶覧《ずけらん》の穏やかな勾配《こうばい》だ。キャンプを二つに分断する国道には背の高い椰子《やし》の並木が果てしなく続いている。その東側の居住区で幼いデニスはいつも黒い腕に抱かれている。不思議と安心するのだが、顔を見る気にはなれない。フライト・ジャケットのパッチから男は戦闘機のパイロットらしいことがわかった。
頭上から漂う葉巻の匂いが心地好い。しかしその匂いを振りほどいて、なぜかデニスは逃げだしてしまうのだ。
平べったいPX(軍売店)のモールまで逃げこむと、山積みの商品の中に伏せて追ってくる男から隠れた。軍雇用された小柄な沖縄人の女が、片言の英語で話しかけながらデニスに視線を合わせた。シッとデニスは指を当てて、男の背中が遠ざかっていくのを確認した。それからゆっくりと店内を見渡すと、なんとも奇妙なものばかりが陳列されている。東洋を非西洋と乱暴に理解したオリエンタル趣味は、どれもが複数のアジアの国のイメージを混ぜている。けばけばしい扇子や着物は、どれもがカラフルで装飾過剰な安っぽさだ。金糸で刺繍《ししゆう》された竜と虎の不気味な着物をガウンのように羽織った白人の客がいた。溜《た》め息をつくと、デニスは自分の横に市松《いちまつ》人形があることに気がついた。三フィートはある妙な人形の存在感が身を強張《こわば》らせた。突然、ゴロリと人形の首が落ち、おかっぱの黒髪をゴロゴロ回してデニスの足元に転がってきた。
Daddy!
デニスは反射的に声をあげる。その人形は鼻が欠けていた。手垢《てあか》で汚れたかなり古い人形だった。目を逸《そ》らせばいいのに、睨《にら》まれて身動きがとれない。黒く抉《えぐ》れた鼻の位置には白蟻が喰った穴が無数に空いていた。その穴にチラホラと白い幼虫が蠢《うごめ》いているのがわかる。デニスは吐きそうだった。それに人形の左目の具合が変だ。赤い瞳孔《どうこう》が横に波うっていた。その目がデニスを捉えて、ゆっくりと開こうとする。
(馬鹿ねデニス、目を覚ませばいいのよ)
幼いデニスを揺さぶる声が内側から聞こえてきた。それでもどうしていいのかわからない。人形の首が髪を逆さにして空中に浮かび上がった。たくさんのビーズで飾ったデニスのドレッドヘアが震えた。人形が埃《ほこり》を吐きながらしゃべってくる。
「オ・ノ・レ・エ・エ、ユ・ウ・ア・ンッ。ド・コ・ヘ・イッ・タ・ア・アッ」
突然、空間から切り離される力でデニスは引っぱられた。
「シカマチカンパチ(びっくりだよ、おいっ)」
ベッドから転げ落ちたデニスはびっしょりと汗をかいていた。デニスの汗は、うっすらと色がついている。無数の赤い水滴がシーツにプリントされていた。デニスはこれが年中生理のようで嫌だった。
デニスは同年代の少女よりも、はるかに多くの悪夢を見ていた。覚えているものが少ないだけで、見た夢のすべてを記憶にとどめていたら、デニスの精神はとっくに崩壊していただろう。幸いにも、いつもピンチのときに夢の中の自分とは別の自分が声をかけて夢から引きずりだしてくれた。この装置がなければ、きっと朝までたっぷりの恐怖に犯されていたはずだった。
月曜日は「不安」の夢をみる。火曜日は「苛立《いらだ》ち」を。水曜日は「恐怖」が。木曜日は「疎外感」で。金曜日は「怒り」の。土曜日は「慟哭《どうこく》」だ。そして日曜日は「絶叫」で目が覚める。毎晩がこの日替わりメニューの繰り返しである。この無間地獄に終止符を打つために引かれた傷が、デニスの左手首にある。黒い肌をスパッと切ったとき、地下水脈を掘り当てたように血が噴き上げたものだ。思春期のせいだろう。そう思えばちょっと笑える。やはり今日は水曜日の夜だった。
「馬鹿なこと言っちゃったな。『ダディ』なんて……」
大きな息を吐いて時計を見ると、長針と短針が腕を重ねて眠っていた。午前三時を過ぎていた。祖母を起こさないようにそっと立ち上がり、冷蔵庫の扉を開いた。ミネラルウォーターのペットボトルは空だった。仕方なく水道の蛇口をひねると、水の出が悪い。古い団地で八階までの水圧が不足しがちなのだ。口をあてて水を喉《のど》に流す。しかしなかなか渇きはおさまらなかった。嫌な夢は忘れた方がいい。何か面白いことを考えようとする。そういえば友達のガーデンパーティーにやってきたインテリの白人女が、今と同じ姿勢で水を飲んでいるデニスを見て、
「男の人が喜びそうな、お口ね」
と微笑んだ。あの女どうしているだろう。たしかサマンサ・オルレンショーという名だったはずだ。軍属でもないのになんで沖縄にやってきたのだろう。
夜風に当たろうとベランダに出る。不思議とハロゲン光の並木だけで、車は一台も通っていなかった。団地のすぐ前を走るバイパス道路は深夜でも交通が激しい。なにか変だと思ったがすぐにはわからなかった。車が通らないことではない。こんな夜も時にはあるだろう。
「あの音がしないわ」
一〇ヘルツくらいのほとんど微《かす》かな低周波が、静寂の中に漂っているのを彼女は聞き逃さない。それはフェンスの外に出て、良枝と生活するようになってから聞こえてきた音だ。初めは風の起こす共鳴音か何かかと思ったが、そうではない。どんなに風が凪《な》いでも、それは地面から湧き上がってくる。街はノイズの水|溜《た》まりだった。不思議と祖母や沖縄人の友達はそれに気がつかない。アメリカンスクールの友達にたずねたら「あなたもそうなの」と答えた。基地の中で生活している者だけが、この音を聞くようだ。デニスはこれを「オキナワン・サウンド」と勝手に呼んでいる。それはアメレジアンだけが共有する振幅の長い音だった。
これが聞こえてこないというのは一種、非日常的でさえある。目を凝らして天久開放地を見ると、あの青い芝生が横たわる、デニスの故郷が広がっていた。白い壁のハウス、ローラースケートで道を滑るサングラスの少女、スタンドで食べたホットドッグ屋の小さな看板、そこにはデニスのアメリカがある。ハッと目を見開いて後ずさりすると、物干し竿《ざお》の上から、なにか黒い紐《ひも》みたいなものが垂れていた。無意識にそれを引っぱると、ずるっと鼻のない女が落ちてきた。
「オノレエエ、ユウアンッ! ドコヘイッタアアッ!」
Daddy!
がばっと目覚めて、ひとまわり大きな溜め息をつく。ベッドの上でデニスの過呼吸が心拍とちぐはぐなリズムを刻む。掌《てのひら》は汗で真っ赤だった。握ると血が滴り落ちたように見えた。時計はさっきとおなじ三時十五分。いや、一分早い十四分だった。バイパス道路に一台の車が過ぎる音が聞こえた。そして静寂の中に、あのオキナワン・サウンドが微かに響いている。こんなにも心地好く聞いたのは初めてだ。潮騒《しおざい》の一番低い部分の音に似ているような気がした。
「よかった。もう夢じゃない」
喉がカラカラだった。立ち上がって再び冷蔵庫の扉を開ける。ペットボトルにはたっぷりの水が入っていた。それを一気に喉に押し流すと、冷たい渦を巻いて硬く縮んだ胃に落ちていった。デニスは煙草に火をつけて長い煙を吐いた。良枝が吸っている沖縄煙草のハイトーンはタールとニコチンの重さが強烈で、低質なウーロン茶の苦みと同じような舌のピリピリ感がある。それを一気に吸うと眩暈《めまい》を生じた。彼女はその方がむしろ心地よかった。カチッと時計の針がひとつ進んだ音がした。むせながら換気扇の紐を引く。
ずるっと逆さの女が落ちてきた。
「おのれええ、友庵ッ! どこへいったああッ!」
DENNIS, WAKE UUUUUUP!
デニスは逃げ場のない「日曜日」の絶叫で、意識のブレーカーを落とした。
翌日の天久開放地は、原形を止めないタンクローリーに、粉々に砕け散ったミサイル二つとAH64D攻撃ヘリ二機の残骸《ざんがい》を、真上にやってきた太陽の好奇な眼差しに晒《さら》していた。もはや屍《しかばね》になった彼らにさしのべる影はなかった。米軍がビニールシートで周囲を覆っていたが、団地の高層階からはまる見えだった。
しばらくして、軍のジープがやってきた。どうせ住人をベランダに出させないようにするつもりだろう。あんなに横柄な軍が一晩でヘリを二機も失うなんてザマがない、とある階のオバァがジープに蹴《け》りを入れていた。十代後半にしか見えない若い米兵が、オバァの剣幕にたじろいでいる。
C棟のエレベーターホールでは軽装の軍人がマスコミのカメラを封じていた。いかに沖縄の頂点に君臨する米軍といえどもあれだけの事件を起こしては、もみ消すのに苦労するだろう。真っ先に住民に謝ってきたのは防衛施設局だ。割れたガラスの修繕の調査と言って住民の怒りを抑えようとしている。抗議する権利のある日本側が、である。
高く張られたシートの中の爆発現場では、テールローターのフィンに絡まった紐状のものが発見されていた。かつてのアメリカの土地は、爆発でぶざまに大地を抉り取られている。楽園から荒野に、荒野から地獄へと変貌《へんぼう》した土地に、生温い風がぬるぬると漂っていた。米軍は圧倒的な人員を天久爆発現場に派遣し、これを独占した。日本の警察など相手にもされていない。バイオハザードの黄色のテープが風にはためいている。これに臆《おく》した警察がウロウロと周囲を巡回しているだけだった。
防護服に身を包んだ調査員は、神経を苛立たせていた。チクチク無数の針を飛ばしてくる南国の太陽の下で、いくら規則でも気密服は過酷すぎた。バイザーは彼らの汗のスコールで曇っていた。残骸からフライト・レコーダーが回収された。しかしどんなに捜索しても、五発のヘルファイア・ミサイルの残骸は見つからなかった。
「最後にパイロットが、ミサイルが空中に消えたと通信してきたな」
「はい。記録が残っております」
調査団は不可解な現場に頭を抱えるばかりだ。あまりの炎天で隣のシートが陽炎《かげろう》にゆらめいて正像が掴《つか》めない。
視察にやってきた軍服の男は、サングラスの白人だった。シャープなシルエットの軍服を着崩しもせず、汗すら制御できる面もちで現場を見回っている。逐次報告される情報の断片を一度の頷《うなず》きで理解する様は、まるで冷たい機械のようだ。シートを潜って外に出ると同時に、微かな笑みを浮かべた。急ぎ足の彼に、中背の東洋系の男が話しかけてくる。
「キャラダイン中佐。まさかこんなことになるなんて……」
「ヤマグチ少尉。これは必然なのだ。奴は我々の火を利用したのだ」
「中佐は、こうなることを御存知だったのでしょうか?」
男はサングラスに太陽をふたつ映して答えた。
「ペンタグラムの頂点には炎が必要なのだ。それも、このくらいの大きさでなければ意味がない。もっとも、私にも計算違いはある。奴の力は予想以上だったということだ。さっそく逃げられたようだ」
ヤマグチは粘り気の強い脂で覆われていた頬に、ひやりとした透明な汗が流れていくのを感じた。キャラダインはわざとらしく溜め息をついたが、本心ではきっと大笑いしたいのを抑えているようにヤマグチには見えた。中佐は常にサングラスをかけているが、中佐の見せる表情に大した意味はない。ヤマグチはこの男の本音を知りたいときには、自分のもっとも嫌うパターンを予想すればいいことを経験的に知っていた。タンクローリーの運転手とヘリのパイロットを含めて五人が死んだ。たとえ同胞の死でも、それが軍の不祥事であっても、笑みを浮かべるのがキャラダインという男だ。
昨日までの極秘計画の青写真は、天久に眠る力を目覚めさせて捕獲するということだった。天久に眠る力が何なのか、ヤマグチにはわからない。捕獲作戦と聞いたとき、彼はてっきり軍が独走して作った細菌兵器を宿した動物か何かを、極秘に回収するのだと思った。しかしキャラダインは眠っている生命そのものを捕獲するのだと言う。ヤマグチは本当にこれが軍事作戦なのか、わからなくなってきた。ただ彼の祖父が聞かせてくれた話では、祖父の故郷にはレキオスの力が潜んでいるということだ。
日系三世のヤマグチのルーツはこの沖縄である。二十世紀初頭の移民政策で積極的に海外に進出した沖縄人は、各国に根を張り再び種子を飛ばした。空軍の士官学校を卒業したヤマグチは最初の赴任地がカデナであることに、運命を感じていた。珊瑚《さんご》の揺れる海、緑が焦げる大地、そして雲の多い空は故郷のハワイにそっくりだが、見た目以外の感覚が、ヤマグチの血を騒がせた。四六時中、あのブンという低い音が聞こえてくる。パイロットにありがちな耳鳴りかと思ったが、空へあがると音が消えた。将来を嘱望された士官として、このことは誰にも言えなかった。来年には|NORAD《ノーラツド》(北米防空司令部)への異動を打診されている自分へのマイナス評価になりかねない。
──フテンマやカデナでは聞こえないんだよな。
祖父の言っていたレキオスの力とは何なのか、彼にはまだわからない。だが、この島には何かがあっても不思議ではないと思えた。沖縄に足を降ろしてすぐ、地場の力を感じた。まるで大地が脈動して人間と融合しようと試みているように思えた。
それにしてもキャラダインは何をしようとしているのだろうか。極秘命令で詳細は知らされていない上に、彼の経歴を知る者がカデナにはいない。
レキオスを蘇《よみがえ》らせて軍の上層部への土産にするつもりかと一瞬考えたが、中佐はそんなケチな男ではない。カデナの司令官ですら、キャラダインを恐れているくらいだ。よほどのことがない限り、キャラダインは普通の軍務に就かない。彼のプランはすべての命令に優先されている。この男は軍すら利用している節があった。いや、いざとなったら合衆国さえ平気で裏切りかねない冷徹な意志をもっているのだろう。
──でも、レキオスは逃げた……。
「ヤマグチ少尉。あれはレキオスではないぞ」
油断をしているとこうだ。中佐の前で横に流れる思考をするべきではない。
「あれはレキオスではない。レキオスを目覚めさせるための種《たね》みたいなものだ。私はレキオスなど初めから興味はない」
ヤマグチは一瞬矛盾を感じた。キャラダインは嘘をつく男ではない。レキオスを横取りされないための駆け引きなどする上官ではなかった。中佐は初めから少尉を子供扱いしているし、これがたとえ階級が逆であっても心理的な上下関係は変わらないだろうと思われた。なら、なぜ矛盾するのだ。昨日、日系アメリカ人の米兵ばかりを集めて測量作業員に扮装《ふんそう》させ、中佐の指示通りの五芒星《ごぼうせい》を描いた。あのとき中佐は、珍しく興奮を隠そうとしなかった。そして予定通りレキオスを目覚めさせる種を呼び起こした。それを中佐は内心喜んでいる。
──なのになぜ、興味がないんだ?
「君にもいずれわかる」
「キャラダイン中佐。これからどうなさるおつもりです」
ヤマグチは語気を強めた。キャラダインはそんな彼を見て苦笑した。これでも中佐は彼に気を許しているつもりらしい。
「あれはむき出しでは長く存在できない。どこか殻《から》に入るかして身を守るはずだ。種が勝手に飛び回っていては芽もでない。捕獲してこのペンタグラムの中心に埋めなければならない」
「どのようにですか」
「なあ少尉。君のルーツはこのオキナワにあると言っていたな。オキナワのやり方でやってみてはどうだ。一週間の休暇をとりたまえ。軍人であることを伏せて、いろいろ勉強してこい」
イエス・サー≠ニ敬礼したヤマグチ少尉を残してキャラダインは天久を離れた。
「お目覚めですか。カニングハムさん」
無味乾燥とした天井に蛍光灯の光が並んでいる。上と下の区別もつかない真っ白な部屋を一瞬、夢の一部かと思ったほどだ。デニスの横には点滴を取り替えようとする看護師がいた。
「駄目よ、看護師さん。それを引っぱらないで」
「カニングハムさん。まだ無理をしてはいけませんよ」
とデニスを寝かしつけようとして、点滴の管を抜いた。デニスは目を瞑《つむ》った。数秒間、覚醒《かくせい》の呪文を唱え続けたが、変化がない。完全に現実の世界に戻ったようだ。それにしても、なぜ病院にいるのだろう。シーツに赤い水玉模様が写っていた。
ぽかんと生活感のない病室で、デニスは静かな木曜日の夢を見た。面会にやってきた友達が夢にでてきた。デニスが必死に話しかけてもよそを向いている。彼女たちのお気に入りの髪飾りを渡そうとしても、誰も振り返ってはくれない。淋《さび》しくて淋しくてやたらと泣けてくる木曜日の夜だった。
それでもデニスは一週間のうちで一番気に入っている夢である。静かに泣いている方が、追いかけられたり、脅されたりする他の曜日よりはずっとましだった。どうせ悪夢なら毎日が木曜日だったら、どんなによかったかと思い、また泣いた。
(異国の少女よ、なぜ泣くのだ)[#「(異国の少女よ、なぜ泣くのだ)」はゴシック体]
妙に威厳のある声が頭の中から響いてくる。それがまったくの他人の声ではなく、自分の一部と繋《つな》がっているような、言葉の肌触りがある。泣いているデニスはその質問に答えなくても、声の主がわかってくれているような気がした。
(私もかつて、おまえのように泣いたことがある)[#「(私もかつて、おまえのように泣いたことがある)」はゴシック体]
とたんに自分の悲しみを外から見たような、それでいて質の異なった情緒《じようちよ》があたりを覆い始めていた。朝靄《あさもや》にうっすらと青色をつけた空気が、霧状の雨になってシトシトと落ちてくる。底のない大地に飲みこまれていく霧が、果てしなく降り続いていた。不思議と恐怖は感じず、むしろ孤独の甘酸っぱささえおぼえる光景だった。
その霧に意識を奪われているデニスに声の主は、あろうことかもっと泣けと言う。ゆっくりゆっくり、ながくながく、静かに泣けと言う。心を塞《ふさ》いでいた固い貝の合わせ目が少しだけ開いたように思えた。今までどんなことをしてもけっして開かなかった深海の貝が、ゆっくりと呼吸を始めていた。何にも染まっていない新鮮な水が入ってくる。その力に身体を任せると、今まで味わったことのない安らぎが血液の流れに沿って全身に満ちてきた。デニスは頭がゆっくりと回りだすのを意識の遠いところで感じていた。無理に伸ばした髪が、つぎつぎと本来の螺旋《らせん》を描いてちぢれていく。そして皮膚の毛穴という毛穴から赤い霧が噴きあげた。
次第に夢は混ざって紫に染まる。誰も見たことのない透明な紫だった。
How beautiful!
彼女は生まれて初めて、覚めてほしくない夢を見た。ずっと紫のままでいたいと切に願っていた。しかし堅牢《けんろう》に構築された夢の脱出装置が自動的に働く。ブンと鳴るオキナワン・サウンドが次第に大きくなってくる。またここに戻れるように、デニスは掌で触れるものを探していた。
「あなたは誰なの? お願い。また連れてきて」
(私は昔、真嘉比《まかび》のチルーと呼ばれていた。私はこんな姿にはなりたくは……)[#「(私は昔、真嘉比《まかび》のチルーと呼ばれていた。私はこんな姿にはなりたくは……)」はゴシック体]
デニスはすでに半分ほど覚醒していたため、最後の言葉はよく聞こえなかった。
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Lequios
ランチタイムに差しかかった亜熱帯の都市は、那覇市の環状二号線をフライパンの縁にして、内部は無数の具を炒《いた》めたチャーハンになっていた。火のよく通る車もあれば、なかなか通らない木々もある。コンクリートの建物は外側をカリカリにして中は充分に冷えている。それらを覆う三十万人の米粒は、火から離される仕上げの時間まで、油汗にまみれてひたすら転がされ、ほどよい色みがついていた。
事件から数日経った首里《しゆり》の高台の教室は、馬鹿を救済する試験会場になっていた。
「結局追試かー。あたしたちってなんでこんなにフラー(馬鹿)なんだろー」
「ってゆっかさー、学校があたしたちについてきてないヂラー(ってかんじー)?」
「なんでみんなわかってくんないんだろー」
ヂラーの原意は「顔」である。なぜ「顔」が「感じ」に変化したのか大人は理解できない。たぶん、「顔」→「個性」→「雰囲気」→「感じ」というふうにイメージを展開させたと推察される。近年の沖縄言葉は日本語を背景にした造語力を有するようになってきた。つまり力のある言語に成長してきたということだ。
「夏休み前の地獄ヂラー(ってかんじー)?」
「もー。昨日トムと一晩中ヤっちゃってー、腰ガタガター」
「バッペーター(あっ失敗)。今日ダグとエディとダブルブッキングぢらー?」
アメリカ兵を追っかける十代の少女たちをアメ女《じよ》という。北谷町《ちやたんちよう》の海岸では、暇を持てあました若い米兵が、意味もなく騒いでいる。そこで「ハーイ」と男をひっかけ、さんざんエキスを吸収したら「バーイ」と別れる。この二つさえ覚えていれば、誰でも立派なアメ女になれる。といっても沖縄の女がみんなアメ女ではない。少数派だが、クラスで援助交際している生徒がひとりでもいると全員がそう扱われるように、とにかく目立つのだ。またアメ女は黒人専門のブラッキーと呼ばれる集団と、白人専門のホワイキアンと呼ばれるグループに大別される。
「デニス。今さら教科書を開いても遅いってー」
退院したデニスはまだあの日のいつになく幸福な紫の夢を覚えていた。チルーと名乗った声の主は、いったい誰なのだろう。人は誰でもこのような感覚をもつのだろうか。
そんなことを考えていると、真由美《まゆみ》と広美《ひろみ》の二大アメ女のけたたましい笑い声が耳に入ってきた。
「ねー。トムとマシュー、どっちがいいかなー」
「具合がいいのはー?」
「んーとねー。トムのアレは顎《あご》が疲れるヂラー。マシューのは柔らかくてダメぢらー」
理恵《りえ》とデニスが唖然《あぜん》とした顔で固まっている。こいつらと同じ追試かと思うと、自分が情けなくなった。真由美と広美はそんなことお構いなしに話を続けた。
「だったらさー。またユタを買えばいいさー」
「あのオバァ、けっこう当たるよねー。ほらー、真由美の守護霊のことでもさー」
「広美にはいなかったんだよねー」
「そんなことないよー。あたしにも守護霊はいるもーん」
デニスはいつの間にか身を乗りだして聞いていた。
「理恵、シュゴレイってなに?」
「ええと。デニスにわかるように説明できるかな。遠い祖先が個人を守ってくれているって言うのかしら。幽霊とは違うんだけど、この世の人ではないわ」
That's it!
大声にみんなが振り返った。そしてアメ女を吸収しての守護霊談義が始まった。一番馬鹿の進行の激しい広美が描いた守護霊の想像図は、なんとキティちゃんだった。これが彼女を守ってくれているといって譲らない。譲られても迷惑だが、広美の壊れた人格の原因と考えるなら納得できた。
「でもデニスの守護霊だったら、やっぱりアメリカ人って考えるのが筋じゃない?」
デニスは沖縄で生まれたのだ。たしかに隔離された環境だったかもしれないが、デニスの故郷はアメリカが東洋の要石《かなめいし》と表現して軍事植民を続けるこの島である。
「ねー。ユタ買いにいこーよー。あ。デニスわかるー? ジャーマンねー。ジャーマン」
「ドイツ人がどうかしたの?」
デニスが顔をしかめた。彼氏がアメリカ人であろうがアメ女の英語力はこの程度である。
「占いをする女のことよ。彼女たちには霊感があるの」
「理恵はよく知っているの?」
「うん。おばあちゃんがよく頼み事をしてもらっているから……。でも信じない人もたくさんいるわ。いいえ、信じている人が少ないんじゃないかしら」
デニスはあまりオカルトには興味がない。本物の恐怖なら夢でたっぷり味わっているから現実くらいは実践的に生きようとしている。沖縄にシャーマンがいるという噂はベースの中でも聞いたことがある。たしかサマンサがよくその占いに通っているらしい。でもユタなんてデニスには関係なさそうに思えた。ユタを買って何かが変わるわけではない。もちろん、生まれ変わることを可能にするユタなら大歓迎だ。デニスは一瞬、馬鹿なことを考えた自分を嗤《わら》った。
「占いなんて『当たるもOK、当たらぬもOK』って言うしね」
「言わない。それいくらなんでも、ひどすぎ」
理恵に大笑いされて、つられてデニスも笑う。隣で日本語まで破壊されたアメ女たちが口を揃えてこぼしていた。
「えー。ちがうのー?」
気を取り直したデニスは、MDウォークマンでモニカの曲をかけた。
♪デニ♪スよ♪友♪庵の♪居♪所を♪♪調べ♪ろ♪
「うわっ。なに今の?」
すぐに理恵の耳にもイヤホンを当てたが、普通のR&Bの曲しか聞こえないようだ。気分が変になったデニスは手洗いに向かった。
「いやああっ! 逆さの女」
鏡には髪をダラリと垂らして天久上空に浮かんでいた女が映っていた。女は目から下を両手で隠し、ポタポタと青い涙を落としていた。デニスの汗が一筋流れてピンときた。
「あなたが、真嘉比の、チルー、ね?」
(そうだ。おまえの夢はかなり扱いづらかったぞ)[#「(そうだ。おまえの夢はかなり扱いづらかったぞ)」はゴシック体]
そう言ってニヤリと笑った。鏡に浮かぶ女はフワフワと漂いながらデニスと重なっていく。ふたりの左目がピタリと合わさったとき、デニスの左目に針が飛び出してくるような激痛が走った。
(ユタに友庵を探させてくれ)[#「(ユタに友庵を探させてくれ)」はゴシック体]
Absolutely not!
デニスは目を押さえて震えている。視覚の一部が女に奪われたようで、左目が見えない。デニスは鏡に映る自分がズレているように思えた。動作を模倣しているかのように若干、遅れて見える。鏡に手を振ってみた。やはり微妙にズレている。それどころか向こうは、取り繕ったような作り笑いを浮かべているではないか。素早く手を振ってピタリと止めた。向こうはまだ手を振っている。
(ユタの力でないと奴は見つけられん)[#「(ユタの力でないと奴は見つけられん)」はゴシック体]
鏡の中のデニスの姿をした女は快く頷《うなず》いた。デニスは首を横に振り続けたが、その姿はどこにも映っていなかった。
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『Okay, ユタに友庵がどこにいるのか聞けばいいのね』(すまない、礼はするぞ)[#「(すまない、礼はするぞ)」はゴシック体]『どんな人なのかしら』(あいつは鵺《ぬえ》だ。私の時代では三世相《さんじんそう》をしていた)[#「(あいつは鵺《ぬえ》だ。私の時代では三世相《さんじんそう》をしていた)」はゴシック体]『Did you say what?』
[#ここで字下げ終わり]
思わず鏡の中の自分を押さえようとする。しかし冷たいガラスに褐色の指先は阻まれた。
「デニス、勝手なことを言っちゃあダメよ。あんた殺されるわよ」
鏡の中の二人がうるさい女はほっとけ、とばかりに会話を続けている。閉じ込められたのはデニスの方だ。すぐにまわりを見わたすと、さっきまでいたはずのトイレの空間は消滅し、闇の中に鏡ひとつ分の明かりしかない。
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『サンジンソーって何?』(三つの世界をまたぐ男の霊能者だ。姿は時代によって違う)[#「(三つの世界をまたぐ男の霊能者だ。姿は時代によって違う)」はゴシック体]『じゃあ代わりに今から試験を受けてくれる? あたし試験はうんざり』(お安い御用だ)[#「(お安い御用だ)」はゴシック体]『商談成立ね』(まかせておけ)[#「(まかせておけ)」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
ぐわん、とデニスの視界が横に回ったかと思うと、彼女は目を押さえて倒れていた。すぐに理恵がトイレに飛び込んできた。
「デニスどうかしたの? すごい悲鳴だったわよ」
「大丈夫。ちょっと眩暈《めまい》がしただけだから」
「あなた無理しすぎなんじゃない。もう少し入院していればよかったのに」
そう言って立ち上がったデニスの横顔を見て、理恵は両手で口をふさいだ。デニスの左目の瞳孔《どうこう》が横に波うって見えた。気のせいかともう一度|覗《のぞ》くと、デニスは避けるようにプイと顔を背けて、呟《つぶや》いた。
「床が下にあると動きにくいものだな」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ。試験が始まるわよ、デニス」
デニスは身体を自由に操れなくなっていた。行動が思考を見事に無視している。
席につくと問題用紙が配られた。すると勝手に指が動いていく。彼女は指の動きを抑えられない。「次の問題に答えなさい」という書き取り問題を読みもせず、答案用紙にいきなり漢数字の『一』を書きこんだ。そして間をおくと、五、六、七、八、九、とつぎつぎに枡目《ますめ》を埋めて二十まで数えた。
チルーという逆さの女は相当な馬鹿だった。地理では「フォッサマグナ」と答えるべき所を『花』と書いた。次の問題は「ライン工業地帯」が正解なのに『をんなの命』と演歌のタイトルみたいな文字が走った。
指先を乗っ取ったチルーは、久しぶりに文字を書く楽しみでいそいそと鉛筆を滑らせている。勢いあまって用紙をめくると、裏に船の絵を描きだした。これにハマったらしく、ディテールの細かい琉球《りゆうきゆう》の進貢船が描写される。青のペンで波を描いたかと思うと、魚と珊瑚《さんご》を加えた。そして極太のマジックを選ぶと平仮名で『つよいぞ、りゅーきゅーまる』とアホ丸だしの文章を躍らせた。
デニスは先生への言い訳をずっと考えて、泣きだしてしまった。
「カニングハム、どうした。具合が悪いのか?」
試験監督の教諭が声をかける。彼は涙を流しながら船の絵を描くデニスの姿に絶句していた。
最後の答案用紙が回収されたとき、やっとデニスに感覚が戻った。ゼーゼーと息を荒らげて指の動きを確かめてみる。全部自分のものになっていた。
(さて、私の約束も守ってもらおうか)[#「(さて、私の約束も守ってもらおうか)」はゴシック体]
どこからともなく声がする。
「あんたのせいで、あたしの信用はガタ落ちよ。|Yo《ヨー》、聞いてる?」
(私なりに全力を尽くしたつもりだ)[#「(私なりに全力を尽くしたつもりだ)」はゴシック体]
「あれで? あんなに一生懸命に馬鹿なの? どうせ馬鹿なら少しは手を抜きなさいよ。オール零点どころかあたしの立場はマイナス五百点よ」
デニスが大跨《おおまた》ぎで廊下を渡ると、後ろから追いかけてくる理恵は小走りでも追いつかないほどだ。デニスのストライドはアスリートなみだった。
「どうしたのよデニス。あんた今日、相当ヘンだよ」
「わかっているわよ!」
(そう腐るな。私だって悪意があったわけではない)[#「(そう腐るな。私だって悪意があったわけではない)」はゴシック体]
「悪意があったら戦争よっ。M16ライフルで実弾を百発撃ちこんでやるわ」
カッカッと自らを焚《た》きつけて歩くと、声が三歩後ろから小さく届いた。
(……すまないことをした。私は学問を積んでいない卑しい女だから……)[#「(……すまないことをした。私は学問を積んでいない卑しい女だから……)」はゴシック体]
デニスは立ち止まって溜《た》め息をついた。理恵が追いついてデニスを見上げてくる。
「ねえデニス、本当に大丈夫なの。なんかあったんじゃないの」
「理恵、ユタを買いに行こうか……」
デニスの言葉を、理恵はすぐには信じられなかった。彼女は困難にぶつかっても、全部ひとりで解決しようとする。たとえ親友の理恵に相談を持ちかけることはあっても、それは信頼のコミュニケーションとして使うもので、真に切羽詰まった問題をぶつけてくることはない。たとえ国籍の問題でも、親の問題でも、それはたぶん父親の問題だと理恵は勘づいているが、人の好意に甘えて感情を吐露してくることはない。甘えるとしてもごく控え目にだ。それはデニス流の誠意なのだろうと理恵は思っているが、すこし淋《さび》しかった。そしてこんなふうに感じているのを読みとってか、デニスはすぐにおちゃらける。
「理恵、ジャーマンだよ。ジャーマン」
「んもう。デニスったらあ」
ユタと言ってもピンからキリまである。沖縄本島にはわかっているだけでも五千人はいるとされているが、実数はこの倍以上だろう。ほとんどが兼業霊媒師で、主婦や中には公務員もいる。沖縄の人口が約百三十万だから、百三十人にひとりはユタということになる。別種類の巫女《みこ》であるノロを含めると、もう数はわからない。
「ねえ、安いユタでいいからさ。紹介してよ」
とデニスは小声で耳打ちする。
「あんた変わったわね。何を占ってもらうのよ」
「うーん、人探しかな」
「え。それってお父さん……」
言いかけて理恵は口を噤《つぐ》んだ。そして急いで関係のないおしゃべりに戻した。そういえばコザの街に安くて当たるユタがいると聞いたことがあった。それを伝えると、理恵はいきなりヘルメットを被《かぶ》せられた。
「ちょっとデニス。制服のままじゃマズイって」
圧倒的な排気量を大地に轟《とどろ》かすヤマハV−MAXがデニスの足だ。真っ直ぐに県中部を貫くアスファルトの動脈を黒い残像が一直線に駆けていく。南国の日差しを浴びて黒いマシンが複雑な曲線を描く。車を縫うようにつぎつぎと追い抜いていく様も余裕たっぷりの貫禄《かんろく》だ。アメリカンスタイルのこの大型バイクのおかげでデニスの青春は拡大された。チタンカラーのボディとデニスの脚が融合されると、バイクはスペック以上のパワーを発揮する。機械と人の幸福な融合で、デニスはエクスタシーすら覚える。
「デニス。あたしに構わず走ってね」
一七八センチの長身で操るバイクは、若い男の運転する車よりも理恵を安心させた。バイクのエンジン音はデニスの本来の力を解き放ち、暑い空気を切り裂いて疾走した。スピードはかなり出ているのに、理恵はちっとも怖くなかった。むしろ時速七〇キロメートル以下だと、もっと飛ばしてほしいとせがむほどだ。そんなときデニスは思いきりアクセルを噴かしてくれた。バイクと一体になった彼女は、驚くほど素直になっていることに気がついていないようだ。理恵はそんなときのデニスの表情を一度見てみたいと思っていた。デニスが大地を蹴《け》って走るとき、いつも背中を見せたままである。
国道330号線のバイパスをノンストップでセーラー服をひるがえし、調教された黒いバイクを従えたデニスたちが駆けていく。浦添《うらそえ》市を抜けた先には左手に普天間基地の長い滑走路が横たわっていた。西から東シナ海、普天間基地、国道330号線が川の字に並んでいる場所だった。真ん中に挟まっている普天間は、デニスの暮らしたアメリカである。理恵はその土地にまだ足を踏み入れたことはない。
普天間が返還されるというニュースは県民の度肝を抜いた。今まで返還されてきたのは、米軍の枝葉末節にあたる部分でしかなかったからだ。それでもその敷地は途方もないものだ。理恵はこのニュースを複雑な思いで聞いた。彼女の両親の土地は普天間の中にある。いわゆる、軍用地主というやつだ。返還を素直に喜べないのは、彼女の両親が借地料をあてにして生活しているからである。タクシーの運転手をする理恵の父は、地代を気持ちの保険にしている。先進国とは思えない驚異的な失業率に喘《あえ》ぐ沖縄で生きていくには黙って泥を飲まなければならないことが多すぎた。
「普天間が返ってくる。そのとき、あたしたち家族はどうなるんだろう?」
理恵の頭にふと思い浮かんだのは天久開放地のぶざまな現状だった。あそこは返還されてかなりの年月が流れた。その間、地主は借地料を失った代わりに、固定資産税を払い続けていた。那覇新都心構想のため、簡単に転売することは禁止されている。かつてお金を生み出した土地は、結局金をくう穀|潰《つぶ》しになったとある縁者から聞かされていた。それも更地のまま活用できない状態で、だ。せっかく返還された土地を、税金が払えないために放棄した者もいる。これではなんのための返還なのかわからない。
それでも世間の風潮は喜べといわんばかりだ。もちろんその通りだと理恵はわかっている。でも喜んでいるのは政治家と土地をもたない者だけなのではないだろうか。理恵は普天間返還で世間が喜んでいるとき、周囲を見渡して作り笑いを浮かべた。今では後悔している。あのとき家族みんなで思いっきり叫ぶべきだった。たとえ平和運動家や基地反対論者に囲まれていても、それがデニスの前であったとしてもだ。理恵は未来が怖くて仕方がなかった。
「デニス。もっと飛ばして。空を飛ぶくらい速く」
Okay. Here we go
滑走路と平行にバイクは加速していく。なにもかも振り切れると思えるスピードだった。バイクは普天間の二八〇〇メートル滑走路を五十秒で走り抜けた。デニスもまたここを早く通り過ぎたい気持ちだった。お互いにこの気持ちをぶつけることはないだろう。普天間は十代の娘たちの気持ちで抱き締めるには、あまりにも広大だった。
沖縄市に入るとがぜん景観が面白くなる。横文字と漢字を混ぜた看板が目まぐるしく飛び込んでくる。ちょっと古めかしいレタリングの看板は七〇年代で時間を止めている。コザの街は三十年経った今でもかつての繁栄をいたる所に残している。沖縄風の住宅が見えたかと思えば、アメリカ様式の建物が側にある。これをバイクから眺めると、シンコペーションを映像で見ているような気分にさせられた。この街の景観には独特なリズムがあり、直線でも次がまったく予想できない。これがコザの面白さだ。辻《つじ》に入ればガラリと雰囲気が違うのはどこの街でも同じだが、コザはそれが目抜き通りに面して展開していた。
この街を構成する人々は沖縄人とアメリカ人は当たり前だが、華僑《かきよう》やコリアンや印僑も見逃せない。華僑のすることは容易に想像がつくけれど、印僑はちょっと変わっている。素直にインド料理屋を始めればいいものを、なぜか日用雑貨を売っていたりする。そこには何の変哲もないビニールサンダルや販売委託された牛乳などがある。もうわけがわからない面白さだ。そこであくせく働いているのかと思えば、そうでもない。なんだか電柱の前でボーッとしていたり、ガムを噛《か》んでいたりする。
最近、擡頭《たいとう》著しいのはブラジル人やコロンビア人を中心としたラテンアメリカの人々だろう。日系人なら沖縄に戻ってくるのは当然だが、メスチゾやムラートなど生粋の南米人がやってきて、タコスを売っていたりする。これが病みつきになるほど美味《うま》いものだった。そしてよほど沖縄が気に入ったとみえて、定住してウチナンチュー(沖縄人)になってしまうケースが圧倒的に多い。幸い、この状態に文句を唱える者はいない。コザは日本唯一の多民族都市である。デニスは沖縄の中でもここにいると、心からリラックスできた。この街でセーラー服は無粋だ。さっそく二人はモールのトイレで着替えた。
デニスはゲート・ストリートの前で、腰に手をあてて理恵を待っていた。サングラスにタンクトップと麻のショートパンツで、長い四肢を存分に解放したデニスは、ファッション誌から抜け出してきたようだ。それに今回はユタを買う初体験ということもあって、ナメられてはいけないとばかりに、フェイクの金のネックレスとブレスレットで迫力を演出した。これは道端にいたインド人のおじさんから千円で買ったものだ。消費税がこの世にあるとはたぶん、思っていないふうの悠然としたインド人だった。
このゲート・ストリートは前方五〇〇メートルで行き止まりになっている。その先は米軍が世界に誇る極東最強で最大の嘉手納《かでな》基地入口だ。金網と鉄条網がぐるりと走っている。その呆《あき》れるほどの長さは、基地を侵入者から防いでいるのではなく、むしろコザへの脱走者が出ないように囲っているとしか思えない。圧倒的に横に広がる景色とは対照的に、反対側には雑然とした、それでいて生命力のあるコザの街がある。景色が音をたてて人を招き入れる。この街に入った者は出自を問われない。理屈や常識では前には進めない街だ。理恵がおとなしい恰好《かつこう》に着替えて小走りにやってきた。
「あたしコザは久しぶりなんだ。デニスはハマってるけど、裏通りとかは怖いわ」
デニスは心配ないと笑った。那覇よりもこの街がずっと刺激的だから、理恵の言っていることも無理はない。しかしアジアの街はどこでもこんなものではないだろうか、とデニスは思う。日本が変におとなしいだけなのだ。
「それじゃ、ジャーマンを探すか。ヘイ、ジャーマーン」
制止する理恵をよそに、大声で歩いていくと、ドイツ人のおじさんが振り返った。この街にはどんな人でも百年前から住んでいるような顔をして存在する。
太陽にレンズを当てたような光がコザに降り注いでいる。影は濃淡なく一様に真っ黒な焦げ跡を残していた。デニスはそんな日差しもお構いなしに、写しとってみろとばかりに自らの影を挑発させながら弾《はず》んでいく。慣れ親しんだ観光地に来た気分で、理恵を急《せ》かした。裏道に入るとカットとパンの多い映画を観ている気分でワクワクさせられる。
「ユタの家はどこですか」
と理恵がたずねた。道で彫像になっていたオバァが、千年の長い沈黙を破ったように緩慢な動作でジロリと二人を見る。
「アマカイ(あそこ)」
と言って指をささない。ここが勘の使い所だ。デニスはたぶんこっちと足の呼び寄せる方向に歩いていく。ブロック塀を曲がると息を飲むように鮮やかなブーゲンビリアが両脇から覆い被《かぶ》さって続いている。赤紫と青のまだらが滑走路の進入灯の点滅を繰り返して誘う。デニスはそれを追いかけることに決めた。
シャッフル、シャッフル、シャッフル。ヒーヤササ、ハッハッハッ。
どこからともなく沖縄風にアレンジした妙な声が聞こえてきた。リズムに乗ってカードを切る音が微《かす》かに届く。デニスは音の方向が二つ先の路地からだと見抜いていた。
「ほら、すぐ見つかったじゃない」
「ホント、あんたって勘しか優れていないんだから」
「しゃらーぷ」
シャッフル、シャッフル、シャッフル。ヒーヤササ、ハッハッハッ。
またあの軽妙な声だ。その後で聞こえてきたのは「えー。ユクシー(嘘)?」と「まっじー?」というどこかで聞いた馬鹿声だった。デニスはすぐに近くのアパートの階段を昇って、声の主を探した。そして駐車場の陰に円陣を組んでウンコ座りをしている三人の女をみつけた。
「あれ真由美と広美じゃないの」
「嘘。よく見えるわね」
ここからの距離は八〇メートルはある。だがデニスには近すぎるくらいだ。アメリカンスクール時代、あまりにも目が見えすぎるために、心配した母スザンナが、軍の病院で視力測定させたことがある。すぐに既存の測定法では検査できないと察した医師が、嘉手納基地の滑走路を利用して、飛来するF15の機体番号を読ませたことがある。四〇〇〇メートル滑走路の端から、デニスは見事に機体番号を読みとってみせ、検査技師を驚かせた。
「前から聞こうと思ってたんだけど、デニスの視力っていくらあるの?」
デニスは当時の測定結果を自分でも信じられないと肩をすくめて答えた。
「8.0以上。スコープなしでスナイパーになれるって言われたわよ」
「もう人間じゃないわよ、その数値」
「ハーッシャ、ワンネーチューアランヨー(もう、私は人間じゃないわよ!)」
デニスは実に軽妙に言葉を使い分ける。おそらく耳もすこぶるよいのだろう。外国語くらい地域差がある沖縄言葉も、数分聞いただけですぐに特徴を捉《とら》えて笑わせてくれた。そして嘉手納人の真似と言って、大声を張り上げた。
「まゆみいいっ。ひろみいいっ」
「あ。デニスだー。やっぱりー、ジャーマン買いにきたんだー」
駆け寄ったデニスと理恵は、シャーマンの周りで車座になった。
「いまねー。広美の守護霊を見てもらってるのー」
「ああ、シュゴレイね。(あたしにもいるわよ。すごい馬鹿なやつ)」
「理恵も見てもらうのー?」
「ううん。今日はデニスだけ」
デニスは初めてユタというものを見た。七十代後半くらいの女性だが、いかにもコザ人らしい恰好だった。ペイズリー柄のワンピースに便所サンダルを履いて、花柄フレームのサングラスで太陽光線を弾《はじ》いている。老婆がデニスの前でタロットカードを並べている。これはさっきのインド人の店にあったものばかりだ。
オバァはデニスを見て、慣れたふうに声をかけた。
「ヨォ、メン。ホワッツアップ?」
良枝と同じ発音には、南方らしいポカンとした温かさが混じっている。
「オバァ、ヘークナー(早く)。あたしの守護霊の方が先だよー」
ユタは一番最後のカードをめくった。それは「愚者」のカードだった。オバァは広美の肩の上とカードを見比べて、しばし考えた。
「うーん。あんたの守護霊はねぇ。マヤーグァー(子猫ちゃん)だよ。イッペーカーギーヤイビン(とっても可愛いわよ)」
「えー。それってキティちゃんじゃーん。やっぱしー?」
「まあ、そんなもんだね。個性的な守護霊様だねぇ。オバァはこんなの初めて見たよ」
「ハロー、キティー、よろしくねー」
広美は振り返って手を振る。オバァは広美の背後で、今にも彼女を喰《く》わんとしている化け猫の姿を見ていた。
「ねえデニス、このユタってインチキなんじゃない」
と理恵はデニスの脇を小突いた。デニスは肩をすくめただけだった。そしてデニスの番がやってきた。ユタのオバァは、
「ザ フェアー イズ ワンハンドレッ ダラーズ」
とデニスに要求する。円もドルも両方使えるのがコザだが、日本円で一万五百円は高すぎる。それに相場よりもかなり高めだった。
「あの、日本語で大丈夫よ。ごめんなさい、今は円しか持っていないの」
「じゃあ五百円ね」
なんと、いきなり九五パーセント・オフだ。デニスがこの差額は何かとたずねたら、オバァは照れもせず通訳料だと言い切った。つまり彼女のシャーマンとしてのプライドはたったの五パーセントしかないということだ。彼女のボンクラ英語に一万円も払わされるアメリカ人がこの事実を知ったら、きっとオバァの真上にパラシュート部隊を落として制圧するに違いない。コザで最強の人種はウチナーオバァである。
「じゃあ、名前と年齢を聞かせてくれないねぇ」
オバァに人懐っこい笑顔で声をかけられると、さっきの衝撃がいくらか和らぐのだった。デニスは名前と年齢を伝えた。すると、もっと信じられない新たな衝撃がデニスを襲った。オバァはタロットカードを重ねて、三度刻んだのだ。
「はい。『デ・ニ・ス』」
こらっ、と怒鳴るタイミングを逃したデニスは、オバァの十八回刻む年齢をBGMにしてハードドラッグの気分を味わっていた。理恵も同じ気分のようで、冷たく固まっていた。ユタの占いは人それぞれだから、とやかく言う筋合いではないがいくらなんでも強烈すぎた。合計で二十一回カードを切ったオバァは次に出身地をたずねた。
「あ、あ、あ、あの、キャンプ・マクトリアスです」
「はい。『キャン・プ・マク・トリ・アス』」
「あっ。具志川市にあるんですが」
オバァは濃いサングラスの中から殺気めいた光を放ち、デニスの瞳《ひとみ》を貫いた。
「もうっ。素人はこれだからっ。はい、やり直し。『ぐッ・しッ・かッ・わッ』気をつけてよっ。占いを間違えたら信用にかかわるんだから」
オバァの迫力に押されて、すみませんとデニスは深々と頭を下げる。だがちょっと待て、とデニスは思う。間違ったら最初からやり直すのが筋ではないだろうか。ルールが簡単なのはいいが、オバァは日本語の拍数を間違えてもいる。あまりのことに頭にきたのは理恵も同じようだ。デニスよりも早く、ミスを指摘した。するとオバァは、
「アマンプー(今のはナシよ)」
と打ち消しのお呪《まじな》いで鼻をつまんだ。どうやら、これでチャラにするつもりのようだ。占い師というより道化に見えた。オバァはカードをデニスの「デ」の字に並べていく。しかし「D」ではないのはどうしてだろう。これにもきちんとした法則がある。たとえば、おなじ「D」で始まるDouglas≠ヘ「だ」の字に並べる。男の子は平仮名で、女の子はカタカナで、これがオバァの曲げられないポリシーだ。しかし曲げられないのは初めっからひん曲がっているからでもある。なのに、オバァを買いにくるアメリカ人はこれに東洋の神秘を感じるようで、大喜びするのだ。
まあいい、どうせ五百円だ、とデニスは勉強料にするつもりだった。ところが、占いの判示《はんじ》は、突然戦場の中に放り込まれたような衝撃だった。
「デニス、あんた家族の縁が薄いねぇ。お父さんの顔を見たことないんじゃないかい。それに今はお母さんとも離れて暮らしているねぇ。居場所のない意味が強すぎるよ。それがあんたの悪夢の原因さぁ。でも大丈夫。最近、あんたを守ってくれる存在が現れ──」
Shut up!
「やだデニス。なに興奮してるのよ」
オバァの口をデニスの手がふさいだ。カツンとデニスのサングラスが落ちる。大きな目をカッと開いているが、焦点はどこにも合っていなかった。まるで外の光が個人の暗部を暴くようで、瞬間的な喪失感に真っ白になった。コザの昼は通り魔のような時間だ。
「それで、あんたの何を占えばいいんだい」
(友庵だ。友庵のことをたずねるのだ、デニス)[#「(友庵だ。友庵のことをたずねるのだ、デニス)」はゴシック体]
「デニス。あんた何を聞きにきたのよ。ほら、サングラス」
サングラスをかけると、いくらかは平静に戻れた。デニスはもう帰りたかった。
(また試験で暴れてやろうか)[#「(また試験で暴れてやろうか)」はゴシック体]
「あ、あ、あの。人を探しているんです。ユーアンとかいう男なのですが」
「はい。『ゆー・あん』年齢と出身地は」
「わ、わかりません……」
「それじゃあ、占えないねぇ」
(最低でも五百歳だ。出身地は琉球全域だ。そう伝えろ)[#「(最低でも五百歳だ。出身地は琉球全域だ。そう伝えろ)」はゴシック体]
デニスはもうヤケクソだった。それを聞いたオバァは、驚異的な対象に悲鳴をあげた。
「あっ、無理ならいいんです」
(こらっ、やらせるんだ)[#「(こらっ、やらせるんだ)」はゴシック体]
オバァは一度深呼吸をしてから、手が痺《しび》れるまでカードを切ってくれた。
「二百五十六、二百五十七……三百四十二、三百四十三……四百九十九、五百! ふう、切り甲斐《がい》のある年齢だねぇ。出身地は沖縄全部だってぇ? まずは『な・は』『い・と・ま・ん』『と・み・ぐ・す・く』……」
おちゃらけたインチキ占い師かと思えば、妙な所で誠意をみせる。こんなに苦労して五百円とはありがたい。時給に換算したら他の仕事をした方がマシではないだろうか。
オバァは思いつく限りの地名をあげた。途中で『ト・ウ・キョ・ウ』など沖縄以外の地名も入ったりしたが、そのときはズルをするときの「アマンプー」で鼻をつまむのを忘れなかった。オバァにはデニスのような客は珍しくなかった。かつて聖書のイヴを探してほしいと馬鹿なアメリカ人に頼まれたときは、三千回カードを切った後で『エ・デ・ン』と締め括《くく》った。もちろん彼はイヴに会えた。占いの後、ちょっと宗教がかった男は、胡屋《ごや》十字路でトラックに撥《は》ねられ、めでたくイヴのいる世界へ行ったのだ。
デニスは理恵と一緒に地面に座り、二本目の缶ジュースを空けている。デニスが六本目の吸殻《すいがら》をアスファルトに押しつけると、炎天で地面が柔らかくなっていた。そして一時間半後、地面に「ゆ」の字が出現した。
「この男は今、コザにいるよ」
「マジ、いるんだー?」
と驚いたのはデニスだ。そして、すこしだけ清々《せいせい》した気分になった。だったら早くその友庵とやらを探して、このありがたい守護霊様を引き渡し、呪うなり祟《たた》るなり自由にしてほしかった。そうすれば逆さの女は成仏するだろう。祖母が言っていた。沖縄では死んだ人はグソーと呼ばれる天国へ行くらしい。
「でもねぇ。この友庵に会うのは難しそうだよ。沖縄全域って言ったのもわかるような気がするねぇ。本当にあちこちに出没しているよ。今は単にコザにいるだけみたいだねぇ」
「それって、消えたりするんですか」
「デニス。あんた幽霊を探しているの。あたしはてっきり……」
「違うわよ。あんた勘ぐりすぎ」
怒鳴られて理恵は小さくなっていた。
オバァは「ゆ」の字をじっと眺めている。なにか解せないようだった。
「本当に友庵でいいのかしらねぇ。あたしには違う人のように思えるんだけど。だってこの人あたしの友達だよ」
「誰それ。場所を教えてよ」
オバァは腕を抱えながら、ボソっと呟《つぶや》いた。
「マハラジャ商店のラジニだよ」
「ええっ。あのさっきのインド人?」
コザの雑踏は方向性がない。ビルからビルへ、移動するのではなく、なんとなくブラブラする人々ばかりで、動物園にいる神経症の豹《ひよう》のように同じ所をグルグル回っている人間も珍しくない。それでも街が機能しているところが、不可解さを倍増させる。通りから、人につまずきながら歩いてくる慣れない男がいた。一見、沖縄人のように見えるが、ぶつかるたびに|Oops《ウーツプス》≠ニ謝ってばかりいる。カジュアルな恰好《かつこう》に似合わず、男の歩く姿勢はよく訓練されたものだ。メモを持ってキョロキョロしているときでさえ無駄な動きがなく、一度見た対象に再び目を合わせることはなかった。男がマハラジャ商店の前でインド人を見つけた。急いで駆け寄って、メモを見せた。
「すみません。私は留学生のブライアン・ヤマグチと申します。友人から紹介されて、ここで聞けばわかると言われたのですが……。ハロー? アーユーオッケー?」
ひたすらボーッとして、目の焦点が合わないインド人に、男は要領を得られずに困惑していた。そこでカートに積まれていた帽子とサングラスを買うことにした。
「センエンデース」
やっとインド人が口を開いてくれた。お金を渡すと一瞬だけ正気に戻った表情をして、またボーッとなった。
「あの、この街に英語のわかるシャーマンがいるって聞いたんですけど、どこに行けばいいのか教えてください」
インド人は、だったら先にそれを言え、とばかりにコザ式の返答をする。
「アッチ」
「どこなんですか? せめて方向くらい指さしてくださいよ」
インド人には、その留学生がひどく子供じみて見えた。いや、この街では「アッチ」と言えば、子供でも間違わずに歩いていける。論理的でないのがインドとこの街の共通点である。マハラジャ商店の主《あるじ》は、自分が外国に住んでいるとは思っていなかった。彼は街中の沖縄人が肌の色の薄いインド人だと思っていた。
「プリーズ。どこなんですか」
このヤマグチという日系人は真面目すぎて、本来もっているはずの勘を使わない。マハラジャ商店の主は、さっきのような返答を繰り返した。
「西ですか」「アッチ」「東ですか」「アッチ」「南の方ですか」「アッチ」「ええい、最後は北だ」「アッチ」「だったらこの場ということになりますよ」「アッチ」
数分後、痺れをきらしたヤマグチはついに怒った。
「もういいですよ。自分で探しますから」
と腹を立て、ままよとばかりに一つの路地に入っていった。
「アタリ」
インド人はにんまりと笑った。ヤマグチの理性が吹っ飛んだとき、衝動で選んだ道の先に探しているシャーマンがいるのだ。きっとこのディープアジア式の好意をヤマグチは理解できないだろう。そしてきっと偶然目的地に辿《たど》り着いたと安堵《あんど》するはずだ。これを偶然と処理していては、この街には住めない。しかし、勘ばかりを使っていては、マハラジャ商店の主やアメ女のようになってしまう。理性をとるか、本能をとるか、この選択に中間はない。綱渡りをさせれば、誰でも右か左に落ちるようなものだ。
ヤマグチはブーゲンビリアに誘われて、またあの駐車場へ入っていった。パイロットのヤマグチにもまた、これが滑走路の誘導灯のように見えた。すれ違いに黒人の少女が文句を言いながらカツカツと歩いていく。
ヤマグチの耳は奇妙なカードを切る歌を拾っていた。なんだ簡単に見つかったじゃないか、と偶然の思し召しに感謝した。駐車場には新たな客がいた。知的な雰囲気を持つ金髪の女だった。
「ハーイ、サマンサ。今日は何を占えばいいのかい」
「うーん。私の生理の予定日? うっそ。だってピル飲んでるんだもん。あっ、でも私まだなのよ。オボコーって日本語で言うのかしら。くすくす」
「へー。あんた奇麗なのに処女なのかい。でもよく男と遊んでいるじゃないか」
「再生手術して使ってないだけよ。アヌスで遊んでいたら癖になっちゃったの」
「だったらピル飲んでも仕方ないんじゃない」
「た・し・な・み。コネチカットでの習慣が続いているのね。くすくす」
この女はクレイジーだ、とヤマグチは寒気を覚えた。小さめの眼鏡をかけ、どこか流行遅れの感じがするグレーのスーツを女は着ている。しかし身体つきは豊満だ。服で隠している部分の妄想《もうそう》がいたずらに刺激される。ヤマグチは理性的になろうと必死だった。
女は確信犯である。この出で立ちは、インテリ男のレイプ妄想を刺激するように計算しているのだ。一見、無垢《むく》で適当なダサさはある種の嗜虐感《しぎやくかん》をそそられるものだ。彼女はそれを逆手にとって男をコントロールする術に組み込んだ。従順なように見せかけて、裏で男を支配する。体育会系の男なら、よもや自分が操られているとは思わず、しかし見えないストレスを蓄積させてある日プッツンと社会で暴れるだろう。理由なき暴力には、実はこういう女の影がある。それを極めて無意識に装えるのが女である。案の定、ヤマグチは目が離せなくなっていた。
「今日は、私の就職先のことで占ってほしいの」
ヤマグチは立ち聞きするつもりではなかったが、ぐいぐいと話に引きこまれていく自分を抑えられなかった。
「はい。『サ・マ・ン・サ・オ・ル・レ・ン・ショー』年齢は二十五歳っと」
どこかで聞いた名前だとヤマグチは記憶を探っていた。そんな彼を尻目《しりめ》にサマンサは相談をユタに伝えた。
「プリンストン大学と母校のエール大学から教授に迎え入れたいって手紙が届いたの。どっちにした方がいいと思う?」
とサマンサは手紙を二つちらつかせている。ヤマグチは二人の間に割って入った。
「もしかして、あなたは人類学者のオルレンショー博士じゃないんですか」
空軍の士官学校に通っていたとき、ヤマグチは彼女の「現代アジアのシャーマニズム」という学位論文に感銘を受けた。それが出版されるとアメリカで話題を博し、ベネディクトの再来と評されたものだ。サマンサはわずか三学期という天才的なスピードで学位を取得した才媛《さいえん》だ。ひとつ目の人類学のPh.D.は二十歳のとき、そして二十一歳で哲学のPh.D.とダブルメジャーをなし遂げた。ヤマグチがユタという存在を知ってこの場に来たのは、彼女の本を読んでいたからであり、それが自分のルーツである沖縄も含めて述べられていることに感激したものだ。
「あら、光栄だわ。オキナワで私を知っている人に会えるなんて」
「オルレンショー博士、絶対にエール大学に戻るべきですよ。占うなんて馬鹿げている」
「お兄さん、あんた失礼だよ。何しにきたんだい」
「はあ。ちょっと占ってほしくて……」
「じゃあ次まで黙ってるんだね。まったくアメリカ人ときたら、どいつもこいつも」
「そうよ。このシャーマンちょっと変わっているけど、私が今まで調査した中でもダントツに凄《すご》いんだから」
オバァは「サ」の字にタロットカードを並べた。
「うーん。サマンサ、どっちも蹴《け》った方がいいよ。あんたやるべきことがオキナワにあるみたいだよ。それがあんたの一生を賭《か》けた仕事になるって出てるよ」
「OK、じゃあそうするわ」
サマンサはあっさりと受諾して、手紙を破いた。
「博士、何を考えているんですか。あなたはアメリカの宝なんですよ。研究費だって山のようにもらえる人なんですよ」
サマンサは自分の価値をそんなもので計るようなケチな女ではない。自分の興味が引かれるところなら極東であろうが、戦場であろうが、調査のためにやってくる。初めて沖縄をアメリカに紹介したのは日本開国を要求したペリー提督だ。彼は浦賀《うらが》に来航する前に沖縄を補給基地に据えて日本開国の戦略を練っていた。彼は優れた民俗学者でもあり、たくさんの調査資料を残している。サマンサはベネディクトもボアズも、レヴィ=ストロースだって目ではない。敬愛する学者はペリー提督ただひとりである。だからオキナワなのだ。
「あなたはこんな極東で埋もれていく人材ではない。エール大へ戻りなさい」
ヤマグチが捨てられた手紙を拾って渡そうとする。
サマンサは理屈を並べるよりも、煙に巻く方が得意だ。「失礼」とペンを地面に落とした。ヤマグチがそれを拾おうと膝《ひざ》をついたとき、ミニスカートの脚をパッと開く。彼の目にとんでもない映像が飛びこんできた。
「ノ、ノーパンだあっ」
サマンサがニヤリと笑う。男はこれで黙らせるに限る。中年男のセクハラは大罪だが、美女の逆セクハラは非常に有効であることを彼女は知っている。机にかじりついているそこらの才媛とは人間の大きさが違うのだ。その代わり何かとっても大切な物が破壊されているような気がする。サマンサは常に一枚上手の女だ。
「私の仕事にとやかく言わないで。このシャーマンの言うこと当たっているわよ。私は今レキオスの研究に没頭しているんだから」
そう言って百ドルを支払うと、サマンサはアタッシェケースを抱えて去っていった。
「待ってください博士。今『レキオス』っておっしゃいましたよね」
ピラッとスカートをめくってケツを晒《さら》して歩いていく。これも手だ。ヤマグチは理性と本能を同時に刺激されて、もうすこしで精神に異常をきたすところだった。やっぱり本物のアメリカ女はどこか違う。どこが変だとはっきり言えるのだが、彼女を変人と断定するにはあまりにも魅力的な、いい女である。
慌ててヤマグチが追いかけようとすると、オバァに腕を引っぱられた。
「ザ フェアー イズ ワン ハンドレッ ダラーズ」
「センエンデース」
理恵を着せ替え人形にして、上から下までマハラジャ商店の服を購入した。ラジニは頬杖《ほおづえ》をついて、隣に置いてあるガネーシャの彫像と同じ姿勢で日差しの中にいる。
ラジニの周囲からボーッという音すら漂ってきそうなほど、彼は放心していた。こうやってガネーシャとふたりで空を眺める毎日だ。象の頭と人間の身体をもつガネーシャはヒンドゥー教の学問と商売の神様だ。彼はガネーシャといるだけで幸せだった。
ラジニは今日も太陽が描く弧をシャッターを開放したカメラのように追っているだけだ。彼の瞳《ひとみ》にはトリトンブルーの空に痕《あと》をたなびかせる太陽が映っていた。その見事さといったらなかった。空に巨大なエネルギーの流れが見える。八時近くまで落ちることのない太陽はまだまだ余裕をみせて、コザの地平線である嘉手納基地上空を巡行中である。その光に意識を委《ゆだ》ねれば、誰であれ、どんな境遇にも耐えられるし、どんな悲しみも癒《いや》してくれる。目映《まばゆ》い強烈な幸福感は人生の影すら消してしまう。
ラジニはこれをインドのパトナの街で死んだ母から教わった。葬儀の日、ラジニは聖なるガンジスを空に見つけた。光の河はゆっくりと母の魂を冥府《めいふ》へと送ってくれた。死せる魂はエネルギーの源へ還元され、その力で命が生きていく。このことを知ってから、ラジニはどんなに悲しいことでも泣かなくなった。そして聖なるガンジスが空に見える場所なら、どんなに遠い世界でも生きていける勇気を身につけた。
「キレイネ。キョウモ ガンジスガ ナガレテイクヨ」
ラジニの涙は幸福なときにだけ流れる。
ほとんどの人は、昼間外にいながら太陽の軌跡を眺めることはない。しかしラジニに言わせれば、太陽には地上のどんなものよりも特別な美がある。これに気がつかないで死んでいく人生なんて、わざわざ不幸を楽しんでいるとしか思えなかった。
デニスと理恵がラジニの見ている世界のひとかけらでも共有できれば、心に抱えている重荷はなくなるだろう。しかし、毎日の半分の時間、幸福が頭上にあることに誰も気がつかない。高すぎて高すぎて、誰もが幸福は遠くにあると思っている。
「さて、どうしようか」
(そうだ。酒を浴びるほど呑《の》ませてみろ。友庵は大酒呑みだった)[#「(そうだ。酒を浴びるほど呑《の》ませてみろ。友庵は大酒呑みだった)」はゴシック体]
デニスはマハラジャ商店の冷蔵庫から飛びきり強い泡盛《あわもり》をあるだけもってきた。
「センエンデース」
それをラジニにたらふく呑ませてやる。彼も特に躊躇《ちゆうちよ》することなく、ガブ呑みしだした。たちまち五合瓶が空になり、グリーンの透明な瓶は太陽を透かせた。
(もっとだ。もっと呑ませなければ友庵は出てこない)[#「(もっとだ。もっと呑ませなければ友庵は出てこない)」はゴシック体]
「デニス、あんた何やってんの?」
「知らないわよ」
つぎつぎと瓶が空になっていく。あまりのペースに何度途中で止めようと思ったかしれない。しかしためらうと守護霊様の叱咤《しつた》が飛ぶ。実に五合瓶三本と三合瓶四本の泡盛が空になった。もともと虚ろな目が、左右別々にべろんべろーん、と泳いでいる。もう一杯呑ませろ、とチルーに命令されてデニスは無理やり呑ませた。
するとラジニの身体が変調をきたした。頭をぐるんぐるんと大きく振り回し、身体を引っぱり回した。そして不気味で陽気な笑いがラジニから溢《あふ》れてきた。チーンと何かが鳴ったような気がした瞬間、身体の動きを止めたラジニが笑いながらゲロを吐く。
(友庵が現れるぞ)[#「(友庵が現れるぞ)」はゴシック体]
ラジニの口から惚《ほう》けた日本語が流れてきた。
「よお、真嘉比《まかび》のチルーじゃないか。百四十七年経って蘇《よみがえ》ったか。ちょっと老《ふ》けたかな。よく儂《わし》を見つけたな。この男の精神に居座っていたんだが、なかなか好い心地だったぞ。肉体と精神が完全に調和しておる」
「ヘイ、何が起こっているの。ちょっと待って」
(身体を借りるぞ、デニス)[#「(身体を借りるぞ、デニス)」はゴシック体]
と言い切らないうちにデニスもラジニと同じ状態に陥った。チルーはデニスの身体を借りて、百四十七年前の因縁を晴らすつもりらしい。乗っ取られたデニスがラジニの胸ぐらを掴《つか》んだ。
「きさまあ、この瞬間をどれほど待ったことか。友庵、私の身体を元に戻せ」
「ムリぢゃ」
「おまえに不可能なことはないはずだ。よくも私を逆さにしてくれたな」
ラジニの身体は笑いながらゲロを吐き続けていた。デニスも左目の瞳孔を開けた。
「いやあ。デニスどうしちゃったのよ。その髪」
理恵が指をさす。乗っ取られたショックでデニスの髪は逆立っていた。パーマとムースで固まっていた髪が、徐々にほぐれて、本来の螺旋《らせん》の状態に戻る。
「この時代では無理なんぢゃ。ベッテルハイムの計略にまんまとはまってしまったわい」
「ベッテルハイムといえば、あの『波《なん》え上《みんぬ》の眼鏡《がんちよう》』のことか。友庵、おまえはいつから切支丹《きりしたん》になったのだ」
「儂は切支丹ではないぞ。おまえたちの宗教になど元から興味はない。だからちょっと甘く見ていた。すっかり時間の輪に閉じ込められてしまったわい」
「どうしてだ。おまえは時間を操るではないか。私を正しい時に戻せ。元はといえば……」
「ベッテルハイムのせいぢゃ。奴はなかなかの策士ぢゃ。うつけの振りをしていたとはな」
「おまえは『時間の幻』と呼ばれる男だ。ベッテルハイムに操られるわけがない」
ベッテルハイムとは一八四六年に琉球に訪れたイギリス国籍の宣教師だ。彼は語学の天才ですでに十三カ国の言語を自由に操っていたが、琉球語も短期間で修得し、初めての聖書「馬太《マタイ》・馬可《マルコ》・約翰《ヨハネ》・路可《ルカ》」と琉球語による四福音書を一八五二年の九月までに訳了した。そして琉球語が日本語の姉妹語であることを見抜いた彼は、反訳を試み、それが日本初の聖書になった。その原本は現在でも見ることができる。
「ベッテルハイムの魔術にはまったか。じゃあ私はどうなるんだ。このままか」
「儂の力が時間の矢で止められてしまったんぢゃ。それが取れないことにはどうにもならない。儂はこの百五十年を彷徨《さまよ》っているだけぢゃ」
友庵は時間の幻と呼ばれるだけあって、自由に時間の壁を越えて存在する。たまに人の精神に居座っていることもあるが、基本的に彼が生きている時代は全時間域であり、すべてが友庵の精神を培っている。人間の姿になるときは、三世相と呼ばれる占い師としてである。個人の前世、現世、来世の三つの運命を予言する沖縄の男のシャーマンだ。その数はユタの足元にも及ばない。数えても両手で足りるほどだ。彼には現在も過去も未来も同質である。展開しない時間は空間と一体になってそのまま完全に静止する。それになんらかの刺激が与えられると、友庵という精神が発生する。そして彼の思考そのものが時間と同義になる。しかしそれが、今回だけはどうにも越えられないと言う。
「なんだその時間の矢とは」
「儂が移動するのは三つの時間が重なった時ぢゃ。ぢゃが、未来が時間の矢で貫かれてしまったんぢゃ。だからおまえを送ることはできない」
「ベッテルハイムの魔術はどうすれば壊れるのだ」
「天久に魔法陣が描かれたとき、現代世界も掌握されてしまったのぢゃ。どっちみち琉球はペリー提督の艦隊に乗っ取られる寸前ぢゃった。王府もベッテルハイムまで手が回らなかったとみえる。ただの一、宣教師ぢゃからな」
友庵が少し前までいた十九世紀中葉の琉球は王国の最晩年の時代だ。欧米列強がこぞってアジアに進出を試み、隙あらば植民地化しようと狙っていた。琉球もその例外ではなく、アメリカ艦隊の進出に政治が混乱していた。それでも王府は独立のために、巧みな交渉術を駆使して、有利な条約の締結に向けて苦心していた。ちょうど同じ頃、琉球には英国人宣教師のベッテルハイムがいて、キリスト教の布教を積極的に行っていた。しかし王府は建前上の国教を儒教と定めていた。あくまでも清国《しんこく》を踏まえた外交政策上の宗教だ。イギリスなみの二枚舌外交を余儀なくされていた王府はまた、江戸幕府の顔色もうかがい、キリシタンに対しても協調路線を歩んでいた。琉球は強国に挟まれた地理的な要因で、二枚舌どころか七色の声を使い分けた。武器を持たない国家ゆえ、口の達者ぶりは名人域だった。当時の王国を執政していた三司官たちが今生きていたら、こんな台詞《せりふ》は当たり前だったに違いない。
[#ここから1字下げ]
清国に対して。
「あ、もしもし、清国ですか。御無沙汰《ごぶさた》しております。琉球です。
はい。うちの国教は中華世界帝国にあやかって儒教とさせていただいております。
はい。ほんとっスよ。マジ。もーう、うちは清国を親のように思っているんですよー。
え。最近、日本と仲良くしているんじゃないかって?(馬鹿、脅されてんだよ)
いいえ。いざとなれば清国のために琉球は身を挺《てい》する覚悟でございます。
信用できない?(まったく大国エゴ丸出しなんだからっ、この国はっ)
なら、視察していただいても結構でございますよ。ただし遠いですよ。船で杭州からうちまでどれくらいかかるか御存知ですか?(ばーか、ばーか、来てみさらせ)」
江戸幕府に対して。
「あ、もしもし。お世話になっておりまーす。琉球でーす。もちろん切支丹などという不心得者は、この琉球にはおりません。いたら処刑しろって?(ヤだねーこの性格)
え? オランダと勝手に交易をしていないかって? とんでもない。(アホ。今じゃイギリスが世界を支配しているんだよ。この田舎モンが)
はい。幕府のお志に逆らうようなことはいたしません。ええ、本当です。(うっそ)
(どうせ来年になれば那覇港に停泊している四隻の黒船が、おめえんとこに大砲鳴らして開国を迫るんだよ。よくも今までいじめてくれたな。うちはとっくにアメリカと修好条約結んじゃったもんねー。これで徳川もおしまいだよーんだ)
あ。すみません。緊張でぼーっとしてしまいました。電話代高くなりますんで失礼させていただきまーす」
アメリカに対して。
「旗艦サスクェハナ号及びミシシッピー号、サプライ号、カプリイス号様一同、ごあんなーい。まー、ペリー提督閣下も長旅でお疲れでしょう。メンソーレー。(もうヤケクソ。今度はアメリカかよ。いいよいいよ。慣れてるし。もうカモンって感じー?)
げっ。修好条約を結びにきたって! はあ、一応上司の清国と相談してですねー。
許可済み?(あの野郎ー。絶対にやると思った)
では搾取国の江戸幕府にも相談してから……。
え? 幕府にも開国を迫る?(よっしゃあ!)では、うちでよければ条約を締結してですね。
(これで幕府ともおさらばだ)
はい。もちろん琉球は独立国ですよ。ちゃんと国王もおりますし。どうぞ首里城へ。
琉球王国第十九代国王、尚泰王《しようたいおう》様のおなーりー」
[#ここで字下げ終わり]
三司官は実に有能な外交を行い、不透明な形でも琉球を独立国として存続させた。これは弱小国家ならではの処世術である。それでも実に堂々とペリーらと対話し、アメリカの一方的な都合にならない条約を結んだ。アメリカの狙いが琉球の植民地化であることをとっくに見抜いていた王府は、物資補給基地を作るための借地権を要求してきたアメリカを退けた。王府は要求通り物資の補給をしたが、これは私たちの行政サービスとして行うと申し出て、ペリーの舌を巻かせた。鎖国で小さくまとまっていた江戸幕府が右往左往していたのとは対照的に、世界で鍛えた外交術を駆使したのだ。
だから建前さえ決まれば国内は何でもありの状態だ。そして、一八五三年ついにペリーは浦賀に来航することになり、翌年日本は開国せざるをえなくなる。友庵はその時代も、それ以前からも大きな眼差しで沖縄を見守ってきた。
それに比べて今の沖縄の不甲斐《ふがい》なさといったらどうだろう、と友庵は思う。かつてあれだけ列強と丁々発止《ちようちようはつし》の交渉を繰り広げて、勝ちはしなかったものの、けっして負けなかった琉球が今ではアメリカ人の思うままである。
「だから借地権はペリー時代からのアメリカの口上なんぢゃって」
と友庵は呆《あき》れる。百五十年前の琉球の政治家の方が遥《はる》かに未来を見据えていた。四隻の軍艦の大砲を前にあんなにがんばって譲らなかった借地権なのに、ちょっと目を離した隙にアメリカの植民地状態である。「時代が違う、軍事力が桁《けた》違いだから屈した」などの言い訳は友庵には通じない。彼は知っている。時代とか権力とかそんなものは一瞬の幻だと。人間の営みは、彼が人の精神を塒《ねぐら》にして以来、大した変化はない。
「一度すべての時代を生きてみれば、わかるんぢゃが」
と呟《つぶや》いてまた「ムリぢゃ」とベロを出した。現在、沖縄は日本政府にしぶしぶ従っているようだが、あそこは開国以前から体質は変わらない商人根性の国だ。志を持ったかつての三司官のようなトップエリートは沖縄にはもういない。友庵がラジニのような外国人の精神に居座っているようでは沖縄人の精神もまだまだ低い。事実、現代の沖縄人の精神に入った瞬間、友庵はひどい二日酔いの気分になった。
「まったくスケールの小さな精神ぢゃ」
と唾《つば》を吐きたくなる。この島の変革はいつも海からやってくる。ラジニのような上等な人間も海を越えてやってきた。「ほら、変わらないぢゃろう」と友庵は自説を満足気に説明して頬を赤らめる。外国人を積極的に受け入れる風土は、今も同じだ。それが好機を生み出すと友庵は信じている。彼らが次の沖縄を担うだろうと友庵は永い目で見守ることにした。しかし友庵は今、難儀をしている。百四十七年前のベッテルハイムの魔術でぐるぐるに縛られて動けない。
「情けないことなのぢゃが、このままでは次の時代に飛べないのぢゃ」
ラジニがらりらりと笑う。そしてまたピンク色のゲロを吐く。
「ならば、その『時間の矢』を折ればいいのだな」
「ムリぢゃ。あまりにも巨大すぎて誰にも折れなくなってしまった」
「私なら折ってみせるぞ。方法を教えろ」
「あれはレキオスの力でしか折れん。ぢゃが、レキオスを蘇《よみがえ》らせればこの世は終わりぢゃ。おっと、この男そろそろ目覚めるぞ。こいつは上等なマブイ(魂)を持っておる」
最後はラジニの笑い声が溢《あふ》れて、ゲロが止まった。デニスもガクンと地面に倒れた。
「ちょっと。デニスたち何の話をしていたのよ。もう、何がなんだかわからないわよ」
理恵にはこのやりとりがまるで理解できなかった。
すぐにラジニが異変に気がついた。
「ガンジスノナガレ チョットキレタネ。ドシテ?」
彼の目には当然焼きついているはずの三十分間の太陽の帯が抜け落ちていた。
(デニスよ。今度はレキオスについて調べろ)[#「(デニスよ。今度はレキオスについて調べろ)」はゴシック体]
マハラジャ商店でオレンジ色に染まった太陽を眺めていたラジニが、明日の太陽のために店仕舞いしていた。夜は寝て、鮮やかにたゆたうガンジス河の夢を見る。それを何十年も毎日繰り返して、彼の魂はいつかあのガンジスの光になる。
「キョウハ モウカッタネ。イツノマニカ センエンガ イッパイ」
シャッターを下ろした音と同時に、男がやってきた。
「すみません。あの、さっき黒人の女の子がきませんでしたか」
占いで「ある生き物の種《たね》」と伏せてたずねた結果、さっきすれ違った混血の少女がそれだとオバァに告げられた。疑い深い彼は、まず初めに自分のことを占ってもらった。その結果にヤマグチは、驚きを通り越して恐怖を覚えた。彼の血筋が沖縄であること、空軍のパイロットであること、そして使命を帯びた命であること、彼は自分の性を意識していなかったら女のように叫びたいくらいだった。オバァの止《とど》めの言葉はこれだ。
「あんた、とんでもない男の命令を受けているねぇ。占っても占っても正体が見えやしない。心を読まれているって感じたことはないかい。それはあんたが魂を売ってしまったからだよ。レキオスのことは忘れた方がいい」
ヤマグチはオキナワン・サウンドの悪酔いで意識が身体からズレていくのを感じた。
「それで、あのシスター。いやあの少女がここにいるって聞いたんです」
男が黒人の娘の行方をしきりにたずねると、ラジニはボーッと答えた。
「アッチ」
ヤマグチの一週間が過ぎた。キャラダインは手ぶらで帰ってくる者を容赦しない。嘉手納基地に入ったとたん、ヤマグチの耳からあの重低音のオキナワン・サウンドが消えた。そしてすぐに聞こえてきたのは三機のF15の爆音だった。今日も彼の耳には心地好い爆音が断続的に響いている。当たり前すぎてありがたみのない音になっていたが、今日はすこしだけ勇気づけられた。もっともっと飛べばいい。最近の戦闘機は爆音も控え目になってきた。エンジンの技術革新のおかげだが、戦闘機は爆音が轟《とどろ》いてなんぼのものだと思う。定期運行スケジュール表を見ると、グアム基地から今日B52戦略爆撃機が三機、嘉手納に飛んでくるという。あの古めかしい巨艦主義は、アメリカの力そのものだ。その主役の座をステルスのB2に譲りつつあるとはいえ、ほとんど無音の飛行機なんてヤマグチは邪道だと思っている。
「こう、パーッと空にサンダーバーズのF16がダイヤモンド編隊を組んでくれたら、気分も爽快《そうかい》になるのになあ」
と控え目に肩だけで伸びをした。彼が空軍に入ったのは少年時代、アクロバット飛行に魅せられたからだ。
彼のパソコンがメール受信を告げた。ディスプレイにチラリと目をやって、固まる。キャラダイン中佐からである。送信は軍用に特殊暗号化されている。パスワードは〔Die Zauberfloete〕だ。いつもこれがヤマグチのパソコンに届くと憂鬱《ゆううつ》にさせられたが、今日はいつも以上に気だるかった。
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プロジェクト L
今夜八時、ハンビータウン「ブルーチャイナ」にて、報告せよ。
[#地付き]キャラダイン
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七秒間表示された後、自動的にメールが抹消された。たぶん記録にも残っていないだろう。あまりにも周到なうえに簡潔すぎて恐ろしくなる。返信などまるで要求していなかった。中佐への送信は禁止されていた。どんな状況でも「プロジェクト L」と担当に言えば、無条件にヤマグチは軍務から解放された。士官の上の上、もっと上の司令官でさえ、この言葉を聞くと反射的な返答をする。ヤマグチは人の心理を読むのが得意だが、ここまで画一的な反応をされると、お手上げだった。
この任務についている複数の軍人の中では、ヤマグチが一番「プロジェクト L」に近い存在だと思われている。メンバーから要点だけでも教えてくれとせがまれて困ってしまったことがある。ヤマグチの知っている情報は彼らよりほんの少しだけ上位のものだ。だいたいメンバーは「プロジェクト L」の頭文字が何の略なのかも知らないほどなのだ。キャラダインはヤマグチに全体を把握されることを避けているとしか思えない。
──レキオスについて知っている者は、シャーマンの老婆とオルレンショー博士くらいか。民間人の方が詳しい軍事作戦なんて、一体何なんだ?
チラッとサマンサのスカートが頭に浮かんだ。するとペンを拾ったときのあの衝撃映像が蘇ってきた。学界を揺るがす才媛《さいえん》のくせに、あんな変態とは思わなかった。
「俺って最低じゃないか。レキオスについて考えていたのに」
ゴンと頭を叩《たた》いたヤマグチは、これがサマンサの思う壺《つぼ》だとまだ気づいていない。
北谷《ちやたん》町にあるハンビータウンは、米軍ハンビー飛行場が返還された後に建設された街だ。天久の那覇新都心構想の荒野とは対照的に、ここは数多くある返還地の中で唯一、再開発に成功した街である。成功の秘訣《ひけつ》はたぶん、綿密な青写真を持たなかったことだろう。ハンビータウンは生まれて間もない街なのに、すでに外観がミニ・コザ化している。それがこの街の異常な活気を生み出した。お洒落《しやれ》なブティックの間にフリーマーケットが平然と展開していたり、客が列を作る流行のレストランの隣に普通の民家がある。巨大駐車場完備のショッピングセンターの隣がその敷地の十倍はある空き地だったり、とパラドックスのオンパレードだ。そしてご丁寧なことに、その猥雑《わいざつ》な景色を楽しめる観覧車まで出現した。このパターンを繰り返せばフラクタルが生じ、自然界を模倣した形態になる。人工でありながら自然のパターンがあれば人は流れてくる。
ハンビータウンの「ブルーチャイナ」はその洒落た名前とは裏腹に、建てながら増改築を繰り返したような、築四十年風の新築ビルの地下にある。オーナーの華僑《かきよう》のおばさんは一生懸命にがんばって、店のコーディネートをした。店内は輸入が禁止されているはずの鰐《わに》や海亀の剥製《はくせい》が壁際に並んでいる。テーブルはワンセットだけ上等なイタリア製を入れたが、残りの九つのテーブルは折り畳み式の簡易なものをゴミ捨場から拾ってきた。だんだん資金難に陥ったプロセスが見てとれる店内は、どこか包帯を巻いた怪我人のような印象を受けた。そしてオープンしてすぐにディープな過去を持つ常連陣が形成され、一見客《いちげんきやく》を追いやった。
客は外国人と沖縄人の半々である。ムームーを着たおばさんにゲーム機のある席へ案内されたヤマグチは、その圧倒的な内装に店がガタガタ鳴っているような印象を受けた。席では男が中華そばを啜《すす》っていた。
「ミスター・キャラダイン、です、よね……?」
サングラスをかけていなければ、ヤマグチは声すらかけなかっただろう。雰囲気がまるで別人だった。軍服を脱いだ中佐は背筋をやや曲げて、この店の客と同化していた。気をつかったはずのヤマグチの恰好《かつこう》の方がよっぽど浮いて見えた。常連たちがそれとなくヤマグチを観察している。よそ者はこの迫力に負けて出ていくのだ。それでも彼は古着の作業服を着てきた。
「頭を使うから、ボロがでるのだ」
「ですが、この恰好の何が変なんでしょう」
「将校の自意識を脱げば、何を着ても怪しまれない。一番大きなのはアメリカ人ということだ。君は着ているものが多すぎる」
「はい……」
「例の種《たね》のことだが、捕獲できただろうな」
捕獲できただろうなという言葉は、できませんでしたという返答を撥《は》ねつけている。
「すみません。手掛かりもなにもまだ……」
ヤマグチは自分の口から出た言葉に驚いた。何もコザでのことを隠す理由などないはずなのに、どうしてだろう。自分の言葉に慌てていると、また、挑発的な発言が勝手に飛び出した。
「キャラダイン中佐。情報が少なすぎて、手掛かりが掴《つか》めません。せめて『プロジェクト L』について教えてください。その、ユタをしている老婆に『自分自身もわからないものを人に尋ねるな』と言われて、もっともだと思ったんです」
あの日コザの街で占ってもらったユタのオバァは、名前と年齢と出身地だけで、驚くほどの的中率を示してみせた。ユタは自分の知らないことまで当ててくるから、さっきの台詞《せりふ》は嘘である。コザの占いでは彼の将来を予知してきた。来年は|NORAD《ノーラツド》(北米防空司令部)へ配属されると思っていたのに、ネリス空軍基地だとオバァは言った。その後、嘉手納でネリス組の将校たちから誘いを受けた。かなり魅力的な話でNORADより、自分の力を試せるような気がした。自分はデスクワークよりも現場に向いていると、そのとき初めて気がついた。ユタのオバァは彼がこれから知る近未来までも、術中に収めている。サマンサが熱心になるのもよくわかる。
「機密扱いだとわかっているはずだ」
「では中佐。どこが作戦を管理しているのでしょうか。カデナではありませんね。太平洋軍でもない。まさかペンタゴンじゃ……」
キャラダインはテーブルに置いた腕に力を入れた。
「君は軍の規律に違反している。上官の命令は常に絶対のはずだ。それに、君をNORADへ推薦しているのは私であることを忘れるな」
ヤマグチもテーブルを掴んだ。
「いいえ。私はNORADへは行きません」
キャラダインは怒ると思ったが、意外にも微笑を浮かべるではないか。この表情は珍しく中佐の心理と矛盾していないことが読みとれた。ますますキャラダインという男がわからなくなる。ユタのオバァの「あの男はおまえの心を読んでくる」の言葉が脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
「なかなか失礼なシャーマンではないか」
「え? なにかおっしゃいましたか?」
キャラダインはそんなヤマグチを見て大声で笑った。店内に有線放送が流れているのに、常連客がジュークボックスにコインを入れた。たちまち聴覚までガタガタになる。
「どうやら種の手掛かりを掴んでいるようだな」
「いいえ。私は愚鈍な人間ですから」
「少しは成長したか」
それを無視してヤマグチはポーカーゲーム機にコインを入れた。ディスプレイにカードが配られる。彼は画面上の裏返されたカードの山を見つめることにした。
「うまい方法を見つけたものだな、少尉」
「はあ。なにがです?」
ヤマグチは自信あり気に答える。キャラダインもコインを投入した。ヤマグチは手持ちの札を三枚捨てた。キャラダインは全部取り替えた。
「君の手はフルハウス狙いだな。キングを三枚ほしいか」
「ただの8のワンペアですよ」
ヤマグチに三枚カードが配られた。キャラダインがコツンと指で画面を弾《はじ》くと一枚目のハートのKが現れた。
「なるほど、シャーマンはレキオスを知っているのか」
Kに描かれた肖像は、どこかキャラダインの雰囲気に似ていた。キングに睨まれて何も言い返せなくなる。またキャラダインが指を鳴らすと次のカードもクラブのKだ。ヤマグチの心は揺れていた。
「コザのマハラジャ商店のインド人が、例の種を知っているんだな」
「くっ……」
「さて、種は誰に入ったかだ……」
最後のカードがめくられようとした瞬間、ヤマグチは頭の中にサマンサを登場させた。誰でも一瞬、無防備になるあの衝撃映像をドカーンと浮かべる。
「君の頭はソレしか考えられないのか。猿と同じだな」
キャラダインがテーブルを叩いても、ヤマグチはイメージを壊さなかった。彼の最後のカードはダイヤのKでフルハウスだ。
「キャラダイン中佐、私の勝ちみたい……すごいっ!」
キャラダインのカードはスペードのロイヤルストレートフラッシュが炸裂《さくれつ》していた。
「ヤマグチ少尉。『プロジェクト L』は可及的速やかに実行されなければならない。君が種の件を私に教えたくなければそれでもいい。別の任務に就いてもらうぞ」
「いいえ中佐。私は『プロジェクト L』に最適な人間です」
「だからだ。もうひとつのLの任務に就いてもらう」
ヤマグチの思った通りだ。軍属以外でもこれを遂行している者がいるのだ。やはりこれは軍事作戦ではなかった。ペンタゴンが黒幕かと思って臆《おく》したりしたが、中佐は軍規に背いて独断専行している。
「上層部に報告するつもりかね」
「いいえ。私も中佐と同じく、ケチな人間ではありません」
「だろうな。だから私は君を選んだ」
そう言って鞄《かばん》からディスクの入ったケースをヤマグチに渡した。
「これは?」
「次の仕事だ。そのディスクに概要が入っている。パスワードはいつもと同じだ。君がこの仕事で『プロジェクト L』の本質に迫ることができるなら、私は邪魔をしない。断っておくがくれぐれもディスクのコピーをとったり──」
キャラダインが言い終わる前にヤマグチが先回りする。
「ウイルスに感染するんでしょう。アメクのペンタグラム作戦のとき、ノートパソコン一台|潰《つぶ》しましたよ」
「私を甘くみるからだ」
すべてキャラダインの手の内でも、いつでも奴隷のように従順なわけではない。中佐の微笑を打ち消すようにヤマグチがニヤリとする。ディスクを受け取ったヤマグチはきびきびとした動作で店を出た。まったく、身につかないやつだとキャラダインが額に手を当てる。ヤマグチの座っていた席にムームーを着たおばさんが座った。オーナーの劉《リユウ》だ。
「あの若者、なかなか骨のある男じゃないかい。哥哥《クークー》」
劉はそう言いながら、キャラダインの小籠包《シヨウロンポウ》を食べた。
「あいつが知らない前からの付き合いだ。もっとも覚えてないだろうが。姐姐《ジエジエ》」
「酢豚を頼むとは素人だね。今イチ評判がよくないんだ。彼がやもめの子[#「やもめの子」に傍点]かい」
「そうだ。まだ気づいていないようだから、わからせるように仕向けた」
キャラダインが煙草を燻《くゆ》らせる。劉はその隙に最後の小籠包を食べた。
「ところで、つけが溜《た》まっているよキャラダイン。今日こそ払ってもらうからね」
「店の開店祝いに鰐の剥製をプレゼントしてやったはずだ」
「あれはあれ。これはこれ」
有線放送とジュークボックスが鳴り響く店内でカラオケまで熱唱されて、空気が振動している。工事現場の方が単調な分、まだマシだ。「ブルーチャイナ」は今夜もディープな客を、地下に閉じこめて逃さない。ハンビータウンは沖縄の新しい魔境である。
深夜のコザは、米兵たちの天国だ。もちろんアメ女《じよ》も活動時間帯に入り臨戦態勢を整えている。存在価値がかかっている方が物事に熱心になるのは当たり前で、アメ女の洪水で道路は溢《あふ》れていた。
「ヘイ、トム。アイワズルッキングフォーユー、ええっと、昨日」
「イエスタデーだよ。広美ー」
「ねー、真由美ー、昨日の雪、見たー?」
「やっべーよ。広美ー、シンナーのやりすぎじゃない」
「ちがうよー、見たもーん!」
夜は真由美と広美の優美な時間でもある。ネガ写真さながらの化粧は、なにもかも世間と逆行している象徴のようだ。群れているわけではないのに、髪は白のメッシュ、唇はグレー、つけ睫《まつげ》毛のまわりは逆パンダのような白のアイライン、と結局どのアメ女も同じ傾向になってしまう。大量生産品のようなアメ女の恰好は、単なる記号でしかないから、モテはする。この記号を見れば一応させてはくれると判断して間違いないことを米兵は心得ている。ただし個体差を見出せないので、同じ女と付き合っていると思っていても、実は毎回違うアメ女だったりする。
「マーイ守護霊イズ キティちゃん。ナイステューミーチュー」
広美の背丈の数倍はある化け猫を従えて、夜のコザを闊歩《かつぽ》している。そんな中、あのユタのオバァがバケツを抱えて走っていく。広美にぶつかって、中身が半分こぼれた。
「おっと。ごめんなさいねぇ」
「もー。やんなっちゃうなー」
広美が服についた液体を拭《ふ》こうとすると、血の匂いがした。
「ラッキー。生理がきたー。もー、デージ(超)心配したんだぞー」
生理がこなくなってから四カ月、彼女はいちおう心配することはしていたが、避妊や中絶の知識もないため、ほったらかしていた。これで禊《みそぎ》は終わった。今夜から腰がガタガタになるまで励めばいい。
「さっそく今夜から。レッツメイクラーヴ!」
広美とトムはコザのラブホテル街に消えて行った。
「まったく。どうしてあたしが狙われるんだい」
ユタのオバァは急いで自宅のマンションに戻ると、バケツの中の液体で六芒星《ろくぼうせい》をドアに描いた。
深夜営業もしているオバァは、十時過ぎまでタロットカードを切っていた。最後の客が帰って終《しま》いにしようとしたら、風に飛ばされた13の死に神のカードがオバァの胸についた。このカードがどうしても身体から離れない。剥《は》がそうとすると自分のマブイ(魂)が落ちてしまうことを予知した。誰かが自分を殺しにくるとわかったオバァは急いで肉屋へ行き、主人を叩き起こして羊の血をバケツ一杯に買ったのだ。
恨まれるような覚えはないはずだ、とオバァは記憶を探っていた。この前、無礼なアメリカ人に交通事故に遭う方角をさして「そこに行けば幸福になる」と嘘をついたことだろうか。中国人の女が金にあまりにがめついので、ソープランドのブローカーを「運命の人は彼」と騙《だま》してくっつけたことだろうか。それともゲート・ストリートでMPとロシアンルーレットで遊び、五連勝中だということだろうか。はたまた、ラジニをからかって店を全部買うと迫り「センエンデース」と言わせたことだろうか。
「それとも……」
ここまでやっておいて、罪悪感にならないのが不思議だ。オバァは考えて、
「それ以外は全然悪いことした覚えはないけどねぇ」
と首を傾げた。
マンションのエレベーターの動く音がした。もう深夜三時を回っている。オバァは六芒星を完成させると「洗礼を受けざる者よ、この地を去れ」と唱えてドアの鍵《かぎ》を閉めた。それから息を殺してドアスコープを覗《のぞ》く。カツカツと大股《おおまた》で歩く男の靴音が聞こえる。それとサンダルを引きずるような女の足音だ。
「本当にここなのか。姐姐《ジエジエ》」
「あたしの情報網をもっと信頼してほしいね。哥哥」
背の高いネイヴィーカットの金髪の男はサングラスをかけている。女はムームー姿だ。二人がドアの前を通りすぎていく。
「六〇七号室などこの階にはないではないか。姐姐」
直線の廊下は部屋をひとつ飛ばして、六〇八号室から続いていた。女がもう一度全部のドアを確認している。
「そういえば、相手はシャーマンだったな」
「それがどうかしたのかい。哥哥」
男はしばし沈黙を保った。
「無駄だ。先に結界を張られている」
「出直すのかい」
「顔を見られたようだ。次はエレベーターホールに結界を張るだろう。もうこの階には来られないはずだ」
すべてを理解した男は踵《きびす》を返すと再び靴音をたてて消えていった。オバァの心臓は爆発しそうだった。何度この鼓動が廊下に伝わるかと恐れたか知れない。
「ウットゥルサヨー(こわーい)」
しばらくは駐車場で占いをするのはやめようと固く心に誓ったオバァだった。そして直感的にラジニが危ないことを知った。オバァはすぐにマハラジャ商店に電話をかけた。
マハラジャ商店の奥ではラジニがすやすやと眠りについている。蛇口から垂れる規則的な水滴の音が深い夜を刻んでいく。つけっぱなしのテレビが青白く明滅している。ラジニはコザに来て初めてパトナの夢を見ていた。どんなに見たくてもけっして見られなかった夢だ。部屋の電話が五回鳴って留守番電話に繋《つな》がった。
『ラジニ起きて。ラジニ早く出て。早く逃げて』
電話の声よりも夢が一番だ。とたんに夢のコントラストが強まった。
街が赤い霧で覆われる春のホーリー祭の日である。ラジニの母クマリは赤い粉や水で人々を祝福する賑《にぎ》わいが好きだった。女たちはこの日ばかりは衣服が染まるので、同系色か、古着のサリーを身にまとうのだが、クマリは一番上等な黄色のサリーを着た。そして赤く染みついたサリーを見て「お祭りだから、上等なものを着るのが礼儀よ」と事もなげに言った。ラジニの家庭はどん底の貧乏だったのに、母クマリはいつでも誇り高く生きるようにラジニにその背中を見せていた。ホーリー祭の後、母が汚れたサリーを着ていても、毎日があの日の賑やかさを伝えているようで、ラジニはそのままの恰好でいてくれるのが好きだった。母クマリはそんな高潔な精神を一度も崩すことのないまま、簡単な病気で死んだ。
「……ラジニ……カアサン……スキダッタ……」
どういうわけだろう。今夜の夢はいつになく鮮やかだ。パトナの街が民衆で溢れ、ヒンドゥーの芸術の女神サラスヴァティーが音曲を奏《かな》でている。空にはヤントラが出現していた。ラジニは民衆に押されながら祭りに興奮していた。熱狂は音曲と混ざり、さらに練られて偉大なヤントラの一部となる。
裏口がガタンと開く音がした。ラジニが目覚めると、二つの影が戸口に立っていた。
「ナンデスカ チョット マッテネ」
寝惚《ねぼ》けているのだろうか、頭の中に誰かいるような気がする。さっきから自分に何かをしきりに訴えてくる。戸惑っていると、侵入者が電気のスイッチを入れた。背の高い白人男性と小柄な東洋の女性だった。
「マハラジャ商店の店主、ラジニはおまえだな」
ラジニは首の力を抜いてカクンと頷《うなず》く。男はサングラスをかけていた。
「最近、この店に日系人の男が来たはずだ。そいつが誰を探していたか思い出せ」
ラジニはこの男がどこか異質な雰囲気を放っているのを見てとった。こういう種類の雰囲気は、道を踏み外した苦行僧のサドゥーなどに、たまに見かけたことがあった。母クマリはそんな彼らを、ヒンドゥーの異端としてひどく嫌っていた。きっと男は何らかの理から外れている人間だろう。
「ラジニ シラナイ」
「知らないはずはないだろう。哥哥《クークー》」
「では、こうすれば思い出せるかな」
男は警告もなしに、サイレンサー付の銃をラジニの脚に向けて撃った。ラジニの悲鳴があがる。たちまちホーリー祭の中心部にいたときの赤に服が染まる。
「ラジニ、シラナイ……」
(ここで死んでは儂《わし》まで消滅してしまうんぢゃ。他に器になるものはないのか)[#「(ここで死んでは儂《わし》まで消滅してしまうんぢゃ。他に器になるものはないのか)」はゴシック体]
ラジニの精神に居座っている友庵が、さっきから逃げるように訴えている。
「ではこれで思い出せ」
また軽い空気の音がする。ラジニの腕が血を噴いた。どうせ教えても殺されることを知ったラジニから、強い力が湧き上がった。
「ラジニ オマエタチ コワクナイ」
「さっさと教えるんだ。哥哥。この人すごく気が短いから」
パキッと骨の折れる音がした。弾丸はラジニの足の甲を貫いていた。ラジニは歯をくいしばってこれに耐えた。
「ラジニ ダイジョウブ。ラジニ マケナイ……」
今度の弾丸は肩を撃ち抜いてきた。ラジニはソファから転げ落ちて床に這《は》った。
「早く言いなさい。強情なインド人だね。嫌われるよ」
ラジニは脂汗を流しながら、目でこっちへこいと促した。男が膝《ひざ》をついてラジニの顎《あご》を掴《つか》んだ。恐怖で震えているわけではない。身体が死期の近いことを告げているのだ。これを恐怖と受け取られることは許しがたい屈辱だった。母クマリの言葉が蘇《よみがえ》る。誇りを失った人間は、ヒンドゥーの世界から永遠に辱められると。今のカーストが低くても、次の命でラジニは一番高いカーストが約束されていると。どんなに惨めでも自分の名前を呼び続ければ力が湧いてくると。母の声がする。
『ラジニ負けてはいけない』
「ラジニ……ラジニ……ラジニ」
男はラジニの目を見て、これは簡単には落とせない人間だとやっと気がついた。この誇り高き男にはどんな脅迫もきかないだろう。この状況下でもまるで思考を読ませない。完全に独立した精神の持ち主である証拠だ。男はラジニに賞賛を浴びせた。
「なんと素晴らしい意志だ。私はきっと後悔するぞ」
なのに男は銃口をラジニの顎に押し当てる。
ラジニは身体に力を漲《みなぎ》らせた。悲しくもないのになぜか涙がどくどくと溢《あふ》れて来る。涙が口に入るとそれが聖なるガンジスの香りを放った。ガンジスは彼の中にいつでも流れていたのだ。彼は聖なるガンジスに清められて、人生で一番の勇気を得た。
「ラジニ シヲ オソレナイ!」
ニヤリと笑おうとしたが、もう表情を作るほどの力はなくなっていた。
「では死ね」
(ラジニ。もうやめるんぢゃ。ああ、せめてあの歓喜天の中に入れれば……)[#「(ラジニ。もうやめるんぢゃ。ああ、せめてあの歓喜天の中に入れれば……)」はゴシック体]
「ガネーシャ……。ラジニノ……ガネーシャ……」
さっきから頭の中に響いていた声は、いつも店を守護してくれているガネーシャだと思った。チラリとガネーシャ像を見る。象の頭をやや傾けて、ラジニを見つめていた。ガネーシャだけでも護らなければヒンドゥー教徒として死ねなかった。
男がラジニの額に照準を合わせてくる。引き金をひくまでに一秒もなかっただろう。しかしラジニは多くの事柄に感謝を告げた。母クマリが与えてくれた誇り。いつもパトナに流れていた聖なるガンジス。空を流れていく太陽の河。自分はもうすぐあの中に入れると思えば、少しも怖くない。それどころか、朝日が昇ってくるこの時間に、自分の死が迎えられることをヒンドゥーの神々に感謝してやまなかった。
彼は残っているすべての力を喉《のど》に集めて叫んだ。母が教えてくれた、彼が知っている唯一のサンスクリット語だ。
「シュリーッ・ガネーシャーッ・ヤッ・ナマハーッ!(尊きガネーシャ天に帰依《きえ》する)」
とたんに友庵がラジニの身体から離れ、夜警をしていたガネーシャ像に飛ばされた。ガネーシャ像がガタンと揺れた。何かすごい力が頭から抜け出たことを知ると、ラジニはすっかり安心して、弾丸を迎えた。銃声を聞く前にラジニの息は途絶えていた。瞬間、朝日がコザの街を照らす。ゆっくりとゆっくりと、だんだん力強く輝きを増して雲を貫く光のビームがコザに注がれる。最高に目映《まばゆ》い朝日だった。ラジニの魂は、やはりエネルギーの源へと向かっていた。とびきり鮮やかな黄色のサリーを着た母クマリが現れ、彼の勇気を褒《ほ》めてくれた。
『さすがは我が息子。ラジニよ、おまえは真のヒンドゥー教徒だ』
ラジニは少し照れながら、母の胸に抱かれた。そしてあの魂のたゆたう空のガンジスへと昇っていった。数時間後、ラジニの魂はインドに差しかかった。遥《はる》か高空から見下ろすガンジスを手中に収めていた。
友庵はガネーシャ像の中からこの光景を眺めていた。石像だから涙で送れないことをずっと詫《わ》びて詫びて、友庵は大声で泣いていた。
(ラジニすまない。儂《わし》がついていながらこんなことに。最高に価値のある魂だったのに)[#「(ラジニすまない。儂《わし》がついていながらこんなことに。最高に価値のある魂だったのに)」はゴシック体]
無残なラジニの亡骸《なきがら》の前に立った東洋の女が呟《つぶや》いた。
「つまらないインド人だね。こんなことで命を落とすなんて。哥哥」
男は何も答えなかった。
ユタのオバァがマハラジャ商店にやってきたとき、ラジニはガネーシャ像の足元で死んでいた。オバァは自分の能力がもっと早くにラジニの危険を察知できれば、こんなことにはならなかったのに、と泣いた。
マハラジャ商店のシャッターが開くことは二度となかった。心優しきコザの同胞が、店番のガネーシャの背を向けて置き直した。マハラジャ商店はしばらくの間そのままだったが、やがて人手に渡りタイ料理屋になった。
ガネーシャはユタのオバァが引き取った。そして、今日も駐車場でガネーシャを従えたオバァが、大地を抉《えぐ》る日差しの中でタロットカードを刻んでいる。
「うーん。腕が冴《さ》えてきたねぇ。ガネーシャちゃんのおかげかねぇ」
オバァが何気なく空を見上げると、太陽が連なって見えた。
[#改ページ]
Lequios
「ねえ、デニス。マハラジャ商店のラジニさんを殺した犯人が捕まったよ」
「え。ラジニを殺した犯人が?」
「今テレビでやってるよ。みんなその話でもちきり」
デニスの家にやってきた理恵は、飛びこむなりテレビのスイッチを入れた。沖縄市警察署の前でレポーターが同じ内容を繰り返している。犯人は無職の沖縄の男だった。
「なんかショックだったよね。あたしラジニ好きだったもの」
「ラジニさんにお酒をあんなに呑ませて、ゲロ吐かせたくせに何言ってるのよ」
「あれは、その、アクシデントよ」
ラジニが殺されたと聞いたとき、デニスの驚きようといったらなかった。守護霊が妙な事件だと言っていた。友庵が憑《つ》いている人間は、彼が護っているからそんな事件に巻きこまれるはずがないそうだ。友庵は人を選んで憑依《ひようい》する。彼が守護霊となれば、未来|永劫《えいごう》に亘《わた》って苦しみや悲しみから解放されるという。それでもラジニは残忍極まりない殺され方をした。コザの街の闇は滅多に表に顕《あらわ》れることはない。あの中では闇のバランスみたいなものがあって、それで破綻《はたん》を避けている節がある。勘のいい者は、この事件に何か不自然なものを感じたはずだ。
「日本人が犯人だなんて意外だね。あたしはてっきり……」
理恵は口を噤《つぐ》んだ。
「いいのよ。あたしだってアメリカ兵がやったんじゃないかって、一瞬思ったもの」
デニスはこんな偏見に以前は抗議したものだが、最近はむしろ理恵の心境に近い感想を持つようになった。フェンスを飛び出してから、物の見方が逆転してきた。それを彼女が一番強く戸惑っている。自分が一体どこの味方なのかわからなくなる。
「自首してきたって言うけどさあ、なんでラジニさんを殺したんだろう」
「強盗殺人ってサイレンサー使うかな、普通。犯人がアップセットして何発も撃ったかもしれないけど、致命傷は額の弾でしょう。あたしキャンプ・マクトリアスにいたとき、家にガンがあったけど、あれって難しいんだよ」
「デニス、銃を撃ったことあるんだ」
デニスが悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「けっこうハマってたのよ」
素質があったのか、デニスはすぐに射撃のコツを掴《つか》んだ。曲撃ちを身につけて調子に乗っていたら、母の恋人のマイロンに見つかって、失神寸前まで殴られた。なぜかデニスはそれをマイロンとの一番の思い出として浮かべる。マイロンもきっとそうだろう。その後マイロンはデニスを射撃クラブに入れた。銃を撃ったことがいけないのではない、とマイロンは言った。正しく銃を使いこなせる知識と技術が必要なのだと言う。デニスはクラブでライフルを好んだ。持ち前の視力でチャンピオンになるまでには、一カ月もかからなかった。
「やっぱ、アメリカ人は違うわ」
「いえーす。ワンネーアメリカーデービル(私はアメリカ人でございます)。でもさ、この犯人どこで射撃を習ったんだろう。日本人ってガン持たないもんね」
「習わなくても撃つことはできるんじゃない」
この微妙な感覚をどう理恵に伝えればわかってもらえるのか、デニスは額に手を当てながら、言葉を選んだ。銃はトリガーを引けばいいというものではない。ヤクザが乱射するのとはわけが違う。標的に当てるためには、基礎訓練が絶対に必要なのだ。マイロンはこれをデニスにたたきこんだ。
「ラジニを撃った人って、かなりトレーニングされた人だと思うのよ。素人ならボディを狙うはずよ。でも犯人はボディに一発も撃っていないの。腕とか足の甲とか肩とか、みんな狙いにくいわね。しかも五発とも全部命中させているわ。まるでプロの殺し屋みたい。それにこれってマリンの処刑に似ている……。あ、でも犯人捕まったし、ま、いいか」
「やめようデニス。なんか怖くなってきた」
夏休みに入ってすぐのニュースがマハラジャ商店での殺人事件だった。デニスたちは現場に行って花を供えてきた。あのときは興奮していたが、その後ふと気がついた。友庵はどこに行ったのだろう。デニスに勝手に居座っているチルーが、悔しがっていた。チルーはすっかりレキオスのことを忘れて、また友庵への恨みを募らせていた。
そういえばチルーに取り憑かれてから、悪夢にうなされていた夜が、怖くなくなってきた。どんな夢を見ていたのか朝になっても思い出せない。寝汗が減っているからだろうか、いつも頭を悩ませる汗がシーツに控え目についているだけだった。だからといって感謝しているわけではない。単にオカルトが夜から昼に移行しただけである。この女のせいで再試験を受け、夏休みが他人《ひと》より一週間も遅れたのだ。
「アメリカに遊びに行くんでしょう?」
デニスはどうするのかまだ決めていなかった。スザンナには行くと言ってあるのだが、行ってどうするのだろう。マイロンとスザンナには二人の子供がいる。その幸せを共有すればスザンナは喜ぶだろう。それはわかっているけれど、デニスはそんなに分別をつけるのも居心地が悪い。かと言って「マイファミリー」と言ってはしゃぐには大人すぎて恰好《かつこう》がつかない。別に誰のせいでもないのだが、いっそ怒ることができれば、彼女は自分が何を考えているのかはっきりするだろうと思った。もちろん怒るためには対象が必要である。その対象はいまだに謎だから、怒りは封印されたままだ。
「Maybe,行くかもしれないし、行かないかもしれない」
Why not?
「理恵、あんたいい発音してるわね」
デニスは日本語で考えていると、なかなか考えがまとまらないことを好ましく思っている。それにデニスは緩衝語としてウチナーグチを使うことも忘れない。無責任に判断を保留するには沖縄言葉が世界最強の言語である。
「テーゲーサー(なるようになるわよ)」
この言葉には当事者意識が完全に欠落しているから、誰がしゃべっているのかわけがわからない。潜在的に好転する希望すら含まれていないのだ。
「ほんとにあんたウチナンチュー(沖縄人)みたいだよ」
「さんきゅー」
おちゃらけて、ドレッドヘアを飾ったビーズを手でかきあげて鳴らした。風に吹かれたプラスチック玉の暖簾《のれん》のように、軽い音が湿気た空気をかきまぜた。
「やっぱりその髪の方がデニスらしくていいよ」
「今月のパーマ代がなかっただけなの」
そう言ってまた髪をかきあげた。チルーに身体を乗っ取られるたびに、ストレートパーマをかけるなんて割りに合わない。初めは厭《いや》だった縮れ髪も、日が経つごとにビーズが増えていき、今では装飾過剰なほどの極彩色のビーズで覆われている。歩くたびにカシャ、カシャ、と音が鳴る頭は、不思議と彼女を心地好くさせた。突風にも靡《なび》かなかったストレートパーマの時より、遥かに風を感じることができる。
「ところで理恵、もってきた?」
「うん。でも恥ずかしいよ」
「あたしそれってよくわからない」
デニスが要求しているのは、理恵の家族のアルバムである。デニスの家は普通の団地だが、居間には無数の写真が飾られている。スザンナとマイロンの結婚記念写真や、デニスが幼い頃の写真が、壁や飾り棚にびっしりと並んでいた。お気に入りのやつはブロマイドにしている。
「これがキャンプ・コートニーのビーチね。すごく奇麗な場所だったの」
「これがスザンナで隣がマイロン」
「あ。これがプライマリースクールの時かな」
理恵がじっと眺めて、やっとアルバムを開いてくれた。
「笑わないでよ、デニス」
How come you said so?
デニスが見る限り、笑えるような写真は一枚もなかった。少し色の褪《あ》せた普通の家族写真ばかりである。今の理恵は幼い頃の面影を存分に残していた。
「あの。これが、お父さんとお母さん」
「理恵はお父さん似なんだ」
カーッと顔を赤らめて理恵は黙っている。デニスは父がはっきりしていることの何が恥ずかしいのかわからなかった。父が不明の方がよっぽど恥ずかしい。お返しにまたキャビネを取り出した。
「これが、庭で水遊びをしているとき。六歳だったわ」
デニスの中ではナンバーワンの写真だった。ホースを抱えたデニスが水流をスプリンクラーにぶつけて水圧勝負をしている様子だ。水しぶきが画面全体に飛び散り、スザンナが笑顔で水を避けている。沖縄の夏の日差しが無数に反射しているお気に入りの一枚だった。理恵は一瞬笑う準備をしていたが、すぐに黙った。
「どうかしたの」
「あたし六歳のとき覚えている。沖縄が異常渇水の年だったわ。水がなくて三日に一回、お昼の三時間しか水道が使えなかったときよ。おばあちゃんが熱をだして、お母さんが車でリゾートホテルまで行って水を盗んできたの」
デニスは理恵が何を言っているのかわからなかった。
「水なんてどこにでもあったわよ」
「それは軍だからよ。軍はダムの水を最優先で使えるようになっているのよ。あたしたちがトイレの水も使えないのに、軍は水をじゃぶじゃぶ使っていたわ。恩納村《おんなそん》までタンクを抱えて行ったとき、嘉手納ベースでは輸送機を何機も洗っていたのを見たもん」
「そんな……」
「デニスたちは特別扱いなのよ。こんなふうに水遊びをしているとき、あたしたちは紙皿で夕飯を食べていたのよ。お風呂《ふろ》にも入れなかったんだから」
沖縄の米軍は最優先に公共施設を使用することができる。電気もガスも水道も、嘉手納基地が存続するためにはあらゆるものを犠牲にしてよいことになっている。要塞《ようさい》化した基地はたとえアメリカ本土が焦土と化しても、数年間は最前線出撃を続けられるように弾薬、工場、エネルギー施設を完備している。嘉手納基地は単なるアジアの地方基地ではない。単独でもその威力を発揮し、周辺諸国の軍隊を凌《しの》ぐ火力と世界中に派兵できる十分な機動力をもっている。そして嘉手納の絶妙な地理的条件が加味されると意味は一段と重くなる。中距離ミサイルで北京、上海、香港、平壌、ソウル、東京、台北、マニラ、までを射程圏内に収めることができる。東アジアの中心にちょうど嘉手納基地があるのだ。米軍がフィリピンのクラーク基地は放棄しても、嘉手納基地を手放さないのは、この理由からである。基地が沖縄にあるというのではなく、沖縄は島ごと要塞でありその中枢部に嘉手納が位置し、まわりに人も住んでいる、というのが米軍の認識である。
「あれからおばあちゃん、衰弱しちゃって。本当にただの脱水症状なのに、うんと病気が重くなって、病院にも水がなくて……」
「それはアクシデントなのよ。軍が天気をコントロールしているわけじゃないわ」
「わかってる。でも、水は本当はあったのよ。おばあちゃんを百回以上冷やせるだけの水は、ベースの中にあったのよ。軍がなければ水が使えたのよ」
「やめて。ベースはそんな簡単な問題じゃないわ。もっと大きなヴィジョンで考えなければいけないわ。ベースは必要なのよ。沖縄に米軍がいるだけで、アジアは戦争をしなくてすむわ。これは事実よ」いつか言った台詞《せりふ》だった。
理恵は興奮して声の調子を落とした。
「朝鮮戦争とベトナム戦争と湾岸戦争は沖縄から出撃したのよ」
どこかで聞いた話だ。
「あれは仕方なかったのよ」
「それって日本語で『詭弁《きべん》』って言うんだよ」
「知ってるわよ。馬鹿にしないで」
「デニスはベースがあった方がいいのね?」
この質問にデニスは押されて、言葉に詰まった。
「ベースは必要よ。あの中には家族がいるのよ」
「ベースの外にだって家族がいるわ。百三十万人ね。ベースは六万人でしょう」
デニスはカッとなった。
「あたし沖縄人の被害者意識って大っ嫌い。ウジウジしてメソメソして、弱い立場なら何を言っても正論だと思ってるんでしょう? それに味をしめて、いつまでたっても親に餌を運んでもらう飛べない鳥みたい」
「武器で人を脅して正論を言う権利まで奪うの」
「沖縄の正論なんて酒場のオヤジみたいなものよ。誰も反論できないことを承知でやってるんでしょう。正しい醜態って言うのよ」
「デニス、あんた語るに落ちた。フェンスの中に帰りな」
「理恵に言われる筋合いじゃないわ。あたしは外に出たかったのよ。米軍はベースを返還しているでしょう。ハンビー飛行場だって、読谷《よみたん》補助飛行場だって、あたしの家だって返されたわ。何が不満なのよ。普天間ベースだって返ってくるじゃない」
理恵もまた言葉に圧倒されて、呼吸を止めてしまっていた。
「返還したらみんな幸せになると思わないで。泣きたくても泣けない人だっているのよ」
「わけがわからないわ。泣けないくらいなら泣かない方がいいわ」
「それでも泣きたいのよ。怖いのよ」
「なんで? 理恵はベースがない方がいいって言ったじゃない」
「そんな簡単な問題じゃないわ。痛みを伴うのはいつもあたしたちよ。軍は姑息《こそく》だわ。嘉手納ベースを返還できないくせに。普天間だけ戻すなんて卑怯《ひきよう》よ」
「だって返ってくるって喜んでたじゃない」
「嘘よ。そんなに喜んでないわ」
「理恵、あんたコウモリじゃないの? 普天間を返すなってこと?」
「デニスこそコウモリじゃない。一体|何人《なにじん》なのよ。アメリカ人? 日本人?」
とっさに頭の中にイメージしたのが、両親の姿とアメレジアンという言葉だった。スザンナが鳥類なら父は哺乳《ほにゆう》類か。そしてその間に生まれたデニスは蝙蝠《こうもり》。調子がよくて、右顧左眄《うこさべん》するために羽と乳があるような惨めな生き物だ。今自分は鳥なのだろうか。鳥の仲間に違うと言われている気がする。それなら哺乳類なのだろうか。フェンスを飛び出さなければ哺乳類の仲間だったかもしれない。しかし彼女は中にとどまれなかった。
理恵もまたイメージした。一方で莫大な借地料を得ながら、対外的には被害者のそぶりをする。彼女の家は軍用地主の中でもかなり裕福な方だ。兄は私立の医大に進み、寄附金だって毎年高額を納めている。なのに周囲を見渡して「いやですねー、基地はー」と天気の挨拶《あいさつ》みたいに調子よくふるまっている。それが沖縄で通用するから癖になってしまった。正論を言えばみんなが拍手喝采してくれるとどこかで信じているし、正論しか要求されていない気がする。だから老若男女みんな揃って同じ言葉だ。しかし理恵が本当に信じたいのは、自分の未来だけだ。
ふたりは同時に叫んだ。
「あたしはコウモリなんかじゃない」また同時に反論する。
「じゃあどっち?」
「やめなさい二人ともっ!」
息を荒らげている二人に割って入ったのは祖母の良枝だった。そしてデニスの頬をパンと叩《たた》き、続けて理恵の頭をゴツンと殴った。
「あんたたちは、フラー(馬鹿)か。デニス。あんたいつから軍の人間になったんだい。まるで復帰前の高等弁務官みたいじゃないか。理恵さん。あんたいつから沖縄の知事になったんだい。あたしはあんたを沖縄の代表に選んだ覚えはないよ」
良枝に睨《にら》まれて、二人はたじろいだ。すると急に体温が平常に戻っていくのを感じた。デニスの赤い汗が止まった。理恵の頬が白く戻った。
「どうしても続けたければ、デニス、軍に入って司令官になりなさい。理恵さんも知事になりなさい。この話は政治の力でしか解決しないんだよ。勝負はいったんおあずけ。あたしが見届けるからがんばって出世しなさいよ。でも、あんたたちが偉くなるまでは」
一息ついたのを確認すると、良枝は二人の手を繋《つな》がせて、
「ただの友達でいいんじゃないのお」
と笑った。その言葉の抑揚が最高におかしくて、二人は助けられた安堵《あんど》とともに何度も何度も小さな笑いを生んだ。あと一回笑ったら、これで終わりにしようと思っていても、おかしくてまた手を握る。恥ずかしくて恥ずかしくて、また手を握った。
「理恵、もう放してよ」
「デニスこそ、馬鹿力なんだから」
「はい、こんなとき若者はビーチに行く。さあ、出てった、出てった。夜まで帰ってくるんじゃないよ」
理恵がヘルメットをとる。そして二人で顔を見合わせて、
「330号線はやめよう」
と念を押した。恩納村のリゾートビーチまで、一番早くてなんにもない沖縄自動車道を目指した。亜熱帯の山を通り抜ける道路には、煩わしいものは何もなかった。ただただ緑の深い平和な道だった。空には嘉手納へ向かうF15が見えていたが、空の爆音もバイクの音にはかなわなかったし、あまりにも高度がありすぎてバイザーにすら映らなかった。
すっかり影の薄くなった守護霊がおずおずと聞いてくる。
(司令官になるのか)[#「(司令官になるのか)」はゴシック体]
「ならないわよ」
(試験は任せておけ)[#「(試験は任せておけ)」はゴシック体]
「なれないわよ」
視界は一直線の滑走路だ。
「デニス。時速二〇〇キロまでぶっとばせ」
Okay. Here we go
アクセルを噴いた爆音が二人の言葉を三百メートル後ろに置いていった。
「うーん。今日も元気だF15イーグル。俺も早く地上勤務を終えたいな」
ヤマグチ少尉が欠伸《あくび》をしながら空を見上げた。今、滑走路に戦闘機が舞い降りた。軍服を着たとき、ちょっとだけ嬉《うれ》しかったのに、今では空に焦がれている。フライト・ジャケットをロッカーに入れたまま何カ月が過ぎただろうか。パイロットスーツを脱いだ空軍士官なんて飛べない男にすぎない。ネリス組の将校たちは、そんなヤマグチの気持ちを知ってか、パイロットに戻れるように手配してくれると言う。それも、最新鋭のステルス戦闘機F22ラプターのテストパイロットにならないかと誘ってきた。
──早くネリスに行きたいよ。
パイロットはどんなエリートコースが約束されても、飛行機の魅力のためなら平気でコースを外れる人種である。ヤマグチもそんな例に漏れず、再びパイロットを目指すつもりだ。超音速巡航で空を駆けるなんて、夢のようだ。アフターバーナーですぐに燃料切れになるF15なんて目ではない。夢を描いてスキップしていると、仲のいい航空整備士のクリスが肩を叩いた。
「少尉。今日ラプターが見られますよ。夜間に着陸してきます」
「ええっ。クリスほんと? 俺、絶対に見る。ぜったーい。さすがカデナだな。もうラプターを配備するのか」
「EMD(技術製造開発)5号機ですよ、少尉。F22ラプターの制式配備は二〇〇二年にネリス、運用は二〇〇五年からですが、カデナへは性能テストを兼ねてエドワーズ空軍基地から飛んできます。夜間迷彩していますしステルスなので、わからないはずですよ。少尉、僕、ラプターのチーフメカニックに選ばれたんです」
「クリスやったじゃないか」
クリスは真新しい整備マニュアルを掲げた。まるで幼い子供が満点を貰《もら》った答案を親に見せているようである。
「僕、ラプター命っスから。少尉も早く乗れるといいですね」
「そうだな」
そう言ってヤマグチはどこか寂しさを覚えた。
「第22特殊格納庫に十時に搬入予定です。そこでなら」
クリスも飛行機いじりのためなら、中東だろうが極東だろうがどこにでも行くメカニックだ。毎日毎日油にまみれて、爪に黒く沈着してもまだ手を止めない。自分の眼鏡に傷がついているのに一年経っても買い換えない。クリスは給料の十倍以上は働くメカニックの鑑《かがみ》だ。そんな彼をヤマグチは羨《うらや》ましく思う。格納庫まで一緒に歩くと、クリスの目の色が変わった。
「少尉。このミサイル、光子魚雷に似ていると思いませんか」
「ああ、スター・トレックのね。似てる似てる。俺カーク提督大好き」
「ジョージ・タケイのスールーじゃないんですか」
「もちろん彼は俺たち日系人の誇りだよ。でも俺はカーク提督が好きなの」
「少尉、古いですよ。僕は新シリーズのジョーディー機関士ですね」
クリスは得意気に通販で手に入れたジョーディーのバイザーをかけた。
「これ。コレクターズアイテムなんですよ。全米限定二百個。シリアルナンバー入りです。ほら」
「いいなあ」
「だけど、エンタープライズ号が海軍のものってのが癪《しやく》に障りますよね」
「ジョーディー、ワープ1だ」
「了解、ピカード艦長。ワープ1」
「失礼なジョーディー。私はカーク提督だ」
「だから古いんですってば。少尉はまだお若いじゃないですか」
基地内にはスター・ウォーズ派も根強く存在する。なんでもF/A18ホーネットは同盟軍のXウイング戦闘機が閉じた形態にそっくりだそうだ。演習中にアクティヴ・フェーズド・アレイ・レーダー装置を切らせて、「ルークよ、フォースを使え」と通信してきた馬鹿な管制官が訓告されたり、「ヨーダに会いに行く」と言い残し演習空域から消息を絶ったパイロットもいる。ハリウッドSF世代がちょうど空軍の中核に達している。フェンスの中は最新の武器を備えた、少年たちのおもちゃ箱である。これが外で物議をかもしているとは夢にも思わず、今日も無邪気に遊んでいる。
「さて、キャラダイン中佐のやつに取りかかるか……」
ヤマグチはこの頃、自分が何のために働いているのかわからなくなる。ただの中佐の駒にすぎないのではないだろうか。それも玉砕して布陣を乱すだけの捨て駒かもしれない。そんな思いが日増しに強くなっていく。クリスみたいに現場が楽しくて楽しくて仕方がないタイプだったら、こんなことに巻きこまれることもなかったかもしれないと思う。ヤマグチは官僚的な手続きやドキュメント作成も得意である。両方できると羨ましいと思われるが、そうでもないのだ。
──俺って結局コウモリなんじゃないか。
クリスたちからエリートだと一目《いちもく》置かれる一方で、エリートの花形であるNORADを蹴《け》った。彼はクリスのような天真|爛漫《らんまん》な男を知らない。自分もきっとそのような人生を送りたいとヤマグチは願っている。だがネリスに行く前に、彼にはやるべき仕事が残っている。
オフィスに入ると、誰もいないのを確かめて、キャラダインから預かったディスクをセットした。パスワードを入力する前にいろいろ考える。これをどうすれば、コピーできるのか。もし間違えば、カデナのシステムに甚大な被害がでるに違いない。そうなれば軍法会議どころか、国家反逆罪で国賊扱いは避けられないだろう。ここのシステムはペンタゴンのクレイUとも結ばれている。
〔Die Zauberfloete〕
システムが走り出した。三次元の等高線で描かれた地形は、沖縄本島南部のものだ。カデナ戦略システム開発部のそれとCGが酷似していた。ある箇所で赤い点滅が繰り返されていた。その南西には天久のペンタグラムが描かれている。
「場所からいったら那覇の郊外か。ちょっと待てよ。ここはまさか……」
クリックすると真紅の唐破風の首里城正殿が現れた。ヤマグチは計画を読みながら、途中から声をだしていた。声色が次第に震えてくる。要綱のタイトルには実に簡単に、こう書かれていた。
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「プロジェクト L」
極秘任務 首里城爆破オペレーション
[#ここで字下げ終わり]
「TNTで首里城を……。こんなことをしたら日米問題に発展する。中佐は一体、何を考えているんだ」
ヤマグチの息が上がっていた。これが中佐の言っていたもうひとつの「プロジェクト L」なのか。首里城は一九九二年に復元された沖縄の象徴である。かつての太平洋戦争で日本軍の総司令部が置かれ、アメリカ軍によって完膚なきまでに叩《たた》かれて、吹き飛ばされた城だ。それをもう一度、アメリカ軍の手によって叩くという。
「俺はとんでもない陰謀に巻き込まれてしまった」
これが極東の平和を衛《まも》るアメリカ軍人の手によるものだと発覚すれば、いや発覚しなくても手を下した自分はテロリストである。アメリカのもっとも嫌うテロを、軍人が行うことは絶対にできない。ネリスに栄転どころか、空軍の恥になってしまうだろう。
「やめるんだ、ブライアン。これはテロだ。ただのテロだ」
すぐにディスクを取り出した。これを見なかったことにして降りれば、キャラダインも諦《あきら》めてくれるかもしれない。突如オフィスの電話が鳴った。ビクッと反応して取ると、中佐からだった。
「計画を降りることは許さない。ディスクは後日返却してもらう。作戦を頭に入れておけ」
電話は一方的に切られた。すぐに逆探知させてみる。しかし国際電話だということ以外は何もわからなかった。
「中佐はどこにいるんだ」
この計画を実行させるわけにはいかない。中佐が沖縄にいない間に、阻止するべきだとヤマグチは思った。幸いこの要綱の作戦日程にはまだ余裕があった。今から動けば間に合う。「プロジェクト L」が実はただのテロだったことを上層部に認めさせるためには、これのコピーが必要だ。まず仕組まれたウイルスをなんとかしなければならない。
「ただのワクチンじゃ駄目だろうな」
嫌疑が自分にかかる可能性だってある。部内の上司は、彼を「プロジェクト L」の中心人物だと信じている。他のメンバーだってそうだ。レキオスのことを知りたくて首を突っ込んだのがいけなかった。この作戦は謎を深めるばかりで、彼の想像をはるかに超えていた。人類学者が目の色を変えて研究する対象、レキオスとは一体なんなのだろうか。オルレンショー博士は、どれくらい真相を掴《つか》んでいるのだろうか。ヤマグチは一度、博士に尋ねてみる必要があると思った。そのためにもディスクのコピーが必要である。
「そうだ。ジョーディー、いやクリスならできるかも」
クリスは米空軍工科大で、二十年にひとりの逸材と呼ばれた男だ。工学のことはもちろん、システムエンジニアとしても優秀である。
「中佐を出し抜いてみせるぞ」
東シナ海を望む恩納村《おんなそん》のリゾートホテル群は、その幾千にも変化する珊瑚礁《さんごしよう》の輝きに合わせて、各々の贅《ぜい》をつくした建物で観光客を魅了している。あまりにも平和で穏やかすぎるために、ホテルに着くまで何十もの軍事施設を通りすぎてきたことさえ忘れさせてしまう。国道58号線は、戦争と平和が交錯しながら椰子《やし》並木で織られていく。
デニスたちはムーンビーチに到着していた。
「あたし日焼け止めクリームを買ってこなきゃ」
着いたとたん、大地から日差しが照射されているかのような光の重圧に目を細めた。人出も大したものだが、それよりも光を押して進まなければならない。ビーチは夏の舞台だ。無数のフラッシュで狙われたようにカッと浜が眩《まぶ》しく広がる。続けて潮騒《しおざい》の拍手が突風となって現れたデニスたちを押し戻す。デニスは強引に割って入り、腰に手をあてる。森を砕いたエメラルドの海と、子供が描いた海の絵のように真っ青な空が、彼女の迫力におののき水平線に逃げていく。そして中国大陸まで後退したかと思うと、つぎつぎと入道雲を投げつけてくる。
「オキナワはこうでなくっちゃね」
デニスは上から下まで夏に覆われたこの季節が好きだ。自らの夏色の肌を晒《さら》して、ビーチに第一歩を踏み入れたとき、漫然と散らばっていた視線がデニスを刺してきた。わずかに蛍光したタヒチアンブルーのビキニは、デニスの身体を充分に隠すことはできない。むしろ衝動買いしてしまった果実を入れた買物袋のように、ボリュームを強調している。男ひとりでも十分な荷物のビーチパラソルを、ドンゴロス感覚でひょいと肩に担ぐデニスの姿に、視線を甘く泳がせていたあたりの男たちが硬直した。
「グラビアの撮影かな」
「俺ファッション誌であの娘《こ》を見たことあるぜ」
「あの娘ミラノコレクションの常連モデルだぜ」
「道理でー」
周りの連れの女性たちは引き潮にあわせて血の気がひいた。デニスが数十メートル通りすぎるだけで、どれだけの言葉が生まれただろう。そんなことにお構いなく、ドスンとパラソルをひと突きで刺すと、サングラスに太陽を二つ映して転がった。
「デニスー。もう勝手なんだからー」
理恵も年相応な水着で現れた。砂浜はパウダーのように柔らかく、波うち際はほんのりと海水を吸って青く染まっている。目の前には誰の所有でもない海が広がっている。
「なんか不便ね。そんなにたくさん塗らなくてもいいじゃない」
「駄目よ。あたし肌が弱くてすぐに赤くなるんだから。デニスはいいな。夏に一番快適な肌を貰《もら》ったもんね」
「そこが問題なんだけどね」
デニスはオイルをさっと塗ったが、グロスの効果しか期待していない。母譲りのきめ細かな肌と緊張感のある色は、微妙な拮抗《きつこう》で美を演出している。あたりには米人家族やその友人らも転がっているが、デニスのそれにはかなわない。遠くで白人の女がトップレスになって胸を焼いていた。
「あたし、ああいうのってよくわからないわ」
「同じアメリカ人でも?」
「あたしはウチナンチュー(沖縄人)なの」
「そうだった。ごめん」
身体のわりには小さめだが、それでも日本人には充分な迫力のデニスのバストがゴロンと転がった。理恵はデニスを羨ましく思う。重力に逆らい、中心部から放射状にワイヤーフレームで支えているような褐色の胸は、それ自体で充分な芸術品だった。もちろんそれはヒップに関しても同様だ。理恵はこの血脈のありかを尋ねたかった。
「あのさ。怒らせたついでって言ったら変だけど、お父さんのこと聞いていい?」
「あたしあまり知らないから……」
そう言いながらも、なぜか彼女は饒舌《じようぜつ》にしゃべろうとする。
「父の名はダニエル・カニングハム。空軍のパイロットね。戦闘機乗りよ。あまり上等な教育を受けていないんじゃないかな。趣味は草競馬とNBA観戦」
「よくそんなことわかるわね」
「わかるわよ。そして酒|呑《の》みで、『♪オー スザンナ泣かないで』って歌ってばかり。グラスグリーンのバンド仲間ではギターね。ジャズをしたかったけど音痴だからやめたの。六人兄弟の末っ子で、自立するために軍に入隊したということになっているけど嘘。実家のトウモロコシ農場を手伝うのが嫌だったからよ」
デニスは自分の口から飛び出したこの話をすごく気に入った。理恵が半分|呆《あき》れているにもかかわらず、どんどん話を膨らませた。
「そしてベトナム戦争の終わり頃、カデナにやってきた。愛機はF4ファントムだけど、本当はスターファイターが好きなの。あと目がすごくいいわ。たぶんあたしよりも。撃墜したのは全部で四機。だけど仲間には七機と言って譲らないわ。コザの行き着けの店は『ハーフダイム』。お互いのブーツにビールを注いでそれを飲むの。そんな毎日。そしてある日、歌のヒロインと出会った……」
「それで?」
デニスが東洋的な微笑を浮かべた。どこか憂いを含んだそれは、ポチャンと零《こぼ》れ落ちないぎりぎりの表面張力が働いている。
「それでおしまい。王様はお妃《きさき》様と最高に可愛いお姫様を残してアメリカに帰りました。きっと王子様を残したと思っているでしょうね。めでたし、めでたし」
言い終わらないうちにデニスは立ち上がっていた。
「泳ごうか」
理恵の返事を待たずに腕をとる。そしてビキニと同じタヒチアンブルーの沖まで一気に泳いでいく。ザブンと潜ると、そこは真昼の宇宙だった。どこまでも透明で、水面の波だけが、方位を示している。そんな景色を素潜りで楽しむと、スピード感とは異なった安らぎを覚える。この海はデニスをいつも優しく受け入れてくれた。熱帯の魚たちは常に多様性を競っている。数の上ではどの種が優勢か、定められない。息を継ぐために海面に出なければならない不自由さをこの時ほど感じることはない。
小一時間ほど遊んだら、浜で再び眠った。すると何かのざわめきが聞こえてきた。人|喰《く》い鮫《ざめ》でも現れたかのようなパニックだった。
「デニス、あれ見て」
デニスはサングラス越しにとんでもないものを発見した。
「理恵、見ちゃダメ。無視よ無視」
「えー。だってなんか目が放せないもん」
「目を合わせたら石になるわよ」
ザッザッザと砂を蹴《け》って歩いてくるのはサマンサ・オルレンショーだった。両手をあげ、しゃなりしゃなりとビーチの舞台を上手《かみて》から下手《しもて》へ進行中である。小さめの黒縁眼鏡をかけ、パステルピンクのカーディガンを水着の上にかけている。だが問題はその下だ。浜辺にトップレスの美女がいれば、サマンサはボトムレス[#「ボトムレス」に傍点]なのだ。ノーパンは彼女のトレードマークだ。たちまち人が逃げていく。
「ハーイ デニス。ロングタイム ノースィー」
「デニスの友達なんだ」
「ちがうわよ。こんな変態女と誰が友達なもんですか」
サマンサは実に堂々とボトムレスである。ちょっとアンバーがかったヘアを逆三角形に整えれば、それがイヴの葉になる。これだけ恥がないと、周囲はむしろ自分の恰好《かつこう》の方が異常だと思うもので、パンツを穿《は》いている者が恰好悪く見えてくる。あれが流行なんだ、とただの馬鹿な流行おっかけはパンティに手をかけたほどだ。そう思わせるのがサマンサの手だ。
「このボトム[#「ボトム」に傍点]が。パンツくらい穿けよ」
「それってあたしのニックネーム? 最高。気に入ったわ。サンキュー、デニス」
サマンサは誰にでも同じ調子のゲリラ戦法だ。中途半端な変態は世の中から嫌われてしまう。しかしサマンサクラスの変態は世の中からもっと嫌われてしまう。
今日のコーディネートはサナトリウム文学少女風である。自慢のプラチナブロンドの髪をダサく七・三にペタリと分ける。カーディガンの脇に抱えているのはモラヴィアの『倦怠《けんたい》』だ。そして白いレースの靴下で砂浜を歩くときに流れるBGMは、サティの「三つのジムノペティ」だ。まるで一時代前のヨーロピアンポルノ映画のオープニングのようだ。
「あなたデニスのお友達? よろしく、サマンサよ。トップと呼んで」
図々《ずうずう》しく自分の愛称を変えてきた。
「あ、あ、あたし。マ、マイ、マイネーム イズ リエ オオシロ」
「あなたは私に会えて光栄です。なーんちゃって。日本語でもOKよ」
「デニス怖いよー」
「マブイ(魂)落とさないでね。この女と会ったら、みんな数日はヘンになるんだから」
サマンサは打ち解けた仲間のように二人の間に座った。
「こら。誰が遊んでやるって言ったのよ。このアメリカの恥さらし。あんたのせいでアメリカ国民のIQが平均で二〇は下がったわよ」
「あたしIQ一八〇あるから平気よ」
「羨《うらや》ましくねー。そんな知性」
頭がよすぎてサマンサは壊れたわけではない。知性の本質はエロスである。彼女は右足と左足の関係のように交互に使い分ける。
「ところでデニス。沖縄の野菜でゴーヤーってあるでしょう?」
「チャンプルーの作り方でも教えろって言うの」
サマンサはニヤリと笑う。
「あれでオナニーしたら最高だと思わない? くすくす」
「もう嫌だっ。この変態っ!」
この人間放射性物質を自然界に放置していてはいけない。しかし、こういう生々しい反応こそサマンサの餌であると気づき、少しは平静を装ってみた。
「あんた再生手術したって言ってたじゃない。なにがゴーヤーよ」
「だ・か・ら。おしりでアナニーするの。くすくす」
「いやああああっ」
「デニス逃げよう。なんかあたし気分悪くなってきた」
砂を蹴って二人が駆けていく。サマンサはこの逃げ態が滑稽《こつけい》で勝負をかけてくる。勝負されて勝ちたくもない相手だが、ついついサマンサのペースにみんなが陥ってしまうのはなぜだろう。
「さて、暇もつぶしたし、レキオスの研究でもしようかしら」
彼女は変態を装い世間の目を欺いている、と好意的に考えるのは大間違いである。ヤマグチ少尉はこの手に引っかかっているが、好きじゃなければここまでやれないだろう。部分を以てサマンサを語るべからず。表現形は両極にあるサマンサを分裂している女だと判断するのは早計だ。実はサマンサの脳は見事に統合されている。キーワードは「チセイ」だ。入力して漢字変換すると「知性」か「痴性」のいずれかにボタンひとつで変換される。どちらが出るかは賽《さい》の目しだいだ。つまり彼女の知性と痴性は不可分の関係にある。
「どっちか一方でも究められるものなら究めてみいっ!」
これは人類学者サマンサ・オルレンショー博士から、未来を担う子供たちへの熱いメッセージである。
ミリタリー仕様のノートパソコンがサマンサの助手だ。これなら世界中のどんな環境でもフィールドワークができる。さっそくクリックして、研究中のモデルグラフを表示させた。ダイヤモンドカット状の複雑な図形が現れる。頂点に「種《しゆ》」を、下に「個体」を置き、含まれるひとつひとつの事象を展開させている。抽出された種はわずかに三百種なのに、それでもコンピューターの力なくしては、このモデルはできない。手書きなら人生の半分を費やしてしまうだろう。
「トーテム操作媒体も限界があるわね。コンピューターを使ってもこの程度か。やっぱり個体のモデルを再構成して、濾過《ろか》しないと。多数性から単一性を、単一性から多数性を、同一性から多様性を、多様性から同一性を……」
またシステムを変えた。
「演繹《えんえき》的なアプローチよりも帰納法的に考えるべきね。もしかして……。これってカオス理論で解けるかもしれない」
学者として難しいことを考える前に、女としてパンツを穿くのが先ではないだろうか。しかしサマンサは集中し始めると、周囲が見えなくなるタイプだ。目の前に最高の夕焼けがあるにもかかわらず、猛烈なスピードでデータを入力していた。
夜の十時。嘉手納基地は異様な盛り上がりを見せていた。次世代の最新鋭戦闘機F22ラプターEMD5号機が滑走路に降り立ちタキシングしているのだ。特殊塗料で黒く塗装された機体は夜の一部と繋《つな》がっていた。機密扱いの機体はよく嘉手納に飛んでくる。コンクリートと合金で護られた格納庫には、初めて飛来したラプターを見ようと、階級、所属、関係なしに人が集まっていた。
「すごいすごーい。これがラプターか。よろしくな。チーフメカニックのクリスだよ」
大型輸送機も楽に格納できる巨大な空間に、新型戦闘機一機は広すぎるかと思っていたが、詰めかけた人数が手狭にしてしまっていた。クリスは脇に大量の書類を抱えて、エンジンが停止するまで待てない様子だ。クリスはすぐにでも機体に頬ずりしたかった。コックピットが開きテストパイロットが降りてきた。ヤマグチは颯爽《さつそう》とした彼の姿に将来の自分を重ねた。
「メカニックの方? 私はラプター5号機テストパイロットのアンダーソン大尉だ。本日付けでエドワーズ空軍基地からカデナベースに赴任した。よろしく頼む」
「大尉こちらこそ。精一杯がんばらせていただきます」
クリスが背筋を伸ばして敬礼する。その光景をヤマグチが見ていた。
「あ、少尉。やっぱりいらっしゃいましたか。ほら、本物のラプターですよ。本物」
「やっぱりすごいな。F15とは大違いだ」
「僕、競合するYF22のときから応援していたんです。だから採用が決まったときは祝杯をあげましたよ」
「俺はYF23のフォルムが斬新で好きだったけどな」
「何を言うんですか少尉。あれは確かにスーパークルーズは素晴らしかったですけど、運動性に問題があったんですよ。ドッグファイトは無理です」
「そうだな」
クリスは嬉々《きき》として、ラプターの下に潜った。凹凸《おうとつ》のない滑らかな表面は、有機的でさえある。レーダー波に反射しないように兵装はすべて機内搭載されている。スタイルが洗練されすぎてこれが実戦配備される機体には見えない。むしろ航空ショーで展示される概念試作機のような、デザイン優先の飛行機を見ている気分になる。クリスはマニュアルと本体を逐次照らし合わせて、全部が同じであることに感動している。子供でもこんなにはしゃぐことはないだろう。
「ところでクリス、いやジョーディー。ちょっと頼みたいことがあるんだが」
そう言ってヤマグチは鞄《かばん》の中に入っているディスクに手を忍ばせた。
「なんですかピカード艦長。水臭いですよ。なんなりとおっしゃってください」
「このディスクなんだが、特別なウイルスが仕組まれてコピーできないんだ。ワクチンを作って除去できないだろうか」
クリスはちょっと戸惑ったが、手持ちのパソコンに走らせ、プログラムを見た。
「言語はラプターと同じエイダですね。これは初めて見るウイルスです。ちょっと待ってください。ピカード艦長、大丈夫ですよ。二、三日でワクチンを作れるはずです」
「さすがジョーディー。USSエンタープライズ号のメカニックだ」
クリスは例のジョーディーのバイザーをかけて、敬礼する。
「光栄です。ピカード艦長」
「その、こんなことを頼める筋合いじゃないんだが、内容は見ないでくれないか」
「どうしてですか?」
「いや、見られたくないものが入っているんだ。頼むよジョーディー」
「わかりました。少尉は僕の憧《あこが》れの人でもありますから。お約束いたしますよ」
ヤマグチよりも軍でのキャリアはあるのに、どうしてクリスはこう屈託ないのだろう。
「いつか僕の機体を君に見てもらいたいよ」
「本当ですか。パイロットの方にそう言ってもらえるのが、メカニックの生き甲斐《がい》です。少尉、ありがとうございます」
「ああ、本当だ」
格納庫内にクリスのはしゃぎ声が残響していた。
ハンビータウンの「ブルーチャイナ」に若い女が現れた。キュロットスカートにタンクトップを合わせただけの恰好が、いかにもリゾート気分を楽しんでいる観光客のように映った。キャップを深めに被《かぶ》り、髪をたばねて中に収めている。誰もが入ったとたんに阿片窟《あへんくつ》のような印象を受ける店なのに、女は臆《おく》することなく足を踏み入れてきた。そしてまるで常連のように空いてる席に座ると、メニューを一目見ただけで一番のお勧め料理である、海老《えび》のチリソースを頼んだ。だからだろうか、朝から晩まで居座っているような常連客の絡みつく視線が、急に緩くなった。女はまるでお構いなしに紹興酒を呷《あお》った。呑《の》みながらあたりをそれとなく見渡す。不気味なインテリアばかりだが、ポイントを押さえた観察はけっして好奇心からではない。一見客に対しては珍しく、ムームー姿の劉《リユウ》が挨拶《あいさつ》にきた。
「小姐《シヤオジエ》、見かけない顔だけど、誰かに紹介してもらったのかい」
女は余裕たっぷりに答えた。
「中国人の友達から、ここがオキナワで一番|美味《おい》しい店だって聞いたのよ、大姐《タージエ》」
「ありがとう。今度その友達も連れてきてくれないかね」
カラオケやジュークボックスが音をまき散らしている中で、劉は相手の反応を見落とさないように、女の全身に注意を払っている。手首から腕、首筋、そして耳へとアクセサリーを見る。年頃の女にしてはそれほど自己主張を感じさせない安物ばかりだ。どれもが、つけていないとマズイと思って後からとってつけたようだ。まるで特徴を覚えられるのを避けているとしか思えない。
その視線に気づいた女は、劉の注意を逸《そ》らそうと店の隅を指した。
「あの鰐《わに》の剥製《はくせい》、どこで手に入れたのかしら。すごくユニークね」
「腐れ縁の友人からさ。デザートのメニューをどうぞ。女性は二皿で一品の値段だよ」
「じゃあ、愛玉子《オウギヨウチ》と芋蒸し饅頭《まんじゆう》にしようかしら」
「かしこまりました小姐。どうぞごゆっくり」
劉が戻るまで、女はグラスを掲げたままだった。濃赤色の液体には遠くからこちらを眺めている劉の姿が映っていた。女は劉ごと酒を呑み込んで背中の気配に集中していた。食事を終えて店を出ようとするまで、ある種の緊張が二人の間に走っていた。出口で女が飾られていた門神《もんじん》の彫像をチラリと見る。扉が閉まると、劉が店の男を呼びつけた。
「あの女、気になるね。後を尾《つ》けておいで」
男が裏口から女の後を距離をとって尾行していく。特に不自然な様子はうかがえなかった。女が通りでタクシーを拾った。考えすぎだよ大姐も、と男は踵《きびす》を返した。
「どうだい。何かわかったかい哥哥《クークー》?」
「別に何も。ただの観光客じゃないんですか大姐」
「馬鹿。あの女、しっかり店の中を偵察して行ったんだよ」
レジの下にあるビデオモニターを巻き戻して、男に見せる。出口の門神の目に内蔵されたレンズに、カメラ目線でウインクしている女の映像が現れた。
「どこかの組織の人間ですかね」
劉は塩化ビニールシートを被せたデザートメニューを渡した。
「指紋を取ったよ。張《チヨウ》を呼んで、これと写真を照合させろ」
「どうやってです、大姐」
「馬鹿。法務省入国管理局のデータにハッキングさせるんだよ。大至急だよ」
「大老にも報告しましょうか」
「あいつは、今オキナワにいないよ。戻ってくるのは来週さ」
劉が鰐の剥製にチラリと目をやった。
国道58号線に出たタクシーは流れに乗って那覇方面へと向かっていく。座席で女が帽子を脱ぐと、ブルネットの髪が落ちた。
「調査終了」
と簡潔にいうと同時に、女の顔から緊張が消えた。後ろに車がいないことを確認した運転手が、声をかける。
「どうだった。様子は探れたか」
「間違いないわ。ガオトゥのアジトのひとつよ。あんな安普請《やすぶしん》な店に防犯カメラ六台と、赤外線警報装置を五つも隠して設置してあったわ。あと、ビルの容積のわりには店舗が小さいわ。裏にもう一部屋あるわね。入口は店舗から見えないように設置されているはずよ。向こうも私のことに気がついたみたい。指紋をとられたわ」
女はやっと一息つけたとばかりに煙草を口にくわえた。
「ちょっと待てよコニー。また派手にされては困るんだ」
女は指に付着させた指紋入りのフィルムを剥《は》がしている。
「大丈夫よ。うまく撒《ま》いたし。調べたって何もわかりゃしないわよ」
「挑発的なことはしなかったんだろうな」
「全然。ただ、こんばんはって挨拶しただけよ」
タクシーは国道を外れて浦添市方面に入った。日焼けした恰幅《かつぷく》のいい運転手が、ギアチェンジすると、女の顎《あご》が揺れた。
「どのように挨拶したのか、後で本部に報告するんだ」
「いいじゃない。これからお付き合いが始まるんだし。日本で礼儀は大切でしょ」
「盗聴器は?」
「ふたつ。ひとつは秋葉原で買ったやつをテーブルの下に。もうひとつの新型は門神の脇の下に挟んだわ。死角だからわからないはずよ」
「よくやった」
「ところであいつは今どこにいるのかしら」
男はノート型パソコンをひょいと後ろに回した。起動させると写真映像が走った。
「今日、アフガニスタンのフェルミから情報が入った。案の定、現れたよ」
「彼も忙しい男ね。やだターバン巻いたらサングラスくらい取りなさいよ。ダッサー」
「今のうちにアメリカ空軍将校の……」
「ブライアン・ヤマグチ少尉に接触するんでしょう。アメクでの写真、けっこういい男に写っていたわよ。私カメラマンの才能あるわ。ほれぼれ」
女はバッグから天久開放地の爆発事故前の写真を取り出した。測量作業員に扮《ふん》したヤマグチがペンタグラムを描いている所だった。
「まったく。それより君の調査はどれくらい進んでいるんだ。オキナワが先になる可能性が高いんだ」
「ぜんぜーん。あ、そうだ。人類学者のオルレンショー博士が今オキナワにいるわよ」
「それはフェルミからも報告を受けている。ちょっと変わった才媛《さいえん》みたいだな」
「アメリカだけじゃ持てあます才能よ。目立ちまくりだもの。さっそくレキオスのことを嗅《か》ぎつけたみたい。どうする?」
「博士の興味は研究だけだ。君は|NGeo《エヌジオ》の記者になって博士をマークしろ」
「ラペルラのPR誌の記者が適当だと思うわ」
「なんだそのラ、ラペラなんとかってのは。学会誌か」
「違うわよ。イタリアの高級婦人下着ブランドよ。馬鹿ね入松田《いりまつだ》、だからモテないのよ」
「うるさい。おまえみたいに男漁りしている女に言われたくない」
「失礼ね。ちゃんと成果をあげてるじゃない。仕事よ、仕事」
「明日にでもアポをとるんだ。下着ブランドはよせ。NGeoだ。いいな」
「絶対ラペルラよ。あの人けっこうミーハーなのよ。見出しはこうね。『博士はなぜパンティを穿《は》かないのか?』私も脱ごうかしら」
「おまえはいつでもホイホイ脱ぐだろうが、コニー」
「あんたには脱いだことないわよ」
またガクンと車が揺れた。車は幹線道路を離れ、交通の少ない市道に入った。
「アフガニスタンか。次はどこかしら」
「ポーランドかもしれん。コニー急げよ」
タクシーが住宅街の入口で止まった。女が降りると、買物袋を下げたオバァが車線を越えてきた。するとタクシーは回送に変わった。
「なんだい。この不景気にお客を断るタクシーがあるかい」
土煙にまみれて罵声《ばせい》を浴びせたが、車は遠くへ過ぎ去っていた。
「もうワジワジー(苛々《いらいら》)する。あんなタクシー初めて見たよ」
「おばあちゃんのワジワジーはいつものことだわ」
自宅のドアを蹴飛《けと》ばして中空の扉をガーンと響かせた良枝は、開口一番この調子だ。年寄りになると人生に積極的になるのが沖縄の風土だ。デニスのように若いときは悩みも多かった良枝だが、加齢に伴いだんだん開き直ってきた。良枝はたいていのことには動じない。もう一回戦争があっても、今度も生き残る自信がある。
「あのタクシーの会社とナンバーを覚えたさぁ。今からさっそく抗議の電話をする」
デニスが夕飯の支度をしている。なぜか豆料理が好きで、いつもソウルフード風の沖縄料理になってしまう。
電話を終えた良枝が首を傾げて食卓についた。
「おかしいね。そんなタクシーはないって言われたよ」
「マジワサレタール(狐に抓《つま》まれたんだわ)」
デニスが料理を食卓に置いた。
(また豆か)[#「(また豆か)」はゴシック体]
「嫌なら出て行ってもらっても結構よ」
「デニス、あんた誰と話してるの」
今夜は変な日だと良枝は首を傾ける。
「別に。なんかワジワジーしてドゥティムーニー(独り言)言っただけよ」
デニスは食事中にもやかましく口を挟んでくる守護霊との会話にも慣れてきた。良枝が不審そうに顔を曇らせる。やっぱりフェンスの外の生活に馴染《なじ》めないのではないか、とか、学校でイジメられているのではないか、とかいろいろ詮索《せんさく》したくなる。フェンスの外に出たアメレジアンがどれほど大変なのか、良枝は知っている。スザンナを沖縄に慣れさせるために、学校は地元を選ばせた。これが苦労の連続だった。結局スザンナを途中でアメリカンスクールに編入させたが、今度は英語力に問題を生じた。現にスザンナは日本語なまりの英語をしゃべっている。今度こそはとデニスに希望をかけたが、スザンナとまったく逆の行動をとった。それは無理のないことだと、良枝は思う。マイロンが軍籍さえ離れなければ、デニスはずっと基地の中で平和に過ごせたのだ。
「やっぱりもう一回、アメリカに入れるべきかねぇ」
「おばあちゃん、なんか言った?」
「あんた夏休みの間にアメリカに行っておいで」
「いやよ。アメリカ人って怖いもの」
そこで会話は終わりだ。良枝は溜《た》め息をついた。
「来週、従姉《いとこ》の小《さ》百合《ゆり》姉さんがノロ(巫女《みこ》)になるんだよ。セーファ御嶽《うたき》でお披露目《ひろめ》をするから、あんたも行くんだよ」
「I'd love to. ついに小百合ネーネーも年貢の納めどきってやつね。ノロって世襲制なんでしょ。よかった。あたしそんな面倒に巻き込まれなくて」
沖縄の信仰の場である御嶽には、祭祀《さいし》を主導するノロと呼ばれる高貴な巫女がいる。ユタと異なり、王朝時代から仕えた血統の正しい女たちだ。ノロの選定はその家の女の中から資質の優れた者が継ぐことになっている。
「小百合ネーネーも、ノロになるならないでモメたわよねぇ。うちの家系で女といえば小百合ネーネーとあたししかいないもんね」
デニスがドレッドヘアのビーズを鳴らして、ウインクする。良枝はデニスがそんな苦労をしなくてすんだことを今になって喜んでいる。アメレジアンに生まれてよかったことといえば、これくらいなのではないだろうか。デニスより八つ年上の小百合は、しっかりとした気丈な女だ。それでも彼女は一度、この重責から逃れるために沖縄を脱出し、東京でOL生活をしていた。しかし家の因習からは逃れられなかった。先代のノロが老いていくのを見て、小百合は自然と覚悟を決めたという。親戚《しんせき》も初めから小百合がノロになるものと決めて疑わなかった。デニスは小百合のノロ装束《しようぞく》姿を想像する。黒髪の豊かな小百合はさぞかし美しいノロになるだろう。
「ああいう人たちってさ。魔女みたいなもんかな?」
「魔女とは違うよ。神人《かみんちゆ》と言って、生まれたときから神様なんだよ。特にセーファ御嶽のノロはキンマモンを降ろすことのできる最強の力を持つのさ」
キンマモンとは琉球の偉大なる神である。キンマモン信仰は根強く民衆に残り、今でも沖縄の象徴のひとつに数えられている。キンマモンは琉球の最高|神女《しんによ》である聞得大君《きこえおおぎみ》の身体に憑依《ひようい》することで地上に現れるとされている。その特性は聞得大君の資質によって大きく変化する。あるときは恵みを与え、あるときは国土を焼き払うほど猛り狂う。だからこそ、霊的能力が絶大かつ安定している聞得大君しか制御できない。
「それってすごいことじゃない」
本当に人選を間違えなかったか良枝にはわからない。たぶんデニスは候補にすら上がったことはないだろう。なにもアメレジアンだから成巫《せいふ》させないという決まりがあるわけではない。特にセーファ御嶽のような信仰の最重要拠点では、才能の方が優先されなければ、御嶽が本来の力を発揮できないはずだ。良枝が思い出すのは、昔彼女の祖母が聞かせてくれた話だ。王朝最晩年の頃、血の力の薄れたセーファ御嶽のノロが密《ひそ》かに替わっていたとされる伝説だった。今のセーファ御嶽のノロは新たな血脈が誕生するまでのかりそめの巫女だという。
デニスが生まれてすぐ、三世相《さんじんそう》に彼女の運命を占ってもらったことがある。もし特別な相のサーダカー生まれであれば、巫女になる資格がある。しかしデニスの運命は「空白」と出た。生まれながらに守護する存在がなく、そのために潜在的に示される三つの生が危ういという。
「こんなに元気に育ったのにねぇ」
と良枝が溜め息をついた。そんなことも知らず、デニスは就寝前のダイエット体操に余念がない。天井高くまで開脚し、襖《ふすま》に穴をあけて奇声を発している。守護する者がなくても充分に強そうに見えた。
デニスは最近、床に入る前の恐怖を感じなくなった。悪夢がなければ、心の問題も忘れてしまうようで、寝入りにイメージする幸せな物語をたっぷり堪能することができる。どこまでも続く芝生とその先にある海、沿道を飾る花が果てしなく続いていく。このイメージに終点はない。やがて沿道が夢の縁へと繋《つな》がって消失し、朝を迎えている。今夜もまた沿道をひたすら駆けていくデニスがいた。
遠くに若い女が腰を落として泣いているのが見えた。そこまで行くにはもう身体を弛緩《しかん》させなければならなかったが、すんなりと女のもとへたどり着いた。デニスが初めて見る女だった。琉球の風通しのよい絣《かすり》を着て、髪を筒型のカラジに結った女が座っている。女はひどく窶《やつ》れて見えたが、なかなかの美形だ。
「実は亭主が病に臥《ふ》しておりまして、その看病も長びき疲れております。あなたは雷神様でしょうか。ならいっそ私を打ち砕いてくださいまし」
「看病に疲れて死にたいなんて、ひどいわ」
デニスは雷神と呼ばれたことも気に入らなかった。しかし人種差別という言葉を振り回すのも馬鹿馬鹿しい。
「いいえ。看病に疲れているわけではありません。亭主がひどい嫉妬《しつと》にかられて、私がどこぞで不義理をしていると毎日|罵《ののし》るのです」
「嫌な旦那ね。だったら身体を治して、自分で調べればいいじゃない。ね」
女は髪が乱れ着物も古びていた。大きな溜め息をつくとガタガタと崩れそうになる。それでも涙だけがこんこんと溢《あふ》れていた。
「薬で治らないの?」
「ですから、医者のベッテルハイム様に、お薬を分けていただこうと思いまして、ここまでやってきたのです」
──ベッテルハイムって。いつか友庵が言っていた?
なんだか奇妙な感覚がデニスの体を貫いてきた。この女にしてもそうだ。ひどく窶れて困っているのは、単に生活に疲れているからだけではないように思う。女の結った髪が今にも解けそうだ。これがストンと落ちた様が誰かを彷彿《ほうふつ》とさせる。
「ちょっと待って。あたしは今どこにいるの?」
その言葉を発すると、小高い緑の丘が見え、道ゆく人たちが見慣れぬ着物を着て歩いていく。なんだか外国に来たような景色だった。空気の質感さえも若干冷たく思える。たぶん時間は昼なのだろう。しかしコントラストが弱くて、奥行きが掴《つか》めない。
「ここは首里と那覇の間にある真嘉比《まかび》でございます」
「やだ。団地のある所じゃない」
「雷神様ご覧くださいませ。御主加那志前《うしゆがなしーめ》のいらっしゃる首里城でございます」
団地から見える首里城と同じだった。こっちの方が少し赤みの濃い印象がある。いつもは城の手前に見える超高層ホテルが消えていた。
「お願いです。稲妻で私を焼いてください」
黒雲が湧きたって今にも落ちそうな光が点滅してきた。
「ねえ。あなたの名前は?」
女は初めて顔をあげてデニスを見た。
「私は真嘉比のチルーでございます」
悲鳴をあげそうになるが、その前に頼みの脱出装置が自動的に働いた。
ガバッと汗を滲《にじ》ませて起きると、軽い眩暈《めまい》を覚えているのがわかった。汗を吸ったシーツが奇妙な形を残していた。いつも四肢の跡がくっきりとわかるほどなのに、ずいぶんと控え目に写っている。実際よりもひと回り、体が小さくなった感じだった。ベランダに出ると現実の証拠であるオキナワン・サウンドが流れていた。何か雑音が混じっている。よくよく聞いてみると頭の中から響いてくる。さっきから激しく聞こえていたのはチルーの鼾《いびき》だった。
(がるるるっ。がるるるっ。がるるるっ)[#「(がるるるっ。がるるるっ。がるるるっ)」はゴシック体]
「守護霊って眠るんだー」
さっき見た窶れた女がチルーの本当の姿なのだろう。今の醜悪さとは似ても似つかない。声だってだいぶ違っている。あれがチルーなら、元に戻りたいのもよくわかる。しかしなぜ、逆さの女になったのか、それは謎だった。こんなことならしっかり続きを見ておくべきだったと後悔する。ベッテルハイムのことはうっすらと覚えている。ラジニの身体に取り憑《つ》いた友庵が、しきりにその名前を連呼していた。ならば、まるっきり架空の空間ではなく、どこかで現実だったのかもしれない。逆さの女の夢……。
「みんな寝るのが怖いんだ……」
守護霊のくせに、人間に同情されている。デニスのことを護《まも》ってくれてもいいはずだが、事故のような縁で結ばれたから仕方がない。それよりもデニスは、すこしだけチルーの気持ちがわかるような気がした。
「また付き合ってやるか」
デニスが駄々っ子に折れた母親のような溜《た》め息をついた。夜はまだ長かった。
高級リゾートホテルのロビーに、サマンサが現れた。今日は残念ながらノーパンではない。博士らしく白衣を着てボタンを胸までしっかりと止めていた。彼女にしては珍しく簡素な恰好《かつこう》だが、ダサさは彼女の常套《じようとう》手段である。どういうわけか、内視鏡をヘアバンドのように、そして聴診器をネックレスの代わりに身につけている。サマンサはコスプレ好きでもある。今日のコスチュームは女医だった。ハイヒールの踵《かかと》をカツカツと鳴らして、モザイクタイルを配した高級リゾートホテルのロビーを闊歩《かつぽ》する。
サマンサは、スカイラウンジ行きのエレベーターに乗った。
「ナショナルジオグラフィック誌のマクダネルさんで予約してあります。|Dr.《ドクター》オルレンショーです」
サマンサは、ビーチを見渡す眺めのよい席に通された。席にはストロボセットにアンブレラを挿して露出を計っている男と、ブルネットのスポーティーな女がいた。
「はじめまして。ナショナルジオグラフィック記者のコニー・マクダネルです。オルレンショー博士、お目にかかれて……」
「お目にかかれて大変光栄、でしょ。くすくす」
一瞬、カメラマンがシャッターを押して時間を止めたかと思うほどの、思考停止の時が流れた。サマンサは間が悪くなるとか、そういう類を気にするケチな女ではない。気を取り直したコニーがペンを持った。
「今度、オキナワ特集をすることになりまして、博士にぜひ、東アジアの民俗についてコメントをお寄せいただきたいのです」
サマンサはメニューを広げてありもしない飲物を注文する。
「ラヴジュースを。くすくす」
カメラマンがピントを絞りきれずにシャッターを押した。
「ほっ、ほっ。ほほ。博士のご冗談も一段と冴《さ》えておりますわね」
「|Ms.《ミズ》マクダネル。私はいつでも真剣よ。それでインタヴューを申し込んだんじゃないの」
ガラリと表情を変えてコニーを牽制《けんせい》する。これも和むのを極端に嫌がるサマンサの作戦だ。コニーもカチンときて、つい喧嘩《けんか》を買ってしまう。しょせん、女の敵は女である。
「博士。いつまでこんな辺境にいるおつもりですの」
コニーやめろ、とカメラマンが目で叱る。
「なんかつまんなーい。エージェントがいい仕事だとか言ってたから、しぶしぶやってきたのに。くすくす」
まるでハリウッド女優のわがままさだ。サマンサは相手が振り回されているのを楽しまないと生きている実感が湧かない困った女である。今度は質問攻めに転じてきた。
「たしかそちらでは、五年前にオキナワ特集をしていたんじゃないかしら。どうしてまた同じことをするの?」
コニーはバックナンバーを三年前までしか目を通していない。
「ええ、あの。(だから|NGeo《エヌジオ》は駄目だって言ったのに)以前の特集が大好評でして、それでまた、違った形で特集をしようということになりまして」
「私あの時も取材を受けたのよ。ボツになったけど。それで今回でしょう。どうして?」
五年前、新進気鋭の天才学者としてアメリカ学界に衝撃的なデビューを果たしたサマンサは、そのときもNGeoの取材を受けた。話せば長くなるが簡単に言えば、サマンサは「ペントハウスUSA」をやってしまったのである。オレンジ色のベビードールを着て……。
「へ、編集長が替わったんです。博士、本題に入らせてくださいませんか」
「ま、いいけど。オキナワで研究している理由ねえ。人類学者だったら誰でも涎《よだれ》がでる話よ。人間の永遠の希求に迫る研究よ」
「それはどんなものでしょうか」
「今は秘密だけど、そのうちわかるわ。私がオキナワを選んだのは、トメ・ピレスの『東方諸国記』を読んだからなの。ピンと来たわ。ここに私の一生の仕事があるってね」
コニーは苛々《いらいら》していた。単刀直入に聞くのが彼女のやり方である。
「はあ。(私は民俗学は苦手なのよ)トメ・ピレスって誰ですか」
「十六世紀のポルトガル人よ。マルコ・ポーロみたいにアジアを探訪したの」
「それが今博士の研究されているレキオスと関係があるのでしょうか」
サマンサの顔色が変わるかと思ったが、意外に平然としている。
「あれはただの名前よ。いろんな呼び方があって混乱するから、彼に敬意を払ってレキオスにしているだけ。愛称はレッキーね。くすくす」
「博士、そのレキオスの研究はどれくらいお進みなのでしょうか」
「この前、意外と簡単な方法が有効だとわかったの。今までは従来のトーテム操作媒体を律儀にやっていたからわけがわからなくなっていたけど、実は簡単だったの。もうすぐ意味のある結果がでるわ」
コニーとカメラマンの目の色が変わった。サマンサが続ける。
「これは理論物理学の分野でもあるわ。さっそく私の友人のフェルミ博士が一緒に共同研究をしようと持ちかけてきたの。あの人も馬鹿ね。学者が学者と仲良くしてどうするのよ。そんなの才能のない学者がすることよ」
サマンサは変態だが、志は高い。群れてぬるま湯の安全を確保するより、一匹狼で大物を狙う野心家である。
「フェルミを、いやフェルミ博士を御存知《ごぞんじ》なんですか」
「希代の変態学者よ。MITで学位を取ったあと、NASA管轄のJPL(ジェット推進研究所)を蹴《け》って、アフガニスタンに行ったわ。でもね。彼はストリーキングばかりしていたからアメリカを追い出されたのよ。くすくす」
それはおまえも同じだろっ、とコニーは殺気を走らせた。学者と異端は紙一重というがここまで極端な女をコニーは見たことがない。なんでこいつが二十一世紀のアメリカの頭脳なのかわからなかった。
「フェルミ博士は研究をしたくてアフガニスタンに行ったのよ。でも、なんか妙なアルバイトをしているみたい。研究費が不足するのはどこの分野でも同じみたいね。私には何も言わないけど、わかるわ」
ジュースに口をつけていたコニーが噴き出した。
「(フェルミの間抜け)彼はアフガニスタンで何をしているのでしょうか」
サマンサが顔を紅潮させた。
「理論物理学者が生涯をかけたいって言ったら、大統一理論しかないでしょう。アインシュタインでさえ成せなかった、相対性理論を超える最大の理論よ」
人類学と関係があると思っていたのにテーマを理論物理学に振られて、コニーは次の言葉が出てこない。その様子を見たカメラマンが割って入った。
「博士、人類学のレキオスがなぜ理論物理学と関係があるのですか」
「それはレキオスが鵺《ぬえ》だからよ。すべての学問の根源でもあるわ。というよりも、レキオスがいなくなって、人間は学問を始めたのよ。だからこれは大いなる回帰と言っていいわ。あらゆるアプローチが可能な最大のテーマよ」
フェルミが手を焼くはずだ、とコニーは舌打ちする。
「NGeoで発表してもいいわよ。『ネイチャー』とどっちがいいかしらん。条件は表紙に私のワレメを掲載すること。これが絶対条件よ。くすくす」
カメラマンは写真に音声が伴わなくてよかったと半ばやけくそになっている。
「今の段階では私の方が一歩先みたいね。フェルミはアルバイトしているから遅れるのよ。さてと、ピュリッツァー賞の授賞式には何を着て行こうかなあん、と。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』以上の話題は間違いないわ」
事前に打ち合わせていた、徹底マークの合図であるシャッターの空押しが三回鳴った。
「ところで博士、いつもそのような恰好なんですか?」
これだからインテリ女はダサくて嫌だ、と若干の侮蔑《ぶべつ》を含ませた。コニーはパンツスーツに、小さめのスカーフでまとめたイタリアンファッションだ。
「いいえ。あなたはまだ本当の私がわかっていないようね」
(変態だってことは、よーくわかっております)
コニーの憤りを無視してサマンサが立ち上がる。きちんと糊づけした白衣のボタンがひとつ外れた。そして次々とボタンに指をかける。サマンサはステップを踏みながらハミングで「オリーブの首飾り」を弾ませていた。
♪タラララララーン ♪タラララララーンララーン。
カメラマンはもうサマンサに釘《くぎ》づけだった。もったいつけていた白衣をついにはだける。サマンサは白衣の下に、黒の高級レース下着を身につけていた。ブラジャーからパンティ、ガーターベルトまでの完全勝負下着だ。何を勝負するのかは謎だが、なぜか女は下着で勝負する。手作業のレース編みと大胆でエレガントなカットは、そう。
「ラペルラよ。くすくす」
サマンサがニヤリと笑った。
「ピカード艦長。ウイルスを除去しました」
「ジョーディーご苦労だった」
お互いに敬礼でふざけあう。クリスとヤマグチ少尉はF22ラプターの格納庫の中だ。影もできないたくさんの水銀灯の明かりは、さながら手術室だ。絶えず警備兵が死角を防ぐように配置され、侵入者がラプターに近づく隙はない。そんな緊張感の中で警備の重々しさをものともしないクリスが黙々と働いていた。ラプターが飛来してからのクリスは尋常ではない働きぶりをみせている。たぶん部屋にも帰っていないのではないだろうか。不精髭《ぶしようひげ》を伸ばして、顔に油が染みていない場所は眼球くらいのものだ。さすがに飲み込みは早く、基礎整備のガイダンスを一回受講しただけで全体を捉《とら》える能力を発揮し、ロッキード・マーチン社から派遣されてきた技術開発スタッフの舌を巻かせた。
「ラプターってホントいいとこどりですよ。F15とF16のハーフですね。いやステルスもあるからF117Aの肌を持っています。もうっ、すごいったら」
「どこが混じっているんだい」
「もう。少尉、よく見てくださいよ。F15のエルロンとF16のフラッペロンがついているんですよ。これと推力偏向エンジンですごい運動性を発揮しますよ。アビオニクスもフライ・バイ・ワイヤの究極ですよ。よくもこんな贅沢《ぜいたく》な戦闘機を造ったものですね」
「そうだな」
「おかげで覚えることだらけです」
そう言いながらもクリスは手を休めない。まるで娘の世話を焼く父親のようだ。
「なあクリス、恋人はいないのか」
「いたらいいですね」
こんなに情熱を持っている男が、ひとりでいるというのも世の女性は見る目がない。クリスのような男はコザに遊びに行ってアメ女を捕まえたりしないから、南島のアバンチュールとも縁がない。もしかしたらここが沖縄であることも、どうでもいいのではないだろうか。砂漠の真ん中だろうが、アラスカの吹雪の中だろうが、飛行機があれば、それ以上要求することはない男だ。
「よし。いい女がいたら絶対に紹介してやる」
「わあ。感激です。ありがとうございます、少尉」
「どんなタイプが好きなんだい」
クリスは初めてラプターのことから頭が離れたらしく、また違う魅力的な表情でフワフワとしゃべる。
「そうですねー。僕はブルネットの髪の女性が好きだなー。女優のウィノナ・ライダーみたいな娘ですかねー。あ、高望みすぎますか。ははは」
「いや、君には知的な女性が相応《ふさわ》しいよ。よし男の友情だ。約束する」
「でも機械油まみれの僕なんて、見向きもしないでしょうね」
「そんなことはない。君は充分に魅力的だ。任せろ。最高の美女を紹介する」
クリスと話をしていると、ここが国家機密のラプターを格納している基地だということを忘れてしまう。ヤマグチはハイスクール時代の会話だと思った。
「ところで、なんで整備士になりたかったんだい。君は米空軍工科大を歴代一位の成績で卒業したそうじゃないか。ペンタゴンにだって行けたはずだ」
「少尉だって|NORAD《ノーラツド》を蹴ってネリスに行くんでしょう。同じ理由ですよ」
「そうだな」
なぜかもう一度心の中で、同じ台詞《せりふ》を繰り返した。
「君を見ていると羨《うらや》ましいよ」
「僕だって少尉が羨ましいですよ。パイロットはスターですから」
「ところでクリス。ディスクの件なんだが」
「いやだな少尉。見てませんよ。恋人のデジタル写真でも入っているんでしょう」
「ありがとう」
「いいですよ。でも変なウイルスでしたよ。システム全体へ瞬時に感染してエラーが出るようになっていました」
──やっぱり。
クリスがラプターのマニュアルを開く。ついこの前はおろしたての新品だったものが、もう数年間使いこんだ学生の辞書のようになっていた。
「頑張れよ、クリス」
返事の代わりにレンチの落ちた音がした。
ヤマグチはクリスから受けとったディスクをコピーして、何が目的なのか調べるつもりだ。キャラダイン中佐はあと数日で戻ってくると言っていた。そのときに、具体的な話があるだろう。だがその前に、先手を打っておく。親版のディスクとは別にコピーを一枚とって、鞄《かばん》の中に入れた。
『コニー、出てくるぞ。少尉の車だ』
「OK。デートの邪魔しないでよ」
ゲート・ストリート前のオープンカフェで待ち構えていたコニーが立ち上がった。その奥の基地からオープンカーが走ってくる。
嘉手納基地は巨大な空母に緑地を配したような風景だ。生活の賑《にぎ》わいが削《そ》ぎ落とされているから視界に変化がおきない。目の前がゲート・ストリートを擁したコザの街だ。ほとんど同じ位置にあるのに、街に入るとホッと息をついている自分を発見する。基地内にも娯楽施設は充分に完備されているのに、なぜかみんな街に出たがる。ガヤガヤとした活気と入り組んだ迷路構造の街が、人の心をこんなに安らげてくれるとは基地の人間にしかわからないだろう。狭くても小さくても、ここには人の生活がある。パーキングに車を停めたヤマグチはスタンドでコーヒーを一杯飲みたくなった。
「オルレンショー博士の電話番号は、と」
「あら。オルレンショー博士なら、今インタヴューを終えたところですわ(あのアマー、途中でばっくれやがった)」
見ると、スタイリッシュなブルネット美女ではないか。
「あら、失礼。私はナショナルジオグラフィック誌の記者をしているコニー・マクダネルです。博士とは懇意ですのよ(でも変態の仲間じゃないわ)」
彼女の抜群の笑顔に、ヤマグチの胸が高鳴った。
「どうもはじめまして。ブライアン・ヤマグチです。オルレンショー博士のインタヴューですか。NGeoは子供のときから毎月読んでいます。五年前のオキナワ特集は興奮しました。あの紅型《びんがた》の写真がすごくきれいでしたね。それに……」
コニーは軽い眩暈《めまい》を覚えた。
「あの。私は記者になったのが三年前ですから、それ以前のことはよくわからなくて、お恥ずかしいですわ」
「もしよろしければ少しお話させてもらえませんか。近くにいいカフェがあるんです」
よっしゃあ、食いついたー、と北叟《ほくそ》笑む。女から嫌われる女は、男を手玉にとるのが上手である。これが男から嫌われる男は、女を手玉にとるのが上手だとは必ずしも言えないのが、不思議だ。逆もまた真ならず。
パーキングの車にコニーを誘った。
「コニーさんはオキナワは初めてですか。よかったら案内しますよ」
「まあ、嬉《うれ》しい。実は美味《おい》しい中華料理屋がないか探していたんです」
「でしたらハンビータウンの『ブルーチャイナ』が最高に美味《うま》いですよ。これ隠れたスポット。俺が発見したんです。酢豚を頼むのが通なんですよ」
「いえ。そこはちょっと……。やっぱりスシにしましょう。中華はこの前食べたわ」
「OK、コニー。スシだったら任せてください。最高に美味いところがありますよ(中佐から聞いたんだが)」
この調子のいい嘘つきどもめっ。男の友情は女によって実に簡単に破られる。これを信じているクリスはただのお人好しだ。
「少尉はいい人だなー。ブルネットの美女を紹介してくれるなんてー」
と基地内の格納庫で、青春の日の目をみないクリスが呟いていた。
(すまねー、クリス。おまえにはラプターがある)
都合のいい言い訳を唱えただけで、ヤマグチは男の友情を忘却した。椰子《やし》並木をぐんぐん飛ばして少尉の赤いオープンカーは南へと下っていく。反対車線から北へ向かう大型バイクのエンジン音が轟《とどろ》いてきた。ヤマグチはパイロット持ち前の動体視力でデニスを捉《とら》えていた。
「あの娘。たしか種を宿した娘じゃ……」
一瞬のうちに通り過ぎたので、引き返すわけにもいかない。ナンバープレートを瞬時に覚えた。
「どうかしたの、ブライアン※[#ハート白、unicode2661]」
「なんでもないよ、コニー※[#ハート白、unicode2661]」
もうラブラブである。アメリカ人は瞬間発情国民なのだろうか。中央分離帯ですれ違ったふたつのエンジンは、互いに加速していく。
(どうして親切なんだ)[#「(どうして親切なんだ)」はゴシック体]
「ただの気まぐれよ」
デニスは再びコザに向かってバイクを走らせていた。中の町にバイクを止めたとき、かつてのマハラジャ商店がなくなっていることに胸を痛めた。いつもぼんやりと空を眺めていたラジニはもういない。ずっとこの街に住んでいるだろうと思っていたのが、嘘のようだ。店はタイ料理店に新装された。ラジニと寄り添っていた電柱だけが、その記憶を微《かす》かに残してくれていた。
(友庵の憑《つ》いたインド人がいなくなって、困っているぞ)[#「(友庵の憑《つ》いたインド人がいなくなって、困っているぞ)」はゴシック体]
「だからまた探すんでしょう。いいわよ。夏休みだし」
(礼はするぞ)[#「(礼はするぞ)」はゴシック体]
「しなくていい。その代わり、あたしの体を乗っ取らないって約束して」
(する)[#「(する)」はゴシック体]
以前の駐車場にオバァはいなかった。それでも勘を使えばすぐにわかるのがコザのよい所だ。繁華街の外れでは、ポーポー屋さんの屋台があった。
沖縄風クレープというべき食べ物がポーポーである。ここの屋台は、マチーオバァとガルーオバァが仲良く経営している。英語と日本語で孫にでも作ってもらったような看板を掲げ、二人の体重の十倍はある鋼鉄の屋台を引いていく。痩《や》せぎすで奥目のふたりは姉妹のように見えた。屈託なく明るいのだが、どこかおどおどしてもいる。それもそのはずだ。ヤクザにショバ代を何十年も払っていないのだ。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
と声を揃えて呼び込むのが彼女たちのスタイルだ。どんなお祝いなのか知らないが、聞いていると不思議と幸福な気持ちになってくる。そういえば誕生日だったとか、何かの記念日だったとか、いろいろなことに今日という日を思い当たらせてくれる。そして最高に美味しいポーポーを食べる。どんな最悪の日でも、これが憂鬱《ゆううつ》な気分を払拭《ふつしよく》してくれたものだ。デニスもこの声に何度、助けられたかしれない。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
幸福とは縁のなさそうな、マチーオバァとガルーオバァであるが、人に幸福を与えるために人生を費やしているのだから仕方がない。聞いていると涙さえ浮かんでくる。
「守護霊。ポーポーを食べようか」
(喰《く》わせてくれ)[#「(喰《く》わせてくれ)」はゴシック体]
鉄板で薄く焼かれ、細長く巻かれたポーポーは、ほんのり甘い幼時の記憶を蘇《よみがえ》らせてくれた。デニスは思い出す。軍属専用のビーチで遊んだ日のことだ。無条件に楽しくて、安全で、最高に守られていた幼い日の思い出だ。オキナワとかアメリカとかニッポンとか、まったく考えなくても素直に受け入れられていた。あのときアメレジアンという言葉さえ意味がなかった。一口|噛《か》むごとに、そんな懐かしい日に戻っていく。そして食べ終わったら、口の中にほんのりとその風味だけが残っている。ポーポーは記憶と同じ味だった。
マチーとガルーはそんなお客の顔を見られるのが楽しみである。小柄な女ふたりはボロボロの屋台を引きながら、坂道の多いコザの街に祝福の言葉を響かせる。屋台を引いていたガルーが突然叫んだ。
「マチー。ヤクザが来たよ。ヒンギラントー(逃げないと)」
「アギジャビヨー(どひゃあっ)」
シャツをはだけた男たちが、因縁をつけてきた。そして頑《かたく》なにショバ代を払うことを拒否すると、いつものように男たちが屋台の鍋《なべ》やら看板やらを滅多打ちにする。マチーとガルーは亀のように小さくなって震えることしかできなかった。
「いい加減に払えよ。このガージュー(頑固な)オバァターめ」
「ほら小麦粉でお祝いしてやらあ」
「こっちは卵だ」
小さくなっているマチーとガルーの背中にヤクザは小麦粉をまぶし、卵をぶつけた。最後に鉄板を三人がかりで持ち上げて「それっ」と遠くに投げる。グワーンという振動が坂を転がっていった。
「次はもっとひどいからな。覚えておけ」
ヤクザたちがいなくなると、マチーとガルーはやっと泣ける嬉《うれ》しさに安堵《あんど》した。
「怖かったよー。怖かったよー」
そしてお互いをしっかり慰めてから、飛び散ったおたまや包丁を拾い、屋台の看板を元に戻した。最後にふたりがかりで鉄板を担いで、また坂道を登っていく。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
その声はどこかせつなく、しかし力強い。
デニスはやっとユタのオバァを捜し当てた。というより、向こうから台車を引っぱって歩いてくるオバァを発見した。オバァはガネーシャを従えていた。今日もオバァの花柄フレームのサングラスが眩《まぶ》しい。
「やだ。これマハラジャ商店にあったラジニのガネーシャじゃない。オバァどうしたの」
「ラジニの形見さぁ。このガネーシャと一緒にコザを歩くことが供養になるかと思ってねぇ。ほらあたし、ヒンドゥー教徒じゃないから、向こうのやり方がよくわからなくって」
デニスは何度も頷《うなず》くことしかできなかった。
「でもこのガネーシャのおかげで、占いも冴えてきたんだよ。不思議さぁ。これって薬局に置いてある象のサトちゃんに似てると思わないかい」
デニスは大笑いだった。
「似てる似てる。案外ルーツはガネーシャかもよ」
「ガネーシャが来てから、太陽がいっぱいに見えるときがあるんだよ。ラジニの気持ちがわかるようになったねぇ。今ではラジニがもっと好きになったさぁ」
「あの事件の犯人、捕まったよね」
ユタのオバァはあたりを見渡してシッ、と指を当てた。
「あの男が犯人じゃないよ。あたしにはわかる。サングラスをかけた白人の男だよ。あたしもいつ命を狙われるかわからないから、こうやって駐車場を転々としているんだよ。もちろん結界を張るから見つからないけどね」
オバァの胸には六芒星《ろくぼうせい》のお守りが下がっている。
「やっぱり。あたしも何か変だと思ってたのよ」
「秘密だよ。約束してくれるね。絶対に誰にもしゃべらないって」
デニスは頷いた。あの事件があってからというもの、コザは潜在的に持っていた暗部を開いたようで、どこで何が起こってもおかしくない気がする。
「ところで、今日は何の用だい。また占ってほしいんだろう」
オバァはガネーシャを引っぱって、道を歩いていく。デニスはまた友庵のことについて、それとレキオスについてもたずねた。
「レキオス? だめだめ。あんなもの面白半分で首を突っ込んだら死ぬよ」
「どうしても。せめて友庵だけでも探してやりたいの」
「あんた変な娘だね。誰のためにだい」
しかしオバァはそれ以上は聞かずに、占いを始めた。もちろん一回五百円だ。今日はどうしても新しく開発した占いをさせてくれと言う。どんな占いでもあのタロット・カードよりはマシだろうとデニスは承諾した。オバァは御機嫌で、すぐに高台にある公園の入口まで連れていった。
「友庵は年齢と場所が嵩《かさ》むからね。これが一番なのさ。初のお披露目《ひろめ》だよ」
オバァとデニスは大階段の下にいる。頂上が公園だ。すかさずオバァがジャンケンの号令をかける。オバァのチョキが勝った。すると、
「はいっ。『チ・ヨ・コ・レ・ー・ト』」
と両手を頭上で小気味よく振って、階段を昇っていく。これならタロットと同じではないか。新型というから少しは期待したものの、まだタロットのオリジナリティの方がマシである。こんなんで占えるのか、こんなんで大丈夫なのか、とデニスの内なる声と守護霊の声が重なる。
またジャンケンと声をかけられた。
「はいっ。『パ・イ・ナ・ツ・プ・ル』」
Incredible!
「はいっ。『グ・リ・コ』」
オバァは腰が砕けたデニスを背に、嬉々《きき》として階段を昇っていく。これに六回連続で勝つと、オバァは頂上で託宣を受けた。
「友庵は。あれっ? 友庵はいるよ」
「いるってどこ?」
(今度は誰だ)[#「(今度は誰だ)」はゴシック体]
オバァは首を傾げてデニスの側にあるガネーシャを指した。太陽を弾いて黒光りする象のガネーシャから、一筋の冷汗が流れた。
「ええっ。これに入ったの?」
(うーむ。確かめてみるか)[#「(うーむ。確かめてみるか)」はゴシック体]
「どうやってよ。これは彫像なのよ」
(あれしかないだろう)[#「(あれしかないだろう)」はゴシック体]
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、泡盛《あわもり》を一瓶買ってきた。守護霊はこれを呑《の》ませろと言って聞かない。ふん、と鼻で笑ったデニスが、ガネーシャの口に酒を流し込んだ。すると、どうだろう。酒は零《こぼ》れもせずに、とくとくとガネーシャの中に入っていくではないか。
(よし、一升瓶を持ってこい)[#「(よし、一升瓶を持ってこい)」はゴシック体]
ユタのオバァはガネーシャが酒を呑む姿に腰を抜かした。今日も空から騒音が降ってくるような炎天だ。南中高度いっぱいに昇った太陽が、容赦なくコザの街を灼《や》いていく。その中の公園入口で酒を呑むガネーシャ、まるで白昼夢のような光景である。
「あたしは夢でも見ているのかねぇ」
オバァはサングラスを外して、ガネーシャを見つめている。なんと今度は、デニスが持ってきた一升瓶を長い鼻で一気に吸い、口に流しこむではないか。子供が座ったくらいの大きさのガネーシャは、自慢の黒大理石に赤みをつけて、ほろ酔い気分みたいだ。
「あたし最近なんでも信じるようになったわ」
デニスが大きすぎる目を一杯に開いて、硬直していた。
「あたしも呑ませていいかい?」
ユタのオバァも面白半分に、オリオンビールを買ってきて、呑ませる。ガネーシャはピッチャー一杯分のビールをパオーンと呑み干した。次のビールに鼻を伸ばしたときだ。ガネーシャに異変が生じた。グラグラと首が据わらなくなってきたと思うと、鼻からポーッと熱い蒸気を吐いた。そしてガネーシャの口からピンク色のゲロが流れだした。
「おお。また会ったな。とんだ事件でラジニを失ってしまった。彼がこれに入れてくれなければ、儂《わし》は消えていたぞ。まったくなんてことぢゃ」
ユタとデニスが目を合わせた。
(友庵、宿主を死なせるとは落ちたものだな)[#「(友庵、宿主を死なせるとは落ちたものだな)」はゴシック体]
「ぢゃから、おまえも過去に戻せない。諦《あきら》めるんぢゃな」
(いいや。レキオスの力を復活させれば戻れるはずだ。おまえがそう言ったではないか)[#「(いいや。レキオスの力を復活させれば戻れるはずだ。おまえがそう言ったではないか)」はゴシック体]
「今レキオスって言ったね。とんでもない」
ユタのオバァが口を挟んできた。
「なんでオバァが知ってるの?」
「あれは滅多なことでは目覚めないんだよ。起こすとすれば、とんでもなく怒らせるか何かしない限り駄目さ。それにあの力は一度目覚めると制御がきかなくなる」
(このユタはなぜレキオスを知っているのだ)[#「(このユタはなぜレキオスを知っているのだ)」はゴシック体]
ユタのオバァは、古い伝承でこれを語り受けた末裔《まつえい》のひとりであると言う。
「おお。感心感心。ちゃんと伝わっておる」
「では、あなたが伝説の三世相《さんじんそう》なのですか?」
こんな俗でインチキ臭い占いをしていながらも、驚くほどの的中率を誇るのは、オバァの血統のせいである。
「そうぢゃ。だが安心せい。レキオスを目覚めさせるには、相当怒らせないといけない。沖縄戦ですら、目覚めなかったくらいだ。王国はレキオスを封印するために、何重にも呪術《じゆじゆつ》の鍵《かぎ》を施してある」
「じゃあ、あたしの守護霊はこのままなの?」
「せめて矢を折れればな。きちんと二本折るんぢゃぞ」
「でもそれはレキオスでないと無理なんでしょう?」
「ああ。そうぢゃった。だからチルーは守護霊となって、おとなしくするのぢゃ」
(このままではすまさんぞ)[#「(このままではすまさんぞ)」はゴシック体]
友庵の入ったガネーシャの鼻が、大きな欠伸《あくび》をしたその時だ。
「あ・あ・あ。誰ぢゃ。儂をどうするつも……。奴だ。ついにここまで来たか」
ガネーシャが小刻みに震えて、鼻から噴き出す蒸気が途絶えた。友庵は早口でしゃべる。
「奴がレキオスを蘇《よみがえ》らせるらしい。時間をいぢる気ぢゃ。日焼けした娘。儂の目を見ろ」
デニスが不貞腐《ふてくさ》れてガネーシャの目を見る。一瞬何かが目に入った気がした。
「これから何が起こっても、けっして信じるな」
「いやよ。あたし最近信じやすいもの」
「これからとんでもないことが起こる。一度おまえを時間の枠から外す。レキオスを蘇らせるんぢゃないぞ。そこのユタ。すぐに結界を張れ」
ユタのオバァは立てられていた庭箒《にわぼうき》を股《また》に挟んで、♪ギャロップ ♪ギャロップと歌いながら大きな円を描いた。
「オナリ神の力を与える。エケリを守れ。自分の勘だけを信じる…………」
ガネーシャ像はそのまま沈黙した。オバァはまだスキップしている。守護霊もどうしたことかとガネーシャを眺めていた。するとどこからともなく声が響いてきた。
友庵を封印した。[#「友庵を封印した。」はゴシック体]
(聞こえたか)[#「(聞こえたか)」はゴシック体]
「もちろん。これで二度目よ」
それからガネーシャを揺すっても叩《たた》いても呑ませても、友庵は現れなかった。試しにオバァに友庵がどこに行ったのか占わせてみても、託宣が降りてこないらしい。それどころか友庵はこの世に存在しないと言った。
オバァが張った結界から出ると、なにか粘液状になった空気の肌触りを覚えた。そのジェル状の空気が絶妙に肌を避けている。デニスは自分の身体が、土地から離れていくような違和感を覚えていた。
「これから何が起こるというの?」
その夜は最高に官能的な南島のアバンチュールだった。特別だったのは、夜になっても摂氏三十度を切らなかったこともある。潮風が吹いても吹いても、風そのものが熱を孕《はら》んでいるために、浴びると頭の芯《しん》まで熱くなる。
昼間は働き者だったキャリアウーマンのコニーが、同じホテルのインタヴューした席で蝋燭《ろうそく》の明かりに顔を近づけ、甘い声を奏でている。灰褐色の眼に蝋燭の炎が映るようにしっかりと計算している。ヤマグチはもうすっかりのぼせ上がっていた。
ディナーのスシは目玉が飛び出るほどの高額だった。いわゆる地元の通《つう》が接待で使う高級寿司屋で、ケチャップとマヨネーズの大味しか知らないアメリカ人の二人には、未知の世界だった。
しかしヤマグチはグルメを気取った「えーカッコしー」でもある。すっかり慣れていると装って、カリフォルニアロールを板前に注文した。出されたウニはまだいい。ホヤとナマコに至っては、コニーの灰色の目玉が白くなる驚愕《きようがく》ぶりだった。これにヤマグチは「ニッポンじゃ常識さ」とまた、薀蓄《うんちく》を傾けて尊敬を得ようとした。なま物を食べて無理をしたがために、コニーとヤマグチは後からとんでもない下痢に見舞われることになるのだ。
──四百ドル?
とレジで二人が息を飲んだ。コニーは経費の無駄遣いが祟《たた》ってなかなか経費で落とせなくなった。化粧品やブランド品を買い漁って平然と経理に渡していた報いである。ヤマグチもまた、しがないアメリカの国家公務員だ。見栄を張って上官のキャラダイン中佐のなじみの店に行ったバチである。折半してしばらくはカップヌードルを啜《すす》る日々が続くのだ。
ふたりは腹を押さえて、ホテルの部屋に駆けこんだ。
結果から言えば、かなりエキサイティングな夜だった。腹痛と快楽の狭間《はざま》でふたりは転げ回った。途中で喘《あえ》ぎ声が呻《うめ》き声と混ざって、どこからどこまでが快楽なのかよくわからなかった。身体を弛緩《しかん》させたら一巻の終わりである。それがかえってコニーの具合をよくさせた。ヤマグチの怒張を倍加させた。括約筋《かつやくきん》を使うのがベッドでの掟《おきて》である。こんな夜はふたりとも初めてのことだ。
「もう最高※[#ハート白、unicode2661]」
ぐったりと倒れた二人は、そのまま眠った。小一時間ほどしてコニーが目覚める。さっと着替えるとヤマグチの寝顔にキスをした。そして彼の鞄《かばん》にあるディスクをすり替えると、そのままドアを出た。
「作戦終了」
タクシーを拾ったコニーがほんのりのぼせている。ガクン、ガクンと車が二回揺れた。
「やけに長かったな」
「ちょっとチビったわ」
なにをチビったのかは伏せておく。お下品だからである。
「何ムスッとしてるのよ。成功よ」
恰幅《かつぷく》のいい入松田《いりまつだ》はずっと前ばかり見ている。コニーは盗んだディスクをポイと男の膝《ひざ》の上に投げ、髪を束ねた。
「たぶんウイルスが仕組まれているわ。ホストコンピューターまでやられる奴ね。パスワードは不明よ。すぐに本部の暗号解読班に送って」
男はディスクを投げ返した。
「それはおまえがやれ。俺は知らん」
「もうっ嫌。なんであんたがリーダーなの」
エンジン音だけが車内を埋めていく。窓を開けてコニーは外の空気を吸った。ヤマグチはどうしているかと考える。こんな甘さが残っている自分が嫌いだった。風に嬲《なぶ》られてどこか遠くに行ってしまいたくなる。
入松田はバックミラー越しに、目を細めてぼんやりと夜空を眺めているコニーを見た。彼女は今、自分が少女のような表情をしていることを知っているのだろうか。
「窓を閉めろ。エアコンを入れた。ご苦労だったコニー」
「言っておくけど、大変だったのよ」
「わかっている」
「わかってないわ。私が好きでこんなことしてると思ってるでしょう。だったら女を利用する作戦なんか考えないで。そんなことに私を使わないで。男はいつも偉そうなポジションにいて、あたしをボロ雑巾みたいに消耗品扱いするわ。その本部の作戦に異論を唱えられないのは、リーダーのあなたよ。ときどき自分が嫌になるわ」
車がスムーズに高速道路に入った。ヘッドライトが熱帯雨林の闇にビームを照射し、その捕まりもしない明かりを車がどこまでも追いかけていた。
ヤマグチ少尉の目覚めは、激しい二日酔いに腹痛と腎臓《じんぞう》が張った鈍痛のモーニングコールだった。起きるとコニーはいなかった。なんだかとてつもなく馬鹿なことをした気分になる。もっと素直に彼ののんびりとしたペースで接しても、コニーは嫌がらなかった気がした。
オープンカーで嘉手納基地に戻るまで、ヤマグチはぼんやりと景色を眺めていた。椰子《やし》のストライプが気持ちよく横に流れていく。その奥でゆっくりと展開する普天間基地の滑走路が見えた。遠景はずっと動かない東シナ海の翠《みどり》の海原だ。陸にいるから、いろんなしがらみがあって、さまざまな立場に拘束されているが、空はどんな素性の者でも受け入れてくれる。ただし飛べた者しか抱いてもらえない。
「空軍を辞めて、セスナのインストラクターにでもなろうかな」
鞄に入っているディスクを握る。オルレンショー博士くらい頭がよければ、もっと自由になれたはずだとヤマグチは思った。博士は世界中のどんな場所にいても研究ができるし、どこの大学でも研究所でも頭を下げて迎え入れるだろう。博士ほどでなくてもいい。クリスだって飛行機があれば、どこででも生きていける。自分はどうだろう。将校でいたいのか、戦闘機乗りでいたいのか、ボロのレシプロ機でもパイロットでいたいのか、よくわからなくなる。この心の揺れにキャラダインが付け込んでくるのだと思った。
ハンドルを片手に携帯電話をかける。
「もしもし。Dr.オルレンショーですか。私はアメリカ空軍のブライアン・ヤマグチと申します。あの、一度コザのシャーマンの所で博士にお会いしております。はい。そうです。覚えていてくださいましたか。光栄です。
先程、ファクシミリを送信いたしました。博士のご意見をお聞きしたいと思いまして。はい。わかりました。明後日の七時に、クリスタルパレスのラウンジですね。よろしくお願いします」
案の定、博士は興味を示したようだ。彼女は研究のためなら泥棒でも平気でやりかねない。それほどの情熱を何かに持てるのが、ヤマグチには羨《うらや》ましくて仕方がない。
「クリスー。ごめんよー」
ハンドルに頭をぶつけながら、赤いオープンカーはしょぼしょぼ蛇行して行く。
「私の留守中に何かあったか、姐姐《ジエジエ》」
「ちょっと面白いことがあったよ。哥哥《クークー》」
「留守中に録画したビデオを見せろ」
「張《チヨウ》。十六倍速でやっとくれ」
ここはハンビータウンの「ブルーチャイナ」である。店舗の裏にもうひとつ隠し部屋がある。内部は中国国家安全部の沖縄支部になっている。しかしそれでもまだ表向きの顔だ。ここの中心はさらに地下にある。かなり大がかりな施設で、ビルを建設する前からこの支部はあった。ここは米軍ハンビー飛行場時代に建設された核シェルターを改造したものだ。冷戦が終結し、無用の長物となった核シェルターをキャラダインが見つけ、今では組織が運用している。返還後、ハンビータウンが出現した。核シェルターの施設は街に埋没し、入口のひとつが「ブルーチャイナ」の中にある。ハンビータウンの華僑《かきよう》ビルにはここへの出入口が複数設置されている。劉《リユウ》の息のかかった中国人たちのビルである。
地表の悲惨な店舗とは裏腹に、ここはハイテクの粋を集めた情報センターになっている。十六分割されたメインスクリーンのひとつひとつに十六日間の店内が猛烈なスピードで再生された。男が手元のコンソールパネルの一時停止ボタンを押す。八日前の午後九時の映像だった。
「この白人女は誰だ」
「やっぱり気づいたかい。さすがだね、哥哥」
静止した画面には、芝|海老《えび》のチリソースを食べている帽子を深めに被《かぶ》った女が映っていた。映像をコマ送りにしてみた。スクリーン一杯に映し出された女に男の眉《まゆ》が動いた。
「今、テーブルの下に何かを仕掛けた」
「これかい?」
劉が見せたのは盗聴器だった。
「あたしを甘くみては困るよ。店を出たあとすぐに見つけたさ」
「何者か調べたか?」
「もちろんさ。張が入管のデータにハッキングしたけど記録なし。指紋も駄目だったね」
「アメリカ社会保障局の登録データは?」
「張に念のためやってもらったけど、これも駄目。完璧《かんぺき》に経歴が抹消されていたよ。そこで、どこに入ったと思う?」
彼女がファイルに手をかけた。
「CIAか?」
「ご名答。張でなければあそこにハッキングするのは無理だったね」
ハイビスカスプリントのムームーをひるがえして、パネルを操作した。すぐにデータ表示に切り替わる。
「モニターの女は、コニー・マクダネル。二十五歳。活動歴は三年前から。主に東アジア地区を中心に活動。初めて現れたのは香港総督府警備のとき。それから上海。台北。シンガポール。オキナワに入ったのは半年前だね」
「尾《つ》けたのか」
「撒《ま》かれたよ。またおびき出せばいいさ」
キャラダインはテーブルを激しく叩《たた》いた。
「この間抜け。CIAには気をつけろとあれほど言っておいただろう。さっきの盗聴器はダミーだ。あと一個、どこかに仕掛けたはずだ」
キャラダインは劉からコンソールパネルを奪った。すぐに出口の門神《もんじん》にウインクする瞬間が停止される。
「ここだ」
キャラダインは部屋を飛び出して、エレベーターに乗る。厨房《ちゆうぼう》の業務用冷蔵庫の扉が開いた。
「大老、大姐。何かあったんですか」
厨房の男たちを無視して、劉の腕を引いたキャラダインが店内に出る。今日も「ブルーチャイナ」は飯場なみの雑然さだ。門神の前に立ったキャラダインが像の脇に手を伸ばす。そしてシッと指を当て、劉に確認させた。指を口の前にたてたまま、キャラダインがしゃべる。
「ところで姐姐。『プロジェクト L』の変更についてだが……」
「ああ。アフガニスタンから先にした方が効率がいいようだね、哥哥」
「そうだ。オキナワは第二段階を延期する」
そう言って、ふたりで門神を見つめた。
「コニー。盗聴器に気づかれたぞ」
「あら。やっと?」
中継局から連絡が入った。ここは金武《きん》町にあるプロテスタント教会の事務室だ。牧師姿の入松田が結婚式を終えて、やれやれと戻ってきたばかりのときだった。
「だから目立つことはやめておけって言ったんだ」
「だっていずれ見つかるわよ。一週間だけ機能させるのが目的だったんだから、成功よ」
コニーが最後のドキュメントにピリオドを打った。この一週間の店の中の動きをまとめた報告書である。裏部屋の様子はわからないが、従業員たちの会話から隠語めいたものを拾い集めて濾過《ろか》すると、構成員がわかる。
「張という男がハッカーね。かなりの腕よ。それと劉が副リーダーで、中国人グループをまとめているわ。李《リ》がヒットマンと……。これだけわかれば、盗聴器ひとつ失ってもお釣りがくるわよ」
「こっちの正体もバレたかもな」
「さあて。奴らが無事にCIAまでアクセスできたかしら?」
隣ではヤマグチから奪ったディスクを開こうと男が躍起になっている。
「暗号解読は進んでいるか」
「コピーはとれたけど、何か変よ。ウイルスのワクチンが入っていたわ」
「どういうことだ。ダミーか」
「たぶん違うわ。暗号情報が多すぎるもの。誰かがいじったのよ。……ブライアンね」
「パスワードはまだ不明。国防省の標準高等言語エイダでプログラムされているわ。スパコンで取り組んでも五年はかかるでしょうね。本部からエンジニアを呼んで」
「来週にはオキナワ入りする。アフガニスタンのフェルミも同じようなディスクを手に入れた。そっちの解読が先だ。終わるまで待て」
「フェルミが? あの社会不適応者が? うっそー」
入松田が咳《せき》払いする。
「君と同じ方法で入手したんだ」
フェルミは情報部員だ。ホスト風の容姿を活かして、女をたらしこむのが常套《じようとう》手段である。ときどき任務を外れてほとんど趣味としか言えない活動をするが、要所はきちんと押さえている。理論物理学者の肩書は世界中の大学をフリーパスにしてくれた。第三世界だろうが、共産圏だろうがスイスイ入っていける。
「フェルミに先を越されるなんて」
二人は養成学校時代の同期である。コニーは天才的頭脳を持ちながら常識が破壊されているフェルミに殊の外、ライバル意識を燃やしている。フェルミはそんなことにはかまわず、マイペースで首席を維持した。秀才のコニーは次席である。
「断っておくが、フェルミは自分を消耗品だとはけっして言わないぞ。あいつにはプライドがある。趣味で理論物理学を研究しているが、本業は見失っていない」
「わかってるわよ」
コニーは鞄《かばん》の中の辞職願いのことを思い出した。これが終わったら辞めるつもりだった。辞めてどうするかは決めていない。ラペルラの記者にでもなろうかと洒落《しやれ》で考えているくらいだ。その思いを頭の中で破いた。
「もう一回、あの店に潜りましょうか?」
「コニー。君は駄目だ。面が割れている。俺が潜る」
「あたしがやるわ。これでも養成学校ではトップだったのよ」
「駄目だ。君はまだ現場には慣れていない。下手したら死ぬぞ」
「嫌よ。今までケチな仕事しかしてこなかったんだから。そろそろあたしを評価してくれてもいいはずよ」
「君の働きぶりは本部も認めている。ワイリーとバックアップに回れ」
「もうっ。男はいつも美味《おい》しいところを持っていくんだから」
「来るかね。哥哥《クークー》」
「来るさ。盗聴器の前であれだけ派手にやったんだ」
「迂闊《うかつ》だったね。カメラの死角だったよ」
静まり返った店内で、テーブルを挟んだふたりが紹興酒を呑んでいる。
「ところで、例の奴は大丈夫なんだろうね、哥哥」
「ああ、きちんと引き渡してやる」
「これで党に戻る土産になるよ」
劉は世界中に展開する中国国家安全部の海外部員でもある。土産を手に党員名簿を三十位まで一気にあげるつもりだ。ひとつ裏の国家安全部の隠れ蓑《みの》は公安からすでにマークされているが、そのおかげで「|GAOTU《ガオトウ》」まで辿《たど》り着けない。劉は周到な女だ。ときどき公安を刺激するために、わざわざ国家安全部の手口を使って活動する。味方さえだますのはキャラダインと同じだ。裏部屋の人間はキャラダインを共産党員と勘違いしているほどだった。
「本業に専念してほしいものだな、姐姐《ジエジエ》」
「身過ぎ世過ぎは上手《うま》くないとね。おまえだってアメリカ軍の将校じゃないか」
「単に都合がいいからだ。引き渡す代わりに、こちらの要求も飲ませるんだ」
「もちろんだよ。あたしだって党の犬じゃないからね」
ブルーチャイナの地下三十メートルにある発令所の鋼鉄のドアが開いたとき、最初に見えるのが「GAOTU」というプレートだ。メインスクリーンの前に座ると世界地図が表示された。メルカトル地図上にアフガニスタン、イラン、トルコ、イラク、ポーランド、スーダン、コロンビア、中国、チベット、日本、ベトナム、カンボジアの都市が赤く点灯していた。
「これからもっと増えるだろう。次はバルカン半島のどこかと、ナイジェリアだな」
「なかなか条件のいい土地だからね」
「理想としては同時かつ複合的に行いたいものだが」
サングラスに反転した世界地図が映る。
インターホンが鳴った。
『大老、ガオトゥ・ロンドン総本部からです』
スクリーンに測量用の道具であるスキリットの影が現れ、その上に「GAOTU」の文字が展開する。映像はそれだけで音声が流れた。
『キャラダイン。劉。優先度Bだったアフガニスタンの情報がCIAに漏れたようだ。先程の最高評議会でオキナワが優先度Aに格上げされた。くれぐれも失敗するな』
「もちろんです。こちらはすべて順調です。ご心配なさらないように」
『劉。中国共産党の動きを探れ』
「党はまだ南京には気づいていない様子です」
『南京は優先度Cのままだが、アフガニスタンの影響で繰り上げることが検討されている。最初のペンタグラム計画に入る前に、現地の調査を行え』
二人が畏《かしこ》まると、メインスクリーンが通常モードに戻った。劉は、大きく息を吐いた。キャラダインは終始表情を変えない。同志の劉でもキャラダインが何を考えているのか読めなかった。とにかくキャラダインはGAOTUの人間の中でも特別な存在だ。劉は訝《いぶか》しむ。彼女がGAOTUに誓願して二十五年経つ。中国国家安全部の立場をフルに利用して組織に貢献し、この地位まで上り詰めてきた。しかし、キャラダインはつい半年前に公式に登録されたというのに、位階は劉より数段上だ。GAOTUに賄賂《わいろ》はきかない。アメリカ軍の将校であろうと、優遇されることはない。世界各国の政府中枢にメンバーがいるのだ。ひとつ考えられることは、GAOTUは血統を重んじるということだ。
「あんた一体何者なんだい。哥哥」
「しがない空軍中佐にすぎない」
キャラダインは相手の思考を読むのと同時に、自分の思考を相手に読ませることはしない。
「まあいいさ。その空軍の立場を利用して、ちょっと働いてもらうよ。哥哥。南京に入る前に、土産が必要だよ。中国人と仲良くしたかったら贈り物は大切さ」
「一億ドルとはちょっと高いぞ、姐姐」
「その代わり、味方につけたらあそこほどやりやすい国はないよ、哥哥」
「まるで賄賂だな」
「贈り物だよ。これだからアメリカ人は困るよ。中華世界帝国は三千年前からこのシステムなんだ。たかだか建国二百年のアメリカに説教される筋合いはないよ」
『大老、大姐。準備ができました』
再びスピーカーが響く。
「店を休業しなけりゃならないとはねぇ。観光シーズンでかきいれ時だったんだよ」
「CIAにマークされたんだから仕方がないだろう。李、鰐《わに》の剥製《はくせい》を降ろしてこい」
『わかりました。すぐにお持ちいたします』
「システムダウンしないように、張にリプログラムさせているかい」
『大丈夫です。光ファイバー網の一部損失だけで済みそうです』
スクリーンが地下施設にアクセスするルートを表示している。劉はてきぱきと指示をくだした。旧ハンビー飛行場の軍用核シェルターだけあって、三年は自力で稼働できるほどの規模と設備である。米軍はハンビー飛行場返還のとき、日本の非核三原則に抵触するので、この施設の存在を隠蔽《いんぺい》した。このシェルターの電力は核エネルギーである。復帰前に配備されていた弾道ミサイル「メースB」を解体したときに出たプルトニウムを利用しているのだ。
「姐姐。なぜGAOTUに入った」
「あたしは理想家なのさ。パックス・ガオティカの理念に心底|惚《ほ》れこんだ。それに歴史があるのもいいね。伝統と文化に中国人は敬意を表するのさ。あんたはどうしてだい」
キャラダインは煙草に火をつけて、長い煙の中に言葉を吐いた。
「三千年前からの夢だった」
[#改ページ]
Lequios
東シナ海と太平洋は、どうしてこんなに性質が違うのだろうか。両者を一度に比べれば、その違いは赤と緑ほどの差を見出せるだろう。東シナ海はとにかく優美である。海面全体が光の反射の化粧をし、その下から地のエメラルドの肌を見せる。透明度も抜群で、水深三十メートルくらいまでは、明けの穏やかな光に満ちている。リゾートホテル群がこぞって東シナ海側に進出するのは、このためである。一方、太平洋は神聖に満たされた海だ。目の前から始まるインクブルーの海水は、文字ひとつ書くことを許さない。そして強烈な日差しを浴びせる亜熱帯の太陽でさえ、海の素顔まで晒《さら》すことは不可能だ。だから沖縄本島最大の霊場であるセーファ御嶽《うたき》が、太平洋に面しているのは、ごく当然のことなのかもしれない。
「こんなとこ沖縄にあったなんて信じられないわ」
(私は|東御廻り《あがりうまーい》のとき、三度来たことがあるぞ)[#「(私は|東御廻り《あがりうまーい》のとき、三度来たことがあるぞ)」はゴシック体]
デニスは従姉《いとこ》の小百合の誓願式のため、セーファ御嶽にやって来た。バイクのエンジンが止まったとき、森のざわめきが黒い少女を物珍しそうに囲んできた。
深い森は全体的に黒く、僅《わず》かな日差しの中に緑の葉が揺れる。この霊場は山全体に展開し、ひとつの神秘空間となっている。参道に立つと、頂上から吹きつける風が妙に潮の香りを放ち、拝みに来た者の嗅覚《きゆうかく》をまず麻痺《まひ》させる。そして御門口から先は男子禁制の場が始まり、古くはここを拝む男子は女装をして参ったという。参道の中程に大《おお》庫理《こうり》と呼ばれる中枢がある。ちょうど神社の本殿に当たる箇所だ。そこから道なりに登っていけば、浜としか思えない空間が開けている。山と海が拮抗《きつこう》する浜には龍神を奉ってある拝所《うがんじよ》がある。そこは鍾乳石《しようにゆうせき》が絶えず水滴を落としている。ここまで来ると三庫理と呼ばれる最終地点までもうすぐだ。ぐるりと浜を右回りに歩けば、巨大な一枚岩が重なった直角三角形の天然回廊が出現する。はるか頭上で三十度の頂点を作るそれは、ピラミッド内部の大回廊のようだ。回廊の終点は、セーファ御嶽の中枢である伝説の神女、聞得大君《きこえおおぎみ》を奉った拝所である。まさに世界中を探しても、これほど幽玄な空間を見つけることは困難だろう。この圧倒的スケールの中で、三庫理は意外にも、ちょっと気のきいたリビングルームのようなこぢんまりとした印象を与える。
香炉の前方には、神話の島である久高《くだか》島が五・五キロほど沖合に浮かんでいる。三庫理から眺める久高島は亜熱帯の樹々の額縁に囲まれ、絵画的な雰囲気さえある。祖神アマミキヨはまず久高島に降り、沖縄本島に第一歩を印したのは、ここセーファ御嶽といわれている。
沖縄全体にはこのような御嶽が何百とあるが、神聖にして厳かなる神秘空間は、唯一セーファ御嶽だけである。
(本当はもっと美しかったはずなのに。なぜこんなになったのだ)[#「(本当はもっと美しかったはずなのに。なぜこんなになったのだ)」はゴシック体]
石段の参道を軽々と踏み越えていたデニスが立ち止まった。
「たぶん、米軍の艦砲射撃で崩れたのよ……」
(ペリー提督のサスクェハナ号が大砲を撃ったのか?)[#「(ペリー提督のサスクェハナ号が大砲を撃ったのか?)」はゴシック体]
「はいはい。そんなもんです」
平地が盆地になるほどの爆弾が落とされた沖縄戦で、島の形は変わった。京都を攻撃しなかった米軍は、首里城やセーファ御嶽には容赦ない爆撃を繰り返した。戦略的意義の前にルールはない。先の戦争は日本軍の愚かさに尽きる。沖縄を最終防衛線にした時点で敗戦は決まっていた。あとはただのゲリラ戦である。デニスはそのような歴史をアメリカの論理と沖縄の論理のふたつ学んだ。もうわけがわからない。自分は加害者の子なのか、それとも被害者の子なのか、とにかく考えると頭が痛くなる。ふと思うときがある。自分が大人になって理恵たちとフェンスを挟んで対立している構図だ。デニスは、けっして言わないが、基地を残してほしいというのが本音である。いつか大声で言ってみたい。私の故郷を奪わないで、と。
歴史は繰り返す。ペリーの琉球植民地化の夢は百年後に実現した。そして制度上の支配は済んだが、実質的な米軍支配は、日本政府によって支持されている。江戸幕府が薩摩《さつま》に独占を許した時代と何が変わるのだろうか。
「浜が開けている」
(このカラクリは何度来ても驚かされるぞ)[#「(このカラクリは何度来ても驚かされるぞ)」はゴシック体]
心地好い突風がデニスの抱えていた気持ちを洗い流してくれた。今のままでいい。そんなふうに思えてくる。自然の力を借りずにそう思えるようになるには、まだ時間が必要だ。
儀式がしめやかに執り行われようとしていた。小百合がノロの正装である白装束を着て、御嶽の前に現れる。先代のノロは小学校五年生のときから巫女《みこ》として、この御嶽を治めた。彼女が高齢で歩くのに難儀をしているため、小百合が就任することになった。彼女にはもう迷いがない。ノロとして生き、ノロとして死ぬ。運命を受容するまでにいくらかの抵抗をしたが、それは過ぎ去った青春の思い出である。ノロ装束を着た瞬間、彼女の青春は終わった。そして開けた未来はこんなにも透明だ。小百合は清々しい気持ちに、心地好さを覚えた。幸福はいつでも彼女の側にあったのだ。
「小百合ネーネー。デージ奇麗……」
(あれこそ、聞得大君に相応《ふさわ》しい品格だ)[#「(あれこそ、聞得大君に相応《ふさわ》しい品格だ)」はゴシック体]
長い髪をまとめて、鉢巻きを垂らした小百合は、周囲の視線など気にならなかった。これからこの御嶽を護《まも》っていくことが、彼女の一生を賭《か》けた仕事である。覚えるべきことは山ほどあった。世襲とはいえ、小百合は沖縄最大の霊場セーファ御嶽を治めるノロの頂点に君臨したのだ。
厳かな祝詞《のりと》が唱えられる。デニスには意味がわからない。おそらく誰が聞いても、ノロの言葉はわからないのではないだろうか。古い沖縄言葉を使っているとはいえ、独特のリズムと口調は、魔術的である。羽織っただけの小百合の着物が風に嬲《なぶ》られ、マントのようにひるがえった。ふと視線をずらすと、小百合の近くに見慣れない恰好《かつこう》の女がいるではないか。
「え。金髪の女子高生?」
なんと直角三角形の回廊から現れたのは、偉大なるナルシスト、サマンサ・オルレンショー博士である。どうやらノロが誕生すると聞いて、調査にやってきたようだ。それにしても、今回のコスチュームは女子高生である。
「ハーイ、デニス」
サマンサは文化人類学と称して、いろんな世界に首を突っ込む。この好奇心の旺盛さが、知性の源である。
Shame on you
「女子高生ヂラー?(って感じー?)」
サマンサは沖縄の女子高生の言葉さえ体得していた。このこだわりは並みのものではない。デニスは、はっと気がついた。サマンサが着ている制服はデニスの高校のものだ。
「この制服。まさかあたしの……」
そういえばサマンサが家に遊びに来て、それから制服が一枚なくなっていた。変質者が盗んだとばかり思っていた。その通りだ。変質者は男ばかりではない。
「この変態っ。あたしの制服にサマンサ菌を伝染《うつ》すんじゃない」
「だって、丈が合うのはあなたの制服くらいしかないんだもん。くすくす」
「ふざけんな。あたしの従姉の誓願式を邪魔するな。この変態女」
くるっと回転して白衣を羽織ったサマンサは急に真面目な顔つきになる。
「それを調査しに来たのよ。ちゃんと教育委員会に許可を得ているわ」
来賓がぞろぞろ集まると、こぞってサマンサをもてなした。
「いやー。オルレンショー博士がいらっしゃるとは思っていませんでしたなー」
「なにかご質問があれば、何なりとお申し出ください」
「資料の方は英語で用意させておりますので、目をお通しください」
一般人には理解不能の領域に達した彼女は、次元を超えて活動する生命体のようなものだ。小百合の儀式を観察しながら、アジアの成巫《せいふ》過程と類型するヒントを見つけたみたいで、忙しくメモをとっている。サマンサは二十一世紀を牽引《けんいん》する空前絶後の天才だ。ここでサマンサ・オルレンショーを詳しく分析してみよう。
一、サマンサのステージは高すぎる。
サマンサは自信があるから、どんな誹謗《ひぼう》や中傷も意に介さない。これを体得した者は人生思いのままだ。世界中どこに行っても一流で通用する。彼女は修行のいらない希有な存在だ。そこらへんの僧侶や、教祖様なんかより、よっぽど人生の意味について知っているし、理屈や承認すら必要ない。その意味で彼女のステージはダライ・ラマ以上の高さだ。
二、サマンサのステージは低すぎる。
文化の枠組みから外れたアウトサイダー志向は、名うての性犯罪者も裸足《はだし》で逃げ出してしまう逸脱ぶりだ。しかし彼女は性犯罪者ではない。なぜなら彼女の嗜好《しこう》を満足させるのは常に自分であって、他者の介在を許さない。完全なるナルシズムを体現したサマンサに相手は必要ない。自分をいじって遊ぶのが至福の喜びである。(しょーがない奴だ)
三、まとめ。
多義性を共存させているサマンサを測る物差しは、この世に存在しない。むしろ彼女を基準に新しい物差しを作るべきだ。イメージは変態的に、ロジックは天才的にまで進化させた彼女は、右脳と左脳のバランスがとれている。その中間にあって自在に制御できるのがサマンサの人格である。ホモ・サピエンスを超える狂った人間、即ちホモ・デメンスの最右翼こそ、サマンサ・オルレンショー博士である。
「セヂの文化ね。なるほど……」
サマンサがペンを走らせている。気になったデニスが覗《のぞ》き込むと、走り書きのメモが一見、無意味に並んでいる。その中で〈SEDI〉ということばに二重に線が引かれているのを見つけた。
「ねえ。サマンサ。そのセヂって何?」
「あなたオキナワの生まれなのに、セヂも知らないの」
サマンサが面倒くさそうに説明する。
「これはマナみたいなものよ。セヂはおそらく系統を表す〈筋〉から来ている言葉じゃないかしら。日本語はあなたの方が得意でしょ」
また言葉がわからない。
「マナって何?」
「あなたマナも知らないの?」
デニスはどうあがいてもサマンサには勝てない。
「マナはオセアニアを起源にする霊的能力の概念よ。善悪に関係なく働く超感覚と言っていいわ。十九世紀の末にイギリス人の宣教師であり民俗学者だったコドリントンが『メラネシア人』で紹介したの。ペリー提督みたいな人ね。そのマナにセヂは似ているのよ」
そう言って資料の「おもろさうし」を開いた。これはちょうど日本の「万葉集」と「祝詞」と「古事記」の三つにあたる沖縄の古文書で、いまだ謎の多い文献である。
「ただセヂがマナと違うのは、主体が人間原理だというところね。人間に憑《つ》くと超人になり、武器に宿ると神秘的な力を発揮し、門に宿れば災いを祓《はら》い、杜《もり》に宿れば聖地になるわ。マナは物質そのものに力があると考えて、人間と物質が切り離されるものだから、ここが面白いわね」
精神と物質の境界を規定しない風土で誕生したセヂは、超感覚というより世界観のひとつと考えた方がよい。人間と自然が不可分になりながら、双方向に作用する。
「ふーん。サマンサって頭いいんだー」
切り替えの遅いデニスは初めてサマンサを人間として見た気がした。
「アソコに宿れば名器になるのよ。くすくす」
「前言を撤回するわっ」
デニスが怒ると態度を豹変《ひようへん》させて、また学者の顔になる。これについていけないと、サマンサの半分しか理解したことにならない。
「ねえ、そのセヂって沖縄だけのものなの?」
「マナやセヂと同じ考え方は世界中のどこにでもあるわ。たとえば北アメリカの先住民スー族の〈ワカン〉やアルゴンキン諸族の〈マニトゥ〉。トリンギット族の〈イェク〉。ハイダ族の〈スガーナ〉。イロコイ諸族の〈オレンダ〉。クワキウトル族の〈ナウアラ〉。ショショニ族の〈ポクント〉……。きりがないわ」
サマンサの生涯をかけた研究テーマがこれだ。名前や詳細は風土によって異なるが、世界中に広く存在する。単純にひとつの文化が伝播《でんぱ》したのではない。人間が直感的に獲得する概念なのだという。これらが巧みに宗教と融合することで、現代の西洋にも息衝《いきづ》いていると確信している。それが教条と結びつく前の段階が沖縄に存在しているから、研究にはもってこいなのだ。
「セヂは人によって量が違うだけで誰にでもあるものよ。たとえば武力のある者は、それだけセヂが多いということ。セヂの多い者が持つ武器はそれにセヂが宿り威力を高める。頭のよい者はセヂが人より多く、彼の筆に言霊《ことだま》が宿り、何千年という生命を獲得する。音楽の上手《うま》い者も人よりセヂが多く、楽器に声を与えて感動させる」
「じゃあ、コザのユタのオバァとかも……」
デニスはあのインチキ占い師のことを思い浮かべていた。
「そう。彼女のセヂは極端に多いわ。あんな目茶苦茶な占いをしていても、絶対に外さないでしょう。それは内的空間と外的空間を統合しているからよ。当たるのではないわ。その通りに人の運命を変える力を持っているの。それがユタのセヂよ」
「じゃあ。あのオバァが『あんたは死ぬ』ってなんとなく言ったら……」
「本当に死ぬわよ。それを西洋では黒魔術というの」
デニスがゴクリと唾《つば》を飲んだ。
「そこでビビるから駄目なのよ。ユタの言霊を撥《は》ね返す力を持てば、彼女の言う通りにはならないわ。そのためには、やはりセヂが必要だけど」
サマンサはかつてあのコザのユタに「フェルミという男が研究の先を行っている」と告げられたとき、不屈の闘志ですぐに追い抜いた。「パンティを穿《は》かないとレイプされる」と告げられたときも暴漢に襲われかけた。しかし得意の変態|目晦《めくら》まし攻撃で相手の頭をチカチカさせて逃げきった。「交通事故に遭う」と言われたときも、突進してくる大型トラックを前に片輪走行で危機一髪、難を逃れた。サマンサのセヂも大したものだ。彼女クラスの能力を発揮するためには人間百万人分のセヂが必要である。セヂは運命的に宿り、さらに多くのセヂを必要とするなら、要求するしかない。サマンサは持ち前の強欲さで周囲の人間のセヂを吸収しまくって恐竜的セヂを獲得した。ユタのセヂとサマンサのセヂは表現形の差はあれ同質のものだ。そしてサマンサはユタの言霊を弾く力を持っている。
「あたしもセヂがほしいな……」
何も知らない若者はいつもそんなふうに考える、とサマンサはデニスをたしなめた。
「セヂを獲得したければ、意志を強く持ちなさい。覚悟を決めるのよ。そしたら黙っていても、いらないって言っても、どんどんセヂがやってくるわよ。力のある者にセヂは流れる。これは当たり前のことよ。今日もここに来がてら、沖縄病の日本人からセヂを奪ってきたわ。あんなくだらない奴にセヂはいらないもの」
「あたしのセヂを取らないでよ」
「馬鹿ね、とっくに奪ったわよ。くすくす」
デニスが腰を抜かしてぺたりと座りこんだ。
「この程度で驚くから駄目なの。取り返してやるという気概がないから、ナメられるのよ。魂は正直よ。強い魂が弱い魂を駆逐していくもの。いくら民主主義でも、これは変えられないわね。だから世の中あたしの思う壺《つぼ》。くすくす」
小百合の儀式が中盤を折り返した。彼女はノロになると決めたとき、セヂの力に目覚めた。意識しないときは、踏んだり蹴《け》ったりの人生だったのに、覚悟を決めたとき、自分本来の力をやっと獲得した。彼女のセヂはセーファ御嶽にいつもうねっていたのだ。
「そして最高の神女である聞得大君にはオキナワ最大のセヂが宿るのよ」
「小百合ネーネーってすごいんだ。でもどうして最大のセヂが必要なの」
「並の人間がキンマモンを降ろしたら即死するわよ。やはりあたしの勘は正しかったわ。セーファ御嶽のノロこそ『要《かなめ》のもの』なのよ」
御嶽では先代のノロが小百合に心構えを伝えている。
「いいかい、小百合。おまえの身体にはキンマモンが宿る。これを良き方向に導くためには、おまえの心がいつでも澄んでいないといけない。怒りに身を任せたらキンマモンは国土さえ滅ぼす。まあ、おまえのことだ。品格は保証できるから、安心しているがな」
小百合が小さく頷《うなず》いた。
一陣の風が久高島方面から三庫理に吹きつけてくる。空気の形が見えるほどの、冷たい風だった。
すると空間から澄んだ歌声が聞こえてきた。
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一 きこゑ大ぎみが
おぼつせぢ おるちへ
あんじおそいよ みまぶて
きみきみや おぼつより かへら
又 とよむせたかこが
かぐらせぢ おるちへ
聞得大君が
オボツの霊力を降ろして
国王様を守護し
君々はオボツから帰ろう
鳴|響《そよ》む精高子《せいたかこ》が
カグラの霊力を降ろして
[#ここで字下げ終わり]
「何いまの?」
デニスの耳に奇妙な謡《うた》が届く。まるで空間が振動して声を生み出しているようだった。あたりを見渡しても誰の声かわからなかった。そら耳にしようとまた儀式を眺めたときだ。
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一 きこゑ大ぎみきや
さやはたけ おれわちへ
うらうらと
おさうせやに ちよわれ
又 とよむせたかこか
よりみちへは おれわちへ
聞得大君が
セーファ御嶽に降り給いて
国王様は心のどかに
お思いのようにましませ
鳴響む精高子が
寄満に降り給いて
[#ここで字下げ終わり]
「いやだ。わかるわ、この言葉。どうして?」
異国の言葉にしか聞こえないのに、意味が明瞭《めいりよう》に彼女の身体に入ってくる。かつて聞いた子守唄のように懐かしい響きを伴い、心がどんどん澄んでいくような感覚が生じる。しかしデニス以外は誰もこの歌声が聞こえていないようだ。それは小百合も同じだった。
今、小百合は先代のノロから心得を受けているところだ。跪《ひざまず》いた小百合が緊張した面もちで先代の言葉を聞いている。
「聞得大君の霊力を小百合に授ける。おまえが聞得大君の声を聞き、そしてキンマモンを操る力を得るのだ。覚悟はできておるな」
「……はい」
小百合は唇を噛《か》んだ。
次第に風が渦を巻いて強くなる。樹々がざわめき、梢《こずえ》が揺れて、新しい聞得大君の誕生を祝福しているかのようだった。
「これから毎日、朝と夕、ここで拝むのだ。それが最高神女の役目だ」
「……はい」
三たびあの声がする。
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一 きこゑ大ぎみぎや
あまみや世の うぶ玉
うぶだまは
いのるすど よがける
又 とよむせたかこか
聞得大君が守護する
大昔からの産玉よ
その産玉を
祈る人こそ世を支配する力なのだ
鳴響む精高子が守護する
[#ここで字下げ終わり]
「どうしよう。わかるわ。この意味。どうしよう」
デニスの脚は震えていた。どこを見渡しても、声の主が見えない。小百合が最後の祈祷《きとう》を捧げている。衆人は皆、静かに彼女を見守っていた。
「最近の娘にしては、なかなか風格のある娘ですな」
「さすが聞得大君の巫女《みこ》だけのことはあります」
「生まれたときのセヂの力が違いますからな。世継ぎは彼女だけだったと言いますから」
デニスは卒倒しそうだった。まるで遠い世界から彼女にだけ聞こえるように、仕組まれている謡としか思えない。
(おい。これは聞得大君のオモロだぞ)[#「(おい。これは聞得大君のオモロだぞ)」はゴシック体]
「何それ。あたし何も聞いていない」
(嘘をつくな。これは琉球を守護するセヂにしか聞こえないという)[#「(嘘をつくな。これは琉球を守護するセヂにしか聞こえないという)」はゴシック体]
これは夢ではないか、と何度も脱出を試みたが、力が入らない。守護霊が断言した。
(おまえが新聞得大君ということだ)[#「(おまえが新聞得大君ということだ)」はゴシック体]
夕日を背にして高級リゾートホテルに現れたのは、しおらしい喪服の女だった。初めは逆光のせいで黒っぽく見えるのかと思ったが、彼女は上から下まで完璧《かんぺき》に黒ずくめである。ヴェールのついた帽子を被《かぶ》り、手袋をした手で純白のハンカチを握り、時おり頬を拭《ぬぐ》う。洗練された上流婦人の消沈《しようちん》を見て、ロビーにいた人たちもついもらい泣きしてしまった。女は大理石の柱に凭《もた》れたり、立ち止まって溜《た》め息をついたりと傷心著しい様子だ。彼女の一挙手一投足にホテル中が注目していた。女は終始顔を伏せがちにして、エレベーターの前に立つ。ハラリと落ちた彼女のハンカチをベルボーイが拾った。
「マダム。どうかお気を強くお持ちください」
女はヴェールの編み目から、してやったりと笑う。
「だって今日は私の処女膜が死んだ日なのよ。くすくす」
ボーイは顔が「・」になったまま硬直した。そんな彼を尻目《しりめ》に女はシースルーエレベーターに乗ってスカイラウンジまで昇っていく。ホテル中が注目していると知って、窓側で涙を拭《ふ》いたりと細かな演技も忘れない。
レストランで席に案内されてきた婦人に、座っていたヤマグチは度胆を抜かれた。
「あの。オルレンショー博士ですか?」
「ええ……」
てっきり変態の恰好で現れると思っていたのに、今日の彼女はまるで別人のしおらしさだ。喪服にハラリとかかった金髪がやけに輝いて見える。不幸とわかっていても、色気を感じてしまう自分に恥を知れと何度も叱ったが、ついまた首すじを見て唾を飲み込む。
「すみません。ご不幸があったとは露知らず。日を改めても結構ですよ」
サマンサは気にしないでくれと、ハンカチで頬を拭った。
「ご結婚されていたのですか。どうかお気を落とさずに。いや、すみません……」
サマンサはニヤリと笑った。
「だって、メールを運んでくる熊ちゃんが死んだのよ。くすくす」
「……では、本題に入ってよろしいですねっ!」
ヤマグチは憮然《ぶぜん》とメニューを広げた。
「ワインは何になさいますか。赤? 白?」
「アンネ色のワインを。くすくす」
「・」
英語だからどんな会話なのかソムリエはよくわかっていないみたいだ。
「グラスワインで。そうね、二〇ミリ・リットルくらい」
「なんですか。その半端な数字は」
ヤマグチが聞くと、サマンサがまた笑う。
「あなたがこの前、射精した量よ。くすくす」
「なんで知ってるんですかーっ」
すっかりサマンサのペースである。
「では、お食事の方は?」
「そうね。三百グラムステーキをレアで」
喪服の美女が葬式帰りに、血の滴る三百グラムステーキを食べる。なんかエッチだ。「死と生」「タナトスとエロス」サマンサのシンボルの使い方は非常に高等である。
サマンサが肉をガツガツと食べている様を見たヤマグチは、なぜかくらくらしてしまった。
相手が飲まれていると承知したうえで、サマンサは脇に置いていたペンを肘《ひじ》で弾いた。
「あ。僕が拾いますから」
いつか体験した嬉《うれ》しい記憶が、反射的に脳裏を掠《かす》める。腰を落としてペンを取る。彼女が椅子に座ったままパッと脚を開いた。心得てヤマグチがスカートの中を覗《のぞ》く。サマンサがニヤリと笑う。
「て、貞操帯だあっ」
革製のパンティに、巨大な鋼鉄の錠がゴロリとぶら下がっていた。それはヤマグチの逸物よりも遥《はる》かに存在感があった。喪服に貞操帯、これでもう完璧な未亡人である。ノーパンよりもエッチだ。
一度得たワレメのイメージを封印させたサマンサは、常に男の一枚上手を行く。これでヤマグチの煩悩が重層的になり、記憶の一番深い部分に焼きつけられてしまうことになる。
「あなたの頭ってソレしか考えられないの? 猿と同じね。くすくす」
「くっそー。また言われたあっ」
ヤマグチが頭を抱えて絶叫していた。あまりの騒がしさにマネージャーが飛んできた。
「お客様、お静かに願い……ん?」
チョンチョンと指でマネージャーの膝《ひざ》が叩《たた》かれる。サマンサがワンピースの裾《すそ》を上げて待ち構えていた。
「え。貞操帯?」
すぐにパッと隠して、しおらしい未亡人になる。一瞬の幻を見たのかと支配人が頭を抱えて去って行った。またサマンサの一本勝ちだ。
息があがって気を取り直すのに、ヤマグチは水を三杯も飲まなければならなかった。すっかりオルレンショー博士が変態であることを忘れてしまっていた。この女に常識とか、手加減とか、市民的な優しさはないのだ。
「そ、それで、ディスクの前に、博士の考えをお聞かせいただけませんか」
彼はまだ頭がくらくらしている。
「レキオスについて?」
ヤマグチはゴクリと生唾を飲んだが、どういう意味なのか自分でもわからない。
「博士はオキナワでレキオスを研究されているとおっしゃいました。レキオスって一体なんですか。未知の生物ですか。誰がつけた名前なんですか。なんでレキオスって言うんですか」
「一気にしゃべらないで」
サマンサがフォークを置いてウインクする。
「夜は長いのよ※[#ハート白、unicode2661]」
「で、では。な、名前から。お願いします」
サマンサがグラスワインを一気に飲み干して、口についた赤ワインを舌でグルリと回して舐《な》め取った。
「レキオスは現代では使っていない古いポルトガル語よ。トメ・ピレスという十六世紀の探検家が『東方諸国記』の中で公にしたのが最初。正しくは〔Lequio〕と表記されて、中性名詞の活用をするから〔Lequios〕『琉球人』と一般に訳されるわ」
「レキオスってポルトガル語で〔Okinawan〕ってことですか。なんだ」
「あなた早漏なんじゃないの。くすくす」
「ちがいますっ」
「話は最後まで聞くのよ。〔Lequios〕の原意はあなた方、アメリカ軍のオキナワの呼び方と同じなのよ。あなたアメリカ空軍の人間なら、オキナワをなんて呼ぶのかわかるでしょう」
ヤマグチは語気を強めて単語を区切った。
Keystone of the Pacific
「そう。『太平洋の要石《キーストーン》』。オキナワを中心に半径三〇〇〇キロメートル以内に東アジアと東南アジアの主要都市がすべて入るわ。だからカデナがあるんでしょう」
「それとレキオスの意味とどう関係があるのです」
「だから名前の話をしているの。今のはアメリカの世界の認識の仕方よね。パックス・アメリカーナは世界の見方を変えたのよ。それはかつてのポルトガル人と同じ。彼らも短い間だけど中世に世界を支配したわ。レキオスはそのときの世界観を表しているの」
サマンサはペンを取り出すと、なんとテーブルクロスの上に東アジアの地図を描きだしたではないか。これを見ていたボーイも仰天した。マダム……と止めようとしたが、喪服の美女の効力は絶大だ。じわっ、と涙目を浮かべただけで「どうぞ」と笑顔までかけられた。まさにサマンサの思う壺である。
「これが長安。高麗《こうらい》。ジパング。十六世紀のヨーロッパ人の東アジア観はだいたいこんなものね。いい?〔Lequio〕のポルトガル語の原意は『扇』なの。それも『要《かなめ》』の部分。三つの国の要にオキナワがある。だから〔Lequio〕が琉球を表すようになったの。派生語のレキオスは『要のもの』という意味が正しいと私は主張するつもりよ」
サマンサは一四五八年に尚泰久王《しようたいきゆうおう》が鋳造させ、首里城正殿に掛けられていた「万国|津梁《しんりよう》の鐘」と同じことを言っている。その鐘にはこう彫られている。
[#ここから1字下げ]
「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾《あつ》め、大明を以て輔車《ほしや》となし、
日域を以て唇歯《しんし》となす。此の二の中間に在りて湧出《ようしゆつ》する蓬莱《ほうらい》島なり。……」
[#ここで字下げ終わり]
文化の交差点にあたる琉球王国は、東アジアの中継貿易地として発展した歴史がある。現在のシンガポールと同じ路線である。経済の中心から戦略の中心へと意味を変えたが、依然、沖縄は要に当たる地理的特性にある。
サマンサは四百年経っても人間の物の考え方は少しも変わらないと笑った。ただ名づける国が変わっただけである。
「これがレキオスの名前の由来ね。次はなんだったかしら」
「レキオスは何かということです」
「それがわかったら、とっくに本を書いてピュリッツァー賞をとってるわよ。だから鋭意調査中なのよ。授賞式にはあなたがエスコートしてくれるかしら。額に『豚』って焼き印した奴隷の恰好でね。くすくす」
サマンサは自分もスティグマの押された人間だということを忘れている。見る人が見れば、(それは誰でもだが)サマンサの額には「変態」という刻印が押されているのがわかるだろう。
「僕は豚ではありませんっ」
彼女は屈伏しない強靭《きようじん》な精神力と理念を持ったタイプの男を跪《ひざまず》かせ、プライドを打ち砕くのが大好きだ。砕いたらあとはポイと捨てるのみだ。
「それでも博士は手掛かりを掴《つか》んでいらっしゃるのでしょう」
もちろん、とサマンサはノートパソコンを取り出した。付箋《ふせん》紙がベタベタに貼りつけられてボディの色さえ見えなくなった研究者のそれは、二十ギガバイトのハードディスクを以てしても、サマンサの思考を収めきれていない様子だ。ディスプレイを開くと、パラパラと付箋紙が落ちていく。
「あ、僕が拾います」
とヤマグチが席を立つ前にサマンサがパッパと拾う。ヤマグチは惜しい、と舌打ちした。
パソコンを起動させた彼女は、知性の方が優位に立っていた。鞄からフレームの大きな眼鏡を取り出すと、別人の顔になった。ヤマグチはキーを叩《たた》いている彼女こそ、オルレンショー博士だと思った。カタカタと鳴るそれは、明晰《めいせき》な彼女の思考そのものだった。
「私は今まで通常のアプローチをしていたから破綻《はたん》したけど、部分はどうでもいいことがわかったの。大切なのは全体で、それがどんな意味を持つかでしかレキオスは捉《とら》えられないんじゃないかと考えたわ。それから逆説的なソシュールの分類を始めればいいのよ。有縁性から恣意《しい》性に小さくしていくのね。それを終えて演繹《えんえき》に戻せば思考プロセスになるわ。因果関係が見えてくるというわけよ」
「??????????」
ヤマグチの頭の中はエラーが生じていた。
「すみません博士。英語をしゃべってくれますか?」
「英語で話しているでしょう! もう。これでもやさしく話しているのよ」
「だからもっと簡単にです。僕は軍人で人類学は専門外なんですから」
わかった、とサマンサは一呼吸置いて、頬杖をつきながら話す。
「リンゴさんが2個お、ミカンくんが3個お、お店に並んでいますう。合わせてえ……」
「そこまで簡単にしなくてもいいです。僕、情けなくなってきました。ううっ」
ヤマグチのベソを見て、サマンサはくすくす笑う。そして眼鏡の端を指で持ち上げると、
「あなたカオス理論って知ってるかしら?」
と間を置いた。
「知ってます。非線形方程式を士官学校で習いましたから。でも、全然わかりませんでした」
「名前だけ知っていればいいのよ。入れ子の方程式を解いていくんだけど、これが面白い結果を出すの。個体の特徴的な因子を抽出して作ったこれを、了解モデルAとするわね。このAを次々と連鎖させるの」
サマンサが画面をクリックする。二次元グラフが表れ、スタンバイにセットした。
「これがレキオスの一面ね。わかりやすくするために、単純なグラフにしてあるだけで、三次元にしたら、スパコンが必要になるからやめたの。いい? これから現れる線の流れだけを見るのよ」
「はい……」
x軸とy軸の領域を一本の線が小刻みに蛇行しながら上昇中である。
「カオス式を走らせたわよ。今が約一万回の演算結果。次が三万回、五万回って上がるわよ。はい。ヘビさんがにょろにょろ進みまーす」
ヤマグチは笑みを浮かべながら、ディスプレイを覗《のぞ》いた。蛇というよりミミズが這《は》っているような線だった。
「十万回を超えたわね。まだ上昇中でしょ。これがどうなると思う?」
「さあ。このままなんじゃないですか」
「見てなさい。十三万回、十七万回、そろそろよ。十九万回……」
すると、ディスプレイの線が突然変化した。
「あ。落ちた」
ここで演算終了の結果が表示された。
「二十万回で線がカクッて折れたでしょ。じゃあ次、同じ計算をまたやるわよ」
サマンサが再計算とキーを叩く。また演算がスタートした。三万回、五万回、とさっきと同じ線を描いて昇っていく。ヤマグチはこれが何を意味しているのかまったく見当もつかなかったし、サマンサが何を示唆《しさ》したいのかもわからなかった。
「ぼんやりしてないで、しっかり見て。十七万回を超えたわよ。二十万回、ほらっ」
「あ。飛んだ」
今度はディスプレイの線が垂直に飛んでいった。
「これがカオスよ。さっきのグラフと比べるともっとわかるわ」
二つのグラフを重ねてみると、それ以前はまったく同じ蛇行なのに、ちょうど二十万回目の演算で上方と下方に線が分かれていた。
「何回やっても予測がつかないわ。ただわかっているのは、二十万回がひとつの区切りということだけね。私はこれを『分裂と寛解《かんかい》のメカニズム』と名づけたわ。落ちると分裂、上がると寛解。そのきっかけは、まさに賽《さい》の目しだい。ある所まではホモグラフィックに両者が共存して、ある時にまったく別のものになる。レキオスはそのような特性を秘めているわ。それが別々の形で表れてもレキオスはレキオスなのよ」
「なんですか、それ」
「だから一面にすぎないのよ。レキオスのことを研究しているのは、あたしだけじゃないわ。宜野湾《ぎのわん》市にいるヨゼフ神父も面白い考察を始めたわよ」
「ああ、そこのミサに行ったことがあります。基地の中の教会だとちょっと味気なくて。神父様は偉い人ですよね。なんでもヴァチカンの枢機卿《すうききよう》にまでなったとか。それでかつてのイエズス会の布教精神を志してオキナワに来られたんですよね。僕は神父様のような人間を尊敬しています」
サマンサはどこで話がすり替わったのかと大笑いだった。
「あいつは、ただの桃色神父よ。たしかに彼は枢機卿だったけど、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で祈っていたシスターに手を出して、追放されたのよ」
ヤマグチはこんな話にはもう、うんざりだった。
「……だから博士のお友達なんですか」
「失礼ね。あたしはあんな変態神父は嫌いよ。ただすごく頭の回転が早いのよ。参考意見を聞くなら、そこらへんの学者より刺激的なことは間違いないわ」
「やっぱり博士のお友達ですね」
サマンサは露骨に不快な表情を浮かべた。
「ではレキオスについて、もっと詳しく教えていただけませんか」
彼女はしゃべりすぎたと後悔していた。
「これ以上は企業秘密よ。あたしが書く本を買って読むのね。さて、あなたのディスクを見せてもらおうかしら」
ヤマグチが鞄からディスクを取り出してサマンサのパソコンに入れた。
「あ。パスワードがあるんです。ちょっと失礼」
「いらないみたいよ。なにこれ」
ディスプレイにサマンサが大好きなエッチ画像が現れていた。
「え。うそ。間違ったのかな」
急いで鞄の中を調べてみるが、他にディスクは入っていなかった。
「あら。フィストファックじゃない。すっごーい※[#ハート白、unicode2661] お尻とアソコに腕が二本も入っているわよ。この女」
「す、すみません博士。これは何かの間違いで」
サマンサが次の映像を見てはしゃいでいる。
「きゃあ※[#ハート白、unicode2661] すごいわすごいわ。お母さん、こんなの許しませんからねっ」
まるでPTA婦人の逆説的|猥褻嗜好《わいせつしこう》のようだ。喪服の未亡人が貞操帯を着用して、エッチ画像にハアハアしている。なんだか頭の痛くなる光景だ。ヤマグチはどこでディスクが替わったのか、画面を手で押さえながら考えている。
「博士。見ないでください。ああ。駄目。こんなの女の人が見たら、汚れちゃいますう」
「いいのよ。ガンガン見るわよ。ガンガン。ちょっとあたしがこのディスク貰《もら》ったのよ。画面を塞《ふさ》がないで」
「博士。僕が悪かったです。謝りますから、中断してください」
「いやよ。あたしこういうディスクがほしかったところよ。あなたのレキオスなんて聞きたくもないわ。どうせガセネタだったのよ」
「違います。本当に大変なディスクだったんです」
ヤマグチはやっと気づいたようだ。
『こちらコニー。バックアップ待機中』
『何かあったらすぐに逃げるんだ』
『………』
『返事は』
『……了解』
深夜の闇にまぎれてハンビータウンに現れた車は、エンジンとライトを消して静かに停車していた。海まですぐの街は、潮の香りに満ちている。黒ずくめでアサルト・ライフルを構えたコニーはいつでも飛び出していける態勢に入っている。ワイリーがそんな血気盛んな彼女をたしなめた。
「戦争するんじゃないんだぞ。コニー」
「わかっているわよ。でも外国なんだから用心しなきゃ」
「日本で銃は敬遠されているんだ。発砲したら誤魔化すのに一苦労だ」
それでもコニーはジャキンと遊底をひいた。
「コニー。まだだ」
入松田が潜入する時間が来た。盗聴器を発見した相手の行動はひとつしかない。すぐにアジトを引き払って雲隠れするものだ。その前に、入松田が内部を探る作戦だ。案の定「ブルーチャイナ」は閉店の看板がかかっていた。普段は朝まで営業しているのにだ。それでもときどき、裏口から人の出入りがある。
「やっぱりアジトを移すつもりなんだわ。尾行班は?」
「サトウのチームが配置についている」
コニーはスターライトスコープで、店の動きを偵察している。
「コニー。ターゲットビームはまだ発射するな。馬鹿。なんてもの持ち出すんだっ」
コニーがバズーカ砲を構えていた。
「もうっ。M16も駄目。バズーカ砲も駄目。じゃあ、どうすればいいのよ」
「リーダーがバックアップに回したのは正解だよ」
入松田は通気孔から潜入した。予想通り、赤外線警報装置の網が張り巡らされていた。
『ワイリー。通気孔の警報装置の電源だけ落とせ』
入松田の合図を待っていたのか、すぐに通路が確保できた。現場が久しぶりの入松田は、若い日のことを思い出していた。以前と気概は変わっていないつもりだったのに、若干身体が鈍くなっているのを嫌というほど痛感させられた。体力は平均値より二十歳も若い彼だが、感覚の鈍化は著しかった。現役を確認するために潜入したのに、皮肉なことに彼は第一線を退く決意を与えられた。
「次の作戦からメインはコニーだな……」
入松田は重い身体を匍匐《ほふく》前進させながら通気孔を進んでいく。
『大姐《タージエ》。鼠が進入しました』
「さて、オーナーの最後の仕事をするか……」
コンソールパネルの前でスクリーンを見ながら劉は溜《た》め息をついた。二重スパイの劉だが、彼女は世間を欺くためだけに店を経営していたわけではなかった。新メニューの開発に勤《いそ》しんだり、客の嗜好を調べたりと本業としか思えないほどの情熱を注いでいた。店の名は母の名の「青華《チンフア》」からとった。そんな劉は、開店日の賑やかさを思い出していた。忙しすぎてどんな日だったか覚えていなかったのに、今になってあの日の興奮が鮮烈に蘇《よみがえ》ってくる。レジにセピア色の一枚の写真がある。色|褪《あ》せた写真の中の劉は、笑顔を忘れた少女のようだ。それが彼女の唯一の記録だ。劉以外の一族全員が抗日運動で日本軍に虐殺されたり、国民党に翻弄《ほんろう》され所在がわからなくなった。それから間もなく劉は共産党に入党した。あとは封印された青春の日々だ。劉はカッと目を開いた。その写真を忘れてきたことを思い出したのだ。もう間に合わない。
「なんか変だわ」
出入りする人の動きがパタリと止まった。アジトの荷物があれだけのはずはない。
「リーダーを脱出させて。作戦中止。リーダー、作戦中止」
「張。鼠捕りを仕掛けろ」
劉の声は震えていた。すぐに入松田の背後の赤外線警報装置が作動した。これを避けて急遽《きゆうきよ》店内に下りる。店はやけに静かだった。汗が、入松田の脂ぎった頬を覆う。やられたと唇を噛《か》む。
「コニー逃げるんだ」
「さよなら。私の中国」
劉が起爆ボタンを押す。入松田は一瞬の閃光《せんこう》を見ただけだった。
コニーのスターライトスコープがエラーを弾いた。すぐに爆発音が轟《とどろ》いて耳を潰《つぶ》した。
「いやああっ。リーダー」
垂直の爆炎がビルを覆い、破片が車の窓ガラスを砕いた。
「作戦中止。繰り返す。作戦中止」
ワゴン車のエンジンがかかる。
「ワイリー。車を止めて」
動きだした車からアサルト・ライフルを持ったコニーが飛び出す。
「馬鹿。リーダーは死んだんだ」
銃を構えたままコニーは硬直していた。目の前の炎の力はあまりにも巨大だった。多面体の増築を繰り返したビルの輪郭すら、もう見えない。
「こんな馬鹿な……」
ライフルのトリガーを押さえたのは、彼女の涙だった。
翌日になって、ガス爆発のニュースが流れた。低層階が根こそぎ吹き飛んで、だるま落としになったビルの骨格が現れていた。深夜ということもあって、ビルに人はいなかった。死傷者が出ていないことが不幸中の幸いだ、とコメントされた新聞を読んだコニーは、どうしていいのかわからない怒りに見舞われた。息をしても足りないくらいの興奮に衝き動かされ、何を見ているのかわからなくなる。
「コニー。本部から連絡が入った。ガオトゥの調査は無期限延期になった」
「待ってワイリー」
この言葉さえ、やっとの思いで喉《のど》を絞って出たものだ。すると意識が少しだけ戻ってきた。
「冗談じゃないわ。ここで引き下がれるものですか」
「リーダーを失ったら、本部の指示を待つのが規則だ。すぐに新しいチームがオキナワに入ってくる。任務に失敗したら、速やかに引き継ぐことはわかっているだろう」
コニーは灰褐色の瞳《ひとみ》に闘志を宿しつつあった。
「そんなの方便よ。仇《かたき》は私が討つわ」
「任務と復讐《ふくしゆう》は別だ。このことは報告するぞ」
「どうぞ。報告したら? 死にたかったらね」
ワイリーの顎《あご》に銃が当たっていた。
「ディスクを返してもらおうか」
敬礼の後、すぐに鞄《かばん》からディスクを取り出した。これが原盤である。せっかく苦労してとったコピーは盗まれてしまった。キャラダインは渡したものであることを確かめた。
「では準備を始めたまえ」
「待ってください中佐。私はやるとはまだ申しておりません」
「結局やることになる。自分に逆らわないことだ」
しばらく連絡が絶えていたが、オキナワに戻ってきたキャラダインは、なにか急いでいるようだ。今までのやりとりはあれでも余裕のある中佐のユーモアだったことを知った。
「お断りします。私はテロリストではありません」
「テロではない。必要な手続きだ」
「中佐。あなたはアメリカが一番嫌う方法をとろうとしている。アメリカ軍人の風上にも置けません」
これでネリスもパーだと思った。
「大丈夫だ。事件として扱われることは絶対にない」
「わかりません。市街地で爆薬を使ったら事件そのものでしょう。ハンビータウンのガス爆発だって、あんなに大騒ぎに……あ」
ヤマグチはやっと気がついた。あそこは中佐の行きつけではなく、拠点だったのだ。なにか都合の悪いことでも起こったのだろう。それで証拠を消すために爆破した。キャラダイン中佐なら、それをやる。
「あなたは一体何者ですか」
「アメリカ空軍の中佐にすぎない」
「軍人はテロをしません」
「新聞を読んでいないのかね。ガス爆発事故だったのだよ」
「天久爆発事故で米軍駐留の反対運動の火に油を注いだのですよ。あなたは一度でもあのデモを見たことがありますか?」
フェンスの外に人が群れている。各々が「米軍基地反対」という趣旨のプラカードを持って、猛烈に抗議運動をしている。しかし嘉手納はあまりにも広大だ。彼らの声が届くはずもなかった。それでも毎日、人が増えていく。
「なぜ首里城なのです? 軍事的に破壊する意味などないはずです」
キャラダインの目にふたつの太陽が燃えていた。
「目障りだからだ」
「それをテロと言うんです」
「テロではない。なぜなら誰も首里城が燃えたことに気がつかないからだ」
思わず耳を疑ってしまう言葉だった。ギーンと戦闘機が飛んでいく爆音の中で幻聴に聞こえた。これから何が起こるのかヤマグチ自身にもわからない。ディスクは本物だったのだろうか。またすり替わっていたのではないか。
「また? またとはなんだ」
「なんでもありません」
「隠しても無駄だ。貴様ディスクに何をした」
反射的にサマンサの貞操帯をイメージする。どうせこんなときにしか役に立たない女だ。キャラダインは一瞬|怯《ひる》んだが、すぐにイメージを破壊する。鋼鉄の旋盤となったキャラダインの刃は、錠に火花を散らせた。
「これでも私はおまえを尊重していたつもりだ」
「くっ」
キャラダインが一歩にじりよると、頭の中の錠が落ちた。ヤマグチは動けない。毛穴という毛穴から汗がどくどくと溢《あふ》れ出た。
「なるほど、ワクチンを開発してコピーをとったか。小賢《こざか》しい真似を。整備士が開発したのか。クリス。なるほど」
「中佐。あなたはテロリストだ」
やっとの力で出た言葉だ。意識が朦朧《もうろう》としてきた。もう一滴の汗も出ない。
「あのディスクは国家以上のものだ。貴様こそテロリストだ」
またキャラダインが一歩前に出る。ヤマグチは喉が渇いて声さえ出ない。身体が小刻みに震える。
「そのコピーはどこにある。ふむ、盗まれた。コニー・マクダネル……くそっ」
これではアフガニスタンの二の舞になる、と踵《きびす》を返したキャラダインは急ぎ足で駆けていく。まるでサウナに閉じこめられたように衰弱したヤマグチは、汗の水溜まりになった地面に崩れ落ちた。誰かがタンカを呼ぶまで、彼は再び炎天に焼かれることになる。嘉手納基地の滑走路には今日も蜃気楼《しんきろう》が揺れていた。
グアム経由、コンチネンタル・ミクロネシア航空のB717型機が那覇国際空港にランディング・ギアを降ろした。かつてのMD95がボーイングシリアルになって初めてのフライトである。逆噴射の爆音はそのまま南の灼熱《しやくねつ》の音になり、同質の大気とすぐに混ざる。滑走路は毎日、到るところに陽炎《かげろう》が出現する。そのせいで滑走路の正像がどのようなものなのか、今まで誰も見たことがない。
到着ロビーでは、軍属の家族や沖縄人の家族が入り乱れて、ロビーを飾っているたくさんの蘭の花々さえ霞《かす》んでしまう賑《にぎ》わいだった。
「ワイリー。あんたそれで気がすむの?」
アロハシャツにパナマ帽のワイリーが、氷が多めのシークァーサー・ジュースから口を離した。彼は色違いのアロハシャツを着た女に、うんざりの様子だ。
「コニー。頼むから俺の言うことを聞け」
「嫌よ。馬鹿じゃないの。リーダーを殺されたのよ」
この会話を笑顔で交わしている。ふたりはツアーコンダクターを装っていた。南から南へ移動しただけの観光客らがゲートを出てくる。再び熱波を浴びた乗客は、グアムをほんの一周、遊覧飛行したのかと狐に抓《つま》まれた様子で降りてきた。その中で花輪のレイを首にかけた、完全におのぼりさん状態の一行が、ワイリーたちを見つけた。
「ハーイ。ハッピーパラダイスツアーの|Mr.《ミスター》ワイリー?」
「ようこそオキナワへ。グアムはどうでしたか?」
「オキナワと同じくらい暑かったよ。そちらは|Miss《ミス》マクダネル?」
「|Ms.《ミズ》マクダネルよ。ようこそオキナワへ」
さらにレイの首飾りをかけて盛り上げた。歓迎のキスを頬にしながら、さり気なく合言葉をかける。
「クリントン大統領は、バイアグラがお好き」
「モニカはアメリカのシンデレラだ」
いつもながら馬鹿馬鹿しい、とコニーは呆《あき》れる。駆け出しの情報部員の頃はもっと下らない合言葉を使っていた。ほとんどがセクハラ関係ばかりだ。醜聞を交えた破廉恥《はれんち》なユーモアを毎回ひねっている奴が作戦本部にいるのだろう。きっと、うだつが上がらない男がストレス解消で作っているのだとコニーは思っていた。しかしコニーは知らない。実はこの合言葉を作っているのは長官本人なのだ。いくらやめるように上申しても、本部はこれが伝統だと撥《は》ねつける。通らないはずである。こんな組織もう辞めてやる、とコニーはこのときほど思うことはない。
「あら。もうお一人様、いらっしゃらないようですけど」
連絡では五人が今日沖縄入りすることになっていた。四人は色違いのフレームのサングラスで揃え、帽子にヒマワリの花をつけている。身を欺くのが仕事とはいえ、この連中は完全なアホに見える。彼らにも、ワイリーとコニーは同じくらいアホの恰好に映っているだろう。到着便の客はほとんど外に出ていた。ワイリーとコニーは目を見合わせる。すると飛び抜けて背の高い男が不気味なステップを踏みながらトイレから出てきた。男はアロハシャツのボタンをすべて外して、胸毛を見せている。コニーのブルネットより濃い、ウェーブのかかった黒髪の男である。髭剃《ひげそ》りの跡がやけに生々しい。ぴったりのパンツはボタンフライである。それを二段目まで開け広げ、へそ毛を見せつけている。たぶんカリフォルニアスタイルで下着を穿《は》いていないだろう。
「ハーイ、コニー。失敗しちゃったんだって?」
ピンクのフレームのサングラスを取った男の顔を見て、コニーは愕然《がくぜん》とした。
「フェルミ。あんたが代わりなの?」
「カブールの色男のフェルミ様さ。アフガニスタンの非合法ナイトクラブで祝杯をあげていたら、本部にオキナワ行きを命令されちまった。まったく人使いの荒い組織だぜ。せっかくの夜が台無しさ」
自慢のブルーの瞳でウインクする。癖のある男だが、フェルミは女にもてる。それはこのフェロモンのモスラと化した肉体のせいだ。汗一筋にだって媚薬《びやく》のオードトワレが混入されている。彼はそれを充分に自覚し、最大限に活用する。コニーはフェルミが大嫌いだった。
「真打ち登場ってやつかな。前座のコニーさんはご苦労だった。あ。怒った?」
同時にコニーの肘《ひじ》打ちが男の脇腹に入る。
「お客様どうかなさいましたか? 人が混んでいますからお気をつけあそばせ」
「コニーやめるんだ」
「ワイリー悔しくないの?」
と小さな声が飛び交うのをよそに、ヒマワリ帽の五人は佐藤が用意したマイクロバスに乗った。那覇軍港を左手に見ながら、すぐにブリーフィングが車内で行われる。
「イリマツダを潜入させたのはなぜだ。彼はとっくに現場を離れていたはずだ」
「それは、あたしが行くって──」コニーは口を遮られた。
「こちらの作戦ミスでした。リーダーが判断を間違ったための失敗です」
「ワイリー何言ってんの……もうっ」
不貞腐《ふてくさ》れて腕を組む。那覇の空にはつぎつぎと入道雲が湧きたっていた。そのひとつが入松田の太鼓腹に見える。「いいんだよ、コニー」と笑っているようだった。
「どうしてまたアフガニスタンチームがオキナワへ?」
五人がいっせいにサングラスを外した。
「アフガニスタン計画を完全に阻止した代わりに、オキナワがガオトゥの最有力候補地に浮上した。我々が阻止できたのだから、当然の配置だ。君たちは通常任務に戻りたまえ」
「嫌よ。あたしが見つけたアジトなのよ」
フェルミがやれやれと腕をW字に浮かばせた。運転していた佐藤がガクンとギアを変えた。コニーはまた外の景色を眺めることにした。
「アフガニスタンはどういう経緯だったのですか?」
フェルミが代表して自慢気に答える。
「一九九八年の八月二十日に、アメリカ軍がアフガニスタン東部のタリバーン訓練センターを中心に空爆しただろう。対テロ報復といいながら、何の証拠もなしに主権国家を爆撃するなんておかしいと思ったんだ。そしたら案の定」
「ペンタグラムが現れた……」
コニーが頬杖をついたまま答える。
「これがそのときの偵察衛星の写真だ。ほら、見事なペンタグラムになっている。ガオトゥの計画はまずこれから始まる。オキナワにも現れたと報告を受けているが」
「ちゃんと空撮してあるわよ」
ポイと投げた封筒から写真が落ちた。それには天久の五つの残骸《ざんがい》が写っていた。
「アメリカ軍がやったんだろう。アフガニスタンもそうだった。ガオトゥの中にアメリカ軍の上層部が噛《か》んでいるな」
「あなたも見たでしょ。アフガニスタンにも現れたキャラダイン空軍中佐よ。オキナワでも特別扱いされているわ」
「不気味な男だったぜ。プリホムリの街でずっと張ってたが、あの灼熱の砂漠の中で汗ひとつ流さない。水も飲まない。どうしてだ」
「我慢強いのよ」
ワイリーがふたつの写真を見比べていた。
「なぜ、このような星形を作るのでしょうか」
「たぶん、魔法陣だ。規模が大きければ大きいほど、威力が増すと考えられる」
「魔法陣? フェルミ、あんたそれでも物理学者? 来年は二十一世紀よ」
コニーが馬鹿にしたように笑う。
「科学と宗教はいずれ融合する。誰の言葉か知っているかな?」
「知らないわ。ローマ法王が言ったのかしら?」
フェルミは窓ガラスに映るコニーの顔を見て笑い返した。
「アルバート・アインシュタインさ」
マイクロバスは沖縄自動車道に入り、ぐんぐんスピードをあげていく。もう緑のジャングルしか見えない。県中部の金武《きん》インターチェンジでループを描いた先に見えてくるのが、米軍施設キャンプ・ハンセンである。車はプロテスタント教会を目指していた。
「アフガニスタンはどうやって阻止できたのですか。あんな政情不安な土地でよく……」
「フェルミの作戦が功を奏したのだ。彼は理論派かと思っていたが、よくやってくれた」
一番年長の男がフェルミの肩を叩《たた》いた。
「なんとラバニ政権の残党とタリバーン派を共闘させるという作戦だった。ドスタム派とマリク派も結びつけた。ガオトゥの野望は宗教的なものだ。イスラム教徒が許すはずもない。そこで邪教掃討のために一時停戦。圧倒的な火力でガオトゥ・プリホムリを壊滅させてしまった」
「異教徒に厳しいお国柄を利用したのさ。このフェルミ様の作戦勝ちだ」
「じゃあ、アフガニスタンの内戦は終わったの?」
五人がいっせいに笑った。
「ガオトゥを掃討して、またみんなで仲良く戦争をやっているよ」
「わけのわからない国ね」
「わけがわからないのは、ガオトゥが何を実現したいのかだ。フェルミが奪ったディスクの暗号は解読できたが、狙いがわからない」
年長の男がディスクをスタートさせた。マイクロバスの中のモニターに全員の視線が集まる。首都カブールを南端に二五〇キロメートル四方の地図が現れた。それが鳥瞰図《ちようかんず》に展開して等高線が浮き出る3D映像に変わった。サラン峠から北に二〇〇キロメートルの地点が点滅していた。
「ずいぶん遠い所ね。ガオトゥはカブールを制圧したいんじゃなかったの」
「違う。彼らは首都制圧を狙っているわけではない。タリバーン空爆も辺境だったではないか。そしてオキナワも、東京から離れている」
「まさにやりたい放題よ。支部をビルごと吹き飛ばしたもの。東京でやったらテロの疑いがかかるわ」
「物騒なのはアフガニスタンと同じか」
「それでこの地点には何があるの?」
「スルフ・コタールだ」
スルフ・コタールは一九五二年からフランスの考古学調査チームによって発掘された遺跡だ。建造されたのは紀元前二世紀でカニシカ王の神殿だった。ペルシャのゾロアスター教や仏教、ギリシア文字の碑文やコリント式柱頭など、まさに紀元前のクレオール現象がいたるところに見られる。東洋と西洋を結ぶシルクロードの走るアフガニスタンならではの遺跡だ。
「スルフ・コタール? これをどうしようというの。戦争で破壊されたんじゃないの。バーミヤン遺跡みたいに」
「戦争よりももっと過激だ。スルフ・コタールを爆破する計画だったのだ」
「何のために?」
「わからん。ガオトゥ・プリホムリは壊滅した。何を実現したかったのかは謎だ」
「コニー。君も手に入れたんだろう。例のディスク」
フェルミがウインクする。嫌いな男のウインクは鳥肌が立つ。
「何回戦までがんばったんだい?」
「うるさいわね。あんたと一緒にしないでっ」
同じことをしてフェルミは大成功し、コニーは大失敗だ。この明暗の差が悔しくてならない。アフガニスタン作戦に参加していたら、きっと立場は逆転していたと信じたい。しかしフェルミが機先を制した。
「回教国は女性に厳しいんだ。君は外にすら出られなかったよ、コニー」
「うるさいわね。そのフェロモンでイスラムの女性を誑《たぶら》かしたくせに、偉そうなこと言わないでよ」
「いつでも僕の胸で泣いたらいいさ。コニー」
「サトウ。車を止めて。あたし降りるわ」
ドアを開けると、そこは高速道路だった。
「くやしー」
なぜかコニーは自虐的な結末に終わる。天才に努力はいらない。いつでも直感が反射行動をとらせるから無駄な行為がない。たとえ失敗があったとしても、方向が間違っていることはけっしてない。天才と勝負した凡人は、歴史の中でいつもこのような思いをしてきた。天才とはセヂの多さに尽きる。サマンサもフェルミも、自分のセヂを持てあましている人間だ。彼らに差別意識は毛頭ないが、謙遜《けんそん》とは馬鹿のすることだと思っている。謙遜したからって、セヂが増えるわけでも減るわけでもない。傲慢《ごうまん》にふるまったって天才は天才だ。サマンサもフェルミも達観域まで到達したから、神の贈り物に感謝することはあっても、卑下することはない。
「コニー。ディスクを渡せ」
しぶしぶ渡すと、暗号解読班の男がさっそくコンピューターの中に入れた。
「なかなか凝ったパスワードだったぜ。とてもテロリストとは思えない」
全員がディスプレイを覗《のぞ》きこむと息をとめた。
「オペラが好きらしい。〔Die Zauberfloete〕ふざけている」
パスワードを入力するとモニターに地図が現れた。アフガニスタンと同じ方式で描かれた地図だった。
「これは縮尺から言ってオキナワの南部ね。那覇の郊外じゃない。天久から近いわ」
まただ、とフェルミが舌打ちする。画像が建造物の輪郭を描いていた。
「首里城を爆破する計画だ」
うだるような日差しは大地の表層を加熱するだけで、地下まで届かない。沖縄には鍾乳洞が無数に存在する。しかし天然洞窟以外のものもある。ここハンビータウンの地下には、人工の洞窟が密《ひそ》かに存在していた。
照明を抑えた空間は全体が闇そのものだ。複数のパネルが黙々と制御ランプを点滅させている以外は動きらしいものはない。ドアが開くと男女の影が現れた。とたんに作動したメインスクリーンの巨大な明かりが長い影を作り出す。
『ガオトゥ・プリホムリは完全に破壊された。生存者は処刑した』
メインスクリーンの前で恭しく膝《ひざ》をついた劉とキャラダインが、頭を垂れて声を聞いている。体育館数個分もある広さにスピーカー音の残響がこだましていた。
『オキナワ作戦を実行する。その前にディスクを処分してもらおう。アフガニスタンはこれで失敗したのだ』
「仰《おお》せのままに」
キャラダインがディスクを裁断機にかける。劉がその音を頭を垂れたまま聞いた。
『コピーをとられていないだろうな、キャラダイン』
「いいえ。そのような失態はございません」
『おまえの部下は信頼できるのだろうな』
「はい。腹心の部下です」
『アジア本部のクアラルンプールの縮小は進んでいるか』
「システムを移転しました。あとは人員だけです」
いつものように淡々とした台詞《せりふ》だった。来年にはガオトゥのアジア本部がここに移転してくる。人種の坩堝《るつぼ》の沖縄ならではの環境を活かして、さまざまなガオトゥのメンバーがやってくるはずだ。沖縄はガオトゥにとってまた、戦略上の要《かなめ》に当たる地理的特性をもっている。弾道ミサイルこそ射たないが、専用機であるガルフストリームVとティルトローター機のV22オスプレイを使って人材を直接、東アジアと東南アジア全域に派遣することができるようになる。その機動力と熱核攻撃にも耐えるこの地下施設を併せれば、飛躍的な作戦の向上が図れる。今の施設は閑散としているが、すぐに地上のハンビータウンの活気を上回るだろう。
『よろしい。では〔プロジェクト LEQUIOS〕を発動する』
通信はそこで終了した。金縛りにあっていたように硬直していた劉が、やっと体の自由を取り戻して安堵《あんど》の息をつく。
「やもめの子は裏切ったりしないだろうね。哥哥《クークー》」
キャラダインは一瞬だけ表情を強張《こわば》らせた。
「姐姐《ジエジエ》よりも長い付き合いだ。中国人は人脈を大切にするはずだろう」
李と張が顔を見合わせて、首をちょっと傾げた。
「恩を着せるような真似はしないよ。着るやつを選んだからね」
「そのムームーみたいにか。姐姐」
劉の表情は和らいだ。李と張は久しぶりに劉の笑顔を見た気がした。以前はよくそのような顔が見られたのに自分の手で「ブルーチャイナ」を爆破して以来、どうも顔が晴れない。李も張も常連客と仲良く話をするのが楽しみだったのに、今はずっと地下施設の中でモグラみたいな生活をしている。生活に事欠くことはないように設計されている核シェルターだが、いくらなんでも太陽を見ないとストレスが溜《た》まる。
「張。軍情報部第二部との連絡はついたかい」
「大姐。今夜十時に作戦海域に入る予定です」
「海上自衛隊は発砲するようになったよ。日本領海ギリギリで停船させるんだ」
通信が入った。
『第二部からのエージェントです。〔猛禽《もうきん》作戦〕の要員がカデナベースからきました』
「よし。国家安全部の新支部『蓬莱《ほうらい》飯店』の三階で会う。待たせておけ」
劉たちが慌ただしく動き出している。すべての準備は整っていた。
「アメリカ軍の中に共産党員がいるとは驚いた。さすがは第二部だ。油断できんな」
「おまえの部下は信用できないよ。第二部の外国人エージェントなら大丈夫だ」
キャラダインは何も答えなかった。
「合流地点を確認するよ。久米島の沖、東経126度0分、北緯26度30分。公海上のこの地点だ。空路は開けてあるだろうね」
「フライトスケジュールに入っている」
「航空自衛隊は出てこないね」
「ここをどこだと思っている。制空権は常にアメリカにある。空自のおもちゃが出る幕はない。ときどきミグを追い払うだけが奴らの仕事だ」
「わかった。じゃあ、南京計画を進めるよ。党組とは話をつけてある」
「忙しいな、姐姐」
「李と張がいるからできるんだ。頼んだよ李、張」
李と張がこの言葉を待っていたとばかりに背筋を伸ばした。
「了解しました。大姐」
彼らの声がこだましている間にふたりは姿を消していた。
「いい部下を持ったな……」
キャラダインの言葉が響くには、あまりにも声が小さすぎた。
「あんたがリーダー?」
「そうだよ、コニー。実績がものを言ったのさ」
「嫌よ。あたしは認めないわ」
「これが正式な命令書。ほら、マイケル君に任せるって書いてあるよ」
命令書を奪って読んでみる。たしかにフェルミがオキナワ作戦の新リーダーに任命されていた。
「リーダーはイリマツダだけよ」
「彼は自分を過信したのさ。いいとこ見せようとしたからああなった」
「違うわ。彼は部下の安全を優先させたのよ。あんたみたいにすぐ人を馬鹿にする奴にリーダーは勤まらないわ」
「コニー。やめるんだ。午後の結婚式の準備をしろ」
「そういうことさ。ハニー」
フェルミたちは教会に入ってから我が物顔でオキナワ支部を乗っ取った。入松田が座っていた椅子に座り、彼の机に脚を乗せた。前のチームは何も言わずに黙っている。車両班の佐藤でさえ、今ではフェルミの運転手だ。
「あんたたち、プライドはないの」
喝を入れても、みんなだらけている。彼女は虚《むな》しくなるだけだった。入松田がいた頃は、みんながてきぱきと働いていたのに、リーダー一人失っただけで、このていたらくだ。
「オキナワチームが作戦に失敗した理由がわかるよ」
フェルミがクルッと椅子を回転させた。コニーは怒りのもって行き場がなく、熱湯と化した血をぐるぐる循環させるばかりだ。オキナワチームは無能ではない。佐藤はあらゆる車両のエキスパートだ。その気になればレースで優勝も狙える腕前だ。ワイリーは補佐役を務めているが、身分は一等書記官である。いつも冷静沈着でチームを最高のコンディションで動かしていた。コニーはこのメンバーに誇りをもっていた。誰ひとり仕事に自信のない者はいない。フェルミのアフガニスタンチームに劣る理由はひとつもない。しかしコニーは唇を噛《か》むしかなかった。
「サトウを借りる。残りは全員お払い箱だ。日曜日のバザーの準備をしていてくれ」
「あんたなんかに貸す人手はないわよ」
また椅子がクルッと回って、フェルミがウインクした。
「コニー、クッキーでも焼いているんだな」
ガタンと椅子を倒して、コニーは教会の事務所を飛び出していた。走って走って空気冷却するスピードまで加速した。口から体温以上のガスがつぎつぎと生まれてくる。入松田がいれば、こんな屈辱を味わうことはなかったはずなのに、とまた熱が上昇する。しかしもう走れなかった。キャンプ・ハンセンのフェンス沿いをとぼとぼ歩いた。牧歌的な風景はこれが軍の施設だということを忘れさせる。メリノー羊を放牧すれば、そのままオーストラリアの風景になるほどだ。どこまでも続く、呆《あき》れるほど長いフェンスだった。
「リーダー。あたしもう駄目……」
意識が体から半身浮いているときだった。どこからか呼び声が聞こえてきた。なぜか足はそこに向かって自動的に動いていた。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
目一杯の大声を張り上げて金武《きん》の街を進んでいく屋台があった。前後にオバァがいて、それぞれが屋台を引っぱったり、押したりしながらなだらかなカーブを登っていく。屋台の後からプンと甘い匂いがたなびいてくる。この炎天下で、ゴム草履を履いたマチーとガルーが空を見上げて直接太陽を目に入れている。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
その陽気と匂いにつられて、コニーはポケットに小銭があるか確認していた。コニーはそこに向けて徐々に早足になっていた。
「あの。ポーポーをひとつください」
「はい。一本百五十円。あなた美人だからちょっとおまけ」
マチーが屈託なく笑う。いつかどこかで見た笑顔のような気がした。ひと口ポーポーを食べると、懐かしい味が記憶をくすぐる。ふた口食べると、もうここはコニーの居たサウスカロライナ州オレンジバーグの街だった。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
マチーとガルーがまた屋台を引いていく。
「お祝い? お祝い。何の?」
今日は草競馬で初めて優勝した日だと思い出した。あの時代、彼女に怖いものはなかった。失望を知らない少女だとみんなが言った。それを聞くたびに彼女は嬉《うれ》しかった。馬と一緒に青いカラー生クリームのデコレーションケーキを食べた。野外パーティーには友達と近所の人がお祝いに来てくれた。あの日の自分は大したものだったはずだ。大人になった今はもっとやれるはずだ、とコニーは瞳《ひとみ》に力を宿らせていった。ポーポーを食べきったら、意識が現実の世界に戻っていた。さっきと違うのは、大地を蹴《け》る力強さだ。
「みてなさいフェルミ。コピーはもう一枚あるのよ」
ポケットからディスクを取り出したコニーが不敵に笑っていた。
「少しお痩《や》せになりましたか、少尉」
「ちょっと夏バテでね。お恥ずかしい」
「気をつけてくださいよ。ピカード艦長はひとりしかいませんから」
「ははは。ジョーディーありがとう。ところで君のラプターはどうしてる」
「最高のコンディションで待機中ですよ。ロッキード・マーチン社の技術者は優秀ですからね。いつでもエンジンに火が入れられます。今夜のテストは実弾装備です」
いつも部品ばかり探して背を丸めているクリスの背筋が、今日はピンと伸びていた。
「頼もしいぞ。クリス」
メディカルセンターで目覚めたヤマグチは、丸二日間の記憶を失っていた。脱水症状で、ベルトの穴ふたつ分も痩せてしまった。今日も嘉手納基地には陽炎《かげろう》が立っている。あそこで交わしたキャラダインとの会話も朧《おぼろ》になってしまいそうだった。
──なぜ殺さなかったんだ。
不思議と罪悪感のようなものが生じていた。なぜなのかよくわからない。キャラダインの正体がテロリストだとわかっても、それを司令官に告げ口する気にはなれなかった。助けてもらったという気がする。中佐が本気で怒れば、とっくに自分は死んでいたはずだという確信があった。
「よお。ブライアン。調子悪そうだな」
モスグリーンのパイロットスーツを着た男が脇腹を小突いてきた。未与圧の操縦席ではこれが命をつなぐパイロットの皮膚だ。
「アンダーソン大尉じゃないですか。演習を終えたばかりですか?」
「F15のエルロンの調子が悪くてね。ラプターの後じゃ旧式感は避けられないな」
「大尉が羨《うらや》ましいですよ。いつも空を飛べて」
「地上勤務と言っても君は特別任務だろう。岐路に立つには早いが、みんなここで迷う」
「アンダーソン大尉は、空を選んだんですね」
彼の愛機であるF15にはミグを撃墜したキルマークが五つ並んでいる。これが彼の勲章だった。
「私はけっして理念を捨てたわけではない。パイロットでも大志を持てるのだ」
「はあ。よくわかりませんが」
「君はまだ若いから、わからないだけだ。空で待っているぞヤマグチ少尉」
背筋を伸ばして闊歩《かつぽ》するアンダーソン大尉の背中は大きく見えた。
「早くコニーを見つけないと」
「カート伍長《ごちよう》。リストを洗ったか?」
「残念ながらいませんでした。条件が厳しすぎます。無理ですよ。デルタフォースやグリーンベレーでもない限り、一流の腕となると見つけられません。あとは|SEAL《シール》(海軍特殊部隊)ですが。除隊しているとなると、全員が本国ですからね」
「軍人はまずい。退役軍人の中から経験者を探しだせ」
「中佐がそこまでおっしゃるのなら、軍属のデータまで調べてみますか」
「やれ」
嘉手納基地の中の情報センターの端末を使って、キャラダインが部下に命令を下している。この部下もヤマグチが知らない「プロジェクト L」のメンバーだ。彼もヤマグチ少尉のことを知らない。いつも突然やってくるキャラダインに、戦々恐々としているのも同じだ。
「ところで、例のプログラムは終えているだろうな」
「もちろんです。オートに入らない限りわかりません」
「よろしい。さっそく二一三〇時に実行する」
「わかりました」
検索は陸軍病院のカルテにまで及んだ。画面をスクロールさせていた若いシステムエンジニアが指を止めた。
「いました。彼女なんかどうです。まだ若いですが、腕は確かですよ」
「プリントアウトしろ」
「住所はナハシティです。この歳ですごい経歴だな。英才教育でも受けたのでしょうか」
レーザープリンターが一枚の情報を焼きつけた。
「デニス・カニングハム。十八歳の黒人少女です。キャンプ・マクトリアスの大会で、五年連続ライフル射撃のチャンピオン。視力は、視力が8.0以上? 馬鹿な!」
クリスが最終チェックを終えたのは午後八時ちょうどだった。自慢ではないが、工場で完成したときよりもコンディションはいいはずだった。エンジンのP&W社製のF119─100の仕上がりは日に日によくなっている。クリスは大満足でチェックシールを剥《は》がした。一時間後、運用担当士官が、スケジュール表を持ってやってくるまで、クリスはラプターを独り占めしていた。
「これよりラプターEMD5号機の第六回飛行テストを行う。離陸後三分でスーパークルーズに入る。クリス実弾はどうなっている」
「はい。AIM120Cミサイルを六発、武器格納ベイに装備しました」
「よろしい。エスコート機のF15Cを先発させる。E3セントリーが上空で待機中だ。テストパイロットのアンダーソン大尉はいるか」
「イエス・サー。これよりラプターEMD5号機の第六回飛行テストに入ります」
大尉がヘルメットを脇に抱えて敬礼した。格納庫の端でキャラダイン中佐が小さく頷《うなず》く。それを目で了解したアンダーソン大尉は、ラプターのコックピットに乗り込んだ。
「ふん。共産党の犬がテストパイロットか。アメリカ空軍も落ちたものだ」
「ミサイルは自動ロック・オンにプログラムしました。中佐」エンジニアが声をかけた。
「よくやった。君の働きには感謝している」
「撃墜されないでしょうか?」
キャラダインは声を伏せて笑った。
「撃墜? ラプターはエア・ドミナンスの称号を得た最強の戦闘機だ。空自の三十年前のF4EJ改などに落とせるわけがない。ラプターを落とせるのはラプターしかない」
「では無事、公海上に出られますね」
「出られるものならな」
「どういうことですか?」
キャラダインは何も言わずにその場を去った。ひとり残されたエンジニアの手には、渡されたもう一通のファイルがある。これをMPに渡せば、二万ドルの褒賞金が出ることになっている。
滑走路から先発のエスコート機が飛んだ。漆黒のラプターはタキシング中である。
『アンダーソン大尉。慣性航法システムのアラインメントがすぐに出ますよ。スタートが早いですから注意してください』
「了解した。クリスありがとう」
ラプターが滑走路の端に止まる。クリスの言う通り、すぐに離陸モードを完了した。F15ならこれの倍の時間はかかる。
「ちゃんとサルベージしてくれよ。同志たち」
アンダーソン大尉は、昼間の打合せでラプターEMD5号機の中国引き渡しの手続きを終えた。人民解放軍の近代化が急務である中国は是が非でも、最新鋭のラプターを入手し、アジア地域の覇権を目指すつもりである。最新のアビオニクス、ステルス、ベクタード・スラスト、スーパークルーズ航法など、二十一世紀の技術がラプターには詰まっている。近代化する台湾軍に対抗するためにも、ラプターはどうしても必要である。アンダーソン大尉はこのまま政治亡命して、党組の幹部に迎え入れられる予定だ。
「私は根っからのコミュニストだ」
スロットルをあげてラプターは離陸した。地上班はすぐにエンジンの噴射を見失った。
「レーダー班はどうだ」
「さすがにステルスですよ。反応はヘルメット大ほどで微《かす》かです」
「そのために早期警戒管制機を上げている。向こうのレーダーはどうだ」
『セントリーより、カデナベース。ロートドームでラプターを捕捉《ほそく》した。現在那覇方面に毎時四五〇ノットで飛行中。間もなくスーパークルーズに入る模様』
劉が腕時計を見る。
「そろそろだよ。張」
ラプターを中国へ引き渡すのを条件に、ガオトゥの南京計画を一気に推し進める腹である。アフガニスタンの失敗はゲリラとタリバーン神学同盟を甘く見たせいだと劉は分析していた。事を動かすには背後に大きな力がある方がいい。それが政治力ならなおさらだ。劉は国家安全部とガオトゥの双方に利益を与えることで、二重に得をすることになる。公海上で中国海軍のサルベージ船と護衛艦四隻が、今や遅しとラプターの出現を待っている。
「これで大姐も保安局長の椅子に座れますね」
「海外部門と国内部門を一気に統括できるからね。管理担当副部長の弱みは握っているから、実質的に国家安全部のエージェントは私のものになる。ガオトゥの一番弱いところはエージェントのレベルが低いことだからね。キャラダインみたいな男は、現場にいるべきではない。だけどインテリだけでは世の中動かせないさ」
国家安全部のエージェントを丸ごとガオトゥに移籍させるのが劉の野望である。翡翠《ひすい》の杯が三つの硬い音をたてた。
「おめでとうございます大姐」
「張。おまえは腹心の部下だ。私について来るがいい」
「もちろんです。大姐のためならいつでも命を投げ出します。それは李も同じです」
李は黙って頷《うなず》いただけだった。
「青写真をまた見せておくれ」
李が広げたのは上海にオープン予定の「新青華飯店」の設計図だった。劉を喜ばせようと李と張が用意したのだ。これを眺めているときは、いつも厳しい目をした劉が、少女のようになる。ビジネスも諜報《ちようほう》活動も右足と左足のように交互に使うのが劉だ。しかし壮麗な設計図も劉にかかれば、こうなる。
「うーん。やっぱりポーカーゲーム機を置いた方がいいかね」
「大姐。それだけはやめてください。今度こそ一流店を目指しましょう」
李と張が目をむいて抗議した。
ラプターはハンビータウン上空を駿足《しゆんそく》で駆けている。
『ラプターEMD5号機。これより超音速巡航に入る。オートパイロットで航行する』
アンダーソンが自動操縦にシステムを切り換えた。人間が操縦するよりも速やかにラプターは加速し、アフターバーナーなしで超音速飛行に突入した。同時に機体の安定が格段に増す。しばらくしてヘッド・アップ・ディスプレイが火器管制モードに入ったことを知らせる警報を表示した。アンダーソンは慌てて手動に変更しようとしたが、戻らない。コンピューターが油圧装置を管理しているフライ・バイ・ワイヤでは、操縦|桿《かん》を押しても引いても反応しない。
「どうしたんだ。航路がずれている」
『こちらセントリー。アンダーソン大尉、エスコート機から離れている。慣性航法システムを変更しろ。演習空域に戻れ』
「こんなときに故障か?」
これから東シナ海に出てステルスと超音速で追尾を振り切る予定だったのに、機体の自由がきかない。コックピットはラプターに意志があるかのようにつぎつぎと電子表示を点滅させる。アンダーソンは焦っていた。
天久ではキャラダインが上空を見上げていた。雲の多い夜だった。那覇の夜景を弾いてぼんやりと光る夜空は、雷を全体的にまぶしたような明るさである。天久開放地の荒野に風が吹いてきた。
「そろそろ飛び込んでくるぞ」
キャラダインがサングラスを外して目を閉じた。右手で剣の形をとって左手の二本指で胸にクロスさせた。
「アテー。マルクト。ヴェ・ゲブラー。ヴェ・ゲブラー。ル・オラーム。アーメン」
キャラダインの胸に青い光の薔薇《ばら》が現れた。風が大きく渦を巻きだす。塵《ちり》が夜空に色をつけていく。キャラダインは胸の薔薇を空に掲げた。唇から出てくるのは低音の早口である。言葉が次第に彼から独立し、空間そのものが振動して声になった。風の音に紛れて聞こえてくるのは、聖なる言葉である。
[#ここから1字下げ]
第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵《ふち》に通じる穴を開く鍵《かぎ》が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。
[#ここで字下げ終わり]
[#2字下げ]〔ヨハネ黙示録 第九章第一、二節〕
音速を超えたときに生じるソニックブームの音がする。空気を割るドーンという衝撃波が、漏斗状《ろうとじよう》に大地に響いた。ラプター5号機は超音速巡航に突入したようだ。天久の空が渦を巻きだした。ぜんまいを巻くようにぎりぎりと空を絞って雲を飲み込んでいく。それが地上まで降りて、キャラダインの頭上で止まった。大地は冷たい風が吹き荒れていた。キャラダインの頬に一筋の赤い汗が流れた。
彼が次に口ずさんだとき、大地が割れた。
TO MEGA THERION
『こちらラプター5号機。操縦不能。繰り返す。操縦不能。竜巻に突入する』
天久のペンタグラムがG.A.O.T.U.の順番に輝き、稲妻が頂点から頂点へと大地を走っていく。ゆっくりと中心が底なしの淵をなす。キャラダインがカッと目を開いた。赤い山羊《やぎ》の目だった。
「猛禽《もうきん》の名を持つ天空の支配者よ、底なしの淵へ墜《お》ちろ」
『ラプター墜落する。脱出不能。落ちる落ちる落ちるうっ』
竜巻の中に飛び込んできたラプターは、そのまま鈍い光を放ってペンタグラムの淵へと落ちていった。続いて竜巻が轟音《ごうおん》とともに飲み込まれていく。天久に散乱していたゴミを撒《ま》き散らし、底なしの淵が静かに閉じると同時にペンタグラムの光が消えた。
「確認するか」
キャラダインは小さな羊毛の絨毯《じゆうたん》を広げ、角を決められた方位に合わせる。それから絨毯の回りに円を描いた。
「アグラ、アグラ、アグラ、アグラ。おお、全能者よ、宇宙の命にして宇宙の四方向を治める者よ。御身が聖なる御名テトラグラマトンの四つの文字は、ヨド、ヘー、ヴァウ、ヘーなり」
両手を挙げて、だんだん早口になると、周囲の空気が軽い振動を起こす。
「ヴェガレ、ハミカタ、ウムサ、テラタ、イェー、ダー、マー、バクサソクサ、ウン、ホラー、ヒメセレ。……御身が聖なる代理人ラジエル、ツァプニエル、マトモニエル、ロー、真実を望み、我に叡知《えいち》を授けん者。レカブスティラ、カブスティラ、ブスティラ、ティラ、ラ、ア。カルカヒタ、カヒタ、ヒタ、タ」
すると空から声が響いてきた。
天空を駆ける猛禽を確かに受け取った。[#「天空を駆ける猛禽を確かに受け取った。」はゴシック体]
それを聞いたキャラダインは、サングラスをかけた。嘘のような静けさが訪れ、しばらくして虫の音が聞こえてきた。空には星が現れていた。
『こちらE3セントリー。ラプターを見失いました』
嘉手納基地ではMPが持ってきた書類に目を通した運用担当士官が震えていた。
「ラプターを中国に引き渡す計画だったのか」
「まさかアンダーソン大尉が共産党のスパイだったなんて」
「報告通り、公海上に中国海軍がサルベージ船を引き連れて待機しています。カデナ宇宙軍からの赤外線衛星写真です。セントリーが捕捉《ほそく》しに向かっています」
「スクランブルだ。ふざけたことをする奴らに、千ポンド爆弾を落としてこい」
すぐにF15が滑走路の両端から交互に緊急発進していく。
「ラプターはどうなったんだ」
「墜落した模様です。現場はナハシティのアメク。またアメクです」
「これは空軍の失態だぞ。かかわった奴の身柄を全員拘束しろ」
クリスは何が起こったのかまったく把握できていない様子だ。
「ラプターが墜ちた? そんな。整備は完璧《かんぺき》だったのに……」
クリスは尋問を受けた。まったく身に覚えのないことで、すぐに保釈されたが、MPの監視がついている。しょげて部屋に閉じ籠《こ》もっていると、ドアをノックする音がした。
「キャラダイン中佐。どうしたのですか?」
「おまえはラプターを中国に引き渡す手助けをした」
クリスはガタガタと震えだした。
「そんな。僕が、ラプターに、そんなこと、するわけ、ない」
「証拠がある。ロッキード・マーチン社のエンジニアが、君がコンピューターに細工しているのを見たと証言した。君は国家機密法違反で逮捕される」
「嘘だ。嘘だ。嘘だ。僕は何も知らない。ただのメカニックなんです」
クリスの部屋にはたくさんのプラモデルが飾られていた。作りかけのものはF22ラプターだった。よっぽど丁寧に作ろうとしていたのだろう。接着ラインを消し、塗装前のサーフェイサーを吹いていた。部屋は塗料の揮発性の臭いが染みついている。
「ただのメカニックがワクチンを作るか」
キャラダインがサングラスを取る。
「ひいっ!」
その瞳《ひとみ》を見たクリスは息を止めて硬直した。赤い山羊の目が左右別々に動いて、クリスを嘗《な》め回す。左目の瞳孔《どうこう》が収縮すると、右目の瞳孔は拡散する。クリスの呼吸は肺まで達していなかった。
「ラプターは墜ちた。おまえの口座には中国銀行から十万ドル振り込まれた記録がある。アンダーソン大尉と共謀していたおまえは作戦の失敗に責任をとり、自殺した。こういう筋書きだ。この遺書にサインをしろ」
クリスは微かに首を横に振った。心の中では助けてくれと何百回も叫んでいるのに、体の自由がきかない。辛うじて生きている指をぐっと握った。そんなことは無駄だとキャラダインが目を光らせる。
「アドライ、ハーリー、タマイー、ティロナス、アタマス、ジアノール、アドナイ、このペンよりあらゆる偽りと過ちを取り除け。我が欲するあらゆる美徳と力を書けるように。アーメン」
クリスの右手がペンを掴《つか》み、サインをする。ラプターを強奪したアンダーソン大尉と共謀したことを認める内容だった。
(嘘だ。こんなこと僕は知らない)
次にキャラダインはコルト・ガバメントを取り出し、クリスに握らせた。右手が勝手に動いて口の中に銃口をあてがった。
「そのままゆっくりトリガーを引け」
クリスの目から涙と汗が震えに合わせて零《こぼ》れてくる。乱雑な部屋には、たくさんの品があることに気がついた。ビデオ、ゲームソフト、そして数々の飛行機の整備マニュアル。いつもならどこにあるのかわからなくなって部屋中をひっくり返すのに、なぜか全部所在がわかった。
「遺言を聞いてやろう」
クリスはやり残したことがたくさんあることに、やっと気づいた。まだ整備の終わっていないF15Cが十機残っている。ラプターを飛ばすことにかまけて、後回しにしていた戦闘機ばかりだ。どうしても整備してやりたかった。
「それが望みか」
右手がグリップを強く握っている。こんな馬鹿な、と彼の心臓は飛び出さんばかりだ。まだ何かある。まだ何か忘れていることがある。クリスは空軍士官学校に行きたかったが、極端な近視と喘息《ぜんそく》で諦《あきら》めた。それから空軍工科大に進んだ。とても楽しかったが、どこか寂しかった。クリスは少年の頃を思い出した。
(パイロットになりたかった……)
ズドンと鈍い音が鳴った。くたくたの整備マニュアルに血が飛び散る。クリスの体が倒れると、たくさんのプラモデルが落ちてきた。キャラダインが一番新しいマニュアルをクリスの左手に持たせた。彼が部屋を出ると、内側から鍵《かぎ》がかかった。カタンと軽い音がして転がったプラスチックの台座には、こう書かれていた。〔MY RAPTOR〕と。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ」
ヤマグチが息を切らせてハアハアしている。
「俺だってびっくりしたさ。あいつ金に目が眩《くら》んだんだぜ、きっと」
「違うっ!」
「クリスってそんな奴だったのか。骨のあるいい整備士だと思っていたのにな」
「クリスはそんな男じゃない。あいつがラプターを売るわけがないだろう」
昨夜の銃声でMPが飛びこんだら、クリスが自殺していた。部屋にはチェーンまでかかっていたため、MPが入るのに難儀をした。すぐにクリスの身辺が洗われた。中国銀行から彼の口座に十万ドルが振り込まれているのがわかった。
「ブライアン、なんでそんなにクリスを庇《かば》うわけ?」
「おまえこそ、もっと自分の目を信じろよ」
「じゃあ。証拠はどうなるの?」
「くっ……。でも、違う。クリスは犯人じゃない」
ヤマグチの目から涙がポタポタと溢《あふ》れてきた。クリスにプレゼントしようとしていた眼鏡を握りしめていた。
「クリスのおかげでメカニックがみんな疑われているんだぜ」
「オタクってこれだから怖いんだよな」
「やめろ!」
格納庫からやって来たメカニックのひとりが首を傾げていた。
「誰かF15Cを整備したのか? 全機スタンバイになっているぜ」
クリスの葬儀は呆気《あつけ》ないほど簡単だった。義務でやってきた牧師以外は、ヤマグチだけが参加した。あのジョーディーのバイザーを胸に抱かせてやった。棺に星条旗をかけることを禁止され、裸のまま外人墓地に葬られた。軍人としての誇りを奪われたクリスは、異国の大地に冷たく埋葬された。
クリスは沖縄のビーチを見たことがあるだろうか。クリスはベースの外を歩いたことがあるだろうか。ブルネットの女と恋をしたことがあるだろうか。ヤマグチの思いとは裏腹に、クリスは静かに目を閉じている。湧き上がってくる入道雲を眺めていると、頬から下は土砂降りになった。思いあたる人物がいるとすれば一人だ。
「どういうことだい。キャラダイン」
「私は何も知らない」
「嘘をつくんじゃないよ。中国海軍のフリゲートが二隻、撃沈されたよ」
「それは気の毒だった」
劉の怒号がガンガンと発令所のドームに響く。ラプター強奪作戦は失敗した。それどころか味方の最新鋭フリゲートを失った。昨夜セントリーに捕捉された中国海軍は、退路をアメリカ海軍の潜水艦に阻まれ、公海から海軍の演習海域内に追い込まれた。それから六機のF15Cと四機のF/A18Dが波状攻撃を仕掛けてきた。退路を塞《ふさ》がれた中国海軍は子供のように嬲《なぶ》られ、とどめのハープーン空対艦ミサイルで、中国海軍の主力艦である江衛級ミサイルフリゲートを沈められた。嘉手納基地は、今朝になっても非常警戒態勢を解かず、厳しい緊張の中にある。劉にもすぐ第二部から招集がかかった。アンダーソン大尉の消息はまだつかめていない。天久にはラプターが墜落した痕跡《こんせき》すらなかった。
「ふざけんじゃないよ。どんな細工をした」
「戦闘機は中国側にきちんと引き渡したはずだ」
「現れたともさ。たくさんの戦闘機がね。私はラプター一機でいいと言ったはずだよ」
「あれはステルス機だ。レーダーには映らない」
「ステルスって言っても反応が小さくなるだけじゃないか。こっちだってモニターしていたんだからね」
「中国のレーダー技術は低いと見える。まずはその技術から獲得するべきだ」
「なんだって。この帝国主義者が」
「そっちだろう」
張が慌ててやってきた。
「大姐。すぐに来てください。国家安全部管理副部長からお電話です」
「あんな間抜けにこのあたしが……」
劉がドンとコンソールパネルを叩《たた》いた。張と劉が出て行ったあと、パネルを操作するキャラダインがいた。彼はロンドン総本部とアクセスしている。
『どうしたキャラダインよ』
「少々面倒なことが起こりました」
『昨夜の国家安全部の動きはガオトゥの意志に反している。劉の行動は行き過ぎている』
「お詫《わ》びの言葉もございません」
音声だけだから、本部はキャラダインの不敵な笑みをモニターしていない。
「劉がCIAにディスクを盗まれたので、焦ったのでしょう。どうか劉を許してやってください。これからすぐに奪い返します」
『劉の処分はこちらで考える。CIAのアフガニスタンチームがオキナワ入りした。すぐにディスクを始末しろ』
「さっそく手配しております」
『キャラダインよ。昨夜、第五の封印を解かなかっただろうな』
キャラダインがニヤリとする。
「私は空軍将校にすぎません。そのような芸当ができるはずもありません」
『よろしい。封印解除は我々、最高評議会が最後に決定する。おまえは常に私の命令に従っていればよい』
「承知いたしました」
通信が終わった。ロンドン総本部の決定など、キャラダインに関係のないことだった。いくらがんばっても、最高評議会のメンバーに封印解除の力はない。キャラダインはよく失笑を我慢できたと、改めて静まり返った発令所に笑いを響かせた。
「第五の封印と第二の封印が対になっていることも知らない男が、偉そうなことを言うんじゃない。もっとも第一の封印は百五十年も昔に開かれたのだがな」
再びコンソールパネルでガオトゥ・台北を呼び出す。
「通信をスクランブルする。コードCW0037で応答しろ」
『大老の協力には感謝している。これで海峡警備が楽になった』
「便宜を図ってやった。約束通り発注していた資材を那覇に輸送しろ。少しでも傷があったら返品するぞ」
『了解した。最高品質の大理石を三十万トン手配した。しかし南京計画をふいにするがいいのか』
「あそこは条件が揃わない。劉の言うことを鵜呑《うの》みにしていた本部が馬鹿だったのだ」
『ところで設計は進んでいるのか』
キャラダインが溜《た》め息まじりに笑った。
「建築家はちょうど泣いているところだ。これから怒鳴りこんでくるだろう。まったく世話のやける坊やだ」
『総本部に知られたらタダじゃすまないぞ』
「組織は名称を変えたくらいでは、中身まで変わらないものだ。まあいい。また潰《つぶ》せばいいことだ。最高評議会議長が、私の真意を理解することはないだろう」
発令所にキャラダイン専用の扉がある。これを開くことができるのは彼だけだ。キャラダインが掌《てのひら》をかざすと石の扉が開いた。扉の向こうは光さえ通さない闇だった。すぐにキャラダインの体が消える。再び扉が閉まったとき、石板に光の文字が現れた。
POST CXXX ANNOS PATEBO[#「POST CXXX ANNOS PATEBO」はゴシック体]
米軍の駐留する街はどこも同じ印象を受ける。圧倒的な敷地を広げる基地が絨毯《じゆうたん》だとすれば、その裾《すそ》を装飾するように街が細長く縁どっている。
金武町のプロテスタント教会は、いつになく華やかだった。信者と地域住民がバザーを開き、各々のブースに子供たちが九十九折《つづらお》りに重なっている。コニーのブースは一番人気だ。
「コニーさん。そのクッキーを四袋ちょうだい」
「だったら俺は五つ買う」
「馬鹿、売り切れて店仕舞いしたらどうするんだよ」
コニーは男殺しの笑顔で微笑む。
「大丈夫です。まだたくさんあります。なくなったら、焼けばいいですから」
ワイリーが風船を膨らましながら首を傾げる。
「あいつ一体どうしたんだ」
コニーを眺めながら、パンと風船を破裂させてしまった。
「オー。ゴーメンナサーイ」
子供の頭を撫《な》でるが、余計に泣かせてしまう。気位の高さを見抜かれているのだろう。本当は冷静沈着が一番の魅力なのに、エリートはなぜか自分をいい人だと思わせたがる。
その中にひとり、健全なバザーには相応《ふさわ》しくない男がいる。フェルミはヴェルサーチのシャツをはだけて、サテンのパンツを穿《は》いている。シルクの高密度の布地から、ムンムンと噴出するのは、テストステロンを含有したフェロモンだ。フェルミは抑えたつもりでも、あたりの空気が黄色く染まっている。モスラが飛べば、鱗粉《りんぷん》を撒《ま》き散らすのと同じ原理だ。健康な日曜のバザーに沖縄中のアメ女が溜《た》まっていた。
「まいけるー。デートしてーヂラー?」
「広美ー。ぬけがけはよくないよー」
「まいけるー。あたしと真由美のどっちにするー?」
フェルミはいちおう審美眼だけはある。
「IQが人なみ程度あれば付き合うよ。ふたりで一〇〇あればいいか」
「えー。それって3Pしたいってことー? こう見えてもー、上手《うま》いんだぞー」
広美が矯正中の歯を見せて、カタカタと笑った。よく見ると、お口の仕事をしてきたばかりのようで、歯列を矯正するワイヤーに、陰毛が三本くっついていた。フェルミは目が漂白されていきそうになる。
「ごめんね、君たち。僕はゲイだから……」
横で見ていたコニーがよく言うと鼻で笑っている。側で聞いていたワイリーの血管は、はち切れそうだった。彼は道徳心のある潔癖症の男だ。ここでアメ女にガツンと言ってやろうと、待ち構えていた。さっそく広美と真由美が風船を買いにやってきた。
「外人いないねー」
「帰ろっかー」
ワイリーは見事に無視された。またまたアメ女の一本勝ち。無視されて嬉《うれ》しいんだか、悲しいんだか、とワイリーの心中は複雑である。
「どういう風の吹き回しだい。コニー」
「あなたがクッキーを焼けって言ったのよ」
フェルミがコニーにちょっかいを出している。
「ずいぶんと素直じゃないか」
「リーダーには逆らえないもの」
「御機嫌とったって、メンバーには入れてやらないよ」
「あたし家庭的なことをするのが好きなの」
フェルミが睥睨《へいげい》してもコニーはスタンスを崩さない。彼女はちょっとだけ強くなった。すぐに喧嘩《けんか》をして、計略を潰されるようなことはしない。コピーしたディスクは有効に活用するに限るのだ。
「フェルミ、作戦をたてたか」
「まだだアレックス。ガオトゥの目的を調べないと、イタチごっこになる」
「また研究か。いい加減にしろ。理論物理学なんかやめちまえ」
これだから、俗な人間は御《ぎよ》しがたいとフェルミは溜め息をつく。
「ガオトゥはただのテログループではない。もっと大きな野望をもった組織だ。理論物理学的アプローチは、ガオトゥの目的を知るためには有効なんだ。おそらくあのペンタグラムの内部では陽子崩壊が起こっている。神岡のデータを見ただろう。向こうじゃ大騒ぎだ」
パナマ帽にヒマワリを挿したアレックスはベテランのエージェントだ。
「それは本部の考えることだ。我々は駒にすぎない」
「だからいつも後手後手に回るんだ。大局的な戦略を練れる奴なんか本部にいない」
「それは傲慢《ごうまん》だぞフェルミ。いくら優秀だからと言って人を馬鹿にするにもほどがある」
「自分のわかるレベルに人を引きずり落とすことの方がよっぽど傲慢だ。才能には敬意をもって接するのが普通の人間の義務だ」
「ずいぶん大きくでたな、フェルミ。さすがMITの学位様は言うことが違う。だったらなぜアメリカの学界を追放された」
「追放されたんじゃない。こっちから三下半《みくだりはん》を叩きつけたんだ」
アレックスとフェルミが対峙《たいじ》する。コニーが傍耳をたてて聞いていた。
「理論と実践は違う。おまえが作戦をたてないなら、俺がリーダーになる」
「おまえには無理だ、アレックス。本部の命令に従え」
「本部が無能だと言ったのは、おまえだぞ。当たっているみたいだ」
フェルミが唇を噛《か》んで、背中を向けた。
──あんな奴らにガオトゥが潰せるものか。
太平洋に抱かれた金武の街は、フェルミの知らない表情をしていた。見知らぬ土地の孤独感が彼を襲う。どうして自分は仲間に恵まれないのかと虚《むな》しくなる。
フェルミたちのいさかいを立ち聞きしていたコニーが、今だとばかりに目を輝かせる。教会の風向きが変わっていた。ブルネットの髪がいち早くそれを感じた。
「チャンス到来よ。ワイリー」
「本当にやるのか」
「失敗してもアフガニスタンチームの責任だもの。あたしたちは関係ないわ」
「しかし……」
「あんたのエリート意識ってその程度? あんなに馬鹿にされて黙っているくらいなら、一等書記官の資格はいらないわ。たしかにあたしたちはミスをしたわよ。でも躓《つまず》いたら自分で立ち上がるしかないでしょ。誰も助けてくれないのよ。本部があたしたちを見捨てたようにね。あたしはひとりでも仇《かたき》を討つわ。どうするのワイリー?」
ワイリーが強い闘志を秘めた目で頷《うなず》いた。
「またナショナルジオグラフィック誌の記者でいくか」
「天才を制するには天才を以てするしかないでしょ」
嘉手納基地はスクランブル発進を、朝から五分の間隔も置かずに続けている。コソボの中国大使館誤爆事件で火をつけて以来、米中の関係がかつての米ソ並みに悪化しつつあった。表向きは政治でやんわりと会談している。国家機密のラプターを強奪しようとした事実は伏せられたことで、中国はアメリカに一歩譲らざるを得なくなった。
「あたしが党を除名に?」
管理副部長からの電話は衝撃的なものだった。劉はしばらく言葉と息を吐く関係を忘れてしまうほどだった。すぐに北京召還命令が下された。劉には国家安全部の威信を失墜させた張本人として、厳しい処分が待っている。しかしそれに素直に従う劉ではない。さっさと地下施設に身を隠して、国家安全部の目を欺いた。支部の連中は「蓬莱《ほうらい》飯店」の地下に劉が潜伏しているとは夢にも思っていない。
「大姐。しばらくはここで我慢してください」
「そうです。李が護《まも》ってくれますから」
「おのれ、キャラダインめっ」
彼専用の扉にグラスを叩《たた》きつけた。キャラダインはまだ姿を見せていない。
快晴だというのに、今朝から沖縄の空は雷でも鳴っているかのような音が響いている。中国の出方を警戒した無数の飛行機が、重装備の爆弾を抱えたまま燃料が切れるまで飛び続けていた。基地の中で怒声を張り上げたのはヤマグチ少尉だ。
「どうしてなんですか。キャラダイン中佐」
「どうして? 何がだ、少尉」
F15の爆音がそのままヤマグチの怒りになった。まるでベースを空襲しているかのように、戦闘機が増えていく。グアム基地からの増援部隊だ。
「クリスを殺すことはなかったでしょう。あんないい奴を……」
「自殺したメカニックのことか。MPの報告で聞いた」
嘘だと叫んだヤマグチの声をキャラダインは背中で弾いた。広い軍服はさらに無口だ。
「私はもうあなたには従えません。人を殺してまで隠蔽《いんぺい》する理由が『プロジェクト L』のどこにあるのです」
「私はコピーするなと警告したはずだ」
ヤマグチの胸にキャラダインの言葉がグサリと突き刺さった。お人好しのクリスを巻き込んだのは彼自身だ。次はコニーだ、とっさに頭に浮かんだ意識をヤマグチは必死に隠そうとした。
「そうだな。守りたいのならがんばってみろ」
「やめてください。中佐。彼女は私が説得します」
そう言ってキャラダインの足音を追いかける。
「使命を忘れた者が、人を説得できると思うな」
「使命? 私はただのアメリカ空軍のパイロットです。世界の平和を守るのが私の使命です」
「果たしてそうかな。おまえは名前すら思い出せないではないか。志を忘れたか」
その言葉に何かひっかかった。疑問ではない。ヤマグチがキャラダインに惹《ひ》かれている理由が一瞬だけ想起されたのだ。初めて会ったとき、反射的に「お久しぶりです」と言って、失笑を買った。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せると何かが浮かんできそうだった。しかしまた闇の淵《ふち》へと落ちてしまう。相手が人殺しだとわかっても、キャラダインを目の前にすると、クリスが殺されたのも仕方がないという考えすら湧き起こってくる。何を考えているんだ、自分は、とまた憎悪の炎を焚《た》きつけようとする。しかしどんなにがんばっても、燻《くすぶ》ってしまう。これにはきっと理由があるはずなのだが、ヤマグチにはわからない。
「教えてください。中佐は何を実現したいのですか」
「おまえの本来の役目は『プロジェクト L』とは無関係だ。もっと重要な仕事が待っている。ひとつ聞こう。君はパイロットになる前は、何に憧《あこが》れていたのかな」
ヤマグチはしばし考えた。パイロットを志したのはハワイの航空ショーでサンダーバーズのアクロバット飛行を観てからだ。それがハイスクール時代だ。それ以前はなんだったのだろう。たしか父の仕事に憧れていたような気がする。ヤマグチはハッと思い出した。
キャラダインが言葉を重ねた。
「建築家だった……」
ヤマグチの頭が痛くなる。酒を呑《の》んでもこれほどまでの頭痛はしないだろう。ちょうど飛行訓練のバーティカル・クライム・ロールで、きりもみ垂直上昇したときに生じるホワイトアウトの感覚に似ていた。これに身を委《ゆだ》ねれば何かが変わるはずなのだが、パイロット生活で身についた習慣が邪魔をする。下半身に力を入れて脳に血液を集中させる癖が勝手に始まったが、それでも眩暈《めまい》が収まらなかった。これを見たキャラダインが限界だと判断した。
「これがわかるか、ヤマグチ少尉」
キャラダインはサングラスを机に置くと、窓辺に片手をついて歌を歌い始めた。張りのあるバリトンの声だった。
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]この二人の異国者を
我等の試練の殿堂へ導くがよい
そして彼らの頭を覆うのだ
彼らは何よりも
清められなければならない
※[#歌記号、unicode303d]徳と正義が
偉大な人々の道を栄光で覆うとき
その時、この世は天国となり
人間は神々に等しいものとなる
[#ここで字下げ終わり]
ヤマグチは怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめた。クラシック鑑賞が趣味の彼は、オペラには一家言ある。
「それは〔Die Zauberfloete〕モーツァルトの『魔笛《まてき》』第一幕第十九場のフィナーレですね。第十九場はモノスタートスがタミーノを連れて入ってきます。レチタティーヴォなのにアダージオ・ア・テンポで拍子をとって歌われる例外的な歌唱法が最後にあって、ザラストロの単純なレチタティーヴォが変化するんですよね。第十九場のフィナーレは、ハ長調の大合唱が印象的でした。ソプラノとバスが際立って、まるで天と地を表しているみたいで興奮しました……あっ!」
「そういうことだ。ヤマグチ少尉」
キャラダインがニヤリとする。サングラスをかけ直した中佐の顔に二人のヤマグチが映っていた。天久でペンタグラムを描いたとき、その五つの頂点にコンパスと角定規の角を向かい合わせるように埋めた。中佐の命令に従っただけだが、こんなものが何の役に立つのかヤマグチにはわからなかった。それどころか、何か呪術《じゆじゆつ》めいた雰囲気すら感じたものだ。やっと辻褄《つじつま》があってきた。ペンタグラムを作るのは楽器でも同じだ。
「バセット・ホルン、ティンパニー、トランペット……」
「そしてトロンボーンだ。やっとわかったか」
ヤマグチは自分が青ざめていることがわかった。
「五」のリズムを楽器で男性原理の「三」と女性の「二」に強弱をつけて分けているのだ。それは二重唱「男と女」のメタファーだ。パスワードを見た時に気がつくべきだった。自分は勘の悪い人間ではないはずだ。軍という組織にいるがために、独断することを抑える自分がいる。それが判断を遅くさせている。
ヤマグチは自分の愚鈍さに呆《あき》れ果てていた。
「わかりました。私はやはりついて行けません。懲罰でも何でも覚悟します」
「私は気が長い。もう少し待ってやる」
「いいえ。こんな時代錯誤も甚だしいことはやめるべきです」
これ以上のことは考えたくなかった。ペンタグラムの頂点の頭文字はG.A.O.T.U.異端の象徴だ。上官の命令だったとはいえ異端に手を貸した自分が恥ずかしかった。
「資材が届いたら目の色が変わるさ。資質はそう簡単に変わらないからな」
「私はあなたの命令を拒否します。クリスが殺されたとき、私の忠誠心も死にました」
「しかし君は報告しないんだろう」
ヤマグチは何も答えられなかった。
「まあいい。少し頭を冷やすことだ。新しい部下が私を待っている。おまえのように使命のためにしか生きられない男だ」
キャラダインが専用車に乗って去って行った。ヤマグチには次の手が思い浮かばない。何かとんでもない方向に事態が進んでいる気がする。ヤマグチがディスクをコピーしたくらいでは延期されるようなものではない。キャラダインはテロリストではなかった。
──革命家だ。
ふとオルレンショー博士が言っていたヨゼフ神父のことを思い出した。彼なら何か知っているかもしれない。
その夜、不思議な謡《うた》がヤマグチの耳に届いた。異国の言葉なのに、どんどん意味が体に入ってくる。それほど長い謡ではないのに、止むことがない。繰り返しているわけでもない。空間が閉じて時間が展開していないように思えた。
「なんなんだこの謡は。わかる。わかるぞ」
オペラのアリアを東洋的に聞いているようで、メゾソプラノの声が自室の天井や壁の六面から同時に彼を飲み込んでくる。何かに衝き動かされたようにヤマグチは声の高まる方向を追いかけていた。
[#ここから1字下げ]
一 にるやとよむ大ぬし
かなやとよむわかぬし
にるやせぢ みおやせ
又 たしま おそう あちおそい
たきより おそう あちおそい
又 よりみちへは やぬて
せぢよせは やぬて
又 大ぎみは いきよて
せたかこは てつて
又 けおのうちの もちよろ
もちろうちの もちよろ
又 ゑそにやませあちおそい
てたがすゑあちおそい
又 にるやせぢ あらきやめ
かなやせぢ あらきやめ
又 しよりもり ふさい
まだまもり ふさい
又 大ぬしす まぶれ
わかぬしす まぶれ
ニルヤの名高い神よ
カナヤの名高い神よ
国王にニルヤセヂを奉れ
この島を治め給う国王様が
この国を治め給う国王様が
霊力豊かな王城の台所を造って
セヂ寄せを造って
大君をお招きして
精高子はひたぶるにお祈りをして
聖域のきらめいて美しいことよ
モチロ内の聖域のきらめいて美しいことよ
英祖様の真末である国王様は
太陽神の末裔《まつえい》である国王様は
ニルヤセヂがある限り
カナヤセヂがある限り
首里杜に栄え
真玉杜に栄え
ニルヤの大主こそ守護し給え
カナヤの若主こそ守護し給え
[#ここで字下げ終わり]
「また聞こえてきたわよ。チルー」
(これは王府のオモロだ。聞得大君が太陽神となるときの謡だ)[#「(これは王府のオモロだ。聞得大君が太陽神となるときの謡だ)」はゴシック体]
デニスはベランダに出て天久方面を眺めている。いつもながら湖のような夜景だった。その闇の中に妙なものを見つけた。もし目に映っているのが幻覚ではなかったら、ペンタグラムの中心に青い薔薇《ばら》のようなものが見える。謡はデニスの体の中から聞こえてきているようだ。また体が自然に動く。
「おばあちゃん、ちょっとツーリングしてくるわ」
「ぶっ飛ばしておいで」
ヤマハV−MAXを買い与えたのは、他でもない祖母の良枝である。引っ込み思案だったデニスを心配して、大型バイクを駆るように勧めた。良枝の読みは間違っていなかった。デニスはすぐにこれを飼い慣らしたのだ。
チルーはエレベーターホールの縦穴から降りて、先回りしていた。
(やった。猛獣車と夜の散歩だあ)[#「(やった。猛獣車と夜の散歩だあ)」はゴシック体]
「失礼ね。|JADE《ジエード》号って名前があるのよ」
(異国人の名前はわからん)[#「(異国人の名前はわからん)」はゴシック体]
「翡翠《ひすい》よ。オリエンタル・ジエード」
完全に闇に紛れて、漆黒のバイクがバイパス道路を南下していく。黒いレザースーツに身を包めば、それがデニス本来の肌になる。ボディラインが赤信号を弾いて止まる。誰もが大型バイクを駆るのが女だと気づきギョッとした。脇に停止しているドライバーに、Vサインでヘルメットを弾く。この瞬間がデニスは好きだった。那覇の夜景を映していた燃料タンクに星のきらめきがなくなると、もう与那原《よなばる》町の原野の中だった。その間もバイクの音に割り込んで、オモロが聞こえていた。
バイクは太平洋側に出現した。ライトを当ててもまったく海の気配を感じさせない。昼間は喧嘩《けんか》した夫婦のように水平線の上下で別居していた海と空が、夜は抱き合ったまま眠っている。どこまでも同質な闇だった。デニスはセーファ御嶽《うたき》へとハンドルを切った。
「エケリかい。よくぞここがわかったな。ようこそセーファ御嶽へ」
「ノー。ワタシハ、ブライアン・ヤマグチ、デス」
「おや日系人かい。英語でいいよ。親戚《しんせき》の姪《めい》と孫がアメリカ人だから、少しはわかる」
セーファ御嶽の三庫理には、潮騒《しおざい》のノクターンが流れている。微《かす》かに発光する浜が、あの独特の直角三角形の天然回廊を闇に浮かばせていた。その奥から白装束の老婆が現れた。彼女の身丈ほどもある長大な数珠《じゆず》は、七十九個と六十九個の二連の水晶玉に勾玉《まがたま》を配した珈玻羅玉《がはらだま》である。現れたのはセーファ御嶽を護っていた先代のノロだった。
沖縄最強の霊力と崇《あが》められてきた彼女は、自分の力の衰えを認識した。ここに降りてくる神は並の者ではない。この神と毎日朝夕交信するには、体力が必要だ。今思えば、自分の能力が円熟していたのは五十代の頃であった。しかしその時は必死でわからなかった。あと十年経てば、今よりもっと優れた自分がいると信じて拝んできた。キャリアは十歳のときからだ。自分に神が宿ることを知ったとき、彼女は運命を受け入れて十歳で成人[#「成人」に傍点]した。それから最高神女として、共同体を統《す》べることだけに専念してきた七十年だった。
「エケリが現れた。もうすぐオナリがやってくる。おまえたちに渡すものがある」
ヤマグチは神秘的な空間に迷い込んできた自分に戸惑っていた。この森に入った瞬間に体中の血が一回入れ代わったような新鮮さを覚えた。聞こえていた謡が入口で止まった。あちこちに躓《つまず》きながら、不安な足取りで山道を歩き、三庫理の浜へ出た。もしかしたら、これは夢なのかもしれないと何度思ったことだろう。
「聞こえたんだろう。あれはオモロと言って、特別なセヂのある者にしか聞こえない」
「あのアリアがですか。まるでトゥーランドットのようだった」
「エケリよ。おまえには使命がある」
三庫理の天然回廊に老婆の言葉が響き、ヤマグチは二度頭を殴られたような衝撃を受けた。彼は真っ直ぐ立っているのが困難だった。
「エケリとは何ですか?」
「琉球の最高神女である聞得大君のセヂに護《まも》られる男の兄弟のことだ。すなわち、国王のセヂを持つ男がおまえということだ」
「何を馬鹿なことを言っているんですか。私はアメリカ人ですよ」
「いいや。おまえには琉球王朝の血が流れている。ヤマグチは明治時代に改姓法で得た名前のはずだ。それ以前は第一|尚氏《しようし》王統の末裔《まつえい》の名だったはずだ」
「たしかに私は沖縄をルーツにする日系三世です。しかしこの土地の宗教は、よくわかりません。これでもクリスチャンですから」
「国籍も宗教も関係ない。セヂがあるかどうかが問題だ。つまり魂の力だ」
セーファ御嶽にバイクの轟《とどろ》く音がした。
「オナリが来たようだ。おまえを護る最強の女だ」
ヤマグチが息を飲む。老婆はやってくる彼女を呼んだ。
「小百合、遅かったじゃないか」
ガサガサと木の葉を揺らして出てきたのは、レザースーツに身を包んだデニスだった。
「やだ長子オバァじゃない。ノロってこんな時間もお祈りするんだ」
老婆は目を開いたまま言葉を失ってしまっていた。ヤマグチも目を丸くしたが、すぐに喉《のど》をついて言葉がでた。
「レキオスの種《たね》だ。どうしてこんな場所に」
「あんた誰? アメリカ人それとも日本人」
日本人にしては体格が屈強だと思った。デニスは砂浜を蹴《け》って老婆の前に出る。
「デニス、どうしてここへ来た」
「なんか誘われたって言うのかな。ブラリと来ただけよ」
「こんな夜中に那覇から?」
デニスが諦《あきら》めて白状した。
「実は謡が聞こえてきたのよ。幻聴じゃないわよ。小百合ネーネーの誓願式のときにも聞こえたもの。だからきっとここが元なんじゃないかって思ったの」
「やっぱり君にも聞こえたのかい」
「あなたも? 私デニスよ。デニス・カニングハム」
「僕はブライアン・ヤマグチ。アメリカ空軍の将校だ」
「ちょっと待った。なんで小百合が来ないんだい」
「知らないわよ。疲れて寝ているんじゃないの」
「シャーマンのお婆さん。オナリってこの娘のことですか」
「やだ『オナリ』。その言葉、聞いたことあるわよ。エケリを護れって」
デニスは友庵の最後の言葉を思い出していた。老婆は間違いないと頷《うなず》いた。間違ったのは老婆の人選であって、血縁の女で世襲していく規則からいけば、デニスにも当然権利があった。しかし公に誓願させた小百合を今さら降ろすわけにはいかない。
「仕方ない。オモロを聞くためにセヂが必要だ。デニスに聞こえたなら、聞得大君の霊がおまえを選んだということだ」
「ちょっと待って。あたしに幽霊みたいな恰好《かつこう》して、毎日ここで拝めっていうの。Never≠たしは早起きが苦手なの。そもそもあたしはオナリなんて知らないのよ。レキオスだったりキンマモンだったり、一個にして一個に」
「やっぱりレキオスのことを知っているんだ」
「知らないわよ。こいつに振り回されてしぶしぶ付き合っているんだから」
(だから早く探せって言っているだろうが)[#「(だから早く探せって言っているだろうが)」はゴシック体]
「嫌よ。あんただけでやりなさいよ」
「僕が何をするんだよ」
「黙ってて。今、面倒くさい会話をしているんだから」
セーファ御嶽の森の梢《こずえ》がざわめく。ヤマグチとデニスは初めてここが闇であることに気づいた。ノロの首飾りがカチカチと鳴る。
「オナリとエケリがアメリカ人とは……。仕方ない。ついて来るがいい。おまえたちにセーファ御嶽の真実を教えてやろう」
天然回廊を渡ると、いくつもの古い香炉が雑然と並んでいる場所に出た。まるで骨董《こつとう》を野晒《のざら》しにしている状態で、神との交信に使われたのは古い時代のことだと感じさせた。チラチラと動く白い影がノロで、辛うじて見える明るいブルーの影はヤマグチの背中だ。デニスの姿は完全に闇に溶けていた。老婆はその中からひどく見すぼらしい香炉を取った。
「ここはいろんな人が拝みにくるからね。簡単に見つかってはいけないから、カムフラージュしてあるのさ。ヤマグチよ、デニスと二人でこの香炉を鍾乳洞の中に持っていけ」
「え。この中をですか」
彼の脇を風が高い音をたてて抜けていく、闇の中心部がある。どんなに時間が経っても順応できない完璧《かんぺき》な闇だ。風の音で洞窟の輪郭がわかった。
「じゃあ、あたしはこれで失礼するわ」
こんなデニスだからノロは世襲させたくなかったのだ。セヂのあるノロにさえ、聞得大君《きこえおおぎみ》のオモロを聞くことはできなかった。それは血脈が薄れてきた証《あかし》と諦めていたが、デニスにはそれができる。おそらく史上最強のノロとなるセヂなのだろう。老婆はまだ聞得大君の力に目覚めていないデニスを、さんざんなだめすかして鍾乳洞の入口に立たせた。
「道は自然と開かれる。干潮のこの時間しか開かないからね。すぐに行きなさい」
ヤマグチとデニスが鍾乳洞の中に入った。彼のペンライトが一筋の明かりを示すと、複雑な鍾乳石のカーテンが天井から降りているのが見えた。内部はひんやりと冷たく、うねった道の展開すら読めない。
「ちょっと、ブライアン。なんで右に曲がるのよ」
「え。なんとなくかな。左にするか」
「いいえ。右よ。そのまま行くわ」
これを何度も繰り返して、二人は行き止まりにぶつかった。
「これ、星図じゃないかな」
行き止まりにしては天頂が高すぎる。ここだけ人工的に加工された形跡があちこちに見られた。壁はいくらか苔《こけ》むしているとはいえ、平面である。触ると夥《おびただ》しい水滴が剥《は》がれ落ちるように流れた。ムッとした苔の臭いがあたりを覆う。デニスの指は人工的に彫られた溝に生える苔を抉《えぐ》りながら、直径三メートルはある巨大な円を露《あらわ》にした。その円に沿うように無数の穴が、ある種の規則性で並べられていた。
「いくつか崩れているようだ」
「岩だもの。割れたのよ」
「最近のものだ」
(東、西、南、北、天、地、中、の七方位だ。本当にあったんだ)[#「(東、西、南、北、天、地、中、の七方位だ。本当にあったんだ)」はゴシック体]
「なにそれ。お呪《まじな》いみたいなもの」
(私が生きていた頃、ベッテルハイム先生が探していたものだ)[#「(私が生きていた頃、ベッテルハイム先生が探していたものだ)」はゴシック体]
「またベッテルハイムか。これがセーファ御嶽の秘密なわけ? OK、わかったわ。蝋燭《ろうそく》を置いて帰りましょう」
デニスは肝試しと勘違いしている。突然ヤマグチが声を響かせた。
「文字がある。君、ちょっと僕を担いでくれないか」
「あんた男でしょう。なんであたしが男を肩車しなきゃなんないの」
「たぶん、君には読めない」
「あんたより日本語はわかるわよ」
ヤマグチが息を飲んだ。
「ラテン語だ……」
円の外縁を囲むように、苔むしたアルファベットが見える。彼はペンライトを斜めに当てて、文字を読み取っていた。最初の文は、
Jesus mihi ominia
と書かれていた。ヤマグチは呟《つぶや》いた。
「イエスは我がすべて」
それから円の外周に文字が展開している。天頂にはこう書かれていた。
「Nequaquam vacum(無はどこにも存在せず)」
時計回りに東から南へ、最後の西へとヤマグチが次々と読みあげる。
「Legis Jugum(法の範《はん》)」
「Libertas Evangelii(福音書の自由)」
「Dei gloria intacta(神の無垢《むく》なる栄光)」
読み終えたとき大地が揺らいだ。ヤマグチを担いだデニスが崩れ落ちる。突然鍾乳洞の奥から光が射しこんできた。
「何かある。待っててくれ」
「いやよ。こういう場合、戻ってきた奴はいないのよ」
「君はB級映画の見すぎだよ」
デニスが腹|這《ば》いになってヤマグチの足を掴《つか》んだ。そんなデニスをヤマグチが軽々と持ち上げて、光の中を駆けていく。光の中心に何かの影が見えた。そこまで行くと、岩に剣が突き刺さっていた。
「それ抜いちゃダメよ。絶対に祟《たた》られるんだから。だから、抜くなって……」
「何も起こらないさ」
するりと剣を抜いたヤマグチが天井に掲げる。デニスは髪に指を突っこんだまま身をかがめていた。
「これが秘密か。ずいぶんとボロの剣だな。青銅か」
不思議と帰り道は一直線だった。マブイが落ちないように彼女はさっきから呪文を唱えている。
「マブヤーマブヤーウーテーク。マブヤーマブヤーウーテーク……」
「それ不気味だからやめてくれないかな」
「アメリカ人って合理的だから嫌いよ」
「君に言われたくないな」
鍾乳洞から出てきたとき、ノロがデニスの首に勾玉《まがたま》の数珠《じゆず》をかけて、こう言った。
「神話によると、洞窟から出てきた神は剣と玉を持っていた。ふたつに分かれた神はオナリとエケリになり、大地を支配した。イザナキとイザナミのようにね」
「それ日本書紀? あたし学校で習ったわ」
「ふたりから生まれたのがアマミキヨ。琉球の祖神となる大神だ。アマミキヨが久高島からこのセーファ御嶽に降りた。なぜだかわかるかい、デニス」
デニスはすぐに閃《ひらめ》いた。
「天《あま》の岩戸《いわと》伝説。この鍾乳洞が? アマミキヨって、もしかして……」
「神の名は場所によって少しずつ違うからね。結局みんな同じものを信仰していたということさ。太陽はひとつしかない。太陽神もひとりしかいない」
「これがセーファ御嶽の秘密なのね」
「まだある。セーファとはセヂの場という意味だ。沖縄中のセヂがこの地に集まり聖地となっている。そして七つの封印が施された鍵《かぎ》の場でもある」
「ヨハネ黙示録の七つの封印だ。なぜこの地に?」
ヤマグチが口を挟んだ。
「私はクリスチャンじゃないから、わからない。知っているのは七角型に施された封印がこの鍾乳洞の奥にあるということだけ。『東西南北天地中』が宇宙を表し、そこにひとつずつ力が宿っている。最近、いくつか割れたよ。封印解除した者がいる。滅多なことじゃ割れないはずなのに」
「天久ペンタグラム作戦……」
ヤマグチの言葉は震えていた。
「ひとつ目の『東』は百五十年前に割れたらしい。もっとも私にはエケリがいなかったから、見たことはないけどね。この前、夢で『天』が割れたのを見たよ。ふたつだね」
「いいえ。あそこでは四つ割れていました。ちょうど『南』と『西』が。なあ、デニス」
「ええ。なんだか新しい傷だったわよ」
ノロは首を傾げるばかりだ。
「どういうカラクリだい。全部割れたら、それこそ世界は火の海になるよ」
「何が起こるの。あたし逃げなきゃ」
「こらっ。聞得大君が逃げてどうする。全部割れたら、キンマモンが暴れ出すんだ。あれは極めて制御された中でしか出現させてはならない化け物だからね」
「レキオスだ……」
ノロはヤマグチを指した。
「そこでだ。おまえが持っている剣があるだろう。これを万が一の時に使うのだ。エケリのセヂを最大に受けて威力を発揮する剣だ。琉球王はこれを所持していた。時の王はこう呼んだ。『雲龍彫長刀』。短刀と対になって祭典で使った神剣だよ」
デニスはだんだんわかってきた。
「それは日本書紀でいう『草薙《くさなぎ》の剣《つるぎ》』。この首飾りは『八尺瓊《やさかに》の勾玉《まがたま》』ね。あと何かあったわね。ええっと……」
「どう使うんです。かなり傷んでますよ。何かを斬ったらポキリだ」
ヤマグチが剣の刃をおそるおそる摘《つま》んでいる。深夜だからよく見えないが、きっと錆《さび》だらけで刃もこぼれているだろう。
「使い方は自分で覚えるんだね。エケリならわかるはずだ」
「ちょっと待って。鏡がないわよ。『八咫《やた》の鏡』はどこにあるの」
ノロのオバァは黙ったままだった。そして風が凪《な》いだとき、ボソッと呟《つぶや》いた。
「……盗まれた」
夜が明けようとしていた。デニスとヤマグチは山を下りていた。デニスはまだ夢から覚めない気分でジャラジャラと勾玉をいじっている。
「謎が多すぎるわね……」
「謎は三つ、生は一つ!」
「何それ」
ヤマグチが日焼けした顔から真っ白な歯を零《こぼ》した。
「プッチーニのオペラ『トゥーランドット』で姫のアリアの後、王子カラフがこう言うんだ。『いいえ姫、やめません。謎は三つ、生は一つ!』ってね」
ふたりは再会を約束して、南部廻りと与那原廻りに別れた。最後にバイクの尻《しり》を叩《たた》いたヤマグチが「JADE(荒くれ馬)か。君にぴったりだな」とイヤミを言っていたことを思い出す。不思議と爽《さわ》やかな印象の青年だった。彼がエケリなら兄のようなものかもしれない、と呟いてデニスは馬鹿ねと笑う。
──謎は三つ。生は一つか。
ますます光が多くなる太平洋をぐるりと囲むように廻りながら、デニスは少し遠回りをした。急カーブが連なる峠をブレーキを使わず、ハングオンでつぎつぎと駆け抜けていく。ヘルメットの高さにまで太陽があがると、光線は一気に昼になる。
[#改ページ]
Lequios
「大姐《タージエ》、大変です。早く発令所まで来てください」
ハンビータウンの地下施設の廊下に李《リ》の声が幾重にも響いている。劉《リユウ》はずっと鬱《ふさ》ぎ込んだままだった。それでも李はドアを叩き続けた。
「張《チヨウ》が大変なものを見つけたんです。大至急です」
皺《しわ》のよったムームーを着た劉がしぶしぶベッドから下りた。モグラ生活に入って十日は過ぎていた。地下施設は二十四時間稼働しているから、昼夜の区別がない。人がいれば、それでも時間がわかるだろうが、まだこの施設は百パーセントの稼働をしていない。来年、新本部が移転してくるのに備えてテストが繰り返し行われるだけの単調な毎日である。
今まで仕切っていた国家安全部海外部を完全に敵に回した劉は、今やお尋ね者である。絶望に慣れているとはいえ、これはさすがに応《こた》えた。自分の過失ならまだ諦めもつくが、元凶はキャラダインだと確信していた。彼は自分の部屋に入ったまま、まだ出てこない。
「あの野郎。出てきたら殺してやるからな」
発令所のドアを開けると、張が血相を変えて飛びついてきた。
「大姐。どうしましょう。大変なことになっています」
「なんだい。国家安全部がここを嗅《か》ぎつけたとでも言うのかい。大丈夫さ。核攻撃にも耐えられる設計だからね。烏龍《ウーロン》茶を持ってきておくれ」
儒教的な男の李が初めて劉に向かって怒鳴った。
「違うんです。張の話をきちんと聞いてください!」
「いいですか、大姐。冷静に聞いてくださいよ、僕、さっきGAOTUのロンドン総本部のホストコンピューターをハッキングしたんです」
「悪戯《いたずら》がすぎるよ、張。バレたらとても庇《かば》えないよ」
張は暇|潰《つぶ》しにあるゆる国の政府機関にハッキングして遊ぶようになった。彼に開けられないプログラムはないし、今まで一度もバレたことがない。それで一番難しそうな、ロンドン総本部に入ってみた。そこで張はとんでもないものを見つけたのだ。
「大姐。大姐。驚かないでください…………」
「だから、なんなんだい」
李が答えた。
「大姐の抹殺指令が明後日に下ります」
「なんだってえ。あたしが何をしたと言うんだい」
グラスが落ちて劉のムームーを濡《ぬ》らした。たちまち花柄が濁っていく。
「本当なんです。明後日の最高評議会で承認され」
「私に大姐を殺すよう命令が下りることになっています……」
「李にかい。なぜだい」
「わかりません」
「大姐。どうしましょう」
キッと石の扉を睨《にら》んだ。そして五個目のグラスが砕け散った。ガオトゥに後から入ってきたキャラダインは、いつの間にか彼女の位階を追い抜き、今では顎《あご》で扱《こ》き使うようになっていた。そんな彼を、劉はけっして快く思っていない。しかし彼には不思議な力がある。その能力を認めて、力を合わせていこうと思っていた矢先に、劉は共産党を追われた。そして今度は最後の砦《とりで》まで奪われようとしている。
「ちっきしょーう。キャラダインめ。あたしに何の恨みがあるって言うんだい。張、ロンドン総本部を呼び出せ。南京計画をふいにするって直談判してやる」
「駄目です。これも見たのですが、南京計画は白紙に戻されていました」
劉は見えない手で殴られたようにグラグラと頭が揺れるのを感じた。第一段階のペンタグラム作戦の青写真までできていて、それを中止にするなんて有り得ないことだった。
「大姐。逃げてください」
「仕方ない。台湾に身を隠すよ」
「駄目です。いろいろ調べたんです。そしたらガオトゥ・台北が妙な動きをしているのがわかったんです」
張の声は涙混じりになっていた。スクリーンに資材発注リストが表示された。
「なんだいこれは。杉材と御影石、大理石、この量はなんだい。貨物船を何隻チャーターするつもりだい」
「それが、十一月までに泊《とまり》港に入港するように発注されています。資材見本が来週にも届く予定です」
「誰が発注したんだい。あいつか!」
「この前、僕と大姐が管理副部長に呼ばれて退席した後、台北と通信した記録がコンピューターに残っていました。スクランブルされていたので中身はわかりませんが、あの時いたのは大老だけです」
「キャラダインめ。殺してやる」
「大姐。すぐに逃げてください。私は総本部の命令に逆らえません」
「逃げるってどこにだい。空港も港も国家安全部のエージェントがうようよしてるというのに。もう隠れる場所はないんだよ」
「でも、逃げてください」
「明後日になってしまったら遅いんです」
劉はボンヤリと李の声を聞いた。するすると気力が抜けていくのがわかる。熊手で背中からゴソリと臓腑《ぞうふ》を抉《えぐ》り取られて、微《かす》かに生きているだけのようだった。
「このあたしが、誰よりもGAOTUに忠誠を誓っていた、このあたしが……」
劉が唇を噛《か》んだ。張と李は子供のようにボロボロ泣いていた。
「大姐。貧乏で大学に行けなかった僕に、日本の大学で一流の教育を受けさせてくれたのは、あなたです。僕の夢を叶えてくださって本当にありがとうございました」
「大姐。私が重慶《チヨンチン》市でチンピラをしていた時、あなたが僕の目を覚ましてくれました。あの時、大姐と出会っていなければ、どこかで野垂れ死にしていたはずです。お願いです。逃げてください。張、例のものを……」
両手で顔を押さえても涙が指の間から零れてくる。張が掌《てのひら》をどけると顔は真っ赤だった。
「これ、時間がなかったので、少ししかありませんけど、餞別《せんべつ》です……」
張が差し出したのは三十万ドルの現金だった。
「ナンバーはバラバラですから安全です。この前、中国銀行のコンピューターから盗んできました。大姐を追放した国家安全部からの退職金と思ってください……」
「まさか逃走資金になってしまうとは……」
李もついに堪えきれずに顔を覆った。劉はすこし正気を取り戻して、泣いている張と李を胸に抱えた。
「よくやってくれたね、おまえたち。今まで御苦労だった。私を支えてくれて本当にありがとう。謝謝《シエシエ》。謝謝……」
劉まで子供みたいに泣いていた。悲しかったからではない。李と張がなかなか泣きやんでくれないからだ。
「もう泣くんじゃないよ。いい大人なんだから。李も張もこれから私がいなくてもがんばっていくんだよ。理想を高くもって生きるんだよ」
「大姐……」
最後だというのに、三人ともお互いの顔がよく見えなかった。海に飛び込んだみたいに涙を流して、劉は李と張の頬を撫《な》でた。
「おまえたちは最高の部下だ。礼もできないが、忘れないよ」
「お礼なんてとんでもない。私こそ何もできずにすみません……」
「このお金、管理副部長のコンピューターを経由して盗んであります。どうせ賄賂《わいろ》漬けの男ですから、誰も疑いませんよ。すぐに逮捕されるはずです……」
劉が何度も張の肩を叩《たた》いて、声を詰まらせている。
「僕らの大姐にひどいことをした報いですよ」
三人が目をあわせて笑い、そしてまた顔を埋めて泣いた。劉に仕えて十年になる。彼らは最高の部下である誇りはあった。しかし今日、初めて自分たちが家族であることを確認した。そんな大切な日にお別れである。
「大姐、大姐……僕らの母さん」
ふたりになった李と張は抱き合ってまた泣いた。
劉はハンビータウンの大型スーパーから地上に脱出した。行くあてなどない。外はすっかり夜も更けていた。劉はカートを押した主婦に小突かれ、搬入している業者に弾かれ、気がついたときには、ポツンとひとり駐車場にいた。
「こんな馬鹿な。こんな馬鹿な……」
ブンと劉の体の脇を剃刀《かみそり》のように車が掠《かす》めていく。サイドミラーに当たった腕が少し遅れてジーンと痛みを伝えてきたが、あまり問題にならなかった。
「あたしはどうすればいいんだい……」
体の中に溜《た》め息の巣でもあるかのようだ。次から次へと息を吐く間も持てずに生まれてくる。胸がどんどん締めつけられて、内側にへこんでしまいそうだった。ハンビータウンを一望する道路に出たとき、かつての「ブルーチャイナ」跡地に目がいった。シートで囲いを張り巡らされて、覚えている風景と重ねられるものは何もなかった。
「さよなら。李、張……」
国家安全部の連中にいつ見つかるかもしれない。劉は植え込みのハイビスカスの中に飛び込んで、ムームーを周囲に擬態させた。一瞬、ライトに照らされた劉が闇に浮かび、車が過ぎていくと、それから先、行方は杳《よう》として知れなかった。
深夜、地下施設にあるキャラダインの扉に文字が浮かんだ。やがて渦を巻くように扉が開くとキャラダインが出てきた。その様子を張が隠れて見ていた。
「大老は一体何者なんだ?」
コツコツとブーツで床を蹴《け》る足音が響いた。キャラダインが一瞬、こちらを見たように立ち止まったが、すぐに発令所を後にした。地上では李が尾行することになっている。
『こちら李。大老が出てきた。今のうちだ張』
「了解。総本部の上位ロッジ名簿をハッキングする」
『抜かるなよ』
「そっちもな」
張はコンピューターにハッキングをかけていた。
「GAOTU上位ロッジ名簿。あった。デーヴィッド・S・キャラダイン。経歴はと。一八七〇年……死亡?」
石の扉に文字が浮かんでいた。
POST CXXX ANNOS PATEBO(百三十年後に神は蘇《よみがえ》る)
ノックの音がオフィスに響いた。重厚なドアが開いて、秘書の男が恭しくお辞儀をした。ここは嘉手納基地内の士官室だ。
「お待ちしておりました。どうぞ」
デニスが中に入ると部屋の中央にはサングラスをかけた大柄な男がどっしりと彫像のように構えていた。
「この前、家に来たそうですね。それで、あたしに何かご用でもあるのかしら?」
キャラダインは机の上の資料を眺めて、腕を組んだ。
「デニス・カニングハム。君の経歴は見せてもらった。素晴らしい射撃の腕だ。そこで頼みがある。あるものを狙撃してほしい」
「あたしはライフルをやめたんです。もう何年も撃ってないわ」
デニスは嘉手納基地に呼び出されていた。初めは友人からだと思っていたが、名前に覚えがない。それでもしぶしぶ行くと、広いオフィスに通された。そこには大統領の執務室のようなマホガニーの机があり、脇には鰐《わに》の剥製《はくせい》が置かれていた。
「報酬はそちらの言うままに用意する。まだハイスクールの生徒だったな。小遣いに困る年頃だろう」
「お生憎《あいにく》様。人から物を貰《もら》っちゃいけないって躾《しつけ》られてますから」
「それは立派な心掛けだ。ますます気に入ったぞ」
キャラダインはもう一枚の資料を読んだ。
「……カニングハム将軍の娘? ダニエル・カニングハムの娘か?」
「ちょっと待って。今なんて言ったの?」
隣にいた秘書が、デニスを椅子に座らせた。出されたコーヒーをブラックで飲んだが、それでもまだ興奮は収まらない。軍人というよりも執事という風情の秘書が、代わりに答えてくれた。
「カニングハム将軍はベトナム戦争の撃墜王ですよ。当時はまだ少佐だったようですが、彼の英雄|譚《たん》はあまりにも有名です。立派なお父上をお持ちですね」
デニスの頭の中は混乱していた。
「将軍? 父が将軍?」
キャラダインが机の上で腕を組んだ。
「どうした。こちらの話を聞く気があるのか」
デニスはまだ動悸《どうき》が収まらないので、もう一杯のコーヒーを要求した。
「……一体何を撃つの。まさか人じゃないでしょうね。だったらお断りよ」
「私はティーンエイジャーに人殺しを要求するような人間ではない」
「SEALかグリーンベレーの隊員に頼めばいいでしょ。向こうはプロよ」
「軍人は向かないから、こうやって頼んでいる」
「素人を使うとロクなことにならないわよ、中佐」
彼は目で秘書に合図を送った。心得た秘書は一度扉を出て、しばらくして戻ってきた。
「これが、カニングハム将軍がオキナワにいた時の写真です。中央にいる方がそうです。彼はヒーローでしたから」
デニスは相手の掌を叩くように写真を奪って、食い入るように眺めた。色|褪《あ》せてカラーの面影しか残らない写真はF4ファントムを前にした集合写真だ。男たちはニカッと笑ってフライト・ジャケットを誇らし気にまとっている。中央の男が見覚えのあるパッチをつけていた。デニスの頭には葉巻の匂いが蘇っていた。写真の中央の男は飛び抜けて背が高かった。端正な顔の黒人だった。目つきがやけに鋭いが、顔全体の甘さがそれを和らげている。彼の両隣にいる男たちが、父に肩を抱かれているのを半分恥ずかしそうに、それでいて屈託のない笑顔で、親指を立てている。デニスはどんどん写真に顔を近づけていた。
「気に入ったようだな。それを君にプレゼントしよう」
デニスは息を止めていた。鼓動だけがやたらと意識されてくる。
「驚かせたようだな。将軍のお嬢さんに済まないことをした」
「……あたしに何をしてほしいの?」
デニスが言い終わる前に、キャラダインが机から何かを取り出していた。
「安心しろ。人殺しではない。極めて精密な射撃をしてほしい。銃弾は一発。距離は一三〇〇メートル。ターゲットはこれと同じ形のディスクだ」
秘書がデニスにディスクを渡した。かなり小さいが自信がないわけではない。
「OK。やるわ。FALを用意して。あれが一番相性がいいの」
「ベルギーFN社のライフルか。いいだろう。さっそくNATO軍に手配する」
「報酬はこちらの言いなりだったわね」
「もちろんだ。遠慮なく申しつけてくれ。すぐに用意しよう」
デニスは深呼吸してから、キャラダインのサングラスを見つめた。
「父に会わせてください。どこにいるんですか」
「了解した。彼はワシントンD.C.の国防省に勤務している。さっそくチケットを手配しよう。もちろんファーストクラスだ。BAでいいかな?」
「待って。まだあるわ」
出て行こうとする秘書を立ち止まらせて、パチンとウインクする。
「向こうでの足に、ハーレー・ダビッドソンROAD KINGをお願いね」
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※[#歌記号、unicode303d]虹《にじ》色に光輝く幻が闇夜に舞う。
高く昇り、両翼をふさぎ込んだ無数の人々の前に広げる。
世の民は皆それを求め、世の民はそれを切に願う。
夜明けとともに消えさる。
心のうちに蘇るために。
なれば、夜毎に生まれ、夜明けとともに死んでいく。
[#ここで字下げ終わり]
「この謎が解けるかしら。くすくす」
やはりトゥーランドットはサマンサのような女が歌うと迫力を増す。昼日中からコザの街をぶらぶらしている彼女のコスチュームは、カトリックのシスターだ。
道ゆく人々は、陽気なシスターがアーケードを歩いていると思っている。すると、クリスチャンの雰囲気が好きなだけのインチキ信者が、
「素敵なメサイアですね、シスター」
と笑顔を向けた。サマンサが少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「この歌をヴァチカンの法王様の前で歌うのが私の夢なんです」
「それは喜ばれますよ。シスターに神の御加護を」
「ありがとう。あなたには神の無慈悲[#「無慈悲」に傍点]を」
サマンサが恭しく十字を切って祈った。
「え? ああ、ありがとうございます。今度教会に行きますね」
「どうぞお越しのないよう。ザーメン」
またハミングして、同じ歌を歌っていると、王子カラフの台詞《せりふ》がかけられた。
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、unicode303d]トゥーランドットよ、それは、
大いなる喜びへ、私を導いてくれる。
それは、『希望』
[#ここで字下げ終わり]
振り返ると、南国の日差しを受け入れるには酷なペルシアンブルーの瞳《ひとみ》の男がいた。
「フェルミ。あなたいつオキナワに来たの?」
「久しぶりだな、サマンサ。相変わらずの変態で安心したよ」
「ただの娯楽よ。くすくす」
フェルミとサマンサは天才であるが故に、孤独である。サマンサはそのことを意にも介さないが、フェルミはどこか弱いところがある。天分の才は同じ程度なのに、覚悟の有無が道を分けたのだ。それは孤独の受け入れ方の差でしかないのだが、フェルミにはそれができない。常に周囲の視線を気にしている。
「ところで、レキオスの研究は捗《はかど》っているかい?」
「そんなこと言うくらいじゃ、あなたはまだまだのようね」
フェルミの頬が引きつった。
「どうだい。共同研究をしないか。僕のデータと君のデータを交換しよう」
「いやよ。あたしのデータをあげる理由はないわ。交換とは同じ立場の者がすることよ。研究はあたしの方が進んでいるもの。データを没収するわ。よこしなさい」
サマンサは平然と言ってのけた。
「レキオス研究には客観的な数値が必要なんだ。悪いが理系の俺に分がある」
「ないわ。あたし高等数学も修めたもの。ごめーん、また本気で勉強しちゃったーん。フィールズ賞、この前とったわよ。くすくす」
それはフェルミがどうあがいてもとれなかった数学の最高権威の賞だ。
「嘘だろう。なんでおまえが……」
「要は集中力とモチベーションの差よ」
フェルミの顏が陶器のように固くなる。
「言っておくがな。レキオスは三次元空間では出現しないんだぞ」
「知ってるわよ。だからアメクに魔法陣を作った奴らがいるのよ。あそこは物理方程式の成立しない特異点になっているはず。神岡の『スーパーカミオカンデ』が拾った|τ《タウ》ニュートリノはペンタグラムが出現したときのものよ」
フェルミは衝撃を受けていた。彼が組織に入って活動を始めたきっかけは、ガオトゥのペンタグラムが起こす物理方程式の破綻《はたん》からだった。これを唱えて学界から異端扱いされたのだが、物理は実証を伴わなければならない。これを証明してみせると躍起になって研究しだした。なのにサマンサはそれをとっくに見抜いている。
「じ、人類学者にしてはよく勉強したようだな。だが物理学では俺に軍配が上がるぜ」
「あたしを甘くみないことね。あのペンタグラムは、アインシュタイン方程式とマックスウェル方程式を統合するカルツアの五次元方程式がピタリと当てはまるのよ」
フェルミの頬に冷汗が流れた。しばらく見ない間に自分の領分が侵されている。まるで自分の思考が盗まれたような錯覚を覚えていた。
「一般に四次元と呼ばれる時間軸を含めた世界よ。物理学者はそれを五次元と呼ぶ。私たちの宇宙は高次元空間の幻影にすぎない。光はなぜ真空中を伝わるの? 空っぽなのに。昔の学者はその矛盾を補うためにエーテル説を唱えたわ。アインシュタインも宇宙定数を唱えた。違う。間違っている。真空は振動しているのよ。真空を高次元空間から見れば、振動しているとみなされる。だから波の性質を持つ光が伝播《でんば》するのよ。光は高次元空間の幾何学的|捩《ね》じれにすぎないわ」
それはフェルミの台詞のはずだった。来月にまとめようとしていた論文の中間部分をサマンサが語っている。一体どうやってここまでこぎ着けたのだろう。
「レキオスを出現させるには、五次元の環境が必要になるから、三次元空間を拡張するしかない。それができるのは科学ではなく魔法の領域。だったら人類学者のあたしの得意分野よ。言っとくけど、魔法は科学より論理的なものなのよ。人間原理の中世の神秘主義者は呪文《じゆもん》という方程式でこれを体得していた。現代の科学者よりよっぽど進歩していたのよ」
「じ、時代に逆行しているとは思わんのか。だから君は異端なんだ」
「あんたこそ異端じゃない」
「シスターの恰好をしているおまえに言われたくはない」
「コスプレは人類学者の戦闘服よ。くすくす」
サマンサはフェルミの鼻に指をさした。
「ペンタグラム活性のとき、ニュートリノが観測されるのは時間の問題よ。アメクには異常な放射が認められるもの。この前、マグネティック・モノポールが出現したとしか思えない異常な質量が検出された。誰かが時空間をいじっている証拠よ。モノポールの質量は一〇の一六乗ギガ電子ボルト。地球に底なしの淵《ふち》が開く重さよ。そのエネルギーを生み出すには千光年もの直径の粒子加速機が必要になる。だから物理学者はここでお手上げ。そこから先は魔法に詳しい私がアドバンテージを握ることになる」
「まるで魔女だな。とても学者の言葉とは思えん」
「フェルミ、あんた馬鹿ね。人間の知識は昔からそれほど増えてはいないのよ。呪術的・神話的知識の集合が、論理的・科学的知識の集合に翻訳されているだけだもの。たとえば西アフリカのマリ共和国に住むドゴン族は、神話で世界の始まりがとてつもない大爆発だったと伝えているわ。何千年も昔からビッグバンを予見していたのは偶然? 違うわ。あたしたちは神話の書式を科学的記述に書き換えているにすぎないのよ。理解の方法論が異なるだけで、原住民も科学者も同じことを伝えようとしているのよ」
「馬鹿げている。科学は人間の知恵だ」
「いいえ。神話こそ人間の知恵よ。科学はまだ神話のすべてを説明しきれていないもの。だから科学者がいるのよ。神話の語り部は当時の最先端の科学者だったのよ」
フェルミが知っていたサマンサはこんなに自信がある人間ではなかった。以前はちょっと侮辱したらすぐに切れてしまうタイプだったのに、いつの間にか強くなっていた。今の彼女に隙はない。
「さあ、ここでトゥーランドットからの謎を出してあげるわ。理論物理学者だったら簡単なはずよ。カラフ王子、答えられたらデータをタダで貸してあげる。くすくす」
「なんだとうっ」
サマンサが両手を拡げて、トゥーランドットの真似をする。太陽を背にしたサマンサにフェルミの目が眩《くら》む。
「カラフよ。どうして光子の質量はゼロなの?」
「カラフよ。どうして核力の強い相互作用は電磁力の相互作用より強いの?」
「カラフよ。どうしてニュートリノは電気的に中性なの?」
「カラフよ。どうして陽子の電荷は電子の電荷と同じ大きさなの?」
フェルミは唇を噛《か》んだ。わからなかった。それを知りたいからこそ、研究をしている。最初にこれを発見する喜びは、自分だと思えばこそ、研究に打ち込むことができる。しかし今のフェルミには答えられなかった。フェルミが答えられなければ、誰も答えられないも同然だ。答えられた者は、神の領域に等しい世界を垣間《かいま》見ることができる。
「だったら、おまえには答えられるのか」
「もちろん。これは弱電磁力理論のワインバーグと統一理論のグラショウをQEDなみに結びつければいいの。あたしならできる。もうイメージは描けているもの。あとは言葉と数式にするだけ。大統一理論ならこれらが簡単に証明できる。まずは第一段の論文が三カ月後に完成するわ。あたしの後に続く奴はみんなエピゴーネンと笑われるんだから」
サマンサが修道服の裾《すそ》をはらって仁王立ちになる。
「重力と電磁力と二つの核力、この四つの力を結びつけた者が、二十一世紀のエポック・メーカーになる。自然界の四つの力は、もともと高次元空間のひとつの力の現れ方が変化したものにすぎない。それらをまとめる力は『要《かなめ》のもの』。私たちは〔LEQUIOS〕と呼ぶ。あなたがレキオスに目をつけた理由はそこでしょう」
「そうだ。俺はそれを実証してみせる。俺の理論を笑った奴らの鼻をあかしてやるんだ」
サマンサは鼻の穴に指を入れて、ベロを出した。
「それをまとめるのはこのサマンサ様ただひとりよ。フェルミはお退《ど》き」
「くそったれ」
フェルミが投げつけたライターをサマンサは指で挟み受けて、サンキューと煙草に火をつけた。たちまちフェルミの顏に煙草の煙が返される。
「あたしは人文科学の豊かさを用いて、レヴィ=ストロース以上にストーリーテリングしてみせる。もうすぐその理論が完成するもの。あんたとあたしは人生に対する取り組み方が違うのよ。あんたはあっちフラフラ、こっちフラフラしているから負けるのよ」
かつてサマンサがフェルミに負けていた時期があった。MITの天才科学者と将来を嘱望されていたフェルミに、サマンサはパーティー会場で会ったことがある。そのときフェルミはIQがサマンサより二〇高いことを自慢して、鈍才は努力するしかないと笑い飛ばした。サマンサはこっそり泣いた。侮辱されたから泣いたのではない。自分をもっと信じられない未熟さを恥じた涙だった。鈍才なら全精力を注いで天才に対抗するしかない。自らを厳しい環境に晒《さら》して性根を叩《たた》き直すために、エール大を離れた。なぜか誰も止めてくれなかったのが面白くなかった。やがてサマンサは再び自信を取り戻した。その力はかつてとは比べ物にならないほどだ。サマンサは知った。自分の才能は人格以上の存在であり、彼女が欲すればいつでも才能が味方してくれること。どんな境遇に陥っても才能が身を護《まも》ってくれること。自分が研究を捨てない限り、研究は自分を捨てないこと。これを知ったサマンサは人生の転機を迎えた。ついに天才性を開花させたのだ。
「あんたは数年前まであたしのライバルだったわ。あのとき、あたしを徹底的に打ち負かさなかったのが、あんたの敗因よ。勝利の女神はあなたに微笑もうとしていたのよ。それをあたしは無理やり自分の方へ向かせた。これが実力ってやつよ。もう御用済だからとっとと酒場で朽ちなさい。あたしよりIQが二〇高いだけの鈍才さん。くすくす」
フェルミはもう表情を作れなかった。
「なあ、サマンサ……。俺の領域を侵さないでくれないか。大統一理論は俺の夢なんだ」
「いいえ。どんどん侵すわよ。成果は早い者勝ちだもの。あ、ストックホルムの会場にエスコートしてくれないかしら。『負け犬』って焼き印を額に押して。くすくす」
「頼む。共同執筆でいいから、俺の名前も入れてくれ……」
「やなこった。墓碑名にもならないわよ」
その時、澄み切った女の声がかけられた。
「ちょっと、あたしの修道服を着ているのは誰なのですか?」
「あたしは無原罪の女、サマンサよ。くすくす」
人波を押し退けて入ってきたのは、サマンサと同じ修道服を着たシスターだった。体を拘束しない服とはいえ、彼女のシルエットはどこか変だ。
「シスター・メアリー・マグダラ。あんた妊娠しているんじゃないの?」
「ふふふ。私こそ無原罪の女ですのよ。ついに念願の処女懐胎に成功しましたわ」
「ばか……」
このシスターこそ、かつてヴァチカンのシスティーナ礼拝堂で祈っていたとき、桃色神父に手をつけられたメアリー・マグダラである。彼女は神父とともにヴァチカンを追放されたが、神への信仰をやめたわけではない。かと言って世間はうるさいので、他人のすることに寛容な沖縄へとやってきた。
「ちょっと、妊娠しているのよ。ヨゼフ神父が手を出した証拠じゃない」
「神父様は何もしておりませんわ。この前、教会の隣の馬小屋に東方より来る三博士が礼拝に参りましたわ」
「メイジャイのヴラサパルミオン、メルキゼデク、バレアトラサロンが現れたと?」
「いいえ。ブラジル人のサンチョとアルベルトとゴンサレスですわ」
シスターはあっけらかんと馬鹿である。これで修道服を着ていなかったら、手厚い社会福祉の対象にされていたかもしれない。
「おーい。シスター、先に行くなんてひどいよー」
現れたのは紙おむつとガラガラを携えたヨゼフ神父だ。司祭服の男が妙なものを持っているから、アーケードにいる優良市民はどう判断していいのか困惑するばかりだ。こいつらは全員がかつての世界を追放されたスティグマ人間だ。
「あれ、変態のサマンサじゃないか。まだオキナワにいたのか。コザの空気にサマンサ菌を撒《ま》き散らすのは罪だぞ。ははは」
「あんた、シスターに手を出したわね。彼女はちょっと危ない女なのよ。処女懐胎したって本気で信じているわよ。どういうつもり?」
そっと耳打ちすると、ヨゼフ神父の額にタラリと冷汗が流れた。
「あんたたち、ここが辺境だからって度が過ぎるわよ。ここは追放された者のアジールではないわ」
サマンサは告発する側に立つことで自分に注がれる異端の視線を躱《かわ》そうとしている。巧みに主題をすり替えることで生きながらえる本物の悪党とは、こんな奴だ。
「トパーズのロザリオを持っている女のどこが清貧よ。誓いを忘れたの」
「これは法王様から戴いた、ハリー・ウィンストンのカメリアダイヤモンドですわ。このロザリオは聖人しか持てないことになっていますの」
ロザリオを太陽光に反射させてニヤリと笑う。サマンサはその輝きに目を潰された。珍しく彼女が押されている。シスターの目には女の幸せの津波に翻弄されているさまが現れていた。こうなると勝手に幸せだからどんな言葉も撥《は》ねつけてくる。
「あー。シスターが喧嘩《けんか》してるー。いけないんだぞー」
アーケードの人垣につられてやってきたのは広美と真由美である。昨夜、男を手に入れたアメ女はすっかり調子づいていた。
「あんたたちー、博愛の誓いをたてたのにー、ケンカするなんてー、間違ってるぞー。神様はー、ちゃんと見てるんだぞー」
その通りだ。神様はちゃんと見ているから怖い。広美が昨夜百ドルで五人の男と同時プレイをしたことも、|S《エス》(クスリ)をやっていることも、真由美の彼氏を寝取っていることも、そのために真由美がヘルペスになったことも、ぜーんぶお見通しだったりする。
「広美って大人ー」
真由美の拍手をまあまあと抑えて、広美の増長は続く。
「シスターだったらー、人の模範にならなきゃいけないんだぞー。シスターだったらー、モテるって勘違いしちゃいけないんだぞー。男はー、あたしみたいなー、若くてー、可愛い娘が好きなんだぞー。ね。まいけるー」
カチンときたサマンサとシスターが目を合わせた。異端が共闘すると絶妙なコンビネーションを発揮する。初めてのAクイックだ。
「私はシスター・メアリー・マグダラです。失礼ですが、あなたは信者ですか?」
「えー。違うよー」
ここで待ってましたとばかりのギロチンだ。
「んっまー。残念ですわ。天国へ行けませんっ!」
信じるものが大きい者ほどこの言葉の効力は増す。うそ、と広美は絶句した。
「あなたは地べたを這《は》ってくるのですよ。アーメン」
シスターの高らかな笑い声が響いた。妊婦のシスターも天国に行けない気がするのだが、彼女は人の話を聞かない耳なしシスターだ。そして相手が動じている隙につけこむのがサマンサだ。
「エコエコアザラク、エコエコザメラク、エコエコケルノロス、エコエコアラディーア。我が欲する正義と忠誠を示せ。おまえは我が僕《しもべ》となる」
サマンサの呪文《じゆもん》にショック状態だった広美の心理が被曝《ひばく》した。
「ちょっと。この子、白目を剥《む》いていますわ」
「おい、本当に魔術が使えるのか」
フェルミが驚いて後ずさる。
「だから言ったでしょう。ただの催眠術だけど、手続きがクラシックなだけなのよ。やっぱり催眠術は人類学とともに歩むべきだったわ。心理学に組み込まれるから、わけがわからなくなったのよ」
「広美ー、大丈夫ー?」
「この女の人格を破壊したわ。これからあたしの奴隷となる。ちょうどパソコンの容量が足りなくなってきたところよ。こいつの脳を使ってデータを整理しましょ。くすくす」
パチンと広美の前で指を鳴らすと、白目が戻った。
「ら・ら・ら・ら・ら・ら・ら・ら・ら……」
広美の頭に新しいコマンドが走っている。
「いいのか、サマンサ。犯罪だぞ」
「平気よ。催眠暗示でロボトミーになっただけだもの。それに元々、尊重されるような人格は入ってなかったわ。初期化して褒《ほ》められこそすれ、咎《とが》められる理由はないわ。こいつの親だって、少しは人の役に立つんだからって喜ぶわよ。カモン、女奴隷」
「わん。わん」
広美がサマンサの後ろを追っていく。沖縄からひとりの強烈なアメ女が消えた。そして広美は奴隷として生まれ変わった。本当に生まれ変わったのだろうか。以前は性奴隷だったような気がするのだが。
「えーん。広美が犬になったよー」
真由美は自分のことを棚にあげてよく考えてみた。広美は以前もただの雌犬《ビツチ》だったような気がする。するとこれは本来の姿に戻ったということではないだろうか。犬には飼い主が必要だ。だったら広美は幸福になったのかもしれない。
「広美ー。元気でねー」
すっかり腑《ふ》に落ちた真由美は、手を振りながら広美を見送った。
コザがアメリカを受け入れて破綻《はたん》した街なら、那覇は日本の論理が支配する街だ。かろうじて都市のシステムが機能していることが感じられる。この街はどこか分別くさい。
ヤマグチが黴《かび》臭い図書館で建築書をむさぼるように読んでいる。なぜこんなにもスルスルと頭に入ってくるのかわからなかったが、そんな分析をしている暇もなく指がどんどんページをめくる。摂食障害に陥った十代の子が、猛烈な勢いで食べたりするのと似ていた。脳の許容量は常識的に考えてすでに飽和点を超えていたのに、止まらない。短期記憶を司《つかさど》るメモリは随時更新されて、つぎつぎと長期記憶に変換されていく。この見事な連携プレイで一冊あたり五分もかからずに読み終えている。たちまち基地内図書館の建築工学の書架を吸い取ってしまっていた。それでもまだ足りない。休みをとって県立図書館にまで足を運んでいた。
「漢字は読めないが、意味はわかる。どうしてだ?」
建築が嫌いなわけではない。読めばそれなりに面白かったが、動機がわからない。戦闘機のマニュアルでさえ、こんなに早くは読めなかった。ヤマグチは自分の頭が別人に改造されていく恐怖をうっすらと感じていた。そしてそれをどこかで懐かしんでいる自分もまた存在する。
「エケリだったり、建築家だったり、一体俺はどうなっているんだ」
自分でも驚異的なペースで読んでいることはわかっていた。図書館のテラスに出て緑の木陰で目を休めることにした。指が止まったのは古代ギリシア建築の頁だった。第二ヘラ神殿をモデルにして何を建築するのか、見当もつかない。しかしそれを自分が作るのだという確信がどこかにあった。
「パイロットを辞めて、今から設計士の資格をとるってことか?」
大きく欠伸《あくび》をして、伸びをしたまま体が止まった。図書館を挟んだ向かいの道路に、ブルネットの女が歩いていくのが見えた。
──ここで会ったが百年目……。
颯爽《さつそう》と歩いているブルネットの女に気づかれないように、背後から忍びよった。買物をしてきたらしく、黒のマーブル模様のショップの袋を下げて、那覇の街を得意気に闊歩《かつぽ》している。買物しているときこそ、女は一番輝くものだ。それが高級な店での買物ならなおさらだ。高揚して胸を張っているコニーに振り返るのは男ばかりではない。覚えのあるブランドの袋だと知って、半歩たじろいだ女たちはすぐに羨望《せんぼう》の眼差しを送ってきた。そして彼女がぶら下げているハンドバッグがエルメスのバーキンだとわかると殺気を漂わせた。ヤマグチは彼女の小気味よくリズムを刻むヒールの音を追っている。信号で彼女が止まると、声色を使って呼びかけた。
「ナショナルジオグラフィックのコニー・マクダネルさん?」
コニーは同時に撃鉄を引いたような金属音を聞いた。すぐに身をひるがえして拳銃《けんじゆう》を抜く。
「ブライアン……」
そこにはジッポのライターで葉巻に火をつけているヤマグチ少尉がいた。彼は向けられた銃に微動だにせず、ニヤリと笑った。
「CZポケットオート。いい銃だなコニー。だけど記者がずいぶん物騒なものを持つもんだ。ここは日本だということを忘れたのか」
「こ、これは、あ、あの……」
ヤマグチが向けられたCZ45に煙を吐いた。煙草の箱より少し大きいくらいの銃が痩身《そうしん》なコニーの指に包まれてわずかに銃身だけを見せている。小口径ながら八発の弾が装填《そうてん》されていた。煙がかかるとCZ45は完全に見えなくなった。
「CIA式の抜銃スタイルだ。基本に忠実なのはいいことだ」
コニーは諦《あきら》めたように銃を下ろして微笑んだ。
「さすがねブライアン。もう少し警戒するべきだったわ」
「ディスクを返してもらおうか。君の命が狙われている」
「あなたの上官のキャラダイン中佐に、でしょ?」
「さすがCIAだ。よく調べている。僕に接触したのも段取りだったな」
コニーが拗《す》ねたようにヤマグチの鼻を指で叩《たた》いた。
「だってー。いい男は待っていても来ないんだもん」
「ディスクを返すんだ。今なら中佐を止めることができる」
「駄目よ。あれはうちの切り札なんだもの。あなたにはちゃんと喜びそうなディスクを渡したでしょ」
ヤマグチの頭の中には、あの猥褻《わいせつ》極まりないショッキングな映像が浮かんでいた。
「あ、あれは、処分した。ちゃんと喜びそうな奴にプレゼントした」
拳銃をハンドバッグに入れたコニーが、ゆっくり話しましょうと誘い、ヤマグチに袋を持たせた。男を従えたコニーはまた颯爽と歩いていく。
そして瀟洒《しようしや》なアール・デコ様式の喫茶店に入ったふたりはテーブルに腕を置いて、身を乗りだしていた。
「あなたがやろうとしていることはテロなのよ」
「言っておくが、俺はテロリストの仲間じゃない」
「こっちの調べでは、あなたは最重要任務を負っていることになっているわよ」
どうして周りの人間の方が自分のことに詳しいのだろう。しかし、キャラダインやユタやノロやコニーらが述べるヤマグチの使命にひとつとして同じものはない。しかしどれにもリアリティを感じるのは事実だ。
「ディスクの暗号を解読したわよ。『魔笛《まてき》』は何を考えてるの?」
コニーにいつも漂っている柔らかな微笑みが消えた。灰褐色の瞳《ひとみ》には冷たさも温かさも寄せつけない、強い意志が宿っている。コニーはジロリと睨《にら》んだ。
「あなたどっち側の人間なの? 今さら傍観者は卑怯《ひきよう》よ。そんなコウモリはあたしも中佐も許さないわ」
ヤマグチは答えられずに、目を逸《そ》らした。
「こっちは上司を殺されて切羽詰まっているのよ。あなたみたいに保留、保留、保留って逃げているのとはわけが違うのよ」
「ふざけんな。こっちだって仲間のクリスを殺されたんだ」
「じゃあ決まりじゃない」
「それは……。君みたいに単純に物事を決めるのは危険だ。事態はもっと複雑なんだ」
「でも人間って複雑な行動はできないわよ。身体はひとつしかないもの」
ヤマグチはテーブルを叩いた。本当はこの勢いで気持ちを決めたかったのに、まだ整理できない。中佐も、セーファ御嶽のノロも、今の人格を捨てろと言っている気がする。彼はこれまでの人生をそれなりに誇りにしていた。それでも何かに揺さぶられる。ヤマグチはもう一度テーブルを叩いた。
「君はGAOTUがどんなものか知らないんだ」
「ただのテロ組織よ。やり方が宗教がかっているだけよ」
「違う。宗教組織が本当の姿だ。やり方がテロなだけだ」
「ずいぶん詳しいじゃない。さすがキャラダイン中佐の右腕だけのことはあるわね」
「俺は中佐の右腕なんかじゃない。上官だから命令に従っていたまでだ」
「その理屈は通用しないわよ。何人も人が死んでいるもの。これからもっと死ぬわよ」
「どうすればいいんだ……」
ヤマグチが頭を抱えた。本当はどうしたらいいのか、わかっている。ただ辞められなかった。こんなことで空軍を辞めたら、彼を誇りにしている両親に申し訳がたたない。しかしそれは一瞬だけの理由だ。すぐに別の理由が次から次へとスクランブル発進してくる。頭の中は屁理屈《へりくつ》で重武装した戦闘機が群れになって飛んでいる。
「そのクリスって人も浮かばれないわね。犬死にだったんでしょう」
「黙れ。君に何がわかる!」
グラスから水が零《こぼ》れた。コニーの瞳が揺れていた。
「あたしの上司も犬死にだったのよ……」
ヤマグチはクリスの葬儀の日を思い出していた。クリスの名誉は回復することはないだろう。
「ねえ。どっちなのか決めてよ? 今度会ったとき、迷わず撃てるように。お互いにね」
「僕はテロリストではない。ましてやGAOTUの人間でもない。中佐の右腕でもない」
「本当ね。中佐には逆のことを言ってるんじゃないの? あなたコウモリだから」
「違う。僕はアメリカ空軍の少尉だ。立場上、キャラダイン中佐は上官になる。だがもう『プロジェクト L』の命令は受けない。これは中佐にも言ってある」
「あなたは、自分の行動にたくさんの説明が必要なのね。誰に言っているの。はっきりさせてよ。あたしは言えるわよ。GAOTUに復讐《ふくしゆう》する。誰にも邪魔はさせない」
「どうして君はそう強いんだ」
「あなたが弱すぎるだけよ。ディスクは返さないわよ」
「僕はGAOTUの計画を阻止してみせる」
それを聞いたコニーが優しく微笑んだ。
「よかった。あたしあなたを撃ちたくなかったの」
那覇の上空に数本の飛行機雲がたなびいていた。それは大気を切り裂く刃物のようだ。金武《きん》の街に先端が現れたとき、島の南部と中部を貫く矢となっていた。
金武のプロテスタント教会ではフェルミらのアフガニスタンチームがコニーたちを排除して作戦会議を行っていた。場はかなり紛糾しているようだ。
「アレックス。勝手にチームを改革するなんて許さないぞ」
「おまえの作戦より現実的だ。だらだらと何もしないのはリーダー失格だ」
「作戦ならある。ガオトゥ・ロンドン総本部を叩くべきだ。モグラ叩きのスピードはこれからどんどん増してくるぞ。構造そのものを潰《つぶ》さない限り、各国の機能は奪えない」
アレックスがヒマワリの花を帽子に挿した男たちに作戦要綱を配っていく。
「こんな勝手なことをして本部が許可すると思っているのか、アレックス」
「さっき本部から承認された。フェルミ、おまえはバックアップでサトウと組め」
「冗談じゃない。これだからIQの低い者は御しがたい」
カラーサングラスの男たちがいっせいにフェルミを睨んだ。怯《ひる》んだフェルミを無視して、要綱を読み上げていく。またお決まりの潜入作戦にフェルミは呆《あき》れるばかりだった。一度失敗した手を繰り返すのは馬鹿の証明だ。フェルミがまくしたてる。
「いいか、ガオトゥの支部は一年の間に三回もアジトを変えているんだぞ。プリホムリとはわけが違う。こんなに頻繁に移動するアジトが機能するはずがない。元があるはずだ」
フェルミは以前から疑問を持っていた。どうしてGAOTUのアジトはハンビータウンの中だけで移転を繰り返すのだろうか。隠れるなら外国人がたむろするコザや金武の方が都合がいいはずだ。そのメリットを無視してまでハンビータウンに固執するのは、それなりの理由があるからだろう。表面にとらわれすぎて、何か重大なことを見落としている気がする。闇雲に潜入作戦をたてたら、また同じ失敗を繰り返すだけだ。もう少し時間をかけて慎重に作戦を練らなければならない。GAOTUを相手に伍《ご》していくには、完璧《かんぺき》な理論を必要とするのを仲間はわかってくれなかった。
「あんな虫|喰《く》いの街にアジトを作ってばかりだからすぐにバレる。『ブルーチャイナ』にしろ『蓬莱《ほうらい》飯店』にしろ、全部ダミーだ」
フェルミが机を叩いてもまわりは白けている。
「君の仮説には飽き飽きした。頭の中で遊ぶのはひとりでやってほしいものだ」
「仮説を理解するには水準に達した知能が要求されるんだ。無能を誇りにするのは勝手だが、見せつけるのはよせ。情けなくなる」
一瞬のうちに殺気が会議室を包んだ。フェルミはこのような雰囲気は慣れていた。彼が入るととたんにイザコザが起きる。自分のせいだとはわかっていたが、論理の着地点が危うい会議をそのまま進行させるわけにはいかない。彼らは物事が成功したり、失敗したりするのは賽《さい》の目のようなものだと思っているらしい。フェルミはそんなミスはしない。初めが怪しい論理はどんなにサイコロを振っても、まともな成果をあげることはないのだ。秩序の道はひとつしかない。それは明晰《めいせき》な頭脳によってもたらされることをフェルミは知っている。
しかしアレックスはそんなフェルミに飽き飽きしていた。
「君の人生は虹《にじ》を掴《つか》もうとするのと同じだ。私たちはいかにも無能だが、虹を掴めないことを知っている。それだけで充分だ」
フェルミが溜《た》め息をついて窓の外を見ると、ワイリーが水|撒《ま》きをしていた。霧状にキラキラと散布された水の中には虹が輝いていた。ワイリーがそれを眺めてうっとりしている。五本の指を割って入らせると、虹が消滅した。
「違う。虹は掴めるんだ。できない理由を先に考えるおまえたちに、真理は振り向いてくれない。振り向いてくれないのが真理だと言い返すだろうが、違う。人間の力はもっと大きいんだ。信じた者にこそ真理は微笑んでくれる」
「だったらライバルのオルレンショー博士に微笑むんじゃないか。さっき厭味《いやみ》ったらしいメールが入ったみたいじゃないか。君はたしかに天才だが彼女の前では小学生も同然だな」
「あんな売女《ばいた》に何がわかる。すぐに追い抜いてみせるさ。サマンサの理論を証明するには、スーパーコンピューターの力が必要だ。あいつは孤独ゆえに支援する者がいない」
フェルミが組織に属しているのは、本部のスーパーコンピューターを使えるのが魅力だからである。使用制限されているとはいえ、最新のVPP700Eを使える科学者は一握りだ。しかし一・二二テラFLOPSの処理速度をもってしても、まだ足りない。ノートパソコンで地道に作業しているサマンサは地面を這《は》っている虫のようなものだった。
「君は一体何者なんだ。科学者か、それともエージェントか。今ここで決めろ」
「俺は、俺は……」
「オルレンショー博士ならすぐに出る答えだ。ここが君の才能の限界だ。泣くなら外でしてくれ。オキナワの夏は湿度が高くて鬱陶《うつとう》しいからお似合いだ」
遮光カーテンを閉めるとOHPの明かりひとつが灯《とも》った。蝶番《ちようつがい》がはずれんばかりの音をたてて、フェルミがドアを閉めると中にいた全員が鼓膜に負荷を感じた。
外に出るとホースの水で作った虹が彼を迎えてくれた。キラキラと水滴を反射する小さな虹を見ているとフェルミの胸が締めつけられる。察したワイリーが車のキーを投げた。
「釣りをしたいなら、サトウの4WDが車庫に入っている。新車のパジェロだぜ」
佐藤が「行け」と親指を後ろに投げた。
「なあ、ワイリー。虹を掴めると思うか?」
彼はフェルミを振りむかずにずっと水を撒いている。
「掴めないからって諦めたら、それまでの人生だ。困難だからこそ、価値がある」
「だけど難しいぞフェルミ」
佐藤が子供たちとシャボン玉遊びをしながら言った。フェルミは夢が現実と同じくらいもっと鮮明であったら、迷うことはなかったと思う。仄《ほの》かな姿しか見せないから、現実にいつも侵食されてしまう。夢を見たければ、その微《かす》かさに集中しなければならない。フェルミは息を吸い込むと瞳に力を入れようとした。
霞《かす》んだ飛行機雲に逆行して、東シナ海側に出たフェルミの車は、ハンビータウンの街を駆けていた。再開発の街だけあって自然と呼べるものがない。しかし隣に面した東シナ海は、どこの森よりも緑豊かだ。それに惹《ひ》かれてみんなが護岸に集まり、ぼんやりと眺めている。巨大で優しいが、足を踏み入れられない厳粛な自然だった。
釣り糸を垂らして、堤防に寝そべった。上空では雲が時間を短縮したようにつぎつぎと湧いてくるのが見えた。空のエネルギーの流れがこれほど顕著に見えると、逆に大地が淋《さび》しくなってくるものだ。雲はフェルミの前で力強くうねってみせた。
「俺は虹を掴めるのだろうか……」
この前、本部のスーパーコンピューターの処理速度では、問題が解決しないことを知った。世界最速でも大統一理論の証明にはほど遠い。陽子崩壊の寿命が短すぎるのだ。テンソルで調べても、その動きを三次元で確認するにはまだ足りない。
「せめて一ペタFLOPSあればメソンがレプトンに崩壊する瞬間がわかるのだが……」
フェルミは今の千倍の能力のコンピューターを欲している。一秒間に一京回の浮動小数点を演算する力は二十世紀の最後の年にはまだ出現していない。
「おーい、そこの兄さん。糸が引いてるよー」
声をかけられて釣り竿《ざお》を見ると、先端が微かに震えていた。すぐに巻いてみたが、様子がおかしい。浮きが手前まできたかと思うと、チャポンと潜ってしまった。
「潮流に巻き込まれたのか?」
猛烈な勢いで糸が取られて、プツリと切れた。フェルミは護岸の形を見て訝《いぶか》しがった。
「この湾の形では離岸流は起こらないはずだ」
振り向くとハンビータウンの街が見える。観覧車が呑気《のんき》に回っている。その下に雑然とした風景がガヤガヤと広がっていた。また海を見て浮きが沈んだ箇所に糸を垂らす。やはり浮きを奪われてしまった。
──この近くで大量に海水を使っている施設があるな。どこだ?
ピンと閃《ひらめ》いたその時だ。背後から男の声がした。
「マイケル・フェルミ博士だな。少しお話がしたい」
振り返るとサングラスの軍人が立っていた。まるで気配を感じさせずに接近してきた。フェルミは反射的に銃を抜きかけたが、すぐに右手を押さえられた。
──キャラダイン中佐だ。どうして?
「どうしたもこうしたもない。博士と私はアフガニスタンのプリホムリで会った仲ではないか。写真をどうもありがとう。生憎《あいにく》、笑顔ができないタチでね」
あっという間にフェルミのブローニング・ハイパワーが奪われ、弾装を取り除かれた。フェルミは背後でジャボンと音を立てて沈んだ自分の銃の音を聞いた。
「何を言っているのかわからない」
「博士の作戦には敬意を表している。タリバーン派を上手《うま》く操り、人の褌《ふんどし》で相撲をとる手腕には感心せざるをえない。おかげでアフガニスタン計画は頓挫《とんざ》した」
フェルミがカフスボタンの発信器のスイッチを入れる。しかしキャラダインは素早く引きちぎり、足で踏み潰した。
「つまらない小細工は無意味だ。私は博士と紳士的な会話をしたいと望んでいる」
「断る。俺は軍人とは相性が悪いんだ」
「そう頑《かたく》なになることもないだろう。これから長い付き合いになるのだ。フェルミ博士、私は虹を掴ませてやろうと申し出ているのだ。無下にすると損をすることになる」
「なんのことだ。俺をどうするつもりだ」
キャラダインがコルト・ガバメントをフェルミの背中に当てると、黒塗りのベンツがやってきた。すぐに屈強な男たちが降りてフェルミの退路を塞《ふさ》いだ。
「博士をお迎えにきた。どうぞこの車へ」
シャッフル、シャッフル、シャッフル。ヒーヤササ、ハッハッハッ!
コザの街でタロットを切るユタがいる。客がいないので適当にカードを切って遊んでいるようだ。ケルト十字法で十枚のカードを並べていく。中央に置かれたカードは試練を表す「吊《つ》られた男」だ。
キャンプ・マクトリアスの射撃場では、FALライフルの発砲音が響いていた。
「さすがはチャンピオンだけのことはありますね。二十発全弾命中だ」
「まだ勘が戻らないわ。ライフルの性能に助けられているのよ。さすがはNATO軍の制式ライフルね」
「でも旧式ですから五キログラムはあります。女の人には重いかもしれません」
「大したことないわよ。いかにも鋼鉄って感じで気に入ってるの。カート点数を出して」
双眼鏡で的を覗《のぞ》いた。七〇〇メートル先の標的は、中心部から五センチ以内に七・六二ミリ弾の穴を空けられている。
「グリーンベレーにだってこんな腕の隊員はいませんよ」
また薬莢《やつきよう》が連続して飛んだ。確実にターゲットの中央に向けて照準が合ってきている。
「それにしてもタイミングが早いですね。的を見てないんじゃないですか」
「見てるから早いのよ」
デニスがここで訓練を始めて三日目、勘がやっと戻りつつあった。最初は構えてから数秒間息を止めていたが、デニスの射撃の個性はタイミングの取り方にある。さっと構えて銃身が止まった瞬間にトリガーを引いている。まるで早撃ちしているかのようなタイミングだった。デニスに距離は関係なかった。的とバレルが直線でピンと繋《つな》がった瞬間を見逃さなければ、後はライフルの性能次第だ。トリガーが自然に引かれる感覚さえ身につけばタイミングはいくらでも早くできる。
弾丸が飛ぶたびにデニスの髪につけられたビーズが鳴る。それがカスタネットのようにリズムを刻めば、ますます調子があがってくる。本人は無自覚だが、デニスはライフルにセヂを籠《こ》めることができるのだ。
「え。スコープを外すんですか」
「スコープとかバレルスリーブは勘が戻るまでのアシスタントなの。これがあると便利だけど周囲との距離感が掴めなくなるのよ。しまっておいて」
「まさかそんなことが」
デニスが新しいマガジンに交換している。銃口が長い腕の一部になって見えた。
「だってあなたたちの要求が厳しすぎるのよ。ディスクを固定された状態で撃つんじゃなくて、持っている所を狙撃するんでしょう。ターゲットはかなり動くし、場合によっては面ではなく線を狙うことになるから、照準器だと追いつかないのよ」
これで照準器はなくなった。これからがデニスの本領発揮だ。もっと早いタイミングに切り替わり連続して発砲音が鳴る。カートが双眼鏡を覗く前に、デニスがガッツポーズを取っていた。
シャッフル、シャッフル、シャッフル。ヒーヤササ、ハッハッハッ!
勢いよく置かれたカードは「運命の輪」の逆位置だ。
「あれ? どうしたのかねぇ」
ガネーシャも首を傾げている。運命の輪のカードが破れていた。
「一度こんな感じのことがあったような気がするんだけどねぇ」
オバァが記憶の糸を手繰りよせてみた。オバァがまだ駆け出しのオバァをやっていた頃だ。
「ヤサ。たしか十八年前に黒人兵が買いに来たことがあったよ。ええっと名前は……」
よく思い出せなかったが、顔は覚えている。消沈した男がオバァを訪ねてきたときのことがありありと蘇《よみがえ》ってきた。なんでも昇進のために本国に帰還しなければならないのだが、彼には身重の妻がいるという。男はオバァに沖縄に留まるように説得されたくて相談しにきたように思えた。しかしオバァの占いでは運命の輪のカードの逆位置が出た。これが出たら長い周期をかけて巡り逢《あ》うことを意味する。オバァは帰還するように説得した。そしてこう付け加えた。「会いたい人には必ず会えるさぁ。とてもきれいな娘さんになって胸に飛び込んでくるのが見えるよ」それを聞くと男は目に涙を溢《あふ》れさせていた。瞳《ひとみ》のとても美しい黒人の男だった。オバァはこんな瞳を最近見かけたことがある。
「時間から言ったら、もうすぐのはずだけどねぇ、ガネーシャ」
オバァは昔のことをしばし思い出して懐かしがっていた。そして新しいカードを出すと、破れたカードを十字に折り曲げた。
「だけど、この人はもうお終い。逃げられないさぁ」
運命の輪のカードの上には悪魔のカードがあった。
米軍所属を表すYナンバーをつけた黒塗りのベンツが護岸沿いを走っている。
「おいおい。ヘッドフォンに目隠しまでするのか。念入りだな中佐」
「どうせ頭で地図を描いているんだろう。せめてもの妨害だ」
黒塗りの車は発進したり止まったりして、フェルミの思考を邪魔している。しかし彼はそれを濾過《ろか》して、地図を構築していた。
「同じところを三回走っているな。路面の振動でわかるさ。俺を誰だと思っている」
「だからこそ、博士を招待したい所があるのだ」
「ハンビータウンの地下施設か。たしかあそこは米軍のハンビー飛行場跡地だったな。なるほど全部わかった。核シェルターとはいい隠れ蓑《みの》だ。大量の海水を冷却水にした原子力発電所を完備しているな」
「さすがはフェルミ博士だ。やはり見込んだだけのことはある」
「俺はテロリストに褒《ほ》められて喜ぶ男じゃない」
「これは失礼したフェルミ博士。私は君の能力を正当に評価したまでだ」
ふん、とフェルミは鼻で笑った。車はビルの地下駐車場に進入した。それから車両ごとエレベーターで降りて、目隠しされたまま、通路を歩かされた。
「冷戦時代の設計だな。残響がひどい」
「システムは最新なのだが、人手不足でね。ぜひとも優秀な人材がほしいところだ」
「俺を甘くみるなよ、キャラダイン中佐。これでもガオトゥの敵側の人間だぜ」
「その最高頭脳を招待できて心から嬉《うれ》しいのだよ、フェルミ博士。よし、拘束具を外せ」
手錠と目隠しが外された。水銀灯の青白い光に目が眩《くら》んだが、慣れるに従ってさらに眩暈《めまい》が生じた。十メートル×十六メートルのメインスクリーンにはフェルミの顔が十六個映し出されていたのだ。
「これがガオトゥの本体か。とても支部には見えん」
まるでNASAの管制室のようだ。設備は最新のもので、まだビニールで梱包《こんぽう》されたままのものがあり、発泡スチロールの匂いが嗅《か》いでとれた。これが稼働すると複数の作戦を統括できるようになるだろう。初めて見る敵地は想像以上の力を備えていた。ぐるりと見渡しただけでも発令所には百人規模のオペレーターを収容できそうだった。しかし今はがらんどうだ。
キャラダインの部屋に通されて、フェルミは困惑していた。自分は生きて帰れるだろうか。どうやって抜け出す。彼は極力冷静であろうと努めたが、狼狽《ろうばい》を抑えられなかった。出されたコーヒーを啜《すす》るときも、一瞬、毒が入っているのではないかと思う。だったらなぜこんな面倒くさいことをする。殺すなら地下施設まで連れてくることはないだろう。ゴクリと冷めたコーヒーを口に含んだとき、ひとつの障害を乗り越えたことに安堵《あんど》した。しかしまだ油断はできない。
「フェルミ博士、殺すつもりならとっくにあなたは死んでいる」
「何が目的なんだ。地下施設見学ツアーでも始めるつもりか」
「それもいい。帰るときは申しつけてくれ。金武町の教会まで送ってやる」
フェルミは立ち上がった。
「では帰る」
「待て。少しだけ話を聞け」
キャラダインが発令所まで来いと言う。監視はついていなかったが、キャラダインには隙がない。銃を奪って逃げることさえ難しい状況だった。キャラダインは発令所の一番高い位置でスクリーンを見下ろすように立った。すると画面にペンタグラムが現れた。
「これが君たちが頭を抱えているペンタグラムだ。フェルミ博士は気づいているようだが、何かわかるか」
「魔法陣だ。この中は通常の空間にはない特異な現象が起きている」
「その通りだ。正確には自然界の四つの力のうち、核力の強い力が崩壊している」
フェルミの仮説通りだった。しかしこの魔法陣は一瞬しか起こらないはずの陽子崩壊の時間が極めて長い。時間のスケールもおかしくなっているはずだ。磁気単極子のモノポールを出現させたのはわかっている。ではもうひとつの極はどこに開いたのだろう。このペンタグラムは一般物理を超えたところにある。フェルミの瞳が輝いていた。
「博士は大統一理論を研究していると聞いた。どうだ、このペンタグラムを研究してみないか。博士のテーマと一致するはずだ」
「馬鹿な。俺は敵側の人間だ」
「誰も味方になれとは言っていない。あなたは理論物理学者でもある。私は希代の天才科学者のあなたと話をしているのだ。もうひとつの顔は後でいいではないか」
キャラダインが指を鳴らすと、メインスクリーンに金髪の女が映し出される。
「サマンサだ。どうして彼女を知っている」
鼻の穴に煙草を挿したサマンサは、白目をむいて口から煙を吐いていた。
「あなたのライバルの人類学者オルレンショー博士だ。残念なことに彼女の研究はあなたの五年先を行っている。最初の論文が間もなく完成し、世界に大きな衝撃を与えるだろう。このままでは追いつかない。これは事実だ」
「だからどうした。俺は貴様に同情されるほど落ちぶれてはいない」
「同情ではない。協力してやろうというのだ。GAOTUには最高の設備がある。張、コンピューター室へ博士をご案内しろ」
フェルミが通されたのは艶《つや》消しの黒い強化プラスチックを外装にした、最新のスーパーコンピューターSX−5が二台設置されているメインコンピューター室だった。更衣室のロッカーのように整然と並んだ様は、圧倒的である。
「しばらくの間これを使って研究したまえ。四テラFLOPSある。繋《つな》げればもっと早くなる。使用時間は無制限だ。どうせ来年まで眠ったままのものだ」
フェルミの目の色が一瞬変わった。本部のスパコンでさえ、制限を受けて使用していたのに、その数倍の性能のものが二つ、目の前にある。
「どうして、俺に?」
「私は人類の最高頭脳をみすみす葬ることはできない。オルレンショー博士に勝つためには、これくらいの設備投資は必要だ。そうは思わないかフェルミ博士」
フェルミはごくりと唾《つば》を飲んだ。すると東洋人の若い男が前に出て握手を求めてきた。
「システムエンジニアの張だ。優秀なコンピューター技師だ。彼を助手にしてやろう」
「こ、こ、断る」
そう言って、何を血迷っているのだと牽制《けんせい》する自分がいる。しかしもう一度同じ台詞《せりふ》で拒否する自信はなかった。
「あなたの才能は自分だけのものではないことを知るべきだ。博士には使命がある。宇宙の四つの力を結びつける理論を完成させるのは、フェルミ博士、あなただ」
「だ、だからと言って、て、敵に懐柔される、わけにはいかない……」
「私は自主性を重んじる男だ。強制はしない。これはチャンスだと思ってほしい」
階段を下りる音が響いた。なぜかフェルミも後をついていく。発令所の脇に石碑のような扉がある。キャラダインはここから出入りするから扉のように見えるのだが、この石碑は壁と繋がっていない。
「どうぞこちらへ、博士が初めて入る客人だ」
奥行きのない平面の闇だった。ためらっていると背中を押された。中は上下の区別のない世界だった。するとどこからか四つの石像が現れた。どこか原始的な装飾をもつ像は、動物なのか人なのかすぐにはわからない不気味さだ。フェルミが顔をしかめると、それぞれの石像が鈍い音声を発してフェルミを車座に囲んだ。
「何の真似だ。俺に脅しは効かないぞ」
「これは失礼したフェルミ博士。いちおう洗礼を受けてもらわないと、消えてしまうからだ」
「ここはどこだ。本当に外と繋がっているのか」
「博士、あなたが理論物理学者なら見当がついているはずだ」
キャラダインが立方体の箱を宙に投げると、立体が壊れてまったく新奇な形に生まれ変わった。不思議な感覚だった。三百六十度の視点から外と内を併せて同時に立方体を捉《とら》えている自分がいる。そしてその影は幾何学的構造を持っていた。
「ネッカー立方体だ。時間軸を併せた四次元空間、いや五次元世界だ」
フェルミは自分の身体を見ようとした。空間と自分が存在論的に同一となり、身体を凝視できない。それでいて、フェルミは自分の肉体の循環器から神経系、消化器系を含めた内部構造まで捉えられている。
「では、この光で見たまえ」
内側から光源を当てられると中央にフェルミの肉体が現れた。彼は影を見てようやく馴染《なじ》みのある自分を確認していた。しかし、どこか操り人形のような妙な感覚だった。すると恐るべき予知がフェルミの意識を貫いた。
「君はこのままでは物理学者として大した成果もあげず、ただ酒場で朽ち果てていくだけだ。未来は君を見捨てるのだ」
「馬鹿な。俺の人生はそんなものじゃない」
「ではなぜ確信を持つのだ。君の意識は時間と空間がパズルのように組み合わさった世界に到達している。これが幻影でないことは君自身、理解しているはずだ」
自分の中に朽ち果てていくイメージがある。サマンサに理論のすべてを浚《さら》われ、エピゴーネンと笑われて生きている惨めな姿だった。
「やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ」
「ちょっと刺激が強すぎたようだ。三次元空間に戻ろう」
キャラダインとフェルミは再び石像の前にいた。
「この鏡を見たまえ。同時世界の君に対する評価だ」
古ぼけた銅鏡が手渡された。そこには金武《きん》町のプロテスタント教会が映っていた。アレックスが作戦要綱を立てている。「フェルミはこの作戦から外すのか」「神岡に出張させるように本部に提案した」「なるほど。お払い箱にはもってこいの場所だ」
全員の大笑いがこだました。
「くそっ。勝手なことを」
「よい仲間に恵まれたようだな博士」
次に映し出されたのはオルレンショー博士の部屋だ。衣装部屋と図書館を混合した頭の痛くなる部屋だった。サマンサはバレリーナの恰好《かつこう》でパソコンとにらめっこしていた。
「意外と早くまとまりそうだわ。これでフェルミに引導を渡せるというもの。くすくす」
サマンサは鼻クソをほじくり、フェルミに向けて指で弾いた。鏡からポンと飛び出すと、フェルミの頬にくっついた。
「くそっ。本当に負けてしまう」
「よいライバルにも恵まれたようだな」
「キャラダイン、どうすればいい。どうすれば俺は未来を掴むことができる」
両|膝《ひざ》と両手をついたフェルミには、もう立ち上がる力はなかった。銅鏡が金属の音を響かせて転がっていった。
「簡単だ。ここで好きなだけ研究すればいい。新しい未来を見せてやろう」
銅鏡がホログラフィーを投影した。そこには偉大な物理学者として喝采を浴びるフェルミの姿があった。タキシード姿で壇上に立った彼が、「理論物理学にピリオドを打った男」と司会者に紹介され、無数のフラッシュを浴びて満面の笑みを浮かべている。それは、フェルミのもうひとつの未来だった。
「私が協力してやろう。アインシュタインやマックスウェルを超える最大の科学者として、永遠に人類の歴史に名を留めさせてやろう。マイケル・フェルミ、私と契約しろ」
キャラダインが羊皮紙を広げた。部屋中にすえた獣の臭いが満ちてくる。視覚が麻痺《まひ》してきたのだろうか。正面にいるキャラダインの頭に山羊《やぎ》の角のような幻影がみえてくる。そして子供のような無邪気な声が四方から聞こえて、しきりにサインを促す。そこにはキャラダインに永遠の忠誠を誓うという内容が書かれていた。
「お、俺は、俺は悪魔と契約してしまうのか……」
「帰りたければ帰してやる。負け犬の人生が君を迎えてくれるだろう。才能を鼻にかけ怠惰だったのは私の責任ではない。二十一世紀を牽引《けんいん》する真の天才が決定する瞬間に、神は二人の学者を遣わされたのだ。それがオルレンショー博士とフェルミ博士だ。世紀をリードするエポック・メーカーが現れて、彼らが百年の骨格を作ってくれる。二十世紀が一九〇五年に始まったのは博士も御存知だろう」
「アインシュタインの相対性理論の年だ。そしてフロイトの無意識。ピカソのキュービズム。まさに革命的な年だった」
「時代は常に開花する年を待っている。二十一世紀もまた、このような瞬間がやってくる。優れた人間は百年を牽引し、優れた業績は千年を生きる。そうやって人類は存続する」
キャラダインが呪文のように繰り返す。聞いていると頭が螺旋《らせん》階梯を上るような眩暈を覚える。次第に足場がなくなっていく感覚に囚われてフェルミは子供のように叫んだ。
「やめてくれ、頭が痛くなる。俺は一体なんなんだ」
「フェルミ博士は、人類の希望のひとつにすぎない。二〇〇五年までに偉大な理論が誕生しさえすれば、栄光は誰の手に渡ってもよいのだ。オルレンショー博士は単独でフロイトとアインシュタインを超える存在になるだろう。二十一世紀は科学と宗教が初めて融合する幸福な世紀だ。彼女が新世紀の百年を決定するエポック・メーカーになるのだ」
「嫌だ。あんな女に栄光を独占されてたまるか」
「これだけは言っておく。君は途中まで圧倒的優位にあったのだ。オルレンショー博士が実力以上の力を発揮してくる確率は〇・七パーセントしかなかった。そして今、君が負ける確率は九九・三パーセント。明日になればもっと上がり、三カ月後に完全に敗北する。さあ、決めろ。未来をどうしたいのだ」
「俺は、俺は、負け犬なんかじゃない」
「虹を掴んでみせるんじゃなかったのか」
フェルミの頭の中に低音の呪文が聞こえてくる。複雑に位相を変えながら展開する言葉が、ぐるぐると頭の中で回っている。
[#ここから1字下げ]
アドライ、ハーリー、タマイー、ティロナス、アタマス、ジアノール、アドナイ、このペンよりあらゆる偽りと過ちを取り除け。我が欲するあらゆる美徳と力を書けるように。アーメン。
[#ここで字下げ終わり]
「やめてくれ。俺が決める。俺が決める未来だ」
フェルミはペンをとると震える手で羊皮紙にサインをした。キャラダインがサングラスをとり、ニヤリと笑った。それから先をフェルミは覚えていなかった。
翌日、金武町のプロテスタント教会に、衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「嘘よ。嘘嘘嘘嘘嘘!」
「本当なんだコニー。私だって信じられない」
「ワイリー、コニー、すぐに宜野湾《ぎのわん》警察署まで来てくれ」
二人が乗りこむと佐藤が車をすぐに発進させる。
「まさか。フェルミが死ぬなんて」
「水死体だったようだ。すぐに司法解剖されるらしい」
「ガオトゥの連中が殺したのよ。フェルミがドジして死ぬわけないわ」
「それは警察署で聞けばいい。フェルミのパスポートは持っているな」
「ええ。でも、信じられない」
パスポートを開くと、いつものキザったらしいウインクをする寸前の顔写真があった。用心深く、頭のよかった男だ。養成学校の同期だったコニーはフェルミのことを誰よりもわかっていた。たしか彼はブローニング・ハイパワーを所持していた。腕もよかった。反撃の余地を与えずにフェルミを殺すなんてことは不可能だ。それに手掛かりすら残さずに、ただ溺《おぼ》れ死ぬようなみっともない姿を晒《さら》す男ではない。彼ならもっとスタイリッシュな死を選ぶはずだ。手榴弾《しゆりゆうだん》で相手もろとも爆死するなら、わかる。自分ならきっとそうするからだ。
「虹を掴めなかったか……」
佐藤の車が猛スピードで景色を追い抜いていく。佐藤がアクセルを踏みっぱなしで、声をかけた。
「アレックスたちは今週にも動くぜ」
「フェルミのいなくなったアフガニスタンチームはゴミと同じよ。まともな作戦が立てられるはずないわ」
「私も同感だ。どうせまた潜入部隊を入れることしか考えられないはずだ」
「サトウ、ワイリー、わかっているわね?」
「何度も聞くなよ。俺だってあいつらには頭にきてるんだぜ」
「先に動いていてよかった。この事件の後じゃ本部の目が厳しくなる。必要な機材は明日届く。くすねるのに苦労したぞ」
ワイリーはネクタイを締めて、眼鏡をかけた。
警察病院でフェルミの遺体と対面した。遺体には争った痕跡《こんせき》はなかった。あの自慢のペルシアンブルーの瞳は瞼《まぶた》の奥だ。コニーには遺体が脱皮したあとの殻《から》のように映った。しかし溺死体《できしたい》がこのように穏やかな死に顔をするものだろうか。所持していた拳銃はなかった。ワイリーがカフスボタンが取れていることに気づき、コニーに指摘した。
「抵抗したんだよ。やはり殺されたんだ」
「あんた馬鹿よ……」
日本人の検死官がやってきて、事故の詳細を伝えた。アルコールで酩酊していた状態で、海に落ちた線が濃厚だと言った。あのキザなフェルミがひとりで酒を呑《の》むわけがない。女と遊ぶときの気つけにやるだけだ。
「ご遺族の方ですか。高名なフェルミ博士がこんなことになるなんて、誠に残念です」
「私はアメリカ大使館のワイリー一等書記官だ。すぐにフェルミ博士の遺体をアメリカ本土に搬送する。これが書類だ。ここにサインをしろ」
「いちおう、司法解剖する規則になっておりますので。一両日はかかりますが」
コニーがにじり寄って、押しまくる。
「いいえ。フェルミ博士の遺体にきちんと敬意を払っていただきます。彼はアメリカ合衆国の宝なんです。向こうできちんと調べますから、あなたはサインをすればいいんです」
「失礼ですが、あなたは?」
コニーは身分証明書を見せつけた。
「CIAのコニー・マクダネルです。博士と行動を共にしていました」
「CIA……」
ワイリーが威圧的な態度で前に出る。シャープな顔立ちは冷たい刃物のようだ。
「勘繰らないことだ。一検死官の知る範囲ではない」
「しかし、私の一存では……」
「アメリカ大使館からの正式な要望書だ。日本の法務省には話をつけてある。フェルミ博士は米軍の客人として沖縄に招かれた。日米地位協定に基づき、フェルミ博士の遺体をこちらへ引き渡してもらう。法的にはなんの問題もないはずだ」
ワイリーの口調にひるんだ検死官は、とっさにコニーに視線を移した。彼女は検死官を促すように背中に手を回して、柔らかい口調になる。
「カデナの定期便に収容しますので、急いでください」
「わかりました。上の者と相談して参ります」
検死官が部屋を出ていくと、毅然《きぜん》としていたコニーが、ついに堪えきれずにフェルミの遺体に泣きすがった。
「なんてことだ。本部はカンカンだぞ。フェルミは期待の星だったからな」
「ええ」
フェルミは穏やかな死に顔だった。それが余計に悲しくさせる。
「フェルミ、安心していいのよ。あなたの自慢の体にメスを入れさせないわ」
「そうだ。フェルミは誇り高き男だ。きれいな体で埋葬する」
最後にフェルミにキスをしたコニーがシートを被《かぶ》せた。
ハンビータウンの護岸では、サマンサが手向けの花を投げようとしていた。今朝の新聞に、アメリカ人男性の水死体が発見されたと載っていた。それがフェルミだと知ったのは、後の報道でだった。盟友の死に報いようと盛装してやってきたのはいいが、彼女はウェディングドレスを着てきた。ライバルとして切磋琢磨《せつさたくま》した仲だった彼の霊を慰めるのに相応《ふさわ》しいと思ったからだ。
風がドレスの裾《すそ》を嬲《なぶ》っている。サマンサは静かに十字を切ってブーケを投げた。
「さよならフェルミー。あなたの分まで有名になるわーっ!」
海の一番遠くの色が、彼の瞳によく似ていた。サマンサは突風に立っていられなくなり、護岸に膝を抱えて座った。真っ白なハイヒールを脱ぐと、足の指がぎゅっと握られていた。思い出すのはフェルミに馬鹿にされた初対面のパーティーの日のことだ。人生最大の屈辱の日だった。自分より賢い人間がいることを目の当たりにして、彼女は居場所を追い出された気分になった。それを察したフェルミは、とことんイジメまくった鬼のような男だ。あんなに愚弄されても、サマンサは懐かしくあの日のことを思い浮かべる。あの日が人生の分岐点だった。サマンサは天命を知ったのだ。
──あなたはあたしの目標だったわ……。
沖縄の空は雲が多い。上も下も真っ青な景色は雲で存在を分けている。なのに今日はまだひとつも雲がない。息ができなくなって空を見上げ、やはり溺れてしまいそうになる。苦しくて苦しくて、目を閉じると潮の香りが鼻腔《びこう》をついた。サマンサはもうやりきれなかった。ついに気持ちを抑えられずに立ち上がると、フェルミの瞳と同じ色をした水平線の彼方《かなた》に向かって叫んだ。
「さよならーっ。あたしの唯一のライバルーッ!」
一瞬、波も風も静まり返った。水平線の彼方まで届いただろうか。サマンサは息を荒らげていた。異国の海に散ったフェルミが偲《しの》ばれる。そんな零《こぼ》れそうに抱えていた思い出を、ポタポタと静かに落とした。
射撃訓練の五日目だった。カートとデニスはキャンプ・マクトリアスの射撃場にいた。
「オリンピックのアメリカ代表になれば金メダルをとれますよ。ミス・カニングハム」
「サンキュー、カート。でも興味ないの。昨日おばあちゃんに勘繰られて困ったわ」
祖母は帰りが遅いと気をもむケチな女ではない。ただ擦れ違い様に「硝煙くさい」と目を光らせた。デニスは「バイクのエンジンオイルの臭いじゃないの」ととっさに言い訳したが、あの目は信じていなかった。祖母の良枝は武器をことのほか嫌がる。射撃をやめたのも良枝を刺激したくなかったからだ。もちろんデニスは沖縄で生活していくつもりだ。そのためにただ一度、ライフルを使うことを決めた。
──おばあちゃん、アメリカに行くって言ったら喜んでたもんね……。
ただし、スザンナには言うなと口止めした。観光でワシントンD.C.に行きたいだけだと強引に祖母を説得した。そのときの良枝の反応は何か遠慮がある感じがした。もしかしたら父のことを知っているのかもしれない。父が高級将校だということも、デニスの出自についても、良枝は知っていると確信した。しかし尋ねることはやめた。この目で真実を見ればすむ話だ。アメリカを一度見てそれから沖縄に帰ってくる。その後はなんとなく未来が開けていくような気がするのだ。
「訓練は今日で終わりにしましょう。疲れると困りますから」
「わかった。で、いつにする?」
「明日じゃ駄目ですか。目標が行動するんです」
「いいわよ。こういうのは早い方がいいから」
カートはデニスを知るにつれ、良心の痛みを感じていた。もし失敗したらどうなるのだろう。キャラダイン中佐は十代の女の子だからといって笑って許してくれるわけではない。もし、手元が狂って人に当たったらどうなるのだろう。そのことをキャラダインに尋ねたことがある。キャラダインは事もなげにこう言ってのけた。
「失敗してもあの子は日本人だ。アメリカ軍とは関係ない。馬鹿なティーンエイジャーの暴走だ」
カートは失敗しないことを祈るばかりである。訓練が終わったら、現場を視察に行く。距離は一三〇〇メートル。FALを改造しているとはいえ、こんな長距離を狙撃するのは不可能だ。射撃場でもこの半分しかない。カートはもう引き返すことのできない地獄に足を突っ込んでいることを知った。
「絶対に成功させてくださいね」
「大丈夫よ。勘が戻って調子いいから」
昨日のスコアを見る限り、ミスは考えられなかった。満点である。二十発撃ち込んだ的がひとつの穴になっていた。
「ところで、航空券はとれたの?」
「もちろんです。英国航空のファーストクラスを予約しました。香港まではキャセイ・パシフィックですが、それが希望なんですよね」
「そう。三日ステイして飲茶を死ぬほど食べるの。あと服も買いたいしー。トニー・レオンのコンサートも行きたいしー」
ライフルさえ持っていなければ、デニスはただの十代の少女にしか見えない。
「香港でのホテルはアイランド・シャングリラのスウィートです。無理してとりましたよ」
「ラッキー。あたし一度ホテル生活ってしてみたかったのよー。オキナワにもたくさんあるけど、地元だとつい泊まるのをためらうでしょ。もう最高!」
カートはひとつ咳《せき》払いをして、日程表を読み上げた。
「ワシントンD.C.のダレス国際空港に到着するのが現地時間の二時四十分です。ホテルにバイクをお届けするように手配してあります」
「ありがとう。ステイツは初めてだからドキドキするわ」
「練習が終わったら現場を視察しますが、予定は大丈夫ですか」
「七時にサマンサの家に着けば大丈夫だから、平気よ」
サマンサに面白いものがあるから、どうしても来いと誘われた。あの女は自分を刺激するためなら何でもする。あんなに興奮して電話をかけてくるのは珍しいことだ。どうせ変態の考えることだ。期待はしていない。ただ守護霊が連れて行けとうるさいのだ。
(頼むう。頼むううっ。サマンサと遊びたあい)[#「(頼むう。頼むううっ。サマンサと遊びたあい)」はゴシック体]
「うるさいわね。射撃のときは黙ってて」
「はい。すみません」
訳もわからずカートは謝る。デニスはケースに入ったFALライフルの掃除を始めた。マメに手入れをすれば、ライフルはスペック以上の性能を出すとマイロンから教わっていた。すぐにバラバラに解体して、埃《ほこり》をとっていく。
「デニスは向こうの方が暮らしやすいのではないですか」
「そんなことない。あたし東シナ海の側にいないと不安なの」
カートは少しわかる気がした。嘉手納基地に東シナ海側からアプローチするとき、思わず息を飲んだことを思い出す。これほどまでの景観が地球にあるとは思わなかった。カートのブルーの概念が根底からひっくり返った瞬間だった。同じ場所を見ているのに、波の揺らめきで幾百ものブルーを生じ、水の存在を通り越して海底が直に目に飛び込んでくる。その地形がまた珊瑚《さんご》の峠をつくり、赤い熱帯魚の大群が帯のように靡《なび》いている。砂浜のラインが白く走る海岸線を越えると、今度は熱帯雨林が無数の掌《てのひら》を揺らしてケチャの舞踊で迎えてくれた。カートの中に太鼓のリズムが鳴る。滑走路にランディング・ギアが着いたとき、カートはさっき見た幸福が夢ではなかったと知った。手続きを終えてすぐ、基地を飛び出して海に向かった。上空から見るのと同じだった。水平線がないと思えるほどのブルーのグラデーションが空まで続いていた。
「僕もあの海が好きですよ。バハマでもハワイでもあんなにきらびやかではない」
「でしょー。あたしもそう思うんだ。行ったことないけど」
デニスは七・六二ミリ弾の入った箱を無造作に破いた。二十発を立てて、つぎつぎとマガジンに装填《そうてん》していく。
「ハイスクールを卒業したら、どうするのですか」
カートがライフルを組み立てているデニスに声をかける。まるで少年が玩具の合体ロボでも組み立てるかのように、手慣れた作業で分解されたライフルを扱う。歩兵でも銃の手入れを嫌がるものだが、デニスはこれが楽しくて仕方がない。それに明日で銃を握るのは最後だと思えば、丁寧にやりたくなるものだ。ガス・プラグ・プランジャーを押して九十度左に回すとガス・プラグがスプリングに押されて飛び出した。
「うーん。ま、無理かもしれないけど、いちおう夢があるんだ」
念入りにクリーニングしてから、また装着させた。
「なんですか。教えてくださいよ。ティーンエイジャーは夢を持つべきです」
ボルト&ボルト・キャリアーを滑らせて、カバーを音がなるまで押し込んだ。
「ええっとね。沖縄FMのDJかなーヂラー?」
真っ白な歯を見せて照れたデニスが、一緒に笑ってと誘った。
「いいじゃないですか。僕は『トップンロール・ステーション』のリチャードとシャーリーが好きですよ」
「えー。カートも聴いてるの。いいでしょいいでしょー。あたしもリチャードとシャーリーのコンビが好きなの。この前ファックスが採用されて、超ーラッキーだったのよ。もう絵とかガンガン入れて目立たせたもの」
「あの二人、ハーフなんですよね。沖縄言葉と日本語と英語をミックスにしてしゃべるんで面白いですよ。僕あれでウチナーグチを覚えました。ハイサイ、ニフェーデービル(やあ、どうもありがとう)」
「ちょっと発音がヘンだけど、まあ通じるわ」
フレーム・ボディ・ロック・レバーを力強く押し上げると、中折れしていたFALライフルが真っ直ぐになる。ライフルはちょうど腕の構造と同じだ。
「そうですかね。練習したんですけど」
今度の任務が終わったらカートは除隊して沖縄に住むことにしている。シカゴ育ちのカートはもう故郷には戻りたくないと思っていた。
「よくあんなんで混乱しませんよね。それでいて意味が通じるところが不思議なんです。『トップンロール・ステーション』が長寿番組なのもわかりますよ。この前、ウラソエ・シティの生放送を見に行きましたよ」
デニスは銃口をカートに向けていた。
「Really? ユクシー。いいはずー。ね、どうだった、どうだった。リチャードとシャーリーに会えた? どんな人だった。あ。でも言わないで。リチャードはハンサムだった? どうだったのよー。きゃー」
勢いをつけてガチャンと二十発入りマガジンを押し込んだ。そしてぬいぐるみでも抱いているかのように五キログラムもあるFALをぶんぶん振り回す。
「リチャードはカッコ良かったですよ。シャーリーは意外と小柄で……」
「やっぱりー。声が渋いと思ってたのよー。浦添市の小湾だったわよね。絶対、今度見に行くわ。そしていつかあのブースでリチャードの隣に座るのよ。きゃー」
「僕もデニスの隣に座りたいな」
「ダメよ。あたしの隣はリチャードってきまってんだから。カートはリスナーね。ファックス採用してあげるから我慢しなさい」
「えー。そんなー」
「待っててね、リチャード」
サッとライフルを構えると七〇〇メートル先の的をハート型に撃ち抜いていった。
国道58号線が、だらだらと伸びていく宜野湾市の真志喜《ましき》に、気のきいた瀟洒《しようしや》な家が並ぶ区画がある。近くの米軍キャンプが返還されたときに、住宅がそのまま民間に転用された区画だった。旧米軍住宅は地元の若者の間で人気が高い。現実離れした開放的な設計と涼しげな外観が魅力だ。その中に一軒、ペパーミントグリーンの下地に、水玉の蛍光オレンジをまぶした風変わりな家がある。まるで猛毒の生物が警告のために派手な色使いを好むのと似ていた。そればかりか、屋根にはヒップを晒《さら》したマネキン人形が斜めに取りつけられている。そしてマネキンは救命胴衣を着たスチュワーデスのコスプレをしていた。
「明日はなに着ていこうかなん、と。くすくす」
サマンサは衣装を見比べて、鼻唄を弾ませていた。ハンビータウンの海岸でフェルミの霊を追悼したばかりだというのに、(あれが鎮魂だったのか謎だが)もう明日のことを考えている。この女に鬱《うつ》という期間はない。常態が躁《そう》病質だが、一瞬の鬱をトランポリンにして数倍テンションをあげる構造になっている。そんなサマンサだが、最近はおとなしく家にいる。こういう奴は閉じこめておくのが一番だ。研究の山場を迎えたせいでもあるが、それだけではない。実は面白い玩具を手に入れたからだ。衣装をあれこれと選んでいる脇でジーコ、ジーコと機械の音がする。玄関のチャイムが鳴った。
Who is it?
「オルレンショー博士、ブライアンです。面白いものを見せてくれるって何ですか」
もうすぐ七時だった。続いて大型バイクのエンジン音も聞こえてきた。
「やだ、ブライアン。なんであなたがここにいるの?」
「デニスこそ、オルレンショー博士の友達なのかい」
「違うわよ。あなたこそ変態パーティーの常連なんじゃないの」
「誰がこんな不気味な家に入るか。さっきからジロジロ人に見られて恥ずかしいんだ」
「あたしもよ。ここは何回来ても頭が痛くなるわ。なんだか安いドラッグをやりすぎたときの幻覚みたい」
「デニス、ブライアンようこそ。新しいルームメイトを紹介するわね」
サマンサの本日のコスプレは男の憧れ「すっぱだエプロン」だ。
Surprise!
家の中にはスキンヘッドで眉《まゆ》を剃《そ》られた半有機的生命体が「ジーコ、ジーコ」と無機質な声をあげて白目を剥《む》いていた。顔色は蒼白だ。それに口には歯列矯正用のブリッジがかけられている。どこかで見たことがあるとデニスは目を凝らした。
「やだ。広美じゃない。行方不明だって噂になっているわよ」
そう。その生命体はかつてのアメ女、広美だった。普段から家出状態だったため、二週間ばかりいなくなっても家族は本気で心配しない。広美という娘は、とうに家族の枠から外されていたのだ。
まだサマンサに免疫のないヤマグチはSF映画のアンドロイドを見たのかと腰を抜かしていた。
「……人間なんだ。……女なんだ」
広美は大改造されて半機械化している。唇の端から顎《あご》にかけて腹話術人形のような縦線が走り、これがカードスロットになっている。耳にモジュラージャックが取りつけられていた。頭には脳波測定のヘッドギアとUHFアンテナが立てられている。
サマンサが自慢気に紹介する。
「あたしのアシスタントの生体コンピューター『ろみひー』よ。さあ、ご挨拶《あいさつ》しなさい」
広美の右目が下りてきた。
『コンバンハ。私ハ ロミヒーダ。ヨウコソ おるれんしょー博士ノ家ヘ』
「広美、目を覚ますのよ。真由美から聞いていたけど、犬になったんじゃなかったの?」
「この子、暗示にかかりやすいみたい。『おまえはコンピューターだ』って言ったらコロリよ。やーね。自己イメージってもんがないのかしら」
ここまでやっておいて人のせいにするとは、見上げた根性だ。
「オルレンショー博士。こんなことをしたら大変なことになる」
「本当に大変な性能なのよ。あたしもびっくりしたわ」
広美はサマンサの奴隷どころか道具に成り下がっていた。サマンサは手持ちのノート型パソコンでは、満足な成果をあげられないことを危惧《きぐ》していた。かといってスーパーコンピューターを購入する余裕もない。手っ取り早いのは広美をコンピューターにしてしまうことだった。
「聞いたら驚くわよ。さっき、ならし運転をしただけでも、ろみひーは出力四パーセントで六二〇〇〇ヨタFLOPSを叩《たた》き出したわ。一秒間に一〇の二八乗の演算能力を発揮したのよ。すごいことだわ」
『ソウダ。ロミヒーノ 最高演算速度ハ 一五五〇〇〇〇ヨタFLOPSダ』
現在ろみひーは出力一兆分の一パーセント、犬モードで稼働中だ。それでも一五五ペタFLOPSはある。現在のスーパーコンピューターの三万倍以上の速度だ。
「そうねー。お利口さんねー」
リモコンのボタンを押すと、ロミヒーのUHFアンテナがくるくる回った。これが手元のパソコンとのインターフェイスになっている。
「これをすると、ろみひーが喜ぶのよ」
『♪ワーイ ♪ワーイ。ジーコ ジーコ』
ろみひーはムーンウォークで後退する。ガシャン、ガシャンと金属の擦れる音がする。それもそのはずだ。ろみひーの全身は鉄板を格子状につないだギプスで覆われているのだ。これは十六世紀に整骨術の教育に用いられた由緒正しい関節模型だ。このために、ろみひーは動きを制限されているが、サマンサはこう言って騙《だま》した。
「これはルネッサンス期のイタリア人外科医、ヒエロニムス・ファブリキウス博士が発明した関節モデルなのよ。ろみひーはお利口さんだから、この価値がわかるわよね」
中身は最新なのに、スタイルは五〇年代のSFロボットなのがレトロで小憎らしい。単に盗まれるのが癪《しやく》なのでわざとダサくしているだけなのに、ろみひーは喜んでいる。
ついに二人が怒鳴った。
「そんな問題じゃないだろっ!」
しかしサマンサは人の話を全然聞かない女だ。
「それにスパコンに必要な大電力消費もなく、そのために生じる熱もないから大部分を占める冷却装置もいらず、しかもモバイル。維持するのは最低限のカロリーだけ」
トイレの側に置いてあるプラスチック容器を指した。ペット用の容器には「ろみひー」とクレヨンで書かれていた。中には山盛りのドッグフードが入っている。
「さあ、ろみひー。餌を食べてもいいわよ」
『ワン ワン。ロミヒーハ 嬉《うれ》シイデス。ジーコ ジーコ』
容器を掴《つか》むとザラッと口に流しこんだ。ドライフードは美味《おい》しいのだろうか。そういえば広美のときにも乾燥梅干しを主食にしていたほどだ。案外本気で喜んでいるのかもしれない。その姿を見てデニスは思わず涙を零《こぼ》し、ヤマグチは胸が悪くなった。
「ひっでぇことしやがる。オルレンショー博士、これは犯罪だ」
サマンサが不快な表情を浮かべた。これは、ろみひーの意志であると言うのだ。
「あなたは広美なのよ。元に戻ってよ。あたし馬鹿でもいいから広美の方がいい」
ろみひーは左目を下ろしてデニスを見つめた。続いて瞳孔《どうこう》が収縮してピントを合わせる。
『ソノ答エハNOダ。ロミヒーハ モウ アンナ 馬鹿ニハ 戻リタクナイ』
「広美ぃ。もうやめてよ……」
「安い同情すると後で痛い目に遇うわよ。広美のままだとシンナー中毒で、あと一年も生きなかったでしょうね。それとも何? 広美は死んだ方がよかったとでも言うの」
「それは……」
「人は生まれたからには使命がある。それを理解する者としない者の人生の差は歴然よ。広美は使命を知り、ろみひーになった。彼女の自由意志がなければ、ここまでの性能を発揮できなかったわよ。広美はいつでも変わるきっかけを探していたのよ」
なるほど一理ある。しかしどうもサマンサの都合にしか聞こえないのはなぜだろう。
「これがセヂよ。広美はセヂを受けるレセプターを人格で封印していたのよ。ろみひーはあたしといることで、その能力を最大限に発揮できる。あたしも、ろみひーの力を必要としている。こんな幸福な関係があって?」
「わかったわ。広美はもう死んだのね……」
「生まれ変わったのよ。人は毎日少しずつ変化して新しい人間になるわ。あなただって十年前とは全然違う人間のはずよ。変化を押さえつけることは誰にもできないわ」
「……変わり果てているんですけど」
デニスは顔面蒼白だ。
「じゃあ、聞くわ。デニス、広美のどこが好きだったの。淫乱なところ? 無教養なところ? 万引きするところ? ドラッグをやっているところ? 広美は本当にいいとこなしだったのよ。さあ、どこが好きだったのよ。人権が好きだったなんて言ったら殴るわよ」
『ソウダ。ロミヒーハ幸セダ。博士ト共ニ 新シイ時代ノ 開拓者ニナル』
「よく言ったわ、ろみひー。特別に高級ドッグフードを食べさせてあげる」
サマンサがろみひーに抱きつくと、ろみひーはちょっと照れて耳からポーッと蒸気を噴いた。UHFアンテナがいつもより高速に回転している。これが犬の尻尾《しつぽ》にあたる。とってもハイテクなのに、外見はローテクの寄せ集めだ。
「あなたたちにも同じことが言えるわよ。あなたたちは自分のどこが好きなのよ。もしかして人権?」
サマンサがくすくす笑う。デニスとヤマグチは唇を噛《か》んだまま何も言い返せなかった。
「いつまでたっても仮の姿で自分を誤魔化しているだけじゃないの。カッコ悪い。あなたたちは可能性を広げているようで、実は自分の首を締めているのよ。『いつかする』『いつかこんな人になりたい』この論理が破綻《はたん》しているのは『今の自分は駄目だけど』ってところよ。嫌いな自分が発展したらもっと嫌いな自分になっているのが筋じゃない。足元がぐらついているわよ」
『ロミヒーハ 今ノ ロミヒーガ好キダ。私ガ広美ノ時 毎日ガ苛々《いらいら》シテ苦シカッタ。変ワリタクテモ ドウシタライイノカ ワカラナカッタ。おるれんしょー博士ニハ 感謝シテイル。ロミヒーハ 博士ノ道具デアルコトニ 誇リヲモッテイル』
「あんたたちも催眠にかかってみる? どのくらい自己イメージが強いか分かってよ」
断っておくが、サマンサにかかれば誰でも「ろみひー」になれるとは限らない。これは広美の脳が素晴らしい才能を持っていたから成せたことだ。広美はセヂの使い方を体得した。セヂを得て彼女が開花させたのは、冷静でミスのない超高速演算能力だ。そのために多少、人格が犠牲になることは止むを得ない。
「ろみひーが素晴らしいのは、生殖能力をもっているところよ。第二世代のろみひーUはさらに一億倍の能力を発揮するでしょう。これでも、ろみひーは不充分なの。広美だった時のシンナー中毒が原因で、脳に空いた穴が性能を落としていることがわかったのよ。まったく。とんだポンコツを拾ったもんだわっ」
とにかく忙しい女である。さっきまで褒めていたかと思えばすぐに貶《けな》す。まるでヒステリーの陶芸家が自分の作品を壊す様に似ている。
『ロミヒーハ 後悔シテイル。しんなーニ逃ゲテイタ 自分ガ恥ズカシイ……グスン』
UHFアンテナがしょぼんと垂れた。ここまで目茶苦茶されてなお、サマンサに忠誠を示すところが健気でいじましい。
「でも大丈夫。体内に宿ったときから設計すれば、ろみひーUは天文学的性能を発揮できるわ。一秒間に一〇の三九乗の計算ができるようになるのよ」
サマンサが奥歯を見せて叫んだ。
「あたしの管理下で『ろみひーシリーズ』は計画的に生産され、常に世紀を代表するフラッグシップ・コンピューターとして名を轟《とどろ》かせることになるわーっ!!」
「増やすつもりなんだ」
「何が悪いのよ。ろみひーは文字通りのマザー・コンピューターになるのよ。くすくす」
ヤマグチとデニスはこの迫力にいつも圧倒される。
「博士、それじゃあ第一世代のろみひーはどうなるんですか。まさか捨てるわけじゃ」
サマンサが見くびらないでほしいと睨んだ。ろみひーも目を丸くして自分の処遇がどうなるのか気になっている様子だった。
「捨てるわけないでしょ。ろみひーは人類の宝なのよ。役目が終わったらちゃんとプラスティネーション加工して、スミソニアン博物館で|ENIAC《エニアツク》の隣に展示してあげるわよ」
「ひっでえーっ」
「鬼と呼んでいただいて結構よ。ろみひー、スミソニアンは選ばれた機械しか展示されない、最高権威の墓場なのよーっ」
ろみひーの目から『ソンナ』と涙がちょろりと流れた。しかし機械に涙は禁物である。超純水ならシリコンウエハーの洗浄に使えるが、塩分が含まれた涙は錆《さび》の原因になる。サマンサがそれを指摘して叱咤《しつた》すると、ろみひーは『ジーコ ジーコ』と涙を拭《ふ》いた。
『大丈夫ダ。ロミヒーハ 博士ニ嫌ワレタラ 生キテイケナイ……。キチント 役目ヲ果タシタ後ハ 脳波ヲ止メルダケダ……。エーン エーン』
「もう、サマンサは意地悪なんだから。ろみひー泣いちゃだめよ」
デニスは広美だということも忘れて、ろみひーを抱きしめた。
『ロミヒーハ モウ泣カナイト 決メタノダ。機械ハ 泣カナイノダ。エーン エーン』
どくどくと溢《あふ》れる涙がデニスの服を濡《ぬ》らしていく。そういえば広美は泣きむしだった。
「まったく。人間くささが残っているんだから。もう一回初期化してやろうかしら」
「こらサマンサ。せめて最後まで面倒を見るって言ってよっ」
「こんなガラクタはスクラップにしてやろうかしら。くすくす」
『イイノダ。ロミヒーハ ソレデモ 博士ガ好キダ。エーン エーン』
サマンサはふん、と煙草の煙を鼻から吐く。まったく難しい女だ。
あまりにも泣き止まないので、サマンサがアンテナにプラスチック製の藤の花を吊《つ》るした。リモコンのスイッチを押すと、アンテナの花が傘のようにくるくる回った。
『♪ワーイ ♪ワーイ。ジーコ ジーコ』
こんなんで機嫌が直るなんて安いコンピューターだ。
「博士はろみひーで何をしたいのですか。まさかレキオスを」
ヤマグチがサマンサの目論見《もくろみ》を理解した。
「その通り。不可能だったことが一五五〇〇〇〇ヨタFLOPSの演算能力で可能になったわ。今まで諦《あきら》めていたカオス式を三次元グラフで計算できるわ。いいえ。ろみひーなら任意のN次元すら可能よ。論文の速度が飛躍的に向上するわよ」
油断しているかと思いきや、ライバルの死で俄然やる気になったようだ。孤独であればあるほどサマンサは本領を発揮する。フェルミは負けた。なのにサマンサはまだ暴れている。今夜もサマンサの一方的な世界で夜が更けていく。
団地の明かりが消えた真夜中にデニスはエレベーターの扉を開けた。
「あんた今夜も硝煙臭いよ。どうしたんだい」
祖母は玄関でデニスを迎えた。入口に立ちはだかられると、家には上がれない。
「銃を撃っているね。どうしてそんなことするんだい。あんたは沖縄で生活しているんだよ」
「これはあたしの人生にデージ(とっても)大切なことなの。見逃してくれないかな」
「何か言いたいことがあるなら、ここで言って上がるんだね。あんたは隠しごとが多すぎるよ。家族じゃないかい。何でも話してごらんよ。おばあちゃんは大丈夫だよ」
デニスは鋭い目付きで良枝を刺した。普段が穏やかなだけに良枝も怯《ひる》んでしまう。
「おばあちゃんだって、隠していることがあるでしょう。人のことが言えるわけ?」
「別に何も隠しちゃいないさ」
「Liar, あたしのお父さんのこと、全部知っているくせに」
とたんにひとり分通れる空間が開いた。デニスは難なく家に上がった。すぐに服を脱いでシャワーで汗を洗い流す。
(ちょっと酷すぎないか。あれじゃ婆さんの立場がないぞ)[#「(ちょっと酷すぎないか。あれじゃ婆さんの立場がないぞ)」はゴシック体]
「うるさいわね。明日のことに集中したいのよ」
(そんなに父親に会いたいのか)[#「(そんなに父親に会いたいのか)」はゴシック体]
「会いたくないわよ。あんな奴」
滝のようなシャワーで、クサクサした気持ちを全部流してやりたくなった。サマンサに言われたことが癪に障って仕方がない。自分が人権が好きで生きているだけの存在に思えて衝動的にタイルを叩いた。今の自分は嫌いだった。これははっきりしている。いつか自分を好きになりたかった。でも、サマンサの笑い声が聞こえる。今をなんとかしなければならない。デニスは写真の父の顔を思い浮かべて、拳《こぶし》に力を入れた。
「会って死ぬほど恨みを言ってやるわ」
デニスは明日が大切な日であることを確信した。
その夜の夢は、また守護霊の夢が侵食してきた。
「雷神様、どうぞこの罪深き私を討ち滅ぼしてくださいませ」
見目麗《みめうるわ》しいチルーが焦燥感を漂わせ、膝をついてデニスを見つめた。すがりつくような視線を避けて、空を見上げると雲の流れが極端に早い。時間の流れが地表とはまるで異なっている。
「あなたロザリオを持っているわね。キリシタンは禁止されているんじゃないの」
「はい。ですが、お役人様はいい顔をしないだけで、見逃してくれました。ベッテルハイム先生の下で聖書を覚え、チルーは救われた思いが致しました」
デニスは今日こそ、チルーの本来の姿を理解したいと考えていた。
チルーは真嘉比で商売を営む夫と二人で暮らしていた。身なりは士族ほどではないが、さっぱりと小奇麗で通気のよい絣《かすり》を着ていた。チルーは那覇でも評判の器量よしで夫と仲睦まじく生活していたそうだ。それがペリーのサスクェハナ号来航とともに、何かがおかしくなってきたらしい。彼女はペリー側の中国語通訳のウイリアム博士と親しくなった。彼から貰《もら》ったビスケットを家にもち帰ったとき、ちょっとした騒動が起こった。
「おまえは人の妻の身でありながら、どうして異国人の男と親しくなるのだ」
夫はチルーをひどく咎《とが》め、暴力でその鬱憤《うつぷん》を晴らした。しかしチルーは外国文化と触れられる魅力に抗しがたく、密《ひそ》かにペリー側の人間たちと交流を持った。ベッテルハイムはこれを察し、チルーをいつも同席させるように取り計らった。
それを知らない夫ではなかった。ある日、夫は振り上げた手の下ろし所を失い、その憤りを抱えたまま床に臥《ふ》した。
「あなた、早く良くなってくださいませ」
図らずもチルーは昔のように夫につきっきりになり、看病に日をとられていった。しかし夫が回復する様子はまるでない。
「ベッテルハイム先生に診てもらいましょう。先生ならきっと治せるはずです」
しかし夫はこれを頑《かたく》なに拒んだ。そしていつしか、惟悴《しようすい》した夫の精神が鈍い刃となってチルーを襲うようになった。
「お前は美しく若い。私がこんなざまだから、どこかで男と逢《あ》っているのだろう」
「そんなことはありません。私はもうペリー提督たちと会うことはやめました」
「今日もでかけるようだな。どうして上等な簪《かんざし》を挿すのだ」
毎日がこんな調子だった。チルーは疲れていた。真嘉比の野でこうやって膝《ひざ》をついてぼんやりしていることが唯一の息抜きになっていた。
デニスはここまで話を聞いて、チルーの代わりに怒っていた。
「なんか、超サイテーな男じゃん。捨てればいいのよ」
「雷神様そうもいきません……」
那覇の港でドーンとサスクェハナ号が祝砲を鳴らしているのが聞こえてきた。
「ああ。ペリー提督が首里城に入城するのだわ。行ってみたい」
「これは本当に夢なの?」
また大砲が鳴る。雲がぐるぐる群れをなして泳いでいる。
「私も雷神様のようなお力があれば、自由になれたのですが……」
最後の一発は飛び抜けて大きな音だった。それで完全に目が覚めた。デニスは目覚まし時計が鳴る瞬間に体を撥《は》ね上げていた。シーツに染みた汗がおかしい。電気をつけてみるとレントゲン写真のように汗が骨格だけを写していた。
「どうして? あたしが消えていくってこと?」
翌朝、金武《きん》の街で一際高いビルの屋上に昇ったデニスは、胸騒ぎを覚えていた。ビルは工事中だから人気はない。隣にいるカートが双眼鏡を渡そうとする。それを拒んで、一三〇〇メートル先のビーチテラスを指した。キャンプ・コートニーの一部が返還されて、そのリゾート性に目をつけて開発した風光|明媚《めいび》なビーチテラスである。
「赤いスーツのブルネットの女がいるわ。彼女がディスクを持っているんでしょ」
「そうです。コニー・マクダネル。米軍の機密を盗んだ産業スパイです」
「シャネルのスーツなんか着ちゃって。高級クラブのホステスみたい」
デニスがFALを組み立てていく。カートは一発の銃弾を渡した。
「銃声で警戒されてしまいますから、予備はありません」
No problem
マガジンに一発装填すると、床に伏せた。風が強くて方向が安定しない。少し不安だが、距離は関係なかった。
「本当にスコープなしでいいんですか」
「見なさいよ。正面に太陽があるでしょう。モロに相手の目に反射するわよ」
カートはスコープをつけさせたがったが、デニスは断った。
「下に車を停めておきます。薬莢《やつきよう》も残さないでください」
「大丈夫だって。これでも高校生なのよ。逮捕されたくないわ」
狙撃の後すぐに車を出せるようにカートは車で待機することになっている。連絡用の無線機を残して屋上はデニスだけになった。雲が地面まで降りてきそうな大気のうねりだった。デニスはビーチに接近する不気味な車を発見した。
「やだ。あの車、サマンサのものじゃない」
ポルシェ911にルイ・ヴィトンの模様を塗装した車が土煙をあげている。あまりの奇怪さに通りの車はつぎつぎと道を譲っていく。サマンサはどこでも飛ばしてくる。車も飛ばしてくる。
『カート、弾をもう一発もってきて。あいつに思い知らせてやんなきゃ』
それにしても産業スパイと変態博士の組み合わせとは一体どういうことだろう。
土煙の中からサマンサが現れた。コニーがスーツの襟を揃えて息を飲んだ。
「ナ、ナース」
サマンサは看護婦の恰好《かつこう》である。いろんな姿を見慣れたせいか、普通の恰好に見える。しかしナースキャップをつけているとはいえ、襟つきストライプの看護学生のワンピースは、なかなかロリータで可愛らしい。
「どうも。先日は楽しかったわ。Ms.マクダネル」
サマンサのナースキャップがちょっと変だ。よく見ると透かしで赤十字ならぬクロスボーンのマークが入っている。それに合わせて黒の眼帯を着けていた。
「Dr.オルレンショー。こちらは編集長のワイリーです」
「編集長がきたってことは、表紙の件が通ったってことね。あたしいろいろもってきたのよ。メイド服でしょー。迷彩服でしょー。婦人警官でしょー。スチュワーデスでしょー」
「こ、これが、アメリカの頭脳か……」
ワイリーの血圧は下がる一方である。コニーに小突かれて咳払いした。
「あの。博士の研究をですね。本誌で協力させていただきたいと思いまして、こちらが調べてきたレキオスの資料を検証していただけませんでしょうか。なにしろうちは素人で」
「Mr.ワイリー顔色がよくありませんわ。さっそく血圧を計ってみましょう」
脇に挟んでいた血圧計を開く。一見まともだが、サマンサはワイリーの首にカフを巻きつけ猛烈な勢いでポンプを押した。ワイリーが弾みでのけぞる。
「博士。やめなさい。条件を却下しますよ!」
「あらつまんない。やーね。アメリカ人って冗談が通じないんだから。くすくす」
サマンサの冗談はどこの国の人間にも通用しない。
「博士。撮影に入りますから準備してください。サトウ、お願いね」
シャッター音が鳴るとサマンサは女優のようにカメラ目線でポーズをつけてくる。これが実に素人離れした演技力だ。
「ほーら、ほーら。フィルムが足りなくなるわよ。くすくす」
『デニス、連中は何をしている』
「あー。変態の世界に振り回されているわ」
ちょっとからかうつもりでFALをサマンサの頭に向けた。
「バーン」
デニスの声と同時にサマンサが腰を落とした。偶然かともう一度照準を合わせる。しかしまた、するりと躱《かわ》された。サマンサは絶妙なタイミングでライフルの延長線上を避けてくる。これがセヂの力である。
──バレてるのかしら?
こちらのテラスでインタヴューを、と誘われたサマンサは、またありもしないラヴジュースを要求してコニーの神経を逆撫《さかな》でした。前と同じ手なのに迫力で翻弄されてしまっている。
「私たちも今度レキオスを特集することになりましたの。それで調べているうちに、不可解なことに到達いたしまして。ぜひ、博士のご意見をお聞かせ願いたいのです」
「アメクのペンタグラムのこと? あれは魔法陣よ」
サマンサはコーンに入ったアイスクリームをエッチな舌使いで下から掬《すく》い上げるように舐《な》めている。男どもが目を丸くしているのを見て、コニーの神経が苛立《いらだ》ってきた。
「私たちは魔術のことは素人です。なぜペンタグラムを描くのかもわかりません」
「あれは召還の魔術よ。一辺が一マイルあるでしょう。大きな力を呼ぶことができるわ」
「たとえば?」
「たとえばレキオスとかよ。何をするつもりか知らないけど、あのペンタグラムが場に歪《ゆが》みを生じさせているのは確かよ。いいえ。歪みと考えるのは三次元の論理だから。正確には力をまとめているのよ」
ワイリーがコニーに目配せする。
「私たちはペンタグラムの次の段階と思われるディスクを入手いたしました」
「例のディスクね。さっそく見せて貰《もら》いましょうか」
リア・サイトの穴だけでFALライフルが一直線に目標と繋《つな》がった。デニスはトリガーが引かれる感覚に意識を委《ゆだ》ねた。赤いスーツの女がバッグから何かを取り出そうとしている。チャンスは一回だ。
「カモン、カモン、カモン……」
コニーの手がディスクを取り出し、サマンサに渡そうとする。その動作がゆっくりと見える。時間が断片で切り取られたように映る。背後で飛んでいる白鷺の滑空まで止まって見えた。ワンカットずつ刻んで、絶好のショットを探した。サマンサが掴《つか》もうとした瞬間だ。ディスクが平面を見せた。FALライフルが針の穴よりも小さな一点を睨んだ。デニスの指は力むことなくトリガーを引いていた。
「きゃっ」
ものすごい衝撃でコニーの手が弾かれた。すぐにワイリーが立ち上がり周囲を見渡す。それから少し遅れて渇いた銃声が響いてきた。
「スナイパーがいるわ」
サマンサをテーブルの下に押し込む。手を撃たれたと思い、右手をよく見る。無事だった。ディスクは砂浜の上で木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に砕けていた。
「どこから撃ったんだ」
「あそこからでしょ」
サマンサが遠くの工事中のビルを指した。ビーチを飾るリュウキュウマツの間に挟まるように、ビルの影が見える。
「そんな。不可能よ」
風に梢《こずえ》が揺らめくとビルが揺れた。
七・六二ミリ弾は、見えない空間のレールの上を走った。手応《てごた》えは撃つ瞬間にあった。ただ銃弾はそれを確認したにすぎない。ギターケースにFALを押し込むと薬莢を拾った。飛び下りるくらいの速さで階段を降りると車のドアが開いていた。乗り込むと同時に、車は金武の街から離れていた。まだデニスは息をつけないでいる。
「現場に入れた者から確認がとれました。ディスクは完全に破壊されたそうです」
「だから言ったでしょ。成功だって」
「さすが魔弾の射手です。よかった。よかった。よかった」
アクセルの高鳴りとは裏腹にカートはだんだん息を落としていく。
「これであたしの仕事は終わったわ。キャラダイン中佐によろしく言っといて」
もし失敗していたら、たぶんカートは殺されていただろう。たまたま今までミスがなかっただけで、いつかミスをすることがあるかもしれない。そのとき今までの功労を鑑《かんが》みるようなキャラダインではない。カートは知っている。クリス整備士はキャラダインに殺されたのだということを。
そういえば墜落したラプター5号機はどうなったのだろう。墜落させるくらいなら、わざわざ複雑なプログラム変更なんてしなくてもよかったではないか。あの完璧《かんぺき》主義者のクリスの目を盗んでエイダをいじることは、カートでも苦労したほどだ。キャラダインは一体ラプターをどうしたかったのだろう。わからないことが多すぎる。カートは息をついていいのか、迷っていた。
「どうしたの、カート。顔色が悪いわよ」
沖縄自動車道に入ったとたん、二人は同時にほっと息をついた。景色が濁流に飲まれたような勢いで後方に流れていく。景色は一本の緑のベルトだった。翼がついていたら、充分な離陸速度に達しているだろう。目を瞑《つむ》ると、デニスの意識は空に舞い上がっていた。
「アメリカに行くわよ」
ナースキャップを付け直して、サマンサが何か変だと思考を始めていた。天才が物事を考え始めるとユタと同じ程度の直感力を表す。コニーとワイリーの動きを見る。不意に狙撃されたばかりの人間がこんなに的確な行動をするものだろうか。サマンサは狙撃された瞬間、ワイリーがジャケットの左胸にさっと手を入れてためらった動きを見逃さなかった。
「ちょっと前にもこんなことがあったわね。たしかブライアンがディスクを見てほしいと言って結局……。はーん」
「博士、お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫。ところであのディスクはどこで手に入れたの?」
砂を払ってテーブルにつくと、コニーとワイリーが固まっていた。弱気を見せるとサマンサはどんどん付けこんでくる。
「アメリカ空軍のブライアン・ヤマグチ少尉のディスクだったんでしょう。それを記者のマクダネルさんがご趣味のエロエロディスクとすり替えた。あたしに見せたい重要なディスクなんてふたつもないもの」
「何のお話ですか。いやですわ博士」
サマンサがニヤリと笑った。
「あなたたち本当にナショナルジオグラフィック誌の記者?」
取り乱しているところを見せまいと紅茶を啜《すす》っていたワイリーが噴きだす。割って入ったのはカメラマンの佐藤だった。
「すみません博士。これには事情がありまして」
「わかっているわよ。あなたたちナショナルジオグラフィックを辞めて『TIME』に移籍しようとしているんでしょう。道理で危ない橋を渡るはずだわ」
「そーなんですよー。いやだわー博士ったらお人が悪いんですからー。お見通しだったんですねー。ね。ワイリー」
「そ。そうなんです。さすが天下のオルレンショー博士です。いやー参ったなー」
サマンサがしてやったりと笑う。
「あそこの編集長は私の父なのよ。三人同時にヘッドハンティングの話なんてないわ」
ふたりが椅子からずり落ちた。
「わかってるわ。だからニューヨーク・タイムズに行くんでしょう」
「はあ……」
「じゃあ、ワシントン・ポストのマクダネルさん、明日の一面広告は私のワレメにしてくださいね」
コニーの肩は怒りに震えていた。
「苛々しないの、見習いのマクダネルさん。くすくす」
「こんちきしょーっ。ぶっ殺してやるっ」
バッグを開けようとしたコニーの手をサマンサが封じた。
「CZポケットオートかベレッタが入っているんでしょ。すぐに手の内をみせるのは感心しないわ。もっと余裕をもたなきゃスパイはやっていけないわよ。くすくす」
「負けました。降参です、博士」
「あら。もう? もうちょっと粘るかと思ったのに」
ここまでイジメられて粘る奴もいないだろう。ワイリーが溜《た》め息混じりにコニーの肩を叩《たた》く。
「イリマツダとフェルミの仇《かたき》を討つんだろう、コニー」
それを聞いたサマンサの顔色が変わった。
「フェルミも仲間だったの。道理で行動が変だと思った。てことはフェルミは殺されたのね。あんたたち馬鹿じゃないの。相手を誰だと思ってるのよ。かつて中世ヨーロッパを震え上がらせた秘密結社GAOTUなのよ」
ワイリーと佐藤はこの言葉でサマンサがボスに相応《ふさわ》しいと観念した。
「だから博士の頭脳が必要だったんです」
「忠告しておくわ。GAOTUとは闘わないことね。フェルミほど頭のいい男でも太刀打ちできなかったのよ。あなたたちじゃ無理に決まっているでしょ」
「やだー。オルレンショー博士って怖がりなんだー」
サマンサが凄《すさ》まじい形相でコニーを睨《にら》んだ。変態と呼ばれることはなんとも思わない。変態は文化の枠から外れているだけで、別の文化では正常だったりする。要するに変態は相対的なものにすぎない。しかし、恐怖は単純な感情で動物的なものである。これを突かれると彼女は怒る。コニーはこの瞬間を見逃さなかった。
「人類学者ってもっと勇気のある人かと思ってましたわ。博士って意外と胆《きも》が小さいんですわね。あたしたちはこういうの慣れているから、全然怖くないのに。おほほほほ」
「なんですって?」
「学者は机にかじりついてお勉強しているのが一番ですわ。世間の泳ぎ方は私たちの方が心得ております。ドグマは教室でなさってくださいな」
黙っているサマンサにコニーのミサイルが飛ぶ。
「案外フェルミに負けるのを恐れていたんじゃないのかしら。彼言ってましたよ。『サマンサは俺よりIQが低いんだ』って。そりゃあ悲しいですわね。頭脳以外は全部壊れている博士ですから。おーほっほっほ」
サマンサは興奮しているが、けっして逆上することはない。
「あなたとはケリをつけなければいけないようね。Ms.マクダネル」
サマンサが眼帯を捨てる。一陣の風が吹いてきた。
「望むところよ。Dr.オルレンショー」
コニーがヘアピンを抜いて自慢のブルネットの髪を靡《なび》かせた。
「どうやって勝負する? あたし泥レスも髪切りデスマッチも得意よ。くすくす」
「誰がそんなモンするかーっ」
「じゃあ先に、負けた方がどうするのか決めましょう。くすくす」
「いいわ。負けた方が勝った方の部下になる」
「いいえ、奴隷になるのよ。奴隷のろみひーの世話をする奴隷がほしかったところなの」
どこまでも一方的な女である。コニーはこの条件を飲んだ。もちろん負けるつもりはない。今日は切り札を用意してあるのだ。
「あたしたちはこれで決着をつけるのが一番だと思うわ」
バッとコニーがシャネルのスーツを脱ぎ捨てた。白く透けた肌はサマンサよりもきめが細かい。そして肌と対比をなすように黒のブラジャーのラインが走る。よせてあげるインチキブラではない。すべてがコニーの体にあわせたオートクチュールだ。圧倒的なレース模様とエレガントなカットは、そう。
「ラペルラよ」
しかも最新のハイグレードモデルときた。サマンサがかつて女医のコスプレで見せた下着よりもワンランク上の最強勝負下着だ。女は下着で勝負するとき恍惚《こうこつ》の表情をみせる。
しかしサマンサは全然動じていない。
「ふ。まだ甘いわね」
次はサマンサが看護学生服のワンピースのボタンを外した。余裕たっぷりに太陽に向けてワンピースを投げる。白日の下に晒《さら》されたサマンサの下着は、なんと亀甲縛りの縄だった。それを見た全員の顔が「・」になる。
サマンサがニヤリと笑った。
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Lequios
「あの。ヨゼフ神父ですか。ええ。オルレンショー博士から紹介されて一度手紙を書いた者です。お忙しいところを突然すみません」
宜野湾市のカトリック教会にやってきたのはヤマグチ少尉だ。彼もまた謎に振り回されて助けを必要としている羊だった。
「あ。奥様でいらっしゃいますか。こんにちは、ブライアンです。え? カトリックの神父に妻が? え? ええっ?」
サマンサで異端慣れしているはずなのに、いちいち驚いてしまう。ここはあらゆる矛盾が共存する東アジアの南端だ。沖縄は心に包帯を巻いた人々の楽園だ。シスターが妊娠していても笑って許すくらいの度量が必要である。
「処女懐胎に成功したメアリー・マグダラですわ。これから聖人になりますの」
相変わらずとろーんとした瞳《ひとみ》でしゃべる。聖人になるためには、数多くの証拠が必要なのをこの女は知っているのだろうか。
「シスターは正気ですか。こんなことしていたら追放されてしまう。あ。もう追放されてるか。だったらなんで教会にいるんですっ!」
「追放されても信仰をやめたわけではありません。私はイエス様と契約したのであって、法王庁のヒヒジジイたちに認められるためにシスターをやっているわけではありません」
心構えはなかなか立派である。これで妊娠していなければもっと立派である。ヨゼフ神父が説明した。
「彼女は間違いなく聖人ですよ。世間は私がかかわったと陰口を叩《たた》きますが、そんなことはありません。私はシスティーナ礼拝堂で彼女を見たとき、これは、と思いました。聖者認定システムの好奇な眼差しで彼女が調べられてもけっして幸福ではないのです。死んだ後までいたずらに死体を扱われるなんて可哀そうだ。聖人は認定を受けなくても聖人なんです。その答えは司祭たちではなく、常に主《しゆ》が知っておられる」
「産ませるんですか。やっぱり」
半ば呆《あき》れながら、ヤマグチはシスターの膨らんだ腹を見た。
「このような奇跡の例は、すべてが闇に葬られてしまうのです。幸い私は追放された身です。私の子として育てます」
「本当なんですか。本当に処女懐胎したんですか」
神父は悪戯《いたずら》っぽくウインクした。
「私は二十一世紀のマルト・ロバンになりますわーっ」
二十世紀最大の聖人マルト・ロバンが彼女の目標だ。マルトは巧みな話術と勘のよさで常に世間と教会からの挑発を避けてきた、すご腕の女である。たとえばマルトが病に臥《ふ》したとき、それが明らかに聖人が示す典型的な症状であったのに、教会は彼女を聖地ルルドに巡礼させようとした。難病を治すという奇跡の水を浴びれば、マルトの病は治癒してしまう。もし治らなければルルドを冒涜《ぼうとく》したことになる。マルトはこれが罠《わな》だとすぐに気がついた。そこで病を抱えている信者にルルド巡礼の資格を譲り、ピンチを避けた。シスターの博愛精神を示すと同時に、聖人の階段をまた昇ったのである。このように、マルトは非常に頭のよい女だった。それだけでも立派な才能だが、五十年間をベッドの上で寝たきりで過ごし、聖体パンだけを食し、見事にイエスを降臨させた聖人伝に残る女でもある。
「シスターは奇跡を起こせるんですか?」
もちろん、と頷《うなず》いた。彼女が言うには最近ファティマの降臨のように聖母マリアが彼女の前に現れたという。そしていくつかの預言をされたそうだ。
「どんな預言を授かったのですか」
「そうですわね。まず中古車は宜野湾市の『|CIM《シム》』が安くてサービスがよいとか、スーパー『3A』のバーゲンは毎月一日と十五日とか……」
「もういいです。僕が馬鹿でした」
「糸満《いとまん》のマンガ喫茶『ちはる』はカレーが美味《おい》しいとか……」
「もういいですってば」
「その様子じゃ信じていませんわね」
シスターは今にも泣きだしそうだ。
ついつい異端のペースに引きずられるヤマグチだが、彼はこんな話をしにきたわけではない。
「ところで神父様、今日は折り入ってお話があります。ある大規模な宗教組織がオキナワに入ってきているのを御存知ですか?」
ヨゼフ神父は口|髭《ひげ》をいじりながら聖体のパンを一口食べた。
「アメクにペンタグラムを描いた連中だろう。まさに魔術だ。もうすぐ大変なことが起こるだろう」
「告白いたします。あのペンタグラムを描いたのは私です。何も知らなかったとはいえ、やったことの重大さを後悔しています」
「懺悔《ざんげ》しにきたのかね」
「それもあります。実はオキナワに入ってきた組織というのがGAOTUなのです」
ヨゼフ神父は大して驚いた様子を見せない。こういう大胆不敵なことをする組織は世界中を探してもそこくらいだろうと予想はしていたらしい。
「大文字で神の名が入らず定冠詞の〔The〕がつかないGAOTUのことかな?」
「はいそうです。TGAOTUならこんなことはしません。そもそもTGAOTUは神父様の世界のことではないですか」
神父は太鼓腹を揺らして腹式呼吸の大きな笑い声をあげた。
「君はよく教会に通っていたとみえる。というよりキリスト教史が好きなのかな」
「なんですの。そのGAOTUって。初めて聞きましたわ」
「キリスト教ではないということだよ。シスター」
「まあ。だったら天国に行けませんわね」
「そういう問題でもない気がするんですけど」
「大切な問題ですわ」
「GAOTUは百年以上も前の論争だと思っていましたが、また復活したようです」
「彼らが現れたということは、世界規模で同じことが起こるということだ」
「ええ。とても太刀打ちできる相手ではありません」
「おいおい。君はその組織の人間なんだろう」
「違いますよ。偶然に巻き込まれただけです。私はクリスチャンですから」
「まあ。では天国へ行けますわね」
「シスターと同じ天国は嫌だな」
「当たり前ですわ。私は聖人ですもの。ステージが違いますわ」
ヤマグチはこんな女をどこかで見たことがあるような気がする。このオートマティックな勝手さといい、人の話を聞かない耳なしぶりといい、無邪気な残酷さといい、もうひとりの異端を想起せざるをえない。果たしてどちらがより異端なのだろう。
「ところで神父様。GAOTUって何かの略称なのでしょう?」
神父は甘い眼差しでシスターを見つめる。やっぱりデキているのかもしれない。
「これは通常三点符を用いて表されるのだよ。『G∴A∴O∴T∴U∴』頭文字の後に三点符をつけるのは、神聖な言葉を乱用されるのを避けるためだ」
ヨゼフ神父は黒板にこう書いてみせた。
Grand Architect of the Universe
ヤマグチが読み上げていたが、最後まで言い切るのをためらった。
「まあ。宇宙の偉大なる建築師ですわね」
「十九世紀のフランスの亡霊が蘇ったのだ」
ヨゼフ神父は溜め息をついた。
「彼らの目的は歴史を通じてもただひとつだ。もちろん実現できたことはない。そうか。わかったぞ。だから復活させるつもりなのだ」
「復活って何をです。レキオスのことですか。それならやっといろいろわかってきたんです。神父様のお友達のオルレンショー博士がほぼ核心に迫っているはずです」
神父は露骨に嫌な顔をした。
「博士とは友達でも何でもない。ただ、ものすごく頭がきれる女性だから、思考をまとめるのに便利なだけだ」
「博士もそうおっしゃってましたよ」
「やめてくれ気持ちが悪い。人間ああなったらおしまいだ」
「そうですわ。あの女は異端者ですわ。すぐに火|炙《あぶ》りにしなければなりません」
ヤマグチは呆れた眼差しでシスターの腹を見たが、彼女はVサインを返してきた。
「博士はレキオスを学問にとりこもうとしています」
「しかし危険すぎる。あのペンタグラムを壊さなければならない」
「もう次の段階に入ろうとしているんです。神父様教えてください。どうしてGAOTUは首里城を破壊しようとするのですか」
ヨゼフ神父はひとつの仮説を唱えた。
「あの城は神殿だ。破壊することで保たれている均衡を崩すつもりだろう。これとペンタグラムが連動すると、にわかに信じられないことが起こる。たぶん、何かが起こってもほとんどの人が知覚できないはずだ」
「どうなるんですか」
「奴らに都合のいいパラドックスを引き起こすのだよ」
シスターが空を指していた。
「ちょっと見てください。雲が渦を巻いていますわ」
空を見ると雲がぐるぐる回游魚《かいゆうぎよ》のように群れている。これから最も暑い地区にスコールの弾を浴びせるのだ。
島が太陽に近づく八月は、冷却剤のスコールが予告なく撒《ま》かれる季節だ。アスファルトの熱が水蒸気をあげて漂う。デニスと理恵は古島団地の中でスコールの音を聞いていた。
「デニス、アメリカに行くんだって?」
「そうなのよ。ちょっと気分転換にね」
「あんなに迷っていたのに、どうして?」
デニスはただ笑っただけだった。狙撃の後のことはカートが上手《うま》く処理してくれたみたいだ。キャラダイン中佐から航空券が届いた。メッセージは何もない。デニスは彼が満足していることを知った。チケットはファーストクラスのものだが、VIPハンドルにグレードアップされていたからだ。これはただのファーストクラスの客ではないという証明書みたいなものだ。王侯貴族なみの乗客はこのVIPハンドルで乗る。
「ね。聞いた? 広美が予備校の模試で全国一位になったんだって。あの広美がよ」
「あー。そうね。ろ、いや広美なら楽勝なんじゃない」
一瞬ろみひーと言おうとして、焦ってしまった。広美も大した女だったが、ろみひーのインパクトで吹っ飛んだ気がする。広美とろみひーを繋《つな》ぐものはもう、何もない。
「でね。スキンヘッドに鋼鉄のギプスをはめているんだって。しかも頭にアンテナをつけてるようなの。真由美が言ってた」
もう何がなんだかわけがわからなくなってきたデニスだ。
「あ、ほら、広美は新しいもの好きだったじゃない。きっと流行になるのよ。……あと三百年くらい経つと。ねえ理恵、あんた広美のどこが好きだった?」
理恵は目を瞑《つむ》ったまましばらく唸《うな》っていた。デニスはサマンサの言葉を思い出した。人には役目がある。それを自覚するのとしないのとでは人生が雲泥の差だと頭に響く。広美はろみひーになり、デニスはアメリカへ行く。その歯車を回したのはデニスの意志だ。回りだした運命の輪は、以前はけっして動くことのないものと諦めていたものだ。
「うわっ、スーツケース二つも持って行くの? 荷物が多いと疲れるよ」
「そっかな。ちょっと座って押してくれない?」
デニスは三つ目のスーツケースを出そうとしていた。中身はシャンプーや缶詰、お気に入りのCDが山ほど、それに漫画まで入っている。このまま引っ越しだってできる。初めての海外旅行は難民気分だ。
「お母さんの家に行くんだから、必要なものは向こうにあるよ」
デニスは面倒臭そうに頭をかく。
「あー。NO、アトランタへは行かない」
「何しに行くのよ」
「Well, 化粧品を買いに行くわ。ファンデーションとかこっちにはないし。ベースの中で売ってるのはダサイし」
理恵が不思議そうな顔をしている。しかし彼女はこれ以上聞くことはしなかった。こんなとき、彼女はやはりアメリカ人だと思う。以前はこれを秘密主義だと詰《なじ》ったら、プライバシーの侵害だと言い返されたことがある。
突然バタンとドアが開いて女がものすごい剣幕で入ってきた。
「小百合ネーネー、どうしたの?」
入ってきたのは小百合だった。傘もささずビショ濡《ぬ》れでやってきた。はあはあと肩で息をして、デニスを睨《にら》んでくる。
What's happened?
小百合はまだ息を整えられない。彼女はエレベーターを待つ時間すら惜しくて、階段を駆け昇ってきたのだ。汗が雨すら流し落としているみたいだ。デニスが水を渡すと、それを一気に飲み干した。
「どうして、どうして、デニスなの」
「なにが?」
「なにがじゃないわよ。なんでデニスが聞得大君《きこえおおぎみ》なのよ」
小百合はセーファ御嶽《うたき》のノロを世襲して以来、朝夕と御嶽に通い、その使命をこなしていた。若いからと言われるのが癪《しやく》で、誰からも文句を言わせない拝みを行っていた。そんなある日のことだ。御嶽に便所サンダルと花柄のフレームのサングラスをした奇怪な老婆が拝みにきていた。ユタにしては常識外れだと彼女の拝みを眺めていると、タロット・カードを刻むではないか。連れの客は花魁《おいらん》の扮装をした金髪の女だった。恰好《かつこう》に似つかわしくなく一心不乱にメモをとっていた。聖地に相応《ふさわ》しくないと判断した小百合は、帰るように言った。すると花魁の女は、くすくす笑うではないか。ユタは小百合を見るとこう言った。
「どうして聞得大君でもないあんたが、ノロになったんだい?」
セーファ御嶽はその場所柄、たくさんのユタが拝みにくる。彼女らがきちんと拝めるように聖地を整えておくのも小百合の仕事だ。一般にノロの方がユタよりも上位の巫女《みこ》として解釈される。しかし能力は同質のものだ。ユタは世襲せずに才能によって成巫《せいふ》するから、自分の能力に迷いがない。しかし世襲制のノロの場合、これが難しい。共同体がいくら承認しても能力が伴わないため、不安定な心理に陥っているノロは珍しくない。
ユタはすぐに小百合のセヂを見抜いた。ただ世襲しただけで尊敬してくれるほど、ユタは甘くない。キンマモン大神を降ろせるだけの素養を持っているのがセーファ御嶽のノロである。それができないなら、沖縄本島最大の聖地セーファ御嶽は治められない。ユタはこうも言った。
「聞得大君ならもう降りてきているよ。どうしてあんたがノロの装束を着ているんだい。ジーグルー(色黒)の娘が本当の聞得大君なのに」
小百合は言い返せなかった。何かがおかしいとはうすうす勘づいてはいた。小百合にまったくサーダカー(霊力の高い)生まれのセヂがないわけではない。神と交信しようと思えば、不自由なく会話することができる。しかし何かが違うのだ。拝みのときに聞こえてくる神の声は、自分と直接交信しているわけではなさそうに思える。まるで電話を盗聴しているようで、彼女は蚊帳《かや》の外にいる気分なのだ。それでは神は一体誰と交信しているのだろう。そんな疑念が小百合の心に擡《もた》げていたときのことだった。
「どうして。どうしてデニスなの!」
髪を振り乱すと水滴が飛んだ。口紅の下からより赤い小百合の唇が浮かんでいた。証拠はあがっている。すぐに前任のノロである祖母を詰問した。長子は初め言葉を濁していたが、小百合の剣幕に押されてついにデニスが聞得大君であることを認めた。小百合はこのとき初めて聞かなければよかったと後悔した。
「あー。小百合ネーネーが何いってんのかあたしにはわからないわ」
「はぐらかさないで。デニスは知っているんでしょう。オモロが聞こえているはずよ」
デニスは小百合の情熱に圧倒されるばかりだ。しかしデニスは聞得大君が自分であることに戸惑っている。資格を譲れるのなら、喜んで譲りたいのだ。
「デニス、聞得大君のオモロを聞いたわね。あたしのオモロだったのよ。あたしが聞くはずだったのよ。あんたみたいな中途半端な人間に聞けて、なんであたしが聞けないのよ」
デニスは爪先のペディキュアを眺めていた。偶然にも理恵とお揃いの水色だった。これが可笑《おか》しくて仕方がない。小百合も一緒に笑ってくれないかとぼんやりとした期待が生じる。
「あなたとケリをつけるわよ。どっちが聞得大君かはっきりさせましょう。明日セーファ御嶽にきなさい。三庫理で拝んで、どっちが相応しいか神様に決めてもらいましょう」
「いやよ。なんであたしがそんなことするのよ」
なぜデニスが聞得大君なのだと小百合の血管はぶち切れそうだった。なんの覚悟もなく、なんの承認もなく、なんの訓練もなく、聖地がデニスの懐に転がりこんでくるなんて、考えただけでも腹がたつ。
「私は負けない。セヂはきっと私に流れてくれる。あなたはアメリカ人だもの。いずれアメリカに行くあなたがセーファ御嶽のノロに相応しいとは誰も思わないわ」
「なんでアメリカに住むって勝手に決めるのよ。小百合ネーネーでも許さないわよ」
「だってあなたどう見ても、沖縄人じゃないでしょう。仲間のたくさんいるアメリカに行くのが筋よ。セーファ御嶽なんか興味ないんでしょう」
「もちろんよ。ノロにならなければ沖縄に住めないなんてナンセンスだわ」
「じゃあ御嶽で言えるわね。『聞得大君の資格を放棄します』って」
「もちろん。だけど命令される筋合いじゃないわ。ひとりで勝手に拝んでてよ」
「それができないから、はっきりさせたいのよ。このままだとあたしは、ずっと自信のもてないままよ。他人と交信している神様の声を聞くなんて屈辱的なんだから」
「あたし全然聞いてないわよ」
おずおずと声を出してきたのは守護霊だ。
(あの。私が代表して交信していたのだ。好意を無下にしてはいけないと思って……)[#「(あの。私が代表して交信していたのだ。好意を無下にしてはいけないと思って……)」はゴシック体]
「勝手なことすんな、このバカ守護霊。まさかOKしたわけじゃないでしょうね?」
チルーは「した」と言った。デニスは頭を抱える。言い訳するようにチルーがあたふたと説明するが、デニスはまったく聞いていなかった。デニスにはセヂがある。聞得大君はデニスの返事を待っていた。
(断るなら断るではっきりさせないと、バチが当たるぞ)[#「(断るなら断るではっきりさせないと、バチが当たるぞ)」はゴシック体]
「人の人生にとやかく口出しすんな。成仏するならするではっきりさせるのはあんたの方でしょ。Get out of my life」
「ほーら、やっぱりアメリカ人じゃない。興奮すると英語が出るでしょう。まさか英語で拝むってんじゃないでしょうね」
小百合はやっと笑えるようになっていた。
I had it
ガタンとスーツケースを蹴飛《けと》ばす。デニスは唇を噛《か》んだ。血が出る寸前まで噛んでいることに気がついていない。ギロリと大きな瞳《ひとみ》で小百合を刺した。小百合もその眼差しをはじき返す迫力を漲《みなぎ》らせている。理恵はデニスの顔が変わったことに息を飲んだ。
「やってやろうじゃないの。ノロとしてプライドがあるなら奪ってちょうだいよ」
「あたりまえよ。今さらノロではありませんなんて恥ずかしいことできるわけないでしょう。みんなの前で誓願したのよ。人生をこれに捧げたのよ」
「セーファ御嶽の三庫理だったわね。明日の二時には行くわ」
「聞いたわよデニス。逃げたら軽蔑するわよ」
小百合は勝利を確信した表情に変わっていた。
[#ここから1字下げ]
|対面山上的姑娘※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]《トイミエンシアンシアンデイクウニヤンニ》
為誰放着郡羊《ウエイシエイフアンヂヨチユインヤン》
|涙水湿透了※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]的衣裳※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]《レイシユイシトウリヤオニデイイシアンニ》
為什麼這様悲傷悲傷《ウエイシエンマチオヤンペイシアンペイシアン》
山の娘さん
誰のために羊を追う
なみだは袖を濡らし
なにがそんなに悲しいの
[#ここで字下げ終わり]
傘の中が濁った音で溢《あふ》れていた。久しぶりに吸った外の空気は、亜熱帯の蒸し暑さを微《かす》かに残した酸味が漂う。雨が落ちるとすぐ、アスファルトは水蒸気の煙をあげた。それからだんだん冷えて、濁流となって流れる雨水の河になった。そこにピシャンとサンダルを落とした筋ばった足があった。わざわざ踝《くるぶし》まで浸かるように深みを探して歩き、ときおり立ち止まる。雨に混じって落ちてきた粒は傘の中からだった。口をついて出てくるのは、幼い頃に唄った歌ばかりだ。覚えているはずもないと思っていたのに、次から次へと口をついて出てくる。自分の言葉なのに歌詞を聞いて改めて意味が入ってくる状態だ。しかしなぜか嬉《うれ》しくなる。メロディに隠された思い出の匂いが蘇《よみがえ》った。
「李。張。どうしているんだい……」
トロピカルな花をあしらった女物の傘の中に劉がいた。彼女はまだ沖縄に潜伏している。ガオトゥを脱走してから、毎日宿を転々と替えていたが、こうやってまじまじと外を眺めるのは久しぶりのことだ。雨なんて大嫌いなはずだった。しかし今は雨のバリアに守られているおかげで外を歩ける。かつて中国国家安全部の海外部門のトップにいた劉の姿はどこにもなかった。頬はやせこけ、目に精気が宿らない。気を張っていたかつての生活は老いを退けていた。劉を見たものは、誰でも壮年の女と思った。しかし今は実年齢と孤独に襲われて見るも無惨な風采だ。金はあるが米ドルは一言も彼女を慰めてくれなかった。劉はこのまま生きていても仕方がないと思っていた。かつての劉なら、名誉の死を選んだはずだ。しかし今は死ぬための気力すら残っていなかった。
劉は傘を畳んだ。天空から生暖かい銃弾が落ちてくる。すぐに全身がドラムになって断続的なリズムを打った。
「もう、なにもできないよ……」
頬を流れるものさえ根こそぎ落としていく強烈なスコールだった。大粒の雨が、ガラスを砕くように弾ける。コザの街の横文字の看板が見えない。どこか離島の集落にでも来ている気分だ。傘が破れるほどのスコールの中を歩く人などいるはずもない。
スコールは予告もなしに始まり、情緒の漂いもなく、突然終わる。まるで誰かが指揮をしているのかと思うほど、見事に止まる。空が反転したように、もう青空だ。劉はなぜか歩いてみたくなった。国家安全部のエージェントに見つかることも、ガオトゥのメンバーに発見されることも、どうでもよくなる澄み切った空だった。
ちょっと視線を下げると、さっきまで雨に隠れていたブーゲンビリアの沿道が音を立てるように広がっている。もう自分がどうなっているのかわからなかった。花に誘われるままに真っ直ぐ歩いているつもりなのに、辻《つじ》を曲がってまたすぐ曲がる。街はどんどん入り組んで袋小路よりも複雑な模様を描く。花と花の切れ目に、不思議な恰好の老婆がガネーシャとともにいた。
「はい。通行料の五百円。姐姐」
劉は自分と似た雰囲気の老婆に微笑みかけた。
「あんた占い師かい。その赤いガネーシャはどこで手に入れたんだい」
オバァはかつてキャラダインとともに現れた劉をドアスコープ越しに見たことがある。なのに雰囲気も顔もまったく違う人間になっている。しかしガネーシャは劉を見抜いてきた。象の鼻を持ち上げて牙《きば》を見せる。彫像が動いたので劉の腰が抜けた。
「どうしたんだいガネーシャ」
「な、なんなんだ、これは」
ガネーシャはたしなめられて元に戻る。地下に籠《こ》もってばかりいた劉は、まだ沖縄の魔術的現実に慣れていない。彫像も動くときは動くのだ。
劉はどこかで見た覚えのあるガネーシャだと思った。色違いだが似ている。
「このガネーシャは友達の形見さぁ。どうだい一回占ってみるかい」
劉が大声で笑った。すっかり忘れてしまうとは耄碌《もうろく》したものだと情けなくなった。もうあのエージェントだった日の緊張も、充実した毎日もまったく身体の中から消滅してしまっていた。
「あたしの運勢など、絶望しかないさ。若い子を占いなさい」
「そんなこと言わずにさあ。人生は六十すぎて羽ばたくって言うじゃないか」
もうオバァはタロット・カードを切っている。カードは、劉がうんと頷《うなず》くまで脅迫的なリズムで刻まれた。
「名前は教えられないよ。これでもわけありの身分なんだ」
「はいよ。『な・な・し』」
かつての劉なら蹴りが入っている瞬間だ。
「出身地。『ね・な・し』」
「年齢。『お・ば・あ』」
また軽い暴力の衝動を覚えた。拳《こぶし》に力が入りつつある。オバァは劉が黙っているのに、カードを勝手に「青華」と並べていった。これには劉の脚が震えた。
「あんた、このままじゃクズになってしまうよ。何かに追われているみたいだけど、逃げているうちは駄目だね。もともとあんたは攻撃するときが一番能力を発揮する女みたいさあ。疲れているのは慣れないことをしているからだよ。性に合わないんだろう、逃げるって」
「おまえに何がわかる。ふん」
「ところで新しい占いをやってもいいかい?」
オバァは劉の返事を待たずに、すぐ準備に入った。すっかり新型占いに目覚めたオバァは、インラインスケートを履くとガラガラの駐車場を軽やかに滑っていく。止めるのも面倒臭いので劉は黙っていた。オバァは鼻唄を弾ませて滑っていく。
「♪いちりっとらん いちこうし しらほけきょうの 高千穂よ りょうてんかん」
片足をあげたスパイラルで半円を繰り返すサーペンタイン・ステップ・シークエンスをこなしていく。これが占いなのか、と劉はカルチャーショックに見舞われていた。
「♪にーりっとらん」
なんとオバァはバレエジャンプの後にトリプル・サルコウを跳んだ。しかも腰に手を当てポジションを変えてのジャンプだ。
「♪ごーりっとらん」
ストレートラインステップからただちにトリプル・ルッツ+トリプル・トウループのコンビネーションジャンプを跳ぶ。セカンド・ジャンプの高さはルッツなみだった。
「あんたは上海雑技団に入った方がいい」
オバァのラストは最難易度が用意されている。充分に加速して両足首を百八十度開いたスプレッド・イーグルで滑っていく。スピードは秒速十メートルと過激だ。普通の選手ならスピードとジャンプの高さは反比例するものだ。正面を向いたオバァが右足を大きく振り上げた。
「♪じゅうりっとらん」
と叫んだと同時にクワドラプル・アクセルを跳んだ。一際高くジャンプすると両腕で体を締め、クルクルクルクルと余裕の四回転と最後の半回転のジャンプで着地した。しかも軸足に絡めた右足は膝《ひざ》の上で「4」の字だ。人類初の四回転半ジャンプは沖縄のオバァがコザの駐車場で成功させた。それもイーグルからだ。老人のくせに膝と足首が柔らかいため着地後のトレースも長く、失速することのないまま、キャメルスピンに入ったほどだ。
「なんなんだこいつは」
最後にビールマンスピンで決めたオバァは、託宣を授《う》けた。
「お店を潰《つぶ》してしまったんだって? お母さんの写真と一緒に」
劉が半歩たじろぐ。次の言葉が見つからなくて手で口を押さえた。こんな占い師は中国広しといえども、お目にかかったことがない。
「お母さんが『構わないよ』って言ってるさあ。気にするのはよくないさあ」
「母が……」
「あんたのこと心配してるって。元気になってほしいって」
劉がまた涙を零《こぼ》した。
「だって、だって、もう、どうしたらいいのか……」
劉の手が地面をついた。駐車場の水|溜《た》まりに波紋を広げるが、どれも小さい。
「きっかけさえあれば立ち直れるよ。人間どんな境遇でも本当に絶望はしないからね。また歩いてごらん。未来はいつでも予想がつかないから面白いよ」
「こんな老いぼれたあたしに、どんな未来があるって言うんだい……」
「あたしよりも年下じゃないか。まだ若いさ」
オバァがにっこり笑う。つられて劉も微かに笑った。
「どっちに行けばいい?」
「そうだねえ。ガネーシャに聞いてみようか」
ガネーシャはしばらく、うんともすんとも答えなかったが、オバァに頭を叩《たた》かれて憮然《ぶぜん》と鼻を西に向けた。劉の表情は強張《こわば》った。
「ガネーシャによると西だね。そこで元のあんたに戻れるよ。チャンスを見逃したらまたおいで。はい五百円」
「今はドル紙幣しかないんだよ」
オバァは大袈裟《おおげさ》に唇を動かした。
「ザ フェアー イズ ワン ハンドレッ ダラーズ」
劉が関所を越えて、再びブーゲンビリアの茂みに入っていく。その後ろ姿を見届けたオバァが、ガネーシャの頭をペチンと叩いた。
「あんなに弱くなった者をいじめて楽しいか。これでラジニの仇《かたき》をとったつもりかい」
ガネーシャはコクンと頷いた。コザの夕日を弾いて、かつての主人ラジニのために一粒の涙を流した。
「一杯|呑《の》むかい?」
一升瓶の泡盛を渡すと、ガネーシャは鼻をストローにして呑んだ。だんだん皮膚に赤みを増していく。オバァはただ黙ってガネーシャの背中を見ていた。
劉はガネーシャの鼻のさす西にぶらりと歩いている。
「このまま滅びるのもいいか。ラジニのガネーシャよ、私に復讐《ふくしゆう》しろ」
行き止まりのT字路の壁には沖縄の「石敢当《いしがんとう》」の護《まも》りがついている。劉は幼い日に故郷で同じものを見たことがある。劉はそれでも西を選んだ。とたん、スコール明けのまばゆい太陽がうねりをあげて西へ落ちていく。劉は長くたなびく光の痕《あと》を見た。その圧倒的な光景に意識が漂白されていくのを感じた。
「おおお」
瞼《まぶた》を閉じても貫いてくる強烈に幸福な光。全身を包んで離さない温かさ。瞼の向こうに広がっていく意識。どれもが初めて体験するものだ。そして劉は見た。かつて生きたあの優しい中国がオレンジに燃える瞼の裏に蘇っていた。金木犀《きんもくせい》の香りと共に庭で遊ぶ幼い日の劉。その側にいつもいた母、青華。こちらに気づいた母は劉に向かって微笑んだ。思い出などではない。記憶にないものまでつぎつぎと現れてくる。劉よりも若い母が、こちらへと近づいてくる。そして両手を広げて劉を抱き締めてきた。とたんに涙がどくどくと溢《あふ》れて心地好く劉の心を洗っていく。母はいつでも劉の側にいたのだ。
「私を許してくれるのか。ラジニを殺したこの私を……」
遠くの駐車場でガネーシャがパオーンと鳴いた。夕日とガネーシャは溶け込んでラジニの一部となる。
しばらくすると懐かしい香りとともに、優しいデュエットが響いてきた。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
今日は劉の六十五回目の誕生日だ。
「全天候型のF15もスコールには泣くか」
嘉手納基地で滑走路を見つめるヤマグチがいた。空の王者もこの雨では翼を休めるしかない。それでも汚れていた機体を洗うのには、ちょうどよい強さだ。滑走路は一時閉鎖されている。爆音のない午後の空白は別の世界に見えた。ヤマグチは頬杖《ほおづえ》をついていた。地上勤務が明ける気配はまだない。カツカツと廊下を歩いてくる靴音がする。この音で反射的に身構える癖がついていた。
「御機嫌斜めのようだな。ヤマグチ少尉」
視線を避けると銀樫葉の記章が目に入った。これと同じ階級の者は基地にいくらでもいるが、彼の記章の輝きは鋭い。ヤマグチはとっさに敬礼を行っていた。
「お久しぶりです。キャラダイン中佐」
うんざりの雨の中だというのに、キャラダインの動作のキレは鈍らない。ヤマグチなどピンと張った金の一本線の記章もよれて、軍服の皺《しわ》の一部になっている体たらくなのだ。
「中佐。私は正式に『プロジェクト L』を辞退いたします。守秘義務はまもります」
「そうつっかかるな。君の出番はまだ先だ」
「計画は中止していただきます。これでレキオスの種《たね》のことは、わからず終いです」
ヤマグチに残された有効打はこれだけだった。まともに取り組んでどうにかなる相手ではない。消極的だが、少しは計画が遅れるはずだ。もう心は読まれないように構えている。キャラダインは彼が作る会話の流れに反応する心理を読んでいるはずだ。心を読まれないようにするには、次から次へと会話を仕掛けてイニシアチブをとるのが一番だ。
しかしキャラダインは眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。
「レキオスの種はもう見つかった」
「いいえ。あなたは見つけられない。種など初めから存在しないからです」
とっさにデニスの顔が浮かんだが、言葉でねじふせた。
「上手《うま》くなったな。しかしもう私は君の助けなどいらない。これから迎えにいく」
「それは無理です。あなたは見つけられずに手間取っているはずだ」
「そうもいかないのだよ。要は簡単なことだった。キュベレを探せばよかったのだ。レキオスの種はキュベレを選んだはずだ」
「ギリシア神話のキュベレがどうしてオキナワに」
「違う。キュベレは元々異教の神だった。ディオニソスの母となったのはギリシアが擡頭《たいとう》して地中海を治めてからだ。キュベレは小アジアのユーフラテス河の土俗信仰が発祥だ。カルケミシュでは洞窟の中にキュベレを崇拝していたのだ。すなわち大地母神となるものはキュベレだ。この土地にもそのような女神がいる」
ヤマグチはどう対応していいのかわからなかった。
「君の抵抗は虚《むな》しかったということだ。彼女もまた使命のためにしか生きられない」
濁った雨音が遠ざかるキャラダインの靴音を消す。ヤマグチはすぐにデニスに電話をかけた。しかしデニスはつかまらなかった。
ヤマグチの車がゲート・ストリートを抜ける頃には雨があがっていた。それからゲート・ストリートに明かりが灯《とも》った。亜熱帯の夜は次第に艶《つや》を増して、特有の溜め息を闇に満たしていく。
深夜のゲート・ストリートは、MPが金網にもたれて雑談している以外はなんの音も響いてこない。オレンジ色の明かりが、入口付近だけを照らしているが、虫によって光が遮られていた。フェンスから先は二千ヘクタールもある暗い嘉手納基地の闇だ。
「あらサトウ。もう来てたのね」
「時間より早く来るなんて、コニーにしては珍しいじゃないか」
サマンサに負けたコニーらは、奴隷になった。そして今夜、イニシエーションを受けるために呼び出された。GAOTUと対決するためには、セヂが必要だ。そのセヂがどれほどあるのか今夜、測るのだそうだ。サマンサはこうも言っていた。
「あんたたちが窮地に陥ったら、すぐに見捨てるから期待しないでね。だってあたしヒューマニズムって大っ嫌いなんだもの。くすくす」
悔しいがフェルミを失った今となっては、オルレンショー博士の頭脳は貴重である。天久で調査したペンタグラムの中心には、〔TO MEGA THERION〕とプレートが残されていた。サマンサはこれがすぐにゲマトリアだと見抜いた。聖書をコードにした数秘術で、その合計が666になることを指摘したのだ。
「敵があんなすごいものとは思わなかったわ。ただの魔法陣じゃないわけよ。フェルミの指摘した通りだったわ」
「だから博士がセヂを測るって言ったんだ。普通の人間じゃ太刀打ちできないはずだよ」
「ねえ。セヂってどんなもの。運みたいなものかしら」
「さあ。俺もよくわからない概念だからな」
コニーとサトウもフェンスにもたれていた。背後が基地だとわかっているから、闇に背を預けられる。これが得体の知れない闇だったらこうはいかなかった。蒸した夜は火照った体に冷たい汗を流れさせる。コニーはブラウスの腕をまくった。
「あたしたちGAOTUに殺されるかもね」
「でも恐れない奴もいるじゃないか。オルレンショー博士とか」
「あれは異端だもの。悪魔の仲間みたいなもんよ」
「だから心強いんじゃないか。俺はあの人を信用するぜ。なんて言うか、自分の意志を信じているだろう。ああなると人間は最強だよ。絶対に負けることはないんだ」
「この世に負けを知らない人間なんていないわ」
コニーのせせら笑いを、佐藤が大笑いで覆った。
「馬鹿だな。負けても音《ね》をあげなければ負けてないんだぜ。博士って勝つまで戦う人なんだよ。十回負けても最後に勝てば奇跡の逆転になるのさ」
佐藤はかつてパリ・ダカールラリーを走破したこともある、勝負の経験者だ。
「勝負はフェアじゃなくちゃ。一方的なルールで試合をするのは卑怯よ」
「もちろんルールは必要さ。君が負けたのは、博士のルールに従ったからさ。あそこでもう一回勝負を挑んでいれば、君は負けていなかった」
コニーは金網に爪をたてたが、言い返さなかった。
「いいわ。でもあの女、大したタマよ。あんな女見たことないわ」
Good evening, my slaves
と図々しくコスプレで現れたのはサマンサだ。彼女の今夜のコスチュームは、メイド服である。人前では品よく忠実に。そして深夜は主人のベッドに潜り、いけないテクニックで虜《とりこ》にする。そんな小悪魔の魅力たっぷりのメイドだ。しかし「エッチなメイド」がコンセプトではない。サマンサの意図はもっと高次元にある。今夜の真のコンセプトは「奴隷の主人はメイド」ということだ。
「博士。早くイニシエーションをしてください」
「待ちなさい。セヂを測るいい方法があるのよ。もうすぐ来るわよ。隠れていましょう」
オレンジ色に染まるゲート・ストリートの路地に入って、サマンサたちは息をひそめていた。フェンス沿いにMPがだらだらと警備をしている。しばらくして、頭にスカーフを巻いた花柄サングラスのオバァが現れた。
「ヨー メン。ホワッツ アップ?」
MPに何やら話しかけている。しばらくして「ワン ハンドレッ ダラーズ」という言葉で話がまとまったようだ。コニーらが要領を掴《つか》めずに眺めていると、MPがリボルバー式S&W・M10拳銃《けんじゆう》を渡すではないか。オバァは弾を抜き取って、一発だけ装填《そうてん》した。それからカシャー、カシャーとシリンダーを回す。
「危ない!」
コニーが叫ぶ前にオバァはこめかみに銃を当ててトリガーを引いていた。
「大丈夫よ。あの婆さんはシャーマンなの」サマンサの言葉に目を開ける。次にMPが目を瞑《つむ》って震えながらトリガーを引いた。カチッと軽い音が鳴るとMPは息を荒らげて勇気を誇示する。「馬鹿ね。どうせ負けるのに」「やめさせなきゃ」「駄目よ。お互いに了解しているんだもの」コニーが飛び出そうとした瞬間、バンという銃声が鳴った。MPは地面に倒れていた。
「はい。十三連勝」
オバァがメモ帳にキルマークをつけようとしていると、ペティコートをまくったサマンサが闇夜に立った。
「挑戦するわよ。そこのシャーマン」
「サマンサじゃないか。最近見ないと思ったら、メイドをしていたのかい」
「そうよ。でも奴隷の主人なの。くすくす」
老婆はやっと張り合いのある相手と勝負できると喜んだ。サマンサがコニーによく見ておけと言う。
「セヂを測るにはこれが一番よ。自分にどの程度の力が宿っているのか、すぐにわかるもの。これで死ぬくらいなら、ペンタグラムの主《ぬし》と対決なんてできないわ。奴はこれ以上のセヂをもっているのよ」
「博士、あなたは狂ってるわ」
「狂ってなきゃGAOTUと闘えないわよ」
サマンサが百ドル紙幣を老婆に渡す。銃弾が一発入ったシリンダーが小気味よく回った。
「この老婆のセヂも大したものよ。奴の目を欺くことができるもの。だから勝負する。あたしが最初にやるから見てなさい」
「やっと本気になれる相手と勝負できるさぁ。あんたとは一度ケリをつけておきたいと思っていたからねぇ」
というのも、サマンサのおかげでオバァの占いの的中率が下がっているからだ。サマンサはどんな不幸な予言を出されても、覆す力をもっている。頭にきたオバァは近所にたむろしていた悪霊をけしかけて占いの強制成就を図ったことがある。それでもサマンサに近づいたとたんにセヂに当てられて消滅してしまった。一時はサマンサのせいで、占いを廃業しようかと落ちこんだものだ。サマンサのセヂは言霊《ことだま》をはね返す。そして都合のいい結果だけを飲みこむ。これでは占い師の面目まる潰れだ。
「どっちが先にする? くすくす」
「あたしからだよ」
コニーが割って入る。
「駄目よ。シャーマンなら先に結果がわかっているでしょう。博士、後手は駄目よ」
「うるさい女だねぇ。なんであたしが後に撃たなきゃいけないんだい。危ないだろう」
やはりオバァはわかっている。有無をいわさずいきなりトリガーを引いた。カチンと空《から》の音がする。オバァはニヤリと笑った。しかしこれで動じるサマンサではない。ニヤリと笑い返すと、四インチの銃身をなんと股間《こかん》に当てたではないか。
「相変わらずの変態だねぇ」
「イクわよ。くすくす」
カチンと撃鉄がおりた。
「いやだー。種なしだったみたい。くすくす」
またオバァがこめかみに銃を当てると、すぐトリガーを引いた。二人とも恐怖やためらいなど微塵《みじん》にもない表情だ。見ているコニーの心臓の方が破裂しそうだった。またサマンサの番だ。
「固いけど短小ね。くすくす」
カチンとスカートの中で音が鳴る。弾はまだ出ていない。六回のうちオバァの順番は終わった。次のサマンサで最後だ。しかしトリガーを引けば弾が出る。
「勝ったね。サマンサ」
百ドルを懐に入れようとすると、サマンサが止めた。
「まだよ。勝負は最後までわからないもの。くすくす」
「博士、何を言ってるの。引いたら終わりなのよ」
「誰がそんなこと決めたのよ。くすくす」
サマンサがニヤリと笑って、脚をガニ股《また》に開く。銃口がゆっくりと股間にあてがわれると、恍惚《こうこつ》の表情をみせた。
「やめて!」
とコニーが叫んだ瞬間だ。サマンサは口笛とともにトリガーを引いていた。オバァも目を固く閉じていた。しかし銃声が鳴らない。おそるおそる目を開くとサマンサの勝ち誇った仁王立ちが見えた。
「不発よ。くすくす」
「なんてセヂだい……」
サマンサは絶対に弾が出るはずがないと確信していた。彼女の辞書に「もし」という仮定はない。出ないと思えば本当に出ないようにする。これは運命を受容するのではなく、都合のいいように運命を改竄《かいざん》する力なのだ。この強烈な意志をもってすれば、予定されていた神様の都合などまるで無視して生きられる。ここまで覚悟ができるのは、自分がどの程度の人間なのかをサマンサが正確に把握しているからである。そして彼女は自分の要求を実現可能にさせるだけのセヂを後天的に獲得した。どんなに強運を持って生まれてきた者でさえ、サマンサには敵《かな》わない。彼女のセヂは自然界を無視した異常な量なのだ。
「これでドローね。次はコニーよ」
サマンサは平然とシリンダーを回す。
「いやよ! 絶対にいや!!」
「あなた自分にどれくらいのセヂがあるのか確かめないと、これから先『なんかいいことないかなー』ってただ口をアーンって開けているだけの人生になるわよ。空から落ちてくるのは鳥の糞《ふん》くらいよ」
「でも……」
「あたしは自分しか助けられないの。初めから死ぬ人間と行動をともにしたくないわ。上司とフェルミを失ったあなたなら、この気持ちはわかるわよね」
「博士……」
コニーの胸が締めつけられた。
「だってお花代が嵩《かさ》むでしょ。くすくす」
しょせんサマンサは自分の都合しかない女だ。
「はいはいはい。あたしのご主人様はそういう人でした」
「どうする? やめてもいいのよ。その代わり作戦には入れないわ」
死んだフェルミも同じことを言っていた。コニーは必死に堪えているが、サマンサの挑発は相手構わず続けられる。
「GAOTUと闘うって言ったのは、ただの負けん気だったみたいね。勝気なだけの人間なら山ほどいるわよ。その中で勝負に出られる人間はほんの一握り。負けて人のせいにしている人間なんて、生きていても意味がないわよ。どうせ信じるものもないんだし、とっとと死んでほしいわ。同じ顔して世間にいられると迷惑だものっ」
「やるわ!」
コニーがM10ミリタリー・アンド・ポリスを握った。小振りながら重量感を覚えた。
「相手はまたシャーマンよ。このくらい強敵じゃないとセヂは測れないわ」
「カモーン。ザ フェアー イズ ワンハンドレッ ダラーズ」
オバァが軽快なフットワークで早くも興奮している。このオバァもまた異端の人間だ。彼女の予知能力では負けるイメージはまるで出てこない。オバァもサマンサも偶然というのが大嫌いな性分だ。行動するときは常に勝ちに出る。
「よすんだコニー」
「サトウ。さっき『先に音をあげた方が負けだ』って、あんた言ったわよね」
コニーが賭《か》け金の百ドルを払う。ユタのオバァは余裕しゃくしゃくだ。サマンサが回した銃を見て、オバァは先手をうってきた。
「挑戦者が先だよ」
「汚ねえぞ。この婆さんは、わかってるんだろう」
サマンサはセヂを使うのは有効であると判定を下した。別に代理の者が銃を撃つわけではない。自分のやり方をすればよいだけだ。結果、先手がコニーになった。銃をゆっくりと頭にもっていきながら、コニーは呪文《じゆもん》のように自分に言い聞かせていた。
「大丈夫よ。そう。大丈夫……」
目を閉じて震えながらこめかみに銃口をあてる。断続的な息がつぎつぎと生まれて、一歩間違ったら吸気と呼気を同時にしそうだ。指をトリガーに当てると勝手に力を入れていく自分がいる。一度動き出したら止められなかった。ガチンと撃鉄がおりて、コニーは息をついた。しかし間髪いれずオバァは自分の番になると、すぐにトリガーを引いた。何の不安もない涼しい顔で、またフットワークを刻む。
「カモーン。カモーン」
また銃が回ってきた。もう銃の重さを感じることはできない。身体の感覚がおかしくなっていた。右手が勝手に動いているのがわかる。ようやく弛緩《しかん》したばかりなのに、緊張するときは一気に昇りつめる。鼓動が連続音になった地点でトリガーを引いた。
弾は出てこなかったが、それを理解するのに数秒かかった。ユタのオバァは硬直したままのコニーから銃を奪うと、自分の口の中に入れてすぐに撃鉄をおろした。一回が途方もない心理的手続きを強いられるのに、すぐにコニーの番がくる。今度は目を見開いたまま、こめかみに銃口をあてる。ワイリーと佐藤が薄っぺらに見えた。サマンサが腕を組んだままこちらを見ている。
「自分のルールで勝負するのよ、コニー」
トリガーを引こうとしたときだ。サマンサが初めて声をかけた。勝負の流れを計算してみる。ユタのオバァは偶数回の二、四、六回を選んだ。すると弾は奇数回に出ることになる。順番は五回目。コニーの最後の番だ。コニーは自分がユタのルールに則《のつと》って勝負していることに恐怖を覚えた。もしこれを引けば、頭が吹き飛ぶことは確実だった。コニーは自分に言い聞かせていた。どうすればこの勝負に勝てるのだろう。サマンサのように不発になるとは思えない。そんな偶然に命を預けることなんてできはしない。かといって勝負を受けた以上、負けるわけにはいかない。もう一度周囲を見る。ユタのオバァは早くも指で耳を塞《ふさ》いでいる。サマンサだけがじっと瞬きをせず、コニーを見つめていた。
「セヂを信じなさい。なければ集めなさい」
脂汗がダラダラと流れてくる。どうすればいいのか答えが見つからない。コニーはままよ、とトリガーに指をかけた。
「コニー、やめろおおおっ」
激しい銃声が鳴った。
どれくらいの時間が経ったのだろう。硝煙の匂いが漂って次第に消えようとしていた。佐藤の耳にフウというコニーの溜め息が聞こえてきた。目を開くと、コニーがビル屋上の広告看板に銃口を向けていた。脚を開いて両手で掴《つか》んだリボルバー式|拳銃《けんじゆう》は、三十メートル先の看板と一直線に繋《つな》がっていた。インスタントラーメンを啜《すす》っている看板の女性はCMの女王、北崎倫子だ。彼女の鼻の穴に弾丸が貫通した跡があった。コニーは余裕を見せようと、頬を無理に引っぱった。
「あ、あら。ごめんなさい。反動で手元が狂っちゃったみたい」
「そうよ。自分のルールで勝負するのよ。今のは有効だわ」
サマンサが拍手をした。オバァも仕方ないと諦《あきら》めたようだ。
「やるねえ。あんた大した女だよ。あのまま引いていたら、ただの馬鹿だったさぁ。今夜は負けてあげる。はい百ドル」
オバァは夕方、劉から強引に奪った百ドルを残してコザの闇に消えていった。
「馬鹿野郎。心配させやがって」
コニーはやっと正気に戻って佐藤の腕に崩れた。しかしユタがいればコニーの疲労は、途方もないセヂのエネルギーが体に集結しているせいだとわかったはずだ。彼女の運命の流れがガラリと変わった。セヂは強い魂に流れる性質がある。物質や生命に宿っているセヂは、主の善悪にかかわらず強い力を発揮するものに敏感に反応する。そして負けて諦めるものに、セヂは一番先に見切りをつける。
「コニー。今夜のことを忘れちゃ駄目よ。セヂが足りなかったら、こうやって集めるのよ。自分で運命を決められたから、ご褒美に解放奴隷にしてあげるわ」
声が消えるとメイド服一式が脱ぎ捨てられていた。サマンサがどんな恰好で、闇夜に紛れたかは謎である。
目覚めよ、フェルミ博士。[#「 目覚めよ、フェルミ博士。」はゴシック体]
残響が幾重にも反射する。それが消滅する前に、意識が作動した。台の上で腕を組んで寝ていたフェルミが瞼《まぶた》をゆっくりと開いた。
「俺は一体どうなってたんだ……」
起き上がると激しい頭痛がした。どれくらい眠りについていたのか見当もつかない。顎《あご》を触ると髭《ひげ》が伸びていた。ベッドから落ちて頭を抱えていると、空間がドア型に開いた。
「お目覚めかな。フェルミ博士」
「キャラダイン中佐。俺に何をした」
「別に何も。博士がご自分の意志でこちらに残ると決められたのだ」
そう言うと頭の中に閃光《せんこう》が走った。超立方体の表と裏が消滅した感覚だった。フェルミは微《かす》かに思い出した。たしか妙な空間に入ってあらぬ世界を見せられた後、羊皮紙にサインをしたような気がする。
「気がするのでは困る。ここにきちんとサインがある。ご自身の筆跡だ」
キャラダインが羊皮紙を広げた。フェルミはやっと時間感覚を取り戻した。
「そうだ。俺は未来を約束されたんだった」
キャラダインの言葉がガンガン頭に響いてくる。
「博士は世俗との縁を切られて、研究に没頭するのだ」
「そうだ。うかうかしているとサマンサに負けてしまう。たしかスーパーコンピューターを使わせてくれるはずだった」
「SX−5は午後にも最高速度で稼働できるように調整中だ。自由に使ってくれたまえ」
フェルミがカフスボタンを気にしている。どれくらいの時間が過ぎたのかよくわからない。コニーたちが心配しているはずだ。
「博士はもう表の世界とは関係ない」
「キャラダイン中佐、一度表に出たい。それから戻ってくる」
「それは不可能だ。博士は海で溺《おぼ》れ死んだということになっている。見たまえ、葬儀のときの様子だ」
鏡からホログラム映像が浮かんだ。生まれ育ったシカゴの教会での葬儀の模様だった。知人がたくさん集まっている。フェルミは自分でも人から好かれる人間だとは思っていなかった。傲慢《ごうまん》な態度で多くの人を傷つけてきたことはわかっている。なのに、葬儀は喧嘩《けんか》して絶交された人ばかりが集まり涙を流してくれている。話にならないと目の前で論文を愚弄し、一番傷つけたはずの男が、鼻を啜って泣いていた。みんな自分の涙で精一杯で、誰かの肩を抱いて慰める余裕すらなかった。
「トーマスどうして。どうしてみんな……」
「意外と人望があったということだ。博士は傲慢なりに受け入れられていたのだ。ただ博士が心を開かなかっただけだ。もう遅いが」
葬儀の最中の声が聞こえてくる。
『あいつのエキサイティングな理論は素晴らしかった……』
『早すぎた才能だったんだろうな。あいつ、いつも苛々《いらいら》してたもんな』
「クレイグ、ティム……。俺を許してくれるのか」
参列者の中で一際大声で泣いている夫婦がいた。
「父さん、母さん。俺はここにいる。なんであそこに俺の死体があるんだ」
ホログラム映像越しにキャラダインを睨みつけた。
「これだけは言っておく。立派な葬儀だった。上院議員も献花してくれた。博士の研究を密《ひそ》かに支援してくれた男だ。三万ドルの奨学金を貰《もら》ったことがあるだろう」
貧しかったフェルミは一度進学を諦めかけたことがある。そのとき申請していた奨学金がおりて、彼は博士課程に進学できた。
「あれは大学からのものじゃ……」
「博士は孤独ではなかったのだ。もう少し世間をよく見れば、たくさんの愛情に包まれていたことがわかったはずだ」
フェルミはもうどこを見ているのかわからなかった。あそこにいる自分の死体は本当に幸福に包まれているように見えた。場面が変わった。コニーとワイリーが検死官相手に抗議している。
『フェルミ、安心していいのよ。あなたの自慢の体にメスを入れさせないわ』
『そうだ。フェルミは誇り高き男だ。きれいな体で埋葬する』
思考が止まるほどの光景だった。俯瞰《ふかん》すれば人間関係ですら全体が捉《とら》えられたのに、自分の死体を目の前にしなければ、これができなかった。
「博士の遺体をアメリカへ搬送してくれたのは、同僚のコニーだ。身分を明かしてまで博士の亡骸《なきがら》を守ったのだ。ワイリーも一歩間違えば、処分されるところだった」
フェルミは微かに震えていた。もう映像は揺れて見えなかった。
「そして君の大嫌いなオルレンショー博士だ」
ウェディングドレスをひるがえして、サマンサが叫んだ。
『さよならーっ。あたしの唯一のライバルーッ!』
「サマンサ、どうして泣くんだ。俺は死んだんだぞ……。サマンサやめてくれ。君が泣くなんてどうかしている……」
「これが鏡の中から出てきた。君への手向けらしい」
キャラダインがブーケを差し出した。それはサマンサが海に向かって投げたものだった。
「サマンサ、サマンサ、サマンサ……最後まで君らしいよ」
「博士は人の気持ちを表面だけしか見ないから、こんなことになる」
フェルミは立ち上がった。
「俺は帰る。あそこに帰る」
「無駄だ。今さらゾンビだ、では通らない。それこそ信用を失うぞ。今戻ったら、君は本当に孤独になる。次の葬式はきっと淋《さび》しいものだろうな」
「だましたなキャラダイン。俺を返せ」
「出られるものならどうぞ」
しかしその部屋には、出口らしいものはひとつもなかった。カッと頭に血が昇った。
「殺してくれ。殺してくれ!」
キャラダインに掴みかかろうとすると、すうっと消えて言葉だけが残った。
契約は永遠に有効だ。[#「 契約は永遠に有効だ。」はゴシック体]
厳粛な太平洋を前にしたセーファ御嶽は、二人の主に戸惑っていた。ひとりは正式な手続きによって誓願した小百合、もうひとりは聞得大君のオモロを聞くことのできるデニスである。双方とも必要なセヂは揃っている。どちらがどう優れているのか厳密に差をつけられないから、二人いる。世襲したばかりの小百合は、品格と人望に優れ、歴代のノロを上回る影響力を発揮するだろう。もちろんサーダカー生まれの霊感もある。しかし彼女は聞得大君のオモロをまだ聞いたことがない。
「来たわね。逃げなかったのは褒《ほ》めてあげる。さすが従妹《いとこ》だけのことはあるわ」
「だって、小百合ネーネーとは一生の関係なんだもん……」
デニスは聞得大君のオモロを受諾している。今は守護霊が勝手に代行しているが、デニスのセヂは物質に生命を与えることができる最強の力だ。命の女神としての資格は充分である。しかし彼女にはノロになる意志がまったくない。決着といっても、消極的に参加しているだけだった。
「本気でやりなさいよ。手を抜いたらすぐにわかるわよ」
「本気も何も。あたし拝みがわからないのよ。アブラカダブラしか知らないし……」
勝負は三庫理で行われようとしていた。セーファ御嶽は飛び抜けて風の流れがよい。それは、沖縄中のセヂが流れてくるからである。この場を拝みにくるユタは、その恩恵を受けて帰ることができる。セヂが衰えた病人のために祈るとき、ユタは精神の消耗が激しくなる。彼女たちは自分の生命エネルギーを他人に分けることができる存在だ。しかしセヂは有限なので、どこかで補うしかない。セーファ御嶽が巫女《みこ》のメッカであるのは、そのためだ。ここがなければ、沖縄のユタのほとんどは機能停止に陥ってしまうだろう。だからセーファ御嶽の信仰は衰えることがない。
「で。どうやって勝負するの。ネーネーの好きな方法でいいわよ」
「聞得大君の座を賭《か》けるなら、聞得大君の祝詞《のりと》で勝負するのが筋でしょ」
「OK、どうせわかんないからそれでいいわ」
(なんていい加減な勝負だ。新聞得大君はおまえなんだぞ)[#「(なんていい加減な勝負だ。新聞得大君はおまえなんだぞ)」はゴシック体]
「うるさい。黙れ馬鹿」
「なんですってえ?」
小百合が白装束の裾《すそ》をはらう。頭に巻いた帯が螺旋《らせん》のうねりで風を掴む。
「私からやるわよ。見本にするのね」
香炉の前に座ると梢《こずえ》がざわめいた。まるで小百合の澄んだ祝詞を聞きたくて催促しているようだ。世襲してすぐとはいえ、ここは彼女のホームグラウンドだ。どうすればいいのか全部わかっている。小さな唇は、いつも内部から潤んでいる。最初から全力でいくつもりだ。
けふのよかる日に斎場《せいふあ》御嶽親のろの
御前寄って御側よって
こんでおしやけて みしゆておしやけて
御たかへ 拝みやへすと
聞得大君|加那志《がなし》
火性の巳てい御歳の 御遣めしやいへたもの
百年 千年きやめ
御遣ふさいみまふて おたほへめしやうち
御名上りめしよわれ
風が仄《ほの》かな香りを含んで小百合の前に吹いてくる。小百合の身体にぶつかった風がまるで殻《から》が割れたように、えもいわれぬ芳香を放った。森が揺れてしんしんと葉を積もらせる。樹が花を咲かせる。大地から芽が出る。生命の象徴である聞得大君に相応しいセヂの力だ。小百合の祝詞は先代の長子の折り紙つきである。もし天使の声があるとしたら、小百合のものであろう。ユタであれ、ノロであれ、巫女の能力は自然との共感力である。自分を中心に世界をどれだけ掌握するかが、能力の差となってくる。小百合がその気になれば、山ひとつ分の自然と共感できる。御嶽の森は惜しみない拍手を送っていた。
(さすがセーファ御嶽のノロだけのことはある)[#「(さすがセーファ御嶽のノロだけのことはある)」はゴシック体]
「すごい。すごいわ。小百合ネーネー前から上手《うま》かったけど、もっと上達しているわ」
直角三角形の回廊からどんどん風が送りこまれてくる。それがセヂを含んでいることは、素人でもわかるほど特別な風だ。晒《さら》された者は、魂を軽く持ち上げられた気分になる。肉体が衰えている者ほど効果は顕著だ。病んでいた部分がアンテナになってビリビリと心地好いバイブレーションを生じる。眠気を催すほどのマッサージで、肉体はすぐに回復した。小百合が呼び寄せたセヂは今年一番の質だった。
「どう。デニスにこれができて?」
「ううん。できないわ」
ジャラジャラと髪のビーズが鳴る。
(この馬鹿。勝負を諦《あきら》めるな)[#「(この馬鹿。勝負を諦《あきら》めるな)」はゴシック体]
「だって無理なんだもん。見た目からしていかにも向こうは本物だし」
(従姉《いとこ》を侮辱することになるんだぞ)[#「(従姉《いとこ》を侮辱することになるんだぞ)」はゴシック体]
「なんでも丸く収まればいいのよ」
(おまえ、それでも人間か)[#「(おまえ、それでも人間か)」はゴシック体]
「いえーす あい あーむ」
(Idiot!)[#「(Idiot!)」はゴシック体]
デニスがびくっと反応する。しかし人の身体を無断で占拠しているチルーに、正論を言われる筋合いもなかった。なんでこんな逆さの幽霊と身体を折半しなければならないのだ。
(ここで逃げたら癖になるんだぞ)[#「(ここで逃げたら癖になるんだぞ)」はゴシック体]
「習慣にするからいいのよ」
業を煮やしたチルーが禁じ手を使った。ガクンとデニスの上半身が前に倒れる。ぐるぐると四つんばいになって三庫理に近づいた。小百合は思わず身を凍らせた。
「デニス、あなたって一体……」
三庫理の香炉の前で、デニスは逆立ちになった。そして輪郭を生じない低音の声で、祝詞を紡ぎ出す。
御抹香おしやげらしみしやうち 聞得大君加那志前の
御願みしやうち おしやげらしみしやいへん
御火鉢御すじ加那志前 金の御すじ加那志前
聞得大君加那志前御すじ御神加那志前
古より御すじまさい 御神まさい みしやうち
おみへおまんぢ みしやうち おたへみしやうれ
御子御孫部の御よい おなうさみしやうち
おみへおまんち みしやうち おたへみしやうれ
嶋々国々の作る毛作 あら麦やあ 初麦やあ
しらちやねい あまちやねい 芋ぶさあ 作る毛作
石み金み おみいおまんじみしやうち おたへみしやうれ
唐のいく船 くる船 大和のいく船 くる船 嶋々国々のいく船 くる船
おみへおまんち みしやうち おたへみしやうれ
聞得大君加那志前の 御願みしやうち
みおんによけらしみしやいへへん
デニスの祝詞に低い男の声が混じってきた。遥《はる》か遠いようでいて確実にこの世界を捉《とら》えている。しかし、その声を小百合は判別できない。突如、デニスの祝詞に呼応して大地が激しく揺れた。三庫理の回廊をなしていた岩がどんどんせり上がってくる。正面の太平洋は猛々《たけだけ》しく時化《しけ》ている。雲が濁る。風が割れる。樹が裂ける。それらが轟音《ごうおん》をたてて三庫理に集まってくる。雲から雹《ひよう》が落ちてきた。
「そんな馬鹿な」
最後に太陽光線が三庫理に集まると、瞬時にそれは熱に変わった。木々を着火させ、めらめらと燃やしていく。小百合は回廊の下に逃げた。
「デニスやめて。セーファ御嶽が壊れるわ」
祝詞がやむと、御嶽の森を焦土化する手前で破壊が止まった。デニスは香炉に頭を突っこんで気絶していた。聞得大君の力を目の当たりにした小百合は、震えが止まらない。
「これがセヂの力……」
焼けついた土を握る。火傷《やけど》こそ自分に相応《ふさわ》しいと思った。白装束が埃《ほこり》で汚れていた。小百合の髪が赤土色に染まっている。
「どうして、私にはこの力がないの。ノロになるために何もかも捨てたのよ……」
小百合が思い浮かべるのは、東京で別れた恋人のことだ。巫女になるから一緒に来てほしいと頼んだが、それは無理だとわかっていた。憧《あこが》れていた仕事もあった。行ってみたい国もあった。そして描いていた小さな家庭の夢もあった。それらを全部捨てて、小百合は故郷に帰ってきた。
「お願い。聞得大君よ。他に何を捨てればいいんですか。もうこの命くらいしか……」
灰にまみれたデニスが起き上がったのは、しばらくしてからだった。
「この馬鹿守護霊っ。絶対にやるなって言ったでしょ。この景色は何なのよ」
(これがおまえの力だ。私はほとんど何もしていない)[#「(これがおまえの力だ。私はほとんど何もしていない)」はゴシック体]
セーファ御嶽は絨毯《じゆうたん》爆撃に晒されたかのように半壊している。風が吹きつけてデニスの身体を軽くしていく。身体のどこにこれほどの風が入る空間があるのかと不思議になる。中で凝縮して水になっているような気がした。それでも身体を湿らせるほどの量には達していない気がする。しかしそんなことはどうでもよかった。デニスは長い腕で風を止めた。
「あー。小百合ネーネー。Are you okay?」
(デニス。そっとしておいてやれ)[#「(デニス。そっとしておいてやれ)」はゴシック体]
小百合はせり上がって基底部を晒した回廊に声を響かせて泣いていた。三つに反射した泣き声が中央の小百合をさらに傷つける。もう何が原因で泣いているのか彼女にはわからなかった。デニスはどうしたらいいのかわからなくて、そっと三庫理を後にした。走りだすバイクの音も遠慮がちだった。
デニスは明日アメリカへ発《た》つ。
第一の封印が解除された。[#「 第一の封印が解除された。」はゴシック体]
「何この声?」
小百合の頭の中に低い声が聞こえてきた。泣いているのに、それを貫いてくる異常な緊張が体を走った。しばらく構えて様子をみてみる。しかし何も変わったことは起こらなかった。彼女は崩れた三庫理の瓦礫《がれき》を片づけることにした。自分で仕掛けた勝負とはいえ、御嶽を巻きこんだことに恥ずかしくなる。歴史上、一度も権威の揺らいだことのないセーファ御嶽を守れないなら、ノロの資格はない。
「これからどうしよう……」
また涙が溢《あふ》れてくる。勝負に勝ったデニスはノロになる気はさらさらないようだし、小百合がまたこの御嶽を治めていくには自信がない。世間はノロを存在としてしかみないが、ノロこそ能力であると小百合は思う。あんな圧倒的な力を見せつけられた後では、自分の技など子供だましでしかない。
「せめて私にエケリがいれば……」
かつては王がその役割を担うはずだった。しかし今ではエケリとなる男はいない。聞得大君といえども、対になる存在がなければただの巫女だ。エケリが大きければ大きいほどオナリの力も増すという。先代のノロにも、その前のノロにも、エケリがいなかった。それでも務めは果たせたから気にしなかったのだが、あまりの孤独に小百合の気持ちが揺れていた。髪をまとめて裾《すそ》についた土を払った。勾玉《まがたま》は祖母から譲られたものだが、この勾玉が複製であることを小百合は見抜いていた。本物はたぶんデニスが持っている。祖母は二重ノロ制でセーファ御嶽を治めようと算段しているに違いない。そんな不規則な制度で治めるのは屈辱でしかない。だったら初めからデニスでいけばよかったのだ。
「セヂが漏れている?」
洞窟の前に立った小百合が訝《いぶか》る。この洞窟にはけっして入ってはいけないと先代から引き継ぐときに注意されていた。なるほど光がまったく入らず、奥がどんな構造になっているのか予想がつかない。入口は充分な広さがあるのにだ。小百合は危険を顧みない女ではない。しかしデニスが集めた異常なセヂがこの洞窟に流入している。風が渦を巻く音が聞こえてくる。内部がパイプになって吹きつける蒸気が荘厳な音を響かせる。
すると中から光が現れた。
A little learning is a dangerous thing;
Drink deep, or taste not the Pierian spring;
There shallow draughts intoxicate the brain,
And drinking largely sobers us again.
言葉に反応するかのようにつぎつぎと交錯して、光のX字になった。その中心に青い薔薇《ばら》が現れた。
「アテー。マルクト。ヴェ・ゲブラー。ヴェ・ゲドラー。ル・オラーム。アーメン」
力強い男の声がする。X字が回転して十字の形でピタリと止まった。セーファ御嶽を巡って出口を探していたセヂが洪水となって洞窟の中に流れてくる。十字は同時に輝きを増した。強烈な光は祝福しているかのようだ。小百合は茫然《ぼうぜん》と洞窟の内部を見ていた。十字に影が現れる。それが男の影だとわかったとき、小百合は洞窟に足を踏み入れていた。
「あなたはもしかして……」
男はコクリと頷《うなず》いた。
「やはりエケリなのですね」
動作がきびきびとした飛び抜けて背の高い男だった。小百合は駆け足で男に近づく。すると男は鏡を渡すではないか。
「これは君のものだ。本来の持ち主に返そう、大地母神キュベレよ」
「これは、もしかして」
幼い頃に祖母から聞いたことがある盗まれた鏡のことを思い出した。聞得大君の力のひとつである物見を具現化できる道具という。
「剣があるかと思ったが、誰かが先に持って行ったらしい。オナリよ、知らないか」
「この洞窟は誰も入れないような仕掛けがあると聞きます。入れるのは最強のオナリとエケリだけです」
「つまり私たちのことだ」
男がマントを広げると銀河の輝きが広がった。洞窟に広がる音は対位的に組み合わさってぐるぐる回るメロディになる。音と音の振幅が相殺されるように重なって小百合の耳を塞《ふさ》いでいく。
それでも高揚する気持ちを抑えられなかった。
「おまえはまだキュベレの力が完全に覚醒《かくせい》していない。御嶽を壊したのはそのためだ。おかげでこちらは助かったのだが」
「あれは、その……」
小百合は一度言葉を止めて、男の目を見つめた。
「ええ。まだ上手《うま》くコントロールできないんです」
「おまえなら最強の呪文《じゆもん》が使える。私のもとにくれば何も恐れることはない」
小百合の肩に男の掌《てのひら》がすっぽりと収まった。まるであつらえたショルダーアーマーのようにぴったりだった。なぜか小百合は意識が溶けそうになるのに逆らわなかった。
「私にもう一度夢を与えてくださるのですか」
「千年の力を与えてやろう」
男の声が洞窟にこだまする。小百合が抱きつくと男のマントに隠れた。
「メタトロン、メレケト、ベロト、ノト、ヴェニブベト、マク、そして汝《なんじ》ら全てよ。蝋《ろう》の人形にて我は汝らを召喚す。神の力によりて、これらの文字の力によりて、我の身を透明にせよ。アーメン」
ふたりは次第に洞窟の闇に溶けていく。
HOTHEOTES
最後に男の目玉がひっくり返って、赤い山羊《やぎ》の瞳《ひとみ》になった。
那覇国際空港の出発ロビーに理恵とデニスがいた。スーツケースを二つ抱えても、デニスの体躯《たいく》ではさほど嵩《かさ》ばらない。ひとつをひょいと肩に担いで、小気味よく階段を昇ってきた。
「じゃ、ちょっとアメリカに行ってくる」
理恵がゲートを潜っていくデニスに声をかけようとして躊躇《ちゆうちよ》した。デニスが以前、国籍の問題を相談してきたことを思い出した。現在のデニスは二重国籍で、日本とアメリカの双方に登録されている。それを二十一歳までにどちらかに決めなければならない。理恵は断然アメリカ国籍を取得するようにアドバイスしたが、デニスは日本国籍を取得する説得を期待していたようで、結局話がまとまらなかった。最近デニスの表情が何か整理されつつある。それはよいことなのだが、理恵はデニスが沖縄を捨てるような気がしてならなかった。「デ……」と口を開こうとすると、デニスが振り向いて手を振った。
「お土産はキャンベルスープにするわねー」
香港行きのキャセイ・パシフィック航空が、陽炎《かげろう》の滑走路を駆けていく。ブラッシュウイングの垂直尾翼が先に空を飛んだ。ランディング・ギアを引き込むと同時にもう一度空中でグンと加速する。背中で感じるGはまるで大地が後ろ髪を引いているようだ。窓を覗《のぞ》いたデニスは思わず息を飲んだ。これがカートの言っていた沖縄の海だ。視界に広がるブルー、ブルー、ブルー。
How beautiful
海が青いリズムを刻んで島に押し寄せている。風にも色がついているのがはっきりと見えた。それもブルーだ。波打ち際は砕けた珊瑚《さんご》のクッションになり、島の輪郭をなしている。そしてブルーが無限に変化するのは、沿岸のリーフの内側だ。チカチカと光線を弾くたびに生まれては消えるブルー。同じ色は二度とない。珊瑚のうねりがデリケートな指先で島を支えていた。これがデニスのいる沖縄だ。こんなに小さな島なのに、たくさんの見えない問題が山となって大地に積まれている。いつもバイクで飛ばしているバイパス道路が見えた。上空から形になって見えるのは、いくつものアメリカ軍の基地だけだった。その中でもずば抜けて存在感があるのは、嘉手納基地である。飛行機はどんどん高度を増していた。
「あんなに大きかったんだー」
もう少しよく見ようとしたが、すぐに雲の海に突入した。
清澄にして天を亙《わた》る満月
万物を照らし
万物に与える
処女、母、老婆
機を織るもの、緑のもの
イシス、アスタルテ、イシュタル
アラディア、ダイアナ、キュベレ
コレ、ケリドウイン、レヴァナ
ルナ、マリ、アンナ
リアノン、セレナ、デメテル、マー
眼で見よ、耳で聞け
手で触れよ、鼻で息をせよ
唇でキスをせよ、胸を開け
我らの内に来たれ
我らに触れよ、我らを変えよ、我らを完全にせよ
「よろしい。なかなか筋がよいぞ、小百合よ」
「ありがとうございます。これもエケリのあなたのおかげです」
上下の区別もつかない闇の中、炎ひとつで浮かびあがったキャラダインと小百合がいた。小百合の足元にはペンタグラムが走っている。
「仲間を紹介しよう。物理学者のフェルミ博士だ」
ボウと現れた青白い炎の中に、フェルミの顔があった。死に顔でも微《かす》かな笑みや、表情を残しているのに、彼の顔には拾える個性がない。属性を失った無重力の顔だった。
「ようやく観念したばかりだ。フェルミ博士、第二段階の計画を実行するぞ」
「わかりました」
おそらく上下逆さになっても、フェルミの顔は同じ印象しか与えないだろう。
「そして、魔術につきものの生《い》け贄《にえ》たちだ」
バスケットボール大の影が転がった。小百合が目を凝《こ》らすと、パナマ帽にヒマワリを挿した男たちの首だった。
「性懲りもないスパイたちだが、少しは役に立つだろう」
「エケリ、あなたは一体」
「君がレキオスを宿すために必要なことだ。ここの土地ではキンマモンと呼んでいるようだが、同じことだ。小百合よ、血統の正しさを示すのだ」
「わかってます」
唾《つば》をゴクリと飲むのを聞かれてはならないと、小百合は意識していた。
ヤマグチがサマンサの家で魔術の講習を受けている。しかしさっぱり意味がわからないのだ。サマンサはとんでもない示唆《しさ》を始めていた。
「ええっ! 首里城をあのまま爆破させるんですか。どうして?」
「はい、馬鹿はそこで驚くから馬鹿なのよ。くすくす」
家の中でもしっかりコスプレを忘れないらしく、今日はスチュワーデスの恰好で講釈を垂れている。サマンサはこの世界そのものの前提が狂っているかもしれないという。
「いい? パラドックスというのは人間の理解が混乱しているだけで、真に存在はしないの。残念だけど今の基準が歪《ゆが》んでいるかどうかを立証することは不可能よ。ただ、仮定はできるわ。つまり今いる世界が何かの歪みを持っているとしたら、GAOTUが引き起こすパラドックスは逆に利用できるということよ。表を返して裏にするつもりが、実は裏を表にさせることになるかもしれないということ」
つまり今いる世界を疑えということだ。
「馬鹿げている。テロを見逃せというのですか」
ちょっと待って、とサマンサが席を外した。何か資料を持ってくるのかと思っていたら、なんとバニーガールにお色直ししての再登場だ。彼女は意味なく衣装を替える。
「私の言っていることはもっと大きな流れのことよ。レキオスそのものが二つの側面を持っているのは、実はひとつのものを右と左から見ているようなもので、GAOTUはそれを利用しようとしているの。でもあの巨大な力が人間の意志レベルで覚醒するものかしら」
「必然を伴って出現するということですか」
サマンサも上手く思考をまとめきれずに苛々《いらいら》している様子だ。ただ言葉を使うときに何か超人的な閃《ひらめ》きで語ろうとする。それに肉体が反応すると相手が鳥肌をたてるほど真実味を帯びるのだ。慎重に言葉を選びながら、サマンサが直感を言葉に変換していく。
「GAOTUは逆にレキオスに操られているかもしれない。奴らの征服欲を利用して、自らを誕生させようとしているとしか思えない」
「それはどうしてですか」
「だって今レキオスはいないじゃない。これこそ現在がパラドックスかもしれない根拠よ。たぶん、普通にいていい存在のはずだわ。いないのが常識になっているのがおかしいのよ。それはなぜ?」
「さあ。なぜでしょう」
「馬鹿。すぐに答えを放棄しないの。たぶん、周期性があるのかもしれない。現れている期間とそうでない期間がとてつもなく長いとすれば、かつて人類は見たことがあるのよ」
サマンサの思考がついに言葉を離れて展開しはじめた。要するにヤマグチはダシにされていただけである。これがオウムやインコでも同じ結果に至っていただろう。
「とにかくGAOTUの好きにさせるのよ。あなたには催眠暗示をかけておくわ。敵がどんなパラドックスを提示しても、その外にいられるようにね」
「じゃあ、GAOTUの思う壺《つぼ》だ」
「あたしはそうならないようにコントロールしてみせるわ。あなたはさっき教えた通りに動くこと。独断はしないようにね。結局馬鹿なんだから。くすくす」
サマンサが新たな計画書をヤマグチに渡していた。キャラダインに対抗できるのは、今のところオルレンショー博士しかいない。彼女が常に一枚上をいく女なら、キャラダインを出し抜くことができるかもしれない。ヤマグチは賭《か》けてみることにした。いつかアンダーソン大尉が言っていた台詞《せりふ》を思い出す。
「パイロットでも大志を持てるか……よし」
数日後、嘉手納基地ではヤマグチが首尾よく動きはじめていた。爆音に包まれる中、整備士がヤマグチを探していた。
「少尉、一応F15を五機、C整備という名目でフライトスケジュールから外しておきました。でも、そんなことしていいんですか。18WGの編成が変わりますよ」
「大丈夫だ。第18航空団には五十四機のF15があるんだ。韓国のオーサン基地の分遣隊に派遣する機体を回せば、カデナには影響がないはずだ。ひとつのFSに集中していないだろうな」
「はい。第12戦闘飛行隊から二機、第44戦闘飛行隊から二機、そして第67戦闘飛行隊から一機、それぞれ整備に回しました」
「12FSは演習スケジュールが過密だ。67FSから二機回せ」
「了解しました。改造するパーツが来週にも届きますが、本当に平気なんですよね。あの、クリスみたいなことには……」
ヤマグチが語気を強めた。
「失礼だぞ。これは『プロジェクト L』の命令なのだ。許可はおりている」
「イエス・サー」
「これからパイロットを調達する。君は整備に集中すればいい」
靴音を大きくたてるように意識して、ヤマグチは廊下を歩いていった。
「たしかにバレたら大目玉だ」
ちょっとベロを出して角を曲がる。背後では敬礼したままの整備士が硬直していた。
深夜、ペンタグラムが小百合の祈祷《きとう》とともに活発化した。その辺をうねるように炎が走っていく。白装束の女の側にマントをひるがえした男が立ち、断続的に呪文を唱えている。
「キュベレと力を合わせれば、TNTを使わなくとも爆破はできるのだ。坊やはさぞ驚くことだろう」
キャラダインが遥か遠くでライトアップされている首里城に向かうように蛇を放った。
「神殿が土地の力を封印しているのは明白だ。あの場所に住む人間がレキオスの主人となるように設計されている。ならば私が新しい主人になろう」
首里城は中国の紫禁城をモデルにした宮殿だ。沖縄風の味つけがされ傍目《はため》には龍宮城のような鮮烈な外観を誇る。小高い丘陵にある城は、那覇を一望する風の中に聳《そび》えている。宮殿を守護するのは、総勢二十三体の龍だ。これが国王に頭を垂れた臣下の拝礼のように見事に揃っている。
イオゥ! エイヴォヘイ イオゥ! エイヴォヘイ
小百合の呪文に合わせて放った蛇が炎となり、地中に潜った。ペンタグラムの頂点は活性し、規則的に脈動する。空に出現した雲が渦を巻いている。
「小百合よ、お前が土地の最高神女なら、主人の私は国王だ。さあ、かつての宮殿を破壊するがいい」
キャラダインが叫ぶと空が光った。そして何千もの雷を束ねた巨大なビームが大気を押し退けて首里城に落ちた。一瞬、城が影になる。そして次に大きな爆発音を轟《とどろ》かせた。首里の丘が闇夜に赤く浮かんでいる。キャラダインの笑い声が振動して、城に連鎖爆発を誘発させていた。
「明日が楽しみだ。世界はひとつになるのだ」
マントの裾《すそ》を掴《つか》んで大きく振り回す。ほどなく街中の明かりが消えた。
その頃ハンビータウンの地下施設では張がパニックになっていた。
「システムダウン? 馬鹿な。電源は三系統確保されているんだぞ」
「張、停電に備えていなかったのか。上じゃ大パニックだ」
「馬鹿。停電なんてあるはずないだろう。ここの電源は独立しているんだぜ。誰かが制御棒をいじったのか。炉の反応が落ちている」
しかしいくら調べても、中性子が抑制されている節はなかった。原子炉は通常発電のまま反応が止まっていた。
「核エネルギーが消費されている?」
張の背後で笑い声が響いた。
「やはり思った通りだ。五次元空間を開くと核力の二つの力が機能しなくなるのだ」
「フェルミ博士。これは一体どうなっているんですか」
青白い顔をしたフェルミが階段を降りる音を響かせる。
「自然界の四つの力のうち三つが還元されたのだ。通信不能にもなっているはずだ。これはQEDと同じ強い方程式で結ばれたことを示している」
「補助のガスタービン・エンジンを回します」
「無駄だ。電力は明日まで復旧しない」
「通信不能です。ロンドン総本部と連絡がとれません」
「明日になれば総本部など関係なくなる。爺《じい》さんどもの最高評議会は解散しているだろう。ここがGAOTUの新本部になるのだ」
青白い炎をたてたフェルミが石の扉を開く。神々しい光がさして、発令所をくまなく照らした。光はフェルミの体を貫いて影を生じさせない。目を眩《くら》ませてこの光景を見ていた李が、肉体がない証拠だと張に顎《あご》で知らせる。ふたりは、為す術《すべ》もなく地下施設に閉じこめられていた。
翌日、ヤマグチは電話とノックのけたたましい音で目覚めた。嘉手納の電源が落ちて非常招集がかかり一晩中混乱していた。サマンサがこのようなことを示唆《しさ》していたのが気になる。夜中に激しい落雷が首里にあったと聞いたが、情報が錯綜していてよくわからない。まさかキャラダイン中佐が動いたのだろうか。街は朝になると電力を回復していた。
「絶対に何かが起こっているぞ」
電話は鳴りやんだがノックは止まらない。MPかもしれないと恐る恐るシーツを引きずってドアを開けた。
「おはようごさいます少尉。すぐに礼服に着替えてください」
「はあ?」
「ミスター・キャラダインがお呼びです。すぐに民政府まで来てください」
士官は質問を許さない口調でヤマグチを急《せ》かす。狐に抓《つま》まれたような気分になる。あれだけ逆らった自分に一体何の用だろう。せいぜい付け込まれないように気を張っておこうと背筋を伸ばした。送迎車は嘉手納基地のゲートを出て南部方面に下った。窓の外を眺めていると何かしっくりこない景色が広がっているような気がする。椰子《やし》並木やどこまでも追いかけてくる海は見慣れた普段のものだ。しかし何かが違う。世界が反対になったような気がするのはなぜだろう。ヤマグチはしげしげと景色を観察して、ハッと気がついた。
「おい。この車、右側通行になっていないか?」
運転手は背後のヤマグチを笑った。そうか、と一度納得しかける。
「ヤマグチ少尉、一度ハンビー飛行場に寄りますが、よろしいですか」
「はあ?」
車は北谷町《ちやたんちよう》に進路をとった。するとヤマグチの頭につぎつぎとエラー音が響いた。ここは見覚えのある国道58号線ではあるが、東シナ海側の景色が明らかに異なった。目の前を双発ジェットのガルフストリームVが道路を越えて降りてくる。海軍VIP仕様かと思ったが、尾翼と主翼のウイングレットにどこかで見たマークがついている。
「測量用のスキリットだ。GAOTUの専用機か」
「ああ、少尉。あれはですね。世界大東社のビジネス・ジェットですよ。軍民共用で滑走路を使っているんです」
「なんだってカデナをか?」
「違いますよ。知らないはずないでしょう。三年前に物流センターをオキナワに移転してきたじゃないですか。やり手の弁務官の開放政策って奴ですよ」
唖然《あぜん》と眺めるヤマグチをよそに手慣れたアプローチでガルフストリームVは着陸していく。嘉手納基地にアプローチするにしては早すぎた。あの位置はたしか市街地だったはずだ。ヤマグチが窓から首を出すと、信じられない光景が飛び込んできた。
「ハンビータウンが、ない」
あたりを見渡す。あの雑然とした賑《にぎ》わいの新しい街が忽然《こつぜん》と姿を消していた。目の前は草原の緑を擁した巨大な滑走路だ。
「おい。どうなってるんだ。あの基地はなんだ」
運転手は露骨に眉《まゆ》をひそめた。
「ハンビー、飛行場、です……が」
「ハンビー飛行場だって? あそこは返還されたんじゃないのか」
フェンス沿いに民衆がさまざまなプラカードを掲げて抗議運動をしている。いつの間にか覚えた「──反対」という漢字が目に入ってくる。見慣れている抗議運動が見慣れない土地で行われている。ヤマグチは何度も瞬きをした。車に気づいた若い男性が石を投げてきた。車のフロントガラスが簡単に石を弾いた。
「防弾ガラス……」
「まったくしょうがない奴らですよ。世界大東社で民間雇用してやったというのに、すぐこれだ。この土地の人間は不満を言えば天から何かが落ちてくると思ってるんですよ」
また石が当たって鈍い音が車内に響いた。
「すぐにキャラダイン中佐に会わせるんだ。一体どうなってるんだ!」
「少尉、どうかされているのはあなたの方です。さっきから変ですよ」
これ以上外を見ていたら頭がおかしくなりそうだった。幸いなことに猛スピードで走っていく車は近景を振り払ってくれた。車は那覇方面に入った。今度は数本の長いベルトが道路の脇に現れた。それは地形に沿って上下している。
「おい。なんだあれは」
「パイプライン……ですが」
目を凝らすと四本の巨大なパイプが南北に伸びている。子供たちがその上にまたがって遊んでいた。
「こんなものがなぜあるんだ」
「少尉、オキナワに赴任されてどれくらい経ちますか?」
ヤマグチはちょっと考えて、バックミラー越しに運転手を見た。
「先週……赴任したばかりだ」
運転手がやっとニコリと笑う。とたんに饒舌《じようぜつ》になって説明を始めた。
「あれはエネルギー輸送ラインでナハ軍港からカデナに直接、石油を送っています。ナゴシティのキャンプ・シュワブまで総延長六〇キロメートルになる米軍の目玉ですよ。なんでしたら貯蔵基地をご覧になりますか」
「いや。よしておこう。ところでアメクはどうなっている」
「あそこは民間に転用されましたよ」
やっと符合する事実に胸を撫《な》で下ろす。
「那覇新都心構想だろう」
「そうです。世界大東社が再開発しています。ご覧になりますか?」
ヤマグチは何も答えなかった。車は浦添《うらそえ》から首里《しゆり》に向かう道に曲がった。ヤマグチは深呼吸をしてから一度ネクタイを締めた。それから窓を開けていろいろ考える。この運転手は馬鹿なのだろうか。それとも時事に関心のない軍属なのだろうか。六万人もいる軍属の中には、自分の赴任地にさほど興味を持たない人間もいる。また呼吸を整えた。
「私の祖父はここの出身なのだ。ちょっと首里城を観光したいんだが」
今度は運転手が何も答えない。
「あの真紅の宮殿は本当にエキゾチックだな。パンフレットで見たんだが」
「少尉。失礼ですがあなたは正気ですか?」
ヤマグチは自信が持てなかった。
「首里城なんて五十五年前の戦争で完全に燃え落ちましたよ。ほら、もうすぐ跡地です」
知っているルートを逆走して首里に入った。山川町の峠から那覇の街が見える。そこで少し安堵《あんど》した。遠景では何も変わった様子はない。錯覚がすぎる日だ、と自嘲《じちよう》してゆっくりと正面を見る。視野に迎え入れる前に一度心臓がドクンと鳴った。顔の動きが眼球に追いつくと呼吸が止まった。
「なんだあれは。なんなんだ!」
正面には白亜の巨大建築がそびえているではないか。昨日まで緑の杜《もり》の中に真紅の宮殿があった場所にだ。まるで入道雲のようなドームを擁した建築で、背景の空に違和感なく溶けこんでいた。そしてドームの頂上にはブロンズ製の自由の女神が据えつけられている。
「あれが民政府です。米国統治五十周年を記念して、五年前に首里城跡地に建設されたんです。いわばオキナワの新しいランドマークですよ」
「ちょっと待て。米国統治五十年記念とは一体なんだ」
「よしてくださいよ少尉。本当に士官なんですか」
ゲート前には軍人が警備していた。そのフェンスの周囲は抗議運動をする民衆たちで溢《あふ》れていた。土地の民が口々に叫ぶ。
「沖縄を返せ」
「米軍は出ていけ」
「軍事植民反対」
ヤマグチは眩暈《めまい》がしてきた。オルレンショー博士が暗示をかけていたことがやっとわかった。これから起こるパラドックスに備えるためだったのだ。博士が言っていたことを思い出す。真のパラドックスは存在しない。混乱するのは人間の理解だけである、と。この奇妙な現実を受け入れるにはひとつの解釈しかなかった。それは衝撃的な事実だった。ヤマグチは今までの疑問のすべてを飲みこんだ。
「オキナワが返還されていないんだ……」
あまりの衝撃に震えが止まらない。リアルな夢なのかもしれないとすら考えた。USCARと記された敷地に入ると連邦議会を模《も》した民政府ビルが威容を示して沖縄を睨《にら》む高台にそびえている。
「どうぞ。中でミスター・キャラダインがお待ちです」
「この中で?」
背後から襲われるような恐怖が背中をつく。ヤマグチは執務室に通された。秘書と思われる背の高いペルシアンブルーの瞳の男がドアをノックした。
「ブライアン・ヤマグチ少尉がお見えになりました」
「御苦労だったマイケル」
最初に目に入ってきたのはキャビネットの上の鰐《わに》の剥製《はくせい》だ。奥にはキャラダインが腕を組んで座っていた。
「キャラダイン中佐、あなたは一体何者なんです」
飛びかかろうとするヤマグチを押さえた秘書が恭しく紹介した。
「第十七代、琉球列島米国民政府代表、キャラダイン高等弁務官です」
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Lequios
「♪おじょうさん。おはいんなさい」
コザの離れの駐車場で縄跳び占いに興じる老婆がいる。縄はガネーシャが鼻で回している。ではもう片方は誰が持っているのだろう。実はガネーシャに彼女ができた。
「はいサト子ちゃん。上手さぁ」
相手は薬局の看板娘である佐藤製薬のサト子ちゃんだ。ガネーシャはシヴァ神の妻パールバーティの息子だ。彼女の垢《あか》をこねくって生まれたときは、まだマトモな人間だった。これを夫のシヴァが首を刎《は》ねてしまい、妻に怒られた。仕方ないので通りかかった象の首を落として、くっつけたのが現在のガネーシャだ。
「ガネーシャ、もう一回やるよ」
二匹の象の彫像が仲良く縄を回す。この前、道を通りかかったとき、お兄さんのサトちゃんと並んでいるサト子ちゃんに一目|惚《ぼ》れしたのがきっかけだ。彼女の頭についているお花が印象的だった。世の中どんなに探してもピンク色の象なんていやしない。それ以来ガネーシャは恋に陥り、夜も眠れなくなった。お互いシャイで無口なものだから、なかなか恋を告白できない。それを見兼ねた老婆がサト子ちゃんを誘拐してきたのだ。可愛いお嫁さんがやってきてガネーシャは毎日がハッピーだった。ところが災厄は突然訪れた。
「おかしいね。なんの閃《ひらめ》きも起きないさぁ」
ユタのオバァは朝から絶不調である。こんなことは初めてのことだ。彼女の占いに変性意識状態などという特別な手続きはいらない。呼吸をごく自然に行うように、閃きは生来のものである。だから奇妙な占いに走ったのだが、目で見るよりも確実にオバァは未来を捉《とら》えることができた。なのに、今朝になってまるで機能しなくなった。
「歯車が狂っているとしか思えないねぇ」
オバァほどのセヂの持ち主は、失敗を自分のせいだとは思わない。まずは世の中から疑ってみるのが定石だ。空を見る。海を見る。街を見る。大して変わった様子はない。得意のインラインスケートを履いて、滑ってみることにした。まずは慣らしにトリプル・フリップだ。インナバウアーから左足のインサイド・エッジに乗り、右足のトウをついてジャンプする。
「♪いちりっとらん」
ジャンプの軸が作れていない。空中でバランスを失ったオバァはそのまま地面に叩《たた》きつけられた。気を取り直してまたジャンプする。比較的簡単なトリプル・ループなのに跳べなかった。試しにダブル・アクセルに挑戦したが、怖くて踏み切りのタイミングがとれなかった。やはりスランプだ。
人間、弱くなったときに追い打ちがかかるものだ。特に悪さが激しかった者ほど鞭《むち》打たれる。さっそくリベンジ・マッチを申し込む海兵隊の猛者《もさ》たちが、ロシアンルーレットを挑んできた。丸太のような腕に入れ墨を施した男が軽くシリンダーを回す。銃がオバァに手渡された。まったく読めなかった。心臓が破裂しそうだ。
Shoot it!
「あい きゃーんと!」
オバァの叫びが飛び立っていく戦闘機の爆音に重なった。
「一体なんなのよ、これは?」
「私たちは夢を見ているのか」
「足の震えが止まらないぜ」
コニーたちは民政府ビルの敷地を囲むフェンスを掴んで、茫然《ぼうぜん》としていた。昨夜の大停電がまるでニュースになっていないのを不審に思って外に出た。佐藤はすぐに変だと気がついた。街に出たとたんに危うく交通事故に遭うところだった。ワイリーとコニーはパイプラインで妙なことになっていると気がついた。サマンサはコニーがすでにユタ級のセヂを獲得していると言った。セヂのある人間は物事の本質を見逃さない。車窓から見える景色は昨日と連続しているようで、どこか奇妙だ。それでも首里に入ったときの衝撃は小さな違和感の連続を吹き飛ばすに充分だった。
周囲の抗議運動の声が大きくなった。二台のバイクの先導車をつけたリムジンが入口から出てくると、フェンスを掴んだ民衆がいっせいに野次る。
「キャラダイン高等弁務官が出てきたぞー」
「独裁者は出ていけー」
「沖縄を日本に返還しろー」
「サトウ、彼らは何を言ってるんだ」
佐藤は通訳できなかった。その前に自分が納得できていない。ワイリーが大声で怒鳴るとやっと振り返ってコクンと頷《うなず》いただけだった。
「もう。あたしたちはまだ日本語を完璧《かんぺき》にマスターしてないのよ」
佐藤は頭を抱えて座り込んだままだ。車がゲートを出てきた。急いでコニーが双眼鏡で覗《のぞ》いてみる。リムジンの中には三人の男が座っていた。
「やだ。ブライアン」
次に彼女はもっと信じられないものを発見して、地面に座り込んでしまった。
「おまえら一体どうしたんだ。顔色が悪いぞ」
車が視界から消えたとき、ふたりはやっと声を出すことができた。
「オキナワが米国統治されているよ……」
「……フェルミがいたわ」
ワイリーは茫然《ぼうぜん》と立ち尽くして、長い影を赤土の上に投げていた。
「そんな馬鹿な……」
三人の意識を攪拌《かくはん》するような大声が響いてくる。デモ隊が返還歌を合唱していた。車は土煙をあげて那覇に下っていた。
車中ではヤマグチ少尉が、大声を張り上げている。
「あなたは一体何をしたんです」
「だから誰も気づかないと言ったではないか。ひとつ褒《ほ》めておこう。君をパラドックスから解放する手間が省けた。よく見抜いたな」
「そうです。普通の人間は昨日と今日が連続していないことに気がつきません」
キッと隣の男を睨んだらウインクしてきた。
「紹介しよう。秘書のマイケル・フェルミだ。なかなか有能な男だ」
「オキナワが返還されていないってどういうことですか」
「その方が都合がいいからだ。軍の力を強くするためにはこれが一番だ」
「大統領の承認を得た現役軍人の中から高等弁務官は選出されます。閣下の活躍により、任期が延長されることは確実です。連邦議会も閣下には一目おいています」
キャラダインが苦笑する。
「とまあこういう筋書きだ。オキナワの三権を掌握する高等弁務官は、何かと都合がいい。これで、堂々と計画を推し進めることができる」
ヤマグチは怒りと驚きで震えるばかりだ。
「心配するな少尉。私は悪さばかりをしているわけではない。これでもやり手なのだぞ」
「そうです。閣下はコングロマリットの世界大東社を誘致し、雇用を増大させました。平成大不況の日本とは比較にならない低失業率です」
「〇・五パーセントか。まずまずの失業率だ」
「その代わりパイプラインを設置したくせに」
「もう見てきたのか。あれは今後五年間で地下に埋設する計画だ。これで土木事業も潤うだろう。ついでに情報ハイウェイのインフラも整備してやる」
「アメリカの好景気のおかげで、オキナワは再生しました。誰も不況の日本に復帰したいなんて思いません。世論の七〇パーセントが閣下の政策を支持しているのです」
コンピューターをクリックすると円グラフが現れた。ヤマグチはもう、自分の常識を保持する自信を失いつつあった。
「アメリカ軍の後楯《うしろだて》でオキナワをアジア経済の中心にすれば、中国もおいそれと手出しできない。これに目をつけない台湾企業ではない。すぐにシンガポールの地位を奪ってやるさ。二十一世紀の初頭にはオキナワがアジアの金融センターになるだろう」
「これが閣下の推し進める軍民一体経済構想です」
その効果は車窓からでも充分にわかった。そこら中にアメリカ人が溢《あふ》れてカリフォルニア化していた。軍属よりも民間人の数が多いと補足されて納得した。コザで見られた光景が那覇まで勢力を伸ばしている。
「あなたは民衆の声を聞いていないのですか。軍の力が大きいと反発を招きます」
キャラダインの声はそれより大きかった。
「では昨日までのオキナワはどうだったのだ。八・六パーセントの失業率。軍におんぶにだっこで産業を育成しない怠慢ぶりだったではないか。返還後三十年近くを使っても経済的に立ち上がれないのは民度が低いからに他ならない。彼らはよく支配されるべきなのだ」
「何をおっしゃるんですか。軍は小さい方が効率的です。あの抗議を見たでしょう」
民政府を囲む抗議運動は、ヤマグチが今まで見た反戦デモの規模を軽く上回っている。
「お言葉ですが少尉。あの運動は日本の過激派が中心になって煽動《せんどう》しているんです。正義を掲げれば暴力も辞さないロクでもない連中ですよ。どんな時代でも彼らが職や福祉を与えてくれたためしは一度だってありません」
言われてみれば地元民には見えない連中の数も多い。当事者になれば権利が生じると勘違いしている日本人は以前にもたくさんいた。ヤマグチは首を振った。
「そんなことはない。あれは昨日の世界でもあった光景だ」
「いいえ。大多数は民政府を好意的に受け止めています。無能な地元の政治家より、奇跡を起こすキャラダイン高等弁務官に任せた方がよいという風潮なんです。軍を糾弾することだけしか能のないマスコミは無視して構いません。昨日も今日も、そして明日も」
「これは変わらない事実だな。よかったじゃないか少尉」
車窓にオバァたちが手を振っている。口々に笑顔でキャラダインの名を呼んでいた。キャラダインも慣れた様子で手を振り返した。
「福祉も高レベルで充実しています。アメクの那覇新都心が完成すれば、オキナワはアジア経済のハブになることでしょう。世界はキャラダイン旋風と言ってますが」
「どこに連れていくつもりだ」
「君に琉球政府の首席を紹介してやろう。今後我々が進めている那覇新都心構想でいろいろと世話になるはずだ」
「世界大東社か。まさにフランスの亡霊を受け継いだな。『宇宙の偉大なる建築師(Grand Architect of the Universe)』論争の発端だ」
「ついに実現したぞ。もはや亡霊ではない」
ヤマグチがついにキレた。
「こんな虚像の世界では誰も幸せにならない」
ヤマグチの怒号を抑えてキャラダインの笑い声が車内に溢れる。
「これは現実なのだよ。君のように記憶が連続している者は強制入院になるだろう。フェルミよ、さっそく府令一四二号を出して徹底的に取り締まれ」
「キャラダイン中佐、あなたは狂っている……」
すぐにサングラスを光らせて睨まれた。以前とは比較にならない迫力だった。
「米国統治はそんなに突拍子もない出来事ではない。単に返還しなかっただけだ」
「そうです。歴史はそれほどいじっていません」
「オキナワ・サミットがあったはずだ。開催は歴史的に重要だったはずだ」
車がバイパス道路に入った。古島団地のすぐ脇を掠《かす》める。
「もちろんオキナワ・サミットは執り行われた。米国がホスト国になってだが。アメリカも本国以外での開催は画期的なことだった」
「そこで極東地域における軍事的意義が再確認されました。統治はサミット各国の承認を得て今後も続きます。オキナワ宣言を御存知ないんですか」
「時代錯誤だ。こんな植民地支配は許されない」
キャラダインがまた笑った。
「自治とは神話なのだよ。ヤマグチ少尉」
活気を失っていた照屋《てるや》の黒人街は、朝から人でいっぱいだ。一夜でベトナム特需の頃を彷彿《ほうふつ》とさせる賑《にぎ》わいに生まれ変わっていた。黒人の子供たちが地元感覚で路上で遊んでいる。不景気でシャッターが下りていたセンター通りは白人街に戻った。スラム街の照屋とは裏腹にセンター通りはラスベガスさながらのネオンで溢れている。コザの街は一層|猥雑《わいざつ》にスプロールしながら、さまざまな人種の居住区を出現させていた。これに目をつけないアメ女ではない。さっそく氾濫《はんらん》する米人をゲットしようと朝からうろうろしている。ブラッキーは照屋へ、ホワイキアンはセンター通りへ、とアメ女の住み分けも完了していた。パラドックスは華やかなりしコザを復活させた。
「おーい。吉原横町に金髪のストリッパーが現れたぞー」
やいのやいのと男たちが吉原横町に集まっていく。この地域は沖縄人が通う歓楽街である。アーケードを潜ると映画のセットのように無機質な通りが展開している。人が集まる割りには、どこかよそよそしい店構えだ。ここは表看板を普通の飲み屋で装っているが、飾り窓の中にいる女と遊ぶ地区である。統治下のどさくさで横行していたかつてのいけない商売が擡頭《たいとう》していた。吉原横町は完全復活どころか、規模を拡大させている。この街はいかがわしい店のパラダイスだ。オフ・リミッツを施行されているので、アメリカ人は立ち入ることができない。民政府が不衛生で風紀上問題があると指定した地区だ。米人は優良店の御墨付をいただいたAサインバーに通うものだ。しかし物好きな米人もいるから吉原横町は常に通りをMPが巡回している。MPが来ると若い十代の米兵が裏口からサッと逃げていく。
昨日までのコザはオフ・リミッツの店が一軒しかなかったのに、今日は四百軒を越す賑わいだ。男たちがストリップ劇場に雪崩こんでいく。それに紛れて米兵の明るい髪も適度に混じっている。暑いのとお熱いので中はムンムンだ。ちょっと懐かしい高音部のみのスピーカーがカサカサに響いている。あまりの人垣で舞台がよく見えないが、踊り子の声が聞こえてくる。
「くすくす。くすくす。くすくす」
舞台では世界を代表する高名な人類学者が股《また》を開いているではないか。
「女体盛りで俎《まないた》ショー、私はオルレンショー、いいでしょー。くすくす」
なんと彼女は女体盛りで登場していた。腹の上にはお造りが並び、海老《えび》やイクラが彩りを添えている。乳房には菊がのっけてある。それを男どもがハゲワシのようにつついている。まともな神経の女なら、恐怖で失神する状況だ。なのに奴はくすくす笑っている。ステージに上がった男がどれ、そこのガリをひとつまみと賞味する。
「いやん。それは本物のビラビラよ。くすくす」
このようにパラドックスにへこたれない怪人がいる限り、人類は存続することだろう。サマンサは吉原横町に現れると飛び入りストリッパーになった。パラドックスは通用しないと豪語していたくせに、美味《おい》しいところは全部|浚《さら》っていくつもりらしい。ここは強権を発動する民政府ですらお手上げの地域だ。だからオフ・リミッツ令で臭いものに蓋《ふた》をしている。吉原横町はほとんど治外法権の扱いだった。デタラメな場所であればあるほど、サマンサは好んで現れる。しょせん、澄んだ水には住めない育ちの悪さだ。
沖縄が再び米国統治下におかれた夜、ハンビータウンのネオンが滑走路の誘導灯の点滅に変わった以外、何の変化もみられなかった。天久開放地も昨日と同じ荒涼とした静けさだ。縦横無尽に伸びた島の路地まで夜が進入していくと、昨日と同じ位置でたっぷりと闇を満たした。ゲートから米兵が流れ出して、コザの適当な明かりに落ち着いていった。夜は基地と沖縄を等しく繋《つな》ぐ唯一の時間だ。
深夜、星空の一番高い場所から、大地に声が届いた。
準備は全て整った。いくぞキャラダイン。[#「 準備は全て整った。いくぞキャラダイン。」はゴシック体]
二日目、ドームに据えつけられた自由の女神が朝日を迎えた。雲かと見まがう建築物が青空に溶けこんでいる。キャピトル・ヒルに穏やかな風が吹いていた。
「なんだか馬鹿でかい建物ね」
(アメリカの首里城ってところだろう)[#「(アメリカの首里城ってところだろう)」はゴシック体]
「馬鹿ね。この国は大統領制なのよ」
デニスはワシントンD.C.にいた。全体的に柔らかな光はいつまで経っても朝が抜けない風景にみえる。コントラストのつきすぎた極彩色の景色で育った彼女には、どんなに近づいても遠景にみえる。しかし湿度の低い空気の具合はよかった。水飴《みずあめ》状の沖縄の空気から解放されるには、バイクの疾走以外に方法はない。しかしここは立っていても時速百二十キロメートルのときの軽さだ。用意してもらったバイクにまたがっていつものように走ると違和感がある。ハーレー・ダビッドソンで街を走ったがワシントンD.C.は狭すぎた。あっという間に郊外に出ると、スピード以上で駆け抜けた気分になった。
「なんか黒人ばかりいて変な気分だわ」
(おまえが言う台詞《せりふ》ではない)[#「(おまえが言う台詞《せりふ》ではない)」はゴシック体]
ユニオンステーションのすぐ脇からコザをもっと頽廃《たいはい》させたような猥雑な街が広がっている。そこへ入ると、さすがに緊張を強いられる。彼女にチラリと目をやったストリートの人々は、勝手に存在を黙殺してくるのに、そんなことも露しらず、デニスは目が合えば愛想笑いを返してばかりいる。
「なんか調子が狂うのよね。まるで世界が変わったみたい」
アメリカンスクールはこれに比べればまだ東洋的だ。街中が黒人だと気分がいいかと思ったらかえってスタンスの取り方がわからなくなり、戸惑う一方だ。途中で寄った香港の方がまだ勝手がよかった。カルチャーショックなんてないと高を括っていたのに、見るもの聞くものすべてに驚いている。そしてどこかで沖縄を探していた。空の色も違う。公園の木も違う。ときどき歩いている東洋人を見ると、やっと息をつける気分になる。
バイクをペンタゴンの前で止めた。父の住所は聞いている。なのに、まだ電話も入れていない。「ハロー。あたしデニスよ」と言ってもわかるはずがないし、ましてや褪《あ》せた写真の父がこの顔のまま出てくれるわけでもない。どんな顔をして年をとったのだろう。再婚したのだろうか。そこに家族の幸福があるのだろうか。もし家族が自分の存在を知ったら、けっしていい顔はしないだろう。それには確信がある。自分が相手側の人間だったら、訪れた極東の遺児を歓迎はしない。もしかしたら幸福を脅かす人間と見るかもしれない。以前は心に痼《しこり》があるのは父のせいにしていた。それが一番簡単だった。しかし今は父に恨みを持とうと思っても、どうも力が入らない。闇雲に叫んで鬱憤《うつぷん》を晴らしていた子供時代はもう終わっていたのだ。
(ここで見張っているつもりか)[#「(ここで見張っているつもりか)」はゴシック体]
「別に……。ただなんとなく。なんとなーく……」
ハンドルに頬杖《ほおづえ》をついて、巨大な壁にしか見えない国防省の窓の数を数えていた。生来の目のよさから、すぐに計算し終えていた。職員が出てきても、ピンとくる顔は見当たらない。なぜ自分が父を探しているのか、その気持ちの根拠も見当たらなかった。思い出はひとつもない。話すら聞いたことがない。理恵とふざけてでっち上げたストーリーの中にしか父はいなかった。ちょっと間の抜けた朴訥《ぼくとつ》な男を描いていたのに、それすら崩れさった。だからと言って、父がよい人間だという証拠はない。たとえベトナム戦争の英雄でも、将軍に出世していても、自分を捨てたことには違いないのだから。
「これってもしかしてストーカーなのかなぁ」
(おまえ馬鹿か。実の父だぞ。父親に会うのに理屈なんかいるか)[#「(おまえ馬鹿か。実の父だぞ。父親に会うのに理屈なんかいるか)」はゴシック体]
今度はハーレー・ダビッドソンのハンドルに脚を乗せたデニスが大声で笑った。付近を通り過ぎる人が不審そうな眼差しを送ってもお構いなしだった。もし、ひとりだったらアメリカに来なかったかもしれない。かと言って理恵と一緒に旅行しても、ペンタゴンまでは来なかっただろう。この得体の知れない女を自分の内的な声と思えば、これほど楽な存在はない。ときどきわがままをするが、ペンタゴンを前にぼんやりと三時間を過ごしても、文句を言うわけでもない。このまま消極的に父に会えずにペンタゴンを後にすることになるかもしれないのに、それをとっくに受け入れているような気がするのだ。
「ねえ。まだ聞いてなかったわよね。なんであんた逆さになったの?」
(人の領分に立ち入るんじゃない)[#「(人の領分に立ち入るんじゃない)」はゴシック体]
「あんたの言う台詞じゃないわよ。勝手に取り憑《つ》いているくせに」
チルーは黙ったままだ。ワシントンD.C.の緑地を空にして、遠くを見ていた。
「あんなにきれいな人だったのに。なんで?」
(人にはいろいろある……)[#「(人にはいろいろある……)」はゴシック体]
デニスはバイクにもたれて、後部シートをポンと叩《たた》いた。チルーはそこに長い髪をとぐろ巻きにして置いた。
「家賃分だと思って話しなさい」
チルーは重い口をやっと開いた。
(私が真嘉比《まかび》のチルーと名乗っていたのは今から百四十七年前のことだった……)[#「(私が真嘉比《まかび》のチルーと名乗っていたのは今から百四十七年前のことだった……)」はゴシック体]
ちょうどサスクェハナ号が琉球を訪れていたときのことだ。チルーは師匠ベッテルハイムとともに、聖書の反訳を行っていた。語学の天才ベッテルハイムは、いくつかの見通しをつけると、まずは習得していた漢字で福音書から手をつけた。
「先生、これはなんと読むのでしょうか」
「チルーよ。それは『馬太─マタイ─』と読むのだ」
無学だったチルーは言葉を文字に置き換えられることに、度胆《どぎも》を抜かれた。これほど便利なものが世の中にあっただろうか。自分の言葉がベッテルハイムにかかればすらすらと文字になって残る。少し前にしゃべったこと、昨日しゃべったこと、半年前にしゃべったことが、一言一句違わずに再現できる。しかも彼は異国人だ。それをさらにつぎつぎと外国語に翻訳してみせた。まるで魔法使いのような男だ。彼には切支丹の中国人オーゲスタ・カウという愛弟子がいた。チルーは最初、夫の病気を治してほしくてベッテルハイムの住処《すみか》となっている波之上護国寺をたずねたが、すぐに彼らに興味をもった。
「まったくキリスト教徒に仏教寺院を与えるとは無神経な連中だ」
小さな眼鏡がトレードマークになっていたベッテルハイムを琉球の民は「ナンミンノガンチョー(波上の眼鏡)」と呼んでいた。布教には王府の厳しい監視がついており、しばしば邪魔されたが、こうやって地道に聖書を訳している。
「ベッテルハイム博士。カプリイス号に乗船してください。特使が見えておられます」
「やれやれ、また通訳か。チルーよ、そこの馬太をよく読んでおくように。これから日本語への反訳を試みる」
と言われて読めるチルーではないが、ベッテルハイムの背中を見送ると書物を眺めるのだった。文字が書けたら、どんな気持ちを綴《つづ》ってみよう。特別な日の特別な思いを自由に記してみたい。忘れてしまった遠い日を思い出せるような文字を使いたい。しかし、女が学問をするなんて世間が許さないだろう。チルーは覚えたてのいくつかの文字を書いてみた。縁側から降りると湿った日陰の土に「花」と文字を記し、あたりをキョロキョロ見渡して、すぐに掌《てのひら》で消した。
「どうして博士はあの女に親切なんですか。切支丹になるとも思えないのに」
颯爽《さつそう》と歩いていくベッテルハイムは後ろにいつもオーゲスタ・カウを従えている。
「役に立つ女だ。怪しまれないように慎重にしていろ。ここが外国だということを常に忘れるな」
「畏まりました」
ベッテルハイムは時に凄《すさ》まじい緊張を放つ。オーゲスタは心得て監視の役人らに気づかれないよう、わずかに目だけで了解した。
「我等には敵が多い。あの邪魔くさいアメリカ艦隊さえいなければ事も楽だったろうに」
「博士はどちらの味方なのです」
「私は常に自分の使命に従うだけだ。白人といえども仲間ではない。ましてや独立したてのアメリカに払う敬意など初めから持ち合わせていない」
それは彼の生き方に反映されていた。ベッテルハイムはイギリス国籍だが、妻の国籍に合わせて帰化したハンガリー人だ。現在、英国プロテスタント教会の宣教師の身分で琉球にやってきているが、彼のシャツの中に輝く六芒星《ろくぼうせい》ペンダントをオーゲスタは見逃さなかった。それがベッテルハイムの処世術をよく表していた。彼は目的のためなら、どんな手段も厭《いと》わない。宣教師は世界を巡るための仮の姿なのだろう。
「とりあえず一番邪魔な土地のシャーマンから消えてもらおう」
「友庵と名乗る男のシャーマンですね。なんでも未来と過去を見通せる神通力を持っているとか。友庵もカプリイス号に乗船してきます」
「こら、ベッテルハイム。異国語で内緒話をするな。琉球語を使用せよ」
役人らが怒鳴ると、ベッテルハイムはこの上ない優しい表情で微笑み返すのだった。王府がピリピリしているのも無理はない。アメリカが琉米修好条約の調印を迫っているからだ。こんな条約は建前にすぎない。要するにアメリカは植民地がほしいだけだ。それも日本開国に失敗したときの保険にだ。しかし庶民はまだ、時代の流れを知らない。やってきたアメリカ人からビスケットを貰《もら》おうと彼らの後ろを犬のようについて回っている。
チルーは真嘉比の丘から那覇港を見渡し、それでも威容を衰えさせない黒船の甲板付近をずっと眺めていた。
「ウイリアム様も、出席されるのだろうか……」
我に返ると急いで家に走った。病気で寝たきりになっている夫は、チルーが戻るなりきつい言葉で詰《なじ》る。
「今日はどこの男と情を交わしたのだ。私がこんなだからといって、あまりではないか。昔のおまえは貞淑だったのに、今やただの遊女だ」
「そんなことはございません。私は護国寺でベッテルハイム先生のお世話をしてきただけです。先生のお薬でよくなったではないですか」
「ベッテルハイムと寝てよいとは言ってない」
「違います。先生は立派な方です。あなた、もうそんな考えはおよしになって。私に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せても、潔白と申しあげるしかありません」
さっきまで保たれていた希望の顔も、ここでは惨めに髪を振り乱す女になってしまう。毎日毎日がこの調子で詰られた。彼は病だというのに、妻に猜疑《さいぎ》を抱くときだけは一点を睨《にら》みながら平坦な調子でしゃべる。よくそんな気力があるものだと初めは呆《あき》れもしたが、夫が床に臥《ふ》してすでに一年余り、もはや絶望的な気分にさせられるばかりだ。
「私はおまえが美しいから心配しているのだ」
ある日、チルーは噂に高い三世相《さんじんそう》を訪ねてみることにした。
那覇の遊廓《ゆうかく》、辻町にはジュリと呼ばれる遊女がいる。彼女たちがこぞって占ってもらっているらしい。もちろん幼い頃から芸事をたたき込まれたジュリは、立ち居振る舞いも見事なものだ。
金と暇ができれば、次に男を手に入れたくなるのが人情だ。人気のあるジュリの身請けは引く手あまたで売手市場だ。だからこそ悩みも多くなる。ここはひとつ高く売っておけ、というのが女の大得意な計算というやつだ。手っ取り早いのは、今でもそうだが、占いに頼るのが一番である。中でも人気があるのは男の霊能力者の友庵だった。
華やかな衣装をまとったジュリたちで、友庵の館は毎日が押すな押すなの大盛況だった。時代がこのように不安定だと、新興勢力が擡頭《たいとう》してくるものである。ジュリの中にも風変わりな者が出現して、無視できない存在になりつつあった。ここにその代表格とも言える二人のジュリがいる。
「ねー。友庵ってばー。トムとーマシュー、どっちがいーかなー」
「二股《ふたまた》はよくないよー。ナビー」
「えー。なんでー?」
彼女たちはジュリでありながら芸事を怠り、あろうことかやってきたペリー艦隊のアメリカ人水兵の追っかけになっていた。友庵は彼女らがミシシッピー号からくすねてきたラム酒ほしさに占ってやる。これが泡盛とは違った酔い方をするから面白い。
「で。具合がいいのはどっちぢゃ」
「んーとねー。トムのアレは顎《あご》が疲れるヂラー。マシューのは柔かくてダメぢらー」
人類は進歩していないという例がここにある。今やペリー艦隊は琉球中の噂の的だ。彼らはよくビスケットを謝礼にくれる。これが美味《うま》くて水兵の後ろはジュリの追っかけだらけになっていた。ナビーは最近、英語を覚えた。
「ギブミービスケット、アドミラル・ペリー」
こんなダメ女でも可愛いと思う水兵はいるもので、なかなかの需要があるから不思議だ。白人専門のジュリはナビーだ。黒人専門のジュリはカマドーだ。ビー玉一個で一晩やらせてくれるものだから、人気も上々だ。楼の身請け親のアンマーも彼女たちの能なしぶりには困っていた。才能というのは一握りの人間にしかない。かといって高くつく人間だけでは供給が追いつかない。どんな商売でも、安かろう悪かろうで補わなければならない隙間があるものだ。
「んでー。あたしのー、来世とかー、見てくれるかなー。御主加那志前《うしゆがなしーめ》のー、愛人とかにー、なってると思うんだけどー。次の人生もー、ジュリがいーなーって感じー?」
友庵はほとんど今と変わらない未来を見据えた。
「お主の来世は、広美と名乗るジュリである」
「やだー。変な名前ー。ろみひーの方がー、言いやすいのにー」
「あー。くれぐれも名前を変えないように。おまえと広美は同一線上だが、名前を変えると収拾のつかない事態になるからな」
そして、やっとチルーの番がきた。友庵に酒を納め、介護の苦労を聞いてもらいたかった。人の苦労とはどんな時代でも同じである。チルーが尋ねたのは、夫がいつになったら快方に向かうのかということだった。しかし友庵の答えはにべもない。
「無理ぢゃ」
マーライオンのように口から大量のゲロが溢《あふ》れている。それでも酒を呑《の》むことをやめられない。納めた酒を呑み尽くすと、腰に巻いていたダチビンの酒を呷《あお》るのだった。
「そんなことをおっしゃらずに、どうか方法を考えてくださいませ。友庵様に見捨てられると私は生きていけません」
「しかし無理なものは無理なのぢゃ。そなたの亭主の病が治ることはないだろう。あと三十年ほど臥せたまま生きるようぢゃ」
チルーは眩暈《めまい》がした。一年もよく堪忍袋の緒を切らずに辛抱したと思っているのに、これから三十年を耐えることは不可能だ。今まで意識に浮かばせることはなかったが、夫の死期が勝手に早まる分には、いくらか受け入れる余地があったことをやっと認識した。
「友庵様。私はけっして多くを望んでいるわけではありません。せめて、亭主が元気になってくれるなら、どんなことでもいたしましょう」
「その決意に偽りはないな」
チルーが頷《うなず》くと、友庵は頭をぐるんぐるんと回して、酔いを強めた。三つの運命を司《つかさど》るには、現世だけに囚《とら》われてはならない。大局的な見地を得るためには俗世をぼんやりさせるのが一番である。ガクンと首が折れて、またゲロを吐いた。
「そなたの亭主が回復する道はひとつある」
「なんなりとおっしゃってください。もう詰られるのは辛抱できません」
「そなたの美貌《びぼう》が問題ぢゃ。亭主は心の病を患っておる。まずはそれから治した方がよい。自ずと身体も回復するぢゃろう。らりらり」
「つまりどういうことです?」
「美貌を失えばよいのぢゃ。これができなければおまえは一生看病にあけくれるぢゃろう。なんでもするんぢゃなかったのか」
チルーは賭《か》けてみようと決意した。元気だった頃の夫は思いやりがあり、彼女を労《ねぎら》ってくれる優しい男だった。彼が言っていたことを思い出す。チルーの美貌よりも、働き者であることが魅力なのだと何度も言ってくれた。それを思えばこそ、なおさら尽くせた。自分より美しい娘は他にもたくさんいたが、彼女らには目もくれず、自分に一心の愛を注いでくれた。信じてみよう。
「わかりました。それで夫が治るのでしたら、私はどうなっても構いません」
彼女は友庵の館を後にした。辻は花街だが、昼間もそれなりに活気がある。友庵の館と並んで人気を二分するのが、優しい匂いで人を誘う屋台だ。
「グスージヤイビーン。グスージヤイビーン(お祝いだからねー。お祝いだからねー)」
痩《や》せぎすの老婆ふたりが焼くポーポーは、不思議と人を懐かしい気持ちにさせる。チルーはそこでポーポーを買った。一口食べれば一番上等な思い出が蘇《よみがえ》る。二口食べれば自信が湧いてくる。食べ終われば昨日までの自分と訣別《けつべつ》できた。
「マチーおばさん。ポーポーを一本ください」
と涙目のジュリがつぎつぎとやってくる。商売柄いろいろなことがあるのだろう。親に売られ、ジュリとして身を保っていく以外に生きる術《すべ》のなかった女たちだ。愛情を知らない娘たちが、男を慰める。本当の愛情がどこかにあると信じて、今日も辻のジュリたちは笑顔で客を迎える。ジュリが無邪気なのは、一番幸福だった売られる前の日に止まっているからだろう。少女のような、無垢《むく》な一瞬を垣間《かいま》見せる。唯一、幸福を思い出すのは、ここでポーポーを食べるときだけだ。チルーはジュリたちが無邪気な表情に戻っていくのを見ていた。ジュリが好んで食べる理由がわかるような気がした。
その中で一心不乱にポーポーを食べる女がいる。ボロ布をまとっただけの見すぼらしい女の物|乞《ご》いだ。マチーとガルーが不憫《ふびん》に思って、冷めたポーポーを与えているのだ。しかし身なりとは裏腹な彼女の燃えるような熱い瞳《ひとみ》はどうだろう。まるで明日への希望を手に入れているかのような艶《つや》やかな眼差しだ。チルーは声をかけてみたくなった。
「あなたはどうして悲観しないのですか」
女はこれはかりそめの姿にすぎないと笑う。
「あたしはいつか神の子を産みますわ。でもその前に、私の七つの罪を贖《あがな》わなければなりません。この前、二つの罪が神の楽器の高鳴りに合わせて赦《ゆる》されましたわ」
女はジュリをやめて許しを請う毎日だそうだ。栄光の日は必ず訪れると信じているから悲観は意味がない、とまた瞳に思いを漲《みなぎ》らせる。
「波上の眼鏡が契約の箱を開こうとしていますわ。あたしはその時まで祈ります」
マチーとガルーが祝福の言葉を口ずさんで屋台を押していく。
そして家に戻ると夫にこう切り出すのだった。
「あなた。私が貞淑な妻であることを証明すれば、治療に専念していただけますか?」
「おまえはまた男と逢《あ》っていたのだろう。どんな男に抱かれてきたのだ……」
「私はあなた以外の男と情を交わしたことは一度もありませんし、これからもありません。いま一度お尋ねいたします。私のどこを気に入って妻に迎えてくれたのですか」
夫は気丈に見つめてくるチルーの視線を受け入れてあの日の言葉を紡いだ。
「おまえは働き者で気立てがよい。そして誰よりも優しかったからだ」
「けっして私の容姿に惚《ほ》れたわけではないのですね」
「もし、私が盲《めしい》であっても、きっとおまえを選んだだろう」
夫は青年だった日の精悍《せいかん》な顔つきに戻っていた。彼女はこの偽りのない目を信じたのだ。
「では、私が醜くなっても、愛してくれますね」
「人は誰でも老いていく。若い日の美貌を保って生きている者は誰もいない」
彼女は友庵の言葉を思い出した。ポーポーの香りが口腔《こうこう》に広がる。貧しくてもふたりが睦まじかった日が、形を帯びてきた。チルーは包丁を握ると、一気に自分の鼻を削《そ》いだ。ボトリと白い鼻が夫の目の前に落ちた。
「こうなれば私に目をくれる男はいなくなるでしょう。これで安心していただけますね」
夫は仰天したが、すぐに鼻のなくなった妻を以前と変わらない眼差しで見つめてきた。
「私はおまえの真心に惚れたのだ。醜くなったからといって嫌いになるわけではない」
夫は次の日からみるみるうちに快方に向かった。鼻のなくなったチルーは日中に街に出ることはなくなった。たとえ出るときでも頭巾《ずきん》をすっぽり被《かぶ》り、顔をわからなくした。夫は以前のように猜疑心をつのらせることはなくなった。それどころか、毎日感謝の言葉で彼女を労ってくれた。それに比べれば鼻ひとつ失ってもどうということはない。ひと月も経たないうちに夫は外で働けるまでになった。家には笑い声が溢れ、妻の姿を気づかった夫は元気な頃の倍は働いた。
ところがそんな幸福は長くは続かなかった。
「チルー、今夜は仲間が家にやってくる。おまえは隠れていなさい」
という夫の声を聞いたとき、チルーは耳を疑った。この日を境に夫はチルーを避けるようになった。
「あなた、どうしたのです。最近、家に戻ってこないではないですか」
夫はチルーの声を聞くことすら煩わしくなっていた。チルーは気づかって家の中でも頭巾を被っていたが、その姿すら薄気味悪くなっていた。チルーがすがってくると、
「ええい、この鼻のない女め。おまえを養っているだけでもありがたいと思え」
と足蹴《あしげ》にする。夫は外で新しい女を作っていたのだ。チルーの心は怒りで燃え上がった。こんな姿になって辱められて、自分は人目につかぬまま年をとっていくのだ。怒りはやがて滝の涙となり、心は嵐に見舞われた。それでもまだ憎悪は収まらない。やがてカラカラに渇いた心は灼熱《しやくねつ》地獄になった。チルーは自分の顔を改めて見た。
「おおおお……」
鼻のあった顔の中心が、黒く腐っていた。目を背けたくなるほどの醜悪さだ。他人ならまだ目を背けるだけですむ。これは間違いなく現在の自分の姿なのだと思えば、全身の細胞が沸騰するような怒りに見舞われる。チルーは鏡を投げつけ、砂粒より小さくなるまで砕いた。
孤独になれば人の声だけでも聞きたくなるもので、仲のよかった婦人たちの洗濯《せんたく》に入ろうとした。彼女は愛想がよく、人気もあった。なのにかつての仲間は禁忌《きんき》に触れたような顔で退ける。路上で犬猫の死体と不意に遭遇したときの表情だった。以前は慰めてくれる者がひっきりなしに現れたのに、今では子供たちまでもが石を投げつけてくる。
「ハナモーッ(鼻無し)」
悲しくて涙を落とすと、大地を汚すなと棒で叩《たた》かれた。不潔だから気を失うなと睨まれた。唯一、彼女を慰めてくれたのは慕っていたベッテルハイムだけだ。医師の技術をもつ彼は、蝋《ろう》で作った鼻を与えてくれた。それでもかつての自慢の鼻とは比べ物にならない。ベッテルハイムは言う。
「そなたの心はイエス様の教えに添うものだ。きっと報われよう」
しかしそのおかげで切支丹の疑いまでかかる。王府の役人もチルーを処罰するよい口実ができたのを内心喜んでいたほどだった。
「異端に落ちたか、この鼻のない女め。おまえはもはや私の妻ではない」
夫は公衆の面前でチルーを打ち据えた。夫はもう優しい男ではなくなっていた。
ある日、久しぶりに夫と並んで夕餉《ゆうげ》をとった。不思議と優しいので不審に思ったが、また昔のような生活に戻れるのではないかという期待が、胸に湧いてくるのを抑えられない。チルーが汁を啜《すす》った。そのとたんすぐに全身が震え、意識が朦朧《もうろう》となった。
「毒の量が少なかったのかな」
奥から女の声が添えられる。
「波上の眼鏡から貰《もら》ったベラドンナという毒だそうよ」
「せめてもの情けだ。止めを刺してやる」
ドスンと胸に熱いものが突き刺さるのを感じたチルーは、瞳《ひとみ》を潤ませたまま息絶えた。
万歳ラー。汝《なんじ》、船に乗り
闇の洞窟に行く者よ
我は鐘を打つ、我は炎をおこす
我は神秘なる名を発す
アブラハダブラ
真嘉比の丘に鐘が響く。ここは昼すら人の訪れないさびれた墓地である。そこに真新しい旗が夜風に悲しく靡《なび》いている。昨日葬られたばかりの印だ。その墓地にマントをひるがえしてやってきた栗色の髪の男がいた。風が強くなってきた。男が手に持っているのは銅の鐘だ。荒涼とした静けさに錆《さび》色の波紋が十一回広がった。
今や我は祈祷《きとう》を始めたり
汝、子供よ、聖なる名前にして清浄なる者よ
汝の治世は来たれり、汝の意志はなされり
ここにパンあり、ここに血あり
真夜中から太陽へと我を導け
我を悪と善から救え
全ての十のうち汝の一つの王冠こそ
今もこれからも我のものなり。アーメン
血を流したる我が胸を見よ
秘蹟《ひせき》の印に傷つきたり
恩寵はなく、罪もなし
これこそ法なり、汝が意志するところを行え
アブラハダブラ
最後の鐘の音が静かに大地に染みていく。この鐘の響く範囲の草木がどんどん枯れて、放出された夥《おびただ》しい断末魔が球体になった。男がそれを抱えて墓の中に落とす。すると土の中から手が飛び出てきた。ズバッと土が一気にまくれると髪を振り乱した鼻のない女が現れた。顔は土気色だが、瞳だけがキラキラと潤んでいる。貴婦人の名をもつベラドンナのせいだ。弔われたばかりのチルーは足でしっかりと大地を踏みしめながら、マントの男の前に跪《ひざまず》いた。
「このまま死ぬわけにはいきませんでした。お礼を申し上げます。ベッテルハイム先生」
「そなたの無念をしかと受け止めよう。そなたの欲するままに行動するがよい」
「まずは憎き我が夫に恐怖を与えようと存じます」
男は腕をひねるように鐘を十一回鳴らした。響きが消える間に、チルーは真嘉比の丘から姿を消していた。
「ちょうどよい状態に変化してくれた。亭主を病にしたのはこの私だというのに。だから無知な者は御しやすい。存分に暴れてこい。私はこのときを待っていたのだぞ」
ベッテルハイムの高らかな笑い声が真嘉比に吹きつける風に乗って、響きわたった。
「おのれえええっ。初七日も済んでおらぬというのに」
夫の枕元に現れたチルーは、見知らぬ女に腕枕して寝入る夫に髪の毛を逆立たせた。寒気がして目が覚めた女は、チルーの目が放つ光に悲鳴をあげた。すぐに夫も飛び起きる。
「我が無念を思い知るがいい。この女の魂魄《こんぱく》をいただく」
チルーの爪が女の胸を突き破り、背中に飛び出た。血《ち》飛沫《しぶき》が夫の顔にかかる。チルーは途方もない力を得ていた。
「この死に損ないが」
「私をこうしたのはおまえだ。これから毎晩呪ってやろう。満足に死ねると思うな」
予告通り、男は毎晩恐怖という恐怖を味わうことになった。彼女はすぐに殺すなどと勿体《もつたい》ないことはしなかった。寝ている夫の首を髪の毛で徐々に絞めていく。次第に悶絶していく様を眺めながら、間一髪というところで解放する。これを朝まで繰り返した。男はみるみる痩《や》せ衰え、息をするたびに肋骨《ろつこつ》が砕けるような痛みを伴うようになった。闇はチルーの領域だ。瞬きするといつでもチルーの顔が瞼《まぶた》に現れた。昼は影を夜は闇を縫ってやってくる。朝になると無数の足跡が床一面についていた。魔除けで封じてみたが、これをすぐに破ってきた。高名なユタに祈祷してもらったが、太刀打ちできないほどの怨念であるという。男は一睡もできなくなっていた。
このままでは発狂死してしまうと決意した男は、ある昼下がりチルーの墓を暴いた。亡骸《なきがら》は腐らずに葬られたときのまま残っていた。彼女は目をカッと見開いたまま、悶絶死したときの表情を保っている。
「昼間はさすがに動けないか。二度と出てこないように足を封じてやる」
まず足を金槌《かなづち》で砕いて歩けぬようにしてやった。原形を止めぬほど砕いて帯状になった両足を捩《よじ》った。それでもチルーがやってくるかもしれない。用心のためさらに釘《くぎ》を取り出した。足の甲を重ねて五寸釘を四つばかり打ちつけた。柩《ひつぎ》に足を固定されれば二度と化けて出ることもあるまい。男の仕返しは成功した。それからしばらくの間、チルーの亡霊が現れることはなかった。すっかり気を休めた男は辻《つじ》の遊廓《ゆうかく》でジュリと遊ぶようになった。遊廓に泊まったある日のことだ。鼻をくすぐられる感覚に目を覚ました。薄目を開けると髪の毛が顔の前で揺れている。男が起き上がるとチルーの顔が宙に浮かんでいた。
「あの程度で私を封じられると思うな」
足を奪われたチルーは頭を下にして現れた。逆さになったチルーは一層凶悪になっていた。男はこの後、全身の関節という関節を外されて、蛸《たこ》のような状態で放置された。息も微《かす》かでどうにも処置ができない。その不吉な様を恐れた遊廓の主はそのまま男を布団にくるんで末吉の森に捨てた。そして男は生きたまま野犬の餌になった。しかし、それでもチルーの怒りは収まらない。
「元はと言えば、あの三世相が占いを間違えたからだ。この姿のままでなるものか」
逆さになったチルーは雲を呼び起こし、するすると天に昇っていく。那覇の街を見下ろせる高さまで昇ると、港にはペリー提督の旗艦サスクェハナ号とミシシッピー号の明かりが見えた。港でマストを見たとき、空を突くようだと驚いたが、今のチルーはそれよりもはるかに高い位置にいた。甲板では三司官らをもてなすパーティーが催されていた。その中に通訳で入ったベッテルハイムがいる。
「どうしたのですか博士」
「いや。雨が降りそうだと思ってな、オーゲスタ」
「そうですね。ところで、計画に最良の場所を見つけました。勢理客《じつちやく》からすぐの森です」
ベッテルハイムが頷くと鼻の上の丸眼鏡がキラリと輝いた。
「ウイリアム様……」
チルーは思いを振り切り、船から目を逸《そ》らした。衝動的に鼻を削がなければ、こんな事態にはならなかったように思う。どうしてあんな下らない男のために、あそこまでしてやったのだろう。なぜ一瞬でも真心に感謝したのだろう。信じようとしたのだろう。しかし、男が死んでしまった今となっては自分の愚かさだけが残る。あのまま床に臥《ふ》せさせて見殺しにしてやっても惜しくないほどの男だったのに。
「おおおおお……」
チルーは上空で泣いた。涙はやがて雨になり、嗚咽《おえつ》の声は雷となって轟《とどろ》いた。丘の上の真紅の宮殿のある首里へ、賑《にぎ》やかな那覇の街へ、ささやかな暮らしをしていた真嘉比の集落へ、とチルーの涙は降り注いだ。雨を浴びたジュリの女たちは、口々にこう囁《ささや》いた。
「誰が泣いているのでしょう。この雨は冷たすぎます」
大地は川になり、海へと流れていく。チルーは生きていればこその幸福をやっと知った。どんなに疲れていても、どんなに行き詰まっていても、生きてさえいれば希望があった。死んで怨霊となればその最後の望みすら持てない。
「友庵。元に戻してくれ。私を美しかった昔に戻してくれ。おまえが余計な知恵を授けたばかりに、私は、私は」
友庵の館を見つけると、髪を槍《やり》のように固くして突き刺した。しかし勘がよい彼は一足先に逃げていた。
「おのれええ、友庵ッ! どこへいったああっ」
これがチルーの過去だった。
「凄《すさ》まじい話ね。でも……。あんた可哀そう」
(同情されたくはない)[#「(同情されたくはない)」はゴシック体]
ペンタゴンの窓には明かりが灯《とも》っていた。それがつぎつぎと消えていく時間になっている。デニスはチルーの話を聞きながら、なぜ元に戻りたがっているのかがわかった。愛した男に裏切られ、惨めな姿のまま時間を彷徨《さまよ》うことほど悲しいものはない。
「道理で、躍起になって友庵を探そうとするはずだわ。あたしでもきっとそうするもん」
(同情恐れいる。だから協力しろ)[#「(同情恐れいる。だから協力しろ)」はゴシック体]
「諦《あきら》めなさいよ。父親を探すだけでこんなに手間がかかるあたしよ。中途半端な人間に取り憑《つ》くと損するだけ。サマンサみたいなのにしなさいよ。速攻で解決するわよ」
(あいつはセヂが強すぎて憑けん)[#「(あいつはセヂが強すぎて憑けん)」はゴシック体]
怨霊《おんりよう》でもお手上げなのだから、人間が振り回されるのも仕方がない。デニスはセヂがどのようなものかよくわからないが、セヂが漲《みなぎ》っている人間には迫力がある。
「ねえ。死んで何かわかったことってある?」
チルーはしばし考えた。そして最後に残ったペンタゴンの明かりを見て、呟《つぶや》いた。
(生きているうちにするべきことをしないと後悔するということだ)[#「(生きているうちにするべきことをしないと後悔するということだ)」はゴシック体]
デニスはわかると頷きかけたが、生きているのも楽じゃないと反論したかった。バイクのエンジンをかける。意気地なしだとわかっていた。それを責められたら何も言い返せないが、チルーは黙って後ろからついてきた。
ザ・リッツ・カールトンでの目覚めは、最高の朝を約束してくれた。起きるための理由を考える手続きよりも、自然と窓を開けてみたくなるし、自然に食事を欲している。手帳にメモした父の住所はこのごく近所だった。白人街と言われるだけあって、町並みが極めて清潔だった。これとよく似た雰囲気が米軍キャンプだと思った。保養地なみの設備をもつキャンプ・コートニーが突然ドアの外から始まっても、見分けがつかないだろう。
(どうせ今日もペンタゴンの前でぼんやりするんだろう)[#「(どうせ今日もペンタゴンの前でぼんやりするんだろう)」はゴシック体]
デニスは何も言い返せなかった。父がもし、ニューヨークやロサンゼルスに居たら、街が提供するエンターテインメントで朝から晩まで時間を潰《つぶ》せただろう。しかしここはワシントンD.C.だ。歩いてこと足りるほど街は小さかった。
散歩をしようと外に出てみたが、足がメモの住所に向かうのを止められない。心臓の鼓動が意識され、やがて連なった音になる。吸うよりも吐く方に呼吸が引きずられて、汗がとめどなく流れてきた。
(身体だけが素直だな。おまえは頭の中で完結しすぎるのがよくない)[#「(身体だけが素直だな。おまえは頭の中で完結しすぎるのがよくない)」はゴシック体]
チルーがまた勝手に身体を乗っ取っているのではないだろうか。違う。自分の感覚がある。だからこそこんなに五感が鋭くなっているのだ。勘が冴え渡る。いる、という直感が背筋から脳を貫いた。デニスの目は涙で利かなくなっていた。
「とまって。お願いよデニス」
ストリートの看板が出ていた。メモの通りだ。勘からいけばこのワンブロック先が、父の住所だ。
「デニスこれは夢よ。慣れてるじゃない。目を覚ませばいいのよ」
(いい加減にしろ。事情はわかるが、このままだとおまえは駄目になるぞ)[#「(いい加減にしろ。事情はわかるが、このままだとおまえは駄目になるぞ)」はゴシック体]
「お願い、あんたちょっと見てきて」
(一蓮托生《いちれんたくしよう》の身だ。そんな都合のいいことはできない)[#「(一蓮托生《いちれんたくしよう》の身だ。そんな都合のいいことはできない)」はゴシック体]
「ごめんなさい。そのイディオム知らないわ」
(私は美人という意味だ)[#「(私は美人という意味だ)」はゴシック体]
「こんなときまで、都合のいい嘘つかないでよ」
(では、こうしよう。家の前まで行け。通りすぎるだけでいい)[#「(では、こうしよう。家の前まで行け。通りすぎるだけでいい)」はゴシック体]
「OK、いいわよ。通りすぎるだけよ」
閑静な高級住宅地を散歩するつもりで歩いた。不思議と透明な気持ちになっていくのがわかった。父の住所まであと二十ヤードほどだろうか。デニスの目は奥の煉瓦《れんが》造りの家に釘づけになっていた。
「通りすぎるだけじゃない。肝試しと思えばいいのよ」
斜めに見えていた家が正面を見せてくる。二階の出窓のカーテンが閉まっていた。今日は日曜日だ。遅くまで寝ているのだろうか。デニスは車寄せのポストの前で立ち止まった。
(どうした。通りすぎるんじゃないのか)[#「(どうした。通りすぎるんじゃないのか)」はゴシック体]
「もちろん。約束だもん」
なのに彼女は動けない。念のためにデニスの首に髪の毛を巻きつけていたチルーも、手を緩めた。ポストの中には新聞が入っていた。小奇麗な暮らしをしているみたいだ。
「こんな所だったのね……」
と自分で呟くまで、時間が流れていたことを忘れてしまっていた。涙がとめどもなく流れてくる。十八年分の涙の堰《せき》が開いたようだった。デニスは膝《ひざ》をついた。
「あたしは……。あたしは……」
ひとつわかったことがある。幼い日、スザンナとマイロンを見送った空港で、ぼんやりとしたある種の意志が彼女を沖縄に止めた。それはマイロンを父として受け入れることへのささやかな抵抗だった。あの日にそうしなければ、今日この瞬間に気がつかなかっただろう。父を恨んでいたことなど一度もなかったのだ。ただ会いたくて会いたくて仕方がなかっただけだ。
子供が喜びそうなプレゼントがあるとしよう。やたらと大きな箱と過剰な装飾のリボンや賑《にぎ》やかな包装紙に覆われて、心を刺激するように演出してある。中身を想像しながら、丁寧に開けていく。まずは花をつけたリボン。次に巧妙にくるまれた包装紙。そして本体の箱。ここで声があがるはずだ。しかしデニスの箱の中にはまた包装紙にくるまれた一回り小さな箱がある。それを同じ手続きで何度も何度も繰り返す。マトリョーシカのように一回りずつ小さくなっていくのをどこかで恐れながら、それでも、もしかしたら小さくて上等なダイヤモンドかもしれないと励ましながら、丁寧に開封していく。一番最後の箱は父の家の前である。
あの合わせ鏡のように奇怪な梱包《こんぽう》は、自分の心だったとわかった。その最後の箱はどう考えても予想していた中身が入っていないのは確実だった。開けずに取っておくのが、少女だった過去へのせめてもの思いやりかもしれない。そして夢の中で言い聞かせよう。あの箱の中にはとびきり上等なプレゼントが入っていたのに、と。
(おいデニス。人が出てくるぞ)[#「(おいデニス。人が出てくるぞ)」はゴシック体]
玄関の扉が開いた。中から出てきたのは、ボウリングのピンのようなシルエットの黒人女だった。陽気にハミングしてゴミ袋をふたつ抱えて出てきた。デニスはとっさにブーツの紐《ひも》を結ぶ素振りをした。サルサのリズムに乗って腰を振る女がジッとこちらを見ている。デニスの頭の中は言い訳の項目を探していた。するとおばさんが、
Whosa dis?=iなんだね、こいつぁ)
とデニスの頭上をさしてたずねてくる。良枝とはまた違うが、南の発音である。
(通りすがりの逆立ち幽霊です)[#「(通りすがりの逆立ち幽霊です)」はゴシック体]
チルーが手を伸ばすとおばさんが握手してきた。
Yousa bombad. Mesa like yousa=iあんたイカすだよ。気に入ったよ)
言葉がわかるのか不明だが、チルーは相手の好意を感じとった。くるくる宙を回ってモデル気分で定番の「恨めしや」ポーズをとったら、おばさんが拍手する。デニスを挟んでおばさんとチルーはすぐに仲良くなった。
デニスは思い切って尋ねてみた。
「あー、マダム。あなたがこの家の奥さんなの?」
女はただの家政婦だと言った。なぜか安心する。なぜか心配が生じる。おばさんが陽気に尻《しり》をふりながら家に入っていく。ドアが閉まって見えなくなったとたんにたくさんの質問が口をついて溢れそうになる。
(さあ。約束だ。通りすぎた。通りすぎた。アーリントン国立墓地に行こっと)[#「(さあ。約束だ。通りすぎた。通りすぎた。アーリントン国立墓地に行こっと)」はゴシック体]
デニスはドアを凝視したままだ。
(おまえはよくやった。これで一生悔いも残らないだろう。さあ通りすぎるのだ)[#「(おまえはよくやった。これで一生悔いも残らないだろう。さあ通りすぎるのだ)」はゴシック体]
「駄目。できない」
(いつまでも口開けて餌を貰《もら》っている雛鳥《ひなどり》とは違うんだぞ。おまえは飛べない鳥だ)[#「(いつまでも口開けて餌を貰《もら》っている雛鳥《ひなどり》とは違うんだぞ。おまえは飛べない鳥だ)」はゴシック体]
デニスがいつか理恵に沖縄人批判で言った台詞《せりふ》だ。理恵をこんな言葉で追い詰めていたことに胸が痛んだ。もう逃げることはやめよう。今までたくさん逃げてきた。
「どうしたらいい?」
(戸を叩《たた》くだけでいい)[#「(戸を叩《たた》くだけでいい)」はゴシック体]
「OK、ピンポンダッシュは得意だったから」
(そうだ賭《か》けよう。戸を叩いてあの女が出てきたら、私は成仏しよう。どうだ?)[#「(そうだ賭《か》けよう。戸を叩いてあの女が出てきたら、私は成仏しよう。どうだ?)」はゴシック体]
「言ったわよ。本当ね?」
(I mean it)[#「(I mean it)」はゴシック体]
チルーは髪をするすると伸ばし、扉の隙間に進入させた。そして台所にいた黒人のおばさんを冷蔵庫に縛りつけた。
デニスは何回か深呼吸して、白い扉の前に立った。チャイムを押して目を瞑《つむ》る。走り出さなければいい。それだけだ。あとは知らない。運命に任せた。しかし気配はするが反応がない。もう一度チャイムを押した。奥から使用人の名を呼ぶ男の声がする。きっと父だ。何回呼んでもあのおばさんは出られない。冷蔵庫にぐるぐる巻きにされたうえに口にオレンジをつっこまれているのだ。
扉が開く音を聞いた。この日、瞼《まぶた》の存在意義を初めて知った気がした。世の中には見たくない瞬間があるのだ。彼女の長い睫《まつげ》毛が噛《か》み合わさって貝のように閉じていた。扉が完全に開いたようで、家の中の匂いがした。
(Mesa like yousa)[#「(Mesa like yousa)」はゴシック体]
と聞こえてきた。それに安堵《あんど》して目を開いたデニスは次の瞬間|愕然《がくぜん》とした。チルーが声帯模写をしていたのだ。目の前にいるのは、写真の面影を多く残した熟年の男だった。デニスはもう目を閉じる手続きを忘れてしまっていた。それどころか瞳孔《どうこう》は自然と適正な距離を定め、解像度いっぱいに父の顔を捉《とら》えている。目の前の時間が断片として切り取られた感覚だった。
男は小奇麗な恰好《かつこう》をして、やはり同じように目を開いたままだった。目の前の若い女が今にも泣き出しそうになるのをジッと見ている。男もうろたえた表情を見せまいと必死に自分の内部と戦っているようだ。そしてやや顔をしかめて確信をもったように口を開いた。
「デニス?」
その声を聞くと、ドクンと心臓が弾けた。男はたしかにこう言った。「デニス」と。その余韻に覆い被《かぶ》さるように男がまた言う。
「君はデニスだろう?」
デニスが目を大きく開いたら、男の顔が揺れて涙越しの映像になった。このまま零《こぼ》れたら父も一緒に流れそうで、デニスは顔を覆った。男がまた名を呼ぶ。言葉にならず鼓動に合わせて何度も頷《うなず》いた。
「ダディ……」
百七十八センチの長身を軽く受け止めた父は、すぐに腕を回した。デニスは目を瞑って身を委《ゆだ》ねた。夢で見たときと同じ、身体が広がっていく感覚が生じていた。同じ匂いがする。同じ気持ちがする。
「会いたかった。会いたかったわ」
「私もだ。はるばるオキナワからよく来てくれた。おまえには可哀そうなことをした」
「ううん。平気。もう、あたし誰も恨んでいないわ」
お互いに強く抱き締める。背中に手を回しても全部は掴《つか》みきれない。頭を抱えたら、背中が逃げてしまう。どうして神様は相手を全部抱えられるような大きな掌《てのひら》にしてくれなかったのだろう。二人は声をあげて泣いていた。背後からウォンウォン泣く声がする。チルーが貰い泣きをしていた。
「こんなに立派な娘になっているとは。よく顔を見せておくれ」
父の掌が頬のカーブに沿う。
「だけど、どうして……。どうしてあたしだとわかったの?」
父は目だと指でさした。そして鼻をさしてスザンナの面影があると言った。
「スザンナはどうしている。元気か?」
「うん。幸せになった。心配しないで」
お互いに微笑むと口のカーブがそっくりだった。デニスはひとつわからないことがあった。父は自分が生まれる前にアメリカに帰ったのではないだろうか。
「あの……。名前……。あたしが生まれるのを見ていないって……」
「そうだよ。事情が重なってね。今となったら言い訳にしかならないし、おまえを残す理由にもならないんだが……」
父が家の中に入れてくれた。おばさんを呼んだが、返事がない。髪を解いたチルーが往復ビンタを浴びせたのがよほどのショックだったらしく、失神したままだ。チルーは仕方がないので、おばさんの身体に取り憑くことにした。
「ミーサ、ライク、ユーサ」
デニスがリビングルームに通されて回りを見渡すと、キャビネットの上の写真はすべて古かった。その中にデニスがもっているのと同じ沖縄時代の父の写真が中央に飾られていた。
「あの。ご結婚されているんじゃないんですか」
「私はスザンナと結婚したんだよ」
母は情緒不安定な女だ。悪い女ではないが、独占欲が強すぎてよくマイロンと喧嘩《けんか》していたことを思い出す。スザンナはよく彼に、仕事は理由にならないと辛くあたったものだ。それでマイロンは軍籍を離れることを条件に本国に戻った。母の気持ちばかりを聞かされて育ったから、彼女の立場はよくわかる。混血の母はどこにも居場所がなく、いつも彷徨《さまよ》ってばかりだったという。やっと捕まえた幸福がいつ逃げていくのか怖くなると言っていた。おそらくベトナム戦争の英雄にも軍籍を離れるように迫ったに違いない。そんなストーリーが頭に浮かぶ。
「今なら彼女の気持ちをもっとわかってあげられるのだが……」
「あの、どうしてあたしの名前を」
「だからデニスだろう? ギリシア神話のディオニソスからとったんだよ。美と繁栄の神の名前だよ」
「ちょっと待って。今なんて言いました?」
「だから D・E・N・I・S・E」
スペルが違う。彼女は今までどんなときにも男性の名前である〔Dennis〕と表記していた。これがコンプレックスで何度も名前を呪ったものだ。そのせいで父に無教養な男のイメージを持っていた。きっと父は漫画のDennis The Menace≠フファンなのだと勝手に決めつけた。これを読んでいる男といえば相場は決まっている。馬鹿ではないが、インテリでもないだろう。父が発音するデニスは、聞けばアクセントの位置が違う。
父がこんな話をしてくれた。デニスがまだお腹の中にいる頃、ディオニソスを由来にした名前を考えているとスザンナに伝えた。もし男の子だったらDennis¥翌フ子だったらフランス語形のDenise≠セと。どちらも同じ語源だと言い聞かせたつもりらしい。
デニスはそれを聞きながら溜《た》め息をついた。
「まったく。お母さんらしいわ。しゃべる分には問題ないけど、本とか新聞を読まない人だし。それよりも昔から人の話を聞かない人だったみたいね」
「私は間違えないように気をつかったつもりなんだが。たしかに彼女の英語には問題があった。いちいち指摘するのも可哀そうだからやめておいたのだが、まさかこんな間違いをするなんて……」
父も頭を抱えている。おばさんが擦り足でコーヒーを運んできた。とんでもない味で噴き出したのは同時だった。チルーは淹《い》れ方を知らない。デニスはその様子が可笑《おか》しくてゲラゲラ笑った。
「とんだ傑作だわ。あたしは問題ないわ。このまま〔Dennis〕でいいわよ。今の話で気に入ったから。だってお父さんの意志とお母さんの意志がふたつ入っているんだもの。いい名前よ。ありがとう」
初めて会ったとは思えない柔和な微笑みをお互い交わしている。突然、父が改まった。
「すまないことをした。いつも気にしていた。スザンナが再婚したと聞いて、電話もできなかった。私は父親らしいことを何もしてやれなかった」
デニスは首を振って微笑んでいるだけだ。また何か言われたらみっともないくらいに泣くだろう。もう言わないでほしかった。
「私の心はいつでもデニスで溢《あふ》れていた。どんなときでもデニスで一杯だった……」
父が頭を抱えて泣いている。それを優しく側から抱いてやった。昔は甘えたいと思っていたのに、今はこんなふうに抱いてあげられる。
父が懐から古ぼけたカードを出した。それは破れた「運命の輪」のタロットカードだ。
「これが私の支えだった。コザのシャーマンがきっと会えると予言してくれたから、私はひとりでいられた。まさか本当に巡り逢《あ》うことができるとは……」
デニスはどこかで見た覚えのあるカードだと記憶を手繰ったが、思い出せなかった。あたりを見渡すと、ずいぶん殺風景な部屋だった。廊下には段ボール箱がいくつか積んである。
「どこかに引っ越そうとしていたの」
父が再来月には転勤になると言った。
「オキナワに転属願いを出したんだ。やっと聞き入れてもらったよ。そこでおまえを探すつもりだった。どうしても会おうと思っていた」
「じゃあ、一緒に住めるのね」
「おまえが嫌じゃなければだが」
デニスは父に飛びついた。もう離れないとわかれば遠慮はいらなかった。
「行きましょう、オキナワへ。あの太陽の島へ」
「私の青春の土地だ。一番輝いていた季節を置いてきた」
抱きついたとたんに沖縄の日差しの中にいる気分になる。聞こえてくる潮騒《しおざい》、花の匂い、喉《のど》を湿らせる空気、そしていつでも見えていた海のブルー、ブルー、ブルー。二人の心は若夏《うりずん》の季節の中にいる。
デニスはキャビネットの上の写真を眺めている。そしてこれと同じものを持っていると自慢気に見せた。父は誰からもらったのかと尋ねた。
「えっと。カデナでアルバイトをしたときのお礼に」
「誰からだ? これを持っていた仲間はみんな本国だ。今でも時々集まるんだよ」
「キャラダイン中佐からだけど」
すると父の顔は急に険しくなった。おそらく職務のときはこういう表情をしているのだろう。デニスは初めて自分の父が将軍なのだという事実を理解した。
「キャラダイン高等弁務官をなぜ知っている?」
「高等弁務官? なにそれ。中佐じゃなかったの」
父は一度言葉を飲んだ。そして符合する言葉を見つけたようだ。
「どうやらおまえはパラドックスに陥っていないようだ。さすがは我が娘だ」
「パラドックス? あたしが知らない間に何かあったわけ?」
「いや。おまえの方が正しい認識をしている。周囲がみんなだまされただけだ。デーヴィッド・S・キャラダインの階級は中佐だった。これが正しい」
父が話してくれた。そのきびきびとした論理的な口調はさっきまでとはうって変わったものだった。父がかねてから調査しているある事件があるという。それは国防省内部まで蝕《むしば》んだある重大な事件らしい。これ以上は守秘義務があると言って語らなかったが、最近世界中をだますトリックを仕掛けてきた奴がいるという。デニスはそれをなんとなく理解した。彼らの目指す計画は世界の秩序を根本から揺るがすという。それはアメリカの安全保障にもかかわる問題らしい。父は自分を現地に赴任させるよう要請し、これを受け入れさせた。パラドックスに気がついている者が国防省にも少数はいるという。
「これは何としても阻止しなければならない。アメリカ軍を利用したテロ行為だ」
「やだ。ブライアン・ヤマグチ少尉の台詞《せりふ》にそっくり」
「彼も知っているのか。計画の重要人物だぞ。軍が徹底的にマークしているはずだ。まさかおまえもかかわっているわけじゃないだろうな」
「そんなことないわ。彼はいい人よ。だまされてばかりだけど」
「デニス奴らとかかわるな。しばらくはワシントンD.C.にいるんだ。ここに住むんだ」
「学校は? 就職相談が二学期にあるんだけど……」
「学校どころじゃない。オキナワが戦場になるんだ」
デニスの顔が青ざめていく。リアリティのない話ばかりだが、どこか妙に説得力があるのは、彼女の奇妙な経験からだろう。ガネーシャに憑依《ひようい》していた友庵の言葉が鮮明な響きを伴って蘇《よみがえ》った。
「あたし帰るわ。おばあちゃんがオキナワにいるもの。連れてくる」
「駄目だ。キャラダインは民政府のリーダーだ。三十八時間前に府令を発布して土地の住民を拘束した。統治下の民はアメリカ人を含め、出国できなくなった」
「いくら軍でも、そんなことできるわけないでしょう。日本への内政干渉よ」
父が肩を掴んで目を合わせてくる。
「いいか、驚くな。オキナワはアメリカ領になってしまったんだ」
「うっそー。なんで? 香港で遊んでてニュース見てなかったわ。あ、でもおばあちゃんに電話したわよ。おばあちゃんは普通だったわよ」
「だから巧妙なトリックを仕掛けられたんだ。返還されていないという歴史のパラドックスには我々も裏をかかれた」
父はファイルからいくつかの写真を取り出した。衛星写真だった。
「首里城を覚えているだろう。私の時代には琉球大学が跡地にあったが、最近復元されたらしいじゃないか」
「毎晩、団地から見てるわよ。ライトアップされてとてもきれいだわ」
「これを見るんだ。こんな形だったか」
そこには白いドームのある宮殿のような建物が写っていた。
「これ一昨日見てきたわよ。キャピトルでしょ。あそこにある」
窓から連邦議事堂のある方角をさす。父は独り言のように信じられないと繰り返していた。そうしないと意志が保てないように、何度も頭を叩《たた》く。
「キャラダインはこれを一晩で作ってしまった」
「ハリボテ?」
「USCAR(United States Civil Administration of the Ryukyu Islands 琉球列島米国民政府)ビルだ。建設されて五年になるそうだ」
「初めて聞くわ。何やってるところなの」
父はこれが復帰前の沖縄の現実だと語った。USCARが三権を掌握して支配している。デニスが生まれるずっと前の沖縄だ。
「そして彼女が新しい琉球政府の主席だ。サユリ・シマブクロという若い指導者だ」
デニスは聞き覚えのある名前だと眉《まゆ》をひそめて渡された写真を見た。とたんに目が限界まで開く。仕立てのよいスーツ姿の若い女性が写っていた。
「小百合ネーネーだ。なんで? ノロが政権を握ったわけ?」
「琉球政府は民政府の傀儡《かいらい》政権だ。しょせんキャラダインに操られている人形にすぎない」
「あたしオキナワに帰る。一体どうなってんの」
「駄目だデニス。帰ったら出られなくなる。キャラダインがアメリカ軍の力を後楯《うしろだて》にするだけで満足するはずはない。十時間前、ガオトゥのオキナワ本部がNORADのシステムにハッキングをかけてきた。コードを盗んで、どうしたと思う?」
「さあ? あたし頭が痛いから何も考えられない」
「カデナの戦略ミサイルを独立させて、アメリカ本土を標的に入れてきた。一体どんなコンピューターを使ったんだ。最新のスーパーコンピューターで解読しても一千万年はかかる暗号のはずなのに、一秒で破られた。信じられん」
「アメリカと戦争するの。カデナが? アメリカ軍が? なんで?」
「カデナだけでも充分に脅威なんだ。あそこの宇宙軍は軍事衛星を管理している。すでに衛星の半分は奪われた。まさか味方に狙われるとは……」
「やっぱりICBMを配備してたんだ」
「極秘事項だ。極めて高度な政治的問題だ。核はない方がいいが、今の東アジアの均衡のためには最低数は必要だ」
「極秘になってないわよ。ベースの中に羊を放牧しているでしょ。前からヘンだと思ってたのよね。別に牧歌的な演出のためじゃないでしょ」
デニスはリビングルームをぐるりと歩きながら続けた。
「ある種の羊は放射線に対してその毛を敏感に反応させる。漏れてないか調査するための放牧でしょ。オキナワの人間は馬鹿じゃないわ。核のない戦略なんてアメリカ軍がするはずないってみんな思ってるわよ。ただ言わないだけ。みんな諦《あきら》めているのよ。アメリカにも、日本にも」
理恵がいたらもっと切迫した事態になるだろうとデニスは思った。デニスの半分はアメリカ人だ。ある時期までアメリカの教育を受けてアメリカの文化で育った。だからアメリカの論理を知っている。しかし沖縄の叫びも聞いている。今は沖縄側で平和な学園生活を送っている。どっちがいいかなんて単純に比較できる問題ではない。
「あたしベースのあるオキナワは好きよ。だって故郷だもん。仕方がないじゃない。みんなが嫌ってる理由もわかるけど、思い出の場所なのよ。オキナワにアメリカがない生活なんて考えられない。あたしのオキナワにはベースがあるのよ」
父は黙ったままだった。娘の言葉は土地の力を持っていた。外見は自分のコピーのようだが、中身はアジアの香りがする。彼はかつての沖縄を知っていた。コザ暴動のとき、街が殺気に満ちていた時期を体験していた。沖縄の民は日頃柔和だが、一度怒ると収拾のつかない広がりをみせる。日本に返還されたとき、彼は不思議と安堵《あんど》した。これ以上のストレスを溜《た》まらせると基地そのものが機能しなくなる可能性があったからだ。返還と基地存続はアメリカにとって同義となっていた。
「どうしてベースのある時代に生まれたんだろう。どうして複雑な時に生まれたんだろう。あたしは決められないわ。アメレジアンだって沖縄の人間なのに……」
「デニス……。もういい。もうわかった」
「都合でアメリカに帰れた人は幸せよ。アメレジアンはどうすればいいの。アメレジアンの国なんてどこにもないわ。でも安心したいのよ。それはいけないことなの?」
父はじっとこちらを見据えているだけだ。こんなことを言うつもりじゃなかったと気がついて口を押さえた。父はもっと言っていいというふうに彼女の手を握って頷《うなず》く。
「ねえ。戦争しないわよね。同胞を攻撃するなんて馬鹿なことしないわよね。あそこには六万人のアメリカ人がいるのよ。あたしと同じアメレジアンもいるのよ」
父は残念だと首を振った。
「その準備を進めているところだ。キャラダインの脅迫に屈するわけにはいかない。しかし極東戦力はカデナを中心に構成されている。グアムも韓国もしょせんは支援部隊だ。第七艦隊を移行次第、攻撃する。もちろん交渉は続けるが……」
「やだ……。もうあの土地で血を流さないで。これまでにどれだけの人の血が流れたと思うの。どこに行っても不気味な気配がするわ」
玄関のチャイムが鳴った。制服姿の男が支度するように父を急《せ》かす。父はすぐに着替えを始めた。
「遅くなるが、一緒に夕食をとろう。待っていてくれ。約束だぞ」
バタンとドアが閉まったとき、さっきまでへらへら笑っていたおばさんが、日本語をしゃべってきた。
「レキオスが蘇るぞ。すぐに沖縄に帰れ」
「やっぱりあんただったのね。言われなくても戻るわよ。ごめん父さん……」
沖縄の連絡先を記した書き置きをテーブルに残し、デニスは父の家を出た。
白亜のドームにコントラストの強い影が落ちていた。くいついた光は、ドームを削るように回る。風土から浮いたコロニアル様式は威圧的な存在感を与えている。自由の女神の下には、エアコンの効いた湿度の低い部屋がある。
「如何《いかが》ですか。ろみひーにかかればNORADの防壁なんてないも同然です」
「大したものだ。まったく驚くべき能力という他はない」
北米防空司令部にハッキングをかけたのは、ろみひーだった。システムに潜入してあちこちいじり回り、難攻不落のコードをわずか一秒で破った。それどころか、独自のコードを入力し、衛星から戦略ミサイルのターゲットまで全部変更してしまった。現在NORADは、ろみひーが組み込んだ新しい暗号を解読するのに、躍起になっている。単純に解析して十億年はかかる複雑な暗号をいれておいた。NORADがとるべき道はひとつしかない。それは施設を全面的に放棄することだ。
「契約書にサインをしよう。民政府と世界大東社の情報処理はこのロボットにまかせる」
『♪ワーイ ♪ワーイ。ジーコ ジーコ』
民政府の建物の中では悪魔と悪魔のような女が密約を交わしている。サマンサがビジネスパートナーに選んだのはキャラダイン高等弁務官だった。サマンサはどさくさに紛れて力を拡大するのが得意だ。今回はミス・キングなる偽名を使って交渉にやってきた。世界大東社の正体が何か、彼女は知っている。しかし彼女は物事を善悪で判断しない珍しいタイプの人間だ。
「それと『サイバネティックROMiHIE社』の法人税免責特権もいただきたいわ」
「欲をかかないことだ。現在のオキナワの税制は国際的にみても低い水準にある」
「いいわよ。戦略ミサイルの発射コードを教えないから。すぐにNORADのシステムを回復させてもいいのよ。くすくす」
キャラダインは机の下で拳《こぶし》を握った。面妖な女に付け込まれるのは屈辱的だ。
「いいだろう。御社には府令により、法人税免責特権を与える」
サマンサはドラァグ・クイーンの扮装をしている。顔のパーツを無視する強調したアイラインとシャドウを入れ、素顔をわからなくしている。どれもナチュラルメイクとは対極の、顔料そのままの原色を配している。見た目はツタンカーメンの柩《ひつぎ》のような顔だ。頭は駝鳥《だちよう》の羽毛を染めた紫のグラデーションのかつらで、高さは六十センチある。そして衣装は二十センチハイヒールを履いても、まだ引きずるほどのマント・ド・クールだ。
「それでは契約を確認しよう、ミス・キング」
キャラダインは眉《まゆ》ひとつ動かさない。化け物に動じてはいけない。これが鉄則だ。キャラダインがしぶしぶ契約書にサインした。しかしキャラダインにも損はない。ろみひーのプレゼンテーションでICBMと軍事衛星が手に入ったのだ。
「長いお付き合いになりそうで光栄ですわ。ハイ・コミッショナー」
肩にショール代わりにかけているのは、ニシキヘビだ。サマンサは慣れた手付きで腕に絡め、握手を要求した。誰にでも仕掛ける癖は治っていない。
「まったくだ。これほど有能なビジネスパートナーがオキナワにいるとは思わなかった」
「ついでにあたし美人ですのよ。くすくす」
「化粧を落としたらよくわかるだろう。ミス・オルレンショー」
ブッと息が飛び出した。正体がバレているようだ。よく考えたらこんな恰好で民政府に来る奴なんて沖縄に一人しかいない。サマンサは「おほほ、おほほ」と誤魔化して部屋を出た。すぐに護衛の男が耳打ちしてきた。
「マークしますか?」
キャラダインは苦笑いをしている。
「放っておけ。オルレンショー博士は研究にしか興味のない女だ。どうせ研究費欲しさにやってきただけだろう。まったく面白い女だ。ところでCIAの連中はどうしている」
「はい。キン・タウンの教会でおとなしくしているようです」
「用心しろ。手配した写真の連中が入ってきたら逮捕しろ」
「了解しました。三人の写真を公開してありますから、絶対に潜入できないはずです」
「警備は最小限でいい。民政府は人民に公開された機関でなければならない」
秘書の男が見送ったが、彼はまだ気づいていない。サマンサも眉ひとつ動かさずに知らぬふりをした。
──フェルミ……。
トイレに入ると中にいた女性がみんな悲鳴をあげて逃げていった。入口にろみひーを残して誰もいなくなったことを確認すると、肩にかけていたニシキヘビを捨てた。そして個室に入り、ブレスレットに偽装した無線機のアンテナを伸ばした。
「民政府内部に潜入したわよ。こら、博士。応答せよ」
『こちらサマンサ。受信感度良好。商談は成立したか』
「成功よ。目茶苦茶な条件で契約してきたわ。一歩間違ったら殺されてたわよ」
『よくやった。後は証拠を残さずに自殺せよ。オーヴァー』
「きいーっ。こんな変態の恰好までしてやったのにっ。あのアマーッ」
サマンサに変装していたのはコニーだ。変態コスプレをするのはサマンサしかいない。これが相手の先入観になっている。それを利用する作戦だ。コニーはむさ苦しいかつらを脱ぐと軽装に着替え、通風孔へと上がっていった。
サマンサは掃除のおばちゃんに化けていた。地味ながらも本物を追求するのが彼女のコスプレ道だ。猫背気味に腰を折り、普段は百メートル先まで放つ殺人的オーラを隠している。裏口のリネン室から堂々と中に入ったサマンサは、警備兵の脇を通過した。清掃中の立札で女子トイレを封鎖すると、コニーの残した衣装に着替えた。そしてろみひーを連れてドラァグ・クイーンになって表から出る。これでサマンサがビルから出たことを印象づける。サマンサは警備兵にニシキヘビをけしかけたりと毒気づきながら、用意された車に乗った。
車の中でサマンサは契約書を確認していた。まずまずの成果である。あとはときどき民政府をなだめすかして、暴虐の限りを尽くすのだ。
「コピーはこうね。『一秒! サイバネティックROMiHIE社─時間はあなたを待たない─』あたしコピーライティングのセンスもあるわ。くすくす」
明日から沖縄経済は世界大東社とサイバネティックROMiHIE社が二大ガリバー企業となるのだ。世界大東社の流通システムを利用し、サマンサの会社は一気に世界企業へとのしあがる。パブリシティはすでに始まっている。
窓から外を見ると、空は民間機と軍用機のラッシュで過密状態だった。
──当機は間もなく那覇国際空港に着陸いたします。シートベルトをお締めください。
機内アナウンスが流れる。主翼の高揚力装置が伸びて大気を掴《つか》んできた。とたんに速度が落ち、身体が重くなるのを感じたデニスは眠りから醒《さ》めた。
東シナ海側からのいつものアプローチだった。雲の下は数万のブルーの連続だ。リズミカルに新しいブルーを生み出しては消えていく。窓から見ている限り、彼女の知っているオキナワだった。ようやくホッと一息がつけそうだ。これをしたいがために、到着するまでの十二時間は、思考の空転の連続だった。ダレスからの直行便に飛び乗ると、状況も把握できないまま光の島へ戻ってきた。
荷物を引きずってゲートを出た。ムッとする熱と冷房が拮抗《きつこう》する境界線に入る。タクシーを待っていると、見慣れていた看板がすべて変わっていた。
「サマンサだ。どうして?」
空港を囲むように並ぶ広告看板がすべて「サイバネティックROMiHIE社」の宣伝になっている。ろみひーを脇にして立つサマンサは、ボードの一枚一枚で世界の民族衣装にコスプレしていた。トルコのシャルワール、着物、コサック衣装、サロン、キルト、アオザイ、サリー、チャイナドレス、と錚々《そうそう》たる三十六カ国の衣装で並んでいる。そしてコピーにはそれぞれの国の言葉で「一秒!」と書かれていた。
「本当にデタラメが横行してるんだわ」
タクシーは久茂地《くもじ》に向かった。右手に県庁が見えてきた。昔あったものは残っている。それがデニスの旅立つ前の記憶を紡いでくれた。
「ねえ。運転手さん。あのビルは何ですか?」
「ああ。あれは琉球政府ですよ。政府といっても軍政府の傀儡《かいらい》ですけどね」
「軍政府? 民政府じゃないんですか?」
運転手は快活に笑った。
「誰もそうは呼びませんよ。実体は軍人のキャラダイン高等弁務官が牛耳っている政府ですから。みんな軍政府って呼んでいます。もっとも軍人よりも政治家に向いている人みたいですね。おかげで沖縄はキャラダイン旋風に沸いてますよ」
「景気がいいんだ……」
「軍と民間企業を一体にして経済改革するなんて誰も考えませんよ。ま、沖縄の現実に即しているといえばそうなんですが」
「日本に復帰しないの。日本の方がいいじゃない。みんな日本人なんだし」
「それは理想論ですね。大不況の日本に復帰したら、あんた沖縄はどうなると思います? せっかく誘致した企業が逃げていってしまうじゃないですか。今はこれでいいんです。軍政府が飯を与えてくれる間は、黙って従うのが賢い人間です」
「そんな。あなたたち都合がいいわよ。ちょっと前まではあんなに軍に反対してたじゃない。あたしの家まで奪っていったくせに」
「お客さん、何いってんの。はい十ドル」
団地の前で会話が止まった。活気に満ちた街からも見放されて、人知れず風化していくコンクリートの遺跡は、十日前と同じだった。
「デニス。あと三日は向こうじゃなかったのかい」
「えっと。ホームシックになったから。あの。本当におばあちゃんよね?」
ろくに挨拶《あいさつ》もせずにベランダに向かった。まずは、部屋から首里を見なければならない。写真で見た通り、かつて真紅の宮殿があった場所に白亜の殿堂がそびえていた。
(頭が痛くなる光景だな)[#「(頭が痛くなる光景だな)」はゴシック体]
「よかった。あたしだけじゃなくて」
良枝が忙《せわ》しなくアメリカはどうだったと声をかけてくる。あれを見ても何とも思わないところが偽者のような気がしてならない。
「おばあちゃん、いつからここはアメリカになったの」
「いつからって、ずっと前からじゃないかい」
「復帰したことを覚えてないんだ……」
「北方領土のことかい?」
「北方領土? あれが返ってきたの。どうして。なんで」
良枝は溜め息をついた。
「いつの話だい。ソビエトが崩壊して、共和国が独立したときがあっただろう。対外援助と交換でロシアから返還されたじゃないか。アメリカがロシアみたいにならない限り沖縄を手放すわけないだろう。そんなの常識さぁ」
(おい。みんな頭がおかしくなってるぞ)[#「(おい。みんな頭がおかしくなってるぞ)」はゴシック体]
「あんたに言われたくない。でも、ホッとするわ」
「アメリカに行くって言うから、もう帰ってこないんじゃないかと心配したさぁ」
良枝がじっとデニスの目を覗《のぞ》いてくる。見透かされているのではないかと思うほどの眼差しは彼女特有のものだ。きっと渡航目的はバレているな、と白状しようとしたら、
「いい旅だったかい?」
と優しい声で包んでくれた。デニスはただ「うん」と頷いた。それっきり良枝はアメリカ旅行について尋ねてくることはなかった。
テレビではひっきりなしに「一秒!」とさまざまなバージョンでコマーシャルが流れている。
「あの人、ベンチャービジネスの経営者なんだってねぇ。さすがアメリカ人さぁ」
と良枝は羨《うらや》ましそうだ。
「ベンチャービジネスゥ? あいつがぁ? 学者のくせにぃ?」
時差ボケで頭の痛みは倍増だった。これが夢ならとっくに脱出している。むしろ夢の方が安全だった。
「おばあちゃん、この世界を気に入っているんだ?」
「仕方ないんじゃない。おまえだって住みやすいって言ってただろう」
「あたしが。嘘。だって……」
(よせ。誰も相手にしてくれないぞ)[#「(よせ。誰も相手にしてくれないぞ)」はゴシック体]
チルーに止められてデニスは黙った。いくら住みやすいとはいえ、この世界は狂っている。どこかにその証拠があるはずだ。沖縄を元に戻す方法はないのだろうか。デニスはいつかセーファ御嶽で長子から貰《もら》った、聞得大君の数珠《じゆず》のことを思い出した。デニスがオナリなら、エケリであるヤマグチ少尉もパラドックスに陥っていないかもしれない。デニスは反射的にバイクにまたがっていた。
「ヤマグチ少尉。整備を終えました」
「御苦労だった。五機のF15は私の管理下にある。ハンビー飛行場に移動させておけ」
「カデナから離すんですか」
「カデナ以外を使っての戦術演習だ。パイロットも確保してある」
「あそこは民間機も利用してますし、危険ですよ」
──危険なのは今やオキナワ中どこでもだ。
今朝、嘉手納の司令官が民政府により更迭され、キャラダイン高等弁務官が直接指揮を執ることになった。あまりの素早さにこれが反乱だと気づく者はいない。民政府側の将校たちが嘉手納を牛耳るのは時間の問題だ。アメリカ政府は民政府と交渉中だと噂が流れていた。いくらなんでも本国に本気で戦争を挑むつもりではないだろうと将校らは高を括っているが、ヤマグチはその可能性を否定できない。さっそくエネルギーラインが独立した。これで二年間は無補給でも最前線出撃ができる。空軍と海兵隊戦力と海軍、そして戦車部隊の一部が沖縄にある。空軍のパトリオット高射部隊が要所に配備された。B2爆撃機がスタンバイに入ったのを聞いたとき、ヤマグチは嘉手納が戦場になることを確信した。キャラダインは示威行動でこんなことをしているわけではない。いずれ来る第七艦隊との対決に向けて着々と配備しているに違いない。
「味方同士がなぜ戦争しなきゃならないんだ」
彼の最後の頼みはオルレンショー博士だ。彼女は沖縄が独立国家になる可能性をパラドックス以前から指摘していた。そして嘉手納が戦場になることも視野に入れてヤマグチに切り札を授けた。彼の武器は五機のF15である。サマンサの言う通りに改造したとはいえ、たった五機では心許ない。これを有効に使うチャンスは一回限りだとサマンサが言っていたことを思い出す。
「博士は何を考えているんだ」
ハンビー飛行場のハンガーにF15を格納した。ヤマグチ以外の四名のパイロットは腕のたつ者から選んだ信頼できる部下たちだ。彼らに戦術の説明をしながらも、これが飛び立つときは、沖縄が火の海になっていることを伝えられずにいた。
軍の管轄にあるハンビー飛行場といっても、民間企業との共用滑走路にはつぎつぎと民間輸送機が着陸してくる。誘導路は常に民間機優先でテイク・オフ待ちの渋滞だった。まるで軍が間借りしているようで、アメリカ軍機が小さく見えた。
「アントノフAn225ムリヤだ。すげえ」
六発のプログレスD型ジェットエンジンを轟《とどろ》かせて降りてくる巨大輸送機は世界大東社とサイバネティックROMiHIE社の合弁会社のものだ。特徴的な二枚の垂直尾翼にそれぞれの会社のロゴが描かれている。サマンサの会社のロゴは歯列矯正ブリッジのデザインだ。これを見る限り、サマンサは世界がどっちに転んでも覇権を握れるように保険をかけているとしか思えない。アントノフ・ムリヤの長距離航続性能で、世界のほとんどの二地点間を無着陸で結んでいる。巨大輸送機がタキシングすると、格納庫のF15などクジラにくっついた小判鮫《こばんざめ》にしか映らない。ハンビー飛行場では、ロシアの飛行機と米軍機が交差する珍しい光景が展開されていた。
「ミッキーはサンダーバーズにいたから、よく判ると思う。リーダー機は君が乗れ」
「イエス・サー。精一杯務めさせていただきます」
「しかし贅沢《ぜいたく》だよな。F15を自由に扱えるチームなんて世界初じゃないのか」
「空域内での演習はない。一発勝負だ。シミュレーションだけで不安は残るが……」
「少尉、大丈夫です。彼らはよく訓練されたパイロットですから」
フライト・ジャケットを着た五人が同時に親指を立てた。ヤマグチらの脇をスーツ姿の民間人が移動している。世界大東社の幹部たちだ。不思議なことがひとつある。あれだけの人数を一体どこに収容しているのだろう。彼らがハンビー飛行場から外に出ていった様子を見たことがなかった。天久に建設中の本社ビルは、まだカーテンウォールを取りつけている段階だ。颯爽《さつそう》と横切っていく多国籍のビジネスマンたちは用意されたバスに乗り、基地のどこかに消えていった。
「彼らも中佐の部下なのだろうか」
ハンビー飛行場の地下施設は稼働率百パーセントだ。ちょっと前まで閑散としていたのに、発令所のメインスクリーンの前はロケット発射を控えたNASAさながらの活気だ。残響がきつかった施設は様々な国の言葉に満ちていた。そんな中でいつも頬杖《ほおづえ》をついてその様子を眺めている李と張がいる。
「なあ、張。俺たち一体なにをしたかったのかな」
「まさか世界を変えるなんて思っていなかったからな」
「でもおまえは楽しいんだろう。好きなコンピューターをいじれて」
「そんなことないよ。大老が新型コンピューターを導入したらしいんだ。天下のSX−5も埃《ほこり》を被《かぶ》ってるよ。だから俺も御用済みさ」
「ここのスパコンは今のところ世界最速なんだろう」
張が泣き出しそうになる。SX−5よりも速いスーパーコンピューターがあるなんて信じられなかった。しょせん、技術は日進月歩だ。半年経てば新しい技術が席巻するし、これを繰り返すのが進歩だ。SX−5だって王座を保てるのはわずかな期間だということはわかっていた。しかしキャラダインが導入したスパコンは技術の階段を無視した性能だ。それも十倍や二十倍の差ではない。新型コンピューターはどう少なく見積っても、現行のテラFLOPSを凌駕《りようが》する十京倍以上の速度がある。レシプロ機で空を飛んでいた人類が、ターボ・プロップもジェットもロケットエンジンも経ずに一気にワープ航法を獲得したようなものだ。張はそのコンピューターを見たいと希望したが、オペレーターなしで完全自立稼働できると断られた。若きエンジニアは日増しに憂鬱《ゆううつ》になっていた。そんなときに決まって思い出すのが劉のことだ。
「大姐はどうしてるんだろう」
「今、俺もそれを考えていた」
「あの日が一番楽しかったな」
「うん……」
また二人でぼうっと頬杖をついて溜め息を洩《も》らした。
「俺、GAOTU辞めようと思うんだ」
李がそう言ったとき、彼の目に輝きの兆候が現れていた。
「よせよ。脱会は裏切りとみなされるぜ。ロッジ入会のときに宣誓しただろう。ロンドン総本部が許すはずがない」
「ロンドン総本部はもうないぜ。ここがGAOTUの新本部だ。なぜか二十五年前からそうらしい」
地下施設がシステム・ダウンしたのがきっかけだったのだろうか。電力は翌朝に復旧したが、とんでもないものを引き換えにしたようだ。徹夜で作業していた張が外の空気を吸おうとハッチを開けたら、頭上スレスレを飛行機が降りてくるではないか。あたりは広大な滑走路だった。それからすぐに人員が施設に流れてきた。張にも李にもこの連続性がわからない。パニックになっている間に、発令所は世界中からやってきた上位ロッジメンバーに支配されてしまった。
「地上はアメリカだし、地下に中国人の居場所はないし、前のオキナワの方がよかったな」
「張、元気でな。俺、大姐を探す」
李が出て行こうとしたときだ。張の足が自然に弾んだ。
「俺も行く。大姐と一緒にまたみんなで暮らそう」
「残っていた方が安全だ。どうせ上ではすぐに戦争が始まる」
「行く。GAOTUの繁栄なんて俺は興味ない。勝手にすればいいさ」
李がにっこりと笑った。きっと張はそう言ってくれると信じていた。
「またどっかで中華料理屋を始めればいいさ」
「あの大姐のセンスで」
ゲラゲラ笑いながら廊下をかけていく。荷物はない。早く地上を目指して脱出するだけだ。厚さ五十センチの鋼鉄の扉を開けたとき、ハンビー飛行場の彼方に落ちる巨大な夕日が眼に飛びこんできた。二人は音をたてるように落ちていくエネルギーの流れを見て、茫然《ぼうぜん》と涙を流していた。
昨夜からずっと明かりの灯《とも》った家がある。毎日衣装を替えていた屋根のマネキン人形もしばらく同じボンデージ・ファッションの日が続いている。山のような資料と配線コードの川の中でサマンサの部屋は大混乱だ。
「さて、論文を実践で証明しなくちゃね。くすくす」
『博士。了解もでるノ でーたガ完成シマシタ。とーてむ操作媒体数ハ 六十兆デス』
「ヒトゲノムも全部入ってるんでしょうね」
『間モナク終了イタシマス。現在入力98%……』
チアリーダーにコスプレしたサマンサが本気の目をしている。論文にピリオドを打つ前に、真実を目の当たりにしておかなければ気が済まなかった。これが一生をかけた研究になることは覚悟の上だ。第一弾の論文はほんの序章にすぎない。ならば彼女が予想している通りなのか、五次元空間のこの世界で確認するしかない。まさに千載一遇のチャンスだ。サマンサは民政府から調達した莫大な資金で沖縄中に計測器を設置した。特に糸満市からコザ市にかけては網の目状に展開させた。計器はすべてろみひーと接続した。あとは本番を待つだけだった。
「ろみひー。ペンタゴンの動きはどうなってるの」
『ハイ。高等弁務官トノ交渉ハ 決裂イタシマシタ。第七艦隊ノ 空母きてぃ・ほーく ガ沖縄ニ向カッテイマス。作戦海域到着マデ 十二時間デス』
「交渉が決裂するのはお互いに予想済みの儀式みたいなもんよ。高等弁務官も生え抜きの軍人だもの。あとはマヌケなヤマグチ少尉が上手《うま》くやってくれることを祈るだけね」
大型バイクのエンジン音を轟かせてデニスがハンビー飛行場にやってきた。ヤマグチ少尉がここにいると聞いたからだ。デニスはセヂの使い方が、朧《おぼろ》げにわかってきた。会いたいという意志がセヂとなって、父と巡り逢《あ》えたのだ。
「あたしはこの世界を元に戻してみせる。あたしならできる。きっとできる……」
唇を噛《か》んだデニスの表情は父の目の鋭さを上回るほどだ。ゲートを潜ってゆっくりと噴かす低い排気音がデニスの鼓動と調和していた。
そしてヤマグチ少尉を呼び出すと、聞得大君の数珠を取り出した。
「あたしはオキナワを元に戻すために、聞得大君の霊を降ろしたオナリになる。覚悟を決めたわ。ブライアンはどうなの?」
デニスの言葉に息を飲んだが、ヤマグチもまた覚悟は同じだった。
「君が望むなら僕はエケリになろう。軍人でも建築士でもない。僕が決める未来だ」
「敵があなたの上官のキャラダイン中佐でも?」
「合衆国を敵に回したキャラダイン中佐は、もはや軍人ではない。中佐の行動はアメリカ軍全体の恥だ。彼は軍の力を利用して野望を遂げようとしているが、何としてでも阻止してみせる」
パイロットの顔になったヤマグチの口調にセヂが漲《みなぎ》っていた。それを聞いて安心したデニスが、聞得大君の数珠に配されていた中央の勾玉《まがたま》を引きちぎると、ヤマグチに渡した。
「これでいつでもあたしを呼んで。あたしたちは二人でひとつ。聞得大君のセヂが味方してくれるわ」
勾玉を握ったヤマグチは、その言葉に確信を持った。
「僕は軍務を離れられない。今いる場所から君の無事を祈ることしかできない」
「それでいいのよ、たぶん。あたしはセヂの集まる場所にいくわ。怖いけど、大丈夫。平和なオキナワでダディと暮らすためだもの」
お互いに「グッドラック」と親指を立てて笑った。ヤマグチはデニスの背中を見送りながらも、不思議と離れていく気がしなかった。
セヂは運命論でありながら、招集可能な力だ。それは覚悟が決まった瞬間に誰でも得られる。今まで翻弄されてきた複数の運命の歯車が、ひとつにシフトした瞬間に熱い力が身体に湧いてくるのがわかった。
ヤマグチは基地に戻ると、部下に命令を下した。
「諸君。間もなく戦争が始まる。戦闘配置につけ」
「第七艦隊と戦うのか……」
お互いに顔を見合わせると誰もが緊張の色を隠せていなかった。
「少尉はどうされるのです」
「キャラダイン高等弁務官に最後のお願いをしに行く。どうせ無駄だろうが」
嘉手納基地は民政府の支配下にある。ハンビー飛行場と読谷補助飛行場、普天間基地は後方支援態勢に入った。米軍はできるだけ施設を破壊したくないはずだ。嘉手納基地の司令部と民政府を叩《たた》くに止めるだろう。しかし米軍の戦術を熟知しているキャラダインは、その上をいくに違いない。通常戦力ならほぼ互角かやや上だが、できるだけ消耗はしたくないはずだ。キャラダインの悲願はこの戦争の後にあるからだ。
──この戦争が終わったら軍なんて辞めてやるさ。
その前にケリをつけて置こうと思う。ヤマグチはクリスの墓の前で祈った。あのときふらふらしていなかったら、クリスを死なせずにすんだと後悔する。初めから覚悟ができていれば、キャラダインの息の根を止めるチャンスはいくらでもあった。今のヤマグチに迷いはなかった。テロリストと嫌疑をかけられようと、軍の反逆者として逮捕されようと、信じたことをするしかない。
──コニーたちは避難しただろうか……。
先に知らせたのに、連絡がこない。ヤマグチはおかしくて笑った。コニーがおとなしく人の言うことを聞く女だったら、スパイなど初めからやってない。
金武町のプロテスタント教会も熱気を帯びてきた。
「民政府がもうすぐ戒厳令を出すみたい」
コニーが盗聴器の感度をあげている。ワイリーと佐藤は凍りついた。
「阻止できないのか」
「そのままにしておけ、と変態リーダーからの命令よ」
「博士は何を考えているんだ」
「アメクのペンタグラムが活性化したら始まるそうよ」
ワイリーが溜め息をついた。結局GAOTUを阻止するどころか、沖縄にその力を集結させてしまった。パラドックスの沖縄はキャラダインの思うままの世界だ。
「ダニエル・カニングハム将軍が特使として来沖するそうよ」
「あの反GAOTUのリーダーがか?」
「刺し違えても高等弁務官を倒すんじゃない」
「無理だ。相手はもう三権も軍も掌握してしまった」
「民政府の悪事を暴いて、将軍を援護しましょう。最後くらいカッコつけたいじゃない。今までいいとこなしだったんだし」
まってましたとばかりにワイリーがスティンガーミサイルや手榴弾《しゆりゆうだん》を抱えてやってくる。世界が変わったストレスに順応できないエリートはついにキレたようだ。
天久の夜空はいつになく雲の接近を許している。このまま大地まで降りてくれば一面が白い霧に包まれるだろう。それでも天久の暗さは揺るがない。
「最強の呪文《じゆもん》を使うときがきた。準備はいいか小百合」
「イエス、マイマスター」
小百合はノロの白装束に着替えていた。キャラダインも黒いマントに身を包んでいる。これから天久で最終目標を迎えるのだ。
「こちらの切り札はICBMでも、ステルス爆撃機でもない。すべては大地母神キュベレにかかっている」
「ご心配には及びません。私はオナリです。きっとエケリのあなたを護ってみせます」
「頼もしい限りだ。三千年前の夢を今こそ叶えようぞ」
ペンタグラムの中心に二人が立つ。雲の動きが上下にうねって音をたてているようなのに、大地はやけに静かだ。小百合は用意した鏡を裏にして呪文を唱える。エケリを得てオナリ神になった小百合の力は歴代のノロを超えるほどだ。小百合は目を瞑《つむ》り、圧倒的な力で自然を掌握していった。やがてピークに達したときキャラダインが両手を空に掲げた。
「鏡を合わせるのだベッテルハイム」
[#改ページ]
Lequios
「いよいよ今夜ですね」
「オーゲスタ気負うな」
マントをひるがえした眼鏡の男は、自らもそう言ってほしいかのような口調で肩を叩いた。梢《こずえ》の奥に紅の日をちらつかせ、森の夕暮れは一足早く訪れていた。最後の光に染め上げられた水平線の鏡に近づく太陽を映し出し、やがてふたつの太陽の半分ずつが実像と虚像の境界に達すると、いよいよ闇が深くなっていく。しばらくして川のせせらぎの軽やかな音が強く意識される。
「この植物はなんでしょうか?」
オーゲスタの足元を流れる小川に香りの強い野草が群生していた。
「苦よもぎだ。土地の者はフーチバーと呼んでいるようだ」
ベッテルハイムは植物学にも詳しい。一度ペリーたちと奥地を調査したときに通訳で随行し、リュウキュウマツとレバノン杉を比較して植生分布を指摘した。ペリー一行はこれのサンプルを採取し、本国に持ち帰る。いずれ植民地となる琉球の土地をくまなく調べるためである。もっともベッテルハイムは策士だ。彼らの測量技術を利用して短期間のうちに天久にペンタグラムを描いたのだ。
「測量に問題はないだろうな。少しでもズレると機能しなくなる」
「はい博士。測量は完璧《かんぺき》です。アメリカ海軍の技師は優秀ですよ」
「ふん。新大陸のならず者どもが」
「しかし、本当に現れるのでしょうか。その、レキオスの種《たね》とやらが……」
「酒びたりの友庵に唆《そそのか》されて、必ずやってくるはずだ」
「しかしよく、あんなものを見つけましたね」
ベッテルハイムは大声で笑った。天久の森には人影ひとつない。
「見つけたのではない。誕生させたのだ。怨念《おんねん》の大きな霊はそうザラにはいないからな」
オーゲスタは師匠の言うがままに行動していたが、本当にそれでよかったのかと考える。師匠ベッテルハイムは、日中こそ敬虔《けいけん》なクリスチャンで布教第一主義を唱えるが、深夜の彼の顔を知る者は誰もいない。
先日、異教徒の聖地を探索したときの興奮は宣教師のものとは思えなかった。その中でも王国の要《かなめ》であるセーファ御嶽は、特別な雰囲気がある。王国の役人たちが異国人を立ち入らせないのも頷《うなず》ける神秘的な空間だった。ベッテルハイムは素直に従う素振りを見せ、その夜のうちに御嶽の森に侵入したようだ。そこで彼が何をしてきたのかオーゲスタにはわからない。そして今夜召還する怨霊も、どうやって誕生させたのか知らなかった。
ベッテルハイムは、土地のあらゆる宗教に関心を示し、調査する。優れた言語学者でもある彼の性《さが》であろうと疑わなかったが、彼はシャーマンの気質を持っている。特に驚異的な的中率を誇る三世相《さんじんそう》に対しては、警戒を怠らない。人の表情をよく読みとるオーゲスタでさえ、三世相を目の前にしたときのベッテルハイムの考えは読めなかった。まるで言語を使わずに思考することができるような気がした。
ベッテルハイムの本性はよくわからないが、彼がキリスト教徒ではないということだけはオーゲスタは確信できた。英国プロテスタント教会の宣教師という肩書は方便にすぎない。おそらく、琉球を訪れたい一心で入信したに違いない。ベッテルハイムは弟子の自分に優しいが、役に立たないとわかればすぐに見捨てるだろう。ベッテルハイムとはそんな男のような気がするのだ。
そういえば波之上の護国寺に通っては自分たちの世話をしていたチルーが最近見えない。切支丹の疑いをかけられて処罰でもされたのだろうか。しかし不思議とベッテルハイムはチルーのことを気づかわない。切支丹にするつもりは初めからなかったように思える。ベッテルハイムがまたニヤリと笑った。こんな彼でも異国では唯一の頼りだ。
「この鐘を十一回鳴らすのだ」
渡された鐘には測量用のスキリットのレリーフが装飾されていた。これはどこかで見たことがある。オーゲスタはしばらく考えて、ふと閃《ひらめ》いた。口に出さず「宇宙の偉大なる建築師のものだ……」と頭の中で唱えたが、ベッテルハイムはニヤリと笑った。
「なかなか勘がいいようだな、オーゲスタよ」
油断しているとベッテルハイムは読心術を使う。彼の前ではできるだけ意識を言語化しないように努めているオーゲスタでさえ、よく失敗してしまう。
「博士、あなたは一体何者なのです」
「しがないイギリス人宣教師だ」
森のてっぺんが闇に飲まれようとしていた。オーゲスタは命じられるまま、手首を回転させるように鐘を鳴らした。銅色の波紋が森を破って響いていく。コンパスと角定規を埋めた五つの地点の中央は、森の中心でもある。オーゲスタは一辺が一マイルはあるペンタグラムを描いた。これを何に使うのかすらまだわからない。そんな胸中を広げるように、金属の震える音が広がっていく。次第に闇が深くなり、波紋の軌跡まで飲まれてしまいそうだった。
オーゲスタの頬に一筋の汗が流れた。
ベッテルハイムは鐘を聞きながら、空に現れ始めた星を眺めていた。
「友庵は二十世紀最後の年に逃げたか……」
時間を自在に操るシャーマンは、彼の天敵である。おそらく友庵は彼の計画を知っているだろう。巧妙に計画されているとはいえ、時間を俯瞰《ふかん》する友庵の能力は邪魔である。
ある日、辻《つじ》にある彼の館《やかた》に入ったベッテルハイムは、友庵が雲隠れしていることを知った。友庵はいた。ただし身体だけだ。酔っぱらって失禁した友庵は、ベッテルハイムの策略を予知し、精神を安全な時代に避難させていた。一足遅かったとベッテルハイムは舌打ちしたが、それでも計画を邪魔されるよりはマシだった。
「琉球なら邪魔されまいと思ったが、どこでも面倒は生じるものだ」
彼の頭痛の種はたくさんあった。王国の役人たちは御しやすい。しかしその警戒心のなさでサスクェハナ号を旗艦とする四隻のアメリカ艦隊を入港させた。ベッテルハイムは三司官らに即時撤退要求を嘆願したが、受け入れられなかった。琉球は充分な武器を持っているくせにこれを隠し、非武装国家を標榜《ひようぼう》するしたたかな中立王国だ。アメリカの出方を静観しようと、入港を受け入れることにした。アメリカはすぐに琉米修好条約という形ばかりの条約を押しつけてきた。これで王府はやっと事態を飲みこめたようだ。ペリー提督たちは勝手に上陸して首里城へ強制入城したではないか。アメリカの植民地化だけはどうしても避けねばならないと、三司官たちが毎夜徹夜で討議している様を見て、ベッテルハイムは失笑した。近いうちに琉米修好条約は締結されるだろう。しかしアメリカに先を越されるわけにはいかなかった。だからといって現在の彼に充分な対抗手段があるわけでもない。アメリカの太平洋艦隊は全部で七隻。残りの艦隊に包囲される前に、計画を実行しなければならない。ベッテルハイムは検討を重ねた結果、天久の森にペンタグラムを描くことにしたのだ。
「ゆっくりと鳴らすのだ。あと四回だ」
これで悲願は達成されるとオーゲスタは聞かされている。ベッテルハイムは那覇港のペリー艦隊に対抗するだけのものを出現させると言う。そんな芸当は魔法を使うしかないと笑ったら、逆にそうだと笑い返された。艦隊を怒らせるようなことにならなければ、と祈るばかりだ。そうすると必ずこう言い返されるのだ。
「無駄な祈りはよせ。おまえには使命がある」
キリスト教を異国に布教させる精神に共感して、オーゲスタは師匠と行動を共にしたつもりだ。なのにまだ何か別の使命があると言う。そんなとき彼の脳裏に一瞬だけ何かが蘇《よみがえ》りそうな気分になる。それが何なのかまだわからなかったが、ベッテルハイムに初めて会ったとき、とても懐かしい気持ちになり「お久しぶりです博士」とつい口を滑らせた。しかしベッテルハイムは黙って頷いた。その日からぼんやりと自分に課せられた使命を意識するようになったと思う。ベッテルハイムが理不尽な計画を唱えても、彼は覚えのあることのようにてきぱきと行動することができた。
「鐘に集中するのだ。おまえは雑念が多すぎる」
はっと我に返った。鐘の音に乗って思考が流れていたのだろう。オーゲスタは最後の三回に集中した。ペンタグラムの五つの頂点が意識されてきた。一際澄んだ音が鳴る。最後の音は天空に舞い上がり霧になって大地に降り注いだ。
「目覚めるぞ」
ベッテルハイムはここに来る前に真嘉比に立ち寄り、友庵の居所をチルーの墓に告げた。恨みを晴らした彼女は異形の姿になる前に戻りたがっているはずだ。しかしこのままではいずれ霊質を変えて、巨大なセヂの流れに吸収されてしまう。これを防ぐためには、誰かに憑《つ》いて身を護《まも》るしかない。すなわち守護霊として誰かと共生関係になる方法だ。しかし彼女の霊力で守護されるには、それなりのセヂを持つ人間でなければならない。ノロやユタのように強力なセヂを放つ人間は生まれたときから、守護する存在がいる。チルーが存続するためには、セヂの潜在力がありながら、生まれながらに空白の人間でなければならない。それが見つからないので今は力を蓄えたまま真嘉比の大地に眠っている。しかし休眠しているとはいえ、少しずつ消耗していくのは否めなかった。
ベッテルハイムはこれを懸念していた。そして彼の眼力により、ついに条件にかなう人間を発見した。
「おまえが守護するに相応《ふさわ》しい人間を西暦二〇〇〇年に見つけたぞ」
彼が求めたのは、鮮度の高い怨霊《おんりよう》だ。誕生させた幽霊の恨みは凄《すさ》まじいものだった。しかも逆立ちになって力を倍加させ、ベッテルハイムの予想を超える能力を発揮した。もっともここで使うには威力が大きすぎる。適当な時代に送りこんで思う存分に暴れさせるのが一番である。幸い友庵も二十世紀末に逃亡中だ。何かと都合のいい時代だった。
「やけに静かですね」
天久の森から音が消えていった。あまりの静寂にここは深海なのではとオーゲスタはあたりを見渡した。すでに自分の体も闇と溶け込み、境界線が曖昧《あいまい》になっていた。「慌てるな」というベッテルハイムの声は自分の身体の内側から響いてきた。ベッテルハイムの意識と融合していくようでオーゲスタは怖かった。松明《たいまつ》を灯《とも》すと、眼鏡に炎を宿したベッテルハイムの目がレンズの奥から妙な輝きを放っていた。
それは獣の眼だった。
魅入られたオーゲスタは身動きがとれなくなった。
ベッテルハイムは眼鏡を外すと右手と左手をクロスさせ、複数の男の声が重なったような低音で呪文を唱えた。
「汝《アテー》。王国《マルクト》。|栄光あれ《ヴエ・ゲブラー》。|栄光あれ《ヴエ・ゲドラー》。|諸々の時代へ《ル・オラーム》。アーメン」
オーゲスタの掲げた松明が青い炎を放った。それが薔薇《ばら》の形になり、ベッテルハイムの胸に飛び込んでいく。上空から女の呻《うめ》き声が聞こえてきた。見上げると頭を下にして、猛烈な勢いで落ちてくる女がいた。まるで燃え盛る流星のようだった。
「おのれええ、友庵ッ。どこへいったああッ!」
「オーゲスタよ。ヨハネの黙示録、第八章第十節を唱えるのだ」
[#ここから1字下げ]
第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、
天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。
[#ここで字下げ終わり]
諳《そら》んじていた聖書の言葉が勝手に口をついて溢《あふ》れてくる。夜空よりも暗い森に閃光《せんこう》が走った。第一番目の頂点から大地を抉《えぐ》るように大きな力が走っていく。それがつぎつぎと連鎖して、巨大なペンタグラムを活性化させる。中央に底なしの淵《ふち》が開いていた。叫び声をあげた逆さの女が、大気を焦がしながら落ちていく。オーゲスタの脇を掠《かす》めると熱の帯が残っていた。
TO MEGA THERION
呪文に呼応して淵が静かに閉じていった。それにあわせて森が呼吸を取り戻したように、凪《な》いでいた風を回し始める。無数の落ち葉が魚のように群れて、ぐるぐると回游《かいゆう》していた。中心部はガラスに覆われたように、木の葉一枚も侵入してこない。
「今のは何だったのですか?」
もう博士とは呼べなかった。彼の目の前にいる男はキリスト教とは正反対の人物だ。
「あれがレキオスの種だ。二十世紀末に落としてやった」
「あなたは何をしようとしているんですか」
「オーゲスタよ。おまえが目覚めないから悪いのだ。きちんと次で覚醒《かくせい》するのだぞ」
何度も聞かされては困惑した台詞《せりふ》だった。しかしこれを聞きたいと渇望している内なる声もある。だからベッテルハイムに惹《ひ》かれているのかもしれない。
「わからない。私の使命とは何なんでしょう。キリストの教えを広めることではないのですか」
「それは現世的な役割だ。深いレベルで覚醒すれば悩むこともなくなるだろう」
「次とは何です。私はオーゲスタ・カウだ。次はない」
「いや、あるのだ」
「それが宣教師の言う台詞ですか」
ベッテルハイムの胸に輝くダビデの星が揺れた。
「おまえは百年の単位でしかものを考えない。千年の夢を叶えるには、肉体をつぎつぎと解放していかねばならない。千年の前で百年は一瞬の瞬きにすぎん」
ベッテルハイムが星の位置を計算していた。北極星がごくわずかずれていた。その差は肉眼では確認できないほど微妙なものだ。夜空のスクリーンには西暦二〇〇〇年の夏の星座が映し出されていた。
「歳差《さいさ》は正確だからな」
「ペンタグラムを完成させてどうするつもりですか。あのアメリカ艦隊と戦争でも始めるつもりですか」
「そうだ。ただしペリー艦隊ではない。戦争はずっと後に、しかしすぐに行われるはずだ。少しは張り合いがあるだろう」
「ずっと後って、何をしたんですか。あの女はどこに行ったんですか」
「我々はお互いに協力しなければならない。面倒なサスクェハナ号は今のうちに撃沈させてもらおう」
「我々って。もう私はあなたについていけない。この事実は英国プロテスタント教会に報告させてもらいます」
「君はそうしない。長年のパートナーだからだ」
ベッテルハイムの笑い声でオーゲスタの頭がまた痛くなってくる。あれは炎状星のはずだ。頂点のひとつを崩せば機能しなくなる。
「無駄だ。間もなく地獄の炎が降ってくる。見よ」
天空から壊れたフルートのような音が聞こえてきた。また女かと身構えていると、煙を吐きながら黒い物体が落ちてくる。オーゲスタの耳が上空の音で塞《ふさ》がれた。
「なんだあの炎は?」
天空に現れた五つの煙が空中で散開すると、ペンタグラムの頂点に落ちていく。同時にカッと五つの閃光に囲まれたオーゲスタは反射的に顔を庇《かば》った。間もなく地震めいた揺れと同時にペリー艦隊が一斉に砲撃したような爆発音が響いた。天久でアパッチ攻撃ヘリが放った五発のヘルファイア・ミサイルだ。
「計算通りだ。見よ、二十世紀末から届いた炎を」
炎は森をなぎ倒し空へ空へと伸びていく。ベッテルハイムは儀式の準備をしていた。
「レカブスティラ、カブスティラ、ブスティラ、ティラ、ラ、ア。カルカヒタ、カヒタ、ヒタ、タ」
天久の森が夕暮れよりも明るいオレンジ色に染まっていた。突然ベッテルハイムが空に向けて吼《ほ》える。空全体を振動させると歓喜に満ちた叫びを放った。
魔法陣は完成した。[#「 魔法陣は完成した。」はゴシック体]
オーゲスタは身をかがめて震えている。すぐに逃げたいと思っているのに、身体が動かない。
「さて、仕事が残っているぞ、オーゲスタ。今のおまえでも少しは役に立つだろう」
天久の森の火は朝になっても燃え続けていた。
さっそく翌朝からペリーたちが上陸してきた。武器のない平和国家だとうそぶいていたのを真に受けるところだったと抗議にきたのだ。武器どころか、とんでもない火力を王国は有している。このことは将来の琉米修好条約においてきちんと話し合わねばならない。ペリーらは慌てふためいたふりをしている三司官たちの演技にも辟易《へきえき》した。爆発音のある山火事などあるはずもない。それどころか三司官はペリーたちが軍事演習を行ったという。朝、王国の役人らが乗船するなり、主権の侵害を訴え、ペリー艦隊の即時琉球撤退要求をつきつけた。小国のくせにやたらと交渉が巧みだとペリー側は地団太を踏んだ。彼らの粘り強さで条約の雛形《ひながた》はアメリカの要求の半分も盛りこまれなかった。せめて補給基地を作らないとアメリカは、次の日本開国への足場を失ってしまう。結局琉球側はこれを行政サービスで行うと告げた。
「博士の言った通りだ。奥ゆかしさの裏にとんでもない顔を秘めていたな」
ベッテルハイムは琉球に武器があることを示唆《しさ》していた。それを見せないのが彼らの戦術であるらしい。こういうことか、とペリーは怒り心頭だった。とにかく今は、冤罪《えんざい》を証明するために条約交渉を一時中断するしかない。しかし、そのためには艦隊の火薬積載量と大砲の射程距離を王国側に教えなければならなかった。ペリーらは三司官らがもっとも知りたがっていた極秘事項をみすみす開示せざるを得なくなった。
昨夜の炎は那覇港からも目撃された。あれが新型の大砲で、もしサスクェハナ号に直撃していたら、反撃の余地もなく撃沈されていただろう。ペリーはその爆発の威力から、全艦隊の総火薬量を上回ることを弾きだしていた。
「修好条約の締結前に脅しをかけてくるとは、とんだ食わせ者たちだ」
「一体どういう武器を使ったのでしょうか。甲板で見張りをしていた兵が、空から降ってきたと証言しています」
「我々を狙ったのか、あるいは狙い通りに爆発したのか、それを調べるのだ。通訳のベッテルハイム博士を呼び出せ」
ペリーの声はいつになく荒々しかった。
「それが、護国寺を引き払ったようで、今朝から消息がわかりません」
「捜しだせ。博士の協力なしには王国の事情が捉《とら》えられない」
「しかしこれほどの武器があるとは。清国以上に手強《てごわ》い相手かもしれません。やはり補給基地は別の土地に作るべきではないでしょうか」
艦長室に海図が広げられている。艦隊の現在地には〔LEWCHEW〕と新たな地図が加えられていた。これにかけた投資は莫大なものだ。一刻を争う事態に新たな補給基地を探している余裕はない。すぐにでも英国やフランスが日本を狙っているのだ。
「何度も検討したではないか。琉球の地理的条件がもっとも相応しいのだ。派遣を命じたフィルモア大統領に何と報告すればいい? 向こうには我々の知らない武器があります、とでも言うのか」
「まずは現場を視察いたしましょう。対策はそれからです」
「上陸部隊を出せ」
護国寺を引き払ったベッテルハイムとオーゲスタは、辻町に隠れていた。かつて友庵が塒《ねぐら》にしていた館《やかた》で声をひそめている。三世相の家らしく占いの書物が散乱していた。ベッテルハイムが隠遁《いんとん》生活はそう長くないと笑った。
「なぜ隠れるのです。かえって怪しまれるではないですか」
「今頃ペリーたちは我々を捜しているはずだ。彼らの調査にかまっている暇はない」
「王国の役人とアメリカ艦隊の板挟みで、じきに捕まります。ここは異国の地なのですよ。どうやって逃げればいいんですか」
「心配するな。ペリーらの捜索も長くは続かない。この三日ですべてを完遂してやろう」
「戦争をするんですか。何の武器も持たずに」
「武器はある。すべては時間が味方してくれる。まずは友庵の正確な居所を調べるのが先だ。万が一戻ってきたら厄介だからな」
「戻れなくするってどうやってです」
「あいつは土地に流れるセヂを活用して時間を超えていく。島をひとりの人間とみなしたとき、どこかをいじれば病に罹《かか》る。だから二十世紀の琉球を病に罹らせてもらおう」
「もらうって誰にです」
「二十世紀の協力者にだ。奴がどこから飛んだのか調べるのだ。セヂの流れを計算したメモが残っているはずだ」
館には星図や天文学の書物が散乱していた。その中からオーゲスタがあるものを見つけた。そこには王国中部のセヂが念入りに計算された跡が残っていた。
「なるほど、越来《ごえく》から飛んだのか」
「どういう意味でしょうか」
「時間を超えることは大地を離れることを意味する。越来はそのためのセヂの集積地だ。さっそく壊すことにしよう」
ベッテルハイムはペリーたちが測量した新しい王国の地図を持っている。越来付近に目星をつけると矢で島を突き刺した。
「馬鹿げている。まるで魔法だ」
「ペリー提督の黒船も魔法だと騒いでおるぞ。魔法とは人間の理解が追いつかないものを言う。しかし魔法を獲得した人類はこれを科学と呼ぶ。それは歴史の宿命なのだよ」
ごくりと息を飲みこんだ。サスクェハナ号の黒煙を見たとき、誰もが妖術《ようじゆつ》を使っていると大騒ぎした。あの煙が王国を覆うと疫病が蔓延《まんえん》すると噂になっている。オーゲスタはそれが蒸気エンジンだとわかっている。しかしそれはベッテルハイムに仕組みを教えてもらったからで、何も知らなかったらやはり付和雷同していただろう。人間の知恵とはしょせんその程度かもしれなかった。ベッテルハイムが今行っている不思議な術も、きっと合理的な解釈があるのだろう。彼は優れた学者で、何よりも論理的でないものを嫌う。
「千年の視点を持て。それで魔法の意味がわかるはずだ。魔法を駆使するには肉体の時間だけでは足りない。大きなセヂの前では個人の獲得した知恵など取るに足らないものだということを知れ」
「この魔法はいつ成就するのですか。そのとき私は生きていますか」
「おまえも私も死んでいるだろう。これが実現するのは百四十七年後だ」
「そんなに。では誰が確認するんです」
「私たちが[#「私たちが」に傍点]だ。百四十七年は魔法の時間では短い方だ。現に我々は三千年前から巨大な魔法を仕掛けて、巡り合っているではないか」
何か大きな疑問が一瞬のうちに氷解した気がした。現在の意識は大きな流れの前のわずかに許容された揺らぎにすぎないとどこかで思っていた。しかしその大きな流れは、人の生で捉えるにはあまりにも巨大すぎる。
「ラビよ。私は見たい。これがどうなるのか、私は必ず見届けたい」
「さすがは我が弟子だ。おまえの魂はすでに自由だ。手続きさえ間違えなければ、これを見届けられるはずだ。百四十七年後、私たちの世界が開けているだろう。それを実現する瞬間に立ち会おうではないか」
オーゲスタはそれができることをもう疑わなかった。
「オーゲスタよ。私が死んだときの墓碑銘を覚えているな。私は十七年後にこの肉体を離れるが、正確に蘇《よみがえ》らないとすべての努力が水の泡になる」
POST CXXX ANNOS PATEBO[#「POST CXXX ANNOS PATEBO」はゴシック体]
ベッテルハイムがメモをした紙を渡してオーゲスタの目を見た。
「そのとき、おまえもまた蘇るのだ。魂は常に代謝《たいしや》を繰り返す。一人格に固執することを捨てれば理想を追い求めることができる」
「死ぬと天国へ行くのではないのですか」
「天国とは大地のことだ。死ねば魂は大地を巡るエネルギーとなる。それもいいが、人として存在したければ肉体を何度も脱皮しなければならない。それができる者こそ、神と呼ばれる者だ。私はおまえを常に必要としている。おまえも私がいなければいつまでたっても使命を果たせない」
オーゲスタは仕掛けられた内なる衝動で頷《うなず》いた。今まで培ってきた人格など、彼の言葉の前では紙切れに等しい。
「そのとき、私はまたラビに会えるのでしょうか。オーゲスタ・カウとして」
「そのときの名前は私もおまえも異なっている。しかし、すぐにわかるだろう。おまえが、初めて私と会ったときのように、また『お久しぶりです』を再会の言葉にしようではないか。私とともにいるならば魂の不滅を与えてやろう」
オーゲスタが言葉に飲まれて頷いた。もう一枚薄い紙が破れれば、彼の言葉の意味がすべてわかっただろう。オーゲスタはメモを握りしめた。
「まずは友庵を封印する」
そのとき友庵の館をたずねてくるジュリがあった。
「えー。オーゲスタじゃーん。また姦《や》りに来たのー? あんた早漏だからダメぢらー」
彼女は元祖アメ女のナビーだ。また友庵に占ってもらおうと扉を開けた。
「ちょうどよい。こいつを生け贄《にえ》にしてやろう」
すぐにペンタグラムの中心に十字架がかけられた。しかしジュリはとても嬉《うれ》しそうだ。
「見たことのない世界へ行けるのだぞ」
「♪わーい。♪わーい」
「不思議と罪悪感を生じませんね」
こんなに心和ませる生け贄は空前絶後だろう。罪悪感どころか、執行人は徳を積んでいる気分になる。本来、生け贄はこうあるべきだ。彼女は生け贄の鑑《かがみ》である。
ベッテルハイムが時刻を気にしている。正確にペンタグラムを起動させないと、一瞬のズレが何百年の差となってしまう。
「間もなく向こう側から底なしの淵《ふち》を開けてくるはずだ」
五角形の内部はとりわけ力の働きが強い。どこに余裕があるのかわからないが、大地が湾曲して海のようにうねっている。それでいて二人の足元は揺るがない。また大地にさざ波が立った。
「博士、淵が開いていきます」
「飛び出してくるぞ。気をつけろ。第二の封印が解かれる」
淵がくすんだ血の色に変わり、渦を巻き始めていた。ベッテルハイムが聖書の言葉を唱えるといくつもの爆発音が連なったような轟音《ごうおん》が淵の底から響いてきた。
「第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された」
「ヨハネの黙示録、第八章第八節……」
オーゲスタの呟《つぶや》きが爆音に飲まれたときだ。淵から凄まじい速さで何かが飛び出して天空を飛翔していった。
「鋼鉄の鷲《わし》だ!」
一等星よりも明るい二つの炎が背後から吐き出されている。ベッテルハイムは眼鏡にその姿をふたつ捉《とら》えて呟いた。
「素晴らしい。まさに猛禽《もうきん》に相応《ふさわ》しい」
飛び出してきたのはラプター5号機だ。翼の揚力なしにエンジンの推力だけで垂直上昇していく。きりもみ飛行から安定すると、闇を引き裂く刃物のように那覇の上空を旋回していった。
「墜落は免れたか」
パイロットのアンダーソン大尉は墜落する直前に、ベクタード・スラストで推力方向を調整して再上昇を試みた。一瞬だけブラックアウトに襲われたが、同じ空域にいるようだ。しかし燃料がもう底をついていた。このままでは公海に出られないことを知った大尉は、猛禽作戦を中止することにした。
「カデナベース応答せよ。ラプター5号機のテストを中断する。着陸を要請する」
応答がなかった。さまざまなチャンネルに切り換えたが、どのバンドも不通だ。5号機は通信装置開発機で、さまざまなアンテナが装備されていたのに、全部壊れてしまったようだ。さっきから警報音がうるさい。ヘッド・アップ・ディスプレイが火器管制に入ったままだった。大尉はなんとかマニュアルに戻そうと躍起になっている。
「E3セントリー応答せよ。ラプターEMD5号機、帰還する」
レーダーに反応が現れない。レンジ外に出たのかと下を見ると海の上に明かりが灯《とも》っていた。コンピューターの表示では陸上になっているが、そこは海だった。そういえば都市の明かりがないことに気がついた。
「あれはどこかで見たことがあるような……」
甲板の明かりを熱探知が捉えると武器格納ベイが勝手に開いていく。コンピューターにターゲットが表示された。ディスプレイに三本のマストと特徴的な黒い煙突をつけた帆船のシルエットが浮かんだ。そんな時代錯誤の代物は敵・味方識別コードに入っていない。誰かが予《あらかじ》めプログラムしたとしか思えなかった。アンダーソンはもう少しで思い出せそうだった。すると彼の閃《ひらめ》きよりも早く、画面に〔Frigate Mississippi〕と表示された。急いでキャンセルを押すとミサイルが自動発射された。
「これでペリー提督ともお別れだ」
ベッテルハイムが投げキスをしたとき、ミサイルが炎の弧を描いて落ちていくのが見えた。続いて海から夕日が這《は》い上がってきたような明かりが放たれる。爆風で森の木の葉が吹き飛んだ。
「ミシシッピー号が爆発したぞ」
甲板は大騒ぎだった。サスクェハナ号は波を受け、必死にバランスをとっている。闇夜に閃光《せんこう》が走ると、ミシシッピー号の影が一瞬だけ見えた。それから炎に包まれると、もうマストも残っていなかった。千七百トンの船を一発で沈める大砲など考えられなかった。
「王国が発砲したぞ。あの鳥が落としたんだ」
「なんだあれは? ガルーダか? フェニックスか?」
上空にはラプターが翼を鳴らして旋回していた。すかさずサスクェハナ号の大砲が鳴る。しかし超音速で巡航するラプターのスピードに砲弾は追いつけない。艦隊が一斉射撃に変わった。その弾幕を簡単に躱《かわ》してラプターが機銃を浴びせてきた。甲板から船底までを貫くバルカン射撃で船に水が入ってくる。
「提督、目標が速すぎます」
「ぎりぎりまで引きつけろ」
機首が艦隊に向くとまたミサイルを撃ってきた。
「敵はこちらの射程圏外から撃ってきます」
ミサイルはいったん海面すれすれまで接近し、大きく迂回《うかい》してから舷側に飛びこんだ。内部から真っ二つに割れてカプリイス号が沈んだ。サプライ号が急速回頭しようとしているが間に合わない。煙の帯をたなびかせたミサイルがサプライ号を砕いた。
「提督お逃げください」
サスクェハナ号にいたペリーらが海に飛びこむと同時に船が爆発した。二千五百トンのサスクェハナ号が積んでいた砲弾を誘爆させながら、珊瑚礁《さんごしよう》の海に沈んでいく。ほんの数分の間に、那覇港に居座り続けていたペリー艦隊が消滅し、代わりに四つの夕日がいつまでも港の夜を照らしていた。
那覇港に突如現れた明かりを正面にして、ベッテルハイムが歓喜の声をあげる。
「目障りなアメリカ艦隊を撃沈したぞ」
とたんに底なしの淵が閉じていく。地面から金属のプレートが浮かびあがり〔TO MEGA THERION〕と鍵《かぎ》がかかった。
「アメリカの黒船を沈めるとは。あの鋼鉄の鷲はどこから飛んできたんですか」
「魔法のいくつかが科学に変化した時代からだ。オーゲスタよ、やってくる未来は私の術すら子供だましにしてしまうだろう。千年はすぐそこだ」
「これで琉球は独立国家を維持することになるのですか」
「いや、それは無理だ。琉球は清国の後盾にすがるしかなくなった。植民地支配を受け入れるより、清国に領土を割譲する方を得策とみなすだろう」
王府は琉球の存続のためにさまざまな可能性を検討していた。廃藩置県で日本国の領土が確定する瞬間まで、琉球の処遇は曖昧《あいまい》だった。条約には宮古・八重山を清国に、奄美・沖縄本島を日本に、と分割される案が浮上していた。
「琉球は太平洋を漂流する小船のようなものだ。奇跡的に遭難を免れているが、どうせ長くは続かない王権だ。新たな琉米修好条約は、アメリカ艦隊の居留を認めざるを得なくなるだろう。アメリカは大軍を率いてくるはずだ」
「あの鳥はどうしますか?」
ラプターはまだ上空を飛び、目では追いつけない速さで爆音を撒《ま》き散らしている。
「アメリカのものだが、もう用はない」
ベッテルハイムが十字を切った。
「こちらアンダーソン。誰か応答してくれ。ラプター制御不能。ラプター制御不能」
ラプターのコックピットでは大尉が緊急脱出レバーを引き続けている。しかし爆薬でキャノピーを吹き飛ばすはずが、作動しなかった。座席下のロケットにも燃料が入っていない。大尉はこれが策略であることにやっと気づいた。中国の国家安全部が証拠|湮滅《いんめつ》を謀ったのだろうか、それともCIAが機密|漏洩《ろうえい》を恐れたのだろうか、アンダーソンにはわからない。自分が何かとてつもない陰謀に利用されているのではないかと考えたそのときだ。ディスプレイはラプター5号機が自爆モードに入ったことを告げた。アンダーソンは叫んでいた。
「災いだ。災いだ。災いだ。地上に住む者は災いだ」
とたんにラプターが真昼の輝きを放ち、王国をくまなく照らす炎となった。
「まるで太陽だ……」
ベッテルハイムが術の用意をしている。彼は唇を結んだままなのに、腹話術のような声を発生させている。いや、ベッテルハイムによく似た声の別人なのかもしれないと思った。オーゲスタはまだ状況をよく理解していなかった。ベッテルハイムが叫んだ。
「天空を駆ける猛禽《もうきん》を確かに受け取った」
間一髪で海に飛びこんだペリーらは、岸に到着していた。
「琉球は宣戦布告をした。アメリカはこれに応じると国王に伝えろ」
「しかし提督、我々の救援を待たねばなりません」
「香港に停泊しているプリマウス号とサラトガ号が、来月にも琉球に寄港するはずだ。一時退却したら、全艦隊で琉球を叩いてやる」
ペリーらは確保していた民家に身を隠した。ペリーの言葉を王に伝えると、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせるのも甚だしいと、三司官らに突き返された。アメリカ艦隊は勝手に自爆したというのが王府の見解だ。これにはペリーらも逆上した。
「ベッテルハイム博士はまだ見つかりません」
「イギリス人宣教師のくせに、どこに身を隠したというのだ」
「提督、蛇《じや》の道は蛇《へび》と申します。この国の専門家に頼んでは如何でしょうか」
「で、その相手とは?」
連れてこられたのは、港でペリー艦隊の水兵を相手に占いをしていた面妖《めんよう》な老婆だ。
「ザ フェアー イズ ワン ダラー」
彼女は座興に呼ばれたのかとおめかしをしてやってきた。最近新しい占いを開発したばかりだ。那覇はユタの商売の激戦地だ。商人らは優れたユタを買いにくる。ユタはこの時代でも供給過剰で投げ売りが行われていた。代表的な街はそれぞれ高名なユタが客を独占している。辻の花街は友庵が仕切っているし、流しをするにも同業他者の目がうるさい。こんな窮屈なときにこそベンチャービジネスは出現するものだ。誰も開拓していない新規の顧客はアメリカ艦隊しかいなかった。そこでユタは那覇港を拠点にして、水兵相手に恋愛占いを始めた。今や彼女は大人気である。
「波上《なんみん》の眼鏡《がんちよう》ねぇ。ベッテルハイムのことかい?」
さっそくベッテルハイムを占ってみたが、正確な情報が得られなかった。名前が違うのではと確認させたが、ベッテルハイムで出てくる情報はほとんどなかった。ペリーは博士のシャツの奥にペンダントが輝いていたことを見逃さなかった。
「ユダヤ人のベッテルハイムで占ってみろ」
ユタはカードを自然にダビデの星形に並べていた。
「いた。天久だよ。あそこに妙な図形が現れているように思えるんだけど……」
とオバァがペンタグラムを描いてみせた。ペリーはピンときた。
「アメリカと琉球を戦わせようという算段らしい。こんな地の果てにGAOTUがいたとは、危うくだまされるところだった」
王府もまたベッテルハイムを捜していた。ウイリアム博士の宣戦布告を受けた三司官らは、これがアメリカのやり方かと断固抗議した。こちらは見舞いを出す準備をしていたのに、事故を王国のせいにされては迷惑だった。しかし何とか戦争だけは回避しなければならない。言語に堪能な琉球側の通訳はベッテルハイム博士しかいない。
首里城は上を下への大騒ぎだ。
「ベッテルハイムはどこにもいません」
「ならば三世相を呼び出せ。どこに行ったのか占わせよう」
「友庵もまた行方不明です」
「他に占える者はいないか」
「いることはいるのですが……」
命令を受けて入城したのは、ユタだった。この時代はノロの権力が強かったため、ユタが王城に入ることは滅多になかった。しかし聞得大君制度は事実上機能しなくなり、歳若き王を支えるだけで精一杯の汲々とした状態だ。ユタもまた王権に翻弄された存在である。似たような力を使うユタを快く思わないノロたちにより、平等所《ひらじよ》に持ちこまれるケースもあった。琉球の魔女狩りである。しかし魔女狩りと異なるのは、彼女らの能力を試されたことだ。彼女らは勝手に御嶽を拝み、啓示によって成巫《せいふ》する。今や古い血を尊ぶノロの力さえ上回るユタも出現していたのだ。王国は何もかも衰亡の途についていた。
首里城の御庭《うなー》に現れたユタはビスケットをかじっていた。ペリーからの報酬だ。珍しいものが手に入れば、ユタはなんだって占う。客を前にアメリカ艦隊も王府もない。役人らに強引に連れてこられてユタはお上りさん気分だった。
「御主加那志前《うしゆがなしーめ》にお会いできるとは嬉《うれ》しいねぇ」
正殿から宝珠の王冠を載せて現れたのは、最後の琉球国国王である尚泰王だ。皮弁冠《ひべんかん》と呼ばれる王冠は頭の形に合わせて上方にカーブし、十二本の縞模様《しまもよう》に沿って二六六個の宝珠が並んでいる。竜を正面に刺繍《ししゆう》した清朝風の皮弁服は本来の形を南国風に昇華させた見事な衣装で、着衣の上から佩玉《はいぎよく》の飾りを左右の腰に垂らすと、南海の勝地の王たるに相応《ふさわ》しい装束となる。しかし、まだ十一歳にしかならない王は、いずれ風格となる蕾《つぼみ》を固くし、無邪気な少年特有の若葉を顔に開いている。これを見たユタは「イケる」と確信した。彼女は習いたてのウインクで少年国王の気をひくと、乳母のような声色を使う。
「御主加那志前、私の新しい占いで波上の眼鏡を捜してみせましょう」
「苦しうない。やってみろ」
少年国王は重々しい雰囲気を醸しだそうと三司官譲りの台詞《せりふ》を言ってはみるが、王冠は今にも彼の頭をすっぽりと覆いそうだ。すかさずユタから「ブー、サー、シ」とかけられた。王が反射的に親指を出す。これは琉球式のジャンケンだ。尚泰王は反射的に小指をだしてユタの人指し指に負けた。すると、
「はい。『サ・ー・タ・ー・ア・ン・ダ・ー・ギ・ー』」
とユタが腰を振り振り正殿の階段を昇っていく。また「ブー、サー、シ」と親指をだす。
「はい。『ブ・ク・ブ・ク・茶』」
「この痴《し》れ者。御主加那志前を愚弄するな」
三司官が止めに入ろうとしたが、王に睨《にら》まれた。
「よい。これの占いは面白い」
「ほーら、御主加那志前がお許しになってるんだよ。はい。ブー、サー、シ。『シ・ー・クァ・ー・シャ・ー』」
ユタは軽快に階段を昇る。一段ずつ表情を変えて王に近づけば少年の顔は綻《ほころ》んでくる。段上で王の前に跪《ひざまず》くと託宣が降りてきたようだ。
「恐れながら御主加那志前よ。波上の眼鏡は天久にいるようです」
それはさっきもペリーたちの前で述べたことだ。つまりこのユタの占いは方法などどうでもよいということだ。よく考えてみたら占いは当たるかどうかが重要なのだ。
ユタの占いを聞いた三司官らが横から口を挟んでくる。
「天久はさっき捜したところだ。ベッテルハイムはいなかった」
「それはあいつが天久に複雑な結界を張っているからさぁ」
「ではおまえがその結界を破れ」
「そんな無茶な要求があるかい。セヂの強さでベッテルハイムに勝る者はいないさぁ。あれに勝てるのは聞得大君のセヂを受ける者だけだよ。セーファ御嶽のノロしかいない」
「セーファ御嶽のノロは世襲したばかりで、まだ力をつけておらん」
「聞得大君のセヂを受けられる神人《かみんちゆ》に努力はいらないはずだよ。生まれながらの純正なセヂしかないはずだけど……」
ユタの見解では、オナリとなって国王を守護する運命の聞得大君は、王と釣り合うだけのセヂがなければならない。目の前にいる尚泰王はセヂに関しては王のものではない。それは王が幼いからではなかった。運命的に決定されたセヂは魂の器を表す。セヂは正直で残酷だ。どんなに卑しい素性の者であれ、セヂを受け入れる力のある者に流れていく。ユタがセヂの流れを見ると、異国人たちに王国のセヂが流れていた。ひとりはベッテルハイム博士、もうひとりは条約締結を押し迫るペリー提督だ。国土はより強いセヂを持つ人物を選んだ。たとえそれが王国を崩壊させる人物だとしても、セヂの流れは止められない。セヂは王を見放した。当然、エケリである王が衰弱しているときに出現するオナリ、聞得大君も同等のセヂであるはずだ。
「最高神女を愚弄するとは不心得なユタだ」
「だったらなんで初めからセーファ御嶽のノロに占わせないんだい。力がなくなっているんだろう。あそこを治める者は血統より能力で選ばれなければならないんだよ」
尚泰王が甲高い声を響かせた。
「では、新しい聞得大君を選定せよ」
「御主加那志前、勝手なことをなさらないでください。セーファ御嶽は王国の要《かなめ》ですぞ」
「だからこそ、強大なセヂを受け止める女に治めさせるべきだ。三司官よ、琉球国はもう長くはもたない。そうだろう?」
「おや。立派な御主加那志前だこと。琉球国がこの後どういう選択をするかで歴史が変わるよ。アメリカにつけば奴隷の国になる。日本につけば処分される。清国は間もなく崩壊する。どっちについても地獄さぁ」
「御主加那志前、そんな託宣を聞得大君は受けておりませんぞ」
「受けられなかったのだろう。私と同じく聞得大君のセヂも弱くなっている……」
「王をとるか聞得大君をとるか、琉球の選ぶ道はひとつしかないよ」
尚泰王は即座に決断を下した。
「王はなくとも民は生きる。聞得大君を存続させることが琉球国の再興に繋《つな》がるだろう」
皮弁服の中央に刺繍された竜が悲しみの表情を湛《たた》えている。首里の丘を巡る風が時代の変化を伝えていた。時代は列強の支配に移りつつある。かつて中継貿易でアジア全域を股《また》にかけた王国は、静かにその役目を終えようとしていた。
ユタは独自の占いにより聞得大君の選定を始めていた。
「聞得大君に相応しい女は、現在の琉球にはおりません。新しい血を受け入れるしか存続の道はないでしょう」
「その新しい血とはなんだ?」
「ペリーたちの中におります」
「ふざけるな。あの野蛮人どもの血に王国の聖地を継がせようというのか。我々は認めないぞ。御主加那志前、どうか王権をお選びください。武器はあります。足りない分は薩摩《さつま》から調達しましょう」
「駄目だ。王国はもうもたない。琉球国は戦争に慣れておらん。国土を消耗させて跪くなら、少しでも有利な交渉をした方がよい」
「恐れながら御主加那志前よ。新聞得大君が誕生するのは、ずっと先のことです。その女は土地の者として、しかし異国人の風貌《ふうぼう》で誕生するでしょう。その女は史上最大のセヂを受けるため、生まれながらに空白で、セヂを封印されております」
「その聞得大君なら琉球を救えるのか」
「はい。伝説のキンマモンを降ろすことができる最強の聞得大君です」
尚泰王は重かった皮弁冠を降ろした。
「三司官よ、ウイリアム博士を呼べ。王の書簡を与える」
「御主加那志前、どうなさるおつもりですか」
尚泰王はユタに自分の運命を占わせた。というよりも確認させただけだ。王は第二尚氏王統の終焉《しゆうえん》をペリー来航で思い知らされた。今まで日本と清国の二重支配の中で巧みに独立を貫いてきたが、より強大な国家を前にして、もはやこれ以上の抵抗は無駄だと悟った。来年には日本が琉球と同じ脅威に晒《さら》されるだろう。
徳川幕府は潰《つい》える。
それは清国も同じだ。
その前に琉球が生け贄《にえ》にされるわけにはいかない。
「御主加那志前よ。あなたは最後の琉球国の王でございます。ここでアメリカを退けても来年にはロシア国のパラルダ号が訪れ、同じ要求を突きつけてきます。どちらを選択しても最後の王であることには変わりありません」
聞いていた三司官らが膝《ひざ》を崩して泣いた。幼い王は御庭の隅々まで響きわたる声で命を下した。
「私は最後の国王として、民を守る。琉球王は主権を放棄し、清国に領土を割譲する」
「本気ですか。それでは清国の思う壺《つぼ》ですぞ」
王はちらりとユタを見た。彼女はそれしかないという風情で今にも頷きそうだ。三司官も覚悟していたことがいよいよ来たことを知った。
尚泰王は抱えている皮弁冠を見つめた。
「王はしばし休もう。そなたにセーファ御嶽を任せる」
ユタは畏まって頭を深々と下げた。ユタはセーファ御嶽に赴き、土地の力を眠らせた。そして六代先の新聞得大君がその封印を解くように結界を張った。現在の衰えた血では存続は危ういことを知った王の勅命により、聞得大君は密《ひそ》かに入れ替わった。ユタはその間セーファ御嶽を護《まも》ることを彼女の使命とした。
「聞得大君なら覚醒《かくせい》のとき、これを聞くだろう」
ユタが唱えたのは聞得大君のオモロだ。
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一 きこゑ大ぎみが
おぼつせぢ おるちへ
あんじおそいよ みまぶて
きみきみや おぼつより かへら
又 とよむせたかこが
かぐらせぢ おるちへ
一 きこゑ大ぎみきや
さやはたけ おれわちへ
うらうらと
おさうせやに ちよわれ
又 とよむせたかこか
よりみちへは おれわちへ
一 きこゑ大ぎみぎや
あまみや世の うぶ玉
うぶだまは
いのるすど よがける
又 とよむせたかこか
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「第一の封印が解除された」
ベッテルハイムが呟《つぶや》いた。
「何がです。今、何をしたのですか」
「セーファ御嶽を封印したと同時に、こちらの都合を割り込ませたのだ。これで王国の聖地は弱まった。時を超える者を封印するなら今しかない」
天久の風が渦を巻き始めていた。
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ああ、汝《なんじ》、最も反抗的なる悪霊Nよ、我、汝を三人の最もおぞましく強力なる神の名前、『アグラ オン テトラグラマトン』の力によって、汝の傲慢《ごうまん》さ、野望、反抗、反逆の故に地獄の底無しの淵《ふち》にて拷問を受けるべく、ルシファー、サタナス、ベルセバブ、ジョーコニルの手に追い落とさん。さらに、救い主イエスがその偉大なる神性の力によって我らが悪霊たちを追い落としたように、救い主イエスの力により、汝、欺くことなく、あやまてることなく、時を移すことなく、すべてにおいて我が意志と命令を成就すべく従順ならざるかぎり、我は汝を最後の審判の日まで火と硫黄《いおう》の拷問の淵に追い落とさん。父+と子+と聖霊+の名において。アーメン。
[#ここで字下げ終わり]
網の目のように交差した光がペンタグラムにかかる。戸惑ったオーゲスタがベッテルハイムの顔を覗《のぞ》きこむと赤く火照ったガネーシャが眼鏡に映っていた。鼻を上機嫌に揺すっていたかと思うと間もなくそれがピクリとも動かなくなった。ベッテルハイムがニヤリと笑った。
「友庵を封印した」
「あれがそうなんですか。象のように見えましたけど」
「奴に姿はない。なぜならあれもセヂのひとつの産物だからだ。もっとも人の精神が媒体にならないと役に立たないが。さて、行き場を失ったセヂを集めるとしよう」
天久の風がますます強くなっていく。ベッテルハイムが勝利を確信したかのような強い表情になる。
「天久に王国中のセヂを召還する」
「先生はどちらの味方なのです。ペリー提督ですか、尚泰王ですか」
「どちらも邪魔なだけだ。王が退位し、ペリーが諦《あきら》めればこれほど好都合なことはない」
「イギリスに戻るのではないのですか」
「帰るだと? ここが私の王国になるのに、どこに帰るのだ。私は祖国ハンガリーを捨て、イギリス人となった男だ。この土地のセヂは優れている。かつてポルトガル人のトメ・ピレスはこう述べた。ここが要となる島、レキオスだと。アジア全域からセヂが集まってくる、蓬莱《ほうらい》の島だ」
「セヂとは何です? ただの土地の迷信じゃないですか」
「違う。セヂは万物に宿る力だ。そしてセヂを掌握できるのは人間だけだ。なぜなら人間こそがセヂを生まれ変わらせる唯一の存在だからだ。肉体にセヂが宿りやがてそれが魂となる。魂は人格を生じ、人格は運命すなわちセヂを変容させる。そして人が死に、肉体を離れた魂が個性を失いセヂに還元されるとき、新しいセヂとなって万物に再び宿る。この機能に与《あず》かることを許された存在こそ人間なのだ。ただの生物や鉱物はセヂを受け入れても、再生産する能力がない」
「何をおっしゃっているのです」
オーゲスタの体を不思議な風が通過していく。自分が半透明になっているのかと通りすぎた風に振り返る。しかし通った後の心地好さは肉体が新しくなったようで格別だった。
「しかしその役割を担ったせいで、人間には困ったことが起きるようになった。セヂを魂に変容させた後、人格に執着するあまり、本来のセヂを忘れてしまう者がほとんどすべてになってしまったのだ。人に宗教が必要になったのは、人間がセヂを忘れてしまったからに他ならない」
「聖書はそのようなことを教えてはいません」
「おまえの使命はキリスト教が誕生する千年も昔から存在していると言っても、信じないだろう」
オーゲスタはまた激しい頭痛に見舞われていた。ベッテルハイムはセヂが魂の殻《から》を破ろうとしているせいだと笑った。
「これは有史以来、ずっと繰り返されている人間のテーマなのだ。オーゲスタよ安心するがいい。使命を思い出せないのは極めて人間的なことだ。人は志を残すことで複数の輪廻《りんね》で順次|覚醒《かくせい》できるようになっている。ただし、人生の中で魂を解放できる者がごく稀《まれ》に出現する。人格以外の力を内部に宿していることを知った者は、セヂの代謝を魂の枠から外して行うようになる。それが天才と呼ばれる人間なのだ。彼らは人格が単なるセヂの結節点であることを悟っている」
「私は今まで何をしていたんだ。聖書の言葉に心底感銘して信者になったというのに」
風が抱えていた聖書を吹き飛ばした。しかしオーゲスタは拾わなかった。
「宗教はセヂを知るための教えだ。宗教世界に到達した者はセヂの世界と一体になることができる。セヂを確信した人間に宗教はいらない。天才と聖職者はアプローチが異なるだけで、見る世界は同じものだ。おまえは宗教に答えを求めすぎるのが欠点だ。セヂを感じるようになれば、もはや理解は必要ない」
「えー、それって常識じゃーん」
十字架にかけられたジュリが偉そうにふんぞり返っている。社会的最下層にいながらセヂの本質を本能で体得しているジュリは、死をあまり恐れない。
「先生、こいつを今すぐ殺していいですか」
「まあ待て。彼女はたしかにセヂを体得しているが、再生産ができる存在ではない。彼女は自由の見識に達しているように見えるが、路傍の石に宿るセヂと変わらない。だから何度肉体を更新しても発生する魂は同じだ。彼女を救おうとすることは、石を救おうとしているようなものだ。たまたま人間だが、中身は石だ」
「うーん。ちょっと痛いとこ突かれたかなーぢらー?」
「私はセヂを変容させる人間を敬愛しているのだ。オーゲスタ、人はただ繰り返しているのではない。おまえが変えたセヂは尊いことなのだ。魂に濾過《ろか》されてこそセヂは輝く。だがセヂは原材料にすぎない。私がほしいのは魂によって加工されたセヂだ」
ベッテルハイムが茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしているオーゲスタの肩を掴《つか》んだ。
「人類が百万年かけて到達できるかどうかの領域を、私が千年で実現してみせよう」
「天久がその王国になるのですね」
「今ではない。しかし今から始まるのだ。おまえが覚醒するには時間がかかる。だが私はそう待てない。私は一度滅び、セヂを使って同じレベルで蘇ろう。そのときおまえは私の本当の名前を知るだろう。
Ex Deo nascimur, in Jesu morimur, per spiritum sanctum reviviscimus
(我らは神から生まれ、イエスのうちに死に、聖霊により復活する)」
オーゲスタはピンと来たらしい。
「クリスチャン・ローゼンクロイツ……。それがあなたの本名ですね。青い薔薇《ばら》と十字架を使われるのは彼しかいない……」
「間違いではない。そのような時代もあった。そのときもおまえは側にいたのだぞ。その後もずっと私と一緒だった。洗礼の言葉を覚えていないか。ひとつ前の人生でおまえを洗礼したのはこの私だ」
オーゲスタの頭に声が蘇《よみがえ》ってきた。
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宇宙の偉大なる建築師たる神の似姿に創られし我らが最初の父アダムは、おのれの心臓に自由学芸を、わけても幾何学を書き刻みしこと疑いなし。失寵以来われら、その末裔《まつえい》の心臓に当学芸の原理を見出せし故に……。
[#ここで字下げ終わり]
「思い出した。私はGAOTUに入会していた」
イギリスの聖堂内で執り行われた厳かな儀式が蘇る。その時、オーゲスタの魂は白人の青年に宿っていた。そして祭壇の中央でエプロンを身につけた威厳のある男が祝福している。同志と認められたときの感激が蘇り、現在のオーゲスタの感覚を支配していく。あのときの司祭が目の前にいるベッテルハイムだ。
「まだまだ覚醒のレベルが低いぞ。たかがひとつ前ではないか。あのとき約束したことを覚えているか。私と王国の再興を誓っただろう」
「思い出した。あのとき、先生はたしか聖霊を使うとおっしゃっていました。するとこれが……」
「そうだ。セヂは神の業を子に顕《あらわ》しめる聖霊に他ならない」
「これが聖霊……。するとこのセヂを使って王国を蘇らせるのですね」
「違う。これはただのセヂで役に立たない。もっと均質に加工されたセヂが大量に必要なのだ。だからそのような時代のセヂを使う。悪しき軍隊に冒され、魂が傷ついたセヂこそ、私は必要としているのだ」
風を破る爆発音が轟《とどろ》いた。天久の森に五つの青い炎の柱が現れる。セヂの流れがペンタグラムの頂点から頂点へと走っていく。ベッテルハイムの目が光った。
「準備はすべて整った。いくぞキャラダイン」
鏡を合わせるのだベッテルハイム。[#「 鏡を合わせるのだベッテルハイム。」はゴシック体]
「今の声は一体どこから?」
「私が命じたのだ。さあ、用意した鏡をペンタグラムの中央に置け。このジュリのセヂで時空を固定するぞ」
オーゲスタが銅鏡を入れた袋を開いた。ある日、ベッテルハイムがセーファ御嶽から奪ってきたものだ。
「神の器は三つあるが、ひとつしか手に入らなかった。しかし時空を超えれば鏡の数はふたつになる。そして向こう側にいるセーファ御嶽のノロの勾玉《まがたま》を合わせれば数は揃う」
「あの阿片《あへん》でおかしくした巫女《みこ》のものですか」
「人聞きの悪いことを言うな。彼女は自分のセヂに悩んでいたのだ。私は医師として楽になるように処方したまでだ。セーファ御嶽はもう本来の機能を果たせない。封印が解除されるまでの巫女はすべて己のセヂのなさに困惑するだろう」
ペンタグラムに向かい合うように鏡を合わせた。底なしの淵《ふち》が神々しい光を放って開いていく。その光をまた鏡で押し戻すと、青い炎の頂点が動きだした。
「ペンタグラムが回転している。時を紡いでいるのか」
ベッテルハイムの胸のダビデの星がペンタグラムと呼応して周期的に反応する。いよいよ時が迫っていることを確信したベッテルハイムが中央に構えて両手をあげた。
[#ここから1字下げ]
「アテー。マルクト。ヴェ・ゲブラー。ヴェ・ゲドラー。ル・オラーム。アーメン。
我が前にラファエル、我が後ろにガブリエル、右手にミカエル、左手にウリエル。
我が前にペンタグラムは燃え上がり、我が後ろにヘクサグラムは輝く。
アテー。マルクト。ヴェ・ゲブラー。ヴェ・ゲドラー。ル・オラーム。アーメン……。
彼は光の力の内に入り来たり。彼は知恵の光の内に入り来たり。
彼は光の慈愛の内に入り来たり。
その光は両翼の内に癒《いや》しを持すなり。
我は復活なり。生命なり。我を信ずる者はたとえ朽ち果てようと更に生きん。
我を信じ、我に生くる者は、皆死す事はなし。
我は始にして終。我は生き、そして死したる者。されど見よ。我は永遠に生きん。そして地獄と死の鍵《かぎ》を持ちたり」
[#ここで字下げ終わり]
天久の森がなぎ倒されていく。火をつけると風に煽《あお》られすぐに炭化する。それが巨大な円を描いて結界を強めていった。とたんにペンタグラムの回転が速まった。猛烈な勢いで回転する炎のたなびきが、青い薔薇の花弁を作っていく。祈りはますます早口に断続して行われていった。
[#ここから1字下げ]
「我は神なり。情深く強き不死の炎の内を見る生まれなき霊なり。我は神。真実なり。我は、世に悪《あ》しきの行われることを嫌う神なり。
我は稲光し雷鳴をする神なり。
我は、地の生命の雨を放射する神なり。
我は神なり。我が口は永遠に燃ゆるなり。
我は神なり。光へと生じさせ顕現する者なり。
我は神なり。世界の恵みなり……。
我が心、高次なるものに向け開かるべし。
我が胸は光の中枢となるべし。
我が体は、薔薇十字の神殿となるべし。
イェヘシュアーの御名によりて、我は今、この儀式によりて招われたる全ての聖霊を自由へと解き放たん」
[#ここで字下げ終わり]
天久の荒野の周辺に明かりが散らばっている。ペンタグラムの中心で祈りを捧《ささ》げ終えたキャラダインは底なしの淵が十九世紀と繋《つな》がったことを確認した。王国のセヂがどんどん二十世紀末に噴き上げてくる。
「小百合よ。このセヂが見えるか」
「はい。なんと澄んだセヂでしょうか。セーファ御嶽以上の質です」
「これに色をつけるのがおまえの役目だ。大地母神キュベレの力で今こそレキオスを蘇らせるのだ」
小百合が息を飲みこんだ。果たして自分が見ている範囲がすべてのセヂなのか、自信がもてない。セヂを召還するセーファ御嶽ですら満足に制御できなかった。しかし今はエケリとなったパートナーがいる。彼ほどのセヂを小百合は知らない。一緒に力を合わせればきっと上手《うま》くいくはずだ。空を見上げると銀河の輝きが満ちていた。
「デニス、ダニエルさんが来るんだって?」
「うん。なんか突然でびっくりしたわ。もうすぐ到着するはずよ。機内電話だったから」
「相変わらず忙しい人みたいだね」
「うん……」
本当はもっとはしゃぎたかったのだが、良枝を気にしてしまう。良枝は父のことをあまり話したがらない。しかしそれは恨みではなく、申し訳なさからくるものではないだろうか、とデニスは感じている。ヘルメットを静かに取ると、いってらっしゃいの声もなく送り出された。
廊下を小走りに駆けていくと、足音がエレベーターホールに溜《た》まる。ガタのきている団地は良枝の懐のような温もりがあった。
エンジン音を轟《とどろ》かせてデニスは国道の抜け道になっている天久の闇に入った。天久の夜は深海の暗さだ。ヘッドライトが百個あってもまだ光量不足は否めない。さっさと抜け出たいが速度をあげるのも怖かった。それにしても静かな夜だ。また沖縄に響いていた低周波音が聞こえなくなっていた。
「サウンドが消えたわ」
天久に何かが起ころうとしているのではないか、と嫌な予感がする。バイクで走るときに感じていた心地好い風のようなものが、妙な流れをしている。それが体をすり抜けるたびに自分が新しくなるような気分にさせてくれたものだ。しかし今は重さを感じる。
(セヂの流れが悪くなっている)[#「(セヂの流れが悪くなっている)」はゴシック体]
「何それ」
突然、爆発音がヘルメットを貫いたかと思うと、バイクの目の前に青い炎の柱が現れた。
「ペンタグラムに火をつけたんだわ」
(ここは火の海になる。逃げるんだ)[#「(ここは火の海になる。逃げるんだ)」はゴシック体]
セヂの流れが回転しだしていた。炎が触手のようにバイクを追いかけてくる。間一髪ですり抜けると、またもうひとつの炎が迫ってきていた。道路をまたいだ炎がバイクを遮る。
「きゃああ。危ない」
バイクが転倒して炎の中に滑っていった。大地に転がったデニスはヘルメットを脱ぎ捨てて、また走る。
「何かが聞こえる。またオモロ?」
主よ、御身の力を得て王は喜ばん、
我に天職を全うさせよ。
悪の闇の者、夜の亡霊どもよ、風に舞う塵《ちり》のごとく吹き払われよ。
主よ、御身がおわすことにより地獄は照らされ輝かん、
御身によりすべては終わり、すべては始まらん。
イェホヴァ、サバオート、エロイム、エロイ
ヘリオン、ヘリオス、ヨドヘヴァヘ、サダイ!
ユダヤの獅子は栄光に包まれ立ち上がり、
ダビデ王の勝利を全うせんがために来る!
我は恐れられし書物の七つの封印を解く、
サタンは夏の稲妻のごとく天より墜《お》つ!
エロイム、エロア、セバオート、ヘリオス
エヘイエ、エイエゼレ、おお、テオス・ツェヒロス!
大地は主のもの、そしてそれを覆うすべても。
口を開ける深淵《しんえん》の上に主自ら大地を固める。
これが無限なる人間の誕生、
土と火による生成、
神を求めし者たちの神々しい発生!
自然の王たちよ、御身の門を広く開け、
天の軛《くびき》よ、我はおまえを外さん! 我に来たれ、聖なる軍団よ。
見よ、栄光に包まれし王を! あの方は名を成した。
手にはソロモンの封印を携えている。
主はサタンへの黒い隷属を打ち破り、
奴隷制の首根っこを押さえ引きずる。
主のみが神であり、主のみが王である!
主よ、御身のみに栄光あれ、御身に栄光あれ! 栄光あれ!
黒い雲が天久に下り立つと稲妻を光らせた竜巻になる。
「ろみひー。演算スタンバイよ」
『了解。計測器ノ感度ハ スベテ良好デス』
天久に着いたサマンサが風に負けない不気味な笑い声をあげていた。
「これで私の仮説が証明されるわ。レキオスが何からできているか、そして何が始まるのか、全部観測させてもらうわよ」
コスプレも場に相応《ふさわ》しく三角|頭巾《ずきん》を被《かぶ》った黒魔術師だ。サマンサは最後の最後までポリシーを貫いた偉大な女である。
『博士。糸満市ニ設置シタ計測器ガ 全部えらーヲ弾キマシタ』
「感度を上げて。五個でひとつをフォローするのよ」
『了解シマシタ……。しすてむ回復。せぢハ 摩文仁《まぶに》方面ヘ 集束シテイル模様』
「摩文仁……。やっぱりそのままのセヂでは役に立たないんだわ」
「早くメシアが誕生しませんかしら」
シスターがとろーんと甘い目をしてお腹をさすっていると、陣痛が始まった。
「う、産まれますわー。サンチョーっ、アルベルトーっ、ゴンサレスーっ」
神父も留守だった。こんな時に限って面倒は起こるものだ。病院へ連れて行ってくれる人は誰もいない。
「馬小屋へ連れていってくださいなーっ」
シスターのいる教会まで竜巻の影響が出始めていた。とたんにブレーカーが落ちた。街は再び大停電に陥った。
沖縄本島で唯一|灯《とも》る明かりは、巨大なペンタグラムだけである。その魔法陣の中にサマンサがいる。
「磁場が狂ってるわ。一番近くにいる衛星を使って南部一帯をスキャンして。私はペンタグラムの中心部を調査するから」
中央付近にかがり火が見える。キャラダイン高等弁務官と島袋小百合琉球政府主席だった。
「さあ、今こそおまえの身体にレキオスを降ろすのだ」
小百合が両手を空に掲げて叫んだ。
「偉大なる琉球の大神キンマモンよ。我が身体に降り来たりて、我に力を!」
海と繋がった闇の大地に光の点が現れた。すぐにそれはさっきまで灯っていた都市の明かりを超え、急速に拡大していく。糸満市の摩文仁の丘から珊瑚《さんご》の産卵のような玉がいっせいに吹き出された。その数は数万からもっと増え、集束されて天久の大地を目指していく。サマンサの脇を掠《かす》めていく光の玉は、大地に永く溜《た》まっていたセヂだった。
「やっぱり。血を吸ったセヂが必要なんだわ」
ろみひーから送られてくるデータはサマンサが予想した通りだった。このセヂの玉のひとつひとつがレキオスの細胞となるのだ。サマンサの了解モデルは魂の性質を抽出したものだ。これが核につくと結晶構造を生みだす。
キャラダインが悲願達成の笑い声をあげていた。
「素晴らしい。私はこれを三千年前から待っていたのだ」
ペンタグラムの炎が蛇行する。天久に巨大な星が灯った。
「戦争で死んだ魂は、そのまま血を覚えたセヂになる。これがレキオスを生み出すのだ。さあ、もっと力をつけたまえ。世界を焼き払うほど大きくなるのだ」
小百合の身体にどんどん光の玉が入ってくる。まだ始まったばかりなのに、能力が数百倍に飛躍したのを感じた。これがセヂの力なら、自分が今まで持っていた能力は赤子以下のものだと思った。沖縄戦で死んだマブイが血の匂いを滴らせて大地に眠っていた。純正なセヂになりきれず、蠢《うごめ》いていた力だ。これがあの独特な低周波音になっていたのだ。セヂが百、千と殻《から》を離れて小百合の中に落ちていく。だんだん身体に痛みが疼《うず》いてきた。まるで細胞同士が離れようともがく痛みのようだ。初めは指先だった疼きが瞬く間に腕から胸へと伝播《でんぱ》していく。それから先はあっという間に癌細胞に侵されていくような苦しみに変わった。
「駄目。もう入らない。入らない。やめてえええ!」
ついに六十兆の細胞がすべて離反した。小百合の身体から炎があがり、悲鳴が煙に包まれる。それでもセヂは容赦せずに彼女の身体に突入していく。
「馬鹿な。彼女がキュベレではなかったのか!」
次第に炎が縦に痩《や》せていき、ポツンと消えると、炭化した骨の一部が転がった。キャラダインはサングラスを外し、足元の炭を粉々に砕いてやった。
「とんだ紛《まが》い物を掴《つか》まされたものだ!」
蛇行して星を描く炎の力が弱まっている。失敗さえしなければ炎状星は最大活性したはずだ。少なからずベッテルハイムの世界のペンタグラムにも影響したかもしれない。魔法陣は亀裂を生じていた。
「儀式が失敗したんだわ」
サマンサがノートパソコンを開いて検算している。核となる人物のセヂが衝撃に耐えられなかったとしか思えなかった。しかし相手はキンマモンを降ろすことができるセーファ御嶽のノロのはずだ。失敗など有り得ない。しかし、ろみひーからの電送は、セヂが増大中であることを告げている。なおも天久にセヂが集まっていることには変わらなかった。サマンサもまだ事態をつかめていなかった。
「まだ何かあるの? セヂの核らしき物体が移動している。まさか」
フェルミから太平洋上の第七艦隊が戦闘準備に入ったとキャラダインに連絡がきた。最後の交渉人のカニングハム将軍が嘉手納基地に降りるらしい。
「この忙しいときに! フェルミ、カデナベースを緊急警戒態勢に移せ。F15の第一陣はスクランブル発進で迎撃態勢に入れ。パトリオット高射隊は命令を待っていつでも発射できるようにしておけ」
『カニングハム将軍が着陸許可を求めていますが』
「上空に待機させておけ。カデナには絶対に降ろすな。ダニエルめ、また裁判官にでもなったつもりか。私の王国に口出しさせはしない」
キャラダインは魔法陣の修復を急いでいた。
ハンビー飛行場の格納庫の中はサイレン音で溢《あふ》れていた。
「少尉、私たちはこのまま待機していてもいいのでしょうか」
「今、空に上がったら敵にも味方にも撃墜されるぞ。我々は敵・味方識別コード外だ」
ハンビー飛行場ではヤマグチが最終確認をしている。F15Cはいつでも飛び立てる。しかしそれは最後の切り札だ。
──オルレンショー博士。本当にこれでいいんですか……。
ヤマグチはパイロットスーツに着替えた。
今や民政府はもぬけの殻だ。大理石の回廊に甲高い足音をたてて走り抜けていく三人の影がある。
民政府を正面突破したコニーらは、あるだけの弾を撃ち尽くして内部に突入した。警備は嘉手納基地にシフトしていたから楽勝だった。執務室のドアを蹴破《けやぶ》ると、ろみひーが変更していたパスワードで民政府と世界大東社の癒着を裏付ける証拠を押収した。サイバネティックROMiHIE社の栄光もこれで終わりだ。
「やったわ。民政府の悪事を全部暴くだけの証拠があるわよ」
「どうしようコニー。私は人を撃ってしまった……」
「致命傷はあたしの一発だったじゃない。あんたが狙ったとこは大外れよ」
セヂを得たコニーの感覚は鋭敏になっている。
「ワイリー危ないっ」
コニーは振り返らず腕だけで撃った。背後から警備兵のどさっと崩れる音がした。コニーはデータが入力されたDVDを抜き取った。
「もう用はないわね。サトウ、準備はいい?」
「イリマツダとアレックスたちのせめてもの弔いだ。派手に爆破するぜ」
パチンと手榴弾《しゆりゆうだん》の安全装置を外すと執務室に投げ入れた。廊下を走っていると背後からの爆発音が追い抜いた。コニーらを乗せた装甲車が正面玄関の階段を降りたときには、ビルが連鎖爆発を起こしていた。紅蓮《ぐれん》の炎が白亜のドームを包み込む。窓という窓から炎を噴き上げ自らを赤い影に変えていく。
「民政府が。CIAのクソ鼠どもめ」
首里の爆発の明かりが天久まで届いていた。キャラダインは魔法陣を修復するのに躍起になっている。なんとかあと一回の召還には耐えられそうだった。
「何のために意識を保持したまま転生を繰り返してきたのだ。私の王国をどうして邪魔するのだ。レキオスよ、もう一度、もう一度、私に力をくれ。テトラグラマトンに秘めたる四つの文字、エヘイエ、イェホヴァ、アドナイ、アグラに命じる。レキオスを蘇《よみがえ》らせろ」
核を失って散らばっていたセヂが再び集束されようとしていた。
バイクを乗り捨てたデニスは、セヂの玉を避けて荒野を走っていた。遠くから爆発音が聞こえて振り返ると民政府が燃えていた。茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしていると、セヂの玉がデニスを撥《は》ね飛ばした。すかさず四方八方からセヂがデニスに向かって流れてくる。守護霊が間歇泉《かんけつせん》の圧力に押されるように上空に飛ばされた。弾かれた逆からもまたエネルギーがぶつかってくる。
(あれはなんだ?)[#「(あれはなんだ?)」はゴシック体]
チルーが高空から何かを見つけたようだ。デニスの目が赤く開いた。それは嘉手納基地の滑走路の明かりだった。ちょうど沖縄本島の腰の部分を貫くように東西に延びる、東洋最大の滑走路だった。
(見つけた。友庵の言っていた二本の矢だ……)[#「(見つけた。友庵の言っていた二本の矢だ……)」はゴシック体]
「え? 今何て言ったの?」
とチルーに聞くが、答えない。チルーは滑走路を見つめたまま、こみ上げてくる感慨を覚えた。あれさえ壊せば、この世界に用はない。
デニスはセヂに翻弄されて身動きがとれない。それでも身体に入ってくる力はいまだ人間が触れたことのない神聖な力だ。
「すごいわ。活力が漲《みなぎ》ってくる」
身体が一秒ごとに新しくなっていくのがわかる。デニスは身体がセヂを要求しているのを感じた。細胞膜がはち切れるまで膨らむと、すぐに隣の細胞に連鎖していく。セヂを得たひとつひとつの細胞が生命体として独立していくのを抑えられない。このままバラバラになってしまうのかと感じたときだ。一際大きな流れが体中を巡り、ひとつの形へと変化を促した。もうデニスはどこまでが自分の領域なのかわからなかった。むしろ自己が拡大していく心地好さを覚える。自分を培っていた記憶のひとつひとつが瑣末《さまつ》なことに思えてくる。
「これは偉大なる神の力……」
デニスの身体からチルーが離れたときだ。彼女の褐色の身体が真昼の太陽よりも明るい輝きを放った。セヂはそこに重力源があるようにどんどん引かれていく。デニスに到達するとすぐに猛烈な勢いで結晶を構成していった。上空に青白い光の帯が噴き上げている。チルーはその流れと一体になった。
それを見つけたキャラダインが勝機を確信した。
「とんだ所に種《たね》がいたものだ。さあレキオスよ、今こそ蘇るのだ」
ペンタグラムの青い炎が再び燃えあがった。キャラダインの呪文《じゆもん》に合わせて上空の熱球がどんどん膨張していく。凶相を帯びたチルーが叫んだ。
「おのれええ、友庵ッ! どこへいったああッ!」
熱球はサングラスを透過してキャラダインの獣の目を浮かびあがらせた。
「七万、七万五千、八万、九万。レキオス出現に必要な最低数まであと十一万」
サマンサがコンピューターのグラフを見つめている。ろみひーによって三次元まで拡張されたグラフはクラスターを積んだ最新のプログラムだ。マブイの性質を残したセヂが熱球に取りこまれていく。コンピューターが三十秒後の熱球の予測を弾き出した。
「こ、これは……」
とたんにエラーが出る。サマンサはすぐに再起動させた。光は天久を覆う太陽のように輝き、ペンタグラムの輪郭すら消し去っていた。反射的に翳《かざ》した手の隙間から眩《まぶ》しい光がサマンサの瞳孔《どうこう》を焼きつけてくる。赤土の大地が鉄錆《てつさび》に似た匂いを放つ。熱球の中に生物の胚《はい》らしきものが見えた。すぐにそれは獣の形に成長した。その中で蠢《うごめ》く影が殻《から》を破ろうとしていた。誰も見たことのない巨大な生物が産まれようとしている。
「早い。まだ未熟なのに」
サマンサが叫んだときだ。球が縦長の爆炎を噴いた。卵を割って出てきたのは巨大な竜だ。半透明の肌を透かせて骨格の影が見える。頭を擡《もた》げた竜は空に向かって飛び出していく。空と大地を繋《つな》ぐ柱のように、まっすぐに伸びて何層もの雲を楽に貫いていった。サマンサの計算通り、まだレキオスは未熟のようだ。竜の頭部は目鼻が辛うじて判別できるほどの幼さしかなかった。オーロラのような放電が大気圏で活発に起こっている。竜は一度力を溜《た》めて、体をバネ仕掛けのように弾ませた。竜が通ったあとには夜空を焦がした煙がたなびいていた。
「エネルギーが足りないのに、無茶よ」
「誰だ。その声はオルレンショー博士だな」
「ヘカス、ヘカス、エエステデベロイ。洗礼を受けざる者よ、この地を去れ。くすくす」
サマンサが投げた八つのナイフが地面に突き刺さった。ボウと火が立ち、チマ・チョゴリを着たサマンサが現れた。キャラダインが振り返って銃を撃つと、サマンサは消え、十二単《じゆうにひとえ》をまとったサマンサが反対側に立った。
「小癪《こしやく》な術を使う。本体はどこにいる」
「ここよ。くすくす」
また反対側にタイの民族舞踊の衣装で現れた。すぐ側にサマンサがいるのに、キャラダインには見えない。サマンサの身体にボディ・ペインティングされた魔法陣が、彼の目を欺いているのだ。サマンサほどのセヂの量なら幾つかの魔術は使える。
「どこまでも目障りな女だ。レキオスで焼き殺してやる」
また別の方向からサマンサが現れる。今度はオダリスクの一枚布をあしらったトルコ後宮婦人の姿だ。
「あれはレキオスではないわ。あの竜は早産だったもの。すぐに墜落してくるでしょう」
空に生じた爆発音で大地が揺れた。天久が再び明るくなっていく。見上げると、竜が悶《もだ》えながら落ちてくるではないか。ペンタグラムの端にどすんと落ちると大地がガタガタと振動した。
「魔法陣が不完全だったのよ。あれではレキオスまで成長しないわ」
「果たしてそうかな?」
キャラダインが剣を抜く。さっと指した先に竜の頭が現れた。さっきまでとはガラリと違う精悍《せいかん》な顔立ちになっていた。
「何をしたの? そうか。パイプラインでエネルギーを補給したのね」
フラメンコの姿で颯爽《さつそう》とステップを踏んだサマンサが現れた。キャラダインはもう銃を撃たなかった。
「カデナベースを壊すのは不本意だが、仕方ない。これで竜は復活するはずだ」
「もう充分よ。成長したら誰も制御できなくなるわ」
「行け。レキオスよ。アメリカの罪を滅ぼせ」
大地に潜った竜がパイプラインを誘爆させながら進んでいく。街中を走るエネルギーラインは瞬く間に燃え広がり、浦添市から宜野湾市へと中部に向けて北上していく。
第七艦隊は作戦海域に入っていた。空母キティ・ホークが実戦に向けて海原を駆けていく。フリゲートが迎撃態勢に入ったと同時に命令が下りた。
「全機に伝える。攻撃目標はカデナベース」
ただちに空対地ミサイルを装備したF/A18が飛び立っていく。カタパルトはフル回転で戦闘機を射出し続け、水平線上に広がる明かりを目指して飛んでいく。
『高等弁務官、間もなく第一波のホーネットが飛来します』
「カデナのF15を全機あげろ。B2爆撃機は編隊を組んで第七艦隊を叩《たた》け」
キャラダインにとって沖縄米軍などただの駒でしかない。レキオスには核など無力だ。それどころか餌にしてしまうだろう。
キャラダインが笑う。
「カデナにはICBMもある。未熟で産まれても、それを補うだけの核兵器がオキナワにはあるのだ。三千年も待った甲斐《かい》があった。私の作戦は完璧《かんぺき》だ」
「あなたの王国は実現しないわ。あれは自然界の究極の形なのよ。人間が制御できる代物ではないわ」
「博士の推測通りだ。宇宙を司《つかさど》る四つの力をまとめる存在、それがレキオスだ。見納めにレキオスの真の力を見せてやろう」
「残念ね。セヂの流れは弱まっているわ。最低でも二十万は必要だもの。あなたが世界中に作ろうとしている魔法陣は、みんな戦争のあった場所。血を宿したセヂを集めてレキオスを誕生させ、世界を焼き払おうという計画でしょ」
サマンサはGAOTUの拠点が戦争による大量虐殺のあった土地ばかりであることに注目していた。犠牲者が多ければ多いほど、傷ついたセヂが溜まっている。そこが要となる土地なら、GAOTUが召還のペンタグラムを作るのだ。
「レキオスは私の傀儡《かいらい》にすぎん。三千年の時を待って、我が悲願を成就する」
「肝心の建築師がいないわよ。あなたの信頼すべき部下は覚醒《かくせい》に失敗した。それどころか、はむかっているわよ。仲間に恵まれないわね。くすくす」
「建築師は十九世紀から連れてこよう。今頃真相を知って固唾《かたず》を飲んでいるはずだ。オーゲスタはまだ未熟だが、ヤマグチ少尉よりはマシだ。魂の器は二つもいらない。少尉には死んでもらおう」
「それよりもあんたのレキオスが先に死にそうね。くすくす」
魔法陣の活動が不安定だ。召還したセヂが行き場を失って霧散しかけている。
「どうしたのサトウ。早くアメクに急いで」
「おいあれを見ろ。アメリカ海軍のホーネットだ」
夜空にバルカン砲が交差する明かりが見える。車から外に出たコニーと佐藤とワイリーは、チカチカと点滅する光をただ呆然《ぼうぜん》と眺めていた。それからしばらくして空中に爆発の球を見つけた。
「F15と交戦しているんだ」
高射砲が夜空に網の目を描く。それをすり抜けたホーネットが抱えていた爆弾を放した。離陸したF15が丸腰になったホーネットを砕く。そのF15をまた別のホーネットが叩き落とした。遂にパトリオット・ミサイルが火を噴いて飛んでいった。上空の第七艦隊の戦闘機を一機、また一機と撃墜していく。
「アメリカがアメリカと戦うなんて」
「カニングハム将軍の交渉は失敗したのか」
地平線の向こうが朝焼けのような明るさに満ちている。しばらくして飛び出してくる巨大な竜にコニーらは腰を抜かした。
「カデナ方面だわ」
地平線から首を擡《もた》げた竜は太陽を縁どるプロミネンスに見えた。首を振るだけで光と影が大地に生まれる。体内から立ち上がるエネルギーを放出すると、咆哮《ほうこう》にも似た音が大気を揺さぶった。足元のコザの街の隅々まで咆哮が響きわたり、窓ガラスや罅割《ひびわ》れていたコンクリート外壁を吹き飛ばす。避難しようと飛び出した人々は、空を見上げてもはや無意味であることを知り、立ち尽くすばかりだ。ポーポー屋のマチーとガルーは屋台ごと吹き飛ばされて、鉄板の下に隠れていた。駐車場でタロットを切るオバァが、ガネーシャを抱えて震えている。
嘉手納基地が間もなく放棄されると連絡を受け、援護していたハンビー飛行場がフル回転で稼働している。電源の落ちた格納庫の中を無数のパイロットやメカニックが走り抜けていく。司令部が移動してくるのも時間の問題だった。
「少尉まだですか。もう待てません」
「まだだ。我々の任務は戦うことではない。今、出撃して一機でも撃墜されると何もできなくなる」
飛び出していきたいのはヤマグチも同じだった。嘉手納基地の同僚は理由のわからない戦争に駆り出されて、仲間たちに発砲しているかと思うと、やりきれなくなる。嘉手納から五キロメートル離れた北谷町のハンビー飛行場まで、爆発音が響いてきた。たまらず外に出ると、上空にはS字を描いて佇《たたず》む巨大な竜がいた。
「おおっ! キャラダイン中佐は、遂にプロジェクト・レキオスを完遂したのか」
「ヤマグチ少尉。空軍のカニングハム将軍がハンビー飛行場に着陸許可を求めています」
「許可する」
将軍を乗せたずんぐりとした胴体のC17グローブマスターVが行き場を失って上空を旋回していた。下は戦場だ。将軍が強行着陸を命令し、ランディング・ギアを降ろしたまま飛んでいる。
「オルレンショー博士からの連絡はまだか。こんなときに何をしているんだ」
天久ではブルボン王朝のドレスをまとったサマンサが扇子を片手に笑っていた。
「あんなもんがレキオスだなんて、高等弁務官も頭が悪いわね。くすくす」
また銃弾がサマンサを貫通した。今度は団扇《うちわ》を持った奈良時代の装束だ。
「この変態博士が!」
「あの竜がどう成長するかは、誰にも予測できないのよ。あなたの都合通りのものが誕生するとは限らないわよ」
「それは自然の力をまだ統合できない人間の論理だ。レキオスはきっと私の欲する姿になってくれるだろう。そのときこそ、博士は私の真の力を知るのだ。間もなく我が祈りは完成する」
キャラダインがついに最後の封印を解除した。
[#ここから1字下げ]
「この世の国は、我らの主と、
そのメシアのものとなった。
主は世々限りなく統治される。今おられ、かつておられた方、
全能者である神、主よ、感謝いたします。
大いなる力を奮って統治されたからだ。
異邦人たちは怒り狂い、
あなたも怒りを現された。
死者の裁かれる時が来た。
あなたの僕《しもべ》、預言者、聖なる者、御名を畏《おそ》れる者には、
小さな者にも大きな者にも
報いをお与えになり、
地を滅ぼす者どもを
滅ぼされるときが来た」
[#ここで字下げ終わり]
空を見上げたサマンサは大粒の雹《ひよう》が降ってきたのを見た。
「契約の箱を開いたのね」
嘉手納基地にクラスター爆弾を落とし、引き返そうとしたF/A18ホーネットが竜に遮られていた。F/A18は大きく旋回すると、搭載していたサイドワインダー・ミサイルを発射した。それに倣って飛んでいた戦闘機がつぎつぎとミサイルを打ちこんでいく。竜の体に命中すると、炎を分断するように爆発した。悶《もだ》え苦しんだ竜が戦闘機に突進していく。またミサイルが後部に命中する。竜の胴体には六つの大きな穴が開いていた。キャラダインの呪文《じゆもん》が早くなっていく。セヂがまた活発に動きだして、竜に吸収されていく。
「十五万、十六万……。あなた何が出るのかわかってるの? 寛解するか分裂するかは誰にもわからないのよ。学術的にはもう充分よ。ストックホルムの授賞式に招待してあげるからやめなさい」
「もう止められない。セヂはすべてカデナへと向かってしまった。さあ博士、理論通りかどうか見定めよ」
「この悪魔……」
サマンサの背後から甲高い音がする。それはサマンサを通過すると、キャラダインの立っていた場所を吹き飛ばした。
「死んだかしら?」
装甲車で駆けつけたコニーが続けざまにバズーカ砲を撃つ。
「コニー! よくやったわ」
とどめにスティンガーミサイルを構えると、サマンサとキャラダインが直線に重なるように狙いを定めた。ミサイルが飛んでくるとサマンサは消えて、コニーの背後にサンバの華やかなコスチュームで現れた。
土煙が消えると同じ場所にキャラダインが憮然《ぶぜん》と立っていた。
「どうして。命中したのに……」
「無駄だ。どんな武器を使っても私を殺すことはできない」
「やっぱり博士の仲間だったのね」
「仲間ではない!」
「こんちくしょーっ」
コニーがマシンガンを乱射してもキャラダインを通過するばかりだ。サマンサのコンピューターが警報を鳴らした。間もなく理論上の最低値が出現する。
「十九万八千……二十万!!」
嘉手納でホーネットと交戦中の竜に変化が訪れた。開いた六つの穴から新たな首が生えてきた。合計で七つの首を持った竜は三本の尾を従えて、七つの雄叫《おたけ》びをあげた。
「分裂したわ……」
炎の鱗《うろこ》が音をたてて空気を燃やしている。間近で見ればマグマの噴出のように映るだろう。しかしエネルギーはそれ以上だ。首がしなるたびに大気を破る衝撃波が生まれる。竜が吼《ほ》えるたびに大気が揺れて像が乱れた。
竜はますます力をつけ、極東最大の広さを誇る嘉手納基地を軽く一蹴する。二千ヘクタールもある基地ですら、竜にとってはただの足場にすぎない。格納庫も誘導路も破壊し尽くし、首を振り回して戦闘機を飲み込んでいく。内部で爆発すると竜の力となった。上空にはもはや敵のF/A18も、味方のF15も残っていなかった。
ヤマグチはいよいよ最後を知った。
「F15出撃する!」
五機のF15が飛び立つそばから滑走路が崩壊していく。滑走路だけではない。竜の周りの大地が天地を失って砕けていった。たちまち大地の固まりと海水が空に舞い上がって浮遊していく。
教会に入ろうとしていたシスターと神父が七つの首を持つ竜を目撃していた。
「見よ。火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた……」
「ヨハネの黙示録、第十二章、第三節ですわね」
「ついにサタンが現れた」
「まあ怖いですわ。みなさん天国へ行けないかもしれません。でも私はひとりでも行きますわ。悪く思わないでください」
「シスター、声を出すな。見つかってしまう」
竜の首のひとつが宜野湾市にいたシスターをジロリと睨んだ。
「いやですわ。メシアを産む前に縁起が悪いですわ」
サマンサのコンピューターが演算終了を示していた。グラフは二十万回目で下降する〈分裂〉の形になっていた。
「サタンになってしまった。これでこの世は終わりだわ」
「見たか。これがレキオスの真の姿なのだ」
キャラダインは天空を仰いだ。地平線の彼方に七つのプロミネンスが縦横無尽に動き回っているのが見えた。空と大地を結ぶ炎の竜は、天を焦がし大地を焼いて進んでいく。
「もう任務どころじゃなくなったわ……」
コニーが力なく銃を落とす。ワイリーも佐藤も茫然《ぼうぜん》と北の空を眺めていた。ペンタグラムを残して那覇の街は跡形もなくなっていた。
キャラダインがマントを翻して叫ぶ。
「あれはサタンではない。宇宙を司《つかさど》る偉大なる神の姿なのだ。それでもサタンと呼びたいなら、呼ぶがいい。戦争で死んだ人間の魂から産まれたレキオスがサタンなら、おまえたちはサタンの親だ」
「サタンが操れるとでも思っているの。あれは混沌の力だわ」
「違う。宇宙の始まりの姿なのだ。レキオスが去り、セヂがばらばらになって、魂が生じた。人間は皆、あの姿に戻るのだ」
竜の首がそれぞれ吼える。唯一飛んでいる輸送機を見つけると触手のような首を伸ばした。カニングハムを乗せた輸送機は揚力を失い、エンジンの推力を補正しながら不安定な飛行をしている。ハンビー飛行場は壊滅し、どこにも着陸する場がない。このままでは燃料切れで墜落してしまう。輸送機は機首を下に向けたまま、レキオスの力に嬲《なぶ》られて円を描きながら振り回されている。
「やめてやめてやめてやめてやめて!」
天久の荒野で意識を失っていたデニスが目覚めた。遥《はる》か向こうに七つの首をもつ竜がいる。竜の五感が身体に伝わってくる。竜の目を使って輸送機を捉《とら》えたとき、父をその中に見つけた。
「チルー、なんとかして、父さんが乗っているのよ。お願い。あの竜を止めて」
「将軍。竜に飲み込まれます。海に不時着いたします」
最後の力で機首を持ち上げて推力を増したC17は、ゆっくりと再上昇していく。その脇を掠《かす》めるように竜がいた。飛んでいる輸送機をひとつの首が追いかけていく。
「お父さん逃げて。逃げて逃げて逃げて!」
竜の首が輸送機に迫ろうとしていた。竜は首を曲げて力を溜《た》めると一気に主翼に噛《か》みついた。左主翼を失った輸送機は機体を横向きにして、浮上した岩盤に叩きつけられる。激突すると大きな爆発が起こった。デニスはその中に父の微《かす》かな香りが弾けたのを嗅《か》いだ。
「いやああああっ!」
勢いをつけた竜がドスンと嘉手納を踏むと滑走路に巨大なクレーターができた。これが沖縄の時間を止めていた矢だ。もうひとつドスンと踏んで第二滑走路を潰《つぶ》した。ベッテルハイムの封印が崩れた。その隙を見た友庵が三つの時間を揃えた。
「これで時間を正しく戻せるかもしれん」
友庵の宿っていたガネーシャが本来の色に戻っていた。
「ガネーシャ? ガネーシャ?」
オバァが固くなったガネーシャを揺さぶっている。セヂが消滅してただの人となったオバァは次に何が起こるのか、もうわからなかった。アメ女の真由美がオバァのいる駐車場に逃げてきた。二百円しか持っていないが、身の安全を祈願してほしいと頼んだ。しかしオバァは、あと三百円足りないから受け入れられないと毅然《きぜん》とした態度で断った。その代わりに一緒に怖がってやると言って真由美の肩を抱いて目を閉じていた。
「おお……。時間の扉が開くのが見える……」
その言葉を最後にチルーは二十世紀から消えた。
竜は完全に暴走していた。地上の高射部隊が打ち込んでくるミサイルすら糧にして、巨大化を止められない。
「許さないわよ。許さないわよ。あんたのせいで、こんなことになって」
竜の首のひとつが動かなくなっている。その隙をついたデニスが、首を引き抜く動作をすると、首のひとつがもげた。デニスがその竜に意識を委《ゆだ》ねて、守護霊を追いかけた。空も大地も境がない状態に陥っているが、天久はその被害を免れていた。ペンタグラムの中に時間が開いた形跡があった。
天久に飛んできた竜は底なしの淵《ふち》に飛び込んだ。その衝撃で魔法陣が壊れ、キャラダインのサングラスが割れた。
「いかん。十九世紀との繋《つな》がりが消えてしまう」
嘉手納で吼えている竜が失った首を探している。炎の鱗を撒《ま》き散らすたびに大地の命が燃えていく。夜空はとっくに血の色に染まっていた。もげた首が天久を見つけると、遅れて残りの首が反応する。そして衝撃波を伴いながら一直線に天久に襲いかかってきた。さすがのキャラダインも防御となる魔法陣を失っては逃げるしかなかった。
「完璧《かんぺき》な計画だったのに。おまえらさえいなければ、こんなことにはならなかったのに」
拳銃《けんじゆう》を抜くとサマンサに向けて発砲する。サマンサは衣装を替えながら点滅して、キャラダインから遠ざかる。そのときだ。サマンサが消えた奥にろみひーがいた。トリガーが引かれて弾丸がろみひーの頭部に当たった。
「ろみひーっ!」
耳無し芳一のように魔術でボディペインティングを施したサマンサの本体が駆け寄ってくる。すぐにろみひーを抱えたが息が微かである。
『博士……。ロミヒーハ 間モナク 脳波ヲ 停止シマス。ジーコ……。ジーコ……』
「しゃべらないで。すぐに手当てしなきゃ。この悪魔、よくもろみひーをっ!」
『博士……。ロミヒーハ 博士ト一緒デ 幸セデシタ……。 ジー……』
「ろみひー。ろみひー。しっかりするのよ。死なないで」
UHFアンテナがポキリと折れると、ろみひーはそれっきり動かなくなった。
「オルレンショー博士、貴様の存在は邪魔だ」
キャラダインは銃を抜くとサマンサに向けた。サマンサは分身を出現させようとしたが、地面に突き刺したナイフがさっきの衝撃で全部抜けてしまっていた。銃弾がサマンサの肩を貫いた。
「すぐには殺さない。おまえのセヂも血を帯びて大地に眠るのだ」
ゆっくりと狙いを下げて今度は脚に向けた。サマンサは肩を庇《かば》って睨《にら》み返す。セヂで負けているのだ。セヂがなければ集めるしかない。しかし付近を漂っているセヂをいくら集めてもキャラダインには勝てない。もっと質のいいセヂでなければ、とサマンサは探している。そして、ピンと閃《ひらめ》くと大声を張り上げた。
「フェルミーッ! あんたのセヂが必要よ。こんな悪魔の奴隷に成り下がって恥ずかしいとは思わないのっ!」
すると天久にフェルミの姿が現れた。自我を抑えられていたフェルミが、戸惑いの表情を浮かべている。サマンサが手を差し延べて力強く頷《うなず》くと、フェルミがふらふらと近づいてくる。それを見たキャラダインは、呪文を口ずさみフェルミを拘束しようとする。
「私から逃げられると思うな、フェルミ博士」
「いいえ、きっと逃げられるわ。自分のイメージを捨てるのよ。あんたはわかっているはずよ。閃きは人格以外のところからやってくる。あんたはそれを数式にするだけでよかった。だから天才と呼ばれたのよ」
反対側からキャラダインが羊皮紙を広げる。
「契約不履行は許されない。博士は自らの意志で私に仕えたはずだ」
途端にフェルミは頭を抱えて煩悶《はんもん》する。身体がふたつに割れそうな苦しみだった。
「違うわフェルミ。あんたが契約したのは人格だけよ。魂の殻《から》を離れれば、人格なんてセヂの結節点でしかない。あんたは何を成したかったの。思い出しなさい」
フェルミの身体が小刻みに震えている。それを見たサマンサが慈愛に満ちた表情になり、優しくフェルミを受け入れようとする。
「あたしなら、あなたの夢だった大統一理論を叶えられる。一緒に新世紀の骨格を作りましょう。そして、素晴らしい未来を生きましょう」
それを聞いたフェルミの顔にかつての精悍《せいかん》さが蘇《よみがえ》った。サマンサの覚えている野心に満ちたフェルミだ。
「俺は奴隷の自由などいらない。サマンサ、俺の運命を託すぞ」
フェルミが叫ぶと、体に無数の亀裂が走った。ついに魂の殻を脱ぎ捨てたフェルミは、内に宿していた輝くセヂを放った。それは一流の頭脳で濾過《ろか》された飛びきり上質なセヂだった。それがサマンサの肉体に吸収されて、完全に融合する。瞬間、サマンサの殺人的オーラが復活した。かつてより彩度を増した太陽の輝きだ。
「フェルミが……。私のフェルミをどうしたのだ」
反射的に銃を構えてキャラダインはサマンサの額を狙った。しかしいくら引いても弾が出てこない。サマンサのセヂがキャラダインと並んだ証拠だ。
「故障《ジヤム》よ。作動不良なんてお手入れが行き届いてないわね。くすくす」
「なんて女だ。くそっ!」
大地を揺さぶってレキオスが猛進してくる。夜空が燃えている。熱で息をするのも困難だ。ペンタグラムの結界が微かに輝いて進行を防いでいるが、じきに崩壊するのは目に見えていた。
「あなたの計画は頓挫《とんざ》したわ。みんなレキオスに焼かれて死ぬわ」
キャラダインは揺らめく大気に笑い声を重ねた。
「あれはひとつの可能性にすぎない。たかが二十万の魂でこれだけのレキオスが誕生するのだ。世界中を見ろ。カンボジア内戦では何人が死んだ? 朝鮮戦争では? アウシュビッツでは? 戦争で死んだ魂を持つ土地はいくらでもある。百万単位の魂を集めれば、あれ以上のレキオスはどこででも誕生するだろう。そのとき私の悲願は成就する」
背を向けて、マントを広げると小さな魔法陣を出現させた。
「死ぬのはおまえらだけだ」
地面と一体となってキャラダインは自らを封印した。
サマンサが空を見上げると一面の火炎があたりを覆い、もはや竜なのかわからないほど接近していた。やはり無駄に終わったか、と覚悟を決めようとしたときだ。遠くにデルタ型の編隊を組んだ五つの戦闘機のシルエットが見えた。散開して機銃で牽制《けんせい》しては、再び編隊を組む。サマンサはすぐにヤマグチ少尉のものだとわかった。F15が竜の関心を引きつけ、巧みに天久から離そうとしている。まるで背後に目がついているかのように、首を間一髪で躱《かわ》しながら、五機の戦闘機が炎の中を舞う。
サマンサが呟《つぶや》いた。
「上手《うま》くやるのよ、ヤマグチ少尉」
『少尉、まだですか』
操縦|桿《かん》をジグザグに動かしながら、ヤマグチは胸に吊《つ》るした聞得大君の勾玉《まがたま》を見た。翡翠《ひすい》のそれが黒く濁っていた。
『まだだ。肝心の聞得大君が底なしの淵に落ちた。あの竜を制御できるのはオナリしかいない。デニスを救出する』
「ベッテルハイム先生。レキオスは誕生したのですか」
「もちろんだ。今頃、向こう側は地獄と化しているだろう」
突然ベッテルハイムの周りで爆発が起こった。続けて地面に銃弾の痕《あと》のようなものが走る。
「大丈夫ですか、先生」
「きちんと狙わないと当たらん。ここが術の中心だとも知らない連中がささやかな抵抗をしているようだ」
「では王国が建設されるのですね」
「今から百四十七年後の未来だ。悲願のソロモン王国がこの琉球に誕生するのだ。レキオスはその先駆けにすぎん」
「おめでとうございます。先生」
「うむ。おまえは次の覚醒《かくせい》で、役目をきちんと遂行するのだぞ」
「私の役目とは何です? 今教えてくだされば、きっと次でお役に立ちましょう」
オーゲスタの記憶のヴェールを丁寧に剥《は》ぐように、ゆっくりとしゃべった。
「おまえは今から三千年も前の昔、ソロモン王であった私に仕えていた棟梁《とうりよう》だ。覚えているだろう」
「あ。はい。わかります。なぜだ。わかる。もう少しで全部わかる」
「おまえの名はヒラム・アビフと言い、勅命により神殿を建設した。そのときおまえが殺されさえしなければ、私は三千年も彷徨《さまよ》うことはなかったのだ」
「私が作った神殿……。あ!」
オーゲスタは完全に思い出した。ソロモン王に神殿の建築を命じられて、どんなものを作ろうかと苦慮していた日のことだ。彼は仕事を効率よく行うために労働者を三つの組織にわけた。熟練度が高い労働者を親方、その次が職人、最後が徒弟である。そして彼らに固有の合言葉と符牒《ふちよう》を与えて神殿を建設した。親方用の言葉は、彼らが発すれば、真理を意味し叡知《えいち》によって説明される最高の言語だった。職人の言葉は彼らのもとで思考を意味し、研究によって説明された。そして徒弟の言葉は、自然を意味し、労働によって説明された。しかし、これに満足しない三人の職人が親方の地位を狙っていた。ある日、彼らは神殿の入口の前でヒラムを待ち伏せした。ヒラムを捕まえると鉄の定規で脅しながら親方の言葉を教えるように迫った。しかしヒラムはこれを断った。職人は怒り、定規でヒラムに傷を負わせた。ヒラムが別の門に走っていくと、二人目の職人が同じ要求をつきつけてきた。そして断られると今度は曲尺《かねじやく》で叩《たた》かれた。ついに最後の門で三人目の暗殺者にヒラムは木槌《きづち》で殴り殺された。その後、三人の職人はガラクタの山にヒラムの死体を隠し、アカシアの木を植えて遁走《とんそう》した。
「そうだ。私はソロモン神殿を作る途中で殺されたのだった……」
「おまえが殺されたおかげでソロモン神殿は間違った方向に建設されていった。あろうことか、異国の大地母神キュベレを祭る神殿が完成した。そのせいでソロモン王国は崩壊した。おまえのせいではないが、今度こそ、正しい神殿を作るのだ。百四十七年後のおまえはきっと立派な棟梁として生まれていると信じているぞ」
「私はきっと忘れません。ベッテルハイム先生、いや偉大なるソロモン王」
「レキオスで地上のものを焼き払った後に、神聖なる王国は復活するのだ」
底なしの淵が勝手に開いてくる。向こう側から強引にこじ開けるかのようだ。
「なんだ。底なしの淵から何かがやってくるぞ」
「失敗したのでしょうか。ベッテルハイム先生」
「わからん……」
淵から雷のような竜が飛び出した。竜はそのまま天に昇り雲を召還する。王国の大地はインクを零《こぼ》したような雨雲に覆われた。すぐに稲光があちこちで起こった。
「竜が逃げてきおった。キャラダインめ、ヘマをしたか」
底なしの淵が形を作れなくなっている。間もなく消滅するのは明白だった。竜が飛び出したときの衝撃で、生け贄《にえ》にされていたジュリの十字架がぐらついていた。とたん、バランスを失った十字架が底なしの淵に落ちていった。
「やあだああああっ」
淵の輪郭がプツリと消えた。ベッテルハイムがダビデの星のペンダントを力まかせに叩きつけた。
「こんなことがあるか。完璧な計画だったのに。千年王国の誕生を前にして、こんな馬鹿なことがあるか」
雲が一層厚くなっていく。稲光は閃光を大地に浴びせる。そして空全体に大きく轟《とどろ》くと、竜の形をした雷が真嘉比の丘に落ちていった。
「雷神様……」
チルーの目の前に現れたのは怒りに震えたデニスだ。雷をまとったデニスはガジュマルの樹を真っ二つに引き裂いていた。
「あんたのせいで、あんたのせいで、父さんは死んだのよ!」
落雷の衝撃で足を痺《しび》れさせたチルーは、彼女の望み通りの姿に戻っていた。喪服を着て葬式の帰りのようだ。今日は夫の葬儀の日だった。嫉妬《しつと》にかられた夫は病を深めた。チルーは夫を見捨て世間から誹《そし》りを受ける人生を選んだ。もう彼女が恨みで幽霊になることはなかった。
「雷神様、どうか、どうかお見逃しください」
雨に打たれてチルーは震えている。デニスが知っていた守護霊の片鱗《へんりん》もない別人だった。しかしデニスの怒りは収まらない。
「あんた父さんを殺された人間の気持ちがわかるのっ」
「私が、ですか。なぜ私が雷神様のお父上を殺せるのです。このような力のない哀れな女にそのような芸当はできません」
「うるさいっ。そうやって誤魔化しても無駄よっ。なんで輸送機を落としたの。なんで父さんがいるとわからなかったの」
デニスが言葉を発するたびに放電が起きた。チルーは竦《すく》んで無意識に腹を守った。
「あんた妊娠しているの?」
「ペリー艦隊のウイリアム様のお子でございます。どうかこの子だけは助けてください」
真嘉比は土砂降りの雨に覆われていた。
──アメレジアンを産むんだ。
そのとき不思議な感覚がデニスを貫いた。あの薄まっていた自らの汗の理由がここにある気がした。これが自分の始まりなのだ。チルーのお腹の子の鼓動が聞こえてくる。それに合わせてデニスの本来の力が目覚めようとしていた。
「雷神様。私が悪いのであれば、この子を産んでから罰を与えてください。私にはもう、この子しかいないのです」
デニスは息を飲んだ。もう何をしていいのかわからない。飛び込んだとき魔法陣が壊れたのを知った。弾みで入ってきたが、元の世界に戻る方法を知らない。
「これは悪夢よ。悪い夢だわ。どうしよう。元の世界に帰りたいわ」
足元をふらつかせながら後ずさりする。その隙をみたチルーが雨の壁を押し破って逃げていった。しかしデニスは追いかけることができなかった。
「どうしたらいいの? どうしたらいい? 助けて、助けて」
空を見上げた。雨の勢いが弱まっている。やがて空は艶《つや》やかな顔を覗《のぞ》かせた。
「エケリーッ。私を助けてーっ!」
デニスが叫んだときだ。上空に五つの光が現れた。爆音を響かせながら鋼鉄の翼が空を引き裂いている。背後からいっせいに煙が噴き出されると五つの直線をたなびかせた。飛んでいるのはヤマグチのF15だ。直線を交差させるように戦闘機が接近していく。間もなく上空に巨大なペンタグラムが出現した。アクロバット飛行用に装備された排煙装置にスイッチを入れると、絶妙なコンビネーションで五機の戦闘機が魔法陣を描いた。
「デニス、戻ってこいっ!」
地上にいたサマンサがガッツポーズをとる。
「いいタイミングよ。ヤマグチ少尉」
「ブライアンが操縦しているの?」
五つの方向に飛び出した戦闘機が上空で四機のダイヤモンド編隊を組む。ヤマグチの一機が独立して、浮かんでいるペンタグラムを囲むように円を描いていった。ぐるりと回ると直径五キロメートルにもなる魔法陣が完成する。同時にペンタグラムの頂点が輝いた。
空に現れたペンタグラムを見上げてデニスは叫んだ。
DENNIS, WAKE UUUUUUP!
雨雲を従えてデニスは上空のペンタグラムに飛び込んでいった。
「Dr.オルレンショー、見て。レキオスがまた襲ってくるわ」
レキオスは再び天久を目指していた。すると上空で雨雲が湧きあがり、大粒の雨をレキオスに浴びせた。雷を伴った集中豪雨は竜の炎を衰えさせていく。たちまち水蒸気のガスであたりが曇っていく。
「聞得大君《きこえおおぎみ》の力だ。あの子が覚醒したんだねぇ」
コザで真由美を抱えて震えていたユタのオバァが、空を見上げる。ベッテルハイムに封印されて空白のまま生まれてきた遺児に、聞得大君の霊が憑依《ひようい》したのだ。土砂降りの雨粒は竜の首を細くなるまで容赦なく貫いていく。切り裂くような悲鳴がレキオスから生じた。
「このまま雨で炎を消してしまうんだよ」
オバァがガネーシャを掲げて叫んでいた。するとレキオスは再び嘉手納まで戻り、その身を悶《もだ》えさせて転げ回った。すぐにヤマグチのF15が追いかけてくる。
「いけない。あそこにはカデナ弾薬庫が……」
基地と隣接する嘉手納弾薬庫は、さらに広大な敷地を持つ。数年間も戦争ができるだけの莫大な量の火薬がここに貯蔵されている。レキオスがその上でのたうち回ると弾薬庫の火薬の全てに火がついた。一瞬、大地がマグマの淵《ふち》に落ちていくような錯覚を覚える。分厚い炎の岩盤が嘉手納に現れていた。その爆風で上空の雨雲は跡形もなく吹き飛んでいく。
「そんな。聞得大君でも制御できないキンマモンなんているのかい」
ついにオバァが真由美の腕を引いて逃げていく。途中で瓦礫《がれき》の山となった道路の片隅で二人の女の声を聞いた。その声はベソをかいて震えていた。
「お祝いだからねー。お祝いだからねー」
瓦礫を退けるとマチーとガルーが手を合わせて念仏を唱えるように呟いている。希望はまだ残っていると、ユタのオバァはセヂを蘇らせた。吹き飛んだ雨雲が竜を威嚇するように那覇方面で再び集結していた。天久に雨が降り注ぐと一際大きな雷鳴が轟き、ペンタグラムの頂点に落ちていった。
「魔法陣が復活するわ」
稲妻に乗ってデニスが元の世界に戻ってきた。術の中心に立ったデニスは全身から放電を起こしている。ペンタグラムがそれに呼応するかのように活性化する。デニスの身体が汗で赤く染まっていた。
「聞得大君の名において命じる。キンマモンよ、去れ!」
弾薬庫の爆発の中からレキオスが立ち上がる。中枢の首を失っているせいで、聞得大君の声が届かないようだ。デニスは勾玉を配した数珠《じゆず》を握ると手綱を操るように、レキオスの体を諫《いさ》めていく。やがて数珠に絡められた首の動きが止まった。
「今よ、ブライアン。とどめを刺して!」
デニスの声がヤマグチの頭に響いた。嘉手納弾薬庫で立ち往生している隙を見て、F15が雨雲の下にいるレキオスに向かって降下していく。
「最後にこの剣で……」
ヘッド・アップ・ディスプレイを火器管制に入れる。グリーンの円が照準を自動的に合わせていく。弾頭を外したサイドワインダー・ミサイルの先端にはセーファ御嶽で手に入れた剣が装着されていた。照準器がレキオスにロック・オンすると音が鳴る。ヤマグチはミサイルを発射した。
「当たれーっ!」
サイドワインダーが胴体の真ん中を直撃した。機体は激突寸前だ。すぐに操縦桿を引き上げ、間一髪のところで追撃する首を躱していく。
「博士。レキオスの様子が変よ」
コニーがサマンサの肩を叩いた。
「待って。コンピューターが勝手に再計算しているわ」
もげた首の穴から何かが出てこようとしている。それに合わせて六つの竜の首が後方に退き、鱗《うろこ》が羽に変化していった。やがてそれは、六つの巨大な翼になった。
「寛解する。奇跡が起こったわ」
サマンサの見つめるグラフが跳ね上がって、もうひとつのレキオスの形態を予測していた。
そこには巨大な天使の姿が出現していた。六枚の羽の二枚で顔を覆い、また二枚で下半身を隠し、残りの二枚を羽ばたかせて空を飛んでいる。
「う、産まれますわー」
「シスター、見ろ。あの神々しいお姿を」
シスターはいきみながら空を見あげた。
「あれは炎の天使。熾天使《してんし》セラフィムですわ」
「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た」
「民数記、第二十一章六節ですわ。あれはセラフィムのことだったのですね」
「天使の階級で最高位のお方だ」
途端にシスターから男の子が産まれた。しかし産声をあげない。
「メシアですわー」
赤子はフンとそっぽを向いた。見れば育ちすぎた若オヤジみたいな顔だ。
「なんだか頭にきますわー。産み甲斐《がい》がありませんわー」
赤子はセラフィムの方を向いて、初めて大きな産声をあげた。この子が一体どんな子なのか、それはまた別の物語となるだろう。
空には冠を被《かぶ》り、六つの翼を持つセラフィムがヤマグチの発射した剣を携えていた。なんとも目映《まばゆ》い光景だった。太陽と同じくらい明るいのに、目を眩《くら》ませるような光ではない。セラフィムの光は対象を包み込むように射してくる。そのいくつかは身体を透過して影を消し去るものだった。山ほどの巨《おお》きさのセラフィムが炎の剣を大地に突き刺した。重力を失っていた大地がふたたびパズルのように組み合わさっていく。セラフィムが翼を羽ばたかせると、光の羽が舞い降りてきた。一回羽ばたくごとに何万もの羽が大地に降り注いでくる。焦土と化した大地に落ちると、そこに緑の若葉が誕生した。セラフィムがゆっくりと飛んでいく。地上にいる者は光の羽ですぐに炎の天使の姿を見失った。
「私たち夢を見ているのかしら」
コニーが涙を流してセラフィムの駆けた空を眺めていた。天使の飛んだ軌跡に青空が広がっていた。サマンサが光の羽を拾う。ポウと光を放った羽は触れるとすぐに消えるほど儚《はかな》いものだが、サマンサはこれがセヂであることを見抜いた。血を宿したセヂがセラフィムによって浄化され、また生命に宿ったのだ。
「あれも宇宙を司る偉大なる神の姿よ。セラフィムは秩序をもたらすわ」
羽が重点的に注がれているのは首里城の跡地だ。破壊された民政府の瓦礫に降り注ぐと、かつての真紅の宮殿が復活した。
「世界が元に戻ったのね。オキナワも返還されたわ」
聞得大君の霊が離れたデニスは、自分の力に戸惑っているばかりだ。
「あたし、戻ったの? そうだ。父さんは。カニングハム将軍は?」
ワイリーが首を振りながら肩の力を落とした。
「カニングハム将軍は殉死された。立派なお父上だ」
デニスは光の羽の嵐を茫然《ぼうぜん》とみつめていた。宿らせる対象よりも遥かに羽の方が多く、無数の羽が夜空を浮遊している。それはデニスの身体にも降り注ぎ、悲しみで溢《あふ》れていた泉を浄化していった。
サマンサが羽を集めてろみひーにかけている。
「ろみひー、ろみひー、お願い。蘇《よみがえ》って。あたしのセヂをみんなあげるから……」
すると大地の深い部分から「やあだああああっ」と声がする。しばらくして、ろみひーの目が開いた。
「生き返ったわ。ろみひー、大丈夫だった?」
「なんかー、深い穴に落ちたかなーぢらー?」
ろみひーはしばらく意味不明の言動を繰り返していたが、頭が痛いと後頭部を摩《こす》ろうとしたとき、すべてが正気に戻った。
「ユクシー《うっそー》。なんであたしスキンヘッドになってんのー。もー、サイテー。あ、眉《まゆ》も剃《そ》られてるしー。あれ? デニスじゃーん。どうしたのみんなー」
「ろみひーこそ、どうしたのよ。まるで広美みたいだわ」
広美があたりを見渡すと、見たことのない金髪の女が母のような眼差しで広美を見つめている。
「えー。何この女─。金髪だからってー、モテるってー、思っちゃいけないんだぞー。あたしはー、たまたま可愛いからいいけどー、ブルネットだってー、生きているんだぞー」
「なにこいつ。ロボットのくせにっ!」
「広美になったのね。もうUHFアンテナはないのね……」
サマンサは背を向けると、煙草をくわえてトレンチコートの襟を立てた。
「ふっ。達者で暮らすのよ」
肩を落として天久の闇に消えていく。
蘇生したばかりの広美は自分の感情に戸惑っていた。どうしてなのかわからないが、さっきから切ない思いが溢れて仕方がない。
「あれ? なんで泣くのかなー。へんだなー。涙が止まらないよー。なんで思い出せないんだろー。とっても大切なことだったのにー。忘れちゃいけないことだったのにー」
「あんた玩具《おもちや》にされてたのよ。広美はこれでいいのよ」
広美がデニスの胸にすがりつく。デニスは褐色の手で広美の絶壁頭を撫《な》でてやった。広美はわんわん泣いた。泣くたびに微かな記憶が流れ落ちる。それを保持できなくて、また泣いた。あそこに幸せがあったような気がする。もう二度と手に入らない時間のような気がする。広美の涙は止まらなかった。広美が空を見上げる。夜空一面に銀世界が広がっていた。
「見て見てー、沖縄にもー、雪が降るんだぞー」
天久のペンタグラムは崩壊し、荒涼とした大地に緑が芽生えつつある。そのそばを黒い影が逃げていくのに誰も気づかなかった。
天久にパラシュートが落ちてきた。F15を捨てたヤマグチ少尉だ。
「デニス、無事だったか。なんだコニーもいたのか」
「いい腕してたじゃない。見直したわよ」
コニーがぱちんとウインクした。
「オルレンショー博士は? 博士の作戦がなければ阻止できなかった」
「どうせまた会えるわよ」
「そうね。エケリは変態と縁があるみたいだし」
デニスがニカッと白い歯を見せて笑った。
「それが助けてもらった礼かよ」
天久にサイレン音が聞こえてきた。パトカーがデニスらの前に止まると刑事がコニーらに逮捕状をつきつけてきた。
「コニー・マクダネル、並びにロバート・ワイリー、佐藤克利、銃刀法違反の現行犯で逮捕する。署まで同行していただこう」
コニーに手錠がかけられた。ちょっと無愛想な顔をして警官を睨《にら》んだが、抵抗はしなかった。ヤマグチがそっと耳打ちする。
「大丈夫です。黙っていればすぐにCIAが身柄を要求してきますよ」
「だといいわね」
コニーは手錠を引っぱられながらウインクする。三人はパトカーに連行されていった。
「あの調子だと、警察も苦労するだろうな」
肩を竦《すく》ませたヤマグチがそばにいたデニスを見る。
デニスは父を乗せた輸送機が墜落した北谷方面を眺めていた。あそこはたぶん、ハンビータウンが復活しているだろう。痕跡《こんせき》を見つけることは不可能だ。でも、デニスは泣かないと決意した。いつか再びアメリカに行って、父の墓に少しは立派になった姿を見てもらおう。それからたくさん泣こう。今は未来を見つめることにした。
天久の地平線に朝日が昇ろうとしていた。デニスは真嘉比の丘を見渡す。十九世紀の王朝最後の時代を生きたチルーのことを想う。彼女が守護してくれたわずかな期間、デニスは孤独ではなかった。隣で空を見上げている広美の気持ちがわかるような気がした。
西暦二〇〇〇年の沖縄に自分がいるということは、チルーは子を産んだのだろう。逆立ち幽霊のままでは彼女は母になれなかった。運命の糸の混乱が補正されたのだとデニスは思った。十九世紀に落ちたとき、同じペンタグラムを見つけた。すべてはベッテルハイムが仕組んだ壮大な魔術の中で百四十七年間が混乱していたのだ。だとしたらベッテルハイムはどうなったのだろう。デニスには知る術《すべ》がなかった。
水平線の彼方《かなた》に黒い船の影が見える。香港に停泊していた救援の船だ。
「ペリー提督。プリマウス号とサラトガ号です」
朝日を受けて那覇港に入った黒船がもう一度王国の扉を叩《たた》く。ペリーは再び東アジアを渡る力を得た。
「アメリカは予定通りに日本開国を要求しよう。急いで編隊を組み直せ。日本へ行くぞ」
「ベッテルハイムはどうしますか」
「探しても無駄だ。とっくに琉球から逃げているだろう」
天久の森は雷で焼き払われて、「神の頭」を表すギリシア語の〔HOTHEOTES〕の文字が残されているだけだった。朝日に照らされる前に王国の進貢船を乗っ取って密《ひそ》かに洋上へと消えていく二人の外国人がいる。甲板の上から離れていく琉球の島影を見つめて二人はまた誓いあう。
「ペンタグラムはまた作れる。ヒラムよ、私と運命を共にするか」
「どこまでも一緒です。ソロモン王」
ベッテルハイムは再びヨーロッパに現れ、フランス大東社の中核メンバーとなった。ベッテルハイムは一八七〇年に没し、オーゲスタの計らいで百三十年の眠りを経て蘇ることになる。
「提督、王国の特使が見えております」
現れたのは三世相の友庵が憑依《ひようい》した異国通事の牧志朝忠《まきしちようちゆう》だ。役人の冠を被り、琉米修好条約を締結しにやってきた。王国は遥か遠い幸福な未来のために、翻弄される地獄の百年を受け入れることにした。琉球は明治政府により処分され、第二尚氏王統は滅亡することになる。
ペリーの肩にふわふわと光の羽が落ちてきた。見上げると空は朝日を受けたセラフィムの羽でいっぱいだ。プリマウス号が絶え間なく祝砲を鳴らし続けていた。
[#改ページ]
Lequios
「もうっ。いい加減に手錠を外してよ。失礼しちゃうわね」
パトカーの中ではコニーが悪態をついていた。側にいた警官がコニーの手錠を外して敬礼する。助手席に座っていた男がポンとパスポートと飛行機のチケットを投げてきた。
「御苦労だった。マクダネル少尉」
「お礼と命令がセットなんて納得しないわよ。今度はどこに行かせるつもり?」
「グアテマラに行ってもらおう。ガオトゥの連中が潜入したと報告があった」
「それで今度はどこの組織。またCIA? それともDGSE(フランス対外治安総局)?」
「CIAに紛れこませたファイルは有効だった。同じ肩書で行け」
パトカーが人気のない所で止まるとコニーを残して去って行った。同じ場所にワイリーと佐藤もいた。目を合わせてお互いに敬礼すると、嘉手納基地の中に消えていく。彼らは空軍特別捜査局の将校である。軍部に潜む陰謀を調査するのが仕事だ。
戦争が起こったとは思えない静かな朝だった。セラフィムの羽が落ちた大地は新鮮なセヂを宿し、瑞々《みずみず》しく輝いている。沖縄は一際明るい朝日を迎えていた。
それからしばらく経って、サマンサの論文が学界に衝撃を与えた。世界中のマスコミが若き天才学者をこぞって報道した。この後サマンサは授賞式で「ペントハウスUSA」をやってしまい、またアメリカの学界から追放された。その後ヨーロッパに渡ったサマンサはパリ大学に招かれ、名実共に世界の頭脳となった。これから数年の間に続けて発表される論文が、二十一世紀をぐいぐい引っぱっていくことになる。オルレンショー博士の提唱する新世紀の骨格は、いくつかの科学を古典に変えるほど画期的なものだ。サマンサはストックホルムの壇上で科学と宗教を融合する新しい時代の幕開けを宣言した。
「二十一世紀はあたしの思う壺《つぼ》! くすくす。くすくす。くすくす……」
パリジェンヌになったサマンサは、ファッションの国フランスでコスプレ趣味を一気に進化させた。しかしあまりにも過激なので、ここでは述べない。
沖縄は基地を抱えたまま存続していた。しかし友庵の約束した幸福な未来はもうすぐだ。セヂの豊かな蓬莱《ほうらい》の島は、新たな要《かなめ》となる時代を待っている。
『ハロー。みなさんチューガナビラー(こんにちは)。デニスとリチャードのトップンロール・ステーションです』
デニスは念願のDJになった。今日もデニスはリチャードの隣で葉書とファックスを読んでいる。ブースに置いた父の写真がいつも彼女を見守っている。デニスは沖縄FMの新しい顔だ。
「もう、ブライアン。いつまでラジオを聴いてるのよ」
「そう急《せ》かすなよ。君がこんなに人使いが荒いとは思わなかったな」
「何いってんの。戦闘機のパイロットだから腕はいいと思っていたのに、期待外れだわ」
秘密を知りすぎたヤマグチは空軍特別捜査局に転属され、専属パイロットになった。しかし大好きな飛行機の側にいられて毎日が楽しそうだ。今度の目的地はホーチミン市だ。
プロテスタント教会に物々しい黒塗りの車と装甲車が入ってくる。降りてきたのは背筋をピンと伸ばした初老の女性だった。
「注文していた武器を持ってきたよ。小姐」
「ありがとう大姐。予算不足だから助かるわ」
黒いスーツ姿の李と張を従えた劉が北叟笑《ほくそえ》む。ガオトゥ・オキナワは劉が作った武器のシンジケートとコニーらが協力することによって壊滅した。
困ったふうに溜《た》め息をついたのは李だ。
「大姐、いつまでこんなことやってるんです?」
「キャラダインを倒すまでだよ。哥哥」
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──二〇〇一年四月三十日 ホーチミン市
熱帯夜の市内は新世紀の活気で賑《にぎ》わっていた。祝賀気分で人々が沿道に溢《あふ》れている。ヤマグチの操縦するビジネス・ジェットが上空で最終アプローチに入ろうとしていた。突如、市内の石油化学コンビナートで大規模な爆発事故が発生した。瞬く間に火炎と黒煙が空を覆っていく。
「着陸をやり直すぞ。ゴーアラウンド。ゴーアラウンド」
機首を再びあげてテイク・オフ・パワーで上昇していく。
「見てブライアン……」
上空から市内を見ると、一辺の長さが二十キロメートルにもなる巨大なペンタグラムが出現していた。航空無線に不気味な呪文《じゆもん》が割りこんでくる。
アテー。マルクト。ヴェ・ゲブラー。ヴェ・ゲドラー。ル・オラーム。アーメン。
三百万の魂よ、レキオスとなり、我に力を!
角川文庫『レキオス』平成18年1月25日初版発行
平成19年5月25日4版発行