テンペスト
下 花風の巻
池上永一
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)花風《はなふう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一方|左舷《さげん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)孫《そん》元[#「元」に傍点]親方
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
〈カバー〉
Tempest
(テンペスト)
あらし、暴風雨のこと
〈折込〉
【主な登場人物】
真鶴/寧温(まづる/ねいおん)――一人二役のヒロイン
孫嗣勇(そんしゆう)――真鶴の兄
喜舎場朝薫(きしゃばちょうくん)――寧温の好敵手
浅倉雅博(あさくらまさひろ)――薩摩藩の青年士族
聞得大君/真牛(きこえおおきみ/もうし)――王族
神徐丁垓(じょていがい)――清国の宦官
真美那(まみな)――真鶴の親友
思戸(うみとぅ)――御内原の少女
尚育王(しょういくおう)――第十八代琉球王国国王
尚泰王(しょうたいおう)――第十九代国王
孫明(そんめい)――王子
【用語一覧】
首里天加那志(シュリテンガナシ)――国王様
黄金御殿(クガニウドゥン)――王の住居
三司官(サンシカン)――三人の大臣
表十五人衆(オモテジュウゴニンシュウ)――重臣
親方(オヤカタ)――上級役人
親雲上(ペーチン)――中堅役人
評定所(ヒョウジョウショ)――行政機関
主取(ヌシドリ)――主任
大親(ウフヤ)――長官
首里大屋子(シュリオオヤコ)――八重山の役人
冊封使(サクホウシ)――清国の使者
御内原(ウーチバラ)――大奥
書院(ショイン)――王の執務室
日帳主取(ヒチョウヌシドリ)――外務政務次官
蔵元(クラモト)――八重山の行政機関
御物奉行(オモノブギョウ)――財務担当
銭蔵(ゼニクラ)――泡盛の保管庫
御料理座(オリョウリザ)――高級料理を作る厨房
平等所(ヒラジョ)――裁判所
大与座(オオクミザ)――警察
識名園(シキナエン)――王の別邸
玉陵(タマウドゥン)――王家の墓
御仮屋(ウカリヤ)――薩摩の出先機関
天使館(テンシカン)――迎賓館
守礼門(シュレイモン)――王宮最初の門
継世門(ケイセイモン)――女官が使う門
久慶門(キュウケイモン)――役人が日常使う門
暗シン御門(クラシンウジョウ)――秘密の通路
御嶽(ウタキ)――拝みの場
おせんみこちゃ――正殿の礼拝所
御拝(ウヌフェー)――王への拝礼
御庭(ウナー)――王宮の広場
間切倒(マギリダオレ)――財政再建団体
科試(コウシ)――官吏登用試験
花当(ハナアタイ)――王宮の稚児
トゥシビー――生年祝い
女官大勢頭部(ニョカンオオセドベ)――女官長
あがま――女官見習い
うなじゃら――王妃
うみないび――王女
あごむしられ――側室
大あむしられ――上級ノロ
ノロ――王府の巫女
ユタ――市井の巫女
時(トキ)――日取りをみる占い師
ジュリ――遊女
キンマモン――伝説の最高神
大阿母(ホールザー)――八重山の最高神職者
坤道(コンドウ)――道教の女道士
三世相(サンジンソウ)――前・現・来世を読む男占師
ニンブチャー――下層階級の念仏屋
ミセゼル――祝詞
後生(グソー)――あの世
フーフダー――まじない札
ミンサー織り――八重山の織物の一つ
ドゥジン・カカン――女官の正装
ウージ――サトウキビ
千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86](センジュコウ)――一口サイズのケーキ
ハベル――蝶
ウクジ――米占い
ニービチ――結婚
ヒンスー――貧乏
フラー――バカ
トンファー――攻防一体の武器
ザン――ジュゴン
ハジチ――刺青
[#改ページ]
[#挿絵(img/02_001.jpg)入る]
[#挿絵(img/02_002.jpg)入る]
池上永一
テンペスト
下 花風《はなふう》の巻
The Tempest
角川書店
テンペスト 下 花風《はなふう》の巻
テンペスト 下 花風の巻 目次
第十章 流刑地に咲いた花
第十一章 名門一族の栄光
第十二章 運命の別れ道
第十三章 大統領の密使
第十四章 太陽と月の架け橋
第十五章 巡りゆく季節
第十六章 波の上の聖母
第十七章 黄昏の明星
第十八章 王国を抱いて翔べ
[#地から9字上げ]テンペスト 上 若夏の巻/目次
[#地から1字上げ]第一章 花髪《はなからじ》別れ
[#地から1字上げ]第二章 紅色《べにいろ》の王宮へ
[#地から1字上げ]第三章 見栄と意地の万華鏡
[#地から1字上げ]第四章 琉球の騎士道
[#地から1字上げ]第五章 空と大地の謡《うた》
[#地から1字上げ]第六章 王宮の去り際
[#地から1字上げ]第七章 紫禁城の宦官
[#地から1字上げ]第八章 鳳凰木の恋人たち
[#地から1字上げ]第九章 袖引きの別れ
[#改ページ]
第十章 流刑地に咲いた花
流人《るにん》を乗せた公用船は、東シナ海と太平洋の境目を縫うように進んでいた。右舷《うげん》に見える東シナ海は女性のような表情をしている。透明度の高い波は日差しを幾重にも透かして、プリズムの反射を繰り返す。まるで貴婦人の微笑《ほほえ》みのような海だ。
一方|左舷《さげん》に見える太平洋は、青が群れて限りなく墨に近づいた勇壮な海だ。白い波飛沫《なみしぶき》と墨が複雑に重なる水墨画の世界。雄々しく馬を駆る武将のような海だ。しかしその界面は喧嘩をせず豊かな風を生み出す。男と女の間には琉球の大動脈となる豊かな航路があった。
「これを見せるために私は船に乗せられたのかもしれない……」
寧温《ねいおん》は王宮の大臣職の表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》から転落していくというのに、海を見ていると癒《いや》される気がした。今まで男になるために私情を捨て理念で生きてきた。男とはそういうものだと信じていた。しかし振り返ってみると結局、自分は情に溺《おぼ》れて流されていくではないか。徐丁垓《じょていがい》を討ったことに後悔はない。徐丁垓は琉球を乗っ取ろうとしていた国賊であったが、国家のために成敗《せいばい》したとは思っていない。胸のすく思いは大義を果たしたからではなく、私怨を晴らしたからだと今になってやっと気がつく。
「真鶴《まづる》、敵《かたき》を取ってやったよ」
結局自分は真鶴という少女のために身を潰《つぶ》してしまった。自分で殺そうとしてもなかなか死ななかった真鶴は、徐丁垓に凌辱《りょうじょく》されたとき初めて死の恐怖を味わった。真鶴は寧温を殺してでも復讐《ふくしゅう》してやりたかったのかもしれない。真理とは後になってからしか気がつかないものと漠と知っていたが、寧温という人格は、真鶴という本来の性をより強調してしまった。身は八重山《やえやま》へと近づいていくのに、心は三重城《ミーグスク》に引き戻されるばかりだ。
「雅博《まさひろ》殿、雅博殿、もう一度会いたいです。どうすればまたあなたに会えるの……?」
一世|流刑《るけい》という罪状を鑑《かんが》みてもそれは叶《かな》わない夢だ。王府の上級役人にとって八重山は希望果てる南海の孤島だった。一世流刑とは流刑地で余生を過ごし、流刑地で死ねという終身刑に等しい。どうあがいても二度と寧温が首里《しゅり》に戻ることは不可能だった。
寧温は思わず顔を覆った。後悔のない人生を生きてきたつもりなのに、未練ばかり王宮に残してきた。何かを成した気になって有頂天になっていた日が馬鹿みたいだ。公人としても私人としても手に入れたものなどひとつもない。それが王宮勤めであると、去りゆく人は口を揃えて言うが、まさか自分がその語り部のひとりになってしまうとは。
「王宮に戻りたい。私は王宮でしか生きられない……」
王宮の魔力に囚《とら》われた者は破滅を味わっても尚、惹《ひ》かれるものだ。欲望の渦巻く伏魔殿《ふくまでん》であるとわかっていても胸を焦がしてしまう。一度、王宮にあがってしまえば女官であれ、役人であれ、ましてや王でさえも首里城に魂を奪われてしまう。これまで何千人の女官や役人が王宮にあがっては去っていっただろう。彼らの無念すら美化してしまう王宮は魅惑的な魔女だ。そして寧温もまた囚われてしまった。
突如、水平線に青い島影が立ち上がった。那覇港を出て三日、ついに流刑地に到着しようとしていた。
「これが八重山島。なんと巨《おお》きい……」
出現した高峻《こうしゅん》な山脈は海を堰《せ》き止める壁のようだ。王国一高いと謳《うた》われる於茂登《おもと》山脈が雲を突き抜けて雄大に両翼を広げている。於茂登岳の手前に無数の山が子どものように並んでいる。その山ひとつでも首里の丘より高い。今まで王宮が天上界だと思っていたのに、更に高い世界が広がっている。そして吹きつける風の何と強いことか。首里の優雅な香りとも、那覇の弾《はじ》けるような匂いとも違う。深い山の呼気が風になっている。眠っているようでいて油断できない野生の匂い。ここが王国の南の要《かなめ》と呼ばれる八重山諸島である。
崎枝《さきえだ》湾に見慣れない船影を見つけた。島を囲むような大艦隊に何事かと寧温は目を見張った。
「あれは列強の船では……?」
黒い船影は廈門《アモイ》に駐留する英国海軍に似ている。固唾《かたず》を呑んで見守っていたそのときだ。艦隊が突然、島を砲撃したではないか。百門の大砲が空を割るように火を噴いた。間断無く続く艦砲射撃は容赦《ようしゃ》なく島を削っていく。炎と煙と爆発音が寧温の体を強《こわ》ばらせる。これは戦争だ。こんな暴挙が八重山で行われているとは王府はまだ知らないはずだ。
「八重山にまで列強がやって来ていたなんて!」
強襲揚陸部隊《きょうしゅうようりくぶたい》が次々と島に上陸して兵士が銃を射ち鳴らす。まさか島人を襲っているのではと寧温は気が気ではない。八重山で何が起こっているのか、早く上陸して事態を見極めなければならない。
公用船が石垣港に帆を下ろした。港は船を待っていた商人たちで押すな押すなの賑わいだ。耳慣れない言葉が行き交《か》っているのを聞いて、やっと自分が知らない世界に来たのだと気づいた。半濁音の多い八重山言葉と首里言葉は外国語ほどの開きがある。語学の天才の寧温でもドイツ語とオランダ語ほどの違いを感じた。聞いていると、ここが同じ琉球だとは思えない。
「琉球がこんなに広い国だったなんて知らなかった」
王府が八重山を体制の中に組み込んだのは第二|尚氏《しょうし》王朝になってからだ。それ以前は共通の文化基盤を持ちながら緩やかに繋《つな》がる群雄|割拠《かっきょ》の時代だ。この島の気質は独立心に富み、オヤケアカハチと呼ばれた豪族が王府に対して蜂起した歴史を持つ。一五〇〇年、八重山独立を阻止するために尚真王《しょうしんおう》は遠征軍を派兵し鎮圧。以後、王府は八重山に重税を課し、支配を盤石《ばんじゃく》のものとした。
しかし実態は一国家二制度ともいうべき有様だ。王府が直接管理する八重山|在番《ざいばん》は在番一名、在番|筆者《ひっしゃ》二名、検見《けみ》使者一名、相附《あいつけ》一名の五人だけだ。この五人で八重山を治めるには無理がある。
八重山には在番とは別に独立した行政機構が存在した。それが蔵元《くらもと》である。蔵元は在番を飾りにして八重山における全ての行政を牛耳《ぎゅうじ》る。ちょうど王府が冊封使《さっぽうし》を飾りにして独立した行政を行うように。八重山に於いて在番は二年の任期でやってくる首里の冊封使だ。
寧温は流人という身分を忘れて初めて訪れた地を物珍しく眺めている。評定所《ひょうじょうしょ》筆者だったとき宮古・八重山の政策を指揮したことがある。布令に何度も表記した島なのに、まるで理解の及んでいないことに呆気にとられてしまった。
独立行政機構である蔵元は、いわば八重山諸島における首里城だ。石垣港からも蔵元の威風堂々たる建物の屋根が見えた。そして隣にある八重山在番の建物の何と小さいことだろう。これが八重山における権力の構図を端的に表している。
寧温に聞き慣れた首里言葉が耳に入る。行政府の中枢である蔵元の役人だ。
「王府から流刑にされた孫《そん》元[#「元」に傍点]親方ですか?」
「元親方?」
呼び捨てにされるはずの身分なのに、役人は寧温に懸命に敬意を払おうとしている。なぜか多嘉良《たから》を思わせる憎めない風貌をしていた。
「俺は蔵筆者の古見首里大屋子《こみしゅりおおやこ》だ。訳あって孫元親方の身柄を預かることになった」
「私に身請け先があるのですか?」
てっきり投獄されるものと思っていたのに、罪人には丁重とも思える扱いだ。蔵筆者の古見首里大屋子は説明するのが面倒くさくて、先日届いた手紙を寧温に見せた。そこには八重山で寧温が苦しまずにすむように朝薫《ちょうくん》が頭《かしら》へ宛てた嘆願書が認《したた》められていた。朝薫は寧温が流刑になるや否や、公用船よりも船足の速い海運業者の馬艦船《マーランブニ》に書簡を託した。古見首里大屋子が見せた手紙には朝薫の必死の訴えが滲《にじ》み出ていた。
「朝薫兄さんの字だ」
几帳面な朝薫にしては筆に乱れがある。よっぽど早く届けたかったに違いない。朝薫の機転のお蔭で寧温は監禁されずにすんだ。
「喜舎場《きしゃば》親方の頼みとあらば断れん。喜舎場親方には八重山が干魃《かんばつ》のときに凄腕の検見使者を派遣してもらった恩があるからな」
「それは私が派遣した検見使者です」
八重山の経済疲弊対策を講じた寧温の実績が八重山に届くまでには朝薫の手柄になっている。この距離が流人の罪科を軽くする。
「孫元親方には俺の雑用係を命じる。ただし許可無く外出してはならん。許可無く人前に出てはならん。許可無く人と話してはならん。許可無く……ええっと他に何があったっけ?」
「要するに何もするなということですね」
「仕方ないだろう。蔵元で流人が温々《ぬくぬく》と暮らしていたら王府への申し開きがつかん。かといって八重山には八重山のやり方がある。王府はいちいち口出しするな。あ、そうだ。泡盛は毎日一合まで。祝宴のときは三合まで。葬式のときは一升まで呑んでよい」
古見首里大屋子はそういって抱瓶《ダチビン》の泡盛を寧温に勧めた。
「今日は初顔合わせの祝いだから三合まで。ただしこっそり呑めよ」
「まるで多嘉良のおじさんみたい……」
思わず苦笑した寧温に古見首里大屋子が耳打ちする。
「実は孫元親方に折り入って相談がある。そなたは通事《つうじ》としても優秀だと聞いた。今、八重山は英国と米国の海軍から砲撃を受けている」
「それはさっき見ました。何が原因なんですか?」
「それが可哀相な話でなあ。俺はなんか泣けてしまってなあ……」
「話す前から泣かないでください。私はまだ来たばかりで何もわからないんですから」
古見首里大屋子が言うには、つい最近起きた事件だそうだ。米国商船ロバート・バウン号が廈門からカリフォルニアへ向かう途中の出来事だ。ロバート・バウン号の積荷は奴隷《どれい》四百人。当時、清《しん》国では苦力《クーリー》貿易と呼ばれる人身売買が公然と行われていた。西部開拓のゴールドラッシュに沸く米国は奴隷で労働力不足を補った。黒人奴隷をカリフォルニア州に移送するには大西洋航路と陸路に頼るため効率が悪く、道中奴隷の死者が頻出した。そこで太平洋航路に着目した米国は、清国から苦力奴隷を購入するようになった。米国で奴隷解放のきっかけとなる南北戦争が起きるのは、この事件から間もなくのことである。
苦力たちの扱いは家畜以下で米国人たちの航海の憂《う》さ晴らしに恰好の玩具だった。米国人船員から辮髪《べんぱつ》を切られたり、殴る蹴るなどの暴行を受けたり、労働に役立たない病人を洋上に投げ捨てたりと、奴隷としての最低限の扱いすら受けられなかった。この非道に苦力たちがついに反撃に出た。船長ら七人を銃殺しロバート・バウン号を乗っ取った苦力たちは八重山沖に座礁。三百八十人が島に上陸して保護を求めた。
「なぜすぐに王府に報告しないのですか!」
「王府は八重山の問題はいつも先送りじゃないか。こっちは人命がかかっているんだ」
「それで漂着民はどうなったのですか?」
「それが可哀相な話でなあ。俺はなんか泣けてしまってなあ。悲しい話だから取りあえず一升呑んどくか」
「呑んでからじゃ話がバラバラになります。全部話すまで呑んではいけません」
上陸した清国人たちを八重山の民は手厚く保護した。彼らに小屋を与え、清国式の食事を与え、衣服を与え、王府の海事法に則《のっと》って漂着民に対して最大限の施しをしたという。
「それが人の道というものです。たとえ奴隷とはいえ、人に変わりはないのですから」
寧温はすっかり評定所筆者だった頃の口調に戻っていた。しかし古見首里大屋子の話を聞くにつれ、これが通常の漂着事件とは異なることを知った。ロバート・バウン号の船長を殺害した罪で米国が介入してきたのだ。直ちに苦力たちの身柄を引き渡すように蔵元に要求してきた。
「要求を呑んではなりません。苦力を引き渡したら殺されてしまいます」
「もちろん蔵元は断ったさ。のらりくらりと逃げてな。王府にお伺いを立てないと私どもの権限では身柄引き渡しはできませんとか。英語がわかりませんとか。清国語もわかりませんとか。首里言葉もわかりませんとか」
「そうです。そうやって交渉を引き延ばすのが最も賢明な対処法です」
「なんか評定所筆者になった気分だったなあ。俺は王宮には一生、縁がない身分だけどやるときゃやるさ。あの米国人どもの顔ときたら、目を青くして驚いてたぞ」
「それが何故砲撃に繋がるのですか!」
古見首里大屋子が急にしゅんと項垂《うなだ》れる。蔵元の時間稼ぎ外交に痺れを切らした米国は英国海軍とともに実力行使に踏み切った。米国海軍は廈門に駐留する英国海軍に協力を要請し、報復攻撃に出た。強襲揚陸をかけた英米両軍は次々と清国人たちを殺害していったという。それが洋上で寧温が見たあの砲撃だ。殺害された清国人は百名以上。山に逃げたり町に身を潜めたりしているが、見つかるのは時間の問題だ。
「主権侵害です。すぐに王府に報告して対策を練らないと」
「王府に報告している間に清国人たちが殺されてしまう。なんとか救ってやりたいのだが……」
古見首里大屋子は困ったような眼差《まなざ》しでちらっと寧温を見た。
「私に交渉しろというのですか? 私は表十五人衆を罷免《ひめん》されて流されてきた罪人ですよ」
「承知している。しかし孫元親方はかつて英国船漂着事件を解決された凄腕の評定所筆者だったんでしょう? 列強との交渉は慣れていると思いまして……」
「もし私が交渉したことが八重山在番に知られたら、蔵元の頭も古見首里大屋子のあなたもタダではすみませんよ」
「それは大したことではない。流刑にしたければすればよい。ただし八重山よりも遠い流刑地が王府にないのが問題だ。わはははは」
これが八重山人の気質だ。王府に従っているようでいて、実はそれほど忠誠心はない。王府が機能しているうちはとことん利用するが、役に立たなくなればいつでも独立するつもりだ。
そもそも島嶼《とうしょ》国家は身体感覚を共にするのが難しい。沖縄島の身体に属するのは慶良間《けらま》諸島や久高《くだか》島、伊江島、久米《くめ》島など近隣の衛星関係にある島くらいだ。
その意味でいうと沖縄島と八重山は惑星同士の距離ほど離れている。地球と火星は同じ惑星だが相互作用を及ぼすほど密接ではない。しかも八重山には竹富《たけとみ》島、西表《いりおもて》島、黒島、小浜《こはま》島、新城《あらぐすく》島、鳩間《はとま》島、由布《ゆぶ》島、波照間《はてるま》島、与那国島という衛星を持っている。この衛星連合が八重山諸島というひとつの文明圏を形成していた。
「鳴呼《ああ》、私はこれまで八重山のことを思って特別に予算を編成していたというのに……」
「孫元親方が八重山|贔屓《びいき》のお蔭で俺らはこんなに豊かになりました。わはははは」
「王府の目が届かないと思って好き放題しているようですね……」
南海の孤島とばかり思っていた八重山は流刑地とは思えない自立した風土だ。流人が罪悪感を持たずにすむなら、一世流刑は首里所払いよりも軽いのではないかと寧温は思った。
「そんな孫元親方にさっそく仕事をお願いしてしまうのは心苦しいのですが」
「私のことはお構いなく。どうせ流人の身です。役に立つなら使ってください」
蔵元は八重山の行政の中枢である。王府の様式を取り入れているが、実際どんな運営がなされているのか在番でもわからない。人事権も司法も全て独立した裁量を与えてある。蔵元はいわば八重山における王宮だ。王府が与《あずか》り知らぬ平行世界が寧温の知らないところで広がっていた。
「孫元親方が英国海軍と交渉してくれることになったぞ」
「おお、なんと心強い。神の使いだ」
蔵元の士気が沸き立つ。同じ琉球なのにまるで異国人扱いだった。
「あの私、国相《こくしょう》殺しの罪人なんですけど……」
と口|籠《ご》もる間に、役人らしい衣装が用意され、帯が締められ、評定所筆者の姿に戻っていく。
「孫元親方、八重山には帽子は赤冠までしかないのですが、ダメですか……?」
と王宮での式典用に用意された帽子が被せられる。地方役人はどんなに出世しても正八品の位階が最高位だ。だが八重山の頭は帽子の色以上に大きな裁量を与えられている。王府においては地方の八重山だが、八重山諸島という文明圏の中央でもある。
「さあ、在番に見つからないうちに崎枝湾へ」
まるで薩摩の目をかいくぐって天使館へと通う王府の役人のやり方と入れ子の構造に、思わず寧温は苦笑した。小さき者はこうやって強《したた》かに生きていく。八重山は王府の縮図だった。
「山に逃げた清国人に安全を保障すると伝えてください。それから発砲した兵士の銃を没収してください。この国は非武装中立だと言ってください。私は旗艦に乗り込みます」
連合軍の旗艦はリリー・コンテスト号だ。その側に米国海軍サラトガ号が碇泊している。やがて日本開国を促すことになるペリー艦隊の黒船のひとつが一足先に八重山諸島へ訪れていた。もっともこの船が浦賀に行くことになろうとは、寧温には知る由《よし》もなかった。
「米国海軍が来ているなんて……」
那覇港で何度も列強の船を見てきた寧温でも砲撃した軍艦に乗るのは初めてだ。砲撃までするとは、完全に琉球を甘く見ている。八重山なら王府が動く前に決着をつけられると踏んでいるのだろう。彼らを交渉の席に着かせるよい口実を考えなければならない。表十五人衆という身分を使えればそれも可能だろう。しかし寧温は罷免《ひめん》された罪人である。
「何かいい方法があるはず。寧温考えなさい。英国人をおとなしくさせる方法を……。あった!」
閃《ひらめ》いた瞬間、風呂敷を広げた。最低限のものしか所持することを許されなかったが、ひとつだけ記念になるものを持ってきた。それが今の切り札だ。
洋上に碇泊するコンテスト号に乗り込んだ寧温は、艦長に面会を求めた。そして歯切れのよいクイーンズ・イングリッシュで手紙を見せる。
“I was given a title from the Queen.”
(女王陛下からナイトの称号を賜りました)
それはかつて英国船漂着事件のときにヴィクトリア女王から送られた親書だ。女王のサインが記された手紙に艦長の足が震えた。その名前には聞き覚えがある。いや英国海軍の将校ならあの事件を語り継がない者はいない。スペンサー艦長は恭《うやうや》しく寧温の前に跪《ひざまず》いた。
“Sir Neion Son !”
寧温は満足そうに頷《うなず》いた。
「英国海軍のボーマン大尉はお元気でしょうか?」
「ボーマン元大尉は東インド会社に勤めておられる。敬愛する私の上官でもあります。琉球のハイ・コミッショナーのことはボーマン元大尉からよく伺っておりました。まさかこんなにお若いお方とは思っておりませんでした」
スペンサー艦長はナイトの称号を持つ寧温に圧倒されている。英国人は他国に対しては尊大な態度を取るが、それは大英帝国が覇権《はけん》国家であるという自負からだ。女王への忠誠心は信仰と同じである。その女王が与えた爵位は軍規を超えた存在だ。
「スペンサー艦長にお話があります。私はかつて英国人が琉球に遭難したとき、全力を挙げて、英国人を誰ひとり失うことなく送還いたしました。そのことは女王陛下もご存じのことと思います」
「もちろんです。極東の果てにいた聖人のことを英国海軍の人間なら誰もが知っております」
「そのときと同じように、私は清国人を救いたいと思っております。インディアン・オーク号のボーマン大尉と同じように、王府の行政機構において身柄を保護いたします。それがこの国の流儀であり、同時に女王陛下のお心に適《かな》うものと信じております」
スペンサー艦長は英国の弱みにつけ込まれてぐうの音《ね》も出ない。寧温は構わずに続けた。
「もし英国海軍が島を砲撃するなら、私はかつてボーマン大尉を救ったことを生涯の恥にするでしょう。同胞を救った恩を砲弾で返すのが英国紳士の流儀なのでしょうか?」
「サー・ネイオン、それは誤解です。私たちは米国の要請を受けて派兵したまでです」
「英国が米国の親ならば、子の謬《あやま》りを正してください。奴隷迫害は人道に反する行為です。あなたがボーマン大尉の部下ならば、上官の良き想い出の地を汚してはなりません」
スペンサー艦長は渋々部下に命じた。
「おい、捜索は中止だ。英国海軍はサー・ネイオンのご意向に添おう」
船員たちは乗船してきた小さなナイトに最大の敬意を払っている。この艦において寧温は艦長よりも階級が高い存在だ。英国貴族のひとりと認められた寧温は、皮肉なことに琉球においては罪人だった。この行為が結局寧温の首を絞めてしまうことになっても、今は清国人を救えたことの喜びの方が大きい。
「サー・ネイオン。ぜひ一度英国へ訪れてください。バッキンガム宮殿をご案内したい。女王陛下もお喜びになります」
寧温と蔵元の役人を乗せたボートは最後まで丁重に見送られた。寧温は殺害された清国人たちのための墓地を整備するよう提言した。これが実現して、現在、石垣島の富崎《ふさき》にある「唐人墓」の原形になっている。
唐人墓の整備は当時の王府の手厚い行政サービスを窺《うかが》い知ることのできる史蹟である。現在の唐人墓の絢爛《けんらん》豪華たる佇《たたず》まいは一見、清国の貴人を祀《まつ》ってあるかのようで、とても殺害された苦力奴隷の廟《びょう》とは思えない。遭難者保護にかけては世界一と謳われた琉球王国の深い思い遣りは、現在でも中国の歴史の教科書に記載されている。
清国人を救えて古見首里大屋子はほくほく顔だ。
「さすが孫元親方ですな。英国人を一発で丸め込んでしまった。これで王府も我々八重山人の気《き》っ風《ぷ》を思い知るでしょう。王府を使わずに私たちだけで解決したのですから。わはははは」
しかし寧温は浮かない顔だ。英米両国が手を組んで八重山に強襲をかけたのは、何も王府の目が届きにくいからというだけではない気がする。列強の琉球進攻は予想以上の速度だ。もし琉球を武力制圧するとしたらそれはロシアだと思っていた。シベリアから南進してくるロシアは太平洋航路を確保するのに躍起になっている。フランスがインドシナ半島を狙っているなら、東南アジアの北限である琉球を抑さえておかないとロシアは太平洋に出られない。そのロシアを阻止するために英米両国が手を組んだ。国家解体にかけては盗賊のごとき早技師と呼ばれる英米が王国の南の要を蹂躙《じゅうりん》した。この痛みが沖縄島に伝わるには時間がかかる。四百二十キロメートル離れた島嶼間は、危機管理が及ばない距離だった。
「次は首里に砲弾が飛んでくる……。古見首里大屋子お願いです。私を都に戻してください」
「何を言うんだ。そなたは来たばかりの流人ではないか。いくら恩義があるとはいえ、在番殿のお顔を潰すわけにはいかん」
「列強が来たら王府も蔵元も全て吹き飛んでしまいます。できるだけ早く王宮に報せなければ」
「それは在番の役目だ。孫元親方の出る幕ではない」
「だってさっきは在番にバレても構わないと仰《おっしゃ》ったじゃないですか」
「それはそれ。これはこれだ。八重山の事情を| 慮 《おもんぱか》ってほしい」
蔵筆者は八重山における評定所筆者だ。王府との関係を重視しつつ、かつ八重山の利益を優先する。英国海軍を追い払ったという結果さえあれば蔵元の自主独立は保たれる。海と山に恵まれた八重山は税収の豊かな地だ。王府に介入されて八重山における利権を荒らされたくないというのが本音である。
古見首里大屋子は在番に英国船を蔵元が追い払ったと報告し、在番はこの事件を解決したのは自分だと王府に報告し、事件は出世の道具に使われてしまった。在番は任期を終えた後、王宮の御物《おもの》奉行吟味役への出世が約束されている。下手に王府を混乱させるわけにはいかなかった。
このことに義憤を覚えたのは寧温だ。
「何とか三司官《さんしかん》殿に事の真相を伝えなければ」
居ても立ってもいられず咄嗟に筆を執った寧温は、王宮へ上訴文を認めた。
*
寧温がいなくなった王宮は機能を滞《とどこお》らせることなく、日々の業務に追われていた。かつて王宮にいた宦官《かんがん》のことを口にする者の数が日を重ねるごとに減っていく。王宮は新陳代謝を繰り返すことで常に若返ろうとする。去る者がひとりいれば、上がろうとする者が三千人はいる。今年もまた科試《こうし》の季節がやって来た。
評定所の片隅でひとり頬杖をついていたのは朝薫だ。人が寧温のことを忘れても、朝薫の胸にはいつでも寧温が咲いている。八重山に流された寧温のことを思うとやりきれない。
「寧温、きみはどうしているんだ? もうぼく達は会えないのか?」
評定所付きの花当《はなあたい》が、花器に新しい花を生けにきた。朝薫の席にある花器は空っぽだった。季節の花にうるさかった朝薫なのに、空の器ばかり眺めている。
「喜舎場親方、今日こそお花を生けさせていただきます」
「ダメだ。枯れてしまう花など真の花ではない」
「花が朽《く》ちるのは当然のことではございませんか」
「王宮には朽ちない花がいただろう。どうしてすぐに忘れてしまうんだ!」
朝薫の空の器には寧温が咲いていた。女よりも妖艶《ようえん》で、男よりも頭脳|明晰《めいせき》だった寧温こそ、王宮に最も相応《ふさわ》しい花だと朝薫は思う。だが寧温は枯れる前に王宮から追い出されてしまった。そのことが悔やまれてならない。つい感情的になって流刑に荷担した自分が腹立たしかった。
――あの簪《かんざし》をぼくが無視すれば、寧温は側にいたのに。
朝薫の元に新しい評定所筆者|主取《ぬしどり》が決裁を求めてきた。
「喜舎場親方、八重山から書簡が届いております」
「在番の報告書は昨日読んだばかりだ。英国船との通訳の必要を申し立ててきた。英語に堪能《たんのう》な異国|通事《つうじ》を手配できたか?」
「王府の異国通事で英語に堪能なのは牧志朝忠《まきしちょうちゅう》でございます」
もっと上手な者がいただろう、と朝薫は心の中で反論した。長年評定所に勤めていた男は四十歳にして評定所の頂点に上り詰めたエリートだ。淡々と業務をこなす彼は史上最速で王宮を駆け抜けた前任者のことを振り返ることはない。
「では牧志を八重山へ派遣せよ」
朝薫が書簡に手をかけた瞬間だ。評定所に陽気な声が響いた。
「待ってくださーい。ぼくが八重山に行きまーす」
寧温の元に行けると聞いて現れたのは嗣勇《しゆう》だ。荷物を纏《まと》めていつでも旅立つ準備はできていた。
「奥書院奉行筆者の嗣勇殿が、英語に堪能だとは初耳だが……」
評定所筆者主取の男が首を傾げた。花当出身の異国通事なんて聞いたことがない。
「知らなかったんですか。ぼくは孫寧温から直々に英語を学んでいたんです。マイネームイズ、シュー・ソーン。王宮は『キャッソー』。首里天加那志《しゅりてんがなし》は『キーング』。聞得大君《きこえおおきみ》加那志は『プリースト』。そしてぼくは『ハンサーム』。ほら完璧でしょう?」
英語のわからない評定所筆者主取は何か騙《だま》されている気がしながらも反論できない。嗣勇は八重山にさえ行ければどんな口実でも見つける。昨日は八重山舞踊を踊童子たちに教えたいから八重山に行かせろと評定所筆者主取に詰め寄った。その前は八重山の歌謡を学びに留学させろと願い出た。そのたびに押し問答になる。
「奥書院奉行筆者の仕事はどうするおつもりか?」
「ああ、どうせ候文《そうろうぶん》わかんないからいいよ」
「候文も読めないのに、なぜ英語が堪能なのだ?」
「ええっと……。前世が英国人だったから……」
「確か嗣勇殿はこの前、自分は琉球の伝説の楽士アカインコの生まれ変わりだと仰ったが?」
「それは前々世のことです。もうっ。いい加減、八重山に行かせろよ。この意地悪!」
そんな二人の遣り取りをよそに朝薫が書簡を開いた。
[#ここから2字下げ]
口上覚
急度申上候。此度英亜兵船被差渡唐人共致殺
傷剩砲撃為加段ハ人倫之道ニ背為悪行ハ不申
及、無謂琉球国土為致蹂躪事ハ明白ニ而候故
厳重指弾可有之与被存候。御当国政道之本懐
を以唐人共致介抱令帰国候念遣第一義与心得
候故、急度護送船此島江可被差下儀肝要之事
与被致思慮候付、向々江構方可被仰付事。
孫寧温
[#ここで字下げ終わり]
八重山から南風に乗って三日後、評定所に一通の上訴文が送りつけられた。朝薫は流刑された元同僚の文字にひっくり返った。
「寧温! 何をしているんだ!」
「まづる、いや寧温が手紙をよこしたんですね。何て書いてありますか喜舎場親方?」
騒ぎに三司官衆が駆けつける。朝薫の手元から書簡を奪うと慄然《りつぜん》と声を震わせた。
「緊急に申し上げる。このたびの英国海軍による清国人殺害事件は人道的に決して許されるものではなく、英米両海軍が八重山を砲撃したことは国土を蹂躙したのと同義である。確かに孫寧温の字だ!」
「三司官殿、お待ちを。在番の報告とは違います。列強が八重山を砲撃したなんて聞いておりません。これは重大な事件です」
「黙れ喜舎場親方。問題はなぜ流人が書簡を送れる場所にいるかだ」
懇意にしていた蔵元の古見首里大屋子に身柄を保護させたとは言えず、朝薫は口籠《くちご》もった。
三司官は互いに書簡を回し読みしては、激怒する。
「王府の許可なく八重山を強制捜査したことは主権の侵害であり、英米両政府に対して強く抗議する。こいつはまだ評定所にいるつもりなのか!」
「また清国人は速やかに福州《ふくしゅう》へと送還するのが王府としての誠意であり、船を八重山に手配するよう申しつける。流人の分際で儂《わし》らに命令するつもりか!」
「違う三司官殿。寧温は列強に警戒しろと訴えてきたんだ。八重山を砲撃したのは列強の示威だ。次に列強が狙うのは首里だと言ったも同然ではありませんか」
「流人の訴えを素直に信じられるか。きっと王宮を攪乱《かくらん》して復讐するのが目的に違いない」
その言葉に嗣勇が涙目になる。妹は国のために性を捨て、犯され、そして流刑にされたのに、重臣たちがまだ妹を侮辱するのが許せない。
「なぜ寧温が復讐しなきゃいけないんだ。こんなことをして不利になるのは寧温なのに。寧温は自分の身を危険に晒《さら》して訴えてきたのに」
三司官衆は寧温の名前を聞くことに辟易《へきえき》していた。王宮から追い出しても、流刑地に送っても、鬱陶《うっとう》しく立ちはだかる王宮の癌だ。
「八重山のことは在番に任せてある。孫寧温は牢に繋がせる」
嗣勇が三司官の袖に縋《すが》って懇願する。
「おやめください三司官殿。寧温はもう王宮に戻って来られません。せめて八重山で静かな余生を送らせてあげてください」
嗣勇の言葉に朝薫ははっとする。寧温に残されたのは流刑地での余生しかない。流された役人が再び王宮に戻ることは不可能なのに、朝薫はゼロの可能性に縋《すが》っていた。まだ嗣勇のように職場を捨てて八重山に行こうと画策している方が建設的だ。だが朝薫は重臣の職を捨てて八重山に行く勇気はない。ただこうやって評定所で幻影を追い続けているだけだった。
ふと海を見たくなって三重城に足を伸ばした朝薫は、頂《いただき》に人影を見つけた。風を胸元で受けて佇む男は雅博ではないか。
「浅倉《あさくら》殿? 三重城で何をされているのだ?」
「これは喜舎場親方。ただ故郷に思いを馳せていただけです」
「故郷の薩摩なら北だが?」
雅博は八重山のある南の果てを見つめている。こうしているのが愚かだとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「喜舎場親方こそなぜ三重城へ?」
「ぼくは清国派の役人だ。皇帝陛下のご繁栄を祈りに来たまでだ」
「清国なら西だが?」
「お互い強情だな」
朝薫もまた南の水平線を見つめている。こうして眺めていると八重山は夕日の裏にありそうな気がした。二人の想いは同じだった。
「喜舎場親方、側にいながらなぜ護《まも》ってやれなかった?」
そう言われると朝薫には返す言葉がない。それどころか自己嫌悪さえ感じてしまう。朝薫はなぜ自分が三重城に来たのかわかった。贖罪《しょくざい》したかったのだ。
「薩摩の役人に王府の苦労はわかるまい……。浅倉殿はいずれ琉球を去る身だ。この地を離れれば全ては旅の想い出に変わるだろう。だがぼくにとってここは現実だ。とても良き想い出を語る場所にはならない……」
朝薫のか細い言葉に雅博はただ黙っている。確かに朝薫の言うことは道理だ。御仮屋《ウカリヤ》の任期を終えれば雅博は薩摩に帰る。雅博にとって生きる場所は薩摩である。薩摩に帰れば三重城のことも異国での想い出として胸の内にしまわれるだろう。
「琉球は不思議な国だ。私はこの世にあれほど魅惑的な人間がいるとは思わなかった。今でもとても人とは思えない。まるで意思を持った牡丹《ぼたん》だ」
雅博の溜息に朝薫もつられる。
「私塾で出会ったときから可憐だった。科試のときは好敵手だった。だけど一緒に王宮にあがったとき、ぼくよりも先を走っていた。あの才能には誰も追いつけない。護ってやれなかったのは、ぼくが愚鈍だったからだ」
「琉球の神童と謳われた喜舎場親方に愚鈍と言わしめるか」
二人とも寧温が遠くにいるからこそ、冷静に語れた。側にいたら香りで幻惑されとても平常心ではいられなくなる。思考よりも衝動が前に出てしまい渦に飲み込まれたように藻掻《もが》いてしまう。だが離れていても感情が抑えられない。どうすれば寧温と適正な距離を保てるのか雅博にも朝薫にもその方法がわからない。
「浅倉殿は早く薩摩へお帰りになられよ。さすれば全ては美しい想い出に変わるだろう」
「喜舎場親方はもっとご自身のお気持ちに素直になられたらどうだ?」
「それはできない。ぼくは首里天加那志の臣下として琉球を護らねばならない」
流刑地から発した一通の上訴文は寧温からの襷《たすき》だ。寧温は列強の脅威に備えよと命がけで朝薫に警告した。その意志を引き継ぐことが自分にできる最大の贖罪だと思った。
意を決した朝薫は寧温にあげた簪《かんざし》を海に投げ捨てた。
「さらば寧温!」
キラキラと日差しを反射した簪が放物線を描いて波間に消えていく。朝薫はこれから国家の顔として、また公人として、求められる人格だけで生きていくつもりだ。
翌日、朝薫の席に花が生けられた。喜舎場家の祝言《しゅうげん》があげられたのは、それから間もなくのことだった。
人の思切《うめぎり》や梓弓《あずさゆみ》心
さらばこれまでの別れすらな
(人の決心は梓弓のようで一度手元を離れたら二度と巡り会えないものだ。今まさにぼくはこれまでの縁に別れを告げよう。さらば青春の想い出)
八重山では蔵元に王府の捜索が入った。寧温を再び拘束し、投獄せよとの命令だった。独立行政機構の蔵元に王府が直接介入するのは極めて異例なことである。王府が使者を連邦捜査官として八重山に派遣したのだ。使者の護得久《ごえく》は、かつて寧温が評定所筆者だったとき部下だった男である。
蔵元では古見首里大屋子《こみしゅりおおやこ》と王府の使者が押し問答している。
「王府である。流人の孫寧温を匿《かくま》っているな。これから蔵元の強制捜査を行う」
「蔵元は王府の介入に断固抗議する。流人の捜索は蔵元に任せられよ」
「その流人を匿っている蔵元の捜査など信用できるか」
まさにその張本人が古見首里大屋子だ。あれほどやるなと釘を刺しておいたのに、寧温は古見首里大屋子の目を盗んで上訴文を認めた。寧温の身柄を引き渡せば八重山の中でもさらに未開地へと送られてしまうのは明白だった。
「八重山のことは蔵元の管轄である。王府の越権行為は互いの信頼関係を損ねるものだ」
琉球の内部でも宮古・八重山は独立色が強い。沖縄島の地方では下級役人が農民出身者なのに対して蔵元は全員士族だ。王府は統一王朝と自認していても、八重山は連合王国に加盟しているというスタンスだった。その点は英国のスコットランドとイングランドの確執に似ている。
古見首里大屋子が捜査令状を突っぱねた。使者の位階なら親雲上《ペーチン》で蔵元の頭と同等だ。つまり部長同士の小競り合いである。
「これは沖縄加那志の横暴である」
「首里天加那志に無礼であるぞ。沖縄加那志と呼ぶな」
八重山諸島では王のことを沖縄加那志と呼んだ。尚泰王《しょうたいおう》は沖縄島を治める首長であって天子ではないというニュアンスを込めている。
「では使者より上の検使の派遣を要請することになるが、そのときは頭にも処分が及ぶぞ」
ついに古見首里大屋子が音を上げた。使者は暗に蔵元の帳簿を見るぞと脅したのだ。検使は今の時代でいう破産管財人だ。経済疲弊に悩む地域にやってきて財政を再建するまで居座る。所遣米《ところづかいまい》と呼ばれる地方の裁量に任せた独自の税を王府にいじられたら蔵元の富は接収されてしまう。
寧温はもはやこれまでと自首してきた。
「私が孫寧温です。王府の使者殿のご命令に従います」
「孫寧温、八重山でも政治活動をするとは以《もっ》ての外だ」
「漂流民が虐殺されていたのです。黙って見過ごすわけにはいきませんでした」
「そのために在番がいるのだ。王府の元重臣ならわかっているだろう」
「在番は面倒を避けるために蔵元に押しつけたのです。そればかりか、蔵元と民が建立《こんりゅう》した唐人墓をまるで自分の手柄のように報告したではありませんか!」
「貴様、流人の分際で口のきき方を知らないようだな」
寧温はしゅんと項垂れて使者に非礼を詫びた。
「無礼をお詫びいたします、護得久親雲上」
元上官の寧温を土下座させた護得久は胸がすく気分だ。今まで親子ほど歳の離れた上官に顎《あご》で扱《こ》き使われてきた怨《うら》みだった。だいたい科試出身者は長幼の序を知らない。現場で働く役人たちの気持ちを無視して高みから指示を出す。まるで評定所筆者だけが物を考えているとでもいわんばかりに。護得久親雲上は寧温が無抵抗なのをいいことに、顔面に唾を吐いた。
「貴様の生意気な態度には前から腹が立っていた。一日のうちに三カ所も俺を使者として派遣したことがあっただろう。あのときどんな思いだったか今教えてやる」
「あのときは干魃で使者の数が足りなかったのです」
「じゃあ貴様が行けば良かったじゃねえか。これだから科試組の頭でっかちは鼻もちならないんだよ」
護得久親雲上が腹いせに寧温の背中を蹴飛ばす。これが王府で最速出世した役人の成れの果てだと思うとせいせいした。
「孫寧温、観念しろ。王府の命令により投獄する」
足枷《あしかせ》を嵌《は》められた寧温が無様に市中を引きずり回されていく。護得久親雲上はわざと牢まで遠回りするように寧温を歩かせた。
「表十五人衆の孫親方が今や流人か。やはり出世はほどほどにしとかなきゃな。ほら寧温、八重山の水をしかと味わえ」
足を引っかけられて寧温は水溜まりに顔を突っ込んだ。中心部の四箇《しか》を二回引き回されて牢のある郊外のヤキー地区に到達する頃には、寧温は息も絶え絶えになっていた。
「どうか、どうかお許しを……。私は列強の脅威を王宮に報せたかっただけでございます……」
寧温は朦朧《もうろう》とした意識の中で牢舎に投げ込まれた。
豚小屋と併設された牢舎は、罪人を家畜扱いしても罪悪感を覚えずにすむ造りだった。夏場になると衛生環境は最悪で糞尿の臭気が鼻腔に容赦なく襲いかかる。まるで鼻の穴に薪《まき》を突き刺されてかき回されたような感覚だった。日に一度の食事も糞と一緒に食べているようで嚥下《えんげ》するたびにえずいてしまう。寧温は自分の身が日に日に痩《や》せていくのを関節の痛みとともに感じるようになっていた。辺りを見渡すと黄色い豚の目が餌《えさ》が弱るのを待っているように見つめている。
「私は、このまま家畜の餌になってしまうのだろうか……」
夜は夜でダニが耳の中で血を吸う。四六時中、耳の中でカサカサ鳴るダニの足音を聞きながら一睡もできず、昼には暑さで溶けた糞が泥になって床を覆った。ある日、足枷を嵌められた踝《くるぶし》が痒《かゆ》くて枷の隙間を見たら、傷口に蛆《うじ》が湧いていた。
「もう嫌だ。嫌だ。こんな生き方をするなら、いっそ斬首にされたかった……。お願い寧温、死んでちょうだい」
寧温は前歯で舌を噛み切ろうとする。舌をゆっくり押さえつけると無性に涙が出てきた。
「父上、私は後悔しております。どうか死の罰を与えてください。私は男になったことを今、後悔しております……」
死ぬに死ねず、生きるに生きられず、かといって人の世にいるとも思えない。脳だけが辛うじて生きているが、引きこもった牢舎の中で寧温の思考は日に日に小さくなっていく。牢舎に差し掛かる日差しも月明かりも全て同じように見えるようになった数カ月後の夜、寧温は耳鳴りの中で夢を見た。
夢に現れたのは斬首された父だった。首を脇に抱えた父が寧温をじっと見つめている。
『寧温そんなに苦しいか? 私が授けた名がそんなに邪魔なら、後生《グソー》(あの世)に連れて行ってやろう』
「父上、お願いします。どうか後生に連れて行ってください」
父は寧温の帯を解き、簪を抜いてやった。
『これを持って行こう。さあ自由になるがいい』
待ち望んでいた言葉を聞いた瞬間、寧温の体が引きちぎられるような激痛に見舞われた。
牢舎を管理していた農民が、流人の容態が急変したことを蔵元に告げてきた。
「大変だ大変だ大変だ! 流人のお役人様が黒水熱《マキー》に罹《かか》ったぞ」
「何? 黒水熱だと!」
黒水熱とはマラリアのことだ。八重山の風土病ともいえるマラリアは蚊を媒介とする伝染病である。当時、治療法がよくわからなかったマラリアは、罹《かか》ると高熱と平熱を繰り返す。その間に赤血球が破壊され死に至る。伝染病患者が牢舎で出たら隔離しないと街に広がってしまう。
「すぐに病人を山奥に隔離しろ。いいか絶対に戻って来られない場所に捨てるんだ」
筵《むしろ》で厳重に梱包された寧温は前後左右もわからぬまま、農民たちに運ばれていく。
「首里の元役人だ。名蔵《なぐら》部落の先に捨てればちょっとやそっとじゃ帰って来られないさ」
寧温は筵に包《くる》まれたまま、谷底に捨てられた。途中筵が破れて寧温の体が露《あらわ》になる。着ていた囚人服も次第に破れ、髪を留めていた簪も帯も散り散りにすり切れ、やがて裸体になった寧温の体は川原の先で止まった。しかし寧温は牢舎のどこかに体をぶつけたとばかり思っている。高熱と平熱を繰り返すたびに、頭が風船のように膨《ふく》らんだり縮んだりしていく感覚しか残されていなかった。最後の峠となる高熱が訪れたとき、これで終わりだと確信した。
「雅博……殿。まさひろ……」
頭が限界まで膨らんで一気にはち切れようとしたそのときだ。島に激しい雨が降った。寧温の体を強制冷却する雨が頭蓋骨《ずがいこつ》の膨張を寸前で食い止めた。稲妻が鳴り響き、頭痛と相まって体の外がわからなくなる。一際大きな雷鳴が轟《とどろ》くと、衝撃波で寧温の胸が圧迫された。
『龍の子よ。王宮に戻れ』
その声を聞いた直後から、体に感覚が甦《よみがえ》りだした。頭蓋骨の内側で無限に反射する残響のような頭痛がひどくなっていく。苦しくて息を吸うこともできない。ましてや目を開けて立ち上がることなどできるはずもなかった。寧温は豪雨が体にこびりついた汚れを洗い流してくれるように思えた。
次の日だ。川原に白装束《しろしょうぞく》の老婆の影が現れた。まるで暴行されて捨てられたとしか思えない娘の裸に老婆は肝《きも》を潰した。老婆は着ていた打ち掛けを横たわる娘の裸にかけてやった。
「もし、もし。そなた自分の名がわかるか?」
老婆の声に娘が微《かす》かに反応した。
「ま、まづる……です」
「可哀相に真鶴とやら。誰がこんなひどいことを……」
マラリアの熱から九死に一生を得たとき、孫寧温という宦官はこの世から姿を消していた。老婆は八重山の最高神職・大阿母《ホールザー》だと名乗った。大阿母は聖なる泉にある白水を汲《く》みにやってきたのだと言う。そのとき天空から龍が落ちるのを見た。地上に落ちてきた龍は神のお告げだと大阿母は瞬時に理解した。大阿母は王府の大あむしられに準ずる地位だ。託宣に従って己《おのれ》のできることをするまでだ。
「首里言葉の訛《なまり》があるね。あんた八重山の女じゃないだろう?」
高熱と引き替えに取り戻した本来の性に真鶴はまだ馴染んでいなかった。
「私、王宮に戻らなきゃ……」
「真鶴よ。まずはその体を慰撫《いぶ》しなさい。今のおまえでは船に乗ることも適《かな》わぬ。せめて髪が結えるまでの間、私がおまえを預かろう」
真鶴は大阿母の屋敷に身を寄せて静かに暮らすことにした。そこで苧麻《ちょま》を紡《つむ》ぎ、糸を染め、機《はた》を織り、島の女に見えるように在番や蔵元の目を誤魔化すことにした。それでもいつも胸にあるのは王宮と雅博のことだ。
すっかり髪が伸びて女髪を結えるようになった頃、真鶴は外出を願い出た。
「あの大阿母前《ホールザーマイ》。於茂登岳《おもとだけ》に登りたいのですが、出かけてもよろしいでしょうか?」
「行ってもよいが、そなたの強い悲しみは山の神の気持ちに障り、石にされてしまうやもしれん」
「荒唐無稽《こうとうむけい》な話ですね。行くなと言えばすむことではありませんか」
「いやそなたはあまりにも強い未練を持っている。それが気がかりじゃ」
真鶴は地方の迷信だと嗤《わら》い、未明密かに於茂登岳に向かった。
雲の上を歩いているような靄《もや》が足下に漂っていた。巨大なシダ類が群生する於茂登岳の麓は、未開というより太古の世界だ。桁《けた》外れの植生のスケールが人間を弥《いや》が上にも小さくさせてしまう。足を踏み入れるたびに小人にさせられていく気分だった。中腹から雲を突き抜ける於茂登岳の山肌は見渡す限りの壁、壁、壁だ。この山を遮《さえぎ》るものは王国のどこを探しても存在しない。
「頂上まで行けばきっと首里の山が見えるかもしれない」
裸足で太古の世界に飛び込んだ真鶴は、頂上の景色を想像していた。水平線の彼方に微かに見える沖縄島、それが糸満《いとまん》の摩文仁《まぶに》の断崖でもよかった。自分が生きてきた大地の片鱗《へんりん》に目が届いたら一気に想像の目を凝《こ》らせばよい。糸満から那覇まで五里、那覇に着けば王宮までの道のりは目を瞑《つぶ》っていても覚えている。緩やかな坂道を探すように歩いていけば、綾門大道《アヤジョウウフミチ》に差しかかる。その起点に王宮最初の門である守礼門《しゅれいもん》があるはずだ。
何と険しい山だろうと真鶴は音《ね》を上げそうになる。獣道が途切れる山道は起伏が激しく、登りたいのに見つかる道は下りしかない。仕方なく木を伝うように山肌にしがみつくが滑落してしまう。結局、麓まで下りて最初の道からまた歩き出す。これを三度繰り返したとき、山の悪意をはっきりと感じた。
「怨めしい。ただ一度王宮を見たいだけなのに。雅博殿に見つけてもらいたいだけなのに……」
於茂登岳は人を寄せつけない神聖な山だった。しかし山頂に真鶴が期待するものがあるからこそ、悪意が存在するように思えてくる。
半日ほどかけて中腹まで来ると気温が氷室《ひむろ》のように下がってきた。太陽は中天にあるというのに、この肌寒さは王宮の冬以上だ。見渡すと植生もだいぶ変わっていた。シダ類が姿を消し、常緑樹の枝が視界を遮るように交差する。まるで太古から現在へ時間軸を跨《また》いだ気分だ。すると上はまだ見ぬ未来かもしれない。そう考えると重い脚を引きずりながらも一歩踏み出せた。
「役人でなくてもいい。王府に国難を報《しら》せる声になれれば、それでいい。朝薫兄さん、気づいて。列強がすぐそこまで迫っています。兄上、聞いてください。英国船が琉球を砲撃しました。首里天加那志、国が南から滅びようとしております。雅博殿、島津|斉彬《なりあきら》殿にお知らせください。米国は琉球を支配したら、その次は日本を狙います」
疲れ果てて岩に寄りかかった真鶴はぎょっとする。岩肌に人面のような模様が幾つも浮かび上がっているではないか。どれもこれも女の嘆きの顔を連想させる。まるで山頂に辿り着く前に疲れ果てた女が岩に魂を吸い取られていったような不吉さだ。大阿母の言葉が脳裏を過《よぎ》る。都のある王宮では子ども騙しにしかならない逸話も、数億年単位で時を駆け上がるこの山の中では急に真実味を増した。
「私は石になんかならない。石になったら王宮に戻れない」
岩に背を向けた瞬間、嘆きの声に囚われた気になる。背後から亡者《もうじゃ》の無念の声がする。会いたい、会いたい、一目会いたい、という声が自分の内なる声なのか、亡者の嘆きなのかわからなくなって真鶴は耳を塞いだ。
「私は負けない。生きて必ず王宮に戻ってみせる。科試を受け直してでもまた這《は》い上がってみせる。列強の好きなようにはさせない!」
亡者の声から逃れてどれくらい経っただろう。幹の隙間に開けた空間を見つけた。於茂登岳に登ってからほぼ丸一日が過ぎようとしていた。未明の月が沈むのを見届けてから出たのに、東の空には晩の月が頭をもたげていた。
「いけない。夜になろうとしている。陽のあるうちに王宮を見つけなくては」
最後の力を振り絞って山頂に着いた瞬間、真鶴は足下が石になったように固まった。眼下には、裏石垣と呼ばれる石垣島の全てと、三百六十度の完璧な円周を誇る巨大な水平線が広がっていた。王国一の山からでも沖縄島は南端の掠《かす》れさえ見えない。シンメトリーに完成された景色は真鶴の感傷をいとも容易《たやす》く打ち砕いてしまった。空に最も近い場所で、真鶴は途方に暮れて泣き出した。
「国土よ。私は国の有事のときに何もしてやれない非力な存在です……」
月を足下に見るというのは初めての体験だ。雲海がぼうと光り、満月が顔を擡《もた》げた。今、山頂と王宮を繋ぐ唯一の明かりはこの月だけだ。
山の端にかかる月影もきよらさ
思里《うみさと》と連れて眺めぼしやぬ
(於茂登岳にかかる月は格別に美しい。愛するあなたと一緒に見たいと願っています)
三百六十度の視界に浮かび上がった満月は、青い光で真鶴を照らしながら夜空に雄大な放物線を描く。この月が天を駆けている間に思いのたけをぶつけておきたい。
「雅博殿、私はあなたに会えて幸せでした。いつも私の胸の中にいます。どうか月に託した想いをお聞き届けくださいませ」
ちょうど同じ頃、王宮の朝薫もいつになく明るい月にふと足を止めた。
「誰かが見ている気がする」
御庭《ウナー》に射す青い光の中に、むかし寧温と駆けた残像を見る思いがした。朝薫に夜食を届けに来た女がいると門番から報せが入る。外にいたのは気だての良さそうな娘だ。愛妻弁当に朝薫の顔も綻《ほころ》ぶ。二人は王国一の良縁と誰もが羨む新婚夫婦だ。
奥書院奉行で帰り仕度を始めた嗣勇も窓にさす月明かりに振り返る。
「真鶴のいる八重山も照らしてください……」
そう言って嗣勇は蝋燭《ろうそく》の明かりを吹き消した。
銭蔵《ぜにくら》で酒盛りをしていた多嘉良も寧温がいなくなってから深酒の日々だ。
「あんなに綺麗なお月様なら寧温と一緒に見たかったなあ」
王宮の夜は誰の想いも残さぬままに、密やかに更けていく。
そして御仮屋の雅博も鳳凰木《ほうおうぼく》の枝越しに月を眺めて想いを馳せる。気軽な旅のつもりできた琉球だったはずなのに、彼には捨てられない荷物が山ほどできてしまった。居れば居るほど切ない想い出が積もる王国だ。王宮は日本人の雅博にさえ、忘れられない甘美な毒を与えて脳髄を痺《しび》れさせる。
浮世かたすみに忍で眺めゆる
心知るものや月と二人
(浮き世の片隅で世を忍んで月を眺めている。この心を知るものは私の他に月だけである)
於茂登岳から戻ってきた真鶴を大阿母が優しく受け入れてくれた。
「よくぞ石になる誘惑に打ち克って戻ってきてくれたものだ」
「私は石になどなりません。なぜなら私の魂は王宮に置いてきたからです」
「わかっておる。龍の子であるそなたは、王宮でしか生きられない女じゃ。必ず王宮に戻れる日が来る。だが今は私の許《もと》でお休み。王宮に戻ればまた嵐の中じゃ」
大阿母の言葉を信じて、真鶴は時期を待つことにした。幸か不幸か、八重山では物思いに耽《ふけ》る暇などなかった。人頭税《にんとうぜい》の徴収が真鶴にも課せられたのだ。
人頭税は老若男女に等しく課せられる重税で、この税から逃れられる者はいない。男は畑を耕し、女は八重山|上布《じょうふ》を王宮に納める。八重山上布は品質が高く、模様が複雑なことから王宮の女官たちを虜《とりこ》にした。ただこの品質を保つために女たちの労働は男以上のものとなっていた。
機織りの音が忙《せわ》しく鳴り響く作業所に、蔵元の役人が上布の品質を確かめにくる。
「王府に納める品だ。最上級のものを織れ」
役人が真鶴の織機の前で止まる。シャトルを止めた真鶴は脱獄囚だということがバレたのかと息を呑んだ。役人が真鶴の顔をじっと見つめる。
「この色をどうやって出した?」
真鶴が織っている上布は涼しげな若草色をしていた。染めで緑色を出すのは難しい。藍と黄色を混ぜて作る緑色は鮮やかではあるが、色密度が濃すぎてややもすると暑苦しく見える。しかし真鶴が織った緑色は透明感があり、新緑のように初々《ういうい》しい。この色は八重山上布の持つ軽さと爽快感を引き立てている。きっと首里士族たちの間で流行《はや》る色だ。
「は、はい、目差主《めざししゅう》様。この色はウージ(サトウキビ)から作りました」
「ウージからこんな色が出せるのか?」
「はい。まだ若いウージを鍋で煮て染液を取り出します。生長したウージだと黄色になりますが、若いウージなら緑色のままです。変色しないようにシークァーサーの果汁ですぐに洗うとこのような色が出ます」
「素晴らしい発見だ。そなたは才能があるようだな」
退屈しのぎに色々な素材で染めているうちに、偶然発見した緑色だった。しかも真鶴の織った上布は見たこともない複雑な模様をしている。王宮で世界中の工芸品を目にしてきた真鶴は、無意識のうちに新しい意匠を生み出していた。
「この模様はどうやって織ったのだ?」
八重山上布の模様は直角線で交わるのに、真鶴の上布はモスクに見られる二重十字の八芒星《はちぼうせい》が織られている。
「はい目差主様。苧麻《ちょま》は糸が短いため緯糸《よこいと》上に模様を出しました。こうすれば複雑な模様をたくさん織ることができます。またこの模様は回教徒の国では世界の中心を表す模様として寺院でよく使われております」
真鶴の解説に機織りの女たちの手が止まった。今まで新参者と思って馬鹿にしていたが真鶴は技術も教養も熟練の織子たちより遥かに上だ。
「この上布は在番殿に献上することにしよう。おまえは来月までにこの上布を完成させるのだ。来月、新しい在番殿が八重山に赴任する。その歓迎式典にこの上布を持って参れ」
「はい。目差主様……」
脱獄囚だとバレなくて真鶴はほっと息をついた。人頭税が厳しいのは王府の取り立て以上に、蔵元の搾取があるからだ。最高級品は王府へ納められず蔵元が横流しに使う。そうやって貯めた金が八重山在番をもてなす経費に充てられた。王府が冊封使をもてなすために数年がかりの計画を立てるのと同じように、八重山では在番を接遇するために必要以上の徴税を行った。
「蔵元が王府への税を横領しているなんて……」
評定所筆者だったときには考えられなかったことだ。八重山在番はよく王府に飢饉《ききん》や干魃《かんばつ》を訴えて減税を要求するのが定番だが、その在番は賄賂《わいろ》で私腹を肥やしている。もし真鶴が現役の役人だったら在番を訴追してやるところだ。真鶴は自分が流人の上に脱獄囚であることを忘れて憤《いきどお》っていた。
そして翌月、八重山在番が王府から赴任してきた。まるで冊封使を迎えたかのような熱烈な歓迎ぶりだ。火矢を打ち鳴らし蔵元の役人たちが盛装で港に並ぶ。御物奉行から派遣される在番の地位は王府の中で決して高くないのに、八重山に来た瞬間に国王に匹敵《ひってき》する扱いになる。『御在番御迎之規式』と呼ばれる式典は蔵元が今まで民から搾取してきた血税で成り立っていた。
蔵元では特設舞台が設けられ、在番へ接待攻勢がかけられていた。蔵元の長である頭が長々と口上を述べた。
「在番殿、遠路はるばる八重山にお越しいただき、恐悦至極《きょうえつしごく》に存じます。どうぞ私どものささやかな祝いをお受け取りください」
献上された品は王宮に納める極上品ばかりだ。
「頭よ、盛大な歓迎に感謝する。八重山の繁栄は首里天加那志の喜びとするところだ」
在番は前任者から八重山での身の処し方を教えられていた。蔵元の横領に目を瞑り、王府へ減税を訴えればその差額が懐《ふところ》に入ると。そして八重山で得た賄賂を上官の奉行へ渡せば、王府に戻ったときに吟味役へと出世するのが定番だ。
在番の前に豪勢な料理が出された。御料理座でも滅多に使われない食材ばかりに真鶴は呆れた。
「もしかしてあの料理は?」
真鶴が在番の口にした肉に目を向ける。在番はあまりの肉の美味《うま》さに唸《うな》った。献立表には海馬《かいば》御膳とある。
「これは何の肉だ。豚肉にしては淡泊だが、鶏肉よりも旨みが深い。こんな癖のない肉がこの世にあるのか?」
「在番殿、この肉は新城島の特産品のザン(ジュゴン)でございます」
「何とこれがザンか! 首里天加那志しか召し上がれない御禁制料理だぞ」
「在番殿は八重山における王でございます。これからは八重山加那志とお呼びいたします」
「ははは。私は八重山加那志か。そなたは実に洒落《しゃれ》ておるな」
真鶴は収賄の現場に立ち会っているようで気分が悪い。ジュゴンは不老長寿の肉として清国でも皇帝しか食べられない貴重な肉だ。清国でもジュゴンの生息地は海南島と限られている。だから冊封使は琉球名産の海馬御膳を食べたがった。徳の高かった尚育王《しょういくおう》は自分に献上されたジュゴンの肉を天使館へわけてあげたものだった。
「信じられない。先王様でも召し上がれなかったザンを臣下が食べるなんて。新城島でもザンは数年に一度捕獲されるかどうかだというのに」
真鶴は尚泰王のために織った上布が在番の懐に入ると思うと虫酸《むしず》が走った。そんな思いも虚しく、歓迎式典は舞台芸能へと移る。
八重山を代表する慶賀の踊りといえば『赤馬節《アカンマーぶし》』だ。鮮烈な紅《くれない》の衣装を纏った踊り手が優雅な舞を見せる。琉舞《りゅうぶ》のゆったりとした所作とは異なり、八重山舞踊は軽快な足取りとテンポの良さで魅せる様式だ。
同じ琉球でも文化圏の違う踊りは、首里人から見れば異国情緒さえ漂う。
在番は初めて見る八重山舞踊に目を楽しませていた。
「素晴らしい。さすが芸能の島と謳われるだけのことはある」
真鶴はこんな茶番につきあっていられなかった。民の血税を横領する役人の笑顔など見たくもない、と唾を吐きたくなる。
真鶴が蔵元を去ろうとしたときだった。古見首里大屋子が片っ端から女たちに声をかけているのを見かけた。
「誰か、誰か、琉舞を踊れる者はいないか?」
楽屋で何か不慮の事故が起きたようだ。古見首里大屋子は式典の踊奉行に任命されていた。もし在番の機嫌を損ねることがあったら彼の地位は危うい。代演者を見つけるとしても、琉舞と八重山舞踊は似ているようでいて違うジャンルのものだ。王都の流行など、離島の八重山人が知る術《すべ》もない。
慌《あわ》てふためいている古見首里大屋子の前に、機織り仲間の女が真鶴の背中を押した。彼女は真鶴の上布が在番に褒められたのが気に入らなかった。
「真鶴、おまえが踊りなさい。お役人様、この娘は何でもよく知っております。琉舞くらいわけがありません。そうよね、みんな?」
「おお、琉舞が踊れるとは助かる。さあ、舞台へ急げ。次が出番だぞ」
――え、私が踊るの?
真鶴は断ろうとしたのに、古見首里大屋子は真鶴の手を引いて舞台へ急がせる。袖に入った瞬間、待ち構えていた女たちが真鶴に化粧と衣装を施した。
「あ、あの。私、こんなことされたら困ります……」
「いいから、私たちを助けると思って踊ってちょうだい。在番殿が機嫌を損ねたら蔵元がまた私たちにお詫びの上布を織らせるんだから」
見れば女たちの顔は窶《やつ》れていた。八重山の人頭税は搾取だ。真鶴も完成させるのに半年はかかる上布を、一カ月で織らされたのだから彼女たちの気持ちは痛いほどわかる。
古見首里大屋子が楽士に行くぞと合図を送る。同時に真鶴は赤い手拭と傘を持たされた。流れてくるメロディは、かつて兄が踊った『花風《はなふう》』である。嗣勇の伝説的な踊りで、琉舞の人気演目になっていた。
行け、と背中を押し出された瞬間、真鶴は舞台に立っていた。舞台から観衆を眺め、真鶴は身の縮む思いがした。式典会場に詰めかけた観衆は実に五百人。千の瞳が舞台の真鶴に突き刺さる。こんな緊張は生まれて初めてだ。
「どうしよう……。私、踊りには自信がないのに……」
科試ならどんなに難しい問題でも解いてみせる自信はあるが、芸能は門外漢だ。むしろ兄の得意分野だと真鶴は思う。嗣勇がもう少し頭がよくて踊りに興味がなければ、今頃、真鶴は士族の娘として何不自由ない生活を送っていたはずだ。しかし神は兄妹の才能を入れ替えてしまった。
「やっぱりやめたい。私、恐い……」
袖では古見首里大屋子と女たちが祈るような思いで真鶴を見つめている。逃げて恥をかかせたら彼らには強制労働が待っている。かといって無様な踊りなら、やはり強制労働が待っていた。真鶴の葛藤《かっとう》をよそに前奏が終わろうとしている。
――ええい、こうなったら踊ってやる!
意を決した瞬間、傘をぱっと開いた。ゆっくりと顔をあげた真鶴に遊女の切ない表情が浮かんでいた。
三重城に登て 手巾持上ぎりば
早船ぬなれや 一目ど見ゆる
真鶴は歌を聴いていて体が震える思いがした。流人になったあの日のことを忘れることはない。三重城で雅博と別れた日のことが去来していた。『花風』は恋人との別離の情を歌っていた。
――雅博殿、もう一度会いたいです。
真鶴の思いが『花風』の舞に宿る。別れたくて別れたわけではない遊女の気持ちは、まさに真鶴の恋と同じだった。身分が違う、性が違う、国籍も違う、立場も違う。雅博と結ばれたいと思っているのに障害が次々と立ちはだかる。しかし本心はそんなものを蹴飛ばしてでも雅博の胸に飛び込みたかった。そうする機会は一度だけあった。鳳凰木の下で求婚されたとき、神が軛《くびき》から解放してくれた。だが真鶴は反故《ほご》にした。後悔しないと誓ったのに後悔しない日はない。恥さえ捨てられたら一生泣いて暮らしたかった。でも真鶴にはそれもできない。遊女の姿を借りて踊っていると素直になれる気がする。
女性から男性へ愛の証《あかし》である花染手巾が渡されようとしていた。
――雅博殿、どうか受け取ってください。
しかし思いは虚しく男は花染手巾《ハナズミテイサジ》を拒んだ。それが悲しくて仕方がない。真鶴は膝をついて首を振る。この思いに偽《いつわ》りなどひとつもないのに。
朝夕さも御側 拝み馴れ染めの
里や旅せめて 如何す待ちゆが
真鶴の卓抜した情感に観衆が息を呑んだ。踊りを観ているというより、本当に三重城の頂に居合わせているようだ。波音が迫ってくる。出航していく船が見える。泣き崩れて風に絡まる思いに観衆は嗚咽《おえつ》を漏《も》らした。
「芸能の神が降臨しているのか?」
これは踊りではない。本当の別離を経験した者にしかわからない情緒だ。腕が袖を引く。足が背中を追う。遊女の視線の先に男が断腸の思いで震えているのが見える。身分の違いとはかくも残酷なのか。許されない恋とはかくも悲しいのか。やりきれなさで観衆は涙が止まらない。
踊りを見ていた在番も圧倒的な情感に思わず舞台に吸い寄せられていく。冊封使節団の歓迎式典で観た踊童子の『花風』よりも、数倍の臨場感だ。
「頭よ。舞台が終わったら、あの娘を在番所に連れて参れ」
『花風』の音楽が止んだ瞬間、真空にも似た思考停止が観衆に訪れた。何が起きたのか教えてほしくて誰もが呆然としている。舞台には誰もいないのに、奇蹟の体験がありありと残っていた。拍手や指笛はあまりにも場違いで起こす気がしない。その日はいつ宴が終わったのか覚えている者はいなかった。
翌日、真鶴は在番所に呼ばれた。
「昨日の『花風』を舞ったのはおまえか?」
「はい在番殿……」
在番が真鶴の顔をしげしげと眺める。遠目にも目鼻立ちのよい娘だと思っていたが、近目で見ると一段と端整なのがわかる。これはいけると在番は確信した。
「おまえ王宮に行ってみないか?」
「今、何と仰いましたか……?」
在番の突然の申し出に真鶴は狐に抓《つま》まれたような気分だ。
「王宮に行かないかと言ったのだ。昨日の舞は見事であった。首里天加那志にも見せてやりたい」
「私が王宮に。王宮に行けるのですね?」
在番が力強く頷く。まさか王宮に戻れるとは思っていなかった真鶴は二つ返事で飛びついた。尚泰王に会えれば、いや朝薫に会えれば首里に列強の危機が迫っていることを告げられる。
「在番殿、どうか私を王宮に連れて行ってください!」
王国最果ての流刑地に、希望の光が灯った。
*
石垣港は王府へ納める年貢の積荷で賑わっていた。民を苦しめる人頭税は王府と蔵元に二重徴収される不公平な税制だ。王府が八重山を直接治めなかったのは駐留費用を安くすませるためだ。そのために蔵元制度を導入した。しかし一国家二制度は二重の税を生み出す温床となった。これが人頭税の内実だ。
真鶴は積まれていく上布や年貢米を見ていると胸が痛くなった。
「私は結局、民の苦しみをわかったふりをした役人でしかなかった……」
財政構造改革に着手しても、間切倒《まぎりだおれ》を建て直すために検者を派遣しても、王府役人の横領体質を根底から是正しないことには真に健全な国家とはいえないと真鶴は思う。列強の脅威に晒されつつ、国家は内側からも蝕《むしば》まれている。この八方塞がりの王国をどうやって救えばいいのか。
「王宮に行って首里天加那志に八重山の実態を直訴しよう」
絶望の果てに流されてきた八重山だったが、使命感を宿して戻ることになるとは、来たときには夢にも思わなかった。戻れるとわかっていたら、もう少し八重山を見ておけば良かったと思う。蔵元の古見首里大屋子、大阿母、善き人との別れも寂しい。せめて肺の中に八重山の空気だけでも持って帰りたくて真鶴は深呼吸した。
「大阿母前《ホールザーマイ》! 見送りに来てくださったんですね」
大阿母は別れの言葉の代わりに何度も何度も波止場で頷いていた。
「おい真鶴、船に乗るのだ」
同行する在番筆者もまた任期を終え王府へと栄転していく身だった。所詮、八重山は勤星《きんせい》を稼ぐための通過点だとばかりに、在番筆者の顔には未練の欠片《かけら》もなかった。
南風を受けて公用船が那覇港へと向かう。離れ行く島影に最後まで存在感を示していたのは於茂登岳だ。月夜に頂に登ったあの日、もう首里には戻れないと諦めたものだ。
そんな真鶴に在番筆者が声をかける。
「首里の都に行けばすぐに八重山のことなんて忘れるさ」
「あの、お役人様、私は首里天加那志の前で踊るだけでよろしいのでしょうか?」
「そうだ。この前のように踊るだけでよい」
その言葉に真鶴は嬉しくなった。きっと踊るとしたら組踊をする御茶屋御殿《うちゃやウドゥン》だろう。あそこは民間人も利用できる施設だ。
――もしかしたら雅博殿も観に来てくれるかもしれない。
そう考えるだけで胸が高鳴るのだ。船が那覇港へ近づけば近づくほど、真鶴は三重城に残してきた心を取り戻していくような気がした。ついこの前のことなのに、もう何十年も王宮を離れていた気がする。それほどまでに真鶴は王宮に焦がれていた。
南風を受けて三日後、公用船は那覇港へと入港した。八重山が王国の裏の顔だとすれば、那覇はあくまでも朗らかな表の顔だ。昼の日差しが倍は明るい気がする。
「私は戻って来た。ついに戻ってきたのよ!」
蔵元が用意した八重山上布を着て王宮へあがる準備をする。那覇港の近くにある御仮屋の屋根が気にかかる。真鶴は役目を終えたら雅博の元に駆けつけるつもりだった。その後の人生は雅博に任せよう。女はそうして幸福になっていくものだ。
「どうした、都がそんなに珍しいか?」
綾門大道を在番筆者と歩いていく道のりに、鳳凰木《ほうおうぼく》を見つけて立ち止まる。もう間違えないと真鶴は頷いた。今年もまた鳳凰木が花嫁衣装のような赤い花を咲き誇らせている。
真鶴と在番筆者は継世門《けいせいもん》の前に立った。
「あの御茶屋御殿はこの門からだと遠回りなのでは?」
「誰が御茶屋御殿に行くと申した。この先は男は入れぬ。この書簡を持ってひとりで潜るがよい」
継世門の門番が真鶴だけを通した。この門がどこに通じるのか真鶴は知っている。王宮の裏世界である御内原《ウーチバラ》の通用門だ。
担当の勢頭部《せどべ》が現れて世誇殿《よほこりでん》へと真鶴を連れて行く。後之御庭《クシヌウナー》で踊るにしては舞台が用意されていないのが変だ。女官たちも何やら忙《せわ》しない。
「八重山の娘よ、この部屋で待つがよい」
通された部屋に真鶴は絶句した。部屋には着飾った同年代の娘たちばかりが集められているではないか。しかも揃いも揃って美少女ばかりだ。芍薬《しゃくやく》のような娘、菖蒲《あやめ》のような娘、山百合のような娘、とそれぞれに天の恵みとも思われる華がある。部屋はまるでお喋りをする花籠だった。
部屋では娘たちの母と思《おぼ》しき女たちが野心ぎらぎらの眼で互いを値踏みしている。それは娘たちも同じだった。入ってきた真鶴を品定めするように上から下まで嘗《な》め回すように見つめる。まるで肉食獣の舌のような眼差しだ。娘のひとりがぼそっと呟《つぶや》く。
「何だ田舎者じゃないの」
その言葉に娘たちが爆笑する。真鶴は在番筆者が用意した上質な八重山上布を着ているのに、娘たちの紅型《びんがた》衣装と比べると明らかに見劣りがした。おまえには席がないとでもいわんばかりに、娘たちが場所を塞ぐ。すると鈴が鳴るような声でひとりの乙女が立ち上がった。
「おやめなさい。そんなことをして何が楽しいのですか!」
立ち上がった乙女の気が日差しのように放たれる。美少女たちが花だとすれば、彼女は花園に現れた姫だ。その圧倒的な美貌に真鶴も目が眩《くら》んでしまう。
――この世にこんな美しい人がいるのかしら?
娘の物腰は人柄を表すように優雅で無駄がない。
「私は真美那《まみな》と申します。八重山から来たばかりでお疲れでしょうが、もしよろしければ私の別の衣装にお着替えください」
真美那は使用人を呼びつけると真鶴に着替えを渡した。真美那が着ている打ち掛けよりも明らかに高級な紅型に真鶴は驚く。こんな豪華な衣装は王妃しか持っていないだろう。それを気前よく貸す真美那の家柄が窺い知れる。王族の遠縁に当たる按司《あじ》筋だ。父親は王宮の要職に就いている。
「何か変だ。踊るだけではすまない予感がする……」
真鶴の不安をよそに別室で入念な化粧が施されていく。髪を結い直され、白粉《おしろい》の甘い香りが顔を包んでいく。紅《べに》を差されながら、真鶴はふとこういう人生もよいものだと思った。
黄金色の紅型に着替えた真鶴が再び部屋に戻った瞬間、部屋に咲いていた花々が一斉に吹き飛んだ。御内原に吹いた一陣の風は停滞していた邪気を祓い飛ばす猛烈な嵐だ。
「まあ、よくお似合いですこと」
真美那がにっこりと笑う。使用人たちは真鶴の個性を最大限に引き出す化粧を施していた。凜《りん》とした横顔には意志の強さを、白粉を塗った肌は白磁を紗《しゃ》で何層も包むように繊細に、そして漆《うるし》の黒髪を王宮の正殿の屋根のように結い上げた。完成した真鶴は龍の化身を彷彿《ほうふつ》とさせる迫力だった。
「これがさっきの田舎娘だというの……」
美少女たちは顔面蒼白だ。龍の化身の登場に花園が喰い荒らされていく。
勢頭部が待合室にいた娘たちを促す。
「お待たせいたしました。これより、あごむしられ(側室)の試験を行います」
――側室ですって!?
八重山から北上した嵐が再び王宮に吹き荒れようとしていた。
*
王宮では目下、尚泰王の世継ぎ問題の解決が急務である。思春期に差し掛かったばかりの王にはまだ世子《せいし》どころか王女もいない。王国が揺れる中、血脈を存続させることが重臣たちの最大の仕事となっていた。さっそく王国中で側室候補となる美少女の徴発が行われた。首里士族はもちろん、那覇の町娘や、宮古・八重山の離島まで布令が出され、これはと思われる娘を片っ端から王宮へ送り込んでいた。
その時勢の中で八重山在番の目に留まったのが真鶴である。驚かせるといけないので目的を隠して密かに王宮にあげた。側室試験が行われるのは極秘中の極秘である。
奥書院奉行では筆者たちが試験問題を用意していた。第一次試験は教養を見る。ただ美しいだけでは王の女に相応しくない。御内原では行事が頻繁に行われる。その行事の趣旨を正しく理解し、かつ適切な判断が下せるかどうかを見る。それに遺伝的に子どもが馬鹿になると王族の品位を貶《おとし》める。
試験会場となった世誇殿では女たちの科試が始まろうとしていた。
[#ここから2字下げ]
出題
万章問いて曰く、詩に妻を娶るは如之何すべき、
必ず父母に告ぐべしという。斯の言を信なりと
せば、宜しく舜の如くなること莫かるべし。舜
の告げずして娶れるは、何ぞや。
孟子はこの問いに何と答えたか書きなさい。
[#ここで字下げ終わり]
着飾った娘たちが問題文を読んで唖然《あぜん》とした。噂で漏れ聞く限り、側室試験は躾《しつけ》と立ち居振る舞いを中心に審査されるはずだった。そのために胎児のときから英才教育を受けてきたお受験エリートだ。彼女たちの中には王妃試験の最終候補者たちも残っている。王妃が駄目なら側室にと敗者復活戦に臨んできた。
「ちょっと、こんなの誰もわからないわよ」
「王妃試験の方が簡単じゃないの!」
「そもそも何て書いてあるのか意味さえわからないわ」
今までとは傾向の違う出題に会場は騒然となる。勢頭部が手を叩いて私語を禁じる。
「お静かに。あごむしられ様となられるお方なら当然、わかる範囲です」
傾向と対策を攻略された奥書院奉行は手を拱《こまね》いているばかりではなかった。王妃試験で従来の試験が機能しなくなっていることを知るや、全く新しい試験方法を導入することにした。それが教養試験である。上品ごっこでは絶対に解けない問題だ。そもそも上品な女は王妃だけでよい。側室たるものは高い教養で王の心を慰めなければならない。これが新しい試験基準だ。
誰も筆を執れない中でふたりの娘が硯《すずり》に筆をつけた。
真美那が歌うような流麗な文字で筆を躍らせる。
[#ここから2字下げ]
孟子はこたえられた。舜は父母から憎まれてい
たので、もし告げれば、結婚が許されないから
です。
男女が結婚していっしょに生活するのは、
人間として大切な道徳なのです。
ところが、もし父母に告げたらいつまでも結婚
できず、それは人間としての道徳にそむき、
ついには父母を怨《うら》むようになるでしょう。
だからこそ舜は告げずに結婚したのです。
[#ここで字下げ終わり]
真鶴は白紙解答にしようか迷ったが、真美那の恩を仇で返すのは卑怯な気がして渋々筆を執ることにした。
真鶴の升目を揃えたような楷書体が答案用紙に埋められていく。
[#ここから2字下げ]
孟子曰、告則不得娶、男女居室、
人之大倫也、如告則廢人之大倫、
以慰父母、是以不告也。
[#ここで字下げ終わり]
「やめ。筆を擱《お》いてそのまま退出せよ」
初科《しょこう》以前の私塾入試問題レベルに真鶴はやる気なく筆を擱いた。どうせ大差がつかないだろうと真鶴は高を括《くく》っている。しかし成績発表の瞬間、真鶴は自分が今、寧温になっていることに気づかされた。試験監督の勢頭部が声を張り上げる。
「首席、孫姓真鶴!」
着飾った美少女たちがどよめく。あの八重山の田舎娘が『孟子』を解いたことが信じられない。八重山なんて書物すらない土地だと思っていた。
「次席、向《しょう》姓真美那!」
「あの子は摂政《せっせい》の孫娘なんだ」
真美那は王府の有力士族どころか正一品の官位を持つ摂政筋だ。摂政は王府の役職の中の最高位だ。血筋と能力と人徳を備えていなければ就くことができない。
歴代一の三司官と謳われた麻真譲《ましんじょう》でさえ血筋が弱いという理由で摂政を打診されることはなかった。もっともこの時代の摂政は名誉職で実務派の麻が好む地位ではない。向姓は尚家の傍系に当たる王族筋だ。向姓は王府の最大派閥で王宮の半分は向姓筋と言われるほどだ。
「向姓ですって!」
真美那の血筋の良さに上辺だけの美少女たちの血の気が失せた。向姓は男女問わず秀才ばかりの家系だ。その一門に喜舎場朝薫もいることから知能指数の高さがわかるだろう。しかし真美那は家の名で語られることを嫌った。
「お爺様と私は別の人間よ。向姓に生まれたから孟子が読めるわけじゃないわ。私は書庫からお爺様の目を盗んで孟子を読んだからわかったのよ。よくお爺様に見つかっては叩かれたわ」
その言葉に真鶴は嬉しくなる。琉球に向学心のある女子がもうひとりいた。真鶴も父の書庫から本を盗み読みしながら少しずつ知識を獲得していったのだ。
真鶴の解答用紙を見た真美那は感嘆するばかりだ。
「漢文で答えを書いたなんて真鶴さんはすごいわ。私の知識は上辺のものだと気づかされたわ」
「いえ、私はただ短く書けるから漢文にしただけです」
「ご謙遜を。もしあなたが男だったら絶対に科試に受かっていたわよ」
真美那の尊敬は本物だった。優れた者に対する真っ直ぐな眼差しは真鶴を熱くする。
「真鶴さんに会えただけでも御内原に来てよかったわ。ねえ、もしよろしければ私の友達になっていただけないかしら?」
真美那が真鶴の手を取る。真鶴はふと既視感を覚えた。これと似た体験がいつかあった気がする。真美那は血の温もりを感じる優しい手をしていた。
「せ、摂政家のお姫様など私には勿体《もったい》ない話でございます」
「家は関係ないわ。私はあなたのように聡明な女になりたいの」
こう言われたら逃げ隠れするわけにはいかなくなる。女になったからといって人格を変えるわけにはいかなくなった。次の出題は琉歌の作成だ。
[#ここから1字下げ]
出題
首里天加那志のご高徳を讃える琉歌を詠《よ》みなさい。
[#ここで字下げ終わり]
勢頭部が首席の真鶴に即興で詠めと促す。しかし真美那は自分が先に詠みたいと手をあげた。真美那は四書五経は苦手だけど、琉歌には自信がある。
お肝かけなしの首里天加那志
あすらまんちやうはれ拝《うが》ですでら
(御慈悲の深い我が国王様は億兆年までもお健《すこ》やかに過ごしてくださいませ。我ら人民はいつまでも国王の御徳をお慕い申し上げます)
真美那のソプラノの声は小鳥が囀《さえず》るようだ。素晴らしい出来に勢頭部たちも満足そうに頷いた。向姓に錚々《そうそう》たる歌人が名を連ねるのも納得できる。真美那には天性の琉歌の才能が備わっていた。
「首里天加那志の未来|永劫《えいごう》のご繁栄を詠んだ実に雄大な歌です。ただし首里天加那志ではなく、王朝の繁栄を願ったようにも聞こえるのが難かもしれません」
「ですが金城《かなぐすく》勢頭部、即興でこれだけ詠めれば大したものです」
「そうですとも。悠久の時を捉える感覚は特に優れております」
試験監督の女官たちが口々に真美那の才能を評価する。
「では次は真鶴が詠みなさい」
琉歌はあまり得意ではないと真鶴は遠慮がちに詠む。琉歌は教養程度にしか勉強して来なかったから、朝薫によく語句の選択を間違えていると指摘されたものだ。
首里天加那志お恵みの
露にさかる嬉しさや民の草葉
(天の恵みの露に草葉が潤《うるお》って繁茂するように、国王の御慈愛の深い政治によって、我ら人民は栄えているのでございます)
勢頭部たちが目を見合わせる。まるで歌人が推敲《すいこう》に推敲を重ねたような完璧な琉歌ではないか。
「素晴らしい! 雨に濡れる若葉が活き活きと輝いているようです。天と地を王と民に喩《たと》えた空間の使い方も実に見事です」
「伝説の歌人、恩納鍋《おんななび》の再来かと思いました」
「いえいえ、恩納鍋よりも高度な歌です。恩納鍋の空間は水平ですが、真鶴の歌は垂直で、より首里天加那志のお立場を強調しています」
十人の勢頭部たちが優れていると思われる歌に票を投じていく。無教養な雑魚《ざこ》娘たちを蹴散らして真鶴と真美那の一騎打ちだった。
「真鶴」「真美那」「真鶴」「真鶴」「真鶴」「真美那」「真鶴」「真鶴」「真鶴」「真鶴」
勢頭部はこれ以上の試験は無用だと判断した。
「首席、孫姓真鶴。次席、向姓真美那。以上が最終候補者である!」
――このままだと側室にされてしまう!
『花風』を踊って雅博の元に向かうつもりだった真鶴は、側室になる気など毛頭ない。用があるのは王宮の表世界の方だった。しかし真鶴には秘策がある。王妃にしろ、側室にしろ、最後はより強運の持ち主が勝者になる。それが黄金の鋏だ。畳の下に隠された黄金の鋏の上に座った者が成績や美貌とは関係なく勝利者になる。王妃の選定のときも美貌の浦添殿内《うらそえドゥンチ》の娘を尚泰王は気に入っていたが、運の強かった佐久間殿内の娘が黄金の鋏を探し当てた。
真鶴は表十五人衆だったとき、王府の慣例を知っていた。縁起を担ぐために鋏は奇数番目の畳の下に隠される。だから偶数番目に座れば黄金の鋏を当てることはない。
――雅博殿、お待ちください。真鶴になって会いに行きます。
勢頭部が黄金の鋏を掲げて二人にルールを説明しているが、真鶴は上の空だ。
「では、首席の真鶴から座りなさい」
真鶴は手前から一枚、二枚と数えて四枚目の畳の上に座った。
「次に、真美那が座りなさい」
真美那は小首を傾《かし》げて、三枚目の畳の上に座る。勢頭部が係の者に畳を開けてみろと命じる。真鶴の畳の下は空だった。
――よかった。これで帰れる。
真鶴はほっと胸を撫で下ろす。そして真美那の畳の下が開けられた。試験監督の女官が「おおっ!」と声をあげる。真美那の畳の下から目にも鮮やかな黄金の鋏が現れたではないか。
「真鶴さんではなくて私……ですか?」
真美那は自分が引き当てたことがまだ信じられない様子だ。
「側室を決定する。首里天加那志の側室は向姓真美那である!」
「おめでとう真美那さん。きっとあなたが引き当ててくれると信じておりました」
真鶴はお役御免になって有頂天だ。真美那は軽いショック状態で、息を整えようとしてしゃっくりをする始末だ。
「あ、ありがとう。私、真鶴さんに何も勝ってないのに、どうしましょう!」
「いいえ。真美那さんは黄金の鋏を引き当てました。これが御人徳でございます。真美那さんならきっと首里天加那志も気に入ってくださいます」
真美那の頬に一筋の涙が流れた。
「あなたとお友達になりたかったのに……」
「私は那覇港近くの宿に泊まる予定なので、そこで会えます」
「本当? 本当にまた会っていただけますか?」
真鶴は御拝《ウヌフェー》で真美那の前に頭を垂れた。真美那は栄光の向一族の中でも一際位の高い存在になったのだ。側室は王族の仲間入りである。
「あごむしられ様、おめでとうございます!」
御内原がどんなに恐ろしい場所か真鶴は身を以て体験している。ここは極楽浄土の姿をした修羅《しゅら》界だ。一度入れば王妃といえども寝首をかかれてしまう。女官同士が密告し合い、王族同士が牙を剥《む》く。そして誰も幸福な最後を迎えられぬまま、王宮を去っていく。それが御内原だ。
しかし真美那は人を味方につけ逞しく生きていってくれるだろう。真美那は家の名を纏うのを嫌うが、御内原では最強の鎧《よろい》だ。王妃になった佐久間殿内の娘でも摂政の孫娘に手を出せはしまい。向家を敵に回したら外戚すら潰してしまう力のある家だ。
真鶴が御内原を去ろうとした。そのときだ。黄金御殿《クガニウドゥン》から少年の声が響いた。現れたのは成長した尚泰王ではないか。
「待つのだ。そなたも御内原に残れ!」
王の登場に一同がひれ伏す。尚泰王はさっきから確かめたくてうずうずしていた。真鶴の前に立った尚泰王が面《おもて》をあげよと促す。この娘をどこかで見た憶えがあるが思い出せない。意志の強い瞳、無駄話のない論理的な唇。そして左右対称にして二つの違う人生を見せる表情。こんな人物にかつて会ったことがあると記憶の底をくすぐるのだ。真鶴を見ていると尚泰王は懐しい気持ちになる。今は誰かわからなくても側に置いておかないと後悔しそうな気がした。
「余は側室を二人設ける」
「首里天加那志、黄金の鋏の託宣を無視されてはなりません」
三司官たちが慌てて王の勇み足を諫《いさ》めようとするが、尚泰王は頑として受け入れなかった。お気に入りだった浦添殿内の娘を王妃にしてもらえなかった王は、黄金の鋏を呪っていた。
「王妃はひとりと決まっているが、側室が二人ではいけないという慣例はない!」
雲行きが怪しくなってきたと真鶴は咄嗟に反論する。
「首里天加那志、私は王朝五百年の慣例に従い、慎んでご辞退を申し上げます」
しかし事情を知らない真美那は真鶴を引き留めた。
「首里天加那志、私はひとりで御内原に上がるのは不安でございます。どうか真鶴さんと一緒に上がりとうございます」
物々しい空気が御内原を覆う。確かに側室の数に制限はないが、二人同時にあがるのは前代未聞である。すると穏やかな笑みを湛えた向摂政が御内原に現れた。
「よろしいではないか。真美那が気に入った友達じゃ。きっと仲良くやってくれるじゃろう」
「お爺様ありがとうございます。私は真鶴さんと友達になったばかりで離れたくありません」
「向摂政がそう仰られるなら、何も慣例に拘泥《こうでい》することはございません」
三司官衆も渋々決定を受け入れた。
真鶴は一度入ると出るのは死ぬときだけと云われる御内原の魔力に囚われてしまった。
――私、どうしよう!
直ちに側室へとあがる準備が執り行われる。奥書院奉行の筆者たちが勢揃いで新しいあごむしられ達を迎えにあがった。
「うわっ。真鶴がいるっ!」
奥書院奉行筆者の嗣勇は、御内原に到着するなり仰《の》け反《ぞ》る。さっきまで八重山の寧温のことを想っていたのに、目の前に妹がいるではないか。しかも磨き上げられて迫力の美貌を放っている。
――兄上、元気そうでよかった。
真鶴も兄との久しぶりの再会に感無量だ。すぐに駆け寄って懐に飛び込みたいが、人目がありすぎて身動きが取れない。
奥書院奉行の大親《ウフヤ》が咳払いする。
「お二人は新しく御内原に上がられたあごむしられ様である。皆の者、無礼がないようにあごむしられ様たちを補佐するのだ」
――真鶴があごむしられだって!?
嗣勇は頭が混乱していた。どうやって流刑地から戻ってきたのかも謎なのに、妹はあごむしられになったという。そもそも妹は宦官で表十五人衆だったはずだ。女だとわかったら首を刎《は》ねられる状況だったのに、人目のある場所で堂々と女になっているのも理解できない。
「嗣勇、頭が高いぞ。あごむしられ様の御前である!」
と大親に怒鳴られて嗣勇が御拝で頭を垂れた。
――兄上、これには訳があるのです。
嗣勇が目を白黒させている側を真鶴が通り過ぎていく。側室の儀式が執り行われるのは書院だ。
三司官から任命書を授けられた真鶴の手は震えていた。言上写《ごんじょううつし》は王命である。個人の自由などない。
[#ここから1字下げ]
言上写
孫姓真鶴
右者事此度依御意妻役儀被召授御内原入可被
成候事。御当国之国事御難題打続候折節、
主上之御心中如何敷与被存候間、御政道向御専
心被遊候様補助可有之者勿論、御内原女人衆
中可為規範被振舞候様厳重申付候事。
三司官
[#ここで字下げ終わり]
「真鶴よ。首里天加那志の妻となることを任命する。御内原に入り、首里天加那志のお心をよくお慰めし、また女官たちの模範となるよう申しつける」
真鶴は側室の中でも妻の地位だ。家柄の良い真美那に一段高い夫人の地位を与えることで、黄金の鋏の意を汲んだ。妻も夫人も共に王妃に次ぐ地位で王族の仲間入りを果たしたことになる。
――これを受け取ると大変なことになる。駄目よ真鶴。何か理由をつけて断るのよ。
しかし言上写を見た瞬間、真鶴の中にいた寧温が目を覚ましてしまった。寧温は王命に忠実なエリート官僚だ。言葉を失っている真鶴の代わりに寧温が言上写を受理した。
「御意《ぎょい》。三司官殿。御内原のよき模範として首里天加那志にお仕えいたします」
役人にも似た歯切れのよい返辞に、三司官衆がたじろぐ。
「おまえは本当に女か?」
寧温の目をした真鶴が自信たっぷりに「はい三司官殿!」と断言した。
――やめて寧温。私の体を乗っ取らないで!
黄金御殿では側室たちが尚泰王に謁見することになっていた。真美那は真鶴の手を引いて早く王に会いに行こうと急《せ》かす。真鶴が真鶴でいた期間は流刑地で脱獄した僅かな間だけだ。一縷《いちる》の望みに縋って王宮に戻った瞬間、捨てたはずの寧温が真鶴を操り始めた。
尚泰王は二人の側室を迎えてご機嫌だった。生まれながらの姫として育てられた真美那は、瑞泉門《ずいせんもん》の泉のように澄んだ心の持ち主だ。そしてもうひとりの側室は男にも匹敵する聡明な頭脳と強い意志を持っている。しかも二人はタイプは違うが絶世の美女ときた。
尚泰王が真美那の挨拶を受け、満足そうに頷いた。そしてもうひとりの側室に声をかける。
「そなたの名を何と申す?」
面をあげた女の表情は少年にも似た凜々《りり》しさだ。
「真鶴と申します」
かつて王府の重臣にまで上り詰めた役人が、側室になって流刑地から王宮に戻って来た。
[#改ページ]
第十一章 名門一族の栄光
王都・首里《しゅり》には風の泉がある。王国全土へと流れていく風は、泉から湧き出て海へと至る川の形をしている。その風の源泉ともいうべき場所が王宮だ。王宮から湧き出た瑞々《みずみず》しい風が丘を下って城下町へと流れていく。
今日はその風に雅《みやび》な音曲が溶けていた。王宮の外郭のほど近くにある屋敷では夜を徹しての宴が催されている。湧き出た風は王宮からまずこの屋敷へと流れ込む。風水師なら世子《せいし》の住む中城御殿《なかぐすくウドゥン》よりもこの屋敷に上質な気が流れていると告げるだろう。ここは王府最大派閥を擁する向摂政《しょうせっせい》の屋敷だ。
向家と王室の縁は深い。一七一三年、第二|尚氏《しょうし》第十三代国王・尚敬王《しょうけいおう》の王子が興した家で現王朝の傍流である。尚敬王は在位四十年近くに亘《わた》って数々の改革を行った賢王と称される。その後も向家は数々の有力者を輩出し、王族に次ぐ名門と謳《うた》われるようになった。琉球では向姓でなければ人にあらずと言われるほど圧倒的な権力と富を築き、この時代においてもその身代に揺るぎはない。科試《こうし》出身者の八割は向姓であり、表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》のうち六人は向一族であり、三司官《さんしかん》のうちひとりは向家と縁があり、摂政は必ず向家の直系から任命された。向家百四十年の歴史は華麗なる王府の歴史そのものである。
今日の宴は先祖の位牌の新調を祝うために催された。先祖崇拝の琉球において先祖の位牌を新調することは繁栄を謳歌するのと同義である。新調された位牌は鳳凰《ほうおう》の羽一枚一枚に螺鈿《らでん》がふんだんにあしらわれ、皇帝に献上する文物とも呼ぶべき作りだった。尚敬王を始祖とする最大勢力の祝いとあって規模も国家事業に匹敵《ひってき》した。
三日前から用意された食材は、廚房《ちゅうぼう》の中で味のひとつひとつが見事に調整され、膳の上で祝賀を奏《かな》でるように入念に盛りつけされていく。宴の中に咲いては散る婦人のお喋《しゃべ》りと微笑《ほほえ》みは、春の暖かさに似ている。賓客も王府の重臣から按司《あじ》、王子と豪華である。まるで王宮の機能の半分が向家へと移動してきたかのような賑わいだった。
庭に設《しつら》えられた舞台では次から次へと踊り子たちが現れ、千変万化の舞を披露している。舞台は祝賀の舞の『かぎやで風《ふう》』へと移っていた。手入れされた庭の花々が風とともに頭を揺らすと踊り子が十倍にも百倍にも感じられる。
向家の下女が一際高い声をたてた。
「あごむしられ(側室)様のおなーりー」
牡丹《ぼたん》の花のような涼傘《りゃんさん》に護《まも》られるように真美那《まみな》が庭にやってきた。絵画から抜け出たような貴婦人の姿に楽士も踊り子たちも一瞬、呼吸を止めてしまった。現れた真美那は所作が既に舞であり、声が既に音楽だった。
「お爺様、このたびの先祖の位牌の新調を心からお祝い申し上げます」
真美那が深々と頭《こうべ》を垂れた先から甘い香りが放たれる。まるで真美那の里帰りの宴のように主役を取って代わられてしまった。現れた真美那に賓客たちが息を呑む。
「あれが真美那様か。噂に違《たが》わず何と美しい……」
「向家からついに王族が誕生したか」
「これで向家の今後百年の繁栄は決まったな」
向摂政は真美那の挨拶にほくほく顔だ。
「真美那よ。いや、あごむしられ様、御内原《ウーチバラ》からご足労いただき深く感謝申し上げる」
「まあ、お爺様ったら他人行儀な。真美那で結構でございます。これ書庫から借りていた本です」
真美那が『三国志』の本を包んだ風呂敷を渡したら、向摂政は呆れ顔で苦笑した。
「『源氏物語』にしなさいと言ったであろう。真美那の諸葛孔明《しょかつこうめい》好きも困ったものだな」
「私は聡明な女になりたいのでございます。諸葛孔明様は理想の男性でございます」
「真美那、首里天加那志《しゅりてんがなし》の御前でそんな軽はずみなことを言うんじゃないぞ」
「あら、首里天加那志も諸葛孔明様に似て賢明な王でございますのに?」
「わはは。これは一本取られた。真美那、御内原での生活は慣れたか?」
「はい。勢頭部《せどべ》たちも王妃様も国母様もみんな優しくしてくれて感謝しております」
「それはよかった。そなたには一族の期待がかかっておるからな」
表世界を牛耳《ぎゅうじ》ってきた向一族の中からついに王族が誕生したのだ。これまで向家は何度も御内原へ勢力拡大を試みてきた。しかし王族に近いという理由が逆に不利に働いた。先代の尚育王《しょういくおう》までの間、不文律ながらも向家の女たちが側室にあがることはタブーとされてきた。
しかし現王になってタブーが解除されるや、向家の中から最も容姿端麗で聡明な女が御内原へ送り込まれた。向家最高傑作の女と誰もが認める真美那は一族悲願の御内原掌握の礎《いしずえ》となるだろう。もし真美那が王子を産み、世子となれば、向家は再び王族の本流に返り咲くことができる。
「お爺様、首里天加那志から祝いの品と書簡を預かっております」
真美那は尚泰王《しょうたいおう》から預かった書簡を滔々《とうとう》と読み上げた。
[#ここから1字下げ]
一筆申越候。其方共嫡々者尚敬尊君ニ懸格別
之家筋ニ而候間、為繁盛者国家繁栄之基候故、
慶事ニ当宝酒差下可致嘉悦者也。不宣。
十月五日
中山王尚泰
[#ここで字下げ終わり]
「王より申しつける。その方は尚敬王の血筋で由緒正しい家柄である。向家の繁栄は国家の繁栄となるものにつき、祝いとして王室から秘伝の酒を振る舞うことにする」
「何と。首里天加那志が直々にお祝いを述べられるとはさすが向家だ」
荷車で用意されたのは百年物の古酒だ。王からの振る舞いで冊封使《さっぽうし》でも飲めない百年物の古酒が解封された。百年の熟成を経て琥珀《こはく》色に染まった古酒は、瞬く間に空気に溶け込み独特の風味で空間を満たしてしまう。
「おおっ! なんと幻想的な香りだ。沈香《じんこう》よりも深いではないか!」
百年物の古酒が銭蔵《ぜにくら》から出荷されたと聞いて黙っている多嘉良《たから》ではない。何とか相伴に与《あずか》ろうと画策したが下っ端役人には取り付く島がない。かといって大人しく引き下がるほど往生際はよくない。元|銭蔵筆者《ぜにくらひっしゃ》の儀間親雲上《ぎまペーチン》とふたりで屋敷の塀の外から鼻を鳴らして風下を探している。
多嘉良が古酒の香りを探し当てた。
「うおおっ! これが伝説の古酒の香りかあっ。儂《わし》は生きていてよかったなあ。呑めないけど、匂いだけでも死ぬほど嗅いでおくぞーっ!」
「私はそれほど古酒に興味はないのだが、この匂いは鮮烈だ。まるで遊女と情を交わしたような香りではないか」
「なんでおまえはいつも色事と重ねるんだ。酒は女にも勝る人生の悦楽だというのに」
儀間親雲上の取り巻きの女たちも古酒の香りにうっとりだ。
「記念にもっと嗅いでおくぞ。儀間親雲上、儂を肩に担げ」
そう言って多嘉良が手持ちの泡盛を呷《あお》る。匂いと味を交互に堪能《たんのう》して、虚構の世界で古酒を味わっていた。そのとき、女官の持つ涼傘が多嘉良を弾《はじ》いた。
「曲者《くせもの》。向摂政の屋敷に何の用ですか!」
多嘉良が振り返るともうひとりの側室が屋敷にあがろうとしていた。紗《しゃ》を被《かず》いでいても目に突き刺さる輝きを放っている。まるで己《おのれ》の光を抑えるために衣装を纏《まと》っているとしか思えない。彼女の凜《りん》とした姿は王族という言葉さえ霞んでしまうほどだ。不意に鏡で光を当てられたように目を眩《くら》ませた多嘉良に叱声が飛ぶ。
「頭《ず》が高い。あごむしられ様のおなりであるぞ!」
「ははーっ。ご無礼をお赦《ゆる》しくださいーっ!」
ひれ伏した儀間親雲上の取り巻きの女たちは、自分の惨めな裸を曝《さら》したも同然の気分だった。流行の衣装、流行の化粧、流行の簪《かんざし》、時代の最先端を走っていると自負していたプライドが木っ端微塵に砕け散った思いだ。側室は流行を超えた普遍的な美をさりげなく提示している。
着物の裾を割って土下座する多嘉良に芯のはっきりした声が届いた。
「よいのです。きっと古酒の香りを探していたのでしょう。後で分けてあげますので裏口でお待ちください」
「何とお優しいあごむしられ様でしょう。儂みたいな下っ端役人に声をかけてくださるばかりか、古酒まで分けて頂けるとは……。この多嘉良、生まれてきてよかったです……。ううう……」
――おじさんったら相変わらず。
真鶴《まづる》は多嘉良の丸まった背中に苦笑してしまう。八重山《やえやま》に流されたとき今生《こんじょう》の別れだと思っていた多嘉良と、こうして出会っただけでも幸福だった。
「あごむしられ様のおなーりー」
門に真鶴到着の声が響く。その行列を横目で覗《のぞ》いた多嘉良はなぜか古い友の姿を思い出してしまった。女官たちを束ねている側室の意志がまるで父権的に思えるのだ。
「寧温《ねいおん》――?」
そんな馬鹿なことを脳裏に過《よぎ》らせた自分は相当酔っていると多嘉良は笑った。
屋敷の中に通された真鶴は向家の圧倒的な繁栄に目を奪われた。ここに招かれている賓客は全て向家の門中《ムンチユゥ》だ。分家して姓が変わってしまったために、名前だけでは向一族とわからなかった者がいる。評定所《ひょうじょうしょ》筆者の半分、御物《おもの》奉行の吟味役、総普請奉行、山奉行、砂糖奉行などなど凡そ全ての奉行所に向一族が関わっている。かつて表十五人衆だった向親方も向摂政の息子だ。まるで清明祭に参加している気分で場違いな所に来たと真鶴は肝《きも》を潰した。
「これが向一族――!」
向一族を敵に回したら未来|永劫《えいごう》、王宮への道が閉ざされると恐れられているのもわかる。蔭の王族とまで言われる向家は、表世界を完全に掌握しているといっても過言ではなかった。
「真鶴さん、ようこそ我が家へ。どうぞゆっくりなさってくださいね」
真美那の無邪気な笑顔と裏腹に、賓客たちの視線が真鶴を値踏みするように嘗《な》め回す。向一族の千の眼差しが真鶴の毛穴までこじ開けるように抉《えぐ》る。
「あれが真美那様と同じく側室にあがった娘か」
「黄金の鋏を引き当てられなかった娘を側室にあげるとは向摂政も酔狂な」
「なんでも真美那様のお気に入りとか……」
「真美那様の引き立て役というが、紗が邪魔をしてよく顔が見えんな」
真鶴は下着のカカンの裾の中にまで視線が入ってくるようで、腰が引けた。
「ほ、本日は向家の慶事にお招きいただき、恐悦至極《きょうえつしごく》に存じます」
真鶴が祝いの言葉を述べるために紗を下ろした瞬間、蔑《さげす》んでいた眼差しがはっきりとした敵意の炎に変わったではないか。真美那に勝るとも劣らぬ美貌が遠目にもわかる。日差しを弾く髪は黒すぎて百花繚乱《ひゃっかりょうらん》の庭の中でもっとも強い色に映る。しかも真鶴の瞳の強さはそれを軽く上回る玉の輝きだ。屋敷のどこにいても視線が飛んできて、まるで間近にいるような錯覚を与えるのだ。
「何て厄介な娘を御内原にあげたのだ。真美那様が霞んだらどうするんだ」
「心配するな。真美那様は美しいばかりではない。教養の高さは首里国学の学生以上だ」
繁栄の宴の中に現れた真鶴に、向一族は心中穏やかではない。御物奉行の男がちょっと恥をかかせてみようと真鶴に声をかける。
「あごむしられ様、是非、琉歌《りゅうか》のお手合わせを願いたい」
男は王府の中でも当代一の歌人の名をほしいままにしていた。男は絢爛《けんらん》豪華な庭を題材に歌を競わせようという。
朝日さす影にうち笑て
咲きゆる色々の花の匂のしほらしや
(朝日の光がさす方に向かって、うち笑って咲いている色々な花の匂いが実に素晴らしい)
「うむ。さすが御物奉行の朝興《ちょうこう》だ。女が詠《よ》みそうなところから攻めてきたか」
「花が活き活きと咲いている様子が、祝いと重なるようでめでたい」
朝興がにやりと笑う。
「では、あごむしられ様もどうぞ」
「真鶴様、挑発に乗ってはなりません。これは真鶴様を辱《はずかし》める罠でございます」
女官たちが真鶴の袖を引く。誰かが代わりに歌を作ってやればいいのだが、当代一の歌人を前に伍する歌を詠める自信はなかった。
「いいです。私が詠めばすむ話ですから……」
向家の庭は所謂《いわゆる》日本庭園の様式なのだが、樹木や花の生命力が強すぎて器から溢れた状態だ。美が横溢《おういつ》して音が聞こえてくる。花が笛の音なら、樹は弦の音色を奏でる。そこに宴が加わることで祝祭の空間が弥《いや》増すように設計されていた。
真鶴は庭を見渡して竹を見つけた。
百敷《ももしき》のお庭に植ゑしげる
竹の節々に君がよはひこめて
(広いお庭に植えた竹の節々に、向家の繁栄がいつまでも続くように祈りをこめましょう)
歌人の朝興は顔面蒼白だ。「百敷」とは大宮の枕言葉である。即ち王宮のように立派な庭に王族の繁栄のようだと掛け、真美那と女の争いをするつもりはないと引き下がったのだ。
向摂政も真鶴の技量と機転に唸《うな》るばかりだ。
「うむ。朝興の出鼻を挫《くじ》くとは実に天晴れだ。朝興の歌が絵画的な美を捉えたのに対して、あごむしられ様には我が一族の繁栄まで詠んでいただいた。慎んであごむしられ様の歌を賜《たまわ》ろう」
「向摂政、ありがとうございます」
真鶴はこれで一安心と息をつきたいのに、真美那は有頂天だ。
「ね。お爺様、私の言った通りでしょ? 真鶴さんは恩納鍋《おんななび》よりも歌が上手いのよ。ほら朝興おじさんどいて。真鶴さんは私の隣に座らせるって決めたんだから」
「真美那さん、私に上座など勿体《もったい》のうございます」
「なぜ? 妻と夫人が正五品の御物奉行よりも下に座る方がおかしいでしょ? ほらみんな。私の大切な客人なんだから寄ってちょうだい」
真美那のお嬢様攻撃に向一族もたじたじだ。真鶴に用意された席は向一族の中でも特権階級が占める一番座だ。席を譲ろうと立ち上がった紫冠の役人に真鶴が息を呑む。そこにいたのはかつての盟友ではないか。
――朝薫《ちょうくん》兄さん!
「初めまして、あごむしられ様。ぼくは表十五人衆の喜舎場《きしゃば》朝薫と申します。先ほどの琉歌は実に見事でした。百敷と選ぶあたりかなりの手練《てだれ》とお見受けいたしました」
「し、神童と謳われた喜舎場親方にお誉めに与かって光栄に存じます」
朝薫はいつもの穏やかな眼差しを真鶴にさしかけた。寧温だったときも、真鶴のときも、優れた者に敬意を払う朝薫の姿勢は変わらない。流刑《るけい》にされてからどれくらい時間が経ったのか数えたこともない。ただ朝薫が口髭をたくわえるほど過ぎた時間は、簡単には埋まりそうもなかった。
「あごむしられ様、ぼくの顔に何かついていますか?」
「い、いいえ。あの、喜舎場親方が向一族だったなんて初めて知りました」
「向姓を名乗ると特権階級だと思われるから敢えて琉球名にしています。ぼくは実力だけで勝負したいんです」
「ね、真鶴さん、朝薫って面白いでしょう? 私の従兄なのよ」
「よくわかります……」
朝薫は真鶴の顔をまじまじと眺めて小首を傾《かし》げた。真鶴の圧倒的な美貌の奥に、秘めた別の顔があるように思えてならない。こんな相反する二つの顔を覗かせる人間を朝薫はかつてひとりだけ知っていた。
「八重山から側室に上がられたと聞きましたが、八重山はどんな場所ですか?」
「はい。海と山と歌に恵まれた豊かな土地でございます」
「そうですか。安心しました。実は古い友人が八重山に行ってしまって永く便りもないのです」
「そ、そのお方は喜舎場親方とどのような関係だったのでしょうか……?」
朝薫は宴席から遠い眼差《まなざ》しで宙を見つめた。
「ぼくの心の支えでした。今のぼくがあるのはその人のお蔭です。あごむしられ様と同じように天賦《てんぷ》の才に恵まれ、驕《おご》ることなく精進する方でした。あんな素晴らしい方と働けたことをぼくは誇りに思っています」
真鶴はつい感極まって目頭《めがしら》を熱くしてしまった。だがここで泣いては不自然だ。
「きっと……そのお方は喜舎場親方のお心に感謝されていると思います……」
「いや怨《うら》んでいるだろう。ぼくが護ってやれなかったのだから。だから時々、怨みを晴らしに来てくれないかと思うことがある。そのときぼくは喜んで討たれようと思う。でもその前に一言、謝りたい。それからこう言いたい」
朝薫は一度言葉を区切って虚空《こくう》に笑みを投げかけた。
「お帰り寧温……」
真鶴は堪《こら》えきれずに大粒の涙を手の甲に零《こぼ》してしまった。まるで水瓶《みずがめ》の底が抜け落ちたような涙に真美那が狼狽《ろうばい》する。
「もう朝薫ったら、真鶴さんに故郷のことを思い出させるなんて可哀相なことしないで。真鶴さんは八重山から来たばかりでまだ首里に慣れていないのよ」
「す、すみません。つい八重山と聞いて同僚の話をしてしまいました」
「いいえ構いません。祝いの場で涙する失礼をお赦しください……」
姿を変えての出会いがこんなに辛いものだとは思わなかった。朝薫を怨んだことなど一度もない。むしろ八重山での身請け先を早手回しで確保してくれたことに感謝している。あのとき二人はまだ若すぎて強情だった。お互いに相手との距離を踏み違えては悲鳴をあげる剥《む》き出しの心のままだった。純粋であるために残酷だった思春期は幕を下ろし二人とも、成熟した大人になった。
今こうやって女の姿になって朝薫の隣に座っていることが二人の適正な距離だと思う。寧温という宦官《かんがん》は八重山で黒水熱《マキー》に罹《かか》って死んだ。寧温が甦《よみがえ》ることはない。これからは真鶴として間接的に朝薫と接する。同僚としてではなく、側室として王宮の表と裏から向かい合うだろう。
朝薫の後ろで身重の女が退席すると耳打ちする。朝薫は大事をとって帰りなさいと穏やかに促した。真鶴にはふたりの関係がまだわからない。
「あの、喜舎場親方のお姉様でいらっしゃいますか?」
朝薫は笑って「これは妻です」と紹介した。母性を滲《にじ》ませた娘はそう呼ばれることにまだ照れがあるようだ。朝薫を夫としてよりも男として愛していたいささやかな抵抗を感じた。
「そうだあごむしられ様、どうか妻のお腹を撫でてやってください。あごむしられ様と同じように頭のよい子になってほしいですからね」
――朝薫兄さんに赤ちゃんが……。
これが沖縄と八重山の決定的な距離だ。人は一度離れると二度と同じ場所には戻れない。どんなに再会を待ち焦がれていても、別れた瞬間の心のままではいられない。それは真鶴も同じだ。宦官のまま王宮に戻りたくても戻れなかった。王宮に戻るためには女になるしかなかった。それが御内原という体制の中に組み込まれることになるとは、八重山を離れるまで露ほども思っていなかった。
――朝薫兄さんの中にもう寧温はいないのですね。そして私が寧温になることはもう二度とない。
真鶴は朝薫の妻のお腹を優しそうに何度も何度も撫でてやった。
会者定離の慣ひ知らぬ恨めしや
馴れ染めて二人別る心気《こころぎ》
(会えば別れるという言葉を知らなかったのが恨めしい。今まで気心が知れていた二人が別の道を歩んでいく運命がこの上なく辛いものだ)
御内原は貴婦人たちが牙を剥き合う世界だ。女として高い教養を修め、贅《ぜい》を知り尽くし、最先端のお洒落《しゃれ》をし、洗練された所作を身につけた上で容赦なく膝蹴りを喰らわす気概がなければ生き残れない。表層的にはあくまでも美を謳いながらも、深層では嫉妬と憎悪と怨嗟《えんさ》と猜疑心《さいぎしん》の内燃機関でエネルギッシュに活動する。それが王朝五百年に亘る御内原のドレスコードだ。
継世門《けいせいもん》を潜った二人の側室はまだ御内原の本当の闘いを知らない。
「真鶴さんには、いい気分転換になると思ってお誘いしたのに、却って辛い思いをさせたかもしれません。朝薫ったら自分の話ばっかりでごめんなさいね」
「いいんですよ。私も真美那さんのお屋敷で寛いで気持ちが楽になりましたから」
「そう言ってもらえると私も少しは慰めになるわ。だって昨日の女官大勢頭部の虐《いじ》めはひどいと思ったもの」
昨日、黄金御殿《クガニウドゥン》で行われた王妃主催の茶会での出来事だ。清国式の茶を嗜《たしな》むとばかり思っていた真鶴は懐紙を用意しなかった。しかし実際の茶会は日本式のものだった。作法がなっていないと女官大勢頭部から叱責を受けた真鶴は入室を拒まれた。真美那には茶会と告げ、真鶴には茶藝と伝えた。御内原はお茶とお菓子と意地悪で出来ている。悪意を敏感に察知できなければ毒を飲まされてしまう。
「あれは私が女官大勢頭部に確認しなかったのが悪かったのです」
「それは真鶴さんの人が好すぎでしょう。今日の茶会も日本式だからね。茶道具はこれを使って」
真美那は里帰りついでに蔵から古い茶道具を持ち出してきた。ぽんと無造作に渡された木箱に真鶴は戸惑うばかりだ。この意地悪大会の本質は側室同士を争わせることにあるのを知らないのだろうか。真美那の素性は王妃も認めるところである。女官大勢頭部は真美那の機嫌を取るために真鶴を標的にしているのだ。
「真美那さん、私は御内原からいつ追い出されても構わないのです(むしろその方がありがたいんだけど……)」
「それは絶対にダメ。私に友達がいなくなってしまうもの」
「女官大勢頭部は真美那さんに気に入られるために、私を虐めているのですよ?」
「だったら尚更ダメよ。私に気に入られたかったら親友のあなたを大事にしてほしいもの」
これが本物の育ちの良さというものだろうか。尚敬王を始祖とする真美那には生来人を憎むという感情がない。むしろ拒絶を知らない分、隔離しておかないと何でも受け入れてしまうきらいがあった。そのために御内原は真美那にとって最高の軟禁場所といえるだろう。
「虐めには慣れていますから、どうぞ私の心配はなさらずに」
「それもダメ。あなたが虐められると私が悲しくなるの。友達は人生最高の宝なのよ」
黄金御殿の茶室に招かれた真鶴は、女官大勢頭部の検閲を受けた。情報が漏れていたのだろうか。悔しいことに今日の真鶴は日本式の茶道具を揃えていた。
「あごむしられ様、今日は王妃様に相応《ふさわ》しい器を用意するように申しつけましたが、見せていただきましょうか」
「はい……。これでございます」
と木箱をおずおずと提示した真鶴は箱を開けて驚いた。中にあるのは唐代の名器と呼ばれる玳皮盞天目《たいひさんてんもく》茶碗ではないか。知識では知っていた真鶴も現物を見て腰を抜かした。
「こ、これは玳皮盞天目茶碗!」
「何と、玳皮盞天目茶碗が琉球にあるのか!」
王妃も女官大勢頭部も箱の中に首を突っ込んだ。数ある天目茶碗の中でも鼈甲《べっこう》の風合いを醸《かも》し出す玳皮盞は、吉州《きっしゅう》の窯でしか焼けない伝説の茶碗だ。吉祥文様を施された器は釉薬《うわぐすり》が奏でる偶然の妙と人智が渾然一体となり、森羅万象《しんらばんしょう》を模した逸品となっていた。徳川家でもこれほどの名器は所有していないだろう。
「お、王妃様の健《すこ》やかなるお心と、王室の繁栄を願って、この茶碗を用意いたしました」
と後付の理由を述べた真鶴だが、動揺が収まらない。これが真美那の底知れぬ恐ろしさだ。天真爛漫《てんしんらんまん》にもほどがある。紫禁城《しきんじょう》にもあるかどうかという逸品をただ友を助けたいがためだけに貸す。これは向家を興したときに尚敬王が与えた品に違いない。真美那はこの門外不出の家宝を取りに里帰りしたのだ。
伝説の名器を目の当たりにした王妃は真鶴の心遣いにいたく感銘を受けた。
「私に玳皮盞天目茶碗を見立てるとはまことに感心なあごむしられです。女官大勢頭部の人物評ではそなたは知識ばかりで礼儀作法に欠ける粗忽者《そこつもの》と聞きましたが、この茶碗を見て考えを改めました。女官大勢頭部の目は節穴である」
「そんな王妃様あんまりでございます」
新しい女官大勢頭部は奥目の痩《や》せぎすな女だ。女官の出世争いで恐竜たちが闘う中、ひっそりと生き延びてきた哺乳類の始祖のようだ。恐竜を絶滅に追いやったファースト・インパクトは阿片《あへん》事件だ。不幸なことに御内原では徐丁垓《じょていがい》というセカンド・インパクトにも見舞われた。生き延びたのは哺乳類の中でも脆弱《ぜいじゃく》な種だけだった。女官大勢頭部は勤続年数だけで登用された中継ぎ投手だ。いずれ猛々《たけだけ》しい女官にその座を奪われてしまうのは目に見えていた。
「黙りなさい。粗忽者が王室にもない逸品を用意できますか。これは私にではなく是非、首里天加那志に点《た》てなさい。真鶴よ眼福であったぞ」
「王妃様ありがとうございます」
茶室から出てきた真鶴は命拾いをしたような、魂を落としたような不思議な浮遊感を覚えた。普通の茶碗だと思ってガタゴト揺らしてきた往路が恐ろしい。もし落として割っていたら、また八重山に流刑だった。後之御庭《クシヌウナー》を摺り足で歩く真鶴に、真美那が飛びついてきた。
「ね? 大丈夫だった?」
「もう真美那のバカ。玳皮盞天目茶碗ならそう言ってください。私、死ぬかと思いました」
「別に割ったっていいじゃない。たかが茶碗ひとつのことよ」
「紫禁城では一級文物ですよ。首里天加那志からの献上品として皇帝陛下にひとつ贈っただけでも、お礼に最上級の絹千反は貰える品ですよ」
「茶碗も飾られるより、あなたを救う方が嬉しいわよ」
「すぐに実家に返してください。無くなったのがバレたら大騒ぎになります」
「こんなの蔵に幾らでもあるわよ」
真美那が茶室に入るとまた王妃と女官大勢頭部の悲鳴があがった。真美那が王妃に見立てた器は本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》の幻《まぼろし》の逸品だ。
「これは不二山――!」
御内原に現れた無邪気な天使は貧乏性の悪魔の手には負えないようだった。
*
御内原という空間は王宮の小世界だ。衣食住の全てにおいて最高級を揃えたのは、意識を外の世界に向かわせないためだ。水槽の中の金魚と藻のような完全閉鎖生態系。全ては御内原内部で事足りるようにできている。女官たちの中には全く外の世界を知る気がない者もいる。外にあるのは貧困と飢えと病疫しかないと悟ってしまい、死ぬまで御内原に留まろうとした。またそういう女に限って、爛熟《らんじゅく》した美貌を放つものだった。
御内原には後之御庭と呼ばれる中庭を囲むように、複数の建物が存在する。最も大きな建物は王と王妃が住む黄金御殿で正殿に次ぐ大きさだ。側室になった真鶴たちに宛がわれたのは世添《よそえ》御殿と呼ばれる建物だ。正殿の鮮烈な中華様式とは異なり、御内原は白木の和風建築で、王の書院に通じる美意識だ。
宮女たちの生活はもっぱら機《はた》を織ることに費やされる。苧麻《ちょま》の糸を染めたり、紡《つむ》いだりするのは女官見習いのあがまたちだ。機を織ることは労働というより、女の教養と美徳を示すことである。
世添御殿にも側室用の高機が並べられていた。真鶴も真美那も機を織るのは得意だ。深夜まで鳴り響く機織りの音に、女官たちはしばしば唖然《あぜん》とさせられた。
今日も真鶴と真美那は向かい合わせに並べられた織機の前でお喋りしている。
「真鶴さんって本当に何でもできるのね」
「真美那さんと違って私は人頭税《にんとうぜい》で働かされたから手が早いだけです」
「ご謙遜を。この模様はどうやって出すの?」
「緯糸《よこいと》の上に出していくんです」
「ところで、ハジチ(刺青《いれずみ》)はどうする?」
「私は遠慮しておきます」
この時代、身分の高い既婚女性が手の甲に刺青をするのはよくあることだった。しかし必ず刺青しなければならないというわけではない。現代のピアスと同じようにファッションのひとつである。真鶴は刺青をすると二度と御内原から出られなくなりそうで恐かった。
「じゃあ私もやらない。房指輪にしておく」
月が高くあがっても、真鶴と真美那は機織りをやめない。真美那は趣味だから苦痛ではないが、真鶴も織機の前に座っていないと気持ちがおかしくなりそうだった。ペダルを踏んで経糸《たていと》が交差するたびに、寧温と真鶴が背反する思いをぶつけるのだ。あんなに女になることを願っていたのに、心の中にいるのは殺したはずの寧温だった。
『あなたは機を織るために王宮に戻ったのですか?』
と寧温が言う。しかし真鶴もまたすぐに言い返す。
『雅博殿、どうすればあなたに会えるの?』
『孫寧温はそんなことのために死んだのですか?』
『私はもう男として生きるのは嫌です』
『男に戻って、もう一度科試を受けなさい』
真鶴の鬼気迫る形相に真美那がペダルを止めた。真鶴の顔つきが自尊心の高い少年のようになったかと思えば、切ない乙女の表情に変わったりと、とても同一人物には思えない。
「真鶴さん? 何か悩みでもあるんじゃないの? もしよかったら相談に乗るわよ」
「ちょっと故郷のことを考えていました……」
「嘘。好きな殿方のことを考えていたんでしょう」
真美那が恐いと思うのはこんなときだ。邪気が無い分、人の心の奥底を無意識のうちに捉えてしまう。家柄、地位、財産、美貌、教養、人徳、欠けたものがないからこそ他人の欠乏感に敏感だ。それは共感というよりも審美上の理由だ。絵画や音楽に瑕疵《かし》を見つけるのと同じように、人の心を鑑賞するように眺めているのだ。
「私が殿方のことを考えているなんて滅相《めっそう》もありません。首里天加那志に不敬でございます」
「嘘が下手ね。織機は正直に真鶴さんの心を織ったじゃないの。それ八重山のミンサー織りでしょう」
真美那の指摘する通り、真鶴の織機にはミンサー織りの特徴的なパターンが出現していた。
[#挿絵(img/02_071.png)入る]
「この五つ星と四つ星は男女を表すって母上から聞いたわ。|い《五》つの世《四》までも、と女が愛《いと》しい人に織るんでしょう?」
「図案上そう言われているだけです」
「別に好きな殿方がいたっていいじゃない。普通に生きてたら恋ぐらいするわよ」
「真美那さんは好きな人がいたんですか?」
「いたけど……。忘れたわ」
真美那は恥ずかしそうに経糸《たていと》に指を絡めた。ちょっとした照れはきっと淡い初恋だったのだろう。胸を焦がすことなく火傷《やけど》の痕も残らない。これくらいの恋ならば悲恋の琉歌の二つ三つ詠めば忘れられる。それに女同士の秘密の共有として友情を深めてもくれる。
「教えてください。真美那さんが好きだった人って誰ですか?」
真美那は誰もいないのに「しーっ」と指を当てて真鶴の耳元に囁《ささや》いた。
「むかし評定所にいたお役人様……。科試に首席で合格したお方よ」
「喜舎場親方とか?」
真鶴も可笑《おか》しくなってひそひそ声になってしまう。
「違うわよ。朝薫と同じ年に王宮に入った孫親方よ!」
真鶴は思いがけない展開に噴き出してしまった。真美那はその態度にお冠だ。
「なによ。孫親方が宦官だからって笑うなんて失礼よ。孫親方は十三カ国語を操る通事《つうじ》の天才で、何度も琉球を危機から救ったのよ。真鶴さんは八重山に居たから知らないでしょうけど、とっても綺麗なお方だったんだから!」
真美那が寧温だった真鶴を見かけたのは、大美御殿《おおみウドゥン》でだ。当時、朝薫と寧温は王府の不正経理問題で金の流れを洗っていた。大美御殿の帳簿を調べていた寧温を偶然見かけた真美那は、寧温の端整な横顔に一目惚れしてしまった。
彼が王国中で噂になっている美貌の宦官だと知った真美那は、密かに想いを寄せた。向家に遊びに来た朝薫から寧温の話を聞き出せば、あの堅物朝薫が寧温の人柄を絶賛するではないか。真美那の恋心はますます強くなっていった。
「孫親方は圧力に負けない強いお方だったのよ。王府の財政改革も孫親方がやらなければ、誰も成し得なかったでしょう。そうそう、先王様から糺明《きゅうめい》奉行を任命されたときには阿片密貿易を暴いたわ」
「そのせいで真美那さんの伯父様の向親方は更迭《こうてつ》されてしまいましたが……」
「いいのよ。あんな人は向家の恥だわ。みんな向家だからといって怖じ気づくのに、孫親方だけは正義を貫いたのよ。あんな立派な人はいないわ。王府の鑑《かがみ》よ!」
「そこまでのことはないと思いますが……」
真鶴はどんな顔をしていいのかわからなくて、つい天井を見上げてしまう。まさか真美那が男だったときの自分に惚れていたなんて予想外だ。でも真美那がちょっと変わっている理由は理解できた気がした。
「私、お爺様に孫親方と結婚したいから会わせてくれと頼んだことがあるの。でもお爺様は私を御内原に入れたがっていて、聞き届けてくれなかったわ」
「そんな真美那さんがなぜ御内原に行こうと思ったのですか」
真鶴が言うと突然、真美那が顔を覆って泣き出したではないか。
「孫親方が……。孫親方が、八重山に流刑になったの……。王府の金を横領した罪で……」
「違うと思います!」
真鶴が聞き捨てならないと立ち上がる。真美那の情報力は途中までストーカー並みだが、肝心な部分で精度が低い。
「えっと。何で流刑になったってお爺様は言ってたかしら? 私あまりにも驚いてしまってはっきり覚えてないわ……。詐欺罪だったかしら?」
「それを聞いたら孫親方は八重山で自害するでしょう」
「真鶴さんの意地悪。私だって孫親方が詐欺をする人だなんて思っていません! 絶対に陰謀に巻き込まれたのよ。孫親方には敵が多すぎたもの」
寧温が流刑になって真美那の初恋が終わった。それで真美那は王宮にあがる決心がついた。恋を知らずに王宮にあがる女もいるが、恋を知って王宮にあがる女は本物の花になることができる。ただし蕾《つぼみ》をやさしく色づけするほど儚《はかな》い恋であることだ。満開を見届けるのは王だけでよい。
真美那は一通り泣いた後にはもうケロリとしていた。神は真美那に人生の喜怒哀楽のうち怒りと哀しみの量を最小限に匙加減した。その余った分が真鶴に回されたとしか思えない。二人は女として鏡像になっている。真鶴に足りないところは全て真美那が持ち、真美那に足りないところは、女として持たなくてよいものばかりだ。
「真鶴さんの好きだった人はどんなお方だったのですか?」
真鶴はシャトルから緯糸を走らせながらミンサーの柄を織った。恋心を織ったつもりでも、心に絡まる糸を全て解くには千年はかかりそうだと真鶴は思った。
「私、求婚されたのに無視してしまったの……」
障子《しょうじ》から差す月明かりがもうじき消えようとしていた。真美那は真鶴の切ない横顔に、王以外の男がこの花を愛《め》でたことを知った。
つながらぬ里と知りなげな
朝夕恋の糸縄の我肝《わぎむ》せめて
(結ばれないお方だと知っていたのに、恋の糸はぐるぐる巻きに私の心を朝も夕も責め続ける)
御内原の朝は早い。世添御殿では女官が香を焚いたのを機に一日が始まる。機《はた》を織ること以外することはない世界だが、人頭税のようなノルマの課された強制労働とは違う。男が文字で思考を表記するなら、女は機の模様で生き様を綴るしかないから、機を織るだけだ。御内原で表記された文書がひとつもないのは、機織りだけが女の生き様を表したからである。
真鶴の織った上布は御内原の女官たちの間で、ちょっとした人気だった。
「真鶴様の上布を見ていると、なぜか愛《いと》しい人のことを思い出してしまいます」
「あなたも? 私もあごむしられ様のミンサー織りを見ているだけで切なくなってくるのですよ」
「まるで絵巻を見ているようで、不思議な気分になります」
真鶴付きの女官は口々に上布を見て誉めそやす。情感だけを追い求めた御内原の言語は模様となり図案となり、やがて一枚の着物となる。それを纏うことは女の履歴書と同じだ。女は決して語らずに、着ることで生き様を示すのだ。
「よければこれでみんなの着物に仕立てなさい」
真鶴はそう言って出来たばかりの上布を渡した。
「ありがとうございます。真鶴様に私たちの気持ちを織っていただいて光栄でございます」
しかしそんな真鶴を快く思わない者もたくさんいる。いや、むしろ多数派かもしれない。
「真鶴様、王妃様付きの勢頭部が面会を求めております」
「通しなさい――あっ!」
御拝《ウヌフェー》で顔をあげた勢頭部には憶えがある。ぽっちゃりとした頬はあの思戸《ウミトゥ》ではないか。すっかり年頃の娘に成長した思戸は王妃付きの勢頭部に昇格していた。
「真鶴様には初めてお目にかかります。黄金御殿の勢頭部の思戸でございます」
――思戸、すっかりお姉さんになって!
思戸のドゥジン・カカンの女官衣装の着こなしも堂に入ったものだ。思戸が従えてきた女官は思戸よりもずっと年長だった。というよりも真鶴の目には中堅女官を思戸が仕切っているように映る。真鶴が八重山に流刑になっている間に、思戸は陰謀を巡らせ女の出世街道を走っていた。御内原で生きると寧温と約束した思戸は、持ち前の情報力と聞得大君仕込みの権謀術数《けんぼうじゅつすう》で女官たちの弱みを悉《ことごと》く握っていった。あがまからあねべ、そして黄金御殿の勢頭部に一足飛びの出世は御内原最速記録だ。
「真鶴様に申し上げます。王妃様は昨日の茶会で見立てた器を大変気に入っておられました。お礼に菓子を取らせるとのことです」
「ありがとう。王妃様のお心遣い、痛み入ります」
真鶴は思戸が目を合わせてくれたら、微笑みかけたかったのに、思戸は顎《あご》で部下の女官に指示を送ってなかなか目を合わせてはくれない。服従している女官たちは思戸の機嫌の悪さに怯《おび》えているようだ。思戸が「お待ち!」と扇子を女官の顎に当てた。
「ドゥジンの襟《えり》が汚れておるぞ。それでも黄金御殿の女官か!」
「思戸様、申し訳ありません……」
「この罰は俸禄から引いておく。そなたは既に百文の借金があるのを忘れるな」
「思戸様、実家の仕送りも滞《とどこお》っておりますので、それだけはご勘弁を」
「では、あがまに戻るか? それとも御内原を出て行くか?」
「……借金致します」
思戸の女官の人心掌握術は閻魔帳《えんまちょう》よりも恐ろしい出納帳だ。女官から堆錦《ついきん》細工の施された菓子器を奪い取ると、世添御殿に上がらせなかった。
「真鶴様に不浄の者をお目にかけるわけには参りません。この思戸の躾《しつけ》が足りなかったようで、不徳の致すところでございます」
「思戸、何もそこまでしなくてもよいではないの」
「いいえ。身分の上下をはっきりさせなければ御内原の秩序は保てません」
「秩序!?」
あの問題児の思戸の口から秩序という言葉が出てくるのが意外だ。いつも勢頭部から態度が悪いと叱られ蔵に閉じ込められていたあがまだったのに、真鶴が王宮を離れている間に御内原で地殻変動が起きたようだ。
「王妃様より薫餅《くんぺん》を賜りました」
琉球菓子の代表格である薫餅は、小麦粉と卵を使ったスコーンのような軽い口当たりだ。中に胡麻とピーナツを和《あ》えた餡《あん》が入っていて、ピーナツの食感と香りがアクセントになっている高級菓子である。
「ありがとう。ではさっそくいただきます」
真鶴が薫餅を口に入れた瞬間だ。ザラッとした食感が舌を押しつけた。口腔に広がる錆《さび》ついた匂いは間違いなく泥だ。真鶴は吐き出そうとしたが、思戸が蛇のように睨《にら》みつけて、飲み込むのを見届けようとしていた。
「真鶴様? 真鶴様、どうかなさいましたか?」
真鶴付きの女官たちが異変に気づく。王妃から賜った菓子を吐き出したとあっては王妃の体面に傷をつけてしまう。そのとき叱責を受けるのは真鶴付きの女官たちだ。
――思戸、どうしてこんなことを?
悲しくて泣きそうになったが、涙を見せても別の意味に取られてしまうのが御内原だ。真鶴は意を決して泥薫餅を飲み込んだ。胃の中に落ちた泥が強烈な臭気を放って咽《のど》を押し上げる。
「……大変美味な薫餅でした。王妃様にお心遣いを感謝しますとお伝えください」
これは思戸からの挑戦状だ。御内原で生きていく上で中立はあり得ない。誰かの派閥に属して庇護を受けなければ必ず敵対勢力の餌食《えじき》になる。思戸が選んだ主人は王妃であった。王妃の敵になり得る者を排除するのが彼女の王妃への忠誠心だ。
思戸が去った後で、真鶴は胃の中をひっくり返すように洗った。女官たちもあの薫餅が何だったのか大体察しがつく。あそこで真鶴が吐いていたら、女官たちは真鶴へ忠誠心を示さなかっただろう。これが御内原における女の絆《きずな》だ。
「真鶴様、お見事でした。私たちは生涯、真鶴様と共に生きて参ります」
「あれが御内原の蔭の支配者と呼ばれる思戸でございます。よくぞ耐えていただきました」
「この敵《かたき》は必ず私どもが取らせていただきますので、ご心配なさらず」
思戸への報復の準備はできている。側室からのお礼ということで思戸にも尿入りサンピン(ジャスミン)茶を飲んでもらう。思戸はそれを平然と飲み干すだろう。そして決して恭順《きょうじゅん》しないという側室の意志を思い知る。報復で力を拮抗《きっこう》させることによって思戸の暴走を抑止するのだ。
真鶴は吐きながら、この涙が胃を洗っている辛さ故なのか、それとも戻ることのできない時の無情さ故なのかわからない。思戸は側室という存在に対して敵意を持っているだけだ。それがかつて思いを寄せた寧温という役人だったことなど微塵も疑わない。
「いいのよ思戸……。また会えて嬉しかった……。王妃様に大事にされればそれでいいの……」
御内原地獄絵巻はまだ序盤戦を迎えたばかりだった。
*
真美那は御内原の洗礼を免除された希有《けう》な存在だ。真鶴が三人の女官の信頼を得るために泥を食べたのに対して、真美那は試練も、葛藤《かっとう》も、報復で手を汚すこともなく、王妃と同等の敬愛を集めていた。日陰はいつも同じ場所にできる、と真美那を見ていると思う。日向《ひなた》に咲く牡丹は一身に愛を集め、月夜に一瞬だけ咲く月下美人は誰の目にも留まらずに散るものだ。女に生まれたからには日向で咲く花の方が幸福だ、と真鶴は思う。泥の味を知る女は、やがて薄汚く散っていくものだからだ。
世添御殿の縁側で糸を染めていたある日のことだ。真美那が思い通りの色を出せなくて苦心していた。
「緑色を出したいんだけど、この藍とウコンでは上手《うま》く混ざらないわ」
「どんな色を出そうとしているのですか?」
「真鶴さんみたいな若々しい緑色よ。今度の上布はあなたの誕生日に贈ろうと思ってるの。あっ、言っちゃった。秘密にしていたのに」
真美那といると日差しの暖かさを感じる。彼女の天真爛漫さは辛い御内原生活の中で唯一の心の和《なご》みだった。
「透明な緑色なら若いウージ(サトウキビ)を煮るのが一番です」
「真鶴さんって本当に何でも知っているのね。じゃあ若いウージを採りに行く」
「真美那さんに野良仕事は酷です。私に任せてください。若いウージでも色がきれいに出るものとそうでないものがあるのです」
御内原から外に出る口実ができて真鶴は浮き足だっていた。寝ている間も油断できない御内原は夢の中でも私情は禁物だ。うっかり雅博《まさひろ》の名を口走ったら不義密通の謗《そし》りを受けてしまう。そのせいで夢の中に雅博が出てくることは一度もなかった。男子禁制の御内原は夢人さえ入れなくしてしまう。
継世門《けいせいもん》から外に出た途端、海中から浮上した気分で息を継いだ。側室がお忍びで外に出るためにも女官たちの信頼がいる。
「私はウージ畑に行って参りますので、あなた達は那覇の町で買い物でもしていなさい」
「真鶴様ありがとうございます。私たちも外の空気を吸いたくてうずうずしていましたの」
「じゃあ未《ひつじ》の刻に継世門の前で」
いくらお忍びといっても御内原の女は外に出るとすぐにわかるものだ。浮世離れした雰囲気は常に緊張感の中で暮らしている者にしか醸し出せない。公人中の公人であるために、私的な感情を吐露することは人前で放屁するのと同じくらい恥ずかしいことである。いつの間にか私人としての感情を忘れて振る舞うようになるのが御内原の女だ。
真鶴も外に出て羽を伸ばせると思ったのに、思うように感情が湧き上がらないことに苦しんだ。そればかりか自分の緊張を庶民に染《うつ》してしまう。真鶴を見た街の人は咄嗟に下がって影にひれ伏すのだ。身なりは町娘のものにしたはずなのに、何かが違うようだ。
「おい、あごむしられ様がお忍びだぞ」
「しっ。せっかくのお忍びだ。知らぬふりをしろ」
「しかし女官もつけずに大胆なあごむしられ様だ」
何がバレているのか真鶴にはわからない。これでは自分の行動を監視されているのと同じではないか。国民の視線を背負っている。王族に生まれた者なら当たり前の感覚だが、真鶴はまだこの呼吸を会得できていない。
――首里天加那志はいつもこんな窮屈な思いをしているのだろうか?
真鶴が役人だったとき、勤務時間外は私人の感覚があった。外で多嘉良と羽目を外しても誰も咎《とが》めなかったし、むしろ好意的に見守ってくれたものだ。それが王族になると減点法に変わる。寛いだように見せるのも所作の一部だ。
楽しみにしていた野良仕事も邪魔が入ってきた。
「あごむしられ様、畑に何か御用でしょうか?」
「染料にする若いウージを探しております。あの、私が自分でやりますのでどうぞお構いなく」
「滅相もない。あごむしられ様に野良仕事などさせたらお役人様に鞭打《むちう》ちにされてしまいます」
欲しいものは命令すれば手に入る。不自由のない苦痛とはこのことだ。結局、人目のある街中が一番放っておいてくれる場所だと悟った。お忍び姿を一般公開するのが王族の休息である。
那覇港の商屋はこの時代の卸問屋と百貨店を兼ねている。清《しん》国と日本の工芸品が集積するために異国人の客が多い。所謂王室|御用達《ごようたし》の商人で、冊封使への土産もここで調達するのが慣例だ。
商屋の主人も真鶴の素性を一発で見抜いた。
「あごむしられ様。御用がありましたら王宮に出向きましたものを」
「なぜ、私をあごむしられと決めつけるのですか? ただの士族の娘かもしれないのに?」
真鶴はさっきから溜まっていたストレスをぶつけるように尋ねた。主人は答える前に真鶴に品を選ばせることにした。
「あごむしられ様、この店に尾形光琳《おがたこうりん》の器がございます。どれがそうなのかお選びください。もし当てられれば王室に納めましょう」
真鶴は腰を上げたり落としたりと棚を注意深く眺めた。どれも銘のある一級品の器ばかりで、王宮にあってもおかしくない品々だ。巧妙にできた贋作も幾つか混じっているが、贋作の技巧も年代も古くて逆に骨董的な価値を持っているという厄介さだ。うっかり贋作を掴まされて冊封使を怒らせないためにも、真贋の目は培《つちか》ってきたつもりだった。
――茶碗には尾形光琳の贋作しかない。確か器としか言わなかった。
ふと視線を変えて主の文机《ふづくえ》に目をやる。文机の上には小さな漆《うるし》細工が無造作に置かれていた。
「これです。この椿図|蒔絵硯箱《まきえすずりばこ》が尾形光琳作です」
「お見事です。どうしてわかったのですか?」
「この硯箱には職人の魂が籠もっております。本物にあって贋作にないもの、それは風格です」
主人が深々と御拝で頭を下げた。
「王族にも風格がございます。庶民がどんなに着飾っても王族に見えないのと同じで、王族が庶民の恰好をしても風格がそう見せません。あごむしられ様が本物を見抜いたように、私ども商人も人間の本質を見抜きます」
「明快ですね。これ以上の問答はやめましょう」
そのときだ。店に刀を携えた青年がやってきた。一陣の風とともに颯爽《さっそう》と入ってきた青年は異国の香りを漂わせる。真鶴の中で藻掻《もが》いていた私人の感情がいとも容易《たやす》く喉元をついた。
――雅博殿!
「主人、私の硯箱は幾らで見積もってくれる?」
雅博は真鶴がまだ目に入っていないようだ。刀の切っ先のように精緻な横顔、鷲《わし》の翼のように空気を抱いて翻《ひるがえ》る羽織、示現流《じげんりゅう》を操るために鍛え上げられた胸元は、いつか顔を埋めた場所だと記憶が泣き叫ぶ。於茂登《おもと》岳の山頂からも見えなかった雅博が、今目の前にいる。千篇の琉歌を詠んで焦がれた想い人だったのに、今の真鶴は瞬きもできないほどのショック状態だ。
「ああ、お侍様の硯箱は今このご婦人がお買い求めになられましたよ」
主人に促されて真鶴を見た雅博も、同じように硬直してしまった。彼女には見覚えがある。見覚えどころか、かつて鳳凰木《ほうおうぼく》の下で求婚した愛しい女ではないか。
「ま、真鶴さん!」
「雅博殿、どうしてここへ!」
「八重山へ帰られたのかと思っておりました。あの日、ずっと待っていたのに……」
「ごめんなさい。許してください。訳があるのでございます……」
真鶴が堪《こら》えきれずに嗚咽《おえつ》を漏《も》らす。何から話せばよいのだろうかと頭の中を整理する。まず自分もあの日、鳳凰木へ行ったことを告げよう。そして尚育王の薨去《こうきょ》を知ったこと。その後が問題だ。幼い尚泰王を補佐するために断腸の思いで王宮に戻ったこと。それで雅博が納得してくれるとは思えない。なぜ王宮に戻ったのかきちんと説明したら雅博が混乱してしまうだろう。自分は孫寧温という宦官で性を偽《いつわ》って王宮に潜り込んだことを、わかりやすく説明することなど不可能だった。でも今言わないと八重山から戻ってきた思いを果たせない。
雅博の手で両肩をすっぽりと覆われた真鶴は、嘘で塗り固めた半生を捨て雅博の前に素性を曝すことにした。
「実は私は、私は――」
雅博の瞳と視線を重ねた瞬間、真実が放たれようとする。しかし店の主人が口を挿《はさ》んだ。
「お侍様はあごむしられ様とご面識があるのですか?」
「あごむしられ? 側室様か?」
反射的に身を引いた雅博は膝をついて非礼を詫びた。薩摩の役人が異国の王族に触れることはどんな状況でも許されない。ましてや側室は王妃に次ぐ貴人だ。
「側室様とは知らず、無礼をお許しくださいませ」
「いいえ。雅博殿、違うのです。これには訳があるのでございます……」
八重山に流刑になった寧温がどうやって真鶴になったのか、説明しなければならない。側室にされるとわかっていたら在番の誘いにも乗らなかったのに。沖縄島に着くやいきなり御内原に入れられたことをどうやって伝えたらいいのかわからない。ただどう説明しても覆《くつがえ》らないのは、今の真鶴が側室であるという厳然たる事実だ。
「側室になるために八重山から来たのを、私が唆《そそのか》してしまったようですね」
「違います。違います……」
すると雅博は白い歯を見せてにっこり笑ったではないか。
「王と争って負けたのなら武士の本懐《ほんかい》です。真鶴さんはよい相手を選んだまでのこと。謝る必要はありません」
そして雅博は主に預けていた硯箱を真鶴に渡した。
「主人、これを売るのはやめた。あごむしられ様に非礼のお詫びで献上したい」
「どうぞ。私どもが清国にも薩摩にも王府にも信頼されているのは口が堅いからでございます」
真鶴の手元に収められた硯箱には雅博の温もりが残っていた。雅博が実家の家宝を手放そうとしたのはまさに八重山に流された寧温に会いに行くためだった。
「あごむしられ様と会ったら、不思議と八重山の友と会った気分になりました。もう私には必要のない硯箱です。粗野な男の使っていた品で恐縮ですが、受け取っていただきたい」
真鶴は弁解するのはやめて、反射的に頷《うなず》くことしかできなかった。絶望的なほど悲しい状況なのに、仄《ほの》かに温かい。これが次の瞬間に消えてしまう温もりだとわかっている。まるで小さな灯火を掌で護るようにそっと抱き締めている気分だった。この一瞬を永遠に留めておく方法があるのなら、全ての知識を擲《なげう》って交換したかった。それがたとえ御内原で地獄を味わうのと引き替えでもだ。すると心の中にいた寧温が真鶴にこう囁いた。
――真鶴が受け取ってよかったね。寧温にじゃなくてよかったね。
寧温は潔《いさぎよ》く身を引いて、真鶴に硯箱を譲ってやった。その言葉で恋情が永遠に昇華した気がした。この硯箱を雅博だと思って、これから死ぬまでの間に万《よろず》の琉歌を綴ろうと真鶴は決意した。
「あごむしられとして、お侍様に深くお礼を申し上げます」
そう言うと真鶴は貴人らしく優雅な物腰で店を後にした。雅博は真鶴が振り返ってくれるかとずっと背中を追っていたが、雑踏の中に消えるまで真鶴は一度も振り返ってはくれなかった。
「雅博殿……。私は愚かな女です……。どうぞ真鶴のことは永遠に忘れてください……」
生涯を懸けて詠み上げる万の琉歌のひとつを真鶴は口ずさんだ。
結ぶ糸縁のいな朽ちゆんとめば
しなさけの形見取らぬたすが
(二人を結ぶ運命の糸がこんなに簡単に切れてしまうなら、硯箱を受け取らなければよかったかもしれない。まさかこれが形見になるとは)
消えていく真鶴の気配に、雅博は死の別れよりも辛い離別に苦しんでいた。愛しい人は王宮にいるのに、王の妻になってしまった。王宮に行こうと思えばすぐにでも行けるが、相手は鉄壁の防御を誇る御内原の女だ。いっそ遠い異国に離れ離れになってしまう方が、航海の日数がかかるだけでまだ近い。御内原は月よりも遠い場所だ。
「私はこれでもう琉球に想いを残すことはないだろう」
雅博は雑踏の流れに身を任せながら、泣いている理由を誰かに見つけてほしくて、ただただ無様に涙を落とした。染み落ちた地面の上を千の足が無造作に踏みつけていく。
恋ひ死ぬる命惜しむ身やあらぬ
思蔵《んぞ》が上に報ひあらばきやしゆが
(私は恋焦がれて死んでも少しも命は惜しくはない。だがあなたが苦しむのは死ぬよりも辛い。この苦しみは私が引き受けましょう。どうかあなたはお幸せに)
真鶴が御内原で一反の八重山ミンサーを織り上げたころ、側室恒例の行事が迫っていた。世継ぎとなる男子を産むために、祈願をかけるのだ。この祈願の成果によって女子王族のパワーバランスが変わる可能性がある。理知よりも感情で動く御内原において、女官たちの宗教への依存は衣食住にも勝るものだった。占いが当たる、当たらないというレベルではない。巫女《みこ》による託宣は、行動を決定してしまうほど絶対的なものだった。
世添御殿では真美那と真鶴のどちらが先に世子を授かるかでもちきりだった。女官たちは口々に噂する。
「首里天加那志は向家を王族の本流に戻したいとお考えになっておられます」
「今朝の首里天加那志の帯をご覧なさい。真鶴様が織られたミンサーを締めておいででした」
「ところで真美那様は何日にご祈願をなさるのでしょうか?」
「それは秘密です。向摂政は王国一の『時《とき》』の郭泰洵《かくたいじゅん》をお雇いになったそうです」
「まあ、郭泰洵ですって! 日取りを読ませれば琉球一の男ではありませんか!」
占いといえば一般的にユタが有名であるが、この時代は男の占い師が公《おおやけ》に活躍している。それが「時」だ。男の占い師には三世相《さんじんそう》と時がいる。三世相は前世、現世、来世の三世を読む占い師だ。そして時は農耕の種|蒔《ま》きや収穫の日取りを決めるのが仕事だ。優れた時は冠婚葬祭など個人の日取りも読み解く。陰陽道や道教を組み合わせた複雑怪奇な『時双紙』と呼ばれる文書を駆使し、占者の霊感によって託宣がくだされた。慶事は時の能力で運命が決定するといってよい。向摂政が雇ったのは王府御用達の郭泰洵だ。向家は万全の態勢で真美那の懐妊を援護する。
「真美那様は卯年でしたから、守護神のある達磨寺で祈願なさるのでしょう」
「真鶴様は辰年だったから、観音堂で拝むはずだけど、いつかしら?」
側室にとって最大の公務が出産だ。優秀な男子を授かり王統を維持することこそ側室の義務であり唯一の価値だ。御内原は王府の純血遺伝子培養センターである。
「噂によると郭泰洵は天候すら操るとか。三年前の干魃《かんばつ》のときに大雨乞いの日取りを決めたことがあったでしょう。聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》が選んだ日には雨が降らずに、郭泰洵の予言した日に大雨乞いをしたら……」
「一週間の大豪雨!」
「これは真美那様の男子出産は決まったも同然ね」
女官同士が側室を競わせようとしているのに、真美那と真鶴は姉妹のように仲良くしている。しかし染料を貰ってきた日から真鶴はずっと鬱《ふさ》ぎがちだった。
「真鶴さん、この大鶏餃《タイチーチャオ》は絶品よ。一口でも食べてちょうだい」
「今は油っこいお菓子はちょっと……」
「じゃあ蒸し菓子のちいるんこうだったら食べられるわよね?」
真鶴は硯箱を肌身離さず抱えたまま微笑んだだけだった。真美那は真鶴に何か秘密があることを感じていながら聞かなかった。外で何があったか知らないが、御内原に個人の自由はない。ここは神の世界に次いで誰も見てはならない世界。何も語ってはならない世界だからだ。
「もう、私のお菓子には泥なんか入ってないわよ!」
「真美那さんも泥薫餅を食べたんですか?」
「誰が食べるものですか。思戸に最初に毒味させてやったわよ」
「そういう手もありましたね」
やっと真鶴が声をたてて笑ってくれた。真美那は真鶴と競う気は全くない。周りが嗾《けしか》ければ嗾けるほど、絆を強くしたがった。
「私は女の子がほしいな。真鶴さんは強いから元気な男の子が似合うわよ」
すると側室居室の障子の前に人影が立った。
「真鶴様の男子出産などこの私が許しません」
「女官大勢頭部様のおなーりー」
痩せぎすの女官大勢頭部の背後から威厳たっぷりの声が覆う。
「おまえにそんな権限はないはずじゃ」
「国母様のおなーりー」
かつて王妃だった国母は女の立身出世の頂点に君臨していた。
「世子は私が産むのが筋でございます」
「うなじゃら(王妃)様のおなーりー」
王妃は早く御内原の支配を盤石《ばんじゃく》にしなければと焦っている。
「王妃様はきっと女子をお産みになられるぞ」
「聞得大君加那志のおなーりー」
かつて泣き虫だった王女は聞得大君として君臨している。
神扇を悠然と煽《あお》った聞得大君に退場処分を下したのは総白髪の老婆だった。
「雨乞いの日取りも決められぬ聞得大君など用無しじゃ」
「国祖母様のおなーりー」
かつての国母だって喧嘩と聞いたら病床から起き出してくる。だから御内原の王族たちは老後も惚けることはない。側室、女官大勢頭部、国母、王妃、聞得大君、国祖母の一歩も譲らぬ女の闘いが始まった。御内原名物の意地悪大会は世代を超えた第二ラウンドだ。
「おのれ聞得大君! 誰の許可を得て御内原に入ったのだ!」
「私が許可しました」
と国母が咳払いする。後之御庭は色とりどりの涼傘の激しい鍔迫《つばぜ》り合いで祭りのようだ。
「いくら国母様といえども御内原の風紀を乱すとは。王妃の私に一言あるべきであろう!」
王妃と聞得大君は新世代でも宿敵同士だ。
「世子を産んでおらぬ王妃はただの飾りじゃ。妾《わらわ》は真美那の娘に聞得大君の地位を相続させようと考えておる」
「おのれ聞得大君! 王女を産んだらそなたの地位を剥奪《はくだつ》してやる!」
「その前に妾が神に祈願して廃妃にしてくれるわ!」
なぜか聞得大君になると人格が似てくるのが不思議だ。これが王族神というものだろうか。霊力を表す聞得大君の碧眼《へきがん》も冴え渡っている。
「青いぞ聞得大君。時の能力もない聞得大君に偉そうにされては迷惑千万じゃ」
「国祖母様はそろそろ玉陵《タマウドゥン》に入る時期ではございませぬか。ほほほほほ」
「誰が廟《びょう》になど祀られるか。まだまだ現役じゃ」
二人の側室は世添御殿で震え合うだけだ。特に真鶴は壮絶な既視感で目眩《めまい》を覚えていた。真美那はまだこの恒例行事に免疫がないから、慄然《りつぜん》とするばかりだ。
「欲が深い女は哀れに見えますね、真鶴さん?」
「私は早く脱落したいです……」
もうひとつ地位の足りない思戸だけが、早くこの争いに参戦したくてうずうずしていた。
三日後、時の郭泰洵が真美那の懐妊祈願の日取りを決めた。来週には里帰りを名目に向家総員で盛大な祈願祭を行うという。一方、真鶴は時をまだ選定できていない。郭泰洵に匹敵する時が琉球にいないのだ。後手に回った状況を心配して真鶴付きの女官たちが凄腕の時を日夜方々探している。
そんなある日、女官が会心《かいしん》の笑みで御内原に戻って来た。
「真鶴様、時が見つかりました。すぐに選定を頼んでもよろしいですか!」
「おまえたちに任せてありますが、どんな時なのでしょうか?」
真鶴もこの争いに早く決着をつけたかったから、協力するつもりだ。女官が言うには最近、町で名を馳せている凄腕のユタがいるという。
「ユタ? なぜユタが時をするのですか?」
時がいない現代ではユタの能力のひとつに日取りの選定が組み込まれているが、本来は別の職能である。ユタはあくまでも王府非公認の異端者であった。
「それが並の時よりも凄いのでございます。あまりにも当たるので、あの郭泰洵の客の半分がそのユタのところに流れております。ユタが選んだ時期に種を蒔《ま》くと豊年満作となったそうです」
そのユタは久米村《くめむら》の外れに居を構えているらしい。
*
久米村は異国人が多く居留する町で、冊封使のいた天使館や、ベッテルハイムを軟禁している護国寺、花街の辻遊郭街、少し歩けば那覇港の御仮屋《ウカリヤ》がある。民族のモザイクタイルになった町は、ユタが王府の目を忍んで活動するにはもってこいの場所だった。
この町で最近、ひとりのユタが注目を集めるようになっていた。「百発百中。外れたら謝礼金の十倍返し」を謳って急速に勢力拡大を図ってきた。遊女の下世話な恋占いから、時のする農耕祭礼の日取りの選定まで占いの総合商社として地方|間切《まぎり》の役人たちまで押しかける盛況ぶりだ。あまりにも繁盛しているために、整理券のダフ屋まで出る有様だ。
明朝《みんちょう》時代の邸宅を買い取った建物は道教の様式でカムフラージュされているために、ユタ行為とは察知されにくい。巧妙なことに案内人は彼女のことを道教の女道士の称号である「坤道《こんどう》」と呼んで素性を更に攪乱《かくらん》した。
「次の依頼人、坤道様の前へどうぞ」
銅鑼《どら》の音が仰々しく鳴り響く。御簾《みす》の奥には道教の黒衣装を纏った婦人がヴェールのついた帽子を被って座っていた。
坤道は依頼人が話を持ちかける前に日取りを決めてしまった。
「祝言《しゅうげん》は来年の八月三日じゃ。なぜならそなたは忘れておるが来月は曾祖母の三十三年忌じゃ。吉事は先祖を祀ってからするのが人の道。八月三日なら干支《えと》も寅で長男の生まれ年と同じで縁起がよい。この日に祝言を挙げれば再来年には男子を授かるじゃろう」
「な、なぜ。私が長男の祝言の時を買いに来たとおわかりで……?」
「ほほほほほ。話が早くて良いじゃろう。妾には造作のないことじゃ。では次の者参れ」
執事の清国人がもうちょっと勿体ぶれと坤道に耳打ちする。
「坤道様、猫だましのような占いはおやめください。高い金を取っているんです。相手の話もよく聞かないと悪い評判が立ってしまいます」
すると女はヴェールの奥から碧眼を光らせたではないか。
「黙るのじゃ。妾を誰と心得る。妾はかつては聞得大君と呼ばれた王族神じゃぞ!」
巷《ちまた》で噂になっているユタは、かつて寧温に切支丹《キリシタン》の濡れ衣《ぎぬ》を着せられて平民に落とされた真牛《モウシ》だった。すっかり窶《やつ》れているかと思いきや血色も良さそうで、公務のストレスもないお蔭か、ちょっとふっくらしたようだ。
首里所払いを命じられ無系となった真牛は久米村へと流れ着いた。元々農作業には向かない性格だった真牛は、持ち前の霊能力を活かしてユタになることにした。しかし自尊心の高い真牛にとってかつて忌み嫌っていたユタに身を落とすのは苦渋の選択であった。
ユタになることは御嶽《うたき》をこそこそ拝むことである。御嶽は王府の管理下にあり、かつての部下に醜態を曝すのは嫌だった。折り合いのついた先がこの久米村である。坤道であれば孔子廟や天妃宮など道教の寺院で拝めるから都合がよかった。ただし庶民に坤道という概念はわかりづらく、ユタとすぐに噂されてしまったのだけど。
幸いなことに真牛のもうひとつの優れた才能である金儲けとユタが見事に融合した。元聞得大君にとって時のする日取りの選定など造作ないことだ。真牛はかつて王国の誰も為しえなかったユタと時を融合したパイオニアである。現代のユタが時を兼ねているのは、真牛の後に出来た路だ。真牛の荒稼ぎは止《とど》まることを知らなかった。多くの時を廃業に陥《おとしい》れ、多くのユタの収入を奪った。しかし真牛にとって金儲けは二次的な目的だった。
「妾は必ず王宮に戻ってみせるぞ」
『戻っても真牛様の居場所はもう王宮にはないのに』
「現聞得大君を引きずり降ろせば、妾は新聞得大君として返り咲くことが出来るじゃろう」
『はいはいはいはい。あなたはそういう人でした』
最初は宿敵・孫寧温に復讐《ふくしゅう》したい一心だった。寧温が王宮で出世すればするほど、真牛の復讐心は燃えあがった。しかし孫寧温が八重山に流刑になったと聞いたとき、真牛は純粋に王宮に戻りたいと思うようになった。このままだと平民のまま死んでしまう。王族としての誇りを取り戻し、王族として死ぬ。宗教世界の女王は死後の名誉のために、もう一度立ち上がろうとしていた。
「ところで郭泰洵の兵糧攻《ひょうろうぜ》めは上手く進んでおるか?」
「真牛様の猛攻のせいで、息も絶え絶えでございます」
「向家の姫君の慶事の選定は妾の仕事じゃな」
「それが、申し上げにくいのですが……。側室様の懐妊祈願の選定は郭泰洵に決まりました」
真牛は巨大な神扇を振りかぶった。
「この愚か者め。御内原に入る千載一遇《せんざいいちぐう》の機会じゃったのに、逃したのか!」
「郭泰洵は捲土重来《けんどちょうらい》を期して底値で入札しました。追いつめすぎたのが裏目に出たようです」
「ええい、この役立たずめ。このっ! このっ! このっ! このっ!」
伝家の宝刀の神扇での打擲《ちょうちゃく》は久米村でも健在だ。平民に身を落としても振る舞いは王族の風格のままだ。このエキセントリックな性格が表沙汰になれば、すぐに真牛だとバレてしまうのにお構いなしだ。
「坤道様、次の依頼人でございます」
通された依頼人は御内原の女官の恰好をしていた。真牛は瞳をヴェールで隠し、椅子に座り直した。なぜかわからないが、依頼人の意図が急に読めなくなって、真牛が混乱し始めた。
「あの、ユタ様。いえ坤道様。私の主人の懐妊祈願の時を買いに参りました」
「御内原の女官がなぜ妊娠したがるのじゃ?」
「いいえ女官ではありません。私の主人である、あごむしられ様の懐妊祈願でございます」
「ほほほ。最初から妾に頼めば話が早かったものを。向家の姫君が郭泰洵を解雇したか」
「いいえ。真美那様のことではございません。私の主人、真鶴様の日取りを選んでいただきたく存じます」
――なぜじゃ? 急に目眩《めまい》がする……。
常に未来と繋《つな》がっていないと意識を平常に保てない真牛は、話を聞くだけで視野が狭窄《きょうさく》していくような気分だった。
「これが真鶴様の生年月日と干支でございます」
女官が用紙を渡した瞬間だ。真牛が激しい頭痛に見舞われたではないか。まるで発作のようにのたうち回り、激しい痙攣《けいれん》が真牛を襲う。
「坤道様? 坤道様? 大丈夫ですか坤道様?」
――なんじゃこの女は? なぜこんな不浄な女が御内原にいるのじゃ?
真牛の頭に侵入してくる真鶴の情報が雑音に包まれて正体が読めない。御内原にいることは間違いないが、出生に偽りがある。真鶴は八重山の女ではない。ではどこで生まれたのか、探ろうとすると落雷のような衝撃が脊髄《せきずい》を逆流する。まるで読み解くなと邪魔されている感覚だ。それでも真牛は持ち前の霊力で真鶴を守護する稲妻を押し退けていった。
――こいつがあごむしられか。妾の霊力を阻《はば》むとは何者じゃ。
真牛が捉えた真鶴は迫力のある美貌の持ち主だった。意志の強そうな瞳に真牛は引っ掛かったが、女であることは間違いない。しかし女になったのはつい最近のことのようだ。霊力が真鶴の年は三歳と告げる。見た目は成人した女性なのに、おかしい。
――五年前、こいつは何をしていたのじゃ。
真牛の眼底に映ったシルエットは表十五人衆が被る紫冠の帽子だった。真牛がその視線を下に下にと落としていく。腰に前帯をしている。琉球の女が帯をするわけがない。こんな奇妙な人物をかつて真牛は知っていた。最後の力で稲妻を押し退けた真牛はふたつの性を生きる寧温と真鶴の姿を捉えた。
――あの宦官め。流刑になったはずなのに、ぬけぬけと王宮に戻っておったかっ!
真鶴の正体を見破った真牛は王宮への階段の一歩を踏みしめていた。
「あごむしられ様に直接お会いしたい。時はその折に告げよう」
王族への復活を懸けた真牛の碧眼が鋭く光った。
*
御内原の女官は機織りも好きだが賭け事はそれ以上に大好きだ。最高級の衣食住と十分な俸禄があれば、余暇の過ごし方が重要になる。女官たちはたいていのものを賭け事の対象にしてしまう。王族同士の争いで一番人気は聞得大君だ。元王女という血統の良さ、計り知れぬ霊力、老獪《ろうかい》な大あむしられ達を纏める統率力は新世代のリーダーに相応しい。以下、王妃、真美那、国母、女官大勢頭部、国祖母と続き、ぐんと落ちて最後に真鶴になる。余命半年と言われる国祖母よりもオッズが高いのは、ひとえに真鶴の後ろ盾のなさだ。国祖母は十年前にも余命半年と医者に言われたのに、死地にいても喧嘩となればアドレナリンを増大させるゾンビのような王族だ。
後之御庭では胴元の女官が賭けを締め切ろうとしていた。
「真鶴様に賭ける人はいないの? 今なら百六十倍の大穴よ」
「私は真美那様に百文。だって男の子を授かるって時が告げたそうよ」
「私は王妃様に百文。将来性に賭けたいわ」
「真鶴様には誰も賭けないの?」
「だって真鶴様はちょっと運が悪そうで……」
「仕方ない。奥書院奉行のお役人様にも賭けを広げましょう」
女官たちが接するぎりぎりの表世界が奥書院奉行だ。ちょうど女子校における男子教員のように人気を集めているのが嗣勇《しゆう》だった。
「ぼくは真鶴様に五百文!」
「五百文! 嗣勇様、本気ですか?」
髭を蓄えるようになった嗣勇は少年から青年へと華麗に変身していた。身分はさほど高くはないが奥書院奉行においては女官をよく纏める筆者として信頼が厚い。嗣勇は下級役人ながら着実にキャリアを築いていた。
「まったく真鶴ときたら、何て無茶なことを……」
真鶴と御内原で対面したときの嗣勇の驚きといったらなかった。男装の麗人だった妹が王宮から追い出され、八重山まで追いかけようと辞表を届けた日だった。側室がふたりあがったので、至急儀式を執り行えと命じられた。御内原に行けば流刑にされた真鶴が女の姿になって王宮に戻っているではないか。しかも真鶴の身分は側室という。嗣勇は立ち眩みがしてその日は一日中、酔っぱらった気分だった。妹が戻ってきたとなれば辞表は撤回だ。普段から日和見《ひよりみ》主義なだけに、豹変《ひょうへん》しても誰も訝《いぶか》しがらないのが嗣勇の強みである。こうなったら奥書院奉行のお調子者と言われても地位にしがみつき、妹を何が何でも護ってやろうと思った。しかし真鶴の立場を鑑《かんが》みると不用意な接触は却って危険だ。
「真鶴、首里天加那志の妻になることがおまえの幸せなのかい?」
これまでは真鶴と遠くから目を合わせたことしかない。下手に距離を縮めれば闇から闇へと神隠しのように抹殺されていくのが御内原だと嗣勇は身を以て知っている。真鶴の答えは聞かなくても分かっていた。
御内原が夕焼けに染まる。色味の失せた女の世界が一日の最後の瞬間だけ、正殿と同じ紅色に染め上げられる。紅い御内原を知る者は女たちだけである。美福門《びふくもん》が静かに門を閉じて役人たちに帰り支度を促す。
「この門が閉まったら、誰も見てはならない」
嗣勇は寂しそうに王宮を後にした。
赤田門《あかたじょう》やつまるとも
愛し美福門やつまてくいるな
(赤田門はたとえ閉じても役人の自分には通る術があるからいいが、御内原へと通じる最後の美福門は一度閉まると、もう誰も立ち入ることはできなくなる。妹はそこに行ってしまったのだ)
久米村へと急ぐ女官たちのお忍びの影があった。紗を被いだ真鶴は女官たちに急《せ》かされて躊躇《ためら》いながらも駆けて行く。懐妊祈願の日取りを買いに行くのがそんなに重要なのかとまだ御内原のしきたりに慣れていない真鶴は戸惑っていた。
「ユタは最高の日取りを真鶴さまのために用意したと申しておりました」
「男子誕生間違いなしだそうです。ああ、これで私の女官人生も報われるわ」
「もし世子様が誕生したなら、是非私を中城御殿《なかぐすくウドゥン》付きの女官にしてくださいませ」
結局、女官の本音はそこにある。彼女たちの第一希望は真美那付きの女官になることだったのを真鶴は知っている。後ろ盾のない田舎娘を宛《あて》がわれて貧乏くじを引かされたと腐っていたのを立ち聞きしたこともある。それが女官としてまっとうな意見だとわかっているから、こうして何事もなく付き合っている。かつて尚育王の側室が無念のうちに御内原を去って行ったとき、副葬品のように女官も一緒に追い出された。彼女たちが今どこで何をしているのか、杳《よう》として知れない。去った者に厳しいのが王宮だと流刑にされた真鶴は身を以て味わっていた。
「皆さんの処遇は決して悪いようには致しません」
「何を仰います。世子様をお産みになられるあごむしられ様を私たちは誇りに思っております」
お忍びの一行は久米村のユタの屋敷にやってきた。まるで地獄の門だと真鶴は身構える。道教の形態をしているが、空間を支配しているのはアニミズム的世界観だ。不老不死の神仙思想よりも死後の世界が大きい印象がする。真鶴は待合室の中で妙な装飾を見つけた。
「明の来知徳《らいちとく》の太極図に似ているけど、何か変だ」
急に銅鑼の音が響いて真鶴だけ奥の部屋に通された。暗い部屋の中央には御簾《みす》がかけられ、辛うじて奥に人影が判別できるほどの明かりしかない。
「坤道様、私は御内原のあごむしられでございます」
御簾の奥からは地鳴りのような不敵な笑い声が響く。
「ふふふふふ。御内原からご足労いただいて恐縮じゃ。まことにあごむしられ様であられるか?」
「はい。坤道様は時をなさると伺いました。吉《よ》き日取りをお選びください」
突然御簾があがった。椅子にかけている婦人は黒ずくめで顔も年齢もわからない。
「実はそなたの出生地に誤謬《ごびゅう》があるように思われる。まことに八重山の生まれか?」
「はい。私は八重山の在番殿の目に留まり、御内原へあげられました」
坤道は椅子から身を乗り出して、時双紙と検証を始めた。
「ちと困っておる。妾の見立てでは八重山ではないと出た。このまま八重山で日取りを出せば、母子ともに死産となってしまう。しかし正しい出生地で選べば世子が誕生するとある。本当は首里のお生まれなのではないのかえ。ほほほほほ」
真鶴の背筋に悪寒《おかん》が走った。
――さっきの太極図、三つ巴《どもえ》だ!
騙《だま》し絵のように同心円を重ねて描かれた太極図は王家の紋章だ。真鶴は逃げなければと咄嗟に席を立とうとする。その瞬間、神扇が開いて喉元に切っ先を当てられた。
真鶴がごくりと息を呑む。
「聞得大君加那志……。いや真牛様。お元気そうで何よりです……」
まさかここで元聞得大君に遭うとは夢にも思っていなかった。かつて王宮の暴君として振る舞っていた真牛を追い落としたのは寧温だ。二度と遭うことはないだろうと思っていたのに、王族と平民の立場で再び顔を合わせることになるとは皮肉である。
「ほほほほほ。ほほほほほ。あの孫寧温が女になっておるぞ」
ヴェールを払った坤道の顔から碧眼が光る。真牛が獲物を捕らえて高らかに笑った。積年の大敵・孫寧温をついに追いつめたと上機嫌だ。
「孫|親雲上《ペーチン》、いや孫親方にご出世されたとか。その後、国相《こくしょう》を殺して流刑になるとは山あり谷ありの忙しい人生じゃな。ほほほほほ」
「真牛様も切支丹から道教に改宗なさるとは節操のない」
「黙るのじゃ! そなたが切支丹の濡れ衣を妾に被せたのではないか! そなたのせいで妾は無系に落ちてしまったぞ」
「今の方が活き活きとされておいでです。王族は公務で疲れますからね」
真牛がカッとなって神扇で真鶴にビンタを喰らわせた。
「よくもぬけぬけとそんなことが言えたものじゃ。流刑地から王宮に戻って来るとは不貞不貞《ふてぶて》しい宦官じゃ。女に化けるとは考えたものじゃ」
「私はもともと女です」
真牛は目の前にいる女が孫寧温だとはまだ信じられない様子だ。真鶴の顔を覗き込むように見ては顔を歪めていく。胃がムカムカして唾を吐きつけてやった。
「おまえが、おまえが、あごむしられ? 清廉潔白《せいれんけっぱく》で純粋無垢な妾は無系で、賤《いや》しいおまえは王族か? この世に正義はないのか。神はおらぬのか?」
「元聞得大君が神はいないといえば廃業になるのではありませんか?」
「黙れ。弟の尚育を誑《たぶら》かすばかりか、甥の尚泰の妻になるとは、妾が許さぬ!」
真牛は真鶴をなぶり殺しにしてやりたいところだが、殺してしまっては名誉は回復しない。
「妾がそなたの正体は孫寧温だと告げるだけで、女官も兄も揃って斬首なのじゃぞ? そなたには妾の犬になってもらう。一度やったことがあるから教えなくてもわかるな。ほほほほほ」
真鶴が力無く崩れ落ちる。真牛の不気味な高笑いが闇夜の王国にこだました。
*
朝靄の中で美福門が欠伸《あくび》するように開く。続いて継世門も背伸びした。御内原に出入りの女官たちが出勤してくる時間だ。神棚のおせんみこちゃに線香当番の女官が火を灯しにやってきた。てっきり朝一番乗りだと思っていたのに、世添御殿から機織りの音が絶え間なく聞こえる。
「真鶴さん、おはよう。いやだ、また徹夜してたの?」
一心不乱に機を織る真鶴は真美那が側に来ても気がつかない。正確無比な仕事をする真鶴にしては模様が乱れていた。真牛《モウシ》は真鶴を御内原の刺客として遠隔操作することにした。身分回復に邪魔な王族を真鶴に消してもらえば、手を汚すことなく復権できる。真牛はこう命じた。
「まずは聞得大君の後ろ盾の国母に毒を盛るのじゃ。国母は痛風で龍胆瀉肝湯《りゅうたんしゃかんとう》を服用しておる。その薬を飲むのは国母だけじゃ。薬房へ行き少しずつ砒素《ひそ》を混ぜるのじゃ。死因は痛風と似ておるからそなたに嫌疑がかかることはない。ほほほほほ」
「真鶴さん、ねえ真鶴さんどうしたの!?」
自棄《やけ》くそのようにペダルを踏みつける真鶴に、真美那は眠気を吹っ飛ばしてしまった。織機が止まっても真鶴の息は荒かった。
「な、なんでもありません……」
こんなとき真美那は問いただしたりはしない。温かいお茶と甘いお菓子を用意した自室に連れて行くのだ。
「昨日、|千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《せんじゅこう》を焼いてみたの。私の千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》って美味《おい》しいって評判なのよ」
焼き菓子の千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》は真美那にぴったりの菓子だ。一口サイズの円筒形の上面に三色スミレのような花弁を載せる。見るからに野花を摘んだような、菓子の花籠ができる。
「隠し味が何か当ててみて。ほら、普通の千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》だと思われたくないのよ。ねえ食べて」
真鶴は一口頬張って、思わず真美那と目を合わせた。爽やかな柑橘の香りが口腔に広がったのだ。こんな千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》を食べたのは初めてだ。
「夏みかんの皮が入っています」
「当たり。それが評判の理由。息を吐くとみかんの香りがスーッとして気持ちいいでしょう。皮を煮て甘みを出すの。もしかして私って天才かしら?」
真鶴はもう一口頬張って言われるままに息を吐いた。真美那の言うとおり爽やかな息が体から出ていく。
「ねえ、女同士って上辺だけの友情しか結べないのかな?」
「人によるんじゃないんですか?」
「私は真鶴さんと競争させられているけど、女は子どもを産むしか能がないって価値観は大っ嫌いなの。なぜ女は勉強しちゃいけないのかしら? 私だって科試を受けたかったわ」
「真美那さんがですか?」
真美那が白い歯を並べて屈託なく笑う。
「そうよ可笑しいでしょ。五歳くらいまで私は自分のことを男だと思ってたの。これでも朝薫よりも早く『孟子』を読んだのよ。でもお爺様に見つかって、そのたびに定規で手を叩かれたわ」
「もう一個、千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》を食べてもいいですか?」
真美那は膝を抱えて腰をブランコのように揺らした。
「私ね、真鶴さんに会ったとき、この人も科試を受けたかった人じゃないかなあって思ったの。もし琉球が国民皆学の国だったら、きっと私たちは真和志塾《まわしじゅく》で机を並べていたかもしれないわね。私は今からでも勉強したいわ。科試は無理でもいろんなことを知りたいの」
「私でよければお教えいたしますよ……」
真鶴はまた千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》をひとつ頬張った。真美那の温かい心の味が体に染み入る。
「教えてもらうからには、お礼をしなきゃ。何があったのかチラッと教えてちょうだい」
真鶴は溜まっていた澱《おり》をオレンジピールの香りで少しだけ吐き出せた。
「実は、久米村に時を買いに行ったら、ユタがいて脅されたの……。その理由は――」
突然、真美那の手が真鶴の口元を覆った。
「チラッとでいいって言ったでしょ。あとは私に任せて」
真美那は評定所にいる朝薫に手紙を書いた。王府からの布令が出たのはその日の夕方だった。
[#ここから2字下げ]
よた仕候者厳重禁止之事
頃年よた致徘徊風靡段々候故風俗猥ケ敷相成、
剩御当国神事之訳致錯乱者勿論、物入ニ而家
内及困窮者余多罷居候故、則禁止被仰付候事。
違背之者於有之者厳科可申付者也。仍下知如
件。
十一月三十日
評定所
構向々衆中
[#ここで字下げ終わり]
久米村の真牛の屋敷では今日も荒稼ぎが行われていた。身分回復すれば金の心配は無用になるというのに、真牛は日銭稼ぎに取り憑《つ》かれている。かつては大金を借入金で賄《まかな》うほどスケールが大きかったのに、平民に落ちた弊害がここに生じたのかもしれない。
「これで妾はユタ稼業とはおさらばじゃ。ほほほほほ」
聞得大君御殿に戻れば、また我が世の春である。国母を暗殺すれば王妃に恩を売ることができる。尚泰王はあまりにも若い。聞得大君を政治の中心に据えた新体制を発足させるよい時期である。勝利の美酒に酔いしれていた真牛の元に執事が血相を変えて飛び込んできた。
「真牛様、真牛様、すぐにお逃げください」
「なんじゃ。妾は逃げも隠れもせぬ主義じゃ」
「王府が、ユタ狩りを発布いたしました! 久米村の時を処罰せよとの厳命です!」
窓の外を見ると大与座《おおくみざ》の役人たちが大挙して屋敷に押し寄せてきたではないか。
「まさか妾を捕えに来たというのか!」
真美那が従兄の朝薫に宛てた手紙は、ユタが女官を脅して御内原の風紀が乱れているという訴えだった。流言蜚語《りゅうげんひご》が飛び交い、胎教にも悪い環境だと向一族の自尊心を擽《くすぐ》った。勤勉実直な朝薫は真美那の進言通りにユタ狩りの命令を速やかに発布した。
「逃げるのじゃ。ここで捕まっては身分回復どころか流刑になってしまうわ」
「逃げも隠れもしない主義だったんじゃないんですか?」
「主義主張は屋敷に置いて逃げる」
しかし金を置いて逃げるだけの度量が真牛にはなかった。今まで貯めていた金は王宮に戻るときの衣装代にするつもりだ。王妃よりも風格のある紅型《びんがた》を纏《まと》うにはそれなりの貯蓄がいる。もたもたしている間に、大与座が屋敷を幾重にも取り囲んでしまった。
「開門。開門。王府であるぞ。ユタ行為の証拠はあがっておる。大人しくお縄を頂戴しろ」
かつて真牛が聞得大君だったときに発布したユタ狩りで自分が狩られてしまうとは、運命は皮肉だ。大与座がついに屋敷に押し入った。
「まさかこの妾が。この妾がユタ狩りに遭うとは……」
迫ってくる大与座の役人たちの足音に真牛がどんどん追いつめられていく。これは陰謀だと真牛はようやく理解した。
「あの宦官を甘くみていたわ」
かつて真牛が切支丹の濡れ衣を着せられたときも、寧温は寝込みを襲う策士だった。どういう手段を講じたのか知らないが、御内原にいてもあの宦官は評定所と繋がっている。隔離された御内原だからといって油断していた。
無数の六尺棒で八方からおさえつけられた真牛は、再びお縄となった。
「ユタ真牛であるな。王府の農耕祭礼の時の業務を許可なく行った罪は軽くないと思え」
「妾は前の聞得大君じゃ。日取りが読めなくて大あむしられ達を束ねられるか」
「まだ王族のつもりでいるのか。新しい聞得大君加那志はとっくに即位されているというのに。王室を侮辱するとは許せないユタだ」
「妾は終生聞得大君じゃ。大雨乞いもできない女が聞得大君じゃとは笑わせる」
真牛は鞭打ち二十回の刑に処せられた。平等所《ひらじょ》で磔《はりつけ》にされた真牛にひとつ目の鞭が振り上げられる。真牛は寧温を罵倒することで苦痛に耐えてみせるつもりだ。寧温を呪い、世の中を呪い、全てを呪って耐えてやろうと歯を食いしばった。
「ひとーつ!」
「おのれ寧温! 絶対に許すものか。こんな悪行《あくぎょう》を神が許すはずがないと思え。この怨み必ず晴らしてみせるぞ! ぎゃあああああ!」
「ふたーつ!」
「なぜ正義は妾に味方せぬのじゃ。妾は先王のオナリ神であるぞ。琉球の大神キンマモンよ。この腐敗した世界に神の裁きを。ぎゃああああ!」
真牛の絶叫は地を這《は》う雷《いかずち》のように王都を揺さぶった。かつて栄華を極めた王族神の敗者復活戦もまだ始まったばかりだ。
[#改ページ]
第十二章 運命の別れ道
琉球は宗教|祭祀《さいし》の王国だ。
民は毎日を生きるために十の願いをかけている。士族の男子に生まれたなら孔子廟を年に十回は祈願する。農民なら優れた時を雇い、豊年満作を願う。女子ならオナリ神となって三重城《ミーグスク》から兄弟の航海安全を祈願する。そしてノロなら、王国の繁栄を願うだろう。誰もが未来に漠とした不安を感じながら、それでも希望を見つけたいと願う。その思いに身分の貴賤はない。
三重城の頂《いただき》に乙女の姿が現れた。女官衣装である白いカカンのプリーツスカートが潮風を受けて翻《ひるがえ》る。女官は首里《しゅり》十二支参りを終えて、最後に三重城にやってきたのだろう。御内原《ウーチバラ》の女官がやって来たと知るや、拝みの順番待ちの列が割れた。
「どうぞ勢頭部《せどべ》様がお先に」
「礼を申すぞ。御内原へ急ぎ戻らねばならぬからな」
肩で風を切って割って入ったのは、思戸《ウミトゥ》だ。傀儡《かいらい》の女官を引き連れた思戸はちょっとしたセレブだ。王宮に勤める勢頭部といえば、女性の憧れの的だ。優美な衣装、最先端の知識と教養、そして十分な俸禄。男が王宮勤務に憧れるように、女にとっても王宮勤務は一生安泰な職業婦人への道だった。たとえ婚姻が許されなくても、王族の傍にいることは一族の名誉である。
思戸の扇子は魔法の杖だ。右へ左へ振れば人波が割れる。
「私は、おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部《はいれいとものせどべ》である。頭《ず》が高いぞ」
思戸はまるで狂気に取り憑《つ》かれたように女官の出世街道をひた走っていた。女官機構にも表世界と同じく階級がある。一番下が見習いのあがまで十歳未満の少女が登用され、勢頭部になるまでに勤続年数二十年はかかる。
勢頭部になってからも配属先で身分差が生じた。王妃の住む黄金御殿《クガニウドゥン》の勢頭部は花形部署だ。その中でも何を担当するかによって出世コースが決まる。思戸の担当する「おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部《はいれいとものせどべ》」は女官の中でも格別の地位である。正殿の二階にある祈りの部屋、おせんみこちゃで王と共に拝礼を許されるのは神女たちの中でも一握りだ。ここまで来るのに思戸はかなりの無茶をしてきた。
「思戸様、祈願の用意をいたしますから、木陰でお寛ぎくださいませ」
「わかった。準備ができたら呼びに参れ」
取り巻きの勢頭部たちが供物の入った風呂敷を開く。赤餅、白餅、五穀、紙銭《ウチカビ》、線香、酒、水、茶が次々と並べられる様は圧巻だ。庶民はこのうちの幾つかしか揃えられないのに、御内原の城人《グスクンチュ》なら造作ないことだ。庶民たちが輪になって拝所を囲むのは、勢頭部が祈願した後の撤饌《てっせん》が楽しみだからだ。
「さすがは御内原の勢頭部様の祈願だ。あの赤餅は私のものだからね」
「じゃあ白餅は私がありがたくいただきます」
「私ももうちょっと器量がよかったら御内原にあがったのに。羨ましいわ」
「どうやらあのお若い勢頭部様のご祈願のようですね」
「まあ、お若いのにご立派ですこと」
木陰で寛いでいる思戸に驚きの声があがる。下級女官のあねべほどの歳なのにもう勢頭部だ。母親ほど歳の離れた勢頭部たちを従えているなんて、よほどの才覚がなければ勤まらないことだ。
女官の出世階段を史上最速で駆け上がっていく思戸はかつて評定所《ひょうじょうしょ》にいた孫寧温《そんねいおん》の姿を彷彿《ほうふつ》とさせた。慣例やしきたりに囚《とら》われない思戸の快進撃は実に十人のごぼう抜きを果たした。御内原で出世したいなら相手の弱みを握ると同時に手柄を上手に再分配することだ。思戸はかつて聞得大君《きこえおおきみ》が金を使って人心掌握する様を幼心に刻みつけた。
取り巻きの勢頭部たちが一斉に思戸に頭《こうべ》を垂れる。
「思戸様、ご祈願の準備が整いました」
「うむ。ご苦労であった」
思戸が年少ながら御内原で一目置かれているのには訳がある。思戸は模合《もあい》と呼ばれる頼母子講《たのもしこう》の胴元をやっているのだ。模合は子と呼ばれる組合員が少額ずつ出し合い、その月の親が総額を受け取る小口金融だ。くじで親を決めたり、用入りの加盟者に融通を利かせたり、柔軟に金を分配する。
親の持ち逃げで模合が破綻《はたん》することは頻繁にあるから、加盟者の信頼関係が求められる。加盟者が多ければ多いほど高額を受け取れるが、互いの顔がわかりにくくなるために破綻しやすくなる。またひとりで複数の模合に加盟している場合、他の模合に連鎖破綻が起こる。思戸が胴元であることに異論がないのは、今まで一度も親になったことがないからだった。思戸は親の持ち逃げのときには損害を自腹で補填《ほてん》した。
この責任感の強さから今では御内原最大の模合を誇るようになっていた。システムの安定度は表世界の奉行所の役人も聞きつけるほどだ。思戸の審査を通らなければ模合に参加を許されない。模合に加盟したければ、思戸に忠誠を誓わなければならない。これが女官機構の身分差を越えた広域活動を可能にした。金を握ることは個人情報を掌握することでもある。相手の弱みはこちらの強みだ。金の工面に困っている女官がいれば、味方に組み込むチャンスだった。見返りは出世である。
御内原の女官たちは勾玉《まがたま》や房指輪などアクセサリーの収集に夢中なのに、思戸はひとつも持っていない。もし思戸が御内原を追い出されることがあったら、手ぶらで出て行くだろう。思戸がほしかったのはただひとつ「信頼」だ。信頼を出世の加速装置にしてあっという間におせんみこちゃ拝礼供之勢頭部になってしまった。御内原の支配者である王妃の側についた思戸は、今の身分では役不足と誰もが思っている。そういう空気を生み出す者は更なる上昇気流を掴むことができる。
取り巻きの勢頭部が思戸にそっと耳打ちする。
「思戸様、今月の模合を私に融通してはくれませんか? 父の生年祝いで用入りでございます」
「わかった。そなたを親にするように話をつけておこう」
「ありがとうございます。これで父に豚肉を食べさせてやれます」
みんなそうやって思戸に簡単に頼み事をするが、彼女がどれだけ身銭を切っているのか知っているのだろうか。今月の親となるはずの女官に心付けと食事の融通を取り計らい、場合によっては労働を代わってやる。繰り越した分だけ次の親のときには多く与えてやらなければ納得してくれないだろう。奥書院奉行所の模合にも加盟している思戸だからこそ融通が利くのだ。
「思戸様、ドゥジンの袖が擦り切れております」
思戸がふと袖に目をやる。何度も補修してきた衣装がもう限界に達していた。
「もう五年も同じものしか着ていないからな。綻《ほころ》ぶのも当然だ」
「私の予備のドゥジンでよければお使いくださいませ」
女官たちも思戸が贅沢しているわけではないからこそ、忠誠を誓った。御内原の女には何かひとつ飛び抜けた才能を要求される。機織《はたお》りの名人、琉歌《りゅうか》の達人、料理自慢、或いは美貌を誇ってもよい。何かひとつ優れた美点を持ち合わせなければ、憧れの王宮に入る資格はない。驢馬《ろば》のようなずんぐりとした体型の思戸は、成人したところで大した花にはなれない。地黒の肌に白粉《おしろい》を塗ってもくすむだけだ。ましてや教養や手先の器用さなど期待するだけ虚しい。そんな女が御内原で生き延びるためには、政治力を身につけるしかなかった。
「思戸様、何を願っているのですか?」
「私に生きる希望を与えてくれた恩人の無事を願っている」
三重城で思戸はずっと南の水平線を眺めている。約束の人に今の自分を一目見てほしかった。
――孫親方。ううん、寧温様。私は強くなりましたよ。
心の中にいる寧温と語るときだけ思戸は年相応の娘に戻れる気がした。寧温が流刑《るけい》になったあの日がなければ、思戸はとっくに御内原を追い出されていただろう。寧温が王宮に戻って来るまでは、何としても御内原に留まっていたかった。思戸を駆り立てる思いはそれだけである。
思戸は女官たちの分の線香を渡してやった。
「おまえたちも何か願うがよい」
「私は世子《せいし》様がご誕生されたら中城御殿《なかぐすくウドゥン》に配属されたいわ」
「私は黄金御殿で王妃様付きの勢頭部になりたいわ。国祖母様がいなくなったらと思うと毎晩恐くて眠れやしない」
すると思戸は擦り切れた袖を鼻に当てて笑い出すではないか。
「そんなもの神に祈願するまでもない。きっと私が叶《かな》えてやる」
「私たちは一生、思戸様について参ります……」
思戸はこの立場になって初めて寧温が背負っていた重さを知った。神が願いを叶えてくれない場合、人は人に願いをかける。その重さを知る者だけが、神に対して謙虚になれる。思戸は神に頼み事をしたことなど一度もない。思戸は神の苦労の一部を知るからこそ、こう祈願した。
――神様、どうか私の人生をご覧ください。きっと笑えますよ。
傍にいた女官が思戸の横顔に背筋を凍らせる。思戸は神に祈願しながらニヤリと笑ったのだ。模合を始めたのは表世界と繋《つな》がるためだ。御内原の模合が安定配当をすると聞きつけた奥書院奉行の筆者《ひっしゃ》たちを味方につけるときがやって来た。御内原は女の世界ではあるが、予算を決めるのは奥書院奉行だ。奥書院奉行の情報を握り予算配分に介入する者こそ、女官機構の頂点に君臨する。男の世界も女の世界も攻めるなら奇襲しかない。破滅するか、それとも登り詰めるか、思戸の一世一代の大博打が始まろうとしていた。
「さよなら私の初恋……。さよなら何も知らなかった私……。さよなら蔵に閉じ込められていた思戸……。私は泣かない。首を刎《は》ねられても泣かない……」
毎日を生身の感覚で生きていくためには、幼心は邪魔だった。女官と役人の恋など掃いて捨てるほど聞いてきたし、その弱みにつけこんでもきた。だからこそこの想い出は危険だと思戸にはわかる。敵に握られる前に自ら捨てておく。それが思戸を何倍にも強くしてくれるだろう。吹き付ける突風に思戸は密かにしまっていた初恋の想い出を捨てた。
沙汰も絶え果てて訪れもないらぬ
一人焦がれゆる胸の思ひ
(想い出のあのお方は一体どうしておいでだろうか。沙汰もなく何の便りもない。私は一人で思い焦がれている)
御内原は矛盾した空間だ。お喋《しゃべ》りしか能がない集団に、沈黙せよと猿轡《さるぐつわ》を噛ませる。数百の好奇心の目玉が飛び交っているのに、見てはならないと目隠しをする。狭い空間に女を集めておいて、聞いてはならないと耳を栓で塞ぐ。女という生き物は秘密を公開したがる癖がある。それを守秘義務などという性善説で達成するのは不可能だ。だから堅牢な城壁を造り完全閉鎖系の空間に閉じ込めておく。
黄金御殿の二階から正殿へと繋がる空中回廊がある。正殿は男女の世界の与圧室を兼ねている。二階は男子禁制だが、階下は女子禁制となる。かつて女官大勢頭部が寧温を煙たがったのは、二階に男性が入ってきたからだ。
空中回廊を越えた真鶴《まづる》は、目に見えない線が城壁よりも厚い壁になって立ちはだかっているのを感じた。まだ宦官《かんがん》だった頃の方が自由だった。性が確定した者は王宮の半分しか使えない。それは三司官《さんしかん》であろうと摂政《せっせい》であろうと例外はない。王宮に戻れば何とかなると思っていたのに、御内原は政治からもっとも遠い場所にあった。
正殿の二階は複雑な造りになっている。おせんみこちゃと呼ばれる神を祀る部屋。御差床《ウサスカ》と呼ばれる中華様式の玉座は厳粛な祭事の際に使われる。そして按司《あじ》御座敷と呼ばれる部屋は王族筋の婦人が使用する居室だ。この按司御座敷の窓からは御庭《ウナー》と北殿が一望に収められる。
「何とかして朝薫《ちょうくん》兄さんに列強対策を講じてもらわなければ……」
手を伸ばせば届きそうなほど近くにかつての職場があるのに、今の真鶴にはこれ以上近づけない。評定所で何が行われているのか知りたくても御内原の鉄壁の防御に阻まれて手も足も出ない。窓から筆者たちの動きを見ようと首を出していた真鶴に声がかかった。
「わっ! 真鶴さんって世添御殿《よそえウドゥン》にいないときにはいつも正殿にいるのね」
「真美那《まみな》さん! もう驚かさないでください。なぜ按司御座敷にいるんですか?」
「首里天加那志《しゅりてんがなし》からお呼びがかかったのよ。側室は按司御座敷に来るようにって。真鶴さんを呼びに行ったらもう正殿に行ったって言うから焦っちゃった。よかった。まだ誰も来てないみたい」
真美那は実家での暮らしよりも王宮生活の方を満喫しているようだった。真鶴と違って公《おおやけ》に生きることに疑問を持たないタイプだ。
「さっきから北殿ばかり眺めているわね。外の動きを探っているんでしょう?」
真美那の好奇心の強さに助けられもするが、困りもする。真美那は頭が良すぎるのだ。約束通り学問を教えてやることにした真鶴は、真美那の能力に驚嘆した。教養程度で十分だろうと高を括《くく》っていたら、首里国学の訓詁師《くんこし》以上の漢文能力を身につけてしまった。今や真美那は『詩経』を読み下し文なしで読める。初科《しょこう》なら確実に突破し、再科《さいこう》でも平均的な受験生よりも高い水準にある。これで本格的な科試《こうし》対策をさせたら、首席突破間違いなしだろう。知能指数の高い向《しょう》一族の中でも真美那は朝薫に匹敵《ひってき》する知性を持っていた。
「もしかして評定所に行きたいなって思っていたんじゃない?」
「なぜそんなことを……。私は女です」
「だって私は行きたいんだもん。学問を知れば知るほど私も評定所筆者になりたくなったわ」
「いけません。御内原の女にあるまじき振る舞いです」
言ってから、真鶴は自分の身を改めて思い知った。男以上の知能を持つ女は存在してはいけない。ましてや側室が政治に興味を持つなんて言語道断《ごんごどうだん》だった。真美那はそう気づかせるためにわざと言ったのだ。
真美那はそっと耳打ちした。
「あなたが特別な才能を持っているのはわかるわ。でも表世界に首を突っ込むと破滅するわよ。それが王宮での決まりごと」
「すみません。私、自分を見失っていました……」
正殿に一際高い声が響く。
「首里天加那志のおなーりー」
王族筋の婦人を従えた尚泰王《しょうたいおう》は、日に日に国王らしくなっている。顔にあどけなさを残す少年王に先王|譲《ゆず》りの知性が芽生えてきていた。あと数年もすれば誰も国王の威厳に異を唱える者はいなくなるだろう。
王族筋の婦人たちは側室が王をよく慰めているかどうか気がかりである。按司御座敷に側室を呼び出したのは、側室の綱領をもう一度聞かせるためだった。
「あごむしられ(側室)達よ、よくお聞きなさい。おまえたちは公務があることを忘れてはならない。御内原は王家の血脈を維持する場所である。なのに王妃様はまだ懐妊の兆しが見えぬ。こうなったら側室のおまえたちが第一子を出産するのだ」
「何のために二人も側室にあげたと思っておるのだ。真美那も真鶴も側室が何であるのか今一度胸に手を当てて考えるのじゃ。懐妊しない側室など何の価値があるのじゃ!」
「聞けば二人とも朝まで機織りばかりしているそうではないか! 首里天加那志がお訪ねになったとき織機の前で寝ていたとは、無礼であろう!」
真美那も真鶴も怒られてしゅんと項垂《うなだ》れる。正直、機を織っていると熱中しすぎて王が来たことを忘れてしまうのだ。尚泰王はふたりの側室が仲良く織機の前で寝ている姿を見るのが好きだった。尚泰王は親友のように仲睦まじいふたりを花を愛《め》でるように愛していた。
「伯母様たち、そう怒られるな。そこが可愛いところなのだから」
「首里天加那志、何を悠長なことを仰《おっしゃ》るのですか! せっかく器量のよい側室を迎えたと安心していたのに、眺めてばかりではいけません」
「そうですとも。王妃試験でお気に入りの浦添殿内《うらそえドゥンチ》の娘が落ちたのを今でも根に持っていらっしゃるのではないですか」
「余は真美那も真鶴も気に入っておる。浦添殿内の娘よりも遥かに美人だ」
「では、なぜさっさと子どもを作らないのですか!」
天真爛漫《てんしんらんまん》な真美那はいつも新作の菓子を用意してくれる。それがどれも絶品だ。つい真鶴を呼びつけて三人で菓子を食べる。頭脳|明晰《めいせき》な真鶴はいつも新作の柄の着物を用意して王を迎えてくれた。図案の素晴らしさに加え、博識の真鶴は異国の話を聞かせてくれる。話があまりにも面白いために真美那も呼んで明け方まで聞き入ってしまう。琉球のシェエラザードはまだ千一夜も語っていなかった。同衾《どうきん》するのはその後でもよい。こういう楽しみを伯母たちはわかってくれない。尚泰王がそう説明したら、伯母たちは卒倒してしまった。
「側室と三人で仲良く夜を明かす王がどこの国にいますか!」
尚泰王は年上の美女二人にメロメロだ。男は本気で惚れると却って性愛に慎重になる場合があるが、まさにそのパターンだ。尚泰王は思春期の淡い初恋を楽しんでいる。婚姻という契約済みの初恋だからこそ永く楽しめるというものだ。押し倒されないと愛されていないと感じるのは、そんなに愛されたことのない女か、或いは練習台にされた女の論理だ。それが証拠にすぐに飽きられて乾物にされてしまったのがこの伯母たちだ。
「あごむしられ達も、年上の女の色気を使いなさい!」
「そんなこと色気のない女に言われたくないわよ」
「真美那さん、それは逆鱗《げきりん》に触れます。ほら、言わんこっちゃない……」
「まあ、私たちのどこが枯れているのですか!」
「そうですとも。まだまだ若い娘には負けませんわよ!」
真美那は返す刀でばっさりと切り捨てる。
「その見栄っ張りなところが一番負けてるところじゃない」
「真美那! いくらあごむしられ様でも許しませんよ!」
乾物になった伯母たちが肋骨を揺さぶってカラカラと喚《わめ》く。尚泰王は真美那の痛恨の一撃に腹を抱えて笑い転げた。
「真美那の毒舌はいつも見事である。可愛い顔してキツイところが余の好みじゃ」
「ほら、首里天加那志と私たちは上手《うま》くやってるでしょ。遣《や》り手婆《てばば》の出る幕じゃないわ」
「鳴呼《ああ》。真美那さんまた余計な一言を……」
真鶴はこれは長引くぞと覚悟した。案の定、久慶門《きゅうけいもん》が閉まっても伯母たちの小言は延々と続いた。
*
首里の外れにある儀保《ぎぼ》の平等所《ひらじょ》でもまた怪奇現象に似た怒りが爆発していた。
「おのれ許さぬぞおぉぉ。妾《わらわ》を誰じゃと思っておるうぅぅ」
囚われた真牛《モウシ》は夜な夜な怪気焔《かいきえん》をあげている。罷免《ひめん》されたとはいえ聞得大君の霊力を持つ真牛が怒ると、空も連動して轟《とどろ》く。そのせいで平等所には雷雲が立ち込めていた。彼女の怒りは実体化した怨霊《おんりょう》とでもいうべき迫力だ。怨霊のくせに肉体もある、しかも元聞得大君の霊力も持っているときたら、僧侶の法力《ほうりき》でも対抗できそうもない。平安京を呪《のろ》った菅原道真でもまだ成仏した部類に入るだろう。
「妾を牢に繋いだ側室を呪ってやるのじゃあぁぁ。あの宦官をもう一度王宮から追い出してやるのじゃあぁぁ」
鞭打《むちう》ち二十回で放免されたはずなのに、反省の態度がないので真牛はまだ平等所に投獄されていた。もっとも彼女の辞書に「反省」という言葉はない。反省すべきは常に相手であり、社会通念であり、ひいては国家の体系である。生まれながらに神と呼ばれた女は、平民に落ちようとも気高く、驕慢《きょうまん》に、鬱陶《うっとう》しく生きていた。
「妾は何としても王宮に戻ってやるぞ。あの宦官を妾の足下に這《は》い蹲《つくば》らせてやらねば、神に申し訳が立たぬ。妾は聞得大君であるぞ!」
雷の直撃で平等所が揺れた。少なくとも神のご加護はまだあるようだ。あまりの恐ろしさに役人たちも遠巻きに牢舎を眺めるしかない。
「こら真牛! 頼むから雷を落とすのだけはやめてくれ」
「だったら妾を牢から出すのじゃ。こんなことをしてタダですむと思っておるのかあぁぁ!」
「出たらどうするつもりだ?」
「おまえの門中《ムンチュウ》を七代|祟《たた》ってやるのじゃあぁぁ!」
「そこまで聞いて誰が出すと思うか、このフラー(バカ)」
「妾に向かってフラーとは何事じゃ。牢から出たら神に祈願してそなたの家系を根絶やしにしてくれるわ!」
「そんなことされたくないから牢にブチ込まれていると思い知れ」
「許せぬ。牢から出たらそなたの門中墓から先祖の霊を追い出してくれるわ!」
役人はやれやれと溜息をつく。投獄されて以来、毎晩こんな調子なのだ。真牛は釈放されることを前提に呪うと告げている。こんな分《ぶ》の悪い取引はない。真牛と話していると何が正気の論理なのかわからなくなってくる。ただ論理が破綻した分、怨念の迫力はある。
そんなある夜、平等所がやけに静まりかえった。不審に思っているとかつての清《しん》国人執事が真牛の元にやってきたではないか。
「真牛様、真牛様、今なら逃げられますよ」
「おお陳《ちん》執事か。どうやって平等所に入れたのじゃ?」
「平等所のお役人様を買収してやったのですよ。丑《うし》の刻までなら辻で遊んでくるそうです」
「その金はどこから工面したのじゃ?」
「真牛様が稼いだお金で……ひいいっ、お許しください。お許しください」
筵《むしろ》を破いて作っておいたボロの神扇が飛ぶ。
「妾が汗水流して働いた金をジュリ(遊女)にやるとは、愚か者め。このっ! このっ! このっ! このっ!」
真牛は格子から手を突き出して不心得な部下を打擲《ちょうちゃく》する。陳執事が鍵をこじ開けようとしているのにお構いなしだ。
「生き延びてこそのお金ではありませんか。真牛様ちょっと痛いです。辮髪《べんぱつ》を引っ張らないでください。もう少しで鍵が開きそうなのに……。痛いですってば。――開いた!」
やおら牢を抜け出した真牛は高笑いで脱獄を謳歌する。
「ほほほほほ。妾が王宮に返り咲いた暁《あかつき》には平等所の役人を全員投獄してくれるわ」
「復讐《ふくしゅう》する前にまずはお逃げください」
「陳執事、忘れたのかえ? 妾は逃げも隠れもせぬ主義じゃ」
『はいはいはいはい。言ってみたかっただけなんでしょう。ホントにこの人は強がりばっかりで』
しかしこの性格に慣れると憎めなくなるから不思議だ。真牛はこれでも情が篤《あつ》いところがある。かつて陳が故郷を偲《しの》んで天妃宮を拝んでいたとき、平民に落ちたばかりの真牛と出会った。泣いていた陳に真牛はちゃんと拝んでやるから元気を出せと慰め、三重城から福州《ふくしゅう》の家族の無事を祈願してやった。真牛の霊験《れいげん》は灼《あらた》かでしばらくして福州の家族から手紙が届いた。
「真牛様は私の恩人ですから――」
そう言って陳は目を細める。だから真牛の多少の我《わ》が儘《まま》な性格は片目を瞑《つぶ》って見逃している。それどころかときには可愛いとさえ思うこともある。陳が辮髪を小気味よく弾ませて笑った。
「じゃあ真牛様、主義主張は牢に置いて逃げましょうか」
「そうしよう。後で回収すればよいだけじゃ」
月のない晩、二つの影がそっと平等所を後にした。脱獄した真牛が闇夜にぼうと浮かぶ王宮を見つめる。あの紅《くれない》の宮殿に彼女の青春の全てと栄光の日々が詰まっていた。真牛は誰よりも王宮を愛し、そして王宮から愛されていると信じていた。しかし時代は去りゆく者に容赦《ようしゃ》ない。新しい王が即位し、真牛の知らない女が王妃になり、敵対していた女官大勢頭部はもういない。そして民はかつて泣き虫だった王女を新しい聞得大君として敬愛する。今や王宮の半分は新世代のものだった。
誇らかで、華やかで、煌《きら》びやかで、千年の繁栄を謳歌するようだと讃えられた真牛が、毎日過去に追いやられていく。
「あの日に戻りたいものじゃ……」
真牛の頬に冷たい涙が走る。陳は見てはいけないと咄嗟に目を逸《そ》らした。
御内原は正殿が眠った後に目を覚ます。白木造りの建築空間は夜目に映《は》えるように演出されている。正殿の中央に施された火焔宝珠《かえんほうじゅ》が太陽の明かりなら、御内原は月の世界だ。月の引力を最大に受けた御内原には、毎月大潮がやって来る。
黄金御殿から思戸が現れる。提灯《ちょうちん》を携えた女官たちにてきぱきと指示を与える。
「首里天加那志があごむしられ様をお呼びである。急ぎ仕度せよ」
「どちらのあごむしられ様でしょうか?」
「真鶴様をご指名である」
基本的に王の希望は優先されるが、それを意のままに操《あやつ》るのが女官の技術だ。
「思戸様に向摂政からのご伝言でございます。時の郭泰洵《かくたいじゅん》が読み解いた日付によりますと、今夜、真美那様が首里天加那志の元に通えば懐妊すると出ているそうです」
「向家に恩を売っておく機会か……。わかった真鶴様はお風邪を召されておると伝えよ」
ここまでは普通の情報操作だが、思戸は違った。これはインサイダー取引に使えると踏んだ思戸は仲間内の女官に「首里天加那志は真鶴様をお呼びになったと言うのだ」と耳打ちした。意図的に誤報を出し、賭けのオッズにバイアスをかけるためだ。
思戸は世添御殿にある真美那の部屋の前に立った。
「首里天加那志がお呼びでございます」
お呼びがかかった側室を黄金御殿へとあげるには準備が必要だ。吉祥文様の打ち掛け、縁起のよい化粧、そして禊《みそぎ》。髪の先から爪まで徹底的に磨かれる。その様は一種の工芸作品の製作に近い。完璧な肉体が最新の美容法で磨かれるのだから、輝きは弥《いや》増す。美容担当の女官は、真美那を磨きながら目眩《めまい》を覚えていた。真美那にやり過ぎはない。演出の意図を心得た真美那はどんな美意識も己《おのれ》の知性で吸収してしまうのだ。王だけが観る舞台にひとり立つ女優。ひとりでありながら豊かな物語性を感じさせなければ舞台は成立しない。
「創世神話のアマミキヨはこんな感じだったのかしらね?」
「さすが真美那様です。私どもの意図を汲んでいただいて光栄に存じます」
真美那は手鏡を見ながら自分に暗示をかけていた。
「私はアマミキヨ。私はアマミキヨ……」
仕度を終えた真美那が世添御殿から出てきた瞬間、思戸が息を呑んだ。神々しく輝く真美那は御内原を照らす月の女神になっていた。塗りたくって誤魔化した美ではない。全ての装飾が真美那のために完璧に機能している。時計仕掛けにも似た精密美。人はこれほどまでに高められるのかと驚かずにはいられない。真美那は己の力で御内原の建物を舞台美術にしてしまう。ひとりの女優のために用意された贅沢《ぜいたく》な舞台美術。御内原の全機能が真美那に集約されていた。
「お待たせいたしました。黄金御殿に参ります」
真美那の歩いた後から牡丹《ぼたん》の香りが靡《なび》いていた。
黄金御殿は王の居住空間であり、御内原最大の建物だ。御内原では唯一の二階建て建築で、正殿と空中回廊で対になっている。内部は世界中の美術工芸品で飾られ、三カ月に一度は全ての調度品が取り替えられる。王ですら王室が所有する美術品を生きている間に全て見ることは不可能だ。生花のようにそっと取り替えられ、気づけば見たことのない品が現れる。誰も知らない密室は万華鏡《まんげきょう》のように無限の模様を刻み続ける。
真美那は黄金御殿の一階に通された。何度来てもここの造りは覚えられなかった。襖《ふすま》も鏡を合わせた空間のように連なっている。一枚目、二枚目と通過するたびに女官が下がっていく。
「鏡の国に迷い込んだみたいだわ」
次元を超えていくような錯覚に真美那は王が遠い国の存在に思えた。最後の襖が開く。思春期の少年王は緊張で汗ばんでいた。尚泰王もまた時空を超えてやってきた真美那に神聖さを感じた。あの天真爛漫でお喋りな真美那が伏し目がちに息を殺している。
「アマミキヨの降臨か……」
王宮の反対側の京《きょう》の内《うち》では大あむしられ達が懐妊の祈願をしている。貴人の寝室は情事というよりも呪術祭礼で管理されていた。王宮では創世神話の舞台が始まろうとしていた。
真美那は郭泰洵から渡された懐妊祈願のまじない札を握りしめる。
「このフーフダー(まじない札)を枕元に忍ばせる……」
真美那は御内原の掟《おきて》を頭から順に追う。決して逆らってはならない。目を合わせてはならない。声をたててはならない。挑発してはならない。背中を追ってはならない。王の体に触れてはならない……。京の内の祈願に耳を澄ませ月の気を全身に受け入れる。
「首里天加那志と会話してはならない。約束してはならない。泣いてはならない……」
尚泰王が真美那の打ち掛けを外した。まるで調度品の壺を愛でるように包んでいた布を慎重に解いていく。真美那は肌を露《あらわ》にしていくのに、寒くはなかった。それどころか汗ばんでしまう。真美那の喉元に指を這わせた尚泰王は、彼女が呑んだ息の形を捉えた。
「真美那よ、そなたは美しい……」
頬が触れあった瞬間、互いを熱いと感じた。肌も咽《のど》も息も全て燃えているようだ。真美那はそっと目を閉じて王に身を任せた。
「求めてはならない。溺《おぼ》れてはならない。冷《さ》めてはならない。あっ……」
咲きかけの蕾《つぼみ》だった牡丹が一気に満開になり、真紅の花弁の中央に金粉ともいうべき鮮烈な花粉が現れた。芳醇《ほうじゅん》な古酒に似た香りが御内原に漂う。眼底を潤《うる》ませる甘美なときが流れる。真美那は月の女神に誘われてしばし無重力空間を漂っていた。種を貰い地上に降りていく創世神アマミキヨ。この種を大地に根付かせ育て、繁栄させるのが自分の使命だと真美那は感じた。
「真美那よ。泣いているのか?」
尚泰王に問われるまで真美那は涙していることに気づかなかった。なぜ自分が泣いたのか適切な答えがわからない。嬉しいから泣いた気もするし、恥ずかしくて泣いた気もする。しかしどれも上手く言い得ていない。
「畏《おそ》れながら首里天加那志。私の涙など意味のないことでございます……」
たぶん、真美那は自分が国土と繋がったからではないかと思った。国土が真美那を必要とするならその意志に従う。個人の感傷は些末なことである。
阿摩美久のみちやも天降りめしやうち
つくる島国や世世《ゆゆ》に栄る
(祖神アマミキヨがこの世界に降りたち、造られた島国は永遠に栄えるでしょう)
明かりが消えたのを確認した思戸が、城郭の外にいる向家の使用人に合図の鳩を放つ。
「真美那様が首里天加那志の元に行かれたぞ。すぐに摂政に伝えるのだ」
向家では先祖の位牌を前に夜通しで祈願を行う。雇った拝み屋は元王府の神女十二人だ。世代交代で退職した老練な神女は京の内の祈願を三倍にも五倍にも増幅させることができる。向一族は全員御祓を終え、先祖の位牌の前で神妙な面持ちだ。勤務を終えた朝薫も祈願に駆けつけている。普段は鷹揚な向摂政も珍しく焦りを見せていた。
「これで真美那が懐妊しなければ始祖・尚敬王に後生《グソー》(あの世)で合わせる顔がない」
「大丈夫です。真美那様はきっとお務めを果たしてくださいます」
「そういえば朝薫のところは先日無事に出産を終えたとか?」
朝薫は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「はい男の子でした。一カ月の満産祝いには是非、向摂政もお越しください」
「あの首里の神童と謳《うた》われた朝薫が父親か。時が経つのは早いものだ。それで名を何とつけた?」
「はい、朝温《ちょうおん》とつけました。科試合格最年少記録を更新してほしいですからね」
「よい名だ。我が一族は常に優秀な人材を王宮に送る義務がある。それが国家繁栄の基盤だ」
「私たちは家の名に胡座《あぐら》をかきません。それが始祖・尚敬王への何よりの供養ですから」
圧倒的な既得権益の集団でもある向家は、慢心することなく実力で勝負するのが身上だ。公明正大な最大勢力に騙《おご》りはない。
向家の祈りは未明まで続いた。
*
王宮が古い殻を脱ぎ捨て、新しく生まれ変わろうとする中、ひとり逆回転の歯車にならんとする女がいる。脱獄した真牛はお尋ね者になっていた。久米村《くめむら》から那覇へ、那覇から真和志村《まわしむら》へと転々とする隠遁生活にまたブチ切れた。
「ええい。なぜこの妾がコソコソせねばならぬのじゃ!」
「それは真牛様がお尋ね者だからです」
「冤罪《えんざい》じゃ。なぜ妾には濡れ衣《ぎぬ》ばかりがつきまとうのじゃ」
「ユタ行為は事実でございます。痛い痛い。おやめください真牛様。坤道《こんどう》様でございました〜」
神扇で鬱憤《うっぷん》晴らしの打擲を終えた真牛は、また眼を光らせる。
「妾の肉体は国土そのものじゃ。国土が罪を犯すわけがないじゃろう。法が間違っておる」
芋をふかしてきた陳が恐る恐る差し出した。これで二カ月毎日芋だ。農民から懇意でわけてもらっているが、真牛には十分な食事とはいえなかった。芋を一瞥《いちべつ》した真牛はなかなか手をつけようとしない。
「真牛様のお口には合いませんでしょうか……?」
「陳執事。そなたこの神扇をどこで手に入れたのじゃ?」
「それは真牛様の象徴でございますから、私の宝珠を売って手にいれました」
「何と。あの上質な翡翠《ひすい》を売ったのか。そなたの故郷での形見であろう」
「私の故郷などどうでもよいことでございます」
真牛はあの翡翠が彼の全財産だったことを知っている。それ以上に彼の心の支えだったはずだ。琉球で一旗揚げてくるまでは帰らないと誓ったのに、今では逃げ回る生活だ。それもこれも自分と関わったせいだと真牛は胸を痛めた。
「何としてもあの翡翠を取り返す。神扇を返しに行くぞ。売り主のところに連れてゆけ」
陳が案内した先は王国でも有数の海運業者だ。士族の一部には王宮勤務とは別に商売に手を染める者がいる。
身分は高くないが得られる富は莫大だ。新興ブルジョワ階級ともいうべき彼らは王府とのパイプを使って手広く商売をしていた。この背景には複雑な事情がある。那覇士族は首里士族と違って登用される身分に限界があったからだ。
都市部の士族は首里士族、那覇士族、泊《とまり》士族、久米士族に分類される。那覇行政の首長である那覇|里主《さとぬし》は首里士族の役職で、那覇士族は二番目の地位である御物城《おものグスク》と呼ばれる御仮屋《ウカリヤ》との調整役に登用されるのが上限だった。
上に行けないのなら、外に向かえばいい。彼らは地位と名誉よりも実利を求めた。
海運業者の屋敷は成金特有の舶来趣味の御殿だ。中国の様式と日本の意匠がグチャグチャに混ざっている。傍目には豪華だが美と教養が足りない様が端的に表れていた。
「なんじゃこの屋敷は。伽藍《がらん》のようじゃが、太霊九光亀台金母《たいれいきゅうこうきだいきんぼ》を祀っておる」
「太霊九光……ああ、西王母《せいおうぼ》ですね。女の神様だからオナリ神に通じるのではないでしょうか」
「ここは妾が昔、懇意にしていた海運業者じゃ。主と話をつけてやるから、そなたは黙っておれ。これ使用人。この屋敷の当主に用があるから取り次げ。先王の聞得大君が参ったと言え」
その名前を聞いた瞬間、門番は血相を変えて屋敷に駆けて行った。その様子に真牛も満足だ。
「ほほほほほ。妾の威光もまだ衰えておらぬな。犬でも人でも恩を受けたら返さねばならぬ。それがこの世の理《ことわり》というものじゃて」
「さすが真牛様でございます」
「昔この海運業者の弁財天を拝んだことがあってな。繁盛に貢献してやったのじゃ」
「情けは人のためならず。ご人徳でございますね」
王族のくせに海運業者と癒着《ゆちゃく》していた過去が真牛の幅広い人脈の源《みなもと》になっていた。翡翠を返してもらうついでに屋敷と当面の生活費も保障してもらえそうだと真牛は算段している。なにしろ真牛は脱獄の賄賂《わいろ》で無一文になってしまったのだ。王宮に戻る前に王族としての品位を取り戻しておかねばならなかった。
使用人の男が慇懃《いんぎん》な態度で戻ってきた。
「お館様《やかたさま》がお会いになるそうです。どうぞこちらへ」
「いざというとき頼りになるのは旧知の友じゃな。ほほほほほ」
屋敷に通された真牛の前に海運業者が現れた。主は信じられないと驚いた様子で真牛をしげしげと見つめては周りに確認する。前の聞得大君は切支丹《キリシタン》の罪で首里所払いになったと聞いた。それ以後、真牛の行方は知れなかった。その真牛が屋敷に訪ねてくるとは青天の霹靂《へきれき》だ。
「本当にあの聞得大君加那志か?」
「何を狐に抓《つま》まれたような顔をしておる。妾は幽霊ではないぞ。久しぶりじゃな。ほほほほほ」
神扇を悠然と煽ぐ真牛に主は呆然としている。身分は平民に落ちたが、この居丈高《いたけだか》な態度は平民が真似て出来るものではない。それに真牛の身体的特徴が何よりの身分証だ。
「間違いない。確かにその碧眼《へきがん》は聞得大君加那志でございます」
「久しぶりにその呼び名を聞いた。そなたも繁盛しておるようで何よりじゃ。実は相談があってやって来たのじゃ」
「実は私どもも聞得大君加那志の消息を方々探しておりました」
「きっとこの巡り合わせは弁財天のご加護じゃろう。そなたの信心が通じたのじゃ。ほほほほほ」
真牛は出された菓子の花ぼうるを、ひとつ、ふたつと袖に入れている。海運業者は王府と太いパイプを持つ。捲土重来《けんどちょうらい》の足がかりには十分だった。
「実は少々金を工面してもらいたいのじゃ」
真牛が花ぼうるを齧《かじ》った、そのときだ。座敷に屈強な船乗りたちが大挙して現れたではないか。真牛と陳は瞬く間に取り押さえられてしまった。
「無礼者。妾に狼藉《ろうぜき》を働いてタダですむとおもうのか!」
主はまだ真牛が自分の立場を理解していないのに腹が立った。真牛のせいで海運業の資金が滞《とどこお》り、今や破綻寸前に陥《おちい》っていたのだ。主は畳に押さえつけられた真牛の前で仁王立ちになる。
「聞得大君加那志、いや真牛様。私どもと大事なお約束があったのをお忘れではありませんか?」
「約束じゃと? 妾は誰とも取引などせん主義じゃ」
「主義主張はこの際、王宮に置いてもらいましょう。真牛様がかつてお住まいになっていた聞得大君御殿の増築の一件をご存じでしょうか?」
「あのときは宦官に予算を削減されて苦しかったときじゃ。あの宦官さえいなければあと倍は大きく増築してやったのに」
「しかし真牛様は増築を強行なされたでしょう。私どもからの借入金で!」
主が突きつけたのは、かつて聞得大君が海運業者と交わした証文だった。
[#ここから1字下げ]
証 文
銀子壱千貫文 但三割利
右聞得大君御殿重修入用付慥致借上候。返弁
之儀者知念間切従知行高之扶持米井御殿家禄
之内毎年五拾貫文宛弍拾五年割賦を以致返済
積候。利銭相当之高者其方守護弁財天之御高
恩被得様昼夜此方ニ而祈願之働可致積候。為
後証如斯御座候事。
丑八月
聞得大君加那志
参 西村我謝筑登之親雲上
[#ここで字下げ終わり]
借りた分際のくせに自分の名前を上に書くのは、聞得大君の特徴だ。黒の捺印も真牛が個人的に作らせたものだ。逃げも隠れもできない証拠に真牛はやっと思い出した。
主が証文を読み上げる。
「この度、聞得大君御殿の増築にあたって、銀子《ぎんす》一千貫文を借金する。返済は知念間切《ちねんまぎり》の所領代の一部と王府の聞得大君御殿の予算の中から毎年銀子五十貫文ずつ、二十五年間の分割で支払うものとする。また利息として海運業者の所有する弁財天を聞得大君が毎日優先して祈願し、航海安全を保証する。どうだ思い出したか!」
真牛は自分の筆跡に殴られたような思いだ。
「それは王府に払わせるがよい。妾はもはや聞得大君ではないわ」
「王府に督促に行ったら、これは真牛様と私の契約で王府は関係ないと言われた。証文は前の身分に拘らず有効であると系図座のお墨付きも得たぞ」
真牛は王宮を追い出されたときに着の身着のままだと思っていたが、莫大な借金を背負って首里の丘を下りてきたのだ。
この時代は借金から人身売買、はたまた信用取引まで様々な証文が交わされていた。
「おい真牛。犬でも人でも恩を受けたら返さねばならない。それがこの世の理というものだ」
「バカな。妾に借金があったとは……」
因果応報とはいえ、聞得大君在位のときの無計画な資金繰りが、貧民になった真牛の首を絞めるとは皮肉である。銀子一千貫文など個人の力で返せる金額ではない。自己破産しようにも債務者の権利などこの時代にあるはずもない。
主が真牛の顎《あご》を掴んだ。
「おまえには借金の返済をしてもらう。年は食っているがなかなかの器量じゃないか。それなりの衣装を着せれば見栄えはするだろう」
「妾を芝居小屋に売るつもりか。役者などまっぴら御免じゃ」
海運業者は充血した目で睨《にら》みを利かす。
「誰が役者にすると言った。辻で経営している遊郭《ゆうかく》がある。金がないなら、体で払ってもらおうじゃないか――!」
「妾をジュリ(遊女)にすると申すのか! この無礼者! これでも琉球の最高神女だった女じゃぞ」
「だから高く売れるというものだよ。ふふふふふ」
かつての友は今日の敵だ。捕らえられた真牛は辻の遊郭に売られて行った。あまりの出来事に陳も気が動転していた。あの無敵の真牛が借金の質《かた》で女|奴隷《どれい》にされてしまうなんて。
「真牛様。真牛様! 何ということだ。誇り高き真牛様が遊女にされるなんて……!」
真牛は王宮から追放されたときには取り乱さなかったのに、辻に売られていくときには嗚咽《おえつ》を漏《も》らした。身分の卑しい者を忌み嫌ったのは信仰心を持たないからだ。神と共に生きれば自ずと道は見える。琉球において女は神格を持つ性である。ユタは宗教体系を揺るがすから嫌いだった。ましてや遊女は動物のように男を誑《たぶら》かすから許せなかった。女は神になって道を示すのが婦徳なのに。
「妾がジュリに……。この妾が売られていく……」
滾《たぎ》り落ちる涙が止まらない。しかし、どんなに泣いても噎《むせ》んでも現実のしがらみは解けない。真牛は精気が抜けて真っ直ぐ歩くこともままならなかった。
登るはずの階段から滑り落ちた元王族神が、奈落の底へと墜ちて行った。その後、生きる希望を失った陳は、ひっそりと清国へ帰ったと久米村の仲間たちが噂した。
*
春の訪れと共に御内原に朗報がもたらされた。ついに真美那が懐妊したというのだ。評定所も御内原もめでたい報せに沸き返っていた。向一族は真美那の手柄にほくそ笑み、女官たちは賭けの配当を巡って賑わっている。
「真美那様は世子をお産みになられるのでしょうか」
「まだわからないけど、郭泰洵が予言した日にご懐妊されたんだから、ほぼ確実でしょうね」
「誰よ。真鶴様がご懐妊されると吹聴《ふいちょう》した奴は。鳴呼、これであたしの百文が……」
御内原では真美那の出産に向けて女官たちが再編成されていく。
「真鶴様、どうかお許しくださいませ。私ども本日付で真美那様のお子様の養育係を命じられました」
「よいのです。女官は王族を支えるのが仕事。私の側にいるよりも働き甲斐があるでしょう」
真鶴の元を去っていく女官は晴れ晴れしさを隠さなかった。真鶴も真美那の懐妊を素直に喜んだ。男の子であれ、女の子であれ、早く顔を見たいと思う。真美那はまだ自分の体の変調に慣れていない様子だ。真鶴がそっと真美那の部屋を訪ねた。
「真美那さん、悪阻《つわり》はどう?」
「思ったよりひどいわ。何を食べても吐きそうになるの。こんなになるってわかってたら妊娠したくなかったわ」
「それは贅沢というものです。私に何か出来ることはありますか?」
「じゃあ妊娠を代わって」
真美那の無邪気な笑みの中にもう母性が滲《にじ》み出ているのを彼女は知っているだろうか、と真鶴は思う。慈愛と幸福感に包まれた真美那から穏やかな波動を感じる。これは一種の羽化ではないか。子どもを産むことによって女は母へと変態していく。真美那の今までの美しさは所詮、蛹《さなぎ》の美に過ぎない。真美那がどんな蝶になるのか、そしてもし自分が妊娠したとき、どんなふうに羽化するのか真鶴は一抹《いちまつ》の不安を抱かずにはいられない。
――私は蛾になるかもしれません。
やっとの思いで女になったのに、女の先にはまだ羽化が残っていた。綺麗な蝶になれる女は、好きな人の子を産める女だと真鶴は思った。不承不承、母にさせられる女は夜の蛾になる。蛹のときにその差はほとんど見分けがつかないのに、羽化は誰の目にも明らかな正体を曝《さら》してしまうのだ。真鶴は小さな羽でもいいから蝶になって日差しの中を飛んでみたい。どうすれば蝶の仲間になれるのだろうか。
――雅博殿はどうしていらっしゃるのだろうか。
真鶴は思い詰めた眼差《まなざ》しで虚空を見つめている。
「真鶴さん、何か心配ごとでもあるの?」
「真美那さんの悪阻を代わってあげました」
真美那がコロコロと笑い出す。
「あら本当だ。悪阻が治まったわ。親友って便利ね。じゃあ出産も代わってもらおうかしら?」
真美那はもうすぐ目映《まばゆ》い黄金色の羽を持つ王宮の蝶になる。
蝶《ハベル》みよやかて朝夕花の上に
遊でとがめゆる人もをらぬ
(蝶は何と幸せだろうか。朝も夕も花の上で遊んでいても咎《とが》める者はいないばかりか、人に愛されている。私はそんな蝶になりたいものだ)
正殿の二階にある、おせんみこちゃと呼ばれる拝礼所は、王宮がグスクと呼ばれる聖域であることを如実に示している。首里城は聖域の中に行政機構を宿した巨大グスクだ。おせんみこちゃへの拝礼は朝と夕行われる。王と神女・さしのあむしられ、そして随行を許された女官だけの特別な儀式である。
「さしのあむしられよ、真美那が無事に出産するように祈ってくれ」
「御意《ぎょい》。首里天加那志」
「それと真鶴の健康の祈願も忘れるな。国母も、王妃も、聞得大君も」
おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部である思戸が、用意した供物を丁重に差し出す。語ることは許されないが、聞くことは自由だ。おせんみこちゃでは王の本音が聞けるのが利点だった。
――首里天加那志は真鶴様を気に入っていらっしゃるんだ。
御内原での優先度はこの逆である。王の態度から推測された順位と気持ちは違う。王宮で気持ちと態度が異なるのはままあることだ。常に相手の裏をかき、心を読ませない。身分が高いほど隠し方が巧妙になる。笑っているからといって真に受けてはならない。泣いているからといって同情したら刃が飛んでくるのが王宮だ。思戸だって表向きは破格の出世に戸惑っているふりをしている。おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部は通常、最古参で士族出身の女官が就く地位だ。平民の娘が抜擢《ばってき》されることはまずない。だから期待通りに戸惑ってやった。
おせんみこちゃを拝礼する既得権はまだある。神女の強力な神通力を利用して自分の願いをかけられるところも魅力だ。思戸はさっきから念を籠めるように火の神に祈っている。
『風よ吹け。風よ吹け。私の帆に風よ吹け!』
思戸が祈願しているのは御内原の生態系を壊滅させる巨大|隕石《いんせき》の落下だった。王宮によく隕石が落ちるのは、こうやって女官たちが混乱を祈願しているからである。思戸は風向きが変わってきたのを感じていた。真美那の懐妊で人事異動が行われた。女官たちの一喜一憂が勢力地図を変える。しかし御内原を爆発させるには導火線が必要だ。このときのために模合《もあい》をしていた。
「そろそろ破綻させる時期かもしれないね」
思戸はニヤリと笑う。御内原から延ばした導火線は表世界へと繋がっている。女官の模合の破綻は奥書院奉行へと繋がる。そして奥書院奉行の模合は他の奉行所の模合と連鎖するはずだった。金融破綻は下克上《げこくじょう》のチャンスである。
拝礼を終えて御内原へと戻る思戸に女官がそっと耳打ちした。
「思戸様、予想通り女官大勢頭部が動きます」
「よし。仕込みのあがまに金を持ち逃げさせるんだ」
思戸の船は順風を受け勢いよく帆を張った。
同じ頃、女官大勢頭部と配下の女官が世添御殿の真鶴の部屋に押し入った。
「真鶴様に申し上げます。この度の人事異動で真鶴様のお部屋をお取り潰しすることになりました。真鶴様は女官詰所へお移りください」
「私を降格するおつもりですね?」
真鶴はこの光景も役人時代に見たことがあると既視感を覚えた。
「御内原は真美那様のご出産の準備で精一杯でございます。この度、真鶴様の居室を医員の詰所とし、真美那様を介護いたします」
「女官大勢頭部、あなたに人事権があるのは認めます。どの部屋に誰を宛《あて》がうかはあなたの裁量です。でも、これはあなたの進退に関わる問題になりますよ」
「覚悟はできています。御内原の女官を纏《まと》めるのは私の仕事です。かつての女官大勢頭部のようなヘマはいたしません」
女官大勢頭部は御内原支配を確実にするために女官を再編成するつもりだ。自分の味方になる者には賄賂と昇進を、敵対する者には左遷を、そして裏切り者には制裁を与える。真鶴には茶室で恥をかかされたことがある。王妃の信頼を盤石《ばんじゃく》にするために、真鶴にはこの機会に相応の罰を与えておく。
女官大勢頭部が打って出たのは、真美那の懐妊と模合の親が巡ってきたからだ。今回の模合で女官大勢頭部が手にする金は銅銭一万文の大金だ。この金を担保に女官たちを買収していた。
女官大勢頭部は自信満々だった。
「公務を怠ったあごむしられ様の世話をする余裕はございません。速やかにお部屋をお引き渡しください」
「わかりました。女官大勢頭部の決定に従いましょう」
真鶴は荷物をまとめて女官詰所へと引っ越していく。お付きの女官たちが異動したとき、こうなることは薄々わかっていた。ただ、まだ何かが起こりそうな嫌な予感がするのだ。
そのときだ。後之御庭《クシヌウナー》に高らかな笑い声があがった。
「見たぞ見たぞ。私はしかと見届けたぞ。女官大勢頭部様ともあろうお方が、あごむしられ様に刃向かうとは御内原も乱れたもんだね」
――思戸! 助けてくれるのね。
扇子で口元を覆った思戸が、ついにサード・インパクトを引き起こした。
「おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部の思戸だな。おまえにも相応しい役職を用意した。年相応の下級女官にお戻り!」
「誰があねべになんか戻るもんか。女官大勢頭部、あんたの地位は風前の灯火だよ!」
思戸は不敵な笑みを浮かべている。全てこの日のために仕込んでおいたシナリオだ。
配下の女官たちが女官大勢頭部の元に駆けてきた。
「女官大勢頭部様、大変でございます。あがまが模合の金を持ち逃げいたしました!」
「何だと。銅銭一万文が消えただと! すぐにあがまを捕らえるのだ」
「大変です女官大勢頭部様、奥書院奉行の筆者たちの模合が連鎖破綻したそうです。お役人様はカンカンです」
「女官大勢頭部様に畏れながら申し上げます。奥書院奉行の模合が御物奉行と評定所の模合に飛び火いたしました。負債総額は銅銭五万文です!」
女官大勢頭部は目眩で床にへたり込んでしまった。
「銅銭五万文――! 銀子五十貫文!」
導火線は上手く引火してくれたと思戸は高笑いだ。
「うわーい。銀子五十貫文を吹っ飛ばしてくれるとは豪気な女官大勢頭部様だね。金とあがまの管理は女官大勢頭部の大切なお仕事のはず。この責任は重大だよ」
今月の俸禄が吹き飛んだと聞いて奥書院奉行の筆者たちが御内原に詰めかける。今月の親は嗣勇《しゆう》のはずだったのに、今まで積み立ててきた銅銭一千文が全部吹き飛んでしまった。今月の配当金で色衣装の代金を支払おうとしていた嗣勇は、顔面蒼白だ。
「女官大勢頭部、これは一体どういうことなのか説明していただきましょうか?」
「これは、何かの、手違いです……」
嗣勇が唐草模様の風呂敷を背負っている真鶴を見つけた。これだから御内原は油断ができない。一番目が届くはずの場所にいるのに、妹は女の勢力争いに巻き込まれているではないか。
「なぜ真鶴様が荷物を纏めておられる? まさか、女官大勢頭部があごむしられ様を追い出したのではあるまいな?」
蒼白だった嗣勇の顔がもう怒りで赤くなっている。
「いえ、私は……あの……」
「奥書院奉行筆者の権限において女官大勢頭部の人事を破棄する。ぼくのまづ……。いや、あごむしられ様を追い出すとは言語道断である! 女官大勢頭部の身柄を一時拘束し、人事はぼくが代行する」
「私が、私が身柄拘束――!」
これは事実上の女官大勢頭部解任だ。御内原の風紀を長が乱すことは、管理能力欠如を曝したも同然だ。女官大勢頭部は降格処分になるだろう。
真鶴は目で「ありがとう」と伝えた。嗣勇はまだ興奮して怒りの一部が真鶴に向いていたが、すぐに優しい眼差しで足下に跪《ひざまず》いてくれた。
「あごむしられ様、ぼくは奥書院奉行筆者の孫嗣勇でございます。どうかお見知りおきを」
「筆者殿にはお恥ずかしい所をお見せいたしました。私の不徳のいたすところです」
嗣勇は誰にも気づかれないようにウインクした。一瞬だけの兄妹の絆《きずな》だが、王宮で唯一確かなものだった。
女官大勢頭部の人事刷新は巧妙に仕組まれたクーデターの前座にすぎない。真鶴はもう首謀者を掴んでしまった。
――思戸、黒幕はあんたでしょう!
思戸は知らぬふりをしているが、直にわかることだ。今回の事件で一番得をするのはきっと思戸だ。思戸は真牛ばりの陰謀家に成長していた。
後日、御内原で最新の人事が発表された。管理責任を問われた女官大勢頭部は、霊安室の寝廟殿之勢頭部へ降格し、五十年間仕事を干された。真鶴には器量のよい女官がつき、側室の部屋は世添御殿の中でも格式の高い部屋を宛がわれた。何よりも破格だったのは思戸の大抜擢だ。
後之御庭で女官百人が勢揃いする中に、正装した思戸が現れた。
春の空が一番きれいな日に新しい体制が御内原に発足する。王朝五百年の歴史の中で最年少の女官大勢頭部の誕生である。嗣勇が王妃の名において任命書を読み上げる。
[#ここから1字下げ]
口上之覚
おせんみこちゃ拝礼供之勢頭部
思 戸
右者事人体宜敷、御内原女官衆為御手本者勿
論、諸事慇懃ニ被取計御当国祭礼之基弥増候
事明白候。拠之向後共其働肝要与被心得、
主上御意被得候付、女官大勢頭部役被仰付候事。
益々可致忠義者也。
寅四月
佐敷按司加那志
[#ここで字下げ終わり]
「右の者は御内原において、女官たちの信頼が厚く、かつ御内原をよく纏め、伝統としきたりを重んじる女官の模範として不足のない人物である。よってこのたび右の者を女官大勢頭部に任命する。御内原の要《かなめ》として秩序を維持し、女官を指導し、王妃様へ今まで以上に忠誠心をもってお仕えするように申しつける」
思戸は任命書を読む知識はないが、これを欲しがっていた。厄介払いされて王宮に放り込まれ、有力な後ろ盾のないままに孤独な夜を過ごしてきた思戸は、自力で日の当たる場所に這い上がってきたのだ。これが女官の頂点だ、と思戸は自分に言い聞かす。
「寧温様、私は約束を守ったよ。寧温様、私に希望を与えてくれてありがとう。さよなら、泣き虫だった私。みそっかすだった私。私は今日から女官大勢頭部……」
見上げた空の何と澄み切っていることだろう。王族にしか微笑《ほほえ》まないと思っていた空が今日はあんなに優しい。まるで思戸の就任式を祝っているようだ。
「空って青いなあ……。風って優しいなあ……」
思戸は後之御庭を見渡して、こんなに狭かったのかと拍子抜けした。昨日までとてつもなく広く感じた御内原は、当たり前だが空より小さかった。空なんて自分の人生に関係ないと思っていたのに、一番祝福してくれているのは春の青空だ。
毎年千人の少女が王宮を目指し、百人があがまになり、その中から十人が勢頭部になれるといわれる。御内原精鋭百人の勢頭部の中から選ばれるのが女官大勢頭部だ。そして女官大勢頭部だけが空の青さを知る。この空を見たければ全人生を懸けて必死で這い上がるしかない。
思戸が高らかに御内原に宣誓する。
「私は女官大勢頭部である! 皆の者、首里天加那志の良き臣下として切磋琢磨《せっさたくま》し、己の技を磨け。御内原は夢の叶う場所だ。前を向かない者は今すぐ去れ。私は皆の情熱をしかと受け止め、公平で秩序ある御内原生活を約束する!」
その公約通り、思戸は女官の面倒見のよい御内原最高の女官大勢頭部と讃えられるようになった。この日以来、言うことを聞かないあがまを蔵に閉じ込めた後、思戸は必ず空を見せるようにした。御内原は窮屈だけれど空とここは繋がっていると知ってほしかったからだ。
思戸があがまと一緒に空を見上げる。
「ほらご覧。今日は空がとっても綺麗だよ」
あがまは泣くのをやめて移ろいゆく雲をうっとりと眺めた。
*
王宮の外れにある銭蔵《ぜにくら》は、模合で破綻した役人たちに御慈悲の酒を振る舞う救世軍だ。遊ぶ金がなくなった役人たちが泡盛の品質を確かめるという口実で抱瓶《ダチビン》を持ってくる。そのせいで多嘉良《たから》は酒の管理にうるさくなった。
「ダメダメ。これ以上試飲させたら儂《わし》の首が飛ぶ。帰れ帰れ帰れ!」
「なんだよケチ。もう模合に交ぜてやらないぞ」
「入ってなくてよかったよ。がはははは」
追い払う先から役人たちがハイエナのようにやって来る。普段は目もくれない銭蔵なのに、自分たちが困窮するとこれだ、と多嘉良も意固地になっていた。
「これで酒のありがたさを思い知ればよい。銭蔵筆者の面目躍如だ。がはははは」
みんな追い払ったと思ったのに、隣に幽霊のように立っているのは朝薫ではないか。朝薫も抱瓶を多嘉良の前に無言で差し出した。
「喜舎場《きしゃば》親方? 親方もすっ飛ばした口ですか?」
「まさか破綻するとは思わなかった……」
朝薫はちょっと涙目だ。評定所の模合に加盟したのは息子の満産祝いで入り用だったからだ。評定所の面子なら身元もきちんとしていると思ったのが甘かった。
評定所筆者のひとりが御物奉行の模合にも加盟していたらしい。そして御物奉行の誰かが奥書院奉行の模合にも加盟していた。奥書院奉行の模合の破綻の原因は御内原の模合で持ち逃げがあったからだそうだ。
「金は天下の回りものと言いますからな。ま、そう気落ちなさらずに」
多嘉良は朝薫に泡盛を分けてやった。潔癖性で糞真面目な朝薫も息子を持って初めて、人生に余裕が生まれたようだ。だが所詮、後年覚えた遊びは手痛い火傷《やけど》の元になる。朝薫が吹き飛ばした金は銅銭二千文だ。どんな祝いを構想していたのかは今となっては謎である。
朝薫の詠む歌も風流から生活を歌うものに変わっていた。
親になて親の恩知ゆんてやり
昔よせごとやなまど知ゆる
(親になって親の恩を知ると昔の諺《ことわざ》はいうが、今になってやっとその気持ちがわかったよ)
多嘉良も二十年科試浪人しながら五人の子どもを育ててきた親である。朝薫の歌に感慨深そうに酒を呷《あお》った。
「生活苦が滲み出たまことに良い歌ですなあ。がはははは」
朝薫も人がなぜ昼間から酒を呑むのかだんだんわかってくるようになった。今までエリート街道|驀進《ばくしん》中で多嘉良など怠け者の世界の住人としか思っていなかった。挫折が朝薫をチョイ悪に変えていく。
「この前、初めて夫婦喧嘩をしたよ……。毎日お弁当を作ってくれた可愛い嫁だったのに、息子が生まれたら人が変わってしまった……」
朝薫が弁当の芋を齧った。王宮最大規模の模合連鎖破綻のせいで喜舎場家では当分の間、貧乏生活が待っていた。
「ところで儀間親雲上《ぎまペーチン》を見たか?」
「あいつめ、昨日から遊郭に行っててまだ出勤してないんですか? 奴に何か御用で?」
「いや、妙な噂を聞いたんだ。辻の遊郭で碧眼のジュリがいるらしい。もしやあの人かと思って」
「喜舎場親方もジュリ遊びを覚えるとは大人になったものだなあ。がはははは。このスケベ」
「無礼な。ぼくはそんな男じゃない。儀間親雲上に確かめてもらいたいんだ……」
朝薫は首を傾《かし》げて泡盛をぐいと呑んだ。
辻の遊郭街は昼間でも淫靡《いんび》な世界だ。夜が明けても昨日の夜が続いている。儀間親雲上はきれいどころのジュリを侍《はべ》らせて愛の世界に没入していた。
「おお、その薄情そうな唇から私にだけ愛を紡《つむ》いでほしい」
「お役人様ったらクサイわあん」
「その悩ましい瞳で私以外の男を見ないでほしい」
「じゃあ毎晩買いに来てよおん」
「う〜む。商売女は風流が足りないな……」
儀間親雲上はやっと王宮に出勤する気になった。遊郭の廊下ですれ違った遊女に思わず儀間親雲上が振り返る。遊女とは思えない般若《はんにゃ》の形相をした女が奥の座敷に入って行った。
踊り手たちが舞う座敷の襖が開く。面をあげたのは真牛だった。
「呼んだか? 妾が真牛じゃ」
「おお、噂通り本当に碧眼ではないか。近う寄れ」
遊郭の客は御仮屋に訪れた薩摩藩の海商だ。薩摩も藩の利益を増進するために富豪の海商を懐柔《かいじゅう》しようとする。異国を支配している藩であることを広くアピールするためだ。今日は物珍しい琉球女がいるという触れ込みで遊郭接待だ。
女将《おかみ》が真牛の頭を畳に擦りつける。
「実はこのジュリは、高貴な生まれでございます。大きな声では言えませんが、元王族なのです」
「王族!? 王族がなぜ遊女に落ちたのだ?」
「それが切ない話でございまして、神女なのに王宮の役人と不義密通をしておりました。それがバレて無系に。お役人様は八重山《やえやま》に流刑……。鳴呼、なんと悲しいお話でございましょう」
女将は情感たっぷりに真牛の半生を語った。客が好きそうな逸話にして、真牛がいかに波瀾万丈《はらんばんじょう》な人生を送ってきたか強調する。その語りに薩摩の海商は引き込まれてしまう。
「不義密通とはいかんな。色情狂の巫女などわが藩でも鞭打ちだ」
ついに真牛の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れて扇を振りかぶる。
「誰が色情狂じゃ。この無礼者!」
真牛の手を女将が軽く捻って押さえつけた。
「このように矜持《きょうじ》だけは王族なのでございます。ただし少々お高いのはお許しください。一晩銅銭二百文でございます」
男は身分の高い女性を服従させることに興奮する生き物だと女将は知っている。真牛は血統書付きの遊女だ。接待側の薩摩の役人も有力な海商を招いたからには普通の買春接待では面子が保てない。だから高くても構わなかった。
「真牛、相手は薩摩の要人だから失礼のないようにね」
と海商と真牛は床に通された。真牛は憮然として突っ立ったままだ。
「おい脱げ」
と命じられても顔を背《そむ》ける。あまりに言うことを聞かないので、徳利を投げつけられた。
「琉球の女は獣だな。人語を理解せん」
あまりの侮辱に真牛の肩は震えている。無礼は毎晩のことだと言い聞かせても慣れそうもなかった。神扇で喉を引き裂いて臓腑《ぞうふ》をかき回してやりたかった。しかし真牛は売られた女だ。これ以上逆らうと暴力沙汰になる。今まで髪を引っ張られたこともある。着物を剥《は》ぎ取られて廊下に捨てられたこともある。無様な恰好で罵《ののし》られたこともある。できるだけ自分を守るには適当なところで従うしかない。
真牛は着物の裾を開き、遊郭で覚えた遊女の心得を唱える。
『決して逆らってはならない。目を合わせてはならない。声をたててはならない。挑発してはならない。背中を追ってはならない。体に触れてはならない。ただ我慢するだけじゃ……』
真牛の背中が露になった瞬間、客の男が唸った。
「素晴らしい肌だ。琉球の女は色黒だと聞いていたが、白磁よりも透明ではないか。おい、こっちを向け」
真牛が蹲《うずくま》りながら正面を向く。寒くて寒くて震えが止まらない。
『会話してはならない。約束してはならない。泣いてはならない……』
目を閉じていても生臭い息と舌が胸元を這うのがわかる。舐《な》められた先から乾いた唾の腐臭が飛んだ。真牛の体に鳥肌が立った。
「真牛よ、そなたは美しい……」
身の毛もよだつ言葉に反射的に耳を塞いだ。泣かないのは自分のためだ。怒らないのはジュリではないからだ。下腹部を男の髷《まげ》がくすぐる。まるで鼠《ねずみ》が巣作りをしているような光景だった。
「求めてはならない。溺れてはならない。冷めてはならない。ぎゃあああ!」
王宮一と謳われた花が鼠に毟《むし》られていく。地獄へと堕《お》ちていくような落下感。神が降臨する肉体を鼠が食べていく。いつもどうして途中で自分は死なないのだろうと思う。途中で死ねたらこの嫌悪感が半分ですむのに。男に命じられるままに今度は四つんばいになる。仰向けにされる。上に跨《またが》らせられる。この屈辱は決して忘れないと誓う。必ず、必ず地獄に落としてみせると誓う。
「真牛よ。笑っているのか?」
真牛はこの男を殺す算段をしているうちに楽しくなってきた。髷に火を付け首ごと行灯《あんどん》にしてやろう。次に腹に溜まった脂肪で菓子を焼いて家族に食わせてやる。そして真顔でこう言う。「どうじゃお父さんは美味《おい》しいか?」と。吐くなんて許さない。何日かかろうと全部食べさせる。それぐらいのことをこの男は今自分にしているのだ。
「気にするな。妾を楽しませるとは立派なお侍様じゃ。ほほほほほ。ほほほほほ」
遊郭に真牛の不気味な笑い声がこだました。
づり小身や哀れ糸柳心
風の押すままに馴れて行きゆさ
(遊女の身は何と哀れなものだろう。糸柳のように風の押すままにどんな客にも従わねばならない)
新体制が発足した御内原では、思戸が新任の挨拶を述べに回っていた。王妃はあまりにも若すぎる女官大勢頭部に不安そうだ。だが思戸はおせんみこちゃ拝礼供之勢頭部だったときに尚泰王の信頼を獲得している。尚泰王はこう言って王妃の不安を払拭《ふっしょく》した。
「余もまた年若き王である。若い女官大勢頭部は新時代に相応《ふさわ》しいではないか」
「首里天加那志がそう仰るのなら、王妃の私も不満はございません……」
思戸が側室たちのいる世添御殿を訪ねる。
「あごむしられ真美那様、このたび女官大勢頭部に任命された思戸でございます。どうかお見知りおきを」
「あーっ! 泥|薫餅《くんぺん》の勢頭部だー」
普段の行いが悪いと、いざというときしっぺ返しされるのが悲しい。
「真美那様のご懐妊の折りはこの思戸も微力ながらお助け申し上げましたのに……」
「じゃあ悪阻代わって」
思戸が下手な芝居で悪阻の真似をする。高等|幇間《ほうかん》になったり、道化になったりするのも女官大勢頭部の役回りだ。真美那は一通りからかって「よろしく」と微笑んだ。
次に訪れたのが真鶴の部屋だ。真鶴には今までいろんな悪さをしてきたから、意地悪の三倍返しくらいは我慢して受け入れなければと思戸は覚悟した。
「あごむしられ真鶴様、このたび女官大勢頭部に任命された思戸でございます〜」
「入りなさい」
絶対に泥薫餅の返礼が待っているぞと覚悟したのに、真鶴は涙を流して喜んでいるではないか。
「思戸、おめでとう……。あなたが女官大勢頭部になったのね。本当におめでとう」
真鶴は思戸のために新しい女官衣装を仕立てていた。
「真鶴様、これは絹ではございませんか。王族でもないのにいただけません」
「女官大勢頭部に相応しい品だと思いませんか? あなたが質素すぎると他の女官たちが気後れして身なりを構わなくなるでしょう。これを着たいから頑張るというあがまたちの目標になってほしいの」
思戸はボロボロ涙を畳に染みこませて泣いた。
「真鶴様、私の今までのご無礼をお許しください。この女官大勢頭部、真鶴様を一生お守りいたします」
「守るのは女官たちの方でしょう。そうだこれを使いなさい。きっと役に立つはずです」
真鶴が差し出したのは御内原の伝統行事の式次第だ。いつ誰がどんな行事をするのか、そのとき何が必要なのか、膳の並べ方、下ごしらえの仕方などが細かく仮名で表記されている。評定所筆者だったとき、御内原にマニュアル本がないせいで、人の記憶に頼って式を営んでいるのを問題視していた。これがあれば奥書院奉行との調整会議は一回ですむ。
「わからない言葉があったら教えます。これを歴代女官大勢頭部に渡す秘伝の書になさい」
「真鶴様、私のような無教養な女のために、ありがとうございます」
真鶴は御内原にあがってから初めて思戸と心を交わしたような気がした。
女官大勢頭部には個室が与えられる。このプライバシーのない御内原において個室は最高の贅沢だ。女官はお互いを見張るために相部屋だった。勢頭部になったときは人口密度の低さに感激したものだ。あがまに至っては生簀《いけす》状態だ。毎晩誰かが酸欠騒ぎを起こした。
そんな時代を知っているからこそ、思戸の感激もひとしおだ。
「これが私の部屋かあ。お姫様みたいだなあ」
女官たちからの就任祝いの品が溢《あふ》れていて、いちいち見るのもうんざりしてきた。次から次へと勢頭部が現れて慇懃な挨拶を述べる。
「女官大勢頭部様、奥書院奉行の筆者が挨拶をしたいと申しております」
「通しなさい」
思戸がごほんと咳払いをした。やって来たのは嗣勇だ。
「女官大勢頭部就任おめでとうございます。これから奥書院奉行で何かと会議をすることになると思います。ぼくが御内原の窓口役の孫嗣勇です。本日はある方からお祝いの品を預かっております」
嗣勇が差し出したのは仕立てられた絣《かすり》の着物だった。
「上等な絣ですが、これは誰からの祝いですか?」
「お名前を申し上げることはできませんが、思戸さんなら見ればわかると申されておりました」
促されるままに着物を羽織ってみた。この柄はどこかで見たことがあると思戸は小首を傾げる。突然、記憶の底で眠っていた大切な想い出が目を覚ました。
「これは寧温様に差し上げた絣です!」
寧温が八重山へと流刑になっていく日、思戸が御内原を抜け出して寧温に渡した形見の品だ。
「残念ですが、八重山《やえやま》からの贈り物としか申し上げられません」
「寧温様はお元気でしたか? 手紙か何か言づてでもございませんか?」
「言づてはあります。『約束を守ってくれてありがとう』です」
思戸は堪えきれずに着物を抱き締めた。あの寧温が八重山からわざわざ贈り物を届けてくれるなんて望外だ。あがま時代の恩返しができるかもしれない地位になったのに、寧温は遠い流刑地だ。それでも流刑地から思戸を祝ってくれる。
「今の私があるのは寧温様のお蔭です。私は寧温様に何もしてあげられないのが口惜しい……」
嗣勇もつい貰い泣きしてしまった。真鶴からこれを渡せと呼びつけられたとき、嗣勇は一度は断った。寧温の名残《なごり》を王宮に入れるのは危険だ。しかし真鶴は御内原の女だからこそ、渡したいと言った。女官たちは初恋の人を生涯想い続けて死んでいく。だから真鶴は思戸に寧温の一部をあげたかった。もう二度と甦《よみがえ》ることのない寧温を思戸に憶えていてほしかった。
嗣勇はそっと部屋を後にした。
「渡したよ真鶴。でも、もう寧温が現れるのだけはごめんだからね」
思戸はその絣の着物を生涯の宝にした。
*
遊郭で客を取らされるようになった真牛は、毎朝|安謝湊《あじゃみなと》の浜で禊《みそぎ》をするようになった。こびりついた男の汗と匂いを海水で浄め、束の間の処女に戻る。しかしその晩のうちには誰よりも穢《けが》れてしまうのだから鼬《いたち》ごっこだ。
真牛は狂ったように海水で髪を洗った。
「妾はこんな所で朽《く》ち果てるのは嫌じゃ。生き延びて必ず王宮に戻ってみせる」
ジュリに身を落とした真牛だが、ますますジュリが嫌いになった。ジュリの多くは人生を捨ててしまっている。自分の人生に価値を見いだせず、一日ごとに死んでいくような生活だった。魂のない肉体には悪霊《あくりょう》が取り憑《つ》くというが、まさにそうだ。ジュリの心には悪霊が巣くっていた。無敵の元王族神も借金には勝てないが、悪霊と勝負するならまだ分がある。浜で身を浄め、悪霊が肉体に入り込む余地をなくしてしまえば、自分は毎日生きていけると信じた。
今の彼女を支えるのは復讐心だけだ。
「海運業者を十回殺してやるのじゃ。女将を豚と百回交わらせてやるのじゃ。妾を侮辱した畜生どもの子孫を未来|永劫《えいごう》祟ってやるのじゃ」
それが可能なのは聞得大君として身分を回復したときだけだ。ジュリとして死んだら、無縁墓に葬られ無念の魂の塊となってしまう。薄汚いジュリの魂と混濁して祀られるなんて想像しただけでも吐き気がする。それに無縁墓は供養が行き届かないために、悪霊の巣窟《そうくつ》となっているものだ。いやジュリの魂が悪霊になってしまうのだ。生きる気力もなかった者が悪霊になっても大した怨霊になれない。今こうやって浜で浄めてしまえば落ちてしまう程度のものだ。
「何としても聞得大君に返り咲いてみせる。聞得大君の霊力の凄まじさを思い知るがいい」
最高神女・聞得大君だけが永遠の魂を得ることができる。王族として死に、第二|尚氏《しょうし》の霊廟・玉陵《タマウドゥン》に祀られることこそ、王族の尊厳だ。真牛は借金を返済するつもりだ。それは海運業者に弱みを握られているからではなく、単に証文が王室の尚家文書の中に未来永劫残ってしまうからである。聞得大君だった者が後世の者に笑われるわけにはいかない。借金返済と同時に証文を破棄し、経歴をきれいにしておく。そのためにジュリをやっている。
「妾は千年の繁栄を成し遂げてみせるぞ。そのためだったら五十年の苦労など短いものじゃ」
琉球ではあの世のことを後生《グソー》と呼ぶ。つまり死後も生きていくという考え方だ。後生の世界は現世とそれほど変わらない。泥棒は死後も泥棒であり、遊女は死後も遊女であり、聖人は死後も聖人であり、王族は死後もやはり王族だった。死んだら誰でも美化されるどこかの国のヤワな宗教世界とは違うのだ。
そもそも真牛は魂が何であるのか生まれながらに知っている。魂は工芸品と同じで常に管理補修が必要だった。放っておけば魂は肉体と同じように経年劣化してしまうものだ。だから管理者の能力が問われる。最高神女・聞得大君とは歴代の王の魂を管理補修する者のことだ。魂は適切な場所に安置され、祭祀による修復が行われる。それは真牛の魂も同じことだ。
生きているうちは浄めで魂を管理できるが、死んだらそれは適わない。真牛は死後、大あむしられ達の力で魂を管理補修される必要があった。大あむしられが聞得大君の名を呼び、慰めることで魂は自己の境界線を獲得する。それが供養の本質である。復讐に必要なのは千年生きる魂だ。千年もあれば海運業者を十回生まれ変わらせ十回殺すことができる。だからジュリとして死ぬことは彼女の自尊心が許さない。
真牛が禊《みそぎ》を終え、辻に戻ろうと浜を歩いていたときだ。浜でひとりの男が苧麻《ちょま》の糸を洗っていた。彼もまた何かを浄めているようだ。真牛は寂しそうに糸を洗う男の背中に声をかけた。
「おぬしはバカじゃな。糸を洗うなら染めた後じゃろうに」
男の着ていた着物はボロだが、かつては高級品の絣だったと思われた。それは肉体も同じだ。男の容貌は窶《やつ》れているが、昔はかなりの色男だったに違いない。元がいいだけに劣化したのが惜しまれる。
「ああ、この糸は着物を作るためのものではありません。お守りですから」
「お守りじゃと? 糸をお守りにするなど聞いたことがない」
男は悲しそうに糸を見つめて懐紙に包んだ。
「私のオナリ神です。進貢船の水主《かこ》をやっています」
「オナリ神とはなお解《げ》せぬ。オナリ神のお守りなら姉妹の髪を包むのが筋じゃろう」
「私には……家族はおりませんから」
男は那覇士族の出身で津波古《つはこ》と名乗った。昔は海運業で名を馳せた典型的な那覇士族だったらしい。馬艦船《マーランブニ》を何隻も持ち、手広く貿易を営んでいた。しかし彼の代で大失敗してしまった。清国ルートで仕入れた陶磁器が全て模造品だったのだ。贋物を掴まされた津波古は一回の航海で、家屋敷を全て借金の質に取られてしまったという。
「真贋も見極められないとは愚かな男じゃな」
「そうですね。あれから両親も倒れ、妻も過労で死に、子どもも年季奉公に出してもう十五年も会っておりません。証文一枚で全てを失ってしまいました」
津波古のもみあげにか細い白髪が交じっていた。そんな彼に真牛の檄《げき》が飛ぶ。
「人は誇りを失ったら終わりじゃ。家を潰したのならもう一度興してから死なないと、子孫は彷徨《さまよ》ってしまうぞ」
「私のことを覚えてくれる人など誰もいません。家族を失ったとき、私は死ぬべきだったのかもしれません。でも死ねなかった。あまりにも惨《みじ》めで、今死んではいけない気がした……」
「その通りじゃ。最期の姿で後生での品格が決まるのじゃ。惨めに死ねば惨めな死後しかない」
遊女の言葉とは思えず津波古は目を丸くした。こんな誇り高い遊女は生まれて初めて見た。
「失礼ですがジュリとお見受けいたしますが、何か訳があるのですか?」
「そなたの苦労など苦労のうちに入らぬわ。妾の過去の方がまだ壮絶で派手じゃて。じゃがまだ語らぬ。苦労を語るのは御殿を建ててからと決めておる」
「ジュリが御殿を建てる!」
琉球で御殿を建てられるのは高級役人か海運業で身を立てた者くらいだ。それを遊女が建ててみせると言う。津波古はまじまじと真牛の顔を覗《のぞ》き込むと海に似た碧眼が真っ直ぐ前を向いていた。射貫くほどに鋭いが目を背けられないのは玉のように高貴だからだ。
「昔建てたことがあるのじゃよ。そなたも建てられるはずじゃ。ただし借金には注意しろ。ロクなことにならないからな」
「はあ……。でも私はもう終わった男ですから……」
「海で失敗したなら海で取り返せ。それが男じゃろう! 船が出るのはいつじゃ」
「し、明々後日《しあさって》です」
「進貢船の水主なら売れ筋の商品くらい仕入れてこい。最上級の絹が入り用になるぞ。絹といっても蝶の羽のように薄い奴じゃ。それを百反買ってこい」
王族が好んだ絹は極薄の膜のような絹だった。投げると空中に一分間はふわふわと漂い、天女の羽衣を連想させるから、贈り物に重宝された。
「そんな高級品をたくさん買っても売れ残ったらどうするんですか」
「百反でも足りないくらいじゃ。それともうすぐ大美御殿《おおみウドゥン》で脚付きの銀杯が大量に必要になる。それを五百脚買って来い。真鍮《しんちゅう》に銀を鍍金《めっき》したものじゃ。文様は目出度い獅子《しし》じゃ」
「なぜそれだとわかるのですか?」
「再来月あごむしられ様が王女様をお産みになられる。お披露目の満産祝いをするとなれば大美御殿じゃろう。銀杯は祝宴には欠かせぬ。獅子は健《すこ》やかに育つための守り神じゃ。絹は王女様に贈る祝品として按司《あじ》たちが買うじゃろう。これくらいわからなくて商売ができるか!」
「は、はい。わかりました」
「ただし売れたら顧問料として一割を妾に渡すと約束するのじゃ」
「それくらいお安い御用です」
「では商談成立の証《あかし》が必要じゃな。鋏を持っておるか。ないなら包丁でよい」
真牛は結った髪を解いて、一房を切り落とした。
「妾がそなたのオナリ神になって航海安全を祈願してやる。これでも効き目は抜群なのじゃぞ」
津波古の手元に瑞々《みずみず》しい真牛の黒髪が渡される。こんな美しい髪を見るのは初めてだ。絹のように滑らかなのに、髪の中にもうひとつ芯があるようなコシがあり、丸めても戻ろうとする。津波古は弁財天の髪だと思った。
三日後、津波古の乗る進貢船が清国へと旅立つ日がやってきた。津波古は別れ際に真牛にこう約束した。
「真牛には清国の簪《かんざし》を買ってこよう」
「妾は贅沢な女じゃ。安い簪で喜ぶと思うな」
「じゃあ王族のような金の簪を買ってこよう。聞得大君加那志の簪のような」
真牛は顔を赤らめてプイと横を向いた。見渡せば船乗りたちが贔屓《ひいき》の遊女と別れを告げている。遊女はさめざめと泣き、船乗りたちは口々に土産を買ってくるぞ、と慰めている。真牛は自分もこの中のひとりに数えられていることが不愉快になった。
「土産などいらぬ。顧問料だけで十分じゃ」
と突慳貪《つっけんどん》な態度を取ったら津波古は悲しそうに俯《うつむ》いた。何だか気まずくて真牛はさっさと別れを告げた。津波古はしばらく佇《たたず》んでいたが、諦めたように船に乗っていった。
進貢船が那覇港を出ていく。見送りの遊女たちの甲高い声も最高潮だ。真牛は咄嗟に船を追いかけていた。人混みを押し退け、遊女たちの背中を突き飛ばし、荷車の西瓜《すいか》を崩して駆けていく。
「簪じゃ。簪を買って来るのじゃ。安くてもよい。粗末な簪でもよい!」
しかし船は声の届かぬ沖だ。真牛は那覇港の縁にある三重城まで走った。三重城に佇んだ真牛は突風に吹かれていた。
「無事に帰ってくるのじゃぞ……」
思った瞬間、真牛の胸の底が激しく疼《うず》いたではないか。津波古のもの悲しそうな横顔が脳裏を過《よぎ》る。この感覚が何なのか真牛にはわからない。津波古の買ってくる商品が心配なのか、船が座礁《ざしょう》しないか不安なのかとも思ったが違う。元聞得大君の霊験《れいげん》を乗せた船が沈むはずはない。喉が渇く。目の底が熱い。なのに心は濡れている。真牛は恋に墜ちてしまった。
真牛は急いで火を消そうとする。しかし藻掻《もが》けば藻掻くほど炎は高ぶる。
「ありえぬ。妾が身分の低い男に恋をするなどありえぬ。また贋物を掴まされないか心配なのじゃ。お守りを落としそうで苛々するのじゃ。そうじゃろう真牛?」
すると心の底から乙女の声が聞こえた。
――津波古様〜っ!
王族だった頃の真牛にはこんな感情などなかった。全ての人間は自分に遜《へりくだ》り、傅《かしず》き、媚《こ》びを売り、まるで愛玩動物のように寵愛《ちょうあい》を求めた。真牛は犬を可愛がるのと同じ感覚で人を愛してきた。そして犬を躾《しつけ》るように人を叩いた。
臣下をいちいち人と思っていたら王宮は発情宮殿になってしまう。真牛に求められてきたのは最高神女となるための才能だけだ。女官の恋は御法度《ごはっと》だがそれ以上に、聞得大君が男を求めるなんてあってはならないことだ。
「嫌じゃ。妾は心までジュリになっていくのか? ジュリのように色恋に生きるのか? そうじゃ三重城の神に聞けばよい」
真牛がミセゼル(祝詞)を謡おうと両手を広げた。目の前に見える異なる事象をひとつの謡に織り上げる。風も海も大地も時間も真牛の前では色の違う糸にすぎない。まずは風を指にかけて緯糸《よこいと》に紡ごうとした。
しかし風は指からするりと抜けてしまう。今度は大地から立ち上る気を経糸《たていと》にして軸を取ろうとする。だが大地は真牛の手を撥《は》ねつけた。
「ミセゼルが謡えない――!」
真牛は知っているのだろうか。今、彼女の碧眼がみるみるうちに濁っていくのを。王以外の男を守護した真牛が神に見放されていく。真牛は波止場に佇むひとりの女に成り下がっていた。もう碧眼で未来を捉えることはない。占い師のように農耕の時を読み解くことすらできない。人の心を見透かすこともできない。普通の女になった瞬間、真牛は津波古の心が知りたくなった。
「津波古よ、妾はジュリでないぞ。ジュリのように捨てたら呪うぞ。ジュリの戯言《ざれごと》だと思ったら大間違いじゃぞ。妾がいなければそなたはただの屑男じゃーっ!」
進貢船の帆はもう水平線に飲み込まれそうになっている。真牛はなぜ人が恋に溺れるのかを四十歳を越えて知った。そして人がなぜ涙しながら琉歌を詠《よ》むのかを悟った。霊力を失った真牛が気持ちを籠めるものは庶民が愛した琉歌しかなかった。
里前《さとめ》船送て戻る道すがら
降らぬ夏ぐれに我袖ぬらち
(愛しいあなたの乗る船を三重城で見送った帰り道、降りもしない夕立に私の袖は濡れていた)
富を求めて旅立つ船があれば、時代を切り開くために来る船もある。時は一八五三年五月二十六日。大陸で発生した時代の嵐が東シナ海を北上していた。
海は穏やかで風向きも順調。嵐といえども視界は恐ろしいほど良好だった。普通なら平穏無事に終えられそうな幸福な一日の始まりと誰もが思っただろう。だがこれは王国の黄昏《たそがれ》を予見する悲劇の一日の始まりであった。
那覇港にいた御仮屋《ウカリヤ》の役人たちが水平線の彼方に異形の船影を捉えた。
「浅倉殿、あれをごらんください。船の上に雨雲が浮かんでいます」
「本当だ。片降りに見舞われているのかな?」
徐々にはっきりしてくる船影は十数隻にものぼる大船団だ。雅博の目には船が黒煙をあげて燃えているように映った。
「遭難船か? すぐに王府に報せるんだ」
蒸気船を知らない薩摩の役人たちの狼狽《ろうばい》をよそに、琉球の民はとっくに蒸気機関の出現を知っていた。鎖国している日本は情報の僻地国だ。琉球はこの情報収集力で独自の地位を築き、日本の体制に完全に組み込まれてしまうことを拒んだ。
「お侍様、遭難船ではございません。あれは蒸気の力で動く最新型の船でございます」
「蒸気? それは何だ? なぜ帆を下ろした船が動くのだ?」
現れたのは蒸気外輪フリゲート船・サスケハナ号を旗艦とする米国海軍だ。艦隊はロバート・バウン号事件で八重山を砲撃した帆走スループ船・サラトガ号を従えていた。そしてやがて幕府を混乱に陥《おとしい》れるミシシッピー号の船影もあった。
次第に船影をはっきりさせる艦隊は那覇港を目指している。異国船来港の合図の大砲が鳴る。
「王宮に早馬を出せ。間もなく入港するぞ」
那覇港は異国船の入港には慣れているが、近年希に見る大艦隊の出現に今回の滞在は長くなりそうだ、くらいにしか受け止めなかった。列強の船は夏の台風のようなものだ。来るなと言っても用があれば一方的にやって来る。
雅博にとって蒸気船は未知の文明との遭遇だった。黒煙をあげエネルギッシュに水車で波を切る様は、妖術を使って動いているようにしか見えない。
「これが列強の力か――!」
江戸が黒船ショックに見舞われる一足先に、ペリー提督が琉球を訪れようとしていた。
[#改ページ]
第十三章 大統領の密使
On Thursday, the 26th of May, the squadron found itself quietly anchored in the harbor of Napha, the principal port of the Great Lew Chew island, and the first point where the expedition touched on Japanese territory, if Lew Chew be indeed a dependency of Japan. It is a question yet discussed to what power Lew Chew belongs. By some it is said to be a dependency of the Prince of Satzuma, of Japan ; others suppose it to belong to China. The probabilities, however, are all on the side of the dependence, more or less absolute, of Lew Chew on Japan, and probably, also, of some qualified subordination to China, as they undoubtedly send tribute to that country.
[五月二十六日、木曜日、本艦隊は那覇港に静かに錨《いかり》を下ろした。大琉球島の主要港である那覇港は、もし琉球が真に日本の属領であるとするならば、本遠征隊が日本領土に最接近した初めての地点である。琉球がどの国に属するかという問題は未だ議論されている。ある人は日本の薩摩公の属国であるといい、またある人は清国に属していると推測している。しかしたぶん琉球は多かれ少なかれ確定的に日本に従属しているのであろう。また同時に、清国に対しては制度的隷属関係にあるのかもしれない。なぜなら、彼らは疑いもなく清国に貢ぎ物を送るからである]
米国海軍サスケハナ号の煙突から黒煙が止まると同時に、ペリー提督が琉球訪問の第一頁にペンを走らせる。書きたいことは山ほどあった。この日誌に挫折や失敗という言葉を綴ることは決して許されない。すべて彼の都合のよいままに、誇らしく堂々と記さなければならなかった。遅滞や予定変更はインクの染みよりも恥ずべきことだ。
この旅は米国の米国による米国のための叙事詩の創出である。千年後の米国版『オデュッセイア』とならんための、栄光の第一文であることをペリー提督自身が一番よくわかっていた。穏やか且つ強《したた》かに、艦隊が訪れる地球上の全ての地に星条旗を立てていくのが目的だ。
「機関停止!」
排水量二千四百五十トンのサスケハナ号は、この時代におけるもっとも巨大な戦艦のひとつだ。帆はあるが主要駆動系は最新鋭のテクノロジーの蒸気機関である。石炭さえあれば、たとえ無風状態でも逆風下にあっても常に一定の速力を発揮する。自然の外力に依存していた船が、初めて人智の制御下に組み込まれた。サスケハナ号は近代科学文明の象徴であり、自然を克服するという欲望を備えている点において人間的な船であった。
エネルギッシュに波をかいていた外輪が命令を受けて止まる。蒸気船を初めて見る雅博《まさひろ》たちには船の形をした巨大生物にしか見えない。今この目で見ている現実が何の記憶とも繋《つな》がらないために、脳が麻痺した状態だ。蒸気船という近代の雄叫《おたけ》びに雅博の古い意識が揉まれていく。けたたましい怪奇音を発生していた艦が静まると、ようやく船の一種だと理解できた。
「これは只事ならぬ。急ぎ在番奉行《ざいばんぶぎょう》殿に報告を。いや王府との調整が先だ」
雅博は米国艦隊が北上することを危惧《きぐ》した。今の幕府の体制下でこの黒船が来たら天変地異よりも恐ろしい事態になるだろう。瞬時に「国家転覆」という言葉が雅博の脳裏を過《よぎ》った。
「江戸に通知するために、まずは国元に飛船を走らせろ。ぐずぐずしてはいられん」
波止場が物々しい動きを見せる中、米国艦隊は規律正しく艦を停めていく。ミシシッピー号、サラトガ号、プリマウス号、サプライ号、カプリース号、マセドニアン号、ポーハタン号と続々現れる様は新時代の強制覚醒だ。否定した者から敗者にされてしまう圧倒的な威圧だった。
「全艦隊投錨せよ」
ペリー提督が甲板《かんぱん》から那覇港を望んだ。喫水線の下に広がるガラスのように透明な海は船を宙に浮かべているように錯覚させた。
「なんと荘厳な景色だ。これが極東一の美と教養の王国と謳《うた》われた琉球か」
廈門《アモイ》や香港とは異なるこの開放感溢れる景色はどうだろう。霞むことなく隅々まで見渡せる視界は庭園的でありながら、風の抜けがよい。海の色も山の植生も工芸的な美しさだった。もし人類未踏の地ならエデンと名付けよう。しかしペリー提督はコロンブスのように新天地を開拓しに来たわけではない。元々ある国名を全て「アメリカ」と書き換えるために、ここにいる。
「フィルモア大統領閣下、アメリカはまた版図を広げましたぞ」
ペリー提督は星条旗に敬礼して、拳《こぶし》を握りしめた。彼は米国のホメロスにならんがために並々ならぬ決意を秘めてきた。ペリー提督は自分が孤独な役者のようだと思った。シナリオはあるが、相手役にはどんなストーリーなのか知らせていない。演出は、米国国民の意に沿うものを用意した。歴史的な瞬間は舞台の初日に似ている。ただしゲネプロなしの一発勝負だ。
「あそこが王宮なのだな」
丘の上の真紅の宮殿は那覇港からも鮮明に捉えられた。東洋の建築なら清《しん》国で幾らでも見てきたペリー提督だが、首里《しゅり》城の美しさは格別だ。エメラルドグリーンの海と対比するような紅色は、この国の庭園的な風土によく映《は》えている。プリンセスのティアラのような優美な佇《たたず》まいに、ペリー提督は敬虔《けいけん》な気持ちになる。これが堅牢な要塞ならば砲弾のひとつふたつで挨拶するのだが、無防備なプリンセスに武器は野暮というものだ。帽子を脱いだペリー提督は遠くにある王宮に恭《うやうや》しく敬礼した。
「初めましてハイネス。ところで領土を明け渡してください――」
サスケハナ号のキャビンに置かれたチェスのボードはキングを詰めようとしていた。奇妙なことにキングの奥にもうひとつキングが配置されナイトたちの厳重な守りを受けている。
「ファースト・チェックメイト」
ペリー提督は差し出された無防備なキングを易々と詰め、盤上の奥深くにいる本物のキングに狙いを定めた。
米国艦隊が琉球を必ず陥落しなければならない理由は、極東のブランク国・日本に接触するためだ。清国の衛星文明国でありながら、薩摩の実効支配を受けている琉球は引きこもりの国から伸びた長い尻尾だ。この尻尾を引っ張れば本体はいやでも穴から出てこざるを得なくなる。琉球を落とせなければ日本開国はあり得ない。
「ただ火をつけるだけでよい」
ペリー提督はマッチを擦って葉巻を銜《くわ》えた。
那覇港を埋め尽くすように碇泊する大艦隊は王宮からもはっきりと肉眼で捉えられた。
「おいおい今度は大艦隊だぞ」
多嘉良《たから》が物見台の西のアザナから那覇港を見下ろしている。黒い船団に埋め尽くされた那覇港は無数の橋がかかっているように見えた。すぐに多嘉良の袖が引っ張られ、交替しろと次々に役人たちが這《は》い上がってくる。列強の船には慣れている王府だが、これだけの大艦隊の入港は前代未聞だ。那覇港の収容能力を遥かに超えている。
「一体今度は何を要求するつもりだ?」
「大丈夫。評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》たちが今度も上手《うま》くやってくれるさ。おい、喜舎場《きしゃば》親方だ。道を開けろ」
噂を聞きつけ西のアザナにやってきた朝薫《ちょうくん》は、硬い表情をしていた。那覇港を埋め尽くす米国艦隊を見つめた朝薫は、ついにこの日がやってきたと息を呑む。
――寧温《ねいおん》。きみの言う通り、王宮が狙われたよ。
「喜舎場親方、なに暗い顔してるんですか。いつも通りのらりくらりとかわしてやればいいじゃないですか。がはははは」
多嘉良も他の役人たちもいつもの列強訪問だと高を括《くく》っている。だが朝薫にはこれが通常の異国船入港でないことはわかっていた。皮肉なことだが、琉球に関心を持ってやってくる異国船の場合、測量や地質調査をすれば気が済んで帰ってくれる。条約締結は二次的な目的だから断れば渋々断念してくれた。所詮、琉球とはその程度の国だからだ。相手国の国益を増進させるほど魅力的な国ではないということだ。ただし、琉球を使って第三国を狙うならこの限りではない。
琉球から狙える第三国は清国と日本だ。清国は英国の足場になっているから英米同盟において港湾を自由に使える。敢えて琉球を脅す必要などなかった。朝薫が清国から集めた情報によると、米国が関心を持っているのは日本だった。この場合、列強にとって琉球は魅力的な国に変わる。地政学的特性による物資の補給基地として、また薩摩から江戸へと繋がる体制打倒の導火線として、琉球を使わない手はない。米国は琉球を制圧すれば日本の領土の一部を支配したとみなすだろう。なぜなら薩摩がそれを許すはずがないのだから。
「評定所筆者と表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》をすぐに全員招集しろ。非番の者も呼び出すんだ!」
朝薫は声を荒らげて西のアザナを立ち去った。
北殿は|※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]《いきれ》で喧《む》せるほどなのに、通夜のように沈鬱《ちんうつ》だった。評定所筆者と表十五人衆、そして三司官《さんしかん》は幽閉されたように押し黙っている。御庭《ウナー》で勝手に論議している役人たちの声の方がずっと大きかった。危機的な状況に脳よりも身体の方が激しく反応していた。北殿の窓から内部をそっと覗《のぞ》いた多嘉良は彫像のように固まっている筆者たちの背中に目を丸くする。
「おい評定所が黙っているなんて今まであったか?」
「もしかして打つ手がないとか……?」
お互いに顔を見合わせて「まさか」と笑う。国家の有事に対してあらゆる手段を講じてきた評定所筆者たちに不可能という言葉はない。彼らの無敗神話は国家存続と同義だ。一度でも交渉で負けると琉球という国名は地図上から姿を消す運命だからだ。
長い沈黙を破ったのは老三司官の咳払いだ。
「米国艦隊には速やかに琉球を去ってもらう。異論はないな?」
「しかし三司官殿、艦隊の次の目標が江戸であることは明白でございます。御仮屋《ウカリヤ》の在番奉行殿は幕府が対策を練るまで米国艦隊を留めておくように述べております」
「バカな。琉球を捨て石にするつもりか」
「米国艦隊は武力行使してでも琉球と交渉するつもりです。あの船の大砲だけで王国の半分は火の海になるでしょう」
「何と忌まわしい。あれを琉球で食い止めろというのは不可能だ」
「相手は琉球陥落が目的です。長期滞在させると却って危険なことに」
ペリー提督が王宮を表敬したいと述べてきた。朝薫は断固反対だ。
「国家という性質上、表敬を受けると交渉する用意があると相手に思われる。彼らに王府への入り口を与えてはならない」
「では返事はどういたしましょうか?」
「王府には外交文書を受け取る部署がないと言え」
「米国艦隊は上陸の許可も求めております」
「それも許可しない。賓客をもてなす施設が王府にはないと言え」
「喜舎場親方、そんな詭弁《きべん》が通用するとでも思っているのですか。あいつらは勝手に上陸するつもりでいますよ」
上陸されると既成事実ができてしまう。これを阻止する理由を考えなければならなかった。朝薫は苦肉の策を講じた。
「漂着民に対しては難民協定による保護を行う。米国海軍は那覇港にて座礁《ざしょう》した。王府は哀れみの礼を以て、米国民の保護を行う用意があると言え。ただし住居に関してはこれから建設するので船で待て。見舞として食料と水の補給を行う」
朝薫はそのように書簡を認《したた》めて筆を擱《お》いた。
――寧温、きっときみでもこうするだろう?
評定所の混乱はすぐに裏世界まで伝わった。御内原《ウーチバラ》の女官たちもペリー艦隊の話でもちきりだ。
「女官|大勢頭部《おおせどべ》様ーっ。一大事でございますーっ」
思戸《ウミトゥ》付きのあがまが闘鶏相手の役人から情報を仕入れてきたようだ。思戸は女官大勢頭部に就任しても、まだ闘鶏をやっていた。これが思戸の臨時収入になっている。もっとも政治的裏金にしか使わないのだけど。
思戸はあがまの金切り声に苛々した様子だ。
「静かに。御内原の女官が大声をたてるとは何と行儀の悪い。また蔵に閉じ込められたいのか」
「ごめんなさい女官大勢頭部様。でも大変なんです。那覇港に異国船の大船団が現れたようです。評定所はそのことでずっと会議をしたまま誰も出てこないのです」
「異国船など珍しくもない。私は進貢船が帰ってきたら教えろと言ったはずだよ。異国船と進貢船の見分けもつかぬとは何のために外出許可を出したと思っているんだ。この役立たず」
「いたーい。真美那《まみな》様のご出産祝いならまだ先なのにー」
思戸は女官大勢頭部になったからといって地位に胡座《あぐら》をかいているわけではない。王族たちの信頼を獲得するためにきめ細やかなサービスを提供しなければならない。御内原は高級ホテルのようなものだ。それも生涯滞在型の。女官大勢頭部は総支配人として王族たちをもてなすのが仕事だ。真美那が出産するとなれば、物入りになる。大美御殿《おおみウドゥン》との連携、世子《せいし》誕生の場合は御料理座を使うこともあるかもしれない。養殖の牡蠣《かき》は揃えられるか、豚肉は調達できるか、小麦粉の備蓄はどれくらいあるのか、全て前もって準備しておかなければ女官大勢頭部の失態となる。
「でも女官大勢頭部様ーっ。なぜ絹を三十反も必要なんですかーっ? 贈り物なら一反で十分なのにーっ」
思戸が扇子であがまの頭を叩いた。
「バカだね。あがまのお前たちからの祝いに決まってるじゃないか」
「そんなお金ありませーん。あがまはヒンスー(貧乏)でーす」
「子どもが金の心配なんかするんじゃない。なんのために私がいると思ってるんだい」
思戸は自分の金であがま達からの贈り物を用意していた。いくら女官大勢頭部から高級品を贈っても取り入っているように見られるだけだ。思戸はかつての上司の女官たちがそうしているのを幼心に愚かだと思っていた。本当に嬉しいのは部下が可愛がられたときなのに。真美那もあがまからの祝いなら心に刻んでくれるだろう。
「女官は御内原のことだけを考えるのが仕事だ。異国船のことなら評定所に任せておけばよい」
「でも摂政《せっせい》様も顔を青くされておられました。真美那様どころではありませーん」
「アメリカ人も真美那様のお祝いに来られたんだろう。さあ忙しくなるよ」
思戸たちの会話を聞きつけた真鶴《まづる》が女官居室の前で立ち止まった。
――米国海軍が那覇港に来たですって?
いつかこの日が来ると思っていたが、いざ現実になると足の震えが止まらなくなった。王府が対応を間違えると王宮に砲弾が飛んでくる。これまでのやり方が全く通用しない相手だということを評定所は知っているのだろうか。もし詐欺のような手口で米国を苛立たせたりすれば、実力行使する連中だ。八重山《やえやま》での砲撃を知っている真鶴は嫌な予感がした。
――朝薫兄さん、わかっていますよね。交渉する姿勢を示さないと報復を受けてしまいます。
これはインディアン・オーク号とは次元の違う事件だ。商船と戦艦を同列に扱うと相手の得意技を使われてしまう。米国海軍が強引に那覇港に入港したということは、艦隊を率いる提督は大統領の密命を帯びた特命全権大使だ。国家元首と同等の扱いをしないと米国を侮辱したことになる。もし難民扱いすれば報復の口実にされてしまうだろう。
――朝薫兄さん、すぐに歓迎の使者を艦隊に送ってください。さもないと王宮が落とされます。
国家の有事のために王宮に戻ってきたというのに、今の真鶴は女の姿で軟禁生活を強いられている。御内原は牢に繋がれたも同然の不自由さだった。打ち掛けがこんなに重いとは思わなかった。髪がこんなに鬱陶《うっとう》しく感じるのは初めてだ。身軽な寧温に戻ってすぐに陣頭指揮を執りたいのに、真鶴の身分は側室だ。今の立場では正殿の二階の窓から評定所の様子を眺めることしかできなかった。
背後から女官の声がする。
「あごむしられ(側室)様、すぐに世添《よそえ》御殿にお戻りください。王妃様のご命令です。正殿への出入りは禁止されました。御内原は米国艦隊の襲撃に備えて全ての門を閉ざします」
「待って。もう少しで終わるから。あ、朝薫兄さんが出てきた。よかった書簡を持っている。実務者協議に持ち込んでくれるかも――」
「あごむしられ様、お立場をお忘れですか!」
女官に一喝されて真鶴は漸《ようや》く、御内原での息遣いを取り戻した。御内原に思考する女がいてはならない。そもそも女に情報分析力があるなんて思われていないのだ。女に期待されているのは、感情的で非論理的な振る舞いだった。ちょうど、このおせんみこちゃで祈祷《きとう》する神女・さしのあむしられのように。
白装束《しろしょうぞく》の神女は、全身を激しく痙攣《けいれん》させて神の啓示に白目を剥《む》いている。
「黒船の煙を吸えば悪霊《あくりょう》に取り憑《つ》かれるぞ。すぐに那覇港に乙女の人柱を捧げるのじゃーっ!」
女がこの程度と思われているのが真鶴には悔しい。
「神女のあなたがいい加減な託宣を下すとは何事ですか。あれは蒸気機関です。石炭を燃やし沸騰した蒸気の圧力で水車を回しているのです」
「あごむしられ様が妖術にお詳しいのはなぜじゃー」
神女は据わらなくなった首をぐらぐら揺らしながら真鶴に食ってかかる。神の言葉に異を唱えるとは御内原の女にあるまじき態度だと。
真鶴が御内原に来るまで女官たちは迷信深いままだった。未知の恐怖や噂に付和雷同し神女の霊験《れいげん》に縋《すが》りつく。それで神女の地位が保たれていた。なのにこの側室が王宮にあがってからは、女官たちに智恵がついた。ちょっとやそっとの脅しでは取り乱してくれなくなった。
「あごむしられ様は神の言葉を侮辱なさるおつもりかー」
「神の言葉は正しい魂のある肉体にしか宿りません。あなたの言葉は悪霊そのものです。国の有事につけこんで女官を脅して何が楽しいのですか」
「男みたいな物言いのあごむしられ様じゃー。真美那様のご懐妊に焦っておられるのかえ?」
「真鶴さんはそんな人ではありません」
割って入ったのは身重の真美那だ。袖から木簡《もっかん》のまじない札を取り出すと、老女の額に叩きつけてやった。
「お腹の子を死産にするフーフダー(まじない札)をありがとう。誰に頼まれたのか知らないけど、あなたが私の留守中に入った部屋は真鶴さんの部屋だったのよ」
真美那は表向きには以前と同じ部屋を使っていることになっている。だが御内原は陰謀渦巻く伏魔殿《ふくまでん》だ。用心に越したことはない。真鶴は万が一のことを考えて密かに部屋替えを申し出た。案の定、この神女が留守中に世添御殿に入ったではないか。
「嫌な予感がしたんです。調べてみたらあのフーフダーが畳の下に。このさしのあむしられは馬《ば》一族の傀儡《かいらい》です」
「おのれ、あごむしられめ。余計なことをしてくれたものじゃ」
「そんなに向《しょう》家が憎ければ正々堂々勝負なさい。私にまじないは効かないわよ。なぜなら――」
真美那は襟元からもう一枚の木簡を取り出した。
「あなたのまじないを無効にするフーフダーを持っているから。うふふふ」
――真美那さんって意地悪〜っ。
実は真鶴はこんな真美那が大好きだ。真美那は女の領分で闘う術《すべ》を無意識に会得している。男を凌駕《りょうが》する知能を持っている真美那だが、理屈の通じない相手には生理的にざらっとする方法でそのプライドを打ち砕く。到底、真鶴には考えつかない方法だ。
そして真美那は交渉も上手だ。
「もしこのフーフダーを仕掛けたことを首里天加那志《しゅりてんがなし》に知られたらあなたは死罪を免れないわ。平等所《ひらじょ》に突き出されたくなかったら私の言うことを聞きなさい。さあ真鶴さんに謝って」
神女は悔しそうに真鶴の前に手をついた。
「あごむしられ様、先ほどの無礼をお許しください――!」
「許さない」と言ったのは真美那だ。それで神女は土下座して頭を擦《こす》りつけてひれ伏した。
「真美那さん、もういいんですよ。十分|懲《こ》りたでしょう」
神女が意気|消沈《しょうちん》して下がる中、突然、怒り出したのは真美那だ。あれだけ仕返ししたのに何が足りなかったのかが真鶴にはわからない。
「もう、真鶴さんったら! ここは御内原だってことを忘れちゃダメでしょう。蒸気機関の仕組みを知っている女がいたら怪しまれるだけよ。ここは感情と呪術の世界よ。理屈が一番通じない場所なのよ」
「真美那さんは蒸気機関を知っているんですか?」
「ジェームズ・ワットでしょ。気筒の熱効率をあげるために復水器で蒸気を冷やす方法を発明したのよ。これまでのニューコメン式の蒸気機関は熱力の百分の一しか利用できなかったのに比べて飛躍的に性能があがったわ」
「真美那さんって一体……?」
真鶴の知らないうちに、真美那の知識は自然科学の分野にまで及んでいた。真美那は独学で様々な学問を修得していた。見れば真美那は怒りながら涙を流しているではないか。
「これが世界の常識。でも琉球の常識では女がそんなこと知っていてはならない。だから私は黙っている。聞かれても知らないふりをする。私にできるのに、なぜ真鶴さんはそうしないの?」
「ごめんなさい。私が軽率でした……」
真美那はこれがただの怒りではないとわかっていた。真鶴の軽率な行動に腹が立ったわけではない。自分の知識を隠していることが悲しいから泣いているわけではない。
無知を装って日々を誤魔化しているうちに、国際情勢は劇的に変化していた。知らないふりをしているのは、ただ怖いからだ。真美那は未来が恐かった。この王国がどうなるのか想像しただけで怒りと涙がこみ上げてくるのだ。
真美那は真鶴から世界情勢のことを聞いていた。冊封《さっぽう》体制という古い世界は衰亡の途につき、近代という新しい時代が迫っている。科学技術を身につけた新しい文明は軍事力によって古い世界を蹂躙《じゅうりん》していく。琉球が周辺国に縋っても鎖国しても有無を言わさず踏み込んでくる。大艦隊での襲来は恐らく米国だろうと八重山での一件から真鶴は推測していた。
「真鶴さんの予想通り、米国艦隊が琉球に来たわ。この国は……滅びるの?」
「わかりません。ただ琉球の外交史上、最も手強い相手であることは間違いありません」
「香港のように、琉球は米国の植民地になるの?」
「たぶん狙いはそうです。武力行使してでも要求を呑ませるでしょう」
真美那は自分の腹を抱き締めて泣いた。
「そんな、そんな未来なんて嫌! 私、来月赤ちゃんを産むのよ……。この子はどうなるの? この子に何て説明すればいいの? この子の国は琉球なのに……」
「真美那さん、大丈夫です。きっと評定所筆者たちが国を護ってくれます」
不安なのは男ばかりではない。王族も女官も神女もそして国民も、巨大な嵐を前に為す術もなく震えていた。嵐が去った後、王府は存続していないかもしれない。そのとき真美那の子は王族でなく、今日を生きていくだけで精一杯の無学な平民になっているだろう。積み上げてきた知識も教養も美意識も、永々たる栄光の血脈も引き継がれることなく途絶えていく。真美那は生まれて初めて、人生の危うさに戦《おのの》いていた。
この世人間や水の泡ごころ
消えて跡ないらぬ夢の浮世
(この世の人間は水の泡のようで、やがて消えて跡形もなくなってしまう。夢の浮世が恐ろしい)
那覇港に王府の重臣たちが現れた。碇泊する大艦隊を目の前にして、誰もが震えが止まらなかった。世界は自分たちを無視して躍動しているように見える。突然レースに放り込まれてルールもわからないまま走らされた気分だ。先行する列強は背中も見えないほど遥か向こうを走っている。しかしギブアップは許されない。投了した国は植民地という屈辱的地位を与えられるからだ。
最初の防衛線は上陸の阻止だ。
「ぼくが旗艦に乗り込もう。通事《つうじ》は一緒に参れ」
朝薫が旗艦サスケハナ号へと向かう。舟から見上げるサスケハナ号の煙突は天を突く巨大な柱に映った。柱の影に朝薫が呑まれていく。
「なんてものが来たんだ……。これが阿片《あへん》戦争で清国を踏みにじった列強の戦艦か……」
舷側に並ぶ十二基のダルグレン砲が王宮を無言で狙っている。大砲の威力は清国製のものより遥かに優れていると聞いていた。この戦艦一隻で一万人の兵を相手に闘えるという。船というよりも黒い要塞といった風体だ。
サスケハナ号に乗り込んだ朝薫は、怯えていることを悟られないように形式張った振る舞いをした。
“My name is Chokun Kishaba, a Cabinet minis-ter of the Kingdom. Welcome to the Great Lew Chew.”
(王府重臣の喜舎場朝薫です。ようこそ琉球へ)
寧温から習っていた英会話で恭しく挨拶を述べた朝薫にペリー提督が怯《ひる》んだ。清国の慈悲で王権を維持している弱小国だと侮《あなど》っていたが、よどみない英語を使いこなすとは予想外だった。
「ははは。まさか英語を喋《しゃべ》るとは何という役人だ。通訳がいらないのか」
「いいえ。細かい意味合いの違いまではわかりかねますので、お互いに通訳を介しましょう」
実はペリー艦隊入港直後にベッテルハイムがサスケハナ号を訪れていた。久しぶりの欧米船籍に懐かしくなったベッテルハイムはラム酒を飲みながら琉球のあらましを語った。王府の役人たちの教養の高さは清国以上で、高等教育を受けた米国人と遜色《そんしょく》ないレベルにあるとベッテルハイムは言った。そのひとつが証明されたとペリー提督は思った。
那覇港で作業する港湾労働者の恰好を見ても香港の苦力《クーリー》とはまるで違う。誰もが身なりがきちんとしていて、顔つきも知的だ。何よりも驚いたのが、休憩の合間に彼らが書物を読んでいることだった。労働者階級の人間が書物を読むなんて米国では見られない光景だ。
「私は米国東インド艦隊提督、マシュー・ペリーだ。修好条約を結びにやって来た。是非、国王に謁見したい」
「それは不可能です。国王はまだ幼く実務は私どもが代行しております。我が国は清国の冊封体制下にあり、清国の許可なく外交することを禁止されております」
「我々は琉球を独立国とみなしている。ここは君主国だろう?」
「いいえ。説明しにくいのですが、我が国は清国皇帝陛下から王権を認められた郡王国のひとつにすぎません。いわば公爵国と申しましょうか。まずは我が国の外交儀礼として、清国皇帝陛下に大統領閣下の親書を受け取ってよいかどうか伺わせてください」
「清国の許可など必要ない。王宮を表敬したい」
「王宮は宗教上の理由で異国人の立ち入りが禁止されております」
「帰れというのか?」
「私どもの認識といたしましては、米国艦隊は那覇港に座礁したとお見受けいたします。難民保護は海洋国である我が国の最優先事項。是非お見舞いさせてください」
朝薫の詭弁にペリー提督の神経が苛立ってきた。この近代武装の大艦隊を惨《みじ》めな漂着船とのたまうとは見上げた根性だ。この国の属性が不明な理由の一端を垣間見《かいまみ》た気がした。日本と清国の二重支配を巧みに利用しているのだ。船旅で退屈していたペリー提督は遥々来た甲斐があったと思った。
「貴殿のお見受け通り我々は航海で疲れている。まずは上陸の許可を願いたい。難民の最低限の要求と思われるが?」
「現在、王府で宿舎を建設する手はずを整えております。どうかそれまでは洋上で待機してください」
ペリーはどんな理由をつけてでも上陸を果たしたい一心だ。
「航海中に死人が出た。埋葬の許可くらいはしてくれるだろう?」
埋葬もダメだ、と三司官が口にしたのを朝薫が遮《さえぎ》った。航海で死人が出るのは常だった。死体は防腐処置を施してあるが、上陸地で埋葬を待つまでの一時的な処理にすぎない。これを拒むと感情を逆撫でしてしまいかねない。死者を使うとは上手い口実だと朝薫はしばし考えた。琉球は鎖国しているわけではない。海洋を閉ざすことは自らの手足を切り落とすことである。
「貴国の死者に深い哀悼を捧げます。最も相応《ふさわ》しい墓地を用意いたします」
ペリーは満足そうに頷《うなず》いた。
「その土地を米国が買い上げたい」
「それは不可能です。米国人の埋葬は王府の施しにより、手厚く行います。また埋葬に立ち会うことは許可いたしますが、葬儀が済み次第速やかに艦に戻っていただきます」
「貴殿の配慮に感謝する」
ペリー提督は居丈高《いたけだか》な態度を軟化させた。王府の重臣と名乗った男は米国でも滅多にみかけない紳士だ。こちらに警戒心を持ちながらも人間的な慈悲心を示そうとする。思慮深そうな黒い瞳の紳士にペリー提督は感銘を受けた。
同乗してきた三司官が朝薫に小声で囁《ささや》く。
「朝薫いいのか? 上陸を条件つきで許可したことになるぞ」
「死者の埋葬はどんな国においても最も神経質になるものです。拒否したら勝手に上陸されてしまうでしょう。上陸にはいちいち条件がつくことを理解してもらいます。要はベッテルハイムと同じです」
王府はベッテルハイムの滞在を公式に認めてはいない。だが保護はする。琉球の不法滞在記録更新中のベッテルハイムは金のかかる厄介者だった。そう噂をすれば影だ。
「では私がお祈りをしてやろう」
「ベッテルハイム! 貴様また無断で外出したな!」
ペリー提督もなぜ朝薫が英語が上手いのか納得した。初めて見る米国人に王府は戸惑うだろうとばかり思っていたのに、最初にペリー提督を歓迎したのは皮肉なことに不法在琉英国人だった。道理で異国人慣れしている国である。特に欧米人に対しては心証はよくないようだと思った。
ベッテルハイムはいつものように激高していた。こういうタイプが欧米人の典型と思われるのは心外だった。
「西洋人を歓迎して何が悪いのだ。ペリー提督、こいつらが私にしてきた悪行《あくぎょう》の数々は許し難いものがあるのだ」
「ペリー提督、我が国では切支丹《キリシタン》は禁止なんだとこの分からず屋に教えてほしい」
「分からず屋と言ったな。この国で受けた暴力行為を英国の裁判所に訴えてやるぞ」
「先王の国葬を邪魔したからだろう。当然の報いだ」
「まあまあ、お二人とも、穏やかに。カム・ダーウン」
なぜかペリー提督が仲裁する始末だ。余計なことを日誌に書くつもりはなかったペリー提督も、初日からシナリオの変更を余儀なくされてしまったようだ。
ペリー提督の要求通り死者の埋葬は泊《とまり》の外人墓地で行われた。立ち会ったペリー提督は本国で行うのと同等の尊厳のある葬儀と埋葬の仕方に琉球国の品格を垣間見た気がした。そしてやはりこれだけの国ならば支配する価値があると決意を固めた。
葬儀後、朝薫が向かった先は那覇港近くの御仮屋だ。薩摩の軍事力を借りて、なんとか米国艦隊を追い返してもらおうと縋りついた。
「在番奉行殿、我が国は米国艦隊から不当な圧力を受けております。是非、お力をお貸しください」
しかし在番奉行は朝薫の陳情を却下した。薩摩藩は十分な海軍力を持たず、十数年後に英国から買い入れることになる軍艦・春日でさえもサスケハナ号の半分の排水量しかなかった。近代化を成し遂げた米国と鎖国の日本の技術格差は百年の開きがある。そのことを薩摩はよくわかっている。義侠心《ぎきょうしん》にかられて琉球を手助けすればペリー提督に北上する口実を与えてしまう。
「これは琉球の国内問題で、我が藩としては関係のない事件だ」
「そんな。いつも内政干渉するくせに、こんなときだけ静観するなんて卑怯だぞ」
薩摩は王府の人事に介入するようになっている。より琉球支配を強めるために薩摩派の役人が重用されるようになっていた。その矛先は三司官にすら向けられようとしている。時代の流れが清国から薩摩へとシフトしていく中で、朝薫の存在は疎《うと》まれていた。
「喜舎場親方は清国派の重臣だろう。泣きつくなら咸豊帝《かんぽうてい》が筋だと思われる」
「在番奉行殿は事態を甘くみてはおられないか? 米国が琉球に来た真の目的は日本開国だぞ」
在番奉行は何も答えずにただ朝薫を睨《にら》みつけただけだった。
御仮屋では密かに藩主・島津|斉彬《なりあきら》に密使を送ろうと書簡を認めている。属領の琉球ひとつ失うことくらい、幕府崩壊に比べたら些末なことだった。かといって江戸幕府の蒙昧《もうまい》ぶりは目を覆うばかりだ。琉球を情報基地にしている分、薩摩は幕府の中でも国際情勢に明るい藩だった。国際社会の中で日本は相対的に途上国へと落ちているのに、力は拮抗《きっこう》していると思っている。あの超大国・清でさえ英国に蝕《むしば》まれて斜陽だというのに。もし米国艦隊が日本を訪れたら黄昏《たそが》れる暇もなく、いきなり闇夜に突き落とされるだろう。
「喜舎場親方、我が藩は幕府の一藩にすぎん。江戸に事態を報せ相応の対策を検討したい。それまでの間、何としても米国艦隊との交渉を引き延ばすのだ」
朝薫は聞いていて目眩《めまい》を覚えた。どの国ものらりくらりとかわす手法は同じだ。ペリー提督にさっき味わわせたばかりの詭弁地獄が朝薫に返ってきた。ただペリー提督は圧倒的な軍事力という切り札をいつでも切れる状態にある。朝薫には帯刀さえ許されない。唯一の武器は筆だけだ。
――こんなとき寧温さえいてくれたら!
今日ほどかつての同僚に側にいてほしいと思ったことはない。英米連合軍の砲撃をいち早く八重山から報せてくれたのは寧温だった。その身を挺しての訴えに何の対策も講じずにいた自分が恥ずかしい。台場は作れないまでも黒船が入れないように暗礁を作り那覇港を封鎖することはできたはずだ。遷都して隠れることも考えたが、現実的ではないと一蹴《いっしゅう》された。
その間に朝薫は結婚し、子の親になり、束の間の幸福に浸っていた。まるで現実から逃避するように。朝薫は生まれたばかりの息子の未来に忍び寄る暗雲を見据えた。
「朝温《ちょうおん》、ぼくの可愛い息子よ。父さんは何が何でもこの嵐を追い払ってみせるからな!」
命を繋いだ以上、朝薫には身を犠牲にしても守らなければならないものがある。息子に荒れ果てた国土を残して、何も引き継がない無責任な父親にだけはなりたくなかった。朝薫はたとえ後世の歴史書で嗤《わら》い者にされようと、道化と面罵《めんば》されようと、怒らせて銃殺されようと、ペリー提督上陸を一日でも遅らせる人柱になるつもりだ。
門を閉ざして完全に外界から隔離された御内原に、苛立ちの夜が訪れていた。男たちは表世界の守りに駆り出されて、御内原は孤立していた。女は閉じ込めておけば安心だという男たちの勝手な思いに、苛立ちから疑念へ、疑念から憎悪へと変遷していく。その様はまるでウィルスがシャーレの中で突然変異を起こす過程のようだ。
思戸が備蓄の食糧を確認してあがまたちを一カ所にまとめた。
「女官大勢頭部様、ヒージャーミー(山羊の目)たちは子どもをさらうって本当ですかあ?」
「安心おし。アメリカ人の目が山羊みたいだからって鬼じゃないんだから」
「でも女官大勢頭部様、ヒージャーミーたちは王宮を攻め落とそうとしているんでしょう?」
「御内原は王宮の中でも一番厚い壁に覆われている。ここが王国で一番安全な場所だよ」
せめて情報でも伝えてくれればもっと安心させてあげられるのに、と思戸は苛立った。隔離されなければ配下の女官を外に出して情報収集させるのに、封鎖命令で動けない。
真美那は真鶴から米国艦隊の情報を引き出そうとしていた。丸くなった腹を抱えた真美那は恐れを隠さない。
「私怖いわ。真鶴さんはサラトガ号を八重山で見たって本当?」
「サラトガ号の所属は東インド艦隊です。だとすれば旗艦はサスケハナ号でしょう。琉球へ来た目的は江戸へ上るための足場として補給基地にするためです」
「もし真鶴さんが評定所筆者だったらどう対応する?」
真鶴はあり得ないという顔で大げさに首を振った。だが真美那の瞳は真剣だ。真鶴は自分が寧温の顔になるのを見られたくなくて扇子で口元を隠しながら話した。
「私なら……。もし私が評定所筆者なら、武力介入を避けるために大美御殿《おおみウドゥン》で歓迎式典を行います。大美御殿は半官半民の施設だから王宮の一部のように米国人には見えるでしょう。大美御殿で修好条約を締結させられても民間交流だったと後で説明ができます」
真美那は評定所がそうしてくれると信じたかった。
「私、本当にここで赤ちゃんを産んでいいのか迷っているわ」
「真美那さんの子は我が国の未来です。何も心配することはありません」
「私、自分はどうなってもいいの。でも子どもだけは守りたい。こんな気持ち初めてよ。きっと強くなってみせるわ。王妃様よりも、聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》よりも」
迫ってくる危機を前にして真美那に生じた初めての欲、それを受け入れようとしている。慈愛に満ちた母の顔をしていた真美那に毅然《きぜん》とした強さが芽生えつつあった。
真美那は軽やかに羽ばたくよりも大地を踏みしめることを選んだ。
「お爺様と朝薫は上手くやってくれるかしら?」
「喜舎場親方は賢明なお方です。乗り切ってくれると信じております」
「まるで朝薫が親友みたいな言い方ね?」
「何を言うのですか。真美那さんの従兄だから信用するまでです!」
扇子から覗いた真鶴の表情に、真美那がハッとする。遠い日の淡い初恋の残り香がぷんと漂ったような気がした。
――真鶴さん、あなたは一体何者なの?
The next day, the 27th, the shores looked, if possible, more brilliantly green and beautiful than ever, and all on board were struck with the loveliness of their appearance. About seven o'clock, four boats came off, bringing presents for the ship. The presents brought consisted of a bullock, several pigs, a white goat, some fowls, vegetables, and eggs. These were peremptorily refused. At this time it was observed in the squadron that several of the junks put out from the inner harbor and sailed to the northward, as it was conjectured, for Japan.
[翌二十七日、海岸はこれまで見たどんな海よりも輝かしい緑色で、艦上の皆が心を打たれてしまった。七時頃、四艘の舟がやって来て、贈り物を届けてくれた。持ち込まれた贈り物は雄牛一頭、豚数頭、山羊一匹、鶏数羽、野菜、卵だった。我々はこの贈り物を断固拒否した。この時、数隻の飛船が港湾から出てきて北へ針路を取るのが見えた。推測するに日本の方へ向かったものと思われる]
翌日サスケハナ号の甲板で慇懃《いんぎん》に挨拶をする朝薫は、王府から米国艦隊への心づくしだと述べた。黒船が来航して一日しか経っていないのに、十年も居座られている気分だった。
「ペリー提督にはご不自由をおかけして大変心苦しく思っております。せめて食料だけでも提供させていただきたく存じます」
「答えはノーだ。我々は十分な食料を備蓄している。それよりも我々の飼っている動物たちの飼料に困っている。人間の上陸が不可能ならば、食料の山羊や豚を陸にあげてはもらえないだろうか? 我々は出来る限り食料を自給したい」
朝薫は米国艦隊千人以上の食料を提供するのが難しいと交渉するつもりでいた。食料がなくなれば帰るよう促すことができる。
「家畜の陸上での飼育を許可いたします。ただし世話係が地上で宿泊することは許可できません」
「貴殿も頑固な男だな。我々は国王と謁見すれば速やかに退去するというのに」
「王宮では国母様がご病気であられます。私どもが思いやりを示したように、提督も病人に対してご配慮ください」
同じ頃、御内原では恒例の意地悪大会が催されていた。軟禁生活の憂《う》さ晴らしといえば王族同士の鍔迫《つばぜ》り合いが一番だ。喧嘩の原因は真美那の子どもが王女だったら、聞得大君は早く退位した方がよいという女官大勢頭部・思戸の不用意な一言からだ。これに国母が逆上し、王妃が加勢し、聞得大君が闖入《ちんにゅう》し、国祖母が病床から起き上がり、後之御庭《クシヌウナー》に六者一歩も退かないヘキサグラムの魔法陣が出現した。真美那だって母となるからには子どもの地位を守らねばならない。意地悪の才能もそこそこあるだけに真美那が参戦すると手強い。
「私の子が王女なら聞得大君にしてみせるわよ!」
「真美那さん、そういうことを言うと喧嘩が長引きます」
「世子も聞得大君も王妃の私が産みます」
「それは懐妊してから言うがよい。公務を果たさぬ王妃に何の価値があるのだ」
「国母様、薬湯のお時間でございます」
「女官大勢頭部、私を勝手に病人にするとは無礼であるぞ」
「だってペリー提督が御内原に来たら困るもん」
「卑しい女官の分際で母上様に何という無礼じゃ」
「おのれ聞得大君、またしても御内原に勝手に入ってくるとは」
「聞得大君なら、嵐を起して黒船を沈めてみせよ」
「黒船が来たのは薨去《こうきょ》されない国祖母様に神がお怒りになられたからじゃ」
「どうしよう。この人たち現実がわかっていないみたい……」
「真鶴、自分だけいい子になろうなんて甘い考えだぞ」
国母が檄《げき》を飛ばす。シャーレの中は憎悪で沸騰していた。
そんなことも知らずペリー提督は甲板で深々と頭を垂れた。
「国母様に心からお見舞いを申し上げる」
ペリー提督は那覇港を出て行く薩摩行きの飛船を捉えた。薩摩から早馬を走らせて江戸に事態を報せるつもりだろう。飛船は蒸気船がよほど珍しいと見えたようで、こちらを観察するように意図的にぎりぎりまで接近してきた。幕府が対策を練る間、琉球に足止めさせようという作戦らしいが無駄なことだ。近代の嵐は古い制度を根こそぎ覆《くつがえ》す力を持っている。旧人が新人によって滅ぼされたときと同じ人類の衝突が起きているのだ。旧人のままでいたいなら、化石になって発掘される日を待つしかない。
「ははは。薩摩は琉球を見放したか」
北上する飛船を虚しく見つめる朝薫は、薩摩側が無様に逃げていくように見えていっそ爽快だった。虚勢だけの支配者。それに怯えていた自分たちの惨めさ。米国艦隊が帰ればまた横柄な態度で刀を振り翳《かざ》して戻ってくるのは明白だ。大国がやって来ては蹂躙するこの国の運命に、朝薫はどこまで耐えられるのか自問する。
――ここで負けたら琉球は終わりだ。
下艦した朝薫は久米村《くめむら》の漢文組立役の元を訪れた。福建《ふっけん》の長官から清国皇帝へ口添えしてもらえないか、最後の頼みをするつもりだ。
[#ここから2字下げ]
為蒙天子様之御高恩藩塀琉球国存亡之危機ニ
付福建布政使司宛ニ伏して奉訴候。亜船本国
致来着約定御難題之一件無極恫喝。此通ニ而
者貴国と之通融被致阻害者勿論、御当国存亡
差迫段者必定候故、亜船如香港可差返、天子
様御英慮被仰下候様、伏して奉頼候事。
[#ここで字下げ終わり]
「清国皇帝陛下に我が国の存亡の危機について福建の長官殿を介し伏してお願い申し上げます。米国艦隊が我が国に到着し無理難題を押しつけております。米国のいいなりになると清国との冊封体制が揺らいでしまいます。どうか米国艦隊を香港に帰還させるよう皇帝陛下のご英断を賜《たまわ》りたく、伏してお願い申し上げる所存でございます」
久米村の担当官は異例の親書に、これはあり得ないと顔を曇らせた。国王でもない異国の臣下が福建の長官づてとはいえ皇帝に陳情するなんて聞いたことがない。
「失礼ながら喜舎場親方、福建の長官殿とご面識があられるのか?」
「ない。そもそも清国にすら行ったことがない。だから頼りにしてしまうのかもしれない……」
朝薫は憧れの国、清国を旅しているような遠い瞳をしていた。清国の話ならこれまでに百人の船乗りから聞いたことはある。彼らの聞かせてくれる清国は百通りの姿をしていた。学問、政治、経済、軍事、全ての模範が清国にある。清国が琉球の万倍も大きな国ならば、慈悲心も義侠心も万倍あってほしかった。もしそうであるならば琉球は一万年の忠誠を誓ってもよい。薩摩のように都合のよいときだけ支配者|面《づら》する国ではないと信じたかった。
しかし時代の不幸は重なるものだ。清国には衛星国で起きた事態を収拾できるほどの力がなかった。折しも清国は太平天国の乱により大規模な内戦に突入していた。清国正規軍はキリスト教的楽園を掲げる洪秀全《こうしゅうぜん》率いる太平天国軍に圧倒されていく。皮肉にも洪秀全は科挙に落ちたことによる高熱で天啓を受け、体制打破に目覚めたという。一方、科試《こうし》に受かった朝薫は立身出世を極め、国体保持に邁進《まいしん》する。科挙と科試、このふたつのよく似た官吏登用試験の合否者が同時期において両国の衰亡に立ち会うことになる。
朝薫は返事の代わりに太平天国の乱|勃発《ぼっぱつ》の報せを受け取った。
「南京《ナンキン》落城――!?」
清国が内部崩壊を引き起こしたのは阿片戦争と同じく地丁銀《ちていぎん》制度の揺らぎからだ。銀高騰で増税となった庶民が太平天国軍に与《くみ》したのであった。
「ははは。清国も琉球を見放したか」
那覇港の波止場に佇《たたず》む朝薫はサスケハナ号の煙突の奥に沈んでいく夕日を眺めていた。米国艦隊のシルエットは那覇港の景色と絶妙に溶け込んでいく。雄大な艦隊の帆柱が八重の稜線を描くとひとつの島影にも見えた。
息子を抱いた朝薫は艦隊を前に清国の話を聞かせてやった。
「この艦隊を追い払ったら、きっと平和な時代が来る。そのときは、おまえを国子監《こくしかん》に留学させてやろう。父さんの清国は死んだけど、おまえは新しい清国を好きになっておくれ。そして首里天加那志にお仕えし、琉球をもっとよい国へ……。もっと、もっとよい国へ……」
朝薫は堪《こら》えきれずに息子を抱き締めた。話を聞かせてやりたくても、声が詰まって言葉が出ない。夜が更けて北の空には天子の星が上ってきた。
北斗打ち向かて夜夜に拝みゆすや
唐土天加那志ちよもちよわれ
(北斗七星に向かって夜な夜な拝礼しよう。清国の天子様のご繁栄を願って)
米国艦隊に震えるのは王府だけではない。大船団に戸惑うのは庶民たちも同じだった。物見高い庶民たちの列の中に粋《いき》に着流した遊女の影が立つ。
「やはり妾《わらわ》の予言通りじゃ。来たか列強!」
真牛《モウシ》はこの日が来ることを聞得大君在位中に予言していた。そのために法を無視してまで政治工作を行ってきた。それが結局は真牛の命取りになってしまったとしても、時間内に実現可能な方法を執ったのだから悔いはない。マキアヴェリストだった真牛はたとえ過去に戻れたとしても同じことをするだろう。即ち、馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を探し、御殿を増築し、寧温を追い詰め、やはり討たれて無系になる。運命がそうさせたのではなく、全て自己選択の結末だと強がるだろう。そしてこう嘯《うそぶ》くに違いない。「妾は後悔しない主義じゃ」と。そしてやばくなったら主義主張を捨ててすぐ逃げる。
「現聞得大君は何をしているのじゃ。妾が聞得大君だったら嵐のひとつふたつ呼び寄せて沈めてやるところなのに」
御内原が閉鎖されたら聞得大君まで御内原に閉じこもる有様だ。これだと聞得大君御殿が独立している意味がないではないか。聞得大君なら有事のときには祈願し、霊力で国難を排除するのが義務だ。そのために王族神という王に匹敵《ひってき》する地位をもらっている。
「馬天ノロの勾玉さえあれば霊力を倍増させて迎え撃ったものを……」
その肝心の霊力さえ今はない。しかしこれだけ圧倒的な海軍力を見せつけられたら霊視しなくても劣勢であることはわかる。ただ対抗策がないだけだ。
「なんじゃあの篝火《かがりび》は?」
海面近くにランプの明かりが見える。サスケハナ号から一艘のボートが上陸を試みようとしていた。不審に思った真牛が揺れる明かりを追った。
一方、御内原では女たちが自力で情報収集しようと企《たくら》み出した。ようやく一致団結の動きを見せたのはヒステリー爆発の大喧嘩に飽きてきたからだ。
真鶴の元に嗣勇《しゆう》が頼まれていた文箱を持ってきた。
「あごむしられ様、確かにお渡しいたしました」
「ありがとう。評定所の様子はどうですか?」
嗣勇は全然駄目だと首を小さく振って様子を伝えた。
「米国人たちは必ず上陸を試みてきます。高級士官に宿舎を与え、一定の譲歩をするように喜舎場親方に進言してください。聖現寺《せいげんじ》などが適当です」
「ぼくが言って通じるかな? ぼくはおバカな筆者で通ってるから」
「兄上、私は外の様子が知りたいのです。適当な理由をつけて出してくださいませんか?」
嗣勇はあまり乗り気ではない。かといって御内原が絶対安全とは保証できなかった。ペリー提督は王宮に入ることを望んでいるのだ。
「兄上、お願いです。サスケハナ号がパロット砲を積んでいるか知りたいのです。敵の射程距離を知ることは戦略上重要なことではありませんか」
「うーん。真美那様は情緒が不安定で首里天加那志も気を揉んでおられる。代理で安産祈願に行くなら何とかなるかも。もちろんぼくも随行するけどね」
突然、外で女官の悲鳴があがった。侵入者かと嗣勇が反射的に表に飛び出した。
「すぐに侍医を。聞得大君加那志が発作を起こされました」
御内原に入り浸っていた聞得大君が突然神がかったような譫言《うわごと》と共に倒れたらしい。
ペリー提督一行のボートが浜に着いたのは同じ頃だった。真牛は木陰に隠れて彼らの様子を逐一|窺《うかが》っている。米国人はボートを御嶽《うたき》の境内に隠そうとしていた。
「御嶽を荒らすとは許し難い異国人じゃ。あそこは竜宮の神を祀《まつ》ってあるというのに」
そのときだ。真牛の首に丸太にも似た屈強な腕が巻きついた。同時に口を塞がれて真牛の悲鳴が押し潰される。米国海軍の水兵たちが真牛に襲いかかったのだ。
「やめるのじゃこの狼藉者《ろうぜきもの》。妾を何と心得る!」
真牛は必死で抵抗したが、大柄な米国人相手に為す術もない。むしろ暴れれば暴れるほど着物の裾《すそ》がはだけていくばかりだ。水兵たちは真牛のあられもない姿に欲情する。
「おい見ろよ。こいつは島の売春婦だぜ」
「抱かれに来るとは商売上手な女だな」
「船旅で溜まってたんだ。ほらよ、三人で五セントだ」
真牛の側に銀色の硬貨が投げつけられる。真牛は異国人に買われたことが理解できていない。上陸を目撃したのを黙っていろという意味かと思った。
「妾に口止め料を払うとは愚かな連中じゃ。この国に米国人が踏み入る場所はないと提督に申し伝えるのじゃ」
先王の聞得大君を買収するなんて馬鹿にされたものだと真牛は睨み返す。しかし真牛の両足が抱えられたとき、自分が異国人の目にも遊女にしか映っていないのを知った。
「無礼者。無礼者。妾はこの国の最高神女だった女じゃぞ!」
御嶽の神の目の前でかつての聞得大君が輪姦《まわ》されていく。遊郭で買われるよりも恥ずかしかった。真牛は怖くて祠《ほこら》に目が合わせられない。まだ廁《かわや》で犯す男たちの方がデリカシーがあるというものだ。男たちは力任せに真牛の体を嬲《なぶ》った。
「やめるのじゃ。金なら幾らでも出す。遊郭で稼いで払ってやるからやめるのじゃ」
レイプをやめさせるために体を売る。それが今の真牛にできる最も合理的な取引だった。
「琉球の売春婦はすげえなあ」
「ノリノリだぜこの女」
「今度は俺の番だ。代われ」
真牛は悔しい気持ちにもなれない。水兵たちは恐怖心すら引き裂いてしまった。真牛の感覚が磨《す》り減って薄っぺらい布のようになり、布も引き裂かれて端切れになり、端切れもやがて糸屑になり、最後には猫の吐く毛玉のようにペッと捨てられてしまった。
真牛は目を見開いたまま、昼が過ぎるまでずっと意識を失ったままだった。やがて夕立が訪れ真牛の体が泥水にまみれていく。それでも真牛は身動きが取れなかった。心が小さくなって体を動かすのも億劫《おっくう》になっていた。
「母上様、妾は寒うございます……」
真牛は王女だった頃を思い出していた。あの頃、世間の人が言う孤独とは何のことだかわからなかった。貧困とは何か、空腹とは何か、絶望とは何か、そして寒さとは何かわからなかった。真牛が人生の悲哀から免除されていたのは、神が降りる肉体だったからだ。これまで悲哀は神が排除してくれていたのだ。真牛は悲哀の病原菌に免疫がないままにこの歳まで生きてきた。なのに神はその真牛を見限った。真牛は普通の女なら本能的に避ける危険さえ気づかない愚かな女に成り下がってしまった。
「御内原に戻りたい。尚育《しょういく》と遊びたい……」
真牛の声は子どものようだ。
御嶽を通りかかった農民の女が真牛の姿にぎょっとする。一瞬助けようかと思ったが、身なりは遊女ではないか。御嶽で客を取ってそのまま果てたに違いない。女は思いっきり顔を顰《しか》めて地面に唾を吐いた。
「いやだ。最低の女だわ」
雨降りのあとや泥やちやうもくに
ゆりづりよびやがあとやむな手から手
(雨降りの後の道でさえ泥がついてくるというのに、遊女と関わると一文無しのすっからかんになってしまう。こんな女はいない方が世のため人のためだ)
那覇港に碇泊するペリー艦隊は表面上、沈黙しているように見える。群衆に交じり黒船を見届けた真鶴は、立ち眩《くら》みを覚えた。こんなとき女の身は都合がよい。感情のままに膝をつき、恐怖心を表に出しても誰も笑わない。地面にへたり込んだ真鶴の振るまいは平均的な婦人のものだ。
「ミシシッピー号まで来ているなんて……」
直感的にこの船は江戸に向かうと確信した。琉球は日本開国の予行演習の場にすぎない。江戸城を落とすために来た船が王宮を落とすことなど造作ないことだ。何の手柄もなしに去っていく連中とは思えなかった。
「彼らがほしいのは太平洋航路の確保と補給基地のはず。植民地支配は今の米国にそれほど必然性はない。西部の開拓の方が国益に適《かな》うと思わせればいい」
真鶴として動揺を浮かべる中で、心の中に押し込んだ寧温が徐々に目を覚ます。寧温の感覚を取り戻すにはまだ時間がかかりそうだ。御内原で鷹揚なふりをしている間に性格も気質までも変わってしまったようだ。これでも真鶴は御内原では理性がありすぎて女らしくないと叱られていた。しかし寧温の力を目覚めさせようとすると感情が高ぶりすぎて男らしくなれない。今の真鶴は中途半端な能力しか持ち合わせていなかった。
「真鶴、寧温に意識を譲るのよ。驚いてはいけない。震えてはいけない。焦ってはいけない。寧温、早く打開策を考えて。あなたなら出来るはずよ」
動悸《どうき》を抑えようと息を整えていた真鶴に背後から声がかかる。
「真鶴さん? いえ、あごむしられ様ではございませんか?」
無意識のうちに真鶴になって声を拾ってしまった。振り返ると雅博《まさひろ》がそこにいるではないか。雅博は旅装で那覇港に現れた。
「雅博殿! なぜここへ?」
「真鶴さんこそ御内原にいるはずではなかったのですか?」
呼び覚まそうとしていた寧温が感情の渦の中に溺《おぼ》れていく。女であることはかくも苦しく切ないこととわかっていても、雅博の前ではひとりの女でいたかった。だが港は人目がありすぎた。真鶴の身分は王の妻である。感情のままに雅博の懐《ふところ》に飛び込んだら破滅してしまう。理性で制御された感情は決して爆発することはない。
「雅博殿のそのお荷物は、まさか……?」
雅博は武士らしい姿勢のよさで会釈した。
「予想される米国艦隊の幕府攻撃に備え、本日薩摩に帰ります」
その言葉に心臓が内側から破裂しそうな圧迫を感じた。もしかしたら血管の幾つかが切れたかもしれないと思ったほどだ。
――泣いたらダメよ真鶴。涙を喉に流して。
いつかこんな日が来ると思っていた。御内原の女は王以外の男に恋してはならない。御内原の女は見られてはならない涙を飲み込むことを覚える。誰に教わることもなく自然に身につける嗜《たしな》みだった。真鶴は深呼吸して涙の塊を飲み込んだ。喉の奥に火傷《やけど》のような痛みが走る。まるで熱い茶を飲んだような喉ごしだ。飲んだ後からジャスミンの香りがする。これが雅博の味だと初めて知った。今までずっと雅博が何かの香りに似ていると記憶を探していたのは、ジャスミン茶の香りだった。それがわかって幸せだった。
「琉球はいかがでしたでしょうか?」
雅博が今までの想い出を噛みしめるように、熱い眼差《まなざ》しで語り出す。
「私の第二の故郷です。素晴らしい出会いがありました。素晴らしい想い出ができました。六月に咲く鳳凰木《ほうおうぼく》の花の下で真心の全てを捧げました。あのとき私の心は散ったと思いましたが、まだ咲いているようです。それが何より嬉しい。もしあの花が私の心だと思ってくれる人がいたら、私の心はいつまでも琉球にあるのです」
「私も鳳凰木の花は、特に綾門大道《アヤジョウウフミチ》に咲く鳳凰木の花が大好きです。私もあの花の下で生涯で最高の幸福を授かりました。ただ私は愚かにも幸福を恐れてしまいました。それが生涯最大の過《あやま》ちかもしれません」
雅博の背中からジャスミンの香りが立ち上る。
「ありがとうございます。これで心おきなく琉球から去れそうです」
一定の距離を保っているのに、腕で抱かれたような感触が背中にあった。錯覚かと思ったが掌の形まで感じる。真鶴はジャスミンの香りに包まれて得も言われぬ幸福を味わっていた。薩摩行きの船が乗船を促す。雅博はまた姿勢のよいお辞儀で別れを告げた。
「雅博殿、落とし物がございます」
雅博は袂《たもと》から何かを落としたのかとまさぐる。その瞬間、真鶴は自分の中指から指輪を引き抜いて、雅博の足下に落とした。
「この結び指輪がですか?」
水引のような結び目をした彫金細工は、琉球の女性が好んだアクセサリーだ。睦《むつ》まじく絡まる二本の線が身分や国の差を超えて結びつく心を象徴しているといわれる指輪だ。
「はい。雅博殿の形見とお見受けいたします」
雅博は結び指輪を大切そうに懐紙に包んだ。
「そうでした。これを落とすとは私の不注意でした。二度となくさないように注意しましょう」
薩摩行きの飛船の第二便が那覇港を出港する。米国艦隊の碇泊する合間を縫うように船は進む。真鶴は駆けることもなく、縋《すが》ることもなく、ひとつの恋をきちんと終わらせたことに満足していた。結ばれぬ恋が必ずしも悲しいだけではないことを真鶴は知る歳になっていた。
「雅博殿さようなら。私はこれで首里天加那志の妻になれそうです」
結び固めたるしなさけの糸や
いつまでも互に解かぬごとに
(一度切れた愛《いと》しいあなたとの情愛の糸は、銀の結び指輪にしたので二度と解けることはないでしょう)
三度サスケハナ号に乗船した朝薫は、終わりの見えない交渉に憔悴《しょうすい》していた。嗣勇からの情報によると米国艦隊の総火力は信じがたいものだった。米国艦隊の大砲の射程距離は長く、今の位置から王宮を五十回以上、壊滅させる力があるという。地上部隊が上陸すると三十一万国民をひとり残らず殺しても、まだ弾が有り余ると予想された。もっともペリー提督が地上部隊を投入するのは交渉に失敗したときの最後の切り札だ。江戸に向かう前に戦力の消耗は避けたいはずだった。
朝薫とペリー提督の間柄は傍目《はため》には気の置けない友人に映る。
「ハロー、チョークン」
「ハイ、マシュー」
ざっくばらんな挨拶とは裏腹に緊張の糸が張りつめる。朝薫はサスケハナ号の構造をだいぶ覚えてきた。機械で動く戦艦に最初は圧倒されっぱなしだったが、今は自分が艦のどこに案内されていくのかわかる。宮殿のようなキャビンに通された朝薫は先日座った椅子に無意識に腰掛けていた。前回の交渉で朝薫が珈琲が苦手なのを知ったペリー提督はインド産の紅茶でもてなした。
ペリー提督の鋭い眼差しは猛禽《もうきん》類を彷彿《ほうふつ》とさせた。朝薫は自分が鷲《わし》に狙われた小動物に思える。ペリー提督は通訳のペースを無視して一気に捲《まく》し立てた。
「朝薫殿、我々は琉球と友好的な関係を結びたいと願っている。そこで相談だが、是非琉球に石炭の貯蔵施設建設の許可を願いたい」
――基地を作るつもりか。
「もちろん利用するにあたって相応の対価を支払おう。建設費用、土地使用料、維持費については全て米国負担で行う。ついては琉球側から資材と技術者、そして食料の提供を願いたい。その対価についてこれから話し合おう。では貯蔵施設の場所についてだが那覇港の一部を使用するにあたり――」
「お待ちくださいペリー提督。王府はまだ何も許可しておりません。交渉する以前の問題です!」
サインを促そうと契約書の雛型《ひながた》を見せたペリー提督は明確な不快感を浮かべた。
「朝薫殿のこれまでの前向きな姿勢を私は評価していたのに残念だ。死者に哀悼を捧げ、家畜の飼育を認め、高級士官の宿舎まで検討してくれた好意を全て台無しにする発言だ」
朝薫はダージリンの苦みに顔を顰める。
「王府として今度はむしろペリー提督に譲歩を求めたい。王府は海洋国として船員の衣食住に関する最低限の施しをさせていただきました。これは琉球に滞在する全ての人が持つ基本的な権利です。もし蒸気船が帰還するにあたり石炭がないのなら王府は無償で提供いたします。これが今回の私の前向きな返答と思っていただきたい」
「不十分だ。我々は既に対価を支払うと譲歩しているではないか」
「琉球にはまだ蒸気船がありません。現在において石炭貯蔵施設を那覇港に作っても意味のない施設です。しかし数十年後は琉球も蒸気船を持つことになるでしょう。そのときは港湾機能のひとつとして石炭貯蔵施設を作ります。その際には是非ご利用ください」
「我々は数十年後の交渉をしているのではない。今必要なのだ」
「米国は既に香港で石炭を補給しているはずです。琉球に作る必要はありません」
「あれは英米同盟によって利用している異国の施設だ。米国が近代的な社会資本を貴国に提供してやろうというのだ。もちろん琉球の蒸気船就航の暁《あかつき》には我々の施設を利用してもよい」
「論点がズレている。那覇港は琉球のものだ。琉球がサンフランシスコに石炭貯蔵施設を作りたいと持ちかけているような話だ。王府は米国の主権を侵害するような発想をそもそもしない。なぜなら友好的な態度とは相手国の主権を尊重することだからだ」
「では修好条約を拒否した態度は友好的と言えるのか?」
ペリー提督と朝薫がテーブルを挟んで激しく睨み合う。ペリー提督がチェスで詰んだとばかり思っていたキングは想定外の方法で逃げてしまった。このキングを詰まないことには本丸のセカンド・チェックメイトはない。米国の日本開国の足場として独自の物資補給基地は絶対に必要だった。フィルモア大統領の特命全権大使としてペリー提督はカードを十分に持っている。
「ではこうしよう。琉球と借地権契約を結びたい」
――香港の二の舞にするつもりか。
「那覇港の一部を米国が購入する。その借地権の期限についてこれから話し合おう。まず三十年契約の場合と百年契約の場合、一年あたりの購入金に幾何級数を導入しよう。つまり長く借りれば借りるほど米国側の負担増となる。これは米国からのせめてもの誠意と受け取ってほしい。続いて導入される変数についてだが――」
「お待ちください。誰が土地を売ると申しましたか。琉球は異国と不動産契約を結ぶことはありません。国有地を異国に売却することは領土を放棄したものと考えます。我が国の文化風土にそぐわない商談です」
「通商条約を結べば可能なことだ。貴国の宗主国である清が英国と借地権契約を結んだことは知っての通りだ。不思議なのは何から何まで清国を模倣する貴国が、なぜ宗主国の例に倣《なら》わないのか?」
朝薫が椅子から立ち上がった。
「香港はそうやって植民地になったからだ。那覇港に第二の香港はいらない!」
「石炭貯蔵施設は治外法権であって一般的に植民地とはみなさない」
ペリー提督は軍人でありながら超一流の外交官でもあった。同時に民俗学や地質学にも明るい。学際的な能力を駆使して琉球を理解しているペリー提督は、琉球の文化風土を美しいと思うからこそ、それ故の弱点も知っている。実際ペリー提督はこの交渉を楽しんでいた。チェスは互角の相手と闘うときが一番面白いからだ。清国でも琉球の科試出身者は天才揃いと聞いていたが、噂に違《たが》わぬ交渉能力だ。ホワイトハウスでもこれだけ論の立つ者は少ない。
「貴国は清国の福州《ふくしゅう》に出先機関の琉球館を所有しているだろう。あれは植民地か?」
「我が国と清国は英米同盟よりも強い絆《きずな》で結ばれている。米国は英国に植民地があるか? そもそも米国は植民地から独立した国のはずだ。そんな歴史の国がなぜ植民地を作りたがる? 昔が懐かしいからか?」
唖然《あぜん》としているペリー提督に朝薫の反撃が始まった。科試史上最年少合格者の意地を見せてやるつもりだ。答えのないところに答えを生み出すのが評定所筆者だ。
琉球は思考停止すると大国に攻め滅ぼされる小国だ。五百年も王朝が続いたのは、評定所筆者たちが必死になって王府を支えてきたからだ。朝薫はこれまで幾つも難題を切り抜けてきた。米国艦隊を帰還させない限り、王府の存続はない。
「土地を売ることは国を売ることと同じだ。さっきなぜ清国を見習って土地を売らないかと提督はお尋ねになったが、答えは香港を売ったことを清国が後悔しているからだ。我が国はそれを教訓にしている。我が国は宗主国の過ちまで見習わない。米国は宗主国の英国の過ちを繰り返そうとしているが愚かなことだと忠告しておく」
交渉のテーブルについた高級将校たちは風向きが変わってきたことを感じた。大統領の信頼の厚いあのペリー提督が圧《お》され気味なことが信じられない。ペリー提督は香港出航時、頭脳だけで琉球を攻略してみせると豪語していた。彼の実力なら可能だろうと将校たちも素朴に信じていた。それが頭脳戦で負けそうではないか。
「那覇港は自由港ではない。石炭貯蔵施設は我が国にとって不必要な施設だ。国王の代理人として断固拒否する!」
朝薫はこの借地権を口実に米国の琉球買収が始まることを予見していた。次は作業員を駐留させたいと要求してくるだろう。それに伴う宿泊施設を買い上げたいと言い、内陸に治外法権が出現する。米国の捕鯨船が頻繁に那覇港にやって来るようになったら加工工場が必要だと要求し、また土地が買われる。やがて運営コストがかかりすぎることを議会が問題視し始めると、いっそ植民地にした方が安くすむのではという論理が生まれる。この交渉は琉球の最終防衛線だ。
「以後、王府はこの問題を取り扱うことはない!」
ペリー提督は高級将校たちが目を合わさないようにしているのが不愉快だった。どうやらゲームに負けたらしい。潔《いさぎよ》く負けを認めるのが軍人というものだ。大切なのは二度と同じ間違いを繰り返さないことだ。次は違うルールで始める。ペリー提督は艦長に命じた。
「機関始動!」
急ぎ足で甲板を歩いていた朝薫が不気味な音を捉えた。甲板が小刻みに揺れている。波の揺れとは異なる振動だった。見上げればサスケハナ号の煙突が火山のように黒煙を噴いているではないか。続いて隣にいるミシシッピー号が目を覚ました。巨大生物のような雄叫びをあげて隊列が変わろうとしている。
「まずい。王宮を攻める気だ!」
朝薫は王宮に戻ってすぐにするべきことがあった。尚泰王《しょうたいおう》を隠し、万が一に備え王族たちを避難させる。国王との謁見を阻止すればペリー提督は半分しか目的を果たせないはずだ。
The hour of departure had been fixed at 9 o'clock. Presently the signal was made from the flag-ship, and all the boats of the other ships pushed off at the same time, and as they pulled to the land presented a very lively appearance. The point selected for landing was the little village of Tumari, about two miles from the palace of Shui.
[出発の時刻は九時と定められていた。やがて信号が旗艦から発せられた。そして他艦のボートも全部同時に漕ぎだした。陸に近づくに従って、非常に鮮やかな景色が現れてきた。上陸地点に選ばれたのは首里の王宮から凡そ二マイル離れた泊という小さな村だった]
二百年以上に亘《わた》って戦禍に巻き込まれたことのない王宮は、ひたすら美意識を追求してきたために要塞機能に乏しかった。貴婦人のクローゼットは最新のドレスばかりで鎧《よろい》や甲冑《かっちゅう》はない。ましてや化粧箱に剣などあるはずもなかった。防衛手段は台風のときと変わらず門を閉ざすだけという無防備さだ。しかし貴婦人は惨めに怯えていたわけではない。クローゼットから流行のドレスを選び、念入りに化粧を施したのである。それが彼女の戦闘服だとばかりに。
艦隊の動きを見張っていた役人が血相を変えてきた。
「米国艦隊が上陸したぞ。泊で隊列を整えている」
「どれくらいの規模だ?」
「およそ二百人。もうすぐ王宮に向かうぞ」
「絶対に入れるな!」
戦闘準備は整っていた。武器のない国は美と教養で闘うしかない。ペリー艦隊に対抗する戦術は外交使節団のおもてなしである。ただしウイットを含ませる。冊封使を迎えるときに着る黒|朝衣《ちょうい》の礼服ではなく、それに準ずる上質な衣装だ。料理も冊封使よりも一段低いランクでかつ豪勢なものだ。しかし招待したわけではないので、あくまでも招かれざる客だ。このニュアンスを汲み取れなければ無教養な粗忽者《そこつもの》として恥をかくことになる。
「嗣勇殿は踊童子たちを大美御殿で待機させろ」
はーい、と女形の美少年たちが舞台衣装に着替えて駆けていく。踊奉行《おどりぶぎょう》に任命された嗣勇は新作舞踊を発表する機会に恵まれてルンルンだった。
「こんなんだったらペリー提督には毎年来てほしいなあ」
次に朝薫は思戸に指示を出す。
「女官大勢頭部は御料理座の御膳を急がせろ」
思戸はこれのどこが琉米戦争なのか意味がわからない。上品に皮肉を利かせろと命じられて、真鶴に泣きつく始末だ。真鶴は朝薫の意図をすぐに理解して、最高級から一ランク下の献立を作成した。
「吸い物は縁起の数の八から一を引いて七品。銀杯は出さなくていい。蛤《はまぐり》は失礼だから牡蠣にしてください。さあ、この献立を御料理座に持っていきなさい」
「真鶴様ありがとうございます。ところで真美那様が見あたりませんが?」
「お嬢様爆弾を作りに実家に戻られました」
思戸が首を傾げる。真美那も真鶴も美と教養で米国艦隊を迎え撃つ構えだ。
泊村で隊列を組んだペリー提督が号令をかける。
「出発進行!」
先頭を行くのはミシシッピー号の軍楽隊だ。軽快なマーチを奏《かな》で可能な限り衆目を集めるのが狙いだ。案の定、物見高い庶民たちが目を丸くしてペリー提督一行を見物する。
「新しい冊封使様がやってきたのか?」
「バカ。あれは黒船の米国人だろう」
「珍しい恰好をした異国人たちだなあ」
庶民たちは初めて聞くマーチのリズムが爆竹を鳴らしているような音に聞こえた。ペリー提督も新興国の野蛮人と思われたくないから、パレードは出来る限り華やかに演出した。これは琉球と米国の美意識をかけた戦争だ。
「絶対に発砲するんじゃないぞ。武器は見せるだけでいい」
軍楽隊が『ヘイル・コロンビア』を演奏する。続いて『アルプス一万尺』と米国の流行曲を次々と演奏して観衆たちを飽きさせない。琉球側の案内人が向家の邸宅の前で止まった。
「ここは王府の摂政のお屋敷でございます。ペリー提督には是非ここで休憩していただきたく、ささやかな宴を用意いたしました」
向家は名門士族の威信を懸けてペリー提督一行を阻《はば》む接待作戦に出た。ペリー提督との交渉で何度か顔を合わせたことのある摂政が「ようこそ我が家へ」と慇懃な礼をする。
「姑息《こそく》な罠《わな》だ。無視しろ」
とペリー提督が隊列を維持しようとする。そのとき絵画から抜け出してきたような貴婦人が門から現れたではないか。聖母マリアを彷彿とさせる黒髪の貴婦人の微笑《ほほえ》みに行軍の足が止まった。
お嬢様爆弾を用意した真美那が遠来の客の疲れを癒《いや》すように誘う。
「ペリー提督のお越しを心からお待ち申し上げておりました」
真美那の美貌と気品にペリー提督の目は釘付けだ。断ったら米国軍人の恥になる。ペリー提督は快くもてなしを受けることにした。出される菓子は舌をとろけさせるほど絶品だった。パンジーのような可憐な花弁を模したケーキを一口食べると汗が引くような爽やかな酸味がした。
「これは|千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《せんじゅこう》でございます。隠し味が何か当ててみてください」
ペリー提督はこれでも舌には自信がある。
「これはオレンジピールだな?」
「正解です。では次の菓子をご賞味ください」
真美那の用意したお嬢様爆弾は得意の菓子だ。出来る限りペリー提督を足止めするのが目的だった。しかし水兵二百人を足止めするとなると焼いた千個の菓子なんてすぐに尽きてしまう。
――朝薫こいつら大食漢よ。全部食べたら王宮に行っちゃうわよ。
一通り茶と菓子を嗜んだペリー提督は王宮を目指そうとする。もう菓子はなくなったと焦る真美那はどうやって足止めしようかあれこれ方法を考える。
「マダム。美味《おい》しいケーキをありがとう」
五分でも十分でも長く足止めしてくれればいい、と朝薫に言われていた真美那は一世一代の大芝居を打った。真美那が大粒の瞳を潤《うる》ませる。
「真美那、泣いちゃう……」
貴婦人の涙にペリー提督はおろおろと慌てる。まるで聖母マリアを冒涜《ぼうとく》した気分だ。仕方なくお茶をもう一杯だけならとペリー提督も観念した。しかし男の歴史は女の涙の上にある。約束通りお茶を飲んだペリー提督は再び王宮を目指した。
――朝薫もう無理よ。これが限界!
あとは王宮のまやかしに期待するしかない。
ペリー提督はあくまでも公式な訪問を望んでいた。私人として王宮に入ることなど意味はない。これと同じことを江戸城でもするのだ。ゲネプロを兼ねた王宮入城でもたついてはいられない。予定通り王宮の外に建つ守礼門《しゅれいもん》を通過する。東洋では身分によって潜る門が異なることをペリー提督は知っていた。王府の案内人は久慶門《きゅうけいもん》の方へ導こうとする。
「待て。清国の貴賓門のような門があそこにあるぞ」
ペリー提督が指したのは冊封使が利用する歓会門《かんかいもん》だ。字は読めないが石造りのアーチ門には風格がある。しかし王府の案内人は顔色ひとつ変えずにしれっと答えた。
「あの門は修復中でございます」
「構わん。あの門を使え」
門を閉ざした王宮は静かだが人の気配を感じた。どうやら居留守を使うつもりのようだ。同行したサスケハナ号艦長のビュカナン中佐が強行突入の命令に備える。
“Open the gate !”
ペリー提督の声が水を打ったように静かな王宮内に響く。誰もが衝突だけは避けたいと思っている。しかし歓迎する意思を示せば修好条約締結が待っている。その先は植民地だ。
ペリー提督が再び愛国歌の『ヘイル・コロンビア』の演奏を命じた。この曲が聞こえないのかとばかりに。やがて観念したのか歓会門の扉が開いた。
「王宮に入るぞ!」
これが琉球史上初めて国交のない国の大使が王宮に足を踏み入れた瞬間だった。ペリー提督は初めて見る王宮に目を奪われた。鮮烈な紅色は遠目には王女のティアラに見えたが、中に入ると印象が逆転する。この国は宝石が余っているのかと思うほど、建物に装飾が施されている。そして正殿の至る所に巻き付いた龍・龍・龍! 龍の視線のせいで建物というより未知の生き物に見える。ウルトラバロックにも似た強迫的な美意識にペリー提督は圧倒されていた。
「美と教養の王国という噂は本当だった!」
米国は琉球の認識を改めなければならないと思った。海洋|島嶼《とうしょ》国だからといって文明度が低いわけではない。清国を圧縮した成熟度だった。どの国でも寺院や宮殿は特に美しく作られているものだ。贅《ぜい》を尽くした建物は米国にもたくさんある。
ペリー提督が一番驚いたのは平民たちの身なりの清潔さと、王都の公衆衛生の徹底ぶりだ。塵ひとつ落ちていないという言い回しはよく聞くが、たぶん首里の都を訪れた人から生まれた言葉だろう。首里は汚物まみれのパリやロンドンよりもずっと清潔だった。王宮の美が模範となって民度を高めているのだ。
“Incredible.”とペリー提督は何度も呟《つぶや》いた。
「ペリー提督、ようこそ王宮へ」
朝薫と三司官が御庭にやって来た。平静を装っているが表情は硬かった。
「私は米国特命全権大使のマシュー・C・ペリーだ。国王との謁見を希望する」
「生憎《あいにく》、尚泰王は年少のため外交式典をまだ覚えておりません。代わりに私どもがおもてなしいたします。どうぞ迎賓館の大美御殿へ。歓迎式典の準備が整っております」
大美御殿にはペリー提督たちの目には十分華美で、且つ王府としては中規模の式典が用意されている。大美御殿でペリー提督一行を迎えたのは国母だ。国母もまためかしこんでまやかしの式典に一肌脱ごうとやる気満々だ。
「血色のよい国母だ。確か国母はご病気のはずだったのではないか?」
「あれでもかなりお窶《やつ》れになられたのです」
王府の詭弁にも慣れてきたペリー提督は苦笑するしかない。どうしても国王に謁見させたくない底意を感じるが、修好条約締結に向けての交渉は一歩前進したとみなすべきだろう。一応外交式典の体裁は整っている。料理も舞もペリー提督の身分を十分に敬い、重臣たちも全員列席している。
ペリー提督は米国を代表して乾杯の挨拶を述べた。
“Prosperity to the Lew Chewans, and may they and the Americans always be friends.”
(琉球人に繁栄のあらんことを。琉球人と米国人が常に友たらんことを祈る)
同じく朝薫も乾杯の音頭を取る。
「米国のますますの繁栄とペリー提督御一行の旅のご無事をお祈り申し上げる」
華やかな外交の宴は互いに弱みを握られないように慎重に言葉を選ぶ駆け引きの場だ。踏み込みすぎた賛辞や協力の申し出は足下を見られかねない。
式典会場の屏風《びょうぶ》の裏で真鶴は宴の会話を一言も聞き漏《も》らすまいと耳を澄ましている。
「これで琉米修好条約の締結は避けられなくなった……。朝薫兄さんはわかっているのかしら? こうなると後は条約の文言と発布日と効力の調整をするしかない。米国艦隊の真の目的は日本開国のはず。何とかして日本に行ってもらわねば……」
真に対等な二国間関係などこの世には存在しない。国力が同等の場合は必ず敵対関係に陥《おちい》る。条約締結は国の強弱を文言にしたマウンティングだった。
「清国も乱れているし、日本が開国したら頼る国がなくなってしまう……。米国に対抗できる国はロシアかフランス、英国しかない。でも上手く助けてくれるだろうか?」
真鶴がいくら心配したところで行動に移すことはできない。せいぜい嗣勇に入れ知恵して朝薫にヒントを与えるくらいだ。今はそんな悠長なやり方では間に合わない。即効性ある判断で交渉するには直接表に出るのが一番だが、肝心の寧温は流刑地の八重山にいることになっている。
「八重山から寧温が書簡を出すのはどうだろう? ダメだ。兄上を操っている方がずっと早い」
それに寧温が動くと王府が反発して情報が一方通行になってしまう可能性が高かった。何よりも寧温は重罪人である。真鶴は途方に暮れた。
*
ペリー提督が王宮に強制入城した明くる日、王宮を厭世《えんせい》的な空気が支配していた。やんわりとペリー提督を追い返すつもりがペリー提督の目的を半分以上達成させてしまった。評定所のある北殿に朝から三司官の叱声が飛ぶ。
「喜舎場親方、昨日の挨拶は米国の存在を公式に認めるものだったぞ」
「ではあの場で英[#「英」に傍点]国の繁栄を祈ればよかったというのですか?」
「ペリー提督御一行の航海の安全だけを祈ればよかったのだ」
「それは揚げ足取りというものです。ぼくに音頭を取らせたのは三司官殿ではありませんか。地位からいけば三司官殿の役目であったのに」
朝薫は二日酔いで頭が割れそうなところに叱責を受けて、胃がむかむかしてきた。自分でも踏み込みすぎたと気がついていた。だから一晩中|自棄酒《やけざけ》を呑んだのだ。
「ペリー提督に修好条約の足場を与えるために式典を開いたわけではない」
「では三司官殿がおやりなさい。ぼくの苦労を何もわかっちゃいないくせに」
そう振られると三司官も黙る他なかった。誰もがペリー提督と交渉することに怯えている。狡猾《こうかつ》なぺリー提督に騙《だま》されて条約を締結したら植民地にされる内容だったという可能性もある。そんな文書に捺印したらそれこそ後世まで恥になってしまう。どう考えても評定所の中でペリー提督と丁々発止《ちょうちょうはっし》の交渉ができるのは朝薫以外いない。
「喜舎場親方、国を売ったら流刑《るけい》にしてやるぞ」
「流刑なんて王府が存続しているからできるんじゃないか」
「サスケハナ号に行って昨日の失言を撤回してくるんだ」
「今サスケハナ号に行ったら条約の雛型の話をされてしまう」
評定所に尚泰王が向かったという報せが入った。
「首里天加那志のおなーりー」
尚泰王は後手後手に回っている評定所の失態に業を煮やしていた。政治能力がまだ未熟だと重臣たちに諫《いさ》められて、昨日は引見を拒否したものの、蓋を開けて見ればこの無能無策ぶりだ。
「いつから評定所筆者はバカになったのだ? おまえたちに任せていると本当に王府は潰《つぶ》されてしまうわ」
「畏《おそ》れながら首里天加那志。喜舎場親方の失策でございます」
「三司官ともあろう者が喜舎場親方に罪を押しつけるとは見苦しいぞ。他に適任者を探せばよいだけだ」
「畏れながら首里天加那志。外交文書作成は喜舎場親方の専門でございます」
「いっそ余がサスケハナ号に乗船してやろうか?」
「おやめください首里天加那志。人質にされてしまいます」
「ではペリー提督を引見する。正殿に連れて参れ」
「それは無謀というものです。首里天加那志はまだ外交交渉に慣れているとはいえません」
「では余は隠れているだけが役目か? 隠れていてこのザマか?」
尚泰王の剣幕に圧倒されて三司官らも押し黙った。
「確かに余がペリー提督と交渉できるとは思っておらぬ。そなたたちの心配も妥当だと譲歩しよう。しかし余には王権がある。喜舎場親方がペリー提督と交渉する自信がないのなら、役職を解こう。喜舎場親方は表十五人衆の吟味役に戻るがよい」
朝薫はホッとするよりも不安になってきた。自負するわけではないが外交に明るい役人は自分以外に思い浮かばない。
「畏れながら首里天加那志。ぼく以外に適任者のお心当たりがございますでしょうか?」
「心当たりなら、ある!」
尚泰王は書いたばかりの任命書を広げた。
[#ここから1字下げ]
赦免状
孫寧温
右者事国相殺害ニ付八重山島江一世流刑被仰
付候者存知之前候処、亜船致来着国家難題無
此上儀出来致居候故急度被致赦免、於此元異
国人取合之仕業為致専心積候間、早便ニ而可
被送届儀指図ニ而候。
丑六月
中山王 尚泰
八重山島
在番
頭
[#ここで字下げ終わり]
尚泰王直筆の免状は王命だった。その文書を読んだ三司官たちが震えた。
「孫寧温に恩赦《おんしゃ》を与えるですと!」
「そうだ。孫寧温が余の切り札である。国難とあらばあらゆる努力をするのが王というものだ」
「おやめください首里天加那志。孫寧温は流人《るにん》ですぞ!」
朝薫が恩赦状を読み上げる。
「このたびの米国艦隊の琉球来訪で、我が国は存亡の危機に立たされている。右の者は国相《こくしょう》殺害の重罪人で八重山に一世流刑とされていたが、国難を救うために特別に恩赦を与え、米国艦隊との交渉を命じる――。寧温なら……。そうだ寧温ならきっとペリー提督を追い返してくれるはずだ」
朝薫は二日酔いを一気に覚まして語気を荒らげた。しかし三司官が即座に反対する。
「いかん。罪人が外交交渉するなど言語道断《ごんごどうだん》だ」
「黙れ。これは王命である。清国は内乱を理由に琉球を見捨てたではないか。清国に義理立てする理由はもうない。それに通事なしでペリー提督と話せる者がいるか?」
朝薫は力強く否定した。
「おりません! 寧温はインディアン・オーク号事件を解決し、流人になってもロバート・バウン号事件で陣頭指揮を執りました。琉球の異国船問題のことなら全て孫寧温が解決してきたのを王府のみんなは覚えております!」
しかし三司官たちはまだ納得がいかないようだ。
「結局あの宦官《かんがん》に縋らねばならぬのか……」
「これでもし交渉に失敗したら斬首にしてやるぞ」
「我らに復讐《ふくしゅう》したい一心で国を売るかもしれん」
そんな三司官を尚泰王が一喝する。
「王命に従えないなら、いつでも王宮を去ってよいぞ。無能なおまえ達より孫寧温の方がずっと頼りになるからな。喜舎場親方、八重山への公用船はいつ出る?」
「今日の午後には出航します。早馬を手配して間に合わせましょう」
尚泰王の王印を捺《お》した恩赦状が朝薫に手渡される。
「孫寧温に恩赦を与え、速やかに王宮に帰還させよ!」
その光景を見ていた嗣勇の顔は青ざめた。寧温を八重山から王宮に戻したら御内原から真鶴がいなくなってしまう。嗣勇は御内原に駆けだした。
「大変だあ! あごむしられ様、あごむしられ様。至急お耳に入れたいことがございます!」
世添御殿で機《はた》を織っていた真鶴に、評定所の一件が飛び込んだ。話を聞いた真鶴は青天の霹靂《へきれき》にしばらく呆然としていた。
「私に恩赦が下りるなんて――」
「真鶴、どうしよう……」
兄妹が王宮の片隅で途方に暮れる。ペリー提督の嵐が、八重山で捨てたはずの性を吸い寄せようとしていた。
[#改ページ]
第十四章 太陽と月の架け橋
孫寧温《そんねいおん》に恩赦《おんしゃ》が下りた。早馬が八重山《やえやま》便の公用船に向けて放たれる。公用船は那覇港に碇泊する黒船の脇を掠《かす》めるように出航する。一度下りた王命は覆《くつがえ》ることはない。孫寧温が流刑地《るけいち》から王宮に着くのは最速で五日後だ。
残念なことに王府の最高頭脳集団を以てしてもペリー提督には対抗できなかった。黒船来航を予見していたのは王府でただひとり、孫寧温だけである。科試《こうし》最年少合格者にして、評定所筆者主取《ひょうじょうしょひっしゃぬしどり》、糺明奉行《きゅうめいぶぎょう》そして表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》吟味役と史上最速で出世街道を駆け抜けていった美貌の宦官《かんがん》は王宮の語り種《ぐさ》だ。妖艶《ようえん》な風貌に似つかわしくない圧倒的な頭脳は、誰も認めたがらないが王朝五百年の歴史上、最高の傑出者だった。そして最悪の転落で流刑地に送られて行った。
そのスキャンダラスな人生は王宮の光と影の物語だ。出世の後には転落が待ち構えている。栄光のすぐ隣に挫折がある。王宮に勤務する者なら誰でもスリリングな綱渡りをしている。落ちないように上手《うま》く渡りきる者はほんの一握りだ。
だが孫寧温がその程度の役人なら、やがて人の記憶から完全に忘れ去られただろう。彼が破格なのは、流刑地からでも返り咲くことだ。闇の底から這《は》い上がってきた役人は王朝史上誰もいない。この前代未聞の逆転劇に王府の役人たちは目眩《めまい》を覚える。
「まさか孫寧温が王宮に戻って来るとは……」
「地獄の亡者《もうじゃ》が天国に召されるよりも難しいのに」
多嘉良《たから》は素直に喜びたくても常識が邪魔をして気持ちが整理できない。
「寧温、おまえは一体どんな人間なんだ?」
西のアザナの物見台から米国艦隊を見つめる多嘉良は那覇港の異常な光景の方がまだ理解できた。
「常識の通じない相手には非常識な人間で封じるのが一番だ」
と呟《つぶや》いたのは儀間親雲上《ぎまペーチン》だ。ここはひとつ琉歌《りゅうか》で洒落《しゃれ》こんでと思ったが儀間もまた動揺して歌が詠《よ》めなかった。孫寧温が戻ってきたときは今以上の混乱だろう。これが嵐の力だ。誰もが来るべき衝撃に備えていた。
一方、御内原《ウーチバラ》の世添御殿《よそえウドゥン》では兄妹が頭を抱えて右往左往していた。
「兄上、どうすればよいのでしょうか?」
「首里天加那志《しゅりてんがなし》の命令は覆《くつがえ》らない。孫寧温を呼び戻すしかない」
「でも私は今あごむしられ(側室)です。それに寧温は八重山で黒水熱《マキー》で死んだと思われております」
「え? 寧温は死んだのか? じゃあそれでいいじゃん。よかった一件落着」
「でも思戸《ウミトゥ》に絣《かすり》を贈ってしまいました。それが生きている証拠になってしまいました」
御内原でも女官たちは孫寧温恩赦の話でもちきりだ。特に思戸の感激といったらなかった。あがまたちの前だということも忘れてほろほろと泣き崩れてしまった。
「私のこの姿を寧温様に見せられる日が来るとは……。この絣の着物は寧温様が遠い八重山から私に贈ってくれたものなんだよ……」
「あー。女官|大勢頭部《おおせどべ》様が泣いてるーっ」
後之御庭《クシヌウナー》の騒ぎに嗣勇《しゆう》も誤魔化しがきかなくなっていることに気づいた。
「だから贈るのは反対だったんだよ。寧温の気配は破滅を呼びそうな気がしたんだ。どうしておとなしくしてくれないんだ」
「私だってこうなるとわかっていたら、おとなしく八重山で流人《るにん》をやってました!」
「ロバート・バウン号事件で陣頭指揮を執ったおまえが、八重山でおとなしくしてたもんか! どうせまた別の騒ぎを起こしていたに決まってるさ」
「ひどい兄上、清《しん》国人が虐殺されていたのですよ。人として放っておけますか?」
「それがいつも災いを呼ぶ種なんだよ。まさかあごむしられになって真鶴《まづる》が御内原に戻って来るなんて誰が予想するよ。霊験|灼《あらた》かな聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》もびっくりだよ。そうだこうしよう。孫寧温は与那国《よなぐに》島に逃げた。そして与那国島から小琉球(台湾)へ亡命した。小琉球なら清国も琉球も手が出せない。それがいい!」
嗣勇は逃避の世界に没入して今の悩みを放棄してしまった。しかし真鶴はこれは千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスだと踏んだ。
「兄上、私は寧温になります――!」
「真鶴、何を言ってるんだ……?」
平時における恩赦ならきっと逃げたはずだが、今の王府は国家存亡の危機だ。ペリー提督を琉球から追い出さなければ国土が米国に蹂躙《じゅうりん》されてしまう。朝薫《ちょうくん》の交渉術を以てしても太刀打ちできないのなら、王府は万策尽きたも同然だった。強制入城を成し遂げたペリー提督は圧倒的な優位にある。琉球が生き残る可能性は一パーセントもない。今ここで動かなければペリー提督の意のままだ。
「私は寧温になってペリー提督と交渉します」
王命が下りた瞬間、真鶴の中に封じ込められていた寧温が息を吹き返した。この胸の高揚は久しぶりのことだった。愚鈍を装う必要はない。迷信深い振る舞いに心を殺さなくてもよい。何より女に理性がないと思われていることが腹立たしかった。真鶴になることは自由であるのと同時に拘束でもある。寧温として国のために働けるなら、この恩赦を活《い》かしたかった。
「兄上、私は評定所に行きます。ペリー提督に琉球は渡しません」
「ホントに寧温になるつもりかよ。バレたら首を刎《は》ねられるぞ」
真鶴の顔つきが寧温になっていく。孫寧温という役人は王命に忠実なエリート官僚だ。王命ひとつで性を捨て、求婚を破棄し、身の危険を伴っても命令通りに動く。
「首里天加那志の恩赦を無視したら、私の人生の半分は死んでしまいます。そもそも王宮に戻ってきたのは国難を報《しら》せるためです。首里天加那志が私を頼りにした以上、それに応えるのが臣下の道です」
真鶴は命がけの綱渡りに挑むつもりだった。今度落ちたら国も傾くのは覚悟の上だ。
「兄上、御内原から密かに出られる方法はないでしょうか?」
嗣勇は頭を抱えた。正殿の二階の空中回廊は表と裏の世界を繋《つな》ぐバイパスだ。しかし空中回廊は女官たちも使う上に目立ちすぎる。側室から宦官に変身するには着替える場所も必要だ。男子禁制の御内原と女人禁制の表世界を自由に行き来するなんて無謀すぎた。
「出られる方法はないわけじゃない……」
嗣勇の言葉に真鶴が息を呑んだ。奥書院奉行筆者の嗣勇は王宮の全ての構造を知っている。王宮は表向き紫禁城《しきんじょう》を模して建造されているが、それは本来の姿ではない。王宮はグスクと呼ばれる聖域から生まれた。京《きょう》の内《うち》や首里十|御嶽《うたき》など王宮には政治とは関係のない宗教施設が多数あり、それが紫禁城とは別の独特の構造を備えている。男女を隔離したのは積極的に明《みん》朝様式を取り入れた三百年前のことだ。実は原始首里城の名残《なごり》となる不思議な構造が黄金御殿《クガニウドゥン》に設《しつら》えられている。
「暗《クラ》シン御門《ウジョウ》を使えば何とかなるかもしれない」
黄金御殿の一階中央に、暗シン御門と呼ばれる秘密の通路がある。黄金御殿にぽっかり空いた矩形の通路は全く光の差さない不思議な空間だった。暗シン御門は黄金御殿をクランク状に貫き、正殿横の南風《はえ》の廊下に出られるようになっている。つまり誰の目にもつかず密かに表世界に出られるのだ。表向き男女を隔てていながらも、実は王宮は有機的に男女を結びつけていた。原始首里城が持っていた太古の記憶を再現するかのように、黄金御殿の構造を弱めてまで作られたのが暗シン御門である。
嗣勇が暗シン御門の使い方を真鶴に教えた。
「暗シン御門を通れば御庭《ウナー》を避けて南殿の裏に出られる。暗シン御門に入ったら最初の突き当たりに、げらゑの間がある。そこに寧温の衣装を隠しておく。着替えたら次の突き当たりを左に曲がって真っ直ぐ。それで南風の廊下に出られる」
「その、げらゑの間は鍵がかかっているのでは?」
嗣勇はにっこり笑って鍵を見せつける。これでも女の世界を管轄するプロだ。御内原のことなら王妃よりも詳しいと自負していた。
「げらゑの間の管理人はぼくだよ。暗シン御門の門番にはぼくの腹心の部下を配置する。口が堅い奴だから大丈夫だ。花当《はなあたい》だったときからの親友だからね」
「兄上、頼りにしています。では私は暗シン御門を使って寧温になります」
世添御殿で兄妹が密かに頷《うなず》き合った。
五日後、八重山から公用船が那覇港に戻ってきた。港に寧温の身柄を引き受けにきた役人は、寧温が乗っていないことを知るや、すぐに船長を問いつめた。
「孫寧温がいないとはどういうことだ? 逃がしたのか?」
「いえ、孫寧温は蔵元にすらおりませんでした」
「一体、蔵元は流人をどういうふうに扱っていたんだ?」
「私に聞かれても困ります。恩赦状は確かに蔵元の頭に渡しました」
那覇港で押し問答がなされている中、真鶴は御内原から脱出を試みようとしていた。黄金御殿に空いた矩形の穴は二つの空間を結ぶワームホールだ。これを飛び越えれば誰にも気づかれずに男になれる。
門番は花当出身者だとすぐにわかる美形の役人だった。女形の所作が染みついた門番が真鶴を異空間へと誘う。
「あごむしられ様、人目につかぬようお早く」
意を決して飛び込んだ暗シン御門はその名の通り全く光の差さない空間だった。人工の空間なのに鍾乳洞《しょうにゅうどう》のように湿度が高い。屋根裏部屋のような饐《す》えた匂いがあまり人が使っていない通路だと伝えていた。真鶴は暗シン御門を壁伝いに歩いていく。
「本当にここは王宮なのかしら?」
華やかな王宮とは思えない隠微《いんび》な通路だ。空気も泥のように淀んでいる。突き当たった最初の壁は石垣だった。
「たぶんこれは空中庭園の基礎だ」
黄金御殿の二階には空中庭園がある。単なるバルコニーではなく人工地盤に樹木を植えて空中とは思えない空間を生み出している。まるで黄金御殿の骨格を眺めるような気分で通路を曲がった。ほどなく右手に嗣勇が言っていた「げらゑの間」を見つけた。一畳ほどの空間に寧温の衣装と帽子が揃えてあった。
「真鶴、寧温に体を譲りなさい――!」
打ち掛けを脱いだ真鶴の眼光が鋭くなると、真鶴の中にいた寧温が徐々に目を覚ましていく。黒朝衣を羽織り、帽子の中に髪を隠し、帯を締める。体を拘束しながらも自由な気分がするのは何故だろう。かつて男でいることを苦痛に感じていた日が嘘のようだった。寧温になった瞬間、意識を覆っていた靄《もや》が一気に晴れた。最後の角を曲がると、暗シン御門に出口の光が差していた。
「私は寧温。寧温に戻ったのね」
出口の先はかつての職場である。表世界はピンと張りつめた思考の空間だ。また王国の全てを把握する情報集積基地であり、貿易を管理する総合商社でもある。この厖大な情報にひとつの道筋をつけるのが評定所だった。一度、評定所筆者をやったら、この快感は他の何とも比べられない。この逸《はや》る気持ちは雨後の川のように勢いづいている。寧温は迷うことなく評定所を目指した。
はり川の水やはりやよどむとも
首里加那志みやだいりよどのなゆめ
(速い川の流れが淀むことはあっても、国王へのご奉公は止めることができない)
「孫寧温、ただいま八重山から戻りました!」
威勢の良い声が評定所に響く。寧温がいないと騒いでいた三司官たちが水を打ったように静まった。
「どこからやってきたのだ? おまえの消息は不明だと報告を受けたところだ」
「王命だと聞き、一刻も早く王宮にあがるために渡名喜《となき》島の海人《ウミンチュ》の舟に乗せてもらいました。蔵元に手違いがあったことはお詫びいたします」
歯切れ良く出てくる言葉に寧温の心も弾んでいた。思ったままを口にする自由が、この世界にはある。それが意識を何倍にも鋭敏にさせた。
「寧温、本当に寧温なのか?」
朝薫は幻《まぼろし》でも見るような眼差《まなざ》しで呆然と立ち竦《すく》んでいる。朝薫はこの目で見てもまだ信じられない。朝薫の知る寧温は可憐な少女のような宦官だった。なのに今目の前にいる寧温は咲き誇った大輪の山百合になっている。可憐という言葉はもう寧温にはない。美貌が横溢《おういつ》して着物に留められないほどだ。
「寧温? ぼくは君に謝らなければならない……」
「いいえ。八重山での処遇に配慮してくださった朝薫兄さんにはむしろ感謝しております。どうか謝らないでください」
「ぼくは……。ぼくはこの日をどんなに待っていたか……」
「これからは毎日一緒です。どうか過去のことは水に流してください」
驚いているのは朝薫ばかりではなかった。美貌を開花させて流刑地から舞い戻った寧温に、三司官《さんしかん》たちもたじろいでいる。御内原の女官が見たら女を失業させかねない危険な美貌だった。
「おまえは本当に、本当に男なのか?」
「はい三司官殿。私は王府に尽くすためにこの日を待っておりました」
「米国艦隊を追い払えるのか? 追い払ってくれるのか?」
「私が王宮に戻ったのはペリー提督と闘う自信があるからです。もしその能力がないのなら、八重山に再び流刑にしてください」
自信過剰とも思える台詞《せりふ》は間違いなくかつて王宮を振り回した孫寧温だ。寧温の前に立ちはだかる者はたとえ向《しょう》一族といえども職を懸けねばならない。それが寧温の強さであり、忌まわしさでもある。孫寧温ならばペリー提督と闘える、と三司官は踏んだ。
三司官は任命書を読み上げた。
[#ここから1字下げ]
言上写
孫寧温
右者事八重山島江一世流刑之身不拘
主上格別之御計得を以被致御赦免候。依之亜船
一件取合為可致談合御鎖之側日帳主取役被仰
付事ニ相成候間、御当地之成合肝要之念を以
可致尽力候事。
丑六月
三司官
[#ここで字下げ終わり]
「右の者、八重山島に一世流刑にされていたが、国王の特別な計らいにより恩赦を与える。このたびの米国艦隊の来航に際し、日帳主取《ひちょうぬしどり》の役職に任命する。全力を以て交渉すること」
恩赦で与えられた寧温の地位は外務政務次官の日帳主取だ。寧温が采配を揮えるように表十五人衆に身分を回復させる処遇だった。評定所筆者たちは流人に地位を抜かれて面目丸潰れだ。
「孫親方に戻ったのか?」
「また宦官が俺の上司か?」
尚泰王《しょうたいおう》も寧温が戻ったと聞きつけて評定所に現れた。最初の心の拠《よ》り所は寧温にあったことは尚泰王の幼心に焼き付いている。徐丁垓《じょていがい》が巧みに寧温を退けようとしなければ、恐らく当時自分が抱いていた気持ちが何だったのか、はっきり気づいただろう。
「孫寧温、余を覚えておるか?」
「御意《ぎょい》。首里天加那志。このたびの恩赦に心からお礼を申し上げます」
御拝《ウヌフェー》で面をあげた寧温に尚泰王がはっとする。長く離れていたはずなのに昨日まで一緒にいた気がする。懐かしいと思うよりも先に愛おしいと思ったのは何故だろう。しかも王と臣下という関係よりも、もっと深い絆《きずな》を感じる。
「ね、寧温。そなたは最近余に会ったことがあるか?」
「いいえ。私はずっと八重山におりました。その間に首里天加那志は立派にご成長なされました。そのことを心から嬉しく思っております」
「そうか。ならよい」
尚泰王はつい妻を呼ぶように「近うよれ」と言いそうになり咄嗟に手を竦《すく》めた。王と臣下が寄り添うなど考えたこともない。尚泰王に生じた背徳の香り。そして逃れられそうもない引力に戸惑っていた。
「琉球が国難に見舞われていることを承知しておろう。余がそなたに恩赦を与えたのは、国を守るためだ。ペリー提督は王宮に強制入城を果たした。この事実は決して覆《くつがえ》らない。孫寧温、どうすればよい?」
「はい首里天加那志。残念ながら修好条約の締結は避けられません。しかし条約の文言はまだ確定しておりません。どうか私に一任してください。決して米国の思うままにはさせません」
寧温の熱い眼差しを尚泰王は受けられない。これ以上、見つめられると妙な世界に引きずり込まれそうだった。
「孫親方に全て任せる。余は気分が優れない。書院に籠《こ》もる」
尚泰王は北殿を後にしながら、ちらっと寧温の横顔を盗み見た。幼い日に抱いた気持ち、それが今|漸《ようや》くわかった。
――きっと余の初恋だったのかもしれん。
寧温の身分回復と復職に終始笑顔なのは朝薫だ。朝薫が紫冠の帽子を寧温に渡した。失われた時は戻らないけれど、| 志 《こころざし》を共にした日はまだ輝いていると信じたかった。
「寧温、どうか力を貸してほしい。米国艦隊のペリー提督は想像以上に強敵だ。だけどぼくは君なら勝てると信じている」
「朝薫兄さん、私は科試に合格したとき人生の全てを国に捧げると誓いました。ペリー提督がいかに強敵でも決して臆することはありません。かつて戴帽式で首里天加那志にお仕えすると誓ったときから、私の命は国とともにあります」
「ペリー提督の狙いは琉球の植民地化だ。寧温、この交渉に負けたら王府は解体されるだろう」
「いいえ勝つのは私です。まずは日帳主取就任の挨拶を兼ねて、サスケハナ号に乗り込みます」
紫冠の帽子の紐を顎下《けいか》に結んだ寧温は、那覇港に碇泊する米国艦隊を睨《にら》んだ。
*
寧温を那覇港へと案内するのは多嘉良だ。多嘉良は身振り手振り大げさに寧温との再会を喜んでくれた。
「寧温、いや孫親方。儂《わし》が生きているうちに会えるとはこんなに嬉しいことはありません」
「多嘉良のおじさん、銭蔵《ぜにくら》の泡盛を盗んだりしてませんよね」
「古酒の試飲で半胴三|甕《かめ》は潰《つぶ》したが、それ以上は呑んでおらん。がはははは」
「なんてことを! 八岐大蛇《やまたのおろち》ですか!」
「ちょっと前に向|摂政《せっせい》のお屋敷で賜った酒があってな。あれが生涯最高の酒だったなあ。あごむしられ様が情け深いお方で、儂は感激したもんだ」
「もう、おじさんったら」
と寧温が脇腹を小突いたら、多嘉良が不思議そうな表情を浮かべた。元々寧温は女性的な風貌だったが、決して所作が女性的なわけではなかった。今の小突き方は女房が亭主を窘《たしな》めるときのものだ。凄みを増した美貌と相まって多嘉良は寧温が別人に思えた。
「寧温、おまえ八重山で女でもやってたのか?」
――いけない。真鶴が残ってるんだ。
晒《さら》しを巻いた胸がかなりきつい。以前はこんなにきつく巻くことはなかったのに。男の所作、男の歩き方、男の表情、リハビリしなければ寧温はすぐには体に馴染まなくなっていた。
「寧温様ーっ。私を覚えておいでですかーっ」
と綾門大道《アヤジョウウフミチ》で声がかかる。見れば思戸が御内原を抜け出して密かに会いに来ていた。思戸は寧温の贈った絣の着物を気恥ずかしそうに纏《まと》っていた。
「思戸、女官大勢頭部になったそうですね」
「はい。御内原は私の支配下です。寧温様なら御内原に来るのはいつでも歓迎でございます」
思戸は節度のある距離で寧温に頭を垂れた。女官は不用意に王宮の役人と接してはいけない。この掟《おきて》が駆け寄って懐《ふところ》に飛び込みたい思戸の衝動を抑えつける。
「聞得大君加那志や国母様と喧嘩してはいけませんよ」
「それは無理な相談でございますう。女官大勢頭部は王妃様の敵を排除するのが仕事でございますう」
悪びれもしない思戸の言葉に寧温は気が滅入った。今朝も喧嘩の魔法陣で暗シン御門が塞がれてなかなか入り込めなかったのだ。
「御内原には新しいあごむしられ様たちがいらっしゃいますう。邪魔なら追い出しますが如何いたしましょうかあ?」
「いけません。あごむしられ様は特に大切にしてください。出来れば浮いている方を……。馴染んでいる方は放っておいても大丈夫」
「真鶴様のことでございますねえ。あの方は頭はよろしいのですが、性格が男みたいで厄介者でございますう」
やっぱりそうか、と膝をつきたくなった。王族不可侵の地位がなければ真鶴は御内原の落伍者だ。男になって御内原の自分を客観視するのは妙な気分だった。
「ところで多嘉良のおじさん、破天塾《はてんじゅく》の麻《ま》先生にご挨拶したいのですが、先生はお元気でいらっしゃいますか?」
王宮に戻って来たのに、真鶴は麻に会ったことがない。麻が王宮から引退しているということもあるのだが、麻の噂をとんと聞かなかった。もっとも女として再会しても麻には初対面になってしまう。寧温になったのだから、麻にはどうしても詫びたかった。
「破天塾はもうないぞ……。麻先生はおまえが流刑になった後、ひどく鬱《ふさ》ぎこまれてな。首里を離れられたんだ」
「麻先生はどちらの方へ行かれたのですか?」
多嘉良が寂しそうな眼差しで「心の中にいるぞ」と指で胸元を差した。
「まさか? 麻先生が?」
「そうだ。寧温が王宮から消えた後を追うように密やかに亡くなられた。儂ら破天塾の門下生だけで密葬してほしいとのご遺言でな。報せたかったができなかった……」
「嘘です。麻先生ほどの業績なら、国葬になってもおかしくないお方なのに」
寧温の晒しを巻いた胸が搾《しぼ》り取られるように疼《うず》く。流刑の日に交わした言葉が今生《こんじょう》の別れになってしまったなんて、信じたくなかった。
「寧温のことを最期まで心配しておられたぞ。麻先生はおまえの未来を楽しみにしておられたからな。破天塾から出た唯一の科試合格者だといつも口癖のように仰《おっしゃ》っていたもんな」
「私は恩師になんて不孝なことをしてしまったのでしょう……」
「寧温、もし麻先生に心を伝えたいのなら、詫びるより勝て。ペリー提督に勝って琉球を守れ。それが麻先生への供養だ。それが儂らの願いでもあるぞ」
多嘉良が寧温の背中を前に押し出してくれた。破天塾の建学の精神に懸けても寧温は絶対に負けるわけにはいかない。
那覇港は東インド艦隊に占拠されたも同然の有様だった。まるで琉球の船が間借りするようにひっそり碇泊している。港湾能力を超える大軍に寧温は圧倒されっぱなしだった。
「これがサスケハナ号か……」
ボートで近づくたびに敵の巨大さに身が竦む思いがする。米国との国力の差は倍数で捉えるよりも百五十年の開きがあると捉えた方が適正だ。科学技術を獲得していない琉球が今から近代化しても追いつくのにそれだけかかるだろう。相手は端からナメてかかっている。互角の相手と錯覚させないと琉米修好条約は侵略の文言で埋め尽くされてしまうだろう。
サスケハナ号に乗船した寧温は、ペリー提督に就任の挨拶を述べた。
“I assumed the position of the Parliamentary Vice-Minister for Foreign Affairs today. Now I will take charge of negotiations.”
(本日、日帳主取に就任いたしました。これから私が交渉を担当いたします)
完璧なクイーンズ・イングリッシュにペリー提督も耳を疑った。英国人のボーマン大尉を唸《うな》らせた発音は米国人には真似のできない貴族の英語だ。
「また英語を喋る役人を送り込んできたか。まさかケンブリッジでも出たのか?」
「ケンブリッジ大学は出ておりませんが、ナイトの称号を女王陛下より賜りました。どうかそのおつもりで」
次から次へと繰り出される教養攻撃にペリー提督もたじたじだ。これならフランスを相手に交渉する方が楽だ。しかもやってきたのは超絶美形の役人ではないか。清国でも貴族階級の男は中性的な容貌をしていたが、琉球の高官は度を超して中性的だ。いや中性的に見ようと努力しなければ、女性そのものに見える。ペリー提督の好奇な眼差しを感じた寧温は咄嗟に答えた。
“I am a eunuch.”
(私は宦官です)
ペリー提督はその言葉にますます魅入られた。英語を喋《しゃべ》りナイトの称号を持つ貴婦人の容貌をした宦官。世界中を旅してきたペリー提督でも、こんな人間に会うのは初めてだった。今日中にも石炭貯蔵施設建設と琉米修好条約の締結をするつもりでいたペリー提督ももっと寧温のことを知りたくなった。
「ペリー提督には恐縮ですが、本日は損害賠償を請求しに参りました。艦隊の水兵が勝手に上陸して牛をミシシッピー号に連れて行きました。その賠償をしてもらいます」
「ノー。牛に飼い主はいなかったと聞いている」
「いいえ。飼い主は中州に牛を置いて那覇に商談に行っていた最中でした。中州に牛がいる時点でおかしいと思うべきです。米国の牛が中州に住んでいるのなら別ですが」
就任早々、損害賠償を請求しに来るとは予想外だった。それに驚きもし、楽しみもする。
「我が国は米国を交渉相手とみなしております。修好条約の席に着く前に米国の落ち度の清算をしておいた方が得策だと思われますがいかがでしょう。それとも牛の取り扱いに関する文言を条約の中に盛り込みましょうか?」
「サー・ネイオン。キャビンでお茶でもいかがかな?」
ペリー提督は面白くなって寧温を提督室へ案内した。
サスケハナ号で最も贅を尽くした提督室は王の書院にも似た空間だ。上質なマホガニー材をふんだんに使い重厚感を醸《かも》し出している。ペリー提督は無意識にレディを迎えるような仕草で寧温を席に促した。
「サー・ネイオン。難しい話をする前に、あなたのことをよく知っておきたい」
「それは私の希望するところでもあります。ペリー提督には琉球が平和を望む豊かな王国であると是非知っていただきたく存じます」
寧温はペリー提督の執務机の上にチェスボードが置かれているのを見つけた。
――敵地にキングが二つある。やはり琉球は予行演習の場か。
惨《みじ》めに差し出されたキングは詰められていた。これが琉球の王だというのは明白だった。寧温はボードを指して、
「是非、私と一局願えませんか?」
とチェスでペリー提督と対局することにした。緩やかに揺れるキャビンで二人が盤に向き合った。
「サー・ネイオン。世界がどんな時勢かご存じか?」
最初のポーンが二枡飛び跳ねた。
「英国の産業革命以後、近代化を成し遂げた国が東洋を圧倒しております」
「米国の立場を斟酌《しんしゃく》していただけるとありがたいのだが」
「米国は焦っておられます。まだ国内には解決できていない問題があるはずです。今は異国を侵略する時期ではありません」
「米国の国内問題とは?」
「奴隷《どれい》問題です。黒人奴隷や苦力《クーリー》奴隷を大量に受け入れれば、彼らの最低限の生活を保障する義務が生じます。その問題を先送りしている限り真の列強の仲間入りは果たせません」
寧温がポーンを動かし防御の構えに入る。
「シシリアン・ディフェンスを知っているとは驚いた」
「ほんの嗜《たしな》みです。お手柔らかに」
寧温がはにかんだときに浮かぶ頬の紅潮が敵の力量を惑わせる。しかし寧温の棋譜は正確無比だった。十七世紀のチェス名人、ジョアッキーノ・グレコを彷彿《ほうふつ》とさせる躍動感溢れる棋譜だ。ペリー提督はすぐに本気になった。
「米国は内戦の火種を抱えています。国内を安定させることが先決です」
「そんなことは琉球人に言われる筋合いではない」
「もし米国で内戦が起これば植民地を維持できなくなるでしょう。それは西欧諸国にとって都合のよいことです。弱体化した植民地を再度乗っ取ればすむ話ですから」
「私は必ずしも琉球を植民地にしようと考えているわけではない。石炭貯蔵施設を那覇港にほしいだけだ。その借地権をチョークンと話し合ったが頑固な男で、話にならん。だから王宮を公式に訪問した」
「借地権を認めることはありません。ですが等価交換なら考慮いたします。テキサス州と交換ならどうでしょう?」
「バカな。なぜ那覇港ひとつにテキサスを譲らねばならんのだ。第一大きさが違うだろう」
「米国のプレゼンスの問題です。那覇港は戦略的にテキサス州に匹敵《ひってき》する価値があります」
寧温のルークがペリー提督のビショップを追撃した。途端、サスケハナ号が波に揺れる。
「ははは。何という宦官だ。米国を強請《ゆす》る気か?」
「強請りに来たのはそちらです。私は応じたまでのこと。それに知っていますか――?」
寧温のナイトが敵地に飛び込んだ。
「薩摩からの情報によりますと、日本は米国と和親条約を結ぶ準備を整えております」
「宗主国を売るつもりか?」
「今の米国は太平洋航路の確保が重要なはず。二つの国を同時に支配する余裕などないはずです。日本と琉球、どちらが米国にとって魅力的な国かお選びください」
「もし琉球と言ったらどうする?」
「日本は他の国によって開国されるだけのことです。日本を開国した国が太平洋の覇者《はしゃ》になるのだということをお忘れなく。もし日本に行っていただけたら、こちらの譲歩として修好条約に盛り込む案件は米国の意志を最大限に汲《く》み入れます」
「では米国人居留地と商館の建造、地上要員駐留を要求する」
寧温は眉一つ動かさずに淡々と駒を進めていく。
「泊村《とまりむら》をお使いください。泊村には既に何度も上陸をされておりますし、外人墓地も泊にございます。また高級将校用の宿泊施設の聖現寺もございます。商館にお使いくださって結構です」
「石炭貯蔵施設の建造も忘れてはならない」
「泊港に石炭貯蔵施設を王府の経費でお造りいたします。ただし速やかに日本に行ってもらうことが条件です。江戸からお帰りになるまでには施設を造っておきましょう」
「サー・ネイオン。貴殿はなかなか話のわかる役人だ」
ペリー提督にとって損のない話だった。琉球はあくまでも日本開国に失敗したときの保険にすぎない。居留地、商館、地上要員の駐留、石炭貯蔵施設、これだけあれば植民地化に拘泥《こうでい》する必要はない。気をよくしていたペリー提督に寧温の最後の一手が飛んだ。
「チェックメイト!」
寧温がペリー提督のキングを詰んでしまった。いつの間に詰められたのかとペリー提督が動揺する。詰められる瞬間まで盤局が読めなかったなんて初めてだった。交渉を終えた寧温は既に提督室から姿を消していた。その代わりに甘美な香りがいつまでも漂っていた。
「なんとも不思議な宦官だ……」
チェスに負けたのにむしろ爽快だった。ペリー提督は地図上の日本に狙いを定めた。
「セカンド・チェックメイト!」
ペリー提督の意志が固まる。魅惑の宦官との別れは名残惜しいが、琉球での役目はほぼ終えた。鎖国の日本を脅すのに大艦隊は必要ない。那覇港に大多数を残し、最小限の艦で江戸に向かう。即ち、ミシシッピー号、サラトガ号、プリマウス号、サスケハナ号の四隻である。この黒船が一八五三年七月八日、浦賀に黒船ショックをもたらすことになる。
*
王宮に戻った寧温に朝薫が経緯を尋ねて唖然《あぜん》とする。最後の切り札として登場した寧温がペリー提督の要求を全て呑んでしまったという。
「石炭貯蔵施設を認めたのか。居留地も、商館も、地上要員の駐留も……。なんてことをしてくれたんだ!」
「お待ちください朝薫兄さん。ペリー提督に掛け捨ての保険をさせたのです。罠《わな》にかかったのはペリー提督の方です」
寧温が頬を赤らめて説明する。ペリー提督がもし日本を開国させ和親条約を締結したら、全く同じ条項を盛り込むだろう。太平洋に二つの居留地はいらない。二つの商館もいらない。日本開国によって琉球の魅力は相対的に衰える。約束を反故《ほご》にされたと抗議されるかもしれないが、恥をかかせるほどではない。ペリー提督はほくほく顔で浦賀から戻ってくるはずだった。
「ペリー提督の目的は日本開国で九割達成されます。一割の失敗で機嫌を損ねる男ではありません」
「つまり琉球は無事ということか?」
「琉米修好条約は必要ですが、条文を有名無実化させてみせます。今はペリー提督の関心を逸《そ》らすことが大切です」
評定所の奥で嗣勇が急げと腕を回している。御内原に戻る合図だった。女官大勢頭部の声が正殿の二階から洩《も》れてくる。
「あごむしられ様ーっ。真鶴様ーっ。首里天加那志がお呼びでございますーっ!」
すぐに御内原に戻らないと怪しまれてしまう。真鶴は咄嗟に退席の口実を作った。
「私はこれから那覇|里主《さとぬし》と調整しなければなりません。しばし王宮を離れますので、後のことはよろしく――」
「寧温、待ってくれ。今日は再会祝いの準備をしていたんだ……」
朝薫の声を背中に寧温は評定所を飛び出していった。御庭を通らずに王宮の裏に抜け、書院と南殿の通路から南風の廊下に辿り着いた。暗シン御門が何のために作られたのか不明だが、姿を見られずに御内原へと入るには絶妙な配置だ。
寧温として出た門から今度は真鶴になるために入る。クランク状の長い通路を抜け、中にあるげらゑの間に身を隠す。帽子を脱ぎ、簪《かんざし》を外し、帯を解き、側室の衣装に早変わりする。嗣勇が念のために蝋燭《ろうそく》と鏡を用意してくれた。寧温になるときも拘束具を身につけたが、真鶴に戻るときも王族としての身なりを要求される。髪を結い直し、女物の銀の簪を挿し、入念に化粧を施す。その間も女官大勢頭部の声が頭上から聞こえてくるから手を休める暇はない。
「あごむしられ様ーっ。真鶴様ーっ。首里天加那志がお呼びでございますーっ!」
「思戸、待ってちょうだい。首里天加那志に御目通りするんだから、簡単にはいかないのよ。房指輪はどこ? 草履《ぞうり》は? 扇子は? よしできた」
真鶴は息を整えて魔法をかける。
「寧温、真鶴に戻りなさい――!」
御内原側の暗シン御門から出た真鶴は、何事もなかったかのように王宮の花に戻っていた。ここは言葉の代わりに機糸で気持ちを織り上げる女の世界だ。世間の喧噪から隔絶された王だけの花園である。
赤田門のおすく枝持の美《ちゅ》らさ
城女童《グスクみやらび》の身持ち美らさ
(御内原に入る赤田門《あかたじょう》の側にあるガジュマルの樹の枝振りは美しい。その美しい枝振りと同じように御内原の女もまた身持ちがよいのが信条です)
*
那覇港に出現した黒船の主力艦が江戸に向けて出航したのは、交渉から間もなくのことだった。ペリー提督は艦隊の大部分を那覇港に残し、必ず琉球に戻ってくると大砲を置いていった。国際感覚に優れている琉球でさえ翻弄《ほんろう》されたのだから、江戸城の周章|狼狽《ろうばい》は見なくてもよくわかる。
明け方霧に包まれることの多い王宮は、秘かに性を超えるには都合がよい場所だ。御内原の後之御庭がたっぷりの霧を抱え、黄金御殿に空いた暗シン御門だけがうっすらと闇を覗《のぞ》かせていた。
「あごむしられ様、今のうちでございます」
美形の門番が手引きする闇は霧さえ通り抜けられない暗シン御門だ。真鶴は慣れたように暗シン御門に消えていく。
「あとのことはよろしく」
「お任せください。あごむしられ様は機織りの指導に識名《しきな》村に出かけていると言っておきます」
真鶴は未明に御内原から表世界に出勤することになった。そして王宮が闇に包まれる頃、秘かに御内原に戻る。まるで毎日シンデレラをしているようなものだ。王宮から出勤し、王宮で働き、王宮で休む。しかも一日の半分は男で半分は女である。太陽と月が同時に天を駆けないのと同じく孫寧温が勤めているとき真鶴は存在しない。真鶴がいる夜に寧温は王国から姿を消す。
「表十五人衆の孫寧温です」
王宮から抜け出て久慶門《きゅうけいもん》から入り直せるのも、秘密の回廊のお蔭だ。女と男が容易く入れ替われる装置が王宮に備わっていなければ不可能な技だった。原始首里城はこの暗シン御門を何に使っていたのだろう。なぜ黄金御殿という御内原の中枢にこの機能があるのか謎であった。
寧温になることは既視感の連続だ。つまり二度想い出の人と再会し、二度同じ経緯を聞かされる。それにいちいち驚かなければならない。
「寧温、実はぼくには妻と子がいるんだ……」
朝薫は言いにくそうに口を窄《すぼ》めた。もはや今生の別れと三重城《ミーグスク》で簪《かんざし》を捨てたあの日のことが思い出される。重臣として、父として、夫として生きていた朝薫にとって寧温は初恋の亡霊だ。後悔してはいないが時の重さをひしひしと感じずにはいられなかった。
「それはおめでとうございます。朝薫兄さんに似て賢い子に育つとよいですね」
「君から一字貰っただけあって、もう筆と遊んでいるんだ。すまない……」
「なぜ謝られるんですか? 王宮は決して止まらないところです。いいえ。止まってはならないのです。常に前進し続けるから国は存続する。そうでしょう?」
寧温と朝薫は西のアザナから東シナ海を眺めた。那覇港に佇《たたず》む黒船は艦隊の大部分を琉球に残した。しかし台風の目のペリー提督がいなくなっただけで穏やかさを取り戻したように見える。
「寧温、ペリー提督を追い払ってくれてありがとう。ぼくが交渉していたら今頃、琉球は米国の植民地だった」
「私はペリー提督と交渉するためだけに赦《ゆる》された身です。負ける交渉など許されないことです」
嵐を北上させることで国難は一時去った。孫寧温は日帳主取として復職し面目躍如たるものがあった。しかし王府が寧温を重用することは二重生活の負担を増す。そのうち御内原に真鶴がいないことを不審に思う者が出てくるかもしれない。国のために寧温になることを望んだが、以前よりも破滅の綱渡りは危険度が高まった。国を守ることは身の安全と引き替えだった。
「御仮屋《ウカリヤ》の在番奉行《ざいばんぶぎょう》殿から幕府の動きを聞いたよ。江戸は震災に見舞われたも同然だそうだ」
「恐らく日本開国は不可避でしょう。これで藩の均衡は崩れ、幕府は衰亡の途につくでしょう」
「あの徳川が滅びるかもしれないなんて誰が予想しただろうか。寧温、ぼくはこの時代が怖い」
「時代が怖いのではありません。国家を私物化していたから怖いのです。徳川の失政は鎖国して国家を私物化したからに他なりません」
その言葉に朝薫は目から鱗《うろこ》が落ちた思いがした。こういうことを素面《しらふ》で言ってのけるのが孫寧温の魅力だ。常に新しい時代を予見し、対応できるように情報収集と知識の研鑽《けんさん》と自己変革を促す。
「そもそも国家とは複数の他国から認められなければなりません。異国からどう思われているのか客観視できない国家は必ず滅びます」
「第二|尚氏《しょうし》王朝は国家を私物化していると思うかい?」
朝薫の質問に寧温はしばし黙った。
「清国と日本に頼りすぎて列強の脅威に備えなかったのは王府の失態です。国家を私物化している証左ではないでしょうか……?」
「では寧温あえて聞く。今の琉球にもっとも相応《ふさわ》しい政策は何だ?」
「日本を監視することです。将軍家衰退によって日本がどんな国に生まれ変わるかが琉球の命運を左右します。冊封《さっぽう》体制は間もなく滅びます。米国は私が何とかしますので、朝薫兄さんは日本から目を離さないでください」
わかったと朝薫は頷いた。寧温が八重山に流刑にされている間に薩摩藩の影響力が増大していた。王府は寧温の願いも虚しく薩摩側に政策転換を強いられていた。
漏刻門《ろうこくもん》の水時計が未《ひつじ》の刻を告げた。太鼓の音に合わせて寺の鐘が鳴る。
――いけない。申《さる》の刻までには御内原に戻らなきゃ。
寧温の一日には太陽と月の二つの顔がある。側室に戻る時間が迫っていた。
「ところで寧温、ひとつ頼みがある。その、言いにくいのだが従妹が寧温に会いたがっている。紹介してもいいか?」
「はい構いませんが。朝薫兄さんの従妹って……」
「あごむしられ様だ。身重でずっと鬱《ふさ》ぎがちだったのだが、寧温の名前を聞いたら明るくなってな。世子を産むから会わせろと泣きつかれた……」
――真美那《まみな》さんと?
寧温はぎょっとした。あのいらん好奇心の塊の真美那と不用意に接触したくない。
「御内原の女が、しかもあごむしられ様がそのようなことを軽弾みに仰るとは思えません」
「実は軽弾みな従妹で、いや何でもない。寧温は宦官だから御内原に入れるはずだと言ってきかない。御内原で会うなら問題ないと王妃様もお許しになられた。今はあごむしられ様が無事にご出産されることが国の救いなのだ」
「わかりました。臣下としてあごむしられ様に謁見《えっけん》いたします」
内心冷や汗ものだ。寧温として御内原に入ったら真鶴の影と接近してしまう。二人は表と裏に隔離されているから成り立つのだ。寧温が無意識に暗シン御門の方へ歩いていると、朝薫に止められた。
「寧温どこに行く? 君なら正殿の空中回廊から黄金御殿に入れるだろう?」
「すみません。王宮は久しぶりなので忘れておりました」
空中回廊で恭《うやうや》しく迎えてくれたのは思戸だった。
「寧温様、私が女官大勢頭部である限り、御内原への出入りはご自由にどうぞ」
時代は変わったと実感する瞬間だ。かつての女官大勢頭部は寧温を煙たがっていたのに、今では歓迎されている。思戸が寧温ファンを公言するものだから女官たちはこぞって後之御庭に押しかけてきた。
「あれが噂の孫親方なのね。すっごい美形じゃないの」
「花当も形無しだわ。科試を最年少で合格されたのよね」
あがまたちも寧温の存在を知るのが初めての者がほとんどだ。
「嗣勇様もお綺麗だけど、孫親方の方が色気に迫力があるわね」
「悪いけど王妃様よりお綺麗よね。いたーい。女官大勢頭部様ごめんなさーい」
「言ってはならぬ言葉だ。孫親方を御内原に入れたければ不用意な言葉を慎むのだ」
思戸はかつて寧温がなぜ嫌われていたのか知っていた。あがまだった思戸たちがこぞって寧温の美貌を王族たちと比べたからだ。
嗣勇が寧温として御内原に戻ってきた真鶴を見て仰天する。
――バカ。着替えてから戻れよ!
寧温は嗣勇にもう一度再会の儀式をしろと促した。
「嗣勇殿、お久しぶりでございます。ご出世されたことをお慶《よろ》び申し上げます」
「あ、そうか。そ、孫親方も身分を回復されましたことを心からお祝い申し上げます」
世添御殿から「ねえまだ?」と真美那の弾む声が聞こえる。障子が開《あ》いた瞬間、お菓子の匂いの津波が鼻を押し潰した。真美那が大量のお嬢様爆弾を拵《こしら》えて寧温を出迎えてくれた。
真美那は正面に座っているのに、物陰から寧温を見つめるような眼差しだ。
「初めまして孫親方。私は真美那でございます」
親友の上ずった声を聞くというのも不思議な体験だった。寧温は御拝で面をあげるのを躊躇《ためら》った。
「初めてお目にかかります。表十五人衆・日帳主取の孫寧温でございます。あごむしられ様にお目にかかれて恐悦至極《きょうえつしごく》に存じます」
即座に真美那が「王宮にあがってよかったわ〜」と溜息をつく。物陰から見つめていた初恋の人と堂々と会える今の身分が嬉しい。既得権を鼻にかけない真美那だが、この権利だけは濫用《らんよう》するつもりだ。
「孫親方、面をあげなさーい」
恐る恐る面をあげた寧温は完全に逆上《のぼ》せている真美那の視線をまともに受けられない。真美那は膝を揺すって興奮状態だ。親友と擬似恋愛ごっこなんてちょっと気持ちが悪かった。
「孫親方のご活躍を以前からご敬愛申し上げておりました〜。うふふ」
「あごむしられ様から勿体《もったい》ないお言葉でございます」
「そんな他人行儀な。真美那でよろしいのに」
「いいえ。臣下が王族を呼び捨てにするなどあり得ないことでございます」
こんなに機嫌のよい真美那は久しぶりだ。昨夜、真鶴として会ったときにはひどく鬱ぎ込んでいたのに、寧温と対面するだけで一発で治ってしまった。真美那は上機嫌だと何をするかわからない女だ。ここはさっさと身を引いておこうと寧温は思った。
「あごむしられ様のご出産が近いと聞き、長居をご辞退させていただきたく存じます」
「ダメ。そなたは胎教によい。長居を命じます!」
こんなときお嬢様育ちは強い。どうすれば相手を意のままに操れるのか物心つく前から習得している。真美那は寧温の艶《あで》やかな姿に息を呑んだ。少女心に綺麗な人と心に焼き付けたが、美化された記憶よりも遥かに妖艶だった。花当で最も美しいのは少年期の三日だけと言われる。後は日に日に男へと変化していく階段を上る。だが寧温はその三日を十数年にも亘《わた》って維持し続けている。衰えるどころか止めた時の中で爛熟《らんじゅく》しているではないか。
「孫親方のために菓子を焼いておきました。どうぞ召し上がれ」
菓子器から溢れるほど積み上げられたのは特製の|千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《せんじゅこう》だ。昨日も夜中に食べさせられて食傷気味だった。
「私の千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》って美味《おい》しいって評判なのよ。隠し味が何か当ててみてください」
強烈な既視感に寧温は目眩《めまい》を覚える。美味しいのは確かだが罰ゲームを受けている気分だった。
「夏みかんの皮が入っています」
「当たり。それが評判の理由なのよ。息を吐くとみかんの香りがスーッとして気持ちいいでしょう。これでペリー提督の王宮入城を足止めさせたのよ」
「あごむしられ様が身を挺してペリー提督一行に立ちはだかったご勇気に感服いたします」
「何を言うの。孫親方がペリー提督を追い払ってくれたんじゃない。孫親方がいなければ琉球は米国に乗っ取られていたわ」
「いいえ。私は役目を果たしたまでのこと。ひとえに首里天加那志のご高徳でございます」
「何故かしら? 初めてお会いしたのに昨日も一緒にいたような気がするわ」
寧温が茶を噴き零《こぼ》した。そろそろ時間が気になる。真鶴の外出許可は申の刻までだ。それは寧温が評定所勤務を終える時間だった。これ以上、真美那と関わっているとロクなことになりそうもない、と予感した矢先だ。
「そうそう。親友を紹介したいわ。もうすぐ戻ってくるはずよ。孫親方ほどじゃないけどすっごく頭の良い人がいるのよ。私と同じ日に王宮にあがったあごむしられで――」
嗣勇がもはやこれまで、と割って入る。
「孫親方、三司官殿がお呼びでございます。すぐに評定所ヘ!」
「――真鶴さんって言うんだけど〜っ」
「わかりました嗣勇殿、すぐに戻ります。真美那様、失礼いたします!」
「ねえ、待って。まだ千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》を召し上がってないじゃない!」
真美那は背中を見せて後之御庭を猛スピードで駆けていく寧温を引き留めようとする。しかし愛《いと》しの寧温は強烈な山百合の香りをたなびかせて黄金御殿に消えて行ってしまった。初恋の残り香にしては溺《おぼ》れてしまうほどの甘さだった。
真美那は扇子で顔を覆った。
「真美那、泣いちゃう……」
黄金御殿は二つのバイパスで表世界と繋がっている。二階の空中回廊は王族や女官たちが使う表の回廊だ。そして一階には摩訶《まか》不思議な暗シン御門がある。寧温は空中回廊から正殿に抜けてさらに一階の南風《はえ》の廊下に降り、暗シン御門に飛び込んだ。途端、漏刻門の太鼓が申の刻を告げる。連動して首里の寺が一斉に鐘を撞《つ》く。たちまち王都が深|錆色《さびいろ》の重厚な波紋に包まれた。
「寧温、真鶴になりなさい!」
王宮にあがるために男に化けたシンデレラは魔法が解けるとやはり王宮に帰る。帯と帽子を片手で脱ぎ、右足で女物の草履を引き寄せる。げらゑの間は楽屋には狭すぎた。鐘の音が止むまでに美福門《びふくもん》に辿り着かなければ御内原は完全閉鎖してしまう。
赤胴帯ほどき聞くも恨めしや
待ちゆる時すれる鐘の響き
(門限が間もなく迫っている。帯を解きながら鐘の音を聞くのは恨めしいことです)
暗シン御門から寄満《ユインチ》の脇を抜け、今まさに閉じられようとしている中門に間一髪で間に合った。
「真鶴です。遅くなって申し訳ございません!」
飛び込んだ瞬間、閂《かんぬき》が走った。まるで斬首の瞬間に立ち会ったような気がした。真鶴は息を整えてから真美那の元を訪ねた。
「真美那さん、お加減はいかがでしょうか?」
「もう、真鶴さんどこに行ってたの! さっきまで孫親方がいらっしゃって真鶴さんが来るのを楽しみに待っていらしたのに!」
「そうでもないと思うんですけど……」
「孫親方を待たせるなんて失礼よ。明日は御内原にいるんでしょうね」
「残念ですが、機織《はたお》りの技術指導を頼まれて明日も外出いたします」
「働き者なのは立派だけど、一度紹介したいのよ。もうすっごく綺麗なお方なんだから。真鶴さんと絶対に気が合うって保証するわ」
「生憎《あいにく》、私は宦官というのが苦手でして……」
「差別的! 会ったこともない人を嫌うなんて真鶴さんらしくないわよ。孫親方は真鶴さんと同じように時代を読む力があるわ。二人で話をしたら絶対に盛り上がるわよ」
「御内原の女が政治に首を突っ込むのは危険だと言ったのは真美那さんですが?」
「それとこれとは別!」
「御内原の女が首里天加那志以外の殿方に興味を持つのはおやめください!」
真美那は泣いたばかりの瞳でじっと真鶴の顔を見つめた。一瞬、真鶴の口調の中に寧温を聞いた気がした。
「変ね。なぜ私ドキドキしているのかしら?」
「きっと興奮してお疲れになっているのでしょう。今は大事なときです。真美那さんは丈夫な赤ちゃんを産むことだけにご専念ください。私は疲れているので部屋で休みます」
「疲れているなら千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》を召し上がれ」
――む、胸焼けが。
今日一日だけで真鶴もぐったりだった。一人二役は予想以上に神経を磨《す》り減らす。これを一生続けることになるのか、と真鶴は未来に戦《おのの》く。自室に入ったのも束の間、嗣勇から寧温招集の合図がかかる。
「真鶴、今度は本当に三司官殿がお呼びだぞ!」
弱音を吐く暇もなく真鶴は暗シン御門に走る。また早変わりで評定所へ飛び出した。
「孫寧温です。お呼びでしょうか三司官殿!」
*
ペリー提督の嵐が江戸に吹き荒れている頃、王国に嬉しい報せが走った。真美那が王女を産んだのだ。目鼻立ちは真美那にそっくりで、しかも女子王族に顕《あらわ》れる薄い色の虹彩を備えていた。誰もが次期聞得大君だと確信する瑞相《ずいそう》に沸き返った。
「真美那様、うみないび(王女)様でございますよ」
世子《せいし》誕生も重要だが、琉球には王族神という制度がある。最初の子は王女であることが吉相だ。王のオナリ神が最初に出現し、次に世子が生まれるのが望ましい。将来の聞得大君を輩出することも重要な公務だ。向摂政は聞得大君誕生にまずまずの喜びようだった。
「真美那でかしたぞ。王女様の碧眼はまさしく聞得大君の証《あかし》。これで京の内と大あむしられ(上級ノロ)達は我が一族のものだ」
「お爺様、男の子じゃなくてごめんなさいね」
真美那は公務を果たして満足していた。男の子を産むか女の子を産むか、真美那の希望以上に国民の期待の方が大きい。私的な感情を持てないのが王族の出産だ。一族の繁栄と国の未来を背負わされた真美那は、競技の決勝に挑む気持ちで出産に臨んだ。
赤子もまた誕生してすぐに公人となる。真美那は赤子を母親として抱きたかったが立ち会った神女に「聞得大君の瑞相」と即座に判断され、後見人にさせられてしまった。真美那の子は真美那よりも地位の高い王女であり、いずれ王妃をも圧倒する聞得大君になれる可能性がある。
真美那は瞬時に娘に必要なのは母性でなく、権力だと理解した。
「私の家の力ならあなたを守ってあげられるわ。聞得大君におなりなさい」
「真美那よ、天晴れであったぞ。長男が必ずしも世子になれるとは限らない。聞得大君の瑞相の方がずっと貴重だ」
戦慄《せんりつ》を覚えたのは現聞得大君だ。向家とはこれまで何度も対立してきた。向家が止《とど》めをささなかったのは王族神という不動の地位のお蔭だ。次期聞得大君が誕生したとなれば今の地位にいられるのは二十年もない。聞得大君は向家と和解するか、それとも権力があるうちに向家を潰すかの選択の狭間《はざま》で揺れた。
聞得大君が神扇を悠然と煽《あお》いだ。
「まだ妾《わらわ》が聞得大君じゃ。相続をどうするかは妾が決める」
真美那は赤子の筆頭後見人としてさっそくパワーゲームに参戦する。
「そんなこと仰ってよろしいのですか聞得大君加那志? 次に私は世子を産む予定ですのよ」
「おのれ、あごむしられ。うみないび様を産んで欲が出たか」
「いいえ。世子は私が何としても産みます」
「うなじゃら(王妃)様のおなーりー」
「それは懐妊してからの台詞じゃ」
「国母様のおなーりー」
この後いつものように女子王族たちが啖呵《たんか》を切りに続々登場する。生まれたばかりだというのに王女は御内原名物の洗礼を受けた。自我を獲得する前に敵の姿を目に焼き付けておかなければ、御内原では生き残れない。もっともこういう環境で育つから物心つく頃には喧嘩好きになってしまうのだけど。
聞得大君が七人だと魔法陣ができないとイヤミを叩きつけた。
「国祖母様はお役御免じゃ。玉陵《タマウドゥン》に祀《まつ》られて前の国母に虐《いじ》められるがよい」
「おのれ聞得大君。前の聞得大君の轍《てつ》を踏ませてやりたいっ!」
「そういえば伯母の真牛《モウシ》は愚かな女じゃったな……」
と聞得大君が真牛の名を出した。しばし喧嘩に寂寥《せきりょう》が訪れた。反則芸とも言える一方的な強さを誇っていた真牛がこの場にいないのが何故か寂しかった。
王女誕生の特需で那覇の街も活気を帯びてきた。生まれ年の丑《うし》年に因んだ玩具が軒に並んで大人気だ。
「ほう、ちんちん馬小《ウマグワー》が牛になっているとは洒落ている」
ちんちん馬小は子ども向けの玩具で、馬に乗った子どもの置物だ。それが牛になっている。店の主も今年限りのプレミアム商品だと宣伝すると、記念とばかりに子どものいない家庭でも買い求めた。
那覇港には進貢船が清国から戻ってきた。出航するときにはいなかった米国艦隊の一部に船乗りたちも身を乗り出した。
「俺たちのいない間にすごい船が来ていたんだなあ」
津波古《つはこ》は清国から銀杯と絹を大量に買ってきた。もしこれが売れなければ身投げするしかないと覚悟していた。しかしその心配は杞憂《きゆう》だった。津波古が荷下ろしをするや、王府の役人たちが押し寄せて通常の倍の値で絹を買い漁《あさ》った。
「私は大美御殿《おおみウドゥン》の筆者だ。うみないび様の満産祝いが近い。銀杯はあるか?」
「はい。五百脚は準備しております」
「全部買う。大美御殿へ持って参れ」
明日をも知れぬ貧乏人だった津波古が一夜にして成り上がった。これが海運業の醍醐味《だいごみ》だ。擬《まが》い物を掴まされれば一家離散だが、一発当てれば富豪になる。無精髭を綺麗に整え、上質な芭蕉着《ばしょうぎ》に袖を通した津波古は精悍《せいかん》な男になっていた。
「真牛、この僥倖《ぎょうこう》はおまえと出逢ったからだ」
津波古は手に入れた財を全て投じて真牛を身請けするつもりだ。彼の手元には清国から買ってきた簪があった。翡翠《ひすい》を土台に玉で鳳凰《ほうおう》をあしらった簪は、実用性よりも鑑賞用として愛《め》でる超絶技巧の細工だった。
津波古は真牛のいる辻の遊郭を訪れた。津波古は開口一番、真牛の解放を求めた。
「女将《おかみ》、ここにいる真牛の借金を全て立て替えたい。幾らだ?」
女将は津波古の身なりや簪を舐《な》めるように見回した。高級品だがどれも新品だった。きっと先日帰ってきた進貢船で財を成したのだろう。船が戻るとこういう輩《やから》が遊女を身請けしにやって来るものだった。もっとも破産して妻を売りに来る者も後を絶たない。
「旦那さんがポンと払える金額ではございませんのよ」
「金ならある! 利息を含めて払ってやろう」
津波古が提示した金は銀子《ぎんす》百貫文だ。これで真牛は自由の身だと津波古はニヤリとする。しかし女将は銀子百貫文を鼻で嗤《わら》い飛ばした。
「ですから旦那さんがお支払いできる金額ではないと申したではございませんか」
「俺が成り上がりだと思って足下を見てるのか? ジュリ五人は身請けできる金額だぞ」
津波古はこれだけの大金を積んでも身請けできないなんて信じられない。予想の三倍は提示したつもりなのに、真牛はどれだけ借金していたのだろう。
女将が証文を見せつけた。
「真牛の借金は銀子一千貫文でございます!」
「銀子一千貫文!? 進貢船でも沈めたのか?」
「並の男では真牛の借金は返せません。たとえ三司官様でも向家の親方様でも真牛の身請けは不可能でございます」
「ジュリの生涯賃金でも返済できないはずだ」
「他のジュリを身請けなさいませ。この竈《カマド》など如何でしょう?」
差し出された竈という女は年季の入った台所みたいな迫力だった。二十年前は新品だった竈が煤《すす》けた声で津波古に媚《こ》びを売る。
「旦那様〜ん。竈は一生あなたについていきます〜」
「よせ。俺は真牛以外に興味はない」
「ではこの鍋《ナビー》はどうでしょう?」
連れて来た鍋という女はいわば「割れ鍋」だった。擬《まが》い物ばかり押しつけられるのは津波古の運命なのかもしれない。
「旦那様、ア〜ンして。この鍋でお召し上がりくださ〜い」
「いらん。では真牛を一晩買う。会わせろ」
女将はどうしようか迷ったが、津波古を通すことにした。津波古の言う通り真牛の借金は遊女稼業で返せる金額ではない。ここで安く真牛を手放したら損をしてしまう。元王族がいるという触れ込みが店の格を上げるからだ。このブランドイメージで売上は急速に伸びた。
「旦那様、何を見ても驚いてはなりませんよ」
女将は念を押して襖《ふすま》を開けた。途端、津波古が絶句する。薄暗い部屋の中に呆けた真牛が虚空《こくう》を見つめて座っているではないか。髪も着物も乱れ部屋には異臭が漂っていた。
「これは? 真牛、おまえは真牛なのか?」
「マブイ(魂)落ちでございます。どうやら異人どもに輪姦されてしまったようなのです」
そう言って女将は真牛が持っていた五セント硬貨を見せた。御嶽《うたき》であられもない姿で発見された真牛はショックで記憶喪失に陥《おちい》っていた。俗に言うマブイ落ちである。何らかのショック体験が引き起こすマブイ落ちは、肉体と精神が乖離《かいり》した状態だ。
「ずっとこんな調子で下の処理もできない有様なのでございます」
「真牛! 真牛! 俺がわかるか?」
津波古が真牛を揺すぶっても真牛は目の焦点も定まらない。譫言《うわごと》のように微《かす》かに声が漏《も》れる。
「おーきゅーに……もどりたい……」
「何てことだ。真牛、俺はおまえのお蔭で命を救われたのだぞ。オナリ神になってくれたお蔭で人生をやり直せたんだぞ……」
「うーちばらに……かえりたい……」
真牛は自分の体を支えることもできないほど衰弱している。あの気丈で怖い物知らずの真牛が廃人になっていた。
「旦那様、こんなジュリでもよければ可愛がってくださいまし」
女将は部屋に饐えついた臭いに顔を顰《しか》めた。真牛は襁褓《おむつ》をさせてもすぐに汚してしまう。気がふれた遊女など見慣れていた女将だが、これ以上面倒をかけられたら蔵に閉じ込めるつもりだ。
津波古は女将に食ってかかった。
「おい女将、マブイ籠《ご》めをするぞ。王国で一番能力のあるユタを呼べ」
マブイが落ちるというのは琉球人にはままあることだ。マブイが落ちると現実との関連が途切れてしまうといわれる。
琉球人の肉体には七つのマブイがあると云われ、落ちた数が多ければ多いほど症状が深刻になる。また落ちたマブイは収拾可能と考える。庶民のマブイ落ちの場合、その収拾を担当するのはユタだ。
この時代は表向きユタ行為は不法であるが、庶民のユタ買いは雨後の筍のように取り締まっても収まることはない。
津波古は大枚をはたいて辻村で名を馳せていたユタを買った。どんなマブイ落ちでも彼女にかかれば必ず戻ってくるというマブイ籠めの名人だ。しかしユタは部屋に通されると腹を抱えて笑ったではないか。
「これはこれは、私の商売敵の坤道《こんどう》様ではございませんか」
「おまえ真牛を知っているのか?」
「知っているも何も。この女のお蔭で客のジュリたちをみんな取られてしまったんだよ」
「なんと真牛はユタだったのか?」
「ふん、ユタと名乗るのが嫌で坤道と称してあくどい商売をしていたんだよ。それが王府に見つかってユタ狩りに。まさかジュリに落ちているとは思わなんだ」
真牛の商売のやり方は同業者|殲滅《せんめつ》型だ。誰とも協調せず、誰とも共存せず、利権を根こそぎ掌握することを信条とした。そのせいで王国中のユタから嫌われてしまっていた。
「こんな女のマブイ籠めなど銅銭一千文でもお断りだね。仲間から後ろ指をさされちまうよ」
目の前で罵倒されても真牛の感情の灯火は消えたままだ。屎尿《しにょう》の異臭に誘われて蠅《はえ》が飛び交っていた。真牛は目玉に蠅がたかっても瞬きすらできない。
「きこえおーきみうどぅんに……かえりたい……」
「何が聞得大君御殿だい。おまえがそんないいとこの生まれなわけがないだろう。聞得大君加那志はね、お生まれになったばかりのうみないび様のように碧眼の瑞相をお持ちのお方なんだよ」
黒く濁った真牛の瞳には神の験《しるし》が消え失せていた。もはや真牛が正気に戻っても誰も元聞得大君と信じないだろう。現聞得大君でさえ誕生した真美那の娘に地位を脅《おびや》かされていると噂されているのだから、前の聞得大君の消息など誰も関心がないのが現実だ。地位も名誉も財産も栄光の日々も所詮、うつろいゆく幻にすぎない。
津波古はユタに縋《すが》りついた。
「銀子十貫文支払おう。いや百貫文でもよい」
「旦那様そいつは無理な相談だねえ。この女は正気だと悪さしか企《たくら》まない。廃人になったのも神の思《おぼ》し召し。このまま屍《しかばね》のように生きるのが世間のためじゃないかね」
ユタは真牛に睨みを利かせて唾を吐きつけた。
「ユーシッタイ(ざまあみろ)!」
ユタが見放したからといって諦められる津波古ではない。那覇の町も真和志村《まわしむら》も遥々北部にまでも足を運んだ。しかし真牛の暴利を貪《むさぼ》る商売は津々浦々に知れ渡っていた。真牛のマブイ籠めをするくらいなら、王府に自首すると言い張るユタもいた。
「ユタがダメなら時《とき》を買ってやる」
津波古が連れてきたのは郭泰洵《かくたいじゅん》だ。彼も真牛を見るや「この守銭奴め!」と面罵《めんば》する始末だ。真牛が行った時業務のせいで郭泰洵の信用も揺らいでいた。
「真牛、おまえは何故そんなに嫌われ者なんだ……」
津波古は真牛の代わりに泣いてやった。元々、人と信頼関係を結ぶ必要がなかった真牛は、好かれることにも興味がなかった。
真牛が仕えるのは王と神のみである。臣下や民に意思が備わっているとは考えたこともない。聞得大君らしく生きるために、聞得大君になるために真牛の人生はあった。
しかし、たとえ真牛が王国の全ての人間から嫌われたとしても、津波古は真牛を見捨てない。いや真牛の良さをわかっていないだけだと思う。真牛の何がよいのかと尋ねられたら津波古はこう答える。
「生きることに貪欲な女だ」と。
その真牛が生きることもままならない。意識は夢の中を彷徨《さまよ》い、身体の動かし方すら忘れてしまった。そんな女に成り下がっても津波古は真牛を愛おしいと思う。津波古は毎日、毎日遊郭を訪れては真牛の髪を梳《す》き、体を拭き、食事を与え、品位ある姿に保ってやった。蓄えた財が尽きる最後の一日まで津波古は真牛に尽くすつもりだった。
遊郭の窓からふたりで月を眺める。津波古は哀しみよりも深い満足を覚えていた。
「真牛、お月様がきれいだぞ……」
「しゅりてんがなしと……ずっといっしょ……」
肩を抱かれた真牛は心なしか安堵《あんど》しているように見える。津波古がそっと真牛の瞼《まぶた》を閉じてやると、やがて真牛は子どものように静かに寝息を立てた。
たのむ方ないらぬ花の身よやれば
夜夜に落ちてかはる露ど吸ゆる
(よるべない遊女のおまえは、夜ごとにおき変わる露を受けて咲く花のように、私が客として来ないと命を繋ぐこともできない)
翌一八五四年、ペリー提督は日米和親条約を締結した。この報せは即座に王宮に伝わり、未曾有《みぞう》の渦に巻き込まれた。日本に厄介払いしたとはいえ、あまりにも早い条約締結だった。琉球で思ったほどの成果をあげられなかったペリー提督はかなり強硬なことをしたようだ。しかし琉球にとって日本は依然として影響力の大きな国だ。日本の激震は津波となって必ずや琉球を襲うと予想された。来る津波の第一波に備えるために、緊急の会議が評定所で開かれた。
「ペリー提督め。本当に日本を開国してしまうとは」
「日米和親条約は何を締結したのだ。孫親方、調べはついたか?」
「はい。御仮屋《ウカリヤ》からの情報によると下田と箱館が開港させられました。これで那覇港の重要度が相対的に下がります。居留地も下田に作られます。米国は日本を中心に太平洋航路を確保しました。私の思惑通りです」
「琉米修好条約は日米和親条約に準じるのか?」
「いいえ。その必要はありません。居留地も商館も諦めてもらいます。ただし米国の要求をある程度汲み入れなければならないでしょう。自由貿易に関する条項はどうしても譲れないと主張するかもしれません」
朝薫がその意見に反対した。
「米国と自由貿易をすれば清国との冊封体制に矛盾が生じる。絶対に受け入れられない」
「こういうときのために大国を使うのです。咸豊帝《かんぽうてい》と島津|斉彬《なりあきら》殿に抗議してもらいます。彼らの体面が保てれば自由貿易はそれほど悪いことではありません。王府としても清国でも薩摩でも排除できないなら仕方がないと言い訳できます。肝要なのは米国人に足場を与えないことです。条約の防衛線は居留地問題に絞られます」
「寧温にそれができるのかい?」
「私はこの日のために赦された身です。できないという選択肢は初めからありません」
三司官も全ての責任を寧温が引き受けるという言葉に納得した。
「それでこそ孫親方だ。日帳主取に任命したのも全てはこの日のためだ。役に立たなければまた八重山に流してやるぞ」
「命に懸けてペリー提督と交渉いたします……」
嗣勇から御内原へ戻れと合図が入る。会議の合間に抜け出して暗シン御門に走る。クランク状の回廊を走り抜ける間に真鶴に戻った。
「真美那さんお呼びでしょうか?」
「さっきからどこに行ってたの?」
「寄満《ユインチ》で薬膳の研究をしておりました」
真美那は何か解《げ》せない様子だ。朝薫たちが活発に動くと真鶴の行方がわからなくなる。御内原のどこかにいると奥書院奉行筆者は答えるが、妙なのは答えが既に用意されたように明快だからだ。普通は三度に一度は「わからない」と言うものだ。たとえば思戸がどこに行ったか尋ねたら三度のうち三度は「わからない」と答える。闘鶏に狂っている思戸はたいてい継世門《けいせいもん》の門番と賭けの打ち合わせをしているものだ。真鶴の行動は不審なのに、行き先だけが明らかだ。秘密だらけの御内原に秘密がない女がいるのはおかしい。
「御用というのは何でしょう?」
「孫親方を呼んできて」
「孫親方は多忙なお方です。妄《みだ》りに御内原に招くのはご迷惑かと思います」
「その台詞は孫親方から聞くわ」
真鶴は渋々従って、寧温に着替えて現れた。
「あごむしられ様、お呼びでしょうか?」
真美那は寧温が現れると声が高くなる。新作菓子を用意して接待攻勢に出た。
「最近、御内原に来ないので寂しくしてたのよ。お忙しいのはわかるけれど、是非|寛《くつろ》ぐつもりで寄ってください」
「あごむしられ様のお心遣い大変ありがたく存じます」
「ところで真鶴さんと会ったんでしょう? どうして来ないのかしら?」
「あの……。私は真鶴様のご気性の強さが少々苦手でして……」
「あら? すごくいい人よ。親友のことをそんなふうに言われたら困っちゃう」
真美那の天真爛漫《てんしんらんまん》さには裏がない。それだけに騙《だま》している罪悪感が寧温に生じる。できれば寧温の姿で真美那に会いたくないのが本音だった。
「ペリー提督がもうすぐ江戸から戻って来ます。実はそのことでこれから喜舎場《きしゃば》親方と重要な会議を控えております」
「あら、お引き留めしてごめんなさい。私も男だったら王府のために働きたかったわ」
「何を仰いますか。あごむしられ様は立派に公務を果たされたではありませんか」
「子どもを産むだけが私の価値じゃないわ」
真美那が急に剥《むく》れる。そう、女は我慢しなければならない。真美那がどんなに頭が良くてもその才能を認める者はいない。真美那の評価は表層だけのものだ。だから気晴らしに菓子を焼いたり機を織ったりする。
寧温はその苦悩から解き放たれているだけ幸福だと思った。二重生活は想像を絶する緊張感だが、能力を発揮できることは生きる喜びでもあった。
「孫親方が忙しいなら仕方ないわ。真鶴さんとお喋りして時間を潰すことにします」
「真鶴様は大美御殿にうみないび様のお誕生祝いの打ち合わせに出ると仰ってました」
真美那が首を傾《かし》げる。きっとそういう答えが返ってくると無意識に予想していた。自分は真鶴の消息を知らないのに、いつも他人は知っている。親友なのに面白くない。
――真鶴さんに何か不都合なことが起きているのかしら?
*
そしてペリー提督が江戸湾から戻ってきた。目的の大半を果たしたペリー提督は上機嫌だ。最後に約束の琉米修好条約を締結すれば、遠征の目的は全て完了する。
エピローグは琉球で締め括る。冗長すぎずに簡潔に終えたかった。
ペリー提督が琉球に戻ってきたときに忌まわしい事件が起きた。第一報に寧温が戦《おのの》く。
「米国人水兵を殺したですって!」
大与座《おおくみざ》の大親《ウフヤ》が事件のあらましを説明してくれた。
「孫親方、これには事情があるのです。水兵数人が無断で上陸して民家に押し入り老女を暴行したというのです。義侠心《ぎきょうしん》にかられた者が報復として水兵ひとりを殺害したのでございます」
「だから殺されても仕方がないと?」
「そうは申しておりません。ペリー提督は犯人の身柄を引き渡せと要求しております。ですが事情が事情だけに応じるわけにはいきません」
「それはなぜですか? 米国の要求は真っ当なものです」
条約締結前に米国人を殺したとあって王府は戦いた。この事件をどう扱うのか、ひとつ対応を間違えればペリー提督を怒らせてしまいかねない。
寧温は琉球の法律によって処罰することを主張した。
「三司官殿、殺人に荷担した男たちを捕らえてください」
「米国人は婦女暴行したのだぞ。正当防衛ではないのか?」
「暴行犯を処罰するのは平等所《ひらじょ》の仕事です。彼らが代理に制裁するなんて法を無視しています」
「心情的には酌量《しゃくりょう》してやりたいのだが……」
「米国人を殺したのは事実です。隠蔽《いんぺい》すると王府の体質が疑われます」
「貴様はペリー提督に媚《こ》びを売るつもりか!」
三司官が一喝する。だが寧温は頑として主張を曲げなかった。
「滅相《めっそう》もない。法の精神を示すことが条約締結の基本になるからです。日米和親条約には米国の一方的な主張が盛り込まれました。それは日本が法の精神を示さなかったからです。米国と同じように我が国にも法はあります。もし遵法《じゅんぽう》精神を示さなければ法律以外の方法で条約を結ばれてしまうでしょう。米国人だから、暴行犯だから殺されても仕方がないという情緒的な法律しか示せないなら、我が国は米国に劣っていると思われるだけです。条約締結の前提になるのは共通の法を持つ国同士であるということです」
寧温の主張通り、琉球人の犯人六人が捕らえられた。身柄の引き受けは米国に任せることにした。旗艦をミシシッピー号に替えて戻ってきたペリー提督は殺人犯を差し出されて戸惑うばかりだ。
「サー・ネイオン。このたびの事件を大変|遺憾《いかん》に思う」
「申し訳ございません。事件のあらましは貴艦の水兵が起こした婦女暴行事件でございます。義侠心にかられ報復したとはいえ殺害したことは事実でございます。この六人の身柄を直ちに米国に引き渡します」
ペリー提督は同胞を売るような寧温の行為を不思議に感じた。米国の法律で裁けば彼らは極刑に処せられるだろう。身柄を引き渡す意図が不明だった。
「なぜ彼らの言い分を弁護しないのだ?」
「はい。我が国は情緒で生きているのではありません。人を殺せば例外なく裁判にかけ、その内容によって判決が下されます。私は米国で彼らが裁かれるとき、内容を汲み取られると信じております。彼らの主張は米国でも我が国でも同様に認めてもらえるはずです」
「米国の裁判所が彼らを死刑にしたらどうする?」
「それは米国が情緒で生きる国だという証明になります。そういう国と条約を結ぶ意義があるでしょうか?」
ペリー提督は一本取られたと快活に笑った。甲板《かんぱん》に吹く風が心地好く思える。幕府との交渉にこんな爽快感はなかった。
「サー・ネイオン。貴殿は素晴らしい外交官だ。犯人の処罰は琉球に任せよう。その代わり暴行に加わった水兵は軍事裁判にかける。米国において婦女暴行罪は決して軽くない。貴国の民を傷つけたことを深くお詫び申し上げる」
「ペリー提督のご配慮、ありがたく頂戴いたします」
寧温は犯人たちを引き連れて下船した。これで法律の共通基盤を確定した。お互いに情緒に傾かず冷静に話し合える。速やかに条約の策定が行われる。
ミシシッピー号上において駒を使わないチェスが始まった。紅茶の香りが立ち上る提督室は互いの頭脳がぶつかる最前線だ。
「約束通り、居留地を泊村に作ってもらう」
「米国の居留地は既に下田にあるはずです。米国の商船の規模だと下田だけで十分に活動できると思われます」
「それは約束違反ではないのか?」
「もし日本に居留地を獲得できなければ泊村を提供したでしょう。しかし提督は居留地を得ました。本質は太平洋に居留地を確保すること。この成果の有無が問題なのではないでしょうか?」
寧温の言う通り二つの居留地は運営コストがかかりすぎるし、情報も戦力も分散してしまう。今の米国の国力からすれば過剰な投資だった。
「まさか約束の全てを反故にするつもりではないだろうな?」
「約束通り泊村に石炭貯蔵施設を建造いたしました。是非ご利用ください」
「その土地を米国が買い上げたい」
「それは不可能です。既に出来上がった施設を売却することはできません」
「地上要員の生活を保証する約束だったが?」
ペリー提督は旗色が悪くなる前に一気に条約を策定したかった。この宦官を甘く見ると盤上の彼方からチェックメイトが飛んでくる。
「下田の要員を分散すると経費がかかります。こちらがその試算書です。是非議会にお通しください」
「商館はあるのだろうな?」
「聖現寺《せいげんじ》を商館として使う場合、敷地外に出ることは許可いたしません。なぜなら泊村は居留地ではないからです。いちいち王府に申請書が必要になります。我が国の法律ですと申請から許可まで十日かかります」
「そんな不便な商館などいるか!」
「では文言を整理しましょう」
寧温が漢文で第一条を書き上げた。
[#ここから1字下げ]
一、此後、合衆國人民、到琉球、須要以禮厚
待和睦相交。其國人要買求物雖官雖民、
亦能以所有之物而賣之、官員無得設例阻
禁百姓。凡一支一收、須要兩邊公平相換。
[#ここで字下げ終わり]
「これは何と記したのだ?」
寧温が机にあったペンで訳文を書き上げ、流暢《りゅうちょう》な発音で読み上げた。
Hereafter, whenever citizens of the United States come to Lew Chew, they shall be treated with great courtesy and friendship. Whatever articles these per-sons ask for, whether from the officers or people, which the country can fur-nish, shall be sold to them ; nor shall the authorities interpose any prohibitory regulations to the people selling ; and whatever either party may wish to buy shall be exchanged at reasonable price.
[今後、合衆国市民、琉球に来たるときは常に彼らを多大なる好意と友誼《ゆうぎ》を以て遇するべし。米国人、役人、民間人に拘《かかわ》らず、彼らが要求し、琉球国が供給し得るものは全て、これを販売するべし。また当局は、民間人が物を売ることに対し、何ら禁止事項を設けないこと。双方において買いたいと欲するものは何であれ、適正価格を以て交換すべし]
これが琉米修好条約の第一条となる自由貿易に関する協定だ。ペリー提督は第一文に自由貿易を盛り込めてまずまずの出だしに手応えを感じた。寧温のクイーンズ・イングリッシュは彼の自尊心を満足させてくれた。
次に盛り込まれたのは物資の供給、遭難民の保護、検閲尾行の禁止、外人墓地の維持、水先案内人の派遣、物資の為替レート、である。全て条約締結前に琉球側が既に行っていたことばかりだ。第一条以外は有名無実の文言ばかりだ。一条、一条、確定するたびにペリー提督の神経が苛立ってきた。条約には居留地も商館も地上要員の施設も何も盛り込まれることはなかった。これでは日米和親条約の方がずっと効力がある。
「サー・ネイオン。日本はもっと友好的だったぞ」
「我が国も最大級の好意を示しております」
「最恵国待遇を盛り込んでもらおうか。日本人は喜んで結んでくれたぞ」
「読めば最恵国待遇と同じだとわかっていただけるでしょう。宗主国の清国に払っている待遇と全く同じものです。これ以上の待遇は我が国の法律上考えられません。我が国も心情的には米国にこれ以上の礼を以て臨みたいのですが、情緒的になることを両国の法が阻《はば》んでおります」
ペリー提督は露骨な不快感を示したが、清国との冊封で結んだ条文と比べさせられて、ぐうの音《ね》も出ない。寧温は琉球の様式ではこれ以上の文言は却って米国の品位を損ねることになると押し切った。
寧温は最後のペリー提督の名前を記すときに真新しい筆を用意して、そこだけ慎重に筆を運んだ。
[#ここから1字下げ]
合衆國全權欽差大臣兼水師提督被理。以洋書漢書立字。
[#ここで字下げ終わり]
そして筆の墨汁を拭き取ると蒔絵《まきえ》の文箱に収めペリー提督に渡した。
「そういう風習がこの国にあるのか?」
「いいえ。私たちの友情を認めた記念にどうぞ個人的にお納めください。また王府から米国への土産品として鐘を用意いたしました。大統領閣下へお渡しください」
ペリー提督が文箱を受け取った瞬間、琉米修好条約が締結した。一八五四年七月十一日のことである。
しかし同席していた高級将校たちはこの文言が琉球に圧倒的に有利であることに憤《いきどお》りを覚えた。米国に有利だと思われた交渉は王府から派遣された宦官によって、抽象的な条約に変えられてしまった。
――よかった。これで琉球の主権は守られた。寧温、上手くやったね。
王宮に評定所筆者として上がったときの戴帽式のことを思い出す。尚育王から『どの国とも衝突することなく、相手国の尊厳を保ち、且つ常に琉球の優位を貫き通せ。これが評定所筆者の使命である』と訓辞を受け取った。あの日の決意を成し遂げた気がする。
「父上、私がこの世に生を享《う》けた理由はこの日のためにあったのかもしれません」
琉球のような小国が米国有利の条約を結んだら半年で沈んでしまう。それを阻止した自分が信じられないけれど、少し誇りでもある。脳裏に浮かぶのは恩人の姿である。
「麻先生、もうお亡くなりになってしまったけれど、私の罪を許してくださいますか?」
破天塾の精神で臨んだ交渉を麻は後生《グソー》(あの世)で見届けてくれただろうか。寧温は下船するまでは泣かないと涙を堪《こら》えた。
「麻先生、私は科試の精神を貫きました……」
そのときだった。甲板を歩いていく寧温にミシシッピー号の艦長が「やれ」と命じた。屈強な水兵たちに囲まれた寧温は麻袋を被せられてしまったではないか。
「おまえのせいでデタラメな条約を結ばされてしまった。提督がお許しになっても俺たちは許さないぞ」
「何をするのですか。この狼藉《ろうぜき》は提督の意志に反するものです」
「このペテン師め。おまえを米国の法廷で裁いてやる」
寧温は穀物倉庫のある船底に閉じ込められてしまった。袋から出された寧温にはミシシッピー号の構造はわからない。このまま米国まで連れ去られたら王宮に条約を持ち帰れない。
「出してください。出してください。どうしよう。まさか拉致《らち》されるなんて……」
寧温は船倉の中で必死に脱出方法を考える。船倉の片隅に水兵が土産物として買った紅型を見つけた。どれくらい経っただろうか。看守の水兵が静かになった船倉を覗きに来た。
“Oh my God !”
船倉に閉じ込めた役人は消え失せ、代わりにいたのは威厳のある貴婦人だった。看守は薄明かりのせいで見間違いをしているのかと何度も目を擦《こす》る。しかし見れば見るほど鼓動が高鳴る。ミシシッピー号の女神と遭遇したのではないかとパニック状態に陥った。
真鶴が宙を滑るような足取りで看守に近づいていく。
「ここから出してください」
聖母のような瞳に見つめられて看守の良心が痛む。ペリー提督は婦女暴行事件で激怒し、綱紀粛正を徹底していた。これでまた琉球の女を拉致したと知れたら銃殺されてしまう。看守は秘かに真鶴を船倉から出した。
「いけない、もうすぐ申の刻だ」
ミシシッピー号で門限を迎えた真鶴は甲板をひた走った。那覇港は鮮烈な夕日に照らされて王宮の紅《くれない》に染まっている。エメラルドグリーンの珊瑚礁《さんごしょう》でさえ、赤々と光を弾《はじ》いていた。
甲板での騒ぎを聞きつけたペリー提督が何事かと表に出る。そのときペリー提督の青い瞳に紗《しゃ》を靡《なび》かせる高貴な女性のシルエットが飛び込んできた。舳先《へさき》に立った貴婦人が夕日を背後にこちらを振り返る。その幻想的な光景にペリー提督は息を呑んだ。
「奇蹟が起きているのか……!?」
那覇港の雄大な景色の中に降臨した女神としか思えない。風まで紅に染められ頭上に靡く紗が炎の揺らめきに映る。次第に夕日に溶けていく女は、ペリー提督に微笑《ほほえ》むと一篇の琉歌を手向《たむ》けた。
風の声たぼれ西《イリ》の太陽《てだ》拝め
立ちすゆる今や夢やあらに
(風の声を聞きなさい。沈み行く夕日をご覧なさい。今私たちがいる場所が束の間の夢のようではありませんか)
翌日、王宮で正式な琉米修好条約の調印式が行われた。米国側の通訳として招かれたのはベッテルハイムである。今まで存在しないかのように扱われてきたベッテルハイムは、王宮に正式に招かれて有頂天だった。
「ついに私の苦労も報われる日が来たのだ。琉米修好条約には信仰の自由も盛り込んでもらおう」
正装したベッテルハイムが昨日、寧温とペリーが合意した条約を読み上げる。
[#ここから2字下げ]
一 合衆國船、倫或被風颶漂、壤船
於琉球或琉球之屬洲、
倶要地方官遣人救命救貨、
至岸保護相安、俟該國船
到以人貨附−還之。而難人之費用
幾何、亦能向該國船取、還於琉球。
[#ここで字下げ終わり]
「米国船が琉球国または周辺地域で遭難したときには、役人を派遣し人命救助に尽くすこと――」
ベッテルハイムが次の文章を訳そうとしたときだ。条約締結の条件の一文に「伯徳令《ベッテルハイム》」という文字を見つけて小首を傾げた。
「ベッテルハイムを琉球から連れ帰ること――。なんだと! こんな条件があるかっ!」
朝薫はこれで厄介払いができたと涼しい顔だ。
「ベッテルハイムの琉球での非行は目に余る。ペリー提督と一緒に帰ってもらう」
「いやだ。私はまだ信者を獲得していないのだ。琉球を基督《キリスト》教国にするまでは絶対に帰らんぞ」
ペリー提督が一喝する。
「おまえもサスケハナ号に乗るのだ。条約締結に不可欠な条件だ」
「ひどい。私はただ神の教えを広めようとしただけなのに……」
「後任の宣教師がおまえの意志を引き継ぐことになるだろう」
それを聞いた朝薫は目眩を覚えた。
「また宣教師が来るのか……」
こうしてベッテルハイムは不法滞在記録を更新して琉球を去った。イリノイ州に居を構えたベッテルハイムは米国籍を取得し、その後|勃発《ぼっぱつ》する南北戦争に北軍の軍医として従軍した。
*
琉米修好条約を締結した王府に一年越しの安堵が訪れた。孫寧温は王から褒美を賜り、また出世の道を歩み始めた。日本よりも有利な条約を結んだ寧温に異議を唱える者はもういない。那覇港を埋め尽くしていた大艦隊が姿を消し、その光景も日に日に記憶の中に埋もれていった。
寧温の出勤はやはり暗シン御門から始まる。まだ誰も起きない未明、寧温は人目を忍んで秘密の通路を通り抜ける。そして夕方には真鶴になって御内原に帰ってくるのにも慣れてきた。
嗣勇はこういうときが一番危ないんだと真鶴を諫《いさ》める。日によって何度も宦官と側室を繰り返す綱渡りに油断は禁物だ。
「今日は早く帰れるかも……」
と暗シン御門を潜った後に、人影が差す。不審に思っていた真美那が秘かに後を尾けていた。
「真鶴さんは、どこに外出する気なのかしら?」
母になっても好奇心旺盛な真美那は暗シン御門の前で小首を傾げた。すかさず門番が両手を広げて真美那の前に立ちはだかる。
「あごむしられ様いけません。この門は王族が使う門ではございません。向こう側は女人禁制でございます」
「今、真鶴さんが入ったような気がしたんだけど……」
「真鶴様は美福門の方へ向かわれました」
ふ〜んと真美那は黄金御殿に入った。何か上手くあしらわれた気がするが、暗シン御門を通り抜けるほど真美那はバカではない。表世界に出たければ空中回廊から出るまでだった。正殿の二階から御庭を眺めていると寧温が出勤した光景に出くわした。
「きゃ〜。孫親方〜っ」
と黄色い声で手を振ると寧温も気づいて、お辞儀をしてくれた。真美那は話し相手がいなくて退屈だった。
「なんかつまんな〜い」
その日の午後だ。寧温は琉米修好条約の写しを持ってくるように尚泰王から命令を受けた。どういう条約内容なのか解説してほしいのだそうだ。尚泰王は別邸の識名園《しきなえん》で休暇中だった。
「首里天加那志がお呼びだ。識名園でお待ちであるぞ」
「わかりました。すぐに参ります」
そのとき、嗣勇が大慌てで寧温の腕を引っ張った。
「すぐに黄金御殿へ来てくれ。王妃様がお呼びだ」
「ええ! だって今から私は識名園に……」
「女子王族は全員集まって茶会だそうだ。まだ来てないのは真鶴だけだよ」
王妃主催の茶会を欠席すると御内原から孤立する。ついにこのときがやって来た、寧温の心臓が猛烈に高鳴った。
「兄上、私はどっちに行けばいいの――?」
台風一過の青空の下、王と王妃が離れた場所から同時に寧温と真鶴を呼び出した。
[#改ページ]
第十五章 巡りゆく季節
王宮は台風の目の中の静けさに満ちていた。
やがて吹き返しの逆風が訪れる刹那《せつな》の静寂は、逃げるには充分だが、考えをまとめるにはやや短すぎる。王と王妃に同時に呼びつけられた寧温《ねいおん》は、咄嗟に暗《クラ》シン御門《ウジョウ》に向かった。
「真鶴《まづる》に戻らなくちゃ」
王妃主催の茶会に出た場合、茶会だけでは終わらない。茶会は王国の最新の教養を嗜《たしな》む場で、歌を詠《よ》み、新作の舞踊を鑑賞し、創作料理を味わい、流行の着物や工芸品に目を通す。これらのものを王宮の美の世界に取り入れてよいかどうかを吟味する審査の場でもある。この茶会の審査を通らなければ、様式は生まれない。伝統と格式を重んじながらも常に最先端の美に敏感であることが、御内原《ウーチバラ》の女たちの義務だった。一通りの審査が終わるのは申《さる》の刻を過ぎるのが定番で、途中退席は許されない。真鶴になったら終日、外出することは不可能だった。
「首里天加那志《しゅりてんがなし》の謁見を早めに終わらせられないだろうか?」
識名園《しきなえん》に呼ばれたということは、特別な意味を持つ。即ち王宮では話せない極秘の話があると暗に示したのだ。王宮は目と耳が多すぎてどんなに注意を払っても誰かが話を聞いているものだ。それが王の言葉なら尚更だ。王が別邸で休暇を取るときは、政局が動くときだ。派閥のバイアスを受けずに冷静な判断を求められる王は、識名園で最終意志決定をするものだった。ここに呼ばれる臣下こそ、最も信頼の厚い役人であると、誰もが知っている。
尚泰王《しょうたいおう》は三司官《さんしかん》でもなく、摂政《せっせい》でもなく、朝薫《ちょうくん》でもなく、流刑《るけい》地から帰ってきた寧温を呼びつけた。寧温を選ぶことで薩摩派と清《しん》国派に一定の距離を取りたいという意志の表れだった。尚泰王はこれから琉球をどう舵取《かじと》りすればよいのか寧温に意見を仰ぐだろう。謁見が終わるのは早くても夜だ。
「兄上、私はどちらを選べばよいのですか? 寧温でしょうか? 真鶴でしょうか?」
「そんなのわかんないよ。王妃様の茶会を欠席したら、御内原の全てを敵に回すぞ」
ただでさえ好戦的な女たちに喧嘩の口実を与えるようなものだと嗣勇《しゆう》は窘《たしな》める。真鶴がよく外出するのを王族たちは決して好意的に思っていない。もし出席しなければ、茶会が欠席裁判の場になるのは目に見えていた。
「真鶴になって茶会に出るんだ。寧温になるのは後からでいい」
「いいえ兄上、首里天加那志は重要な決意をするために私をお呼びになられました。無視したら何のために寧温を復活させたのか意味がなくなります」
「だからこんな危ない綱渡りは嫌だったんだよ。いつかこんなことが起きるんじゃないかと思ってたよ」
どちらかを選べば真鶴か寧温が破滅を迎える。しかし寧温はこう考えた。自分はどう生きたいのか問われたのだと。御内原で贅《ぜい》の限りを尽くして生きるのか。それは即ち無知を装い、理性のない、感情的な人間として生きることである。ただ子宮を効率的に運用するための人格しか認めてもらえない。その代わりに衣食住の保護を受けられる。意志のない女なら、当然の権利と甘受しただろう。だが真鶴には男を凌駕《りょうが》する強靭《きょうじん》な意志があった。
「兄上、私は表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》・日帳主取《ひちょうぬしどり》の孫《そん》寧温です。この姿が本当の私なのです」
「うわ。言うと思ったよ」
「私は父上との約束で宦官《かんがん》になる道を選びました。そのときから孫寧温は私の人生なのです」
嗣勇も妹があごむしられ(側室)として御内原にいる姿に違和感を持っていた。妹が美しい貴婦人なのは自慢だが、真鶴は表層的な美で収まる女ではない。真鶴の本質は黒髪を解いた奥にある。美しいだけの女は一時代に何人も出現するが、真鶴の知性と教養と行政能力は五百年にひとりの傑出した才能だった。真鶴は寧温でいるときしかその価値を認めてもらえなかった。嗣勇はそのことが哀しくてならない。
嗣勇は暗シン御門へ導こうとしていた寧温の袖を離した。
「真鶴……。どうしておまえは男に生まれなかったんだろう?」
「いいえ兄上、私は男です。孫寧温は王命のためにしか生きられません。王命とあらば真鶴の命は差し上げましょう」
寧温は躊躇《ためら》うことなく識名園へと駆けだした。その後ろ姿に嗣勇の胸が張り裂けそうになる。妹は意志の力を駆使する道を選んだ。寧温として勤めを果たした後には御内原の厳しい裁きが待っていることを承知した上で。嗣勇は一篇の琉歌《りゅうか》を口ずさんでいた。
この哀れしちど渡ゆかや浮世
またもくり戻ち見だぬ世界に
(なぜおまえはこのような苦しい哀れな境遇で浮世を渡っていかねばならないのか。たった一度だけの人生なのに)
同じ頃、御内原では王妃主催の茶会が開かれようとしていた。王室と縁のある按司《あじ》筋の婦人や外戚を招いた茶会は、女の繁栄を謳歌しながらも序列を決定する猿山の儀式だ。最新のファッションに身を包んだ婦人たちは、家の裕福さと美意識の高さを無言で競い合う。流行遅れは脱落者とみなされ次の茶会に呼ばれることはない。
「あごむしられ様、そろそろ黄金御殿《クガニウドゥン》にお出かけください」
真美那《まみな》はとっくに準備ができていたのに、真鶴の行方が知れないのを気にしていた。誰かが真鶴に茶会のことを告げなかったらしい。こういうこともあろうかと、衣装も簪《かんざし》も真鶴の分まで用意しておいたのに肝心の真鶴が御内原にいなかった。
「真鶴さんはどこに行ったの?」
真美那が問うても女官たちは知らないと首を横に振る。女官たちも茶会の準備に追われて真鶴の行方など気にしていられなかった。こんなことなら昨夜のうちに茶会があることを確認しておけばよかったと真美那は焦っていた。
「あごむしられ様、王妃様がお呼びでございます」
「待って。待ってちょうだい。やっぱりこの衣装はよすわ。国母様と菖蒲《あやめ》の柄が重なるもの。着替えるからお待ち下さるように伝えてちょうだい」
「さっきは聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》の柄と重なるから、これでいいと仰《おっしゃ》ったのに……」
女官が渋々新しい紅型《びんがた》を用意する。これでもう五回目の衣装合わせだ。真美那の部屋は極彩色の打ち掛けで足の踏み場もない。真美那の衣装持ちは御内原の語り種《ぐさ》だ。一度袖を通した着物は二度と着ない主義の真美那にとって打ち掛けは消耗品である。いつしか職人たちも最高級の品を真美那に納めることを喜びとしていた。真美那のセンスに適《かな》ったものだけが手元に残り、それ以外は他の王族に流れる構図ができている。
「真鶴さんどこに行ったの? 茶会に欠席したら殺されるのに……。あの人たちは野蛮人なのよ。人非人《にんぴにん》なのよ。下司《げす》なのよ。極道なのよ。お化粧した肉食獣なのよ!」
「あごむしられ様、随分なお言葉ではございませぬか」
振り返ると聞得大君が神扇を悠然と煽《あお》いで現れたではないか。しめたとばかりに真美那が場外乱闘戦に持ち込んだ。
「その衣装、どこかで見たことがあるわね」
「何を仰る。この日のために妾《わらわ》が新調した打ち掛けであるぞ。この牡丹《ぼたん》の染めを見るがよい」
真美那が型紙の図案を聞得大君の前に突きつけた。そこに描かれていたのは聞得大君の打ち掛けとそっくりな文様だった。
「それ私が前にボツにした図案なんだけど、聞得大君加那志にはよくお似合いですこと。おほほほほ」
聞得大君の顔が怒りで真っ赤になる。
「あの職人め。妾に真美那の型落ちを売りつけたのか!」
王族の紅型は特注品だ。同じ柄が複製されないように染めた後は型を焼却処分するものと決まっていた。だが職人はあまりにも見事な真美那の図案を聞得大君に流用したようだ。
「牡丹の染めが気に入らなかったのよね。牡丹はこうでなくちゃ」
真美那が羽織った打ち掛けに聞得大君がたじろぐ。一点の濁りもない紅色はこれまでにない鮮烈な発色だ。真美那が色指定して、紅に金を混ぜさせた最新の技法である。
「わ、妾も着替えるぞ……」
聞得大君が慌てて御内原から退却する。これでしばらくは時間が稼げたと真美那はほっとした。
「これは真鶴さんに着てほしかったんだけどな……」
しかしどんなに待っても真鶴が帰ってくる気配はない。紅型では敵《かな》わないと思った聞得大君は清国製の旗袍《チーパオ》を着てきた。所謂《いわゆる》チャイナドレスの原型となる民族衣装だ。総|刺繍《ししゅう》を施された旗袍は愛新覚羅《あいしんかくら》家の皇族のような迫力だ。
「ほんの普段着じゃ。ほほほほほ」
茶会のドレスコードが定まらないのは、こうやって新基軸を持ち込むからで、豪奢なほど珍重される傾向にある。定刻から大幅に遅れて茶会が始まろうとしていた。
「これより茶会を始める。女子王族は茶道具を持ち黄金御殿へ入りなさい」
真鶴以外の女子は全て揃っている。衣装も簪も房指輪も全てこの日のために用意した一級品ばかりだ。その豪勢な出で立ちにあがまたちも息を呑む。
「これで性格さえよければ女の鑑《かがみ》になれるのに。アガーッ(痛い)。女官|大勢頭部《おおせどべ》様お許しくださーい」
「余計なことを言うんじゃないよ。この身分の方を怒らせたらとても庇《かば》えないからね」
国母が真鶴の不在に気がついた。
「もう一人のあごむしられが見えないようですが」
「何と礼儀知らずな。きちんと連絡はしたのですか?」
「あの。真鶴さんは私の茶道具を取りに行っております」
「真美那の使いなら女官を出せばよいではないの」
「えっと。大切な茶道具なので、真鶴さんにお願いしました」
「最近、真鶴は御内原にいないようですが、まさか不在では?」
「いいえ。さっきまで私と一緒でした」
「もし来なければ、王妃様を侮辱したことになるのですよ」
さっそく王族たちが餌《えさ》に飛びついた。
「そのときは身分を剥奪《はくだつ》いたしましょう。八重山《やえやま》に帰します」
「まるで流刑じゃな。ほほほほほ」
それを聞いた嗣勇がぎょっとした。寧温が八重山から戻ってきたというのに、真鶴は八重山に戻されてしまう。そうなると寧温も王宮にいられなくなる。
――真鶴、識名園から戻って来い。おまえは選択を間違えたよ。
地獄の沙汰よりも恐い御内原名物の欠席裁判が開かれようとしていた。
沸騰寸前の御内原とはよそに、識名園は極楽浄土の庭園美を讃えていた。回遊式庭園は俗世の喧噪から隔絶された空間だ。哲学を巡らせながら散策する遊歩道は一本の真理の道筋を提示してくれる。
識名園を訪れた寧温は心の中に王妃を裏切った罪悪感を隠しながら、尚泰王の前に跪《ひざまず》いた。
「首里天加那志、お呼びでしょうか?」
識名園は寧温にとって運命の糸が絡む場だ。以前来たのは阿片《あへん》事件の陰謀で左遷されたときだった。そのときの王、尚育《しょういく》は密命を授けるために識名園に寧温を呼び寄せた。そして新王の尚泰も政局を動かすときに識名園を使うことを覚えた。
「孫親方、琉米修好条約の一件、まことに見事であった。余は恩赦《おんしゃ》を与えた以上の成果に満足しておる」
思春期の階段を上っていく尚泰王には焦りが見られる。自分の成長よりも世界情勢の変化の方が早足だ。早く大人になって国を護《まも》りたいのに、自分の未成熟が恨めしい。体は日々立派になっていくのに、国は激動の渦のまっただ中だ。もし老王なら人生を重ねて憂《うれ》えただろう。だが少年王はこの渦の先に必ずや明るい未来が待っていると信じたかった。
「孫親方がペリー提督を江戸に追い払ったせいで、日本が開国させられた。この事態をどう読む?」
「ペリー提督の目的は日本開国か琉球植民地化のどちらかでした。もし私が江戸城の役人なら、琉球を売り渡す条約を結んだでしょう。そうしなかったのは、幕府に外交能力がない証拠です」
「日本はもう危険な国ではないということか?」
「いいえ首里天加那志。前よりも危険な国になりました。これは私の予想外のことでもあります」
「日本が開国すると列強に目が向くだろう。琉球への関心は衰えると考えるのが道理ではないのか?」
「違います首里天加那志。我が国は日本開国で得をした国でしたが、もっと得をした国があるのです」
寧温は琉米修好条約の写しを開いて王へ解説する。
「このように琉米修好条約は日米和親条約に比べて文言が曖昧《あいまい》です。この点において琉球は米国に勝利したとみなして良いでしょう。しかし第三国にとってこの曖昧さは付け入る余地があります」
「その第三国とは何処だ?」
寧温が一呼吸置いて、王の目を見つめた。
「薩摩藩でございます! 王府は薩摩の介入に警戒するべきです」
尚泰王は流刑地から戻ってきたばかりの寧温が既に王府内部の陰謀を嗅ぎつけていることに驚いた。
「そのことでそなたを識名園に呼んだ。実は薩摩派の役人が余に隠れて妙な動きをしておる。薩摩が何をしようとしているのか見当がつくか?」
「はい首里天加那志。恐らく琉米修好条約の自由貿易協定を使って列強と接触させるつもりでしょう。日米和親条約では大砲を買うのに、幕府の許可がいります。しかし琉米修好条約を使えば幕府の許可なしに藩の裁量で新型の大砲を購入できるのです。島津|斉彬《なりあきら》殿は幕府の体制を維持するために意思決定の速さを重んじております。何をするか予想もつきません」
「王宮は薩摩の陰謀が渦巻いていて、迂闊《うかつ》に話もできん。何か大きな事が起こりそうな予感がする。余は孫親方しか信頼できぬ。余は王宮が怖い。この国の未来が怖い」
「私は流刑地から戻された身。首里天加那志ただおひとりにしかお仕えいたしません」
「今の余の力では政局の全てを動かすのは難しい。孫親方に陰謀を阻止してほしい」
「御意《ぎょい》。首里天加那志。私は以前、先王様からもここ識名園で糺明奉行《きゅうめいぶぎょう》の任命を受けました。首里天加那志のご慧眼《けいがん》は先王様譲りでございます。私が陰謀を阻止いたします」
王命ひとつで火の中に飛び込むのが孫寧温という役人だ。寧温は生きている限り、王に仕えると決意を新たにした。
をがでのかれらぬ首里天加那志
遊でのかれらぬ識名|御殿《ウドゥン》
(国王様のお顔を拝めばいつまでもそこにいて立ち去りたくない。それに加えて景色の美しい識名園にいると、いつまでもそこにいて帰りたくなくなります)
寧温が識名園で王命を受けた頃、黄金御殿の王妃が裁決を促した。王族たちは過激な処遇を好む傾向がある。
「これより真鶴の処遇について審議いたします」
「八重山に流すのじゃ」と国母は主張する。
「人柱にして橋を架けるがよい」と聞得大君は提案する。
「出家させましょう」と国祖母は言う。
「国祖母様の薨去《こうきょ》のときに副葬品として埋葬すればよいのでは?」
「おのれ国母。あんな粗忽者《そこつもの》を私の屍《しかばね》の側に並べようとは!」
「真美那、あなたも意見を述べなさい」
「えっと。お咎《とが》め無しでよいと思います……」
「それでは面白くない。真美那の意見を却下する」
「なんでそこまで事を荒立てたいのですか?」
「退屈だからじゃ」
王族たちがうんと頷《うなず》いた。真美那の懸命の助けも多勢に無勢だ。いつ誰が牙を剥《む》くかわからないから、お互いに相手を監視しなければならないのが御内原なのに、真鶴は人の目を気にしなさすぎる。真鶴が御内原から追い出されたら唯一の心の支えがいなくなってしまう。真美那は、意を決して立ち上がった。
「私が真鶴さんを呼んで参ります。皆様はそこでお待ちを!」
ほどなくして後之御庭《クシヌウナー》で何かが砕ける音がした。続いて女官の悲鳴があがる。何事かと婦人たちが駆けつけてきた。
「真美那様の茶道具がーっ!」
泡を噴いて倒れた女官の先には、玳皮盞天目《たいひさんてんもく》茶碗の残骸が散らばっているではないか。
「玳皮盞天目茶碗が割れただと!」
国祖母と国母が砕け散った玳皮盞天目《たいひさんてんもく》茶碗の欠片《かけら》を見て卒倒してしまう。
「し、紫禁城《しきんじょう》にもない国宝が――!」
大騒ぎになっているのを見届けた真美那がまた「えい」と木箱を地面に叩きつけた。
「あら、落としちゃったわ」
陶器の砕け散った音に婦人たちが振り返ると、本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》の不二山が真っ二つに割れていた。
「と、徳川家にもない不二山が――!」
王妃がショックのあまり失神してしまった。思戸《ウミトゥ》が「金接ぎをすれば大丈夫」と拾い上げる。途端、真美那が思戸の手を払いのけた。再び地面に叩きつけられた不二山は修復不可能なほど粉々に砕け散ってしまった。
「ひいいい。真美那様ご乱心〜っ!」
思戸の精神は割れた茶碗のように崩壊していた。だが国宝を二つ割っても真美那は気が収まらない。事態を飲み込めていない聞得大君を見つけると予備の茶道具を持ち出した。
「聞得大君加那志、ちょっとこれを持ってくださらない?」
と木箱を聞得大君に渡す寸前で落とした。指先から滑り落ちた木箱に聞得大君の顔が青くなる。
「これはまさか志野茶碗・卯花墻《うのはながき》では――?」
「まあ、聞得大君加那志ともあろうお方が卯花墻を割るなんて!」
「わ、妾は何もしておらぬぞ」
「これはきっと天変地異の前触れですわね」
真美那がにっこり笑う側で、聞得大君は恐怖のあまり失禁してしまった。王妃主催の茶会で世界的な銘器が三つも続けて割れたとあって、御内原は未曾有《みぞう》のパニックに陥った。婦人たちが続々と気絶する中で茶会は中止に追い込まれた。真美那のお嬢様爆弾の炸裂《さくれつ》に奥書院奉行の男たちも震え上がる始末だ。ひとりだけケラケラ笑っている真美那に嗣勇は「漢《おとこ》だ」と呟《つぶや》く。親友の真鶴を守るために、国宝を三つも壊したのだ。こんな芸当、普通の人間には絶対に思いつかないし、思いついてもできやしない。
夜になって真鶴が暗シン御門からそっと御内原に帰ってきた。処罰は覚悟の上で戻ってきたのに様子がおかしい。女官も思戸も真鶴を見ても目に入らない様子でバタバタと駆けていく。聞けば茶会で真美那を除く王族たちが全員倒れたらしい。宮廷の侍医たちも全員駆り出されていた。
「食中毒でも起きたのかしら?」
真鶴は事の顛末《てんまつ》を真美那に尋ねた。すると真美那は明日着る着物を見比べながら、
「んー? 貧乏性の集団発作みたいよー?」
と無邪気に笑った。それからしばらくの間、御内原では「茶会」という言葉が禁句になった。
*
茶会の騒動の後、御内原は割れた茶碗の喪《も》に服しているように静かになった。真美那だけがケロリンパと御内原生活を満喫している。人目の糸が途切れているのは真鶴にとって好都合だ。識名園で王から受けた密命を果たすために、しばらくは寧温でいる時間が長くなりそうだった。
「真鶴さん、お弁当を持っていけば?」
と廚房の寄満《ユインチ》にいた真美那が螺鈿《らでん》細工の食籠《じきろう》を渡す。中は五色を尽くした豪勢な料理だ。
「なぜ私が出かけると思ったのですか?」
「真鶴さんが出かけない日なんてないじゃない?」
真美那はうっすら何かに気がついていそうだ。だが好奇心ではなく不安そうな眼差《まなざ》しだった。真美那はやがて真鶴を庇《かば》えなくなる事態が来ることを恐れていた。人はショック体験にすら慣れてしまうものだ。もう国宝の茶碗を割っても誰も驚かないだろう。御内原が火事になるか、王族の誰かが死ぬかしない限り、騒ぎを起こすことはできない。弁当を渡すのは真美那のこれ以上は庇えないという切ない気持ちからだった。
「真鶴さん、あなたが何者なのか聞かないわ。でもこれだけは覚えておいて。私はいつでもあなたの味方よ」
真美那はそう言って部屋に籠もってしまった。茶会事件のことを真美那は何も言わないが、国宝の茶碗を三つも割った騒ぎは嫌でも真鶴の耳に入ってきた。真鶴は不在の自分を救うために真美那が茶会を台無しにしたことを知っている。だが真美那はこう言って真鶴の詫びを拒んだ。
「形のあるものは壊れるのが自然の理。壊れないのは形のない友情だけよ」
もし真美那に同じ危機が訪れたとき、真鶴は身を犠牲にしてまで救う度量が自分にあるとは思えない。第一、真美那には既に嘘をついている。宦官と側室の二重生活を営んでいる自分の正体を明かす勇気はなかった。真鶴は今の自分が誰かの犠牲や献身によって支えられていると感じずにはいられない。
御内原の白木造りの棟が霧に溶け込んでいる未明、真鶴は食籠を携えて暗シン御門に入った。
「兄上、今日も新しい衣装を用意してくれたのですね……」
げらゑの間に新しい帯と季節感を捉えた流行の色衣装が揃えられていた。嗣勇が昨日と同じ衣装にならないように腐心しているのがわかる。嗣勇のセンスは抜群だった。最新の流行を取り入れ、華奢《きゃしゃ》な寧温が大きく見えるように明るい色を選ぶ。そして帯には伝統と格式を重んじた古風な柄を組み合わせた。着替えた寧温は華やかでありながらも由緒正しい風格の役人になっていた。
衣装を見ていると真鶴の胸が詰まる。
『だって妹に品のない恰好なんてさせられないよ』
と嗣勇が照れ笑いした声が聞こえたような気がした。
「真美那さんごめんなさい。兄上、苦労をおかけしております」
識名園で尚泰王から受けた王命は「薩摩の暴走を阻止せよ」だ。薩摩が琉球を使って動くとき、必ず王府に予期せぬ事態が起こるのが常だった。久慶門《きゅうけいもん》から出勤した寧温はさっそく不穏な空気を感じ取った。北殿の廊下は役人たちで押《お》すな押すなの人だかりだ。高札《こうさつ》に人事異動が発布されていた。
こんな大規模な異動はついぞ見たことがない。阿片事件を上回る天変地異級の人事だった。寧温は朝薫の名前を見つけた。
[#ここから2字下げ]
口上覚
喜舎場親方朝薫
右者事表十五人吟味役被仰付候得共、此度依
御僉議首里三平等総与頭役ニ被繰替候事。
寅九月
三司官
[#ここで字下げ終わり]
「朝薫兄さんが、首里三平等総与頭役《しゅりみひらそうくみがしらやく》に降格されたですって!?」
首里三平等総与頭役は王都の治安維持組合の相談役だ。地位はそれなりに高いが王宮から引退した高官が務める名誉職で実権はないも同然だった。首里の行政文書に目を通すだけの閑職で、自宅が執務室である。朝薫は誰かの陰謀により左遷されてしまったのだ。
「喜舎場《きしゃば》親方に引退勧告も同然の処遇じゃないか」
「表十五人衆吟味役が首里三平等総与頭役……」
評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》たちも悪意に満ちた人事に腰を抜かした。これは役人にとって斬首されるよりも屈辱的な人事だ。朝薫が不祥事を起こしたのならわかるが、誰も思い当たる節がなかった。
「おい、喜舎場親方が来たぞ……」
人垣が割れて、朝薫との間に見えない輪ができる。朝薫は高札の前でまるで他人事のように人事異動書を読んでいる。表情を読ませないように装いすぎて、却って平静さを失っていた。
「ははは。ぼくが首里三平等総与頭役か。一気に歳を取った気分だな」
心なしか朝薫の瞳は老人のように濁って見えた。神童と謳《うた》われ最速で出世街道を走っていた朝薫に突然道が閉ざされた。振り返っても二番手など見えないほど朝薫は先頭を走ってきたのに。
「朝薫兄さん。これは何かの間違いです。すぐに確かめましょう」
周章|狼狽《ろうばい》しているのは寧温の方だ。もし高札に自分の名前があっても大して驚きはしなかっただろう。足を引っ張られるのは常に自分だと寧温は無意識に思っていた。王宮とは後ろ盾のない者に無情だ。だが朝薫は違う。最大勢力の後ろ盾を持ち、有無を言わせぬ実力を発揮し、人柄も温厚で敵が少ない。その朝薫が討たれるなんてよほどの圧力が働いたとしか思えなかった。
「向《しょう》一族が全員左遷されている……。向三司官殿まで引退させられたなんて……」
適当な天下り先がない者は更迭《こうてつ》する強硬な人事だ。新しい人事で昇格したのは薩摩派の馬《ば》一族だった。
朝薫は遠くを見つめる眼差しで高札の前で立ちつくしている。
「朝薫兄さん、この人事は陰謀です。聞いていますか朝薫兄さん?」
「寧温……。これが王宮というものだよ……。安泰な地位などない。保障された身分などない。きみは身を以て知っているだろう?」
「そうですが、私と朝薫兄さんは出自《しゅつじ》も実力も違います。私など風の前のひとひらの葉にすぎません。ですが朝薫兄さんは王朝を支える大樹の幹ではありませんか」
「大樹の幹もいつかは枯れる。永遠に咲き誇る花がないのと同じさ」
朝薫の腕を引いた寧温が、反射的に指先を強《こわ》ばらせた。朝薫の体は死人のような冷たさだ。
「ぼくは首里三平等総与頭役をきちんと務めてみせよう。でもぼくは決して絶望しない。なぜならきみを知っているからだ」
「私をですか……?」
朝薫は悔しさを意志の力で押し潰《つぶ》すように語った。
「そうだ。きみは何度も政敵に討たれ、そのたびに必ず返り咲いたじゃないか。そういえばぼくにも討たれたよね。徐丁垓《じょていがい》殺害で八重山に流刑にされても、こうして王宮に戻ってきた。ぼくは寧温のような決して諦めない真の人になりたい。今回の人事はその試練だ」
「ですが不当な人事には抗議するべきです」
「ぼくは王の臣下として命令に従う。きみでもそうするだろう。この後、王宮は荒れるぞ。ぼくは蟄居《ちっきょ》するが、寧温きみは負けないでほしい。ペリー提督を追いやった強い意志で王府を支えてほしい」
「わかりました。約束いたします」
朝薫は微かに笑って寧温に別れを告げた。王の良き臣下として、妻の良き夫として、子の良き父として周囲の期待を一身に背負ってきた朝薫が、地位と身分を失って王宮を去って行く。等身大の自己は想像よりもずっと小さいと初めて感じた。属性を奪われただけで五十年も歳を刻んだ気分だ。
王宮は去る者に無情で厳しい。出勤した今朝は遠くからでも会釈されたのに、身分が落ちれば誰も目を合わせてくれない。それが人の常だと知ってはいたが、いざ自分の身になると夜露が背中に落ちたように身を震わせてしまう。
王宮を下る坂道に小さな名も知らぬ花が咲いているのを見つけた。昨日まで全く気がつかなかった景色だ。
「やあ。ぼくはおまえにも気がつかないほど尊大だったんだね……」
このつらさしゆすもにやへもをらやすが
どくつらさあれば一人ともて
(ぼくだけが辛い思いをするわけではないのに、あまりにも辛いので自分だけが苦しい目に遭っていると思ってしまう。人は勝手なものだ)
続々と王宮を退去する向一族は時代の黄昏《たそがれ》である。血統の良さに慢心せず能力主義を貫いたのは、政敵に討たれないための最大の防御手段だったからだ。公明正大を貫いたのは後ろ暗さが転落の前触れだと知っていたからだ。千年の繁栄を約束されていると王ですら思っていた向一族が、時代の波に呑まれて王宮から去っていく。そして明日からは向一族がいたことを忘れて、王宮は変わらずに機能するだろう。
政敵を討ったばかりの三司官が廊下にいた人だかりを追い払う。
「さあ業務に戻るのだ。しばらくは忙しいぞ」
寧温は高札の隅に小さく記された名前を見つけた。
[#ここから2字下げ]
口上覚
孫里之子親雲上嗣勇
右者事奥書院奉行筆者役被仰付候処、不成合
儀致出来候付、玉御殿御番役ニ被召替候事。
寅九月
平等所大屋子
[#ここで字下げ終わり]
「兄上が奥書院奉行筆者を罷免《ひめん》された! なぜ?」
南殿の廊下から荷物を纏《まと》めた嗣勇がしょんぼりと項垂《うなだ》れてやって来た。
「嗣勇殿、これはどういうことですか。不手際があったとありますが、まさか――?」
「茶会の不始末の責任を取らされたよ。これから玉陵《タマウドゥン》の墓守に命じられた……」
玉陵は王宮の西側にある石造りの王家の墓だ。行事がなければ人ひとり近づかない役人の墓場と呼ばれる場所だった。
「茶会の不始末って、勝手に卒倒したのは王妃様たちではありませんか」
「御内原の失態は下が責任を取らされる。それが組織というものじゃないか」
「兄上、申し訳ありません。私が茶会に行かなかったばかりに――」
「真鶴、ぼくはおまえの方が心配だよ。誰が寧温と真鶴の架け橋になってやれるのか……」
嗣勇は最後の仕事でげらゑの間に着替えを置いてきたと言った。組み合わせ次第で着回しができるように扱い易い衣装を選んだ。
「真鶴は黄色が似合うから、帯は濃紺か紫にするんだよ。朱色や薄紅色は女に見えるから御法度《ごはっと》だ。着崩すときは襟《えり》を開けてはいけない。袖を捲《まく》れば楽にしているように見えるよ。これが色合わせの見本だよ。扇子も傘も冬物の外套もげらゑの間に隠しておいた。上手く着回すんだ」
嗣勇は洟《はな》を啜《すす》りながら妹を抱き締めた。華奢な寧温の肩は力いっぱい抱き締めたら壊してしまいそうな脆《もろ》さだ。唯一の味方だった自分がいなくなった後、誰が妹を守ってやれるのか、心配というよりも怖くて考えたくなかった。
「真鶴。もう守ってやれなくてごめんね。ぼくはきっと王宮に戻れない。でも強く生きるんだよ。真鶴はぼくの自慢の妹だ。何とか幸せになってくれ……」
寧温も涙を見られても構わないと兄を抱き締めた。兄の献身と自己犠牲の上に成り立っている寧温という自分が忌まわしく思えてくる。だけどこの姿でいるときが本当の自分だ。全てを捨てると決めた少女の頃、他人の犠牲を強いる生き方だとは気がつかなかった。寧温になると渦が生じ、一番大切な人が渦に飲み込まれていく。
「私、寧温をやめたいです……」
「ダメだ真鶴。自分の選んだ道だろ。ぼくが左遷されるのは能力がないからだ。寧温とは関係ない。寧温として強く生きろ。寧温を貫け。それが真鶴の人生だ。寧温は泣いたりしないはずだ」
その言葉に寧温の涙は怒りに変わる。女なら涙が涸《か》れるまで泣いて人生を嘆くだろう。だが寧温には地位も権力も実力もある。
「その通りです。寧温は泣きません。私がきっと王宮に戻してみせます。この悔しさは一時だけのものです。そうですとも。朝薫兄さんを戻し、兄上を戻すために私は才能の全てを使います。どうか信じてください。孫寧温に不可能はありません――!」
嗣勇はにっこり笑って王宮を後にした。
「そうだ。それでこそぼくの妹だ。ペリー提督を追い払った最強の妹だ……」
嗣勇の配属された玉陵は死者の王宮とも呼ぶべき、荒涼とした景色だ。まるで古代に滅びた王朝の遺跡を眺めている気分だった。歴代の王族の霊に仕えることになった嗣勇は、霊の眠りを妨げぬよう、ひっそりと息を殺して勤務した。
嗣勇は月のきれいな晩に妹のいる王宮を偲《しの》んで歌を詠んだ。
わが王陵に澄みわたる月の影に
覚出しゆるみやだいり
(左遷されて玉陵の墓守になってしまったが、墓に差す澄み切った月を見ると、王宮での華やかな暮らしが思い出される)
評定所の面子も様変わりした。かつての最大勢力は一掃され、今では薩摩派の役人が重職に就いている。三司官、表十五人衆、評定所筆者は薩摩寄りの政策で動き始めた。寧温は薩摩派にとって一番厄介な自分が討たれなかった理由がわからない。
ある日三司官から呼び出された寧温は勤務後、首里国学に行くように命じられた。
「孫親方に頼みがある。実は英会話の講師をしてほしい」
「科試《こうし》に英会話を入れるのですね」
「まあそんなものだ。時代の流れには逆らえないからな」
「それは実用的な提案です。是非講師をさせてください」
これが王府に吹いた新しい風なのだろうかと寧温は思った。朱子学も大事だが、これからの時代は西欧諸国の言語に明るくないと評定所筆者にはなれない。古典教養至上主義から知識の実践主義に転換するのは混迷する時代に即した対応だ。
「琉球に近代がやってくるんだ」
寧温は嬉しくなって知識の全てを余すことなく記した教科書を作成した。
しかし国学にいたのは丁髷《ちょんまげ》頭の薩摩の侍ばかりではないか。なぜ彼らに英会話を教えなければならないのか、寧温は戸惑った。しかも薩摩の侍が知りたがったのは実践的なビジネス英会話だ。
「孫親方、大砲を英語で何と言うのですか?」
「蒸気船を英語で何と言うのですか?」
「銃を千丁くれ、とは英語で何と言うのですか?」
講義開始早々に矢継ぎ早に質問攻めにされてしまう。寧温の目には生徒たちの態度が勉学熱心というよりも、商取引の手段の習得のように映った。
「待ってください。基礎の単語から始めないと会話は不可能です。まずは文字から覚えましょう」
「そんなのはどうでもいい。『最新型の大砲を百門買いたい。幾らで売ってくれますか?』だけを教えてほしい」
「そんなのは会話とは言えません。魔法の呪文を覚えるのと同じではありませんか」
「我々が覚えたいのは最低限の言葉だけだ。西洋人と友情を深めるつもりはない」
「それでも基礎は必要です。法外な値段で取引させられたら損をしてしまいます」
「じゃあ『適正な価格で売れ』を英語で何と言う?」
「あなたたちは一体何をしたいのですか――!」
米国艦隊が去った後にやって来たのは薩摩の世の隆盛だ。王宮には日本式の美意識が持ち込まれ、琉歌よりも和歌や俳句を嗜むのが風流とされるようになった。今や漢詩を読むのは流行後れだ。王府に飛び交う片言の日本語は薩摩の二重帝国実現の足がかりに思えた。
朝薫は自宅軟禁も同然の扱いだった。しかし大人しく蟄居《ちっきょ》している朝薫ではない。王府の目が届かない自宅には向一族が密かに集結していた。
三司官を更迭された向親方は捲土重来《けんどちょうらい》を仲間たちと誓い合う。
「喜舎場親方、このまま消え去る我が一族ではない。必ずや王宮に戻り、我らを追い出した薩摩派に復讐《ふくしゅう》してみせる」
「でもどうやって? 今のぼくたちは王宮から切り離されて評定所の情報は何も入らない」
「我らの希望は真美那様でございます。真美那様は御内原において王妃様も恐れるほどの存在になっております。真美那様に世子《せいし》を産んでもらい、我が一族を後見人にしてもらいましょう」
「そうですとも喜舎場親方。真美那様は無知を装っておりますが、政治に関心をお持ちです。ペリー提督来航のときには体を張ってペリー提督一行を足止めしてくれました」
しかし朝薫は真美那を使うのは嫌な予感がした。真美那が聡明な女性なのは知っている。人間関係の駆け引きも巧い。しかし目的のためなら向家の身代を潰すのも厭《いと》わないことが怖い。
「確か向親方のお屋敷には玳皮盞天目《たいひさんてんもく》茶碗があったはずだが?」
「はい。家を興したとき当時の首里天加那志・尚敬王《しょうけいおう》から賜《たまわ》った家宝です。それが何か?」
「家宝なら真美那が勝手に持ち出さぬように厳重に管理しておけ」
「もちろん。我が一族の血脈の証《あかし》ですから。何ならお見せしようか?」
「結構だ。世子誕生まで決して蔵を開けぬように」
朝薫は御内原での茶会事件の顛末を知っている。あまりの恐ろしさに朝薫が箝口令《かんこうれい》を敷いた。もし向親方が家宝を割ったと知ったらショックで急逝するのは目に見えているからだ。因みに志野茶碗・卯花墻は喜舎場家の家宝だ。真美那が「茶会に使うから貸して」と朝薫に頼み、木っ端微塵に割ってしまった。真美那はそれを悪びれもせず「割れちゃった」ですませた。まるで茶碗がひとりで勝手に割れたような言い草で。真美那を政治に使うとこういうことが起こりそうで嫌だった。
そして噂をすれば影だ。王宮からの使いの者が血相を変えて屋敷に飛び込んできた。
「喜舎場親方、真美那様が英会話を習いたいと首里国学に行ったそうです」
「いかん。すぐに連れ戻せ。今の真美那の立場だと御内原から追い出されてしまうぞ!」
王宮から離れても朝薫の心労は絶えそうもない。
そんなある日、評定所に一通の書簡が届いた。薩摩藩主・島津斉彬からのものだ。外交文書は寧温の所轄だ。なのに新任の三司官はすぐに決裁するから読まずに渡せと言う。
「なぜですか? いくら三司官殿といえども越権行為ではありませんか? 評定所は王府の全ての情報を管理する場です。薩摩藩主殿の書簡ならきちんとした手続きを取るべきでしょう」
「では意見を述べずにこの場で読んですぐに渡せ」
寧温はこの新任の三司官が好きになれない。王に仕える臣下の立場を弁《わきま》えず薩摩との太いパイプを誇示するような振る舞いに辟易《へきえき》していた。まるで薩摩の使者気取りだ。
寧温が書簡に目を通すや、すぐに声を荒らげた。
[#ここから2字下げ]
此度之亜船来着一件不成容易事共致出来様子
有之、天下万民之念遣者不及謂於御公儀茂不
図之形行可為備成与存当候。於此方茂亦万端
為可用意仏蘭西船所望致居候間、其方共格段
之加勢可有之事。
薩摩守
至琉球衆中
[#ここで字下げ終わり]
「フランスの軍艦を買いたいから手はずを整えろですって――!?」
まるで出入りの商人に命じるような居丈高《いたけだか》な文体に寧温が震える。これで一連の妙な動きに合点がいった。朝薫の左遷も英会話の講師も全ては軍艦購入に向けての薩摩の陰謀だ。薩摩は琉球を武器調達の自由港にするつもりだ。
「いくら島津斉彬殿の頼みとはいえ、こんな要求には応じられません!」
「おまえが反対しても評決に持ち込めばすむ話だ」
表十五人衆のうち十二人、三司官の三人は薩摩派だ。多数決では分《ぶ》がない。
「いいえ。これは評決に持ち込む問題ではありません。これは琉球の主権の在り方が問われているのです。我が国は非武装中立だからこそ主権を行使できるのをお忘れですか? もし薩摩の代理で武器を買えば清国と敵対するということです。その危険を冒してまで従う価値のある命令でしょうか?」
食ってかかる寧温を三司官は面倒くさそうに払いのけた。
「その台詞《せりふ》は薩摩の使者殿に言えばよい。さっそくお見えのようだ」
評定所に爽やかなジャスミンの香りが漂う。その香りに鼻をくすぐられた寧温は、ふと気を緩めてしまう。何と評定所に現れたのは雅博ではないか。
「雅博殿、あなたが薩摩藩主の使者殿ですか!」
やって来た雅博は寧温が王宮にいることが半信半疑の様子だ。可憐な容貌で自分を幻惑した寧温は八重山に流されたはずだと雅博が目を擦る。
「孫親方! 本当に孫親方か?」
米国艦隊襲来で急遽《きゅうきょ》薩摩に召還された雅博は寧温が帰ってきた経緯を知らない。雅博の心の中に密かにしまった琉球での想い出の日が急に甦《よみがえ》る。孫寧温が雅博の前から消えて長い歳月が流れていた。
「なぜあなたが王宮に……?」
「ペリー提督との交渉で首里天加那志から恩赦を受け、王宮に戻りました」
雅博の目には過ぎた歳月の重みが一日のように思える。心の中に刻んだ最後の姿と、今の寧温は全く同じ姿だ。いや同じではない。かつてより爛熟《らんじゅく》した妖艶《ようえん》な姿だ。いくら宦官が性を超えた存在とはいえ、寧温の容貌は理解ができない。今日が初対面だったら、間違いなく女としか思えなかった。
「雅博殿もご立派になられて……」
青年武士だった雅博に威厳が備わっている。かつてふわりと上半身を浮かせた無重力感は消え、堂々とした風格を漂わせるようになっていた。しかし彼のジャスミンの香りだけはますます強くなっている。
寧温は王府の役人として改めて雅博の前に挨拶をした。
「改めてご挨拶を申し上げます。表十五人衆・日帳主取の孫寧温でございます」
「日帳主取? 外務政務次官か? まさか……。ペリー提督にマヤカシの条約を押しつけた凄腕の役人とは孫親方だったのか」
「琉球に優位な条約と言ってほしいです。真に対等な二国間条約などこの世には存在しません」
寧温が悪戯《いたずら》っぽく笑った。この茶目っ気に油断するとどんなに優位な立場でも、簡単に覆《くつがえ》されてしまうことを雅博は知っている。
「あなたならペリー提督に勝ったのも納得です」
雅博は薩摩で琉米修好条約締結の話を聞いた。日米和親条約とは比べ物にならない圧倒的優位な条約に薩摩は総毛立った。琉球の評定所筆者たちは凄腕の交渉人揃いとの噂は薩摩でも轟《とどろ》いている。薩摩に金を無心したり、借金を帳消しさせたりするのも思いのままだ。
幕府がペリー提督の思惑通りに開国させられたのは外交交渉の経験のなさ故だ。幕府は黒船の大砲の脅威の前に渋々開国を許した。だが、交渉人の能力が優れていれば必ずしも力の強い国が勝つとは限らない。琉球は黒船の脅威をものともせず主権を貫く立派な条約締結を成し遂げたからだ。
雅博も改めて寧温に挨拶する。
「薩摩藩|異国方御用掛《いこくほうごようがかり》の浅倉雅博です」
琉球を去った雅博は薩摩で昇進していた。琉球の事情に明るい雅博にとって適職ともいえる地位だ。しかしこれが今日の二人の溝《みぞ》となっている。
「我が藩は富国強兵策を執ることになった。何としてもフランスの軍艦がほしい」
「この書簡は受け取れません。我が国を通じて軍備を増強するなど主権侵害もいいところです」
「薩摩と琉球は一心同体のはず。我が藩の繁栄は琉球の繁栄に繋がると信じてほしい」
「それは詭弁《きべん》です。軍艦を買いたければ長崎や下田を使えばよろしいのでは?」
寧温は薩摩の思惑がわかっている。他藩を通じて軍艦を購入すると他藩の心情を悪くするからだ。薩摩にとって琉球は幕府の藩の均衡を崩さずに軍備増強する都合のよい窓口だった。
「これまでも我が藩は、琉球の有事のときには何かと工面してきた。今度は琉球が我が藩の申し出を受ける番と思われる」
「米国艦隊が那覇港に入港したとき、すぐに逃げたのは薩摩だと記憶しておりますが……」
「私は命令を受けて戻ったまでだ。琉球を見捨てたわけではない」
「もしペリー提督が琉球を植民地にしたら、薩摩は琉球のために闘ってくれたでしょうか?」
「その脅威に備えるために軍の近代化を図りたい。琉球有事のときは薩摩の軍艦が守るのだ。琉球にとっても都合がよいではないか」
「我が国は軍艦を使わずにペリー提督に勝ちました。薩摩の軍事力の傘に入らずとも自衛可能です」
寧温が雅博を睨《にら》み付けた。だが心は悲しみに濡れている。これが雅博の本心ではないとわかっている。だが今の彼は藩益を守る立場だ。軍艦を購入しなければ彼の能力が疑われてしまうだろう。しかし寧温も国益を守らなければならない。薩摩の要求を飲めば琉球の国際的な地位が不安定になる。いくら雅博といえども主権を渡すわけにはいかなかった。
――真鶴、今出てこないで。
意志とは裏腹に胸の中は真鶴が雅博を求めて騒ぎ出す。寧温の意識の中に真鶴が「軍艦を購入する落としどころはないの?」と口を挟む。恐ろしいことに真鶴は雅博に協力したがっている。このことが寧温を愕然《がくぜん》とさせた。交渉の一番大切なときに、寧温は女に戻りたがっていた。
――やめて。私は寧温を選んだのよ。真鶴は今すぐ死んで!
表面は毅然《きぜん》とした態度を取っている寧温だが、内側は真鶴に掻き乱されて裸にされるよりもみっともない醜態を曝《さら》している。真鶴が耳元で囁《ささや》く。
『雅博殿を困らせないで!』
『なぜ無理して男の恰好をするの?』
『寧温はどきなさい』
『私の心は雅博殿のものなのに』
『私は真鶴よ。私は女。私は女。恋に生きたい女よっ!』
思わぬ真鶴の逆襲に寧温は耳を塞ぎたくなった。
――やめて真鶴。あなたは売国奴よ。私は寧温。私は男。王に仕える臣下よっ!
すると真鶴は一瞬黙って、哀れむような口調に変わったではないか。
『それが、あなたが不幸な理由なのに……』
能面のように感情を押し殺した寧温の頬に一筋の涙が流れた。それが雅博には何のことなのかわからない。寧温は目にゴミが入ったと言って、指で涙を弾《はじ》き飛ばした。
「生憎《あいにく》、我が国はフランスと国交がございません。通商条約のない国と交易することは法律上不可能です。私が日帳主取でいる限り、軍艦の購入は諦めてもらいます」
雅博は初めて寧温に怒りの眼差しを向けた。まるで示現流《じげんりゅう》で刀を抜くときの眼差しだ。斬られると寧温は覚悟した。
「強情な人だ。私が藩主に一言『孫寧温を更迭する』と告げれば、あなたの地位を剥奪《はくだつ》するのは容易《たやす》いことなのに」
この言葉で人事異動の謎が解けた。朝薫を王宮から追い払ったのは雅博の陰謀だ。雅博は軍艦購入を反対する清国派を一掃した後に乗り込んできたのだ。
「おやりなさい。朝薫兄さんを追い出したときのように。ひとつ聞いてもよろしいですか? 朝薫兄さんに何の怨《うら》みがあったのですか? それが雅博殿の目指す琉球と薩摩の繁栄ですか?」
雅博は憮然《ぶぜん》とした態度で何も言い返さなかった。
「私はかつて八重山に流された身です。敵に討たれることなど怖くありません」
寧温が踵《きびす》を返す。待てと肩を掴んだ雅博の袂《たもと》から懐紙に包んだ小さな金属が落ちた。
「これは結び指輪――」
銀の水引のような小さな指輪が廊下に転がる。那覇港で真鶴が形見にと渡した結び指輪を雅博は大切に身につけていた。雅博が慌てて指輪を拾い上げ、まるで花を摘《つ》むように愛おしそうに掌に包んだ。その光景を見た寧温は自分がそっと抱かれたように感じた。
「それは誰の指輪でしょうか?」
「私の最愛の人の形見です。私の真心は全てこの中にあります。たとえ藩主の命令でもこの指輪だけは手放しません」
「そこまで想われるそのご婦人は幸せですね」
寧温は漸《ようや》く胸の中の真鶴が寝静まったのを見届けた。本当は真鶴の髪の毛を全て雅博に渡したかった。それが真鶴の望みである。髪の毛だけでも雅博と枕を並べて眠りたい。雅博の腕に絡みついて解けないように幾重にも縛り上げたい。雅博と千の夜を過ごし日の当たる万の時を共にしたい。雅博が微笑《ほほえ》んでいるときも、憂えているときも、全て真鶴のものにしたい。
だが現実は寧温の地位が脅《おびや》かされている。雅博の胸三寸で今日にでも王宮を追い出されるかもしれない。愛する人に討たれるかもしれない。それが切なかった。
「孫親方、あなたとの友情は八重山で尽きたようですね」
「私は決して薩摩の圧力には屈しません」
二人は目尻で相手を睨んで廊下を擦れ違った。
指金《ゆびがに》の形見さす間の形見
かしらげの形見あの世までも
(指輪の形見は生きている間だけの形見で永遠の形見とはいえない。髪の形見こそあの世までも残る形見なのに、渡しそびれてしまった)
流行に敏感な庶民たちは、薩摩の世が主流になるとこぞって日本|贔屓《びいき》になる。桜や菊の模様をあしらった着物が人気になり、扇子や草履も和風が用いられるようになった。
最も流行に敏感なのは花街のジュリ(遊女)たちだ。噂に聞いた芸者というものを真似ようと、簪を針の山のように挿した珍妙な芸者ジュリが現れていた。
そんな辻の街に窶《やつ》れた津波古《つはこ》が今日も真牛《モウシ》の元を訪れる。昨日、ついに最後の銅銭の束に手をつけた。真牛は廃人になったとはいえ、元々は高額なジュリだ。一晩過ごすだけでジュリが十人は買えた。津波古は昼も夜も真牛の側を離れようとしない。そのせいで手からこぼれ落ちる砂のように金が消えていく。商売で一山当てた津波古にも限界が訪れていた。ついには自分の着物を売り、煙管《キセル》を売るうちに、津波古は元の風采のあがらない男に戻ってしまった。
そんな津波古を人はジュリに狂って身を落とした男の典型だといって蔑《さげす》んだ。
「あの旦那ももうお終いだね。ちょっとはいい男だったのに」
「ジュリに溺《おぼ》れた男は死ぬまで金を毟《むし》り取られるのが常さ」
「おっといけない。聞こえちまうよ」
背中を丸めた津波古がちらっとこちらを見た。どんなに真牛を愛していても、人の目には弄《もてあそ》ばれた哀れな男にしか見えないのが口惜しい。決して誑《たぶら》かされて散財したわけではない。真牛は津波古に生きる希望を与えてくれたオナリ神だ。その真牛を助けずにはいられない。たとえ人がどんな目で自分を見ていようが、津波古は毎日が幸福だった。
津波古は部屋に通されるや買ってきたばかりの簪を見せた。
「真牛、日本の簪だぞ。おまえによく似合うと思う」
真牛は毎日優しくしてくれる津波古にだけは微笑むようになっていた。簪を挿してもらった真牛は、そっと津波古の肩に首を預ける。
「きょーのうちの、おーあむしられみたいね……」
「大あむしられ様よりもずっとずっと真牛の方が綺麗だ」
「はずかしー……」
マブイのない真牛はマブイ籠めをしない限り元に戻ることはない。ユタから見放された真牛は生きる屍だ。唯一の生命線だった津波古の財も既に尽きてしまった。津波古は明日、真牛を買う金がない。今晩が最後の真牛との逢瀬《おうせ》になると覚悟していた。
「真牛、朝が来ないように祈ってくれ……」
津波古は強盗してでも金を工面したかった。明日また来られるだけの金さえあれば大与座《おおくみざ》に捕まって首を刎《は》ねられてもよい。ただ自分が死んだ後も真牛が生き続けなければならないのが、あまりにも不憫《ふびん》で、いっそ一緒に死にたいとも思った。
「こんなことなら銀杯をあと倍の値で売ればよかったな。俺は商売が下手だよな、真牛?」
髪を梳《す》いていると真牛が初めて津波古を呼んでくれた。
「だんなさま、いつもありがとー……」
「真牛、真牛、俺はおまえを捨てられない……」
津波古が真牛を抱き締める。せめて最後の夜だけは真牛の温もりと過ごしたいのに、真牛は体に触れられると小動物のように怯《おび》えるのだった。
「こわいよー。こわいよー……」
「ごめんな真牛。俺が悪かった。さあ、側にいてやるからもうお休み」
真牛は身を小さく屈めて津波古の袖を掴んだまま眠る。人の温もりがほしいのに忌まわしい記憶が真牛を臆病にさせていた。
そして無情にも朝がやって来た。津波古は女将《おかみ》に頼んで最後の別れをさせてほしいと頼み込んだ。真牛と初めて出逢った安謝湊《あじゃみなと》の浜辺で綺麗に身を浄めさせてやりたかった。
津波古は真牛を浜辺に連れて行った。安謝湊の白砂はどんなに穢《けが》れても翌朝には生まれたばかりの清らかさに戻れる。津波古は出逢ったあの日の気丈な真牛に戻ってほしくて、何度も海水で真牛の脚を洗った。
「いつでもマブイが戻ってきてもいいように浄めてやろう。真砂のように綺麗におなり」
真牛は万華鏡《まんげきょう》のように変化する波打ち際に目を奪われている。一瞬のうちに千の碧《みどり》を浮かべては消える海に脚が浸かっていることが心地好さそうだった。
津波古は安謝湊の浜に人影を見つけた。
「王府のお役人様も禊《みそぎ》をしに来たのかな?」
波打ち際を歩いているのは寧温だった。最愛の雅博が政敵になり、いつ更迭されるかわからない身の上だ。雅博は職務遂行のためなら個人の感情を捨てる男だ。眉一つ動かさずに寧温を王宮から追放するだろう。それがわかっているから、心の整理をしに浜にやって来た。
潮騒《しおさい》と風が交互に鳴り響く。その音は機織《はたお》りの規則的な刻みに似ている。波打ち際を筬《おさ》で手元に引き寄せ、緯《よこ》糸を通していく女のリズムだ。
「父上、私は最愛の人に討たれることになりました。これが私の運命なのですね……」
寧温は父の最後の言葉を思い出した。父の願いは女として生きて欲しかったのかもしれないと今になって思う。
「真鶴を後生《グソー》(あの世)に連れて行ってほしかった。真鶴がいる限り、私の心は嵐のままです」
そう呟いて海を見つめた。この広い海原《うなばら》のどこかに女が素性を隠すことなく才能を発揮できる世界があると信じたい。男女の隔てなく、生まれたままの性で人生を謳歌できる国があってほしかった。もしそんな国があったら、いつか行ってみたいと寧温は思う。
「私は寧温でいたい。でも真鶴も大事にしたいの……。これは無理な相談でしょうか?」
また波打ち際を歩いてこれからの身の処し方を考え始めた。津波古は寧温の物憂げな様子にすっかり魅了されてしまった。浜に片膝をついて首を傾《かし》げる様などは舞踊の一幕を見ているようだ。
「何と美しいお役人様だろう。真牛も見てみろ。百合の花の精霊のようだぞ」
津波古に促されて真牛が浜を後にする役人を見つめた。そのときだ。真牛の体に落雷のような衝撃が走った。カッと見開いた瞳孔が積年の大敵の姿を捉える。
「そんねーおん……。そん、ねいおん。孫寧温がいる!」
「真牛、どうしたんだ?」
見れば真牛の目力がみるみる蘇《よみがえ》っていくではないか。真牛の眠っていた回路が目を覚ますと同時に記憶が手繰《たぐ》り寄せられる。御嶽《うたき》で米国人水兵に輪姦されたのが記憶の最後だ。続いて遊郭に売られた記憶、ユタ稼業で身を窶《やつ》していた記憶が蘇る。次第に自分が聞得大君だった頃のことを思い出した。転落したのは切支丹《キリシタン》の濡れ衣《ぎぬ》を着せられたのが発端だ。その犯人は七回生まれ変わっても忘れることはない。
砂浜を踏みしめた真牛が仁王立ちになっていた。
「あの腐れ宦官め。どうやってまた男に戻ったのじゃ!」
「真牛、マブイが戻ってきたのか?」
津波古の喜びとは裏腹に真牛は憎悪の炎をあげて怒り出す。津波古の献身的な愛では決して戻らなかったのに、宿敵孫寧温を見つけたことで真牛は碧眼を取り戻した。
真牛はひどいなりをした津波古を見て溜息をつく。
「なんじゃ津波古ではないか。妾の言いつけ通り、銀杯は買わなかったのか?」
「買ったさ。そして遊び呆けてこのザマさ」
「情けない男じゃ。財を成したら運用するのが商売の基本じゃろうに」
「そんな才覚は俺にはないさ」
津波古は清々《すがすが》しく笑って真牛に罵倒されるのを喜んでいる。津波古は真牛が元に戻ってくれればそれでよかった。どうやらマブイを落としていたときの記憶はなくしたようだが、それが真牛のためだ。真牛を世話するために全財産を潰したとは知らなくてよいことだ。
「妾は金銭感覚の狂った男は嫌いじゃ。遊ぶにしてもほどというものがあるじゃろう」
真牛が津波古の耳を引っ張る。その痛みすら津波古は楽しんでいた。
「真牛、俺と一緒に八重山に逃げないか?」
「無礼者。妾は聞得大君じゃ。王のオナリ神じゃ!」
津波古はうんうんと頷いて真牛から貰ったお守りを返した。このお守りのお蔭で財をなし、もう一度人生に日の目を見た。
「おまえは気丈なほど美しい。おまえの好きな道を選ぶがいい」
真牛は一瞬、津波古との逢瀬のことを想い出しそうになる。なぜか津波古がこの上なく愛おしいと思う。だがその記憶を取り戻すともう二度と王宮に戻ることができないような気がして、咄嗟に記憶の底に押し籠めた。真牛は鬩《せめ》ぎ合う二つの気持ちの狭間《はざま》で揺れ動いた。王族として名誉ある人生を取り戻すか、それとも愛に生きて名もない女として死んでいくか。真牛はどちらも捨てられない。両方とも大切なものだった。
「津波古よ。妾はジュリとして終わる人生は嫌じゃ……」
「真牛はまっすぐ自分の信じる道を行くがいい」
「でも妾には借金があるのじゃ。返すまではジュリのままじゃ……」
「俺に任せろ。おまえを自由にしてみせる」
「笑わせるな。そなたは文無しの落ちぶれ士族じゃろう」
津波古はそうだと頷いて、恩返しをしてやるから条件を飲めと言った。
「俺との縁を忘れてくれるか?」
「そなたのことなどもう忘れたわ」
津波古はここにいろ、と真牛を浜に置いて遊郭に戻った。それからしばらくして辻の街から黒い煙が立ち上ったではないか。
「まさか遊郭に火をつけたのか!」
真牛は急いで辻の街へと戻る。街は逃げるジュリや男たちが悲鳴をあげて濁流になっていた。煙で噎《む》せる喉を袖で押さえ、瞬きで灰燼《かいじん》を遮《さえぎ》りながら人の流れに逆らうように真牛は出火元へと急ぐ。明け方までいた黴臭《かびくさ》い遊郭は不浄を祓《はら》うかのような勢いで燃え盛っていた。瓦屋根が轟音《ごうおん》と共に崩れ落ちたとき、
「真牛、これでおまえは自由だ」
という津波古の声を聞いた気がした。
津波古は真牛の証文を焼くために遊郭に押し入り、女将の部屋に問答無用と火をつけた。積年の愛欲で湿っていた畳は黒い染みになって燻《くすぶ》り、不完全燃焼のまま燃え広がっていく。そして女将が慌《あわ》てて戸を開けた瞬間、外気が雪崩《なだ》れ込み一気に炎を噴き上げた。まるで遊女の高ぶりのように全ての部屋が火柱をあげる。
「何という愚かなことをしてくれたのじゃ。だからそなたは無能なのじゃ」
忌まわしい思い出と愛おしい日々が紅蓮《ぐれん》の炎の中で灰になっていく。真牛は呆然と遊郭の前で立ち竦《すく》んでいた。真牛は心の片隅で、何かが終わったことを感じていた。
津波古は真牛の解放と引き替えに放火の大罪人になった。
辻の街を襲った大火の下手人《げしゅにん》が捕まったのは鎮火して間もなくだった。津波古は平等所《ひらじょ》で裁かれ、斬首を言い渡された。
人々は津波古のことをジュリ狂いの最悪の末路と侮蔑した。ジュリに溺れた者は金を失い、理性を失い、最後は命さえ失うと嗤《わら》った。
未明、安謝湊の浜で斬首が執り行われる。真牛との想い出を巡らせた津波古の口元はうっすらと笑みを浮かべていた。刀が振り翳《かざ》された瞬間、津波古は高らかに真牛を讃《たた》えた。
「聞得大君加那志、万歳!」
浜の木陰でそっと津波古の最期を見届けた真牛は、苦しくて悲しくて嗚咽《おえつ》を漏《も》らして泣き崩れるしかなかった。津波古は死んでも毎日梳いてもらった髪は彼の優しい手を覚えている。真牛の頬は津波古の胸の温かさを覚えている。王宮では得られなかった真心の温もりを津波古は見返りを求めず与えてくれた。真牛は無系になって初めて愛する者を失う悲しみを知った。
「津波古……。津波古……。妾のせいでこんなことになるとは……」
津波古の血を吸った砂浜は波に洗われてまた真《ま》っ新《さら》な白砂に戻る。その浜を真牛は今日も歩いている。神扇で津波古の霊を慰めながら――。
忘れてやり言ちもいきやす忘れゆが
朝夕面影や目の緒下がて
(忘れろと言われても、どうして忘れることができようか。朝も晩もあなたの面影がちらついて忘れることなどとてもできません)
首里三平等総与頭役の朝薫の自宅に辻大火の報告書が届けられた。朝薫は一読して「火元に注意するように」とだけ告げた。これが朝薫の今日の仕事の全てである。時間が足りないと深夜まで残業していた王宮勤務と比べると耄碌《もうろく》した年寄りの仕事だ。
「今頃、寧温は候文《そうろうぶん》の山の中に埋もれているんだろうな……」
朝薫は庭に差す夕日を見つめて、王宮のことを偲んだ。朝薫が左遷された後も王府は機能を維持し続けている。王府の役に立っていると自負していた日々が愚かに思えた。王都の寺の鐘が申の刻を告げる。四方八方から押し寄せる時の波紋を聴きながら、朝薫は虚しさを覚えた。
一方、鐘の音と同時に寧温は暗シン御門に飛び込んだ。薩摩の戦艦購入を否決する案文を次から次へと書いていた寧温の一日は早い。しかし明日になればまた要望書が三十は出されるだろう。これらも明日中に否決しなければならない。薩摩派の物量作戦に対抗するのは強固な意志だけである。
「いけない。時間が経つのを忘れてた」
真鶴へと早変わりするのも慣れたものだ。華麗に側室姿に変身した真鶴は中門が閉じる一歩手前で御内原に駆け込んだ。危機一髪と息をつくのも昨日と同じだ。部屋で寛ごうとした真鶴の元へ女官大勢頭部の思戸が訪れた。
「真鶴様、今宵は首里天加那志がお呼びでございます。すぐにお支度くださいませ」
美容担当の女官たちが禊の道具を携えて部屋の前に並んでいる。王は今夜、真鶴と過ごすことを望んだ。王の妻としての務めが御内原では待っていた。真鶴は疲れているのを理由に断りたかったが、さすがに三日連続では体裁が悪い。女官たちは有無を言わせず真鶴の着物を脱がせた。
「真鶴様この打ち掛けにお着替えください。まあ、御髪《おぐし》が乱れております。結い直しましょう」
美容担当の女官たちの手際の良さは一流だ。真鶴を完璧に磨き上げるのに打ち合わせはいらなかった。どんなブスでも美女に仕立て上げるといわれる女官たちは、髪も肌も目鼻立ちも全て完璧に整っている真鶴に、手を加える必要がないことを承知していた。真鶴は女官いらずのあごむしられだ。隠す疵《きず》もなければ、引き立たせるポイントもない。
「自然にするのだ。真鶴様はいじると却って人の匂いがつく」
女官が慎重に髪を梳きながら、惚れ惚れとした。ひと房ひと房の黒髪が弾ける様はまるで活きの良い魚だ。梳いている女官の方が手に快感を覚えてやめられなくなる。
御内原の二人のあごむしられは対照的な女だった。真美那は美容担当の女官の化粧によって映《は》えるが、真鶴の場合は手垢をつけてしまうことになる。野に咲く山百合に何の飾り付けもいらないように、女官は自分の気配を消すのに苦労する。真鶴は存在を伝えるだけで充分だった。
「真鶴様おわかりですね。決して逆らってはならない。目を合わせてはならない。声をたててはならない。挑発してはならない。背中を追ってはならない。王の体に触れてはならない……」
御内原の掟《おきて》を繰り返し聞かされた真鶴が頷く。
「首里天加那志と会話してはならない。約束してはならない。泣いてはならない……」
「女官大勢頭部様、準備が整いました」
思戸が思わず息を呑む。まるで月の精の降臨ではないか。女官は月明かりにうなじが映えるように髪を結い上げただけなのに、可憐な瑞々《みずみず》しさを感じる。真鶴は理性が強いと思っていたが、背中は情感豊かである。
黄金御殿《クガニウドゥン》へと通された真鶴は鏡合わせのように連なった襖《ふすま》の回廊へと進んだ。真鶴は自分に暗示をかけた。
「私はあごむしられ……。王の妻として御勤めいたします……」
真鶴が王の寝室へと誘《いざな》われていく。尚泰王は襖が開くたびに強まる真鶴の香りに酔いそうだった。最後の襖が開いた敷居には、夜の蒼さを湛えた女がふわりと浮かぶように佇《たたず》んでいた。
「これが余の妻か。本当に余の女か――」
手に入れた女なのに、儚《はかな》く思えてしまうのは何故だろう。太陽と月が重なり合う皆既日食にも似た自然界の一瞬だけの奇蹟。目を逸《そ》らすと二度と巡り会えない宇宙の神秘を目の当たりにしている気分だ。王だけが見ることを許されたヴィーナスに、心が震えて涙が止まらない。
「真鶴、近こう寄れ」
尚泰王が蝋燭《ろうそく》の明かりを吹き消した。暗くても真鶴のうなじは仄《ほの》かに光っていた。王は神聖なものに触れることを畏《おそ》れながら、細心の注意を払い着物を捲《めく》っていく。何度床を迎えても真鶴とだけは慣れることはなかった。いちいち初めての経験をさせられているようで、指先はいつも硬くなった。それが真鶴を独占できない哀しみだ。王は最も神聖なものの近くにいることを許された栄誉だけを味わう。
「真鶴よ、たった一度でよい。余を安心させておくれ」
「私は首里天加那志の妻でございます。お呼び下さればいつでもお側に参ります」
「そうではない。そうではないのだ……」
尚泰王は王国の中心に裸で立っている気分だった。この国の全てはおまえのものだと告げられても、何ひとつ手に入れていないような孤独感。それでいて風に吹かれているのが心地好い。王国中の全てに名前をつける権利をもちながらも、一生かかっても全てを知ることのない人生の儚さ。この国の全てが愛おしいと思う。この国の全てを守ろうと思う。真鶴と肌を重ねるといつもそんなことを感じるのだ。
「求めてはならない。溺れてはならない。冷めてはならない……」
真鶴は王に抱かれながら想い出の花びらをひとひら、ひとひら捨てていた。真鶴の心の中に永遠に咲き誇っていると思っていた鳳凰木《ほうおうぼく》の赤い花がしんしんと散り始める。花びらのひとつひとつに雅博の言葉が生まれては消える。
『私の真心はこの花とともにあります』
――花が散っていく。
真鶴は樹冠を見上げながら、赤い花の吹雪《ふぶき》に晒《さら》されていた。
雅博と真鶴は国も違えば立場も違う。お互いに国の利益を守らねばならない。個人になって情に溺れるのは容易い。しかしお互いに犠牲を払うのには躊躇《ためら》いがある。国を売る役人など死よりも重い罪に処すべきだと思う。想い出もまた私物化しすぎると毒に変わる。今、自然のままに手放してやる。それが一番綺麗な方法だ。
――さよなら雅博殿。私たちは後生でも結ばれそうもありません。
想い出の花びらが大地を赤く染める。散らない花はない。永遠の花など心の中にもない。想い出は時が過ぎれば微かな気配だけを残して記憶の海に沈んでいくものだ。しかし花は散り際が何と美しいことだろうか。真鶴はこれが自然の掟ならば従おうと受け入れることにした。
「真鶴、そなたは冷えておる。だがこの冷たさが心地好い」
尚泰王が頬をそっと真鶴の胸元に寄せる。寝苦しい熱帯夜の空気の中で瑞泉《ずいせん》の涼しさに浸っているようだった。この肌の奥にまだ何か秘密がありそうな匂いがする。王でさえ知ることのない秘密を持つ真鶴は神秘的な妻だった。
太陽と月が交差する皆既日食が終わった。
「真鶴よ。なぜ泣くのだ?」
王に言われるまで真鶴は泣いていることに気がつかなかった。自分は王の女としても失格だと思う。
「首里天加那志。どうか私を物とお思いください。物として真鶴を愛《め》でてください」
「それはできぬ。余は真鶴を女として愛しておる。望むものは全て与えよう。何がほしいのだ?」
真鶴は王の耳元でそっと囁いた。
「王命をください。それで真鶴は生きていけます……」
思春期の尚泰王は既に王族の婚姻がこういうものだと悟り始めていた。愛《いと》しい妻は従順だけど、決して心の内を覗かせない。捧げた真心と同じ情愛で返してくれると期待しているのに、忠誠心で応じられる。まるで臣下との関係だ。王宮に個人の感情が入り込む余地はないと教えられてきた。だけど自分だけは例外だ、と自惚《うぬぼ》れていた。歴代の王と同じように、自分もまた愛を乞うひとりの男なのだと気がついた。
目の前の契りしゆんともてをるな
あの世までわぬや頼でをもの
(そなたとの契《ちぎ》りを、目の前の一時的な契りと思ってほしくないものだ。あの世までも来世も来々世までもと余は思っておるのだ)
未明、黄金御殿の寝室を抜け出た真鶴は、暗シン御門へと急いだ。昨日残した否決の案文がまだ三つ残っている。会議が始まる前に完成させておかないと意図的に決裁済みにされてしまう。評定所が目覚めたらまた新しい上申書の山だ。
暗シン御門は黄金御殿を貫くクランク状の背骨だ。もう真鶴は足で覚えてしまっている。暗シン御門に長居は禁物だ。駆け抜けるのと同じ速さで女から男へと変わらなければ、いつ人目につくかもしれない。今は助けてくれる嗣勇もいない。
真鶴はげらゑの間の扉を開けた。
「寧温の今日の衣装は……」
紫冠の帽子の中に髪を押しこめ、紅型の打ち掛けをはだけようとした、そのときだった。
「この色なんか似合うんじゃない?」
げらゑの間の奥から声がした。暗がりから現れたのは真美那ではないか。
「真美那さん! 隠れてたのね!」
真鶴は男と女の中間の形態だ。帽子を被った顔つきは寧温だが、体はまだ真鶴である。弁解の余地のない姿を見られて真鶴の身が硬直した。
「やっぱり。何か秘密があると思ってたのよ……」
「ま、真美那さん……」
真美那もこの目で見るまでは半信半疑だった。夜中、門番の隙を見て暗シン御門に潜んだ真美那は、真鶴が来るのを息を殺して待っていた。真鶴がこの回廊を使ってどこかに出ていくのはわかっていた。ただなぜ御内原の門を使わないのかが不思議だった。構造的に暗シン御門は表世界と繋がっているはずなのだから、女人禁制の世界へ出られるわけがない。しかし真鶴の正体がわかった今も真美那はこれは夢ではないかと思う。親友の真鶴がもうひとつの顔を持っていたなんて、本人の口から告げられても信じなかっただろう。
「まさかあなたが孫寧温だったなんて……」
真鶴は反射的に顔を覆う。
ついに好奇心の塊の真美那が親友の正体を知ってしまった。
*
死者の王宮・玉陵で墓守を務める嗣勇は、毎日世間から遠ざかっていくのを感じていた。流行に敏感だったのに、お洒落《しゃれ》の時計が止まってしまった。
嗣勇の手拭いの雨蛙の柄は当時の最先端の意匠だった。最初に王宮に流行を持ち込んだのは嗣勇だ。意外と可愛い柄だということがわかり、王府の若い役人が真似をし、若者文化に乗り遅れまいと上官が手に取り、王宮にやってきた地方役人が似たような意匠を作ることを女たちに命じ、やがて農民たちが雨蛙の柄の手拭いで野良仕事をし始めた。と、ここまではよくあるパターンだ。さらに使い古しの手拭いをオバァたちが使い、余った生地を孫の襁褓《おむつ》にした。最後は雨蛙は襁褓の柄というイメージが定着した。ここまで消費されると二度と雨蛙は流行の先端には這《は》い上がれない。
「ふう、暑いなあ」
と草むしりをした嗣勇が雨蛙の手拭いで汗を拭く。その姿を見た若い女たちがくすくす笑った。
「いやあだ。あのお役人様、襁褓を手拭いにしているわあ」
王宮のファッションリーダーだった嗣勇がその言葉に凍り付く。
「ぼくの雨蛙が襁褓だって?」
死の王宮はあらゆる時間の流れを止めてしまう。流行から後れた嗣勇は自分のなりに愕然《がくぜん》とした。これでも精一杯お洒落してきたつもりだったのだ。今の流行が何なのか知る術《すべ》もない。
「このままだと本当に埋葬されちゃうよ」
花の王宮は近いようで遠い。今頃同僚たちは新しい舞台芸能の話題でもちきりだろう。組踊の戯曲も書いていた嗣勇は、創作活動に打ち込みたいが玉陵には番所がない。ただ日がな一日、草むしりをして過ごすだけだ。
「真鶴〜っ。早く王宮に戻してくれよ〜っ」
一縷《いちる》の望みを託した妹は朝から晩まで王宮に拘束されて便りもなかった。今頃、妹は寧温になって評定所で執務している時間だろうか。一日の流れさえ玉陵では掴みにくかった。
「なぜぼくが墓守に。こんな役人の墓場に」
ふと黒黴に覆われた霊廟を眺める。ここは第二|尚氏《しょうし》王朝の墓だ。よく考えると第一尚氏王朝の末裔《まつえい》の自分がなぜクーデター王朝の尊厳を守っているのか意味不明だった。
「第二尚氏王朝さえなければ、ぼくは今頃、首里天加那志か、王子様か、悪くても按司だったのに。そしたら流行の衣装を清国から取り寄せて毎日楽しく遊んで暮らせたのに」
政治に疎い嗣勇でも、王府の政局が混乱しているのはわかった。今の政治がおかしいのは、薩摩派が牛耳《ぎゅうじ》っているからだ。薩摩の力が大きくなると王府は血腥《ちなまぐさ》くなるのが常だ。
「薩摩派なんていなくなってしまえばいいんだ。琉球は大国に頼らずに生きていけるくらい立派な国なんだ」
そもそもこんな国にしたのは第二尚氏王朝が発足してからだと嗣勇は気がついた。島津の琉球侵攻を許したのは二百五十年前の第七代国王・尚寧《しょうねい》の治世だ。尚寧王がもし島津を打ち破っていたら、薩摩派なんてそもそも存在しないのだ。琉球は明《みん》国と冊封体制を維持し、東アジアの国際連合の中で幸福に過ごせたはずだった。
カッとなった嗣勇は墓に石を投げつけた。
「琉球の基礎を造り、明国の代理で世界の海を渡ったのは第一尚氏だぞ。おまえたちは国を乗っ取り異国に売り渡した、ならず者じゃないかっ!」
こんな連中が祀《まつ》られている墓を維持管理するなんてバカらしいと嗣勇が怒る。琉球が二重支配を受けることになった戦犯はこの墓の中に祀られている。
第一尚氏王朝の伝説は建国の英雄譚として庶民に根強い人気がある。史上初の統一王朝を成し遂げ、海を越えてアジア全域と交易を行った。今の琉球の版図は当時よりもずっとずっと狭い。第一尚氏が築いた財産を第二尚氏が食い潰しているのが腹立たしい。
「おまえらは第一尚氏の末裔の寧温がいなければ、ペリー提督に国を乗っ取られていたんだぞ。第一尚氏の姫君に無礼だぞ。本当なら真鶴は今頃、聞得大君加那志だったんだぞ!」
嗣勇ははたと気がついた。寧温に王宮に戻してもらう日を待つよりも、いっそ第二尚氏そのものを潰してもらえばいい。それが妹を本来の姿に戻し、幸福にすることではないかと思い至った。
「このぼくが第一尚氏王朝を復興してやる!」
嗣勇の目に野心の炎が灯った。
朝薫の屋敷では排斥された向一族が反旗を翻《ひるがえ》す準備を整えていた。
向家百四十年の歴史の中でこれまで何度も一族は政敵と相まみえてきた。向一族が繁栄を維持してきたのは討たれたら必ず反撃するからだ。清国派の他の勢力とも協力して、捲土重来を目指す。
派閥抗争には関心がなかった朝薫だが、今回の露骨な人事には怒りを通り越して呆れてしまう。正々堂々と闘う気のない敵には相応の手段で報復するつもりだ。
朝薫が打倒薩摩派の檄《げき》を飛ばした。
「我が一族は第二尚氏王朝を支える由緒正しき血統である。向一族を排斥することは王朝への謀叛《むほん》に等しい。王府への薩摩の介入は主権の侵害に他ならない。薩摩派を一掃し、王朝の御政道を正すのだ」
「喜舎場親方に申し上げます。薩摩は軍艦購入の手はずをつけるよう王府に圧力をかけております」
「言語道断《ごんごどうだん》だ。それではまるで我が国が死の商人ではないか。異国の富国強兵策に、しかも薩摩の政策に荷担するとは自らの首を絞めることだ。軍艦を購入されたら薩摩が以前よりも大きな影響力を持つようになってしまう。すぐに上訴文を認《したた》めよう」
「首里国学の学生も今回の人事に関しては異を唱えております。久米村《くめむら》総役にもお願いして圧力をかけてもらいましょう」
「清国から援助はもらえないか?」
朝薫が残念そうに俯《うつむ》いた。薩摩が介入してきたのは東アジア情勢の混乱が起因と思われた。
「清国は英仏連合軍と闘っていて、琉球どころではないはずだ。残念だが頼りにはならないだろう」
阿片戦争に勝利した英国は東インド会社の版図を広げるために清国の主要港を開港させた。しかし英国の思惑とは裏腹に利益があがらなかった。これを不服とした英国は清国に貿易不均衡を是正するように圧力をかける。しかし適正貿易を主張する清国との交渉は平行線をたどり、ついに英国は宣戦布告の口実をでっちあげた。
英国船籍アロー号を臨検したのは不当だと主張し、武力衝突する。俗に言う「アロー号戦争」の勃発《ぼっぱつ》である。英仏連合軍は清国軍を追いつめ、ついに北京《ペキン》を落城してしまう。清国は大規模な内戦を抱えながら列強とも闘い、国家は分断され満身創痍《まんしんそうい》だ。
「あの偉大なる清国が落ちていく。琉球はどの国を頼りにすればよいのだ」
朝薫の屋敷に威勢のいい声が轟《とどろ》いた。やって来たのは向|摂政《せっせい》だ。一族を解体された向摂政は怒り心頭だった。
「朝薫、我らを討った敵の正体がわかったぞ。薩摩の異国方御用掛の浅倉雅博という男だ。以前、御仮屋《ウカリヤ》にいたらしいが憶えがあるか?」
その名を聞いて朝薫が震えた。かつて国際共同捜査で阿片事件を解決した仲間に討たれるとは、思わぬ伏兵だ。
「あいつめ。また琉球に戻ってきたのか!」
「知り合いか?」
「少しは友情を感じておりました。薩摩の人間にしては教養高い男だと思っていたのですが、見込み違いだったようです。頭脳ではぼくに勝てないから卑怯な手段に出たのでしょう」
雅博はよき想い出を携えて薩摩に戻ったのだとばかり思っていた。だがこんな形で敵対することになろうとは、朝薫は残念でならない。薩摩藩の中で一番厄介なのが雅博のようなタイプだ。琉球を愛し、友情を深め、想い出をたくさん持つものほど、やがて琉球を操ろうとする。
「許さないぞ。ぼくは絶対にあいつを許さないぞ」
朝薫の瞳に憎悪の炎が立ち上った。
兄と朝薫が王府への反撃の準備を整えているとも知らず、真鶴は暗シン御門の中で真美那と対峙《たいじ》していた。
真美那は何度も繰り返し首を横に振った。
「あなたが孫寧温だったなんて、信じられないわ」
「真美那さん、これには訳があるのです」
真鶴は許してもらおうと真美那の前に跪《ひざまず》く。しかしどんな言い訳をしても納得してもらえるとは思えなかった。
真美那は真鶴が本当に寧温になるのか半信半疑のまま、男物の着物を羽織らせる。着物を纏《まと》ったシルエットは正真正銘の寧温だった。孫寧温は宦官ではなく女だった。女が科挙よりも難しいと言われる科試に首席でしかも最年少で合格し、実務派の出世の頂点と言われる表十五人衆にまで上り詰めたなんて信じられない。しかも孫寧温は十三カ国語を駆使し、幕府をきりきり舞いさせたペリー提督にすら頭脳戦で勝ったのだ。女にそんなことができるなんて真美那の理解を超えていた。
真美那はしげしげと寧温を眺めて、呟いた。
「すっごお〜い。尊敬しちゃうわ〜」
寧温は思わず足を滑らせた。真美那のうっとりとした眼差しに何か不穏な空気を感じる。真美那の破天荒《はてんこう》さは真牛級だ。真美那は寧温の他の衣装を見比べながら鼻歌を口ずさんでいる。
「真美那さん、何を考えているんですか?」
「真美那のお願い聞いてくれる?」
真美那は赤冠の帽子を被って無邪気にはしゃぐ。寧温は来るぞと耳を塞いだ。
「私も、男装した〜い」
「ダメです。女だとバレたら真美那さんといえども流刑にされてしまいます」
「だってあなたは何年も上手くやってきたじゃないの。絶対にバレやしないわよ」
「やめてください。私は毎日首を刎《は》ねられる覚悟で男装しているんです。真美那さんを危険に晒すなんてできません」
寧温のきつい声に真美那はじわっと涙を浮かべた。
「真美那、泣いちゃう……」
理屈では負けない寧温だが、この手を使われるとどっと疲れる。一日の始まりなのに消耗しきった気分になった。とどのつまり、男にしか通用しない武器が寧温には有効だ。女にこれをやっても無意味なのを真美那は知っている。
「真美那さんが男装なんて無理です!」
「あら、やってみなきゃわかんないでしょ?」
「やったら取り返しのつかないことになりそう……」
しかし見つかったのが真美那でよかったとも思う。真美那の友情は男同士の絆《きずな》以上だ。真美那の口の堅さは鑑定書付きだ。秘密を曝露することは絶対にない。寧温は渋々、真美那の願いを聞き入れた。
「茶会事件のときに助けてくれたお礼です。ただし評定所に行くのは危険なのでおやめください。向一族は一掃されました。薩摩派の馬一族が真美那さんの弱みを握ろうとしております」
「私はそんなバカじゃないわ」
そのバカよりもバカなんだよ、と寧温は言いたいが、条件は飲んでくれそうだ。お嬢様の気晴らしに付き合ってあげると思えばいい。
生まれて初めての男装に真美那は有頂天だ。花びらのような形に締めた前帯がちょっと華やかすぎるが、地味目の衣装だし、花当《はなあたい》出身者と強弁すれば気迫で押し切れそうなくらいには男っぽくなった。
「いいですか。絶対に誰とも喋《しゃべ》ってはいけませんよ」
「わかってるわよ」
と真美那が人差し指を唇に当ててウインクする。
「わかってない……」
寧温は真美那の手を引いて暗シン御門から抜け出した。幸い南風《はえ》の廊下には人がいない。今の内に王宮の外に連れ出して人混みに紛れさせればよい。
守礼門《しゅれいもん》から綾門大道《アヤジョウウフミチ》に出た瞬間、人混みが歓声と共に後ずさる。
「おい、あの妖しい二人は何だ?」
「新しい踊奉行か。すごい。何という色気だ」
男同士のような、女同士のような、見る者を倒錯の世界へ誘うカップルの出現に王都のメインストリートが騒然となる。真美那は内股で歩き、道行く人に微笑みかける。美青年ではすまされない横溢《おういつ》する色気に庶民は圧倒される。
「お役人様どうぞ傘をお持ちください」
道行く女性の心を捉えた真美那はさっそくプレゼントを受けた。女性は黄色い声をあげて興奮している。それを見た他の女性が求愛の手拭いを真美那に渡す。冷えた水筒を渡す。扇子を渡す。やがて真美那と寧温は物見高い庶民たちに幾重にも囲まれてしまう。琉球芝居の看板役者さながらの人気だった。
「みなさんのお心遣いに感謝いたしま〜す」
「真美那さん、なに愛想振りまいているんですか。騒ぎが大きくなります」
「いいじゃない。みんな喜んでくれてるんだし。あらお婆さん、お花をありがとう」
「女言葉になっていますよ。なんで|千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《せんじゅこう》を配ってるんですか!」
「私の焼いた千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》は美味《おい》しいって評判なのよ。隠し味が――いた〜い。抓《つね》らないでよ」
そうこうしているうちに士族の目に留まってしまった。首を傾げて近づいて来たのはよりにもよって蟄居中の朝薫だ。
「寧温か? もうひとりは誰だ?」
「真美那さん喜舎場親方ですよ。逃げましょう」
「大丈夫よ。絶対にバレない自信があるわ」
朝薫は傅《かしず》かれているもうひとりの役人を見て肝《きも》を潰した。男装しているがあの天然お嬢様全開のはしゃぎようは間違いなく真美那だ。
「真美那! 何て恰好しているんだっ!」
「うっそ〜。なんでバレたの?」
真美那と寧温が脱兎《だっと》の如く逃げ出した。こうして真美那の初めての男装は敢えなく失敗に終わった。真美那は朝薫から叱責の手紙を受け、しばらくは御内原で謹慎することになった。しかし真美那は諦めていなさそうだ。世添《よそえ》御殿の居室で真鶴と茶菓子を食べながら脱出する機会を窺《うかが》っている。
「次は上手くやるわよ」
「もう勘弁してください……」
真美那は全然|懲《こ》りていない。こういうときこそあの手だ、と真鶴は閃《ひらめ》いた。
「真鶴、泣いちゃう……」
「泣けば?」
真美那は蒸し菓子のちいるんこうを無造作に頬張った。
*
寧温と真鶴が同一人物だと真美那に知られてからというもの、真鶴は御内原から外出しやすくなった。真美那の全面的な協力により、御内原の行事を寧温の勤務状況に合わせるように画策してくれた。むしろ真美那は秘密を共有することで友情を深めたと喜んでいる様子だ。
「真鶴さん、今日も遅いの?」
「はい。来月の国母様のトゥシビー(生年祝い)には出席したいので、今のうちに仕事を片づけておきます」
「また茶碗を割りましょうか?」
「それはやめてください。我が国の資産が減ります」
「じゃあ、行ってらっしゃ〜い」
真美那の作った弁当を渡されて御内原から出勤するというのも倒錯した世界だ。真鶴は手際よく寧温になり、久慶門から王宮に入り直した。正殿の二階から黄色い声がする。
「孫親方おはようございま〜す」
見れば真美那が窓から手を振っていた。これが出勤のワンセットになっていた。真美那の初恋は終わったけれど、永遠に昇華された。男と女は別れたらそれまでだが、女の友情は生まれ変わっても続くと真美那は信じている。
そんなある日、げらゑの間で着替えていた寧温が吐き気を催した。予感もなく急に胃の底が押し上げられ、しばらくすると元に戻る。過労が祟《たた》ったのかと思ったが、気分が漫然と優れない。意識に靄《もや》がかかったような状態だ。
「また月の報せだろうか……?」
寧温がふと生理のせいかと考える。しかしこの前いつ生理が来たのか思い出せない。先月はなかった。その前もなかったような気がする。生理なんてなければいいと思っていたから、つい無頓着になっていたが、いくらなんでも遅い。また吐き気に襲われる。寧温に嫌な予感がこみ上げた。
――まさか。まさか。妊娠したの!?
王宮で宦官と側室の二重生活を送っていた寧温に懐妊の兆《きざ》しが顕《あらわ》れた。
[#改ページ]
第十六章 波の上の聖母
体の中で激しくぶつかる二つの性は、常に渦を生み出す。太陽と月が同時に天空を駆けるような寧温《ねいおん》の人生についに二つの星の軌道が交差した。
「私が子どもを身籠もるなんて、嘘よ!」
紫冠の帽子を被った寧温は混乱していた。宦官《かんがん》として意識を男に変えたばかりなのに、真鶴《まづる》は寧温の体を乗っ取ろうと虎視眈々《こしたんたん》と狙っていた。いくら表層を男の恰好で覆っても、内側からの変化は覆《くつがえ》せない。寧温になると真鶴は肉体を蹴破らんばかりに暴れるものだ。そして真鶴になると寧温は野心を滾《たぎ》らせる。寧温のときに悪阻《つわり》が起きたのは、真鶴の仕返しだ。
『さあ寧温、私に体を返してちょうだい』
と真鶴が勝ち誇ったような声で寧温に囁《ささや》く。それが当然の権利だといわんばかりに。いかに頭脳|明晰《めいせき》な寧温といえども、この事実は覆せまいと真鶴は高を括《くく》っている。
『私は女。宦官なんかじゃないわ』
そんな真鶴の声に血の気が引いた。
「ダメよ。妊娠なんかしたら評定所《ひょうじょうしょ》に行けなくなる。これはきっと疲れのせいよ。ううっ……」
また胃を押し上げる悪阻が寧温の思いを砕く。知識でなら悪阻がどんなものか寧温は知っている。真美那《まみな》が懐妊したときも同じような症状だった。真美那は素直に吉兆を喜んだのに、寧温は恐怖に打ち震えている。
「あり得ない。私が妊娠するなんてあり得ない……」
そう呟《つぶや》いたとき、無意識のうちに涙が頬を伝っていた。まるで他人の涙のように感情と繋《つな》がっていないのが不思議な気がした。しかし止めどもなく涙が溢れてくる。不意に血を流したときの驚きに似ていると寧温は思った。
「血? これは赤ちゃんの涙……?」
命を喜ばない母を悲しんで子どもが泣いていると寧温は思った。王の血筋を受けた国の宝なのに、母親は男の恰好をして暗《クラ》シン御門《ウジョウ》で震えている。そのことが赤ちゃんは悔しいのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたに罪はないのよ。全部、私のせい。あなたは悪くない」
そう言ってお腹を抱き締めたとき、寧温はやっと自分の涙を流せた。寧温と真鶴は常に拮抗《きっこう》している。側室として御内原《ウーチバラ》にいれば、こういう日が来るのは当然のことだ。御内原に留まっていたのは、真鶴の願望だったのかもしれない。いつか子を産みたい。母になってみたい。男として生きていたときには絶対に叶《かな》わない夢だったのに、御内原の中では女でいられる。逃げようと思えばいつでも不祥事を起こして逃げられたはずだ。
しかし真鶴はそうはしなかった。女でいられる自由を不自由な御内原で確保しておきたかったのかもしれない。
「私はどうすればいいの? 寧温はどうなるの?」
評定所は薩摩の人事介入で混乱している。軍艦購入を阻止しなければ、次は大砲が欲しいと当然のように要求するだろう。島津|斉彬《なりあきら》の琉球介入はあまりにも急進的だ。琉球がもっとも恐れていることは、薩摩の琉球併合だ。今の薩摩ならあり得る話だ。
「国のために生きるのが私の人生。そのために全てを捨てたはず。妊娠している場合じゃない」
いくら理性に言い聞かせても、このお腹の中に新しい命が宿っていると思うと、寧温は帯を締めるのを躊躇《ためら》った。そっと締めるか、それともきつく体を締め上げるか、どちらも出来ずただ帯の端を持ったまま時が過ぎていくばかりだ。
「ごめんなさい私の赤ちゃん。ちょっとだけ我慢してね」
寧温は息を整えて帯を固く結んだ。
評定所は薩摩派の天下だ。廊下ですれ違った侍たちは王宮を薩摩の出先機関とでもいうように我が物顔で闊歩《かっぽ》していく。今までは清《しん》国に配慮して目立たないように王宮に現れたものなのに、清国が没落していくのを嘲笑うかのような傍若無人《ぼうじゃくぶじん》ぶりだ。
寧温は今日も高札《こうさつ》に異例の人事を見つけた。異例に慣れすぎて今では誰も気にしない。
「評定所|筆者主取《ひっしゃぬしどり》に薩摩派の謝花親雲上《じゃはなペーチン》が任命された。この前まで足筆者《たしひっしゃ》だったのに」
「あなただって科試《こうし》首席合格で評定所筆者主取に任命されたはずです。そのときよりは常識的な人事だと思われますが?」
高札に現れたのは雅博《まさひろ》だった。寧温はきつい目で睨《にら》みを利かせた。
「雅博殿、異国の人事に介入するあなたこそ非常識だと思い知るべきです」
「人事権は私にあると言ったはずです」
「これが雅博殿の本意ですか? 歌と筆で琉球を愛してくださった雅博殿はどこに行ったのですか?」
雅博は大して気にも留めないといった様子で、羽織を翻《ひるがえ》そうとする。
「お待ちください。お互いに理念を曲げられないのは承知の上です。仕える主君も違います。ただ衷心《ちゅうしん》より申し上げます。この介入は薩摩にとって不利益をもたらすことでしょう」
「聞き捨てならぬ台詞だ。私は藩益を守るために藩主の命に従っているまでだ」
「富国強兵策は一藩の資金では限界があります。軍艦を購入して薩摩の民が豊かになるとでもお思いですか? 民に重税の負担を強いるだけです」
「だから人事介入はやめろと言いたいのだろうが無駄なことだ。私は自分の意志以上の決定で動いている。情に訴えても無駄だ」
「| 志 《こころざし》を手放したのは雅博殿の落ち度です。私は決して志を手放したりしません。主君の命令で砕ける志など所詮、擬《まが》い物でしかありません」
その言葉に雅博が初めて感情を迸《ほとばし》らせた。
「では敢えて聞く。孫《そん》親方は志を砕かれたことはないのか? 国王の命令と志が相反したことは一度もないのか?」
「いいえ……。ありません……」
口籠もった寧温に雅博は「私はある!」と言った。
「私は何度もある。自分の意志すら見失ったこともある。感情に溺《おぼ》れたこともある。激情のままに全てを捨てようと思ったこともある。あなたが八重山《やえやま》に流刑《るけい》になったとき、八重山に行こうと思った。だが立場の手前できなかった」
雅博が寧温に覆い被さるように両手を壁に押しつけた。雅博の熱い息で寧温は耳の奥まで火照《ほて》ってくる。
「雅博殿……」
「意志のままに感情のままに動けるのは平民だけだ。我々は忠誠心しか求められない士族だ」
「それでも……。臣下にも意志や感情はあります。私の意志は首里天加那志《しゅりてんがなし》の御意志であり、国家の意志でもあります。国家の意志に背《そむ》かなければ志を全うできるはずです」
「あなたは嘘つきだ。感情に溺れたことがないのなら、それは人ではない。それとも宦官は感情すら去勢できるのか?」
「この無礼者! 従二品・日帳主取《ひちょうぬしどり》の私を愚弄《ぐろう》するなんて!」
寧温は思わず雅博の頬を叩いた。寧温は心の中の想い出を雅博に壊される前に自分で壊したかった。たぶん雅博も寧温に壊してほしくて叩かれたのだろう。雅博は目を閉じたまま肩を震わせていた。
「孫親方、あなたには本当に意志に反する感情はないのか?」
寧温は怖くて歯の根が合わない。何か答えなければと頭はフル回転しているのに、どんな答えが飛び出るのか知りたくなかった。寧温の手は無意識のうちに腹を守ろうとしていた。
雅博は言う。
「私は本来感情的な人間だ。だから恋もする。夢も追う。叶わぬ想いに無駄と知りつつ縋《すが》る。そして形見もかわす……」
雅博が見せたのは真鶴の形見の結び指輪だ。寧温は雅博が何かを壊しそうで耳を塞ぎたかった。
「私が八重山の娘に求婚したのは、あなたの面影に似ていたからだ……」
「雅博殿、何を仰《おっしゃ》るのですか」
「私が琉球を愛していないわけがないだろう。ここで生涯にただ一度の恋をした。そして恋に敗れた。彼女は私よりもずっと身分の高いお方の許《もと》に嫁いだよ」
「女は殿方の地位や身分に惹《ひ》かれるわけではございません」
「私もそう思っていた。だから真心の全てを捧げて求婚した。剥《む》き出しの感情で。裸の心で。きっと手に入ると思っていた。もし彼女が私の妻になっていたら、今の私は感情の赴《おもむ》くままに主君に逆らって琉球を守っていただろう。だが、あのとき私は悟ってしまった。感情は意志よりも弱く、意志は命令よりも弱い。感情で勝ったことのある人だけが、感情的に生きられるのだと知った」
「雅博殿は感情を殺して生きていくおつもりですか?」
「違う。二度と表に出さないように感情を守っているのだ。でないと人生は辛すぎる。あなたは感情で勝ったことがあるのか?」
「……いいえ。ありません」
答えたのは真鶴なのか寧温なのか自分でもよくわからなかった。
「では私にとやかく言える筋合いではなさそうだ。私の行動と感情は生涯相反するだろう。それが私の人生だ」
「雅博殿、もう一度、もう一度だけ感情を表に出して琉球を愛してください。そんな生き方は自分を苦しめるだけです」
「ではお言葉に甘えて少しだけ感情を出してよろしいか?」
寧温が頷《うなず》いた瞬間、雅博の指が恐々《こわごわ》と寧温の頬を撫でたではないか。雅博は寧温が逃げないと確認するや寧温の手をとって自分の頬に押しつけた。
「雅博殿、そんな目で見ないでください。私は、私は……」
「何も喋《しゃべ》らないで。ただじっとしていて」
雅博の固く引き締まった頬を寧温の指が読みとっていく。肌理《きめ》の細かい肌はその奥にある骨格を端正に包んでいる。引き締まった男らしい肌に寧温の指が無遠慮になる。感情的な男だと言っていたのが伝わる熱い肌だった。
雅博は切なそうに寧温の掌に頬を押しつけた。
「なぜだろう? 私はすごく満たされている。失ったものを手に入れたような気分だ……」
雅博の無防備な眼差《まなざ》しで見つめられると、寧温は理性のコントロールが効かなくなった。今、手を撥《は》ね退けるのが常識なのに、そうすることは心が許さなかった。ふと、寧温も表情を緩めて雅博を切なそうに見つめた。
「雅博殿……」
そのとき、雅博は戦慄《せんりつ》を覚えた。寧温の顔が一瞬のうちに真鶴に変わったではないか。
「ま、真鶴さん……!?」
しまったと正気に戻った寧温は逃げるように廊下を後にした。雅博は奇術でも見せられたように呆然とその場に立ち竦《すく》んでいた。
「今のは一体なんだったのだ?」
真昼の強烈な幻覚に雅博は動悸《どうき》が収まらない。
一方、寧温はひとり、龍潭《りゅうたん》の畔《ほとり》でさめざめと泣いた。
「雅博殿、私も感情を表に出してはいけない人生なのです……」
寧温の中に宿った小さな命はまだ人生に光と影があることを知らないまま、着実に存在を増していく。
ふやかれる苦りしや知りなげな
我身《わみ》にのよで物思顔見せて呉《く》ゆが
(別れる苦しさは知っていたはずなのに、どうして私に憂《うれ》い顔を見せるのでしょうか。そんな顔をされるとどうしたらいいのかわからなくなります)
宦官の昼から側室の夜へと戻る暗シン御門は性が転換する回廊だ。帯を解いた寧温は、真鶴へ体を譲った。そっとお腹をさすった真鶴は笑みを浮かべていた。この体の中に命があるなんてまだ信じられないが、心の内側から温もりが溢れてくる。真鶴のときに悪阻を覚えたらきっと寧温は病欠ということにして、御内原で安静にしていただろう。
「私に赤ちゃんが宿ったのね……」
昼間さんざん悲しい思いをさせた命を今は慰撫《いぶ》してやりたい。寧温が子どもを産めば破滅だが、あごむしられが産めば国の吉事だ。真鶴は寧温が邪魔に思えてきた。
真鶴になると現れるのは寧温の影だ。心の中ではずっと寧温の非難の声が響いている。
『まさか子どもを産むつもりじゃないでしょうね』
『始末するなら今のうちです』
『評定所で出産なんてごめんです』
『一体次は何をやらかしてくれるんですか』
『この厄介者の真鶴』
『寧温のお荷物』
さっきから真鶴に浴びせられる罵詈雑言《ばりぞうごん》を聞いていても、不思議と乱れない。むしろ寧温が哀れに思えてくるのだ。なぜか知らないが勝利した気分にさえなる。あの強靭《きょうじん》な意志の寧温が何も持たない無力な存在に思える。寧温は国難を救うかもしれないが、真鶴は国の未来を産むことができる。今まで立場が弱かった真鶴は初めて寧温と互角になったと思った。
「私はお母さんになるのよ。寧温、あなたはお父さんになれないでしょう?」
ふと笑みを浮かべた真鶴はこのまま柔らかい綿になって丸く転がりたくなる。余計な不安を赤ちゃんに与えないように理論ではなく優しい感情だけで包んでしまいたかった。
「私の赤ちゃん。首里天加那志の赤ちゃん」
突然、障子《しょうじ》に寧温のシルエットが差した。真鶴は寧温の生き霊が現れたと肝《きも》を潰す。
「花城《はなぐすく》親雲上の真美那で〜す」
すっかり男装癖のついた真美那がわっと驚かせて障子を開けた。
「もう、真美那さん。悪い冗談はやめてください」
「そろそろまたお忍びで外出したいわ」
真美那は花城親雲上という偽名までつけていた。詐称経歴も一応用意している。泊《とまり》士族出身で寺社座|中取《なかどり》という微妙に正体がバレにくい地位だ。ただし花城親雲上と名乗れる段取りまで漕ぎ着けられた試しがない。どこに出てもすぐに真美那だとバレて向《しょう》一族から追い回される。寧温と自分の何が違うのか真美那にはわからない。
「真美那さんは心が女のままです。表情から立ち居振る舞いまで全て男にならないと、いくら男装しても気持ちの悪い男にしか見えません」
「美青年ってことにならないの?」
「美青年は小指を立てて笑いません」
「じゃあオカマでいいわよ」
「オカマの所作はもっと下品です。真美那さんは女性として完璧すぎて、直しようがありません」
真美那の唯一の欠点は何をやっても真美那だということだ。皿を汚さないように食べた膳を見て、真美那だと思い、きちんと揃えられた草履《ぞうり》を見て、真美那がいると思い、すーっと風が流れたのを感じて真美那が通り過ぎて行ったと思う。ここまで完璧にお嬢様だと芸域が狭くなる。この上に王室秘伝の百年の古酒を料理に使ったり、国宝の茶碗を割ったり、紅型《びんがた》を雑巾にしたり、などなど独特な行動が重なると、誰の目も誤魔化せない。
「なんでいつもバレるのかしら? さっき娘にまで母上様って後ろから抱きつかれたわ」
「うみないび(王女)様に?」
真美那は王女である娘をこよなく愛していた。一卵性母娘とでもいうべき天性の愛らしさを持つ王女だった。泣き顔すら微笑《ほほえ》ましい王女は御内原のアイドルだ。
「お昼も遊んであげたのに、まだ遊び足りないみたいなの。誰に似たのかしら?」
「昨日、私の部屋から『三国志』を持っていきました。『源氏物語』がよいと思ったのですが聞き入れてくださいませんでした」
「やだわ。私が借りようと思ってた巻が抜けてるじゃない。もう油断ならない子なんだから」
真鶴は思わず笑ってしまった。母と娘は年の差違いの分身だ。もしかしたらお腹の子も自分に似るのではないかと考えた真鶴は、はたと気づいた。
――真鶴に似るのかしら? それとも寧温?
身籠もった子が男か女かも考えていなかった。人は男か女かどちらかの性で生まれる。そのことが不条理だと心のどこかで引っかかっていたのかもしれない。
その晩、真鶴は不思議な夢を見た。
臨月になっていよいよ出産という光景だった。忙しく出入りする産婆たち、女官、大あむしられの祈祷《きとう》の中で真鶴は必死になって息んでいる。気の遠くなるほど長い出産だった。頭はとっくに出ているはずなのに、子宮が縮まらない。それどころかズルズルと何かを引きずっているような感覚がする。
生まれた瞬間、産婆が声を荒らげた。
「おめでとうございます、あごむしられ(側室)様。龍が生まれました!」
真鶴が懐妊したのを最初に気づいたのはお付きの勢頭部《せどべ》だった。月の報せが遅れているのは知っていた。しかし不用意に騒ぎ立てると万が一懐妊していないときの失望は大きい。慎重に慎重を重ねてほぼ確信できるまで往診を控えさせていた。
そして真鶴が悪阻《つわり》を起こしたとき、勢頭部は思戸《ウミトゥ》に報告した。
「女官大勢頭部様、真鶴様が懐妊なさいました!」
「何とめでたい。すぐに首里天加那志とうなじゃら(王妃)様にご報告するのだ」
真鶴の懐妊が知れるや、御内原は活気に沸き返った。こうなると真鶴の意志は関係なく、出産に向けての準備が行われる。産婆の手配、乳母の手配、担当女官の人事、京《きょう》の内《うち》の大あむしられへ祈願の手配、そして大美御殿《おおみウドゥン》での祝祭の準備。
「銀杯を準備せよ。もし男子であった場合は、真美那様のときの倍は必要になるぞ。御料理座の使用許可も申請しておけ。高級食材の備蓄はぬかりないか? 豚肉は? 鶏肉は? 昆布は? 昆布がないだと! ええい薩摩行きの船を出して買って来い!」
思戸は手際よく女官を配置していく。女官たちも吉事に沸き返り職分を遺憾《いかん》なく発揮する。御内原は暇だと喧嘩と賭博《とばく》の巣窟《そうくつ》だが、忙しいと有能な人材の宝庫に変わる。
そんな中、心配そうにやって来たのは真美那だ。
「真鶴さんにはおめでとうって言いたいんだけど、孫親方には大変なことになったわね……」
真鶴の一人二役を全面的に協力してくれた真美那でも、この難局をどう乗り越えたらいいのかわからない。真美那もまさか真鶴が懐妊するとは夢にも思っていなかった。むしろ懐妊して初めて真鶴が自分と同じ女だと思い知らされた。
真美那は真鶴のことをどこか女を超越した存在のように思ってきた。真鶴の才気|煥発《かんぱつ》さ、勇気、そして行動力は女のものとは思えない。性が入れ替わる二つの人格を演じ分けているのではなく、寧温と真鶴は完全に別人格として生きているようにしか見えない。正体を知っている真美那ですら寧温と真鶴が同一人物であることを忘れかけるほどだ。
真鶴の曲芸めいた人生は、人間業とは思えなかった。真鶴と寧温の裏にはさらにもう一段階、仕掛けがあるように真美那には思える。性を超越するのはたとえば神、或いは神獣の化身である。
「真美那さん、私は本当に子どもを産む資格があるのでしょうか?」
「なに言ってるの。資格がなきゃ産めないなら、女の半分は母親になれないわよ」
「私は寧温を捨てなければならないのかと戸惑っています」
「大丈夫。孫親方は辛気を煩《わずら》って長期療養ってことにしておいたわ。これが医師の診断書。これが休養届け。ほら署名して」
「ダメです。今日は異国方御用掛《いこくほうごようがかり》殿との重要な調整があります。私が出ないと琉球は長崎の出島にされてしまいます」
しかし真鶴には微熱がある。真美那は何とかして真鶴を助けたい一心だ。
「よし。私が花城親雲上に変身して会議に出ましょう」
「やめてください。花城親雲上が現れたら全てが吹っ飛びます」
「じゃあ巳《み》の刻に私が孫親方をお茶に呼びつけるわ。それで戻るってのはどう?」
「国が大事なときなのに、私は妊娠なんかして……」
「女が『妊娠なんか』って言うのはやめて。神様に失礼よ。何よりも子どもが不幸だわ」
真美那が悲しそうな顔で呟いた。
尚泰王《しょうたいおう》は真鶴が懐妊したと聞いて祝いの膳を寄越した。鯉汁は男子を祈願してのものだ。王妃からも、国母からも、国祖母からも、聞得大君《きこえおおきみ》からも次々と懐妊祝いの品が届けられる。純血遺伝子培養センターの御内原は、制度的な子宮だ。普段仲が悪い者たちほどよく気がまわるものだ。
聞得大君は霊験《れいげん》により男子誕生の託宣を下した。こうなると喧嘩も祭りも一緒だ。参加しなければ損とばかりに懐妊に便乗する。
「真鶴様、うなじゃら様が茶会をご出産まで延期されるそうです」
「国母様が首里天加那志を身籠もったときの布団を差し上げるとのことです」
「国祖母様より先王様がお召しになられた産着を枕元にとお届けにあがりました」
「女官大勢頭部様がお乳の出のよい乳母を三人見繕いました」
「真美那様から、お腹を冷やさぬように羊の毛の腹巻きを賜りました」
寄せては引く波のように勢頭部たちが現れては消える。女官たちの数はいつもの十倍はいるように思えた。真鶴は急に祭り上げられてきょとんとしている。
「私がこんなに祝福されるなんて想像していませんでした」
「何言ってるの。まだ足りないくらいよ。朝薫からもお祝いを出させるわよ。あ、でも朝薫は蟄居《ちっきょ》しているから貧乏なのよね」
真美那は祝品に悪意や皮肉が籠められていないか見極めている。こういうときこそ危険が忍び込むものだ。だが、真鶴は親切にされて感激している。
「大あむしられ(上級ノロ)様より、安産祈願の念珠が届けられました」
現れた老婆に真美那のダニセンサーが反応する。念珠は三重に首にかけても余るほどの見事なものだが、玉のパターンが女を表す五の倍数だった。これはお腹の子を女子に変えるまじないだ。真美那は躊躇うことなく「えい!」と鋏で糸を切った。
「真美那さん、何てことをするんですか。せっかくのお祝いなのに」
「母親になろうとしているのに、子どもを守らなくてどうするのよ」
「子どもを守る?」
寧温として生きてきた真鶴には自分以外に大切なものがよくわからない。寧温は理念のために生き、国益を守ることこそ正義だと信じていた。民を守る気持ちはわかる。そのために身を犠牲にするのは厭《いと》わない。だが寧温にとって民とは志と同義だ。民を守ることは自分の信念を守るのに等しい。
「真鶴さんは子どもの命を守る義務があるのよ。それが母親ってものでしょう」
「もちろんです。この子は首里天加那志の子。国の未来です」
「今、孫寧温で喋っているでしょう。母親はそんなこと言わないわ。真鶴さんの気持ちはどこにあるの?」
「私の気持ち……?」
「母親は子どもの身分なんて考えない。子どもを損得で勘定しない。たとえ子どもが病気でも、それが助からないとわかっていても、必死になるのが母親でしょう」
真美那は王女を守るためならば、向家を潰《つぶ》してもいいと考えている。それが向家末代の恥と罵《ののし》られようと一向に構わない。以前の真美那なら、向家に逆風が吹いている今の状況をただ傍観しているなんて有り得なかった。敵一族に一矢報いる刃になっただろう。だが母親となった今、下手に動いて王女の身を危険に晒《さら》すわけにはいかなかった。
「真鶴さんは寧温に乗っ取られているわ。世の中には自分の命よりも、理念や志よりも大切なものがあるのよ」
「理念や志よりも大切なもの……?」
寧温で生きると犠牲が生じるのが常だ。寧温は理念のために父を身代わりに失い、理念のために徐丁垓《じょていがい》と相討ちになり、理念のために雅博の求婚を断った。それが人として正しいと信じている。感情は一時的で移ろいやすく、理路整然としないものだ。感情に身を任せるといつか破滅すると自戒している。だが理念を優先しすぎたせいで寧温には辛い記憶しかない。
真美那は言った。
「私は娘のためなら、いつでもあごむしられを辞める覚悟よ。真鶴さんは表十五人衆・日帳主取を辞められる?」
「私は地位に固執しているわけではありません。国のためなら従二品の官位など喜んでお返しいたします」
「ほらまた寧温が答えた。私は子どものために孫寧温をやめられるか、って聞いたのよ」
真鶴はカッとなって真美那に食ってかかった。
「私の人生のほとんどは孫寧温です。やめられるわけがありません。幼い日、髪を捨てたとき、後悔しないと誓ったのです。女を捨てて理念で生きると決めたのです」
「神様が女として生きなさいって、真鶴さんに子どもを授けたのに、それでも寧温で生きるつもり?」
「神様は不公平です。私は男になろうと、男であろうと必死で生きてきました。男として流刑にもなりました。愛《いと》しいお方とも別れました。これ以上、私に何を捨てろというのですかっ!」
真美那が優しい口調で真鶴のお腹をさすった。
「今まで苦労したから神様が真鶴さんにご褒美を授けたのよ。きっと真鶴さん譲りの強い子になるわ。真鶴さんがそういう人だから、神様も安心して命を授けたのね」
真鶴はその言葉でこれまでの人生の苦労が全て報われた気分になった。真鶴が嗚咽《おえつ》を漏らした途端、初めてお腹に命の形を感じた。
「私は……。私は……。赤ちゃんが欲しかった。お母さんになってみたかった……。赤ちゃんを守りたい……。私の命に代えても守りたい……。誰にもこの子を奪われたくない……」
「そう、それがお母さんの気持ちよ」
真鶴の目元が穏やかになる。滲《にじ》み出る慈愛の表情は宦官の寧温でも、側室の真鶴でもなく、どこにでもいるひとりの母親のものになっていた。
[#ここから1字下げ]
火急之儀付可致通知候
従四位権中納言様被遊御逝去候故、於御国許至
万民迄震天動地致居候。仮屋詰衆中無異端様
取図可有之事。拠御指図通知致候事。
午七月
御家老座
参琉球詰衆
[#ここで字下げ終わり]
那覇港に薩摩の船がやってきた。通常の連絡船の到着にしては早い。報せを聞いた御仮屋《ウカリヤ》の在番《ざいばん》は軍艦購入を急がせる書簡なのかと憂鬱《ゆううつ》な気持ちで書簡を受け取った。島津斉彬は歴代の藩主の中でもとりわけ琉球外交に重きを置いている。長崎の出島は国際情勢を把握するには規模が小さすぎる。島津斉彬は琉球の特殊事情を誰よりも理解し、先進文明を取り入れる窓口として活用しようとしていた。
「浅倉殿は王宮に行かれたか?」
「今日中には強行採決で軍艦を購入する手はずを整えると申しておられました」
在番は、色よい返事ができそうだとほくほく顔で書簡に目を通す。突然、在番が息を止めた。震える手元から書簡が落ちる。在番は声を出そうにも動悸に押されて言葉が出ない。
「在番殿、国元で何かあったのでしょうか?」
「ちゅ、中納言、中納言様が、中納言様が……」
「薩摩守に何かあったのですか?」
「中納言様がご逝去《せいきょ》なされた……」
薩摩からの書簡は藩主・島津斉彬の逝去の報せだった。国元が混乱しているから、追って次の指示を待てとの連絡だが、これまでの富国強兵策を見直すのは必至《ひっし》だ。御仮屋に集っていた薩摩の役人たちも藩主逝去で帰還せざるを得ないだろう。
「すぐに王宮にいる雅博にこのことを報せろ。よいか隠密にだ。決して中納言様逝去のことを評定所に知られてはならない!」
在番の大声が御仮屋に響いた。
その頃、王宮では軍艦購入の強行採決へ向けて雅博が最後の調整を行っていた。薩摩の息のかかった評定所筆者は過半数、評定所筆者主取も薩摩側の役人だ。表十五人衆の十二人、三司官の三人も薩摩派だ。派閥に協力しない者には賄賂《わいろ》と圧力をかけておいた。今日の評決を棄権する者が四人。最後まで落ちなかったのは孫寧温ただひとりである。
「孫親方の左遷先も考えておかねばな」
冷静を装っていた雅博の胸が疼《うず》いた。情で生きるのは危険だと雅博は理念を選んだ。しかし理念は雅博を幸福にしてくれそうもない。薩摩・琉球二重帝国の実現は必ず双方の幸福となると信じなければ、こんな陰謀に手を染められなかった。
「時代の大局に立てば想い出は邪魔なだけだ。孫親方、琉球は薩摩に属するのが幸福なのだ」
そう言い聞かせても雅博の胸の内は晴れない。むしろ寧温の泣き叫ぶ声が耳をつんざくのだ。いっそこのまま悪に徹して何も感じられなくなればいいと雅博は唇を噛んだ。
評定所にやってきた寧温の顔色は優れなかった。
「私の力ではもはやどうすることもできない。この私が数の力に負けるなんて――」
「孫親方、怨《うら》まれるな。これが政治というものだ」
「雅博殿、血の通わない政治はただの陰謀だと思い知りなさい」
「政治は結果が全てだ」
裏で糸を引いている雅博は御庭《ウナー》で評決の結果を待っている。それが雅博の仕える主君の命だとわかっていても、寧温は悲しかった。寧温でいることは理念を押し通すことだ。だがその理念は胎内の命によって日々揺るがされてもいた。
「私は国のために生きたいと思っていたのに、国は私を励ましてはくれなかった……。軍艦を購入すると琉球に主権はなくなる。国は、国土はどうしてこのことをわかってくれないのでしょうか」
評定所の評決が始まった。三司官が結果を読み上げる。
「結果を申し渡す。『賛成』二十七票。『棄権』四票。『反対』一票。これで軍艦購入は決議された。日帳主取の孫親方は薩摩藩主へ書簡を認《したた》めよ」
寧温は無言で頷いた。これが国家の方針ならたとえ間違っていても従うのが役人だ、と自分に言い聞かせた。そのときだ。御仮屋に潜ませていた王府の密偵から報せがあがってきた。
「火急ご報告いたします。薩摩藩主・島津斉彬公、ご逝去とのことです」
「島津斉彬公が死んだ――!?」
評定所が騒然となる。続いて御仮屋の役人が血相を変えて王宮の雅博に一報を入れる。
「浅倉殿、すぐに御仮屋に戻れ。中納言様がご逝去なされた」
「何だと! 今、軍艦購入を認めたばかりだぞ」
「その議案を撤回しろ。軍艦どころの話ではない」
雅博に嫌な予感がこみ上げてきた。これまで王宮の人事にかなりの圧力をかけてきた。今、島津斉彬に死なれると、予想外の反動が起こる可能性がある。島津斉彬の後ろ盾で重用されてきた王府の役人たちは死罪を免れないだろう。
評定所から三司官が呆然とした足取りで出てきた。彼も自分の破滅をほぼ確信しているかのようだ。
「浅倉殿、儂《わし》を裏切ったりはしないよな?」
雅博は何も答えられない。新しい藩主が再び富国強兵策を採らなければ、三司官の命を守れる保障がなかった。
「儂は今まで薩摩のためにどれだけ尽くしたとお思いか? よもやその恩を忘れたとは言われまい」
見れば御庭には薩摩派の役人たちが大挙して雅博を囲んでいる。昨日までの本流が源泉を失って枯渇しそうだ。強大な後ろ盾を失った彼らは捨てられた犬のような眼差しで雅博に縋《すが》ろうとする。
御庭に寧温の声が響く。
「雅博殿は理念で生きられるお方です。軍艦購入が意義を失った今、あなた達は見捨てられるでしょう」
「孫親方、私はそんな非情な男ではないぞ」
「いいえ。雅博殿は情を捨てて生きると申されました。彼らを庇《かば》う合理的な理由がない限り、雅博殿はいつでも薩摩派を切り捨てるでしょう」
御仮屋の役人がここにいてはまずいと雅博の袖を引く。そのとき雅博は久慶門《きゅうけいもん》から大挙して押し寄せる王府の役人たちを見た。島津斉彬逝去の報せを聞いて千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスと立ち上がったのは朝薫だ。朝薫が率いる向一族が反撃の狼煙《のろし》をあげた。
「浅倉殿は王宮から出て行かれよ。ここは我らの城だ」
朝薫は大与座《おおくみざ》の役人たちに命じた。
「薩摩から贈賄を受けた役人たちを直ちに連行しろ。証拠はあがっている。軍艦購入に賛成した役人たちも全員取り調べる」
島津斉彬の急死は琉球最大の疑獄事件をもたらすことになった。薩摩の王府人事への介入に不満を持つ役人たちが蜂起し、薩摩の贈賄に関わった者、重用を受けた者全てを投獄粛清した。その勢いは凄まじく三司官といえども拷問にかけ、死に追いやったほどだ。薩摩の世を謳歌していた役人たちは首里からも離され、流刑にされる者も続出した。後の牧志《まきし》・恩河《おんが》事件の勃発である。このような疑獄事件は本来、穏やかで寛容精神に富む琉球の風土と相容れないものだ。しかし薩摩の介入は度を超していた。
琉球は主権を守るために、大国とのバランスを本能的に求める。薩摩に与《くみ》しすぎることも、清国に与しすぎることも、国家存続を危うくする。薩摩の人事介入は王宮のプレートにストレスを与えすぎた。その反動が王宮を激震させる疑獄事件へと発展したのは、王府のパニック発作としか述べようがない。
普段はおとなしく大国の顔色を窺《うかが》い決して怒らない琉球人だが、民族のエトスは自由を求めて大地の奥深くを伏流している。表層的には火山でもないなだらかな山が突然噴火したように映るが、鬱積《うっせき》した感情のマグマは彼ら自身さえ制御不可能なほど荒《あら》ぶるものだ。
刀を持たない士族たちの反乱に雅博はたじろぐ。感情を爆発させた朝薫は怒声を叩きつけた。
「島津斉彬公のご逝去、心からお悔やみ申し上げる。斉彬公への手向《たむ》けとして薩摩への忠義に厚い役人たちを殉職させよう」
「喜舎場《きしゃば》親方、同胞を討つのはやめてくれ。私が琉球を去ればよいだけのことだ」
「薩摩に魂を売り渡した者はもはや王府の役人ではない。浅倉殿もご自身の進退を見極めよ」
向一族王宮返り咲きで吹き荒れた嵐は未曾有《みぞう》の規模だ。怨みを募らせていた朝薫は容赦《ようしゃ》ない制裁で王宮人事を刷新した。向一族の復職とともに王宮を去っていく者がいる。ひっそり去らせたくなかった朝薫は、縄をかけ晒し者にして引きずり回した。贈賄を受けた者は、一族を辱《はずかし》める処分を下した。それでも朝薫の怒りは収まらない。薩摩に汚された王宮を浄化しきるまで徹底的に政敵を追いつめた。
体制を揺るがしかねない血の鉄槌《てっつい》に寧温もさすがにやりすぎだと諫《いさ》めるほどだ。
「朝薫兄さん、もうおやめください。三司官は更迭されました。御政道は正されました」
「ダメだ。薩摩に魂を欠片《かけら》でも売った奴は全て王宮から追い出す。酒を貰った者も、御仮屋の役人と接触した者も全てだ」
「怨みで政局を操ると被害に遭うのは民ですよ」
「琉球を死の商人にしようとした一派こそ民を地獄に落とそうとした鬼じゃないか」
「軍艦購入は白紙撤回されました。島津斉彬公の後の藩主は穏健派と聞いております」
「油断は禁物だ。今のうちに異国武器購入禁止令を講じておく。人事にも介入できないように法改正しておかねば」
「薩摩は一度失敗した手を使いません。実効性のない法改正は、朝薫兄さんを満足させるだけで、琉球の針路を狭《せば》めるだけです」
「寧温、きみの頭脳を以てしても評決を覆せなかったんだぞ」
「その責任は私にあります。法律に問題はありません。今、法改正をすれば琉米修好条約の自由貿易協定に違反してしまいます」
「じゃあ、寧温が責任を取るのか!」
朝薫はついカッとなって寧温を睨みつけた。そのとき評定所に甲高い声が響いた。
「孫親方にも相応の処分が必要と思われますわ」
朝薫と寧温が振り返る。真美那が評定所に現れたではないか。
「あごむしられ様のおなーりー」
「真美那、表に出てきてはならないって何度言ったらわかるんだ!」
「首里天加那志の許可を得ております。朝薫の怒りはもっともよ。向一族に刃向かうとどうなるのか、思い知らせてやるべきだわ。孫親方の立ち位置は向家にとって危険です。今のうちに王宮から出してしまいましょう」
「真美那様、なぜ私を……?」
真美那は威厳たっぷりに寧温を見据えた。
「孫親方に選択を与えましょう。向一族の仲間になるのなら、王宮に残します」
「わ、私は……。私は首里天加那志ただひとりにお仕えする身です。向一族が間違った道を行くのなら糺《ただ》す礎《いしずえ》になります!」
寧温は真美那が何を考えているのか見当もつかない。王宮に吹く嵐は終息の気配もない。清国派の捲土重来《けんどちょうらい》もまた、同じ病理だと寧温は気づいている。薩摩派の主流たちに去ってもらうのは道理だが、全て追い出すとまた別の疑獄事件へと繋がりかねない。寧温は嵐を収められるのはバランス感覚を持つ自分しかいないと思っていた。
真美那もこの動乱にはうんざりしていた。朝薫の怒りを鎮めることを条件に尚泰王に直談判《じかだんぱん》してきた。真美那が王からの口上覚《こうじょうおぼえ》を広げて見せる。
[#ここから1字下げ]
口上覚
孫親方寧温
右者事職務大形成行候故被召解、百浦添御殿
重修為被備仮奉行役被仰付候事。
午九月
中山王 尚泰
[#ここで字下げ終わり]
「寧温が百浦添御殿《ももうらそえウドゥン》重修仮奉行!?」
目を白黒させたのは朝薫の方だ。百浦添御殿とは正殿のことで修復事業の責任者に任命するというものだった。正殿の最後の修復が行われたのは一八四六年で、十余年前のことだ。正殿の修復は三十年を目安に行われるから、あと二十年は手つかずの事業である。
「私が百浦添御殿重修仮奉行ですか?」
まだ玉陵《タマウドゥン》に行った嗣勇《しゆう》の方が働き甲斐はある処遇だ。正殿の修復事業なんて修復工事が終わって解散したばかりだ。奉行所もなければ部下もいない。通常、左遷先は身分を重んじて名誉職を宛《あて》がうものだ。朝薫の首里|三平等総与頭《みひらそうくみがしら》役は事実上、蟄居でも名誉は存在した。瓦を葺《ふ》き替えたばかりの正殿に寧温が手をつける余地もない。
「そう。孫親方は今日から百浦添御殿重修仮奉行よ」
「私はどこに勤めればいいんですか?」
「二十年後、王宮に呼び戻すわ。それまで王宮への立入を禁じます」
真美那はそう言って評定所を後にした。
気が動転した寧温は、暗シン御門から真鶴になって真美那の許《もと》に怒鳴り込んだ。
「真美那さん、ふざけるのもいい加減にしてください! 政治の世界に首を突っ込むなんてどうかしています」
真美那は出来たばかりの産着《うぶぎ》を真鶴に渡してやった。
「真鶴さん、いつまで寧温をやってるつもりなの? そろそろお腹が目立ってくる時期よ。帯なんか締めてる場合じゃないわ」
「わかっています。でも朝薫兄さんの強硬な姿勢は問題があります。誰かが諫めなければ」
「朝薫だってバカじゃないわ。やがて正気を取り戻すでしょう。それよりも、なぜ真鶴さんはお母さんになる準備をしないの?」
「だって私は昼間、寧温なんですよ!」
「だから更迭したのよ。孫寧温は自分の体を犠牲にするのも厭わない。疑獄事件が起きてから食事もほとんど食べない。残業はする。朝は早い。このままだと真鶴さんは流産するわ」
「私が流産……?」
「そうよ。寧温は子どもの命をないがしろにして働くわ。寧温は犠牲に慣れている。私はそれが見ていて怖いのよ。ほら、今だって寧温の顔をしている。寧温の声で喋っている。真鶴さんは寧温に乗っ取られているわ」
そういえば暗シン御門で寧温になるとき、意識を変化させていない気がした。真鶴に戻ったときも顔つきは寧温のままだ。政局が動くと寧温が躍動する。たとえ母胎に変化が起きても意志が真鶴を押さえつけてしまう。
「寧温に戻るのは子どもを産んでからでも遅くないわ。時期が来たら朝薫に掛け合って王宮に戻してあげる。でも今は御内原にいてちょうだい。子どもの命は私でも守れないわ」
寧温も休職願いをいつ出せばよいのか悩んでいた。しかし働きづめになると、評定所の編成にゆとりはないのがわかる。仕事は片づける側から増えていく。評定所の定員を倍にしても終わらない量だ。それをみんなが無理して何とか時間内に終わらせているのが現実だった。休職願いを出したら辞職しろと促されても反論できない。
「国を豊かにするのが私の夢なんです。国の役に立ちたいだけなんです」
「子どもを流産してまで成し遂げたい夢なんて民が聞いたら迷惑でしょうね。真鶴さんは自己犠牲に酔ってるだけよ。自分の子どもを不幸にする人間が、どうして他人の幸せを願えるのかしら?」
真鶴は図星をさされてぐうの音《ね》も出ない。
「孫寧温は確かに優秀な役人よ。そんなあなたを尊敬しているわ。でも、国はひとりで動かしているんじゃない。寧温がいなければ朝薫が倍働くでしょう。朝薫がいなくても他の人たちが朝薫の代わりに働くでしょう。首里天加那志だってやがて王道を執るようになるわ。でも母親の代わりは誰もできないの。誰かが代わりにあなたの子どもを産むなんて不可能なのよ。あなたが御内原を留守にすると、みんなが不安になるの。わかってちょうだい」
真美那に説教されて真鶴の顔から寧温が消えていく。誰かに止めてもらわない限り、流産は避けられなかったかもしれないと真鶴は漸《ようや》く正気に戻った。寧温の狂気めいた疾走感は破滅の匂いがつきまとう。それが当たり前だと無意識に思っていたが、破滅の匂いを漂わせて出産する母親がいかに愚かかと自分の身を振り返った。
「百浦添御殿重修仮奉行のお役目、慎んでお引き受けいたします……」
これからはお腹の子の成長だけを考えながら、静かに御内原で過ごそうと真鶴は思う。今まで寧温が冷たく無視してきた分を取り戻し、赤ちゃんには生まれてよかったと素直に喜んでもらいたかった。
真鶴は産着を抱えて自室に戻った。途端、荒らされた部屋に真鶴は悲鳴をあげる。襖《ふすま》には不敵にも死産を祈願する呪文が書かれていた。
[#ここから2字下げ]
無所不至印地蔵井呪|※[#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、308-35]《きゅう》急如律令
[#ここで字下げ終わり]
表十五人衆・日帳主取として最後の日がやって来た。寧温は今日限り、王宮を退き御内原に籠もる。死産のまじないを施したのが誰なのか結局わからず仕舞いだ。普通、呪詛《じゅそ》なら気づかれぬよう畳の下か、天井裏に仕掛けるものだが、闖入《ちんにゅう》者は大胆不敵にも襖へ呪詛を書き殴った。それでも犯人がわからないのが御内原という不気味な空間だ。見えない敵と闘うためにも、真鶴になって目を光らせておかねばならない。
暗シン御門で寧温に着替えた真鶴は、お腹の子に約束した。
「頼りないお母さんでごめんね。明日からずっとあなたと一緒よ」
ふと寧温は役人人生を振り返ってみた。従二品紫冠は寧温の立身出世の証《あかし》である。この地位に辿り着けるのは、科試出身者の中でも五百人に一人と言われる。五十年かけて上る階段を寧温はたった十九年で上り詰めた。その間に何人もの政敵と闘った。権勢を誇った真牛《モウシ》と闘い、徐丁垓と闘い、ペリー提督と闘い、雅博とも闘った。理念の前には常に敵が立ちはだかり、勝ち続けることでしか正しさは証明できない。それが男の人生だ。
寧温の人生には挫折もつきまとった。識名園《しきなえん》に左遷されたこともある。辞表を提出したこともある。流刑の憂《う》き目にも遭った。負けを覆すにも信念がいる。寧温は負けても負けても必ず這《は》い上がってきた。闘い続ける男の人生に悔いはないが、正直、疲れてもいた。何のために、誰のために、闘ってきたのかと問われたら、寧温はいろんな理由を挙げて最後に「自分のため」と答えるだろう。
しかし母になろうとしている真鶴に立ちはだかった敵は自分自身だ。孫寧温は理念のためなら犠牲を恐れない。寧温なら流産しても泣いて忘れることができる。そんな酷い仕打ちを子どもにするなんて真鶴にはできなかった。
「寧温、あなたはしばらくお休みなさい。私の子を奪うなんていくら寧温でも許しませんよ」
寧温は最後の挨拶をしに評定所へ向かった。
「本日を以て、日帳主取のお役御免を仕《つかまつ》ります。皆さんにはお世話になりました」
面を上げた寧温の顔は晴れ晴れとしていた。疑獄事件は王宮に新しい風を入れた。一掃された薩摩派と共に去っていくのは一抹《いちまつ》の寂しさもあるが、それでも王宮は動いていくと信じたかった。
朝薫はこの人事に納得がいかない様子だ。
「なぜわざわざ王宮を去るんだ? 寧温が表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》でいたいと一言告げればぼくが留任させるのに?」
「朝薫兄さんのお心遣い痛み入りますが、私は自分の人生を見つめ直したいと思っております。そもそも私はペリー提督と闘うために王宮に戻されました。責務を果たした今、王宮に長居は無用と考えております」
「寧温の実績ならあと三十年もすれば三司官への昇進も夢ではなかったのに」
「三司官は朝薫兄さんこそ相応《ふさわ》しいです。私は所詮、慣例破りの宦官です。向一族と比べようもありません」
「百浦添御殿重修仮奉行をどこでやるつもりだ。本当にその役職でいいのか?」
「朝薫兄さん、備えあれば憂いなしです。来月台風が来て正殿が壊れるかもしれません。火事があるかもしれません。そのとき私は王宮に戻って参ります」
寧温は久慶門から王宮を後にした。短い間だったが勤め上げたという気がする。振り返ったり感傷に浸ったりするかもしれないと思っていたのに、足取りは軽かった。
しかし人は疑獄事件の余波でまた王宮から役人が去ったと噂する。それが異例づくしの宦官の孫親方だと知るや、好奇心の眼差しを浮かべてジロジロ視線を這わせた。
「孫親方まで王宮から出されたぞ」
「ペリー提督を追い払った英雄が世捨て人か……」
「しーっ。聞こえるぞ」
立ち止まった寧温に民が目を逸《そ》らす。寧温は自分が王宮の外でも異端者だと知っていた。王府の役人と知ると遊女たちがこぞって誘惑するものなのに、寧温には遊女が寄りつかない。宦官には情緒も機微もないと思われていた。機械のように壊れるまで黙々と働き続ける頭脳、それだけしか期待されていない。
遊女たちが左遷されていく寧温を揶揄《やゆ》する琉歌《りゅうか》を詠んで嗤《わら》った。
はなのお話や城内も御免
ひげのお話や天下御法度
(遊女のお話は王宮でも自由に喋って構わないが、髭のない宦官のお話だけは城内はもちろん、国中どこでも喋ってはならない)
寧温はその歌を聞いて可笑《おか》しくなった。これでも国のために寝食を惜しんで尽くしてきたつもりだ。なのに民は自分のことを存在しないかのようにタブー視する。男は理念で生きるだけではなく、色を好まないと男とみなされない。女を求め束の間の安らぎを得て闘うのが男なのに、孫寧温は安らぎを無視して闘ってきた。それが怪物視される所以《ゆえん》だと今、わかった。
「嗤《わら》いたければ嗤いなさい。世の中には安らぐことを許されない人生があるのです。でも私は怪物じゃない。人間らしく生きたくてこの道を選んだのです。あなた達には決してわからない。私がどんな苦しい思いをしてきたのか、絶対にわからない――」
重臣を罷免《ひめん》された寧温は男の恰好でいる理由を失っていた。男になりたかったのは、王宮で働きたかったからで、決して男が優れていると思ったからではなかった。もし琉球が国民皆学で女にも学問の道を開いていたら、何も躊躇《ためら》わずに真鶴として科試を受けただろう。自分の能力を、野心を、向上心を満たすために無理して男になっただけだ。
所詮男の既得権なんてその程度のものだ。王宮が寧温を求めないなら、男装している理由などひとつもなかった。唯一の安らぎは真鶴でいるときなのだと今わかる。男が遊女を求めるように、寧温も真鶴を求めていたのかもしれない。
「なぜだろう。ホッとする。やっと真鶴になれる気がする……」
寧温として最後の空を見ようと顔を上げたときだ。帯の奥で自分以外の意志がはっきりと感じられた。
「今、赤ちゃんが動いた!」
誰も知らない幸せが寧温の帯の中に広がる。子どもを産むのに資格はいらない。競争もいらない。敵もいない。ただ優しい気持ちでいるだけでいい。そんな人生があるなんて想像もしていなかった。寧温は早く御内原に戻って、お腹をずっと撫でていたかった。
「お〜い。まづる……。いや孫親方〜っ!」
頼りない声は兄の嗣勇だ。玉陵の墓守になって流行から取り残された嗣勇は、風采の上がらない男に成り下がっていた。側に連れているのは渡地《わたんじ》の下級遊女だ。辻の高級花街で遊女を買えない貧乏役人や庶民は場末の渡地の遊女を求める。嗣勇は寂しさを紛らわすために、渡地に通うようになっていた。
「兄上、いくらなんでも身を落としすぎです!」
「孫親方〜。いつになったらぼくを王宮に戻してくれるんだよ〜」
昼間っから酔っぱらった嗣勇は無精髭を伸ばして目も虚ろだ。歯の汚れた渡地の遊女がもっと呑みましょうよ、と嗣勇に抱瓶《ダチビン》を呷《あお》らせる。
「兄上、その女は何ですか!」
「うなじゃら(王妃)様だ。うなじゃら様と呼べ〜」
「このお役人様ね。ご自分が第一|尚氏《しょうし》の首里天加那志だって言うんですよ。そいで私はうなじゃら様だねって言ったらすっかりご機嫌でさあ。ひひひひひ」
「何がうなじゃら様ですか。兄上、恥を知りなさい!」
「寧温に頼めばすぐにぼくは首里天加那志だ。第一尚氏ばんざ〜い!」
寧温は兄の耳を引っ張って人のいない場所に連れて行った。あのお洒落《しゃれ》で優雅な兄がこんな無様な男に落ちぶれていたなんて、目を覆いたくなる。
「兄上、正気に戻ってください。もう私は兄上を王宮に戻してあげられなくなりました」
「なんだって――。孫寧温に不可能はないはずだろう」
嗣勇はろれつの回らない口調で酒の匂いをぷんぷんさせている。玉陵に左遷されたのが嗣勇の精神に異変をもたらしたようだ。死者と向き合うこと数年、あまりの寂しさに嗣勇は酒に溺れるようになっていた。濁った目の中にちょんと浮かんだ涙が嗣勇の悲しさを物語っていた。
渡地に通うようになったのは、踊りを観たかったからだ。充分な俸禄もない墓守が流行に微かに接するのは場末の遊郭しかなかった。朝になってまた玉陵に戻ると嗣勇は強烈な倦怠感を覚えた。出勤してもしなくても玉陵は沈黙したままだ。やがて嗣勇は渡地の遊郭に入り浸るようになった。
「兄上、私も左遷されたんです。もう表十五人衆ではありません」
「まづる……。また討たれたのか……。ぼくが守ってあげられなくてごめんよ……」
「私こそ、兄上を戻せなくてごめんなさい」
「もう玉陵はイヤだよ。寂しくて死にそうなんだよ……」
「わかります。でも卑しいジュリ(遊女)に慰められて何が楽しいのですか。兄上はそんな男ではなかったはずです」
「疑獄事件があったのは聞いた。薩摩派が一掃されたんだってな。王宮は滅茶苦茶だよ。あいつらに勝手にされるのはもうまっぴらだ」
嗣勇は最後の一滴まで泡盛を呷《あお》って抱瓶《ダチビン》を捨てた。途端、嗣勇の目に怒りの炎が立ち上がる。
「真鶴、ぼくたちは由緒正しい第一尚氏王朝の末裔《まつえい》だ。ぼくが首里天加那志になってあの腐った王宮の役人たちを一掃してやる」
「兄上、謀叛《むほん》を企《たくら》んでどうするんですか。第一尚氏王朝は四百年前の王朝なんですよ」
寧温は誰かに聞かれていないかと咄嗟《とっさ》に辺りを見渡す。疑獄事件で極刑が罷《まか》り通っている今、酔っぱらいの戯言《ざれごと》でも謀叛の企みを聞かれたら庇えなくなる。だが、嗣勇は口調を取り戻そうと息を整えた。
「父上がぼくに科試を受けさせたかったのは、第一尚氏王朝を復興させるためだったんだろう? そのせいで真鶴を男と偽《いつわ》らせてしまった。ぼくが科試を逃げ出さなければ真鶴は幸せだった。そうだろう?」
「いいえ兄上。私は自分の意志で科試を受けました。寧温として生きたことを後悔しておりません」
「いや寧温は不幸だ。宦官だとバカにされ、徐丁垓に犯され、流刑にされてしまった。なのに王府はいざとなったら寧温への仕打ちを忘れて、ペリー提督と闘わせた。まるで闘鶏の鳥のように」
「寧温に戻ったのは私の意志です。ペリー提督と闘う自信があったからこそ、寧温に戻りました」
「しかも真鶴は御内原で籠の中の鳥にもされている。こんな侮辱があるか? 第一尚氏の姫君が側室として王宮にいるなんて、後生《グソー》の父上が知ったら化けて出る」
「兄上は何が言いたいのですか。真鶴として御内原に留まっているのも私の意志です」
嗣勇はぶんぶんと首を振って酔い気を吹き飛ばした。酔狂で言っているのではない。ずっと玉陵で草むしりをしながら考えてきたことだ。
「ぼくが王になる覚悟がなかったから、こんな乱れた世の中になってしまった。ぼくが第一尚氏王朝の正統な末裔であることを示せば民はついてきてくれる。第二尚氏王朝にガタがきているのをジュリたちでも知ってるんだ。そのうち琉球は薩摩に併合されるってみんな気がついてる。だけど怖いから黙ってるんだ」
渡地に通うようになって嗣勇は庶民の本音を知った。船乗りたちは自分の剛胆さを第一尚氏王朝の血が混じっている証拠だと胸を張る。嘘でも第一尚氏の遠縁と名乗れば遊郭ではちやほやされるものだ。遊女たちの間でも男を擽《くすぐ》る媚語として第一尚氏の威光を借りることがある。第一尚氏の始祖・尚巴志《しょうはし》みたいといえば嫌な顔をする男はいない。そして尚巴志の時代のように荒海を渡って自由に生きてみたいと誰もが思っている。今の第二尚氏王朝はしがらみが多すぎて窮屈だ。誰もがこの閉塞した時代を打ち破ってくれる英雄の登場を秘かに望んでいた。
「ぼくは正真正銘の第一尚氏王朝の末裔、孫嗣勇だぞ!」
そう嘯《うそぶ》く嗣勇は渡地ではちょっとした人気者になっていた。
「真鶴、聞いてくれ。男なら誰でも天下を取ってみたいと思うもんだ。ぼくは本物の男になってみたいんだ。寧温の智恵と能力があれば、ぼくを首里天加那志にすることなんて簡単だろう?」
「兄上、何て愚かな男になったんですか……」
寧温は呆れて窘《たしな》める気にもなれない。ちょっと見ないうちに兄は妄想家になっていた。
「真鶴にとってもその方が幸せだ。ぼくのオナリ神なら聞得大君加那志だ。馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を持っているなら出せ。それでぼくの王権が証明される」
「兄上、お聞きください。孫寧温はお役御免になって王宮を去ったのです。それに私――」
寧温は息を止めて兄にだけ聞こえる声で囁いた。
「首里天加那志の子を宿しました……」
寧温は恥ずかしそうに俯《うつむ》く。その言葉を聞いた嗣勇は一瞬、悲しい表情を浮かべ、次第に憎悪で口元を歪《ゆが》めていった。
「嘘だ。真鶴が妊娠するなんて嘘だ!」
「兄上、どうして喜んでくださらないのですか? 私はこれから母になるというのに」
「おまえが首里天加那志の子を産めば、第一尚氏のぼくはどうなるんだ?」
嗣勇は最後の頼みの綱の妹に拒絶されて心が皹割《ひびわ》れた気がした。胸元に冷たい隙間風が染みいる。あの理念に燃えた真鶴が王の子を産むつもりでいるなんて信じられなかった。
「真鶴、それがどういう意味かわかっているのか? 寧温を捨てるということだぞ」
「寧温を捨てます。それが神の意志です。私はお母さんになりたいのです」
「ダメだ。絶対に許さない。真鶴が第二尚氏の子を産むなんてぼくが許さない」
寧温の凜々《りり》しい顔が消えかけている。嗣勇も感じたことのない穏やかな慈愛の波紋が妹の体から発せられていた。やがてこれが光輪となって目を眩《くら》ませるのは明らかだ。妹は寧温でもなく真鶴でもなく母親という存在になろうとしていた。
「真鶴、頼む。今からでも遅くない。子どもを諦めてぼくに力を貸してくれ。子どもを始末するんだ」
寧温は悩む余地もないとばかりに兄の申し出を即座に断った。
「私の子どもを殺せなんてよくもそんな恐ろしいことを。兄上はそれでも人間ですか!」
「父上の遺言を踏みにじるなんて恥を知れ!」
「恥を知るのは遊女に溺れた兄上の方です!」
寧温が正気に戻れと嗣勇の頬を引っぱたいた。目尻で妹を睨んだ嗣勇はふんと鼻で嗤う。
「ぼくたちの兄妹の縁もこれまでだな」
嗣勇は捨て台詞《ぜりふ》を吐くとまた渡地の遊郭に戻って行った。
あたら瑠璃《るり》の玉濁り江に落ち
澄まちすくる世もあいがしゆゆら
(才気煥発な役人として活躍していた妹だったのに、伏魔殿《ふくまでん》の御内原に出入りしているうちに懐妊するなんて呆れてものが言えない)
月が煌々《こうこう》と照らす晩、寧温は鳳凰木《ほうおうぼく》の下で途方に暮れていた。孫寧温に犠牲はつきものだが、まさか嗣勇が離れていくなんて考えてもいなかった。誰も信用できない王宮で寧温の唯一の絆《きずな》は兄だった。兄妹が性を入れ替わって互いを励ましていたからこそ、寧温は頑張れたのに。
「兄上、私たちはもう昔のように仲良く支え合えないのですね……」
こんなとき以前の寧温なら悲しくて泣いたはずだ。だが不思議と涙は出て来ない。さっきの出来事が色褪せた遠い過去にすら思えてしまう。寧温のお腹の中ではっきりと動く存在が、未来は決して暗くないと訴えていた。咄嗟に兄の申し出を断ったのは真鶴の中で目覚めた母性だ。たとえ父の遺言でも、出世と引き替えでも、どんな条件を提示されても子どもは手放せない。これが真美那の言っていた母の気持ちというものなのだろうか。
「早く見たい。私の赤ちゃん」
まだ自分と身体を共にしているのが嬉しくももどかしい。二人でひとつの命の幸福はそれほど長くないとわかっているのに、早く両手でしっかりと抱き締めたい。語りたいことは山ほどある。最初に自分が何を告げるのか、何と言って赤子と対面するのか。百万遍の思いをいっぺんに表せる言葉を語学の天才の寧温でさえ知らなかった。
「また花の季節がやってきたのね」
鳳凰木の枝を撓《しな》らせる赤い花が寧温の帽子を擽《くすぐ》るように垂れている。恋を散らせた昔、泣いたのはひとりだったからだ。あのときはこの花を見るたびにきっと自分は錯乱すると思っていた。だが今は懐かしさを伴って振り返ることができる。今の自分は間違っていないと素朴に思えた。
すると遠くから旅仕度をした侍の姿が現れたではないか。
「雅博殿! どうしてここへ?」
「国元に帰ることになりました。孫親方も疑獄事件の余波で王宮から追い出されたと聞きましたが、ご無事だったんですね」
「もう孫親方ではありません。実体のない百浦添御殿重修仮奉行です」
「ははは。相討ちというところでしょうか」
雅博は自嘲気味に笑ってみせたが、心なしか気分は楽しそうだった。
「すまない。私を怨んでおいででしょう……」
「雅博殿も私も互いに信じる理念を背負って闘ったまでのこと。役職を解かれた今の私は下級役人にすぎません」
「実はホッとしているんです。私は国元で軍艦購入の件に反対しました。ところが異国方御用掛に任命されてしまい、琉球に派遣されてしまいました。今となっては全てが嘘に聞こえるかもしれません……」
「主君の命令とあらば、個人の意志はないも同じ。お互いに忠義を尽くしたまでのこと。それが私たちの人生です」
「孫親方は羨ましい。職を解かれてもまだ理念はお持ちだ。私は理念を失い、友人を裏切り、惨《みじ》めに国元に逃げ帰るしがない男だ」
雅博は鳳凰木の花が満開に咲き誇っているのを見届けるために、ここを訪れた。残された最後の想い出を懐かしむように雅博の手がそっと垂れた枝先に触れる。
「不思議なものだ。想い出は色褪せると思っていたのに、ますます鮮やかに蘇《よみがえ》る。私は捨てた心に今でも囚《とら》われているのかもしれない……」
雅博の顔が憂いを帯びてジャスミンの香りを放つ。その香りを寧温は切ない思いで嗅いだ。
「私の心はここで果てて以来、余生のような人生だ。老《ふ》けるのが早いと人生は苦しいものだ。もう一度、心を取り戻したい。あの日に戻りたい……」
雅博は何度も想い出を振り払おうとする。しかし癒《い》えない傷口は化膿したまま塞がる気配もない。痛みだけが雅博の気持ちを知っている。苦しみだけが雅博の過去を覚えている。
「琉歌を詠んで忘れようとしたのだ。でも忘れられない。きっと私が生きている間はずっとつきまとう苦しみだ。琉球を裏切った報いだとお笑いください。私は理念も感情もみんな失ってしまった……」
雅博は寧温に見られていることも顧みずに鳳凰木に額を押しつけて崩れた。
「真鶴さんに会いたい。一目、一目会えれば琉球から去れるのに……」
「雅博殿……」
寧温は耳の奥をジンと熱くした。体中の細胞が沸騰するような思いだった。漏《も》れる吐息は水蒸気となって寧温の意識を朦朧《もうろう》とさせる。雅博の本心はわかっている。雅博が藩益を守るために、想い出を捨てたのも知っている。彼に今必要なのは生きることを肯定する感情だ。
「雅博殿、実は、私には秘密があるのです――」
寧温は被っていた帽子をそっと雅博の足下に投げた。雅博が拾い上げて目を疑う。月をシルエットに佇《たたず》んでいたのは夜風に髪を靡《なび》かせた貴婦人ではないか。
「ま、真鶴さん――!」
今度は月の幻覚かと雅博は眼を擦《こす》る。動物が人間に化けたかのような一瞬の早替りで、寧温は真鶴に変身していた。幻《まぼろし》ではない、と雅博は言い聞かせた。これは昼間の王宮でも見た奇術だ。どういう仕掛けか知らないが、寧温と真鶴が結託して騙《だま》しているに違いない。
「孫親方はどこに行った? なぜ真鶴さんがここにいる?」
狼狽《ろうばい》している雅博に真鶴がそっと目を伏せた。
「雅博殿、孫寧温は世を偽る仮の姿。私は、私は真鶴です……」
真鶴は最後に雅博にだけは真実を明かしたかった。雅博にもう一度衝撃が走る。
「まさか。孫親方と真鶴さんが同一人物だったなんて!」
「これが本当の私です。雅博殿に求婚されたとき、先王様が薨去《こうきょ》なさいました。真鶴はあなたの元に嫁ぎたかったけれど、寧温が許さなかった。寧温は王にだけお仕えする宦官。王命には背《そむ》けなかった……」
「本当にあなたは孫親方か。いや真鶴さんなのか?」
鳳凰木の花の枝が夜風を受けて優雅に舞い踊る。雅博はまるで夜の精霊に化かされているかのような感覚だった。
「宦官のあなたがなぜ、あごむしられに?」
「それには訳があるのです。王宮に戻りたい一心でつい真鶴として御内原に入ってしまいました。まさかあごむしられにされるなんて思っていなかった……。雅博殿に会いたくて真鶴になったばっかりに……」
「あり得ない。あごむしられと宦官が同時に王宮にいられるわけがない」
「まさか恩赦《おんしゃ》で寧温が呼び戻されるなんて思ってもいませんでした。こうなるとわかっていたら、あごむしられになりませんでした。私の心は寧温と真鶴に引き裂かれっぱなしです」
雅博は真鶴が実体であるかどうかを確かめるように髪の香りを嗅いだ。これは夢などではない。孫寧温という宦官は美貌の貴婦人だった。確かに寧温は女性的な容貌だったと雅博は思う。だが女性的なだけで意識や行動は完璧に男だ。何より圧倒的な頭脳と闘争心は幕府の家老以上だ。あまりにも見事に顔つきや雰囲気を変えてしまう演技力は歌舞伎の女形も敵《かな》わないだろう。現に雅博はまだ混乱している。
「孫親方、いや真鶴さん。あなたは本当に人間なのか?」
「王国の役に立つ人間になりたいと願ってきました。女を捨てても尽くす価値があると信じてきました。寧温は鳥のように自由に空を飛べました。でも雅博殿と出逢い、好きになり、寧温は空から墜ちてしまいました。もう私が寧温になることは今日限りないでしょう……」
「これで幸せと言えるのか? こんな曲芸みたいな人生に意義があるのか?」
「私は寧温に疲れました。かといって真鶴だけでは自信がありません」
雅博は意を決して真鶴の腕を引いて懐《ふところ》に抱えた。ふわりと味わう無重力感に真鶴の足が浮く。雅博は頬を擦り寄せて真鶴を抱き締めていた。
「私と一緒に薩摩に行こう。そこで寧温でもなく真鶴でもなく、私の妻になればいい」
「いけません。私はあごむしられです」
「では私も国を捨てる。言ったはずだ。私は本来、感情的な人間だと。あなたと一緒なら清国に逃れてもいい」
「無理です。私は王の妻にされた女です」
「お尋ね者になっても構わん。あなたを生涯守ってみせる。どうか私を信じてください。今なら船に潜り込める」
雅博は有無を言わさず真鶴を抱きかかえて逃げようとする。そのとき、真鶴から冷たい現実の言葉を浴びせられた。
「私は首里天加那志の子を身籠もっております。王の子を連れて逃げるわけにはいきません」
聞きたくない言葉に雅博の体は震えていた。胸元を吹き飛ばしてしまいそうな衝撃の中、雅博は辛うじて残っていた理性の手綱を引いた。
「あごむしられ様への非礼をお詫び申し上げます。ご懐妊……。心より、心より、お祝い申し上げます」
雅博は放心のまま鳳凰木から遠ざかろうとする。
「雅博殿、これだけは信じてください。私の心は一生あなたのものです。どうか、どうか、真心だけでもお持ちください」
「だから感情に溺れるのは嫌だったんだ……」
雅博はぼそっと呟くと雲の差した王都の闇に消えた。細い風に一篇の琉歌を漂わせて。
月は昔の月やすが
かはていくものや人の心
(あの日見た月は昔の月のままで、私の心はあの月のように変わらないというのに、あなたの心は変わってしまったのですね)
表世界から御内原へと戻るクランク状の回廊は、真っ直ぐに生きられない人生の悲哀のような道だ。壁が立ちはだかると曲がるしかない。真っ直ぐ歩きたいのに、世間は壁のように立ちはだかるものだ。げらゑの間で帯を解いた真鶴は、雅博との想い出とともに寧温の衣装を扉の内側にしまった。生まれてくる子にはこんな苦労をさせたくない。真鶴は子どもの進路を阻《はば》む壁を切り崩す先兵になってみせる覚悟だ。
「お母さんはもう大丈夫よ。昔の想い出は全て寧温にあげたもの。これからはあなただけを見つめる人生にします」
寧温の衣装を脱いだ真鶴はお腹をさすってみた。人はほとんど気づかないが確実に体型が丸くなっている。帯を締めない女物の衣装は身重には重宝だった。これからは俗世から隔離された御内原でただ臨月を待てばいい。何も思い煩うことはない、と真鶴は髪を結い上げた。
するとげらゑの間から不敵な笑い声が立ったではないか。暗闇の中で真鶴の額に木簡《もっかん》のフーフダー(まじない札)がぺたりと貼られた。
「無所不至印地蔵井呪|※[#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、321-25]《きゅう》急如律令」
「きゃあ。なにこれ!」
反射的にフーフダーを払いのけた真鶴に天井から逆さになった女の首が落ちてきた。
「無所不至印地蔵井呪|※[#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、321-29]《きゅう》急如律令。ほほほほほ」
げらゑの間に潜んでいたのは真牛《モウシ》だった。王宮のことなら王妃以上に知っている真牛は、寧温が側室から宦官に化けられるのは暗シン御門を使っているからだと見抜いていた。王宮に通じる門の中でも木曳門《こびきもん》は通常封鎖されて警備が薄い。もともと資材搬入口としての役割を担う木曳門は城壁も低い。真牛は難なく城壁を乗り越えて御庭に侵入した。そして寧温が帰ってくるのを暗シン御門で息を潜めて待っていた。
「宦官が懐妊するとはどういう了見《りょうけん》じゃ!」
「聞得大君、いいえ真牛! ジュリ(遊女)に落ちたと聞いていたのに、遊郭を逃げたのね」
「悲願の借金返済で自由の身じゃ。ほほほほほ」
津波古《つはこ》の放火により自由を得た真牛は、宿敵を倒すために王宮を目指した。立ちはだかる世間の壁や身分の差は正面突破して驀進《ばくしん》するまでだ。そして真牛の人生最大の壁は孫寧温だった。
「おまえが首里天加那志の子を身籠もるなんて許せぬ。この世に神がいないなら、妾が天誅《てんちゅう》を下すまでじゃ!」
「真牛、御内原に無断で侵入すればただでは済みませんよ」
「女が宦官になって表世界を穢《けが》していたおまえに言えた筋ではない。それどころか、あごむしられになって首里天加那志の子を宿すとは、国を滅ぼすつもりか!」
「今のあなたは聞得大君加那志ではありません。私を殺しても聞得大君の地位は戻りません」
「言うな! 妾は身分を回復するまでは死ぬに死ねんのじゃ。今の聞得大君は国難を救えない無能ぶりじゃ。不信任で罷免してやるまでじゃ。妾は終生、聞得大君なのじゃ!」
どんなに落としても必ず這い上がってくる真牛の執念は寧温の宿敵に相応しい。真牛は寧温を倒した後、現聞得大君をも討ち、再び最高神女の地位に返り咲くつもりだった。
真鶴の背筋に悪寒《おかん》が走る。咄嗟に扇子で真牛の顔を払おうとした。
「この強突張《ごうつくば》り。ジュリに落ちてもまだ懲りないの!」
すると扇子は虚しく空を切り、真牛をすり抜けたではないか。天井からぶら下がった真牛がすうっと消えていく。
「妾が祟《たた》ってやるのじゃ。絶対に子を産ませてやるものか。ほほほほほ」
「まさか生き霊?」
王国の最高神女だった元聞得大君にとって生き霊を飛ばすなど造作のないことだった。きっと本体は御内原のどこかに潜んでいる。そして真鶴が寝入った頃に寝首をかきに来るつもりだ。真鶴は恐ろしくなって真美那の智恵を仰いだ。
真美那は伝奇小説ばりの事態に興奮している。そういえば夜から御内原上空になにやら不吉な雷雲が立ち込めている。きっと真牛の怨念《おんねん》が呼び寄せた雲だろうと真美那は思った。稲妻が閃光を放っているのに、なかなか雷が落ちてこないのも真牛の霊力だろう。生き霊は生命力と引き替えと聞く。そこまでして寧温を討ちたいという執念に真美那は感心した。
「寧温もすごいけど、真牛もすごいわね。どっちが強いのかしら?」
「真美那さん、私が殺されようとしているのにその質問は何ですか!」
「冗談よ。大丈夫、私に任せて。その前に朝薫に手紙を書くわね」
真美那は筆を執って歌うような文字を走らせた。それから宝物殿に一緒に行き、適当な壺を探した。
「真美那さん、またとんでもないことを企んでいるんじゃないでしょうね?」
「失礼ね。私は真鶴さんを助けようとしているだけよ。ねえ、この景徳鎮《けいとくちん》とか可愛いんじゃない?」
真美那が見繕ったのは地球儀のように球体を浮かばせたこの世に二つとない傑作磁器だ。
「それは乾隆帝《けんりゅうてい》からいただいた景徳鎮窯《けいとくちんよう》青花《せいか》花卉文《かきもん》鏤空花薫爐《ろうくうかくんろ》ではありませんか」
「じゃあこれで決まり。この壺を後之御庭《クシヌウナー》の中央に置いてちょうだい。それから女官たちを全員集めて。あと聞得大君加那志も連れてきて。面白いものを見せてあげるわ」
真鶴は言われるままに壺を庭に置いて現聞得大君を呼び出した。
「妾を呼び出すとは礼儀知らずのあごむしられじゃ」
「聞得大君加那志のお命を狙う賊が御内原に潜んでいるらしいの」
「妾の命を狙うとは恐れ知らずな。妾の霊力を見せてくれるわ」
聞得大君は木簡に呪文を書いて、念を籠める。
若人欲了知 三世一切仏
奉諷誦大悲満無碍神咒 墓中鎮静
応観法界心 一切唯心作造
[#挿絵(img/02_323.png)入る]
「真美那さん、何をさせたのですか?」
行政には明るい真鶴だが、呪術の世界は全くわからない。真美那はこれから起こる出来事をよく見ておけとくすくす笑う。聞得大君の霊力により、暗雲が活性化し始めた。一心不乱に祈祷を捧げる様に一同が固唾《かたず》を呑む。やがて大粒の雨が御内原に落ちてきた。それでも聞得大君の祈祷は終わらない。自分の命を狙う賊を懲《こ》らしめるためにも霊力の確かさを証明しておきたかった。
一際大きな雷鳴が轟《とどろ》き後之御庭が閃光に包まれた。瞼《まぶた》と鼓膜を圧迫する衝撃に女たちがばたばたと倒れる。
「捕まえたわ!」
雷とともに落ちてきたのは真牛の肉体だった。生き霊になった真牛を捕らえるために墓に封じ込める呪詛をかけたのだ。
「おのれ、あごむしられ真美那。妾に何をしたのじゃ!」
壺の上に落ちてきた真牛はまだ事態が把握できていない。囲んだ女官たちの中に真鶴を見つけた真牛は罠《わな》にかかったとやっと気づいた。
思戸《ウミトゥ》が割れた壺を見て卒倒する。
「ひいいい。乾隆帝から賜《たまわ》った景徳鎮窯青花花卉文鏤空花薫爐があ〜っ!」
「ね、面白いでしょ? 霊魂は壺に入る習性があるのよ」
女官たちは奇術を見せられている気分だ。捕らえよ、と真美那の命で真牛に縄がかけられる。
「口惜しや! 妾が霊力で負けるとは……」
真牛の一世一代の妖術は敢えなく封じられた。生き霊で体力を消耗した真牛には立ち上がる力もない。真美那はころころ笑って手を叩いた。
「見世物は終わりよ。女官たちは下がりなさい」
真美那の手際のよさに真鶴は感服する。
「すごい。最強なのは真美那さんですよ」
手紙を受けた朝薫との連携も鮮やかだ。手配を受けて大与座《おおくみぎ》の役人が大挙して御内原に駆けつけた。
「真美那様、御内原に侵入した賊を捕らえたとは本当ですか?」
「この女です。首里所払いを命じられながら、浅はかにも御内原に入り、あごむしられの子を流産させようと企んでおりました」
真牛は再び平等所《ひらじょ》に連行され裁きを受けることになった。何度逮捕されても全く懲りない真牛に役人たちは一計を案じた。
真牛の処分が申し渡される。
[#ここから2字下げ]
口上覚
無系
真牛
右者事乍無系於御内原致狼藉、阿護母志良礼
様殺害之邪念為図事明白ニ候故、言語道断不
届之所業過之事無故、行脚乞食被落可為横印
事。
午九月
平等所
[#ここで字下げ終わり]
判決文を聞いた役人たちが堪《こら》えきれずに噴き出す。真牛に科せられた刑は行脚乞食《あんぎゃこじき》と呼ばれる最下層の身分だった。琉球の国民は士族はもちろん農民に至るまで手札を持参することを義務づけられている。これは御禁制の切支丹《キリシタン》を排斥するための措置だ。元来は宗門改めとして機能していた手札だが、身分証明書を兼ねるようになった。この手札を見せればどこの士族か、どこの農民かすぐにわかる。特に行脚乞食と呼ばれる最下層の人間には特有の焼き印が捺《お》される。大与座の「大」の字を九十度横に倒して「※[#丸大横向き、325-28]」と捺《お》されることから『横印』と呼ばれた。
「横印! 妾は横印か!」
真牛は最下層の身分に愕然《がくぜん》とする。横印を捺された者は身分回復が不可能になる。
「おまえを久場川《くばがわ》の安仁屋村《あにやむら》のニンブチャーに落とす。そこで好きな呪文を毎日唱えればよい。わははは」
「妾がニンブチャー。葬式女じゃと?」
ニンブチャーは庶民の葬列の後ろを歩く念仏屋だ。常に白い喪服を着、白い頭巾で顔を覆わなければならない。ニンブチャーの唱える経は頓狂《とんきょう》で無教養なものと相場が決まっている。貧しく無学な庶民がせめて形だけでもお経らしくしようとニンブチャーを雇うのだ。
役人たちが腹を抱えて笑い転げる。
「元聞得大君がニンブチャーとは傑作だ。おまえはユタ行為もした。これ以下の身分はないと思え。おまえには常に手札を首から下げることを命じる」
真牛は愕然と膝をつく。口惜しくて体に力が入らない。
「ニンブチャーに落ちるのは嫌じゃ! 妾をいっそ斬首にしろ。頼む。いや頼みます。一瞬で終わる斬首にしてくださいませ……」
必死の懇願も虚しく真牛は安仁屋村へと移送された。ニンブチャーのいる集落は葬儀の村だ。みんな喪服を着、頭巾で顔を覆っている。真牛には黄ばんだ喪服が与えられた。これを生涯身につけ、誰にも顔を見せることなく暮らしていかねばならない。
さっそく葬儀の仕事が回ってきた。
「おいニンブチャー。西原で病人が死んだそうだ。葬儀に行け」
真牛は横印の手札を首にかけたまま、葬儀に駆り出される。貧しい農民の葬儀は悲惨だ。泣く余裕もないほど皆が生活に疲れ果てている。まるで動物の死骸を処理するかのような、淡々と乾いた葬儀だった。
「これが人の死と呼べるのか? 愚かな奴らじゃ。こんな葬式で霊が弔《とむら》えると思うのか?」
形だけの粗末な葬列が物悲しく連なっていく。遺体が、使い回されて傷《いた》んだ龕《がん》に納められ集合墓地に葬られる。真牛は葬列の最後尾で半鐘を鳴らしながら念仏を唱えた。他のニンブチャーには決してできない見事な念仏だった。なのに庶民は真牛の念仏に感謝もない。
「おい、ニンブチャー。もう少し静かな経を唱えろ。さっきからうるさくて敵わん」
真牛は頭巾の衣越しに空を見ながら、ミセゼル(祝詞)を謡っていた。真牛の謡ったミセゼルは死者の生涯を讃えるものだった。
「この者は農民として生まれ、よく働き、子を育て、よい織物を納め、王府から感謝された。どうかあの世では豊かな生活を送れますように。聞得大君から神にお願い申し上げます」と。
やがて真牛の経を聞くと心が癒《いや》されると貧しい者の間で評判を呼んだ。そして今日も、真牛はもの悲しい半鐘の音を響かせる。貧しき死者の魂を慰撫しながら――。
*
時は静かに流れ、真鶴の臨月がついに訪れた。御内原ではいつでも出産できるように産婆が二十四時間態勢で待機している。尚泰王も執務の傍ら、頻繁に御内原の様子を窺う。王族たちもいつ出産が始まるのか気が気でない。
「男子なら世子《せいし》にするぞ」
との王のお墨付きだけに、王国中の関心が集まっていた。もし王子なら真鶴の聡明な頭脳を受け継ぐはずだ、と王府重臣たちの関心も高い。混迷する時代は賢王を求めていた。武装解除された琉球が生きる術《すべ》は頭脳しかない。男子誕生は国民の悲願だった。
民は真鶴が王子を産むかどうかこぞって噂した。
「お世継ぎが生まれたら琉球は安泰じゃ」
と漏れた声にそっぽを向いた男がいた。渡地で酒に溺れた嗣勇だ。
「何が世継ぎだよ。第二尚氏王朝を無駄に長引かせるだけじゃないか。真鶴は堕落したもんだ」
真鶴と訣別して以来、兄妹は音信不通だ。王宮に戻すと約束してくれた寧温は首里から姿を晦《くら》ませていた。
「真鶴、どうしておまえは変わってしまったんだ?」
嗣勇は真鶴との想い出に耽《ふけ》る日々だ。辛かった日を重ねたからこそ、今の真鶴が豹変《ひょうへん》したとしか思えない。酒を呷った嗣勇は遊女を侍《はべ》らせてこう嘯いた。
「世継ぎが何だっていうんだ。第一尚氏のぼくが認めない」
嗣勇が酒に溺れている最中、御内原では真鶴の出産が始まろうとしていた。御内原の女官たちが色めき立つ。
「真鶴様、練習した通りにお願いいたします。歯を食いしばって息んでください。女官たちは産湯を用意して。それと浴布をたくさん」
真鶴は天井から吊された縄を掴んで腹に力を入れた。昨日まで一心同体だったのに、いざ産むとなると異物に感じる。息むたびに目の奥がチカチカと光った。下半身が切り離されるような苦痛だ。それでも真鶴は何度も何度も息を整えて大きく息を吐く。
「もう体が裂けそうです」
「まだです。赤ちゃんの頭が見えるまでは頑張ってください。さあ息んで。フウウウッ!」
「フウウウッ! もうダメ。お産をやめたいです」
神聖な気持ちとは無縁の泣き言が漏れる。いつ終わるか予想できないから痛みが無限に続くような気がした。母親なら誰もが通る道と理屈ではわかっているのに、自分だけは苦痛から免除されていると素朴に思っていた。もしかすると世界で一番重いお産なのかもしれないとすら思う。息んでも息んでも楽になる兆《きざ》しはなかった。
――そういえば、私のお産のときも難産だったと聞いたことがある。
なぜか嵐の日が脳裏を過《よぎ》った。外は晴れているというのに、暴風雨が吹きすさぶ音が耳にこだまする。真鶴は自分の生まれた日を蘇らせていた。真鶴の目の奥に龍の走る影が通り過ぎた。
「龍が、王宮から逃げ出した龍が……」
龍が、王の根城に巣くっていた龍たちが、
堅い眠りで縛り上げられていた龍たちが、
千年に一度の発情期を迎えた。
目を潰されて目覚めてしまった龍たちが、
嵐になって交尾する。
大地を揺さぶり、尾で空を叩き落として、
月を半分に食い千切った龍たちが、
王の都で交尾する。
億千万の鱗《うろこ》を撒き散らした龍たちが、
田畑を燃やして、橋を押し流して、
轟きながら交尾する。
目を潰されて王宮から逃げ出した龍たちが、
竜巻になって、絡まって、転がって、
千切れながら交尾する。
渾身《こんしん》の力で息んだ真鶴は、熱い楕円形の物体が産道を通過するのを捉えた。その瞬間、絡まっていた苦しみの糸が全て断ち切れたのを感じた。
「真鶴様、生まれました。男の子です。王子様でございます!」
消耗しきった真鶴は、子どもが生まれたという意味以外理解できなかった。お付きの女官が会心の笑みで万歳を唱える。つられて外で見守っていた女官が歓喜の声をあげる。まるでお祭りのような騒ぎに、真鶴は漸く男子を産んだのだと理解した。
「さあ、赤ちゃんをお抱きください。母上様になられたんですよ」
真鶴はその言葉に感極まって涙を流した。女としての幸福を全て諦めた自分に、こんな幸福が訪れるなんて人生は何と不可思議なものだろうと思う。そして真鶴は神の意志がこの世には確かにあると実感した。
生まれたばかりの王子を胸元に寄せた真鶴の声は震えていた。
「ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう」
もう何もいらないと真鶴は思う。官位も部下も実績も全て失っても、ここにある命こそが全てだと思った。そして寧温として頑張っていてよかったとも思った。あの努力の日々があればこその今だ。真鶴の中でいつも藻掻《もが》いていた寧温が、こう声をかけてくれた。
『王子様は私に似て利発そうですね』
その言葉で真鶴と寧温は幸福に融合した。これは真鶴だけの命ではない。寧温と一緒に産んだ命だからこそ尊いと真鶴は思う。
――ありがとう寧温。私の青春の人。
王子の顔の中に寧温の意志が見える。真鶴の体の中で藻掻いていた寧温は、王子になって真鶴から分離した。赤ちゃんを抱いた真鶴は、自分こそ新しく生まれたのだと気づいた。赤ちゃんは寧温を引き継いだとばかりに、大声で泣いていた。
「私の全てをあげる。知識も、教養も、理念も、志も、必要なものはお母さんが全て教えてあげる。この国の全てはあなたのものよ。民を愛する王におなりなさい……」
赤ちゃんを抱いて微笑む真鶴が神々《こうごう》しく輝く。王国史上最も美しい母親に抱かれた王子は、生まれながらに全てを与えられた喜びを全身全霊で泣くことでしか表せなかった。
はじめてどやすがかにかなしやゑ
生れらぬ先のご縁やたら
(初対面の赤ちゃんなのに、どうしてこんなに愛おしく思うのでしょうか。きっと前世からご縁があったのでしょうね)
真鶴が王子を産んだ報せに王国が沸き返る。爆竹を鳴らす民の祝いは夜中まで続いた。
「王子様ご誕生だ。世子様だぞ」
「首里天加那志万歳。千年王国万歳!」
「王府から特別に祝いの酒を国民に振る舞うそうだ」
泡盛が銭蔵《ぜにくら》から出庫されて多嘉良《たから》も大忙しだ。どうせ空になるのだから、多少誤魔化してもバレやしまいとばかりに泡盛のピン撥ねに夢中だ。
「これは儂の分。これは儂の実家の分。これは儂の門中《ムンチユゥ》の分。女房の実家の分。子どもの分。わはははは。王子様は徳がお高いのう。全てありがたく頂戴いたしますう」
「多嘉良殿、満産祝いのときの分を残しておくんだ」
「これは喜舎場親方。酒の匂いがきついですなあ。昨日は遅くまで呑んだくちですか?」
「王子様誕生で仕事どころじゃなかったよ」
朝薫も琉球の未来を担う王子の誕生でハメを外してしまった。こんなとき、寧温と一緒に祝えれば最高だったのに、寧温が王宮にやって来ることはなかった。
「満産祝いのときには寧温を大美御殿に招待してやろう。久しぶりに顔を見たいしな」
満産祝いは王子の正式なお披露目だ。王女誕生のときも狂喜乱舞したものだが、世子の噂高い王子はそれ以上だろう。ある程度の無礼講は目を瞑《つぶ》るがハメを外さないように、布令を出しておかねばならない。尤《もっと》も喜ぶなというのも無粋な話だ。朝薫は洒落をきめて十日以上遊び呆ける奴は厳罰に処すとだけ記した。
一カ月後、満産祝いが大美御殿で盛大に行われた。踊童子の撥剌《はつらつ》とした若衆踊りは、元気な王子の成長を願ってのものだ。壇上に積み上げられた装飾用の日本刀、鎧甲《よろいかぶと》、鯉幟《こいのぼり》、筆と硯《すずり》、朱子学の教養書、すべて王子の祝いのために納められたものだ。
王も王妃も笑顔が絶えない華やかな宴に、重臣たちも酒が進む。真鶴は機を見計らって真美那に合図した。
「私、ちょっと席を外してもよいでしょうか? 喜舎場親方がそわそわしております」
「寧温になるのね。いいわ。私が王族たちを引きつけておくから真鶴さんは心配しないで」
親友との連携で寧温への変身も円滑だ。弁天堂に隠しておいた寧温の衣装に着替え、再び大美御殿に戻ってきた。祝宴の喧噪の中で旧知の友が語り合う。
「朝薫兄さん、お久しぶりでございます」
「寧温、来てくれたんだね。どうして顔も見せなかったんだ」
「古狸面《ふるだぬきづら》して王宮にあがっても迷惑なだけですから……」
朝薫は寧温を早く王宮に戻してやろうと思っていた。疑獄事件も片付き、王宮は再び平穏を取り戻している。評定所は人員を増やしたのに効率は落ちていた。それは孫寧温の欠落が原因だった。実に寧温は今まで十人分の仕事を一日で終わらせていたのだ。誰もが孫寧温の才能を余人を以て代え難いと気づいているが、おくびにも出さない。
「寧温そろそろ評定所に戻って来ないか?」
「私がいなくても評定所は秀才揃いですよ」
「またそんな……。寧温が今の仕事に満足しているとは思えない」
寧温は仕事に興味がないわけではない。だが今は息子の元から離れたくなかった。せめて息子が母親を必要としてくれる時期までは側にいてやりたかった。
「私は世間を見て回る余裕のある今の仕事を気に入っています」
「王府が必要としていても固辞するのかい?」
「朝薫兄さんがいるうちは評定所は安泰だと信じておりますから」
そのときだ。大美御殿に怒鳴り声が響いた。宴会が水を打ったように静まる。入り口に現れたのは酩酊した嗣勇だった。
「やめろやめろやめろ〜っ! こんなふざけた祝いなんかお開きだ〜っ!」
「墓守を招待した憶えはないが?」
朝薫がじろりと睨む。王子の満産祝いを台無しにする闖入者に王族たちも不快感を示す。
「あの不調法者を追い出せ」
「やめろ。何が王子誕生だ。そこにいる世子はあの宦官の子だぞ!」
一同がきょとんとする。言いがかりのセンスも醜悪だ、と嗣勇に銀杯が投げつけられた。頭から酒を浴びせられた嗣勇がずかずかと御殿に踏み入る。そして寧温を見つけると「この恥知らず」と平手打ちを喰らわせた。さらに崩れ落ちた寧温を引っ張り上げて面罵《めんば》する。
「おまえは父上の遺言を踏みにじるつもりかっ!」
たちまち祝宴会場が兄妹喧嘩の舞台になる。
「嗣勇殿こそ、場を弁《わきま》えてください。ここは神聖な王子様の祝宴ですよ」
「何が王子様だ。おまえは誰の子を産んだのかわかっているのか? 第一尚氏王朝を潰すつもりか」
「第一尚氏王朝なんて昔話ではありませんか。嗣勇殿こそ目を覚ましなさい」
逆上した嗣勇が「聞け!」と拳《こぶし》を突き上げる。宴席の目を十分に集めて一気に捲《まく》し立てた。
「目を覚ますのはおまえたちだ。こいつの、孫寧温の正体を教えてやる!」
嗣勇が寧温の帽子を奪い取る。途端、豊かな真鶴の髪がこぼれ落ちた。その光景に全員が息を呑んだ。あれは女の髪だと王も王妃も目を凝《こ》らす。
「聞け。孫寧温とあごむしられは同一人物だ!」
華やかな宴が不穏な空気に包まれた。朝薫も多嘉良も三司官も唖然としていた。
長年隠し続けてきた寧温の正体が、王の御前で明かされてしまった。
[#改ページ]
第十七章 黄昏の明星
真鶴《まづる》の豊かな黒髪が寧温《ねいおん》の衣装に流れ落ちる。兄に正体を暴《あば》かれた真鶴は、公衆の面前で裸にされた以上の恥辱に呆然としていた。
酔った嗣勇《しゆう》の怒声が大美御殿《おおみウドゥン》に響く。
「この宦官《かんがん》は今まで女だということを隠して王宮にあがっていたんだぞ!」
「兄上……。何てことを……」
寧温が咄嗟に帽子を拾おうとしたとき、朝薫《ちょうくん》と目が合った。朝薫は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で目を白黒させている。
「まさか寧温が女だったなんて……」
朝薫が永遠のライバルと一目置いていた孫《そん》寧温の正体は女だった。朝薫はもう十回も頭の中でありえないと否定していた。しかし目の前で打ち震える寧温の髪は、女のものだ。すぐに十一回目の否定が朝薫の頭の中を過《よぎ》る。
「寧温が女だったなんてありえない。いや嘘だ。女が科試《こうし》に合格するなんて不可能だ」
朝薫は史上最年少合格で共に王宮にあがった青春の日を想い出していた。真和志塾《まわしじゅく》の入塾試験のときから、寧温の才能は群を抜いていた。神童と謳《うた》われていた朝薫は王国に自分よりも頭のよい人間がいたことに驚き、恐れ、そして発憤興起した。
すぐに寧温を好敵手と見抜いた朝薫は寧温の背中を追いかけることで、更なる知性の高みを目指そうとした。二年後、模擬試験で同席一位となった後も、寧温に追いついた気がしなかった。破天《はてん》塾でかつての名|三司官《さんしかん》・麻真譲《ましんじょう》の手ほどきを受けた寧温は情と理を併《あわ》せ持つ真に人間的な知識を獲得していた。
「ぼくはずっと女に負けていたのか……」
朝薫の足下から人生が揺らいでいた。男女は生まれながらにその役割も能力も違うと教えられていた。女は身体能力で男に劣るように、獲得する知識にも限界があると当然のように思っていた。確かに真美那《まみな》のように知的な女性はいる。だが女性は体つきの変化とともに知性を失っていくはずだった。
「女が財政構造改革を成し遂げたのか。インディアン・オーク号事件を解決したのか。阿片《あへん》事件を糺明《きゅうめい》したのか。ペリー提督と闘ったのか……」
寧温の百戦錬磨の実績を思い返せば返すほど、女には不可能だと常識が邪魔をする。朝薫は男でも身分によって能力に差があると思っていた。平民の男が獲得できる知識は士族の知識よりも少なく、能力は遺伝的に決定されているはずだった。それが人間の役割だ。首里《しゅり》士族に生まれたことは、科試を受ける最初の資格試験を突破したのと同義だ。もちろん個人の努力はある。首里士族でも科試を突破できるのはほんの一握りの天才だけだ。その倍率は実に五百倍。並の努力で合格できるものではない。
朝薫が目指していたものは男でもごく少数しか獲得できない最高の知性だ。それは小国琉球だからこそ求められてきた資質だ。評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》は大国と闘うために美と教養を武器にするしかない。優雅な所作は大国の敵意を喪失させ、洗練された教養は大砲よりも威力がある。扇子と筆だけで琉球は五百年王国を築いてきたのだ。
「ぼくたちは今まで女に国難を救われていたのか……」
ついに朝薫は膝を崩した。しかし朝薫の半生を培《つちか》ってきた常識は砕け散っても、目の前の寧温の黒髪は顕在だった。朝薫は縋《すが》りつくように寧温を見つめた。
「寧温……。きみは本当に女なのかい?」
「朝薫兄さん、許してください……。本当に申し訳ありませんでした……」
朝薫の理性は崩壊したが、暗い心の隅にひとつだけ安堵《あんど》の温もりがあった。それは今まで押し殺してきた寧温への恋心だった。友情だと思おうとしても拭《ぬぐ》いきれなかった情念の灯火は、ひっそりと朝薫の中で灯り続けていた。朝薫という男は最初に会ったとき既に寧温が女だと見抜いていた。そして無意識のうちに女性に高い知性を求めていたのかもしれない。
消し去った想いがまだ胸の内に残っていると知った朝薫は、悩める青春の日々を全て抱き締めてやりたくなった。
「ははは。どうしてぼくは泣くんだろう。どうして涙が止まらないんだろう……」
朝薫は裸になって晒《さら》されたのは自分の方だと思った。
同席した多嘉良《たから》も儀間親雲上《ぎまペーチン》もお互いに顔を見合わせて「もっと酔っぱらってしまおう」と泡盛を呷《あお》る。
「寧温が女。破天塾の神童・孫寧温が女だと。がはははは」
「こんなことなら宦官でもいいから求婚しておけばよかった」
まだ理性が残っていることが面倒くさくなった二人は更に酩酊《めいてい》しようと泡盛をがぶ飲みする。
大美御殿にいた女官たちも孫寧温が女だったことに腰を抜かした。思戸《ウミトゥ》が倒れた側から女官たちが将棋倒しになっていく。
「寧温様が、あごむしられ様ですってえええっ!」
寧温には温かく、真鶴には割と生ぬるく接してきた思戸は態度の座標軸が狂ってしまい、女官|大勢頭部《おおせどべ》としての立ち位置が吹っ飛んでしまったようだ。
「寧温様、真鶴様。寧温様、真鶴様。寧温様、真鶴様……。なぜ二人が混じってるんだい?」
「女官大勢頭部様、お気を確かに!」
首が据わらなくなった思戸は目の前の人物が今どっちの性なのかわからない。顔は真鶴だが、首から下は寧温の両性具有の化け物にしか見えなかった。
「寧温様、いや真鶴様、私の頭がおかしくなっているのでしょうか?」
「思戸……。今まで騙《だま》していてごめんなさい……」
「それじゃあ、あの絣《かすり》は真鶴様が……」
女官大勢頭部に就任したとき八重山《やえやま》の寧温から贈られた着物は、真鶴が仕立てたものだ。そう考えると合点がいく。御内原《ウーチバラ》の人事は決して表に出ることはない。だが寧温は遥か遠くの流刑地から女官大勢頭部就任を知っていた。思戸が八重山の寧温を偲《しの》んでいたときには既に、寧温はあごむしられ(側室)として御内原に入っていたのだ。
「真鶴様、私は何か失礼なことをいたしましたでしょうか? ええっと。寧温様に真鶴様の悪口とか言いませんでしたか?」
裏表の激しい性格の思戸は、影にいきなり陽が差してきて大|慌《あわ》てだ。よく御内原から外出する真鶴はよくないと寧温に陰口を叩いていた気がする。だんだん頭がこんがらがってきた思戸はついに投げてしまった。
「寧温様なら先にそう仰《おっしゃ》ってくださればよろしかったのに!」
「思戸、あなたは悪くないのよ。全部私のせいなんです」
同席した王族たちも心臓が止まるような光景に硬直している。さっきまで隣の席で王子を抱いていたはずの真鶴が、どういう絡繰《からくり》なのか寧温になって重臣たちの席にいる。
王妃は何の奇術なのか国母に解説を求めた。
「そういう演《だ》し物なのですか?」
「そんな座興は聞いておらんが、悪趣味じゃ」
「ところで真鶴はどこに行きました?」
あそこにおります、と女官が指さしても王妃はまだ現実が受け入れられない。
「それはそうと早く真鶴を呼び戻しなさい」
「王妃様、あれが真鶴様でございます!」
「あそこにいるのは孫寧温です」
「いいえ王妃様。あれは、あごむしられ様でございます!」
その言葉で王妃は辛うじて保っていた理性の最終安全装置が外れてしまった。バネ仕掛けの箱が開いたように、王妃の理性が飛び散っていく。御内原の掟《おきて》、王宮の掟、王族の掟、と掟だけで成り立っていた王妃の人格に罅《ひび》が入る。
「あごむしられが評定所に勤めていたとは――!」
この単純な事実を受け入れるために、王妃は品位の半分を失わなければならなかった。すぐにうすら笑いが王妃の顔を覆い、やがて気が触れたように扇子を上下させた。
「あれは幻《まぼろし》じゃ。女が表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》になれるわけがなかろう。ほほほほほ」
王妃が狂気を担当すると残された感情は少ししかない。国母は恐怖に打ち震えていた。
「あれは妖怪じゃ。女の姿をした妖怪じゃ……」
人生の殆《ほとん》どを御内原で過ごしてきた国母は、王宮がどんな場所なのか身を以て知っている。男女の隔ては生死の境と同じくらい厳格だった。御内原の女が表世界に出ることは黄泉《よみ》の世界に足を踏み入れることに等しい。それは男が御内原に入るのも同じだ。男女は互いに対になって決して相手の領分を侵してはならない。そのために異なる役割を神が授けたと信じていた。
「これ、聞得大君《きこえおおきみ》。あの妖怪を調伏《ちょうぶく》せい」
聞得大君は幼い頃から知っていた寧温が女だったことをどうすれば受け入れられるか理性と相談中だ。
「男装すれば王宮にあがれるものではないはずじゃ。孫寧温は科試を突破して王宮にあがったはずじゃ。女にそこまでの能力があるとは思えぬ」
琉球における女の最大の能力は神になれることである。霊力において男は女に勝てない。女の中でも霊力には個人差がある。御嶽《うたき》を守るノロになれる者は女の中でもごく少数。上級ノロの大あむしられになれる者は更に一握り。そして王族神・聞得大君になれる者は一時代にひとりだけだ。もし霊力のある男が女装してノロになって京《きょう》の内《うち》にあがっても、たちまち大あむしられの霊力で見破られてしまうだろう。それと同じことが評定所で二十年近く公然と罷《まか》り通っていたことが信じられない。
「女にそこまでの能力はない。あれは龍の化身じゃ。王宮の龍が人の姿をしておるのじゃ」
聞得大君は真鶴と寧温をまとめたとき、初めて正体がわかった気がした。神獣を調伏するなど聞得大君の霊力を以てしても不可能だ。龍の化身がこの世に現れると国が乱れるという。そのことを同席した王族たちは知る由《よし》もない。
「これは御内原を守る王妃様の失態じゃ!」
王妃は責任のお鉢が回ってきたら、すぐに転嫁するのが癖だ。
「何を言う。女官大勢頭部の責任であろう。側室試験に通した者を罰せよ」
「ま、真美那様が御内原に一緒にあげたのでございます。真鶴様は落ちていたはずでした」
真美那は回ってきた爆弾を「えい」と異次元空間に放り投げた。
「大した問題じゃないと思います。私はあまり驚かなかったわ」
「それは真美那の性格じゃろう!」
「みんな肝《きも》が小さいわね。別に女が表十五人衆でもいいのよ」
「真美那! 気が触れたのか? 王宮の掟を知らぬのか?」
「女が王宮にあがった歴史的偉業になるんじゃない?」
王子を抱いた真美那は「お母様ってすごい人ね」と微笑《ほほえ》んだ。しかし真美那も心中穏やかではない。いくら真美那でも陽気なお嬢様爆弾でこの窮地を救えるとはとても思えなかった。
「真美那、いくらあなたでも今回は庇《かば》えませんよ」
王妃の一喝で真美那の暴走が挫《くじ》かれる。めぼしい茶碗がないかと辺りを見渡したら、すっかり手の内が読まれているようで、女官たちがさっと高級な什器《じゅうき》を隠したではないか。真美那は口惜しそうに拳《こぶし》を握りしめた。
――真鶴さん逃げて。もう私でも庇えないわ。
列席した重臣たちは孫寧温が女だったと知って男の面目が丸|潰《つぶ》れだった。
「俺たちは今まで女に顎《あご》で使われていたのか?」
「妖しい宦官だと思っていたが、まさか女だったとは!」
「よくも我らの信頼を裏切ってくれたな」
「許せぬ。手打ちにしてくれる!」
表十五人衆の男が献上された日本刀に手をかけようとしたとき、三司官が諫《いさ》めた。
「いかん。あごむしられ様に手をかけてはならん!」
憎き宦官は王族というもうひとつの顔を持っていた。寧温を罰することはできても、王族には手を出せない。しかも真鶴は世子と目される王子の母親だった。重臣たちは一斉に尚泰王《しょうたいおう》の反応を仰いだ。
「首里天加那志《しゅりてんがなし》、どうなさるおつもりですか?」
尚泰王はさっきからの騒ぎが全く耳に入らなかった。むしろひとりだけ水槽の中に放り込まれたような静寂に浸っていた。耳鳴りのような孤独の音が尚泰王の体の中に響く。重臣たちの中で唯ひとり心を許していた孫寧温が女だった。これが裏切りになるのか尚泰王には判然としない。もしただの女だったら皆に付和雷同できただろう。
しかし真鶴は王の妻でもある。共に夜を過ごし、慈しみ、壊れやすい宝物のように恐る恐る扱ってきた愛する女だ。
孫寧温と交わした政治の会話、真鶴と交わした愛の会話が尚泰王の中で錯綜する。尚泰王は公私に亘《わた》って寧温と真鶴を信頼していた。
「寧温が真鶴だった。いや真鶴が寧温だったのか?」
尚泰王は間近で確認しようと真鶴の元へやって来た。黒髪を垂らした寧温は真鶴の顔になって怯《おび》えていた。
「真鶴。これはどういうことなのか説明してくれないか?」
尚泰王の真っ直ぐな眼差しは偽《いつわ》りを嫌う。寧温が信頼されたのも真鶴が愛されたのも王命に忠実だったからだ。真鶴はもはや嘘はつけないと観念した。
「首里天加那志、申し訳ございません。私は性を偽って王宮にあがっておりました。私は国の役に立ちたくて幼い頃に髪を捨てたのでございます――」
真鶴は喉が焼けそうな思いで自分の素性を語った。ひとつひとつの言葉が偽りの人生を裁くように真鶴の体を引き裂いていく。指先から腕、肩から胸へと罪の墨に染まっていくようだった。やがて目の底まで黒ずんでしまう前に、寧温がこの世から消えてしまう前に、王命に忠実でありたかった。
「そなたは先代の王にも仕えてきた重臣だ。なぜ男になろうとしたのだ?」
「私は学問を修めたかったのです。知識の光で自分の人生を照らしてみたかった。自分の人生を自分の意志で歩んでみたかった。ただそれだけなのでございます……」
「学問好きなだけで科試を首席突破できるとは思えん。寧温が女に化けているのではないのか?」
「いいえ首里天加那志。私は女です。女にも能力はあるのです」
「ではなぜ御内原に潜り込んだのだ? 孫寧温のままでいる方が正体は隠せたはずだ」
「私は八重山に流刑《るけい》になっておりました。そのとき英米連合軍が八重山を砲撃しているところに遭遇し、国難が迫っていると書簡を認《したた》めました。でも王府は取り合ってくれず、私は女に戻って罪を逃れておりました。あるとき王宮に戻れると在番殿が話を持ちかけました。私はあごむしられ試験とは知らず、王宮に戻りたい一心でその話に乗ってしまったのです」
尚泰王は側室試験のときのことを思い出した。確か真美那に負けて落ちたはずだったのを、尚泰王が引き留めた。そのときなぜ真鶴に惹《ひ》かれたのかわからなかったが、寧温の面影を見つけたせいだと今なら合点がいく。尚泰王は徐丁垓《じょていがい》を討ち、八重山に流刑になっていた寧温をいつも気に懸けていた。
「余が寧温に恩赦を与えたために、真鶴と寧温が王宮にいる羽目になったのだな? なぜそんな危険な綱渡りをしていたのだ?」
「私は、ペリー提督と闘う自信がありました。そもそも王宮に戻ったのは国難と対峙《たいじ》するためです。身の危険は百も承知の上でございました」
「余はそなたを臣下として信頼していた。妻として愛してもいた。答えてくれ。そなたの本心はどちらなのだ?」
真鶴は口籠もったまま、答えられない。王はどの答えを求めているか知っていたが、真鶴には言えなかった。
「真鶴、答えてくれ。余は偽りの人生は嫌じゃ。王命である。答えよ」
真鶴は髪を乱しながら涙を落とす。もう目の底まで罪の墨が迫っていた。
「お、王子様は、王子様は私の分身です。王子様を産んだとき真鶴も寧温も死んだと思ってください……」
真鶴の絶叫が大美御殿を揺さぶる。泣いて叫んで千切れて声と一緒に消えてしまいたかった。息をまとめてもう一度真鶴が絶叫する。これで人生は終わった。こんな無様な最後だと知っていたら、男にならなかった。責任を放り投げて雅博《まさひろ》の許《もと》に駆けていた。寧温は人生から転落し、真鶴は女として失敗した。こんな惨《みじ》めな人生があるだろうか、と真鶴は思う。
「私は男にもなれず、女としても生きられず、いつも心は揺れていました。でも母になったとき、やっと何かが始まると思いました。王子様は私の全てです。王子様に偽りなどございません。どうか首里天加那志、王子様だけはお救いくださいませ。うわあああああっ!」
尚泰王は拳を何度も床に叩きつけて怒鳴り散らした。
「真鶴、余はそなたを愛していたのだぞ。孫寧温を信頼しておったのだぞ。なぜ余を裏切ったのだ。なぜ王宮を穢《けが》したのだ! 聡明なそなたなら自分のしでかした罪をわかっておろう!」
「首里天加那志、私の罪はこの命で償《つぐな》います。どうか首をお取りください」
王子の満産祝いは最悪の結末で終わった。真鶴の身柄は大美御殿で預かることになった。本来なら平等所《ひらじょ》だが、真鶴の身分を考えての処遇だ。王族の処遇は最高裁判所の役割を担う評定所の僉議《せんぎ》で裁かれる。
翌日、評定所の誰もが前代未聞の事件に頭を抱えていた。
「孫寧温は二十年近くに亘り王府を欺《あざむ》いていた。女人禁制の王宮に女がいたなど考えただけでも虫酸《むしず》が走る。孫寧温を斬首にしろ」
朝薫がすぐに割って入る。
「お待ちください。寧温の実績を考慮しないのは不当なのではないでしょうか?」
「女が手柄を立てたのも罪だ。市中引き回しにして斬首でも妥当だと思う」
「それはやりすぎです。孫親方が女だったことは大罪ですが、王府を救ってくれた恩もあるはずです」
「喜舎場《きしゃば》親方、なぜ寧温をそこまで庇うのだ?」
「この僉議は孫寧温ではなく、あごむしられ様の処遇を決める裁判です。孫寧温は実体のない役人ですが、あごむしられ様は女として存在しておられます。あごむしられ様は王子様の母君であることをお忘れですか? もし王子様がご成長なさり母上を我らが斬首したと知ったらどう思われるでしょうか? そんな我らを臣下として信頼していただけるでしょうか?」
「くそ。あごむしられ様でなければ、孫寧温など八つ裂きにしてやったのに!」
憔悴《しょうすい》した尚泰王はただ黙って重臣たちの主張を聞いていた。もしこの中に自分の気持ちに近いものがあれば少しは気を取り直せたのに、どれも身分や実績など表層の事象に囚《とら》われてばかりで聞いていても真実が掴めなかった。
尚泰王は昨日、真鶴にこう尋ねればよかったと今気づいた。
「真鶴、余はそなたを幸せにしてやれたか?」と。
知りたかったのは忠義の絆《きずな》ではなく、愛を上手に伝えられていたかだ。だが身柄を拘束された真鶴に、それはもう聞けない質問だ。
王国の全てを知る立場にいながら一番知りたいことを聞けないのが、王という立場だと尚泰王は諦観している。
「首里天加那志、ご判断くださいませ」
[#ここから2字下げ]
僉 議
真鶴
右者事女人之素性ニ茂不拘宦官抔与申世情誑
来事已不成、御奉公之道理至迄令惑乱候儀明
白候。死罪被仰付之他無之雖為瑕疵、御政道
各般之働被致斟酌、且亦為阿護母志良礼位事
被致熟慮事候故、品位令剥奪、久米島江一世
流刑被仰付候事。
未四月
評定所
[#ここで字下げ終わり]
真鶴は大美御殿の控えの間で、自らの判決を受け取った。寧温の着物のまま女髪を結った真鶴は中途半端な性のままだ。一晩中泣いて目を腫らした真鶴はどんな判決でも受け入れるつもりだった。
「右の者は女でありながら宦官と偽り、長く王府を欺いてきた。神聖なる王宮を汚した罪は重く死罪が相当である。だがこれまでの実績を考慮し、またあごむしられという身分を酌量《しゃくりょう》して、官位を剥奪《はくだつ》し、久米島《くめじま》に一世流刑とする――」
沖縄島に近く、比較的豊かな土地の久米島への流刑は温情のある措置である。しかしもう二度と王宮には戻れない。
「私の赤ちゃん。最後にしっかり抱いておきたかった……」
流刑になるのは構わないが子どもを置いて去ることに、どうしても未練が残る。王子の立場を考えたら御内原に残す方が絶対にいい。それはわかっているけれど、母子の絆を切られるのが辛かった。流刑にされる前に、一目会っておきたいと役人に頼んだら一蹴《いっしゅう》されてしまった。
「罪人に手を貸したら俺たちまで裁かれてしまう。気の毒だが諦めるんだ」
「お願いです。せめて遠目にでも王子様を見させてください」
真鶴が縋っていると、大美御殿に使いの者がやって来た。
「真鶴に花城親雲上《はなぐすくペーチン》という役人が面会に来ているぞ」
「花城親雲上? ……まさか?」
真鶴に嫌な予感がこみあげる。
「何というか面妖な役人だ。『お・ね・が・い』だってよ」
大美御殿の役人がしなを作って口元に手を寄せる。やって来たのは予想通り男装した真美那だった。花城親雲上はお忍びで王宮から外に出るときの仮の姿だ、と真美那だけが思っている。看守の役人から面会を拒絶されたら「花城親雲上、泣いちゃう……」と強引に押し切った。
「真美那さん、また男装しましたね!」
「しーっ。こうしないと外に出られないのよ。真鶴さんが久米島に流刑になるって朝薫から聞いたわ。逃げるなら今しかないわ」
「逃げるなんて滅相《めっそう》もない。私はもう破滅しました。逃げても何の希望もありません」
「希望なら持ってきたわよ。ほら」
真美那が籠を開けると中には王子がすやすやと眠っていた。
「真美那さん、王子様を誘拐するなんてどうかしています!」
「子どもに身分は必要ないわ。必要なのは母親の愛情よ。王子様と一緒なら真鶴さんはきっと生きていける。母親としての人生はまだ始まったばかりじゃない。お母さんとしてやり遂げて」
「でも大美御殿からどうやって逃げればいいのでしょうか。警備は厳重です」
真美那はそろそろだと障子《しょうじ》の外を眺める。しばらくして夜の御内原から赤い炎があがったではないか。すぐに大美御殿の役人たちが異変に気づく。
「おい、御内原が火事だぞ。月番之三司官様へ報せろ!」
真鶴の警備をそっちのけで男たちが消火に駆り出される。火事に乗じて逃がそうと真美那が仕組んでおいたのだ。
「いやあね。ボヤですむかと思ったのに案外火の勢いが強いわね……」
「真美那さん、自分が何をしているのかわかっているんですか?」
「放火と誘拐と脱獄の手引きよ。もう茶碗割ったくらいじゃあなたを救えないのよ」
真美那が「えい」と真鶴の足枷《あしかせ》を外した。
「さあ今のうちよ。王子様を連れて逃げて。末吉《すえよし》の森に遍照寺というお寺があるわ。そこの住職を頼って。向《しょう》家の菩提寺だから私の手紙を見せれば匿《かくま》ってくれるわ。これが手紙。それと当面のお金。なくなったらまた送るわ」
「でも王子様を連れて逃げるなんて……」
「連れて逃げないと子どもとは今生《こんじょう》のお別れになるわよ。二度と母親に戻れないわよ」
真美那は火事のどさくさに紛れて真鶴の背中を押した。真美那はにっこりと笑った。
「ねえ、もしかして私たち、これが最後の縁かもしれないわね」
真美那は瞳にうっすらと涙を浮かべている。真鶴は真美那との楽しかった日々を思い出した。側室試験で知り合ったときから、真美那は愛嬌と気品を兼ね備えていた。真鶴の苦しみを分かち合い、いつも献身的に守ってくれた。真鶴は初めて心を許しあう友を御内原で得た。家柄、財産、教養、美貌、人柄、全てを具備した真美那は愛を与えることで生きている。ただし、全てを持っているが故に既成の価値観からはかなり自由だ。
「これ、誕生日に贈ろうと思っていた芭蕉布《ばしょうふ》よ。私との思い出にしてちょうだい」
真美那が手渡した芭蕉布は生成りの素朴さ故に、織りの端正さが際だつ。年に一品、国王に献上されるかどうかの最高級品だ。
真美那の温もりが織られた芭蕉布を抱えた真鶴は、会えるのはこれがたぶん最後だと覚悟した。
「真美那さん、どうしていつも私に親切なんですか?」
「私ね、友達がほしかったの。それが私の人生で唯一自分で選べるものだったから。私は王宮にあげられるために育てられた女。向家を第二尚氏王朝の本流に戻すために私はいる……」
真美那はこの世に生まれる前から家の意志に支配されていた。器量がよく、聡明で、女だけの集団生活に適応できる人材を求めてきた向家は、百四十年にも亘る遺伝子改良を行ってきた。全ては第二尚氏王朝存続のために。真美那生誕は宿命であると同時に百四十年の仕掛けが正確に作動したことを表す。生まれながらにして王女よりも王族らしい真美那は向家の意志通りに動くことを求められた。
「私は第二尚氏王統へ戻るための舵《かじ》でしかない。でも人生捨てたもんじゃないなって思ったわ。神様は最高の友達を御内原に用意してくれたもの。女でも科試に合格するってことを証明してくれた真鶴さんは、私の誇りよ。そして孫寧温は私の大切な初恋の人……」
真美那は真鶴の手をとって最後の別れを惜しんだ。
「真鶴さんは琉球の女性の可能性を示してくれた私の希望よ。だから生きて。籠の鳥の私の代わりに広い世界に羽ばたいて」
「真美那さん……」
真鶴が御内原であごむしられを続けていた本当の理由が今わかった気がする。真鶴もまた同世代の女友達が欲しかったのだ。寧温は同僚や上官や部下の関係しか築いて来なかった。気を許せる多嘉良は親子ほど歳が離れていた。真美那と出会って初めて真鶴は女同士の付き合いを知った。そして利害のない真の友情を知った。真鶴は自分が御内原で幸せだったから、留まったのだと思った。
「私たちは離れていてもずっと友達よ」
真美那は名残《なごり》惜しそうに佇《たたず》んでいる真鶴の代わりに自分から背を向けて駆けだした。内股で小走りに駆けていく真美那の背中を真鶴は涙越しに見つめた。
「真美那さん、ありがとう。そしてさよなら、私の親友……」
真鶴は赤子を抱いて王都の闇に紛れた。末吉の暗い原生林の中を母子が王府から逃げるように駆けていく。一歩足を踏み入れるごとに文明が遠ざかっていく深い森だった。ぐずって泣く赤子の額にそっと口づけしたら王子は上機嫌に笑って、まるで「ぼくは母上様と一緒に行くよ」と迷いのない目を向けてくれた。
「坊や、本当にこれでいいのね? 母さんのしたことを許してくれるのね?」
王宮で過ごした宦官の時代、御内原で過ごした側室の時代に別れを告げる。かつて八重山に流刑が決まったときは王宮に後ろ髪を引かれたものだ。だが今度は懐《ふところ》に希望があった。
「あなたをきっと一人前の男に育ててみせます!」
逃げる母子の影が森の奥へと消えていった。
むつれたるどしや忘やべが
たとひ音信やまれになても
(親友と過ごした楽しい日々を決して忘れることはありません。たとえ音信不通になっても私たちの友情は永遠です)
遍照寺は首里の郊外、末吉の森の中にあった。原生林に覆われた森は王都の民がもっとも身近に感じる自然である。森には人を寄せ付けない強靭《きょうじん》な意志が備わっていて、この森はしばしば怪異の舞台ともなる。情欲に溺《おぼ》れた女から逃れる美少年の顛末《てんまつ》を描いた組踊『執心鐘入《しゅうしんかねいり》』の舞台はこの末吉の森でもある。
真美那の手紙を読んだ住職は真鶴の素性を理解し、匿ってやった。真鶴は寺の裏にある小屋に住み、生まれたばかりの息子とふたりで過ごすことにした。この森は人を阻《はば》んでいるが、流刑地ほど隔絶しているわけではない。近くにある末吉宮の丘に立つと、紅い王宮の屋根が見える。真美那や朝薫、思戸や多嘉良の毎日を遠目に見るのが真鶴の慰めだった。しかし真鶴には追っ手がかかっている。いつ大与座《おおくみざ》の役人に見つかるかひやひやしながらの日々でもあった。
住職は赤子の素性を見抜いたのか「明《めい》」と命名した。そして母子の長い時間が森の中で過ぎていく――。
*
森の朝は鳥の鳴き声に混じって子どもを捜す母の声で始まる。
「明! 明! どこに行ったの?」
寺の本堂まで響く大声に住職がひやひやする。腕白坊主に育った明は毎日行動半径を広げていた。その都度、母親の怒鳴り声も大きくなる。明には末吉の森から外に出てはいけないときつく言い聞かせてあった。しかし子どもの好奇心を押さえつけるのは難しい。明はしばしば首里の外れまで遊びに出ていた。
あまりの金切り声に住職が真鶴を窘《たしな》める。
「これ。匿っている儂《わし》の身にもなれ。母と子どもがここにいますと叫んでいるようなものだぞ」
「申し訳ありませんでした。でも明を連れ戻さないと大変なことになりそうで……」
真鶴は肝っ玉母さんとして日々奮闘中である。
「子どもが遊びまわるのは当たり前のことだ。そう目くじらを立てるな」
「いいえ住職。あの子は、明は変わっているんです。きっと書物を探しに行ったんだわ……」
「この前、『孟子』を貸しただろう」
「もう諳《そら》んじています」
「まさか。子どもが読んでいるだけでもあり得ないのに――?」
すると本堂の奥から「それはないよ住職様」と男の子の声がした。振り返ると幼い頃の寧温そっくりな明が品のある笑みを浮かべていた。明が現れると薄暗い本堂に陽が差したようになる。視線を釘付けにする華やかさは見る者の心を和《なご》ませてくれた。
住職は本当に孟子を諳んじているのか試してみた。
「明、盡心章句上《じんしんしょうくじょう》の十五を言ってみろ」
明は木魚を叩きながらお経の口調で答える。
「孟子曰く、人の学ばずして能《よ》くする所の者は、其の良能なり。| 慮 《おもんぱか》らずして知る所の者は良知なり。孩提《がいてい》の童も其の親を愛することを知らざる者はなく、其の長ずるに及びて、其の兄を敬することを知らざる也はなし。親を親しむは仁なり。長を敬するは義なり。他なし。之を天下に達《およ》ぼすのみ」
朗々たる口調には思考の乱れすらない。真鶴は明のこの能力に慣れているが、住職は圧倒されていた。
「明、今の言葉を漢文に戻してみろ」
「孟子曰、人之所不學而能者、其良能也、所不慮而知者、其良知也、孩提之童、無不知愛其親者、及其長也、無不知敬其兄也、親親仁也、敬長義也、無他、達之天下也」
「神童か!?」
真鶴は「いいえ知識のあるバカです」と弥勒菩薩《みろくぼさつ》像の足の裏をくすぐっている明の耳を引っ張った。
「こら。舌の根も乾かぬうちに何という罰当たりなことを。『人には良識が生まれながらに備わっている』とよく言えたものですね!」
「痛ってえ。母上様、ごめんなさーい」
真鶴が明の教育で戸惑っているのは、知識と態度が相反している点だ。よく物事を覚えてくれるのは感心だが、肝心の仁が未発達である。明の知識欲の旺盛さは母親譲りだった。脳が飢餓《きが》に陥《おちい》っているのか、はたまた脳に空白があるのを本能的に恐れているのか、意味よりも文字から先に覚えていく。その勢いは全てを飲み込む知識の竜巻だ。
物事の事象や体系を無視してただひたすら文字を求める姿は貪欲で、息子の頭の中で何が起きているのか母親の真鶴にさえわからない。たとえば「水」が[water]と知ると系統の違う言語であるギリシア語の[hydro]とラテン語の[aqua]が関連づけられ、より文語的な言い回しを好む。言葉に対する美意識の回路が予《あらかじ》め明の中に備わっているとしか思えなかった。
「母上様、もっと書物が読みたいよお」
「遠くに行ってはいけないとあれほど言ったでしょう。言いつけを守らなかった罰として十日間、筆と算盤《そろばん》を持つことを禁じます」
それが罰になるのかと住職が首を傾《かし》げる。ところが明は大粒の涙をぼろぼろ零《こぼ》して真鶴の袖に泣き縋った。
「母上様、それだけは勘弁してくださぁい」
「もうっ。一体、誰に似たんでしょう!」
住職は似た者母子に苦笑した。二人が暮らしている小屋は外見は質素だが、中は立派な書庫だ。明のために真鶴は教科書を作っていた。住職にはわからない異国語から朱子学、和文学に至るまで真鶴は持てる知識の全てを吐き出すように書に変えていた。
真鶴は身分の高い女性だと真美那から聞かされたが、それだけでは納得できない離れ業だ。読んだ書物を記憶だけで完璧に複製するなんて神業に等しい。それを傍から一文字|漏《も》らさずに吸収していく明は頭脳を復製しているようだった。明は母の知識の全てを取り入れて尚、未知の知識を欲している。
「まるで神童・喜舎場朝薫の再来だな」
住職は幼かった頃の朝薫も、そんな少年だったことを思い出した。
ある日、明はまた末吉の森を離れて首里をうろついていた。街に近づいてはいけないことは知っていても都は誘惑の香りがする。人の活気、華やかな衣装、食べ物の匂い、そして美と教養を身につけた王宮の役人たち、全てが明にとって刺激的だ。
明が物見高そうに都を見聞していると、美しい役人たちから声をかけられた。
「おい、おまえ名を何と言う?」
明は初めて間近で見る王府の役人の所作の優雅さに惚れ惚れした。威圧的ではないのに、こちらを遜《へりくだ》らせる気品がある。着崩した色衣装にもセンスの良さが窺《うかが》えた。洗練された大人の男の色気に明が息を呑む。
「明と申します。あの、すごく恰好いいですね。王府のお役人様でございますか?」
「私は王府の踊奉行の孫親雲上だ」
声をかけたのは嗣勇だ。大美御殿での狼藉《ろうぜき》の後、嗣勇は酒浸りの生活に終止符を打ち、再び王宮を目指した。嗣勇の取り柄は今も昔も踊りだけだ。聞得大君のトゥシビー(生年祝い)で新作組踊を披露した嗣勇は、大喝采を浴びた。以後、天才戯曲家として聞得大君の推薦で踊奉行の地位に上り詰めることに成功した。審美眼とセンスが命の踊奉行は嗣勇にうってつけの役職だった。今日も同僚を引き連れ美少年を王宮にあげるためのスカウトを行っていた。
『この子は寧温に似ているな……』
嗣勇は行方不明になった真鶴と王子のその後を知らない。あの大美御殿で自分がしでかした過《あやま》ちを後悔しない日はなかった。酒と遊女に溺れ妹に見捨てられたと一方的に怨《うら》み、悲しさのあまり妹の正体を公衆の面前で暴いてしまった。妹の人生を滅茶苦茶にしたとき、嗣勇は一緒に破滅したいと思った。だが嗣勇は生き延び、妹はお尋ね者になった。
才能を評価され、着実に実績を積み上げてきた嗣勇は、初めて妹の葛藤を理解できた気がした。孫寧温でいることは苦痛だろうとばかり思っていたが、才能を認められることは人生の喜びだ。妹は宦官になることでその才能を開花させた。その喜びを奪ってしまったことが嗣勇の人生最大の過ちである。
未来は無条件に明るいと信じている少年の眼差《まなざ》しは寧温にそっくりだった。
「おまえ王宮にあがってみないか? その器量ならばすぐに花当《はなあたい》としても使えそうだ」
「王宮に? 本当ですかお役人様? 王宮には書物がたくさんあるんですよね?」
踊奉行の同僚は明の活発さが女形に向かないんじゃないかと危惧《きぐ》する。
「大丈夫だ。私もかつてはこの子のようだったが、ちゃんと花当をやれたさ」
「ぼく、いちど『歴代宝案《れきだいほうあん》』の続きを読んでみたかったんです!」
王府の『歴代宝案』はかつての琉球の広大な版図が記された外交文書だ。明《みん》朝から現在の清《しん》朝、タイのアユタヤ朝、ベトナムの黎《レイ》朝、ジャワ島のマジャパヒト王国、マラッカ王国、パタニ王国、パレンバン王国など、琉球が交易した国の全てが記されている。明の今もっとも興味のある歴史の分野だった。
「歴代宝案のつづき? なぜおまえが歴代宝案を読んでいるんだ?」
「母上様が写本されたのを読みました」
「門外不出の歴代宝案が写本されたのか! 嗣勇殿、この子は怪しいぞ」
嗣勇も嫌な予感がこみあげてきたが、子どもの戯言《ざれごと》だと言って同僚の注意を逸《そ》らした。
「ここからは別行動にしよう。ぼくは首里、きみは真和志村だ」
そして同僚を追い払ったことを確認すると、嗣勇が腰を落として明の瞳を覗《のぞ》き込んだ。
「私の名は孫嗣勇だ。きみのお母さんの名前は何て言うんだい?」
「あの、母上様のことは他人に話してはいけないことになっているんです」
「じゃあ、私が当てるのは構わないかな?」
明は嗣勇の優しい眼差しを見ていると気を許してしまい、「うん」と頷《うなず》いた。嗣勇はこみ上げてくる懐かしさと罪悪感に目頭《めがしら》を熱くさせた。
「お母さんの名前は真鶴って言うんじゃないのかい? 私の妹の名だよ……」
人が戯《たわむ》れに入るにはあまりにも深すぎる末吉の森に明は嗣勇を招き入れた。母の喜びそうな顔を思い浮かべた明は、驚かせようと織機のある裏部屋に嗣勇を案内する。小気味よく時を刻むような機織《はたお》りの音に嗣勇も切れてしまった絆と時間を胸に去来させた。後ろ姿でも暗がりでもはっきりと真鶴だとわかった。ただ、どんな声で話しかけていいのか感情が込み上がってきて喉を塞いでしまう。
――真鶴。
妹は少し窶《やつ》れただろうか。結った髱《つと》が重そうに首にかかっている。人里離れた森の中で妹は懸命に生きていた。
嗣勇はやはり会わせる顔がないと踵《きびす》を返そうとする。そのとき明が真鶴を呼び出した。
「母上様、お客様を連れてきました」
その声で機織りの音がピタリと止む。振り返った真鶴は心臓が弾けそうになる。部屋の前には兄がいるではないか。
「兄上! どうしてここに――?」
嗣勇は拳《こぶし》を握りしめて俯《うつむ》いた。やはり嬉しさよりも罪悪感で身が硬くなる。謝りたくても最初のひと言さえ出てこない。そんな嗣勇の気持ちを察したのか、真鶴は穏やかに微笑んで兄を温かく迎えてくれた。
「兄上、お元気そうで安心しました。もう一生、会えないものと覚悟しておりました」
「真鶴……。ぼくは……。ぼくは……」
「その恰好は王府の踊奉行ですね。ご昇進おめでとうございます。兄上にぴったりの役職ですね」
突然、嗣勇は床に崩れるように跪《ひざまず》いた。
「許してくれとは言わない。ぼくのしたことは死んでも許されないだろう。でも、ずっと会いたかった……。これだけは本当だ。そして謝りたかった。ぼくはどうかしていたんだ。ぼくは寂しさのあまり真鶴に酷い仕打ちをしてしまった。申し訳ない――」
真鶴は土下座する嗣勇の背中にそっと手をかけた。兄を怨んだのは身柄を拘束されたほんの一瞬だけだ。末吉の森で隠遁《いんとん》生活を送っている間、ずっと兄のことが気になっていた。そして思い返すのは幼い頃の楽しかった日々だけだ。怨みよりも懐かしむ時間の方がずっと長かった。
「女人禁制の王宮に宦官と偽ってあがったのは私の罪です。そのせいで兄上には苦労をかけてきました。だから兄上を怨むことはありません。むしろ私を自由にしてくれたと思っております。どうか苦しまないでください……」
「真鶴……。ぼくはバカだった。玉陵《タマウドゥン》で朽ちていくのが怖かった。身籠もったと聞いて見捨てられたと思った。真鶴はそんな妹じゃないとわかっていたのに……」
「私も兄上の辛い気持ちを汲んであげられませんでした。すぐに王宮に戻すと約束したのに、果たせませんでした。裏切られたと思われても仕方がありません」
嗣勇はやっと永年心に刺さっていた刃が抜け落ちた思いがした。面罵《めんば》されても当然のことをしたのに、妹の翳《かざ》した温かい手ひとつで冷えた心が解《ほぐ》れていく。真鶴がにっこり笑うと嗣勇は号泣して抱きついた。
真鶴は人の心の糸はその気になれば再び繋《つな》がると思った。むしろ結び目は最初の糸よりも強く互いを結びつける。
結ぶ糸縁の昔くり戻ち
なまになしぼしや浜の真砂
(兄妹を結んだ縁の糸は一度は切れて別れてしまったが、今また昔のような関係に戻ってもう一度やり直そうと思う。その心が浜の真砂のように果てしなく切に思われる)
「そうだ明。明。こっちに来なさい。あなたの伯父上ですよ」
「ぼくにこんな恰好いい伯父上がいたんだ。しかも王府のお役人様だ。ぼくは士族の生まれだっていうのは本当だったんだね」
明は風流を身につけた嗣勇が伯父だと知って、目を輝かせる。明は自分が王子であることをまだ知らなかった。
「兄上、息子の明でございます。踊りは兄上譲りの才能ですよ」
「明……。ぼくの甥か。頭が悪いのは似なくてよかったよ」
「ぼく、大きくなったら伯父上のように恰好いいお役人様になりたいです」
嗣勇は照れ笑いで明の頭を撫でた。この子が今、王府が懸賞金を出して大捜索している首里天加那志の子だ。みなりは貧しいがしなやかな体つきと知的な顔つきは明の素性を如実に語っていた。よく今まで王府に見つからずに生きてこられたと思うと、嗣勇は切なくて胸が詰まった。
「ぼくの過ちのせいで、おまえたちに苦労をかけてしまった。どうか償わせてほしい」
と、嗣勇が真鶴に申し出たそのときだ。森の静寂を割る男たちの|※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]《いきれ》が梢の間から迫って来た。明の素性を怪しんだ嗣勇の同僚が密かに尾けていたのだ。行方不明の王子かもしれないと報せを受けた大与座の役人が遍照寺を囲んだ。
「住職、ここに不審な母子がいると聞いた。もしや王子様と真鶴ではあるまいな?」
住職はのらりくらりと逃げているが、バレるのは時間の問題だった。住職の態度に業を煮やした役人たちがついに本堂に押し入った。
「探せ。首里天加那志からの厳命である。王子様を王宮に連れ戻せ」
物々しい騒ぎに真鶴の身が震える。追っ手に捕まれば息子とは今生の別れになってしまう。
「あいつめ。前から信用できないと思ってたんだ。真鶴、逃げるんだ」
「いいえ兄上、明を王宮に戻してあげてください。あの子は王子です」
世間の目から隠れている間に、王宮は様変わりした。そのことを真鶴は知らないようだ。尚泰王は既に中城《なぐすく》王子の典《てん》と寅《いん》の二男を儲け、世子は典と決まっていた。
「明を王宮に戻せば、世子問題が再燃する。あの伏魔殿《ふくまでん》の中にひとり明を放り込めっていうのか? この子は一生孤独だぞ。それでも戻せというのか?」
追っ手がついに真鶴の住む小屋を見つけた。嗣勇は飾り棚にあった日本刀を手に取った。
「真鶴、明、逃げるんだ。ここはぼくが食い止める――」
「兄上、多勢に無勢です。そんなことをしたら兄上が捕まってしまいます」
嗣勇は優雅に日本刀を抜いて切っ先に妹と甥を映した。
「元はといえばぼくが犯した罪だ。この命を以て償う!」
「兄上、おやめください。私は母として充分幸せを味わいました。死んでも悔いはありません」
「悔いがあるのはぼくの方だ。最後は兄として終わらせてくれ。真鶴、覚えているかい。ぼくが荘子が読めなくて父上に叩かれた日のことを。あのとき逃げ出さなければ、おまえの人生はもっと幸福だった。今よりもずっとずっと幸せだった。だからもう逃げないよ」
嗣勇は刀を上段に構えると奇声をあげて大与座の男たちに斬ってかかった。
「兄上、おやめください。兄上――!」
真鶴が見た最後の嗣勇は勇猛果敢な兄だった。嗣勇は重みをものともせず優雅に刀を舞わせた。一振りで六尺棒を真っ二つにし、次の瞬間には二人を同時に倒した。たちまち円陣が崩れ、真鶴の退路が生まれる。
真鶴が狼狽《ろうばい》する傍で冷静に事態を捉えた明が、母親の手を引く。
「母上様、伯父上の心を無にしてはいけない」
真鶴は何度も何度も振り返りながら末吉の森から脱出した。森が割れた先の空に嗣勇の優しい笑顔が浮かんでいた。
「兄上、こんな別れは嫌です。こうなるなら、いっそ会わなければよかった。兄上だけは王宮にいてほしかった……」
真鶴は明を抱き締めてあらん限りの声で号泣した。
七人の死傷者を出してようやく取り押さえられた嗣勇は、平等所で斬首を言い渡された。申し開きがあるか、と大親《ウフヤ》に問われた嗣勇は「髭と髪を整えさせてほしい」と告げ、周囲を唖然《あぜん》とさせた。
「この喪服、縫い目が雑なんだよな」
死の入り口の安謝湊《あじゃみなと》の浜は生まれたての純白の砂を湛え、もの悲しい波の音を響かせている。嗣勇は父と同じ最期の場に立ち、やっと心を通わせた気持ちになれた。
「父上、ぼくたち似てますね。遠回りしましたが最後は同じ道で誇りに思います」
嗣勇は不思議と清々《すがすが》しい思いだった。罪悪感を抱えながら生きていくのにも疲れた頃だ。憧れの王宮にあがったし、風流を極めた。世界の美をこの目で見た。最新の芸能にも携われた。創作した組踊『雪払《ゆきはらい》』は沖縄に雪が降るという幻想的な物語だ。夢見がちな嗣勇らしいこの戯曲は後世、作者不詳の名作として何度もリバイバルされることになる。
「真鶴、最後に言い忘れてたことがあったよ。懐妊を喜んであげられなくてごめん。そして、ぼくに甥の顔を見せてくれてありがとう――」
執行人が静かに刀を抜くのに合わせて、嗣勇が息を整えた。
「真鶴ーっ!」
中天を差した刀が一気に振り下ろされた瞬間、嗣勇の人生は終わった。お洒落で、寂しがり屋で、妹想いの兄だった。
はたと縁結ぶしらな糸縄の
切れてのかれらぬ二人が仲や
(ぼくたち兄妹の仲は切っても切れない縁で結ばれている。まるで糸車と木綿の糸のようにいつまでも離れることはないだろう)
石炭貯蔵施設を造ったときの仮小屋があったことを思い出した真鶴は、泊村《とまりむら》に身を潜めることにした。今は資材置き場となっているが、ここはペリー提督が足場のひとつにしていたこともある。絶妙な隠れ家に明も大喜びだ。
「母上様って本当に何でも知っているんだね」
「決して遠くに行かないって約束して。もう伯父上のように助けてくれる人はいないのよ」
嗣勇が死んだ後も真鶴の隠遁生活は続いていた。いつまでこんな暮らしをすればいいのか、真鶴にも答えが見出せない。基礎的教養を全て修得した明は相変わらず知識の大食漢だ。どこか地方士族の許に養子に出す時期かもしれないと真鶴は思う。明に母親が必要な時期はほぼ終わった。次に必要なのは切磋琢磨《せっさたくま》する友と麻真譲のような絶対的な師匠だ。明の膨大な知識はまだ単なる情報にすぎない。この情報に血を通わせ心で考えさせるためには、人間教育が必要だった。明を導くことができる母以外の人間を探すのも一苦労だ。真鶴がそう考えていると多動症の明はもういなかった。
「さっき約束したのに、もういないなんて、どういう子なの!」
明は首里の都にいた。道を歩く士族たちは皆、知的な顔つきで明の好奇心をくすぐった。その中に書物を携えた青年たちの一行を見つけた。
「お兄さんたちは首里国学の学生様ですか?」
腰元から声をかけられて視線をやると利発そうな少年が目を輝かせて見つめている。
「国学を卒業して今は科試受験のまっただ中だよ」
「科試って何ですか?」
「琉球最難関の官吏登用試験のことさ。科挙よりも難しいんだぞ〜」
科挙よりも難しいと聞いて明は声を弾ませる。母はそんな話を全く聞かせてくれなかった。
「そんな試験が琉球にもあったんですね」
「坊やも評定所筆者を目指しているのかい?」
「評定所筆者って何ですか?」
「王府の最高頭脳集団さ。評定所筆者にかかればどんな難題だって解決してしまうんだ。紫禁城《しきんじょう》の役人よりも頭がいいって評判さ」
「王宮にあがるためにはその科試を受ければいいんですね」
「競争率は五百倍だぞ。毎年、一人か二人しか合格しないんだ」
科試のシステムを聞いた明は、ますます興奮するばかりだ。彼らは首里国学を成績優秀で卒業して、科試対策の私塾に通う学生だと言った。明は学生たちの後を尾けることにした。彼らの潜った門にはこう看板が掲げられていた。
『真和志塾』
庭に集まった学生達は入塾志望者だ。この名門塾から毎年一人は科試に合格者を出すとあって、首里の秀才たちがこぞって押し寄せていた。入塾試験も本番の初科《しょこう》さながらの高レベルだ。水準に達していない学生は容赦なく落とされる。
学生達は輝かしい未来の栄光を求めて入塾試験に臨んでいた。
「ここは喜舎場親方が出た名門塾なんだって?」
「知ってる。十五歳で科試を首席突破したんだろう?」
「俺は三十歳までに合格すればいいって親父に言われたよ」
「ここ落ちたら、赤田《あかた》塾に行こうと思ってる」
学生たちのお喋りを聞き逃すまいと明は耳をそばだてている。どうやら世間には凄い人間がいるらしい。
塾長の伊是名《いぜな》は白髪の老人になっていた。
「諸君、ようこそ真和志塾へと言いたいところだが、この中の半分以上は今日で去ってもらうことになる。未熟な者は他の塾へ行け。自信のない者は席に着くな。真和志塾の名を借りたいだけの者はすぐに去れ。科試は運試しではないぞ」
明が見渡せば壮年の男もかなり交じっている。科試浪人で人生の半分を費やした感のある男たちだった。
「坊やの父上も入塾試験を受けるのか?」
と隣の青年に聞かれた。明は異様に張りつめた空間に圧倒されていたが、心の内側から熱い思いが込み上げてくるのを抑えられない。
――ぼくも受けたい。ぼくの実力を試してみたい。
その熱気を感じたのか伊是名が明に目を付けた。
「おい、そこのガキ。冷やかしは迷惑だ。すぐに出て行け」
「ぼ、ぼくも、試験を受けたいです」
明の裏返った声に、一同が爆笑の渦に飲み込まれた。その中から酔狂《すいきょう》な男が明を庇って出た。
「科試は年齢に関係なく機会均等の試験じゃないか。この子にも受けさせてやってくれ。それとも真和志塾には年齢制限があるのか?」
「わかった。入塾試験を受けることを許す。ただし愚にもつかない答えだったら、貴様も一緒に落とす。貴様の名を何という」
「多嘉良|善興《ぜんこう》です。儂は去年も落ちたんで平気ですう。がはははは」
多嘉良の長男もまた科試を目指す学生に成長していた。父親譲りの大声と人懐っこい笑顔は科試の名物だ。験《げん》担ぎで孔子廟の泥饅頭を喰い、初科の後は前祝いに浮かれ、合格発表の日に派手に落っこちる。
入塾試験が始まった。大人たちに交じって席に着いた明は早く試験問題が来ないかそわそわ膝を揺すっている。
[#ここから2字下げ]
出題
学問之要目心底被置、為勤士者其旨を存御奉
公方可尽本意趣意被申述候事。
[#ここで字下げ終わり]
「これが入塾試験かよ……」
「学問を積む心掛けをふまえつつ、国家に貢献すべき士たる者の自覚、姿勢のありようについて述べよだって? 初科と同じ難易度じゃないか……」
出題レベルの高さに受験生の多くが早くも戦意喪失だ。その中で明が素早く筆を執った。どうせ落書きでもしているのだろうと側を通った試験官が答案用紙を覗き込んで度肝を抜かれる。少年の字とは思えない達筆な候文《そうろうぶん》が縦横揃えた楷書で埋められていくではないか。
[#ここから2字下げ]
古今東西諸賢之教可被究ハ通常為要務ニ不過
謂者該国人体之海与可被存者ニ而候。海之大
小為何連歟者眼力之広狭ニ而有之、西洋南蛮
諸賢之教不閉者ハ汝海令閉塞事不及謂器量令
軽薄事ニ可通者也。殊可為御奉公之本法与申
ハ具志頭親方蔡温被申述候通ニ而手段之前後
不仕様ニ相勤候儀肝要ニ候。手段之前後ハ海
船操縦之心訳ニ而、大海可行様眼力ニ相当与
被存候事。
[#ここで字下げ終わり]
「古今東西の学問を学ぶことは通常の務めにすぎず、いうなればこのような者たちがいてその国は人材の海を形成する。その海が大きいか小さいかは学ぶ者たちの眼力の広狭に左右されるのであり、西洋諸国の学問に無関心の者は自らの海を閉ざすことはもちろん、その器量をも貧しくさせる。御奉公にとって大事な点は、かつての名宰相、具志頭《ぐしちゃん》親方・蔡温《さいおん》が指摘したように、手段の前後、つまり解決すべき問題群をどのように解いていくかであり、手順を熟知することである。それは大海を航海する海船の操船に同じであり、難破しないための眼力を持つことに学問と御奉公の要点がある」
明は一気呵成《いっきかせい》に候文を仕上げてしまい、余った時間をおしっこを我慢するように耐えた。
「やめ。全員筆を擱《お》いてそのまま退席せよ」
採点が行われている間、明は大人たちから可愛がられていた。利発そうな言葉と屈託のない笑顔が魅力的な明は受験生たちのマスコットになっていた。
「よく見ると坊やはなかなかの好男子だな」
「ぼくは母上様に似てると言われます」
「ではお母様は絶世の美女だな」
「ぼく、母上様が大好きです」
その可愛らしい仕草に嫌でも注目が集まる。やがて試験結果の発表がやってきた。伊是名が咳払いをする。
「今年は将来有望な学生がいたようだ。我が塾の誇り喜舎場親方を彷彿《ほうふつ》とさせる素晴らしい案文だった。名前を呼んだら返事をするように。首席、孫明!」
「はい。孫明です!」
元気よく立ち上がった明に、伊是名も学生達も唖然と口を開く。
「面白い冗談だ。では孫明はいないか。孫明は立つように!」
「だから、ぼくが孫明です」
伊是名は目の前にいる明と満点の答案用紙が結びつかない。見れば明は喜舎場朝薫が入塾したときよりも幼い少年ではないか。学生たちの中からぼそっと「神童だ」と漏れたのを聞いて、伊是名は衝撃の事実に立ち眩《くら》みを覚えた。
「バカな。子どもにあんな案文を書けるはずがない!」
「ぼく合格したんですか?」
無邪気にはしゃぐ明に遅れて地響きのような歓声が轟《とどろ》いた。明の書いた案文は元評定所筆者の講師が書いた模範解答以上の出来だ。今すぐに科試を受けても初科は満点で突破するだろう。
伊是名の脳裏に「科試最年少合格記録更新」という野望が過《よぎ》った。
「坊や。いや孫明くん。きみを特待生として真和志塾に迎えたい。もちろん学費は全額免除だ」
「本当ですか! 母上様が聞いたらきっと喜びます」
唯一気になっていた学費が免除されたと聞いて明は無邪気に喜ぶ。母子の暮らしは決して裕福とはいえなかった。明はお腹をすかせたことは一日もないが、それは真鶴が機を織り、畑を耕し、朝から晩まで働いているからだ。特に明の身なりには敏感だった。地味ながらも品位のある恰好をしているのも、真鶴が自分の身なりを犠牲にして明に尽くしているからだった。
「では明くん、入塾の手続きをしようか」
神童が現れたという噂はすぐに評定所にも入った。喜舎場朝薫の再来と聞いて、朝薫も好奇心で真和志塾を覗いてみることにした。
「もしかしたら息子の朝温《ちょうおん》の好敵手になるかもしれないな」
朝薫の長男も真和志塾の秀才の名をほしいままにしている。去年は初科に合格し、再科でも合格水準にあと一歩というところまで迫っていた。ただ息子には切磋琢磨し合う好敵手がいないのが問題だった。このままだと息子は知識を鼻にかけた尊大な男になると危惧していた矢先の神童出現の噂だ。
朝薫よりも早く、真和志塾に明を捜す真鶴が飛び込んできた。真鶴は明を見つけるなり、平手打ちを喰らわせた。
「明! なぜ母さんの言うことが聞けないの」
「聞いてください母上様。ぼく真和志塾に合格したんだよ」
「私塾なんてまだ早いです。あなたは自分の知識をひけらかしたいだけです!」
真鶴の怒鳴り声に講堂がしんと静まる。名門塾で繰り広げられる母子喧嘩に学生たちはポカンと口を開けたままだ。叱られた明は悔し涙を浮かべて講堂から駆けだした。
「母上様のわからず屋。ぼくは王宮に行きたかっただけなのに……」
真鶴も咄嗟に息子を追いかける。以前は十歩で捕まえられた息子なのに、足の速さは母親を抜いてしまった。みるみるうちに視界から消えていく明を追いかけるだけでも一苦労だ。
「子育てがこんなに難しかったなんて……」
門を飛び出した母子とちょうど入れ違いで朝薫が真和志塾を訪れようとしていた。一瞬だけすれ違った女に友の残像を見た朝薫が息を呑む。
「まさか寧温! 生きていたのか」
朝薫は疾風の中に過ぎ去りし青春の面影を見つめる。お尋ね者となった真鶴を捕まえる気持ちは毛頭無い。ただあまりにも激しかった嵐のせいで、その後の日々が無音状態のように感じられた。
あの強烈な喜怒哀楽の日々は何だったのだろうか。強い刺激に慣れすぎて平穏な日々を物足りなく感じる。寧温と真鶴が王宮から消えて長い年月が経っていた。
ままならぬ無蔵《んぞ》に思ひ焦がれとて
絶え間なく立ちゆる胸の煙
(思うようにならないあなたに思い焦がれて、胸のもやもやが消えることはなく、いつも心を曇らせています)
明は三重城《ミーグスク》の丘に嗚咽を堪えて佇んでいた。科試に受かったら母を楽にさせてあげられると思っただけなのに、打たれるなんて納得がいかなかった。士族なら勉強するのが義務のはずだ。だが明たちは世間から隠れて生きている。一生、暗闇の中で生きていかねばならない運命に明は憤《いきどお》りを覚えた。
那覇港から船が今日も旅立って行く。明はあの船のように世界中を自由に渡ってみたかった。
「なぜぼくは真和志塾に通ってはいけないのだろう? 評定所筆者になって王府の全てを知りたいだけなのに。国の役に立ちたいだけなのに……」
ただ、それを言うと母が悲しい顔をするのは容易に想像ができた。明は母の真鶴が大好きだった。明は母が自分を責めて苦しんでいる夜を何度も見ていた。そんな思いをさせるのはよくないと明は自分の意志を殺そうとする。だが殺意とは裏腹にほとんど本能的に王宮に惹かれてしまうのだ。あの紅い王宮には欲しいものが全てあると確信できる。ただそれは母を失うのと引き替えだと心の中で諫める声がするのだ。
明は清《しん》国に旅立っていく進貢船の帆にせめて想いだけでも乗せてほしくて、大声を張り上げた。
「ぼくはいつか清国に行きたい。科試を受けられないなら清国に行って科挙を受けたい。自分の力を試してみたいだけなんだ!」
三重城に佇む少年のシルエットが夕日に染まる。真鶴はそんな息子を見ていると切なくて抱き締めたくなる。何とか彼の希望を叶《かな》えてやる方法はないだろうか、と一計を案じた。
真鶴は息子の背後からそっと近づいて「見つけた」と目隠しする。
「明、さっきはごめんなさい。あなたを人前に出すのが怖かったの……」
「母上様はいつもぼくのことを一番に考えてくれているのはわかっているよ。でなきゃあんなにたくさん書物を書いてくださらないもん」
本心をぐっと飲み込んだ喉に拳《こぶし》の形が見えた。食事も寝る暇も惜しんで勉強する明にとって、知識欲はもっとも強い本能だ。これを押さえつけたら明は壊れてしまうだろう。
母子は夕焼けに染まる海を一緒に見つめた。海も空も雲も島も帆も全て王宮の色に染まる壮大な光景だった。真鶴は遠い過去に見た記憶を蘇《よみがえ》らせた。
「昔ね、ここで泣いた女の子がいたの。その子のことを思い出したわ。その子の願いは何だったと思う?」
「うーん? ニービチ(結婚)すること?」
「違うわ。科試を受けたかったのよ」
「それは無理だよ母上様。女は王宮に入れないもん」
「そう、女は王宮に入れない。でもその子は明のように学問を修めたかったの」
明は切なくなって何度も溜息をついた。
「その子は可哀相だね。女でも母上様のように聡明な人もいるのに。女が科試を受けて何が悪いんだろう?」
明の肩に手をやった真鶴に強い意志が漲《みなぎ》る。
「明、そんなに科試を受けたいなら、あなたに先生をつけましょう」
「ホント? ぼくに先生をつけてくれるの?」
明の顔がパッと明るくなる。
「遍照寺に行きなさい。ただし科試を受けるためには、その先生を超えなければなりませんよ。態度が悪ければすぐに破門してもらいますからね」
「母上様、ありがとう。ぼく頑張ります」
明が真鶴に抱きつく。真鶴はやれやれと溜息をつきながらも穏やかに笑っていた。
翌日、明は胸を弾ませながら遍照寺の本堂に入った。
「先生ってどんな方なんだろう?」
明は住職のことなのかと思った。確かに一般教養なら住職でも教えられるだろう。だが科試は一般教養を終えた後の実践的な知識だ。私塾の講師も元評定所筆者ばかりだった。
本堂に人影が差す。と同時に芳しい花の香りが広がった。現れたのは赤い帽子を被った王府の役人だった。暗い本堂に差した一輪の花のような優美な佇まいに明は息を呑む。何という美しい男性だろうか。
――あの方がぼくの先生?
役人は優美な所作で教壇につく。
「初めまして、今日からあなたの師匠を務める孫寧温です。容赦なく指導するのでそのつもりで」
毅然《きぜん》とした口調の寧温に明の背筋がピンと伸びた。
*
首里郊外の安仁屋村《あにやむら》は琉球の下層階級が多く住む村だ。横印と呼ばれるニンブチャー(念仏屋)は庶民の葬儀を行う。喪服の村は死の沈鬱《ちんうつ》な空気に包まれていた。
「真牛《モウシ》、石嶺村に葬儀が出たぞ」
真牛は、ぷいと横を向く。頭巾で顔をすっぽり覆わされた真牛は、他のニンブチャーたちと距離を置いていた。ニンブチャーの念仏は「らしく」聞こえればよいから、即興や頓狂《とんきょう》なパフォーマンスに頼りがちだった。動物の鳴き声を模した念仏、前衛的な暗黒舞踊のような奇怪な踊り、明らかに動物霊を降霊させた呪術などなど、鬱陶《うっとう》しくなるほど下流な暮らしぶりだった。
「真牛、聞いてるのか。お呼びだぞ」
「うるさい。なぜ妾《わらわ》だけが働きっぱなしなのじゃ!」
真牛は今朝も別の葬式に駆り出されたばかりだ。凶事は吉事と同じ数だけ起こる。但し、喜びと悲しみには偏りがある。王宮に喜びが集まれば、王国の悲しみはニンブチャーが引き受ける。
「だっておまえ人気あるから」
「下層階級に人気があっても嬉しうないわ!」
「だって俺たち最下層じゃないか」
「言うな。虫酸《むしず》が走るわ!」
死者と遺族の心をミセゼル(祝詞)で慰める真牛の葬儀は評判を呼んでいた。真牛の美しい唄声は雨上がりの空気のように清らかだった。真牛は人気があるのも気に入らない。どんなに働いても謝礼は雀の涙ほどだ。それでも他のニンブチャーよりは裕福だが、ニンブチャーの身分は終生固定的だ。真牛が大好きな一発逆転など望むべくもない。
しかも人気をやっかんだ他のニンブチャーから差別される始末だ。真牛に犬の骨が投げつけられた。
「あんたちょっと人気があるからって調子こいてんじゃないよ」
「調子などこいておらぬ。そなたの葬儀のときは遠慮してやるからありがたく思うのじゃ」
この負けず嫌いの性格も災いして、真牛は安仁屋村でも嫌われ者だった。
また誰か死んだらしい。まとめ役の男が仕事を持ってきた。
「おーい、辻でジュリ(遊女)が死んだらしい。誰か行ってやってくれ」
遊女と聞いてニンブチャー達がそっぽを向く。
「誰があんな汚らしい女のために念仏を唱えてやるものか」
「遊ぶだけ遊んでおいて、死んだら人様の御慈悲を乞うのかい?」
「ジュリは家畜と同じだよ。潰して肥やしにすればいいさ」
聞いていられない、と真牛はすっと立ち上がった。
「妾が行こう。後生《グソー》で恋人と暮らせるように祈ってやろう」
この義侠心《ぎきょうしん》の厚さもまた真牛が幸せになれない理由だ。真牛は辻で遊女をさせられていたとき、仲間の遊女の死を何度も見てきた。遊女の最期は悲惨だ。譫言《うわごと》で恋人の名を呼び、親も兄弟も臨終に立ち会うことなく紙の燃えカスのようにフッと消える。悲しくもなければ惜しくもない。死体の処分に手間がかかる分、厄介だと身請け親のアンマーがボヤいたものだった。
辻村へと向かう真牛の姿に、庶民たちは死に神が現れたと忌み嫌った。
「ニンブチャーのくせに俺たちの目に入るように歩くな」
首からぶら下げた手札を掴まれると簡単には解放してもらえない。牛のように引っ張られ、倒され、引きずり回される。抵抗すると暴力がエスカレートするから飽きるまでやらせておく。真牛の頭巾に石がぶつけられ、鮮血に染まった。真牛はべったりとくっついた頭巾の血を拭《ぬぐ》う。
「辻の葬儀に急いでおる。どうか道を通してくだされ。何をするのじゃ。手札を返せ」
手札を奪われた真牛が男の背中を追う。この手札がなければ検問のときに処分されてしまう。
「横印でも手札がほしいか。そんな身分でも人でいたいか? 哀れなものだなあ。ははははは」
ポイと豚小屋に投げられ、餌《えさ》の人糞に塗れた手札を真牛は必死で拾った。
「聞得大君に戻りたい。どんなことをしても戻ってみせるのじゃ」
ニンブチャーに落ちてから、真牛の聞得大君復職への野望は募る一方だ。横印の下層階級から脱出するためには超法規的措置しかない。手札の効力を上回るのは、第一尚氏王朝の初代聞得大君が所持していた馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》だけである。馬天ノロの勾玉の所持者だと明言すれば、王族に身分を回復するばかりか、現聞得大君を追放することができる。
「妾をこんな目に遭わせた孫寧温だけは絶対に許さぬ。未来|永劫《えいごう》許すものか――!」
表十五人衆とあごむしられが同一人物だったという大スキャンダルは王国中を駆け巡った。その話は安仁屋村にも漏れ伝わった。孫寧温が女だと最初に見抜いたのは真牛である。切支丹《キリシタン》の濡れ衣《ぎぬ》を着せられたときにも孫寧温の正体を訴えたのに、取り合ってもらえなかった。真鶴は王子を誘拐し隠れているという。
「妾はこんな身分のまま死にはせぬ。死ぬときは聞得大君として死ぬのじゃ」
横印の手札を握りしめた真牛はまだ一発逆転を信じていた。この不屈の精神が真牛をユタでもジュリでもニンブチャーでもなくさせている。どの階層に落ちようと真牛は聞得大君のままだった。
儀保《ぎぼ》の坂道を下っていく途中で真牛の霊力が何かを捉えた。右手にある末吉の森に霊力のセヂが満ちている。
「あれは王宮に宿るセヂ(霊力)じゃ……。なぜ森に王宮のセヂがあるのじゃ?」
真牛は末吉の森に足を向けようとする。すると少年が真牛を引き留めた。
「ニンブチャーのおばさん、そこは聖域だから入ると怒られるよ」
教科書を抱えた少年は明だった。頭巾越しでも少年の体から神々《こうごう》しい光が見える。これは王族の中でも特別な相のはずだ、と真牛は頭巾を脱ぎ捨てた。
「これは世子の中城王子に顕《あらわ》れる光のはずじゃ。なぜこの子が?」
中城王子は既に決定していた。王位継承権第一位は尚典だと民は認識している。だが中城王子に顕れるセヂをなぜかこの少年が持っていた。国王には国王のセヂがあり、聞得大君には聞得大君のセヂがある。このセヂを正しく読まないと王統が乱れてしまう。
「おぬし、名を何と申すのじゃ?」
「孫明です。科試を受けるために遍照寺に通っております」
少年の明朗さには陰がない。この世には陰を持つ必要がない人間がごく希に存在する。その人物だけが王になれる。真牛は弟の尚育《しょういく》や甥の現国王・尚泰のセヂも正しく読んだ。この少年が王の血を引いているのは間違いない。
――もしや行方不明の王子様では?
身なりは質素だが、細身の体つきは王家の身体的特徴に似ている。知的な顔つきに尚育の面影を見た真牛はますます疑いを深めた。
「おばさん、ぼくは急いでおりますので失礼いたします」
明が遍照寺へと向かう。ニンブチャーが聖域に立ち入ることは許されない。もし見つかったら袋叩きに遭うだろう。真牛は明が出てくるのをガジュマルの樹の枝に隠れて待つことにした。夕刻になって明が帰路についた。その後を追うように出てきたのは真鶴だった。真牛がふわりと枝から飛び降りる。
「孫寧温! ここで会ったが百年目――!」
奇声に振り返った真鶴が仰天する。頭巾を被ったニンブチャーが猛烈な勢いで迫ってくるではないか。
「この腐れ宦官めえええっ! 妾が天に代わって成敗してくれるわああっ!」
「きゃああ。ニンブチャーに殺されるうっ!」
「妾はニンブチャーではない。聞得大君じゃ!」
喪服の裾《すそ》をはだけた真牛は石垣を一跨《ひとまた》ぎで飛び越え、水瓶《みずがめ》を頭に乗せた女を蹴り倒し、下り坂を加速装置にして猛追をかけてくる。
真鶴は必死に走って助けを求めた。
「誰か、誰か、お助けください。ニンブチャーに襲われておりますーっ!」
ニンブチャーが平民を襲うという異常な光景に、庶民達は腰を抜かした。すぐに各々、鍬《くわ》や鎌を持って真鶴に加勢する。
「ニンブチャーの分際で平民を襲うとは何事だ」
「離せ。離すのじゃ。あの女は妾の宿敵なのじゃ」
たちまち庶民に囲まれて袋叩きにされた真牛は、寸前で真鶴を捕え損ねてしまった。鍬が真牛の腰に当たり、大地に体ごと叩きつけられる。その後は滅多打ちだった。真牛は体を小さく丸めて暴力の嵐が過ぎ去るのを待つばかりだ。
「おまえたちの顔は決して忘れぬぞ。妾が聞得大君に返り咲いたら全員斬首にしてくれるわ。ぐあああっ」
「ニンブチャーの分際で聞得大君加那志の名を騙《かた》るとは無礼千万!」
真牛の喪服が泥と血で染まる。純白の身分で生まれた真牛は今や余白すらないほど濁っていた。
真鶴は危機一髪だったと息を荒らげる。今まで王府の目から逃れることだけを気にしていたのに、これからは真牛の襲撃にも警戒しなければならない。
「真牛、まだ聞得大君のつもりなのね。哀れな……」
真鶴も王宮を追われた身だが、真牛ほど執着はない。今の真鶴の生き甲斐は息子の成長だけだった。本来なら世子として何不自由ない生活を保障されたはずなのに、明の可能性を奪ってしまった。そのせめてもの罪滅ぼしが科試突破だ。明を評定所筆者として王宮に入れる。実力主義の評定所ならば、有力な後ろ盾がなくても王宮で生き延びられるはずだ。真鶴にはもう寧温の野心はなかった。
「明をいつか王宮に戻してあげなくちゃ」
打ち掛けを羽織り直した真鶴は明のいる家へと急いだ。
*
森の梢の影に覆われた遍照寺の一室に科試対策の私塾が発足した。朝になると部屋の前にはこんな巻軸が掲げられる。
『破天塾』
寧温は麻真譲と過ごした青春の日々を思い返す。破天塾は一見、酔っぱらいの殿堂だったが、勉強があんなに楽しかったことはない。知識偏重だった寧温の弱点を見抜いた麻は人間教育に重きを置いた。言葉が人を支配するのではなく、心のある言葉にしか人は従わないと知ったのも破天塾でだ。累計百人の科試合格者を誇る真和志塾に比べて、破天塾が送り出した科試合格者は寧温のみであったが、麻は満足していた。
「麻先生、私が麻先生のように教えられるとは思いませんが、どうか破天塾の名を使わせてください」
思い返すのは八重山に流刑にされたときの那覇港への道中だ。麻の悲痛な声は今でも鮮明に憶えている。「寧温、なぜそんなに生き急ぐのだ。出世に欲をかられたのか」と。出世に目が眩《くら》んだことはないが、生き急いでいたのは間違いない。
評定所に勤務していた当時、寧温は十年後の自分を想像したことがなかった。多分、いつか破滅すると無意識のうちに思っていたのだろう。性を偽ったまま寧温を続けることに限界がやって来るのはわかっていた。それでも正体が暴かれるまでは、王宮で働いていたかった。王宮には人に無理をさせる魔力がある。そして予感通り、孫寧温は破滅した。
「私は結局、破滅に向かって生き急いでいただけだったのかもしれない。今になってわかるなんて不思議ね」
明が登塾するまでに昨日の採点をすませておく。ほとんど完璧な案文に寧温は我が子ながら恐ろしくなる。明の弱点は才気|煥発《かんぱつ》すぎるところだ。麻がなぜ寧温に科試を急がせなかったのか今はわかる気がした。
「明を急いで王宮にあげたら、あの子はきっと派閥抗争に巻き込まれる。あの子には私と同じ苦労をしてほしくない」
寧温は敢えて明の案文を「不可」とした。
「寧温先生、おはようございます」
すぐに来られないくらい宿題を出したはずだったが、明は徹夜で仕上げてしまったようだ。どうやら真鶴が寝た後にこっそり起きて勉強したらしい。
「寧温先生、昨日の採点は終わりましたか?」
明は師匠の寧温を尊敬の眼差しで見つめる。そして一言も聞き漏らすまいと集中して耳を傾ける。母の真鶴には決して見せない別の顔だった。
「採点はできています。残念ながら不可です」
自信満々でやってきた明は、採点に納得がいかない。
「寧温先生、なぜ不可なのですか? 正しい答えを教えてください」
「評定所に正しい答えはありません。答えのないところに答えを生み出すのが評定所筆者です。評定所筆者が十人いれば十の答えが出ます。どれが正しいかは全て状況によるのです。残り九つの案文を仕上げなさい」
明は露骨に不満を漏らす。
「それは不条理です。ぼくの頭はひとつしかありません」
「いいえ。ひとつしか答えがないという前提が間違っているのです。特に産業振興政策は複合的な視点を持って考えなければなりません。関税を撤廃する案。保護する案。保護するにしても範囲があります。誰の立場で語るかで内容は異なるはずです」
「最後は国益が増進されればよいのでしょう?」
「国益が増進されたかどうか、すぐに見えるわけではありません。正しかったかどうか確認できるのは後世の人たちです」
「寧温先生、現在を相対化するのは不可能です」
「誰も相対化しろとは言っていません。複合的な視点を持ちなさいと言っているのです」
「わかりました。では明日残り九つの案文を持って参ります」
ここにも生き急ぎ症候群がいる、と寧温は溜息をつく。明は約束したからには本当にやるだろう。宿題を出して引き留めても無駄だった。ただ睡眠と食事の時間を減らすだけだ。
「明、科試を受けたいのは何のためですか?」
「はい。母上様を楽にしてあげたいのです。母上様はぼくのためにいつも新しい着物を作ってくださいます。でもぼくは男なので機織りはできません。母上様に上等な着物を差し上げるには、王宮に勤めるのが一番です」
「母上は贅沢《ぜいたく》を望まれているのですか?」
「いいえ違います。ぼくは母上様は世界一美しいと思っております。だから相応《ふさわ》しい着物を着せたいだけです」
「そんな動機では科試を受けても無駄です。民をないがしろにする役人になるだけでしょう」
「でもぼくは王宮に行きたいんです。毎晩、夢に王宮が出るんです。行ったこともないのに、すごくはっきり見えるんです。なぜでしょうか?」
「夢とはそういうものです」
「ぼくは籠の中にいます。王宮は火事で、女の人みたいなきれいなお役人様がぼくを抱えて外に出るんです」
――真美那さんだ。
まだ生後一カ月だったはずなのに、明は王宮を離れた日の記憶があるようだった。
「名前もわかるんだ。ええっと何て言ったかな。確か『花城親雲上、泣いちゃう』って言うんだ」
「明は、そのときどう思ったのですか?」
「わからないけど、ホッとしたかな。すごく安心しました。いつもそこで目が覚めるんです」
寧温は目を逸《そ》らしたまま何度も溜息をついた。明を王宮から連れ出したのは身勝手な思いからだ。久米島に流刑になっていたら明は今頃、中城王子として御殿に住んでいただろう。
「では、夢の話はそこまでにして、今日の問題を始めましょうか」
寧温は問題文を広げた。
[#ここから2字下げ]
出題
唐日本双方之成合逼迫之体為極様子ニ而候処、
向後其成行之如何ニ而者御当国存亡係事共可
致出来与被存候ニ付、御政道向如何様可有之
候哉、思慮可致開陳事。
[#ここで字下げ終わり]
「明、この問題を読みなさい」
「はい。清国と日本の国情は行き詰まり情況にあるが、その動向は我が国の存亡にも直結する恐れがある。この情況下において琉球の執るべき政策はいかにあるべきか、考えるところを述べよ」
「では書きなさい。私の案文と比べて議論しましょう」
明は珍しく筆を執るのに時間がかかった。寧温は既に筆を走らせている。実務経験の長い寧温が最初に答案を書き終えた。
[#ここから2字下げ]
唐日本両国如何様推移雖為有之御当国之国体
唐日本御取合を以続来候者存知之前候ニ付、
御政道之要諦者両国様態之実否厳敷被相糺、
此方続兼候訳取除、実真已肝煎可致之他無之
与被存候。唐日本御取合社御当国之根本与可
致合点者也。
[#ここで字下げ終わり]
「清国と日本がどのような情況にあろうとも、我が国は両国との関係を重視しながら存続してきた。従って、両国動向の実態を厳しく睨《にら》みつつ、我が国の舵取りをするほかに手だてはない。両国との関係性の上に我が国が存立するという基本認識を以て政策を考えるべきである」
寧温の解答は科試の合格者の傾向を汲んだものだった。
明が走らせていた筆を擱く。
[#ここから2字下げ]
唐日本御取合向御当国之根本ニ而者候得共世
情各般之推移最早被致凌駕之、唐土漸々及衰
微、日本之勢弥増候儀既被致露見候。依之御
当国御政道之根本者西方より茂北方社可被致
凝視与考居候。唐者枯木、日本者盛木与可致
思慮儀肝要候。
[#ここで字下げ終わり]
「清国と日本の関係が大事なのは当然だが、世の動きはその認識を凌駕《りょうが》している。清国は衰退を加速させているが、日本には活力がある。西よりも北を見て、枯木ではなく盛木を見て政策を執ることが大事である」
明は一悶着《ひともんちゃく》あるぞ、と覚悟して寧温の顔を見る。案の定、寧温の模範解答とは全く逆の内容だった。
「明は清国よりも日本を重視しろというのですね? 我が国は冊封《さっぽう》体制下にあることを知らないのですか?」
「もちろん知っています。清国との冊封体制は古い同盟で機能しなくなっています。これは私見ですが、清国は列強に分断されて滅びます。琉球人は清国を日本よりも上位に考えておりますが、清国は巨大な船のために舵を切るのが遅すぎます。清国はやがて列強の支配下に置かれるでしょう」
「清国が英国に圧倒されている情況に鑑《かんが》みたのですね? ですが英国は貿易の利益を優先していて、清国を統治する気はありません。当面はフランスとロシアと英国のにらみ合いが続くと考えるのが妥当です」
「いいえ。寧温先生は列強の数を間違えております。もうひとつの国をお忘れですか?」
「列強はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、ロシアです」
明は目覚めつつある大国を予見する。
「開国した日本をお忘れです。日本が清国のようにならないためには、国を新しくするしかありません。日本は近代化で列強の仲間入りを果たすかもしれません」
「今の幕府の体制では近代化は不可能です」
「寧温先生、幕府が自死を選べば可能です。列強に国を解体される前に、自らを解体して列強と同じ理念を持てば、清国よりも急速に成長することが見込まれます」
「成長した日本はどんな国になると思いますか?」
「植民地政策を執り、帝国を築き上げるでしょう。日本の周辺国は全て侵略されてしまいます」
「琉球はどうなると思いますか?」
「日本に併合されると思います。そうならないためには、幕府が自死を選ばないように、注意深く見守るしかありません」
「薩摩との関係はどうなると思いますか?」
「薩摩藩も滅びます。結局、琉球が窓口にしていた国は消滅するでしょう」
寧温は明の先見の明に唸《うな》る。寧温もかつて再科《さいこう》でそのような案文を書き、落とされたことがあった。清国と日本には互角の力でいてもらわなければ、琉球は存続できない。しかし今の国際情勢は明らかに清国が衰亡していた。アジアの思わぬ伏兵は日本だ。地理的に西欧諸国よりも機動力のある日本がもし周辺国に目をつけたら欧米列強と同じ脅威になるだろう。
「明、見事な案文です。私は科試に合格しやすい解答を書いてしまいましたが、評定所筆者に大切なのは、新しい時代の流れを的確に捉えることです。但し、これを檄文とみなして不合格にされる可能性はあります。それでも書きますか?」
「それは採点者が間違っているのであって、ぼくの責任ではありません」
寧温は明の案文に合格の印鑑をポンと捺《お》した。
「よろしい。その信念を曲げてはいけません。王宮は信念や志が通りにくい場所です。しかし日和見《ひよりみ》な態度はもっと危険です。どうせ息苦しいなら信念を捨てない方が賢明です」
寺に間借りした破天塾に明るい日がさしていた。
*
寧温が王宮を去ってから七年の時が流れたというのに、王宮は時を止めたように古い政策に固執していた。評定所では次期三司官と目される朝薫が事実上、政治の頂点に君臨していた。
「我が国は冊封使様をお迎えすることで清国との関係を強化する」
冊封使を招くのは数年がかりの国家プロジェクトだ。冊封使節団五百人を半年以上接待するために莫大な借入金が必要になる。朝薫は冊封使を招くことで薩摩に圧力をかけるつもりだった。
御料理座を管轄する思戸は、初めて迎える冊封使にてんてこ舞いだ。献立は準備できたが、肝心の食材が足りなかった。
「牡蠣《かき》の養殖は順調かい? 豚と鶏と卵が品不足だって? 小麦粉の備蓄が底をついた? おかしいね先月はまだ余裕があったはずなのに。冊封使様は今年、訪れるんだよ。今から増やしても間に合うものか。ああ、こんなとき真鶴様がいてくれたら……」
思戸が真鶴と寧温と過ごした日々を懐かしむ。ペリー提督が強制入城したときも真鶴が智恵を貸してくれた。あの強制入城がなければ、寧温に恩赦が与えられることもなく、真鶴はずっと御内原で過ごせたはずだった。真鶴が残した献立表を眺めた思戸はついほろりとしてしまう。
「ねえ、女官大勢頭部。お菓子を作る小麦粉がないわよ」
「真美那様、お菓子作りは当分禁止でございます」
小麦粉泥棒の犯人は真美那だ。自分が食べる分以上に菓子を焼くから、その処分で女官が全員デブになってしまった。
「つまんな〜い。じゃあ外出しちゃおっと」
「花城親雲上になるのも禁止でございます!」
「やだ。バレてたの?」
「バレてないと思ってたんですか! 今まで私が揉み消してきた苦労も知らないで真美那様は何と能天気なのでしょう」
「寧温はずっと正体がバレなかったのに、なぜかしら?」
それは花城親雲上が野で花飾りを編んだり、浜辺で貝殻を拾ったり、民家で機織りをしたりするからだ。久しぶりに話題に出た寧温に真美那も思戸もしんみりしてしまう。
「真鶴さん、どうしているかしらね?」
「捕まっていないのが無事の報せですよ」
真鶴が御内原からいなくなった後、王族たちも様変わりした。国祖母は聞得大君の悲願通り玉陵に葬られ、王妃は男子をもうけ、側室は八人に増えた。その中で真美那はボスとして君臨している。真美那の娘の王女は縁談話が持ちかけられる歳になっていた。
冊封使への接待も無事に終えた翌年、王宮に薩摩から報せが入った。
[#ここから3字下げ]
此許御一新被遊明治与改元
被仕候得共薩摩守所領安堵
被致付、其方琉球者追而可致下知
候故無懈怠国土安穏可被
致心懸事。
因火急令通達。
維新政府
参琉球国
[#ここで字下げ終わり]
幕府が大政奉還し明治政府が発足したとの報せだった。評定所はその報せを他人事のように受け取った。日本の急激な近代化が始まろうとしているのに、このことを天皇制への懐古と捉えた。
「日本も世変わりしたな。王政復古か」
「御仮屋《ウカリヤ》は大騒ぎだそうだぞ」
「薩摩の影響力が衰えるのはめでたいことだ」
明と寧温は遍照寺の住職からこの話を聞いた。予想以上の速度で時代が変革していくのを、師弟は呆然と眺めるしかなかった。
「日本に維新政府が立ち上がったですって――?」
最後の列強が目醒め、帝国主義へ向けて雄叫《おたけ》びをあげる。ついに琉球王国滅亡のカウントダウンが始まった。
[#改ページ]
第十八章 王国を抱いて翔べ
[#ここから2字下げ]
琉球国ノ儀琉球藩ト被改、王号ハ
藩王ト可被唱。藩王ノ儀華族ニ被
列候。向後ノ下知方ハ鹿児島県扱
ニテハ無之、外務卿直轄ニテ候事。
右、琉球国ニ達ス。
明治五年九月十四日
外務卿 副島種臣
[#ここで字下げ終わり]
東アジアを席巻《せっけん》していく未曾有《みぞう》の嵐は新帝都となった東京で生まれた。大政奉還で徳川幕府は滅び、再び王制へと移行した日本は獰猛《どうもう》な牙を備えていた。アジア最強の帝国を目指す日本が最初に目をつけたのは東シナ海に浮かぶ小さな王国だった。
琉球王国解体の第一歩は優雅な外交儀礼から始まる。明治政府は発足後すぐに王府に対して入朝を求めた。明治五年、王府重臣たちからなる維新|慶賀使《けいがし》が初めて東京を訪れ、明治政府の歓待を受けた。同年九月十四日、入覲《にゅうきん》を促された。
『琉球国を琉球藩と改め、王は藩王と唱えること。藩王を華族に列す。今後の統治は鹿児島県の手を離れ、外務省直轄とする』
この文書を維新慶賀使は薩摩の軛《くびき》からの解放とみなした。かつて強圧的に支配をしていた薩摩藩は消滅し、鹿児島県となっていた。島津氏の琉球支配から二百六十三年、悲願の解放であった。
維新慶賀使・正使の伊江王子は生まれたての東京で新時代の息吹《いぶき》を感じた。
「外務卿のお言葉を慎んで受け取ろう。琉球は日本の一藩としてこれからも独自の地位を築いていこう」
副使の宜野湾《ぎのわん》親方も新貨幣三万円を受け取り、東京第一国立銀行から二十万円を借り入れた。財政難の王府にとってこの上ない恩寵だった。
「首里天加那志《しゅりてんがなし》は侯爵の地位を賜《たまわ》ったぞ。清《しん》国の郡王よりもずっと格が高い」
維新慶賀使が王宮に戻ってきたとき、誰もが王国の主権は保たれたと安堵《あんど》した。琉球は明治政府の管轄下に置かれたが、宗主国の世変わりに速やかに対応するのも琉球の処世術だ。明《みん》朝から清朝に変わったときも王府は明と清どちらが宗主国となってもいいように、二枚舌を駆使した。明の残党が福州《ふくしゅう》を支配している間は明を敬い、北京《ペキン》に入るまでには清に忠誠を誓う。全ては王国を維持するために。理念や義理や情緒は国家存続を危うくしてしまう。琉球が五百年間で培ってきた外交術は、決して大国に逆らわず且つ主権を維持するために常に交渉していく姿勢だ。
琉球藩設置の報せは王府の意見を真っ二つに分けた。北殿の評定所では侃々諤々《かんかんがくがく》の論争が朝から繰り広げられていた。
「日本に入朝すると清国との冊封《さっぽう》体制が揺らぐぞ。喜舎場《きしゃば》親方はなぜ静観するのだ?」
「静観しているわけではありません。日本に琉球の地位を薩摩並みに認めさせたいだけです」
「しかし藩王とはいえ、天皇家に支配されることになるのは認め難い」
「維新政府には恩があります。昨年、宮古島民が台湾島で殺害されたときに清国に抗議してくれました。今まで台湾島で何百人の同胞が殺されたとお思いですか?」
台湾遭難事件への対応は明治政府発足後初めての対外政策だ。台湾島と国交のない琉球はこれまで遭難者を引き取ることができず、ただ殺されるのを為す術《すべ》もなく傍観する他なかった。遭難者保護にかけては抜きん出た交渉能力を持つ評定所筆者《ひょうじょうしょひっしゃ》たちでも、国交のない地域には抗議できない。明治四年、宮古島の年貢船が台湾に漂着、乗組員が住民に虐殺されたとき、明治政府が抗議を買って出た。
「維新政府の力を借りれば、民が台湾島に遭難しても帰還させられる道ができました。これは率直に評価してもよいのではないでしょうか?」
「しかし維新政府が我が国の民を『臣民』と表現したのは気にかかる……」
朝薫《ちょうくん》は明治政府を必ずしも歓迎しているわけではない。大切なのはバランス感覚だ。
「ぼくに考えがあります。維新慶賀使に対抗して、すぐに清国に進貢使を派遣し、北京に入城させようと思います。日本の思い通りにはさせません」
「なるほど清国を使って牽制するのか。進貢使の準備を急ごう」
「維新政府を上手《うま》く利用すれば琉球の地位は高まります。上手くいかなかったら清国に傾倒するまで。今は薩摩の軛から解放されるのが重要です」
「喜舎場親方、維新慶賀使様が王宮に戻られましたぞ」
朝薫は、外交手腕の腕試しだと拳《こぶし》を握りしめた。この程度の圧力に屈する琉球王国ではない。
――千年王国の繁栄を東京に見せつけてやる。
朝薫は穏やかな笑みを浮かべて維新慶賀使を労《ねぎら》った。
「正使様、副使様、東京への長旅お疲れ様でございました。日本は如何でしたか?」
「うむ。凄まじい近代化で西欧諸国のひとつのようだった。ちょっと前まで武士がいた国だとは思えぬ。なりふり構わぬ勢いを感じた」
長年、琉球を苦しめた薩摩藩は明治政府によって解体された。薩摩の出先機関だった御仮屋《ウカリヤ》は今、外務省出張所である。かつて我が物顔で王国を闊歩《かっぽ》していた武士たちは一人残らず琉球を去った。
「時代の風は残酷なものだ。旧いものが悪いことのようだ。東京はそんな都だったぞ」
「所詮、自国の文化を誇りにできない人たちなのでしょう。旧いものを捨てるなら、優れた新しいもので補わなければならないのに。他に何かお気づきになられたことはございますか?」
「そうだな。維新政府の中枢に旧薩摩藩の人間が多いのが気になるが。特に内務省の人間は洋服を着た侍だらけだ」
「洋服を着た侍――」
朝薫はふと雅博《まさひろ》のことを想い出した。友情を感じていた時期もあったが、所詮、雅博は薩摩の犬だった。主君の命令があれば想い出や感傷を捨てて藩益に走る軍用犬だ。維新政府誕生に伴う激しい内戦を朝薫は御仮屋から聞いていた。大政奉還に伴い、蜂起した薩摩・長州連合軍は旧幕府を打ち破り新政権の中枢を担うようになった。薩摩が滅びたというよりも、勢力を拡大するために旧い体を捨てたようにも思えた。
「薩摩がいなくなれば新たな力に従うまでのこと。我が国はそうやって今まで生き延びてきました。天皇に忠誠を誓いましょう。清国の皇帝陛下に忠誠を誓うのと同じように」
東京に維新慶賀使を出したなら、清国にも同等の儀礼を尽くすのが外交だ。朝薫は進貢使を清国に派遣することで外交バランスを取るつもりだ。これまでと同じように二つの宗主国を持ち、二つの国の文化を体得する。大国の力を拮抗《きっこう》させておけば、琉球は存続する。
「千年王国のためにぼくは国家と共に生きよう。それがぼくの人生だ」
同僚や部下、上官からの信頼の厚い朝薫は、近い将来、三司官《さんしかん》へと上り詰めることは確実視されていた。そして良き父であり、夫でもあった。誰もが羨む立身出世の道を歩んできた朝薫だが、時々ふと寂しそうな眼差《まなざ》しをすることがある。朝薫のもみあげに一筋の白髪が混じっていた。
そんな朝薫に新任の評定所筆者が声をかけた。
「父上様、如何なさいましたか?」
「朝温《ちょうおん》。王宮では喜舎場親方と呼べと言ったはずだ」
朝薫の息子は成長し、今年、期待通り科試《こうし》を首席突破した。評定所筆者になった息子は黄冠も鮮やかな王宮一年生だ。未来の眩しさに胸を躍らせながら、若さ特有の自信と野心が漲《みなぎ》っている。朝薫はちょうど自分が王宮にあがったときも、こんな感じだったと思い出した。
「朝温。王宮には慣れたか?」
「いいえ。覚えることがいっぱいで、まだ何がどうなっているのか見当もつきません。ここは、何というか古いしきたりが多くて、さっきも評定所筆者|主取《ぬしどり》様から注意されました。この体質は改善の余地がありそうです」
「慣例を無視することは許さん。王宮は歴史と伝統を守る場所だ。慣例を壊したければ、より優美な方式を生み出せ。美しくなければ制度ではない。王府の役人は美と教養の体現者でなければならない」
王宮に入ったばかりの者が最初に戸惑うのがしきたりの壁だ。誰もが意味のない様式だと思う。しかし一度体で覚えてしまうと、しきたりの中に美を感じるようになる。なぜひとつの案文を巡って上官の元を一日に何度も往復するのか、若いときはわからない。慣れてくると廊下を渡りながらふと客観的に案文を見つめられるようになる。瑕疵《かし》を自分で見つけられるように、さり気なく促されたのだと気づく頃には、しきたりの中に美を感じている。朝温にはまだそれがわからない。
「朝温、王宮に友と呼べる者はできたか?」
「いいえ。みんな上官ばかりで友という感じではありません。皆さん妻子持ちでもいらっしゃいますし、ぼくなんか子ども扱いです」
息子がいつもひとりで王宮を彷徨《さまよ》っているのを朝薫は知っていた。今年科試に合格したのは朝温ただ一人だ。科試を急がせたせいで王宮には朝温と歳の近い者がいなかった。王宮は本音が言えない場所だ。ちょっとしたボヤきが千倍にも万倍にもなって上官の耳に入る。息子が父親につい甘えてしまうのもわからなくはなかった。
――ぼくには寧温《ねいおん》がいた。
朝薫が王宮に入って右も左もわからない頃、寧温がいてくれたお蔭でどれだけ救われたことだろう。仕事も楽しかったが、何より王宮に行けば寧温に会えるという喜びが大きかった。
「科試合格者はぼくだけでした。同僚がいないのは仕方ありません……。でも真和志塾《まわしじゅく》にいた頃は友達はいました。そいつがいたお蔭で苦労も分かちあえました」
「名を何という?」
「多嘉良《たから》善興という男です。気持ちは優しいのですが、実務に向いていないみたいで、いつも初科《しょこう》で奇天烈《きてれつ》な答案を書いては落ちてばかりです……」
朝薫は「そうか」と言って北殿に消えた。
翌月、多嘉良の息子が久慶門《きゅうけいもん》の門番に任命された。袖を捲《まく》った多嘉良の息子は威勢良く六尺棒を構える。体躯の良い善興にはうってつけの役職だった。
「父ちゃん、俺は王宮にあがったぞ。がはははは」
親子二代で久慶門を守る因縁に老いた多嘉良も感無量だ。
「善興、久慶門は一番人の出入りが多い門だぞ。しっかり見張るんだぞ」
多嘉良はこれで思い残すことなく、王宮を去れそうだと嗚咽《おえつ》した。法令線が深く刻まれた多嘉良の人生にも黄昏《たそがれ》が訪れていた。来年には勤続三十年になり定年を迎える。
「父ちゃん、祝い酒だ。銭蔵《ぜにくら》から泡盛を盗んできてくれ」
「おうよ。そう来ると思って古酒を盗んできた。がはははは」
物見台の西のアザナに腰をかけた親子は王都を見下ろしながら酒をかわす。風の中に現れた王都の風景は三十年前と変わらずに穏やかだった。
「素晴らしい眺めだろう。儂《わし》はここから見る王国が一番好きなんだ」
山の翠《みどり》、海の蒼、そして王宮の紅《くれない》が絵巻のように風の中に流れている。大地から海へと駆け下りていく風の景色。遠くほど明るい空の視点。両手を広げるとまるで鳥になって王国をゆったりと飛んでいるような開放的な眺めだった。時を刻むように流れてくる三線《さんしん》の音色は、五百年間この世界を讃え続けてきた。この景色を三十年も見続けられたのが多嘉良の自慢である。
喉を潤《うるお》すように泡盛をガブ呑みする息子の隣で多嘉良は自分の人生を振り返っていた。
「寧温が儂を王宮にあげてくれなければ、今頃儂は百姓並みの士族だっただろうな……」
雨の日も風の日も久慶門を守っていた多嘉良は、頑丈な肉体だけが取り柄だと自負していた。しかしもう多嘉良には六尺棒を振り回す膂力《りょりょく》はない。高い地位に就かなかった代わりに、多嘉良は誰からも好かれた。王宮の思い出は楽しかった日々だけだ。そう考えると多嘉良は自分の人生もまんざらでもないと思えた。
「ほら、父ちゃんもっと呑めよ」
と抱瓶《ダチビン》を渡した善興が父親の姿を見て驚く。隣には頬を赤らめてうとうとと眠る父の横顔があった。昔は一升呑んでも全力で走れたものなのに、たった一合で眠ってしまった。
「父ちゃんも酒が弱くなったなあ……」
父の肩をそっと抱いた息子が王宮の片隅で束の間の幸福を味わっていた。
一方、御内原《ウーチバラ》では恒例の女の泥仕合のゴングが鳴った。喧嘩の理由はいつも後付だ。勝った方が適当な理由をつければ正義で、負けた方がとことん悪い。最初のきっかけは自分の茶菓子の質が真美那《まみな》よりも悪いと気づいた王妃の不満からだった。
「この煎餅は味が悪い。女官|大勢頭部《おおせどべ》を呼びなさい。私は|千寿※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《せんじゅこう》を持ってきなさいと命じたはずですが?」
「王妃様、小麦粉は天使館へ回すように命じられております」
「ではなぜ真美那の茶菓子に千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》があるのですか?」
「恐らく真美那様が勝手にお作りになったのかと存じます」
王妃は待ってましたとばかりに般若《はんにゃ》の形相になる。
「この食糧難の折に勝手に小麦粉を使うとは許せぬ。誰の許可を得て御料理座に入ったのだ?」
「私が許可しました」
「国母様のおなーりー」
喧嘩の匂いに誘われて後之御庭《クシヌウナー》に真紅の涼傘《りゃんさん》が小躍りしながらやって来た。
「国母様、御料理座は特別な廚房《ちゅうぼう》だとご存じのはず。王妃の私を無視するとは許せません」
「真美那が私の誕生日に絣《かすり》を織ってくれてな。その礼で御料理座を使わせた」
国母が着ている絣は上品な薄紫色の地に干支《えと》の午《うま》の柄をあしらったものだ。胸元の一匹だけ頭が横を向いているのがポイントだった。この絣は女官たちに人気で国母の機嫌も上々だった。
「ところで王妃からの祝いは何だったか思い出せぬが……」
「失礼な。銀の房指輪を贈ったではありませぬか」
横から黄色の涼傘が割って入る。
「それは三年前に妾が王妃様に贈った房指輪じゃ」
「聞得大君加那志《きこえおおきみがなし》のおなーりー」
「おのれ聞得大君、また御内原に無断で入ってくるとは!」
「妾の贈り物を使い回しするなど、貧乏ったらしい王妃様じゃ」
「母上様を虐《いじ》めるな!」
「うみないび(王女)様のおなーりー」
「いずれ王女様には降嫁していただこうと思っておる。次期聞得大君は真美那様の娘にしよう」
すると可憐な声が御内原に響いた。
「ありがとうございま〜す」
突然、後之御庭に蝶の大群が出現する。御内原最大勢力の真美那の登場だ。側室八人と女官四十人を従えた真美那は、王妃をも圧倒する地位を御内原で築きあげていた。真美那の円熟した香りには毒がある。それも一度味わうと逃れられない甘美な毒だった。向《しょう》一族の資産を御内原に注ぎ込んだ真美那は女官と側室、そして国母と聞得大君をも懐柔《かいじゅう》した。真美那に恭順《きょうじゅん》の意を示せば贅《ぜい》と安泰を得られる。真美那派の女官は肌も髪も衣装もピカピカで、反真美那派の女官はみすぼらしい身なりだ。
美の暴徒と化した真美那一派はいつでも最後に美味《おい》しいところを攫《さら》っていく。
「国母様、聞得大君加那志、奥に茶菓子を用意いたしました。私の千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》って美味しいって評判なのよ。隠し味が何か当ててください」
「真美那はいつも感心じゃな。どっかの粗忽者《そこつもの》とは大違いじゃ」
「おのれ、あごむしられ(側室)。王妃の私よりも目立つなどあり得ぬ!」
なぜか御内原は王妃の悔し涙が定番だ。身分と地位と権力だけでは治まらないのが女の世界である。北洋から帝国主義の津波が城壁に迫ってきていることなど知る由《よし》もなかった。
*
ある雨の日、番傘をさした朝薫はふらりと金城村《かなぐすくむら》の石畳を下っていた。前だけを見て走ってきた朝薫の人生にゴールが見えてきた。疾風の如く人生を駆け抜けたせいであまり周囲を見渡す余裕がなかったが、雨の日は忘れていたものを思い出させる。朝薫は雨の日は王宮を離れて散歩をするのが好きになっていた。
「雨が昔を思い出させるなんて知らなかったな。ぼくも歳をとったということか」
特にお気に入りなのが、この金城村の石畳だ。琉球石灰岩でできた石畳は潤いの似合う小径だ。石の窪みに雨が溜まるとそこにクマノミなどの小魚が隠れているように思える。沿道から溢れる花々も珊瑚礁《さんごしょう》の趣《おもむき》に変わる。雨の日はまるで海中都市を歩いているように錯覚させた。緩やかに蛇行した坂道を下っていると、いちいち目の前の景色に驚かされる。傘に籠もる雨の私的な音が、この情緒を独占しているかのように思わせた。
ある民家から質素な着物姿の女が主人と談笑している声が聞こえた。たぶん機織《はたお》りの腕を買われて士族の反物を織ったのだろう。流行に敏感な士族は上質な反物には金に糸目をつけない。
主人が注文以上の出来に満足そうに頷《うなず》いた。
「素晴らしい技術だ。王宮でもこれほどの品はそうないだろう。お役人様に見られるのを御免|蒙《こうむ》りたいくらいだ」
「ありがとうございます」
と面をあげた女の顔に朝薫は息を呑む。そこにいたのはお尋ね者になった真鶴《まづる》ではないか。
――寧温!
寧温の正体が女だとわかった後も、朝薫にはこの事実が受け入れがたい。女だと認めたら寧温と過ごした青春の日々が全て否定されてしまいそうだった。王宮に一緒にあがった日の喜び、そして伝統としきたりの前で覚えた戸惑い、派閥の狭間《はざま》で苦しんだ出来事、そして密かに殺した恋心――。あの日々が全て偽《いつわ》りだったとは思いたくなかった。
傘も差さずに民家から出てきた真鶴を朝薫は呼び止めた。
「寧温。いや、あごむしられ様……」
「朝薫兄さん!」
その声は紛れもなく寧温だった。真鶴は無意識のうちに朝薫の前では寧温の顔になる。そして今の自分の身を顧みてすぐに真鶴の表情に戻した。真鶴は反射的に逃げようとする。
「待ってくれ。ぼくは寧温を捕まえるつもりはない。これは雨の悪戯《いたずら》としよう」
傘を差しかけた朝薫は懐かしそうな眼差しで寧温を見つめた。真鶴は朝薫から漂う風格に、流れた歳月の重みを感じた。
「朝薫兄さんのご活躍は噂に聞いております。三司官へご内定されたとか」
「保留した。まだそういう歳ではないからね。表十五人衆《おもてじゅうごにんしゅう》としてやるべき仕事も残っている。きみの代わりに日帳主取《ひちょうぬしどり》を仰せつかったよ」
朝薫は人目につかないように寧温を樋川《フィージャー》へ誘った。琉球式の共同井戸の樋川は岩盤から直接湧き出た泉を石囲みにした造りで、舞台のような構造になっている。爽やかな苔《こけ》の緑と清涼な泉は密やかな会話に聞き耳を立てている。
泉に落ちる雨の波紋を二人で見つめながら朝薫は寧温と過ごした日々を振り返っていた。
「きみが女だったなんて今でも信じられないよ」
「朝薫兄さんを騙《だま》していたことは、いくら謝っても許されることではございません」
「なぜ危険を冒してまで王宮に入った?」
「私は女が学問を修めてはいけないことを疑問に思っておりました。女にも野心はあるのです。女にも理性はあるのです。それを証明したかった」
「証明はできたじゃないか。きみの才能は英国の女王陛下のお墨付きだ。米国のペリー提督も舌を巻いて逃げて行った。寧温の才覚は王朝五百年の歴史に刻まれた。きみは英雄だよ」
真鶴は溜息をついて泉に指を浸した。
「いいえ。私の存在が後世に残ることはないでしょう。私は王宮を穢《けが》した忌まわしい罪人として忘れ去られていくだけです」
「きみの捜索を打ち切ることは可能だ。中城《なかぐすく》王子は典《てん》様と決まった。王府としては世子《せいし》問題を再燃させたくない」
「私は大切な王子様を個人的な感情で連れ出してしまいました」
「どうせ真美那が裏で糸を引いていたんだろう。王子誘拐事件の真相が暴《あば》かれるのは向一族としてもまずい」
「真美那さんは関係ありません。全て私の罪です」
「ところで、今の暮らしは満足かい? 何か入り用なものがあれば届けよう」
速くなった雨足の音が傘に響く。泉からこんこんと溢れ出した水が雨と混じって踊り出す。
「日本に維新政府が誕生したのを朝薫兄さんはどうお思いでしょうか?」
「どういう政権になるのか見当もつかないが、琉球に興味があるのは確かだ。概《おおむ》ね薩摩よりも紳士的な扱いだ。利用する価値はある。もしかしたら奄美だって返ってくるかもしれない」
島津氏の琉球侵攻により、奄美の島々は永く薩摩に奪われて主権の及ばない土地になっていた。奄美返還は琉球の悲願である。
「いいえ。維新政府ほど危険なものはありません。生まれながらに他国に興味を持っています」
「台湾遭難事件のときには手助けをしてくれた。あそこだけは清国もお手上げだったからね」
真鶴の声が次第に寧温の口調になる。
「いいえ。琉球は維新政府に利用されたのです。日本は帝国を築く第一歩を琉球からと決めたのです」
「帝国を築くだって? 日本にそんなことができるわけがない。第一清国が黙っていない」
「日本は清国すら征服するつもりです」
あまりにも突飛な論に朝薫が大声で笑った。
「あの大清国を日本が征服するなんて百年かかっても出来るものか。文明の成熟度が違いすぎる」
「日本が旧い文明を捨てて、新しい文明を取り入れれば可能です」
「それでも不可能だ。日本は世界を知らなすぎる。所詮、新興国のひとつだ」
「新興国には野心があります。かつて英国がスペイン帝国を破ったとき、誰もが英国を新興国だと思っておりました。成熟した国は外交で国力を増進しますが、新興国は武力に頼ります。台湾遭難事件は維新政府にとって外洋に出るよい口実になったでしょう」
「維新政府は何を企《たくら》んでいるんだ?」
「日本が帝国を築くとき、まず周辺国を見渡します。一番近いのは朝鮮ですが、派兵する大義名分がありません。でも台湾には琉球国民を虐殺したという理由で派兵できるのです」
「清国は黙っていないぞ」
「日本の目的は清国本体にあります。台湾を制圧すれば次に清国に派兵する口実が生まれます。その第一歩に琉球解体があるのです」
「飛躍した意見だ。維新政府は琉球に一定の地位を認めてくれた」
「維新慶賀使は騙されました。日本は廃藩置県を終えております。琉球だけが藩のままだと体裁が悪いと言ってくるでしょう」
「それは侵略行為じゃないか。体裁が悪いなら王国に戻してもらう」
「いいえ。一度藩になった国は決して元には戻りません。内務省の動きに注意してください」
「寧温、きみは野に下っても孫寧温のままだね」
「私はもう王府の役人ではありません。王宮に愛着がないといえば嘘になります。でも子を育て明日の食べ物を考える生活は人の自然の営みだと知りました。私は今まで民を導きたい一心で働いてきましたが、それは傲慢《ごうまん》な考えだと思い知りました。国は百年先の道がなければ滅びてしまいますが、民は明日さえあれば生きていけるのです」
「きみは琉球が滅びても構わないのか?」
「きっと悲しむでしょう。でも今の私は泣いた後、明日の食べ物のことを考えるでしょう」
「ぼくの人生は王府と一心同体だ。王府が滅びたらぼくは全てを失ってしまう。王宮のない明日などいらない。そうならないために必死に王府の舵取《かじと》りをするだけだ」
「そういう生き方もあります。かつて私もそうでしたから、お気持ちはわかります」
「明日だけを生きるなど家畜と同じだ。人間には理想が必要だ。王府の役人が理念を失ったら、私利私欲しかなくなる。昔の寧温ならきっとそう言うはずだ」
「民はたとえ国が滅びても生きていけるほど強いのです」
朝薫は溜息をついて、泉に落ちる雨の波紋を見つめた。
「どうやら、時が流れすぎたらしい。ぼくたちの溝《みぞ》は案外深そうだ。だがぼくは国を守り抜きたい。民が国のことを忘れても、ぼくは国を捨てたりしない」
「それでこそ朝薫兄さんです」
「寧温、これがたぶん最後になるだろうね。この辺りは役人が多い。気をつけるんだよ」
傘を渡した朝薫が樋川を後にする。石段の途中で止まった朝薫が振り返るとパッと少年時代の笑顔になった。
「寧温、ぼくはきみのことが愛おしかった。昔も、今も、これからも。だからぼくは寧温が愛した王宮を守る。いつまでも想い出が残っているように。千年先にも寧温の息吹を残そう。それがぼくの愛し方だ」
傘の中にいるのに真鶴の頬は濡れていた。
「私も私塾時代から朝薫兄さんを敬ってきました。朝薫兄さんがいたからどんな苦労にも耐えられました。真心から感謝いたしております。どうか立派な三司官におなりください――」
――きみが望むなら、ぼくは三司官になってやる!
土砂降りの雨の中を朝薫は駆け出した。肌を刮《こそ》げ落とす雨に濡れないように想い出を大切に抱えながら。
雨や風なてぃん片時ん我肝
白鳥ぬ髪《からじ》花ぬ香《かば》さ
(たとえ雨が体を打ちつけても、ぼくの心は一時もあなたのことを忘れたことはない。その美しい髪、あなたの花のような香りはいつまでも覚えている)
明治政府が台湾出兵を決めたのは二年後の明治七年のことだった。
遍照寺に間借りした破天《はてん》塾では、科試対策の大詰めを迎えていた。明《めい》の実力は初科も再科《さいこう》も首席レベルだ。ただ先見の明がありすぎる明の答案を首席と判断できるのは孫寧温だけだ。
明は思春期の盛りを迎え、王宮にあげても不自然ではなくなった。
「寧温先生、今年は科試を受けさせてもらえますか?」
「今年は科試はないと評定所が発表しました。経費節減で人員募集をしないそうです」
「えーっ。それはご無体《むたい》です。友達の多嘉良は先に王宮にあがったのに何故ですか?」
「明は王宮に上がれれば役職は何でもいいのですか?」
「やっぱり評定所に勤めたいです」
「では科試が再開されるのを待ちましょう」
「ぼくは三年前に日本の台湾出兵をちゃんと予見したのに、王府は何故、手を打たなかったのですか?」
「人は都合の悪いことは考えたくないものです」
三年前の時事問題で台湾遭難事件を出題したとき、明は日本の帝国主義の発動を唱えた。一見、結びつきそうもない事象を理路整然とした候文《そうろうぶん》で認《したた》めた。琉球を日本の身体に組み込めば大義名分が発生する。しかしすぐに琉球を制圧すると清国が黙ってはいない。日本の真の目的は大陸にある。琉球は大陸に近づくための足場にすぎない。台湾に出兵するための口実として使うのが今は有効だ。段階的な琉球の解体は麻酔の中で粛々《しゅくしゅく》と行われていた。
「明、台湾出兵の後の日本の狙いはどの国だと思いますか?」
「李氏朝鮮を制圧する大義名分は今のところありません。そんなことしたら宗主国の清が黙っていません。地の利のある清国が勝つでしょう。日本が恐れているのは琉球が列強の植民地にされてしまうことです。台湾を挟んで敵国があっては海路を阻《はば》まれてしまうからです」
「私もそう思います。では明、琉球が日本に占領されたらどうしますか?」
明の答えは意外なものだった。
「国を守ることはある程度までは正義です。もし人以前に国があるのなら、たとえ死滅しても国を守るべきです。しかし国は人が造り出したものです。人が生きていれば千年後、万年後、どんな国を造ることも可能です」
明は寧温が怒るかと反応を窺《うかが》った。だが寧温は一喝した。
「信念があるなら続けなさい」
「はい。尚氏《しょうし》王朝は五百年の繁栄を遂げましたが、群雄|割拠《かっきょ》の三山時代もありました。その前は英祖《えいそ》王朝もありました。もっと溯《さかのぼ》れば偉大なる祖王・舜天《しゅんてん》が興した舜天王朝もありました。その歴史の流れを経て現在の第二尚氏王朝があるのです。過去の王朝は滅びましたが民が死滅したことは一度もありません。今、国が滅びるかもしれないと憂《うれ》えても所詮、第二尚氏王朝が滅びるだけのことです」
「明にとって国家とは何ですか?」
「国家の姿を見た人はひとりもいません。皆幻想の中に国家を抱いて生きています。人が支配できるのは人だけで、国家は大地を借りているだけにすぎません。国家は人のためにあり、国家が人の命を左右するのは幻想が強すぎて本来の目的を失っていると思います」
息子の発言に目から鱗《うろこ》が落ちる思いがした。王宮に長く勤めていた寧温はそこまで国家を突き放して考えることはできない。喜びも悲しみも生き甲斐も全て王宮の中にあった。明の言うことは真理だ。だが情緒が邪魔をして素直に受け入れられない自分がいた。
「もし王国と共に死ぬ人がいたら、明はどう思いますか?」
「その人の思いを決して忘れないためにも生き続けようと思います。それがどんなに苦しい時代であっても。偲《しの》んで慰めるのが人の道だと思います」
寧温の頬に一筋の涙が流れ落ちた。息子は「仁」を体得した。この言葉を無視するのは人ではない。きっと今の王府にも届くはずだった。
「よろしい。私は今日、明から大切なことを教わりました。もう私が教えられることは何もありません。胸を張って破天塾を卒業しなさい」
この日、破天塾はひとりの門下生をひっそりと世に送り出した。
明が末吉《すえよし》の森から帰路についたときだ。黄昏の中から喪服姿の女が現れた。頭巾の隙間から眼光を輝かせた真牛《モウシ》が明の帰りを待ち受けていた。
「孫明殿、妾を憶えておいでかえ? ほほほほほ」
「ニンブチャーのおばさん。生憎うちには葬式はないよ」
「誰が葬式に呼べと言った」
下層階級の女が馴れ馴れしく接してきているのに、明は何故か真牛を憎めなかった。白装束の喪服に身を包んでいても真牛には魂の強さを感じるのだ。
「科試を受けなくても王宮に入れる方法がひとつあるぞ」
「門番になりたいわけじゃない。ぼくはあくまでも首里天加那志の側にお仕えしたいんだ」
「そなたは自分の素性を知りたいとは思わぬか? ほほほほほ」
「ニンブチャーが占いをするとは面妖だ。ユタ行為はやめておいた方がいいぞ。いつ王府のお役人様に見つかるかわからないからね」
真牛が頭巾を脱ぎ捨てた瞬間、戻った碧眼《へきがん》を輝かせた。
「妾はユタではない。先王の聞得大君じゃ。そしてそなたは首里天加那志の子。行方不明の中城王子じゃ」
「ぼくが王子――?」
「そうじゃ。そして妾はそなたのオナリ神(守り神)じゃ」
「ふざけるな。ニンブチャーがぼくのオナリ神なわけがないだろう!」
カッとなった明が真牛の言葉を斥けた。下層の民を差別するつもりはないが、聞いているだけで不愉快だった。
この程度の抵抗は真牛は予想済みだった。もっと激しい抵抗でも真牛はへこたれない。唾を吐かれるのにも慣れている。馬糞を投げつけられるのにも慣れている。袋叩きにされても痛みは我慢できるようになっていた。ここまで図太くなったのも、ニンブチャーに落とされたからだ。ユタもやった。ジュリもやった。輪姦にも耐えた。マブイ落ちも経験した。愛する者も失った。それでも真牛は決して挫《くじ》けない。聞得大君の誇りだけが真牛の生きる希望だからだ。
「では話を変えよう。そなたの師匠・孫寧温の正体を知りたくないか?」
「寧温先生の正体だって?」
突飛な言葉に明が反応する。明は以前から不思議に思っていた。孫寧温は明が知る限り最高の教養人だ。あれほどの才覚があれば真和志塾の講師どころか評定所の第一線にいてもおかしくないと思う。だが孫寧温は身を潜めるように生きている。尋ねると破天塾から破門されそうで口に出せなかったが、訳ありの人物のようだ。
「ニンブチャーがなぜ寧温先生を知っている?」
真牛は食いついてきた明を目力で捉えた。夕闇に溶けていく真牛の姿が明の目には化け物のように映る。
「長い縁でな。一口では話せぬ。妾がこんな姿になったのも全て孫寧温のせいじゃ。あの宦官は王府のお尋ね者じゃぞ。王子として生まれた赤子のそなたを王宮から誘拐したのじゃ。憶えておらぬか。火事の中で逃げていく光景を」
「あ、あれはただの夢だ」
「夢ではない。全て真実じゃ。祝宴の夢も見るじゃろう。あれは大美御殿《おおみウドゥン》での満産祝いじゃ」
今まで夢だと思っていた光景がフラッシュバックで明の脳裏に鮮明に浮かぶ。明はもう少しで何かを思い出せそうだった。
「わかる……。身分の高い方がぼくを次々に抱き上げる……。夢じゃなかったんだ。でも何故寧温先生がぼくを連れ去ったんだ?」
真牛がもっと顔を近づけろと指で合図する。息を呑んだ明に衝撃の事実が曝露された。
「孫寧温はそなたの母上なのじゃ! ほーほほほほほ」
明の中で何かが繋《つな》がり、そして何かが壊れた音が聞こえた。
泊村《とまりむら》の家に戻るなり、明は何かを探し始めた。
「明、夕飯の準備が出来ていますよ」
母の声を無視して明は家中、片っ端から探し回った。風呂敷、書物の隙間、文箱、そして真鶴の箪笥《たんす》。まるで狂気に取り憑《つ》かれたような明の行動に真鶴が首を傾《かし》げる。
「明、散らかしたら誰が片づけると思ってるの? さっきから何を探しているの?」
明は思い詰めた表情で真鶴を見据える。動揺しているのはわかるが、何が原因なのか真鶴には見当もつかなかった。明は簡単には見つからないと諦めた様子だ。
「……馬天《ばてん》ノロの勾玉《まがたま》を探しております」
その言葉に真鶴が戦慄《せんりつ》を憶える。ついに明が母の素性に気づいてしまった。
*
葬列の後を歩く真牛は朝からご機嫌だった。あまりにも上機嫌なのでミセゼル(祝詞)の歌声の張りも良い。連れのニンブチャー達も真牛のミセゼルに合わせて陽気に踊り出すと、祝祭のような葬列に変わる。道すがらの人たちも奇妙な念仏踊りについ体を弾ませる。
「王子様と馬天ノロの勾玉を持って王宮に戻れば、妾は聞得大君に復権じゃ。ほほほほほ」
王宮への誘惑にかられた明は必ず馬天ノロの勾玉を持って来ると約束した。王権を示す馬天ノロの勾玉と行方不明の王子、この二つで王宮を転覆し新しい時代の主人となるつもりだ。
「妾は聞得大君じゃ。聞得大君の謡《うた》を聞け。風よ雲よ大地よ、妾を讃えるのじゃ。ほーほほほほ」
爆竹まで鳴らされて喪主はカンカンだった。
「おいニンブチャー。誰が楽しげにしろと言った。俺の母さんの葬儀だぞ!」
「しかと聞け。聞得大君が平民の葬儀のためにミセゼルを謡うのは今日が最後じゃぞ」
「このニンブチャーは気でも触れたか?」
真牛の胸に下げられた横印の手札が引っ張られる。こんな手札ともおさらばだと真牛が投げ捨てた。
「誰が横印など身につけるか。下々の葬儀など勝手にやればよい。妾はニンブチャーを辞める!」
「ニンブチャーが辞められるとでも思っているのか、このバカ」
「妾に無礼じゃぞ。そなたこそ跪《ひざまず》くのじゃ」
居丈高《いたけだか》な真牛の態度に葬列が殺気を帯びた。すぐに真牛の足が払われ後頭部が踏みつけられる。
「ニンブチャーの分際で庶民を愚弄《ぐろう》するとは無礼千万!」
「おまえは家畜と同じ身分なんだぞ」
真牛の腰に遺体を納めた木製の龕《がん》が乗せられた。その重みで真牛が臼《うす》で挽《ひ》かれたような呻《うめ》き声をあげる。
「ぎゃああああ。許さぬぞぉぉ。そなた達を妾は未来|永劫《えいごう》許さぬぞぉぉぉ」
そのときだ。「おやめ!」という威勢の良い女の声が私刑《リンチ》の場に響き渡った。近くの村を占《し》めている女頭領の思徳金《ウミトクガニ》だ。図体の大きな思徳金のシルエットは巨大な牛を彷彿《ほうふつ》とさせた。
「今日のところは私の顔に免じてそいつを許してやりな」
「しかし思徳金様、このニンブチャーは身の程を弁《わきま》えておりません」
「陶器の龕をくれてやろう。苦労したそなたの母上様に相応《ふさわ》しいだろうよ。だからおやめ!」
思徳金の一喝で葬列が元に戻る。情に厚く面倒見の良い思徳金は男たちからの信頼も絶大だった。血を滲《にじ》ませた真牛に思徳金の影がさす。
「久しぶりだね、聞得大君加那志。私を憶えておいでかい?」
見上げた真牛は絶句した。この女には見覚えがある。
「おまえは阿片《あへん》事件で追放されたという前の女官大勢頭部――」
「思徳金だよ。もう女官大勢頭部じゃないからね」
流刑地で減刑された思徳金は密かに本島に戻っていた。王宮から追放されて二十八年、かつての宿敵同士が身分を落とされて相まみえた。真牛と思徳金の間に御内原の主導権を巡って火花を散らせた熱い日々が蘇《よみがえ》る。真牛の陰謀で思徳金はあがまに落とされたこともある。裏金の匂いを嗅ぎつけられたこともある。王妃を守るために思徳金は女官大勢頭部として獅子奮迅《ししふんじん》の闘いを真牛に挑んだものだった。
「そなたは妾に相当な怨《うら》みがあるはずじゃ。なぜ妾を助けるのじゃ……?」
「昔、喧嘩した相手ほど懐かしくてね」
思徳金は真牛が礼を言いそうになった瞬間に「ふん」と背を向けた。悠然と腹を揺らして歩いていく思徳金に真牛は過ぎた時の重みを感じていた。
泊村では師匠の孫寧温が母だと知った明が真鶴を問い詰めている。
明は混乱していた。自分たちが人目を避けて暮らしているのには何か理由があると気づいていた。母は決して昔のことを話さないが、女性にしてはあまりにも教養がありすぎる。ただの身分の高い女性というだけでは説明がつかない。孫寧温にしてもそうだ。あれだけ博覧強記でありながら、官位も名誉もない。今まで謎だった秘密の点が一本の線になった。
「母上様が寧温先生だったなんて信じられないよ」
「明、あなたを教えられるのは孫寧温しかいなかったの」
「男装しただけじゃ、あんな候文は書けない。母上様は王府にいたのですか?」
真鶴は今まで黙っていた過去を話し始めた。
「母さんは昔、宦官と素性を偽って王宮にあがったのよ……。そして流刑になり、八重山からあごむしられとして王宮に戻ってあなたを産んだの……」
明は真牛から聞かされた通りの事実に衝撃を受けた。母が科試に受かり、立身出世を極め、さらに美貌を見初《みそ》められて王の妻になったなんて突飛な話だった。
真鶴はさらに続けた。
「あなたは中城王子としてお生まれになったのよ」
「ぼくは本当に王子様だったんだ……」
「明、あなたは科試を受けなくても、いつでも王宮に戻れるのよ」
「信じられない。本当にニンブチャーのおばさんが言った通りだなんて」
「あの方は、先王の聞得大君加那志よ。母さんが王宮から追い出したの」
「じゃあ馬天ノロの勾玉は……?」
真鶴はここにあると言って床下に隠していた勾玉を取り出した。由緒ある重々しさと共に現れた馬天ノロの勾玉は第一尚氏王朝の末裔《まつえい》の証《あかし》である。
「明、あなたこそこの国を治める首里天加那志となる男なのです――」
明に三度衝撃が走った。
それからしばらくして明が安仁屋村《あにやむら》にやってきた。馬天ノロの勾玉を持ってきたのかと尋ねたら、明は手ぶらだと言った。
「ニンブチャーのおばさん、ぼくは実力でしか王宮に行かないよ」
予想外の言葉に真牛は呆気にとられてしまった。
「なぜじゃ。中城王子として戻れるのに?」
「ぼくは母上様を売らない。寧温先生との絆《きずな》も切らない。そして弟の世子様の地位も奪わない。それが何よりも大切な王子の品性だからだ」
寧温の正体を知った明は初めは混乱して真鶴を問いつめたが、裏切られたという思いは不思議となかった。火事の日、王宮を去ったのは明の意志でもあった。そして科試を受けたいのは王宮にあがりたいからだけではなく、人として知識の高みを目指したいからだ。もし明が中城王子として育っていても、王位継承権を捨てて科試を受けただろう。そのとき得られるのと同じ最高の教育を施してくれた寧温には感謝の気持ちしかない。
「ぼくは王子から始める人生よりも人として始めたい。だから馬天ノロの勾玉は渡さない」
「おのれ口惜しや。誰がこんなこましゃくれた子どもに育てたのじゃ」
明の背後から「私です」と声がして真鶴が現れた。
「真牛、あなたから聞得大君の地位を奪ったのは私です。生きている限り私を怨みなさい。ただし明は関係ありません。息子の意志は寧温以上です。この子は決して揺らぎません」
「寧温、どこまでも妾の邪魔をする奴じゃ。妾はニンブチャーで終わるのは嫌じゃ。おまえたち親子を祟《たた》ってやる。七代先まで祟ってやるのじゃあぁぁ」
真牛は母子が寄り添うように去っていく後ろ姿に呪いを浴びせ続けた。
*
そして時は過ぎ明治十二年三月二十五日、王国最後の日が訪れようとしていた。
那覇港に熊本鎮台沖縄分遣隊への補充要員として五十八人の兵士たちが送り込まれた。琉球に派遣された兵は大隊長以下総員四百十三人。帝国陸軍の前身だった。規律正しく整列した兵士たちに民衆は何事かと目を丸くした。西洋式の軍服を着た日本軍は機械仕掛けの人形のようにてきぱきと決められた配置につく。
王府の重臣たちは那覇港に揃って、これからやって来る内務省の官僚の到着を歓迎しようとしている。
「内務大書記官殿はまだ降りられぬか?」
朝薫と三司官が待っているのは内務大書記官・松田道之《まつだみちゆき》である。これまで二度、琉球を訪れその都度少しずつ王府の主権を奪っていった。清国との外交停止、明治の元号の使用、摂政《せっせい》・三司官の任命権、謝恩使として尚泰王《しょうたいおう》自ら上京することを求めた。王府は猛反発し、旧態保持を嘆願した。そして三度目の来琉である。
船から下りる人影に朝薫が顔を顰《しか》めた。西洋人のように颯爽《さっそう》と洋服を着こなす男には見覚えがある。一足先に相手から朝薫に声がかかった。
「喜舎場親方、お久しぶりです。憶えておいでですか。内務省御用掛の浅倉《あさくら》雅博です」
「浅倉殿!? まさか内務官僚になられたのか?」
断髪して蝶ネクタイを結んだ雅博は文明開化の風を一身に纏《まと》っていた。まるで雅博だけが百年後の世界から訪れたような軽い空気を醸《かも》し出している。
「内務大書記官殿の補佐で琉球に来ました。お互い顔を知っている方が話しやすいでしょうからね」
「貴様、琉球に何をしに来た?」
朝薫が不穏な匂いを嗅ぎ取るのをよそに、雅博は内務大書記官・松田道之が下船するのを待っている。松田が来ると何かが奪われるのは承知していたが、今回の来琉は様子が違った。松田は手早く帰ろうと不機嫌そうに那覇港に降り立った。
「内務大書記官殿の訪問を心よりお待ちしておりました。那覇に宿舎を用意しております。どうぞごゆっくりお寛ぎくださいませ」
松田は二日後、王宮にあがると告げ宿舎に引きこもった。物々しい雰囲気に朝薫たちは接待攻勢で松田の気持ちを和らげるしかないと踏んだ。
一方雅博は想い出の地|三重城《ミーグスク》に足が自然と伸びていた。明後日にはこの景色は一変するだろう。その前に青春を過ごしたこの美しい景色を目に焼き付けておきたかった。
「何度見ても素晴らしい海だ。私はこの景色を変えてしまうのか。こんなに美しい国を滅ぼしてしまうのか」
明治政府の密命を受けた雅博は、東京で戸惑い、嘆き、運命を呪った。しかし最後は志願して琉球にやって来た。最後はせめて優しく、出来るだけ苦しませないために。それでも雅博はまだ決断がつかない。
三重城の崖の中腹に女の髪が見えた。ここは王国の航海安全を祈願する聖域でもある。黒百合のような豊かな髪に雅博はまさかと目を凝《こ》らした。
あけ雲とつれて慶良間《けらま》はいならで
あがり太陽《てだ》をがで那覇の港
その歌に雅博が息を呑む。今、想っていた人がそこに立っているではないか。
「真鶴さん! 本当に真鶴さんなのですか?」
明治政府の船が那覇港に入港したと聞いて居ても立ってもいられなくなった真鶴は、港を見渡せる三重城にやって来ていた。内務省の琉球処分官を乗せた船は死刑執行人だと真鶴は知っていた。三度目の来航はいよいよ本丸を落とすために違いなかった。王国の最後と知りながら、かつてペリー提督と丁々発止の交渉をした真鶴でも為す術もない。
――寧温。もう少し頑張っていればよかったのにね。
王宮から追い出された真鶴は虚しさを覚えていた。
雅博は一気に中腹まで駆け下りた。
「真鶴さん。王宮から追放されたと聞いておりました。でもご無事で何よりです」
「雅博殿こそ見違えました。まるで英国紳士のようではありませんか。洋服が良くお似合いです」
「お恥ずかしい。世変わりで私は武士ではなくなりました」
まだ雅博は洋服に慣れていないようだった。無意識に袂《たもと》を意識した動きは着物姿のままだ。
「今の琉歌を憶えておられますか? 雅博殿と初めてここで会ったときに詠《よ》まれた歌です」
「憶えてくれていて光栄です。私はこんなに変わってしまったのに」
「いいえ。雅博殿は中身は変わらないお方です。どんな恰好をしていてもすぐにわかってしまいます」
「真鶴さんこそ、相変わらずお美しいままで……」
「もうあごむしられではありません。地位も身分もないただの庶民です」
真鶴の凄みすら感じさせた美貌は角が取れ、慈愛に満ちた穏やかな顔つきになっている。しかしそれが雅博の心の中にある最も好きな真鶴だった。
「もう私は真鶴さんに一生顔向けできなくなるでしょう……」
「雅博殿が琉球に来た理由はわかっております。琉球を処分するおつもりでしょう?」
「どうにも止められなかった。これが良い方法とは思えないが、私は天皇陛下の命令に従うしかない」
「それで良いのです。私はもう王府の役人ではありません。泣く準備は出来ております……」
「私を怨んでほしい。それで真鶴さんが楽になるのなら」
「愛する人を怨むことはできません。私の涙など取るに足らないものです」
雅博は真鶴の肩をそっと抱き寄せた。真鶴の花のような香り、重たげな黒髪、そして憂いを帯びた瞳は雅博の胸の傷を疼《うず》かせる。思わず強く頬に寄せた雅博の唇に真鶴の冷たい涙が零《こぼ》れ落ちた。真鶴は息を殺して泣いていた。
「私はこの国を愛しております。世界に誇る美しい国だと今でも信じております……。大国に負けない国にしたかった……。世界から尊敬される国にしたかった……。私の琉球が殺されてしまうのに、あなたを責めることはできません……」
「真鶴さん、日本がその責任を担います。世界から尊敬される国になります。きっと琉球と同じくらい美しい国になります。思いやりと慈しみと美と教養を日本に分けてください」
「新生日本に気品と風格を望みます。どうか琉球を愛し続けてください。それが民の願いです」
「しかと受け止めます。日本に併合されたことを五十年後、百年後の民が心から喜べるように琉球を愛すると約束します」
「王国が滅びるなんて。そんな日に遭遇するなんて。胸が引き裂かれそうです――」
ついに真鶴は嗚咽を漏らして雅博に縋《すが》りついた。滅亡の歯車はもう止めることが出来ない。こんな最後を迎えるなんて王宮にあがった日には想像もしていなかった。こんなに早く国が滅びるとは思わなかった。よりにもよって春の穏やかな日に。優しい死に神に首を刎《は》ねられてしまう最期とは。
三月二十七日、内務大書記官・松田道之が率いる琉球処分官一行が王宮を訪れた。圧倒的な兵力に物を言わせた松田は王宮に足を踏み入れるなり、処分を断行した。
[#ここから2字下げ]
御達書
琉球藩江廃藩置県被仰下候事。
藩王御用因有之可被致上京事。
亦三月三十一日正午十二時限
居城可被明渡之事。
三月二十七日
内務大書記官 松田道之
[#ここで字下げ終わり]
松田の一方的な通告に王府重臣たちは唖然《あぜん》とした。
「琉球藩を取り潰し、県にするだと?」
「首里天加那志を東京に住まわせる?」
「首里城を明け渡せだと?」
朝薫がすぐに雅博に食ってかかる。
「これは一体何の真似だ。貴様、琉球を滅ぼしに来たのか」
雅博は遠くを見つめる眼差しで淡々と答えた。
「天皇陛下の御意志です。尚泰王は速やかに東京御屋敷にあがるように。侯爵家の地位を用意してお待ちしております」
「無礼者。首里天加那志は一国の王であるぞ。何が侯爵家だ。この城は琉球王のものだぞ」
「期限内に首里城を明け渡さないと武力行使もやむを得ません。どうか速やかに王宮から退去してください」
雅博はこの瞬間、自分の青春を銃殺した。御仮屋の役人として初めて王宮を訪れたときの驚きを雅博はありありと思い出した。正殿の強迫的な美意識は日光東照宮の比ではない。雅博は琉球で勇壮な紅色を知り、心の底から魅せられた。そんな自分の眉間に引き金を引く。
朝薫の罵声が雅博の耳をつんざく。
「この維新政府の軍用犬め。おまえには人の心がないのか!」
雅博の人生を彩《いろど》る素晴らしい友情を結んだのもこの王宮だ。教養高い王府の役人たちを尊敬していた。評定所筆者の交渉能力に圧倒された。朝薫との友情、そして生涯雅博の心から消えることのない孫寧温との出会い。そんな想い出の詰まった心臓めがけて再び引き金を引く。
「貴様は犬以下の虫ケラだ。琉球を愛しているなら、なぜ殺す! なぜなんだ!」
朝薫の目の前が白く脱色されていく。魂が抜け落ちたような表情で朝薫は膝をついた。まるで一面の荒野の中心にひとり取り残されたように、自分の位置がわからなくなっていた。
「そんな。琉球王国が滅びるなんて嘘だ……」
王宮にあがったばかりの朝温はまだ比較的正気を保っていた方だった。体の支点を失った父の背中を支えて、何度も何度も朝薫の名を呼んだ。
「喜舎場親方? 喜舎場親方? 父上様?」
朝薫は虚ろな目をして息子の懐《ふところ》に崩れ落ちた。
尚泰王は王位を剥奪《はくだつ》される理由がわからない。中城御殿に一時避難した尚泰王は王宮を取り囲む日本陸軍を前に無力感を覚えた。
「余の王権はこの程度のものなのか。異国人の通達文ひとつで王位を追われてしまう身なのか。これが王の力と言えるのか」
「すぐに清国に抗議してもらいます。冊封体制を崩壊させる日本を清国皇帝陛下も決して許さないでしょう」
臣下たちは武装蜂起を尚泰王に進言した。
「熊本鎮台沖縄分遣隊の兵力は四百。士族が全て蜂起すれば奴らを皆殺しにすることができます。首里天加那志、ご決断を!」
松田たちを虐殺することは出来ても、それが王権の維持に繋がるとは限らない。台湾出兵のときのように大義名分を日本に与えてしまうことになると尚泰王は危惧《きぐ》した。
「余は民を犠牲にしてまで王位にとどまりたいとは望まぬ。人が生きてこその国だ」
尚泰王は命令通り、首里城を明け渡すことにした。
尚泰王が王宮を離れる日、地上は臣下の涙の雨で濡れていた。
「首里天加那志……。おいたわしや」
「この怨み、我らは決して忘れませぬ」
「どうか東京でもお達者で……」
尚泰王が最後に王宮を見届けようと振り返る。正殿の三十四匹の龍の視線が重なったような気がした。
「龍が泣いておる」
正殿、北殿、南殿、書院、全ての建物が御庭《ウナー》を囲むように建てられている。ここは王だけが全てを知る城だった。王国の全ての情報と世界中の美と教養が集結する城だった。とても一人の人生だけでは全てを知ることなど不可能だ。御庭で迎えた冊封使、特設舞台で千変万化の踊りを披露した美少年たちの駆け抜けた風が見えるようだ。御料理座から運ばれる宮廷料理はどれも世界に誇れる逸品だった。小国に似つかわしくない絢爛《けんらん》豪華な文化を生み出せたのは、美意識だけが唯一の武器だったからだ。その最後の武器も新興国には通用しない。きっと日本が琉球の洗練された文化に気づくのに百年以上はかかるだろう。
「今は耐えよう。きっとまたいつか花が咲くこともある」
いくさ世も済まち弥勒世もやがて
嘆くなよ臣下|命《ぬち》どぅ宝
(争いの世は終わり、平和な時代がやがてくると信じよう。臣下よ泣くな命こそ宝なのだ)
王が城を捨てると聞いた御内原は大パニックだ。御内原は王族から女官に至るまで全て即日退去を求められた。
「なぜ私が王宮を去らなければならないのですか?」
黄金御殿《クガニウドゥン》に居座った王妃はてこでも動かない構えだ。その側を小さなあがま(女官見習い)たちが荷造りに追われて右往左往する。
「静かに。ここは御内原です。王妃の私の命令に従わない者は処罰しますよ」
それでも勢頭部が宝物を持ち出していく。期限を過ぎて残った品は全て明治政府に没収されてしまうことになっていた。バケツリレーのように国宝が次から次へと手渡されていくのを見ると王妃の構えも揺らいでしまう。王妃愛用の茶道具、お気に入りの紅型《びんがた》、銀の装飾品が無造作に箱に投げ込まれる。ひとつふたつの什器《じゅうき》が割れてもお構いなしに詰め込まれていく。
王妃はついに退去を命じた。
「何ひとつ日本にくれてやるものか。着物も簪《かんざし》も漆器も全て王家のものです。髪の毛一本もくれてやるものか! 塵ひとつ残さずみんな外に出しなさい!」
王族たちがパニック状態に陥った中で真美那も衝撃を受けていた。五百年続いた王朝が突然終幕させられてすぐに中城御殿へ移動せよという。
「琉球が日本に併合されたですって!」
「母上様、私たちはどうなるのですか?」
成長した王女が母の元へ駆けつけてきた。御内原にあがった頃の真美那を彷彿とさせる愛らしい王女が不安の眼差しを向けている。
「うみないび様、ご心配なく。泣いても叫んでも現実は変わらないわ。こういうときこそ、品性が問われるのですよ。さあ、千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》を召し上がれ」
王妃が箪笥《たんす》を担いで後之御庭を駆けているのに、真美那と王女は茶を飲んでいる。王女は真美那が何かしでかす前触れだとわかっていた。
「うみないび様、黄金の鋏を黄金御殿から持ってきてちょうだい」
真美那は王宮にいるうちに手を打たねばと黄金の鋏を握りしめた。
「あごむしられ様、何をなさるのですか!」
突然、真美那は着ていた紅型の打ち掛けの裾を「えい」と引き裂いたではないか。
「ひいいいっ。真美那様ご乱心ーっ!」
「大丈夫よ。私は狂ってなんかいないわ。今のうちにやっておかないと希望が消えてしまうわ」
真美那は大パニックの正殿へ駆けて行く。真美那の一世一代の賭けが始まった。
後之御庭に女官たちを集めた思戸《ウミトゥ》は動揺しないように説いた。
「王宮から退去せよと首里天加那志からのご命令だ。皆の者|慌《あわ》てずに御内原の荷物を外に出すように。それが終わったら身支度をなさい」
思戸もそれで充分なのか自信がない。何しろ青天の霹靂《へきれき》の命令だった。いくら不測の事態に備える女官大勢頭部でもこんな命令は想定外だ。
まだ王宮にあがったばかりのあがま達は小動物のように震えていた。
「女官大勢頭部様、あたし達はどうなるのですか?」
「外では日本の兵隊が城を囲んでおります。殺されるのですか?」
思戸は彼女たちを納得させる上手い理屈が思い浮かばない。
「大丈夫だよ。御内原から引っ越しするだけだ」
「引っ越しってどこに行けばいいのですか?」
「実家のお母さんのところへお帰り。城人《グスクンチュ》の奉公が終わりましたって胸を張って言うんだよ」
子どもは何とか騙せても、勢頭部たちの涙は止められない。御内原にあがって二十年以上のベテラン勢頭部たちは無念の涙に咽《む》せていた。
「女官大勢頭部様……。私たちはどこに行けばよいのですか。実家ももうありません」
婚姻を許されなかった女官には、突然外に放り出されても寄る辺がない。彼女たちは路頭に迷ってしまうだろう。そこまで考えると思戸は発狂しそうになった。
「頼り先のない者は私が面倒を見よう。私と一緒に王宮を出よう。だから心配ない。さあ、みんな持ち場に戻って荷造りをおし。二度と御内原に入れないから、忘れ物がないようにね」
思戸が小気味よく手を叩いて合図する。女官たちは何の災いかと口々に零して後之御庭を後にする。風呂敷包みを背負ったあがま達が最初に御内原から退去した。続いて若い勢頭部たちが頭上に風呂敷包みを載せて出て行く。失意と不安を抱えて出ていく様は戦地から逃れる難民さながらだ。最後に残った集団は年老いた勢頭部たちだった。
「女官大勢頭部様、我々はここで自害いたします」
「王族以外の人間が王宮で死ぬのは許さぬ。死ぬなら余所でやっておくれ」
思戸は御料理座の高級食材を全て老いた勢頭部たちに与えてやった。卵、鶏肉、豚肉、小麦粉、油、換金すればしばらくは宿で食いつなげるはずだ。せめてもの退職金代わりにしてほしかった。
火事と震災と暴風が一気に通り過ぎたような強制退去が終わると、御内原に静けさが訪れた。さっきまで百人以上の女たちがお喋《しゃべ》りに喧嘩に意地悪に花を咲かせていたとは思えないほど殺伐とした光景だった。
思戸は部屋をひとつひとつ見回って誰も残っていないか確認する。
「さあさあ、今日で御内原はお終いだよ。みんな出てお行き」
全員の退去を確認すると思戸は自分の身支度を始めた。といっても思戸に大した私物はない。寧温からもらった絣に袖を通した思戸はこれを着て出て行こうと決意した。
「そうそう。忘れてたね」
思戸は花瓶の中から一輪のトケイソウを引き抜き、女官居室の裏に出向いた。そこに思戸だけが知る小さなお墓があった。
「トゥイ小《グワー》。たくさんの想い出をありがとう……」
あがまの頃から王宮にあがって四十年近い歳月が流れていた。思戸は恰幅の良い中年女性になっていた。王宮以外の世界を思戸は知らない。
御内原の継世門《けいせいもん》から出ようとした瞬間、ふと思戸は足を止めて振り返った。
「御内原が静かなこともあるんだね」
無人の御内原に一陣の風が吹き抜ける。ここが昨日まで思戸の人生の全てだったなんて拍子抜けしてしまう。あがまの頃に閉じ込められた蔵、御料理座、世添御殿《よそえウドゥン》、黄金御殿、世誇殿《よほこりでん》、ひとつの都市を形成していた空間から魂が抜け落ちていた。
ふと誰かの笑い声がして後之御庭を見渡すと、あがまの思戸がトゥイ小を追いかけている幻が見えた。
「さよなら御内原。最後の女官大勢頭部として御内原の神にお礼を申し上げます」
継世門の扉が閉まった瞬間、思戸の女官人生は終わった。剛胆で面倒見のよい思戸は、御内原の歴史の中で誰よりも愛された女官大勢頭部であった。
それからしばらく思戸は空を見上げて暮らしていた。御内原で見たあの青い空を探していたが、今ひとつ気に入ることはなかった。
形見なる小袖いらぬものさらめ
見る目数ごとに思どまさる
(御内原で暮らしていた頃の着物は持ってくるものではない。見るたびに御内原での賑やかな日々が思い出されてかえって悲しくなるものだ)
東京御屋敷へ王族たちが旅立っていく日がやって来た。中城御殿で荷物を纏めた王族たちはまだ見ぬ東京に不安を覚えていた。側室たちの多くは東京御屋敷へ行くことを拒んだが、真美那はついて行くことにした。
「私は最後まで首里天加那志と運命を共にいたします」
真美那はもう王族ではなく侯爵の愛妾の身分だ。だが真美那は少しも恥じることはなかった。最高級の絹で仕立てたローブ・デコルテを身に纏った真美那は、この姿で東京に上る。琉球の貴婦人の品性を東京で見せつける。それが真美那の生き様だった。
船に乗った真美那は初めて自分の国を洋上から見渡した。日傘の中に入るほど小さな国だと思っていたのに、島影はどこまでも果てしなく青く、珊瑚礁の海はいつまで眺めていても飽きることのない無限の煌《きら》めきを放っていた。
「あれが王宮かしら?」
小高い丘の頂上に、そっと載せられた赤い花飾りのような建物が見える。真美那はあの小さな王宮にあげられるために生まれ、磨き上げられ、一族の繁栄のためだけに人生を捧げさせられた。そのことを誇りに思っている。第二尚氏王朝は滅びたが王女の母として、王の夫人として、満足できる人生だったと自負している。
「さよなら私の王宮。さよなら私の王国。さよなら私の青春……」
ひとつ心残りがあるとすれば、真鶴とお別れが出来なかったことだ。東京に行けばもう一生会うことはないだろう。だが真美那が人生において唯一自力で獲得した親友だった。親友のためなら何だって出来た。真鶴のことを思えば真美那は意志が漲ってくる。そのことが真美那は嬉しかった。
「さよなら真鶴さん。どうか私の最後の願いを聞き届けてください」
そろそろ遍照寺に使いの者が着く頃だ。それが真鶴に託す最後の願いである。
尚泰王を含む王族たちを乗せた船は、支配していた珊瑚礁の大地を離れて行く。王宮を彩った知識と膨大な美術品と共に。
東京御屋敷に住んだ真美那は文明開化の波をいち早く取り入れ、女子華族たちの中でも一際鮮烈な輝きを放った。ワルツを覚え、英会話を修得し、鹿鳴館の主役に上り詰めた。さらに東京女子師範学校に通い首席で卒業した真美那は、経済学を修めた。そして国債や国鉄株を買い占め、尚侯爵家を明治新興財閥の一員にまで伸《の》し上げた。
真美那は明治の佳人と呼ばれ、欧米の大使や貴婦人たちから敬愛を集めた。
真美那の船が琉球の洋上から消えかける頃、遍照寺の住職から真鶴にある包みが手渡された。
「これは真美那さんの紅型だわ」
真美那が一番気に入っていた牡丹《ぼたん》の紅型が風呂敷型に裁断されていた。その包みの中を見て真鶴は目眩《めまい》を覚えた。中には黄金の王印が入っているではないか。第二尚氏王朝の王にだけ受け継がれる国王のシンボルだ。
「真美那さん、明に希望を託したんですね!」
王印とともに真美那の琉歌《りゅうか》が添えられていた。
太陽《てだ》や海落て我身また啼ちょる
世や明きると思て闇夜拝ま
(太陽である王は没し、私は失意のうちに王宮を去りますが、陽はまた昇ると信じて闇夜を拝みます)
尚泰王が東京に旅立って行く途上、臣下たちも港に集結していた。明治政府が治める新自治体への参加を断固拒んでの出航だ。ある一派は八重山《やえやま》へ亡命政権を樹立するために。そしてある一派は清国へ亡命するために。
馬《ば》一族は八重山へ向かう船に乗った。
「たとえ首里天加那志を人質に取られても我らは決して日本に隷属するものか。必ずや捲土重来《けんどちょうらい》で返り咲いてみせるぞ」
向一族は清国へ向かう船に乗った。
「これは日本の明らかな侵略行為だ。冊封体制を崩壊させた日本を断じて許さぬ。清国皇帝陛下に裁いてもらう」
かつて王宮を二分した派閥は散り散りに霧散しようとしている。結集した向一族の中に新米評定所筆者の朝温もいた。王宮のしきたりを覚える間もなく目の前で国家を解体されてしまった朝温はまだ琉球復活の可能性はあると信じていた。
パニック状態のまま亡命していく向一族は、朝薫がいないことにまだ気づかない。
「ところで父上様は、いや喜舎場親方のお姿が見えませんが?」
「船のどこかにいるだろう」
「おかしいです。父上様はぼくに那覇港で会おうと仰《おっしゃ》っていましたのに。父上様ーっ!」
船が風を受けて清国へと旅立つ。あまりにも多くの物を捨てて逃げて行った臣下たちの抗日運動は目立ったものではなかった。大日本帝国が東アジアに版図を広げていく中、八重山で、清国で、彼らはひっそりと消えて行った。
王府の役人たちが海の彼方に消えていく中、朝薫はひとり万座毛《まんざもう》に佇《たたず》んでいた。王国有数の景勝地と呼ばれた万座毛は歴代の王がこよなく愛した場所でもある。断崖を彩るテッポウユリの群生が純白の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めたように丘を彩っていた。
万座毛に営巣する海鳥たちが朝薫を見つけて逃げていく。
「朝温、おまえは一族と清国で生き延びてくれ……」
正装の黒朝衣は今年仕立てたばかりの新品だった。来年の新春の儀で着ようと誂《あつら》えたものだ。だが来年、王宮に新春がやって来ることはない。万座毛に咲くテッポウユリのラインが御庭《ウナー》のように映った。
「最初は正五品から始めたから、この辺りかな?」
朝薫は万座毛の中央に陣取った。十五歳で科試を首席突破した神童は未来は全て自分に微笑《ほほえ》んでくれていると無邪気に信じていた。王宮に上がることは朝薫の夢というより、どう華麗に上がるかが焦点だった。神童と謳《うた》われて慢心したことはない。自分の伝説を日々更新していく過酷な努力の日々だった。科試最年少合格は周囲が勝手に押しつけた妄想だった。その妄想を実現することに意義があると信じていた。期待を裏切れば「昔天才、今はただの人」と揶揄《やゆ》される。神童が本物の天才になっていく過程は努力だけでは足りないと思い始めていたときだ。朝薫は初めて好敵手と出会った。
「寧温、きみがいたからぼくはここまで来られた。きみがいたからぼくは高邁《こうまい》な人になろうと志した。きみがいたからぼくの人生は豊かだった……」
真和志塾の入塾試験で初めて寧温と出会った日のことが脳裏を過《よぎ》る。可憐な少女のような容貌に目を奪われ、その容姿に似つかわしくない明晰《めいせき》な頭脳に圧倒され、そして惹《ひ》かれた。自分よりも優れた人間がこの世にいると知ったとき、朝薫は天才への道を迷うことなく歩めた。
「模擬試験のときは同席だったけど、初科では寧温が首席だったね。悔しかったけど、頑張ろうと思えたよ。再科できみが落ちたとき、ぼくは信じられなかった。そしたらいつの間にか王宮にいたじゃないか。きみは天才以上の超人だと思ったよ」
科試最年少合格者は事実上、孫寧温だった。同期でありながら寧温は朝薫の数歩先を常に進んでいた。朝薫がそんな寧温に恋をしたのはそのころだっただろうか――。
「ぼくは臆病で弱虫な男だった。宦官には恋をしちゃいけないと自分を殺したよ。でも心を殺すなんて出来なかった。ぼくはますますきみに惹かれていくのを抑えられなくなった」
朝薫は万座毛の御庭を数歩進んで止まる。正四品・糺明奉行相附《きゅうめいぶぎょうあいつけ》を尚育王《しょういくおう》から仰せつかったのはこの辺りだろうか。
「阿片事件をきみと解決できたのは今でもぼくの誇りだよ。徐丁垓《じょていがい》さえいなければ、きみは流刑にされることもなかったのに――」
思い出すのは寧温が八重山へ流刑にされた日のことだ。一時は怒りに身を任せ、徐丁垓殺害の犯人として裁くことで寧温への恋心を絶とうとした。しかし縄をかけられて那覇港へと連行されていく寧温の姿を見たとき、激しく後悔した。
「すまない。ぼくはきみのことになると冷静ではいられなかった」
また数歩先に大輪のテッポウユリが強烈な香りを放っていた。正三品・表十五人衆吟味役、国家の閣僚の仲間入りである。ペリー提督が琉球を植民地支配しようと狙っていた頃だ。朝薫最初の外交交渉だった。武力も知力もある米国に対して有効な打開策を打ち出せずにいた朝薫は、初めて琉球が危ういと感じた。その危機を救ってくれたのが孫寧温だった。
「まさか流人《るにん》が王宮に返り咲くなんて誰が考える? でも首里天加那志の慧眼《けいがん》だった。きみは本当にペリー提督を追い払ってくれた。もう痛快だったよ」
今考えると、その頃にはあごむしられとして真鶴に会っていた。どこかで会った気がしないでもなかったが、王族をまじまじと見るのは無礼だと思い、儀礼的に接していた。
「きみにはいつでも驚かされたよ。きみが女だったなんて、あごむしられ様として王宮に戻っていたなんて、超人という言葉も追いつかないよ。神の化身だよ」
そして正体を曝露された寧温は王宮から追放された。朝薫が心を閉ざしたのはその頃だった。
一歩先に進むと断崖が目の前に迫って見えた。従二品・表十五人衆日帳主取、現在の地位だ。
「ぼくの国が滅びるなんてあり得ない。何のためにぼくは今まで頑張ってきたんだ? ぼくが舵取りを間違えたからなのか? 日本の力を過小評価しすぎたのか? 寧温教えてくれ。ぼくはどうすれば国を守れたんだ――?」
耳元を過ぎて行く風は何も答えてくれなかった。
「王宮がほしければ日本にくれてやる。王がほしければ東京に連れて行くがいい。領土がほしければ蹂躙《じゅうりん》すればいいさ。でも、ぼくの魂は決して日本に売らない。ぼくの体も心も言葉も文化も人生も絶対に日本に渡さないっ!」
朝薫が意を決して水平線を見つめる。誇り高き琉球人のままでいられるのも今のうちだけだった。やがて民は琉球王国の記憶を失って皇民化されてしまうだろう。評定所筆者の知力も、王府の美意識も全て忘れ去られてしまう。それが世変わりだ。でも朝薫には耐えられない。
目の前に大|海原《うなばら》が広がっている。海洋国家琉球の路だ。この海を越えて果報はやって来た。比類なき王朝文明を築くことが出来た。
今、朝薫は琉球の路に還《かえ》らん。
「千年王国万歳――!」
断崖から吹き上がる風を受けた朝薫が王国を抱いて翔《と》んだ。本部《もとぶ》半島、伊江島、山原《ヤンバル》の森が懐に収まった瞬間、朝薫は得も言われぬ幸福を味わった。国土の全てが朝薫を愛してくれている。そして眼下に広がる珊瑚礁の海。国土は王国最後の日でも優しく微笑んでくれている。朝薫は心地好い落下感に身を任せて全ての想い出に終止符を打った。波間に紫冠の帽子を浮かばせて――。
浜千鳥啼ゆさ此ぬ世|後生《グソ》浜に
波打ゆる我身《わみ》や干瀬《ひし》ど枕
(海鳥が鳴く万座毛の最後の浜辺で、波に漂うぼくは珊瑚礁を枕に王国の夢を見る)
尚泰王が去り、完全に王宮は封鎖された。首里城を新たに囲んだ衛兵は熊本鎮台沖縄分遣隊の日本兵だった。六尺棒の代わりにサーベルを携えた兵士たちは、王を偲んで王宮に集まった民たちを追い払うのが役目だ。無数の「首里天加那志ーっ!」の声を日本兵が踏みにじる。
「帰れ帰れ。わけのわからん言葉を喋るな。おまえたちはもう日本人なんだぞ」
「臣民らしく天皇陛下を敬愛しろ」
王宮は民に優しかった。多嘉良が久慶門の門番をしているときには、民が王宮を通り抜けるのも目を瞑《つぶ》ってくれた。第二尚氏に悪王と呼ばれる王はひとりもいない。歴代の王は皆心優しく、気性も穏やかで民から敬愛された。その王が何も悪いことをしていないのに、まるで処罰されるように東京に連行された。この理不尽を民は納得できない。
久慶門の日本兵に食ってかかる親子がいた。二代に亘《わた》って久慶門を守った多嘉良親子だ。
「やい。ここは俺の職場だぞ。やっと見つけた職なのによくも追い出してくれたな」
「儂の想い出の王宮を穢《けが》すなんてけしからんぞ」
兵士が無言でサーベルを抜いて、多嘉良親子に突きつける。
「おまえ達はお役御免だ。これ以上の問答は無用だ」
「せめて銭蔵の泡盛を少しだけ持って帰らせてくれんかのお?」
「首里城は明治政府の資産だ。泡盛を盗んだら処罰するぞ」
白髪頭の多嘉良はぎりぎり王宮人生を全うできた方だ。多嘉良は大勢の同僚たちから惜しまれつつ王宮を去った。だが息子は日本兵から追われて王宮を去った。
「父ちゃん、俺は畑を耕すよ」
その言葉に多嘉良は胸を詰まらせた。傘にもなるほど大きかった背中を丸めて多嘉良親子は王宮をとぼとぼ後にした。
厳重な警備の中をまた親子が王宮に忍び寄る。
「資材置き場の木曳門《こびきもん》からなら侵入できます」
「さすが母上様は何でもよく知っていらっしゃる」
警備の手薄な木曳門の低い城壁を越えた二つの影は真鶴と明だ。ここは明が生まれた場所だ。二度と王宮に帰れない明の身の上を| 慮 《おもんぱか》って真鶴が一目見せておこうと連れてきた。
「あそこが明の満産祝いをした大美御殿よ。憶えていないでしょうけど」
「憶えています。綺麗な衣装を着た人たちが楽しそうにしていたのを夢で見ました」
「あそこが世子様が住む中城御殿。本当なら、あなたが住むはずだった御殿よ」
「どうせ追われる運命だったんだから、ぼくは母上様と一緒でよかったです」
にっこり笑った明の表情に真鶴の罪悪感が癒《い》える思いがした。王宮の外郭の説明を一通り終えると、いよいよ内部に潜入する。かつてはどこにいても人の気配がした王宮だったのに、この静けさは異様だった。
「みんないなくなってしまったのね……」
琉球処分がどんな光景だったのか真鶴は見届けることはなかったが、王宮には嘆き声が吹き溜まっているようだった。王も三司官も表十五人衆も評定所筆者も、忽然と姿を消していた。琉球処分は脳死処置だ。健全な体にある日突然、外国人がやってきて脳だけを摘出した。
真鶴は胸が痛んでしばらくは目を開けられなかった。しかし王宮を息子に見せられるのは、体温が辛うじて残っている今しかない。真鶴は自分に言い聞かせた。
――孫寧温の最後の仕事が残っている。
城壁からそっと顔を出した真鶴が女性的な佇まいの久慶門を指す。
「あの門が王府の役人が出勤に使った久慶門よ。あの石段は雨の日は滑りやすくて難儀したわ」
「天下無敵の孫寧温でも転んだの?」
「ええ」と真鶴は笑った。暴風雨のときでも評定所は決して休まない。ずぶ濡れになって門を潜ったあの日、インディアン・オーク号が漂着した。そして朝薫に髪を結い直して貰ったことも面映《おもは》ゆい想い出だ。
建物の中央に矩形の通路があるのが広福門だ。門の左右に大与座《おおくみざ》と寺社座がある。
「寺社座って花城親雲上《はなぐすくペーチン》のいた奉行所だよね? ぼくを誘拐してくれた人でしょ?」
「あの人は正体を隠すために寺社座の中取《なかどり》を名乗っていただけです」
「そんな可哀相なこと言ったら、花城親雲上が泣いちゃうよ」
広福門の先に広がるのが下之御庭《シチャヌウナー》だ。小綺麗なパティオに明が感嘆する。
「うわあ。これが王宮? すっごいなあ」
「まだまだよ。この先が本当の王宮なのよ」
下之御庭に立ちはだかる巨大な建物が奉神門であると明は知らない。真鶴が明の背中を押して奉神門を潜らせた。
「すごい。竜宮城だ!」
御庭に両翼を広げるように佇む正殿は巨大生物の趣だ。正殿に巻き付いた三十四匹の龍がジロリと明を睨《にら》み付ける。建物全面に金箔《きんぱく》と紅柄《べんがら》をまぶした正殿が津波のように明に襲いかかる。
「これが王宮。ぼくの生まれた家――」
「そうよ。素晴らしい宮殿でしょう?」
個人が所有するには大きすぎる規模に明の理解が追いつかないようだ。真鶴も最初、王宮にあがったときにはそう感じた。だが慣れてくると実にコンパクトに造られていることがわかる。真鶴が北殿を指さす。
「あそこが母さんが勤めていた評定所のある建物よ」
中に入ると蛻《もぬけ》の殻だった。よほど慌てて退去したのだろう。誰かの筆が落ちていた。
――これは朝薫兄さんの筆。
よくあるタイプの筆だったが見覚えがある。朝薫は考え事をするとき、硯《すずり》の上で筆を遊ばせる癖があった。硯に押しつけた毛先は窪みにそうように曲がっていた。真鶴は明に気づかれないようにそっと胸元に筆を収めた。
――朝薫兄さん、私は生きていきます!
自害した喜舎場親方の遺体は民によって手厚く葬られた。この評定所が孫寧温の青春の全てであり、命を懸けて勤め上げた部署だ。あの猛《たけ》り狂った嵐のような情熱の日は遠い過去のものだ。だが真鶴は昨日のように思い出す。そして今でも熱き思いが突き上げてくる。
評定所で残業に明け暮れた日々、徹夜しても少しも苦ではなかった。冊封使をお迎えする準備に追われた日はお祭りのようだった。間切倒《まぎりだおれ》で破産した村を再建するのに侃々諤々《かんかんがくがく》の論争となった。王府の諸問題は国が生きている証だった。直し甲斐があったのは、国を生かすためだった。その国がたった一日のうちに消滅した。
「国が滅びるなんて。私の琉球が消えるなんて……」
真鶴は無意識に王命を求めていた。国を再建しろと言われたら、すぐにでも寧温になって命が消えるまで闘うだろう。だが、王命を下す王は東京に連行されてしまった。もう寧温が王命を授かることは永遠にない。真鶴は嗚咽を漏らして泣いた。
「母上様、泣かないで……」
明は母が男装して王宮に勤めていた過去を聞かされた。そして七つの海を巡るような冒険譚に興奮した。激しい人生を歩んできた母の悲喜|交々《こもごも》がこの評定所に詰まっているのだろうと明は察する。そしてこんなふうに泣ける母の人生を羨ましく思った。
真鶴は涙声で明の手を引いた。
「明……。正殿へ行きましょう……」
正殿の内部は圧巻だった。柱ひとつが美術品で、床の煉瓦《れんが》一枚が工芸品だ。
「ここが首里天加那志のお座りになっていた御差床《ウサスカ》です。後ろに二階に上る階段があります」
真紅の階段を上がると余白を埋め尽くすウルトラバロックにも似た装飾が、荘厳なシンフォニーを奏《かな》でる。明は眺めているうちに耳が痛くなった。
「明、玉座に座りなさい」
そう言って真鶴は正殿と黄金御殿を繋ぐ空中回廊に一旦消えた。そして孫寧温になって戻ってきた。臣下の顔つきになった寧温が明の前に跪く。
「これより即位の儀を行います。中城王子様、この王印をお受け取りください」
真美那が最後に託した願いを王宮で実現する。これが孫寧温の最後の仕事だ。
明の顔つきが王の威厳に変わる。これは琉球王国の最後ではなく、新しい王朝の始まりだと思った。民が生きている限り、どんな国でも造れる。それが明の信念だ。
「今日は誠に吉《よ》き日である。新生琉球王国の生誕の日なのだから」
王印を受け取った明を寧温が祝福する。
「第三尚氏初代国王・尚明王様万歳!」
寧温は薄暗がりの王宮で晴れやかに明の即位を宣言した。
「余は王位に就かず民の心の中の王とならん。どんなにこの国が荒れても、たとえ戦《いくさ》に巻き込まれても、民の心の中に灯る希望とならん」
明は琉歌を歴代の王と民に手向《たむ》けた。
御主《ウシュ》の世の栄果てる事あてん
吾身や御万人《ウマンチュ》と連れて行ゆさ
(王国の時代が果てることがあっても、ぼくは心の王として民を導いて行こう)
そのときだ。一階の御差床から驕慢《きょうまん》な女の声が響き渡った。階段を上ってきたのは白頭巾で顔を覆った喪服の女だった。
「第三尚氏王朝じゃと? とんだ茶番じゃ。ほほほほほ」
「真牛《モウシ》、どうやって王宮に? いいえ野暮でしたね。私もあなたも王宮のことなら日本兵より知っていますから」
「何が即位の儀じゃ。この愚か者めが。妾が聞得大君に就かなかったせいで、王国は崩壊してしまったぞ。孫寧温、そなたが王宮を穢《けが》したせいじゃ。この責任どう取ってくれる?」
廃藩置県で尚泰王が首里城を明け渡したという報せは安仁屋村にも伝わった。他のニンブチャーは明治政府の身分制度改革に沸き返ったが、真牛は少しも嬉しくなかった。どうせ横印から解放されても平民止まりだ。もう王族神・聞得大君として返り咲くことは永遠にない。あまりの失意に最後に自分の愛した場所をこの目に焼き付けておこうと王宮に潜り込んだ真牛は、真鶴と明を見つけた。
頭巾を脱ぎ捨てた真牛は碧眼《へきがん》を煌々《こうこう》と輝かせる。
「即位の儀をしたいなら、聞得大君の託宣が必要なのを知らぬのか?」
「どうせあなたは明を認めないでしょう」
「尚明王には守護神のオナリ神がいる。妾の霊力なら尚明王を守ってやれると申したのじゃ」
「何が言いたいのですか?」
「馬天ノロの勾玉を寄越すのじゃ。それで妾は尚明王のオナリ神になれる」
「なるほど筋が通っています」
オナリ神は母がなるものではなく、血縁の女子を探すのが常識だ。寧温は帯の中に隠していた馬天ノロの勾玉を真牛に差し出した。五百年間歴史の中に消えていた伝説の勾玉に真牛が鼻息を荒らげる。この勾玉を巡って真牛は奔走し、転落に次ぐ転落の憂《う》き目に遭った。だが身を落としてまで探す価値のある勾玉だと真牛は思う。複製品にはない本物だけが持つセヂ(霊力)が勾玉から溢れている。これを感じられない真牛ではなかった。
「おおおおっ。素晴らしい。この勾玉さえあれば琉球は滅びなかったものを……」
真牛は勾玉で手を洗うように指を絡ませた。そしてやっと巡り会えた本物に熱い涙を流した。
寧温が命じる。
「聞得大君加那志、御託宣を下しませ」
勾玉の首飾りを身につけた真牛はかつて纏っていた王族神の霊力を蘇らせた。王宮に雷雲が差し掛かる。琉球の大神キンマモンが降臨しようとしているのだ。渦を巻いた雲が雨と風と稲妻を呼び起こした。たちまち王宮が激しい嵐に見舞われる。
「王宮の龍たちよ。目覚めるのじゃ!」
真牛が縛り上げていた龍を解放した。と同時に無数の閃光が正殿を照らす。封印されていた龍が目覚め、風と轟音《ごうおん》に包まれて天空へと駆けていく。
「今までお役目ご苦労じゃった。自由になるがよい」
龍を全て天へ返したのを見届けた真牛は、次に大神キンマモンを召還する。
「大神キンマモンよ。妾の体に降りてくるのじゃ!」
正殿が落雷の衝撃に包まれた瞬間、真牛にキンマモンの霊が降りた。真牛の声が重厚な低音に包まれる。
『大神キンマモン様は第三尚氏王朝を正式にお認めになると申された。妾は聞得大君として初代国王・尚明王のオナリ神にならん』
「聞得大君加那志のご慈愛に感謝いたします。どうか首里天加那志をお守りください」
寧温が真牛の前に恭《うやうや》しく跪いた。真牛は悲願の聞得大君に返り咲いて満足そうに頷いた。
「寧温、そなたはもう何も心配することはない。妾が未来永劫、首里天加那志を守ってみせる」
「畏《おそ》れ多いことでございます――」
そして真牛は明の前に御拝《ウヌフェー》で頭《こうべ》を垂れた。
「第三尚氏初代国王・尚明王様万歳――」
心から忠誠を誓った真牛は晴れ晴れとした表情で、階段を下りて行った。
真牛はこれでよいと京《きょう》の内《うち》へ向かう。スコールで潤った京の内の森は真牛がもっとも輝いていた日の想い出の色に染め上げられていた。初代聞得大君・馬天ノロの霊力を宿らせた真牛は、京の内の中にある御嶽《うたき》を封じる祈願を行った。
「神様、今はお眠りください。いつか果報の世が訪れまする」
そして真牛は物見台の京の内のアザナに立った。真牛はここから見る正殿が一番好きだった。高みからは屋根の龍が迫って見える。聞得大君だけが知る王宮の横顔だ。
「日本に侵略されるとは不甲斐ない連中じゃ。妾の魂はキンマモン様のものじゃ。日本には売らぬ。京の内は封印した。日本人がどんなに頑張っても神の声を聞くことはないじゃろう」
真牛は思いつく限り日本を罵《ののし》り、国を売った重臣たちを侮辱した。しかし、それもただの時間潰しだ。
「そろそろのはずじゃ……」
真牛が太陽の位置を気にしている。王でも知らない秘密が王宮には施されている。それを知るのは聞得大君ただひとりだ。
京の内のアザナの城壁に立った真牛は太陽と正殿が交差する場所を陣取った。王宮の秘密の瞬間までもう少しだ。夕日が王宮を照らす。全てを赤く染めた王宮がやがて眠りの時間につく。そのとき、一筋の光条が正殿中央の火焔宝珠《かえんほうじゅ》を狙うように差したではないか。すぐさま宝珠が光条を反射し、京の内のアザナを照らす。
「おおおっ。神が祝福されておられる……」
太陽を模した火焔宝珠は京の内に反射するように若干傾けて設置されている。一年のある時期、この一瞬のためだけに仕掛けられた演出だった。
神聖な光は真牛の穢れた体を一気に浄める。ユタの罪、遊女の穢れ、ニンブチャーの重荷、光は全てを受け入れ影を消していく。光の中で真牛は体が軽くなっていくのを感じた。
「妾は王国を守る聞得大君にならん――」
光を受けた真牛は城壁から身を投げた。目の前に広がる王国南部の景色は真牛の領地だった知念間切《ちねんまぎり》まで一望に見渡せた。
両手を広げて懐に王国を抱いた真牛は恍惚《こうこつ》の表情を浮かべる。穏やかな山の稜線、豊かな作物を育《はぐく》む大地、そして大地と海に溢れる命、真牛はその全てを抱き締めた。生きとし生けるもの全てを祝福して真牛が空を翔び、地上に果報の種を蒔《ま》いた。
――いつかまた豊かな王国を造ろうぞ。
聞得大君になるために生まれ、聞得大君として生きるために生涯を費やした真牛は、王朝歴代最高の聞得大君になった。放物線を描いて大地に落ちていく肉体から離れた魂は自由に空を舞う。
阿摩美久の根国ふさよわる真石
懐に詰めて風になゆん
(祖神アマミクが創造したこの国、祝福されたこの大地、その全てを包んで今、私は風になる)
真牛が自害した跡に小さな白い花が咲いた。
*
琉球処分官が一通りの王国解体を終え、東京へ帰還することになった前夜、雅博が想い出の鳳凰木《ほうおうぼく》に別れを告げようとやって来た。雅博は自分の数奇な運命を忌まわしく思っていた。薩摩の武士として琉球を訪れた青年時代、心の底から琉球を愛した。しかしその愛情故に藩主の臣下としては常に相反する感情に板挟みになった。新しく仕えた君主もまた琉球に興味があった。内務官僚になった雅博は再び琉球を訪れ、完膚《かんぷ》無きまで解体した。しかし心の片隅ではいつも琉球に恋していた。
鳳凰木はまだ花の季節ではないらしい。垂《しだ》れ枝を風に踊らせて雅博を歓迎している。
「この樹だけは私の本心を知っている」
雅博はこの樹の下で真鶴に求婚し、反故《ほご》にされ、懲《こ》りずにまた求愛し、断られた。もしこの樹に意思があるのなら、学習能力のない人間だと雅博を嘲笑っただろう。月を見て泣いた夜、花びらの散るまで待ちぼうけした朝、雅博の素の感情を全て知っている。
「これが最後といつも思うのに、また来てしまう。これも私の愚かさだな」
すると月明かりの中に近づいてくる人影があった。雅博はまさかと目を凝らす。
「真鶴さん、どうしてここへ?」
「明日、東京へお帰りと聞いて、きっとここにいらっしゃるだろうと思って参りました」
「わざわざ私を見送りに? 私にそんな資格はないのに?」
真鶴は真美那が贈った芭蕉布《ばしょうふ》の着物を着てきた。今の真鶴が持つ唯一の晴れ着だ。よく見るとうっすらと口紅を差しているではないか。雅博はまた感情が溢れそうになるのを今度は強引に押しこめた。
「どうか私を怨んでください。真鶴さんの国を地上から消したのは私です」
「いいえ。消えたのは幻想だけです。国は滅びましたが民は生きております」
「だが、あなたの誇りを踏みにじったのには変わりない」
「孫寧温も王国解体と共に消えました。彼は私の心の中にいた幻想の人です」
真鶴は心の中に吹き荒れていた嵐が過ぎ去ったのを感じた。猛烈な風に晒《さら》されている間は、これが普通だと思っていた。まるで鼓動のように、生きている間は決して止まらない風だ。しかし風がやんだ後も真鶴は生きている。真鶴はこの感覚が不思議でならない。嵐とともに孫寧温は消えてしまった。
「日本は琉球を解体した以上、幸福にする義務がある。そう信じてください」
雅博の洋服の襟元からジャスミンの香りが放たれた。いつまでも嗅いでいたい真鶴が一番好きな香りだ。
「王府がなくなって私の時代は終わりました。でも後悔しておりません。むしろ今は寧温に感謝しております。寧温のお蔭で私は学問を修得でき、憧れの評定所に勤務することができました」
真鶴と寧温は今幸福に融合してお互いを支え合っている。もう肉体の主導権を巡って喧嘩することもない。真鶴は穏やかな口調で続けた。
「真鶴にも感謝しております。真鶴がいたお蔭で私は母にもなれました。子を育てる喜びを得ました。そして息子を民の王にする栄誉も味わいました。こんな幸福が他にあるでしょうか?」
雅博は真鶴を樹の下に引き寄せ肩を抱いた。
「寧温のあなたを愛しております。そして真鶴さんを愛しております。いけない。また断られるのに。私は物覚えの悪い男ですね」
雅博が自嘲気味に笑った。そんな雅博の率直な気持ちを阻む理由はもう真鶴にはない。
「花が咲く六月に私を迎えに来てくださいませんか? この樹の下でお待ちしております。雅博殿が私を待って下さったように、今度は私が雅博殿をお待ちしております」
雅博は答える代わりに真鶴の唇を奪った。顎《あご》を抱えられた真鶴は肺に満ちる雅博の息吹に耳の奥まで熱くさせた。いつもながら、あっという間の早技に惚れ惚れしてしまう。
雅博はポケットからハンカチに包んだ結び指輪を取り出した。真鶴の左手の薬指にそっとはめられた結び指輪は雅博の匂いに染まっていた。
「これが愛の証です。こんな男でよければ是非、お迎えにあがらせてください。内務官僚を辞してきます。そして琉球であなたと一緒に暮らしたい。この土地で死ねるように民に尽くしたい」
雅博の激しい鼓動が着物越しにも伝わる。真鶴は時が止まってほしいと思った。だけど早く花の咲く季節が訪れてほしい。
雅博は力いっぱい真鶴を抱き締めた。もう二度と離さないと誓って。愛し合う二人の影が月明かりの下で固く結ばれた。
二人が拝む太陽《てだ》離れてやうしが
花髪無蔵《はなからじんぞ》や吾身《わみ》ぬおなり
(私たちが仕える君主はそれぞれ違うせいで今までわだかまりもありましたが、私のオナリ神は生涯あなたただ一人です)
真鶴もまたこれまでの人生を振り返った。理念を優先するあまり思い通りに生きられないと苦しんできた日々が全て昇華された気がした。寧温は寧温らしく生き、職業人生を全うした。また、あごむしられとして王の寵愛を受け、王子を産み、一人前に育てた。そして今、真鶴はひとりの恋をする女でいることに何の不安もない。
――国が滅びたのに、どうして私の心は静かなのかしら?
孫寧温が消えると同時に真鶴の嵐は終わった。もう二度と真鶴が寧温に翻弄《ほんろう》されることはない。四十年前、王宮に鳴り物入りで現れ、疾風のように駆け抜けていった宦官はこれから毎日、人の記憶の中から消えていくだろう。
だがこの夜風の何と心地好いことだろう。王国の栄光は全て過去のものとなったが、人が生きている限り、大地ではどんな国でも興せる。今は静かに未来を祈るだけである。真鶴はこの風の中で精一杯生きていこうと思った。
時や走廻て重ねてる月に
我身や真南風《まふえかじ》に肌ゆ晒す
(月日は巡りいろいろな出来事を重ねてきましたが、何も持たずに風の中にいる今、私の心は凪《な》いでいます)
こうして珊瑚礁の海に五百年の花を咲かせた琉球王国は滅亡した。しかし王宮を駆け抜けた無数の青春を風は憶えている。彼らの争い、彼女たちの嘆き、そして笑い声が耳を澄ませば聞こえてくる。真昼の彗星のように現れ、光芒《こうぼう》を放った神童たちの熱き思いは今も大地に生きている。
月明かりの静寂の中で王宮は永い眠りについた。
一八七九年、若夏。琉球王国は沖縄県となった。
[#地付き]完
[#改ページ]
参考文献 北谷町誌
外間政章 訳注・刊
『対訳ペリー提督沖縄訪問記』
装丁 大久保伸子
画(見返し) 長野 剛
カバー写真 「黒漆雲龍螺鈿丸盆」より
(浦添市美術館蔵)
[#挿絵(img/01_428.jpg)入る]
初出 「野性時代」
(二〇〇七年十月号から二〇〇八年六月号)
池上永一(いけがみ えいいち)
1970年、沖縄県那覇市生まれ、のち石垣島へ。94年、早稲田大学在学中に「バガージマヌパナス」で、第6回日本ファンタジーノベル大賞を受賞する。98年『「風車祭(カジマヤー)』が注目される。沖縄の伝承と現代社会を融和させた独特の世界を確立する。著書に、『夏化粧』『ぼくのキャノン』『あたしのマブイ見ませんでしたか』『やどかりとペットボトル』他。『シャングリ・ラ』(2005年)は、未来都市東京をテーマにし、圧倒的な話題を呼んだ。
[#改ページ]
底本
角川書店 単行本
テンペスト 下《げう》 花風《はなふう》の巻《まき》
著 者――池上永一《いけがみえいいち》
平成二十年八月三十一日 初版発行
発行者――井上伸一郎
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2008年9月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・中城《なぐすく》王子
・後生《グソ》
・後生《グソー》
・マキアヴェリスト
・『「風車祭(カジマヤー)』
修正
千|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》寿→ 千寿|※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]《こう》
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
箪《※》 ※[#「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73]「竹かんむり/單」、第3水準1-89-73
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
涜《※》 ※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
|※《いきれ》 ※[#「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59]「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59
|※《きゅう》 ※[#「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」、ページ数-行数]「口+(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」
|※《こう》 ※[#「米+羔」、第3水準1-89-86]「米+羔」、第3水準1-89-86